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アンパサンド
アンパサンド(&, 英語: ampersand)は、並立助詞「...と...」を意味する記号である。ラテン語で「...と...」を表す接続詞 "et" の合字を起源とする。現代のフォントでも、Trebuchet MS など一部のフォントでは、"et" の合字であることが容易にわかる字形を使用している。 英語で教育を行う学校でアルファベットを復唱する場合、その文字自体が単語となる文字("A", "I", かつては "O" も)については、伝統的にラテン語の per se(それ自体)を用いて "A per se A" のように唱えられていた。また、アルファベットの最後に、27番目の文字のように "&" を加えることも広く行われていた。"&" はラテン語で et と読まれていたが、のちに英語で and と読まれるようになった。結果として、アルファベットの復唱の最後は "X, Y, Z, and per se and" という形になった。この最後のフレーズが繰り返されるうちに "ampersand" となまっていき、この言葉は1837年までには英語の一般的な語法となった。 アンドレ=マリ・アンペールがこの記号を自身の著作で使い、これが広く読まれたため、この記号が "Ampère's and" と呼ばれるようになったという誤った語源俗説がある。 アンパサンドの起源は1世紀の古ローマ筆記体にまでさかのぼることができる。古ローマ筆記体では、E と T はしばしば合字として繋げて書かれていた(左図「アンパサンドの変遷」の字形1)。それに続く、流麗さを増した新ローマ筆記体では、さまざまな合字が極めて頻繁に使われるようになった。字形2と3は4世紀中頃における et の合字の例である。その後、9世紀のカロリング小文字体に至るラテン文字の変遷の過程で、合字の使用は一般には廃れていった。しかし、et の合字は使われ続け、次第に元の文字がわかりにくい字形に変化していった(字形4から6)。 現代のイタリック体のアンパサンドは、ルネサンス期に発展した筆記体での et の合字にさかのぼる。1455年のヨーロッパにおける印刷技術の発明以降、印刷業者はイタリック体とローマ筆記体のアンパサンドの両方を多用するようになった。アンパサンドのルーツはローマ時代にさかのぼるため、ラテンアルファベットを使用する多くの言語でアンパサンドが使用されるようになった。 アンパサンドはしばしばラテンアルファベットの最後の文字とされることがあった。たとえば1011年のByrhtferthの文字表がその例である。同様に、"&" は英語アルファベットの27番目の文字とされ、アメリカ合衆国やその他の地域でも、子供達はアンパサンドはアルファベットの最後の文字だと教えられていた。1863年の M. B. Moore の著書 The Dixie Primer, for the Little Folks にその一例を見ることができる。ジョージ・エリオットは、1859年に発表した小説「アダム・ビード(英語版)」の中で、Jacob Storey に次のセリフを語らせている。"He thought it [Z] had only been put to finish off th' alphabet like; though ampusand would ha' done as well, for what he could see." よく知られた童謡の Apple Pie ABC は "X, Y, Z, and ampersand, All wished for a piece in hand" という歌詞で締めくくられる。 アンパサンドは、ティロ式記号の et ("⁊", Unicode U+204A) とは別のものである。ティロ式記号の et は、アンパサンドと意味は同じだが数字の「7」に似た形の記号である。両者はともに古代から使用され、中世を通してラテン語の et を表すために使用された。しかし、アンパサンドとティロ式記号の et はそれぞれ独立に発明されたものである。ラテン文字から発展した古アイルランド語の文字では、アイルランド語の agus(「...と...」)を表すためにティロ式記号の et が使用されていた。今日はゲール文字の一部として主に装飾的な目的で使用されている。この文字はアイルランドにおけるキリスト教時代初期に修道院の影響によって書き文字に加わった可能性がある。 日常的な手書きの場合、欧米では小文字の ε(エプシロン)を大きくしたもの(あるいは数字の "3" の鏡文字)に縦線を加えた形の単純化されたアンパサンドがしばしば使われる。また、エプシロンの上下に縦線または点を付けたものもしばしば使われる。 くだけた用法として、プラス記号("+", この記号もまた et の合字である)がアンパサンドの代わりに使われることがある。また、プラス記号に輪を重ねたような、無声歯茎側面摩擦音を示す発音記号「[ɬ]」のようなものが使われることもある。 ティロの速記には「et」を表すための「⁊」(U+204A Tironian sign et)がある。この文字はドイツのフラクトゥールで使われたほか、ゲール文字でも使用される。 ギリシア文字では「......と」を意味するκαιを表すための合字として「ϗ」(U+03D7 Greek kai symbol)が使われることがある。 プログラミング言語では、C など多数の言語で AND 演算子として用いられる。以下は C の例。 PHPでは、変数宣言記号($)の直前に記述することで、参照渡しを行うことができる。 BASIC 系列の言語では文字列の連結演算子として使用される。"foo" & "bar" は "foobar" を返す。また、主にマイクロソフト系では整数の十六進表記に &h を用い、&h0F (十進で15)のように表現する。 SGML、XML、HTMLでは、アンパサンドを使ってSGML実体を参照する。
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アンパサンドは、並立助詞「…と…」を意味する記号である。ラテン語で「…と…」を表す接続詞 "et" の合字を起源とする。現代のフォントでも、Trebuchet MS など一部のフォントでは、"et" の合字であることが容易にわかる字形を使用している。
{{Redirect|&}} {{Otheruses|記号|競走馬|アンパサンド (競走馬)}} {{WikipediaPage|「アンパサンド (&)」の使用|WP:JPE#具体例による説明}} {{複数の問題|出典の明記=2018年10月8日 (月) 14:50 (UTC)|独自研究=2018年10月8日 (月) 14:50 (UTC)}} {{記号文字|&amp;}} [[File:Trebuchet MS ampersand.svg|thumb|100px|[[Trebuchet MS]] フォント]] '''アンパサンド'''('''&amp;''', {{Lang-en|ampersand}})は、並立助詞「…と…」を意味する[[記号]]である。[[ラテン語]]で「…と…」を表す接続詞 "et" の[[合字]]を起源とする。現代のフォントでも、[[Trebuchet MS]] など一部のフォントでは、"et" の合字であることが容易にわかる字形を使用している。 == 語源 == {{quote|The term ampersand is a corruption of and (&) per se and, which literally means "(the character) & by itself (is the word) and." The symbol & is derived from the ligature of ET or et, which is the Latin word for "and."<br> 訳: アンパサンドという言葉は、''and (&) per se and''("&" という文字それ自体が "and" という言葉を意味する)が[[言語変化|転訛]]したものである。& の記号は、ラテン語で "and" を意味する "[[:wikt:et|ET]]" または et の[[合字]]が元になっている。|source = Geoffrey Glaister, ''Glossary of the Book''<ref name="adobe">{{cite book |last=[[:en:Geoffrey Glaister|Glaister]]|first=[[:en:Geoffrey Glaister|Geoffrey Ashall]]|title=Glossary of the Book|url=https://archive.org/details/glosaryofbook0000unse|url-access=registration|year=1960|publisher=[[:en:Allen & Unwin|George Allen & Unwin]]|location=London}}. 引用元: {{cite web |last=Caflisch |first=Max |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130113202304/https://www.adobe.com/type/topics/theampersand.html |archivedate=13 January 2013 |url=https://www.adobe.com/type/topics/theampersand.html|title=The ampersand|work=Adobe Fonts|publisher=[[アドビ|Adobe Systems]] |accessdate=2021-04-17|url-status=dead}}</ref>}} 英語で教育を行う学校で[[英語アルファベット|アルファベット]]を復唱する場合、その文字自体が単語となる文字("A", "I", かつては "[[:en:Vocative case#English|O]]" も)については、伝統的にラテン語の ''[[:en:wikt:per se|per se]]''(それ自体)を用いて "A per se A" のように唱えられていた<ref name=aglossary>{{cite book |last=Nares |first=Robert |author-link=:en:Robert Nares |title=A Glossary |url=https://books.google.com/books?id=n9bfivi9ti4C&pg=PA1 |accessdate=2021-04-17 |year=2011 |origyear=first published 1822 |publisher=[[Cambridge University Press]] |isbn=9781108035996 |page=1}}</ref><ref name=worddetective>{{cite web|url=http://www.word-detective.com/052003.html#ampersand |title=The ampersand |work=word-detective |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080508140613/http://www.word-detective.com/052003.html |archivedate=8 May 2008 |accessdate=2021-04-17}}</ref>。また、アルファベットの最後に、27番目の文字のように "&" を加えることも広く行われていた。"&" はラテン語で ''et'' と読まれていたが、のちに英語で ''and'' と読まれるようになった。結果として、アルファベットの復唱の最後は "X, Y, Z, ''and per se and''" という形になった。この最後のフレーズが繰り返されるうちに "ampersand" となまっていき、この言葉は1837年までには英語の一般的な語法となった<ref name=worddetective/><ref>{{cite web|url=http://hotword.dictionary.com/ampersand/|title=What character was removed from the alphabet but is still used every day?|date=2 September 2011|work=The Hot Word|publisher=Dictionary.com |accessdate=2021-04-17}}</ref><ref>{{OED|ampersand}} {{subscription}}</ref>。 [[アンドレ=マリ・アンペール]]がこの記号を自身の著作で使い、これが広く読まれたため、この記号が "Ampère's and" と呼ばれるようになったという誤った語源俗説がある<ref>この俗説の例は、 Jessie Bedford, Elizabeth Godfrey: [https://books.google.com/books?id=AL0KAAAAIAAJ&pg=PA22 English Children in the Olden Time, page 22]. Methuen & co, 1907, p. 22; Harry Alfred Long: [https://books.google.com/books?id=AWgSAAAAYAAJ&pg=PA98 Personal and Family Names, page 98]. Hamilton, Adams & co, 1883. などで見られる。</ref>。 == 歴史 == [[File:Historical ampersand evolution.svg|thumb|left|390px|アンパサンドの変遷 字形1から6]] [[File:Ampersand.svg|thumb|left|現代のアンパサンドはカロリング小文字体のものとほぼ同じ。右のイタリック体アンパサンドはより新しい et の合字が元になっている。]] [[File:etlig.svg|left|frame|[[インシュラー体]]の et の合字。]] アンパサンドの起源は1世紀の[[ローマ筆記体#古ローマ筆記体|古ローマ筆記体]]にまでさかのぼることができる。古ローマ筆記体では、E と T はしばしば合字として繋げて書かれていた(左図「アンパサンドの変遷」の字形1)。それに続く、流麗さを増した[[ローマ筆記体#新ローマ筆記体|新ローマ筆記体]]では、さまざまな合字が極めて頻繁に使われるようになった。字形2と3は4世紀中頃における et の合字の例である。その後、9世紀の[[カロリング小文字体]]に至るラテン文字の変遷の過程で、合字の使用は一般には廃れていった。しかし、et の合字は使われ続け、次第に元の文字がわかりにくい字形に変化していった(字形4から6)<ref>Jan Tschichold: [https://web.archive.org/web/20140701/http://www.typeforum.de/modules.php?op=modload&name=News&file=article&sid=41&mode=&order=0 "Formenwandlung der et-Zeichen."]</ref>。 現代の[[イタリック体]]のアンパサンドは、[[ルネサンス|ルネサンス期]]に発展した筆記体での et の合字にさかのぼる。1455年のヨーロッパにおける[[印刷|印刷技術]]の発明以降、印刷業者はイタリック体とローマ筆記体のアンパサンドの両方を多用するようになった。アンパサンドのルーツはローマ時代にさかのぼるため、[[ラテン文字|ラテンアルファベット]]を使用する多くの言語でアンパサンドが使用されるようになった。 アンパサンドはしばしばラテンアルファベットの最後の文字とされることがあった。たとえば1011年の[[:en:Byrhtferth|Byrhtferth]]の文字表がその例である<ref>{{cite web|last=Everson|first=Michael|author2=Sigurðsson, Baldur|author3=Málstöð, Íslensk|date=7 June 1994|title=On the status of the Latin letter þorn and of its sorting order|url=http://www.evertype.com/standards/wynnyogh/thorn.html|url-status=live|work=Evertype|accessdate=2021-04-18}}</ref>。同様に、"&" は英語アルファベットの27番目の文字とされ、アメリカ合衆国やその他の地域でも、子供達はアンパサンドはアルファベットの最後の文字だと教えられていた。1863年の M. B. Moore の著書 ''The Dixie Primer, for the Little Folks'' にその一例を見ることができる<ref>{{cite web|url=http://docsouth.unc.edu/imls/moore/moore.html#moore5|work=Branson, Farrar & Co., Raleigh NC|title=The Dixie Primer, for the Little Folks|accessdate=2021-04-18}}</ref>。[[ジョージ・エリオット]]は、1859年に発表した小説「{{仮リンク|アダム・ビード|en|Adam Bede}}」の中で、Jacob Storey に次のセリフを語らせている。"He thought it <nowiki>[Z]</nowiki> had only been put to finish off th' alphabet like; though ampusand would ha' done as well, for what he could see."<ref>{{cite book |first=George |last=Eliot |title=Adam Bede |chapter=Chapter XXI |chapter-url=https://www.gutenberg.org/files/507/507-h/507-h.htm#link2HCH0021 |accessdate=2021-04-18 |publisher=[[プロジェクト・グーテンベルク|Project Gutenberg]]}}</ref> よく知られた童謡の [[:en:Apple Pie ABC|Apple Pie ABC]] は "X, Y, Z, and ampersand, All wished for a piece in hand" という歌詞で締めくくられる。 アンパサンドは、[[ティロの速記|ティロ式記号]]の et ("⁊", Unicode U+204A) とは別のものである。ティロ式記号の et は、アンパサンドと意味は同じだが数字の「7」に似た形の記号である。両者はともに古代から使用され、中世を通してラテン語の ''et'' を表すために使用された。しかし、アンパサンドとティロ式記号の et はそれぞれ独立に発明されたものである<ref>{{cite web|url=http://www.etymonline.com/index.php?term=ampersand |title=Ampersand|work=The Online Etymological Dictionary|accessdate=2021-04-18}}</ref>。ラテン文字から発展した[[古アイルランド語]]の文字では、アイルランド語の ''agus''(「…と…」)を表すためにティロ式記号の et が使用されていた。今日は[[ゲール文字]]の一部として主に装飾的な目的で使用されている。この文字はアイルランドにおけるキリスト教時代初期に修道院の影響によって書き文字に加わった可能性がある。 {{clear}} ==手書き== 日常的な手書きの場合、[[欧米]]では小文字の {{el|[[ε]]}}(エプシロン)を大きくしたもの(あるいは数字の "3" の鏡文字)に縦線を加えた形の単純化されたアンパサンドがしばしば使われる<ref name="handwriting" />。また、エプシロンの上下に縦線または点を付けたものもしばしば使われる<ref name="handwriting" />。 くだけた用法として、[[プラス記号とマイナス記号|プラス記号]]("+", この記号もまた et の合字である<ref>{{cite book|last=Cajori|first=Florian|title=A History of Mathematical Notations, Vol. 1|chapter-url=https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.200372|year=1928|publisher=The Open Court Company, Publishers|chapter=Origin and meanings of the signs + and −}}</ref>)がアンパサンドの代わりに使われることがある。また、プラス記号に輪を重ねたような、[[無声歯茎側面摩擦音]]を示す[[発音記号]]「{{IPA|ɬ}}」のようなものが使われることもある。{{citation needed|date=May 2020}} <gallery> File:Ampersand Handwriting 1.jpg|手書きのアンパサンド(エプシロンに縦線を引いた書体)<ref name="handwriting">{{cite web|url=https://www.webpagefx.com/blog/web-design/visual-guide-ampersand/|work=Six Revisions|title=A Visual Guide to the Ampersand (Infographic)|accessdate=2021-04-18}}</ref> File:Ampersand Handwriting 3.jpg|エプシロンの上下端にそれぞれ縦線が付いたタイプ<ref name="handwriting" /> File:Epsilon Ampersand.png|エプシロンと縦線による手書きを元にしたアンパサンドの字形の一種<ref name="handwriting" /> File:Ampersand Handwriting 2.jpg|アンパサンドの代用として手書きのプラス記号を使用した場合の例 </gallery> == 同様の記号 == [[ティロの速記]]には「et」を表すための「{{unicode|⁊}}」(U+204A Tironian sign et)がある。この文字は[[ドイツ]]の[[フラクトゥール]]で使われたほか、[[ゲール文字]]でも使用される。 [[ギリシア文字]]では「……と」を意味する{{el|και}}を表すための[[合字]]として「{{el|ϗ}}」(U+03D7 Greek kai symbol)が使われることがある。 {|class="wikitable" |[[File:Fliegende Blätter Band 1 (München 1845) Nr. 21 S. 168.png|400px|frameless]] |フラクトゥールで「etc.」を「{{unicode|⁊c.}}」と書いた例(1845年の雑誌記事より)。 |- |[[File:Caslon Greek type sample.jpeg|350px|frameless]] |2行目に「{{el|ϗ}}」を使用(18世紀のギリシア文字の活字サンプル、[[クセノポン]]『[[ソクラテスの思い出]]』2.1.21より)。 |} == プログラミング言語 == [[プログラミング言語]]では、[[C言語|C]] など多数の言語で AND [[演算子]]として用いられる。以下は C の例。 * <code>X = A '''&amp;&amp;''' B</code> のように2個重ねたものは[[論理積|論理 AND]] を表す。この場合 A, B がともに真ならば X も真、それ以外は偽である。 * <code>0x12345678 '''&amp;''' 0x0f0f0f0f</code> のように1個であれば[[ビット演算#AND|ビット AND]] を表す。この場合の結果は <code>0x02040608</code> である。 [[PHP (プログラミング言語)|PHP]]では、変数宣言記号($)の直前に記述することで、[[参照渡し]]を行うことができる。 [[BASIC]] 系列の言語では[[文字列]]の連結演算子として使用される。<code>"foo" '''&amp;''' "bar"</code> は <code>"foobar"</code> を返す。また、主に[[マイクロソフト]]系では整数の[[十六進法|十六進表記]]に '''<code>&amp;h</code>''' を用い、<code>&amp;h0F</code> (十進で15)のように表現する。 [[Standard Generalized Markup Language|SGML]]、[[Extensible Markup Language|XML]]、[[HyperText Markup Language|HTML]]では、アンパサンドを使って[[SGML実体]]を参照する。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|38|0026|1-1-85|Ampersand|amp}} {{CharCode|1789|06fd|-|Arabic Sign Sindhi Ampersand}} {{CharCode|8266|204a|-|Tironian Sign Et}} {{CharCode|8523|214b|-|Turned Ampersand}} {{CharCode|11858|2e52|-|Tironian Sign Capital Et}} {{CharCode|65120|fe60|-|Small Ampersand}} {{CharCode|65286|ff06|1-1-85|アンパサンド(全角)}} {{CharCode|128624|1f670|-|Script Ligature Et Ornament}} {{CharCode|128625|1f671|-|Heavy Script Ligature Et Ornament}} {{CharCode|128626|1f672|-|Ligature Open Et Ornament}} {{CharCode|128627|1f673|-|Heavy Ligature Open Et Ornament}} {{CharCode|128628|1f674|-|Heavy Ampersand Ornament}} {{CharCode|128629|1f675|-|Swash Ampersand Ornament}} |} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commons|Ampersand}} {{punctuation marks|&amp;}} {{DEFAULTSORT:あんはさんと}} [[Category:約物]] [[Category:ラテン語の語句]] [[Category:論理記号]]
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言語
言語(げんご)は、狭義には「声による記号の体系」をいう。 広辞苑や大辞泉には次のように解説されている。 『日本大百科全書』では、「言語」という語は多義である、と解説され、大脳の言語中枢(英語版)に蓄えられた《語彙と文法規則の体系》を指すこともあり、その体系を用いる能力としてとらえることもある、と解説され、一方では、抽象的に「すべての人間が共有する言語能力」を指すこともあり、「個々の個別言語」を指すこともある、と解説されている。 広義の言語には、verbalな(言葉に表す)ものとnon-verbalな(言葉として表されない)もの(各種記号、アイコン、図形、ボディーランゲージ等)の両方を含み、日常のコミュニケーションでは狭義の言語表現に身振り、手振り、図示、擬音等も加えて表現されることもある。 言語は、人間が用いる意志伝達手段であり、社会集団内で形成習得され、意志を相互に伝達することや、抽象的な思考を可能にし、結果として人間の社会的活動や文化的活動を支えている。言語には、文化の特徴が織り込まれており、共同体で用いられている言語の習得をすることによって、その共同体での社会的学習、および人格の形成をしていくことになる。 ソシュールの研究が、言語学の発展の上で非常に重要な役割を果たしたわけであるが、ソシュール以降は、「共同体の用いる言語体系」のことは「langue ラング」と呼ばれ、それに対して、個々の人が行う言語活動は「parole パロール」という用語で呼ばれるようになっている。 《音韻》 と 《意味》の間の結び付け方、また、《文字》と音韻・形態素・単語との間の結び付け方は、社会的に作られている習慣である。 言語と非言語の境界が問題になるが、文字を使う方法と文字を用いない方法の区別のみで、言語表現を非言語表現から区別することはできない。抽象記号には文字表現と非文字表現(積分記号やト音記号など)があり、文字表現は言語表現と文字記号に分けられる。言語表現と区別される文字記号とは、文字を使っているが語(word)でないものをいい、化学式H2Oなどがその例である。化学式は自然言語の文法が作用しておらず、化学式独特の文法で構成されている。 言語にはさまざまな分類がある。口語、口頭言語、書記言語、文語、といった分類があるが、重なる部分もありはっきり分類できるものでもない。また屈折語・膠着語・孤立語といったような分類もある。詳細は言語類型論を参照。 言語的表現は読み上げによって音声表現、点字化により触覚表現に変換されるが、言語的表現の特性は保存され、視覚的に表現されたものと同等に取り扱うことができる。 手話に関しては「日本語対応手話」は一般の日本語の話し言葉や書き言葉と同一の言語の「視覚言語バージョン」であるが、「日本手話」は一般の日本語とは異なる言語と考えられており、そちらは音声言語や文字言語とは異なる「視覚言語」ということになるなど、分類は単純ではない。 以上の自然発生的な「自然」言語の他、近代以降、エスペラントなどの国際補助語など、人工言語も作られた。 自然言語以外については、人工言語・形式言語・コンピュータ言語などの各記事を参照。 ジャック・デリダという、一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられているフランスの哲学者は、「声」を基礎とし文字をその代替とする発想が言語学に存在する、と主張し、それに対する批判を投げかける立場を主張した。『グラマトロジーについて』と「差延」の記事も参照。 個別言語は、民族の滅亡や他言語による吸収によって使用されなくなることがある。このような言語は死語と呼ばれ、死語が再び母語として使用されたことは歴史上にただ一例、ヘブライ語の例しかない。しかし、ヘブライ語は自然に復活したわけでも完全に消滅していたわけでもなく、文章語として存続していた言語を、パレスチナに移住したユダヤ人たちが20世紀に入って日常語として人工的に復活させ、イスラエル建国とともに公用語に指定して完全に再生させたものである。このほかにも、古典アラビア語、ラテン語、古典ギリシャ語のように、日常語としては消滅しているものの文章語としては存続している言語も存在する。このほか、日常ではもはや用いられず、教典や宗教行為のみに用いられるようになった典礼言語も存在する。 近年、話者数が非常に少ない言語が他言語に飲み込まれて消滅し、新たに死語と化すことが問題視されるようになり、消滅の危機にある言語を危機言語と呼ぶようになった。これは、世界の一体化が進み、交通網の整備や流通の迅速化、ラジオ・テレビといったマスメディアの発達によってそれまで孤立を保っていた小さな言語がそのコミュニティを維持できなくなるために起こると考えられている。より大きな視点では英語の国際語としての勢力伸張による他主要言語の勢力縮小、いわゆる英語帝国主義もこれに含まれるといえるが、すくなくとも21世紀初頭においては英語を母語とする民族が多数派を占める国家を除いては英語のグローバル化が言語の危機に直結しているわけではない。言語消滅は、隣接したより大きな言語集団との交流が不可欠となり、その言語圏に小言語集団が取り込まれることによって起きる。こうした動きは人的交流や文化的交流が盛んな先進国内においてより顕著であり、北アメリカやオーストラリアなどで言語消滅が急速に進み、経済成長と言語消滅との間には有意な相関があるとの研究も存在する。その他の地域においても言語消滅が進んでおり、2010年にはインド領のアンダマン諸島において言語が一つ消滅し、他にも同地域において消滅の危機にある言語が存在するとの警告が発せられた。 世界に存在する自然言語の一覧は言語の一覧を参照 言語がいつどのように生まれたのか分かっておらず、複数の仮説が存在する。例えばデンマークの言語学者オットー・イェスペルセンは、以下のような仮説を列挙している。 なお、言語が生まれたのが地球上の一ヶ所なのか、複数ヶ所なのかも分かっていない。 生物学的な観点から言語の起源を探ろうという試みもある。最近の分子生物学的研究によれば、FOXP2と名づけられている遺伝子に生じたある種の変異が言語能力の獲得につながった可能性がある。さらにその変異は現生人類とネアンデルタール人が分化する以前の30-40万年前にはすでに生じていたとの解析結果が発表されており、現生人類が登場とともに既に言語を身につけていた可能性も考えられる。しかしFOXP2は言語能力を有しない他の動物の多くが持っていること、FOXP2の変異が言語能力の獲得の必要条件であるとの直接的な証明はまだなされていないことなどに留意する必要がある。 生物の場合には、進化が止まった生物が現在も生き残っている「生きている化石」と呼ばれるものがある。また、一見似ている2種類が全然別の種類から進化していたというケースもある。言語にも同じような現象が起きており、その変化の速度は一定ではなく、侵略・交易・移動等他民族との接触が多ければ、その時言語も大きく変化する。代表例として英語、フランス語、ルーマニア語、アルバニア語、アルメニア語等がある。逆に接触が少ないとほとんど変化しなくなる。代表例としてドイツ語、アイスランド語、ギリシャ語、スラヴ語派、バルト語派、サンスクリット語等があり、特にアイスランド語は基本文法が1000年前とほとんど変っていない。 言語はもともといくつかの祖語から分化したと考えられており、同一の祖語から発生したグループを語族と呼ぶ。語族はさらに語派、語群、そして言語と細分化されていく。世界の大多数の言語はなんらかの語族に属するが、なかには現存する他の言語と系統関係が立証されておらず、語族に分類できない孤立した言語も存在する。また、地理・文化的に近接する異なった系統の言語が相互に影響しあい顕著に類似する事例も見られ、これは言語連合と呼ばれる。 同一語族に属する言語群の場合、共通語彙から言語の分化した年代を割り出す方法も考案されている。 一つの言語の言語史を作る場合、単語・綴り・発音・文法等から古代・中世・近代と3分割し、例えば「中世フランス語」等と呼ぶ。 ある言語と他の言語が接触した場合、両言語の話者の交流が深まるにつれて様々な変化が発生する。これを言語接触という。言語接触によって、両言語には相手の言語から語彙を借用した借用語が発生するほか、交流が深まるにつれて商業や生活上の必要から混成言語が発生することがある。この混成言語は、初期にはピジン言語と呼ばれる非常に簡略化された形をとるが、やがて語彙が増え言語として成長してくると、『クレオール言語という「新しい言語」となった』と見なす。クレオール言語はピジン言語と比べ語彙も多く、何よりきちんと体系だった文法が存在しており、「一個の独立した言語」と見なして全く差し支えない。クレオール言語はピジン言語と違い、母語話者が存在する、つまり幼いころから主にその言語を話して育った人々がいる、ということも特徴である。 中世の世界においてはしばしば、文語と日常使用する言語との間には隔たりがみられ、なかには中世ヨーロッパにおけるラテン語のようにその土地の言葉と全く異なる言語を文章語として採用している世界も存在した。ラテン語は欧州において知識人の間の共通語として用いられ、ルネサンスなどで大きな役割を果たしたが、やがて印刷術の発展や宗教改革などによって各国において使用される日常言語が文語として用いられるようになった。この際、それまで方言の連続体しか持たなかった各国において、その言語を筆記する標準的な表記法が定まっていき、各国において国内共通語としての標準語が制定されるようになった。これは出版物などによって徐々に定まっていくものもあれば、中央に公的な言語統制機関を置いて国家主導で標準語を制定するものもあったが、いずれにせよこうした言語の整備と国内共通語の成立は、国民国家を成立させるうえでの重要なピースとなっていった。一方で、標準語の制定は方言連続体のその他の言語を方言とすることになり、言語内での序列をつけることにつながった。 最も新しい言語であり、また誕生する瞬間がとらえられた言語としては、ニカラグアの子供達の間で1970年代後半に発生した「ニカラグア手話」がある。これは、言語能力は人間に生得のものであるという考えを裏付けるものとなった。 現在世界に存在する言語の数は千数百とも数千とも言われる。1939年にアメリカのルイス・ハーバート・グレイ(en:Louis Herbert Gray)は著書 Foundations of Language において「2796言語」と唱え、1979年にドイツのマイヤーが4200から5600言語と唱えており、三省堂の『言語学大辞典』「世界言語編」では8000超の言語を扱っている。 しかし、正確に数えることはほぼ不可能である。これは、未発見の言語や、消滅しつつある言語があるためだけではなく、原理的な困難があるためでもある。似ているが同じではない「言語」が隣り合って存在しているとき、それは一つの言語なのか別の言語なのか区別することは難しい。これはある人間集団を「言語の話者」とするか「方言の話者」とするかの問題でもある。たとえば、旧ユーゴスラビアに属していたセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの4地域の言語は非常に似通ったものであり、学術的には方言連続体であるセルビア・クロアチア語として扱われる。また旧ユーゴスラビアの政治上においても国家統一の観点上、これらの言語は同一言語として扱われていた。しかし1991年からのユーゴスラビア紛争によってユーゴスラビアが崩壊すると、独立した各国は各地方の方言をそれぞれ独立言語として扱うようになり、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語の三言語に政治的に分けられるようになった。さらに2006年にモンテネグロがセルビア・モンテネグロから独立すると、モンテネグロ語がセルビア語からさらに分けられるようになった。こうした、明確な標準語を持たず複数の言語中心を持つ言語のことを複数中心地言語と呼び、英語などもこれに含まれる。 逆に、中国においては北京語やそれを元に成立した普通話と、上海語や広東語といった遠隔地の言語とは差異が大きく会話が成立しないほどであるが、書き言葉は共通であり、またあくまでも中国語群には属していて対応関係が明確であるため、これら言語はすべて中国語内の方言として扱われている。 同じ言語かどうかを判定する基準として、相互理解性を提唱する考えがある。話者が相手の言うことを理解できる場合には、同一言語、理解できない場合には別言語とする。相互理解性は言語間の距離を伝える重要な情報であるが、これによって一つの言語の範囲を確定しようとすると、技術的難しさにとどまらない困難に直面する。一つは、Aの言うことをBが聞き取れても、Bの言うことをAが聞き取れないような言語差があることである。もう一つは、同系列の言語が地理的な広がりの中で徐々に変化している場合に、どこで、いくつに分割すべきなのか、あるいはまったく分割すべきでないのかを決められないことである。 こうした困難に際しても、単一の基準を決めて分類していくことは、理屈の上では可能である。しかしあえて単一基準を押し通す言語学者は現実にはいない。ある集団を「言語話者」とするか「方言話者」とするかには、政治的・文化的アイデンティティの問題が深く関係している。どのような基準を設けようと、ある地域で多くの賛成を得られる分類基準は、別の地域で強い反発を受けることになる。そうした反発は誤りだと言うための論拠を言語学はもっていないので、結局は慣習に従って、地域ごとに異なる基準を用いて分類することになる。 言語と方言の区別について、現在なされる説明は二つである。第一は、言語と方言の区別にはなんら言語学的意味はないとする。第二のものはまず、どの方言もそれぞれ言語だとする。その上で、ある標準語に対して非標準語の関係にある同系言語を、方言とする。標準語の選定は政治によるから、これもまた「言語と方言の区別に言語学的意味はない」とする点で、第一と同じである。この定義では、言語を秤にかけて判定しているのではなく、人々がその言語をどう思っているかを秤にかけているのである。 ある言語同士が独立の言語同士なのか、同じ言語の方言同士なのかの判定は非常に恣意的であるが、その一方で、明確に系統関係が異なる言語同士は、たとえ共通の集団で話されていても、方言同士とはみなされないという事実も有る。たとえば、中国甘粛省に住む少数民族ユーグ族は西部に住むものはテュルク系の言語を母語とし、東部に住むものはモンゴル系の言語を母語としている。両者は同じ民族だという意識があるが、その言語は方言同士ではなく、西部ユーグ語、東部ユーグ語と別々の言語として扱われる。また海南島にすむ臨高人も民族籍上は漢民族であるが、その言語は漢語の方言としては扱われず、系統どおりタイ・カダイ語族の臨高語として扱われる。 使用する文字は同言語かどうかの判断基準としてはあまり用いられない。言語は基本的にどの文字でも表記可能なものであり、ある言語が使用する文字を変更することや二種以上の文字を併用することは珍しいことではなく、また文法などに文字はさほど影響を与えないためである。デーヴァナーガリー文字を用いるインドの公用語であるヒンディー語とウルドゥー文字を用いるパキスタンの公用語であるウルドゥー語は、ヒンドゥスターニー語として同一言語または方言連続体として扱われることがある。 下表の母語話者数および分類は、『エスノローグ第21版』に準拠する。同資料は2021年時点の推計で、中国語は13方言、アラビア語は20方言、ラフンダー語は4方言の合計である。 上図の通り、最も母語話者の多い言語は中国語であるが、公用語としている国家は中華人民共和国と中華民国、それにシンガポールの3つの国家にすぎず、世界において広く使用されている言語というわけではない。また、共通語である普通話を含め, 13個の方言が存在する。 上記の資料で話者数2位の言語はスペイン語である。これはヨーロッパ大陸のスペインを発祥とする言語であるが、17世紀のスペインによる新大陸の植民地化を経て、南アメリカおよび北アメリカ南部における広大な言語圏を獲得した。2021年度においてスペイン語を公用語とする国々は21カ国にのぼる。さらにほぼ同系統の言語である5位のポルトガル語圏を合わせた新大陸の領域はラテンアメリカと呼ばれ、広大な共通言語圏を形成している。 上記の資料で英語の話者人口は4位だが、公用語としては55か国と最も多くの国で話されている。さらに、英語はアメリカ合衆国やイギリスの公用語であるため世界で広く重要視されている。世界の一体化に伴い研究やビジネスなども英語で行われる場面が増え、非英語圏どうしの住民の交渉においても共通語として英語を使用する場合があるなど、英語の世界共通語としての影響力は増大していく傾向にある。 英語に次ぐ国際語としては、17世紀から19世紀まで西洋で最も有力な国際語であったフランス語が挙げられる。フランス語の話者は2億3000万人とトップ5にも入らないが、フランス語を公用語とする国々はアフリカの旧フランス植民地を中心に29カ国にのぼる。 話者数7位のアラビア語も広い共通言語圏を持つ言語である。アラビア語はクルアーンの言語としてイスラム圏全域に使用者がおり、とくに北アフリカから中東にかけて母語話者が多いが、公用語とする国々は23カ国にのぼっていて、ひとつのアラブ文化圏を形成している。ただしこれも文語であるフスハーと口語であるアーンミーヤに分かれており、アーンミーヤはさらに多数の方言にわかれている。 国連の公用語は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の6つであるが、これは安全保障理事会の常任理事国の言語に、広大な共通言語圏を持つスペイン語とアラビア語を加えたものである。 言語は国家を成立させるうえでの重要な要素であり、カナダにおける英語とフランス語や、ベルギーにおけるオランダ語とフランス語のように、異なる言語間の対立がしばしば言語戦争と呼ばれるほどに激化して独立問題に発展し、国家に大きな影響を及ぼすことも珍しくない。東パキスタンのように、西パキスタンの言語であるウルドゥー語の公用語化に反発してベンガル語を同格の国語とすることを求めたことから独立運動が起き、最終的にバングラデシュとして独立したような例もある。 こうした場合、言語圏別に大きな自治権を与えたり、国家の公用語を複数制定したりすることなどによって少数派言語話者の不満をなだめる政策はよく用いられる。言語圏に強い自治権を与える典型例はベルギーで、同国では1970年に言語共同体が設立され、数度の変更を経てフラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の併存する連邦国家となった。公用語を複数制定する例ではスイスが典型的であり、それまでドイツ語のみであった公用語が1848年の憲法によってドイツ語・フランス語・イタリア語の三公用語制となり、さらに1938年にはロマンシュ語が国語とされた。この傾向が特に強いのはインドであり、1956年以降それまでの地理的な区分から同系統の言語を用いる地域へと州を再編する、いわゆる「言語州」政策を取っている。 国家における言語の構造は、公用語-共通語-民族語(部族語、方言)の三層の構造からなっている。もっとも、公用語と共通語、また三層すべてが同じ言語である場合はその分だけ層の数は減少する。 日本を例にとれば、各地方ではその地方の方言を使っている。つまり、同じ地方のコミュニティ内で通用する言語を使用している。これが他地方から来た人を相手にする場合となると、いわゆる標準語を使用することとなる。日本では他に有力な言語集団が存在しないため、政府関係の文書にも日本標準語がそのまま使用される。つまり、共通語と公用語が同一であるため、公用語-方言の二層構造となっている。 公用語と共通語は分離していない国家も多いが、アフリカ大陸の諸国家においてはこの三層構造が明確にあらわれている。これらの国においては、政府関係の公用語は旧宗主国の言語が使用されている。学校教育もこの言語で行われるが、民族語とかけ離れた存在であることもあり国民の中で使用できる層はさほど多くない。この穴を埋めるために、各地域においては共通語が話されている。首都がある地域の共通語が強大化し、国の大部分を覆うようになることも珍しくない。しかし文法の整備などの遅れや、国内他言語話者の反対、公用語の使用能力がエリート層の権力の源泉となっているなどの事情によって、共通語が公用語化はされないことがほとんどである。その下に各民族の民族語が存在する。 詳細は心理言語学及び、神経言語学を参照 言語機能は基本的にヒトに固有のものであるため、言語の研究には少数の例外を除き動物モデルを作りにくい。そのため、脳梗塞などで脳の局所が破壊された症例での研究や、被験者に2つの単語を呈示しその干渉効果を研究するなどの心理学的研究が主になされてきたが、1980年代後半より脳機能イメージング研究が手法に加わり、被験者がさまざまな言語課題を行っているときの脳活動を視覚化できるようになった。 古典的なブローカ領域、ウェルニッケ領域のほか、シルヴィウス裂を囲む広い範囲(縁上回、角回、一次・二次聴覚野、一次運動野、体性感覚野、左前頭前野、左下側頭回)にわたっている。脳梗塞などで各部が損傷されると、それぞれ違ったタイプの失語が出現する。例えば左前頭前野付近の損傷で生じるブローカ失語は運動失語であり、自発語は非流暢性となり復唱、書字も障害される。左側頭葉付近の障害で生じるウェルニッケ失語は感覚失語であり自発語は流暢であるが、言語理解や復唱が障害され、文字による言語理解も不良である。 ほとんどの右利きの人では、単語、文法、語彙などの主要な言語機能は左半球優位である。しかし声の抑揚(プロソディ)の把握、比喩の理解については右半球優位であると言われている。 文字の認識には左紡錘状回、中・下後頭回が関与するが、漢字(表意文字)とひらがな(表音文字)で活動する部位が異なると言われている。 これも多方面から研究されている。個人の言語能力は、読字障害、ウィリアムズ症候群、自閉症などのように全体的な知的能力とは乖離することがあり、個体発生やヒトの進化における言語の起源などにヒントを与えている。また、ヒトは環境の中で聴取する音声から自力で文法などの規則を見出し学習する機能を生得的に備えているため、特に教わらなくても言語を学習できるとする生得論という考えも存在する。 最近の近赤外線分光法を用いた研究において、生後2から5日の新生児が逆再生よりも順再生の声を聞いたほうが、あるいは外国語より母国語を聞いたときの方が聴覚皮質の血流増加が大きかったと報告されており、出産前から母体内で言語を聴いていることが示唆される。
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"近年、話者数が非常に少ない言語が他言語に飲み込まれて消滅し、新たに死語と化すことが問題視されるようになり、消滅の危機にある言語を危機言語と呼ぶようになった。これは、世界の一体化が進み、交通網の整備や流通の迅速化、ラジオ・テレビといったマスメディアの発達によってそれまで孤立を保っていた小さな言語がそのコミュニティを維持できなくなるために起こると考えられている。より大きな視点では英語の国際語としての勢力伸張による他主要言語の勢力縮小、いわゆる英語帝国主義もこれに含まれるといえるが、すくなくとも21世紀初頭においては英語を母語とする民族が多数派を占める国家を除いては英語のグローバル化が言語の危機に直結しているわけではない。言語消滅は、隣接したより大きな言語集団との交流が不可欠となり、その言語圏に小言語集団が取り込まれることによって起きる。こうした動きは人的交流や文化的交流が盛んな先進国内においてより顕著であり、北アメリカやオーストラリアなどで言語消滅が急速に進み、経済成長と言語消滅との間には有意な相関があるとの研究も存在する。その他の地域においても言語消滅が進んでおり、2010年にはインド領のアンダマン諸島において言語が一つ消滅し、他にも同地域において消滅の危機にある言語が存在するとの警告が発せられた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "世界に存在する自然言語の一覧は言語の一覧を参照", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "言語がいつどのように生まれたのか分かっておらず、複数の仮説が存在する。例えばデンマークの言語学者オットー・イェスペルセンは、以下のような仮説を列挙している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、言語が生まれたのが地球上の一ヶ所なのか、複数ヶ所なのかも分かっていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "生物学的な観点から言語の起源を探ろうという試みもある。最近の分子生物学的研究によれば、FOXP2と名づけられている遺伝子に生じたある種の変異が言語能力の獲得につながった可能性がある。さらにその変異は現生人類とネアンデルタール人が分化する以前の30-40万年前にはすでに生じていたとの解析結果が発表されており、現生人類が登場とともに既に言語を身につけていた可能性も考えられる。しかしFOXP2は言語能力を有しない他の動物の多くが持っていること、FOXP2の変異が言語能力の獲得の必要条件であるとの直接的な証明はまだなされていないことなどに留意する必要がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "生物の場合には、進化が止まった生物が現在も生き残っている「生きている化石」と呼ばれるものがある。また、一見似ている2種類が全然別の種類から進化していたというケースもある。言語にも同じような現象が起きており、その変化の速度は一定ではなく、侵略・交易・移動等他民族との接触が多ければ、その時言語も大きく変化する。代表例として英語、フランス語、ルーマニア語、アルバニア語、アルメニア語等がある。逆に接触が少ないとほとんど変化しなくなる。代表例としてドイツ語、アイスランド語、ギリシャ語、スラヴ語派、バルト語派、サンスクリット語等があり、特にアイスランド語は基本文法が1000年前とほとんど変っていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "言語はもともといくつかの祖語から分化したと考えられており、同一の祖語から発生したグループを語族と呼ぶ。語族はさらに語派、語群、そして言語と細分化されていく。世界の大多数の言語はなんらかの語族に属するが、なかには現存する他の言語と系統関係が立証されておらず、語族に分類できない孤立した言語も存在する。また、地理・文化的に近接する異なった系統の言語が相互に影響しあい顕著に類似する事例も見られ、これは言語連合と呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "同一語族に属する言語群の場合、共通語彙から言語の分化した年代を割り出す方法も考案されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一つの言語の言語史を作る場合、単語・綴り・発音・文法等から古代・中世・近代と3分割し、例えば「中世フランス語」等と呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ある言語と他の言語が接触した場合、両言語の話者の交流が深まるにつれて様々な変化が発生する。これを言語接触という。言語接触によって、両言語には相手の言語から語彙を借用した借用語が発生するほか、交流が深まるにつれて商業や生活上の必要から混成言語が発生することがある。この混成言語は、初期にはピジン言語と呼ばれる非常に簡略化された形をとるが、やがて語彙が増え言語として成長してくると、『クレオール言語という「新しい言語」となった』と見なす。クレオール言語はピジン言語と比べ語彙も多く、何よりきちんと体系だった文法が存在しており、「一個の独立した言語」と見なして全く差し支えない。クレオール言語はピジン言語と違い、母語話者が存在する、つまり幼いころから主にその言語を話して育った人々がいる、ということも特徴である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "中世の世界においてはしばしば、文語と日常使用する言語との間には隔たりがみられ、なかには中世ヨーロッパにおけるラテン語のようにその土地の言葉と全く異なる言語を文章語として採用している世界も存在した。ラテン語は欧州において知識人の間の共通語として用いられ、ルネサンスなどで大きな役割を果たしたが、やがて印刷術の発展や宗教改革などによって各国において使用される日常言語が文語として用いられるようになった。この際、それまで方言の連続体しか持たなかった各国において、その言語を筆記する標準的な表記法が定まっていき、各国において国内共通語としての標準語が制定されるようになった。これは出版物などによって徐々に定まっていくものもあれば、中央に公的な言語統制機関を置いて国家主導で標準語を制定するものもあったが、いずれにせよこうした言語の整備と国内共通語の成立は、国民国家を成立させるうえでの重要なピースとなっていった。一方で、標準語の制定は方言連続体のその他の言語を方言とすることになり、言語内での序列をつけることにつながった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "最も新しい言語であり、また誕生する瞬間がとらえられた言語としては、ニカラグアの子供達の間で1970年代後半に発生した「ニカラグア手話」がある。これは、言語能力は人間に生得のものであるという考えを裏付けるものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "現在世界に存在する言語の数は千数百とも数千とも言われる。1939年にアメリカのルイス・ハーバート・グレイ(en:Louis Herbert Gray)は著書 Foundations of Language において「2796言語」と唱え、1979年にドイツのマイヤーが4200から5600言語と唱えており、三省堂の『言語学大辞典』「世界言語編」では8000超の言語を扱っている。", "title": "世界の言語" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "しかし、正確に数えることはほぼ不可能である。これは、未発見の言語や、消滅しつつある言語があるためだけではなく、原理的な困難があるためでもある。似ているが同じではない「言語」が隣り合って存在しているとき、それは一つの言語なのか別の言語なのか区別することは難しい。これはある人間集団を「言語の話者」とするか「方言の話者」とするかの問題でもある。たとえば、旧ユーゴスラビアに属していたセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの4地域の言語は非常に似通ったものであり、学術的には方言連続体であるセルビア・クロアチア語として扱われる。また旧ユーゴスラビアの政治上においても国家統一の観点上、これらの言語は同一言語として扱われていた。しかし1991年からのユーゴスラビア紛争によってユーゴスラビアが崩壊すると、独立した各国は各地方の方言をそれぞれ独立言語として扱うようになり、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語の三言語に政治的に分けられるようになった。さらに2006年にモンテネグロがセルビア・モンテネグロから独立すると、モンテネグロ語がセルビア語からさらに分けられるようになった。こうした、明確な標準語を持たず複数の言語中心を持つ言語のことを複数中心地言語と呼び、英語などもこれに含まれる。", "title": "世界の言語" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "逆に、中国においては北京語やそれを元に成立した普通話と、上海語や広東語といった遠隔地の言語とは差異が大きく会話が成立しないほどであるが、書き言葉は共通であり、またあくまでも中国語群には属していて対応関係が明確であるため、これら言語はすべて中国語内の方言として扱われている。", "title": "世界の言語" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "同じ言語かどうかを判定する基準として、相互理解性を提唱する考えがある。話者が相手の言うことを理解できる場合には、同一言語、理解できない場合には別言語とする。相互理解性は言語間の距離を伝える重要な情報であるが、これによって一つの言語の範囲を確定しようとすると、技術的難しさにとどまらない困難に直面する。一つは、Aの言うことをBが聞き取れても、Bの言うことをAが聞き取れないような言語差があることである。もう一つは、同系列の言語が地理的な広がりの中で徐々に変化している場合に、どこで、いくつに分割すべきなのか、あるいはまったく分割すべきでないのかを決められないことである。", "title": "世界の言語" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "こうした困難に際しても、単一の基準を決めて分類していくことは、理屈の上では可能である。しかしあえて単一基準を押し通す言語学者は現実にはいない。ある集団を「言語話者」とするか「方言話者」とするかには、政治的・文化的アイデンティティの問題が深く関係している。どのような基準を設けようと、ある地域で多くの賛成を得られる分類基準は、別の地域で強い反発を受けることになる。そうした反発は誤りだと言うための論拠を言語学はもっていないので、結局は慣習に従って、地域ごとに異なる基準を用いて分類することになる。", "title": "世界の言語" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "言語と方言の区別について、現在なされる説明は二つである。第一は、言語と方言の区別にはなんら言語学的意味はないとする。第二のものはまず、どの方言もそれぞれ言語だとする。その上で、ある標準語に対して非標準語の関係にある同系言語を、方言とする。標準語の選定は政治によるから、これもまた「言語と方言の区別に言語学的意味はない」とする点で、第一と同じである。この定義では、言語を秤にかけて判定しているのではなく、人々がその言語をどう思っているかを秤にかけているのである。", "title": "世界の言語" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ある言語同士が独立の言語同士なのか、同じ言語の方言同士なのかの判定は非常に恣意的であるが、その一方で、明確に系統関係が異なる言語同士は、たとえ共通の集団で話されていても、方言同士とはみなされないという事実も有る。たとえば、中国甘粛省に住む少数民族ユーグ族は西部に住むものはテュルク系の言語を母語とし、東部に住むものはモンゴル系の言語を母語としている。両者は同じ民族だという意識があるが、その言語は方言同士ではなく、西部ユーグ語、東部ユーグ語と別々の言語として扱われる。また海南島にすむ臨高人も民族籍上は漢民族であるが、その言語は漢語の方言としては扱われず、系統どおりタイ・カダイ語族の臨高語として扱われる。", "title": "世界の言語" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "使用する文字は同言語かどうかの判断基準としてはあまり用いられない。言語は基本的にどの文字でも表記可能なものであり、ある言語が使用する文字を変更することや二種以上の文字を併用することは珍しいことではなく、また文法などに文字はさほど影響を与えないためである。デーヴァナーガリー文字を用いるインドの公用語であるヒンディー語とウルドゥー文字を用いるパキスタンの公用語であるウルドゥー語は、ヒンドゥスターニー語として同一言語または方言連続体として扱われることがある。", "title": "世界の言語" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "下表の母語話者数および分類は、『エスノローグ第21版』に準拠する。同資料は2021年時点の推計で、中国語は13方言、アラビア語は20方言、ラフンダー語は4方言の合計である。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "上図の通り、最も母語話者の多い言語は中国語であるが、公用語としている国家は中華人民共和国と中華民国、それにシンガポールの3つの国家にすぎず、世界において広く使用されている言語というわけではない。また、共通語である普通話を含め, 13個の方言が存在する。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "上記の資料で話者数2位の言語はスペイン語である。これはヨーロッパ大陸のスペインを発祥とする言語であるが、17世紀のスペインによる新大陸の植民地化を経て、南アメリカおよび北アメリカ南部における広大な言語圏を獲得した。2021年度においてスペイン語を公用語とする国々は21カ国にのぼる。さらにほぼ同系統の言語である5位のポルトガル語圏を合わせた新大陸の領域はラテンアメリカと呼ばれ、広大な共通言語圏を形成している。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "上記の資料で英語の話者人口は4位だが、公用語としては55か国と最も多くの国で話されている。さらに、英語はアメリカ合衆国やイギリスの公用語であるため世界で広く重要視されている。世界の一体化に伴い研究やビジネスなども英語で行われる場面が増え、非英語圏どうしの住民の交渉においても共通語として英語を使用する場合があるなど、英語の世界共通語としての影響力は増大していく傾向にある。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "英語に次ぐ国際語としては、17世紀から19世紀まで西洋で最も有力な国際語であったフランス語が挙げられる。フランス語の話者は2億3000万人とトップ5にも入らないが、フランス語を公用語とする国々はアフリカの旧フランス植民地を中心に29カ国にのぼる。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "話者数7位のアラビア語も広い共通言語圏を持つ言語である。アラビア語はクルアーンの言語としてイスラム圏全域に使用者がおり、とくに北アフリカから中東にかけて母語話者が多いが、公用語とする国々は23カ国にのぼっていて、ひとつのアラブ文化圏を形成している。ただしこれも文語であるフスハーと口語であるアーンミーヤに分かれており、アーンミーヤはさらに多数の方言にわかれている。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "国連の公用語は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の6つであるが、これは安全保障理事会の常任理事国の言語に、広大な共通言語圏を持つスペイン語とアラビア語を加えたものである。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "言語は国家を成立させるうえでの重要な要素であり、カナダにおける英語とフランス語や、ベルギーにおけるオランダ語とフランス語のように、異なる言語間の対立がしばしば言語戦争と呼ばれるほどに激化して独立問題に発展し、国家に大きな影響を及ぼすことも珍しくない。東パキスタンのように、西パキスタンの言語であるウルドゥー語の公用語化に反発してベンガル語を同格の国語とすることを求めたことから独立運動が起き、最終的にバングラデシュとして独立したような例もある。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "こうした場合、言語圏別に大きな自治権を与えたり、国家の公用語を複数制定したりすることなどによって少数派言語話者の不満をなだめる政策はよく用いられる。言語圏に強い自治権を与える典型例はベルギーで、同国では1970年に言語共同体が設立され、数度の変更を経てフラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の併存する連邦国家となった。公用語を複数制定する例ではスイスが典型的であり、それまでドイツ語のみであった公用語が1848年の憲法によってドイツ語・フランス語・イタリア語の三公用語制となり、さらに1938年にはロマンシュ語が国語とされた。この傾向が特に強いのはインドであり、1956年以降それまでの地理的な区分から同系統の言語を用いる地域へと州を再編する、いわゆる「言語州」政策を取っている。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "国家における言語の構造は、公用語-共通語-民族語(部族語、方言)の三層の構造からなっている。もっとも、公用語と共通語、また三層すべてが同じ言語である場合はその分だけ層の数は減少する。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本を例にとれば、各地方ではその地方の方言を使っている。つまり、同じ地方のコミュニティ内で通用する言語を使用している。これが他地方から来た人を相手にする場合となると、いわゆる標準語を使用することとなる。日本では他に有力な言語集団が存在しないため、政府関係の文書にも日本標準語がそのまま使用される。つまり、共通語と公用語が同一であるため、公用語-方言の二層構造となっている。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "公用語と共通語は分離していない国家も多いが、アフリカ大陸の諸国家においてはこの三層構造が明確にあらわれている。これらの国においては、政府関係の公用語は旧宗主国の言語が使用されている。学校教育もこの言語で行われるが、民族語とかけ離れた存在であることもあり国民の中で使用できる層はさほど多くない。この穴を埋めるために、各地域においては共通語が話されている。首都がある地域の共通語が強大化し、国の大部分を覆うようになることも珍しくない。しかし文法の整備などの遅れや、国内他言語話者の反対、公用語の使用能力がエリート層の権力の源泉となっているなどの事情によって、共通語が公用語化はされないことがほとんどである。その下に各民族の民族語が存在する。", "title": "話者数の統計順位" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "詳細は心理言語学及び、神経言語学を参照", "title": "言語の生物学" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "言語機能は基本的にヒトに固有のものであるため、言語の研究には少数の例外を除き動物モデルを作りにくい。そのため、脳梗塞などで脳の局所が破壊された症例での研究や、被験者に2つの単語を呈示しその干渉効果を研究するなどの心理学的研究が主になされてきたが、1980年代後半より脳機能イメージング研究が手法に加わり、被験者がさまざまな言語課題を行っているときの脳活動を視覚化できるようになった。", "title": "言語の生物学" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "古典的なブローカ領域、ウェルニッケ領域のほか、シルヴィウス裂を囲む広い範囲(縁上回、角回、一次・二次聴覚野、一次運動野、体性感覚野、左前頭前野、左下側頭回)にわたっている。脳梗塞などで各部が損傷されると、それぞれ違ったタイプの失語が出現する。例えば左前頭前野付近の損傷で生じるブローカ失語は運動失語であり、自発語は非流暢性となり復唱、書字も障害される。左側頭葉付近の障害で生じるウェルニッケ失語は感覚失語であり自発語は流暢であるが、言語理解や復唱が障害され、文字による言語理解も不良である。", "title": "言語の生物学" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ほとんどの右利きの人では、単語、文法、語彙などの主要な言語機能は左半球優位である。しかし声の抑揚(プロソディ)の把握、比喩の理解については右半球優位であると言われている。", "title": "言語の生物学" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "文字の認識には左紡錘状回、中・下後頭回が関与するが、漢字(表意文字)とひらがな(表音文字)で活動する部位が異なると言われている。", "title": "言語の生物学" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "これも多方面から研究されている。個人の言語能力は、読字障害、ウィリアムズ症候群、自閉症などのように全体的な知的能力とは乖離することがあり、個体発生やヒトの進化における言語の起源などにヒントを与えている。また、ヒトは環境の中で聴取する音声から自力で文法などの規則を見出し学習する機能を生得的に備えているため、特に教わらなくても言語を学習できるとする生得論という考えも存在する。", "title": "言語の生物学" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "最近の近赤外線分光法を用いた研究において、生後2から5日の新生児が逆再生よりも順再生の声を聞いたほうが、あるいは外国語より母国語を聞いたときの方が聴覚皮質の血流増加が大きかったと報告されており、出産前から母体内で言語を聴いていることが示唆される。", "title": "言語の生物学" } ]
言語(げんご)は、狭義には「声による記号の体系」をいう。 広辞苑や大辞泉には次のように解説されている。 人間が音声や文字を用いて思想・感情・意志等々を伝達するために用いる記号体系。およびそれを用いる行為(広辞苑)。音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現したり伝達する、あるいは他者のそれを受け入れ、理解するための約束・規則。および、そうした記号の体系(大辞泉)。 ある特定の集団が用いる、音や文字による事態の伝達手段(個別言語のことで、英語・フランス語・日本語などのこと)。 ソシュールの用語「langue ラング」の日本語での訳語。 『日本大百科全書』では、「言語」という語は多義である、と解説され、大脳の言語中枢に蓄えられた《語彙と文法規則の体系》を指すこともあり、その体系を用いる能力としてとらえることもある、と解説され、一方では、抽象的に「すべての人間が共有する言語能力」を指すこともあり、「個々の個別言語」を指すこともある、と解説されている。 広義の言語には、verbalな(言葉に表す)ものとnon-verbalな(言葉として表されない)もの(各種記号、アイコン、図形、ボディーランゲージ等)の両方を含み、日常のコミュニケーションでは狭義の言語表現に身振り、手振り、図示、擬音等も加えて表現されることもある。
'''言語'''(げんご)は、狭義には「声による記号の体系」をいう<ref name="yamamoto" />。 [[広辞苑]]や[[大辞泉]]には次のように解説されている<ref name="koujien">広辞苑 第六版「げんご(言語)」</ref>。 *[[人間]]が[[音声]]や[[文字]]を用いて[[思想]]・[[感情]]・[[意志]]等々を伝達するために用いる記号体系<ref name="koujien" />。およびそれを用いる[[行為]](広辞苑<ref name="koujien" />)。音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現したり伝達する、あるいは他者のそれを受け入れ、理解するための約束・[[規則]]。および、そうした記号の体系(大辞泉<ref name="daijisen">大辞泉「げんご(言語)」</ref>)。 *ある特定の[[集団]]が用いる、音や文字による事態の伝達手段<ref name="koujien" />([[個別言語]]のことで、[[英語]]・[[フランス語]]・[[日本語]]などのこと<ref name="koujien" />)。 *[[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]の用語「langue [[ラング]]」の日本語での訳語。 『[[日本大百科全書]]』では、「言語」という語は<u>多義である</u>、と解説され、[[大脳]]の{{仮リンク|言語中枢|en|Language center}}に蓄えられた《[[語彙]]と[[文法]]規則の体系》を指すこともあり、その体系を用いる[[能力]]としてとらえることもある、と解説され、一方では、[[抽象化|抽象]]的に「[[人類|すべての人間]]が共有する言語能力」を指すこともあり、「個々の個別言語」を指すこともある、と解説されている<ref name="nipponnica">『日本大百科全書』(ニッポニカ)、言語</ref>。 広義の言語には、verbalな(言葉に表す)ものとnon-verbalな(言葉として表されない)もの(各種記号、アイコン、図形、[[ボディーランゲージ]]等)の両方を含み、日常のコミュニケーションでは狭義の言語表現に身振り、手振り、図示、擬音等も加えて表現されることもある<ref name="yamamoto" />。 == 概説 == {{言語学}} 言語は、[[人間]]が用いる意志伝達手段であり、社会[[集団]]内で形成習得され、[[コミュニケーション|意志を相互に伝達すること]]や、抽象的な[[思考]]を可能にし、結果として人間の社会的活動や[[文化]]的活動を支えている<ref name="britanica">ブリタニカ百科事典「言語」</ref>。言語には、文化の特徴が織り込まれており、共同体で用いられている言語の習得をすることによって、その共同体での社会的学習、および[[人格]]の形成をしていくことになる<ref name="britanica" />。 [[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]の研究が、言語学の発展の上で非常に重要な役割を果たしたわけであるが、ソシュール以降は、「共同体の用いる言語'''体系'''」のことは「langue [[ラング]]」と呼ばれ、それに対して、個々の人が行う言語活動は「parole [[パロール]]」という用語で呼ばれるようになっている<ref name="britanica" />。 《[[音韻]]》 と 《[[意味]]》の間の結び付け方、また、《文字》と音韻・形態素・単語との間の結び付け方は、社会的に作られている習慣である<ref name="britanica" />。 言語と非言語の境界が問題になるが、文字を使う方法と文字を用いない方法の区別のみで、言語表現を非言語表現から区別することはできない<ref name="yamamoto">{{Cite web|和書|url=http://www.jsik.jp/?plugin=attach&refer=TableofContents1&openfile=KJ00002113963.pdf|author=山本 昭|title=情報知識学会第6回研究報告会講演論文集 専門コミュニケーションにおける言語と非言語・ターミノロジーの視点から|publisher=情報知識学会|accessdate=2022-04-05}}</ref>。抽象記号には文字表現と非文字表現([[積分記号]]や[[ト音記号]]など)があり、文字表現は言語表現と文字記号に分けられる<ref name="yamamoto" />。言語表現と区別される文字記号とは、文字を使っているが語(word)でないものをいい、化学式H<sub>2</sub>Oなどがその例である<ref name="yamamoto" />。化学式は自然言語の文法が作用しておらず、化学式独特の文法で構成されている<ref name="yamamoto" />。 言語にはさまざまな分類がある。[[口語]]、[[口頭言語]]、[[書記言語]]、[[文語]]、といった分類があるが、重なる部分もありはっきり分類できるものでもない。また[[屈折語]]・[[膠着語]]・[[孤立語]]といったような分類もある。詳細は[[言語類型論]]を参照。 言語的表現は読み上げによって音声表現、点字化により触覚表現に変換されるが、言語的表現の特性は保存され、視覚的に表現されたものと同等に取り扱うことができる<ref name="yamamoto" />。 手話に関しては「[[日本語対応手話]]」は一般の日本語の話し言葉や書き言葉と同一の言語の「[[視覚言語]]バージョン」であるが、「[[日本手話]]」は一般の日本語とは異なる言語と考えられており、そちらは[[音声言語]]や[[文字言語]]とは異なる「[[視覚言語]]」ということになるなど、分類は単純ではない。 以上の自然発生的な「自然」言語の他、近代以降、[[エスペラント]]などの[[国際補助語]]など、[[人工言語]]も作られた。<ref group="注釈">自然言語の持ついくつかの性質を全く削いだ、[[形式言語]]として設計されている人工言語も一部にはある([[ログラン]]など)。</ref><ref group="注釈">(言語学の用語に沿って)「[[動物のコミュニケーション]]の体系」も「言語」と呼ぶこともある、という主張がある。しかし、チョムスキー理論では「[[普遍文法]]」などの概念において、言語は人間のものという大前提があり、どういう意味で「言語学の用語に沿って」なのかは不明確である。</ref> 自然言語以外については、[[人工言語]]・[[形式言語]]・[[コンピュータ言語]]などの各記事を参照。 {{Seealso|人工言語|形式言語|コンピュータ言語}} [[ジャック・デリダ]]という、一般に[[ポスト構造主義]]の代表的[[哲学者]]と位置づけられている[[フランス]]の哲学者は、「声」を基礎とし文字をその代替とする発想が言語学に存在する、と主張し、それに対する批判を投げかける立場を主張した。[[グラマトロジーについて|『グラマトロジーについて』]]と「[[差延]]」の記事も参照。 個別言語は、民族の滅亡や他言語による吸収によって使用されなくなることがある。このような言語は[[死語 (言語)|死語]]と呼ばれ、死語が再び母語として使用されたことは歴史上にただ一例、[[ヘブライ語]]の例しかない。しかし、ヘブライ語は自然に復活したわけでも完全に消滅していたわけでもなく、[[文章語]]として存続していた言語を、[[パレスチナ]]に移住した[[ユダヤ人]]たちが20世紀に入って日常語として人工的に復活させ<ref>「物語 エルサレムの歴史」p166 笈川博一 中央公論新社 2010年7月25日発行</ref>、[[イスラエル]]建国とともに公用語に指定して完全に再生させたものである。このほかにも、[[古典アラビア語]]、[[ラテン語]]、[[古典ギリシャ語]]のように、日常語としては消滅しているものの文章語としては存続している言語も存在する。このほか、日常ではもはや用いられず、[[教典]]や[[宗教]]行為のみに用いられるようになった[[典礼言語]]も存在する。 近年、話者数が非常に少ない言語が他言語に飲み込まれて消滅し、新たに死語と化すことが問題視されるようになり、消滅の危機にある言語を[[危機言語]]と呼ぶようになった。これは、[[世界の一体化]]が進み、交通網の整備や流通の迅速化、[[ラジオ]]・[[テレビ]]といった[[マスメディア]]の発達によってそれまで孤立を保っていた小さな言語がそのコミュニティを維持できなくなるために起こると考えられている<ref name="名前なし-1">「消滅する言語」p108-111 デイヴィッド・クリスタル著 斎藤兆史・三谷裕美訳 中公新書 2004年11月25日発行</ref>。より大きな視点では[[英語]]の国際語としての勢力伸張による他主要言語の勢力縮小、いわゆる[[英語帝国主義]]もこれに含まれるといえるが、すくなくとも21世紀初頭においては英語を母語とする民族が多数派を占める国家を除いては英語のグローバル化が言語の危機に直結しているわけではない。[[言語消滅]]は、隣接したより大きな言語集団との交流が不可欠となり、その言語圏に小言語集団が取り込まれることによって起きる<ref name="名前なし-1"/>。こうした動きは人的交流や文化的交流が盛んな[[先進国]]内においてより顕著であり、[[北アメリカ]]や[[オーストラリア]]などで言語消滅が急速に進み、経済成長と言語消滅との間には有意な相関があるとの研究も存在する<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3024935 「経済成長で少数言語が失われる、研究」AFPBB 2014年09月03日 2017年2月6日閲覧</ref>。その他の地域においても言語消滅が進んでおり、[[2010年]]にはインド領の[[アンダマン諸島]]において言語が一つ消滅し<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2691446?pid=5282181 「最後の話者が死亡、消滅危機言語が絶滅 インド・アンダマン諸島のボ語」AFPBB 2010年02月06日 2017年2月6日閲覧</ref>、他にも同地域において消滅の危機にある言語が存在するとの警告が発せられた<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2783379 「ジャラワ族も存亡の危機、インド・アンダマン諸島」AFPBB 2011年01月26日 2017年2月6日閲覧</ref>。 世界に存在する自然言語の一覧は[[言語の一覧]]を参照 == 歴史 == === 起源 === {{main|言語の起源}} 言語がいつどのように生まれたのか分かっておらず、複数の[[仮説]]が存在する。例えば[[デンマーク]]の言語学者[[オットー・イェスペルセン]]は、以下のような仮説を列挙している。 ; プープー説("Pooh-pooh" theory) : 思わず出た声から感情に関する語が出来たもの。 : 爆笑から"laugh"「わらう」「ショウ(笑)」、嫌う声から"hate"「きらい」「ケン(嫌)」など。 : ; ワンワン説("Bow Bow" theory) : 鳴き声から動物に関する語が出来たもの。 : 「モウ~」から"cow"「うし」「ギュウ(牛)」、「ワオ~ン」から"wolf"「おおかみ」「ロウ (狼)」など。 : ; ドンドン説("Ding-dong" theory) : 音響から自然物に関する語が出来たもの。 : 「ピカッ!ゴロゴロ」から"thunder"「かみなり」「ライ(雷)」、「ザーッ…」から"water"「みず」「スイ(水)」など。 : ; エイヤコーラ説("Yo-he-ho" theory) : かけ声から行動に関する語が出来たもの。 : 停止を促す声から"stop"「とまる」「テイ(停)」、働く時の声から"work"「はたらく」「ロウ(労)」など。 : この説は、集団行動をとる時の意味の無いはやし歌が、世界各地に残っている事からも裏付けられる。 なお、言語が生まれたのが地球上の一ヶ所なのか、複数ヶ所なのかも分かっていない。 [[生物学]]的な観点から言語の起源を探ろうという試みもある。最近の[[分子生物学]]的研究によれば、[[FOXP2]]と名づけられている[[遺伝子]]に生じたある種の変異が言語能力の獲得につながった可能性がある<ref>[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/11586359?dopt=Abstract Nature. 413(6855):519-23.]</ref>。さらにその変異は[[人類の進化#ホモ・サピエンス|現生人類]]と[[ネアンデルタール人]]が分化する以前の30-40万年前にはすでに生じていたとの解析結果が発表されており<ref>[http://www.sciencedirect.com/science?_ob=ArticleURL&_udi=B6VRT-4PXN9TN-5&_user=10&_rdoc=1&_fmt=&_orig=search&_sort=d&view=c&_acct=C000050221&_version=1&_urlVersion=0&_userid=10&md5=0483b7dff86f2405ff5f39185950aa9e Current Biology 17:1908–1912]</ref>、現生人類が登場とともに既に言語を身につけていた可能性も考えられる。しかしFOXP2は言語能力を有しない他の動物の多くが持っていること、FOXP2の変異が言語能力の獲得の必要条件であるとの直接的な証明はまだなされていないことなどに留意する必要がある。 === 変化 === {{Main|言語変化}} 生物の場合には、進化が止まった生物が現在も生き残っている「[[生きている化石]]」と呼ばれるものがある。また、一見似ている2種類が全然別の種類から進化していたというケースもある。言語にも同じような現象が起きており、その変化の速度は一定ではなく、侵略・交易・移動等他民族との接触が多ければ、その時言語も大きく変化する。代表例として[[英語]]、[[フランス語]]、[[ルーマニア語]]、[[アルバニア語]]、[[アルメニア語]]等がある。逆に接触が少ないとほとんど変化しなくなる。代表例として[[ドイツ語]]、[[アイスランド語]]、[[ギリシャ語]]、[[スラヴ語派]]、[[バルト語派]]、[[サンスクリット語]]等があり、特にアイスランド語は基本文法が1000年前とほとんど変っていない。 言語はもともといくつかの[[祖語]]から分化したと考えられており、同一の祖語から発生したグループを[[語族]]と呼ぶ。語族はさらに[[語派]]、語群、そして言語と細分化されていく。世界の大多数の言語はなんらかの語族に属するが、なかには現存する他の言語と系統関係が立証されておらず、語族に分類できない[[孤立した言語]]も存在する。また、地理・文化的に近接する異なった系統の言語が相互に影響しあい顕著に類似する事例も見られ、これは[[言語連合]]と呼ばれる。 同一語族に属する言語群の場合、共通[[語彙]]から言語の分化した年代を割り出す方法も考案されている。 一つの言語の言語史を作る場合、単語・綴り・発音・文法等から古代・中世・近代と3分割し、例えば「中世フランス語」等と呼ぶ。 ある言語と他の言語が接触した場合、両言語の話者の交流が深まるにつれて様々な変化が発生する。これを[[言語接触]]という。言語接触によって、両言語には相手の言語から語彙を借用した[[借用語]]が発生するほか、交流が深まるにつれて商業や生活上の必要から[[混成言語]]が発生することがある。この混成言語は、初期には[[ピジン言語]]と呼ばれる非常に簡略化された形をとるが、やがて語彙が増え言語として成長してくると、『[[クレオール言語]]という「新しい言語」となった』と見なす<ref>「フランス語学概論」p40-41 髭郁彦・川島浩一郎・渡邊淳也著 駿河台出版社 2010年4月1日初版発行</ref>。クレオール言語はピジン言語と比べ語彙も多く、何よりきちんと体系だった[[文法]]が存在しており、「一個の独立した言語」と見なして全く差し支えない。クレオール言語はピジン言語と違い、[[母語]]話者が存在する、つまり幼いころから主にその言語を話して育った人々がいる、ということも特徴である<ref name="名前なし-2">「文化人類学キーワード」p97 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。 中世の世界においてはしばしば、[[文語]]と日常使用する言語との間には隔たりがみられ、なかには[[中世ヨーロッパ]]における[[ラテン語]]のようにその土地の言葉と全く異なる言語を文章語として採用している世界も存在した。ラテン語は欧州において知識人の間の[[共通語]]として用いられ、ルネサンスなどで大きな役割を果たしたが、やがて[[印刷]]術の発展や[[宗教改革]]などによって各国において使用される日常言語が文語として用いられるようになった。この際、それまで方言の連続体しか持たなかった各国において、その言語を筆記する標準的な表記法が定まっていき<ref>塩川伸明 『民族とネイション - ナショナリズムという難問』p40 岩波新書、2008年 ISBN 9784004311560</ref>、各国において国内共通語としての[[標準語]]が制定されるようになった。これは出版物などによって徐々に定まっていくものもあれば、中央に公的な言語統制機関を置いて国家主導で標準語を制定するものもあったが、いずれにせよこうした言語の整備と国内共通語の成立は、[[国民国家]]を成立させるうえでの重要なピースとなっていった。一方で、標準語の制定は方言連続体のその他の言語を方言とすることになり、言語内での序列をつけることにつながった<ref name="名前なし-2"/>。 最も新しい言語であり、また誕生する瞬間がとらえられた言語としては、[[ニカラグア]]の子供達の間で[[1970年代]]後半に発生した「[[ニカラグア手話]]」がある。これは、言語能力は人間に生得のものであるという考えを裏付けるものとなった。 == 世界の言語 == [[ファイル:Sekai-no-gengo.png|thumb|400px|世界の言語の分布図]] {{see also|言語の一覧|語族の一覧|語族}} 現在世界に存在する言語の数は千数百とも数千とも言われる。[[1939年]]にアメリカの[[ルイス・ハーバート・グレイ]]([[:en:Louis Herbert Gray]])は著書 ''Foundations of Language''[https://archive.org/details/GrayFoundationsOfLanguage1939/mode/2up] において「2796言語」と唱え、[[1979年]]にドイツのマイヤーが4200から5600言語と唱えており、[[三省堂]]の『[[言語学大辞典]]』「世界言語編」では8000超の言語を扱っている<ref>城生佰太郎・松崎寛 『日本語「らしさ」の言語学』 講談社 1995年 p.22</ref>。 しかし、正確に数えることはほぼ不可能である。これは、未発見の言語や、消滅しつつある言語があるためだけではなく、原理的な困難があるためでもある。似ているが同じではない「言語」が隣り合って存在しているとき、それは一つの言語なのか別の言語なのか区別することは難しい。これはある人間集団を「言語の話者」とするか「方言の話者」とするかの問題でもある<ref>「消滅する言語」p12-13 デイヴィッド・クリスタル著 斎藤兆史・三谷裕美訳 中公新書 2004年11月25日発行</ref>。たとえば、旧[[ユーゴスラビア]]に属していた[[セルビア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[モンテネグロ]]の4地域の言語は非常に似通ったものであり、学術的には[[方言連続体]]である[[セルビア・クロアチア語]]として扱われる。また旧ユーゴスラビアの政治上においても国家統一の観点上、これらの言語は同一言語として扱われていた。しかし1991年からの[[ユーゴスラビア紛争]]によってユーゴスラビアが崩壊すると、独立した各国は各地方の方言をそれぞれ[[独立言語]]として扱うようになり、[[セルビア語]]、[[クロアチア語]]、[[ボスニア語]]の三言語に政治的に分けられるようになった<ref>「人類の歴史を変えた8つのできごと1 言語・宗教・農耕・お金編」p30-31 眞淳平 岩波ジュニア新書 2012年4月20日第1刷</ref>。さらに[[2006年]]にモンテネグロが[[セルビア・モンテネグロ]]から独立すると、[[モンテネグロ語]]がセルビア語からさらに分けられるようになった。こうした、明確な標準語を持たず複数の言語中心を持つ言語のことを[[複数中心地言語]]と呼び、英語などもこれに含まれる。 逆に、中国においては[[北京語]]やそれを元に成立した[[普通話]]と、[[上海語]]や[[広東語]]といった遠隔地の言語とは差異が大きく会話が成立しないほどであるが、書き言葉は共通であり、またあくまでも中国語群には属していて対応関係が明確であるため、これら言語はすべて[[中国語]]内の方言として扱われている<ref>「中国の地域社会と標準語 南中国を中心に」p19 陳於華 三元社 2005年2月23日初版第1刷</ref>。 同じ言語かどうかを判定する基準として、相互理解性を提唱する考えがある。話者が相手の言うことを理解できる場合には、同一言語、理解できない場合には別言語とする。相互理解性は言語間の距離を伝える重要な情報であるが、これによって一つの言語の範囲を確定しようとすると、技術的難しさにとどまらない困難に直面する。一つは、Aの言うことをBが聞き取れても、Bの言うことをAが聞き取れないような言語差があることである。もう一つは、同系列の言語が地理的な広がりの中で徐々に変化している場合に、どこで、いくつに分割すべきなのか、あるいはまったく分割すべきでないのかを決められないことである。 こうした困難に際しても、単一の基準を決めて分類していくことは、理屈の上では可能である。しかしあえて単一基準を押し通す言語学者は現実にはいない。ある集団を「言語話者」とするか「方言話者」とするかには、政治的・文化的[[アイデンティティ]]の問題が深く関係している。どのような基準を設けようと、ある地域で多くの賛成を得られる分類基準は、別の地域で強い反発を受けることになる。そうした反発は誤りだと言うための論拠を言語学はもっていないので、結局は慣習に従って、地域ごとに異なる基準を用いて分類することになる。 言語と方言の区別について、現在なされる説明は二つである。第一は、言語と方言の区別にはなんら言語学的意味はないとする。第二のものはまず、どの方言もそれぞれ言語だとする。その上で、ある標準語に対して非標準語の関係にある同系言語を、方言とする。[[標準語]]の選定は政治によるから、これもまた「言語と方言の区別に言語学的意味はない」とする点で、第一と同じである。この定義では、言語を秤にかけて判定しているのではなく、人々がその言語をどう思っているかを秤にかけているのである。 ある言語同士が独立の言語同士なのか、同じ言語の方言同士なのかの判定は非常に恣意的であるが、その一方で、明確に系統関係が異なる言語同士は、たとえ共通の集団で話されていても、方言同士とはみなされないという事実も有る。たとえば、中国甘粛省に住む少数民族[[ユーグ族]]は西部に住むものは[[テュルク系]]の言語を母語とし、東部に住むものはモンゴル系の言語を母語としている。両者は同じ民族だという意識があるが、その言語は方言同士ではなく、[[西部ユーグ語]]、[[東部ユーグ語]]と別々の言語として扱われる。また海南島にすむ臨高人も民族籍上は[[漢民族]]であるが、その言語は[[漢語]]の方言としては扱われず、系統どおり[[タイ・カダイ語族]]の[[臨高語]]として扱われる。 使用する[[文字]]は同言語かどうかの判断基準としてはあまり用いられない。言語は基本的にどの文字でも表記可能なものであり、ある言語が使用する文字を変更することや二種以上の文字を併用することは珍しいことではなく、また[[文法]]などに文字はさほど影響を与えないためである。[[デーヴァナーガリー文字]]を用いるインドの公用語である[[ヒンディー語]]と[[ウルドゥー文字]]を用いる[[パキスタン]]の公用語である[[ウルドゥー語]]は、[[ヒンドゥスターニー語]]として同一言語または[[方言連続体]]として扱われることがある。 == 話者数の統計順位 == === 母語話者統計で見た話者数 === {{main|母語話者の数が多い言語の一覧}} 下表の母語話者数および分類は、『[[エスノローグ]]第21版』に準拠する。同資料は2021年時点の推計で、中国語は13方言、アラビア語は20方言、ラフンダー語は4方言の合計である。 {| class="wikitable" |- !1位 |[[中国語]]||13億人 |{{Plainlist| *{{PRC}} *{{ROC}} *{{MYS}} *{{SIN}}}} |- !2位 |[[スペイン語]]||5億7700万人 |{{Plainlist| *{{ESP}} *{{MEX}} *{{ARG}}など }} |- !3位 |[[ヒンディー語]]||4億9000万人 |{{Plainlist| *{{IND}} *{{FJI}} }} |- !4位 |[[英語]]||3億3500万人 |{{Plainlist| *{{USA}} *{{UK}} *{{AUS}} *{{CAN}}など }} |- !5位 |[[ポルトガル語]]||2億5000万人 |{{Plainlist| *{{POR}} *{{BRA}}など }} |- !6位 |[[ベンガル語]]||2億4300万人 |{{Plainlist| *{{BAN}} *{{IND}} }} |- !7位 |[[アラビア語]]||2億3500万人 |{{Plainlist| *{{EGY}} *{{KSA}} *{{IRQ}}など }} |- !8位 |[[フランス語]] |2億3000万人 |{{Plainlist| *{{FRA}} *{{BEL}}など }} |- !9位 |[[ロシア語]]||1億8000万人 |{{Plainlist| *{{RUS}}など }} |- !10位 |[[ドイツ語]] |1億3000万人 |{{Plainlist| *{{GER}} *{{AUT}} *{{ SUI}}など }} |- !11位 |[[日本語]]||1億2700万人 |{{Plainlist| *{{JPN}} *{{PLW}}}} |- !12位 |[[トルコ語]] |8800万人 |{{Plainlist| *{{TUR}}など }} |- !13位 |[[朝鮮語]] |8250万人 |{{Plainlist| *{{KOR}} *{{PRK}} *{{PRC}} (延辺)}} |- !14位 |[[ジャワ語]] |7500万人 |{{Plainlist| *{{IDN}}など }} |- !15位 |[[ラフンダー語]]||4200万人 |{{Plainlist| *{{PAK}}など }} |} === 母語話者数と総話者数の差 === 上図の通り、最も母語話者の多い言語は[[中国語]]であるが、公用語としている国家は[[中華人民共和国]]と[[中華民国]]、それに[[シンガポール]]の3つの国家にすぎず、世界において広く使用されている言語というわけではない。また、共通語である[[普通話]]を含め, 13個の方言が存在する。 上記の資料で話者数2位の言語は[[スペイン語]]である。これは[[ヨーロッパ大陸]]の[[スペイン]]を発祥とする言語であるが、[[17世紀]]のスペインによる[[新大陸]]の植民地化を経て、[[南アメリカ]]および[[北アメリカ]]南部における広大な言語圏を獲得した。2021年度においてスペイン語を公用語とする国々は21カ国にのぼる。さらにほぼ同系統の言語である5位の[[ポルトガル語]]圏を合わせた新大陸の領域は[[ラテンアメリカ]]と呼ばれ、広大な共通言語圏を形成している。 上記の資料で[[英語]]の話者人口は4位だが、公用語としては55か国と最も多くの国で話されている。さらに、英語は[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス]]の公用語であるため世界で広く重要視されている。世界の一体化に伴い研究やビジネスなども英語で行われる場面が増え、非英語圏どうしの住民の交渉においても共通語として英語を使用する場合があるなど、英語の世界共通語としての影響力は増大していく傾向にある。 英語に次ぐ国際語としては、[[17世紀]]から[[19世紀]]まで[[西洋]]で最も有力な国際語であった<ref>「言語世界地図」p196 町田健 新潮新書 2008年5月20日発行</ref>[[フランス語]]が挙げられる。フランス語の話者は2億3000万人とトップ5にも入らないが、フランス語を公用語とする国々はアフリカの旧フランス植民地を中心に29カ国にのぼる。 話者数7位の[[アラビア語]]も広い共通言語圏を持つ言語である。アラビア語は[[クルアーン]]の言語として[[イスラム]]圏全域に使用者がおり、とくに[[北アフリカ]]から[[中東]]にかけて母語話者が多いが、公用語とする国々は23カ国にのぼっていて、ひとつの[[アラブ]]文化圏を形成している。ただしこれも文語である[[フスハー]]と口語である[[アーンミーヤ]]に分かれており、アーンミーヤはさらに多数の方言にわかれている。 [[国際連合|国連]]の公用語は、英語、[[フランス語]]、[[ロシア語]]、中国語、[[スペイン語]]、[[アラビア語]]の6つであるが、これは[[安全保障理事会]]の常任理事国の言語に、広大な共通言語圏を持つスペイン語とアラビア語を加えたものである<ref>「言語世界地図」p209-210 町田健 新潮新書 2008年5月20日発行</ref>。 === 言語と国家 === 言語は[[国家]]を成立させるうえでの重要な要素であり、[[カナダ]]における英語とフランス語や、[[ベルギー]]における[[オランダ語]]とフランス語のように、異なる言語間の対立がしばしば[[言語戦争]]と呼ばれるほどに激化して独立問題に発展し、国家に大きな影響を及ぼすことも珍しくない。[[東パキスタン]]のように、[[西パキスタン]]の言語であるウルドゥー語の公用語化に反発して[[ベンガル語]]を同格の国語とすることを求めたことから独立運動が起き、最終的に[[バングラデシュ]]として独立したような例もある<ref>大橋正明、村山真弓編著、2003年8月8日初版第1刷、『バングラデシュを知るための60章』p58、明石書店 </ref>。 こうした場合、言語圏別に大きな自治権を与えたり、国家の公用語を複数制定したりすることなどによって少数派言語話者の不満をなだめる政策はよく用いられる。言語圏に強い自治権を与える典型例はベルギーで、同国では[[1970年]]に言語共同体が設立され、数度の変更を経て[[フラマン語共同体]]、[[フランス語共同体]]、[[ドイツ語共同体]]の3つの言語共同体の併存する連邦国家となった<ref>「物語 ベルギーの歴史」p179 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日</ref>。公用語を複数制定する例では[[スイス]]が典型的であり、それまで[[ドイツ語]]のみであった公用語が[[1848年]]の憲法によってドイツ語・フランス語・[[イタリア語]]の三公用語制となり<ref>「図説スイスの歴史」p86 踊共二 河出書房新社 2011年8月30日初版発行</ref><ref name="名前なし-3">森田安一『物語 スイスの歴史』中公新書 p198 2000年7月25日発行</ref>、さらに[[1938年]]には[[ロマンシュ語]]が[[国語]]とされた<ref>「図説スイスの歴史」p111 踊共二 河出書房新社 2011年8月30日初版発行</ref><ref name="名前なし-3"/>。この傾向が特に強いのは[[インド]]であり、[[1956年]]以降それまでの地理的な区分から同系統の言語を用いる地域へと州を再編する、いわゆる「言語州」政策を取っている<ref>塩川伸明 『民族とネイション - ナショナリズムという難問』p123 岩波新書、2008年 ISBN 9784004311560</ref>。 === 公用語、共通語、民族語 === {{seealso|公用語の一覧}} 国家における言語の構造は、[[公用語]]-[[共通語]]-民族語(部族語、[[方言]])の三層の構造からなっている。もっとも、公用語と共通語、また三層すべてが同じ言語である場合はその分だけ層の数は減少する。 [[日本]]を例にとれば、各地方ではその地方の方言を使っている。つまり、同じ地方のコミュニティ内で通用する言語を使用している。これが他地方から来た人を相手にする場合となると、いわゆる[[標準語]]を使用することとなる。日本では他に有力な言語集団が存在しないため、政府関係の文書にも日本標準語がそのまま使用される。つまり、共通語と公用語が同一であるため、公用語-方言の二層構造となっている。 公用語と共通語は分離していない国家も多いが、[[アフリカ大陸]]の諸国家においてはこの三層構造が明確にあらわれている。これらの国においては、政府関係の公用語は旧[[宗主国]]の言語が使用されている。学校[[教育]]もこの言語で行われるが、民族語とかけ離れた存在であることもあり国民の中で使用できる層はさほど多くない。この穴を埋めるために、各地域においては共通語が話されている。[[首都]]がある地域の共通語が強大化し、国の大部分を覆うようになることも珍しくない。しかし文法の整備などの遅れや、国内他言語話者の反対、公用語の使用能力がエリート層の権力の源泉となっているなどの事情によって、共通語が公用語化はされないことがほとんどである。その下に各民族の民族語が存在する<ref>「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」pp18-21 梶茂樹・砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷</ref>。 == 言語の生物学 == 詳細は[[心理言語学]]及び、[[神経言語学]]を参照 言語機能は基本的にヒトに固有のものであるため、言語の研究には少数の例外を除き動物モデルを作りにくい。そのため、脳梗塞などで脳の局所が破壊された症例での研究や、被験者に2つの単語を呈示しその干渉効果を研究するなどの'''心理学的研究'''が主になされてきたが、1980年代後半より'''[[脳機能イメージング]]研究'''が手法に加わり、被験者がさまざまな言語課題を行っているときの脳活動を視覚化できるようになった。 === 言語に関する脳の領域 === 古典的な[[ブローカ野|ブローカ領域]]、[[ウェルニッケ野|ウェルニッケ領域]]のほか、[[外側溝|シルヴィウス裂]]を囲む広い範囲([[縁上回]]、[[角回]]、[[一次聴覚野|一次・二次聴覚野]]、[[一次運動野]]、[[体性感覚野]]、左[[前頭前野]]、左[[下側頭回]])にわたっている。脳梗塞などで各部が損傷されると、それぞれ違ったタイプの[[失語]]が出現する。例えば左前頭前野付近の損傷で生じるブローカ失語は運動失語であり、自発語は非[[流暢性]]となり復唱、書字も障害される。左[[側頭葉]]付近の障害で生じるウェルニッケ失語は感覚失語であり自発語は流暢であるが、言語理解や復唱が障害され、文字による言語理解も不良である。 ほとんどの右利きの人では、単語、文法、語彙などの主要な言語機能は'''左半球優位'''である。しかし声の抑揚(プロソディ)の把握、比喩の理解については'''右半球優位'''であると言われている。 '''文字の認識'''には左[[紡錘状回]]、中・[[下後頭回]]が関与するが、漢字(表意文字)とひらがな(表音文字)で活動する部位が異なると言われている。 === ヒトの発達における言語機能の獲得 === これも多方面から研究されている。個人の言語能力は、[[読字障害]]、[[ウィリアムズ症候群]]、[[自閉症]]などのように全体的な知的能力とは乖離することがあり、個体発生やヒトの進化における言語の起源などにヒントを与えている。また、ヒトは環境の中で聴取する音声から自力で文法などの規則を見出し学習する機能を生得的に備えているため、特に教わらなくても言語を学習できるとする[[生得論]]という考えも存在する。 最近の[[近赤外線分光法]]を用いた研究において、生後2から5日の新生児が逆再生よりも順再生の声を聞いたほうが、あるいは外国語より母国語を聞いたときの方が聴覚皮質の血流増加が大きかったと報告されており、出産前から母体内で言語を聴いていることが示唆される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[特別:検索/intitle:言語|「言語」を含む記事名の一覧]] * [[言葉]] * [[言語学]] ** [[理論言語学]] - [[社会言語学]]・[[:Category:社会言語学]] - [[音声学]] ** [[歴史言語学]]・[[:Category:歴史言語学]] ** [[応用言語学]] ** [[個別言語学]] * [[言語力]] * [[言葉遊び]] * [[言語聴覚療法]] * {{ill2|動物の言語|en|Animal language}} == 外部リンク == {{Wiktionary|言語}} {{Commons|Language}} * {{脳科学辞典|言語}} 神経科学の立場からの解説。 * {{脳科学辞典|言語起源|nolink=yes}} * {{脳科学辞典|言語進化|nolink=yes}} * [http://encarta.msn.com/medias_761570647/Language.html MSN Encarta – Multimedia – Language]{{リンク切れ|date=2020年6月}}{{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20061227193537/http://www.cia.gov/cia/publications/factbook/fields/2098.html CIA – The World Factbook – Field Listing – Languages]{{リンク切れ|date=2020年6月}}{{en icon}} * [http://www.ethnologue.com/ Ethnologue, Languages of the World]{{en icon}} * {{Kotobank}} {{Spedia|Language|Language}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんこ}} [[Category:言語|*]] [[Category:言語学]] [[Category:民族]] <!--[[tlh:Hol]]-->
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日本語
日本語(にほんご、にっぽんご)は、日本国内や、かつての日本領だった国、そして国外移民や移住者を含む日本人同士の間で使用されている言語。日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」の教科として学習を行うなど、事実上日本国内において唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、及び日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3,000万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 また第一次世界大戦後(日独戦争)、当時ドイツ帝国の植民地であった現在のパラオ共和国は戦勝国の日本に委任統治(南洋諸島を参照)されることとなったため、現在も一部地域で日本語を公用語と定めている。 日本語の音韻は、「っ」「ん」を除いて母音で終わる開音節言語の性格が強く、また標準語(共通語)を含め多くの方言がモーラを持つ。アクセントは高低アクセントである。 なお元来の古い大和言葉では、原則として などの特徴があった(「系統」および「音韻」の節参照)。 文は、「主語・修飾語・述語」の語順で構成される。修飾語は被修飾語の前に位置する。また、名詞の格を示すためには、語順や語尾を変化させるのでなく、文法的な機能を示す機能語(助詞)を後ろに付け加える(膠着させる)。これらのことから、言語類型論上は、語順の点ではSOV型の言語に、形態の点では膠着語に分類される(「文法」の節参照)。 語彙は、古来の大和言葉(和語)のほか、漢語(字音語)、外来語、および、それらの混ざった混種語に分けられる。字音語(漢字の音読みに由来する語の意、一般に「漢語」と称する)は現代の語彙の一部分を占めている。また、「絵/画(ゑ)」など、もともと音であるが和語と認識されているものもある。さらに近代以降には西洋由来の語を中心とする外来語が増大している(「語種」の節参照)。 待遇表現の面では、文法的・語彙的に発達した敬語体系があり、叙述される人物どうしの微妙な関係を表現する(「待遇表現」の節参照)。 日本語は地方ごとに多様な方言があり、とりわけ琉球諸島で方言差が著しい(「方言」の節参照)。近世中期までは京都方言が中央語の地位にあったが、近世後期には江戸方言が地位を高め、明治以降の現代日本語では東京山の手の中流階級以上の方言(山の手言葉)を基盤に標準語(共通語)が形成された(「標準語」参照)。 表記体系はほかの諸言語と比べて極めて複雑かつ柔軟性の高さが特徴である。漢字(国字を含む。音読みおよび訓読みで用いられる)と平仮名、片仮名が日本語の主要な文字であり、常にこの3種類の文字を組み合わせて表記する(「字種」の節参照)。表音文字で表記体系を複数持つため、当て字をせずに外来語を表記することが可能だが、ラテン文字(ローマ字)やギリシャ文字(医学・科学用語に多用)などもしばしば用いられる。また、縦書きと横書きのどちらでも表記することが可能である(表記体系の詳細については「日本語の表記体系」参照)。 音韻は「子音+母音」音節を基本とし、母音は5種類しかないなど、分かりやすい構造を持つ一方、直音と拗音の対立、「1音節2モーラ」の存在、無声化母音、語の組み立てに伴って移動する高さアクセントなどの特徴がある(「音韻」の節参照)。 日本語は、主に日本国内で使用される。話者人口についての調査は国内・国外を問わずいまだないが、日本の人口に基づいて考えられることが一般的である。 日本国内に、法令上、日本語を公用語ないし国語と定める直接の規定はない。しかし、法令は日本語で記されており、裁判所法においては「裁判所では、日本語を用いる」(同法74条)とされ、文字・活字文化振興法においては「国語」と「日本語」が同一視されており(同法3条、9条)、その他多くの法令において、日本語が唯一の公用語ないし国語であることが前提とされている。また、法文だけでなく公用文はすべて日本語のみが用いられ、学校教育では日本語が「国語」として教えられている。 日本では、テレビやラジオ、映画などの放送、小説や漫画、新聞などの出版の分野でも、日本語が使われることがほとんどである。国外のドラマや映画が放送される場合でも、基本的には日本語に訳し、字幕を付けたり声を当てたりしてから放送されるなど、受け手が日本語のみを理解することを前提として作成される。原語のまま放送・出版されるものも存在するが、それらは外国向けに発表される前提の論文、もしくは日本在住の外国人、あるいは原語の学習者など限られた人を対象としており、大多数の日本人に向けたものではない。 日本国外では、主として、中南米(ペルー・ブラジル・ボリビア・ドミニカ共和国・パラグアイなど)やハワイなどの日本人移民の間に日本語の使用がみられるが、3世・4世と世代が下るにしたがって非日本語話者が多くなっているという。また、太平洋戦争の終結以前に日本領ないし日本の勢力下にあった朝鮮総督府の朝鮮半島・台湾総督府の台湾・旧満州国で現在中華人民共和国の一部・樺太庁の樺太(サハリン)・旧南洋庁の南洋諸島(現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦)などの地域では、日本語教育を受けた人々の中に、現在でも日本語を記憶して話す人がいる。台湾では先住民の異なる部族同士の会話に日本語が用いられることがあるだけでなく、宜蘭クレオールなど日本語とタイヤル語のクレオール言語も存在している。また、パラオのアンガウル州では歴史的経緯から日本語を公用語の一つとして採用しているが、現在州内には日本語を日常会話に用いる住民は存在せず、象徴的なものに留まっている。 日本国外の日本語学習者は2015年調査で365万人にのぼり、中華人民共和国の約95万人、インドネシアの約75万人、大韓民国の約56万人、オーストラリアの約36万人、台湾の約22万人が上位となっている。地域別では、東アジア・東南アジアで全体の学習者の約8割を占めている。日本語教育が行われている地域は、137か国・地域に及んでいる。また、日本国内の日本語学習者は、アジア地域の約16万人を中心として約19万人に上っている。 「日本語」の範囲を本土方言のみとした場合、琉球語が日本語と同系統の言語になり両者は日琉語族を形成する。 琉球列島(旧琉球王国領域)の言葉は、日本語と系統を同じくする別言語(琉球語ないしは琉球諸語)とし、日本語とまとめて日琉語族とされている。共通点が多いので「日本語の一方言(琉球方言)」とする場合もあり、このような場合は日本語は「孤立した言語」という位置づけにされる。 日本語(族)の系統については明治以来様々な説が議論されてきたが、いずれも他の語族との同系の証明に至っておらず、不明のままである。 アルタイ諸語に属するとする説は、明治時代末から特に注目されてきた。その根拠として、古代の日本語(大和言葉)において語頭にr音(流音)が立たないこと、一種の母音調和が見られることなどが挙げられる。古代日本語に上記の特徴が見られることは、日本語が類型として「アルタイ型」の言語である根拠とされる。アルタイ諸語に属するとされるそれぞれの言語の親族関係を支持する学者のほうがまだ多いが、最近のイギリスではアルタイ諸語の親族関係を否定する学者も現れている。 朝鮮語とは語順や文法構造で類似点が非常に多い。音韻の面でも、固有語において語頭に流音が立たないこと、一種の母音調和が見られることなど、共通の類似点がある(その結果、日本語も朝鮮語もアルタイ諸語と分類される場合がある)。世界の諸言語の広く比較した場合、広く「朝鮮語は日本語と最も近い言語」とされている。ただし、閉音節や子音連結が存在する、有声・無声の区別が無い、といった相違もある。基礎語彙は、共通点もあるが、かなり相違する面もある。 紀元8世紀までに記録された朝鮮半島の地名(「高句麗地名」を指す)の中には、満州南部を含む朝鮮半島中部以北に、意味や音韻で日本語と類似した地名を複数見いだせる。これを論拠として、古代の朝鮮半島では朝鮮語とともに日本語と近縁の言語である「半島日本語」が話されていたと考えられている。 また、高句麗語に鉛(なまり)=那勿(ナムル)、泉(いずみ)=於乙、土(つち)は内、口(くち)は口次と呼んでいた記録があり、高句麗の武将である泉蓋蘇文は日本書紀で伊梨柯須彌(イリカスミ)と記録されていて、泉(いずみ)は高句麗語で於乙(イリ)と呼ばれていたことが分かる。件の地名が高句麗の旧領域内に分布していることから、多くの研究は半島日本語は「高句麗語」であるとしている。 伊藤英人は半島日本語(大陸倭語)を高句麗語とした上で、日本語と半島日本語は同じ祖語から分かれた同系統の言語であり、半島日本語集団から分かれた集団が紀元前900年から紀元700年にかけて水田農耕を携え日本列島に渡来したと考えた。 なお、伊藤英人は半島日本語が京阪式アクセントと類似していることを指摘している。 中国語との関係に関しては、日本語は中国の漢字を借用語として広範囲に取り入れており、語彙のうち漢字を用いたものに関して、影響を受けている。だが語順も文法も音韻も大きく異なるので、系統論的には別系統の言語とされる。 アイヌ語は、語順(SOV語順)において日本語と似る。ただし、文法・形態は類型論的に異なる抱合語に属し、音韻構造も有声・無声の区別がなく閉音節が多いなどの相違がある。基礎語彙の類似に関する指摘もあるが、例は不充分である。一般に似ているとされる語の中には、日本語からアイヌ語への借用語が多く含まれるとみられる。 南方系のオーストロネシア語族とは、音韻体系や語彙に関する類似も指摘されているが、これは偶然一致したものであり、互いに関係があるという根拠はない。 ドラヴィダ語族との関係を主張する説もあるが、これを認める研究者は少ない。大野晋は日本語が語彙・文法などの点でタミル語と共通点を持つとの説を唱えるが、比較言語学の方法上の問題から批判が多い また、レプチャ語・ヘブライ語などとの同系論も過去に存在したが、これに関してはほとんど疑似科学の範疇に収まる。 日本語話者は普通、「いっぽん(一本)」という語を、「い・っ・ぽ・ん」の4単位と捉えている。音節ごとにまとめるならば [ip̚.poɴ] のように2単位となるところであるが、音韻的な捉え方はこれと異なる。音声学上の単位である音節とは区別して、音韻論では「い・っ・ぽ・ん」のような単位のことをモーラ(拍)と称している。 日本語のモーラは、大体は仮名に即して体系化することができる。「いっぽん」と「まったく」は、音声学上は [ip̚poɴ] [mat̚takɯ] であって共通する単音がないが、日本語話者は「っ」という共通のモーラを見出す。また、「ん」は、音声学上は後続の音によって [ɴ] [m] [n] [ŋ] などと変化するが、日本語の話者自らは同一音と認識しているので、音韻論上は1種類のモーラとなる。 日本語では、ほとんどのモーラが母音で終わっている。それゆえに日本語は開音節言語の性格が強いということができる。もっとも、特殊モーラの「っ」「ん」には母音が含まれない。 モーラの種類は、以下に示すように111程度存在する。ただし、研究者により数え方が少しずつ異なる。「が行」の音は、語中語尾では鼻音(いわゆる鼻濁音)の「か゚行」音となる場合があるが、「が行」と「か゚行」との違いは何ら弁別の機能を提供せず、単なる異音どうしに過ぎない。そこで、「か゚行」を除外して数える場合、モーラの数は103程度となる。これ以外に、「外来語の表記」第1表にもある「シェ」「チェ」「ツァ・ツェ・ツォ」「ティ」「ファ・フィ・フェ・フォ」その他の外来音を含める場合は、さらにまた数が変わってくる。このほか、外来語の表記において用いられる「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」については、バ行として発音されることが多いものの、独立した音韻として発音されることもあり、これらを含めるとさらに増えることとなる。 なお、五十音図は、音韻体系の説明に使われることがしばしばあるが、上記の日本語モーラ表と比べてみると、少なからず異なる部分がある。五十音図の成立は平安時代にさかのぼるものであり、現代語の音韻体系を反映するものではないことに注意が必要である(「日本語研究史」の節の「江戸時代以前」を参照)。 母音は、「あ・い・う・え・お」の文字で表される。音韻論上は、日本語の母音はこの文字で表される5個であり、音素記号では以下のように記される。 一方、音声学上は、基本の5母音は、それぞれ に近い発音と捉えられる。̈ は中舌寄り、̠ は後寄り、̜ は弱めの円唇、̹ は強めの円唇、˕ は下寄り、˔ は上寄りを示す補助記号である。 日本語の「あ」は、国際音声記号 (IPA) では前舌母音 [a] と後舌母音 [ɑ] の中間音 [ä] に当たる。「い」は少し後寄りであり [i̠] が近い。「え」は半狭母音 [e] と半広母音 [ɛ] の中間音であり、「お」は半狭母音 [o] と半広母音 [ɔ] の中間音である。 日本語の「う」は、東京方言では、英語などの [u] のような円唇後舌母音より、少し中舌よりで、それに伴い円唇性が弱まり、中舌母音のような張唇でも円唇でもないニュートラルな唇か、それよりほんの僅かに前に突き出した唇で発音される、半後舌微円唇狭母音である。これは舌と唇の動きの連関で、前舌母音は張唇、中舌母音は平唇・ニュートラル(ただしニュートラルは、現行のIPA表記では非円唇として、張唇と同じカテゴリーに入れられている)、後舌母音は円唇となるのが自然であるという法則に適っている。しかし「う」は母音融合などで見られるように、音韻上は未だに円唇後舌狭母音として機能する。また、[ɯβ] という表記も行われる。 円唇性の弱さを強調するために、[ɯ] を使うこともあるが、これは本来朝鮮語に見られる、iのような完全な張唇でありながら、u のように後舌の狭母音を表す記号であり、円唇性が減衰しつつも残存し、かつ後舌よりやや前よりである日本語の母音「う」の音声とは違いを有する。またこの種の母音は、唇と舌の連関から外れるため、母音数5以上の言語でない限り、発生するのは稀である。「う」は唇音の後ではより完全な円唇母音に近づく(発音の詳細はそれぞれの文字の項目を参照)。一方、西日本方言では「う」は東京方言よりも奥舌で、唇も丸めて発音し、[u] に近い。 音韻論上、「コーヒー」「ひいひい」など、「ー」や「あ行」の仮名で表す長音という単位が存在する(音素記号では /R/)。これは、「直前の母音を1モーラ分引く」という方法で発音される独立した特殊モーラである。「鳥」(トリ)と「通り」(トーリ)のように、長音の有無により意味を弁別することも多い。ただし、音声としては「長音」という特定の音があるわけではなく、長母音 [äː] [i̠ː] [u̜̟ː] [e̞ː] [o̜̞ː] の後半部分に相当するものである。 「えい」「おう」と書かれる文字は、発音上は「ええ」「おお」と同じく長母音 [e̞ː] [o̜̞ː] として発音されることが一般的である(「けい」「こう」など、頭子音が付いた場合も同様)。すなわち、「衛星」「応答」「政党」は「エーセー」「オートー」「セートー」のように発音される。ただし、九州や四国南部・西部、紀伊半島南部などでは「えい」を [e̞i] と発音する。「思う」[omoɯβ]、「問う」[toɯβ]などの単語は必ず二重母音となり、また軟骨魚のエイなど、語彙によって二重母音になる場合もあるが、これには個人差がある。1文字1文字丁寧に発話する場合には「えい」を [e̞i] と発音する話者も多い。 単語末や無声子音の間に挟まれた位置において、「イ」や「ウ」などの狭母音はしばしば無声化する。たとえば、「です」「ます」は [de̞su̜̟̥] [mäsu̜̟̥] のように発音されるし、「菊」「力」「深い」「放つ」「秋」などはそれぞれ [kji̠̥ku̜̟] [ʨi̠̥käɾä] [ɸu̜̟̥käi̠] [hänäʦu̜̟̥] [äkji̠̥] と発音されることがある。ただしアクセント核がある拍は無声化しにくい。個人差もあり、発話の環境や速さ、丁寧さによっても異なる。また方言差も大きく、たとえば近畿方言ではほとんど母音の無声化が起こらない。 「ん」の前の母音は鼻音化する傾向がある。また、母音の前の「ん」は前後の母音に近似の鼻母音になる。 子音は、音韻論上区別されているものとしては、現在の主流学説によれば「か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ行」の子音、濁音「が・ざ・だ・ば行」の子音、半濁音「ぱ行」の子音である。音素記号では以下のように記される。ワ行とヤ行の語頭子音は、音素 u と音素 i の音節内の位置に応じた変音であるとする解釈もある。特殊モーラの「ん」と「っ」は、音韻上独立の音素であるという説と、「ん」はナ行語頭子音 n の音節内の位置に応じた変音、「っ」は単なる二重子音化であるとして音韻上独立の音素ではないという説の両方がある。 一方、音声学上は、子音体系はいっそう複雑な様相を呈する。主に用いられる子音を以下に示す(後述する口蓋化音は省略)。 基本的に「か行」は [k]、「さ行」は [s]([θ] を用いる地方・話者もある)、「た行」は [t]、「な行」は [n]、「は行」は [h]、「ま行」は [m]、「や行」は [j]、「だ行」は [d]、「ば行」は [b]、「ぱ行」は [p] を用いる。 「ら行」の子音は、語頭では [ɺ]、「ん」の後のら行は英語の [l] に近い音を用いる話者もある。一方、「あらっ?」というときのように、語中語尾に現れる場合は、舌をはじく [ɾ] もしくは [ɽ] となる。 標準日本語およびそれの母体である首都圏方言(共通語)において、「わ行」の子音は、上で挙げた同言語の「う」と基本的な性質を共有し、もう少し空気の通り道の狭い接近音である。このため、[u] に対応する接近音[w] と、[ɯ] に対応する接近音[ɰ] の中間、もしくは微円唇という点で僅かに [w] に近いと言え、軟口蓋(後舌母音の舌の位置)の少し前よりの部分を主な調音点とし、両唇も僅かに使って調音する二重調音の接近音といえる。このため、五十音図の配列では、ワ行は唇音に入れられている(「日本語」の項目では、特別の必要のない場合は [w] で表現する)。外来音「ウィ」「ウェ」「ウォ」にも同じ音が用いられるが、「ウイ」「ウエ」「ウオ」と2モーラで発音する話者も多い。 「が行」の子音は、語頭では破裂音の [g] を用いるが、語中では鼻音の [ŋ](「が行」鼻音、いわゆる鼻濁音)を用いることが一般的だった。現在では、この [ŋ] を用いる話者は減少しつつあり、代わりに語頭と同じく破裂音を用いるか、摩擦音の [ɣ] を用いる話者が増えている。 「ざ行」の子音は、語頭や「ん」の後では破擦音(破裂音と摩擦音を合わせた [d͡z] などの音)を用いるが、語中では摩擦音([z] など)を用いる場合が多い。いつでも破擦音を用いる話者もあるが、「手術(しゅじゅつ)」などの語では発音が難しいため摩擦音にするケースが多い。なお、「だ行」の「ぢ」「づ」は、一部方言を除いて「ざ行」の「じ」「ず」と同音に帰しており、発音方法は同じである。 母音「い」が後続する子音は、独特の音色を呈する。いくつかの子音では、前舌面を硬口蓋に近づける口蓋化が起こる。たとえば、「か行」の子音は一般に [k] を用いるが、「き」だけは [kj] を用いるといった具合である。口蓋化した子音の後ろに母音「あ」「う」「お」が来るときは、表記上は「い段」の仮名の後ろに「ゃ」「ゅ」「ょ」の仮名を用いて「きゃ」「きゅ」「きょ」、「みゃ」「みゅ」「みょ」のように記す。後ろに母音「え」が来るときは「ぇ」の仮名を用いて「きぇ」のように記すが、外来語などにしか使われない。 「さ行」「ざ行」「た行」「は行」の「い段」音の子音も独特の音色であるが、これは単なる口蓋化でなく、調音点が硬口蓋に移動した音である。「し」「ち」の子音は [ɕ] [ʨ] を用いる。外来音「スィ」「ティ」の子音は口蓋化した [sj] [tj] を用いる。「じ」「ぢ」の子音は、語頭および「ん」の後ろでは [d͡ʑ]、語中では [ʑ] を用いる。外来音「ディ」「ズィ」の子音は口蓋化した [dj] [d͡ʑj] および [zj] を用いる。「ひ」の子音は [h] ではなく硬口蓋音 [ç] である。 また、「に」の子音は多くは口蓋化した [nj] で発音されるが、硬口蓋鼻音 [ɲ] を用いる話者もある。同様に、「り」に硬口蓋はじき音を用いる話者や、「ち」に無声硬口蓋破裂音 [c] を用いる話者もある。 そのほか、「は行」では「ふ」の子音のみ無声両唇摩擦音 [ɸ] を用いるが、これは「は行」子音が [p] → [ɸ] → [h] と変化してきた名残りである。五十音図では、奈良時代に音韻・音声でp、平安時代に[ɸ]であった名残で、両唇音のカテゴリーに入っている。外来語には [f] を用いる話者もある。これに関して、現代日本語で「っ」の後ろや、漢語で「ん」の後ろにハ行が来たとき、パ行(p)の音が現れ、連濁でもバ行(b)に変わり、有音声門摩擦音[ɦ]ではないことから、現代日本語でも語種を和語や前近代の漢語等の借用語に限れば(ハ行に由来しないパ行は近代以降のもの)、ハ行の音素はhでなくpであり、摩擦音化規則で上に挙げた場合以外はhに変わるのだという解釈もある。現代日本語母語話者の直感には反するが、ハ行の連濁や「っ」「ん」の後ろでのハ行の音の変化をより体系的・合理的に表しうる。 また、「た行」では「つ」の子音のみ [t͡s] を用いる。これらの子音に母音「あ」「い」「え」「お」が続くのは主として外来語の場合であり、仮名では「ァ」「ィ」「ェ」「ォ」を添えて「ファ」「ツァ」のように記す(「ツァ」は「おとっつぁん」「ごっつぁん」などでも用いる)。「フィ」「ツィ」は子音に口蓋化が起こる。また「ツィ」は多く「チ」などに言い換えられる。「トゥ」「ドゥ」([tɯ] [dɯ])は、外来語で用いることがある。 促音「っ」(音素記号では /Q/)および撥音「ん」(/N/)と呼ばれる音は、音韻論上の概念であって、前節で述べた長音と併せて特殊モーラと扱う。実際の音声としては、「っ」は [-k̚k-] [-s̚s-] [-ɕ̚ɕ-] [-t̚t-] [-t̚ʦ-] [-t̚ʨ-] [-p̚p-] などの子音連続となる。ただし「あっ」のように、単独で出現することもあり、そのときは声門閉鎖音となる。また、「ん」は、後続の音によって [ɴ] [m] [n] [ŋ] などの子音となる(ただし、母音の前では鼻母音となる)。文末などでは [ɴ] を用いる話者が多い。 日本語は、一部の方言を除いて、音(ピッチ)の上下による高低アクセントを持っている。アクセントは語ごとに決まっており、モーラ(拍)単位で高低が定まる。同音語をアクセントによって区別できる場合も少なくない。たとえば東京方言の場合、「雨」「飴」はそれぞれ「ア\メ」(頭高型)、「ア/メ」(平板型)と異なったアクセントで発音される(/を音の上昇、\を音の下降とする)。「が」「に」「を」などの助詞は固有のアクセントがなく、直前に来る名詞によって助詞の高低が決まる。たとえば「箸」「橋」「端」は、単独ではそれぞれ「ハ\シ」「ハ/シ」「ハ/シ」となるが、後ろに「が」「に」「を」などの助詞が付く場合、それぞれ「ハ\シガ」「ハ/シ\ガ」「ハ/シガ」となる。 共通語のアクセントでは、単語の中で音の下がる場所があるか、あるならば何モーラ目の直後に下がるかを弁別する。音が下がるところを下がり目またはアクセントの滝といい、音が下がる直前のモーラをアクセント核または下げ核という。たとえば「箸」は第1拍、「橋」は第2拍にアクセント核があり、「端」にはアクセント核がない。アクセント核は1つの単語には1箇所もないか1箇所だけあるかのいずれかであり、一度下がった場合は単語内で再び上がることはない。アクセント核を ○ で表すと、2拍語には ○○(核なし)、○○、○○ の3種類、3拍語には ○○○、○○○、○○○、○○○ の4種類のアクセントがあり、拍数が増えるにつれてアクセントの型の種類も増える。アクセント核が存在しないものを平板型といい、第1拍にアクセント核があるものを頭高型、最後の拍にあるものを尾高型、第1拍と最後の拍の間にあるものを中高型という。頭高型・中高型・尾高型をまとめて起伏式または有核型と呼び、平板型を平板式または無核型と呼んで区別することもある。 また共通語のアクセントでは、単語や文節のみの形で発音した場合、「し/るしが」「た/ま\ごが」のように1拍目から2拍目にかけて音の上昇がある(頭高型を除く)。しかしこの上昇は単語に固有のものではなく、文中では「あ/かいしるしが」「こ/のたま\ごが」のように、区切らずに発音したひとまとまり(「句」と呼ぶ)の始めに上昇が現れる。この上昇を句音調と言い、句と句の切れ目を分かりやすくする機能を担っている。一方、アクセント核は単語に固定されており、「たまご」の「ま」の後の下がり目はなくなることがない。共通語の音調は、句の2拍目から上昇し(句の最初の単語が頭高型の場合は1拍目から上昇する)、アクセント核まで平らに進み、核の後で下がる。従って、句頭で「低低高高...」や「高高高高...」のような音調は現れない。アクセント辞典などでは、アクセントを「しるしが」「たまごが」のように表記する場合があるが、これは1文節を1つの句として発音するときのもので、句音調とアクセント核の両方を同時に表記したものである。 日本語は膠着語の性質を持ち、主語+目的語+動詞(SOV)を語順とする構成的言語である。言語分類学上、日本語はほとんどのヨーロッパ言語とはかけ離れた文法構造をしており、句では主要部終端型、複文では左枝分かれの構造をしている。このような言語は多く存在するが、ヨーロッパでは希少である。主題優勢言語である。 日本語では「私は本を読む。」という語順で文を作る。英語で「I read a book.」という語順をSVO型(主語・動詞・目的語)と称する説明にならっていえば、日本語の文はSOV型ということになる。もっとも、厳密にいえば、英語の文に動詞が必須であるのに対して、日本語文は動詞で終わることもあれば、形容詞や名詞+助動詞で終わることもある。そこで、日本語文の基本的な構造は、「S(主語)‐V(動詞)」というよりは、「S(主語)‐P(述語)」という「主述構造」と考えるほうが、より適当である。 上記の文は、いずれも「S‐P」構造、すなわち主述構造をなす同一の文型である。英語などでは、それぞれ「SVC」「SV」「SVC」の文型になるところであるから、それにならって、1を名詞文、2を動詞文、3を形容詞文と分けることもある。しかし、日本語ではこれらの文型に本質的な違いはない。そのため、日本語話者の英語初学者などは、「I am a president.」「I am happy.」と同じ調子で「I am go.」と誤った作文をすることがある。 また、日本語文では、主述構造とは別に、「題目‐述部」からなる「題述構造」を採ることがきわめて多い。題目とは、話のテーマ(主題)を明示するものである(三上章は「what we are talking about」と説明する)。よく主語と混同されるが、別概念である。主語は多く「が」によって表され、動作や作用の主体を表すものであるが、題目は多く「は」によって表され、その文が「これから何について述べるのか」を明らかにするものである。主語に「は」が付いているように見える文も多いが、それはその文が動作や作用の主体について述べる文、すなわち題目が同時に主語でもある文だからである。そのような文では、題目に「は」が付くことにより結果的に主語に「は」が付く。一方、動作や作用の客体について述べる文、すなわち題目が同時に目的語でもある文では、題目に「は」が付くことにより結果的に目的語に「は」が付く。たとえば、 などの文では、「象は」はいずれも題目を示している。4の「象は」は「象が」に言い換えられるもので、事実上は文の主語を兼ねる。しかし、5以下は「象が」には言い換えられない。5は「象を」のことであり、6は「象に」のことである。さらに、7の「象は」は何とも言い換えられないものである(「象の」に言い換えられるともいう)。これらの「象は」という題目は、「が」「に」「を」などの特定の格を表すものではなく、「私は象について述べる」ということだけをまず明示する役目を持つものである。 これらの文では、題目「象は」に続く部分全体が「述部」である。 大野晋は、「が」と「は」はそれぞれ未知と既知を表すと主張した。たとえば においては、前者は「佐藤はどの人物かと言えば(それまで未知であった)私が佐藤です」を意味し、後者は「(すでに既知である)私は誰かと言えば(田中ではなく)佐藤です」となる。したがって「何」「どこ」「いつ」などの疑問詞は常に未知を意味するから「何が」「どこが」「いつが」となり、「何は」「どこは」「いつは」とは言えない。 ジョーゼフ・グリーンバーグによる構成素順(「語順」)の現代理論は、言語によって、句が何種類か存在することを認識している。それぞれの句には主要部があり、場合によっては修飾語が同句に含まれる。句の主要部は、修飾語の前(主要部先導型)か後ろ(主要部終端型)に位置する。英語での句の構成を例示すると以下のようになる(太字はそれぞれの句の主要部)。 主要部先導型と主要部終端型の混合によって、構成素順が不規則である言語も存在する。例えば、上記の句のリストを見ると、英語では大抵が主要部先導型であるが、名詞は修飾する形容詞後の後に位置している。しかも、属句では主要部先導型と主要部終端型のいずれも存在し得る。これとは対照的に、日本語は主要部終端型言語の典型である。 日本語の主要部終端型の性質は、複文などの文章単位での構成においても見られる。文章を構成素とした文章では、従属節が常に先行する。これは、従属節が修飾部であり、修飾する文が統語的に句の主要部を擁しているからである。例えば、英語と比較した場合、次の英文「the man who was walking down the street 」を日本語に訳す時、英語の従属節(関係代名詞節)である 「(who) was walking down the street」を主要部である 「the man」 の前に位置させなければ、自然な日本語の文章にはならない。 また、主要部終端型の性質は重文でも見られる。他言語では、一般的に重文構造において、構成節の繰り返しを避ける傾向にある。例えば、英語の場合、「Bob bought his mother some flowers and bought his father a tie」の文を2番目の「bought」を省略し、「Bob bought his mother some flowers and his father a tie」とすることが一般的である。しかし、日本語では、「ボブはお母さんに花を買い、お父さんにネクタイを買いました」であるところを「ボブはお母さんに花を、お父さんにネクタイを買いました」というように初めの動詞を省略する傾向にある。これは、日本語の文章が常に動詞で終わる性質を持つからである。(倒置文や考えた後での後付け文などは除く。) 上述の「象は鼻が長い。」のように、「主語‐述語」の代わりに「題目‐述部」と捉えるべき文が非常に多いことを考えると、日本語の文にはそもそも主語は必須でないという見方も成り立つ。三上章は、ここから「主語廃止論」(主語という文法用語をやめる提案)を唱えた。三上によれば、 という文において、「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はいずれも「紹介シ」という行為を説明するために必要な要素であり、優劣はない。重要なのは、それらをまとめる述語「紹介シタ」の部分である。「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はすべて述語を補足する語(補語)となる。いっぽう、英語などでの文で主語は、述語と人称などの点で呼応しており、特別の存在である。 この考え方に従えば、英語式の観点からは「主語が省略されている」としかいいようがない文をうまく説明することができる。たとえば、 などは、いわゆる主語のない文である。しかし、日本語の文では述語に中心があり、補語を必要に応じて付け足すと考えれば、上記のいずれも、省略のない完全な文と見なして差し支えない。 今日の文法学説では、主語という用語・概念は、作業仮説として有用な面もあるため、なお一般に用いられている。一般的には格助詞「ガ」を伴う文法項を主語と見なす。ただし、三上の説に対する形で日本語の文に主語が必須であると主張する学説は、生成文法や鈴木重幸らの言語学研究会グループなど、主語に統語上の重要な役割を認める学派を除いて、少数派である。森重敏は、日本語の文においても主述関係が骨子であるとの立場を採るが、この場合の主語・述語も、一般に言われるものとはかなり様相を異にしている。現在一般的に行われている学校教育における文法(学校文法)では、主語・述語を基本とした伝統的な文法用語を用いるのが普通だが、教科書によっては主語を特別扱いしないものもある。 文を主語・述語から成り立つと捉える立場でも、この2要素だけでは文の構造を十分に説明できない。主語・述語には、さらに修飾語などの要素が付け加わって、より複雑な文が形成される。文を成り立たせるこれらの要素を「文の成分」と称する。 学校文法(中学校の国語教科書)では、文の成分として「主語」「述語」「修飾語」(連用修飾語・連体修飾語)「接続語」「独立語」の5つを挙げている。「並立語(並立の関係にある文節/連文節どうし)」や「補助語・被補助語(補助の関係にある文節/連文節どうし)は文の成分(あるいはそれを示す用語)ではなく、文節/連文節どうしの関係を表した概念であって、常に連文節となって上記五つの成分になるという立場に学校文法は立っている。したがって、「並立の関係」「補助の関係」という用語(概念)を教科書では採用しており、「並立語」「補助語」という用語(概念)については載せていない教科書が主流である。なお「連体修飾語」も厳密にいえばそれだけでは成分にはなり得ず、常に被修飾語と連文節を構成して文の成分になる。 学校図書を除く四社の教科書では、単文節でできているものを「主語」のように「-語」と呼び、連文節でできているものを「主部」のように「-部」と呼んでいる。それに対し学校図書だけは、文節/連文節どうしの関係概念を「-語」と呼び、いわゆる成分(文を構成する個々の最大要素)を「-部」と呼んでいる。 以下、学校文法の区分に従いつつ、それぞれの文の成分の種類と役割とについて述べる。 文を成り立たせる基本的な成分である。ことに述語は、文をまとめる重要な役割を果たす。「雨が降る。」「本が多い。」「私は学生だ。」などは、いずれも主語・述語から成り立っている。教科書によっては、述語を文のまとめ役として最も重視する一方、主語については修飾語と併せて説明するものもある(前節「主語廃止論」参照)。 用言に係る修飾語である(用言については「自立語」の節を参照)。「兄が弟に算数を教える。」という文で「弟に」「算数を」など格を表す部分は、述語の動詞「教える」にかかる連用修飾語ということになる。また、「算数をみっちり教える。」「算数を熱心に教える。」という文の「みっちり」「熱心に」なども、「教える」にかかる連用修飾語である。ただし、「弟に」「算数を」などの成分を欠くと、基本的な事実関係が伝わらないのに対し、「みっちり」「熱心に」などの成分は、欠いてもそれほど事実の伝達に支障がない。ここから、前者は文の根幹をなすとして補充成分と称し、後者に限って修飾成分と称する説もある。国語教科書でもこの2者を区別して説明するものがある。 体言に係る修飾語である(体言については「自立語」の節を参照)。「私の本」「動く歩道」「赤い髪飾り」「大きな瞳」の「私の」「動く」「赤い」「大きな」は連体修飾語である。鈴木重幸・鈴木康之・高橋太郎・鈴木泰らは、ものを表す文の成分に特徴を付与し、そのものがどんなものであるかを規定(限定)する文の成分であるとして、連体修飾語を「規定語」(または「連体規定語」)と呼んでいる。 「疲れたので、動けない。」「買いたいが、金がない。」の「疲れたので」「買いたいが」のように、あとの部分との論理関係を示すものである。また、「今日は晴れた。だから、ピクニックに行こう。」「君は若い。なのに、なぜ絶望するのか。」における「だから」「なのに」のように、前の文とその文とをつなぐ成分も接続語である。品詞分類では、常に接続語となる品詞を接続詞とする。 「はい、分かりました。」「姉さん、どこへ行くの。」「新鮮、それが命です。」の「はい」「姉さん」「新鮮」のように、他の部分に係ったり、他の部分を受けたりすることがないものである。係り受けの観点から定義すると、結果的に、独立語には感動・呼びかけ・応答・提示などを表す語が該当することになる。品詞分類では、独立語としてのみ用いられる品詞は感動詞とされる。名詞や形容動詞語幹なども独立語として用いられる。 「ミカンとリンゴを買う。」「琵琶湖の冬は冷たく厳しい。」の「ミカンとリンゴを」や、「冷たく厳しい。」のように並立関係でまとまっている成分である。全体としての働きは、「ミカンとリンゴを」の場合は連用修飾部に相当し、「冷たく厳しい。」は述部に相当する。 現行の学校文法では、英語にあるような「目的語」「補語」などの成分はないとする。英語文法では「I read a book.」の「a book」はSVO文型の一部をなす目的語であり、また「I go to the library.」の「the library」は前置詞とともに付け加えられた修飾語と考えられる。一方、日本語では、 のように、「本を」「図書館へ」はどちらも「名詞+格助詞」で表現されるのであって、その限りでは区別がない。これらは、文の成分としてはいずれも「連用修飾語」とされる。ここから、学校文法に従えば、「私は本を読む。」は、「主語‐目的語‐動詞」(SOV) 文型というよりは、「主語‐修飾語‐述語」文型であると解釈される。 鈴木重幸・鈴木康之らは、「連用修飾語」のうち、「目的語」に当たる語は、述語の表す動きや状態の成立に加わる対象を表す「対象語」であるとし、文の基本成分として認めている。(高橋太郎・鈴木泰・工藤真由美らは「対象語」と同じ文の成分を、主語・述語が表す事柄の組み立てを明示するために、その成り立ちに参加する物を補うという文中における機能の観点から、「補語」と呼んでいる。) 「明日、学校で運動会がある。」の「明日」「学校で」など、出来事や有様の成り立つ状況を述べるために時や場所、原因や目的(「雨だから」(「体力向上のために」など)を示す文の成分のことを「状況語」とも言う。学校文法では「連用修飾語」に含んでいるが、(連用)修飾語が、述語の表す内的な属性を表すのに対して、状況語は外的状況を表す「とりまき」ないしは「額縁」の役目を果たしている。状況語は、出来事や有様を表す部分の前に置かれるのが普通であり、主語の前に置かれることもある。なお、「状況語」という用語はロシア語・スペイン語・中国語(中国語では「状語」と言う)などにもあるが、日本語の「状況語」と必ずしも概念が一致しているわけではなく、修飾語を含んだ概念である。 日本語では、修飾語はつねに被修飾語の前に位置する。「ぐんぐん進む」「白い雲」の「ぐんぐん」「白い」はそれぞれ「進む」「雲」の修飾語である。修飾語が長大になっても位置関係は同じで、たとえば、 という短歌は、冒頭から「ひとひらの」までが「雲」に係る長い修飾語である。 法律文や翻訳文などでも、長い修飾語を主語・述語の間に挟み、文意を取りにくくしていることがしばしばある。たとえば、日本国憲法前文の一節に、 とあるが、主語(題目)の「われら」、述語の「信ずる」の間に「いづれの国家も......であると」という長い修飾語が介在している。この種の文を読み慣れた人でなければ分かりにくい。英訳で "We hold..."(われらは信ずる)と主語・述語が隣り合うのとは対照的である。 もっとも、修飾語が後置される英語でも、修飾関係の分かりにくい文が現れることがある。次のような文は「袋小路文」(en:garden path sentence) と呼ばれる。 この場合、日本語の文では「馬」に係る連体修飾語「納屋のそばを走らされた」が前に来ているために文構造がわかりやすいが、英語では「The horse」を修飾する「raced past the barn」があとに来ているために、構造が把握しづらくなっている。具体的には、この英文の途中「The horse raced past the barn」までしか読んでいない状況では、文の成分としての動詞(主語は「The horse」)は「raced」であるように感じられるが、「fell」まで行き着くと、文の成分としての動詞は、文法上、これまで唯一の候補だった(1)「raced」に加え、(2)「fell」が出てくることになり、それぞれの候補ごとに(1)「【(習慣的に、または一般法則に従って)】崩れる納屋のそばを馬が素早く走り抜けた」なのか(2)「納屋のそばを走らされた馬が倒れた」なのかを検討しなければならなくなる。 名詞や動詞、形容詞といった「品詞」の概念は、上述した「文の成分」の概念とは分けて考える必要がある。名詞「犬」は、文の成分としては主語にもなれば修飾語にもなり、「犬だ」のように助動詞「だ」を付けて述語にもなる。動詞・形容詞・形容動詞も、修飾語にもなれば述語にもなる。もっとも、副詞は多く連用修飾語として用いられ、また、連体詞は連体修飾語に、接続詞は接続語に、感動詞は独立語にもっぱら用いられるが、必ずしも、特定の品詞が特定の文の成分に1対1で対応しているわけではない。 では、それぞれの品詞の特徴を形作るものは何かということが問題になるが、これについては、さまざまな説明があり、一定しない。俗に、事物を表す単語が名詞、動きを表す単語が動詞、様子を表す単語が形容詞などといわれることがあるが、例外がいくらでも挙がり、定義としては成立しない。 橋本進吉は、品詞を分類するにあたり、単語の表す意味(動きを表すか様子を表すかなど)には踏み込まず、主として形式的特徴によって品詞分類を行っている。橋本の考え方は初学者にも分かりやすいため、学校文法もその考え方に基づいている。 学校文法では、語のうち、「太陽」「輝く」「赤い」「ぎらぎら」など、それだけで文節を作り得るものを自立語(詞)とし、「ようだ」「です」「が」「を」など、単独で文節を作り得ず、自立語に付属して用いられるものを付属語(辞)とする。なお、日本語では、自立語の後に接辞や付属語を次々につけ足して文法的な役割などを示すため、言語類型論上は膠着語に分類される。 自立語は、活用のないものと、活用のあるものとに分けられる。 自立語で活用のないもののうち、主語になるものを名詞とする。名詞のうち、代名詞・数詞を独立させる考え方もある。一方、主語にならず、単独で連用修飾語になるものを副詞、連体修飾語になるものを連体詞(副体詞)、接続語になるものを接続詞、独立語としてのみ用いられるものを感動詞とする。副詞・連体詞については、それぞれ一品詞とすべきかどうかについて議論があり、さらに細分化する考え方や、他の品詞に吸収させる考え方などがある。 自立語で活用のあるもののうち、命令形のあるものを動詞、命令形がなく終止・連体形が「い」で終わるものを形容詞(日本語教育では「イ形容詞」)、連体形が「な」で終わるものを形容動詞(日本語教育では「ナ形容詞」)とする。形容動詞を一品詞として認めることについては、時枝誠記や鈴木重幸など、否定的な見方をする研究者もいる。 なお、「名詞」および「体言」という用語は、しばしば混同される。古来、ことばを分類するにあたり、活用のない語を「体言」(体)、活用のある語を「用言」(用)、そのほか、助詞・助動詞の類を「てにをは」と大ざっぱに称することが多かった。現在の学校文法では、「用言」は活用のある自立語の意味で用いられ(動詞・形容詞・形容動詞を指す)、「体言」は活用のない自立語の中でも名詞(および代名詞・数詞)を指すようになった。つまり、現在では「体言」と「名詞」とは同一物と見ても差し支えはないが、活用しない語という点に着目していう場合は「体言」、文の成分のうち主語になりうるという点に着目していう場合は「名詞」と称する。 付属語も、活用のないものと、活用のあるものとに分けられる。 付属語で活用のないものを助詞と称する。「春が来た」「買ってくる」「やるしかない」「分かったか」などの太字部分はすべて助詞である。助詞は、名詞について述語との関係(格関係)を表す格助詞(「名詞の格」の節参照)、活用する語について後続部分との接続関係を表す接続助詞、種々の語について、程度や限定などの意味を添えつつ後続の用言などを修飾する副助詞、文の終わりに来て疑問や詠嘆・感動・禁止といった気分や意図を表す終助詞に分けられる。鈴木重幸・高橋太郎他・鈴木康之らは助詞を単語とは認めず、付属辞(「くっつき」)として、単語の一部とする。(格助詞・並立助詞・係助詞・副助詞・終助詞の全部および接続助詞のうち「し」「が」「けれども」「から」「ので」「のに」について)または語尾(接続助詞のうち「て(で)」、条件の形の「ば」、並べ立てるときの「たり(だり)」について)。 付属語で活用のあるものを助動詞と称する。「気を引かれる」「私は泣かない」「花が笑った」「さあ、出かけよう」「今日は来ないそうだ」「もうすぐ春です」などの太字部分はすべて助動詞である。助動詞の最も主要な役割は、動詞(および助動詞)に付属して以下のような情報を加えることである。すなわち、動詞の態(特に受け身・使役・可能など。ヴォイス)・極性(肯定・否定の決定。ポラリティ)・時制(テンス)・相(アスペクト)・法(推量・断定・意志など。ムード)などを示す役割を持つ。山田孝雄は、助動詞を認めず、動詞から分出される語尾(複語尾)と見なしている。また時枝誠記は、「れる(られる)」「せる(させる)」を助動詞とせず、動詞の接尾語としている。鈴木重幸・鈴木康之・高橋太郎らは大部分の助動詞を単語とは認めない。「た(だ)」「う(よう)は、動詞の語尾であるとし、「ない」「よう」「ます」「れる」「られる」「せる」「させる」「たい」「そうだ」「ようだ」は、接尾辞であるとして、単語の一部とする。(「ようだ」「らしい」「そうだ」に関しては、「むすび」または「コピュラ」「繋辞」であるとする。) 名詞および動詞・形容詞・形容動詞は、それが文中でどのような成分を担っているかを特別の形式によって表示する。 名詞の場合、「が」「を」「に」などの格助詞を後置することで動詞との関係(格)を示す。語順によって格を示す言語ではないため、日本語は語順が比較的自由である。すなわち、 などは、強調される語は異なるが、いずれも同一の内容を表す文で、しかも正しい文である。 主な格助詞とその典型的な機能は次の通りである。 このように、格助詞は、述語を連用修飾する名詞が述語とどのような関係にあるかを示す(ただし、「の」だけは連体修飾に使われ、名詞同士の関係を示す)。なお、上記はあくまでも典型的な機能であり、主体を表さない「が」(例、「水が飲みたい」)、対象を表さない「を」(例、「日本を発った」)、到達点を表さない「に」(例、受動動作の主体「先生にほめられた」、地位の所在「今上天皇にあらせられる」)、主体を表す「の」(例、「私は彼の急いで走っているのを見た」)など、上記に収まらない機能を担う場合も多い。 格助詞のうち、「が」「を」「に」は、話し言葉においては脱落することが多い。その場合、文脈の助けがなければ、最初に来る部分は「が」格に相当すると見なされる。「くじらをお父さんが食べてしまった。」を「くじら、お父さん食べちゃった。」と助詞を抜かして言った場合は、「くじら」が「が」格相当ととらえられるため、誤解の元になる。「チョコレートを私が食べてしまった。」を「チョコレート、私食べちゃった。」と言った場合は、文脈の助けによって誤解は避けられる。なお、「へ」「と」「から」「より」「で」などの格助詞は、話し言葉においても脱落しない。 題述構造の文(「文の構造」の節参照)では、特定の格助詞が「は」に置き換わる。たとえば、「空が 青い。」という文は、「空」を題目化すると「空は 青い。」となる。題目化の際の「は」の付き方は、以下のようにそれぞれの格助詞によって異なる。 格助詞は、下に来る動詞が何であるかに応じて、必要とされる種類と数が変わってくる。たとえば、「走る」という動詞で終わる文に必要なのは「が」格であり、「馬が走る。」とすれば完全な文になる。ところが、「教える」の場合は、「が」格を加えて「兄が教えています。」としただけでは不完全な文である。さらに「で」格を加え、「兄が小学校で教えています(=教壇に立っています)。」とすれば完全になる。つまり、「教える」は、「が・で」格が必要である。 ところが、「兄が部屋で教えています。」という文の場合、「が・で」格があるにもかかわらず、なお完全な文という感じがしない。「兄が部屋で弟に算数を教えています。」のように「が・に・を」格が必要である。むしろ、「で」格はなくとも文は不完全な印象はない。 すなわち、同じ「教える」でも、「教壇に立つ」という意味の「教える」は「が・で」格が必要であり、「説明して分かるようにさせる」という意味の「教える」では「が・に・を」格が必要である。このように、それぞれの文を成り立たせるのに必要な格を「必須格」という。 名詞が格助詞を伴ってさまざまな格を示すのに対し、用言(動詞・形容詞・形容動詞)および助動詞は、語尾を変化させることによって、文中のどの成分を担っているかを示したり、時制・相などの情報や文の切れ続きの別などを示したりする。この語尾変化を「活用」といい、活用する語を総称して「活用語」という。 学校文法では、口語の活用語について、6つの活用形を認めている。以下、動詞・形容詞・形容動詞の活用形を例に挙げる(太字部分)。 一般に、終止形は述語に用いられる。「(選手が球を)打つ。」「(この子は)強い。」「(消防士は)勇敢だ。」など。 連用形は、文字通り連用修飾語にも用いられる。「強く(生きる。)」「勇敢に(突入する。)」など。ただし、「選手が球を打ちました。」の「打ち」は連用形であるが、連用修飾語ではなく、この場合は述語の一部である。このように、活用形と文中での役割は、1対1で対応しているわけではない。 仮定形は、文語では已然形と称する。口語の「打てば」は仮定を表すが、文語の「打てば」は「已(すで)に打ったので」の意味を表すからである。また、形容詞・形容動詞は、口語では命令形がないが、文語では「稽古は強かれ。」(風姿花伝)のごとく命令形が存在する。 動詞の活用は種類が分かれている。口語の場合は、五段活用・上一段活用・下一段活用・カ行変格活用(カ変)・サ行変格活用(サ変)の5種類である。 ある言語の語彙体系を見渡して、特定の分野の語彙が豊富であるとか、別の分野の語彙が貧弱であるとかを決めつけることは、一概にはできない。日本語でも、たとえば「自然を表す語彙が多いというのが定評」といわれるが、これは人々の直感から来る評判という意味以上のものではない。 実際に、旧版『分類語彙表』によって分野ごとの語彙量の多寡を比べた結果によれば、名詞(体の類)のうち「人間活動―精神および行為」に属するものが27.0%、「抽象的関係」が18.3%、「自然物および自然現象」が10.0%などとなっていて、この限りでは「自然」よりも「精神」や「行為」などを表す語彙のほうが多いことになる。ただし、これも、他の言語と比較して多いということではなく、この結果がただちに日本語の語彙の特徴を示すことにはならない。 日本語の人称はあまり固定化していない。現代語・標準語の範疇としては、一人称は「わたくし・わたし・あたし・ぼく・おれ・うち・自分・我々」など、二人称は「あなた・あんた・おまえ・おめえ・てめえ・きみ」などが用いられる。方言・近代語・古語まで含めるとこの限りではなく、文献上では他にも「あたくし・あたい・わし・わい・わて・我が輩・おれ様・おいら・われ・わー・わん・朕・わっし・こちとら・てまえ・小生・それがし・拙者・おら」などの一人称、「おまえさん・てめえ・貴様・おのれ・われ・お宅・なんじ・おぬし・その方・貴君・貴兄・貴下・足下・貴公・貴女・貴殿・貴方(きほう)」などの二人称が見つかる。 上の事実は、現代英語の一人称・二人称代名詞がほぼ "I" と "you" のみであり、フランス語の一人称代名詞が "je"、二人称代名詞が "tu" "vous" のみ、またドイツ語の一人称代名詞が"ich"、二人称代名詞が"du" "Sie" "ihr"のみであることと比較すれば、特徴的ということができる。もっとも、日本語においても、本来の人称代名詞は、一人称に「ワ(レ)」「ア(レ)」、二人称に「ナ(レ)」があるのみである(但し『ナ』はもと一人称とも見られ、後述のこととも関係があるが)。今日、一・二人称同様に用いられる語は、その大部分が一般名詞からの転用である。一人称を示す「ぼく」や三人称を示す「彼女」などを、「ぼく、何歳?」「彼女、どこ行くの?」のように二人称に転用することが可能であるのも、日本語の人称語彙が一般名詞的であることの現れである。 なお、敬意表現の観点から、目上に対しては二人称代名詞の使用が避けられる傾向がある。たとえば、「あなたは何時に出かけますか」とは言わず、「何時にいらっしゃいますか」のように言うことが普通である。 「親族語彙の体系」の節も参照。 また、音象徴語、いわゆるオノマトペの語彙量も日本語には豊富である(オノマトペの定義は一定しないが、ここでは、擬声語・擬音語のように耳に聞こえるものを写した語と、擬態語のように耳に聞こえない状態・様子などを写した語の総称として用いる)。 擬声語は、人や動物が立てる声を写したものである(例、おぎゃあ・がおう・げらげら・にゃあにゃあ)。擬音語は、物音を写したものである(例、がたがた・がんがん・ばんばん・どんどん)。擬態語は、ものごとの様子や心理の動きなどを表したものである(例、きょろきょろ・すいすい・いらいら・わくわく)。擬態語の中で、心理を表す語を特に擬情語と称することもある。 オノマトペ自体は多くの言語に存在する。たとえば猫の鳴き声は、英語で「mew」、ドイツ語で「miau」、フランス語で 「miaou」、ロシア語で「мяу」、中国語で「喵喵」、朝鮮語で「야옹야옹」などである。しかしながら、その語彙量は言語によって異なる。日本語のオノマトペは欧米語や中国語の3倍から5倍存在するといわれる。英語などと比べると、とりわけ擬態語が多く使われるとされる。 新たなオノマトペが作られることもある。「(心臓が)ばくばく」「がっつり(食べる)」などは、近年に作られた(広まった)オノマトペの例である。 漫画などの媒体では、とりわけ自由にオノマトペが作られる。漫画家の手塚治虫は、漫画を英訳してもらったところ、「ドギューン」「シーン」などの語に翻訳者が「お手あげになってしまった」と記している。また、漫画出版社社長の堀淵清治も、アメリカで日本漫画を売るに当たり、独特の擬音を訳すのにスタッフが悩んだことを述べている。 日本語の語彙を品詞ごとにみると、圧倒的に多いものは名詞である。その残りのうちで比較的多いものは動詞である。『新選国語辞典』の収録語の場合、名詞が82.37%、動詞が9.09%、副詞が2.46%、形容動詞が2.02%、形容詞が1.24%となっている。 このうち、とりわけ目を引くのは形容詞・形容動詞の少なさである。かつて柳田國男はこの点を指摘して「形容詞饑饉」と称した。英語の場合、『オックスフォード英語辞典』第2版では、半分以上が名詞、約4分の1が形容詞、約7分の1が動詞ということであり、英語との比較の上からは、日本語の形容詞が僅少であることは特徴的といえる。 ただし、これは日本語で物事を形容することが難しいことを意味するものではなく、他の形式による形容表現が多く存在する。例えば「初歩(の)」「酸性(の)」など「名詞(+の)」の形式、「目立つ(色)」「とがった(針)」「はやっている(店)」など動詞を基にした形式、「つまらない」「にえきらない」など否定助動詞「ない」を伴う形式などが形容表現に用いられる。 もともと少ない形容詞を補う主要な形式は形容動詞である。漢語・外来語の輸入によって、「正確だ」「スマートだ」のような、漢語・外来語+「だ」の形式の形容動詞が増大した。上掲の『新選国語辞典』で名詞扱いになっている漢語・外来語のうちにも、形容動詞の用法を含むものが多数存在する。現代の二字漢語(「世界」「研究」「豊富」など)約2万1千語を調査した結果によれば、全体の63.7%が事物類(名詞に相当)、29.9%が動態類(動詞に相当)、7.3%が様態類(形容動詞に相当)、1.1%が副用類(副詞に相当)であり、二字漢語の7%程度が形容動詞として用いられていることが分かる。 「語彙の増加と品詞」の節も参照。 それぞれの語は、ばらばらに存在しているのではなく、意味・用法などの点で互いに関連をもったグループを形成している。これを語彙体系と称する。日本語の語彙自体、一つの大きな語彙体系といえるが、その中にはさらに無数の語彙体系が含まれている。 以下、体系をなす語彙の典型的な例として、指示語・色彩語彙・親族語彙を取り上げて論じる。 日本語では、ものを指示するために用いる語彙は、一般に「こそあど」と呼ばれる4系列をなしている。これらの指示語(指示詞)は、主として名詞(「これ・ここ・こなた・こっち」など)であるため、概説書の類では名詞(代名詞)の説明のなかで扱われている場合も多い。しかし、実際には副詞(「こう」など)・連体詞(「この」など)・形容動詞(「こんなだ」など)にまたがるため、ここでは語彙体系の問題として論じる。 「こそあど」の体系は、伝統的には「近称・中称・遠称・不定(ふじょう、ふてい)称」の名で呼ばれた。明治時代に、大槻文彦は以下のような表を示している。 ここで、「近称」は最も近いもの、「中称」はやや離れたもの、「遠称」は遠いものを指すとされた。ところが、「そこ」などを「やや離れたもの」を指すと考えると、遠くにいる人に向かって「そこで待っていてくれ」と言うような場合を説明しがたい。また、自分の腕のように近くにあるものを指して、人に「そこをさすってください」と言うことも説明しがたいなどの欠点がある。佐久間鼎は、この点を改め、「こ」は「わ(=自分)のなわばり」に属するもの、「そ」は「な(=あなた)のなわばり」に属するもの、「あ」はそれ以外の範囲に属するものを指すとした。すなわち、体系は下記のようにまとめられた。 このように整理すれば、上述の「そこで待っていてくれ」「そこをさすってください」のような言い方はうまく説明される。相手側に属するものは、遠近を問わず「そ」で表されることになる。この説明方法は、現在の学校教育の国語でも取り入れられている。 とはいえ、すべての場合を佐久間説で割り切れるわけでもない。たとえば、道で「どちらに行かれますか」と問われて、「ちょっとそこまで」と答えたとき、これは「それほど遠くないところまで行く」という意味であるから、大槻文彦のいう「中称」の説明のほうがふさわしい。ものを無くしたとき、「ちょっとそのへんを探してみるよ」と言うときも同様である。 また、目の前にあるものを直接指示する場合(現場指示)と、文章の中で前に出た語句を指示する場合(文脈指示)とでも、事情が変わってくる。「生か死か、それが問題だ」の「それ」は、「中称」(やや離れたもの)とも、「相手所属のもの」とも解釈しがたい。直前の内容を「それ」で示すものである。このように、指示語の意味体系は、詳細に見れば、なお研究の余地が多く残されている。 なお、指示の体系は言語によって異なる。不定称を除いた場合、3系列をなす言語は日本語(こ、そ、あ)や朝鮮語(이、그、저)などがある。一方、英語(this、that)や中国語(这、那)などは2系列をなす。日本人の英語学習者が「これ、それ、あれ」に「this、it、that」を当てはめて考えることがあるが、「it」は文脈指示の代名詞で系列が異なるため、混用することはできない。 日本語で色彩を表す語彙(色彩語彙)は、古来、「アカ」「シロ」「アヲ」「クロ」の4語が基礎となっている。「アカ」は明るい色(明しの語源か)、「シロ」は顕(あき)らかな色(白しの語源か)、「アヲ」は漠然とした色(淡しの語源か)、「クロ」は暗い色(暗しの語源か)を総称した。今日でもこの体系は基本的に変わっていない。葉の色・空の色・顔色などをいずれも「アオ」と表現するのはここに理由がある。 文化人類学者のバーリンとケイの研究によれば、種々の言語で最も広範に用いられている基礎的な色彩語彙は「白」と「黒」であり、以下、「赤」「緑」が順次加わるという。日本語の色彩語彙もほぼこの法則に合っているといってよい。 このことは、日本語を話す人々が4色しか識別しないということではない。特別の色を表す場合には、「黄色(語源は「木」かという)」「紫色」「茶色」「蘇芳色」「浅葱色」など、植物その他の一般名称を必要に応じて転用する。ただし、これらは基礎的な色彩語彙ではない。 日本語の親族語彙は、比較的単純な体系をなしている。英語の基礎語彙で、同じ親から生まれた者を「brother」「sister」の2語のみで区別するのに比べれば、日本語では、男女・長幼によって「アニ」「アネ」「オトウト」「イモウト」の4語を区別し、より詳しい体系であるといえる(古代には、年上のみ「アニ」「アネ」と区別し、年下は「オト」と一括した)。しかしながら、たとえば中国語の親族語彙と比較すれば、はるかに単純である。中国語では、父親の父母を「祖父」「祖母」、母親の父母を「外祖父」「外祖母」と呼び分けるが、日本語では「ジジ」「ババ」の区別しかない。中国語では父の兄弟を「伯」「叔」、父の姉妹を「姑」、母の兄弟を「舅」、母の姉妹を「姨」などというが、日本語では「オジ」「オバ」のみである。「オジ」「オバ」の子はいずれも「イトコ」の名で呼ばれる。日本語でも、「伯父(はくふ)」「叔父(しゅくふ)」「従兄(じゅうけい)」「従姉(じゅうし)」などの語を文章語として用いることもあるが、これらは中国語からの借用語である。 親族語彙を他人に転用する虚構的用法が多くの言語に存在する。例えば、朝鮮語(「아버님」お父様)・モンゴル語(「aab」父)では尊敬する年配男性に用いる。英語でも議会などの長老やカトリック教会の神父を「father(父)」、寮母を「mother(母)」、男の親友や同一宗派の男性を「brother(兄弟)」、女の親友や修道女や見知らぬ女性を「sister」(姉妹)と呼ぶ。中国語では見知らぬ若い男性・女性に「老兄」(お兄さん)「大姐」(お姉さん)と呼びかける、そして年長者では男性・女性に「大爺」(旦那さん)「大媽」(伯母さん)と呼びかける。日本語にもこの用法があり、赤の他人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶことがある。たとえば、店員が中年の男性客に「お父さん、さあ買ってください」のように言う。フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などのヨーロッパの言語で他人である男性をこのように呼ぶことは普通ではなく、日本語で赤の他人を「お父さん」と呼ぶのが失礼になりうるのと同じく、失礼にさえなるという。 一族内で一番若い世代から見た名称で自分や他者を呼ぶことがあるのも各国語に見られる用法である。例えば、父親が自分自身を指して「お父さん」と言ったり(「お父さんがやってあげよう」)、自分の母を子から見た名称で「おばあちゃん」と呼んだりする用法である。この用法は、中国語・朝鮮語・モンゴル語・英語・フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などを含め諸言語にある。 日本語の語彙を出自から分類すれば、大きく、和語・漢語・外来語、およびそれらが混ざった混種語に分けられる。このように、出自によって分けた言葉の種類を「語種」という。和語は日本古来の大和言葉、漢語は中国渡来の漢字の音を用いた言葉、外来語は中国以外の他言語から取り入れた言葉である。(「語彙史」の節参照)。 和語は日本語の語彙の中核部分を占める。「これ」「それ」「きょう」「あす」「わたし」「あなた」「行く」「来る」「良い」「悪い」などのいわゆる基礎語彙はほとんど和語である。また、「て」「に」「を」「は」などの助詞や、助動詞の大部分など、文を組み立てるために必要な付属語も和語である。 一方、抽象的な概念や、社会の発展に伴って新たに発生した概念を表すためには、漢語や外来語が多く用いられる。和語の名称がすでにある事物を漢語や外来語で言い換えることもある。「めし」を「御飯」「ライス」、「やどや」を「旅館」「ホテル」などと称するのはその例である。このような語種の異なる同義語には、微妙な意味・ニュアンスの差異が生まれ、とりわけ和語には易しい、または卑俗な印象、漢語には公的で重々しい印象、外来語には新しい印象が含まれることが多い。 一般に、和語の意味は広く、漢語の意味は狭いといわれる。たとえば、「しづむ(しずめる)」という1語の和語に、「沈」「鎮」「静」など複数の漢語の造語成分が相当する。「しづむ」の含む多様な意味は、「沈む」「鎮む」「静む」などと漢字を用いて書き分けるようになり、その結果、これらの「しづむ」が別々の語と意識されるまでになった。2字以上の漢字が組み合わさった漢語の表す意味はとりわけ分析的である。たとえば、「弱」という造語成分は、「脆」「貧」「軟」「薄」などの成分と結合することにより、「脆弱」「貧弱」「軟弱」「薄弱」のように分析的・説明的な単語を作る(「語彙史」の節の「漢語の勢力拡大」および「語彙の増加と品詞」を参照)。 漢語は、「学問」「世界」「博士」などのように、古く中国から入ってきた語彙が大部分を占めるのは無論であるが、日本人が作った漢語(和製漢語)も古来多い。現代語としても、「国立」「改札」「着席」「挙式」「即答」「熱演」など多くの和製漢語が用いられている。漢語は音読みで読まれることから、字音語と呼ばれる場合もある。 外来語は、もとの言語の意味のままで用いられるもの以外に、日本語に入ってから独自の意味変化を遂げるものが少なくない。英語の "claim" は「当然の権利として要求する」の意であるが、日本語の「クレーム」は「文句」の意である。英語の "lunch" は昼食の意であるが、日本の食堂で「ランチ」といえば料理の種類を指す。 外来語を組み合わせて、「アイスキャンデー」「サイドミラー」「テーブルスピーチ」のように日本語独自の語が作られることがある。また、当該の語形が外国語にない「パネラー」(パネリストの意)「プレゼンテーター」(プレゼンテーションをする人。プレゼンター)などの語形が作られることもある。これらを総称して「和製洋語」、英語系の語を特に「和製英語」と言う。 日本語の語彙は、語構成の面からは単純語と複合語に分けることができる。単純語は、「あたま」「かお」「うえ」「した」「いぬ」「ねこ」のように、それ以上分けられないと意識される語である。複合語は、「あたまかず」「かおなじみ」「うわくちびる」「いぬずき」のように、いくつかの単純語が合わさってできていると意識される語である。なお、熟語と総称される漢語は、本来漢字の字音を複合させたものであるが、「えんぴつ(鉛筆)」「せかい(世界)」など、日本語において単純語と認識される語も多い。「語種」の節で触れた混種語、すなわち、「プロ野球」「草野球」「日本シリーズ」のように複数の語種が合わさった語は、語構成の面からはすべて複合語ということになる。 日本語では、限りなく長い複合語を作ることが可能である。「平成十六年新潟県中越地震非常災害対策本部」「服部四郎先生定年退官記念論文集編集委員会」といった類も、ひとつの長い複合語である。国際協定の関税及び貿易に関する一般協定は、英語では「General Agreement on Tariffs and Trade」(関税と貿易に関する一般協定)であり、ひとつの句であるが、日本の新聞では「関税貿易一般協定」と複合語で表現することがある。これは漢字の結合力によるところが大きく、中国語・朝鮮語などでも同様の長い複合語を作る。なお、ヨーロッパ語を見ると、ロシア語では「человеконенавистничество」(人間嫌い)、ドイツ語では「Naturfarbenphotographie」(天然色写真)などの長い語の例を比較的多く有し、英語でも「antidisestablishmentarianism」(国教廃止条例反対論。英首相グラッドストンの造語という)などの語例がまれにある。 接辞は、複合語を作るために威力を発揮する。たとえば、「感」は、「音感」「語感」「距離感」「不安感」など漢字2字・3字からなる複合語のみならず、最近では「透け感」「懐かし感」「しゃきっと感」「きちんと感」など動詞・形容詞・副詞との複合語を作り、さらには「『昔の名前で出ています』感」(=昔の名前で出ているという感じ)のように文であったものに下接して長い複合語を作ることもある。 日本語の複合語は、難しい語でも、表記を見れば意味が分かる場合が多い。たとえば、英語の「apivorous」 は生物学者にしか分からないのに対し、日本語の「蜂食性」は「蜂を食べる性質」であると推測できる。これは表記に漢字を用いる言語の特徴である。 現代の日本語は、平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)・漢字を用いて、現代仮名遣い・常用漢字に基づいて表記されることが一般的である。アラビア数字やローマ字(ラテン文字)なども必要に応じて併用される。 正書法の必要性を説く主張や、その反論がしばしば交わされてきた。 平仮名・片仮名は、2017年9月現在では以下の46字ずつが使われる。 このうち、「 ゙」(濁音符)および「 ゚」(半濁音符)を付けて濁音・半濁音を表す仮名もある(「音韻」の節参照)。拗音は小書きの「ゃ」「ゅ」「ょ」を添えて表し、促音は小書きの「っ」で表す。「つぁ」「ファ」のように、小書きの「ぁ」「ぃ」「ぅ」「ぇ」「ぉ」を添えて表す音もあり、補助符号として長音を表す「ー」がある。歴史的仮名遣いでは上記のほか、表音は同じでも表記の違う、平仮名「ゐ」「ゑ」および片仮名「ヰ」「ヱ」の字が存在し、その他にも変体仮名がある。 漢字は、日常生活において必要とされる2136字の常用漢字と、子の名づけに用いられる861字の人名用漢字が、法で定められている。実際にはこれら以外にも一般に通用する漢字の数は多いとされ、日本産業規格(JIS)はJIS X 0208(通称JIS漢字)として約6300字を電算処理可能な漢字として挙げている。なお、漢字の本家である中国においても同様の基準は存在し、現代漢語常用字表により、「常用字」として2500字、「次常用字」として1000字が定められている。これに加え、現代漢語通用字表ではさらに3500字が追加されている。 一般的な文章では、上記の漢字・平仮名・片仮名を交えて記すほか、アラビア数字・ローマ字なども必要に応じて併用する。基本的には、漢語には漢字を、和語のうち概念を表す部分(名詞や用言語幹など)には漢字を、形式的要素(助詞・助動詞など)や副詞・接続詞の一部には平仮名を、外来語(漢語以外)には片仮名を用いる場合が多い。公的な文書では特に表記法を規定している場合もあり、民間でもこれに倣うことがある。ただし、厳密な正書法はなく、表記のゆれは広く許容されている。文章の種類や目的によって、 などの表記がありうる。 多様な文字体系を交えて記す利点として、単語のまとまりが把握しやすく、速読性に優れるなどの点が指摘される。日本語の単純な音節構造に由来する同音異義語が漢字によって区別され、かつ字数も節約されるという利点もある。計算機科学者の村島定行は、日本語では、表意文字と表音文字の二重の文章表現ができるため、記憶したり、想起したりするのに手がかりが多く、言語としての機能が高いと指摘している。一方で中国文学者の高島俊男は、漢字の表意性に過度に依存した日本語の文章は、他の自然言語に類を見ないほどの同音異義語を用いざるを得なくなり、しばしば実用の上で支障を来たすことから、言語として「顚倒している」と評している。歴史上、漢字を廃止して、仮名またはローマ字を国字化しようという主張もあったが、広く実行されることはなかった(「国語国字問題」参照)。今日では漢字・平仮名・片仮名の交ぜ書きが標準的表記の地位をえている。 日本語の表記体系は中央語を書き表すために発達したものであり、方言の音韻を表記するためには必ずしも適していない。たとえば、東北地方では「柿」を [kagɨ]、「鍵」を [kãŋɨ] のように発音するが、この両語を通常の仮名では書き分けられない(アクセント辞典などで用いる表記によって近似的に記せば、「カギ」と「カンキ゚」のようになる)。もっとも、方言は書き言葉として用いられることが少ないため、実際上に不便を来すことは少ない。 岩手県気仙方言(ケセン語)について、山浦玄嗣により、文法形式を踏まえた正書法が試みられているというような例もある。ただし、これは実用のためのものというよりは、学術的な試みのひとつである。 琉球語(「系統」参照)の表記体系もそれを準用している。たとえば、琉歌「てんさごの花」(てぃんさぐぬ花)は、伝統的な表記法では次のように記す。 この表記法では、たとえば、「ぐ」「ご」がどちらも [gu] と発音されるように、かな表記と発音が一対一で対応しない場合が多々ある。表音的に記せば、[tiɴʃagunu hanaja ʦimiʣaʧiɲi sumiti, ʔujanu juʃigutuja ʧimuɲi sumiri] のようになるところである。 漢字表記の面では、地域文字というべきものが各地に存在する。たとえば、名古屋市の地名「杁中(いりなか)」などに使われる「杁」は、名古屋と関係ある地域の「地域文字」である。また、「垰」は「たお」「たわ」などと読まれる国字で、中国地方ほかで定着しているという。 文は、目的や場面などに応じて、さまざまな異なった様式を採る。この様式のことを、書き言葉(文章)では「文体」と称し、話し言葉(談話)では「話体」と称する。 日本語では、とりわけ文末の助動詞・助詞などに文体差が顕著に現れる。このことは、「ですます体」「でございます体」「だ体」「である体」「ありんす言葉」(江戸・新吉原の遊女の言葉)「てよだわ言葉」(明治中期から流行した若い女性の言葉)などの名称に典型的に表れている。それぞれの文体・話体の差は大きいが、日本語話者は、複数の文体・話体を常に切り替えながら使用している。 なお、「文体」の用語は、書かれた文章だけではなく談話についても適用されるため、以下では「文体」に「話体」も含めて述べる。また、文語文・口語文などについては「文体史」の節に譲る。 日本語の文体は、大きく普通体(常体)および丁寧体(敬体)の2種類に分かれる。日本語話者は日常生活で両文体を適宜使い分ける。日本語学習者は、初めに丁寧体を、次に普通体を順次学習することが一般的である。普通体は相手を意識しないかのような文体であるため独語体と称し、丁寧体は相手を意識する文体であるため対話体と称することもある。 普通体と丁寧体の違いは次のように現れる。 普通体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、「だ」または「である」を付けた形で結ぶ。前者を特に「だ体」、後者を特に「である体」と呼ぶこともある。 丁寧体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、助動詞「です」を付けた形で結ぶ。動詞が来る場合には「ます」を付けた形で結ぶ。ここから、丁寧体を「ですます体」と呼ぶこともある。丁寧の度合いをより強め、「です」の代わりに「でございます」を用いた文体を、特に「でございます体」と呼ぶこともある。丁寧体は、敬語の面からいえば丁寧語を用いた文体のことである。なお、文末に形容詞が来る場合にも「です」で結ぶことはできるが「花が美しく咲いています」「花が美しゅうございます」などと言い、「です」を避けることがある。 談話の文体(話体)は、話し手の性別・年齢・職業・場面など、位相の違いによって左右される部分が大きい。「ごはんを食べてきました」という丁寧体は、話し手の属性によって、たとえば、次のような変容がある。 このように異なる言葉遣いのそれぞれを位相語と言い、それぞれの差を位相差という。 物語作品やメディアにおいて、位相が極端にステレオタイプ化されて現実と乖離したり、あるいは書き手などが仮想的(バーチャル)な位相を意図的に作り出したりする場合がある。このような言葉遣いを「役割語」と称することがある。例えば以下の文体は、実際の性別・博士・令嬢・地方出身者などの一般的な位相を反映したものではないものの、小説・漫画・アニメ・ドラマなどで、仮想的にそれらしい感じを与える文体として広く観察される。これは現代に始まったものではなく、近世や近代の文献にも役割語の例が認められる(仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』に現れる外国人らしい言葉遣いなど)。 日本語では、待遇表現が文法的・語彙的な体系を形作っている。とりわけ、相手に敬意を示す言葉(敬語)において顕著である。 「敬語は日本にしかない」と言われることがあるが、日本と同様に敬語が文法的・語彙的体系を形作っている言語としては、朝鮮語・ジャワ語・ベトナム語・チベット語・ベンガル語・タミル語などがあり、尊敬・謙譲・丁寧の区別もある。朝鮮語ではたとえば動詞「내다(ネダ)」(出す)は、敬語形「내시다(ネシダ)」(出される)・「냅니다(ネムニダ)」(出します)の形を持つ。 敬語体系は無くとも、敬意を示す表現自体は、さまざまな言語に広く観察される。相手を敬い、物を丁寧に言うことは、発達した社会ならばどこでも必要とされる。そうした言い方を習得することは、どの言語でも容易でない。 金田一京助などによれば、現代日本語の敬語に特徴的なのは次の2点である。 朝鮮語など他の言語の敬語では、たとえば自分の父親はいかなる状況でも敬意表現の対象であり、他人に彼のことを話す場合も「私のお父様は...」という絶対的敬語を用いるが、日本語では自分の身内に対する敬意を他人に表現することは憚られ、「私の父は...」のように表現しなければならない。ただし皇室では絶対敬語が存在し、皇太子は自分の父親のことを「天皇陛下は...」と表現する。 どんな言語も敬意を表す表現を持っているが、日本語や朝鮮語などはそれが文法体系となっているため、表現・言語行動のあらゆる部分に、高度に組織立った体系が出来上がっている。そのため、敬意の種類や度合いに応じた表現の選択肢が予め用意されており、常にそれらの中から適切な表現を選ばなくてはならない。 以下、日本語の敬語体系および敬意表現について述べる。 日本語の敬語体系は、一般に、大きく尊敬語・謙譲語・丁寧語に分類される。文化審議会国語分科会は、2007年2月に「敬語の指針」を答申し、これに丁重語および美化語を含めた5分類を示している。 尊敬語は、動作の主体を高めることで、主体への敬意を表す言い方である。動詞に「お(ご)〜になる」を付けた形、また、助動詞「(ら)れる」を付けた形などが用いられる。たとえば、動詞「取る」の尊敬形として、「(先生が)お取りになる」「(先生が)取られる」などが用いられる。 語によっては、特定の尊敬語が対応するものもある。たとえば、「言う」の尊敬語は「おっしゃる」、「食べる」の尊敬語は「召し上がる」、「行く・来る・いる」の尊敬語は「いらっしゃる」である。 謙譲語は、古代から基本的に動作の客体への敬意を表す言い方であり、現代では「動作の主体を低める」と解釈するほうがよい場合がある。動詞に「お〜する」「お〜いたします」(謙譲語+丁寧語)をつけた形などが用いられる。たとえば、「取る」の謙譲形として、「お取りする」などが用いられる。 語によっては、特定の謙譲語が対応するものもある。たとえば、「言う」の謙譲語は「申し上げる」、「食べる」の謙譲語は「いただく」、「(相手の所に)行く」の謙譲語は「伺う」「参上する」「まいる」である。 なお、「夜も更けてまいりました」の「まいり」など、謙譲表現のようでありながら、誰かを低めているわけではない表現がある。これは、「夜も更けてきた」という話題を丁重に表現することによって、聞き手への敬意を表すものである。宮地裕は、この表現に使われる語を、特に「丁重語」と称している。丁重語にはほかに「いたし(マス)」「申し(マス)」「存じ(マス)」「小生」「小社」「弊社」などがある。文化審議会の「敬語の指針」でも、「明日から海外へまいります」の「まいり」のように、相手とは関りのない自分側の動作を表現する言い方を丁重語としている。 丁寧語は、文末を丁寧にすることで、聞き手への敬意を表すものである。動詞・形容詞の終止形で終わる常体に対して、名詞・形容動詞語幹などに「です」を付けた形(「学生です」「きれいです」)や、動詞に「ます」をつけた形(「行きます」「分かりました」)等の丁寧語を用いた文体を敬体という。 一般に、目上の人には丁寧語を用い、同等・目下の人には丁寧語を用いないといわれる。しかし、実際の言語生活に照らして考えれば、これは事実ではない。母が子を叱るとき、「お母さんはもう知りませんよ」と丁寧語を用いる場合もある。丁寧語が用いられる多くの場合は、敬意や謝意の表現とされるが、稀に一歩引いた心理的な距離をとろうとする場合もある。 「お弁当」「ご飯」などの「お」「ご」も、広い意味では丁寧語に含まれるが、宮地裕は特に「美化語」と称して区別する。相手への丁寧の意を示すというよりは、話し手が自分の言葉遣いに配慮した表現である。したがって、「お弁当食べようよ。」のように、丁寧体でない文でも美化語を用いることがある。文化審議会の「敬語の指針」でも「美化語」を設けている。 日本語で敬意を表現するためには、文法・語彙の敬語要素を知っているだけではなお不十分であり、時や場合など種々の要素に配慮した適切な表現が必要である。これを敬意表現(敬語表現)ということがある。 たとえば、「課長もコーヒーをお飲みになりたいですか」は、尊敬表現「お飲みになる」を用いているが、敬意表現としては適切でない。日本語では相手の意向を直接的に聞くことは失礼に当たるからである。「コーヒーはいかがですか」のように言うのが適切である。第22期国語審議会(2000年)は、このような敬意表現の重要性を踏まえて、「現代社会における敬意表現」を答申した。 婉曲表現の一部は、敬意表現としても用いられる。たとえば、相手に窓を開けてほしい場合は、命令表現によらずに、「窓を開けてくれる?」などと問いかけ表現を用いる。あるいは、「今日は暑いねえ」とだけ言って、窓を開けてほしい気持ちを含意することもある。 日本人が商取引で「考えさせてもらいます」という場合は拒絶の意味であると言われる。英語でも "Thank you for inviting me."(誘ってくれてありがとう)とは誘いを断る表現である。また、京都では、京都弁で帰りがけの客にその気がないのに「ぶぶづけ(お茶漬け)でもあがっておいきやす」と愛想を言うとされる(出典は落語「京のぶぶづけ」「京の茶漬け」よるという)。これらは、相手の気分を害さないように工夫した表現という意味では、広義の敬意表現と呼ぶべきものであるが、その呼吸が分からない人との間に誤解を招くおそれもある。 日本語には多様な方言がみられ、それらはいくつかの方言圏にまとめることができる。どのような方言圏を想定するかは、区画するために用いる指標によって少なからず異なる。 1967年の相互理解可能性の調査より、関東地方出身者に最も理解しにくい方言は(琉球諸語と東北方言を除く)、富山県氷見方言(正解率4.1%)、長野県木曽方言(正解率13.3%)、鹿児島方言(正解率17.6%)、岡山県真庭方言(正解率24.7%)だった。この調査は、12〜20秒の長さ、135〜244の音素の老人の録音に基づいており、42名若者が聞いて翻訳した。受験者は関東地方で育った慶應大学の学生であった。 東条操は、全国で話されている言葉を大きく東部方言・西部方言・九州方言および琉球方言に分けている。またそれらは、北海道・東北・関東・八丈島・東海東山・北陸・近畿・中国・雲伯(出雲・伯耆)・四国・豊日(豊前・豊後・日向)・肥筑(筑紫・肥前・肥後)・薩隅(薩摩・大隅)・奄美群島・沖縄諸島・先島諸島に区画された。これらの分類は、今日でもなお一般的に用いられる。なお、このうち奄美・沖縄・先島の言葉は、日本語の一方言(琉球方言)とする立場と、独立言語として琉球語とする立場とがある。 また、金田一春彦は、近畿・四国を主とする内輪方言、関東・中部・中国・九州北部の一部を主とする中輪方言、北海道・東北・九州の大部分を主とする外輪方言、沖縄地方を主とする南島方言に分類した。この分類は、アクセントや音韻、文法の特徴が畿内を中心に輪を描くことに着目したものである。このほか、幾人かの研究者により方言区画案が示されている。 一つの方言区画の内部も変化に富んでいる。たとえば、奈良県は近畿方言の地域に属するが、十津川村や下北山村周辺ではその地域だけ東京式アクセントが使われ、さらに下北山村池原にはまた別体系のアクセントがあって東京式の地域に取り囲まれている。香川県観音寺市伊吹町(伊吹島)では、平安時代のアクセント体系が残存しているといわれる(異説もある)。これらは特に顕著な特徴を示す例であるが、どのような狭い地域にも、その土地としての言葉の体系がある。したがって、「どの地点のことばも、等しく記録に価する」ものである。 一般に、方言差が話題になるときには、文法の東西の差異が取り上げられることが多い。東部方言と西部方言との間には、およそ次のような違いがある。 否定辞に東で「ナイ」、西で「ン」を用いる。完了形には、東で「テル」を、西で「トル」を用いる。断定には、東で「ダ」を、西で「ジャ」または「ヤ」を用いる。アワ行五段活用の動詞連用形は、東では「カッタ(買)」と促音便に、西では「コータ」とウ音便になる。形容詞連用形は、東では「ハヤク(ナル)」のように非音便形を用いるが、西では「ハヨー(ナル)」のようにウ音便形を用いるなどである。 方言の東西対立の境界は、画然と引けるものではなく、どの特徴を取り上げるかによって少なからず変わってくる。しかし、おおむね、日本海側は新潟県西端の糸魚川市、太平洋側は静岡県浜名湖が境界線(糸魚川・浜名湖線)とされることが多い。糸魚川西方には難所親不知があり、その南には日本アルプスが連なって東西の交通を妨げていたことが、東西方言を形成した一因とみられる。 日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きい。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられるが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの2つである。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第1拍の高低を弁別する。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国地方南西部、九州北東部に分布しており、京阪式アクセントは近畿地方・四国地方のそれぞれ大部分と北陸地方の一部に分布している。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっている。日本語の標準語・共通語のアクセントは、東京の山の手言葉のものを基盤にしているため東京式アクセントである。 九州西南部や沖縄の一部には型の種類が2種類になっている二型アクセントが分布し、宮崎県都城市などには型の種類が1種類になっている一型アクセントが分布する。また、岩手県雫石町や山梨県早川町奈良田などのアクセントは、音の下がり目ではなく上がり目を弁別する。これら有アクセントの方言に対し、東北地方南部から関東地方北東部にかけての地域や、九州の東京式アクセント地帯と二型アクセント地帯に挟まれた地域などには、話者にアクセントの知覚がなく、どこを高くするという決まりがない無アクセント(崩壊アクセント)の地域がある。これらのアクセント大区分の中にも様々な変種があり、さらにそれぞれの体系の中間型や別派なども存在する。 「花が」が東京で「低高低」、京都で「高低低」と発音されるように、単語のアクセントは地方によって異なる。ただし、それぞれの地方のアクセント体系は互いにまったく無関係に成り立っているのではない。多くの場合において規則的な対応が見られる。たとえば、「花が」「山が」「池が」を東京ではいずれも「低高低」と発音するが、京都ではいずれも「高低低」と発音し、「水が」「鳥が」「風が」は東京ではいずれも「低高高」と発音するのに対して京都ではいずれも「高高高」と発音する。また、「松が」「空が」「海が」は東京ではいずれも「高低低」と発音されるのに対し、京都ではいずれも「低低高」と発音される。このように、ある地方で同じアクセントの型にまとめられる語群(類と呼ぶ)は、他の地方でも同じ型に属することが一般的に観察される。 この事実は、日本の方言アクセントが、過去の同一のアクセント体系から分かれ出たことを意味する。服部四郎はこれを原始日本語のアクセントと称し、これが分岐し互いに反対の方向に変化して、東京式と京阪式を生じたと考えた。現在有力な説は、院政期の京阪式アクセント(名義抄式アクセント)が日本語アクセントの祖体系で、現在の諸方言アクセントのほとんどはこれが順次変化を起こした結果生じたとするものである。一方で、地方の無アクセントと中央の京阪式アクセントの接触で諸方言のアクセントが生じたとする説もある。 発音の特徴によって本土方言を大きく区分すると、表日本方言、裏日本方言、薩隅(鹿児島)式方言に分けることができる。表日本方言は共通語に近い音韻体系を持つ。裏日本式の音韻体系は、東北地方を中心に、北海道沿岸部や新潟県越後北部、関東北東部(茨城県・栃木県)と、とんで島根県出雲地方を中心とした地域に分布する。その特徴は、イ段とウ段の母音に中舌母音を用いることと、エが狭くイに近いことである。関東のうち千葉県や埼玉県東部などと、越後中部・佐渡・富山県・石川県能登の方言は裏日本式と表日本式の中間である。また薩隅式方言は、大量の母音脱落により閉音節を多く持っている点で他方言と対立している。薩隅方言以外の九州の方言は、薩隅式と表日本式の中間である。 音韻の面では、母音の「う」を、東日本、北陸、出雲付近では中舌寄りで非円唇母音(唇を丸めない)の [ɯ] または [ɯ̈] で、西日本一般では奥舌で円唇母音の [u] で発音する。また、母音は、東日本や北陸、出雲付近、九州で無声化しやすく、東海、近畿、中国、四国では無声化しにくい。 またこれとは別に、近畿・四国(・北陸)とそれ以外での対立がある。前者は京阪式アクセントの地域であるが、この地域ではアクセント以外にも、「木」を「きい」、「目」を「めえ」のように一音節語を伸ばして二拍に発音し、また「赤い」→「あけー」のような連母音の融合が起こらないという共通点がある。また、西日本(九州・山陰・北陸除く)は母音を強く子音を弱く発音し、東日本や九州は子音を強く母音を弱く発音する傾向がある。 母音の数は、奈良時代およびそれ以前には現在よりも多かったと考えられる。橋本進吉は、江戸時代の上代特殊仮名遣いの研究を再評価し、記紀や『万葉集』などの万葉仮名において「き・ひ・み・け・へ・め・こ・そ・と・の・も・よ・ろ」の表記に2種類の仮名が存在することを指摘した(甲類・乙類と称する。「も」は『古事記』のみで区別される)。橋本は、これらの仮名の区別は音韻上の区別に基づくもので、特に母音の差によるものと考えた。橋本の説は、後続の研究者らによって、「母音の数がアイウエオ五つでなく、合計八を数えるもの」という8母音説と受け取られ、定説化した(異説として、服部四郎の6母音説などがある)。8母音の区別は平安時代にはなくなり、現在のように5母音になったとみられる。なお、上代日本語の語彙では、母音の出現の仕方がウラル語族やアルタイ語族の母音調和の法則に類似しているとされる。 「は行」の子音は、奈良時代以前には [p] であったとみられる。すなわち、「はな(花)」は [pana](パナ)のように発音された可能性がある。[p] は遅くとも平安時代初期には無声両唇摩擦音 [ɸ] に変化していた。すなわち、「はな」は [ɸana](ファナ)となっていた。中世末期に、ローマ字で当時の日本語を記述したキリシタン資料が多く残されているが、そこでは「は行」の文字が「fa, fi, fu, fe, fo」で転写されており、当時の「は行」は「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近い発音であったことが分かる。中世末期から江戸時代にかけて、「は行」の子音は [ɸ] から [h] へ移行した。ただし、「ふ」は [ɸ] のままに、「ひ」は [çi] になった。現代でも引き続きこのように発音されている。 平安時代以降、語中・語尾の「は行」音が「わ行」音に変化するハ行転呼が起こった。たとえば、「かは(川)」「かひ(貝)」「かふ(買)」「かへ(替)」「かほ(顔)」は、それまで [kaɸa] [kaɸi] [kaɸu] [kaɸe] [kaɸo] であったものが、[kawa] [kawi] [kau] [kawe] [kawo] になった。「はは(母)」も、キリシタン資料では「faua」(ハワ)と記された例があるなど、他の語と同様にハ行転呼が起こっていたことが知られる。 このように、「は行」子音は語頭でおおむね [p] → [ɸ] → [h]、語中で [p] → [ɸ] → [w] と唇音が衰退する方向で推移した。また、関西で「う」を唇を丸めて発音する(円唇母音)のに対し、関東では唇を丸めずに発音するが、これも唇音退化の例ととらえることができる。 「や行」の「え」([je]) の音が古代に存在したことは、「あ行」の「え」の仮名と別の文字で書き分けられていたことから明らかである。平安時代初期に成立したと見られる「天地の詞」には「え」が2つ含まれており、「あ行」と「や行」の区別を示すものと考えられる。この区別は10世紀の頃にはなくなっていたとみられ、970年成立の『口遊』に収録される「大為爾の歌」では「あ行」の「え」しかない。この頃には「あ行」と「や行」の「え」の発音はともに [je] になっていた。 「わ行」は、「わ」を除いて「あ行」との合流が起きた。 平安時代末頃には、 が同一に帰した。3が同音になったのは11世紀末頃、1と2が同音になったのは12世紀末頃と考えられている。藤原定家の『下官集』(13世紀)では「お」・「を」、「い」・「ゐ」・「ひ」、「え」・「ゑ」・「へ」の仮名の書き分けが問題になっている。 当時の発音は、1は現在の [i](イ)、2は [je](イェ)、3は [wo](ウォ)のようであった。 3が現在のように [o](オ)になったのは江戸時代であったとみられる。18世紀の『音曲玉淵集』では、「お」「を」を「ウォ」と発音しないように説いている。 2が現在のように [e](エ)になったのは、新井白石『東雅』総論の記述からすれば早くとも元禄享保頃(17世紀末から18世紀初頭)以降、『謳曲英華抄』の記述からすれば18世紀中葉頃とみられる。 「が行」の子音は、語中・語尾ではいわゆる鼻濁音(ガ行鼻音)の [ŋ] であった。鼻濁音は、近代に入って急速に勢力を失い、語頭と同じ破裂音の [ɡ] または摩擦音の [ɣ] に取って代わられつつある。今日、鼻濁音を表記する時は、「か行」の文字に半濁点を付して「カミ(鏡)」のように書くこともある。 「じ・ぢ」「ず・づ」の四つ仮名は、室町時代前期の京都ではそれぞれ [ʑi], [dji], [zu], [du] と発音されていたが、16世紀初め頃に「ち」「ぢ」が口蓋化し、「つ」「づ」が破擦音化した結果、「ぢ」「づ」の発音がそれぞれ [ʥi], [ʣu] となり、「じ」「ず」の音に近づいた。16世紀末のキリシタン資料ではそれぞれ「ji・gi」「zu・zzu」など異なるローマ字で表されており、当時はまだ発音の区別があったことが分かるが、当時既に混同が始まっていたことも記録されている。17世紀末頃には発音の区別は京都ではほぼ消滅したと考えられている(今も区別している方言もある)。「せ・ぜ」は「xe・je」で表記されており、現在の「シェ・ジェ」に当たる [ɕe], [ʑe] であったことも分かっている。関東では室町時代末にすでに [se], [ze] の発音であったが、これはやがて西日本にも広がり、19世紀中頃には京都でも一般化した。現在は東北や九州などの一部に [ɕe], [ʑe] が残っている。 平安時代から、発音を簡便にするために単語の音を変える音便現象が少しずつ見られるようになった。「次(つ)ぎて」を「次いで」とするなどのイ音便、「詳(くは)しくす」を「詳しうす」とするなどのウ音便、「発(た)ちて」を「発って」とするなどの促音便、「飛びて」を「飛んで」とするなどの撥音便が現れた。『源氏物語』にも、「いみじく」を「いみじう」とするなどのウ音便が多く、また、少数ながら「苦しき」を「苦しい」とするなどのイ音便の例も見出される。鎌倉時代以降になると、音便は口語では盛んに用いられるようになった。 中世には、「差して」を「差いて」、「挟みて」を「挟うで」、「及びて」を「及うで」などのように、今の共通語にはない音便形も見られた。これらの形は、今日でも各地に残っている。 鎌倉時代・室町時代には連声(れんじょう)の傾向が盛んになった。撥音または促音の次に来た母音・半母音が「な行」音・「ま行」音・「た行」音に変わる現象で、たとえば、銀杏は「ギン」+「アン」で「ギンナン」、雪隠は「セッ」+「イン」で「セッチン」となる。助詞「は」(ワ)と前の部分とが連声を起こすと、「人間は」→「ニンゲンナ」、「今日は」→「コンニッタ」となった。 また、この時代には、「中央」の「央」など「アウ」 [au] の音が合して長母音 [ɔː] になり、「応対」の「応」など「オウ」 [ou] の音が [oː] になった(「カウ」「コウ」など頭子音が付いた場合も同様)。口をやや開ける前者を開音、口をすぼめる後者を合音と呼ぶ。また、「イウ」 [iu]、「エウ」 [eu] などの二重母音は、[juː]、[joː] という拗長音に変化した。「開合」の区別は次第に乱れ、江戸時代には合一して今日の [oː](オー)になった。京都では、一般の話し言葉では17世紀に開合の区別は失われた。しかし方言によっては今も開合の区別が残っているものもある。 漢語が日本で用いられるようになると、古来の日本に無かった合拗音「クヮ・グヮ」「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の音が発音されるようになった。これらは [kwa] [ɡwe] などという発音であり、「キクヮイ(奇怪)」「ホングヮン(本願)」「ヘングヱ(変化)」のように用いられた。当初は外来音の意識が強かったが、平安時代以降は普段の日本語に用いられるようになったとみられる。ただし「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の寿命は短く、13世紀には「キ・ギ」「ケ・ゲ」に統合された。「クヮ」「グヮ」は中世を通じて使われていたが、室町時代にはすでに「カ・ガ」との間で混同が始まっていた。江戸時代には混同が進んでいき、江戸では18世紀中頃には直音の「カ・ガ」が一般化した。ただし一部の方言には今も残っている。 漢語は平安時代頃までは原語である中国語に近く発音され、日本語の音韻体系とは別個のものと意識されていた。入声韻尾の [-k], [-t], [-p], 鼻音韻尾の [-m], [-n], [-ŋ] なども原音にかなり忠実に発音されていたと見られる。鎌倉時代には漢字音の日本語化が進行し、[ŋ] はウに統合され、韻尾の [-m] と [-n] の混同も13世紀に一般化し、撥音の /ɴ/ に統合された。入声韻尾の [-k] は開音節化してキ、クと発音されるようになり、[-p] も [-ɸu](フ)を経てウで発音されるようになった。[-t] は開音節化したチ、ツの形も現れたが、子音終わりの [-t] の形も17世紀末まで並存して使われていた。室町時代末期のキリシタン資料には、「butmet」(仏滅)、「bat」(罰)などの語形が記録されている。江戸時代に入ると開音節の形が完全に一般化した。 近代以降には、外国語(特に英語)の音の影響で新しい音が使われ始めた。比較的一般化した「シェ・チェ・ツァ・ツェ・ツォ・ティ・ファ・フィ・フェ・フォ・ジェ・ディ・デュ」などの音に加え、場合によっては、「イェ・ウィ・ウェ・ウォ・クァ・クィ・クェ・クォ・ツィ・トゥ・グァ・ドゥ・テュ・フュ」などの音も使われる。これらは、子音・母音のそれぞれを取ってみれば、従来の日本語にあったものである。「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ・ヴュ」のように、これまで無かった音は、書き言葉では書き分けても、実際に発音されることは少ない。 動詞の活用種類は、平安時代には9種類であった。すなわち、四段・上一段・上二段・下一段・下二段・カ変・サ変・ナ変・ラ変に分かれていた。これが時代とともに統合され、江戸時代には5種類に減った。上二段は上一段に、下二段は下一段にそれぞれ統合され、ナ変(「死ぬ」など)・ラ変(「有り」など)は四段に統合された。これらの変化は、古代から中世にかけて個別的に起こった例もあるが、顕著になったのは江戸時代に入ってからのことである。ただし、ナ変は近代に入ってもなお使用されることがあった。 このうち、最も規模の大きな変化は二段活用の一段化である。二段→一段の統合は、室町時代末期の京阪地方では、まだまれであった(関東では比較的早く完了した)。それでも、江戸時代前期には京阪でも見られるようになり、後期には一般化した。すなわち、今日の「起きる」は、平安時代には「き・き・く・くる・くれ・きよ」のように「き・く」の2段に活用したが、江戸時代には「き・き・きる・きる・きれ・きよ(きろ)」のように「き」の1段だけで活用するようになった。また、今日の「明ける」は、平安時代には「け・く」の2段に活用したが、江戸時代には「け」の1段だけで活用するようになった。しかも、この変化の過程では、終止・連体形の合一が起こっているため、鎌倉・室町時代頃には、前後の時代とは異なった活用の仕方になっている。次に時代ごとの活用を対照した表を掲げる。 形容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように活用したク活用と、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク活用が存在した。この区別は、終止・連体形の合一とともに消滅し、形容詞の活用種類は一つになった。 今日では、文法用語の上で、四段活用が五段活用(実質的には同じ)と称され、已然形が仮定形と称されるようになったものの、活用の種類および活用形は基本的に江戸時代と同様である。 かつての日本語には、係り結びと称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を連体形(「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または已然形(「こそ」の場合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連体形で結んだ)。 係り結びをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬ぞ寂しさ増さりける」(『古今集』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里ぞ冬は寂しさ増さりける」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。 ところが、中世には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、文末を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。 今日の口語文には、規則的な係り結びは存在しない。ただし、「貧乏でこそあれ、彼は辛抱強い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような形で化石的に残っている。 活用語のうち、四段活用以外の動詞・形容詞・形容動詞および多くの助動詞は、平安時代には、終止形と連体形とが異なる形態を採っていた。たとえば、動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(とき)」(連体形)のようであった。ところが、係り結びの形式化とともに、上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多く見られるようになった。たとえば、『源氏物語』には、 などの言い方があるが、本来ならば「見おろさる」の形で終止すべきものである。 このような例は、中世には一般化した。その結果、動詞・形容詞および助動詞は、形態上、連体形と終止形との区別がなくなった。 形容動詞は、終止形・連体形活用語尾がともに「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。たとえば、「辛労なり」は、終止形・連体形とも「辛労な」となった。もっとも、終止形には、むしろ「にてある」から来た「ぢや」が用いられることが普通であった。したがって、終止形は「辛労ぢや」、連体形は「辛労な」のようになった。「ぢや」は主として上方で用いられ、東国では「だ」が用いられた。今日の共通語も東国語の系統を引いており、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠の一つとなっている。 文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。 今日、「漢字が書ける」「酒が飲める」などと用いる、いわゆる可能動詞は、室町時代には発生していた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むことができる)が、「持つ」から「持つる」(=持つことができる)が作られるなど、四段活用の動詞を元にして、可能を表す下二段活用の動詞が作られ始めた。これらの動詞は、やがて一段化して、「読める」「持てる」のような語形で用いられるようになった。これらの可能動詞は、江戸時代前期の上方でも用いられ、後期の江戸では普通に使われるようになった。 従来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に対して「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」と下二段動詞の「抜く」(抜ける)とが対応する例は多く存在した。この場合、後者は、「自然にそうなる」という自然生起(自発)を表した。そこから類推した結果、「文字を読む」に対して「文字が読むる(読める)」などの可能動詞が出来上がったものと考えられる。 近代以降、とりわけ大正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆる「ら抜き言葉」が広がり始めた。「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」という類である。この語法は、地方によっては早く一般化し、第二次世界大戦後には全国的に顕著になっている。 受け身の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。もともと、日本語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった。したがって、物が受け身表現の主語になることはほとんどなかった。『枕草子』の「にくきもの」に とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。一方、「この橋は多くの人々によって造られた」「源氏物語は紫式部によって書かれた」のような言い方は、古くは存在しなかったと見られる。これらの受け身は、状態を表すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。 「この橋は多くの人々によって造られた」式の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られる。明治時代には のような欧文風の受け身が用いられている。 漢字(中国語の語彙)が日本語の中に入り始めたのはかなり古く、文献の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、元々は漢語からの借用語であった可能性もあるが、上古漢字の場合、馬と梅の発音は違う。異民族が中国をよく支配してから漢語の発音は変わっていた。 中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に一般の日本語に取り入れられていった。鎌倉時代最末期の『徒然草』では、漢語及び混種語(漢語と和語の混交)は、異なり語数(文中の同一語を一度しかカウントしない)で全体の31%を占めるに至っている。ただし、延べ語数(同一語を何度でもカウントする)では13%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める。幕末の和英辞典『和英語林集成』の見出し語でも、漢語はなお25%ほどに止まっている。 漢字がよく使われるようになったのは幕末から明治時代にかけてである。「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。古典中国語にない語を特に和製漢語という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、京都祇園の芸者も漢語を好み、「霖雨ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢の火がなかなかつかない)などと言っていたという。 漢字は今も多く使われている。雑誌調査では、延べ語数・異なり語数ともに和語を上回り、全体の半数近くに及ぶまでになっている(「語種」参照)。 漢字を除き、他言語の語彙を借用することは、古代にはそれほど多くなかった。このうち、梵語の語彙は、多く漢語に取り入れられた後に、仏教と共に日本に伝えられた。「娑婆」「檀那」「曼荼羅」などがその例である。また、今日では和語と扱われる「ほとけ(仏)」「かわら(瓦)」なども梵語由来であるとされる。 西洋語が輸入され始めたのは、中世にキリシタン宣教師が来日した時期以降である。室町時代には、ポルトガル語から「カステラ」「コンペイトウ」「サラサ」「ジュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロード」などの語が取り入れられた。「メリヤス」など一部スペイン語も用いられた。江戸時代にも、「カッパ(合羽)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「エニシダ」などのスペイン語が用いられるようになった。 また、江戸時代には、蘭学などの興隆とともに、「アルコール」「エレキ」「ガラス」「コーヒー」「ソーダ」「ドンタク」などのオランダ語が伝えられた。 幕末から明治時代以後には、英語を中心とする外来語が急増した。「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日では普通使われない語で、当時一般に使われていたものもあった。坪内逍遥『当世書生気質』(1885) には書生のせりふの中に「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急いて行きよつたら、大丈夫ぢゃらう」「想ふに又貸とは遁辞(プレテキスト)で、七(セブン)〔=質屋〕へ典(ポウン)した歟(か)、売(セル)したに相違ない」などという英語が多く出てくる。このような語のうち、日本語として定着した語も多い。 第二次世界大戦が激しくなるにつれて、外来語を禁止または自粛する風潮も起こったが、戦後はアメリカ発の外来語が爆発的に多くなった。現在では、報道・交通機関・通信技術の発達により、新しい外来語が瞬時に広まる状況が生まれている。雑誌調査では、異なり語数で外来語が30%を超えるという結果が出ており、現代語彙の中で欠くことのできない存在となっている(「語種」参照)。 漢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ変動詞・形容動詞の語彙が特に増大することになった。漢語は活用しない語であり、本質的には体言(名詞)として取り入れられたが、「す」をつければサ変動詞(例、祈念す)、「なり」をつければ形容動詞(例、神妙なり)として用いることができた。 漢語により、厳密な概念を簡潔に表現することが可能になった。一般に、和語は一語が広い意味で使われる。たとえば、「とる」という動詞は、「資格をとる」「栄養をとる」「血液をとる」「新人をとる」「映画をとる」のように用いられる。ところが、漢語を用いて、「取得する(取得す)」「摂取する」「採取する」「採用する」「撮影する」などと、さまざまなサ変動詞で区別して表現することができるようになった。また、日本語の「きよい(きよし)」という形容詞は意味が広いが、漢語を用いて、「清潔だ(清潔なり)」「清浄だ」「清澄だ」「清冽だ」「清純だ」などの形容動詞によって厳密に表現することができるようになった。 外来語は、漢語ほど高い造語力を持たないものの、漢語と同様に、特に名詞・サ変動詞・形容動詞の部分で日本語の語彙を豊富にした。「インキ」「バケツ」「テーブル」など名詞として用いられるほか、「する」を付けて「スケッチする」「サービスする」などのサ変動詞として、また、「だ」をつけて「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの形容動詞として用いられるようになった。 漢語・外来語の増加によって、形容詞と形容動詞の勢力が逆転した。元来、和語には形容詞・形容動詞ともに少なかったが、数の上では、形容詞が形容表現の中心であり、形容動詞がそれを補う形であった。『万葉集』では名詞59.7%、動詞31.5%、形容詞3.3%、形容動詞0.5%であり、『源氏物語』でも名詞42.5%、動詞44.6%、形容詞5.3%、形容動詞5.1%であった(いずれも異なり語数)。ところが、漢語・外来語を語幹とした形容動詞が漸増したため、現代語では形容動詞が形容詞を上回るに至っている(「品詞ごとの語彙量」の節参照)。ただし、一方で漢語・外来語に由来する名詞・サ変動詞なども増えているため、語彙全体から見ればなお形容詞・形容動詞の割合は少ない。 形容詞の造語力は今日ではほとんど失われており、近代以降のみ確例のある新しい形容詞は「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない。一方、形容動詞は今日に至るまで高い造語力を保っている。特に、「科学的だ」「人間的だ」など接尾語「的」を付けた語の大多数や、「エレガントだ」「クリーンだ」など外来語に由来するものは近代以降の新語である。しかも、新しい形容動詞の多くは漢語・外来語を語幹とするものである。現代雑誌の調査によれば、形容動詞で語種のはっきりしているもののうち、和語は2割ほどであり、漢語は3割強、外来語は4割強という状況である。 元来、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには中国渡来の漢字を用いた(いわゆる神代文字は後世の偽作とされている)。漢字の記された遺物の例としては、1世紀のものとされる福岡市出土の「漢委奴国王印」などもあるが、本格的に使用されたのはより後年とみられる。『古事記』によれば、応神天皇の時代に百済の学者王仁が「論語十巻、千字文一巻」を携えて来日したとある。稲荷山古墳出土の鉄剣銘(5世紀)には、雄略天皇と目される人名を含む漢字が刻まれている。「隅田八幡神社鏡銘」(6世紀)は純漢文で記されている。このような史料から、大和政権の勢力伸長とともに漢字使用域も拡大されたことが推測される。6世紀〜7世紀になると儒教、仏教、道教などについて漢文を読む必要が出てきたため識字層が広がった。 漢字で和歌などの大和言葉を記す際、「波都波流能(はつはるの)」のように日本語の1音1音を漢字の音(または訓)を借りて写すことがあった。この表記方式を用いた資料の代表が『万葉集』(8世紀)であるため、この表記のことを「万葉仮名」という(すでに7世紀中頃の木簡に例が見られる)。 9世紀には万葉仮名の字体をより崩した「草仮名」が生まれ(『讃岐国戸籍帳』の「藤原有年申文」など)、さらに、草仮名をより崩した平仮名の誕生をみるに至った。これによって、初めて日本語を自由に記すことが可能になった。平仮名を自在に操った王朝文学は、10世紀初頭の『古今和歌集』などに始まり、11世紀の『源氏物語』などの物語作品群で頂点を迎えた。 僧侶や学者らが漢文を訓読する際には、漢字の隅に点を打ち、その位置によって「て」「に」「を」「は」などの助詞その他を表すことがあった(ヲコト点)。しかし、次第に万葉仮名を添えて助詞などを示すことが一般化した。やがて、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。 平仮名も、片仮名も、発生当初から、1つの音価に対して複数の文字が使われていた。たとえば、/ha/(当時の発音は [ɸa])に当たる平仮名としては、「波」「者」「八」などを字源とするものがあった。1900年(明治33年)に「小学校令施行規則」が出され、小学校で教える仮名は1字1音に整理された。これ以降使われなくなった仮名を、今日では変体仮名と呼んでいる。変体仮名は、現在でも料理屋の名などに使われることがある。 平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。その後、発音の変化に伴って、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、「はな(花)」の「は」と「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」([ɸa]) であったとみられるが、平安時代に起こったハ行転呼により、「かは(川)」など語中語尾の「は」は「ワ」と発音するようになった。ところが、「ワ」と読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」という発音を表記するとき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。 その時々の知識人は、仮名遣いについての規範を示すこともあったが(藤原定家『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「日本語研究史」の節参照)。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。万人に用いられる仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。 漢字の字数・字体および仮名遣いについては、近代以降、たびたび改定が議論され、また実施に移されてきた。 仮名遣いについては、早く小学校令施行規則(1900年)において、「にんぎやう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「棒引き仮名遣い」が採用されたことがあった。1904年から使用の『尋常小学読本』(第1期)はこの棒引き仮名遣いに従った。しかし、これは評判が悪く、規則の改正とともに、次期1910年の教科書から元の仮名遣いに戻った。 第二次世界大戦後の1946年には、「当用漢字表」「現代かなづかい」が内閣告示された。これに伴い、一部の漢字の字体に略字体が採用され、それまでの歴史的仮名遣いによる学校教育は廃止された。 1946年および1950年の米教育使節団報告書では、国字のローマ字化について勧告および示唆が行われ、国語審議会でも議論されたが、実現しなかった。1948年には、GHQの民間情報教育局 (CIE) の指示による読み書き能力調査が行われた。漢字が日本人の識字率を抑えているとの考え方に基づく調査であったが、その結果は、調査者の予想に反して日本人の識字率は高水準であったことが判明した。 1981年には、当用漢字表・現代かなづかいの制限色を薄めた「常用漢字表」および改訂「現代仮名遣い」が内閣告示された。また、送り仮名に関しては、数次にわたる議論を経て、1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示され、今日に至っている。戦後の国語政策は、必ずしも定見に支えられていたとはいえず、今に至るまで議論が続いている。 平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は漢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたとみられるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて訓読されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。 漢文訓読の習慣に伴い、漢文に日本語特有の「賜」(...たまふ)や「坐」(...ます)のような語句を混ぜたり、一部を日本語の語順で記したりした「和化漢文」というべきものが生じた(6世紀の法隆寺薬師仏光背銘などに見られる)。さらには「王等臣等乃中尓」(『続日本紀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」といった助詞などを小書きにして添える文体が現れた。この文体は祝詞(のりと)・宣命(せんみょう)などに見られるため、「宣命書き」と呼ばれる。 漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にした「漢字片仮名交じり文」を形成した。最古の例は『東大寺諷誦文稿』(9世紀)とされる。漢字片仮名交じり文では、漢語が多用されるばかりでなく、言い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「何(なん)ゾ言ハザル」のように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。 一方、平安時代の宮廷文学の文体(和文)は、基本的に和語を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうの「甚ダ広クシテ」「何ゾ言ハザル」は、和文では「いと広う」「などかのたまはぬ」となる。和文は、表記法から見れば、平仮名にところどころ漢字の交じる「平仮名漢字交じり文」である。「春はあけぼの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりて......」で始まる『枕草子』の文体は典型例の一つである。 両者の文体は、やがて合わさり、『平家物語』に見られるような和漢混淆文が完成した。 ここでは、「強呉」「荊棘」といった漢語、「すでに」といった漢文訓読の言い回しがある一方、「かくやとおぼえて哀れなり」といった和文の語彙・言い回しも使われている。 今日、最も普通に用いられる文章は、和語と漢語を適度に交えた一種の和漢混淆文である。「先日、友人と同道して郊外を散策した」というような漢語の多い文章と、「この間、友だちと連れだって町はずれをぶらぶら歩いた」というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。 話し言葉は、時代と共にきわめて大きな変化を遂げるが、それに比べて、書き言葉は変化の度合いが少ない。そのため、何百年という間には、話し言葉と書き言葉の差が生まれる。 日本語の書き言葉がひとまず成熟したのは平安時代中期であり、その頃は書き言葉・話し言葉の差は大きくなかったと考えられる。しかしながら、中世のキリシタン資料のうち、語り口調で書かれているものを見ると、書き言葉と話し言葉とにはすでに大きな開きが生まれていたことが窺える。江戸時代の洒落本・滑稽本の類では、会話部分は当時の話し言葉が強く反映され、地の部分の書き言葉では古来の文法に従おうとした文体が用いられている。両者の違いは明らかである。 明治時代の書き言葉は、依然として古典文法に従おうとしていたが、単語には日常語を用いた文章も現れた。こうした書き言葉は、一般に「普通文」と称された。普通文は、以下のように小学校の読本でも用いられた。 普通文は、厳密には、古典文法そのままではなく、新しい言い方も多く混じっていた。たとえば、「解釈せらる」というべきところを「解釈さる」、「就学せしむる義務」を「就学せしむるの義務」などと言うことがあった。そこで、文部省は新しい語法のうち一部慣用の久しいものを認め、「文法上許容スベキ事項」(1905年・明治38年)16条を告示した。 一方、明治20年代頃から、二葉亭四迷・山田美妙ら文学者を中心に、書き言葉を話し言葉に近づけようとする努力が重ねられた(言文一致運動)。二葉亭は「だ」体、美妙は「です」体、尾崎紅葉は「である」体といわれる文章をそれぞれ試みた。このような試みが広まる中で、新聞・雑誌の記事なども話し言葉に近い文体が多くなっていく。古来の伝統的文法に従った文章を文語文、話し言葉を反映した文章を口語文という。第二次世界大戦後は、法律文などの公文書ももっぱら口語文で書かれるようになり、文語文は日常生活の場から遠のいた。 日本語は、文献時代に入ったときにはすでに方言差があった。『万葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には当時の東国方言による歌が記録されている。820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見え、これが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。平安初期の中央の人々の方言観が窺える貴重な記録である。 平安時代から鎌倉時代にかけては、中央の文化的影響力が圧倒的であったため、方言に関する記述は断片的なものにとどまったが、室町時代、とりわけ戦国時代には中央の支配力が弱まり地方の力が強まった結果、地方文献に方言を反映したものがしばしば現われるようになった。洞門抄物と呼ばれる東国系の文献が有名であるが、古文書類にもしばしば方言が登場するようになる。 安土桃山時代から江戸時代極初期にかけては、ポルトガル人の宣教師が数多くのキリシタン資料を残しているが、その中に各地の方言を記録したものがある。京都のことばを中心に据えながらも九州方言を多数採録した『日葡辞書』(1603年〜1604年)や、筑前や備前など各地の方言の言語的特徴を記した『ロドリゲス日本大文典』(1604年〜1608年)はその代表である。 この時期には琉球方言(琉球語)の資料も登場する。最古期に属するものとしては、中国資料の『琉球館訳語』(16世紀前半成立)があり、琉球の言葉を音訳表記によって多数記録している。また、1609年の島津侵攻事件で琉球王国を支配下に置いた薩摩藩も、記録類に琉球の言葉を断片的に記録しているが、語史の資料として見た場合、琉球諸島に伝わる古代歌謡・ウムイを集めた『おもろさうし』(1531年〜1623年)が、質・量ともに他を圧倒している。 奈良時代以来、江戸幕府が成立するまで、近畿方言が中央語の地位にあった。朝廷から徳川家へ征夷大将軍の宣下がなされて以降、江戸文化が開花するとともに、江戸語の地位が高まり、明治時代には東京語が日本語の標準語と見なされるようになった。 明治政府の成立後は、政治的・社会的に全国的な統一を図るため、また、近代国家として外国に対するため、言葉の統一・標準化が求められるようになった。学校教育では「東京の中流社会」の言葉が採用され、放送でも同様の言葉が「共通用語」(共通語)とされた。こうして標準語の規範意識が確立していくにつれ、方言を矯正しようとする動きが広がった。教育家の伊沢修二は、教員向けに書物を著して東北方言の矯正法を説いた。地方の学校では方言を話した者に首から「方言札」を下げさせるなどの罰則も行われた。軍隊では命令伝達に支障を来さないよう、初等教育の段階で共通語の使用が指導された。 一方、戦後になると各地の方言が失われつつあることが危惧されるようになった。NHK放送文化研究所は、(昭和20年代の時点で)各地の純粋な方言は80歳以上の老人の間でのみ使われているにすぎないとして、1953年から5年計画で全国の方言の録音を行った。この録音調査には、柳田邦夫、東条操、岩淵悦太郎、金田一春彦など言語学者らが指導にあたった。 ただし、戦後しばらくは共通語の取得に力点を置いた国語教育が初等教育の現場で続き、昭和22年(1947年)の学習指導要領国語科編(試案)では、「なるべく、方言や、なまり、舌のもつれをなおして、標準語に近づける」「できるだけ、語法の正しいことばをつかい、俗語または方言をさけるようにする」との記載が見られる。また、昭和33年(1958年)の小学校学習指導要領でも、「小学校の第六学年を終了するまでに, どのような地域においても, 全国に通用することばで, 一応聞いたり話したりすることができるようにする」との記述がある。 また、経済成長とともに地方から都市への人口流入が始まると、標準語と方言の軋轢が顕在化した。1950年代後半から、地方出身者が自分の言葉を笑われたことによる自殺・事件が相次いだ。このような情勢を受けて、方言の矯正教育もなお続けられた。鎌倉市立腰越小学校では、1960年代に、「ネサヨ運動」と称して、語尾に「〜ね」「〜さ」「〜よ」など関東方言特有の語尾をつけないようにしようとする運動が始められた。同趣の運動は全国に広がった。 高度成長後になると、方言に対する意識に変化が見られるようになった。1980年代初めのアンケート調査では、「方言を残しておきたい」と回答する者が90%以上に達する結果が出ている。方言の共通語化が進むとともに、いわゆる「方言コンプレックス」が解消に向かい、方言を大切にしようという気運が盛り上がった。 1990年代以降は、若者が言葉遊びの感覚で方言を使うことに注目が集まるようになった。1995年にはラップ「DA.YO.NE」の関西版「SO.YA.NA」などの方言替え歌が話題を呼び、報道記事にも取り上げられた。首都圏出身の都内大学生を対象とした調査では、東京の若者の間にも関西方言が浸透していることが観察されるという。2005年頃には、東京の女子高生たちの間でも「でら(とても)かわいいー!」「いくべ」などと各地の方言を会話に織り交ぜて使うことが流行し始め、女子高生のための方言参考書の類も現れた。「超おもしろい」など「超」の新用法も、もともと静岡県で発生して東京に入ったとされるが、若者言葉や新語の発信地が東京に限らない状況になっている(「方言由来の若者言葉」を参照)。 方言学の世界では、かつては、標準語の確立に資するための研究が盛んであったが、今日の方言研究は、必ずしもそのような視点のみによって行われてはいない。中央語の古形が方言に残ることは多く、方言研究が中央語の史的研究に資することはいうまでもない。しかし、それにとどまらず、個々の方言の研究は、それ自体、独立した学問と捉えることができる。山浦玄嗣の「ケセン語」研究に見られるように、研究者が自らの方言に誇りを持ち、日本語とは別個の言語として研究するという立場も生まれている。 日本人自身が日本語に関心を寄せてきた歴史は長く、『古事記』『万葉集』の記述にも語源・用字法・助字などについての関心が垣間見られる。古来、さまざまな分野の人々によって日本語研究が行われてきたが、とりわけ江戸時代に入ってからは、秘伝にこだわらない自由な学風が起こり、客観的・実証的な研究が深められた。近代に西洋の言語学が輸入される以前に、日本語の基本的な性質はほぼ明らかになっていたといっても過言ではない。 以下では、江戸時代以前・以後に分けて概説し、さらに近代について付説する。 江戸時代以前の日本語研究の流れは、大きく分けて3分野あった。中国語(漢語)学者による研究、悉曇学者による研究、歌学者による研究である。 中国語との接触、すなわち漢字の音節構造について学習することにより、日本語の相対的な特徴が意識されるようになった。『古事記』には「淤能碁呂嶋自淤以下四字以音」(オノゴロ嶋〈淤より以下の四字は音を以ゐよ〉)のような音注がしばしば付けられているが、これは漢字を借字として用い、中国語で表せない日本語の固有語を1音節ずつ漢字で表記したものである。こうした表記法を通じて、日本語の音節構造が自覚されるようになったと考えられる。また漢文の訓読により、中国語にない助詞・助動詞の要素が意識されるようになり、漢文を読み下す際に必要な「て」「に」「を」「は」などの要素は、当初は点を漢字に添えることで表現していたのが(ヲコト点)、後に借字、さらに片仮名が用いられるようになった。これらの要素は「てにをは」の名で一括され、後に一つの研究分野となった。 日本語の1音1音を借字で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、後にあらゆる仮名を1回ずつ集めて誦文にしたものが成立している。平安時代初期に「天地の詞」が、平安時代中期には「いろは歌」が現れた。これらはほんらい漢字音のアクセント習得のために使われたとみられるが、のちにいろは歌は文脈があって内容を覚えやすいことから、『色葉字類抄』(12世紀)など物の順番を示す「いろは順」として用いられ、また仮名の手本としても人々の間に一般化している。 一方、悉曇学の研究により、梵語(サンスクリット)に整然とした音韻組織が存在することが知られるようになった。平安時代末期に成立したと見られる「五十音図」は、「あ・か・さ・た・な......」の行の並び方が梵語の悉曇章(字母表)の順に酷似しており、悉曇学を通じて日本語の音韻組織の研究が進んだことをうかがわせる。もっとも、五十音図作成の目的は、一方では、中国音韻学の反切を理解するためでもあった。当初、その配列はかなり自由であった(ほぼ現在に近い配列が定着したのは室町時代以後)。最古の五十音図は、平安時代末期の悉曇学者明覚の『反音作法』に見られる。明覚はまた、『悉曇要訣』において、梵語の発音を説明するために日本語の例を多く引用し、日本語の音韻組織への関心を見せている。 歌学は平安時代以降、大いに興隆した。和歌の実作および批評のための学問であったが、正当な語彙・語法を使用することへの要求から、日本語の古語に関する研究や、「てにをは」の研究、さらに仮名遣いへの研究に繋がった。 このうち、古語の研究では、語と語の関係を音韻論的に説明することが試みられた。たとえば、顕昭の『袖中抄』では、「七夕つ女(たなばたつめ)」の語源は「たなばたつま」だとして(これ自体は誤り)、「『ま』と『め』とは同じ五音(=五十音の同じ行)なる故也」と説明している。このように、「五音相通(五十音の同じ行で音が相通ずること)」や「同韻相通(五十音の同じ段で音が相通ずること)」などの説明が多用されるようになった。 「てにをは」の本格的研究は、鎌倉時代末期から室町時代初期に成立した『手爾葉大概抄』という短い文章によって端緒が付けられた。この文章では「名詞・動詞などの自立語(詞)が寺社であるとすれば、『てにをは』はその荘厳さに相当するものだ」と規定した上で、係助詞「ぞ」「こそ」とその結びの関係を論じるなど、「てにをは」についてごく概略的に述べている。また、室町時代には『姉小路式』が著され、係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」のほか終助詞「かな」などの「てにをは」の用法をより詳細に論じている。 仮名遣いについては、鎌倉時代の初め頃に藤原定家がこれを問題とし、定家はその著作『下官集』において、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名表記に求め、規範を示そうとした。ところが「お」と「を」の区別については、平安時代末期にはすでにいずれも[wo]の音となり発音上の区別が無くなっていたことにより、相当な表記の揺れがあり、格助詞の「を」を除き前例による基準を見出すことができなかった。そこで『下官集』ではアクセントが高い言葉を「を」で、アクセントが低い言葉を「お」で記しているが、このアクセントの高低により「を」と「お」の使い分けをすることは、すでに『色葉字類抄』にも見られる。南北朝時代には行阿がこれを増補して『仮名文字遣』を著し、これが後に「定家仮名遣」と呼ばれる。行阿の姿勢も基準を古書に求めるというもので、「お」と「を」の区別についても定家仮名遣の原則を踏襲している。しかし行阿が『仮名文字遣』を著した頃、日本語にアクセントの一大変化があり、[wo]の音を含む語彙に関しても定家の時代とはアクセントの高低が異なってしまった。その結果「お」と「を」の仮名遣いについては、定家が示したものとは齟齬を生じている。 なお、「お」と「を」の発音上の区別が無くなっていたことで、五十音図においても鎌倉時代以来「お」と「を」とは位置が逆転した誤った図が用いられていた(すなわち、「あいうえを」「わゐうゑお」となっていた)。これが正されるのは、江戸時代に本居宣長が登場してからのことである。 外国人による日本語研究も、中世末期から近世前期にかけて多く行われた。イエズス会では日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』(1603年)が編纂され、同会のロドリゲスによる文法書『日本大文典』(1608年)および『日本小文典』(1620年)は、ラテン語の文法書の伝統に基づいて日本語を分析したもので、いずれも価値が高い。一方、中国では『日本館訳語』(1549年頃)、李氏朝鮮では『捷解新語』(1676年)といった日本語学習書が編纂された。 日本語の研究が高い客観性・実証性を備えるようになったのは、江戸時代の契沖の研究以来のことである。契沖は『万葉集』の注釈を通じて仮名遣いについて詳細に観察を行い、『和字正濫抄』(1695年)を著した。この書により、古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことが明らかにされ、契沖自身もその仮名遣いを実行した。契沖の掲出した見出し語は、後に楫取魚彦編の仮名遣い辞書『古言梯』(1765年)で増補され、後世において歴史的仮名遣いと称された。 古語の研究では、松永貞徳の『和句解』(1662年)、貝原益軒の『日本釈名』(1700年)が出た後、新井白石により大著『東雅』(1719年)がまとめられた。白石は、『東雅』の中で語源説を述べるに当たり、終始穏健な姿勢を貫き、曖昧なものは「義未詳」として曲解を排した。また、賀茂真淵は『語意考』(1789年)を著し、「約・延・略・通」の考え方を示した。すなわち、「語形の変化は、縮める(約)か、延ばすか、略するか、音通(母音または子音の交替)かによって生じる」というものである。この原則は、それ自体は正当であるが、後にこれを濫用し、非合理な語源説を提唱する者も現れた。語源研究では、ほかに、鈴木朖が『雅語音声考』(1816年)を著し、「ほととぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほととぎ」「うぐい」「から」の部分は鳴き声であることを示すなど、興味深い考え方を示している。 本居宣長は、仮名遣いの研究および文法の研究で非常な功績があった。まず、仮名遣いの分野では、『字音仮字用格』(1776年)を著し、漢字音を仮名で書き表すときにどのような仮名遣いを用いればよいかを論じた。その中で宣長は、鎌倉時代以来、五十音図で「お」と「を」の位置が誤って記されている(前節参照)という事実を指摘し、実に400年ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の形に戻した。この事実は、後に東条義門が『於乎軽重義』(1827年)で検証した。また、宣長は文法の研究、とりわけ係り結びの研究で成果を上げた。係り結びの一覧表である『ひも鏡』(1771年)をまとめ、『詞の玉緒』(1779年)で詳説した。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が連体形、「こそ」が来た場合は已然形で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示した。主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、必ずしもそうでない。主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける」(万葉集)「にほひの袖にとまれる」(古今集)のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示したことは重要である。 品詞研究で成果を上げたのは富士谷成章であった。富士谷は、品詞を「名」(名詞)・「装(よそい)」(動詞・形容詞など)・「挿頭(かざし)」(副詞など)・「脚結(あゆい)」(助詞・助動詞など)の4類に分類した。『挿頭抄』(1767年)では今日で言う副詞の類を中心に論じた。特に注目すべき著作は『脚結抄』(1778年)で、助詞・助動詞を系統立てて分類し、その活用の仕方および意味・用法を詳細に論じた。内容は創見に満ち、今日の品詞研究でも盛んに引き合いに出される。『脚結抄』の冒頭に記された「装図」は、動詞・形容詞の活用を整理した表で、後の研究に資するところが大きかった。 活用の研究は、その後、鈴木朖の『活語断続譜』(1803年頃)、本居春庭の『詞八衢』(1806年)に引き継がれた。幕末には義門が『活語指南』(1844年)を著し、富樫広蔭が『辞玉襷』(1829年)を著すなど、日本語の活用が組織化・体系化されていった。 このほか、江戸時代で注目すべき研究としては、石塚龍麿の『仮字用格奥山路』がある。万葉集の仮名に2種の書き分けが存在することを示したもので、長らく正当な扱いを受けなかったが、後に橋本進吉が上代特殊仮名遣の先駆的研究として再評価した。 江戸時代後期から明治時代にかけて、西洋の言語学が紹介され、日本語研究は新たな段階を迎えた。もっとも、西洋の言語に当てはまる理論を無批判に日本語に応用することで、かえってこれまでの蓄積を損なうような研究も少なくなかった。 こうした中で、古来の日本語研究と西洋言語学とを吟味して文法をまとめたのが大槻文彦であった。大槻は『言海』の中で文法論「語法指南」を記し(1889年)、後にこれを独立、増補して『広日本文典』(1897年)とした。 その後、高等教育の普及とともに、日本語研究者の数は増大した。1897年には東京帝国大学に国語研究室が置かれ、ドイツ帰りの上田萬年が初代主任教授として指導的役割を果たした。 近代以降、台湾や朝鮮半島などを併合・統治した日本は、現地民の台湾人・朝鮮民族への皇民化政策を推進するため、学校教育で日本語を国語として採用した。満州国(現在の中国東北部)にも日本人が数多く移住した結果、日本語が広く使用され、また、日本語は中国語とともに公用語とされた。日本語を解さない主に漢民族や満州族には簡易的な日本語である協和語が用いられていたこともあった。現在の台湾(中華民国)や朝鮮半島(北朝鮮・韓国)などでは、現在でも高齢者の中に日本語を解する人もいる。 一方、明治・大正から昭和戦前期にかけて、日本人がアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラジル・ペルーなどに多数移民し、日系人社会が築かれた。これらの地域コミュニティでは日本語が使用されたが、世代が若年になるにしたがって、日本語を解さない人が増えている。 1990年代以降、日本国外から日本への渡航者数が増加し、かつまた、日本企業で勤務する外国人労働者(日本の外国人)も飛躍的に増大しているため、国内外に日本語教育が広がっている。国・地域によっては、日本語を第2外国語など選択教科の一つとしている国もあり、日本国外で日本語が学習される機会は増えつつある。 とりわけ、1990年代以降、「クールジャパン」といわれるように日本国外でアニメーションやゲーム、小説、ライトノベル、映画、テレビドラマ、J-POP(邦楽)に代表される音楽、漫画などに代表させる日本の現代サブカルチャーを「カッコいい」と感じる若者が増え、その結果、彼らの日本語に触れる機会が増えつつあるという。2021年9月に、単語検索ツールWordtipsが世界各国で語学学習をするに当たり、どの言語が最も人気があるかをGoogleキーワードプランナーを利用し調査したところ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった英語圏を中心に、日本語が最も学びたい言語に選ばれた。 日本人が訪問することの多い日本国外の観光地などでは、現地の広告や商業施設店舗の従業員との会話に日本語が使用されることもある。このような場で目に触れる日本語のうち、新奇で注意を引く例は、雑誌・書籍などで紹介されることも多い。 日本語が時と共に変化することはしばしば批判の対象となる。この種の批判は、古典文学の中にも見られる。『枕草子』では文末の「んとす」が「んず」といわれることを「いとわろし」と評している(「ふと心おとりとかするものは」)。また、『徒然草』では古くは「車もたげよ」「火かかげよ」と言われたのが、今の人は「もてあげよ」「かきあげよ」と言うようになったと記し、今の言葉は「無下にいやしく」なっていくようだと記している(第22段)。 これにとどまらず、言語変化について注意する記述は、歴史上、仮名遣い書や、『俊頼髄脳』などの歌論書、『音曲玉淵集』などの音曲指南書をはじめ、諸種の資料に見られる。なかでも、江戸時代の俳人安原貞室が、なまった言葉の批正を目的に編んだ『片言(かたこと)』(1650年)は、800にわたる項目を取り上げており、当時の言語実態を示す資料として価値が高い。 近代以降も、芥川龍之介が「澄江堂雑記」で、「とても」は従来否定を伴っていたとして、「とても安い」など肯定形になることに疑問を呈するなど、言語変化についての指摘が散見する。研究者の立場から同時代の気になる言葉を収集した例としては、浅野信『巷間の言語省察』(1933年)などがある。 第二次世界大戦後は、1951年に雑誌『言語生活』(当初は国立国語研究所が監修)が創刊されるなど、日本語への関心が高まった。そのような風潮の中で、あらゆる立場の人々により、言語変化に対する批判やその擁護論が活発に交わされるようになった。典型的な議論の例としては、金田一春彦「日本語は乱れていない」および宇野義方の反論が挙げられる。 いわゆる「日本語の乱れ」論議において、毎度のように話題にされる言葉も多い。1955年の国立国語研究所の有識者調査の項目には「ニッポン・ニホン(日本)」「ジッセン・ジュッセン(十銭)」「見られなかった・見れなかった」「御研究されました・御研究になりました」など、今日でもしばしば取り上げられる語形・語法が多く含まれている。とりわけ「見られる」を「見れる」とする語法は、1979年のNHK放送文化研究所「現代人の言語環境調査」で可否の意見が二分するなど、人々の言語習慣の違いを如実に示す典型例となっている。この語法は1980年代には「ら抜き言葉」と称され、盛んに取り上げられるようになった。 「言葉の乱れ」を指摘する声は、新聞・雑誌の投書にも多い。文化庁の「国語に関する世論調査」では、「言葉遣いが乱れている」と考える人が1977年に7割近くになり、2002年11月から12月の調査では8割となっている。人々のこのような認識は、いわゆる日本語ブームを支える要素の一つとなっている。 若者特有の用法は批判の的になってきた。近代以降の若者言葉批判の例として、小説家・尾崎紅葉が1888年に女性徒の間で流行していた「てよだわ体」を批判するなど、1900年前後に「てよだわ体」は批判の的となった。1980年代ごろから単なる言葉の乱れとしてではなく、研究者の記述の対象としても扱われるようにもなった。 いわゆる「若者言葉」は種々の意味で用いられ、必ずしも定義は一定していない。井上史雄の分類に即して述べると、若者言葉と称されるものは以下のように分類される。 上記は、いずれも批判にさらされうるという点では同様であるが、1 - 4の順で、次第に言葉の定着率は高くなるため、それだけ「言葉の乱れ」の例として意識されやすくなる。 上記の分類のうち「一時的流行語」ないし「若者世代語」に相当する言葉の発生要因に関し、米川明彦は心理・社会・歴史の面に分けて指摘している。その指摘は、およそ以下のように総合できる。すなわち、成長期にある若者は、自己や他者への興味が強まるだけでなく、従来の言葉の規範からの自由を求める。日本経済の成熟とともに「まじめ」という価値観が崩壊し、若者が「ノリ」によって会話するようになった。とりわけ、1990年代以降は「ノリ」を楽しむ世代が低年齢化し、消費・娯楽社会の産物として若者言葉が生産されているというものである。また、2007年頃からマスメディアが「場の空気」の文化を取り上げるようになってきてから、言葉で伝えるより、察し合って心を通わせることを重んじる者が増えた。これに対し、文化庁は、空気読めない (KY) と言われることを恐れ、場の空気に合わせようとする風潮の現れではないかと指摘している。 若者の日本語は、表記の面でも独自性を持つ。年代によりさまざまな日本語の表記が行われている。 1970年代から1980年代にかけて、少女の間で、丸みを帯びた書き文字が「かわいい」と意識されて流行し、「丸文字」「まんが文字」「変体少女文字(=書体の変わった少女文字の意)」などと呼ばれた。山根一眞の調査によれば、この文字は1974年までには誕生し、1978年に急激に普及を開始したという。 1990年頃から、丸文字に代わり、少女の間で、金釘流に似た縦長の書き文字が流行し始めた。平仮名の「に」を「レこ」のように書いたり、長音符の「ー」を「→」と書いたりする特徴があった。一見下手に見えるため、「長体ヘタウマ文字」などとも呼ばれた。マスコミでは「チョベリバ世代が楽しむヘタウマ文字」「女高生に広まる変なとんがり文字」などと紹介されたが、必ずしも大人世代の話題にはならないまま、確実に広まった。この文字を練習するための本も出版された。 携帯メールやインターネットの普及に伴い、ギャルと呼ばれる少女たちを中心に、デジタル文字の表記に独特の文字や記号を用いるようになった。「さようなら」を「±∋ぅTょら」と書く類で、「ギャル文字」としてマスコミにも取り上げられた。このギャル文字を練習するための本も現れた。 コンピュータの普及と、コンピュータを使用したパソコン通信などの始まりにより、日本語の約物に似た扱いとして顔文字が用いられるようになった。これは、コンピュータの文字としてコミュニケーションを行うときに、文章の後や単独で記号などを組み合わせた「(^_^)」のような顔文字を入れることにより感情などを表現する手法である。1980年代後半に使用が開始された顔文字は、若者へのコンピュータの普及により広く使用されるようになった。 携帯電話に絵文字が実装されたことにより、絵文字文化と呼ばれるさまざまな絵文字を利用したコミュニケーションが行われるようになった。漢字や仮名と同じように日本語の文字として扱われ、約物のような利用方法にとどまらず、単語や文章の置き換えとしても用いられるようになった。 すでに普及した顔文字や絵文字に加え、2006年頃には「小文字」と称される独特の表記法が登場した。「ゎたしゎ、きょぅゎ部活がなぃの」のように特定文字を小字で表記するもので、マスコミでも紹介されるようになった。 人々の日本語に寄せる関心は、第二次世界大戦後に特に顕著になったといえる。1947年10月からNHKラジオで「ことばの研究室」が始まり、1951年には雑誌『言語生活』が創刊された。 日本語関係書籍の出版点数も増大した。敬語をテーマとした本の場合、1960年代以前は解説書5点、実用書2点であったものが、1970年代から1994年の25年間に解説書約10点、実用書約40点が出たという。 戦後、最初の日本語ブームが起こったのは1957年のことで、金田一春彦『日本語』(岩波新書、旧版)が77万部、大野晋『日本語の起源』(岩波新書、旧版)が36万部出版された。1974年には丸谷才一『日本語のために』(新潮社)が50万部、大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)が50万部出版された。 その後、1999年の大野晋『日本語練習帳』(岩波新書)は190万部を超えるベストセラーとなった(2008年時点)。さらに、2001年に齋藤孝『声に出して読みたい日本語』(草思社)が140万部出版された頃から、出版界では空前の日本語ブームという状況になり、おびただしい種類と数の一般向けの日本語関係書籍が出た。 2004年には北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店)が、当時よく問題にされた語彙・語法を一般向けに説明した。翌2005年から2006年にかけては、テレビでも日本語をテーマとした番組が多く放送され、大半の番組で日本語学者がコメンテーターや監修に迎えられた。「タモリのジャポニカロゴス」(フジテレビ 2005〜2008)、「クイズ!日本語王」(TBS 2005〜2006)、「三宅式こくごドリル」(テレビ東京 2005〜2006)、「Matthew's Best Hit TV+・なまり亭」(テレビ朝日2005〜2006。方言を扱う)、「合格!日本語ボーダーライン」(テレビ朝日 2005)、「ことばおじさんのナットク日本語塾」(NHK 2006〜2010)など種々の番組があった。 「複雑な表記体系」「SOV構造」「音節文字」「敬語」「男言葉と女言葉」「擬態語が豊富」「曖昧表現が多い」「母音の数が少ない」などを根拠に日本語特殊論がとなえられることがある。 もっとも、日本語が印欧語との相違点を多く持つことは事実である。そのため、対照言語学の上では、印欧語とのよい比較対象となる。また、日本語成立由来という観点からの研究も存在する(『日本語の起源』を参照)。 日本語特殊論は、近代以降しばしば提起されている。極端な例ではあるが、戦後、志賀直哉が「日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ」として、フランス語を国語に採用することを主張した(国語外国語化論)。また、1988年には、国立国語研究所所長・野元菊雄が、外国人への日本語教育のため、文法を単純化した「簡約日本語」の必要性を説き、論議を呼んだ。 動詞が最後に来ることを理由に日本語を曖昧、不合理と断ずる議論もある。例えばかつてジャーナリスト森恭三は、日本語の語順では「思想を表現するのに一番大切な動詞は、文章の最後にくる」ため、文末の動詞の部分に行くまでに疲れて、「もはや動詞〔部分で〕の議論などはできない」と記している。 複雑な文字体系を理由に、日本語を特殊とする議論もある。計算機科学者の村島定行は、古くから日本人が文字文化に親しみ、庶民階級の識字率も比較的高水準であったのは、日本語は表意文字(漢字)と表音文字(仮名)の2つの文字体系を使用していたからだと主張する。ただし、表意・表音文字の二重使用は、他に漢字文化圏では韓文漢字や女真文字など、漢字文化圏以外でもマヤ文字やヒエログリフなどの例がある。一方で、カナモジカイのように、数種類の文字体系を使い分けることの不便さを主張する意見も存在する。 日本語における語順や音韻論、もしくは表記体系などを取り上げて、それらを日本人の文化や思想的背景と関連付け、日本語の特殊性を論じる例は多い。しかし、大体においてそれらの説は、手近な英語や中国語などの言語との差異を牧歌的に列挙するにとどまり、言語学的根拠に乏しいものが多い(サピア=ウォーフの仮説も参照)。一方、近年では日本文化の特殊性を論する文脈であっても、出来るだけ多くの文化圏を俯瞰し、総合的な視点に立った主張が多く見られるという。 日本語を劣等もしくは難解、非合理的とする考え方の背景として、近代化の過程で広まった欧米中心主義があると指摘される。戦後は、消極的な見方ばかりでなく、「日本語は個性的である」と積極的に評価する見方も多くなった。その変化の時期はおよそ1980年代であるという。いずれにしても、日本語は特殊であるとの前提に立っている点で両者の見方は共通する。 日本語特殊論は日本国外でも論じられる。E. ライシャワーによれば、日本語の知識が乏しいまま、日本語は明晰でも論理的でもないと不満を漏らす外国人は多いという。ライシャワー自身はこれに反論し、あらゆる言語には曖昧・不明晰になる余地があり、日本語も同様だが、簡潔・明晰・論理的に述べることを阻む要素は日本語にないという。共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされ、学習に関わる様々なジョークが存在するバスク語について、フランスのバイヨンヌにあるバスク博物館では、「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と挿絵入りの歴史が描かれているものが飾られている。これは同じく印欧系言語話者からみて習得の難しいバスク語と日本語を重ね合わせているとされる。 今日の言語学において、日本語が特殊であるという見方自体が否定的である。例えば、日本語に5母音しかないことが特殊だと言われることがあるが、クラザーズの研究によれば、209の言語のうち、日本語のように5母音を持つ言語は55あり、類型として最も多いという。また語順に関しては、日本語のように SOV構造を採る言語が約45%であって最も多いのに対して、英語のようにSVO構造を採る言語は30%強である(ウルタン、スティール、グリーンバーグらの調査結果より)。この点から、日本語はごく普通の言語であるという結論が導かれるとされる。また言語学者の角田太作は語順を含め19の特徴について130の言語を比較し、「日本語は特殊な言語ではない。しかし、英語は特殊な言語だ」と結論している。 村山七郎は、「外国語を知ることが少ないほど日本語の特色が多くなる」という「反比例法則」を主張したという。日本人自らが日本語を特殊と考える原因としては、身近な他言語(英語など)が少ないことも挙げられる。 日本では古く漢籍を読むための辞書が多く編纂された。国内における辞書編纂の記録としては、天武11年(682年)の『新字』44巻が最古であるが(『日本書紀』)、伝本はおろか逸文すらも存在しないため、書名から漢字字書の類であろうと推測される以外は、いかなる内容の辞書であったかも不明である。 奈良時代には、『楊氏漢語抄』や『弁色立成』という和訓を有する漢和辞書が編纂されたらしいが、それぞれ逸文として残るのみで、詳細は不明のままである。現存する最古の辞書は、空海編と伝えられる『篆隷万象名義』(9世紀)であるが、中国の『玉篇』を模した部首配列の漢字字書であり、和訓は一切ない。10世紀初頭に編纂された『新撰字鏡』は伝本が存する最古の漢和辞書であり、漢字を部首配列した上で、和訓を万葉仮名で記している。平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』は、意味で分類した漢語におおむね和訳を万葉仮名で付したもので、漢和辞書ではあるが百科辞書的色彩が強い。院政期には過去の漢和辞書の集大成とも言える『類聚名義抄』が編纂され、同書の和訓に付された豊富な声点により院政期のアクセント体系はほぼ解明されている。 鎌倉時代には百科辞書『二中歴』や詩作のための実用的韻書『平他字類抄』ほか、語源辞書ともいうべき『塵袋』や『名語記』なども編まれるようになった。また室町時代には、読み書きが広い階層へ普及し始めたことを背景に、漢詩を作るための韻書『聚分韻略』、漢和辞書『倭玉篇』、和訳に通俗語も含めた国語辞書『下学集』、日常語の単語をいろは順に並べた通俗的百科辞書『節用集』などの辞書が編まれた。さらに安土桃山時代の最末期には、イエズス会のキリスト教宣教師によって、日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』が作成された。 江戸時代には、室町期の『節用集』を元にして多数の辞書が編集・刊行された。易林本『節用集』『書言字考節用集』などが主なものである。そのほか、俳諧用語辞書を含む『世話尽』、語源辞書『日本釈名』、俗語辞書『志布可起』、枕詞辞書『冠辞考』なども編纂された。とりわけ谷川士清『倭訓栞』、太田全斎『俚言集覧』、石川雅望『雅言集覧』は、それぞれがきわめて大部なもので、「近世期の三大辞書」といわれる。 明治時代に入り、1889年から大槻文彦編の小型辞書『言海』が刊行された。これは、古典語・日常語を網羅し、五十音順に見出しを並べて、品詞・漢字表記・語釈を付した初の近代的な日本語辞書であった。『言海』は、後の辞書の模範的存在となり、後に増補版の『大言海』も刊行された。 その後、広く使われた小型の日本語辞書としては、金沢庄三郎編『辞林』のほか、新村出編『辞苑』などがある。第二次世界大戦中から戦後にかけては金田一京助編『明解国語辞典』がよく用いられ、今日の『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』に引き継がれている。 中型辞書としては、第二次世界大戦前は『大言海』のほか、松井簡治・上田万年編『大日本国語辞典』などが刊行された。戦後は新村出編『広辞苑』などが広く受け入れられている。現在では松村明編『大辞林』をはじめ、数種の中型辞書が加わっているほか、唯一にして最大の大型辞書『日本国語大辞典』(約50万語)がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本語(にほんご、にっぽんご)は、日本国内や、かつての日本領だった国、そして国外移民や移住者を含む日本人同士の間で使用されている言語。日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」の教科として学習を行うなど、事実上日本国内において唯一の公用語となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、及び日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3,000万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また第一次世界大戦後(日独戦争)、当時ドイツ帝国の植民地であった現在のパラオ共和国は戦勝国の日本に委任統治(南洋諸島を参照)されることとなったため、現在も一部地域で日本語を公用語と定めている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本語の音韻は、「っ」「ん」を除いて母音で終わる開音節言語の性格が強く、また標準語(共通語)を含め多くの方言がモーラを持つ。アクセントは高低アクセントである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお元来の古い大和言葉では、原則として", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "などの特徴があった(「系統」および「音韻」の節参照)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "文は、「主語・修飾語・述語」の語順で構成される。修飾語は被修飾語の前に位置する。また、名詞の格を示すためには、語順や語尾を変化させるのでなく、文法的な機能を示す機能語(助詞)を後ろに付け加える(膠着させる)。これらのことから、言語類型論上は、語順の点ではSOV型の言語に、形態の点では膠着語に分類される(「文法」の節参照)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "語彙は、古来の大和言葉(和語)のほか、漢語(字音語)、外来語、および、それらの混ざった混種語に分けられる。字音語(漢字の音読みに由来する語の意、一般に「漢語」と称する)は現代の語彙の一部分を占めている。また、「絵/画(ゑ)」など、もともと音であるが和語と認識されているものもある。さらに近代以降には西洋由来の語を中心とする外来語が増大している(「語種」の節参照)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "待遇表現の面では、文法的・語彙的に発達した敬語体系があり、叙述される人物どうしの微妙な関係を表現する(「待遇表現」の節参照)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本語は地方ごとに多様な方言があり、とりわけ琉球諸島で方言差が著しい(「方言」の節参照)。近世中期までは京都方言が中央語の地位にあったが、近世後期には江戸方言が地位を高め、明治以降の現代日本語では東京山の手の中流階級以上の方言(山の手言葉)を基盤に標準語(共通語)が形成された(「標準語」参照)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "表記体系はほかの諸言語と比べて極めて複雑かつ柔軟性の高さが特徴である。漢字(国字を含む。音読みおよび訓読みで用いられる)と平仮名、片仮名が日本語の主要な文字であり、常にこの3種類の文字を組み合わせて表記する(「字種」の節参照)。表音文字で表記体系を複数持つため、当て字をせずに外来語を表記することが可能だが、ラテン文字(ローマ字)やギリシャ文字(医学・科学用語に多用)などもしばしば用いられる。また、縦書きと横書きのどちらでも表記することが可能である(表記体系の詳細については「日本語の表記体系」参照)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "音韻は「子音+母音」音節を基本とし、母音は5種類しかないなど、分かりやすい構造を持つ一方、直音と拗音の対立、「1音節2モーラ」の存在、無声化母音、語の組み立てに伴って移動する高さアクセントなどの特徴がある(「音韻」の節参照)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本語は、主に日本国内で使用される。話者人口についての調査は国内・国外を問わずいまだないが、日本の人口に基づいて考えられることが一般的である。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本国内に、法令上、日本語を公用語ないし国語と定める直接の規定はない。しかし、法令は日本語で記されており、裁判所法においては「裁判所では、日本語を用いる」(同法74条)とされ、文字・活字文化振興法においては「国語」と「日本語」が同一視されており(同法3条、9条)、その他多くの法令において、日本語が唯一の公用語ないし国語であることが前提とされている。また、法文だけでなく公用文はすべて日本語のみが用いられ、学校教育では日本語が「国語」として教えられている。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本では、テレビやラジオ、映画などの放送、小説や漫画、新聞などの出版の分野でも、日本語が使われることがほとんどである。国外のドラマや映画が放送される場合でも、基本的には日本語に訳し、字幕を付けたり声を当てたりしてから放送されるなど、受け手が日本語のみを理解することを前提として作成される。原語のまま放送・出版されるものも存在するが、それらは外国向けに発表される前提の論文、もしくは日本在住の外国人、あるいは原語の学習者など限られた人を対象としており、大多数の日本人に向けたものではない。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本国外では、主として、中南米(ペルー・ブラジル・ボリビア・ドミニカ共和国・パラグアイなど)やハワイなどの日本人移民の間に日本語の使用がみられるが、3世・4世と世代が下るにしたがって非日本語話者が多くなっているという。また、太平洋戦争の終結以前に日本領ないし日本の勢力下にあった朝鮮総督府の朝鮮半島・台湾総督府の台湾・旧満州国で現在中華人民共和国の一部・樺太庁の樺太(サハリン)・旧南洋庁の南洋諸島(現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦)などの地域では、日本語教育を受けた人々の中に、現在でも日本語を記憶して話す人がいる。台湾では先住民の異なる部族同士の会話に日本語が用いられることがあるだけでなく、宜蘭クレオールなど日本語とタイヤル語のクレオール言語も存在している。また、パラオのアンガウル州では歴史的経緯から日本語を公用語の一つとして採用しているが、現在州内には日本語を日常会話に用いる住民は存在せず、象徴的なものに留まっている。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本国外の日本語学習者は2015年調査で365万人にのぼり、中華人民共和国の約95万人、インドネシアの約75万人、大韓民国の約56万人、オーストラリアの約36万人、台湾の約22万人が上位となっている。地域別では、東アジア・東南アジアで全体の学習者の約8割を占めている。日本語教育が行われている地域は、137か国・地域に及んでいる。また、日本国内の日本語学習者は、アジア地域の約16万人を中心として約19万人に上っている。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「日本語」の範囲を本土方言のみとした場合、琉球語が日本語と同系統の言語になり両者は日琉語族を形成する。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "琉球列島(旧琉球王国領域)の言葉は、日本語と系統を同じくする別言語(琉球語ないしは琉球諸語)とし、日本語とまとめて日琉語族とされている。共通点が多いので「日本語の一方言(琉球方言)」とする場合もあり、このような場合は日本語は「孤立した言語」という位置づけにされる。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本語(族)の系統については明治以来様々な説が議論されてきたが、いずれも他の語族との同系の証明に至っておらず、不明のままである。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アルタイ諸語に属するとする説は、明治時代末から特に注目されてきた。その根拠として、古代の日本語(大和言葉)において語頭にr音(流音)が立たないこと、一種の母音調和が見られることなどが挙げられる。古代日本語に上記の特徴が見られることは、日本語が類型として「アルタイ型」の言語である根拠とされる。アルタイ諸語に属するとされるそれぞれの言語の親族関係を支持する学者のほうがまだ多いが、最近のイギリスではアルタイ諸語の親族関係を否定する学者も現れている。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "朝鮮語とは語順や文法構造で類似点が非常に多い。音韻の面でも、固有語において語頭に流音が立たないこと、一種の母音調和が見られることなど、共通の類似点がある(その結果、日本語も朝鮮語もアルタイ諸語と分類される場合がある)。世界の諸言語の広く比較した場合、広く「朝鮮語は日本語と最も近い言語」とされている。ただし、閉音節や子音連結が存在する、有声・無声の区別が無い、といった相違もある。基礎語彙は、共通点もあるが、かなり相違する面もある。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "紀元8世紀までに記録された朝鮮半島の地名(「高句麗地名」を指す)の中には、満州南部を含む朝鮮半島中部以北に、意味や音韻で日本語と類似した地名を複数見いだせる。これを論拠として、古代の朝鮮半島では朝鮮語とともに日本語と近縁の言語である「半島日本語」が話されていたと考えられている。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、高句麗語に鉛(なまり)=那勿(ナムル)、泉(いずみ)=於乙、土(つち)は内、口(くち)は口次と呼んでいた記録があり、高句麗の武将である泉蓋蘇文は日本書紀で伊梨柯須彌(イリカスミ)と記録されていて、泉(いずみ)は高句麗語で於乙(イリ)と呼ばれていたことが分かる。件の地名が高句麗の旧領域内に分布していることから、多くの研究は半島日本語は「高句麗語」であるとしている。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "伊藤英人は半島日本語(大陸倭語)を高句麗語とした上で、日本語と半島日本語は同じ祖語から分かれた同系統の言語であり、半島日本語集団から分かれた集団が紀元前900年から紀元700年にかけて水田農耕を携え日本列島に渡来したと考えた。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、伊藤英人は半島日本語が京阪式アクセントと類似していることを指摘している。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "中国語との関係に関しては、日本語は中国の漢字を借用語として広範囲に取り入れており、語彙のうち漢字を用いたものに関して、影響を受けている。だが語順も文法も音韻も大きく異なるので、系統論的には別系統の言語とされる。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アイヌ語は、語順(SOV語順)において日本語と似る。ただし、文法・形態は類型論的に異なる抱合語に属し、音韻構造も有声・無声の区別がなく閉音節が多いなどの相違がある。基礎語彙の類似に関する指摘もあるが、例は不充分である。一般に似ているとされる語の中には、日本語からアイヌ語への借用語が多く含まれるとみられる。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "南方系のオーストロネシア語族とは、音韻体系や語彙に関する類似も指摘されているが、これは偶然一致したものであり、互いに関係があるという根拠はない。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ドラヴィダ語族との関係を主張する説もあるが、これを認める研究者は少ない。大野晋は日本語が語彙・文法などの点でタミル語と共通点を持つとの説を唱えるが、比較言語学の方法上の問題から批判が多い", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、レプチャ語・ヘブライ語などとの同系論も過去に存在したが、これに関してはほとんど疑似科学の範疇に収まる。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本語話者は普通、「いっぽん(一本)」という語を、「い・っ・ぽ・ん」の4単位と捉えている。音節ごとにまとめるならば [ip̚.poɴ] のように2単位となるところであるが、音韻的な捉え方はこれと異なる。音声学上の単位である音節とは区別して、音韻論では「い・っ・ぽ・ん」のような単位のことをモーラ(拍)と称している。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本語のモーラは、大体は仮名に即して体系化することができる。「いっぽん」と「まったく」は、音声学上は [ip̚poɴ] [mat̚takɯ] であって共通する単音がないが、日本語話者は「っ」という共通のモーラを見出す。また、「ん」は、音声学上は後続の音によって [ɴ] [m] [n] [ŋ] などと変化するが、日本語の話者自らは同一音と認識しているので、音韻論上は1種類のモーラとなる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本語では、ほとんどのモーラが母音で終わっている。それゆえに日本語は開音節言語の性格が強いということができる。もっとも、特殊モーラの「っ」「ん」には母音が含まれない。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "モーラの種類は、以下に示すように111程度存在する。ただし、研究者により数え方が少しずつ異なる。「が行」の音は、語中語尾では鼻音(いわゆる鼻濁音)の「か゚行」音となる場合があるが、「が行」と「か゚行」との違いは何ら弁別の機能を提供せず、単なる異音どうしに過ぎない。そこで、「か゚行」を除外して数える場合、モーラの数は103程度となる。これ以外に、「外来語の表記」第1表にもある「シェ」「チェ」「ツァ・ツェ・ツォ」「ティ」「ファ・フィ・フェ・フォ」その他の外来音を含める場合は、さらにまた数が変わってくる。このほか、外来語の表記において用いられる「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」については、バ行として発音されることが多いものの、独立した音韻として発音されることもあり、これらを含めるとさらに増えることとなる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、五十音図は、音韻体系の説明に使われることがしばしばあるが、上記の日本語モーラ表と比べてみると、少なからず異なる部分がある。五十音図の成立は平安時代にさかのぼるものであり、現代語の音韻体系を反映するものではないことに注意が必要である(「日本語研究史」の節の「江戸時代以前」を参照)。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "母音は、「あ・い・う・え・お」の文字で表される。音韻論上は、日本語の母音はこの文字で表される5個であり、音素記号では以下のように記される。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一方、音声学上は、基本の5母音は、それぞれ", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "に近い発音と捉えられる。̈ は中舌寄り、̠ は後寄り、̜ は弱めの円唇、̹ は強めの円唇、˕ は下寄り、˔ は上寄りを示す補助記号である。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本語の「あ」は、国際音声記号 (IPA) では前舌母音 [a] と後舌母音 [ɑ] の中間音 [ä] に当たる。「い」は少し後寄りであり [i̠] が近い。「え」は半狭母音 [e] と半広母音 [ɛ] の中間音であり、「お」は半狭母音 [o] と半広母音 [ɔ] の中間音である。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日本語の「う」は、東京方言では、英語などの [u] のような円唇後舌母音より、少し中舌よりで、それに伴い円唇性が弱まり、中舌母音のような張唇でも円唇でもないニュートラルな唇か、それよりほんの僅かに前に突き出した唇で発音される、半後舌微円唇狭母音である。これは舌と唇の動きの連関で、前舌母音は張唇、中舌母音は平唇・ニュートラル(ただしニュートラルは、現行のIPA表記では非円唇として、張唇と同じカテゴリーに入れられている)、後舌母音は円唇となるのが自然であるという法則に適っている。しかし「う」は母音融合などで見られるように、音韻上は未だに円唇後舌狭母音として機能する。また、[ɯβ] という表記も行われる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "円唇性の弱さを強調するために、[ɯ] を使うこともあるが、これは本来朝鮮語に見られる、iのような完全な張唇でありながら、u のように後舌の狭母音を表す記号であり、円唇性が減衰しつつも残存し、かつ後舌よりやや前よりである日本語の母音「う」の音声とは違いを有する。またこの種の母音は、唇と舌の連関から外れるため、母音数5以上の言語でない限り、発生するのは稀である。「う」は唇音の後ではより完全な円唇母音に近づく(発音の詳細はそれぞれの文字の項目を参照)。一方、西日本方言では「う」は東京方言よりも奥舌で、唇も丸めて発音し、[u] に近い。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "音韻論上、「コーヒー」「ひいひい」など、「ー」や「あ行」の仮名で表す長音という単位が存在する(音素記号では /R/)。これは、「直前の母音を1モーラ分引く」という方法で発音される独立した特殊モーラである。「鳥」(トリ)と「通り」(トーリ)のように、長音の有無により意味を弁別することも多い。ただし、音声としては「長音」という特定の音があるわけではなく、長母音 [äː] [i̠ː] [u̜̟ː] [e̞ː] [o̜̞ː] の後半部分に相当するものである。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「えい」「おう」と書かれる文字は、発音上は「ええ」「おお」と同じく長母音 [e̞ː] [o̜̞ː] として発音されることが一般的である(「けい」「こう」など、頭子音が付いた場合も同様)。すなわち、「衛星」「応答」「政党」は「エーセー」「オートー」「セートー」のように発音される。ただし、九州や四国南部・西部、紀伊半島南部などでは「えい」を [e̞i] と発音する。「思う」[omoɯβ]、「問う」[toɯβ]などの単語は必ず二重母音となり、また軟骨魚のエイなど、語彙によって二重母音になる場合もあるが、これには個人差がある。1文字1文字丁寧に発話する場合には「えい」を [e̞i] と発音する話者も多い。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "単語末や無声子音の間に挟まれた位置において、「イ」や「ウ」などの狭母音はしばしば無声化する。たとえば、「です」「ます」は [de̞su̜̟̥] [mäsu̜̟̥] のように発音されるし、「菊」「力」「深い」「放つ」「秋」などはそれぞれ [kji̠̥ku̜̟] [ʨi̠̥käɾä] [ɸu̜̟̥käi̠] [hänäʦu̜̟̥] [äkji̠̥] と発音されることがある。ただしアクセント核がある拍は無声化しにくい。個人差もあり、発話の環境や速さ、丁寧さによっても異なる。また方言差も大きく、たとえば近畿方言ではほとんど母音の無声化が起こらない。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「ん」の前の母音は鼻音化する傾向がある。また、母音の前の「ん」は前後の母音に近似の鼻母音になる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "子音は、音韻論上区別されているものとしては、現在の主流学説によれば「か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ行」の子音、濁音「が・ざ・だ・ば行」の子音、半濁音「ぱ行」の子音である。音素記号では以下のように記される。ワ行とヤ行の語頭子音は、音素 u と音素 i の音節内の位置に応じた変音であるとする解釈もある。特殊モーラの「ん」と「っ」は、音韻上独立の音素であるという説と、「ん」はナ行語頭子音 n の音節内の位置に応じた変音、「っ」は単なる二重子音化であるとして音韻上独立の音素ではないという説の両方がある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方、音声学上は、子音体系はいっそう複雑な様相を呈する。主に用いられる子音を以下に示す(後述する口蓋化音は省略)。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "基本的に「か行」は [k]、「さ行」は [s]([θ] を用いる地方・話者もある)、「た行」は [t]、「な行」は [n]、「は行」は [h]、「ま行」は [m]、「や行」は [j]、「だ行」は [d]、「ば行」は [b]、「ぱ行」は [p] を用いる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "「ら行」の子音は、語頭では [ɺ]、「ん」の後のら行は英語の [l] に近い音を用いる話者もある。一方、「あらっ?」というときのように、語中語尾に現れる場合は、舌をはじく [ɾ] もしくは [ɽ] となる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "標準日本語およびそれの母体である首都圏方言(共通語)において、「わ行」の子音は、上で挙げた同言語の「う」と基本的な性質を共有し、もう少し空気の通り道の狭い接近音である。このため、[u] に対応する接近音[w] と、[ɯ] に対応する接近音[ɰ] の中間、もしくは微円唇という点で僅かに [w] に近いと言え、軟口蓋(後舌母音の舌の位置)の少し前よりの部分を主な調音点とし、両唇も僅かに使って調音する二重調音の接近音といえる。このため、五十音図の配列では、ワ行は唇音に入れられている(「日本語」の項目では、特別の必要のない場合は [w] で表現する)。外来音「ウィ」「ウェ」「ウォ」にも同じ音が用いられるが、「ウイ」「ウエ」「ウオ」と2モーラで発音する話者も多い。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "「が行」の子音は、語頭では破裂音の [g] を用いるが、語中では鼻音の [ŋ](「が行」鼻音、いわゆる鼻濁音)を用いることが一般的だった。現在では、この [ŋ] を用いる話者は減少しつつあり、代わりに語頭と同じく破裂音を用いるか、摩擦音の [ɣ] を用いる話者が増えている。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "「ざ行」の子音は、語頭や「ん」の後では破擦音(破裂音と摩擦音を合わせた [d͡z] などの音)を用いるが、語中では摩擦音([z] など)を用いる場合が多い。いつでも破擦音を用いる話者もあるが、「手術(しゅじゅつ)」などの語では発音が難しいため摩擦音にするケースが多い。なお、「だ行」の「ぢ」「づ」は、一部方言を除いて「ざ行」の「じ」「ず」と同音に帰しており、発音方法は同じである。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "母音「い」が後続する子音は、独特の音色を呈する。いくつかの子音では、前舌面を硬口蓋に近づける口蓋化が起こる。たとえば、「か行」の子音は一般に [k] を用いるが、「き」だけは [kj] を用いるといった具合である。口蓋化した子音の後ろに母音「あ」「う」「お」が来るときは、表記上は「い段」の仮名の後ろに「ゃ」「ゅ」「ょ」の仮名を用いて「きゃ」「きゅ」「きょ」、「みゃ」「みゅ」「みょ」のように記す。後ろに母音「え」が来るときは「ぇ」の仮名を用いて「きぇ」のように記すが、外来語などにしか使われない。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "「さ行」「ざ行」「た行」「は行」の「い段」音の子音も独特の音色であるが、これは単なる口蓋化でなく、調音点が硬口蓋に移動した音である。「し」「ち」の子音は [ɕ] [ʨ] を用いる。外来音「スィ」「ティ」の子音は口蓋化した [sj] [tj] を用いる。「じ」「ぢ」の子音は、語頭および「ん」の後ろでは [d͡ʑ]、語中では [ʑ] を用いる。外来音「ディ」「ズィ」の子音は口蓋化した [dj] [d͡ʑj] および [zj] を用いる。「ひ」の子音は [h] ではなく硬口蓋音 [ç] である。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、「に」の子音は多くは口蓋化した [nj] で発音されるが、硬口蓋鼻音 [ɲ] を用いる話者もある。同様に、「り」に硬口蓋はじき音を用いる話者や、「ち」に無声硬口蓋破裂音 [c] を用いる話者もある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "そのほか、「は行」では「ふ」の子音のみ無声両唇摩擦音 [ɸ] を用いるが、これは「は行」子音が [p] → [ɸ] → [h] と変化してきた名残りである。五十音図では、奈良時代に音韻・音声でp、平安時代に[ɸ]であった名残で、両唇音のカテゴリーに入っている。外来語には [f] を用いる話者もある。これに関して、現代日本語で「っ」の後ろや、漢語で「ん」の後ろにハ行が来たとき、パ行(p)の音が現れ、連濁でもバ行(b)に変わり、有音声門摩擦音[ɦ]ではないことから、現代日本語でも語種を和語や前近代の漢語等の借用語に限れば(ハ行に由来しないパ行は近代以降のもの)、ハ行の音素はhでなくpであり、摩擦音化規則で上に挙げた場合以外はhに変わるのだという解釈もある。現代日本語母語話者の直感には反するが、ハ行の連濁や「っ」「ん」の後ろでのハ行の音の変化をより体系的・合理的に表しうる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、「た行」では「つ」の子音のみ [t͡s] を用いる。これらの子音に母音「あ」「い」「え」「お」が続くのは主として外来語の場合であり、仮名では「ァ」「ィ」「ェ」「ォ」を添えて「ファ」「ツァ」のように記す(「ツァ」は「おとっつぁん」「ごっつぁん」などでも用いる)。「フィ」「ツィ」は子音に口蓋化が起こる。また「ツィ」は多く「チ」などに言い換えられる。「トゥ」「ドゥ」([tɯ] [dɯ])は、外来語で用いることがある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "促音「っ」(音素記号では /Q/)および撥音「ん」(/N/)と呼ばれる音は、音韻論上の概念であって、前節で述べた長音と併せて特殊モーラと扱う。実際の音声としては、「っ」は [-k̚k-] [-s̚s-] [-ɕ̚ɕ-] [-t̚t-] [-t̚ʦ-] [-t̚ʨ-] [-p̚p-] などの子音連続となる。ただし「あっ」のように、単独で出現することもあり、そのときは声門閉鎖音となる。また、「ん」は、後続の音によって [ɴ] [m] [n] [ŋ] などの子音となる(ただし、母音の前では鼻母音となる)。文末などでは [ɴ] を用いる話者が多い。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本語は、一部の方言を除いて、音(ピッチ)の上下による高低アクセントを持っている。アクセントは語ごとに決まっており、モーラ(拍)単位で高低が定まる。同音語をアクセントによって区別できる場合も少なくない。たとえば東京方言の場合、「雨」「飴」はそれぞれ「ア\\メ」(頭高型)、「ア/メ」(平板型)と異なったアクセントで発音される(/を音の上昇、\\を音の下降とする)。「が」「に」「を」などの助詞は固有のアクセントがなく、直前に来る名詞によって助詞の高低が決まる。たとえば「箸」「橋」「端」は、単独ではそれぞれ「ハ\\シ」「ハ/シ」「ハ/シ」となるが、後ろに「が」「に」「を」などの助詞が付く場合、それぞれ「ハ\\シガ」「ハ/シ\\ガ」「ハ/シガ」となる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "共通語のアクセントでは、単語の中で音の下がる場所があるか、あるならば何モーラ目の直後に下がるかを弁別する。音が下がるところを下がり目またはアクセントの滝といい、音が下がる直前のモーラをアクセント核または下げ核という。たとえば「箸」は第1拍、「橋」は第2拍にアクセント核があり、「端」にはアクセント核がない。アクセント核は1つの単語には1箇所もないか1箇所だけあるかのいずれかであり、一度下がった場合は単語内で再び上がることはない。アクセント核を ○ で表すと、2拍語には ○○(核なし)、○○、○○ の3種類、3拍語には ○○○、○○○、○○○、○○○ の4種類のアクセントがあり、拍数が増えるにつれてアクセントの型の種類も増える。アクセント核が存在しないものを平板型といい、第1拍にアクセント核があるものを頭高型、最後の拍にあるものを尾高型、第1拍と最後の拍の間にあるものを中高型という。頭高型・中高型・尾高型をまとめて起伏式または有核型と呼び、平板型を平板式または無核型と呼んで区別することもある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また共通語のアクセントでは、単語や文節のみの形で発音した場合、「し/るしが」「た/ま\\ごが」のように1拍目から2拍目にかけて音の上昇がある(頭高型を除く)。しかしこの上昇は単語に固有のものではなく、文中では「あ/かいしるしが」「こ/のたま\\ごが」のように、区切らずに発音したひとまとまり(「句」と呼ぶ)の始めに上昇が現れる。この上昇を句音調と言い、句と句の切れ目を分かりやすくする機能を担っている。一方、アクセント核は単語に固定されており、「たまご」の「ま」の後の下がり目はなくなることがない。共通語の音調は、句の2拍目から上昇し(句の最初の単語が頭高型の場合は1拍目から上昇する)、アクセント核まで平らに進み、核の後で下がる。従って、句頭で「低低高高...」や「高高高高...」のような音調は現れない。アクセント辞典などでは、アクセントを「しるしが」「たまごが」のように表記する場合があるが、これは1文節を1つの句として発音するときのもので、句音調とアクセント核の両方を同時に表記したものである。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "日本語は膠着語の性質を持ち、主語+目的語+動詞(SOV)を語順とする構成的言語である。言語分類学上、日本語はほとんどのヨーロッパ言語とはかけ離れた文法構造をしており、句では主要部終端型、複文では左枝分かれの構造をしている。このような言語は多く存在するが、ヨーロッパでは希少である。主題優勢言語である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "日本語では「私は本を読む。」という語順で文を作る。英語で「I read a book.」という語順をSVO型(主語・動詞・目的語)と称する説明にならっていえば、日本語の文はSOV型ということになる。もっとも、厳密にいえば、英語の文に動詞が必須であるのに対して、日本語文は動詞で終わることもあれば、形容詞や名詞+助動詞で終わることもある。そこで、日本語文の基本的な構造は、「S(主語)‐V(動詞)」というよりは、「S(主語)‐P(述語)」という「主述構造」と考えるほうが、より適当である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "上記の文は、いずれも「S‐P」構造、すなわち主述構造をなす同一の文型である。英語などでは、それぞれ「SVC」「SV」「SVC」の文型になるところであるから、それにならって、1を名詞文、2を動詞文、3を形容詞文と分けることもある。しかし、日本語ではこれらの文型に本質的な違いはない。そのため、日本語話者の英語初学者などは、「I am a president.」「I am happy.」と同じ調子で「I am go.」と誤った作文をすることがある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また、日本語文では、主述構造とは別に、「題目‐述部」からなる「題述構造」を採ることがきわめて多い。題目とは、話のテーマ(主題)を明示するものである(三上章は「what we are talking about」と説明する)。よく主語と混同されるが、別概念である。主語は多く「が」によって表され、動作や作用の主体を表すものであるが、題目は多く「は」によって表され、その文が「これから何について述べるのか」を明らかにするものである。主語に「は」が付いているように見える文も多いが、それはその文が動作や作用の主体について述べる文、すなわち題目が同時に主語でもある文だからである。そのような文では、題目に「は」が付くことにより結果的に主語に「は」が付く。一方、動作や作用の客体について述べる文、すなわち題目が同時に目的語でもある文では、題目に「は」が付くことにより結果的に目的語に「は」が付く。たとえば、", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "などの文では、「象は」はいずれも題目を示している。4の「象は」は「象が」に言い換えられるもので、事実上は文の主語を兼ねる。しかし、5以下は「象が」には言い換えられない。5は「象を」のことであり、6は「象に」のことである。さらに、7の「象は」は何とも言い換えられないものである(「象の」に言い換えられるともいう)。これらの「象は」という題目は、「が」「に」「を」などの特定の格を表すものではなく、「私は象について述べる」ということだけをまず明示する役目を持つものである。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "これらの文では、題目「象は」に続く部分全体が「述部」である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "大野晋は、「が」と「は」はそれぞれ未知と既知を表すと主張した。たとえば", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "においては、前者は「佐藤はどの人物かと言えば(それまで未知であった)私が佐藤です」を意味し、後者は「(すでに既知である)私は誰かと言えば(田中ではなく)佐藤です」となる。したがって「何」「どこ」「いつ」などの疑問詞は常に未知を意味するから「何が」「どこが」「いつが」となり、「何は」「どこは」「いつは」とは言えない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ジョーゼフ・グリーンバーグによる構成素順(「語順」)の現代理論は、言語によって、句が何種類か存在することを認識している。それぞれの句には主要部があり、場合によっては修飾語が同句に含まれる。句の主要部は、修飾語の前(主要部先導型)か後ろ(主要部終端型)に位置する。英語での句の構成を例示すると以下のようになる(太字はそれぞれの句の主要部)。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "主要部先導型と主要部終端型の混合によって、構成素順が不規則である言語も存在する。例えば、上記の句のリストを見ると、英語では大抵が主要部先導型であるが、名詞は修飾する形容詞後の後に位置している。しかも、属句では主要部先導型と主要部終端型のいずれも存在し得る。これとは対照的に、日本語は主要部終端型言語の典型である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "日本語の主要部終端型の性質は、複文などの文章単位での構成においても見られる。文章を構成素とした文章では、従属節が常に先行する。これは、従属節が修飾部であり、修飾する文が統語的に句の主要部を擁しているからである。例えば、英語と比較した場合、次の英文「the man who was walking down the street 」を日本語に訳す時、英語の従属節(関係代名詞節)である 「(who) was walking down the street」を主要部である 「the man」 の前に位置させなければ、自然な日本語の文章にはならない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "また、主要部終端型の性質は重文でも見られる。他言語では、一般的に重文構造において、構成節の繰り返しを避ける傾向にある。例えば、英語の場合、「Bob bought his mother some flowers and bought his father a tie」の文を2番目の「bought」を省略し、「Bob bought his mother some flowers and his father a tie」とすることが一般的である。しかし、日本語では、「ボブはお母さんに花を買い、お父さんにネクタイを買いました」であるところを「ボブはお母さんに花を、お父さんにネクタイを買いました」というように初めの動詞を省略する傾向にある。これは、日本語の文章が常に動詞で終わる性質を持つからである。(倒置文や考えた後での後付け文などは除く。)", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "上述の「象は鼻が長い。」のように、「主語‐述語」の代わりに「題目‐述部」と捉えるべき文が非常に多いことを考えると、日本語の文にはそもそも主語は必須でないという見方も成り立つ。三上章は、ここから「主語廃止論」(主語という文法用語をやめる提案)を唱えた。三上によれば、", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "という文において、「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はいずれも「紹介シ」という行為を説明するために必要な要素であり、優劣はない。重要なのは、それらをまとめる述語「紹介シタ」の部分である。「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はすべて述語を補足する語(補語)となる。いっぽう、英語などでの文で主語は、述語と人称などの点で呼応しており、特別の存在である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "この考え方に従えば、英語式の観点からは「主語が省略されている」としかいいようがない文をうまく説明することができる。たとえば、", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "などは、いわゆる主語のない文である。しかし、日本語の文では述語に中心があり、補語を必要に応じて付け足すと考えれば、上記のいずれも、省略のない完全な文と見なして差し支えない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "今日の文法学説では、主語という用語・概念は、作業仮説として有用な面もあるため、なお一般に用いられている。一般的には格助詞「ガ」を伴う文法項を主語と見なす。ただし、三上の説に対する形で日本語の文に主語が必須であると主張する学説は、生成文法や鈴木重幸らの言語学研究会グループなど、主語に統語上の重要な役割を認める学派を除いて、少数派である。森重敏は、日本語の文においても主述関係が骨子であるとの立場を採るが、この場合の主語・述語も、一般に言われるものとはかなり様相を異にしている。現在一般的に行われている学校教育における文法(学校文法)では、主語・述語を基本とした伝統的な文法用語を用いるのが普通だが、教科書によっては主語を特別扱いしないものもある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "文を主語・述語から成り立つと捉える立場でも、この2要素だけでは文の構造を十分に説明できない。主語・述語には、さらに修飾語などの要素が付け加わって、より複雑な文が形成される。文を成り立たせるこれらの要素を「文の成分」と称する。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "学校文法(中学校の国語教科書)では、文の成分として「主語」「述語」「修飾語」(連用修飾語・連体修飾語)「接続語」「独立語」の5つを挙げている。「並立語(並立の関係にある文節/連文節どうし)」や「補助語・被補助語(補助の関係にある文節/連文節どうし)は文の成分(あるいはそれを示す用語)ではなく、文節/連文節どうしの関係を表した概念であって、常に連文節となって上記五つの成分になるという立場に学校文法は立っている。したがって、「並立の関係」「補助の関係」という用語(概念)を教科書では採用しており、「並立語」「補助語」という用語(概念)については載せていない教科書が主流である。なお「連体修飾語」も厳密にいえばそれだけでは成分にはなり得ず、常に被修飾語と連文節を構成して文の成分になる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "学校図書を除く四社の教科書では、単文節でできているものを「主語」のように「-語」と呼び、連文節でできているものを「主部」のように「-部」と呼んでいる。それに対し学校図書だけは、文節/連文節どうしの関係概念を「-語」と呼び、いわゆる成分(文を構成する個々の最大要素)を「-部」と呼んでいる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "以下、学校文法の区分に従いつつ、それぞれの文の成分の種類と役割とについて述べる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "文を成り立たせる基本的な成分である。ことに述語は、文をまとめる重要な役割を果たす。「雨が降る。」「本が多い。」「私は学生だ。」などは、いずれも主語・述語から成り立っている。教科書によっては、述語を文のまとめ役として最も重視する一方、主語については修飾語と併せて説明するものもある(前節「主語廃止論」参照)。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "用言に係る修飾語である(用言については「自立語」の節を参照)。「兄が弟に算数を教える。」という文で「弟に」「算数を」など格を表す部分は、述語の動詞「教える」にかかる連用修飾語ということになる。また、「算数をみっちり教える。」「算数を熱心に教える。」という文の「みっちり」「熱心に」なども、「教える」にかかる連用修飾語である。ただし、「弟に」「算数を」などの成分を欠くと、基本的な事実関係が伝わらないのに対し、「みっちり」「熱心に」などの成分は、欠いてもそれほど事実の伝達に支障がない。ここから、前者は文の根幹をなすとして補充成分と称し、後者に限って修飾成分と称する説もある。国語教科書でもこの2者を区別して説明するものがある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "体言に係る修飾語である(体言については「自立語」の節を参照)。「私の本」「動く歩道」「赤い髪飾り」「大きな瞳」の「私の」「動く」「赤い」「大きな」は連体修飾語である。鈴木重幸・鈴木康之・高橋太郎・鈴木泰らは、ものを表す文の成分に特徴を付与し、そのものがどんなものであるかを規定(限定)する文の成分であるとして、連体修飾語を「規定語」(または「連体規定語」)と呼んでいる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "「疲れたので、動けない。」「買いたいが、金がない。」の「疲れたので」「買いたいが」のように、あとの部分との論理関係を示すものである。また、「今日は晴れた。だから、ピクニックに行こう。」「君は若い。なのに、なぜ絶望するのか。」における「だから」「なのに」のように、前の文とその文とをつなぐ成分も接続語である。品詞分類では、常に接続語となる品詞を接続詞とする。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "「はい、分かりました。」「姉さん、どこへ行くの。」「新鮮、それが命です。」の「はい」「姉さん」「新鮮」のように、他の部分に係ったり、他の部分を受けたりすることがないものである。係り受けの観点から定義すると、結果的に、独立語には感動・呼びかけ・応答・提示などを表す語が該当することになる。品詞分類では、独立語としてのみ用いられる品詞は感動詞とされる。名詞や形容動詞語幹なども独立語として用いられる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "「ミカンとリンゴを買う。」「琵琶湖の冬は冷たく厳しい。」の「ミカンとリンゴを」や、「冷たく厳しい。」のように並立関係でまとまっている成分である。全体としての働きは、「ミカンとリンゴを」の場合は連用修飾部に相当し、「冷たく厳しい。」は述部に相当する。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "現行の学校文法では、英語にあるような「目的語」「補語」などの成分はないとする。英語文法では「I read a book.」の「a book」はSVO文型の一部をなす目的語であり、また「I go to the library.」の「the library」は前置詞とともに付け加えられた修飾語と考えられる。一方、日本語では、", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "のように、「本を」「図書館へ」はどちらも「名詞+格助詞」で表現されるのであって、その限りでは区別がない。これらは、文の成分としてはいずれも「連用修飾語」とされる。ここから、学校文法に従えば、「私は本を読む。」は、「主語‐目的語‐動詞」(SOV) 文型というよりは、「主語‐修飾語‐述語」文型であると解釈される。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "鈴木重幸・鈴木康之らは、「連用修飾語」のうち、「目的語」に当たる語は、述語の表す動きや状態の成立に加わる対象を表す「対象語」であるとし、文の基本成分として認めている。(高橋太郎・鈴木泰・工藤真由美らは「対象語」と同じ文の成分を、主語・述語が表す事柄の組み立てを明示するために、その成り立ちに参加する物を補うという文中における機能の観点から、「補語」と呼んでいる。)", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "「明日、学校で運動会がある。」の「明日」「学校で」など、出来事や有様の成り立つ状況を述べるために時や場所、原因や目的(「雨だから」(「体力向上のために」など)を示す文の成分のことを「状況語」とも言う。学校文法では「連用修飾語」に含んでいるが、(連用)修飾語が、述語の表す内的な属性を表すのに対して、状況語は外的状況を表す「とりまき」ないしは「額縁」の役目を果たしている。状況語は、出来事や有様を表す部分の前に置かれるのが普通であり、主語の前に置かれることもある。なお、「状況語」という用語はロシア語・スペイン語・中国語(中国語では「状語」と言う)などにもあるが、日本語の「状況語」と必ずしも概念が一致しているわけではなく、修飾語を含んだ概念である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "日本語では、修飾語はつねに被修飾語の前に位置する。「ぐんぐん進む」「白い雲」の「ぐんぐん」「白い」はそれぞれ「進む」「雲」の修飾語である。修飾語が長大になっても位置関係は同じで、たとえば、", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "という短歌は、冒頭から「ひとひらの」までが「雲」に係る長い修飾語である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "法律文や翻訳文などでも、長い修飾語を主語・述語の間に挟み、文意を取りにくくしていることがしばしばある。たとえば、日本国憲法前文の一節に、", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "とあるが、主語(題目)の「われら」、述語の「信ずる」の間に「いづれの国家も......であると」という長い修飾語が介在している。この種の文を読み慣れた人でなければ分かりにくい。英訳で \"We hold...\"(われらは信ずる)と主語・述語が隣り合うのとは対照的である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "もっとも、修飾語が後置される英語でも、修飾関係の分かりにくい文が現れることがある。次のような文は「袋小路文」(en:garden path sentence) と呼ばれる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "この場合、日本語の文では「馬」に係る連体修飾語「納屋のそばを走らされた」が前に来ているために文構造がわかりやすいが、英語では「The horse」を修飾する「raced past the barn」があとに来ているために、構造が把握しづらくなっている。具体的には、この英文の途中「The horse raced past the barn」までしか読んでいない状況では、文の成分としての動詞(主語は「The horse」)は「raced」であるように感じられるが、「fell」まで行き着くと、文の成分としての動詞は、文法上、これまで唯一の候補だった(1)「raced」に加え、(2)「fell」が出てくることになり、それぞれの候補ごとに(1)「【(習慣的に、または一般法則に従って)】崩れる納屋のそばを馬が素早く走り抜けた」なのか(2)「納屋のそばを走らされた馬が倒れた」なのかを検討しなければならなくなる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "名詞や動詞、形容詞といった「品詞」の概念は、上述した「文の成分」の概念とは分けて考える必要がある。名詞「犬」は、文の成分としては主語にもなれば修飾語にもなり、「犬だ」のように助動詞「だ」を付けて述語にもなる。動詞・形容詞・形容動詞も、修飾語にもなれば述語にもなる。もっとも、副詞は多く連用修飾語として用いられ、また、連体詞は連体修飾語に、接続詞は接続語に、感動詞は独立語にもっぱら用いられるが、必ずしも、特定の品詞が特定の文の成分に1対1で対応しているわけではない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "では、それぞれの品詞の特徴を形作るものは何かということが問題になるが、これについては、さまざまな説明があり、一定しない。俗に、事物を表す単語が名詞、動きを表す単語が動詞、様子を表す単語が形容詞などといわれることがあるが、例外がいくらでも挙がり、定義としては成立しない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "橋本進吉は、品詞を分類するにあたり、単語の表す意味(動きを表すか様子を表すかなど)には踏み込まず、主として形式的特徴によって品詞分類を行っている。橋本の考え方は初学者にも分かりやすいため、学校文法もその考え方に基づいている。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "学校文法では、語のうち、「太陽」「輝く」「赤い」「ぎらぎら」など、それだけで文節を作り得るものを自立語(詞)とし、「ようだ」「です」「が」「を」など、単独で文節を作り得ず、自立語に付属して用いられるものを付属語(辞)とする。なお、日本語では、自立語の後に接辞や付属語を次々につけ足して文法的な役割などを示すため、言語類型論上は膠着語に分類される。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "自立語は、活用のないものと、活用のあるものとに分けられる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "自立語で活用のないもののうち、主語になるものを名詞とする。名詞のうち、代名詞・数詞を独立させる考え方もある。一方、主語にならず、単独で連用修飾語になるものを副詞、連体修飾語になるものを連体詞(副体詞)、接続語になるものを接続詞、独立語としてのみ用いられるものを感動詞とする。副詞・連体詞については、それぞれ一品詞とすべきかどうかについて議論があり、さらに細分化する考え方や、他の品詞に吸収させる考え方などがある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "自立語で活用のあるもののうち、命令形のあるものを動詞、命令形がなく終止・連体形が「い」で終わるものを形容詞(日本語教育では「イ形容詞」)、連体形が「な」で終わるものを形容動詞(日本語教育では「ナ形容詞」)とする。形容動詞を一品詞として認めることについては、時枝誠記や鈴木重幸など、否定的な見方をする研究者もいる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "なお、「名詞」および「体言」という用語は、しばしば混同される。古来、ことばを分類するにあたり、活用のない語を「体言」(体)、活用のある語を「用言」(用)、そのほか、助詞・助動詞の類を「てにをは」と大ざっぱに称することが多かった。現在の学校文法では、「用言」は活用のある自立語の意味で用いられ(動詞・形容詞・形容動詞を指す)、「体言」は活用のない自立語の中でも名詞(および代名詞・数詞)を指すようになった。つまり、現在では「体言」と「名詞」とは同一物と見ても差し支えはないが、活用しない語という点に着目していう場合は「体言」、文の成分のうち主語になりうるという点に着目していう場合は「名詞」と称する。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "付属語も、活用のないものと、活用のあるものとに分けられる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "付属語で活用のないものを助詞と称する。「春が来た」「買ってくる」「やるしかない」「分かったか」などの太字部分はすべて助詞である。助詞は、名詞について述語との関係(格関係)を表す格助詞(「名詞の格」の節参照)、活用する語について後続部分との接続関係を表す接続助詞、種々の語について、程度や限定などの意味を添えつつ後続の用言などを修飾する副助詞、文の終わりに来て疑問や詠嘆・感動・禁止といった気分や意図を表す終助詞に分けられる。鈴木重幸・高橋太郎他・鈴木康之らは助詞を単語とは認めず、付属辞(「くっつき」)として、単語の一部とする。(格助詞・並立助詞・係助詞・副助詞・終助詞の全部および接続助詞のうち「し」「が」「けれども」「から」「ので」「のに」について)または語尾(接続助詞のうち「て(で)」、条件の形の「ば」、並べ立てるときの「たり(だり)」について)。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "付属語で活用のあるものを助動詞と称する。「気を引かれる」「私は泣かない」「花が笑った」「さあ、出かけよう」「今日は来ないそうだ」「もうすぐ春です」などの太字部分はすべて助動詞である。助動詞の最も主要な役割は、動詞(および助動詞)に付属して以下のような情報を加えることである。すなわち、動詞の態(特に受け身・使役・可能など。ヴォイス)・極性(肯定・否定の決定。ポラリティ)・時制(テンス)・相(アスペクト)・法(推量・断定・意志など。ムード)などを示す役割を持つ。山田孝雄は、助動詞を認めず、動詞から分出される語尾(複語尾)と見なしている。また時枝誠記は、「れる(られる)」「せる(させる)」を助動詞とせず、動詞の接尾語としている。鈴木重幸・鈴木康之・高橋太郎らは大部分の助動詞を単語とは認めない。「た(だ)」「う(よう)は、動詞の語尾であるとし、「ない」「よう」「ます」「れる」「られる」「せる」「させる」「たい」「そうだ」「ようだ」は、接尾辞であるとして、単語の一部とする。(「ようだ」「らしい」「そうだ」に関しては、「むすび」または「コピュラ」「繋辞」であるとする。)", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "名詞および動詞・形容詞・形容動詞は、それが文中でどのような成分を担っているかを特別の形式によって表示する。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "名詞の場合、「が」「を」「に」などの格助詞を後置することで動詞との関係(格)を示す。語順によって格を示す言語ではないため、日本語は語順が比較的自由である。すなわち、", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "などは、強調される語は異なるが、いずれも同一の内容を表す文で、しかも正しい文である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "主な格助詞とその典型的な機能は次の通りである。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "このように、格助詞は、述語を連用修飾する名詞が述語とどのような関係にあるかを示す(ただし、「の」だけは連体修飾に使われ、名詞同士の関係を示す)。なお、上記はあくまでも典型的な機能であり、主体を表さない「が」(例、「水が飲みたい」)、対象を表さない「を」(例、「日本を発った」)、到達点を表さない「に」(例、受動動作の主体「先生にほめられた」、地位の所在「今上天皇にあらせられる」)、主体を表す「の」(例、「私は彼の急いで走っているのを見た」)など、上記に収まらない機能を担う場合も多い。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "格助詞のうち、「が」「を」「に」は、話し言葉においては脱落することが多い。その場合、文脈の助けがなければ、最初に来る部分は「が」格に相当すると見なされる。「くじらをお父さんが食べてしまった。」を「くじら、お父さん食べちゃった。」と助詞を抜かして言った場合は、「くじら」が「が」格相当ととらえられるため、誤解の元になる。「チョコレートを私が食べてしまった。」を「チョコレート、私食べちゃった。」と言った場合は、文脈の助けによって誤解は避けられる。なお、「へ」「と」「から」「より」「で」などの格助詞は、話し言葉においても脱落しない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "題述構造の文(「文の構造」の節参照)では、特定の格助詞が「は」に置き換わる。たとえば、「空が 青い。」という文は、「空」を題目化すると「空は 青い。」となる。題目化の際の「は」の付き方は、以下のようにそれぞれの格助詞によって異なる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "格助詞は、下に来る動詞が何であるかに応じて、必要とされる種類と数が変わってくる。たとえば、「走る」という動詞で終わる文に必要なのは「が」格であり、「馬が走る。」とすれば完全な文になる。ところが、「教える」の場合は、「が」格を加えて「兄が教えています。」としただけでは不完全な文である。さらに「で」格を加え、「兄が小学校で教えています(=教壇に立っています)。」とすれば完全になる。つまり、「教える」は、「が・で」格が必要である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "ところが、「兄が部屋で教えています。」という文の場合、「が・で」格があるにもかかわらず、なお完全な文という感じがしない。「兄が部屋で弟に算数を教えています。」のように「が・に・を」格が必要である。むしろ、「で」格はなくとも文は不完全な印象はない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "すなわち、同じ「教える」でも、「教壇に立つ」という意味の「教える」は「が・で」格が必要であり、「説明して分かるようにさせる」という意味の「教える」では「が・に・を」格が必要である。このように、それぞれの文を成り立たせるのに必要な格を「必須格」という。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "名詞が格助詞を伴ってさまざまな格を示すのに対し、用言(動詞・形容詞・形容動詞)および助動詞は、語尾を変化させることによって、文中のどの成分を担っているかを示したり、時制・相などの情報や文の切れ続きの別などを示したりする。この語尾変化を「活用」といい、活用する語を総称して「活用語」という。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "学校文法では、口語の活用語について、6つの活用形を認めている。以下、動詞・形容詞・形容動詞の活用形を例に挙げる(太字部分)。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "一般に、終止形は述語に用いられる。「(選手が球を)打つ。」「(この子は)強い。」「(消防士は)勇敢だ。」など。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "連用形は、文字通り連用修飾語にも用いられる。「強く(生きる。)」「勇敢に(突入する。)」など。ただし、「選手が球を打ちました。」の「打ち」は連用形であるが、連用修飾語ではなく、この場合は述語の一部である。このように、活用形と文中での役割は、1対1で対応しているわけではない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "仮定形は、文語では已然形と称する。口語の「打てば」は仮定を表すが、文語の「打てば」は「已(すで)に打ったので」の意味を表すからである。また、形容詞・形容動詞は、口語では命令形がないが、文語では「稽古は強かれ。」(風姿花伝)のごとく命令形が存在する。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "動詞の活用は種類が分かれている。口語の場合は、五段活用・上一段活用・下一段活用・カ行変格活用(カ変)・サ行変格活用(サ変)の5種類である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ある言語の語彙体系を見渡して、特定の分野の語彙が豊富であるとか、別の分野の語彙が貧弱であるとかを決めつけることは、一概にはできない。日本語でも、たとえば「自然を表す語彙が多いというのが定評」といわれるが、これは人々の直感から来る評判という意味以上のものではない。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "実際に、旧版『分類語彙表』によって分野ごとの語彙量の多寡を比べた結果によれば、名詞(体の類)のうち「人間活動―精神および行為」に属するものが27.0%、「抽象的関係」が18.3%、「自然物および自然現象」が10.0%などとなっていて、この限りでは「自然」よりも「精神」や「行為」などを表す語彙のほうが多いことになる。ただし、これも、他の言語と比較して多いということではなく、この結果がただちに日本語の語彙の特徴を示すことにはならない。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "日本語の人称はあまり固定化していない。現代語・標準語の範疇としては、一人称は「わたくし・わたし・あたし・ぼく・おれ・うち・自分・我々」など、二人称は「あなた・あんた・おまえ・おめえ・てめえ・きみ」などが用いられる。方言・近代語・古語まで含めるとこの限りではなく、文献上では他にも「あたくし・あたい・わし・わい・わて・我が輩・おれ様・おいら・われ・わー・わん・朕・わっし・こちとら・てまえ・小生・それがし・拙者・おら」などの一人称、「おまえさん・てめえ・貴様・おのれ・われ・お宅・なんじ・おぬし・その方・貴君・貴兄・貴下・足下・貴公・貴女・貴殿・貴方(きほう)」などの二人称が見つかる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "上の事実は、現代英語の一人称・二人称代名詞がほぼ \"I\" と \"you\" のみであり、フランス語の一人称代名詞が \"je\"、二人称代名詞が \"tu\" \"vous\" のみ、またドイツ語の一人称代名詞が\"ich\"、二人称代名詞が\"du\" \"Sie\" \"ihr\"のみであることと比較すれば、特徴的ということができる。もっとも、日本語においても、本来の人称代名詞は、一人称に「ワ(レ)」「ア(レ)」、二人称に「ナ(レ)」があるのみである(但し『ナ』はもと一人称とも見られ、後述のこととも関係があるが)。今日、一・二人称同様に用いられる語は、その大部分が一般名詞からの転用である。一人称を示す「ぼく」や三人称を示す「彼女」などを、「ぼく、何歳?」「彼女、どこ行くの?」のように二人称に転用することが可能であるのも、日本語の人称語彙が一般名詞的であることの現れである。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "なお、敬意表現の観点から、目上に対しては二人称代名詞の使用が避けられる傾向がある。たとえば、「あなたは何時に出かけますか」とは言わず、「何時にいらっしゃいますか」のように言うことが普通である。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "「親族語彙の体系」の節も参照。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "また、音象徴語、いわゆるオノマトペの語彙量も日本語には豊富である(オノマトペの定義は一定しないが、ここでは、擬声語・擬音語のように耳に聞こえるものを写した語と、擬態語のように耳に聞こえない状態・様子などを写した語の総称として用いる)。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "擬声語は、人や動物が立てる声を写したものである(例、おぎゃあ・がおう・げらげら・にゃあにゃあ)。擬音語は、物音を写したものである(例、がたがた・がんがん・ばんばん・どんどん)。擬態語は、ものごとの様子や心理の動きなどを表したものである(例、きょろきょろ・すいすい・いらいら・わくわく)。擬態語の中で、心理を表す語を特に擬情語と称することもある。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "オノマトペ自体は多くの言語に存在する。たとえば猫の鳴き声は、英語で「mew」、ドイツ語で「miau」、フランス語で 「miaou」、ロシア語で「мяу」、中国語で「喵喵」、朝鮮語で「야옹야옹」などである。しかしながら、その語彙量は言語によって異なる。日本語のオノマトペは欧米語や中国語の3倍から5倍存在するといわれる。英語などと比べると、とりわけ擬態語が多く使われるとされる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "新たなオノマトペが作られることもある。「(心臓が)ばくばく」「がっつり(食べる)」などは、近年に作られた(広まった)オノマトペの例である。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "漫画などの媒体では、とりわけ自由にオノマトペが作られる。漫画家の手塚治虫は、漫画を英訳してもらったところ、「ドギューン」「シーン」などの語に翻訳者が「お手あげになってしまった」と記している。また、漫画出版社社長の堀淵清治も、アメリカで日本漫画を売るに当たり、独特の擬音を訳すのにスタッフが悩んだことを述べている。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "日本語の語彙を品詞ごとにみると、圧倒的に多いものは名詞である。その残りのうちで比較的多いものは動詞である。『新選国語辞典』の収録語の場合、名詞が82.37%、動詞が9.09%、副詞が2.46%、形容動詞が2.02%、形容詞が1.24%となっている。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "このうち、とりわけ目を引くのは形容詞・形容動詞の少なさである。かつて柳田國男はこの点を指摘して「形容詞饑饉」と称した。英語の場合、『オックスフォード英語辞典』第2版では、半分以上が名詞、約4分の1が形容詞、約7分の1が動詞ということであり、英語との比較の上からは、日本語の形容詞が僅少であることは特徴的といえる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "ただし、これは日本語で物事を形容することが難しいことを意味するものではなく、他の形式による形容表現が多く存在する。例えば「初歩(の)」「酸性(の)」など「名詞(+の)」の形式、「目立つ(色)」「とがった(針)」「はやっている(店)」など動詞を基にした形式、「つまらない」「にえきらない」など否定助動詞「ない」を伴う形式などが形容表現に用いられる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "もともと少ない形容詞を補う主要な形式は形容動詞である。漢語・外来語の輸入によって、「正確だ」「スマートだ」のような、漢語・外来語+「だ」の形式の形容動詞が増大した。上掲の『新選国語辞典』で名詞扱いになっている漢語・外来語のうちにも、形容動詞の用法を含むものが多数存在する。現代の二字漢語(「世界」「研究」「豊富」など)約2万1千語を調査した結果によれば、全体の63.7%が事物類(名詞に相当)、29.9%が動態類(動詞に相当)、7.3%が様態類(形容動詞に相当)、1.1%が副用類(副詞に相当)であり、二字漢語の7%程度が形容動詞として用いられていることが分かる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "「語彙の増加と品詞」の節も参照。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "それぞれの語は、ばらばらに存在しているのではなく、意味・用法などの点で互いに関連をもったグループを形成している。これを語彙体系と称する。日本語の語彙自体、一つの大きな語彙体系といえるが、その中にはさらに無数の語彙体系が含まれている。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "以下、体系をなす語彙の典型的な例として、指示語・色彩語彙・親族語彙を取り上げて論じる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "日本語では、ものを指示するために用いる語彙は、一般に「こそあど」と呼ばれる4系列をなしている。これらの指示語(指示詞)は、主として名詞(「これ・ここ・こなた・こっち」など)であるため、概説書の類では名詞(代名詞)の説明のなかで扱われている場合も多い。しかし、実際には副詞(「こう」など)・連体詞(「この」など)・形容動詞(「こんなだ」など)にまたがるため、ここでは語彙体系の問題として論じる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "「こそあど」の体系は、伝統的には「近称・中称・遠称・不定(ふじょう、ふてい)称」の名で呼ばれた。明治時代に、大槻文彦は以下のような表を示している。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "ここで、「近称」は最も近いもの、「中称」はやや離れたもの、「遠称」は遠いものを指すとされた。ところが、「そこ」などを「やや離れたもの」を指すと考えると、遠くにいる人に向かって「そこで待っていてくれ」と言うような場合を説明しがたい。また、自分の腕のように近くにあるものを指して、人に「そこをさすってください」と言うことも説明しがたいなどの欠点がある。佐久間鼎は、この点を改め、「こ」は「わ(=自分)のなわばり」に属するもの、「そ」は「な(=あなた)のなわばり」に属するもの、「あ」はそれ以外の範囲に属するものを指すとした。すなわち、体系は下記のようにまとめられた。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "このように整理すれば、上述の「そこで待っていてくれ」「そこをさすってください」のような言い方はうまく説明される。相手側に属するものは、遠近を問わず「そ」で表されることになる。この説明方法は、現在の学校教育の国語でも取り入れられている。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "とはいえ、すべての場合を佐久間説で割り切れるわけでもない。たとえば、道で「どちらに行かれますか」と問われて、「ちょっとそこまで」と答えたとき、これは「それほど遠くないところまで行く」という意味であるから、大槻文彦のいう「中称」の説明のほうがふさわしい。ものを無くしたとき、「ちょっとそのへんを探してみるよ」と言うときも同様である。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "また、目の前にあるものを直接指示する場合(現場指示)と、文章の中で前に出た語句を指示する場合(文脈指示)とでも、事情が変わってくる。「生か死か、それが問題だ」の「それ」は、「中称」(やや離れたもの)とも、「相手所属のもの」とも解釈しがたい。直前の内容を「それ」で示すものである。このように、指示語の意味体系は、詳細に見れば、なお研究の余地が多く残されている。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "なお、指示の体系は言語によって異なる。不定称を除いた場合、3系列をなす言語は日本語(こ、そ、あ)や朝鮮語(이、그、저)などがある。一方、英語(this、that)や中国語(这、那)などは2系列をなす。日本人の英語学習者が「これ、それ、あれ」に「this、it、that」を当てはめて考えることがあるが、「it」は文脈指示の代名詞で系列が異なるため、混用することはできない。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "日本語で色彩を表す語彙(色彩語彙)は、古来、「アカ」「シロ」「アヲ」「クロ」の4語が基礎となっている。「アカ」は明るい色(明しの語源か)、「シロ」は顕(あき)らかな色(白しの語源か)、「アヲ」は漠然とした色(淡しの語源か)、「クロ」は暗い色(暗しの語源か)を総称した。今日でもこの体系は基本的に変わっていない。葉の色・空の色・顔色などをいずれも「アオ」と表現するのはここに理由がある。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "文化人類学者のバーリンとケイの研究によれば、種々の言語で最も広範に用いられている基礎的な色彩語彙は「白」と「黒」であり、以下、「赤」「緑」が順次加わるという。日本語の色彩語彙もほぼこの法則に合っているといってよい。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "このことは、日本語を話す人々が4色しか識別しないということではない。特別の色を表す場合には、「黄色(語源は「木」かという)」「紫色」「茶色」「蘇芳色」「浅葱色」など、植物その他の一般名称を必要に応じて転用する。ただし、これらは基礎的な色彩語彙ではない。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "日本語の親族語彙は、比較的単純な体系をなしている。英語の基礎語彙で、同じ親から生まれた者を「brother」「sister」の2語のみで区別するのに比べれば、日本語では、男女・長幼によって「アニ」「アネ」「オトウト」「イモウト」の4語を区別し、より詳しい体系であるといえる(古代には、年上のみ「アニ」「アネ」と区別し、年下は「オト」と一括した)。しかしながら、たとえば中国語の親族語彙と比較すれば、はるかに単純である。中国語では、父親の父母を「祖父」「祖母」、母親の父母を「外祖父」「外祖母」と呼び分けるが、日本語では「ジジ」「ババ」の区別しかない。中国語では父の兄弟を「伯」「叔」、父の姉妹を「姑」、母の兄弟を「舅」、母の姉妹を「姨」などというが、日本語では「オジ」「オバ」のみである。「オジ」「オバ」の子はいずれも「イトコ」の名で呼ばれる。日本語でも、「伯父(はくふ)」「叔父(しゅくふ)」「従兄(じゅうけい)」「従姉(じゅうし)」などの語を文章語として用いることもあるが、これらは中国語からの借用語である。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "親族語彙を他人に転用する虚構的用法が多くの言語に存在する。例えば、朝鮮語(「아버님」お父様)・モンゴル語(「aab」父)では尊敬する年配男性に用いる。英語でも議会などの長老やカトリック教会の神父を「father(父)」、寮母を「mother(母)」、男の親友や同一宗派の男性を「brother(兄弟)」、女の親友や修道女や見知らぬ女性を「sister」(姉妹)と呼ぶ。中国語では見知らぬ若い男性・女性に「老兄」(お兄さん)「大姐」(お姉さん)と呼びかける、そして年長者では男性・女性に「大爺」(旦那さん)「大媽」(伯母さん)と呼びかける。日本語にもこの用法があり、赤の他人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶことがある。たとえば、店員が中年の男性客に「お父さん、さあ買ってください」のように言う。フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などのヨーロッパの言語で他人である男性をこのように呼ぶことは普通ではなく、日本語で赤の他人を「お父さん」と呼ぶのが失礼になりうるのと同じく、失礼にさえなるという。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "一族内で一番若い世代から見た名称で自分や他者を呼ぶことがあるのも各国語に見られる用法である。例えば、父親が自分自身を指して「お父さん」と言ったり(「お父さんがやってあげよう」)、自分の母を子から見た名称で「おばあちゃん」と呼んだりする用法である。この用法は、中国語・朝鮮語・モンゴル語・英語・フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などを含め諸言語にある。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "日本語の語彙を出自から分類すれば、大きく、和語・漢語・外来語、およびそれらが混ざった混種語に分けられる。このように、出自によって分けた言葉の種類を「語種」という。和語は日本古来の大和言葉、漢語は中国渡来の漢字の音を用いた言葉、外来語は中国以外の他言語から取り入れた言葉である。(「語彙史」の節参照)。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "和語は日本語の語彙の中核部分を占める。「これ」「それ」「きょう」「あす」「わたし」「あなた」「行く」「来る」「良い」「悪い」などのいわゆる基礎語彙はほとんど和語である。また、「て」「に」「を」「は」などの助詞や、助動詞の大部分など、文を組み立てるために必要な付属語も和語である。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "一方、抽象的な概念や、社会の発展に伴って新たに発生した概念を表すためには、漢語や外来語が多く用いられる。和語の名称がすでにある事物を漢語や外来語で言い換えることもある。「めし」を「御飯」「ライス」、「やどや」を「旅館」「ホテル」などと称するのはその例である。このような語種の異なる同義語には、微妙な意味・ニュアンスの差異が生まれ、とりわけ和語には易しい、または卑俗な印象、漢語には公的で重々しい印象、外来語には新しい印象が含まれることが多い。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "一般に、和語の意味は広く、漢語の意味は狭いといわれる。たとえば、「しづむ(しずめる)」という1語の和語に、「沈」「鎮」「静」など複数の漢語の造語成分が相当する。「しづむ」の含む多様な意味は、「沈む」「鎮む」「静む」などと漢字を用いて書き分けるようになり、その結果、これらの「しづむ」が別々の語と意識されるまでになった。2字以上の漢字が組み合わさった漢語の表す意味はとりわけ分析的である。たとえば、「弱」という造語成分は、「脆」「貧」「軟」「薄」などの成分と結合することにより、「脆弱」「貧弱」「軟弱」「薄弱」のように分析的・説明的な単語を作る(「語彙史」の節の「漢語の勢力拡大」および「語彙の増加と品詞」を参照)。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "漢語は、「学問」「世界」「博士」などのように、古く中国から入ってきた語彙が大部分を占めるのは無論であるが、日本人が作った漢語(和製漢語)も古来多い。現代語としても、「国立」「改札」「着席」「挙式」「即答」「熱演」など多くの和製漢語が用いられている。漢語は音読みで読まれることから、字音語と呼ばれる場合もある。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "外来語は、もとの言語の意味のままで用いられるもの以外に、日本語に入ってから独自の意味変化を遂げるものが少なくない。英語の \"claim\" は「当然の権利として要求する」の意であるが、日本語の「クレーム」は「文句」の意である。英語の \"lunch\" は昼食の意であるが、日本の食堂で「ランチ」といえば料理の種類を指す。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "外来語を組み合わせて、「アイスキャンデー」「サイドミラー」「テーブルスピーチ」のように日本語独自の語が作られることがある。また、当該の語形が外国語にない「パネラー」(パネリストの意)「プレゼンテーター」(プレゼンテーションをする人。プレゼンター)などの語形が作られることもある。これらを総称して「和製洋語」、英語系の語を特に「和製英語」と言う。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "日本語の語彙は、語構成の面からは単純語と複合語に分けることができる。単純語は、「あたま」「かお」「うえ」「した」「いぬ」「ねこ」のように、それ以上分けられないと意識される語である。複合語は、「あたまかず」「かおなじみ」「うわくちびる」「いぬずき」のように、いくつかの単純語が合わさってできていると意識される語である。なお、熟語と総称される漢語は、本来漢字の字音を複合させたものであるが、「えんぴつ(鉛筆)」「せかい(世界)」など、日本語において単純語と認識される語も多い。「語種」の節で触れた混種語、すなわち、「プロ野球」「草野球」「日本シリーズ」のように複数の語種が合わさった語は、語構成の面からはすべて複合語ということになる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "日本語では、限りなく長い複合語を作ることが可能である。「平成十六年新潟県中越地震非常災害対策本部」「服部四郎先生定年退官記念論文集編集委員会」といった類も、ひとつの長い複合語である。国際協定の関税及び貿易に関する一般協定は、英語では「General Agreement on Tariffs and Trade」(関税と貿易に関する一般協定)であり、ひとつの句であるが、日本の新聞では「関税貿易一般協定」と複合語で表現することがある。これは漢字の結合力によるところが大きく、中国語・朝鮮語などでも同様の長い複合語を作る。なお、ヨーロッパ語を見ると、ロシア語では「человеконенавистничество」(人間嫌い)、ドイツ語では「Naturfarbenphotographie」(天然色写真)などの長い語の例を比較的多く有し、英語でも「antidisestablishmentarianism」(国教廃止条例反対論。英首相グラッドストンの造語という)などの語例がまれにある。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "接辞は、複合語を作るために威力を発揮する。たとえば、「感」は、「音感」「語感」「距離感」「不安感」など漢字2字・3字からなる複合語のみならず、最近では「透け感」「懐かし感」「しゃきっと感」「きちんと感」など動詞・形容詞・副詞との複合語を作り、さらには「『昔の名前で出ています』感」(=昔の名前で出ているという感じ)のように文であったものに下接して長い複合語を作ることもある。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "日本語の複合語は、難しい語でも、表記を見れば意味が分かる場合が多い。たとえば、英語の「apivorous」 は生物学者にしか分からないのに対し、日本語の「蜂食性」は「蜂を食べる性質」であると推測できる。これは表記に漢字を用いる言語の特徴である。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "現代の日本語は、平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)・漢字を用いて、現代仮名遣い・常用漢字に基づいて表記されることが一般的である。アラビア数字やローマ字(ラテン文字)なども必要に応じて併用される。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "正書法の必要性を説く主張や、その反論がしばしば交わされてきた。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "平仮名・片仮名は、2017年9月現在では以下の46字ずつが使われる。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "このうち、「 ゙」(濁音符)および「 ゚」(半濁音符)を付けて濁音・半濁音を表す仮名もある(「音韻」の節参照)。拗音は小書きの「ゃ」「ゅ」「ょ」を添えて表し、促音は小書きの「っ」で表す。「つぁ」「ファ」のように、小書きの「ぁ」「ぃ」「ぅ」「ぇ」「ぉ」を添えて表す音もあり、補助符号として長音を表す「ー」がある。歴史的仮名遣いでは上記のほか、表音は同じでも表記の違う、平仮名「ゐ」「ゑ」および片仮名「ヰ」「ヱ」の字が存在し、その他にも変体仮名がある。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "漢字は、日常生活において必要とされる2136字の常用漢字と、子の名づけに用いられる861字の人名用漢字が、法で定められている。実際にはこれら以外にも一般に通用する漢字の数は多いとされ、日本産業規格(JIS)はJIS X 0208(通称JIS漢字)として約6300字を電算処理可能な漢字として挙げている。なお、漢字の本家である中国においても同様の基準は存在し、現代漢語常用字表により、「常用字」として2500字、「次常用字」として1000字が定められている。これに加え、現代漢語通用字表ではさらに3500字が追加されている。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "一般的な文章では、上記の漢字・平仮名・片仮名を交えて記すほか、アラビア数字・ローマ字なども必要に応じて併用する。基本的には、漢語には漢字を、和語のうち概念を表す部分(名詞や用言語幹など)には漢字を、形式的要素(助詞・助動詞など)や副詞・接続詞の一部には平仮名を、外来語(漢語以外)には片仮名を用いる場合が多い。公的な文書では特に表記法を規定している場合もあり、民間でもこれに倣うことがある。ただし、厳密な正書法はなく、表記のゆれは広く許容されている。文章の種類や目的によって、", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "などの表記がありうる。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "多様な文字体系を交えて記す利点として、単語のまとまりが把握しやすく、速読性に優れるなどの点が指摘される。日本語の単純な音節構造に由来する同音異義語が漢字によって区別され、かつ字数も節約されるという利点もある。計算機科学者の村島定行は、日本語では、表意文字と表音文字の二重の文章表現ができるため、記憶したり、想起したりするのに手がかりが多く、言語としての機能が高いと指摘している。一方で中国文学者の高島俊男は、漢字の表意性に過度に依存した日本語の文章は、他の自然言語に類を見ないほどの同音異義語を用いざるを得なくなり、しばしば実用の上で支障を来たすことから、言語として「顚倒している」と評している。歴史上、漢字を廃止して、仮名またはローマ字を国字化しようという主張もあったが、広く実行されることはなかった(「国語国字問題」参照)。今日では漢字・平仮名・片仮名の交ぜ書きが標準的表記の地位をえている。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "日本語の表記体系は中央語を書き表すために発達したものであり、方言の音韻を表記するためには必ずしも適していない。たとえば、東北地方では「柿」を [kagɨ]、「鍵」を [kãŋɨ] のように発音するが、この両語を通常の仮名では書き分けられない(アクセント辞典などで用いる表記によって近似的に記せば、「カギ」と「カンキ゚」のようになる)。もっとも、方言は書き言葉として用いられることが少ないため、実際上に不便を来すことは少ない。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "岩手県気仙方言(ケセン語)について、山浦玄嗣により、文法形式を踏まえた正書法が試みられているというような例もある。ただし、これは実用のためのものというよりは、学術的な試みのひとつである。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "琉球語(「系統」参照)の表記体系もそれを準用している。たとえば、琉歌「てんさごの花」(てぃんさぐぬ花)は、伝統的な表記法では次のように記す。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "この表記法では、たとえば、「ぐ」「ご」がどちらも [gu] と発音されるように、かな表記と発音が一対一で対応しない場合が多々ある。表音的に記せば、[tiɴʃagunu hanaja ʦimiʣaʧiɲi sumiti, ʔujanu juʃigutuja ʧimuɲi sumiri] のようになるところである。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "漢字表記の面では、地域文字というべきものが各地に存在する。たとえば、名古屋市の地名「杁中(いりなか)」などに使われる「杁」は、名古屋と関係ある地域の「地域文字」である。また、「垰」は「たお」「たわ」などと読まれる国字で、中国地方ほかで定着しているという。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "文は、目的や場面などに応じて、さまざまな異なった様式を採る。この様式のことを、書き言葉(文章)では「文体」と称し、話し言葉(談話)では「話体」と称する。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "日本語では、とりわけ文末の助動詞・助詞などに文体差が顕著に現れる。このことは、「ですます体」「でございます体」「だ体」「である体」「ありんす言葉」(江戸・新吉原の遊女の言葉)「てよだわ言葉」(明治中期から流行した若い女性の言葉)などの名称に典型的に表れている。それぞれの文体・話体の差は大きいが、日本語話者は、複数の文体・話体を常に切り替えながら使用している。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "なお、「文体」の用語は、書かれた文章だけではなく談話についても適用されるため、以下では「文体」に「話体」も含めて述べる。また、文語文・口語文などについては「文体史」の節に譲る。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "日本語の文体は、大きく普通体(常体)および丁寧体(敬体)の2種類に分かれる。日本語話者は日常生活で両文体を適宜使い分ける。日本語学習者は、初めに丁寧体を、次に普通体を順次学習することが一般的である。普通体は相手を意識しないかのような文体であるため独語体と称し、丁寧体は相手を意識する文体であるため対話体と称することもある。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "普通体と丁寧体の違いは次のように現れる。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "普通体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、「だ」または「である」を付けた形で結ぶ。前者を特に「だ体」、後者を特に「である体」と呼ぶこともある。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "丁寧体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、助動詞「です」を付けた形で結ぶ。動詞が来る場合には「ます」を付けた形で結ぶ。ここから、丁寧体を「ですます体」と呼ぶこともある。丁寧の度合いをより強め、「です」の代わりに「でございます」を用いた文体を、特に「でございます体」と呼ぶこともある。丁寧体は、敬語の面からいえば丁寧語を用いた文体のことである。なお、文末に形容詞が来る場合にも「です」で結ぶことはできるが「花が美しく咲いています」「花が美しゅうございます」などと言い、「です」を避けることがある。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "談話の文体(話体)は、話し手の性別・年齢・職業・場面など、位相の違いによって左右される部分が大きい。「ごはんを食べてきました」という丁寧体は、話し手の属性によって、たとえば、次のような変容がある。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "このように異なる言葉遣いのそれぞれを位相語と言い、それぞれの差を位相差という。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "物語作品やメディアにおいて、位相が極端にステレオタイプ化されて現実と乖離したり、あるいは書き手などが仮想的(バーチャル)な位相を意図的に作り出したりする場合がある。このような言葉遣いを「役割語」と称することがある。例えば以下の文体は、実際の性別・博士・令嬢・地方出身者などの一般的な位相を反映したものではないものの、小説・漫画・アニメ・ドラマなどで、仮想的にそれらしい感じを与える文体として広く観察される。これは現代に始まったものではなく、近世や近代の文献にも役割語の例が認められる(仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』に現れる外国人らしい言葉遣いなど)。", "title": "文体" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "日本語では、待遇表現が文法的・語彙的な体系を形作っている。とりわけ、相手に敬意を示す言葉(敬語)において顕著である。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "「敬語は日本にしかない」と言われることがあるが、日本と同様に敬語が文法的・語彙的体系を形作っている言語としては、朝鮮語・ジャワ語・ベトナム語・チベット語・ベンガル語・タミル語などがあり、尊敬・謙譲・丁寧の区別もある。朝鮮語ではたとえば動詞「내다(ネダ)」(出す)は、敬語形「내시다(ネシダ)」(出される)・「냅니다(ネムニダ)」(出します)の形を持つ。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "敬語体系は無くとも、敬意を示す表現自体は、さまざまな言語に広く観察される。相手を敬い、物を丁寧に言うことは、発達した社会ならばどこでも必要とされる。そうした言い方を習得することは、どの言語でも容易でない。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "金田一京助などによれば、現代日本語の敬語に特徴的なのは次の2点である。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "朝鮮語など他の言語の敬語では、たとえば自分の父親はいかなる状況でも敬意表現の対象であり、他人に彼のことを話す場合も「私のお父様は...」という絶対的敬語を用いるが、日本語では自分の身内に対する敬意を他人に表現することは憚られ、「私の父は...」のように表現しなければならない。ただし皇室では絶対敬語が存在し、皇太子は自分の父親のことを「天皇陛下は...」と表現する。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "どんな言語も敬意を表す表現を持っているが、日本語や朝鮮語などはそれが文法体系となっているため、表現・言語行動のあらゆる部分に、高度に組織立った体系が出来上がっている。そのため、敬意の種類や度合いに応じた表現の選択肢が予め用意されており、常にそれらの中から適切な表現を選ばなくてはならない。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "以下、日本語の敬語体系および敬意表現について述べる。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "日本語の敬語体系は、一般に、大きく尊敬語・謙譲語・丁寧語に分類される。文化審議会国語分科会は、2007年2月に「敬語の指針」を答申し、これに丁重語および美化語を含めた5分類を示している。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "尊敬語は、動作の主体を高めることで、主体への敬意を表す言い方である。動詞に「お(ご)〜になる」を付けた形、また、助動詞「(ら)れる」を付けた形などが用いられる。たとえば、動詞「取る」の尊敬形として、「(先生が)お取りになる」「(先生が)取られる」などが用いられる。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "語によっては、特定の尊敬語が対応するものもある。たとえば、「言う」の尊敬語は「おっしゃる」、「食べる」の尊敬語は「召し上がる」、「行く・来る・いる」の尊敬語は「いらっしゃる」である。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "謙譲語は、古代から基本的に動作の客体への敬意を表す言い方であり、現代では「動作の主体を低める」と解釈するほうがよい場合がある。動詞に「お〜する」「お〜いたします」(謙譲語+丁寧語)をつけた形などが用いられる。たとえば、「取る」の謙譲形として、「お取りする」などが用いられる。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "語によっては、特定の謙譲語が対応するものもある。たとえば、「言う」の謙譲語は「申し上げる」、「食べる」の謙譲語は「いただく」、「(相手の所に)行く」の謙譲語は「伺う」「参上する」「まいる」である。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "なお、「夜も更けてまいりました」の「まいり」など、謙譲表現のようでありながら、誰かを低めているわけではない表現がある。これは、「夜も更けてきた」という話題を丁重に表現することによって、聞き手への敬意を表すものである。宮地裕は、この表現に使われる語を、特に「丁重語」と称している。丁重語にはほかに「いたし(マス)」「申し(マス)」「存じ(マス)」「小生」「小社」「弊社」などがある。文化審議会の「敬語の指針」でも、「明日から海外へまいります」の「まいり」のように、相手とは関りのない自分側の動作を表現する言い方を丁重語としている。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "丁寧語は、文末を丁寧にすることで、聞き手への敬意を表すものである。動詞・形容詞の終止形で終わる常体に対して、名詞・形容動詞語幹などに「です」を付けた形(「学生です」「きれいです」)や、動詞に「ます」をつけた形(「行きます」「分かりました」)等の丁寧語を用いた文体を敬体という。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "一般に、目上の人には丁寧語を用い、同等・目下の人には丁寧語を用いないといわれる。しかし、実際の言語生活に照らして考えれば、これは事実ではない。母が子を叱るとき、「お母さんはもう知りませんよ」と丁寧語を用いる場合もある。丁寧語が用いられる多くの場合は、敬意や謝意の表現とされるが、稀に一歩引いた心理的な距離をとろうとする場合もある。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "「お弁当」「ご飯」などの「お」「ご」も、広い意味では丁寧語に含まれるが、宮地裕は特に「美化語」と称して区別する。相手への丁寧の意を示すというよりは、話し手が自分の言葉遣いに配慮した表現である。したがって、「お弁当食べようよ。」のように、丁寧体でない文でも美化語を用いることがある。文化審議会の「敬語の指針」でも「美化語」を設けている。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "日本語で敬意を表現するためには、文法・語彙の敬語要素を知っているだけではなお不十分であり、時や場合など種々の要素に配慮した適切な表現が必要である。これを敬意表現(敬語表現)ということがある。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "たとえば、「課長もコーヒーをお飲みになりたいですか」は、尊敬表現「お飲みになる」を用いているが、敬意表現としては適切でない。日本語では相手の意向を直接的に聞くことは失礼に当たるからである。「コーヒーはいかがですか」のように言うのが適切である。第22期国語審議会(2000年)は、このような敬意表現の重要性を踏まえて、「現代社会における敬意表現」を答申した。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "婉曲表現の一部は、敬意表現としても用いられる。たとえば、相手に窓を開けてほしい場合は、命令表現によらずに、「窓を開けてくれる?」などと問いかけ表現を用いる。あるいは、「今日は暑いねえ」とだけ言って、窓を開けてほしい気持ちを含意することもある。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "日本人が商取引で「考えさせてもらいます」という場合は拒絶の意味であると言われる。英語でも \"Thank you for inviting me.\"(誘ってくれてありがとう)とは誘いを断る表現である。また、京都では、京都弁で帰りがけの客にその気がないのに「ぶぶづけ(お茶漬け)でもあがっておいきやす」と愛想を言うとされる(出典は落語「京のぶぶづけ」「京の茶漬け」よるという)。これらは、相手の気分を害さないように工夫した表現という意味では、広義の敬意表現と呼ぶべきものであるが、その呼吸が分からない人との間に誤解を招くおそれもある。", "title": "待遇表現" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "日本語には多様な方言がみられ、それらはいくつかの方言圏にまとめることができる。どのような方言圏を想定するかは、区画するために用いる指標によって少なからず異なる。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "1967年の相互理解可能性の調査より、関東地方出身者に最も理解しにくい方言は(琉球諸語と東北方言を除く)、富山県氷見方言(正解率4.1%)、長野県木曽方言(正解率13.3%)、鹿児島方言(正解率17.6%)、岡山県真庭方言(正解率24.7%)だった。この調査は、12〜20秒の長さ、135〜244の音素の老人の録音に基づいており、42名若者が聞いて翻訳した。受験者は関東地方で育った慶應大学の学生であった。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "東条操は、全国で話されている言葉を大きく東部方言・西部方言・九州方言および琉球方言に分けている。またそれらは、北海道・東北・関東・八丈島・東海東山・北陸・近畿・中国・雲伯(出雲・伯耆)・四国・豊日(豊前・豊後・日向)・肥筑(筑紫・肥前・肥後)・薩隅(薩摩・大隅)・奄美群島・沖縄諸島・先島諸島に区画された。これらの分類は、今日でもなお一般的に用いられる。なお、このうち奄美・沖縄・先島の言葉は、日本語の一方言(琉球方言)とする立場と、独立言語として琉球語とする立場とがある。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "また、金田一春彦は、近畿・四国を主とする内輪方言、関東・中部・中国・九州北部の一部を主とする中輪方言、北海道・東北・九州の大部分を主とする外輪方言、沖縄地方を主とする南島方言に分類した。この分類は、アクセントや音韻、文法の特徴が畿内を中心に輪を描くことに着目したものである。このほか、幾人かの研究者により方言区画案が示されている。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "一つの方言区画の内部も変化に富んでいる。たとえば、奈良県は近畿方言の地域に属するが、十津川村や下北山村周辺ではその地域だけ東京式アクセントが使われ、さらに下北山村池原にはまた別体系のアクセントがあって東京式の地域に取り囲まれている。香川県観音寺市伊吹町(伊吹島)では、平安時代のアクセント体系が残存しているといわれる(異説もある)。これらは特に顕著な特徴を示す例であるが、どのような狭い地域にも、その土地としての言葉の体系がある。したがって、「どの地点のことばも、等しく記録に価する」ものである。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "一般に、方言差が話題になるときには、文法の東西の差異が取り上げられることが多い。東部方言と西部方言との間には、およそ次のような違いがある。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "否定辞に東で「ナイ」、西で「ン」を用いる。完了形には、東で「テル」を、西で「トル」を用いる。断定には、東で「ダ」を、西で「ジャ」または「ヤ」を用いる。アワ行五段活用の動詞連用形は、東では「カッタ(買)」と促音便に、西では「コータ」とウ音便になる。形容詞連用形は、東では「ハヤク(ナル)」のように非音便形を用いるが、西では「ハヨー(ナル)」のようにウ音便形を用いるなどである。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "方言の東西対立の境界は、画然と引けるものではなく、どの特徴を取り上げるかによって少なからず変わってくる。しかし、おおむね、日本海側は新潟県西端の糸魚川市、太平洋側は静岡県浜名湖が境界線(糸魚川・浜名湖線)とされることが多い。糸魚川西方には難所親不知があり、その南には日本アルプスが連なって東西の交通を妨げていたことが、東西方言を形成した一因とみられる。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きい。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられるが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの2つである。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第1拍の高低を弁別する。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国地方南西部、九州北東部に分布しており、京阪式アクセントは近畿地方・四国地方のそれぞれ大部分と北陸地方の一部に分布している。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっている。日本語の標準語・共通語のアクセントは、東京の山の手言葉のものを基盤にしているため東京式アクセントである。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "九州西南部や沖縄の一部には型の種類が2種類になっている二型アクセントが分布し、宮崎県都城市などには型の種類が1種類になっている一型アクセントが分布する。また、岩手県雫石町や山梨県早川町奈良田などのアクセントは、音の下がり目ではなく上がり目を弁別する。これら有アクセントの方言に対し、東北地方南部から関東地方北東部にかけての地域や、九州の東京式アクセント地帯と二型アクセント地帯に挟まれた地域などには、話者にアクセントの知覚がなく、どこを高くするという決まりがない無アクセント(崩壊アクセント)の地域がある。これらのアクセント大区分の中にも様々な変種があり、さらにそれぞれの体系の中間型や別派なども存在する。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "「花が」が東京で「低高低」、京都で「高低低」と発音されるように、単語のアクセントは地方によって異なる。ただし、それぞれの地方のアクセント体系は互いにまったく無関係に成り立っているのではない。多くの場合において規則的な対応が見られる。たとえば、「花が」「山が」「池が」を東京ではいずれも「低高低」と発音するが、京都ではいずれも「高低低」と発音し、「水が」「鳥が」「風が」は東京ではいずれも「低高高」と発音するのに対して京都ではいずれも「高高高」と発音する。また、「松が」「空が」「海が」は東京ではいずれも「高低低」と発音されるのに対し、京都ではいずれも「低低高」と発音される。このように、ある地方で同じアクセントの型にまとめられる語群(類と呼ぶ)は、他の地方でも同じ型に属することが一般的に観察される。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "この事実は、日本の方言アクセントが、過去の同一のアクセント体系から分かれ出たことを意味する。服部四郎はこれを原始日本語のアクセントと称し、これが分岐し互いに反対の方向に変化して、東京式と京阪式を生じたと考えた。現在有力な説は、院政期の京阪式アクセント(名義抄式アクセント)が日本語アクセントの祖体系で、現在の諸方言アクセントのほとんどはこれが順次変化を起こした結果生じたとするものである。一方で、地方の無アクセントと中央の京阪式アクセントの接触で諸方言のアクセントが生じたとする説もある。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "発音の特徴によって本土方言を大きく区分すると、表日本方言、裏日本方言、薩隅(鹿児島)式方言に分けることができる。表日本方言は共通語に近い音韻体系を持つ。裏日本式の音韻体系は、東北地方を中心に、北海道沿岸部や新潟県越後北部、関東北東部(茨城県・栃木県)と、とんで島根県出雲地方を中心とした地域に分布する。その特徴は、イ段とウ段の母音に中舌母音を用いることと、エが狭くイに近いことである。関東のうち千葉県や埼玉県東部などと、越後中部・佐渡・富山県・石川県能登の方言は裏日本式と表日本式の中間である。また薩隅式方言は、大量の母音脱落により閉音節を多く持っている点で他方言と対立している。薩隅方言以外の九州の方言は、薩隅式と表日本式の中間である。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "音韻の面では、母音の「う」を、東日本、北陸、出雲付近では中舌寄りで非円唇母音(唇を丸めない)の [ɯ] または [ɯ̈] で、西日本一般では奥舌で円唇母音の [u] で発音する。また、母音は、東日本や北陸、出雲付近、九州で無声化しやすく、東海、近畿、中国、四国では無声化しにくい。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 226, "tag": "p", "text": "またこれとは別に、近畿・四国(・北陸)とそれ以外での対立がある。前者は京阪式アクセントの地域であるが、この地域ではアクセント以外にも、「木」を「きい」、「目」を「めえ」のように一音節語を伸ばして二拍に発音し、また「赤い」→「あけー」のような連母音の融合が起こらないという共通点がある。また、西日本(九州・山陰・北陸除く)は母音を強く子音を弱く発音し、東日本や九州は子音を強く母音を弱く発音する傾向がある。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 227, "tag": "p", "text": "母音の数は、奈良時代およびそれ以前には現在よりも多かったと考えられる。橋本進吉は、江戸時代の上代特殊仮名遣いの研究を再評価し、記紀や『万葉集』などの万葉仮名において「き・ひ・み・け・へ・め・こ・そ・と・の・も・よ・ろ」の表記に2種類の仮名が存在することを指摘した(甲類・乙類と称する。「も」は『古事記』のみで区別される)。橋本は、これらの仮名の区別は音韻上の区別に基づくもので、特に母音の差によるものと考えた。橋本の説は、後続の研究者らによって、「母音の数がアイウエオ五つでなく、合計八を数えるもの」という8母音説と受け取られ、定説化した(異説として、服部四郎の6母音説などがある)。8母音の区別は平安時代にはなくなり、現在のように5母音になったとみられる。なお、上代日本語の語彙では、母音の出現の仕方がウラル語族やアルタイ語族の母音調和の法則に類似しているとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 228, "tag": "p", "text": "「は行」の子音は、奈良時代以前には [p] であったとみられる。すなわち、「はな(花)」は [pana](パナ)のように発音された可能性がある。[p] は遅くとも平安時代初期には無声両唇摩擦音 [ɸ] に変化していた。すなわち、「はな」は [ɸana](ファナ)となっていた。中世末期に、ローマ字で当時の日本語を記述したキリシタン資料が多く残されているが、そこでは「は行」の文字が「fa, fi, fu, fe, fo」で転写されており、当時の「は行」は「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近い発音であったことが分かる。中世末期から江戸時代にかけて、「は行」の子音は [ɸ] から [h] へ移行した。ただし、「ふ」は [ɸ] のままに、「ひ」は [çi] になった。現代でも引き続きこのように発音されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 229, "tag": "p", "text": "平安時代以降、語中・語尾の「は行」音が「わ行」音に変化するハ行転呼が起こった。たとえば、「かは(川)」「かひ(貝)」「かふ(買)」「かへ(替)」「かほ(顔)」は、それまで [kaɸa] [kaɸi] [kaɸu] [kaɸe] [kaɸo] であったものが、[kawa] [kawi] [kau] [kawe] [kawo] になった。「はは(母)」も、キリシタン資料では「faua」(ハワ)と記された例があるなど、他の語と同様にハ行転呼が起こっていたことが知られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 230, "tag": "p", "text": "このように、「は行」子音は語頭でおおむね [p] → [ɸ] → [h]、語中で [p] → [ɸ] → [w] と唇音が衰退する方向で推移した。また、関西で「う」を唇を丸めて発音する(円唇母音)のに対し、関東では唇を丸めずに発音するが、これも唇音退化の例ととらえることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 231, "tag": "p", "text": "「や行」の「え」([je]) の音が古代に存在したことは、「あ行」の「え」の仮名と別の文字で書き分けられていたことから明らかである。平安時代初期に成立したと見られる「天地の詞」には「え」が2つ含まれており、「あ行」と「や行」の区別を示すものと考えられる。この区別は10世紀の頃にはなくなっていたとみられ、970年成立の『口遊』に収録される「大為爾の歌」では「あ行」の「え」しかない。この頃には「あ行」と「や行」の「え」の発音はともに [je] になっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 232, "tag": "p", "text": "「わ行」は、「わ」を除いて「あ行」との合流が起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 233, "tag": "p", "text": "平安時代末頃には、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 234, "tag": "p", "text": "が同一に帰した。3が同音になったのは11世紀末頃、1と2が同音になったのは12世紀末頃と考えられている。藤原定家の『下官集』(13世紀)では「お」・「を」、「い」・「ゐ」・「ひ」、「え」・「ゑ」・「へ」の仮名の書き分けが問題になっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 235, "tag": "p", "text": "当時の発音は、1は現在の [i](イ)、2は [je](イェ)、3は [wo](ウォ)のようであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 236, "tag": "p", "text": "3が現在のように [o](オ)になったのは江戸時代であったとみられる。18世紀の『音曲玉淵集』では、「お」「を」を「ウォ」と発音しないように説いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 237, "tag": "p", "text": "2が現在のように [e](エ)になったのは、新井白石『東雅』総論の記述からすれば早くとも元禄享保頃(17世紀末から18世紀初頭)以降、『謳曲英華抄』の記述からすれば18世紀中葉頃とみられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 238, "tag": "p", "text": "「が行」の子音は、語中・語尾ではいわゆる鼻濁音(ガ行鼻音)の [ŋ] であった。鼻濁音は、近代に入って急速に勢力を失い、語頭と同じ破裂音の [ɡ] または摩擦音の [ɣ] に取って代わられつつある。今日、鼻濁音を表記する時は、「か行」の文字に半濁点を付して「カミ(鏡)」のように書くこともある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 239, "tag": "p", "text": "「じ・ぢ」「ず・づ」の四つ仮名は、室町時代前期の京都ではそれぞれ [ʑi], [dji], [zu], [du] と発音されていたが、16世紀初め頃に「ち」「ぢ」が口蓋化し、「つ」「づ」が破擦音化した結果、「ぢ」「づ」の発音がそれぞれ [ʥi], [ʣu] となり、「じ」「ず」の音に近づいた。16世紀末のキリシタン資料ではそれぞれ「ji・gi」「zu・zzu」など異なるローマ字で表されており、当時はまだ発音の区別があったことが分かるが、当時既に混同が始まっていたことも記録されている。17世紀末頃には発音の区別は京都ではほぼ消滅したと考えられている(今も区別している方言もある)。「せ・ぜ」は「xe・je」で表記されており、現在の「シェ・ジェ」に当たる [ɕe], [ʑe] であったことも分かっている。関東では室町時代末にすでに [se], [ze] の発音であったが、これはやがて西日本にも広がり、19世紀中頃には京都でも一般化した。現在は東北や九州などの一部に [ɕe], [ʑe] が残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 240, "tag": "p", "text": "平安時代から、発音を簡便にするために単語の音を変える音便現象が少しずつ見られるようになった。「次(つ)ぎて」を「次いで」とするなどのイ音便、「詳(くは)しくす」を「詳しうす」とするなどのウ音便、「発(た)ちて」を「発って」とするなどの促音便、「飛びて」を「飛んで」とするなどの撥音便が現れた。『源氏物語』にも、「いみじく」を「いみじう」とするなどのウ音便が多く、また、少数ながら「苦しき」を「苦しい」とするなどのイ音便の例も見出される。鎌倉時代以降になると、音便は口語では盛んに用いられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 241, "tag": "p", "text": "中世には、「差して」を「差いて」、「挟みて」を「挟うで」、「及びて」を「及うで」などのように、今の共通語にはない音便形も見られた。これらの形は、今日でも各地に残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 242, "tag": "p", "text": "鎌倉時代・室町時代には連声(れんじょう)の傾向が盛んになった。撥音または促音の次に来た母音・半母音が「な行」音・「ま行」音・「た行」音に変わる現象で、たとえば、銀杏は「ギン」+「アン」で「ギンナン」、雪隠は「セッ」+「イン」で「セッチン」となる。助詞「は」(ワ)と前の部分とが連声を起こすと、「人間は」→「ニンゲンナ」、「今日は」→「コンニッタ」となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 243, "tag": "p", "text": "また、この時代には、「中央」の「央」など「アウ」 [au] の音が合して長母音 [ɔː] になり、「応対」の「応」など「オウ」 [ou] の音が [oː] になった(「カウ」「コウ」など頭子音が付いた場合も同様)。口をやや開ける前者を開音、口をすぼめる後者を合音と呼ぶ。また、「イウ」 [iu]、「エウ」 [eu] などの二重母音は、[juː]、[joː] という拗長音に変化した。「開合」の区別は次第に乱れ、江戸時代には合一して今日の [oː](オー)になった。京都では、一般の話し言葉では17世紀に開合の区別は失われた。しかし方言によっては今も開合の区別が残っているものもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 244, "tag": "p", "text": "漢語が日本で用いられるようになると、古来の日本に無かった合拗音「クヮ・グヮ」「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の音が発音されるようになった。これらは [kwa] [ɡwe] などという発音であり、「キクヮイ(奇怪)」「ホングヮン(本願)」「ヘングヱ(変化)」のように用いられた。当初は外来音の意識が強かったが、平安時代以降は普段の日本語に用いられるようになったとみられる。ただし「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の寿命は短く、13世紀には「キ・ギ」「ケ・ゲ」に統合された。「クヮ」「グヮ」は中世を通じて使われていたが、室町時代にはすでに「カ・ガ」との間で混同が始まっていた。江戸時代には混同が進んでいき、江戸では18世紀中頃には直音の「カ・ガ」が一般化した。ただし一部の方言には今も残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 245, "tag": "p", "text": "漢語は平安時代頃までは原語である中国語に近く発音され、日本語の音韻体系とは別個のものと意識されていた。入声韻尾の [-k], [-t], [-p], 鼻音韻尾の [-m], [-n], [-ŋ] なども原音にかなり忠実に発音されていたと見られる。鎌倉時代には漢字音の日本語化が進行し、[ŋ] はウに統合され、韻尾の [-m] と [-n] の混同も13世紀に一般化し、撥音の /ɴ/ に統合された。入声韻尾の [-k] は開音節化してキ、クと発音されるようになり、[-p] も [-ɸu](フ)を経てウで発音されるようになった。[-t] は開音節化したチ、ツの形も現れたが、子音終わりの [-t] の形も17世紀末まで並存して使われていた。室町時代末期のキリシタン資料には、「butmet」(仏滅)、「bat」(罰)などの語形が記録されている。江戸時代に入ると開音節の形が完全に一般化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 246, "tag": "p", "text": "近代以降には、外国語(特に英語)の音の影響で新しい音が使われ始めた。比較的一般化した「シェ・チェ・ツァ・ツェ・ツォ・ティ・ファ・フィ・フェ・フォ・ジェ・ディ・デュ」などの音に加え、場合によっては、「イェ・ウィ・ウェ・ウォ・クァ・クィ・クェ・クォ・ツィ・トゥ・グァ・ドゥ・テュ・フュ」などの音も使われる。これらは、子音・母音のそれぞれを取ってみれば、従来の日本語にあったものである。「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ・ヴュ」のように、これまで無かった音は、書き言葉では書き分けても、実際に発音されることは少ない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 247, "tag": "p", "text": "動詞の活用種類は、平安時代には9種類であった。すなわち、四段・上一段・上二段・下一段・下二段・カ変・サ変・ナ変・ラ変に分かれていた。これが時代とともに統合され、江戸時代には5種類に減った。上二段は上一段に、下二段は下一段にそれぞれ統合され、ナ変(「死ぬ」など)・ラ変(「有り」など)は四段に統合された。これらの変化は、古代から中世にかけて個別的に起こった例もあるが、顕著になったのは江戸時代に入ってからのことである。ただし、ナ変は近代に入ってもなお使用されることがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 248, "tag": "p", "text": "このうち、最も規模の大きな変化は二段活用の一段化である。二段→一段の統合は、室町時代末期の京阪地方では、まだまれであった(関東では比較的早く完了した)。それでも、江戸時代前期には京阪でも見られるようになり、後期には一般化した。すなわち、今日の「起きる」は、平安時代には「き・き・く・くる・くれ・きよ」のように「き・く」の2段に活用したが、江戸時代には「き・き・きる・きる・きれ・きよ(きろ)」のように「き」の1段だけで活用するようになった。また、今日の「明ける」は、平安時代には「け・く」の2段に活用したが、江戸時代には「け」の1段だけで活用するようになった。しかも、この変化の過程では、終止・連体形の合一が起こっているため、鎌倉・室町時代頃には、前後の時代とは異なった活用の仕方になっている。次に時代ごとの活用を対照した表を掲げる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 249, "tag": "p", "text": "形容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように活用したク活用と、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク活用が存在した。この区別は、終止・連体形の合一とともに消滅し、形容詞の活用種類は一つになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 250, "tag": "p", "text": "今日では、文法用語の上で、四段活用が五段活用(実質的には同じ)と称され、已然形が仮定形と称されるようになったものの、活用の種類および活用形は基本的に江戸時代と同様である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 251, "tag": "p", "text": "かつての日本語には、係り結びと称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を連体形(「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または已然形(「こそ」の場合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連体形で結んだ)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 252, "tag": "p", "text": "係り結びをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬ぞ寂しさ増さりける」(『古今集』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里ぞ冬は寂しさ増さりける」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 253, "tag": "p", "text": "ところが、中世には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、文末を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 254, "tag": "p", "text": "今日の口語文には、規則的な係り結びは存在しない。ただし、「貧乏でこそあれ、彼は辛抱強い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような形で化石的に残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 255, "tag": "p", "text": "活用語のうち、四段活用以外の動詞・形容詞・形容動詞および多くの助動詞は、平安時代には、終止形と連体形とが異なる形態を採っていた。たとえば、動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(とき)」(連体形)のようであった。ところが、係り結びの形式化とともに、上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多く見られるようになった。たとえば、『源氏物語』には、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 256, "tag": "p", "text": "などの言い方があるが、本来ならば「見おろさる」の形で終止すべきものである。 このような例は、中世には一般化した。その結果、動詞・形容詞および助動詞は、形態上、連体形と終止形との区別がなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 257, "tag": "p", "text": "形容動詞は、終止形・連体形活用語尾がともに「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。たとえば、「辛労なり」は、終止形・連体形とも「辛労な」となった。もっとも、終止形には、むしろ「にてある」から来た「ぢや」が用いられることが普通であった。したがって、終止形は「辛労ぢや」、連体形は「辛労な」のようになった。「ぢや」は主として上方で用いられ、東国では「だ」が用いられた。今日の共通語も東国語の系統を引いており、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠の一つとなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 258, "tag": "p", "text": "文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 259, "tag": "p", "text": "今日、「漢字が書ける」「酒が飲める」などと用いる、いわゆる可能動詞は、室町時代には発生していた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むことができる)が、「持つ」から「持つる」(=持つことができる)が作られるなど、四段活用の動詞を元にして、可能を表す下二段活用の動詞が作られ始めた。これらの動詞は、やがて一段化して、「読める」「持てる」のような語形で用いられるようになった。これらの可能動詞は、江戸時代前期の上方でも用いられ、後期の江戸では普通に使われるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 260, "tag": "p", "text": "従来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に対して「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」と下二段動詞の「抜く」(抜ける)とが対応する例は多く存在した。この場合、後者は、「自然にそうなる」という自然生起(自発)を表した。そこから類推した結果、「文字を読む」に対して「文字が読むる(読める)」などの可能動詞が出来上がったものと考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 261, "tag": "p", "text": "近代以降、とりわけ大正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆる「ら抜き言葉」が広がり始めた。「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」という類である。この語法は、地方によっては早く一般化し、第二次世界大戦後には全国的に顕著になっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 262, "tag": "p", "text": "受け身の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。もともと、日本語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった。したがって、物が受け身表現の主語になることはほとんどなかった。『枕草子』の「にくきもの」に", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 263, "tag": "p", "text": "とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。一方、「この橋は多くの人々によって造られた」「源氏物語は紫式部によって書かれた」のような言い方は、古くは存在しなかったと見られる。これらの受け身は、状態を表すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 264, "tag": "p", "text": "「この橋は多くの人々によって造られた」式の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られる。明治時代には", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 265, "tag": "p", "text": "のような欧文風の受け身が用いられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 266, "tag": "p", "text": "漢字(中国語の語彙)が日本語の中に入り始めたのはかなり古く、文献の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、元々は漢語からの借用語であった可能性もあるが、上古漢字の場合、馬と梅の発音は違う。異民族が中国をよく支配してから漢語の発音は変わっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 267, "tag": "p", "text": "中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に一般の日本語に取り入れられていった。鎌倉時代最末期の『徒然草』では、漢語及び混種語(漢語と和語の混交)は、異なり語数(文中の同一語を一度しかカウントしない)で全体の31%を占めるに至っている。ただし、延べ語数(同一語を何度でもカウントする)では13%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める。幕末の和英辞典『和英語林集成』の見出し語でも、漢語はなお25%ほどに止まっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 268, "tag": "p", "text": "漢字がよく使われるようになったのは幕末から明治時代にかけてである。「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。古典中国語にない語を特に和製漢語という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、京都祇園の芸者も漢語を好み、「霖雨ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢の火がなかなかつかない)などと言っていたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 269, "tag": "p", "text": "漢字は今も多く使われている。雑誌調査では、延べ語数・異なり語数ともに和語を上回り、全体の半数近くに及ぶまでになっている(「語種」参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 270, "tag": "p", "text": "漢字を除き、他言語の語彙を借用することは、古代にはそれほど多くなかった。このうち、梵語の語彙は、多く漢語に取り入れられた後に、仏教と共に日本に伝えられた。「娑婆」「檀那」「曼荼羅」などがその例である。また、今日では和語と扱われる「ほとけ(仏)」「かわら(瓦)」なども梵語由来であるとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 271, "tag": "p", "text": "西洋語が輸入され始めたのは、中世にキリシタン宣教師が来日した時期以降である。室町時代には、ポルトガル語から「カステラ」「コンペイトウ」「サラサ」「ジュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロード」などの語が取り入れられた。「メリヤス」など一部スペイン語も用いられた。江戸時代にも、「カッパ(合羽)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「エニシダ」などのスペイン語が用いられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 272, "tag": "p", "text": "また、江戸時代には、蘭学などの興隆とともに、「アルコール」「エレキ」「ガラス」「コーヒー」「ソーダ」「ドンタク」などのオランダ語が伝えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 273, "tag": "p", "text": "幕末から明治時代以後には、英語を中心とする外来語が急増した。「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日では普通使われない語で、当時一般に使われていたものもあった。坪内逍遥『当世書生気質』(1885) には書生のせりふの中に「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急いて行きよつたら、大丈夫ぢゃらう」「想ふに又貸とは遁辞(プレテキスト)で、七(セブン)〔=質屋〕へ典(ポウン)した歟(か)、売(セル)したに相違ない」などという英語が多く出てくる。このような語のうち、日本語として定着した語も多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 274, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が激しくなるにつれて、外来語を禁止または自粛する風潮も起こったが、戦後はアメリカ発の外来語が爆発的に多くなった。現在では、報道・交通機関・通信技術の発達により、新しい外来語が瞬時に広まる状況が生まれている。雑誌調査では、異なり語数で外来語が30%を超えるという結果が出ており、現代語彙の中で欠くことのできない存在となっている(「語種」参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 275, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 276, "tag": "p", "text": "漢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ変動詞・形容動詞の語彙が特に増大することになった。漢語は活用しない語であり、本質的には体言(名詞)として取り入れられたが、「す」をつければサ変動詞(例、祈念す)、「なり」をつければ形容動詞(例、神妙なり)として用いることができた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 277, "tag": "p", "text": "漢語により、厳密な概念を簡潔に表現することが可能になった。一般に、和語は一語が広い意味で使われる。たとえば、「とる」という動詞は、「資格をとる」「栄養をとる」「血液をとる」「新人をとる」「映画をとる」のように用いられる。ところが、漢語を用いて、「取得する(取得す)」「摂取する」「採取する」「採用する」「撮影する」などと、さまざまなサ変動詞で区別して表現することができるようになった。また、日本語の「きよい(きよし)」という形容詞は意味が広いが、漢語を用いて、「清潔だ(清潔なり)」「清浄だ」「清澄だ」「清冽だ」「清純だ」などの形容動詞によって厳密に表現することができるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 278, "tag": "p", "text": "外来語は、漢語ほど高い造語力を持たないものの、漢語と同様に、特に名詞・サ変動詞・形容動詞の部分で日本語の語彙を豊富にした。「インキ」「バケツ」「テーブル」など名詞として用いられるほか、「する」を付けて「スケッチする」「サービスする」などのサ変動詞として、また、「だ」をつけて「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの形容動詞として用いられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 279, "tag": "p", "text": "漢語・外来語の増加によって、形容詞と形容動詞の勢力が逆転した。元来、和語には形容詞・形容動詞ともに少なかったが、数の上では、形容詞が形容表現の中心であり、形容動詞がそれを補う形であった。『万葉集』では名詞59.7%、動詞31.5%、形容詞3.3%、形容動詞0.5%であり、『源氏物語』でも名詞42.5%、動詞44.6%、形容詞5.3%、形容動詞5.1%であった(いずれも異なり語数)。ところが、漢語・外来語を語幹とした形容動詞が漸増したため、現代語では形容動詞が形容詞を上回るに至っている(「品詞ごとの語彙量」の節参照)。ただし、一方で漢語・外来語に由来する名詞・サ変動詞なども増えているため、語彙全体から見ればなお形容詞・形容動詞の割合は少ない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 280, "tag": "p", "text": "形容詞の造語力は今日ではほとんど失われており、近代以降のみ確例のある新しい形容詞は「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない。一方、形容動詞は今日に至るまで高い造語力を保っている。特に、「科学的だ」「人間的だ」など接尾語「的」を付けた語の大多数や、「エレガントだ」「クリーンだ」など外来語に由来するものは近代以降の新語である。しかも、新しい形容動詞の多くは漢語・外来語を語幹とするものである。現代雑誌の調査によれば、形容動詞で語種のはっきりしているもののうち、和語は2割ほどであり、漢語は3割強、外来語は4割強という状況である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 281, "tag": "p", "text": "元来、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには中国渡来の漢字を用いた(いわゆる神代文字は後世の偽作とされている)。漢字の記された遺物の例としては、1世紀のものとされる福岡市出土の「漢委奴国王印」などもあるが、本格的に使用されたのはより後年とみられる。『古事記』によれば、応神天皇の時代に百済の学者王仁が「論語十巻、千字文一巻」を携えて来日したとある。稲荷山古墳出土の鉄剣銘(5世紀)には、雄略天皇と目される人名を含む漢字が刻まれている。「隅田八幡神社鏡銘」(6世紀)は純漢文で記されている。このような史料から、大和政権の勢力伸長とともに漢字使用域も拡大されたことが推測される。6世紀〜7世紀になると儒教、仏教、道教などについて漢文を読む必要が出てきたため識字層が広がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 282, "tag": "p", "text": "漢字で和歌などの大和言葉を記す際、「波都波流能(はつはるの)」のように日本語の1音1音を漢字の音(または訓)を借りて写すことがあった。この表記方式を用いた資料の代表が『万葉集』(8世紀)であるため、この表記のことを「万葉仮名」という(すでに7世紀中頃の木簡に例が見られる)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 283, "tag": "p", "text": "9世紀には万葉仮名の字体をより崩した「草仮名」が生まれ(『讃岐国戸籍帳』の「藤原有年申文」など)、さらに、草仮名をより崩した平仮名の誕生をみるに至った。これによって、初めて日本語を自由に記すことが可能になった。平仮名を自在に操った王朝文学は、10世紀初頭の『古今和歌集』などに始まり、11世紀の『源氏物語』などの物語作品群で頂点を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 284, "tag": "p", "text": "僧侶や学者らが漢文を訓読する際には、漢字の隅に点を打ち、その位置によって「て」「に」「を」「は」などの助詞その他を表すことがあった(ヲコト点)。しかし、次第に万葉仮名を添えて助詞などを示すことが一般化した。やがて、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 285, "tag": "p", "text": "平仮名も、片仮名も、発生当初から、1つの音価に対して複数の文字が使われていた。たとえば、/ha/(当時の発音は [ɸa])に当たる平仮名としては、「波」「者」「八」などを字源とするものがあった。1900年(明治33年)に「小学校令施行規則」が出され、小学校で教える仮名は1字1音に整理された。これ以降使われなくなった仮名を、今日では変体仮名と呼んでいる。変体仮名は、現在でも料理屋の名などに使われることがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 286, "tag": "p", "text": "平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。その後、発音の変化に伴って、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、「はな(花)」の「は」と「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」([ɸa]) であったとみられるが、平安時代に起こったハ行転呼により、「かは(川)」など語中語尾の「は」は「ワ」と発音するようになった。ところが、「ワ」と読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」という発音を表記するとき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 287, "tag": "p", "text": "その時々の知識人は、仮名遣いについての規範を示すこともあったが(藤原定家『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「日本語研究史」の節参照)。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。万人に用いられる仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 288, "tag": "p", "text": "漢字の字数・字体および仮名遣いについては、近代以降、たびたび改定が議論され、また実施に移されてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 289, "tag": "p", "text": "仮名遣いについては、早く小学校令施行規則(1900年)において、「にんぎやう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「棒引き仮名遣い」が採用されたことがあった。1904年から使用の『尋常小学読本』(第1期)はこの棒引き仮名遣いに従った。しかし、これは評判が悪く、規則の改正とともに、次期1910年の教科書から元の仮名遣いに戻った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 290, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の1946年には、「当用漢字表」「現代かなづかい」が内閣告示された。これに伴い、一部の漢字の字体に略字体が採用され、それまでの歴史的仮名遣いによる学校教育は廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 291, "tag": "p", "text": "1946年および1950年の米教育使節団報告書では、国字のローマ字化について勧告および示唆が行われ、国語審議会でも議論されたが、実現しなかった。1948年には、GHQの民間情報教育局 (CIE) の指示による読み書き能力調査が行われた。漢字が日本人の識字率を抑えているとの考え方に基づく調査であったが、その結果は、調査者の予想に反して日本人の識字率は高水準であったことが判明した。 1981年には、当用漢字表・現代かなづかいの制限色を薄めた「常用漢字表」および改訂「現代仮名遣い」が内閣告示された。また、送り仮名に関しては、数次にわたる議論を経て、1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示され、今日に至っている。戦後の国語政策は、必ずしも定見に支えられていたとはいえず、今に至るまで議論が続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 292, "tag": "p", "text": "平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は漢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたとみられるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて訓読されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 293, "tag": "p", "text": "漢文訓読の習慣に伴い、漢文に日本語特有の「賜」(...たまふ)や「坐」(...ます)のような語句を混ぜたり、一部を日本語の語順で記したりした「和化漢文」というべきものが生じた(6世紀の法隆寺薬師仏光背銘などに見られる)。さらには「王等臣等乃中尓」(『続日本紀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」といった助詞などを小書きにして添える文体が現れた。この文体は祝詞(のりと)・宣命(せんみょう)などに見られるため、「宣命書き」と呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 294, "tag": "p", "text": "漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にした「漢字片仮名交じり文」を形成した。最古の例は『東大寺諷誦文稿』(9世紀)とされる。漢字片仮名交じり文では、漢語が多用されるばかりでなく、言い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「何(なん)ゾ言ハザル」のように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 295, "tag": "p", "text": "一方、平安時代の宮廷文学の文体(和文)は、基本的に和語を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうの「甚ダ広クシテ」「何ゾ言ハザル」は、和文では「いと広う」「などかのたまはぬ」となる。和文は、表記法から見れば、平仮名にところどころ漢字の交じる「平仮名漢字交じり文」である。「春はあけぼの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりて......」で始まる『枕草子』の文体は典型例の一つである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 296, "tag": "p", "text": "両者の文体は、やがて合わさり、『平家物語』に見られるような和漢混淆文が完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 297, "tag": "p", "text": "ここでは、「強呉」「荊棘」といった漢語、「すでに」といった漢文訓読の言い回しがある一方、「かくやとおぼえて哀れなり」といった和文の語彙・言い回しも使われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 298, "tag": "p", "text": "今日、最も普通に用いられる文章は、和語と漢語を適度に交えた一種の和漢混淆文である。「先日、友人と同道して郊外を散策した」というような漢語の多い文章と、「この間、友だちと連れだって町はずれをぶらぶら歩いた」というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 299, "tag": "p", "text": "話し言葉は、時代と共にきわめて大きな変化を遂げるが、それに比べて、書き言葉は変化の度合いが少ない。そのため、何百年という間には、話し言葉と書き言葉の差が生まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 300, "tag": "p", "text": "日本語の書き言葉がひとまず成熟したのは平安時代中期であり、その頃は書き言葉・話し言葉の差は大きくなかったと考えられる。しかしながら、中世のキリシタン資料のうち、語り口調で書かれているものを見ると、書き言葉と話し言葉とにはすでに大きな開きが生まれていたことが窺える。江戸時代の洒落本・滑稽本の類では、会話部分は当時の話し言葉が強く反映され、地の部分の書き言葉では古来の文法に従おうとした文体が用いられている。両者の違いは明らかである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 301, "tag": "p", "text": "明治時代の書き言葉は、依然として古典文法に従おうとしていたが、単語には日常語を用いた文章も現れた。こうした書き言葉は、一般に「普通文」と称された。普通文は、以下のように小学校の読本でも用いられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 302, "tag": "p", "text": "普通文は、厳密には、古典文法そのままではなく、新しい言い方も多く混じっていた。たとえば、「解釈せらる」というべきところを「解釈さる」、「就学せしむる義務」を「就学せしむるの義務」などと言うことがあった。そこで、文部省は新しい語法のうち一部慣用の久しいものを認め、「文法上許容スベキ事項」(1905年・明治38年)16条を告示した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 303, "tag": "p", "text": "一方、明治20年代頃から、二葉亭四迷・山田美妙ら文学者を中心に、書き言葉を話し言葉に近づけようとする努力が重ねられた(言文一致運動)。二葉亭は「だ」体、美妙は「です」体、尾崎紅葉は「である」体といわれる文章をそれぞれ試みた。このような試みが広まる中で、新聞・雑誌の記事なども話し言葉に近い文体が多くなっていく。古来の伝統的文法に従った文章を文語文、話し言葉を反映した文章を口語文という。第二次世界大戦後は、法律文などの公文書ももっぱら口語文で書かれるようになり、文語文は日常生活の場から遠のいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 304, "tag": "p", "text": "日本語は、文献時代に入ったときにはすでに方言差があった。『万葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には当時の東国方言による歌が記録されている。820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見え、これが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。平安初期の中央の人々の方言観が窺える貴重な記録である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 305, "tag": "p", "text": "平安時代から鎌倉時代にかけては、中央の文化的影響力が圧倒的であったため、方言に関する記述は断片的なものにとどまったが、室町時代、とりわけ戦国時代には中央の支配力が弱まり地方の力が強まった結果、地方文献に方言を反映したものがしばしば現われるようになった。洞門抄物と呼ばれる東国系の文献が有名であるが、古文書類にもしばしば方言が登場するようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 306, "tag": "p", "text": "安土桃山時代から江戸時代極初期にかけては、ポルトガル人の宣教師が数多くのキリシタン資料を残しているが、その中に各地の方言を記録したものがある。京都のことばを中心に据えながらも九州方言を多数採録した『日葡辞書』(1603年〜1604年)や、筑前や備前など各地の方言の言語的特徴を記した『ロドリゲス日本大文典』(1604年〜1608年)はその代表である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 307, "tag": "p", "text": "この時期には琉球方言(琉球語)の資料も登場する。最古期に属するものとしては、中国資料の『琉球館訳語』(16世紀前半成立)があり、琉球の言葉を音訳表記によって多数記録している。また、1609年の島津侵攻事件で琉球王国を支配下に置いた薩摩藩も、記録類に琉球の言葉を断片的に記録しているが、語史の資料として見た場合、琉球諸島に伝わる古代歌謡・ウムイを集めた『おもろさうし』(1531年〜1623年)が、質・量ともに他を圧倒している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 308, "tag": "p", "text": "奈良時代以来、江戸幕府が成立するまで、近畿方言が中央語の地位にあった。朝廷から徳川家へ征夷大将軍の宣下がなされて以降、江戸文化が開花するとともに、江戸語の地位が高まり、明治時代には東京語が日本語の標準語と見なされるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 309, "tag": "p", "text": "明治政府の成立後は、政治的・社会的に全国的な統一を図るため、また、近代国家として外国に対するため、言葉の統一・標準化が求められるようになった。学校教育では「東京の中流社会」の言葉が採用され、放送でも同様の言葉が「共通用語」(共通語)とされた。こうして標準語の規範意識が確立していくにつれ、方言を矯正しようとする動きが広がった。教育家の伊沢修二は、教員向けに書物を著して東北方言の矯正法を説いた。地方の学校では方言を話した者に首から「方言札」を下げさせるなどの罰則も行われた。軍隊では命令伝達に支障を来さないよう、初等教育の段階で共通語の使用が指導された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 310, "tag": "p", "text": "一方、戦後になると各地の方言が失われつつあることが危惧されるようになった。NHK放送文化研究所は、(昭和20年代の時点で)各地の純粋な方言は80歳以上の老人の間でのみ使われているにすぎないとして、1953年から5年計画で全国の方言の録音を行った。この録音調査には、柳田邦夫、東条操、岩淵悦太郎、金田一春彦など言語学者らが指導にあたった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 311, "tag": "p", "text": "ただし、戦後しばらくは共通語の取得に力点を置いた国語教育が初等教育の現場で続き、昭和22年(1947年)の学習指導要領国語科編(試案)では、「なるべく、方言や、なまり、舌のもつれをなおして、標準語に近づける」「できるだけ、語法の正しいことばをつかい、俗語または方言をさけるようにする」との記載が見られる。また、昭和33年(1958年)の小学校学習指導要領でも、「小学校の第六学年を終了するまでに, どのような地域においても, 全国に通用することばで, 一応聞いたり話したりすることができるようにする」との記述がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 312, "tag": "p", "text": "また、経済成長とともに地方から都市への人口流入が始まると、標準語と方言の軋轢が顕在化した。1950年代後半から、地方出身者が自分の言葉を笑われたことによる自殺・事件が相次いだ。このような情勢を受けて、方言の矯正教育もなお続けられた。鎌倉市立腰越小学校では、1960年代に、「ネサヨ運動」と称して、語尾に「〜ね」「〜さ」「〜よ」など関東方言特有の語尾をつけないようにしようとする運動が始められた。同趣の運動は全国に広がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 313, "tag": "p", "text": "高度成長後になると、方言に対する意識に変化が見られるようになった。1980年代初めのアンケート調査では、「方言を残しておきたい」と回答する者が90%以上に達する結果が出ている。方言の共通語化が進むとともに、いわゆる「方言コンプレックス」が解消に向かい、方言を大切にしようという気運が盛り上がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 314, "tag": "p", "text": "1990年代以降は、若者が言葉遊びの感覚で方言を使うことに注目が集まるようになった。1995年にはラップ「DA.YO.NE」の関西版「SO.YA.NA」などの方言替え歌が話題を呼び、報道記事にも取り上げられた。首都圏出身の都内大学生を対象とした調査では、東京の若者の間にも関西方言が浸透していることが観察されるという。2005年頃には、東京の女子高生たちの間でも「でら(とても)かわいいー!」「いくべ」などと各地の方言を会話に織り交ぜて使うことが流行し始め、女子高生のための方言参考書の類も現れた。「超おもしろい」など「超」の新用法も、もともと静岡県で発生して東京に入ったとされるが、若者言葉や新語の発信地が東京に限らない状況になっている(「方言由来の若者言葉」を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 315, "tag": "p", "text": "方言学の世界では、かつては、標準語の確立に資するための研究が盛んであったが、今日の方言研究は、必ずしもそのような視点のみによって行われてはいない。中央語の古形が方言に残ることは多く、方言研究が中央語の史的研究に資することはいうまでもない。しかし、それにとどまらず、個々の方言の研究は、それ自体、独立した学問と捉えることができる。山浦玄嗣の「ケセン語」研究に見られるように、研究者が自らの方言に誇りを持ち、日本語とは別個の言語として研究するという立場も生まれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 316, "tag": "p", "text": "日本人自身が日本語に関心を寄せてきた歴史は長く、『古事記』『万葉集』の記述にも語源・用字法・助字などについての関心が垣間見られる。古来、さまざまな分野の人々によって日本語研究が行われてきたが、とりわけ江戸時代に入ってからは、秘伝にこだわらない自由な学風が起こり、客観的・実証的な研究が深められた。近代に西洋の言語学が輸入される以前に、日本語の基本的な性質はほぼ明らかになっていたといっても過言ではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 317, "tag": "p", "text": "以下では、江戸時代以前・以後に分けて概説し、さらに近代について付説する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 318, "tag": "p", "text": "江戸時代以前の日本語研究の流れは、大きく分けて3分野あった。中国語(漢語)学者による研究、悉曇学者による研究、歌学者による研究である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 319, "tag": "p", "text": "中国語との接触、すなわち漢字の音節構造について学習することにより、日本語の相対的な特徴が意識されるようになった。『古事記』には「淤能碁呂嶋自淤以下四字以音」(オノゴロ嶋〈淤より以下の四字は音を以ゐよ〉)のような音注がしばしば付けられているが、これは漢字を借字として用い、中国語で表せない日本語の固有語を1音節ずつ漢字で表記したものである。こうした表記法を通じて、日本語の音節構造が自覚されるようになったと考えられる。また漢文の訓読により、中国語にない助詞・助動詞の要素が意識されるようになり、漢文を読み下す際に必要な「て」「に」「を」「は」などの要素は、当初は点を漢字に添えることで表現していたのが(ヲコト点)、後に借字、さらに片仮名が用いられるようになった。これらの要素は「てにをは」の名で一括され、後に一つの研究分野となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 320, "tag": "p", "text": "日本語の1音1音を借字で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、後にあらゆる仮名を1回ずつ集めて誦文にしたものが成立している。平安時代初期に「天地の詞」が、平安時代中期には「いろは歌」が現れた。これらはほんらい漢字音のアクセント習得のために使われたとみられるが、のちにいろは歌は文脈があって内容を覚えやすいことから、『色葉字類抄』(12世紀)など物の順番を示す「いろは順」として用いられ、また仮名の手本としても人々の間に一般化している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 321, "tag": "p", "text": "一方、悉曇学の研究により、梵語(サンスクリット)に整然とした音韻組織が存在することが知られるようになった。平安時代末期に成立したと見られる「五十音図」は、「あ・か・さ・た・な......」の行の並び方が梵語の悉曇章(字母表)の順に酷似しており、悉曇学を通じて日本語の音韻組織の研究が進んだことをうかがわせる。もっとも、五十音図作成の目的は、一方では、中国音韻学の反切を理解するためでもあった。当初、その配列はかなり自由であった(ほぼ現在に近い配列が定着したのは室町時代以後)。最古の五十音図は、平安時代末期の悉曇学者明覚の『反音作法』に見られる。明覚はまた、『悉曇要訣』において、梵語の発音を説明するために日本語の例を多く引用し、日本語の音韻組織への関心を見せている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 322, "tag": "p", "text": "歌学は平安時代以降、大いに興隆した。和歌の実作および批評のための学問であったが、正当な語彙・語法を使用することへの要求から、日本語の古語に関する研究や、「てにをは」の研究、さらに仮名遣いへの研究に繋がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 323, "tag": "p", "text": "このうち、古語の研究では、語と語の関係を音韻論的に説明することが試みられた。たとえば、顕昭の『袖中抄』では、「七夕つ女(たなばたつめ)」の語源は「たなばたつま」だとして(これ自体は誤り)、「『ま』と『め』とは同じ五音(=五十音の同じ行)なる故也」と説明している。このように、「五音相通(五十音の同じ行で音が相通ずること)」や「同韻相通(五十音の同じ段で音が相通ずること)」などの説明が多用されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 324, "tag": "p", "text": "「てにをは」の本格的研究は、鎌倉時代末期から室町時代初期に成立した『手爾葉大概抄』という短い文章によって端緒が付けられた。この文章では「名詞・動詞などの自立語(詞)が寺社であるとすれば、『てにをは』はその荘厳さに相当するものだ」と規定した上で、係助詞「ぞ」「こそ」とその結びの関係を論じるなど、「てにをは」についてごく概略的に述べている。また、室町時代には『姉小路式』が著され、係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」のほか終助詞「かな」などの「てにをは」の用法をより詳細に論じている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 325, "tag": "p", "text": "仮名遣いについては、鎌倉時代の初め頃に藤原定家がこれを問題とし、定家はその著作『下官集』において、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名表記に求め、規範を示そうとした。ところが「お」と「を」の区別については、平安時代末期にはすでにいずれも[wo]の音となり発音上の区別が無くなっていたことにより、相当な表記の揺れがあり、格助詞の「を」を除き前例による基準を見出すことができなかった。そこで『下官集』ではアクセントが高い言葉を「を」で、アクセントが低い言葉を「お」で記しているが、このアクセントの高低により「を」と「お」の使い分けをすることは、すでに『色葉字類抄』にも見られる。南北朝時代には行阿がこれを増補して『仮名文字遣』を著し、これが後に「定家仮名遣」と呼ばれる。行阿の姿勢も基準を古書に求めるというもので、「お」と「を」の区別についても定家仮名遣の原則を踏襲している。しかし行阿が『仮名文字遣』を著した頃、日本語にアクセントの一大変化があり、[wo]の音を含む語彙に関しても定家の時代とはアクセントの高低が異なってしまった。その結果「お」と「を」の仮名遣いについては、定家が示したものとは齟齬を生じている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 326, "tag": "p", "text": "なお、「お」と「を」の発音上の区別が無くなっていたことで、五十音図においても鎌倉時代以来「お」と「を」とは位置が逆転した誤った図が用いられていた(すなわち、「あいうえを」「わゐうゑお」となっていた)。これが正されるのは、江戸時代に本居宣長が登場してからのことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 327, "tag": "p", "text": "外国人による日本語研究も、中世末期から近世前期にかけて多く行われた。イエズス会では日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』(1603年)が編纂され、同会のロドリゲスによる文法書『日本大文典』(1608年)および『日本小文典』(1620年)は、ラテン語の文法書の伝統に基づいて日本語を分析したもので、いずれも価値が高い。一方、中国では『日本館訳語』(1549年頃)、李氏朝鮮では『捷解新語』(1676年)といった日本語学習書が編纂された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 328, "tag": "p", "text": "日本語の研究が高い客観性・実証性を備えるようになったのは、江戸時代の契沖の研究以来のことである。契沖は『万葉集』の注釈を通じて仮名遣いについて詳細に観察を行い、『和字正濫抄』(1695年)を著した。この書により、古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことが明らかにされ、契沖自身もその仮名遣いを実行した。契沖の掲出した見出し語は、後に楫取魚彦編の仮名遣い辞書『古言梯』(1765年)で増補され、後世において歴史的仮名遣いと称された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 329, "tag": "p", "text": "古語の研究では、松永貞徳の『和句解』(1662年)、貝原益軒の『日本釈名』(1700年)が出た後、新井白石により大著『東雅』(1719年)がまとめられた。白石は、『東雅』の中で語源説を述べるに当たり、終始穏健な姿勢を貫き、曖昧なものは「義未詳」として曲解を排した。また、賀茂真淵は『語意考』(1789年)を著し、「約・延・略・通」の考え方を示した。すなわち、「語形の変化は、縮める(約)か、延ばすか、略するか、音通(母音または子音の交替)かによって生じる」というものである。この原則は、それ自体は正当であるが、後にこれを濫用し、非合理な語源説を提唱する者も現れた。語源研究では、ほかに、鈴木朖が『雅語音声考』(1816年)を著し、「ほととぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほととぎ」「うぐい」「から」の部分は鳴き声であることを示すなど、興味深い考え方を示している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 330, "tag": "p", "text": "本居宣長は、仮名遣いの研究および文法の研究で非常な功績があった。まず、仮名遣いの分野では、『字音仮字用格』(1776年)を著し、漢字音を仮名で書き表すときにどのような仮名遣いを用いればよいかを論じた。その中で宣長は、鎌倉時代以来、五十音図で「お」と「を」の位置が誤って記されている(前節参照)という事実を指摘し、実に400年ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の形に戻した。この事実は、後に東条義門が『於乎軽重義』(1827年)で検証した。また、宣長は文法の研究、とりわけ係り結びの研究で成果を上げた。係り結びの一覧表である『ひも鏡』(1771年)をまとめ、『詞の玉緒』(1779年)で詳説した。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が連体形、「こそ」が来た場合は已然形で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示した。主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、必ずしもそうでない。主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける」(万葉集)「にほひの袖にとまれる」(古今集)のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示したことは重要である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 331, "tag": "p", "text": "品詞研究で成果を上げたのは富士谷成章であった。富士谷は、品詞を「名」(名詞)・「装(よそい)」(動詞・形容詞など)・「挿頭(かざし)」(副詞など)・「脚結(あゆい)」(助詞・助動詞など)の4類に分類した。『挿頭抄』(1767年)では今日で言う副詞の類を中心に論じた。特に注目すべき著作は『脚結抄』(1778年)で、助詞・助動詞を系統立てて分類し、その活用の仕方および意味・用法を詳細に論じた。内容は創見に満ち、今日の品詞研究でも盛んに引き合いに出される。『脚結抄』の冒頭に記された「装図」は、動詞・形容詞の活用を整理した表で、後の研究に資するところが大きかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 332, "tag": "p", "text": "活用の研究は、その後、鈴木朖の『活語断続譜』(1803年頃)、本居春庭の『詞八衢』(1806年)に引き継がれた。幕末には義門が『活語指南』(1844年)を著し、富樫広蔭が『辞玉襷』(1829年)を著すなど、日本語の活用が組織化・体系化されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 333, "tag": "p", "text": "このほか、江戸時代で注目すべき研究としては、石塚龍麿の『仮字用格奥山路』がある。万葉集の仮名に2種の書き分けが存在することを示したもので、長らく正当な扱いを受けなかったが、後に橋本進吉が上代特殊仮名遣の先駆的研究として再評価した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 334, "tag": "p", "text": "江戸時代後期から明治時代にかけて、西洋の言語学が紹介され、日本語研究は新たな段階を迎えた。もっとも、西洋の言語に当てはまる理論を無批判に日本語に応用することで、かえってこれまでの蓄積を損なうような研究も少なくなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 335, "tag": "p", "text": "こうした中で、古来の日本語研究と西洋言語学とを吟味して文法をまとめたのが大槻文彦であった。大槻は『言海』の中で文法論「語法指南」を記し(1889年)、後にこれを独立、増補して『広日本文典』(1897年)とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 336, "tag": "p", "text": "その後、高等教育の普及とともに、日本語研究者の数は増大した。1897年には東京帝国大学に国語研究室が置かれ、ドイツ帰りの上田萬年が初代主任教授として指導的役割を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 337, "tag": "p", "text": "近代以降、台湾や朝鮮半島などを併合・統治した日本は、現地民の台湾人・朝鮮民族への皇民化政策を推進するため、学校教育で日本語を国語として採用した。満州国(現在の中国東北部)にも日本人が数多く移住した結果、日本語が広く使用され、また、日本語は中国語とともに公用語とされた。日本語を解さない主に漢民族や満州族には簡易的な日本語である協和語が用いられていたこともあった。現在の台湾(中華民国)や朝鮮半島(北朝鮮・韓国)などでは、現在でも高齢者の中に日本語を解する人もいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 338, "tag": "p", "text": "一方、明治・大正から昭和戦前期にかけて、日本人がアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラジル・ペルーなどに多数移民し、日系人社会が築かれた。これらの地域コミュニティでは日本語が使用されたが、世代が若年になるにしたがって、日本語を解さない人が増えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 339, "tag": "p", "text": "1990年代以降、日本国外から日本への渡航者数が増加し、かつまた、日本企業で勤務する外国人労働者(日本の外国人)も飛躍的に増大しているため、国内外に日本語教育が広がっている。国・地域によっては、日本語を第2外国語など選択教科の一つとしている国もあり、日本国外で日本語が学習される機会は増えつつある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 340, "tag": "p", "text": "とりわけ、1990年代以降、「クールジャパン」といわれるように日本国外でアニメーションやゲーム、小説、ライトノベル、映画、テレビドラマ、J-POP(邦楽)に代表される音楽、漫画などに代表させる日本の現代サブカルチャーを「カッコいい」と感じる若者が増え、その結果、彼らの日本語に触れる機会が増えつつあるという。2021年9月に、単語検索ツールWordtipsが世界各国で語学学習をするに当たり、どの言語が最も人気があるかをGoogleキーワードプランナーを利用し調査したところ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった英語圏を中心に、日本語が最も学びたい言語に選ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 341, "tag": "p", "text": "日本人が訪問することの多い日本国外の観光地などでは、現地の広告や商業施設店舗の従業員との会話に日本語が使用されることもある。このような場で目に触れる日本語のうち、新奇で注意を引く例は、雑誌・書籍などで紹介されることも多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 342, "tag": "p", "text": "日本語が時と共に変化することはしばしば批判の対象となる。この種の批判は、古典文学の中にも見られる。『枕草子』では文末の「んとす」が「んず」といわれることを「いとわろし」と評している(「ふと心おとりとかするものは」)。また、『徒然草』では古くは「車もたげよ」「火かかげよ」と言われたのが、今の人は「もてあげよ」「かきあげよ」と言うようになったと記し、今の言葉は「無下にいやしく」なっていくようだと記している(第22段)。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 343, "tag": "p", "text": "これにとどまらず、言語変化について注意する記述は、歴史上、仮名遣い書や、『俊頼髄脳』などの歌論書、『音曲玉淵集』などの音曲指南書をはじめ、諸種の資料に見られる。なかでも、江戸時代の俳人安原貞室が、なまった言葉の批正を目的に編んだ『片言(かたこと)』(1650年)は、800にわたる項目を取り上げており、当時の言語実態を示す資料として価値が高い。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 344, "tag": "p", "text": "近代以降も、芥川龍之介が「澄江堂雑記」で、「とても」は従来否定を伴っていたとして、「とても安い」など肯定形になることに疑問を呈するなど、言語変化についての指摘が散見する。研究者の立場から同時代の気になる言葉を収集した例としては、浅野信『巷間の言語省察』(1933年)などがある。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 345, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後は、1951年に雑誌『言語生活』(当初は国立国語研究所が監修)が創刊されるなど、日本語への関心が高まった。そのような風潮の中で、あらゆる立場の人々により、言語変化に対する批判やその擁護論が活発に交わされるようになった。典型的な議論の例としては、金田一春彦「日本語は乱れていない」および宇野義方の反論が挙げられる。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 346, "tag": "p", "text": "いわゆる「日本語の乱れ」論議において、毎度のように話題にされる言葉も多い。1955年の国立国語研究所の有識者調査の項目には「ニッポン・ニホン(日本)」「ジッセン・ジュッセン(十銭)」「見られなかった・見れなかった」「御研究されました・御研究になりました」など、今日でもしばしば取り上げられる語形・語法が多く含まれている。とりわけ「見られる」を「見れる」とする語法は、1979年のNHK放送文化研究所「現代人の言語環境調査」で可否の意見が二分するなど、人々の言語習慣の違いを如実に示す典型例となっている。この語法は1980年代には「ら抜き言葉」と称され、盛んに取り上げられるようになった。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 347, "tag": "p", "text": "「言葉の乱れ」を指摘する声は、新聞・雑誌の投書にも多い。文化庁の「国語に関する世論調査」では、「言葉遣いが乱れている」と考える人が1977年に7割近くになり、2002年11月から12月の調査では8割となっている。人々のこのような認識は、いわゆる日本語ブームを支える要素の一つとなっている。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 348, "tag": "p", "text": "若者特有の用法は批判の的になってきた。近代以降の若者言葉批判の例として、小説家・尾崎紅葉が1888年に女性徒の間で流行していた「てよだわ体」を批判するなど、1900年前後に「てよだわ体」は批判の的となった。1980年代ごろから単なる言葉の乱れとしてではなく、研究者の記述の対象としても扱われるようにもなった。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 349, "tag": "p", "text": "いわゆる「若者言葉」は種々の意味で用いられ、必ずしも定義は一定していない。井上史雄の分類に即して述べると、若者言葉と称されるものは以下のように分類される。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 350, "tag": "p", "text": "上記は、いずれも批判にさらされうるという点では同様であるが、1 - 4の順で、次第に言葉の定着率は高くなるため、それだけ「言葉の乱れ」の例として意識されやすくなる。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 351, "tag": "p", "text": "上記の分類のうち「一時的流行語」ないし「若者世代語」に相当する言葉の発生要因に関し、米川明彦は心理・社会・歴史の面に分けて指摘している。その指摘は、およそ以下のように総合できる。すなわち、成長期にある若者は、自己や他者への興味が強まるだけでなく、従来の言葉の規範からの自由を求める。日本経済の成熟とともに「まじめ」という価値観が崩壊し、若者が「ノリ」によって会話するようになった。とりわけ、1990年代以降は「ノリ」を楽しむ世代が低年齢化し、消費・娯楽社会の産物として若者言葉が生産されているというものである。また、2007年頃からマスメディアが「場の空気」の文化を取り上げるようになってきてから、言葉で伝えるより、察し合って心を通わせることを重んじる者が増えた。これに対し、文化庁は、空気読めない (KY) と言われることを恐れ、場の空気に合わせようとする風潮の現れではないかと指摘している。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 352, "tag": "p", "text": "若者の日本語は、表記の面でも独自性を持つ。年代によりさまざまな日本語の表記が行われている。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 353, "tag": "p", "text": "1970年代から1980年代にかけて、少女の間で、丸みを帯びた書き文字が「かわいい」と意識されて流行し、「丸文字」「まんが文字」「変体少女文字(=書体の変わった少女文字の意)」などと呼ばれた。山根一眞の調査によれば、この文字は1974年までには誕生し、1978年に急激に普及を開始したという。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 354, "tag": "p", "text": "1990年頃から、丸文字に代わり、少女の間で、金釘流に似た縦長の書き文字が流行し始めた。平仮名の「に」を「レこ」のように書いたり、長音符の「ー」を「→」と書いたりする特徴があった。一見下手に見えるため、「長体ヘタウマ文字」などとも呼ばれた。マスコミでは「チョベリバ世代が楽しむヘタウマ文字」「女高生に広まる変なとんがり文字」などと紹介されたが、必ずしも大人世代の話題にはならないまま、確実に広まった。この文字を練習するための本も出版された。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 355, "tag": "p", "text": "携帯メールやインターネットの普及に伴い、ギャルと呼ばれる少女たちを中心に、デジタル文字の表記に独特の文字や記号を用いるようになった。「さようなら」を「±∋ぅTょら」と書く類で、「ギャル文字」としてマスコミにも取り上げられた。このギャル文字を練習するための本も現れた。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 356, "tag": "p", "text": "コンピュータの普及と、コンピュータを使用したパソコン通信などの始まりにより、日本語の約物に似た扱いとして顔文字が用いられるようになった。これは、コンピュータの文字としてコミュニケーションを行うときに、文章の後や単独で記号などを組み合わせた「(^_^)」のような顔文字を入れることにより感情などを表現する手法である。1980年代後半に使用が開始された顔文字は、若者へのコンピュータの普及により広く使用されるようになった。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 357, "tag": "p", "text": "携帯電話に絵文字が実装されたことにより、絵文字文化と呼ばれるさまざまな絵文字を利用したコミュニケーションが行われるようになった。漢字や仮名と同じように日本語の文字として扱われ、約物のような利用方法にとどまらず、単語や文章の置き換えとしても用いられるようになった。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 358, "tag": "p", "text": "すでに普及した顔文字や絵文字に加え、2006年頃には「小文字」と称される独特の表記法が登場した。「ゎたしゎ、きょぅゎ部活がなぃの」のように特定文字を小字で表記するもので、マスコミでも紹介されるようになった。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 359, "tag": "p", "text": "人々の日本語に寄せる関心は、第二次世界大戦後に特に顕著になったといえる。1947年10月からNHKラジオで「ことばの研究室」が始まり、1951年には雑誌『言語生活』が創刊された。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 360, "tag": "p", "text": "日本語関係書籍の出版点数も増大した。敬語をテーマとした本の場合、1960年代以前は解説書5点、実用書2点であったものが、1970年代から1994年の25年間に解説書約10点、実用書約40点が出たという。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 361, "tag": "p", "text": "戦後、最初の日本語ブームが起こったのは1957年のことで、金田一春彦『日本語』(岩波新書、旧版)が77万部、大野晋『日本語の起源』(岩波新書、旧版)が36万部出版された。1974年には丸谷才一『日本語のために』(新潮社)が50万部、大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)が50万部出版された。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 362, "tag": "p", "text": "その後、1999年の大野晋『日本語練習帳』(岩波新書)は190万部を超えるベストセラーとなった(2008年時点)。さらに、2001年に齋藤孝『声に出して読みたい日本語』(草思社)が140万部出版された頃から、出版界では空前の日本語ブームという状況になり、おびただしい種類と数の一般向けの日本語関係書籍が出た。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 363, "tag": "p", "text": "2004年には北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店)が、当時よく問題にされた語彙・語法を一般向けに説明した。翌2005年から2006年にかけては、テレビでも日本語をテーマとした番組が多く放送され、大半の番組で日本語学者がコメンテーターや監修に迎えられた。「タモリのジャポニカロゴス」(フジテレビ 2005〜2008)、「クイズ!日本語王」(TBS 2005〜2006)、「三宅式こくごドリル」(テレビ東京 2005〜2006)、「Matthew's Best Hit TV+・なまり亭」(テレビ朝日2005〜2006。方言を扱う)、「合格!日本語ボーダーライン」(テレビ朝日 2005)、「ことばおじさんのナットク日本語塾」(NHK 2006〜2010)など種々の番組があった。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 364, "tag": "p", "text": "「複雑な表記体系」「SOV構造」「音節文字」「敬語」「男言葉と女言葉」「擬態語が豊富」「曖昧表現が多い」「母音の数が少ない」などを根拠に日本語特殊論がとなえられることがある。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 365, "tag": "p", "text": "もっとも、日本語が印欧語との相違点を多く持つことは事実である。そのため、対照言語学の上では、印欧語とのよい比較対象となる。また、日本語成立由来という観点からの研究も存在する(『日本語の起源』を参照)。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 366, "tag": "p", "text": "日本語特殊論は、近代以降しばしば提起されている。極端な例ではあるが、戦後、志賀直哉が「日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ」として、フランス語を国語に採用することを主張した(国語外国語化論)。また、1988年には、国立国語研究所所長・野元菊雄が、外国人への日本語教育のため、文法を単純化した「簡約日本語」の必要性を説き、論議を呼んだ。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 367, "tag": "p", "text": "動詞が最後に来ることを理由に日本語を曖昧、不合理と断ずる議論もある。例えばかつてジャーナリスト森恭三は、日本語の語順では「思想を表現するのに一番大切な動詞は、文章の最後にくる」ため、文末の動詞の部分に行くまでに疲れて、「もはや動詞〔部分で〕の議論などはできない」と記している。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 368, "tag": "p", "text": "複雑な文字体系を理由に、日本語を特殊とする議論もある。計算機科学者の村島定行は、古くから日本人が文字文化に親しみ、庶民階級の識字率も比較的高水準であったのは、日本語は表意文字(漢字)と表音文字(仮名)の2つの文字体系を使用していたからだと主張する。ただし、表意・表音文字の二重使用は、他に漢字文化圏では韓文漢字や女真文字など、漢字文化圏以外でもマヤ文字やヒエログリフなどの例がある。一方で、カナモジカイのように、数種類の文字体系を使い分けることの不便さを主張する意見も存在する。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 369, "tag": "p", "text": "日本語における語順や音韻論、もしくは表記体系などを取り上げて、それらを日本人の文化や思想的背景と関連付け、日本語の特殊性を論じる例は多い。しかし、大体においてそれらの説は、手近な英語や中国語などの言語との差異を牧歌的に列挙するにとどまり、言語学的根拠に乏しいものが多い(サピア=ウォーフの仮説も参照)。一方、近年では日本文化の特殊性を論する文脈であっても、出来るだけ多くの文化圏を俯瞰し、総合的な視点に立った主張が多く見られるという。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 370, "tag": "p", "text": "日本語を劣等もしくは難解、非合理的とする考え方の背景として、近代化の過程で広まった欧米中心主義があると指摘される。戦後は、消極的な見方ばかりでなく、「日本語は個性的である」と積極的に評価する見方も多くなった。その変化の時期はおよそ1980年代であるという。いずれにしても、日本語は特殊であるとの前提に立っている点で両者の見方は共通する。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 371, "tag": "p", "text": "日本語特殊論は日本国外でも論じられる。E. ライシャワーによれば、日本語の知識が乏しいまま、日本語は明晰でも論理的でもないと不満を漏らす外国人は多いという。ライシャワー自身はこれに反論し、あらゆる言語には曖昧・不明晰になる余地があり、日本語も同様だが、簡潔・明晰・論理的に述べることを阻む要素は日本語にないという。共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされ、学習に関わる様々なジョークが存在するバスク語について、フランスのバイヨンヌにあるバスク博物館では、「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と挿絵入りの歴史が描かれているものが飾られている。これは同じく印欧系言語話者からみて習得の難しいバスク語と日本語を重ね合わせているとされる。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 372, "tag": "p", "text": "今日の言語学において、日本語が特殊であるという見方自体が否定的である。例えば、日本語に5母音しかないことが特殊だと言われることがあるが、クラザーズの研究によれば、209の言語のうち、日本語のように5母音を持つ言語は55あり、類型として最も多いという。また語順に関しては、日本語のように SOV構造を採る言語が約45%であって最も多いのに対して、英語のようにSVO構造を採る言語は30%強である(ウルタン、スティール、グリーンバーグらの調査結果より)。この点から、日本語はごく普通の言語であるという結論が導かれるとされる。また言語学者の角田太作は語順を含め19の特徴について130の言語を比較し、「日本語は特殊な言語ではない。しかし、英語は特殊な言語だ」と結論している。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 373, "tag": "p", "text": "村山七郎は、「外国語を知ることが少ないほど日本語の特色が多くなる」という「反比例法則」を主張したという。日本人自らが日本語を特殊と考える原因としては、身近な他言語(英語など)が少ないことも挙げられる。", "title": "日本語話者の意識" }, { "paragraph_id": 374, "tag": "p", "text": "日本では古く漢籍を読むための辞書が多く編纂された。国内における辞書編纂の記録としては、天武11年(682年)の『新字』44巻が最古であるが(『日本書紀』)、伝本はおろか逸文すらも存在しないため、書名から漢字字書の類であろうと推測される以外は、いかなる内容の辞書であったかも不明である。", "title": "辞書" }, { "paragraph_id": 375, "tag": "p", "text": "奈良時代には、『楊氏漢語抄』や『弁色立成』という和訓を有する漢和辞書が編纂されたらしいが、それぞれ逸文として残るのみで、詳細は不明のままである。現存する最古の辞書は、空海編と伝えられる『篆隷万象名義』(9世紀)であるが、中国の『玉篇』を模した部首配列の漢字字書であり、和訓は一切ない。10世紀初頭に編纂された『新撰字鏡』は伝本が存する最古の漢和辞書であり、漢字を部首配列した上で、和訓を万葉仮名で記している。平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』は、意味で分類した漢語におおむね和訳を万葉仮名で付したもので、漢和辞書ではあるが百科辞書的色彩が強い。院政期には過去の漢和辞書の集大成とも言える『類聚名義抄』が編纂され、同書の和訓に付された豊富な声点により院政期のアクセント体系はほぼ解明されている。", "title": "辞書" }, { "paragraph_id": 376, "tag": "p", "text": "鎌倉時代には百科辞書『二中歴』や詩作のための実用的韻書『平他字類抄』ほか、語源辞書ともいうべき『塵袋』や『名語記』なども編まれるようになった。また室町時代には、読み書きが広い階層へ普及し始めたことを背景に、漢詩を作るための韻書『聚分韻略』、漢和辞書『倭玉篇』、和訳に通俗語も含めた国語辞書『下学集』、日常語の単語をいろは順に並べた通俗的百科辞書『節用集』などの辞書が編まれた。さらに安土桃山時代の最末期には、イエズス会のキリスト教宣教師によって、日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』が作成された。", "title": "辞書" }, { "paragraph_id": 377, "tag": "p", "text": "江戸時代には、室町期の『節用集』を元にして多数の辞書が編集・刊行された。易林本『節用集』『書言字考節用集』などが主なものである。そのほか、俳諧用語辞書を含む『世話尽』、語源辞書『日本釈名』、俗語辞書『志布可起』、枕詞辞書『冠辞考』なども編纂された。とりわけ谷川士清『倭訓栞』、太田全斎『俚言集覧』、石川雅望『雅言集覧』は、それぞれがきわめて大部なもので、「近世期の三大辞書」といわれる。", "title": "辞書" }, { "paragraph_id": 378, "tag": "p", "text": "明治時代に入り、1889年から大槻文彦編の小型辞書『言海』が刊行された。これは、古典語・日常語を網羅し、五十音順に見出しを並べて、品詞・漢字表記・語釈を付した初の近代的な日本語辞書であった。『言海』は、後の辞書の模範的存在となり、後に増補版の『大言海』も刊行された。", "title": "辞書" }, { "paragraph_id": 379, "tag": "p", "text": "その後、広く使われた小型の日本語辞書としては、金沢庄三郎編『辞林』のほか、新村出編『辞苑』などがある。第二次世界大戦中から戦後にかけては金田一京助編『明解国語辞典』がよく用いられ、今日の『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』に引き継がれている。", "title": "辞書" }, { "paragraph_id": 380, "tag": "p", "text": "中型辞書としては、第二次世界大戦前は『大言海』のほか、松井簡治・上田万年編『大日本国語辞典』などが刊行された。戦後は新村出編『広辞苑』などが広く受け入れられている。現在では松村明編『大辞林』をはじめ、数種の中型辞書が加わっているほか、唯一にして最大の大型辞書『日本国語大辞典』(約50万語)がある。", "title": "辞書" } ]
日本語(にほんご、にっぽんご)は、日本国内や、かつての日本領だった国、そして国外移民や移住者を含む日本人同士の間で使用されている言語。日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」の教科として学習を行うなど、事実上日本国内において唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、及び日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3,000万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 また第一次世界大戦後(日独戦争)、当時ドイツ帝国の植民地であった現在のパラオ共和国は戦勝国の日本に委任統治(南洋諸島を参照)されることとなったため、現在も一部地域で日本語を公用語と定めている。
{{Infobox Language | name = {{big|{{ruby-ja|日|に}}}}{{big|{{ruby-ja|本|ほん}}}}{{big|{{ruby-ja|語|ご}}}} | image = [[ファイル:Genryaku Manyosyu.JPG|250ピクセル]]<br>{{center|元暦校本[[万葉集]]}}<br>[[File:Nihongo.svg|60px|[[日本語の表記体系]]に沿って'''日本語'''という語を記した例]] | imagecaption = [[日本語の表記体系]]に沿って'''日本語'''という語を記した例 | imagesize = 80px | pronunciation = <br />{{IPA|nʲiho̞ŋːo̞}}<ref>[[日本国語大辞典]]([[小学館]])の日本語の項によれば、「ニホンゴ」</ref><br />{{IPA|nʲiho̞ŋɡo̞}}<ref name="asahi20150305"> {{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASH2W5751H2WUCVL00X.html|title=「鼻濁音」来世紀ほぼ消滅? もともと使わない地域も…|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2015-03-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150305002557/https://www.asahi.com/articles/ASH2W5751H2WUCVL00X.html|archivedate=2015-03-05}}</ref><br />{{IPA|nʲip̚po̞ŋːo̞}}(まれ)<ref>[[日本国語大辞典]]([[小学館]])の日本語の項によれば「ニッポンゴ」。</ref><br />{{IPA|nʲip̚po̞ŋɡo̞}}(まれ)<ref name="asahi20150305" /> | familycolor = Altaic | states = {{JPN}} | region = {{PLW}}[[アンガウル州]] | ethnicity = [[日本人]]([[大和民族]]、[[アイヌ]]、[[琉球民族]]を含む) | speakers = 約1億2,500万人<ref>"Världens 100 största språk 2010" (The World's 100 Largest Languages in 2010), in Nationalencyklopedin</ref><br />または<br />約1億2,700万人{{Efn|[[琉球諸語]]を[[方言]]とみなし、数に含んだ場合で、[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]を基にした場合の[[概数]]。}} | family = [[日琉語族]]([[孤立した言語]]で論争あり。詳細は[[日本語の起源]]を参照。) | ancestor = [[上代日本語]] | ancestor2 = [[中古日本語]] | ancestor3 = [[中世日本語]] | ancestor4 = [[近世日本語]] | dialects = [[日本語の方言]] | stand1 = [[標準語#各言語における標準語|標準語]] | script =[[仮名 (文字)|仮名]]([[平仮名|{{ruby-ja|平仮名|ひらがな}}]]・[[片仮名|{{ruby-ja|片仮名|カタカナ}}]])<br /> [[日本における漢字|漢字]]<br />[[点字]] | nation = {{JPN}}(事実上)<br />{{PLW}}{{Efn| * 1982年の''"パラオ共和国 アンガウル州憲法"'' によれば、パラオ共和国 [[アンガウル州]]の公用語は、[[パラオ語]]・英語・日本語である<ref name="const">{{cite web|url=https://web.archive.org/web/20140808040100/http://www.pacificdigitallibrary.org/cgi-bin/pdl?e=d-000off-pdl--00-2--0--010-TE--4-------0-1l--10en-50---20-text-Japanese--00-3-1-00bySR-0-0-000utfZz-8-00&d=HASHa4b7077d472c4cdb9c8ddf.10&p=text|title=Constitution of the State of Angaur|publisher=Pacific Digital Library|access-date=15 March 2021|quote=The traditional Palauan language, particularly the dialect spoken by the people of Angaur State, shall be the language of the State of Angaur. Palauan, English and Japanese shall be the official languages.|at=Article XII}}</ref>。 * 日本国は「日本語」を{{u|事実上の公用語}}としているため、日本語を正式に公用語としている国は世界で唯一「パラオ共和国 (アンガウル州) 」のみとなる。 * しかし、2005年のパラオ共和国の国勢調査の結果、2005年4月現在「自宅で日本語を話す、5歳以上のアンガウル州の居住者、および法定居住者」はいなかったと報告されている<ref name="2005census">{{cite web|url=https://web.archive.org/web/20140424211256if_/http://palaugov.org/wp-content/uploads/2013/10/2005-Census-of-Population-Housing.pdf|title=2005 Census of Population & Housing|publisher=Bureau of Budget & Planning|access-date=15 March 2021}}</ref>。 * また、自身が日本ないしは日本の民族的出身であると報告した人もいなかった<ref name="2005censusfr">{{cite web|url=https://web.archive.org/web/20140811163937if_/http://palaugov.org/wp-content/uploads/2013/10/2005-Census-Monograph-Final-Report.pdf |title=2005 Census Monograph Final Report |publisher=Bureau of Budget & Planning |access-date=15 March 2021}}</ref>。 * アンガウル州で生まれたある一人の人物は、自宅で日本語とパラオ語を同じくらい頻繁に話すと語ったが、アンガウル州には居住していないものとみられる<ref name="2005census" />。 * 2012年のパラオ共和国の簡単な国勢調査では、アンガウル州の総人口130人のうち「パラオ語と英語以外の言語」で読み書きができる、10歳以上の居住者は、7人いることが報告された<ref name="2013syb">{{cite web|title=2013 ROP Statistical Yearbook|url=https://web.archive.org/web/20140811163907if_/http://palaugov.org/wp-content/uploads/2014/07/2013-ROP-Statistical-Yearbook.pdf|access-date=15 March 2021|publisher=Bureau of Budget & Planning}}</ref>。 }} | agency = {{flagicon|JPN}} [[文化庁]] [[文化審議会]] [https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/ 国語分科会](事実上) | iso1 = [https://www.loc.gov/standards/iso639-2/php/langcodes_name.php?iso_639_1=ja ja] | iso2 = jpn | iso3 = jpn | lingua = 45-CAA-a | glotto = nucl1643 | glottoname = <br />([[八丈方言]]を除く) | glottorefname = Japanese | map = | notice = IPA }}'''日本語'''(にほんご、にっぽんご{{Efn|「にっぽんご」を見出し語に立てている[[国語辞典]]は[[日本国語大辞典]]等少数に留まる。}})は、[[日本]]国内や、[[大日本帝国|かつての日本領]]だった国、そして国外移民や移住者を含む[[日本人]]同士の間で使用されている[[言語]]。日本は[[法令]]によって[[公用語]]を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令{{Efn|[[裁判所法]]第74条、[[公証人法]]第27条、[[会社計算規則]]第57条第2項、[[特許法]]施行規則第2条等。}}において日本語を用いることが規定され、[[学校教育]]においては「[[国語 (教科)|国語]]」の教科として学習を行うなど、事実上日本国内において唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、及び日本国外に住む日本人や[[日系人]]、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3,000万人以上と考えられている<ref>{{cite web |url=https://web.mit.edu/jpnet/articles/JapaneseLanguage.html |title=Japanese Language |publisher=MIT |accessdate=2009-05-13 }}</ref>。統計によって前後する場合もあるが、この数は[[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧|世界の母語話者数]]で上位10位以内に入る人数である<ref>{{Cite web|和書|title=(1)世界の母語人口(上位20言語):文部科学省|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/attach/1379956.htm|website=www.mext.go.jp|accessdate=2021-10-24}}</ref>。 また[[第一次世界大戦]]後([[日独戦争]])、当時[[ドイツ帝国]]の植民地であった現在の[[パラオ|パラオ共和国]]は戦勝国の日本に[[委任統治]]([[南洋諸島]]を参照)されることとなったため、現在も一部地域で日本語を公用語と定めている。 == 特徴 == [[日本語の音韻]]は、「[[っ]]」「[[ん]]」を除いて[[母音]]で終わる[[音節|開音節]]言語の性格が強く、また[[標準語]]([[共通語]])を含め多くの[[日本語の方言|方言]]が[[モーラ]]を持つ。[[アクセント]]は[[高低アクセント]]である。 なお元来の古い[[大和言葉]]では、原則として *「[[ら行]]」音が語頭に立たない([[しりとり]]で『ら行』で始まる言葉が見つけにくいのはこのため。『らく(楽)』『らっぱ』『りんご』『れい(礼)』などは大和言葉でない) *[[濁音]]が語頭に立たない(『だ(抱)く』『どれ』『ば(場)』『ばら(薔薇)』などは後世の変化) *同一語根内に母音が連続しない(『あ お(青)』『かい([[貝]])』は古くは『あを {{IPA2|/awo/}}』, 『かひ {{IPA2|/kapi/}}』) などの特徴があった(「[[#系統|系統]]」および「[[#音韻|音韻]]」の節参照)。 文は、「[[主語]]・[[修飾語]]・[[述語]]」の[[語順]]で構成される。修飾語は被修飾語の前に位置する。また、[[名詞]]の格を示すためには、語順や[[語尾]]を変化させるのでなく、文法的な機能を示す機能語(助詞)を後ろに付け加える(膠着させる)。これらのことから、[[言語類型論]]上は、語順の点では[[SOV型]]の言語に、形態の点では[[膠着語]]に分類される(「[[#文法|文法]]」の節参照)。 語彙は、古来の大和言葉(和語)のほか、[[漢語]](字音語)、[[外来語]]、および、それらの混ざった混種語に分けられる。字音語(漢字の音読みに由来する語の意、一般に「漢語」と称する)は現代の語彙の一部分を占めている。また、「[[絵]]/[[画]](ゑ)」など、もともと音であるが和語と認識されているものもある。さらに近代以降には西洋由来の語を中心とする外来語が増大している(「[[#語種|語種]]」の節参照)。 待遇表現の面では、文法的・語彙的に発達した敬語体系があり、叙述される人物どうしの微妙な関係を表現する(「[[#待遇表現|待遇表現]]」の節参照)。 日本語は地方ごとに多様な方言があり、とりわけ[[琉球諸島]]{{要曖昧さ回避|date=2020年5月}}で方言差が著しい(「[[#方言|方言]]」の節参照)。[[近世]]中期までは[[京言葉|京都方言]]が中央語の地位にあったが、近世後期には[[江戸言葉|江戸方言]]が地位を高め、[[明治]]以降の現代日本語では[[山の手#東京における山の手|東京山の手]]の[[中流階級]]以上の方言([[山の手言葉]])を基盤に標準語(共通語)が形成された(「[[標準語#日本語|標準語]]」参照)。 表記体系はほかの諸言語と比べて極めて複雑かつ柔軟性の高さが特徴である。[[漢字]]([[国字]]を含む。[[音読み]]および[[訓読み]]で用いられる)と[[平仮名]]、[[片仮名]]が日本語の主要な文字であり、常にこの3種類の文字を組み合わせて表記する(「[[#字種|字種]]」の節参照){{Efn|[[韓国・朝鮮語]]も漢字・[[ハングル]]・ラテン文字を併用するが、国家政策によって漢字の使用は激減しており、[[朝鮮民主主義人民共和国]]では公式に漢字を廃止している(「[[朝鮮における漢字|朝鮮漢字]]」や「[[ハングル専用文と漢字ハングル混じり文|ハングル専用]]」を参照){{Sfnp|呉善花|2008}}。}}。表音文字で表記体系を複数持つため、当て字をせずに外来語を表記することが可能だが、[[ラテン文字]]([[ローマ字]])や[[ギリシア文字|ギリシャ文字]](医学・科学用語に多用)などもしばしば用いられる。また、[[縦書きと横書き]]のどちらでも表記することが可能である(表記体系の詳細については「[[日本語の表記体系]]」参照)。 音韻は「[[子音]]+母音」[[音節]]を基本とし、母音は5種類しかないなど、分かりやすい構造を持つ一方、[[直音]]と[[拗音]]の対立、「1音節2モーラ」の存在、[[無声音|無声化]]母音、語の組み立てに伴って移動する高さアクセントなどの特徴がある(「[[#音韻|音韻]]」の節参照)。 == 分布 == [[File:Welcome board on the arrival gate of Tokyo Narita Airport.jpg|thumb|[[成田国際空港]]到着ゲートの看板。他言語は日本入国を歓迎する文言になっているのに対し、日本語は「おかえりなさい」と帰国を労う表現となっている。]] 日本語は、主に日本国内で使用される。話者[[人口]]についての調査は国内・国外を問わずいまだないが、日本の人口に基づいて考えられることが一般的である<ref>南不二男「日本語・総説」{{Harv|亀井孝・河野六郎・千野栄一|1997}}を参照</ref>{{Efn|Ethnologue ウェブ版では、日本での話者人口を1985年に1億2100万人、全世界で1億2208万0100人と推計している<ref>https://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=jpn (2010-01-03閲覧)</ref>。なお、田野村忠温が1977年から1997年までに刊行された10点 (版の相違を含めると16点) の資料を調査した結果、それぞれに記載された日本語の話者人口は最少で1.02億人、最多で1.25億人以上だった{{Sfnp|田野村忠温|1997}}。}}{{Efn|[http://www.let.osaka-u.ac.jp/~tanomura/intro/kokugogaku.html 表 (増補2版、2010-01-03閲覧)]{{リンク切れ|date=2022年12月}}。}}。 日本国内に、法令上、日本語を公用語ないし国語と定める直接の規定はない。しかし、法令は日本語で記されており、[[裁判所法]]においては「裁判所では、日本語を用いる」(同法74条)とされ、[[文字・活字文化振興法]]においては「国語」と「日本語」が同一視されており(同法3条、9条)、その他多くの法令において、日本語が唯一の公用語ないし国語であることが前提とされている。また、法文だけでなく公用文はすべて日本語のみが用いられ、学校教育では日本語が「[[国語 (教科)|国語]]」として教えられている。 日本では、[[テレビ]]や[[ラジオ]]、[[映画]]などの放送、[[小説]]や[[漫画]]、新聞などの出版の分野でも、日本語が使われることがほとんどである。国外のドラマや映画が放送される場合でも、基本的には日本語に訳し、字幕を付けたり声を当てたりしてから放送されるなど、受け手が日本語のみを理解することを前提として作成される。原語のまま放送・出版されるものも存在するが、それらは外国向けに発表される前提の論文、もしくは日本在住の外国人、あるいは原語の学習者など限られた人を対象としており、大多数の日本人に向けたものではない。 日本国外では、主として、中南米([[ペルー]]<ref name="ウルグアイORT大学">{{Cite news|url=https://www.ort.edu.uy/centro-de-idiomas/aprender-japones |title=Aprender japonés |author=|publisher={{仮リンク|ウルグアイORT大学|es|Universidad ORT Uruguay}} |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210312112022/https://www.ort.edu.uy/centro-de-idiomas/aprender-japones |archivedate=2021-03-12 }}</ref>・[[ブラジル]]<ref name="ウルグアイORT大学"/>・[[ボリビア]]・[[ドミニカ共和国]]・[[パラグアイ]]など)や[[ハワイ州|ハワイ]]などの日本人移民の間に日本語の使用がみられる{{Efn|{{Harvp|見坊豪紀|1964}}(1983年の『ことば さまざまな出会い』(三省堂)に収録)では、1960年代のロサンゼルスおよびハワイの邦字新聞の言葉遣いに触れる。<br>{{Harvp|井上史雄|1971}}は、ハワイ日系人の談話引用を含む報告である。<br>{{Harvp|本堂寛|1996}}によれば、1979〜1980年の調査において、ブラジル日系人で「日本語をうまく使える」と回答した人は、1950年以前生まれで20.6 %、以後生まれで8.3 %だという。}}が、3世・4世と世代が下るにしたがって非日本語話者が多くなっているという<ref>南不二男「日本語・総説」{{Harv|亀井孝・河野六郎・千野栄一|1997}}などを参照。</ref>。また、太平洋戦争の終結以前に日本領ないし日本の勢力下にあった[[朝鮮総督府]]の[[朝鮮半島]]・[[台湾総督府]]の[[台湾]]・旧[[満州国]]で現在[[中華人民共和国]]の一部・[[樺太庁]]の[[樺太]]([[サハリン州|サハリン]])・旧[[南洋庁]]の[[南洋諸島]](現在の[[北マリアナ諸島]]・[[パラオ]]・[[マーシャル諸島]]・[[ミクロネシア連邦]])などの地域では、日本語教育を受けた人々の中に、現在でも日本語を記憶して話す人がいる{{Efn|ミクロネシアでは日本語教育を受けた世代が今でも同世代との会話に日本語を利用し、一般にも日本語由来の語句が多く入っているという{{Sfnp|真田信治|2002}}。}}。台湾では先住民の異なる部族同士の会話に日本語が用いられることがある<ref>青柳 森 (1986)「台湾山地紀行」『東京消防』1986年10月(ウェブ版は、{{Cite web|和書|url=http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/aoyagishigeru.html |title=日本ペンクラブ:電子文藝館・地球ウォーカー |accessdate=2012年2月15日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120715050442/http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/aoyagishigeru.html |archivedate=2012年7月15日 |deadlinkdate=2017年10月 }})。</ref>だけでなく、[[宜蘭クレオール]]など日本語と[[タイヤル語]]の[[クレオール言語]]も存在している{{Sfnp|真田信治|簡月真|2008}}。また、パラオの[[アンガウル州]]では歴史的経緯から日本語を公用語の一つとして採用している{{Sfnp|矢崎幸生|2001|pp=10-11}}が、現在州内には日本語を日常会話に用いる住民は存在せず、象徴的なものに留まっている<ref>「{{Cite web|和書|url=http://www.spc.int/prism/country/pw/stats/PalauStats/Publication/2005CENSUS.pdf |title=2005年度パラオ共和国国勢調査 |accessdate=2012年6月26日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080216045724/http://www.spc.int/prism/country/pw/stats/PalauStats/Publication/2005CENSUS.pdf |archivedate=2008年2月16日 }}(英語、PDF)」パラオ共和国統計局、2005年12月、26頁。</ref>。 日本国外の日本語学習者は2015年調査で365万人にのぼり、[[中華人民共和国]]の約95万人、[[インドネシア]]の約75万人、[[大韓民国]]の約56万人、[[オーストラリア]]の約36万人、[[台湾]]の約22万人が上位となっている。地域別では、[[東アジア]]・[[東南アジア]]で全体の学習者の約8割を占めている。[[日本語教育]]が行われている地域は、137か国・地域に及んでいる<ref>{{PDFlink|[https://www.jpf.go.jp/j/about/press/2016/dl/2016-057-2.pdf 2015年度海外日本語教育機関調査結果(速報値)]}} </ref>。また、日本国内の日本語学習者は、[[アジア]]地域の約16万人を中心として約19万人に上っている<ref>[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/nihongokyoiku_jittai/h27/pdf/h27_zenbun.pdf 文化庁調査「平成27年度国内の日本語教育の概要」] (2015)。</ref>。 {{Main|日本語教育}} == 系統 == 「日本語」の範囲を本土方言のみとした場合、[[琉球語]]が日本語と同系統の言語になり両者は'''[[日琉語族]]'''を形成する。 [[南西諸島|琉球列島]](旧[[琉球王国]]領域)の言葉は、日本語と系統を同じくする別言語([[琉球語]]ないしは琉球諸語)とし、日本語とまとめて[[日琉語族]]とされている。共通点が多いので「日本語の一[[方言]]([[琉球語|琉球方言]])」とする場合もあり、このような場合は日本語は「[[孤立した言語]]」という位置づけにされる。{{see also|日琉語族#概要|日琉祖語#日琉の分岐}} 日本語(族)の系統については明治以来様々な説が議論されてきたが、いずれも他の語族との同系の証明に至っておらず、不明のままである{{Sfnp|長田俊樹|2020|p=329}}{{Sfnp|斎藤純男|2010|p=189}}{{Sfnp|佐佐木隆|1978}}{{Sfnp|亀井孝・大藤時彦・山田俊雄|1963}}。{{Efn|「{{要出典範囲|解明される目途も立っていない。|date=2021年5月}}」}}{{Efn|{{いつ|date=2021年5月}}「{{要出典範囲|「孤立した言語」が総合的な結論だ|date=2021年5月}}」と主張する者もいる。}} === アルタイ諸語との関係 === [[File:Altaic_family.png|right|thumb|300px|[[アルタイ諸語]]の分布]] [[アルタイ諸語]]に属するとする説は、[[明治|明治時代]]末から特に注目されてきた<ref>{{Harvp|藤岡勝二|1908a}}、{{Harvp|藤岡勝二|1908b}}、{{Harvp|藤岡勝二|1908c}}など。</ref>。その根拠として、古代の日本語([[大和言葉]])において語頭にr音([[流音]])が立たないこと、一種の[[母音調和]]{{Sfnp|有坂秀世|1931|ps=(1957年の『国語音韻史の研究 増補新版』(三省堂)に収録)}}が見られることなどが挙げられる。古代日本語に上記の特徴が見られることは、日本語が類型として「アルタイ型」の言語である<ref>「アルタイ型」{{Harv|亀井孝・河野六郎・千野栄一|1996}}</ref>根拠とされる。[[アルタイ諸語]]に属するとされるそれぞれの言語の親族関係を支持する学者のほうがまだ多いが、最近のイギリスではアルタイ諸語の親族関係を否定する学者も現れている{{Sfnp|大江孝男|1981|p=121}}。 {{main|日本語の起源#アルタイ語族説|アルタイ諸語#構成言語と共通の特徴}} === 朝鮮語との関係 === [[朝鮮語]]とは語順や文法構造で類似点が非常に多い。音韻の面でも、固有語において語頭に流音が立たないこと、一種の母音調和が見られることなど、共通の類似点がある(その結果、日本語も朝鮮語もアルタイ諸語と分類される場合がある)。世界の諸言語の広く比較した場合、広く「朝鮮語は日本語と最も近い言語」とされている。ただし、閉音節や子音連結が存在する、有声・無声の区別が無い、といった相違もある。基礎語彙は、共通点もあるが、かなり相違する面もある。 {{main|日本語の起源#朝鮮語起源説|}} === 半島日本語との関係 === 紀元8世紀までに記録された朝鮮半島の地名(「高句麗地名」を指す)の中には、満州南部を含む[[朝鮮半島]]中部以北に、意味や音韻で日本語と類似した地名を複数見いだせる{{Sfnp|伊藤英人|2019}}。これを論拠として、'''古代の朝鮮半島では朝鮮語とともに日本語と近縁の言語である「[[半島日本語]]」が話されていた'''と考えられている<ref>Whitman, John (2011), “Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan”, Rice 4 (3-4): 149–158, doi:10.1007/s12284-011-9080-0</ref>{{Sfnp|伊藤英人|2021b}}。 {| class="wikitable" |+「高句麗地名」より抽出される単語のうち日本語に同根語が見出しうるもの ! colspan="3" |原語 ! rowspan="2" |訓釈 ! rowspan="2" |上代日本語 |- !漢字 !中古音{{Efn|[[ウィリアム・バクスター]]による。平声・入声は無標、上声は <sup>X</sup>、去声は <sup>H</sup> で表す。[[w:Baxter's transcription for Middle Chinese]] 参照。}} !中期朝鮮漢字音{{Efn|[[イェール式]]表記。}} |- |密 |mit |''mil'' |三 |''mi₁''{{Sfnp|板橋義三|2003}}{{Sfnp|Ki-Moon Lee|S. Robert Ramsey|2011}} |- |于次 |hju-tshij<sup>H</sup> |''wucha'' |五 |''itu''{{Sfnp|板橋義三|2003}}{{Sfnp|Ki-Moon Lee|S. Robert Ramsey|2011}} |- |難隱 |nan-ʔɨn<sup>X</sup> |''nanun'' |七 |''nana''{{Sfnp|板橋義三|2003}}{{Sfnp|Ki-Moon Lee|S. Robert Ramsey|2011}} |- |德 |tok | ''tek'' |十 |''to₂wo''{{Sfnp|板橋義三|2003}}{{Sfnp|Ki-Moon Lee|S. Robert Ramsey|2011}} |- |旦 |tan<sup>H</sup> |''tan'' | rowspan="3" |谷 | rowspan="3" |''tani''{{Sfnp|板橋義三|2003}}{{Sfnp|Ki-Moon Lee|S. Robert Ramsey|2011}} |- |頓 |{{Not a typo|twon}} | ''twon'' |- |吞 |then |''thon'' |- |烏斯含 |ʔu-sje-hom |''wosaham'' |兔 |''usagi₁''{{Sfnp|板橋義三|2003}}{{Sfnp|Ki-Moon Lee|S. Robert Ramsey|2011}} |- |那勿 |na-mjut |''namwul'' |鉛 |''namari''{{Sfnp|板橋義三|2003}}{{Sfnp|Ki-Moon Lee|S. Robert Ramsey|2011}} |- |買 |mɛ<sup>X</sup> |''may'' | rowspan="3" |水 | rowspan="3" |''mi₁(du)'' <*me {{Sfnp|板橋義三|2003}}{{Sfnp|Ki-Moon Lee|S. Robert Ramsey|2011}}<ref> (2017), “Origins of the Japanese Language”, Oxford Research Encyclopedia of Linguistics, Oxford University Press, doi:10.1093/acrefore/9780199384655.013.277.</ref> |- |美 |mij<sup>X</sup> |''may'' |- |彌 |mjie<sup>X</sup> | ''mi'' |} また、高句麗語に鉛(なまり)=那勿(ナムル)、泉(いずみ)=於乙、土(つち)は内、口(くち)は口次と呼んでいた記録があり、[[高句麗語|高句麗]]の武将である泉蓋蘇文は日本書紀で伊梨柯須彌(イリカスミ)と記録されていて、泉(いずみ)は[[高句麗語]]で於乙(イリ)と呼ばれていたことが分かる。件の地名が高句麗の旧領域内に分布していることから、多くの研究は半島日本語は「[[高句麗語]]」であるとしている{{Sfnp|伊藤英人|2019}}{{Sfnp|伊藤英人|2021a}}。 [[File:Linguistic-map-of-ancient-East-Asia.gif|thumb|350px|Unger (2013)<ref>Unger, James M. (2013). [https://www.oeaw.ac.at/fileadmin/Institute/IKGA/PDF/events/Unger_2013_presentation2.pdf Comparing the Japanese and Korean Languages: Culling Borrowed Words.] Department of East Asian Languages & Literatures The Ohio State University.</ref> によって想定された日本周辺の語族分布の変遷]] [[伊藤英人]]は半島日本語(大陸倭語)を高句麗語とした上で、日本語と半島日本語は同じ祖語から分かれた同系統の言語であり、半島日本語集団から分かれた集団が紀元前900年から紀元700年にかけて水田農耕を携え日本列島に渡来したと考えた{{Sfnp|伊藤英人|2021b}}{{Efn|[[アレキサンダー・ボビン]]は、朝鮮半島にいた日琉語族の話者が、紀元前700年~紀元300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語に取って代わったと主張した<ref>Vovin, Alexander (2017),“[https://oxfordre.com/linguistics/view/10.1093/acrefore/9780199384655.001.0001/acrefore-9780199384655-e-277 Origins of the Japanese Language]”, Oxford Research Encyclopedia of Linguistics, Oxford University Press, doi:10.1093/acrefore/9780199384655.013.277.</ref>。また、朝鮮半島における[[無文土器文化]]の担い手が現代日本語の祖先となる[[日琉語族]]に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されているが、これらの説によれば、古代[[満州]]南部から[[朝鮮半島]]北部にかけての地域で確立された[[朝鮮語族]]に属する言語集団が北方から南方へ拡大し当時朝鮮半島中部から南部に存在していた[[日琉語族]]の集団に置き換わっていき、この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が[[弥生時代|弥生]]人の祖であるとされる<ref>{{cite book|last1=Bellwood|first1=Peter|title=The Global Prehistory of Human Migration|date=2013|publisher=Blackwell Publishing|location=Malden|isbn=9781118970591}}</ref><ref name="ReferenceA">{{cite journal|last1=Vovin|first1=Alexander|title=From Koguryo to Tamna: Slowly riding to the South with speakers of Proto-Korean|journal=Korean Linguistics|date=2013|volume=15|issue=2|pages=222–240}}</ref><ref>{{cite book|last1=Lee|first1=Ki-Moon|last2=Ramsey|first2=S. Robert|title=A History of the Korean language|date=2011|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=978-0-521-66189-8}}</ref><ref name="ReferenceB">{{cite journal|last1=Whitman|first1=John|title=Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan|journal=Rice|date=2011|volume=4|issue=3-4|pages=149–158|doi=10.1007/s12284-011-9080-0}}</ref><ref>{{cite book|last1=Unger|first1=J. Marshall|title=The role of contact in the origins of the Japanese and Korean languages|date=2009|publisher=University of Hawai?i Press|location=Honolulu|isbn=978-0-8248-3279-7}}</ref>。}}。 なお、伊藤英人は半島日本語が[[京阪式アクセント]]と類似していることを指摘している{{Sfnp|伊藤英人|2021b}}。{{main|半島日本語|濊貊語|日本語の起源#故地(起源地)に関する議論|}} === 中国語との関係 === [[中国語]]との関係に関しては、日本語は中国の[[漢字]]を借用語として広範囲に取り入れており、語彙のうち漢字を用いたものに関して、影響を受けている。だが語順も文法も音韻も大きく異なるので、系統論的には別系統の言語とされる。{{main|日本語の起源#中国語起源説}} === アイヌ語との関係 === [[アイヌ語]]は、語順(SOV語順)において日本語と似る。ただし、文法・形態は類型論的に異なる[[抱合語]]に属し、音韻構造も有声・無声の区別がなく[[音節|閉音節]]が多いなどの相違がある。基礎語彙の類似に関する指摘<ref name="R">{{Harvp|服部四郎|1959}}(1999年に岩波文庫)。</ref>もあるが、例は不充分である<ref name="R"/>。一般に似ているとされる語の中には、日本語からアイヌ語への[[外来語|借用語]]が多く含まれるとみられる{{Sfnp|中川裕|2005}}。{{main|日本語の起源#アイヌ語起源説|アイヌ語#他の言語との近縁関係}} === その他 === 南方系の[[オーストロネシア語族]]とは、音韻体系や語彙に関する類似も指摘されているが、これは偶然一致したものであり、互いに関係があるという根拠はない{{Sfnp|泉井久之助|1953|ps=(1975年の『マライ=ポリネシア諸語 比較と系統』(弘文堂)に収録)}}{{Efn|「{{要出典範囲|だが、語例は十分ではなく、推定・不確定の例を多く含む。|date=2021年5月}}」}}。{{main|日本語の起源#オーストロネシア語族説}} [[ドラヴィダ語族]]との関係を主張する説もあるが、これを認める研究者は少ない。[[大野晋]]は日本語が語彙・文法などの点で[[タミル語]]と共通点を持つとの説を唱える{{Efn|{{Harvp|大野晋|1987}}などを参照。研究の集大成として、{{Harvp|大野晋|2000}}を参照。}}が、比較言語学の方法上の問題から批判が多い{{Efn|主な批判・反批判として、{{Harvp|家本太郎・児玉望・山下博司・長田俊樹|1996}}、{{Harvp|大野晋|1996}}、{{Harvp|山下博司|1998}}などがある。}}{{see also|タミル語#日本語クレオールタミル語説|大野晋#クレオールタミル語説|}} また、[[レプチャ語]]・[[ヘブライ語]]などとの同系論も過去に存在したが、これに関してはほとんど[[疑似科学]]の範疇に収まる<ref name="R"/>。{{see also|日ユ同祖論#ヤマト言葉とヘブライ語の類似|イスラエルの失われた10支族#失われた10支族の行方}} == 音韻 == {{main|日本語の音韻}} === 音韻体系 === 日本語話者は普通、「いっぽん(一本)」という語を、「い・っ・ぽ・ん」の4単位と捉えている。[[音節]]ごとにまとめるならば {{IPA|ip̚.poɴ}} のように2単位となるところであるが、音韻的な捉え方はこれと異なる。[[音声学]]上の単位である音節とは区別して、[[音韻論]]では「い・っ・ぽ・ん」のような単位のことを[[モーラ]]{{Sfnp|服部四郎|1950|ps=(1960年の『言語学の方法』(岩波書店)に収録)}}(拍{{Sfnp|亀井孝|1956}})と称している。 日本語のモーラは、大体は[[仮名 (文字)|仮名]]に即して体系化することができる。「いっぽん」と「まったく」は、音声学上は {{IPA|ip̚poɴ}} {{IPA|mat̚takɯ}} であって共通する単音がないが、日本語話者は「っ」という共通のモーラを見出す。また、「ん」は、音声学上は後続の音によって {{IPA|ɴ}} {{IPA|m}} {{IPA|n}} {{IPA|ŋ}} などと変化するが、日本語の話者自らは同一音と認識しているので、音韻論上は1種類のモーラとなる。 日本語では、ほとんどのモーラが母音で終わっている。それゆえに日本語は[[音節|開音節]]言語の性格が強いということができる。もっとも、特殊モーラの「っ」「ん」には母音が含まれない。 モーラの種類は、以下に示すように111程度存在する。ただし、研究者により数え方が少しずつ異なる。「[[か行|が行]]」の音は、語中語尾では鼻音(いわゆる[[鼻濁音]])の「{{JIS2004フォント|か&#x309A;行}}」音となる場合があるが、「が行」と「{{JIS2004フォント|か&#x309A;行}}」との違いは何ら弁別の機能を提供せず、単なる[[異音]]どうしに過ぎない。そこで、「{{JIS2004フォント|か&#x309A;行}}」を除外して数える場合、モーラの数は103程度となる。これ以外に、「[[外来語の表記]]」第1表にもある「シェ」「チェ」「ツァ・ツェ・ツォ」「ティ」「ファ・フィ・フェ・フォ」その他の外来音を含める場合は、さらにまた数が変わってくる{{Efn|{{Harvp|松崎寛|1993}}では、外来音を多く認めた129モーラからなる音韻体系を示す。}}。このほか、外来語の表記において用いられる「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」については、バ行として発音されることが多いものの、独立した音韻として発音されることもあり、これらを含めるとさらに増えることとなる。 {|class="wikitable" |- !\||colspan="5"|[[直音]]||colspan="3"|[[拗音]]||清濁 |- ![[母音]] |[[あ]]||[[い]]||[[う]]||[[え]]||[[お]]||colspan="3"| ||―― |- !rowspan="13"|[[子音]]+母音 |[[か]]||[[き]]||[[く]]||[[け]]||[[こ]]||きゃ||きゅ||きょ||([[清音]]) |- |[[さ]]||[[し]]||[[す]]||[[せ]]||[[そ]]||しゃ||しゅ||しょ||(清音) |- |[[た]]||[[ち]]||[[つ]]||[[て]]||[[と]]||ちゃ||ちゅ||ちょ||(清音) |- |[[な]]||[[に]]||[[ぬ]]||[[ね]]||[[の]]||にゃ||にゅ||にょ||―― |- |[[は]]||[[ひ]]||[[ふ]]||[[へ]]||[[ほ]]||ひゃ||ひゅ||ひょ||(清音) |- |[[ま]]||[[み]]||[[む]]||[[め]]||[[も]]||みゃ||みゅ||みょ||―― |- |[[ら]]||[[り]]||[[る]]||[[れ]]||[[ろ]]||りゃ||りゅ||りょ||―― |- |[[が]]||[[ぎ]]||[[ぐ]]||[[げ]]||[[ご]]||ぎゃ||ぎゅ||ぎょ||([[濁音]]) |- |{{JIS2004フォント|[[か゜|か&#x309A;]]}}||{{JIS2004フォント|[[き゜|き&#x309A;]]}}||{{JIS2004フォント|[[く゜|く&#x309A;]]}}||{{JIS2004フォント|[[け゜|け&#x309A;]]}}||{{JIS2004フォント|[[こ゜|こ&#x309A;]]}}||{{JIS2004フォント|き&#x309A;ゃ}}||{{JIS2004フォント|き&#x309A;ゅ}}||{{JIS2004フォント|き&#x309A;ょ}}||([[鼻濁音]]) |- |[[ざ]]||[[じ]]||[[ず]]||[[ぜ]]||[[ぞ]]||じゃ||じゅ||じょ||(濁音) |- |[[だ]]||[[ぢ]]||[[づ]]||[[で]]||[[ど]]||colspan="3"| ||(濁音) |- |[[ば]]||[[び]]||[[ぶ]]||[[べ]]||[[ぼ]]||びゃ||びゅ||びょ||(濁音) |- |[[ぱ]]||[[ぴ]]||[[ぷ]]||[[ぺ]]||[[ぽ]]||ぴゃ||ぴゅ||ぴょ||([[半濁音]]) |- !rowspan="2"|半子音+母音 |[[や]]|| ||[[ゆ]]|| ||[[よ]]||colspan="3"| ||―― |- |[[わ]]|| || || ||[[を]]||colspan="3"| ||―― |} {|class="wikitable" |- !rowspan="3"|特殊モーラ |[[ん]]||([[ん|撥音]]) |- |[[っ]]||([[促音]]) |- |[[長音符|ー]]||([[長音]]) |} なお、[[五十音|五十音図]]は、音韻体系の説明に使われることがしばしばあるが、上記の日本語モーラ表と比べてみると、少なからず異なる部分がある。五十音図の成立は平安時代にさかのぼるものであり、現代語の音韻体系を反映するものではないことに注意が必要である(「[[#研究史|日本語研究史]]」の節の「[[#江戸時代以前|江戸時代以前]]」を参照)。 ==== 母音体系 ==== [[ファイル:Japanese (standard) vowels.png|frame|right|基本5母音の調音位置<br><small>左側を向いた人の口の中を模式的に示したもの。左へ行くほど舌が前に出、上へ行くほど口が狭まることを表す。なお、{{IPA|o}} のときは唇の丸めを伴う。</small>]] [[母音]]は、「[[あ]]・[[い]]・[[う]]・[[え]]・[[お]]」の文字で表される。[[音韻論]]上は、日本語の[[母音]]はこの文字で表される5個であり、[[音素]]記号では以下のように記される。 *{{ipa|a}}, {{ipa|i}}, {{ipa|u}}, {{ipa|e}}, {{ipa|o}} 一方、[[音声学]]上は、基本の5母音は、それぞれ *{{IPA|ä}}、{{IPA|i̠}}、{{IPA|u̜}}または{{IPA|ɯ̹}}、{{IPA|e̞}}または{{IPA|ɛ̝}}、{{IPA|o̜̞}}または{{IPA|ɔ̜̝}} に近い発音と捉えられる。̈ は[[中舌母音|中舌寄り]]、̠ は後寄り、̜ は弱めの円唇、̹ は強めの円唇、˕ は下寄り、˔ は上寄りを示す補助記号である。 日本語の「あ」は、[[国際音声記号]] (IPA) では前舌母音 {{IPA|a}} と後舌母音 {{IPA|ɑ}} の中間音 {{IPA|ä}} に当たる。「い」は少し後寄りであり {{IPA|i̠}} が近い。「え」は半狭母音 {{IPA|e}} と半広母音 {{IPA|ɛ}} の中間音であり、「お」は半狭母音 {{IPA|o}} と半広母音 {{IPA|ɔ}} の中間音である。 日本語の「う」は、東京方言では、英語などの {{IPA|u}} のような円唇後舌母音より、少し中舌よりで、それに伴い円唇性が弱まり、中舌母音のような張唇でも円唇でもないニュートラルな唇か、それよりほんの僅かに前に突き出した唇で発音される、半後舌微円唇狭母音である{{Sfnp|窪薗晴夫|1999|pp=35-37}}。これは舌と唇の動きの連関で、前舌母音は張唇、中舌母音は平唇・ニュートラル(ただしニュートラルは、現行のIPA表記では非円唇として、張唇と同じカテゴリーに入れられている)、後舌母音は円唇となるのが自然であるという法則に適っている{{Sfnp|窪薗晴夫|1999|pp=34-35}}。しかし「う」は母音融合などで見られるように、音韻上は未だに円唇後舌狭母音として機能する{{Sfnp|窪薗晴夫|1999|p=100}}。また、[ɯᵝ] という表記も行われる{{要出典|date=2015年6月}}。 円唇性の弱さを強調するために、{{IPA|ɯ}} を使うこともあるが{{Sfnp|窪薗晴夫|1999|p=35}}、これは本来朝鮮語に見られる、iのような完全な張唇でありながら、u のように後舌の狭母音を表す記号であり、円唇性が減衰しつつも残存し、かつ後舌よりやや前よりである日本語の母音「う」の音声とは違いを有する。またこの種の母音は、唇と舌の連関から外れるため、母音数5以上の言語でない限り、発生するのは稀である。「う」は[[唇音]]の後ではより完全な[[円唇母音]]に近づく(発音の詳細はそれぞれの文字の項目を参照)。一方、西日本方言では「う」は東京方言よりも奥舌で、唇も丸めて発音し、{{IPA|u}} に近い。 音韻論上、「コーヒー」「ひいひい」など、「ー」や「あ行」の仮名で表す[[長音]]という単位が存在する(音素記号では {{ipa|R}})。これは、「直前の母音を1モーラ分引く」という方法で発音される独立した特殊モーラである<ref>{{Harvp|金田一春彦|1950}}(1967年に「「里親」と「砂糖屋」―引き音節の提唱」として『国語音韻の研究』(東京堂出版)に収録)などを参照。</ref>。「鳥」(トリ)と「通り」(トーリ)のように、長音の有無により意味を弁別することも多い。ただし、音声としては「長音」という特定の音があるわけではなく、長母音 {{IPA|äː}} {{IPA|i̠ː}} {{IPA|u̜̟ː}} {{IPA|e̞ː}} {{IPA|o̜̞ː}} の後半部分に相当するものである。 「えい」「おう」と書かれる文字は、発音上は「ええ」「おお」と同じく長母音 {{IPA|e̞ː}} {{IPA|o̜̞ː}} として発音されることが一般的である(「けい」「こう」など、頭子音が付いた場合も同様)。すなわち、「衛星」「応答」「政党」は「エーセー」「オートー」「セートー」のように発音される。ただし、九州や四国南部・西部、紀伊半島南部などでは「えい」を {{IPA|e̞i}} と発音する<ref name="D">「音韻総覧」{{Harv|徳川宗賢|1989}}</ref>。「思う」{{IPA|omoɯᵝ}}、「問う」{{IPA|toɯᵝ}}などの単語は必ず[[二重母音]]となり、また軟骨魚の[[エイ]]など、語彙によって二重母音になる場合もあるが、これには個人差がある。1文字1文字丁寧に発話する場合には「えい」を {{IPA|e̞i}} と発音する話者も多い。 単語末や無声子音の間に挟まれた位置において、「イ」や「ウ」などの[[狭母音]]はしばしば無声化する。たとえば、「です」「ます」は {{IPA|de̞su̜̟̥}} {{IPA|mäsu̜̟̥}} のように発音されるし、「菊」「力」「深い」「放つ」「秋」などはそれぞれ {{IPA|kʲi̠̥ku̜̟}} {{IPA|ʨi̠̥käɾä}} {{IPA|ɸu̜̟̥käi̠}} {{IPA|hänäʦu̜̟̥}} {{IPA|äkʲi̠̥}} と発音されることがある。ただしアクセント核がある拍は無声化しにくい。個人差もあり、発話の環境や速さ、丁寧さによっても異なる。また方言差も大きく、たとえば[[近畿方言]]ではほとんど母音の無声化が起こらない。 「[[ん]]」の前の母音は[[鼻音化]]する傾向がある。また、母音の前の「ん」は前後の母音に近似の[[鼻音化|鼻母音]]になる。 ==== 子音体系 ==== [[子音]]は、[[音韻論]]上区別されているものとしては、現在の主流学説によれば「か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ行」の子音、濁音「が・ざ・だ・ば行」の子音、半濁音「ぱ行」の子音である。[[音素]]記号では以下のように記される。ワ行とヤ行の語頭子音は、音素 u と音素 i の音節内の位置に応じた変音であるとする解釈もある。特殊モーラの「ん」と「っ」は、音韻上独立の音素であるという説と、「ん」はナ行語頭子音 n の音節内の位置に応じた変音、「っ」は単なる[[二重子音|二重子音化]]であるとして音韻上独立の音素ではないという説の両方がある。 *{{ipa|k}}, {{ipa|s}}, {{ipa|t}}, {{ipa|h}}(清音) *{{ipa|ɡ}}, {{ipa|z}}, {{ipa|d}}, {{ipa|b}}(濁音) *{{ipa|p}}(半濁音) *{{ipa|n}}, {{ipa|m}}, {{ipa|r}} *{{ipa|j}}, {{ipa|w}}(半母音とも呼ばれる) 一方、[[音声学]]上は、子音体系はいっそう複雑な様相を呈する。主に用いられる子音を以下に示す(後述する[[口蓋化]]音は省略)。 {|class="wikitable" style="text-align: center;" |- !rowspan="2" colspan="2"|<!--空--> !|[[唇音]] !colspan="2"|[[舌頂音]] !colspan="3"|[[舌背音]] !|[[咽喉音]] |- ![[両唇音]] ![[歯茎音]] ![[そり舌音|そり<br>舌音]] ![[硬口蓋音|硬口<br>蓋音]] ![[軟口蓋音|軟口<br>蓋音]] ![[口蓋垂音|口蓋<br>垂音]] ![[声門音]] |- !colspan="2"|[[破裂音]] |class="IPA"|[[無声両唇破裂音|p]]&nbsp;&nbsp;[[有声両唇破裂音|b]] |class="IPA"|[[無声歯茎破裂音|t]]&nbsp;&nbsp;[[有声歯茎破裂音|d]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|[[無声軟口蓋破裂音|k]]&nbsp;&nbsp;[[有声軟口蓋破裂音|ɡ]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |- !colspan="2"|[[鼻音]] |class="IPA"|[[両唇鼻音|m]] |class="IPA"|[[歯茎鼻音|n]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|[[硬口蓋鼻音|ɲ]] |class="IPA"|[[軟口蓋鼻音|ŋ]] |class="IPA"|[[口蓋垂鼻音|ɴ]] |style="background:gray;"|&nbsp; |- !colspan="2"|[[はじき音]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|[[歯茎はじき音|ɾ]] |class="IPA"|[[そり舌はじき音|ɽ]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |style="background:gray;"|&nbsp; |- !colspan="2"|[[摩擦音]] |class="IPA"|[[無声両唇摩擦音|ɸ]] |class="IPA"|[[無声歯茎摩擦音|s]]&nbsp;&nbsp;[[有声歯茎摩擦音|z]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|[[無声硬口蓋摩擦音|ç]] |class="IPA"|[[有声軟口蓋摩擦音|ɣ]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|[[無声声門摩擦音|h]] |- !colspan="2"|[[接近音]] |class="IPA"|[[両唇接近音|(β̞)]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|[[硬口蓋接近音|j]] |class="IPA"|[[軟口蓋接近音|ɰ]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |- !rowspan="2" style="width:1em"|[[側面音]] ![[側面はじき音|はじき音]] |style="background:gray;"|&nbsp; |class="IPA"|[[歯茎側面はじき音|ɺ]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |style="background:gray;"|&nbsp; |- ![[側面音|側面接近音]] |style="background:gray;"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp;[[歯茎側面接近音|l]] |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |class="IPA"|&nbsp; |style="background:gray;"|&nbsp; |} {|frame="box" rules="all" cellpadding="1" class="wikitable" style="text-align:center;" |- !class="IPA" style="font-weight:normal;font-size:120%"|[[無声歯茎硬口蓋摩擦音|ɕ]] [[有声歯茎硬口蓋摩擦音|ʑ]] |[[歯茎硬口蓋音|歯茎硬口蓋]]摩擦音 |} {|frame="box" rules="all" cellpadding="1" class="wikitable" style="text-align:center;" |+破擦音 |- !<!--空--> !style="width:4em"|歯茎音 !style="width:4em"|歯茎硬口蓋音 |- !無声音 |class="IPA"|[[無声歯茎破擦音|t͡s]] |class="IPA"|[[無声歯茎硬口蓋破擦音|t͡ɕ]] |- !有声音 |class="IPA"|[[有声歯茎破擦音|d͡z]] |class="IPA"|[[有声歯茎硬口蓋破擦音|d͡ʑ]] |} 基本的に「か行」は {{IPA|k}}、「さ行」は {{IPA|s}}({{IPA|θ}} を用いる地方・話者もある<ref name="D"/>)、「た行」は {{IPA|t}}、「な行」は {{IPA|n}}、「は行」は {{IPA|h}}、「ま行」は {{IPA|m}}、「や行」は {{IPA|j}}、「だ行」は {{IPA|d}}、「ば行」は {{IPA|b}}、「ぱ行」は {{IPA|p}} を用いる。 「ら行」の子音は、語頭では {{IPA|ɺ}}、「ん」の後のら行は英語の {{IPA|l}} に近い音を用いる話者もある。一方、「あらっ?」というときのように、語中語尾に現れる場合は、舌をはじく {{IPA|ɾ}} もしくは {{IPA|ɽ}} となる。 標準日本語およびそれの母体である首都圏方言(共通語)において、「わ行」の子音は、上で挙げた同言語の「う」と基本的な性質を共有し、もう少し空気の通り道の狭い接近音である。このため、{{IPA|u}} に対応する接近音{{IPA|w}} と、{{IPA|ɯ}} に対応する接近音{{IPA|ɰ}} の中間、もしくは微円唇という点で僅かに {{IPA|w}} に近いと言え、軟口蓋(後舌母音の舌の位置)の少し前よりの部分を主な調音点とし、両唇も僅かに使って調音する[[二重調音]]の接近音といえる{{Sfnp|窪薗晴夫|1999|p=59}}。このため、五十音図の配列では、ワ行は唇音に入れられている(「日本語」の項目では、特別の必要のない場合は {{IPA|w}} で表現する)。外来音「ウィ」「ウェ」「ウォ」にも同じ音が用いられるが、「ウイ」「ウエ」「ウオ」と2モーラで発音する話者も多い。 「が行」の子音は、語頭では破裂音の {{IPA|g}} を用いるが、語中では鼻音の {{IPA|ŋ}}(「が行」鼻音、いわゆる[[鼻濁音]])を用いることが一般的だった。現在では、この {{IPA|ŋ}} を用いる話者は減少しつつあり、代わりに語頭と同じく破裂音を用いるか、摩擦音の {{IPA|ɣ}} を用いる話者が増えている。 「ざ行」の子音は、語頭や「ん」の後では[[破擦音]](破裂音と摩擦音を合わせた {{IPA|d͡z}} などの音)を用いるが、語中では[[摩擦音]]({{IPA|z}} など)を用いる場合が多い。いつでも破擦音を用いる話者もあるが、「手術(しゅじゅつ)」などの語では発音が難しいため摩擦音にするケースが多い。なお、「だ行」の「ぢ」「づ」は、一部方言を除いて「ざ行」の「じ」「ず」と同音に帰しており、発音方法は同じである。 母音「い」が後続する子音は、独特の音色を呈する。いくつかの子音では、前舌面を[[硬口蓋]]に近づける[[口蓋化]]が起こる。たとえば、「か行」の子音は一般に {{IPA|k}} を用いるが、「[[き]]」だけは {{IPA|kʲ}} を用いるといった具合である。口蓋化した子音の後ろに母音「あ」「う」「お」が来るときは、表記上は「[[い段]]」の仮名の後ろに「ゃ」「ゅ」「ょ」の仮名を用いて「きゃ」「きゅ」「きょ」、「みゃ」「みゅ」「みょ」のように記す。後ろに母音「え」が来るときは「ぇ」の仮名を用いて「きぇ」のように記すが、外来語などにしか使われない。 「さ行」「ざ行」「た行」「は行」の「い段」音の子音も独特の音色であるが、これは単なる口蓋化でなく、調音点が硬口蓋に移動した音である。「し」「ち」の子音は {{IPA|ɕ}} {{IPA|ʨ}} を用いる。外来音「スィ」「ティ」の子音は口蓋化した {{IPA|sʲ}} {{IPA|tʲ}} を用いる。「じ」「ぢ」の子音は、語頭および「ん」の後ろでは {{IPA|d͡ʑ}}、語中では {{IPA|ʑ}} を用いる。外来音「ディ」「ズィ」の子音は口蓋化した {{IPA|dʲ}} {{IPA|d͡ʑʲ}} および {{IPA|zʲ}} を用いる。「ひ」の子音は {{IPA|h}} ではなく[[硬口蓋音]] {{IPA|ç}} である。 また、「[[に]]」の子音は多くは口蓋化した {{IPA|nʲ}} で発音されるが、[[硬口蓋鼻音]] {{IPA|ɲ}} を用いる話者もある。同様に、「[[り]]」に[[硬口蓋はじき音]]を用いる話者や、「ち」に[[無声硬口蓋破裂音]] {{IPA|c}} を用いる話者もある。 そのほか、「は行」では「[[ふ]]」の子音のみ[[無声両唇摩擦音]] {{IPA|ɸ}} を用いるが、これは「は行」子音が {{IPA|p}} → {{IPA|ɸ}} → {{IPA|h}} と変化してきた名残りである。五十音図では、奈良時代に音韻・音声でp、平安時代に{{IPA|ɸ}}であった名残で、両唇音のカテゴリーに入っている。外来語には {{IPA|f}} を用いる話者もある。これに関して、現代日本語で「っ」の後ろや、漢語で「ん」の後ろにハ行が来たとき、パ行(p)の音が現れ、連濁でもバ行(b)に変わり、有音声門摩擦音{{IPA|ɦ}}ではないことから、現代日本語でも語種を和語や前近代の漢語等の借用語に限れば(ハ行に由来しないパ行は近代以降のもの)、ハ行の音素はhでなくpであり、摩擦音化規則で上に挙げた場合以外はhに変わるのだという解釈もある。現代日本語母語話者の直感には反するが、ハ行の連濁や「っ」「ん」の後ろでのハ行の音の変化をより体系的・合理的に表しうる{{Sfnp|上田萬年|1903|pp=32-39}}<ref>「ハ行子音の分布と変化」、田中伸一、2008、東京大学教養学部の講義「言語科学2」にて</ref>。 また、「た行」では「[[つ]]」の子音のみ {{IPA|t͡s}} を用いる。これらの子音に母音「あ」「い」「え」「お」が続くのは主として外来語の場合であり、仮名では「ァ」「ィ」「ェ」「ォ」を添えて「ファ」「ツァ」のように記す(「ツァ」は「おとっつぁん」「ごっつぁん」などでも用いる)。「フィ」「ツィ」は子音に口蓋化が起こる。また「ツィ」は多く「チ」などに言い換えられる。「トゥ」「ドゥ」({{IPA|tɯ}} {{IPA|dɯ}})は、外来語で用いることがある。 [[促音]]「っ」(音素記号では {{ipa|Q}})および[[ん|撥音]]「ん」({{ipa|N}})と呼ばれる音は、音韻論上の概念であって、前節で述べた[[長音]]と併せて特殊モーラと扱う。実際の音声としては、「っ」は {{IPA|-k̚k-}} {{IPA|-s̚s-}} {{IPA|-ɕ̚ɕ-}} {{IPA|-t̚t-}} {{IPA|-t̚ʦ-}} {{IPA|-t̚ʨ-}} {{IPA|-p̚p-}} などの子音連続となる。ただし「あっ」のように、単独で出現することもあり、そのときは声門閉鎖音となる。また、「ん」は、後続の音によって {{IPA|ɴ}} {{IPA|m}} {{IPA|n}} {{IPA|ŋ}} などの子音となる(ただし、母音の前では[[鼻音化|鼻母音]]となる)。文末などでは {{IPA|ɴ}} を用いる話者が多い。 === アクセント === {{See also|アクセント#日本語のアクセント}} 日本語は、一部の方言を除いて、音(ピッチ)の上下による[[高低アクセント]]を持っている。アクセントは語ごとに決まっており、モーラ(拍)単位で高低が定まる。同音語をアクセントによって区別できる場合も少なくない。たとえば東京方言の場合、「雨」「飴」はそれぞれ「ア\メ」(頭高型)、「ア/メ」(平板型)と異なったアクセントで発音される(/を音の上昇、\を音の下降とする)。「が」「に」「を」などの助詞は固有のアクセントがなく、直前に来る名詞によって助詞の高低が決まる。たとえば「箸」「橋」「端」は、単独ではそれぞれ「ハ\シ」「ハ/シ」「ハ/シ」となるが、後ろに「が」「に」「を」などの助詞が付く場合、それぞれ「ハ\シガ」「ハ/シ\ガ」「ハ/シガ」となる。 共通語のアクセントでは、単語の中で音の下がる場所があるか、あるならば何モーラ目の直後に下がるかを弁別する。音が下がるところを'''下がり目'''または'''アクセントの滝'''といい、音が下がる直前のモーラを'''アクセント核'''{{Efn|厳密にはアクセント核とは、弁別的なピッチの変動をもたらすモーラまたは音節のことで、下げ核、上げ核、昇り核、降り核の総称である。下げ核は直後のモーラの音を下げる働きを持つ。}}または'''下げ核'''という。たとえば「箸」は第1拍、「橋」は第2拍にアクセント核があり、「端」にはアクセント核がない。アクセント核は1つの単語には1箇所もないか1箇所だけあるかのいずれかであり、一度下がった場合は単語内で再び上がることはない。アクセント核を {{下げ核|○}} で表すと、2拍語には ○○(核なし)、{{下げ核|○}}○、○{{下げ核|○}} の3種類、3拍語には ○○○、{{下げ核|○}}○○、○{{下げ核|○}}○、○○{{下げ核|○}} の4種類のアクセントがあり、拍数が増えるにつれてアクセントの型の種類も増える。アクセント核が存在しないものを平板型といい、第1拍にアクセント核があるものを頭高型、最後の拍にあるものを尾高型、第1拍と最後の拍の間にあるものを中高型という。頭高型・中高型・尾高型をまとめて起伏式または有核型と呼び、平板型を平板式または無核型と呼んで区別することもある。 また共通語のアクセントでは、単語や文節のみの形で発音した場合、「し/るしが」「た/ま\ごが」のように1拍目から2拍目にかけて音の上昇がある(頭高型を除く)。しかしこの上昇は単語に固有のものではなく、文中では「あ/かいしるしが」「こ/のたま\ごが」のように、区切らずに発音したひとまとまり(「句」と呼ぶ)の始めに上昇が現れる。この上昇を'''[[句音調]]'''と言い、句と句の切れ目を分かりやすくする機能を担っている。一方、アクセント核は単語に固定されており、「たまご」の「ま」の後の下がり目はなくなることがない。共通語の音調は、句の2拍目から上昇し(句の最初の単語が頭高型の場合は1拍目から上昇する)、アクセント核まで平らに進み、核の後で下がる。従って、句頭で「低低高高…」や「高高高高…」のような音調は現れない。アクセント辞典などでは、アクセントを「し{{高線|るしが}}」「た{{下げ核|ま}}ごが」のように表記する場合があるが、これは1文節を1つの句として発音するときのもので、句音調とアクセント核の両方を同時に表記したものである{{Sfnp|上野善道|1989}}。 == 文法 == '''日本語'''は[[膠着語]]の性質を持ち、主語+目的語+動詞([[SOV型|SOV]])を語順とする[[構成的言語]]である。言語分類学上、日本語はほとんどのヨーロッパ言語とはかけ離れた文法構造をしており、句では主要部終端型、複文では左枝分かれの構造をしている。このような言語は多く存在するが、ヨーロッパでは希少である。[[主題優勢言語]]である。 === 文の構造 === [[File:Nihongo_bunkozo.png|thumb|440px|right|日本語の文の例{{smaller|上の文は、橋本進吉の説に基づき主述構造の文として説明したもの。下の文は、主述構造をなすとは説明しがたいもの。三上章はこれを題述構造の文と捉えている。}}]] 日本語では「私は本を読む。」という語順で文を作る。英語で「I read a book.」という語順を[[SVO型]](主語・動詞・目的語)と称する説明にならっていえば、日本語の文は[[SOV型]]ということになる。もっとも、厳密にいえば、英語の文に動詞が必須であるのに対して、日本語文は動詞で終わることもあれば、形容詞や名詞+助動詞で終わることもある。そこで、日本語文の基本的な構造は、「S(主語)‐V(動詞)」というよりは、「S(主語)‐P(述語)」という「'''主述構造'''」と考えるほうが、より適当である。 #私は(が) 社長だ #私は(が) 行く。 #私は(が) 嬉しい。 上記の文は、いずれも「S‐P」構造、すなわち主述構造をなす同一の文型である。英語などでは、それぞれ「SVC」「SV」「SVC」の文型になるところであるから、それにならって、1を名詞文、2を動詞文、3を形容詞文と分けることもある。しかし、日本語ではこれらの文型に本質的な違いはない。そのため、日本語話者の英語初学者などは、「{{en|I am a president.}}」「{{en|I am happy.}}」と同じ調子で「{{en|I am go.}}」と誤った作文をすることがある{{Sfnp|酒井邦嘉|2002|p=105}}。 ==== 題述構造 ==== また、日本語文では、主述構造とは別に、「題目‐述部」からなる「'''題述構造'''」を採ることがきわめて多い。題目とは、話のテーマ(主題)を明示するものである([[三上章]]は「<span dir="ltr" lang="en">what we are talking about</span>」と説明する{{Sfnp|三上章|1972}})。よく主語と混同されるが、別概念である。主語は多く「が」によって表され、動作や作用の主体を表すものであるが、題目は多く「は」によって表され、その文が「これから何について述べるのか」を明らかにするものである。主語に「は」が付いているように見える文も多いが、それはその文が動作や作用の主体について述べる文、すなわち題目が同時に主語でもある文だからである。そのような文では、題目に「は」が付くことにより結果的に主語に「は」が付く。一方、動作や作用の客体について述べる文、すなわち題目が同時に目的語でもある文では、題目に「は」が付くことにより結果的に目的語に「は」が付く。たとえば、 *4. 象は 大きい。 *5. 象は おりに入れた。 *6. 象は えさをやった。 *7. 象は 鼻が長い。 などの文では、「象は」はいずれも題目を示している。4の「象は」は「象が」に言い換えられるもので、事実上は文の主語を兼ねる。しかし、5以下は「象が」には言い換えられない。5は「象を」のことであり、6は「象に」のことである。さらに、7の「象は」は何とも言い換えられないものである(「象の」に言い換えられるともいう{{Sfnp|三上章|1960}})。これらの「象は」という題目は、「が」「に」「を」などの特定の[[格]]を表すものではなく、「私は象について述べる」ということだけをまず明示する役目を持つものである。 これらの文では、題目「象は」に続く部分全体が「述部」である{{Efn|{{Harvp|鈴木重幸|1972}}は、5,6の「象は」は、題目を差し出す機能を持つ「題目語」ととらえる。ただし、7の文について「象は」が主語、「鼻が長い」を連語述語ととらえる。}}。 [[大野晋]]は、「が」と「は」はそれぞれ未知と既知を表すと主張した。たとえば *私が佐藤です *私は佐藤です においては、前者は「佐藤はどの人物かと言えば(それまで未知であった)私が佐藤です」を意味し、後者は「(すでに既知である)私は誰かと言えば(田中ではなく)佐藤です」となる。したがって「何」「どこ」「いつ」などの疑問詞は常に未知を意味するから「何が」「どこが」「いつが」となり、「何は」「どこは」「いつは」とは言えない。 === 語順:主要部終端型+左分岐 === [[ジョーゼフ・グリーンバーグ]]による構成素順(「語順」)の現代理論は、言語によって、句が何種類か存在することを認識している。それぞれの句には'''主要部'''があり、場合によっては修飾語が同句に含まれる。句の主要部は、修飾語の前(主要部先導型)か後ろ(主要部終端型)に位置する。英語での句の構成を例示すると以下のようになる(太字はそれぞれの句の主要部)。 * 属句(例:他の名詞によって修飾された名詞)― "the '''cover''' of the book"、"the book's '''cover'''"など * [[接置詞]]に支配された名詞 ― "'''on''' the table"、"'''underneath''' the table" * 比較 ー "[X is] '''bigger''' than Y"、例:"compared to Y, X is '''big'''" * 形容詞によって修飾された名詞 ― "black '''cat'''" 主要部先導型と主要部終端型の混合によって、構成素順が不規則である言語も存在する。例えば、上記の句のリストを見ると、英語では大抵が主要部先導型であるが、名詞は修飾する形容詞後の後に位置している。しかも、属句では主要部先導型と主要部終端型のいずれも存在し得る。これとは対照的に、日本語は主要部終端型言語の典型である。 * 属句:「猫の'''色'''」 * 接置詞に支配された名詞:「日本'''に'''」 * 比較:「Yより'''大きい'''」 * 形容詞によって修飾された名詞: 「黒い'''猫'''」 日本語の主要部終端型の性質は、複文などの文章単位での構成においても見られる。文章を構成素とした文章では、従属節が常に先行する。これは、従属節が修飾部であり、修飾する文が統語的に句の主要部を擁しているからである。例えば、英語と比較した場合、次の英文「the man who was walking down the street 」を日本語に訳す時、英語の従属節(関係代名詞節)である 「(who) was walking down the street」を主要部である 「the man」 の前に位置させなければ、自然な日本語の文章にはならない。 また、主要部終端型の性質は重文でも見られる。他言語では、一般的に重文構造において、構成節の繰り返しを避ける傾向にある。例えば、英語の場合、「Bob bought his mother some flowers and bought his father a tie」の文を2番目の「bought」を省略し、「Bob bought his mother some flowers and his father a tie」とすることが一般的である。しかし、日本語では、「ボブはお母さんに花を買い、お父さんにネクタイを買いました」であるところを「ボブはお母さんに花を、お父さんにネクタイを買いました」というように初めの動詞を省略する傾向にある。これは、日本語の文章が常に動詞で終わる性質を持つからである。(倒置文や考えた後での後付け文などは除く。) ==== 主語廃止論 ==== [[ファイル:Difference between Japanese and English sentences.gif|frame|right|日本語・英語の構文の違い<div style="font-size: smaller;">三上説によれば、日本語の文は、「紹介シ」の部分に「ガ」「ニ」「ヲ」が同等に係る。英語式の文は、「甲(ガ)」という主語だけが述語「紹介シタ」と対立する。</div>]] 上述の「象は鼻が長い。」のように、「主語‐述語」の代わりに「題目‐述部」と捉えるべき文が非常に多いことを考えると、日本語の文にはそもそも主語は必須でないという見方も成り立つ。[[三上章]]は、ここから「主語廃止論」(主語という文法用語をやめる提案)を唱えた。三上によれば、 *甲ガ乙ニ丙ヲ紹介シタ。 という文において、「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はいずれも「紹介シ」という行為を説明するために必要な要素であり、優劣はない。重要なのは、それらをまとめる述語「紹介シタ」の部分である。「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はすべて述語を補足する語(補語)となる。いっぽう、英語などでの文で主語は、述語と人称などの点で呼応しており、特別の存在である{{Sfnp|三上章|1972}}。 この考え方に従えば、英語式の観点からは「主語が省略されている」としかいいようがない文をうまく説明することができる。たとえば、 *ハマチの成長したものをブリという。 *ここでニュースをお伝えします。 *日一日と暖かくなってきました。 などは、いわゆる主語のない文である。しかし、日本語の文では述語に中心があり、補語を必要に応じて付け足すと考えれば、上記のいずれも、省略のない完全な文と見なして差し支えない。 今日の文法学説では、主語という用語・概念は、作業仮説として有用な面もあるため、なお一般に用いられている。一般的には格助詞「ガ」を伴う文法項を主語と見なす。ただし、三上の説に対する形で日本語の文に主語が必須であると主張する学説は、生成文法や鈴木重幸らの言語学研究会グループなど、主語に統語上の重要な役割を認める学派を除いて、少数派である。森重敏は、日本語の文においても主述関係が骨子であるとの立場を採るが、この場合の主語・述語も、一般に言われるものとはかなり様相を異にしている{{Sfnp|森重敏|1965}}。現在一般的に行われている学校教育における文法([[学校文法]])では、主語・述語を基本とした伝統的な文法用語を用いるのが普通だが、教科書によっては主語を特別扱いしないものもある{{Efn|たとえば、東京書籍『新編 新しい国語 1』(中学校国語教科書)では、1977年の検定本では「主語・述語」を一括して扱っているが、1996年の検定本ではまず述語について「文をまとめる重要な役割をする」と述べたあと、主語については修飾語と一括して説明している。}}。 === 文の成分 === {{複数の問題|section=1|独自研究=2021年10月|出典の明記=2021年10月}} 文を主語・述語から成り立つと捉える立場でも、この2要素だけでは文の構造を十分に説明できない。主語・述語には、さらに[[修飾語]]などの要素が付け加わって、より複雑な文が形成される。文を成り立たせるこれらの要素を「文の成分」と称する。 学校文法(中学校の国語教科書)では、文の成分として「主語」「述語」「修飾語」(連用修飾語・連体修飾語)「接続語」「独立語」の5つを挙げている{{要出典|date=2021年10月}}。「並立語(並立の関係にある文節/連文節どうし)」や「補助語・被補助語(補助の関係にある文節/連文節どうし)は文の成分(あるいはそれを示す用語)ではなく、文節/連文節どうしの関係を表した概念であって、常に連文節となって上記五つの成分になるという立場に学校文法は立っている。したがって、「並立の関係」「補助の関係」という用語(概念)を教科書では採用しており、「並立語」「補助語」という用語(概念)については載せていない教科書が主流である{{要出典|date=2021年10月}}。なお「連体修飾語」も厳密にいえばそれだけでは成分にはなり得ず、常に被修飾語と連文節を構成して文の成分になる。 学校図書を除く四社の教科書では、単文節でできているものを「主語」のように「-語」と呼び、連文節でできているものを「主部」のように「-部」と呼んでいる。それに対し学校図書だけは、文節/連文節どうしの関係概念を「-語」と呼び、いわゆる成分(文を構成する個々の最大要素)を「-部」と呼んでいる{{要出典|date=2021年10月}}。 ==== 種類とその役割 ==== 以下、学校文法の区分に従いつつ、それぞれの文の成分の種類と役割とについて述べる。 ===== 主語・述語 ===== 文を成り立たせる基本的な成分である。ことに述語は、文をまとめる重要な役割を果たす。「雨が降る。」「本が多い。」「私は学生だ。」などは、いずれも主語・述語から成り立っている。教科書によっては、述語を文のまとめ役として最も重視する一方、主語については修飾語と併せて説明するものもある(前節「[[#主語廃止論|主語廃止論]]」参照)。 ===== 連用修飾語 ===== 用言に係る修飾語である(用言については「[[#自立語|自立語]]」の節を参照)。「兄が弟に算数を教える。」という文で「弟に」「算数を」など格を表す部分は、述語の動詞「教える」にかかる連用修飾語ということになる。また、「算数をみっちり教える。」「算数を熱心に教える。」という文の「みっちり」「熱心に」なども、「教える」にかかる連用修飾語である。ただし、「弟に」「算数を」などの成分を欠くと、基本的な事実関係が伝わらないのに対し、「みっちり」「熱心に」などの成分は、欠いてもそれほど事実の伝達に支障がない。ここから、前者は文の根幹をなすとして'''補充成分'''と称し、後者に限って'''修飾成分'''と称する説もある{{Sfnp|北原保雄|1981}}。国語教科書でもこの2者を区別して説明するものがある。 ===== 連体修飾語 ===== 体言に係る修飾語である(体言については「[[#自立語|自立語]]」の節を参照)。「私の本」「動く歩道」「赤い髪飾り」「大きな瞳」の「私の」「動く」「赤い」「大きな」は連体修飾語である。[[鈴木重幸]]・[[鈴木康之]]・[[高橋太郎 (言語学者)|高橋太郎]]・[[鈴木泰]]らは、ものを表す文の成分に特徴を付与し、そのものがどんなものであるかを規定(限定)する文の成分であるとして、連体修飾語を「'''規定語'''」(または「'''連体規定語'''」)と呼んでいる。 ===== 接続語 ===== 「疲れたので、動けない。」「買いたいが、金がない。」の「疲れたので」「買いたいが」のように、あとの部分との論理関係を示すものである。また、「今日は晴れた。だから、ピクニックに行こう。」「君は若い。なのに、なぜ絶望するのか。」における「だから」「なのに」のように、前の文とその文とをつなぐ成分も接続語である。品詞分類では、常に接続語となる品詞を[[接続詞]]とする。 ===== 独立語 ===== 「はい、分かりました。」「姉さん、どこへ行くの。」「新鮮、それが命です。」の「はい」「姉さん」「新鮮」のように、他の部分に係ったり、他の部分を受けたりすることがないものである。係り受けの観点から定義すると、結果的に、独立語には感動・呼びかけ・応答・提示などを表す語が該当することになる。品詞分類では、独立語としてのみ用いられる品詞は[[感動詞]]とされる。名詞や形容動詞語幹なども独立語として用いられる。 ===== 並立語 ===== 「ミカンとリンゴを買う。」「琵琶湖の冬は冷たく厳しい。」の「ミカンとリンゴを」や、「冷たく厳しい。」のように並立関係でまとまっている成分である。全体としての働きは、「ミカンとリンゴを」の場合は[[修飾語#連用修飾語|連用修飾部]]に相当し、「冷たく厳しい。」は[[述語#日本語の述語|述部]]に相当する。 ==== 目的語と補語 ==== 現行の学校文法では、英語にあるような「目的語」「補語」などの成分はないとする。英語文法では「<span dir="ltr" lang="en">I read a book.</span>」の「<span dir="ltr" lang="en">a book</span>」はSVO文型の一部をなす目的語であり、また「<span dir="ltr" lang="en">I go to the library.</span>」の「<span dir="ltr" lang="en">the library</span>」は前置詞とともに付け加えられた修飾語と考えられる。一方、日本語では、 *私は本を読む。 *私は図書館へ行く。 のように、「本を」「図書館へ」はどちらも「名詞+格助詞」で表現されるのであって、その限りでは区別がない。これらは、文の成分としてはいずれも「連用修飾語」とされる。ここから、学校文法に従えば、「私は本を読む。」は、「主語‐目的語‐動詞」(SOV) 文型というよりは、「主語‐修飾語‐述語」文型であると解釈される。 ===== 対象語(補語) ===== [[鈴木重幸]]・[[鈴木康之]]らは、「連用修飾語」のうち、「目的語」に当たる語は、述語の表す動きや状態の成立に加わる対象を表す「対象語」であるとし、文の基本成分として認めている。([[高橋太郎 (言語学者)|高橋太郎]]・[[鈴木泰]]・[[工藤真由美]]らは「対象語」と同じ文の成分を、主語・述語が表す事柄の組み立てを明示するために、その成り立ちに参加する物を補うという文中における機能の観点から、「補語」と呼んでいる。) ===== 状況語 ===== 「明日、学校で運動会がある。」の「明日」「学校で」など、出来事や有様の成り立つ状況を述べるために時や場所、原因や目的(「雨だから」(「体力向上のために」など)を示す文の成分のことを「状況語」とも言う{{Efn|{{Harvp|鈴木重幸|1972}}、{{Harvp|高橋太郎他|2005}}など。}}。学校文法では「連用修飾語」に含んでいるが、(連用)修飾語が、述語の表す内的な属性を表すのに対して、状況語は外的状況を表す「とりまき」ないしは「額縁」の役目を果たしている。状況語は、出来事や有様を表す部分の前に置かれるのが普通であり、主語の前に置かれることもある。なお、「状況語」という用語はロシア語・スペイン語・中国語(中国語では「状語」と言う)などにもあるが、日本語の「状況語」と必ずしも概念が一致しているわけではなく、修飾語を含んだ概念である。 ==== 修飾語の特徴 ==== 日本語では、修飾語はつねに被修飾語の前に位置する。「ぐんぐん進む」「白い雲」の「ぐんぐん」「白い」はそれぞれ「進む」「雲」の修飾語である。修飾語が長大になっても位置関係は同じで、たとえば、 {{Quote|ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲|佐佐木信綱}} という[[短歌]]は、冒頭から「ひとひらの」までが「雲」に係る長い修飾語である。 法律文や翻訳文などでも、長い修飾語を主語・述語の間に挟み、文意を取りにくくしていることがしばしばある。たとえば、[[日本国憲法]]前文の一節に、 {{Quote|われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。}} とあるが、主語(題目)の「われら」、述語の「信ずる」の間に「いづれの国家も……であると」という長い修飾語が介在している。この種の文を読み慣れた人でなければ分かりにくい。英訳で "We hold…"(われらは信ずる)と主語・述語が隣り合うのとは対照的である。 もっとも、修飾語が後置される英語でも、修飾関係の分かりにくい文が現れることがある。次のような文は「袋小路文」([[:en:garden path sentence]]) と呼ばれる。 {{Quote|{{lang|en|The horse raced past the barn fell.}}(納屋のそばを走らされた馬が倒れた。)}} この場合、日本語の文では「馬」に係る連体修飾語「納屋のそばを走らされた」が前に来ているために文構造がわかりやすいが、英語では「<span dir="ltr" lang="en">The horse</span>」を修飾する「<span dir="ltr" lang="en">raced past the barn</span>」があとに来ているために、構造が把握しづらくなっている。具体的には、この英文の途中「<span dir="ltr" lang="en">The horse raced past the barn</span>」までしか読んでいない状況では、文の成分としての動詞(主語は「<span dir="ltr" lang="en">The horse</span>」)は「<span dir="ltr" lang="en">raced</span>」であるように感じられるが、「<span dir="ltr" lang="en">fell</span>」まで行き着くと、文の成分としての動詞は、文法上、これまで唯一の候補だった(1)「<span dir="ltr" lang="en">raced</span>」に加え、(2)「<span dir="ltr" lang="en">fell</span>」が出てくることになり、それぞれの候補ごとに(1)「【(習慣的に、または一般法則に従って<ref group="注釈">(馬が走り抜けるより前に)崩れた納屋、ではない。英語は(日本語と違い)いわゆる[[時制の一致]]が働く言語であるため、(本文中候補(1)に沿った構造解釈においては)馬が走り抜けるのと、納屋が崩れるのが(時制上)同じ時点であることになる。</ref>)】崩れる納屋のそばを馬が素早く走り抜けた」なのか(2)「納屋のそばを走らされた馬が倒れた」なのかを検討しなければならなくなる。 === 品詞体系 === [[ファイル:JapanesePartsOfSpeech.png|frame|right|学校文法の品詞体系<br><small>元の図は、 橋本進吉「国語法要説」{{Sfnp|橋本進吉|1934|ps=(1948年の『国語法研究(橋本進吉博士著作集 第2冊)』(岩波書店)に収録)}}に掲載。上図および現在の国語教科書では微修正を加えている。</small>]] 名詞や動詞、形容詞といった「[[品詞]]」の概念は、上述した「文の成分」の概念とは分けて考える必要がある。名詞「犬」は、文の成分としては主語にもなれば修飾語にもなり、「犬だ」のように助動詞「だ」を付けて述語にもなる。動詞・形容詞・形容動詞も、修飾語にもなれば述語にもなる。もっとも、副詞は多く連用修飾語として用いられ、また、連体詞は連体修飾語に、接続詞は接続語に、感動詞は独立語にもっぱら用いられるが、必ずしも、特定の品詞が特定の文の成分に1対1で対応しているわけではない。 では、それぞれの品詞の特徴を形作るものは何かということが問題になるが、これについては、さまざまな説明があり、一定しない。俗に、事物を表す単語が名詞、動きを表す単語が動詞、様子を表す単語が形容詞などといわれることがあるが、例外がいくらでも挙がり、定義としては成立しない。 [[橋本進吉]]は、品詞を分類するにあたり、単語の表す意味(動きを表すか様子を表すかなど)には踏み込まず、主として形式的特徴によって品詞分類を行っている{{Sfnp|橋本進吉|1934|ps=(1948年の『国語法研究(橋本進吉博士著作集 第2冊)』(岩波書店)に収録)}}。橋本の考え方は初学者にも分かりやすいため、[[学校文法]]もその考え方に基づいている。 学校文法では、[[語]]のうち、「太陽」「輝く」「赤い」「ぎらぎら」など、それだけで[[文節]]を作り得るものを'''[[品詞|自立語]]'''(詞)とし、「ようだ」「です」「が」「を」など、単独で文節を作り得ず、自立語に付属して用いられるものを'''[[品詞|付属語]]'''(辞)とする。なお、日本語では、自立語の後に[[接辞]]や付属語を次々につけ足して文法的な役割などを示すため、[[言語類型論]]上は[[膠着語]]に分類される。 {{See also|品詞#日本語}} ==== 自立語 ==== 自立語は、[[活用]]のないものと、活用のあるものとに分けられる。 自立語で活用のないもののうち、主語になるものを'''[[名詞]]'''とする。名詞のうち、'''[[代名詞]]'''・'''[[数詞]]'''を独立させる考え方もある。一方、主語にならず、単独で連用修飾語になるものを'''[[副詞]]'''、連体修飾語になるものを'''[[連体詞]]'''(副体詞)、接続語になるものを'''[[接続詞]]'''、独立語としてのみ用いられるものを'''[[感動詞]]'''とする。副詞・連体詞については、それぞれ一品詞とすべきかどうかについて議論があり、さらに細分化する考え方<ref>{{Harvp|石神照雄|1983}}など。</ref>や、他の品詞に吸収させる考え方{{Sfnp|鈴木一彦|1959}}などがある。 自立語で活用のあるもののうち、命令形のあるものを'''[[動詞]]'''、命令形がなく終止・連体形が「い」で終わるものを'''[[形容詞]]'''(日本語教育では「イ形容詞」)、連体形が「な」で終わるものを'''[[形容動詞]]'''(日本語教育では「ナ形容詞」)とする。形容動詞を一品詞として認めることについては、[[時枝誠記]]{{Sfnp|時枝誠記|1950}}や[[鈴木重幸]]など、否定的な見方をする研究者もいる。 なお、「名詞」および「体言」という用語は、しばしば混同される。古来、ことばを分類するにあたり、活用のない語を「[[品詞|体言]]」(体)、活用のある語を「[[品詞|用言]]」(用)、そのほか、助詞・助動詞の類を「てにをは」と大ざっぱに称することが多かった。現在の学校文法では、「用言」は活用のある自立語の意味で用いられ(動詞・形容詞・形容動詞を指す)、「体言」は活用のない自立語の中でも名詞(および代名詞・数詞)を指すようになった。つまり、現在では「体言」と「名詞」とは同一物と見ても差し支えはないが、活用しない語という点に着目していう場合は「体言」、文の成分のうち主語になりうるという点に着目していう場合は「名詞」と称する。 ==== 付属語 ==== 付属語も、[[活用]]のないものと、活用のあるものとに分けられる。 付属語で活用のないものを'''[[助詞]]'''と称する。「春'''が'''来た」「買っ'''て'''くる」「やる'''しか'''ない」「分かった'''か'''」などの太字部分はすべて助詞である。助詞は、名詞について述語との関係(格関係)を表す'''格助詞'''(「[[#名詞の格|名詞の格]]」の節参照)、活用する語について後続部分との接続関係を表す'''接続助詞'''、種々の語について、程度や限定などの意味を添えつつ後続の用言などを修飾する'''副助詞'''、文の終わりに来て疑問や詠嘆・感動・禁止といった気分や意図を表す'''終助詞'''に分けられる。鈴木重幸・高橋太郎他・鈴木康之らは助詞を単語とは認めず、付属辞(「くっつき」)として、単語の一部とする。(格助詞・並立助詞・係助詞・副助詞・終助詞の全部および接続助詞のうち「し」「が」「けれども」「から」「ので」「のに」について)または語尾(接続助詞のうち「て(で)」、条件の形の「ば」、並べ立てるときの「たり(だり)」について)。 付属語で活用のあるものを'''[[助動詞 (国文法)|助動詞]]'''と称する。「気を引か'''れる'''」「私は泣か'''ない'''」「花が笑っ'''た'''」「さあ、出かけ'''よう'''」「今日は来ない'''そうだ'''」「もうすぐ春'''です'''」などの太字部分はすべて助動詞である。助動詞の最も主要な役割は、動詞(および助動詞)に付属して以下のような情報を加えることである。すなわち、動詞の[[態]](特に受け身・使役・可能など。ヴォイス)・[[極性 (言語学)|極性]](肯定・否定の決定。ポラリティ)・[[時制]](テンス)・[[相 (言語学)|相]](アスペクト)・[[法 (文法)|法]](推量・断定・意志など。ムード)などを示す役割を持つ。[[山田孝雄]]は、助動詞を認めず、動詞から分出される語尾(複語尾)と見なしている{{Sfnp|山田孝雄|1908}}。また[[時枝誠記]]は、「れる(られる)」「せる(させる)」を助動詞とせず、動詞の接尾語としている{{Sfnp|時枝誠記|1950}}。鈴木重幸・鈴木康之・高橋太郎らは大部分の助動詞を単語とは認めない。「た(だ)」「う(よう)は、動詞の語尾であるとし、「ない」「よう」「ます」「れる」「られる」「せる」「させる」「たい」「そうだ」「ようだ」は、接尾辞であるとして、単語の一部とする。(「ようだ」「らしい」「そうだ」に関しては、「むすび」または「コピュラ」「繋辞」であるとする。) === 名詞の格 === 名詞および動詞・形容詞・形容動詞は、それが文中でどのような成分を担っているかを特別の形式によって表示する。 名詞の場合、「が」「を」「に」などの[[助詞|格助詞]]を後置することで動詞との関係(格)を示す。語順によって格を示す言語ではないため、日本語は語順が比較的自由である。すなわち、 *桃太郎'''が''' 犬'''に''' きびだんご'''を''' やりました。 *犬'''に''' 桃太郎'''が''' きびだんご'''を''' やりました。 *きびだんご'''を''' 桃太郎'''が''' 犬'''に''' やりました。 などは、強調される語は異なるが、いずれも同一の内容を表す文で、しかも正しい文である。 主な格助詞とその典型的な機能は次の通りである。 {|class=wikitable !助詞 !機能 !使用例 |- |が |動作・作用の主体を表す。 |例:「空が青い」、「犬がいる」 |- |の |連体修飾を表す。 |「私の本」、「理想の家庭」 |- |を |動作・作用の対象を表す。 |「本を読む」、「人を教える」 |- |に |動作・作用の到達点を表す。 |「駅に着く」、「人に教える」 |- |へ |動作・作用の及ぶ方向を表す。 |「駅へ向かう」、「学校へ出かける」 |- |と |動作・作用をともに行う相手を表す。 |「友人と帰る」、「車とぶつかる」 |- |から |動作・作用の起点を表す。 |「旅先から戻る」、「6時から始める」 |- |より |動作・作用の起点や、比較の対象を表す。 |「旅先より戻る」、「花より美しい」 |- |で |動作・作用の行われる場所を表す。 |「川で洗濯する」、「風呂で寝る」 |} このように、格助詞は、述語を連用修飾する名詞が述語とどのような関係にあるかを示す(ただし、「の」だけは連体修飾に使われ、名詞同士の関係を示す)。なお、上記はあくまでも典型的な機能であり、主体を表さない「が」(例、「水が飲みたい」)、対象を表さない「を」(例、「日本を発った」)、到達点を表さない「に」(例、受動動作の主体「先生にほめられた」、地位の所在「今上天皇にあらせられる」)、主体を表す「の」(例、「私は彼の急いで走っているのを見た」)など、上記に収まらない機能を担う場合も多い。 格助詞のうち、「が」「を」「に」は、話し言葉においては脱落することが多い。その場合、文脈の助けがなければ、最初に来る部分は「が」格に相当すると見なされる。「くじらをお父さんが食べてしまった。」を「くじら、お父さん食べちゃった。」と助詞を抜かして言った場合は、「くじら」が「が」格相当ととらえられるため、誤解の元になる。「チョコレートを私が食べてしまった。」を「チョコレート、私食べちゃった。」と言った場合は、文脈の助けによって誤解は避けられる。なお、「へ」「と」「から」「より」「で」などの格助詞は、話し言葉においても脱落しない。 題述構造の文(「[[#文の構造|文の構造]]」の節参照)では、特定の格助詞が「は」に置き換わる。たとえば、「空が 青い。」という文は、「空」を題目化すると「空は 青い。」となる。題目化の際の「は」の付き方は、以下のようにそれぞれの格助詞によって異なる。 {|class="wikitable" |- !無題の文||題述構造の文 |- |空'''が'''青い。||空'''は'''青い。 |- |本'''を'''読む。||本'''は'''読む。 |- |学校'''に'''行く。||学校'''は'''行く。(学校'''には'''行く。) |- |駅'''へ'''向かう。||駅'''へは'''向かう。 |- |友人'''と'''帰る。||友人'''とは'''帰る。 |- |旅先'''から'''戻る。||旅先'''からは'''戻る。 |- |川'''で'''洗濯する。||川'''では'''洗濯する。 |} 格助詞は、下に来る動詞が何であるかに応じて、必要とされる種類と数が変わってくる。たとえば、「走る」という動詞で終わる文に必要なのは「が」格であり、「馬が走る。」とすれば完全な文になる。ところが、「教える」の場合は、「が」格を加えて「兄が教えています。」としただけでは不完全な文である。さらに「で」格を加え、「兄が小学校で教えています(=教壇に立っています)。」とすれば完全になる。つまり、「教える」は、「が・で」格が必要である。 ところが、「兄が部屋で教えています。」という文の場合、「が・で」格があるにもかかわらず、なお完全な文という感じがしない。「兄が部屋で弟に算数を教えています。」のように「が・に・を」格が必要である。むしろ、「で」格はなくとも文は不完全な印象はない。 すなわち、同じ「教える」でも、「教壇に立つ」という意味の「教える」は「が・で」格が必要であり、「説明して分かるようにさせる」という意味の「教える」では「が・に・を」格が必要である。このように、それぞれの文を成り立たせるのに必要な格を「必須格」という。 === 活用形と種類 === {{main|活用}} 名詞が格助詞を伴ってさまざまな格を示すのに対し、用言(動詞・形容詞・形容動詞)および助動詞は、語尾を変化させることによって、文中のどの成分を担っているかを示したり、[[時制]]・[[相 (言語学)|相]]などの情報や文の切れ続きの別などを示したりする。この語尾変化を「[[活用]]」といい、活用する語を総称して「活用語」という。 学校文法では、口語の活用語について、6つの[[活用|活用形]]を認めている。以下、動詞・形容詞・形容動詞の活用形を例に挙げる(太字部分)。 {|class=wikitable !活用形||動詞||形容詞||形容動詞 |- |[[未然形]] |'''打た'''ない<br>'''打と'''う||'''強かろ'''う||'''勇敢だろ'''う |- |[[連用形]] |'''打ち'''ます<br>'''打っ'''た||'''強かっ'''た<br>'''強く'''なる<br>'''強う'''ございます||'''勇敢だっ'''た<br>'''勇敢で'''ある<br>'''勇敢に'''なる |- |[[終止形 (文法)|終止形]] |'''打つ'''。||'''強い'''。||'''勇敢だ'''。 |- |[[連体形]] |'''打つ'''こと||'''強い'''こと||'''勇敢な'''こと |- |[[已然形|仮定形]] |'''打て'''ば||'''強けれ'''ば||'''勇敢なら'''ば |- |[[命令形]] |'''打て'''。||○||○ |} 一般に、終止形は述語に用いられる。「(選手が球を)打つ。」「(この子は)強い。」「(消防士は)勇敢だ。」など。 連用形は、文字通り連用修飾語にも用いられる。「強く(生きる。)」「勇敢に(突入する。)」など。ただし、「選手が球を打ちました。」の「打ち」は連用形であるが、連用修飾語ではなく、この場合は述語の一部である。このように、活用形と文中での役割は、1対1で対応しているわけではない。 仮定形は、文語では[[已然形]]と称する。口語の「打てば」は仮定を表すが、文語の「打てば」は「已(すで)に打ったので」の意味を表すからである。また、形容詞・形容動詞は、口語では命令形がないが、文語では「稽古は強かれ。」([[風姿花伝]])のごとく命令形が存在する。 動詞の活用は種類が分かれている。口語の場合は、[[五段活用]]・[[上一段活用]]・[[下一段活用]]・[[カ行変格活用]](カ変)・[[サ行変格活用]](サ変)の5種類である。 {|class=wikitable !動詞の種類 !特徴 !例 |- |五段動詞 |未然形活用語尾が「[[あ段]]音」で終わるもの||「買う」「畳む」 |- |上一段動詞 |未然形活用語尾が「[[い段]]音」で終わるもの||「見る」「借りる」 |- |下一段動詞 |未然形活用語尾が「[[え段]]音」で終わるもの||「出る」「受ける」 |- |カ変動詞 |「来る」および「来る」を語末要素とするもの||「来る」 |- |サ変動詞 |「する」および「する」を語末要素とするもの||「する」 |} == 語彙 == === 分野ごとの語彙量 === ある言語の[[語彙]]体系を見渡して、特定の分野の語彙が豊富であるとか、別の分野の語彙が貧弱であるとかを決めつけることは、一概にはできない。日本語でも、たとえば「自然を表す語彙が多いというのが定評」{{Sfnp|金田一春彦|1988}}といわれるが、これは人々の直感から来る評判という意味以上のものではない。 実際に、旧版『分類語彙表』{{Sfnp|国立国語研究所|1964a}}によって分野ごとの語彙量の多寡を比べた結果によれば、名詞(体の類)のうち「人間活動―精神および行為」に属するものが27.0%、「抽象的関係」が18.3%、「自然物および自然現象」が10.0%などとなっていて、この限りでは「自然」よりも「精神」や「行為」などを表す語彙のほうが多いことになる{{Sfnp|中野洋|1981}}。ただし、これも、他の言語と比較して多いということではなく、この結果がただちに日本語の語彙の特徴を示すことにはならない。 ==== 人称語彙 ==== 日本語の[[人称]]はあまり固定化していない。現代語・標準語の範疇としては、一人称は「わたくし・わたし・あたし・ぼく・おれ・うち・自分・我々」など、二人称は「あなた・あんた・おまえ・おめえ・てめえ・きみ」などが用いられる。方言・近代語・古語まで含めるとこの限りではなく、文献上では他にも「あたくし・あたい・わし・わい・わて・我が輩・おれ様・おいら・われ・わー・わん・朕・わっし・こちとら・てまえ・小生・それがし・拙者・おら」などの一人称、「おまえさん・てめえ・貴様・おのれ・われ・お宅・なんじ・おぬし・その方・貴君・貴兄・貴下・足下・貴公・貴女・貴殿・貴方(きほう)」などの二人称が見つかる{{Sfnp|柴田武・山田進|2002}}。 上の事実は、現代[[英語]]の一人称・二人称代名詞がほぼ "I" と "you" のみであり、[[フランス語]]の一人称代名詞が "je"、二人称代名詞が "tu" "vous" のみ、また[[ドイツ語]]の一人称代名詞が"ich"、二人称代名詞が"du" "Sie" "ihr"のみであることと比較すれば、特徴的ということができる。<!-- できればアジア言語との比較調査もおこなってほしい -->もっとも、日本語においても、本来の人称代名詞は、一人称に「ワ(レ)」「ア(レ)」、二人称に「ナ(レ)」があるのみである(但し『ナ』はもと一人称とも見られ、後述のこととも関係があるが)。今日、一・二人称同様に用いられる語は、その大部分が一般名詞からの転用である<ref>「人称代名詞」{{Harv|亀井孝・河野六郎・千野栄一|1996}}</ref>。一人称を示す「ぼく」や三人称を示す「彼女」などを、「ぼく、何歳?」「彼女、どこ行くの?」のように二人称に転用することが可能であるのも、日本語の人称語彙が一般名詞的であることの現れである。 なお、[[#敬意表現|敬意表現]]の観点から、目上に対しては二人称代名詞の使用が避けられる傾向がある。たとえば、「あなたは何時に出かけますか」とは言わず、「何時にいらっしゃいますか」のように言うことが普通である。 「[[#親族語彙の体系|親族語彙の体系]]」の節も参照。 ==== 音象徴語彙(オノマトペ) ==== また、音象徴語、いわゆる[[擬声語|オノマトペ]]の語彙量も日本語には豊富である(オノマトペの定義は一定しないが、ここでは、擬声語・擬音語のように耳に聞こえるものを写した語と、擬態語のように耳に聞こえない状態・様子などを写した語の総称として用いる)。 擬声語は、人や動物が立てる声を写したものである(例、おぎゃあ・がおう・げらげら・にゃあにゃあ)。擬音語は、物音を写したものである(例、がたがた・がんがん・ばんばん・どんどん)。擬態語は、ものごとの様子や心理の動きなどを表したものである(例、きょろきょろ・すいすい・いらいら・わくわく)。擬態語の中で、心理を表す語を特に擬情語と称することもある。 オノマトペ自体は多くの言語に存在する。たとえば[[ネコ|猫]]の鳴き声は、英語で「{{lang|en|mew}}」、ドイツ語で「{{lang|de|miau}}」、フランス語で 「{{lang|fr|miaou}}」、ロシア語で「{{lang|ru|мяу}}」{{Efn|{{lang-*-Latn|ru|myau}}}}、中国語で「{{lang|zh|喵喵}}」{{Efn|{{lang-*-Latn|zh|miao miao}}}}、朝鮮語で「{{lang|ko|야옹야옹}}」{{Efn|{{lang-*-Latn|ko|yaongyaong}}}}などである<ref>改田 昌直・クロイワ カズ・『リーダーズ英和辞典』編集部 [編] (1985)『漫画で楽しむ英語擬音語辞典』(研究社)による。</ref>。しかしながら、その語彙量は言語によって異なる。日本語のオノマトペは欧米語や中国語の3倍から5倍存在するといわれる{{Sfnp|山口仲美|2003|p=1}}。英語などと比べると、とりわけ擬態語が多く使われるとされる{{Sfnp|浅野鶴子|1978|p=1}}。<!-- どの語彙をオノマトペとみなすかの基準が曖昧、またアジア・アフリカの言語に対する調査も足りず、現状では単純比較は厳しいと思う --> 新たなオノマトペが作られることもある。「(心臓が)ばくばく」「がっつり(食べる)」などは、近年に作られた(広まった)オノマトペの例である。 漫画などの媒体では、とりわけ自由にオノマトペが作られる。漫画家の[[手塚治虫]]は、漫画を英訳してもらったところ、「ドギューン」「シーン」などの語に翻訳者が「お手あげになってしまった」と記している{{Sfnp|手塚治虫|1977|p=112}}。また、漫画出版社社長の[[堀淵清治]]も、アメリカで日本漫画を売るに当たり、独特の擬音を訳すのにスタッフが悩んだことを述べている{{Sfnp|堀淵清治|2006}}。 === 品詞ごとの語彙量 === 日本語の語彙を品詞ごとにみると、圧倒的に多いものは名詞である。その残りのうちで比較的多いものは動詞である。『新選国語辞典』の収録語の場合、名詞が82.37%、動詞が9.09%、副詞が2.46%、形容動詞が2.02%、形容詞が1.24%となっている<ref>金田一 京助他 [編] (2002)『新選国語辞典』第8版(小学館)裏見返し。</ref>。 このうち、とりわけ目を引くのは形容詞・形容動詞の少なさである。かつて[[柳田國男]]はこの点を指摘して「形容詞饑饉」と称した<ref>柳田 国男 (1938)「方言の成立」『方言』8-2(1990年の『柳田國男全集 22』(ちくま文庫)に収録 p.181)</ref>。英語の場合、『[[オックスフォード英語辞典]]』第2版では、半分以上が名詞、約4分の1が形容詞、約7分の1が動詞ということであり<ref>[https://en.oxforddictionaries.com/explore/how-many-words-are-there-in-the-english-language How many words are there in the English language?]{{リンク切れ|date=2022年11月}}</ref>、英語との比較の上からは、日本語の形容詞が僅少であることは特徴的といえる。 ただし、これは日本語で物事を形容することが難しいことを意味するものではなく、他の形式による形容表現が多く存在する。例えば「初歩(の)」「酸性(の)」など「名詞(+の)」の形式、「目立つ(色)」「とがった(針)」「はやっている(店)」など動詞を基にした形式、「つまらない」「にえきらない」など否定助動詞「ない」を伴う形式などが形容表現に用いられる。 もともと少ない形容詞を補う主要な形式は形容動詞である。漢語・外来語の輸入によって、「正確だ」「スマートだ」のような、漢語・外来語+「だ」の形式の形容動詞が増大した。上掲の『新選国語辞典』で名詞扱いになっている漢語・外来語のうちにも、形容動詞の用法を含むものが多数存在する。現代の二字漢語(「世界」「研究」「豊富」など)約2万1千語を調査した結果によれば、全体の63.7%が事物類(名詞に相当)、29.9%が動態類(動詞に相当)、7.3%が様態類(形容動詞に相当)、1.1%が副用類(副詞に相当)であり{{Sfnp|野村雅昭|1998}}、二字漢語の7%程度が形容動詞として用いられていることが分かる。<!-- 「〜い」(古くは「〜し」)の形の形容詞は早い時期に造語力を失った。「〜い」の代わりに、ほとんど無限の造語力を持つ「〜だ」(古くは「〜なり」)の形容動詞が広まったことで「〜い」は永らく造語力を失ったままであったが、近年若年層を中心に「〜い」の造語復活の傾向もある。ただし、多くの新語彙は俗語・卑語(イマい、ナウい、ダサい、マブい、キモい、など)であり、本格的な復活とは言い難い。--> 「[[#語彙の増加と品詞|語彙の増加と品詞]]」の節も参照。 === 語彙体系 === それぞれの[[語]]は、ばらばらに存在しているのではなく、意味・用法などの点で互いに関連をもったグループを形成している。これを[[語彙]]体系と称する<ref>{{Harvp|柴田武|1988}}などを参照。</ref>。日本語の語彙自体、一つの大きな語彙体系といえるが、その中にはさらに無数の語彙体系が含まれている。 以下、体系をなす語彙の典型的な例として、指示語・色彩語彙・親族語彙を取り上げて論じる。 ==== 指示語の体系 ==== 日本語では、ものを指示するために用いる語彙は、一般に「こそあど」と呼ばれる4系列をなしている。これらの[[指示語]](指示詞)は、主として名詞(「これ・ここ・こなた・こっち」など)であるため、概説書の類では名詞(代名詞)の説明のなかで扱われている場合も多い。しかし、実際には副詞(「こう」など)・連体詞(「この」など)・形容動詞(「こんなだ」など)にまたがるため、ここでは語彙体系の問題として論じる。 「こそあど」の体系は、伝統的には「近称・中称・遠称・不定(ふじょう、ふてい)称」の名で呼ばれた。[[明治|明治時代]]に、[[大槻文彦]]は以下のような表を示している<ref>大槻 文彦 (1889)「語法指南」(国語辞書『言海』に収録)。</ref>。 {|class=wikitable !\||近称||中称||遠称||不定称 |- !事物 |これ こ||それ そ||あれ あ<br>かれ か||いづれ(どれ) なに |- !地位 |ここ||そこ||あしこ あそこ<br>かしこ||いづこ(どこ) いづく |- !rowspan=2|方向 |こなた||そなた||あなた<br>かなた||いづかた(どなた) |- |こち||そち||あち||いづち(どち) |} ここで、「近称」は最も近いもの、「中称」はやや離れたもの、「遠称」は遠いものを指すとされた。ところが、「そこ」などを「やや離れたもの」を指すと考えると、遠くにいる人に向かって「そこで待っていてくれ」と言うような場合を説明しがたい。また、自分の腕のように近くにあるものを指して、人に「そこをさすってください」と言うことも説明しがたいなどの欠点がある。[[佐久間鼎]]は、この点を改め、「こ」は「わ(=自分)のなわばり」に属するもの、「そ」は「な(=あなた)のなわばり」に属するもの、「あ」はそれ以外の範囲に属するものを指すとした<ref>{{Harvp|佐久間鼎|1936}}(1983年くろしお出版から増補版)。</ref>。すなわち、体系は下記のようにまとめられた。 {|class=wikitable !rowspan=2|\||colspan=2|指示されるもの |- !対話者の層||所属事物の層 |- !話し手 |(話し手自身)<br>ワタクシ ワタシ||(話し手所属のもの)<br>コ系 |- !相手 |(話しかけの目標)<br>アナタ オマエ||(相手所属のもの)<br>ソ系 |- !はたの<br>人 もの |(第三者)(アノヒト)||(はたのもの)<br>ア系 |- !不定 |ドナタ ダレ||ド系 |} このように整理すれば、上述の「そこで待っていてくれ」「そこをさすってください」のような言い方はうまく説明される。相手側に属するものは、遠近を問わず「そ」で表されることになる。この説明方法は、現在の学校教育の国語でも取り入れられている。 とはいえ、すべての場合を佐久間説で割り切れるわけでもない。たとえば、道で「どちらに行かれますか」と問われて、「ちょっとそこまで」と答えたとき、これは「それほど遠くないところまで行く」という意味であるから、大槻文彦のいう「中称」の説明のほうがふさわしい。ものを無くしたとき、「ちょっとそのへんを探してみるよ」と言うときも同様である。 また、目の前にあるものを直接指示する場合(現場指示)と、文章の中で前に出た語句を指示する場合(文脈指示)とでも、事情が変わってくる。「生か死か、それが問題だ」の「それ」は、「中称」(やや離れたもの)とも、「相手所属のもの」とも解釈しがたい。直前の内容を「それ」で示すものである。このように、指示語の意味体系は、詳細に見れば、なお研究の余地が多く残されている。 なお、指示の体系は言語によって異なる。不定称を除いた場合、3系列をなす言語は日本語(こ、そ、あ)や朝鮮語({{lang|ko|이}}、{{lang|ko|그}}、{{lang|ko|저}})などがある。一方、英語({{lang|en|this}}、{{lang|en|that}})や中国語({{lang|zh|这}}、{{lang|zh|那}})などは2系列をなす。日本人の英語学習者が「これ、それ、あれ」に「{{lang|en|this}}、{{lang|en|it}}、{{lang|en|that}}」を当てはめて考えることがあるが、「{{lang|en|it}}」は文脈指示の代名詞で系列が異なるため、混用することはできない。 ==== 色彩語彙の体系 ==== 日本語で[[色|色彩]]を表す語彙([[色名|色彩語彙]])は、古来、「[[赤|アカ]]」「[[白|シロ]]」「[[青|アヲ]]」「[[黒|クロ]]」の4語が基礎となっている{{Sfnp|佐竹昭広|1955|ps=(2000年に『萬葉集抜書』(岩波現代文庫)に収録)}}。「アカ」は明るい色(明しの語源か)、「シロ」は顕(あき)らかな色(白しの語源か)、「アヲ」は漠然とした色(淡しの語源か)、「クロ」は暗い色(暗しの語源か)を総称した。今日でもこの体系は基本的に変わっていない。葉の色・空の色・顔色などをいずれも「アオ」と表現するのはここに理由がある{{Sfnp|小松英雄|2001}}。 文化人類学者のバーリンとケイの研究によれば、種々の言語で最も広範に用いられている基礎的な色彩語彙は「白」と「黒」であり、以下、「赤」「[[緑]]」が順次加わるという<ref>Brent Berlin &amp; Paul Kay (1969), ''Basic color terms: their universality and evolution'', Berkeley: University of California Press.</ref>。日本語の色彩語彙もほぼこの法則に合っているといってよい。 このことは、日本語を話す人々が4色しか識別しないということではない。特別の色を表す場合には、「[[黄色]](語源は「木」かという<ref>{{Harvp|大矢透|1899|p=26}}など。</ref>)」「[[紫|紫色]]」「[[茶色]]」「[[蘇芳色]]」「[[浅葱色]]」など、植物その他の一般名称を必要に応じて転用する。ただし、これらは基礎的な色彩語彙ではない。 ==== 親族語彙の体系 ==== 日本語の[[続柄|親族語彙]]{{Sfnp|柴田武|1968|ps=(1979年の『日本の言語学 第5巻 意味・語彙』(大修館書店)に収録)}}<ref>{{Harvp|田中章夫|1978}}第2章の図。</ref>は、比較的単純な体系をなしている。英語の基礎語彙で、同じ親から生まれた者を「{{lang|en|brother}}」「{{lang|en|sister}}」の2語のみで区別するのに比べれば、日本語では、男女・長幼によって「アニ」「アネ」「オトウト」「イモウト」の4語を区別し、より詳しい体系であるといえる(古代には、年上のみ「アニ」「アネ」と区別し、年下は「オト」と一括した{{Sfnp|柴田武|1968|ps=(1979年の『日本の言語学 第5巻 意味・語彙』(大修館書店)に収録)}})。しかしながら、たとえば[[中国語]]の親族語彙と比較すれば、はるかに単純である。中国語では、父親の父母を「{{lang|zh|祖父}}」「{{lang|zh|祖母}}」、母親の父母を「{{lang|zh|外祖父}}」「{{lang|zh|外祖母}}」と呼び分けるが、日本語では「ジジ」「ババ」の区別しかない。中国語では父の兄弟を「{{lang|zh|伯}}」「{{lang|zh|叔}}」、父の姉妹を「{{lang|zh|姑}}」、母の兄弟を「{{lang|zh|舅}}」、母の姉妹を「{{lang|zh|姨}}」などというが、日本語では「オジ」「オバ」のみである。「オジ」「オバ」の子はいずれも「イトコ」の名で呼ばれる。日本語でも、「伯父(はくふ)」「叔父(しゅくふ)」「従兄(じゅうけい)」「従姉(じゅうし)」などの語を文章語として用いることもあるが、これらは中国語からの借用語である。 親族語彙を他人に転用する虚構的用法{{Efn|{{Harvp|鈴木孝夫|1973|p=158}}以下にも言及がある。}}が多くの言語に存在する。例えば、朝鮮語(「{{lang|ko|아버님}}」お父様)・モンゴル語(「{{lang|mn|aab}}」父)では尊敬する年配男性に用いる。英語でも議会などの長老やカトリック教会の神父を「{{lang|en|father}}(父)」、寮母を「{{lang|en|mother}}(母)」、男の親友や同一宗派の男性を「{{lang|en|brother}}(兄弟)」、女の親友や修道女や見知らぬ女性を「{{lang|en|sister}}」(姉妹)と呼ぶ。中国語では見知らぬ若い男性・女性に「{{lang|zh|老兄}}」(お兄さん)「{{lang|zh|大姐}}」(お姉さん)と呼びかける、そして年長者では男性・女性に「{{lang|zh|大爺}}」(旦那さん)「{{lang|zh|大媽}}」(伯母さん)と呼びかける。日本語にもこの用法があり、赤の他人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶことがある。たとえば、店員が中年の男性客に「お父さん、さあ買ってください」のように言う。フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などのヨーロッパの言語で他人である男性をこのように呼ぶことは普通ではなく、日本語で赤の他人を「お父さん」と呼ぶのが失礼になりうるのと同じく、失礼にさえなるという。 一族内で一番若い世代から見た名称で自分や他者を呼ぶことがあるのも各国語に見られる用法である。例えば、父親が自分自身を指して「お父さん」と言ったり(「お父さんがやってあげよう」)、自分の母を子から見た名称で「おばあちゃん」と呼んだりする用法である。この用法は、中国語・朝鮮語・モンゴル語・英語・フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などを含め諸言語にある。 === 語種 === {{main|語種}} 日本語の語彙を出自から分類すれば、大きく、[[大和言葉|和語]]・[[漢語]]・[[外来語]]、およびそれらが混ざった[[混種語]]に分けられる。このように、出自によって分けた言葉の種類を「[[語種]]」という。和語は日本古来の大和言葉、漢語は中国渡来の漢字の音を用いた言葉、外来語は中国以外の他言語から取り入れた言葉である。(「[[#語彙史|語彙史]]」の節参照)。 和語は日本語の語彙の中核部分を占める。「これ」「それ」「きょう」「あす」「わたし」「あなた」「行く」「来る」「良い」「悪い」などのいわゆる基礎語彙はほとんど和語である。また、「て」「に」「を」「は」などの助詞や、助動詞の大部分など、文を組み立てるために必要な付属語も和語である。 一方、抽象的な概念や、社会の発展に伴って新たに発生した概念を表すためには、漢語や外来語が多く用いられる。和語の名称がすでにある事物を漢語や外来語で言い換えることもある。「めし」を「御飯」「ライス」、「やどや」を「旅館」「ホテル」などと称するのはその例である<ref>{{Harvp|樺島忠夫|1981}} p.18、およびp.176以下。</ref>。このような語種の異なる同義語には、微妙な意味・ニュアンスの差異が生まれ、とりわけ和語には易しい、または卑俗な印象、漢語には公的で重々しい印象、外来語には新しい印象が含まれることが多い。 一般に、和語の意味は広く、漢語の意味は狭いといわれる。たとえば、「しづむ(しずめる)」という1語の和語に、「沈」「鎮」「静」など複数の漢語の造語成分が相当する。「しづむ」の含む多様な意味は、「沈む」「鎮む」「静む」などと漢字を用いて書き分けるようになり、その結果、これらの「しづむ」が別々の語と意識されるまでになった。2字以上の漢字が組み合わさった漢語の表す意味はとりわけ分析的である。たとえば、「弱」という造語成分は、「脆」「貧」「軟」「薄」などの成分と結合することにより、「脆弱」「貧弱」「軟弱」「薄弱」のように分析的・説明的な単語を作る{{Sfnp|岩田麻里|1983|p=183}}(「[[#語彙史|語彙史]]」の節の「[[#漢語の勢力拡大|漢語の勢力拡大]]」および「[[#語彙の増加と品詞|語彙の増加と品詞]]」を参照)。 漢語は、「学問」「世界」「博士」などのように、古く中国から入ってきた語彙が大部分を占めるのは無論であるが、日本人が作った漢語([[和製漢語]])も古来多い。現代語としても、「国立」「改札」「着席」「挙式」「即答」「熱演」など多くの和製漢語が用いられている{{Efn|現代語の例は{{Harvp|陳力衛|2001}}の例示による。}}。漢語は[[音読み]]で読まれることから、字音語と呼ばれる場合もある。 外来語は、もとの言語の意味のままで用いられるもの以外に、日本語に入ってから独自の意味変化を遂げるものが少なくない。英語の "claim" は「当然の権利として要求する」の意であるが、日本語の「クレーム」は「文句」の意である。英語の "lunch" は昼食の意であるが、日本の食堂で「ランチ」といえば料理の種類を指す<ref>以上は{{Harvp|石綿敏雄|2001}}の例示による。</ref>。 外来語を組み合わせて、「アイスキャンデー」「サイドミラー」「テーブルスピーチ」のように日本語独自の語が作られることがある。また、当該の語形が外国語にない「パネラー」(パネリストの意)「プレゼンテーター」(プレゼンテーションをする人。プレゼンター)などの語形が作られることもある。これらを総称して「[[和製外来語|和製洋語]]」、英語系の語を特に「[[和製英語]]」と言う。 === 単純語と複合語 === {{See also|複合語|熟語 (漢字)}} 日本語の語彙は、語構成の面からは単純語と[[複合語]]に分けることができる。単純語は、「あたま」「かお」「うえ」「した」「いぬ」「ねこ」のように、それ以上分けられないと意識される語である。複合語は、「あたまかず」「かおなじみ」「うわくちびる」「いぬずき」のように、いくつかの単純語が合わさってできていると意識される語である。なお、[[熟語 (漢字)|熟語]]と総称される漢語は、本来漢字の字音を複合させたものであるが、「えんぴつ(鉛筆)」「せかい(世界)」など、日本語において単純語と認識される語も多い。「[[#語種|語種]]」の節で触れた混種語、すなわち、「プロ野球」「草野球」「日本シリーズ」のように複数の語種が合わさった語は、語構成の面からはすべて複合語ということになる。 日本語では、限りなく長い複合語を作ることが可能である。「平成十六年新潟県中越地震非常災害対策本部」「服部四郎先生定年退官記念論文集編集委員会」といった類も、ひとつの長い複合語である。国際協定の[[関税及び貿易に関する一般協定]]は、英語では「{{lang|en|General Agreement on Tariffs and Trade}}」(関税と貿易に関する一般協定)であり、ひとつの句であるが、日本の新聞では「関税貿易一般協定」と複合語で表現することがある。これは漢字の結合力によるところが大きく、中国語・朝鮮語などでも同様の長い複合語を作る。なお、[[インド・ヨーロッパ語族|ヨーロッパ語]]を見ると、ロシア語では「{{lang|ru|человеконенавистничество}}」(人間嫌い)、[[ドイツ語]]では「{{lang|de|Naturfarbenphotographie}}」(天然色写真)などの長い語の例を比較的多く有し{{Sfnp|金田一春彦|1991|p=54}}、英語でも「{{lang|en|antidisestablishmentarianism}}」(国教廃止条例反対論。英首相[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]の造語という<ref>『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)の当該項目による。</ref>)などの語例がまれにある。 接辞は、複合語を作るために威力を発揮する。たとえば、「感」は、「音感」「語感」「距離感」「不安感」など漢字2字・3字からなる複合語のみならず、最近では「透け感」「懐かし感」「しゃきっと感」「きちんと感」など動詞・形容詞・副詞との複合語を作り、さらには「『昔の名前で出ています』感」(=昔の名前で出ているという感じ)のように文であったものに下接して長い複合語を作ることもある。 日本語の複合語は、難しい語でも、表記を見れば意味が分かる場合が多い。たとえば、英語の「{{lang|en|apivorous}}」 は生物学者にしか分からないのに対し、日本語の「蜂食性」は「蜂を食べる性質」であると推測できる{{Sfnp|鈴木孝夫|1990|pp=132-133}}。これは表記に漢字を用いる言語の特徴である。 == 表記 == {{main|日本語の表記体系}} 現代の日本語は、[[平仮名]](ひらがな)・[[片仮名]](カタカナ)・[[漢字]]を用いて、[[現代仮名遣い]]・[[常用漢字]]に基づいて表記されることが一般的である。[[アラビア数字]]や[[ラテン文字|ローマ字(ラテン文字)]]なども必要に応じて併用される。 正書法の必要性を説く主張<ref>{{Harvp|梅棹忠夫|1972}}など。</ref>や、その反論<ref>{{Harvp|鈴木孝夫|1975}}など。</ref>がしばしば交わされてきた。 === 字種 === 平仮名・片仮名は、2017年9月現在では以下の46字ずつが使われる。 {|class=wikitable !名称 !字形<!--音声読み上げ式ウェブブラウザーでは意味を持たない--> |- |平仮名 |<span title="平仮名の「あ」の字形">あ</span> <span title="平仮名の「い」の字形">い</span> <span title="平仮名の「う」の字形">う</span> <span title="平仮名の「え」の字形">え</span> <span title="平仮名の「お」の字形">お</span> <span title="平仮名の「か」の字形">か</span> <span title="平仮名の「き」の字形">き</span> <span title="平仮名の「く」の字形">く</span> <span title="平仮名の「け」の字形">け</span> <span title="平仮名の「こ」の字形">こ</span> <span title="平仮名の「さ」の字形">さ</span> <span title="平仮名の「し」の字形">し</span> <span title="平仮名の「す」の字形">す</span> <span title="平仮名の「せ」の字形">せ</span> <span title="平仮名の「そ」の字形">そ</span> <span title="平仮名の「た」の字形">た</span> <span title="平仮名の「ち」の字形">ち</span> <span title="平仮名の「つ」の字形">つ</span> <span title="平仮名の「て」の字形">て</span> <span title="平仮名の「と」の字形">と</span> <span title="平仮名の「な」の字形">な</span> <span title="平仮名の「に」の字形">に</span> <span title="平仮名の「ぬ」の字形">ぬ</span> <span title="平仮名の「ね」の字形">ね</span> <span title="平仮名の「の」の字形">の</span> <span title="平仮名の「は」の字形">は</span> <span title="平仮名の「ひ」の字形">ひ</span> <span title="平仮名の「ふ」の字形">ふ</span> <span title="平仮名の「へ」の字形">へ</span> <span title="平仮名の「ほ」の字形">ほ</span> <span title="平仮名の「ま」の字形">ま</span> <span title="平仮名の「み」の字形">み</span> <span title="平仮名の「む」の字形">む</span> <span title="平仮名の「め」の字形">め</span> <span title="平仮名の「も」の字形">も</span> <span title="平仮名の「や」の字形">や</span> <span title="平仮名の「ゆ」の字形">ゆ</span> <span title="平仮名の「よ」の字形">よ</span> <span title="平仮名の「ら」の字形">ら</span> <span title="平仮名の「り」の字形">り</span> <span title="平仮名の「る」の字形">る</span> <span title="平仮名の「れ」の字形">れ</span> <span title="平仮名の「ろ」の字形">ろ</span> <span title="平仮名の「わ」の字形">わ</span> <span title="平仮名の「を」の字形">を</span> <span title="平仮名の「ん」の字形">ん</span> |- |片仮名 |<span title="片仮名の「ア」の字形">ア</span> <span title="片仮名の「イ」の字形">イ</span> <span title="片仮名の「ウ」の字形">ウ</span> <span title="片仮名の「エ」の字形">エ</span> <span title="片仮名の「オ」の字形">オ</span> <span title="片仮名の「カ」の字形">カ</span> <span title="片仮名の「キ」の字形">キ</span> <span title="片仮名の「ク」の字形">ク</span> <span title="片仮名の「ケ」の字形">ケ</span> <span title="片仮名の「コ」の字形">コ</span> <span title="片仮名の「サ」の字形">サ</span> <span title="片仮名の「シ」の字形">シ</span> <span title="片仮名の「ス」の字形">ス</span> <span title="片仮名の「セ」の字形">セ</span> <span title="片仮名の「ソ」の字形">ソ</span> <span title="片仮名の「タ」の字形">タ</span> <span title="片仮名の「チ」の字形">チ</span> <span title="片仮名の「ツ」の字形">ツ</span> <span title="片仮名の「テ」の字形">テ</span> <span title="片仮名の「ト」の字形">ト</span> <span title="片仮名の「ナ」の字形">ナ</span> <span title="片仮名の「ニ」の字形">ニ</span> <span title="片仮名の「ヌ」の字形">ヌ</span> <span title="片仮名の「ネ」の字形">ネ</span> <span title="片仮名の「ノ」の字形">ノ</span> <span title="片仮名の「ハ」の字形">ハ</span> <span title="片仮名の「ヒ」の字形">ヒ</span> <span title="片仮名の「フ」の字形">フ</span> <span title="片仮名の「ヘ」の字形">ヘ</span> <span title="片仮名の「ホ」の字形">ホ</span> <span title="片仮名の「マ」の字形">マ</span> <span title="片仮名の「ミ」の字形">ミ</span> <span title="片仮名の「ム」の字形">ム</span> <span title="片仮名の「メ」の字形">メ</span> <span title="片仮名の「モ」の字形">モ</span> <span title="片仮名の「ヤ」の字形">ヤ</span> <span title="片仮名の「ユ」の字形">ユ</span> <span title="片仮名の「ヨ」の字形">ヨ</span> <span title="片仮名の「ラ」の字形">ラ</span> <span title="片仮名の「リ」の字形">リ</span> <span title="片仮名の「ル」の字形">ル</span> <span title="片仮名の「レ」の字形">レ</span> <span title="片仮名の「ロ」の字形">ロ</span> <span title="片仮名の「ワ」の字形">ワ</span> <span title="片仮名の「ヲ」の字形">ヲ</span> <span title="片仮名の「ン」の字形">ン</span> |} このうち、「゛」(濁音符)および「゜」(半濁音符)を付けて濁音・半濁音を表す仮名もある(「[[#音韻|音韻]]」の節参照)。[[拗音]]は小書きの「ゃ」「ゅ」「ょ」を添えて表し、[[促音]]は小書きの「っ」で表す。「つぁ」「ファ」のように、小書きの「ぁ」「ぃ」「ぅ」「ぇ」「ぉ」を添えて表す音もあり、補助符号として[[長音]]を表す「ー」がある。[[歴史的仮名遣|歴史的仮名遣い]]では上記のほか、表音は同じでも表記の違う、平仮名「[[ゐ]]」「[[ゑ]]」および片仮名「ヰ」「ヱ」の字が存在し、その他にも[[変体仮名]]がある。 漢字は、日常生活において必要とされる2136字の[[常用漢字]]と、子の名づけに用いられる861字の[[人名用漢字]]が、法で定められている。実際にはこれら以外にも一般に通用する漢字の数は多いとされ、[[日本産業規格]](JIS)は[[JIS X 0208]](通称JIS漢字)として約6300字を電算処理可能な漢字として挙げている。なお、漢字の本家である[[中華人民共和国|中国]]においても同様の基準は存在し、[[現代漢語常用字表]]により、「常用字」として2500字、「次常用字」として1000字が定められている。これに加え、[[現代漢語通用字表]]ではさらに3500字が追加されている。 一般的な文章では、上記の漢字・平仮名・片仮名を交えて記すほか、アラビア数字・ローマ字なども必要に応じて併用する。基本的には、漢語には漢字を、和語のうち概念を表す部分(名詞や用言語幹など)には漢字を、形式的要素(助詞・助動詞など)や副詞・接続詞の一部には平仮名を、外来語(漢語以外)には片仮名を用いる場合が多い。公的な文書では特に表記法を規定している場合もあり{{Efn|文化庁 (2001)『[[公用文の書き表し方の基準 資料集|公用文の書き表し方の基準(資料集)増補二版]]』(第一法規)には、1981年の『公用文における漢字使用等について』『法令における漢字使用等について』など、諸種の資料が収められている。}}、民間でもこれに倣うことがある。ただし、厳密な正書法はなく、表記のゆれは広く許容されている。文章の種類や目的によって、 *さくらのはながさく / サクラの花が咲く / 桜の花が咲く などの表記がありうる。 多様な文字体系を交えて記す利点として、単語のまとまりが把握しやすく、速読性に優れるなどの点が指摘される。日本語の単純な音節構造に由来する同音異義語が漢字によって区別され、かつ字数も節約されるという利点もある。[[計算機科学]]者の[[村島定行]]は、日本語では、表意文字と表音文字の二重の文章表現ができるため、記憶したり、想起したりするのに手がかりが多く、言語としての機能が高いと指摘している{{Sfnp|村島定行|2009}}。一方で中国文学者の[[高島俊男]]は、漢字の表意性に過度に依存した日本語の文章は、他の自然言語に類を見ないほどの[[同音異義語]]を用いざるを得なくなり、しばしば実用の上で支障を来たすことから、言語として「顚倒している」と評している{{Sfnp|高島俊男|2001}}。歴史上、漢字を廃止して、仮名またはローマ字を国字化しようという主張もあったが、広く実行されることはなかった<ref name="L">西尾 実・久松 潜一 [監修] (1969)『国語国字教育史料総覧』(国語教育研究会)。</ref>(「[[国語国字問題]]」参照)。今日では漢字・平仮名・片仮名の交ぜ書きが標準的表記の地位をえている。 === 方言と表記 === 日本語の表記体系は中央語を書き表すために発達したものであり、[[日本語の方言|方言]]の音韻を表記するためには必ずしも適していない。たとえば、東北地方では「柿」を {{IPA|kagɨ}}、「鍵」を {{IPA|kãŋɨ}} のように発音するが{{Sfnp|北条忠雄|1982|pp=161-162}}、この両語を通常の仮名では書き分けられない(アクセント辞典などで用いる表記によって近似的に記せば、「カギ」と「{{JIS2004フォント|カ<small>ン</small>キ&#x309A;}}」のようになる)。もっとも、方言は書き言葉として用いられることが少ないため、実際上に不便を来すことは少ない。 岩手県気仙方言([[ケセン語]])について、[[山浦玄嗣]]により、文法形式を踏まえた正書法が試みられているというような例もある<ref name="I">{{Harvp|山浦玄嗣|1986}}(1989年に改訂補足版)</ref>。ただし、これは実用のためのものというよりは、学術的な試みのひとつである。 [[琉球語]](「[[#系統|系統]]」参照)の表記体系もそれを準用している。たとえば、[[琉歌]]「てんさごの花」([[てぃんさぐぬ花]])は、伝統的な表記法では次のように記す。 {{Quote|てんさごの<!-- 引用は正確ですか?IPAでtiɴʃagunuならば「てんしやごの」であるはず -->花や 爪先に染めて 親の寄せごとや 肝に染めれ|{{Sfnp|西岡敏|仲原穣|2000|p=154}}}} この表記法では、たとえば、<!--琉球語の2種の母音({{IPA|u}} と {{IPA|ʔu}} など)は書き分けられない --「を」と「う」「お」で書き分けられる。また「2種の母音」という表現は不正確-->「ぐ」「ご」がどちらも {{IPA|gu}} と発音されるように、かな表記と発音が一対一で対応しない場合が多々ある。表音的に記せば、{{IPA|tiɴʃagunu hanaja ʦimiʣaʧiɲi sumiti, ʔujanu juʃigutuja ʧimuɲi sumiri}} のようになるところである{{Efn|{{Harvp|国立国語研究所|1963}}に記載されている表音ローマ字を[[国際音声記号]]に直したもの。}}。 漢字表記の面では、[[方言字|地域文字]]というべきものが各地に存在する。たとえば、名古屋市の地名「[[いりなか駅|杁中]](いりなか)」などに使われる「杁」は、名古屋と関係ある地域の「地域文字」である。また、「垰」は「たお」「たわ」などと読まれる[[国字]]で、中国地方ほかで定着しているという{{Sfnp|笹原宏之|2006|p=142-145}}。 <!--正書法云々には表記節に概説があります。各論は[[日本語の表記体系]]などの子項目にあれば十分では?適切な出典も欠いているため一次的にコメントアウト === 正書法 === 漢字の読み方には中国語由来の[[音読み]]と、[[大和言葉]]の読み方をあてた[[訓読み]]が存在し、しかも音読みには、中国の発音を取り入れた時代の違いにより、[[漢音]]・[[呉音]]・[[唐音]]などいくつもあることがある。さらに訓読みにもひとつの漢字に複数の読み方があることが多く(例 生「いき(る)、う(む)、うぶ、お(う)、き、なま、は(える)」)、これらは前後関係によって判断する必要がある。「生きる」、「生む」のように送り仮名で読み方がわかることもあるが、「酷い(むごい、ひどい)」、「汚す(よごす、けがす)」などは表記が同じである(←[[訓読み]]に書くべき記載と思います)。 ふたつ以上の漢字からなる語も意味により複数の語・発音に対応することもよくある。(例 「上手(かみて、うわて、じょうず、うま(い))」、「何人(なんにん、なにじん、なんびと、なんぴと)」)、文脈によって読みわけねばならない(←[[熟語 (漢字)]]に記載してはいかがでしょう)。 同音(かつしばしば同語源)の大和言葉でも、意味により漢字の書きわけがなされることがよくあり、[[国語教育]]ではその区別の習得に多くの時間をさく(例 「測る」、「計る」、「量る」、「図る」、「諮る」、「謀る」)が、それを完全に習得して使いわけることは困難である(←このあたりは[[国語国字問題]]に書いては?)。 またいわゆる[[熟字訓]]では語がその発音とまったく無関係な漢字を用いて表記されるため、その表記法を知らなければ読むことができない(例 「流石(さすが)」、「蒲公英(たんぽぽ)」、「五月蠅い(うるさい)」「聖林(ハリウッド)」、「躊躇(ためら)う」、「驀地(まっしぐら) 」)。(←熟字訓は正書法よりむしろ[[日本語における漢字]]の範疇では?)また熟字訓も同じ語に対して二つ以上ある場合もある。たとえば「強請る」は「ねだる、せびる、たかる、ゆする」の4種類の発音を表すのに使われているので、文脈により選択する必要がある。さらに「強請む」は「せがむ」と読む。また「如何」は「如何(いかん、いかが)」、「如何(いか)に」、「如何(どう)して」などの読み方がある(←全体として「ある特定の観点を推進」するような記述になっています。適切な出典を用いて中立化が必要です。)。 漢字の音訓の読みを借りて単語の音を表すのに使用する「[[当て字]]」という表記法もある(例 「目出度い(めでたい)」、「浅墓(あさはか)」、「梃子摺る(てこずる)」、「若気る(にやける)」、「珍紛漢紛・珍糞漢糞・陳奮翰奮(ちんぷんかんぷん)」、「巫山戯る(ふざける)」、「土耳古(トルコ)(これは中国における当て字の借用)」など)。当て字では使われる漢字の意味は無視されていることが多いが、音と意味を考慮して文字が選ばれている場合もある(例 「型録(カタログ)」、「浪漫(ろうまん)」)。 熟字訓や当て字にはほとんど判じ物・[[言葉遊び]]のようなものも多く、これらを使ったり読めたりすることをある種の教養とみなすむきがある。特に地名や人名には熟字訓や当て字が多い。[[難読地名]]にはたとえば「月出里(すだち)」、「大歩(わご)」、「接骨木(にわとこ)」、「月出山岳(かんとうだけ)」、「雲母峰(きららみね)」などがある。人名では最近熟字訓や当て字を使う傾向がいちじるしく、「緑輝(さふぁいあ)」、「今鹿(なうしか)」、「空海(すかい)」のような、読み方がわかりにくかったり、読むのが不可能に近い名前が無制限に作られており、[[DQN]]ネーム、キラキラネームなどとよばれている。役所に子どもの名前をとどける際、使用する漢字の種類には制限があるが、それをどう読むかには特に制限がなく、親が望めば「太郎」を「はなこ」と読むことも可能である。(←さすがにキラキラネームは言語学の範疇ではないような……) ある語を漢字で書くか、平仮名あるいは片仮名で書くか、あるいは漢字仮名交じりで書くかには絶対的な規範や規定がなく(例 「禿」、「はげ」、「ハゲ」、「禿げ」/「掌」、「手の平」、「手のひら」)、個人の文体的な好みや状況・文脈に応じた判断にまかされることが多い。また漢字仮名交じりの場合、どの部分を仮名書きするか([[送り仮名]])にもいくつもの書き方が許容されていることがよくある(例 「締切」、「締切り」、「締め切り」、「締めきり」、「しめきり」、「〆切り」、「〆切」、「〆め切」、「〆め切り」など/「引き金、引金、引きがね、ひき金、引き鉄、引鉄、弾き鉄、弾鉄、弾き金、弾金、銃爪、ひきがね」など)。 たとえば"Niwatori ga tamago o unda." という短い文でも、"niwatori"に「にわとり、ニワトリ、鶏」の3種類、"tamago" に「卵、玉子、タマゴ、たまご」の4種類、"unda"に「産んだ、生んだ、」の2種類の表記があるので、この文にはごく普通の表記だけで24通りの表記法が存在することになる。要するに日本語には体系的[[正書法]]が存在しない。少なくとも先進諸国には、このように公用語に体系的な正書法がない国は他に存在しない(←表記に関して学校科目「国語」で一応の縛りがありますし、法令文書や公文書では当用漢字による厳しい制約があり「正書法が存在しない」と断言はできません。また英語やフランス語でも全ての表現を正書法の範疇で揺らぎなく転写することはできません)。しかし、特定の出版社・団体の内部では独自にどの語にどの表記を用いるかを決めていることもよくあり、書き手はそれに従わされることもある。書物の編集者は少なくともある書物の中では表記法の統一を図ることも多い。 --> == 文体 == 文は、目的や場面などに応じて、さまざまな異なった様式を採る。この様式のことを、書き言葉(文章)では「[[文体]]」と称し、話し言葉(談話)では「話体」<ref>半澤幹一「談話体」{{Harv|飛田良文|2007|p=266}}</ref>と称する。 日本語では、とりわけ文末の助動詞・助詞などに文体差が顕著に現れる。このことは、「ですます体」「でございます体」「だ体」「である体」「ありんす言葉」(江戸・新吉原の遊女の言葉)「てよだわ言葉」(明治中期から流行した若い女性の言葉)などの名称に典型的に表れている。それぞれの文体・話体の差は大きいが、日本語話者は、複数の文体・話体を常に切り替えながら使用している。 なお、「文体」の用語は、書かれた文章だけではなく談話についても適用されるため{{Sfnp|庵功雄・高梨信乃・中西久実子・山田敏弘|2000|p=324}}、以下では「文体」に「話体」も含めて述べる。また、文語文・口語文などについては「[[#文体史|文体史]]」の節に譲る。 === 普通体・丁寧体 === 日本語の文体は、大きく普通体(常体)および丁寧体(敬体)の2種類に分かれる。日本語話者は日常生活で両文体を適宜使い分ける。日本語学習者は、初めに丁寧体を、次に普通体を順次学習することが一般的である。普通体は相手を意識しないかのような文体であるため独語体と称し、丁寧体は相手を意識する文体であるため対話体と称することもある<ref>橋本 進吉 (1928)「国語学史概説」(1983年『国語学史・国語特質論(橋本進吉博士著作集 第9・10冊)』岩波書店)p.4の図に「独語体・対話体」の語が出ている。</ref>。 普通体と丁寧体の違いは次のように現れる。 {|class="wikitable" |- !\||普通体||丁寧体 |- !名詞文 |もうすぐ春'''だ'''(春'''である''')。||もうすぐ春'''です'''。 |- !形容動詞文 |ここは静か'''だ'''(静か'''である''')。||ここは静か'''です'''。 |- !形容詞文 |野山の花が美しい。||(野山の花が美しい'''です'''。) |- !動詞文 |鳥が空を飛ぶ。||鳥が空を飛び'''ます'''。 |} 普通体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、「だ」または「である」を付けた形で結ぶ。前者を特に「だ体」、後者を特に「である体」と呼ぶこともある。 丁寧体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、助動詞「です」を付けた形で結ぶ。動詞が来る場合には「ます」を付けた形で結ぶ。ここから、丁寧体を「ですます体」と呼ぶこともある。丁寧の度合いをより強め、「です」の代わりに「でございます」を用いた文体を、特に「でございます体」と呼ぶこともある。丁寧体は、[[敬語]]の面からいえば[[丁寧語]]を用いた文体のことである。なお、文末に形容詞が来る場合にも「です」で結ぶことはできるが「花が美しく咲いています」「花が美しゅうございます」などと言い、「です」を避けることがある。 === 文体の位相差 === 談話の文体(話体)は、話し手の性別・年齢・職業・場面など、[[位相 (言語学)|位相]]の違いによって左右される部分が大きい。「ごはんを食べてきました」という丁寧体は、話し手の属性によって、たとえば、次のような変容がある。 *ごはん食べてきたよ。(子どもや一般人のくだけた文体) *めし食ってきたぜ。(SNSや学生の粗野な文体) *食事を取ってまいりました。(成人の改まった文体) このように異なる言葉遣いのそれぞれを'''位相語'''と言い、それぞれの差を位相差という。 物語作品やメディアにおいて、位相が極端にステレオタイプ化されて現実と乖離したり、あるいは書き手などが仮想的(バーチャル)な位相を意図的に作り出したりする場合がある。このような言葉遣いを「'''[[役割語]]'''」と称することがある{{Sfnp|金水敏|2003}}。例えば以下の文体は、実際の性別・博士・令嬢・地方出身者などの一般的な位相を反映したものではないものの、小説・漫画・アニメ・ドラマなどで、仮想的にそれらしい感じを与える文体として広く観察される。これは現代に始まったものではなく、近世や近代の文献にも役割語の例が認められる([[仮名垣魯文]]『西洋道中膝栗毛』に現れる外国人らしい言葉遣いなど)。 *ごはん食べてきたわよ。(目上の女性)<!-- この種の「てよだわ言葉」も役割語に含めてください --> *わしは、食事をしてきたのじゃ。(博士風) *わたくし、お食事をいただいてまいりましてよ。(お嬢様風) *おら、めし食ってきただよ。(田舎者風) *ワタシ、ごはん食べてきたアルヨ。(中国人風。[[協和語]]を参照) == 待遇表現 == {{main|待遇表現|敬語}} 日本語では、[[待遇表現]]が文法的・語彙的な体系を形作っている。とりわけ、相手に敬意を示す言葉([[敬語]])において顕著である。 「敬語は日本にしかない」と言われることがあるが、日本と同様に敬語が文法的・語彙的体系を形作っている言語としては、[[朝鮮語]]・[[ジャワ語]]・[[ベトナム語]]・[[チベット語]]・[[ベンガル語]]・[[タミル語]]などがあり、尊敬・謙譲・丁寧の区別もある{{Sfnp|J・V・ネウストプニー|1974}}。朝鮮語ではたとえば動詞「{{lang|ko|내다}}(ネダ)」(出す)は、敬語形「{{lang|ko|내시다}}(ネシダ)」(出される)・「{{lang|ko|냅니다}}(ネムニダ)」(出します)の形を持つ。 敬語体系は無くとも、敬意を示す表現自体は、さまざまな言語に広く観察される。相手を敬い、物を丁寧に言うことは、発達した社会ならばどこでも必要とされる。そうした言い方を習得することは、どの言語でも容易でない。 [[金田一京助]]などによれば、現代日本語の敬語に特徴的なのは次の2点である。 *相対敬語である *文法体系となっている 朝鮮語など他の言語の敬語では、たとえば自分の父親はいかなる状況でも敬意表現の対象であり、他人に彼のことを話す場合も「私のお父様は…」という絶対的敬語を用いるが、日本語では自分の身内に対する敬意を他人に表現することは憚られ、「私の父は…」のように表現しなければならない。ただし[[皇室]]では絶対敬語が存在し、皇太子は自分の父親のことを「天皇陛下は…」と表現する。 どんな言語も敬意を表す表現を持っているが、日本語や朝鮮語などはそれが文法体系となっているため、表現・言語行動のあらゆる部分に、高度に組織立った体系が出来上がっている{{Sfnp|菊地康人|1994}}。そのため、敬意の種類や度合いに応じた表現の選択肢が予め用意されており、常にそれらの中から適切な表現を選ばなくてはならない。 以下、日本語の敬語体系および敬意表現について述べる。 === 敬語体系 === 日本語の敬語体系は、一般に、大きく'''[[日本語における敬語#尊敬語|尊敬語]]'''・'''[[日本語における敬語#謙譲語|謙譲語]]'''・'''[[丁寧語]]'''に分類される。[[文化審議会]]国語分科会は、2007年2月に「敬語の指針」を答申し、これに'''[[日本語における敬語#丁重語|丁重語]]'''および'''[[日本語における敬語#美化語|美化語]]'''を含めた5分類を示している<ref>{{Cite 敬語指針2007}}</ref>。 ==== 尊敬語 ==== 尊敬語は、動作の主体を高めることで、主体への敬意を表す言い方である。動詞に「お(ご)〜になる」を付けた形、また、助動詞「(ら)れる」を付けた形などが用いられる。たとえば、動詞「取る」の尊敬形として、「(先生が)お取りになる」「(先生が)取られる」などが用いられる。 語によっては、特定の尊敬語が対応するものもある。たとえば、「言う」の尊敬語は「おっしゃる」、「食べる」の尊敬語は「召し上がる」、「行く・来る・いる」の尊敬語は「いらっしゃる」である。 ==== 謙譲語 ==== 謙譲語は、古代から基本的に動作の客体への敬意を表す言い方であり、現代では「動作の主体を低める」と解釈するほうがよい場合がある。動詞に「お〜する」「お〜いたします」(謙譲語+丁寧語)をつけた形などが用いられる。たとえば、「取る」の謙譲形として、「お取りする」などが用いられる。 語によっては、特定の謙譲語が対応するものもある。たとえば、「言う」の謙譲語は「申し上げる」、「食べる」の謙譲語は「いただく」、「(相手の所に)行く」の謙譲語は「伺う」「参上する」「まいる」である。 なお、「夜も更けてまいりました」の「まいり」など、謙譲表現のようでありながら、誰かを低めているわけではない表現がある。これは、「夜も更けてきた」という話題を丁重に表現することによって、聞き手への敬意を表すものである。宮地裕は、この表現に使われる語を、特に「丁重語」と称している{{Sfnp|宮地裕|1971}}{{Sfnp|宮地裕|1976}}。丁重語にはほかに「いたし(マス)」「申し(マス)」「存じ(マス)」「小生」「小社」「弊社」などがある。文化審議会の「敬語の指針」でも、「明日から海外へまいります」の「まいり」のように、相手とは関りのない自分側の動作を表現する言い方を丁重語としている。 ==== 丁寧語 ==== 丁寧語は、文末を丁寧にすることで、聞き手への敬意を表すものである。動詞・形容詞の終止形で終わる'''常体'''に対して、名詞・形容動詞語幹などに「です」を付けた形(「学生です」「きれいです」)や、動詞に「ます」をつけた形(「行きます」「分かりました」)等の丁寧語を用いた文体を'''敬体'''という。 一般に、目上の人には丁寧語を用い、同等・目下の人には丁寧語を用いないといわれる。しかし、実際の言語生活に照らして考えれば、これは事実ではない。母が子を叱るとき、「お母さんはもう知りませんよ」と丁寧語を用いる場合もある。丁寧語が用いられる多くの場合は、敬意や謝意の表現とされるが、<!--逆に嫌悪?→嫌悪感などを示すため、-->稀に一歩引いた心理的な距離をとろうとする場合もある。 「お弁当」「ご飯」などの「お」「ご」も、広い意味では丁寧語に含まれるが、宮地裕は特に「美化語」と称して区別する{{Sfnp|宮地裕|1971}}{{Sfnp|宮地裕|1976}}。相手への丁寧の意を示すというよりは、話し手が自分の言葉遣いに配慮した表現である。したがって、「お弁当食べようよ。」のように、丁寧体でない文でも美化語を用いることがある。文化審議会の「敬語の指針」でも「美化語」を設けている。 === 敬意表現 === {{独自研究|section=1|date=2021年10月}} 日本語で敬意を表現するためには、文法・語彙の敬語要素を知っているだけではなお不十分であり、時や場合など種々の要素に配慮した適切な表現が必要である。これを敬意表現(敬語表現)ということがある{{Sfnp|蒲谷宏|川口義一|坂本惠|1998}}。 たとえば、「課長もコーヒーをお飲みになりたいですか」は、尊敬表現「お飲みになる」を用いているが、敬意表現としては適切でない。日本語では相手の意向を直接的に聞くことは失礼に当たるからである。「コーヒーはいかがですか」のように言うのが適切である。第22期[[国語審議会]](2000年)は、このような敬意表現の重要性を踏まえて、「現代社会における敬意表現」を答申した。 婉曲表現の一部は、敬意表現としても用いられる。たとえば、相手に窓を開けてほしい場合は、命令表現によらずに、「窓を開けてくれる?」などと問いかけ表現を用いる。あるいは、「今日は暑いねえ」とだけ言って、窓を開けてほしい気持ちを含意することもある。 日本人が商取引で「考えさせてもらいます」という場合は拒絶の意味であると言われる。英語でも {{lang|en|"Thank you for inviting me."}}(誘ってくれてありがとう)とは誘いを断る表現である。また、[[京都]]では、[[京言葉|京都弁]]で帰りがけの客にその気がないのに「ぶぶづけ([[茶漬け|お茶漬け]])でもあがっておいきやす」と愛想を言うとされる(出典は[[落語]]「京のぶぶづけ」「京の茶漬け」よるという{{Sfnp|入江敦彦|2005}})。これらは、相手の気分を害さないように工夫した表現という意味では、広義の敬意表現と呼ぶべきものであるが、その呼吸が分からない人との間に誤解を招くおそれもある。<!-- === 敬語漸減の法則 === 敬語は相手に対する敬意を表現するが、永らく使っていると次第に本来の敬意が薄れ通常の表現に格下げとなることが多い。たとえば「食べる」は古くは「食(た)ぶ」で、「賜(た)ぶ」に由来して「賜ったものを食う(いただく)」という謙譲語であったが、現代では「食う」に代わる中立の表現となり、「食う」はぞんざいな語となった。--> == 方言 == {{main|日本語の方言}} 日本語には多様な[[方言]]がみられ、それらはいくつかの方言圏にまとめることができる。どのような方言圏を想定するかは、区画するために用いる指標によって少なからず異なる。 === 相互理解可能性 === 1967年の[[相互理解可能性]]の調査より、関東地方出身者に最も理解しにくい方言は([[琉球諸語]]と[[東北方言]]を除く)、富山県[[氷見市|氷見]]方言(正解率4.1%)、長野県[[木曽町|木曽]]方言(正解率13.3%)、[[鹿児島方言]](正解率17.6%)、岡山県[[勝山町 (岡山県)|真庭]]方言(正解率24.7%)だった。<ref name="Dialect Intelligibility 1967"/>この調査は、12〜20秒の長さ、135〜244の[[音素]]の老人の録音に基づいており、42名若者が聞いて翻訳した。受験者は関東地方で育った[[慶應大学]]の学生であった。<ref name="Dialect Intelligibility 1967">{{cite journal|title=On Dialect Intelligibility in Japan|first=Joseph K.|last=Yamagiwa|journal=Anthropological Linguistics |date=1967|volume=9|issue=1|page=4, 5, 18}}</ref> {| class="wikitable" |+ style="text-align: left;" | 関東圏出身者に相互理解可能性(1967年)<ref name="Dialect Intelligibility 1967"/> |- | scope="col" | '''方言''' || [[大阪弁|大阪市]] || [[京都弁|京都市]] || 愛知県[[立田村 (愛知県)|立田村]] || 長野県[[木曽町]][[新開村|新開]] || 富山県[[氷見市]] || 岡山県[[勝山町 (岡山県)|勝山町]] || 高知県[[大方町]] || 島根県[[雲城村]]|| [[熊本弁|熊本市]] || [[鹿児島弁|鹿児島市]] |- | scope="col" | 正解率 || 26.4% || 67.1% || 44.5% || 13.3% || 4.1% || 24.7% || 45.5% || 24.8% || 38.6% || 17.6% |} === 方言区画 === [[ファイル:Japanese dialects-ja.png|thumb|right|400px|日本語の方言区分の一例。大きな方言境界ほど太い線で示している。]] [[東条操]]は、全国で話されている言葉を大きく東部方言・西部方言・[[九州方言]]および[[琉球方言]]に分けている{{Sfnp|東条操|1954}}。またそれらは、[[北海道方言|北海道]]・[[東北方言|東北]]・[[関東方言|関東]]・[[八丈方言|八丈島]]・[[東海東山方言|東海東山]]・[[北陸方言|北陸]]・[[近畿方言|近畿]]・[[中国方言|中国]]・[[雲伯方言|雲伯]](出雲・伯耆)・[[四国方言|四国]]・[[豊日方言|豊日]](豊前・豊後・日向)・[[肥筑方言|肥筑]](筑紫・肥前・肥後)・[[薩隅方言|薩隅]](薩摩・大隅)・[[奄美方言|奄美群島]]・[[沖縄方言|沖縄諸島]]・先島諸島に区画された。これらの分類は、今日でもなお一般的に用いられる。なお、このうち奄美・沖縄・先島の言葉は、日本語の一方言(琉球方言)とする立場と、独立言語として[[琉球語]]とする立場とがある。 また、[[金田一春彦]]は、近畿・四国を主とする内輪方言、関東・中部・中国・九州北部の一部を主とする中輪方言、北海道・東北・九州の大部分を主とする外輪方言、沖縄地方を主とする南島方言に分類した{{Sfnp|金田一春彦|1964a}}。この分類は、アクセントや音韻、文法の特徴が畿内を中心に輪を描くことに着目したものである。このほか、幾人かの研究者により方言区画案が示されている。 一つの方言区画の内部も変化に富んでいる。たとえば、[[奈良県]]は近畿方言の地域に属するが、[[十津川村]]や[[下北山村]]周辺ではその地域だけ東京式アクセントが使われ、さらに下北山村池原にはまた別体系のアクセントがあって東京式の地域に取り囲まれている{{Sfnp|山口幸洋|2003|pp=238-247}}。[[香川県]][[観音寺市]]伊吹町([[伊吹島]])では、[[平安時代]]のアクセント体系が残存しているといわれる{{Sfnp|和田実|1966}}(異説もある{{Sfnp|山口幸洋|2002}})。これらは特に顕著な特徴を示す例であるが、どのような狭い地域にも、その土地としての言葉の体系がある。したがって、「どの地点のことばも、等しく記録に価する{{Sfnp|吉田則夫|1984}}」ものである。 {{main|方言区画論}} === 東西の文法 === 一般に、方言差が話題になるときには、文法の東西の差異が取り上げられることが多い。[[東部方言]]と[[西部方言]]との間には、およそ次のような違いがある。 否定辞に東で「ナイ」、西で「ン」を用いる。完了形には、東で「テル」を、西で「トル」を用いる。断定には、東で「ダ」を、西で「ジャ」または「ヤ」を用いる。アワ行[[五段活用]]の[[動詞]][[連用形]]は、東では「カッタ(買)」と促音便に、西では「コータ」とウ音便になる。形容詞連用形は、東では「ハヤク(ナル)」のように非音便形を用いるが、西では「ハヨー(ナル)」のようにウ音便形を用いるなどである{{Sfnp|都竹通年雄|1986}}。 方言の東西対立の境界は、画然と引けるものではなく、どの特徴を取り上げるかによって少なからず変わってくる。しかし、おおむね、日本海側は[[新潟県]]西端の[[糸魚川市]]、太平洋側は[[静岡県]][[浜名湖]]が境界線(糸魚川・浜名湖線)とされることが多い。糸魚川西方には難所[[親不知]]があり、その南には[[日本アルプス]]が連なって東西の交通を妨げていたことが、東西方言を形成した一因とみられる。 {{main|日本語の方言#文法|東日本方言|西日本方言}} === アクセント === [[File:Japanese pitch accent map-ja.png|right|thumb|300px|日本語のアクセント分布]] 日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きい。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられるが、特に広範囲で話され話者数も多いのは[[東京式アクセント]]と[[京阪式アクセント]]の2つである。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第1拍の高低を弁別する。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね[[北海道]]、[[東北地方]]北部、[[関東地方]]西部、[[甲信越地方]]、[[東海地方]]の大部分、[[中国地方]]、[[四国|四国地方]]南西部、[[九州]]北東部に分布しており、京阪式アクセントは[[近畿地方]]・四国地方のそれぞれ大部分と[[北陸地方]]の一部に分布している。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっている。日本語の標準語・共通語のアクセントは、東京の[[山の手言葉]]のものを基盤にしているため東京式アクセントである。 九州西南部や沖縄の一部には型の種類が2種類になっている[[二型アクセント]]が分布し、[[宮崎県]][[都城市]]などには型の種類が1種類になっている[[一型アクセント]]が分布する。また、[[岩手県]][[雫石町]]や[[山梨県]][[早川町]][[西山村 (山梨県)|奈良田]]などのアクセントは、音の下がり目ではなく上がり目を弁別する。これら有アクセントの方言に対し、東北地方南部から関東地方北東部にかけての地域や、九州の東京式アクセント地帯と二型アクセント地帯に挟まれた地域などには、話者にアクセントの知覚がなく、どこを高くするという決まりがない[[無アクセント]](崩壊アクセント)の地域がある。これらのアクセント大区分の中にも様々な変種があり、さらにそれぞれの体系の中間型や別派なども存在する。 「花が」が東京で「低高低」、京都で「高低低」と発音されるように、単語のアクセントは地方によって異なる。ただし、それぞれの地方のアクセント体系は互いにまったく無関係に成り立っているのではない。多くの場合において規則的な対応が見られる。たとえば、「花が」「山が」「池が」を東京ではいずれも「低高低」と発音するが、京都ではいずれも「高低低」と発音し、「水が」「鳥が」「風が」は東京ではいずれも「低高高」と発音するのに対して京都ではいずれも「高高高」と発音する。また、「松が」「空が」「海が」は東京ではいずれも「高低低」と発音されるのに対し、京都ではいずれも「低低高」と発音される。このように、ある地方で同じアクセントの型にまとめられる語群([[類 (アクセント)|類]]と呼ぶ)は、他の地方でも同じ型に属することが一般的に観察される。 この事実は、日本の方言アクセントが、過去の同一のアクセント体系から分かれ出たことを意味する{{Sfnp|松森晶子|2003|p=262}}。[[服部四郎]]はこれを原始日本語のアクセントと称し{{Sfnp|服部四郎|1951}}、これが分岐し互いに反対の方向に変化して、東京式と京阪式を生じたと考えた。現在有力な説は、[[院政|院政期]]の[[京阪式アクセント]]([[類聚名義抄|名義抄]]式アクセント)が日本語アクセントの祖体系で、現在の諸方言アクセントのほとんどはこれが順次変化を起こした結果生じたとするものである{{Efn|{{Harvp|金田一春彦|1954}}や{{Harvp|奥村三雄|1955}}など。}}。一方で、地方の無アクセントと中央の京阪式アクセントの接触で諸方言のアクセントが生じたとする説もある{{Sfnp|山口幸洋|2003|pp=9-61}}。 {{main|日本語の方言のアクセント}} === 音声・音韻 === {{main|日本語の方言#音韻・音声}} 発音の特徴によって本土方言を大きく区分すると、表日本方言、[[裏日本方言]]、薩隅(鹿児島)式方言に分けることができる<ref>金田一春彦「音韻」</ref>。表日本方言は共通語に近い音韻体系を持つ。裏日本式の音韻体系は、東北地方を中心に、北海道沿岸部や新潟県越後北部、関東北東部(茨城県・栃木県)と、とんで島根県出雲地方を中心とした地域に分布する。その特徴は、イ段とウ段の母音に[[中舌母音]]を用いることと、エが狭くイに近いことである。関東のうち千葉県や埼玉県東部などと、越後中部・佐渡・富山県・石川県能登の方言は裏日本式と表日本式の中間である。また薩隅式方言は、大量の母音脱落により[[閉音節]]を多く持っている点で他方言と対立している。[[薩隅方言]]以外の九州の方言は、薩隅式と表日本式の中間である。 音韻の面では、[[母音]]の「[[う]]」を、東日本、北陸、出雲付近では[[中舌母音|中舌]]寄りで[[非円唇母音]](唇を丸めない)の {{IPA|ɯ}} または {{IPA|ɯ̈}} で、西日本一般では奥舌で[[円唇母音]]の {{IPA|u}} で発音する。また、母音は、東日本や北陸、出雲付近、九州で[[無声音|無声化]]しやすく、東海、近畿、中国、四国では無声化しにくい<ref>[[平山輝男]] (1998)「全日本の発音とアクセント」NHK放送文化研究所編『NHK日本語発音アクセント辞典』(日本放送出版協会)。</ref>。 またこれとは別に、近畿・四国(・北陸)とそれ以外での対立がある。前者は[[京阪式アクセント]]の地域であるが、この地域ではアクセント以外にも、「木」を「きい」、「目」を「めえ」のように一音節語を伸ばして二拍に発音し、また「赤い」→「あけー」のような連母音の融合が起こらないという共通点がある。また、西日本(九州・山陰・北陸除く)は[[母音]]を強く[[子音]]を弱く発音し、東日本や九州は子音を強く母音を弱く発音する傾向がある。 == 歴史 == {{see also|上代日本語|中古日本語|中世日本語|近世日本語}} === 音韻史 === ==== 母音・子音 ==== 母音の数は、[[奈良時代]]およびそれ以前には現在よりも多かったと考えられる。[[橋本進吉]]は、江戸時代の[[上代特殊仮名遣|上代特殊仮名遣い]]の研究を再評価し<ref>橋本 進吉 (1917)「国語仮名遣研究史上の一発見―石塚龍麿の仮名遣奥山路について」『帝国文学』26-11(1949年の『文字及び仮名遣の研究(橋本進吉博士著作集 第3冊)』(岩波書店)に収録)。</ref>、[[記紀]]や『[[万葉集]]』などの[[万葉仮名]]において「き・ひ・み・け・へ・め・こ・そ・と・の・も・よ・ろ」の表記に2種類の仮名が存在することを指摘した(甲類・乙類と称する。「も」は『古事記』のみで区別される)。橋本は、これらの仮名の区別は音韻上の区別に基づくもので、特に母音の差によるものと考えた<ref>{{Harvp|大野晋|1953|p=126}}以下に[[研究史]]の紹介がある。</ref>。橋本の説は、後続の研究者らによって、「母音の数がアイウエオ五つでなく、合計八を数えるもの{{Sfnp|大野晋|1982|p=65}}」という8母音説と受け取られ、定説化した(異説として、[[服部四郎]]の6母音説<ref name="R"/>などがある)。8母音の区別は[[平安時代]]にはなくなり、現在のように5母音になったとみられる。なお、上代日本語の語彙では、母音の出現の仕方が[[ウラル語族]]や[[アルタイ諸語|アルタイ語族]]の[[母音調和]]の法則に類似しているとされる{{Sfnp|有坂秀世|1931|ps=(1957年の『国語音韻史の研究 増補新版』(三省堂)に収録)}}。 「[[は行]]」の子音は、[[奈良時代]]以前には {{IPA|p}} であったとみられる{{Sfnp|上田萬年|1903|pp=32-39}}。すなわち、「はな(花)」は {{IPA|pana}}(パナ)のように発音された可能性がある。{{IPA|p}} は遅くとも平安時代初期には[[無声両唇摩擦音]] {{IPA|ɸ}} に変化していた<ref>橋本 進吉 (1928)「波行子音の変遷について」『岡倉先生記念論文集』(1950年の『国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集 第4冊)』(岩波書店)に収録)。</ref>。すなわち、「はな」は {{IPA|ɸana}}(ファナ)となっていた。中世末期に、[[ローマ字]]で当時の日本語を記述した[[キリシタン資料]]が多く残されているが、そこでは「[[は行]]」の文字が「fa, fi, fu, fe, fo」で転写されており、当時の「は行」は「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近い発音であったことが分かる。中世末期から[[江戸時代]]にかけて、「は行」の子音は {{IPA|ɸ}} から {{IPA|h}} へ移行した。ただし、「[[ふ]]」は {{IPA|ɸ}} のままに、「[[ひ]]」は {{IPA|çi}} になった{{Sfnp|土井忠生|1957|pp=158-159}}。現代でも引き続きこのように発音されている。 平安時代以降、語中・語尾の「は行」音が「[[わ行]]」音に変化する[[ハ行転呼]]が起こった{{Sfnp|佐藤武義|1995|pp=84-97}}。たとえば、「かは(川)」「かひ(貝)」「かふ(買)」「かへ(替)」「かほ(顔)」は、それまで {{IPA|kaɸa}} {{IPA|kaɸi}} {{IPA|kaɸu}} {{IPA|kaɸe}} {{IPA|kaɸo}} であったものが、{{IPA|kawa}} {{IPA|kawi}} {{IPA|kau}} {{IPA|kawe}} {{IPA|kawo}} になった。「はは(母)」も、[[キリシタン資料]]では「faua」(ハワ)と記された例があるなど、他の語と同様にハ行転呼が起こっていたことが知られる。 {{main|ハ行転呼}} このように、「は行」子音は語頭でおおむね {{IPA|p}} → {{IPA|ɸ}} → {{IPA|h}}、語中で {{IPA|p}} → {{IPA|ɸ}} → {{IPA|w}} と[[唇音]]が衰退する方向で推移した。また、関西で「う」を唇を丸めて発音する([[円唇母音]])のに対し、関東では唇を丸めずに発音するが、これも[[唇音退化]]の例ととらえることができる。 「[[や行]]」の「え」({{IPA|je}}) の音が古代に存在したことは、「[[あ行]]」の「え」の仮名と別の文字で書き分けられていたことから明らかである{{Sfnp|佐藤武義|1995|pp=84-97}}。平安時代初期に成立したと見られる「[[天地の詞]]」には「え」が2つ含まれており、「あ行」と「や行」の区別を示すものと考えられる。この区別は[[10世紀]]の頃にはなくなっていたとみられ{{Sfnp|佐藤武義|1995|pp=84-97}}、970年成立の『[[口遊]]』に収録される「[[大為爾の歌]]」では「あ行」の「え」しかない。この頃には「あ行」と「や行」の「え」の発音はともに {{IPA|je}} になっていた。 「[[わ行]]」は、「わ」を除いて「あ行」との合流が起きた。 平安時代末頃には、 #「い」と「[[ゐ]]」(および語中・語尾の「ひ」) #「え」と「[[ゑ]]」(および語中・語尾の「へ」) #「お」と「を」(および語中・語尾の「ほ」) が同一に帰した。3が同音になったのは11世紀末頃、1と2が同音になったのは12世紀末頃と考えられている。[[藤原定家]]の『下官集』([[13世紀]])では「お」・「を」、「い」・「ゐ」・「ひ」、「え」・「ゑ」・「へ」の仮名の書き分けが問題になっている。 当時の発音は、1は現在の {{IPA|i}}(イ)、2は {{IPA|je}}(イェ)、3は {{IPA|wo}}(ウォ)のようであった。 3が現在のように {{IPA|o}}(オ)になったのは江戸時代であったとみられる{{Sfnp|佐藤武義|1995|pp=98-114}}。[[18世紀]]の『音曲玉淵集』では、「お」「を」を「ウォ」と発音しないように説いている。 2が現在のように {{IPA|e}}(エ)になったのは、[[新井白石]]『[[東雅]]』総論の記述からすれば早くとも元禄享保頃([[17世紀]]末から18世紀初頭)以降<ref>橋本 進吉 (1942)「国語音韻史の研究」(1966年の『国語音韻史(橋本進吉博士著作集 第6冊)』(岩波書店)に収録)p.352。</ref>、『謳曲英華抄』の記述からすれば18世紀中葉頃とみられる{{Sfnp|外山映次|1972|pp=238-239}}。 「が行」の子音は、語中・語尾ではいわゆる[[鼻濁音]](ガ行鼻音)の {{IPA|ŋ}} であった。鼻濁音は、近代に入って急速に勢力を失い、語頭と同じ[[破裂音]]の {{IPA|ɡ}} または[[摩擦音]]の {{IPA|ɣ}} に取って代わられつつある。今日、鼻濁音を表記する時は、「か行」の文字に半濁点を付して「{{JIS2004フォント|カ&#x1017F4;ミ(鏡)}}」のように書くこともある。 「[[し|じ]]・[[ち|ぢ]]」「[[す|ず]]・[[つ|づ]]」の[[四つ仮名]]は、室町時代前期の京都ではそれぞれ {{IPA|ʑi}}, {{IPA|dʲi}}, {{IPA|zu}}, {{IPA|du}} と発音されていたが、16世紀初め頃に「ち」「ぢ」が[[口蓋化]]し、「つ」「づ」が[[破擦音]]化した結果、「ぢ」「づ」の発音がそれぞれ {{IPA|ʥi}}, {{IPA|ʣu}} となり、「じ」「ず」の音に近づいた。16世紀末の[[キリシタン資料]]ではそれぞれ「ji・gi」「zu・zzu」など異なるローマ字で表されており、当時はまだ発音の区別があったことが分かるが、当時既に混同が始まっていたことも記録されている{{Sfnp|佐藤武義|1995|pp=98-114}}。17世紀末頃には発音の区別は京都ではほぼ消滅したと考えられている(今も区別している方言もある<ref name="D"/>)。「[[せ]]・ぜ」は「xe・je」で表記されており、現在の「シェ・ジェ」に当たる {{IPA|ɕe}}, {{IPA|ʑe}} であったことも分かっている。関東では室町時代末にすでに {{IPA|se}}, {{IPA|ze}} の発音であったが、これはやがて西日本にも広がり、19世紀中頃には京都でも一般化した。現在は東北や九州などの一部に {{IPA|ɕe}}, {{IPA|ʑe}} が残っている。 ==== 音便現象 ==== {{main|音便}} 平安時代から、発音を簡便にするために単語の音を変える[[音便]]現象が少しずつ見られるようになった。「次(つ)ぎて」を「次いで」とするなどの'''イ音便'''、「詳(くは)しくす」を「詳しうす」とするなどの'''ウ音便'''、「発(た)ちて」を「発って」とするなどの'''促音便'''、「飛びて」を「飛んで」とするなどの'''撥音便'''が現れた。『[[源氏物語]]』にも、「いみじく」を「いみじう」とするなどのウ音便が多く、また、少数ながら「苦しき」を「苦しい」とするなどのイ音便の例も見出される{{Sfnp|桜井茂治|1966}}。[[鎌倉時代]]以降になると、音便は口語では盛んに用いられるようになった。 {{要出典範囲|中世には、「差して」を「差いて」、「挟みて」を「挟うで」、「及びて」を「及うで」などのように、今の共通語にはない音便形も見られた。これらの形は、今日でも各地に残っている。|date=2021年10月}} ==== 連音上の現象 ==== [[鎌倉時代]]・[[室町時代]]には[[連声]](れんじょう)の傾向が盛んになった。[[ん|撥音]]または[[促音]]の次に来た母音・半母音が「[[な行]]」音・「[[ま行]]」音・「[[た行]]」音に変わる現象で、たとえば、銀杏は「ギン」+「アン」で「ギンナン」、雪隠は「セッ」+「イン」で「セッチン」となる。助詞「は」(ワ)と前の部分とが連声を起こすと、「人間は」→「ニンゲンナ」、「今日は」→「コンニッタ」となった。 また、この時代には、「中央」の「央」など「アウ」 {{IPA|au}} の音が合して長母音 {{IPA|ɔː}} になり、「応対」の「応」など「オウ」 {{IPA|ou}} の音が {{IPA|oː}} になった(「カウ」「コウ」など頭子音が付いた場合も同様){{Sfnp|佐藤武義|1995|pp=98-114}}。口をやや開ける前者を'''開音'''、口をすぼめる後者を'''合音'''と呼ぶ。また、「イウ」 {{IPA|iu}}、「エウ」 {{IPA|eu}} などの二重母音は、{{IPA|juː}}、{{IPA|joː}} という拗長音に変化した。「[[等呼|開合]]」の区別は次第に乱れ、江戸時代には合一して今日の {{IPA|oː}}(オー)になった。京都では、一般の話し言葉では17世紀に開合の区別は失われた{{Sfnp|佐藤武義|1995|pp=98-114}}。しかし方言によっては今も開合の区別が残っているものもある<ref name="D"/>。 ==== 外来の音韻 ==== [[漢語]]が日本で用いられるようになると、古来の日本に無かった[[拗音|合拗音]]「クヮ・グヮ」「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の音が発音されるようになった{{Sfnp|佐藤武義|1995|pp=98-114}}。これらは {{IPA|kwa}} {{IPA|ɡwe}} などという発音であり、「キクヮイ(奇怪)」「ホングヮン(本願)」「ヘングヱ(変化)」のように用いられた。当初は外来音の意識が強かったが、平安時代以降は普段の日本語に用いられるようになったとみられる<ref>{{Harvp|橋本進吉|1938}}(1980年の『古代国語の音韻に就いて 他2篇』(岩波文庫)に収録)。</ref>。ただし「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の寿命は短く、13世紀には「キ・ギ」「ケ・ゲ」に統合された。「クヮ」「グヮ」は中世を通じて使われていたが、室町時代にはすでに「カ・ガ」との間で混同が始まっていた。江戸時代には混同が進んでいき、江戸では18世紀中頃には直音の「カ・ガ」が一般化した。ただし一部の方言には今も残っている<ref name="D"/>。 漢語は平安時代頃までは原語である中国語に近く発音され、日本語の音韻体系とは別個のものと意識されていた。入声韻尾の {{IPA|-k}}, {{IPA|-t}}, {{IPA|-p}}, 鼻音韻尾の {{IPA|-m}}, {{IPA|-n}}, {{IPA|-ŋ}} なども原音にかなり忠実に発音されていたと見られる。鎌倉時代には漢字音の日本語化が進行し、{{IPA|ŋ}} はウに統合され、韻尾の {{IPA|-m}} と {{IPA|-n}} の混同も13世紀に一般化し、[[ん|撥音]]の {{ipa|ɴ}} に統合された。入声韻尾の {{IPA|-k}} は開音節化してキ、クと発音されるようになり、{{IPA|-p}} も {{IPA|-ɸu}}(フ)を経てウで発音されるようになった。{{IPA|-t}} は開音節化したチ、ツの形も現れたが、子音終わりの {{IPA|-t}} の形も17世紀末まで並存して使われていた。室町時代末期のキリシタン資料には、「butmet」(仏滅)、「bat」(罰)などの語形が記録されている。江戸時代に入ると開音節の形が完全に一般化した。 近代以降には、[[外国語]](特に[[英語]])の音の影響で新しい音が使われ始めた。比較的一般化した「シェ・チェ・ツァ・ツェ・ツォ・ティ・ファ・フィ・フェ・フォ・ジェ・ディ・デュ」などの音に加え、場合によっては、「イェ・ウィ・ウェ・ウォ・クァ・クィ・クェ・クォ・ツィ・トゥ・グァ・ドゥ・テュ・フュ」などの音も使われる<ref>「外来語の表記」(1991年6月内閣告示)による。</ref>。これらは、子音・母音のそれぞれを取ってみれば、従来の日本語にあったものである。「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ・ヴュ」のように、これまで無かった音は、書き言葉では書き分けても、実際に発音されることは少ない。 === 文法史 === ==== 活用の変化 ==== 動詞の活用種類は、[[平安時代]]には9種類であった。すなわち、[[四段活用|四段]]・[[上一段活用|上一段]]・[[上二段活用|上二段]]・[[下一段活用|下一段]]・[[下二段活用|下二段]]・[[カ行変格活用|カ変]]・[[サ行変格活用|サ変]]・[[ナ行変格活用|ナ変]]・[[ラ行変格活用|ラ変]]に分かれていた。これが時代とともに統合され、[[江戸時代]]には5種類に減った。上二段は上一段に、下二段は下一段にそれぞれ統合され、ナ変(「死ぬ」など)・ラ変(「有り」など)は四段に統合された。これらの変化は、古代から中世にかけて個別的に起こった例もあるが、顕著になったのは江戸時代に入ってからのことである。ただし、ナ変は近代に入ってもなお使用されることがあった。 このうち、最も規模の大きな変化は二段活用の一段化である。二段→一段の統合は、室町時代末期の京阪地方では、まだまれであった(関東では比較的早く完了した)。それでも、江戸時代前期には京阪でも見られるようになり、後期には一般化した{{Sfnp|奥村三雄|1968}}。すなわち、今日の「起きる」は、平安時代には「き・き・く・くる・くれ・きよ」のように「き・く」の2段に活用したが、江戸時代には「き・き・きる・きる・きれ・きよ(きろ)」のように「き」の1段だけで活用するようになった。また、今日の「明ける」は、平安時代には「け・く」の2段に活用したが、江戸時代には「け」の1段だけで活用するようになった。しかも、この変化の過程では、[[#終止・連体形の合一|終止・連体形の合一]]が起こっているため、[[鎌倉時代|鎌倉]]・[[室町時代]]頃には、前後の時代とは異なった活用の仕方になっている。次に時代ごとの活用を対照した表を掲げる。 {|class="wikitable" style="text-align: center; " |- !現代の語形||時代||語幹||未然||連用||終止||連体||已然||命令 |- |rowspan="3"|起きる||平安||rowspan="3"|お||き||き||く||くる||くれ||きよ |- |室町||き||き||くる||くる||くれ||きよ |- |江戸||き||き||きる||きる||きれ||きよ(きろ) |- |rowspan="3"|明ける||平安||rowspan="3"|あ||け||け||く||くる||くれ||けよ |- |室町||け||け||くる||くる||くれ||けよ |- |江戸||け||け||ける||ける||けれ||けよ(けろ) |- |rowspan="3"|死ぬ||平安||rowspan="3"|し||な||に||ぬ||ぬる||ぬれ||ね |- |rowspan="2"|室町<br>〜<br>近代||な||に||ぬる||ぬる||ぬれ||ね |- |な||に||ぬ||ぬ||ね||ね |- |rowspan="3"|有る||平安||rowspan="3"|あ||ら||り||り||る||れ||れ |- |室町||ら||り||る||る||れ||れ |- |江戸||ら||り||る||る||れ||れ |} 形容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように活用したク活用と、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク活用が存在した。この区別は、[[#終止・連体形の合一|終止・連体形の合一]]とともに消滅し、形容詞の活用種類は一つになった。 今日では、文法用語の上で、四段活用が五段活用(実質的には同じ)と称され、[[已然形]]が仮定形と称されるようになったものの、活用の種類および活用形は基本的に江戸時代と同様である。 ==== 係り結びとその崩壊 ==== {{出典の明記| date = 2021年10月| section = 1}} かつての日本語には、[[係り結び]]と称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を[[連体形]](「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または[[已然形]](「こそ」の場合)で結ぶものである([[奈良時代]]には、「こそ」も連体形で結んだ)。 係り結びをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬'''ぞ'''寂しさ増さり'''ける'''」(『[[古今和歌集|古今集]]』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里'''ぞ'''冬は寂しさ増さり'''ける'''」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。 ところが、中世には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、文末を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。 今日の口語文には、規則的な係り結びは存在しない。ただし、「貧乏で'''こそあれ'''、彼は辛抱強い」「進む道'''こそ違え'''、考え方は同じ」のような形で化石的に残っている。 ==== 終止・連体形の合一 ==== 活用語のうち、四段活用以外の動詞・形容詞・形容動詞および多くの助動詞は、平安時代には、[[終止形 (文法)|終止形]]と[[連体形]]とが異なる形態を採っていた。たとえば、動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(とき)」(連体形)のようであった。ところが、係り結びの形式化とともに、上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多く見られるようになった。たとえば、『[[源氏物語]]』には、 {{Quote|すこし立ち出でつつ見わたしたまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる。|『源氏物語』若紫巻<ref>阿部 秋生・秋山 虔・今井 源衛 [校注] (1970)『日本古典文学全集 源氏物語 一』(小学館)p.274。</ref>}} などの言い方があるが、本来ならば「見おろさる」の形で終止すべきものである。 このような例は、中世には一般化した。その結果、動詞・形容詞および助動詞は、形態上、連体形と終止形との区別がなくなった。 形容動詞は、終止形・連体形活用語尾がともに「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。たとえば、「辛労なり」は、終止形・連体形とも「辛労な」となった。もっとも、終止形には、むしろ「にてある」から来た「ぢや」が用いられることが普通であった。したがって、終止形は「辛労ぢや」、連体形は「辛労な」のようになった。「ぢや」は主として上方で用いられ、東国では「だ」が用いられた。今日の共通語も東国語の系統を引いており、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠の一つとなっている。 文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。 ==== 可能動詞 ==== 今日、「漢字が書ける」「酒が飲める」などと用いる、いわゆる可能動詞は、[[室町時代]]には発生していた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むことができる)が、「持つ」から「持つる」(=持つことができる)が作られるなど、[[四段活用]]の動詞を元にして、可能を表す[[下二段活用]]の動詞が作られ始めた。これらの動詞は、やがて一段化して、「読める」「持てる」のような語形で用いられるようになった{{Efn|{{Harvp|坂梨隆三|1969}}。なお、坂梨によれば、「読むる」などの形が歴史的に確認されるため、「読み得(え)る」から「読める」ができたとする説は誤りということになる。}}。これらの可能動詞は、[[江戸時代]]前期の上方でも用いられ、後期の江戸では普通に使われるようになった{{Sfnp|湯沢幸吉郎|1954}}。 従来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に対して「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」と下二段動詞の「抜く」(抜ける)とが対応する例は多く存在した。この場合、後者は、「自然にそうなる」という自然生起(自発)を表した。そこから類推した結果、「文字を読む」に対して「文字が読むる(読める)」などの可能動詞が出来上がったものと考えられる。 近代以降、とりわけ大正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆる「[[ら抜き言葉]]」が広がり始めた{{Efn|{{Harvp|松井栄一|1983|p=130}}以下で、明治時代の永井荷風『をさめ髪』(1899年)に「左団扇と来(こ)れる様な訳なんだね。」という例があることなどを紹介している。}}。「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」<!-- 同じ表記でも「居(お)れる」と読まれることを意図して書かれ、その通りに読まれる場合には何の問題もない -->という類である。この語法は、地方によっては早く一般化し、第二次世界大戦後には全国的に顕著になっている。 ==== 受け身表現 ==== [[受動態#日本語の受身|受け身]]の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。もともと、日本語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった{{Sfnp|小松英雄|1999}}。したがって、物が受け身表現の主語になることはほとんどなかった。『[[枕草子]]』の「にくきもの」に {{Quote|すずりに髪の入りてすられたる。(すずりに髪が入ってすられている)|『枕草子』<ref>池田 亀鑑・岸上 慎二・秋山 虔 [校注] (1958)『日本古典文学大系19 枕草子 紫式部日記』p.68。</ref>}} とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。一方、「この橋は多くの人々によって造られた」「源氏物語は紫式部によって書かれた」のような言い方は、古くは存在しなかったと見られる。これらの受け身は、状態を表すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。 「この橋は多くの人々によって造られた」式の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られる{{Sfnp|楳垣実|1943}}。明治時代には {{Quote|民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。|[[伊藤左千夫]]『[[野菊の墓]]』1906年}} のような欧文風の受け身が用いられている。 === 語彙史 === ==== 漢字の使用 ==== 漢字([[中国語]]の語彙)が日本語の中に入り始めたのはかなり古く、文献の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、元々は漢語からの借用語であった可能性もあるが、上古漢字の場合、馬と梅の発音は違う。異民族が中国をよく支配してから漢語の発音は変わっていた{{Sfnp|亀井孝・大藤時彦・山田俊雄|1963}}。 中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に一般の日本語に取り入れられていった。[[鎌倉時代]]最末期の『[[徒然草]]』では、漢語及び混種語(漢語と和語の混交)は、異なり語数(文中の同一語を一度しかカウントしない)で全体の31%を占めるに至っている。ただし、延べ語数(同一語を何度でもカウントする)では13%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める<ref name="C">{{Harvp|宮島達夫|1971}}</ref>。幕末の[[和英辞典]]『和英語林集成』の見出し語でも、漢語はなお25%ほどに止まっている{{Sfnp|宮島達夫|1967}}。 漢字がよく使われるようになったのは幕末から明治時代にかけてである。「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。古典中国語にない語を特に[[和製漢語]]という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、京都祇園の芸者も漢語を好み、「霖雨ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢の火がなかなかつかない)などと言っていたという<ref>『都鄙新聞』第一 1868(慶応4)年5月(1928年の『明治文化全集』17(日本評論社)に収録)。</ref>。 漢字は今も多く使われている。雑誌調査では、延べ語数・異なり語数ともに和語を上回り、全体の半数近くに及ぶまでになっている{{Sfnp|国立国語研究所|1964b}}{{Sfnp|国立国語研究所|2006}}(「[[語種]]」参照)。 ==== 外来語の使用 ==== 漢字を除き、他言語の語彙を借用することは、古代にはそれほど多くなかった。このうち、[[サンスクリット|梵語]]の語彙は、多く漢語に取り入れられた後に、[[仏教]]と共に日本に伝えられた。「[[娑婆]]」「[[布施|檀那]]」「[[曼荼羅]]」などがその例である。また、今日では[[大和言葉|和語]]と扱われる「ほとけ([[仏陀|仏]])」「かわら([[瓦]])」なども梵語由来であるとされる{{Sfnp|楳垣実|1943}}。 西洋語が輸入され始めたのは、中世に[[キリシタン]]宣教師が来日した時期以降である。[[室町時代]]には、[[ポルトガル語]]から「カステラ」「コンペイトウ」「サラサ」「ジュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロード」などの語が取り入れられた。「[[メリヤス]]」など一部[[スペイン語]]も用いられた。[[江戸時代]]にも、「カッパ(合羽)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「エニシダ」などのスペイン語が用いられるようになった。 また、江戸時代には、[[蘭学]]などの興隆とともに、「アルコール」「エレキ」「ガラス」「コーヒー」「ソーダ」「ドンタク」などの[[オランダ語]]が伝えられた<ref>以上、伝来の時代認定は、『コンサイスカタカナ語辞典』第3版(三省堂)による。</ref>。 幕末から[[明治|明治時代]]以後には、英語を中心とする外来語が急増した。「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日では普通使われない語で、当時一般に使われていたものもあった。[[坪内逍遥]]『当世書生気質』(1885) には書生のせりふの中に「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急いて行きよつたら、大丈夫ぢゃらう」「想ふに又貸とは遁辞(プレテキスト)で、七(セブン)〔=質屋〕へ典(ポウン)した歟(か)、売(セル)したに相違ない」などという英語が多く出てくる。このような語のうち、日本語として定着した語も多い。 [[第二次世界大戦]]が激しくなるにつれて、外来語を禁止または自粛する風潮も起こったが、戦後はアメリカ発の外来語が爆発的に多くなった。現在では、[[報道]]・[[交通]]機関・[[通信]]技術の発達により、新しい外来語が瞬時に広まる状況が生まれている。雑誌調査では、異なり語数で外来語が30%を超えるという結果が出ており{{Sfnp|国立国語研究所|2006}}、現代語彙の中で欠くことのできない存在となっている(「[[語種]]」参照)。 ==== 語彙の増加と品詞 ==== [[File:Genji_emaki_01003_001.jpg|thumb|260px|[[源氏物語]](12世紀)]]  漢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ変動詞・形容動詞の語彙が特に増大することになった。漢語は活用しない語であり、本質的には[[#自立語|体言]](名詞)として取り入れられたが<ref>{{Harvp|山田孝雄|1940}}(1958年に訂正版)の「第一章 序説」。</ref>、「す」をつければ[[サ行変格活用|サ変]]動詞(例、祈念す)、「なり」をつければ[[形容動詞]](例、神妙なり)として用いることができた。 漢語により、厳密な概念を簡潔に表現することが可能になった。一般に、和語は一語が広い意味で使われる<ref>遠藤好英「和語」{{Harv|飛田良文|2007|p=152}}</ref>。たとえば、「とる」という動詞は、「資格をとる」「栄養をとる」「血液をとる」「新人をとる」「映画をとる」のように用いられる。ところが、漢語を用いて、「取得する(取得す)」「摂取する」「採取する」「採用する」「撮影する」などと、さまざまなサ変動詞で区別して表現することができるようになった。また、日本語の「きよい(きよし)」という形容詞は意味が広いが、漢語を用いて、「清潔だ(清潔なり)」「清浄だ」「清澄だ」「清冽だ」「清純だ」などの形容動詞によって厳密に表現することができるようになった{{Sfnp|岩田麻里|1983}}。 外来語は、漢語ほど高い[[生産性 (言語学)|造語力]]を持たないものの、漢語と同様に、特に名詞・サ変動詞・形容動詞の部分で日本語の語彙を豊富にした。「インキ」「バケツ」「テーブル」など名詞として用いられるほか、「する」を付けて「スケッチする」「サービスする」などのサ変動詞として、また、「だ」をつけて「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの形容動詞として用いられるようになった。 漢語・外来語の増加によって、形容詞と形容動詞の勢力が逆転した。元来、和語には形容詞・形容動詞ともに少なかったが、数の上では、形容詞が形容表現の中心であり、形容動詞がそれを補う形であった。『[[万葉集]]』では名詞59.7%、動詞31.5%、形容詞3.3%、形容動詞0.5%であり、『[[源氏物語]]』でも名詞42.5%、動詞44.6%、形容詞5.3%、形容動詞5.1%であった(いずれも異なり語数)<ref name="C"/>。ところが、漢語・外来語を語幹とした形容動詞が漸増したため、現代語では形容動詞が形容詞を上回るに至っている(「[[#品詞ごとの語彙量|品詞ごとの語彙量]]」の節参照)。ただし、一方で漢語・外来語に由来する名詞・サ変動詞なども増えているため、語彙全体から見ればなお形容詞・形容動詞の割合は少ない。 形容詞の造語力は今日ではほとんど失われており、近代以降のみ確例のある新しい形容詞は「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない{{Efn|{{Harvp|林巨樹・斎藤正人・飯田晴巳|1973}}には1343語の形容詞が載り、うち文語形が示されているものは1192語である。残りの151語のうち、『日本国語大辞典』第2版(小学館)において明治以降の用例のみ確認できるものは「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」など30語程度である。}}。一方、形容動詞は今日に至るまで高い造語力を保っている。特に、「科学的だ」「人間的だ」など接尾語「的」を付けた語の大多数や、「エレガントだ」「クリーンだ」など外来語に由来するものは近代以降の新語である。しかも、新しい形容動詞の多くは漢語・外来語を語幹とするものである。現代雑誌の調査によれば、形容動詞で語種のはっきりしているもののうち、和語は2割ほどであり、漢語は3割強、外来語は4割強という状況である{{Sfnp|国立国語研究所|2006}}。 === 表記史 === ==== 仮名の誕生 ==== 元来、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには中国渡来の[[漢字]]を用いた(いわゆる[[神代文字]]は後世の偽作とされている<ref>{{Harvp|山田孝雄|1937|p=41}}以下などを参照。</ref>)。漢字の記された遺物の例としては、[[1世紀]]のものとされる福岡市出土の「[[漢委奴国王印]]」などもあるが、本格的に使用されたのはより後年とみられる。『[[古事記]]』によれば、[[応神天皇]]の時代に百済の学者[[王仁]]が「論語十巻、千字文一巻」を携えて来日したとある。[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]出土の[[稲荷山古墳出土鉄剣|鉄剣]]銘([[5世紀]])には、雄略天皇と目される人名を含む漢字が刻まれている。「隅田八幡神社鏡銘」([[6世紀]])は純漢文で記されている。このような史料から、大和政権の勢力伸長とともに漢字使用域も拡大されたことが推測される。6世紀〜[[7世紀]]になると[[儒教]]、[[仏教]]、[[道教]]などについて漢文を読む必要が出てきたため識字層が広がった<ref name="gimon">{{Cite web|和書|url=https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-66/|title=漢字はいつから日本にあるのですか。それまで文字はなかったのでしょうか|author=斎藤達哉|website=ことば研究館|publisher=[[国立国語研究所]]|date=2019-03-08|accessdate=2022-11-30}}</ref>。 漢字で和歌などの[[大和言葉]]を記す際、「波都波流能(はつはるの)」のように日本語の1音1音を漢字の音(または訓)を借りて写すことがあった。この表記方式を用いた資料の代表が『[[万葉集]]』([[8世紀]])であるため、この表記のことを「[[万葉仮名]]」という(すでに[[7世紀]]中頃の木簡に例が見られる{{Efn|2006年10月、大阪・難波宮跡で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」(春草のはじめのとし)と記された木簡が発見された。7世紀中頃のものとみられる。}})。 [[9世紀]]には万葉仮名の字体をより崩した「草仮名」が生まれ(『讃岐国戸籍帳』の「藤原有年申文」など)、さらに、草仮名をより崩した[[平仮名]]の誕生をみるに至った。これによって、初めて日本語を自由に記すことが可能になった。平仮名を自在に操った王朝文学は、[[10世紀]]初頭の『[[古今和歌集]]』などに始まり、[[11世紀]]の『[[源氏物語]]』などの物語作品群で頂点を迎えた。 僧侶や学者らが漢文を[[訓読]]する際には、漢字の隅に点を打ち、その位置によって「て」「に」「を」「は」などの助詞その他を表すことがあった(ヲコト点)。しかし、次第に万葉仮名を添えて助詞などを示すことが一般化した。やがて、それらは、字画の省かれた簡略な[[片仮名]]になった。 平仮名も、片仮名も、発生当初から、1つの[[単音|音価]]に対して複数の文字が使われていた。たとえば、{{ipa|ha}}(当時の発音は {{IPA|ɸa}})に当たる平仮名としては、「波」「者」「八」などを字源とするものがあった。1900年([[1900年|明治33年]])に「[[小学校令]]施行規則」が出され、小学校で教える仮名は1字1音に整理された。これ以降使われなくなった仮名を、今日では[[変体仮名]]と呼んでいる。変体仮名は、現在でも料理屋の名などに使われることがある。 ==== 仮名遣い問題の発生 ==== [[平安時代]]までは、発音と仮名はほぼ一致していた。その後、発音の変化に伴って、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、「はな(花)」の「は」と「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」({{IPA|ɸa}}) であったとみられるが、平安時代に起こった[[ハ行転呼]]により、「かは(川)」など語中語尾の「は」は「ワ」と発音するようになった。ところが、「ワ」と読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」という発音を表記するとき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。ここに、仮名をどう使うかという[[仮名遣い]]の問題が発生した。 その時々の知識人は、仮名遣いについての規範を示すこともあったが([[藤原定家]]『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「[[#研究史|日本語研究史]]」の節参照)。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。万人に用いられる仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。 ==== 漢字・仮名遣いの改定 ==== 漢字の字数・字体および[[仮名遣い]]については、近代以降、たびたび改定が議論され、また実施に移されてきた<ref name="L"/>。 仮名遣いについては、早く小学校令施行規則(1900年)において、「にんぎやう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「[[棒引き仮名遣い]]」が採用されたことがあった。1904年から使用の『尋常小学読本』(第1期)はこの棒引き仮名遣いに従った。しかし、これは評判が悪く、規則の改正とともに、次期1910年の教科書から元の仮名遣いに戻った。 第二次世界大戦後の1946年には、「[[当用漢字]]表」「[[現代仮名遣い|現代かなづかい]]」が内閣告示された。これに伴い、一部の漢字の[[字体]]に略字体が採用され、それまでの[[歴史的仮名遣|歴史的仮名遣い]]による学校教育は廃止された。 1946年および1950年の[[アメリカ教育使節団報告書|米教育使節団報告書]]では、国字のローマ字化について勧告および示唆が行われ{{Efn|村井 実 [訳・解説] (1979)『アメリカ教育使節団報告書』(講談社学術文庫)には、第1次報告書が収められている。}}、[[国語審議会]]でも議論されたが、実現しなかった。1948年には、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[民間情報教育局]] (CIE) の指示による読み書き能力調査が行われた。漢字が日本人の[[識字率]]を抑えているとの考え方に基づく調査であったが、その結果は、調査者の予想に反して日本人の識字率は高水準であったことが判明した{{Sfnp|読み書き能力調査委員会|1951}}。 1981年には、当用漢字表・現代かなづかいの制限色を薄めた「常用漢字表」および改訂「現代仮名遣い」が内閣告示された。また、送り仮名に関しては、数次にわたる議論を経て、1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示され、今日に至っている。戦後の国語政策は、必ずしも定見に支えられていたとはいえず、今に至るまで議論が続いている。 === 文体史 === ==== 和漢混淆文の誕生 ==== 平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は[[漢文]]であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたとみられるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて[[漢文訓読|訓読]]されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。 [[漢文訓読]]の習慣に伴い、漢文に日本語特有の「賜」(…たまふ)や「坐」(…ます)のような語句を混ぜたり、一部を日本語の語順で記したりした「和化漢文」というべきものが生じた([[6世紀]]の[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|法隆寺薬師仏光背銘]]などに見られる)。さらには「王等臣等<sub>乃</sub>中<sub>尓</sub>」(『[[続日本紀]]』)のように、「乃(の)」「尓(に)」といった助詞などを小書きにして添える文体が現れた。この文体は[[祝詞]](のりと)・[[宣命]](せんみょう)などに見られるため、「宣命書き」と呼ばれる。 漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にした「[[仮名交じり文|漢字片仮名交じり文]]」を形成した。最古の例は『東大寺諷誦文稿』([[9世紀]])とされる。漢字片仮名交じり文では、[[漢語]]が多用されるばかりでなく、言い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「何(なん)ゾ言ハザル」のように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。 一方、平安時代の宮廷文学の文体(和文)は、基本的に[[大和言葉|和語]]を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうの「甚ダ広クシテ」「何ゾ言ハザル」は、和文では「いと広う」「などかのたまはぬ」となる。和文は、表記法から見れば、平仮名にところどころ漢字の交じる「平仮名漢字交じり文」である。「春はあけぼの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりて……」で始まる『[[枕草子]]』の文体は典型例の一つである。 両者の文体は、やがて合わさり、『[[平家物語]]』に見られるような[[和漢混淆文]]が完成した。 {{Quote|強呉(きゃうご)忽(たちまち)にほろびて、姑蘇台(こそたい)の露荊棘(けいきょく)にうつり、暴秦(ぼうしん)すでに衰へて、咸陽宮(かんやうきう)の煙埤堄(へいけい)を隠しけんも、かくやとおぼえて哀れなり。|『平家物語』聖主臨幸<ref>高木 市之助・小澤 正夫・渥美 かをる・金田一 春彦 [校注] (1958)『日本古典文学大系33 平家物語 下』p.101。用字は一部改めた。</ref>}} ここでは、「強呉」「荊棘」といった漢語、「すでに」といった漢文訓読の言い回しがある一方、「かくやとおぼえて哀れなり」といった和文の語彙・言い回しも使われている。 今日、最も普通に用いられる文章は、和語と漢語を適度に交えた一種の和漢混淆文である。「先日、友人と同道して郊外を散策した」というような漢語の多い文章と、「この間、友だちと連れだって町はずれをぶらぶら歩いた」というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。 ==== 文語文と口語文 ==== 話し言葉は、時代と共にきわめて大きな変化を遂げるが、それに比べて、書き言葉は変化の度合いが少ない。そのため、何百年という間には、話し言葉と書き言葉の差が生まれる。 日本語の書き言葉がひとまず成熟したのは平安時代中期であり、その頃は書き言葉・話し言葉の差は大きくなかったと考えられる。しかしながら、中世の[[キリシタン資料]]のうち、語り口調で書かれているものを見ると、書き言葉と話し言葉とにはすでに大きな開きが生まれていたことが窺える。江戸時代の[[洒落本]]・[[滑稽本]]の類では、会話部分は当時の話し言葉が強く反映され、地の部分の書き言葉では古来の文法に従おうとした文体が用いられている。両者の違いは明らかである。 明治時代の書き言葉は、依然として古典文法に従おうとしていたが、単語には日常語を用いた文章も現れた。こうした書き言葉は、一般に「普通文」と称された。普通文は、以下のように小学校の[[読本]]でも用いられた。 {{Quote|ワガ国ノ人ハ、手ヲ用フル工業ニ、タクミナレバ、ソノ製作品ノ精巧ナルコト、他ニ、クラブベキ国少シ。|『国定読本』第1期 1904}} 普通文は、厳密には、古典文法そのままではなく、新しい言い方も多く混じっていた。たとえば、「解釈せらる」というべきところを「解釈さる」、「就学せしむる義務」を「就学せしむるの義務」などと言うことがあった。そこで、文部省は新しい語法のうち一部慣用の久しいものを認め、「文法上許容スベキ事項」(1905年・[[1905年|明治38年]])16条を告示した。 一方、明治20年代頃から、[[二葉亭四迷]]・[[山田美妙]]ら文学者を中心に、書き言葉を話し言葉に近づけようとする努力が重ねられた([[言文一致]]運動)。二葉亭は「だ」体、美妙は「です」体、[[尾崎紅葉]]は「である」体といわれる文章をそれぞれ試みた。このような試みが広まる中で、新聞・雑誌の記事なども話し言葉に近い文体が多くなっていく。古来の伝統的文法に従った文章を[[文語|文語文]]、話し言葉を反映した文章を[[口語|口語文]]という。第二次世界大戦後は、法律文などの公文書ももっぱら口語文で書かれるようになり、文語文は日常生活の場から遠のいた。 === 方言史 === {{See also|日本語の方言#歴史}} ==== 古代・中世・近世 ==== {{複数の問題|section=1|出典の明記=2021年10月|独自研究=2021年10月}} 日本語は、文献時代に入ったときにはすでに[[方言]]差があった。『[[万葉集]]』の巻14「東歌」や巻20「[[防人歌]]」には当時の東国方言による歌が記録されている{{Efn|万葉集に記録された東国方言は8母音ではないことが知られる<ref>前田富棋「奈良時代」{{Harv|佐藤喜代治|1973|pp=60-64}}</ref>。}}。820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見え、これが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。平安初期の中央の人々の方言観が窺える貴重な記録である。 [[平安時代]]から[[鎌倉時代]]にかけては、中央の文化的影響力が圧倒的であったため、方言に関する記述は断片的なものにとどまったが、[[室町時代]]、とりわけ[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には中央の支配力が弱まり地方の力が強まった結果、地方文献に方言を反映したものがしばしば現われるようになった。洞門抄物と呼ばれる東国系の文献が有名であるが、古文書類にもしばしば方言が登場するようになる。 [[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]極初期にかけては、[[ポルトガル]]人の宣教師が数多くの[[キリシタン資料]]を残しているが、その中に各地の方言を記録したものがある。[[京都]]のことばを中心に据えながらも九州方言を多数採録した『[[日葡辞書]]』(1603年〜1604年)や、[[筑前国|筑前]]や[[備前国|備前]]など各地の方言の言語的特徴を記した『[[日本大文典|ロドリゲス日本大文典]]』(1604年〜1608年)はその代表である。 この時期には[[琉球語|琉球方言(琉球語)]]の資料も登場する。最古期に属するものとしては、中国資料の『琉球館訳語』(16世紀前半成立)があり、琉球の言葉を音訳表記によって多数記録している。また、1609年の島津侵攻事件で[[琉球王国]]を支配下に置いた[[薩摩藩]]も、記録類に琉球の言葉を断片的に記録しているが、語史の資料として見た場合、[[琉球諸島]]{{要曖昧さ回避|date=2020年5月}}に伝わる古代歌謡・ウムイを集めた『[[おもろさうし]]』(1531年〜1623年)が、質・量ともに他を圧倒している。 [[奈良時代]]以来、[[江戸幕府]]が成立するまで、近畿方言が中央語の地位にあった。[[朝廷 (日本)|朝廷]]から[[徳川氏|徳川家]]へ[[征夷大将軍]]の宣下がなされて以降、江戸文化が開花するとともに、[[江戸言葉|江戸語]]の地位が高まり、[[明治|明治時代]]には東京語が日本語の[[標準語]]と見なされるようになった。 ==== 近代 ==== 明治政府の成立後は、政治的・社会的に全国的な統一を図るため、また、近代国家として外国に対するため、言葉の統一・標準化が求められるようになった{{Sfnp|真田信治|1991}}。学校教育では「東京の中流社会」の言葉が採用され{{Efn|文部省 (1904)『国定教科書編纂趣意書』に収録されている「尋常小学読本編纂趣意書」の「第二章 形式」には、「文章ハ口語ヲ多クシ用語ハ主トシテ東京ノ中流社会ニ行ハルルモノヲ取リカクテ国語ノ標準ヲ知ラシメ其統一ヲ図ルヲ務ムルト共ニ……」(p.51)とある。}}、放送でも同様の言葉が「共通用語」([[共通語]])とされた{{Efn|1934年に発足した放送用語並発音改善調査委員会の「放送用語の調査に関する一般方針」では、「共通用語は、現代の国語の大勢に順応して大体、帝都の教養ある社会層において普通に用いられる語彙・語法・発音・アクセント(イントネーションを含む)を基本とする」とされた{{Sfnp|日本放送協会|1965|p=427}}。}}。こうして[[標準語]]の[[規範意識]]が確立していくにつれ、方言を矯正しようとする動きが広がった。教育家の[[伊沢修二]]は、教員向けに書物を著して東北方言の矯正法を説いた{{Sfnp|伊沢修二|1909}}。地方の学校では方言を話した者に首から「[[方言札]]」を下げさせるなどの罰則も行われた{{Efn|{{Harvp|仲宗根政善|1995}}の序では、1907年生まれの著者が、沖縄の小学校時代に経験した方言札について「あの不快を、私は忘れることができない」と記している。}}。軍隊では命令伝達に支障を来さないよう、初等教育の段階で共通語の使用が指導された{{Efn|戦意高揚映画『[[決戦の大空へ]]』(1943年)では全国から集められた[[海軍飛行予科練習生]]の新入隊員らが、指導教官から訛りがあると指摘され、軍隊の言葉を使えと指導されるシーンがある。}}。 一方、戦後になると各地の方言が失われつつあることが危惧されるようになった。[[NHK放送文化研究所]]は、(昭和20年代の時点で)各地の純粋な方言は80歳以上の老人の間でのみ使われているにすぎないとして、1953年から5年計画で全国の方言の録音を行った。この録音調査には、[[柳田邦夫]]、[[東条操]]、[[岩淵悦太郎]]、[[金田一春彦]]など[[言語学]]者らが指導にあたった<ref>「全国の方言を録音」『日本経済新聞』昭和28年6月19日 9面</ref>。 ただし、戦後しばらくは共通語の取得に力点を置いた国語教育が初等教育の現場で続き、昭和22年([[1947年]])の[[学習指導要領]]国語科編(試案)では、「なるべく、方言や、なまり、舌のもつれをなおして、標準語に近づける」「できるだけ、語法の正しいことばをつかい、俗語または方言をさけるようにする」との記載が見られる{{Sfnp|白勢彩子|2019}}。また、昭和33年([[1958年]])の小学校学習指導要領でも、「小学校の第六学年を終了するまでに, どのような地域においても, 全国に通用することばで, 一応聞いたり話したりすることができるようにする」との記述がある<ref>{{Cite web|和書|title=ことばQ&A - 国語研の窓 |url=http://kotobaken.jp/mado/18/18-05/ |website=ことば研究館 |access-date=2022-12-05 |language=ja |publisher=[[国立国語研究所]]}}</ref>。 また、経済成長とともに地方から都市への人口流入が始まると、標準語と方言の軋轢が顕在化した。1950年代後半から、地方出身者が自分の言葉を笑われたことによる自殺・事件が相次いだ{{Efn|{{Harvp|石黒修|1960}}には茨城なまりを笑われて人を刺した少年の記事が紹介されている。また、『毎日新聞』宮城版(1996年8月24日付)には1964年に秋田出身の少年工員が言葉を笑われ同僚を刺した事件その他が紹介されている<ref>{{Harvp|毎日新聞地方部特報班|1998}}に収録。</ref>。}}。このような情勢を受けて、方言の矯正教育もなお続けられた。[[鎌倉市立腰越小学校]]では、[[1960年代]]に、「ネサヨ運動」と称して、語尾に「〜ね」「〜さ」「〜よ」など関東方言特有の語尾をつけないようにしようとする運動が始められた{{Sfnp|橋本典尚|2004}}。同趣の運動は全国に広がった。 ==== 現代 ==== [[高度経済成長#日本の例|高度成長]]後になると、方言に対する意識に変化が見られるようになった。[[1980年代]]初めのアンケート調査では、「方言を残しておきたい」と回答する者が90%以上に達する結果が出ている<ref>{{Harvp|加藤正信|1983}}。調査は1979〜1981年で、回答者は首都圏・茨城県・東北地方を中心に全国に及ぶ。</ref>。方言の共通語化が進むとともに、いわゆる「方言コンプレックス」が解消に向かい、方言を大切にしようという気運が盛り上がった。 [[1990年代]]以降は、若者が言葉遊びの感覚で方言を使うことに注目が集まるようになった。1995年にはラップ「[[DA.YO.NE]]」の関西版「SO.YA.NA」などの[[EAST END×YURI|方言替え歌]]が話題を呼び、報道記事にも取り上げられた<ref>『朝日新聞』夕刊 1995年6月22日付など。</ref>。首都圏出身の都内大学生を対象とした調査では、東京の若者の間にも関西方言が浸透していることが観察されるという<ref>陣内 正敬 (2003)「関西的コミュニケーションの広がり―首都圏では」『文部省平成14年度科研費成果報告書 コミュニケーションの地域性と関西方言の影響力についての広域的研究』。</ref>。2005年頃には、東京の女子高生たちの間でも「でら(とても)かわいいー!」「いくべ」などと各地の方言を会話に織り交ぜて使うことが流行し始め<ref>『産経新聞』2005年9月18日付。</ref>、女子高生のための方言参考書の類も現れた<ref>コトバ探偵団 (2005)『THE HOUGEN BOOK ザ・方言ブック』(日本文芸社)その他。</ref>。「超おもしろい」など「超」の新用法も、もともと[[静岡県]]で発生して東京に入ったとされるが<ref>井上 史雄・鑓水 兼貴 [編] (2002)『辞典〈新しい日本語〉』(東洋書林)。</ref>、[[若者言葉]]や[[造語|新語]]の発信地が東京に限らない状況になっている(「[[若者言葉#方言由来の若者言葉|方言由来の若者言葉]]」を参照)。 方言学の世界では、かつては、標準語の確立に資するための研究が盛んであったが{{Efn|たとえば、{{Harvp|脇田順一|1938}}(1975年に国書刊行会から復刻版)の緒言には、「児童をして純正なる国語生活を営ましむるには先づ其の方言を検討し之が醇化矯正に力を致さなければならぬ」とある。また、方言学者の[[W・A・グロータース|グロータース]]は「日本の方言研究家たちは、方言によって標準語を豊かにしようという考えだから、結局は、標準語による日本語の統一が重要な目標になる。」と指摘されている{{Sfnp|W.A.グロータース|1984|p=153}}。}}、今日の方言研究は、必ずしもそのような視点のみによって行われてはいない。中央語の古形が方言に残ることは多く、方言研究が中央語の史的研究に資することはいうまでもない{{Efn|{{Harvp|柳田國男|1930}}(1980年に岩波文庫)では、方言が中央を中心に同心円状の分布をなすこと(周圏分布)が示される{{Sfnp|山東功|2019|p=305}}。}}。しかし、それにとどまらず、個々の方言の研究は、それ自体、独立した学問と捉えることができる。[[山浦玄嗣]]の「[[ケセン語]]」研究に見られるように<ref name="I"/>、研究者が自らの方言に誇りを持ち、日本語とは別個の言語として研究するという立場も生まれている。 === 研究史 === 日本人自身が日本語に関心を寄せてきた歴史は長く、『[[古事記]]』『[[万葉集]]』の記述にも語源・用字法・助字などについての関心が垣間見られる。古来、さまざまな分野の人々によって日本語研究が行われてきたが、とりわけ[[江戸時代]]に入ってからは、秘伝にこだわらない自由な学風が起こり、客観的・実証的な研究が深められた。近代に西洋の言語学が輸入される以前に、日本語の基本的な性質はほぼ明らかになっていたといっても過言ではない。 以下では、江戸時代以前・以後に分けて概説し、さらに近代について付説する。 ==== 江戸時代以前 ==== [[江戸時代]]以前の日本語研究の流れは、大きく分けて3分野あった。中国語(漢語)学者による研究、[[悉曇学]]者による研究、[[歌学]]者による研究である{{Sfnp|山東功|2019|p=285}}。 中国語との接触、すなわち漢字の音節構造について学習することにより、日本語の相対的な特徴が意識されるようになった。『[[古事記]]』には「淤能碁呂嶋<sub>自淤以下四字以音</sub>」(オノゴロ嶋〈淤より以下の四字は音を以ゐよ〉)のような音注がしばしば付けられているが、これは漢字を[[万葉仮名|借字]]として用い、中国語で表せない日本語の固有語を1音節ずつ漢字で表記したものである。こうした表記法を通じて、日本語の音節構造が自覚されるようになったと考えられる。また漢文の[[訓読]]により、中国語にない[[助詞]]・[[助動詞 (国文法)|助動詞]]の要素が意識されるようになり、漢文を読み下す際に必要な「て」「に」「を」「は」などの要素は、当初は点を漢字に添えることで表現していたのが(ヲコト点)、後に借字、さらに[[片仮名]]が用いられるようになった。これらの要素は「てにをは」の名で一括され、後に一つの研究分野となった。 日本語の1音1音を借字で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、後にあらゆる仮名を1回ずつ集めて誦文にしたものが成立している。[[平安時代]]初期に「[[天地の詞]]」が、平安時代中期には「[[いろは歌]]」が現れた。これらはほんらい漢字音のアクセント習得のために使われたとみられるが{{Sfnp|小松英雄|1979}}、のちにいろは歌は文脈があって内容を覚えやすいことから、『[[色葉字類抄]]』([[12世紀]])など物の順番を示す「[[いろは順]]」として用いられ、また仮名の手本としても人々の間に一般化している。 一方、悉曇学の研究により、[[サンスクリット|梵語]](サンスクリット)に整然とした音韻組織が存在することが知られるようになった。平安時代末期に成立したと見られる「[[五十音|五十音図]]」は、「あ・か・さ・た・な……」の行の並び方が梵語の悉曇章(字母表)の順に酷似しており、悉曇学を通じて日本語の音韻組織の研究が進んだことをうかがわせる。もっとも、五十音図作成の目的は、一方では、中国音韻学の[[反切]]を理解するためでもあった。当初、その配列はかなり自由であった(ほぼ現在に近い配列が定着したのは[[室町時代]]以後)。最古の五十音図は、平安時代末期の悉曇学者[[明覚]]の『反音作法』に見られる。明覚はまた、『悉曇要訣』において、梵語の発音を説明するために日本語の例を多く引用し、日本語の音韻組織への関心を見せている。 歌学は平安時代以降、大いに興隆した。和歌の実作および批評のための学問であったが、正当な語彙・語法を使用することへの要求から、日本語の古語に関する研究や、「てにをは」の研究、さらに[[仮名遣い]]への研究に繋がった{{Sfnp|山東功|2019|p=287}}。 このうち、古語の研究では、語と語の関係を音韻論的に説明することが試みられた。たとえば、[[顕昭]]の『[[袖中抄]]』では、「七夕つ女(たなばたつめ)」の語源は「たなばたつま」だとして(これ自体は誤り)、「『ま』と『め』とは同じ五音(=五十音の同じ行)なる故也」<ref>橋本 進吉 (1928)「国語学史概説」(1983年の『国語学史・国語特質論(橋本進吉博士著作集 第9・10冊)』(岩波書店)に収録)p.61。</ref>と説明している。このように、「五音相通(五十音の同じ行で音が相通ずること)」や「同韻相通(五十音の同じ段で音が相通ずること)」などの説明が多用されるようになった{{Sfnp|山東功|2019|p=288}}。 「てにをは」の本格的研究は、[[鎌倉時代]]末期から室町時代初期に成立した『手爾葉大概抄』という短い文章によって端緒が付けられた。この文章では「名詞・動詞などの自立語(詞)が寺社であるとすれば、『てにをは』はその荘厳さに相当するものだ」と規定した上で、係助詞「ぞ」「こそ」とその結びの関係を論じるなど、「てにをは」についてごく概略的に述べている{{Sfnp|山東功|2019|p=289}}。また、室町時代には『姉小路式』が著され、係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」のほか終助詞「かな」などの「てにをは」の用法をより詳細に論じている{{Sfnp|山東功|2019|p=289}}。 仮名遣いについては、鎌倉時代の初め頃に藤原定家がこれを問題とし、定家はその著作『[[下官集]]』において、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名表記に求め、規範を示そうとした{{Sfnp|山東功|2019|p=288}}。ところが「お」と「を」の区別については、平安時代末期にはすでにいずれも{{IPA|wo}}の音となり発音上の区別が無くなっていたことにより、相当な表記の揺れがあり、格助詞の「を」を除き前例による基準を見出すことができなかった。そこで『下官集』ではアクセントが高い言葉を「を」で、アクセントが低い言葉を「お」で記しているが、このアクセントの高低により「を」と「お」の使い分けをすることは、すでに『色葉字類抄』にも見られる。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[行阿]]がこれを増補して『仮名文字遣』を著し、これが後に「[[定家仮名遣]]」と呼ばれる{{Sfnp|山東功|2019|p=288}}。行阿の姿勢も基準を古書に求めるというもので、「お」と「を」の区別についても定家仮名遣の原則を踏襲している。しかし行阿が『仮名文字遣』を著した頃、日本語にアクセントの一大変化があり、{{IPA|wo}}の音を含む語彙に関しても定家の時代とはアクセントの高低が異なってしまった。その結果「お」と「を」の仮名遣いについては、定家が示したものとは齟齬を生じている。 なお、「お」と「を」の発音上の区別が無くなっていたことで、五十音図においても鎌倉時代以来「お」と「を」とは位置が逆転した誤った図が用いられていた(すなわち、「あいうえを」「わゐうゑお」となっていた)。これが正されるのは、江戸時代に[[本居宣長]]が登場してからのことである。 外国人による日本語研究も、中世末期から近世前期にかけて多く行われた。[[イエズス会]]では日本語と[[ポルトガル]]語の辞書『[[日葡辞書]]』(1603年)が編纂され、同会の[[ジョアン・ロドリゲス|ロドリゲス]]による文法書『日本大文典』(1608年)および『日本小文典』(1620年)は、ラテン語の文法書の伝統に基づいて日本語を分析したもので、いずれも価値が高い{{Sfnp|山東功|2013|pp=24-47}}{{Sfnp|山東功|2019|p=306}}。一方、中国では『日本館訳語』(1549年頃)、[[李氏朝鮮]]では『捷解新語』(1676年)といった日本語学習書が編纂された{{Sfnp|山東功|2019|pp=308-309}}。 ==== 江戸時代 ==== 日本語の研究が高い客観性・実証性を備えるようになったのは、[[江戸時代]]の[[契沖]]の研究以来のことである。契沖は『万葉集』の注釈を通じて[[仮名遣い]]について詳細に観察を行い、『和字正濫抄』(1695年)を著した{{Sfnp|山東功|2019|p=291}}。この書により、古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことが明らかにされ、契沖自身もその仮名遣いを実行した。契沖の掲出した見出し語は、後に[[楫取魚彦]]編の仮名遣い辞書『古言梯』(1765年)で増補され{{Sfnp|山東功|2019|p=292}}、後世において[[歴史的仮名遣|歴史的仮名遣い]]と称された。 古語の研究では、[[松永貞徳]]の『和句解』(1662年)、[[貝原益軒]]の『日本釈名』(1700年)が出た後、[[新井白石]]により大著『[[東雅]]』(1719年)がまとめられた。白石は、『東雅』の中で語源説を述べるに当たり、終始穏健な姿勢を貫き、曖昧なものは「義未詳」として曲解を排した。また、[[賀茂真淵]]は『語意考』(1789年)を著し、「約・延・略・通」の考え方を示した{{Sfnp|山東功|2019|p=292}}。すなわち、「語形の変化は、縮める(約)か、延ばすか、略するか、音通(母音または子音の交替)かによって生じる」というものである。この原則は、それ自体は正当であるが、後にこれを濫用し、非合理な語源説を提唱する者も現れた。語源研究では、ほかに、[[鈴木朖]]が『雅語音声考』(1816年)を著し、「ほととぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほととぎ」「うぐい」「から」の部分は鳴き声であることを示すなど、興味深い考え方を示している{{Sfnp|山東功|2019|p=296}}。 [[本居宣長]]は、仮名遣いの研究および文法の研究で非常な功績があった。まず、仮名遣いの分野では、『字音仮字用格』(1776年)を著し、漢字音を仮名で書き表すときにどのような仮名遣いを用いればよいかを論じた{{Sfnp|山東功|2019|p=294}}。その中で宣長は、[[鎌倉時代]]以来、五十音図で「お」と「を」の位置が誤って記されている(前節参照)という事実を指摘し、実に400年ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の形に戻した。この事実は、後に[[東条義門]]が『於乎軽重義』(1827年)で検証した。また、宣長は文法の研究、とりわけ係り結びの研究で成果を上げた。係り結びの一覧表である『ひも鏡』(1771年)をまとめ、『詞の玉緒』(1779年)で詳説した。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が[[連体形]]、「こそ」が来た場合は[[已然形]]で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が[[終止形 (文法)|終止形]]になることを示した{{Sfnp|山東功|2019|p=294}}。主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、必ずしもそうでない。主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける」(万葉集)「にほひの袖にとまれる」(古今集)のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示したことは重要である。 品詞研究で成果を上げたのは[[富士谷成章]]であった。富士谷は、品詞を「名」(名詞)・「装(よそい)」(動詞・形容詞など)・「挿頭(かざし)」(副詞など)・「脚結(あゆい)」(助詞・助動詞など)の4類に分類した{{Sfnp|山東功|2019|p=292}}。『挿頭抄』(1767年)では今日で言う副詞の類を中心に論じた。特に注目すべき著作は『脚結抄』(1778年)で、助詞・助動詞を系統立てて分類し、その活用の仕方および意味・用法を詳細に論じた。内容は創見に満ち、今日の品詞研究でも盛んに引き合いに出される{{Sfnp|山東功|2019|p=292}}。『脚結抄』の冒頭に記された「装図」は、動詞・形容詞の活用を整理した表で、後の研究に資するところが大きかった。 活用の研究は、その後、鈴木朖の『活語断続譜』(1803年頃)、[[本居春庭]]の『詞八衢』(1806年)に引き継がれた{{Efn|[[視覚障害者|盲目]]であった春庭の苦心は{{Harvp|足立巻一|1974}}(1990年に新装版、1995年に[[朝日文庫|朝日学芸文庫]]、2015年に[[中公文庫]])で知られる。}}。幕末には義門が『活語指南』(1844年)を著し、[[富樫広蔭]]が『辞玉襷』(1829年)を著すなど、日本語の活用が組織化・体系化されていった{{Sfnp|山東功|2019|p=297}}{{Sfnp|仁田義雄|2021|pp=134-135}}。 このほか、江戸時代で注目すべき研究としては、[[石塚龍麿]]の『仮字用格奥山路』がある。万葉集の仮名に2種の書き分けが存在することを示したもので、長らく正当な扱いを受けなかったが、後に[[橋本進吉]]が[[上代特殊仮名遣]]の先駆的研究として再評価した{{Sfnp|安田尚道|2003|p=|ps=(後に{{Harvp|安田尚道|2023}}収録)}}{{Sfnp|安田尚道|2004|p=|ps=(後に{{Harvp|安田尚道|2023}}収録)}}{{Sfnp|山東功|2019|p=295}}。 ==== 近代以降 ==== [[江戸時代]]後期から[[明治|明治時代]]にかけて、[[西洋]]の[[言語学]]が紹介され、日本語研究は新たな段階を迎えた。もっとも、西洋の言語に当てはまる理論を無批判に日本語に応用することで、かえってこれまでの蓄積を損なうような研究も少なくなかった{{Sfnp|猿田知之|1993|pp=14-40}}{{Sfnp|山東功|2002|pp=11-12}}。 こうした中で、古来の日本語研究と西洋言語学とを吟味して文法をまとめたのが[[大槻文彦]]であった。大槻は『[[言海]]』の中で文法論「語法指南」を記し(1889年)、後にこれを独立、増補して『広日本文典』(1897年)とした{{Sfnp|山東功|2019|pp=300-301}}。 その後、高等教育の普及とともに、日本語研究者の数は増大した。1897年には[[東京大学|東京帝国大学]]に国語研究室が置かれ、ドイツ帰りの[[上田萬年]]が初代主任教授として指導的役割を果たした{{Sfnp|山東功|2019|pp=299-300}}。 === 日本国外の日本語 === 近代以降、[[日本統治時代の台湾|台湾]]や[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮半島]]などを併合・統治した日本は、現地民の[[台湾人]]・[[朝鮮民族]]への[[皇民化政策]]を推進するため、[[学校教育]]で日本語を[[国語]]として採用した。[[満州国]](現在の[[中国東北部]])にも[[日本人]]が数多く移住した結果、日本語が広く使用され、また、日本語は[[中国語]]とともに公用語とされた。日本語を解さない主に[[漢民族]]や[[満州民族|満州族]]には簡易的な日本語である[[協和語]]が用いられていたこともあった。現在の[[台湾]]([[中華民国]])や[[朝鮮半島]]([[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]・[[大韓民国|韓国]])などでは、現在でも高齢者の中に日本語を解する人もいる。 一方、[[明治]]・[[大正]]から[[昭和]]戦前期にかけて、日本人が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カナダ]]・[[メキシコ]]・[[ブラジル]]・[[ペルー]]などに多数移民し、[[日系人]]社会が築かれた。これらの地域コミュニティでは日本語が使用されたが、世代が若年になるにしたがって、日本語を解さない人が増えている。 1990年代以降、日本国外から日本への渡航者数が増加し、かつまた、日本企業で勤務する[[外国人労働者]]([[日本の外国人]])も飛躍的に増大しているため、国内外に[[日本語教育]]が広がっている。国・地域によっては、日本語を第2外国語など選択教科の一つとしている国もあり、日本国外で日本語が学習される機会は増えつつある{{Sfnp|本名信行・岡本佐智子|2000}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jpf.go.jp/j/urawa/world/world.html |title=世界の日本語教育 |accessdate=2005年3月4日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150117070451/https://www.jpf.go.jp/j/urawa/world/world.html |archivedate=2015年1月17日 }}も参照。</ref>。 とりわけ、[[1990年代]]以降、「[[クールジャパン]]」といわれるように日本国外で[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメーション]]や[[コンピュータゲーム|ゲーム]]、[[小説]]、[[ライトノベル]]、[[日本映画|映画]]、[[テレビドラマ]]、[[J-POP]]([[邦楽]])に代表される音楽、[[日本の漫画|漫画]]などに代表させる日本の現代[[サブカルチャー]]を「カッコいい」と感じる若者が増え<ref>Douglas McGray(神山京子訳) (2003)「世界を闊歩する日本のカッコよさ」『[[中央公論]]』(2003年5月号)</ref>、その結果、彼らの日本語に触れる機会が増えつつあるという{{Efn|{{Harvp|浜野保樹|2005|p=12}}によると「『[[キル・ビル]]』などの映画で非日本人俳優同士が日本語で会話しているのは、日本の「カッコよさ」の高さを表す証左」という。}}。2021年9月に、単語検索ツール[[Wordtips]]が世界各国で語学学習をするに当たり、どの言語が最も人気があるかをGoogleキーワードプランナーを利用し調査したところ、[[アメリカ]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]といった[[英語圏]]を中心に、日本語が最も学びたい言語に選ばれた<ref>{{Cite web|url=https://www.visualcapitalist.com/most-popular-languages-people-want-to-learn/|title=MISCThis is the Language Each Country Wants to Learn the Most|website=Visual Capitalist|date=2021-08-27|accessdate=2021-10-01|language=en}}</ref>。 日本人が訪問することの多い日本国外の[[観光地]]などでは、現地の広告や商業施設店舗の従業員との会話に日本語が使用されることもある{{Sfnp|井上史雄|2001|p=69}}。このような場で目に触れる日本語のうち、新奇で注意を引く例は、雑誌・書籍などで紹介されることも多い<ref>{{Harvp|月刊宝島編集部|1987}}、{{Harvp|田野村忠温|2003}}など。</ref>。 == 日本語話者の意識 == {{main|日本語論}} === 変化に対する意識 === {{main|日本語の乱れ}} 日本語が時と共に変化することはしばしば批判の対象となる。この種の批判は、古典文学の中にも見られる。『[[枕草子]]』では文末の「んとす」が「んず」といわれることを「いとわろし」と評している(「ふと心おとりとかするものは」)。また、『[[徒然草]]』では古くは「車もたげよ」「火かかげよ」と言われたのが、今の人は「もてあげよ」「かきあげよ」と言うようになったと記し、今の言葉は「無下にいやしく」なっていくようだと記している(第22段)。 これにとどまらず、言語変化について注意する記述は、歴史上、仮名遣い書や、『[[俊頼髄脳]]』などの歌論書、『音曲玉淵集』などの音曲指南書をはじめ、諸種の資料に見られる。なかでも、[[江戸時代]]の俳人[[安原貞室]]が、なまった言葉の批正を目的に編んだ『片言(かたこと)』(1650年)は、800にわたる項目を取り上げており、当時の言語実態を示す資料として価値が高い。 近代以降も、[[芥川龍之介]]が「澄江堂雑記」で、「とても」は従来否定を伴っていたとして、「とても安い」など肯定形になることに疑問を呈するなど、言語変化についての指摘が散見する。研究者の立場から同時代の気になる言葉を収集した例としては、[[浅野信]]『巷間の言語省察』(1933年)などがある。 [[戦後|第二次世界大戦後]]は、1951年に雑誌『言語生活』(当初は[[国立国語研究所]]が監修)が創刊されるなど、日本語への関心が高まった。そのような風潮の中で、あらゆる立場の人々により、言語変化に対する批判やその擁護論が活発に交わされるようになった。典型的な議論の例としては、[[金田一春彦]]「日本語は乱れていない」{{Sfnp|金田一春彦|1964b}}{{Sfnp|金田一春彦|1965}}および宇野義方の反論<ref>宇野 義方 (1964)「日本語は乱れていないか―金田一春彦氏に反論」『朝日新聞』夕刊 1964年12月5日付。</ref>が挙げられる。 いわゆる「[[日本語の乱れ]]」論議において、毎度のように話題にされる言葉も多い。1955年の[[国立国語研究所]]の有識者調査{{Sfnp|国立国語研究所|1955}}の項目には「ニッポン・ニホン(日本)」「ジッセン・ジュッセン(十銭)」「見られなかった・見れなかった」「御研究されました・御研究になりました」など、今日でもしばしば取り上げられる語形・語法が多く含まれている。とりわけ「見られる」を「見れる」とする語法は、1979年のNHK放送文化研究所「現代人の言語環境調査」で可否の意見が二分するなど、人々の言語習慣の違いを如実に示す典型例となっている。この語法は[[1980年代]]には「[[ら抜き言葉]]」と称され、盛んに取り上げられるようになった。 「言葉の乱れ」を指摘する声は、新聞・雑誌の投書にも多い。[[文化庁]]の「[[国語に関する世論調査]]」では、「言葉遣いが乱れている」と考える人が1977年に7割近くになり、2002年11月から12月の調査では8割となっている。人々のこのような認識は、いわゆる日本語ブームを支える要素の一つとなっている。 === 若者の日本語 === 若者特有の用法は批判の的になってきた。近代以降の若者言葉批判の例として、小説家・[[尾崎紅葉]]が1888年に女性徒の間で流行していた「てよだわ体」{{Efn|「梅はまだ咲かなくってよ」「桜の花はまだ咲かないんだわ」のような言葉遣いの文末のこと。}}を批判するなど、1900年前後に「てよだわ体」は批判の的となった{{Sfnp|山口仲美|2007|pp=15-17}}。1980年代ごろから単なる言葉の乱れとしてではなく、研究者の記述の対象としても扱われるようにもなった{{Efn|体系化を試みる本格的な著作としては{{Harvp|米川明彦|1998}}などがある{{Sfnp|山口仲美|2007|pp=15-17}}。}}。 ==== 若者言葉 ==== いわゆる「[[若者言葉]]」は種々の意味で用いられ、必ずしも定義は一定していない。井上史雄の分類{{Sfnp|井上史雄|1994}}に即して述べると、若者言葉と称されるものは以下のように分類される。 #一時的流行語。ある時代の若い世代が使う言葉。戦後の「アジャパー」、[[1970年代]]の「チカレタビー」など。 #コーホート語(同世代語)。流行語が生き残り、その世代が年齢を重ねてからも使う言葉。次世代の若者は流行遅れと意識し、使わない。 #若者世代語。どの世代の人も、若い間だけ使う言葉。「ドイ語」(ドイツ語)、チャイ語(中国語)、フラ語(フランス語)など[[学生言葉]](キャンパス用語)を含む。 #言語変化。若い世代が年齢を重ねてからも使い、次世代の若者も使うもの。結果的に、世代を超えて変化が定着する。[[ら抜き言葉]]・[[鼻濁音]]の衰退など。 上記は、いずれも批判にさらされうるという点では同様であるが、1 - 4の順で、次第に言葉の定着率は高くなるため、それだけ「言葉の乱れ」の例として意識されやすくなる。 上記の分類のうち「一時的流行語」ないし「若者世代語」に相当する言葉の発生要因に関し、米川明彦は心理・社会・歴史の面に分けて指摘している{{Sfnp|米川明彦|1996}}。その指摘は、およそ以下のように総合できる。すなわち、成長期にある若者は、自己や他者への興味が強まるだけでなく、従来の言葉の規範からの自由を求める。日本経済の成熟とともに「まじめ」という価値観が崩壊し、若者が「ノリ」によって会話するようになった。とりわけ、[[1990年代]]以降は「ノリ」を楽しむ世代が低年齢化し、消費・娯楽社会の産物として若者言葉が生産されているというものである。また、2007年頃から[[マスメディア]]が「[[場の空気]]」の文化を取り上げるようになってきてから、言葉で伝えるより、察し合って心を通わせることを重んじる者が増えた{{Sfnp|北原保雄|2008}}。これに対し、[[文化庁]]は、[[場の空気|空気]]読めない ([[KY語|KY]]) と言われることを恐れ、場の空気に合わせようとする風潮の現れではないかと指摘している<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090904-OYT1T00983.htm|title=KYイヤ…言葉で伝えず「察し合う」が人気|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|date=2009-09-04|archiveurl=https://archive.is/20090906012139/https://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090904-OYT1T00983.htm|archivedate=2009-09-06}}</ref>。 ==== 若者の表記 ==== {{複数の問題|section=1|独自研究=2021年10月|雑多な内容の箇条書き=2021年10月}} 若者の日本語は、表記の面でも独自性を持つ。年代によりさまざまな日本語の表記が行われている。 ;丸文字 {{main|丸文字}} [[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて、少女の間で、丸みを帯びた書き文字が「かわいい」と意識されて流行し、「[[丸文字]]」「まんが文字」「変体少女文字(=書体の変わった少女文字の意)」などと呼ばれた。[[山根一眞]]の調査によれば、この文字は1974年までには誕生し、1978年に急激に普及を開始したという{{Sfnp|山根一眞|1986}}。 ;ヘタウマ文字 1990年頃から、丸文字に代わり、少女の間で、金釘流に似た縦長の書き文字が流行し始めた。平仮名の「に」を「レこ」のように書いたり、長音符の「ー」を「→」と書いたりする特徴があった。一見下手に見えるため、「長体ヘタウマ文字」などとも呼ばれた。マスコミでは「チョベリバ世代が楽しむヘタウマ文字」<ref>『週刊読売』1996年9月15日号。</ref>「女高生に広まる変なとんがり文字」<ref>『AERA』1997年6月30日号。</ref>などと紹介されたが、必ずしも大人世代の話題にはならないまま、確実に広まった。この文字を練習するための本<ref>『HA・YA・RI系文字マスターノート』(アスキー 1997)など。</ref>も出版された。 ;ギャル文字 {{main|ギャル文字}} 携帯メールやインターネットの普及に伴い、ギャルと呼ばれる少女たちを中心に、デジタル文字の表記に独特の文字や記号を用いるようになった。「さようなら」を「±∋ぅTょら」と書く類で、「[[ギャル文字]]」としてマスコミにも取り上げられた<ref>NHK総合テレビ「お元気ですか日本列島・気になることば」2004年2月18日など。</ref>。このギャル文字を練習するための本も現れた<ref>『ギャル文字 へた文字 公式BOOK』(実業之日本社 2004)など。</ref>。 ;顔文字 {{main|顔文字}} コンピュータの普及と、コンピュータを使用したパソコン通信などの始まりにより、日本語の約物に似た扱いとして顔文字が用いられるようになった。これは、コンピュータの文字としてコミュニケーションを行うときに、文章の後や単独で記号などを組み合わせた「(^_^)」のような顔文字を入れることにより感情などを表現する手法である。1980年代後半に使用が開始された顔文字は、若者へのコンピュータの普及により広く使用されるようになった。 ;絵文字 {{main|絵文字文化}} 携帯電話に[[携帯電話の絵文字|絵文字]]が実装されたことにより、絵文字文化と呼ばれるさまざまな絵文字を利用したコミュニケーションが行われるようになった。漢字や仮名と同じように日本語の文字として扱われ、約物のような利用方法にとどまらず、単語や文章の置き換えとしても用いられるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/event/webdb2009/20091120_330426.html|title=渦巻き絵文字は「台風」ではなく「まいった」、バイドゥが調査|website=INTERNET Watch|date=2009-11-20|accessdate=2022-11-30}}</ref>。 ;小文字 {{main|小文字文化}} すでに普及した顔文字や絵文字に加え、2006年頃には「[[小文字文化|小文字]]」と称される独特の表記法が登場した。「ゎたしゎ、きょぅゎ部活がなぃの」のように特定文字を小字で表記するもので、マスコミでも紹介されるようになった<ref>『毎日新聞』2006年10月5日付など。</ref>。 === 日本語ブーム === 人々の日本語に寄せる関心は、[[戦後|第二次世界大戦後]]に特に顕著になったといえる{{Sfnp|飯間浩明|2010|pp=5-14}}。1947年10月から[[日本放送協会|NHK]]ラジオで「ことばの研究室」が始まり、1951年には雑誌『言語生活』が創刊された。 日本語関係書籍の出版点数も増大した。敬語をテーマとした本の場合、[[1960年代]]以前は解説書5点、実用書2点であったものが、[[1970年代]]から1994年の25年間に解説書約10点、実用書約40点が出たという{{Sfnp|菊地康人|1996}}。 戦後、最初の日本語ブームが起こったのは1957年のことで、[[金田一春彦]]『日本語』(岩波新書、旧版)が77万部、[[大野晋]]『日本語の起源』(岩波新書、旧版)が36万部出版された。1974年には[[丸谷才一]]『[[日本語のために]]』(新潮社)が50万部、大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)が50万部出版された{{Efn|{{Harvp|見坊豪紀|1977}}は、1975年頃の日本語ブームを検証した文章である。}}。 その後、1999年の大野晋『日本語練習帳』(岩波新書)は190万部を超えるベストセラーとなった(2008年時点)<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080603bk07.htm|title=岩波新書 「現代」つかみ続けて70年|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|date=2008-06-03}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。さらに、2001年に[[齋藤孝 (教育学者)|齋藤孝]]『声に出して読みたい日本語』(草思社)が140万部出版された頃から、出版界では空前の日本語ブームという状況になり、おびただしい種類と数の一般向けの日本語関係書籍が出た<ref>以上、部数の数字は『朝日新聞』夕刊 2002年11月18日付による。</ref>。 2004年には[[北原保雄]]編『問題な日本語』(大修館書店)が、当時よく問題にされた語彙・語法を一般向けに説明した。翌2005年から2006年にかけては、テレビでも日本語をテーマとした番組が多く放送され、大半の番組で日本語学者がコメンテーターや監修に迎えられた。「[[タモリのジャポニカロゴス]]」(フジテレビ 2005〜2008)、「[[クイズ!日本語王]]」(TBS 2005〜2006)、「[[三宅式こくごドリル]]」(テレビ東京 2005〜2006)、「[[Matthew's Best Hit TV|Matthew's Best Hit TV+]]・なまり亭」(テレビ朝日2005〜2006。方言を扱う)、「[[合格!日本語ボーダーライン]]」(テレビ朝日 2005)、「[[ことばおじさんのナットク日本語塾]]」(NHK 2006〜2010)など種々の番組があった。 === 日本語特殊論 === 「複雑な表記体系」「SOV構造」「音節文字」「敬語」「男言葉と女言葉」「擬態語が豊富」「曖昧表現が多い」「母音の数が少ない」などを根拠に日本語特殊論がとなえられることがある。 もっとも、日本語が[[インド・ヨーロッパ語族|印欧語]]との相違点を多く持つことは事実である。そのため、[[対照言語学]]の上では、印欧語とのよい比較対象となる。また、日本語成立由来という観点からの研究も存在する(『[[日本語の起源]]』を参照)。 ==== 肯定的な意見 ==== 日本語特殊論は、近代以降しばしば提起されている。極端な例ではあるが、戦後、[[志賀直哉]]が「日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ」として、[[フランス語]]を[[国語]]に採用することを主張した<ref>志賀 直哉 (1964)「国語問題」『改造』1946年4月号(1974年の『志賀直哉全集 第7巻』(岩波書店)p.339-343 に収録)。</ref>([[国語外国語化論]])。また、1988年には、[[国立国語研究所]]所長・野元菊雄が、外国人への日本語教育のため、文法を単純化した「簡約日本語」の必要性を説き、論議を呼んだ{{Efn|{{Harvp|野元菊雄|1979}}などですでに主張されていたが、論議が起こったのは1988年のことである。ちなみに、[[自然言語]]を単純化して新しい[[国際補助語]]を作る試みは他にも、「[[ベーシック英語]]」、「[[スペシャル・イングリッシュ]]」、「[[無活用ラテン語]]」などがある。}}。 動詞が最後に来ることを理由に日本語を曖昧、不合理と断ずる議論もある。例えばかつてジャーナリスト森恭三は、日本語の語順では「思想を表現するのに一番大切な動詞は、文章の最後にくる」ため、文末の動詞の部分に行くまでに疲れて、「もはや動詞〔部分で〕の議論などはできない」と記している{{Sfnp|森恭三|1959}}。 複雑な文字体系を理由に、日本語を特殊とする議論もある。[[計算機科学]]者の[[村島定行]]は、古くから日本人が文字文化に親しみ、庶民階級の識字率も比較的高水準であったのは、日本語は表意文字(漢字)と表音文字(仮名)の2つの文字体系を使用していたからだと主張する{{Sfnp|村島定行|2009}}。ただし、表意・表音文字の二重使用は、他に[[漢字文化圏]]では[[朝鮮における漢字|韓文漢字]]や[[女真文字]]など{{Sfnp|金文京|2010}}、漢字文化圏以外でも[[マヤ文字]]や[[ヒエログリフ]]などの例がある。一方で、[[カナモジカイ]]のように、数種類の文字体系を使い分けることの不便さを主張する意見も存在する。 日本語における語順や音韻論、もしくは表記体系などを取り上げて、それらを日本人の文化や思想的背景と関連付け、日本語の特殊性を論じる例は多い。しかし、大体においてそれらの説は、手近な英語や中国語などの言語との差異を牧歌的に列挙するにとどまり、言語学的根拠に乏しいものが多い([[サピア=ウォーフの仮説]]も参照)。一方、近年では日本文化の特殊性を論する文脈であっても、出来るだけ多くの文化圏を俯瞰し、総合的な視点に立った主張が多く見られるという{{Sfnp|内田樹|2009}}。 日本語を劣等もしくは難解、非合理的とする考え方の背景として、近代化の過程で広まった欧米中心主義があると指摘される{{Sfnp|柴谷方良|1981}}{{Sfnp|松村一登|1995}}。戦後は、消極的な見方ばかりでなく、「日本語は個性的である」と積極的に評価する見方も多くなった。その変化の時期はおよそ[[1980年代]]であるという{{Sfnp|松村一登|1995}}。いずれにしても、日本語は特殊であるとの前提に立っている点で両者の見方は共通する。 日本語特殊論は日本国外でも論じられる。[[エドウィン・O・ライシャワー|E. ライシャワー]]によれば、日本語の知識が乏しいまま、日本語は明晰でも論理的でもないと不満を漏らす外国人は多いという。ライシャワー自身はこれに反論し、あらゆる言語には曖昧・不明晰になる余地があり、日本語も同様だが、簡潔・明晰・論理的に述べることを阻む要素は日本語にないという<ref>Edwin O. Reischauer (1977) ''The Japanese'', Tokyo: Charles E. Tuttle, p.385-386.</ref>。共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされ、学習に関わる様々なジョークが存在する[[バスク語]]について、[[フランス]]の[[バイヨンヌ]]にあるバスク博物館では、「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と[[挿絵]]入りの歴史が描かれているものが飾られている。これは同じく印欧系言語話者からみて習得の難しいバスク語と日本語を重ね合わせているとされる{{Sfnp|城生佰太郎|松崎寛|1995|pp=28-29}}。 ==== 否定的な意見 ==== 今日の言語学において、日本語が特殊であるという見方自体が否定的である。例えば、日本語に5母音しかないことが特殊だと言われることがあるが、[[クラザーズ]]の研究によれば、209の言語のうち、日本語のように5母音を持つ言語は55あり、類型として最も多いという。また語順に関しては、日本語のように [[SOV型|SOV構造]]を採る言語が約45%であって最も多いのに対して、英語のように[[SVO型|SVO構造]]を採る言語は30%強である(ウルタン、スティール、グリーンバーグらの調査結果より)。この点から、日本語はごく普通の言語であるという結論が導かれるとされる{{Sfnp|柴谷方良|1981}}。また言語学者の角田太作は語順を含め19の特徴について130の言語を比較し、「日本語は特殊な言語ではない。しかし、英語は特殊な言語だ」と結論している{{Sfnp|角田太作|1991}}。 [[村山七郎]]は、「外国語を知ることが少ないほど日本語の特色が多くなる」という「反比例法則」を主張したという{{Sfnp|W.A.グロータース|1984|pp=181-182}}。日本人自らが日本語を特殊と考える原因としては、身近な他言語(英語など)が少ないことも挙げられる。 == 辞書 == {{main|国語辞典|古語辞典|漢和辞典}} === 古代から中近世 === 日本では古く[[漢籍]]を読むための[[辞典|辞書]]が多く編纂された。国内における辞書編纂の記録としては、天武11年(682年)の『[[新字 (辞典)|新字]]』44巻が最古であるが(『[[日本書紀]]』)、伝本はおろか逸文すらも存在しないため、書名から漢字字書の類であろうと推測される以外は、いかなる内容の辞書であったかも不明である{{Sfnp|沖森卓也|2008|p=9|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。 [[奈良時代]]には、『[[楊氏漢語抄]]』や『[[弁色立成]]』という和訓を有する漢和辞書が編纂されたらしいが、それぞれ逸文として残るのみで、詳細は不明のままである{{Sfnp|沖森卓也|2008|p=9|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。現存する最古の辞書は、[[空海]]編と伝えられる『[[篆隷万象名義]]』(9世紀)であるが、中国の『[[玉篇]]』を模した部首配列の漢字字書であり、和訓は一切ない{{Sfnp|山東功|2019|p=286}}{{Sfnp|沖森卓也|2008|p=10|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。10世紀初頭に編纂された『[[新撰字鏡]]』は伝本が存する最古の漢和辞書であり、漢字を部首配列した上で、和訓を万葉仮名で記している{{Sfnp|山東功|2019|p=286}}{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=28-29|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。[[平安時代]]中期に編纂された『[[和名類聚抄]]』は、意味で分類した[[漢語]]におおむね和訳を万葉仮名で付したもので、漢和辞書ではあるが百科辞書的色彩が強い{{Sfnp|山東功|2019|p=286}}{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=32-33|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。[[院政|院政期]]には過去の漢和辞書の集大成とも言える『[[類聚名義抄]]』が編纂され、同書の和訓に付された豊富な[[声点]]により院政期のアクセント体系はほぼ解明されている{{Sfnp|山東功|2019|p=286}}{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=35-37|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。 [[鎌倉時代]]には百科辞書『[[二中歴]]』や詩作のための実用的韻書『[[平他字類抄]]』ほか、語源辞書ともいうべき『[[塵袋]]』や『[[名語記]]』なども編まれるようになった。また[[室町時代]]には、読み書きが広い階層へ普及し始めたことを背景に、漢詩を作るための韻書『[[聚分韻略]]』{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=46-47|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}、漢和辞書『[[倭玉篇]]』{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=48-49|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}、和訳に通俗語も含めた国語辞書『[[下学集]]』{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=50-51|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}、日常語の単語をいろは順に並べた通俗的百科辞書『[[節用集]]』などの辞書が編まれた{{Sfnp|山東功|2019|p=297}}。さらに[[安土桃山時代]]の最末期には、[[イエズス会]]のキリスト教宣教師によって、日本語とポルトガル語の辞書『[[日葡辞書]]』が作成された{{Sfnp|山東功|2019|p=306}}{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=66-67|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。 [[江戸時代]]には、室町期の『節用集』を元にして多数の辞書が編集・刊行された。易林本『節用集』『[[書言字考節用集]]』などが主なものである{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=52-57|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。そのほか、俳諧用語辞書を含む『[[世話尽]]』、語源辞書『[[日本釈名]]』、俗語辞書『[[志布可起]]』、枕詞辞書『[[冠辞考]]』なども編纂された。とりわけ[[谷川士清]]『倭訓栞』、[[太田全斎]]『俚言集覧』、[[石川雅望]]『雅言集覧』は、それぞれがきわめて大部なもので、「'''近世期の三大辞書'''」といわれる{{Sfnp|山東功|2019|p=298}}。 === 近現代 === [[明治|明治時代]]に入り、1889年から[[大槻文彦]]編の小型辞書『[[言海]]』が刊行された{{Sfnp|山東功|2019|p=305}}。これは、古典語・日常語を網羅し、五十音順に見出しを並べて、品詞・漢字表記・語釈を付した初の近代的な[[国語辞典|日本語辞書]]であった{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=114-115|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。『言海』は、後の辞書の模範的存在となり、後に増補版の『大言海』も刊行された{{Sfnp|沖森卓也|2017|pp=114-115|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。 その後、広く使われた小型の日本語辞書としては、[[金沢庄三郎]]編『辞林』のほか{{Sfnp|沖森卓也|2017|pp=110-111|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}、[[新村出]]編『辞苑』などがある{{Sfnp|沖森卓也|2017|pp=116-117|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。[[第二次世界大戦]]中から戦後にかけては金田一京助編『[[明解国語辞典]]』がよく用いられ{{Efn|実質的には[[見坊豪紀]]が独力で編纂したもので、[[山田忠雄]]や金田一春彦が補佐した{{Sfnp|沖森卓也|2017|pp=118-119|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。}}、今日の『[[三省堂国語辞典]]』『[[新明解国語辞典]]』に引き継がれている{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=128-129|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}{{Sfnp|沖森卓也|2017|pp=118-119|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。 中型辞書としては、第二次世界大戦前は『大言海』のほか{{Sfnp|沖森卓也|2017|pp=114-115|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}、松井簡治・上田万年編『大日本国語辞典』などが刊行された{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=118-119|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。戦後は新村出編『[[広辞苑]]』などが広く受け入れられている{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=124-125|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。現在では松村明編『[[大辞林]]』をはじめ{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=130-131|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}、数種の中型辞書が加わっているほか、唯一にして最大の大型辞書『[[日本国語大辞典]]』(約50万語)がある{{Sfnp|沖森卓也|2008|pp=126-127|ps=(後に{{Harvp|沖森卓也|2023}}で増補)}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|3}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == ;単著 *{{Cite book|和書|author=[[大矢透]]|title=国語溯原|publisher=|date=1899-03|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=[[上田萬年]]|title=国語のため:第2|publisher=[[冨山房]]|date=1903-06|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=[[山田孝雄]]|title=日本文法論|publisher=[[宝文館]]|date=1908-09|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=山田孝雄|title=國語史:文字篇|publisher=刀江書院|date=1937|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=山田孝雄|title=國語の中に於ける漢語の研究|publisher=宝文館|date=1940|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=[[伊沢修二]]|title=視話応用 東北発音矯正法|publisher=楽石社|date=1909-04|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=[[柳田國男]]|title=[[蝸牛考]]|publisher=刀江書院|date=1930-07|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=[[佐久間鼎]]|title=現代日本語の表現と語法|publisher=厚生閣|date=1936-05|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=脇田順一|title=讃岐方言の研究|publisher=香川県師範学校附属小学校|date=1938-11|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=[[楳垣実]]|title=日本外來語の研究|publisher=青年通信社|date=1943-07|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=[[時枝誠記]]|title=日本文法:口語篇|publisher=[[岩波書店]]|series=岩波全書114|date=1950|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=[[大野晋]]|title=上代假名遣の研究:日本書紀の假名を中心として|publisher=岩波書店|date=1953-06|isbn=|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=大野晋|title=仮名遣と上代語|publisher=岩波書店|date=1982-02|isbn=|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=大野晋|title=日本語以前|publisher=岩波書店|series=岩波新書|date=1987-12|isbn=4004203953|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=大野晋|title=日本語の形成|publisher=岩波書店|date=2000-05|isbn=4000017586|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=[[国立国語研究所]]|title=国立国語研究所年報7:語形確定のための基礎調査|publisher=秀英出版|date=1955|ref=harv}} *{{Cite 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地理学
地理学(ちりがく、英: geography、仏: géographie、伊: geografia、独: Geographie (-fie) または Erdkunde)は、地球表面の自然・人文事象の状態と、それらの相互関係を研究する学問。地域や空間、場所、自然環境という物理的存在を対象の中に含むことから、人文科学、社会科学、自然科学のいずれの性格も有する。広範な領域を網羅する。また「地理学と哲学は諸科学の母」と称される。 元来は農耕や戦争、統治のため、各地の情報を調査しまとめるための研究領域として成立した。 地理学の「地理」は、古代中国で記された『易経』の「周易」本文に対する孔子の注釈、「十翼」中の一篇「繋辭上傳」に由来する。ただし、易経における「地理」について、辻田右左男は「ただちに今日的意味で理解するのはやや早計」としており、海野一隆は後世における使用例から、客観的な地誌的記述と卜占的な風水的記述をあわせ持った曖昧な概念であると指摘する。実際に、当時の「地理」の語義は「周易」に施された無数の注釈において様々に論じられており、漢字文化圏において geographyが「風土記」ではなく「地理学」と訳された要因もこうした注釈書に求められる。 辻田によれば、現代の「地理学」の語源である「地理」概念を分析するのであれば、その学史的な淵源に遡る必要があり、その淵源は少なくとも合理的な朱子学的教養を備えた江戸時代の儒学者に求められるという。これを受け、益田理広は、朱子学における「地理」の語義の把握に努めた。益田によると、『易経』の注釈において定義されなかった唐以前、「地理」は漠然と地形や植生を表す語に過ぎなかった。しかし唐代に入ると、「地理」は1地形や植生間の規則的な構造(孔穎達による)、2知覚可能な物質現象たる「気」の下降運動(李鼎祚による)とする二説により明確に定義される。続く宋代には「地理」の語義も複雑に洗練され、「地理」を1位置や現象の構造とする説、2認識上の区分に還元する説、3形而上の原理の現象への表出とする説、4有限の絶対空間とする説などが相次いで生まれた。また、唐代においては風水思想を扱うものも「地理書」の呼称を得ており、宋代には地誌に当たらない「地理書」の存在も一般化している。このように、唐以降の中国では「地理」概念を巡って多様な議論が展開された。 「地理」概念と同様に、「地理学」に対する解釈も多様である。地理学は時代によって、概念や扱う領域が大きく変わってきたことで、現在でも一定の定義を与えることは困難である。実際、地理学は「人類の生態学」、「分布の科学」、「土地と人間の関係学」であると主張する者もいる。オックスフォード地理学辞典によれば、地理学が辿った紆余曲折を統括できる定義を見出すのは無謀とするものの、ラルフ・リントンが唱えた「地理学は『景観の研究』である」という見解が地理学者の関心を最も統合できると述べている。他方で地理学辞典では、多くの地理学者は「地球表面を、その地域的差異という観点から研究するのが地理学」という思想に一致するという。また、最新地理学用語辞典では地理学を「地表の自然・人文にわたる諸現象を、環境・地域・空間などの概念に基づいて解明しようとする学問」とする。 このような地表の諸現象を究明しようとする系統地理学の方向性に対して、「自然・人文にわたる諸現象の相互関係を総合的に研究して、地域的性格を究明する地誌学が真の地理学である」と主張する者もいる。同様に、20世紀以降のフランス地理学派やバークレー学派も地理学を「地域の研究である」とみなし、常に人間と物理的環境との相互作用に重点を置いていた。この系統地理学と地誌学の定義を統合して、例えば広辞苑では地理学を「地球の表面と住民の状態ならびにその相互作用を研究する学問」としている。 地理学誕生の地は、古代ギリシアである。学問としては、博物学の部門に属した。その源流は、各地の様子を記載する地誌学的なものと、気候や海洋について研究する地球科学的なものとに見ることができる。中世では停滞していたものの、ルネサンス期における地誌の拡大や、18世紀以降、産業革命後の自然科学の発達と観測機器の発達は近代地理学の成立へと導いた。 現在見ることのできる科学的な地理学の源流は19世紀初頭のドイツでおこり、アレクサンダー・フォン・フンボルトとカール・リッターにより成立した。彼らは「近代地理学の父」とされており、なかでもフンボルトが自然地理学の始祖とされるのに対し、リッターは人文地理学の創始者とされている。彼らは地誌的な記述ばかりではなく、様々な地理的な現象に内的連関を認め、地理学においてその解明の重要性を説いた。 19世紀後半には、フリードリヒ・ラッツェルが自然地理の条件に人類は強く影響を受けると唱え、のちにこれは環境決定論と呼ばれるようになる。一方、ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュは自然は人類の活動に可能性を与えているものと定義し、これは環境可能論と呼ばれるようになるなど、系統地理学が整備された。アルフレート・ヘットナーやリチャード・ハーツホーンは地域の解明を重視し、地誌学に大きな足跡を残した。またこの時期、日本など世界各国に地理学が移入された。 この時期までの地理学の中心は地誌学であったが、1950年以降、アメリカ合衆国が中心になってコンピュータや統計データなどを用いて、計量的な地理学が世界中に急速に普及した。この計量革命によって、それまでの地誌学は個性記述的・非科学的であるとして衰退していった。1970年代後半以降、計量的な地理学は土木工学や経済学との競争に敗れ、北米を中心に一旦は衰退したが、地理情報システム(GIS)や地球環境に関連した応用的な研究が盛んになった。また1960年代から1970年代にかけて計量地理学への反動から、ラディカル地理学や人文主義地理学が成立した。 地理学は、大きく系統地理学と地誌学に分類され、系統地理学はさらに自然地理学と人文地理学に分けられ、それぞれがまた細かく分類される。ただし、自然地理学の諸分野は地球科学の影響を受け、その中でも時に生態学や気象学、地質学などと連携されることが多い。人文地理学は歴史学・社会学・経済学などの近隣分野の影響を受け、それらの知識ならびに隣接分野の理論の十分な理解が要求される学問である。また、自然地理学・人文地理学ともに現地調査(フィールドワーク)やエクスカーション(巡検とも呼ぶ)を実施し、実地調査に基づく観察を重視する傾向があるのが特徴である。 自然地理学に該当するもの。気圏を扱う気候学、水圏を扱う水文学、地表圏を扱う地形学、生物圏を扱う生物地理学、土壌圏を扱う土壌地理学、そして雪氷圏を扱う雪氷地理学といった専門分野に分かれており、また第四紀学のように学際的な研究分野も多く存在する。いずれの場合も、学問上で厳格な線引きは存在せず、例えば気候地形学のような自然地理学の中でも分野のまたがった研究も往々にされている。ほとんどの場合、これらの学問成果をあげるには、現地調査(フィールドワーク)が要求される。 人文地理学に該当するもの。これらもほとんどの場合、学問成果をあげるには、現地調査(フィールドワーク)が要求される。いずれの場合も、学問上で完全に独立しているわけではなく、例えば都市地理学と経済地理学の複合分野を研究対象にするということも可能である。 他分野においても、生物学の生物地理学など地理学という名をもつ学問がある。 地誌学(地域地理学)は、ある特定された地域内における地理学的事象を自然地理・人文地理両方の見地から研究する学問である。自然地理・人文地理にかかわらず、実際に研究する際は、具体的な地域を選定しなくてはならないため、ひとつの専門分野というよりは地理学の共通基礎部分と認識されている。文学や国際関係学方面の地域研究(学)との共通点もある。 地理学では地域差があるものを取り扱うため、地図が必須であるとともに、地図を用いて事象の分析や原因の考察を行うことができる。事物の分布を考察するにあたって、分布図の作成が挙げられる。分布図では、事物の位置や多寡、偏りの程度が表現されるため、分布について深く考察するうえで有効であり、このことによって地理的事象の地域性や一般性の解明につながる。分布の性質を分析してきた研究の代表例として、高橋伸夫は『地理学への招待』にてチューネンの孤立国とクリスタラーの中心地理論を提示している。 日本では主に文学部で地理学が教育・研究されている。東日本の国公立大学では理学部で教育・研究を行う大学もある。また、教養学部(文理学部)や教育学部にも設置されている。 ただし、文学部設置の大学でも自然地理学の研究も行われているうえ、理学部設置の大学でも研究や教育が自然地理学に限定されているわけでもない。また、この他の学部でも地理学に関するコースが存在する大学もある。 地理学がカバーする範囲は極めて広く、大学において「地理学科」や「地学科」という名称でなくても改称したり分野別に再編したりして実質的に地理学教育を行っている学科・専攻は少なくない。 地理学の学際性から、大学院生や大学教員レベルになると複数の学会に所属している者が多い。近年は地理情報システム(GIS)を用いた解析や一部モデリングが盛んに行われているほか、社会的課題が複雑化する中において地域を多角的・総合的に理解する学問分野として注目されている。 日本における地理学系学会としては、1925年に日本地理学会が設立されたのを皮切りに、1948年に人文地理学会、1954年に経済地理学会が設立されるなど、多くの学会が存在する。これらの学会は、日本地理学会の「地理学評論」や人文地理学会の「人文地理」といった学術誌を定期的に発行している。 明治維新後、近代学制が整備される中で、地誌を中心とする地理学は国民意識を形成するために重視され、初等・中等教育の科目の1つとされた。これは第二次世界大戦後も変わらず、地理は小学校および中学校では社会科のうちの1つに位置づけられ、高等学校でも科目名に変遷はあれど1つの科目として地理は存在し続けている。 高等学校においては長らく「地理」は必修であったが、1970年告示の学習指導要領以降選択科目の1つとなり、さらに1989年告示の学習指導要領において「世界史」が必修になるとその影響で「地理」を選択する生徒が減少し、地理学へ興味・関心を持つ機会が減少していた。しかし、2018年告示の学習指導要領において、2022年4月より再び「地理」が必修化された。
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地理学は、地球表面の自然・人文事象の状態と、それらの相互関係を研究する学問。地域や空間、場所、自然環境という物理的存在を対象の中に含むことから、人文科学、社会科学、自然科学のいずれの性格も有する。広範な領域を網羅する。また「地理学と哲学は諸科学の母」と称される。 元来は農耕や戦争、統治のため、各地の情報を調査しまとめるための研究領域として成立した。
{{otheruses||プトレマイオスの著書|地理学 (プトレマイオス)}} {{出典の明記|date=2009年4月}} {{ウィキポータルリンク|地理学|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:地理学]]}} {{読み仮名_ruby不使用|'''地理学'''|ちりがく|{{Lang-en-short|geography}}、{{Lang-fr-short|géographie}}、{{lang-it-short|geografia}}、{{Lang-de-short|Geographie (-fie)}} または {{lang|de|Erdkunde}}}}は、[[地球]]表面の自然・人文事象の状態と、それらの相互関係を研究する学問<ref>「[https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-h140930-7.pdf 報告 大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準 地理学分野]」平成26年(2014年)9月30日 日本学術会議 地域研究委員会・地球惑星科学委員会合同 地理教育分科会 2023年1月15日閲覧</ref>。[[地域]]や空間、場所、[[自然環境]]という[[物理]]的存在を対象の中に含むことから、<!--ここから出典あり-->[[人文科学]]、[[社会科学]]、[[自然科学]]のいずれの性格も有する<ref name="ajg18">{{Cite web|和書|url=http://www.ajg.or.jp/wp-content/uploads/2018/03/shin_vision.pdf|title=公益社団法人日本地理学会『新ビジョン(中期目標)』|format=PDF|accessdate=2018-07-07}}</ref>。広範な領域を網羅する。また「地理学と[[哲学]]は諸科学の母」と称される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hosei.ac.jp/bungaku/gakka/geography/naiyo.html|title=地理学科の内容|文学部|法政大学|accessdate=2018-09-21}}</ref>。 元来は[[農耕]]や[[戦争]]、[[統治]]のため、各地の[[情報]]を[[調査]]しまとめるための研究領域として成立した。 ==名称== ===「地理」の語源と語義=== 地理学の「地理」は、古代[[中国]]で記された『[[易経]]』の「[[周易]]」本文に対する[[孔子]]の[[注釈]]、「十翼」中の一篇「繋辭上傳」に由来する{{Sfn|益田|2018|p=19}}。ただし、易経における「地理」について、辻田右左男は「ただちに今日的意味で理解するのはやや早計」としており{{Sfn|辻田|1971|p=52,55}}、海野一隆は後世における使用例から、客観的な[[地誌]]的記述と[[占い|卜占]]的な[[風水]]的記述をあわせ持った曖昧な概念であると指摘する{{Sfn|海野|2004|p=48}}。実際に、当時の「地理」の語義は「周易」に施された無数の注釈において様々に論じられており、[[漢字文化圏]]において geography{{refnest|group=注釈|英語のgeograhyは、古代ギリシア語のgeographiaが語源である。geographiaはgeo(&#61;土地)とgraphia(&#61;記載する)が合わさった語で、「地球とその住民に関することを記載する」という意味であった。地理学が学問としてまだ体系化されていない古代では、多くの自然・人文事象を個別的に記載するなど百科事典的であった{{Sfn|日本地誌研究所|1989|p=466}}。}}が「[[風土記]]」ではなく「地理学」と訳された要因もこうした注釈書に求められる{{Sfn|益田|2015|p=1}}。 辻田によれば、現代の「地理学」の語源である「地理」概念を分析するのであれば、その学史的な淵源に遡る必要があり、その淵源は少なくとも合理的な[[朱子学]]的教養を備えた[[江戸時代]]の[[儒学者]]に求められるという{{Sfn|辻田|1971|p=52,55}}。これを受け、益田理広は、朱子学における「地理」の語義の把握に努めた。益田によると、『易経』の注釈において定義されなかった[[唐]]以前、「地理」は漠然と[[地形]]や[[植生]]を表す語に過ぎなかった。しかし唐代に入ると、「地理」は①地形や植生間の規則的な構造([[孔穎達]]による)、②知覚可能な物質現象たる「気」の下降運動([[李鼎祚]]による)とする二説により明確に定義される。続く[[宋 (王朝)|宋]]代には「地理」の語義も複雑に洗練され、「地理」を①位置や現象の構造とする説、②認識上の区分に還元する説、③形而上の原理の現象への表出とする説、④有限の絶対空間とする説などが相次いで生まれた{{Sfn|益田|2018|p=40,41}}。また、唐代においては風水思想を扱うものも「地理書」の呼称を得ており、宋代には地誌に当たらない「地理書」の存在も一般化している{{Sfn|益田|2018|p=41}}。このように、唐以降の中国では「地理」概念を巡って多様な議論が展開された。 ===「地理学」の定義=== 「地理」概念と同様に、「地理学」に対する解釈も多様である。地理学は時代によって、概念や扱う領域が大きく変わってきたことで、現在でも一定の定義を与えることは困難である。実際、地理学は「[[人類]]の[[生態学]]」、「分布の[[科学]]」、「[[土地]]と[[人間]]の関係学」であると主張する者もいる{{Sfn|日本地誌研究所|1989|p=466}}。オックスフォード地理学辞典によれば、地理学が辿った紆余曲折を統括できる定義を見出すのは無謀とするものの、[[ラルフ・リントン]]が唱えた「地理学は『[[景観]]の研究』である」という見解が[[地理学者]]の関心を最も統合できると述べている{{Sfn|田辺|2003|p=211}}。他方で地理学辞典では、多くの地理学者は「[[地球]]表面を、その地域的差異という観点から研究するのが地理学」という思想に一致するという{{Sfn|日本地誌研究所|1989|p=466}}。また、最新地理学用語辞典では地理学を「地表の自然・人文にわたる諸現象を、環境・地域・空間などの概念に基づいて解明しようとする学問」とする{{Sfn|浮田|2003|p=191}}。 このような地表の諸現象を究明しようとする[[系統地理学]]の方向性に対して、「自然・人文にわたる諸現象の相互関係を総合的に研究して、地域的性格を究明する[[地誌学]]が真の地理学である」と主張する者もいる{{Sfn|日本地誌研究所|1989|p=466}}。同様に、[[20世紀]]以降の[[フランス地理学派]]や[[バークレー学派]]も地理学を「地域の研究である」とみなし、常に人間と物理的環境との相互作用に重点を置いていた{{Sfn|田辺|2003|p=211}}。この系統地理学と地誌学の定義を統合して、例えば[[広辞苑]]では地理学を「地球の表面と住民の状態ならびにその相互作用を研究する学問」としている{{Sfn|広辞苑|2018|p=1920}}。 == 歴史 == [[ファイル:AvHumboldt.jpg|thumb|150px|right|「近代地理学の父」[[アレクサンダー・フォン・フンボルト|フンボルト]]]] {{Main|地理学の歴史}} 地理学誕生の地は、[[古代ギリシア]]である。学問としては、[[博物学]]の部門に属した。その源流は、各地の様子を記載する[[地誌学]]的なものと、[[気候]]や[[海洋]]について研究する[[地球科学]]的なものとに見ることができる。<!--ここから出典あり-->中世では停滞していた{{Sfn|中村ほか|1988|p=174}}ものの、[[ルネサンス]]期における[[地誌]]の拡大{{Sfn|中村ほか|1988|p=174}}や、[[18世紀]]以降、[[産業革命]]後の[[自然科学]]の発達と観測機器の発達は近代地理学の成立へと導いた{{Sfn|野間ほか|2017|p=212}}。 現在見ることのできる科学的な地理学の源流は[[19世紀]]初頭の[[ドイツ]]でおこり、[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]と[[カール・リッター]]により成立した{{Sfn|野間ほか|2017|p=213}}。彼らは「近代地理学の父」とされており{{Sfn|中村ほか|1988|p=174}}、なかでもフンボルトが自然地理学の始祖とされるのに対し<ref>「マシューズ&ハーバート 地理学のすすめ」p27-28 ジョン・A・マシューズ、デイヴィット・T・ハーバート著 森島済・赤坂郁美・羽田麻美・両角政彦訳 丸善出版 平成27年3月25日発行</ref>、リッターは人文地理学の創始者とされている<ref>「世界市民の地理学 Geographies for Cosmopolitan」p7-8 [[野尻亘]]・[[古田昇]]著 晃洋書房 2006年4月10日初版第1刷発行</ref>。彼らは地誌的な記述ばかりではなく、様々な地理的な現象に内的連関を認め、地理学においてその解明の重要性を説いた。 19世紀後半には、[[フリードリヒ・ラッツェル]]が自然地理の条件に人類は強く影響を受けると唱え、のちにこれは[[環境決定論]]と呼ばれるようになる。一方、[[ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ]]は自然は人類の活動に可能性を与えているものと定義し、これは[[環境可能論]]と呼ばれるようになる<ref>「地理学概論」(地理学基礎シリーズ1)p4 上野和彦・椿真智子・中村康子編著 朝倉書店 2007年4月25日初版第1刷</ref>など、[[系統地理学]]が整備された。[[アルフレート・ヘットナー]]や[[リチャード・ハーツホーン]]は地域の解明を重視し、地誌学に大きな足跡を残した<ref>「地理学概論」(地理学基礎シリーズ1)p5 上野和彦・椿真智子・中村康子編著 朝倉書店 2007年4月25日初版第1刷</ref><ref>「世界市民の地理学 Geographies for Cosmopolitan」p13-14 野尻亘・古田昇著 晃洋書房 2006年4月10日初版第1刷発行</ref>。またこの時期、[[日本]]など世界各国に地理学が移入された。 この時期までの地理学の中心は地誌学であったが<ref>「地誌学概論 第2版」p3 矢ヶ崎典隆・加賀美雅弘・牛垣雄矢編著 朝倉書店 2020年2月1日第2版第1刷</ref>、[[1950年]]以降、[[アメリカ合衆国]]が中心になって[[コンピュータ]]や統計データなどを用いて、[[計量革命|計量的な地理学]]が世界中に急速に普及した{{Sfn|野間ほか|2017|p=216}}。この計量革命によって、それまでの地誌学は個性記述的・非科学的であるとして衰退していった<ref>「地誌学概論 第2版」p3 矢ヶ崎典隆・加賀美雅弘・牛垣雄矢編著 朝倉書店 2020年2月1日第2版第1刷</ref>。[[1970年代]]後半以降、計量的な地理学は[[土木工学]]や[[経済学]]との競争に敗れ、<!--ここから出典あり-->北米を中心に一旦は衰退したが、[[地理情報システム]](GIS)や[[地球環境]]に関連した応用的な研究が盛んになった<ref name="ajg18" />。また1960年代から1970年代にかけて計量地理学への反動から、[[ラディカル地理学]]や[[人文主義地理学]]が成立した<ref>「地理学概論」(地理学基礎シリーズ1)p5-6  上野和彦・椿真智子・中村康子編著 朝倉書店 2007年4月25日初版第1刷</ref>。 {{-}} == 下位分野 == 地理学は、大きく[[系統地理学]]と[[地誌学]]に分類され、系統地理学はさらに[[自然地理学]]と[[人文地理学]]に分けられ{{Sfn|中村ほか|1988|p=ii}}{{Sfn|野間ほか|2017|p=52}}、それぞれがまた細かく分類される。ただし、自然地理学の諸分野は[[地球科学]]の影響を受け、その中でも時に[[生態学]]や[[気象学]]、[[地質学]]などと連携されることが多い。人文地理学は[[歴史学]]・[[社会学]]・[[経済学]]などの近隣分野の影響を受け、それらの知識ならびに隣接分野の理論の十分な理解が要求される学問である。また、自然地理学・人文地理学ともに現地調査([[フィールドワーク]])や[[エクスカーション]](巡検とも呼ぶ)を実施し、実地調査に基づく観察を重視する傾向があるのが特徴である。 === 系統地理学 === ==== 自然地理学 ==== [[自然地理学]]に該当するもの。[[大気圏|気圏]]を扱う気候学、[[水圏]]を扱う水文学、地表圏を扱う地形学、[[生物圏]]を扱う生物地理学、[[土壌圏]]を扱う土壌地理学、そして[[雪氷圏]]を扱う雪氷地理学といった専門分野に分かれており、また第四紀学のように学際的な研究分野も多く存在する<ref>「マシューズ&ハーバート 地理学のすすめ」p44-47 ジョン・A・マシューズ、デイヴィット・T・ハーバート著 森島済・赤坂郁美・羽田麻美・両角政彦訳 丸善出版 平成27年3月25日発行</ref>。いずれの場合も、学問上で厳格な線引きは存在せず、例えば[[気候地形学]]のような自然地理学の中でも分野のまたがった研究も往々にされている。ほとんどの場合、これらの学問成果をあげるには、現地調査(フィールドワーク)が要求される。 ; [[気候学]] : 主に[[気候]]と人々との関係を考察する。[[都市気候]]、[[ヒートアイランド現象]]、[[エルニーニョ現象]]などもこの分野で扱う。 ; [[水文学]] : [[湖沼]]や[[河川]]、[[地下水]]を主な研究対象とする。 ; [[地形学]] : あらゆる[[地形]]の成因、変遷などを考察。対象は[[山地]]、[[丘陵地]]、[[平野]]など。 ; [[植生地理学]] : [[植生]]分布に関する地理学。フィールドワークによる場合と、[[花粉]]分析法を用い、泥層などから採取した花粉の[[年代測定]]をし、解明していく方法がある。 ; [[動物地理学]] : [[動物]]の生態・分布に関する地理学。[[生態学]]と密にしている場合が多い。植生地理学などと共にしばしば[[生物地理学]]と総称されることも。 ; [[土壌地理学]] : [[土壌]]に関する地理学。第四紀学などと連携を密にすることが多い。 ; [[第四紀学]] : 主に[[第四紀]]の間に起きた[[環境]]の変遷、[[氷期]]/[[間氷期]]({{仮リンク|第四紀氷河時代|en|Quaternary glaciation}})の問題などを取り扱う。 ==== 人文地理学 ==== [[人文地理学]]に該当するもの。これらもほとんどの場合、学問成果をあげるには、現地調査(フィールドワーク)が要求される。いずれの場合も、学問上で完全に独立しているわけではなく、例えば都市地理学と経済地理学の複合分野を研究対象にするということも可能である。 ; [[経済地理学]] : [[経済]]活動の空間的異質性を説明する地理学。各種[[産業]]に注目した[[産業地理学]]([[農業]]を扱う[[農業地理学]]、[[工業]]を扱う[[工業地理学]]、[[商業]]を扱う[[商業地理学]]などがある)、[[消費者]]行動に注目した[[消費地理学]]、産業等の[[立地]]展開に注目した[[経済立地論]]などが主要なテーマ。これらは、人文地理学の中でも議論されることが多い分野である。そのほかの分野として、近年、英米の地理学者を中心に、[[小売|小売業]]の立地的側面、[[金融]]的側面、消費者行動的側面など小売業を多面的に扱った新しい[[小売地理学]]や、経済活動の[[文化_(代表的なトピック)|文化]]的側面に注目する傾向、そして、グローバルな経済活動がもたらすさまざまの問題を[[帝国主義]]や世界覇権とのかかわりで論ずる[[批判地理学]]が現れている。だが日本ではこの分野の研究者は少なく、発展途上の段階にある。経済地理学は地理学の専売特許ではなく、[[経済学]]においても研究されている。 ; [[社会地理学]] : [[社会階層]]や[[社会構造]]など[[社会学]]に関するテーマに対する地理学。具体的には、[[民族]]問題や[[過疎]]・過密、[[女性]]問題や[[コミュニティ]]の問題などを扱う。 ; [[政治地理学]] : [[政治]]に関する地理学。過去には、[[軍事]]侵略や[[植民地]]に関するテーマを扱っていた。現在は、学区域の問題や[[国政]]や地方行政や[[国際関係]]と地理との関係を主流にする。最近では、地理学で政治を扱うと、学問の性質上、[[地方自治]]に焦点があてられることが多いので、この分野を敢えて[[行政地理学]]という表現をすることもあったが、近年では、国際的な政治の問題も、新しい[[地政学]]などとしてしばしば取り上げられる。 ; [[都市地理学]] : [[都市]]特有の現象を扱う地理学。[[交通網]]・移動、[[犯罪]]・[[非行]]や、[[都心]]・[[郊外]]に関するテーマなどを扱う。経済地理学・社会地理学と連携を密にすることが多い。また、[[都市計画学]]、[[都市工学]]、[[都市社会学]]などの分野ともしばしば連携される。 ; [[歴史地理学]] : 地理学では、通常時間軸は現在であるが、歴史地理学は過去である<ref>「人文地理学」p181-182 竹中克行・大城直樹・梶田真・山村亜紀編著 ミネルヴァ書房 2009年10月30日初版第1刷発行</ref>。歴史的な現象・事柄の[[文献学]]的な意義のみならず、地理学的な意義を求める分野である。[[歴史学]]の一分野としても扱われるが、通常は地理学の分野である。[[民俗学]]と連携をとることもある。 ; [[文化地理学]] : [[文化]]や[[風俗]]を扱った地理学。宗教施設や、[[祭り]]などを考察対象とする。民俗学・[[文化人類学]]・社会学などとの連携をとることもある。 ; [[宗教地理学]] : [[宗教]]に関する地理学。地理学では、多くは宗教の[[教義]]や[[思想]]的なアプローチは行わず、宗教の社会的・文化的役割とその関係を見ることがほとんどである。上記、文化地理学の一分野でもある。 ; [[人口地理学]] : 人口現象の地理的分布や移動から[[地域構造]]を理解することを目標とする{{Sfn|日本地誌研究所|1989|p=320}}。[[人口分布]](人口規模の空間的パターン)、人口構造の空間的パターン、人口変動の空間的パターン、[[人口移動]]などを研究対象とする{{Sfn|人文地理学会|2013|p=562}}。 ; [[集落地理学]] : 人間の居住形態である[[集落]]というものに対する地理学。大きな括りをすれば、農村地理学や都市地理学もこの一分野である。 ; [[農村地理学]] : [[農村]]に関する地理学。集落地理学や[[農業地理学]]との連携が大きい。 ; [[交通地理学]] : [[交通]]に関する地理学。交通網の発達と立地展開の関係、日々の人々の移動に関する研究などを扱う。計量的に分析することが多く、[[鉄道網]]や[[道路網]]に対する知識や関心はその前提と見なされている。都市地理学や経済地理学などとの連関が多い。 ; {{仮リンク|医学地理学|en|Medical geography}} : [[伝染病]]・[[風土病]]などの[[疾病]]の地理的な分布・伝播を扱った地理学。[[医学]]の専門的な知識を求められるため、地理学の一部門でありながら、人文地理学で論じられることは稀である。 ; [[言語地理学]] : [[言語]]や[[方言]]に関する地理学。方言の分布などを探る。ただし、[[社会言語学]]的な性質が強く、人文地理学の一分野と見る論者は少ない。また、議論になることも稀である。 ; [[軍事地理学]] : [[軍事]]に関する地理学。[[第二次世界大戦]]で地理学の軍事作戦への応用が進み、確立される。 他分野においても、[[生物学]]の[[生物地理学]]など地理学という名をもつ学問がある。 === 地誌学 === [[地誌学]]([[地域地理学]])は、ある特定された地域内における地理学的事象を自然地理・人文地理両方の見地から研究する学問である<ref>「地誌学概論 第2版」p1 矢ヶ崎典隆・加賀美雅弘・牛垣雄矢編著 朝倉書店 2020年2月1日第2版第1刷</ref>。自然地理・人文地理にかかわらず、実際に研究する際は、具体的な地域を選定しなくてはならないため、ひとつの専門分野というよりは地理学の共通基礎部分と認識されている。[[文学]]や[[国際関係学]]方面の[[地域研究]](学)との共通点もある。 == 研究方法 == {{節スタブ|1=分布図の作成後の研究法(分析方法の概説など)|date=2018年9月}} 地理学では地域差があるものを取り扱うため、[[地図]]が必須であるとともに、地図を用いて事象の分析や原因の考察を行うことができる{{Sfn|中村ほか|1988|p=1}}{{refnest|group=注釈|[[アレクサンダー・フォン・フンボルト|フンボルト]]は気象や植生が高度により遷移することを観察し、縦軸を高度、横軸を緯度として[[分布 (生物)#水平分布と垂直分布|垂直分布]]を図化して表現した。また、世界中の約58地点の年平均気温の情報をもとに[[等温線]]をひき、等温線と[[緯線]]が平行ではない理由を考察する研究課題を提示した。[[中村和郎]]によると、地理学の考察における[[等値線]]の導入は非常に有意義なことと言及していて、また[[等値線図]]は[[地形図]](標高)や[[天気図]](気圧配置)などでも利用されている{{Sfn|中村ほか|1988|p=7}}。}}。事物の分布を考察するにあたって、[[分布図]]の作成が挙げられる。分布図では、事物の位置や多寡、偏りの程度が表現されるため、分布について深く考察するうえで有効であり、このことによって地理的事象の[[地域性]]や一般性の解明につながる{{Sfn|中村ほか|1988|p=23-24}}。分布の性質を分析してきた研究の代表例として、[[高橋伸夫 (地理学者)|高橋伸夫]]は『地理学への招待』にて[[チューネン]]の[[孤立国]]と[[クリスタラー]]の[[中心地理論]]を提示している{{Sfn|中村ほか|1988|p=25}}。 == 日本の地理教育・研究 == === 高等教育 === {{Main|地理学科|地学科}} 日本では主に[[文学部]]で地理学が教育・研究されている{{Sfn|野間ほか|2017|p=24}}。[[東日本]]の国公立大学では[[理学部]]で教育・研究を行う大学もある{{Sfn|野間ほか|2017|p=23}}。また、[[教養学部]]([[文理学部]])や[[教育学部]]にも設置されている{{Sfn|野間ほか|2017|p=23}}。 ただし、文学部設置の大学でも[[自然地理学]]の研究も行われているうえ、理学部設置の大学でも研究や教育が自然地理学に限定されているわけでもない{{Sfn|野間ほか|2017|p=24}}。また、この他の学部でも地理学に関するコースが存在する大学もある{{Sfn|野間ほか|2017|p=25}}。 地理学がカバーする範囲は極めて広く、大学において「地理学科」や「地学科」という名称でなくても改称したり分野別に再編したりして実質的に地理学教育を行っている学科・専攻は少なくない。 地理学の学際性から、[[大学院生]]や[[大学教員]]レベルになると複数の[[学会]]に所属している者が多い。近年は[[地理情報システム]](GIS)を用いた解析や一部モデリングが盛んに行われているほか、社会的課題が複雑化する中において地域を多角的・総合的に理解する学問分野として注目されている。 日本における地理学系学会としては、1925年に[[日本地理学会]]が設立されたのを皮切りに、1948年に[[人文地理学会]]、1954年に[[経済地理学会]]が設立されるなど、多くの学会が存在する。これらの学会は、日本地理学会の「[[地理学評論]]」や人文地理学会の「[[人文地理 (雑誌)|人文地理]]」といった[[学術雑誌|学術誌]]を定期的に発行している<ref>「人文地理学」p4-5 竹中克行・大城直樹・梶田真・山村亜紀編著 ミネルヴァ書房 2009年10月30日初版第1刷発行</ref>。 === 初等・中等教育 === {{Main|地理教育}} 明治維新後、近代学制が整備される中で、地誌を中心とする地理学は[[ナショナル・アイデンティティ|国民意識]]を形成するために重視され、初等・中等教育の科目の1つとされた。これは第二次世界大戦後も変わらず、地理は小学校および中学校では[[社会 (教科)|社会科]]のうちの1つに位置づけられ、高等学校でも科目名に変遷はあれど1つの科目として地理は存在し続けている<ref>「地誌学概論 第2版」p3-4 矢ヶ崎典隆・加賀美雅弘・牛垣雄矢編著 朝倉書店 2020年2月1日第2版第1刷</ref>。 [[高等学校]]においては長らく「[[地理 (科目)|地理]]」は必修であったが、1970年告示の[[学習指導要領]]以降選択科目の1つとなり、さらに[[1989年]]告示の学習指導要領において「[[世界史]]」が必修になるとその影響で「地理」を選択する生徒が減少し、地理学へ興味・関心を持つ機会が減少していた。しかし、2018年告示の学習指導要領において、2022年4月より再び「地理」が必修化された<ref>https://www.kawai-juku.ac.jp/highschool/analysis/geography-history/geography-01/ 「2018(平成30)年3月に告示された高等学校学習指導要領の分析報告」河合塾 2023年6月23日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2012年11月25日 (日) 12:42 (UTC)}} *Ackerman, E. 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EU
'''EU''' == EU == * 地理 ** [[欧州連合]]の英語とドイツ語などの略語 ** [[ユローパ島]] ({{fr|Europa}}) の [[FIPS]] PUB 10-4 国名コード。 ** [[アメリカ合衆国]] ({{lang-fr|États-Unis}}; {{lang-es|Estados Unidos}}) - ただし、スペイン語では複数形のため頭文字を重ねてEE.UU.もしくは正式国名{{lang|es|Estados Unidos de América}}の略語のEUAで示されるのが普通で、EUは誤用とされ、通常使われない。 * 作品タイトル ** [[Europa Universalis]] - [[パラドックスインタラクティブ]]社の歴史シミュレーションゲーム。 ** [[学警狙撃]] ({{interlang|en|E.U. (TV series)|E.U.}}) - 香港のテレビドラマ。 ** [[エントロピア・ユニバース]] ({{interlang|en|Entropia Universe}}) - スウェーデンのオンラインゲーム。 ** [[拡張世界]] ({{interlang|en|Star Wars Expanded Universe}}) - [[スター・ウォーズ]]のスピンオフ作品群。 * 大学 ** [[エディンバラ大学]] ({{en|Edinburgh University}}) - イギリス スコットランド エディンバラ。 ** [[愛媛大学]] ({{En|Ehime University}}) - 日本 愛媛県松山市。 ** [[エモリー大学]] ({{en|Emory University}}) - アメリカ ジョージア州アトランタ。 ** [[エロン大学]] ({{interlang|en|Elon University}}) - アメリカ カリフォルニア州エロン。 * [[実行ユニット]] ({{en|execution unit}}) * [[エクアトリアナ航空]] ({{es|Ecuatoriana de Aviacion}}; IATA: EU) - エクアドルの航空会社 (1957–2005)。 * [[衝鋒隊 (香港)]] ({{interlang|zh|衝鋒隊 (香港)|衝鋒隊}}, {{en|Emergency Unit}}) - [[香港警察]]の機動隊。 * [[ガリシア統一左翼]] ({{Lang-gl|Esquerda Unida}}) - スペインの政党連合[[統一左翼 (スペイン)|統一左翼]] ({{Lang|es|Izquierda Unida}})の[[ガリシア州]]の支部政党。 * [[エフエム愛媛]]のコールサイン及び愛称 (JOEU-FM) * [[本田技研工業|ホンダ]]・7代目[[ホンダ・シビック|シビック]](5ドア[[ハッチバック]]のみ)の型式名。 == Eu == * 化学物質 ** [[ユウロピウム]] ({{en|europium}}) の元素記号 ** [[ユーロピニジン]] ({{interlang|en|europinidin}}) - 有機化合物。 * [[ユーフォニアム]] ({{en|euphonium}}) - 金管楽器 == eu == * [[.eu]] - 欧州連合の[[国別ドメイン]] * [[バスク語]] ({{Lang-eu|Euskara|links=no}}) の[[ISO 639|ISO 639-1言語コード]] * [[ㅡ]] - [[ハングル]]で {{IPA|ɯ}} を表すチャモ(字母)。 {{aimai}}
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国の一覧
国の一覧(くにのいちらん)は、世界の独立国の一覧。 国際法上国家と言えるか否かについて、モンテビデオ条約第1条には以下のように定められた。 この条約は米州諸国によって締結されたものであったが、その第1条に規定された「国家の資格要件」に関する規定は広く一般的に適用されるものと考えられている。これにより、国際法上国家の言うためには「永続的住民」、「明確な領域」、「政府」、「他国と関係を取り結ぶ能力」という4つの要件が必要とされる。本項目ではこれらの要件を満たしていると評価されているものを掲載対象とする。 国際連合憲章4条1項により国際連合に加盟するためにはその要件の一つとして国家であることが求められており、国家のみが加盟資格を持つとされている。 そのためここでは国際連合加盟国を193ヵ国を全て国として扱い、以下に列挙する。 国際連合総会オブザーバーの制度は国際連合事務局や国際連合総会の実践を通じて形成されてきた制度であり、オブザーバーとしての資格は非加盟国だけではなく国ではないものに対しても認められてきたものである。ここではその中で国である可能性があるものを列挙する。
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国の一覧(くにのいちらん)は、世界の独立国の一覧。
{{特殊文字}} '''国の一覧'''(くにのいちらん)は、[[世界]]の[[国家|独立国]]の一覧。 {{TOC limit}} == 対象 == {{See also|国家の資格要件}} [[国際法]]上[[国家]]と言えるか否かについて、[[モンテビデオ条約 (1933年)|モンテビデオ条約]]第1条には以下のように定められた<ref name="戸田23-24">[[#戸田(2016)|戸田(2016)]]、23-24頁。</ref>。 {{quotation|日本語訳:国際法上の人格としての国はその要件として、(a)永続的住民、(b)明確な領域、(c)政府、及び、(d)他国と関係を取り結ぶ能力を備えなければならない<ref name="モンテビデオ条約1条翻訳引用">[[#戸田(2016)|戸田(2016)]]、23頁、24頁におけるモンテビデオ条約第1条日本語訳を引用。</ref>。 <br/>英語原文:The state as a person of international law should possess the following qualifications: a ) a permanent population; b ) a defined territory; c ) government; and d) capacity to enter into relations with the other states.<ref>[[:s:en:Montevideo Convention#Article 1]]</ref>|モンテビデオ条約第1条}} この条約は米州諸国によって締結されたものであったが、その第1条に規定された「国家の資格要件」に関する規定は広く一般的に適用されるものと考えられている<ref name="森川53-54">[[#森川(2015)|森川(2015)]]、53-54頁。</ref>。これにより、国際法上国家の言うためには「永続的住民」、「明確な領域」、「政府」、「他国と関係を取り結ぶ能力」という4つの要件が必要とされる<ref name="山本123-124">[[#山本(2003)|山本(2003)]]、123-124頁。</ref>。本項目ではこれらの要件を満たしていると評価されているものを掲載対象とする。 == 凡例 == * 国名は、①「日本語名称」欄で国旗のアイコンの後に[[日本語]]での正式名称と[[通称]]名・[[略称]]名・別名([[丸括弧]]内)を、②「現地語名称」欄で現地語での正式名称と通称名・別名(丸括弧内)を、それぞれ記した。正式名称と通称が同一のものは再掲していない。 * 日本語での正式名称・片仮名などの表記の揺れについては、『2007年版 [[世界の国一覧表]]』、『データブック オブ・ザ・ワールド 2009年版』(以上は[[#参考文献]]参照)、及び『外務省 各国・地域情勢(ウェブサイト)』([[#外部リンク]]参照)等を参考にし、適宜修正を加えている。 * 漢字の略称は、日本の政府([[外務省]]等)・[[メディア (媒体)|メディア]]等が便宜的に使用しているものを記載している。 * 一つの言語に対して表記が複数ある場合は、斜線で区切って全て記してある。 * [[仮名 (文字)|仮名]]および[[ラテン文字]]以外の現地語名称に対しては、ラテン文字転写を記してある。 * 国であることについて議論が有るものや異論があるものについてはその旨も併記する。 == 一覧 == === 国際連合加盟国 === {{OTOC|あ行|か行|さ行|た行|な行|は行|ま行|や行|ら行}} [[国際連合憲章]]4条1項により[[国際連合]]に加盟するためにはその要件の一つとして国家であることが求められており<ref>[[#位田(2009)|位田(2009)]]、99頁。</ref><ref>[[#I.C.J. Reports 1948|I.C.J. Reports 1948]], p.62.</ref>、国家のみが加盟資格を持つとされている<ref>[[#杉原(2008)|杉原(2008)]]、268頁</ref>。 そのためここでは[[国際連合加盟国]]を193ヵ国<ref>{{Cite web|title=Member States|url=http://www.un.org/en/member-states/index.html|publisher=United Nations|accessdate=2019-3-2}}</ref>を全て国として扱い、以下に列挙する。 {| class="wikitable" style="width:78em;font-size:78%" ! style="width:auto"|日本語名称 ! style="width:50%"|現地語名称 |- ! colspan="2" style="text-align:left; background-color:#cfc" | {{Anchors|あ行}}あ行 |- |{{flagicon|Iceland}} '''[[アイスランド|アイスランド共和国]]'''(アイスランド/氷島/氷州/氷洲/愛撒倫/氷) | * {{LangWithName|is|アイスランド語|Lýðveldið Ísland (Ísland)}} |- |{{flagicon|Ireland}} '''[[アイルランド]]'''(愛蘭/愛) | * {{Lang-en|Ireland}} * {{Lang-ga|Éire}} |- |{{flagicon|Azerbaijan}} '''[[アゼルバイジャン|アゼルバイジャン共和国]]'''(アゼルバイジャン) | * {{LangWithName|az-Latn|アゼルバイジャン語|Azərbaycan Respublikası (Azərbaycan)}} |- |'''{{flagicon|Afghanistan}}''' '''[[アフガニスタン|アフガニスタン・イスラム首長国]]'''(アフガニスタン) | * {{Rtl-langWithName|fa|ダリー語|امارت اسلامی افغانستان (افغانستان)}} ** <!--転写-->{{lang|fa-Latn|Imārat-i Islāmī-yi Afghānistān}} * {{Rtl-langWithName|ps|パシュトー語|د افغانستان اسلامي امارت (افغانستان)}} ** <!--転写-->{{lang|ps-Latn|Də Afġānistān Islāmī Imārat}} |- |{{flagicon|United States}} '''[[アメリカ合衆国]]'''(アメリカ/亜米利加/米国/米/合衆国) | * {{Lang-en|United States of America (United States / USA / US)}} * {{Lang-fr|États-Unis d'Amérique (États-Unis)}} * {{Lang-haw|ʻAmelika Huipūʻia (ʻAmelika Hui)}} * {{Lang-es|Estados Unidos de América (Estados Unidos)}} |- |{{flagicon|UAE}} '''[[アラブ首長国連邦]]'''(UAE) | * {{Lang-ar|الإمارات العربيّة المتّحدة (إمارات)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[国際連合地名標準化会議|UNGEGN]]式:</span> {{lang|ar-Latn|Al-'Imārāt al-ʻArabīyah al-Muttaḩidah ('Imārāt)}} |- |{{flagicon|Algeria}} '''[[アルジェリア|アルジェリア民主人民共和国]]'''(アルジェリア/阿爾及) | * {{Lang-ar|الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية (الجزائر)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[国際連合地名標準化会議|UNGEGN]]式:</span> {{lang|ar-Latn|Al-Jumhūrīyah al-Jazā'irīyah al-Dīmuqrāţīyah al-Şaʻbīyah (Al-Jazā'ir)}} |- |{{flagicon|Argentina}} '''[[アルゼンチン|アルゼンチン共和国]]'''(アルゼンチン/亜爾然丁/亜) | * {{Lang-es|Nación Argentina / República Argentina (Argentina)}} |- |{{flagicon|Albania}} '''[[アルバニア|アルバニア共和国]]'''(アルバニア) | * {{LangWithName|sq|アルバニア語|Republika e Shqipërise (Shqipëri / Shqipëria)}} |- |{{flagicon|Armenia}} '''[[アルメニア|アルメニア共和国]]'''(アルメニア) | * {{Lang-hy|Հայաստանի Հանրապետություն (Հայաստան)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[ISO 9985]]:</span> {{lang|hy-Latn|Hayastani Hanrapetowtʻyown (Hayastan)}} |- |{{flagicon|Angola}} '''[[アンゴラ|アンゴラ共和国]]'''(アンゴラ) | * {{Lang-pt|República de Angola (Angola)}} |- |{{flagicon|Antigua and Barbuda}} '''[[アンティグア・バーブーダ]]''' | * {{Lang-en|Antigua and Barbuda}} |- |{{flagicon|Andorra}} '''[[アンドラ|アンドラ公国]]'''(アンドラ) | * {{LangWithName|ca|カタルーニャ語|Principat d'Andorra (Andorra)}} |- |{{flagicon|Yemen}} '''[[イエメン|イエメン共和国]]'''(イエメン) | * {{Lang-ar|الجمهوريّة اليمنية (اليمن)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[国際連合地名標準化会議|UNGEGN]]式:</span> {{lang|ar-Latn|Al-Jumhūrīyah 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Réachéanachâkr Kâmpŭchea]]</ref> ** <!--転写-->{{lang|km-Latn|Preăh Réachéanachâkr Kâmpŭchea (Kâmpŭchéa)}} |- |{{flagicon|North Macedonia}} '''[[北マケドニア|北マケドニア共和国]]'''(北マケドニア) | * {{LangWithName|mk|マケドニア語|Република Северна Македонија (Северна Македонија)}} * {{LangWithName|sq|アルバニア語|Republika e Maqedonisë së Veriut (Maqedonia e Veriut)}} |- |{{flagicon|Guinea}} '''[[ギニア|ギニア共和国]]'''(ギニア) | * {{Lang-fr|République de Guinée (Guinée)}} |- |{{flagicon|Guinea-Bissau}} '''[[ギニアビサウ|ギニアビサウ共和国]]'''(ギニアビサウ) | * {{Lang-pt|República da Guiné-Bissau (Guiné-Bissau)}} |- |{{flagicon|CYP}} '''[[キプロス|キプロス共和国]]'''(キプロス) | * {{Lang-el|Κυπριακή Δημοκρατία (Κύπρος)}} ** {{lang|el-Latn|Kipriakí Dimokratía (Kípros)}} ** {{lang|el-Latn|Kypriacḗ Dēmocratía (Cýpros)}} * {{Lang-tr|Kıbrıs Cumhuriyeti (Kıbrıs)}} |- |'''{{flagicon|Cuba}}''' '''[[キューバ|キューバ共和国]]'''(キューバ/玖馬) | * {{Lang-es|República de Cuba (Cuba)}} |- |{{flagicon|Greece}} '''[[ギリシャ|ギリシャ共和国]]'''(ギリシャ/希臘/希) | * {{Lang-el|Ελληνική Δημοκρατία (Ελλάδα)}} ** 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Тоҷикистон (Тоҷикистон)}} / {{rtl-lang|tg-Arab|جمهوری تاجیکستان (تاجیکستان)}} ** Jumhurii Tojikiston (Tojikiston) / Jumhūrī-i Tājīkistān (Tājīkistān) |- |'''{{flagicon|Tanzania}}''' '''[[タンザニア|タンザニア連合共和国]]'''(タンザニア) | * {{Lang-sw|Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (Tanzania)}} |- |{{flagicon|Czech Republic}} '''[[チェコ|チェコ共和国]]'''(チェコ) | * {{Lang-cs|Česká republika (Česko)}} |- |{{flagicon|Chad}} '''[[チャド|チャド共和国]]'''(チャド) | * {{Lang-fr|République du Tchad (Tchad)}} * {{Lang-ar|جمهوريّة تشاد (تشاد)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[国際連合地名標準化会議|UNGEGN]]式:</span> {{lang|ar-Latn|Jumhūrīyat Tshad (Tshad)}} |- |{{flagicon|Central African Republic}} '''[[中央アフリカ共和国]]'''(中央アフリカ/中央阿弗利加) | * {{Lang-fr|République Centrafricaine}} * {{Lang-sg|Ködörösêse tî Bêafrîka}} |- |{{flagicon|China}} '''[[中華人民共和国]]'''(中国/チャイナ/中) | * {{Lang-zh-Hans|中华人民共和国 (中国)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[ピン音|漢語拼音]]:</span> {{lang|zh-Latn|Zhōnghuá rénmín gònghéguó (Zhōngguó)}} |- |{{flagicon|Tunisia}} 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'''[[ミャンマー|ミャンマー連邦共和国]]'''(ミャンマー/ビルマ/緬甸/緬) | * {{LangWithName|my|ビルマ語|ပြည်ထောင်စုသမ္မတမြန်မာနိုင်ငံတော် (မြန်မာပြည်)}}<ref group="注">ビルマ文字の表示法に対応していない環境が多いため、画像で示す: [[ファイル:Myanmar long form.svg|200x20px|<nowiki>[pjìdàuɴzṵ θàɴməda̯ mjəmà nàiɴŋàɴdɔ̀]</nowiki>]]</ref> ** <span style="font-size:smaller;">[[国際音声記号]]:</span> {{IPA|pjìdàuɴzṵ θàɴməda̯ mjəmà nàiɴŋàɴdɔ̀}} ** {{lang|my-Latn|Pyidaunzu Thanmăda Myăma Nainngandaw}} |- |{{flagicon|Mexico}} '''[[メキシコ|メキシコ合衆国]]'''(メキシコ/墨西哥/墨) | * {{Lang-es|Estados Unidos Mexicanos (México)}} |- |{{flagicon|Mauritius}} '''[[モーリシャス|モーリシャス共和国]]'''(モーリシャス) | * {{Lang-en|Republic of Mauritius (Mauritius)}} * {{Lang-fr|République de Maurice (Maurice)}} |- |{{flagicon|Mauritania}} '''[[モーリタニア|モーリタニア・イスラム共和国]]'''(モーリタニア) | * {{Lang-ar|الجمهورية الإسلامية الموريتانية (موريتانية)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[国際連合地名標準化会議|UNGEGN]]式:</span> {{lang|ar-Latn|Al-Jumhūrīyah al-'Islāmīyah al-Mūrītānīyah (Mūrītānīyah)}} * {{Lang-fr|République Islamique de la Mauritanie (Mauritanie)}}<!-- 公用語ではない --> |- |{{flagicon|Mozambique}} '''[[モザンビーク|モザンビーク共和国]]'''(モザンビーク) | * {{Lang-pt|República de Moçambique (Moçambique)}} |- |{{flagicon|Monaco}} '''[[モナコ|モナコ公国]]'''(モナコ) | * {{Lang-fr|Principauté de Monaco (Monaco)}} |- |{{flagicon|Maldives}} '''[[モルディブ|モルディブ共和国]]'''(モルディブ) | * {{Rtl-langWithName|dv|ディベヒ語|ދިވެހި ރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރީޔާ (ދިވެހި ރާއްޖެ)}} ** <!--転写-->{{lang|dv-Latn|Dhivehi Raajjeyge Jumhooriyyaa (Dhivehi Raajje)}} |- |{{flagicon|Moldova}} '''[[モルドバ|モルドバ共和国]]'''(モルドバ) | * {{Lang-ro|Republica Moldova (Moldova)}} |- |{{flagicon|Morocco}} '''[[モロッコ|モロッコ王国]]'''(モロッコ) | * {{Lang-ar|المملكة المغربية (المغرب)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[国際連合地名標準化会議|UNGEGN]]式:</span> {{lang|ar-Latn|Al-Mamlakah al-Maghribīyah (Al-Maghribīyah)}} |- |{{flagicon|Mongolia}} '''[[モンゴル国]]'''(モンゴル/蒙古/蒙) | * {{LangWithName|mn-Cyrl|モンゴル語|Монгол Улс}} ** <!--転写-->{{lang|mn-Latn|Mongol uls}} |- |{{flagicon|Montenegro}} '''[[モンテネグロ]]''' | * 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'''[[バチカン|バチカン市国]]・[[法王聖座]]'''(バチカン){{#tag:ref|日本では一般的にバチカン市国の略称として「バチカン」が用いられるが、本来「バチカン」はバチカン市国と法王聖座([[ローマ法王]]と[[ローマ法王庁]]の総称)の総称である。バチカン市国は法王聖座に居場所を提供する領域を管理するための国であり、バチカンの[[外交]]は「[[カトリック教会]]の総本山」という宗教機関だけでなく「法王の国」としての側面も持っている法王聖座が担っている。そのため、国際連合(国連総会オブザーバー)を始めとする[[国際機関]]には「法王聖座」として参加している<ref>{{Cite web|和書|title=バチカン|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vatican/data.html|publisher=外務省|accessdate=2019-3-2}}</ref>。|group="注"}} | * {{Lang-la|Status Civitatis Vaticanæ (Vaticanum)}} * {{Lang-it|Stato della Città del Vaticano (Città del Vaticano)}} | 「人口の全てが職業的な住民であって、恒常的なものではないため国家ではない」とする指摘がある<ref name="戸田24-25">[[#戸田(2016)|戸田(2016)]]、24-25頁。</ref>。市民権は教皇庁に勤務する者のみに限られていて一般的な意味での国民は存在せず、宗教的な目的しか持たない<ref>「バチカン市国」、[[#国際法辞典|『国際法辞典』]]、282頁。</ref>。国家の資格要件に関して特異な点が見られる<ref name="山本134-135">[[#山本(2003)|山本(2003)]]、134-135頁。</ref>。一方で明確な主権と領土を有し、完全に独立している。多くの国々と外交関係を樹立し、条約を締結し、多くの国際機関にも加盟している<ref name="戸田24-25"/>。宗教色を帯びた特殊な国家と考えられている<ref name="戸田24-25"/><ref name="山本134-135"/><ref>[[#杉原(2008)|杉原(2008)]]、41頁。</ref>。 |- |{{flagicon|Palestine}} '''[[パレスチナ国]]''' (パレスチナ) | * {{Lang-ar|دولة فلسطين (فلسطين)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[国際連合地名標準化会議|UNGEGN]]式:</span> {{lang|ar-Latn|Dawlat Filasṭīn (Filasṭīn)}} | |- |} === 元国際連合加盟国 === {| class="wikitable" style="width:80em;font-size:90%" ! style="width:auto"|日本語名称 ! style="width:35%"|現地語名称 ! style="width:35%"|国か否かに関する議論 |- |{{flagicon|Republic of China}} '''[[中華民国]]'''(台湾/中華台北/チャイニーズタイペイ/中/華/台){{#tag:ref|1971年後半より国連加盟国から外されたが、14の加盟国とローマ教皇庁から承認を受けている。また未承認国における[[中華民国の在外機構の一覧|在外機構]]として[[台北経済文化代表処]]を59か国に置いている。|group="注"}} | * {{LangWithName|zh-Hant|中国語|中華民國 (台灣 / 臺灣)}} ** <span style="font-size:smaller;">[[ピン音|漢語拼音]]:</span> {{lang|zh-Latn|Zhōnghuá Mínguó (Táiwān)}} | モンテビデオ条約の国家の資格要件4つを全て満たしているため、国際法上は国家であるが{{#tag:ref|事実上([[デ・ファクト]])|group="注"}}、国家性について賛否がある。歴史上中華人民共和国政府の支配が及んだことがない中華民国は事実上中華人民共和国から独立した存在であり、このことから中華民国、または台湾が中華人民共和国に属しない独立国家であると指摘する<ref>[[#小田(2007)|小田(2007)]]、52-54頁。</ref><ref>[[#近藤(2007)|近藤(2007)]]、7-8頁。</ref>。一方否定論者は、中華民国はかつての「一つの中国」の正当政府であるとする立場をこれまでに放棄したことはなく、実効的な支配下にある台湾島のみを統治する国家として独立宣言をしたことがないため、独立国家であるためには台湾が「中華民国」とは異なる国として独立宣言をすることが必要と指摘する<ref>[[#近藤(2007)|近藤(2007)]]、6-7頁。</ref>。 |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist|30em}} {{Reflist|group=画像}} == 参考文献 == * 世界の動き社編、外務省編集協力 『世界の国一覧表―国際理解のための基本データ集〈2007年版〉』 世界の動き社、2007年、ISBN 978-4-88112-710-0。(2007年限りで休刊) * [[二宮書店]]編集部編 『データブックオブ・ザ・ワールド VOL.21(2009年版)―世界各国要覧と最新統計』 二宮書店、2008年、ISBN 978-4-8176-0333-3。 *{{Cite journal|和書|editor=松井芳郎ほか|author=位田隆一|title=国連加盟承認の条件と手続き|journal=判例国際法|edition=第2版第3刷|year=2009|month=4|publisher=東信堂|pages=98-102|isbn=978-4-88713-675-5|ref=位田(2009)}} *{{Cite journal|和書|author=小田滋|title=主権独立国家の「台湾」 : 「台湾」の国際法上の地位 : (私の体験的・自伝的台湾論)|journal=日本學士院紀要|year=2007|volume=62|number=1|pages=43-68|publisher=日本学士院|url=https://doi.org/10.2183/tja.62.1_43|issn=0388-0036|ref=小田(2007)}} *{{Cite journal|和書|author=近藤崇顕|title=国際法から見る台湾問題と国連参加の意義 : 国連オブザーバー制度を手掛かりとして|journal=北大法学研究科ジュニア・リサーチ・ジャーナル|year=2007|volume=13|number=13|pages=1-35|publisher=北海道大学大学院法学研究科|url=https://hdl.handle.net/2115/34942|ref=近藤(2007)}} *{{Cite book|和書|author=杉原高嶺、水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映|title=現代国際法講義|year=2008|publisher=有斐閣|isbn=978-4-641-04640-5|oclc=1133186202|ref=杉原(2008)}} * [[辻原康夫]] 『世界の国旗全図鑑―国旗から海外領土・国際機構・先住民族の旗まで』 小学館、1997年、ISBN 978-4-09-386019-2。 *{{Cite book|和書|author=筒井若水|year=2002|title=国際法辞典|publisher=有斐閣|isbn=4-641-00012-3|oclc=647285807|ref=国際法辞典}} *{{Cite journal|和書|author=戸田博也|title=「イスラム国」(IS)と国家の成立要件-ISは国際法上の「国家」か?-|journal=千葉科学大学紀要|number=9|year=2016|publisher=千葉科学大学|pages=23-34|url=http://id.nii.ac.jp/1222/00000176/|issn=1882-3505|ref=戸田(2016)}} *{{Cite journal|和書|author=森川幸一|title=国際法上の国家の資格要件と分離独立の合法性|journal=専修大学法学研究所所報|volume=50|year=2015|publisher=専修大学法学研究所|pages=53-64|url=http://id.nii.ac.jp/1015/00008330/|issn=0913-7165|ref=森川(2015)}} * [[吉田一郎]] 『国マニア―世界の珍国、奇妙な地域へ!』 交通新聞社、2005年、ISBN 978-4-330-83905-9。 *{{Cite book|和書|author=山本草二|title=国際法【新版】|year=2003|publisher=有斐閣|isbn=4-641-04593-3|oclc=1183131355|ref=山本(2003)}} *{{Cite journal|title=Admission of a State to the United Nations (Charter, Art. 4), Advisory Opinion|journal=I.C.J. Reports 1948|pages=p.57|url=https://www.icj-cij.org/files/case-related/3/003-19480528-ADV-01-00-EN.pdf|ref=I.C.J. Reports 1948}} == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|List of sovereign states}} --> {{Div col}} * [[国の一覧 (大陸別)]] * [[外国地名および国名の漢字表記一覧]] * [[首都の一覧]] * [[飛地#国家の飛地]] * [[国際連合加盟国]] * [[海外領土・自治領の一覧]] * [[国際連合総会オブザーバー]] * [[国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧]] * [[国際連合非自治地域リスト]] * [[ミクロネーション]] * [[代表なき国家民族機構]] * [[消滅した政権一覧]] * [[ザ・ワールド・ファクトブック]] * {{仮リンク|国別の人種差別|en|Racism by country}} * [[:en:List of entities and changes in The World Factbook]] {{Div col end}} == 外部リンク == * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/index.html 外務省: 各国・地域情勢] {{国の指標}} {{地球}} {{DEFAULTSORT:くにのいちらん}} [[Category:国の一覧|*]] [[Category:国名|*いちらん]] [[Category:各国の地理|*くにのいちらん]] [[nds:Land#Länner]] [[sv:Världsgeografi#Lista över länder]]
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パリ
パリ市(パリし、仏: Ville de Paris)、通称パリ(仏: Paris、巴里)は、フランスの首都。イル=ド=フランス地域圏の首府。フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。 ルーヴル美術館を含む1区を中心として時計回りに20の行政区が並び、エスカルゴと形容される。 市域はティエールの城壁跡に造られた環状高速道路の内側の市街地(面積は86.99km。参考:東京都・山手線の内側は63km、ニューヨーク市・マンハッタンは59km)、および、その外側西部のブローニュの森と外側東部のヴァンセンヌの森を併せた形となっており、面積は105.40km。ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。市内の地形は比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである。北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい北大西洋海流と偏西風によって1年を通して比較的温暖となっており、西岸海洋性気候の代表的な都市である。 EUを代表する大都市として君臨し、アメリカのシンクタンクが2020年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、ロンドン、ニューヨークに次ぐ世界3位の都市と評価された。日本の民間シンクタンクによる2017年発表の「世界の都市総合力ランキング」では、ロンドン、ニューヨーク、東京に次ぐ世界4位の都市と評価された。世界500大企業の本社数では、ニューヨークやロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。2021年のイギリスのシンクタンクの調査によると、世界10位の金融センターと評価されており、EU圏内では首位である。 パリは世界屈指の観光都市である。歴史的な建物を観ることができ、ルーヴル美術館、ポンピドゥーセンターなどをはじめとした一流の美術館で膨大な数の一流の美術品を観賞できる。また世界最古のバレエ団や、世界でもっとも古くから存在している劇団などの公演を楽しむこともできる。 パリ出身者・居住者は男性がパリジャン(仏: Parisien、フランス語発音: [parizjɛ̃] パリズィヤン)、女性がパリジェンヌ(仏: Parisienne、フランス語発音: [parizjɛn] パリズィエンヌ)と呼ばれる。1960年代以降、旧植民地であったアフリカ北部・中西部やインドシナ半島、さらに近年は中近東や東欧、中国などからの移民も増え、パリジャン・パリジェンヌも多民族・多人種化している。 市域人口は1950年代の約290万人を絶頂に減少し続けたが、ここ数年は微増傾向に転じており、2011年現在で約225万人である(INSEEによる)。2011年の近郊を含む都市的地域の人口では1,200万人を超えており、EU最大の都市部を形成している。 パリ市の標語は「たゆたえども沈まず(ラテン語: Fluctuat nec mergitur, フランス語: il est battu par les flots mais ne sombre pas)であり、これはパリの紋章の下部に書かれている。もともと水運の中心地だったパリで、水上商人組合の船乗りの言葉だったが、やがて戦乱、革命など歴史の荒波を生き抜いてきたパリ市民の象徴となっていった。この標語は特に2015年のパリ同時多発テロ事件の直後、パリの街角に多数掲げられた。 語源はParisii(パリシイ、パリースィイとも。複数形。単数形はParisius「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。 欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリージ)と発音される。フィンランド語で Pariisi(パリースィ)と発音されるのはこれに由来しているという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム)Lutetia(Parisiorum)、 「パリシイ族の、水の中の居住地」(シテ島のこと)とも呼ばれていた。 西岸海洋性気候に属し、暖流である北大西洋海流の影響で高緯度の割には温暖である。夏(6月 - 8月)は気温が15度から25度までの範囲で、冷涼で乾燥しており過ごしやすいが、年間数日程度は32度を超える暑さとなる。しかし、2003年夏には30度以上の気温が数週間も続き、40度近い気温が観測され1万人以上の死者を出した。春(3月 - 5月)と秋(9月 - 10月)は天候は不安定で、暖かい時期と寒い時期が同居し、10月でも真冬並みの寒さとなることもある。冬(11 - 2月)は、もともと高緯度で昼間の時間が短いうえ、曇りや雨の日が多いため日照時間が少ないが、降雪・積雪はあまり見られない。年間数日程度は気温が氷点下5度以下まで下がる。しかしながら近年の冬は寒さが厳しく、2009年 - 2010年の冬にはパリ郊外では気温が-10度から-20度前後まで下がっているなど、寒気の影響を受けやすくなっている。年間降水量は555.7mmであり、それほど多くはない。 パリの気象観測は中心部から離れた14区にあるモンスーリ公園で行われている。 パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。 16区 - 17区につながるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18区 - 20区からつながる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており、近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単に「郊外(バンリュー)」という場合、こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的な住宅衛星都市となっている。 パリより電車で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの衛星都市があり、近代建築によって町の機能が整えられている。中でもラ・デファンス地区には「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高層ビル群が集中しており、多数の企業の支店を抱える新都心となっている。 公園はパルク(Parc)、庭園はジャルダン(Jardin)と呼ばれ区別されている。 パリには東西2つの大きな森があり、パリ市民の憩いの地となっている。現在はこの森もパリ市の敷地に含まれる。 パリは東西南北に4つの主要な墓地があり、多くの著名人が眠っている。 この他、パリ中心部に位置するパンテオンにもルソーやヴォルテール、ヴィクトル・ユーゴー、デカルトといった偉人たちが埋葬されている。 パリ市の人口は2011年現在、約225万人で、近年は微増傾向にある。特に、再開発が進む南部や移民流入の著しい東部での人口増加が目立っている。 この間、郊外(市域外)の人口は増加している。20世紀以降、かつて城壁に囲まれていた市域外にも市街地が大きく拡大し続け、現在、イル=ド=フランス地域圏(パリ地域圏)全体の人口は1,198万人にのぼる。パリ市域内もおおむね商業・業務・住宅地としての活気と威信を維持しており、アメリカの大都市などで見られる都心部の荒廃や郊外への人口流出(インナーシティ問題)はさほど見られない。むしろ、移民の多い一部の郊外での治安の悪化が顕著である(バンリュー参照)。 パリはほかの大都市同様、学生、若者、老人が多い一方、子供を有するカップルの割合は低い。1999年、パリ市の世帯数の22パーセント、人口数の40.7パーセントは1人以上の子供を有するカップルであったが、単身世帯数の割合は27パーセント、カップルのみの世帯数の割合は19パーセントであった。パリ市では47パーセント(フランス全体の平均は35パーセント)の人々が独身で、37パーセント(同50パーセント以上)が結婚している。また片親世帯の割合が26パーセント(同17パーセント)と高い。離婚率ももっとも高く、婚姻100件のうち55件は離婚に至っており、パリ市民の7.7パーセントを占めている。 出生率は1,000人中14.8人であり、国平均の13.2パーセントより高い。一方、子供の数は世帯あたり1.75人で、国平均の1.86人より少ない。半分の世帯において子供は1人である。パリ市では住居が狭く高額であることが、その主因である。 高所得者層はおもに西部に、低所得者層や移民はおもに北東部に居住している。 パリ市の平均世帯所得はフランス全体の平均より高く、隣接する郊外のオー=ド=セーヌ県、イヴリーヌ県、エソンヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県の4地域の平均所得も国内で最高水準であり、イル・ド・フランス地域圏に高所得者層が集中している。 しかしパリ市内の社会的格差の状況は、さらに複雑である。伝統的には豊かなパリ市西部と、貧しいパリ市東部という構図がみられる。実際、7区の平均世帯所得(2001年)は3万1,521ユーロにのぼり、19区の1万3,759ユーロの2倍以上となっている。イル・ド・フランス地域圏において、パリ6区、7区、8区、16区はもっとも高所得の地域、10区、18区、19区、20区はもっとも低所得の地域に分類される。さらに、市内の19区の状況はそのまま所得が低い北東部郊外のセーヌ=サン=ドニ県に連なる一方、16区の外縁は西部の豊かな郊外に続く。 18区、19区、20区にはパリの貧困層の4割が集中し、学校の中退、失業、健康問題などが集中している。EU域外からの移民は、フランス国内の出身者に比べて、貧困な状況に置かれていることが多い。 18区はマグリブや、最近はサブサハラ地域のアフリカからの移民が多い。フランスの国勢調査では法律上、民族や宗教の属性を問うことができないが、出身地の情報は得ることができる。1999年の国勢調査によると、パリ都市圏はヨーロッパでもっとも多民族化が進んでいる地域のひとつであり、人口の19.4パーセントがフランス本国外の出身である。また、パリ都市圏の人口の4.2パーセントは1990年から1999年の間にフランスにやってきた新しい移民であり、その大半は中国またはアフリカ出身である。さらにパリ都市圏の人口の15パーセントはイスラム教徒である。 パリへの大量の移民の第一波は1820年代、ドイツの農民が、農業危機とナポレオン・ボナパルトの侵攻にともなって移住してきたことによる。その後、今日に至るまで、何度か移民の波が続いている。19世紀はイタリア人と中央ヨーロッパのユダヤ人、1917年のロシア革命後はロシア人、第1次世界大戦中は植民地の国々から、大戦間期はポーランド人、1950年代から70年代はスペイン人、イタリア人、ポルトガル人、北アメリカ人、またアフリカ・アジア地域の独立後はユダヤ人が移民してきた。移民の居住区域は、それぞれ出身地ごとに異なっている。 パリ盆地を流れるセーヌ川の中洲シテ島は古くから同川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場・闘技場の遺跡(アレーヌ・ド・リュテス)や浴場跡が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。 5世紀末にフランク族の王クローヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。 885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このとき、フランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代わってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。 西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(のちにルーヴル宮殿に発展する)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心のひとつでもあり、11世紀ごろからパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学は特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル(Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。 12世紀にはパリ水運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになる。 13世紀になると、ルイ9世によってサント・シャペルが建築されたほか、ノートルダム大聖堂も一応の完成を見る。パリは成長を続け、セーヌ左岸も再び人口を増やしていた。王たちは次第にヴァンセンヌ城を居城とするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。 14世紀初頭のパリの人口は約20万人と推定され、ヨーロッパ随一の都市であった。 1328年にカペー朝が断絶したことなどを契機とする百年戦争の最中、パリ商人頭となったエティエンヌ・マルセルは王に匹敵する権力を持ち、王と対立した。シャルル5世は、1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ、1370年にサン=タントワーヌ要塞(のちのバスティーユ牢獄)を築いた。また、ルーヴル宮殿を王宮とした。 15世紀初めにおいても、パリの支配権と王および王族の確保をめぐって、オルレアン派(のちにアルマニャック伯を頼って同盟した後アルマニャック派)とブルゴーニュ派との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。ジャンヌ・ダルクの活躍などもあり、1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派と和解して勢力を伸ばしたシャルル7世率いるフランス軍は1436年にパリを奪還し、翌1437年に改めてパリが首都と定められた。その後、1453年にフランスにおけるイングランド領の大半が陥落したことにより、百年戦争は終結した。百年戦争後のパリの人口は10万人程度にまで減少していた。 この後もフランス王はパリには住まず、ブロワ城やアンボワーズ城などのロワール渓谷の城を好んだ。特にフランソワ1世は、ロワールにシャンボール城を築いたほか、パリ近郊にフォンテーヌブロー宮殿を発展させた。もっともフランソワ1世は、公式的には1528年にパリを居城と定めた。パリでは学術が発展し、コレージュ・ド・フランスにおいて、大学教育課程(理論とリベラルアーツ)が近代教育課程に加えられ、王が望んだ人文主義や正確な科学が研究されるようになった。 16世紀後半、ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9世を継いだアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日にアンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会(Seize)という組織によって統治されるようになった。 その後、カトリック派からの反発を招いたアンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。 1594年、アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。ヴァロワ朝後期の王と異なり、アンリ4世はパリをおもな居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。ルーブル宮殿の拡張、ポンヌフ、ヴォージュ広場、ドフィーヌ広場、サン・ルイ病院の建設がなされた。フォンテーヌブロー宮殿もよく用いられ、次のルイ13世はこの宮殿で生まれている。ほかにもサン=ジェルマン=アン=レーにも居城があった。 ルイ13世の治世下にパリは大きく変化した。その母のマリー・ド・メディシスによるテュイルリー宮殿やリュクサンブール宮殿、リシュリューによるパレ・ロワイヤルが建設され、ソルボンヌ大学の改築も行われた。 太陽王ルイ14世の即位後まもなくフロンドの乱が起こり、反動的に貴族勢力が打倒された結果、絶対王政の確立が促された。ルイ14世は、1677年に居城をヴェルサイユに移した。財務総監のジャン=バティスト・コルベールはパリでの豪華な建設事業を行い、太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。廃兵院などはこのころの建築である。しかし王自身はパリを好まず、パリ郊外の広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し、17世紀半ばには人口約50万人、建物約2万5,000棟に達していた。以降、政治の中心地は、ルイ16世の治世末期までヴェルサイユに移ることとなる。 ルイ15世は1715年に居城をいったんパリに戻したが、1722年にはヴェルサイユに居城を再度移してしまう。1752年にはエコール・ミリテールが創設され、1754年にはサント・ジュヌヴィエーヴの丘に教会(現在のパンテオン)が建設された。 ルイ16世治世下の1784年から1790年にかけて、新たな城壁であるフェルミエー・ジェネローの城壁が建設される。 18世紀は、やはり経済的成長の世紀で、人口が増大した。フランス革命直前のパリの人口は64万人を数えた。啓蒙主義、啓蒙思想が発展し、ヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、『百科全書』のドゥニ・ディドロ、シャルル・ド・モンテスキューらが活躍した。宮廷がヴェルサイユに置かれたのに対抗し、王族のオルレアン公がパレ・ロワイヤルを増築改修すると、この地はパリ随一の繁華街を形成し、啓蒙思想家のみならずあらゆる階層の人々を引きつけ、とりわけ急進的な革命家の根拠地ともなった。 1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。 1790年にパリ県が成立し、1795年にセーヌ県へと改称される。パリ市は県庁所在地とされていた。 混乱を経た1800年当時の人口は、54万7,756人であった。ナポレオン1世は、パリを新しいローマとすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門やエトワール凱旋門を建て、ウルク運河(en)を開削するなどした。 第一帝政後の19世紀のパリは、復古王政期および1848年革命(二月革命)を経て、第二共和政、第二帝政さらに第三共和政へと、王政ないし帝政と共和政が交錯し、政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的・文化的には繁栄した。 文化面では、ヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラ、スタンダールといった文豪に加え、19世紀後半にはエドゥアール・マネやモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーといった印象派の画家が活躍し始めた。スーラ、ゴッホ、ポール・ゴーギャンなどのポスト印象派、新印象派へと続くものとなった。 1837年にはパリ・サン=ジェルマン鉄道のサン・ラザール駅、1840年にヴェルサイユ・左岸鉄道のモンパルナス駅、1840年にパリ・オルレアン鉄道のオステルリッツ駅、1846年に北部鉄道 (フランス)のパリ北駅、1846年にソー鉄道のアンフェール城門駅(ダンフェール=ロシュロー駅)、1849年にパリ・リヨン鉄道のリヨン駅およびパリ・ストラスブール鉄道のストラスブール駅(パリ東駅)がそれぞれ建設された。他方、1841年から1844年にかけてティエールの城壁が築かれ、こららの放射状路線をつなぎ、城壁内の補給路を確保するために、プティト・サンチュールが1852年から建設され始めた。 第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行われた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発や社会基盤の整備が行われた。水道の水はジェネラル・デゾーが供給するようになった。これらによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこのときの状態をとどめている。1860年、ティエールの城壁内のコミューンがパリに併合された。併合後である1861年当時の人口は169万6,141人だった。 普仏戦争でナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。翌1871年1月に第三共和政の政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューンが発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな被害を出した。 クレディ・リヨネのパリ支店支配人Mazeratがリヨン本店支配人Letourneurに書き送ったところによると、普仏戦争以後に企てられた全事業でロスチャイルドとその庇護下のオートバンクが独占的役割を果たした。パリ市はロスチャイルドらより2億フランを借り受け、ドイツへ占領税を支払った。20億フランのパリ市公債もロスチャイルドらが引き受けた。 19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。パリは「光の都」と呼ばれ、ロンドンに匹敵する経済都市に成長した。 20世紀にはさらに工業が進展し、このころまだまとまった敷地が残っていたパリ郊外にルノーやシトロエンの工場ができた。パリで働くための移民が集まり、赤いバンリューの起源となった。1904年6月、1,000万フランのロスチャイルド財団が一族6人と北部鉄道 (フランス)の役員3人を発起人として設立された。この財団は建築家を直接雇用して財団所有の事務所に集め、低廉住宅の建築様式を共同作成させた。優秀作の意匠権は賞金と引き換えに財団が所有した。1912年12月23日のボンヌヴェ法は全会一致で可決され、パリ市が低廉住宅を建設するために要請していた2億フランの借款を認めた。 第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利により辛くも陥落を免れた。大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くのボヘミアンたちを惹きつけた。 しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1か月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、1940年6月11日に首都機能をトゥールに移転。パリは6月13日に非武装都市宣言を行ったことで市街戦は回避され、翌6月14日にはドイツ軍が進駐し、パリを無血で占領した。パリが外国軍の手に落ちるのは4度目(過去3回は百年戦争、ナポレオン戦争による敗北、普仏戦争)であった。 6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者はのちに対独協力者(コラボラトゥール)として糾弾されることになる。 ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月24日、アメリカ軍がパリ郊外に達しドイツ軍と交戦。翌25日にはアメリカ軍と自由フランス軍が市内中心部に達し、連合国による解放が実現した。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍は、ヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている。 20世紀のパリは文化的にも成熟し、アルベール・カミュやジャン=ポール・サルトルらが実存主義を生み出し、マルセル・プルーストやアンドレ・ジッドなどの小説家が輩出された。1960年に創刊された前衛雑誌『テル・ケル』にはロラン・バルト、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァらが名を連ね、構造主義とポスト構造主義は世界的な影響力を持ち、フランス現代思想が隆盛を極めた。映画界では、1950年代末から1960年代中盤にかけて、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらヌーヴェルヴァーグが台頭した。 人民戦線の頃以降のフランス共産党の党勢拡大などを背景として、1968年1月1日、セーヌ県が廃止され、パリは特別市となった。このような政治的や文化的状況下で、五月革命が起こった。 1950年代以降のパリでは、おもに郊外(バンリュー)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。 一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。2015年11月にはパリ同時多発テロ事件が発生した。 フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県(当初の名称はパリ県)に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地であった。当時の市域は現在より狭く、フェルミエー・ジェネローの城壁(現在は、ほぼその跡に沿ってメトロ2号線・6号線が走っている)の内側のみであった。当初は、48の地区に細分化されていたが、各地区を統合する形で12の行政区が設けられるに至った。 1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に新たな20の行政区が設けられた。これらの行政区は、1795年10月11日以降存在していた12の旧行政区から置き換えられたものである。 1968年1月1日に完全施行された「パリ地域の再編に関する1964年7月10日法」による再編以降、セーヌ県が廃止され、パリは県とコミューンの地位を併せ持つこととなる。パリは、1860年のパリ拡張の際に創設された20の行政区と18の選挙区に分けられている。 1976年にイル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。 「パリの地位と都市計画に関する2017年2月28日法」では、コミューンと県を統合する特別自治体を2019年1月1日に創設することが規定され、同日、パリは「パリ市」という特別自治体に移行した。 市内20の区(arrondissement)は、パリ市街地の1区から、右回りの渦巻状に番号がつけられている。1 - 4、8 - 12、16 - 20区は右岸に、5 - 7、13 - 15区は左岸に位置する。 この街の行政的地位は何度も変更されている。1871年3月26日から5月22日まで、パリには、蜂起勢力である代表制普通選挙による議会をともなうパリ・コミューンによる政府が置かれた。1870年に成立した第三共和政は、この出来事への恐怖心を持つ保守主義者たちによって運営されていた。彼らは、パリの行政権をセーヌ県知事(préfet de la Seine)に、パリの警察権を警視総監(préfet de police)にそれぞれ与えることを内容とする1884年4月5日法を制定した。他方、市町村選挙で議員が選出されるパリの議会は、毎年、主として代表者としての機能を有する「議長」を選出していた。すなわち、パリには市長がいなかった。また街の予算は、国の同意を得る必要があった。 1975年12月31日法(1977年の市町村選挙の際に施行された)は、109人の議員で構成される市議会かつ県議会であるパリの議会を創設し、議員によってパリ市長を選出することにした。区の委員会は、諮問と推進の役割を有していた。委員会の構成員は、選挙人・パリ市長・パリの議会によって選出された。警視総監は国家により任命され、警察権を行使する。 パリ・リヨン・マルセイユおよびコミューン間の協力による公共機関に関する1982年12月31日法が、パリには1983年の市町村選挙の際に施行され、163人の議員を選出することになったほか、特に予算に関する議会の権限が拡大し、委員会を廃して区議会が創設された。 2002年5月2日の2002-810号デクレ以降、行政警察権がパリ市長と警視総監に共有されることとなり、その実現のために、両者は互いの活動方法を相互に承認することとなった。承認手続に関しては、パリ議会が審議したうえ、毎年その予算および決算を承認する必要がある (この予算は国家によって決められたものである)。パリ市長はこれ以降、生活安全分野に関する限り、たとえ警視総監の手中にある権限に関するものであっても関与することになった。 パリの議会の活動は、パリ市が資本を保有する会社の仲介人やパリの混合経済会社(SEM)によっても実現される。 ほかの主要都市とは異なり、パリとその郊外のコミューンとの間、« 大パリ » 内には、固有の予算をともなうコミューン間の連携が存在しない。もっとも、パリとその郊外の県との間では、下水道組合(SIAAP, Syndicat interdépartemental pour l’assainissement de l’agglomération parisienne)の再編を行った。また、イル=ド=フランス交通組合(STIF)は、イル=ド=フランス地域圏の公共機関であり、パリとその郊外の総合的な交通網整備を行う組織である。 ほかの国際的な大都市と異なり、おおよそ環状のペリフェリックで区切られる中心市街のみを範囲とするパリの街については、その実際的な範囲を明確にする必要がある。上述各城壁の変遷で見るように歴史的かつ政治的な配慮が障害となって、« 大パリ » を管理する行政機関が存在しないことは、パリ都市圏の現在の主要な問題のひとつである。 現在のパリの領域は、上述概要の項で指摘されているように日本の山手線内よりやや広い程度である。その市域の境界線は歴史的で時代錯誤な経緯の産物、あるいは現在はパリ都市圏に取り込まれ、消えてしまった地形に適合していたにすぎないものであるにもかかわらず、市域の内外を問わず、パリ都市圏の人々には共通の行政的需要ならびに経済的・社会的関心がある。ところが、各コミューンは行政的・税制的に独立しており、コミューンや県の枠を超えて存在する集団的需要(交通や住宅など)に関する組織については、都市圏規模のまとめ役となる機構が存在しない。イル=ド=フランス地域圏となると、地域の約80パーセントに農村部が残っており、パリ都市圏のための枠としては大き過ぎ、« 大パリ » たるパリ都市圏内の適切な連携に適っていない現状がある。 初代市長はジャン=シルヴァン・バイイ(在任:1789年7月15日 - 1791年11月18日)。 1795年 - 1848年の2月革命まで、12の区に分割され各区にConseil municipal(議会)が置かれ自治が行われたため、パリ市長は置かれなくなった。1795年 - 1977年の間、わずかな例外(2月革命後の4人の市長)を除いて市長は置かれず、各区のConseil municipalの議長が実質上は市長のような務めを果たした。1977年以降は「パリ市長」がパリ県知事(Préfet)とコミューンの首長の性格を併せ持っていた。2019年に県とコミューンを統合した特別自治体「パリ市」が誕生したため、パリ市長はその首長となった。 2011年の当初予算(街および県としてのもの)は約85億8,200万ユーロで、うち69億600万ユーロが行政活動に、16億7,600万ユーロが投資に充てられている。債務残高は約26億9,600万ユーロである。2008年の県債は266億ユーロにのぼる。 パリ大審裁判所がシテ島のパレ・ド・ジュスティス (パリ)に置かれている。この裁判所は、フランスの大部分の訴訟事件を取り扱う巨大司法機関である。各区には小審裁判所が置かれている。 パリ商事裁判所は、やはりシテ島(コルス河岸)に置かれている。パリ違警罪裁判所は19区(rue de Cambrai)、パリ労働審判所は10区(rue Louis-Blanc)にそれぞれ置かれている。 パリのみを管轄する裁判所以外に、複数の県を管轄するパリ控訴院もパレ・ド・ジュスティスに置かれている。その管轄は、セーヌ=エ=マルヌ県、エソンヌ県、セーヌ=サン=ドニ県、ヴァル=ド=マルヌ県、ヨンヌ県である。パリ控訴院の管轄区域には、フランス全人口の12.6パーセントが暮らしている。なお、ほかのイル=ド=フランス地域圏内の各県およびウール=エ=ロワール県は、ヴェルサイユ控訴院の管轄となる。 パリは、4区所在のパリ地方行政裁判所の管轄に属する。控訴は、パリ行政控訴院に対して行うことになる(ほかに、マタ・ウトゥ、ムラン、ヌーヴェル・カレドニー、フランス領ポリネシアの各地方行政裁判所からの控訴を受ける)。 パリ(1区)には、司法と行政それぞれの最高裁判所である破毀院と国務院(コンセイユ・デタ) に加え、憲法評議会(憲法院)も置かれている。 パリのいくつかの刑務所は今日でも有名である。 右岸のグラン・シャトレは、王の刑務所を内部に置き、その別館(左岸のプティ・ポンにあるプティ・シャトレ)とともに、14世紀から破壊される1782年まで投獄所および拘置場所とされていた。 コンシェルジュリー、バスティーユ牢獄、ヴァンセンヌ城の3つの刑務所は、歴史的なシンボルとなっている。コンシェルジュリーはパリの裁判所固有の刑務所であったが、フランス革命の間にマリー・アントワネットやほかのギロチン犠牲者を迎えたあとも、1914年まで拘置所として機能し続けた。バスティーユ牢獄は1370年から構築され、リシュリューが権力を振るっていたころに国の刑務所となった。 ヴァンセンヌ牢獄は、やはり1784年まで国会の刑務所であったが、その名の通りの投獄の場というよりもむしろ軟禁場所であり、第二帝政下までしばしばそのように使われていた。 1830年から1947年まで11区にロケット刑務所があったが、パリで唯一残存する刑務所(兼拘置所)は1867年に開設されたサンテ刑務所のみである。イル=ド=フランス地域圏の主要な刑務所兼拘置所(Maison d'arrêt、メゾン・ダレ)は、フレンヌ (ヴァル=ド=マルヌ県)とフルリー=メロジ(エソンヌ県)にある。ほかに、ポワシーにある困難受刑者が収容されるメゾン・サントラルがある。 セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県と同様にパリ警視庁の管轄下にある。 イル=ド=フランス地域圏で犯される重罪および軽罪は、フランス全土での4分の1を占める。パリ市内、その外側の「小さな王冠」(セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県)、さらにその外側の「大きな王冠」は、それぞれイル=ド=フランス地域圏内の全認知件犯罪のおおむね3分の1ずつが発生している。パリでみられる犯罪類型としては窃盗が大部分で、全重罪および軽罪の3分の2を占める。2006年には、25万5,238件が認知され、犯罪発生率としては人口1,000人あたり118.58件であった。これは、全国平均61.03‰の約2倍であるが、大都市のみに限ってみれば平均的な数値である(リヨン109.22件、リール118.93件、ニース119.52件、マルセイユ120.62件)。女性被告人の割合は15パーセントを下回り(全国平均をわずかに下回る程度)、未成年の割合は11.02パーセント(全国平均18.33パーセントを7ポイント下回る)である。他方、外国人(有効な滞在許可証を所持しフランスに住居を有する者)の割合は、全国平均を上回る20.73パーセントである。 パリでは、2008年の強姦事件数1,413件で発生率が0.6‰とフランス国内で2番目の高率であった。身体的暴行に関しては、2万7,857件であった。暴行を行うとの脅迫に関しては、2008年において、パリでは5,165件認知された。2008年の財産犯(窃盗、器物汚損、器物破壊)に関して、ブーシュ=デュ=ローヌ県に次ぐ件数が認知された。 パリの中央集権主義はまた、この街がテロの犠牲者であることをも物語る。よく知られるナポレオン1世に対するサン・ニケーズ街テロ事件や、最近では、RER B線サン=ミッシェル=ノートルダム駅での爆弾テロがある。パリの歴史はこれらの象徴的価値の高い事件が刻まれたものである。これらは、この街での日常生活にとって取るに足りないというものではない。特に、ヴィジピラート計画(Plan Vigipirate)の実施により、観光地や首都の戦略的要衝地の近くに武装した警察、憲兵および兵士が警備しているのを目にすることになる。 数多くの病院がパリに設置されている。そのうちいくつかは特に古く、医療の伝統は中世にまでさかのぼる。651年にパリ司教だった聖ランドリーによって設立されたシテ島のオテル・デューは、パリでもっとも古い医療施設である。慈愛ともてなしの象徴であり、12世紀まではパリで唯一の病院であった。 大部分の医療施設は、1849年1月10日法によって創設された公的医療施設であるAP-HP(Assistance publique - Hôpitaux de Paris、公的支援-パリ病院連合)に名を連ね、パリ市の後方支援をしている。地域圏およびパリの医療センターの役割も果たし、多くの医師や公務員を含む9万人以上が業務に従事している。5区にあるミラミオン館は、かつて病院の施設として使用されていたが、現在はAP-HPの博物館となっており、パリの医療の歴史を想起させている。AP-HPのパリ市内主要病院としては、ネッケル小児病院、コシャン病院、サルペトリエール病院、サン・タントワーヌ病院、サン・ルイ病院、ビシャ=クロード・ベルナール病院、ジョルジュ・ポンピドゥー欧州病院を挙げることができる。 他方、アンヴァリッド軍病院はAP-HPに属していないが、保健大臣の監督のもと国防大臣に権限が委任されており、退役軍人などの治療を行っている。同様に、国立アンヴァリッド研究所では、現役および退役軍人(その家族などの被保険者を含む)などが医療看護や外科的治療を受けられる。 パリの近郊「小さな王冠」では、パリ東・クレテイユ・ヴァル=ド=マルヌ大学(パリ第12大学)附属アンリ・モンドール大学病院センター(クレテイユ)、パリ南大学附属クレムラン・ビセートル大学病院センター(ル・クレムラン=ビセートル)、ル・ランシー=モンフェルメイユ・コミューン連携医療センター、ボジョン病院(クリシー)が有名な医療機関である。「大きな王冠」においても、AP-HPに属してはいないが、いくつかのコミューン連携の総合病院が存在する。たとえば、アルジャントゥイユのビクトル・デュプイ病院やヴェルサイユ医療センターを挙げることができる。 また、医療研究機関としては、1260年にルイ9世によってパリの視覚障害者救済を目的として設立されたキャンズ・ヴァン病院、いずれも軍の衛生部に属するヴァル=ド=グラース軍研究病院、ペルシー軍研究病院、ベガン軍研究病院を挙げることができる。 さらに、ヌイイ=シュル=セーヌには、1906年に設立された社会保障非受益者のための非営利・認可私立病院であるパリ・アメリカン・ホスピタルも特筆される。 パリは、フランス全土でも医師の密度がもっとも高い街のひとつである。たとえば、2005年現在、パリの一般医は5,840人を下らないが、セーヌ=サン=ドニ県とヴァル=ドワーズ県には両県を合わせても3,349人の一般医しかいない。 パリでは、公衆衛生を保証・保持するため、特に貧困層向けに、16の市立入浴施設が9つの区に分散設置されている。これらの入浴施設は個室を有するが、洗面具は利用者が用意することになっている。 「ローマのみがパリにふさわしく、パリのみがローマにふさわしい」 ヨーロッパ的な街並みに対し、「○○のパリ」と異名がつけられている。特に移民や植民地などでフランス色が強い都市に多い。 フランスにおける経済の中心地であり、世界屈指の経済都市でもある。2014年のパリ都市圏の総生産は6,798億ドルであり、東京都市圏、ニューヨーク都市圏、ロサンゼルス都市圏、ソウル都市圏、ロンドン都市圏に次ぐ世界6位の経済規模を有する。 多国籍企業の本社数や資本市場の規模などビジネス分野を総合評価した都市ランキングでは、ロンドンとともにヨーロッパでトップクラスである。BNPパリバ、トタル、アクサなど世界有数の大企業の本社が所在しており、世界500大企業の本社数では、ニューヨークやロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。 工芸品や贅沢品や服飾品などの、ビジネスの集積地でもある。 アンシャン・レジームの時代では、貴族は服をたった1着手に入れるにも、まずは布地を扱う商人のところへ行って気にいる布地を苦労して見つけ、次にその布を裁断する職人のところへそれを持っていって、次にそれを縫いあげる職人、と何軒もの店・職人をかけずりまわらなければならず、おまけに訪ねる店は(現代からは想像もつかないような)まるで倉庫のようなありさまで、価格の表示もなく、客は顔色をうかがわれてとんでもない高値を吹っかけられ、支払いも高利の掛け売りというありさまで、皆、服を手に入れることにうんざりしていた。だがアンシャン・レジーム末期のパリに、新しい経営方法を導入した服飾品の小売業者やモード商人が登場した。それまで注文を受ける側であった商人が、主導権を握って王妃などに着る服を提案することを始めたのであり、王族を宣伝塔として巧みに利用し流行を意図的・恣意的に作りだし、貴族たちを煽って金儲けをするようになった。19世紀にはさらにオートクチュール(オーダーメイド服)への道を開き、ファッションショーなどを開催し、メディアも活用し巧みにイメージを作りだし、新興の富裕層(=ブルジョワジー)の欲望を掻きたて金儲けを行った。しかしオートクチュールのビジネスは20世紀後半には衰退し、現在では主としてプレタポルテを扱うようになった。ショーの華やかな見た目に惑わされている一般人には見えないが、ファッションウィーク期間中のパリというのは、デザイナー側とバイヤー側が直接に会してビジネス上の冷徹でしたたかな交渉が行われる商業(ビジネス)の空間でもある。 若い女性の中には、商人によって(金儲けのために)ビジネスのツールとして作りだされ、雑誌などの各種メディアで流されている虚像を本当の像だと信じ、その像に近づこうとパリにフワフワとやってきてしまう事例が言われている。日本の若い女性でも、パリに来てある期間その実態を自分の目で見るうちに、自分が虚像を信じていたにすぎないことに気づかされ、やがて鬱状態になったり責められているように感じ苦しんで帰国していく事例も指摘されている(→パリ症候群を参照のこと)。 各節とも日本語での五十音順。パリ近郊に本社及びそれに類する事業所等を置く企業も含める。 2007年現在、イル=ド=フランス地域圏では約58万5,000人が高等教育を受けており、フランス全土の4分の1強にあたる。特に1990年代のフランス国立行政学院(ENA)のストラスブール移転や高等師範学校のリヨン校などの脱中央化の動きもみられるが、大部分の名高い国立学校は常にパリ地方に設置されている。 12世紀以降、パリはヨーロッパにおける知識の大集積地のひとつで、特に科学技術と哲学分野に秀でていた。フィリップ2世が大学の構成員に対して特権与えた西暦1200年はパリ大学の設立の年とされ、人々に象徴的に記憶されている。そこでは教育が行われた場所である寄宿舎(寄宿学校)が学部を構成した。ソルボンヌ寮の創設は1257年を起源とする。大学は、サント=ジュヌヴィエーヴの丘を中心として、カルチエ・ラタンに発展した。カルチエ・ラタンは、現在でも、パリ大学を含む高等教育機関の重要な中心地である。 18世紀以降、いくつかの専門職のために専門化された高等教育機関が創設され、現在のグランゼコールの起源となった。エコール・ポリテクニークおよび高等師範学校はともにフランス革命期に創設された。近代のパリ大学は、19世紀、法・医・薬・文・神・理の6学部に組織化された。20世紀、五月革命後には多くの学生が強く社会問題を考えたが、ソルボンヌはその震源地となった。その結果、パリ大学は、それぞれ専門分野を相対的に限定された13の個別の大学へと分割再編された。 パリ市内は、現在も大学の中心地であり続けている。パリ第1からパリ第7までの各大学は再編されて左岸の3つの区(5区、6区、13区)に存在している。カルチエ・ラタンには、パリ・ソルボンヌ(パリ第4)大学、高等師範学校、コレージュ・ド・フランスといった歴史的施設が残り、重要な地位を今も保ち続けている。 また、ほかの高等教育機関もこの地区に存在する。パリ政治学院、パリ第1大学、パリ第2大学、ジュシュー・キャンパス(Campus de Jussieu:パリ第6大学とパリ地球物理研究所による複合研究施設)、パリ第3大学、社会科学高等研究院、古文書学校、美術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学(EPCI)、応用美術研究所(LISAA)、パリ国立高等鉱業学校(ENSMP)、パリ高等化学学校(Chimie ParisTech)、生活工業・環境科学研究所(AgroParisTech)、パリ高等電子工学研究所(ISEP)、パリ企業経営学院(IAE de Paris)などである。なお、パリ第9大学、エコール・ポリテクニーク、エセック経済商科大学院大学などは、いずれも郊外に移転している。大学街は東部に広がり、かつて5区にあったパリ第7大学は、フランス国立図書館が移転した13区において、複数の大学施設を一般公開している。国立高等工芸学校が1912年からイタリア広場近くに迎え入れられている。 1960年代以降、バンリューに大学が作られ始めたが、その先鞭となったのは1964年にナンテールに作られたパリ第10大学である。同時期には複数のグランゼコールが、特に広大な敷地を求めて、同様にパリの中心部を去っている。パリの南にあるサクレー台地は重要な研究拠点となっている。その広大な大地には、パリ第9大学やグランゼコール(HEC経営大学院は1964年、高等電子学校は1975年、エコール・ポリテクニークは1976年にそれぞれ移転してきた)のほか、サクレー研究所などの公的研究所や民間の研究施設が多数存する。 パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブール(家具修理)、エコール・エティエンヌ(グラフィック・アート。特に装丁)が有名である。2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学である。園芸に関するものは、エコール・デュ・ブルーユである。 2005年から2006年の学校年度における公立学校の児童・生徒数は、26万3,812人であった。うち13万5,570人が初等教育、12万8,242人が中等教育を受けていた。同年度の私立学校の児童・生徒数は13万8,527人で、うち9万1,818人が契約に基づく就学であった。パリには、優先的教育地域(ZEP)または優先的教育組織(REP)の施設(小学校214校、コレージュ32校。5人に1人の割合)がある。 2007年現在、881校の公立学校があり、うち323校が幼稚園、334校が小学校(日本の5年生までに相当)、6校が病院内学校、110校がコレージュ(日本の小学6年生および中学生に相当)、72校がリセ(普通および科学技術とも含む)、34校が職業リセおよび2校が公的実験リセである。他方、契約に基づき入学する私立学校は256校であり、うち110校が幼稚園・小学校・特別学校、67校がコレージュ、73校がリセ(普通および科学技術)および5校が職業リセであった。 中等教育については、5区にそれぞれ所在するリセ・ルイ=ル=グランやリセ・アンリ=キャトルが全国的かつ国際的にも有名である。 市内にはメトロ(地下鉄)とRER(高速地下鉄)がくまなく走っている。 メトロは14号線まであり、運営はRATP(パリ市営交通)が行っている。 2006年にパリ市最南端でトラム(路面電車)が開通した。このほか郊外を結ぶトラムがある。 パリ市内では道路混雑を避けるため自動車交通の抑制が目指されており、バス・自転車専用レーンが多く設置され、一方通行路も多くルートが複雑であるため、不慣れであると運転が難しい。また主要交差点の多くは、ラウンドアバウト(ロータリー)方式となっている。地元民の多くは、狭い市内で駐車場所を確保するために前後間隔を密着させて道路脇に縦列駐車を行っており、路上駐車が非常に多い。 パリ市域の外縁を環状高速道路ペリフェリックが取り巻いており、その内側の市域には立体交差式の自動車専用道はあるものの、高速道路は存在しない。 パリは世界屈指の観光都市である。 「芸術の都」などのイメージを前面に出す戦略をとっている。 おもな集客装置は、歴史的な建造物の数々(世界遺産「パリのセーヌ河岸」に入っている建物など)、数々の美術館に収められた著名な美術品、有名料理店で提供されるフランス料理、高級銘柄を扱う店舗などである。 建造物は、中世以前のものも残るが、第三共和政期のパリ改造やベル・エポックの建造物、あるいはフランス革命200周年期のグラン・プロジェの建造物など、各時代の世界の最先端のものが多い。美術館には、フランスで活躍した著名な芸術家の美術品の他、戦利品や購買によって収集された世界一級の収蔵物が並ぶ。 →#主な観光名所 「芸術の都」という異名が言い表すように、パリは美術・音楽・演劇・バレエ・食文化・ファッションなど、さまざまな芸術の世界的な中心地として名を馳せている。1989年には欧州文化首都に選ばれた。 ルーヴル美術館やオルセー美術館、ポンピドゥーセンター(国立近代美術館)などの美術館に世界一級の美術品が多数収蔵され、ざっくりと時代ごとに美術館が割り振られている。古代から19世紀半ばまでの美術品はルーブル美術館で観ることができる。モナ・リザ、サモトラケのニケ、ミロのヴィーナスなど世界中の誰もが知っている名作をはじめとして、ナポレオンがエジプト遠征時に集めた古代エジプトの考古学品なども含めて常設展示数はおよそ2万6,000点にのぼり、総所蔵作品数は30万点を超える。ざっと観ても数日かかり、全部じっくり観ると1か月ほどかかるとも言われる。ルーヴルは建物自体もかつての王宮であり、入場者数は年間800万人以上である。19世紀以降の絵画、つまり印象派、象徴主義、アール・ヌーヴォーの絵画などはオルセー美術館に展示されている。 パリ市が運営する公共の美術館・博物館は市内に14あり、パリ・ミュゼ(fr:Paris Musées)という市の組織が管轄している。これらパリ市所蔵の美術コレクションは国のコレクションに次ぐ規模を誇る。2020年1月、パリ・ミュゼはパリ市立美術館・博物館が所蔵する約10万点の作品の無料ダウンロードを許可すると発表した。 パリ・ミュゼは、この他に下水道博物館、野外彫刻美術館、パビリオン・デザール(展示会場)も管轄している。 美術教育機関としては、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)をはじめ、グランド・ショミエール芸術学校などがある。 世界で一番歴史の長い劇団、1680年創設のコメディ・フランセーズがあり、同名の劇場でその舞台を観ることができる。 パリには1661年に王立舞踏アカデミーとして創設された世界最古のバレエ団「パリ国立オペラ」があり、旧オペラ座のガルニエ宮や新オペラ座のオペラ・バスティーユでその公演を観ることができる。 パリは音楽都市のひとつである。シャンソンを聞かせるライブハウスがいくつもある。 パリには管弦楽団が多数あり、コンサートが頻繁に行われている(一時期は世界一流のレベルだったが近年はいくらか厳しい評価も聞かれる)。 毎年夏至の日6月21日にはFête de la musique(音楽祭)がフランス全土で開かれ、パリでもさまざまな場所で、ジャズやブルースなども含めてさまざまなジャンルの音楽の演奏が行われる。 パリ国立高等音楽・舞踊学校(コンセルヴァトワール・ドゥ・パリ)をはじめ、エコールノルマル音楽院、スコラ・カントルムなどがあり、世界から才能のある若者が一流のバレエや音楽を学びにやってくる。 パリはガストロノミー(食によるおもてなし、食文化、一流の料理作り)の中心地でもあり、有名なレストランがいくつもあり(ギッド・ミシュランでは三ツ星が例年10店前後)、世界で最高レベルのシェフの料理を堪能することができる。またフランス料理を習得しようと若い料理人たちがそれら有名店で修行に励んでいる。料理競技会も開催されている。 16世紀前半の神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス国王フランソワ1世の生涯の宿敵でありながら、フランス文化を、それ以上にパリの文化をこよなく愛し、18世紀の啓蒙時代には、プロイセン王国中興の祖であるフリードリヒ2世はヴォルテールと交流しパリから招き、また、ロシア帝国女帝エカチェリーナ2世はヴォルテールやドニ・ディドロと交流し、ディドロをパリから呼び寄せた。 テニスのグランドスラム(4大大会)の一つ全仏オープンの開催地である。自転車ロードレースのツール・ド・フランスは、1975年以来シャンゼリゼ通りがゴール地点に設定されている。以前はパリ=ダカール・ラリーの発着地であった。陸上競技では、2003年世界陸上が開催された。またパリに限らないが、ペタンクも各地の街角で行われている。 パリで最も人気のサッカークラブはパリ・サンジェルマンである。リーグ・アン、クープ・ドゥ・フランス、クープ・ドゥ・ラ・リーグ、トロフェ・デ・シャンピオンでは、いずれの大会でも最多優勝を飾っている。 パリには他にも数多くのプロおよびアマチュアのサッカークラブがあり、パリFC、レッドスターFC93、スタッド・フランセ・パリ、UJAマッカビ・パリ・メトロポールなどが存在している。パリ16区内にあるスタジアムパルク・デ・プランスは、FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権などでも使用されている。 ラグビーのトップリーグトップ14所属のスタッド・フランセ・パリが本拠地にしている。同様にトップ14所属の強豪ラシン92は、パリ近郊ラ・デファンスを本拠地にしている。 パリでは過去に、1900年パリオリンピックと1924年パリオリンピックが行われている。そして2024年パリオリンピックも予定されており、開催されれば100年ぶり3度目の夏季オリンピックとなる。なお、フランスでの五輪開催としては1992年アルベールビルオリンピック以来、32年ぶり6度目のことである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "パリ市(パリし、仏: Ville de Paris)、通称パリ(仏: Paris、巴里)は、フランスの首都。イル=ド=フランス地域圏の首府。フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。 ルーヴル美術館を含む1区を中心として時計回りに20の行政区が並び、エスカルゴと形容される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "市域はティエールの城壁跡に造られた環状高速道路の内側の市街地(面積は86.99km。参考:東京都・山手線の内側は63km、ニューヨーク市・マンハッタンは59km)、および、その外側西部のブローニュの森と外側東部のヴァンセンヌの森を併せた形となっており、面積は105.40km。ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。市内の地形は比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである。北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい北大西洋海流と偏西風によって1年を通して比較的温暖となっており、西岸海洋性気候の代表的な都市である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "EUを代表する大都市として君臨し、アメリカのシンクタンクが2020年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、ロンドン、ニューヨークに次ぐ世界3位の都市と評価された。日本の民間シンクタンクによる2017年発表の「世界の都市総合力ランキング」では、ロンドン、ニューヨーク、東京に次ぐ世界4位の都市と評価された。世界500大企業の本社数では、ニューヨークやロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。2021年のイギリスのシンクタンクの調査によると、世界10位の金融センターと評価されており、EU圏内では首位である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "パリは世界屈指の観光都市である。歴史的な建物を観ることができ、ルーヴル美術館、ポンピドゥーセンターなどをはじめとした一流の美術館で膨大な数の一流の美術品を観賞できる。また世界最古のバレエ団や、世界でもっとも古くから存在している劇団などの公演を楽しむこともできる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "パリ出身者・居住者は男性がパリジャン(仏: Parisien、フランス語発音: [parizjɛ̃] パリズィヤン)、女性がパリジェンヌ(仏: Parisienne、フランス語発音: [parizjɛn] パリズィエンヌ)と呼ばれる。1960年代以降、旧植民地であったアフリカ北部・中西部やインドシナ半島、さらに近年は中近東や東欧、中国などからの移民も増え、パリジャン・パリジェンヌも多民族・多人種化している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "市域人口は1950年代の約290万人を絶頂に減少し続けたが、ここ数年は微増傾向に転じており、2011年現在で約225万人である(INSEEによる)。2011年の近郊を含む都市的地域の人口では1,200万人を超えており、EU最大の都市部を形成している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "パリ市の標語は「たゆたえども沈まず(ラテン語: Fluctuat nec mergitur, フランス語: il est battu par les flots mais ne sombre pas)であり、これはパリの紋章の下部に書かれている。もともと水運の中心地だったパリで、水上商人組合の船乗りの言葉だったが、やがて戦乱、革命など歴史の荒波を生き抜いてきたパリ市民の象徴となっていった。この標語は特に2015年のパリ同時多発テロ事件の直後、パリの街角に多数掲げられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "語源はParisii(パリシイ、パリースィイとも。複数形。単数形はParisius「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。 欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリージ)と発音される。フィンランド語で Pariisi(パリースィ)と発音されるのはこれに由来しているという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム)Lutetia(Parisiorum)、 「パリシイ族の、水の中の居住地」(シテ島のこと)とも呼ばれていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "西岸海洋性気候に属し、暖流である北大西洋海流の影響で高緯度の割には温暖である。夏(6月 - 8月)は気温が15度から25度までの範囲で、冷涼で乾燥しており過ごしやすいが、年間数日程度は32度を超える暑さとなる。しかし、2003年夏には30度以上の気温が数週間も続き、40度近い気温が観測され1万人以上の死者を出した。春(3月 - 5月)と秋(9月 - 10月)は天候は不安定で、暖かい時期と寒い時期が同居し、10月でも真冬並みの寒さとなることもある。冬(11 - 2月)は、もともと高緯度で昼間の時間が短いうえ、曇りや雨の日が多いため日照時間が少ないが、降雪・積雪はあまり見られない。年間数日程度は気温が氷点下5度以下まで下がる。しかしながら近年の冬は寒さが厳しく、2009年 - 2010年の冬にはパリ郊外では気温が-10度から-20度前後まで下がっているなど、寒気の影響を受けやすくなっている。年間降水量は555.7mmであり、それほど多くはない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "パリの気象観測は中心部から離れた14区にあるモンスーリ公園で行われている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "16区 - 17区につながるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18区 - 20区からつながる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており、近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単に「郊外(バンリュー)」という場合、こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的な住宅衛星都市となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "パリより電車で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの衛星都市があり、近代建築によって町の機能が整えられている。中でもラ・デファンス地区には「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高層ビル群が集中しており、多数の企業の支店を抱える新都心となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "公園はパルク(Parc)、庭園はジャルダン(Jardin)と呼ばれ区別されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "パリには東西2つの大きな森があり、パリ市民の憩いの地となっている。現在はこの森もパリ市の敷地に含まれる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "パリは東西南北に4つの主要な墓地があり、多くの著名人が眠っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この他、パリ中心部に位置するパンテオンにもルソーやヴォルテール、ヴィクトル・ユーゴー、デカルトといった偉人たちが埋葬されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "パリ市の人口は2011年現在、約225万人で、近年は微増傾向にある。特に、再開発が進む南部や移民流入の著しい東部での人口増加が目立っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この間、郊外(市域外)の人口は増加している。20世紀以降、かつて城壁に囲まれていた市域外にも市街地が大きく拡大し続け、現在、イル=ド=フランス地域圏(パリ地域圏)全体の人口は1,198万人にのぼる。パリ市域内もおおむね商業・業務・住宅地としての活気と威信を維持しており、アメリカの大都市などで見られる都心部の荒廃や郊外への人口流出(インナーシティ問題)はさほど見られない。むしろ、移民の多い一部の郊外での治安の悪化が顕著である(バンリュー参照)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "パリはほかの大都市同様、学生、若者、老人が多い一方、子供を有するカップルの割合は低い。1999年、パリ市の世帯数の22パーセント、人口数の40.7パーセントは1人以上の子供を有するカップルであったが、単身世帯数の割合は27パーセント、カップルのみの世帯数の割合は19パーセントであった。パリ市では47パーセント(フランス全体の平均は35パーセント)の人々が独身で、37パーセント(同50パーセント以上)が結婚している。また片親世帯の割合が26パーセント(同17パーセント)と高い。離婚率ももっとも高く、婚姻100件のうち55件は離婚に至っており、パリ市民の7.7パーセントを占めている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "出生率は1,000人中14.8人であり、国平均の13.2パーセントより高い。一方、子供の数は世帯あたり1.75人で、国平均の1.86人より少ない。半分の世帯において子供は1人である。パリ市では住居が狭く高額であることが、その主因である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "高所得者層はおもに西部に、低所得者層や移民はおもに北東部に居住している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "パリ市の平均世帯所得はフランス全体の平均より高く、隣接する郊外のオー=ド=セーヌ県、イヴリーヌ県、エソンヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県の4地域の平均所得も国内で最高水準であり、イル・ド・フランス地域圏に高所得者層が集中している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかしパリ市内の社会的格差の状況は、さらに複雑である。伝統的には豊かなパリ市西部と、貧しいパリ市東部という構図がみられる。実際、7区の平均世帯所得(2001年)は3万1,521ユーロにのぼり、19区の1万3,759ユーロの2倍以上となっている。イル・ド・フランス地域圏において、パリ6区、7区、8区、16区はもっとも高所得の地域、10区、18区、19区、20区はもっとも低所得の地域に分類される。さらに、市内の19区の状況はそのまま所得が低い北東部郊外のセーヌ=サン=ドニ県に連なる一方、16区の外縁は西部の豊かな郊外に続く。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "18区、19区、20区にはパリの貧困層の4割が集中し、学校の中退、失業、健康問題などが集中している。EU域外からの移民は、フランス国内の出身者に比べて、貧困な状況に置かれていることが多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "18区はマグリブや、最近はサブサハラ地域のアフリカからの移民が多い。フランスの国勢調査では法律上、民族や宗教の属性を問うことができないが、出身地の情報は得ることができる。1999年の国勢調査によると、パリ都市圏はヨーロッパでもっとも多民族化が進んでいる地域のひとつであり、人口の19.4パーセントがフランス本国外の出身である。また、パリ都市圏の人口の4.2パーセントは1990年から1999年の間にフランスにやってきた新しい移民であり、その大半は中国またはアフリカ出身である。さらにパリ都市圏の人口の15パーセントはイスラム教徒である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "パリへの大量の移民の第一波は1820年代、ドイツの農民が、農業危機とナポレオン・ボナパルトの侵攻にともなって移住してきたことによる。その後、今日に至るまで、何度か移民の波が続いている。19世紀はイタリア人と中央ヨーロッパのユダヤ人、1917年のロシア革命後はロシア人、第1次世界大戦中は植民地の国々から、大戦間期はポーランド人、1950年代から70年代はスペイン人、イタリア人、ポルトガル人、北アメリカ人、またアフリカ・アジア地域の独立後はユダヤ人が移民してきた。移民の居住区域は、それぞれ出身地ごとに異なっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "パリ盆地を流れるセーヌ川の中洲シテ島は古くから同川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場・闘技場の遺跡(アレーヌ・ド・リュテス)や浴場跡が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "5世紀末にフランク族の王クローヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このとき、フランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代わってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(のちにルーヴル宮殿に発展する)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心のひとつでもあり、11世紀ごろからパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学は特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル(Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "12世紀にはパリ水運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "13世紀になると、ルイ9世によってサント・シャペルが建築されたほか、ノートルダム大聖堂も一応の完成を見る。パリは成長を続け、セーヌ左岸も再び人口を増やしていた。王たちは次第にヴァンセンヌ城を居城とするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "14世紀初頭のパリの人口は約20万人と推定され、ヨーロッパ随一の都市であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1328年にカペー朝が断絶したことなどを契機とする百年戦争の最中、パリ商人頭となったエティエンヌ・マルセルは王に匹敵する権力を持ち、王と対立した。シャルル5世は、1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ、1370年にサン=タントワーヌ要塞(のちのバスティーユ牢獄)を築いた。また、ルーヴル宮殿を王宮とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "15世紀初めにおいても、パリの支配権と王および王族の確保をめぐって、オルレアン派(のちにアルマニャック伯を頼って同盟した後アルマニャック派)とブルゴーニュ派との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。ジャンヌ・ダルクの活躍などもあり、1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派と和解して勢力を伸ばしたシャルル7世率いるフランス軍は1436年にパリを奪還し、翌1437年に改めてパリが首都と定められた。その後、1453年にフランスにおけるイングランド領の大半が陥落したことにより、百年戦争は終結した。百年戦争後のパリの人口は10万人程度にまで減少していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この後もフランス王はパリには住まず、ブロワ城やアンボワーズ城などのロワール渓谷の城を好んだ。特にフランソワ1世は、ロワールにシャンボール城を築いたほか、パリ近郊にフォンテーヌブロー宮殿を発展させた。もっともフランソワ1世は、公式的には1528年にパリを居城と定めた。パリでは学術が発展し、コレージュ・ド・フランスにおいて、大学教育課程(理論とリベラルアーツ)が近代教育課程に加えられ、王が望んだ人文主義や正確な科学が研究されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "16世紀後半、ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9世を継いだアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日にアンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会(Seize)という組織によって統治されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その後、カトリック派からの反発を招いたアンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1594年、アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。ヴァロワ朝後期の王と異なり、アンリ4世はパリをおもな居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。ルーブル宮殿の拡張、ポンヌフ、ヴォージュ広場、ドフィーヌ広場、サン・ルイ病院の建設がなされた。フォンテーヌブロー宮殿もよく用いられ、次のルイ13世はこの宮殿で生まれている。ほかにもサン=ジェルマン=アン=レーにも居城があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ルイ13世の治世下にパリは大きく変化した。その母のマリー・ド・メディシスによるテュイルリー宮殿やリュクサンブール宮殿、リシュリューによるパレ・ロワイヤルが建設され、ソルボンヌ大学の改築も行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "太陽王ルイ14世の即位後まもなくフロンドの乱が起こり、反動的に貴族勢力が打倒された結果、絶対王政の確立が促された。ルイ14世は、1677年に居城をヴェルサイユに移した。財務総監のジャン=バティスト・コルベールはパリでの豪華な建設事業を行い、太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。廃兵院などはこのころの建築である。しかし王自身はパリを好まず、パリ郊外の広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し、17世紀半ばには人口約50万人、建物約2万5,000棟に達していた。以降、政治の中心地は、ルイ16世の治世末期までヴェルサイユに移ることとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ルイ15世は1715年に居城をいったんパリに戻したが、1722年にはヴェルサイユに居城を再度移してしまう。1752年にはエコール・ミリテールが創設され、1754年にはサント・ジュヌヴィエーヴの丘に教会(現在のパンテオン)が建設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ルイ16世治世下の1784年から1790年にかけて、新たな城壁であるフェルミエー・ジェネローの城壁が建設される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "18世紀は、やはり経済的成長の世紀で、人口が増大した。フランス革命直前のパリの人口は64万人を数えた。啓蒙主義、啓蒙思想が発展し、ヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、『百科全書』のドゥニ・ディドロ、シャルル・ド・モンテスキューらが活躍した。宮廷がヴェルサイユに置かれたのに対抗し、王族のオルレアン公がパレ・ロワイヤルを増築改修すると、この地はパリ随一の繁華街を形成し、啓蒙思想家のみならずあらゆる階層の人々を引きつけ、とりわけ急進的な革命家の根拠地ともなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1790年にパリ県が成立し、1795年にセーヌ県へと改称される。パリ市は県庁所在地とされていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "混乱を経た1800年当時の人口は、54万7,756人であった。ナポレオン1世は、パリを新しいローマとすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門やエトワール凱旋門を建て、ウルク運河(en)を開削するなどした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "第一帝政後の19世紀のパリは、復古王政期および1848年革命(二月革命)を経て、第二共和政、第二帝政さらに第三共和政へと、王政ないし帝政と共和政が交錯し、政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的・文化的には繁栄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "文化面では、ヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラ、スタンダールといった文豪に加え、19世紀後半にはエドゥアール・マネやモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーといった印象派の画家が活躍し始めた。スーラ、ゴッホ、ポール・ゴーギャンなどのポスト印象派、新印象派へと続くものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1837年にはパリ・サン=ジェルマン鉄道のサン・ラザール駅、1840年にヴェルサイユ・左岸鉄道のモンパルナス駅、1840年にパリ・オルレアン鉄道のオステルリッツ駅、1846年に北部鉄道 (フランス)のパリ北駅、1846年にソー鉄道のアンフェール城門駅(ダンフェール=ロシュロー駅)、1849年にパリ・リヨン鉄道のリヨン駅およびパリ・ストラスブール鉄道のストラスブール駅(パリ東駅)がそれぞれ建設された。他方、1841年から1844年にかけてティエールの城壁が築かれ、こららの放射状路線をつなぎ、城壁内の補給路を確保するために、プティト・サンチュールが1852年から建設され始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行われた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発や社会基盤の整備が行われた。水道の水はジェネラル・デゾーが供給するようになった。これらによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこのときの状態をとどめている。1860年、ティエールの城壁内のコミューンがパリに併合された。併合後である1861年当時の人口は169万6,141人だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "普仏戦争でナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。翌1871年1月に第三共和政の政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューンが発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな被害を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "クレディ・リヨネのパリ支店支配人Mazeratがリヨン本店支配人Letourneurに書き送ったところによると、普仏戦争以後に企てられた全事業でロスチャイルドとその庇護下のオートバンクが独占的役割を果たした。パリ市はロスチャイルドらより2億フランを借り受け、ドイツへ占領税を支払った。20億フランのパリ市公債もロスチャイルドらが引き受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。パリは「光の都」と呼ばれ、ロンドンに匹敵する経済都市に成長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "20世紀にはさらに工業が進展し、このころまだまとまった敷地が残っていたパリ郊外にルノーやシトロエンの工場ができた。パリで働くための移民が集まり、赤いバンリューの起源となった。1904年6月、1,000万フランのロスチャイルド財団が一族6人と北部鉄道 (フランス)の役員3人を発起人として設立された。この財団は建築家を直接雇用して財団所有の事務所に集め、低廉住宅の建築様式を共同作成させた。優秀作の意匠権は賞金と引き換えに財団が所有した。1912年12月23日のボンヌヴェ法は全会一致で可決され、パリ市が低廉住宅を建設するために要請していた2億フランの借款を認めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利により辛くも陥落を免れた。大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くのボヘミアンたちを惹きつけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1か月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、1940年6月11日に首都機能をトゥールに移転。パリは6月13日に非武装都市宣言を行ったことで市街戦は回避され、翌6月14日にはドイツ軍が進駐し、パリを無血で占領した。パリが外国軍の手に落ちるのは4度目(過去3回は百年戦争、ナポレオン戦争による敗北、普仏戦争)であった。 6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者はのちに対独協力者(コラボラトゥール)として糾弾されることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月24日、アメリカ軍がパリ郊外に達しドイツ軍と交戦。翌25日にはアメリカ軍と自由フランス軍が市内中心部に達し、連合国による解放が実現した。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍は、ヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "20世紀のパリは文化的にも成熟し、アルベール・カミュやジャン=ポール・サルトルらが実存主義を生み出し、マルセル・プルーストやアンドレ・ジッドなどの小説家が輩出された。1960年に創刊された前衛雑誌『テル・ケル』にはロラン・バルト、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァらが名を連ね、構造主義とポスト構造主義は世界的な影響力を持ち、フランス現代思想が隆盛を極めた。映画界では、1950年代末から1960年代中盤にかけて、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらヌーヴェルヴァーグが台頭した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "人民戦線の頃以降のフランス共産党の党勢拡大などを背景として、1968年1月1日、セーヌ県が廃止され、パリは特別市となった。このような政治的や文化的状況下で、五月革命が起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1950年代以降のパリでは、おもに郊外(バンリュー)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。2015年11月にはパリ同時多発テロ事件が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県(当初の名称はパリ県)に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地であった。当時の市域は現在より狭く、フェルミエー・ジェネローの城壁(現在は、ほぼその跡に沿ってメトロ2号線・6号線が走っている)の内側のみであった。当初は、48の地区に細分化されていたが、各地区を統合する形で12の行政区が設けられるに至った。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に新たな20の行政区が設けられた。これらの行政区は、1795年10月11日以降存在していた12の旧行政区から置き換えられたものである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1968年1月1日に完全施行された「パリ地域の再編に関する1964年7月10日法」による再編以降、セーヌ県が廃止され、パリは県とコミューンの地位を併せ持つこととなる。パリは、1860年のパリ拡張の際に創設された20の行政区と18の選挙区に分けられている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1976年にイル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "「パリの地位と都市計画に関する2017年2月28日法」では、コミューンと県を統合する特別自治体を2019年1月1日に創設することが規定され、同日、パリは「パリ市」という特別自治体に移行した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "市内20の区(arrondissement)は、パリ市街地の1区から、右回りの渦巻状に番号がつけられている。1 - 4、8 - 12、16 - 20区は右岸に、5 - 7、13 - 15区は左岸に位置する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "この街の行政的地位は何度も変更されている。1871年3月26日から5月22日まで、パリには、蜂起勢力である代表制普通選挙による議会をともなうパリ・コミューンによる政府が置かれた。1870年に成立した第三共和政は、この出来事への恐怖心を持つ保守主義者たちによって運営されていた。彼らは、パリの行政権をセーヌ県知事(préfet de la Seine)に、パリの警察権を警視総監(préfet de police)にそれぞれ与えることを内容とする1884年4月5日法を制定した。他方、市町村選挙で議員が選出されるパリの議会は、毎年、主として代表者としての機能を有する「議長」を選出していた。すなわち、パリには市長がいなかった。また街の予算は、国の同意を得る必要があった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1975年12月31日法(1977年の市町村選挙の際に施行された)は、109人の議員で構成される市議会かつ県議会であるパリの議会を創設し、議員によってパリ市長を選出することにした。区の委員会は、諮問と推進の役割を有していた。委員会の構成員は、選挙人・パリ市長・パリの議会によって選出された。警視総監は国家により任命され、警察権を行使する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "パリ・リヨン・マルセイユおよびコミューン間の協力による公共機関に関する1982年12月31日法が、パリには1983年の市町村選挙の際に施行され、163人の議員を選出することになったほか、特に予算に関する議会の権限が拡大し、委員会を廃して区議会が創設された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2002年5月2日の2002-810号デクレ以降、行政警察権がパリ市長と警視総監に共有されることとなり、その実現のために、両者は互いの活動方法を相互に承認することとなった。承認手続に関しては、パリ議会が審議したうえ、毎年その予算および決算を承認する必要がある (この予算は国家によって決められたものである)。パリ市長はこれ以降、生活安全分野に関する限り、たとえ警視総監の手中にある権限に関するものであっても関与することになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "パリの議会の活動は、パリ市が資本を保有する会社の仲介人やパリの混合経済会社(SEM)によっても実現される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ほかの主要都市とは異なり、パリとその郊外のコミューンとの間、« 大パリ » 内には、固有の予算をともなうコミューン間の連携が存在しない。もっとも、パリとその郊外の県との間では、下水道組合(SIAAP, Syndicat interdépartemental pour l’assainissement de l’agglomération parisienne)の再編を行った。また、イル=ド=フランス交通組合(STIF)は、イル=ド=フランス地域圏の公共機関であり、パリとその郊外の総合的な交通網整備を行う組織である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ほかの国際的な大都市と異なり、おおよそ環状のペリフェリックで区切られる中心市街のみを範囲とするパリの街については、その実際的な範囲を明確にする必要がある。上述各城壁の変遷で見るように歴史的かつ政治的な配慮が障害となって、« 大パリ » を管理する行政機関が存在しないことは、パリ都市圏の現在の主要な問題のひとつである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "現在のパリの領域は、上述概要の項で指摘されているように日本の山手線内よりやや広い程度である。その市域の境界線は歴史的で時代錯誤な経緯の産物、あるいは現在はパリ都市圏に取り込まれ、消えてしまった地形に適合していたにすぎないものであるにもかかわらず、市域の内外を問わず、パリ都市圏の人々には共通の行政的需要ならびに経済的・社会的関心がある。ところが、各コミューンは行政的・税制的に独立しており、コミューンや県の枠を超えて存在する集団的需要(交通や住宅など)に関する組織については、都市圏規模のまとめ役となる機構が存在しない。イル=ド=フランス地域圏となると、地域の約80パーセントに農村部が残っており、パリ都市圏のための枠としては大き過ぎ、« 大パリ » たるパリ都市圏内の適切な連携に適っていない現状がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "初代市長はジャン=シルヴァン・バイイ(在任:1789年7月15日 - 1791年11月18日)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1795年 - 1848年の2月革命まで、12の区に分割され各区にConseil municipal(議会)が置かれ自治が行われたため、パリ市長は置かれなくなった。1795年 - 1977年の間、わずかな例外(2月革命後の4人の市長)を除いて市長は置かれず、各区のConseil municipalの議長が実質上は市長のような務めを果たした。1977年以降は「パリ市長」がパリ県知事(Préfet)とコミューンの首長の性格を併せ持っていた。2019年に県とコミューンを統合した特別自治体「パリ市」が誕生したため、パリ市長はその首長となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2011年の当初予算(街および県としてのもの)は約85億8,200万ユーロで、うち69億600万ユーロが行政活動に、16億7,600万ユーロが投資に充てられている。債務残高は約26億9,600万ユーロである。2008年の県債は266億ユーロにのぼる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "パリ大審裁判所がシテ島のパレ・ド・ジュスティス (パリ)に置かれている。この裁判所は、フランスの大部分の訴訟事件を取り扱う巨大司法機関である。各区には小審裁判所が置かれている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "パリ商事裁判所は、やはりシテ島(コルス河岸)に置かれている。パリ違警罪裁判所は19区(rue de Cambrai)、パリ労働審判所は10区(rue Louis-Blanc)にそれぞれ置かれている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "パリのみを管轄する裁判所以外に、複数の県を管轄するパリ控訴院もパレ・ド・ジュスティスに置かれている。その管轄は、セーヌ=エ=マルヌ県、エソンヌ県、セーヌ=サン=ドニ県、ヴァル=ド=マルヌ県、ヨンヌ県である。パリ控訴院の管轄区域には、フランス全人口の12.6パーセントが暮らしている。なお、ほかのイル=ド=フランス地域圏内の各県およびウール=エ=ロワール県は、ヴェルサイユ控訴院の管轄となる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "パリは、4区所在のパリ地方行政裁判所の管轄に属する。控訴は、パリ行政控訴院に対して行うことになる(ほかに、マタ・ウトゥ、ムラン、ヌーヴェル・カレドニー、フランス領ポリネシアの各地方行政裁判所からの控訴を受ける)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "パリ(1区)には、司法と行政それぞれの最高裁判所である破毀院と国務院(コンセイユ・デタ) に加え、憲法評議会(憲法院)も置かれている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "パリのいくつかの刑務所は今日でも有名である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "右岸のグラン・シャトレは、王の刑務所を内部に置き、その別館(左岸のプティ・ポンにあるプティ・シャトレ)とともに、14世紀から破壊される1782年まで投獄所および拘置場所とされていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "コンシェルジュリー、バスティーユ牢獄、ヴァンセンヌ城の3つの刑務所は、歴史的なシンボルとなっている。コンシェルジュリーはパリの裁判所固有の刑務所であったが、フランス革命の間にマリー・アントワネットやほかのギロチン犠牲者を迎えたあとも、1914年まで拘置所として機能し続けた。バスティーユ牢獄は1370年から構築され、リシュリューが権力を振るっていたころに国の刑務所となった。 ヴァンセンヌ牢獄は、やはり1784年まで国会の刑務所であったが、その名の通りの投獄の場というよりもむしろ軟禁場所であり、第二帝政下までしばしばそのように使われていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1830年から1947年まで11区にロケット刑務所があったが、パリで唯一残存する刑務所(兼拘置所)は1867年に開設されたサンテ刑務所のみである。イル=ド=フランス地域圏の主要な刑務所兼拘置所(Maison d'arrêt、メゾン・ダレ)は、フレンヌ (ヴァル=ド=マルヌ県)とフルリー=メロジ(エソンヌ県)にある。ほかに、ポワシーにある困難受刑者が収容されるメゾン・サントラルがある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県と同様にパリ警視庁の管轄下にある。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "イル=ド=フランス地域圏で犯される重罪および軽罪は、フランス全土での4分の1を占める。パリ市内、その外側の「小さな王冠」(セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県)、さらにその外側の「大きな王冠」は、それぞれイル=ド=フランス地域圏内の全認知件犯罪のおおむね3分の1ずつが発生している。パリでみられる犯罪類型としては窃盗が大部分で、全重罪および軽罪の3分の2を占める。2006年には、25万5,238件が認知され、犯罪発生率としては人口1,000人あたり118.58件であった。これは、全国平均61.03‰の約2倍であるが、大都市のみに限ってみれば平均的な数値である(リヨン109.22件、リール118.93件、ニース119.52件、マルセイユ120.62件)。女性被告人の割合は15パーセントを下回り(全国平均をわずかに下回る程度)、未成年の割合は11.02パーセント(全国平均18.33パーセントを7ポイント下回る)である。他方、外国人(有効な滞在許可証を所持しフランスに住居を有する者)の割合は、全国平均を上回る20.73パーセントである。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "パリでは、2008年の強姦事件数1,413件で発生率が0.6‰とフランス国内で2番目の高率であった。身体的暴行に関しては、2万7,857件であった。暴行を行うとの脅迫に関しては、2008年において、パリでは5,165件認知された。2008年の財産犯(窃盗、器物汚損、器物破壊)に関して、ブーシュ=デュ=ローヌ県に次ぐ件数が認知された。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "パリの中央集権主義はまた、この街がテロの犠牲者であることをも物語る。よく知られるナポレオン1世に対するサン・ニケーズ街テロ事件や、最近では、RER B線サン=ミッシェル=ノートルダム駅での爆弾テロがある。パリの歴史はこれらの象徴的価値の高い事件が刻まれたものである。これらは、この街での日常生活にとって取るに足りないというものではない。特に、ヴィジピラート計画(Plan Vigipirate)の実施により、観光地や首都の戦略的要衝地の近くに武装した警察、憲兵および兵士が警備しているのを目にすることになる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "数多くの病院がパリに設置されている。そのうちいくつかは特に古く、医療の伝統は中世にまでさかのぼる。651年にパリ司教だった聖ランドリーによって設立されたシテ島のオテル・デューは、パリでもっとも古い医療施設である。慈愛ともてなしの象徴であり、12世紀まではパリで唯一の病院であった。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "大部分の医療施設は、1849年1月10日法によって創設された公的医療施設であるAP-HP(Assistance publique - Hôpitaux de Paris、公的支援-パリ病院連合)に名を連ね、パリ市の後方支援をしている。地域圏およびパリの医療センターの役割も果たし、多くの医師や公務員を含む9万人以上が業務に従事している。5区にあるミラミオン館は、かつて病院の施設として使用されていたが、現在はAP-HPの博物館となっており、パリの医療の歴史を想起させている。AP-HPのパリ市内主要病院としては、ネッケル小児病院、コシャン病院、サルペトリエール病院、サン・タントワーヌ病院、サン・ルイ病院、ビシャ=クロード・ベルナール病院、ジョルジュ・ポンピドゥー欧州病院を挙げることができる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "他方、アンヴァリッド軍病院はAP-HPに属していないが、保健大臣の監督のもと国防大臣に権限が委任されており、退役軍人などの治療を行っている。同様に、国立アンヴァリッド研究所では、現役および退役軍人(その家族などの被保険者を含む)などが医療看護や外科的治療を受けられる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "パリの近郊「小さな王冠」では、パリ東・クレテイユ・ヴァル=ド=マルヌ大学(パリ第12大学)附属アンリ・モンドール大学病院センター(クレテイユ)、パリ南大学附属クレムラン・ビセートル大学病院センター(ル・クレムラン=ビセートル)、ル・ランシー=モンフェルメイユ・コミューン連携医療センター、ボジョン病院(クリシー)が有名な医療機関である。「大きな王冠」においても、AP-HPに属してはいないが、いくつかのコミューン連携の総合病院が存在する。たとえば、アルジャントゥイユのビクトル・デュプイ病院やヴェルサイユ医療センターを挙げることができる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "また、医療研究機関としては、1260年にルイ9世によってパリの視覚障害者救済を目的として設立されたキャンズ・ヴァン病院、いずれも軍の衛生部に属するヴァル=ド=グラース軍研究病院、ペルシー軍研究病院、ベガン軍研究病院を挙げることができる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "さらに、ヌイイ=シュル=セーヌには、1906年に設立された社会保障非受益者のための非営利・認可私立病院であるパリ・アメリカン・ホスピタルも特筆される。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "パリは、フランス全土でも医師の密度がもっとも高い街のひとつである。たとえば、2005年現在、パリの一般医は5,840人を下らないが、セーヌ=サン=ドニ県とヴァル=ドワーズ県には両県を合わせても3,349人の一般医しかいない。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "パリでは、公衆衛生を保証・保持するため、特に貧困層向けに、16の市立入浴施設が9つの区に分散設置されている。これらの入浴施設は個室を有するが、洗面具は利用者が用意することになっている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "「ローマのみがパリにふさわしく、パリのみがローマにふさわしい」", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ的な街並みに対し、「○○のパリ」と異名がつけられている。特に移民や植民地などでフランス色が強い都市に多い。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "フランスにおける経済の中心地であり、世界屈指の経済都市でもある。2014年のパリ都市圏の総生産は6,798億ドルであり、東京都市圏、ニューヨーク都市圏、ロサンゼルス都市圏、ソウル都市圏、ロンドン都市圏に次ぐ世界6位の経済規模を有する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "多国籍企業の本社数や資本市場の規模などビジネス分野を総合評価した都市ランキングでは、ロンドンとともにヨーロッパでトップクラスである。BNPパリバ、トタル、アクサなど世界有数の大企業の本社が所在しており、世界500大企業の本社数では、ニューヨークやロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "工芸品や贅沢品や服飾品などの、ビジネスの集積地でもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "アンシャン・レジームの時代では、貴族は服をたった1着手に入れるにも、まずは布地を扱う商人のところへ行って気にいる布地を苦労して見つけ、次にその布を裁断する職人のところへそれを持っていって、次にそれを縫いあげる職人、と何軒もの店・職人をかけずりまわらなければならず、おまけに訪ねる店は(現代からは想像もつかないような)まるで倉庫のようなありさまで、価格の表示もなく、客は顔色をうかがわれてとんでもない高値を吹っかけられ、支払いも高利の掛け売りというありさまで、皆、服を手に入れることにうんざりしていた。だがアンシャン・レジーム末期のパリに、新しい経営方法を導入した服飾品の小売業者やモード商人が登場した。それまで注文を受ける側であった商人が、主導権を握って王妃などに着る服を提案することを始めたのであり、王族を宣伝塔として巧みに利用し流行を意図的・恣意的に作りだし、貴族たちを煽って金儲けをするようになった。19世紀にはさらにオートクチュール(オーダーメイド服)への道を開き、ファッションショーなどを開催し、メディアも活用し巧みにイメージを作りだし、新興の富裕層(=ブルジョワジー)の欲望を掻きたて金儲けを行った。しかしオートクチュールのビジネスは20世紀後半には衰退し、現在では主としてプレタポルテを扱うようになった。ショーの華やかな見た目に惑わされている一般人には見えないが、ファッションウィーク期間中のパリというのは、デザイナー側とバイヤー側が直接に会してビジネス上の冷徹でしたたかな交渉が行われる商業(ビジネス)の空間でもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "若い女性の中には、商人によって(金儲けのために)ビジネスのツールとして作りだされ、雑誌などの各種メディアで流されている虚像を本当の像だと信じ、その像に近づこうとパリにフワフワとやってきてしまう事例が言われている。日本の若い女性でも、パリに来てある期間その実態を自分の目で見るうちに、自分が虚像を信じていたにすぎないことに気づかされ、やがて鬱状態になったり責められているように感じ苦しんで帰国していく事例も指摘されている(→パリ症候群を参照のこと)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "各節とも日本語での五十音順。パリ近郊に本社及びそれに類する事業所等を置く企業も含める。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "2007年現在、イル=ド=フランス地域圏では約58万5,000人が高等教育を受けており、フランス全土の4分の1強にあたる。特に1990年代のフランス国立行政学院(ENA)のストラスブール移転や高等師範学校のリヨン校などの脱中央化の動きもみられるが、大部分の名高い国立学校は常にパリ地方に設置されている。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "12世紀以降、パリはヨーロッパにおける知識の大集積地のひとつで、特に科学技術と哲学分野に秀でていた。フィリップ2世が大学の構成員に対して特権与えた西暦1200年はパリ大学の設立の年とされ、人々に象徴的に記憶されている。そこでは教育が行われた場所である寄宿舎(寄宿学校)が学部を構成した。ソルボンヌ寮の創設は1257年を起源とする。大学は、サント=ジュヌヴィエーヴの丘を中心として、カルチエ・ラタンに発展した。カルチエ・ラタンは、現在でも、パリ大学を含む高等教育機関の重要な中心地である。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "18世紀以降、いくつかの専門職のために専門化された高等教育機関が創設され、現在のグランゼコールの起源となった。エコール・ポリテクニークおよび高等師範学校はともにフランス革命期に創設された。近代のパリ大学は、19世紀、法・医・薬・文・神・理の6学部に組織化された。20世紀、五月革命後には多くの学生が強く社会問題を考えたが、ソルボンヌはその震源地となった。その結果、パリ大学は、それぞれ専門分野を相対的に限定された13の個別の大学へと分割再編された。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "パリ市内は、現在も大学の中心地であり続けている。パリ第1からパリ第7までの各大学は再編されて左岸の3つの区(5区、6区、13区)に存在している。カルチエ・ラタンには、パリ・ソルボンヌ(パリ第4)大学、高等師範学校、コレージュ・ド・フランスといった歴史的施設が残り、重要な地位を今も保ち続けている。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "また、ほかの高等教育機関もこの地区に存在する。パリ政治学院、パリ第1大学、パリ第2大学、ジュシュー・キャンパス(Campus de Jussieu:パリ第6大学とパリ地球物理研究所による複合研究施設)、パリ第3大学、社会科学高等研究院、古文書学校、美術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学(EPCI)、応用美術研究所(LISAA)、パリ国立高等鉱業学校(ENSMP)、パリ高等化学学校(Chimie ParisTech)、生活工業・環境科学研究所(AgroParisTech)、パリ高等電子工学研究所(ISEP)、パリ企業経営学院(IAE de Paris)などである。なお、パリ第9大学、エコール・ポリテクニーク、エセック経済商科大学院大学などは、いずれも郊外に移転している。大学街は東部に広がり、かつて5区にあったパリ第7大学は、フランス国立図書館が移転した13区において、複数の大学施設を一般公開している。国立高等工芸学校が1912年からイタリア広場近くに迎え入れられている。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "1960年代以降、バンリューに大学が作られ始めたが、その先鞭となったのは1964年にナンテールに作られたパリ第10大学である。同時期には複数のグランゼコールが、特に広大な敷地を求めて、同様にパリの中心部を去っている。パリの南にあるサクレー台地は重要な研究拠点となっている。その広大な大地には、パリ第9大学やグランゼコール(HEC経営大学院は1964年、高等電子学校は1975年、エコール・ポリテクニークは1976年にそれぞれ移転してきた)のほか、サクレー研究所などの公的研究所や民間の研究施設が多数存する。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブール(家具修理)、エコール・エティエンヌ(グラフィック・アート。特に装丁)が有名である。2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学である。園芸に関するものは、エコール・デュ・ブルーユである。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "2005年から2006年の学校年度における公立学校の児童・生徒数は、26万3,812人であった。うち13万5,570人が初等教育、12万8,242人が中等教育を受けていた。同年度の私立学校の児童・生徒数は13万8,527人で、うち9万1,818人が契約に基づく就学であった。パリには、優先的教育地域(ZEP)または優先的教育組織(REP)の施設(小学校214校、コレージュ32校。5人に1人の割合)がある。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2007年現在、881校の公立学校があり、うち323校が幼稚園、334校が小学校(日本の5年生までに相当)、6校が病院内学校、110校がコレージュ(日本の小学6年生および中学生に相当)、72校がリセ(普通および科学技術とも含む)、34校が職業リセおよび2校が公的実験リセである。他方、契約に基づき入学する私立学校は256校であり、うち110校が幼稚園・小学校・特別学校、67校がコレージュ、73校がリセ(普通および科学技術)および5校が職業リセであった。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "中等教育については、5区にそれぞれ所在するリセ・ルイ=ル=グランやリセ・アンリ=キャトルが全国的かつ国際的にも有名である。", "title": "教育・研究機関" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "市内にはメトロ(地下鉄)とRER(高速地下鉄)がくまなく走っている。 メトロは14号線まであり、運営はRATP(パリ市営交通)が行っている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2006年にパリ市最南端でトラム(路面電車)が開通した。このほか郊外を結ぶトラムがある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "パリ市内では道路混雑を避けるため自動車交通の抑制が目指されており、バス・自転車専用レーンが多く設置され、一方通行路も多くルートが複雑であるため、不慣れであると運転が難しい。また主要交差点の多くは、ラウンドアバウト(ロータリー)方式となっている。地元民の多くは、狭い市内で駐車場所を確保するために前後間隔を密着させて道路脇に縦列駐車を行っており、路上駐車が非常に多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "パリ市域の外縁を環状高速道路ペリフェリックが取り巻いており、その内側の市域には立体交差式の自動車専用道はあるものの、高速道路は存在しない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "パリは世界屈指の観光都市である。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "「芸術の都」などのイメージを前面に出す戦略をとっている。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "おもな集客装置は、歴史的な建造物の数々(世界遺産「パリのセーヌ河岸」に入っている建物など)、数々の美術館に収められた著名な美術品、有名料理店で提供されるフランス料理、高級銘柄を扱う店舗などである。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "建造物は、中世以前のものも残るが、第三共和政期のパリ改造やベル・エポックの建造物、あるいはフランス革命200周年期のグラン・プロジェの建造物など、各時代の世界の最先端のものが多い。美術館には、フランスで活躍した著名な芸術家の美術品の他、戦利品や購買によって収集された世界一級の収蔵物が並ぶ。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "→#主な観光名所", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "「芸術の都」という異名が言い表すように、パリは美術・音楽・演劇・バレエ・食文化・ファッションなど、さまざまな芸術の世界的な中心地として名を馳せている。1989年には欧州文化首都に選ばれた。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "ルーヴル美術館やオルセー美術館、ポンピドゥーセンター(国立近代美術館)などの美術館に世界一級の美術品が多数収蔵され、ざっくりと時代ごとに美術館が割り振られている。古代から19世紀半ばまでの美術品はルーブル美術館で観ることができる。モナ・リザ、サモトラケのニケ、ミロのヴィーナスなど世界中の誰もが知っている名作をはじめとして、ナポレオンがエジプト遠征時に集めた古代エジプトの考古学品なども含めて常設展示数はおよそ2万6,000点にのぼり、総所蔵作品数は30万点を超える。ざっと観ても数日かかり、全部じっくり観ると1か月ほどかかるとも言われる。ルーヴルは建物自体もかつての王宮であり、入場者数は年間800万人以上である。19世紀以降の絵画、つまり印象派、象徴主義、アール・ヌーヴォーの絵画などはオルセー美術館に展示されている。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "パリ市が運営する公共の美術館・博物館は市内に14あり、パリ・ミュゼ(fr:Paris Musées)という市の組織が管轄している。これらパリ市所蔵の美術コレクションは国のコレクションに次ぐ規模を誇る。2020年1月、パリ・ミュゼはパリ市立美術館・博物館が所蔵する約10万点の作品の無料ダウンロードを許可すると発表した。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "パリ・ミュゼは、この他に下水道博物館、野外彫刻美術館、パビリオン・デザール(展示会場)も管轄している。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "美術教育機関としては、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)をはじめ、グランド・ショミエール芸術学校などがある。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "世界で一番歴史の長い劇団、1680年創設のコメディ・フランセーズがあり、同名の劇場でその舞台を観ることができる。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "パリには1661年に王立舞踏アカデミーとして創設された世界最古のバレエ団「パリ国立オペラ」があり、旧オペラ座のガルニエ宮や新オペラ座のオペラ・バスティーユでその公演を観ることができる。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "パリは音楽都市のひとつである。シャンソンを聞かせるライブハウスがいくつもある。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "パリには管弦楽団が多数あり、コンサートが頻繁に行われている(一時期は世界一流のレベルだったが近年はいくらか厳しい評価も聞かれる)。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "毎年夏至の日6月21日にはFête de la musique(音楽祭)がフランス全土で開かれ、パリでもさまざまな場所で、ジャズやブルースなども含めてさまざまなジャンルの音楽の演奏が行われる。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "パリ国立高等音楽・舞踊学校(コンセルヴァトワール・ドゥ・パリ)をはじめ、エコールノルマル音楽院、スコラ・カントルムなどがあり、世界から才能のある若者が一流のバレエや音楽を学びにやってくる。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "パリはガストロノミー(食によるおもてなし、食文化、一流の料理作り)の中心地でもあり、有名なレストランがいくつもあり(ギッド・ミシュランでは三ツ星が例年10店前後)、世界で最高レベルのシェフの料理を堪能することができる。またフランス料理を習得しようと若い料理人たちがそれら有名店で修行に励んでいる。料理競技会も開催されている。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "16世紀前半の神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス国王フランソワ1世の生涯の宿敵でありながら、フランス文化を、それ以上にパリの文化をこよなく愛し、18世紀の啓蒙時代には、プロイセン王国中興の祖であるフリードリヒ2世はヴォルテールと交流しパリから招き、また、ロシア帝国女帝エカチェリーナ2世はヴォルテールやドニ・ディドロと交流し、ディドロをパリから呼び寄せた。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "テニスのグランドスラム(4大大会)の一つ全仏オープンの開催地である。自転車ロードレースのツール・ド・フランスは、1975年以来シャンゼリゼ通りがゴール地点に設定されている。以前はパリ=ダカール・ラリーの発着地であった。陸上競技では、2003年世界陸上が開催された。またパリに限らないが、ペタンクも各地の街角で行われている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "パリで最も人気のサッカークラブはパリ・サンジェルマンである。リーグ・アン、クープ・ドゥ・フランス、クープ・ドゥ・ラ・リーグ、トロフェ・デ・シャンピオンでは、いずれの大会でも最多優勝を飾っている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "パリには他にも数多くのプロおよびアマチュアのサッカークラブがあり、パリFC、レッドスターFC93、スタッド・フランセ・パリ、UJAマッカビ・パリ・メトロポールなどが存在している。パリ16区内にあるスタジアムパルク・デ・プランスは、FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権などでも使用されている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "ラグビーのトップリーグトップ14所属のスタッド・フランセ・パリが本拠地にしている。同様にトップ14所属の強豪ラシン92は、パリ近郊ラ・デファンスを本拠地にしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "パリでは過去に、1900年パリオリンピックと1924年パリオリンピックが行われている。そして2024年パリオリンピックも予定されており、開催されれば100年ぶり3度目の夏季オリンピックとなる。なお、フランスでの五輪開催としては1992年アルベールビルオリンピック以来、32年ぶり6度目のことである。", "title": "スポーツ" } ]
パリ市、通称パリは、フランスの首都。イル=ド=フランス地域圏の首府。フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。 ルーヴル美術館を含む1区を中心として時計回りに20の行政区が並び、エスカルゴと形容される。
{{Otheruses}} {{Infobox settlement | name =パリ | official_name = '''パリ市'''<br/>Ville de Paris | native_name = Paris<br/>{{flagicon|FRA}} | other_name = | image_flag = [[ファイル:Flag of Paris.svg|100px]] | image_blank_emblem = [[ファイル:Grandes Armes de Paris.svg|90px]] | blank_emblem_type = 紋章 | settlement_type = [[フランスの地方行政区画|特別自治体]] | image_skyline = {{multiple image | border = infobox | total_width = 280 | image_style = border:1; | perrow = 1/1/2/1 | image1 =Paris - Eiffelturm und Marsfeld2.jpg | image2 = Pont des Arts, Paris.jpg | image3 = Paris Opera full frontal architecture, May 2009 (cropped).jpg | image4 = Arcdetriomphe 2.jpg | image5 = Louvre Courtyard, Looking West.jpg }} | image_caption = [[エッフェル塔]]/<br/>[[セーヌ川]]に架かる[[ポンデザール (パリ)|ポンデザール]]/<br/>[[ガルニエ宮|オペラ座・ガルニエ宮]]/[[エトワール凱旋門|凱旋門]]/<br/>[[ルーブル美術館]] | image_size = 280px | map_caption = パリの位置 | image_map = {{Location map |France Île-de-France#France#Northern and Central Europe#Europe|relief=1|float=center|label=パリ}} | pushpin_map = France#Europe | pushpin_relief = 1 | coordinates = | subdivision_type = [[国家|国]] | subdivision_name = {{FRA}} | subdivision_type2 = [[フランスの地域圏|地域圏]] | subdivision_name2 = [[イル・ド・フランス地域圏]] | established_title1 = 自治体間連合 | established_date1 = [[メトロポール・デュ・グラン・パリ]] | established_title2 = | established_date2 = | established_title3 = | established_date3 = | seat_type = | seat = | parts_type = | parts_style = | p1 = | governing_body = | leader_title = 市長 | leader_name = [[アンヌ・イダルゴ]] | leader_title1 = | leader_name1 = | leader_title2 = | leader_name2 = | leader_title3 = | leader_name3 = | leader_title4 = | leader_name4 = | area_total_km2 = 105.4 | area_total_sq_mi = | area_footnotes = | area_water_sq_mi = | elevation_m = 28 - 131 m | elevation_ft = | population_footnotes = | population_total = 2,148,271 | population_as_of = | population_density_km2 = 20,382 | population_density_sq_mi = | population_urban_footnotes = | population_urban = 12,532,901 | population_blank1_footnotes = | population_blank1_title = | population_blank1 = | population_blank2_footnotes = | population_blank2_title = | population_blank2 = | demographics_type1 = | demographics1_title1 = | demographics1_info1 = | demographics1_title2 = | demographics1_info2 = | blank2_name_sec2 = | blank2_info_sec2 = | timezone = [[中央ヨーロッパ時間|CET]] | utc_offset = +1 |timezone_DST = [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]] |utc_offset_DST = +2 | postal_code_type =郵便番号 | postal_code =75001 - 75020、75116 | area_code = | iso_code = | registration_plate = | website = {{URL|https://www.paris.fr}} | blank3_info_sec1 = 75056、75101 - 75116 | blank3_name_sec1 =[[INSEEコード]] | blank4_info_sec1 = | blank4_name_sec1 = }} '''パリ市'''(パリし、{{lang-fr-short|Ville de Paris}})、通称'''パリ'''({{lang-fr-short|Paris}}<ref>{{IPA-fr|paʁi|lang|Paris1.ogg}}</ref>、'''巴里''')は、[[フランス]]の[[首都]]。[[イル=ド=フランス地域圏]]の[[州都|首府]]。フランス最大の[[都市]]であり、同国の[[政治]]、[[経済]]、[[文化 (代表的なトピック)|文化]]などの中心地。[[ロンドン]]と共に[[欧州]]を代表する[[世界都市]]。 [[ルーヴル美術館]]を含む1区を中心として時計回りに20の[[パリの行政区|行政区]]が並び、[[エスカルゴ]]と形容される<ref>[https://amp.lebonbon.fr/paris/societe/pourquoi-paris-a-la-forme-d-un-escargot/#referrer=https://www.google.com&csi=0 Pourquoi Paris a la forme d’un escargot ? (フランス語)] [[:fr:Le Bonbon|Le Bonbon]], Laura, 15/09/2016</ref>。 == 概要 == 市域は[[ティエールの城壁]]跡に造られた[[ペリフェリック|環状高速道路]]の内側の市街地(面積は86.99[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]。参考:[[東京都]]・[[山手線]]の内側は63km<sup>2</sup>、[[ニューヨーク市]]・[[マンハッタン]]は59km<sup>2</sup>)、および、その外側西部の[[ブローニュの森]]と外側東部の[[ヴァンセンヌの森]]を併せた形となっており、面積は105.40km<sup>2</sup>。[[ケスタ]]地形を呈する[[パリ盆地]]のほぼ中央に位置し、市内を[[セーヌ川]]が貫く。この川の[[中州]]である[[シテ島]]を中心に発達した。市内の地形は比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである<ref>[http://www.paris-walking-tours.com/montmartre.html Montmartre]</ref>。北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい[[北大西洋海流]]と[[偏西風]]によって1年を通して比較的温暖となっており、[[西岸海洋性気候]]の代表的な都市である。 [[欧州連合|EU]]を代表する[[メガシティ|大都市]]として君臨し、アメリカの[[シンクタンク]]が[[2020年]]に発表した総合的な[[世界都市]]ランキングにおいて、[[ロンドン]]、[[ニューヨーク]]に次ぐ世界3位の都市と評価された<ref>{{Cite web|title=Read @Kearney: 2020 Global Cities Index: New priorities for a new world|url=http://at.kearney.com/web/guest/global-cities/2020|website=at.kearney.com|accessdate=2021-01-30|language=en-US}}</ref>。日本の民間シンクタンクによる[[2017年]]発表の「世界の都市総合力ランキング」では、[[ロンドン]]、[[ニューヨーク]]、[[東京]]に次ぐ世界4位の都市と評価された<ref>2015年暮れの[[パリ同時多発テロ事件]]等が相次いだ影響を考慮した、東京を拠点とする[[森ビル]]傘下民間[[シンクタンク]]ないし[[研究所]]による発表である。[http://www.mori-m-foundation.or.jp/ius/gpci/ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2017] 森記念財団都市戦略研究所。 2017年10月26日閲覧。</ref>。[[フォーチュン・グローバル500|世界500大企業の本社数]]では、[[ニューヨーク]]や[[ロンドン]]を凌ぎ、[[西洋]]の都市では最多である。2021年の[[イギリス]]の[[シンクタンク]]の調査によると、世界10位の[[金融センター]]と評価されており、[[欧州連合|EU]]圏内では首位である<ref>{{Cite web|title=The Global Financial Centres Index - Long Finance|url=https://www.longfinance.net/programmes/financial-centre-futures/global-financial-centres-index/|website=www.longfinance.net|accessdate=2021-09-30}}</ref>。 パリは世界屈指の[[#観光|観光都市]]である。歴史的な建物を観ることができ、[[ルーヴル美術館]]、[[ポンピドゥーセンター]]などをはじめとした一流の美術館で膨大な数の一流の美術品を観賞できる。また世界最古のバレエ団や、世界でもっとも古くから存在している劇団などの公演を楽しむこともできる。 パリ出身者・居住者は男性が'''パリジャン'''({{lang-fr-short|''Parisien''}}、{{IPA-fr|parizjɛ̃}} パリズィヤン)、女性が'''パリジェンヌ'''({{lang-fr-short|''Parisienne''}}、{{IPA-fr|parizjɛn}} パリズィエ<small>ン</small>ヌ)と呼ばれる。[[1960年代]]以降、旧[[植民地]]であった[[アフリカ]]北部・中西部や[[インドシナ半島]]、さらに近年は[[中近東]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]、[[中国]]などからの移民も増え、パリジャン・パリジェンヌも多民族・多人種化している。 市域人口は[[1950年代]]の約290万人を絶頂に減少し続けたが、ここ数年は微増傾向に転じており、2011年現在で約225万人である([[INSEE]]による)。2011年の近郊を含む[[世界の都市的地域の人口順位|都市的地域]]の人口では1,200万人を超えており、[[欧州連合|EU]]最大の都市部を形成している<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia: World Urban Areas & Population Projections]</ref>。 === 標語 === パリ市の標語は「たゆたえども沈まず(ラテン語: ''{{ill2|Fluctuat nec mergitur|fr|Fluctuat nec mergitur}}'', フランス語: ''il est battu par les flots mais ne sombre pas'')<ref name=":0">{{Cite news|title=« Fluctuat nec mergitur » : la devise de Paris devient un slogan de résistance|date=2015-11-15|url=https://www.lemonde.fr/attaques-a-paris/article/2015/11/15/fluctuat-nec-mergitur-la-devise-de-paris-devient-un-slogan-de-resistance_4810301_4809495.html|accessdate=2018-12-08|language=fr|work=Le Monde.fr}}</ref>であり、これはパリの紋章の下部に書かれている。もともと水運の中心地だったパリで、水上商人組合の船乗りの言葉だったが、やがて戦乱、革命など歴史の荒波を生き抜いてきたパリ市民の象徴となっていった。この標語は特に[[2015年]]の[[パリ同時多発テロ事件]]の直後、パリの街角に多数掲げられた<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fsight.jp/articles/-/40677|title=パリは「たゆたえども沈まず」(Fluctuat nec mergitur):大野ゆり子 {{!}} 記事 {{!}} 新潮社 Foresight(フォーサイト) {{!}} 会員制国際情報サイト|accessdate=2018-12-08|website=新潮社 Foresight(フォーサイト)}}</ref>。 ===地名の語源=== [[語源]]はParisii([[パリシイ族|パリシイ]]、パリースィイとも。複数形。単数形はParisius「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民である[[ケルト系]]部族の、[[ローマ]]側からの呼称である。 欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめている[[ギリシャ語]]では{{el|Παρίσι}}(パリーズィ)、[[イタリア語]]で Parigi(パリージ)と発音される。[[フィンランド語]]で Pariisi(パリースィ)と発音されるのはこれに由来しているという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム)Lutetia(Parisiorum)、 「パリシイ族の、水の中の居住地」([[シテ島]]のこと)とも呼ばれていた。 == 地理 == <!-- 気候の表まで空白が出ないようギャラリーにします date=2023-4 --> <gallery> ファイル:Arc De Triumph Flag.jpg|[[エトワール凱旋門|凱旋門]] ファイル:Paris Champs Elysees westwards DSC03316.JPG|[[シャンゼリゼ通り]] ファイル:Palais_garnier_bs.jpg|[[オペラ・ガルニエ]](オペラ座) ファイル:Tour_eiffel_at_sunrise_from_the_trocadero.jpg|[[エッフェル塔]]<!--(特に観光名所となっている地域は斜体とした):→ 斜体は環境によっては表示されません--> </gallery> ===気候=== {{Main|{{仮リンク|パリの気候|en|Climate of Paris}}}} [[ファイル:Paris raining autumn cityscape (8252181936).jpg|thumb|left|秋のパリ]] [[西岸海洋性気候]]に属し、暖流である[[北大西洋海流]]の影響で高緯度の割には温暖である。夏(6月 - 8月)は気温が15度から25度までの範囲で、冷涼で乾燥しており過ごしやすいが、年間数日程度は32度を超える暑さとなる。しかし、2003年夏には30度以上の気温が数週間も続き、40度近い気温が観測され1万人以上の死者を出した。春(3月 - 5月)と秋(9月 - 10月)は天候は不安定で、暖かい時期と寒い時期が同居し、10月でも真冬並みの寒さとなることもある。冬(11 - 2月)は、もともと高緯度で昼間の時間が短いうえ、曇りや雨の日が多いため日照時間が少ないが、降雪・積雪はあまり見られない。年間数日程度は気温が氷点下5度以下まで下がる。しかしながら近年の冬は寒さが厳しく、2009年 - 2010年の冬にはパリ郊外では気温が-10度から-20度前後まで下がっているなど、寒気の影響を受けやすくなっている。年間降水量は555.7mmであり、それほど多くはない。 パリの気象観測は中心部から離れた[[14区 (パリ)|14区]]にある[[:fr:Parc Montsouris|モンスーリ公園]]で行われている。 {{Weather box |location = パリ (1991–2020) |metric first = Y |single line = Y |Jan record high C = 16.1 |Feb record high C = 21.4 |Mar record high C = 25.7 |Apr record high C = 30.2 |May record high C = 34.8 |Jun record high C = 37.6 |Jul record high C = 42.6 |Aug record high C = 39.5 |Sep record high C = 36.2 |Oct record high C = 28.9 |Nov record high C = 21.6 |Dec record high C = 17.1 |Jan high C = 7.9 |Feb high C = 9.2 |Mar high C = 13.3 |Apr high C = 17.3 |May high C = 20.8 |Jun high C = 24.0 |Jul high C = 26.4 |Aug high C = 26.3 |Sep high C = 22.1 |Oct high C = 16.9 |Nov high C = 11.5 |Dec high C = 8.4 |year high C = 17.0 |Jan mean C = 5.4 |Feb mean C = 6.0 |Mar mean C = 9.2 |Apr mean C = 12.2 |May mean C = 15.6 |Jun mean C = 18.8 |Jul mean C = 20.9 |Aug mean C = 20.8 |Sep mean C = 17.1 |Oct mean C = 13.1 |Nov mean C = 8.7 |Dec mean C = 5.9 |year mean C = 12.8 |Jan low C = 3.5 |Feb low C = 3.5 |Mar low C = 6.0 |Apr low C = 8.2 |May low C = 11.4 |Jun low C = 14.4 |Jul low C = 16.4 |Aug low C = 16.4 |Sep low C = 13.2 |Oct low C = 10.3 |Nov low C = 6.6 |Dec low C = 4.0 |year low C = 9.5 |Jan record low C = -19.0 |Feb record low C = -6.8 |Mar record low C = -9.1 |Apr record low C = -3.5 |May record low C = -0.1 |Jun record low C = 3.1 |Jul record low C = 6.0 |Aug record low C = 6.3 |Sep record low C = 1.8 |Oct record low C = -3.1 |Nov record low C = -14.0 |Dec record low C = -23.9 |precipitation colour = green |Jan precipitation mm = 41.0 |Feb precipitation mm = 36.1 |Mar precipitation mm = 38.7 |Apr precipitation mm = 41.9 |May precipitation mm = 59.7 |Jun precipitation mm = 44.1 |Jul precipitation mm = 55.7 |Aug precipitation mm = 52.1 |Sep precipitation mm = 39.6 |Oct precipitation mm = 48.9 |Nov precipitation mm = 46.0 |Dec precipitation mm = 51.9 |date=2022年7月|source 1=http://www.pogodaiklimat.ru/climate2/07156.htm}} ===地域=== ====右岸==== ; [[シャンゼリゼ通り]]([[8区 (パリ)|8区]]) : 凱旋門からテュイルリーまで続く、パリを代表する目抜き通り。'''[[パリの歴史軸]]'''を構成する。交差するモンテーニュ通りとジョルジュ=サンク通りとに区切られた三角地帯は俗に[[ラグジュアリー]]関連の「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれている。 ; [[サントノレ通り]]([[1区 (パリ)|1区]]) : 同通りからフォーブール=サントノレ通りに至る周辺界隈は、フランスの[[ブランド|ハイ・ブランド]]や[[ラグジュアリー]]の本店が並ぶ、世界屈指の高級ブランド店街。ヴァンドーム広場、コンコルド広場、ルーヴル美術館、テュイルリー庭園に囲まれたパリ中心部の通り。[[8区 (パリ)|8区]]内でシャンゼリゼ通りと並走するフォーブール=サントノレ通りに続いていく。 ; [[シテ島]]([[1区 (パリ)|1区]]、[[4区 (パリ)|4区]]) : パリ発祥の地であり、[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]など歴史的建造物も多い。 ; パッシー([[16区 (パリ)|16区]]) : [[高級住宅街|高級住宅地]]。[[サン=ルイ島]]([[4区 (パリ)|4区]])、アンヴァリッド([[7区 (パリ)|7区]])が手狭なため、高級住宅地はパッシー、[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]とパリ西部に拡大していった歴史を持つ。 ; オペラ界隈([[2区 (パリ)|2区]]、[[9区 (パリ)|9区]]) : デパートや高級洋服店、銀行などが立ち並び、日本料理店や日本の生活雑貨店が並ぶ[[日本人街]]でもある。実際の在仏日本人が比較的多く住むのは[[15区 (パリ)|15区]]や16区など。「[[パリの日本人コミュニティ]]」も参照。 ; [[ル・マレ|マレ]]([[3区 (パリ)|3区]]、[[4区 (パリ)|4区]]) : [[貴族]]の館が集中して残る地域であり、現在は裕福なユダヤ系住民が多く住む。美術館や画廊も多い。お洒落な[[同性愛|ゲイ]]の集まる地域でもある。 ; [[バスティーユ広場|バスティーユ]]([[4区 (パリ)|4区]]、[[11区 (パリ)|11区]]、[[12区 (パリ)|12区]]の各境) : [[フランス革命]]の発端となった場所として有名だが、今では若者が集まる歓楽街となっている。[[オペラ・バスティーユ]]もある。 ; オベルカンフ([[11区 (パリ)|11区]]) : 同じく歓楽街だが、比較的新しい。[[テクノポップ|テクノ音楽]]やゲームなど新しい文化を紹介する場として認識され、アニメ店なども複数見られる。 ; ピガール、ブランシュ([[18区 (パリ)|18区]]) : モンマルトルのふもとに位置する。高級キャバレー「[[ムーラン・ルージュ]]」があるが、その他は怪しげな[[キャバレー]]やいかがわしい[[性行為|セックス]]店が多く並ぶ性的歓楽街でもある。昔から猥雑な界隈であり、[[永井荷風]]の「ふらんす物語」にも描かれている。 ; [[モンマルトル]]([[18区 (パリ)|18区]]) : パリを見下ろす高台。パリ市に編入されたのは1860年以後だが、現在ではパリを代表する名観光地となっている。2001年のフランス映画『[[アメリ]]』の舞台にもなった。[[サクレ・クール寺院]]が一番の高台にそびえ、そこから西側へ行くにつれ[[テルトル広場]]や[[ムーラン・ド・ラ・ギャレット]]など観光名所が多く並ぶ。寺院東側は[[観光]]地ではなく[[アフリカ]]系移民が多く暮らすシャトー・ルージュ地区。 ; ベルシー([[12区 (パリ)|12区]]) : 昔は倉庫街だったが今は再開発が進み、[[経済・財務省|フランス財務省]]やベルシー公園、ワイン倉庫街を改造したレストラン街・商店街などが新しい観光地となっている。 ; ベルヴィル([[19区 (パリ)|19区]]、[[20区 (パリ)|20区]]) : もともとは[[ベルヴィル (セーヌ)|パリ郊外のコミューンだった]]が、1860年にパリに編入された。[[ピエ・ノワール]](コロン)、[[東欧]]系[[南欧]]系ヨーロッパ人から始まり、現在では[[アラブ人|アラブ系]]、[[黒人|アフリカ系]]、[[ユダヤ人|ユダヤ系]](労働者系)、旧[[フランス領インドシナ|仏印]]出身者、[[中国人|中国系]]([[華僑]])に至るまで、おもに労働者系の多くの[[移民]]が暮らす地域である。安くて異国的なレストランなどが集中する。名前とは裏腹に雑多で庶民的な界隈であるが、近年ベルヴィル公園が整備され、再開発が進んでいる。[[エディット・ピアフ]]の生地でもある。トルビヤック地区に次いで、[[1970年代]]以降パリ第2の[[中華街]]が形成されつつある。 ; バルベス([[18区 (パリ)|18区]]) : ベルヴィル、シャトー・ルージュと同じくアラブ系やアフリカ系の移民が多く暮らす。有名な安物服屋やアフリカ系商店街があり、人口密度も多く、駅前は常に混雑している。[[10区 (パリ)|10区]]の[[パサージュ]]・ブラディ界隈は[[インド人|インド系]]・[[ベンガル人|パキスタン系]]街。 ==== 左岸 ==== ; [[モンパルナス]]([[14区 (パリ)|14区]]) : 異様な雰囲気を残す左岸の地域。 ; [[サン=ジェルマン=デ=プレ]]([[6区 (パリ)|6区]]) : 歴史的地区であり、[[エコール・デ・ボザール|パリ高等美術学校]]に近いことから画廊も多い。[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]ら哲学者が集まった場所として有名な2軒の喫茶店がある。カルチエ・ラタンに隣接する。 ; [[カルチエ・ラタン]]([[5区 (パリ)|5区]]、[[6区 (パリ)|6区]]) : [[パリ大学|ソルボンヌ大学]]をはじめ大学が集中しており、昔から学生街として有名。[[カルティエ (曖昧さ回避)|カルチエ]]は「地区」、ラタンとは「[[ラテン語]]」のことであり、「ラテン語を話す、教養のある学生が集まる地区」という意味が語源。羅典区。 ; [[エッフェル塔]]と[[シャン・ド・マルス公園]]([[7区 (パリ)|7区]]) : パリを代表する観光名所としてあまりに有名。セーヌ川の観光船のうち有名な2つの船の発着点ともなっており、観光客が集中する。 ; トルビアック([[13区 (パリ)|13区]]) : いわゆる中華街だが実際は[[ベトナム]]系が多く、中華・ベトナム料理店が並ぶ。昔は[[タペストリー|ゴブラン織り]]で栄えたが、今は高層ビルが林立する再開発地域である。 ====郊外==== {{Main|イル=ド=フランス地域圏}} {{See also|バンリュー}} パリの[[郊外]]には[[ヴェルサイユ]]など有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。 16区 - 17区につながるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18区 - 20区からつながる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており、近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単に「郊外([[バンリュー]])」という場合、こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的な住宅衛星都市となっている。 パリより[[電車]]で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの[[衛星都市]]があり、近代建築によって町の機能が整えられている。中でも[[ラ・デファンス]]地区には「新凱旋門[[グランダルシュ]]」をはじめ[[高層ビル]]群が集中しており、多数の企業の支店を抱える[[新都心]]となっている。 ===地形=== ====河川==== ; [[セーヌ川]] : パリ市内を横断する川であり、[[パリのセーヌ河岸]]は[[世界遺産]]に登録されている。パリではセーヌ川の北部を右岸(Rive Droite)、南部を左岸(Rive Gauche)という。パリ市中心部にある川中島であるシテ島は、パリ市発祥の地である。シテ島の東にもうひとつサン・ルイ島という島がある。セーヌ川は重要な運路であり、パリ市内では観光船のほか運搬船も多く行き来する。パリ市東部郊外のごく近い場所でセーヌ川とマルヌ川が合流し、ベルシーからパリに入り、途中サン・ルイ島とシテ島を抜け、アンヴァリッドのあたりで南西に折れ曲がり、そのまま15区と16区を抜けていく。パリを抜けたあとは蛇行を繰り返し、ノルマンディー地方を経て大西洋へと流れていく。パリ市内には多くの橋がかかっており、歴史やいわくのある橋も多い。詳細は[[セーヌ川]]の項を参照。 {{double image|center|Pont des Arts, Paris.jpg|400|Small_1330-Paris.jpg|200|左:[[セーヌ川]]にかかる[[ポンデザール (パリ)|ポン・デ・ザール]]と[[ポン・ヌフ]](東向き)/右:[[セーヌ川]]にかかるポンデザール(西向き)}} [[ファイル:Seine wide.jpg|thumb|center|upright=3.0|[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]付近のパノラマ]] ; [[ビエーヴル川]] : 13区の[[トルビヤック]]地区や[[ゴブラン]]地区には、セーヌ川の支流であるビエーヴル川という自然の川がかつて流れていた。[[エソンヌ県]]に端を発する小規模な川で、パリ市の直前で暗渠に入る。今はパリ市内では[[暗渠]]として完全に地下化してしまい、現在の一般の地図上でその存在を確認することはできないが、古地図などでその川の流れを見ることができる。かつてはこの川を利用して[[ゴブラン織]]の染色が行われていた。国立手工芸製作所(ゴブラン織り工場)はこの川の上に存在する。現在、このビエーブル川の一部を暗渠から再び掘り返して[[親水公園]]にする計画が立ち上がっている。 ====運河==== [[ファイル:Paris canal saint-martin ecluse01.jpg|thumb|200px|[[サン・マルタン運河]]]] [[ファイル:Parc-de-la-villette.jpg|thumb|200px|[[ラ・ヴィレット公園]]内の[[ウルク運河]]]] ; [[サン・マルタン運河]] : パリ東部セーヌ右岸を南北に流れる[[運河]]。セーヌ川に面したサン・マルタン運河の出入口は[[アルスナル港 (パリ)|アルスナル港]]という。ここから[[バスティーユ広場]]を経て、運河は地下水道となる。10区に入ったあたりで運河は地上に顔を出す。この辺りには水位を上下するための水門(閘門)がいくつかある。10区の運河沿いにはかつて革製品などの町工場が多く並んでいたが、今はそれらの工場は衰退しており、徐々に再開発の動きが進んでいる。最近は、景観を生かしてレストランが並ぶ。10区と19区の境にある[[メトロ (パリ)|地下鉄]]2号、5号、7号線の[[ジョレス駅]]および[[スターリングラード駅 (パリ)|スタリングラッド駅]]付近にあるラ・ヴィレット運河まで出たところで、サン・マルタン運河の名称は終わる。今はサン・マルタン運河を走る運搬船はほとんどないが、観光船が走っている。 ; [[ウルク運河]] : サン・マルタン運河と一続きの運河だが、ラ・ヴィレット運河より以北はこの名称になる。パリ19区から[[パンタン]]市へ、さらに遠方のウルク川へとつながっている。メトロ5番は、終点、[[ボビニー=パブロ・ピカソ駅]]手前でこのウルク運河沿いの地上部を走る。[[ラ・ヴィレット公園]]の手前でサン・ドニ運河と分岐(合流)している。 ; サン・ドニ運河 : ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐・合流している。パリ市内では19区のごく一部を流れる。パリ郊外の[[オーベルヴィリエ]]市、[[サン=ドニ]]市を経て、パリ北部で蛇行するセーヌ川下流と合流する。ウルク運河経由で水路をショートカットするためにつくられており、運搬船が頻繁に行き来している。 === 広場・公園=== ==== 広場 ==== [[ファイル:Fontaine-place-de-la-concorde-paris.jpg|thumb|200px|[[コンコルド広場]]]] [[ファイル:PlaceBastille20040914B_commons.jpg|thumb|200px|[[バスティーユ広場]]]] [[ファイル:Colonne_de_Vendôme_cropped.jpg|thumb|200px|[[ヴァンドーム広場]]]] [[ファイル:Paris-Arc-de-Triomphe001.jpg|thumb|200px|[[シャルル・ド・ゴール広場]]]] ; [[コンコルド広場]]([[1区 (パリ)|1区]]) : パリの中心部、[[テュイルリー庭園]]と[[シャンゼリゼ通り]]に挟まれて位置する。歴史ある広場で、[[フランス革命]]の後にはルイ16世や[[マリー・アントワネット]]の処刑が行われた。現在は[[ツール・ド・フランス]]の終着点としても知られ、最終日には多くの愛好者が集まる。 ; [[ヴァンドーム広場]]([[1区 (パリ)|1区]]) : [[アウステルリッツの戦い]]に勝利した記念に[[ナポレオン・ボナパルト]]<!--[[ナポレオン2世]] →息子のナポレオン2世ではなく、ナポレオン・ボナパルト像。参照https://www.hotel-etats-unis-opera.com/ja/%e6%9c%80%e6%96%b0%e6%83%85%e5%a0%b1-%e5%9c%b0%e5%8c%ba-%e3%83%91%e3%83%aa-%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9/973/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%bc%e3%83%a0%e5%ba%83%e5%a0%b4/ 及び、 http://www.paris-hotel-mansart.com/ja/%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB-%E5%BA%83%E5%A0%B4-%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0-->像の円柱が立っている。この広場および隣接する[[サントノーレ通り|サントノレ通り]]には、(日本でのみ「[[グランサンク]]」と呼ばれている)五大[[宝飾|高級宝飾]]店のほか、[[ファッションブランド#ファッション分野におけるブランド|高級洋服]]店などが並ぶ。 ; [[バスティーユ広場]]([[4区 (パリ)|4区]]、[[11区 (パリ)|11区]]、[[12区 (パリ)|12区]]の各境) : フランス革命の発端となった[[バスティーユ襲撃]]の際の[[バスティーユ牢獄|バスティーユ要塞]]があった場所で、要塞は革命後に取り壊されて現在の広場となった。広場中央には[[バスチーユの象|バスティーユの象]]に置き換わり1830年におきた[[七月革命]]の[[7月革命記念柱|記念柱]]が立っている。広場に面して[[オペラ・バスティーユ]]がある。サン・マルタン運河出入口の[[アルスナル港 (パリ)|アルスナル港]]にも面している。 ; [[ヴォージュ広場]]([[4区 (パリ)|4区]]) : バスティーユ広場のすぐ近くだが奥まった場所にあり、赤い煉瓦と石造りの建物に囲まれたほぼ正方形の広場である。その赤い建物の一角には[[ヴィクトル・ユーゴー]]の住んだ家がある。フランス革命前は国王(ロワイヤル)広場と呼ばれていた。 ; [[サン・ミッシェル広場]]([[6区 (パリ)|6区]]) : [[カルチエ・ラタン]]の中心部に位置し、セーヌ川および対岸の[[シテ島]]、[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]に面している。本屋などが多くあるほか、広場裏手には安手のレストランが立ち並ぶ。 ; [[シャルル・ド・ゴール広場]](エトワール広場)([[8区 (パリ)|8区]]) : アウステルリッツの戦いに勝利した記念に建立された[[エトワール凱旋門]]を中心に、シャンゼリゼ通りを含め放射状に道路が伸びる、パリの顔とも言うべき広場。元はエトワール広場と呼ばれたが、[[第二次世界大戦]]後[[シャルル・ド・ゴール]]将軍をたたえて現在の呼称となった。通常はエトワール広場の呼称でも通じる。[[1860年]]の[[パリの行政区|パリ拡張]]以前はパリの西の玄関だった。 ; [[レピュブリック広場]]([[3区 (パリ)|3区]]、[[10区 (パリ)|10区]]、[[11区 (パリ)|11区]]) : 訳すと共和国広場。[[フランス共和国]]の象徴[[マリアンヌ]]像が置かれている。庶民的な地区に位置するが、広場としてはきわめて大きいそれのひとつ。マニフェスタシオン(抗議集会)がある際にはほとんどここが起点となる。 ; [[ナシオン広場]]([[11区 (パリ)|11区]]、[[12区 (パリ)|12区]]) : エトワール広場と同じく道が放射状に伸びる、1860年以前のパリの東の玄関。1841年、[[バスチーユの象|バスティーユの象]]の同広場への移設計画もあったが1843年に頓挫し<ref>''Bulletin de l'Alliance des arts'', {{2e|année}}, {{numéro|4}}, Paris, 10 août 1843, {{p.|6}}, et ''Journal des artistes'', 17e, {{numéro|8}}, 20 août 1843.</ref>、[[フランス第二帝政|第二帝政]]時代に[[エトワール凱旋門|凱旋門]]が再建された<ref>Yvan Christ, ''Paris des Utopies'', Paris, Éditions Balland, 1977, {{p.|201}}。<br/>なお、再建される前の最初の凱旋門は1716年に取り壊された。再建凱旋門も、[[フランス第三共和政|第三共和政]]時代に「共和国の凱旋像」に置き換えられた。</ref>。現在、「共和国の凱旋像 <!--(Le Triomphe de la République)-->」と2本の柱が立っている。[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の[[恐怖政治]]時代にはここで多数の反体制者が[[ギロチン]]で処刑された。 ; [[テルトル広場]]([[18区 (パリ)|18区]]) : [[モンマルトル]]がパリに編入される以前はこの広場が村の中心だった。現在は絵描きが多く並ぶ一大観光名所となっている。 ; [[イタリア広場]]([[13区 (パリ)|13区]]) : [[フォンテーヌブロー宮殿]]方面に向かうパリの南の玄関口。 ==== 公園・庭園 ==== [[ファイル:Tuileries-Roue.jpg|thumb|200px|[[テュイルリー庭園]]]] [[ファイル:Palais Luxembourg Sunset.JPG|thumb|200px|[[リュクサンブール公園|リュクサンブール庭園]]]] [[ファイル:Champ-de-Mars 2005-07.jpg|thumb|200px|[[シャン・ド・マルス公園]]]] 公園はパルク(Parc)、庭園はジャルダン(Jardin)と呼ばれ区別されている。 ; [[テュイルリー庭園]]([[1区 (パリ)|1区]]) : パリの中心部、ルーヴル宮の正面に位置する。かつて[[テュイルリー宮殿]]があった。 ; [[リュクサンブール公園|リュクサンブール庭園]]([[6区 (パリ)|6区]]) : [[リュクサンブール宮殿]](現・フランス上院議会)の正面に位置する庭園。カルチエ・ラタンに隣接し、学生たちの憩いの場でもある。 ; [[シャン・ド・マルス公園]]([[7区 (パリ)|7区]]) : [[エッフェル塔]]に登るとまず目に入るのが眼下に広がるこの公園の全景である。かつては軍事演習場だったところ、第2回目となる[[パリ万国博覧会 (1867年)|1867年パリ万博]]から数次の万博会場にもなった。 ; [[モンソー公園]]([[8区 (パリ)|8区]]) : 1860年の[[ジョルジュ・オスマン|オスマン男爵]]による[[パリ改造|パリ大改造]]で公園に整備された。 ; [[ベルヴィル公園]]([[20区 (パリ)|20区]]) : 主要なベルヴィル地区に位置する。高台になっており、パリを一望できるとても眺めのいい公園。 ; [[ビュット・ショーモン公園]]([[19区 (パリ)|19区]]) : 同じく1860年のパリ大改造で整備され、昔の石切場跡を公園にした。 ; [[パリ植物園]]([[5区 (パリ)|5区]]) : その名の通り植物園で、動物園も併設する(ただし[[ヴァンセンヌの森]]の[[パリ動物園]]よりは小さい)。敷地内には自然史博物館がある。 ; [[モンスーリ公園]]([[14区 (パリ)|14区]]) : これも1860年のパリ大改造で整備された。14区の外れにあり、[[国際大学都市]]に面している。 ; [[ジョルジュ・ブラッサンス公園]]([[15区 (パリ)|15区]]) : 馬市場、家畜市場の跡を整備した公園で、銀色の巻貝のような劇場を併設する。馬市場の跡の19世紀の鉄骨屋根のテントの下では、定期的に古本市が開かれる。 ; [[ラ・ヴィレット公園]]([[19区 (パリ)|19区]]) : 主要な地区に属するが、かつての[[屠畜場|食肉処理場]]跡および旧鉄道用地の広大な敷地を再開発して公園とした。広大な敷地内にはサン・ドニ運河が流れる([[サン・マルタン運河]]につながる)。代表的な建物として、食肉処理場時代の19世紀の鉄骨建築ホールをそのまま流用したグランド・アール(見本市会場)、[[シテ科学産業博物館|科学産業都市]](博物館)および音楽都市([[クラシック音楽|クラシック]]用コンサートホール)、ZENITH([[ロック (音楽)|ロック]]・[[ポピュラー音楽|ポップス]]用コンサートホール)、[[パリ国立高等音楽院]]現校舎などがある。 ; [[アンドレ・シトロエン公園]]([[15区 (パリ)|15区]]) : 自動車会社[[シトロエン]]の工場跡および鉄道敷地跡を整備して公園にした。大きな芝生の広場がある公園で、現代的なデザインである。 ; ベルシー公園([[12区 (パリ)|12区]]) : [[フランソワ・ミッテラン]]元大統領により整備された。[[経済・財務省|フランス財務省]]の新建物に面している。付属の[[ベルシー・アレナ]]では運動のほか演奏会なども行われている。 ;[[アクリマタシオン庭園]]([[16区 (パリ)|16区]]) :[[ブローニュの森]]の北側にある子供向けの公園(遊園地)。 ====森林・緑地==== [[ファイル:Bois de Boulogne (80).jpg|right|200px|thumb|[[ブローニュの森]]]] パリには東西2つの大きな森があり、パリ市民の憩いの地となっている。現在はこの森もパリ市の敷地に含まれる。 ; [[ブローニュの森]]([[16区 (パリ)|16区]]) : パリの西側に位置する。高級住宅街の16区パッシーやオートゥイユの他に、隣接[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]など近郊の高級住宅街に面し、高級社交場でもある[[オートゥイユ競馬場]]や、[[凱旋門賞]]などが行われる[[パリロンシャン競馬場]]も併設する。[[バガテル・バラ園]]があるバガテル庭園やバガテル城、ロンシャン城などがある高級的な雰囲気の漂う森である。ただし夜暗くなってからは[[同性愛|ゲイ]]が集うことでも知られる。 ; [[ヴァンセンヌの森]]([[12区 (パリ)|12区]]) : パリの東側に位置する。<!--こちらは小さめの森として知られ、→ブローニュの森と遜色ない-->[[国立移民史博物館]](旧アフリカ・[[オセアニア]]博物館)のほか、水族館、[[パリ動物園]]、[[農園]](パリ唯一の農場になるパリ熱帯農園)、パーク・フローラル([[パリ花公園]])などを併設する。中世の砦だった[[ヴァンセンヌ城]]もある。 === 四大墓地 === [[ファイル:Pantéon (Francia).jpg|thumb|right|200px|[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]]] パリは東西南北に4つの主要な[[墓地]]があり、多くの著名人が眠っている。 * [[ペール・ラシェーズ墓地]]([[20区 (パリ)|20区]]): 東 * [[パッシー墓地]]([[16区 (パリ)|16区]]): 西 * [[モンパルナス墓地]]([[14区 (パリ)|14区]]): 南 * [[モンマルトル墓地]]([[18区 (パリ)|18区]]): 北 この他、パリ中心部に位置する[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]にも[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]や[[ヴォルテール]]、[[ヴィクトル・ユーゴー]]、[[ルネ・デカルト|デカルト]]といった偉人たちが埋葬されている。 === 人口 === [[File:Paris Historical Population (1801-2008).png|200px|thumb|人口推移(1801年から2008年)]] [[File:Paris uu ua jms.png|200px|thumb|パリ都市圏の人口分布]] パリ市の人口は2011年現在、約225万人で<ref group="注">概ね[[名古屋市]]と同規模である。</ref>、近年は微増傾向にある。特に、再開発が進む南部や[[移民]]流入の著しい東部での人口増加が目立っている。 この間、[[郊外]](市域外)の人口は増加している。20世紀以降、かつて城壁に囲まれていた市域外にも市街地が大きく拡大し続け、現在、[[イル=ド=フランス地域圏]](パリ地域圏)全体の人口は1,198万人にのぼる。パリ市域内もおおむね商業・業務・住宅地としての活気と威信を維持しており、アメリカの大都市などで見られる都心部の荒廃や郊外への人口流出([[インナーシティ]]問題)はさほど見られない。むしろ、移民の多い一部の郊外での治安の悪化が顕著である([[バンリュー]]参照)。 {{Demography|1801=54万7800|1851=105万3000|1881=224万0000|1926=287万1000|1999=212万5946|2005=215万4000}} ====世帯構成==== パリはほかの大都市同様、学生、若者、老人が多い一方、子供を有するカップルの割合は低い。1999年、パリ市の世帯数の22パーセント、人口数の40.7パーセントは1人以上の子供を有するカップルであったが、単身世帯数の割合は27パーセント、カップルのみの世帯数の割合は19パーセントであった。パリ市では47パーセント(フランス全体の平均は35パーセント)の人々が独身で、37パーセント(同50パーセント以上)が結婚している。また片親世帯の割合が26パーセント(同17パーセント)と高い。離婚率ももっとも高く、婚姻100件のうち55件は離婚に至っており、パリ市民の7.7パーセントを占めている。 [[出生率]]は1,000人中14.8人であり、国平均の13.2パーセントより高い。一方、子供の数は世帯あたり1.75人で、国平均の1.86人より少ない。半分の世帯において子供は1人である。パリ市では住居が狭く高額であることが、その主因である<ref>[http://www.paris.fr/portail/viewmultimediadocument?multimediadocument-id=22854 APUR - observatoire des familles à Paris : Les familles parisiennes] パリ市・パリ市の世帯の状況{{fr icon}}</ref>。 ====経済格差==== [[ファイル:Revenus à Paris et Petite Couronne.JPG|thumb|right|200px|パリの地区毎の年間平均所得の分布<ref>[http://www.insee.fr/fr/themes/document.asp?ref_id=8229 INSEE - À Paris, les ménages les plus aisés voisins des plus modestes] 国立統計経済研究所・パリにおける所得分布の高低{{fr icon}}</ref>]] 高所得者層はおもに西部に、低所得者層や移民はおもに北東部に居住している。 パリ市の平均世帯所得はフランス全体の平均より高く、隣接する郊外の[[オー=ド=セーヌ県]]、[[イヴリーヌ県]]、[[エソンヌ県]]、[[ヴァル=ド=マルヌ県]]の4地域の平均所得も国内で最高水準であり、[[イル=ド=フランス地域圏|イル・ド・フランス地域圏]]に高所得者層が集中している。 しかしパリ市内の社会的格差の状況は、さらに複雑である。伝統的には豊かなパリ市西部と、貧しいパリ市東部という構図がみられる。実際、[[7区 (パリ)|7区]]の平均世帯所得(2001年)は3万1,521ユーロにのぼり、[[19区 (パリ)|19区]]の1万3,759ユーロの2倍以上となっている。[[イル=ド=フランス地域圏|イル・ド・フランス地域圏]]において、パリ[[6区 (パリ)|6区]]、[[7区 (パリ)|7区]]、[[8区 (パリ)|8区]]、[[16区 (パリ)|16区]]はもっとも高所得の地域、[[10区 (パリ)|10区]]、[[18区 (パリ)|18区]]、[[19区 (パリ)|19区]]、[[20区 (パリ)|20区]]はもっとも低所得の地域に分類される。さらに、市内の[[19区 (パリ)|19区]]の状況はそのまま所得が低い北東部郊外の[[セーヌ=サン=ドニ県]]に連なる一方、16区の外縁は西部の豊かな郊外に続く。 [[18区 (パリ)|18区]]、[[19区 (パリ)|19区]]、[[20区 (パリ)|20区]]にはパリの貧困層の4割が集中し、学校の中退、失業、健康問題などが集中している。[[欧州連合|EU]]域外からの[[移民]]は、フランス国内の出身者に比べて、貧困な状況に置かれていることが多い。 ====移民==== [[18区 (パリ)|18区]]は[[マグリブ]]や、最近は[[サブサハラ]]地域の[[アフリカ]]からの移民が多い。フランスの[[国勢調査]]では法律上、民族や宗教の属性を問うことができないが、出身地の情報は得ることができる。1999年の国勢調査によると、パリ都市圏はヨーロッパでもっとも多民族化が進んでいる地域のひとつであり、人口の19.4パーセントがフランス本国外の出身である<ref>[http://www.recensement.insee.fr/RP99/rp99/wr_page.affiche?p_id_nivgeo=M&p_id_loca=001&p_id_princ=MIG3&p_theme=ALL&p_typeprod=ALL&p_langue=FR INSEE - Flux d'immigration permanente par motif en 2003.] 国立統計経済研究所・出生地に基づくパリの移民統計{{fr icon}}</ref>。また、パリ都市圏の人口の4.2パーセントは1990年から1999年の間にフランスにやってきた新しい移民であり、その大半は中国またはアフリカ出身である<ref>[http://www.insee.fr/fr/themes/tableau.asp?reg_id=0&id=498 INSEE - Aire urbaine 99 : Paris - Migrations (caractère socio-économique selon le lieu de naissance).] 国立統計経済研究所・2003年における移民の動向{{fr icon}}</ref>。さらにパリ都市圏の人口の15パーセントは[[イスラム教徒]]である。 {{see also|ジプシー}} パリへの大量の移民の第一波は1820年代、ドイツの農民が、農業危機と[[ナポレオン・ボナパルト]]の侵攻にともなって移住してきたことによる。その後、今日に至るまで、何度か移民の波が続いている。19世紀はイタリア人と中央ヨーロッパのユダヤ人、1917年の[[ロシア革命]]後はロシア人、第1次世界大戦中は植民地の国々から、大戦間期はポーランド人、1950年代から70年代はスペイン人、イタリア人、ポルトガル人、北アメリカ人、またアフリカ・アジア地域の独立後はユダヤ人が移民してきた<ref>[http://www.histoire-immigration.fr/index.php?lg=fr&nav=14&flash=0 Histoire de l'immigration en France.] フランスの移民の歴史{{fr icon}}</ref>。移民の居住区域は、それぞれ出身地ごとに異なっている。 === 風景 === {{wide image|Tour Eiffel 360 Panorama.jpg|1700px|[[エッフェル塔]]からのパリの360度のパノラマ}} {{wide image|Paris Night.jpg|800px|[[トゥール・モンパルナス]]からのパリのパノラマ}} == 歴史 == [[File:Thermes-de-Cluny-caldarium.jpg|thumb|200px|[[国立中世美術館]]に残るクリュニー浴場の[[カルダリウム]]]] [[File:Paris in 9 century.jpg|thumb|200px|left|9世紀のシテ島の地図]] [[ファイル:Plan de Paris 1223 BNF07710747.png|thumb|200px|1223年のパリ]] [[ファイル:Vincennes - Chateau 02.jpg|thumb|left|200px|[[ヴァンセンヌ城]]]] {{Main|パリの歴史}} {{See also|フランスの歴史}} === 古代 === [[パリ盆地]]を流れるセーヌ川の中洲[[シテ島]]は古くから同川の渡河点であり、[[紀元前3世紀]]ごろから[[パリシイ族]]の集落[[ルテティア]]があった。[[紀元前1世紀]]、[[ガリア戦争]]の結果ルテティアは[[古代ローマ|ローマ]]支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場・闘技場の遺跡([[アレーヌ・ド・リュテス]])や浴場跡が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする[[城塞都市]]になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。 === フランク王国 === [[5世紀]]末に[[フランク族]]の王[[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]はパリを征服し、[[508年]]にはパリを[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ([[カール大帝]])以降の[[カロリング朝]]フランク王国の中心は[[ライン川]]流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。 [[885年]]から[[886年]]にかけてパリは[[ヴァイキング]]の襲撃を受けた。このとき、フランク王シャルル3世([[カール3世 (フランク王)|カール3世]])は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代わって[[パリ伯]]の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。 === カペー朝 === [[西フランク王国]]が断絶すると、[[987年]]にパリ伯[[ユーグ・カペー]]がフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮として[[シテ宮]]が建築された。[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(のちに[[ルーヴル宮殿]]に発展する)が設けられた。このころのパリは初期[[スコラ学]]の中心のひとつでもあり、[[11世紀]]ごろからパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちの[[パリ大学]]につながっていった。パリ大学は特に[[神学]]の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル(Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。 [[12世紀]]にはパリ水運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになる。 [[13世紀]]になると、[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]によって[[サント・シャペル]]が建築されたほか、[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]も一応の完成を見る。パリは成長を続け、セーヌ左岸も再び人口を増やしていた。王たちは次第に[[ヴァンセンヌ城]]を居城とするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。 [[14世紀]]初頭のパリの人口は約20万人と推定され、ヨーロッパ随一の都市であった。 === ヴァロワ朝 === [[File:Les Très Riches Heures du duc de Berry octobre.jpg|thumb|200px|「[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]」に描かれた15世紀のルーヴル宮殿]] [[File:Plan_de_Paris_vers_1550_color.jpg|thumb|left|200px|1550年パリ地図]] [[1328年]]にカペー朝が断絶したことなどを契機とする[[百年戦争]]の最中、パリ商人頭となった[[エティエンヌ・マルセル]]は王に匹敵する権力を持ち、王と対立した。[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]は、1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ、1370年に[[バスティーユ牢獄|サン=タントワーヌ要塞]](のちのバスティーユ牢獄)を築いた。また、[[ルーヴル宮殿]]を王宮とした。 [[15世紀]]初めにおいても、パリの支配権と王および王族の確保をめぐって、オルレアン派(のちにアルマニャック伯を頼って同盟した後アルマニャック派)と[[ブルゴーニュ派]]との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。[[ジャンヌ・ダルク]]の活躍などもあり、[[1435年]]の[[アラスの和約 (1435年)|アラスの和約]]でブルゴーニュ派と和解して勢力を伸ばした[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]率いるフランス軍は[[1436年]]にパリを奪還し、翌[[1437年]]に改めてパリが首都と定められた。その後、[[1453年]]にフランスにおけるイングランド領の大半が陥落したことにより、百年戦争は終結した。百年戦争後のパリの人口は10万人程度にまで減少していた。 この後もフランス王はパリには住まず、[[ブロワ城]]や[[アンボワーズ城]]などの[[ロワール渓谷]]の城を好んだ。特に[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]は、ロワールに[[シャンボール城]]を築いたほか、パリ近郊に[[フォンテーヌブロー宮殿]]を発展させた。もっともフランソワ1世は、公式的には1528年にパリを居城と定めた。パリでは学術が発展し、[[コレージュ・ド・フランス]]において、大学教育課程(理論と[[リベラルアーツ]])が近代教育課程に加えられ、王が望んだ[[人文主義]]や正確な科学が研究されるようになった。 [[16世紀]]後半、[[ユグノー戦争]]の時代にはパリは[[カトリック教会|カトリック]]派の拠点であり、[[1572年]]には[[サン・バルテルミの虐殺]]が起こって[[プロテスタント]]が殺害されるなどした。[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]を継いだ[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる[[1588年]][[5月12日]]にアンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会(Seize)という組織によって統治されるようになった。 その後、カトリック派からの反発を招いたアンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。 === ブルボン朝 === [[File:Derveaux, Le plan de la ville, cité, université fauxbourg de Paris - Paris Musées.jpg|thumb|200px|[[マテウス・メーリアン|メーリアン]]による1615年パリ地図]] [[File:Carte topographique des environs et du plan de Paris - 1735 - btv1b8442730b.jpg|thumb|200px|left|[[1735年]]のパリの地図]] [[1594年]]、[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。[[ヴァロワ朝]]後期の王と異なり、[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]はパリをおもな居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。[[ルーブル宮殿]]の拡張、[[ポンヌフ]]、[[ヴォージュ広場]]、[[ドフィーヌ広場]]、[[サン・ルイ病院]]の建設がなされた。[[フォンテーヌブロー宮殿]]もよく用いられ、次の[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]はこの宮殿で生まれている。ほかにも[[サン=ジェルマン=アン=レー]]にも居城があった。 ルイ13世の治世下にパリは大きく変化した。その母の[[マリー・ド・メディシス]]による[[テュイルリー宮殿]]や[[リュクサンブール宮殿]]、[[リシュリュー]]による[[パレ・ロワイヤル]]が建設され、[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]の改築も行われた。 太陽王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の即位後まもなく[[フロンドの乱]]が起こり、反動的に貴族勢力が打倒された結果、[[絶対王政]]の確立が促された。ルイ14世は、[[1677年]]に居城をヴェルサイユに移した。財務総監の[[ジャン=バティスト・コルベール]]はパリでの豪華な建設事業を行い、太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。[[オテル・デ・ザンヴァリッド|廃兵院]]などはこのころの建築である。しかし王自身はパリを好まず、パリ郊外の広大な[[ヴェルサイユ宮殿]]にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し、17世紀半ばには人口約50万人、建物約2万5,000棟に達していた。以降、政治の中心地は、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の治世末期までヴェルサイユに移ることとなる。 [[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]は[[1715年]]に居城をいったんパリに戻したが、[[1722年]]にはヴェルサイユに居城を再度移してしまう。[[1752年]]にはエコール・ミリテールが創設され、[[1754年]]にはサント・ジュヌヴィエーヴの丘に教会(現在の[[パンテオン (パリ)|パンテオン]])が建設された。 [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]治世下の1784年から1790年にかけて、新たな城壁である[[フェルミエー・ジェネローの城壁]]が建設される。 [[18世紀]]は、やはり経済的成長の世紀で、人口が増大した。フランス革命直前のパリの人口は64万人を数えた。啓蒙主義、[[啓蒙思想]]が発展し、[[ヴォルテール]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、『[[百科全書]]』の[[ドゥニ・ディドロ]]、[[シャルル・ド・モンテスキュー]]らが活躍した。宮廷がヴェルサイユに置かれたのに対抗し、王族の[[ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公)|オルレアン公]]がパレ・ロワイヤルを増築改修すると、この地はパリ随一の繁華街を形成し、啓蒙思想家のみならずあらゆる階層の人々を引きつけ、とりわけ急進的な革命家の根拠地ともなった。 === フランス革命 === [[ファイル:StormingBastille.jpg|thumb|200px|[[バスティーユ襲撃]]]] {{Main|フランス革命}} [[1789年]][[7月14日]]、パリ市内で発生した[[バスティーユ襲撃]]によって[[フランス革命]]が勃発した。[[ヴェルサイユ行進]]でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。 1790年にパリ県が成立し、1795年に[[セーヌ県]]へと改称される。パリ市は県庁所在地とされていた。 === 19世紀 === [[File:RéalisationsUrbaines2ndEmpire.jpg|thumb|200px|[[フランス第二帝政|第二帝政]]および[[フランス第三共和政|第三共和政]]下の都市改造]] [[File:Charles Marville, Place de l'Opéra, 1878.jpg|thumb|200px|left|1860年代のガス灯]] [[File:Claude Monet 004.jpg|thumb|200px|[[クロード・モネ]]『[[サン・ラザール駅]]』[[1877年]]]] [[File:Tour Eiffel 3b40739.jpg|thumb|200px|left|[[パリ万国博覧会 (1889年)]]]] 混乱を経た1800年当時の人口は、54万7,756人であった。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]は、パリを新しいローマとすべく、帝都と定め、[[カルーゼル凱旋門]]や[[エトワール凱旋門]]を建て、[[ウルク運河]]([[:en:Canal de l'Ourcq|en]])を開削するなどした。 [[フランス第一帝政|第一帝政]]後の[[19世紀]]のパリは、[[フランス復古王政|復古王政]]期および[[1848年革命]](二月革命)を経て、[[フランス第二共和政|第二共和政]]、[[フランス第二帝政|第二帝政]]さらに[[フランス第三共和政|第三共和政]]へと、王政ないし帝政と共和政が交錯し、政治的には安定しなかったものの、[[産業革命]]の到来により経済的・文化的には繁栄した。 文化面では、[[ヴィクトル・ユーゴー]]、[[オノレ・ド・バルザック]]、[[エミール・ゾラ]]、[[スタンダール]]といった文豪に加え、19世紀後半には[[エドゥアール・マネ]]や[[クロード・モネ|モネ]]、[[エドガー・ドガ|ドガ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]、[[ベルト・モリゾ|モリゾ]]、[[アルマン・ギヨマン|ギヨマン]]、[[アルフレッド・シスレー|シスレー]]といった[[印象派]]の画家が活躍し始めた。[[ジョルジュ・スーラ|スーラ]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]、[[ポール・ゴーギャン]]などの[[ポスト印象派]]、[[新印象派]]へと続くものとなった。 [[1837年]]には[[西部鉄道 (フランス)#パリ・サン=ジェルマン鉄道|パリ・サン=ジェルマン鉄道]]の[[サン・ラザール駅]]、1840年に[[西部鉄道 (フランス)#ヴェルサイユへの鉄道|ヴェルサイユ・左岸鉄道]]の[[モンパルナス駅]]、1840年に[[パリ・オルレアン鉄道]]の[[オステルリッツ駅]]、1846年に[[北部鉄道 (フランス)]]の[[パリ北駅]]、1846年に[[ソー線|ソー鉄道]]のアンフェール城門駅([[ダンフェール=ロシュロー駅]])、1849年にパリ・リヨン鉄道の[[リヨン駅]]および[[パリ・ストラスブール鉄道]]のストラスブール駅([[パリ東駅]])がそれぞれ建設された。他方、1841年から1844年にかけて[[ティエールの城壁]]が築かれ、こららの放射状路線をつなぎ、城壁内の補給路を確保するために、[[プティト・サンチュール]]が[[1852年]]から建設され始めた。 [[フランス第二帝政|第二帝政]]下では[[セーヌ県]]知事[[ジョルジュ・オスマン]]によって[[パリ改造]]が行われた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の[[都市再開発|再開発]]や[[社会基盤]]の整備が行われた。[[水道]]の水は[[ロスチャイルド#総合水道会社|ジェネラル・デゾー]]が供給するようになった。これらによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこのときの状態をとどめている。1860年、ティエールの城壁内のコミューンがパリに併合された。併合後である1861年当時の人口は169万6,141人だった。 [[普仏戦争]]で[[ナポレオン3世]]の主力軍が敗北すると、パリは[[1870年]]9月から[[プロイセン王国|プロイセン]]軍に包囲された。翌[[1871年]]1月に[[フランス第三共和政|第三共和政]]の政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権[[パリ・コミューン]]が発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での[[市街戦]]となり、大きな被害を出した。 [[クレディ・アグリコル|クレディ・リヨネ]]のパリ支店支配人Mazeratがリヨン本店支配人Letourneurに書き送ったところによると、普仏戦争以後に企てられた全事業で[[ロスチャイルド]]とその庇護下のオートバンクが独占的役割を果たした。パリ市はロスチャイルドらより2億フランを借り受け、ドイツへ占領税を支払った。20億フランのパリ市公債もロスチャイルドらが引き受けた<ref>Arch. du Crédit Lyonnais: Note de Mazerat à Letourneur, 8 août 1871, cit. Jean Bouvier, ''Le Crédit Lyonnais de 1863 à 1882: les années de formation d'une banque de dépôts'', Paris, 1961, 2vols, t. 1, p. 408, note 1.</ref>。 19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。[[パリ万国博覧会 (1889年)|1889年の万博]]では[[エッフェル塔]]が建てられ、[[1900年]]には[[メトロ (パリ)|メトロ]]が開業した。この時代を[[ベル・エポック]](よき時代)と呼ぶ。パリは「光の都」と呼ばれ、ロンドンに匹敵する経済都市に成長した。 === 20世紀以降 === [[File:Nazi-parading-in-elysian-fields-paris-desert-1940.png|thumb|200px|パリに入城した[[ドイツ国防軍]]]] [[File:The Liberation of Paris, 25 - 26 August 1944 HU66477.jpg|thumb|200px|left|シャンゼリゼ通りを凱旋する[[ド・ゴール]]将軍]] [[20世紀]]にはさらに工業が進展し、このころまだまとまった敷地が残っていたパリ郊外に[[ルノー]]や[[シトロエン]]の工場ができた。パリで働くための移民が集まり、[[バンリュー#「赤いバンリュー」|赤いバンリュー]]の起源となった。1904年6月、1,000万フランの[[ロスチャイルド]]財団が一族6人<ref group="注">アルフォンス、ギュスターヴ、エドモンとそれぞれの子息</ref>と[[北部鉄道 (フランス)]]の役員3人を発起人として設立された。この[[財団]]は建築家を直接雇用して財団所有の事務所に集め、低廉住宅の建築様式を共同作成させた。優秀作の[[意匠権]]は賞金と引き換えに財団が所有した<ref>Marie-Jeanne Dumont, ''Le logement social à Paris 1850-1930: Les Habitations à Bon Marché'', Liege, 1991, pp.32-34.</ref>。1912年12月23日のボンヌヴェ法は全会一致で可決され、パリ市が低廉住宅を建設するために要請していた2億フランの借款を認めた<ref>実際の建設ではロスチャイルド財団とルボディ財団の意匠が利用された。</ref>。 [[第一次世界大戦]]の緒戦では[[ドイツ帝国陸軍|ドイツ軍]]がパリの目前にまで迫り、政府が一時[[ボルドー]]に避難するほどであったが、[[マルヌ会戦]]の勝利により辛くも陥落を免れた。大戦後半には[[パリ砲]]による砲撃を受けた。[[戦間期]]にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くの[[ボヘミアン (アーティスト)|ボヘミアン]]たちを惹きつけた。 しかし[[第二次世界大戦]]が勃発すると、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]開始から1か月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、[[1940年]][[6月11日]]に[[首都]]機能をトゥールに移転<ref>フランス政府、ツールへ移転『東京日日新聞』昭和15年6月12日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p372 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。パリは6月13日に[[無防備都市宣言|非武装都市宣言]]を行った<ref>パリ、非武装都市を宣言『東京朝日新聞』昭和15年6月14日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p372)</ref>ことで市街戦は回避され、翌6月14日には[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]が進駐し、パリを無血で占領した<ref>ドイツ軍、パリに無血入城(『東京日日新聞』昭和15年6月15日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』p372</ref>。パリが外国軍の手に落ちるのは4度目(過去3回は[[百年戦争]]、[[ナポレオン戦争]]による敗北、[[普仏戦争]])であった<ref>パリついに陥落、連合軍の手に『朝日新聞』昭和19年8月31日(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p412)</ref>。 6月23日には[[アドルフ・ヒトラー]]がパリに入った。占領下のパリでは[[レジスタンス運動]]に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者はのちに対独協力者([[コラボラトゥール]])として糾弾されることになる。 [[ノルマンディー上陸作戦]]から2か月半後の[[1944年]]8月24日、アメリカ軍がパリ郊外に達しドイツ軍と交戦。翌25日にはアメリカ軍と[[自由フランス軍]]が市内中心部に達し、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による[[パリの解放|解放]]が実現した<ref>市民も蜂起、パリ全市で激戦『毎日新聞』昭和19年8月27日東京版(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p412)</ref>。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していた[[ディートリヒ・フォン・コルティッツ]]将軍は、ヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている。 [[20世紀]]のパリは文化的にも成熟し、[[アルベール・カミュ]]や[[ジャン=ポール・サルトル]]らが[[実存主義]]を生み出し、[[マルセル・プルースト]]や[[アンドレ・ジッド]]などの小説家が輩出された。[[1960年]]に創刊された[[アバンギャルド|前衛]]雑誌『[[テル・ケル]]』には[[ロラン・バルト]]、[[ジョルジュ・バタイユ]]、[[ミシェル・フーコー]]、[[ジャック・デリダ]]、[[ジュリア・クリステヴァ]]らが名を連ね、[[構造主義]]と[[ポスト構造主義]]は世界的な影響力を持ち、[[フランス現代思想]]が隆盛を極めた。映画界では、[[1950年代]]末から[[1960年代]]中盤にかけて、[[ジャン=リュック・ゴダール]]や[[フランソワ・トリュフォー]]ら[[ヌーヴェルヴァーグ]]が台頭した。 [[人民戦線]]の頃以降の[[フランス共産党]]の党勢拡大などを背景として、[[1968年]]1月1日、セーヌ県が廃止され、パリは特別市となった。このような政治的や文化的状況下で、[[五月革命 (フランス)|五月革命]]が起こった。 [[1950年代]]以降のパリでは、おもに郊外([[バンリュー]])で人口が急増した。環状[[高速道路]][[ペリフェリック]]をはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道[[RER (イル=ド=フランス)|RER]]などが整備され、[[ラ・デファンス]]地区がオフィス街として開発された。 一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、[[失業]]や治安の悪化が社会問題となった。[[2005年]]には[[2005年パリ郊外暴動事件|パリ郊外暴動事件]]が発生した。[[2015年]]11月には[[パリ同時多発テロ事件]]が発生した。 ==政治== ===行政=== ====行政機構の変遷==== {{double image|right|Plan des anciens arrondissements de Paris avec leurs quartiers.svg|250|Arrondissements de Paris.jpg|250|左:[[1795年]]から[[1860年]]までの12の行政区と48のカルティエ/右:1860年以降の20の行政区}} フランス革命後の地方自治制度では、パリ市は[[セーヌ県]](当初の名称はパリ県)に属する一[[コミューン]]であり、同県の県庁所在地であった。当時の市域は現在より狭く、[[フェルミエー・ジェネローの城壁]](現在は、ほぼその跡に沿って[[メトロ (パリ)|メトロ]][[パリメトロ2号線|2号線]]・[[パリメトロ6号線|6号線]]が走っている)の内側のみであった。当初は、48の地区に細分化されていたが、各地区を統合する形で12の[[パリの行政区#過去の行政区|行政区]]が設けられるに至った。 [[1860年]]に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に新たな20の[[パリの行政区|行政区]]が設けられた。これらの行政区は、1795年10月11日以降存在していた12の旧行政区から置き換えられたものである。 [[1968年]][[1月1日]]に完全施行された「パリ地域の再編に関する1964年7月10日法」による再編以降、[[セーヌ県]]が廃止され、パリは[[フランスの地方行政区画|県]]と[[コミューン]]の地位を併せ持つこととなる。パリは、1860年のパリ拡張の際に創設された20の行政区と18の選挙区に分けられている。 [[1976年]]に[[イル=ド=フランス地域圏]]が発足すると、パリはその首府となった。 「パリの地位と都市計画に関する2017年2月28日法」では、コミューンと県を統合する特別自治体を[[2019年]][[1月1日]]に創設することが規定され、同日、パリは「パリ市」という特別自治体に移行した。 ====行政区==== 市内20の区(arrondissement)は、パリ市街地の1区から、右回りの渦巻状に番号がつけられている。1 - 4、8 - 12、16 - 20区は右岸に、5 - 7、13 - 15区は左岸に位置する。 [[ファイル:Hotel de Ville Paris Wikimedia Commons.jpg|thumb|500px|夜の[[パリ市庁舎]]]] ====行政的地位の変遷==== この街の行政的地位は何度も変更されている。[[1871年]]3月26日から5月22日まで、パリには、蜂起勢力である代表制普通選挙による議会をともなう[[パリ・コミューン]]による政府が置かれた。1870年に成立した[[フランス第三共和政|第三共和政]]は、この出来事への恐怖心を持つ保守主義者たちによって運営されていた。彼らは、パリの行政権をセーヌ県知事(préfet de la Seine)に、パリの警察権を警視総監(préfet de police)にそれぞれ与えることを内容とする1884年4月5日法を制定した。他方、市町村選挙で議員が選出されるパリの議会は、毎年、主として代表者としての機能を有する「議長」を選出していた。すなわち、パリには市長がいなかった。また街の予算は、国の同意を得る必要があった。 1975年12月31日法(1977年の市町村選挙の際に施行された)は、109人の議員で構成される市議会かつ県議会であるパリの議会を創設し、議員によってパリ市長を選出することにした。区の委員会は、諮問と推進の役割を有していた。委員会の構成員は、選挙人・パリ市長・パリの議会によって選出された。警視総監は国家により任命され、警察権を行使する。 パリ・リヨン・マルセイユおよびコミューン間の協力による公共機関に関する1982年12月31日法が、パリには1983年の市町村選挙の際に施行され、163人の議員を選出することになったほか、特に予算に関する議会の権限が拡大し、委員会を廃して区議会が創設された。 2002年5月2日の2002-810号[[デクレ]]以降、行政警察権がパリ市長と警視総監に共有されることとなり、その実現のために、両者は互いの活動方法を相互に承認することとなった。承認手続に関しては、パリ議会が審議したうえ、毎年その予算および決算を承認する必要がある<ref>[http://www.paris.fr/portail/politiques/Portal.lut?page_id=4825&document_type_id=5&document_id=3048&portlet_id=10317 Paris Politiques> Statut et institutions de Paris> L’évolution du statut de Paris> Les récentes évolutions législatives]</ref> (この予算は国家によって決められたものである)。パリ市長はこれ以降、生活安全分野に関する限り、たとえ警視総監の手中にある権限に関するものであっても関与することになった。 パリの議会の活動は、パリ市が資本を保有する会社の仲介人やパリの混合経済会社(SEM)によっても実現される。 ====他のコミューンとの連携の不存在==== ほかの主要都市とは異なり、パリとその郊外の[[コミューン]]との間、« 大パリ » 内には、固有の予算をともなうコミューン間の連携が存在しない。もっとも、パリとその郊外の[[県]]との間では、下水道組合(SIAAP, Syndicat interdépartemental pour l’assainissement de l’agglomération parisienne)の再編を行った。また、イル=ド=フランス交通組合(STIF)は、[[イル=ド=フランス地域圏]]の公共機関であり、パリとその郊外の総合的な交通網整備を行う組織である。 ほかの国際的な大都市と異なり、おおよそ環状の[[ペリフェリック]]で区切られる中心市街のみを範囲とする''パリの街''については、その実際的な範囲を明確にする必要がある。上述各城壁の変遷で見るように歴史的かつ政治的な配慮が障害となって、« 大パリ » を管理する行政機関が存在しないことは、パリ都市圏の現在の主要な問題のひとつである<ref>[http://www.paris.fr/portail/accueil/Portal.lut?page_id=6135&document_type_id=4&document_id=13953&portlet_id=14061&multileveldocument_sheet_id=1510 Une histoire croisée de Paris et de ses banlieues].</ref>。 現在のパリの領域は、上述概要の項で指摘されているように日本の[[山手線]]内よりやや広い程度である。その市域の境界線は歴史的で時代錯誤な経緯の産物、あるいは現在はパリ都市圏に取り込まれ、消えてしまった地形に適合していたにすぎないものであるにもかかわらず、市域の内外を問わず、パリ都市圏の人々には共通の行政的需要ならびに経済的・社会的関心がある。ところが、各コミューンは行政的・税制的に独立しており、コミューンや県の枠を超えて存在する集団的需要(交通や住宅など)に関する組織については、都市圏規模のまとめ役となる機構が存在しない。イル=ド=フランス地域圏となると、地域の約80パーセントに農村部が残っており、パリ都市圏のための枠としては大き過ぎ、« 大パリ » たるパリ都市圏内の適切な連携に適っていない現状がある。 <!-- La fiscalité locale est de même très concentrée dans certaines communes riches en entreprises et/ou populations aisées (cas typique de [[Neuilly-sur-Seine]] par exemple qui bénéficie des rentrées fiscales d'une population parmi les plus aisées de France et de nombreuses entreprises, tout en ne possédant que 2,8 % de logements sociaux)<ref>[http://tempsreel.nouvelobs.com/actualites/politique/20070704.OBS5021/logement_social__francois_fillonvole_au_secours_de_neui.html Le Nouvel Observateur - Logement social : François Fillon vole au secours de Neuilly]</ref>, alors que les charges qu'entraîne l’afflux sur un territoire de populations de conditions modestes sont supportées par des communes qui n’ont pas toujours la possibilité de trouver dans leurs limites administratives les ressources nécessaires pour les compenser ([[Clichy-sous-Bois]] est ainsi une des villes les plus pauvres de [[France]] ; elle cumule une population défavorisée et des ressources fiscales très limitées, vivant essentiellement de dotations de l'État<ref>[http://www.liberation.fr/actualite/societe/211922.FR.php Libération - Clichy-sous-Bois, des chiffres pour le dire]</ref>). Cette difficulté est à l'origine de la Conférence métropolitaine de l’agglomération parisienne qui s'est réunie à l'initiative de la Ville de Paris pour la première fois en mairie de [[Vanves]] le 7 juillet [[2006 en France|2006]]<ref group="s">[http://www.paris.fr/portail/accueil/Portal.lut?page_id=95&document_type_id=4&document_id=21823&portlet_id=13549 Conférence métropolitaine de l’agglomération parisienne]</ref>, après que l'adjoint [[Pierre Mansat]] a renoué le dialogue de Paris avec les communes riveraines. Le président de la République [[Nicolas Sarkozy]] s'est également saisi du problème dans son discours du 26 juin [[2007 en France|2007]]<ref>[http://www.elysee.fr/elysee/elysee.fr/francais/actualites/2007/juin/inauguration_du_satellite_n3_de_roissy_charles-de-gaulle.78946.html Présidence de la république - Inauguration du Satellite {{numéro|3}} de Roissy Charles-de-Gaulle]</ref>, critiquant le projet de [[Schéma directeur de la région Île-de-France|SDRIF]], se disant repenser « l'organisation des pouvoirs » et créer une communauté urbaine, imposant de fait la vision d'une reprise en main par l'État<ref>[http://www.liberation.fr/actualite/politiques/263866.FR.php Journal Libération du 28 juin 2007 - Nouveau tour de piste pour le « Grand Paris »]</ref>{{,}}<ref>[http://www.20minutes.fr/article/169001/Paris-Sarkozy-relance-le-projet-d-un-Grand-Paris.php Journal 20 minutes - Sarkozy relance le projet d'un « Grand Paris »]</ref>, ce qui n'a pas manqué de provoquer de nombreuses réactions parmi les élus locaux de l'agglomération<ref>[http://www.20minutes.fr/article/169099/Paris-Grand-Paris-les-elus-reagissent.php Journal 20 minutes - « Grand Paris » : les élus réagissent]</ref>. Du 18 mars [[2008]]<ref>{{Lien web|url=http://www.lesechos.fr/info/france/4703193.htm|titre=Christian Blanc prend en charge la région capitale|éditeur=Les Échos|date=19 mars 2008|consulté le=3 mai 2008}}</ref> au 4 juillet [[2010]]<ref>[http://www.lesechos.fr/info/france/020646997731-le-secretaire-d-etat-abandonne-le-chantier-du-grand-paris-au-milieu-du-gue.htm « Le secrétaire d'État abandonne le chantier du Grand Paris au milieu du gué »], ''[[Les Échos]]'', 5 juillet 2010.</ref>, [[Christian Blanc]] occupe le poste de Secrétaire d'État chargé du développement de la Région Capitale, dont les travaux aboutissent à la création de la [[Société du Grand Paris]]<ref name="Loi">{{Légifrance|base=JORF|numéro=PRMX0920421L|texte=Loi {{n°|2010-597}} du 3 juin 2010 relative au Grand Paris}}</ref>, présidée par [[André Santini]]<ref>{{Lien web|url=http://www.lesechos.fr/info/france/020679439806-andre-santini-prend-la-tete-de-la-societe-du-grand-paris.htm | titre=André Santini prend la tête de la Société du Grand Paris |éditeur= Les Échos |date= 22 juillet 2010 | consulté le=27 juillet 2010}}</ref>. --> ====市長==== ;歴代市長 {{Main|1=fr:Liste des maires de Paris|2=fr:Préfet de Paris}} 初代市長は[[ジャン=シルヴァン・バイイ]](在任:1789年7月15日 - 1791年11月18日)。 [[1795年]] - [[1848年]]の[[1848年のフランス革命|2月革命]]まで、12の区に分割され各区にConseil municipal(議会)が置かれ自治が行われたため、パリ市長は置かれなくなった。1795年 - 1977年の間、わずかな例外(2月革命後の4人の市長)を除いて市長は置かれず、各区のConseil municipalの議長が実質上は市長のような務めを果たした<ref>[https://megalodon.jp/2014-0430-2326-41/www.newsdigest.fr/newsfr/features/6328-mayors-of-paris.html 「パリ市長の歴史をたどる」]</ref>。1977年以降は「パリ市長」がパリ県知事(Préfet)とコミューンの首長の性格を併せ持っていた。2019年に県とコミューンを統合した特別自治体「パリ市」が誕生したため、パリ市長はその首長となった。 {|class="wikitable" style="text-align:center" |- |+歴代市長 !- ! style="width:6em;" | 氏名 ! style="width:8em;" | 就任 ! style="width:8em;" | 離任 ! style="width:5em;" | 政党 ! 補記(他の資格 等) |- | - || [[ジャック・シラク]] || [[1977年]][[3月20日]] || [[1995年]][[5月16日]] ||[[共和国連合]]||[[国民議会 (フランス)|国民議会]]議員 |- | - || [[ジャン・チベリ]] || [[1995年]][[5月22日]] || [[2001年]][[3月24日]] ||[[共和国連合]]||[[国民議会 (フランス)|国民議会]]議員 |- | - || [[ベルトラン・ドラノエ]] || 2001年[[3月25日]] ||[[2014年]]4月5日||[[社会党 (フランス)|社会党]]||元[[元老院 (フランス)|元老院]]議員 |- | - || [[アンヌ・イダルゴ]] || 2014年4月5日||現職||[[社会党 (フランス)|社会党]]||初の女性パリ市長 |} ====財政==== ;予算と税収 2011年の当初予算(街および県としてのもの)は約85億8,200万[[ユーロ]]で、うち69億600万ユーロが行政活動に、16億7,600万ユーロが投資に充てられている<ref>[http://labs.paris.fr/commun/budget_primitif_2011/pdf/chiffres_cles.pdf Budget 2011 de la ville et département de Paris]</ref>。債務残高は約26億9,600万ユーロである。2008年の県債は266億ユーロにのぼる<ref>[http://www.paris.fr/portail/pratique/Portal.lut?page_id=7708&document_type_id=4&document_id=49199&portlet_id=17822&multileveldocument_sheet_id=8692 Le budget primitif 2008 : état de la dette]</ref>。 <!-- Après une stabilité entre [[2000]] et [[2008]]<ref>[http://www.impots.gouv.fr/portal/dgi/public/documentation.donnees_detaillees;jsessionid=OL0OJYMOT3NPZQFIEMRSFE4AVARW4IV1?paf_dm=shared&paf_gm=content&paf_gear_id=1900029&pageId=doc_stat_donnees_detaillees&sfid=4502&region=&_requestid=760087 Site officiel de la direction générale des Impôts]</ref>, les taux d’imposition ont été augmentés en [[2009]] et sont portés à 9,59 % pour la [[taxe d'habitation]], 7,75 % pour la taxe sur le foncier bâti, 14,72 % pour la taxe sur le foncier non bâti et 13,46 % pour la [[taxe professionnelle]]<ref group=s name="budget 2009">[http://www.paris.fr/portail/accueil/Portal.lut?page_id=4857&document_type_id=5&document_id=7962&portlet_id=10385 Budget 2009 de la ville de Paris]</ref>{{,}}<ref>[http://www.lefigaro.fr/impots/2009/09/29/05003-20090929ARTFIG00001-le-grand-ecart-entre-les-villes-vertueuses-et-les-autres-.php Le Figaro - 28 septembre 2009 - Hausse des impôts locaux à Paris en 2009]</ref>. La fiscalité représente 55 % des recettes de la ville<ref group=s name="budget 2009"/>. Paris est l'une des quinze grandes villes françaises (de plus de {{Unité|1000000|habitants}}) n'ayant pas augmenté ses taux d'impôt foncier en cinq ans<ref>[http://www.lesechos.fr/patrimoine/immobilier/300223949.htm Les Échos - Taxe foncière : les villes qui ont subi la plus forte hausse]</ref>. Cette stabilité ne concerne que les taux d'imposition. La bulle immobilière qui s'est développée pendant toute la première mandature de M. Delanoë a permis une hausse extrêmement importante des rentrées fiscales assises sur l'immobilier. Le nombre des transactions en même temps que leur valeur a considérablement augmenté. Cette bulle fiscale a permis d'accroître les effectifs de la Mairie de Paris de 40 à {{Unité|49000|agents}}. L'explosion de cette bulle immobilière temporaire laisse la mairie avec un excédent de dépenses permanentes à financer autrement. C'est pourquoi Bertrand Delanoë a annoncé en 2008 la création d'une nouvelle taxe départementale de 3 % sur le foncier (payée uniquement par les propriétaires) et une hausse des taux de l'impôt foncier<ref>Nouvelle taxe foncière départementale de 3 % et augmentation des 4 taxes locales (taxe d'habitation, taxes sur le foncier bâti et le non bâti et enfin taxe professionnelle), cf. ''Le Figaro'' du 29 octobre 2008, [http://www.lefigaro.fr/impots/2008/10/08/05003-20081008ARTFIG00453-delanoe-augmente-les-impots-locaux-a-paris-.php ''Les impôts locaux en hausse de 9 % à Paris en 2009''].</ref>. Pour la période 2007-2012, l'Union nationale de la propriété immobilière (UNPI) calcule que Paris est la ville qui a connu la progression nationale la plus forte de sa taxe foncière (+ 67,90 % contre 21,17 % en moyenne), en raison notamment de la création de ce taux départemental<ref>[http://www.lejdd.fr/Economie/Ces-grandes-villes-ou-la-taxe-fonciere-explose-632997 Ces grandes villes où la taxe foncière explose], Le JDD, 8 octobre 2013 </ref>{{,}}<ref>[http://www.unpi.org/docunpi/otf2013/75.pdf Observatoire UNPI des taxes foncières sur les propriétés bâties : période 2007/2012]</ref>{{,}}<ref>[http://www.liberation.fr/societe/2013/10/08/les-taxes-foncieres-pesent-de-plus-en-plus-sur-le-budget-des-menages_937806 Les taxes foncières pèsent de plus en plus sur le budget des ménages], Libération, 8 octobre 2013 </ref>. Après six années sans aucune hausse des taux des impôts locaux (2001 à 2008 inclus) votés par les élus parisiens, puis deux années de hausse (2009 et 2010), la municipalité s'est engagée à ne plus augmenter le taux des 4 impôts locaux. Selon le magazine ''Capital'' de juin 2010, Paris reste la grande ville avec les plus faibles montants d'impôts locaux. Le taux d'endettement de la Mairie de Paris (ville et département) est à 39 % de ses ressources, bien moins que la moyenne nationale des grandes villes (89 %). La ville bénéficie, pour 2010 et 2011, de la note maximale des agences de [[notation financière]], le « AAA », qui permet d'emprunter aux meilleurs taux pour investir et construire. Dans un livre intitulé ''Comptes et légendes de Paris, Bilan de la gestion Delanoë'' (2011), le journaliste Dominique Foing analyse, sur la base des rapports de l'Inspection générale de la ville de Paris et de la [[chambre régionale des comptes]] d'Île-de-France, la gestion des années 2001-2011 de la ville de Paris : les dépenses municipales auraient augmenté de 44,45 % (« le produit fiscal, fiscalité immobilière incluse, collecté sur les contribuables parisiens est passé de 1,7 milliard d'euros au budget 2001 à 2,5 milliards d'euros au budget 2008, soit 47 % d'augmentation »), signifiant pour ceux-ci une hausse des recettes des impôts de 70 % entre 2001 et 2011 ; concomitamment, les dépenses de fonctionnement se seraient accrues de 2 milliards d'euros, la dette, relativement faible en 2011, augmentant d'un milliard d'euros<ref>[http://www.lefigaro.fr/actualite-france/2011/10/04/01016-20111004ARTFIG00733-polemique-autour-d-un-livre-sur-delanoe.php Polémique autour d'un livre sur Delanoë], Aude Seres, ''Lefigaro.fr'', 5 octobre 2011</ref>{{,}}<ref>[http://www.leparisien.fr/paris-75/paris-75005/le-livre-qui-agace-le-maire-de-paris-06-10-2011-1640905.php Le livre qui agace le maire de Paris], Marie-Anne Gairaud, ''Leparisien.fr'', 6 octobre 2011</ref>. --> ===司法機関 === ==== 司法裁判所系統 ==== パリ[[大審裁判所]]が[[シテ島]]の[[パレ・ド・ジュスティス (パリ)]]に置かれている。この裁判所は、フランスの大部分の訴訟事件を取り扱う巨大司法機関である<ref>[http://www.tgi-paris.justice.fr/] Le tribunal de grande instance de Paris(consulté 2013-04-07)</ref>。各区には[[小審裁判所]]が置かれている。 パリ[[商事裁判所]]は、やはりシテ島(コルス河岸)に置かれている。パリ[[違警罪裁判所]]は19区(rue de Cambrai)、パリ[[労働審判所]]は10区(rue Louis-Blanc)にそれぞれ置かれている。 パリのみを管轄する裁判所以外に、複数の県を管轄するパリ[[控訴院 (フランス)|控訴院]]もパレ・ド・ジュスティスに置かれている。その管轄は、[[セーヌ=エ=マルヌ県]]、[[エソンヌ県]]、[[セーヌ=サン=ドニ県]]、[[ヴァル=ド=マルヌ県]]、[[ヨンヌ県]]である。パリ控訴院の管轄区域には、フランス全人口の12.6パーセントが暮らしている<ref>[http://www.ca-paris.justice.fr/] La cour d'appel de Paris(consulté 2013-04-07)</ref>。なお、ほかの[[イル=ド=フランス地域圏]]内の各県および[[ウール=エ=ロワール県]]は、ヴェルサイユ控訴院の管轄となる<ref>[http://www.ca-versailles.justice.fr/] La cour d'appel de Versailles(consulté 2013-04-07)</ref>。 ==== 行政裁判所系統 ==== パリは、4区所在のパリ[[地方行政裁判所 (フランス)|地方行政裁判所]]の管轄に属する。控訴は、パリ[[行政控訴院 (フランス)|行政控訴院]]に対して行うことになる(ほかに、[[マタウトゥ|マタ・ウトゥ]]、[[ムラン]]、[[ニューカレドニア|ヌーヴェル・カレドニー]]、[[フランス領ポリネシア]]の各地方行政裁判所からの控訴を受ける)。 ==== 最高裁判所及び憲法裁判所 ==== パリ(1区)には、司法と行政それぞれの最高裁判所である[[破毀院]]と[[国務院 (フランス)|国務院(コンセイユ・デタ)]] に加え、[[憲法評議会]]([[憲法裁判所|憲法院]])も置かれている。 === 行刑施設 === パリのいくつかの[[刑務所]]は今日でも有名である。 右岸のグラン・シャトレは、王の刑務所を内部に置き、その別館(左岸の[[プティ・ポン]]にあるプティ・シャトレ)とともに、[[14世紀]]から破壊される[[1782年]]まで投獄所および拘置場所とされていた。 [[コンシェルジュリー]]、[[バスティーユ牢獄]]、[[ヴァンセンヌ城]]の3つの刑務所は、歴史的なシンボルとなっている。コンシェルジュリーはパリの[[パレ・ド・ジュスティス (パリ)|裁判所]]固有の刑務所であったが、[[フランス革命]]の間に[[マリー・アントワネット]]やほかの[[ギロチン]]犠牲者を迎えたあとも、1914年まで拘置所として機能し続けた。バスティーユ牢獄は1370年から構築され、[[リシュリュー]]が権力を振るっていたころに国の刑務所となった。<!--constituait contrairement à l'idée générale une prison de « luxe » pour un nombre de prisonniers n'excédant jamais la quarantaine.--> ヴァンセンヌ牢獄は、やはり1784年まで国会の刑務所であったが、その名の通りの投獄の場というよりもむしろ軟禁場所であり、第二帝政下までしばしばそのように使われていた。 [[1830年]]から[[1947年]]まで11区にロケット刑務所があったが、パリで唯一残存する刑務所(兼拘置所)は1867年に開設された[[サンテ刑務所]]のみである。イル=ド=フランス地域圏の主要な刑務所兼拘置所(Maison d'arrêt、メゾン・ダレ)は、[[フレンヌ (ヴァル=ド=マルヌ県)]]と[[フルリー=メロジ]]([[エソンヌ県]])にある。ほかに、[[ポワシー]]にある困難受刑者が収容されるメゾン・サントラルがある<!--<ref group="f">{{p.|1109-1112}}</ref>-->。 <!-- L'hygiène est gérée par le service municipal d'actions de salubrité et d'hygiène de la ville de Paris.--> ==施設== ===警察=== [[セーヌ=サン=ドニ県]]、[[オー=ド=セーヌ県]]、[[ヴァル=ド=マルヌ県]]と同様に[[パリ警視庁]]の管轄下にある。 イル=ド=フランス地域圏で犯される[[重罪]]および[[軽罪]]は、フランス全土での4分の1を占める。パリ市内、その外側の「小さな王冠」([[セーヌ=サン=ドニ県]]、[[オー=ド=セーヌ県]]、[[ヴァル=ド=マルヌ県]])、さらにその外側の「大きな王冠」は、それぞれイル=ド=フランス地域圏内の全認知件犯罪のおおむね3分の1ずつが発生している。パリでみられる犯罪類型としては窃盗が大部分で、全重罪および軽罪の3分の2を占める。[[2006年]]には、25万5,238件が認知され、犯罪発生率としては人口1,000人あたり118.58件であった。これは、全国平均61.03‰の約2倍であるが、大都市のみに限ってみれば平均的な数値である([[リヨン]]109.22件、[[リール (フランス)|リール]]118.93件、[[ニース]]119.52件、[[マルセイユ]]120.62件)。女性被告人の割合は15パーセントを下回り(全国平均をわずかに下回る程度)、未成年の割合は11.02パーセント(全国平均18.33パーセントを7ポイント下回る)である。他方、外国人(有効な滞在許可証を所持しフランスに住居を有する者)の割合は、全国平均を上回る20.73パーセントである<ref>[http://www.ladocumentationfrancaise.fr/rapports-publics/074000386/somm.shtml La documentation Française - Criminalité et délinquance constatées en France - Tome I (Année 2006)]</ref><ref>[http://www.ladocumentationfrancaise.fr/rapports-publics/074000387/somm.shtml La documentation Française - Criminalité et délinquance constatées en France - TomeⅡ(Année 2006)]</ref>。 パリでは、2008年の強姦事件数1,413件で発生率が0.6‰とフランス国内で2番目の高率であった<ref>http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/violences-sexuelles-2008.pdf</ref>。身体的暴行に関しては、2万7,857件であった<ref>http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/violences-physiques-crapuleuses2008.pdf</ref><ref>http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/violences-physiques-non-crapuleuses2008.pdf</ref>。暴行を行うとの脅迫に関しては、2008年において、パリでは5,165件認知された<ref>http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/menaces-violence-2008.pdf</ref>。2008年の財産犯(窃盗、器物汚損、器物破壊)に関して、[[ブーシュ=デュ=ローヌ県]]に次ぐ件数が認知された<ref>http://www.lefigaro.fr/actualite-france/2009/04/16/01016-20090416ARTFIG00601-la-nouvelle-carte-de-france-de-l-insecurite-.php</ref>。 パリの中央集権主義はまた、この街がテロの犠牲者であることをも物語る。よく知られる[[ナポレオン・ボナパルト#統領ナポレオン|ナポレオン1世]]に対するサン・ニケーズ街テロ事件や、最近では、[[RER B線]][[サン=ミッシェル=ノートルダム駅#歴史|サン=ミッシェル=ノートルダム駅]]での爆弾テロがある。パリの歴史はこれらの象徴的価値の高い事件が刻まれたものである。これらは、この街での日常生活にとって取るに足りないというものではない。特に、ヴィジピラート計画(Plan Vigipirate)<ref>[http://www.archives.premier-ministre.gouv.fr/raffarin_version2/information/fiches_52/plan_vigipirate_50932.html Le plan vigipirate expliqué sur le site du Ministère de l'intérieur]</ref>の実施により、観光地や首都の戦略的要衝地の近くに武装した警察、憲兵および兵士が警備しているのを目にすることになる<ref>[http://www.prefecture-police-paris.interieur.gouv.fr/documentation/dossiers/vigipirate_2005.pdf Document expliquant le plan vigipirate en Île-de-France]</ref>。 ===医療・衛生=== [[File:P1080168 Paris IV hôtel-Dieu rwk.jpg|thumb|200px|セーヌ右岸からみた[[オテル・デュー ・ド・パリ]]]] 数多くの病院がパリに設置されている。そのうちいくつかは特に古く、医療の伝統は中世にまでさかのぼる。[[651年]]にパリ司教だった聖ランドリーによって設立された[[シテ島]]の[[オテル・デュー ・ド・パリ|オテル・デュー]]は、パリでもっとも古い医療施設である。慈愛ともてなしの象徴であり、12世紀まではパリで唯一の病院であった。 大部分の医療施設は、1849年1月10日法によって創設された公的医療施設である''AP-HP''(Assistance publique - Hôpitaux de Paris、公的支援-パリ病院連合)に名を連ね、パリ市の後方支援をしている。地域圏およびパリの医療センターの役割も果たし、多くの医師や公務員を含む9万人以上が業務に従事している。5区にあるミラミオン館は、かつて病院の施設として使用されていたが、現在はAP-HPの博物館となっており、パリの医療の歴史を想起させている。AP-HPのパリ市内主要病院としては、ネッケル小児病院、コシャン病院、[[サルペトリエール病院]]、サン・タントワーヌ病院、サン・ルイ病院、ビシャ=クロード・ベルナール病院、ジョルジュ・ポンピドゥー欧州病院を挙げることができる。 他方、アンヴァリッド軍病院はAP-HPに属していないが、保健大臣の監督のもと国防大臣に権限が委任されており、[[退役軍人]]などの治療を行っている。同様に、国立アンヴァリッド研究所<ref>[http://www.invalides.fr/ Site de l'Institution nationale des Invalides], sur ''invalides.fr''. Consulté le 16 mai 2013.</ref>では、現役および退役軍人(その家族などの被保険者を含む)などが医療看護や外科的治療を受けられる。 パリの近郊「小さな王冠」では、パリ東・クレテイユ・ヴァル=ド=マルヌ大学([[パリ第12大学]])附属アンリ・モンドール大学病院センター([[クレテイユ]])、[[パリ第11大学|パリ南大]]学附属クレムラン・ビセートル大学病院センター([[ル・クレムラン=ビセートル]])、[[ル・ランシー]]=[[モンフェルメイユ]]・コミューン連携医療センター、ボジョン病院([[クリシー]])が有名な医療機関である<ref>[http://www.aphp.fr/carte/ Carte des hôpitaux], sur ''aphp.fr''. Consulté le 17 mai 2013.</ref>。「大きな王冠」においても、AP-HPに属してはいないが、いくつかのコミューン連携の総合病院が存在する。たとえば、[[アルジャントゥイユ]]のビクトル・デュプイ病院やヴェルサイユ医療センターを挙げることができる。 また、医療研究機関としては、[[1260年]]に[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]によってパリの[[視覚障害者]]救済を目的として設立されたキャンズ・ヴァン病院、いずれも軍の[[衛生部 (フランス軍)|衛生部]]に属するヴァル=ド=グラース軍研究病院、ペルシー軍研究病院、ベガン軍研究病院を挙げることができる。 さらに、[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]には、[[1906年]]に設立された[[社会保障]]非受益者のための非営利・認可私立病院であるパリ・アメリカン・ホスピタルも特筆される。 パリは、フランス全土でも[[医師]]の密度がもっとも高い街のひとつである。たとえば、2005年現在、パリの一般医は5,840人を下らないが、[[セーヌ=サン=ドニ県]]と[[ヴァル=ドワーズ県]]には両県を合わせても3,349人の一般医しかいない<ref>[http://www.conseil-national.medecin.fr/index.php?url=demographie/index.php&open=2#2 Ordre national des médecins - Démographie médicale]</ref>。 パリでは、[[公衆衛生]]を保証・保持するため、特に貧困層向けに、16の市立[[入浴]]施設が9つの区に分散設置されている。これらの入浴施設は個室を有するが、洗面具は利用者が用意することになっている<ref>[http://www.paris.fr/pratique/personnes-en-grande-precarite/vivre-au-quotidien/bains-douches-municipaux/rub_5365_stand_8972_port_11521 Bains-douches municipaux de la ville de Paris], article du 16 septembre 2013, sur ''paris.fr'', consulté le 16 septembre 2013.</ref>。 === 宗教施設 === {{Main|パリの宗教施設の一覧}} === 放送局 === ; テレビ局 * [[フランス・テレビジョン]] * [[TF1]] * [[Canal+]](カナルプリュス) ; ラジオ局 * [[Radio FG]] * [[NRJ]] * France Inter(フランス・アンテル) === 娯楽施設 === * [[ディズニーランド・パリ]](1992年開業。パリ近郊[[マルヌ=ラ=ヴァレ]]に立地) === 運動施設 === * [[ヴェロドローム・ド・ヴァンセンヌ|ジャック・アンクティル自転車競技場]](「[[ツール・ド・フランス]]」のゴール地点だったこともある[[自転車競技場]]) * [[ローラン・ギャロス]]([[グランドスラム (テニス)|グランドスラム(4大大会)]]の一つ「[[全仏オープン]]」が開催されるテニスコート) * [[ベルシー・アレナ]](バレーボール・バスケットボール・柔道・卓球・フィギュアスケートなどの屋内競技からライブ会場まで用いられる屋内の多目的[[アリーナ]]) * [[スタッド・ド・フランス]](陸上競技・サッカー・ラグビーからライブ会場まで用いられる多目的スタジアム) * [[パルク・デ・プランス]](プロサッカークラブ「[[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]」の本拠地であるサッカースタジアム) * [[スタッド・ジャン=ブーアン (パリ)|スタッド・ジャン=ブーアン]](プロラグビークラブ「[[スタッド・フランセ・パリ|スタッド・フランセ]]」の本拠地であるラグビースタジアム) * [[パリロンシャン競馬場]](世界的に著名な「[[凱旋門賞]]」が開催される) * [[オートゥイユ競馬場]] * [[ヴァンセンヌ競馬場]] ==対外関係== ===姉妹都市・提携都市=== ;姉妹都市 「[[ローマ]]のみがパリにふさわしく、パリのみがローマにふさわしい」<ref>{{Cite web|url=http://www.paris.fr/portail/english/Portal.lut?page_id=8139&document_type_id=5&document_id=29903&portlet_id=18784|title=Twinning with Rome |accessdate=2010-05-27}}</ref><ref name="Paris1">{{Cite web|url=http://www.paris.fr/portail/accueil/Portal.lut?page_id=6587&document_type_id=5&document_id=16468&portlet_id=14974 |work=Mairie de Paris |title=Les pactes d'amitié et de coopération |accessdate=2007-10-14}}</ref><ref name="Paris2">{{cite web | url = http://www.paris.fr/ | title = International relations: Special partners | accessdate = 2013-08-28 | work = Mairie de Paris | archiveurl = https://web.archive.org/web/20070806151309/http://www.v1.paris.fr/EN/city_government/international/special_partners.asp | archivedate = 2007年8月6日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref> {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" ! 自治体名 !! 国名 !! 地域名 !! 提携年月日 |- |[[ローマ]] |{{Flagicon|ITA}}[[イタリア共和国]] |[[ラツィオ州]] [[ローマ県]] |[[1956年]] |} ;友好都市 {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" ! 自治体名 !! 国名 !! 地域名 !! 提携年月日 |- |[[京都市]] |{{Flagicon|JPN}}[[日本国]] |[[近畿地方]] [[京都府]] |[[1958年]](昭和33年)[[6月15日]] |- |[[東京都]] |{{Flagicon|JPN}}[[日本国]] |[[関東地方]] |[[1982年]](昭和57年) |- |[[カイロ]] |{{Flagicon|EGY}}[[エジプト・アラブ共和国]] |[[カイロ県]] |[[1985年]](昭和60年) |- |[[ベルリン]] |{{Flagicon|GER}}[[ドイツ連邦共和国]] |[[都市州]] |[[1987年]](昭和62年) |- |[[ソウル特別市|ソウル]] |{{Flagicon|KOR}}[[大韓民国]] |[[特別市]] |[[1991年]](平成3年) |- |[[モスクワ]] |{{Flagicon|RUS}}[[ロシア連邦]] |[[ロシアの連邦市|連邦市]] |[[1992年]](平成4年) |- |[[ベイルート]] |{{Flagicon|LIB}}[[レバノン共和国]] |[[ベイルート県]] |[[1992年]](平成4年) |- |[[シカゴ]] |{{Flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国]] |[[イリノイ州]] |[[1996年]](平成8年) |- |[[サンフランシスコ]] |{{Flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国]] |[[カリフォルニア州]] |[[1996年]](平成8年) |- |[[サンティアゴ・デ・チレ|サンティアゴ]] |{{Flagicon|CHI}}[[チリ共和国]] |[[首都州 (チリ)|首都州]] [[サンティアゴ県 (チリ)|サンティアゴ県]] |[[1997年]](平成9年) |- |[[北京市]] |{{Flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]] |[[直轄市 (中華人民共和国)|直轄市]] |[[1997年]](平成9年) |- |[[サンクトペテルブルク]] |{{Flagicon|RUS}}[[ロシア連邦]] |[[ロシアの連邦市|連邦市]] |[[1997年]](平成9年) |- |[[プラハ]] |{{Flagicon|CZE}}[[チェコ共和国]] |[[チェコの地域区分|首都州]] |[[1997年]](平成9年) |- |[[リスボン]] |{{Flagicon|POR}}[[ポルトガル共和国]] |[[リスボン県]] |[[1998年]](平成10年) |- |[[リマ]] |{{Flagicon|PER}}[[ペルー共和国]] |[[リマ県]] [[リマ郡]] |[[1999年]](平成11年) |- |[[ブエノスアイレス]] |{{Flagicon|ARG}}[[アルゼンチン共和国]] |[[ブエノスアイレス州]] |[[1999年]](平成11年) |- |[[マドリード]] |{{Flagicon|ESP}}[[スペイン王国]] |[[マドリード州]] |[[2000年]](平成12年) |- |[[ワシントンD.C.]] |{{Flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国]] |[[コロンビア特別区]] |[[2000年]](平成12年) |- |[[ロンドン]] |{{Flagicon|UK}}[[イギリス|イギリス連合王国]] |[[イングランド]] [[グレーター・ロンドン|大ロンドン州]] |[[2001年]](平成13年) |- |[[ポルト・アレグレ]] |{{Flagicon|BRA}}[[ブラジル連邦共和国]] |[[リオグランデ・ド・スル州]] |[[2001年]](平成13年) |- |[[ジュネーヴ]] |{{Flagicon|SUI}}[[スイス連邦]] |[[ジュネーヴ州]] |[[2002年]](平成14年) |- |[[ケベック・シティー]] |{{Flagicon|CAN}}[[カナダ連邦]] |[[ケベック州]] |[[2003年]](平成15年) |- |[[アルジェ]] |{{Flagicon|ALG}}[[アルジェリア民主人民共和国]] |[[アルジェ県]] |[[2003年]](平成15年) |- |[[サンパウロ]] |{{Flagicon|BRA}}[[ブラジル連邦共和国]] |[[サンパウロ州]] |[[2004年]](平成16年) |- |[[ラバト]] |{{Flagicon|MAR}}[[モロッコ王国]] |[[ラバト=サレ=ケニトラ地方|ラバト・サレ・ケニトラ地方]] |[[2004年]](平成16年) |- |[[カサブランカ]] |{{Flagicon|MAR}}[[モロッコ王国]] |[[カサブランカ=セタット地方|カサブランカ・セタット地方]] |[[2004年]](平成16年) |- |[[チュニス]] |{{Flagicon|TUN}}[[チュニジア共和国]] |[[チュニス県]] |[[2004年]](平成16年) |- |[[コペンハーゲン]] |{{Flagicon|DEN}}[[デンマーク|デンマーク王国]] |[[デンマーク首都地域]] |[[2005年]](平成17年) |- |[[モントリオール]] |{{Flagicon|CAN}}[[カナダ連邦]] |[[ケベック州]] |[[2006年]](平成18年) |- |[[ニューヨーク]] |{{Flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国]] |[[ニューヨーク州]] |[[2007年]](平成19年) |} ===パリと呼称される世界の都市=== ヨーロッパ的な街並みに対し、「○○のパリ」と異名がつけられている。特に移民や植民地などでフランス色が強い都市に多い。 * [[モントリオール]] - 「北米のパリ」(フランス系移民が多い) * [[ケベック・シティー]] - 「北米のパリ」(フランス系移民が多い) * [[ブエノスアイレス]] - 「南米のパリ」 * [[ホーチミン市|ホーチミン]] - 「東洋のパリ」(元フランスの植民地) * [[プノンペン]] - 「東洋のパリ」(元フランスの植民地) * [[上海]] - 「東洋のパリ」([[上海フランス租界|フランス租界]]があった) * [[ハルビン]] - 「東洋のパリ」(ヨーロッパ風の建物が数多く現存) * [[大連市|大連]] - パリをモデルにした街づくりが為された<!--3:00頃参照 https://youtu.be/iUcjZ9OC1sA--> * [[イルクーツク]] - 「[[シベリア]]のパリ」 * [[ベイルート]] - 「中東のパリ」(元フランス委任統治領) * [[ブカレスト]] - かつて「東欧の小パリ」と呼ばれた * [[トロムソ]] -「北欧のパリ」 * [[コペンハーゲン]] -「北欧のパリ」 * [[トリノ]] - 「イタリアの小パリ」 === 日本との関係 === {{Main|パリの日本人コミュニティ|パリ日本文化会館}} {{See also|アンスティチュ・フランセ日本}} == 経済 == [[File:La Défense depuis l'Arc de Triomphe Janvier 2023.jpg|thumb|200px|left|[[フランス]]最大の[[金融街]][[ラ・デファンス]]]] [[ファイル:Magdalena_Frackowiak.jpg|alt=Magdalena Frackowiak en 2011|thumb|150px|2011年[[パリ・コレクション]]([[パリ・コレクション|パリのファッション週間]])。パリの商人たちは、商品を同業者らに一連のショーを使って見せては大量の売買[[契約]]を結び、同時にマスコミにもイメージを流す、という巧みなビジネス手法を発展させた]] フランスにおける経済の中心地であり、世界屈指の経済都市でもある。[[2014年]]のパリ都市圏の総生産は6,798億ドルであり、[[東京都市圏]]、[[ニューヨーク都市圏]]、[[ロサンゼルス|ロサンゼルス都市圏]]、[[ソウル特別市|ソウル都市圏]]、[[ロンドン|ロンドン都市圏]]に次ぐ世界6位の経済規模を有する<ref>[https://www.thechicagocouncil.org/issue/global-cities Cities Rank Among the Top 100 Economic Powers in the World] Chicago Council on Global Affairs 2016年10月28日閲覧。</ref>。 [[多国籍企業]]の本社数や資本市場の規模など[[ビジネス]]分野を総合評価した都市ランキングでは、ロンドンとともにヨーロッパでトップクラスである。[[BNPパリバ]]、[[トタル]]、[[アクサ]]など世界有数の大企業の本社が所在しており、[[フォーチュン・グローバル500|世界500大企業の本社数]]では、[[ニューヨーク]]や[[ロンドン]]を凌ぎ、[[西洋]]の都市では最多である<ref>[http://money.cnn.com/magazines/fortune/global500/2011/index.html フォーチュン・グローバル500 2011年版]{{en icon}}</ref>。 [[工芸品]]や[[装身具|贅沢品]]や[[服飾]]品などの、ビジネスの集積地でもある。 [[アンシャン・レジーム]]の時代では、貴族は服をたった1着手に入れるにも、まずは布地を扱う商人のところへ行って気にいる布地を苦労して見つけ、次にその布を裁断する職人のところへそれを持っていって、次にそれを縫いあげる職人、と何軒もの店・職人をかけずりまわらなければならず<ref name="naho" />、おまけに訪ねる店は(現代からは想像もつかないような)まるで倉庫のようなありさまで、価格の表示もなく、客は顔色をうかがわれてとんでもない高値を吹っかけられ、支払いも[[高利]]の[[掛け売り]]というありさまで、皆、服を手に入れることにうんざりしていた<ref name="naho">角田奈歩『パリの服飾品小売とモード商―1760-1830』</ref>。だがアンシャン・レジーム末期のパリに、新しい経営方法を導入した服飾品の小売業者やモード商人が登場した。それまで注文を受ける側であった商人が、主導権を握って王妃などに着る服を提案することを始めたのであり、王族を宣伝塔として巧みに利用し流行を意図的・恣意的に作りだし、貴族たちを煽って金儲けをするようになった<ref name="naho" />。19世紀にはさらに[[オートクチュール]](オーダーメイド服)への道を開き、[[ファッションショー]]などを開催し、メディアも活用し巧みにイメージを作りだし、新興の富裕層(=[[ブルジョワジー]])の欲望を掻きたて金儲けを行った<ref name="naho" />。しかしオートクチュールのビジネスは20世紀後半には衰退し、現在では主として[[プレタポルテ]]を扱うようになった。ショーの華やかな見た目に惑わされている一般人には見えないが、ファッションウィーク期間中のパリというのは、デザイナー側とバイヤー側が直接に会してビジネス上の冷徹でしたたかな交渉が行われる商業(ビジネス)の空間でもある。 {{see also|フランスのファッション}} 若い女性の中には、商人によって(金儲けのために)[[ビジネス]]のツールとして作りだされ、雑誌などの各種[[メディア (媒体)|メディア]]で流されている[[虚像]]を本当の像だと信じ、その像に近づこうとパリにフワフワとやってきてしまう事例が言われている。日本の若い女性でも、パリに来てある期間その実態を自分の目で見るうちに、自分が虚像を信じていたにすぎないことに気づかされ、やがて鬱状態になったり責められているように感じ苦しんで帰国していく事例も指摘されている(→[[パリ症候群]]を参照のこと)。 ===主要企業=== 各節とも日本語での五十音順。パリ近郊に本社及びそれに類する事業所等を置く企業も含める。 {{Col-begin}} {{Col-2}} ;企業本社等 * [[アクサ]]({{lang|fr|''AXA''}}) * [[インターナショナル・ニューヨーク・タイムズ]](旧インターナショナル・ヘラルド・トリビューン) * [[エア・リキード]]({{lang|fr|''Air Liquide''}}) * [[エールフランス]] * [[LVMH]] * [[エンジー]](旧GDFスエズ) * [[Orange (通信会社)|Orange]](旧フランス・テレコム) * [[ガルデルマ]] 仏法人本社<!--ラ・デファンスにある。--> * [[カルフール]] * [[クレディ・アグリコル]] * [[ケリング]] * [[サノフィ]] * [[サフラングループ|サフラン・グループ]] * [[サンゴバン]] * [[ジェーシードゥコー|ジーセードゥコー]] * [[スエズ (2008年設立の企業)|スエズ]](改称前はスエズ・アンビロンヌマン) * グループ・レ・ゼコ=ル・パリジャン({{lang|fr|''Groupe Les Échos-Le Parisien''}}。[[LVMH]]グループで傘下に日刊紙[[ル・パリジャン]]と経済紙[[レ・ゼコ]] ({{lang|fr|''Les Échos''}})) * [[ソシエテ・ジェネラル]] * [[ソデクソ]] * [[ダッソー]] * [[ダノン]] * [[タレス・グループ]] * [[テクニカラー (企業)|テクニカラー]] * [[トタル]] * [[DCNS|ナバル・グループ]](旧[[DCNS]]) * [[BNPパリバ]] * [[ビック (フランス企業)|ビック]] * [[ピュブリシス・グループ]](英:[[パブリシス]]。世界的な広告代理店) * [[ヴァンシ]](世界4位の建設会社) * [[ヴィヴェンディ]](傘下に[[Canal+|Canal+グループ]]や[[ユニバーサル ミュージック グループ]]、旧[[アヴァス通信社]]が母体の世界的広告代理店アヴァス・グループ ([[:fr:Havas|Havas]]) など) * [[ヴェオリア・エンバイロメント|ヴェオリア]](改称前はヴェオリア・アンビロンヌマン。傘下に世界各国で水道事業を行う[[ヴェオリア・ウォーター|ヴェオリア・オー]]など) * [[グループPSA]](傘下に[[プジョー]]や[[シトロエン]]、[[オペル]]、[[ボクスホール]]など) * [[フィガロ (新聞)|ル・フィガロ]](女性向けファッション誌{{仮リンク|マダム・フィガロ|fr|Madame Figaro|label=Madame Figaro}}等も発行する) * [[ブイグ]](傘下に[[TF1]]など) * [[フォション]] ({{lang|fr|''FAUCHON''}}) * [[フランス国鉄]]({{lang|fr|''SNCF''}}) * [[フランス通信社]]({{lang|fr|''AFP''}}) * [[フランス・テレビジョン]] * [[フランス電力]] * [[フランス24]] <!--* [[ル・パリジャン]]→上記グループ・レ・ゼコ--> * [[BPCE]](バンク・ポピュレールと[[ケス・デパーニュグループ|ケス・デパーニュ]]の[[系統中央機関]]。仏第二の[[金融資本]]) * [[ペリエ (ミネラルウォーター)|ペリエ]] * [[ペルノ・リカール]] * [[ル・モンド]] * [[ラガルデール]](傘下に[[パリ・マッチ]]や[[ELLE (雑誌)|ELLE]]等を発行する[[アシェット・フィリパッキ・メディア]]など) * [[ラザード|ラザール]](英:ラザード。[[ニューヨーク|NY]]・パリ・[[ロンドン]]に拠点を置く仏系[[金融持株会社]]) * [[ルノー]] * [[レキップ]] * [[ロスチャイルド&カンパニー|ロチルド・エ・コ]]({{lang|fr|''Rothschild & Co''}}。パリとロンドンの[[ロスチャイルド家]](仏:ロチルド家)の金融持株会社) <!--* [[ロレアル]]→下記ファッションに移動--> {{Col-2}} ;ファッション、ラグジュアリーブランド等 * [[アー・ペー・セー]] ({{lang|fr|''A.P.C.''}}) * [[アズディン・アライア]] ({{lang|fr|''Azzedine alaïa''}}、アライア) * [[アニエス・ベー]] * [[アレクサンドル・ドゥ・パリ]] ({{lang|fr|''Alexandre de Paris''}})<!--ヘアアクセサリーなどヘア美容ブランド。ロレアル傘下。--> * [[イザベル・マラン]] ({{lang|fr|''Isabel Marant''}}) * [[イネス・ド・ラ・フレサンジュ]] * [[イヴ・サロモン]] ({{lang|fr|''Yves Salomon''}})<!--1920年創業。ロシアを拠点に買いつけた毛皮(ファー)のブランド。https://www.fashion-press.net/brands/3080 参照--> * [[イヴ・サン=ローラン]](サン=ローラン) * [[ウビガン]]<!--香水--> * [[エーグル (企業)|エーグル]] * [[エス・テー・デュポン]] * [[エマニュエル・ウンガロ]] * [[エルザ・スキャパレッリ]](スキャパレッリ) * [[エルベシャプリエ|エルベ・シャプリエ]] * [[エルメス]] * [[エレス]]({{lang|fr|''Eres''}})<!--1968年マドレーヌ広場創業。パリ11区に本社(166 Boulevard Voltaire, 75011 Paris)。水着やランジェリー、下着。現在はシャネル所有。仏語版参照。その他、 https://allabout.co.jp/gm/gc/468677/ も参照。--> * [[オーバドゥ]]({{lang|fr|''Aubade''}}) <!--1875年起源1958年創業。パリ本社。ランジェリー、下着。仏語版参照。その他、https://allabout.co.jp/gm/gc/468677/ も参照。--> <!--* [[カリン・サーフ・ドゥ・ドズィール]](仏語だとカーリンヌ・セーフ・ ドゥ・デュゼール、{{lang|fr|''Carlyne Cerf de Dudzeele''}})→ファッションデザイナーなのかスタイリスト兼写真家なのか、よく分からない。--> * [[カール・ラガーフェルド]] * [[カルティエ]] * [[ガルニエ (化粧品会社)|ガルニエ]]({{lang|fr|''Garnier''}})<!--fr:Garnier (cosmétique)。香水化粧品シャンプーなどロレアル傘下。--> * [[カルヴェン]]({{lang|fr|''Carven''}})<!--パリ9区オペラ広場開業。現在は中国資本傘下。--> * [[ギ・ラロッシュ]]({{lang|fr|''Guy Laroche''}})<!--パリ8区本社。香水化粧品などはロレアル傘下。--> * [[クリスチャン・ディオール]]([[ディオール]]) * [[クリスチャン・ラクロワ]]({{lang|fr|''Christian Lacroix''}}) * [[クリスチャン・ルブタン]] * [[クリストフル]] * [[アンドレ・クレージュ]](クレージュ) * [[マダム・グレ]](グレ) * [[クロエ (ブランド)|クロエ]] * [[クロエ・ストラ]]({{lang|fr|''Chloé Stora''}}) * [[ゲラン]] * [[ケンゾー]]([[高田賢三]])<!--実質パリで独立、ゆえにパリ発かつLVMH傘下--> <!--* [[コム・デ・ギャルソン]]([[川久保玲]])→ イッセイミヤケ、ヨウジヤマモトら同様、若手デザイナーらが集ったパリ1区のレアール地区で1980年代前後以降、展開していたが、特にバブル期以降日本から進出した日本の法人--> * [[ゴヤール]]({{lang|fr|''Goyard''}})<!--ルイ・ヴィトンとは同じマルティエであり、トランクなど革製品のブランド。本社はヴァンドーム広場。--> * [[ザディグ・エ・ヴォルテール]]({{lang|fr|''Zadig & Voltaire''}}) * [[シネクァノン]]({{lang|fr|''Sinéquanone''}}) * [[ジバンシィ]] * [[シャネル]] * [[ジャマン・ピュエッシュ]]({{lang|fr|''Jamin Puech''}}) * [[シャルベ]](シャルベ・プラス・ヴァンドーム、{{lang|fr|''Charvet Place Vendôme''}}) * [[ジャン=シャルル・ド・カステルバジャック]]({{lang|fr|''Jean-Charles de Castelbajac''}}、カステルバジャック) * [[シャンタル・トーマス]]({{lang|fr|''Chantal Thomass''}})<!--パリ南部近郊マラコフ生まれ。1967年、ランジェリーは1975年創業。サントノレ通りが本店。ランジェリー、下着。仏語版参照。その他、https://allabout.co.jp/gm/gc/468677/ も参照。--> * [[シャンテル]]({{lang|fr|''Chantelle''}})<!--1876年起源1949年創業。パリ南部近郊カシャンに本社(8-10 Rue de Provigny, 94230 Cachan) )。ランジェリー、下着。仏語版参照。その他、https://allabout.co.jp/gm/gc/468677/ も参照。--> * [[ジャン=ポール・ゴルチエ]] * [[ジャン=ルイ・シェレル]] * [[ジェローム・ドレフュス]]({{lang|fr|''Jérôme Dreyfuss''}}) * [[ショーメ]]({{lang|fr|''Chaumet''}}) * [[セフォラ]] * [[セリーヌ (ファッションブランド)|セリーヌ]] * [[ソニア・リキエル]] * [[ソフィー・テアレ]]({{lang|fr|''Sophie Theallet''}}) * [[チェルッティ]]({{lang|fr|''Cerruti''}})<!--1967年、パリ・マドレーヌ広場から始まったブランド。Cerruti 1881 のラインがある。イタリア系ゆえ"チェ"読み。チェルティ、あるいはセルティ-->  * [[ティエリー・ミュグレー]](ミュグレー) * [[デヴァステ]]({{lang|fr|''Dévastée''}}) * [[ドミニク・シロ]]({{lang|fr|''Dominique Sirop''}}) * [[ニナ・リッチ]] * [[バカラ (ガラス)|バカラ]] * [[パコ・ラバンヌ]]({{lang|fr|''Paco Rabanne''}})<!--パリ8区本社。クレージュとともにフランソワーズ・アルディを広告塔に起用し、70年代のフランスのファッショントレンドに影響を与えたファッションデザイナー。出典は、『やっぱりパリが好き!』エル・ジャポン 2016年10月増刊トラベルサイズ など。--> <!--* [[ハリス・パリス]] →?--> * [[バルマン]]({{lang|fr|''Balmain''}})<!--銀座や阪急メンズ東京などでも展開する。パリ8区本社--> * [[バレンシアガ]] * [[ピエール・カルダン]] * [[ヴァンクリーフ&アーペル]] * [[ブシュロン]] * [[プランセス タム・タム]]({{lang|fr|''Princesse tam.tam''}})<!--1985年創業。水着やランジェリー、下着。現在はユニクロ所有。https://www.fashionsnap.com/article/2016-03-25/princessetamtam-close/ 、仏語版参照--> * [[ブルジョワ パリ]] * [[ブレゲ (時計)|ブレゲ]] * [[ベルルッティ]]({{lang|fr|''Berluti''}}) * [[マージュ]]({{lang|fr|''Maje''}}) * [[マルタン・マルジェラ|メゾン・マルタン・マルジェラ]]<!--ロレアル傘下香水化粧品も含む。--> * [[メレリオ・ディ・メレー]]({{lang|fr|''Mellerio dits Meller''}}) * [[モーブッサン]] * [[モラビト]] * [[モロー]]({{lang|fr|''Moreau''}}) * [[モワナ]]({{lang|fr|''Moynat''}})<!--ルイ・ヴィトンなどと同じマルティエであり、革製品のブランド。本社はサントノレ通り。--><!--* [[ヨウジヤマモト]]([[山本耀司]])→上記理由。日本の法人--> * [[ラコステ]] * [[ルネ・ラリック|ラリック]] * [[ランコム]]<!--香水化粧品--> * [[ランセル]] * [[ランバン]] * [[ルイ・ヴィトン]] * [[ルシアン・ペラフィネ]]({{lang|fr|''Lucien Pellat-Finet''}}) * [[ルヴィヨン・フレール]]({{lang|fr|''Revillon Frères''}}, ルヴィヨン)<!--毛皮、香水のブランド。カナダを拠点に買いつけ。1763年に発足し1982年に閉店したが、以降は所有者が変わり、2012年以降、上記モンテーニュ大通りイヴ・サロモンで販売。 https://www.lesechos.fr/12/12/2011/LesEchos/21077-048-ECH_en-2012--revillon-retrouve-l-avenue-montaigne.htm 、ほかに仏語版参照--> * [[ロシャス]] * [[ロジェ・ヴィヴィエ]]({{lang|fr|''Roger Vivie''}}) * [[ロジェ・ガレ]]({{lang|fr|''Roger & Gallet''}}) * [[ロックスウッド]](ロックスウッド・ル・パリジャン・カバ、{{lang|fr|''Loxwood Le Parisien Cabas''}})<!--パリ6区にある。日本でも近年知られ、http://www.fleur-de-coeur.com/shop021.html も参考。ほかに楽天などでも売られている。--> * [[ロレアル]] * [[ロンシャン (フランスの企業)|ロンシャン]] {{Col-end}} ==教育・研究機関== {{See also|フランスの教育}} ===高等教育=== [[File:Sorbonne .jpg|thumb|200px|ソルボンヌ広場とソルボンヌのチャペル]] [[File:Pantheon-Assas University - Panthéon.jpg|thumb|200px|パンテオン広場にあるパリ第1大学と第2大学]] [[File:Paris 75005 Rue Saint-Jacques La Sorbonne facade 01c.jpg|thumb|200px|サン・ジャック通りのパリ第3大学校舎]] [[File:Universite-Paris-Rive-Gauche.JPG|thumb|200px|[[パリ第7大学]]]] [[2007年]]現在、イル=ド=フランス地域圏では約58万5,000人が高等教育を受けており、フランス全土の4分の1強にあたる。特に1990年代の[[フランス国立行政学院]](ENA)の[[ストラスブール]]移転や[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]の[[リヨン高等師範学校|リヨン校]]などの脱中央化の動きもみられるが、大部分の名高い国立学校は常にパリ地方に設置されている。 ====教育史==== [[12世紀]]以降、パリはヨーロッパにおける知識の大集積地のひとつで、特に科学技術と哲学分野に秀でていた。[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]が大学の構成員に対して特権与えた西暦1200年は[[パリ大学]]の設立の年とされ、人々に象徴的に記憶されている。そこでは教育が行われた場所である寄宿舎(寄宿学校)が学部を構成した。ソルボンヌ寮の創設は1257年を起源とする。大学は、サント=ジュヌヴィエーヴの丘を中心として、[[カルチエ・ラタン]]に発展した。カルチエ・ラタンは、現在でも、パリ大学を含む高等教育機関の重要な中心地である。 [[18世紀]]以降、いくつかの専門職のために専門化された高等教育機関が創設され、現在の[[グランゼコール]]の起源となった。[[エコール・ポリテクニーク]]および高等師範学校はともにフランス革命期に創設された。近代のパリ大学は、19世紀、法・医・薬・文・神・理の6学部に組織化された。[[20世紀]]、[[五月革命 (フランス)|五月革命]]後には多くの学生が強く社会問題を考えたが、ソルボンヌはその震源地となった。その結果、パリ大学は、それぞれ専門分野を相対的に限定された13の個別の大学へと分割再編された。 ====現在の状況==== パリ市内は、現在も大学の中心地であり続けている。パリ第1からパリ第7までの各大学は再編されて左岸の3つの区(5区、6区、13区)に存在している。カルチエ・ラタンには、パリ・ソルボンヌ(パリ第4)大学、高等師範学校、[[コレージュ・ド・フランス]]といった歴史的施設が残り、重要な地位を今も保ち続けている。 また、ほかの高等教育機関もこの地区に存在する。[[パリ政治学院]]、[[パリ第1大学]]、[[パリ第2大学]]、ジュシュー・キャンパス(Campus de Jussieu:[[パリ第6大学]]とパリ地球物理研究所による複合研究施設)、[[パリ第3大学]]、[[社会科学高等研究院]]、[[フランス国立古文書学校|古文書学校]]、[[エコール・デ・ボザール|美術学校]]、[[パリ市立工業物理化学高等専門大学]](EPCI)、応用美術研究所(LISAA)、[[パリ国立高等鉱業学校]](ENSMP)、[[パリ高等化学学校]](Chimie ParisTech)、生活工業・環境科学研究所(AgroParisTech)、パリ高等電子工学研究所(ISEP)、パリ企業経営学院(IAE de Paris)などである。なお、パリ第9大学、[[エコール・ポリテクニーク]]、[[エセック経済商科大学院大学]]などは、いずれも郊外に移転している。大学街は東部に広がり、かつて5区にあったパリ第7大学は、[[フランス国立図書館]]が移転した13区において、複数の大学施設を一般公開している。国立高等工芸学校が1912年からイタリア広場近くに迎え入れられている。 1960年代以降、[[バンリュー]]に大学が作られ始めたが、その先鞭となったのは1964年に[[ナンテール]]に作られたパリ第10大学である。同時期には複数のグランゼコールが、特に広大な敷地を求めて、同様にパリの中心部を去っている。パリの南にあるサクレー台地は重要な研究拠点となっている。その広大な大地には、パリ第9大学やグランゼコール([[HEC経営大学院]]は1964年、高等電子学校は1975年、エコール・ポリテクニークは1976年にそれぞれ移転してきた)のほか、[[サクレー研究所]]などの公的研究所や民間の研究施設が多数存する。 パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブール(家具修理)、エコール・エティエンヌ(グラフィック・アート。特に装丁)が有名である。2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校、[[パリ市立工業物理化学高等専門大学]]である。園芸に関するものは、[[エコール・デュ・ブルーユ]]である。 ===初等・中等教育=== {{See also|fr:École primaire en France|fr:Liste des collèges et lycées de Paris}} 2005年から2006年の学校年度における公立学校の児童・生徒数は、26万3,812人であった。うち13万5,570人が初等教育、12万8,242人が中等教育を受けていた。同年度の私立学校の児童・生徒数は13万8,527人で、うち9万1,818人が契約に基づく就学であった。パリには、優先的教育地域(ZEP)または優先的教育組織(REP)の施設(小学校214校、[[コレージュ]]32校。5人に1人の割合)がある。 [[2007年]]現在、881校の公立学校があり、うち323校が幼稚園、334校が小学校(日本の5年生までに相当)、6校が病院内学校、110校が[[コレージュ]](日本の小学6年生および中学生に相当)、72校が[[リセ]](普通および科学技術とも含む)、34校が職業リセおよび2校が公的実験リセである。他方、契約に基づき入学する私立学校は256校であり、うち110校が幼稚園・小学校・特別学校、67校がコレージュ、73校がリセ(普通および科学技術)および5校が職業リセであった。 中等教育については、[[5区 (パリ)|5区]]にそれぞれ所在する[[リセ・ルイ=ル=グラン]]や[[アンリ4世校|リセ・アンリ=キャトル]]が全国的かつ国際的にも有名である。 ==交通== {{Main|パリの交通}} ===空路=== [[File:CDG P1020431.JPG|thumb|200px|[[パリ=シャルル・ド・ゴール空港]]]] [[File:Orly Airport P1190137.jpg|thumb|200px|[[オルリー空港]]]] ====空港==== ;[[パリ=シャルル・ド・ゴール空港]] :パリ北部郊外の[[ロワシー=アン=フランス|ロワシー]]に位置し、[[TGV]]や在来線の駅とも直結している。[[エールフランス航空]]の本拠地かつハブ空港であり、日本へはエールフランス航空が[[成田国際空港|成田空港]]に1日1便、[[東京国際空港|羽田空港]]に1日2便、[[関西国際空港|関西空港]]に1日1便の直行便を、[[日本航空]]が羽田空港に1日1便の直行便を運行するほか、他にも直行便や経由便が運航している。 ; [[オルリー空港]] : パリ南部[[オルリー]]市にある空港。かつてはもっとも主要な空港だったが、シャルル・ド・ゴール空港にその座を譲った。とはいえ現在も国際空港として機能しており、おもにヨーロッパ近隣諸国のほか、[[フランス植民地帝国|旧植民地]]の[[アフリカ]]・[[中近東]]方面の便が発着している。Orly-sud(南)とOrly-ouest(西)の2つの発着ターミナルがある。現在は政府専用機、自家用および商用機の発着に使われている。 ; [[ボーヴェ空港]] : パリより北に約80キロの[[ボーヴェ|ボーヴェ市]]近くにある空港。[[ライアンエアー]]などが使用している。 ; [[ル・ブルジェ空港]] : 1919年開業。オルリー空港開港までの主要空港だった。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人の[[チャールズ・リンドバーグ]]が世界初の[[大西洋]]無着陸横断飛行を行ったときに着陸したのがこの空港である。偶数年の7月に英国のファーンボロー空港で、奇数年はここで航空ショーが開催される。宇宙航空博物館がある。 ; ヘリポート : 15区南部のセーヌ川沿い、[[ペリフェリック]](環状道路)の外側に位置する。[[ヘリポート]]はパリ市内の敷地である。パリ市内上空は飛行禁止区域のため、[[ヘリコプター]]はパリ市の境界すれすれを飛ぶことが多い。 ===鉄道=== ====主要ターミナル駅==== [[File:Paris_GareDeLyon_FacadeEtTourDeLHorloge.JPG|thumb|200px|時計台のついた[[リヨン駅]]]] [[File:GareDuNord20040914.jpg|thumb|200px|北駅構内]] [[File:Gare du Nord Paris.jpg|thumb|200px|[[パリ北駅|北駅]]]] ; [[リヨン駅]](12) : [[リヨン]]、[[マルセイユ]]、[[スイス]]、[[イタリア]]方面 ; [[ベルシー駅]](12) : リヨン駅の近くにある駅。当駅から出た線路はリヨン駅からのものと合流するため方面は同じだが、イタリア方面への国際夜行列車および[[カートレイン]]乗用車運搬用列車が発着。 ; [[パリ北駅|北駅]](10) : [[ロンドン]]行[[ユーロスター]]、[[ブリュッセル]]・[[ケルン]]・[[アムステルダム]]行[[タリス]]、[[TGV]]ほか<!--2007年5月現在、ブリュッセル行きTGVの殆どはイルドフランス連絡線経由で運行。北駅発の設定は稀な例--> ; [[パリ東駅|東駅]](10) : [[ストラスブール]]、[[ドイツ]]方面。[[TGV]]や[[ICE]]ほか。 ; [[モンパルナス駅]](14、15) : [[ブルターニュ地域圏|ブルターニュ]]地方、[[ボルドー]]方面[[TGV]]ほか。 ; [[サン・ラザール駅]](8) : 西部、ノルマンディー方面<!--、[[上野駅]]の規範となった。{{要出典}}--> ; [[オステルリッツ駅]](13) : [[オルレアン]]・[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]方面(TGV以外)のほか、フランス南部・[[スペイン]]へ向う夜行列車のほとんどが発着。 ====市内交通==== [[File:Paris Metro map.gif|thumb|200px|[[メトロ (パリ)|メトロ]]路線図]] [[File:Paris - Station de métro Abbesses - PA00086748 - 001.jpg|thumb|200px|メトロ入口]] ;地下鉄 市内には[[メトロ (パリ)|メトロ]]([[地下鉄]])と[[RER (イル=ド=フランス)|RER]](高速地下鉄)がくまなく走っている。 メトロは14号線まであり、運営はRATP(パリ市営交通)が行っている。 ;路面電車 2006年にパリ市最南端で[[トラム (パリ)|トラム]]([[路面電車]])が開通した。このほか郊外を結ぶトラムがある。 ===道路=== [[File:ParisRingRoads A104.svg|thumb|200px|パリ周辺の高速道路網(黄色がペリフェリック)]] [[File:CEfromAdT.jpg|thumb|200px|[[シャンゼリゼ通り]]]] [[File:Rue_du_Faubourg_St_Honore_dsc00792.jpg|thumb|200px|フォブール・サントノレ通り]] [[File:Paris-bld-saint-germain.jpg|thumb|200px|サンジェルマン通り]] パリ市内では道路混雑を避けるため自動車交通の抑制が目指されており、バス・自転車専用レーンが多く設置され、一方通行路も多くルートが複雑であるため、不慣れであると運転が難しい。また主要交差点の多くは、[[ラウンドアバウト]](ロータリー)方式となっている。地元民の多くは、狭い市内で駐車場所を確保するために前後間隔を密着させて道路脇に縦列駐車を行っており、路上駐車が非常に多い。 パリ市域の外縁を環状高速道路[[ペリフェリック]]が取り巻いており、その内側の市域には立体交差式の自動車専用道はあるものの、高速道路は存在しない。 <!-- パリの道路の種類には、主に以下のものがある。 ; リュー Rue: <br />最も一般的な道。 ; ブールヴァール Boulevard (Bd.): <br />大通り。かつての城壁を壊してその跡を道路として整備したもの。 ; アヴニュー Avenue (Av.): <br />並木通り。主に街の中心となる通り。 ; ケ Quai: <br />河岸。 この他、歩行者用の通路のパッサージュPassage(アーケードの商店街が多い)や、行き止まり道を示すアンパッスImpasseなどがある。 --> [[ファイル:Point Zéro des Routes de France (1).JPG|thumb|none|220px|フランスの道路の原点を象徴する『ポワン・ゼロ』]] ====主要な一般道==== ; [[シャンゼリゼ通り]] : [[エトワール凱旋門|凱旋門]]のあるエトワール広場とパリ中心部の[[コンコルド広場]]を結ぶ、パリでもっとも有名な目抜き通り。フランス一周自転車[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]「[[ツール・ド・フランス]]」はここが目的地となる。7月14日の革命記念日にはミリタリーパレードが行われる。 ; フォブール・サントノレ通り : 有名ファッションブランドの洋服店などが並ぶ、パリ8区内をシャンゼリゼ通りと並行して走る通り。ロワイヤル通りを挟んでパリ1区内を走る[[サントノーレ通り]]と結ばれていく。 ; リヴォリ通り : ルーヴル宮北側に沿って市内最中心部を横断する道路。 ; サンタントワーヌ通り : リヴォリ通りとバスティーユを結ぶ、パリ中心部を横断する道路のひとつ。 ; フォブール・サンタントワーヌ通り : バスティーユとナシオン広場を結ぶ通り。 ; クール・ド・ヴァンセンヌ通り<!--ヴァンセンヌ大通り--> : ナシオンからパリ最東端ヴァンセンヌ門までを結ぶ[[大通り|目抜き通り]]。目抜きと言ってもシャンゼリゼ通りのようには栄えておらず市の外れではあるが、決して寂れてはおらずパリの東の玄関の品格を保った通りである。週2回、パリ最大規模の朝市が開かれる。 ; オペラ通り : [[ガルニエ宮]](オペラ座)から、[[コメディ・フランセーズ]]やルーヴル宮に向かって伸びる通り。高級洋服店やホテルなどが立ち並ぶが、付近は[[日本人街]]でもある。 ; グラン・ブールヴァール : 1860年のオスマン公による[[パリ改造|パリ大改造]]で生まれた[[ブールバール]]のうち、メトロ8番と9番が走る9区 - 10区の南部沿いの通り、および3区 - 4区の東部沿いの通りを指す。 ; [[サンジェルマン大通り]] : サンジェルマン・デ・プレからカルチエ・ラタンを通る、左岸の代表的な通り。 ; [[ムフタール通り]] : パリ5区にある道路であり、多くのレストランや市場などが立ち並んでいる。 ==== 主な車輛専用道 ==== ; ヴォワ・エクスプレス : セーヌ河岸沿いの一部は、パリを横断する一方通行専用の高速バイパス道路「ヴォワ・[[ジョルジュ・ポンピドゥー|ジョルジュ=ポンピドゥー]]」([[:fr:Voie Georges-Pompidou|fr]])となっている。なお、日曜日の昼間時には歩行者・自転車用に開放され、自動車の通行ができなくなる。 ; [[ブルヴァール・デ・マレショー]] : パリ市内最外周部を囲んで走る道路のうち、一般道をまとめてこう呼ぶ。[[ティエールの城壁]]の後に作られたブルヴァール。ペリフェリックより少し内側に位置する。 ; [[ペリフェリック]] : パリ市内最外周部を囲んでいる環状高速道路で、現在はこれがパリ市の境界となっている([[ブローニュの森]]、[[ヴァンセンヌの森]]など一部の区間を除く。これらの区間は地下化されている)。 == 観光 == パリは世界屈指の[[観光都市]]である<ref group="注">マスターカードが[[2014年]]に公表した統計によると、パリは世界で3番目に外国人旅行者が多く訪れる都市、と報告されている。[http://newsroom.mastercard.com/wp-content/uploads/2014/07/Mastercard_GDCI_2014_Letter_Final_70814.pdf MasterCard Global Destination Cities Index 2014]</ref>。 「芸術の都」などのイメージを前面に出す戦略をとっている。 おもな集客装置は、歴史的な建造物の数々(世界遺産「[[パリのセーヌ河岸]]」に入っている建物など)、数々の美術館に収められた著名な[[美術品]]、有名料理店で提供される[[フランス料理]]、高級[[ブランド|銘柄]]を扱う店舗などである。 建造物は、[[中世]]以前のものも残るが、[[フランス第三共和政|第三共和政]]期の[[パリ改造]]や[[ベル・エポック]]の建造物、あるいは[[フランス革命]]200周年期の[[グラン・プロジェ]]の建造物など、各時代の世界の最先端のものが多い。美術館には、フランスで活躍した著名な芸術家の美術品の他、[[戦利品]]や購買によって収集された世界一級の収蔵物が並ぶ。 →[[#主な観光名所]] === 主な観光名所 === [[ファイル:Parigi 015.jpg|thumb|200px|[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]]] [[ファイル:Louvre_at_night_centered.jpg|thumb|200px|[[ルーヴル美術館]]]] [[ファイル:Moulin rouge.jpg|thumb|200px|[[ムーラン・ルージュ]]]] [[File:Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre 1.jpg|thumb|[[サクレ・クール寺院]]]] [[File:Musée d'Orsay, North-West view, Paris 7e 140402.jpg|thumb|[[オルセー美術館]]]] * 建造物 ** [[エトワール凱旋門|凱旋門]] ** [[エッフェル塔]] ** [[エリゼ宮]] ** [[ガルニエ宮]](オペラ座) ** [[オテル・デ・ザンヴァリッド|アンヴァリッド]](廃兵院) ** [[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]] ** [[パレ・ド・ジュスティス (パリ)|パレ・ド・ジュスティス]] ** [[オペラ・バスティーユ]] ** [[ポンピドゥー・センター]] ** [[サクレ・クール寺院]] ** [[マドレーヌ寺院]] ** [[パンテオン (パリ)|パンテオン]] ** [[シャイヨ宮]] * 美術館 ** [[ルーヴル美術館]] ** [[オルセー美術館]] ** [[オランジュリー美術館]] ** [[ロダン美術館 (パリ)|ロダン美術館]] ** [[マルモッタン美術館]] ** [[ケ・ブランリ美術館]] ** [[フォンダシオン・ルイ・ヴィトン|ルイ・ヴィトン美術館]] * その他 ** [[ムーラン・ルージュ]] ** [[プランタン (フランスの百貨店)|プランタン]] ** [[ラ・デファンス]] ;劇場・劇団・コンサートホール・楽団 {{Columns-list|2| * [[オデオン座]] * [[オペラ=コミック座]] * [[ガルニエ宮|オペラ・ガルニエ]](日本で「オペラ座」と呼ぶのはこちら) * [[オペラ・バスティーユ]] * [[オランピア (パリ)|オランピア]]劇場 * ゲテ・モンパルナス劇場 * [[コメディ・フランセーズ]] * サル・ガボー * [[ヴィユ・コロンビエ劇場]] * シテ・ドゥ・ラ・ミュジーク * シャイヨー国立劇場 * [[シャトレ座]] * [[シャンゼリゼ劇場]] * パリ市立劇場 * ボビノ劇場 * マデレーン座 * モガドール劇場 * ユシット座 * [[ラ・シガール]] * ラ・スプレンディド * [[サル・プレイエル]] * [[パリ管弦楽団]] }} ==文化・名物== 「芸術の都」という異名が言い表すように、パリは美術・音楽・演劇・バレエ・食文化・ファッションなど、さまざまな[[芸術]]の世界的な中心地として名を馳せている。1989年には[[欧州文化首都]]に選ばれた。 {{Double image aside|right|Mona Lisa, by Leonardo da Vinci, from C2RMF retouched.jpg|140|L'église d'Auvers-sur-Oise.jpg|140|左:『[[モナ・リザ|ラ・ジョコンド]]』([[モナ・リザ]])ルーヴル美術館収蔵/右:[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]『[[オーヴェルの教会]]』(オルセー美術館収蔵)}} === 美術 === [[ルーヴル美術館]]や[[オルセー美術館]]、[[ポンピドゥーセンター]]([[国立近代美術館 (フランス)|国立近代美術館]])などの美術館に世界一級の美術品が多数収蔵され、ざっくりと時代ごとに美術館が割り振られている。古代から19世紀半ばまでの美術品はルーブル美術館で観ることができる。[[モナ・リザ]]、[[サモトラケのニケ]]、[[ミロのヴィーナス]]など世界中の誰もが知っている名作をはじめとして、[[ナポレオン1世|ナポレオン]]がエジプト遠征時に集めた[[古代エジプト]]の考古学品なども含めて常設展示数はおよそ2万6,000点にのぼり、総所蔵作品数は30万点を超える。ざっと観ても数日かかり、全部じっくり観ると1か月ほどかかるとも言われる。ルーヴルは建物自体もかつての王宮であり、入場者数は年間800万人以上である。19世紀以降の絵画、つまり[[印象派]]、[[象徴主義]]、[[アール・ヌーヴォー]]の絵画などは[[オルセー美術館]]に展示されている。 パリ市が運営する公共の美術館・博物館は市内に14あり、パリ・ミュゼ([[:fr:Paris Musées]])という市の組織が管轄している。これらパリ市所蔵の美術コレクションは国のコレクションに次ぐ規模を誇る。2020年1月、パリ・ミュゼはパリ市立美術館・博物館が所蔵する約10万点の作品の無料ダウンロードを許可すると発表した<ref>[https://kai-you.net/article/70889 パリの美術館所蔵の10万点以上のアート作品画像が無料取得、商用利用が可能に ] Kay-You, 2020.01.10</ref>。 ;パリ市立美術館・博物館 * [[パリ市立近代美術館]] * [[バルザック記念館]] * [[ボードレール美術館]] * [[カルナヴァレ博物館]] * [[カタコンベ]] * [[シテ島地下遺跡]] * [[チェルヌスキ美術館]] - アジア美術 * [[コニャック=ジェイ美術館]] * [[パリ市立モード博物館]] - 別称パレ・ガリエラ * [[パリ解放博物館]] - [[パリ解放]]で活躍した[[フィリップ・ルクレール]]と[[ジャン・ムーラン]]記念館併設 * [[プティ・パレ]] * [[ロマン派美術館]] * [[ビクトル・ユゴー記念館]] * [[ザッキン美術館]] パリ・ミュゼは、この他に[[下水道博物館]]、[[野外彫刻美術館]]、[[パビリオン・デザール]](展示会場)も管轄している。 美術教育機関としては、[[パリ国立高等美術学校]]([[エコール・デ・ボザール]])をはじめ、[[グランド・ショミエール芸術学校]]などがある。 [[ファイル:Palais Garnier inside.jpg|thumb|right|280px|[[ガルニエ宮]]の内部。世界最古のバレエ団のバレエを観賞し、かつての王や貴族の生活に想いを馳せたり、[[シャガール]]の天井画を堪能したりすることができる]] === 演劇 === 世界で一番歴史の長い劇団、1680年創設の[[コメディ・フランセーズ]]があり、同名の劇場でその舞台を観ることができる。 === バレエ === パリには1661年に王立舞踏アカデミーとして創設された世界最古のバレエ団「[[パリ国立オペラ]]」があり、旧オペラ座の[[ガルニエ宮]]や新オペラ座の[[オペラ・バスティーユ]]でその公演を観ることができる。 [[File:Les bachiques bouzouks à la Fête de la musique 2008.jpg|thumb|right|280px|6月21日のFête de la musique(音楽祭)([[1区 (パリ)|1er arrondissement]]、2008年)]] === 音楽 === パリは音楽都市のひとつである。[[シャンソン]]を聞かせるライブハウスがいくつもある。 パリには[[管弦楽団]]が多数あり、コンサートが頻繁に行われている(一時期は世界一流のレベルだったが近年はいくらか厳しい評価も聞かれる)。 毎年夏至の日6月21日にはFête de la musique(音楽祭)がフランス全土で開かれ、パリでもさまざまな場所で、ジャズやブルースなども含めてさまざまなジャンルの音楽の演奏が行われる。 [[パリ国立高等音楽・舞踊学校]]([[コンセルヴァトワール]]・ドゥ・パリ)をはじめ、[[エコールノルマル音楽院]]、[[スコラ・カントルム]]などがあり、世界から才能のある若者が一流のバレエや音楽を学びにやってくる。 === 食文化 === パリは[[ガストロノミー]](食によるおもてなし、食文化、一流の料理作り)の中心地でもあり、有名なレストランがいくつもあり([[ミシュランガイド|ギッド・ミシュラン]]では三ツ星が例年10店前後)、世界で最高レベルのシェフの料理を堪能することができる。また[[フランス料理]]を習得しようと若い料理人たちがそれら有名店で修行に励んでいる。料理競技会も開催されている。 ===文化史=== 16世紀前半の神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]は、フランス国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の生涯の宿敵でありながら、[[フランス文化]]を、それ以上にパリの文化をこよなく愛し、18世紀の[[啓蒙時代]]には、プロイセン王国中興の祖である[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は[[ヴォルテール]]と交流しパリから招き、また、ロシア帝国女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]はヴォルテールや[[ドニ・ディドロ]]と交流し、ディドロをパリから呼び寄せた。 == スポーツ == {{Main|Category:パリのスポーツ}} [[テニス]]の[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム(4大大会)]]の一つ[[全仏オープン]]の開催地である。[[自転車ロードレース]]の[[ツール・ド・フランス]]は、1975年以来[[シャンゼリゼ通り (ツール・ド・フランス)|シャンゼリゼ通りがゴール地点]]に設定されている。以前は[[ダカール・ラリー|パリ=ダカール・ラリー]]の発着地であった。[[陸上競技]]では、[[2003年世界陸上競技選手権大会|2003年世界陸上]]が開催された。またパリに限らないが、[[ペタンク]]も各地の街角で行われている。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|パリのサッカー|en|Football in Paris}}}} パリで最も人気の[[サッカー]]クラブは'''[[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]'''である。[[リーグ・アン]]、[[クープ・ドゥ・フランス]]、[[クープ・ドゥ・ラ・リーグ]]、[[トロフェ・デ・シャンピオン]]では、いずれの大会でも最多優勝を飾っている。 パリには他にも数多くのプロおよびアマチュアのサッカークラブがあり、[[パリFC]]、[[レッドスターFC93]]、[[スタッド・フランセ・パリ (サッカー)|スタッド・フランセ・パリ]]、[[UJAマッカビ・パリ・メトロポール]]などが存在している。パリ16区内にあるスタジアム[[パルク・デ・プランス]]は、[[FIFAワールドカップ]]や[[UEFA欧州選手権]]などでも使用されている。 === ラグビー === [[ラグビーユニオン|ラグビー]]のトップリーグ[[フランス選手権トップ14|トップ14]]所属の[[スタッド・フランセ・パリ]]が本拠地にしている。同様にトップ14所属の強豪[[ラシン92]]は、パリ近郊[[ラ・デファンス]]を本拠地にしている。 === オリンピック === パリでは過去に、[[1900年パリオリンピック]]と[[1924年パリオリンピック]]が行われている。そして[[2024年パリオリンピック]]も予定されており、開催されれば100年ぶり3度目の[[夏季オリンピック]]となる。なお、フランスでの[[近代オリンピック|五輪]]開催としては[[1992年アルベールビルオリンピック]]以来、32年ぶり6度目のことである。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:パリ出身の人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|パリ|[[画像:Blason_paris_75.svg|34px|Portal:パリ]]}} '''催事''' * [[パリ祭]] * [[白夜祭]] * [[ユーロビジョン・ソング・コンテスト1978]] * [[パリ万国博覧会 (曖昧さ回避)|パリ万国博覧会]] '''出来事''' * [[フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路]] * [[グランドツアー]] * [[パリ症候群]] * [[パリ人肉事件]] '''化学''' * [[ルテチウム]] * [[フランシウム]] * [[ユウロピウム]] * [[キュリー]] '''舞台とした作品''' * [[:Category:パリを舞台とした作品|カテゴリ:パリを舞台とした作品]] ** [[パリの空の下]] ** [[オー・シャンゼリゼ]] ** [[巴里祭]] ** [[パリのお嬢さん]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Paris}} {{Wiktionary|パリ|巴里|Paris}} ; 公式 : パリ市公式サイト {{fr icon}}{{en icon}}:[https://www.paris.fr Paris.fr, site officiel de la Ville de Paris] ; 日本政府 : [https://www.fr.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在フランス日本国大使館- Ambassade du Japon en France] {{ja icon}} ; 観光 : {{ウィキトラベル インライン|パリ|パリ}} : パリ観光局 {{ja icon}}:[https://ja.parisinfo.com Paris tourist office - Official website] : フランス観光開発機構 - パリ:{{ja icon}}[https://jp.france.fr/ja/ フランス旅行のアイディアを発信する公式サイト - France.fr] ; その他 : {{Kotobank}} {{FranceDep}} {{パリとその周辺}} {{パリの観光地}} {{夏季オリンピック開催都市}} {{夏季パラリンピック開催都市}} {{フランス関連の主要項目}} {{欧州連合加盟国の首都}} {{ヨーロッパの首都}} {{メガシティ}} {{世界歴史都市連盟加盟都市}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はり}} [[Category:パリ|*]] [[Category:フランスの都市]] [[Category:ヨーロッパの首都]] [[Category:フランスの地域圏首府]] [[Category:世界歴史都市連盟]]
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ヨーロッパ
ヨーロッパ(ポルトガル語・オランダ語: Europa ポルトガル語: [ew.ˈɾɔ.pɐ] オランダ語: [øːˈroːpaː, ʏˑˈroːpaˑ])は地球上の7つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴であり欧州(欧洲、おうしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は欧の一字を用いる。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈及びコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる。 面積から見るとヨーロッパ州は世界で2番目に小さな大州であり、1018万kmは地球表面積の2%、陸地に限れば6.8%を占める。アジアに跨る領土を持つロシアは、ヨーロッパ50か国の中で面積および人口第1位の国家である。対照的に最も小さな国家はバチカン市国である。総人口はアジア・アフリカに次ぐ7億3300万である。これは地球総人口の11%である。 ヨーロッパ、特に古代ギリシアは西洋文明発祥の地である。これは、16世紀以降の植民地主義の始まりとともに世界中に拡散し、支配的な役割を果たした。16世紀から20世紀の間、ヨーロッパの国々はアメリカ州、アフリカ、オセアニア、中東、アジアの大部分を支配下に置いた。2度の世界大戦はヨーロッパを戦火で覆い、20世紀中頃の西ヨーロッパによる世界への影響力減衰に結びつき、その地位をアメリカ合衆国とソビエト連邦に奪われる結果となった(のちに、ソ連崩壊に伴ってアメリカ合衆国がこの地位へ再び戻った状態となり、現在まで唯一の超大国となっている)。 用語「ヨーロッパ」は、歴史が展開する中で使われ方が様々に発展。地理用語としてのEurṓpēの記録に残る最古の使用法は、エーゲ海の南海岸を指したもので、デロス島のアポローンに捧げられたホメーロス風讃歌にある。初めてヨーロッパとアジアを区分した地図はミレトスのヘカタイオスが作成した。ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』第4章にて、世界がヨーロッパ・アジア・リビアの3箇所に分けられ、その境界はナイル川とリオニ川であることを示唆した。彼はさらに、ヨーロッパとアジアの境界はリオニ川ではなくドン川とする考えもあると述べている。1世紀の地理学者ストラボンも東側の境をドン川と考えた。フラヴィウス家(英語版)の人物の著述や『ヨベル書』では、各大陸をノアから3人の息子たちへそれぞれ与えられたものと記している。そこでは、ヨーロッパはリビアとの境となるジブラルタル海峡のヘラクレスの柱から、アジアとの境となるドン川まで広がる地域としている。 ヨーロッパの文化に言及すると、まず大きく東西2つに分けられ、「西ヨーロッパ」はラテン語とキリスト教世界(英語版)が結合し8世紀に形成された地域となり、ゲルマン民族の伝統とラテン系キリスト教文化の合流と表され、「東ヨーロッパ」は「ビザンティン帝国」となる。これらはイスラム圏と対比することもできる。西ヨーロッパ地域はイベリア半島北部、ブリテン諸島、フランス、キリスト教化されたドイツ西部、アルプスそして北および中央イタリアが該当する。この考えはカロリング朝ルネサンスの影響を受け継いだもので、カール大帝の文化相となったアルクィンの手紙の中に、しばしば Europa の単語が見られる。このような文化的また地理的な区分は中世後期まで用いられたが、大航海時代にはそぐわなくなった。ヨーロッパの定義問題は最終的に、スウェーデンの地理学者兼地図製作者のフィリップ・ヨハン・フォン・シュトラーレンベルク(英語版)が提唱した、水域ではなくウラル山脈を最も重要な東の境とする1730年の案がロシア・ツァーリ国を皮切りにヨーロッパ各国の支持を集め、解決を見た。 現代では、ヨーロッパとはユーラシア大陸の北西に位置する半島と認識され、北・西・南が大きな水域で区切られた陸地と認識される。東の境界は通常ウラル山脈からウラル川を経由してカスピ海に接続し、そこから南東にあるコーカサス山脈を通って黒海・ボスポラス海峡そして地中海まで繋がる。 社会政治学的または文化的な側面を考慮すると、ヨーロッパの境界は様々な言及がなされる。例えば、キプロスは小アジアのアナトリア半島に近接しているが、ここはしばしばヨーロッパの一部とみなされ、現在ではEUの一員でもある。逆にマルタは長い間アフリカに属する島と受け止められていた。日本の外務省の公式サイトは、アルメニア、カザフスタンなどを欧州に含めている。 「ヨーロッパ」という単語は、欧州共同体(European Union, EU)のみを指す地政学的な制限を加えて用いられる事もあり、さらに排他的な用例や文化的な中心地と定義する場合もある。その一方で、欧州評議会には47か国が参加しているのに対し、EU加盟国は27か国に過ぎない。 単語ヨーロッパの語源にはさまざまな説がある。古代のギリシア神話には、主神ゼウスが白い雄牛に変化して攫ったフェニキアの王女エウローペー(希: Εὐρώπη)が登場する。ゼウスは彼女をクレタ島へ連れ出し、そこでミーノースら3人の子どもを得た。このエウローペーがヨーロッパの語源という説がある。 他に、「広い・幅広い」を意味するギリシア語の εὐρύςに「眼」を意味する ὤψ、「顔」を意味する ὠπ、「相貌」を意味する ὀπτが付加され、合わせた Eurṓpē は「広く熟視する」や「幅広い方角」という意味を持つという。初期インドヨーロッパ語族の信仰では、broad(広い)とは地球そのものを指す形容詞句であった。 他の説ではセム語派の言語に源流を求め、アッカド語の erebu (「太陽が沈むところ」) が元だとも言い、フェニキア語の ereb (「夕方、西」) やアラビア語の Maghreb(マグリブ)やヘブライ語の ma'arivと同根語だと言う。ただし、マーチン・リッチフィールド・ウエスト(英語版)は、Europaとセム語の単語との間には、音韻論的に合致する部分がほとんど無いと主張した。 ヨーロッパの大半の言語で、発音こそ違えど綴りは Europa であるが、英語・フランス語では末尾音が脱落し、Europe となる。英語での発音は「ˈjʊərəp」「ˈjɜrəp」で、オクスフォード英語辞典オンラインが示す「Europe」の発音記号は、イギリス英語では「ˈjʊərəp」「ˈjɔːrəp」、アメリカ英語では「ˈjərəp」「ˈjurəp」である。 日本語の「ヨーロッパ」は、何らかの外国語の発音を直接に音写したものではない。この語は、戦国時代末~江戸時代初期にポルトガル語の Europa(エウロパ)から借用され、「えうろつは」と表記され、「エウロッパ」と発音された。促音の挿入は、原音を反映したものではなく、当時の日本語では促音・撥音の後にのみ p 音が現れたためである(capa → かっぱ もその例)。その後、「エウ」が拗長音化規則により「ヨー」に遷移し、「ヨーロッパ」となった。 漢語では「欧羅巴(歐羅巴)」と音写されたため、中国語では漢字で「歐洲」と表される。日本語においても「欧州連合」のような漢字表記もあるが、カタカナ「ヨーロッパ」の方が一般的である。ちなみに、「欧(歐)」という漢字は、本来「体を曲げてかがむ」という意味であり、「吐く・もどす」「殴る」「うたう」の意味にも用いられたが、現在ではこれらの用例はほとんどなく、当て字としての「ヨーロッパ」の意味で用いられている。 多くの主要言語では Europa から派生した単語が、大陸(もしくは半島)を指して使われる。しかしトルコ語では、ペルシャ語を語源とする Frangistan (フランク人の土地)という単語が、正式名称の Avrupa や Evropa よりも多用される。 ヨーロッパとは歴史や伝統、文化に共通する地域を類型化してできた地域名であり、地学上はユーラシア大陸西端の半島にすぎない。そのため、領域は観念的なものである。 ヨーロッパ大陸の起源は、22億5000万年前のバルト盾状地(英語版)(フェノスカンディア)とサルマティア・クラトン(英語版)形成まで遡ることができる。その後、ヴォルガ-ウラリア盾状地も形成され、この3つが合わさり東ヨーロッパ・クラトン(バルティカ大陸)へ発達した。これはさらに集積し、超大陸であるコロンビア大陸の一部となった。約11億年前には、バルティカとローレンシア大陸の一部であったアークティカ大陸(英語版)が合わさりロディニア大陸となった。約5億5000万年前には孤立しふたたびバルティカ大陸となったが、約4億4000万年頃にまたローレンシア大陸と衝突してユーラメリカ大陸が形成、後にゴンドワナ大陸と合わさりパンゲア大陸へと成長した。1億9000万年前、大西洋へと成長する分断が始まり、パンゲア大陸はゴンドワナ大陸とローラシア大陸に別れ始め、じきにローラシア大陸もローレンシア(北アメリカ)とユーラシアに分裂した。ただしこの2大陸は長い間グリーンランドで繋がっており、動物の行き来があった。これも5000万年前頃から海面の起伏や低下活動を通じて現在に通じるヨーロッパの姿が形成され、アジアなどと接続した。現在のヨーロッパの形は500万年前頃の第三紀遅くに形成された。 ヨーロッパに定住した初期のヒト科は、約180万年前にジョージアにいたホモ・ゲオルギクスである。他にも、スペインのアタプエルカからは、約100万年前のヒト科の化石が発見された。ドイツのネアンデル谷を名の由来とするネアンデルタール人がヨーロッパに現れたのは約15万年前であり、紀元前28,000年頃には気候変動などの要因から、ポルトガルに最後の足跡を残し絶滅した。彼らに取って代わったのがクロマニョン人であり、ヨーロッパには4.3万年前から4.0万年前頃に進出した。 新石器時代には、作物の栽培や家畜飼育の開始、定住人口が著しく増え、土器の使用も広範囲に及んだ。これらは紀元前7000頃に、農業の先進地であるアナトリア半島や近東からの影響を受けたギリシアやバルカン半島で始まり、南東ヨーロッパからドナウ川やライン川の渓谷を伝って線形陶器文化(英語版)を形成し、地中海沿岸経由には紀元前4500年から前3000年頃に伝播した。これら新石器時代の文化は中央ヨーロッパから西や北端まで達し、さらに銅器の製法技術が伝わった。新石器時代の西ヨーロッパは、大規模な農耕集落ではなく土手道付き囲い地(英語版)やクルガンまたは巨石古墳(英語版)のような遺跡で特徴づけられる。戦斧文化の隆盛がヨーロッパを石器時代から銅器時代へと転換させた。この期間、マルタの巨石神殿群やストーンヘンジなどの巨石遺跡が西または南ヨーロッパで建設された。ヨーロッパの鉄器時代は紀元前800年頃に、ハルシュタット文化が担い始まった。 歴史家ヘロドトスは『世界』にて、ヨーロッパが単に「西」の地を指すのみならず、アジアと異なる世界である事を記述した。彼は第7章にて、ペルシア戦争時のクセルクセス1世と亡命スパルタ人デマラトスとの会話を記しているが、ここでクセルクセス1世は統率者不在で自由放任にあるギリシア人がペルシアの大軍に反抗するとは思えないと語る。それに対しデマラトスは、ギリシアの自由民は自ら定めた法に忠実であり、降伏勧告を受諾する事はないであろうと返す。ヘロドトスは、神聖的絶対君主に「隷属」するアジアと、国民たちによる規律ある「自由」のヨーロッパを対比させている。しかし厳密にはヨーロッパではなくギリシャを対比させている。ヨーロッパは比較的自由だがギリシャは自由だ、としている後代のアリストテレスと共に、ヨーロッパと自己を区別したギリシャの自意識がここにある。 このような対比はアイスキュロスの『ペルシア人』にもあり、ペルシア人の合唱隊がクセルクセス1世の母アトッサを神の妃であり母と讃えるのに対し、決戦に向かうギリシア人が「祖国に自由を」と叫ぶ姿を描写した。古代ギリシアでは、このように隷属を特徴とするアジアとは異なる社会形態を持つ地として、自らの社会を区分する概念を持っていた。 以下は ヨーロッパは、ユーラシア大陸西の1/5を占める陸地であり、アジアとの地形的に明瞭な区分がない。 ヨーロッパの主軸山系は西からピレネー山脈、アルプス山脈、カルパティア山脈・ディナル・アルプス山脈がある。これらは急峻ではあるが、古代からかなり高地にまで集落がつくられ交易が行われていたように、アジアのヒマラヤ山脈のような人跡未踏の地にはならず、山脈の両側にある程度の分岐を施しながらも断絶させるようなものではなかった。 河川は、ヨーロッパ大陸が小さいため、アジアやアフリカ・アメリカのような大河が無い。アルプス山脈北側は北ヨーロッパ平野などの比較的広い平野をゆるやかな川が流れる。これらの水量は一年を通して変化が少なく、また分水嶺が低い事もあって運河建設が容易な特徴も持っており、水運を発達させやすい性質を持っている。例えば国際河川であるライン川は1000トンクラスの船がスイスまで曳航可能である。これに対し、地中海に注ぐヨーロッパの河川は、源流となる山脈が海に近いため短く、かつ水量がポー川を除きおしなべて少ない。 人文地理的な区分をヨーロッパに施すと、3つの領域に分けることができる。アフリカを含めた地中海沿岸は、ナイル川流域やイベリア半島の一部を除き、およそ内陸と呼べる平野部分が狭い。そのため、各文明は海岸前沿岸部に形成され、そして発展は内陸よりも地中海へ漕ぎ出す志向を強めた。これに対し、アルプス北部の西ヨーロッパには水運に適した河川が多く見られる。そのため、この地域では港湾都市が海岸線よりも河川流域で発達し、ケルン、ブレーメン、ハンブルクそしてロンドンもこの例に当たる。海岸都市はオランダなど16世紀以降にしか見られない。13世紀以降は開墾が盛んになり、河川地域や沼沢地の開墾が盛んになり、海岸線の開拓にも着手されるようになった。残る東ヨーロッパは東ヨーロッパ平原の平坦で単調な地形が広がり、中央アジアの草原地帯へと続いている。そのため東方からの異民族侵入に弱く、結果的に何度も占拠を許した。ヨーロッパの防衛線は、事実上西ヨーロッパの東端となり、東ヨーロッパは都市化が遅れた。 以下に、場合によってはヨーロッパに分類されることがある地理的意味でのアジアの国々を示す。 以下に、事実上独立した地域(国家の承認を得る事が少ない、またはない国)を示す。 ヨーロッパは概して偏西風が吹き付け、付近に北大西洋海流が流れるため、温帯気候領域にある。北大西洋海流が影響し、同緯度の他地域よりも温暖である。このような条件が働き、ナポリの年間平均気温は16°C(60.8°F)であり、ほぼ同じ緯度にあるニューヨークの12°C(53.6°F)よりも高い。ドイツのベルリンは、カナダのカルガリーやロシアのアジア大陸部の都市イルクーツクとほぼ同じ緯度にあるが、1月の平均気温はカルガリーより約8°C(15°F)、イルクーツクより22°C(40°F)ちかく高い。 細かな差異では、地中海沿岸は夏に亜熱帯気候的性格を現して雨量が極端に少なくなるのに対し、冬は温暖で雨も多い。西ヨーロッパは海洋性気候の特徴を持ち、夏は涼しく冬は暖かい。季節による雨量の変化も少なくほぼ一定している。これに対し東ヨーロッパは大陸性気候であり、夏は暑く冬は寒い。黒海沿岸を除き雨量は少なく、冬には多くの河川や湖沼が凍結する。 かつて、おそらくヨーロッパの80-90%は森林で覆われていた。その姿は今から1000年ほど前までは維持されていたと考えられる。花粉学研究結果によると、太古にはハシバミ類が主流であったが、時とともにナラ、ニレ、シナノキが繁り、5-6世紀頃にはブナ、ツノギ、モミ、ハリモミ類が優勢になった。10世紀末-11世紀頃にはこれらにシラカバやクリも加わり豊かな樹相を成していた。山岳地帯や北欧ではハリモミ類が、南ヨーロッパではマツ類も見られた。ただし乾燥した地中海沿岸では、古くから森林の発達は限定的であった。東ヨーロッパでは北部こそ針葉樹林が広がっていたが、東南部は乾燥したステップ地帯が広がり木々の生長はあまり見込めなかった。黒海沿岸は肥沃な黒土域であり、古代から豊かな穀物収穫があげられていた。 これらに変化が見られたのは12世紀後半以降、盛んに広まった羊の放牧による森林伐採と牧草地化である。イギリスおよびイベリア半島で盛んになった季節的移動牧畜、そして11-13世紀頃に人口が急激に増えた影響から開墾や住居地化が広がった。樹木の種類にも人間の活動による選別が加わり、ドングリなど家畜飼料に使える種実類をもたらすナラ・ブナ・クリ類は木材用としても珍重されたが、これらに適さないマツは多くが伐採され、南欧のステップ化を促進した。現在ヨーロッパで多く見られるプラタナスやポプラなどは、近年になって人間が植栽したものである。 ヨーロッパの現在の政治は、当該大陸内における歴史的な事案にまで遡ることが出来る面が強い。同様に、当該大陸内の地理や経済、各国の文化も現在のヨーロッパの政治構成に貢献している点が見受けられる。 大陸という単位で見れば、ヨーロッパの経済規模は最も大きく、2008年の資産データでは32.7兆ドルと、北アメリカの27.1兆ドルを上回る。2009年においてもヨーロッパは、経済危機前の水準を上回る総資産総額37.1兆ドルという世界全資産の1/3を確保し、最も豊かな地域であり続けた。 27か国で構成される欧州連合のうち16か国が共通通貨であるユーロに移行し、世界一の単一経済統合地域を創設した。国別GDP (PPP) 比較では、世界の上位10か国中5か国がヨーロッパ諸国で占められた。『ザ・ワールド・ファクトブック』によると、ドイツが5位、イギリスが6位、ロシアが7位、フランスが8位、イタリアが10位にランクインした。 ヨーロッパ内部では、一人あたりの国民所得に大きなばらつきがある。最も高いモナコは172,676USドル(2009年)、最も低いモルドバは1,631USドルに過ぎない。 ヨーロッパの言語はほとんどがインドヨーロッパ語族に属すが、一部はウラル語族やカフカス諸語に属し、バスク語は孤立した言語である。 ヨーロッパ人はコーカソイドに属す。Y染色体ハプログループは、西ヨーロッパを中心にハプログループR1b (Y染色体)が最も高頻度にみられるほか、バルカン半島と北欧でハプログループI (Y染色体)、東欧でハプログループR1a (Y染色体)、北西ヨーロッパでハプログループN (Y染色体)、南ヨーロッパでハプログループE1b1b (Y染色体)が高頻度に見られる。 歴史的に、ヨーロッパの宗教は西洋美術史、文化、西洋哲学、EU法などに影響を及ぼした。ヨーロッパ主要の宗教は、カトリック、正教会、プロテスタントの3様式に分かれたキリスト教である。これに続き、東南ヨーロッパ(ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、コソボ、カザフスタン、北キプロス・トルコ共和国、トルコ、アゼルバイジャン)で主に信仰されるイスラム教がある。その他、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教などがあり、ロシアのカルムイク共和国ではチベット系仏教が主流である。一方で、ヨーロッパは比較的世俗的風潮が強いところでもあり、無宗教や不可知論、無神論を標榜する人々も西ヨーロッパを中心に増加傾向にあり、実際にチェコ、エストニア、スウェーデン、ドイツ(特に旧東ドイツ)、フランスなどで無宗教を表明している人の割合が高い。 11世紀以降、ヨーロッパは各都市間および農村との間を繋ぐ交通網と経済交流が盛んに行われ、日用品や生活必需品までもの需要供給関係が確立していた。そして共通のラテン語を基盤とする普遍的文化に覆われていた。この統一的な状態を破壊したものが、近代的な国民国家の成立と言える。それぞれの国が個別の言語や法律などを以って政治的支配を施し、内政的には都市と農村の対立、外交的には分断された主義を原因とする争いが激化し、ヨーロッパの近代を「戦争の世紀」に陥らせた。 欧州統合は通貨・経済から、最終的には政治統合までを目指す活動であり、それは国民国家樹立以前の普遍的なヨーロッパを現代に復活させようという動きでもある。そして現代的視点からすれば、欧州統合は地方主義そして国民国家の緩やかな否定でもある。アメリカ合衆国と比肩する政治・経済共同体として国際的な立場を強化するという点もさる事ながら、思考的にも近代的な政治区画観念から脱却し、大陸主義に立脚したものへの転換を迫る意義を持つ。 ヨーロッパにおける文化は多様で、数々の伝統をはじめ、料理や文学、哲学、音楽、美術や建築、映画に根ざしている面が多い。また、その範疇はこれらの枠のみに止まらず経済へも深い影響を及ぼしていて、上述の共同体の設立にも関連性を持ち合わせている。 ヨーロッパのスポーツの特徴は高度に組織化されていて多くの競技がプロフェッショナルリーグを持っているというところだ。今日世界的に知られるスポーツの多くはヨーロッパ(特にイギリス)の伝統的なスポーツに起源があり、これらが近代に整備されて誕生したものでありその伝統的なスポーツはヨーロッパで盛んだ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ(ポルトガル語・オランダ語: Europa ポルトガル語: [ew.ˈɾɔ.pɐ] オランダ語: [øːˈroːpaː, ʏˑˈroːpaˑ])は地球上の7つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴であり欧州(欧洲、おうしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は欧の一字を用いる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈及びコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "面積から見るとヨーロッパ州は世界で2番目に小さな大州であり、1018万kmは地球表面積の2%、陸地に限れば6.8%を占める。アジアに跨る領土を持つロシアは、ヨーロッパ50か国の中で面積および人口第1位の国家である。対照的に最も小さな国家はバチカン市国である。総人口はアジア・アフリカに次ぐ7億3300万である。これは地球総人口の11%である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ、特に古代ギリシアは西洋文明発祥の地である。これは、16世紀以降の植民地主義の始まりとともに世界中に拡散し、支配的な役割を果たした。16世紀から20世紀の間、ヨーロッパの国々はアメリカ州、アフリカ、オセアニア、中東、アジアの大部分を支配下に置いた。2度の世界大戦はヨーロッパを戦火で覆い、20世紀中頃の西ヨーロッパによる世界への影響力減衰に結びつき、その地位をアメリカ合衆国とソビエト連邦に奪われる結果となった(のちに、ソ連崩壊に伴ってアメリカ合衆国がこの地位へ再び戻った状態となり、現在まで唯一の超大国となっている)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "用語「ヨーロッパ」は、歴史が展開する中で使われ方が様々に発展。地理用語としてのEurṓpēの記録に残る最古の使用法は、エーゲ海の南海岸を指したもので、デロス島のアポローンに捧げられたホメーロス風讃歌にある。初めてヨーロッパとアジアを区分した地図はミレトスのヘカタイオスが作成した。ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』第4章にて、世界がヨーロッパ・アジア・リビアの3箇所に分けられ、その境界はナイル川とリオニ川であることを示唆した。彼はさらに、ヨーロッパとアジアの境界はリオニ川ではなくドン川とする考えもあると述べている。1世紀の地理学者ストラボンも東側の境をドン川と考えた。フラヴィウス家(英語版)の人物の著述や『ヨベル書』では、各大陸をノアから3人の息子たちへそれぞれ与えられたものと記している。そこでは、ヨーロッパはリビアとの境となるジブラルタル海峡のヘラクレスの柱から、アジアとの境となるドン川まで広がる地域としている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの文化に言及すると、まず大きく東西2つに分けられ、「西ヨーロッパ」はラテン語とキリスト教世界(英語版)が結合し8世紀に形成された地域となり、ゲルマン民族の伝統とラテン系キリスト教文化の合流と表され、「東ヨーロッパ」は「ビザンティン帝国」となる。これらはイスラム圏と対比することもできる。西ヨーロッパ地域はイベリア半島北部、ブリテン諸島、フランス、キリスト教化されたドイツ西部、アルプスそして北および中央イタリアが該当する。この考えはカロリング朝ルネサンスの影響を受け継いだもので、カール大帝の文化相となったアルクィンの手紙の中に、しばしば Europa の単語が見られる。このような文化的また地理的な区分は中世後期まで用いられたが、大航海時代にはそぐわなくなった。ヨーロッパの定義問題は最終的に、スウェーデンの地理学者兼地図製作者のフィリップ・ヨハン・フォン・シュトラーレンベルク(英語版)が提唱した、水域ではなくウラル山脈を最も重要な東の境とする1730年の案がロシア・ツァーリ国を皮切りにヨーロッパ各国の支持を集め、解決を見た。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現代では、ヨーロッパとはユーラシア大陸の北西に位置する半島と認識され、北・西・南が大きな水域で区切られた陸地と認識される。東の境界は通常ウラル山脈からウラル川を経由してカスピ海に接続し、そこから南東にあるコーカサス山脈を通って黒海・ボスポラス海峡そして地中海まで繋がる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "社会政治学的または文化的な側面を考慮すると、ヨーロッパの境界は様々な言及がなされる。例えば、キプロスは小アジアのアナトリア半島に近接しているが、ここはしばしばヨーロッパの一部とみなされ、現在ではEUの一員でもある。逆にマルタは長い間アフリカに属する島と受け止められていた。日本の外務省の公式サイトは、アルメニア、カザフスタンなどを欧州に含めている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「ヨーロッパ」という単語は、欧州共同体(European Union, EU)のみを指す地政学的な制限を加えて用いられる事もあり、さらに排他的な用例や文化的な中心地と定義する場合もある。その一方で、欧州評議会には47か国が参加しているのに対し、EU加盟国は27か国に過ぎない。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "単語ヨーロッパの語源にはさまざまな説がある。古代のギリシア神話には、主神ゼウスが白い雄牛に変化して攫ったフェニキアの王女エウローペー(希: Εὐρώπη)が登場する。ゼウスは彼女をクレタ島へ連れ出し、そこでミーノースら3人の子どもを得た。このエウローペーがヨーロッパの語源という説がある。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "他に、「広い・幅広い」を意味するギリシア語の εὐρύςに「眼」を意味する ὤψ、「顔」を意味する ὠπ、「相貌」を意味する ὀπτが付加され、合わせた Eurṓpē は「広く熟視する」や「幅広い方角」という意味を持つという。初期インドヨーロッパ語族の信仰では、broad(広い)とは地球そのものを指す形容詞句であった。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "他の説ではセム語派の言語に源流を求め、アッカド語の erebu (「太陽が沈むところ」) が元だとも言い、フェニキア語の ereb (「夕方、西」) やアラビア語の Maghreb(マグリブ)やヘブライ語の ma'arivと同根語だと言う。ただし、マーチン・リッチフィールド・ウエスト(英語版)は、Europaとセム語の単語との間には、音韻論的に合致する部分がほとんど無いと主張した。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの大半の言語で、発音こそ違えど綴りは Europa であるが、英語・フランス語では末尾音が脱落し、Europe となる。英語での発音は「ˈjʊərəp」「ˈjɜrəp」で、オクスフォード英語辞典オンラインが示す「Europe」の発音記号は、イギリス英語では「ˈjʊərəp」「ˈjɔːrəp」、アメリカ英語では「ˈjərəp」「ˈjurəp」である。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本語の「ヨーロッパ」は、何らかの外国語の発音を直接に音写したものではない。この語は、戦国時代末~江戸時代初期にポルトガル語の Europa(エウロパ)から借用され、「えうろつは」と表記され、「エウロッパ」と発音された。促音の挿入は、原音を反映したものではなく、当時の日本語では促音・撥音の後にのみ p 音が現れたためである(capa → かっぱ もその例)。その後、「エウ」が拗長音化規則により「ヨー」に遷移し、「ヨーロッパ」となった。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "漢語では「欧羅巴(歐羅巴)」と音写されたため、中国語では漢字で「歐洲」と表される。日本語においても「欧州連合」のような漢字表記もあるが、カタカナ「ヨーロッパ」の方が一般的である。ちなみに、「欧(歐)」という漢字は、本来「体を曲げてかがむ」という意味であり、「吐く・もどす」「殴る」「うたう」の意味にも用いられたが、現在ではこれらの用例はほとんどなく、当て字としての「ヨーロッパ」の意味で用いられている。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "多くの主要言語では Europa から派生した単語が、大陸(もしくは半島)を指して使われる。しかしトルコ語では、ペルシャ語を語源とする Frangistan (フランク人の土地)という単語が、正式名称の Avrupa や Evropa よりも多用される。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ヨーロッパとは歴史や伝統、文化に共通する地域を類型化してできた地域名であり、地学上はユーラシア大陸西端の半島にすぎない。そのため、領域は観念的なものである。", "title": "領域" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ大陸の起源は、22億5000万年前のバルト盾状地(英語版)(フェノスカンディア)とサルマティア・クラトン(英語版)形成まで遡ることができる。その後、ヴォルガ-ウラリア盾状地も形成され、この3つが合わさり東ヨーロッパ・クラトン(バルティカ大陸)へ発達した。これはさらに集積し、超大陸であるコロンビア大陸の一部となった。約11億年前には、バルティカとローレンシア大陸の一部であったアークティカ大陸(英語版)が合わさりロディニア大陸となった。約5億5000万年前には孤立しふたたびバルティカ大陸となったが、約4億4000万年頃にまたローレンシア大陸と衝突してユーラメリカ大陸が形成、後にゴンドワナ大陸と合わさりパンゲア大陸へと成長した。1億9000万年前、大西洋へと成長する分断が始まり、パンゲア大陸はゴンドワナ大陸とローラシア大陸に別れ始め、じきにローラシア大陸もローレンシア(北アメリカ)とユーラシアに分裂した。ただしこの2大陸は長い間グリーンランドで繋がっており、動物の行き来があった。これも5000万年前頃から海面の起伏や低下活動を通じて現在に通じるヨーロッパの姿が形成され、アジアなどと接続した。現在のヨーロッパの形は500万年前頃の第三紀遅くに形成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ヨーロッパに定住した初期のヒト科は、約180万年前にジョージアにいたホモ・ゲオルギクスである。他にも、スペインのアタプエルカからは、約100万年前のヒト科の化石が発見された。ドイツのネアンデル谷を名の由来とするネアンデルタール人がヨーロッパに現れたのは約15万年前であり、紀元前28,000年頃には気候変動などの要因から、ポルトガルに最後の足跡を残し絶滅した。彼らに取って代わったのがクロマニョン人であり、ヨーロッパには4.3万年前から4.0万年前頃に進出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "新石器時代には、作物の栽培や家畜飼育の開始、定住人口が著しく増え、土器の使用も広範囲に及んだ。これらは紀元前7000頃に、農業の先進地であるアナトリア半島や近東からの影響を受けたギリシアやバルカン半島で始まり、南東ヨーロッパからドナウ川やライン川の渓谷を伝って線形陶器文化(英語版)を形成し、地中海沿岸経由には紀元前4500年から前3000年頃に伝播した。これら新石器時代の文化は中央ヨーロッパから西や北端まで達し、さらに銅器の製法技術が伝わった。新石器時代の西ヨーロッパは、大規模な農耕集落ではなく土手道付き囲い地(英語版)やクルガンまたは巨石古墳(英語版)のような遺跡で特徴づけられる。戦斧文化の隆盛がヨーロッパを石器時代から銅器時代へと転換させた。この期間、マルタの巨石神殿群やストーンヘンジなどの巨石遺跡が西または南ヨーロッパで建設された。ヨーロッパの鉄器時代は紀元前800年頃に、ハルシュタット文化が担い始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "歴史家ヘロドトスは『世界』にて、ヨーロッパが単に「西」の地を指すのみならず、アジアと異なる世界である事を記述した。彼は第7章にて、ペルシア戦争時のクセルクセス1世と亡命スパルタ人デマラトスとの会話を記しているが、ここでクセルクセス1世は統率者不在で自由放任にあるギリシア人がペルシアの大軍に反抗するとは思えないと語る。それに対しデマラトスは、ギリシアの自由民は自ら定めた法に忠実であり、降伏勧告を受諾する事はないであろうと返す。ヘロドトスは、神聖的絶対君主に「隷属」するアジアと、国民たちによる規律ある「自由」のヨーロッパを対比させている。しかし厳密にはヨーロッパではなくギリシャを対比させている。ヨーロッパは比較的自由だがギリシャは自由だ、としている後代のアリストテレスと共に、ヨーロッパと自己を区別したギリシャの自意識がここにある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このような対比はアイスキュロスの『ペルシア人』にもあり、ペルシア人の合唱隊がクセルクセス1世の母アトッサを神の妃であり母と讃えるのに対し、決戦に向かうギリシア人が「祖国に自由を」と叫ぶ姿を描写した。古代ギリシアでは、このように隷属を特徴とするアジアとは異なる社会形態を持つ地として、自らの社会を区分する概念を持っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "以下は", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ヨーロッパは、ユーラシア大陸西の1/5を占める陸地であり、アジアとの地形的に明瞭な区分がない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの主軸山系は西からピレネー山脈、アルプス山脈、カルパティア山脈・ディナル・アルプス山脈がある。これらは急峻ではあるが、古代からかなり高地にまで集落がつくられ交易が行われていたように、アジアのヒマラヤ山脈のような人跡未踏の地にはならず、山脈の両側にある程度の分岐を施しながらも断絶させるようなものではなかった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "河川は、ヨーロッパ大陸が小さいため、アジアやアフリカ・アメリカのような大河が無い。アルプス山脈北側は北ヨーロッパ平野などの比較的広い平野をゆるやかな川が流れる。これらの水量は一年を通して変化が少なく、また分水嶺が低い事もあって運河建設が容易な特徴も持っており、水運を発達させやすい性質を持っている。例えば国際河川であるライン川は1000トンクラスの船がスイスまで曳航可能である。これに対し、地中海に注ぐヨーロッパの河川は、源流となる山脈が海に近いため短く、かつ水量がポー川を除きおしなべて少ない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "人文地理的な区分をヨーロッパに施すと、3つの領域に分けることができる。アフリカを含めた地中海沿岸は、ナイル川流域やイベリア半島の一部を除き、およそ内陸と呼べる平野部分が狭い。そのため、各文明は海岸前沿岸部に形成され、そして発展は内陸よりも地中海へ漕ぎ出す志向を強めた。これに対し、アルプス北部の西ヨーロッパには水運に適した河川が多く見られる。そのため、この地域では港湾都市が海岸線よりも河川流域で発達し、ケルン、ブレーメン、ハンブルクそしてロンドンもこの例に当たる。海岸都市はオランダなど16世紀以降にしか見られない。13世紀以降は開墾が盛んになり、河川地域や沼沢地の開墾が盛んになり、海岸線の開拓にも着手されるようになった。残る東ヨーロッパは東ヨーロッパ平原の平坦で単調な地形が広がり、中央アジアの草原地帯へと続いている。そのため東方からの異民族侵入に弱く、結果的に何度も占拠を許した。ヨーロッパの防衛線は、事実上西ヨーロッパの東端となり、東ヨーロッパは都市化が遅れた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "以下に、場合によってはヨーロッパに分類されることがある地理的意味でのアジアの国々を示す。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下に、事実上独立した地域(国家の承認を得る事が少ない、またはない国)を示す。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ヨーロッパは概して偏西風が吹き付け、付近に北大西洋海流が流れるため、温帯気候領域にある。北大西洋海流が影響し、同緯度の他地域よりも温暖である。このような条件が働き、ナポリの年間平均気温は16°C(60.8°F)であり、ほぼ同じ緯度にあるニューヨークの12°C(53.6°F)よりも高い。ドイツのベルリンは、カナダのカルガリーやロシアのアジア大陸部の都市イルクーツクとほぼ同じ緯度にあるが、1月の平均気温はカルガリーより約8°C(15°F)、イルクーツクより22°C(40°F)ちかく高い。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "細かな差異では、地中海沿岸は夏に亜熱帯気候的性格を現して雨量が極端に少なくなるのに対し、冬は温暖で雨も多い。西ヨーロッパは海洋性気候の特徴を持ち、夏は涼しく冬は暖かい。季節による雨量の変化も少なくほぼ一定している。これに対し東ヨーロッパは大陸性気候であり、夏は暑く冬は寒い。黒海沿岸を除き雨量は少なく、冬には多くの河川や湖沼が凍結する。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "かつて、おそらくヨーロッパの80-90%は森林で覆われていた。その姿は今から1000年ほど前までは維持されていたと考えられる。花粉学研究結果によると、太古にはハシバミ類が主流であったが、時とともにナラ、ニレ、シナノキが繁り、5-6世紀頃にはブナ、ツノギ、モミ、ハリモミ類が優勢になった。10世紀末-11世紀頃にはこれらにシラカバやクリも加わり豊かな樹相を成していた。山岳地帯や北欧ではハリモミ類が、南ヨーロッパではマツ類も見られた。ただし乾燥した地中海沿岸では、古くから森林の発達は限定的であった。東ヨーロッパでは北部こそ針葉樹林が広がっていたが、東南部は乾燥したステップ地帯が広がり木々の生長はあまり見込めなかった。黒海沿岸は肥沃な黒土域であり、古代から豊かな穀物収穫があげられていた。", "title": "植生" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これらに変化が見られたのは12世紀後半以降、盛んに広まった羊の放牧による森林伐採と牧草地化である。イギリスおよびイベリア半島で盛んになった季節的移動牧畜、そして11-13世紀頃に人口が急激に増えた影響から開墾や住居地化が広がった。樹木の種類にも人間の活動による選別が加わり、ドングリなど家畜飼料に使える種実類をもたらすナラ・ブナ・クリ類は木材用としても珍重されたが、これらに適さないマツは多くが伐採され、南欧のステップ化を促進した。現在ヨーロッパで多く見られるプラタナスやポプラなどは、近年になって人間が植栽したものである。", "title": "植生" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの現在の政治は、当該大陸内における歴史的な事案にまで遡ることが出来る面が強い。同様に、当該大陸内の地理や経済、各国の文化も現在のヨーロッパの政治構成に貢献している点が見受けられる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "大陸という単位で見れば、ヨーロッパの経済規模は最も大きく、2008年の資産データでは32.7兆ドルと、北アメリカの27.1兆ドルを上回る。2009年においてもヨーロッパは、経済危機前の水準を上回る総資産総額37.1兆ドルという世界全資産の1/3を確保し、最も豊かな地域であり続けた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "27か国で構成される欧州連合のうち16か国が共通通貨であるユーロに移行し、世界一の単一経済統合地域を創設した。国別GDP (PPP) 比較では、世界の上位10か国中5か国がヨーロッパ諸国で占められた。『ザ・ワールド・ファクトブック』によると、ドイツが5位、イギリスが6位、ロシアが7位、フランスが8位、イタリアが10位にランクインした。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ内部では、一人あたりの国民所得に大きなばらつきがある。最も高いモナコは172,676USドル(2009年)、最も低いモルドバは1,631USドルに過ぎない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの言語はほとんどがインドヨーロッパ語族に属すが、一部はウラル語族やカフカス諸語に属し、バスク語は孤立した言語である。", "title": "言語・民族" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ人はコーカソイドに属す。Y染色体ハプログループは、西ヨーロッパを中心にハプログループR1b (Y染色体)が最も高頻度にみられるほか、バルカン半島と北欧でハプログループI (Y染色体)、東欧でハプログループR1a (Y染色体)、北西ヨーロッパでハプログループN (Y染色体)、南ヨーロッパでハプログループE1b1b (Y染色体)が高頻度に見られる。", "title": "言語・民族" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "歴史的に、ヨーロッパの宗教は西洋美術史、文化、西洋哲学、EU法などに影響を及ぼした。ヨーロッパ主要の宗教は、カトリック、正教会、プロテスタントの3様式に分かれたキリスト教である。これに続き、東南ヨーロッパ(ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、コソボ、カザフスタン、北キプロス・トルコ共和国、トルコ、アゼルバイジャン)で主に信仰されるイスラム教がある。その他、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教などがあり、ロシアのカルムイク共和国ではチベット系仏教が主流である。一方で、ヨーロッパは比較的世俗的風潮が強いところでもあり、無宗教や不可知論、無神論を標榜する人々も西ヨーロッパを中心に増加傾向にあり、実際にチェコ、エストニア、スウェーデン、ドイツ(特に旧東ドイツ)、フランスなどで無宗教を表明している人の割合が高い。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "11世紀以降、ヨーロッパは各都市間および農村との間を繋ぐ交通網と経済交流が盛んに行われ、日用品や生活必需品までもの需要供給関係が確立していた。そして共通のラテン語を基盤とする普遍的文化に覆われていた。この統一的な状態を破壊したものが、近代的な国民国家の成立と言える。それぞれの国が個別の言語や法律などを以って政治的支配を施し、内政的には都市と農村の対立、外交的には分断された主義を原因とする争いが激化し、ヨーロッパの近代を「戦争の世紀」に陥らせた。", "title": "統合" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "欧州統合は通貨・経済から、最終的には政治統合までを目指す活動であり、それは国民国家樹立以前の普遍的なヨーロッパを現代に復活させようという動きでもある。そして現代的視点からすれば、欧州統合は地方主義そして国民国家の緩やかな否定でもある。アメリカ合衆国と比肩する政治・経済共同体として国際的な立場を強化するという点もさる事ながら、思考的にも近代的な政治区画観念から脱却し、大陸主義に立脚したものへの転換を迫る意義を持つ。", "title": "統合" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ヨーロッパにおける文化は多様で、数々の伝統をはじめ、料理や文学、哲学、音楽、美術や建築、映画に根ざしている面が多い。また、その範疇はこれらの枠のみに止まらず経済へも深い影響を及ぼしていて、上述の共同体の設立にも関連性を持ち合わせている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ヨーロッパのスポーツの特徴は高度に組織化されていて多くの競技がプロフェッショナルリーグを持っているというところだ。今日世界的に知られるスポーツの多くはヨーロッパ(特にイギリス)の伝統的なスポーツに起源があり、これらが近代に整備されて誕生したものでありその伝統的なスポーツはヨーロッパで盛んだ。", "title": "スポーツ" } ]
ヨーロッパは地球上の7つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴であり欧州(欧洲、おうしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は欧の一字を用いる。
{{otheruses}} {{Infobox Continent |title = ヨーロッパ |image = {{Switcher|[[File:Europe orthographic Caucasus Urals boundary (with borders).svg|frameless]]|国境線を表示|[[File:Europe orthographic Caucasus Urals boundary.svg|frameless]]|国境線を隠す|default=1}} |area = 1018万 km{{sup|2}}<ref>{{Cite web|url=https://worldpopulationreview.com/country-rankings/largest-countries-in-europe|title=Largest Countries In Europe 2021|website=worldpopulationreview.com | access-date=23 September 2021}}</ref> &nbsp;([[大陸#面積と人口|第6位]]){{ref label|footnote_a|a}} |population = {{UN_Population|Europe}} ({{UN_Population|Year}}; [[大陸#面積と人口|3位]]){{UN_Population|ref}} |density = 72.9/km<sup>2</sup> (第2位) |GDP_PPP = {{nowrap|$30.37 trillion (2021年推計、第2位)<ref>{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/datamapper/PPPGDP@WEO/OEMDC/ADVEC/WEOWORLD|title=GDP PPP, current prices |publisher=International Monetary Fund|date=2021|access-date=16 January 2021}}</ref>}} |GDP_nominal = $23.05 trillion (2021年推計、 [[:en:List of continents by GDP (nominal)|第3位]])<ref>{{cite web|title=GDP Nominal, current prices |url=https://www.imf.org/external/datamapper/NGDPD@WEO/OEMDC/ADVEC/WEOWORLD |publisher=International Monetary Fund|date=2021|access-date=16 January 2021}}</ref> |GDP_per_capita = $31,020 (2021年推計、 [[:en:List of continents by GDP (nominal)#GDP per capita (nominal) by continents|第3位]]){{ref label|footnote_c|c}}<ref>{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/datamapper/NGDPDPC@WEO/OEMDC/ADVEC/WEOWORLD|title=Nominal GDP per capita|publisher=International Monetary Fund|date=2021|access-date=16 January 2021}}</ref> |HDI = {{increase}} 0.845<ref>{{cite web|url=http://hdr.undp.org/en/reports/global/hdr2011/|title=Reports – Human Development Reports|website=hdr.undp.org|access-date=21 July 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20120709095716/http://hdr.undp.org/en/reports/global/hdr2011/|archive-date=9 July 2012|url-status=dead}}</ref> |religions = {{unbulleted list | [[:en:Christianity in Europe|キリスト教]] (75.2%)<ref name="Survey">{{cite web|url=https://www.pewforum.org/files/2014/01/global-religion-full.pdf|title=The Global Religious Landscape|publisher=Pewforum.org|archive-url=https://web.archive.org/web/20170125173538/https://www.pewforum.org/files/2014/01/global-religion-full.pdf|access-date=7 May 2020|archive-date=25 January 2017}}</ref> | [[無宗教]] (18.2%)<ref name="Survey"/> | [[:en:Islam in Europe|イスラム教]] (5.9%)<ref name="Survey"/> | [[:en:Religion in Europe|その他]] (0.7%)<ref name="Survey"/> }} | religions_year = 2012 | religions_ref = <ref name="Survey"/> |demonym = [[ヨーロッパ人]] |countries = [[ヨーロッパの主権国家及び属領の一覧#主権国家|50の主権国家]]<br /> [[ヨーロッパの主権国家及び属領の一覧#一部から承認された国家|6の一部から承認された国家]]<!--Note: numbers are approximate, as indicated by the "~".--> |dependencies = [[ヨーロッパの主権国家及び属領の一覧#属領|6の属領]]<!--Gibraltar, Isle of Man, Guernsey and Jersey. Note: The Faroes and Aland are constituent parts of their states, not dependencies.--> |languages = [[:en:Languages of Europe|最も一般的な母国語]]: {{hlist <!--NOTE: according to [[Languages of Europe#List of languages]], ordered by number L1 speakers.--> |[[ロシア語]] |[[ドイツ語]] |[[フランス語]] |[[イタリア語]] |[[英語]] |[[スペイン語]] |[[ポーランド語]] |[[ウクライナ語]] |[[ルーマニア語]] |[[スウェーデン語]] |[[オランダ語]] |[[セルビア・クロアチア語]] |[[トルコ語]] }} |time = [[UTC−1]]<!--アゾレス諸島--> ~ [[UTC+05:00|UTC+5]]<!--ロシアとカザフスタン--> |internet = [[.eu]] ([[欧州連合|EU]]) |cities = [[:en:List of urban areas in Europe|最大都市圏]]:<!-- -->{{hlist <!--NOTE: 10 largest cities only, ranked by the total population of the conurbation. Do not modify the list per your own original research. The list must be sourced from a single cited aggregate source.--> <!--1-->|{{flagicon|Russia}}[[モスクワ]] <!--17.1 million--> <!--2-->|{{Flagicon|TUR}}[[イスタンブール]]<!--15.1 million-->{{ref label|footnote_b|b}} <!--3-->|{{flagicon|France}}[[パリ]] <!--11 million--> <!--4-->|{{flagicon|UK}}[[ロンドン]]<!--10.9 million--> <!--5-->|{{Flagicon|ESP}}[[マドリード]]<!--6.0 million--> <!--6-->|{{flagicon|Russia}}[[サンクトペテルブルク]]<!--5.2 million--> <!--7-->|{{Flagicon|ITA}}[[ミラノ]]<!--4.9 million--> <!--8-->|{{Flagicon|ESP}}[[バルセロナ]]<!--4.5 million--> <!--9-->|{{flagicon|Germany}}[[ベルリン]]<!--3.9 million--> <!--10-->|{{flagicon|Italy}}[[ローマ]]<!--3.1 million--><ref name="Urban">{{cite web|url=http://www.demographia.com/db-worldua.pdf|title=Demographia World Urban Areas|publisher=Demographia|access-date=October 28, 2020}}</ref> }} |footnotes = {{unbulleted list|style=font-size:90%; |a. {{note|footnote_a}} 数値は大陸横断国の内、ヨーロッパ部分のみを含む{{cref2|n|1}}。 |b. {{note|footnote_b}} イスタンブールは、ヨーロッパとアジアにまたがる大陸横断型の都市である。 |c. {{note|footnote_c}} 国際通貨基金が定義する「ヨーロッパ」}} }} '''ヨーロッパ'''{{efn|日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『[[広辞苑]]』第5版「ヨーロッパ」によると[[ポルトガル語]]・[[オランダ語]]、『[[デジタル大辞泉]]』[[goo辞書]]版「[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/226957/m0u/ ヨーロッパ]」によるとポルトガル語。}}([[ポルトガル語]]・{{Lang-nl|Europa}} {{IPA-pt|ew.ˈɾɔ.pɐ|lang}} {{IPA-nl|øːˈroːpaː, ʏˑˈroːpaˑ|lang}})は[[地球]]上の7つの[[大州]]の一つ。漢字表記は'''欧羅巴'''であり'''欧州'''(欧洲、おうしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は'''欧'''の一字を用いる。 [[ファイル:durham castle.jpg|thumb|240px|ヨーロッパの原風景の一つである[[イギリス]]の世界遺産[[ダラム城]]と[[ダラム大聖堂]]。]] [[ファイル:United Nations geographical subregions.png|thumb|240px|[[国連による世界地理区分]]]] == 概説 == 地理的には、[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]北西の[[半島]]部を包括し、[[ウラル山脈]]及び[[コーカサス山脈]]の[[分水嶺]]と[[ウラル川]]・[[カスピ海]]・[[黒海]]、そして黒海と[[エーゲ海]]を繋ぐ[[ボスポラス海峡]]-[[マルマラ海]]-[[ダーダネルス海峡]]が、[[アジア]]と区分される東の境界となる<ref name=masuda38>[[#増田1967|増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲]]</ref><ref name="NatlGeoAtlas">{{Cite book|title=National Geographic Atlas of the World|edition=7th|year=1999|location=Washington, DC|publisher=[[ナショナルジオグラフィック協会]]|isbn=0-7922-7528-4}} "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe ... is formed by the Ural Mountains, Ural River, Caspian Sea, Caucasus Mountains, and the Black Sea with its outlets, the Bosporus and Dardanelles."(一般的に受け入れられているアジアとヨーロッパの境界は、(中略)ウラル山脈、ウラル川、カスピ海、コーカサス山脈、黒海の河口、ボスポラスそしてダーダネスルである。)</ref>。 面積から見るとヨーロッパ州は世界で2番目に小さな大州であり、1018万km{{sup|2}}は地球表面積の2%、陸地に限れば6.8%を占める。アジアに跨る領土を持つ[[ロシア]]は、ヨーロッパ50か国の中で面積および人口第1位の[[国家]]である。対照的に最も小さな国家は[[バチカン市国]]である。総人口はアジア・[[アフリカ]]に次ぐ7億3300万である。これは地球総人口の11%である<ref>"[http://migration.ucdavis.edu/mn/more.php?id=3585_0_5_0 Global: UN Migrants, Population]". Migration News. January 2010 Volume 17 Number 1.</ref>。 ヨーロッパ、特に[[古代ギリシア]]は[[西洋文明]]発祥の地である<ref>[[#Lewis1997|Lewis & Wigen (1997)、p.226]]</ref>。これは、16世紀以降の[[植民地主義]]の始まりとともに世界中に拡散し、支配的な役割を果たした。16世紀から20世紀の間、ヨーロッパの国々は[[アメリカ州]]、[[アフリカ]]、[[オセアニア]]、[[中東]]、[[アジア]]の大部分を支配下に置いた。2度の世界大戦はヨーロッパを戦火で覆い、[[20世紀]]中頃の[[西ヨーロッパ]]による世界への影響力減衰に結びつき、その地位を[[アメリカ合衆国]]と[[ソビエト連邦]]に奪われる結果となった<ref name="natgeo 534">[[#National Geographic|National Geographic, p.534.]]</ref>(のちに、[[ソ連崩壊]]に伴ってアメリカ合衆国がこの地位へ再び戻った状態となり、現在まで唯一の超大国となっている)。 == 定義 == [[File:Herodotus world map-en.svg|thumb|right|復元された[[ヘロドトス]]の世界地図。]] [[File:T and O map Guntherus Ziner 1472.jpg|150px|thumb|left|1472年に作成された中世の[[TO図]]。世界を3つの大陸として描いている。]] [[File:Europe As A Queen Sebastian Munster 1570.jpg|150px|thumb|upright|right|[[エウローパ・レーギーナ]]を模した地図。『[[宇宙誌]]』から。ここでは、[[ブリテン諸島]]と[[スカンディナヴィア半島]]がヨーロッパとして含まれていない。]] === 定義史 === 用語「ヨーロッパ」は、[[歴史]]が展開する中で使われ方が様々に発展<ref>[[#Lewis1997|Lewis & Wigen (1997)]]</ref><ref>{{Cite book|title=The European culture area: a systematicgeography|first=Terry G.|last= Jordan-Bychkov| first2=Bella Bychkova|last2= Jordan| publisher=[[:en:Rowman & Littlefield|Rowman & Littlefield]]|year= 2001|isbn=0742516288}}</ref>。地理用語としてのEurṓpēの記録に残る最古の使用法は、[[エーゲ海]]の南海岸を指したもので、[[アポローン|デロス島のアポローン]]に捧げられた[[ホメーロス風讃歌]]にある。初めてヨーロッパとアジアを区分した地図は[[ミレトスのヘカタイオス]]が作成した<ref name=OkaSekai12>[[#岡崎2003|岡崎 (2003)、第一章第一節 歴史観の世界観的基礎 1.古代ギリシア人の「世界」と時間と時間、pp.12-24]]</ref>。[[古代ギリシア|ギリシア]]の歴史家[[ヘロドトス]]は著書『歴史』第4章にて<ref name=OkaSekai12 />、世界がヨーロッパ・アジア・リビアの3箇所に分けられ、その境界は[[ナイル川]]と[[リオニ川]]であることを示唆した。彼はさらに、ヨーロッパとアジアの境界はリオニ川ではなく[[ドン川]]とする考えもあると述べている<ref>[[ヘロドトス]]、4:45</ref>。1世紀の地理学者[[ストラボン]]も東側の境をドン川と考えた<ref>[[ストラボン]]、''[[地理誌|Geography]] 11.1''</ref>。{{仮リンク|フラヴィウス家|en|Flavius}}の人物の著述や『[[ヨベル書]]』では、各大陸を[[ノア (聖書)|ノア]]から3人の息子たちへそれぞれ与えられたものと記している。そこでは、ヨーロッパはリビアとの境となる[[ジブラルタル海峡]]の[[ヘラクレスの柱]]から、アジアとの境となるドン川まで広がる地域としている<ref>{{Cite book|title=Genesis and the Jewish antiquities of Flavius Josephus|first= Thomas W.|last= Franxman|publisher=Pontificium Institutum Biblicum|year= 1979|isbn=8876533354|pages=101–102}}</ref>。 ヨーロッパの文化に言及すると、まず大きく東西2つに分けられ、「西ヨーロッパ」は[[ラテン語]]と{{仮リンク|キリスト教世界|en|Christendom}}が結合し8世紀に形成された地域となり、[[ゲルマン民族]]の伝統とラテン系[[キリスト教]]文化の合流と表され、「東ヨーロッパ」は「[[東ローマ帝国|ビザンティン帝国]]」となる。これらは[[イスラム教|イスラム圏]]と対比することもできる。西ヨーロッパ地域は[[イベリア半島]]北部、[[ブリテン諸島]]、[[フランス]]、キリスト教化された[[ドイツ]]西部<!--西ドイツだと東西分断時代のドイツ連邦共和国-->、[[アルプス山脈|アルプス]]そして北および中央[[イタリア]]が該当する<ref>[[#Cantor1993|Cantor (1993)、pp185ff]]</ref>。この考えは[[カロリング朝ルネサンス]]の影響を受け継いだもので、[[カール大帝]]の文化相となった[[アルクィン]]の手紙の中に、しばしば Europa の単語が見られる<ref>[[#Cantor1993|Cantor (1993)、pp181]]</ref>。このような文化的また地理的な区分は[[中世後期]]まで用いられたが、[[大航海時代]]にはそぐわなくなった<ref>[[#Lewis1997|Lewis & Wigen (1997)、pp.23–25]]</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=jrVW9W9eiYMC&pg=PA8&dq=%22suggested+that+Europe%27s+boundary%22&redir_esc=y&hl=ja |title=Europe: A History, by Norman Davies, p. 8 |publisher=|date= |accessdate=2010-08-23|isbn=9780198201717|year=1996|author1=Davies|first1=Norman}}</ref>。ヨーロッパの定義問題は最終的に、[[スウェーデン]]の地理学者兼地図製作者の{{仮リンク|フィリップ・ヨハン・フォン・シュトラーレンベルク|en|Philip Johan von Strahlenberg}}が提唱した、水域ではなく[[ウラル山脈]]を最も重要な東の境とする1730年の案が[[ロシア・ツァーリ国]]を皮切りにヨーロッパ各国の支持を集め、解決を見た<ref>[[#Lewis1997|Lewis & Wigen (1997)、pp.27-28]]</ref>。 === 現代の定義 === 現代では、ヨーロッパとはユーラシア大陸の北西に位置する[[半島]]と認識され、北・西・南が大きな水域で区切られた陸地と認識される。東の境界は通常ウラル山脈から[[ウラル川]]を経由して[[カスピ海]]に接続し、そこから南東にある[[コーカサス山脈]]を通って[[黒海]]・[[ボスポラス海峡]]そして[[地中海]]まで繋がる<ref name="Encarta">{{cite encyclopedia|last=Microsoft Encarta Online Encyclopaedia 2007|title=Europe|url=http://encarta.msn.com/encyclopaedia_761570768/Europe.html|accessdate=27 December 2007|archiveurl=https://webcitation.org/5kwbxqnne?url=http://encarta.msn.com/encyclopedia_761570768/Europe.html|archivedate=2009年10月31日|deadurl=yes|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 社会政治学的または文化的な側面を考慮すると、ヨーロッパの境界は様々な言及がなされる。例えば、[[キプロス]]は小アジアの[[アナトリア半島]]に近接しているが、ここはしばしばヨーロッパの一部とみなされ、現在ではEUの一員でもある。逆に[[マルタ]]は長い間アフリカに属する島と受け止められていた<ref>Falconer, William; Falconer, Thomas. [https://books.google.co.jp/books?id=B3Q29kWRdtgC&pg=PA50&dq=Strabo+Theophrastus+Melita&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&f=false ''Dissertation on St. Paul's Voyage''], BiblioLife (BiblioBazaar), 1872. (1817.), p 50, ISBN 1-113-68809-2 ''These islands Pliny, as well as Strabo and Ptolemy, included in the African sea''</ref>。[[日本]]の[[外務省]]の公式サイトは、[[アルメニア]]、[[カザフスタン]]などを欧州に含めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/europe.html |title=地域別インデックス(欧州) |publisher=外務省 |accessdate=2021-03-14}}</ref>。 「ヨーロッパ」という単語は、欧州共同体({{Lang|en|European Union, EU}})のみを指す地政学的な制限を加えて用いられる事もあり<ref>参照: Merje Kuus, [http://phg.sagepub.com/cgi/content/abstract/28/4/472 'Europe's eastern expansion and the re-inscription of otherness in East-Central Europe'] ''Progress in Human Geography'', Vol. 28, No. 4, 472–489 (2004), József Böröcz, [http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=1082435 'Goodness Is Elsewhere: The Rule of European Difference'], ''Comparative Studies in Society and History'', 110–36, 2006, or [http://www.ceupress.com/books/html/OnTheEast-WestSlope.htm Attila Melegh, ''On the East-West Slope: Globalisation, nationalism, racism and discourses on Central and Eastern Europe''], Budapest: Central European University Press, 2006.</ref>、さらに排他的な用例や文化的な中心地と定義する場合もある。その一方で、[[欧州評議会]]には47か国が参加しているのに対し、[[EU加盟国]]は27か国に過ぎない<ref>{{cite web|url=http://www.coe.int/T/e/Com/about_coe/|title=About the Council of Europe|publisher=Council of Europe|accessdate=9 June 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080516024649/http://www.coe.int/T/e/Com/about_coe/|archivedate=2008年5月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 == 呼称 == [[File:Europa copy.jpg|thumb|エウローペと{{仮リンク|神聖なる雄牛|en|Sacred bull}}]] === 語源 === 単語ヨーロッパの語源にはさまざまな説がある。古代の[[ギリシア神話]]には、主神[[ゼウス]]が白い雄牛に変化して攫った[[フェニキア]]の王女[[エウローペー]]({{lang-el-short|Εὐρώπη}})が登場する。ゼウスは彼女を[[クレタ島]]へ連れ出し、そこで[[ミーノース]]ら3人の子どもを得た<ref>{{cite book|和書|title=世界神話事典|author=大林太良、伊藤清司、吉田敦彦、松村一男|publisher=[[角川書店]] |year=2005|isbn=4-04-703375-8 |page=314}}</ref>。このエウローペーがヨーロッパの語源という説がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://ksirius.kj.yamagata-u.ac.jp/~shibata/yamashin/22-body.html|title=おうし座|author=柴田晋平||publisher=[[山形新聞]]月曜夕刊「星空案内」/[[山形大学]]|accessdate=2012-05-20}}</ref>。 他に、「広い・幅広い」を意味する[[ギリシア語]]の {{lang|grc|εὐρύς}}<ref group="注釈">{{lang-*-Latn|el|eurus}}</ref><ref>[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Deu%29ru%2Fs {{lang|grec|εὐρύς}}], Henry George Liddell, Robert Scott, ''A Greek-English Lexicon'', on Perseus</ref>に「眼」を意味する {{lang|el|ὤψ}}<ref group="注釈">{{lang-*-Latn|el|ōps}}</ref>、「顔」を意味する {{lang|el|ὠπ}}<ref group="注釈">{{lang-*-Latn|el|ōp}}</ref>、「相貌」を意味する {{lang|el|ὀπτ}}<ref group="注釈">{{lang-*-Latn|el|opt}}</ref>が付加され<ref>[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Dw%29%2Fy ὤψ], Henry George Liddell, Robert Scott, ''A Greek-English Lexicon'', on Perseus</ref>、合わせた {{Unicode|Eurṓpē}} は「広く熟視する」や「幅広い方角」という意味を持つという。初期インドヨーロッパ語族の信仰では、{{lang|und|broad}}(広い)とは[[地球]]そのものを指す[[形容詞句]]であった<ref>{{Cite book|author=M. L. West |title=Indo-European poetry and myth |publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] |location=Oxford [Oxfordshire] |year=2007 |pages=178–179 |isbn=0-19-928075-4 |oclc= |doi=}}</ref>。 他の説では[[セム語派]]の言語に源流を求め、[[アッカド語]]の {{lang|akk-Latn|erebu}}<ref group="注釈">アッカド語ラテン翻字</ref> (「太陽が沈むところ」) が元だとも言い<ref name="Etymonline: European">{{cite web| url=http://www.etymonline.com/index.php?term=European| title=Etymonline: European| accessdate=10 September 2006}}</ref>、[[フェニキア語]]の {{lang|phn-Latn|ereb}}<ref group="注釈">フェニキア語ラテン翻字</ref> (「夕方、西」) <ref name=OkaSekai12 />や[[アラビア語]]の {{lang|ar-Latn|Maghreb}}<ref group="注釈">アラビア語ラテン翻字</ref>([[マグリブ]])やヘブライ語の {{lang|he-Latn|ma'ariv}}<ref group="注釈">ヘブライ語ラテン翻字</ref>と[[同根語]]だと言う。ただし、{{仮リンク|マーチン・リッチフィールド・ウエスト|en|Martin Litchfield West}}は、{{Unicode|Europa}}とセム語の単語との間には、音韻論的に合致する部分がほとんど無いと主張した<ref>{{Cite book|author={{仮リンク|マーチン・リッチフィールド・ウエスト|en|Martin Litchfield West}}|title=The east face of Helicon: west Asiatic elements in Greek poetry and myth |publisher=Clarendon Press |location=Oxford |year=1997 |page=451 |isbn=0-19-815221-3 |oclc= |doi=}}</ref>。 === 各言語での語形 === ヨーロッパの大半の言語で、発音こそ違えど綴りは {{la|Europa}} であるが、[[英語]]・[[フランス語]]では末尾音が脱落し、{{lang|en|Europe}} となる。英語での発音は「{{IPA2|ˈjʊərəp}}」「{{IPA2|ˈjɜrəp}}」で、オクスフォード英語辞典オンラインが示す「{{lang|en|Europe}}」の発音記号は、イギリス英語では「{{IPA2|ˈjʊərəp}}」「{{IPA2|ˈjɔːrəp}}」、アメリカ英語では「{{IPA2|ˈjərəp}}」「{{IPA2|ˈjurəp}}」である。 [[日本語]]の「ヨーロッパ」は、何らかの外国語の発音を直接に音写したものではない。この語は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末~[[江戸時代]]初期に[[ポルトガル語]]の {{pt|Europa}}(エウロパ)から借用され、「えうろつは」と表記され、「エウロッパ」と発音された。[[促音]]の挿入は、原音を反映したものではなく、当時の日本語では促音・[[撥音]]の後にのみ {{IPA2|p}} 音が現れたためである({{pt|capa}} → [[合羽|かっぱ]] もその例)。その後、「エウ」が[[拗長音]]化規則により「ヨー」に遷移し、「ヨーロッパ」となった。 [[漢語]]では「欧羅巴(歐羅巴)」と音写されたため、[[中国語]]では[[漢字]]で「歐洲」と表される。日本語においても「欧州連合」のような漢字表記もあるが、[[カタカナ]]「ヨーロッパ」の方が一般的である。ちなみに、「欧(歐)」という漢字は、本来「体を曲げてかがむ」という意味であり、「吐く・もどす」「殴る」「うたう」の意味にも用いられたが、現在ではこれらの用例はほとんどなく、[[当て字]]としての「ヨーロッパ」の意味で用いられている。 === 他の語 === 多くの主要言語では {{lang|und|Europa}} から派生した単語が、大陸(もしくは半島)を指して使われる。しかし[[トルコ語]]では、[[ペルシャ語]]を語源とする {{lang|tr|Frangistan}} ([[フランク人]]の土地)という単語が、正式名称の {{lang|tr|Avrupa}} や {{lang|tr|Evropa}} よりも多用される<ref name="davison">{{Cite journal|author=Davidson, Roderic H. |title={{lang|en|Where is the Middle East?}}|jstor=20029452 |journal={{lang|en|Foreign Affairs}}|volume=38|issue=4 |pages=665–675 |year=1960|doi=10.2307/20029452 |ref=harv}}</ref>。 == 領域 == {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパの地域|en|Regions of Europe}}}} ヨーロッパとは歴史や伝統、文化に共通する地域を類型化してできた地域名であり、[[地学]]上はユーラシア大陸西端の半島にすぎない。そのため、領域は観念的なものである。 === 国際連合による分類 === [[File:Europe subregion map UN geoscheme.svg|thumb|250px|[[国際連合]]によるヨーロッパの分類]] {{legend|#4080FF|[[北ヨーロッパ]]}} {{legend|#00FFFF|[[西ヨーロッパ]]}} {{legend|#FF8080|[[東ヨーロッパ]]}} *{{legend|#FFC0C0|[[ロシア連邦]]の[[北アジア]]部}} {{legend|#00FF00|[[南ヨーロッパ]]}} {{legend|#80C080|[[西アジア]]の国が持つ[[南ヨーロッパ]]部の領土([[トルコ]])}} *{{legend|#C0FFC0|上記の国家のアジア部分}} {{legend|#FF80C0|[[西アジア]]の国が持つ[[東ヨーロッパ]]部の領土([[ジョージア (国)|ジョージア]]及び[[アゼルバイジャン]])}} *{{legend|#FFC0E0|上記の国家のアジア部分}} {{legend|#D060D0|[[中央アジア]]の国が持つ[[東ヨーロッパ]]部の領土([[カザフスタン]])}} *{{legend|#E0C0E0|上記の国家のアジア部分}} {{clear}} === ワールド・ファクトブックによる分類 === [[File:Europe subregion map world factbook.svg|thumb|250px|[[ワールド・ファクトブック]]によるヨーロッパの分類]] {{legend|#4080FF|[[北ヨーロッパ]]}} {{legend|#00FFFF|[[西ヨーロッパ]]}} {{legend|#FFDB6C|[[中央ヨーロッパ]]}} {{legend|#FF8080|[[東ヨーロッパ]]}} {{legend|#FF0000|[[西南ヨーロッパ]]}} {{legend|#00FF00|[[南ヨーロッパ]]}} {{legend|#C07215|[[東南ヨーロッパ]]}} {{legend|#99BADD|[[南西アジア]]}} {{legend|#FFC0CB|[[北アジア]]}} {{legend|#CD00CC|[[中央アジア]]}} {{legend|#228B22|[[中東]]}} {{clear}} === 冷戦時代の分類 === [[File:Iron Curtain map.svg|thumb|200px|[[冷戦]]時代のヨーロッパの分類]] {{legend|#004990|[[西側世界]]}} {{legend|#FF8282|[[東側世界]]}} {{legend|#57d557|[[非同盟]]([[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]])}} {{legend|#c0c0c0|中立国(※灰色に赤の斜線は、東側諸国であったが後にソ連と対立し孤立政策を採っていた[[アルバニア]])}} {{clear}} <gallery> ファイル:Europe satellite orthographic.jpg|ヨーロッパの衛星写真 ファイル:Europe countries map ja.png|現在ヨーロッパ各国の地図 ファイル:Map of Europe with flags.svg|[[国旗]]地図 </gallery> == 歴史 == {{main|ヨーロッパ史}} === 地質史 === ヨーロッパ大陸の起源は、22億5000万年前の{{仮リンク|バルト盾状地|en|Baltic Shield}}(フェノスカンディア)と{{仮リンク|サルマティア・クラトン|en|Sarmatian craton}}形成まで遡ることができる。その後、ヴォルガ-ウラリア盾状地も形成され、この3つが合わさり[[東ヨーロッパ・クラトン]]([[バルティカ大陸]])へ発達した。これはさらに集積し、[[超大陸]]である[[コロンビア大陸]]の一部となった。約11億年前には、バルティカと[[ローレンシア大陸]]の一部であった{{仮リンク|アークティカ大陸|en|Arctica}}が合わさり[[ロディニア大陸]]となった。約5億5000万年前には孤立しふたたびバルティカ大陸となったが、約4億4000万年頃にまたローレンシア大陸と衝突して[[ユーラメリカ大陸]]が形成、後に[[ゴンドワナ大陸]]と合わさり[[パンゲア大陸]]へと成長した。1億9000万年前、[[大西洋]]へと成長する分断が始まり、パンゲア大陸は[[ゴンドワナ大陸]]と[[ローラシア大陸]]に別れ始め、じきにローラシア大陸もローレンシア(北アメリカ)とユーラシアに分裂した。ただしこの2大陸は長い間グリーンランドで繋がっており、動物の行き来があった。これも5000万年前頃から海面の起伏や低下活動を通じて現在に通じるヨーロッパの姿が形成され、アジアなどと接続した。現在のヨーロッパの形は500万年前頃の[[第三紀]]遅くに形成された<ref name="Encyclopædia Britannica">{{cite web|url=http://www.britannica.com/eb/article-9106055|title=Europe|publisher=[[ブリタニカ百科事典]]|year=2007|accessdate=10 June 2008}}</ref>。 === 先史時代=== {{Main|先史ヨーロッパ}} [[File:Ggantija Temples, Xaghra, Gozo.jpg|thumb|150px|left|[[マルタ島]]の[[ジュガンティーヤ]]]] [[File:Vinca clay figure 02.jpg|thumb|100px|right|{{仮リンク|ビンチャの女性像|en| Lady of Vinča }}。[[セルビア]]新石器時代の土偶]] [[File:Summer Solstice Sunrise over Stonehenge 2005.jpg|thumb|150px|left|イギリスの[[ストーンヘンジ]]]] [[File:Nebra Scheibe.jpg|thumb|100px|right|[[ネブラ・ディスク]]。ドイツ青銅器時代の遺品]] ヨーロッパに定住した初期の[[ヒト科]]は、約180万年前に[[ジョージア (国)|ジョージア]]にいた[[ホモ・ゲオルギクス]]である<ref>{{Cite journal| author = A. Vekua, D. Lordkipanidze, G. P. Rightmire, J. Agusti, R. Ferring, G. Maisuradze, et al. | year = 2002 | title = A new skull of early ''Homo'' from Dmanisi, Georgia | journal = Science | volume = 297 | pages = 85–9 | doi = 10.1126/science.1072953 | pmid = 12098694 | issue = 5578 | ref = harv}}</ref>。他にも、[[スペイン]]の[[アタプエルカ]]からは、約100万年前のヒト科の化石が発見された<ref>[http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/6256356.stm The million year old tooth from Atapuerca, Spain, found in June 2007]</ref>。[[ドイツ]]の[[ネアンデル谷]]を名の由来とする[[ネアンデルタール人]]がヨーロッパに現れたのは約15万年前であり、紀元前28,000年頃には気候変動などの要因から、[[ポルトガル]]に最後の足跡を残し絶滅した。彼らに取って代わったのが[[クロマニョン人]]であり、ヨーロッパには4.3万年前から4.0万年前頃に進出した<ref name="natgeo 21">[[#National Geographic|National Geographic, p.21.]]</ref>。 [[新石器時代のヨーロッパ|新石器時代]]には、作物の[[栽培]]や家畜飼育の開始、定住人口が著しく増え、土器の使用も広範囲に及んだ。これらは紀元前7000頃に、農業の先進地である[[アナトリア半島]]や[[近東]]からの影響を受けた[[ギリシア]]や[[バルカン半島]]で始まり、南東ヨーロッパから[[ドナウ川]]や[[ライン川]]の渓谷を伝って{{仮リンク|線形陶器文化|en|Linear Pottery culture}}を形成し、[[地中海沿岸]]経由には紀元前4500年から前3000年頃に伝播した。これら新石器時代の文化は中央ヨーロッパから西や北端まで達し、さらに銅器の製法技術が伝わった。新石器時代の西ヨーロッパは、大規模な農耕集落ではなく{{仮リンク|土手道付き囲い地|en|causewayed enclosure}}や[[クルガン]]または{{仮リンク|巨石古墳|en|megalithic tomb}}のような遺跡で特徴づけられる<ref>{{Cite document|title=The Oxford Companion to Archaeology|publisher= [[オックスフォード大学出版局]]|year=1996|pages=215–216|isbn=0-19-507618-4}}</ref>。[[戦斧文化]]の隆盛がヨーロッパを石器時代から[[銅器時代]]へと転換させた。この期間、[[マルタの巨石神殿群]]や[[ストーンヘンジ]]などの[[巨石記念物|巨石遺跡]]が西または南ヨーロッパで建設された<ref>[[:en:Richard J. C. Atkinson|Atkinson]], R J C, ''Stonehenge'' ([[ペンギン・ブックス]], 1956)</ref><ref>{{Cite book|title=Encyclopaedia of Prehistory|first=Peter Neal|last= Peregrine|last2= Ember|publisher=Springer|year= 2001 |isbn=0306462583|pages=157–184|first2= Melvin}}, European Megalithic</ref>。ヨーロッパの[[鉄器時代]]は紀元前800年頃に、[[ハルシュタット文化]]が担い始まった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ia.inf.shizuoka.ac.jp/~smorino/newpage3.htm|title=ケルト人とは誰か? |author=森野聡子|publisher=[[静岡大学]] |accessdate=2012-04-20}}</ref>。 === ヨーロッパ概念の嚆矢 === 歴史家ヘロドトスは『世界』にて、ヨーロッパが単に「西」の地を指すのみならず、アジアと異なる世界である事を記述した。彼は第7章にて、[[ペルシア戦争]]時の[[クセルクセス1世]]と亡命[[スパルタ]]人[[デマラトス]]との会話を記しているが、ここでクセルクセス1世は統率者不在で自由放任にあるギリシア人がペルシアの大軍に反抗するとは思えないと語る。それに対しデマラトスは、ギリシアの自由民は自ら定めた法に忠実であり、降伏勧告を受諾する事はないであろうと返す<ref name=OkaSekai12 />。ヘロドトスは、神聖的絶対君主に「隷属」するアジアと、国民たちによる規律ある「自由」のヨーロッパを対比させている<ref name=OkaSekai12 />。しかし厳密にはヨーロッパではなくギリシャを対比させている。ヨーロッパは比較的自由だがギリシャは自由だ、としている後代のアリストテレスと共に、ヨーロッパと自己を区別したギリシャの自意識がここにある。 このような対比は[[アイスキュロス]]の『[[ペルシア人 (アイスキュロス)|ペルシア人]]』にもあり、ペルシア人の合唱隊がクセルクセス1世の母アトッサを神の妃であり母と讃えるのに対し、決戦に向かうギリシア人が「祖国に自由を」と叫ぶ姿を描写した<ref name=OkaSekai12 />。古代ギリシアでは、このように隷属を特徴とするアジアとは異なる社会形態を持つ地として、自らの社会を区分する概念を持っていた<ref name=OkaSekai12 />。 以下は{{See|ヨーロッパ史}} == 地理 == [[File:Europe topography map en.png|thumb|right|ヨーロッパと周辺の高低差を表した地図。]] [[File:Tammerkoski from air.jpg|thumb|right|{{ill|タンメルコスキ川|en|Tammerkoski}}, [[タンペレ]]、[[フィンランド]]]] [[File:Wały Chrobrego4.JPG|thumb|right|[[オーデル川]], [[シュチェチン]], [[ポーランド]]]] {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパの地理|en|Geography of Europe}}}} ヨーロッパは、[[ユーラシア大陸]]西の1/5を占める陸地であり<ref name="Encarta"/>、アジアとの地形的に明瞭な区分がない<ref name=masuda38 />。 ヨーロッパの主軸山系は西から[[ピレネー山脈]]、[[アルプス山脈]]、[[カルパティア山脈]]・[[ディナル・アルプス山脈]]がある。これらは急峻ではあるが、古代からかなり高地にまで集落がつくられ交易が行われていたように、アジアのヒマラヤ山脈のような人跡未踏の地にはならず、山脈の両側にある程度の分岐を施しながらも断絶させるようなものではなかった<ref name=masuda40>[[#増田1967|増田 (1967)、pp.40-41、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの山系]]</ref>。 河川は、ヨーロッパ大陸が小さいため、アジアやアフリカ・アメリカのような大河が無い。アルプス山脈北側は[[北ヨーロッパ平野]]などの比較的広い平野をゆるやかな川が流れる。これらの水量は一年を通して変化が少なく、また分水嶺が低い事もあって運河建設が容易な特徴も持っており、水運を発達させやすい性質を持っている。例えば国際河川である[[ライン川]]は1000トンクラスの船がスイスまで曳航可能である<ref name=masuda41>[[#増田1967|増田 (1967)、pp.41-44、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの河川]]</ref>。これに対し、地中海に注ぐヨーロッパの河川は、源流となる山脈が海に近いため短く、かつ水量が[[ポー川]]を除きおしなべて少ない<ref name=masuda41 />。 人文地理的な区分<ref name=masuda41 />をヨーロッパに施すと、3つの領域に分けることができる<ref name=masuda44>[[#増田1967|増田 (1967)、pp.44-46、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 地中海世界の特徴]]</ref>。アフリカを含めた地中海沿岸は、[[ナイル川]]流域<ref name=masuda41 />やイベリア半島の一部を除き、およそ内陸と呼べる平野部分が狭い。そのため、各文明は海岸前沿岸部に形成され、そして発展は内陸よりも地中海へ漕ぎ出す志向を強めた<ref name=masuda44 />。これに対し、アルプス北部の西ヨーロッパには水運に適した河川が多く見られる<ref name=masuda47>[[#増田1967|増田 (1967)、pp.47-50、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 西ヨーロッパ地域の特長]]</ref>。そのため、この地域では港湾都市が海岸線よりも河川流域で発達し、[[ケルン]]、[[ブレーメン]]、[[ハンブルク]]そして[[ロンドン]]もこの例に当たる。海岸都市は[[オランダ]]など16世紀以降にしか見られない<ref name=masuda41 />。13世紀以降は開墾が盛んになり、河川地域や沼沢地の開墾が盛んになり、海岸線の開拓にも着手されるようになった<ref name=masuda47 />。残る東ヨーロッパは[[東ヨーロッパ平原]]の平坦で単調な地形が広がり、中央アジアの草原地帯へと続いている。そのため東方からの異民族侵入に弱く、結果的に何度も占拠を許した。ヨーロッパの防衛線は、事実上西ヨーロッパの東端となり、東ヨーロッパは都市化が遅れた<ref name=masuda50>[[#増田1967|増田 (1967)、pp.50-51、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 東ヨーロッパ地域の特長]]</ref>。 === ヨーロッパの国々 === {{main|ヨーロッパの主権国家及び属領の一覧}} <!--非独立国を記載する場合はノートでの議論をお願いします--> {| class="wikitable" |- ! 国名 !! 漢字表記{{efn|現代の日本ではここに記載した表記をそのまま使用することはほとんどないが、'''強調'''で示した漢字一字を略称として使用する場合がある。以下の場合には一般的である。 * 新聞の見出しなどで字数が制限される場合 * 複数の国や各国語を列挙する場合 ([[ソ芬戦争]]、[[日独伊三国軍事同盟]]、[http://www.jfa.maff.go.jp/rerys/13.09.21.1.html 日諾漁業協議]、[http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/foreign/cwsj/ クラウン西和辞典] など) * その他、複合語の要素として ([[蘭学]]、[[フランス領ギアナ|仏領ギアナ]]、[[イギリス連邦|英連邦]]など) * イギリスを英国と呼ぶ場合がある。特に、英国政府は[[イングランド]]を語源とする「イギリス」の使用を避け、同語源であるが「英国」の名称を使用している([http://ukinjapan.fco.gov.uk/ja/ 駐日英国大使館]、[http://www.visitbritain.jp/ 英国政府観光庁] など)。 * [[イギリス帝国|大英帝国]]、[[大英博物館]]、[[大英図書館]]など、"British"を「大英」と訳す場合がある。[[イギリス帝国#名称]]を参照。}}!! 原語(公用語)表記 !! 首都 |- |{{flagicon|Albania}} [[アルバニア|アルバニア共和国]]||阿爾巴尼亜||{{Lang|al|Shqipëria}}||[[ティラナ]] |- |{{flagicon|Andorra}} [[アンドラ|アンドラ公国]]||安道爾||{{lang|ca|Andorra}}||[[アンドラ・ラ・ベリャ]] |- |{{flagicon|Austria}} [[オーストリア|オーストリア共和国]]||'''墺'''太利/奥地利||{{lang|de|Österreich}}||[[ウィーン]] |- |{{flagicon|Belarus}} [[ベラルーシ|ベラルーシ共和国]]||白露西亜/白俄羅斯||{{lang|be|Беларусь}}/{{lang|ru|Белоруссия}}||[[ミンスク]] |- |{{flagicon|Belgium}} [[ベルギー|ベルギー王国]]||'''白'''耳義/比利時||{{lang|nl|België}}/{{lang|fr|Belgique}}/{{lang|de|Belgien}}||[[ブリュッセル]] |- |{{flagicon|Bosnia and Herzegovina}} [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]||波士尼亜赫塞哥維納||{{lang|bs|Bosna i Hercegovina}}||[[サラエヴォ]] |- |{{flagicon|Bulgaria}} [[ブルガリア|ブルガリア共和国]]||勃牙利/保加利亜||{{lang|bg|България}}||[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]] |- |{{flagicon|Croatia}} [[クロアチア|クロアチア共和国]]||克羅埃西亜/克羅地亜||{{lang|hr|Hrvatska}}||[[ザグレブ]] |- |{{flagicon|Czech Republic}} [[チェコ|チェコ共和国]]||捷克||{{lang|cs|Česká Republika}}||[[プラハ]] |- |{{flagicon|Denmark}} [[デンマーク|デンマーク王国]]||'''丁'''抹/丹麦||{{lang|da|Danmark}}||[[コペンハーゲン]] |- |{{flagicon|Estonia}} [[エストニア|エストニア共和国]]||愛沙尼亜||{{lang|et|Eesti}}||[[タリン]] |- |{{flagicon|Finland}} [[フィンランド|フィンランド共和国]]||'''芬'''蘭||{{lang|fi|Suomi}}/{{lang|sv|Finland}}||[[ヘルシンキ]] |- |{{flagicon|France}} [[フランス|フランス共和国]]||'''仏'''蘭西/法蘭西||{{lang|fr|France}}||[[パリ]] |- |{{flagicon|Germany}} [[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]||'''独'''逸/徳意志||{{lang|de|Deutschland}}||[[ベルリン]] |- |{{flagicon|Greece}} [[ギリシャ|ギリシャ共和国]]||'''希'''臘|| {{lang|el|Ελλάδα}}||[[アテネ]] |- |{{flagicon|Hungary}} [[ハンガリー]]||'''洪'''牙利/匈牙利||{{lang|hu|Magyarország}}||[[ブダペスト]] |- |{{flagicon|Iceland}} [[アイスランド]]||愛斯蘭/氷島/氷州/氷洲||{{lang|is|Ísland}}||[[レイキャヴィーク]] |- |{{flagicon|Ireland}} [[アイルランド]]||'''愛'''蘭/愛爾蘭||{{lang|ga|Éire}}/{{lang|en|Ireland}}||[[ダブリン]] |- |{{flagicon|Italy}} [[イタリア|イタリア共和国]]||'''伊'''太利/伊太利亜/義大利/意大利||{{lang|it|Italia}}||[[ローマ]] |- |{{flagicon|Latvia}} [[ラトビア|ラトビア共和国]]||拉脱維亜||{{lang|lv|Latvija}}||[[リガ]] |- |{{flagicon|Liechtenstein}} [[リヒテンシュタイン|リヒテンシュタイン侯国]]||列支敦士登||{{lang|de|Liechtenstein}}||[[ファドゥーツ]] |- |{{flagicon|Lithuania}} [[リトアニア|リトアニア共和国]]||立陶宛||{{lang|lt|Lietuva}}||[[ヴィリニュス]] |- |{{flagicon|Luxembourg}} [[ルクセンブルク|ルクセンブルク大公国]]||盧森堡||{{lang|fr|Luxembourg}}/{{lang|de|Luxemburg}}/{{lang|lb|Lëtzebuerg}}||[[ルクセンブルク市]] |- |{{flagicon|Malta}} [[マルタ|マルタ共和国]]||馬耳他||{{lang|mt|Malta}}||[[バレッタ]] |- |{{flagicon|Moldova}} [[モルドバ|モルドバ共和国]]||摩爾多瓦||{{lang|ro|Moldova}}||[[キシナウ]] |- |{{flagicon|Monaco}} [[モナコ|モナコ公国]]||摩納哥||{{lang|fr|Monaco}}||[[モナコ]] |- |{{flagicon|Montenegro}} [[モンテネグロ]]||黒山国/門的内哥羅||{{lang|se|Црна Гора}}/Crna Gora||[[ポドゴリツァ]] |- |{{flagicon|Netherlands}} [[オランダ|オランダ王国]]||和'''蘭'''/阿蘭陀/荷蘭/尼德蘭||{{lang|nl|Nederland}}||[[アムステルダム]] |- |{{flagicon|North Macedonia}} [[北マケドニア|北マケドニア共和国]]||北馬其頓||{{lang|mk|Северна Македонија}}||[[スコピエ]] |- |{{flagicon|Norway}} [[ノルウェー|ノルウェー王国]]||'''諾'''威/挪威||{{lang|no|Norge/Noreg}}||[[オスロ]] |- |{{flagicon|Poland}} [[ポーランド|ポーランド共和国]]||'''波'''蘭{{efn|[[ペルシア]]の漢字表記は「波斯」であり、略称は同じ「波」となる。ペルシアは国名としては[[イラン]]の古名だが、[[ペルシア語]]など、現在でも「ペルシア」の語を用いる名称が存在する。}}||{{lang|pl|Polska}}||[[ワルシャワ]] |- |{{flagicon|Portugal}} [[ポルトガル|ポルトガル共和国]]||'''葡'''萄牙||{{lang|pt|Portugal}}||[[リスボン]] |- |{{flagicon|Romania}} [[ルーマニア]]||'''羅'''馬尼亜{{efn|国名の由来でもある[[古代ローマ|ローマ]]の漢字表記は「羅馬」、またラテンの漢字表記は「羅甸」であり、略称は同じ「羅」となる。特に、言語の略称としては「羅」は通常[[ルーマニア語]]ではなく、[[ラテン語]]を意味する。}}||{{lang|ro|România}}||[[ブカレスト]] |- |{{flagicon|Russia}} [[ロシア|ロシア連邦]]||'''露'''西亜/俄羅斯/鄂羅斯/斡羅思|| {{lang|ro|Россия}}||[[モスクワ]] |- |{{flagicon|San Marino}} [[サンマリノ|サンマリノ共和国]]||聖馬力諾||{{Lang|it|San Marino}}||[[サンマリノ市]] |- |{{flagicon|Serbia}} [[セルビア|セルビア共和国]]||塞爾維/塞爾維亜||{{lang|sr|Србија}}/Srbija||[[ベオグラード]] |- |{{flagicon|Slovakia}} [[スロバキア|スロバキア共和国]]||斯洛伐克||{{lang|sk|Slovensko}}||[[ブラチスラヴァ]] |- |{{flagicon|Slovenia}} [[スロベニア|スロベニア共和国]]||斯洛文尼亜||{{lang|sl|Slovenija}}||[[リュブリャナ]] |- |{{flagicon|Spain}} [[スペイン|スペイン王国]]||'''西'''班牙/日斯巴尼亜||{{lang|es|España}}||[[マドリード]] |- |{{flagicon|Sweden}} [[スウェーデン|スウェーデン王国]]||'''瑞'''典{{efn|name="CH-SE"}}||{{lang|sv|Sverige}}||[[ストックホルム]] |- |{{flagicon|Switzerland}} [[スイス|スイス連邦]]||'''瑞'''西{{efn|name="CH-SE"|通常、スイスとスウェーデンの略称としてはともに「瑞」を使用する。ただし、重複を避け、スウェーデンの略称として「典」を使用する場合もある。}}/瑞士|| {{lang|de|Schweiz}}/{{lang|fr|Suisse}}/{{lang|it|Svizzera}}/{{lang|rm|Svizra}}/{{lang|la|Helvetia}}||[[ベルン]] |- |{{flagicon|Ukraine}} [[ウクライナ]]||烏克蘭/宇克蘭|| {{lang|uk|Україна}} ||[[キーウ]](キエフ) |- |{{flagicon|United Kingdom}} [[イギリス]]{{efn|正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」}}||'''英'''吉利||{{lang|en|United Kingdom}}||[[ロンドン]] |- |{{flagicon|Vatican}} [[バチカン|バチカン市国]]||和地関/梵蒂岡||{{lang|la|Status Civitatis Vaticanae}}/{{lang|it|Stato della Città del Vaticano}}||バチカン |} 以下に、場合によってはヨーロッパに分類されることがある地理的意味での[[アジア]]の国々を示す。 {| class="wikitable" |- ! 国名 !! 漢字表記!! 原語(公用語)表記 !! 首都 !! style="width:30%" | 備考 |- |{{flagicon|Armenia}} [[アルメニア|アルメニア共和国]]||亜'''美'''尼亜||{{lang|hy|Հայաստան}}||[[エレバン]]||[[コーカサス地方]]の国。[[欧州評議会]]加盟国。[[ヨーロッパオリンピック委員会]]・[[欧州サッカー連盟]]に所属。 |- |{{flagicon|Azerbaijan}} [[アゼルバイジャン|アゼルバイジャン共和国]] ||阿塞拜疆||{{lang|az|Azərbaycan}}||[[バクー]]||[[コーカサス地方]]の国。[[欧州評議会]]加盟国。[[ヨーロッパオリンピック委員会]]・[[欧州サッカー連盟]]に所属。 |- |{{flagicon|Cyprus}} [[キプロス|キプロス共和国]]||賽普勒斯/塞浦路斯||{{lang|el|Κύπρος}}/{{lang|tr|Kıbrıs}}||[[ニコシア]]||南部はギリシャ系、北部はトルコ系が実効支配中。[[欧州連合|ヨーロッパ連合]]加盟国。国連はキプロスを西アジアに分類<ref>{{cite web |url=http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm |title=United Nations Statistics Division- Standard Country and Area Codes Classifications (M49) |accessdate=2012-10-05}}</ref> |- |{{flagicon|Georgia}} [[ジョージア (国)|ジョージア]]||具琉耳/喬治亜||{{lang|ka|საქართველო}}||[[トビリシ]]||[[コーカサス地方]]の国。[[欧州評議会]]加盟国。[[ヨーロッパオリンピック委員会]]・[[欧州サッカー連盟]]に所属。 |- |{{flagicon|Israel}} [[イスラエル|イスラエル国]]||以色列||{{lang|he|מדינת ישראל}}||[[エルサレム]]||[[ヨーロッパオリンピック委員会]]・[[欧州サッカー連盟]]・[[欧州野球連盟]]に所属 |- |{{flagicon|Kazakhstan}} [[カザフスタン|カザフスタン共和国]]||哈薩克斯坦 ||{{lang|kk|Қазақстан}}/Казахстан||[[アスタナ]]||国土の西部がヨーロッパに属する。[[欧州サッカー連盟]]に所属 |- |{{flagicon|Turkey}} [[トルコ|トルコ共和国]]||'''土'''耳古/土耳其||{{lang|tr|Türkiye}}||[[アンカラ]]||[[バルカン半島]]から[[アナトリア半島]]に跨る。[[北大西洋条約機構]]加盟国。[[ヨーロッパオリンピック委員会]]・[[欧州サッカー連盟]]・[[欧州野球連盟]]に所属 |} 以下に、事実上独立した地域(国家の承認を得る事が少ない、またはない国)を示す。 {| class="wikitable" |- ! 国名 !! 漢字表記!! 原語(公用語)表記 !! 首都 !! 備考 |- |{{flagicon|Kosovo}} [[コソボ|コソボ共和国]]||科索沃|||{{lang|arm|Republika e Kosovës}}||[[プリシュティナ]] || [[セルビア]]からの独立を主張 |- |[[File:Transnistria State Flag.svg|border|25x20px]] [[沿ドニエストル共和国]]||德涅斯特河沿岸||{{lang|mol|Република Молдовеняскэ Нистрянэ}}||[[ティラスポリ]] || [[モルドバ]]からの独立を主張 |- |{{flagicon|South Ossetia}} [[南オセチア|南オセチア共和国]]||南奥塞梯||{{lang|oss|Хуссар Ирыстон}}||[[ツヒンヴァリ]]||[[ジョージア (国)|ジョージア]]からの独立を主張 |- |{{flagicon|Abkhazia}} [[アブハジア|アブハジア共和国]]||阿布哈茲||{{lang|abk|Аҧсны}}||[[スフミ]]||[[ジョージア (国)|ジョージア]]からの独立を主張 |- |[[File:Flag of the Turkish Republic of Northern Cyprus.svg|border|25x20px]] [[北キプロス・トルコ共和国]]||北賽普勒斯||{{lang|tur|Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti}}||[[レフコシャ]]||[[キプロス]]からの独立を主張 |- |{{flagicon|アルツァフ}} [[アルツァフ共和国]]||阿尔扎赫||{{lang|hy|Արցախի Հանրապետություն}}||[[ステパナケルト]]||[[アゼルバイジャン]]からの独立を主張 |} === 各国の位置 === {{ヨーロッパ地図}} == 気候 == [[File:Vegetation Europe.png|frame|ヨーロッパと周辺の[[生物群系]]: <br /> {{legend0|#9fd6c9|[[ツンドラ]]}} {{legend0|#a7bddb|{{仮リンク|高山ツンドラ|en|alpine tundra}}}} {{legend0|#006d64|[[タイガ]]}} {{legend0|#3c9798|{{仮リンク|山林 (生物群系)|en|montane forest|label=山林}}}} <br /> {{legend0|#a4e05d|{{仮リンク|温帯の広葉樹林|en|temperate broadleaf forest}}}} {{legend0|#907699|{{仮リンク|地中海性の森林|en|mediterranean forest}}}} {{legend0|#f7ec6f|{{仮リンク|温帯のステップ|en|temperate steppe}}}} {{legend0|#9b8447|[[ステップ気候]]}}]] ヨーロッパは概して[[偏西風]]が吹き付け、付近に北大西洋海流が流れるため、[[温帯]]気候領域にある。[[北大西洋海流]]が影響し、同緯度の他地域よりも温暖である<ref name=climate>{{cite web|url=http://www.worldbook.com/wb/Students?content_spotlight%2Fclimates%2Feuropean_climate|title=European Climate|work=World Book|accessdate=16 June 2008|publisher=World Book, Inc|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061109230709/http://www.worldbook.com/wb/Students?content_spotlight%2Fclimates%2Feuropean_climate|archivedate=2006年11月9日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。このような条件が働き、[[ナポリ]]の年間平均気温は16℃(60.8°F)であり、ほぼ同じ緯度にある[[ニューヨーク]]の12℃(53.6°F)よりも高い。ドイツのベルリンは、[[カナダ]]の[[カルガリー]]や[[ロシア]]のアジア大陸部の都市[[イルクーツク]]とほぼ同じ緯度にあるが、1月の平均気温はカルガリーより約8℃(15°F)、イルクーツクより22℃(40°F)ちかく高い<ref name=climate/>。<!-- 理科年表によると、1月の平均気温はベルリン(テンペルホーフ)が0.9°C (1981 - 2010) / -0.2°C (1961 - 1990)、イルクーツクは-17.7°C (1981 - 2010) / -19.1°C (1961 - 1990)で、温度差はどちらも20°C未満。英語版記事の出典元 https://web.archive.org/web/20061109230709/http://www.worldbook.com/wb/Students?content_spotlight/climates/european_climate に問題がありそうです(“almost 40 degrees F higher”という記述自体があやしいうえ、有効数字を考慮せずに摂氏に換算していると思われる)。 --> 細かな差異では、地中海沿岸は夏に亜熱帯気候的性格を現して雨量が極端に少なくなるのに対し、冬は温暖で雨も多い<ref name=masuda44 />。西ヨーロッパは海洋性気候の特徴を持ち、夏は涼しく冬は暖かい。季節による雨量の変化も少なくほぼ一定している<ref name=masuda47 />。これに対し東ヨーロッパは大陸性気候であり、夏は暑く冬は寒い。黒海沿岸を除き雨量は少なく、冬には多くの河川や湖沼が凍結する<ref name=masuda50 />。 == 植生 == [[File:Europe biogeography countries.svg|right|thumb|300px|ヨーロッパおよび周辺の[[生物地理学|生物地理分布]]]] [[File:Floristic regions in Europe (english).png|thumb|right|300px|ヨーロッパと隣接地域の植物区系。Wolfgang Frey and Rainer Lösch から。]] かつて、おそらくヨーロッパの80-90%は森林で覆われていた<ref>{{cite web|url=http://www.saveamericasforests.org/europages/history&geography.htm|title=History and geography|publisher=Save America's Forest Funds|accessdate=9 June 2008}}</ref>。その姿は今から1000年ほど前までは維持されていたと考えられる。[[花粉学]]研究結果によると、太古には[[ハシバミ]]類が主流であったが、時とともに[[ナラ]]、[[ニレ]]、[[シナノキ]]が繁り、5-6世紀頃には[[ブナ]]、ツノギ、[[モミ]]、[[ハリモミ]]類が優勢になった。10世紀末-11世紀頃にはこれらに[[シラカバ]]や[[クリ]]も加わり豊かな樹相を成していた。山岳地帯や北欧では[[ハリモミ]]類が、南ヨーロッパでは[[マツ]]類も見られた<ref name=Kimra128>[[#木村1989|木村 (1989)、pp.128-133 第二章 2.森の王国 千年前のヨーロッパ‐樹海]]</ref>。ただし乾燥した地中海沿岸では、古くから森林の発達は限定的であった<ref name=masuda47 />。東ヨーロッパでは北部こそ針葉樹林が広がっていたが、東南部は乾燥したステップ地帯が広がり木々の生長はあまり見込めなかった。黒海沿岸は肥沃な黒土域であり、古代から豊かな穀物収穫があげられていた<ref name=masuda50 />。 これらに変化が見られたのは12世紀後半以降、盛んに広まった[[羊]]の[[放牧]]による森林伐採と牧草地化である<ref name=masuda47 />。イギリスおよびイベリア半島で盛んになった季節的移動牧畜、そして11-13世紀頃に人口が急激に増えた影響から開墾や住居地化が広がった。樹木の種類にも人間の活動による選別が加わり、[[ドングリ]]など家畜飼料に使える[[種実類]]をもたらすナラ・ブナ・クリ類は[[木材]]用としても珍重されたが、これらに適さないマツは多くが伐採され、南欧のステップ化を促進した<ref name=Kimra128 />。現在ヨーロッパで多く見られる[[プラタナス]]や[[ポプラ]]などは、近年になって人間が植栽したものである<ref name=Kimra128 />。 == 政治 == {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパの政治|en|Politics of Europe}}}} ヨーロッパの現在の政治は、当該大陸内における歴史的な事案にまで遡ることが出来る面が強い。同様に、当該大陸内の地理や経済、各国の文化も現在のヨーロッパの政治構成に貢献している点が見受けられる<ref>{{Cite web|title=The EU - what it is and what it does |url=https://op.europa.eu/webpub/com/eu-what-it-is/en/|website=op.europa.eu|access-date=2023-07-07}}</ref>。 {{節スタブ}} == 経済 == [[File:Europe gdp map-1-.png|thumb|left|ヨーロッパおよび周辺諸国の一人あたり名目[[GDP]] (nominal)。2006年。]] {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパの経済|en|Economy of Europe}}}} 大陸という単位で見れば、ヨーロッパの経済規模は最も大きく、2008年の資産データでは32.7兆ドルと、北アメリカの27.1兆ドルを上回る<ref>{{cite web|last=Fineman |first=Josh |url=http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601085&sid=aL5a46f2RjVA |title=Bloomberg.com |publisher=Bloomberg.com |date=2009-09-15 |accessdate=2010-08-23}}</ref>。2009年においてもヨーロッパは、経済危機前の水準を上回る総資産総額37.1兆ドルという世界全資産の1/3を確保し、最も豊かな地域であり続けた<ref>{{cite web |url=http://www.pr-inside.com/global-wealth-stages-a-strong-comeback-r1942019.htm |title=Global Wealth Stages a Strong Comeback |publisher=Pr-inside.com |date=2010-06-10 |accessdate=2010-08-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110520174617/http://www.pr-inside.com/global-wealth-stages-a-strong-comeback-r1942019.htm |archivedate=2011年5月20日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 27か国で構成される欧州連合のうち16か国が共通[[通貨]]である[[ユーロ]]に移行し、世界一の単一経済統合地域を創設した。国別[[国内総生産|GDP]] (PPP) 比較では、世界の上位10か国中5か国がヨーロッパ諸国で占められた。『[[ザ・ワールド・ファクトブック]]』によると、ドイツが5位、イギリスが6位、ロシアが7位、フランスが8位、イタリアが10位にランクインした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2001rank.html|title=ザ・ワールド・ファクトブック – GDP (PPP)|date=15 July 2008|accessdate=19 July 2008|publisher=[[CIA]]}}</ref>。 ヨーロッパ内部では、一人あたりの国民所得に大きなばらつきがある。最も高いモナコは172,676USドル(2009年)、最も低いモルドバは1,631USドルに過ぎない<ref>http://databank.worldbank.org/ddp/home.do?Step=12&id=4&CNO=2</ref>。 == 言語・民族 == [[ファイル:Rectified Languages of Europe map.png|right|thumb|300px|ヨーロッパの言語地図]] === 言語 === ヨーロッパの言語はほとんどが[[インドヨーロッパ語族]]に属すが、一部は[[ウラル語族]]や[[カフカス諸語]]に属し、[[バスク語]]は孤立した言語である。 *[[インド・ヨーロッパ語族]] **[[ゲルマン語派]] :[[英語]]、[[オランダ語]]、[[ドイツ語]]、[[ルクセンブルク語]]、[[ノルウェー語]]、[[スウェーデン語]]、[[デンマーク語]]、[[アイスランド語]]、[[フェロー語]]など **[[イタリック語派]] :[[イタリア語]]、[[フランス語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[ルーマニア語]]、[[カタルーニャ語]]、[[ロマンシュ語]]など **[[ケルト語派]] :[[アイルランド語]]、[[ウェールズ語]]、[[スコットランド・ゲール語]]、[[マン島語]]など **[[スラブ語派]] :[[ロシア語]]、[[ベラルーシ語]]、[[ウクライナ語]]、[[チェコ語]]、[[スロバキア語]]、[[ブルガリア語]]、[[マケドニア語]]、[[スロベニア語]]、[[セルビア語]]、[[ボスニア語]]、[[クロアチア語]]、[[モンテネグロ語]]、[[ポーランド語]]など **[[バルト語派]] :[[ラトビア語]]、[[リトアニア語]] **[[ギリシャ語派]] :[[ギリシャ語]] **[[アルバニア語派]] :[[アルバニア語]] **[[アルメニア語派]] :[[アルメニア語]] **[[インド・イラン語派]] :[[オセット語]]、[[ロマ語]] *[[ウラル語族]] **[[フィン・ウゴル語派]] :[[フィンランド語]]、[[サーミ語]]、[[エストニア語]]、[[ハンガリー語]]など **[[サモエード語派]] :[[ネネツ語]] *[[コーカサス諸語]] :[[チェチェン語]]、[[グルジア語]]など *[[バスク語]]  *[[アフロ・アジア語族]] :[[マルタ語]] *[[アルタイ諸語]] **[[テュルク語族]] :[[トルコ語]]、[[アゼルバイジャン語]]、[[タタール語]]など **[[モンゴル語族]] :[[カルムイク語]] === 住民の遺伝子 === ヨーロッパ人は[[コーカソイド]]に属す。[[Y染色体ハプログループ]]は、西ヨーロッパを中心に[[ハプログループR1b (Y染色体)]]が最も高頻度にみられるほか、バルカン半島と北欧で[[ハプログループI (Y染色体)]]、東欧で[[ハプログループR1a (Y染色体)]]、北西ヨーロッパで[[ハプログループN (Y染色体)]]、南ヨーロッパで[[ハプログループE1b1b (Y染色体)]]が高頻度に見られる。 == 宗教 == [[File:Ramsau (ja).jpg|thumb|ドイツ、サンセバスチャンの{{仮リンク|ラムサウの教会|en|Ramsau bei Berchtesgaden}}。]] {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパの宗教|en|Religion in Europe}}}} 歴史的に、ヨーロッパの[[宗教]]は[[西洋美術史]]、文化、[[西洋哲学]]、[[EU法]]などに影響を及ぼした。ヨーロッパ主要の宗教は、[[カトリック]]、[[正教会]]、[[プロテスタント]]の3様式に分かれた[[キリスト教]]である。これに続き、東南ヨーロッパ(ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、コソボ、カザフスタン、北キプロス・トルコ共和国、トルコ、アゼルバイジャン)で主に信仰される[[イスラム教]]がある。その他、ユダヤ教、[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]などがあり、ロシアの[[カルムイク共和国]]ではチベット系仏教が主流である。一方で、ヨーロッパは比較的世俗的風潮が強いところでもあり、[[無宗教]]や[[不可知論]]、[[無神論]]を標榜する人々も西ヨーロッパを中心に増加傾向にあり、実際にチェコ、エストニア、スウェーデン、ドイツ(特に旧東ドイツ)、フランスなどで無宗教を表明している人の割合が高い<ref>{{Cite journal|last=Dogan|first=Mattei|year=1998|title=The Decline of Traditional Values in Western Europe|journal=International Journal of Comparative Sociology|publisher=Sage|volume=39|pages=77–90|doi=10.1177/002071529803900106|ref=harv}}</ref>。 == 統合 == [[File:OSCEcountries.PNG|thumb|right|400px|[[欧州安全保障協力機構]] (OSCE)]] [[File:EU CIS.PNG|thumb|right|400px|[[欧州連合]]と[[独立国家共同体]]]] {{Main|欧州統合}} 11世紀以降、ヨーロッパは各都市間および農村との間を繋ぐ交通網と経済交流が盛んに行われ、日用品や生活必需品までもの需要供給関係が確立していた。そして共通のラテン語を基盤とする普遍的文化に覆われていた。この統一的な状態を破壊したものが、近代的な国民国家の成立と言える。それぞれの国が個別の言語や法律などを以って政治的支配を施し、内政的には都市と農村の対立、外交的には分断された主義を原因とする争いが激化し、ヨーロッパの近代を「戦争の世紀」に陥らせた<ref name=Kimura15>[[#木村1989|木村 (1989)、pp.15-17、序説 第二の欧州の転換]]</ref>。 欧州統合は通貨・経済から、最終的には政治統合までを目指す活動であり、それは国民国家樹立以前の普遍的なヨーロッパを現代に復活させようという動きでもある。そして現代的視点からすれば、欧州統合は地方主義そして国民国家の緩やかな否定でもある。アメリカ合衆国と比肩する政治・経済共同体として国際的な立場を強化するという点もさる事ながら、思考的にも近代的な政治区画観念から脱却し、大陸主義に立脚したものへの転換を迫る意義を持つ<ref name=Kimura15 />。 {{clear}} == 科学技術 == {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパの科学技術|en|Science and technology in Europe}}}} {{節スタブ}} == メディア == {{節スタブ}} === テレビ === {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパのテレビ局一覧|en|List of European television stations}}}} === 無線 === {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパのラジオ局一覧|en|Lists of radio stations in Europe}}}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパの文化|en|Culture of Europe}}}} ヨーロッパにおける文化は多様で、数々の伝統をはじめ、料理や文学、哲学、音楽、美術や建築、映画に根ざしている面が多い。また、その範疇はこれらの枠のみに止まらず経済へも深い影響を及ぼしていて、上述の共同体の設立にも関連性を持ち合わせている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ヨーロッパード|de|Europeade|en|Europeade}}}} === 食文化 === {{Main|ヨーロッパ料理の一覧}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|欧州美食地域|en|European Region of Gastronomy}}}} === 文学 === {{Main|{{仮リンク|西洋文学|en|Western literature}}|{{仮リンク|西洋正典|en|Western canon}}}} {{節スタブ}} === 哲学 === {{also|西洋哲学}} === 美術 === {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパの美術|en|Art of Europe}}|西洋絵画}} {{節スタブ}} === 被服・服飾 === {{also|{{仮リンク|西洋ファッションの歴史|en|History of Western fashion}}}} {{節スタブ}} === 映画 === {{Main|{{仮リンク|ヨーロッパの映画|en|Cinema of Europe}}}} {{節スタブ}} == スポーツ == {{Main|ヨーロッパのスポーツ}} {{節スタブ}} ヨーロッパのスポーツの特徴は高度に組織化されていて多くの競技がプロフェッショナルリーグを持っているというところだ。今日世界的に知られるスポーツの多くはヨーロッパ(特にイギリス)の伝統的なスポーツに起源があり、これらが近代に整備されて誕生したものでありその伝統的なスポーツはヨーロッパで盛んだ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book |author= Bellamy, James A.B. |title=National Geographic Visual History of the World |publisher= [[ナショナルジオグラフィック協会]]|edition= |year=2005 |isbn=0-7922-3695-5|oclc=238891257|ref=National Geographic}} * {{Cite journal|title=The myth of continents: a critique of metageography| first=Martin W.|last= Lewis|first2= Kären|last2= Wigen|year= 1997|isbn= 0-520-20743-2|publisher=[[カリフォルニア大学]]出版局|ref=Lewis1997}} * {{Cite book|title= The Civilization of the Middle Ages |author={{仮リンク|ノーマン・カンター|en|Norman F. 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生物
生物(せいぶつ、英: life、独: Organismus、Lebewesen)は、無生物と区別される属性、つまり「生命」を備えているものの総称。そしてその「生命」とは、生物の本質的属性として生命観によって抽象されるものであり、その定義はなかなか難しいものとなっている。生き物(いきもの)とも。 「生命現象を示すもの」というのが一応の定義であるが、これ以外の定義も存在し、統一は困難であるとされる。生物が持ち、無生物が持たない能力や特徴としては「自己増殖能力」「エネルギー変換能力」「自己と外界との明確な隔離」が挙げられ、これに「進化する能力」を加えることも多い。また、生物は外界とのやりとりを絶やすことのない開放系を取りながら、恒常性(ホメオスタシス)を維持する能力を持ち、常に変化する。生物はすべて細胞を基礎としており、細胞によって構成されていないウイルスなども寄生する細胞がなくては増殖できない。 動物・菌類・植物・原生生物・古細菌・細菌などの総称。多くの場合ウイルスを含めないが、立場によっては含めることもある。なお、『岩波生物学辞典』ではウイルスは生物であるか断言できないとしている 。 現在生きている生物は少なくとも300万種、おそらくは1000万種に達するが、これらをその特徴に応じて大小の分類階級に所属させ、それによって生物を整理し秩序を与えることを分類という。分類階級のうち、次に掲げるものは必ず設置される(基本分類階級)。すなわち大きいほうから順に界、門、綱、目、科、属である。 歴史的に最も古くは生物は植物と動物からなるとした二界説(植物界、動物界)があり、その後の生物観の進展とともに、三界説、五界説、八界説などが登場した。一般によく知られる五界説ではモネラ界、原生生物界、植物界、菌界、動物界に分類する。しかし近年では分子系統学の成果を反映して、界よりさらに上位の枠組みとしてドメインが設けられており、細胞特性に従い生物全体を真核生物、細菌(バクテリア)、古細菌(アーキア)に分類する三ドメイン説が一般的になってきている。三ドメイン説においては、動物、植物、菌類、原生生物はすべて真核生物という単一のドメインに属する。一方、モネラ界は細菌および古細菌という2つの大きなドメインに分割される。見た目の大きさという点では、細菌および古細菌はすべて微生物であるため、真核生物と違って日常で目にすることはまずないが、生態の多様さという点では細菌および古細菌ドメインは真核生物よりはるかに大きい。 また近年では、真核生物が細菌および古細菌が融合して誕生したとする説が有力となりつつあり(参照: 真核生物#起源)、この場合、地球上には本来2つのドメイン(細菌と古細菌)しか存在しなかったことになる。ちなみに古細菌は、かつて細菌よりも起源が古い可能性が示唆されたため付けられた名前であるが、実際のところは、細菌と古細菌は両者とも同等に古い起源をもっている。 上でも説明したが地球上には少なくとも300万種の生物が生きていると言われており、それらの多様な生物の間には複雑な関係が成立している。たとえば寄生、共生などという関係があり、また動物が植物を食べるという関係や、ある生物が天敵に捕食される、というかなり直接的な関係もあり、ほかにもある生物が花粉を媒介する、といった関係もある。 こうして生物どうしは互いに「他の生物にとっての環境」となっている。これを <<生物的環境>> という。ある地域に共存している生物種の間ではさまざまな関係が成立しており、どの生物種に関しても、<<生物的環境>>つまり他のさまざまな生物との関係を分析してやっとその生活が理解できるようになる。 この生物相互の関係は、地球環境が変化するとともに変化してきた。そして生物が地球の環境にも影響を与えている(生物が地球の環境の影響を受け、また地球の環境を変化させていることは次節で解説)。 生物が現れる前は、二酸化炭素が多くを占める構成であったと推測されている。その温室効果によって地表の温度も高かった。 そんな状態だった地球上に、(諸説あるが)今から35~24億年前ころにシアノバクテリア(藍藻)が登場し、光合成を行うようになり、生み出した酸素を海水中へ放出しはじめ、地球上に大量の酸素が形成されるようになった。(地球における大量の酸素の出現は「大酸化イベント」という。開始した時期や活発化した時期に関しては諸説ある。「大酸化イベント」の記事にグラフも掲載。) 生物が出現し、特に光合成による有機物の生成(炭素固定)とそれに伴う(分子状)酸素の放出、生物由来の石灰岩の生成がなされた結果、今のような酸素が多く含まれた窒素主体の大気組成となった(ただし、大気組成の変化は生物だけによるものではない。地球の大気#地球大気の「進化」も参照のこと) また、酸素の多い大気になったことによって、オゾン層が形成され、生物にとって有害な宇宙線や紫外線の遮断がなされ、生物の陸上進出が可能になった。また、海水中の酸素が増えることによって、海水に溶け込んだ鉄が酸化鉄となって沈降し鉄鉱床を堆積させた。 2021年現在の地球の大気組成は、窒素が78%、酸素が21%、アルゴン0.93%、二酸化炭素が0.041%という構成になっている。 地球上の全ての生物の共通の祖先があり(原始生命体・共通祖先)、その子孫達が増殖し複製するにつれ遺伝子に様々な変異が生じることで進化がおきたとされている。結果、今日の生物多様性が生まれ、お互いの存在(他者)や地球環境に依存しながら、相互に複雑な関係で結ばれる生物圏を形成するにいたっている。ガイア理論(ガイア仮説)では、このような地球を「自己調節能力を持ったひとつの巨大な生命体」とみなした。 水、タンパク質、脂質、多糖、核酸は生物の主要な構成成分である。生きているという状態は、無数の化学反応の総和であるという見方もできる。これら化学反応がおこる場を提供しているのが水である。生物は水の特殊な物性に多くの事を依存しており、極めて重要でかつ主要な構成成分である。どの生物でも、体の約70%は水であり、その他の物質が30%ほどを占める。 タンパク質は量の上で多数を占める生体高分子である。20種類のアミノ酸が通常100 - 1000個重合してタンパク質となる。あるものは細胞を支える骨格となり、あるものは生体内化学反応の触媒となる(酵素)。 必要なタンパク質を必要な場所で産生するための情報を記録する生体高分子が核酸である。この情報は遺伝によって次の世代に引き継がれる。 ロバート・フックがコルクを顕微鏡観察して見出した小さな区画に小部屋(cell=細胞)と名付けたように、細胞とはある区画化された空間を指す。この区画をしているのが細胞膜であり、脂質がその主要な成分である。脂質はエネルギーとして効率が良く、また貯蔵するのによい物質でもある。 生物は区画された空間ではあるが、完全に外界から遮断されているわけではない。外部からエネルギーを取り入れ内部で消費し、化学反応で物質を作り出す。生物間でのエネルギーの流通に炭水化物(糖)は重要であり、主に植物が光合成によって生産している。 地球以外の天体に生物が発見された事例は記録されていない。しかし、地球のそれと同様の生物あるいは全く異なった性質の生物が地球以外の場所に存在する可能性は否定できない。太陽系内においても、火星には生命が存在する可能性が指摘されている。2018年7月には、イタリア国立宇宙物理学研究所などからなる国際天文学チームがマーズ・エクスプレスの観測データに基づき、「火星の南極の厚さ1.5kmの氷床の下に幅20kmにわたって水とみられる層が存在する」との論文を発表した。この地底湖は、液体の状態が維持されていると推測されている。研究チームは、「生命にとって厳しい環境ながら単細胞生物が生存している可能性がある」と述べている。 系外惑星としては、2007年に発見されたグリーゼ581cに生物が生存可能な環境の存在が期待されたことがある(その後の研究によるとこの天体はハビタブルゾーンの外にある)。2008年現在、太陽系外における地球型惑星の観測成果も少しずつあがってきている。 有機物以外を構成要素とする生物も想定される。このような仮想理論は「代わりの生化学」と呼ばれている。とくにケイ素は、炭素と同じ族に含まれ化学的性質も似ていることから、「代わりの生化学」のベースとして比較的頻繁に言及される(ケイ素生物)。 サイエンス・フィクションの世界では、ガス・電磁波から成る生物などが登場する。他に純粋知性、精神あるいは物質によらない意識が登場するが、現在のところ物質的な実体に依拠しない意識は確認されていない。また多くの宗教で霊と呼ばれる形態の生物の存在を想定している。
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生物は、無生物と区別される属性、つまり「生命」を備えているものの総称。そしてその「生命」とは、生物の本質的属性として生命観によって抽象されるものであり、その定義はなかなか難しいものとなっている。生き物(いきもの)とも。
{{redirect|生命体|星野源の楽曲|生命体 (曲)}} {{Otheruses|生きているもの全般を指す概念|なまものと読むときの概念|生鮮食品}} {{読み仮名_ruby不使用|'''生物'''|せいぶつ|{{lang-en-short|life}}、{{lang-de-short|Organismus}}、{{lang|de|Lebewesen}}{{Sfn|世界大百科事典|2007|p=413}}{{Sfn|岩波生物学辞典|1979|p=651}}}}は、無生物と区別される[[属性]]、つまり「[[生命]]」を備えているものの総称。そしてその「生命」とは、生物の本質的属性として生命観によって抽象されるものであり、その定義はなかなか難しいものとなっている{{Sfn|日本大百科全書|1987m|p=428}}。{{読み仮名_ruby不使用|'''生き物'''|いきもの}}とも。 == 定義 == [[ファイル:Nucleocapsids.png|thumb|200px|right|[[ウイルス]]が生物なのか非生物なのか、生命を持つのか持たないか、については議論がある。(左)正二十面体様 (中)らせん構造 (右)無人探査機のような形状の[[ファージ]]]] [[ファイル:Bifidobacterium adolescentis Gram.jpg|thumb|right|160px|[[ビフィズス菌]]]] [[File:Sunflower seedlings.jpg|thumb|right|160px|[[発芽]]した[[ひまわり]]]] 「生命現象を示すもの」{{Sfn|世界大百科事典|2007|p=413}}というのが一応の定義であるが、これ以外の定義も存在し、統一は困難であるとされる{{Sfn|高井|2018|p=148-149}}。生物が持ち、無生物が持たない能力や[[特徴]]としては「自己増殖能力」「エネルギー変換能力」「自己と外界との明確な隔離」が挙げられ、これに「[[進化]]する能力」を加えることも多い{{Sfn|小林|2013|p=11-12}}。また、生物は外界とのやりとりを絶やすことのない開放系を取りながら、[[恒常性]](ホメオスタシス)を維持する能力を持ち、常に変化する{{Sfn|亀井|2015|p=23}}。生物はすべて[[細胞]]を基礎としており、細胞によって構成されていないウイルスなども寄生する細胞がなくては増殖できない{{Sfn|亀井|2015|p=4}}。 動物・菌類・植物・原生生物・古細菌・細菌などの総称。多くの場合ウイルスを含めない<ref>{{Cite book|和書|author=山下修一(編著)|date=2011-06-10|title=植物ウイルス ―病原ウイルスの性状―|publisher=悠書館|page=v|isbn=978-4-903487-47-2}}</ref>が、立場によっては含めることもある{{Sfn|マルグリスetシュヴァルツ|1995|p=24}}<ref>{{Cite book|和書|editor=神谷茂, 錫谷達夫|others=中込治(監修)|date=2018-03-15|title=標準微生物学|edition=第13版第1刷|publisher=医学書院|page=322|isbn=978-4-260-03456-2}}</ref>。なお、『岩波生物学辞典』ではウイルスは生物であるか断言できないとしている{{Sfn|岩波生物学辞典|1979|p=81}} 。 == 生物の分類 == {{main|生物の分類}} 現在生きている生物は少なくとも300万種、おそらくは1000万種に達する{{Sfn|マルグリスetシュヴァルツ|1995|p=15}}が、これらをその特徴に応じて大小の分類階級に所属させ、それによって生物を整理し秩序を与えることを[[分類]]という{{Sfn|岩波生物学辞典|1979|p=1087}}。分類階級のうち、次に掲げるものは必ず設置される(基本分類階級)。すなわち大きいほうから順に[[界 (分類学)|界]]、[[門 (分類学)|門]]、[[綱 (分類学)|綱]]、[[目 (分類学)|目]]、[[科 (分類学)|科]]、[[属 (分類学)|属]]である{{Sfn|相見|2019|p=120}}。 歴史的に最も古くは生物は[[植物]]と[[動物]]からなるとした二界説(植物界、動物界){{Sfn|キャンベル|2007|p=596-597}}があり、その後の生物観の進展とともに、三界説、五界説、八界説<ref>{{cite journal|author=T. Cavalier-Smith|year=1993|title=Kingdom protozoa and its 18 phyla|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=57|issue=4|pages=953-994|doi=10.1128/mr.57.4.953-994.1993}}</ref>などが登場した。一般によく知られる[[五界説]]では[[モネラ界]]、[[原生生物]]界、[[植物]]界、[[菌類|菌界]]、[[動物]]界に分類する{{Sfn|マルグリスetシュヴァルツ|1995|p=7}}。しかし近年では[[分子系統学]]の成果を反映して、界よりさらに上位の枠組みとして[[ドメイン (分類学)|ドメイン]]が設けられており、細胞特性に従い生物全体を[[真核生物]]、[[細菌]](バクテリア)、[[古細菌]](アーキア)に分類する三ドメイン説が一般的になってきている<ref>{{Cite journal|author1=C. R. Woese|author2=O. Kandler|author3=M. L. Wheelis|year=1990|title=Towards a natural system of organisms: proposal for the domains Archaea, Bacteria, and Eucarya|journal=Proc Natl Acad Sci U S A|volume=87|issue=12|pages=4576–9|doi=10.1073/pnas.87.12.4576}}</ref>。三ドメイン説においては、動物、植物、菌類、原生生物はすべて真核生物という単一のドメインに属する。一方、モネラ界は細菌および古細菌という2つの大きなドメインに分割される。見た目の大きさという点では、細菌および古細菌はすべて[[微生物]]であるため、真核生物と違って日常で目にすることはまずないが、生態の多様さという点では細菌および古細菌ドメインは真核生物よりはるかに大きい。 また近年では、真核生物が細菌および古細菌が融合して誕生したとする説が有力となりつつあり(参照: [[真核生物#起源]])、この場合、地球上には本来2つのドメイン(細菌と古細菌)しか存在しなかったことになる。ちなみに古細菌は、かつて細菌よりも起源が古い可能性が示唆されたため付けられた名前であるが、実際のところは、細菌と古細菌は両者とも同等に古い起源をもっている。 == 生物相互の関係 == 上でも説明したが地球上には少なくとも300万種の生物が生きていると言われており、それらの多様な生物の間には複雑な関係が成立している。たとえば[[寄生]]、[[共生]]などという関係があり、また動物が植物を食べるという関係や、ある生物が天敵に[[捕食]]される、というかなり直接的な関係もあり、ほかにもある生物が[[花粉]]を[[媒介]]する、といった関係もある{{Sfn|日本大百科全書|1987m|p=428}}。 こうして生物どうしは互いに「他の生物にとっての環境」となっている。これを <<生物的環境>> という。ある地域に共存している生物種の間ではさまざまな関係が成立しており、どの生物種に関しても、<<生物的環境>>つまり他のさまざまな生物との関係を分析してやっとその生活が理解できるようになる{{Sfn|日本大百科全書|1987m|p=428}}。 この生物相互の関係は、地球環境が変化するとともに変化してきた。そして生物が地球の環境にも影響を与えている{{Sfn|日本大百科全書|1987m|p=428}}(生物が地球の環境の影響を受け、また地球の環境を変化させていることは次節で解説)。 {{Gallery|width=180px |Common_clownfish.jpg|[[共生]]関係にある[[クマノミ]]と[[イソギンチャク]] |Yellow-billed_Oxpecker_(Buphagus_africanus),_Masi_Mara.jpg|哺乳類の背中に乗ったり皮膚にぶらさがったりして、寄ってくる虫やダニを餌にする{{仮リンク|ウシツツキ|en|Oxpecker}}<ref>[https://okavangomoremi.web.fc2.com/1167/Oxpecker/Oxpecker.html]</ref>。哺乳類にとってもウシツツキがいてくれるとダニを除去できて好都合。 |Bees Collecting Pollen 2004-08-14.jpg|植物の[[蜜]]を集め、[[花粉]]を媒介する(身につけて動き回る)[[蜂]] |Zebras eating hay.jpg|草を食べる[[シマウマ]] |Lion Wildebeast Mara.JPG|草食獣を[[捕食]]する肉食獣 |Dionea in action.jpg|[[ハエトリグサ]]に捕食された[[ハナアブ]] }} == 生物と地球環境 == 生物が現れる前は、二酸化炭素が多くを占める構成であったと推測されている。その[[温室効果]]によって地表の温度も高かった。 [[ファイル:Stromatolites_in_Sharkbay.jpg|thumb|right|180px|今から数十億年前に地球上に[[シアノバクテリア]]が出現して[[光合成]]を行うようになったことで、はじめて大気中に酸素が放出されるようになった。シアノバクテリアは活動とともに層状の堆積物を残す。それを[[ストロマトライト]]という。写真はオーストラリア・シャーク湾で今も生きているストロマトライト。]] そんな状態だった地球上に、(諸説あるが)[[地球史年表#地球誕生 - 生命誕生|今から35~24億年前ころ]]に[[シアノバクテリア]]([[藍藻]])が登場し、[[光合成]]を行うようになり、生み出した酸素を海水中へ放出しはじめ、地球上に大量の酸素が形成されるようになった<ref>[http://www.museum.tohoku.ac.jp/exhibition_info/column/stromatolite.html 東北大学総合学術博物館、ストロマトライト]</ref><ref>[https://www.geolab.jp/science/2005/06/science-025.php 地層科学研究所、酸素を生み出す石-太古から生き続けるストロマトライトの話-]</ref>。(地球における大量の酸素の出現は「[[:en:Great_Oxidation_Event|大酸化イベント]]」という。開始した時期や活発化した時期に関しては諸説ある。「[[:en:Great_Oxidation_Event|大酸化イベント]]」の記事にグラフも掲載。)  生物が出現し、特に[[光合成]]による有機物の生成([[炭素固定]])とそれに伴う(分子状)酸素の放出、生物由来の[[石灰岩]]の生成がなされた結果、今のような酸素が多く含まれた窒素主体の大気組成となった(ただし、大気組成の変化は生物だけによるものではない。[[地球の大気#地球大気の「進化」]]も参照のこと)<ref>{{Cite journal|和書|author1=阿部豊|author2=田近英一|title=大気の進化|year=2007|publisher=日本気象学会|journal=天気|volume=54|issue=1|pages=7-8}}</ref> また、酸素の多い大気になったことによって、[[オゾン層]]が形成され、生物にとって有害な[[宇宙線]]や[[紫外線]]の遮断がなされ、生物の陸上進出が可能になった。また、海水中の酸素が増えることによって、海水に溶け込んだ鉄が[[酸化鉄]]となって沈降し[[縞状鉄鉱床|鉄鉱床]]を堆積させた{{Sfn|川上|2003|p=37}}。 2021年現在の[[地球の大気]]組成は、[[窒素]]が78%、[[酸素]]が21%、[[アルゴン]]0.93%、[[二酸化炭素]]が0.041%という構成になっている。 地球上の全ての生物の共通の祖先があり([[原始生命体]]・[[共通祖先]])、その子孫達が増殖し複製するにつれ[[遺伝子]]に様々な変異が生じることで[[進化]]がおきたとされている。結果、今日の[[生物多様性]]が生まれ、お互いの存在(他者)や地球環境に依存しながら、相互に複雑な関係で結ばれる[[生物圏]]を形成するにいたっている。[[ガイア理論]](ガイア仮説)では、このような地球を「自己調節能力を持ったひとつの巨大な生命体」とみなした<ref>{{Cite web|和書|url=https://archive.is/MVZD|title=ガイア仮説|website=eic.or.jp|publisher=一般財団法人環境イノベーション情報機構|date=2009-10-14|accessdate=2012-07-30}}</ref>。 == 生物を成り立たせる生体物質 == {{詳細記事|生体物質}} '''[[水]]'''、'''[[タンパク質]]'''、'''[[脂質]]'''、'''[[多糖]]'''、'''[[核酸]]'''は生物の主要な構成成分である{{Sfn|亀井|2015|p=3}}。生きているという状態は、無数の[[化学反応]]の総和であるという見方もできる。これら化学反応がおこる場を提供しているのが'''[[水]]'''である。生物は水の特殊な[[物性]]に多くの事を依存しており、極めて重要でかつ主要な構成成分である。どの生物でも、体の約70%は水であり、その他の物質が30%ほどを占める{{Sfn|亀井|2015|p=3}}。 '''[[タンパク質]]'''は量の上で多数を占める生体高分子である。20種類の[[アミノ酸]]が通常100 - 1000個重合してタンパク質となる。あるものは細胞を支える骨格となり、あるものは生体内化学反応の触媒となる([[酵素]]){{Sfn|分子細胞生物学|2019|p=5-6}}。 必要なタンパク質を必要な場所で産生するための情報を記録する生体高分子が'''[[核酸]]'''である。この情報は'''遺伝'''によって次の世代に引き継がれる{{Sfn|分子細胞生物学|2019|p=6-7}}。 [[ロバート・フック]]がコルクを顕微鏡観察して見出した小さな区画に小部屋(cell=細胞)と名付けたように、細胞とはある区画化された空間を指す。この区画をしているのが[[細胞膜]]であり、'''[[脂質]]'''がその主要な成分である。脂質は[[エネルギー]]として効率が良く{{Sfn|亀井|2015|p=206}}、また貯蔵するのによい物質でもある。 生物は区画された空間ではあるが、完全に外界から遮断されているわけではない。外部から[[エネルギー]]を取り入れ内部で消費し、化学反応で物質を作り出す{{Sfn|亀井|2015|p=23}}。生物間でのエネルギーの流通に'''[[炭水化物]](糖)'''は重要であり、主に[[植物]]が[[光合成]]によって生産している。 == 地球外生命体 == 地球以外の天体に生物が発見された事例は記録されていない。しかし、地球のそれと同様の生物あるいは全く異なった性質の生物が地球以外の場所に存在する可能性は否定できない。太陽系内においても、火星には生命が存在する可能性が指摘されている。2018年7月には、イタリア国立宇宙物理学研究所などからなる国際天文学チームが[[マーズ・エクスプレス]]の観測データに基づき、「[[アウストラレ高原|火星の南極]]の厚さ1.5kmの氷床の下に幅20kmにわたって水とみられる層が存在する」との論文を発表した。この[[湖沼|地底湖]]は、液体の状態が維持されていると推測されている。研究チームは、「生命にとって厳しい環境ながら単細胞生物が生存している可能性がある」と述べている<ref>{{Cite web|和書|author=浜田祥太郎|url=https://archive.is/7TzyL|title=火星、氷床の下に大量の水?「生命生き残れる環境」|website=asahi.com|date=2018-07-26|accessdate=2021-06-26}}</ref>。 系外惑星としては、[[2007年]]に発見された[[グリーゼ581c]]に生物が生存可能な環境の存在が期待されたことがある(その後の研究によるとこの天体はハビタブルゾーンの外にある)<ref>{{Cite journal|author=W. von Bloh|year=2007|title=The Habitability of Super -Earths in Gliese 581|journal=Astronomy and Astrophysics |volume=476|issue=3|pages=1365–1371|doi=10.1051/0004-6361:20077939}}</ref>。2008年現在、太陽系外における<ref group="注釈">木星型惑星だけでなく。</ref>地球型惑星の観測成果も少しずつあがってきている。 有機物以外を構成要素とする生物も想定される。このような仮想理論は「[[代わりの生化学]]」と呼ばれている。とくに[[ケイ素]]は、炭素と同じ族に含まれ化学的性質も似ていることから、「[[代わりの生化学]]」のベースとして比較的頻繁に言及される([[ケイ素生物]])<ref>{{Cite journal|author=Norman R. Pace|title=The universal nature of biochemistry|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America|volume=98|issue=3|pages=805–808|year=2001|doi=10.1073/pnas.98.3.805}}</ref>。 [[サイエンス・フィクション]]の世界では、ガス・電磁波から成る生物などが登場する。他に純粋知性、精神あるいは物質によらない意識が登場するが、現在のところ物質的な実体に依拠しない意識は確認されていない。また多くの宗教で[[霊]]と呼ばれる形態の生物の存在を想定している。 == ギャラリー == <gallery widths="150px" heights="150px" perrow="4"> ファイル:Blue Linckia Starfish.JPG|[[さんご礁]]、[[アオヒトデ]]、[[魚]] ファイル:Megaptera novaeangliae -Bar Harbor, Maine, USA-8d.jpg|[[鯨]] ファイル:Heringsschwarm.gif|同一方向に動く魚の群れ ファイル:Staphylococcus aureus 01.jpg|[[黄色ブドウ球菌]] File:Aspergillus fumigatus.jpg|寒天培地上で培養され、コロニーを形成した[[カビ]] </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|date=1987-01-01|title=日本大百科全書|volume=13|edition=初版第一刷|publisher=小学館|page=428|isbn=4-09-526013-0|ref={{SfnRef|日本大百科全書|1987m}} }} * {{Cite book|和書|date=2007-09-01|title=世界大百科事典|volume=15|edition=改訂版|publisher=平凡社|page=413|ref={{SfnRef|世界大百科事典|2007}} }} * {{Cite book|和書|editor=山田常雄, 前川文夫, 江上不二夫, 八杉竜一, 小関治男, 古谷雅樹, 日高敏隆|date=1979-10-25|title=岩波 生物学辞典 第2版|publisher=岩波書店|ref={{SfnRef|岩波生物学辞典|1979}} }} * {{Cite book|和書|author=木村資生|year=1988|title=生物進化を考える|publisher=岩波書店|series=岩波新書|ref={{SfnRef|木村|1988}}|isbn=4-00-430019-3}} * {{Cite book|和書|editor=高井研|date=2018-03-15|title=生命の起源はどこまでわかったか―深海と宇宙から迫る|publisher=岩波書店|ref={{SfnRef|高井|2018}}|isbn=978-4-00-006284-8}} * {{Cite book|和書|author=亀井碩哉|date=2015-09-24|title=ひとりでマスターする生化学|publisher=講談社|ref={{SfnRef|亀井|2015}}|isbn=978-4-06-153895-5}} * {{Cite book|和書|author=小林憲正|date=2013-05-20|title=生命の起源 宇宙・地球における化学進化|publisher=講談社|ref={{SfnRef|小林|2013}}|isbn=978-4-06-153144-4}} * {{Cite book|和書|author=相見滿|date=2019-03-20|title=分類と分類学:種は進化する|publisher=東海大学出版部|ref={{SfnRef|相見|2019}} |isbn=978-4-486-02161-2}} * {{Cite book|和書|author1=リン・マルグリス|author2=カーリーン・V・シュヴァルツ|translator=川島誠一郎, 根平邦人|date=1995-02-03 |title=図解・生物界ガイド 五つの王国|publisher=日経サイエンス社|ref={{SfnRef|マルグリスetシュヴァルツ|1995}} |isbn=4-532-06267-5}} * {{Cite book|和書|author=川上紳一|title=全地球凍結|publisher=集英社|series=集英社新書|year=2003|ref={{SfnRef|川上|2003}}|isbn=4-08-720209-7}} * {{Cite book|和書|author1=H. Lodish|author2=A. Berg|author3=C. A. Kaiser|author4=M. Krieger|coauthors=A. Bretscher, H. Ploegh, A. Amon, K. C. Martin|translator=榎森康文, 堅田利明, 須藤和夫, 富田泰輔, 仁科博史, 山本啓一|date=2019-12-06|title=分子細胞生物学 第8版|publisher=東京化学同人|ref={{SfnRef|分子細胞生物学|2019}}|isbn=978-4-8079-0976-6}} * {{Cite book|和書|author1=Neil A. Campbell|author2=Jane B. Reece|others=小林興(監訳)|title=キャンベル生物学|publisher=丸善|ref={{SfnRef|キャンベル|2007}} |date=2007-03-30|isbn=978-4-621-07836-5}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|生き物と自然|[[画像:Iriomote_cat_Stuffed_specimen.jpg|45px|Portal:生き物と自然]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|生物}} * [[生物学]]、[[生物の分類]] * [[無生物]] * [[伝説の生物一覧]] * [[Wikipedia:多数の言語版にあるが日本語版にない記事/生物]] == 外部リンク == {{wt|生物}} {{Commonscat|Organisms}} * {{Kotobank}} {{自然}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいふつ}} [[Category:生物|*]] [[Category:地球史]]
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コケ植物
コケ植物(コケしょくぶつ、英: bryophyte)とは、維管束を持たず、胞子散布を行う、単相(n)で有性の配偶体世代が優先する陸上植物の一群である。コケ類(コケるい)や蘚苔類(せんたいるい)、蘚苔植物(せんたいしょくぶつ)などともいう。日本では1665種程度、世界中でおよそ2万種ほどが記録されている。植物体(配偶体の本体)は、その形態により、葉と茎の区別がはっきりとした茎葉体および、区別が曖昧な葉状体に分けられる。 コケ植物は蘚類・苔類・ツノゴケ類の3群に大別される。初期の形態形質や化学成分を利用した古典的研究では単系統群であると考えられており、コケ植物門と門の階級に置かれた。その後分岐学的解析が進み、分岐順は諸説あったものの、維管束植物 Tracheophyta(または多胞子嚢植物 Polysporangiomorpha)の側系統群と考えられることが一般的になったため、3群が独立した門に置かれることが多くなった。初期の分子系統解析においてもその結果が支持されてきたが、陸上植物は分類群ごとにGCの割合が偏っていることが分かっており、間違った推定がなされていたと考えられている。データセットを増やした解析では、3群が再び単系統群としてまとまり、残りの現生陸上植物(維管束植物)と姉妹群をなすことが明らかになった。そのため、再びコケ植物をコケ植物門として扱う考えも提唱されている。 なお、「コケ」という日本語は元来、花を咲かさない小さな植物の総称であり、地衣類や藻類、藍藻類など(葉状植物 thallophyte)、時にはシダ植物や被子植物に対しても用いられる。文化的側面については苔を参照。 陸上植物は単相世代(多細胞配偶体)と複相世代(多細胞胞子体)の世代交代を行う、単複相世代交代型(haplodiplontic)の生活環を持っている。コケ植物の場合、核相は単相(n)の配偶体が優占し、複相(2n)の胞子体はこれに半寄生する。 コケ植物の配偶体は胞子が発芽してできた原糸体と、それが分化してできた配偶体の本体からなる。配偶体の本体は、種によって茎と葉の分化が明瞭な茎葉体(けいようたい、phyllid gametophore)もしくは明瞭でない葉状体(ようじょうたい、thalloid gametophore)の場合がある。茎葉体は全ての蘚類と苔類の一部がもち、葉状体は残りの苔類と全てのツノゴケ類が持っている。原糸体・茎葉体・葉状体いずれの体制であっても、維管束は分化しないが、蘚類の茎葉体にはハイドロームやレプトームと呼ばれる通導組織が分化することもある。 まず単相(n)の胞子体から胞子が放出されて発芽し、原糸体(げんしたい、protonema)と呼ばれる配偶体(2n)を形成する。蘚類の原糸体は、はじめ糸状の葉緑体をもつクロロネマ(chrolonema, feeding filament)になり、クロロネマはカウロネマ(caulonema, foraging filament)に分化する。カウロネマは分枝して、配偶体の本体(gametophore、茎葉体または葉状体)を分化する。蘚類の一部は、永存性の原糸体を持つものがある。苔類やツノゴケ類では、蘚類よりも発達が悪く、多くは細胞の塊となり、糸状のものでも枝分かれがほとんど見られない。葉状性の苔類の原糸体ははじめ2–7細胞の短い糸状で、その上に数から数十細胞の発芽板を生じ、その上に分化した頂端細胞から葉状体ができる。茎葉性の苔類では、まず糸状か塊状の原糸体ができ、細胞上に分化した頂端細胞から茎葉体ができる。 配偶体がある程度成長すると、その上に造卵器と造精器が形成され、それぞれ卵細胞と精子をつくる。雨などによって水に触れた時に、精子が泳ぎだし、造卵器の中で卵細胞と受精し受精卵(接合子)がつくられる。受精卵はその場で発生を始め、配偶体に栄養を依存する半寄生生活の状態で発達し、胞子体を形成する。 コケ植物の雌雄性は複雑であり、雌雄異株(しゆういしゅ、dioicous)のものと雌雄同株(しゆうどうしゅ、monoicous)のものとがみられる。雄植物と雌植物がはっきり分かれている雌雄異株では、1個体に造卵器だけを付ける雌と1個体に造精器を付ける雄が区別される。雌雄異株では普通雌雄のサイズはほぼ等大か、雌植物がやや大きい程度であるが、一部の種では雄個体の方が明らかに小形となる。蘚類のフクラゴケ Eumyurium sinicum などでは雌植物の上に矮雄が着生する。雌雄同株では、造卵器と造精器が同一個体上にできるが、その位置により複数の型が区別される。雌雄同苞の雌雄同株(synoicous)では、造卵器と造精器が同一苞葉中に混生し、蘚類の多くの種に見られる。異苞の雌雄同株(autoicous)では、1個体上の別々の苞葉にそれぞれ造精器と造卵器のみが包まれ、蘚類と苔類の多くの種に見られる。雌雄列立同株(しゆうれつりついしゅ、paroicous)では、造卵器と造精器が近接するが、造精器が雌苞葉のすぐ下にできて混じらない。苔類の多くの科と蘚類のスギゴケ科などの一部に見られる。 繁殖は、胞子によるもののほか、無性生殖として植物体の匍匐枝や脱落した葉より不定芽を出しての増殖を行う。無性生殖のために分化した器官である無性芽を作るものも知られて、蘚類や苔類で多くの型がある。ゼニゴケ類では、葉状体上に杯状体(はいじょうたい、cupule)と呼ばれる無性芽器を形成する。 胞子体は配偶体の2倍の遺伝子セットを持っているが、配偶体とは大きく形が異なっている。コケ植物の胞子体は分枝せず、先端に単一の胞子嚢(sporangium)を形成するとそれで成長を終了する。特にコケ植物の胞子嚢は蒴(さく、capsule)と呼ばれる。蒴の内部では減数分裂が行われ、単相の胞子が形成される。 ヒメツリガネゴケの胞子体ではクラス2 KNOX遺伝子が機能しており、これをノックアウトすると胞子体の発生が抑制され、配偶体になる。また、重複してできていた遺伝子のもう一方のクラス2 KNOX遺伝子は胞子体分裂組織の形成と維持に関与し、体制形成を調節している。 Puttick et al. (2018) による分子系統解析の結果、遺伝子ごとに系統推定を行いその結果を統合するコアレセント法および、全ての遺伝子の配列を繋げて解析を行うコンカテネイト法による様々な系統樹で、次のトポロジーを示すことが分かった。 なお、これ以前にも Nishiyama et al. (2004) の葉緑体ゲノムを用いた系統解析や、Cox et al. (2014) の葉緑体の蛋白質をコードする遺伝子の翻訳産物を用いた系統解析でも同様の結果が得られていた。また、その後の Sousa et al. (2018)、Li et al. (2020)、Harris et al. (2020) や Su et al. (2021) などの研究でもこれが正しいことが追認されている。 これまでには、コケ植物が側系統となる様々なトポロジーの系統樹が提唱されてきた。そのうち、2012年から2017年頃までは Chang & Graham (2011) による苔類が最基部で分岐して残りの群と姉妹群をなし、その中でもツノゴケ類と維管束植物が姉妹群をなして冠群を構成するとする考えが最もよく受け入れられてきた。 かつて、リンネの24綱分類ではシダやキノコ、海藻などとともに「隠花植物綱 Cryptogamia」に含められた。その後のアイヒラーの分類体系 (1883) においても、現在の種子植物を表す顕花植物に対置された隠花植物に、菌類と藻類からなる葉状植物 Thallophytaおよびシダ植物 Pteridophyta とともに含められた。アイヒラーの分類体系では、コケ植物は苔類 Hepaticae と蘚類 Musci の2綱が区別された。ギルバート・モーガン・スミスは1938年、隠花植物についての教科書を出版し、そこで用いられた分類体系は Smith system として知られている。この少し前からツノゴケ類が苔類と区別されるようになり、スミスの分類体系 (1955) や Proskauer (1957) では、コケ植物門 division Bryophyta は苔綱 Hepaticae、ツノゴケ綱 Anthocerotae、蘚綱 Musci の3つの綱に分けられた。今日でもコケ植物はその3系統に分けられている。 なお、コケ植物の造卵器はシダ植物の造卵器とよく似ているため、アドルフ・エングラーの植物分類体系などでは合わせて造卵器植物 Archegoniatae に含められた。 植物の学名は国際藻類・菌類・植物命名規約 (ICN, 2018) に基づいて規制されている。ICNでは学名の正式発表の日付についてその出発点を定めているが、コケ植物では分類群によって出発点となる日付が異なる。ミズゴケ科を除く蘚類については、Hedwig (1801) Species muscorum frondosorum に基づき、1801年1月1日をその出発点と定めている。また、ミズゴケ科、およびツノゴケ類を含む苔類については Linnaeus (1753) Species plantarum ed. 1 に基づき、1753年5月1日を出発点として定められている。ただし、属よりも上位の階級の分類群については、Jussieu (1789) Genera plantarum に基づき、1789年8月4日がその出発点とされる。また、化石植物に関しては他の植物と同様に1820年12月31日が出発点とされる。なお、は Sternberg の Flora der Vorwelt, Versuch 1: 1–24, t. 1–13. に基づいており、Schlotheim (1820) Petrefactenkunde はそれ以前に発表されたとみなされる。 近年の分類体系では、コケ植物が側系統であると考えられていたことを反映し、コケ植物に含まれる蘚類、苔類、ツノゴケ類のそれぞれを門の階級に置く分類が用いられてきた。例えば、Kenrick & Crane (1997)、Goffinet & Shaw (2008)、樋口 (2012)、海老原, 嶋村 & 田村 (2012)、Glime (2017) などが挙げられる。 Bryophyta Schimp. (1879) という学名がコケ植物全体に対しても、蘚類に対しても用いられてきたため、階級語尾を付した学名は扱いづらい。そのため、 Brent Mishler (2010) などは階級語尾を持たない伝統的な学名を好み、蘚類には Musci、苔類には Hepaticae、そしてツノゴケ類には Anthocerotae を用いた。 Sousa et al. (2018) では、コケ植物の単系統性が明らかになった今、蘚類、苔類、ツノゴケ類を以前のように綱に降格すべきであると論じた。この場合、コケ植物の内部系統とその階級は以下のようになる。 以下は Goffinet & Shaw (2008) を基にした樋口 (2012)、かつ Crandall-Stotler et al. (2009)(苔類)、Goffinet et al. (2008)(蘚類)および Renzaglia et al. (2008)(ツノゴケ類)を基にした 海老原, 嶋村 & 田村 (2012) に基づく。3門をまとめたコケ植物に階級を与える場合、亜界に置き Bryobiotina とすることもある。 全てのコケ植物が持つ共有派生形質は胞子体が退縮し、配偶体に半寄生することである。 また、全てではないものの、複数の群にわたって共有している形質がある。ツノゴケ類と蘚類では植物体の端部以外にも介在分裂組織と呼ばれる分裂組織ができ、苔類にはないものの、最節約的にはコケ植物の共通祖先で獲得されたと考えられる共有派生形質である。介在分裂組織は胞子嚢とあしとの間の柄に形成され、胞子嚢を造卵器の上方に押し出すように分裂を行っている。コケ植物以外でも、トクサ類の節や裸子植物ウェルウィッチアの葉基部、単子葉植物の茎の節や葉の基部にも介在分裂組織は見られ、陸上植物の共通祖先で獲得したとも考えられる。 苔類とツノゴケ類は弾糸(だんし、elater)を持っており、胞子形成細胞が体細胞分裂することで胞子母細胞とともに弾糸細胞が形成される。ツノゴケ類は基部で分岐し、苔類も持っていることから、コケ植物の共有派生形質だと考えられるが、派生的な群であるキノボリツノゴケ属およびアナナシツノゴケ属といったキノボリツノゴケ科を除くツノゴケ類は螺旋状肥厚を持たない偽弾糸であり、コケ植物の共通祖先は弾糸を持たず、苔類の共通祖先とキノボリツノゴケ属で平行進化したとも推定される。 有柄胞子体植物として姉妹群をなす蘚類と苔類は類似した特有の鞭毛装置を形成する。 他の形質についてはそれぞれの群で同じ形質も異なる形質も持っている。以下、主に嶋村 (2012:3) に基づき、3群の形態を比較する。 ツノゴケ類では、葉状体から柄と胞子嚢の境界が外形ではわからないツノ状の胞子体をもつ。これは、介在分裂組織の分裂活性が蘚類よりも長く続き、同じ太さの組織が形成されるためである。また、細胞内に葉緑体を1–2個しか持たない単色素体性で、葉緑体に藻類とツノゴケ類にしか見られないピレノイドを持つことが大きな特徴である。葉状体内にはシアノバクテリアが共生している。 また、陸上植物の中でツノゴケ類の造精器の形態は特異である。ほとんどの現生陸上植物では、造精器嚢の最外層の細胞は外界と接しており、前維管束植物でも造精器は組織の上に突出していたが、ツノゴケ類の造精器は周りの組織中に形成される。造卵器も他の陸上植物とは異なり、頸の最先端の細胞が表皮細胞上に突出しない。 苔類の共有派生形質は葉身細胞中に油体(ゆたい、oil body)と呼ばれる、膜で包まれた細胞小器官を持つことであり、他の陸上植物には見られない。 苔類の配偶体は茎葉体であることも葉状体であることもあり、伝統的に、茎葉性苔類と葉状性苔類の2つの群が区別されてきた。また、葉状性の苔類には葉状体内部に気室などの組織分化がみられる複雑葉状性苔類と、組織分化が少ない単純葉状性苔類が細分されてきた。しかし分子系統解析によりこれらの群は系統を反映していないことが明らかになり、現在ではコマチゴケ綱、ゼニゴケ綱、ツボミゴケ綱の3群に再編されている。茎葉性苔類と単純葉状性苔類は1つのクレードにまとまり、茎葉性苔類の中から複数回、単純葉状性への体制の進化が起こったことが分かっている。コマチゴケ綱は茎葉性を持ち、中でもトロイブゴケ亜綱(トロイブゴケ科からなる単型亜綱)は茎葉体と葉状体の中間的な形態を持つ。ゼニゴケ綱は葉状体のみからなる群である。中でも複雑葉状性の体制が典型的であるが、2種からなるウスバゼニゴケ亜綱では例外的に単純葉状性の体制を持つ。苔類の大半を含むツボミゴケ綱は直立する茎葉性や匍匐する茎葉性、単純葉状性など多様な形態を持つ。うちツボミゴケ亜綱は茎葉性の体制がほとんどであるが、ミズゼニゴケ亜綱およびフタマタゴケ亜綱は単純葉状性を持つものが多い。 最基部で分岐したコマチゴケ綱は、造卵器や造精器を保護する葉的器官や、仮根を形成せず、葉を付けない根茎で基物に取り付く。こういった形質は原始的な形態であると考えられている。苔類の共通祖先がコマチゴケ綱のような茎葉性であったとすると、葉状性苔類は茎葉性苔類から進化したことになる。葉状性苔類の腹側にある鱗片は茎葉体の葉と同様の発生過程によって生じるため、葉が縮小したものであると考えられる。 蘚類は全てが茎葉性の体制を持ち、多くは螺旋状に葉 (phyllid) をつける。また、仮根は多細胞で分枝する。 蘚類のほとんどはマゴケ綱に含まれ、残りの群は蘚類の進化の初期に分岐した遺存的な分類群であると考えられている。多くの群は蒴の頂端に蓋(蒴蓋)が分化しており、蒴から蓋が分離すると蒴の開口部の内側に細長い歯状の構造物である蒴歯(さくし、peristome)が並ぶ。蘚類は胞子体の蒴歯の構造により、無関節蒴歯蘚類と有関節蒴歯蘚類に大別される。有関節蒴歯蘚類は単系統群であるが、無関節蒴歯蘚類は側系統となる。スギゴケ綱は無関節蒴歯(むかんせつさくし、nematodontous peristome)を、マゴケ綱は有関節蒴歯(ゆうかんせつさくし、arthrodontous peristome)を持ち、それらと蒴歯を持たないイシヅチゴケ Oedipodium griffithianum 1種からなるイシヅチゴケ綱が姉妹群となる。 2種からなるナンジャモンジャゴケ綱は葉が棒状で、葉を付けない根茎状シュートを持ち、仮根を形成しない。また造卵器と造精器が裸出し、胞子嚢が斜めに裂開することも他の蘚類と異なる形質であり、かつては苔類とも考えられていた。ミズゴケ綱およびクロゴケ綱は蒴柄がなく、配偶体組織が伸長した偽柄(ぎへい、または偽足、pseudopodium)によって胞子体が持ち上げられる。クロマゴケ綱はクロゴケ綱とよく似るが、蒴柄を持つ。 コケ植物は海水中および氷雪上以外の、地球上のあらゆる表層に生息している。基本的には陸上生活をするが、少ないながら淡水中に生育するものもいる。生育する基質としては、土や腐植土、岩上、他の植物体(樹皮、葉の表面、樹枝)などが多い。 温帯および熱帯の各地において、様々な環境で種多様性の程度に大きな差異がないことが分かっている。少なくともコケ植物では熱帯に種多様性が偏在しておらず、コケ植物は "Everything is everywhere"「あらゆるものがあらゆるところにいる」 であると評される。また、同じ地域でも高山と低山では種構成が大きく異なる。高山におけるコケ植物の生育限界線をコケ線(moss-line)という。乾燥への適応を持つ種もあり、苛烈な環境を好む種も知られている。 蘚類および苔類は植物群落内の地表面のごく近くに蘚苔層(または コケ層、moss layer)を作る。やや多湿の森林の最下層や水湿地などに発達し、リターが厚く積もらない岩上や倒木上に形成され、樹木の実生が定着する場となる。地表付近を生活の場とする昆虫類など小動物に富む。 森林に生活する種が多いが、岩場や渓流、滝の周辺などにも多くの種が見られる。特に年中空中湿度の高い雲霧林には、林床だけでなく樹幹や枝にまで大量のコケが着生する例があり、蘚苔林(または コケ林、mossy forest, moss forest)とも呼ばれる。畑地にはハタケゴケ Riccia bifruca、水田など淡水中にもそれぞれイチョウウキゴケ Ricciocarpus natans およびウキゴケ(カズノゴケ)Riccia fluitans など独特のものが見られ、市街地でもいくつかの種が生育している。例えば、ヒジキゴケ Hedwigia ciliata は石垣などの岩上に直接生える。 ミズゴケ類などのコケ植物が多く生育する湿性草原はコケ湿原(moss moor)と呼ばれる。特にミズゴケ類が豊富に繁茂する湿原をミズゴケ湿原(Sphagnum bog, Sphagnum moor, sphagniherbosa)といい、その中でも地下水ではなく雨水によるものを Sphagnoplatum という。また、カナダの森林内にあるミズゴケ湿原は muskey と呼ばれる。ミズゴケ類は泥炭地沼、高層湿原に多く生息し、多量の水分を蓄えるため乾燥にも耐え得る。高層湿原の土壌は腐植酸や不飽和コロイドにより酸性化しており、水酸化物イオンを嫌うミズゴケ類が中央部によく生育するため、泥炭化が進んで盛り上がることで高層となる。また、北極圏のツンドラ地帯は広大な地域がコケ植物と地衣類に覆われており、やや湿った場所にコケツンドラ(moss-tundra, moss heath)が発達する。ミズゴケ類はその優占種となる。 非常に特殊な生育環境の種も存在し、被子植物や大葉シダ植物の葉上にはカビゴケ Leptolejeunea elliptica やヨウジョウゴケ Cololejeunea goebelii のような生葉上苔類(せいようじょうたいるい、epiphyllous liverworts)が生育する。マルダイゴケ Tetraplodon mnioides などは動物の糞や死体にのみ生育する糞生種である。ホソモンジゴケ Scopelophila cataractae は高い耐銅性を示す。また、淡水中に生育する種の中には、ナシゴケ属 Leptobryum のように南極の湖底に生息しコケ坊主(コケボウズ、moss pillars)を形成するものもある。 コケ植物の化石記録は非常に少なく、限られている。これまで報告されている化石記録の多くは、胞子化石や表皮の断片であり、植物体全体がそのまま保存されていることは少ない。これはコケ植物が当時存在していなかったからではなく、リグニンを持たない軟らかい体で、化石として保存されにくいためであると考えられている。オルドビス紀やシルル紀の地層から見つかる胞子化石は系統が不明な点も多いが、四集粒胞子 permannt tetrad の存在は減数分裂を伴った世代交代を行う陸上植物の存在を示唆している。 従来、苔類が陸上植物の最基部で分岐したのではないかと推定されており、基部系統は共通祖先に似た形質を持っている可能性があるため、陸上植物の共通祖先は苔類様の植物だと考えられてきた。また、陸上植物の進化において細胞壁が二次肥厚する仮道管および道管の獲得や分枝する胞子体の獲得が重要であったと考えられており、コケ植物はそれらを持っていないことからもその仮説の証拠となっていた。しかし、前維管束植物は仮道管ではなくハイドロームを持っているため、これが陸上植物の共通祖先だと考えられることもある。ただし、現生のコケ植物と形態的に類似していない化石は真のコケ植物であってもコケ植物として認識されていな可能性が高い。 コケ植物の化石は小葉植物や大葉シダ植物の祖先群よりも後の時代の地層から見つかっていることもあり、最初の陸上植物は二又分枝する胞子体からなるシダ植物段階のテローム植物で、コケ植物の単純な体制はその退化によって生じたものであるとする退行進化仮説が提唱されている。モデル植物である蘚類のヒメツリガネゴケにおいて、クロマチン修飾を担うポリコーム抑制複合体2の構成蛋白質をコードする pPCLF 遺伝子を欠失させると胞子体幹細胞の寿命が長くなり分枝する胞子体を形成することはこの仮説と調和的である。 コケ植物の可能性がある最古の大型化石は、約4億2000万年前のトルチリカウリス Tortilicaulis transwalliensis D.Edwards (1979) で、胞子嚢が柄についたコケのような植物である。しかし、コケ植物とは異なり胞子体が同等二又分枝を行うため、Kenrick & Crane (1997) の分岐系統解析からは前維管束植物であると考えられている。 確実な大型化石の一つに後期デボン紀の苔類、パラビキニテス Pallaviciniites (syn. Hepaticites) がある。現在では、最古の苔類は中期デボン紀の地層から見つかっているツボミゴケ綱の Metzgeriothallus sharonae Hernick, Landing & Bartowski (2008) であるとされる。はっきりと現在のコケ植物と断定できる化石はシルル紀から見つかっており、現生の葉状性苔類と基本的に類似した構造が備わっている。 前期デボン紀の約4億1000万年前の地層からは、扁平な組織から分枝しない胞子体が多数生えたスポロゴニテス Sporogonites exuberans Halle (1916) が見つかっており、仮道管が見つからず、胞子嚢が胞子体先端に形成され、軸柱の周りに胞子ができる。それらの特徴は蘚類と比較され、蘚類の系統ではないかと考えられている。 琥珀中に見つかる新生代以降の化石はほぼすべてが現生属に分類可能で、現生種そのものに比定できるものすらある。このことは、コケ植物の形態分化の速度が見かけ上非常に遅いことを示唆する。 コケ植物が実用的に用いられる例としては、圧倒的にミズゴケ類が重要である。日本ではその分布が多くないが、ヨーロッパではごく普通にあり、生きたものは園芸用の培養土としてほとんど他に換えがない。他に乾燥させて荷作りの詰め物とし、またかつては脱脂綿代わりにも使われた。またそれが枯死して炭化したものは泥炭と呼ばれ、燃料などとしても利用された。 日本には1665種程度のコケ植物が分布しており、そのうち200種以上が絶滅の危機に瀕しているといわれている。日本では庭園や鉢植えに利用される。日本では、古くより蘚苔類は身近なものであり、多くの和歌の中で詠われている。現在、ミズゴケ類やシラガゴケ類、スギゴケ類、ツルゴケ、ハイゴケなど多数のコケ植物が園芸用・観賞用として栽培、販売されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "コケ植物(コケしょくぶつ、英: bryophyte)とは、維管束を持たず、胞子散布を行う、単相(n)で有性の配偶体世代が優先する陸上植物の一群である。コケ類(コケるい)や蘚苔類(せんたいるい)、蘚苔植物(せんたいしょくぶつ)などともいう。日本では1665種程度、世界中でおよそ2万種ほどが記録されている。植物体(配偶体の本体)は、その形態により、葉と茎の区別がはっきりとした茎葉体および、区別が曖昧な葉状体に分けられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "コケ植物は蘚類・苔類・ツノゴケ類の3群に大別される。初期の形態形質や化学成分を利用した古典的研究では単系統群であると考えられており、コケ植物門と門の階級に置かれた。その後分岐学的解析が進み、分岐順は諸説あったものの、維管束植物 Tracheophyta(または多胞子嚢植物 Polysporangiomorpha)の側系統群と考えられることが一般的になったため、3群が独立した門に置かれることが多くなった。初期の分子系統解析においてもその結果が支持されてきたが、陸上植物は分類群ごとにGCの割合が偏っていることが分かっており、間違った推定がなされていたと考えられている。データセットを増やした解析では、3群が再び単系統群としてまとまり、残りの現生陸上植物(維管束植物)と姉妹群をなすことが明らかになった。そのため、再びコケ植物をコケ植物門として扱う考えも提唱されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、「コケ」という日本語は元来、花を咲かさない小さな植物の総称であり、地衣類や藻類、藍藻類など(葉状植物 thallophyte)、時にはシダ植物や被子植物に対しても用いられる。文化的側面については苔を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "陸上植物は単相世代(多細胞配偶体)と複相世代(多細胞胞子体)の世代交代を行う、単複相世代交代型(haplodiplontic)の生活環を持っている。コケ植物の場合、核相は単相(n)の配偶体が優占し、複相(2n)の胞子体はこれに半寄生する。", "title": "生活環" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "コケ植物の配偶体は胞子が発芽してできた原糸体と、それが分化してできた配偶体の本体からなる。配偶体の本体は、種によって茎と葉の分化が明瞭な茎葉体(けいようたい、phyllid gametophore)もしくは明瞭でない葉状体(ようじょうたい、thalloid gametophore)の場合がある。茎葉体は全ての蘚類と苔類の一部がもち、葉状体は残りの苔類と全てのツノゴケ類が持っている。原糸体・茎葉体・葉状体いずれの体制であっても、維管束は分化しないが、蘚類の茎葉体にはハイドロームやレプトームと呼ばれる通導組織が分化することもある。", "title": "生活環" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "まず単相(n)の胞子体から胞子が放出されて発芽し、原糸体(げんしたい、protonema)と呼ばれる配偶体(2n)を形成する。蘚類の原糸体は、はじめ糸状の葉緑体をもつクロロネマ(chrolonema, feeding filament)になり、クロロネマはカウロネマ(caulonema, foraging filament)に分化する。カウロネマは分枝して、配偶体の本体(gametophore、茎葉体または葉状体)を分化する。蘚類の一部は、永存性の原糸体を持つものがある。苔類やツノゴケ類では、蘚類よりも発達が悪く、多くは細胞の塊となり、糸状のものでも枝分かれがほとんど見られない。葉状性の苔類の原糸体ははじめ2–7細胞の短い糸状で、その上に数から数十細胞の発芽板を生じ、その上に分化した頂端細胞から葉状体ができる。茎葉性の苔類では、まず糸状か塊状の原糸体ができ、細胞上に分化した頂端細胞から茎葉体ができる。", "title": "生活環" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "配偶体がある程度成長すると、その上に造卵器と造精器が形成され、それぞれ卵細胞と精子をつくる。雨などによって水に触れた時に、精子が泳ぎだし、造卵器の中で卵細胞と受精し受精卵(接合子)がつくられる。受精卵はその場で発生を始め、配偶体に栄養を依存する半寄生生活の状態で発達し、胞子体を形成する。", "title": "生活環" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "コケ植物の雌雄性は複雑であり、雌雄異株(しゆういしゅ、dioicous)のものと雌雄同株(しゆうどうしゅ、monoicous)のものとがみられる。雄植物と雌植物がはっきり分かれている雌雄異株では、1個体に造卵器だけを付ける雌と1個体に造精器を付ける雄が区別される。雌雄異株では普通雌雄のサイズはほぼ等大か、雌植物がやや大きい程度であるが、一部の種では雄個体の方が明らかに小形となる。蘚類のフクラゴケ Eumyurium sinicum などでは雌植物の上に矮雄が着生する。雌雄同株では、造卵器と造精器が同一個体上にできるが、その位置により複数の型が区別される。雌雄同苞の雌雄同株(synoicous)では、造卵器と造精器が同一苞葉中に混生し、蘚類の多くの種に見られる。異苞の雌雄同株(autoicous)では、1個体上の別々の苞葉にそれぞれ造精器と造卵器のみが包まれ、蘚類と苔類の多くの種に見られる。雌雄列立同株(しゆうれつりついしゅ、paroicous)では、造卵器と造精器が近接するが、造精器が雌苞葉のすぐ下にできて混じらない。苔類の多くの科と蘚類のスギゴケ科などの一部に見られる。", "title": "生活環" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "繁殖は、胞子によるもののほか、無性生殖として植物体の匍匐枝や脱落した葉より不定芽を出しての増殖を行う。無性生殖のために分化した器官である無性芽を作るものも知られて、蘚類や苔類で多くの型がある。ゼニゴケ類では、葉状体上に杯状体(はいじょうたい、cupule)と呼ばれる無性芽器を形成する。", "title": "生活環" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "胞子体は配偶体の2倍の遺伝子セットを持っているが、配偶体とは大きく形が異なっている。コケ植物の胞子体は分枝せず、先端に単一の胞子嚢(sporangium)を形成するとそれで成長を終了する。特にコケ植物の胞子嚢は蒴(さく、capsule)と呼ばれる。蒴の内部では減数分裂が行われ、単相の胞子が形成される。", "title": "生活環" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ヒメツリガネゴケの胞子体ではクラス2 KNOX遺伝子が機能しており、これをノックアウトすると胞子体の発生が抑制され、配偶体になる。また、重複してできていた遺伝子のもう一方のクラス2 KNOX遺伝子は胞子体分裂組織の形成と維持に関与し、体制形成を調節している。", "title": "生活環" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "Puttick et al. (2018) による分子系統解析の結果、遺伝子ごとに系統推定を行いその結果を統合するコアレセント法および、全ての遺伝子の配列を繋げて解析を行うコンカテネイト法による様々な系統樹で、次のトポロジーを示すことが分かった。", "title": "系統関係" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、これ以前にも Nishiyama et al. (2004) の葉緑体ゲノムを用いた系統解析や、Cox et al. (2014) の葉緑体の蛋白質をコードする遺伝子の翻訳産物を用いた系統解析でも同様の結果が得られていた。また、その後の Sousa et al. (2018)、Li et al. (2020)、Harris et al. (2020) や Su et al. (2021) などの研究でもこれが正しいことが追認されている。", "title": "系統関係" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "これまでには、コケ植物が側系統となる様々なトポロジーの系統樹が提唱されてきた。そのうち、2012年から2017年頃までは Chang & Graham (2011) による苔類が最基部で分岐して残りの群と姉妹群をなし、その中でもツノゴケ類と維管束植物が姉妹群をなして冠群を構成するとする考えが最もよく受け入れられてきた。", "title": "系統関係" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "かつて、リンネの24綱分類ではシダやキノコ、海藻などとともに「隠花植物綱 Cryptogamia」に含められた。その後のアイヒラーの分類体系 (1883) においても、現在の種子植物を表す顕花植物に対置された隠花植物に、菌類と藻類からなる葉状植物 Thallophytaおよびシダ植物 Pteridophyta とともに含められた。アイヒラーの分類体系では、コケ植物は苔類 Hepaticae と蘚類 Musci の2綱が区別された。ギルバート・モーガン・スミスは1938年、隠花植物についての教科書を出版し、そこで用いられた分類体系は Smith system として知られている。この少し前からツノゴケ類が苔類と区別されるようになり、スミスの分類体系 (1955) や Proskauer (1957) では、コケ植物門 division Bryophyta は苔綱 Hepaticae、ツノゴケ綱 Anthocerotae、蘚綱 Musci の3つの綱に分けられた。今日でもコケ植物はその3系統に分けられている。", "title": "分類史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお、コケ植物の造卵器はシダ植物の造卵器とよく似ているため、アドルフ・エングラーの植物分類体系などでは合わせて造卵器植物 Archegoniatae に含められた。", "title": "分類史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "植物の学名は国際藻類・菌類・植物命名規約 (ICN, 2018) に基づいて規制されている。ICNでは学名の正式発表の日付についてその出発点を定めているが、コケ植物では分類群によって出発点となる日付が異なる。ミズゴケ科を除く蘚類については、Hedwig (1801) Species muscorum frondosorum に基づき、1801年1月1日をその出発点と定めている。また、ミズゴケ科、およびツノゴケ類を含む苔類については Linnaeus (1753) Species plantarum ed. 1 に基づき、1753年5月1日を出発点として定められている。ただし、属よりも上位の階級の分類群については、Jussieu (1789) Genera plantarum に基づき、1789年8月4日がその出発点とされる。また、化石植物に関しては他の植物と同様に1820年12月31日が出発点とされる。なお、は Sternberg の Flora der Vorwelt, Versuch 1: 1–24, t. 1–13. に基づいており、Schlotheim (1820) Petrefactenkunde はそれ以前に発表されたとみなされる。", "title": "分類史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "近年の分類体系では、コケ植物が側系統であると考えられていたことを反映し、コケ植物に含まれる蘚類、苔類、ツノゴケ類のそれぞれを門の階級に置く分類が用いられてきた。例えば、Kenrick & Crane (1997)、Goffinet & Shaw (2008)、樋口 (2012)、海老原, 嶋村 & 田村 (2012)、Glime (2017) などが挙げられる。", "title": "下位分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Bryophyta Schimp. (1879) という学名がコケ植物全体に対しても、蘚類に対しても用いられてきたため、階級語尾を付した学名は扱いづらい。そのため、 Brent Mishler (2010) などは階級語尾を持たない伝統的な学名を好み、蘚類には Musci、苔類には Hepaticae、そしてツノゴケ類には Anthocerotae を用いた。", "title": "下位分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Sousa et al. (2018) では、コケ植物の単系統性が明らかになった今、蘚類、苔類、ツノゴケ類を以前のように綱に降格すべきであると論じた。この場合、コケ植物の内部系統とその階級は以下のようになる。", "title": "下位分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "以下は Goffinet & Shaw (2008) を基にした樋口 (2012)、かつ Crandall-Stotler et al. (2009)(苔類)、Goffinet et al. (2008)(蘚類)および Renzaglia et al. (2008)(ツノゴケ類)を基にした 海老原, 嶋村 & 田村 (2012) に基づく。3門をまとめたコケ植物に階級を与える場合、亜界に置き Bryobiotina とすることもある。", "title": "下位分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "全てのコケ植物が持つ共有派生形質は胞子体が退縮し、配偶体に半寄生することである。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、全てではないものの、複数の群にわたって共有している形質がある。ツノゴケ類と蘚類では植物体の端部以外にも介在分裂組織と呼ばれる分裂組織ができ、苔類にはないものの、最節約的にはコケ植物の共通祖先で獲得されたと考えられる共有派生形質である。介在分裂組織は胞子嚢とあしとの間の柄に形成され、胞子嚢を造卵器の上方に押し出すように分裂を行っている。コケ植物以外でも、トクサ類の節や裸子植物ウェルウィッチアの葉基部、単子葉植物の茎の節や葉の基部にも介在分裂組織は見られ、陸上植物の共通祖先で獲得したとも考えられる。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "苔類とツノゴケ類は弾糸(だんし、elater)を持っており、胞子形成細胞が体細胞分裂することで胞子母細胞とともに弾糸細胞が形成される。ツノゴケ類は基部で分岐し、苔類も持っていることから、コケ植物の共有派生形質だと考えられるが、派生的な群であるキノボリツノゴケ属およびアナナシツノゴケ属といったキノボリツノゴケ科を除くツノゴケ類は螺旋状肥厚を持たない偽弾糸であり、コケ植物の共通祖先は弾糸を持たず、苔類の共通祖先とキノボリツノゴケ属で平行進化したとも推定される。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "有柄胞子体植物として姉妹群をなす蘚類と苔類は類似した特有の鞭毛装置を形成する。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "他の形質についてはそれぞれの群で同じ形質も異なる形質も持っている。以下、主に嶋村 (2012:3) に基づき、3群の形態を比較する。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ツノゴケ類では、葉状体から柄と胞子嚢の境界が外形ではわからないツノ状の胞子体をもつ。これは、介在分裂組織の分裂活性が蘚類よりも長く続き、同じ太さの組織が形成されるためである。また、細胞内に葉緑体を1–2個しか持たない単色素体性で、葉緑体に藻類とツノゴケ類にしか見られないピレノイドを持つことが大きな特徴である。葉状体内にはシアノバクテリアが共生している。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、陸上植物の中でツノゴケ類の造精器の形態は特異である。ほとんどの現生陸上植物では、造精器嚢の最外層の細胞は外界と接しており、前維管束植物でも造精器は組織の上に突出していたが、ツノゴケ類の造精器は周りの組織中に形成される。造卵器も他の陸上植物とは異なり、頸の最先端の細胞が表皮細胞上に突出しない。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "苔類の共有派生形質は葉身細胞中に油体(ゆたい、oil body)と呼ばれる、膜で包まれた細胞小器官を持つことであり、他の陸上植物には見られない。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "苔類の配偶体は茎葉体であることも葉状体であることもあり、伝統的に、茎葉性苔類と葉状性苔類の2つの群が区別されてきた。また、葉状性の苔類には葉状体内部に気室などの組織分化がみられる複雑葉状性苔類と、組織分化が少ない単純葉状性苔類が細分されてきた。しかし分子系統解析によりこれらの群は系統を反映していないことが明らかになり、現在ではコマチゴケ綱、ゼニゴケ綱、ツボミゴケ綱の3群に再編されている。茎葉性苔類と単純葉状性苔類は1つのクレードにまとまり、茎葉性苔類の中から複数回、単純葉状性への体制の進化が起こったことが分かっている。コマチゴケ綱は茎葉性を持ち、中でもトロイブゴケ亜綱(トロイブゴケ科からなる単型亜綱)は茎葉体と葉状体の中間的な形態を持つ。ゼニゴケ綱は葉状体のみからなる群である。中でも複雑葉状性の体制が典型的であるが、2種からなるウスバゼニゴケ亜綱では例外的に単純葉状性の体制を持つ。苔類の大半を含むツボミゴケ綱は直立する茎葉性や匍匐する茎葉性、単純葉状性など多様な形態を持つ。うちツボミゴケ亜綱は茎葉性の体制がほとんどであるが、ミズゼニゴケ亜綱およびフタマタゴケ亜綱は単純葉状性を持つものが多い。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "最基部で分岐したコマチゴケ綱は、造卵器や造精器を保護する葉的器官や、仮根を形成せず、葉を付けない根茎で基物に取り付く。こういった形質は原始的な形態であると考えられている。苔類の共通祖先がコマチゴケ綱のような茎葉性であったとすると、葉状性苔類は茎葉性苔類から進化したことになる。葉状性苔類の腹側にある鱗片は茎葉体の葉と同様の発生過程によって生じるため、葉が縮小したものであると考えられる。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "蘚類は全てが茎葉性の体制を持ち、多くは螺旋状に葉 (phyllid) をつける。また、仮根は多細胞で分枝する。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "蘚類のほとんどはマゴケ綱に含まれ、残りの群は蘚類の進化の初期に分岐した遺存的な分類群であると考えられている。多くの群は蒴の頂端に蓋(蒴蓋)が分化しており、蒴から蓋が分離すると蒴の開口部の内側に細長い歯状の構造物である蒴歯(さくし、peristome)が並ぶ。蘚類は胞子体の蒴歯の構造により、無関節蒴歯蘚類と有関節蒴歯蘚類に大別される。有関節蒴歯蘚類は単系統群であるが、無関節蒴歯蘚類は側系統となる。スギゴケ綱は無関節蒴歯(むかんせつさくし、nematodontous peristome)を、マゴケ綱は有関節蒴歯(ゆうかんせつさくし、arthrodontous peristome)を持ち、それらと蒴歯を持たないイシヅチゴケ Oedipodium griffithianum 1種からなるイシヅチゴケ綱が姉妹群となる。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2種からなるナンジャモンジャゴケ綱は葉が棒状で、葉を付けない根茎状シュートを持ち、仮根を形成しない。また造卵器と造精器が裸出し、胞子嚢が斜めに裂開することも他の蘚類と異なる形質であり、かつては苔類とも考えられていた。ミズゴケ綱およびクロゴケ綱は蒴柄がなく、配偶体組織が伸長した偽柄(ぎへい、または偽足、pseudopodium)によって胞子体が持ち上げられる。クロマゴケ綱はクロゴケ綱とよく似るが、蒴柄を持つ。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "コケ植物は海水中および氷雪上以外の、地球上のあらゆる表層に生息している。基本的には陸上生活をするが、少ないながら淡水中に生育するものもいる。生育する基質としては、土や腐植土、岩上、他の植物体(樹皮、葉の表面、樹枝)などが多い。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "温帯および熱帯の各地において、様々な環境で種多様性の程度に大きな差異がないことが分かっている。少なくともコケ植物では熱帯に種多様性が偏在しておらず、コケ植物は \"Everything is everywhere\"「あらゆるものがあらゆるところにいる」 であると評される。また、同じ地域でも高山と低山では種構成が大きく異なる。高山におけるコケ植物の生育限界線をコケ線(moss-line)という。乾燥への適応を持つ種もあり、苛烈な環境を好む種も知られている。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "蘚類および苔類は植物群落内の地表面のごく近くに蘚苔層(または コケ層、moss layer)を作る。やや多湿の森林の最下層や水湿地などに発達し、リターが厚く積もらない岩上や倒木上に形成され、樹木の実生が定着する場となる。地表付近を生活の場とする昆虫類など小動物に富む。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "森林に生活する種が多いが、岩場や渓流、滝の周辺などにも多くの種が見られる。特に年中空中湿度の高い雲霧林には、林床だけでなく樹幹や枝にまで大量のコケが着生する例があり、蘚苔林(または コケ林、mossy forest, moss forest)とも呼ばれる。畑地にはハタケゴケ Riccia bifruca、水田など淡水中にもそれぞれイチョウウキゴケ Ricciocarpus natans およびウキゴケ(カズノゴケ)Riccia fluitans など独特のものが見られ、市街地でもいくつかの種が生育している。例えば、ヒジキゴケ Hedwigia ciliata は石垣などの岩上に直接生える。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ミズゴケ類などのコケ植物が多く生育する湿性草原はコケ湿原(moss moor)と呼ばれる。特にミズゴケ類が豊富に繁茂する湿原をミズゴケ湿原(Sphagnum bog, Sphagnum moor, sphagniherbosa)といい、その中でも地下水ではなく雨水によるものを Sphagnoplatum という。また、カナダの森林内にあるミズゴケ湿原は muskey と呼ばれる。ミズゴケ類は泥炭地沼、高層湿原に多く生息し、多量の水分を蓄えるため乾燥にも耐え得る。高層湿原の土壌は腐植酸や不飽和コロイドにより酸性化しており、水酸化物イオンを嫌うミズゴケ類が中央部によく生育するため、泥炭化が進んで盛り上がることで高層となる。また、北極圏のツンドラ地帯は広大な地域がコケ植物と地衣類に覆われており、やや湿った場所にコケツンドラ(moss-tundra, moss heath)が発達する。ミズゴケ類はその優占種となる。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "非常に特殊な生育環境の種も存在し、被子植物や大葉シダ植物の葉上にはカビゴケ Leptolejeunea elliptica やヨウジョウゴケ Cololejeunea goebelii のような生葉上苔類(せいようじょうたいるい、epiphyllous liverworts)が生育する。マルダイゴケ Tetraplodon mnioides などは動物の糞や死体にのみ生育する糞生種である。ホソモンジゴケ Scopelophila cataractae は高い耐銅性を示す。また、淡水中に生育する種の中には、ナシゴケ属 Leptobryum のように南極の湖底に生息しコケ坊主(コケボウズ、moss pillars)を形成するものもある。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "コケ植物の化石記録は非常に少なく、限られている。これまで報告されている化石記録の多くは、胞子化石や表皮の断片であり、植物体全体がそのまま保存されていることは少ない。これはコケ植物が当時存在していなかったからではなく、リグニンを持たない軟らかい体で、化石として保存されにくいためであると考えられている。オルドビス紀やシルル紀の地層から見つかる胞子化石は系統が不明な点も多いが、四集粒胞子 permannt tetrad の存在は減数分裂を伴った世代交代を行う陸上植物の存在を示唆している。", "title": "進化と化石記録" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "従来、苔類が陸上植物の最基部で分岐したのではないかと推定されており、基部系統は共通祖先に似た形質を持っている可能性があるため、陸上植物の共通祖先は苔類様の植物だと考えられてきた。また、陸上植物の進化において細胞壁が二次肥厚する仮道管および道管の獲得や分枝する胞子体の獲得が重要であったと考えられており、コケ植物はそれらを持っていないことからもその仮説の証拠となっていた。しかし、前維管束植物は仮道管ではなくハイドロームを持っているため、これが陸上植物の共通祖先だと考えられることもある。ただし、現生のコケ植物と形態的に類似していない化石は真のコケ植物であってもコケ植物として認識されていな可能性が高い。", "title": "進化と化石記録" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "コケ植物の化石は小葉植物や大葉シダ植物の祖先群よりも後の時代の地層から見つかっていることもあり、最初の陸上植物は二又分枝する胞子体からなるシダ植物段階のテローム植物で、コケ植物の単純な体制はその退化によって生じたものであるとする退行進化仮説が提唱されている。モデル植物である蘚類のヒメツリガネゴケにおいて、クロマチン修飾を担うポリコーム抑制複合体2の構成蛋白質をコードする pPCLF 遺伝子を欠失させると胞子体幹細胞の寿命が長くなり分枝する胞子体を形成することはこの仮説と調和的である。", "title": "進化と化石記録" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "コケ植物の可能性がある最古の大型化石は、約4億2000万年前のトルチリカウリス Tortilicaulis transwalliensis D.Edwards (1979) で、胞子嚢が柄についたコケのような植物である。しかし、コケ植物とは異なり胞子体が同等二又分枝を行うため、Kenrick & Crane (1997) の分岐系統解析からは前維管束植物であると考えられている。", "title": "進化と化石記録" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "確実な大型化石の一つに後期デボン紀の苔類、パラビキニテス Pallaviciniites (syn. Hepaticites) がある。現在では、最古の苔類は中期デボン紀の地層から見つかっているツボミゴケ綱の Metzgeriothallus sharonae Hernick, Landing & Bartowski (2008) であるとされる。はっきりと現在のコケ植物と断定できる化石はシルル紀から見つかっており、現生の葉状性苔類と基本的に類似した構造が備わっている。", "title": "進化と化石記録" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "前期デボン紀の約4億1000万年前の地層からは、扁平な組織から分枝しない胞子体が多数生えたスポロゴニテス Sporogonites exuberans Halle (1916) が見つかっており、仮道管が見つからず、胞子嚢が胞子体先端に形成され、軸柱の周りに胞子ができる。それらの特徴は蘚類と比較され、蘚類の系統ではないかと考えられている。", "title": "進化と化石記録" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "琥珀中に見つかる新生代以降の化石はほぼすべてが現生属に分類可能で、現生種そのものに比定できるものすらある。このことは、コケ植物の形態分化の速度が見かけ上非常に遅いことを示唆する。", "title": "進化と化石記録" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "コケ植物が実用的に用いられる例としては、圧倒的にミズゴケ類が重要である。日本ではその分布が多くないが、ヨーロッパではごく普通にあり、生きたものは園芸用の培養土としてほとんど他に換えがない。他に乾燥させて荷作りの詰め物とし、またかつては脱脂綿代わりにも使われた。またそれが枯死して炭化したものは泥炭と呼ばれ、燃料などとしても利用された。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日本には1665種程度のコケ植物が分布しており、そのうち200種以上が絶滅の危機に瀕しているといわれている。日本では庭園や鉢植えに利用される。日本では、古くより蘚苔類は身近なものであり、多くの和歌の中で詠われている。現在、ミズゴケ類やシラガゴケ類、スギゴケ類、ツルゴケ、ハイゴケなど多数のコケ植物が園芸用・観賞用として栽培、販売されている。", "title": "利用" } ]
コケ植物とは、維管束を持たず、胞子散布を行う、単相(n)で有性の配偶体世代が優先する陸上植物の一群である。コケ類(コケるい)や蘚苔類(せんたいるい)、蘚苔植物(せんたいしょくぶつ)などともいう。日本では1665種程度、世界中でおよそ2万種ほどが記録されている。植物体(配偶体の本体)は、その形態により、葉と茎の区別がはっきりとした茎葉体および、区別が曖昧な葉状体に分けられる。 コケ植物は蘚類・苔類・ツノゴケ類の3群に大別される。初期の形態形質や化学成分を利用した古典的研究では単系統群であると考えられており、コケ植物門と門の階級に置かれた。その後分岐学的解析が進み、分岐順は諸説あったものの、維管束植物 Tracheophytaの側系統群と考えられることが一般的になったため、3群が独立した門に置かれることが多くなった。初期の分子系統解析においてもその結果が支持されてきたが、陸上植物は分類群ごとにGCの割合が偏っていることが分かっており、間違った推定がなされていたと考えられている。データセットを増やした解析では、3群が再び単系統群としてまとまり、残りの現生陸上植物(維管束植物)と姉妹群をなすことが明らかになった。そのため、再びコケ植物をコケ植物門として扱う考えも提唱されている。 なお、「コケ」という日本語は元来、花を咲かさない小さな植物の総称であり、地衣類や藻類、藍藻類など、時にはシダ植物や被子植物に対しても用いられる。文化的側面については苔を参照。
{{Otheruses|非維管束で胞子散布を行うなどの特徴を持つ陸上植物|その中の[[分類群]]である苔類(たいるい)|苔類|自然言語の概念としての苔類(こけるい)|苔}} {{生物分類表 |名称 = コケ植物 |色 = lightgreen |画像= [[File:Polytrichum commune.jpeg|300px|ウマスギゴケ]] |画像キャプション = [[ウマスギゴケ]] {{snamei||Polytrichum commune}}([[蘚類]]) |画像2 = [[File:Marchantia polymorpha 184927896.jpg|300px|ゼニゴケ]] |画像キャプション2 = [[ゼニゴケ]] {{snamei||Marchantia polymorpha}}([[苔類]]) |ドメイン = [[真核生物]] {{sname|Eukaryota}} |界 = [[植物界]] {{Sname|Plantae}} <br />[[アーケプラスチダ]] {{sname||Archaeplastida}} |亜界 = [[緑色植物亜界]] {{sname||Viridiplantae}} |亜界階級なし={{生物分類表/階級なし複数 |[[ストレプト植物]] {{Sname||Streptophyta}} |[[陸上植物]] {{sname||Embryophyta}} <br />({{sname|Embryobiota}}) |'''コケ植物''' {{Sname|Bryobiotina}}{{Sfn|Glime|2017|p=212}} }} |学名 = {{Sname|Bryobiotina}} {{AUY|Doweld|2001|bio=bot}}<ref>{{Cite web|url=https://www.gbif.org/species/121295910|website=[[GBIF]]|title=Bryobiotina Doweld, 2001|accessdate=2023-07-26}}</ref> |シノニム = * {{sname||Bryophyta}} {{AUY|Schimp.|1879|bio=bot}}{{Sfn|Sousa ''et al.''|2018|pp=565–575}} {{AU|s.l.}} |下位分類名 = [[門 (分類学)|門]] |下位分類 = * [[有柄胞子体植物]] {{sname||Setaphyta}} ** [[蘚類]] {{sname||Bryophyta}} ** [[苔類]] {{sname||Marchantiophyta}} * [[ツノゴケ類]] {{sname||Anthocerotophyta}} }} '''コケ植物'''(コケしょくぶつ、{{lang-en-short|[[:w:Bryophyte|bryophyte]]}})とは、[[維管束]]を持たず、[[胞子]]散布を行う、[[核相|単相]]({{math|n}})で[[有性]]の[[配偶体]]世代が優先する[[陸上植物]]の一群である{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=473d}}{{Sfn|長谷部|2020|p=103}}。'''コケ類'''{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=473d}}(コケるい)や'''蘚苔類'''{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=473d}}(せんたいるい)、'''蘚苔植物'''{{Sfn|岩月|2001|p=10}}(せんたいしょくぶつ)などともいう。日本では1665[[種 (分類学)|種]]程度{{Sfn|岩月|2001|p=10}}、世界中でおよそ2万種ほどが記録されている{{Sfn|嶋村|2012|p=1}}。植物体(配偶体の本体)は、その形態により、葉と茎の区別がはっきりとした'''[[茎葉体]]'''および、区別が曖昧な'''[[葉状体]]'''に分けられる{{Sfn|嶋村|2012|p=2}}。 コケ植物は'''[[蘚類]]'''・'''[[苔類]]'''・'''[[ツノゴケ類]]'''の3群に大別される{{Sfn|長谷部|2020|p=103}}。初期の形態形質や化学成分を利用した古典的研究では単系統群であると考えられており{{Sfn|坪田|2012|p=23}}、'''コケ植物門'''と[[門 (分類学)|門]]の[[階級 (生物学)|階級]]に置かれた{{Sfn|井上|1975b|p=135}}。その後[[分岐学]]的解析が進み、分岐順は諸説あったものの、[[維管束植物]] {{sname||Tracheophyta}}(または[[多胞子嚢植物]] {{sname||Polysporangiomorpha}}{{Efn|多胞子嚢植物は維管束植物とのその[[基幹群]]である[[前維管束植物]]や[[リニア類]]の一部などの[[化石植物]]を加えた単系統群である。}})の[[側系統群]]と考えられることが一般的になったため{{Sfn|坪田|2012|p=23}}、3群が独立した門に置かれることが多くなった{{Sfn|坪田|2012|p=24}}。初期の分子系統解析においてもその結果が支持されてきたが{{Sfn|坪田|2012|p=23}}{{Sfn|長谷部|2020|p=68}}、陸上植物は分類群ごとに[[グアニン|G]][[シトシン|C]]の割合が偏っていることが分かっており、間違った推定がなされていたと考えられている{{Sfn|長谷部|2020|p=68}}。データセットを増やした解析では、3群が再び'''[[単系統群]]'''としてまとまり、残りの現生[[陸上植物]]([[維管束植物]])と[[姉妹群]]をなすことが明らかになった{{Sfn|Puttick ''et al.''|2018|pp=733–745}}{{Sfn|長谷部|2020|p=69}}。そのため、再びコケ植物をコケ植物門として扱う考えも提唱されている{{Sfn|Sousa ''et al.''|2018|pp=565–575}}。 なお、「'''[[コケ]]'''」という日本語は元来、[[花]]を咲かさない小さな[[植物]]の総称であり、[[地衣類]]や[[藻類]]、[[藍藻類]]など([[葉状植物]] {{lang|en|thallophyte}}{{Sfn|井上|1975a|p=3}})、時には[[シダ植物]]や[[被子植物]]に対しても用いられる{{Sfn|岩月|2001|p=10}}。文化的側面については[[苔]]を参照。 == 生活環 == {{multiple image |direction = horizontal |align = center |total_width = 1000 |title=各系統の体制 |image1=Polytrichum formosum anatomy en.svg |caption1=蘚類<hr />calyptra: 帽、capsule: 蒴、annulus: 口環、operculum:蓋、spores: 胞子、seta: 蒴柄、leaves: 葉、stem: 茎、rhizoids:仮根 |image2=Liverwort life cycle.jpg |caption2=苔類<hr />archegonium: 造卵器、egg: 卵細胞、sperm: 精細胞、embryo: 胚、mature sporophyte: 成熟した胞子体、seta: 蒴柄、spores: 胞子、rhizoids: 仮根、antheridia: 造精器、female gametophyte: 雌性配偶体、male gametophyte: 雄性配偶体、thallus: 葉状体、gemma cup: 無性芽器 |image3=Hornwort life cycle.svg |caption3=ツノゴケ類<hr />protonema: 原糸体、antheridium: 造精器、sperm: 精細胞、archegonium: 造卵器、egg: 卵細胞、sporophyte: 胞子体、gametophyte plant: 配偶体、rhizoids: 仮根、columella: 軸柱、pseudoelater: 偽弾糸、stoma: 気孔、sporogenous cell: 胞子形成細胞、elater initial cell: 弾糸始原細胞、meristem: 分裂組織、foot: あし }} [[陸上植物]]は単相世代(多細胞[[配偶体]])と複相世代(多細胞[[胞子体]])の[[世代交代]]を行う、単複相世代交代型({{lang|en|haplodiplontic}})の[[生活環]]を持っている{{Sfn|嶋村|2012|p=1}}{{Sfn|長谷部|2020|pp=25–26}}。コケ植物の場合、[[核相]]は単相({{math|n}})の[[配偶体]]が優占し、[[複相]]({{math|2n}})の[[胞子体]]はこれに半寄生する{{Sfn|嶋村|2012|p=1}}{{Sfn|岩月|2001|p=13}}{{Sfn|長谷部|2020|p=104}}。 === 配偶体世代 === [[File:Physcomitrella Protonema.jpg|thumb|200px|[[ヒメツリガネゴケ]] {{Snamei||Physcomitrium patens}} の[[原糸体]]。]] コケ植物の[[配偶体]]は[[胞子]]が発芽してできた原糸体と、それが分化してできた配偶体の本体からなる。配偶体の本体は、種によって[[茎]]と[[葉]]の分化が明瞭な'''[[茎葉体]]'''(けいようたい、{{lang|en|phyllid gametophore}}{{Sfn|長谷部|2020|p=31}})もしくは明瞭でない'''[[葉状体]]'''(ようじょうたい、{{lang|en|thalloid gametophore}}{{Sfn|長谷部|2020|p=31}})の場合がある{{Sfn|嶋村|2012|p=2}}。茎葉体は全ての蘚類と苔類の一部がもち、葉状体は残りの苔類と全てのツノゴケ類が持っている{{Sfn|嶋村|2012|p=2}}。原糸体・茎葉体・葉状体いずれの体制であっても、[[維管束]]は分化しないが、蘚類の茎葉体には[[ハイドローム]]や[[レプトーム]]と呼ばれる通導組織が分化することもある{{Sfn|長谷部|2020|p=96}}{{Sfn|岩月|2001|p=16}}。 まず単相({{math|n}})の[[胞子体]]から[[胞子]]が放出されて発芽し、'''[[原糸体]]'''(げんしたい、{{lang|en|protonema}})と呼ばれる配偶体({{math|2n}})を形成する{{Sfn|長谷部|2020|p=口絵7}}{{Sfn|長谷部|2020|p=口絵9}}{{Sfn|長谷部|2020|p=26}}{{Sfn|西田|2017|p=37}}。蘚類の原糸体は、はじめ糸状の[[葉緑体]]をもつ[[クロロネマ]]({{lang|en|chrolonema, feeding filament}}){{Sfn|長谷部|2020|p=26}}になり、クロロネマは[[カウロネマ]]({{lang|en|caulonema, foraging filament}})に分化する{{Sfn|長谷部|2020|p=27}}。カウロネマは分枝して、[[配偶体]]の本体({{lang|en|gametophore}}、茎葉体または葉状体)を分化する{{Sfn|長谷部|2020|p=31}}。蘚類の一部は、永存性の原糸体を持つものがある{{Sfn|岩月|2001|p=23}}。苔類やツノゴケ類では、蘚類よりも発達が悪く、多くは細胞の塊となり、糸状のものでも枝分かれがほとんど見られない{{Sfn|岩月|2001|p=23}}。[[葉状体|葉状性]]の苔類の原糸体ははじめ2–7細胞の短い糸状で、その上に数から数十細胞の発芽板を生じ、その上に分化した頂端細胞から葉状体ができる{{Sfn|岩月|2001|p=23}}。[[茎葉体|茎葉性]]の苔類では、まず糸状か塊状の原糸体ができ、細胞上に分化した頂端細胞から茎葉体ができる{{Sfn|岩月|2001|p=23}}。 配偶体がある程度成長すると、その上に'''[[造卵器]]'''と'''[[造精器]]'''が形成され、それぞれ[[卵細胞]]と[[精子]]をつくる。雨などによって水に触れた時に、精子が泳ぎだし、造卵器の中で卵細胞と[[受精]]し[[受精卵]]([[接合子]])がつくられる。受精卵はその場で[[胚発生|発生]]を始め、配偶体に栄養を依存する半[[寄生]]生活の状態で発達し、[[胞子体]]を形成する。 コケ植物の雌雄性は複雑であり、[[雌雄異株]](しゆういしゅ、{{lang|en|dioicous}})のものと[[雌雄同株]](しゆうどうしゅ、{{lang|en|monoicous}})のものとがみられる{{Sfn|岩月|2001|p=15}}。雄植物と雌植物がはっきり分かれている雌雄異株では、1個体に造卵器だけを付ける雌と1個体に造精器を付ける雄が区別される{{Sfn|岩月|2001|p=15}}。雌雄異株では普通雌雄のサイズはほぼ等大か、雌植物がやや大きい程度であるが、一部の種では雄個体の方が明らかに小形となる{{Sfn|岩月|2001|p=15}}。蘚類の[[フクラゴケ]] {{snamei||Eumyurium sinicum}} などでは雌植物の上に[[矮雄]]が着生する{{Sfn|岩月|2001|p=15}}。雌雄同株では、造卵器と造精器が同一個体上にできるが、その位置により複数の型が区別される{{Sfn|岩月|2001|p=15}}。雌雄同苞の雌雄同株({{lang|en|synoicous}})では、造卵器と造精器が同一苞葉中に混生し、蘚類の多くの種に見られる{{Sfn|岩月|2001|p=15}}。異苞の雌雄同株({{lang|en|autoicous}})では、1個体上の別々の苞葉にそれぞれ造精器と造卵器のみが包まれ、蘚類と苔類の多くの種に見られる{{Sfn|岩月|2001|p=15}}。雌雄列立同株(しゆうれつりついしゅ、{{lang|en|paroicous}})では、造卵器と造精器が近接するが、造精器が雌苞葉のすぐ下にできて混じらない{{Sfn|岩月|2001|p=15}}。苔類の多くの科と蘚類のスギゴケ科などの一部に見られる{{Sfn|岩月|2001|p=15}}。 繁殖は、胞子によるもののほか、[[無性生殖]]として植物体の匍匐枝や脱落した葉より不定芽を出しての増殖を行う{{Sfn|岩月|2001|p=19}}。無性生殖のために分化した器官である[[無性芽]]を作るものも知られて、蘚類や苔類で多くの型がある{{Sfn|岩月|2001|p=19}}{{Sfn|岩月|2001|p=27}}。ゼニゴケ類では、葉状体上に'''杯状体'''(はいじょうたい、{{lang|en|cupule}})と呼ばれる無性芽器を形成する{{Sfn|岩月|2001|p=31}}。 === 胞子体世代 === [[File:Moss capsule (28898030061).jpg|thumb|150px|蘚類の蒴。]] 胞子体は配偶体の2倍の遺伝子セットを持っているが、配偶体とは大きく形が異なっている{{Sfn|西田|2017|p=70}}。コケ植物の[[胞子体]]は分枝せず、先端に単一の[[胞子嚢]]({{lang|en|sporangium}})を形成するとそれで成長を終了する{{Sfn|Harrison|2017|pp=1–11}}{{Sfn|西田|2017|p=60}}{{Efn|それに対し、[[維管束植物]]の胞子体は植物体のほとんどを占め、分枝する。}}。特にコケ植物の胞子嚢は'''[[蒴]]'''(さく、{{lang|en|capsule}})と呼ばれる{{Sfn|岩月|2001|p=30}}。蒴の内部では[[減数分裂]]が行われ、単相の[[胞子]]が形成される{{Sfn|岩月|2001|p=14}}。 [[ヒメツリガネゴケ]]の胞子体では[[クラス2 KNOX遺伝子]]が機能しており、これを[[遺伝子ノックアウト|ノックアウト]]すると胞子体の発生が抑制され、配偶体になる{{Sfn|西田|2017|p=70}}。また、重複してできていた遺伝子のもう一方の[[クラス2 KNOX遺伝子]]は胞子体分裂組織の形成と維持に関与し、体制形成を調節している{{Sfn|西田|2017|p=70}}。 == 系統関係 == {{Harvtxt|Puttick ''et al.''|2018}} による分子系統解析の結果、遺伝子ごとに系統推定を行いその結果を統合する[[コアレセント法]]および、全ての遺伝子の配列を繋げて解析を行う[[コンカテネイト法]]による様々な系統樹で、次の[[トポロジー]]を示すことが分かった{{Sfn|Puttick ''et al.''|2018|pp=733–745}}{{Sfn|長谷部|2020|p=69}}。 {{clade |style=width:70em;font-size:100%;line-height:100% |label1=[[陸上植物]] |sublabel1={{small|{{sname||Embryophyta}}}} |1={{clade |label1='''コケ植物''' |sublabel1={{small|{{sname||Bryophyta}} ''{{lang|la|[[sensu|s.l.]]}}''}} |1={{clade |label1=[[有柄胞子体植物]]{{Sfn|長谷川|2021|pp=223–242}} |sublabel1={{small|{{sname||Setaphyta}}}} |1={{clade |1=[[蘚類]] {{sname||Musci}} |2=[[苔類]] {{sname||Hepaticae}} }} |2=[[ツノゴケ類]] {{sname||Anthocerotae}} }} |label2=[[多胞子嚢植物]] |sublabel2={{small|{{Sname||Polysporangiophyta}}}} |2=[[維管束植物]] {{sname||Tracheophyta}} }} }} なお、これ以前にも {{Harvtxt|Nishiyama ''et al.''|2004}} の[[葉緑体ゲノム]]を用いた系統解析や、{{Harvtxt|Cox ''et al.''|2014}} の葉緑体の蛋白質をコードする遺伝子の[[翻訳]]産物を用いた系統解析でも同様の結果が得られていた。また、その後の {{Harvtxt|Sousa ''et al.''|2018}}、{{Harvtxt|Li ''et al.''|2020}}、{{Harvtxt|Harris ''et al.''|2020}} や {{Harvtxt|Su ''et al.''|2021}} などの研究でもこれが正しいことが追認されている。 === 以前の系統推定 === これまでには、コケ植物が側系統となる様々なトポロジーの系統樹が提唱されてきた。そのうち、2012年から2017年頃までは {{Harvtxt|Chang|Graham|2011}} による苔類が最基部で分岐して残りの群と姉妹群をなし、その中でもツノゴケ類と維管束植物が姉妹群をなして[[冠群]]を構成するとする考えが最もよく受け入れられてきた{{Sfn|海老原|嶋村|田村|2012|p=305}}{{Sfn|西田|2017|p=58}}。 {| style="margin:0 auto" |+ これまで考えられてきた陸上植物の系統関係仮説 ! 苔類最基部・ツノゴケ類-維管束植物姉妹群説 !! 苔類最基部・蘚類-維管束植物姉妹群説 |- |{{small|{{Harvtxt|Qiu ''et al.''|2006}}<br />{{Harvtxt|Qiu|2008}}<br />{{Harvtxt|Chang|Graham|2011}}}} |{{small|{{Harvtxt|Mishler|Churchill|1984}}<br />{{Harvtxt|Bremer ''et al.''|1987}}<br />{{Harvtxt|Karol ''et al.''|2001}}}} |- | {{clade| style=width:32em;font-size:95%;line-height:100%;align=center |label1=[[陸上植物]] |sublabel1={{small|{{sname||Embryophyta}}}} |1={{clade |1=[[苔類]] {{sname||Hepaticae}} |label2=[[気孔植物]]{{Sfn|西田|2017|p=293}} |sublabel2={{small|{{lang|en|stomatophytes}}}} |2={{clade |1=[[蘚類]] {{sname||Musci}} |2={{clade |1=[[ツノゴケ類]] {{sname||Anthocerotae}} |2=[[維管束植物]] {{sname||Tracheophyta}} }} }} }}}} | {{clade| style=width:32em;font-size:95%;line-height:100% |label1=[[陸上植物]] |sublabel1={{small|{{sname||Embryophyta}}}} |1={{clade |1=[[苔類]] {{sname||Hepaticae}} |2={{clade |1=[[ツノゴケ類]] {{sname||Anthocerotae}} |2={{clade |1=[[蘚類]] {{sname||Musci}} |2=[[維管束植物]] {{sname||Tracheophyta}} }} }} }}}} |} {| style="margin:0 auto" ! 苔類最基部・ツノゴケ類-蘚類姉妹群説 !! ツノゴケ類最基部・蘚類-苔類姉妹群説 |- |{{small|{{Harvtxt|Chang|Graham|2011}}<br />{{Harvtxt|Fiz-Palacios ''et al.''|2011}}}} |{{small|{{Harvtxt|Wickett ''et al.''|2014}}}} |- | {{clade| style=width:32em;font-size:95%;line-height:100% |label1=[[陸上植物]] |sublabel1={{small|{{sname||Embryophyta}}}} |1={{clade |1=[[苔類]] {{sname||Hepaticae}} |2={{clade |1={{clade |1=[[ツノゴケ類]] {{sname||Anthocerotae}} |2=[[蘚類]] {{sname||Musci}} }} |2=[[維管束植物]] {{sname||Tracheophyta}} }} }}}} | {{clade| style=width:32em;font-size:95%;line-height:100% |label1=[[陸上植物]] |sublabel1={{small|{{sname||Embryophyta}}}} |1={{clade |1=[[ツノゴケ類]] {{sname||Anthocerotae}} |2={{clade |1={{clade |1=[[苔類]] {{sname||Hepaticae}} |2=[[蘚類]] {{sname||Musci}} }} |2=[[維管束植物]] {{sname||Tracheophyta}} }} }}}} |} == 分類史 == かつて、[[リンネ式階層分類|リンネの24綱分類]]では[[シダ]]や[[キノコ]]、[[海藻]]などとともに「[[隠花植物]]綱 {{sname||Cryptogamia}}」に含められた{{Sfn|井上|1975a|p=3}}。その後の[[アウグスト・アイヒラー|アイヒラー]]の分類体系 (1883) においても、現在の[[種子植物]]を表す[[顕花植物]]に対置された隠花植物に、[[菌類]]と[[藻類]]からなる[[葉状植物]] {{sname||Thallophyta}}および[[シダ植物]] {{sname||Pteridophyta}} とともに含められた{{Sfn|井上|1975a|p=3}}。アイヒラーの分類体系では、コケ植物は[[苔類]] {{sname||Hepaticae}} と[[蘚類]] {{sname||Musci}} の2綱が区別された{{Sfn|Core|1955|p=52}}{{Sfn|Smith|1938|p=2}}。[[ギルバート・モーガン・スミス]]は1938年、隠花植物についての教科書を出版し、そこで用いられた分類体系は [[:en:Smith system|Smith system]] として知られている。この少し前からツノゴケ類が苔類と区別されるようになり、[[スミスの分類体系]] (1955) や {{Harvtxt|Proskauer|1957}} では、コケ植物門 division {{sname||Bryophyta}} は[[苔綱]] {{sname||Hepaticae}}、[[ツノゴケ綱]] {{Sname||Anthocerotae}}、[[蘚綱]] {{sname||Musci}} の3つの[[綱 (分類学)|綱]]に分けられた{{Sfn|Smith|1955|p=3}}。今日でもコケ植物はその3系統に分けられている。 なお、コケ植物の造卵器は[[シダ植物]]の[[造卵器]]とよく似ているため、[[アドルフ・エングラー]]の植物分類体系などでは合わせて'''[[造卵器植物]]''' {{sname||Archegoniatae}} に含められた{{Sfn|岩月|2001|p=10}}{{Sfn|Core|1955|p=54}}。 植物の学名は[[国際藻類・菌類・植物命名規約]] (ICN, 2018) に基づいて規制されている。ICNでは学名の正式発表の日付についてその出発点を定めているが、コケ植物では分類群によって出発点となる日付が異なる{{Sfn|ICN 日本語版|2019|p=38}}。ミズゴケ科を除く蘚類については、Hedwig (1801) ''{{lang|la|Species muscorum frondosorum}}'' に基づき、[[1801年]][[1月1日]]をその出発点と定めている{{Sfn|ICN 日本語版|2019|p=38}}。また、ミズゴケ科、およびツノゴケ類を含む苔類については [[カール・フォン・リンネ|Linnaeus]] (1753) ''{{lang|la|[[植物の種|Species plantarum]]}}'' ed. 1 に基づき、[[1753年]][[5月1日]]を出発点として定められている{{Sfn|ICN 日本語版|2019|p=38}}。ただし、[[属 (分類学)|属]]よりも上位の階級の分類群については、[[アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー|Jussieu]] (1789) ''{{lang|la|Genera plantarum}}'' に基づき、[[1789年]][[8月4日]]がその出発点とされる{{Sfn|ICN 日本語版|2019|p=38}}。また、化石植物に関しては他の植物と同様に[[1820年]][[12月31日]]が出発点とされる{{Sfn|ICN 日本語版|2019|p=39}}。なお、は Sternberg の ''{{lang|de|Flora der Vorwelt, Versuch}}'' 1: 1–24, t. 1–13. に基づいており、Schlotheim (1820) ''{{lang|de|Petrefactenkunde}}'' はそれ以前に発表されたとみなされる{{Sfn|ICN 日本語版|2019|p=39}}。 == 下位分類 == 近年の分類体系では、コケ植物が側系統であると考えられていたことを反映し、コケ植物に含まれる蘚類、苔類、ツノゴケ類のそれぞれを[[門 (分類学)|門]]の階級に置く分類が用いられてきた{{Sfn|Sousa ''et al.''|2018|pp=565–575}}{{Sfn|Glime|2017|p=2-1-2}}。例えば、{{Harvtxt|Kenrick|Crane|1997}}、{{Harvtxt|Goffinet|Shaw|2008}}、{{Harvtxt|樋口|2012}}、{{Harvtxt|海老原|嶋村|田村|2012}}、{{Harvtxt|Glime|2017}} などが挙げられる。 {{sname||Bryophyta}} {{AUY|Schimp.|1879|bio=bot}} という学名がコケ植物全体に対しても、蘚類に対しても用いられてきたため、[[階級 (生物学)#接尾辞|階級語尾]]を付した学名は扱いづらい。そのため、 [[:en:Brent Mishler|Brent Mishler]] (2010) などは階級語尾を持たない伝統的な学名を好み、蘚類には {{sname||Musci}}、苔類には {{sname||Hepaticae}}、そしてツノゴケ類には {{sname||Anthocerotae}} を用いた{{Sfn|Glime|2017|p=2-1-11}}。 === コケ植物門 === {{Harvtxt|Sousa ''et al.''|2018}} では、コケ植物の単系統性が明らかになった今、蘚類、苔類、ツノゴケ類を以前のように[[綱 (分類学)|綱]]に降格すべきであると論じた{{Sfn|Sousa ''et al.''|2018|pp=565–575}}。この場合、コケ植物の内部系統とその[[分類階級|階級]]は以下のようになる{{Sfn|Sousa ''et al.''|2018|pp=565–575}}。 * '''コケ植物門''' {{lang|en|division}} {{sname||Bryophyta}} {{small|{{AUY|Schimp.|1879|bio=bot}}}} ** [[ツノゴケ綱]] {{lang|en|class}} {{sname||Anthocerotopsida}} ** [[苔綱]] {{lang|en|class}} {{sname||Marchantiopsida}} ** [[蘚綱]] {{lang|en|class}} {{sname||Bryopsida}} === 3群を門とする場合 === [[File:Conocephalum conicum (greater scented liverwort) (banks of Blunt Run, Muskingum Township, Muskingum County, Ohio, USA) 1 (21023059943).jpg|thumb|200px|葉状性の苔類[[ジャゴケ]] {{snamei||Conocephalum conicum}}。]] [[File:Calypogeia azurea (Blaues Bartkelchmoos) IMG 4164.JPG|thumb|200px|茎葉性の苔類[[ホラゴケモドキ]] {{snamei||Calypogeia azurea}}。]] [[File:Fringed Bogmoss (Sphagnum fimbriatum) - Oslo, Norway 2020-08-04.jpg|thumb|200px|蘚類[[ヒメミズゴケ]] {{snamei||Sphagnum fimbriatum}}。]] [[File:Dendroceros granulatus 1738235.jpg|thumb|200px|[[キノボリツノゴケ属]]の一種 {{snamei||Dendroceros granulatus}}。]] 以下は {{Harvtxt|Goffinet|Shaw|2008}} を基にした{{Harvtxt|樋口|2012}}、かつ {{Harvtxt|Crandall-Stotler et al.|2009}}(苔類)、{{Harvtxt|Goffinet ''et al.''|2008}}(蘚類)および {{Harvtxt|Renzaglia ''et al.''|2008}}(ツノゴケ類)を基にした {{Harvtxt|海老原|嶋村|田村|2012}} に基づく。3門をまとめたコケ植物に[[階級 (生物学)|階級]]を与える場合、[[亜界]]に置き '''{{Sname||Bryobiotina}}''' とすることもある{{Sfn|Glime|2017|p=2-1-2}}。 * [[タイ植物門]]([[苔類]]){{sname||Marchantiophyta}} {{small|{{AU|Stotler}} & {{AU|Crand.-Stotl.}}}} ** [[コマチゴケ綱]] {{sname||Haplomitriopsida}} {{small|{{AU|}}}} {{small|{{AU|Stotler}} & {{AU|Crand.-Stotl.}}}} *** [[コマチゴケ亜綱]] {{Sname||Treubiidae}} {{small|{{AU|}}}} {{small|{{AU|Stotler}} & {{AU|Crand.-Stotl.}}}} *** [[トロイブゴケ亜綱]] {{Sname||Haplomitriidae}} {{small|{{AU|}}}} {{small|{{AU|Stotler}} & {{AU|Crand.-Stotl.}}}} **[[ゼニゴケ綱]] {{sname||Marchantiopsida}} {{small|{{AU|Cronquist}}, {{AU|Takht.}} & {{AU|W.Zimm}}}} *** [[ウスバゼニゴケ亜綱]] {{sname||Blasiidae}} {{small|{{AU|He-Nygrén}}, {{AU|Juslén}}, {{AU|Ahonen}}, {{AU|Glenny}} & {{AU|Piippo}}}} *** [[ゼニゴケ亜綱]] {{sname||Marchantiidae}} {{small|{{AU|Engl.}}}} ** [[ツボミゴケ綱]]{{Sfn|海老原|嶋村|田村|2012|p=307}}(ウロコゴケ綱{{Sfn|海老原|嶋村|田村|2012|p=307}}) {{sname||Jungermanniopsida}} {{small|{{AU|Stotler}} & {{AU|Crand.-Stotl.}}}} *** [[ミズゼニゴケ亜綱]] {{sname||Pelliidae}} {{small|{{AU|He-Nygrén}}, {{AU|Juslén}}, {{AU|Ahonen}}, {{AU|Glenny}} & {{AU|Piippo}}}} *** [[フタマタゴケ亜綱]] {{sname||Metzgeriidae}} {{small|{{AU|Barthol.-Began}}}} *** [[ツボミゴケ亜綱]]{{Sfn|海老原|嶋村|田村|2012|p=307}}(ウロコゴケ亜綱{{Sfn|海老原|嶋村|田村|2012|p=307}}) {{Sname||Jungermannidae}} {{small|{{AU|Engl.}}}} * [[セン植物門]]([[蘚類]]) {{sname||Bryophyta}} {{small|{{AU|Schimp.}}}} ** {{lang|en|[[門 (分類学)|subdivision]]}} {{sname||Takakiophytina}} {{small|{{AU|Stech}} & {{AU|W. Frey}}}} ({{lang|en|[[上綱|Superclass]] I}} ''{{lang|la|sensu}}'' {{Harvnb|Goffinet|Shaw|2008}}) *** [[ナンジャモンジャゴケ綱]] {{sname||Takakiopsida}} {{small|{{AU|Stech}} & {{AU|W.Frey}}}} ** {{lang|en|[[門 (分類学)|subdivision]]}} {{sname||Sphagnophytina}} {{small|{{AU|Doweld}}}} ({{lang|en|[[上綱|Superclass]] II}} ''{{lang|la|sensu}}'' {{Harvnb|Goffinet|Shaw|2008}}) *** [[ミズゴケ綱]] {{Sname||Sphagnopsida}} {{small|{{AU|Ochyra}}}} ** {{lang|en|[[門 (分類学)|subdivision]]}} {{Sname||Andreaeophytina}} {{small|{{AU|Goffinet}}, {{AU|Buck}} & {{AU|Shaw}}}} ({{lang|en|[[上綱|Superclass]] III}} ''{{lang|la|sensu}}'' {{Harvnb|Goffinet|Shaw|2008}}){{Sfn|Goffinet ''et al.''|2009|pp=856–857}} *** [[クロゴケ綱]] {{Sname||Andreaeopsida}} {{small|{{AU|J.H.Schaffn.}}}} ** {{lang|en|[[門 (分類学)|subdivision]]}} {{Sname||Andreaeobryophytina}} {{small|{{AU|Goffinet}}, {{AU|Buck}} & {{AU|Shaw}}}} ({{lang|en|[[上綱|Superclass]] IV}} ''{{lang|la|sensu}}'' {{Harvnb|Goffinet|Shaw|2008}}){{Sfn|Goffinet ''et al.''|2009|pp=856–857}} *** [[クロマゴケ綱]] {{Sname||Andreaeobryopsida}} {{small|{{AU|Goffinet}} & {{AU|W.R.Buck}}}} ** {{lang|en|[[門 (分類学)|subdivision]]}} {{sname||Bryophytina}} {{small|{{AU|Engl.}}}} ({{lang|en|[[上綱|Superclass]] V}} ''{{lang|la|sensu}}'' {{Harvnb|Goffinet|Shaw|2008}})<ref>{{Cite web|url=https://db.cngb.org/search/organism/404260/|title=Bryophytina|website=CNGBdb|accessdate=2023-07-11}}</ref> *** [[イシズチゴケ綱]] {{Sname||Oedipodiopsida}} {{small|{{AU|Goffinet}} & {{AU|W.R.Buck}}}} *** [[スギゴケ綱]] {{Sname||Polytrichopsida}} {{small|{{AU|Doweld}}}} *** [[ヨツバゴケ綱]] {{Sname||Tetraphidopsida}} {{small|{{AU|Goffinet}} & {{AU|W.R.Buck}}}} *** [[マゴケ綱]] {{Sname||Bryopsida}} {{small|{{AU|Rothm.}}}} **** [[キセルゴケ亜綱]] {{Sname||Buxbaumiidae}} {{small|{{AU|Doweld}}}} **** [[イクビゴケ亜綱]] {{Sname||Diphysciidae}} {{small|{{AU|Ochyra}}}} **** [[クサスギゴケ亜綱]] {{Sname||Timmiidae}} {{small|{{AU|Ochyra}}}} **** [[ヒョウタンゴケ亜綱]] {{Sname||Funariidae}} {{small|{{AU|Ochyra}}}} **** [[シッポゴケ亜綱]] {{Sname||Dicranida}} {{small|{{AU|Doweld}}}} **** [[マゴケ亜綱]] {{Sname||Bryidae}} {{small|{{AU|Engl.}}}} * [[ツノゴケ植物門]]([[ツノゴケ類]]) {{sname||Anthocerotophyta}} {{small|{{AU|Rothm.}} {{lang|la|[[著者の引用 (植物学)|ex.]]}} {{AU|Stotler}} & {{AU|Crand.-Stotl.}}}} ** [[スジツノゴケ綱]]{{Sfn|海老原|嶋村|田村|2012|p=317}}(レイオスポロケロス綱{{Sfn|樋口|2012|p=20}}) {{Sname||Leiosporocerotopsida}} {{small|{{AU|Stotler}} & {{AU|Crand.-Stotl.}}}} ** [[ツノゴケ綱]] {{Sname||Anthocerotopsida}} {{small|{{AU|{{AU|Jancz.}} {{lang|la|[[著者の引用 (植物学)|ex.]]}} {{AU|Stotler}} & {{AU|Crand.-Stotl.}}}}}} *** [[ツノゴケ亜綱]] {{Sname||Anthocerotidae}} {{small|{{AU|Rosenv.}} {{lang|la|corr.}} {{AU|Prosk.}} {{lang|la|emend.}} {{AU|Duff}} ''{{lang|la|et al.}}''}} *** [[ツノゴケモドキ亜綱]] {{Sname||Notothylatidae}} {{small|{{AU|Duff}}, {{AU|J.C.Villarreal}}, {{AU|Cargill}} & {{AU|Renzaglia}}}} *** [[キノボリツノゴケ亜綱]] {{Sname||Dndrocerotidae}} {{small|{{AU|Duff}}, {{AU|J.C.Villarreal}}, {{AU|Cargill}} & {{AU|Renzaglia}}}} == 形態 == {{See also|茎葉体|葉状体}} [[File:Lophocolea heterophylla (d, 144811-474708) 0104.JPG|thumb|200px|[[トサカゴケ]] {{snamei||Lophocolea heterophylla}}(苔類)の胞子と螺旋状肥厚がみられる弾糸。]] 全てのコケ植物が持つ[[共有派生形質]]は胞子体が退縮し、配偶体に半寄生することである{{Sfn|長谷部|2020|p=104}}{{Sfn|坪田|2012|p=23}}。 また、全てではないものの、複数の群にわたって共有している形質がある。ツノゴケ類と蘚類では植物体の端部以外にも[[介在分裂組織]]と呼ばれる分裂組織ができ、苔類にはないものの、[[最節約的]]にはコケ植物の共通祖先で獲得されたと考えられる共有派生形質である{{Sfn|長谷部|2020|p=106}}。介在分裂組織は胞子嚢とあしとの間の柄に形成され、胞子嚢を造卵器の上方に押し出すように分裂を行っている{{Sfn|長谷部|2020|p=106}}。コケ植物以外でも、[[トクサ類]]の[[節 (植物)|節]]や裸子植物[[ウェルウィッチア]]の葉基部、[[単子葉植物]]の茎の節や葉の基部にも介在分裂組織は見られ、陸上植物の共通祖先で獲得したとも考えられる{{Sfn|長谷部|2020|p=106}}。 苔類とツノゴケ類は'''[[弾糸]]'''(だんし、{{lang|en|elater}})を持っており、胞子形成細胞が体細胞分裂することで胞子母細胞とともに弾糸細胞が形成される{{Sfn|長谷部|2020|p=105}}{{Sfn|嶋村|2012|p=4}}{{Sfn|岩月|2001|p=31}}。ツノゴケ類は基部で分岐し、苔類も持っていることから、コケ植物の共有派生形質だと考えられるが{{Sfn|長谷部|2020|p=105}}、派生的な群である[[キノボリツノゴケ属]]および[[アナナシツノゴケ属]]といった[[キノボリツノゴケ科]]を除くツノゴケ類は[[螺旋状肥厚]]を持たない'''偽弾糸'''であり{{Sfn|長谷部|2020|p=106}}{{Sfn|嶋村|2012|p=3}}{{Sfn|岩月|2001|p=28}}、コケ植物の共通祖先は弾糸を持たず、苔類の共通祖先とキノボリツノゴケ属で[[平行進化]]したとも推定される{{Sfn|長谷部|2020|p=106}}。 有柄胞子体植物として姉妹群をなす蘚類と苔類は類似した特有の[[鞭毛]]装置を形成する{{Sfn|長谷部|2020|p=108}}。 他の形質についてはそれぞれの群で同じ形質も異なる形質も持っている。以下、主に{{Harvcoltxt|嶋村|2012|p=3}} に基づき、3群の形態を比較する。 {|class="wikitable" style="text-align:center" |+ 各系統の形質の比較 |colspan=3| 形質 ! 苔類 !! 蘚類 !! ツノゴケ類 |- !rowspan=10|{{縦書き|配偶体の形態}} |colspan=2| 原糸体 | 葉状・塊状 | 糸状{{small|([[マゴケ綱]])}}<br />葉状・リボン状・箆状など{{small|(ほか)}} | 葉状・塊状 |- |colspan=2| 植物体 | [[茎葉体]]・[[葉状体]] | 茎葉体 | 葉状体 |- |colspan=2| 仮根 | 単細胞<br />なし{{small|([[コマチゴケ綱]])}} | 多細胞で分枝する<br />なし{{small|([[ナンジャモンジャゴケ綱]])}} | 単細胞 |- |rowspan=4|{{縦書き|茎葉体の葉}} |葉序 | [[左右相称]] | [[螺旋葉序]]・[[対生]]・[[1/3葉序]] |rowspan=4| 葉なし |- |葉原基 | 2細胞起源<br />1細胞起源{{small|([[コマチゴケ綱]])}} | 1細胞起源 |- |葉の形 | 普通、2裂から多裂 | 普通尖り、[[深裂]]しない |- |中肋 | なし | 普通あり |- |rowspan=2| 造卵器 |形態 | 頸細胞は4–6列 |colspan=2| 頸細胞は6列 |- |形成位置 | 頂生/非頂生 | 頂生 | 非頂生{{small|(葉状体内に埋没)}} |- |colspan=2| [[共生藻]] | [[ウスバゼニゴケ科]]のみ持つ | なし | 全ての種が持つ |- !rowspan=7|{{縦書き|胞子体の形態}} |colspan=2|帽 | なし | あり | なし |- |colspan=2|蒴歯 | なし | あり{{small|(スギゴケ綱・ヨツバゴケ綱・マゴケ綱)}}<br />なし{{small|(ほか)}} | なし |- |colspan=2|減数分裂の同調 |colspan=2| あり | なし |- |colspan=2|[[気孔]] | なし |colspan=2| あり |- |colspan=2|軸柱 | なし |colspan=2| あり |- |colspan=2|弾糸 | 全ての種が持つ | なし | 弾糸{{small|([[キノボリツノゴケ類]]{{Sfn|長谷部|2020|p=105}})}}<br />偽弾糸{{Efn|螺旋状肥厚を持たない{{Sfn|嶋村|2012|p=3}}。}}{{small|(ほか)}} |- |colspan=2|蒴柄 | 減数分裂後に伸長{{Sfn|嶋村|2012|p=4}} | 減数分裂前に伸長{{Sfn|嶋村|2012|p=4}}<br />持たない{{small|([[ミズゴケ綱]]・[[クロゴケ綱]])}} | なし |- !rowspan=7 |{{縦書き|細胞の形態}} |colspan=2|受精卵の最初の分裂軸 |colspan=2| 縦方向 | 横方向 |- |colspan=2|細胞の[[トリゴン]]・[[油体]] | あり |colspan=2| なし |- |colspan=2|[[葉緑体]]数 | 多数 | 多数 | 1–2個<br />多数{{small|([[アナナシツノゴケ属]]など)}} |- |colspan=2|[[ピレノイド]] |colspan=2| なし | あり |- |colspan=2|[[紡錘体]]の形成開始位置 | 極形成体 | 分散型 | 葉緑体表面 |- |colspan=2|[[精子]]の[[鞭毛]]基部 |colspan=2| 前後にずれて配置 | [[左右対称]]に配置 |- |colspan=2|頂端幹細胞 | 3面切出し{{small|([[コマチゴケ綱]]・[[ツボミゴケ綱]])}}{{Sfn|長谷部|2020|p=108}}<br />4面切出し{{small|(葉状性苔類)}}{{Sfn|長谷部|2020|p=108}} | 3面切出し{{Sfn|長谷部|2020|p=108}} | 4面切出し{{Sfn|長谷部|2020|p=108}}<br />3面切出し{{small|([[キノボリツノゴケ属]])}}{{Sfn|長谷部|2020|p=108}} |- |} === ツノゴケ類の形態 === [[File:Anthoceros foot L.jpg|thumb|200px|[[ツノゴケ属]] {{snamei||Anthoceros}} の胞子体。<hr /> A: 配偶体, B: placental tissue, C: あし, D: 介在分裂組織, E: 若い胞子体と偽弾糸組織]] ツノゴケ類では、'''[[葉状体]]'''から柄と胞子嚢の境界が外形ではわからない'''ツノ状の胞子体'''をもつ{{Sfn|長谷部|2020|p=107}}。これは、介在分裂組織の分裂活性が蘚類よりも長く続き、同じ太さの組織が形成されるためである{{Sfn|長谷部|2020|p=107}}。また、細胞内に葉緑体を1–2個しか持たない[[単色素体性]]で、葉緑体に[[藻類]]とツノゴケ類にしか見られない'''[[ピレノイド]]'''を持つことが大きな特徴である{{Sfn|長谷部|2020|p=108}}{{Sfn|嶋村|2012|p=4}}。葉状体内には[[シアノバクテリア]]が共生している{{Sfn|坪田|2012|p=26}}。 また、陸上植物の中でツノゴケ類の造精器の形態は特異である{{Sfn|長谷部|2020|p=107}}。ほとんどの現生陸上植物では、造精器嚢の最外層の細胞は外界と接しており、前維管束植物でも造精器は組織の上に突出していたが、ツノゴケ類の造精器は周りの組織中に形成される{{Sfn|長谷部|2020|p=107}}。造卵器も他の陸上植物とは異なり、頸の最先端の細胞が表皮細胞上に突出しない{{Sfn|長谷部|2020|p=107}}。 === 苔類の形態 === [[File:Calypogeia azurea Cells and blue oil bodies.jpg|thumb|200px|[[ホラゴケモドキ]] {{snamei||Calypogeia azurea}} の青い油体を含む葉の細胞。]] 苔類の共有派生形質は[[葉身]]細胞中に'''[[油体]]'''(ゆたい、{{lang|en|oil body}})と呼ばれる、膜で包まれた[[細胞小器官]]を持つことであり、他の陸上植物には見られない{{Sfn|長谷部|2020|p=109}}{{Sfn|岩月|2001|p=32}}。 苔類の配偶体は'''[[茎葉体]]であることも[[葉状体]]であることもあり'''、伝統的に、茎葉性苔類と葉状性苔類の2つの群が区別されてきた{{Sfn|坪田|2012|p=25}}。また、葉状性の苔類には葉状体内部に気室などの組織分化がみられる複雑葉状性苔類と、組織分化が少ない単純葉状性苔類が細分されてきた{{Sfn|坪田|2012|p=25}}。しかし分子系統解析によりこれらの群は系統を反映していないことが明らかになり、現在では[[コマチゴケ綱]]、[[ゼニゴケ綱]]、[[ツボミゴケ綱]]の3群に再編されている{{Sfn|坪田|2012|p=25}}{{Sfn|嶋村|2012|p=5}}。茎葉性苔類と単純葉状性苔類は1つのクレードにまとまり、茎葉性苔類の中から複数回、単純葉状性への体制の進化が起こったことが分かっている{{Sfn|坪田|2012|p=26}}。コマチゴケ綱は茎葉性を持ち、中でもトロイブゴケ亜綱(トロイブゴケ科からなる単型亜綱)は茎葉体と葉状体の中間的な形態を持つ{{Sfn|嶋村|2012|p=5}}。ゼニゴケ綱は葉状体のみからなる群である{{Sfn|嶋村|2012|p=5}}。中でも複雑葉状性の体制が典型的であるが、2種からなるウスバゼニゴケ亜綱では例外的に単純葉状性の体制を持つ{{Sfn|嶋村|2012|p=6}}。苔類の大半を含むツボミゴケ綱は直立する茎葉性や匍匐する茎葉性、単純葉状性など多様な形態を持つ{{Sfn|嶋村|2012|p=6}}。うちツボミゴケ亜綱は茎葉性の体制がほとんどであるが、ミズゼニゴケ亜綱およびフタマタゴケ亜綱は単純葉状性を持つものが多い{{Sfn|嶋村|2012|p=6}}。 最基部で分岐したコマチゴケ綱は、造卵器や造精器を保護する[[葉的器官]]や、[[仮根]]を形成せず、葉を付けない根茎で基物に取り付く{{Sfn|嶋村|2012|p=5}}。こういった形質は原始的な形態であると考えられている{{Sfn|嶋村|2012|p=5}}。苔類の共通祖先がコマチゴケ綱のような茎葉性であったとすると、葉状性苔類は茎葉性苔類から進化したことになる{{Sfn|長谷部|2020|p=109}}。葉状性苔類の腹側にある鱗片は茎葉体の葉と同様の発生過程によって生じるため、葉が縮小したものであると考えられる{{Sfn|長谷部|2020|p=109}}。 === 蘚類の形態 === 蘚類は全てが'''[[茎葉性]]'''の体制を持ち{{Sfn|嶋村|2012|p=2}}{{Sfn|岩月|2001|p=11}}、多くは螺旋状に'''[[葉]]''' ({{lang|en|phyllid}}{{Sfn|長谷部|2020|p=31}}) をつける{{Sfn|嶋村|2012|p=2}}。また、[[仮根]]は多細胞で分枝する{{Sfn|岩月|2001|p=11}}。 蘚類のほとんどは[[マゴケ綱]]に含まれ、残りの群は蘚類の進化の初期に分岐した遺存的な分類群であると考えられている{{Sfn|嶋村|2012|p=8}}。多くの群は蒴の頂端に'''蓋'''(蒴蓋)が分化しており、蒴から蓋が分離すると蒴の開口部の内側に細長い歯状の構造物である'''蒴歯'''(さくし、{{lang|en|peristome}})が並ぶ{{Sfn|岩月|2001|p=21}}{{Sfn|岩月|2001|p=31}}。蘚類は胞子体の蒴歯の構造により、無関節蒴歯蘚類と有関節蒴歯蘚類に大別される{{Sfn|坪田|2012|p=24}}。有関節蒴歯蘚類は単系統群であるが、無関節蒴歯蘚類は側系統となる{{Sfn|坪田|2012|p=24}}。[[スギゴケ綱]]は'''無関節蒴歯'''(むかんせつさくし、{{lang|en|nematodontous peristome}})を、[[マゴケ綱]]は'''有関節蒴歯'''(ゆうかんせつさくし、{{lang|en|arthrodontous peristome}})を持ち、それらと蒴歯を持たない[[イシヅチゴケ]] {{snamei||Oedipodium griffithianum}} 1種からなる[[イシヅチゴケ綱]]が姉妹群となる{{Sfn|嶋村|2012|p=9}}。 2種からなる[[ナンジャモンジャゴケ綱]]は葉が棒状で、葉を付けない根茎状シュートを持ち、仮根を形成しない{{Sfn|嶋村|2012|p=8}}。また造卵器と造精器が裸出し、胞子嚢が斜めに裂開することも他の蘚類と異なる形質であり、かつては苔類とも考えられていた{{Sfn|嶋村|2012|p=8}}。ミズゴケ綱およびクロゴケ綱は蒴柄がなく、配偶体組織が伸長した'''偽柄'''(ぎへい、{{small|または}}偽足、{{lang|en|pseudopodium}})によって胞子体が持ち上げられる{{Sfn|嶋村|2012|p=8}}{{Sfn|岩月|2001|p=20}}。クロマゴケ綱はクロゴケ綱とよく似るが、蒴柄を持つ{{Sfn|嶋村|2012|p=8}}。 == 生育環境 == コケ植物は[[海水]]中および[[氷雪]]上以外の、地球上のあらゆる表層に生息している{{Sfn|岩月|2001|p=10}}{{Sfn|秋山|2012|p=41}}。基本的には陸上生活をするが、少ないながら淡水中に生育するものもいる。生育する基質としては、[[土壌|土]]や腐植土、[[岩]]上、他の植物体([[樹皮]]、[[葉]]の表面、樹枝)などが多い{{Sfn|岩月|2001|p=11}}。 [[温帯]]および[[熱帯]]の各地において、様々な環境で種多様性の程度に大きな差異がないことが分かっている{{Sfn|秋山|2012|p=41}}。少なくともコケ植物では熱帯に種多様性が偏在しておらず、コケ植物は {{lang|en|"Everything is everywhere"}}「あらゆるものがあらゆるところにいる」 であると評される{{Sfn|秋山|2012|p=41}}。また、同じ地域でも[[森林限界|高山]]と低山では種構成が大きく異なる{{Sfn|岩月|2001|p=11}}。高山におけるコケ植物の生育限界線を'''コケ線'''({{lang|en|moss-line}})という{{Sfn|沼田|1983|p=105}}。乾燥への適応を持つ種もあり、苛烈な環境を好む種も知られている{{Sfn|秋山|2012|p=41}}。 蘚類および苔類は[[植物群落]]内の地表面のごく近くに'''蘚苔層'''{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=813a}}({{small|または}} コケ層{{Sfn|沼田|1983|p=106}}、{{lang|en|moss layer}}{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=813a}}{{Sfn|沼田|1983|p=106}})を作る{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=813a}}。やや多湿の森林の最下層や水湿地などに発達し{{Sfn|沼田|1983|p=106}}、[[リター]]が厚く積もらない岩上や[[倒木]]上に形成され、樹木の[[実生]]が定着する場となる{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=813a}}。地表付近を生活の場とする[[昆虫類]]など小動物に富む{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=813a}}。 [[森林]]に生活する種が多いが、岩場や[[渓流]]、[[滝]]の周辺などにも多くの種が見られる。特に年中[[空中湿度]]の高い[[雲霧林]]には、林床だけでなく樹幹や枝にまで大量のコケが着生する例があり、'''蘚苔林'''{{Sfn|沼田|1983|p=106}}({{small|または}} '''コケ林'''{{Sfn|日本植物学会|文部省|1990|p=485}}{{Sfn|沼田|1983|p=106}}、{{lang|en|mossy forest}}{{Sfn|日本植物学会|文部省|1990|p=485}}{{Sfn|沼田|1983|p=106}}, {{lang|en|moss forest}}{{Sfn|日本植物学会|文部省|1990|p=133}}{{Sfn|沼田|1983|p=106}})とも呼ばれる{{Sfn|沼田|1983|p=106}}。畑地には[[ハタケゴケ]] {{snamei||Riccia bifruca}}、[[田|水田]]など[[淡水]]中にもそれぞれ[[イチョウウキゴケ]] {{snamei||Ricciocarpus natans}} および[[ウキゴケ]](カズノゴケ){{snamei||Riccia fluitans}} など独特のものが見られ{{Sfn|大滝|石戸|1980|p=279}}、市街地でもいくつかの種が生育している。例えば、[[ヒジキゴケ]] {{snamei||Hedwigia ciliata}} は[[石垣]]などの岩上に直接生える{{Sfn|秋山|2012|p=41}}。 [[ミズゴケ類]]などのコケ植物が多く生育する[[湿性草原]]は'''コケ湿原'''({{lang|en|moss moor}})と呼ばれる{{Sfn|沼田|1983|p=105}}。特にミズゴケ類が豊富に繁茂する湿原を'''ミズゴケ湿原'''({{snamei|Sphagnum}} {{lang|en|bog}}{{Sfn|沼田|1983|p=307}}{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=453a}}, {{snamei|Sphagnum}} {{lang|en|moor}}{{Sfn|沼田|1983|p=307}}, {{lang|en|sphagniherbosa}}{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=453a}})といい、その中でも地下水ではなく雨水によるものを {{lang|en|Sphagnoplatum}} という{{Sfn|沼田|1983|p=307}}。また、カナダの森林内にあるミズゴケ湿原は {{lang|en|muskey}} と呼ばれる{{Sfn|沼田|1983|p=307}}。ミズゴケ類は[[泥炭地沼]]、[[高層湿原]]に多く生息し、多量の水分を蓄えるため乾燥にも耐え得る{{Sfn|沼田|1983|p=307}}。高層湿原の土壌は[[腐植酸]]や[[不飽和コロイド]]により酸性化しており、[[水酸化物イオン]]を嫌うミズゴケ類が中央部によく生育するため、[[泥炭]]化が進んで盛り上がることで高層となる{{Sfn|巌佐ほか|2013|p=453a}}。また、[[北極圏]]の[[ツンドラ地帯]]は広大な地域がコケ植物と[[地衣類]]に覆われており、やや湿った場所に'''[[コケツンドラ]]'''({{lang|en|moss-tundra, moss heath}})が発達する{{Sfn|岩月|2001|p=11}}{{Sfn|沼田|1983|p=106}}。ミズゴケ類はその優占種となる{{Sfn|沼田|1983|p=106}}。 非常に特殊な生育環境の種も存在し、[[被子植物]]や[[大葉シダ植物]]の葉上には[[カビゴケ]] {{snamei||Leptolejeunea elliptica}} や[[ヨウジョウゴケ]] {{snamei||Cololejeunea goebelii}} のような[[生葉上苔類]](せいようじょうたいるい、{{lang|en|epiphyllous liverworts}})が生育する{{Sfn|秋山|2012|p=41}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~main/index.php?title=%E7%94%9F%E8%91%89%E4%B8%8A%E8%8B%94%E9%A1%9E&mobileaction=toggle_view_desktop|title=生葉上苔類|website=広島大学デジタルミュージアム|publisher=[[広島大学]]|accessdate=2023-07-26}}</ref>。[[マルダイゴケ]] {{snamei||Tetraplodon mnioides}} などは[[動物]]の[[糞]]や死体にのみ生育する糞生種である{{Sfn|秋山|2012|p=41}}。[[ホソモンジゴケ]] {{snamei||Scopelophila cataractae}} は高い耐[[銅]]性を示す{{Sfn|秋山|2012|p=41}}。また、淡水中に生育する種の中には、[[ナシゴケ属]] {{snamei||Leptobryum}} のように[[南極]]の湖底に生息し'''コケ坊主'''(コケボウズ、{{lang|en|moss pillars}})を形成するものもある{{Sfn|秋山|2012|p=41}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/photo/story/news/170208/sty1702080017-n1.html|title=南極の湖底に緑の森 コケボウズから生態系探る|website=産経フォト|publisher=[[産経新聞社]]|date=2017-02-08|accessdate=2023-07-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei-science.com/?p=27707|title=南極湖底の「コケ坊主」〜日経サイエンス2012年10月号より|website=[[日経サイエンス]]|date=2012-10|accessdate=2023-07-26}}</ref>。 {{Multiple image |align=center |total_width=1000 |image1=木を覆う苔.jpg |caption1=立ち木を覆う苔 |image2=水中に生える苔.jpg |caption2=水中に生える苔 |image3=岩を覆う苔と地衣類.jpg |caption3=岩を覆う苔と地衣類 |image4=Forest in Yatsugatake 04.jpg |caption4=コケ植物に覆われた八ヶ岳の林床 }} == 進化と化石記録 == [[File:Bryophyte species SRIC SR 02-15-10 img1.tif|thumb|200px|蘚類の化石]] [[File:Tortilicaulis transwalliensis reconstruccion.jpg|thumb|150px|[[トルチリカウリス]] {{snamei||Tortilicaulis transwalliensis}} の復元図。]] コケ植物の化石記録は非常に少なく、限られている{{Sfn|秋山|2012|p=40}}{{Sfn|長谷部|2020|p=72}}。これまで報告されている化石記録の多くは、[[胞子化石]]や表皮の断片であり、植物体全体がそのまま保存されていることは少ない{{Sfn|秋山|2012|p=40}}。これはコケ植物が当時存在していなかったからではなく、[[リグニン]]を持たない軟らかい体で、化石として保存されにくいためであると考えられている{{Sfn|秋山|2012|p=40}}。[[オルドビス紀]]や[[シルル紀]]の地層から見つかる胞子化石は系統が不明な点も多いが、[[四集粒胞子]] {{lang|en|permannt tetrad}} の存在は[[減数分裂]]を伴った世代交代を行う陸上植物の存在を示唆している{{Sfn|秋山|2012|p=40}}。 従来、苔類が陸上植物の最基部で分岐したのではないかと推定されており、[[基部系統]]は共通祖先に似た形質を持っている可能性があるため、陸上植物の共通祖先は苔類様の植物だと考えられてきた{{Sfn|長谷部|2020|p=72}}。また、陸上植物の進化において細胞壁が二次肥厚する仮道管および道管の獲得や分枝する胞子体の獲得が重要であったと考えられており、コケ植物はそれらを持っていないことからもその仮説の証拠となっていた{{Sfn|長谷部|2020|p=72}}。しかし、[[前維管束植物]]は仮道管ではなく[[ハイドローム]]を持っているため、これが陸上植物の共通祖先だと考えられることもある{{Sfn|長谷部|2020|p=72}}。ただし、現生のコケ植物と形態的に類似していない化石は真のコケ植物であってもコケ植物として認識されていな可能性が高い{{Sfn|秋山|2012|p=40}}。 コケ植物の化石は[[小葉植物]]や[[大葉シダ植物]]の祖先群よりも後の時代の地層から見つかっていることもあり、最初の陸上植物は[[二又分枝]]する胞子体からなる[[シダ植物]]段階の[[テローム植物]]で、コケ植物の単純な体制はその退化によって生じたものであるとする'''退行進化仮説'''が提唱されている{{Sfn|西田|2017|p=57}}{{Sfn|長谷部|2020|pp=73–74}}。[[モデル植物]]である蘚類の[[ヒメツリガネゴケ]]において、[[クロマチン修飾]]を担う[[ポリコーム]]抑制複合体2の構成蛋白質をコードする ''pPCLF'' 遺伝子を欠失させると胞子体幹細胞の寿命が長くなり分枝する胞子体を形成することはこの仮説と調和的である{{Sfn|長谷部|2020|pp=73–74}}。 コケ植物の可能性がある最古の大型化石は、約4億2000万年前の[[トルチリカウリス]] {{snamei||Tortilicaulis transwalliensis}} {{small|{{AUY|D.Edwards|1979|bio=bot}}}} で、胞子嚢が柄についたコケのような植物である{{Sfn|長谷部|2020|pp=73–74}}。しかし、コケ植物とは異なり胞子体が同等二又分枝を行うため、{{Harvtxt|Kenrick|Crane|1997}} の分岐系統解析からは前維管束植物であると考えられている{{Sfn|長谷部|2020|pp=73–74}}。 確実な大型化石の一つに[[後期デボン紀]]の苔類、[[パラビキニテス]] {{snamei||Pallaviciniites}} ([[シノニム|syn.]] {{snamei||Hepaticites}}) がある{{Sfn|西田|2017|pp=57–58}}。現在では、最古の苔類は[[中期デボン紀]]の地層から見つかっている[[ツボミゴケ綱]]の {{snamei||Metzgeriothallus sharonae}} {{small|{{AUY|Hernick}}, {{AU|Landing}} & {{AU|Bartowski|2008|bio=bot}}}} であるとされる{{Sfn|Hernick ''et al.''|2008}}。はっきりと現在のコケ植物と断定できる化石はシルル紀から見つかっており、現生の葉状性苔類と基本的に類似した構造が備わっている{{Sfn|秋山|2012|p=40}}。 前期デボン紀の約4億1000万年前の地層からは、扁平な組織から分枝しない胞子体が多数生えた[[スポロゴニテス]] {{snamei||Sporogonites exuberans}} {{small|{{AUY|Halle|1916|bio=bot}}}} が見つかっており、[[仮道管]]が見つからず、胞子嚢が胞子体先端に形成され、軸柱の周りに胞子ができる{{Sfn|長谷部|2020|pp=73–74}}。それらの特徴は蘚類と比較され、蘚類の系統ではないかと考えられている{{Sfn|長谷部|2020|pp=73–74}}。 [[琥珀]]中に見つかる[[新生代]]以降の化石はほぼすべてが現生属に分類可能で、現生種そのものに比定できるものすらある{{Sfn|秋山|2012|p=40}}。このことは、コケ植物の形態分化の速度が見かけ上非常に遅いことを示唆する{{Sfn|秋山|2012|p=40}}。 == 利用 == {{See|苔}} [[Image:Gifu-kegonji5754.JPG|thumb|220px|[[華厳寺]]石灯籠の蘚苔類]] コケ植物が実用的に用いられる例としては、圧倒的に[[ミズゴケ属|ミズゴケ類]]が重要である。日本ではその分布が多くないが、ヨーロッパではごく普通にあり、生きたものは園芸用の培養土としてほとんど他に換えがない。他に乾燥させて荷作りの詰め物とし、またかつては[[脱脂綿]]代わりにも使われた。またそれが枯死して炭化したものは[[泥炭]]と呼ばれ、[[燃料]]などとしても利用された。 === 日本 === [[日本]]には1665種程度のコケ植物が分布しており{{Sfn|岩月|2001|p=10}}、そのうち200種以上が絶滅の危機に瀕しているといわれている<ref>環境省報道発表資料 『[https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=8648 哺乳類、汽水・淡水魚類、昆虫類、貝類、植物I及び植物IIのレッドリストの見直しについて]』、2007年8月3日。</ref>。日本では[[庭園]]や[[鉢植え]]に利用される。日本では、古くより蘚苔類は身近なものであり、多くの和歌の中で詠われている。現在、[[ミズゴケ類]]や[[シラガゴケ類]]、[[スギゴケ類]]、[[ツルゴケ]]、[[ハイゴケ]]など多数のコケ植物が園芸用・観賞用として栽培、販売されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite journal|last1=Bremer |first1=K. |last2=Humphries |first2=C.J. |last3=Mishler |first3=B.D.|author-link3=Brendt D. Mishler |last4=Churchill |first4=S.P. |author-link4=:en:Steven P. Churchill |date=1987 |title=On cladistic relationships in green plants |journal=Taxon |volume=36 |issue=2 |pages=339–349|doi=10.2307/1221429|ref={{SfnRef|Bremer ''et al.''|1987}} }} * {{Cite journal|last1=Chang |first1=Y. |last2=Graham |first2=S.W. |date=2011 |title=Inferring the higherorder phylogeny of mosses (Bryophyta) and relatives, using a large, multigene plastid dataset |journal=Am. J. Bot. |volume=98 |pages=839–849|doi=10.3732/ajb.0900384 |ref={{SfnRef|Chang|Graham|2011}} }} * {{Cite book|last=Core|first=Earl Lemley|title=Plant taxonomy|date=1955|publisher=Prentice-Hall|ref={{SfnRef|Core|1955}} }} * {{Cite journal|last1=Cox|first1=C.J.|author-link1=:en:Cymon J. Cox |last2=Li |first2=B. |author-link2=:en:Blaise Li |last3=Foster |first3=P.G. |author-link3=:en:Peter G. Foster |last4=Embley |first4=T.M. |author-link4=:en:T. Martin Embley |last5=Civáň |first5=P. |author-link5=:en:Peter Civáň |title=Conflicting Phylogenies for Early Land Plants are Caused by Composition Biases among Synonymous Substitutions|journal=Systematic Biology|volume=63|issue=2|date=2014|pages=272–279|doi=10.1093/sysbio/syt109|ref={{SfnRef|Cox ''et al.''|2014}} }} * {{cite journal|last1=Crandall-Stotler|first1=B.|last2=Stotler|first2=R.E.|last3=Long|first3=D.G.|date=2009|title=Phylogeny and classification of the Marchantiophyta|journal=Edinb. J.Bot.|volume=66|pages=155–198|ref={{SfnRef|Crandall-Stotler et al.|2009}} }} * {{cite book|last=Doweld|first=A. B.|title=Prosyllabus Tracheophytorum, tentamen systematis plantarum vascularium (Tracheophyta) I|publisher=GEOS ||place=Moscow|date=2001-12-28}} * {{Cite journal|last1=Fiz-Palacios|Fiz-Palacios first1=O. |last2=Schneider |first2=H. |last3=Heinrichh |first3=J. |last4=Savolainen |first4=V. |date=2011 |title=Diversification of land plants: insights from a family-level phylogenetic analysis |journal=BMC Evol. Biol. |volume=11 |pages=341–351 |doi=10.1186/1471-2148-11-341|ref={{SfnRef|Fiz-Palacios ''et al.''|2011}} }} * {{Cite book |last1=Glime |first1=J. M. |date=2017 |chapter=Chapter 2-1 Meet the Bryophytes |editor=Glime, J. M. |title=Bryophyte Ecology |volume=1 |series=Physiological Ecology|accessdate=2023-07-15|url=http://digitalcommons.mtu.edu/bryophyte-ecology/|ref={{SfnRef|Glime|2017}} }} * {{Cite book |last1=Goffinet|first1=B.|first2=A.J.|last2=Shaw|title=Bryophyte Biology|edition=2nd|pages=565|publisher=Cambridge University Press |place=New York |date=2008|ref={{SfnRef|Goffinet|Shaw|2008}} }} * {{Cite journal|last1=Goffinet|first1=B. |author-link1=:en:Bernard Goffinet |first2=W.R. |last2=Buck |author-link2=:en:William Buck |first3=A. J. |last3=Shaw|author-link3=Arthur Jonathan Shaw |title=Morphology, anatomy, and classification of the Bryophyta |date=2008 |doi=10.1017/CBO9780511754807.003 |ref={{SfnRef|Goffinet ''et al.''|2008}} }} * {{Cite journal|last1=Goffinet|first1=B. |first2=William R. |last2=Buck |first3=A. Jonathan |last3=Shaw|title=Addenda to the classification of mosses. I. 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Crane |date=1997|title=The Origin and Early Diversification of Land Plants —A Cladistic Study|publisher=Smithonian Institution Press|isbn=1-56098-729-4|pages=|ref={{SfnRef|Kenrick|Crane|1997}} }} * {{cite journal|last1=Li |first=F.W. |last2=Nishiyama |first2=T. |last3=Waller |first3=M. |author4=et al. |title=''Anthoceros'' genomes illuminate the origin of land plants and the unique biology of hornworts |journal=Nat. 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Evol. |volume=21 |issue=10 |pages=1813–1819 |date=2004 |doi=10.1093/molbev/msh203 |ref={{SfnRef|Nishiyama ''et al.''|2004}} }} * {{cite journal|last1=Proskauer |first1=J. |date=1957|title=Studies on Anthocerotales. V. |journal=Phytomorphology |volume=7 |pages=113–135|ref={{SfnRef|Proskauer|1957}} }} * {{cite journal|last1=Puttick|first1=M. N.|author-link1=Mark N. Puttick |last2=Morris|first2=J.L. |author-link2=Jennifer L. Morris|last3=Williams|first3=T.A. |author-link3=Tom A. Williams |last4=Cox|first4=C.J. |autho-link4=Cymon J. Cox |last5=Edwards|first5=Dianne|author-link5=D. Edwards |last6=Kenrick |first6=P. |author-link6=Paul Kenrick |last7=Pressel |first7=S. |author-link7=Silvia Pressel |last8=Wellman|first8=C.H. |author-link8=Charles H. Wellman |last9=Schneider|first9=H. |author-link9=Halard Schneider|last10=''et al.''|title=The interrelationships of land plants and the nature of ancestral Embryophyte|date=2018|publisher=Cell|journal=Current Biology|volume=28|pages=733–745|doi=10.1016/j.cub.2018.01.063|ref={{SfnRef|Puttick ''et al.''|2018}} }} * {{Cite journal|last1=Qiu|first1=Ying-Long |first2=Libo |last2= Li |first3=Bin |last3=Wang |first4=Zhiduan |last4=Chen |first5=Volker |last5=Knoop |first6=Milena |last6=Groth-Malonek |first7=Olena |last7=Dombrovska |first8=Jungho |last8=Lee |first9=Livija |last9=Kent |first10=Joshua |last10=Rest |first11=George F. |last11=Estabrook |first12=Tory A. |last12=Hendry |first13=David W. |last13=Taylor |first14=Christopher M. |last14=Testa |first15=Mathew |last15=Ambros |first16=Barbara |last16=Crandall-Stotler |first17=R. Joel |last17=Duff |first18=Michael |last18=Stech |first19=Wolfgang |last19=Frey |first20=Dietmar |last20=Quandt |first21=Charles C. |last21=Davis|date=2006 |title=The deepest divergences in land plants inferred from phylogenomic evidence |journal=Proc. Natl Acad. Sci. USA |volume=103|issue=42 |pages=15511–15516|doi=10.1073/pnas.0603335103|ref={{SfnRef|Qiu ''et al.''|2006}} }} * {{Cite journal|last1=Qiu|first1=Ying-Long |title=Phylogeny and evolution of charophytic algae and land plants |journal=J. Syst. Evol. |volume=46|issue=3|pages=287–306|date=2008 |doi=10.3724/SP.J.1002.2008.08035|ref={{SfnRef|Qiu|2008}} }} * {{Cite book|last1=Renzaglia|first1=K.S.|first2=J.C.|last2=Vilarreal|first3=R.J.|last3=Duff|date=2008|chapter=New insight into morphology, anatomy, and systematics of hornworts|editor=Goffinet, B. and Shaw, A.J.|title=Bryophyte Biology|edition=2nd|pages=139–171|publisher=Cambridge Univ. 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社会学
社会学(しゃかいがく、仏: sociologie、英:Sociology)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を体験・統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である。 フランスのオーギュスト・コントが産み出した学問で、当時は歴史学・心理学・経済学を統合する実証主義的な科学的研究として「社会物理学」と定義した。 初期の社会学に対する社会学者の方法論的アプローチは、社会学を自然科学と同じやり方で扱うもののみであった。しかし、19世紀に機能主義から離反した社会学が登場し、後にそれが主流となった。 あらゆる社会・営みの中に法則性を探るという自由度の高く、「社会学的な視点で研究できるもの」ならば全てを「○○社会学」といった研究対象とすることが可能である。人文社会科学又は社会科学に分類される。現代では、社会科学の中でも用語の定義が曖昧かつ研究の再現性も低い問題が指摘されている分野の一つである。 社会学(フランス語「sociologie」はラテン語「socius」とギリシャ語「λογοσ」に由来する造語)なる用語は、フランス革命後の混乱と動乱に満ちた初期近代フランスを生きたオーギュスト・コントによって作られた。コントは、当時の産業主義と合理主義を背景として、社会学とは「秩序と進歩」に寄与する「社会物理学」であって、歴史学、心理学、経済学を統合する実証主義的な科学的研究でなければならないとした。 このコントの思想は、その師であるサン・シモンに遡る。サン・シモンは、自然科学の方法を用いて社会的世界を全体的かつ統一的に説明する「社会生理学」の樹立を企てた。このなかで、サン・シモンは、フランス革命後の新社会の秩序を捉えるべく、その社会変動の流れを「産業主義」として提示した。ここからコントはさらに、近代社会の構成原理として実証主義を提示し、産業ではなく科学をその中心に据えることになった。そしてその中心に社会学を位置づけたのである。 コントらの発想は、ジョン・スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサーなどに受け継がれ、実証主義の体系化が図られていった。例えば、スペンサーは、イギリス功利主義の考えと、彼独自の進化論に基づいて、有機体システムとのアナロジーによって社会を超有機的「システム」と捉え、後の社会システム理論の先駆となる研究を行なった。 実証主義の潮流のなかで始まった社会学であるが、19世紀末から20世紀にかけて、カール・マルクス、マックス・ウェーバー、エミール・デュルケーム、ゲオルク・ジンメル、ヴィルフレド・パレートらが、さまざまな立場から相次いで研究著作を発表した。その方法論、キー概念などは、形を変えながらその後の社会学に引き継がれており、この時期は、社会学の古典的理論の形成期にあたる。 デュルケームは、コントらの社会発展論(近代化論)を「社会分業論」として受け継ぎ、分業による連帯を「社会的事実の機能的なメカニズム」によるものとして説明する機能主義的な社会システム論を創始した。さらにデュルケームは、実証主義の伝統を継承し、自然科学の方法を社会科学へと拡大することを「社会学的方法の規準」の根底に据えた。しかし、実証主義は自然科学に対抗するような人文社会科学の方法論を打ち立てるものではなく、社会学の中心思想になることなく、ウェーバー、ジンメル、さらに後にはタルコット・パーソンズらによって数々の批判を受けることになる。 ウェーバーは前世代の近代化論を「資本主義の精神」の理論として受け継ぎ、ジンメルは「社会分化」の理論として受け継いだ。両者は、ドイツ哲学の伝統に則り(自然科学一元論ではなく)新カント派的科学方法論に依拠し、方法論的個人主義を創始した。すなわち、ウェーバーの場合には理解社会学による行為理論を打ち立て、ジンメルの場合は、後のシンボリック相互作用論につながる形式社会学と生の哲学の視点から関係論的定式化を行ない、マクロ客観主義の限界を乗り越える方向へ進んだのである。 こうした、実証主義の伝統を引き継いだデュルケムの方法論的集合主義(社会実在論=社会的事実)と、主にウェーバーによる方法論的個人主義(社会唯名論)との対立は、後に、「社会システムの社会学」(マクロ社会学)と「社会的行為の社会学」(ミクロ社会学)として引き継がれることになった。また、社会学の認識については、価値自由のルールにのっとったものであるべきか、それとも「精神科学」の伝統に準拠した人文学的性格のものであるべきかという、実証主義と反実証主義の対立が生まれた。更にはこれも後に、たとえば、批判理論と構造主義的マルクス主義のアプローチとして繰り返されることになった。 日本では加藤弘之、外山正一、有賀長雄、建部遯吾らが社会学を輸入した。当初は役人の中に社会学反対論もあったが、山県有朋が「建部がやっているのか、それならいいじゃないか」といって潰れずに済んだという逸話がある。 20世紀初頭まではヨーロッパにおいて社会学の主潮が形成されていたが、第一次世界大戦後にはアメリカ合衆国において顕著な展開を見せるようになり、やがてプラグマティックな社会学研究の中心として発展を遂げていくことになった。 アメリカ社会学が社会学研究の中心的地位を築き上げていく背景には、19世紀末から20世紀初頭にかけての急激な経済・社会の変化があった。南北戦争から第一次世界大戦へ至る半世紀の間にアメリカ産業は急ピッチな発展を遂げ、それに伴って都市化が進行し、民衆の生活様式も大きく変わっていった。このような大きく変貌を遂げるアメリカ社会の実態を捉えることが、社会学の課題として要請されるようになっていったのである。 当初、アメリカの社会学は、1893年に創設されたシカゴ大学を中心に、人種・移民をめぐる問題、犯罪、非行、労働問題、地域的コミュニティの変貌などの現象的な側面を実証的に解明する社会心理学や都市社会学が興隆していった。アルビオン・スモール、ウィリアム・トマス、ジョージ・ハーバート・ミード、ロバート・E・パーク、アーネスト・バージェス、ルイス・ワースら、有能な研究者たちの活躍によって、1920~30年代にシカゴ大学は、アメリカの学会において強い影響力を及ぼすようになり、シカゴ学派と呼ばれる有力な研究者グループを形成するまでになった。 ヨーロッパの社会学は観念的・方法論的側面を重視する傾向が強かったが、アメリカ社会学は現実の問題を解決する方向性を示すという実践的側面が強くみられる。この点は、実際的な有用性を重視するプラグマティズムの精神的な伝統によるところが大きく、また、前述のような社会的要請もあって、地域社会や家族などの具体的な対象を研究する個別科学としての傾向を持つようになった。 さらに、第二次世界大戦後のアメリカでは、タルコット・パーソンズやロバート・キング・マートンらによる機能主義が提唱され、社会学全体に大きな影響を及ぼした。とくにパーソンズの構造機能主義社会学は、社会学における統一理論を築き上げる意図を持って提起され、多くの社会学者に影響を与え、20世紀半ばにおける「主流を成す見解」と目されるに至った。これは分野の統一、体系化が実現するかに見えた社会学の稀有な時期であるとされる。 しかしパーソンズの理論は、その科学論的・政治思想的な構想があまりに遠大かつ複雑であったことから、正しく評価されていなかったともされており、また、合理的選択論のケネス・アローらが指摘するところによれば、パーソンズ自身が掲げた要求にしたがった理論形成もなされていなかった。パーソンズの社会システム論は、結局、統一理論構築にまではいたらず、以下に見るような、主にミクロ・レベルの視点に立った理論がさまざまな立場から提唱されるようになった。 第一次世界大戦、第二次世界大戦の惨禍を眼前にしたヨーロッパ社会学では、理性信仰の崩壊とともに、西洋近代社会の構成原理そのものへの反省が生まれていた。そこで、旧来の社会学における機能主義の流れとは別に、ドイツでは、テオドール・アドルノやユルゲン・ハーバーマスに代表されるフランクフルト学派の批判理論、フランスでは、ルイ・アルチュセールらの構造主義的マルクス主義、ミシェル・フーコーの権力論が展開された。 これらの動きとともに、後期近代化への動きを背景として脱産業化論、紛争理論などが唱えられ、1960年代末には機能主義からの離反が決定的なものとなる。こうして、いわゆるミニ・パラダイム(この語法は本来は誤りである)の乱立と称される時代を迎える。以上の理論の他に、日常世界への着目から、シンボリック相互作用論、現象学的社会学、エスノメソドロジー、ピエール・ブルデューの社会学などが影響力を持つようになるとともに、ジェームズ・コールマンら方法論的個人主義の立場からは合理的選択理論なども唱えられるようになり、社会学が多様化し、研究対象となる領域も、たとえばジェンダーの社会学といった具合にさまざまに分化し拡大した。 ただし、この多様化によって、同時に社会学というディシプリン内部での対話の共通基盤が失われることにもなった。上述のように「社会学」とは実証主義を最重視する学問という歴史的文脈が忘却されると、機能主義に対するカウンターとしての意義をもった諸ミニパラダイムは逆に混迷を深めた。一方で、(クーンが本来意図した意味での)パラダイム、すなわち経験的統計データに基づく調査研究は疑問視されることなく確立していったが、他方でかかる研究のよって立つべき思想・視点、つまりは社会学の独自性とは何なのかという問題が問われることにもなった。 1990年代に日本の出版業界が経営難で取材費を出せなくなり、その隙間を埋めたのが出版社側が取材費を出さないでも書いてくれる大学に所属する若手研究者であった。2010年代には、アカデミックの学者がルポライターやジャーナリスト的な書籍を相次いで出版した。例として、上野千鶴子の存在がある。 京都大学大学院文学研究科教授の社会学者である太郎丸博は、以前から著書などで学会報告や学会誌などアカデミズムを軽視している日本の社会学の研究者・教授・学界そのものを批判している。太郎丸は「日本社会学学者らは学会誌への論文・投稿学会で自身の研究を発表せず、(社会)学者づらして本を出版したり、さまざまなメディアで発言することができる」のが実状だと指摘、「先生」扱いされる日本の社会学者らは他者からの意見の異なる人から批判的な批評されるのを恐れて、同じ政治思想をもつ身内以外の第三者から査読を受けない上に、批判や指摘がされる学会誌には必ず投稿しないと批判している。 彼が調査したところ、2000-2008年までの日本における社会学論文誌(社会学者による査読がある論文誌)における執筆者の身分割合は、社会学者の中でも不安定な身分である「学生・非常勤」が56%なのに対して、教授等が僅か17%であった。また「学生・非常勤」と「教授等」の間の身分である「助手や研究員」の社会学論文誌における執筆者割合は24%であり、安定した身分を得る程に、査読論文を書いている比率は減っていく。査読(peer review)とは本来専門分野を同じくする研究中の学者同士で行うモノであるが、現状は安定した地位にいて論文を書かない人たちが、不安定な身分だが研究中の学者の論文を審査するようになっていると指摘している。太郎丸は、日本の社会学者は査読されることを不愉快に感じているため、査読論文を書かずに一般書や紀要にばかり投稿するのだと指摘している。 更に太郎丸は、売上しか気にしない出版社やメディアも、自分たちが好む主張をしている「社会学者」を、研究の水準や主張の真偽も確認しないで採用している問題も指摘している。太郎丸によれば、彼らを見て育った大学院生たちも、彼らのように学会報告や学会誌というアカデミズムを軽視し、本に好き勝手なことを書くことやメディア出演ばかりの学者であることを、「社会学者」「社会学者としての理想・成功例」だと誤解するのだと指摘している。そのため、研究成果をほとんど出さない人が日本の社会学者の多数になっていて、マスメディア出演の多い学者の大多数は研究成果が実質ない、又はメディア出演以降は客観的に価値がある研究がないに等しい人ばかりだという。意見の異なる社会学者同士の議論が日本の社会学界には皆無と言えるほど、とも述べている。 日本学術振興会によると、国際的な社会学誌での日本人の論文掲載率および被引用率は学者数比で極端に少なく、国際的に価値があるとされる学者が皆無に近いことが否めない。つまり、日本国内で社会学者として高く評価されている人物が、国際的には評価されておらず、日本の社会学が一切国際化してないと指摘されている。 2021年立教大学社会学部社会学科教授の村瀬洋一は、昨今の社会学は測定や分析に失敗しており、信頼出来ないような「質的調査」、直感での分析や構築主義などの解釈や印象批評に逃げていると批判している。彼は構築主義などについて、「具体的な測定法や分析法を作ることができなかった学問」と指摘している。昨今の社会学は社会を正確に研究出来ておらず、「記述的社会調査(質的社会調査)」の多数が偏ったデータで「木を見て森を見ず」の不適切な研究であること、的確な測定法と分析法がない状態で「研究」していると批判している。 1995年にニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルが、フランスから流入して米国に1980年代以降蔓延しだしたポストモダン思想を批判するために、ポストモダン専門の学術誌にデタラメ論文を掲載させ、ポストモダンという「学術分野」自体が無内容で無価値であることを証明しようとした。彼は、ジャック・デリダやドゥルーズ=ガタリなどのポストモダン思想の哲学者や社会学者達の文体を模倣し、「真なる専門家や学者」なら科学用語と数式を無意味や虚偽と分かるように混ぜた「デタラメ論文」を投稿した。狙い通り、ポストモダン学者は「査読」し、高評価を与え、彼らの学術誌に掲載した。 これを受けて、ソーカルがデタラメ論文であったと暴露すると人文科学(人文学)界隈の大きなスキャンダルになった。ソーカルは『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』を出版した。 そして、ソーカルはポストモダン思想を「内実のない言葉遊び(言語遊戯)」だと指摘したが 、ソーカル事件事件直後の予想を反して、ポストモダン思想は滅びず、逆に影響力を増した。そしてポストモダン思想は「社会正義の恫喝」へと変容し、欧米では2010年代からポストモダン思想的な「社会正義」が過激化するようになり、社会問題になっている。 社会学は、社会科学の分野の中でも心理学、経済学等共に、自然科学との比較で用語の定義が曖昧かつ研究の再現性も低い問題が指摘されている。そのため、アメリカ合衆国国立衛生研究所(NIH)は一部の社会科学分野の現状の是正の方向性を示す戦略を発表した。 2017年から2018年に数人の研究者らが、学術の世界が一般人の知らないことを良いことに社会学等の人文系が特に異様な状態となっていることを拡散するために、社会正義界隈で著名な査読付き学術誌にデタラメ論文を投稿する「実験」を新たに行なった。彼らは、「客観的事実よりも社会的不平等に対する不満を優先し、特定の結論のみが許容される学術分野」を「不満研究(グリーバンス・スタディーズ)」と命名した。そして、彼らが「学問として貧弱であり、査読基準が腐敗している」と考えていた学術分野である、文化・クィア・人種・ジェンダー・肥満研究・セクシュアリティ研究を専門とするの学術誌にデタラメなおとり論文を投稿し、これらの「専門家」の査読を通過し、認められるかどうかを試す実験がされた。 狙い通り、一年間で書いた20本のデタラメ論文のいくつかは査読担当の社会学者らに絶賛された。そして、通常ならば7年間で評価されるテニュア(高等教育機関の終身在職権)獲得には充分な「7つの査読論文実績」をわずか一年だけで獲得した。出著者たちは、獲得後にコレを暴露し、社会学の実態を批判する自分たちの主張の裏付けとした。これは「第二のソーカル事件」又は「不満研究事件」と呼ばれる。 ジョンズ・ホプキンズ大学のヤシャ・モンクは、「左派と学者の間で引き出された部族的な連帯の量」を指摘し、暴露後の彼らの反応の多くが著者らに対する純粋な人身攻撃だけであり、おとり論文で判明した「(これらの分野の査読や内容自体に)実際の問題があることを事実として認識した人はほとんどいない」「ジェンダー研究のような分野の主要なジャーナルのいくつかは、真正な学問と、知的に空虚で倫理的なデタラメを区別できなかった」という事実も指摘した。 日本では「シニカルな理論: アクティビスト(活動家)の学問はどのようにして人種、ジェンダー、アイデンティティについての全てのをつくりあげ、何故これが全ての人に害をなすのか(原題:Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything about Race, Gender, and Identity - And Why this Harms Everybody、邦題:『「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』)」という本が翻訳されて紹介された。 現実の社会からデータを取る手法として、さまざまな方法が考えられている。主として社会調査が用いられるが、これは社会で起きている事象についての調査全般(アンケートやインタビューなど)を指す。社会調査から得られたデータから考察や自身の仮説の検証を行う。 「社会階層と社会移動全国調査」(SSM調査)や、家族社会学会による調査など、社会学者による大規模な調査も存在する。統計数理研究所による日本人の国民性調査や、日本版総合社会調査(JGSS調査)なども存在する。SSM調査の成果は、米国で数冊の本が出版された他、韓国や中国でも翻訳が出版されており、国際的にも高く評価されている。例えば原純輔・盛山和夫による『社会階層』は韓国、中国、米国で出版されている。 ただし、前述のように構築主義的な立場であったり、偏ったデータで「木を見て森を見ず」の不適切又は、測定法と分析法が適切ではない状態で「研究」している「社会調査」には批判が寄せられている。
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"このコントの思想は、その師であるサン・シモンに遡る。サン・シモンは、自然科学の方法を用いて社会的世界を全体的かつ統一的に説明する「社会生理学」の樹立を企てた。このなかで、サン・シモンは、フランス革命後の新社会の秩序を捉えるべく、その社会変動の流れを「産業主義」として提示した。ここからコントはさらに、近代社会の構成原理として実証主義を提示し、産業ではなく科学をその中心に据えることになった。そしてその中心に社会学を位置づけたのである。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "コントらの発想は、ジョン・スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサーなどに受け継がれ、実証主義の体系化が図られていった。例えば、スペンサーは、イギリス功利主義の考えと、彼独自の進化論に基づいて、有機体システムとのアナロジーによって社会を超有機的「システム」と捉え、後の社会システム理論の先駆となる研究を行なった。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "実証主義の潮流のなかで始まった社会学であるが、19世紀末から20世紀にかけて、カール・マルクス、マックス・ウェーバー、エミール・デュルケーム、ゲオルク・ジンメル、ヴィルフレド・パレートらが、さまざまな立場から相次いで研究著作を発表した。その方法論、キー概念などは、形を変えながらその後の社会学に引き継がれており、この時期は、社会学の古典的理論の形成期にあたる。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "デュルケームは、コントらの社会発展論(近代化論)を「社会分業論」として受け継ぎ、分業による連帯を「社会的事実の機能的なメカニズム」によるものとして説明する機能主義的な社会システム論を創始した。さらにデュルケームは、実証主義の伝統を継承し、自然科学の方法を社会科学へと拡大することを「社会学的方法の規準」の根底に据えた。しかし、実証主義は自然科学に対抗するような人文社会科学の方法論を打ち立てるものではなく、社会学の中心思想になることなく、ウェーバー、ジンメル、さらに後にはタルコット・パーソンズらによって数々の批判を受けることになる。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ウェーバーは前世代の近代化論を「資本主義の精神」の理論として受け継ぎ、ジンメルは「社会分化」の理論として受け継いだ。両者は、ドイツ哲学の伝統に則り(自然科学一元論ではなく)新カント派的科学方法論に依拠し、方法論的個人主義を創始した。すなわち、ウェーバーの場合には理解社会学による行為理論を打ち立て、ジンメルの場合は、後のシンボリック相互作用論につながる形式社会学と生の哲学の視点から関係論的定式化を行ない、マクロ客観主義の限界を乗り越える方向へ進んだのである。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "こうした、実証主義の伝統を引き継いだデュルケムの方法論的集合主義(社会実在論=社会的事実)と、主にウェーバーによる方法論的個人主義(社会唯名論)との対立は、後に、「社会システムの社会学」(マクロ社会学)と「社会的行為の社会学」(ミクロ社会学)として引き継がれることになった。また、社会学の認識については、価値自由のルールにのっとったものであるべきか、それとも「精神科学」の伝統に準拠した人文学的性格のものであるべきかという、実証主義と反実証主義の対立が生まれた。更にはこれも後に、たとえば、批判理論と構造主義的マルクス主義のアプローチとして繰り返されることになった。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本では加藤弘之、外山正一、有賀長雄、建部遯吾らが社会学を輸入した。当初は役人の中に社会学反対論もあったが、山県有朋が「建部がやっているのか、それならいいじゃないか」といって潰れずに済んだという逸話がある。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "20世紀初頭まではヨーロッパにおいて社会学の主潮が形成されていたが、第一次世界大戦後にはアメリカ合衆国において顕著な展開を見せるようになり、やがてプラグマティックな社会学研究の中心として発展を遂げていくことになった。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アメリカ社会学が社会学研究の中心的地位を築き上げていく背景には、19世紀末から20世紀初頭にかけての急激な経済・社会の変化があった。南北戦争から第一次世界大戦へ至る半世紀の間にアメリカ産業は急ピッチな発展を遂げ、それに伴って都市化が進行し、民衆の生活様式も大きく変わっていった。このような大きく変貌を遂げるアメリカ社会の実態を捉えることが、社会学の課題として要請されるようになっていったのである。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当初、アメリカの社会学は、1893年に創設されたシカゴ大学を中心に、人種・移民をめぐる問題、犯罪、非行、労働問題、地域的コミュニティの変貌などの現象的な側面を実証的に解明する社会心理学や都市社会学が興隆していった。アルビオン・スモール、ウィリアム・トマス、ジョージ・ハーバート・ミード、ロバート・E・パーク、アーネスト・バージェス、ルイス・ワースら、有能な研究者たちの活躍によって、1920~30年代にシカゴ大学は、アメリカの学会において強い影響力を及ぼすようになり、シカゴ学派と呼ばれる有力な研究者グループを形成するまでになった。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの社会学は観念的・方法論的側面を重視する傾向が強かったが、アメリカ社会学は現実の問題を解決する方向性を示すという実践的側面が強くみられる。この点は、実際的な有用性を重視するプラグマティズムの精神的な伝統によるところが大きく、また、前述のような社会的要請もあって、地域社会や家族などの具体的な対象を研究する個別科学としての傾向を持つようになった。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "さらに、第二次世界大戦後のアメリカでは、タルコット・パーソンズやロバート・キング・マートンらによる機能主義が提唱され、社会学全体に大きな影響を及ぼした。とくにパーソンズの構造機能主義社会学は、社会学における統一理論を築き上げる意図を持って提起され、多くの社会学者に影響を与え、20世紀半ばにおける「主流を成す見解」と目されるに至った。これは分野の統一、体系化が実現するかに見えた社会学の稀有な時期であるとされる。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかしパーソンズの理論は、その科学論的・政治思想的な構想があまりに遠大かつ複雑であったことから、正しく評価されていなかったともされており、また、合理的選択論のケネス・アローらが指摘するところによれば、パーソンズ自身が掲げた要求にしたがった理論形成もなされていなかった。パーソンズの社会システム論は、結局、統一理論構築にまではいたらず、以下に見るような、主にミクロ・レベルの視点に立った理論がさまざまな立場から提唱されるようになった。", "title": "誕生・実証主義や機能主義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦、第二次世界大戦の惨禍を眼前にしたヨーロッパ社会学では、理性信仰の崩壊とともに、西洋近代社会の構成原理そのものへの反省が生まれていた。そこで、旧来の社会学における機能主義の流れとは別に、ドイツでは、テオドール・アドルノやユルゲン・ハーバーマスに代表されるフランクフルト学派の批判理論、フランスでは、ルイ・アルチュセールらの構造主義的マルクス主義、ミシェル・フーコーの権力論が展開された。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "これらの動きとともに、後期近代化への動きを背景として脱産業化論、紛争理論などが唱えられ、1960年代末には機能主義からの離反が決定的なものとなる。こうして、いわゆるミニ・パラダイム(この語法は本来は誤りである)の乱立と称される時代を迎える。以上の理論の他に、日常世界への着目から、シンボリック相互作用論、現象学的社会学、エスノメソドロジー、ピエール・ブルデューの社会学などが影響力を持つようになるとともに、ジェームズ・コールマンら方法論的個人主義の立場からは合理的選択理論なども唱えられるようになり、社会学が多様化し、研究対象となる領域も、たとえばジェンダーの社会学といった具合にさまざまに分化し拡大した。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただし、この多様化によって、同時に社会学というディシプリン内部での対話の共通基盤が失われることにもなった。上述のように「社会学」とは実証主義を最重視する学問という歴史的文脈が忘却されると、機能主義に対するカウンターとしての意義をもった諸ミニパラダイムは逆に混迷を深めた。一方で、(クーンが本来意図した意味での)パラダイム、すなわち経験的統計データに基づく調査研究は疑問視されることなく確立していったが、他方でかかる研究のよって立つべき思想・視点、つまりは社会学の独自性とは何なのかという問題が問われることにもなった。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1990年代に日本の出版業界が経営難で取材費を出せなくなり、その隙間を埋めたのが出版社側が取材費を出さないでも書いてくれる大学に所属する若手研究者であった。2010年代には、アカデミックの学者がルポライターやジャーナリスト的な書籍を相次いで出版した。例として、上野千鶴子の存在がある。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "京都大学大学院文学研究科教授の社会学者である太郎丸博は、以前から著書などで学会報告や学会誌などアカデミズムを軽視している日本の社会学の研究者・教授・学界そのものを批判している。太郎丸は「日本社会学学者らは学会誌への論文・投稿学会で自身の研究を発表せず、(社会)学者づらして本を出版したり、さまざまなメディアで発言することができる」のが実状だと指摘、「先生」扱いされる日本の社会学者らは他者からの意見の異なる人から批判的な批評されるのを恐れて、同じ政治思想をもつ身内以外の第三者から査読を受けない上に、批判や指摘がされる学会誌には必ず投稿しないと批判している。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "彼が調査したところ、2000-2008年までの日本における社会学論文誌(社会学者による査読がある論文誌)における執筆者の身分割合は、社会学者の中でも不安定な身分である「学生・非常勤」が56%なのに対して、教授等が僅か17%であった。また「学生・非常勤」と「教授等」の間の身分である「助手や研究員」の社会学論文誌における執筆者割合は24%であり、安定した身分を得る程に、査読論文を書いている比率は減っていく。査読(peer review)とは本来専門分野を同じくする研究中の学者同士で行うモノであるが、現状は安定した地位にいて論文を書かない人たちが、不安定な身分だが研究中の学者の論文を審査するようになっていると指摘している。太郎丸は、日本の社会学者は査読されることを不愉快に感じているため、査読論文を書かずに一般書や紀要にばかり投稿するのだと指摘している。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "更に太郎丸は、売上しか気にしない出版社やメディアも、自分たちが好む主張をしている「社会学者」を、研究の水準や主張の真偽も確認しないで採用している問題も指摘している。太郎丸によれば、彼らを見て育った大学院生たちも、彼らのように学会報告や学会誌というアカデミズムを軽視し、本に好き勝手なことを書くことやメディア出演ばかりの学者であることを、「社会学者」「社会学者としての理想・成功例」だと誤解するのだと指摘している。そのため、研究成果をほとんど出さない人が日本の社会学者の多数になっていて、マスメディア出演の多い学者の大多数は研究成果が実質ない、又はメディア出演以降は客観的に価値がある研究がないに等しい人ばかりだという。意見の異なる社会学者同士の議論が日本の社会学界には皆無と言えるほど、とも述べている。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本学術振興会によると、国際的な社会学誌での日本人の論文掲載率および被引用率は学者数比で極端に少なく、国際的に価値があるとされる学者が皆無に近いことが否めない。つまり、日本国内で社会学者として高く評価されている人物が、国際的には評価されておらず、日本の社会学が一切国際化してないと指摘されている。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2021年立教大学社会学部社会学科教授の村瀬洋一は、昨今の社会学は測定や分析に失敗しており、信頼出来ないような「質的調査」、直感での分析や構築主義などの解釈や印象批評に逃げていると批判している。彼は構築主義などについて、「具体的な測定法や分析法を作ることができなかった学問」と指摘している。昨今の社会学は社会を正確に研究出来ておらず、「記述的社会調査(質的社会調査)」の多数が偏ったデータで「木を見て森を見ず」の不適切な研究であること、的確な測定法と分析法がない状態で「研究」していると批判している。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1995年にニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルが、フランスから流入して米国に1980年代以降蔓延しだしたポストモダン思想を批判するために、ポストモダン専門の学術誌にデタラメ論文を掲載させ、ポストモダンという「学術分野」自体が無内容で無価値であることを証明しようとした。彼は、ジャック・デリダやドゥルーズ=ガタリなどのポストモダン思想の哲学者や社会学者達の文体を模倣し、「真なる専門家や学者」なら科学用語と数式を無意味や虚偽と分かるように混ぜた「デタラメ論文」を投稿した。狙い通り、ポストモダン学者は「査読」し、高評価を与え、彼らの学術誌に掲載した。 これを受けて、ソーカルがデタラメ論文であったと暴露すると人文科学(人文学)界隈の大きなスキャンダルになった。ソーカルは『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』を出版した。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "そして、ソーカルはポストモダン思想を「内実のない言葉遊び(言語遊戯)」だと指摘したが 、ソーカル事件事件直後の予想を反して、ポストモダン思想は滅びず、逆に影響力を増した。そしてポストモダン思想は「社会正義の恫喝」へと変容し、欧米では2010年代からポストモダン思想的な「社会正義」が過激化するようになり、社会問題になっている。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "社会学は、社会科学の分野の中でも心理学、経済学等共に、自然科学との比較で用語の定義が曖昧かつ研究の再現性も低い問題が指摘されている。そのため、アメリカ合衆国国立衛生研究所(NIH)は一部の社会科学分野の現状の是正の方向性を示す戦略を発表した。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2017年から2018年に数人の研究者らが、学術の世界が一般人の知らないことを良いことに社会学等の人文系が特に異様な状態となっていることを拡散するために、社会正義界隈で著名な査読付き学術誌にデタラメ論文を投稿する「実験」を新たに行なった。彼らは、「客観的事実よりも社会的不平等に対する不満を優先し、特定の結論のみが許容される学術分野」を「不満研究(グリーバンス・スタディーズ)」と命名した。そして、彼らが「学問として貧弱であり、査読基準が腐敗している」と考えていた学術分野である、文化・クィア・人種・ジェンダー・肥満研究・セクシュアリティ研究を専門とするの学術誌にデタラメなおとり論文を投稿し、これらの「専門家」の査読を通過し、認められるかどうかを試す実験がされた。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "狙い通り、一年間で書いた20本のデタラメ論文のいくつかは査読担当の社会学者らに絶賛された。そして、通常ならば7年間で評価されるテニュア(高等教育機関の終身在職権)獲得には充分な「7つの査読論文実績」をわずか一年だけで獲得した。出著者たちは、獲得後にコレを暴露し、社会学の実態を批判する自分たちの主張の裏付けとした。これは「第二のソーカル事件」又は「不満研究事件」と呼ばれる。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ジョンズ・ホプキンズ大学のヤシャ・モンクは、「左派と学者の間で引き出された部族的な連帯の量」を指摘し、暴露後の彼らの反応の多くが著者らに対する純粋な人身攻撃だけであり、おとり論文で判明した「(これらの分野の査読や内容自体に)実際の問題があることを事実として認識した人はほとんどいない」「ジェンダー研究のような分野の主要なジャーナルのいくつかは、真正な学問と、知的に空虚で倫理的なデタラメを区別できなかった」という事実も指摘した。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本では「シニカルな理論: アクティビスト(活動家)の学問はどのようにして人種、ジェンダー、アイデンティティについての全てのをつくりあげ、何故これが全ての人に害をなすのか(原題:Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything about Race, Gender, and Identity - And Why this Harms Everybody、邦題:『「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』)」という本が翻訳されて紹介された。", "title": "機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "現実の社会からデータを取る手法として、さまざまな方法が考えられている。主として社会調査が用いられるが、これは社会で起きている事象についての調査全般(アンケートやインタビューなど)を指す。社会調査から得られたデータから考察や自身の仮説の検証を行う。", "title": "社会調査" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "「社会階層と社会移動全国調査」(SSM調査)や、家族社会学会による調査など、社会学者による大規模な調査も存在する。統計数理研究所による日本人の国民性調査や、日本版総合社会調査(JGSS調査)なども存在する。SSM調査の成果は、米国で数冊の本が出版された他、韓国や中国でも翻訳が出版されており、国際的にも高く評価されている。例えば原純輔・盛山和夫による『社会階層』は韓国、中国、米国で出版されている。", "title": "社会調査" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ただし、前述のように構築主義的な立場であったり、偏ったデータで「木を見て森を見ず」の不適切又は、測定法と分析法が適切ではない状態で「研究」している「社会調査」には批判が寄せられている。", "title": "社会調査" } ]
社会学は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を体験・統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である。 フランスのオーギュスト・コントが産み出した学問で、当時は歴史学・心理学・経済学を統合する実証主義的な科学的研究として「社会物理学」と定義した。 初期の社会学に対する社会学者の方法論的アプローチは、社会学を自然科学と同じやり方で扱うもののみであった。しかし、19世紀に機能主義から離反した社会学が登場し、後にそれが主流となった。 あらゆる社会・営みの中に法則性を探るという自由度の高く、「社会学的な視点で研究できるもの」ならば全てを「○○社会学」といった研究対象とすることが可能である。人文社会科学又は社会科学に分類される。現代では、社会科学の中でも用語の定義が曖昧かつ研究の再現性も低い問題が指摘されている分野の一つである。
{{混同|社会科学}} '''社会学'''(しゃかいがく、{{lang-fr-short|sociologie}}、英:Sociology)は、[[社会現象]]の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム([[因果性|因果関係]])を体験・統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://sociology.jugem.jp/?eid=277|title=阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望 {{!}} [[太郎丸博]]Theoretical Sociology|accessdate=2018-10-08|website=Theoretical Sociology|publisher=|language=ja-JP}}</ref><ref>人文・社会科学のためのカテゴリカル・データ解析入門p18 2005 太郎丸博</ref>。 フランスの[[オーギュスト・コント]]が産み出した学問で、当時は歴史学・心理学・経済学を統合する[[実証主義]]的な科学的研究として「'''社会物理学'''」と定義した<ref name=":1" />。 初期の社会学に対する社会学者の方法論的アプローチは、社会学を自然科学と同じやり方で扱うもののみであった。しかし、[[19世紀]]に機能主義から離反した社会学が登場し、後にそれが主流となった<ref>shley D, Orenstein DM (2005). Sociological theory: Classical statements (6th ed.). Boston, MA, USA: Pearson Education. pp. 94–98, 100–104</ref>。 あらゆる社会・営みの中に法則性を探るという[[自由度 (ゲーム)|自由度]]の高く、「社会学的な視点で研究できるもの」ならば全てを「○○社会学」といった研究対象とすることが可能である<ref>{{Cite web|和書|title=社会学とは|大学・専門学校のマイナビ進学 |url=https://shingaku.mynavi.jp/future/gakumon/18/ |website=マイナビ進学 |access-date=2023-09-03 |language=ja}}</ref>。[[人文社会科学研究科|人文社会科学]]又は社会科学に分類される<ref>バウマン社会理論の射程 ポストモダニティと倫理 - p268 中島道男 ,2009</ref><ref name=":3">{{Cite web|和書|title=「社会科学」は崩壊した。米国の新たな指針は救いとなるか? |url=https://wired.jp/2017/02/20/nih-plan-social-science/ |website=WIRED.jp |date=2017-02-20 |access-date=2023-09-03 |language=ja-JP |first=Condé |last=Nast}}</ref>。現代では、社会科学の中でも用語の定義が曖昧かつ[[研究の再現性]]も低い問題が指摘されている分野の一つである<ref>{{Cite web|和書|title=「社会科学」は崩壊した。米国の新たな指針は救いとなるか? |url=https://wired.jp/2017/02/20/nih-plan-social-science/ |website=WIRED.jp |date=2017-02-20 |access-date=2023-09-03 |language=ja-JP |first=Condé |last=Nast}}</ref>。 == 誕生・実証主義や機能主義 == {{main|社会学史}} === 誕生と定義付け・実証主義の最重視 === [[ファイル:Auguste Comte.jpg|thumb|150px|[[オーギュスト・コント]]]] 社会学(フランス語「{{lang|fr|sociologie}}」はラテン語「{{lang|en|socius}}」とギリシャ語「{{lang|el|λογοσ}}」に由来する造語)なる用語は、[[フランス革命]]後の混乱と動乱に満ちた初期近代フランスを生きた[[オーギュスト・コント]]によって作られた。コントは、当時の産業主義と[[合理主義哲学|合理主義]]を背景として、社会学とは「'''秩序と進歩」に寄与する「社会物理学」であって、'''歴史学、心理学、経済学を統合する'''[[実証主義]]的な科学的研究'''でなければならないとした<ref name=":1">清水 (1978) などを参照のこと。</ref>。 このコントの思想は、その師である[[アンリ・ド・サン=シモン|サン・シモン]]に遡る。サン・シモンは、自然科学の方法を用いて社会的世界を全体的かつ統一的に説明する「社会生理学」の樹立を企てた。このなかで、サン・シモンは、フランス革命後の新社会の秩序を捉えるべく、その社会変動の流れを「産業主義」として提示した<ref>富永(2008: 31-68)</ref>。ここからコントはさらに、近代社会の構成原理として実証主義を提示し、産業ではなく[[科学]]をその中心に据えることになった。そしてその中心に社会学を位置づけたのである<ref>富永 (2008: 73-107)</ref>。 コントらの発想は、[[ジョン・スチュアート・ミル]]、[[ハーバート・スペンサー]]などに受け継がれ、実証主義の体系化が図られていった。例えば、スペンサーは、イギリス功利主義の考えと、彼独自の[[進化論]]に基づいて、[[有機体]]システムとのアナロジーによって社会を超有機的「システム」と捉え、後の[[社会システム理論]]の先駆となる研究を行なった<ref>富永 (2008: 185-216)</ref>。 === 古典的理論の形成 === [[ファイル:Max Weber 1894.jpg|thumb|left|150px|[[マックス・ヴェーバー]]]] 実証主義の潮流のなかで始まった社会学であるが、19世紀末から20世紀にかけて、[[カール・マルクス]]、[[マックス・ウェーバー]]、[[エミール・デュルケーム]]、[[ゲオルク・ジンメル]]、[[ヴィルフレド・パレート]]らが、さまざまな立場から相次いで研究著作を発表した。その方法論、キー概念などは、形を変えながらその後の社会学に引き継がれており、この時期は、社会学の古典的理論の形成期にあたる。 [[ファイル:Emile_Durkheim.jpg|thumb|150px|right|[[エミール・デュルケーム]]]] [[ファイル:Simmel 01.JPG|thumb|right|150px|[[ゲオルク・ジンメル]]]] デュルケームは、コントらの社会発展論(近代化論)を「[[社会分業論]]」として受け継ぎ、分業による連帯を「社会的事実の機能的なメカニズム」によるものとして説明する機能主義的な社会システム論を創始した。さらにデュルケームは、実証主義の伝統を継承し、自然科学の方法を社会科学へと拡大することを「社会学的方法の規準」の根底に据えた。しかし、実証主義は自然科学に対抗するような人文社会科学の方法論を打ち立てるものではなく、社会学の中心思想になることなく、ウェーバー、ジンメル、さらに後には[[タルコット・パーソンズ]]らによって数々の批判を受けることになる。 ウェーバーは前世代の近代化論を「資本主義の精神」の理論として受け継ぎ、ジンメルは「[[社会分化]]」の理論として受け継いだ。両者は、ドイツ哲学の伝統に則り(自然科学一元論ではなく)[[新カント派]]的科学方法論に依拠し、方法論的個人主義を創始した。すなわち、ウェーバーの場合には[[理解社会学]]による行為理論を打ち立て、ジンメルの場合は、後の[[シンボリック相互作用論]]につながる[[形式社会学]]と[[生の哲学]]の視点から関係論的定式化を行ない、マクロ客観主義の限界を乗り越える方向へ進んだのである。 こうした、実証主義の伝統を引き継いだデュルケムの'''方法論的集合主義'''(社会実在論=社会的事実)と、主にウェーバーによる[[方法論的個人主義]](社会唯名論)との対立は、後に、「社会システムの社会学」(マクロ社会学)と「社会的行為の社会学」(ミクロ社会学)として引き継がれることになった。また、社会学の認識については、[[価値自由]]のルールにのっとったものであるべきか、それとも「[[精神科学]]」の伝統に準拠した[[人文学]]的性格のものであるべきかという、'''実証主義と反実証主義の対立'''が生まれた。更にはこれも後に、たとえば、[[批判理論]]と[[構造主義的マルクス主義]]のアプローチとして繰り返されることになった。 日本では[[加藤弘之]]、[[外山正一]]、[[有賀長雄]]、[[建部遯吾]]らが社会学を輸入した。当初は役人の中に社会学反対論もあったが、[[山県有朋]]が「建部がやっているのか、それならいいじゃないか」といって潰れずに済んだという逸話がある<ref>{{Cite journal|和書|author=猪原透 |date=2022-03 |url=https://doi.org/10.57269/antitled.1.0_59 |title=明治期の社会学と国際関係論 ―建部遯吾の対外観 |journal=Antitled |ISSN=2436-7672 |publisher=Antitled友の会 |volume=1 |pages=59-82 |doi=10.57269/antitled.1.0_59 |CRID=1390854717816079232}}</ref>。 === シカゴ学派の誕生 === [[ファイル:Mead-george-herbert.jpg|thumb|150px|left|[[ジョージ・ハーバート・ミード|G.H.ミード]]]] {{main|シカゴ学派 (社会学)}} 20世紀初頭まではヨーロッパにおいて社会学の主潮が形成されていたが、[[第一次世界大戦]]後には[[アメリカ合衆国]]において顕著な展開を見せるようになり、やがてプラグマティックな社会学研究の中心として発展を遂げていくことになった。 アメリカ社会学が社会学研究の中心的地位を築き上げていく背景には、[[19世紀]]末から[[20世紀]]初頭にかけての急激な経済・社会の変化があった。[[南北戦争]]から第一次世界大戦へ至る半世紀の間にアメリカ産業は急ピッチな発展を遂げ、それに伴って[[都市化]]が進行し、民衆の生活様式も大きく変わっていった。このような大きく変貌を遂げるアメリカ社会の実態を捉えることが、社会学の課題として要請されるようになっていったのである。 当初、アメリカの社会学は、1893年に創設された[[シカゴ大学]]を中心に、[[人種]]・[[移民]]をめぐる問題、[[犯罪]]、[[非行]]、労働問題、地域的コミュニティの変貌などの現象的な側面を実証的に解明する[[社会心理学]]や[[都市社会学]]が興隆していった。[[アルビオン・スモール]]、[[ウィリアム・アイザック・トマス|ウィリアム・トマス]]、[[ジョージ・ハーバート・ミード]]、[[ロバート・E・パーク]]、[[アーネスト・バージェス]]、[[ルイス・ワース]]ら、有能な研究者たちの活躍によって、1920~30年代にシカゴ大学は、アメリカの学会において強い影響力を及ぼすようになり、[[シカゴ学派 (社会学)|シカゴ学派]]と呼ばれる有力な研究者グループを形成するまでになった。 ヨーロッパの社会学は観念的・方法論的側面を重視する傾向が強かったが、アメリカ社会学は現実の問題を解決する方向性を示すという実践的側面が強くみられる。この点は、実際的な有用性を重視する[[プラグマティズム]]の精神的な伝統によるところが大きく、また、前述のような社会的要請もあって、[[地域社会]]や[[家族]]などの具体的な対象を研究する個別科学としての傾向を持つようになった。 === 機能主義社会学の台頭 === {{main|機能主義 (社会学)}} さらに、[[第二次世界大戦]]後のアメリカでは、[[タルコット・パーソンズ]]や[[ロバート・キング・マートン]]らによる機能主義が提唱され、社会学全体に大きな影響を及ぼした。とくにパーソンズの[[構造機能主義|構造機能主義社会学]]は、社会学における統一理論を築き上げる意図を持って提起され、多くの社会学者に影響を与え、20世紀半ばにおける「主流を成す見解」と目されるに至った。これは分野の統一、体系化が実現するかに見えた社会学の稀有な時期であるとされる。 しかしパーソンズの理論は、その科学論的・政治思想的な構想があまりに遠大かつ複雑であったことから、正しく評価されていなかったともされており、また、合理的選択論の[[ケネス・アロー]]らが指摘するところによれば、パーソンズ自身が掲げた要求にしたがった理論形成もなされていなかった。パーソンズの[[社会システム論]]は、結局、統一理論構築にまではいたらず、以下に見るような、主にミクロ・レベルの視点に立った理論がさまざまな立場から提唱されるようになった。 == 機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判== [[ファイル:JuergenHabermas.jpg|thumb|220px|[[ユルゲン・ハーバーマス]]]] ===1960年代末以降の機能主義からの離反・「社会学」の多様化=== [[第一次世界大戦]]、[[第二次世界大戦]]の惨禍を眼前にしたヨーロッパ社会学では、[[理性]]信仰の崩壊とともに、西洋近代社会の構成原理そのものへの反省が生まれていた。そこで、旧来の社会学における機能主義の流れとは別に、ドイツでは、[[テオドール・アドルノ]]や[[ユルゲン・ハーバーマス]]に代表される[[フランクフルト学派]]の[[批判理論]]、フランスでは、[[ルイ・アルチュセール]]らの[[構造主義的マルクス主義]]、[[ミシェル・フーコー]]の権力論が展開された。 これらの動きとともに、後期近代化への動きを背景として[[脱工業化社会|脱産業化]]論、[[紛争理論]]などが唱えられ、1960年代末には[[機能主義]]からの離反が決定的なものとなる。こうして、いわゆるミニ・[[パラダイム]](この語法は本来は誤りである)の乱立と称される時代を迎える。以上の理論の他に、日常世界への着目から、[[シンボリック相互作用論]]、[[現象学的社会学]]、[[エスノメソドロジー]]、[[ピエール・ブルデュー]]の社会学などが影響力を持つようになるとともに、[[ジェームズ・コールマン]]ら方法論的個人主義の立場からは[[合理的選択理論]]なども唱えられるようになり、社会学が多様化し、研究対象となる領域も、たとえば[[ジェンダーの社会学]]といった具合にさまざまに分化し拡大した。 ただし、この多様化によって、同時に社会学という[[ディシプリン]]内部での[[対話]]の共通基盤が失われることにもなった。上述のように「社会学」とは実証主義を最重視する学問という歴史的文脈が忘却されると、機能主義に対するカウンターとしての意義をもった諸ミニパラダイムは逆に混迷を深めた。一方で、([[トマス・クーン|クーン]]が本来意図した意味での)パラダイム、すなわち経験的統計データに基づく調査研究は疑問視されることなく確立していったが、他方でかかる研究のよって立つべき思想・視点、つまりは社会学の独自性とは何なのかという問題が問われることにもなった。 === 社会学におけるアカデミズム軽視・査読関連やメディアへの批判 === ====日本==== 1990年代に日本の出版業界が経営難で取材費を出せなくなり、その隙間を埋めたのが出版社側が取材費を出さないでも書いてくれる大学に所属する若手研究者であった。2010年代には、アカデミックの学者が[[ルポライター]]や[[ジャーナリスト]]的な書籍を相次いで出版した。例として、[[上野千鶴子]]の存在がある<ref>[https://note.com/toyamakoichi/n/n1f986423ed6e 『ゲンロン4』 「平成批評の諸問題 2001-2016」を読む|外山恒一|note]</ref>。 [[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都大学大学院文学研究科]]教授の社会学者である[[太郎丸博]]は、以前から著書などで学会報告や学会誌などアカデミズムを軽視している日本の社会学の研究者・教授・学界そのものを批判している。太郎丸は「日本社会学学者らは学会誌への論文・投稿学会で自身の研究を発表せず、(社会)学者づらして本を出版したり、さまざまなメディアで発言することができる」のが実状だと指摘、「先生」扱いされる日本の社会学者らは他者からの意見の異なる人から批判的な[[批評]]されるのを恐れて、同じ[[政治思想]]をもつ[[身内]]以外の第三者から[[査読]]を受けない上に、批判や指摘がされる学会誌には必ず投稿しないと批判している<ref name=":0" />。 彼が調査したところ、2000-2008年までの日本における[[社会学論文誌]](社会学者による査読がある論文誌)における執筆者の身分割合は、社会学者の中でも不安定な身分である「学生・非常勤」が56%なのに対して、教授等が僅か17%であった。また「学生・非常勤」と「教授等」の間の身分である「助手や研究員」の社会学論文誌における執筆者割合は24%であり、安定した身分を得る程に、査読論文を書いている比率は減っていく。査読(peer review)とは本来専門分野を同じくする'''研究中の学者同士'''で行うモノであるが、現状は安定した地位にいて論文を書かない人たちが、不安定な身分だが研究中の学者の論文を審査するようになっていると指摘している。太郎丸は、日本の社会学者は査読されることを不愉快に感じているため、査読論文を書かずに一般書や[[紀要]]にばかり投稿するのだと指摘している<ref>太郎丸博. (2010). [https://doi.org/10.14959/soshioroji.54.3_121 投稿論文の査読をめぐる不満とコンセンサスの不在.] ソシオロジ, 54(3), 121-126.</ref>。 更に太郎丸は、[[売上]]しか気にしない出版社やメディアも、自分たちが好む主張をしている「社会学者」を、研究の[[水準]]や主張の[[真偽]]も確認しないで採用している問題も指摘している。太郎丸によれば、彼らを見て育った大学院生たちも、彼らのように学会報告や[[学会誌]]という[[アカデミズム]]を軽視し、本に好き勝手なことを書くことやメディア出演ばかりの学者であることを、「社会学者」「社会学者としての理想・成功例」だと誤解するのだと指摘している。そのため、研究成果をほとんど出さない人が日本の社会学者の多数になっていて、マスメディア出演の多い学者の大多数は研究成果が実質ない、又はメディア出演以降は[[客観的]]に価値がある研究がないに等しい人ばかりだという。意見の異なる社会学者同士の議論が日本の社会学界には皆無と言えるほど、とも述べている<ref name=":0" /><ref>人文・社会科学のためのカテゴリカル・データ解析入門p159-161,2005 太郎丸博</ref>。 [[日本学術振興会]]によると、国際的な社会学誌での日本人の論文掲載率および被引用率は学者数比で極端に少なく、国際的に価値があるとされる学者が皆無に近いことが否めない。つまり、日本国内で社会学者として高く評価されている人物が、国際的には評価されておらず、日本の社会学が一切国際化してないと指摘されている<ref>[https://www.jsps.go.jp/file/storage/general/j-kenkyukai/data/02houkokusho/houkokusho.pdf 『人文学・社会科学の国際化について』(平成23年10月 独立行政法人 日本学術振興会 人文・社会科学の国際化に関する研究会) ]</ref>。 2021年立教大学社会学部社会学科教授の村瀬洋一<ref>{{Cite web|和書|title=研究者詳細 - 村瀬 洋一 |url=https://univdb.rikkyo.ac.jp/view?l=ja&u=290 |website=univdb.rikkyo.ac.jp |access-date=2023-09-03}}</ref>は、昨今の社会学は測定や分析に失敗しており、信頼出来ないような「質的調査」、直感での分析や[[構築主義]]などの解釈や[[印象批評]]に逃げていると批判している。彼は[[構築主義]]などについて、「具体的な測定法や分析法を作ることができなかった学問」と指摘している。昨今の社会学は社会を正確に研究出来ておらず、「記述的社会調査(質的社会調査)」の多数が偏ったデータで「木を見て森を見ず」の不適切な研究であること、的確な測定法と分析法がない状態で「研究」していると批判している<ref name=":4">https://www2.rikkyo.ac.jp/web/murase/metsoc.html</ref>。 ====欧米==== {{See also|ソーカル事件}} 1995年にニューヨーク大学物理学教授の[[アラン・ソーカル]]が、フランスから流入して米国に1980年代以降蔓延しだしたポストモダン思想を批判するために、ポストモダン専門の学術誌にデタラメ論文を掲載させ、ポストモダンという「学術分野」自体が無内容で無価値であることを証明しようとした。彼は、[[ジャック・デリダ]]や[[ドゥルーズ=ガタリ]]などのポストモダン思想の[[哲学者]]や[[社会学者]]達の[[文体]]を模倣し、「真なる専門家や学者」なら科学用語と[[数式]]を無意味や[[虚偽]]と分かるように混ぜた「デタラメ論文」を投稿した<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ! |url=https://diamond.jp/articles/-/313649 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2022-12-01 |access-date=2023-09-02 |language=ja}}</ref><ref>「ソーカル事件--科学社会学の一面」p47, 著: 平川 秀幸、村上 陽一郎,丸善出版,1998年</ref>。狙い通り、ポストモダン学者は「査読」し、高評価を与え、彼らの学術誌に掲載した。 これを受けて、ソーカルがデタラメ論文であったと暴露すると[[人文科学|人文科学(人文学)]]界隈の大きな[[スキャンダル]]になった。ソーカルは『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』を出版した<ref name=":2" />。 そして、ソーカルはポストモダン思想を「内実のない[[言葉遊び]](言語遊戯)」だと指摘したが 、ソーカル事件事件直後の予想を反して、ポストモダン思想は滅びず、逆に影響力を増した。そしてポストモダン思想は「社会正義の恫喝」へと変容し、欧米では2010年代からポストモダン思想的な「社会正義」が過激化するようになり、社会問題になっている<ref name=":2" />。 {{See also|再現性の危機}} 社会学は、社会科学の分野の中でも[[心理学]]、[[経済学]]等共に、自然科学との比較で用語の定義が曖昧かつ研究の再現性も低い問題が指摘されている。そのため、[[米国立衛生研究所|アメリカ合衆国国立衛生研究所]](NIH)は一部の社会科学分野の現状の是正の方向性を示す戦略を発表した<ref name=":3" />。 {{See also|不満研究事件}} 2017年から2018年に数人の研究者らが、学術の世界が一般人の知らないことを良いことに社会学等の人文系が特に異様な状態となっていることを拡散するために、社会正義界隈で著名な査読付き学術誌にデタラメ論文を投稿する「実験」を新たに行なった。彼らは、「[[事実|客観的事実]]よりも[[社会的不平等]]に対する[[不満]]を優先し、特定の[[結論]]のみが許容される学術分野」を「不満研究(グリーバンス・スタディーズ)」と命名した<ref name=":2" />。そして、彼らが「学問として貧弱であり、査読基準が腐敗している」と考えていた学術分野である、文化・クィア・人種・ジェンダー・肥満研究・セクシュアリティ研究を専門とするの学術誌にデタラメなおとり論文を投稿し、これらの「専門家」の査読を通過し、認められるかどうかを試す実験がされた。 狙い通り、一年間で書いた20本のデタラメ論文のいくつかは査読担当の社会学者らに絶賛された。そして、通常ならば7[[年間]]で評価される[[テニュア|テニュア(高等教育機関の終身在職権)]]獲得には充分な「7つの査読論文実績」を'''わずか一年だけ'''で獲得した。出著者たちは、獲得後にコレを暴露し、社会学の実態を批判する自分たちの主張の裏付けとした。これは「第二のソーカル事件」又は「不満研究事件」と呼ばれる<ref name=":2" />。 ジョンズ・ホプキンズ大学のヤシャ・モンクは、「左派と学者の間で引き出された部族的な連帯の量」を指摘し、暴露後の彼らの反応の多くが著者らに対する純粋な[[人身攻撃]]だけであり、おとり論文で判明した「(これらの分野の査読や内容自体に)実際の問題があることを事実として認識した人はほとんどいない」「ジェンダー研究のような分野の主要なジャーナルのいくつかは、真正な学問と、'''知的に空虚で倫理的なデタラメ'''を区別できなかった」という事実も指摘した<ref>{{Cite web |title=What the ‘Grievance Studies’ Hoax Means - The Chronicle of Higher Education |url=https://web.archive.org/web/20181010122828/https://www.chronicle.com/article/What-the-Grievance/244753/ |website=web.archive.org |date=2018-10-10 |access-date=2023-09-02}}</ref>。 日本では「シニカルな理論: アクティビスト(活動家)の学問はどのようにして人種、ジェンダー、アイデンティティについての全てのをつくりあげ、何故これが全ての人に害をなすのか(原題:Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything about Race, Gender, and Identity - And Why this Harms Everybody、邦題:『「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる[[捏造]]のすべて』)」という本が翻訳されて紹介された<ref name=":2" />。 == 社会調査 == {{main|社会調査}} 現実の社会からデータを取る手法として、さまざまな方法が考えられている。主として[[社会調査]]が用いられるが、これは社会で起きている事象についての調査全般(アンケートやインタビューなど)を指す。社会調査から得られたデータから考察や自身の仮説の検証を行う<ref>{{Cite web|和書|title=社会調査・フィールドワーク {{!}} MANABI Discovery! {{!}} 敬愛大学(千葉市稲毛区) |url=https://www.u-keiai.ac.jp/discovery/fieldwork/#:~:text=%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A7%E8%B5%B7%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B,%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 |website=www.u-keiai.ac.jp |access-date=2023-09-03 |language=ja}}</ref>。 「[[社会階層と社会移動全国調査]]」(SSM調査)や、家族社会学会による調査など、社会学者による大規模な調査も存在する。統計数理研究所による[[日本人の国民性調査]]や、日本版総合社会調査(JGSS調査)なども存在する。SSM調査の成果は、米国で数冊の本が出版された他、韓国や中国でも翻訳が出版されており、国際的にも高く評価されている。例えば[[原純輔]]・[[盛山和夫]]による『社会階層』は韓国、中国、米国で出版されている。 {{See also|社会学#機能主義からの離反の台頭以降・諸問題や批判#社会学におけるアカデミズム軽視・メディアへの批判#日本}} ただし、前述のように構築主義的な立場であったり、偏ったデータで「木を見て森を見ず」の不適切又は、測定法と分析法が適切ではない状態で「研究」している「社会調査」には批判が寄せられている<ref name=":4" />。 == 関連書籍 == {{参照方法|date=2015年5月3日 (日) 04:23 (UTC)|section=1}} ===古典・教科書・啓蒙書=== * マックス・ウェーバー『社会学の根本概念』(岩波文庫, 1972年) * エミール・デュルケム『社会学的方法の規準』(岩波文庫, 1978年) * アンソニー・ギデンズ『社会学の新しい方法的規準 第二版』(而立書房, 2000年) * アンソニー・ギデンズ『社会学 第五版』(而立書房, 2009年) ===講座・シリーズ=== * 『リーディングス 日本の社会学』全20巻(東京大学出版会, 1985-7年) * 『岩波講座 現代社会学』全26巻+別巻1、[[井上俊]]、[[上野千鶴子]]、[[大澤真幸]]、[[見田宗介]]、[[吉見俊哉]]編(岩波書店, 1995-7年) * 『講座社会学』全16巻、[[北川隆吉]]、塩原勉、[[蓮見音彦]]編(東京大学出版会, 1998年-) * 『講座 社会変動』全10巻(ミネルヴァ書房, 2001年-) * 『社会学のアクチュアリティ』全12巻+別巻2、[[武川正吾]]、友枝敏雄、[[西原和久]]、[[山田昌弘]]、[[吉原直樹]]編(東信堂, 2004年) ===翻訳シリーズ=== * 『現代社会学大系』全15巻、[[日高六郎]]、岩井弘融、中野卓、浜島朗、田中清助、[[北川隆吉]]編(青木書店, 1970年- ※復刻版有) * 『社会学の思想』全15巻、[[長谷川公一]]、藤田弘夫、吉原直樹編(青木書店, 1999年-) ===辞書=== * [[新明正道]]編『社会学辞典』(河出書房, 1944年)〔復刻・増補版〕(時潮社, 2009年) * 森岡清美、塩原勉、本間康平編『新社会学辞典』(有斐閣, 1993年) * 見田宗介他編『社会学事典』(弘文堂, 1994年) * 浜島朗他編『社会学小辞典』(有斐閣, 1997年) * 見田宗介他編『社会学文献事典』(弘文堂, 1998年) * [[宮島喬]]編『岩波小辞典社会学』(岩波書店, 2003年) * ブードン他『ラルース社会学事典』(弘文堂, 1997年) * [[レイモンド・ウィリアムズ]]『キーワード辞典』(平凡社, 2004年) ===総合雑誌=== * 『社会学評論』([[日本社会学会]], 1950年刊) * 『[[社会学研究]]』(東北社会学研究会, 1950年刊) * 『ソシオロジ』(社会学研究会, 1952年刊) * 『ソシオロゴス』(ソシオロゴス編集委員会、1977年刊) * ''American Journal of Sociology'' (1895年刊) * ''American Sociological Review'' (1936年刊) * ''British Journal of Sociology'' (1950年刊) * ''Sociological Inquiry'' (1961年刊) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == * [[清水幾太郎]] (1978) 『オーギュスト・コント――社会学とは何か』(岩波書店[岩波新書], 1978年) * [[富永健一]] (2008) 『思想としての社会学』(新曜社, 2008年) == 関連項目 == {{Wikibooks}} {{Wikiversity|School:社会学|社会学}} * [[実体験]] * [[実証主義]] * [[社会学部]] * [[社会学科]] * [[社会学史]] * [[日本社会学会]] * [[社会調査士]] * [[反社会学講座]] * [[社会哲学]] * [[社会思想]] * [[社会史]] * [[学術出版]] * [[社会学者の一覧]] == 外部リンク == ; 学会組織 * [http://www.gakkai.ne.jp/jss/ 日本社会学会] * [http://www.ucm.es/info/isa/ International Sociological Association] (ISA) ; 研究者個人運営サイト * [http://socius.jp/ ソキウス] - 社会学者・野村一夫による。 ; データベース * [http://wwwsoc.nii.ac.jp/jss/db/ 社会学文献情報データベース] * [https://ssjda.iss.u-tokyo.ac.jp/ SSJデータアーカイブ](データファイルの入手) ; その他 * [{{NDLDC|798508}} 社会学講話(1907年)] - 国立国会図書館 * {{PDFlink|[http://risya.hus.osaka-u.ac.jp/taroh/td/TheoryDevelopment.pdf 社会学理論の発展はいかにして可能か]}} {{社会学}} {{社会科学のフッター}} {{科学技術研究}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやかいかく}} [[Category:社会学|*]] [[Category:オーギュスト・コント]] [[Category:実証主義]]
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古代エジプト
古代エジプト(、アラビア語: مصر القديمة、英語: Ancient Egypt)は、古代のエジプトに対する呼称。具体的に、どの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマによって滅ぼされるまでの時代を扱う。 エジプトは不毛の砂漠地帯であるが、毎年夏のナイル川の増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。この氾濫原だけが居住に適しており、主な活動はナイル河で行われた。ナイル川の恩恵を受ける地域はケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。 ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯(ナイル川デルタ)が広がっている。最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、ファラオ(王)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。 毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術、幾何学、天文学が発達した。ヒエログリフから派生したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字(原カナン文字)は世界の殆どのアルファベットの起源となったとされる。 エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今の所発見されていない。 古代エジプト人は、元号のように「『王の名前』の統治何年目」のように歴史を記録していた。そのため、絶対的な年代表記法に置き換えた際には学者によりずれが生じることに留意されたい。 古代エジプトは、次の時代に区分されているが、これも学者により差がある。また、年数はすべておよその年で、時代の後の数字は王朝。 エジプト文明が誕生し、人々が定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられており、紀元前4500年ごろにはモエリス湖畔にファイユーム文化が成立し、紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心にナカダ文化が興った。この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、上エジプトに22、下エジプトに20、合計約42あるノモスと呼ばれる行政地区としてエジプト各王朝の行政単位となっていった。紀元前3500年頃にはまず上エジプト、そして下エジプト、二つの統一国家が成立したと考えられている。紀元前3300年頃にはヒエログリフの文字体系が確立し、太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及した。 紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる。従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル(メンフィス)が築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってエジプト第2王朝となった。この初期王朝時代の2王朝については資料が少なく、不明な点も多い。 紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。首都は一貫してメンフィスに置かれた。古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。このことを示すのが、紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドである。このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったマスタバで建設されたが、宰相イムホテプによる数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。これがエジプト史上最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドである。このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。 紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。スネフェル王は紀元前2600年頃にヌビア、リビア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した。スネフェルの次の王であるクフの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された。その後、クフの2代あとにあたるカフラー王がカフラー王のピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。 この後、エジプト第5王朝に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、ピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。続くエジプト第6王朝も長い安定の時期を保ったが、紀元前2383年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より各地の州(セパアト、ギリシア語ではノモスと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。 第6王朝崩壊後、首都メンフィスにはエジプト第7王朝、エジプト第8王朝という短命で無力な後継王朝が続いたが、実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。この混乱の時代を総称し、第1中間期と呼ぶ。やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興ったエジプト第9王朝がエジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできず、上エジプト南部のテーベに勃興したエジプト第11王朝との南北対立の情勢となった。 紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、紀元前2040年頃に第9王朝の後継であるエジプト第10王朝を打倒してエジプトを再び統一し、エジプト中王国時代が始まった。首都は引き続きテーベにおかれた。また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。 紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってエジプト第12王朝が開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。第12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地の開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。 センウセレト2世は紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッド(ラフーンのピラミッド)を造営している。中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくにシリア方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として紀元前1850年頃にセンウセレト3世がヌビアおよびシリアに遠征した。センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。 つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、紀元前1800年頃にはファイユーム盆地の開発が完成し、またハワーラのピラミッドが造営されている。しかし彼の死後は短命な政権が続き、紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。 第12王朝からエジプト第13王朝への継承はスムーズに行われ、制度その他もそのまま引き継がれたものの、王朝の統治力は急速に弱体化していった。この時期以降、エジプト第2中間期と呼ばれる混乱期にエジプトは突入していく。まず第13王朝期にはヌビアがエジプトから独立し、ついでエジプト第14王朝などいくつかの小諸侯が各地に分立したが、やがて紀元前1663年頃にはパレスチナ方面からやってきたとされるヒクソスという異民族によってエジプト第15王朝が立てられ、各地の小諸侯を従属させて覇権を確立した。下エジプトのアヴァリスに拠点を置いていた第15王朝に対し、一時は従属していたテーベを中心とする勢力がエジプト第17王朝として独立し、南北分立の体制となった。また、第15王朝は下エジプトのみならず、隣接するパレスチナも自らの勢力圏としていた。 紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。 イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。次のアメンホテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。 次のトトメス2世は早世し、紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。 紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。 こうしたことから、次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。 紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年に即位した次のセティ1世はアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。 紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。紀元前1274年にはシリア北部のオロンテス川でムワタリ2世率いるヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きた。この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた平和条約(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。 その次のメルエンプタハ王の時代には紀元前1208年ごろに海の民の侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。第20王朝第2代のラムセス3世は最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて紀元前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。 第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、紀元前1080年頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家(アメン大司祭国家)を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスからタニスへと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。紀元前945年にはリビア人傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南のヌビアが勢力を拡大し、紀元前747年にはピアンキがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。しかしその後、メソポタミアに強力な帝国を築いたアッシリアの圧迫にさらされ、紀元前671年にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。一時奪回に成功したものの、アッシュルバニパル王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。 アッシュールバニパルはサイスを支配していたネコ1世にエジプト統治を委任し間接統治を行った。この王朝を第26王朝と呼ぶ。第26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったが、アッシリアの急速な衰退にともなって自立の度を深め、紀元前655年にはネコ1世の子であるプサメティコス1世がアッシリアからの独立を果たす。これ以後は末期王朝時代と呼ばれ、また第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。アッシリアはその後滅亡し、その遺領はエジプト、新バビロニア、リディア、メディアの4つの王朝によって分割された。プサメティコス1世の次のネコ2世はパレスチナ・シリア地方へと進出したものの、紀元前605年、カルケミシュの戦いで新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れてこの進出は頓挫した。サイス朝時代のエジプトはシリアをめぐって新バビロニアとその後も小競り合いを繰り返しながらも、上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持ったが、紀元前550年にメディアを滅ぼしたアケメネス朝のキュロス2世が急速に勢力を伸ばし、リディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され、紀元前525年にはプサメティコス3世がアケメネス朝のカンビュセス2世に敗れ、エジプトはペルシアによって征服された。 ペルシアのエジプト支配は121年間に及び、これを第27王朝と呼ぶが、歴代のペルシア王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。しかしダレイオス2世の死後、王位継承争いによってペルシアの統治が緩むと、サイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし、紀元前404年にはペルシアからふたたび独立を達成した。これが第28王朝である。第28王朝はアミルタイオス一代で滅び、次いで紀元前397年から紀元前378年にかけては第29王朝が、紀元前378年からは第30王朝が立てられ、約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが、東方を統一する大帝国であるアケメネス朝はつねにエジプトの再征服を狙っており、それにおびえながらの不安定な政情が続いた。そして紀元前341年、アケメネス朝のアルタクセルクセス3世の軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れ、エジプトはペルシアに再征服された。アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し、圧政を敷いた。 ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず、紀元前332年、マケドニア王のアレクサンドロス3世がエジプトへと侵攻し、占領された。アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってディアドコイ戦争が勃発し、王国は分裂した。 この混乱の中でディアドコイの一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された。この王朝はセレウコス朝シリア王国、アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はギリシャ人によって占められていた。 プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるアレクサンドリアに置き、国制を整え、またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。続くプトレマイオス2世およびプトレマイオス3世の時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるシリア戦争などの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。紀元前80年にはプトレマイオス11世が殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していく共和政ローマの影響力が増大していくこととなった。 紀元前51年に即位したクレオパトラ7世はガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍にアクティウムの海戦で敗北し、紀元前30年にアレクサンドリアが陥落。クレオパトラ7世は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなった。 古代エジプトの歴史を王朝ごとに示したタイムライン。数字の後は首都または主要都市である。 1日を24時間としたのは、古代エジプトであるという説がある。 後述するように階級社会だったが、完全に固定されてはいなかったとされる。 ファラオは神権により支配した皇帝である。わずかな例外を除き男性。継承権は第一王子にあり、したがって第一王子がファラオになる。名前の一部には神の名前が含まれた。 人口の1%程度の少ない貴族階級が土地を所有し支配していた。残る99%であるほとんどの平民は生産物の租税と無償労働が課せられる不自由な小作(セメデト)だった。ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交代したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。 古代エジプトの教育制度については、どのパピルス文書にも、明確なことは記されていないが、数学・医学・建築など体系的な教育システムが必要な分野が発展しているため、相応の体制が整備されていたと考えられている。また知恵文学やその他のテキストからは、古代エジプト人が持っていた教育の目的や教育の内容に関する実際的な知識を僅かながら知ることができる。 裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施された。裕福な農民の子は神殿付属の学校へ、中流以上の子供は政府の建てた学校へ通った。それ以外の貧しい家庭の子と下層民の子弟の子達は、教育を受けなかったようである。 授業内容は学校の目的によって異なり、神殿付属の学校では、宗教儀礼に関する書物を写したり、宗教文学、葬祭の経典、経典の注解、神話物語などを勉強し、政府の学校では、算数、幾何学、測量術、簿記、官庁の書類作成などを学んだ。 他には、水泳やボート、レスリング、ボール競技、弓などといったスポーツも含まれていた。また、体罰(鞭打ちや学校の一室に監禁)は、怠けたり、言うことを聞かない生徒を正す良い方法であると思われていた。 後世、ギリシャ人もこうした制度を非常に高く評価している。 大貴族の息子の中には、王家の子供たちの教育にあたる教師のクラスに通う者もあったようである。他の者は、将来の役人を養成する学校に通っていた。14歳になると、医師や法律家そして書記を志望する子供たちは、さらに勉学を進めるために神殿へ送られた。 神殿には図書館があり、そこにはさまざまな学問分野のパピルス文書が保管されており、また神官たちは、さまざまな教育設備を用意していた。学生の訓練には、理論的なものと、実際的なものとの双方が用意されており、授業は、神殿内部の「生命の家」と呼ばれる場所で行なわれていたようである。この場所では、テキストの写本が作られ、保管されていた。 医学教育については不明な点が多いが、神殿の周辺地区で実際の患者の治療などが行なわれていたようである。 醸造、建築、造園など技能職の教育や訓練については不明な点が多い。 男子とは違い、女子に対する教育は、必要最低限のもので、王女を除いては、特に教育を受けることもなく、読み書きができる者もほとんどいなかった。彼女たちは、家庭にあり母親の手伝いを通じて、必要とする技術を習得した。 古王国時代、現存する最古の記録が書かれる以前に、こうした法体系は原始的なものから洗練されたものへと発展していたようで、最古の記録から、既に法が公的な手順を踏んでいたことが明らかとなっている。多くの法的な問題としては、葬送や財産に関する問題やカー神官の土地の分配などの問題を取り扱っていた。 理論的には、王は絶対君主であり、また唯一の立法者でもあり、そして臣下の人々の生と死、労働、および財産に対して絶対的な力を持っていたが、現実には、民間の法律が存在し、財産の問題などは民間の法律によって処理された。一般に刑罰は厳しかったが、法自体は、他の古代社会に比して人間的なものであり、特に婦女子は法的に保護されていた。 しかしながら、第19王朝には、裁判の方法に関して問題が起こった。当時、二種類の法廷があり、そのひとつは地方の裁判所(ケネベト)で、これは役人を裁判長とし、地域の有力者によって構成されたもので、ほとんどの事件を処理することができた。 もうひとつの法廷は、いわば最高裁判所に相当するものでテーベにあり、宰相の下で、死刑に当たるほどの重罪を扱う機関であった。全ての証拠が提出され、裁判官たちによって検討され、判決は訴訟に負けた側が、その負けを認めた後で下された。しかし、第19王朝以降、判決が神託によって出される場合が生じるようになった。神の像が裁判官となり、また神の意志が像の前で行なわれる儀式によって伝えられた。原告は、像の前に立って容疑者の名のリストを読み上げ、犯人の名が呼ばれた時に、神像が何らかの兆候を見せると信じられていた。こうした方法は、明らかに裁判所の堕落と裁判の悪用を招くものであった。 新王国時代の法律および、それに関する資料は、第20王朝以降のテキストに見ることができる。 ラメセスIX世の時代に始まり、その後多年にわたり続いた裁判の詳細は、一連の非常に良く保存されたパピルスからわかる。社会状況は暗く、貧困が蔓延していたために、この時代になると、もともと普通のことであった墓泥棒があまりにも目に余るものとなってきて、王は墓泥棒たちに対して法的処置を講じ、裁判を行うようになった。 古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスが「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記しており、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。ナイル川は6月ごろ、モンスーンがエチオピア高原に降らす雨の影響で氾濫を起こす。この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことはほとんどなかったうえ、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。この氾濫はエチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いていく。これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。浅い水路を掘って洪水時の水をためていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀にいたるまでエジプトの耕作方法であり続けた。作物は大麦と小麦が中心であり、野菜ではタマネギ、ニンニク、ニラ、ラディッシュ、レタスなどが主に栽培された。豆類ではソラマメ、ヒヨコ豆。果実ではブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどがあった。外国から伝わった作物としては、新王国時代にリンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン。プトレマイオス朝時代にはモモ、ナシなどが栽培された。 古王国時代から中央集権の管理下におかれており、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。耕地面積や収穫量は記録され、収穫量をもとに徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際には再配分された。農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した。 造船、ビールの醸造、工芸、など高度な技能が必要な職があったことから、これらに従事する職人が存在していたと推測されている。 エジプトの本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。ナイル川流域でも、エレファンティネ(アスワン)の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。この南の地域はヌビアと総称され、古王国以降の歴代王朝はたびたび侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。この過程でヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立したクシュ王国においてもピラミッドの建設(ヌビアのピラミッド)をはじめとするエジプト文化の影響が各所にみられる。ヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなく、交易関係にとどまっていたものの、新王国期にはいるとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されているプント国と盛んに交易を行い、乳香や没薬、象牙などを輸入していた。 エジプトの主要交易品と言えば金であった。金は上エジプトのコプトスより東に延びるワディ・ハンママート周辺や、ヌビアのワワトやクシュから産出された。この豊富な金を背景にエジプトは盛んに交易を行い、国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるため、銅、鉄、木材(レバノン杉)、瑠璃などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン、トルコなどから輸入していた。とくに造船に必須である木材は国内で全く産出せず、良材であるレバノン杉を産するフェニキアのビブロスなどからに輸入に頼っていた。ビブロスは中王国期にはエジプト向けの交易の主要拠点となり、当時エジプト人は海外交易船を総称してビブロス船と呼んだ。ビブロスからはまた、キプロスから産出される豊富な銅もエジプトに向け出荷されていた。このほかクレタ島のミノア文明も、エジプトと盛んに交易を行っていた。 下エジプト東端からパレスチナ方面にはホルスの道と呼ばれる交易路が地中海沿いに伸びており、陸路の交易路の中心となっていた。紅海沿いには中王国期以降エジプトの支配する港が存在し、上エジプトのナイル屈曲部から東へ砂漠の中を延びるルートによって結ばれていた。この紅海の港を通じてプントやインド洋沿海諸国との交易がおこなわれた。 貨幣には貴金属が使われた。初期は秤量貨幣だったが、後期には鋳造貨幣が用いられた。 興味深い例としては、穀物を倉庫に預けた「預り証」が、通貨として使われたこともある。穀物は古くなると価値が落ちるため、この通貨は時間の経過とともに貨幣価値が落ちていく。結果として、通貨を何かと交換して手にいれたら、出来るだけ早く他の物と交換するという行為が行われたため、流通が早まった。その結果、古代エジプトの経済が発達したという説があり、地域通貨の研究者によって注目されている。また、ローマの影響下で貨幣が使われるようになった結果、「価値の減っていく通貨」による流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという説もある。 食料の現物支給による支払いも多かったことから、配分のため単位分数の計算法(エジプト式分数)が発達した。 個々の技術のみならず、実験や工程の詳細な記録を残す、非専門家向けの早見表を作成するなど、現代にも通じる科学的な思考があった。 数学は社会へ応用するための実学となっており、課税の調査や生産物の貯蔵と配分、現物支給の報酬の計算などに単位分数の計算(エジプト式分数)が非常に多く用いられた。また、幾何学は耕地の測量や、ピラミッドをはじめとする建設、天文学など理工学の発展にも寄与した。一方で0の概念など、実社会と関連が薄い分野は発達せず、0の記号も無いなど偏りがあった。 十進法を用いたが、古代シュメールの影響により時間のみ十二進法を利用したことから24時間制であった。 古代エジプト人にとってナイル川の増水・氾濫による洪水が最大の関心事であるため、発達した数学を利用して暦法が研究された。 非侵襲性の外科手術、接骨、薬局方など、当時としては高度な医学が実現しており、他国に医師を派遣した記録も残っている。 現代では糖尿病と思われる症例も報告されているなど、詳細な記録をパピルスに残すことで診断や医学教育に活用していた。 エーベルス・パピルスには助産師に関する記述があり、ウェストカー・パピルスには出産予定日の計算方法や分娩用の椅子について記述がある。ルクソール神殿や他の神殿には王族のための分娩室があるなど、助産が重視されていた。 医学的な知識はミイラの制作にも応用された。 建築材料としては日干しレンガが主流であり、石材も多用された。特に石灰岩や花崗岩、砂岩などが盛んに採掘され、豊富な石材と優れた加工技術と高度な数学を元にピラミッドやギザの大スフィンクス、カルナック神殿、ルクソール神殿、アブ・シンベル神殿といった巨大で精密な建造物が続々と建設された。 支配者層は庭園を所有しており、木材に乏しい地域にもかかわらず造園技術が発達した。 主食はコムギから作るパンであり、エジプト人は「パン食い人」と呼ばれるほど大量のパンを食べた。サンドイッチのように具を挟むのが一般的だったとされる。また、サワードウによる発酵パンが誕生したのもエジプトである。パンを焼くための窯は時代によって異なっている。労働者への給与として現物支給されるため、エジプト式分数の問題ではパンを配分する例が多く登場する。 自国原産のブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどの他、リンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン、モモ、ナシなど様々な果実が栽培された。なおスイカは種子を食べていたとみられている。 紀元前3800年頃にオオムギから作るビールの生産が始まり、紀元前3500年頃にワインの生産が始まった。ワイン用のブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。ビールはパンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された。当時のビールは嗜好品だけでなく、栄養ドリンクのような存在だったと推測されている。 当時のビールはアルコール度数が3%程度、製法も自然発酵を利用した原始的な手法というのが通説であったが、2014年に麒麟麦酒が壁画に残された絵を分析し製法を再現したところ、パン生地を使った酵母の培養など高度な技法で醸造され、度数が10%で白ワインにも似た味のビールが完成した。この他にもヨーグルトのような食感のビールも存在していたとされる。 黄金を使った彫金が発達しツタンカーメンの黄金のマスクなど王族の装飾品に利用されていた。 建築物の内外はフレスコ画や彫刻で装飾されていた。 エジプトには森林が存在しないため木材を産出せず、建築材料には利用されなかったが、ツタンカーメン時代には国力を背景に交易で各地の木材を入手し、寄せ木や曲げ木などの高度な技法を用いたチャリオットを製作している。 色彩には宗教的な意味合いがあるため、ファイアンス焼きなどで望んだ発色を生み出す技法が発達した。 古代エジプトの音楽についての研究は考古学者と音楽研究者の間に交流がなく、あまり進んでいない。 銀製のトランペットに似た楽器や、ヨシ製のフルートとされる楽器が出土している。 宗教儀式の他、宴会や農作業時にも演奏されていたとされ、現代の西洋音楽の基礎となったという見解もある。 エジプトの文字は、統一王朝成立以前に表語文字であるヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)とアブジャドであるヒエラティック(Hieratic; 神官文字)の二つが成立した。ヒエログリフの方がより正式な文字として使用されたが、この二つの文字は並行して発展した。この両文字が誕生してからはるか後世にあたる紀元前660年ごろに、ヒエラティックを崩してより簡略化したデモティック(民衆文字、Demotic)が誕生し、紀元前600年頃にはデモティックがもっとも一般的な文字となった。この文字を元に様々な文学が成立し、エジプト文学はシュメール文学と共に、世界最古の文学と考えられている。 古王国時代には、讃歌や詩、自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。 中王国時代からは物語文学も現れ、悲嘆文学、知恵文学、教訓文学などのジャンルが存在した『シヌヘの物語』などの作品は、現在まで伝わっている。 書写材料としてはカミガヤツリ(パピルス草)から作られるパピルスが主に用いられた。 上流階級は各地から輸入した宝飾品や化粧品を利用していた。 セネトやメーヘーン(英語版)などのボードゲームが存在していた。特にセネトは交易によりレバント、キプロス、クレタなどにも伝播している。 上流階級が観覧するためにショーとしてのスポーツが行われていた。また軍人向けの身体訓練法も考案されていた。 宗教観は時代によって変化していったとされるが、死後も来世で永遠の生を得るため、魂の器となる肉体をミイラとして保存していた。 古代エジプトの象徴ともいえるものがピラミッドであるが、初期の王墓の形式であったマスタバに代わりピラミッドが成立したのが古王国時代の第3王朝期であり、クフ王のピラミッドを含む三大ピラミッドが建設されてピラミッドが最盛期を迎えたのが第4王朝期と、著名なピラミッドの建設された時期は古王国時代の一時期に限られ、エジプトの長い歴史においては比較的短期間のことである。以後、古王国時代を通じてピラミッドは建設され、中王国時代にも一時建設が復活するものの、技術的にも材料的にも最盛期ほどのレベルに到達することはなく、徐々に衰退していった。ただしそれに代わり、付属の墓地群などが拡大し、葬祭における重点が移動していった。新王国期に入るとピラミッドは建設されなくなり、王の墓は王家の谷に埋葬されるようになった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "古代エジプト(、アラビア語: مصر القديمة、英語: Ancient Egypt)は、古代のエジプトに対する呼称。具体的に、どの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマによって滅ぼされるまでの時代を扱う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "エジプトは不毛の砂漠地帯であるが、毎年夏のナイル川の増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。この氾濫原だけが居住に適しており、主な活動はナイル河で行われた。ナイル川の恩恵を受ける地域はケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯(ナイル川デルタ)が広がっている。最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、ファラオ(王)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術、幾何学、天文学が発達した。ヒエログリフから派生したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字(原カナン文字)は世界の殆どのアルファベットの起源となったとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今の所発見されていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古代エジプト人は、元号のように「『王の名前』の統治何年目」のように歴史を記録していた。そのため、絶対的な年代表記法に置き換えた際には学者によりずれが生じることに留意されたい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古代エジプトは、次の時代に区分されているが、これも学者により差がある。また、年数はすべておよその年で、時代の後の数字は王朝。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "エジプト文明が誕生し、人々が定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられており、紀元前4500年ごろにはモエリス湖畔にファイユーム文化が成立し、紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心にナカダ文化が興った。この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、上エジプトに22、下エジプトに20、合計約42あるノモスと呼ばれる行政地区としてエジプト各王朝の行政単位となっていった。紀元前3500年頃にはまず上エジプト、そして下エジプト、二つの統一国家が成立したと考えられている。紀元前3300年頃にはヒエログリフの文字体系が確立し、太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる。従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル(メンフィス)が築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってエジプト第2王朝となった。この初期王朝時代の2王朝については資料が少なく、不明な点も多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。首都は一貫してメンフィスに置かれた。古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。このことを示すのが、紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドである。このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったマスタバで建設されたが、宰相イムホテプによる数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。これがエジプト史上最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドである。このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。スネフェル王は紀元前2600年頃にヌビア、リビア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した。スネフェルの次の王であるクフの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された。その後、クフの2代あとにあたるカフラー王がカフラー王のピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この後、エジプト第5王朝に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、ピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。続くエジプト第6王朝も長い安定の時期を保ったが、紀元前2383年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より各地の州(セパアト、ギリシア語ではノモスと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "第6王朝崩壊後、首都メンフィスにはエジプト第7王朝、エジプト第8王朝という短命で無力な後継王朝が続いたが、実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。この混乱の時代を総称し、第1中間期と呼ぶ。やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興ったエジプト第9王朝がエジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできず、上エジプト南部のテーベに勃興したエジプト第11王朝との南北対立の情勢となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、紀元前2040年頃に第9王朝の後継であるエジプト第10王朝を打倒してエジプトを再び統一し、エジプト中王国時代が始まった。首都は引き続きテーベにおかれた。また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってエジプト第12王朝が開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。第12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地の開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "センウセレト2世は紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッド(ラフーンのピラミッド)を造営している。中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくにシリア方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として紀元前1850年頃にセンウセレト3世がヌビアおよびシリアに遠征した。センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、紀元前1800年頃にはファイユーム盆地の開発が完成し、またハワーラのピラミッドが造営されている。しかし彼の死後は短命な政権が続き、紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第12王朝からエジプト第13王朝への継承はスムーズに行われ、制度その他もそのまま引き継がれたものの、王朝の統治力は急速に弱体化していった。この時期以降、エジプト第2中間期と呼ばれる混乱期にエジプトは突入していく。まず第13王朝期にはヌビアがエジプトから独立し、ついでエジプト第14王朝などいくつかの小諸侯が各地に分立したが、やがて紀元前1663年頃にはパレスチナ方面からやってきたとされるヒクソスという異民族によってエジプト第15王朝が立てられ、各地の小諸侯を従属させて覇権を確立した。下エジプトのアヴァリスに拠点を置いていた第15王朝に対し、一時は従属していたテーベを中心とする勢力がエジプト第17王朝として独立し、南北分立の体制となった。また、第15王朝は下エジプトのみならず、隣接するパレスチナも自らの勢力圏としていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。次のアメンホテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "次のトトメス2世は早世し、紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "こうしたことから、次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年に即位した次のセティ1世はアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。紀元前1274年にはシリア北部のオロンテス川でムワタリ2世率いるヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きた。この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた平和条約(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その次のメルエンプタハ王の時代には紀元前1208年ごろに海の民の侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。第20王朝第2代のラムセス3世は最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて紀元前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、紀元前1080年頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家(アメン大司祭国家)を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスからタニスへと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。紀元前945年にはリビア人傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南のヌビアが勢力を拡大し、紀元前747年にはピアンキがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。しかしその後、メソポタミアに強力な帝国を築いたアッシリアの圧迫にさらされ、紀元前671年にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。一時奪回に成功したものの、アッシュルバニパル王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アッシュールバニパルはサイスを支配していたネコ1世にエジプト統治を委任し間接統治を行った。この王朝を第26王朝と呼ぶ。第26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったが、アッシリアの急速な衰退にともなって自立の度を深め、紀元前655年にはネコ1世の子であるプサメティコス1世がアッシリアからの独立を果たす。これ以後は末期王朝時代と呼ばれ、また第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。アッシリアはその後滅亡し、その遺領はエジプト、新バビロニア、リディア、メディアの4つの王朝によって分割された。プサメティコス1世の次のネコ2世はパレスチナ・シリア地方へと進出したものの、紀元前605年、カルケミシュの戦いで新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れてこの進出は頓挫した。サイス朝時代のエジプトはシリアをめぐって新バビロニアとその後も小競り合いを繰り返しながらも、上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持ったが、紀元前550年にメディアを滅ぼしたアケメネス朝のキュロス2世が急速に勢力を伸ばし、リディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され、紀元前525年にはプサメティコス3世がアケメネス朝のカンビュセス2世に敗れ、エジプトはペルシアによって征服された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ペルシアのエジプト支配は121年間に及び、これを第27王朝と呼ぶが、歴代のペルシア王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。しかしダレイオス2世の死後、王位継承争いによってペルシアの統治が緩むと、サイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし、紀元前404年にはペルシアからふたたび独立を達成した。これが第28王朝である。第28王朝はアミルタイオス一代で滅び、次いで紀元前397年から紀元前378年にかけては第29王朝が、紀元前378年からは第30王朝が立てられ、約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが、東方を統一する大帝国であるアケメネス朝はつねにエジプトの再征服を狙っており、それにおびえながらの不安定な政情が続いた。そして紀元前341年、アケメネス朝のアルタクセルクセス3世の軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れ、エジプトはペルシアに再征服された。アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し、圧政を敷いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず、紀元前332年、マケドニア王のアレクサンドロス3世がエジプトへと侵攻し、占領された。アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってディアドコイ戦争が勃発し、王国は分裂した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この混乱の中でディアドコイの一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された。この王朝はセレウコス朝シリア王国、アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はギリシャ人によって占められていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるアレクサンドリアに置き、国制を整え、またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。続くプトレマイオス2世およびプトレマイオス3世の時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるシリア戦争などの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。紀元前80年にはプトレマイオス11世が殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していく共和政ローマの影響力が増大していくこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "紀元前51年に即位したクレオパトラ7世はガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍にアクティウムの海戦で敗北し、紀元前30年にアレクサンドリアが陥落。クレオパトラ7世は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "古代エジプトの歴史を王朝ごとに示したタイムライン。数字の後は首都または主要都市である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1日を24時間としたのは、古代エジプトであるという説がある。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "後述するように階級社会だったが、完全に固定されてはいなかったとされる。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ファラオは神権により支配した皇帝である。わずかな例外を除き男性。継承権は第一王子にあり、したがって第一王子がファラオになる。名前の一部には神の名前が含まれた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "人口の1%程度の少ない貴族階級が土地を所有し支配していた。残る99%であるほとんどの平民は生産物の租税と無償労働が課せられる不自由な小作(セメデト)だった。ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交代したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "古代エジプトの教育制度については、どのパピルス文書にも、明確なことは記されていないが、数学・医学・建築など体系的な教育システムが必要な分野が発展しているため、相応の体制が整備されていたと考えられている。また知恵文学やその他のテキストからは、古代エジプト人が持っていた教育の目的や教育の内容に関する実際的な知識を僅かながら知ることができる。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施された。裕福な農民の子は神殿付属の学校へ、中流以上の子供は政府の建てた学校へ通った。それ以外の貧しい家庭の子と下層民の子弟の子達は、教育を受けなかったようである。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "授業内容は学校の目的によって異なり、神殿付属の学校では、宗教儀礼に関する書物を写したり、宗教文学、葬祭の経典、経典の注解、神話物語などを勉強し、政府の学校では、算数、幾何学、測量術、簿記、官庁の書類作成などを学んだ。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "他には、水泳やボート、レスリング、ボール競技、弓などといったスポーツも含まれていた。また、体罰(鞭打ちや学校の一室に監禁)は、怠けたり、言うことを聞かない生徒を正す良い方法であると思われていた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "後世、ギリシャ人もこうした制度を非常に高く評価している。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "大貴族の息子の中には、王家の子供たちの教育にあたる教師のクラスに通う者もあったようである。他の者は、将来の役人を養成する学校に通っていた。14歳になると、医師や法律家そして書記を志望する子供たちは、さらに勉学を進めるために神殿へ送られた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "神殿には図書館があり、そこにはさまざまな学問分野のパピルス文書が保管されており、また神官たちは、さまざまな教育設備を用意していた。学生の訓練には、理論的なものと、実際的なものとの双方が用意されており、授業は、神殿内部の「生命の家」と呼ばれる場所で行なわれていたようである。この場所では、テキストの写本が作られ、保管されていた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "医学教育については不明な点が多いが、神殿の周辺地区で実際の患者の治療などが行なわれていたようである。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "醸造、建築、造園など技能職の教育や訓練については不明な点が多い。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "男子とは違い、女子に対する教育は、必要最低限のもので、王女を除いては、特に教育を受けることもなく、読み書きができる者もほとんどいなかった。彼女たちは、家庭にあり母親の手伝いを通じて、必要とする技術を習得した。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "古王国時代、現存する最古の記録が書かれる以前に、こうした法体系は原始的なものから洗練されたものへと発展していたようで、最古の記録から、既に法が公的な手順を踏んでいたことが明らかとなっている。多くの法的な問題としては、葬送や財産に関する問題やカー神官の土地の分配などの問題を取り扱っていた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "理論的には、王は絶対君主であり、また唯一の立法者でもあり、そして臣下の人々の生と死、労働、および財産に対して絶対的な力を持っていたが、現実には、民間の法律が存在し、財産の問題などは民間の法律によって処理された。一般に刑罰は厳しかったが、法自体は、他の古代社会に比して人間的なものであり、特に婦女子は法的に保護されていた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "しかしながら、第19王朝には、裁判の方法に関して問題が起こった。当時、二種類の法廷があり、そのひとつは地方の裁判所(ケネベト)で、これは役人を裁判長とし、地域の有力者によって構成されたもので、ほとんどの事件を処理することができた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "もうひとつの法廷は、いわば最高裁判所に相当するものでテーベにあり、宰相の下で、死刑に当たるほどの重罪を扱う機関であった。全ての証拠が提出され、裁判官たちによって検討され、判決は訴訟に負けた側が、その負けを認めた後で下された。しかし、第19王朝以降、判決が神託によって出される場合が生じるようになった。神の像が裁判官となり、また神の意志が像の前で行なわれる儀式によって伝えられた。原告は、像の前に立って容疑者の名のリストを読み上げ、犯人の名が呼ばれた時に、神像が何らかの兆候を見せると信じられていた。こうした方法は、明らかに裁判所の堕落と裁判の悪用を招くものであった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "新王国時代の法律および、それに関する資料は、第20王朝以降のテキストに見ることができる。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ラメセスIX世の時代に始まり、その後多年にわたり続いた裁判の詳細は、一連の非常に良く保存されたパピルスからわかる。社会状況は暗く、貧困が蔓延していたために、この時代になると、もともと普通のことであった墓泥棒があまりにも目に余るものとなってきて、王は墓泥棒たちに対して法的処置を講じ、裁判を行うようになった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスが「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記しており、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。ナイル川は6月ごろ、モンスーンがエチオピア高原に降らす雨の影響で氾濫を起こす。この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことはほとんどなかったうえ、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。この氾濫はエチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いていく。これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。浅い水路を掘って洪水時の水をためていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀にいたるまでエジプトの耕作方法であり続けた。作物は大麦と小麦が中心であり、野菜ではタマネギ、ニンニク、ニラ、ラディッシュ、レタスなどが主に栽培された。豆類ではソラマメ、ヒヨコ豆。果実ではブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどがあった。外国から伝わった作物としては、新王国時代にリンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン。プトレマイオス朝時代にはモモ、ナシなどが栽培された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "古王国時代から中央集権の管理下におかれており、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。耕地面積や収穫量は記録され、収穫量をもとに徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際には再配分された。農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "造船、ビールの醸造、工芸、など高度な技能が必要な職があったことから、これらに従事する職人が存在していたと推測されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "エジプトの本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。ナイル川流域でも、エレファンティネ(アスワン)の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。この南の地域はヌビアと総称され、古王国以降の歴代王朝はたびたび侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。この過程でヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立したクシュ王国においてもピラミッドの建設(ヌビアのピラミッド)をはじめとするエジプト文化の影響が各所にみられる。ヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなく、交易関係にとどまっていたものの、新王国期にはいるとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されているプント国と盛んに交易を行い、乳香や没薬、象牙などを輸入していた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "エジプトの主要交易品と言えば金であった。金は上エジプトのコプトスより東に延びるワディ・ハンママート周辺や、ヌビアのワワトやクシュから産出された。この豊富な金を背景にエジプトは盛んに交易を行い、国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるため、銅、鉄、木材(レバノン杉)、瑠璃などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン、トルコなどから輸入していた。とくに造船に必須である木材は国内で全く産出せず、良材であるレバノン杉を産するフェニキアのビブロスなどからに輸入に頼っていた。ビブロスは中王国期にはエジプト向けの交易の主要拠点となり、当時エジプト人は海外交易船を総称してビブロス船と呼んだ。ビブロスからはまた、キプロスから産出される豊富な銅もエジプトに向け出荷されていた。このほかクレタ島のミノア文明も、エジプトと盛んに交易を行っていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "下エジプト東端からパレスチナ方面にはホルスの道と呼ばれる交易路が地中海沿いに伸びており、陸路の交易路の中心となっていた。紅海沿いには中王国期以降エジプトの支配する港が存在し、上エジプトのナイル屈曲部から東へ砂漠の中を延びるルートによって結ばれていた。この紅海の港を通じてプントやインド洋沿海諸国との交易がおこなわれた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "貨幣には貴金属が使われた。初期は秤量貨幣だったが、後期には鋳造貨幣が用いられた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "興味深い例としては、穀物を倉庫に預けた「預り証」が、通貨として使われたこともある。穀物は古くなると価値が落ちるため、この通貨は時間の経過とともに貨幣価値が落ちていく。結果として、通貨を何かと交換して手にいれたら、出来るだけ早く他の物と交換するという行為が行われたため、流通が早まった。その結果、古代エジプトの経済が発達したという説があり、地域通貨の研究者によって注目されている。また、ローマの影響下で貨幣が使われるようになった結果、「価値の減っていく通貨」による流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという説もある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "食料の現物支給による支払いも多かったことから、配分のため単位分数の計算法(エジプト式分数)が発達した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "個々の技術のみならず、実験や工程の詳細な記録を残す、非専門家向けの早見表を作成するなど、現代にも通じる科学的な思考があった。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "数学は社会へ応用するための実学となっており、課税の調査や生産物の貯蔵と配分、現物支給の報酬の計算などに単位分数の計算(エジプト式分数)が非常に多く用いられた。また、幾何学は耕地の測量や、ピラミッドをはじめとする建設、天文学など理工学の発展にも寄与した。一方で0の概念など、実社会と関連が薄い分野は発達せず、0の記号も無いなど偏りがあった。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "十進法を用いたが、古代シュメールの影響により時間のみ十二進法を利用したことから24時間制であった。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "古代エジプト人にとってナイル川の増水・氾濫による洪水が最大の関心事であるため、発達した数学を利用して暦法が研究された。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "非侵襲性の外科手術、接骨、薬局方など、当時としては高度な医学が実現しており、他国に医師を派遣した記録も残っている。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "現代では糖尿病と思われる症例も報告されているなど、詳細な記録をパピルスに残すことで診断や医学教育に活用していた。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "エーベルス・パピルスには助産師に関する記述があり、ウェストカー・パピルスには出産予定日の計算方法や分娩用の椅子について記述がある。ルクソール神殿や他の神殿には王族のための分娩室があるなど、助産が重視されていた。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "医学的な知識はミイラの制作にも応用された。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "建築材料としては日干しレンガが主流であり、石材も多用された。特に石灰岩や花崗岩、砂岩などが盛んに採掘され、豊富な石材と優れた加工技術と高度な数学を元にピラミッドやギザの大スフィンクス、カルナック神殿、ルクソール神殿、アブ・シンベル神殿といった巨大で精密な建造物が続々と建設された。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "支配者層は庭園を所有しており、木材に乏しい地域にもかかわらず造園技術が発達した。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "主食はコムギから作るパンであり、エジプト人は「パン食い人」と呼ばれるほど大量のパンを食べた。サンドイッチのように具を挟むのが一般的だったとされる。また、サワードウによる発酵パンが誕生したのもエジプトである。パンを焼くための窯は時代によって異なっている。労働者への給与として現物支給されるため、エジプト式分数の問題ではパンを配分する例が多く登場する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "自国原産のブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどの他、リンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン、モモ、ナシなど様々な果実が栽培された。なおスイカは種子を食べていたとみられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "紀元前3800年頃にオオムギから作るビールの生産が始まり、紀元前3500年頃にワインの生産が始まった。ワイン用のブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。ビールはパンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された。当時のビールは嗜好品だけでなく、栄養ドリンクのような存在だったと推測されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "当時のビールはアルコール度数が3%程度、製法も自然発酵を利用した原始的な手法というのが通説であったが、2014年に麒麟麦酒が壁画に残された絵を分析し製法を再現したところ、パン生地を使った酵母の培養など高度な技法で醸造され、度数が10%で白ワインにも似た味のビールが完成した。この他にもヨーグルトのような食感のビールも存在していたとされる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "黄金を使った彫金が発達しツタンカーメンの黄金のマスクなど王族の装飾品に利用されていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "建築物の内外はフレスコ画や彫刻で装飾されていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "エジプトには森林が存在しないため木材を産出せず、建築材料には利用されなかったが、ツタンカーメン時代には国力を背景に交易で各地の木材を入手し、寄せ木や曲げ木などの高度な技法を用いたチャリオットを製作している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "色彩には宗教的な意味合いがあるため、ファイアンス焼きなどで望んだ発色を生み出す技法が発達した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "古代エジプトの音楽についての研究は考古学者と音楽研究者の間に交流がなく、あまり進んでいない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "銀製のトランペットに似た楽器や、ヨシ製のフルートとされる楽器が出土している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "宗教儀式の他、宴会や農作業時にも演奏されていたとされ、現代の西洋音楽の基礎となったという見解もある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "エジプトの文字は、統一王朝成立以前に表語文字であるヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)とアブジャドであるヒエラティック(Hieratic; 神官文字)の二つが成立した。ヒエログリフの方がより正式な文字として使用されたが、この二つの文字は並行して発展した。この両文字が誕生してからはるか後世にあたる紀元前660年ごろに、ヒエラティックを崩してより簡略化したデモティック(民衆文字、Demotic)が誕生し、紀元前600年頃にはデモティックがもっとも一般的な文字となった。この文字を元に様々な文学が成立し、エジプト文学はシュメール文学と共に、世界最古の文学と考えられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "古王国時代には、讃歌や詩、自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "中王国時代からは物語文学も現れ、悲嘆文学、知恵文学、教訓文学などのジャンルが存在した『シヌヘの物語』などの作品は、現在まで伝わっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "書写材料としてはカミガヤツリ(パピルス草)から作られるパピルスが主に用いられた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "上流階級は各地から輸入した宝飾品や化粧品を利用していた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "セネトやメーヘーン(英語版)などのボードゲームが存在していた。特にセネトは交易によりレバント、キプロス、クレタなどにも伝播している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "上流階級が観覧するためにショーとしてのスポーツが行われていた。また軍人向けの身体訓練法も考案されていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "宗教観は時代によって変化していったとされるが、死後も来世で永遠の生を得るため、魂の器となる肉体をミイラとして保存していた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "古代エジプトの象徴ともいえるものがピラミッドであるが、初期の王墓の形式であったマスタバに代わりピラミッドが成立したのが古王国時代の第3王朝期であり、クフ王のピラミッドを含む三大ピラミッドが建設されてピラミッドが最盛期を迎えたのが第4王朝期と、著名なピラミッドの建設された時期は古王国時代の一時期に限られ、エジプトの長い歴史においては比較的短期間のことである。以後、古王国時代を通じてピラミッドは建設され、中王国時代にも一時建設が復活するものの、技術的にも材料的にも最盛期ほどのレベルに到達することはなく、徐々に衰退していった。ただしそれに代わり、付属の墓地群などが拡大し、葬祭における重点が移動していった。新王国期に入るとピラミッドは建設されなくなり、王の墓は王家の谷に埋葬されるようになった。", "title": "文化" } ]
古代エジプト(こだいエジプト、は、古代のエジプトに対する呼称。具体的に、どの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマによって滅ぼされるまでの時代を扱う。 エジプトは不毛の砂漠地帯であるが、毎年夏のナイル川の増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。この氾濫原だけが居住に適しており、主な活動はナイル河で行われた。ナイル川の恩恵を受ける地域はケメトと呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレトと対比される概念だった。このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。 ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯が広がっている。最初に上流地域と下流地域でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、ファラオの称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。 毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術、幾何学、天文学が発達した。ヒエログリフから派生したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字は世界の殆どのアルファベットの起源となったとされる。 エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今の所発見されていない。
{{古代エジプトの王朝}} [[File:Ancient Egypt map-en.svg|thumb|250px|紀元前3150年から紀元前30年までの王朝時代における主要都市及び場所を示した古代エジプトの地図]] [[File:1867 Edward Poynter - Israel in Egypt.jpg|thumb|320px|『エジプトのイスラエル人』([[エドワード・ポインター]]・1867年画)]] {{読み仮名|'''古代エジプト'''|こだいエジプト|{{lang-ar|links=no|مصر القديمة}}、{{lang-en|links=no|Ancient Egypt}}}}は、[[古代]]の[[エジプト]]に対する呼称。具体的に、どの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては[[紀元前3000年]]頃に始まった[[エジプト第1王朝|第1王朝]]から[[紀元前30年]]に[[プトレマイオス朝]]が[[共和政ローマ]]によって滅ぼされるまでの時代を扱う。 エジプトは不毛の[[砂漠]]地帯であるが、毎年夏の[[ナイル川]]の増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。この[[氾濫原]]だけが居住に適しており、主な活動はナイル河で行われた。[[ナイル川]]の恩恵を受ける地域はケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、[[統一国家]]を建国し維持する基盤となった。 ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯([[ナイル川デルタ]])が広がっている。最初に上流地域([[上エジプト]])と下流地域([[下エジプト]])<ref group="注釈">上下というのはナイル川の上流・下流という意味であり、ナイル川は北に向かって流れているため、北にあたる地域が下エジプトである(逆もまた然り)。</ref>でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、[[ファラオ]]([[王]])の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。 毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、[[太陽暦]]が作られた。太陽と[[シリウス]]星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、[[測量術]]、[[幾何学]]、[[天文学]]が発達した。[[ヒエログリフ]]から派生した[[ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字]]([[原カナン文字]])は世界の殆どの[[アルファベット]]の起源となったとされる。 エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つである[[メソポタミア文明]]が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立する[[都市国家]]の痕跡は今の所発見されていない。 == 歴史 == {{出典の明記| date = 2021年7月| section = 1}} {{main|エジプトの歴史}} 古代エジプト人は、[[元号]]のように「『王の名前』の統治何年目」のように歴史を記録していた。そのため、絶対的な年代表記法に置き換えた際には学者によりずれが生じることに留意されたい。 古代エジプトは、次の時代に区分されているが、これも学者により差がある。また、年数はすべておよその年で、時代の後の数字は王朝<ref>年代区分は{{Harvtxt|松本|1998}}および{{Harvtxt|スペンサー|2009}}を参考にした。ただし、第3中間期の終了とそれに続く末期王朝時代の年代は学者により意見が分かれており定説を見ないが、ここでは26王朝で切るスペンサーの説に拠った。</ref>。 * [[エジプト先王朝時代]](紀元前3100年以前) * [[エジプト初期王朝時代]](1-2; 紀元前3100年 - 紀元前2686年) * [[エジプト古王国]](3-6; 紀元前2686年 - 紀元前2181年) * [[エジプト第1中間期]](7-11前半; 紀元前2181年 - 紀元前2055年) * [[エジプト中王国]](11後半-12; 紀元前2055年 - 紀元前1795年) * [[エジプト第2中間期]](13-17; 紀元前1795年 - 紀元前1550年) * [[エジプト新王国]](18-20; 紀元前1550年 - 紀元前1069年) * [[エジプト第3中間期]](21-26; 紀元前1069年 - 紀元前664年) * [[エジプト末期王朝]](27-30; 紀元前664年 - 紀元前332年) * [[プトレマイオス朝]](紀元前332年 - 紀元前30年) === 石器時代から古代エジプトまで === {{main|エジプト先王朝時代}} === 原始王朝時代(黎明期、上エジプト、下エジプト) === [[File:Rosetta Stone.JPG|thumb|[[ロゼッタ・ストーン]]。上から順に、古代エジプトの[[ヒエログリフ]]、[[デモティック]](草書体)、[[ギリシア語]]を用いて同じ内容の文章が記されている。]] [[エジプト文明]]が誕生し、人々が定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられており<ref>「地図で読む世界の歴史 古代エジプト」p18 ビル・マンリー著、鈴木まどか訳 河出書房新社 1998年7月15日初版発行</ref>、紀元前4500年ごろには[[モエリス湖]]畔に[[ファイユーム文化]]が成立し、紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心に[[ナカダ文化]]が興った。この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、[[上エジプト]]に22、[[下エジプト]]に20、合計約42ある[[ノモス (エジプト)|ノモス]]と呼ばれる[[行政地区]]としてエジプト各王朝の行政単位となっていった<ref>『世界経済史』p64 中村勝己 講談社学術文庫、1994年</ref>。[[紀元前3500年]]頃にはまず上エジプト、そして下エジプト、二つの[[統一国家]]が成立したと考えられている。[[紀元前3300年]]頃にはヒエログリフの[[文字体系]]が確立し、[[太陽暦]]([[シリウス暦|シリウス・ナイル暦]])が普及した。 === 初期王朝時代(第1 - 2王朝) === [[紀元前3150年]]頃、上エジプトの[[ナルメル]]王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一して[[エジプト第1王朝]]を開いたとされる。従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきた[[メネス]]王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル([[メンフィス (エジプト)|メンフィス]])が築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によって[[エジプト第2王朝]]となった。この初期王朝時代の2王朝については資料が少なく、不明な点も多い。 === 古王国時代(第3 - 6王朝) === [[ファイル:All Gizah Pyramids.jpg|thumb|250px|[[ギーザ]]の[[三大ピラミッド]]。左手前から、[[メンカウラー王のピラミッド|メンカウラー王]]、[[カフラー王のピラミッド|カフラー王]]、[[ギザの大ピラミッド|クフ王]]のピラミッド。]] 紀元前2686年頃成立した[[エジプト第3王朝]]からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。首都は一貫して[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]に置かれた。古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。このことを示すのが、[[紀元前2650年]]頃に第3王朝第2代の王である[[ジョセル]]王が建設した階段ピラミッドである。このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であった[[マスタバ]]で建設されたが、宰相[[イムホテプ]]による数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。これがエジプト史上最古の[[ピラミッド]]とされる[[ジェゼル王のピラミッド]]である。このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。 紀元前2613年には[[スネフェル]]が即位し、[[エジプト第4王朝]]が始まる。この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。スネフェル王は[[紀元前2600年]]頃に[[ヌビア]]、[[古代リビュア|リビア]]、[[シナイ]]に遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず[[屈折ピラミッド]]を、さらに世界初の真正ピラミッドである[[赤いピラミッド]]を建設した。スネフェルの次の王である[[クフ]]の時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドである[[ギザの大ピラミッド]]が建設された。その後、クフの2代あとにあたる[[カフラー]]王が[[カフラー王のピラミッド]]とその門前にある[[ギザの大スフィンクス]]を建造し、さらにその次の[[メンカウラー]]王が[[メンカウラー王のピラミッド]]を建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。この3つのピラミッドは[[三大ピラミッド]]と呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。 この後、[[エジプト第5王朝]]に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、ピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。続く[[エジプト第6王朝]]も長い安定の時期を保ったが、紀元前2383年に即位し94年間在位した[[ペピ2世]]の治世中期より各地の州(セパアト、[[ギリシア語]]では[[ノモス]]と呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。 === 第1中間期(第7 - 10王朝) === 第6王朝崩壊後、首都メンフィスには[[エジプト第7王朝]]、[[エジプト第8王朝]]という短命で無力な後継王朝が続いたが、実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。この混乱の時代を総称し、第1中間期と呼ぶ。やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興った[[エジプト第9王朝]]がエジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできず、上エジプト南部の[[テーベ]]に勃興した[[エジプト第11王朝]]との南北対立の情勢となった。 === 中王国時代(第11 - 12王朝) === 紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、[[紀元前2040年]]頃に第9王朝の後継である[[エジプト第10王朝]]を打倒してエジプトを再び統一し、[[エジプト中王国]]時代が始まった。首都は引き続き[[テーベ]]におかれた。また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。 紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によって[[エジプト第12王朝]]が開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。第12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であった[[ファイユーム]][[盆地]]の開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。 センウセレト2世は[[紀元前1900年]]頃にアル・ラフーンにピラミッド([[ラフーンのピラミッド]])を造営している。中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくに[[歴史的シリア|シリア]]方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として[[紀元前1850年]]頃にセンウセレト3世が[[ヌビア]]および[[歴史的シリア|シリア]]に遠征した。センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。 つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、[[紀元前1800年]]頃にはファイユーム[[盆地]]の開発が完成し、また[[ハワーラのピラミッド]]が造営されている。しかし彼の死後は短命な政権が続き、紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。 === 第2中間期(第13 - 17王朝) === 第12王朝から[[エジプト第13王朝]]への継承はスムーズに行われ、制度その他もそのまま引き継がれたものの、王朝の統治力は急速に弱体化していった。この時期以降、[[エジプト第2中間期]]と呼ばれる混乱期にエジプトは突入していく。まず第13王朝期にはヌビアがエジプトから独立し、ついで[[エジプト第14王朝]]などいくつかの小諸侯が各地に分立したが、やがて紀元前1663年頃には[[パレスチナ]]方面からやってきたとされる[[ヒクソス]]という異民族によって[[エジプト第15王朝]]が立てられ、各地の小諸侯を従属させて覇権を確立した。下エジプトの[[アヴァリス]]に拠点を置いていた第15王朝に対し、一時は従属していたテーベを中心とする勢力が[[エジプト第17王朝]]として独立し、南北分立の体制となった。また、第15王朝は下エジプトのみならず、隣接するパレスチナも自らの勢力圏としていた。 === 新王国時代(第18 - 20王朝) === [[File:Egypt NK edit.svg|thumb|紀元前15世紀における古代エジプトの最大版図]] [[File:Tutanchamun_Maske.jpg|thumb|ツタンカーメン王の黄金マスク]] [[紀元前1540年]]頃、上エジプトを支配していた第17王朝の[[イアフメス1世]]がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、[[エジプト新王国]]時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例として[[エジプト第18王朝]]と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。 イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。次の[[アメンホテプ1世]]は[[カルナック神殿]]の拡張などの内政に力を入れた。紀元前1524年頃に即位した[[トトメス1世]]はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国[[ミタンニ]]へと侵攻し、[[ユーフラテス川|ユーフラテス河]]畔の重要都市[[カルケミシュ]]まで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として[[王家の谷]]を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。 次の[[トトメス2世]]は早世し、紀元前1479年頃に子の[[トトメス3世]]が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃である[[ハトシェプスト]]が実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代に[[プント国|プント]]との交易が再開され、また[[クレタ]]などとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。 紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握った[[トトメス3世]]は打って変わってアジアへの積極的な[[遠征]]を行い、[[メギドの戦い (紀元前15世紀)|メギドの戦い]]など数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続く[[アメンホテプ2世]]、[[トトメス4世]]、[[アメンホテプ3世]]の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神[[アメン]]を奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。 こうしたことから、次の[[アメンホテプ4世]]は紀元前1346年ごろに[[アクエンアテン]]と名乗って伝統的なアメン神を中心にした[[多神教|多神崇拝]]を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベから[[アマルナ]]へと遷都し、太陽神[[アテン]]の[[一神崇拝]]に改める、いわゆる[[アマルナ宗教改革]]を行った。このアテン信仰は世界最初の[[一神教]]といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。 紀元前1333年頃に即位した[[ツタンカーメン|ツタンカーメン王]]はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、[[アイ (第18王朝のファラオ)|アイ]]を経て[[ホルエムヘブ]]が即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友である[[ラムセス1世]]を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年に即位した次の[[セティ1世]]はアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。 紀元前1279年ごろに即位した次の[[ラムセス2世]]は古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。紀元前1274年にはシリア北部の[[オロンテス川]]で[[ムワタリ2世]]率いる[[ヒッタイト]]と衝突し、[[カデシュの戦い]]が起きた。この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた[[平和条約]](現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都[[ハットゥシャ]]から粘土板の形で出土している。またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。 その次の[[メルエンプタハ|メルエンプタハ王]]の時代には紀元前1208年ごろに[[海の民]]の侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。第20王朝第2代の[[ラムセス3世]]は最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて紀元前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。 === 第3中間期(大司祭国家、第21 - 26王朝) === 第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、[[紀元前1080年]]頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに[[神権国家]]([[アメン大司祭国家]])を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスから[[タニス]]へと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。紀元前945年には[[古代リビュア|リビア人]]傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南の[[ヌビア]]が勢力を拡大し、紀元前747年には[[ピイ (ヌピア)|ピアンキ]]がヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。しかしその後、メソポタミアに強力な帝国を築いた[[アッシリア]]の圧迫にさらされ、[[紀元前671年]]にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。一時奪回に成功したものの、[[アッシュルバニパル]]王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。 === 末期王朝(第27 - 31王朝) === アッシュールバニパルは[[サイス]]を支配していた[[ネコ1世]]にエジプト統治を委任し間接統治を行った。この王朝を第26王朝と呼ぶ。第26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったが、アッシリアの急速な衰退にともなって自立の度を深め、[[紀元前655年]]にはネコ1世の子であるプサメティコス1世がアッシリアからの独立を果たす。これ以後は末期王朝時代と呼ばれ、また第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。アッシリアはその後滅亡し、その遺領はエジプト、[[新バビロニア]]、[[リディア]]、[[メディア王国|メディア]]の4つの王朝によって分割された。プサメティコス1世の次の[[ネコ2世]]はパレスチナ・シリア地方へと進出したものの、紀元前605年、[[カルケミシュの戦い]]で新バビロニアの[[ネブカドネザル2世]]に敗れてこの進出は頓挫した。サイス朝時代のエジプトはシリアをめぐって新バビロニアとその後も小競り合いを繰り返しながらも、上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持ったが、[[紀元前550年]]にメディアを滅ぼした[[アケメネス朝]]の[[キュロス2世]]が急速に勢力を伸ばし、リディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され、[[紀元前525年]]にはプサメティコス3世がアケメネス朝の[[カンビュセス2世]]に敗れ、エジプトはペルシアによって征服された。 ペルシアのエジプト支配は121年間に及び、これを第27王朝と呼ぶが、歴代のペルシア王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。しかし[[ダレイオス2世]]の死後、王位継承争いによってペルシアの統治が緩むと、サイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし、[[紀元前404年]]にはペルシアからふたたび[[独立]]を達成した。これが第28王朝である。第28王朝はアミルタイオス一代で滅び、次いで[[紀元前397年]]から[[紀元前378年]]にかけては第29王朝が、紀元前378年からは第30王朝が立てられ、約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが、東方を統一する大帝国であるアケメネス朝はつねにエジプトの再征服を狙っており、それにおびえながらの不安定な政情が続いた。そして[[紀元前341年]]、アケメネス朝の[[アルタクセルクセス3世]]の軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れ、エジプトはペルシアに再征服された。アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し、圧政を敷いた。 === プトレマイオス朝 === ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず、[[紀元前332年]]、[[マケドニア王国|マケドニア]]王の[[アレクサンドロス3世]]がエジプトへと侵攻し、占領された。アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、[[紀元前323年]]にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによって[[ディアドコイ戦争]]が勃発し、王国は分裂した。 この混乱の中で[[ディアドコイ]]の一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、[[紀元前305年]]には[[プトレマイオス1世]]として即位することで、古代エジプト最後の王朝である[[プトレマイオス朝]]が建国された。この王朝は[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア王国]]、[[アンティゴノス朝|アンティゴノス朝マケドニア王国]]と並ぶ[[ヘレニズム]]3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢は[[ギリシャ人]]によって占められていた。 プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市である[[アレクサンドリア]]に置き、国制を整え、またムセイオンおよび[[アレクサンドリア図書館]]を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。続く[[プトレマイオス2世]]および[[プトレマイオス3世]]の時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたる[[シリア戦争 (プトレマイオス朝)|シリア戦争]]などの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。[[紀元前80年]]には[[プトレマイオス11世]]が殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していく[[共和政ローマ]]の影響力が増大していくこととなった。 [[紀元前51年]]に即位した[[クレオパトラ7世]]は[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]や[[マルクス・アントニウス]]といったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、[[紀元前31年]]に[[オクタウィアヌス]]率いるローマ軍に[[アクティウムの海戦]]で敗北し、[[紀元前30年]]にアレクサンドリアが陥落。[[クレオパトラ7世]]は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマの[[皇帝属州]][[アエギュプトゥス]]となった。 === 年表 === <timeline> ImageSize = width:800 height:auto barincrement:12 PlotArea = top:10 bottom:30 right:130 left:20 AlignBars = justify DateFormat = yyyy Period = from:-3100 till:-30 TimeAxis = orientation:horizontal ScaleMajor = unit:year increment:300 start:-3100 ScaleMinor = unit:year increment:50 start:-30 Colors = id:canvas value:rgb(0.97,0.97,0.97) id:PA value:green id:HP value:blue Backgroundcolors = canvas:canvas BarData = barset:Rulers PlotData= width:5 align:left fontsize:S shift:(5,-4) anchor:till barset:Rulers from: -3100 till: -2890 color:PA text:"1:Memphis" from: -2890 till: -2686 color:PA text:"2:Memphis" from: -2686 till: -2613 color:PA text:"3:Memphis" from: -2613 till: -2494 color:PA text:"4:Memphis" from: -2494 till: -2181 color:PA text:"5:Memphis" from: -2345 till: -2181 color:PA text:"6:Memphis" from: -2181 till: -2125 color:PA text:"7&8:Memphis" from: -2160 till: -2055 color:PA text:"9&10:Herakleopolis" from: -2125 till: -1985 color:PA text:"11:Thebes" from: -1985 till: -1795 color:PA text:"12:Itj tawy" from: -1795 till: -1650 color:PA text:"13:Itj tawy" from: -1750 till: -1650 color:PA text:"14:Eastern Delta" from: -1650 till: -1550 color:PA text:"15:Avaris" from: -1650 till: -1550 color:PA text:"16:Western Delta" from: -1650 till: -1550 color:PA text:"17:Thebes" from: -1550 till: -1295 color:PA text:"18:Thebes" from: -1295 till: -1186 color:PA text:"19:Per-Ramesses" from: -1186 till: -1069 color:PA text:"20:Per-Ramesses" from: -1069 till: -945 color:PA text:"21:Tanis" from: -1080 till: -945 color:PA text:"High Priests:Thebes" from: -945 till: -715 color:PA text:"22:Tanis" from: -818 till: -715 color:PA text:"23:Leontopolis" from: -727 till: -715 color:PA text:"24:Sais" from: -747 till: -656 color:PA text:"25;Thebes" from: -664 till: -525 color:PA text:"26:Sais" from: -525 till: -404 color:PA text:"27:Memphis" from: -404 till: -399 color:PA text:"28:Sais" from: -399 till: -380 color:PA text:"29:Mendes" from: -380 till: -332 color:PA text:"30:Memphis" from: -343 till: -332 color:PA text:"31:Memphis" from:-3100 till: -2686 color:HP text:"[[エジプト初期王朝時代|Early Dynastic]]" from:-2686 till: -2181 color:HP text:"[[エジプト古王国|Old Kingdom]]" from:-2181 till: -2055 color:HP text:"[[エジプト第1中間期|1st Intermediate]]" from:-2125 till: -1795 color:HP text:"[[エジプト中王国|Middle Kingdom]] from:-1795 till: -1550 color:HP text:"[[エジプト第2中間期|2nd Intermediate]]" from:-1550 till: -1069 color:HP text:"[[エジプト新王国|New Kingdom]]" from:-1069 till: -747 color:HP text:"[[エジプト第3中間期|3rd Intermediate]]" from:-747 till: -332 color:HP text:"[[エジプト末期王朝|Late]]" from:-305 till: -30 color:HP text:"[[プトレマイオス朝|Ptolemaic]]" barset:skip </timeline> 古代エジプトの歴史を王朝ごとに示したタイムライン。数字の後は首都または主要都市である{{Sfnp|松本|1998|p=18, 42, 98, 138, 278}}<!--技術的な制限によりパラメーターを日本語を用いて記述することができなく、さらに王朝にリンクを貼るとパラメータ-名が二重になるエラーが発生したため、この状態で置いています。-->。 == 社会 == [[File:Pharaoh.svg|thumb|150px|[[ファラオ]] (新王国時代の墓の壁画に基づく画)]] [[24時間制|1日を24時間と]]したのは、古代エジプトであるという説がある<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=なぜ1日は24時間なの?|url=https://www.gizmodo.jp/2012/07/124_1.html|website=www.gizmodo.jp|date=2012-07-20|accessdate=2021-07-20|language=ja|first=mediagene|last=Inc}}</ref>。 後述するように階級社会だったが、完全に固定されてはいなかったとされる。 === 階級 === ファラオは神権により支配した皇帝である。わずかな例外を除き男性。継承権は第一王子にあり、したがって第一王子がファラオになる。名前の一部には神の名前が含まれた。 人口の1%程度の少ない[[貴族階級]]が土地を所有し支配していた。残る99%であるほとんどの平民は生産物の租税と無償労働が課せられる不自由な[[小作]](セメデト)だった<ref>{{Cite book|和書|title=詳説 世界史研究|publisher=山川出版社|page=21|editor-last=木村|editor-first=靖二|editor2-first=美緒|editor2-last=岸本|editor3-first=久男|editor3-last=小松|editor-link=木村靖二|editor2-link=岸本美緒|editor3-link=小松久男|date=2017年11月30日|language=日本語|isbn=978-4-634-03088-6}}</ref>。ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交代したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。 === 教育 === 古代エジプトの教育制度については、どのパピルス文書にも、明確なことは記されていないが、数学・医学・建築など体系的な教育システムが必要な分野が発展しているため、相応の体制が整備されていたと考えられている。また知恵文学やその他のテキストからは、古代エジプト人が持っていた教育の目的や教育の内容に関する実際的な知識を僅かながら知ることができる。 裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施された。裕福な農民の子は神殿付属の学校へ、中流以上の子供は政府の建てた学校へ通った。それ以外の貧しい家庭の子と下層民の子弟の子達は、教育を受けなかったようである<ref name="名前なし-1">{{Cite book|title=古代オリエント集|date=1978年4月30日|year=1999|publisher=筑摩書房}}</ref>。 授業内容は学校の目的によって異なり、神殿付属の学校では、宗教儀礼に関する書物を写したり、宗教文学、葬祭の経典、経典の注解、神話物語などを勉強し、政府の学校では、算数、幾何学、測量術、簿記、官庁の書類作成などを学んだ<ref name="名前なし-1"/>。 他には、水泳やボート、レスリング、ボール競技、弓などといったスポーツも含まれていた。また、体罰(鞭打ちや学校の一室に監禁<ref name="名前なし-1"/>)は、怠けたり、言うことを聞かない生徒を正す良い方法であると思われていた。 後世、ギリシャ人もこうした制度を非常に高く評価している。 大貴族の息子の中には、王家の子供たちの教育にあたる教師のクラスに通う者もあったようである。他の者は、将来の役人を養成する学校に通っていた。14歳になると、医師や法律家そして書記を志望する子供たちは、さらに勉学を進めるために神殿へ送られた。 神殿には図書館があり、そこにはさまざまな学問分野のパピルス文書が保管されており、また神官たちは、さまざまな教育設備を用意していた。学生の訓練には、理論的なものと、実際的なものとの双方が用意されており、授業は、神殿内部の「生命の家」と呼ばれる場所で行なわれていたようである。この場所では、テキストの写本が作られ、保管されていた。 医学教育については不明な点が多いが、神殿の周辺地区で実際の患者の治療などが行なわれていたようである。 醸造、建築、造園など技能職の教育や訓練については不明な点が多い。 男子とは違い、女子に対する教育は、必要最低限のもので、王女を除いては、特に教育を受けることもなく、読み書きができる者もほとんどいなかった。彼女たちは、家庭にあり母親の手伝いを通じて、必要とする技術を習得した<ref name=":0">{{Cite book|title=Kodai ejiputojin|url=https://www.worldcat.org/oclc/673002815|publisher=筑摩書房|date=1986|isbn=4-480-85307-3|oclc=673002815|others=David, Ann Rosalie., Kondō, Jirō, 1951-, 近藤, 二郎, 1951-}}</ref>。 === 司法 === 古王国時代、現存する最古の記録が書かれる以前に、こうした法体系は原始的なものから洗練されたものへと発展していたようで、最古の記録から、既に法が公的な手順を踏んでいたことが明らかとなっている。多くの法的な問題としては、葬送や財産に関する問題やカー神官の土地の分配などの問題を取り扱っていた。 理論的には、王は絶対君主であり、また唯一の立法者でもあり、そして臣下の人々の生と死、労働、および財産に対して絶対的な力を持っていたが、現実には、民間の法律が存在し、財産の問題などは民間の法律によって処理された。一般に刑罰は厳しかったが、法自体は、他の古代社会に比して人間的なものであり、特に婦女子は法的に保護されていた。 しかしながら、第19王朝には、裁判の方法に関して問題が起こった。当時、二種類の法廷があり、そのひとつは地方の裁判所(ケネベト)で、これは役人を裁判長とし、地域の有力者によって構成されたもので、ほとんどの事件を処理することができた。 もうひとつの法廷は、いわば最高裁判所に相当するものでテーベにあり、宰相の下で、死刑に当たるほどの重罪を扱う機関であった。全ての証拠が提出され、裁判官たちによって検討され、判決は訴訟に負けた側が、その負けを認めた後で下された。しかし、第19王朝以降、判決が神託によって出される場合が生じるようになった。神の像が裁判官となり、また神の意志が像の前で行なわれる儀式によって伝えられた。原告は、像の前に立って容疑者の名のリストを読み上げ、犯人の名が呼ばれた時に、神像が何らかの兆候を見せると信じられていた。こうした方法は、明らかに裁判所の堕落と裁判の悪用を招くものであった。 新王国時代の法律および、それに関する資料は、第20王朝以降のテキストに見ることができる。 ラメセスⅨ世の時代に始まり、その後多年にわたり続いた裁判の詳細は、一連の非常に良く保存されたパピルスからわかる。社会状況は暗く、貧困が蔓延していたために、この時代になると、もともと普通のことであった墓泥棒があまりにも目に余るものとなってきて、王は墓泥棒たちに対して法的処置を講じ、裁判を行うようになった<ref name=":0" />。 == 経済 == === 農業=== [[古代ギリシア]]の[[歴史家]]・[[ヘロドトス]]が「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』に記しており、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。ナイル川は6月ごろ、[[モンスーン]]が[[エチオピア高原]]に降らす雨の影響で氾濫を起こす。この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことはほとんどなかったうえ、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。この氾濫はエチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いていく。これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。浅い水路を掘って洪水時の水をためていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀にいたるまでエジプトの耕作方法であり続けた。作物は[[大麦]]と[[小麦]]が中心であり、野菜では[[タマネギ]]、[[ニンニク]]、[[ニラ]]、[[ハツカダイコン|ラディッシュ]]、[[レタス]]などが主に栽培された。豆類では[[ソラマメ]]、[[ヒヨコ豆]]。果実では[[ブドウ]]、[[ナツメヤシ]]、[[イチジク]]、[[ザクロ]]などがあった。外国から伝わった作物としては、新王国時代に[[リンゴ]]、[[スモモ|プラム]]、[[オリーブ]]、[[スイカ]]、[[メロン]]。プトレマイオス朝時代には[[モモ]]、[[ナシ]]などが栽培された。 古王国時代から中央集権の管理下におかれており、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。耕地面積や収穫量は記録され、収穫量をもとに徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際には[[再配分]]された。農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した<ref>吉村作治『ファラオの食卓』 1章</ref>。 === 産業 === 造船、[[ビール]]の[[醸造]]、工芸、など高度な技能が必要な職があったことから、これらに従事する職人が存在していたと推測されている<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=特別プロジェクト:古代エジプトビールの再現 - キリンビール大学|url=https://www.kirin.co.jp/entertainment/daigaku/|website=|accessdate=2021-05-14|language=ja|publisher=麒麟麦酒}}</ref>。 === 対外関係と交易 === エジプトの本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。ナイル川流域でも、エレファンティネ([[アスワン]])の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。この南の地域は[[ヌビア]]と総称され、古王国以降の歴代王朝はたびたび侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。この過程でヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立した[[クシュ]]王国においてもピラミッドの建設([[ヌビアのピラミッド]])をはじめとするエジプト文化の影響が各所にみられる。ヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなく、交易関係にとどまっていたものの、新王国期にはいるとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されている[[プント国]]と盛んに交易を行い、[[乳香]]や[[没薬]]、[[象牙]]などを輸入していた。 エジプトの主要交易品と言えば[[金]]であった。金は上エジプトのコプトスより東に延びるワディ・ハンママート周辺や、ヌビアのワワトやクシュから産出された<ref>「古代エジプトの歴史 新王国時代からプトレマイオス朝時代まで」p37 山花京子 慶應義塾大学出版会 2010年9月25日初版第1刷</ref>。この豊富な金を背景にエジプトは盛んに交易を行い、国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるため、[[銅]]、[[鉄]]、[[木材]]([[レバノン杉]])、[[ラピスラズリ|瑠璃]]などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン、トルコなどから輸入していた<ref name=":2" />。とくに造船に必須である木材は国内で全く産出せず、良材であるレバノン杉を産する[[フェニキア]]の[[ビブロス]]などからに輸入に頼っていた。ビブロスは中王国期にはエジプト向けの交易の主要拠点となり、当時エジプト人は海外交易船を総称してビブロス船と呼んだ<ref>「海を渡った人類の遙かな歴史 名もなき古代の海洋民はいかに航海したのか」p138 ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出書房新社 2013年5月30日初版</ref>。ビブロスからはまた、キプロスから産出される豊富な銅もエジプトに向け出荷されていた。このほか[[クレタ島]]の[[ミノア文明]]も、エジプトと盛んに交易を行っていた。 下エジプト東端からパレスチナ方面にはホルスの道と呼ばれる交易路が[[地中海]]沿いに伸びており、陸路の交易路の中心となっていた。[[紅海]]沿いには中王国期以降エジプトの支配する港が存在し、上エジプトのナイル屈曲部から東へ砂漠の中を延びるルートによって結ばれていた。この紅海の港を通じてプントやインド洋沿海諸国との交易がおこなわれた。 === 通貨 === 貨幣には貴金属が使われた。初期は[[秤量貨幣]]だったが、後期には[[鋳造貨]]幣が用いられた。 興味深い例としては、穀物を倉庫に預けた「預り証」が、通貨として使われたこともある。穀物は古くなると価値が落ちるため、この通貨は時間の経過とともに貨幣価値が落ちていく。結果として、通貨を何かと交換して手にいれたら、出来るだけ早く他の物と交換するという行為が行われたため、[[流通]]が早まった。その結果、古代エジプトの経済が発達したという説があり、[[地域通貨#マイナス利子|地域通貨]]の研究者によって注目されている。また、ローマの影響下で貨幣が使われるようになった結果、「価値の減っていく通貨」による流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという説もある{{誰2|date=2013年1月}}。 食料の現物支給による支払いも多かったことから、配分のため[[単位分数]]の計算法([[エジプト式分数]])が発達した。 == 科学 == 個々の技術のみならず、実験や工程の詳細な記録を残す、非専門家向けの早見表を作成する<ref name=":6" />など、現代にも通じる科学的な思考があった<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=古代エジプトの暮らし<1> 「食」ビール醸造 大発明:中日新聞しずおかWeb|url=https://www.chunichi.co.jp/article/203908|website=中日新聞Web|accessdate=2021-05-14|language=ja}}</ref>。 === 数学 === {{main|エジプト数学}} [[数学]]は社会へ応用するための実学となっており、課税の調査や生産物の貯蔵と配分、現物支給の報酬の計算などに[[単位分数]]の計算([[エジプト式分数]])が非常に多く用いられた。また、[[幾何学]]は耕地の測量や、[[エジプトのピラミッド|ピラミッド]]をはじめとする建設、天文学など理工学の発展にも寄与した<ref name=":6" />。一方で[[0]]の概念など、実社会と関連が薄い分野は発達せず、0の記号も無いなど偏りがあった。 [[十進法]]を用いたが、古代[[シュメール]]の影響により時間のみ[[十二進法]]を利用したことから24時間制であった<ref name=":6" />。 === 天文 === {{Main|エジプト暦}} 古代エジプト人にとって[[ナイル川]]の増水・氾濫による[[洪水]]が最大の関心事であるため、発達した数学を利用して[[暦法]]が研究された<ref name=":6" />。 === 医学 === {{Main|古代エジプト医学}} 非[[侵襲]]性の[[外科手術]]、[[接骨]]、[[薬局方]]など、当時としては高度な医学が実現しており、他国に医師を派遣した記録も残っている。 現代では[[糖尿病]]と思われる症例も報告されているなど、詳細な記録を[[パピルス]]に残すことで<ref>{{Cite web|和書|title=認定看護師リレーエッセイ No.11 {{!}} 市立旭川病院 |url=https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hospital/3305/p002301.html |website=www.city.asahikawa.hokkaido.jp |access-date=2022-11-28}}</ref>診断や医学教育に活用していた。 [[エーベルス・パピルス]]には[[助産師]]に関する記述があり、[[ウェストカー・パピルス]]には出産予定日の計算方法や分娩用の椅子について記述がある。[[ルクソール神殿]]や他の神殿には王族のための分娩室があるなど、助産が重視されていた<ref>Jean Towler and Joan Bramall, ''Midwives in History and Society'' (London: Croom Helm, 1986), p. 9</ref>。 医学的な知識は[[ミイラ]]の制作にも応用された。 === 建築 === {{Main|古代エジプト建築}} [[File:Colosse-djéhoutihétep2.jpg|thumb|移動させる像の前に水をまき、砂の抵抗を下げ、橇の前に砂が溜まるのを防いでいる図<ref>{{Cite web |url=https://www.geekslop.com/science-and-history/history-and-civilization/world-history/2014/how-egyptians-used-water-to-move-heavy-pyramid-stones-across-sand |title=New Research Proves Clever Trick Egyptians Used To Move Those Massive Stones Across The Sand - Geek Slop |access-date=2023-11-08 |last=Reeko |date=2014-05-02 |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.iflscience.com/mystery-how-egyptians-moved-pyramid-stones-solved-24397 |title=Mystery Of How The Egyptians Moved Pyramid Stones Solved |access-date=2023-11-08 |date=2014-05-05 |website=IFLScience |language=en}}</ref>。]] 建築材料としては[[日干しレンガ]]が主流であり、[[石材]]も多用された。特に[[石灰岩]]や[[花崗岩]]、[[砂岩]]などが盛んに採掘され、豊富な石材と優れた加工技術と高度な数学を元にピラミッドや[[ギザの大スフィンクス]]、[[カルナック神殿]]、[[ルクソール神殿]]、[[アブ・シンベル神殿]]といった巨大で精密な建造物が続々と建設された。 支配者層は[[古代エジプトの庭園|庭園]]を所有しており、木材に乏しい地域にもかかわらず[[造園]]技術が発達した。 == 文化 == === 食文化 === 主食は[[コムギ]]から作る[[パン]]であり、エジプト人は「パン食い人」と呼ばれるほど大量のパンを食べた<ref>「パンの文化史」p106 舟田詠子 講談社学術文庫 2013年12月10日第1刷発行</ref>。[[サンドイッチ]]のように具を挟むのが一般的だったとされる<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=欧米で主食なのはパンではなく、実は肉。しかしエジプトは本当にパンが主食だった│キリンビール大学│キリン|url=https://www.kirin.co.jp/entertainment/daigaku/HST/hst/no92/|website=キリン|accessdate=2021-05-14|language=ja}}</ref>。また、[[サワードウ]]による発酵パンが誕生したのもエジプトである。パンを焼くための[[窯]]は時代によって異なっている<ref name=":1" />。労働者への給与として現物支給されるため、[[エジプト式分数]]の問題ではパンを配分する例が多く登場する。 自国原産の[[ブドウ]]、[[ナツメヤシ]]、[[イチジク]]、[[ザクロ]]などの他、[[リンゴ]]、[[スモモ|プラム]]、[[オリーブ]]、[[スイカ]]、[[メロン]]、[[モモ]]、[[ナシ]]など様々な果実が栽培された。なおスイカは[[種子]]を食べていたとみられている<ref name="iwaki">{{Cite web|和書|url=http://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1001000000755/simple/zufu-suika.pdf |title=スイカ |publisher=いわき市 |accessdate=2019-10-19}}</ref>。 ==== 酒 ==== {{Main|エジプトのビール}}紀元前3800年頃に[[オオムギ]]から作る[[ビール]]の生産が始まり、紀元前3500年頃に[[ワイン]]の生産が始まった。ワイン用のブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。ビールはパンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された<ref name=":4" />。当時のビールは嗜好品だけでなく、[[栄養ドリンク]]のような存在だったと推測されている<ref name=":3" />。 当時のビールはアルコール度数が3%程度、製法も自然発酵を利用した原始的な手法というのが通説であったが<ref name=":1" />、2014年に[[麒麟麦酒]]が壁画に残された絵を分析し製法を再現したところ、パン生地を使った酵母の培養など高度な技法で醸造され、度数が10%で白ワインにも似た味のビールが完成した<ref name=":1" />。この他にも[[ヨーグルト]]のような食感のビールも存在していたとされる<ref name=":3" />。 === 芸術 === {{Main|古代エジプト美術}} 黄金を使った[[彫金]]が発達しツタンカーメンの黄金のマスクなど王族の装飾品に利用されていた<ref name=":2" />。 建築物の内外は[[フレスコ画]]や彫刻で装飾されていた。 エジプトには[[森林]]が存在しないため[[木材]]を産出せず、建築材料には利用されなかったが、ツタンカーメン時代には国力を背景に交易で各地の木材を入手し、寄せ木や曲げ木などの高度な技法を用いた[[チャリオット]]を製作している<ref name=":2">[https://www3.nhk.or.jp/news/special/new-middle-east/egypt-museum/?utm_int=netnewsup-detail_contents_special_003 古代エジプト人、痛恨のミス 日本の科学がツタンカーメンに挑む|中東解体新書|] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。 色彩には宗教的な意味合いがあるため、[[ファイアンス焼き]]などで望んだ発色を生み出す技法が発達した<ref>{{Cite web|和書|title=古代エジプトの暮らし<2> 「美」青色は復活の願い:中日新聞しずおかWeb|url=https://www.chunichi.co.jp/article/205386|website=中日新聞Web|accessdate=2021-05-14|language=ja}}</ref>。 === 音楽 === 古代エジプトの音楽についての研究は考古学者と音楽研究者の間に交流がなく、あまり進んでいない<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=古代エジプトの暮らし<3> 「娯楽」西洋音楽の「原型」:中日新聞しずおかWeb|url=https://www.chunichi.co.jp/article/205903|website=中日新聞Web|accessdate=2021-05-14|language=ja}}</ref>。 銀製の[[トランペット]]に似た楽器や、[[ヨシ]]製の[[フルート]]とされる楽器が出土している<ref name=":5" />。 宗教儀式の他、宴会や農作業時にも演奏されていたとされ、現代の西洋音楽の基礎となったという見解もある<ref name=":5" />。 === 文学 === {{main|古代エジプト文学}} エジプトの[[文字]]は、統一王朝成立以前に[[表語文字]]である[[ヒエログリフ]](hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)と[[アブジャド]]である[[ヒエラティック]](Hieratic; 神官文字)の二つが成立した。ヒエログリフの方がより正式な文字として使用されたが、この二つの文字は並行して発展した。この両文字が誕生してからはるか後世にあたる[[紀元前660年]]ごろに、ヒエラティックを崩してより簡略化した[[デモティック]](民衆文字、Demotic)が誕生し、紀元前600年頃にはデモティックがもっとも一般的な文字となった。この文字を元に様々な[[文学]]が成立し、エジプト文学はシュメール文学と共に、世界最古の文学と考えられている。 古王国時代には、讃歌や詩、自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。 中王国時代からは物語文学も現れ、悲嘆文学、[[知恵文学]]、[[セバイト|教訓文学]]などのジャンルが存在した『[[シヌヘの物語]]』などの作品は、現在まで伝わっている。 書写材料としては[[カミガヤツリ]](パピルス草)から作られる[[パピルス]]が主に用いられた。 === ファッション === {{Main|古代エジプトの服飾}} 上流階級は各地から輸入した宝飾品や化粧品を利用していた。 === 娯楽 === [[セネト]]や{{仮リンク|メーヘーン (ゲーム)|en|Mehen (game)|label=メーヘーン}}などの[[ボードゲーム]]が存在していた。特にセネトは交易により[[レバント]]、[[キプロス]]、[[クレタ]]などにも伝播している。 === スポーツ === [[ファイル:Beni Hassan tomb 15 wrestling detail.jpg|サムネイル|ベニ・ハッサンの壁画に描かれたレスリングをする人々(紀元前2100年ごろ)]] 上流階級が観覧するためにショーとしてのスポーツが行われていた<ref>『図説 スポーツの歴史―「世界スポーツ史」へのアプローチ』稲垣正浩ほか著、大修館書店、1996年、pp. 14-15. ISBN 978-4-469-26352-7</ref>。また軍人向けの身体訓練法も考案されていた。 === 宗教 === {{Main|古代エジプトの宗教|エジプト神話}} 宗教観は時代によって変化していったとされるが、死後も来世で永遠の生を得るため、魂の器となる肉体をミイラとして保存していた<ref>{{Cite web|和書|title=古代エジプトの暮らし<4> 「葬送」来世「永遠の生」を:中日新聞しずおかWeb|url=https://www.chunichi.co.jp/article/206286|website=中日新聞Web|accessdate=2021-05-14|language=ja}}</ref>。 古代エジプトの象徴ともいえるものが[[ピラミッド]]であるが、初期の王墓の形式であった[[マスタバ]]に代わりピラミッドが成立したのが古王国時代の第3王朝期であり、[[クフ王のピラミッド]]を含む[[三大ピラミッド]]が建設されてピラミッドが最盛期を迎えたのが第4王朝期と、著名なピラミッドの建設された時期は古王国時代の一時期に限られ、エジプトの長い歴史においては比較的短期間のことである。以後、古王国時代を通じてピラミッドは建設され、中王国時代にも一時建設が復活するものの、技術的にも材料的にも最盛期ほどのレベルに到達することはなく、徐々に衰退していった。ただしそれに代わり、付属の墓地群などが拡大し、葬祭における重点が移動していった。新王国期に入るとピラミッドは建設されなくなり、王の墓は[[王家の谷]]に埋葬されるようになった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === * {{Cite book|和書|author=松本 弥|date=1998|title=図説 古代エジプトのファラオ|publisher=株式会社 弥呂久|ISBN=4946482121|ref={{sfnref|松本|1998}}}} * {{Cite book|和書|author=A.J.スペンサー|translator=近藤 二郎, 小林 朋則|date=2009|title=大英博物館 図説古代エジプト史|publisher=原書房|isbn=978-4-562-04289-0|ref={{Sfnref|スペンサー|2009}}}} == 関連項目 == {{multicol}} {{columns-list|2| * [[エジプト文明]] * [[地中海世界]] * [[新石器時代]] * [[中石器時代]] * {{仮リンク|先史時代のエジプト|en|Prehistoric Egypt}} * [[エジプト先王朝時代]] * [[エジプト学]] * [[古代エジプト文学]] * [[ファラオ]] * [[ヒエログリフ]] * [[ロゼッタ・ストーン]] * [[アエギュプトゥス]] }} | ''著名な研究者'' * [[ジャン=フランソワ・シャンポリオン]] * [[ザヒ・ハワス]] * [[吉村作治]] | ''古代エジプトを題材にしたフィクションを多数著している作家'' * [[クリスチャン・ジャック]] {{multicol-end}} == 外部リンク == * {{Kotobank|エジプト史}} {{古代文明}} {{古代エジプト}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こたいえしふと}} [[Category:古代エジプト|*]]
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エジプト
エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、アラビア語: جمهورية مصر العربية)、通称:エジプト(アラビア語: مصر)は、中東および北アフリカに位置する共和制国家。首都はカイロ。 アフリカ大陸では北東端に位置し、西にリビア、南にスーダン、北東のシナイ半島ではイスラエル、パレスチナ国・ガザ地区と国境を接する。北部は地中海、東部は紅海に面している。 エジプトは中東とアフリカ大陸の接点に存在し、古代文明が存在していた地域のひとつに数え上げられる。その文字記録された歴史は紀元前4千年紀にまで遡れる。 民族・宗教的にはアラブ世界、イスラム世界の一国である。 人口はアラブ諸国で最も多く、2020年2月に1億人を超えている。同国地域には数千年前の古代都市の痕跡や幾多もの史跡がナイル川に沿う形で点在している。 また、水源が乏しい国の一つとしても知られており、南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分の95%以上が砂漠である。ナイル河口の東には地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。 同国は現在、MENA地域において2番目に人口密度の高い国と見做されており、中でもカイロは世界で最も人口密度の高い都市のひとつに当たる。 正式名称はアラビア語で جمهورية مصر العربية(ラテン翻字: Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah)。通称は مصر(標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言ほか、口語アラビア語: [mɑsʕɾ] マスル)。コプト語: Ⲭⲏⲙⲓ(Khemi ケーミ)。 アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形のミスライム(מצרים, ミツライム)となる。 公式の英語表記は Arab Republic of Egypt。通称 Egypt [ˈiːdʒɨpt]。発音は「イージプト」に近い。形容詞はEgyptian [ɨˈdʒɪpʃən]。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハの魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話のアイギュプトスにちなむ。 日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト。漢字では埃及と表記し、埃と略される。 「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年ごろには早くも国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。 3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前663年にアッシリア帝国によって征服された。アッシリアの滅亡後一時独立を回復したものの、紀元前525年にアケメネス朝ペルシアによって再び征服され、民族国家としての独立性を失った。 紀元前332年にはアレクサンドロス大王の東征に伴いマケドニア帝国に組み込まれ、大王の死後その部将の一人であるプトレマイオス1世によってプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化と在来文化の融合を果たした。 末代の女王クレオパトラ7世の奮闘も虚しく、プトレマイオス朝は紀元前30年にローマの将軍オクタウィアヌスによって滅ぼされ、エジプトはアイギュプトゥス属州としてローマ帝国の支配下に置かれた。紀元後に入ってはキリスト教が広まり、後にコプト正教会が生まれた。豊かな穀倉地帯であったために皇帝の直接統治領となり、ローマとその後継のビザンツ帝国時代に通して帝国行政の片鱗を担った。 639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝、イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上にわたって続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。 1517年に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国の下でもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト)。 1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけに、エジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人のムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事の近代化を進め、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功した。アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。 1882年、アフマド・オラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの保護国となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。1919年3月にイギリス当局が、元官僚で当時ワフド党を率い独立運動を指導したサアド・ザグルールらを逮捕・国外追放した事がかえって反発を招き、これを契機として反英独立運動たるエジプト革命が勃発した。 第一次世界大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。 エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。 第二次世界大戦では、1940年9月12日、枢軸国軍であるイタリア王国軍がリビアから侵攻したが英軍が撃退した(北アフリカ戦線)。第二次世界大戦前後から、現在はイスラエルになっている地域へのユダヤ人移民に伴うパレスチナ問題の深刻化、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。 この状況を受けて1952年、軍内部の秘密組織自由将校団がクーデターを起こし、国王ファールーク1世を亡命に追い込み、ムハンマド・アリー朝を打倒した(エジプト革命)。生後わずか半年のフアード2世を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位して共和政へと移行。ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となり、エジプト共和国が成立した。 1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルの下でエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年の第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。 1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、自ら主導した第四次中東戦争後にソビエト連邦と対立してアメリカ合衆国など西側諸国に接近。社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル路線からの転換を進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切るうえで、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。 さらに、1977年には物価上昇に抗議する暴動を共産主義者によるものと断定、既に結党が禁止されていたエジプト共産党などの左翼組織の弾圧を強化した。 しかしサーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺(英語版)された。 イラクのクウェート侵攻はエジプトの国際収支を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。 ムバラク政権は1990年12月に「1000日計画」と称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す湾岸戦争では多国籍軍へ2万人を派兵し、これにより約130億ドルも対外債務を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務は、クウェート、サウジアラビアに対するものと、さらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には国際通貨基金(IMF)のスタンドバイクレジットおよび世界銀行の構造調整借款(SAL)が供与され、パリクラブにおいて200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのは、ドル・ペッグによる為替レート一本化であった。 ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された。 チュニジアのジャスミン革命に端を発した近隣諸国での「色の革命」がエジプトにも波及し、2011年1月、30年以上にわたって独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱を招いた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリ(英語版)を暫定首相とする政権が発足した。その後、2011年12月から翌年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。 2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動(英語版))。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換した。ムハンマド・イブラヒーム(アラビア語版)が内相に就任した2013年1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない。イブラヒーム内相は「国民が望むならば辞任する用意がある」と2月に述べた。 ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた。 2014年5月26日 - 28日に行われた大統領選挙では2013年のクーデターの主導者アブドルファッターフ・アッ=シーシーが当選して6月8日、大統領に就任し、8月5日からは新スエズ運河の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。2015年3月13日には、カイロの東側に向こう5 - 7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした。行政と経済の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米ニューヨークのマンハッタンのおよそ12倍の面積の予定であり、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わしたUAEのエマール・プロパティーズや中国の中国建築股份有限公司との破談はあったものの2016年4月に地元企業によって工事を開始し、代わりにエジプト政府がピラミッドに匹敵する一大事業のランドマークと位置づけている、アフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う中央業務地区を中国企業が請け負って2018年3月に着工した。 同国は共和制を採っている。 国家元首である大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍(エジプト軍)の最高司令官でもある。大統領の選出は、直接選挙による。任期は4年で、三選禁止となった。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。 第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領ホスニー・ムバーラクは1981年の就任以来、約30年にわたって独裁体制を築いた。ムバーラクの親米・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、再任可。議会が候補者を指名し、国民は信任投票を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。 2011年9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態となり、2月11日、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣で軍最高評議会議長のムハンマド・フセイン・タンターウィーが元首代行を務め、それは2012年エジプト大統領選挙の当選者ムハンマド・ムルシーが6月30日に大統領に就任するまで続いた。2011年3月19日、憲法改正に関する国民投票が行われ、承認された。 しかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年、軍事クーデターが勃発。ムルシーは解任され、エジプトは再び軍事政権へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され、同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。 議会は、両院制で上院は参議院、下院は代議院である。かつて、2014年に施行された憲法により、一院制となったが、2019年の憲法改正により、両院制に戻る。 参議院は全議席の内、3分の2を公選、3分の1は大統領による指名。代議院は、選挙制度を小選挙区制か比例代表制、またはその混合型とする。全議席の内5%以下を大統領が指名。そして、全議席の少なくとも25%(112議席)を女性枠とする。 2011年11月21日、イサーム・シャラフ暫定内閣は、デモと中央治安部隊の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは11月22日にテレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した。人民議会選挙は2011年11月28日から2012年1月までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も3月11日までに実施された。また5月23日と24日に大統領選挙の投票が実施された。 しかし、6月14日に最高憲法裁判所が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効(3分の1の議員について当選を無効と認定)」との判決を受け、16日までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた。大統領選挙の決選投票は6月16日と17日に実施され、イスラム主義系のムハンマド・ムルシーが当選した。 2011年3月28日に改正政党法が公表され、エジプトでは宗教を基盤とした政党が禁止された。そのため、ムスリム同胞団(事実上の最大野党であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党(アラビア語: حزب الحرية والعدالة - Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala, 英: Freedom and Justice Party)が結成された。また、ヌール党(サラフィー主義、イスラーム保守派)、新ワフド党(エジプト最古の政党)、政党連合エジプト・ブロック(英語版)(含む自由エジプト人党(世俗派)、エジプト社会民主党(中道左派)、国民進歩統一党(左派))、ワサト党、政党連合革命継続(英語版)、公正党(英語版)(アラビア語: حزب العدل - Hizb ElAdl, 英: Justice Party、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた。その後、自由と公正党が、2014年に最高裁判所により解党されている。2021年現在では、2020年の選挙により国民未来党が、上院は半数近く、下院は過半数を占めている。しかしながら、反対派の活動が徹底的に排除される中での選挙であった。 ナポレオン法典とイスラム法に基づく、混合した法システム。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。 国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には非同盟諸国の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年のキャンプ・デービッド合意とその翌年のイスラエル国交樹立によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、1981年にサーダートが暗殺された後に政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年にはシリア、レバノン、リビアを除く全てのアラブ諸国との関係が回復した。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には国際連合安全保障理事会の常任理事国入りを目指すことを表明した。2011年、パレスチナのガザの検問所を開放した。また、イランとの関係を修復しようとしている。 シーシー政権はムスリム同胞団政権時代のこうした外交政策とは一線を画している。欧米や日本、親米アラブ諸国、イスラエルのほか、中国やロシアなどと広範な協力関係を築いている。 2017年カタール外交危機では、サウジアラビアとともに、ムスリム同胞団を支援してきたカタールと国交を断絶した国の一つとなった。またサウジアラビアとは、アカバ湾口に架橋して陸上往来を可能とするプロジェクトが話し合われた(「チラン島」を参照)。 ・在留日本人数719人(2021年10月現在) ・在留エジプト人数1933人(2021年6月現在) 中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は46万8,500人。予備役47万9,000人。兵員数は陸軍34万人(軍警察を含む)、海軍1万8,500人(沿岸警備隊を含む)、空軍3万人、防空軍8万人。内務省管轄の中央治安部隊、国境警備隊と国防省管轄の革命国家警備隊(大統領親衛隊)の準軍事組織が存在する。 イスラエルとは4度にわたる中東戦争(消耗戦争も含めて5度)で毎回干戈を交えたが、第二次中東戦争で政治的な勝利を得、第四次中東戦争の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。その後は平和条約を交わしてイスラエルと接近し、シーシー政権下ではシナイ半島で活動するイスラム過激派(ISIL)に対する掃討作戦で、イスラエル空軍による爆撃を容認していることを公式に認めた。 軍事的にはアメリカと協力関係にあるため、北大西洋条約機構(NATO)のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。また、ロシアや中国からも武器の供給を受けており、中露が主導する上海協力機構にも対話パートナーとして参加している。 アフリカ大陸北東隅に位置し、国土面積は100万2,450km2で、世界で30番目の大きさである。国土の95%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠(リビア砂漠)、東側には紅海とスエズ湾に接する東部砂漠(الصحراء الشرقية - シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8,000kmの広さをもつカッターラ低地は海面より133mも低く、ジブチのアッサル湖に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。シナイ半島の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰のカテリーナ山(2,637m)や、旧約聖書でモーセが十戒を授かったといわれるシナイ山(2,285m)がある。シナイ半島とナイル河谷との間はスエズ湾が大きく湾入して細くくびれた地峡となっており、ここがアフリカ大陸とユーラシア大陸の境目とされている。この細い部分は低地であるため、スエズ運河が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。 ナイル川は南隣のスーダンで白ナイル川と青ナイル川が合流し、エジプト国内を南北1,545Kmにもわたって北上し、河口で広大なデルタを形成して地中海に注ぐ。アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5Kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり、アシュート近辺で分岐の支流がファイユーム近郊のカールーン湖(Birket Qarun、かつてのモエリス湖)へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なファイユーム・オアシス(英語版)を形成している。一方、本流は、カイロ近辺で典型的な扇状三角州となるナイル・デルタは、地中海に向かって約250Kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内でもっとも肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから下エジプトと上エジプトという、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域を指し、後者はカイロから上流の谷を指している。ナイル河谷は、世界でももっとも人口密度の高い地域の一つである。 ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人がオアシスに集住しているのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側にはワジ(涸れ川)が全くない。シーワ、ファラーフラ、ハルガ、バハレイヤ、ダフラといったオアシスが点在している。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルとアラビア半島を結ぶ重要な交通路に位置しているため、いくつかの小さな港が存在する。 1885年に列強がドイツのベルリンで開いた会議で、それまでに植民地化していたアフリカの分割を確定した。リビア国境の大部分で東経25度に、スーダンでは北緯22度に定めたため、国境が直線的である。 スーダンとの間では、エジプトが実効支配するハラーイブ・トライアングルに対してスーダンも領有権を主張している。一方、その西にあるビル・タウィールは両国とも領有権を主張していない無主地である。 国土の全域が砂漠気候で人口はナイル河谷およびデルタ地帯、スエズ運河付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠に属する。夏には日中の気温は40°Cを超え、50°Cになることもある。降雨はわずかに地中海岸にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13 - 14°C、上エジプトで16°C程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。 エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ(محافظة、県、州 と訳されることもある)である。知事は中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において中央集権体制をとる。面積には極端な偏りがあり、ナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、エジプトの国土がナイル流域以外は全域が砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。 2018年のエジプトの国内総生産(GDP)は約2,496億ドル(約27兆円)、一人当たりでは2,573ドルである。アフリカでは屈指の経済規模であり、BRICsの次に経済発展が期待できるとされているNEXT11の一国にも数えられている。しかし、一人当たりのGDPでみると、中東や北アフリカ諸国の中では最低水準であり、トルコの約4分の1、イランの半分に過ぎず、更に同じ北アフリカ諸国であるチュニジアやモロッコに比べても、水準は低い。 スエズ運河収入と観光産業収入、更には在外労働者からの送金の3大外貨収入の依存が大きく、エジプト政府は、それらの手段に安易に頼っている。更に政情に左右されやすい。 工業は石油などの資源はないが様々な工業が発展しており今後も成長が見込まれる。近年は情報技術(IT)産業が急速に成長している。しかしながらGDPの約半分が軍関連企業が占めていて主に農業 建築業などの工業を担っている。 金融はイスラーム銀行も近代式銀行の両方とも発達しており投資家層も厚く、アメリカのドナルド・トランプ政権にはエジプトの敏腕女性投資家が起用されている。 これまでは買い物や公共料金の支払いは現金、送金は窓口での手続きが主流であった。これはチップや喜捨として現金を渡すバクシーシの習慣が根付いていることも一因としてあったが、電子決済も急速に普及している。新型コロナウイルス感染症がエジプトでも流行し、他人との接触を減らす必要が生じたことも背景となっている。 かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。 しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが減り、アスワン・ハイ・ダムの建設によって、上流からの土壌がせき止められるようになった。そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大した。農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったため、コストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。 1970年代に農業の機械化および各種生産業における機械への転換により、地方での労働力の過剰供給が見受けられ、労働力は都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招いた。1980年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。このため綿花および綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するが、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大および失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるが、結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化および税制改革に取り組んでいる。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生した。 また、「アラブの春」により、2012年 ~ 2014年の間は2 ~ 3%台と一時低迷していたが、その後政情の安定化により、2015年には、4%台に回復している。またIMFの勧告を受け、2016年に為替相場の大幅切り下げや補助金削減などの改革をしたことで、経済健全化への期待感より、外国からの資本流入が拡大していき、経済の復調を遂げている。 農業は農薬などを大量に使っているためコストが高くなっているが、それなりの食料自給率を保っている。果物は日本にもジャムなどに加工され輸出されている。 主食のアエーシ(イーシュ)というパンの原料は小麦であり国内生産も盛んであるが、2010年代においても国内需要の全てを賄うことはできず、約半数は輸入に依存している。コメも古くから生産されており、1917年からジャポニカ米を導入してきた歴史がある。太平洋戦争直後の食糧難の時期(1948年)には日本に輸入され配給に用いられたこともある。 エジプトの交通の柱は歴史上常にナイル川であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。ファルーカという伝統的な帆船や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。 鉄道は、国有のエジプト鉄道が運営している。営業キロは5,063キロにのぼり、カイロを起点としてナイル川デルタやナイル河谷の主要都市を結んでいる。 航空は、フラッグ・キャリアであるエジプト航空を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港はこの地域のハブ空港の一つである。 エジプトの人口は近年急速に増大し続けており、エジプト中央動員統計局(CAPMAS)によると2020年2月11日に1億人を突破した。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、ピラミッド型の人口構成をしている。しかし、若年層はさらに増加傾向にあるにもかかわらず、経済はそれほど拡大していないため、若者の失業が深刻な問題となっており、2011年エジプト騒乱の原因の一つともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033%。 住民はイスラム教徒とキリスト教徒(コプト教会、東方正教会など)からなるアラブ人がほとんどを占め、そのほかにベドウィン(遊牧民)やベルベル人、ヌビア人(英語版)、アルメニア人、トルコ人、ギリシア人などがいる。遺伝的に見れば、エジプト住民のほとんどが古代エジプト人の直系であり、エジプト民族との呼称でも呼ばれる所以である。長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入・定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。現代においてカイロは世界都市となっており、また歴史的にもアル=アズハル大学は、イスラム教スンナ派で最高権威を有する教育機関として、中東・イスラム圏各地から人々が参集する。 なお古代エジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしていることが多い。すなわち、ギザの大スフィンクスやギザの大ピラミッドを建て、太陽神や様々な神を信仰(エジプト神話)していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。 現在のエジプトではアラビア語が公用語である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語(フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言である。。 古代エジプトの公用語であったエジプト語(4世紀以降の近代エジプト語はコプト語の名で知られる)は、現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民は極めて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である。他には地域的にヌビア諸語、教育・ビジネスに英語、文化においてはフランス語なども使われている。 宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる。 多くの場合、婚姻時に女性は改姓しない(夫婦別姓)が、改姓する女性もいる。 一夫多妻制により4人まで婚姻できるが、現在は1人と結婚する者が多い。 エジプトの教育制度は、1999年から小学校の課程が1年延び、日本と同じく小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年の6・3・3・4制となっている。義務教育は小学校と中学校の9年である。1923年のエジプト独立の際、初等教育は既に無料とされ、以後段階的に教育の無料化が進展した。1950年には著名な作家でもあった文部大臣ターハー・フセインによって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めた全ての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の教員が給料の少なさなどから個人の家庭教師を兼任することが広く行われており、社会問題化している。 小学校は進級試験があるため、家庭教師をつけることもある。授業料は無償化しているが、教育費は日本以上にかかる。なお、高額な授業料の代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。また、エジプト国内に20万以上の小中学校、1,000万人以上の学生、13の主要大学、67の師範学校がある。 2018年より「エジプト日本学校(EJS=Egypt-Japan School)」が35校、開校した。これは2017年にJICAが技術協力「学びの質向上のための環境整備プロジェクト」を開始したことに始まるもので、日本の学校教育で行われている学級会や生徒による清掃などをエジプトの教育に取り入れようとする教育方針である。試験的に導入した際には文化的な違いから反発も見受けられたが、校内での暴力が減った、子供が家でも掃除をするようになったなど、徐々に成果が見えるようになり本格的に導入されることになった。 2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された。 主な高等教育機関としては、アル=アズハル大学、吉村作治や小池百合子らが出身のカイロ大学(1908年~)などが存在する。 国立図書館として新アレクサンドリア図書館が存在する。 エジプトは、失業率が高い低中所得国である。2011年1月と2013年6月の政変に伴い、社会・治安状況が不安定化したものの2014年6月からアッ=シーシー大統領の就任以後、政治プロセスの進展と共に治安対策が強化され、国内情勢は安定を取り戻しつつある。だが、政府によるエジプトの経済を促進する為の努力が現在も続けられている状態にも拘らず、国民の32.5%は極度の貧困の中で生活している。 一方、カイロを含む各地で発生していたデモ及びそれに伴う衝突事案が減少している事が明らかにされているが、テロ事件の発生頻度は高めとなっている侭である。テロは主に現地警察や教会・モスクを狙ったものが多いが観光地でも死傷者の出る事件が起きており、十分な注意が必要とされている。 人権団体の報告によれば、2020年1月の時点でエジプトには約60,000人の政治犯が収容されているとの調査結果がある。 アレクサンドリア在住のハーリド・サイードは、2010年6月6日午後11時過ぎ、自宅近くのインターネットカフェにいたところを突然2人の私服警官に取り押さえられ、殴る蹴るの暴行を受けた。集まった群衆の中にいた医師がハーリドの死亡を確認した。 警官の暴行によってあごを割られ、後頭部から出血したことが死因であると遺族は主張した。12日、エジプトの内務省は「強盗容疑などで指名手配中」というハーリドを地元警察の捜査員が発見し逮捕しようとしたが、麻薬入りの袋を飲み込み窒息死したとした上で、「自殺」と断定した。これに対して地元メディアが「当局の人権弾圧の象徴」として大々的に報道したことに加え、地元NGOや国際人権団体アムネスティ・インターナショナルも徹底調査を要請。これを受けて、検察当局は遺体解剖の手続をとるなど、再捜査を開始した。 エジプトのメディアは、エジプト国内およびアラブ世界で非常に強い影響力を保持している。これは、エジプトのテレビ関連業界や映画業界ならび大勢の視聴者がアラブ世界へ供給している為であり、それらが歴史的に長い事も起因している。 またエジプトでは報道法や出版法およびエジプト刑法に基づき、報道機関を規制ならび統制している現状がある。 北アフリカのサハラ砂漠の東部に位置するエジプトは国土の大半が砂漠気候であるが、北部海岸地帯は温暖な地中海性気候で、ナイル川の河口に広がるナイル・デルタはステップ気候である。降雨量は少ないが、豊富なナイル川の水により、流域およびデルタ地帯で様々な作物が作られている。これらの豊富な穀物・野菜・果物などの農作物や地中海やナイル川からの魚介類、肉類では羊肉・牛肉・鶏肉を使った料理が食べられている。 古代エジプトに起源を持つと言われている春祭りシャンム・ナシーム(春香祭)では、ボラを塩漬け・発酵させた魚料理であるフィシーフが食べられるなど、祝祭に関連した食文化も豊かである。 古代エジプトにおいてはパピルスにヒエログリフで創作がなされ、古代エジプト文学には『死者の書』や『シヌヘの物語』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラビア語文学の一つの中心地となった。近代の文学者としてターハー・フセインの名が挙げられ、現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。 エジプトの音楽は隣国に対する何千年にも渡る支配により、その周辺地域へ非常に大きな影響を及ぼしている。たとえば聖書で「古代ヘブライ人によって演奏された」と主張されている楽器はすべて古代エジプトに起源することがエジプト考古学によって判明されている。また、古代ギリシャの音楽の発展に多大な影響を与えている面があることが確認されている。 宗教音楽においては、ムリッド(mulid)と呼ばれるスーフィーなどの伝統を重んじるイスラム教徒と、コプト派のキリスト教徒による祭典における重要な部分であり続けている面が窺える。 同国における建築は古代のものが中心に周知されており、現代建築に対してはあまり焦点が当てられていない現状がある。 一方、世界各地において古代エジプトのモチーフとイメージを多用しつつも現代風の仕様を留める建築様式が採用されている。 エジプト国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。 基本となる祝祭日は以下になる。 この他にイスラム暦に基づいた移動祝祭日が存在しており、先述したシャンム・ナシーム(東方教会の復活祭の翌日に行われる)もそのうちの一つである。 エジプトではサッカーが最も人気のスポーツである。サッカー以外ではスカッシュが盛んで、21世紀に入ってからワールドスカッシュ選手権(英語版)で男女ともに多くの優勝者を輩出している。また、公園が少ないゆえに貧困層は路地でスポーツを楽しみ、富裕層はスポーツクラブで楽しむ。 1948年にプロサッカーリーグのエジプト・プレミアリーグが創設された。同リーグはアル・アハリが圧倒的な強さで支配しており、7連覇を含むリーグ最多42度の優勝を達成しており、アフリカ大陸のクラブ王者を決めるCAFチャンピオンズリーグでも大会最多10度の優勝に輝いている。エジプトサッカー協会(EFA)によって構成されるサッカーエジプト代表は、これまでFIFAワールドカップには3度出場している。なお、アフリカネイションズカップでは大会最多7度の優勝を誇っている。 国の英雄的な存在にはモハメド・サラーがおり、イングランド・プレミアリーグで得点王や最優秀選手賞を獲得している。リヴァプールではエースとして、プレミアリーグやUEFAチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた。これらの活躍からエジプトでは絶大な人気を誇り、2018年に行われたエジプト大統領選挙では当選した現職の大統領(92%得票)に次いで2位となる全体の約5%の票(約100万票)が立候補すらしていないサラーへと投じられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、アラビア語: جمهورية مصر العربية)、通称:エジプト(アラビア語: مصر)は、中東および北アフリカに位置する共和制国家。首都はカイロ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アフリカ大陸では北東端に位置し、西にリビア、南にスーダン、北東のシナイ半島ではイスラエル、パレスチナ国・ガザ地区と国境を接する。北部は地中海、東部は紅海に面している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "エジプトは中東とアフリカ大陸の接点に存在し、古代文明が存在していた地域のひとつに数え上げられる。その文字記録された歴史は紀元前4千年紀にまで遡れる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "民族・宗教的にはアラブ世界、イスラム世界の一国である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "人口はアラブ諸国で最も多く、2020年2月に1億人を超えている。同国地域には数千年前の古代都市の痕跡や幾多もの史跡がナイル川に沿う形で点在している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、水源が乏しい国の一つとしても知られており、南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分の95%以上が砂漠である。ナイル河口の東には地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "同国は現在、MENA地域において2番目に人口密度の高い国と見做されており、中でもカイロは世界で最も人口密度の高い都市のひとつに当たる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "正式名称はアラビア語で جمهورية مصر العربية(ラテン翻字: Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah)。通称は مصر(標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言ほか、口語アラビア語: [mɑsʕɾ] マスル)。コプト語: Ⲭⲏⲙⲓ(Khemi ケーミ)。", "title": "国号" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形のミスライム(מצרים, ミツライム)となる。", "title": "国号" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は Arab Republic of Egypt。通称 Egypt [ˈiːdʒɨpt]。発音は「イージプト」に近い。形容詞はEgyptian [ɨˈdʒɪpʃən]。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハの魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話のアイギュプトスにちなむ。", "title": "国号" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト。漢字では埃及と表記し、埃と略される。", "title": "国号" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年ごろには早くも国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前663年にアッシリア帝国によって征服された。アッシリアの滅亡後一時独立を回復したものの、紀元前525年にアケメネス朝ペルシアによって再び征服され、民族国家としての独立性を失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "紀元前332年にはアレクサンドロス大王の東征に伴いマケドニア帝国に組み込まれ、大王の死後その部将の一人であるプトレマイオス1世によってプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化と在来文化の融合を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "末代の女王クレオパトラ7世の奮闘も虚しく、プトレマイオス朝は紀元前30年にローマの将軍オクタウィアヌスによって滅ぼされ、エジプトはアイギュプトゥス属州としてローマ帝国の支配下に置かれた。紀元後に入ってはキリスト教が広まり、後にコプト正教会が生まれた。豊かな穀倉地帯であったために皇帝の直接統治領となり、ローマとその後継のビザンツ帝国時代に通して帝国行政の片鱗を担った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝、イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上にわたって続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1517年に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国の下でもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけに、エジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人のムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事の近代化を進め、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功した。アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1882年、アフマド・オラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの保護国となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。1919年3月にイギリス当局が、元官僚で当時ワフド党を率い独立運動を指導したサアド・ザグルールらを逮捕・国外追放した事がかえって反発を招き、これを契機として反英独立運動たるエジプト革命が勃発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。 第二次世界大戦では、1940年9月12日、枢軸国軍であるイタリア王国軍がリビアから侵攻したが英軍が撃退した(北アフリカ戦線)。第二次世界大戦前後から、現在はイスラエルになっている地域へのユダヤ人移民に伴うパレスチナ問題の深刻化、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この状況を受けて1952年、軍内部の秘密組織自由将校団がクーデターを起こし、国王ファールーク1世を亡命に追い込み、ムハンマド・アリー朝を打倒した(エジプト革命)。生後わずか半年のフアード2世を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位して共和政へと移行。ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となり、エジプト共和国が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルの下でエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年の第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、自ら主導した第四次中東戦争後にソビエト連邦と対立してアメリカ合衆国など西側諸国に接近。社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル路線からの転換を進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切るうえで、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。 さらに、1977年には物価上昇に抗議する暴動を共産主義者によるものと断定、既に結党が禁止されていたエジプト共産党などの左翼組織の弾圧を強化した。 しかしサーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺(英語版)された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "イラクのクウェート侵攻はエジプトの国際収支を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ムバラク政権は1990年12月に「1000日計画」と称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す湾岸戦争では多国籍軍へ2万人を派兵し、これにより約130億ドルも対外債務を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務は、クウェート、サウジアラビアに対するものと、さらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には国際通貨基金(IMF)のスタンドバイクレジットおよび世界銀行の構造調整借款(SAL)が供与され、パリクラブにおいて200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのは、ドル・ペッグによる為替レート一本化であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "チュニジアのジャスミン革命に端を発した近隣諸国での「色の革命」がエジプトにも波及し、2011年1月、30年以上にわたって独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱を招いた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリ(英語版)を暫定首相とする政権が発足した。その後、2011年12月から翌年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動(英語版))。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換した。ムハンマド・イブラヒーム(アラビア語版)が内相に就任した2013年1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない。イブラヒーム内相は「国民が望むならば辞任する用意がある」と2月に述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2014年5月26日 - 28日に行われた大統領選挙では2013年のクーデターの主導者アブドルファッターフ・アッ=シーシーが当選して6月8日、大統領に就任し、8月5日からは新スエズ運河の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。2015年3月13日には、カイロの東側に向こう5 - 7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした。行政と経済の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米ニューヨークのマンハッタンのおよそ12倍の面積の予定であり、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わしたUAEのエマール・プロパティーズや中国の中国建築股份有限公司との破談はあったものの2016年4月に地元企業によって工事を開始し、代わりにエジプト政府がピラミッドに匹敵する一大事業のランドマークと位置づけている、アフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う中央業務地区を中国企業が請け負って2018年3月に着工した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "同国は共和制を採っている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "国家元首である大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍(エジプト軍)の最高司令官でもある。大統領の選出は、直接選挙による。任期は4年で、三選禁止となった。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領ホスニー・ムバーラクは1981年の就任以来、約30年にわたって独裁体制を築いた。ムバーラクの親米・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、再任可。議会が候補者を指名し、国民は信任投票を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2011年9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態となり、2月11日、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣で軍最高評議会議長のムハンマド・フセイン・タンターウィーが元首代行を務め、それは2012年エジプト大統領選挙の当選者ムハンマド・ムルシーが6月30日に大統領に就任するまで続いた。2011年3月19日、憲法改正に関する国民投票が行われ、承認された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年、軍事クーデターが勃発。ムルシーは解任され、エジプトは再び軍事政権へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され、同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "議会は、両院制で上院は参議院、下院は代議院である。かつて、2014年に施行された憲法により、一院制となったが、2019年の憲法改正により、両院制に戻る。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "参議院は全議席の内、3分の2を公選、3分の1は大統領による指名。代議院は、選挙制度を小選挙区制か比例代表制、またはその混合型とする。全議席の内5%以下を大統領が指名。そして、全議席の少なくとも25%(112議席)を女性枠とする。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2011年11月21日、イサーム・シャラフ暫定内閣は、デモと中央治安部隊の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは11月22日にテレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した。人民議会選挙は2011年11月28日から2012年1月までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も3月11日までに実施された。また5月23日と24日に大統領選挙の投票が実施された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "しかし、6月14日に最高憲法裁判所が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効(3分の1の議員について当選を無効と認定)」との判決を受け、16日までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた。大統領選挙の決選投票は6月16日と17日に実施され、イスラム主義系のムハンマド・ムルシーが当選した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2011年3月28日に改正政党法が公表され、エジプトでは宗教を基盤とした政党が禁止された。そのため、ムスリム同胞団(事実上の最大野党であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党(アラビア語: حزب الحرية والعدالة - Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala, 英: Freedom and Justice Party)が結成された。また、ヌール党(サラフィー主義、イスラーム保守派)、新ワフド党(エジプト最古の政党)、政党連合エジプト・ブロック(英語版)(含む自由エジプト人党(世俗派)、エジプト社会民主党(中道左派)、国民進歩統一党(左派))、ワサト党、政党連合革命継続(英語版)、公正党(英語版)(アラビア語: حزب العدل - Hizb ElAdl, 英: Justice Party、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた。その後、自由と公正党が、2014年に最高裁判所により解党されている。2021年現在では、2020年の選挙により国民未来党が、上院は半数近く、下院は過半数を占めている。しかしながら、反対派の活動が徹底的に排除される中での選挙であった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ナポレオン法典とイスラム法に基づく、混合した法システム。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には非同盟諸国の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年のキャンプ・デービッド合意とその翌年のイスラエル国交樹立によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、1981年にサーダートが暗殺された後に政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年にはシリア、レバノン、リビアを除く全てのアラブ諸国との関係が回復した。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には国際連合安全保障理事会の常任理事国入りを目指すことを表明した。2011年、パレスチナのガザの検問所を開放した。また、イランとの関係を修復しようとしている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "シーシー政権はムスリム同胞団政権時代のこうした外交政策とは一線を画している。欧米や日本、親米アラブ諸国、イスラエルのほか、中国やロシアなどと広範な協力関係を築いている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2017年カタール外交危機では、サウジアラビアとともに、ムスリム同胞団を支援してきたカタールと国交を断絶した国の一つとなった。またサウジアラビアとは、アカバ湾口に架橋して陸上往来を可能とするプロジェクトが話し合われた(「チラン島」を参照)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "・在留日本人数719人(2021年10月現在)", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "・在留エジプト人数1933人(2021年6月現在)", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は46万8,500人。予備役47万9,000人。兵員数は陸軍34万人(軍警察を含む)、海軍1万8,500人(沿岸警備隊を含む)、空軍3万人、防空軍8万人。内務省管轄の中央治安部隊、国境警備隊と国防省管轄の革命国家警備隊(大統領親衛隊)の準軍事組織が存在する。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "イスラエルとは4度にわたる中東戦争(消耗戦争も含めて5度)で毎回干戈を交えたが、第二次中東戦争で政治的な勝利を得、第四次中東戦争の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。その後は平和条約を交わしてイスラエルと接近し、シーシー政権下ではシナイ半島で活動するイスラム過激派(ISIL)に対する掃討作戦で、イスラエル空軍による爆撃を容認していることを公式に認めた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "軍事的にはアメリカと協力関係にあるため、北大西洋条約機構(NATO)のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。また、ロシアや中国からも武器の供給を受けており、中露が主導する上海協力機構にも対話パートナーとして参加している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "アフリカ大陸北東隅に位置し、国土面積は100万2,450km2で、世界で30番目の大きさである。国土の95%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠(リビア砂漠)、東側には紅海とスエズ湾に接する東部砂漠(الصحراء الشرقية - シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8,000kmの広さをもつカッターラ低地は海面より133mも低く、ジブチのアッサル湖に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。シナイ半島の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰のカテリーナ山(2,637m)や、旧約聖書でモーセが十戒を授かったといわれるシナイ山(2,285m)がある。シナイ半島とナイル河谷との間はスエズ湾が大きく湾入して細くくびれた地峡となっており、ここがアフリカ大陸とユーラシア大陸の境目とされている。この細い部分は低地であるため、スエズ運河が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ナイル川は南隣のスーダンで白ナイル川と青ナイル川が合流し、エジプト国内を南北1,545Kmにもわたって北上し、河口で広大なデルタを形成して地中海に注ぐ。アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5Kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり、アシュート近辺で分岐の支流がファイユーム近郊のカールーン湖(Birket Qarun、かつてのモエリス湖)へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なファイユーム・オアシス(英語版)を形成している。一方、本流は、カイロ近辺で典型的な扇状三角州となるナイル・デルタは、地中海に向かって約250Kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内でもっとも肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから下エジプトと上エジプトという、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域を指し、後者はカイロから上流の谷を指している。ナイル河谷は、世界でももっとも人口密度の高い地域の一つである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人がオアシスに集住しているのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側にはワジ(涸れ川)が全くない。シーワ、ファラーフラ、ハルガ、バハレイヤ、ダフラといったオアシスが点在している。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルとアラビア半島を結ぶ重要な交通路に位置しているため、いくつかの小さな港が存在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1885年に列強がドイツのベルリンで開いた会議で、それまでに植民地化していたアフリカの分割を確定した。リビア国境の大部分で東経25度に、スーダンでは北緯22度に定めたため、国境が直線的である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "スーダンとの間では、エジプトが実効支配するハラーイブ・トライアングルに対してスーダンも領有権を主張している。一方、その西にあるビル・タウィールは両国とも領有権を主張していない無主地である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "国土の全域が砂漠気候で人口はナイル河谷およびデルタ地帯、スエズ運河付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠に属する。夏には日中の気温は40°Cを超え、50°Cになることもある。降雨はわずかに地中海岸にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13 - 14°C、上エジプトで16°C程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ(محافظة、県、州 と訳されることもある)である。知事は中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において中央集権体制をとる。面積には極端な偏りがあり、ナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、エジプトの国土がナイル流域以外は全域が砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2018年のエジプトの国内総生産(GDP)は約2,496億ドル(約27兆円)、一人当たりでは2,573ドルである。アフリカでは屈指の経済規模であり、BRICsの次に経済発展が期待できるとされているNEXT11の一国にも数えられている。しかし、一人当たりのGDPでみると、中東や北アフリカ諸国の中では最低水準であり、トルコの約4分の1、イランの半分に過ぎず、更に同じ北アフリカ諸国であるチュニジアやモロッコに比べても、水準は低い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "スエズ運河収入と観光産業収入、更には在外労働者からの送金の3大外貨収入の依存が大きく、エジプト政府は、それらの手段に安易に頼っている。更に政情に左右されやすい。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "工業は石油などの資源はないが様々な工業が発展しており今後も成長が見込まれる。近年は情報技術(IT)産業が急速に成長している。しかしながらGDPの約半分が軍関連企業が占めていて主に農業 建築業などの工業を担っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "金融はイスラーム銀行も近代式銀行の両方とも発達しており投資家層も厚く、アメリカのドナルド・トランプ政権にはエジプトの敏腕女性投資家が起用されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "これまでは買い物や公共料金の支払いは現金、送金は窓口での手続きが主流であった。これはチップや喜捨として現金を渡すバクシーシの習慣が根付いていることも一因としてあったが、電子決済も急速に普及している。新型コロナウイルス感染症がエジプトでも流行し、他人との接触を減らす必要が生じたことも背景となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが減り、アスワン・ハイ・ダムの建設によって、上流からの土壌がせき止められるようになった。そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大した。農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったため、コストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1970年代に農業の機械化および各種生産業における機械への転換により、地方での労働力の過剰供給が見受けられ、労働力は都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招いた。1980年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。このため綿花および綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するが、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大および失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるが、結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化および税制改革に取り組んでいる。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "また、「アラブの春」により、2012年 ~ 2014年の間は2 ~ 3%台と一時低迷していたが、その後政情の安定化により、2015年には、4%台に回復している。またIMFの勧告を受け、2016年に為替相場の大幅切り下げや補助金削減などの改革をしたことで、経済健全化への期待感より、外国からの資本流入が拡大していき、経済の復調を遂げている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "農業は農薬などを大量に使っているためコストが高くなっているが、それなりの食料自給率を保っている。果物は日本にもジャムなどに加工され輸出されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "主食のアエーシ(イーシュ)というパンの原料は小麦であり国内生産も盛んであるが、2010年代においても国内需要の全てを賄うことはできず、約半数は輸入に依存している。コメも古くから生産されており、1917年からジャポニカ米を導入してきた歴史がある。太平洋戦争直後の食糧難の時期(1948年)には日本に輸入され配給に用いられたこともある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "エジプトの交通の柱は歴史上常にナイル川であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。ファルーカという伝統的な帆船や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "鉄道は、国有のエジプト鉄道が運営している。営業キロは5,063キロにのぼり、カイロを起点としてナイル川デルタやナイル河谷の主要都市を結んでいる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "航空は、フラッグ・キャリアであるエジプト航空を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港はこの地域のハブ空港の一つである。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "エジプトの人口は近年急速に増大し続けており、エジプト中央動員統計局(CAPMAS)によると2020年2月11日に1億人を突破した。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、ピラミッド型の人口構成をしている。しかし、若年層はさらに増加傾向にあるにもかかわらず、経済はそれほど拡大していないため、若者の失業が深刻な問題となっており、2011年エジプト騒乱の原因の一つともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033%。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "住民はイスラム教徒とキリスト教徒(コプト教会、東方正教会など)からなるアラブ人がほとんどを占め、そのほかにベドウィン(遊牧民)やベルベル人、ヌビア人(英語版)、アルメニア人、トルコ人、ギリシア人などがいる。遺伝的に見れば、エジプト住民のほとんどが古代エジプト人の直系であり、エジプト民族との呼称でも呼ばれる所以である。長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入・定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。現代においてカイロは世界都市となっており、また歴史的にもアル=アズハル大学は、イスラム教スンナ派で最高権威を有する教育機関として、中東・イスラム圏各地から人々が参集する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "なお古代エジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしていることが多い。すなわち、ギザの大スフィンクスやギザの大ピラミッドを建て、太陽神や様々な神を信仰(エジプト神話)していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "現在のエジプトではアラビア語が公用語である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語(フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言である。。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "古代エジプトの公用語であったエジプト語(4世紀以降の近代エジプト語はコプト語の名で知られる)は、現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民は極めて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である。他には地域的にヌビア諸語、教育・ビジネスに英語、文化においてはフランス語なども使われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "多くの場合、婚姻時に女性は改姓しない(夫婦別姓)が、改姓する女性もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "一夫多妻制により4人まで婚姻できるが、現在は1人と結婚する者が多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "エジプトの教育制度は、1999年から小学校の課程が1年延び、日本と同じく小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年の6・3・3・4制となっている。義務教育は小学校と中学校の9年である。1923年のエジプト独立の際、初等教育は既に無料とされ、以後段階的に教育の無料化が進展した。1950年には著名な作家でもあった文部大臣ターハー・フセインによって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めた全ての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の教員が給料の少なさなどから個人の家庭教師を兼任することが広く行われており、社会問題化している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "小学校は進級試験があるため、家庭教師をつけることもある。授業料は無償化しているが、教育費は日本以上にかかる。なお、高額な授業料の代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。また、エジプト国内に20万以上の小中学校、1,000万人以上の学生、13の主要大学、67の師範学校がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2018年より「エジプト日本学校(EJS=Egypt-Japan School)」が35校、開校した。これは2017年にJICAが技術協力「学びの質向上のための環境整備プロジェクト」を開始したことに始まるもので、日本の学校教育で行われている学級会や生徒による清掃などをエジプトの教育に取り入れようとする教育方針である。試験的に導入した際には文化的な違いから反発も見受けられたが、校内での暴力が減った、子供が家でも掃除をするようになったなど、徐々に成果が見えるようになり本格的に導入されることになった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としては、アル=アズハル大学、吉村作治や小池百合子らが出身のカイロ大学(1908年~)などが存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "国立図書館として新アレクサンドリア図書館が存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "エジプトは、失業率が高い低中所得国である。2011年1月と2013年6月の政変に伴い、社会・治安状況が不安定化したものの2014年6月からアッ=シーシー大統領の就任以後、政治プロセスの進展と共に治安対策が強化され、国内情勢は安定を取り戻しつつある。だが、政府によるエジプトの経済を促進する為の努力が現在も続けられている状態にも拘らず、国民の32.5%は極度の貧困の中で生活している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "一方、カイロを含む各地で発生していたデモ及びそれに伴う衝突事案が減少している事が明らかにされているが、テロ事件の発生頻度は高めとなっている侭である。テロは主に現地警察や教会・モスクを狙ったものが多いが観光地でも死傷者の出る事件が起きており、十分な注意が必要とされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "人権団体の報告によれば、2020年1月の時点でエジプトには約60,000人の政治犯が収容されているとの調査結果がある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "アレクサンドリア在住のハーリド・サイードは、2010年6月6日午後11時過ぎ、自宅近くのインターネットカフェにいたところを突然2人の私服警官に取り押さえられ、殴る蹴るの暴行を受けた。集まった群衆の中にいた医師がハーリドの死亡を確認した。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "警官の暴行によってあごを割られ、後頭部から出血したことが死因であると遺族は主張した。12日、エジプトの内務省は「強盗容疑などで指名手配中」というハーリドを地元警察の捜査員が発見し逮捕しようとしたが、麻薬入りの袋を飲み込み窒息死したとした上で、「自殺」と断定した。これに対して地元メディアが「当局の人権弾圧の象徴」として大々的に報道したことに加え、地元NGOや国際人権団体アムネスティ・インターナショナルも徹底調査を要請。これを受けて、検察当局は遺体解剖の手続をとるなど、再捜査を開始した。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "エジプトのメディアは、エジプト国内およびアラブ世界で非常に強い影響力を保持している。これは、エジプトのテレビ関連業界や映画業界ならび大勢の視聴者がアラブ世界へ供給している為であり、それらが歴史的に長い事も起因している。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "またエジプトでは報道法や出版法およびエジプト刑法に基づき、報道機関を規制ならび統制している現状がある。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "北アフリカのサハラ砂漠の東部に位置するエジプトは国土の大半が砂漠気候であるが、北部海岸地帯は温暖な地中海性気候で、ナイル川の河口に広がるナイル・デルタはステップ気候である。降雨量は少ないが、豊富なナイル川の水により、流域およびデルタ地帯で様々な作物が作られている。これらの豊富な穀物・野菜・果物などの農作物や地中海やナイル川からの魚介類、肉類では羊肉・牛肉・鶏肉を使った料理が食べられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "古代エジプトに起源を持つと言われている春祭りシャンム・ナシーム(春香祭)では、ボラを塩漬け・発酵させた魚料理であるフィシーフが食べられるなど、祝祭に関連した食文化も豊かである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "古代エジプトにおいてはパピルスにヒエログリフで創作がなされ、古代エジプト文学には『死者の書』や『シヌヘの物語』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラビア語文学の一つの中心地となった。近代の文学者としてターハー・フセインの名が挙げられ、現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "エジプトの音楽は隣国に対する何千年にも渡る支配により、その周辺地域へ非常に大きな影響を及ぼしている。たとえば聖書で「古代ヘブライ人によって演奏された」と主張されている楽器はすべて古代エジプトに起源することがエジプト考古学によって判明されている。また、古代ギリシャの音楽の発展に多大な影響を与えている面があることが確認されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "宗教音楽においては、ムリッド(mulid)と呼ばれるスーフィーなどの伝統を重んじるイスラム教徒と、コプト派のキリスト教徒による祭典における重要な部分であり続けている面が窺える。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "同国における建築は古代のものが中心に周知されており、現代建築に対してはあまり焦点が当てられていない現状がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "一方、世界各地において古代エジプトのモチーフとイメージを多用しつつも現代風の仕様を留める建築様式が採用されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "エジプト国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "基本となる祝祭日は以下になる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "この他にイスラム暦に基づいた移動祝祭日が存在しており、先述したシャンム・ナシーム(東方教会の復活祭の翌日に行われる)もそのうちの一つである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "エジプトではサッカーが最も人気のスポーツである。サッカー以外ではスカッシュが盛んで、21世紀に入ってからワールドスカッシュ選手権(英語版)で男女ともに多くの優勝者を輩出している。また、公園が少ないゆえに貧困層は路地でスポーツを楽しみ、富裕層はスポーツクラブで楽しむ。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1948年にプロサッカーリーグのエジプト・プレミアリーグが創設された。同リーグはアル・アハリが圧倒的な強さで支配しており、7連覇を含むリーグ最多42度の優勝を達成しており、アフリカ大陸のクラブ王者を決めるCAFチャンピオンズリーグでも大会最多10度の優勝に輝いている。エジプトサッカー協会(EFA)によって構成されるサッカーエジプト代表は、これまでFIFAワールドカップには3度出場している。なお、アフリカネイションズカップでは大会最多7度の優勝を誇っている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "国の英雄的な存在にはモハメド・サラーがおり、イングランド・プレミアリーグで得点王や最優秀選手賞を獲得している。リヴァプールではエースとして、プレミアリーグやUEFAチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた。これらの活躍からエジプトでは絶大な人気を誇り、2018年に行われたエジプト大統領選挙では当選した現職の大統領(92%得票)に次いで2位となる全体の約5%の票(約100万票)が立候補すらしていないサラーへと投じられている。", "title": "スポーツ" } ]
エジプト・アラブ共和国、通称:エジプトは、中東および北アフリカに位置する共和制国家。首都はカイロ。 アフリカ大陸では北東端に位置し、西にリビア、南にスーダン、北東のシナイ半島ではイスラエル、パレスチナ国・ガザ地区と国境を接する。北部は地中海、東部は紅海に面している。
{{Otheruses|'''主に[[現代 (時代区分)|現代]]のエジプト・アラブ共和国'''|[[古代]]|古代エジプト}} {{基礎情報 国 | 略名 = エジプト | 漢字書き= 埃及 | 日本語国名 = エジプト・アラブ共和国 | 公式国名 = {{lang|ar|'''جمهورية مصر العربية'''}} | 国旗画像 = Flag of Egypt.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Egypt (Official).svg|100px|エジプトの国章]] | 国章リンク =([[エジプトの国章|国章]]) | 標語 = なし | 位置画像 = Egypt (orthographic projection).svg | 公用語 = [[アラビア語]] | 首都 = [[カイロ]] | 最大都市 = カイロ | 元首等肩書 = [[エジプトの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[アブドルファッターフ・アッ=シーシー]] | 首相等肩書 = [[エジプトの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[モスタファ・マドブーリー]] | 面積順位 = 29 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 1,010,408 | 水面積率 = 0.6% | 人口統計年 = 2021 | 人口順位 = 14 | 人口大きさ = 1 E8 | 人口値 = 104,258,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/eg.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2022年8月13日}}</ref> | 人口密度値 = 104.7<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 5兆8425億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月31日[[閲覧]]([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=469,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 33 | GDP値MER = 3632億4500万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 3,600.839 | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 22 | GDP値 = 1兆2900億2400万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 12,787.957<ref name="economy" /> | 建国形態 = 独立 | 確立形態1 = [[イギリス]]より[[エジプト王国]]として[[独立]] | 確立年月日1 = [[1922年]][[2月28日]] | 確立形態2 = [[王制]]廃止、[[共和制]]移行。 [[エジプト共和国]]が成立 | 確立年月日2 = [[1953年]][[6月18日]] | 確立形態3 = [[シリア]]と連合し、[[アラブ連合共和国]]が成立 | 確立年月日3 = [[1958年]][[2月22日]] | 確立形態4 = アラブ連合共和国を解体、国号を改称。 [[エジプト・アラブ共和国]]が成立 | 確立年月日4 = [[1971年]][[9月2日]] | 通貨 = [[エジプト・ポンド]] (£) | 通貨コード = EGP | 時間帯 = +2 | 夏時間 = なし | 国歌 = [[エジプトの国歌|{{lang|ar|بلادي، بلادي، بلادي}}]]{{ar icon}}<br />''我が祖国''<br />{{center|[[ファイル:Bilady, Bilady, Bilady.ogg]]}} | ISO 3166-1 = EG / EGY | ccTLD = [[.eg]] | 国際電話番号 = 20 | 注記 = }} '''エジプト・アラブ共和国'''(エジプト・アラブきょうわこく、{{lang-ar|جمهورية مصر العربية}})、[[通称]]:'''エジプト'''({{lang-ar|مصر}})は、[[中東]]および[[北アフリカ]]に[[位置]]する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[カイロ]]。 [[アフリカ大陸]]では北東端に位置し、西に[[リビア]]、南に[[スーダン]]、北東の[[シナイ半島]]では[[イスラエル]]、[[パレスチナ国]]・[[ガザ地区]]と[[国境]]を接する。北部は[[地中海]]、東部は[[紅海]]に面している。 == 概要 == エジプトは中東とアフリカ大陸の接点に存在し、[[古代文明]]が存在していた地域のひとつに数え上げられる。その[[歴史時代|文字記録された歴史]]は[[紀元前4千年紀]]にまで遡れる。 [[民族]]・[[宗教|宗教的]]には[[アラブ世界]]、[[イスラム世界]]の一国である。 [[人口]]はアラブ諸国で最も多く、2020年2月に1億人を超えている<ref name="日経MJ20201204">「エジプト、広がる電子決済/大手ファウリ、時価総額4倍に/携帯も台頭、変わる現金大国」『[[日経MJ]]』[[2020年]]12月4日(アジア・グローバル面)</ref>。同国地域には数千年前の古代都市の痕跡や幾多もの[[史跡]]が[[ナイル川]]に沿う形で点在している。 また、[[水源]]が乏しい国の一つとしても知られており、南北に流れるナイル川の[[河谷]]と[[三角州|デルタ]]地帯([[ナイル・デルタ]])のほかは、[[国土]]の大部分の95%以上が[[砂漠]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/エジプト-36404 エジプト] - [[藤井宏志]]『[[日本大百科全書]]』([[小学館]])[[2020年]]2月1日閲覧</ref>。ナイル[[河口]]の東には地中海と紅海を結ぶ[[スエズ運河]]がある。 同国は現在、[[MENA]]地域において2番目に人口密度の高い国と見做されており、中でもカイロは世界で最も人口密度の高い都市のひとつに当たる。 == 国号 == 正式名称は[[アラビア語]]で {{lang|ar|'''جمهورية مصر العربية'''}}(ラテン[[翻字]]: {{transl|ar|DIN|Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah}})。通称は {{lang|ar|'''مصر'''}}([[フスハー|標準語]]: {{transl|ar|DIN|Miṣr}} ミスル、[[アラビア語エジプト方言|エジプト方言]]ほか、[[口語]]アラビア語: {{IPA|mɑsˤɾ}} マスル)。[[コプト語]]: {{Lang|cop|Ⲭⲏⲙⲓ}}(Khemi ケーミ)。 アラビア語の名称'''ミスル'''は、古代から[[セム語派|セム語]]でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派である[[ヘブライ語]]では、[[双数形]]の'''ミスライム'''({{lang|he|מצרים}}, ミツライム)となる。 公式の[[英語]]表記は '''Arab Republic of Egypt'''。通称 '''Egypt''' {{IPA-en|ˈiːdʒɨpt|}}。発音は「イージプト」に近い。形容詞はEgyptian {{IPA-en|ɨˈdʒɪpʃ''ə''n|}}。エジプトの呼称は、古代[[エジプト語]]のフート・カア・プタハ([[プタハ]]の魂の[[神殿]])から転じてこの地を指すようになった[[ギリシャ語]]の単語である、[[ギリシャ神話]]の[[アイギュプトス (ギリシア神話)|アイギュプトス]]にちなむ。 [[日本語]]の表記はエジプト・アラブ共和国<ref name="jpnmofa" />。通称[[wikt:エジプト|エジプト]]。[[漢字]]では'''埃及'''と表記し、'''埃'''と略される。 * [[1882年]] - 1922年:({{仮リンク|イギリス領エジプト|en|History of Egypt under the British}}) * 1922年 - 1953年:[[エジプト王国]] * 1953年 - 1958年:[[エジプト共和国]] * 1958年 - 1971年 [[アラブ連合共和国]] * 1971年 - [[現在]]:エジプト・アラブ共和国 == 歴史 == {{Main|エジプトの歴史}} === 古代エジプト === [[ファイル:All Gizah Pyramids.jpg|thumb|300px|right|[[ギーザ|ギザ]]の[[三大ピラミッド]]]] [[ファイル:Egyptiska hieroglyfer, Nordisk familjebok.png|thumb|260px|right|[[ヒエログリフ]]]] {{Main|古代エジプト}} 「エジプトはナイルの賜物」という[[古代ギリシア]]の[[歴史家]][[ヘロドトス]]の言葉で有名なように、エジプトは豊かな[[ナイル川]]の[[三角州|デルタ]]に支えられ[[古代エジプト|古代エジプト文明]]を発展させてきた。エジプト人は[[紀元前3000年]]ごろには早くも[[国家]]を形成し、[[ピラミッド]]や[[王家の谷]]、[[ヒエログリフ]]などを通じて[[世界|世界的]]によく知られている高度な[[文明]]を発達させた。 === 統一オリエント〜ローマ帝国時代 === 3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前663年に[[アッシリア|アッシリア帝国]]によって征服された。アッシリアの滅亡後一時[[エジプト第26王朝|独立]]を回復したものの、[[紀元前525年]]に[[アケメネス朝]]ペルシアによって再び征服され、[[民族国家]]としての独立性を失った。 [[紀元前332年]]には[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王の東征]]に伴い[[マケドニア帝国]]に組み込まれ、大王の死後その[[ディアドコイ|部将]]の一人である[[プトレマイオス1世]]によって[[プトレマイオス朝]]が成立し、[[ヘレニズム|ヘレニズム文化]]と在来文化の融合を果たした。 末代の女王[[クレオパトラ7世]]の奮闘も虚しく、プトレマイオス朝は[[紀元前30年]]にローマの将軍[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]によって滅ぼされ、エジプトは[[アエギュプトゥス|アイギュプトゥス属州]]として[[ローマ帝国]]の支配下に置かれた。[[紀元後]]に入っては[[キリスト教]]が広まり、後に[[コプト正教会]]が生まれた。豊かな[[穀倉地帯]]であったために[[インペラトル|皇帝]]の直接統治領となり、ローマとその後継の[[ビザンツ帝国]]時代に通して帝国行政の片鱗を担った。 === イスラム化時代 === [[639年]]に[[イスラム帝国]]の[[将軍]][[アムル・イブン・アル=アース]]によって征服され、[[ウマイヤ朝]]および[[アッバース朝]]の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト[[総督]]から自立した[[トゥールーン朝]]、[[イフシード朝]]の短い支配を経て、[[969年]]に現在の[[チュニジア]]で興った[[ファーティマ朝]]によって征服された。これ以来、[[アイユーブ朝]]、[[マムルーク朝]]とエジプトを本拠地として[[歴史的シリア|シリア地方]]まで版図に組み入れた[[イスラム王朝]]が500年以上にわたって続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で[[中央アジア]]や[[カフカス]]などアラブ世界の外からやってきた[[マムルーク]](奴隷軍人)による支配体制が確立した。 [[1517年]]に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州とした[[オスマン帝国]]の下でもマムルーク支配は温存された([[エジプト・エヤレト]])。 === ムハンマド・アリー朝 === [[ファイル:ModernEgypt, Muhammad Ali by Auguste Couder, BAP 17996.jpg|thumb|180px|[[ムハンマド・アリー]]]] [[1798年]]、[[フランス]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]による[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]をきっかけに、エジプトは[[近代国家]]形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣した[[アルバニア人]]部隊の隊長としてエジプトにやってきた[[軍人]]の[[ムハンマド・アリー]]であった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、[[経済]]・[[軍事]]の近代化を進め、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功した。アルバニア系ムハンマド・アリー家による[[世襲]]政権を打ち立てた([[ムハンマド・アリー朝]])。しかし、当時の世界に勢力を広げた[[ヨーロッパ]][[列強]]はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。<!--ムハンマド・アリーは[[綿花]]を主体とする農産物[[専売制]]をとっていたが、[[1838年]]に[[宗主国]]オスマン帝国が[[イギリス]]と[[自由貿易協定]]を結んだ。ムハンマド・アリーが1845年に三角州の堰堤を着工。死後に専売制が崩壊し、また堰堤の工期も延びて3回も支配者の交代を経た1861年、ようやく一応の完工をみた。1858年末には[[国債|国庫債券]]を発行しなければならないほどエジプト財政は窮迫していた。[[スエズ運河会社]]に払い込む[[出資金]]の不足分は、シャルル・ラフィット([[:fr:Charles Laffitte|Charles Laffitte]])と割引銀行(現・[[BNPパリバ]])から借り、国庫債券で返済することにした。[[イスマーイール・パシャ]]が出資の継続を認めたとき、フランスの[[ナポレオン3世]]の裁定により契約責任を問われ、違約金が[[自転車操業]]に拍車をかけた。[[1869年]]、エジプトはフランスとともに[[スエズ運河]]を開通させた。この前後([[1862年]] - [[1873年]])に8回も[[外債]]が起債され、額面も次第に巨額となっていた。エジプトはやむなくスエズ運河会社持分を398万[[スターリング・ポンド|ポンド]]でイギリスに売却したが、[[1876年]][[4月]]に[[デフォルト (金融)|デフォルト]]した<ref>[[西谷進]]「[https://doi.org/10.20624/sehs.37.2_113 一九世紀後半エジプト国家財政の行詰まりと外債 (一)]」『社会経済史学』[[1971年]] 37巻 2号 p.113 - 134,216, {{doi|10.20624/sehs.37.2_113}}</ref>。 英仏が負債の償還をめぐって争い、エジプトの蔵相は追放された。[[イタリア]]や[[オーストリア帝国]]も交えた負債委員会が組織された。2回目のリスケジュールでイスマーイール一族の直轄地が全て移管されたが、土地税収が滞った<ref>西谷進「[https://doi.org/10.20624/sehs.37.3_283 一九世紀後半エジプト国家財政の行詰まりと外債 (二)]」『社会経済史学』[[1971年]] 37巻 3号 p.283 - 311,330-33, {{doi|10.20624/sehs.37.3_283}}</ref>。--> === イギリスの進出 === [[1882年]]、[[アフマド・オラービー]]が中心となって起きた反英運動([[ウラービー革命]])がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの[[保護国]]となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。[[1914年]]には、[[第一次世界大戦]]によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。1919年3月にイギリス当局が、元官僚で当時[[ワフド党]]を率い独立運動を指導した[[サアド・ザグルール]]らを逮捕・国外追放した事がかえって反発を招き、これを契機として反英独立運動たる[[エジプト革命 (1919年)|エジプト革命]]が勃発した。 === 独立・エジプト王国 === [[第一次世界大戦]]後の[[1922年]][[2月28日]]に'''[[エジプト王国]]'''が成立し、翌年イギリスはその[[国家の独立|独立]]を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。 エジプト王国は[[立憲君主制]]を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。 [[第二次世界大戦]]では、1940年[[9月12日]]、[[枢軸国軍]]である[[イタリア王国]]軍が[[イタリア領リビア|リビア]]から侵攻した<ref>イタリア軍、リビアからエジプト侵攻(『東京日日新聞』昭和15年9月14日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p389</ref>が英軍が撃退した([[北アフリカ戦線]])。第二次世界大戦前後から、[[現在]]は[[イスラエル]]になっている[[地域]]への[[ユダヤ人]]移民に伴う[[パレスチナ問題]]の深刻化、1948年から1949年の[[パレスチナ戦争]]([[第一次中東戦争]])での[[イスラエル]]への敗北、[[経済]]状況の悪化、[[ムスリム同胞団]]など政治のイスラム化([[イスラム主義]])を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。 === エジプト共和国 === この状況を受けて[[1952年]]、軍内部の秘密組織[[自由将校団]]が[[クーデター]]を起こし、国王[[ファールーク1世 (エジプト王)|ファールーク1世]]を亡命に追い込み、ムハンマド・アリー朝を打倒した([[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]]<ref>片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』(叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9)p49</ref>)。生後わずか半年の[[フアード2世 (エジプト王)|フアード2世]]を即位させ、自由将校団団長の[[ムハンマド・ナギーブ]]が首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位して共和政へと移行。[[ムハンマド・ナギーブ|ナギーブ]]が[[首相]]を兼務したまま初代[[エジプトの大統領|大統領]]となり、'''エジプト共和国'''が成立した。 === ナーセル政権 === [[ファイル:Gamal Nasser.jpg|thumb|180px|right|[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]。[[第二次中東戦争]]に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは[[汎アラブ主義]]の中心となった。]] [[1956年]]、第2代大統領に就任した[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]の下でエジプトは[[冷戦]]下での[[中立]]外交と[[汎アラブ主義|汎アラブ主義(アラブ民族主義)]]を柱とする独自の政策を進め、[[第三世界]]・[[アラブ諸国]]の雄として台頭する。同年にエジプトは[[スエズ運河#歴史|スエズ運河国有化]]を断行し、これによって勃発した[[第二次中東戦争]](スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。[[1958年]]には[[シリア]]と連合して'''[[アラブ連合共和国]]'''を成立させた。しかし[[1961年]]にはシリアが連合から脱退し、[[国家連合]]としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。 === サーダート政権 === [[ファイル:Anwar Sadat cropped.jpg|thumb|180px|[[アンワル・アッ=サーダート]]]] [[1970年]]に[[突然死|急死]]したナーセルの後任となった[[アンワル・アッ=サーダート]]は、自ら主導した[[第四次中東戦争]]後に[[ソビエト連邦]]と対立して[[アメリカ合衆国]]など[[西側諸国]]に接近。[[社会主義]]的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル路線からの転換を進めた。[[1971年]]には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨てて'''エジプト・アラブ共和国'''に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切るうえで、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。 さらに、1977年には物価上昇に抗議する暴動を共産主義者によるものと断定、既に結党が禁止されていたエジプト共産党などの左翼組織の弾圧を強化した<ref>共産主義者の四組織を摘発『朝日新聞』1977年(昭和52年)1月27日朝刊、13版、7面</ref>。 しかしサーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、[[1981年]]に[[イスラム過激派]]の[[ジハード団]]によって{{仮リンク|アンワル・アッ=サーダート暗殺事件|label=暗殺|en|Assassination of Anwar Sadat}}された。 === ムバーラク政権 === [[ファイル:Hosni Mubarak ritratto.jpg|thumb|180px|[[アラブの春]]で失脚するまで30年以上にわたり長期政権を維持した[[ホスニー・ムバーラク]]]] [[イラク]]の[[クウェート侵攻]]はエジプトの[[国際収支]]を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格した[[ホスニー・ムバーラク]]は、対米協調外交を進める一方、[[開発独裁]]的な[[政権]]を20年以上にわたって維持した。 ムバラク政権は1990年12月に「1000日計画」と称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す[[湾岸戦争]]では[[多国籍軍]]へ2万人を派兵し、これにより約130億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]も[[対外債務]]を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務は、クウェート、[[サウジアラビア]]に対するものと、さらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には[[国際通貨基金]](IMF)のスタンドバイクレジットおよび[[世界銀行]]の構造調整借款(SAL)が供与され、[[パリクラブ]]において200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのは、ドル・ペッグによる[[為替レート]]一本化であった<ref>『エジプトの経済発展の現状と課題』([[海外経済協力基金]]開発援助研究所 1998年)23頁</ref>。 ムバーラクが大統領就任と同時に発令した[[非常事態法]]は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された<ref>{{Cite news|title=エジプト副大統領が野党代表者らと会談、譲歩示す|newspaper=[[CNN]]|date=2011-2-7|url=http://www.cnn.co.jp/world/30001719.html|accessdate=2021-8-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110209101202/http://www.cnn.co.jp/world/30001719.html|archivedate=2011-2-9}}</ref>。 <!--2002年6月、エジプト政府は15億ドルの[[ユーロ債]]を起債したが、2002年から2003年に為替差損を被り、対外債務を増加させた<ref>IMF[https://books.google.co.jp/books?id=aZDSd_fjJzkC&pg=PT49&dq=reschedule+egypt+eurobond&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiD0qHpn8DbAhWLWbwKHXRrDGQQ6AEIJzAA#v=onepage&q=reschedule%20egypt%20eurobond&f=false ''Arab Republic of Egypt: Selected Issues'', 2005](2020年12月12日閲覧)</ref>。--> === ムルシー政権 === [[ファイル:Mohamed Morsi-05-2013.jpg|thumb|180px|民主化後初の大統領だった[[ムハンマド・ムルシー]]]] {{Main|エジプト革命 (2011年)|2012年エジプト大統領選挙}} [[チュニジア]]の[[ジャスミン革命]]に端を発した近隣諸国での「[[色の革命]]」がエジプトにも波及し、[[2011年]]1月、30年以上にわたって独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱を招いた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権が[[エジプト軍最高評議会]]に委譲された。同年12月7日には{{仮リンク|カマール・ガンズーリ|en|Kamal Ganzouri}}を暫定首相とする政権が発足した。その後、2011年12月から翌年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施され[[ムハンマド・ムルシー]]が当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。 2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した({{仮リンク|2012年-13年エジプト抗議運動|en|2012–13 Egyptian protests}})。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換した。{{仮リンク|ムハンマド・イブラヒーム・ムスタファ|ar|محمد إبراهيم مصطفى|label=ムハンマド・イブラヒーム}}が内相に就任した[[2013年]]1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない<ref>エリン・カニンガム「『アラブの春』の国で繰り返される悪夢」・『[[ニューズウィーク]]日本版』[[2013年]]3月5日号</ref>。イブラヒーム内相は「国民が望むならば辞任する用意がある」と2月に述べた<ref>{{Cite news |url=http://english.ahram.org.eg/News/63894.aspx |title=I will leave my position if people want: Egypt's interior minister |newspaper=アハラムオンライン |date=2013-02-02 |accessdate=2013-05-08 }}</ref>。 ムルシー政権は発足後約1年後の[[2013年エジプトクーデター|2013年7月3日、軍部によるクーデター]]によって終焉を迎えた<ref>{{Cite news|url=http://middleeast.asahi.com/watch/2013070800008.html|title=エジプトのクーデターに至る過程:朝日新聞記事再録|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2013-7-9|accessdate=2013-7-13|last=川上|first=泰徳|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130818142520/http://middleeast.asahi.com/watch/2013070800008.html|archivedate=2013-8-18}}</ref>。 === アッ=シーシー政権 === [[ファイル:Abdel_Fattah_el-Sisi_September_2017.jpg|thumb|180px|[[アブドルファッターフ・アッ=シーシー]]。2013年のクーデターを主導し、大統領に就任した。]] 2014年5月26日 - 28日に行われた大統領選挙では2013年のクーデターの主導者[[アブドルファッターフ・アッ=シーシー]]が当選して6月8日、大統領に就任し<ref>{{Cite news|title=エジプトのシシ新大統領が就任、前大統領の追放からほぼ1年|newspaper=[[AFP通信]]|date=2014-6-8|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3017089|accessdate=2021-8-31}}</ref>、8月5日からは[[新スエズ運河]]の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。[[2015年]][[3月13日]]には、[[カイロ]]の東側に向こう5 - 7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした<ref>{{Cite news|title=エジプト、カイロの東に新行政首都建設へ=住宅相|newspaper=[[ロイター通信]]|date=2015-3-16|url=https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0MC0B720150316|accessdate=2021-8-31}}</ref>。[[行政]]と[[経済]]の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米[[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]のおよそ12倍の面積の予定であり<ref>{{Cite news|title=エジプト、新首都建設を計画―カイロと紅海の間に|newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]日本版|date=2015-3-15|last=PARASIE|first=NICOLAS|url=https://jp.wsj.com/articles/SB10030317691824024149004580519060782977390|accessdate=2021-8-31}}</ref>、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わしたUAEの[[エマール・プロパティーズ]]や[[中華人民共和国|中国]]の[[中国建築|中国建築股份有限公司]]との破談はあったものの[[2016年]]4月に地元企業によって工事を開始し<ref>{{Cite news|url=http://www.xinhuanet.com/english/2016-04/02/c_135246252.htm|date=2016-4-2|accessdate=2018-6-25|title=Egypt kicks off 1st phase of building new capital|newspaper=[[新華社通信]]|last=Bo|first=Xiang|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180625185253/http://www.xinhuanet.com/english/2016-04/02/c_135246252.htm|archivedate=2018-6-25}}</ref>、代わりにエジプト政府が[[ピラミッド]]<ref>{{Cite news|url= https://zhuanlan.zhihu.com/p/41444500|title=埃及总理表示,将新首都CBD项目建成“金字塔”一样的地标|work= 知乎专栏|date=2018-08-06|accessdate=2018-08-18}}</ref>に匹敵する一大事業の[[ランドマーク]]と位置づけている、アフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う[[中央業務地区]]を中国企業が請け負って[[2018年]]3月に着工した<ref>{{Cite news|url=http://www.xinhuanet.com//english/2017-10/12/c_136672905.htm|date=2017-10-12|accessdate=2021-8-31|title=Chinese firm finalizes deal for building huge business district in Egypt's new capital|newspaper=新華社通信|first=Yang|last=Yi|language=en}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://en.amwalalghad.com/egypts-holdings-of-u-s-treasuries-hit-2-2-billion-in-may/|work=Amwal Al Ghad|date=2018-6-28|accessdate=2021-8-31|title=China to build Egypt-Africa tallest tower in new capital: spokesperson|language=en}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.bloomberg.com/news/articles/2018-03-18/china-to-finance-majority-of-new-egypt-capital-s-tower-district|work=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2018-3-18|accessdate=2021-8-31|title=China to Finance Majority of New Egypt Capital's Tower District|last=Magdy|first=Mirette|language=en}}</ref><ref>{{Cite news|url= http://eg.mofcom.gov.cn/article/todayheader/201803/20180302720170.shtml|title=中建埃及新行政首都CBD项目开工仪式在开罗举行|work= 中華人民共和国駐エジプト大使館|date=2018-03-21|accessdate=2018-06-25}}</ref>。 == 政治 == {{Main|{{仮リンク|エジプトの政治|en|Politics of Egypt|ar|السياسة في مصر}}|近代エジプトの国家元首の一覧}} === 政体 === 同国は[[共和制]]を採っている。 {{節スタブ}} === 大統領 === [[国家元首]]である[[エジプトの大統領|大統領]]は、[[立法]]・[[行政]]・[[司法]]の三権において大きな権限を有する。また国軍([[エジプト軍]])の[[総司令官|最高司令官]]でもある。大統領の選出は、[[直接選挙]]による。任期は4年で、三選禁止となった<ref>{{Cite journal|和書|author = 鈴木恵美|coauthors = |title = エジプト革命以後の新体制形成過程における軍の役割|journal = 地域研究|volume = 12|issue = 1|pages = 135-147|publisher = 京都大学地域研究統合情報センター|location = |date = 2012-03-28|language = |url = http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/publish/?cat=4|jstor = |issn = 1349-5038 |isbn =978-4-8122-1178-6|doi = |id = |naid = |accessdate = 2012-06-17}}</ref>。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。 第2代大統領[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領[[ホスニー・ムバーラク]]は[[1981年]]の就任以来、約30年にわたって[[独裁]]体制を築いた。ムバーラクの[[親米]]・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、再任可。議会が候補者を指名し、国民は[[信任投票]]を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。 [[2011年]]9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に[[エジプト革命_(2011年)|騒乱状態]]となり、[[2月11日]]、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より[[国防大臣]]で[[エジプト軍最高評議会|軍最高評議会]]議長の[[ムハンマド・フセイン・タンターウィー]]が元首代行を務め、それは[[2012年エジプト大統領選挙]]の当選者[[ムハンマド・ムルシー]]が[[6月30日]]に大統領に就任するまで続いた。2011年[[3月19日]]、[[憲法改正]]に関する[[国民投票]]が行われ、承認された<ref name="jpnmofa">{{Cite web|和書|title=エジプト・アラブ共和国 基礎データ|work=各国:地域情勢|publisher=[[外務省]]|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/egypt/data.html|accessdate=2021-8-31|date=2019-8-27}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title = エジプト基礎情報~政治・外交|work = エジプト情報|publisher = 在エジプト日本国大使館|date = 2011-07-30|url = https://www.eg.emb-japan.go.jp/j/egypt_info/basic/seiji.htm|accessdate =2016-10-01}}</ref>。 しかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年、[[2013年エジプトクーデター|軍事クーデター]]が勃発。ムルシーは解任され、エジプトは再び[[軍事政権]]へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され<ref name=jpnmofa />、同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。 {{also|{{仮リンク|エジプト憲法|en|Constitution of Egypt}}}} === 議会 === {{Main|エジプト議会}} 議会は、[[両院制]]で上院は参議院、下院は代議院である。かつて、[[2014年]]に施行された憲法により、一院制となったが、2019年の憲法改正により、両院制に戻る<ref name="中東かわら2019_020">{{Cite web|和書|author=金谷 美紗|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2019_020.html|title=№20 エジプト:議会で憲法改正案が可決、国民投票へ|date=2019-04-18|website=中東かわら版|publisher=[[中東調査会]]|accessdate=2021-06-18}}</ref>。 参議院は全議席の内、3分の2を公選、3分の1は[[エジプトの大統領|大統領]]による指名。代議院は、選挙制度を[[小選挙区]]制か[[比例代表]]制、またはその[[小選挙区比例代表並立制|混合型]]とする。全議席の内5%以下を大統領が指名。そして、全議席の少なくとも25%(112議席)を女性枠とする。 === 選挙 === 2011年[[11月21日]]、[[イサーム・シャラフ]]暫定内閣は、デモと中央[[準軍事組織|治安部隊]]の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは[[11月22日]]にテレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した<ref>{{Cite news|title=エジプト・シャラフ内閣が総辞職表明 デモの混乱で引責|newspaper=朝日新聞|date=2011-11-22|last=貫洞|first=欣寛|url=http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201111220122.html|accessdate=2021-8-31}}</ref><ref>{{Cite news|title=エジプト軍議長「近く挙国一致内閣」とテレビ演説|newspaper=朝日新聞|date=2011-11-23|last=貫洞|first=欣寛|first2=有紀恵|last2=山尾|url=http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201111230004.html|accessdate=2021-8-31}}</ref><ref>{{Cite news|title=エジプト軍議長、元首相に組閣要請 選挙管理内閣を想定|newspaper=朝日新聞|date=2011-11-25|last=貫洞|first=欣寛|url=http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201111250136.html|accessdate=2021-8-31}}</ref>。人民議会選挙は2011年[[11月28日]]から[[2012年]][[1月]]までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も[[3月11日]]までに実施された。また[[5月23日]]と[[5月24日|24日]]に[[2012年エジプト大統領選挙|大統領選挙]]の投票が実施された。 しかし、[[6月14日]]に最高[[憲法裁判所]]が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効(3分の1の議員について当選を無効と認定)」との判決を受け<ref>{{Cite news|title=「エジプト議会選は無効」、憲法裁が大統領選直前に違法判断|newspaper=ロイター通信|date=2012-6-15|url=https://www.reuters.com/article/tk0828480-egypt-court-constitution-idJPTYE85D06R20120614|accessdate=2021-8-31}}</ref><ref>{{Cite news|title=エジプト議会、解散へ 大統領選にも影響か|newspaper=[[日テレNEWS24]]|date=2012-6-15|url=https://news.ntv.co.jp/category/international/207632|accessdate=2021-8-31}}</ref>、[[6月16日|16日]]までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた<ref>{{Cite news|title=エジプト、軍が議会に解散命令 憲法裁判所の判断で|newspaper=[[47NEWS]]|date=2012-6-17|url=http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012061701001315.html|accessdate=2012-6-18|agency=[[共同通信]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140710050415/http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012061701001315.html|archivedate=2014-7-10}}</ref>。大統領選挙の決選投票は6月16日と[[6月17日|17日]]に実施され、イスラム主義系の[[ムハンマド・ムルシー]]が当選した。 === 政党 === {{main|エジプトの政党}} 2011年3月28日に改正政党法が[[情報公開|公表]]され、エジプトでは[[宗教]]を基盤とした[[政党]]が禁止された。そのため、[[ムスリム同胞団]](事実上の最大[[野党]]であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする[[自由公正党]]({{lang-ar|حزب الحرية والعدالة}} - {{lang|en|Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala}}, {{lang-en-short|Freedom and Justice Party}})が結成された。また、[[ヌール党]]([[サラフィー主義]]、イスラーム保守派)、[[新ワフド党]](エジプト最古の政党)、[[政党連合]]{{仮リンク|エジプト・ブロック|en|Egyptian Bloc}}(含む[[自由エジプト人党]](世俗派)、[[エジプト社会民主党]](中道左派)、[[国民進歩統一党]](左派))、[[ワサト党]]、{{仮リンク|政党連合革命継続|en|The Revolution Continues Alliance}}、{{仮リンク|アダラ党|en|Justice Party (Egypt)|label=公正党}}({{lang-ar|حزب العدل}} - {{lang|en|Hizb ElAdl}}, {{lang-en-short|Justice Party}}、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた<ref name="jpnmofa" /><ref name=":0" />。その後、[[自由と公正党]]が、2014年に最高裁判所により解党されている。2021年現在では、2020年の選挙により[[国民未来党]]が、上院は半数近く、下院は過半数を占めている。しかしながら、反対派の活動が徹底的に排除される中での選挙であった<ref name="中東かわら2020_119">{{Cite web|和書|author=金谷 美紗|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2020_119.html|title=№119 エジプト:下院・代議院選挙の最終結果|date=2020-12-23|website=中東かわら版|publisher=[[中東調査会]]|accessdate=2021-06-18}}</ref>。 === 政府 === * [[エジプトの首相|首相]]・[[ムスタファ・マドブーリー]] 2018年6月就任。 * {{仮リンク|エジプトの国防大臣の一覧|en|List of Ministers of Defence of Egypt|label=国防大臣}}・{{仮リンク|セドキ・ソブヒィ|en|Sedki Sobhi}} 2014年3月就任、エジプト軍総司令官。 === 司法 === {{Main|[[エジプトの法]]}} [[ナポレオン法典]]と[[イスラム法]]に基づく、混合した法システム<ref>{{Cite web|title = Egypt| publisher = CIA-The World Factbook| url = https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/eg.html| accessdate = 2012-06-15}}</ref>。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。{{see|{{仮リンク|フランスにおける裁判所の二元性|fr|Dualité des ordres de juridiction en France}}}} * {{仮リンク|最高憲法裁判所|en|Supreme Constitutional Court of Egypt}} - [[憲法裁判所]]で、[[法律]]が違憲か否かの最終判断を下す。1979年設立。長官はアドリー・マンスール(2013年7月1日 - )<ref>{{Cite web| title = Aperçu Historique | publisher = 最高憲法裁判所 | url =http://www.hccourt.gov.eg/About/history.asp | accessdate = 2013-08-27}}</ref>。ほか、10人の判事は1998年から2013年7月までに着任している<ref>{{Cite web| title = Current Members of the Court | publisher = 最高憲法裁判所 | date = | url =http://www.hccourt.gov.eg/CourtMembers/CurrentCourt.asp | accessdate = 2013-08-27}}</ref>。長官は[[最高大統領選挙委員会]](The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)の委員長を兼任していたが<ref>{{Cite news | author = 貫洞欣寛 | title = エジプト司法が逆襲 ムバラク裁判「判決批判許さん」 | newspaper = 朝日新聞 | date = 2012-06-09 | url = http://digital.asahi.com/articles/TKY201206080567.html?ref=comkiji_txt_end | accessdate = 2012-06-15}}</ref>、2012年9月には副長官ハーティム・バガートゥーが務めていた<ref>{{Cite web|和書 | title = 中東要人講演会 | newspaper = 中東調査会 | date = | url = http://www.meij.or.jp/members/20120903124551000000.pdf | accessdate = 2012-09-09}}</ref>。 * [[司法省 (エジプト)|司法省]]管轄の一般の[[裁判所]] - [[最高裁判所]]([[破毀院]]、1931年設立)と以下の[[下級裁判所]]([[控訴院]]、[[第一審]]裁判所、[[地区裁判所]]および[[家庭裁判所]] - 2004年設立)からなる。 * [[国務院 (エジプト)|国務院]]管轄の[[行政裁判所]] - [[コンセイユ・デタ]] - 1946年設立<ref>{{Cite web| title = Judiciary Authority| publisher = Egypt State Information Service | url =http://www.sis.gov.eg/En/Templates/Categories/tmpListArticles.aspx?CatID=248 | accessdate = 2013-08-29}}</ref>。2011年[[2月19日]]、従来の[[政党委員会]](政府運営)の申請却下に対する不服申し立てを認めた形の判決で、[[政党]]の許認可<ref>{{Cite web|和書| title = エジプトでイスラーム政党が認可 | work =[中東研ニュースリポート]| publisher = [[日本エネルギー経済研究所]] 中東研究センター| date = 2月21日 | url =http://jime.ieej.or.jp/htm/extra/ronbun/003pol.htm | format = | doi = | accessdate = 2012-05-19}}</ref>を、[[4月16日]]、[[与党]]・[[国民民主党 (エジプト)|国民民主党]](NDP)の解散を裁定した。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|エジプトの国際関係|en|Foreign relations of Egypt}}}} 国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には[[非同盟諸国]]の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年の[[キャンプ・デービッド合意]]とその翌年のイスラエル[[国交]]樹立によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、[[1981年]]にサーダートが暗殺された後に政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年には[[シリア]]、[[レバノン]]、[[リビア]]を除く全てのアラブ諸国との関係が回復した<ref>『アフリカを知る事典』([[平凡社]]、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷) p.58</ref>。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には[[国際連合安全保障理事会]]の[[常任理事国]]入りを目指すことを表明した。[[2011年]]、[[パレスチナ]]の[[ガザ]]の[[国境検問所|検問所]]を開放した。また、[[イラン]]との関係を修復しようとしている<ref>{{Cite news|title=エジプト:ガザ、出入り自由に 検問所開放、外交転換鮮明に|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2011-5-26|last=和田|first=浩明|url=http://mainichi.jp/select/world/news/20110526dde007030008000c.html|accessdate=2021-8-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110530024518/http://mainichi.jp/select/world/news/20110526dde007030008000c.html|archivedate=2011-5-30}}</ref>。 シーシー政権はムスリム同胞団政権時代のこうした外交政策とは一線を画している。欧米や日本、親米アラブ諸国、イスラエルのほか、中国や[[ロシア]]<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24487270R11C17A2FF2000/ 「ロシアが中東に接近 プーチン大統領、エジプトに軍事協力 米の中東政策の揺らぎつく」][[日本経済新聞]]ニュースサイト([[2017年]]12月11日)[[2019年]]1月9日閲覧。</ref>などと広範な協力関係を築いている。 [[2017年カタール外交危機]]では、サウジアラビアとともに、ムスリム同胞団を支援してきたカタールと[[国交]]を断絶した国の一つとなった。またサウジアラビアとは、[[アカバ湾]]口に架橋して陸上往来を可能とするプロジェクトが話し合われた(「[[チラン島]]」を参照)。 === 日本国との関係 === {{Main|日本とエジプトの関係}}・在留日本人数719人(2021年10月現在)<ref name="jpnmofa" /> ・在留エジプト人数1933人(2021年6月現在)<ref name="jpnmofa" /> == 軍事 == [[ファイル:Abrams in Tahrir.jpg|thumb|陸軍の主力戦車[[M1エイブラムス]]]] {{Main|エジプト軍}} 中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は46万8,500人。[[予備役]]47万9,000人。兵員数は[[陸軍]]34万人([[軍警察]]を含む)、[[海軍]]1万8,500人([[沿岸警備隊]]を含む)、[[空軍]]3万人、[[防空軍]]8万人<ref>{{Cite book | title = The Middle East and North Africa 2012 | publisher = Routledge | edition = 58th | date = 2011 | page = 380 | isbn = 978-1-85743-626-6}}</ref>。[[内務省]]管轄の中央治安部隊、[[国境警備隊]]と国防省管轄の革命[[国家警備隊]](大統領[[親衛隊]])の[[準軍事組織]]が存在する。 イスラエルとは4度にわたる[[中東戦争]]([[消耗戦争]]も含めて5度)で毎回干戈を交えたが、[[第二次中東戦争]]で政治的な勝利を得、[[第四次中東戦争]]の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。その後は[[イスラエル・エジプト平和条約|平和条約]]を交わしてイスラエルと接近し、シーシー政権下ではシナイ半島で活動する[[イスラム過激派]]([[ISIL]])に対する掃討作戦で、[[イスラエル空軍]]による[[爆撃]]を容認していることを公式に認めた<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201901/CK2019010602000123.html 「対IS イスラエルと協力」エジプト大統領 治安重視]『[[東京新聞]]』朝刊2019年1月6日(国際面)2019年1月9日閲覧。</ref>。 軍事的にはアメリカと協力関係にあるため、[[北大西洋条約機構]](NATO)のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。また、ロシアや中国からも武器の供給を受けており、中露が主導する[[上海協力機構]]にも対話パートナーとして参加している<ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR14ASP0U1A910C2000000/|publisher=[[日本経済新聞]]|author=|title=イラン、中ロ主導組織加盟へ 上海協力機構が合意|date=2021-09-17|accessdate=2021-09-18}}</ref>。 == 地理 == {{Main|{{仮リンク|エジプトの地理|en|Geography of Egypt}}}} [[ファイル:Egypt Topography.png|thumb|200px|エジプトの地形図]] [[ファイル:Egypt 2010 population density1.png|thumb|200px|エジプトの人口分布図]] [[アフリカ大陸]]北東隅に位置し、[[国土]][[面積]]は100万2,450[[平方キロメートル|㎢]]で、[[世界]]で30番目の大きさである。国土の95%は砂漠で、ナイル川の西側には[[サハラ砂漠]]の一部である西部砂漠([[リビア砂漠]])、東側には[[紅海]]と[[スエズ湾]]に接する[[東部砂漠]]({{lang|ar|الصحراء الشرقية}} - シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には[[海抜]]0m以下という[[地域]]が多く、面積1万8,000km<sup>2</sup>の広さをもつ[[カッターラ低地]]は海面より133mも低く、[[ジブチ]]の[[アッサル湖]]に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。[[シナイ半島]]の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰の[[カテリーナ山]](2,637m)や、[[旧約聖書]]で[[モーセ]]が[[モーセの十戒|十戒]]を授かったといわれる[[シナイ山]](2,285m)がある。シナイ半島とナイル河谷との間は[[スエズ湾]]が大きく湾入して細くくびれた[[地峡]]となっており、ここがアフリカ大陸と[[ユーラシア大陸]]の境目とされている。この細い部分は低地であるため、[[スエズ運河]]が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。 [[ファイル:S F-E-CAMERON 2006-10-EGYPT-LUXOR-0439.JPG|thumb|left|200px|[[ナイル川]]]] [[ナイル川]]は南隣の[[スーダン]]で[[白ナイル川]]と[[青ナイル川]]が合流し、エジプト国内を南北1,545Kmにもわたって北上し、河口で広大な[[三角州|デルタ]]を形成して[[地中海]]に注ぐ。[[アスワン]]以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5Kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり<ref>『朝倉世界地理講座 アフリカI』初版所収「ナイル川の自然形態」春山成子、2007年4月10日([[朝倉書店]])p198</ref>、[[アシュート]]近辺で分岐の支流が[[ファイユーム]]近郊の[[モエリス湖|カールーン湖]]({{lang|ar|Birket Qarun}}、かつての[[モエリス湖]])へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃な{{仮リンク|ファイユーム・オアシス|en|Faiyum Oasis}}を形成している。一方、本流は、[[カイロ]]近辺で典型的な扇状三角州となる'''[[ナイル・デルタ]]'''は、地中海に向かって約250Kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内でもっとも肥沃な土地だったが、[[アスワン・ハイ・ダム]]によってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから[[下エジプト]]と[[上エジプト]]という、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域を指し、後者はカイロから上流の谷を指している。ナイル河谷は、世界でももっとも[[人口密度]]の高い地域の一つである。 ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人が[[オアシス]]に集住しているのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側には[[ワジ]](涸れ川)が全くない。[[シワ・オアシス|シーワ]]、[[ファラフラ (エジプト)|ファラーフラ]]、[[ハルガ]]、バハレイヤ、ダフラといった[[オアシス]]が点在している<ref>『ミリオーネ全世界事典』第10巻 アフリカI([[学習研究社]]、[[1980年]]11月)p206</ref>。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルと[[アラビア半島]]を結ぶ重要な交通路に位置しているため、いくつかの小さな[[港]]が[[存在]]する。 === 国境 === 1885年に列強が[[ドイツ]]の[[ベルリン]]で開いた会議で、それまでに植民地化していた[[アフリカ分割|アフリカの分割]]を確定した。リビア国境の大部分で[[東経25度線|東経25度]]に、スーダンでは[[北緯22度線|北緯22度]]に定めたため、国境が直線的である。 スーダンとの間では、エジプトが[[実効支配]]する[[ハラーイブ・トライアングル]]に対してスーダンも領有権を主張している。一方、その西にある[[ビル・タウィール]]は両国とも領有権を主張していない[[無主地]]である。 === 気候 === {{Main|{{仮リンク|エジプトの気候|en|Climate of Egypt}}}} 国土の全域が[[砂漠気候]]で人口はナイル河谷および[[デルタ地帯]]、[[スエズ運河]]付近に集中し、国土の大半は[[サハラ砂漠]]に属する。夏には日中の気温は40[[セルシウス度|℃]]を超え、50℃になることもある。降雨はわずかに[[地中海|地中海岸]]にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13 - 14℃、上エジプトで16℃程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。 == 地方行政区画 == [[ファイル:Governorates of Egypt.svg|thumb|right|280px|エジプトの行政区画]] {{Main|エジプトの県}} エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ({{lang|ar|محافظة}}、'''県'''、'''州''' と訳されることもある)である。[[知事]]は中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において中央集権体制をとる。面積には極端な偏りがあり、ナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、エジプトの国土がナイル流域以外は全域が砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。 === 主要都市 === {{Main|エジプトの都市の一覧}} {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[アシュート]] * [[アスワン]] * [[マラウィー]] * [[アブ・シンベル]] * [[アレクサンドリア]] * [[イスマイリア]] * [[インバーバ]] * [[エスナ]] * [[エドフ]] * [[エル・アラメイン]] * [[カイロ]] {{Col-break}} * [[ケナ]] * [[ギーザ]] * [[コム・オンボ]] * [[ザガジグ]] * [[サッカラ]] * [[シャルム・エル・シェイク]] * [[スエズ]] * [[スブラエルケーマ]] * [[ソハーグ県|ソハーグ]] * [[ダマンフール]] * [[タンター]] {{Col-break}} * [[ディムヤート]] * [[ハルガダ]] * [[ファイユーム]] * [[ベニスエフ]] * [[ポートサイド]] * [[エル=マハッラ・エル=コブラ|マハッラ・クブラー]] * [[マンスーラ]] * [[ミニヤー県|ミニヤ]] * [[メンフィス (エジプト)]] * [[ルクソール]] * [[ロゼッタ (エジプト)|ロゼッタ]] {{Col-end}} <!-- 五十音順 --> == 経済 == {{Main|{{仮リンク|エジプトの経済|en|Economy of Egypt}}}} [[ファイル:View from Cairo Tower 31march2007.jpg|thumb|left|220px|カイロはビジネス、文化、政治などを総合評価した[[世界都市#研究調査|世界都市格付け]]でアフリカ第1位の都市と評価された<ref>[http://www.atkearney.com/documents/10192/4461492/Global+Cities+Present+and+Future-GCI+2014.pdf/3628fd7d-70be-41bf-99d6-4c8eaf984cd5 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook](2014年4月公表)</ref>]] 2018年のエジプトの[[国内総生産]](GDP)は約2,496億ドル(約27兆円)、一人当たりでは2,573ドルである<ref name="economy" />。アフリカでは屈指の経済規模であり、[[BRICs]]の次に経済発展が期待できるとされている[[NEXT11]]の一国にも数えられている。しかし、一人当たりのGDPでみると、中東や北アフリカ諸国の中では最低水準であり、[[トルコ]]の約4分の1、[[イラン]]の半分に過ぎず、更に同じ北アフリカ諸国である[[チュニジア]]や[[モロッコ]]に比べても、水準は低い<ref name="エジプト経済の現状と今後の展望" >{{Cite report|author=堀江 正人|date=2019-01-08|title=エジプト経済の現状と今後の展望 ~経済の復調が注目される中東北アフリカの大国エジプト~|url=https://www.murc.jp/report/economy/analysis/research/report_190108/|publisher=[[三菱UFJリサーチ&コンサルティング|三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社]]|accessdate=2020-02-03}}</ref>。 [[スエズ運河]]収入と[[観光産業]]収入、更には在外労働者からの送金の3大外貨収入の依存が大きく、エジプト政府は、それらの手段に安易に頼っている<ref name="エジプト経済の現状と今後の展望" />。更に政情に左右されやすい。 [[工業]]は[[石油]]などの資源はないが様々な工業が発展しており今後も成長が見込まれる。近年は[[情報技術]](IT)[[産業]]が急速に成長している。しかしながらGDPの約半分が軍関連企業が占めていて主に農業 建築業などの工業を担っている。 金融はイスラーム銀行も近代式銀行の両方とも発達しており投資家層も厚く、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ドナルド・トランプ]]政権にはエジプトの敏腕女性投資家が起用されている。 これまでは[[買物|買い物]]や[[公共料金]]の支払いは[[現金]]、送金は窓口での[[ビジネスプロセス|手続き]]が主流であった。これは[[チップ (サービス)|チップ]]や[[ザカート|喜捨]]として現金を渡すバクシーシの習慣が根付いていることも一因としてあったが、電子決済も急速に普及している。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症がエジプトでも流行]]し、他人との接触を減らす必要が生じたことも背景となっている<ref name="日経MJ20201204"/>。 === 農業 === {{main|{{仮リンク|エジプトの農業|ar|الزراعة في مصر}}}} {{see also|{{仮リンク|古代エジプトの農業|en|Ancient Egyptian agriculture}}}} かつては[[綿花]]の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。 しかし、通年[[灌漑]]の導入によってナイルの洪水に頼ることが減り、[[アスワン・ハイ・ダム]]の建設によって、上流からの土壌がせき止められるようになった。そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大した。農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、[[肥料]]の集中投入などが必要になったため、コストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。 [[1970年代]]に農業の機械化および各種生産業における機械への転換により、地方での労働力の過剰供給が見受けられ、労働力は都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招いた。[[1980年代]]には、[[石油]]産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。このため綿花および綿製品の[[価格]]上昇を招き、国際競争力を失った。[[1990年代]]から、[[国際通貨基金|IMF]]の支援を受け経済成長率5%を達成するが、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大および失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるが、結果が出ていない。[[2004年]]のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化および税制改革に取り組んでいる。[[2008年]]、世界的な食料高騰によるデモが発生した。 また、「[[アラブの春]]」により、2012年 ~ 2014年の間は2 ~ 3%台と一時低迷していたが、その後政情の安定化により、2015年には、4%台に回復している。また[[国際通貨基金|IMF]]の勧告を受け、2016年に[[為替相場]]の大幅切り下げや[[補助金]]削減などの改革をしたことで、経済健全化への期待感より、[[外国]]からの[[資本]]流入が拡大していき、[[経済]]の復調を遂げている<ref name="エジプト経済の現状と今後の展望" />。 農業は[[農薬]]などを大量に使っているためコストが高くなっているが、それなりの[[食料自給率]]を保っている。[[果物]]は[[日本]]にも[[ジャム]]などに加工され輸出されている。 [[主食]]のアエーシ(イーシュ)という[[パン]]の原料は[[小麦]]であり国内生産も盛んであるが、[[2010年代]]においても国内需要の全てを賄うことはできず、約半数は輸入に依存している。[[コメ]]も古くから生産されており、1917年から[[ジャポニカ米]]を導入してきた歴史がある<ref>{{Cite web|和書|date=2019-12-17 |url=https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2019/b08cfbba6c02890f.html |title=エジプト農業と農産品輸出の現状と課題 |publisher=JETRO |accessdate=2020-08-04}}</ref>。[[太平洋戦争]]直後の食糧難の時期(1948年)には日本に輸入され[[配給 (物資)|配給]]に用いられたこともある<ref>「遅配解消へ地震 来月の放出、本年最高」『朝日新聞』[[昭和23年]]7月28日(2面)</ref>。 == 交通 == {{Main|エジプトの交通}} [[エジプトの交通]]の柱は[[エジプトの歴史|歴史上]]常に[[ナイル川]]であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。[[ファルーカ]]という伝統的な[[帆船]]や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。 === 鉄道 === {{main|エジプトの鉄道}} [[鉄道]]は、国有の[[エジプト鉄道]]が運営している。営業キロは5,063キロにのぼり、カイロを起点として[[ナイル川デルタ]]や[[ナイル河谷]]の主要都市を結んでいる。 === 航空 === {{main|エジプトの空港の一覧}} 航空は、[[フラッグ・キャリア]]である[[エジプト航空]]を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。[[カイロ国際空港]]はこの地域の[[ハブ空港]]の一つである。 == 国民 == {{Main|{{仮リンク|エジプトの人口統計|en|Demographics of Egypt}}}} [[ファイル:Egypt population pyramid 2005.svg|thumb|[[2005年]]の人口ピラミッド。30歳以下の若年層が非常に多く、[[若者]]の[[失業]]が深刻な[[問題]]となっている。]] === 人口構成 === エジプトの人口は近年急速に増大し続けており、エジプト中央動員統計局(CAPMAS)によると2020年2月11日に1億人を突破した<ref>{{Cite news|title=エジプトの人口が1億人に|newspaper=Arab News Japan|date=2020-2-12|agency=AFP通信|url=https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_9374/|accessdate=2021-8-31}}</ref>。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、ピラミッド型の人口構成をしている。しかし、若年層はさらに増加傾向にあるにもかかわらず、経済はそれほど拡大していないため、若者の[[失業]]が深刻な問題となっており、[[2011年エジプト騒乱]]の原因の一つともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033%。[[ファイル:Egypt demography.png|thumb|221x221px|[[国際連合食糧農業機関]]の2005年データによるエジプト人口の推移。1960年の3,000万人弱から人口が急増しているのが読み取れる。]] === 民族 === {{See also|エジプト民族}} [[住民]]は[[ムスリム|イスラム教徒]]と[[キリスト教徒]]([[コプト教会]]、[[東方正教会]]など)からなる[[アラブ人]]がほとんどを占め、そのほかに[[ベドウィン]](遊牧民)や[[ベルベル人]]、{{仮リンク|ヌビア人|en|Nubian people}}、[[アルメニア人]]、[[トルコ人]]、[[ギリシア人]]などがいる。遺伝的に見れば、エジプト住民のほとんどが[[古代エジプト]]人の直系であり、[[エジプト民族]]との呼称でも呼ばれる所以である。長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入・定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、[[カリフ]]周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。現代においてカイロは[[世界都市]]となっており、また歴史的にも[[アル=アズハル大学]]は、イスラム教[[スンナ派]]で最高権威を有する教育機関として、中東・イスラム圏各地から人々が参集する。[[ファイル:Cairo mosques.jpg|thumb|220px|[[カイロ]]の[[モスク]]|代替文=]]なお古代エジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしていることが多い。すなわち、[[ギザの大スフィンクス]]や[[ギザの大ピラミッド]]を建て、[[太陽神]]や[[多神教|様々な神を信仰]]([[エジプト神話]])していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を[[母語]]とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。 === 言語 === {{Main|[[エジプトの言語]]}} {{要出典|範囲= [[現在]]のエジプトでは[[アラビア語]]が[[公用語]]である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは[[正則アラビア語]](フスハー)だが、実際に用いられているのは[[アラビア語エジプト方言]]である。|date= 2020年12月17日 (木) 16:47 (UTC)}}<!-- 実際に「通用」の意味か? 行政などの用語は? -->。 [[古代エジプト]]の公用語であった[[エジプト語]]([[4世紀]]以降の近代エジプト語は[[コプト語]]の名で知られる)は、現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかは[[エジプトの歴史]]に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民は極めて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である<ref>{{Cite news|title=Coptic language's last survivors|newspaper=Daily News Egypt|date=2005-12-10|last=Mayton|first=Joseph|language=en|url=https://dailynewsegypt.com/2005/12/10/coptic-languages-last-survivors/|accessdate=2021-8-31}}</ref>。他には地域的に[[ヌビア諸語]]、[[教育]]・[[ビジネス]]に[[英語]]、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]においては[[フランス語]]なども使われている。 === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|エジプトの宗教|en|Religion in Egypt}}}} {{bar box |title=宗教構成(エジプト) |titlebar=#ddd |width= 300px |float=right |bars= {{bar percent|イスラム教(スンナ派)|green|90}} {{bar percent|キリスト教その他|blue|10}} }}宗教は[[イスラム教]]が90%(ほとんどが[[スンナ派]])であり、[[憲法]]では[[国教]]に指定されている(既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)<ref name=2010cia/>。その他の宗派では、エジプト土着の[[キリスト教会]]である[[コプト教会]]の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる<ref name=2010cia/>。 === 婚姻 === 多くの場合、婚姻時に女性は改姓しない([[夫婦別姓]])が、改姓する女性もいる<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/egyptian-culture/naming-9bdb9e00-ffa6-4f6f-9b29-1616ec7bb952#naming-9bdb9e00-ffa6-4f6f-9b29-1616ec7bb952 Egyptian Culture], Cultural Atlas.</ref>。 [[一夫多妻制]]により4人まで婚姻できるが、現在は1人と結婚する者が多い<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=やまがたニュースオンライン|url=https://www.yamagata-np.jp/kosodate/world/world10.php|website=やまがたニュースオンライン|date=2020-03-17|accessdate=2021-09-23}}</ref>。 === 教育 === {{Main|{{仮リンク|エジプトの教育|en|Education in Egypt}}}} エジプトの教育制度は、1999年から[[小学校]]の課程が1年延び、日本と同じく小学校6年・[[中学校]]3年・[[高等学校|高校]]3年・[[大学]]4年の6・3・3・4制となっている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC70400.html 諸外国の学校情報(国の詳細情報)] 日本国外務省</ref>。[[義務教育]]は小学校と中学校の9年である。[[1923年]]のエジプト独立の際、初等教育は既に無料とされ、以後段階的に教育の無料化が進展した。[[1950年]]には著名な作家でもあった文部大臣[[ターハー・フセイン]]によって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めた全ての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の[[教員]]が給料の少なさなどから個人の[[家庭教師]]を兼任することが広く行われており、社会問題化している<ref>[http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo15_1/1501_tanaka.pdf 『福岡県立大学人間社会学部紀要』 田中哲也]</ref>。 小学校は進級試験があるため、家庭教師をつけることもある{{R|:1}}。授業料は無償化しているが、教育費は日本以上にかかる{{R|:1}}。なお、高額な授業料の代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。また、エジプト国内に20万以上の小中学校、1,000万人以上の学生、13の主要大学、67の[[師範学校]]がある。 [[ファイル:Bibalex-egypt.JPG|thumb|225x225px|[[新アレクサンドリア図書館]]]][[2018年]]より「エジプト日本学校(EJS=Egypt-Japan School)」が35校、開校した<ref>{{Cite journal|和書|author=光石達哉|month=4|year=2019|title=「日本式教育」で、子どもたちが変わる! エジプト|url=https://www.jica.go.jp/publication/mundi/1904/201904_03_01.html|journal=mundi|pages=6-11|publisher=[[国際協力機構]]|accessdate=2021-8-31}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=「エジプト・日本学校」35校が開校:日本式教育をエジプトへ本格導入|publisher=国際協力機構|date=2018-10-4|url=https://www.jica.go.jp/press/2018/20181004_01.html|accessdate=2021-8-31}}</ref>。これは2017年に[[JICA]]が技術協力「学びの質向上のための環境整備プロジェクト」を開始したことに始まるもので、[[日本の学校教育]]で行われている[[学級会]]や生徒による清掃などをエジプトの教育に取り入れようとする教育方針である<ref>{{Cite news|title=エジプトの小学校に「日本式教育」、協調性など成果も|newspaper=ニッポンドットコム|date=2019-7-8|last=斉藤|first=勝久|url=https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00727/|accessdate=2021-8-31}}</ref>。試験的に導入した際には[[文化|文化的]]な違いから反発も見受けられたが、校内での暴力が減った、子供が家でも掃除をするようになったなど、徐々に成果が見えるようになり本格的に導入されることになった<ref>{{Cite news|title=「日本式教育」はエジプトの教育現場をどう変えたか。「掃除は社会階層が低い人が行うもの」という反発を乗り越えて|newspaper=[[ハフポスト]]日本版|date=2019-5-17|last=Yoshida|first=Haruka|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/egypt-japan-school_jp_5cdba4c0e4b0c39d2a13534f|accessdate=2021-8-31}}</ref><ref>[https://egyptcesbtokyo.wordpress.com/2018/10/10/「エジプト・日本学校」について/ 「エジプト・日本学校」(EJS)について] - エジプト大使館、[[2020年]]11月22日閲覧</ref>。 2005年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である<ref name=2010cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/za.html CIA World Factbook "Egypt"] - [[2010年]]1月31日閲覧。</ref>。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された<ref name=2010cia/>。 主な高等教育機関としては、[[アル=アズハル大学]]、[[吉村作治]]や[[小池百合子]]らが出身の[[カイロ大学]](1908年~)などが存在する。 国立図書館として[[新アレクサンドリア図書館]]が存在する。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|エジプトの保健|en|Health in Egypt}}}} {{節スタブ}} {{also|{{仮リンク|エジプト保健・人口省|en|Ministry of Health and Population (Egypt)}}}} ==== 医療 ==== {{Main|{{仮リンク|エジプトの医療|en|Healthcare in Egypt}}}} {{節スタブ}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|エジプトにおける犯罪|en|Crime in Egypt}}}} エジプトは、失業率が高い低中所得国である。2011年1月と2013年6月の政変に伴い、社会・治安状況が不安定化したものの2014年6月からアッ=シーシー大統領の就任以後、政治プロセスの進展と共に治安対策が強化され、国内情勢は安定を取り戻しつつある。だが、政府によるエジプトの経済を促進する為の努力が現在も続けられている状態にも拘らず、国民の32.5%は極度の貧困の中で生活している<ref>{{Cite news|title=32.5% of Egyptians live in extreme poverty: CAPMAS|newspaper=Egypt Today|date=2019-8-1|language=en|url=https://www.egypttoday.com/Article/1/73437/32-5-of-Egyptians-live-in-extreme-poverty-CAPMAS|accessdate=2021-8-31}}</ref>。 一方、カイロを含む各地で発生していたデモ及びそれに伴う衝突事案が減少している事が明らかにされているが、[[テロ]]事件の発生頻度は高めとなっている侭である。テロは主に現地警察や[[教会]]・[[モスク]]を狙ったものが多いが観光地でも死傷者の出る事件が起きており、十分な注意が必要とされている。 {{節スタブ}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|エジプトにおける人権|en|Human rights in Egypt}}}} 人権団体の報告によれば、2020年1月の時点でエジプトには約60,000人の政治犯が収容されているとの調査結果がある<ref>{{Cite news|title=My brother is one of Egypt's 60,000 political prisoners – and Trump is happy to let him rot in jail|newspaper=[[インデペンデント]]|date=2020-1-17|last=Soliman|first=Omar|language=en|url=https://www.independent.co.uk/voices/moustafa-kassem-abdel-fattah-el-sisi-trump-egypt-us-prisoner-a9288401.html|accessdate=2021-8-31}}</ref>。 {{節スタブ}} ==== ハーリド・サイード事件 ==== {{Main|{{仮リンク|ハーリド・サイード事件|en|Death of Khaled Mohamed Saeed}}}} [[アレクサンドリア]]在住のハーリド・サイードは、2010年6月6日午後11時過ぎ、自宅近くのインターネットカフェにいたところを突然2人の私服警官に取り押さえられ、殴る蹴るの暴行を受けた。集まった群衆の中にいた医師がハーリドの死亡を確認した。 警官の暴行によってあごを割られ、後頭部から出血したことが死因であると遺族は主張した。12日、エジプトの内務省は「強盗容疑などで指名手配中」というハーリドを地元警察の捜査員が発見し逮捕しようとしたが、麻薬入りの袋を飲み込み窒息死したとした上で、「自殺」と断定した。これに対して地元メディアが「当局の人権弾圧の象徴」として大々的に報道したことに加え、地元NGOや国際人権団体[[アムネスティ・インターナショナル]]も徹底調査を要請。これを受けて、検察当局は遺体解剖の手続をとるなど、再捜査を開始した<ref>[http://mainichi.jp/select/world/mideast/news/20100622k0000e030040000c.html エジプト:青年の死が波紋…警察の暴力か逮捕時の事故か]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|エジプトのメディア|en|Mass media in Egypt}}|{{仮リンク|エジプトのテレビ|en|Television in Egypt}}}} エジプトのメディアは、エジプト国内およびアラブ世界で非常に強い影響力を保持している。これは、エジプトのテレビ関連業界や映画業界ならび大勢の視聴者がアラブ世界へ供給している為であり、それらが歴史的に長い事も起因している<ref>[https://www.bbc.com/news/world-africa-13313373 Egypt profile - Media] 2018年10月23日 BBC News</ref>。 またエジプトでは報道法や出版法およびエジプト刑法に基づき、報道機関を規制ならび統制している現状がある。 {{also|{{仮リンク|イスラム社会における検閲|en|Censorship in Islamic societies}}}} {{節スタブ}} === インターネット === {{Main|{{仮リンク|エジプトにおけるインターネット|en|Internet in Egypt}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|エジプトの文化|en|Culture of Egypt}}}} === 食文化 === {{Main|エジプト料理|{{仮リンク|古代エジプト料理|en|Ancient Egyptian cuisine}}}} [[北アフリカ]]の[[サハラ砂漠]]の東部に位置する'''エジプト'''は国土の大半が[[砂漠気候]]であるが、北部海岸地帯は温暖な[[地中海性気候]]で、[[ナイル川]]の河口に広がる[[ナイル・デルタ]]は[[ステップ気候]]である。降雨量は少ないが、豊富なナイル川の水により、流域および[[三角州|デルタ地帯]]で様々な作物が作られている。これらの豊富な[[穀物]]・[[野菜]]・[[果物]]などの[[農作物]]や地中海やナイル川からの[[魚介類]]、[[肉類]]では[[羊肉]]・[[牛肉]]・[[鶏肉]]を使った料理が食べられている<ref name=Egy>エジプト大使館 [http://www.egypt.or.jp/basic/food.html 「エジプト料理」] </ref>。 [[古代エジプト]]に[[シャンム・ナシーム#来歴|起源]]を持つと言われている春祭り[[シャンム・ナシーム]](春香祭)では、[[ボラ]]を塩漬け・発酵させた魚料理である[[フィシーフ]]が食べられるなど、[[祝祭]]に関連した食文化も豊かである。 === 文学 === [[ファイル:Necip Mahfuz.jpg|thumb|180px|[[ナギーブ・マフフーズ]]は[[1988年]]に[[ノーベル文学賞]]を受賞した]] {{Main|古代エジプト文学|アラビア語文学|エジプト文学}} 古代エジプトにおいては[[パピルス]]に[[ヒエログリフ]]で創作がなされ、[[古代エジプト文学]]には『[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]』や『[[シヌヘの物語]]』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトは[[アラビア語文学]]の一つの中心地となった。近代の文学者として[[ターハー・フセイン]]の名が挙げられ、現代の作家である[[ナギーブ・マフフーズ]]は1988年に[[ノーベル文学賞]]を受賞している。 === 映画 === {{main|{{仮リンク|エジプトの映画|en|Cinema of Egypt}}}} === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|エジプトの音楽|en|Music of Egypt}}}} エジプトの[[音楽]]は隣国に対する何千年にも渡る支配により、その周辺地域へ非常に大きな影響を及ぼしている。たとえば[[聖書]]で「古代[[ヘブライ人]]によって演奏された」と主張されている[[楽器]]はすべて古代エジプトに起源することが[[エジプト学|エジプト考古学]]によって判明されている。また、[[古代ギリシャ]]の音楽の発展に多大な影響を与えている面があることが確認されている。 [[宗教音楽]]においては、'''ムリッド'''(mulid)と呼ばれる[[スーフィー]]などの伝統を重んじるイスラム教徒と、コプト派のキリスト教徒による[[祭典]]における重要な部分であり続けている面が窺える。 {{節スタブ}} === 芸術 === {{Main|古代エジプト美術}} {{節スタブ}} {{also|{{仮リンク|エジプトの復活装飾芸術|en|Egyptian Revival decorative arts}}}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|エジプトの建築|en|Architecture of Egypt}}|古代エジプト建築}} 同国における建築は古代のものが中心に周知されており、現代建築に対してはあまり焦点が当てられていない現状がある。 一方、世界各地において古代エジプトの[[話題|モチーフ]]とイメージを多用しつつも現代風の仕様を留める建築様式が採用されている。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|エジプトの世界遺産}} エジプト国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。 {{also|文化自然遺産文書センター}} <gallery widths="180" heights="120"> Egypt.Giza.Sphinx.01.jpg|[[メンフィスとその墓地遺跡|メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯]](1979年、[[文化遺産]]) S F-E-CAMERON 2006-10-EGYPT-KARNAK-0002.JPG|古代都市[[テーベ]]とその墓地遺跡(1979年、文化遺産) Abou simbel face.jpg|[[アブ・シンベル]]から[[フィラエ]]までの[[ヌビア遺跡]]群(1979年、文化遺産) Al Azhar, Egypt.jpg|[[カイロ|カイロ歴史地区]](1979年、文化遺産) Katharinenkloster Sinai BW 2.jpg|* [[聖カタリナ修道院|聖カトリーナ修道院地域]](2002年、文化遺産) Whale skeleton 2.jpg|[[ワディ・アル・ヒタン]](2005年、自然遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|エジプトの祝日|en|Public holidays in Egypt}}}} 基本となる祝祭日は以下になる。 {| class="wikitable" |- !style="min-width:4.5em;"|日付 !style="min-width:5em;"|日本語表記 !style="min-width:5em;"|現地語表記!!備考 |- |- ||1月7日 || [[クリスマス]] ||lang="ar"| || [[コプト暦]]における[[イエス・キリスト]]の[[誕生祭]] |- ||1月25日 || 2011年革命記念日<br>{{仮リンク|国家警察の日 (エジプト)|label=国家警察の日|en|National Police Day (Egypt)}} ||lang="ar"| || 祝祭日が重なる珍しい事例として知られている<br>革命記念日は2011年時の[[エジプト革命 (2011年)|エジプト革命]]を記念して制定されたもので、国家警察の日は1952年に[[イギリス軍]]が武器の引き渡しと[[イスマイリア]]警察署からの避難を拒否した際に、同軍から殺害され負傷した50人の現地警官を称える為に{{仮リンク|エジプト国家警察|label=国家警察|en|Egyptian National Police}}の意向に基づく形で設立したものである |- ||4月25日 || シナイ解放記念日 ||lang="ar"| || 1982年にシナイ半島から[[イスラエル軍]]が完全撤退したことを記念して制定されたもの |- ||5月1日 || [[労働者の日]]||lang="ar"| || |- ||6月30日 || {{仮リンク|2013年6月抗議記念日|label=2013年政権抗議記念日|en|June 2013 Egyptian protests}} ||lang="ar"| || 2013年6月の抗議[[デモ]]を記念して制定されたもの。この数日後に[[2013年エジプトクーデター|クーデター]]が発生している |- ||7月23日 || 革命の日 ||lang="ar"| || 2度目の[[エジプト革命]]を記念したもの<br>これは1952年に軍事革命として生起したものであり、同時に建国記念日としての意味合いが強い |- ||10月6日 || 軍隊記念日 ||lang="ar"| || [[第四次中東戦争]]でのエジプト軍の最初の攻防が成功したことを記念したもの |} この他に[[イスラム暦]]に基づいた[[移動祝祭日]]が存在しており、先述した[[シャンム・ナシーム]]([[復活祭#日付|東方教会の復活祭]]の翌日に行われる)もそのうちの一つである。 == スポーツ == {{main|{{仮リンク|エジプトのスポーツ|ar|الرياضة في مصر}}}} {{see also|オリンピックのエジプト選手団}} エジプトでは[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]である。サッカー以外では[[スカッシュ (スポーツ)|スカッシュ]]が盛んで、[[21世紀]]に入ってから{{仮リンク|ワールドスカッシュ選手権|en|World Squash Championships}}で男女ともに多くの優勝者を輩出している。また、公園が少ないゆえに貧困層は路地でスポーツを楽しみ、富裕層はスポーツクラブで楽しむ。 === サッカー === {{see|{{仮リンク|エジプトのサッカー|en|Football in Egypt}}}} [[File:Mo Salah 2018.png|150px|thumb|right|"エジプトの王"こと[[モハメド・サラー]]。]] [[1948年]]にプロサッカーリーグの[[エジプト・プレミアリーグ]]が創設された。同リーグは'''[[アル・アハリ]]'''が圧倒的な強さで支配しており、7連覇を含むリーグ最多42度の優勝を達成しており、[[アフリカ大陸]]のクラブ王者を決める[[CAFチャンピオンズリーグ]]でも大会最多10度の優勝に輝いている。[[エジプトサッカー協会]](EFA)によって構成される[[サッカーエジプト代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には3度出場している。なお、[[アフリカネイションズカップ]]では大会最多7度の優勝を誇っている。 国の英雄的な存在には'''[[モハメド・サラー]]'''がおり、[[イングランド]]・[[プレミアリーグ]]で得点王や[[PFA年間最優秀選手賞|最優秀選手賞]]を獲得している。[[リヴァプールFC|リヴァプール]]ではエースとして、[[プレミアリーグ]]や[[UEFAチャンピオンズリーグ]]制覇を成し遂げた<ref>{{cite web|url=https://www.skysports.com/football/tottenham-vs-liverpool/report/407101 |title=Tottenham 0-2 Liverpool: Mo Salah and Divock Origi goals hand Liverpool sixth European crown |date=2 june 2019|publisher=SKY|accessdate=June 2 2019}}</ref>。これらの活躍からエジプトでは絶大な人気を誇り、[[2018年]]に行われた[[2018年エジプト大統領選挙|エジプト大統領選挙]]では当選した[[アブドルファッターフ・アッ=シーシー|現職の大統領]](92%得票)に次いで2位となる全体の約5%の票(約100万票)が立候補すらしていないサラーへと投じられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2018/03/31/post263392/|title=サラー、エジプト大統領選で驚きの「2位」。絶大な人気で100万票獲得|website=フットボールチャンネル|date=2018-03-31|accessdate=2018-04-11}}</ref>。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:エジプトの人物}} == 参考文献 == {{節スタブ|date= 2020年12月17日 (木) 16:47 (UTC)}} * [[鈴木恵美]]編著『現代エジプトを知るための60章』[[明石書店]]、[[2012年]] {{ISBN2|4750336483}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[画像:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|ウィキポータルリンク アフリカ]]}} * [[エジプト関係記事の一覧]] * [[エジプト民族]] <!-- * [[エジプト出身人物の一覧]] ** [[分野・時代別のエジプト出身人物の一覧]] --> * [[古代エジプト美術]] * [[エジプト神話]] * [[エジプト軍]] * [[エジプト海軍艦艇一覧]] * [[エジプト革命 (1952年)]] * [[エジプト革命 (2011年)]] * [[エジプトの法]] == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Egypt|Egypt}} {{Wikivoyage|Egypt|エジプト{{en icon}}}} {{osm box|r|1473947}} ; [[政府]] :* [http://www.egypt.gov.eg/arabic/home.aspx エジプト政府サービス・ポータル] {{ar icon}} :* [http://www.egypt.gov.eg/english/home.aspx エジプト政府サービス・ポータル] {{en icon}} :* [https://egyptcesbtokyo.wordpress.com/ 在日エジプト大使館 エジプト学・観光局] - 「観光情報」と「基本情報」{{ja icon}} : ; [[日本国政府]] :* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/egypt/ 日本外務省 HP>各国・地域情勢>アフリカ>エジプト・アラブ共和国] {{ja icon}} :* [https://www.eg.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在エジプト日本国大使館] {{ja icon}} :** [https://www.eg.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000035.html 在エジプト日本国大使館>エジプト情報] : ; [[その他]] :* [https://www.jica.go.jp/index.html 独立行政法人 JICA 国際協力機構] :** [https://www.jica.go.jp/egypt/ HP>各国における取り組み>中東>エジプト生活情報] :** [https://libportal.jica.go.jp/fmi/xsl/library/public/ShortTermStayInformation/MiddleEast/Egypt-Short.pdf 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著作権の保護期間
著作権の保護期間(ちょさくけんのほごきかん)とは、著作権の発生から消滅までの期間をいう。 この期間において著作権は保護され、著作権者は権利の対象である著作物を、原則として独占排他的に利用することができる。具体的な期間は各国の国内法令に委ねられているが、時代が下るごとに延長される傾向にあり、今日では著作者の生存期間及び著作者の死後70年とする国が多数である。なお、世界181か国(2022年現在)が締結する文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約(ベルヌ条約)が、著作権の保護期間として「著作者の生存期間及び著作者の死後50年」(同条約7条(1))を原則としていることから、これを下回る期間を設定している国はほとんど存在しない。 なお、実演やレコード、放送などの著作隣接権に係る保護期間は、著作権に係るそれと比較して各国の国内法や条約における取扱に差異があり法的根拠を異にする。国際条約としては、実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約(略称:実演家等保護条約、ローマ条約)と許諾を得ないレコード複製からのレコード製作者の保護に関する条約(略称:レコード保護条約)がある。 著作者の権利の保護の目的は、大きく分けて二つの立場から説明されることが多い。一つは著作物に対する著作者の自然権として捉える立場であり、ヨーロッパを中心とした大陸法圏の国において発展してきた考え方である。もう一つは、著作者に著作物の独占的利用権を与えることによって、著作者に正当な利益が分配されることを促し、その結果として創作活動へのインセンティブを高めることをその存在する理由とする考え方であり、イギリスやアメリカ合衆国を中心とした英米法圏に由来する考え方である。 期間の設定に際しては、著作物の独占利用による著作者の創作意欲の向上という社会的利益と、著作物の利用促進による社会的利益の均衡を図るために、著作権の保護期間は適切な期間に調整されるべきである。そして、この「適切な期間」をめぐってさまざまな立場が存在することになる。 著作権の消滅時期を定める法制には、死亡時起算主義と公表時起算主義がある。死亡時起算主義は著作者の死亡時を起算時として著作権の消滅時期を決定する主義であり、公表時起算主義は、著作物の公表日を起算日として著作権の消滅時期を決定する主義である。 ベルヌ条約は死亡時起算主義を原則としている(ベルヌ条約7条(1))。ただし、無名や変名、団体名義の著作物については、著作者の死亡時を客観的に把握することが困難であるため、公表時起算を適用することを容認している(ベルヌ条約7条(4))。また、映画の著作物についても、公表時起算を適用することを容認している(ベルヌ条約7条(2))。 ベルヌ条約7条(1)によれば、加盟国は、著作権の消滅までの期間を最低でも著作者の死亡から50年としなければならない。著作者の死後50年まで著作権を保護する趣旨は、著作者本人およびその子孫2代までを保護するためであるとされている。 もっとも、より長い保護期間を与えることも認められている(ベルヌ条約7条(6))ことから、今日では多数の加盟国が様々な要因によって期間を延長しており、原則通り50年の保護期間を設定している国は少数派になりつつある。なお、ベルヌ条約においては保護期間の延長の上限についての記述は存在しない。 文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約7条は、加盟国が定めるべき著作権の保護期間の要件を以下のとおり規定している。ただし、加盟国は、より長期間の保護期間を認めることができる(ベルヌ条約7条(6))。 著作権に関する世界知的所有権機関条約(WIPO著作権条約)の締約国は、ベルヌ条約1条〜21条の規定を遵守しなければならないことを規定し(WIPO著作権条約1条(4))、著作物の保護期間に関するベルヌ条約7条の規定もその中に含まれる。しかし、写真の著作物については、ベルヌ条約7条(4)の規定の適用を除外している(WIPO著作権条約9条)。したがって、WIPO著作権条約の締約国は、写真の著作物に対して、他の一般著作物と同期間の保護期間を与えなければならない。 日本国も、WIPO著作権条約9条の規定に倣う形で、写真の著作物の保護期間を公表後50年までとしていた著作権法55条を、1996年12月の著作権法改正によって削除した。 知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(世界貿易機関を設立するマラケシュ協定附属書1C、TRIPS協定)は、著作権を含む知的財産権の保護に関して世界貿易機関 (WTO) 加盟国が遵守すべき条件を定めている。 まず、TRIPS協定9条(1)は、WTO加盟国がベルヌ条約1条〜21条の規定を遵守しなければならないことを規定し、その中には7条も含まれる。したがって、WTO加盟国は、ベルヌ条約が定める著作権の保護期間の要件をまず遵守しなければならない。 さらに、TRIPS協定12条は、著作物の保護期間が自然人の生存期間に基づいて計算されない場合の扱いを規定している。同条によれば、WTO加盟国は、著作物の公表の年の終わりから少なくとも50年間(著作物の製作から50年以内に公表が行われない場合には、製作の年の終わりから少なくとも50年間)、著作物を保護しなければならない。 世界各国における著作権の保護期間、および保護期間延長に関連する法改正の動向について概説する。なお、2007年1月現在の世界最長はメキシコの「100年」であり、以下コートジボワール(99年)、コロンビア(80年)、ホンジュラス・グアテマラ・セントビンセントおよびグレナディーン諸島・サモア(各75年)と続く。 1993年の欧州連合域内における著作権保護期間の調和に関する指令により義務付けられていることから、著作者の死後70年としている国が多数を占める。その背景には、20世紀半ばにドイツでクラシック作曲家の子孫たち(その多くは、作曲家ではない)が延長運動を行った結果、1965年よりドイツにおいて死後70年が採用され、EU指令においてもドイツの保護期間が基準とされたことが大きいといわれる。その一方、EUでは著作隣接権を公表後50年から延長することについては2004年に断念している。 著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。 1996年1月1日までは死後50年までであったが、1995年の「著作権の保護期間と実演家の権利に関する規則」(The Duration of Copyright and Rights in Performances Regulations 1995、以下本節では「1995年規則」)の施行で、ドイツが用いていた保護期間の死後70年間へと変更されることになった。なお、この変更は遡及適用され、かつての法によれば保護期間が満了していた著作物の一部が著作権を回復した。共同著作物は最後に死亡した共同著作者を起点に、無名の著作物は公表時(公表されなかった場合は創作時)を起点に算出する。 映画の著作物は、1956年著作権法においては初演(上演されなかった場合は1938年映画法 (Cinematograph Films Act 1938) の登録年)の翌年から50年存続していたが、1995年規則で改定され、最後の主要な映画制作者(制作者・脚本家・台本家・作曲家)死後70年に延長された。主要な映画制作者なき映画の著作権は初演後70年(上演されなかった場合は制作後70年)存続する。 コンピュータを使って制作された著作物や録音の著作物は、制作後50年存続する。ただし、録音の著作物が前述保護期間に発売された場合は発売年が起点となる。放送もこれら著作物と同じ保護期間を採用している。 イギリス法では活版の配列・工業品の意匠(日本では意匠法で保護される)をも保護対象としており、その期間は商品の販売から25年である。 以上に挙げた著作物の著作者人格権は著作権と同じ期間だけ存続する。 著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。 1879年に保護期間を死後80年までと規定したが、1987年に死後60年に短縮し、1993年のEU指令に基づき1995年に死後70年に再延長した。1987年における保護期間短縮は、ベルヌ条約加盟国では唯一の事例であるとされる。なお、保護期間短縮にともなう経過措置では改正法施行時に生存している著作者が既に公表している著作物には短縮された保護期間が適用される一方、既に故人である著作者については経過措置として旧法における死後80年間の規定が維持されている。そのため、パブロ・ピカソ(1973年没)の保護期間は死後80年の2053年までである一方、サルバドール・ダリ(1989年没)の保護期間は死後70年の2059年までである。 著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。 1997年3月27日制定の改正法によって延長されるまでは死後50年までであった。 著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。 1948年のベルヌ条約ブラッセル改正に伴う調査では保護期間を「無期限」と定めていたことが知られているが、この規定は1971年のパリ改正までに撤回されている。 1978年1月1日以降に創作された著作物については、著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする(合衆国法典第17編第302条 17 U.S.C. § 302(a))。無名著作物、変名著作物または職務著作物の場合、最初の発行年から95年間、または創作年から120年間のいずれか短い期間だけ存続する(17 U.S.C. § 302(c)前段)。ただし、この期間内に無名著作物または変名著作物の著作者が記録から明らかとなった場合は、保護期間は原則どおり著作者の死後70年までとなる(同後段)。 1976年著作権法 (Copyright Act of 1976) の規定では、著作権の保護期間は著作者の死後50年まで(最初の発行年から75年まで)とされていた。これを20年延長し、現在の保護期間である死後70年まで(最初の発行年から95年まで)とした改正法が、1998年に成立した「ソニー・ボノ著作権保護期間延長法 (Sonny Bono Copyright Term Extension Act, CTEA)」である。「ソニー・ボノ」の名称は、カリフォルニア州選出の共和党下院議員で、この法案の成立に中心的役割を果たしたソニー・ボノ(英語版) にちなむ。 1999年1月11日、元プログラマーであるエリック・エルドレッド(英語版)は、CTEAがアメリカ合衆国憲法1条8節8項(特許、著作権)及び修正1条(表現の自由)に違反するとして、コロンビア特別区連邦地方裁判所に提訴した(エルドレッド対アシュクロフト事件(英語版))。しかし、2003年1月15日、合衆国最高裁判所は、CTEAが合憲であるとの最終判断を示した。 著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。 ベルヌ条約加盟に伴い日本に初めて著作権法が導入された1899年当時は、保護期間は死後30年であった。ただし、無名または周知ではない変名の著作物、および団体名義の著作物の著作権の保護期間は、公表後ないし創作後30年までであった。その後数度の法改正により少しずつ延長され、1969年にはこれらの期間は38年までとなっていた。1970年の著作権法全面改正により死後50年までに延長された。2004年1月1日以降は映画の著作物に限り、公表後ないし創作後70年までに保護期間が延長された。2018年12月30日にはTPP11協定発効に伴う改正著作権法が施行され、映画の著作物以外についても著作者の死後70年までに延長された。 日本国はベルヌ条約、万国著作権条約、WIPO著作権条約の締約国である。また、TRIPS協定を遵守すべきWTO加盟国でもある。したがって、これらの条約、協定で定められた保護期間の要件をすべて満たすように、国内法で著作権の保護期間を規定している。なお、本節において日本の著作権法を参照する際には、特記がない限りその条数のみを記載する。 なお、保護期間については前述のとおりである。 著作権は、著作物を創作した時に発生する(51条1項)。登録を権利の発生要件とする特許権や商標権などとは異なり、著作権の発生のためには、いかなる方式(登録手続き等)も要しない(17条2項)。ベルヌ条約の無方式主義の原則(同条約5条(2))を適用したものである。 著作権は、著作者が死亡してから70年を経過するまでの間、存続する(51条2項)。より正確には、死亡してから70年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義))。ベルヌ条約7条(1)に対応する規定であるが、2018年12月30日施行改正著作権法により条約よりも保護期間は長くなっている。 共同著作物の場合は、最後に死亡した著作者の死亡時から起算する(同項かっこ書)。これは、最後に死亡した著作者が、日本の6条に基づく権利の享有が認められない者(条約非加盟国の国民など)であっても同様であると解する。 また、自然人と団体の共同著作物の場合、本項を適用して自然人である著作者の死亡時から起算するのか、後述する53条1項を適用して公表時から起算するのかが問題となる。この場合、自然人である著作者の死亡時から起算するのが妥当であると解する。保護期間の長い方による方が著作権保護の趣旨に合致するし、公表時起算は死亡時起算が適用できない場合の例外的規定だからである。 一般的な著作物(写真や映画の著作物を除く)の原則的な保護期間は、1899年7月15日に施行された旧著作権法(明治32年法律第39号)では、著作者の死後30年までと規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。 改正された法律の施行前に著作権が消滅していた著作物の場合、延長の対象とならず、著作権の保護期間は1971年改正の場合なら著作者の死後50年、2018年改正の場合なら70年とならないので、注意が必要である。たとえば、芥川龍之介、梶井基次郎、島崎藤村、太宰治、藤田嗣治の作品の著作権の保護期間は以下のとおりとなる。 旧著作権法を考慮した著作権の保護期間を表にまとめると、次のとおりである。 無名または変名の著作物の著作権は、その著作物の公表後70年を経過するまでの間、存続する(52条1項本文)。より正確には、公表してから70年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義))。無名または変名の著作物では著作者の死亡時点を客観的に把握することが困難であるから、ベルヌ条約7条(4)が容認する公表時起算を適用した。 ただし、公表後70年までの間に、著作者が死亡してから70年が経過していると認められる著作物は、著作者の死後70年が経過していると認められる時点において著作権は消滅したものとされる(52条1項但書)。また、以下の場合には著作者の死亡時点を把握することができるから、原則どおり死亡時起算主義が適用され、著作権は著作者の死後70年を経過するまでの間存続する(52条2項)。 ここで、「無名の著作物」とは、著作者名が表示されていない著作物をいう。「変名」とは「雅号、筆名、略称その他実名に代えて用いられるもの」(14条)であり、「その他実名に代えて用いられるもの」の例としては俳号、芸名、四股名、ニックネーム、ハンドルネームなどが挙げられる。 また、「周知の変名」とは、その変名が著作者本人の呼称であることが一般人に明らかであって、その実在人が社会的に認識可能な程度に知られている状態をいうものと解する。たとえば、漫画家「手塚治虫」の名は「手塚治」のペンネーム(筆名)であるが、周知の変名でもある。手塚治が「手塚治虫」の名のもとで公表した作品の著作物の著作権は、手塚治(1989年2月9日没)の死後70年の経過をもって消滅する(法52条2項1号)。したがって、手塚治虫作品の著作権は今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、2059年12月31日まで存続する(2018年改正法)。 1899年7月15日に施行された旧著作権法(明治32年法律第39号)では、公表後30年までと規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。 法人その他団体が著作の名義を持っている著作物の著作権は、その著作物の公表後70年(著作物の創作後70年以内に公表されなかったときは創作後70年)を経過するまでの間、存続する(53条1項)。より正確には、公表(または創作)してから70年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義))。団体名義の著作物においては、著作者の死亡を認定できないため、公表時起算を例外的に適用している。 団体名義の著作物とは、団体が著作者となるいわゆる職務著作(15条)の著作物に限らず、著作者は自然人であるが、団体の名において公表される著作物を含む。(法53条3項) ただし、上記の著作物の著作者である個人が、上記の期間内に、当該個人の実名、あるいは周知な変名を著作者名として著作物を公表したときは、原則どおり著作者の死後70年の経過をもって著作権が消滅する(53条2項)。 映画の著作物の著作権は、その映画の公表後70年を経過するまでの間、存続する(54条1項)。ただし、映画の創作後70年を経過しても公表されなかった場合には、創作後70年を経過するまでの間、存続する(同項但書)。映画の著作物の著作者は「制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者」(16条本文抜粋)と規定されているが、映画が様々なスタッフの寄与によって創作される総合芸術であり、著作者が誰であるかを実際に確定するのは困難であるため、ベルヌ条約7条(2)に従い、公表時起算主義を採用した。 著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)の制定時には、映画の著作権の保護期間は公表時から50年であった。しかし、旧著作権法(明治32年法律第39号)では、独創性のある個人名義の映画の著作物については著作者の死亡時から起算して38年間存続することになっていたため、保護期間が実質的に短くなる場合も生じた。このため、2003年の法改正により、保護期間が50年から70年に延長された。 また、1971年(昭和46年)より前に製作された映画作品は、旧著作権法の規定と比べ長い方の期間になるので注意が必要である。 ただし、例えば、旧法下における会社名義や、戦時中の国策団体などの名義による「記録映画」の類については、必ずしも長くなるとは言えない場合も出てくる可能性もある。 著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)では、写真の著作物の保護期間を他の著作物を区別して特別に定める規定は存在しない。したがって、一般の著作物と同様に、写真の著作物の保護期間は死亡時起算の原則により決定される(51条2項)。また、写真が無名・変名および団体名義で公表された場合は、公表後70年が適用される(52条1項、53条1項)。 写真の著作物の保護期間は、旧著作権法(明治32年法律第39号)では発行後10年(その写真が発行されなかった場合は製作後10年)と規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。 上記によれば、1956年(昭和31年)12月31日までに発行された写真の著作物の著作権は1966年(昭和41年)12月31日までに消滅し、翌年7月27日の暫定延長措置の適用を受けられなかったことから、著作権は消滅している。また、1946年(昭和21年)12月31日までに製作された写真についても、未発行であれば1956年12月31日までに著作権は消滅するし、その日までに発行されたとしても、遅くとも1966年12月31日までには著作権は消滅するので、1967年7月27日の暫定延長措置の適用は受けられない。したがって、著作権は消滅している。いずれの場合も、著作者が生存していても同様である。 このように、写真の著作物は他の著作物と比べて短い保護期間しか与えられてこなかったため、保護の均衡を失するとして、日本写真著作権協会などは消滅した著作権の復活措置を政府に対して要望していた。しかし、既に消滅した著作権を復活させることは法的安定性を害し、著作物の利用者との関係で混乱を招くなどの理由から、平成11年度の著作権審議会は、復活措置を見送る答申を行っている。 さらに、1996年12月の著作権法改正によって(翌年3月25日施行)、写真の著作物の保護期間を公表後50年までとしていた著作権法55条が削除され、写真の著作物に対しても、他の一般著作物と同等の保護期間が適用されることになった。これは、1996年12月の世界知的所有権機関 (WIPO) 外交会議によってWIPO著作権条約が採択されたことを受けたものであり、同条約9条は、写真の著作物に対して他の一般著作物と同期間の保護期間を与えることを義務づけているからである。改正以前までは公表後50年であったため、著作者が生存中に著作権が切れてしまうことが数多く発生した。この改正によって他の著作物と同等の扱いを受けるようになった。 著作物を、冊、号または回を追って公表する場合、著作物を一部分ずつを逐次公表する場合、それぞれ公表時をいつとすべきかについて、56条は以下の通り規定している。 冊、号または回を追って公表される著作物について、公表時を起算時として著作権が消滅する場合、その「公表時」とは、毎冊、毎号または毎回の公表時期とされる(56条1項)。 「冊、号または回を追って公表される著作物」の例としては、新聞、雑誌、年報、メールマガジンのような、継続的に刊行、公表される編集著作物、各回でストーリーが完結するテレビの連続ドラマなどが挙げられる。たとえば、テレビアニメ『タイムボカン』(1975年10月4日から1976年12月25日にかけて放送)は毎放送回でストーリーが完結する映画の著作物である。したがって、第1話の著作物の著作権の消滅時期は、公表時を1975年10月4日(第1話公表時)として計算される(著作権法56条1項前段)。そうすると、『タイムボカン』の第1話が自由に利用可能になるのは、今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、公表から70年経過後の2046年1月1日午前0時からである。 一部分ずつを逐次公表して完成する著作物について、公表時を起算点として著作権が消滅する場合、その「公表時」は最終部分の公表時とされる(56条1項)。 「一部分ずつを逐次公表して完成する著作物」の例としては、文学全集、新聞連載小説、ストーリーが連続して最終回に完結するテレビドラマなどが挙げられる。たとえば、NHKの連続テレビ小説『おしん』は最終回にストーリーが完結するものである。したがって、第1話をみても、その著作権の消滅時期は、公表時を1984年3月31日(最終話の公表時)として計算される(著作権法56条1項後段)。そうすると、『おしん』の第1話が自由に利用可能になるのは、今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すると、2055年1月1日午前0時からである。 なお、直近の公表時から3年を経過しても次回の公表がない場合は、直近の公表時を最終部分の公表時とみなす(56条2項)。公表間隔を長くすることにより、著作権の保護期間が不当に延長されることを防ぐためである。 上述した「死後70年」、「公表後70年」、「創作後70年」の期間の計算方法には、いわゆる暦年主義が採用されている(著作権法第57条第1項)。すなわち、「70年」の起算点は、著作者が死亡した日、または著作物の公表日・創作日が属する年の翌年1月1日となる(57条、民法140条但書、民法141条)。暦年主義を採用したのは、保護期間の計算が簡便にできること、著作者の死亡時や著作物の公表、創作時がはっきりとしない例が多いことによる。 たとえば、作家池波正太郎(1990年5月3日没)の作品の著作権は、TPP11整備法による保護期間延長の適用を受けるので、2060年5月3日をもって消滅するのではなく、1991年1月1日から起算して70年後である、2060年12月31日をもって消滅する。したがって、著作権による制限なく自由な利用が可能となるのは今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば2061年1月1日午前0時からである。 58条は、ベルヌ条約7条(8)、TRIPS協定3条(1)但書の規定が容認する相互主義を採用している。したがって、著作権法は、ベルヌ条約同盟国または世界貿易機関 (WTO) の加盟国(日本国を除く)を本国とする著作物に対して、それらの本国の国内法が定める著作権の保護期間が、51条〜55条が定める保護期間よりも短いときは、それらの国内法が定める保護期間しか与えない(58条)。 たとえば、日本国ではないベルヌ条約同盟国であるA国の国内法が、映画の著作物の保護期間を公表後50年と定めているとする。「公表後50年」は、日本国著作権法が定める映画の著作物の保護期間(公表後70年、著作権法54条)よりも短い。したがって、A国を本国とする(A国で第一発行された)映画の著作物の保護期間は、日本国著作権法においても公表後50年までしか保護されない。 ただし、日本国民の著作物に対しては、58条は適用しない(同条かっこ書)。したがって、日本国民の著作物は、第一発行国によらず、51条〜55条が定める保護期間が満期で与えられる。 第二次世界大戦における連合国(アメリカ、イギリス、カナダなど)やその国民が有する著作権であって、日本国と当該連合国との間で平和条約が発効した日の前日以前に取得された著作権に対しては、上述の通り認められる通常の著作権の保護期間に加えて、日本国との平和条約第15条(c)の規定及び連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律により、いわゆる戦時加算による保護期間の加算が認められる。第二次世界大戦中は、連合国や連合国民の著作権保護に、日本国は十分に取り組んでいなかったと考えられたためである。加算される期間は以下のとおりとなる。 著作権が消滅すると、著作権による制限なしに、原則として誰でも自由に利用することができる。 ただし、保護期間が著作者の死後70年となる場合を除いては、著作権の消滅後も著作者が生存し、著作者人格権が存続している場合もある。その場合、著作者人格権を侵害する態様で著作物を利用することはできない(18条〜20条)。また、著作者が死亡し著作者人格権が消滅しても、著作者が生存しているならば著作者人格権の侵害となるような利用行為、著作者の声望名誉を害する方法による著作物の利用行為は引き続き禁止される(60条、113条6項)。 著作物を翻訳、編曲、変形、翻案して創作された二次的著作物の著作権の保護期間は、原著作物の著作権の保護期間とは独立して認められる。すなわち、創作(翻訳、編曲、変形、翻案)のときに著作権が発生し、著作者(翻訳、編曲、変形、翻案した者)の死亡時期、その二次的著作物の公表時期、あるいは創作時期を起算時として著作権の消滅時期が決定される。 したがって、原著作物の著作権が保護期間満了等の事由により消滅していても、二次的著作物の著作権が消滅しているとは限らない。 たとえば、アメリカ民謡『My Grandfather's Clock』(邦題『大きな古時計』)の作詞者であるヘンリー・クレイ・ワークは1884年に死去したから、歌詞の著作権は存在しない。一方、保富康午(1984年9月19日没)による著名な日本語訳詞の著作権は今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、2054年12月31日まで存続する。したがって、2006年現在、英語による原歌詞は自由に利用可能であるが、保富康午の日本語歌詞を利用するには、著作権法で定められた例外を除いて著作権者(2006年6月現在、日本音楽著作権協会)の許諾が必要である。 逆に、保護期間の相違などから、原著作物の著作権が存続したままの状態で、二次的著作物の著作権が先に消滅する場合もある。この場合、当該二次的著作物を利用するには当該原著作物の著作権者の許諾が必要であり、原著作物の著作権が消滅するまでは、二次的著作物を自由に利用することはできない(28条)。ただし、映画の著作物の利用については、次節のような特別な規定が存在する。 映画の著作物の著作権が保護期間満了によって消滅しても、その映画において翻案されている著作物(脚本や、原作となった小説や漫画等)の著作権は存続している場合がある。この場合、その映画の利用に関するそれらの原著作物の著作権は、映画の著作物の著作権とともに消滅したものとされる(54条2項)。したがって、その映画の著作物を利用する限りにおいては、脚本や、原作となった小説や漫画等に係る著作権者の許諾を得る必要はない。この規定は、著作権が消滅した映画の円滑な利用を促進することをねらいとする。 ただし、著作権が消滅したものと扱われる著作物は、映画において翻案されたものに限られ、録音、録画されているに過ぎない著作物(字幕、映画音楽、美術品等)の著作権は消滅したものとされない。したがって、映画の著作物を利用するためには、字幕、映画音楽、美術品等に係る著作権者の許諾を得る必要がある。 2004年1月1日に施行された改正著作権法は、映画の著作物の保護期間を公表後50年から公表後70年へ延長する規定を含んでいた。ただし、施行前に著作権が消滅した映画の著作物に対しては、遡って新法を適用して著作権を復活させることはない。 この新法の解釈に関する文化庁の見解は、「2003年12月31日午後12時と2004年1月1日午前0時は同時」という理由から、1953年に公表された映画の著作物は、新法の適用を受けて2023年12月31日まで保護されるというものである。これに対し、新旧両法の文理解釈からすれば、1953年公表の映画の保護期間は2003年12月31日までであり、2004年1月1日には消滅するという反対の見解もあった。これらの見解の対立は1953年問題ともよばれている。 2006年5月、『ローマの休日』(1953年公開)などの著作権者であるパラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション(パラマウント社)が、1953年に公開された映画の著作物の著作権は2023年12月31日まで存続すると主張し、同作品の格安DVDを製造販売しているファーストトレーディング社に対し、同作品の格安DVDの製造販売の差止めを求めて、東京地裁に仮処分の申請を行った。さらに、同年公開の映画『シェーン』についても、別の2社を相手取り、DVDの製造販売の差止めを求めて東京地方裁判所に提訴した。 同年7月、東京地方裁判所は「ローマの休日」の仮処分申請に対し、1953年に公表された映画の著作物の著作権は2003年12月31日まで存続し、2004年1月1日には消滅しているとして、パラマウント社の申請を却下した。また、10月には「シェーン」に対しても同様の理由によってパラマウント社の請求を棄却する判決を言い渡した。 「ローマの休日」の仮処分申請却下を不服とするパラマウント社は即時抗告を行ったが、10月に「シェーン」で敗訴したことを受けて「ローマの休日」については抗告を取り下げた。パラマウント社は「シェーン」についてのみ、知的財産高等裁判所に控訴したが、同裁判所は2007年3月29日、著作権は2003年12月31日をもって消滅したとする一審判決を支持し、パラマウント社の控訴を棄却する判決を言い渡した。 パラマウント社は最高裁判所へ上告したものの、2007年12月18日最高裁は一審、二審の判決を支持。「1953年公表の団体名義の独創性を有する 映画の著作物の著作権の保護期間は2003年12月31日まで」という結論で、この問題は決着した。 2006年7月、チャーリー・チャップリンの映画の著作権を管理するリヒテンシュタインの法人が、『モダン・タイムス』(1936年製作)など複数タイトルのチャップリン映画の格安DVDを販売する東京の2社に対し、格安DVDの販売差止めと約9400万円の損害賠償を求めて、東京地方裁判所に提訴した。 原告の主張によれば、被告2社は『モダン・タイムス』など原告が著作権を保持管理する9作品について、原告の許諾を得ずに格安DVDを販売したことにより、原告の著作権を侵害したとする。 原告は、著作権存続の法的根拠について、旧著作権法(明治32年法律第39号。新著作権法(昭和45年法律第48号)の施行により、昭和46年1月1日廃止。)22条ノ3、3条1項、52条1項、および新著作権法の昭和45年附則7条により、著作権保護期間は著作者の死後38年であることなどを挙げる。すなわち、原告の主張によれば、9作品のうち7作品はチャップリン個人の作品であるため、チャップリンが死亡した1977年から著作権保護期間が起算され、それから38年経過後の2015年まで著作権が保護されることになる。 なお、文化庁は『平成18年度著作権テキスト』の中で、著作権が保護される「映画の著作物」(独創性のあるもの)として、「昭和11年(1936年)から昭和27年(1952年)までに公表された実名の著作物のうち、昭和40年(1965年)に著作者が生存していたもの」を挙げ、原告の主張に沿う見解を示している。 2007年8月29日、東京地裁は原告側の主張を全面的に認め『モダン・タイムス』など7タイトルは旧法の規定に伴いチャップリンの個人著作物と認められ、著作権保護期間は経過措置により2015年まで有効であると判断。さらに『殺人狂時代』(1947年製作)及び『ライムライト』(1952年製作)については2003年改正法の附則第2条(旧法と現行法のどちらかで保護期間が異なる場合は、より長い方を適用する)に基づき、公表後70年が適用されると判断。『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとし、被告側に対し9タイトルの販売禁止と在庫の全量及びDVD製作に使用したマスターの廃棄・約1053万円の損害賠償を命じた。発売業者は知財高裁に控訴したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。 さらに、発売業者は最高裁に上告したが、2009年10月8日、最高裁は上告を棄却し、1、2審判決が確定した。この上告審判決において最高裁は、旧著作権法における映画の著作者を「映画の創作に全体的に寄与した者」と規定し、9タイトルの著作者をチャップリン個人と認定した。その上で、「著作者が実名で表示された場合には、たとえ団体名義の著作物の表示があっても、著作者の死亡時から著作権保護期間が起算される」との初判断を示した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "著作権の保護期間(ちょさくけんのほごきかん)とは、著作権の発生から消滅までの期間をいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この期間において著作権は保護され、著作権者は権利の対象である著作物を、原則として独占排他的に利用することができる。具体的な期間は各国の国内法令に委ねられているが、時代が下るごとに延長される傾向にあり、今日では著作者の生存期間及び著作者の死後70年とする国が多数である。なお、世界181か国(2022年現在)が締結する文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約(ベルヌ条約)が、著作権の保護期間として「著作者の生存期間及び著作者の死後50年」(同条約7条(1))を原則としていることから、これを下回る期間を設定している国はほとんど存在しない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、実演やレコード、放送などの著作隣接権に係る保護期間は、著作権に係るそれと比較して各国の国内法や条約における取扱に差異があり法的根拠を異にする。国際条約としては、実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約(略称:実演家等保護条約、ローマ条約)と許諾を得ないレコード複製からのレコード製作者の保護に関する条約(略称:レコード保護条約)がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "著作者の権利の保護の目的は、大きく分けて二つの立場から説明されることが多い。一つは著作物に対する著作者の自然権として捉える立場であり、ヨーロッパを中心とした大陸法圏の国において発展してきた考え方である。もう一つは、著作者に著作物の独占的利用権を与えることによって、著作者に正当な利益が分配されることを促し、その結果として創作活動へのインセンティブを高めることをその存在する理由とする考え方であり、イギリスやアメリカ合衆国を中心とした英米法圏に由来する考え方である。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "期間の設定に際しては、著作物の独占利用による著作者の創作意欲の向上という社会的利益と、著作物の利用促進による社会的利益の均衡を図るために、著作権の保護期間は適切な期間に調整されるべきである。そして、この「適切な期間」をめぐってさまざまな立場が存在することになる。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "著作権の消滅時期を定める法制には、死亡時起算主義と公表時起算主義がある。死亡時起算主義は著作者の死亡時を起算時として著作権の消滅時期を決定する主義であり、公表時起算主義は、著作物の公表日を起算日として著作権の消滅時期を決定する主義である。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ベルヌ条約は死亡時起算主義を原則としている(ベルヌ条約7条(1))。ただし、無名や変名、団体名義の著作物については、著作者の死亡時を客観的に把握することが困難であるため、公表時起算を適用することを容認している(ベルヌ条約7条(4))。また、映画の著作物についても、公表時起算を適用することを容認している(ベルヌ条約7条(2))。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ベルヌ条約7条(1)によれば、加盟国は、著作権の消滅までの期間を最低でも著作者の死亡から50年としなければならない。著作者の死後50年まで著作権を保護する趣旨は、著作者本人およびその子孫2代までを保護するためであるとされている。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "もっとも、より長い保護期間を与えることも認められている(ベルヌ条約7条(6))ことから、今日では多数の加盟国が様々な要因によって期間を延長しており、原則通り50年の保護期間を設定している国は少数派になりつつある。なお、ベルヌ条約においては保護期間の延長の上限についての記述は存在しない。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約7条は、加盟国が定めるべき著作権の保護期間の要件を以下のとおり規定している。ただし、加盟国は、より長期間の保護期間を認めることができる(ベルヌ条約7条(6))。", "title": "条約" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "著作権に関する世界知的所有権機関条約(WIPO著作権条約)の締約国は、ベルヌ条約1条〜21条の規定を遵守しなければならないことを規定し(WIPO著作権条約1条(4))、著作物の保護期間に関するベルヌ条約7条の規定もその中に含まれる。しかし、写真の著作物については、ベルヌ条約7条(4)の規定の適用を除外している(WIPO著作権条約9条)。したがって、WIPO著作権条約の締約国は、写真の著作物に対して、他の一般著作物と同期間の保護期間を与えなければならない。", "title": "条約" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本国も、WIPO著作権条約9条の規定に倣う形で、写真の著作物の保護期間を公表後50年までとしていた著作権法55条を、1996年12月の著作権法改正によって削除した。", "title": "条約" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(世界貿易機関を設立するマラケシュ協定附属書1C、TRIPS協定)は、著作権を含む知的財産権の保護に関して世界貿易機関 (WTO) 加盟国が遵守すべき条件を定めている。", "title": "条約" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "まず、TRIPS協定9条(1)は、WTO加盟国がベルヌ条約1条〜21条の規定を遵守しなければならないことを規定し、その中には7条も含まれる。したがって、WTO加盟国は、ベルヌ条約が定める著作権の保護期間の要件をまず遵守しなければならない。", "title": "条約" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "さらに、TRIPS協定12条は、著作物の保護期間が自然人の生存期間に基づいて計算されない場合の扱いを規定している。同条によれば、WTO加盟国は、著作物の公表の年の終わりから少なくとも50年間(著作物の製作から50年以内に公表が行われない場合には、製作の年の終わりから少なくとも50年間)、著作物を保護しなければならない。", "title": "条約" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "世界各国における著作権の保護期間、および保護期間延長に関連する法改正の動向について概説する。なお、2007年1月現在の世界最長はメキシコの「100年」であり、以下コートジボワール(99年)、コロンビア(80年)、ホンジュラス・グアテマラ・セントビンセントおよびグレナディーン諸島・サモア(各75年)と続く。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1993年の欧州連合域内における著作権保護期間の調和に関する指令により義務付けられていることから、著作者の死後70年としている国が多数を占める。その背景には、20世紀半ばにドイツでクラシック作曲家の子孫たち(その多くは、作曲家ではない)が延長運動を行った結果、1965年よりドイツにおいて死後70年が採用され、EU指令においてもドイツの保護期間が基準とされたことが大きいといわれる。その一方、EUでは著作隣接権を公表後50年から延長することについては2004年に断念している。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1996年1月1日までは死後50年までであったが、1995年の「著作権の保護期間と実演家の権利に関する規則」(The Duration of Copyright and Rights in Performances Regulations 1995、以下本節では「1995年規則」)の施行で、ドイツが用いていた保護期間の死後70年間へと変更されることになった。なお、この変更は遡及適用され、かつての法によれば保護期間が満了していた著作物の一部が著作権を回復した。共同著作物は最後に死亡した共同著作者を起点に、無名の著作物は公表時(公表されなかった場合は創作時)を起点に算出する。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "映画の著作物は、1956年著作権法においては初演(上演されなかった場合は1938年映画法 (Cinematograph Films Act 1938) の登録年)の翌年から50年存続していたが、1995年規則で改定され、最後の主要な映画制作者(制作者・脚本家・台本家・作曲家)死後70年に延長された。主要な映画制作者なき映画の著作権は初演後70年(上演されなかった場合は制作後70年)存続する。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "コンピュータを使って制作された著作物や録音の著作物は、制作後50年存続する。ただし、録音の著作物が前述保護期間に発売された場合は発売年が起点となる。放送もこれら著作物と同じ保護期間を採用している。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "イギリス法では活版の配列・工業品の意匠(日本では意匠法で保護される)をも保護対象としており、その期間は商品の販売から25年である。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "以上に挙げた著作物の著作者人格権は著作権と同じ期間だけ存続する。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1879年に保護期間を死後80年までと規定したが、1987年に死後60年に短縮し、1993年のEU指令に基づき1995年に死後70年に再延長した。1987年における保護期間短縮は、ベルヌ条約加盟国では唯一の事例であるとされる。なお、保護期間短縮にともなう経過措置では改正法施行時に生存している著作者が既に公表している著作物には短縮された保護期間が適用される一方、既に故人である著作者については経過措置として旧法における死後80年間の規定が維持されている。そのため、パブロ・ピカソ(1973年没)の保護期間は死後80年の2053年までである一方、サルバドール・ダリ(1989年没)の保護期間は死後70年の2059年までである。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1997年3月27日制定の改正法によって延長されるまでは死後50年までであった。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1948年のベルヌ条約ブラッセル改正に伴う調査では保護期間を「無期限」と定めていたことが知られているが、この規定は1971年のパリ改正までに撤回されている。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1978年1月1日以降に創作された著作物については、著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする(合衆国法典第17編第302条 17 U.S.C. § 302(a))。無名著作物、変名著作物または職務著作物の場合、最初の発行年から95年間、または創作年から120年間のいずれか短い期間だけ存続する(17 U.S.C. § 302(c)前段)。ただし、この期間内に無名著作物または変名著作物の著作者が記録から明らかとなった場合は、保護期間は原則どおり著作者の死後70年までとなる(同後段)。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1976年著作権法 (Copyright Act of 1976) の規定では、著作権の保護期間は著作者の死後50年まで(最初の発行年から75年まで)とされていた。これを20年延長し、現在の保護期間である死後70年まで(最初の発行年から95年まで)とした改正法が、1998年に成立した「ソニー・ボノ著作権保護期間延長法 (Sonny Bono Copyright Term Extension Act, CTEA)」である。「ソニー・ボノ」の名称は、カリフォルニア州選出の共和党下院議員で、この法案の成立に中心的役割を果たしたソニー・ボノ(英語版) にちなむ。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1999年1月11日、元プログラマーであるエリック・エルドレッド(英語版)は、CTEAがアメリカ合衆国憲法1条8節8項(特許、著作権)及び修正1条(表現の自由)に違反するとして、コロンビア特別区連邦地方裁判所に提訴した(エルドレッド対アシュクロフト事件(英語版))。しかし、2003年1月15日、合衆国最高裁判所は、CTEAが合憲であるとの最終判断を示した。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ベルヌ条約加盟に伴い日本に初めて著作権法が導入された1899年当時は、保護期間は死後30年であった。ただし、無名または周知ではない変名の著作物、および団体名義の著作物の著作権の保護期間は、公表後ないし創作後30年までであった。その後数度の法改正により少しずつ延長され、1969年にはこれらの期間は38年までとなっていた。1970年の著作権法全面改正により死後50年までに延長された。2004年1月1日以降は映画の著作物に限り、公表後ないし創作後70年までに保護期間が延長された。2018年12月30日にはTPP11協定発効に伴う改正著作権法が施行され、映画の著作物以外についても著作者の死後70年までに延長された。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本国はベルヌ条約、万国著作権条約、WIPO著作権条約の締約国である。また、TRIPS協定を遵守すべきWTO加盟国でもある。したがって、これらの条約、協定で定められた保護期間の要件をすべて満たすように、国内法で著作権の保護期間を規定している。なお、本節において日本の著作権法を参照する際には、特記がない限りその条数のみを記載する。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、保護期間については前述のとおりである。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "著作権は、著作物を創作した時に発生する(51条1項)。登録を権利の発生要件とする特許権や商標権などとは異なり、著作権の発生のためには、いかなる方式(登録手続き等)も要しない(17条2項)。ベルヌ条約の無方式主義の原則(同条約5条(2))を適用したものである。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "著作権は、著作者が死亡してから70年を経過するまでの間、存続する(51条2項)。より正確には、死亡してから70年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義))。ベルヌ条約7条(1)に対応する規定であるが、2018年12月30日施行改正著作権法により条約よりも保護期間は長くなっている。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "共同著作物の場合は、最後に死亡した著作者の死亡時から起算する(同項かっこ書)。これは、最後に死亡した著作者が、日本の6条に基づく権利の享有が認められない者(条約非加盟国の国民など)であっても同様であると解する。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、自然人と団体の共同著作物の場合、本項を適用して自然人である著作者の死亡時から起算するのか、後述する53条1項を適用して公表時から起算するのかが問題となる。この場合、自然人である著作者の死亡時から起算するのが妥当であると解する。保護期間の長い方による方が著作権保護の趣旨に合致するし、公表時起算は死亡時起算が適用できない場合の例外的規定だからである。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一般的な著作物(写真や映画の著作物を除く)の原則的な保護期間は、1899年7月15日に施行された旧著作権法(明治32年法律第39号)では、著作者の死後30年までと規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "改正された法律の施行前に著作権が消滅していた著作物の場合、延長の対象とならず、著作権の保護期間は1971年改正の場合なら著作者の死後50年、2018年改正の場合なら70年とならないので、注意が必要である。たとえば、芥川龍之介、梶井基次郎、島崎藤村、太宰治、藤田嗣治の作品の著作権の保護期間は以下のとおりとなる。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "旧著作権法を考慮した著作権の保護期間を表にまとめると、次のとおりである。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "無名または変名の著作物の著作権は、その著作物の公表後70年を経過するまでの間、存続する(52条1項本文)。より正確には、公表してから70年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義))。無名または変名の著作物では著作者の死亡時点を客観的に把握することが困難であるから、ベルヌ条約7条(4)が容認する公表時起算を適用した。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ただし、公表後70年までの間に、著作者が死亡してから70年が経過していると認められる著作物は、著作者の死後70年が経過していると認められる時点において著作権は消滅したものとされる(52条1項但書)。また、以下の場合には著作者の死亡時点を把握することができるから、原則どおり死亡時起算主義が適用され、著作権は著作者の死後70年を経過するまでの間存続する(52条2項)。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ここで、「無名の著作物」とは、著作者名が表示されていない著作物をいう。「変名」とは「雅号、筆名、略称その他実名に代えて用いられるもの」(14条)であり、「その他実名に代えて用いられるもの」の例としては俳号、芸名、四股名、ニックネーム、ハンドルネームなどが挙げられる。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また、「周知の変名」とは、その変名が著作者本人の呼称であることが一般人に明らかであって、その実在人が社会的に認識可能な程度に知られている状態をいうものと解する。たとえば、漫画家「手塚治虫」の名は「手塚治」のペンネーム(筆名)であるが、周知の変名でもある。手塚治が「手塚治虫」の名のもとで公表した作品の著作物の著作権は、手塚治(1989年2月9日没)の死後70年の経過をもって消滅する(法52条2項1号)。したがって、手塚治虫作品の著作権は今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、2059年12月31日まで存続する(2018年改正法)。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1899年7月15日に施行された旧著作権法(明治32年法律第39号)では、公表後30年までと規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "法人その他団体が著作の名義を持っている著作物の著作権は、その著作物の公表後70年(著作物の創作後70年以内に公表されなかったときは創作後70年)を経過するまでの間、存続する(53条1項)。より正確には、公表(または創作)してから70年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義))。団体名義の著作物においては、著作者の死亡を認定できないため、公表時起算を例外的に適用している。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "団体名義の著作物とは、団体が著作者となるいわゆる職務著作(15条)の著作物に限らず、著作者は自然人であるが、団体の名において公表される著作物を含む。(法53条3項)", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ただし、上記の著作物の著作者である個人が、上記の期間内に、当該個人の実名、あるいは周知な変名を著作者名として著作物を公表したときは、原則どおり著作者の死後70年の経過をもって著作権が消滅する(53条2項)。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "映画の著作物の著作権は、その映画の公表後70年を経過するまでの間、存続する(54条1項)。ただし、映画の創作後70年を経過しても公表されなかった場合には、創作後70年を経過するまでの間、存続する(同項但書)。映画の著作物の著作者は「制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者」(16条本文抜粋)と規定されているが、映画が様々なスタッフの寄与によって創作される総合芸術であり、著作者が誰であるかを実際に確定するのは困難であるため、ベルヌ条約7条(2)に従い、公表時起算主義を採用した。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)の制定時には、映画の著作権の保護期間は公表時から50年であった。しかし、旧著作権法(明治32年法律第39号)では、独創性のある個人名義の映画の著作物については著作者の死亡時から起算して38年間存続することになっていたため、保護期間が実質的に短くなる場合も生じた。このため、2003年の法改正により、保護期間が50年から70年に延長された。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、1971年(昭和46年)より前に製作された映画作品は、旧著作権法の規定と比べ長い方の期間になるので注意が必要である。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ただし、例えば、旧法下における会社名義や、戦時中の国策団体などの名義による「記録映画」の類については、必ずしも長くなるとは言えない場合も出てくる可能性もある。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)では、写真の著作物の保護期間を他の著作物を区別して特別に定める規定は存在しない。したがって、一般の著作物と同様に、写真の著作物の保護期間は死亡時起算の原則により決定される(51条2項)。また、写真が無名・変名および団体名義で公表された場合は、公表後70年が適用される(52条1項、53条1項)。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "写真の著作物の保護期間は、旧著作権法(明治32年法律第39号)では発行後10年(その写真が発行されなかった場合は製作後10年)と規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "上記によれば、1956年(昭和31年)12月31日までに発行された写真の著作物の著作権は1966年(昭和41年)12月31日までに消滅し、翌年7月27日の暫定延長措置の適用を受けられなかったことから、著作権は消滅している。また、1946年(昭和21年)12月31日までに製作された写真についても、未発行であれば1956年12月31日までに著作権は消滅するし、その日までに発行されたとしても、遅くとも1966年12月31日までには著作権は消滅するので、1967年7月27日の暫定延長措置の適用は受けられない。したがって、著作権は消滅している。いずれの場合も、著作者が生存していても同様である。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "このように、写真の著作物は他の著作物と比べて短い保護期間しか与えられてこなかったため、保護の均衡を失するとして、日本写真著作権協会などは消滅した著作権の復活措置を政府に対して要望していた。しかし、既に消滅した著作権を復活させることは法的安定性を害し、著作物の利用者との関係で混乱を招くなどの理由から、平成11年度の著作権審議会は、復活措置を見送る答申を行っている。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "さらに、1996年12月の著作権法改正によって(翌年3月25日施行)、写真の著作物の保護期間を公表後50年までとしていた著作権法55条が削除され、写真の著作物に対しても、他の一般著作物と同等の保護期間が適用されることになった。これは、1996年12月の世界知的所有権機関 (WIPO) 外交会議によってWIPO著作権条約が採択されたことを受けたものであり、同条約9条は、写真の著作物に対して他の一般著作物と同期間の保護期間を与えることを義務づけているからである。改正以前までは公表後50年であったため、著作者が生存中に著作権が切れてしまうことが数多く発生した。この改正によって他の著作物と同等の扱いを受けるようになった。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "著作物を、冊、号または回を追って公表する場合、著作物を一部分ずつを逐次公表する場合、それぞれ公表時をいつとすべきかについて、56条は以下の通り規定している。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "冊、号または回を追って公表される著作物について、公表時を起算時として著作権が消滅する場合、その「公表時」とは、毎冊、毎号または毎回の公表時期とされる(56条1項)。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "「冊、号または回を追って公表される著作物」の例としては、新聞、雑誌、年報、メールマガジンのような、継続的に刊行、公表される編集著作物、各回でストーリーが完結するテレビの連続ドラマなどが挙げられる。たとえば、テレビアニメ『タイムボカン』(1975年10月4日から1976年12月25日にかけて放送)は毎放送回でストーリーが完結する映画の著作物である。したがって、第1話の著作物の著作権の消滅時期は、公表時を1975年10月4日(第1話公表時)として計算される(著作権法56条1項前段)。そうすると、『タイムボカン』の第1話が自由に利用可能になるのは、今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、公表から70年経過後の2046年1月1日午前0時からである。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "一部分ずつを逐次公表して完成する著作物について、公表時を起算点として著作権が消滅する場合、その「公表時」は最終部分の公表時とされる(56条1項)。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "「一部分ずつを逐次公表して完成する著作物」の例としては、文学全集、新聞連載小説、ストーリーが連続して最終回に完結するテレビドラマなどが挙げられる。たとえば、NHKの連続テレビ小説『おしん』は最終回にストーリーが完結するものである。したがって、第1話をみても、その著作権の消滅時期は、公表時を1984年3月31日(最終話の公表時)として計算される(著作権法56条1項後段)。そうすると、『おしん』の第1話が自由に利用可能になるのは、今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すると、2055年1月1日午前0時からである。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "なお、直近の公表時から3年を経過しても次回の公表がない場合は、直近の公表時を最終部分の公表時とみなす(56条2項)。公表間隔を長くすることにより、著作権の保護期間が不当に延長されることを防ぐためである。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "上述した「死後70年」、「公表後70年」、「創作後70年」の期間の計算方法には、いわゆる暦年主義が採用されている(著作権法第57条第1項)。すなわち、「70年」の起算点は、著作者が死亡した日、または著作物の公表日・創作日が属する年の翌年1月1日となる(57条、民法140条但書、民法141条)。暦年主義を採用したのは、保護期間の計算が簡便にできること、著作者の死亡時や著作物の公表、創作時がはっきりとしない例が多いことによる。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "たとえば、作家池波正太郎(1990年5月3日没)の作品の著作権は、TPP11整備法による保護期間延長の適用を受けるので、2060年5月3日をもって消滅するのではなく、1991年1月1日から起算して70年後である、2060年12月31日をもって消滅する。したがって、著作権による制限なく自由な利用が可能となるのは今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば2061年1月1日午前0時からである。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "58条は、ベルヌ条約7条(8)、TRIPS協定3条(1)但書の規定が容認する相互主義を採用している。したがって、著作権法は、ベルヌ条約同盟国または世界貿易機関 (WTO) の加盟国(日本国を除く)を本国とする著作物に対して、それらの本国の国内法が定める著作権の保護期間が、51条〜55条が定める保護期間よりも短いときは、それらの国内法が定める保護期間しか与えない(58条)。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "たとえば、日本国ではないベルヌ条約同盟国であるA国の国内法が、映画の著作物の保護期間を公表後50年と定めているとする。「公表後50年」は、日本国著作権法が定める映画の著作物の保護期間(公表後70年、著作権法54条)よりも短い。したがって、A国を本国とする(A国で第一発行された)映画の著作物の保護期間は、日本国著作権法においても公表後50年までしか保護されない。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ただし、日本国民の著作物に対しては、58条は適用しない(同条かっこ書)。したがって、日本国民の著作物は、第一発行国によらず、51条〜55条が定める保護期間が満期で与えられる。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦における連合国(アメリカ、イギリス、カナダなど)やその国民が有する著作権であって、日本国と当該連合国との間で平和条約が発効した日の前日以前に取得された著作権に対しては、上述の通り認められる通常の著作権の保護期間に加えて、日本国との平和条約第15条(c)の規定及び連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律により、いわゆる戦時加算による保護期間の加算が認められる。第二次世界大戦中は、連合国や連合国民の著作権保護に、日本国は十分に取り組んでいなかったと考えられたためである。加算される期間は以下のとおりとなる。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "著作権が消滅すると、著作権による制限なしに、原則として誰でも自由に利用することができる。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ただし、保護期間が著作者の死後70年となる場合を除いては、著作権の消滅後も著作者が生存し、著作者人格権が存続している場合もある。その場合、著作者人格権を侵害する態様で著作物を利用することはできない(18条〜20条)。また、著作者が死亡し著作者人格権が消滅しても、著作者が生存しているならば著作者人格権の侵害となるような利用行為、著作者の声望名誉を害する方法による著作物の利用行為は引き続き禁止される(60条、113条6項)。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "著作物を翻訳、編曲、変形、翻案して創作された二次的著作物の著作権の保護期間は、原著作物の著作権の保護期間とは独立して認められる。すなわち、創作(翻訳、編曲、変形、翻案)のときに著作権が発生し、著作者(翻訳、編曲、変形、翻案した者)の死亡時期、その二次的著作物の公表時期、あるいは創作時期を起算時として著作権の消滅時期が決定される。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "したがって、原著作物の著作権が保護期間満了等の事由により消滅していても、二次的著作物の著作権が消滅しているとは限らない。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "たとえば、アメリカ民謡『My Grandfather's Clock』(邦題『大きな古時計』)の作詞者であるヘンリー・クレイ・ワークは1884年に死去したから、歌詞の著作権は存在しない。一方、保富康午(1984年9月19日没)による著名な日本語訳詞の著作権は今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、2054年12月31日まで存続する。したがって、2006年現在、英語による原歌詞は自由に利用可能であるが、保富康午の日本語歌詞を利用するには、著作権法で定められた例外を除いて著作権者(2006年6月現在、日本音楽著作権協会)の許諾が必要である。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "逆に、保護期間の相違などから、原著作物の著作権が存続したままの状態で、二次的著作物の著作権が先に消滅する場合もある。この場合、当該二次的著作物を利用するには当該原著作物の著作権者の許諾が必要であり、原著作物の著作権が消滅するまでは、二次的著作物を自由に利用することはできない(28条)。ただし、映画の著作物の利用については、次節のような特別な規定が存在する。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "映画の著作物の著作権が保護期間満了によって消滅しても、その映画において翻案されている著作物(脚本や、原作となった小説や漫画等)の著作権は存続している場合がある。この場合、その映画の利用に関するそれらの原著作物の著作権は、映画の著作物の著作権とともに消滅したものとされる(54条2項)。したがって、その映画の著作物を利用する限りにおいては、脚本や、原作となった小説や漫画等に係る著作権者の許諾を得る必要はない。この規定は、著作権が消滅した映画の円滑な利用を促進することをねらいとする。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ただし、著作権が消滅したものと扱われる著作物は、映画において翻案されたものに限られ、録音、録画されているに過ぎない著作物(字幕、映画音楽、美術品等)の著作権は消滅したものとされない。したがって、映画の著作物を利用するためには、字幕、映画音楽、美術品等に係る著作権者の許諾を得る必要がある。", "title": "日本国における著作権の保護期間" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2004年1月1日に施行された改正著作権法は、映画の著作物の保護期間を公表後50年から公表後70年へ延長する規定を含んでいた。ただし、施行前に著作権が消滅した映画の著作物に対しては、遡って新法を適用して著作権を復活させることはない。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "この新法の解釈に関する文化庁の見解は、「2003年12月31日午後12時と2004年1月1日午前0時は同時」という理由から、1953年に公表された映画の著作物は、新法の適用を受けて2023年12月31日まで保護されるというものである。これに対し、新旧両法の文理解釈からすれば、1953年公表の映画の保護期間は2003年12月31日までであり、2004年1月1日には消滅するという反対の見解もあった。これらの見解の対立は1953年問題ともよばれている。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2006年5月、『ローマの休日』(1953年公開)などの著作権者であるパラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション(パラマウント社)が、1953年に公開された映画の著作物の著作権は2023年12月31日まで存続すると主張し、同作品の格安DVDを製造販売しているファーストトレーディング社に対し、同作品の格安DVDの製造販売の差止めを求めて、東京地裁に仮処分の申請を行った。さらに、同年公開の映画『シェーン』についても、別の2社を相手取り、DVDの製造販売の差止めを求めて東京地方裁判所に提訴した。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "同年7月、東京地方裁判所は「ローマの休日」の仮処分申請に対し、1953年に公表された映画の著作物の著作権は2003年12月31日まで存続し、2004年1月1日には消滅しているとして、パラマウント社の申請を却下した。また、10月には「シェーン」に対しても同様の理由によってパラマウント社の請求を棄却する判決を言い渡した。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "「ローマの休日」の仮処分申請却下を不服とするパラマウント社は即時抗告を行ったが、10月に「シェーン」で敗訴したことを受けて「ローマの休日」については抗告を取り下げた。パラマウント社は「シェーン」についてのみ、知的財産高等裁判所に控訴したが、同裁判所は2007年3月29日、著作権は2003年12月31日をもって消滅したとする一審判決を支持し、パラマウント社の控訴を棄却する判決を言い渡した。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "パラマウント社は最高裁判所へ上告したものの、2007年12月18日最高裁は一審、二審の判決を支持。「1953年公表の団体名義の独創性を有する 映画の著作物の著作権の保護期間は2003年12月31日まで」という結論で、この問題は決着した。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2006年7月、チャーリー・チャップリンの映画の著作権を管理するリヒテンシュタインの法人が、『モダン・タイムス』(1936年製作)など複数タイトルのチャップリン映画の格安DVDを販売する東京の2社に対し、格安DVDの販売差止めと約9400万円の損害賠償を求めて、東京地方裁判所に提訴した。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "原告の主張によれば、被告2社は『モダン・タイムス』など原告が著作権を保持管理する9作品について、原告の許諾を得ずに格安DVDを販売したことにより、原告の著作権を侵害したとする。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "原告は、著作権存続の法的根拠について、旧著作権法(明治32年法律第39号。新著作権法(昭和45年法律第48号)の施行により、昭和46年1月1日廃止。)22条ノ3、3条1項、52条1項、および新著作権法の昭和45年附則7条により、著作権保護期間は著作者の死後38年であることなどを挙げる。すなわち、原告の主張によれば、9作品のうち7作品はチャップリン個人の作品であるため、チャップリンが死亡した1977年から著作権保護期間が起算され、それから38年経過後の2015年まで著作権が保護されることになる。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "なお、文化庁は『平成18年度著作権テキスト』の中で、著作権が保護される「映画の著作物」(独創性のあるもの)として、「昭和11年(1936年)から昭和27年(1952年)までに公表された実名の著作物のうち、昭和40年(1965年)に著作者が生存していたもの」を挙げ、原告の主張に沿う見解を示している。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2007年8月29日、東京地裁は原告側の主張を全面的に認め『モダン・タイムス』など7タイトルは旧法の規定に伴いチャップリンの個人著作物と認められ、著作権保護期間は経過措置により2015年まで有効であると判断。さらに『殺人狂時代』(1947年製作)及び『ライムライト』(1952年製作)については2003年改正法の附則第2条(旧法と現行法のどちらかで保護期間が異なる場合は、より長い方を適用する)に基づき、公表後70年が適用されると判断。『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとし、被告側に対し9タイトルの販売禁止と在庫の全量及びDVD製作に使用したマスターの廃棄・約1053万円の損害賠償を命じた。発売業者は知財高裁に控訴したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "さらに、発売業者は最高裁に上告したが、2009年10月8日、最高裁は上告を棄却し、1、2審判決が確定した。この上告審判決において最高裁は、旧著作権法における映画の著作者を「映画の創作に全体的に寄与した者」と規定し、9タイトルの著作者をチャップリン個人と認定した。その上で、「著作者が実名で表示された場合には、たとえ団体名義の著作物の表示があっても、著作者の死亡時から著作権保護期間が起算される」との初判断を示した。", "title": "著作権の保護期間に関する裁判例" } ]
著作権の保護期間(ちょさくけんのほごきかん)とは、著作権の発生から消滅までの期間をいう。 この期間において著作権は保護され、著作権者は権利の対象である著作物を、原則として独占排他的に利用することができる。具体的な期間は各国の国内法令に委ねられているが、時代が下るごとに延長される傾向にあり、今日では著作者の生存期間及び著作者の死後70年とする国が多数である。なお、世界181か国(2022年現在)が締結する文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約(ベルヌ条約)が、著作権の保護期間として「著作者の生存期間及び著作者の死後50年」(同条約7条)を原則としていることから、これを下回る期間を設定している国はほとんど存在しない。 なお、実演やレコード、放送などの著作隣接権に係る保護期間は、著作権に係るそれと比較して各国の国内法や条約における取扱に差異があり法的根拠を異にする。国際条約としては、実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約と許諾を得ないレコード複製からのレコード製作者の保護に関する条約がある。
{{More footnotes|date=2019年7月}} [[File:World copyright terms.svg|thumb|upright=1.35|世界各国を著作権の保護期間の長さ別に分類した地図]] '''著作権の保護期間'''(ちょさくけんのほごきかん)とは、[[著作権]]の発生から消滅までの期間をいう。 この期間において著作権は保護され、著作権者は権利の対象である[[著作物]]を、原則として独占排他的に利用することができる。具体的な期間は各国の国内法令に委ねられているが、時代が下るごとに延長される傾向にあり、今日では'''著作者の生存期間及び著作者の死後70年'''とする国が多数である。なお、世界181か国([[2022年]]現在)が締結する[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約]](ベルヌ条約)が、著作権の保護期間として「著作者の生存期間及び著作者の死後50年」(同条約7条(1))を原則としていることから、これを下回る期間を設定している国はほとんど存在しない。 なお、実演やレコード、放送などの[[著作隣接権]]に係る保護期間は、著作権に係るそれと比較して各国の国内法や条約における取扱に差異があり法的根拠を異にする。国際条約としては、[[実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約]](略称:実演家等保護条約、ローマ条約)と許諾を得ないレコード複製からのレコード製作者の保護に関する条約(略称:レコード保護条約)がある。 == 総説 == === 著作権の意義と保護期間 === [[著作者の権利]]の保護の目的は、大きく分けて二つの立場から説明されることが多い。一つは著作物に対する著作者の[[自然権]]として捉える立場であり、[[ヨーロッパ]]を中心とした[[大陸法]]圏の国において発展してきた考え方である。もう一つは、著作者に著作物の独占的利用権を与えることによって、著作者に正当な[[利益]]が分配されることを促し、その結果として[[創作]]活動への[[インセンティブ]]を高めることをその存在する理由とする考え方であり、[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]を中心とした[[コモン・ロー|英米法]]圏に由来する考え方である。 期間の設定に際しては、著作物の独占利用による著作者の創作意欲の向上という社会的利益と、著作物の利用促進による社会的利益の均衡を図るために、著作権の保護期間は適切な期間に調整されるべきである。そして、この「適切な期間」をめぐってさまざまな立場が存在することになる。 === 著作権消滅の特徴 === ==== 起算 ==== 著作権の消滅時期を定める法制には、'''死亡時起算主義'''と'''公表時起算主義'''がある。死亡時起算主義は著作者の死亡時を起算時として著作権の消滅時期を決定する主義であり、公表時起算主義は、著作物の公表日を起算日として著作権の消滅時期を決定する主義である{{Sfn|矢野|2012|p=37}}。 ベルヌ条約は死亡時起算主義を原則としている(ベルヌ条約7条(1))。ただし、[[無名]]や[[変名]]、[[団体]]名義の著作物については、著作者の死亡時を客観的に把握することが困難であるため、公表時起算を適用することを容認している(ベルヌ条約7条(4))。また、[[映画の著作物]]についても、公表時起算を適用することを容認している(ベルヌ条約7条(2))。 ==== 保護期間 ==== ベルヌ条約7条(1)によれば、加盟国は、著作権の消滅までの期間を最低でも著作者の死亡から50年としなければならない。著作者の死後50年まで著作権を保護する趣旨は、著作者本人およびその子孫2代までを保護するためであるとされている。 もっとも、より長い保護期間を与えることも認められている(ベルヌ条約7条(6))ことから、今日では多数の加盟国が様々な要因によって期間を延長しており、原則通り50年の保護期間を設定している国は少数派になりつつある。なお、ベルヌ条約においては保護期間の延長の上限についての記述は存在しない。 == 条約 == === 文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約 === [[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約]]7条は、加盟国が定めるべき著作権の保護期間の要件を以下のとおり規定している。ただし、加盟国は、より長期間の保護期間を認めることができる(ベルヌ条約7条(6))。 #著作物の保護期間を、著作者の生存期間および著作者の死後50年とする(7条(1))。 #映画の著作物の保護期間を、公衆への提供時から50年、またはこの期間に公表されないときは、製作時から50年とすることができる(7条(2))。 #無名または変名の著作物の保護期間は、公衆への提供時から50年で満了する。ただし、この期間内に、著作者が用いた変名が、その著作者を示すことが明らかになったとき、無名または変名の著作者がその著作物の著作者であることを明らかにしたときは、著作者の死後50年とする(7条(4))。 #写真の著作物および応用美術の著作物の保護期間は、各同盟国が独自に定めることができる。ただし、保護期間は、著作物の製作時から25年より短くしてはならない(7条(4))。 #著作物の保護期間は、著作者の死亡および上記の事実(公衆への提供、製作)が発生した時から始まる。ただし、これらの事実が発生した年の翌年の1月1日から計算する(7条(5))。 #著作物の保護期間は、保護が要求される同盟国の法令が定めるところによる。ただし、その国の法令に別段の定めがない限り、保護期間は、著作物の本国において定められる保護期間を超えることはない([[著作権の保護期間における相互主義|相互主義]])(7条(8))。 === 著作権に関する世界知的所有権機関条約 === [[著作権に関する世界知的所有権機関条約]]([[WIPO]]著作権条約)の締約国は、ベルヌ条約1条〜21条の規定を遵守しなければならないことを規定し(WIPO著作権条約1条(4))、著作物の保護期間に関するベルヌ条約7条の規定もその中に含まれる。しかし、写真の著作物については、ベルヌ条約7条(4)の規定の適用を除外している(WIPO著作権条約9条)。したがって、WIPO著作権条約の締約国は、写真の著作物に対して、他の一般著作物と同期間の保護期間を与えなければならない。 日本国も、WIPO著作権条約9条の規定に倣う形で、写真の著作物の保護期間を公表後50年までとしていた著作権法55条を、1996年12月の著作権法改正によって削除した。 === 知的所有権の貿易関連の側面に関する協定 === [[知的所有権の貿易関連の側面に関する協定]]([[世界貿易機関]]を設立するマラケシュ協定附属書1C、TRIPS協定)は、著作権を含む知的財産権の保護に関して世界貿易機関 (WTO) 加盟国が遵守すべき条件を定めている。 まず、TRIPS協定9条(1)は、WTO加盟国がベルヌ条約1条〜21条の規定を遵守しなければならないことを規定し、その中には7条も含まれる。したがって、WTO加盟国は、ベルヌ条約が定める著作権の保護期間の要件をまず遵守しなければならない。 さらに、TRIPS協定12条は、著作物の保護期間が[[自然人]]の生存期間に基づいて計算されない場合の扱いを規定している。同条によれば、WTO加盟国は、著作物の公表の年の終わりから少なくとも50年間(著作物の製作から50年以内に公表が行われない場合には、製作の年の終わりから少なくとも50年間)、著作物を保護しなければならない。 == 各国の状況 == {{see also|世界各国の著作権保護期間の一覧|著作権の保護期間における相互主義}} 世界各国における著作権の保護期間、および保護期間延長に関連する法改正の動向について概説する。なお、[[2007年]]1月現在の世界最長は[[メキシコ]]の「100年」であり、以下[[コートジボワール]](99年)、[[コロンビア]](80年)、[[ホンジュラス]]・[[グアテマラ]]・[[セントビンセントおよびグレナディーン諸島]]・[[サモア]](各75年)と続く。 === 欧州 === {{Main|著作権法 (欧州連合)}} 1993年の[[欧州連合域内における著作権保護期間の調和に関する指令]]により義務付けられていることから、著作者の'''死後70年'''としている国が多数を占める。その背景には、20世紀半ばにドイツでクラシック作曲家の子孫たち(その多くは、作曲家ではない)が延長運動を行った結果、[[1965年]]よりドイツにおいて死後70年が採用され、EU指令においてもドイツの保護期間が基準とされたことが大きいといわれる。その一方、EUでは著作隣接権を公表後50年から延長することについては2004年に断念している<ref>Commission of The European Communities, ''[http://ec.europa.eu/internal_market/copyright/docs/review/sec-2004-995_en.pdf COMMISSION STAFF WORKING PAPER on the review of the EC legal framework in the field of copyright and related rights]'', 2004</ref>。 ==== イギリス ==== {{Main2|詳細は「{{仮リンク|イギリスにおける著作権法|en|Copyright law of the United Kingdom}}」を}} 著作者の生存期間および'''死後70年'''までを保護期間の原則とする。 1996年1月1日までは死後50年までであったが、1995年の「著作権の保護期間と実演家の権利に関する規則」({{en|The Duration of Copyright and Rights in Performances Regulations 1995}}、以下本節では「1995年規則」)の施行で、ドイツが用いていた保護期間の死後70年間へと変更されることになった{{Sfn|牧野||p=288}}。なお、この変更は遡及適用され、かつての法によれば保護期間が満了していた著作物の一部が著作権を回復した{{Sfn|牧野||p=288}}。共同著作物は最後に死亡した共同著作者を起点に{{Sfn|牧野||pp=288-289}}、無名の著作物は公表時(公表されなかった場合は創作時)を起点に算出する{{Sfn|牧野||p=289}}。 映画の著作物は、[[1956年著作権法]]においては初演(上演されなかった場合は1938年映画法 ({{en|Cinematograph Films Act 1938}}) の登録年)の翌年から50年存続していたが、1995年規則で改定され、最後の主要な映画制作者(制作者・脚本家・台本家・作曲家)死後70年に延長された{{Sfn|牧野||p=289}}。主要な映画制作者なき映画の著作権は初演後70年(上演されなかった場合は制作後70年)存続する{{Sfn|牧野||p=289}}。 コンピュータを使って制作された著作物や録音の著作物は、制作後50年存続する{{Sfn|牧野||p=289}}。ただし、録音の著作物が前述保護期間に発売された場合は発売年が起点となる{{Sfn|牧野||p=289}}。放送もこれら著作物と同じ保護期間を採用している{{Sfn|牧野||p=289}}。 イギリス法では活版の配列・工業品の意匠(日本では[[意匠法]]で保護される)をも保護対象としており、その期間は商品の販売から25年である{{Sfn|牧野||pp=289-290}}。 以上に挙げた著作物の著作者人格権は著作権と同じ期間だけ存続する{{Sfn|牧野||p=290}}。 ==== スペイン ==== 著作者の生存期間および'''死後70年'''までを保護期間の原則とする。 [[1879年]]に保護期間を死後80年までと規定したが、[[1987年]]に死後60年に短縮し、[[1993年]]のEU指令に基づき[[1995年]]に死後70年に再延長した。1987年における保護期間短縮は、ベルヌ条約加盟国では唯一の事例であるとされる。なお、保護期間短縮にともなう経過措置では改正法施行時に生存している著作者が既に公表している著作物には短縮された保護期間が適用される一方、既に故人である著作者については経過措置として旧法における死後80年間の規定が維持されている。そのため、[[パブロ・ピカソ]]([[1973年]]没)の保護期間は死後80年の[[2053年]]までである一方、[[サルバドール・ダリ]]([[1989年]]没)の保護期間は死後70年の[[2059年]]までである。 ==== フランス ==== {{Main|著作権法 (フランス)#著作権の保護期間}} 著作者の生存期間および'''死後70年'''までを保護期間の原則とする。 [[1997年]]3月27日制定の改正法によって延長されるまでは死後50年までであった。 ==== ポルトガル ==== 著作者の生存期間および'''死後70年'''までを保護期間の原則とする。 [[1948年]]のベルヌ条約[[ブリュッセル|ブラッセル]]改正に伴う調査では保護期間を「無期限」と定めていたことが知られているが、この規定は[[1971年]]の[[パリ]]改正までに撤回されている。 === アメリカ合衆国 === {{seealso|著作権法 (アメリカ合衆国)#米国内法の主な改正点}} 1978年1月1日以降に創作された著作物については、著作者の生存期間および'''死後70年'''までを保護期間の原則とする({{合衆国法典|17|302}}(a))。無名著作物、変名著作物または職務著作物の場合、最初の発行年から95年間、または創作年から120年間のいずれか短い期間だけ存続する(17 U.S.C. § 302(c)前段)。ただし、この期間内に無名著作物または変名著作物の著作者が記録から明らかとなった場合は、保護期間は原則どおり著作者の死後70年までとなる(同後段)。 ==== 著作権延長法 ==== {{Main|著作権延長法}} 1976年著作権法 (Copyright Act of 1976) の規定では、著作権の保護期間は著作者の死後50年まで(最初の発行年から75年まで)とされていた。これを20年延長し、現在の保護期間である死後70年まで(最初の発行年から95年まで)とした改正法が、[[1998年]]に成立した「[[著作権延長法|ソニー・ボノ著作権保護期間延長法]] ([[:en:Sonny Bono Copyright Term Extension Act|Sonny Bono Copyright Term Extension Act]], CTEA)」である。「ソニー・ボノ」の名称は、[[カリフォルニア州]]選出の[[共和党 (アメリカ)|共和党]]下院議員で、この法案の成立に中心的役割を果たした{{仮リンク|ソニー・ボノ|en|Sonny Bono}}<ref group="注">下院議員となる前は当時の妻であった[[シェール]]と共に歌唱デュオ「ソニー&シェール」として活動していたことでも知られる。</ref> にちなむ。 [[1999年]][[1月11日]]、元[[プログラマー]]である{{仮リンク|エリック・エルドレッド|en|Eric Eldred}}は、CTEAが[[アメリカ合衆国憲法]]1条8節8項(特許、著作権)及び修正1条(表現の自由)に違反するとして、[[ワシントンD.C.|コロンビア特別区]]連邦地方裁判所に提訴した({{仮リンク|エルドレッド対アシュクロフト事件|en|Eldred v. Ashcroft}})。しかし、[[2003年]][[1月15日]]、[[アメリカ合衆国連邦最高裁判所|合衆国最高裁判所]]は、CTEAが合憲であるとの最終判断を示した<ref>Eric Eldred, et al. v. John D. Ashcroft, Attorney General, 123 S. Ct. 769 (2003)</ref>。 === 日本 === {{seealso|著作権法}} 著作者の生存期間および'''死後70年'''までを保護期間の原則とする。 ベルヌ条約加盟に伴い日本に初めて著作権法が導入された[[1899年]]当時は、保護期間は死後30年であった。ただし、無名または周知ではない変名の著作物、および団体名義の著作物の著作権の保護期間は、公表後ないし創作後30年までであった。その後数度の法改正により少しずつ延長され、[[1969年]]にはこれらの期間は38年までとなっていた。[[1970年]]の著作権法全面改正により死後50年までに延長された。[[2004年]]1月1日以降は[[映画の著作物]]に限り、公表後ないし創作後70年までに保護期間が延長された。[[2018年]]12月30日にはTPP11協定発効に伴う改正著作権法が施行され、映画の著作物以外についても著作者の死後70年までに延長された。 == 日本国における著作権の保護期間 == {{law|section=1}} 日本国はベルヌ条約、万国著作権条約、WIPO著作権条約の締約国である。また、TRIPS協定を遵守すべきWTO加盟国でもある。したがって、これらの条約、協定で定められた保護期間の要件をすべて満たすように、国内法で著作権の保護期間を規定している。なお、本節において日本の著作権法を参照する際には、特記がない限りその条数のみを記載する。 なお、保護期間については前述のとおりである。<!-- 重複: 2018年12月30日にTPP11協定が発効し、協定の国内整備法(平成28年法律第108号、TPP11整備法)が施行されることに伴い、著作権の保護期間が従来の著作者死亡後50年、公表後ないし創作後50年からそれぞれ著作者死亡後70年、公表後ないし創作後70年に延長された。ただし、放送及び有線放送にかかる著作隣接権の保護期間は従来通り放送後50年である。 --> === 著作権の発生(始期) === 著作権は、著作物を創作した時に発生する([[b:著作権法第51条|51条]]1項)。[[登録]]を権利の発生要件とする[[特許権]]や[[商標権]]などとは異なり、著作権の発生のためには、いかなる方式(登録手続き等)も要しない([[b:著作権法第17条|17条]]2項)。ベルヌ条約の無方式主義の原則(同条約5条(2))を適用したものである。 === 著作権の消滅(終期) === ==== 終期の原則 ==== 著作権は、著作者が死亡してから70年を経過するまでの間、存続する([[b:著作権法第51条|51条]]2項)。より正確には、死亡してから70年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。[[著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義)]])。ベルヌ条約7条(1)に対応する規定であるが、2018年12月30日施行改正著作権法により条約よりも保護期間は長くなっている。 ;共同著作物の場合 共同著作物の場合は、最後に死亡した著作者の死亡時から起算する(同項かっこ書)。これは、最後に死亡した著作者が、日本の[[b:著作権法第6条|6条]]に基づく権利の享有が認められない者(条約非加盟国の国民など)であっても同様であると解する<ref>作花文雄『詳解著作権法(第3版)』(ぎょうせい、2004年)、393頁</ref>。 また、自然人と団体の共同著作物の場合、本項を適用して自然人である著作者の死亡時から起算するのか、後述する[[b:著作権法第53条|53条]]1項を適用して公表時から起算するのかが問題となる。この場合、自然人である著作者の死亡時から起算するのが妥当であると解する。保護期間の長い方による方が著作権保護の趣旨に合致するし、公表時起算は死亡時起算が適用できない場合の例外的規定だからである<ref>金井重彦、[[小倉秀夫]]編著『著作権法コンメンタール(上巻)』(東京布井出版、2002年)、510頁(本間伸也執筆部分)</ref>。 ;保護期間の沿革 一般的な著作物(写真や映画の著作物を除く)の原則的な保護期間は、[[1899年]]7月15日に施行された旧著作権法(明治32年法律第39号)では、著作者の死後30年までと規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。 *1962年4月5日 - 死後33年に延長(昭和37年法律第74号、第1次暫定延長措置) *1965年5月18日 - 死後35年に延長(昭和40年法律第67号、第2次暫定延長措置) *1967年7月27日 - 死後37年に延長(昭和42年法律第87号、第3次暫定延長措置) *1969年12月8日 - 死後38年に延長(昭和44年法律第82号、第4次暫定延長措置) *1971年1月1日 - 死後50年に延長(著作権法全面改正) *2018年12月30日 - 死後70年に延長(平成28年法律第108号、TPP11整備法) 改正された法律の施行前に著作権が消滅していた著作物の場合、延長の対象とならず、著作権の保護期間は1971年改正の場合なら著作者の死後50年、2018年改正の場合なら70年とならないので、注意が必要である。たとえば、[[芥川龍之介]]、[[梶井基次郎]]、[[島崎藤村]]<ref group="注">3人の作家の選択は、Ytterbium 175『[http://neo-luna.cside.ne.jp/copyright/ncr14b.htm わたしたちの著作権講座]』(2006年6月30日閲覧)にならった。</ref>、[[太宰治]]、[[藤田嗣治]]の作品の著作権の保護期間は以下のとおりとなる。 * 芥川龍之介([[1927年]][[7月24日]]没)の作品の著作権は、1963年1月1日の第1次暫定延長措置が適用されることなく、[[1957年]]12月31日(死後30年)をもって消滅した。 * 梶井基次郎([[1932年]][[3月24日]]没)の作品の著作権は、第1次〜第4次暫定延長措置が適用されたが、[[1971年]]1月1日の改正法の適用を受けることなく、1970年12月31日(死後38年)をもって消滅した。 * 島崎藤村([[1943年]][[8月22日]]没)の作品の著作権は、第1次〜第4次暫定延長措置および1971年の改正法が適用されたため、[[1993年]]12月31日(死後50年)をもって消滅した。 * 太宰治([[1948年]][[6月13日]]没)の作品の著作権は、第1次〜第4次暫定延長措置および1971年の改正法が適用されたため、[[1998年]]12月31日(死後50年)をもって消滅した。 * 藤田嗣治([[1968年]][[1月29日]]没)の作品の著作権は、第4次暫定延長措置(第1次~第3次時点では存命のため該当せず)および1971年と2018年の改正法が適用されたため、今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、2038年12月31日(死後70年)まで存続する。 旧著作権法を考慮した著作権の保護期間を表にまとめると、次のとおりである。<!-- 施行後は削って良い→ なお、最下行は2018年12月30日施行予定の法に基づく。 --> {| class="wikitable" |+旧著作権法を加味した終期の原則 ! 著作者の死亡日(日本時間) !! 保護期間 !! 事例<br />⇒【その保護期間】 |- ![[1899年]](明治32年)7月14日以前 | 保護なし ||[[1899年]](明治32年)7月14日死去の著作者<br />⇒【保護なし】 |- ![[1899年]](明治32年)7月15日 - [[1931年]](昭和6年)末 | 死後30年まで | [[1899年]](明治32年)7月15日死去の著作者<br />⇒【[[1929年]](昭和4年)末まで】<br />[[1931年]](昭和6年)11月27日死去の著作者<br />⇒【[[1961年]](昭和36年)末まで】 |- ![[1932年]](昭和7年)内 |[[1970年]](昭和45年)末まで |[[1932年]](昭和7年)3月24日死去の著作者<br />⇒【[[1970年]](昭和45年)末まで】 |- ![[1933年]](昭和8年)- [[1967年]](昭和42年) |死後50年まで |[[1933年]](昭和8年)2月3日死去の著作者<br />⇒【[[1983年]](昭和58年)末まで】<br />[[1967年]](昭和42年)11月7日死去の著作者<br />⇒【[[2017年]](平成29年)末まで】 |- ![[1968年]](昭和43年)以降 |死後70年まで |1968年(昭和43年)6月10日死去の著作者<br />⇒【[[2038年]]末まで】 |} ==== 終期の例外 ==== ===== 無名または変名の著作物 ===== '''無名'''または'''[[変名]]'''の著作物の著作権は、その著作物の公表後70年を経過するまでの間、存続する([[b:著作権法第52条|52条]]1項本文)。より正確には、公表してから70年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。[[著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義)]])。無名または変名の著作物では著作者の死亡時点を客観的に把握することが困難であるから、ベルヌ条約7条(4)が容認する公表時起算を適用した。 ただし、公表後70年までの間に、著作者が死亡してから70年が経過していると認められる著作物は、著作者の死後70年が経過していると認められる時点において著作権は消滅したものとされる(52条1項但書)。また、以下の場合には著作者の死亡時点を把握することができるから、原則どおり死亡時起算主義が適用され、著作権は著作者の死後70年を経過するまでの間存続する(52条2項)。 #変名の著作物において、著作者の変名が、著作者のものであるとして周知である場合(同条2項1号) #著作物の公表後70年が経過するまでの間に、実名による著作者名の登録([[b:著作権法第75条|75条]]1項)があったとき(同項2号) #著作者が、著作物の公表後70年が経過するまでの間に、その実名または'''周知の変名'''を著作者名として表示して著作物を公表したとき(同項3号) ここで、「'''無名'''の著作物」とは、著作者名が表示されていない著作物をいう。「'''変名'''」とは「[[雅号]]、[[ペンネーム|筆名]]、[[略語|略称]]その他実名に代えて用いられるもの」([[b:著作権法第14条|14条]])であり、「その他実名に代えて用いられるもの」の例としては[[俳号]]、[[芸名]]、[[四股名]]、[[ニックネーム]]、[[ハンドルネーム]]などが挙げられる。 また、「'''周知の変名'''」とは、その変名が著作者本人の呼称であることが一般人に明らかであって、その実在人が社会的に認識可能な程度に知られている状態をいうものと解する<ref>金井重彦、[[小倉秀夫]]編著『著作権法コンメンタール(上巻)』(東京布井出版、2002年)、254頁(小畑明彦執筆部分)</ref>。たとえば、漫画家「[[手塚治虫]]」の名は「手塚治」の[[ペンネーム]](筆名)であるが、周知の変名でもある。手塚治が「手塚治虫」の名のもとで公表した作品の著作物の著作権は、手塚治([[1989年]][[2月9日]]没)の死後70年の経過をもって消滅する(法52条2項1号)。したがって、手塚治虫作品の著作権は今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、[[2059年]][[12月31日]]まで存続する(2018年改正法)。 ===== 団体名義の著作物 ===== [[1899年]]7月15日に施行された旧著作権法(明治32年法律第39号)では、公表後30年までと規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。 *1967年7月27日 - 公表後32年に延長(昭和42年法律第87号、第3次暫定延長措置) *1969年12月8日 - 公表後33年に延長(昭和44年法律第82号、第4次暫定延長措置) *1971年1月1日 - 公表(または創作)後50年に延長(著作権法全面改正) *2018年12月30日 - 公表(または創作)後70年に延長(平成28年法律第108号、TPP11整備法) [[法人]]その他[[団体]]が著作の名義を持っている著作物の著作権は、その著作物の公表後70年(著作物の創作後70年以内に公表されなかったときは創作後70年)を経過するまでの間、存続する([[b:著作権法第53条|53条]]1項)。より正確には、公表(または創作)してから70年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。[[著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義)]])。[[団体]]名義の著作物においては、著作者の死亡を認定できないため、公表時起算を例外的に適用している。 団体名義の著作物とは、団体が著作者となるいわゆる[[職務著作]]([[b:著作権法第15条|15条]])の著作物に限らず、著作者は[[自然人]]であるが、団体の名において公表される著作物を含む。(法53条3項) ただし、上記の著作物の著作者である個人が、上記の期間内に、当該個人の実名、あるいは周知な変名を著作者名として著作物を公表したときは、原則どおり著作者の死後70年の経過をもって著作権が消滅する(53条2項)。 ===== 映画の著作物 ===== [[映画の著作物]]の著作権は、その映画の'''公表後'''70年を経過するまでの間、存続する([[s:著作権法#a54|54条]]1項)。ただし、映画の創作後70年を経過しても公表されなかった場合には、創作後70年を経過するまでの間、存続する(同項但書)。映画の著作物の著作者は「制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者」(16条本文抜粋)と規定されているが、映画が様々なスタッフの寄与によって創作される総合芸術であり、著作者が誰であるかを実際に確定するのは困難であるため、ベルヌ条約7条(2)に従い、公表時起算主義を採用した。 著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)の制定時には、映画の著作権の保護期間は公表時から50年であった。しかし、旧著作権法(明治32年法律第39号)では、独創性のある個人名義の映画の著作物については著作者の死亡時から起算して38年間存続することになっていたため、保護期間が実質的に短くなる場合も生じた。このため、2003年の法改正により、保護期間が50年から70年に延長された。 また、[[1971年]](昭和46年)より前に製作された映画作品は、旧著作権法の規定と比べ長い方の期間になるので注意が必要である。 ただし、例えば、旧法下における会社名義や、戦時中の国策団体などの名義による「記録映画」の類については、必ずしも長くなるとは言えない場合も出てくる可能性もある。 ===== 写真の著作物 ===== 著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)では、[[写真]]の著作物の保護期間を他の著作物を区別して特別に定める規定は存在しない。したがって、一般の著作物と同様に、写真の著作物の保護期間は死亡時起算の原則により決定される([[s:著作権法#a51|51条]]2項)。また、写真が無名・変名および団体名義で公表された場合は、公表後70年が適用される([[s:著作権法#a52|52条]]1項、[[s:著作権法#a53|53条]]1項)。 写真の著作物の保護期間は、旧著作権法(明治32年法律第39号)では発行後10年(その写真が発行されなかった場合は製作後10年)と規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。 *1967年7月27日 - 発行後12年(未発行の場合は製作後12年)に延長(昭和42年法律第87号、暫定延長措置) *1969年12月8日 - 発行後13年(未発行の場合は製作後13年)に延長(昭和44年法律第82号、暫定延長措置) *1971年1月1日 - 公表後50年に延長(著作権法全面改正) *1996年3月25日 - 原則著作者の死後50年に変更(WIPO著作権条約への対応) *2018年12月30日 - 原則著作者の死後70年に延長(平成28年法律第108号、TPP11整備法) 上記によれば、1956年(昭和31年)12月31日までに発行された写真の著作物の著作権は1966年(昭和41年)12月31日までに消滅し、翌年7月27日の暫定延長措置の適用を受けられなかったことから、著作権は消滅している。また、1946年(昭和21年)12月31日までに製作された写真についても、未発行であれば1956年12月31日までに著作権は消滅するし、その日までに発行されたとしても、遅くとも1966年12月31日までには著作権は消滅するので、1967年7月27日の暫定延長措置の適用は受けられない。したがって、著作権は消滅している。いずれの場合も、著作者が生存していても同様である。 このように、写真の著作物は他の著作物と比べて短い保護期間しか与えられてこなかったため、保護の均衡を失するとして、[[日本写真著作権協会]]などは消滅した著作権の復活措置を政府に対して要望していた。しかし、既に消滅した著作権を復活させることは法的安定性を害し、著作物の利用者との関係で混乱を招くなどの理由から、[[1999年の日本|平成11年]]度の著作権審議会は、復活措置を見送る答申を行っている<ref>著作権審議会第1小委員会『[http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chosaku/toushin/991201.htm 著作権審議会第1小委員会審議のまとめ]』(1999年12月1日)</ref>。 さらに、[[1996年]]12月の著作権法改正によって(翌年3月25日施行)、写真の著作物の保護期間を公表後50年までとしていた著作権法55条が削除され、写真の著作物に対しても、他の一般著作物と同等の保護期間が適用されることになった。これは、1996年12月の世界知的所有権機関 (WIPO) 外交会議によってWIPO著作権条約が採択されたことを受けたものであり、同条約9条は、写真の著作物に対して他の一般著作物と同期間の保護期間を与えることを義務づけているからである。改正以前までは公表後50年であったため、著作者が生存中に著作権が切れてしまうことが数多く発生した。この改正によって他の著作物と同等の扱いを受けるようになった。 ==== 継続的刊行物、逐次刊行物等の公表時 ==== 著作物を、冊、号または回を追って公表する場合、著作物を一部分ずつを逐次公表する場合、それぞれ公表時をいつとすべきかについて、[[b:著作権法第56条|56条]]は以下の通り規定している。 ===== 継続的刊行物 ===== 冊、号または回を追って公表される著作物について、公表時を起算時として著作権が消滅する場合、その「公表時」とは、毎冊、毎号または毎回の公表時期とされる(56条1項)。 「冊、号または回を追って公表される著作物」の例としては、[[新聞]]、[[雑誌]]、[[年報]]、[[メールマガジン]]のような、継続的に刊行、公表される[[編集著作物]]、各回でストーリーが完結する[[テレビ]]の[[連続ドラマ]]などが挙げられる。たとえば、[[テレビアニメ]]『[[タイムボカン]]』([[1975年]][[10月4日]]から[[1976年]][[12月25日]]にかけて放送)は毎放送回でストーリーが完結する映画の著作物である。したがって、第1話の著作物の著作権の消滅時期は、公表時を1975年10月4日(第1話公表時)として計算される(著作権法56条1項前段)。そうすると、『タイムボカン』の第1話が自由に利用可能になるのは、今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、公表から70年経過後の2046年1月1日午前0時からである。 ===== 逐次的刊行物 ===== 一部分ずつを逐次公表して完成する著作物について、公表時を起算点として著作権が消滅する場合、その「公表時」は最終部分の公表時とされる(56条1項)。 「一部分ずつを逐次公表して完成する著作物」の例としては、[[文学全集]]、新聞連載小説、ストーリーが連続して最終回に完結するテレビドラマなどが挙げられる。たとえば、[[日本放送協会|NHK]]の[[連続テレビ小説]]『[[おしん]]』は最終回にストーリーが完結するものである。したがって、第1話をみても、その著作権の消滅時期は、公表時を1984年3月31日(最終話の公表時)として計算される(著作権法56条1項後段)。そうすると、『おしん』の第1話が自由に利用可能になるのは、今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すると、2055年1月1日午前0時からである。 なお、直近の公表時から3年を経過しても次回の公表がない場合は、直近の公表時を最終部分の公表時とみなす(56条2項)。公表間隔を長くすることにより、著作権の保護期間が不当に延長されることを防ぐためである。 ==== 保護期間の計算方法(暦年主義) ==== 上述した「'''死後70年'''」、「'''公表後70年'''」、「'''創作後70年'''」の期間の計算方法には、いわゆる[[暦年主義]]が採用されている(著作権法第57条第1項)。すなわち、「70年」の起算点は、著作者が死亡した日、または著作物の公表日・創作日が属する年の翌年1月1日となる([[b:著作権法第57条|57条]]、[[b:民法第140条|民法140条]]但書、[[b:民法第141条|民法141条]])。暦年主義を採用したのは、保護期間の計算が簡便にできること、著作者の死亡時や著作物の公表、創作時がはっきりとしない例が多いことによる。 たとえば、作家[[池波正太郎]]([[1990年]][[5月3日]]没)の作品の著作権は、TPP11整備法による保護期間延長の適用を受けるので、2060年5月3日をもって消滅するのではなく、1991年1月1日から起算して70年後である、2060年12月31日をもって消滅する。したがって、著作権による制限なく自由な利用が可能となるのは今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば2061年1月1日午前0時からである。 ==== 相互主義に基づく保護期間の特例 ==== {{main|著作権の保護期間における相互主義#日本の状況}} [[b:著作権法第58条|58条]]は、ベルヌ条約7条(8)、TRIPS協定3条(1)但書の規定が容認する[[著作権の保護期間における相互主義|相互主義]]を採用している。したがって、著作権法は、ベルヌ条約同盟国または世界貿易機関 (WTO) の加盟国(日本国を除く)を本国とする著作物に対して、それらの本国の国内法が定める著作権の保護期間が、[[b:著作権法第51条|51条]]〜[[b:著作権法第55条|55条]]が定める保護期間よりも短いときは、それらの国内法が定める保護期間しか与えない(58条)。 たとえば、日本国ではないベルヌ条約同盟国であるA国の国内法が、映画の著作物の保護期間を公表後50年と定めているとする。「公表後50年」は、日本国著作権法が定める映画の著作物の保護期間(公表後70年、著作権法54条)よりも短い。したがって、A国を本国とする(A国で第一発行された)映画の著作物の保護期間は、日本国著作権法においても公表後50年までしか保護されない。 ただし、日本国民の著作物に対しては、58条は適用しない(同条かっこ書)。したがって、日本国民の著作物は、第一発行国によらず、[[b:著作権法第51条|51条]]〜[[b:著作権法第55条|55条]]が定める保護期間が満期で与えられる。 ==== 戦時加算 ==== {{Main|戦時加算 (著作権法)}} [[第二次世界大戦]]における[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[イギリス]]、[[カナダ]]など)やその国民が有する著作権であって、日本国と当該連合国との間で平和条約が発効した日の前日以前に取得された著作権に対しては、上述の通り認められる通常の著作権の保護期間に加えて、[[日本国との平和条約]]第15条(c)の規定及び[[連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律]]により、いわゆる[[戦時加算 (著作権法)|戦時加算]]による保護期間の加算が認められる。第二次世界大戦中は、連合国や連合国民の著作権保護に、日本国は十分に取り組んでいなかったと考えられたためである。加算される期間は以下のとおりとなる。 *'''[[太平洋戦争]]の開戦日の前日である[[1941年]][[12月7日]]に連合国および連合国民が有していた著作権''' **1941年[[12月8日]]から、日本国と当該連合国との間の平和条約発効日の前日までの期間が加算される(4条1項)。たとえば、[[イギリス]]、[[オーストラリア]]、[[カナダ]]、[[フランス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]またはその国民の著作権の保護期間には3794日が加算される。この場合、通常の保護期間によれば[[1978年]][[12月31日]]をもって保護期間が満了する著作権は、3794日の加算によって、[[1989年]][[5月21日]]まで存続する。 *'''1941年12月8日から、日本国と連合国との間の平和条約発効日の前日までに当該連合国および連合国民が取得した著作権''' **著作権の取得日から、日本国と連合国との間の平和条約発効日の前日までの期間が加算される(4条2項)。たとえば、1944年8月1日に、上記連合国またはその国民が取得した著作権の保護期間には2827日が加算される。この場合、通常の保護期間によれば1978年12月31日をもって保護期間が満了する著作権は、2827日の加算によって、1986年9月27日まで存続する。 === 著作権消滅の効果 === {{Main|パブリックドメイン}} 著作権が消滅すると、著作権による制限なしに、原則として誰でも自由に利用することができる。 ただし、保護期間が著作者の死後70年となる場合を除いては、著作権の消滅後も著作者が生存し、[[著作者人格権]]が存続している場合もある。その場合、著作者人格権を侵害する態様で著作物を利用することはできない([[b:著作権法第3条|18条]]〜[[b:著作権法第20条|20条]])。また、著作者が死亡し著作者人格権が消滅しても、著作者が生存しているならば著作者人格権の侵害となるような利用行為、著作者の声望[[名誉]]を害する方法による著作物の利用行為は引き続き禁止される([[b:著作権法第60条|60条]]、[[b:著作権法第113条|113条]]6項)。 ==== 二次的著作物の著作権との関係 ==== 著作物を[[翻訳]]、[[編曲]]、[[変形]]、[[翻案権|翻案]]して創作された[[二次的著作物]]の著作権の保護期間は、原著作物の著作権の保護期間とは独立して認められる。すなわち、創作(翻訳、編曲、変形、翻案)のときに著作権が発生し、著作者(翻訳、編曲、変形、翻案した者)の死亡時期、その二次的著作物の公表時期、あるいは創作時期を起算時として著作権の消滅時期が決定される。 したがって、原著作物の著作権が保護期間満了等の事由により消滅していても、二次的著作物の著作権が消滅しているとは限らない。 たとえば、アメリカ民謡『My Grandfather's Clock』(邦題『[[大きな古時計]]』)の作詞者である[[ヘンリ・クレイ・ワーク|ヘンリー・クレイ・ワーク]]は[[1884年]]に死去したから、歌詞の著作権は存在しない。一方、[[保富康午]]([[1984年]][[9月19日]]没)による著名な日本語訳詞の著作権は今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、[[2054年]][[12月31日]]まで存続する。したがって、2006年現在、英語による原歌詞は自由に利用可能であるが、保富康午の日本語歌詞を利用するには、著作権法で定められた例外を除いて著作権者(2006年6月現在、[[日本音楽著作権協会]])の許諾が必要である。 逆に、保護期間の相違などから、原著作物の著作権が存続したままの状態で、二次的著作物の著作権が先に消滅する場合もある。この場合、当該二次的著作物を利用するには当該原著作物の著作権者の許諾が必要であり、原著作物の著作権が消滅するまでは、二次的著作物を自由に利用することはできない([[b:著作権法第28条|28条]])。ただし、映画の著作物の利用については、次節のような特別な規定が存在する。 ==== 映画の著作物の場合 ==== 映画の著作物の著作権が保護期間満了によって消滅しても、その映画において翻案されている著作物([[脚本]]や、原作となった[[小説]]や[[漫画]]等)の著作権は存続している場合がある。この場合、その映画の利用に関するそれらの原著作物の著作権は、映画の著作物の著作権とともに消滅したものとされる([[b:著作権法第54条|54条]]2項)。したがって、その映画の著作物を利用する限りにおいては、脚本や、原作となった小説や漫画等に係る著作権者の許諾を得る必要はない。この規定は、著作権が消滅した映画の円滑な利用を促進することをねらいとする。 ただし、著作権が消滅したものと扱われる著作物は、映画において翻案されたものに限られ、[[録音]]、[[録画]]されているに過ぎない著作物([[字幕]]、[[映画音楽]]、[[美術品]]等)の著作権は消滅したものとされない。したがって、映画の著作物を利用するためには、字幕、映画音楽、美術品等に係る著作権者の許諾を得る必要がある。 == 著作権の保護期間に関する裁判例 == === 1953年に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物の保護期間 === {{Main|1953年問題}} ;「ローマの休日」事件、「シェーン」事件 2004年1月1日に施行された改正著作権法は、映画の著作物の保護期間を公表後50年から公表後70年へ延長する規定を含んでいた。ただし、施行前に著作権が消滅した映画の著作物に対しては、遡って新法を適用して著作権を復活させることはない。 この新法の解釈に関する文化庁の見解は、「2003年12月31日午後12時と2004年1月1日午前0時は同時」という理由から、1953年に公表された映画の著作物は、新法の適用を受けて[[2023年]]12月31日まで保護されるというものである。これに対し、新旧両法の文理解釈からすれば、1953年公表の映画の保護期間は2003年12月31日までであり、2004年1月1日には消滅するという反対の見解もあった。これらの見解の対立は[[1953年問題]]ともよばれている。 2006年5月、『[[ローマの休日]]』(1953年公開)などの著作権者である[[パラマウント映画|パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション]](パラマウント社)が、1953年に公開された映画の著作物の著作権は2023年12月31日まで存続すると主張し、同作品の[[格安DVD]]を製造販売しているファーストトレーディング社に対し、同作品の格安DVDの製造販売の差止めを求めて、[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[仮処分]]の申請を行った。さらに、同年公開の映画『[[シェーン]]』についても、別の2社を相手取り、DVDの製造販売の差止めを求めて東京地方裁判所に提訴した。 同年7月、東京地方裁判所は「ローマの休日」の仮処分申請に対し、1953年に公表された映画の著作物の著作権は2003年12月31日まで存続し、2004年1月1日には消滅しているとして、パラマウント社の申請を却下した。また、10月には「シェーン」に対しても同様の理由によってパラマウント社の請求を棄却する判決を言い渡した<ref>東京地方裁判所判決平成18年10月5日</ref>。 「ローマの休日」の仮処分申請却下を不服とするパラマウント社は[[即時抗告]]を行ったが、10月に「シェーン」で敗訴したことを受けて「ローマの休日」については抗告を取り下げた。パラマウント社は「シェーン」についてのみ、[[知的財産高等裁判所]]に控訴したが、同裁判所は2007年3月29日、著作権は2003年12月31日をもって消滅したとする一審判決を支持し、パラマウント社の控訴を棄却する判決を言い渡した<ref>知的財産高等裁判所判決平成19年3月29日</ref>。 パラマウント社は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ上告したものの、2007年12月18日最高裁は一審、二審の判決を支持。「1953年公表の団体名義の独創性を有する<ref group="注">1953年当時に施行されていた[[旧著作権法]]では、団体名義か否か独創性を有するか否かで保護期間が異なっていたため、本判例の射程範囲が制限される。</ref> 映画の著作物の著作権の保護期間は2003年12月31日まで」という結論で、この問題は決着した<ref>最高裁判所第三小法廷判決平成19年12月18日</ref>。 === 自然人を著作者とする映画の著作物の保護期間 === ;「モダン・タイムス」事件 [[2006年]]7月、[[チャーリー・チャップリン]]の映画の著作権を管理する[[リヒテンシュタイン]]の[[法人]]が、『[[モダン・タイムス]]』([[1936年]]製作)など複数タイトルのチャップリン映画の格安DVDを販売する[[東京]]の2社に対し、格安DVDの販売差止めと約9400万円の[[損害賠償]]を求めて、[[東京地方裁判所]]に提訴した。 原告の主張によれば、被告2社は『モダン・タイムス』など原告が著作権を保持管理する9作品について、原告の許諾を得ずに格安DVDを販売したことにより、原告の著作権を侵害したとする。 原告は、著作権存続の法的根拠について、[[旧著作権法]](明治32年法律第39号。新著作権法(昭和45年法律第48号)の施行により、昭和46年1月1日廃止。)22条ノ3、3条1項、52条1項、および新著作権法の昭和45年附則7条により、著作権保護期間は著作者の死後38年であることなどを挙げる。すなわち、原告の主張によれば、9作品のうち7作品はチャップリン個人の作品であるため、チャップリンが死亡した1977年から著作権保護期間が起算され、それから38年経過後の2015年まで著作権が保護されることになる。 なお、文化庁は『平成18年度著作権テキスト』の中で、著作権が保護される「映画の著作物」(独創性のあるもの)として、「昭和11年(1936年)から昭和27年(1952年)までに公表された実名の著作物のうち、昭和40年(1965年)に著作者が生存していたもの」を挙げ、原告の主張に沿う見解を示している<ref>[[文化庁]]『[http://www.bunka.go.jp/1tyosaku/pdf/chosaku_text_18.pdf 平成18年度著作権テキスト]』</ref>。 2007年[[8月29日]]、東京地裁は原告側の主張を全面的に認め『モダン・タイムス』など7タイトルは旧法の規定に伴いチャップリンの個人著作物と認められ、著作権保護期間は経過措置により2015年まで有効であると判断。さらに『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』([[1947年]]製作)及び『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』([[1952年]]製作)については[[2003年]]改正法の附則第2条(旧法と現行法のどちらかで保護期間が異なる場合は、より長い方を適用する)に基づき、公表後70年が適用されると判断。『殺人狂時代』は[[2017年]]、『ライムライト』は[[2022年]]まで保護期間が存続するとし、被告側に対し9タイトルの販売禁止と在庫の全量及びDVD製作に使用したマスターの廃棄・約1053万円の損害賠償を命じた<ref>[https://web.archive.org/web/20140430205036/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070830144013.pdf 東京地裁・平成18年(ワ)第15552号著作権侵害差止等請求事件]</ref>。発売業者は知財高裁に控訴したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した<ref>[http://archive.mag2.com/0000194248/20080130074231000.html 著作権判例速報]</ref>。 さらに、発売業者は最高裁に上告したが、2009年10月8日、最高裁は上告を棄却し、1、2審判決が確定した。この上告審判決において最高裁は、旧著作権法における映画の著作者を「映画の創作に全体的に寄与した者」と規定し、9タイトルの著作者をチャップリン個人と認定した。その上で、「著作者が実名で表示された場合には、たとえ団体名義の著作物の表示があっても、著作者の死亡時から著作権保護期間が起算される」との初判断を示した<ref>[https://web.archive.org/web/20120627200618/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20091008110546.pdf 最高裁判所第一小法廷判決 平成20(受)889 著作権侵害差止等請求事件]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references/> == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author= ティナ・ハート、リンダ・ファッツァーニ、サイモン・クラーク|translator= 早川良子|others= 牧野和夫監訳|title= イギリス知的財産法|origdate= 2006-10-13|edition= 第1版|date= 2007-09-15|publisher= 雄松堂出版|id= {{全国書誌番号|21293666}}|isbn= 978-4-8419-0463-5|oclc=676199595|ref= {{SfnRef|牧野|}}}} * {{Cite book|author=矢野輝雄|title=知的財産権の考え方・活かし方-Q&A-|url=https://books.google.com/books?id=dyjfGYfnjikC&pg=PA37 |date=2012-02-01 |publisher=オーム社 |isbn=978-4-274-21169-0|oclc=816890114|ref={{SfnRef|矢野|2012}}}} == 関連項目 == {{wikinews|日本の著作権保護期間50年から70年へ変更? 文化庁2007年度にも諮問予定}} *[[著作物]] *[[著作権]] *[[著作権の保護期間における相互主義]] *[[永久著作権]] *[[戦時加算 (著作権法)]] *[[権利の所在が不明な著作物]] *[[青空文庫]] *[[プロジェクト・グーテンベルク]] == 外部リンク == *[https://www.cric.or.jp/qa/hajime/hajime3.html 著作権の保護期間はどれだけ?] - [[著作権情報センター]] *[https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/hokaisei/kantaiheiyo_chosakuken/1411890.html 著作物等の保護期間の延長に関するQ&A] - [[文化庁]] {{著作権 (法学)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちよさくけんのほこきかん}} [[Category:著作権の保護期間|*]] [[Category:著作権法]] [[Category:独占]]
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台東区
台東区(たいとうく)は、日本の東京都の区部北東部に位置する特別区。面積は23区の中で最も小さい。 1947年に下谷区と浅草区が合併して誕生した。現在の千代田区や中央区などとともに江戸時代を通じて東京で最も古い市街地のひとつで、江戸時代は元禄文化(町民文化)が息づいた下町エリアである。 浅草にある浅草寺(正式名:金龍山浅草寺)は建立1400年の歴史を持つ。かつての浅草は「浅草六区」を中心に劇場や映画館などの興行施設が集積する東京最大の繁華街であったが、高度成長期以降そういった興行施設は娯楽の多様化に伴い衰退していき、また新宿・渋谷・池袋・六本木といった山手の新興繁華街の発展により、相対的に浅草の繁華街としての地位は失われていった。現在は国内外から多くの人が訪れる観光地としての性格が強くなっており、東京の中でも日本情緒が味わえる地区として外国人観光客にも人気が高い。 下谷地区の中心である上野に位置する上野公園には東京国立博物館など日本を代表する美術館や博物館が集積しているほか、東京芸術大学が付近に立地しており、上野は「芸術・文化の発信地」となっている。関東大震災(1923年)や第二次世界大戦により壊滅的な被害を受けたが、焼け残った浅草橋界隈の問屋街などにはいまだ大正、昭和初期の街並みや下町の風情が色濃く残っている。浅草の外れにある吉原は江戸時代から吉原遊廓があった名残で現在でも日本一の風俗街(ソープランド街)となっている。 区の中心駅である上野駅は古くから北関東・東北・信越地方からの玄関口として知られ、新幹線も停車するターミナル駅である。1927年に開業した東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)浅草駅 - 上野駅間は東洋初の本格的な地下鉄路線として知られる。 区は全般的に商業地であるため、純粋な住宅地は一部で、供給量も少ない。戸建も一部地域を除くと少なく、ビルやマンションなど土地の高度利用が進んでいる。(財)古都保存財団が選定する「美しい日本の歴史的風土100選」において、次世代に残す美しい日本の歴史的風土が良好に保存されている全国の事例の一つとして、寛永寺・上野公園周辺、谷中の街並みが選ばれた。 ル・コルビュジエの国立西洋美術館が世界遺産に登録されている。他にも東京国立博物館表慶館や東京国立博物館など、国の重要文化財が多い区である。 合併前の下谷区・浅草区ともに下町文化の根付く由緒ある土地のため、合併後の名称は紛糾した。様々な案が考え出され、最終的に下谷区側の案は「上野区」、浅草区側の案は「東区」に収束したが、結局まとまらず、都知事の案により下谷区台東小学校にて既に採用されていた「台東」の語を用い「台東区」を区名とした。上野の高台の「台」と、上野の東側にある下谷と浅草の下町を連想する「東」を組合わせたもので、康煕字典にめでたい意味で載る瑞祥地名でもある。 その他の候補には、「下町区」「太平区」「隅田区」「浅谷区」などかあった。 読み方は都、区で発行する出版物のふりがななどで見られるように公式には「たいとうく」だが、初期はそれほど強く統一されておらず、現在でも昭和初期生まれくらいの高齢者は、地元の台東区民も含め多くの場合「だいとうく」と読んでいる。 また「だいとう」の読みは「上野台」の「東」に由来する説がある。 区内の町名に台東があるが、1964年の住居表示により区名を取って名付けられたものであり、由来とは関係ない。 東京23区の北東部に位置する。東側は隅田川に接し、対岸の墨田区との区境となっている。また、区南端で隅田川との合流点付近の神田川に接する。 台東区では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。『住居表示実施前の町名等』の欄で「」との記載がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。 2005年に夜間人口(居住者)は163,528人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は303,522人で昼は夜の1.856倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』より。国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)。 2019年10月12日 令和元年東日本台風(台風19号)により、日本国内で甚大な被害を被ったが、台東区の区民向け避難所で区職員が路上生活者(ホームレス)の受け入れを拒否した為、国会でも15日参院予算委員会にて取り上げられる問題となった。 台東区は、同台風の接近に伴って11日午後5時半以降、区内4カ所に避難所を開設した。その後、12日に避難所の一つ区立忍岡小の避難所を訪れた路上生活者の2人に対し、区職員が受付のため紙に住所と氏名などを書くよう求め、路上生活者の2人は台東区内に住所がないことを申告すると区職員は区民のための避難所であることを理由に路上生活者2名を追い返した。 このことが明るみに出ると、13日以降様々なメディアで取り上げられたが、台東区はメディアの取材に対し「防災計画では区の避難所は区民しか利用できない」「ホームレスらへの対応は今後の検討課題」などとコメントをするが、問題は紛糾し、国民民主党の森裕子参院議員が15日午前の参院予算委員会で安倍晋三総理大臣に「今回の台東区避難所、ホームレスを受け入れ拒否をしたという問題、どうお考えか」と質問をすると、安倍総理大臣は「各避難所においては避難したすべての被災者を適切に受け入れることが望ましい」と答弁した。 台東区は15日夕方、区長の声明を発表し、「この度の台風19号の際に、避難所での路上生活者の方に対する対応が不十分であり、避難できなかった方がおられた事につきましては、大変申し訳ありませんでした。また、この件につきまして区民の皆様へ大変ご心配をおかけいたしました。台東区では今回の事例を真摯に受け止め、庁内において検討組織を立ち上げました。関係機関などとも連携し、災害時に全ての方を援助する方策について検討し、対応を図ってまいります」と謝罪した。 全7校 全19校 台東区循環バスめぐりん(台東区が運営し、日立自動車交通(日立)と京成バス(京成)に運行を委託) 高速バス 夜行高速バス その他にいわき市・北茨城市・東海村・ひたちなか市、常陸太田市・大子町・常陸大宮市・那珂市などから東京駅行き、バスタ新宿行きの高速バスで浅草駅、上野駅で降車できる。 深夜急行バス リムジンバス 東京都観光汽船 東京都公園協会 台東区は、足立ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられており、『23区東部』の地域と一致する。 足立ナンバー割り当て地域は、台東区・江戸川区・足立区・墨田区・荒川区。 台東区には、地域の特色に合わせた複数のキャラクターからなる公式キャラクター台東くんが存在する。 旧浅草区、旧下谷区の出身有名人については浅草区、下谷区を参照 明治初期から1960年代まで、浅草は東京を代表する歓楽街であり、田谷力三や藤原義江などの浅草オペラのスター、榎本健一や古川ロッパなどの喜劇人、フランス座などのストリップ劇場の幕間コント出身の渥美清、東八郎、萩本欽一、坂上二郎、ビートたけしなど、特に大衆芸能の分野には浅草にゆかりが深い人物が多い。浅草公園六区を参照。
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台東区(たいとうく)は、日本の東京都の区部北東部に位置する特別区。面積は23区の中で最も小さい。
{{東京都の特別区 | 画像 = {{multiple image | border = infobox | total_width = 280 | image_style = border:1; | perrow = 2 | image1 = Sensoji 2012.JPG | image2 = SaigoTakamori1332.jpg }} | 画像の説明 = <table style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse"> <tr><td style="width:50%">[[浅草寺]]境内<br />([[浅草仲見世]])<td style="width:50%">[[上野恩賜公園]]にある<br />[[西郷隆盛像]]</tr> </table> |区旗 = [[File:Flag of Taito, Tokyo.svg|border|100px]] |区旗の説明 = 台東[[市町村旗|区旗]]<br />[[1965年]][[6月4日]]制定 |区章 = [[File:Emblem of Taito, Tokyo (black).svg|75px]] |区章の説明 = 台東[[市町村章|区章]]<br />[[1951年]][[4月18日]]制定 |自治体名 = 台東区 |コード = 13106-7 |隣接自治体 = [[千代田区]]、[[中央区 (東京都)|中央区]]、[[文京区]]、[[墨田区]]、[[荒川区]] |木 = [[サクラ]] |花 = [[アサガオ]] |シンボル名 =区歌 |鳥など =[https://www.city.taito.lg.jp/kusei/shokai/abouttaito/profile/uta.files/taitokunouta.mp3 台東区の歌] |郵便番号 = 110-8615 |所在地 = 台東区[[東上野]]四丁目5番6号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[File:Taito Ward Office.JPG|250px|台東区役所庁舎(東上野四丁目)]] |外部リンク = https://www.city.taito.lg.jp/ |位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|106|image=Taitō-ku in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no }}<br/>{{Maplink2|zoom=12|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} |特記事項 =}} '''台東区'''(たいとうく)は、日本の[[東京都]]の[[区部]]北東部に位置する[[特別区]]。面積は23区の中で最も小さい。 == 概要 == [[1947年]]に[[下谷区]]と[[浅草区]]が合併して誕生した。現在の[[千代田区]]や[[中央区 (東京都)|中央区]]などとともに[[江戸時代]]を通じて[[東京]]で最も古い[[市街地]]のひとつで、江戸時代は[[元禄文化]](町民文化)が息づいた[[下町]]エリアである。 [[浅草]]にある[[浅草寺]](正式名:金龍山浅草寺)は建立1400年の歴史を持つ。かつての浅草は「[[浅草公園六区|'''浅草六区''']]」を中心に劇場や[[映画館]]などの興行施設が集積する東京最大の[[繁華街]]であったが、[[高度経済成長|高度成長期]]以降そういった興行施設は娯楽の多様化に伴い衰退していき、また[[新宿]]・[[渋谷]]・[[池袋]]・[[六本木]]といった[[山の手|山手]]の新興繁華街の発展により、相対的に浅草の繁華街としての地位は失われていった。現在は国内外から多くの人が訪れる[[観光地]]としての性格が強くなっており、東京の中でも日本情緒が味わえる地区として外国人観光客にも人気が高い。 [[下谷]]地区の中心である[[上野]]に位置する[[上野恩賜公園|上野公園]]には[[東京国立博物館]]など日本を代表する[[美術館]]や[[博物館]]が集積しているほか、[[東京芸術大学]]が付近に立地しており、上野は「芸術・文化の発信地」となっている。[[関東大震災]]([[1923年]])や[[第二次世界大戦]]により壊滅的な被害を受けたが、焼け残った[[浅草橋 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23区に幻の区名|ライフコラム|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB02003_S2A001C1000000?page=2|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2021-04-01|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>。 読み方は都、区で発行する出版物の[[ふりがな]]などで見られるように公式には「'''たいとうく'''」だが、初期はそれほど強く統一されておらず、現在でも昭和初期生まれくらいの高齢者は、地元の台東区民も含め多くの場合「'''だいとうく'''」と読んでいる<ref>『[[サンデー毎日]]』 平成23年2月20日号114 - 115ページ [[牧太郎]]の青い空 白い雲</ref>。 また「だいとう」の読みは「上野'''台'''」の「'''東'''」に由来する説がある。 区内の町名に[[台東 (台東区)|台東]]があるが、[[1964年]]の[[住居表示]]により区名を取って名付けられたものであり、由来とは関係ない。 == 地理 == [[東京都区部|東京23区]]の北東部に位置する。東側は[[隅田川]]に接し、対岸の[[墨田区]]との区境となっている。また、区南端で隅田川との[[合流点]]付近の[[神田川 (東京都)|神田川]]に接する。 ===位置=== * 東経139°46′47″、 北緯35°42′46.5″(上野公園7番20号、国立科学博物館) ;自然環境 * 公園や緑地地域が随所にあり、自然環境は良い。自然環境破壊も東京都内では比較的少ないほうである。 * 区内の至る所に桜並木が植えられており、隅田川周辺以外にも住宅地・商業地などあらゆる場所に桜の木が植えられている。 * 公園の数は令和元年5月現在、国立・都立・区立あわせて79か所、776,984㎡ある。 ===地域=== ====町名==== 台東区では、全域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。『住居表示実施前の町名等』の欄で「<sup>(全部)</sup>」との記載がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。 <!-- 町名の順序は、台東区統計書など公的資料の順序による。 --> ; 台東区役所南部区民事務所管内 {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small;" |+台東区役所南部区民事務所管内(34町丁) !style="width:12%"|町名 !style="width:12%"|町区域設定年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:26%"|町区域設定前の町名など !style="width:26%"|住居表示実施前の町名など |- |{{ruby|'''[[柳橋 (台東区)|柳橋]]'''|やなぎばし}}'''一丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草柳橋1<sup>(全部)</sup>、浅草柳橋2、浅草橋1、浅草橋2 | |- |'''柳橋二丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草柳橋2、浅草橋3 | |- |{{ruby|'''[[浅草橋 (台東区)|浅草橋]]'''|あさくさばし}}'''一丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草橋1、浅草橋2、浅草上平右衛門町<sup>(全部)</sup>、浅草福井町3<sup>(全部)</sup>、浅草新福井町、浅草左衛門町<sup>(全部)</sup> | |- |'''浅草橋二丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草橋3、浅草新福井町、浅草向柳原町2 | |- |'''浅草橋三丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草橋3、浅草向柳原町2、浅草蔵前1、浅草鳥越2 | |- |'''浅草橋四丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草向柳原町1、浅草餌鳥町<sup>(全部)</sup> | |- |'''浅草橋五丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草向柳原町1、浅草向柳原町2、浅草鳥越1 | |- |{{ruby|'''[[鳥越 (台東区)|鳥越]]'''|とりごえ}}'''一丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草鳥越1 | |- |'''鳥越二丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草鳥越2 | |- |{{ruby|'''[[蔵前]]'''|くらまえ}}'''一丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草蔵前1 | |- |'''蔵前二丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草蔵前2、浅草蔵前3 | |- |'''蔵前三丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草蔵前2、浅草蔵前3、浅草桂町 | |- |'''蔵前四丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草蔵前2、浅草桂町、浅草三筋町1、浅草三筋町2 | |- |{{ruby|'''[[小島 (台東区)|小島]]'''|こじま}}'''一丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草小島町1 | |- |'''小島二丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草小島町2 | |- |{{ruby|'''[[三筋]]'''|みすじ}}'''一丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草三筋町1、浅草小島町1 | |- |'''三筋二丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |浅草三筋町1、浅草三筋町2、浅草小島町2 | |- |{{ruby|'''[[元浅草]]'''|もとあさくさ}}'''一丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |浅草七軒町<sup>(全部)</sup>、永住町 | |- |'''元浅草二丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |永住町、南稲荷町、浅草南清島町<sup>(全部)</sup> | |- |'''元浅草三丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |浅草北三筋町<sup>(全部)</sup>、浅草菊屋橋1、永住町、浅草三筋町2 | |- |'''元浅草四丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |浅草菊屋橋2、永住町、浅草南松山町<sup>(全部)</sup> | |- |{{ruby|'''[[寿 (台東区)|寿]]'''|ことぶき}}'''一丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |浅草寿町1、浅草寿町2、浅草菊屋橋1、浅草三筋町2 | |- |'''寿二丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |浅草寿町3、浅草菊屋橋2 | |- |'''寿三丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |浅草寿町1、浅草寿町2 | |- |'''寿四丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |浅草寿町3 | |- |{{ruby|'''[[駒形]]'''|こまがた}}'''一丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |浅草駒形1、浅草駒形2 | |- |'''駒形二丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |浅草駒形1、浅草駒形2 | |- |{{ruby|'''[[松が谷 (台東区)|松が谷]]'''|まつがや}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草北松山町<sup>(全部)</sup>、松葉町 | |- |'''松が谷二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |松葉町 | |- |'''松が谷三丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |松葉町、入谷町 | |- |'''松が谷四丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |入谷町 | |- |{{ruby|'''[[西浅草]]'''|にしあさくさ}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草松清町<sup>(全部)</sup> | |- |'''西浅草二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草田島町<sup>(全部)</sup> | |- |'''西浅草三丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草芝崎町1<sup>(全部)</sup>、浅草芝崎町2<sup>(全部)</sup>、浅草芝崎町3<sup>(全部)</sup> | |- |} ; 台東区役所西部区民事務所管内 {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small;" |+台東区役所西部区民事務所管内(42町丁) !style="width:12%"|町名 !style="width:12%"|町区域設定年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:26%"|町区域設定前の町名など !style="width:26%"|住居表示実施前の町名など |- |{{ruby|'''[[台東 (台東区)|台東]]'''|たいとう}}'''一丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |御徒町1、二長町 | |- |'''台東二丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |御徒町1、二長町、竹町 | |- |'''台東三丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |御徒町1、御徒町2、竹町 | |- |'''台東四丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |御徒町2、竹町 | |- |{{ruby|'''[[秋葉原#秋葉原(町丁)|秋葉原]]'''|あきはばら}} |1964年10月1日 |1964年10月1日 |松永町<sup>(全部)</sup>、練塀町<sup>(全部)</sup> | |- |{{ruby|'''[[上野]]'''|うえの}}'''一丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |西黒門町<sup>(全部)</sup>、上野北大門町 | |- |'''上野二丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |上野北大門町、上野元黒門町<sup>(全部)</sup>、池之端仲町、数寄屋町<sup>(全部)</sup> | |- |'''上野三丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |上野南大門町<sup>(全部)</sup>、仲御徒町3、長者町1<sup>(全部)</sup>、長者町2、東黒門町<sup>(全部)</sup>、坂町<sup>(全部)</sup>、同朋町<sup>(全部)</sup>、上野町1、上野広小路町 | |- |'''上野四丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |下谷町1、上野三橋町、五条町、上野町1、上野町2、上野広小路町 | |- |'''上野五丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |仲御徒町1<sup>(全部)</sup>、仲御徒町2<sup>(全部)</sup>、仲御徒町3、長者町2 | |- |'''上野六丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |仲御徒町3、仲御徒町4<sup>(全部)</sup>、下谷町1、下谷町2<sup>(全部)</sup>、上野三橋町、五条町、上野町1、上野町2 | |- |'''上野七丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |車坂町、上車坂町、下車坂町、上野山下町<sup>(全部)</sup>、豊住町 | |- |{{ruby|'''[[東上野]]'''|ひがしうえの}}'''一丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |西町、御徒町3 | |- |'''東上野二丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |南稲荷町、永住町、西町、車坂町、御徒町3 | |- |'''東上野三丁目''' |1964年10月1日 |1964年10月1日 |南稲荷町、永住町、西町、車坂町 | |- |'''東上野四丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |万年町1<sup>(全部)</sup>、神吉町、北稲荷町、上車坂町、下車坂町 | |- |'''東上野五丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |神吉町、北稲荷町 | |- |'''東上野六丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草北清島町<sup>(全部)</sup> | |- |{{ruby|'''[[北上野]]'''|きたうえの}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |入谷町、万年町2<sup>(全部)</sup>、山伏町、新坂本町 | |- |'''北上野二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |入谷町、山伏町、新坂本町 | |- |{{ruby|'''[[下谷]]'''|したや}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |坂本1、入谷町、豊住町 | |- |'''下谷二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |坂本2、入谷町、金杉1 | |- |'''下谷三丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |金杉1、金杉2、金杉上町、入谷町 | |- |{{ruby|'''[[根岸 (台東区)|根岸]]'''|ねぎし}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |上根岸町、坂本1、上野桜木町 | |- |'''根岸二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |上根岸町 | |- |'''根岸三丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |上根岸町、中根岸町、坂本2、金杉1 | |- |'''根岸四丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |中根岸町、金杉1、下根岸町 | |- |'''根岸五丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |金杉2、下根岸町、三ノ輪町 | |- |{{ruby|'''[[池之端]]'''|いけのはた}}'''一丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |池之端仲町<sup>(全部)</sup>、茅町1<sup>(全部)</sup>、茅町2、上野恩賜公園 | |- |'''池之端二丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |上野恩賜公園、茅町2、池之端七軒町<sup>(全部)</sup> | |- |'''池之端三丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |谷中清水町、上野恩賜公園、上野花園町 | |- |'''池之端四丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |谷中清水町 | |- |{{ruby|'''[[上野恩賜公園|上野公園]]'''|うえのこうえん}} |1967年1月1日 |1967年1月1日 |上野恩賜公園、上野花園町、上野桜木町、五条町<sup>(全部)</sup> | |- |{{ruby|'''[[上野桜木]]'''|うえのさくらぎ}}'''一丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |上野桜木町、上野恩賜公園 | |- |'''上野桜木二丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |上野桜木町、谷中天王寺町 | |- |{{ruby|'''[[谷中 (台東区)|谷中]]'''|やなか}}'''一丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |谷中上三崎南町、谷中坂町 | |- |'''谷中二丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |谷中真島町、谷中三崎町 | |- |'''谷中三丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |谷中三崎町、谷中初音町4 | |- |'''谷中四丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |谷中上三崎南町、谷中坂町、谷中真島町、谷中三崎町 | |- |'''谷中五丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |谷中上三崎北町<sup>(全部)</sup>、谷中三崎町、谷中初音町1、谷中初音町3、谷中初音町4 | |- |'''谷中六丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |谷中町、谷中上三崎南町、谷中茶屋町、谷中初音町1 | |- |'''谷中七丁目''' |1967年1月1日 |1967年1月1日 |谷中町、谷中茶屋町、谷中天王寺町、谷中初音町2<sup>(全部)</sup>、谷中初音町3 | |- |} ; 台東区役所北部区民事務所管内 {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small;" |+台東区役所西北部区民事務所管内(32町丁) !style="width:12%"|町名 !style="width:12%"|町区域設定年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:26%"|町区域設定前の町名など !style="width:26%"|住居表示実施前の町名など |- |{{ruby|'''[[浅草]]'''|あさくさ}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草北田原町<sup>(全部)</sup>、浅草新畑町<sup>(全部)</sup>、浅草北仲町<sup>(全部)</sup>、浅草雷門2、浅草公園地 | |- |'''浅草二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草雷門2、浅草馬道1、浅草公園地、浅草千束町2 | |- |'''浅草三丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草馬道2、浅草千束町2、浅草象潟1<sup>(全部)</sup> | |- |'''浅草四丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草馬道2、浅草千束町1、浅草千束町2、浅草象潟2<sup>(全部)</sup>、浅草象潟町<sup>(全部)</sup> | |- |'''浅草五丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草馬道3、浅草千束町2、浅草千束町3<sup>(全部)</sup>、浅草象潟3<sup>(全部)</sup>、浅草日本堤1、浅草日本堤2 | |- |'''浅草六丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草馬道2、浅草馬道3、浅草聖天町、浅草聖天横町<sup>(全部)</sup>、浅草猿若町1<sup>(全部)</sup>、浅草猿若町2<sup>(全部)</sup>、浅草猿若町3<sup>(全部)</sup>、浅草田町1<sup>(全部)</sup>、浅草地方今戸町<sup>(全部)</sup> | |- |'''浅草七丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草聖天町、浅草隅田公園 | |- |{{ruby|'''[[入谷 (台東区)|入谷]]'''|いりや}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |入谷町、金杉上町 | |- |'''入谷二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |入谷町、光月町、竜泉寺町、金杉上町 | |- |{{ruby|'''[[竜泉 (台東区)|竜泉]]'''|りゅうせん}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |竜泉寺町、入谷町、金杉上町 | |- |'''竜泉二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |竜泉寺町、金杉下町 | |- |'''竜泉三丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |竜泉寺町 | |- |{{ruby|'''[[雷門 (台東区)|雷門]]'''|かみなりもん}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草田原町1<sup>(全部)</sup>、浅草田原町2<sup>(全部)</sup>、浅草田原町3<sup>(全部)</sup>、浅草雷門1 | |- |'''雷門二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草雷門1 | |- |{{ruby|'''[[花川戸]]'''|はなかわど}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草花川戸1<sup>(全部)</sup>、浅草馬道1、浅草隅田公園 | |- |'''花川戸二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草花川戸2<sup>(全部)</sup>、浅草馬道1、浅草隅田公園 | |- |{{ruby|'''[[千束]]'''|せんぞく}}'''一丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |浅草新谷町<sup>(全部)</sup>、浅草千束町1 | |- |'''千束二丁目''' |1965年8月1日 |1965年8月1日 |竜泉寺町、千束町1<sup>(全部)</sup>、光月町、浅草千束町1 | |- |'''千束三丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草千束町1、浅草千束町2、竜泉寺町、浅草新吉原京町1、浅草新吉原京町2 | |- |'''千束四丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草新吉原江戸町1<sup>(全部)</sup>、浅草新吉原江戸町2<sup>(全部)</sup>、浅草新吉原揚屋町<sup>(全部)</sup>、浅草新吉原角町<sup>(全部)</sup>、浅草新吉原京町1、浅草新吉原京町2、浅草日本堤2、浅草日本堤3 | |- |{{ruby|'''[[今戸]]'''|いまど}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草今戸1<sup>(全部)</sup>、浅草吉野町1、浅草隅田公園 | |- |'''今戸二丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草今戸2<sup>(全部)</sup>、浅草今戸3<sup>(全部)</sup>、浅草吉野町2、浅草吉野町3 | |- |{{ruby|'''[[東浅草]]'''|ひがしあさくさ}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草日本堤1、浅草吉野町1、浅草吉野町2、浅草吉野町3 | |- |'''東浅草二丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草日本堤2、浅草山谷1、浅草山谷2、浅草田中町1<sup>(全部)</sup> | |- |{{ruby|'''[[橋場]]'''|はしば}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草橋場1<sup>(全部)</sup>、浅草橋場2<sup>(全部)</sup>、浅草石浜町1、浅草石浜町2 | |- |'''橋場二丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草橋場3<sup>(全部)</sup>、浅草石浜町3 | |- |{{ruby|'''[[清川 (台東区)|清川]]'''|きよかわ}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草清川町1<sup>(全部)</sup>、浅草清川町2<sup>(全部)</sup>、浅草山谷1、浅草山谷2、浅草石浜町1、浅草石浜町2 | |- |'''清川二丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草清川町3<sup>(全部)</sup>、浅草山谷3、浅草山谷4、浅草石浜町3 | |- |{{ruby|'''[[日本堤]]'''|にほんづつみ}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草日本堤3、浅草山谷3、浅草田中町2<sup>(全部)</sup> | |- |'''日本堤二丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |浅草日本堤4<sup>(全部)</sup>、浅草山谷4、浅草田中町3<sup>(全部)</sup>、三ノ輪町 | |- |{{ruby|'''[[三ノ輪]]'''|みのわ}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |三ノ輪町、金杉下町<sup>(全部)</sup> | |- |'''三ノ輪二丁目''' |1966年10月1日 |1966年10月1日 |三ノ輪町 | |- |} ====住宅施設==== * 都営下谷一丁目アパート(下谷 1-2、[[1968年]](昭和43年)) * 都営下谷三丁目アパート(下谷 3-11、[[1976年]](昭和51年)) * 都営橋場二丁目アパート(橋場 2-16、[[1976年]](昭和51年) - [[1985年]](昭和60年)) * 都営根岸五丁目アパート(根岸 5-18、[[1970年]](昭和45年)) * 都営台東小島アパート(小島 1-5、[[1964年]](昭和39年)) * 都営清川二丁目アパート(清川 2-22、[[1970年]](昭和45年)) * 都営石浜アパート(清川 2-23、[[1963年]](昭和38年)) * 都営入谷一丁目アパート(入谷 1-22、[[1995年]](平成7年)) ====特徴==== ; 浅草、上野地区 * [[隅田川]]の向こう岸、墨田区に建設された[[東京スカイツリー]]のオープンに伴い、浅草地区の整備開発や隅田川沿いの整備が進んでいる。 * 上野駅や[[鶯谷駅]]の西には、上野桜木や池之端など古くからの住宅地が広がる。 * [[不忍池]]の見下ろせる地域は、閑静な住宅地であり、[[東京都立上野高等学校|都立上野高校]]や[[東京芸術大学]]もある。 * [[上野]]地区は江戸時代から続く[[寛永寺]]の門前町で、現在も東京有数の[[繁華街]]である。[[交通]]の要衝である上野駅や、日本初の[[公園]]で、[[恩賜上野動物園|上野動物園]]や[[博物館]]、[[美術館]]など各種文化施設を抱える[[上野恩賜公園]]、さらに[[生鮮食品]]を中心とした大規模[[商店街]]「[[アメヤ横丁]]」があるので、多くの人が集まる地域である。続く文京区[[湯島]]には[[湯島天満宮|湯島天神]]があり、[[正月]]は[[受験生]]を中心とした[[初詣]]客が多く参拝する。また、[[パチンコ]]店やパチンコメーカーが多数存在し、それらが国内有数の規模で有名である。[[御徒町駅]]東側には宝飾業者が軒を並べ、「ジュエリータウンおかちまち」として知られている。 なお「秋葉原」は上野地区の南に位置するが、[[秋葉原駅]]や[[秋葉原電気街]]があるのは[[千代田区]][[神田 (千代田区)|神田]]である。 * [[浅草]]地区は、東京でも有名な[[下町]]といえる。[[推古天皇]]の時代に開かれた地域。[[浅草寺]]や[[仲見世通り]]など名所が多い地域で、[[外国人]]にも人気があり、正月の初詣客も多い。[[観光]]用の[[人力車]]もよく見かけられる。花川戸には[[鞄|バッグ]]や[[靴]]など[[皮革]]製品の卸が多い。西浅草には[[調理]]器具などの卸街「[[合羽橋|かっぱ橋道具街]]」があり、[[土産]]物として[[ラーメン]]や[[寿司]]などの展示用料理サンプルを買い求める外国人もいる。浅草から上野に至る間には、[[寺院]]が多い関係で(元浅草・東上野・松が谷・西浅草地区)[[仏壇]]や[[仏具]]などの卸が多い。 * 浅草から南に下った[[蔵前]] - [[浅草橋 (台東区)|浅草橋]]地区は吉徳大光、秀月、[[久月]]など[[人形]]の街として有名。[[玩具]]・[[文具]]・[[雑貨]]関係の[[卸売|卸]]も多い。浅草橋からさらに南下した中央区[[日本橋横山町|横山町]]・[[日本橋馬喰町|馬喰町]]にかけては、都内の[[衣類|衣料品]]卸が集中する地区である。 ; 入谷、根岸、千束地区 * [[根岸 (台東区)|根岸]]、[[谷中 (台東区)|谷中]]周辺も歴史のある町だが、[[鶯谷駅]]前には[[ラブホテル]]が乱立、[[カップル]]でにぎわう。 * [[入谷 (台東区)|入谷]]地区は寺社が多く、有名な[[真源寺|入谷鬼子母神]]がある。毎年7月6日から8日にかけて「[[真源寺#入谷朝顔市|朝顔市]]」があり、[[アサガオ]]を買い求める人でにぎわう。 * [[千束]]地区は、[[酉の市]]で有名な[[鷲神社 (台東区)|鷲神社]]がある。神社の裏手は、日本一の[[ソープランド]]街「[[吉原 (東京都)|吉原]]」があり、[[風俗店]]へ出入りする人でにぎわう。隣の[[竜泉 (台東区)|竜泉]]には、[[樋口一葉]]の代表作「[[たけくらべ]]」の舞台となったことにちなんで作られた[[一葉記念館]]がある。 ===人口=== {{人口統計|code=13106|name=台東区|image=Population distribution of Taito, Tokyo, Japan.svg}} ====昼夜間人口==== 2005年に夜間人口(居住者)は163,528人であるが、区外からの[[通勤]]者と[[通学]]生および居住者のうちの区内に昼間残留する[[人口]]の合計である[[昼間人口]]は303,522人で[[昼]]は[[夜]]の1.856倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』より。国勢調査では[[年齢]]不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)。 ==歴史== ===沿革=== ;昭和 *[[1947年]]([[昭和]]22年)[[3月15日]] - 東京都行政区の[[下谷区]]と[[浅草区]]が合併し、'''台東区'''が誕生。 *[[1950年]](昭和25年)[[3月10日]] - [[台東会館事件]]。 *[[1951年]](昭和26年)[[3月21日]] - [[浅草米兵暴行事件]]。 *[[1985年]](昭和60年)[[11月29日]] - [[国電同時多発ゲリラ事件]]。 == 行政 == === 区長 === *区長:[[服部征夫]]([[2015年]]3月2日就任、3期目。元[[東京都議会]]議員) **任期:2023年(令和5年)4月23日 - 2027年(令和9年)4月22日<ref>{{Cite web|和書|title=任期満了日(定数)一覧 {{!}} 東京都選挙管理委員会 |url=https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/election/schedule/expiration/ |website=www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp |access-date=2023-05-02}}</ref> === 政策 === ;特色ある事業 * 新婚家庭家賃補助制度 * 全国初の2階バス定期路線(上野・浅草間) === 批判 === 2019年10月12日 [[令和元年東日本台風]](台風19号)により、日本国内で甚大な被害を被ったが、台東区の区民向け避難所で区職員が[[路上生活者]](ホームレス)の受け入れを拒否した為、国会でも15日参院予算委員会にて取り上げられる問題となった<ref>ホームレス避難所追い返し問題を安倍総理に言及され台東区が謝罪 https://dot.asahi.com/articles/-/118633?page=2</ref>。 台東区は、同台風の接近に伴って11日午後5時半以降、区内4カ所に避難所を開設した。その後、12日に避難所の一つ区立忍岡小の避難所を訪れた路上生活者の2人に対し、区職員が受付のため紙に住所と氏名などを書くよう求め、路上生活者の2人は台東区内に住所がないことを申告すると区職員は区民のための避難所であることを理由に路上生活者2名を追い返した。 このことが明るみに出ると、13日以降様々なメディアで取り上げられたが、台東区はメディアの取材に対し「防災計画では区の避難所は区民しか利用できない」<ref>台東区長、ホームレス拒否で謝罪 台風避難所、「対応が不十分」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191015-00000178-kyodonews-soci</ref>「ホームレスらへの対応は今後の検討課題」などとコメントをするが、問題は紛糾し、[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]の[[森裕子]]参院議員が15日午前の参院予算委員会で<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=9dU7tAgh8xY 「すべての被災者を」ホームレス受け入れ拒否で総理(19/10/15)] Youtube 2019年10月15日配信</ref>[[安倍晋三]]総理大臣に「今回の台東区避難所、ホームレスを受け入れ拒否をしたという問題、どうお考えか」と質問をすると、安倍総理大臣は「各避難所においては避難したすべての被災者を適切に受け入れることが望ましい」と答弁した。 台東区は15日夕方、区長の声明を発表<ref>台風19号に関する避難所での対応について区長コメント http://www.city.taito.lg.jp/index/release/201910/press1015.html</ref>し、「この度の台風19号の際に、避難所での路上生活者の方に対する対応が不十分であり、避難できなかった方がおられた事につきましては、大変申し訳ありませんでした。また、この件につきまして区民の皆様へ大変ご心配をおかけいたしました。台東区では今回の事例を真摯に受け止め、庁内において検討組織を立ち上げました。関係機関などとも連携し、災害時に全ての方を援助する方策について検討し、対応を図ってまいります」と謝罪した。 == 議会 == === 台東区議会 === {{main|台東区議会}} * 定数:32人 * 任期:2019年5月1日 - 2023年4月30日<ref name="任期満了日">[http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/schedule/schedule04.html 東京都選挙管理委員会 | 都内選挙スケジュール | 任期満了日(定数)一覧] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20151119222128/http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/schedule/schedule04.html |date=2015年11月19日 }}</ref> * 議長:水島道徳(たいとうフロンティア) * 副議長:早川太郎(つなぐプロジェクト) {| class="wikitable" |- !会派名!!議員数!!議員名(◎は幹事長)!!所属党派 |- |台東区議会[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]||8|| ◎太田雅久、拝野健、岡田勇一郎、望月元美、和泉浩司、石塚猛、髙森喜美子、石川義弘||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |- |たいとうフロンティア||7|| ◎堀越秀生、掛川暁生、青柳雅之、中嶋恵、河野純之佐、水島道徳、河井一晃||[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]、[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]、[[無所属]] |- |台東区議会[[公明党]]||5|| ◎小坂義久、寺田晃、松尾伸子、小菅千保子、中澤史夫||[[公明党]] |- |つなぐプロジェクト||3|| ◎青鹿公男、本目さよ、早川太郎||無所属 |- |[[日本共産党]]台東区議団||3|| ◎秋間洋、伊藤延子、鈴木昇||[[日本共産党]] |- |[[都民ファーストの会]]台東区議団||2|| ◎中村謙治郎、村上浩一郎、||[[都民ファーストの会]] |- |いぶきの会||2|| ◎田中宏篤、松村智成||無所属 |- |未来台東||1|| ◎山口銀次郎||無所属 |- !計!!31!!!! |} === 東京都議会 === ;2021年東京都議会議員選挙 * 選挙区:台東区選挙区 * 定数:2人 * 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日 * 投票日:2021年7月4日 * 当日有権者数:166,325人 * 投票率:42.91% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 鈴木純 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 39 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 17,595票 |- | 保坂真宏 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 47 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 16,373票 |- | 中山寛進 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 49 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 現 || 15,028票 |- | 小柳茂 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 48 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 新 || 12,163票 |- | 柴田啓也 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 44 || 日本維新の会 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 6,145票 |- | 津村大作 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 47 || 諸派 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 1,583票 |- | 武田完兵 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 73 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 779票 |} ;2017年東京都議会議員選挙 * 選挙区:台東区選挙区 * 定数:2人 * 任期:2017年7月23日 - 2021年7月22日 * 投票日:2017年7月2日 * 当日有権者数:157,714人 * 投票率:51.46% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 保坂真宏 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 43 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 29,838票 |- | 中山寛進 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 45 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 現 || 19,990票 |- | 和泉浩司 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 60 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 16,630票 |- | 小柳茂 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 44 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 新 || 12,343票 |- | 武田完兵 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 69 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 686票 |} === 衆議院 === ;東京都第2区 * 選挙区:[[東京都第2区|東京2区]]([[中央区 (東京都)|中央区]]、[[港区 (東京都)|港区]]の一部、[[文京区]]、台東区の一部) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:463,165人 * 投票率:60.82% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[辻清人]] || align="center" | 42 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 119,281票 || align="center" | ○ |- | || [[松尾明弘]] || align="center" | 46 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || align="right" | 90,422票 || align="center" | ○ |- | || [[木内孝胤]] || align="center" | 55 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 元 || align="right" | 45,754票 || align="center" | ○ |- | || 北村造 || align="center" | 38 || [[れいわ新選組]] || align="center" | 新 || align="right" | 14,487票 || align="center" | ○ |- | || 出口紳一郎 || align="center" | 48 || [[無所属]] || align="center" | 新 || align="right" | 4,659票 || |} ;東京都第14区 * 選挙区:[[東京都第14区|東京14区]](台東区の一部、[[墨田区]]、[[荒川区]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:465,702人 * 投票率:55.96% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[松島みどり]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 65 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 108,681票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | || [[木村剛司]] || style="text-align:center;" | 50 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 元 || style="text-align:right;" | 80,932票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || 西村恵美 || style="text-align:center;" | 58 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 49,517票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || 梁本和則 || style="text-align:center;" | 58 || [[無所属]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 5,845票 || |- | || 竹本秀之 || style="text-align:center;" | 65 || 無所属 || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 3,364票 || |- | || 大塚紀久雄 || style="text-align:center;" | 80 || 無所属 || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 2,772票 || |} ==国家機関== ===法務省=== *[[東京法務局]]台東出張所 ===財務省=== ;[[国税庁]] *[[東京国税局]] **東京上野税務署(三重県伊賀市の上野税務署と区別するため、「東京」を冠した。現在地移転前は「下谷税務署」。) **[[東京国税局#東京都|浅草税務署]] ==東京都の機関== *東京都台東都税事務所 ==警察== ;本部 *[[警視庁]]第六方面本部:警視庁の[[警視庁#第六方面|第六方面]]を統括する。本部内には青少年対策センターが付属されており、浅草署や上野署はここの管理下に入る。本部の[[建物]]は台東区東浅草に所在。 ;警察署 *[[浅草警察署]] *[[上野警察署]] *[[下谷警察署]] *[[蔵前警察署]] ==消防== ;本部 *[[東京消防庁]][[東京消防庁第六消防方面本部|第六方面本部]](蔵前二丁目10-9) ;消防署 *上野消防署(東上野五丁目2-9)[[特別救助隊]]・[[救急隊]]1 **下谷出張所(下谷二丁目13-1)救急隊1 **谷中出張所(谷中一丁目1-25)[[特別消火中隊]]・救急隊無 *浅草消防署(駒形一丁目5-8)特別消火中隊・救急隊1 **浅草橋出張所(浅草橋三丁目10-5)救急隊1 *日本堤消防署(千束四丁目1-1)特別消火中隊・救急隊1 **二天門出張所(浅草二丁目35-9)救急隊無 **今戸出張所(今戸二丁目33-3)救急隊1 ==医療== ;主な病院 * 上野病院 * [[ライフ・エクステンション研究所付属永寿総合病院|永寿総合病院]]:旧西町小学校の跡地に出来たヘリポートを擁する病院 * [[浅草病院]] * [[浅草寺病院]]:[[浅草寺]]が運営する。[[2004年]](平成16年)に改築された * [[東京都台東区立台東病院]]:[[2009年]](平成21年)4月1日、旧[[東京都立台東病院]]の場所に新設。東京23区初の区立病院 == 図書館 == *[[台東区立中央図書館]](生涯学習センター) *: 区内利用者数一位の大規模集積型図書館。大きさとしては地方都市の市立図書館クラス。蔵書だけで3フロア以上を占め、1フロアには「池波正太郎記念室」と題した、地元出身の小説家・[[池波正太郎]]の蔵書専用コーナーがある。2フロアの奥には郷土資料室があり、調べ物ができる。CD・DVD・ビデオソフトなどの貸し出しも実施している。外装・内装は近未来的なもので、4フロア吹き抜けのエレベーターホールがある。 * 石浜図書館 *: 公立図書館。中高生向けの自習室などもある。 * 根岸図書館 *: 公立図書館。自治体運営型小規模タイプのもの。 * 中央図書館浅草橋分室 ==運動施設== *[[台東リバーサイドスポーツセンター]] *: 基本的に区立運営だが、一部民間企業に業務を委託している。体育施設としては[[陸上競技場]]、隅田プール、運動休憩場、区営[[野球場]]、サイクリングコース、体育館など完備しており充実した内容となっている。しかし、規模はそれほど大きくない。 *: 主な特徴として桜橋や隅田川を挟んで墨田区と隣接しており、センターのすぐ側には桜を一望できる穴場がある。また隅田公園とも隣接しており、アスレチック施設なども楽しめる。 * 清島温水プール * 柳北スポーツプラザ ==対外関係== ===姉妹都市・提携都市=== ====海外==== ;姉妹都市 *{{flagicon|AUS}}ノーザンビーチ(旧[[マンリー・カウンシル|マンリー]])([[オーストラリア連邦]] [[ニューサウスウェールズ州]]) - [[1982年]]([[昭和]]57年) *{{flagicon|AUT}}[[インネレシュタット (ウィーン)|インネレシュタット区]]([[オーストリア共和国]] [[都市州]] [[ウィーン]]第1区) - [[1989年]]([[平成]]元年) *{{flagicon|DEN}}[[グラッドサクセ]]([[デンマーク|デンマーク王国]] [[デンマーク首都地域|首都地方]]) - [[2001年]](平成13年) ====国内==== ; 姉妹都市 * {{flagicon|東京都}}[[墨田区]]([[関東地方]] [[東京都]])- [[1977年]]([[昭和]]52年)[[4月10日]] * {{flagicon|宮城県}}[[大崎市]]([[東北地方]] [[宮城県]])- [[1984年]](昭和59年)[[1月14日]] ; 友好都市 * {{flagicon|長野県}}[[諏訪市]]([[中部地方]] [[長野県]])- [[1984年]](昭和59年)[[7月10日]] * {{flagicon|栃木県}}[[日光市]]([[関東地方]] [[栃木県]])- [[1985年]](昭和60年)[[5月10日]] * {{flagicon|福島県}}[[南会津町]]([[東北地方]] [[福島県]])- [[1986年]](昭和61年)[[10月8日]] * {{flagicon|福島県}}[[会津美里町]]([[東北地方]] [[福島県]])- [[1986年]](昭和61年)[[11月21日]] * {{flagicon|大分県}}[[豊後大野市]]([[九州地方]] [[大分県]])- [[1987年]](昭和62年)[[12月10日]] * {{flagicon|山形県}}[[村山市]]([[東北地方]] [[山形県]])- [[2008年]]([[平成]]20年)[[10月25日]] ==経済== ===第三次産業=== ====商業==== ;主な大型店舗 * [[松坂屋]]上野店 * [[アトレ]]上野 * [[丸井]](マルイシティ)上野 * [[松屋 (百貨店)|松屋]]浅草店 * [[アブアブ赤札堂|ABAB]]上野 * [[東天紅 (企業)|東天紅]]上野店 * 上野グリーンサロン * [[多慶屋]] * [[浅草ROX]] * [[吉池]] * [[シモジマ]]浅草橋本店など ===区内に本社を置く企業=== {{Div col}} * [[浅草今半]] * [[栄研化学]] * [[エス・イー・シーエレベーター]] * [[エポック社]] * [[梶原工業]] * [[加藤美蜂園本舗]](サクラ印ハチミツ) * [[金の星社]] * [[クミアイ化学工業]]([[農業協同組合|JA]]グループ) * [[神戸らんぷ亭]] * [[コンビ (企業)]] * [[ジェントス]] * [[シモジマ]] * [[SHOEI]] * [[新星出版社]] * [[セガトイズ]] * [[太陽誘電]] * [[丹青社]] * [[筑摩書房]] * [[つぼ八]](登記上の本店は[[札幌市]][[南区 (札幌市)|南区]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ) * [[ひよ子#株式会社東京ひよ子|東京ひよ子]] * [[東天紅 (企業)|東天紅]] * [[日水製薬]]([[島津製作所]]グループ) * [[日本電設工業]] * [[日本農業新聞]](JAグループ) * [[日本マタイ]] * [[ハインツ#日本|ハインツ日本]] * [[白元アース]] * [[ハピネット]] * [[バンダイ]] * [[日立建機]] * [[富士興産]] * [[プラチナ萬年筆|プラチナ万年筆]] * [[平和 (パチンコ)|平和]] * [[ベンチャー・リンク]] * [[ライオン (企業)|ライオン]](2023年1月1日、[[墨田区]][[本所 (墨田区)|本所]]から移転) * [[宮本卯之助商店]] * [[鮒佐]] * [[ムラサキスポーツ]] * [[ライフコーポレーション]] {{Div col end}} ===区内に拠点を置く企業=== *[[パイロットインキ]]東京営業所兼玩具事業部 ==情報通信== ===マスメディア=== ====放送局==== ;ケーブルテレビ *[[J:COM すみだ・台東|J:COM 台東]] ==教育== ===大学=== ;国立 *[[東京芸術大学]] ;私立 *[[上野学園大学]] ===短大=== ;私立 *[[上野学園大学短期大学部]] ===高等学校=== ;国立 *[[東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校]] ;都立 *[[東京都立白鷗高等学校・附属中学校|東京都立白鷗高等学校]]([[2005年]](平成17年)、都立高初の付属中学校を併設。) *[[東京都立上野高等学校]] *[[東京都立忍岡高等学校]] *[[東京都立浅草高等学校]] *[[東京都立蔵前工科高等学校]] ;私立 *[[岩倉高等学校]] *[[上野学園中学校・高等学校|上野学園高等学校]] === 中学校 === ;都立 * [[東京都立白鷗高等学校・附属中学校|東京都立白鷗中学校]](都立白鷗高校附属) ;区立 * [[台東区立御徒町台東中学校]] *: 近年は生徒会活動が活発で自由闊達な校風である。 * [[台東区立柏葉中学校]] *: 陸上競技に力を入れており生徒が都大会出場などの成績を残している。 * [[台東区立上野中学校]] *: 上野公園がすぐ近くである。 * [[台東区立忍岡中学校]] *: 9代目[[林家正蔵 (9代目)|林家正蔵]]、[[坂井真紀]]が卒業した中学校として有名である。 *: 校則が細かく厳しく学習に力を入れている伝統校である。 *: 2013年には在校生が水泳で全国制覇、陸上競技で全国大会出場した。 * [[台東区立浅草中学校]] *: 区内で一番生徒数が多い中学校。 * [[台東区立桜橋中学校]] *: 隅田川沿いにある。リバーサイドスポーツセンターに隣接している。 * [[台東区立駒形中学校]] *: スポーツに力を入れている。 全7校 ;私立 * [[上野学園中学校・高等学校|上野学園中学校]] ; 閉鎖された中学校 * 台東区立蔵前中学校 *: 1991年台東区立福井中学校との合併により台東区立浅草中学校になり閉校。 * 台東区立福井中学校 *: 1991年台東区立蔵前中学校との合併により台東区立浅草中学校になり閉校。 * 台東区立台東中学校 *:[[安達祐実]]、[[野口五郎]]が在学していた。 *: 2002年台東区立御徒町中学校との合併により台東区立御徒町台東中学校になり閉校。 *台東区立御徒町中学校 *:[[萩本欽一]]、[[原田龍二]]が在学していた。 *:2002年台東区立台東中学校との合併により台東区立御徒町台東中学校になり閉校。 *[[台東区立下谷中学校]] *: 2002年台東区立竜泉中学校との合併により台東区立柏葉中学校になり閉校。 *[[台東区立竜泉中学校]] *: 2002年台東区立下谷中学校との合併により台東区立柏葉中学校になり閉校。 *:日本テレビ系列の土曜ドラマなどの撮影場所としても多く利用されていた。[[野ブタ。をプロデュース]]、[[ギャルサー]]など。 * 台東区立蓬莱中学校 *: 2002年台東区立今戸中学校との合併により台東区立桜橋中学校になり閉校。 * 台東区立今戸中学校 *: 2002年台東区立蓬莱中学校との合併により台東区立桜橋中学校になり閉校。 === 小学校 === ;区立 : 台東区の区立小学校は区の方針で標準服(制服)を着用させている。 *[https://taito.ed.jp/swas/index.php?id=1310212 台東区立上野小学校] *: 伝統ある台東区立清島小学校と台東区立下谷小学校が合併して新設された小学校。 *:校歌の歌詞は、在校生全員、保護者、地域住民の案を基に、各学級代表児童が指導者の[[永六輔]]と数回の対話集会を設けて創り上げた。 *: 2019年に創立30周年を迎えた。 * [[台東区立根岸小学校]] *: [[1871年]]、[[加賀藩|金沢藩]]主前田氏等の寄付金を基に創立した歴史ある学校。付属の[[幼稚園]]も[[1889年]](明治22年)創立の伝統を誇る。 *: 荒川区と台東区の境目にある。 * [[台東区立富士小学校]] *: 区内ではもっとも児童数が多い。[[1900年]](明治33年)開校、[[校歌]]は[[中山晋平]]作曲。 *[[台東区立松葉小学校]] *: 100年以上の歴史を持つ伝統ある小学校。校舎の色がカラフルである。[[安達祐実]]が在学していた。 *: 台東区立上野小学校から徒歩5分ほどの場所に位置する。 {{columns-list|3| * 台東区立平成小学校 * [[台東区立東泉小学校]] * [[台東区立忍岡小学校]] * 台東区立谷中小学校 * [[台東区立金曽木小学校]] * [[台東区立黒門小学校]] * 台東区立大正小学校 * [[台東区立浅草小学校]] * 台東区立台東育英小学校 * [[台東区立蔵前小学校]] * 台東区立東浅草小学校 * [[台東区立千束小学校]] * [[台東区立石浜小学校]] * 台東区立田原小学校 * [[台東区立金竜小学校]] }} 全19校 ; 閉鎖された小学校 * 台東区立下谷小学校 *: 1990年に台東区立清島小学校との合併により閉校。[[2009年]](平成21年)[[3月]]まで[[岩倉高等学校]]下谷校舎として使用されていた。 * 台東区立清島小学校 *: 1990年に台東区立下谷小学校との合併により閉校。現上野小学校の場所に位置していた小学校。 * 台東区立二長町小学校 *: 1990年に台東区立竹町(現:平成)小学校との合併により閉校。 * 台東区立竹町小学校 *: 1990年に台東区立二長町小学校との合併により閉校。 *台東区立坂本小学校 *: 1996年に台東区立大正小学校へ統合し閉校。 * 台東区立西町小学校 *: 1998年に台東区立竹町(現:平成)小学校との合併により閉校。[[天海祐希]]が在学していた。跡地には永寿総合病院が移転。 * 台東区立育英小学校 *: [[村治佳織]]を輩出した創立130周年の歴史ある小学校だったが、台東区立柳北小学校との合併により[[2001年]](平成13年)に閉校。 * 台東区立柳北小学校 *: 創立120周年以上の歴史ある小学校で、台東区立育英小学校との合併により2001年に閉校。 * 台東区立待乳山小学校 *: 2001年に創立128周年で台東区立田中小学校との合併により閉校。 *[[台東区立田中小学校]] *: 2001年に台東区立待乳山小学校との合併により閉校。 *台東区立精華小学校 *: 2003年に[[台東区立蔵前小学校]]との合併により閉校。 *台東区立小島小学校 *: 2003年に[[台東区立蔵前小学校]]との合併により閉校。現在は有名なアトリエとして利用されている。 * 台東区立済美小学校 *: 2003年に台東区立精華(現:蔵前)小学校との合併により閉校。 * 台東区立台東小学校 *:[[2005年]](平成17年)に台東区立金曽木小学校との合併により閉校。校名は旧[[下谷区]]時代からのもの。上述の通り、当区成立の際に区名決定の参考とされた。 === 幼稚園 === ; 区立 * 根岸幼稚園 * 竹町幼稚園 * 大正幼稚園 * 清島幼稚園 * 富士幼稚園 * 千束幼稚園 * [[台東区立金竜幼稚園|金竜幼稚園]] * 田原幼稚園 * 台桜幼稚園 * 育英幼稚園 ; 私立 * 寛永寺幼稚園 * 浅草寺幼稚園 * [[台東初音幼稚園]] * [[谷中幼稚園]] * 徳風幼稚園 * 仰願寺幼稚園 * 蔵前幼稚園 ; 認定こども園 * 石浜橋場こども園(旧・区立石浜幼稚園及び区立橋場保育園) * ことぶきこども園(旧・済美幼稚園) * たいとうこども園(旧・台東幼稚園) ; 閉鎖された幼稚園 * 明和学園幼稚園(私立) === その他の教育機関 === * [[JTJ宣教神学校]] ==交通== {{Vertical_images_list |幅 = 200px |画像1 = 台東区(東京都)区内と周辺の鉄道路線図.png |説明1 = 区内と周辺の鉄道路線図<br />{{Color|#FFFFFF|■}} |画像2 = Ueno Station at night 20191130.jpg |説明2 = 上野駅 |画像3 = 7 Chome-1 Ueno, Taitō-ku, Tōkyō-to 110-0005, Japan - panoramio.jpg |説明3 = 上野駅パンダ橋 }} === 鉄道 === ; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) :* [[File:Shinkansen jre.svg|16px]] [[東北新幹線|東北]]・[[山形新幹線|山形]]・[[秋田新幹線|秋田]]・[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線]] :** [[上野駅]] :* [[ファイル:JR JY line symbol.svg|17px|JY]] [[ファイル:JR JK line symbol.svg|17px|JK]] [[山手線]]・[[京浜東北線]] :** [[御徒町駅]] - [[上野駅]] - [[鶯谷駅]] - [[日暮里駅]]:日暮里駅は荒川区と台東区にまたがって存在している。(日暮里駅の住所は荒川区) :* [[ファイル:JR JU line symbol.svg|17px|JU]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]] :** 上野駅 :* [[ファイル:JR JJ line symbol.svg|17px|JJ]] [[常磐線]]・[[常磐線快速]] :** 上野駅 - 日暮里駅:常磐線は線路名称上は日暮里駅が起点である。 :* [[ファイル:JR JB line symbol.svg|17px|JB]] [[中央・総武緩行線|総武緩行線]] :** [[浅草橋駅]] :* なお、[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]が[[馬喰町駅]] - [[錦糸町駅]]間で当区(浅草橋駅の南東側)を地下で通過している。 ; [[東京地下鉄]](東京メトロ) :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|17px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] :** [[上野広小路駅]] - 上野駅 - [[稲荷町駅 (東京都)|稲荷町駅]] - [[田原町駅 (東京都)|田原町駅]] - [[浅草駅]] :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|17px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] :** [[仲御徒町駅]] - 上野駅 - [[入谷駅 (東京都)|入谷駅]] - [[三ノ輪駅]] :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|17px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] :** [[湯島駅]] - [[根津駅]]間および[[千駄木駅]] - [[西日暮里駅]]間でそれぞれ当区を通過するだけで{{疑問点範囲|駅は無い|date=2023年12月}}。なお、上野動物園へは根津駅(文京区)からも利用可能。湯島、根津、千駄木のいずれの駅は台東区に近接している。 ; [[東京都交通局]] :* [[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|17px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]] :** 浅草橋駅 - [[蔵前駅]] - 浅草駅 :* [[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|17px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]] :** [[上野御徒町駅]] - [[新御徒町駅]] - 蔵前駅 ; [[京成電鉄]] :* [[ファイル:Number prefix Keisei.svg|17px|KS]] [[京成本線|本線]] :** [[京成上野駅]]:かつては[[博物館動物園駅]]もあったが、廃止された。 ; [[東武鉄道]] :* [[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|17px|TS]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](東武スカイツリーライン) :** 浅草駅 ; [[首都圏新都市鉄道]]([[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]) ::* 新御徒町駅 - [[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|浅草駅]] ==== 廃線 ==== ; [[東京都交通局]] :* {{Color|red|■}} [[東京都交通局上野懸垂線|上野懸垂線]]([[モノレール]]、恩賜上野動物園内) :** [[東京都交通局上野懸垂線の駅#上野動物園東園駅|上野動物園東園駅]] - [[東京都交通局上野懸垂線の駅#上野動物園西園駅|上野動物園西園駅]] ===バス=== [[File:Megurin-1090.jpg|thumb|180px|東西めぐりん(エアロミディME)]] ====路線バス==== * [[都営バス]] ** 上01系統(東大構内 - 東大病院 - 上野公園山下(循環)) ** 都02系統(大塚駅 - 春日駅 - 御徒町駅 - 錦糸町駅) ** 都08系統(日暮里駅 - 東武浅草駅 - 押上 - 錦糸町駅) ** 里22系統(日暮里駅 - 三河島駅 - 泪橋 - 亀戸駅) ** 上23系統(上野松坂屋前 - 上野駅 - 浅草寿町 - 押上 - 平井駅) ** 草24系統(浅草寿町 - 亀戸駅 - 東大島駅) ** 上26系統(上野公園 - 奥浅草 - とうきょうスカイツリー駅 - 亀戸駅) ** 草39系統(上野松坂屋前 - 上野駅 - 浅草寿町 - 青戸車庫 - 金町駅) ** 草41系統(浅草寿町 - 鴬谷駅 - 町屋駅 - 足立梅田町) ** 東42-1系統(南千住駅西口・南千住車庫 - 東武浅草駅 - 浅草橋駅 - 東京駅八重洲口) ** 東42-2系統(南千住駅西口・南千住車庫 - 東武浅草駅 - 浅草橋駅 - 東神田) ** 東42-3系統(南千住車庫 - 東武浅草駅 - 浅草雷門) ** 草43系統(浅草雷門・浅草寿町 - 三ノ輪駅 - 千住車庫 - 足立区役所) ** 上46系統(上野松坂屋前 - 上野駅 - 浅草寿町 - 南千住車庫/南千住駅東口) ** 上58系統(上野松坂屋前 - 根津駅 - 江戸川橋 - 早稲田) ** 上60系統(上野公園 - 根津駅 - 春日駅 - 大塚駅 - 池袋駅東口) ** 草63系統(浅草寿町・雷門一丁目 - 三ノ輪駅 - 西日暮里駅 - 巣鴨駅 - 池袋駅東口) ** 草64系統(浅草雷門南 - 新三河島駅 - 尾久 - 王子駅 - 池袋駅東口/巣鴨とげぬき地蔵) ** 上69系統(小滝橋車庫 - 高田馬場駅 - 早稲田 - 春日駅 - 上野公園(循環)) * [[京成タウンバス]] ** 有01系統(浅草寿町 - 堀切菖蒲園駅 - 亀有駅)※土休日のみ運行 ** 新小59系統(浅草寿町 - 東京スカイツリータウン前 - 新小岩駅東北広場)※土休日のみ運行 * [[東武バスセントラル]] ** スカイツリーシャトル(上野駅公園口 - 浅草地区 - 東京スカイツリータウン) '''台東区循環バス[[めぐりん (台東区)|めぐりん]]'''(台東区が運営し、[[日立自動車交通]](日立)と京成バス(京成)に運行を委託) * 北めぐりん(浅草回り)(日立) * 北めぐりん(根岸回り)(日立) * 南めぐりん(日立) * 東西めぐりん(日立) * ぐるーりめぐりん(京成) ====都市間バス==== '''[[高速バス]]''' * [[ジェイアールバス関東|JRバス関東]] 上野駅入谷口発着で[[御殿場プレミアム・アウトレット]]へ運行。 '''[[夜行高速バス]]''' * [[京成バス]] 京成上野駅発着で奈良・天理へ運行。 * [[成田空港交通]] 京成上野駅発着で堺・和歌山、松本・長野へ運行。 * [[千葉中央バス]] 京成上野駅発着で滋賀・京都へ運行。 * [[東北急行バス]] 上野駅前、東武浅草駅発着で山形、新庄、京都・大阪、岡山・倉敷、金沢へ運行。 * [[弘南バス]] 上野駅前発着で八戸・弘前・青森へ運行。 * [[国際興業バス]]・[[岩手県交通]] 上野駅前発着で遠野・釜石、鶴岡・酒田へ運行。 その他に[[いわき市]]・[[北茨城市]]・[[東海村]]・[[ひたちなか市]]、[[常陸太田市]]・[[大子町]]・[[常陸大宮市]]・[[那珂市]]などから東京駅行き、[[バスタ新宿]]行きの高速バスで浅草駅、上野駅で降車できる。 '''[[日本の深夜バス|深夜急行バス]]''' * [[東武バスセントラル]] 京成上野駅→春日部駅 * 東武バスセントラル 京成上野駅→柏駅・我孫子駅 * [[成田空港交通]] 京成上野駅→松戸駅・千葉ニュータウン中央駅・成田空港 '''[[リムジンバス]]''' * [[東京空港交通]] 浅草ビューホテル - [[成田空港]] * [[東京空港交通]] 浅草ビューホテル - [[羽田空港]] ===道路=== ====高速道路==== * [[首都高速1号上野線]] ** 上野出入口 ** 入谷出入口 ====国道==== * [[国道4号]] **[[北千住]]・[[越谷市|越谷]]・[[春日部市|春日部]]・[[久喜市|久喜]]・[[古河市|古河]]・[[小山市|小山]]・[[宇都宮市|宇都宮]]方面 * [[国道6号]] **[[四ツ木]]・[[松戸市|松戸]]・[[柏市|柏]]・[[我孫子市|我孫子]]・[[取手市|取手]]・[[土浦市|土浦]]・[[石岡市|石岡]]・[[水戸市|水戸]]方面 ====都道==== * [[言問通り]] * [[東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線|不忍通り]] * [[明治通り (東京都)|明治通り]] * [[昭和通り (東京都)|昭和通り]] * [[中央通り (東京都)|中央通り]] * [[江戸通り]] * [[清洲橋通り]] * [[東京都道・埼玉県道58号台東川口線|尾久橋通り]] * [[尾竹橋通り]] * 吉野通り([[東京都道464号言問橋南千住線]]) ===航路=== ====水上バス路線==== [[File:Tokyo Cruise Ship Himiko.jpg|180px|thumb|浅草・お台場ラインを運航しているヒミコ]] '''[[東京都観光汽船]]''' * 隅田川ライン * 浅草・お台場直通ライン ** 浅草発着所 '''[[東京都公園協会]]''' * [[東京水辺ライン]] ** 桜橋発着場 === ナンバープレート === 台東区は、足立ナンバー([[東京運輸支局]])を割り当てられており、『23区東部』の地域と一致する。 足立ナンバー割り当て地域は、台東区・江戸川区・足立区・墨田区・荒川区<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/s_tokyo/map_riku.html 東京運輸支局管轄区域] [[国土交通省]][[関東運輸局]]</ref>。 ==観光== ===名所・旧跡=== ====神社==== ;主な神社 *[[秋葉神社 (台東区)|秋葉神社]] *[[浅草神社]] *[[今戸神社]] *[[上野東照宮]] *[[小野照崎神社]] - 境内に「下谷坂本の[[富士塚]]」([[重要有形民俗文化財]])がある。 *[[下谷神社]] *[[鳥越神社]] *[[鷲神社 (台東区)|鷲神社]] ====寺院==== ;主な寺院 *[[浅草寺]] *[[寛永寺]] **[[弁天島 (台東区)|不忍弁天堂]] *[[西徳寺]] *[[真源寺]](入谷鬼子母神) *[[正宝院 (台東区)|正宝院]](飛不動尊) *[[徳大寺]](下谷摩利支天) *[[天王寺 (台東区)|天王寺]] *[[東本願寺 (台東区)|浄土真宗東本願寺派本山東本願寺]] *[[永昌寺 (台東区)|永昌寺]] - 浄土真宗の寺。講道館柔道発祥ゆかりの寺 *[[観音寺 (台東区)|観音寺]](谷中の[[築地塀]]) *[[本龍院]](待乳山聖天) ===観光スポット=== ====公園==== * [[上野恩賜公園]] - [[西郷隆盛]]像や[[サクラ]]で有名。 * [[隅田公園]] * [[花川戸公園]] * 山谷堀公園 * 今戸公園 * 谷中公園 * 千束公園 * みどりの公園 * 台東こども公園 * 水の流れる森公園 * [[入谷南公園]] * 浅草公園 - 現存しない。[[浅草寺#浅草公園]]を参照。 ====博物館・美術館・動物園==== * [[恩賜上野動物園]] * [[東京国立博物館]] * [[東京都美術館]] * [[上野の森美術館]] * [[国立西洋美術館]] * [[国立科学博物館]] * [[朝倉彫塑館]] * [[大名時計博物館]] * [[横山大観記念館]] * [[一葉記念館]] * 子規庵 * 池波正太郎記念文庫 * [[台東区立書道博物館]] * [[旧東京音楽学校奏楽堂]] ===その他=== * [[旧岩崎邸庭園]] * [[アメヤ横丁]] * [[浅草花やしき|花やしき]] * [[谷中霊園]] * [[鈴本演芸場]] * [[浅草演芸ホール]] * [[雷門]] * [[不忍池]] *[[ねぎし三平堂]] <gallery> ファイル:CRW 0941 JFR.jpg|浅草寺の雷門 ファイル:Hasuike Shinobazu No Ike01bs3200.jpg|不忍池(上野恩賜公園) ファイル:SaigoTakamori1332.jpg|西郷隆盛像(上野恩賜公園) File:Main building of the Tokyo National Museum 200610a.jpg|東京国立博物館本館 ファイル:大名時計博物館.jpg|大名時計博物館 ファイル:Iwasaki-old-house02s1024.jpg|旧岩崎邸 </gallery> ==文化・名物== ===祭事・催事=== ====祭事==== * [[浅草寺]] *: 年始の新年大祈禱会から年末の除夜の鐘まで、毎月行事が行われる。 * [[三社祭|浅草三社祭]] *: 三社とは三柱の御神体を祀るという意味で、[[浅草神社]]の別名でもある。浅草神社のご神体は浅草寺の観音様を引き上げた漁師の兄弟とそれを祀りなさいと指示した僧侶を祀っている。勢いのよさと広く全国的に有名な浅草寺の境内を持つ為、有名な祭りとされ、毎年[[新聞|新聞社]]や各テレビ局が取材に訪れる。 * [[小野照崎神社]]大祭 *: 小野照崎神社を中心に近隣十七ヶ町の氏子による祭。祭礼日は毎年[[5月19日]]より前の[[土曜日]]・[[日曜日]]と定められている。[[天照大神]]を祀っているため、格の高さは台東区内でもトップクラスの神社である。 * [[鳥越神社]]例大祭 *: [[鳥越神社]]は1360年の歴史がある古刹で、台輪幅4尺3寸という都内屈指の大きさと重さを誇る元祖千貫神輿が有名であり、毎年6月9日に近い土曜日・日曜日に行われる氏子十八ケ町睦会による夜祭りが見もの。 *: 三社祭の宮出しに対し、千貫神輿の宮入道中は見応えがある。 *: [[ヤマトタケル|日本武尊]]を祀っている。 * 今戸祭 *: [[今戸神社]]及び地区町会をあげて主催する祭。三年に一度、[[御輿]]渡御がある。 *[[下町七夕まつり]] *: 「かっぱ橋本通り」で地元商店街が開催する。 * [[入谷朝顔まつり]] *: [[真源寺|入谷鬼子母神]]の境内とその付近の歩道で開催される。 ====催事==== * [[隅田川花火大会]](7月下旬) *: [[首都圏 (日本)|首都圏]]最大級の[[花火]]大会で、全国から見物客が押し寄せ大変な賑わいとなる。毎年[[日本放送協会|NHK]]や、[[民間放送|民放]]各局が[[ヘリコプターテレビ中継システム|中継ヘリ]]にて取材を行い、[[テレビ東京]]が特別番組を放送する。 * [[浅草サンバカーニバル]] * [[したまちコメディ映画祭in台東]] *: [[2008年]](平成20年)より開催。[[雷門]]前でフォトセッション、[[浅草公会堂]]前で[[レッドカーペット]]が行われている。 * したまちコメディ大賞 [[2009年]](平成21年)より開催 * したまち演劇祭 [[2010年]](平成22年)より開催 ===名産・特産=== * 江戸千代紙 * 江戸はけ * 江戸指し物 * 革製品及び靴 === 公式キャラクター === 台東区には、地域の特色に合わせた複数のキャラクターからなる公式キャラクター'''台東くん'''が存在する<ref>[http://www.taitokun.com/ 台東区のまもり神 「台東くん」 公式サイト]</ref>。 ==出身関連著名人== ===出身著名人=== ''旧浅草区、旧下谷区の出身有名人については[[浅草区]]、[[下谷区]]を参照'' * [[新井見枝香]](書店員・エッセイスト・踊り子) * [[末高信]]([[経営学|経営学者]]) * [[渥美清]]([[俳優]]、[[コメディアン]]) * [[石井ふく子]](テレビプロデューサー、演出家) * [[髙寺成紀]](特撮プロデューサー) * [[いずみたく]]([[作曲家]]) * [[伊東四朗]](俳優、[[喜劇役者]]) * [[永六輔]]([[放送作家]]) * [[江利チエミ]]([[歌手]]・[[俳優|女優]]) * [[大沢悠里]]([[フリーアナウンサー]]、元[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー) * [[大宮敏充]](コメディアン、俳優) * [[岡野俊一郎]]([[サッカー選手]]、[[サッカー]][[監督]]、元[[日本サッカー協会]]会長、元全国[[ラジオ体操]]連盟会長) * [[岡村陽久]]([[アドウェイズ]]創業者) * [[金子信雄]]([[俳優]]・[[料理研究家]]・[[司会者]]・タレント) * [[唐十郎]](劇作家、演出家、俳優、小説家) * [[河内桃子]]([[俳優|女優]]) * [[小島功]]([[漫画家]]) * [[三遊亭圓楽 (5代目)]] ([[落語家]]) * [[すぎやまこういち]]([[作曲家]]) * [[荒木経惟]]([[写真家]]) * [[高橋伸夫 (地理学者)|高橋伸夫]]([[地理学者]]) * [[鈴木正崇]]([[文化人類学|文化人類学者]]) * [[滝田ゆう]]([[漫画家]]) * [[丹下キヨ子]](歌手・女優) * [[山田二郎 (アナウンサー)|山田二郎]](フリーアナウンサー、元[[日本放送協会|NHK]]→TBSアナウンサー) * [[山田太一 (脚本家)|山田太一]]([[脚本家]]) * [[荒俣宏]]([[博物学]]研究家・[[翻訳家]]・[[タレント]]) * [[小出裕章]](自然科学者〈[[原子力工学]]〉) * [[大島泰郎]](生化学者) * [[森田豊]]([[医師]]、[[ジャーナリスト]]) * [[佐々木大輔 (実業家)|佐々木大輔]]([[freee]]創業者・社長) * [[菊川章陽]]([[書家]]) * [[栗原正尚]]([[漫画家]]) * [[山田太郎 (歌手)|山田太郎]]([[歌手]]) * [[松井孝夫]]([[作詞家|作詞]]、[[作曲家]]) * [[ロイ・ジェームス]](タレント、俳優) * [[河内淳一]]([[ギタリスト]]) * [[泰葉]]([[シンガーソングライター]]・タレント) * [[矢口壹琅]](プロレスラー、ミュージシャン、俳優) * [[浅倉大介]]([[作曲家]]・[[音楽プロデューサー]]・[[キーボーディスト]]、[[access (音楽ユニット)|access]]) * [[井ノ原快彦]](男性[[アイドル]]、[[20th Century (グループ)|20th Century]])[[品川区]]の育ち * [[小椋佳]]([[シンガーソングライター]]、[[作詞家]]、[[作曲家]]) * [[村治佳織]](ギタリスト) * [[辻香織 (歌手)|辻香織]](シンガーソングライター) * [[村治奏一]](ギタリスト) * [[長谷川時夫]]([[音楽家]]) * [[大多亮]](映像プロデューサー) * [[安達大]]([[子役]]・タレント) * [[安達祐実]](女優) * [[天海祐希]](元[[宝塚歌劇団]][[月組 (宝塚歌劇)|月組]]主演スターの女優) * [[海老名美どり]](女優) * [[岡崎友紀]](女優・歌手) * [[唐沢寿明]](俳優) * [[小林千香子]](女優) * [[坂井真紀]](女優) * [[魁三太郎]]([[俳優]]・タレント) * [[柴俊夫]](俳優) * [[須藤温子]](女優) * [[武田航平]](俳優) * [[東貴博]]([[お笑いタレント]]、[[Take2]]) * [[萩本欽一]]([[コメディアン]]) * [[林家三平 (初代)|初代林家三平]]([[落語家]]) * [[林家正蔵 (9代目)|9代目林家正蔵]](落語家、現在も居住) * [[林家三平 (2代目)|2代目林家三平]](落語家、現在も居住) * [[林家たま平]](落語家、現在も居住) *[[林家ぽん平]](落語家、現在も居住) * [[水谷彰宏]](元NHKアナウンサー) * [[三井良浩]]([[気象予報士]]) * [[山口もえ]](タレント) * [[堀部圭亮]](タレント・俳優・放送作家)放送作家としてのペンネーム「竜泉」は、出身地から取っている。 * [[江戸響博昭]]([[大相撲]][[力士]]) * [[若晃三昌]]([[大相撲]][[力士]]) * [[沼田康司]]([[ボクシング]]・元日本王者) * [[浜口京子]]([[アマチュアレスリング]]選手) * [[マギー・ミネンコ]](歌手) * [[石元太一]]([[関東連合]]元リーダー) * [[上川あや]](政治家) * [[辻清人]](政治家) * [[上田令子]](政治家) * [[木村鋭景]](プロボクサー) * [[月岡逸弥]](元[[文化放送]]アナウンサー) * [[九重佑三子]](歌手、女優) * [[山本益博]](落語評論家) * [[さもあんすがい]](タレント) * [[立花家橘之助 (2代目)|二代 立花家 橘之助]](三味線漫談家) * [[尾藤イサオ]](歌手) ===関連著名人=== ;ゆかりある人物 [[明治]]初期から[[1960年代]]まで、浅草は東京を代表する[[歓楽街]]であり、[[田谷力三]]や[[藤原義江]]などの[[浅草オペラ]]のスター、[[榎本健一]]や[[古川ロッパ]]などの[[コメディアン|喜劇人]]、[[フランス座]]などの[[ストリップティーズ|ストリップ]]劇場の幕間[[コント]]出身の渥美清、東八郎、萩本欽一、[[坂上二郎]]、[[ビートたけし]]など、特に[[演芸|大衆芸能]]の分野には浅草にゆかりが深い人物が多い。[[浅草公園六区]]を参照。 * [[井上ひさし]](劇作家・小説家) - フランス座付きの作家として出発し、幕間コントの台本などを担当した。代表を務める[[こまつ座]]の事務所、および個人事務所を柳橋一丁目に構えている。 * [[アニマル浜口]]([[プロレスラー]]) - アニマル浜口トレーニングジム、および[[アニマル浜口レスリング道場]]を浅草三丁目に構えている。 * [[屋井先蔵]]([[乾電池]]発明者) - 浅草の長屋に「屋井乾電池合資会社」を設立した。同社は現在は存在しない。 * [[後藤仁]](日本画家・絵本画家・東京藝術大学日本画専攻卒業) - 旧岩崎邸庭園の[[金唐革紙]]を復元製作する。 *[[金田利雄]]([[新鶴村]]長、[[会津商工信用組合|福島協和信用組合]]理事長) - [[1986年]][[11月21日]][[会津美里町]](旧[[新鶴村]])は台東区と[[姉妹都市|友好都市]]提携を結ぶ。 === 居住者 === * [[岡倉天心]]([[美術]]行政家・美術運動家) - 谷中初音町四丁目(現在の谷中五丁目)の旧居跡・旧前期[[日本美術院]]跡が岡倉天心記念公園となっている。 * [[朝倉文夫]](彫刻家) - 谷中初音町三丁目(現在の谷中七丁目)の旧居が[[朝倉彫塑館]]となっている。 * [[横山大観]](日本画家) - 茅町二丁目(現在の池之端一丁目)の旧居が横山大観記念館となっている。 * [[三遊亭圓朝|初代三遊亭圓朝]](落語家) - 池之端七軒町(現在の池之端二丁目)、下谷万年町一丁目(現在の東上野四丁目)、下谷車坂町(現在の上野・東上野)に住んでいた。 * [[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]](落語家) - 西黒門町(現在の上野一丁目)に住んでおり、「黒門町の師匠」と呼ばれた。現在の[[落語協会]]の事務所が旧居跡に隣接している。 * [[桂文治 (9代目)|9代目桂文治]](落語家) - 北稲荷町(現在の東上野五丁目)の長屋に住んでいた。 * [[林家彦六]](落語家、8代目[[林家正蔵]]) - 9代目桂文治と同じ北稲荷町の長屋に住んでおり、「稲荷町の師匠」と呼ばれた。 * [[正岡子規]](俳人) - 上根岸町(現在の根岸二丁目)の旧居跡が子規庵となっている。 * [[森鷗外]](小説家) - 金杉村(現在の根岸二丁目)、上野花園町(現在の池之端三丁目)に住んでいた時期がある。 * [[夏目漱石]](小説家) - 浅草諏訪町(現在の駒形一丁目)で育った。 * [[樋口一葉]](小説家) - 下谷御徒町三丁目(現在の東上野一・二丁目)、上野西黒門町(現在の上野一丁目)、下谷龍泉寺町(現在の竜泉三丁目)などに住んでいた時期がある。竜泉三丁目、旧居跡のほど近くに一葉記念館がある。 *[[藤井玄淵]](医者、初代)- 佐竹原(現在の台東区上野)に住んでいたと言われ、当時の将軍にも龍角散を献上した<ref name=daijiten>[[#大事典|『秋田人名大事典・第二版』(2000)p.486]]</ref>。 ;居住者(現在) * [[アニマル浜口]]([[ボディビル]]指導者、元[[プロレスラー]]) - [[浅草]]在住。[[2012年]][[10月26日]]には同地区を走る[[スカイツリートレイン]]の1日[[広報大使|PR大使]]に任命された<ref>{{Cite news|title=東武鉄道 大きな窓からスカイツリーを眺めて|url=https://www.youtube.com/watch?v=Gj0O1dn-zlw|publisher=[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]|date=2012-10-26|accessdate=2017-05-31}}</ref>。 * [[いとうせいこう]]([[ラップ|ラッパー]]・小説家・タレント) - 三社祭に憧れて、花川戸に移住。[[したまちコメディ映画祭in台東]] 総合プロデューサー。 * [[えのきどいちろう]]([[コラムニスト]]) * [[三遊亭好楽]](落語家)- 自宅の一角に「池之端しのぶ亭」という寄席を作る。 * [[Little Tiger]]([[ムエタイ]]世界チャンピオン)- 初代タイガーマスク・佐山聡からタイガーの名を受け、ムエタイの世界ベルトを複数獲得。本名・宮内彩香 ==台東区を舞台とした作品== ===映画=== *[[キンキンのルンペン大将]](1976年、[[東映]]) ===アニメ=== *[[しあわせソウのオコジョさん]] *[[三ツ星カラーズ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == <!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{Multimedia|台東区の画像}} {{Sisterlinks|wikt=no|b=|q=no|s=|commons=台東区|commonscat=Taito, Tokyo|n=|v=no|voy=Tokyo/Taito|species=Taito Tokyo}} * [[日本の地方公共団体一覧]] == 外部リンク == {{Osm box|r|1758888}} ; 行政 * https://www.city.taito.lg.jp/ ; 観光 * [http://www.taitocity.com/kanko/asakusa_ueno/j_guide/index.html Taito City / ASAKUSA&UENO] {{台東区の町名}} {{東京都の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たいとうく}} [[Category:台東区|*]] [[Category:東京都の特別区]] [[Category:健康都市連合]]
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地理
地理(ちり、英: Geography仏:Géographie) 「地理」という表現は古くからあり、有名なところでは漢書の『地理志(中国語版)』がある。 地理学は、地球表面の自然・人文事象の状態と、それらの相互関係を研究する学問である。地理学には、文化や民族、経済といった切り口で地域を捉える人文地理、生物の分布や河川などによる水の循環から土地を捉える自然地理、地域性や郷土史に着目する地誌の三分野がある。 「地理」は、日本の学校で設置されている、「人間の生活に影響を与える地域的、社会的な構造」を学ぶための科目である。自然環境や産業環境などを含む環境を学習対象としている。小学校および中学校においては、歴史や公民と並び、社会科の一分野である。高等学校においては、最近は「地理歴史科」という教科の中の一科目となっており、「地理A」「地理B」に細分されている。
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地理 地球上の山・川・海・陸・気候・生物・人口・集落・産業・交通・政治などの状態。 土地の周辺の状態・状況や背景の事情。 地理学のこと。→地理学 日本の学校教育での教科としての地理。→地理 (科目)、地理歴史 雑誌の名称 → 地理 (雑誌) 「地理」という表現は古くからあり、有名なところでは漢書の『地理志』がある。
{{ウィキポータルリンク|地理学|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:地理学]]}} '''地理'''(ちり、[[英語|英]]: Geography[[フランス語|仏]]:Géographie) * [[地球]]上の[[山]]・[[川]]・[[海]]・[[陸]]・[[気候]]・[[生物]]・[[人口]]・[[集落]]・[[産業]]・[[交通]]・[[政治]]などの[[状態]]<ref name="kojien">『広辞苑 第七版』、[[岩波書店]]、p.1920 「地理」</ref><ref name="daijirin">『大辞林 第三版』、[[小学館]]、「地理」</ref>。 * [[土地]]の周辺の状態・状況や背景の事情<ref name="kojien"/><ref name="daijirin"/>。 * 地理学のこと<ref name="kojien"/><ref name="daijirin"/>。→[[地理学]] * 日本の[[学校教育]]での[[教科]]としての地理<ref name="daijirin"/>。→[[地理 (科目)]]、[[地理歴史]] * 雑誌の名称 → [[地理 (雑誌)]] 「地理」という表現は古くからあり、有名なところでは[[漢書]]の『{{仮リンク|地理志|zh|地理志}}』がある。<ref group="注釈">これは[[日本人]]([[大和民族]]・[[倭人]])について[[倭・倭人関連の中国文献|初めて書かれた歴史書]]ということでも知られている。</ref> == 地理学 == {{Main|地理学}} 地理学は、地球表面の自然・人文事象の状態と、それらの相互関係を研究する学問である。地理学には、[[文化]]や[[民族]]、[[経済]]といった切り口で地域を捉える[[人文地理学|人文地理]]、生物の分布や河川などによる水の循環から土地を捉える[[自然地理学|自然地理]]、地域性や[[郷土史]]に着目する[[地誌学|地誌]]の三分野がある<ref name="kojien" /><ref name="daijirin" />。 == 科目 == {{Main|地理 (科目)|地理歴史}} 「地理」は、日本の学校で設置されている、「人間の生活に影響を与える地域的、社会的な構造」を学ぶための[[科目]]である。[[自然環境]]や[[産業|産業環境]]などを含む[[環境]]を学習対象としている。[[小学校]]および[[中学校]]においては、[[歴史]]や[[公民]]と並び、[[社会 (教科)|社会科]]の一分野である。[[高等学校]]においては、最近は「[[地理歴史|地理歴史科]]」という[[教科]]の中の一[[科目]]となっており、「地理A」「地理B」に細分されている。 == 関連項目 == ;世界 * [[世界の地理]] * {{仮リンク|ヨーロッパの地理|en|Geography of Europe}} * [[アフリカの地理]] * {{仮リンク|北米の地理|en|Geography of North America}} * {{仮リンク|南米の地理|en|Geography of South America}} * [[オセアニアの地理]] ([[:en:Category:Geography of Oceania]]) * [[アジアの地理]]、[[アジア]]、[[東アジア]] * [[南極の地理]] * [[国の一覧 (大陸別)]] * [[島の一覧|世界の島の一覧]] * [[:en:List of islands by area|世界の島の面積順位]] * [[国の一覧]] ;日本 * [[日本の地理]] ** [[日本]]、[[日本列島]]、[[本土]]、[[離島]]、[[四島]] ** [[島]]、[[島国]]、[[島国一覧|世界の島国(領土が島のみで構成されている国)一覧]] * 日本の分野別専門項目 ** [[島の一覧|島国である日本を構成している主な島々]] ** [[平野|日本の平野]]、[[日本の山]]、[[川|日本の河川]]、 [[日本の湖の一覧|日本の湖]] ** [[日本の地域]] ** [[東日本]]、[[西日本]] ** [[日本の交通]]、[[日本の経済]]、[[日本の農業]]、 ** [[都道府県]]、[[都道府県の面積一覧]] ** [[Portal:日本の都道府県|日本の都道府県]] ** [[日本の観光地]]、[[日本の首都]]、[[政令指定都市]] ** [[全国市町村一覧]] * その他の地域区分 ** [[広域関東圏]]・[[東京地方]]・[[両毛]]・[[上信越]]・[[関越]]・[[三遠南信]]・[[北近畿]]・[[南紀]]・[[九州・山口地方]]・[[沖縄諸島|沖縄]] ** [[s:サンフランシスコ条約草案|サンフランシスコ条約草案]]([[日本]]の[[領土]]について) ;他 * [[地理教育]] * [[地理情報システム]] * [[地理的表示]] * [[地球科学|地学]] * [[地球物理学]] * [[地理学]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Geo-term-stub}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:ちり}} [[Category:地理|*]]
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生物学
生物学(せいぶつがく、英: biology、羅: biologia)とは、生命現象を研究する、自然科学の一分野である。 広義には医学や農学など応用科学・総合科学も含み、狭義には基礎科学(理学)の部分を指す。一般的には後者の意味で用いられることが多い。 類義語として生命科学や生物科学がある(後述の#「生物学」と「生命科学」参照)。 生物学とは、生命現象を研究する分野である。 日本の『生化学辞典』によると、生物学は生物やその存在様式を研究対象としている、となっており、 Aquarena Wetlands Project glossary of termsの定義では、生物学の研究対象には構造・機能・成長・発生・進化・分布・分類を含むとしている。 扱う対象の大きさは、一分子生物学における「細胞内の一分子の挙動」から、生態学における「生物圏レベルの現象」までのレベルにおいても、具体的な生物種の数の多さにおいても、きわめて幅広い。 現代の生物学が成立したのは比較的最近だが、関連し含まれていた科学は古代から存在した。自然哲学はメソポタミア、古代エジプト、古代インド、古代中国で研究されていた。しかし、現在に繋がる生物学や自然研究の萌芽は古代ギリシアに見られる。 一般に、諸研究に先駆しているという意味で、古代ギリシャのアリストテレスをもって生物学史の始めとする。「アリストテレスは実証的観察を創始した」「全時代を通じて最も観察力の鋭い博物学者の一人」などとされ、生物の分類法を提示するなどし、後世に至るまで多大なる影響を及ぼしたのである。アリストテレスの動物学上の著作として残っているものとしてはHistoria animalium『動物誌』、De generatione animalium『動物発生論』、De partibus animalium『動物部分論』、De anima『心について』(『霊魂論』とも)がある。『動物誌』では、500を越える種の動物(約120種の魚類や約60種の昆虫を含む)を扱っており、随所で優れた観察眼を発揮している。植物に関する研究も行い著作もあったとされるが、現在では残っていないとされる。アリストテレスの生物に関する研究の中でも動物に関する研究は秀でており、特に動物学の始原とされる。分類、生殖、発生、その他の分野において先駆的な研究を行い、その生命論や発生論は17世紀や18世紀の学者にまで影響を与えた。 ただし、アリストテレスの生物学は、今日の視点から見れば生気論・目的論的であり、その意味では哲学的、思弁的といえる。 古代ギリシアの哲学者たちは有生物と無生物を区別する原理として「プシュケー」という用語を用いて説明していたが、アリストテレスはこのプシュケーを、可能態において生命を持つ自然的物体の形相(エイドス)と定義し、プシュケーは「生命の本質をなしており、自己目的機能であり起動因だ」と記述した。 中世には、イスラム世界でジャーヒズ(781年-869年)やAbū Ḥanīfa Dīnawarī(828年-896年)らが植物学の著作を残した。 現代生物学は、アントニ・ファン・レーウェンフックが発明した顕微鏡の普及とともに発展した。科学者らによる精子・バクテリア・滴虫類、そして生命が持つ驚くべき奇妙さと多様性が次々と明らかにされた。ヤン・スワンメルダムの調査は昆虫学に対する関心を新たにし、顕微鏡を用いた解剖や標本用染色の技術を向上させた。 17世紀にロバート・フックが顕微鏡を用いた観察で細胞を発見し、18世紀のカール・フォン・リンネによる生物の系統的分類の発表を経て、チャールズ・ダーウィンの進化論やグレゴール・ヨハン・メンデルの遺伝子法則などが認められるに及び、それまでの博物学の一領域に過ぎなかった生物についての知識が、ひとつの学問分野を成り立たせるに充分にまで蓄積された事で成立した。19世紀前半には、細胞の中心組織が重要な役割を持つという認識が広がった。1838年と1839年、マティアス・ヤーコプ・シュライデンとテオドール・シュワンは、(1)有機体の基本単位は細胞であり、(2)個別の細胞がそれぞれ生きて、多くの否定的意見があったが(3)全ての細胞は分裂によって生じるという考えを促進する役割を果たした。1860年代には、ロベルト・レーマクとルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョウの仕事によって細胞説として知られる上記3説は多くの支持を受けるようになった。 20世紀になると、生物学的知識は膨大かつ複雑になったため、これらを統一的に理解しようとする試みが重視されるようになった。さらに、生物を高度に組織化された分子の集合体と捉え、環境の中からどのように自己の秩序と維持を満たすかという視点から、分子工学的な理解を強める傾向にある。そのため、従来の記述を主体とした学問から、原理的そして実体論的な学問へと変貌しつつある。1990年には一般的なヒトゲノムを図像化する計画(ヒトゲノム計画)が実行に移され、2003年に完成した。 英語の biology はギリシア語の βίος(bios、生命)に接尾語 -λογία(-logia、〜の学問)である。これは、K.F.ブルダッハ(1800年)、ゴットフリート・ラインホルト・トレフィラヌス(1802年)、ジャン=バティスト・ラマルク(1802年)らによって、それぞれ独立に用いられはじめ、広まることになった(→#「生物学」と「生命科学」)。 現代の生物学者は、基本的に唯物論或いは機械論の立場を取り、生物は有機化合物などの物質から構成された複雑な機械であると見なす。一つ一つの要素を解明していく還元主義が有効である場面は依然存在するが、還元主義だけで複雑な生命現象を理解する試みには限界があることが理解され始めたため、生物を複雑系として扱う考えかたも発展してきている。 生物学では、一般的にヒトを特別な生物種としては扱わない。しかし、我々自身がヒトであり、その研究は医療や産業などと関連しているため、生物学の中でヒト研究は重要であり関心も高い。生物学研究の成果は医療や農業における基礎を提供し、応用面で人類に大きな利益をもたらしている。生物学に関連する産業はバイオ産業と呼ばれ、IT産業と並び発展性のある大きな市場を形成し、経済的にも重要な位置にあるとされる。生物学の知見や技術は生命の根幹に大きく関わるようになり、倫理的・社会的な影響も注目されている。 生物学では、他の自然科学分野と同様に、記載・実験・理論といった科学的方法によって研究が行われる(ここでの「理論」は方法論としての理論を指す)。これらは独立したものではなく、それぞれが関連し合って一連の研究を形作る。 記載とは、詳細な観察に基づいて基礎となる事象を明らかにすることであり、研究において最も始めに行われる。生物種を同定するための形態学的観察をはじめとして、実験操作を加えない状態での発生現象や細胞構造の観察、生理条件下での生理活性物質の測定、ひいてはゲノムの解読も記載と言える。 また、個々の事例の記載を基礎とし、それらを比較することからより一般的な知見を得ることは、特に生物学では重視されてきた。これは一つにはその構造や現象が複雑で,研究史の初期において実験系を作りにくかったこと、他方で生物が多様であり、その背後に進化があることからそれを比較によってあぶり出すことに大きな意味があったからである。たとえば比較解剖学や比較発生学はそれぞれの分野の発展の中では大きな意味を持ち、それらは直接に進化論の発展に結びついた。 実験は人為的に操作を加えることにより通常と異なる条件を作り出し、その後の変化を観察・観測することで、生物に備わっている機構を解明しようとする実証主義的な試みである。突然変異の誘発や、遺伝子導入、移植実験などさまざまな手法を使う。現代生物学は実験生物学の性質が強くなっている。実験操作は科学的方法に基づき、対照実験や再現性の確認などにより、実験者の主観が除かれる必要がある。 一方、進化や生物圏レベルの生態学研究のように実験による証明が困難である場合は、様々な観測データや古生物の化石などを用い、比較や構造化など理論による説明を試みる。またバイオインフォマティクスのように膨大なデータを統合して理解しようとする場合も、理論によるアプローチに重点が置かれる。実験を行う前に仮説を立て結果を予想したり、実験結果を解釈して抽象化や普遍化させて法則や規則性を見いだしたりすることも理論の一部である。このような理論面に重点を置いた分野を理論生物学、数理モデルを用いる分野を数理生物学とよぶ。これらの分野は高度に抽象化するため、対象の生物学的階層には捕われない性質がある。 新たな方法論として、蓄積したデータに基づいてコンピュータ上に仮想システムを構築することで構造を理解したり、そのパラメータを変化させるシミュレーションにより実験の代わりとするシステム生物学も登場している。 20世紀半ばの分子生物学の台頭以降、その周辺分野では、一つの遺伝子・タンパク質の機能に注目する還元主義的なアプローチが主体だった。この手法は強力で、さまざまな生命現象を解き明かしてきた。しかし、分子レベルで明らかにしたことを組み合わせるだけでは、脳の活動や行動など複雑な現象は理解しがたく、還元主義のみでは限界があることもわかってきた。このことへの反省もあり、物理学的還元主義への傾倒から抜け出し、21世紀に入ってからは生物を複雑な系としてそのままあつかうオーミクスやシステム生物学等のアプローチも盛んになっている。一方、生物多様性をあつかう伝統的な生物学や生態学では、生物の作りだす系が複雑であることは自明だったため、複雑系のような全体論は目新しいものではない。生物学の両輪である、生物の多様性と普遍性に関する知見は、ゲノム解析によって結びつけられつつある。 生物学のパラダイムを大きく変えたものには細胞の発見、進化の提唱、遺伝子の示唆、DNA の構造決定、セントラルドグマの否定、ゲノムプロジェクトの実現などがある。細胞の発見やゲノムプロジェクトは主に技術の進歩によってもたらされ、進化や遺伝子の発見は個人の深い洞察によるところが大きい。 17世紀に発明された顕微鏡による細胞の発見は、微生物の発見をはじめとして、動物と植物がいずれも同じ構造単位から成っていることを認識させ、動物学と植物学の上位分野として生物学を誕生させることになった。また自然発生説の否定によって、いかなる細胞も既存の細胞から生じることが示され、生命の起源という現在も未解明の大きな問題の提示につながっている。 進化はチャールズ・ダーウィンをはじめとする数人の博物学者によって19世紀に提唱された概念である。それまでは経験的にも宗教的にも、生物種は固定したものとされていたが、現在では、同じ種の中でも形質に多様性があり、生物の形質は変化するものとされ、種の区別が困難なものもあるという指摘がされている。単純な生物から多様化することで現在のような多様な生物が存在すると考えることが可能になり、生命の起源を研究可能なテーマとすることができるようになった。進化論は社会や思想にも大きな影響を与え、近代で最も大きなパラダイムシフトの1つであった。 遺伝自体は古くから経験的に知られていた現象である。しかし、19世紀後半、メンデルは交雑実験から遺伝の法則を発見し、世代を経た後にも分離可能な因子、すなわち遺伝子が存在することを証明した。さらに染色体が発見され、20世紀前半の遺伝学・細胞学による研究から、染色体が遺伝子の担体であることが確証づけられた。この過程において古典的な遺伝学が発展し、その後の分子生物学の誕生にもつながった。 1953年、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリックらが、X線回折の結果から、立体模型を用いた推論により遺伝物質 DNA の二重らせん構造を明らかにした。DNA構造の解明は、分子生物学の構造学派にとって最大の成功である。相補的な2本の分子鎖が逆向きにらせん状構造をとっているというモデルは、染色体分配による遺伝のメカニズムを見事に説明しており、その後の分子生物学を爆発的に発展させた。 DNAからRNAへの転写、RNAからタンパク質への翻訳、遺伝暗号などの解明により、セントラルドグマと呼ばれる「DNA→RNA→タンパク質」といった一方向の情報伝達がまるで教義のように思われた時期もあったが、これを裏切るかのように逆転写酵素やリボザイムといった発見も20世紀後半に相次いだ。 ゲノムという概念は、ある生物種における遺伝情報の総和として提唱された。ゲノム genome という語は遺伝子 gene と、総体を表す接尾語 -ome の合成語である。技術発展によりゲノムプロジェクトが可能になり、ゲノム研究は、生物学における還元論と全体論、普遍性と多様性を結びつける役割をもつようになった。生物種間でのゲノムの比較により普遍性と多様性理解への糸口を与え、還元的な研究に因子の有限性を与えることで、個々の研究を全体論の中で語ることを可能にした。他にも様々な総体に対する研究が始まっている。 Vernon L.が1995年に主張したところところによると、(の生物学においては)特に重要な題材は、以下に挙げる5つの原則で、それらは「基本公理とも言える」と言う:。 生物学が自然史学の一部だった時代には、記載生物学が主体だった。現代生物学は、実験が主体になっている。さらに将来は、ゲノムやプロテオーム研究などで蓄積された膨大なデータをコンピュータで処理し、そこから生命の原理に迫る生物情報学が主体になるかもしれない。急激なコンピュータの高速化と並行して、実験や観察技術、新たな分析手法の発見など技術発展も進むだろう。 純粋生物学に残された大きなテーマには生命の起源、ヒトの精神あるいは心理過程、地球外生命体などがある。すでに起きてしまった生命の起源や進化は、実験で再現できない。ただし、生物物理学的・生化学的に生命(細胞)の誕生を再現する試みはある。 心理学はヒトやほかの動物の行動や心理過程を研究しているが、生物学と心理学とは、従来よりおもに神経メカニズムという観点から関係をもってきた。しかし、とくにヒトの高次心理過程は、いまだ現在の生物学の知見を超える部分が大きい。今後、そういった高次心理過程も、心理学における行動・認知レベルの研究に加えて、生物学における分子レベルの、細胞レベルの、皮質のグローバルなレベルでの研究を進めることにより、両分野のあいだで統合的に説明できるようになるかもしれない。 地球以外に生命は存在するかという問題は、まだ生物学のテーマではないと、現在の多くの生物学者は考えている。しかし、火星やその他の惑星、衛星の探索が進み、生命やその痕跡が発見されれば、重要なテーマの一つとなり、現在の生物学に大きな改変が迫られる可能性がある。 また、医学や農学、薬学や化学工学などへの重要性は増し、応用は今後もますます増加していく。 生物学の諸分野は、各論・方法論・理論の視点から分類できる。各論は研究対象によって、方法論は手法によって、理論は普遍化された学説によって分野名がつけられる。ただしいずれの分野も、程度の差はあれ3つすべての性質をあわせもっているため、分類は便宜的なものになる。例えば、細胞生物学、微生物学、生物物理学、生化学。 生物学を大きくふたつに分ける場合、個体の内部の生命現象を解析する方向(=広義の生理学)と、個体間・種間・個体と環境など関係を個体の外に求めてゆく方向(=広義の生態学)がある。 また、生物学の各論には、生物の系統分類と生物学的階層性という大きな2つの軸があるとされる。前者によって分類する場合、代表的な分野は、動物学、植物学、微生物学の3つである。それぞれは系統分類にしたがってさらに細分化できる。動物学の下位には原生動物学、昆虫学や魚類学、脊椎動物学などがある。同様に、植物学の下には顕花植物学や樹木学など、微生物学の下にはウイルス学や細菌学などがある。これらの分野では、生物の特異性・多様性を重視する流れがある。 一方、対象の大きさ、つまり生物学的階層性(すなわち現象)を軸にすると、代表的な分野は、分子生物学・生化学、細胞生物学、発生生物学、動物行動学、生態学などがある(図)。生態学は生物群の大きさによって個体群生態学、群集生態学などに分けられる他、対象とする場所を重視する場合は森林生態学や海洋生態学、極地生態学などの名称も用いられる。生物学的階層性は生物の分類に対して横断的であり、生物の普遍性が注目される。この軸では個体レベルを境として大きく2つに分けることができる。この視点から諸分野を見ると、個体レベル以下を扱う分野は分子生物学の影響が強く還元主義的な傾向があり、個体レベル以上を扱う分野は全体論的な傾向がある。動物発生学や植物細胞学などの分野は、この2つの軸を考えるとその領域が把握しやすい。 方法論は各論分野に必要に応じて導入され、実際の研究を発展させるために必須なものである。理論は抽象化により総合的・普遍的な視点を各論に提供する。 最も古くからある方法論の一つは、生物の分類を扱う分類学である。分類は生物学の基礎であり、進化研究の手がかりにもなる。伝統的には形態に注目して分類されていたが、近年では分子生物学の手法を取り入れた分子系統分類がさかんである。生化学は化学的手法、分子生物学は DNA 操作を使う方法論でもある。分子遺伝学や逆遺伝学から発展したゲノムプロジェクトやバイオインフォマティクスは、新たな方法論として脚光を浴びている。 生物学の理論としては、遺伝学や進化学が代表的である。遺伝学は、遺伝子の機能を間接的に観察するという方法論でもある。遺伝や進化の理論は、具体的なレベルでは未だ議論があるが、総論としては生物学に必要不可欠な基盤となっている。 生物学の分類として、記載生物学・比較生物学・実験生物学といった類型化もある。記載・比較・実験は上記のように生物学の基本的な手法なので、このような区分は成立しないことが多いが、むしろ歴史的な展開の中での各部分に対してこの名が使われることがある。それも個々の分野名にこの名を被せる例が多い。 記載生物学は、生物の形や構造を把握し、図や文で記載することを行うのを主目的とする。比較生物学はそれによって知られるようになったものを他の生物のそれと比較することから何かをえようとする。実験生物学は記載や比較では得られない知識を、生物を操作することで得ようとする。従って、生物学はこの順番で発展する。ただし記載はあまりにも最低限基本的な操作なので、これを冠する例はない。記載をしなければそれは科学以前である。 たとえば近世から近代の生物学発展の初期、比較解剖学は極めて重要な分野として独立していた。これは発生学に結びついて比較発生学の流れをつくり、両者融合して比較形態学と呼ばれた。しかしこの分野は内部造反的に実験的手法に頼る実験発生学を生み出す。 20世紀に入るまで、各分野はそれぞれ独自の手法や観点で異なる対象を研究し、内容の重複はわずかだった。しかし、20世紀後半の分子生物学の爆発的な発展や顕微鏡などの技術発展により、研究分野はさらに細分化されつつも、それらの境界はあいまいになり、分野の名称は便宜的・主観的なものになってきている。例えば、イモリの足の再生を研究し「再生生物学」という名称を使ったとしても、再生にかかわる遺伝子は遺伝学や分子生物学、その遺伝子が作る化学物質の性質は生化学、再生する細胞の挙動は細胞生物学、組織が正確に再生する仕組みは発生生物学、などさまざまな分野が関連する。このような経緯から、「〜学」という古典的な名称を、「〜生物学」や「〜科学」に変えることも多い。 生物学は、さまざまな形で他の学問分野と関係している。概念、理論、研究手法などの面で生物学に影響を与えた自然科学の分野としては、先に発展していた物理学と化学が挙げられる。特に分子生物学以降は物理学の影響が強い。生化学や生物物理学などはこれらの境界領域の分野と言える。応用科学では医学における生化学や生理学、解剖学は、動物学や発生学と関連し、農学における育種学は遺伝学の誕生に寄与し、その過程で近代的な推測統計学を醸成した。また、数学は自然科学の基礎として生物学に影響を与えているほか、特に数理生物学や集団遺伝学などでは高度に数学的な概念、分析手法が用いられる。 近年では、ゲノムやプロテオームの解析から得られる膨大なデータを処理する必要があるため、バイオインフォマティクス(生物情報学)と呼ばれる分野では情報学の方法論が取り入れられ、ゲノミクスやプロテオミクスで用いられている。また、生命現象をシステムとして理解することを目的とするシステム生物学が発展しつつある。 生物学と相互に影響しあっている分野も数多い。生態学は理論面で経済学と強い関連があり、地球科学と観測技術を共有している。これらの影響は、一方通行ではなく相互的である。 人文科学系の分野の中では、自然哲学の一分野である生物哲学、方法論としては科学哲学、倫理面を研究する生命倫理学などが生物学と対象を共有している。科学史の一分野である生物学史は、生物学の歴史が研究対象である。 生物学から多くの影響を受けた分野に、理論社会学や社会思想がある。ダーウィンと同時代に生き、適者生存などの語の発案者でもあるハーバート・スペンサーや、エミール・デュルケームは、社会の変化、特に分業の発達と構成要素の多様化を生物進化になぞらえて考察する理論を打ちたてた。彼らの学問は社会学の中でも多く知られているが、スペンサーを除けば、生物学から影響を受ける量が多く、生物学への影響は限られている。また、生物をメタファーとして社会を説明する理論にはほかに、マーシャル・マクルーハンによるメディア論や梅棹忠夫による情報産業論など、広く知られたものが多くある。 システム理論やサイバネティックスは、生物学による生命体の理解を手がかりに、秩序や変化についての一般理論を構築している。これは社会学にも社会システム論として影響を与えている。 生物学の知見と技術を応用に用いる分野は、バイオテクノロジーまたは生物工学と呼ばれる。遺伝子操作に重点が置かれる場合は遺伝子工学、発生過程に重点が置かれる場合は発生工学ともいう。生物学の成果を実業に活用する産業はバイオ産業と呼ばれ、ITとならんで勢いのある市場であり、ベンチャー企業が次々と誕生している。アメリカでは大学の研究者が起業することも多い。遺伝子治療、幹細胞を用いた再生医学、一塩基多型 (SNPs) を用いたオーダメイド医療やゲノム創薬などが注目されている。農業や畜産関連でもバイオテクノロジーが生かされており、これらを支える基礎研究は重要である。政府や企業は多大な資金を提供し、その発展を促している。 応用分野に輝かしい貢献をすると同時に、現代生物学はさまざまな倫理的問題を抱えている。それらはゲノム情報、遺伝子操作、クローン技術など、生命の根幹に関わる技術や情報によりもたらされた。これらは、臨床医療においては恩恵をもたらす一方で、差別や生命の軽視など深刻な社会問題を引き起こしつつある。このような課題は生命倫理学によって扱われる。また、遺伝子操作によって作られた遺伝子組み換え作物(GM作物)の環境への影響(遺伝子汚染)という問題提起がなされており、議論が行われている。近代から現代にかけて、人間の活動によって環境破壊が起こり、生物多様性が急速に失われている。生物学は観測を行い、科学的裏付けのあるデータに基づいた提唱をしたり、生態系や生物多様性について正しい情報を発信するなどの取り組みも必要である。 現代生物学およびそれに携わる人々は、純粋な科学的研究成果のみならず、このような倫理的側面に対しても熟考し議論を深め、社会的責任を果たすことが求められている。 Biology という語は、「生命」を意味するギリシャ語の βίος (bios) と「言葉・論」を意味する λόγος (logos) から造られた。K. F. ブルダッハ(1800年)、G. R. トレヴィラヌス(1802年)、ジャン=バティスト・ラマルク(1802年)らによって独立に用いられた。生物学が様々な生物を分類記載する博物学から発展したことからもわかるように、生物学には生物の多様性を理解しようとする伝統がある。 一方、生命科学 (Life science) や生物科学 (Bioscience, Biological science) という語は、分子生物学が誕生してから新しく作られたものである。全ての生物に共通する「言葉」であるDNAを分子生物学が提供したことで、分野ごとに断片化していた生物学が統合されつつある。そこで新たに生命科学という言葉が用いられるようになった。 ただし、生物学も生命科学も広義に解釈すると範囲は広く重なり、実際の生物研究をどちらかにわけることは難しいことがある。また「生物学」の意味も時代とともに変化しており、しばしば「生物科学」や「生命科学」と同じ意味に使われる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "生物学(せいぶつがく、英: biology、羅: biologia)とは、生命現象を研究する、自然科学の一分野である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "広義には医学や農学など応用科学・総合科学も含み、狭義には基礎科学(理学)の部分を指す。一般的には後者の意味で用いられることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "類義語として生命科学や生物科学がある(後述の#「生物学」と「生命科学」参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "生物学とは、生命現象を研究する分野である。 日本の『生化学辞典』によると、生物学は生物やその存在様式を研究対象としている、となっており、 Aquarena Wetlands Project glossary of termsの定義では、生物学の研究対象には構造・機能・成長・発生・進化・分布・分類を含むとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "扱う対象の大きさは、一分子生物学における「細胞内の一分子の挙動」から、生態学における「生物圏レベルの現象」までのレベルにおいても、具体的な生物種の数の多さにおいても、きわめて幅広い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現代の生物学が成立したのは比較的最近だが、関連し含まれていた科学は古代から存在した。自然哲学はメソポタミア、古代エジプト、古代インド、古代中国で研究されていた。しかし、現在に繋がる生物学や自然研究の萌芽は古代ギリシアに見られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一般に、諸研究に先駆しているという意味で、古代ギリシャのアリストテレスをもって生物学史の始めとする。「アリストテレスは実証的観察を創始した」「全時代を通じて最も観察力の鋭い博物学者の一人」などとされ、生物の分類法を提示するなどし、後世に至るまで多大なる影響を及ぼしたのである。アリストテレスの動物学上の著作として残っているものとしてはHistoria animalium『動物誌』、De generatione animalium『動物発生論』、De partibus animalium『動物部分論』、De anima『心について』(『霊魂論』とも)がある。『動物誌』では、500を越える種の動物(約120種の魚類や約60種の昆虫を含む)を扱っており、随所で優れた観察眼を発揮している。植物に関する研究も行い著作もあったとされるが、現在では残っていないとされる。アリストテレスの生物に関する研究の中でも動物に関する研究は秀でており、特に動物学の始原とされる。分類、生殖、発生、その他の分野において先駆的な研究を行い、その生命論や発生論は17世紀や18世紀の学者にまで影響を与えた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ただし、アリストテレスの生物学は、今日の視点から見れば生気論・目的論的であり、その意味では哲学的、思弁的といえる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "古代ギリシアの哲学者たちは有生物と無生物を区別する原理として「プシュケー」という用語を用いて説明していたが、アリストテレスはこのプシュケーを、可能態において生命を持つ自然的物体の形相(エイドス)と定義し、プシュケーは「生命の本質をなしており、自己目的機能であり起動因だ」と記述した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "中世には、イスラム世界でジャーヒズ(781年-869年)やAbū Ḥanīfa Dīnawarī(828年-896年)らが植物学の著作を残した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現代生物学は、アントニ・ファン・レーウェンフックが発明した顕微鏡の普及とともに発展した。科学者らによる精子・バクテリア・滴虫類、そして生命が持つ驚くべき奇妙さと多様性が次々と明らかにされた。ヤン・スワンメルダムの調査は昆虫学に対する関心を新たにし、顕微鏡を用いた解剖や標本用染色の技術を向上させた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "17世紀にロバート・フックが顕微鏡を用いた観察で細胞を発見し、18世紀のカール・フォン・リンネによる生物の系統的分類の発表を経て、チャールズ・ダーウィンの進化論やグレゴール・ヨハン・メンデルの遺伝子法則などが認められるに及び、それまでの博物学の一領域に過ぎなかった生物についての知識が、ひとつの学問分野を成り立たせるに充分にまで蓄積された事で成立した。19世紀前半には、細胞の中心組織が重要な役割を持つという認識が広がった。1838年と1839年、マティアス・ヤーコプ・シュライデンとテオドール・シュワンは、(1)有機体の基本単位は細胞であり、(2)個別の細胞がそれぞれ生きて、多くの否定的意見があったが(3)全ての細胞は分裂によって生じるという考えを促進する役割を果たした。1860年代には、ロベルト・レーマクとルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョウの仕事によって細胞説として知られる上記3説は多くの支持を受けるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "20世紀になると、生物学的知識は膨大かつ複雑になったため、これらを統一的に理解しようとする試みが重視されるようになった。さらに、生物を高度に組織化された分子の集合体と捉え、環境の中からどのように自己の秩序と維持を満たすかという視点から、分子工学的な理解を強める傾向にある。そのため、従来の記述を主体とした学問から、原理的そして実体論的な学問へと変貌しつつある。1990年には一般的なヒトゲノムを図像化する計画(ヒトゲノム計画)が実行に移され、2003年に完成した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": 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"記載とは、詳細な観察に基づいて基礎となる事象を明らかにすることであり、研究において最も始めに行われる。生物種を同定するための形態学的観察をはじめとして、実験操作を加えない状態での発生現象や細胞構造の観察、生理条件下での生理活性物質の測定、ひいてはゲノムの解読も記載と言える。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、個々の事例の記載を基礎とし、それらを比較することからより一般的な知見を得ることは、特に生物学では重視されてきた。これは一つにはその構造や現象が複雑で,研究史の初期において実験系を作りにくかったこと、他方で生物が多様であり、その背後に進化があることからそれを比較によってあぶり出すことに大きな意味があったからである。たとえば比較解剖学や比較発生学はそれぞれの分野の発展の中では大きな意味を持ち、それらは直接に進化論の発展に結びついた。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "実験は人為的に操作を加えることにより通常と異なる条件を作り出し、その後の変化を観察・観測することで、生物に備わっている機構を解明しようとする実証主義的な試みである。突然変異の誘発や、遺伝子導入、移植実験などさまざまな手法を使う。現代生物学は実験生物学の性質が強くなっている。実験操作は科学的方法に基づき、対照実験や再現性の確認などにより、実験者の主観が除かれる必要がある。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方、進化や生物圏レベルの生態学研究のように実験による証明が困難である場合は、様々な観測データや古生物の化石などを用い、比較や構造化など理論による説明を試みる。またバイオインフォマティクスのように膨大なデータを統合して理解しようとする場合も、理論によるアプローチに重点が置かれる。実験を行う前に仮説を立て結果を予想したり、実験結果を解釈して抽象化や普遍化させて法則や規則性を見いだしたりすることも理論の一部である。このような理論面に重点を置いた分野を理論生物学、数理モデルを用いる分野を数理生物学とよぶ。これらの分野は高度に抽象化するため、対象の生物学的階層には捕われない性質がある。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "新たな方法論として、蓄積したデータに基づいてコンピュータ上に仮想システムを構築することで構造を理解したり、そのパラメータを変化させるシミュレーションにより実験の代わりとするシステム生物学も登場している。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "20世紀半ばの分子生物学の台頭以降、その周辺分野では、一つの遺伝子・タンパク質の機能に注目する還元主義的なアプローチが主体だった。この手法は強力で、さまざまな生命現象を解き明かしてきた。しかし、分子レベルで明らかにしたことを組み合わせるだけでは、脳の活動や行動など複雑な現象は理解しがたく、還元主義のみでは限界があることもわかってきた。このことへの反省もあり、物理学的還元主義への傾倒から抜け出し、21世紀に入ってからは生物を複雑な系としてそのままあつかうオーミクスやシステム生物学等のアプローチも盛んになっている。一方、生物多様性をあつかう伝統的な生物学や生態学では、生物の作りだす系が複雑であることは自明だったため、複雑系のような全体論は目新しいものではない。生物学の両輪である、生物の多様性と普遍性に関する知見は、ゲノム解析によって結びつけられつつある。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "生物学のパラダイムを大きく変えたものには細胞の発見、進化の提唱、遺伝子の示唆、DNA の構造決定、セントラルドグマの否定、ゲノムプロジェクトの実現などがある。細胞の発見やゲノムプロジェクトは主に技術の進歩によってもたらされ、進化や遺伝子の発見は個人の深い洞察によるところが大きい。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "17世紀に発明された顕微鏡による細胞の発見は、微生物の発見をはじめとして、動物と植物がいずれも同じ構造単位から成っていることを認識させ、動物学と植物学の上位分野として生物学を誕生させることになった。また自然発生説の否定によって、いかなる細胞も既存の細胞から生じることが示され、生命の起源という現在も未解明の大きな問題の提示につながっている。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "進化はチャールズ・ダーウィンをはじめとする数人の博物学者によって19世紀に提唱された概念である。それまでは経験的にも宗教的にも、生物種は固定したものとされていたが、現在では、同じ種の中でも形質に多様性があり、生物の形質は変化するものとされ、種の区別が困難なものもあるという指摘がされている。単純な生物から多様化することで現在のような多様な生物が存在すると考えることが可能になり、生命の起源を研究可能なテーマとすることができるようになった。進化論は社会や思想にも大きな影響を与え、近代で最も大きなパラダイムシフトの1つであった。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "遺伝自体は古くから経験的に知られていた現象である。しかし、19世紀後半、メンデルは交雑実験から遺伝の法則を発見し、世代を経た後にも分離可能な因子、すなわち遺伝子が存在することを証明した。さらに染色体が発見され、20世紀前半の遺伝学・細胞学による研究から、染色体が遺伝子の担体であることが確証づけられた。この過程において古典的な遺伝学が発展し、その後の分子生物学の誕生にもつながった。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1953年、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリックらが、X線回折の結果から、立体模型を用いた推論により遺伝物質 DNA の二重らせん構造を明らかにした。DNA構造の解明は、分子生物学の構造学派にとって最大の成功である。相補的な2本の分子鎖が逆向きにらせん状構造をとっているというモデルは、染色体分配による遺伝のメカニズムを見事に説明しており、その後の分子生物学を爆発的に発展させた。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "DNAからRNAへの転写、RNAからタンパク質への翻訳、遺伝暗号などの解明により、セントラルドグマと呼ばれる「DNA→RNA→タンパク質」といった一方向の情報伝達がまるで教義のように思われた時期もあったが、これを裏切るかのように逆転写酵素やリボザイムといった発見も20世紀後半に相次いだ。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ゲノムという概念は、ある生物種における遺伝情報の総和として提唱された。ゲノム genome という語は遺伝子 gene と、総体を表す接尾語 -ome の合成語である。技術発展によりゲノムプロジェクトが可能になり、ゲノム研究は、生物学における還元論と全体論、普遍性と多様性を結びつける役割をもつようになった。生物種間でのゲノムの比較により普遍性と多様性理解への糸口を与え、還元的な研究に因子の有限性を与えることで、個々の研究を全体論の中で語ることを可能にした。他にも様々な総体に対する研究が始まっている。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "Vernon L.が1995年に主張したところところによると、(の生物学においては)特に重要な題材は、以下に挙げる5つの原則で、それらは「基本公理とも言える」と言う:。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "生物学が自然史学の一部だった時代には、記載生物学が主体だった。現代生物学は、実験が主体になっている。さらに将来は、ゲノムやプロテオーム研究などで蓄積された膨大なデータをコンピュータで処理し、そこから生命の原理に迫る生物情報学が主体になるかもしれない。急激なコンピュータの高速化と並行して、実験や観察技術、新たな分析手法の発見など技術発展も進むだろう。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "純粋生物学に残された大きなテーマには生命の起源、ヒトの精神あるいは心理過程、地球外生命体などがある。すでに起きてしまった生命の起源や進化は、実験で再現できない。ただし、生物物理学的・生化学的に生命(細胞)の誕生を再現する試みはある。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "心理学はヒトやほかの動物の行動や心理過程を研究しているが、生物学と心理学とは、従来よりおもに神経メカニズムという観点から関係をもってきた。しかし、とくにヒトの高次心理過程は、いまだ現在の生物学の知見を超える部分が大きい。今後、そういった高次心理過程も、心理学における行動・認知レベルの研究に加えて、生物学における分子レベルの、細胞レベルの、皮質のグローバルなレベルでの研究を進めることにより、両分野のあいだで統合的に説明できるようになるかもしれない。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "地球以外に生命は存在するかという問題は、まだ生物学のテーマではないと、現在の多くの生物学者は考えている。しかし、火星やその他の惑星、衛星の探索が進み、生命やその痕跡が発見されれば、重要なテーマの一つとなり、現在の生物学に大きな改変が迫られる可能性がある。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、医学や農学、薬学や化学工学などへの重要性は増し、応用は今後もますます増加していく。", "title": "生物学の研究" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "生物学の諸分野は、各論・方法論・理論の視点から分類できる。各論は研究対象によって、方法論は手法によって、理論は普遍化された学説によって分野名がつけられる。ただしいずれの分野も、程度の差はあれ3つすべての性質をあわせもっているため、分類は便宜的なものになる。例えば、細胞生物学、微生物学、生物物理学、生化学。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "生物学を大きくふたつに分ける場合、個体の内部の生命現象を解析する方向(=広義の生理学)と、個体間・種間・個体と環境など関係を個体の外に求めてゆく方向(=広義の生態学)がある。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、生物学の各論には、生物の系統分類と生物学的階層性という大きな2つの軸があるとされる。前者によって分類する場合、代表的な分野は、動物学、植物学、微生物学の3つである。それぞれは系統分類にしたがってさらに細分化できる。動物学の下位には原生動物学、昆虫学や魚類学、脊椎動物学などがある。同様に、植物学の下には顕花植物学や樹木学など、微生物学の下にはウイルス学や細菌学などがある。これらの分野では、生物の特異性・多様性を重視する流れがある。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "一方、対象の大きさ、つまり生物学的階層性(すなわち現象)を軸にすると、代表的な分野は、分子生物学・生化学、細胞生物学、発生生物学、動物行動学、生態学などがある(図)。生態学は生物群の大きさによって個体群生態学、群集生態学などに分けられる他、対象とする場所を重視する場合は森林生態学や海洋生態学、極地生態学などの名称も用いられる。生物学的階層性は生物の分類に対して横断的であり、生物の普遍性が注目される。この軸では個体レベルを境として大きく2つに分けることができる。この視点から諸分野を見ると、個体レベル以下を扱う分野は分子生物学の影響が強く還元主義的な傾向があり、個体レベル以上を扱う分野は全体論的な傾向がある。動物発生学や植物細胞学などの分野は、この2つの軸を考えるとその領域が把握しやすい。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "方法論は各論分野に必要に応じて導入され、実際の研究を発展させるために必須なものである。理論は抽象化により総合的・普遍的な視点を各論に提供する。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "最も古くからある方法論の一つは、生物の分類を扱う分類学である。分類は生物学の基礎であり、進化研究の手がかりにもなる。伝統的には形態に注目して分類されていたが、近年では分子生物学の手法を取り入れた分子系統分類がさかんである。生化学は化学的手法、分子生物学は DNA 操作を使う方法論でもある。分子遺伝学や逆遺伝学から発展したゲノムプロジェクトやバイオインフォマティクスは、新たな方法論として脚光を浴びている。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "生物学の理論としては、遺伝学や進化学が代表的である。遺伝学は、遺伝子の機能を間接的に観察するという方法論でもある。遺伝や進化の理論は、具体的なレベルでは未だ議論があるが、総論としては生物学に必要不可欠な基盤となっている。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "生物学の分類として、記載生物学・比較生物学・実験生物学といった類型化もある。記載・比較・実験は上記のように生物学の基本的な手法なので、このような区分は成立しないことが多いが、むしろ歴史的な展開の中での各部分に対してこの名が使われることがある。それも個々の分野名にこの名を被せる例が多い。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "記載生物学は、生物の形や構造を把握し、図や文で記載することを行うのを主目的とする。比較生物学はそれによって知られるようになったものを他の生物のそれと比較することから何かをえようとする。実験生物学は記載や比較では得られない知識を、生物を操作することで得ようとする。従って、生物学はこの順番で発展する。ただし記載はあまりにも最低限基本的な操作なので、これを冠する例はない。記載をしなければそれは科学以前である。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "たとえば近世から近代の生物学発展の初期、比較解剖学は極めて重要な分野として独立していた。これは発生学に結びついて比較発生学の流れをつくり、両者融合して比較形態学と呼ばれた。しかしこの分野は内部造反的に実験的手法に頼る実験発生学を生み出す。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "20世紀に入るまで、各分野はそれぞれ独自の手法や観点で異なる対象を研究し、内容の重複はわずかだった。しかし、20世紀後半の分子生物学の爆発的な発展や顕微鏡などの技術発展により、研究分野はさらに細分化されつつも、それらの境界はあいまいになり、分野の名称は便宜的・主観的なものになってきている。例えば、イモリの足の再生を研究し「再生生物学」という名称を使ったとしても、再生にかかわる遺伝子は遺伝学や分子生物学、その遺伝子が作る化学物質の性質は生化学、再生する細胞の挙動は細胞生物学、組織が正確に再生する仕組みは発生生物学、などさまざまな分野が関連する。このような経緯から、「〜学」という古典的な名称を、「〜生物学」や「〜科学」に変えることも多い。", "title": "生物学の諸分野" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "生物学は、さまざまな形で他の学問分野と関係している。概念、理論、研究手法などの面で生物学に影響を与えた自然科学の分野としては、先に発展していた物理学と化学が挙げられる。特に分子生物学以降は物理学の影響が強い。生化学や生物物理学などはこれらの境界領域の分野と言える。応用科学では医学における生化学や生理学、解剖学は、動物学や発生学と関連し、農学における育種学は遺伝学の誕生に寄与し、その過程で近代的な推測統計学を醸成した。また、数学は自然科学の基礎として生物学に影響を与えているほか、特に数理生物学や集団遺伝学などでは高度に数学的な概念、分析手法が用いられる。", "title": "生物学と関連する分野" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "近年では、ゲノムやプロテオームの解析から得られる膨大なデータを処理する必要があるため、バイオインフォマティクス(生物情報学)と呼ばれる分野では情報学の方法論が取り入れられ、ゲノミクスやプロテオミクスで用いられている。また、生命現象をシステムとして理解することを目的とするシステム生物学が発展しつつある。", "title": "生物学と関連する分野" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "生物学と相互に影響しあっている分野も数多い。生態学は理論面で経済学と強い関連があり、地球科学と観測技術を共有している。これらの影響は、一方通行ではなく相互的である。", "title": "生物学と関連する分野" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "人文科学系の分野の中では、自然哲学の一分野である生物哲学、方法論としては科学哲学、倫理面を研究する生命倫理学などが生物学と対象を共有している。科学史の一分野である生物学史は、生物学の歴史が研究対象である。", "title": "生物学と関連する分野" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "生物学から多くの影響を受けた分野に、理論社会学や社会思想がある。ダーウィンと同時代に生き、適者生存などの語の発案者でもあるハーバート・スペンサーや、エミール・デュルケームは、社会の変化、特に分業の発達と構成要素の多様化を生物進化になぞらえて考察する理論を打ちたてた。彼らの学問は社会学の中でも多く知られているが、スペンサーを除けば、生物学から影響を受ける量が多く、生物学への影響は限られている。また、生物をメタファーとして社会を説明する理論にはほかに、マーシャル・マクルーハンによるメディア論や梅棹忠夫による情報産業論など、広く知られたものが多くある。", "title": "生物学と関連する分野" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "システム理論やサイバネティックスは、生物学による生命体の理解を手がかりに、秩序や変化についての一般理論を構築している。これは社会学にも社会システム論として影響を与えている。", "title": "生物学と関連する分野" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "生物学の知見と技術を応用に用いる分野は、バイオテクノロジーまたは生物工学と呼ばれる。遺伝子操作に重点が置かれる場合は遺伝子工学、発生過程に重点が置かれる場合は発生工学ともいう。生物学の成果を実業に活用する産業はバイオ産業と呼ばれ、ITとならんで勢いのある市場であり、ベンチャー企業が次々と誕生している。アメリカでは大学の研究者が起業することも多い。遺伝子治療、幹細胞を用いた再生医学、一塩基多型 (SNPs) を用いたオーダメイド医療やゲノム創薬などが注目されている。農業や畜産関連でもバイオテクノロジーが生かされており、これらを支える基礎研究は重要である。政府や企業は多大な資金を提供し、その発展を促している。", "title": "生物学の応用と社会的責任" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "応用分野に輝かしい貢献をすると同時に、現代生物学はさまざまな倫理的問題を抱えている。それらはゲノム情報、遺伝子操作、クローン技術など、生命の根幹に関わる技術や情報によりもたらされた。これらは、臨床医療においては恩恵をもたらす一方で、差別や生命の軽視など深刻な社会問題を引き起こしつつある。このような課題は生命倫理学によって扱われる。また、遺伝子操作によって作られた遺伝子組み換え作物(GM作物)の環境への影響(遺伝子汚染)という問題提起がなされており、議論が行われている。近代から現代にかけて、人間の活動によって環境破壊が起こり、生物多様性が急速に失われている。生物学は観測を行い、科学的裏付けのあるデータに基づいた提唱をしたり、生態系や生物多様性について正しい情報を発信するなどの取り組みも必要である。", "title": "生物学の応用と社会的責任" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "現代生物学およびそれに携わる人々は、純粋な科学的研究成果のみならず、このような倫理的側面に対しても熟考し議論を深め、社会的責任を果たすことが求められている。", "title": "生物学の応用と社会的責任" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "Biology という語は、「生命」を意味するギリシャ語の βίος (bios) と「言葉・論」を意味する λόγος (logos) から造られた。K. F. ブルダッハ(1800年)、G. R. トレヴィラヌス(1802年)、ジャン=バティスト・ラマルク(1802年)らによって独立に用いられた。生物学が様々な生物を分類記載する博物学から発展したことからもわかるように、生物学には生物の多様性を理解しようとする伝統がある。", "title": "「生物学」と「生命科学」" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "一方、生命科学 (Life science) や生物科学 (Bioscience, Biological science) という語は、分子生物学が誕生してから新しく作られたものである。全ての生物に共通する「言葉」であるDNAを分子生物学が提供したことで、分野ごとに断片化していた生物学が統合されつつある。そこで新たに生命科学という言葉が用いられるようになった。 ただし、生物学も生命科学も広義に解釈すると範囲は広く重なり、実際の生物研究をどちらかにわけることは難しいことがある。また「生物学」の意味も時代とともに変化しており、しばしば「生物科学」や「生命科学」と同じ意味に使われる。", "title": "「生物学」と「生命科学」" } ]
生物学とは、生命現象を研究する、自然科学の一分野である。 広義には医学や農学など応用科学・総合科学も含み、狭義には基礎科学(理学)の部分を指す。一般的には後者の意味で用いられることが多い。 類義語として生命科学や生物科学がある(後述の#「生物学」と「生命科学」参照)。
'''生物学'''(せいぶつがく、{{Lang-en-short|biology}}、{{lang-la-short|biologia}}<ref group="注釈">biologiaはビオロギアと読む。</ref>)とは、[[生命|生命現象]]を研究する、[[自然科学]]の一分野である<ref name="名前なし-1">平凡社『世界大百科事典』第15巻、p.418【生物学】</ref>。 広義には[[医学]]や[[農学]]など[[応用科学]]・[[総合科学]]も含み{{要出典|date=2012年11月}}、狭義には[[基礎科学]]([[理学]])の部分を指す{{要出典|date=2012年11月}}。一般的には後者の意味で用いられることが多い。 類義語として'''[[生命科学]]'''や'''生物科学'''がある(後述の[[#「生物学」と「生命科学」]]参照)。 == 概要 == 生物学とは、生命現象を研究する分野である。 日本の『生化学辞典』によると、生物学は[[生物]]やその存在様式を研究対象としている<ref name="SeikagakuDic725-3">[[#生化学辞典(2版)|生化学辞典第2版、p.725 【生物学】]]</ref>、となっており、 Aquarena Wetlands Project glossary of termsの定義では、生物学の研究対象には[[構造生物学|構造]]・[[機能]]・[[成長]]・[[胚発生|発生]]・[[進化]]・[[分布 (生物)|分布]]・[[分類]]を含む<ref>[http://www.bio.txstate.edu/~wetlands/Glossary/glossary.html Aquarena Wetlands Project glossary of terms.]の定義に基づく。</ref>としている。 扱う対象の大きさは、[[一分子生物学]]における「[[細胞]]内の一[[分子]]の[[行動|挙動]]」から、[[生態学]]における「[[生物圏]]レベルの現象」までのレベルにおいても、具体的な生物種の数の多さにおいても、きわめて幅広い。 ===歴史=== {{main|生物学史}} 現代の生物学が成立したのは比較的最近だが、関連し含まれていた科学は古代から存在した。自然哲学は[[メソポタミア]]、[[古代エジプト]]、[[古代インド]]、[[古代中国]]で研究されていた。しかし、現在に繋がる生物学や自然研究の萌芽は古代ギリシアに見られる<ref>Magner, ''A History of the Life Sciences''</ref>。 一般に、諸研究に先駆しているという意味で、[[古代ギリシャ]]の[[アリストテレス]]をもって生物学史の始めとする<ref name="名前なし-2">『岩波生物学事典』 第四版、p.760</ref><ref name="名前なし-1"/>。「アリストテレスは実証的[[観察]]を創始した<ref>『岩波生物学事典』p.33【アリストテレス】</ref>」「全時代を通じて最も[[観察]]力の鋭い博物学者の一人<ref>『ブリタニカ国際大百科事典』第11巻、p221【生物学】</ref>」などとされ、[[生物の分類|生物の分類法]]を提示するなどし、後世に至るまで多大なる影響を及ぼしたのである。アリストテレスの動物学上の著作として残っているものとしては''Historia animalium''『[[動物誌 (アリストテレス)|動物誌]]』、''De generatione animalium''『[[動物発生論]]』、''De partibus animalium''『[[動物部分論]]』、''De anima''『[[霊魂論|心について]]』(『[[霊魂論]]』とも)がある。<ref>『岩波生物学事典』【生物学】</ref>『動物誌』では、500を越える種の動物(約120種の魚類や約60種の昆虫を含む)を扱っており、随所で優れた観察眼を発揮している<ref>『動物誌』は、翻訳が岩波文庫でも出ている。上・下二巻の大部で(アリストテレース『動物誌 上』1998、ISBN 978-4003860113、および『動物誌 下』1999、ISBN 978-4003860120。岩波文庫)</ref>。植物に関する研究も行い著作もあったとされるが、現在では残っていないとされる。アリストテレスの生物に関する研究の中でも動物に関する研究は秀でており、特に[[動物学]]の始原とされる。分類、[[生殖]]、[[胚発生|発生]]、その他の分野において先駆的な研究を行い、その生命論や発生論は17世紀や18世紀の学者にまで影響を与えた。 ただし、アリストテレスの生物学は、今日の視点から見れば[[生気論]]・[[目的論]]的であり、その意味では[[哲学]]的、思弁的といえる<ref>『ブリタニカ国際大百科事典』第11巻、【生物学】p.220</ref>。 [[:Category:古代ギリシアの哲学者|古代ギリシアの哲学者たち]]は有生物と無生物を区別する原理として「[[プシュケー]]」という用語を用いて説明していたが、アリストテレスはこの[[プシュケー]]を、[[可能態]]において生命を持つ[[自然]]的物体の[[形相]](エイドス)と[[定義]]し、プシュケーは「生命の[[本質]]をなしており、自己目的機能であり[[起動因]]だ」と記述した<ref>『岩波哲学思想事典』岩波書店 1998年 1371頁【プシュケー】。</ref>。 中世には、[[イスラム世界]]で[[ジャーヒズ]](781年-869年)やAbū Ḥanīfa Dīnawarī(828年-896年)らが植物学の著作を残した<ref name=Fahd-815>{{Cite journal|last=Fahd|first=Toufic|contribution=Botany and agriculture|page=815|ref=harv}}, in {{Cite book |last1=Morelon |first1=Régis |last2=Rashed |first2=Roshdi |year=1996 |title=Encyclopedia of the History of Arabic Science |volume=3 |publisher=Routledge |isbn=0415124107 |ref=harv |postscript=<!--None-->}}</ref>。 現代生物学は、[[アントニ・ファン・レーウェンフック]]が発明した[[顕微鏡]]の普及とともに発展した。科学者らによる[[精子]]・[[バクテリア]]・滴虫類、そして生命が持つ驚くべき奇妙さと多様性が次々と明らかにされた。ヤン・スワンメルダムの調査は昆虫学に対する関心を新たにし、顕微鏡を用いた解剖や標本用染色の技術を向上させた<ref name=Magner133>Magner, ''A History of the Life Sciences'', pp 133–144</ref>。 17世紀に[[ロバート・フック]]が顕微鏡を用いた観察で[[細胞]]を発見し、18世紀の[[カール・フォン・リンネ]]による[[生物の分類|生物の系統的分類]]の発表を経て、[[チャールズ・ダーウィン]]の[[進化論]]や[[グレゴール・ヨハン・メンデル]]の[[メンデルの法則|遺伝子法則]]などが認められるに及び、それまでの[[博物学]]の一領域に過ぎなかった生物についての知識が、ひとつの学問分野を成り立たせるに充分にまで蓄積された事で成立した<ref name="SeikagakuDic725-3" />。19世紀前半には、細胞の中心組織が重要な役割を持つという認識が広がった。1838年と1839年、[[マティアス・ヤーコプ・シュライデン]]と[[テオドール・シュワン]]は、(1)有機体の基本単位は細胞であり、(2)個別の細胞がそれぞれ生きて、多くの否定的意見があったが(3)全ての細胞は分裂によって生じるという考えを促進する役割を果たした。1860年代には、[[ロベルト・レーマク]]と[[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョウ]]の仕事によって[[細胞説]]として知られる上記3説は多くの支持を受けるようになった<ref>Sapp, ''Genesis'', chapter 7; Coleman, ''Biology in the Nineteenth Century'', chapters 2</ref>。 20世紀になると、生物学的知識は膨大かつ複雑になったため、これらを統一的に理解しようとする試みが重視されるようになった。さらに、生物を高度に組織化された分子の集合体と捉え、環境の中からどのように自己の秩序と維持を満たすかという視点から、[[分子工学]]的な理解を強める傾向にある。そのため、従来の[[記述]]を主体とした学問から、[[原理]]的そして[[実体]]論的な学問へと変貌しつつある<ref name="SeikagakuDic725-3" />。1990年には一般的なヒトゲノムを図像化する計画([[ヒトゲノム計画]])が実行に移され、2003年に完成した<ref>{{cite news | url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/2940601.stm | title=BBC NEWS &#124; Science/Nature &#124; Human genome finally complete | accessdate=2006-07-22 | date=2003-04-14 | work=BBC News | first=Ivan | last=Noble}}</ref>。 ===名称=== 英語の biology は[[ギリシア語]]の {{lang|grc|βίος}}(bios、生命)に[[接尾語]] {{lang|grc|-λογία}}(-logia、〜の学問)である<ref>{{cite web |url=http://topics.info.com/Who-coined-the-term-biology_716 |title=Who coined the term biology? |author= |date= |work=Info.com |publisher= |accessdate=2012-06-03}}</ref>。これは、[[フリードリヒ・ブルダッハ|K.F.ブルダッハ]]([[1800年]])、[[ゴットフリート・ラインホルト・トレフィラヌス]]([[1802年]])、[[ジャン=バティスト・ラマルク]](1802年)らによって、それぞれ独立に用いられはじめ<ref name="名前なし-2"/><ref>[[平凡社]]『世界大百科事典』第15巻、p.418【生物学】</ref><ref>『[[ブリタニカ国際大百科事典]]』第11巻、p219【生物学】</ref>、広まることになった(→[[#「生物学」と「生命科学」]])。 ===特徴=== [[ファイル:Da_Vinci_Vitruve_Luc_Viatour.jpg|thumb|120px|人体:現代の生物学において、[[ヒト]]は「万物の長」とはされないが、ヒト研究は重要な位置を占める]] [[現代 (時代区分)|現代]]の生物学者は、基本的に[[唯物論]]或いは[[機械論]]の立場を取り、生物は[[有機化合物]]などの[[物質]]から構成された複雑な[[機械]]であると見なす。一つ一つの要素を解明していく[[還元主義]]が有効である場面は依然存在するが、還元主義だけで複雑な生命現象を理解する試みには限界があることが理解され始めたため、生物を[[複雑系]]として扱う考えかたも発展してきている。 生物学では、一般的にヒトを特別な[[種 (分類学)|生物種]]としては扱わない。しかし、我々自身がヒトであり、その研究は[[医療]]や[[産業]]などと関連しているため、生物学の中でヒト研究は重要であり関心も高い。生物学研究の成果は医療や農業における基礎を提供し、応用面で人類に大きな利益をもたらしている。生物学に関連する産業は[[バイオ産業]]と呼ばれ、[[情報技術|IT]]産業と並び発展性のある大きな[[市場]]を形成し、[[経済]]的にも重要な位置にあるとされる。生物学の知見や技術は生命の根幹に大きく関わるようになり、[[倫理学|倫理]]的・[[社会]]的な影響も注目されている。 {{See_also|Portal:生物学|生物学に関する記事の一覧|Category:生物学|生物学史}} == 生物学の研究 == [[ファイル:Illustration_Notholaena_marantae.jpg|thumb|120px|ドイツの植物学者[[オットー・ヴィルヘルム・トーメ]]による[[シダ植物]]の記載(1885年)]] 生物学では、他の[[自然科学]]分野と同様に、[[記載]]・[[実験]]・[[理論]]といった[[科学的方法]]によって研究が行われる(ここでの「理論」は方法論としての理論を指す)。これらは独立したものではなく、それぞれが関連し合って一連の研究を形作る。 記載とは、詳細な[[観察]]に基づいて基礎となる事象を明らかにすることであり、研究において最も始めに行われる。[[種 (分類学)|生物種]]を[[同定]]するための形態学的観察をはじめとして、実験操作を加えない状態での発生現象や細胞構造の観察、生理条件下での生理活性物質の測定、ひいては[[ゲノムプロジェクト|ゲノムの解読]]も記載と言える。 また、個々の事例の記載を基礎とし、それらを[[比較]]することからより一般的な知見を得ることは、特に生物学では重視されてきた。これは一つにはその構造や現象が複雑で,研究史の初期において実験系を作りにくかったこと、他方で生物が多様であり、その背後に進化があることからそれを比較によってあぶり出すことに大きな意味があったからである。たとえば[[比較解剖学]]や[[比較発生学]]はそれぞれの分野の発展の中では大きな意味を持ち、それらは直接に進化論の発展に結びついた。 実験は人為的に操作を加えることにより通常と異なる条件を作り出し、その後の変化を観察・観測することで、生物に備わっている機構を解明しようとする[[実証主義]]的な試みである。[[突然変異]]の誘発や、[[遺伝子導入]]、移植実験などさまざまな手法を使う。現代生物学は実験生物学の性質が強くなっている。実験操作は[[科学的方法]]に基づき、[[対照実験]]や[[再現性]]の確認などにより、実験者の主観が除かれる必要がある。 [[ファイル:Trilobite_southern_France_001.jpg|thumb|120px|left|[[三葉虫]]の[[化石]]: 化石は生物進化を探る手がかりである]] 一方、[[進化]]や[[生物圏]]レベルの生態学研究のように実験による証明が困難である場合は、様々な[[観測]]データや[[古生物]]の[[化石]]などを用い、比較や構造化など理論による説明を試みる。また[[バイオインフォマティクス]]のように膨大なデータを統合して理解しようとする場合も、理論によるアプローチに重点が置かれる。実験を行う前に[[仮説]]を立て結果を予想したり、実験結果を解釈して抽象化や普遍化させて法則や規則性を見いだしたりすることも理論の一部である。このような理論面に重点を置いた分野を[[理論生物学]]、[[数理モデル]]を用いる分野を[[数理生物学]]とよぶ。これらの分野は高度に抽象化するため、対象の生物学的階層には捕われない性質がある。 新たな方法論として、蓄積したデータに基づいて[[コンピュータ]]上に仮想システムを構築することで構造を理解したり、そのパラメータを変化させる[[シミュレーション]]により実験の代わりとする[[システム生物学]]も登場している。 === 還元主義と複雑系 === [[ファイル:Common_clownfish.jpg|thumb|right|[[共生]]関係にある[[クマノミ]]と[[イソギンチャク]]: 生物と環境が作り出す生態系は複雑である]] 20世紀半ばの分子生物学の台頭以降、その周辺分野では、一つの[[遺伝子]]・[[タンパク質]]の機能に注目する還元主義的なアプローチが主体だった。この手法は強力で、さまざまな生命現象を解き明かしてきた。しかし、分子レベルで明らかにしたことを組み合わせるだけでは、脳の活動や行動など複雑な現象は理解しがたく、還元主義のみでは限界があることもわかってきた。このことへの反省もあり、物理学的還元主義への傾倒から抜け出し、21世紀に入ってからは生物を[[複雑系|複雑な系]]としてそのままあつかう[[オーミクス]]や[[システム生物学]]等のアプローチも盛んになっている。一方、[[生物多様性]]をあつかう伝統的な生物学や生態学では、生物の作りだす系が複雑であることは自明だったため、複雑系のような全体論は目新しいものではない。生物学の両輪である、生物の多様性と普遍性に関する知見は、[[ゲノム]]解析によって結びつけられつつある。 === 大きなパラダイムシフト === 生物学の[[パラダイム]]を大きく変えたものには[[細胞]]の発見、[[進化]]の提唱、[[遺伝子]]の示唆、[[二重らせん|DNA の構造決定]]、[[セントラルドグマ]]の否定、[[ゲノムプロジェクト]]の実現などがある。細胞の発見やゲノムプロジェクトは主に技術の進歩によってもたらされ、進化や遺伝子の発見は個人の深い洞察によるところが大きい。 [[ファイル:Clostridium_botulinum.jpg|thumb|right|120px|[[ボツリヌス菌]]: 顕微鏡は、微生物や細胞を見る「目」となった]] [[17世紀]]に発明された[[顕微鏡]]による細胞の発見は、[[微生物]]の発見をはじめとして、[[動物]]と[[植物]]がいずれも同じ構造単位から成っていることを認識させ、[[動物学]]と[[植物学]]の上位分野として生物学を誕生させることになった。また[[自然発生説]]の否定によって、いかなる細胞も既存の細胞から生じることが示され、[[生命の起源]]という現在も未解明の大きな問題の提示につながっている。 進化は[[チャールズ・ダーウィン]]をはじめとする数人の博物学者によって[[19世紀]]に提唱された概念である。それまでは経験的にも[[宗教]]的にも、生物種は固定したものとされていたが、現在では、同じ種の中でも形質に多様性があり、生物の形質は変化するものとされ、種の区別が困難なものもあるという指摘がされている。単純な生物から多様化することで現在のような多様な生物が存在すると考えることが可能になり、生命の起源を研究可能なテーマとすることができるようになった。進化論は社会や思想にも大きな影響を与え、近代で最も大きなパラダイムシフトの1つであった。 [[ファイル:Dna-split.png|thumb|120px|複製されるDNA: 二重らせんがほどけて複製されることは、遺伝の最も根源にある物理的現象である]] [[遺伝]]自体は古くから経験的に知られていた現象である。しかし、19世紀後半、[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]は交雑実験から[[メンデルの法則|遺伝の法則]]を発見し、世代を経た後にも分離可能な因子、すなわち[[遺伝子]]が存在することを証明した。さらに[[染色体]]が発見され、20世紀前半の遺伝学・細胞学による研究から、染色体が遺伝子の担体であることが確証づけられた。この過程において古典的な[[遺伝学]]が発展し、その後の分子生物学の誕生にもつながった。{{main|染色体説}} [[1953年]]、[[ジェームズ・ワトソン]]、[[フランシス・クリック]]らが、[[X線回折]]の結果から、立体模型を用いた推論により遺伝物質 [[デオキシリボ核酸|DNA]] の[[二重らせん]]構造を明らかにした。DNA構造の解明は、分子生物学の構造学派にとって最大の成功である。相補的な2本の分子鎖が逆向きにらせん状構造をとっているというモデルは、[[染色体]]分配による[[遺伝]]のメカニズムを見事に説明しており、その後の分子生物学を爆発的に発展させた。 DNAからRNAへの転写、RNAからタンパク質への翻訳、遺伝暗号などの解明により、[[セントラルドグマ]]と呼ばれる「[[DNA]]→[[RNA]]→[[タンパク質]]」といった一方向の情報伝達がまるで教義のように思われた時期もあったが、これを裏切るかのように[[逆転写酵素]]や[[リボザイム]]といった発見も20世紀後半に相次いだ。 [[ゲノム]]という概念は、ある生物種における[[遺伝情報]]の総和として提唱された。ゲノム ''genome'' という語は遺伝子 ''gene'' と、総体を表す接尾語 ''-ome'' の合成語である。技術発展により[[ゲノムプロジェクト]]が可能になり、ゲノム研究は、生物学における還元論と全体論、普遍性と多様性を結びつける役割をもつようになった。生物種間でのゲノムの比較により普遍性と多様性理解への糸口を与え、還元的な研究に因子の有限性を与えることで、個々の研究を全体論の中で語ることを可能にした。他にも様々な総体に対する研究が始まっている。{{main|オーミクス}} Vernon L.が1995年に主張したところところによると、({{いつ|date=2012年11月}}の生物学においては)特に重要な題材は、以下に挙げる5つの原則で、それらは「基本公理とも言える」と言う:<ref name="avila_biology">{{cite book |author=Avila, Vernon L. |title=Biology: Investigating life on earth |publisher=Jones and Bartlett |location=Boston |year=1995 |pages=11–18|isbn=0-86720-942-9 |oclc= |doi= |accessdate=}}</ref>。 # [[生命]]の基本単位は[[細胞]]である # 新しい[[種 (分類学)|種]]と遺伝的特徴は[[進化]]によってもたらされる # [[遺伝子]]は形質遺伝の基礎である # 生物は体内環境を調整し、一定の状態を安定して維持する # 生きている生物は[[エネルギー]]を消費し変換する === 生物学の今後 === {{出典の明記| section = 1| date = 2010年8月}} 生物学が自然史学の一部だった時代には、記載生物学が主体だった。現代生物学は、実験が主体になっている。さらに将来は、ゲノムやプロテオーム研究などで蓄積された膨大なデータを[[コンピュータ]]で処理し、そこから生命の原理に迫る[[バイオインフォマティクス|生物情報学]]が主体になるかもしれない。急激なコンピュータの高速化と並行して、実験や観察技術、新たな分析手法の発見など技術発展も進むだろう。 純粋生物学に残された大きなテーマには[[生命の起源]]、ヒトの[[精神]]あるいは[[心理学|心理]]過程、[[地球外生命|地球外生命体]]などがある。すでに起きてしまった生命の起源や進化は、実験で再現できない。ただし、生物物理学的・生化学的に生命(細胞)の誕生を再現する試みはある。 心理学はヒトやほかの動物の行動や心理過程を研究しているが、生物学と心理学とは、従来よりおもに神経メカニズムという観点から関係をもってきた。しかし、とくにヒトの高次心理過程は、いまだ現在の生物学の知見を超える部分が大きい。今後、そういった高次心理過程も、心理学における行動・認知レベルの研究に加えて、生物学における分子レベルの、細胞レベルの、皮質のグローバルなレベルでの研究を進めることにより、両分野のあいだで統合的に説明できるようになるかもしれない。 地球以外に生命は存在するかという問題は、まだ生物学のテーマではないと、現在の多くの生物学者は考えている。しかし、火星やその他の惑星、衛星の探索が進み、生命やその痕跡が発見されれば、重要なテーマの一つとなり、現在の生物学に大きな改変が迫られる可能性がある<ref name="SeikagakuDic725-3" />。{{see_also|宇宙生物学}} また、医学や農学、薬学や化学工学などへの重要性は増し、応用は今後もますます増加していく<ref name="SeikagakuDic725-3" />。 == 生物学の諸分野 == 生物学の諸分野は、各論・方法論・理論の視点から分類できる。各論は研究対象によって、方法論は手法によって、理論は普遍化された学説によって分野名がつけられる。ただしいずれの分野も、程度の差はあれ3つすべての性質をあわせもっているため、分類は便宜的なものになる。例えば、細胞生物学、微生物学、生物物理学、生化学。 === 各論 === [[ファイル:biological_hierarchy.png|thumb|400px|right|生物学的階層性と分野の範囲: 分野は代表的なものを示した。]] 生物学を大きくふたつに分ける場合、個体の内部の生命現象を解析する方向(=広義の[[生理学]])と、個体間・種間・個体と環境など関係を個体の外に求めてゆく方向(=広義の[[生態学]])がある<ref>平凡社『世界大百科事典』第15巻、【生物学】p.419</ref>。 また、生物学の各論には、生物の[[生物の分類|系統分類]]と生物学的階層性という大きな2つの軸があるとされる。前者によって分類する場合、代表的な分野は、[[動物学]]、[[植物学]]、[[微生物学]]の3つである<ref name="SeikagakuDic725-3" />。それぞれは系統分類にしたがってさらに細分化できる。動物学の下位には[[原生動物学]]、[[昆虫学]]や[[魚類学]]、[[脊椎動物学]]などがある。同様に、植物学の下には[[顕花植物学]]や[[樹木学]]など、微生物学の下には[[ウイルス学]]や[[細菌学]]などがある<ref name="SeikagakuDic725-3" />。これらの分野では、生物の特異性・多様性を重視する流れがある。 一方、対象の大きさ、つまり生物学的階層性(すなわち現象<ref name="SeikagakuDic725-3" />)を軸にすると、代表的な分野は、分子生物学・[[生化学]]、[[細胞生物学]]、[[発生生物学]]、[[動物行動学]]、[[生態学]]などがある(図)。生態学は生物群の大きさによって個体群生態学、群集生態学などに分けられる他、対象とする場所を重視する場合は森林生態学や海洋生態学、極地生態学などの名称も用いられる。生物学的階層性は生物の分類に対して横断的であり、生物の普遍性が注目される。この軸では個体レベルを境として大きく2つに分けることができる。この視点から諸分野を見ると、個体レベル以下を扱う分野は[[分子生物学]]の影響が強く還元主義的な傾向があり、個体レベル以上を扱う分野は全体論的な傾向がある。動物発生学や植物細胞学などの分野は、この2つの軸を考えるとその領域が把握しやすい。 === 方法論と理論 === 方法論は各論分野に必要に応じて導入され、実際の研究を発展させるために必須なものである。理論は抽象化により総合的・普遍的な視点を各論に提供する。 最も古くからある方法論の一つは、生物の分類を扱う[[分類学]]である。分類は生物学の基礎であり、進化研究の手がかりにもなる。伝統的には形態に注目して分類されていたが、近年では分子生物学の手法を取り入れた分子系統分類がさかんである。生化学は化学的手法、分子生物学は [[デオキシリボ核酸|DNA]] 操作を使う方法論でもある。[[分子遺伝学]]や[[逆遺伝学]]から発展した[[ゲノムプロジェクト]]や[[バイオインフォマティクス]]は、新たな方法論として脚光を浴びている。 生物学の理論としては、[[遺伝学]]や[[進化|進化学]]が代表的である。遺伝学は、[[遺伝子]]の機能を間接的に観察するという方法論でもある。[[遺伝]]や[[進化]]の理論は、具体的なレベルでは未だ議論があるが、総論としては生物学に必要不可欠な基盤となっている。 === 歴史展開による分類 === 生物学の分類として、記載生物学・比較生物学・実験生物学といった類型化もある。記載・比較・実験は上記のように生物学の基本的な手法なので、このような区分は成立しないことが多いが、むしろ歴史的な展開の中での各部分に対してこの名が使われることがある。それも個々の分野名にこの名を被せる例が多い。 記載生物学は、生物の形や構造を把握し、図や文で記載することを行うのを主目的とする。比較生物学はそれによって知られるようになったものを他の生物のそれと比較することから何かをえようとする。実験生物学は記載や比較では得られない知識を、生物を操作することで得ようとする。従って、生物学はこの順番で発展する。ただし記載はあまりにも最低限基本的な操作なので、これを冠する例はない。記載をしなければそれは科学以前である。 たとえば近世から近代の生物学発展の初期、[[比較解剖学]]は極めて重要な分野として独立していた。これは発生学に結びついて[[比較発生学]]の流れをつくり、両者融合して比較形態学と呼ばれた。しかしこの分野は内部造反的に実験的手法に頼る[[実験発生学]]を生み出す。 === あいまいになる諸分野の境界 === 20世紀に入るまで、各分野はそれぞれ独自の手法や観点で異なる対象を研究し、内容の重複はわずかだった。しかし、20世紀後半の[[分子生物学]]の爆発的な発展や[[顕微鏡]]などの技術発展により、研究分野はさらに細分化されつつも、それらの境界はあいまいになり、分野の名称は便宜的・主観的なものになってきている。例えば、イモリの足の[[再生 (生物学)|再生]]を研究し「再生生物学」という名称を使ったとしても、再生にかかわる[[遺伝子]]は[[遺伝学]]や[[分子生物学]]、その遺伝子が作る化学物質の性質は[[生化学]]、再生する[[細胞]]の挙動は[[細胞生物学]]、[[組織 (生物学)|組織]]が正確に再生する仕組みは[[発生生物学]]、などさまざまな分野が関連する。このような経緯から、「〜学」という古典的な名称を、「〜生物学」や「〜科学」に変えることも多い。 == 生物学と関連する分野 == 生物学は、さまざまな形で他の学問分野と関係している<ref name="SeikagakuDic725-3" />。概念、理論、研究手法などの面で生物学に影響を与えた自然科学の分野としては、先に発展していた[[物理学]]と[[化学]]が挙げられる。特に分子生物学以降は物理学の影響が強い。[[生化学]]や[[生物物理学]]などはこれらの境界領域の分野と言える。応用科学では[[医学]]における生化学や[[生理学]]、[[解剖学]]は、[[動物学]]や[[発生生物学|発生学]]と関連し、[[農学]]における[[育種学]]は[[遺伝学]]の誕生に寄与し、その過程で近代的な[[統計学#歴史|推測統計学]]を醸成した。また、[[数学]]は自然科学の基礎として生物学に影響を与えているほか、特に[[数理生物学]]や[[集団遺伝学]]などでは高度に数学的な概念、分析手法が用いられる。 近年では、[[ゲノム]]や[[プロテオーム]]の解析から得られる膨大なデータを処理する必要があるため、[[バイオインフォマティクス]](生物情報学)と呼ばれる分野では[[情報学]]の方法論が取り入れられ、[[ゲノミクス]]やプロテオミクスで用いられている。また、生命現象をシステムとして理解することを目的とする[[システム生物学]]が発展しつつある。 生物学と相互に影響しあっている分野も数多い。生態学は理論面で[[経済学]]と強い関連があり、[[地球科学]]と[[観測]]技術を共有している。これらの影響は、一方通行ではなく相互的である。 [[人文科学|人文科学系]]の分野の中では、[[自然哲学]]の一分野である'''生物哲学'''、[[科学的方法|方法論]]としては[[科学哲学]]、倫理面を研究する[[生命倫理学]]などが生物学と対象を共有している。[[科学史]]の一分野である[[生物学史]]は、生物学の歴史が研究対象である。 生物学から多くの影響を受けた分野に、理論社会学や社会思想がある。ダーウィンと同時代に生き、[[適者生存]]などの語の発案者でもある[[ハーバート・スペンサー]]や、[[エミール・デュルケーム]]は、社会の変化、特に分業の発達と構成要素の多様化を生物進化になぞらえて考察する理論を打ちたてた。彼らの学問は社会学の中でも多く知られているが、スペンサーを除けば、生物学から影響を受ける量が多く、生物学への影響は限られている。また、生物をメタファーとして社会を説明する理論にはほかに、[[マーシャル・マクルーハン]]によるメディア論や[[梅棹忠夫]]による情報産業論など、広く知られたものが多くある。 [[システム理論]]や[[サイバネティックス]]は、生物学による生命体の理解を手がかりに、秩序や変化についての一般理論を構築している。これは社会学にも社会システム論として影響を与えている。 == 生物学の応用と社会的責任 == {{出典の明記|section=1|date=2010年6月}} 生物学の知見と技術を応用に用いる分野は、[[バイオテクノロジー]]または生物工学と呼ばれる。遺伝子操作に重点が置かれる場合は遺伝子工学、[[胚発生|発生過程]]に重点が置かれる場合は発生工学ともいう。生物学の成果を実業に活用する産業は'''[[バイオ産業]]'''と呼ばれ、ITとならんで勢いのある市場であり、[[ベンチャー]]企業が次々と誕生している。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では大学の研究者が起業することも多い。[[遺伝子治療]]、[[幹細胞]]を用いた[[再生医学]]、[[一塩基多型]] (SNPs) を用いた[[オーダメイド医療]]や[[ゲノム創薬]]などが注目されている。農業や畜産関連でもバイオテクノロジーが生かされており、これらを支える基礎研究は重要である。政府や企業は多大な資金を提供し、その発展を促している。 応用分野に輝かしい貢献をすると同時に、現代生物学はさまざまな[[倫理学|倫理]]的問題を抱えている。それらは[[ゲノム]]情報、遺伝子操作、[[クローン]]技術など、生命の根幹に関わる技術や情報によりもたらされた。これらは、臨床医療においては恩恵をもたらす一方で、[[差別]]や生命の軽視など深刻な[[社会]]問題を引き起こしつつある。このような課題は[[生命倫理学]]によって扱われる。また、遺伝子操作によって作られた[[遺伝子組み換え作物]](GM作物)の[[環境]]への影響([[遺伝子汚染]])という問題提起がなされており、議論が行われている。近代から現代にかけて、人間の活動によって[[環境問題|環境破壊]]が起こり、[[生物多様性]]が急速に失われている。生物学は観測を行い、科学的裏付けのあるデータに基づいた提唱をしたり、生態系や生物多様性について正しい情報を発信するなどの取り組みも必要である。 現代生物学およびそれに携わる人々は、純粋な科学的研究成果のみならず、このような倫理的側面に対しても熟考し議論を深め、社会的責任を果たすことが求められている。 == 「生物学」と「生命科学」 == '''Biology''' という語は、「[[生命]]」を意味するギリシャ語の '''βίος''' (bios) と「言葉・論」を意味する '''λόγος''' (logos) から造られた。K. F. ブルダッハ(1800年)、[[ゴットフリート・ラインホルト・トレフィラヌス|G. R. トレヴィラヌス]](1802年)、[[ジャン=バティスト・ラマルク]](1802年)らによって独立に用いられた。生物学が様々な[[生物]]を分類記載する[[博物学]]から発展したことからもわかるように、生物学には[[生物多様性|生物の多様性]]を理解しようとする伝統がある。 一方、'''[[生命科学]]''' (''Life science'') や生物科学 (''Bioscience'', ''Biological science'') という語は、[[分子生物学]]が誕生してから新しく作られたものである{{要出典|date=2010年6月}}。全ての生物に共通する「言葉」である[[デオキシリボ核酸|DNA]]を分子生物学が提供したことで、分野ごとに断片化していた生物学が統合されつつある。そこで新たに生命科学という言葉が用いられるようになった。 ただし、生物学も生命科学も広義に解釈すると範囲は広く重なり、実際の生物研究をどちらかにわけることは難しいことがある。また「生物学」の意味も時代とともに変化しており、しばしば「生物科学」や「生命科学」と同じ意味に使われる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[ジョン・メイナード=スミス|J. メイナード=スミス]] 『生物学のすすめ』 [[紀伊國屋書店]]〈科学選書〉、1990年。ISBN 978-4314005364。 * [[八杉竜一]]ほか編著 『岩波生物学辞典』 [[岩波書店]]、1996年。ISBN 978-4000803144。 * 『生化学辞典第2版』 [[東京化学同人]]、1995年。ISBN 978-4807906703。 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|生き物と自然|break=yes}} {{ウィキポータルリンク|生物学}} * [[生物学部]] [[生物学科]] [[生物科学研究科]] * [[生物学に関する記事の一覧]]: 関連語句の一覧。 * [[生物学者の一覧]]: 著名な[[生物学者]]の一覧。 * [[ノーベル生理学・医学賞]]: ノーベル生理学・医学賞とその受賞者リスト。 * [[生物学上の未解決問題]] * [[バイオテクノロジー]] * [[Wikipedia:多数の言語版にあるが日本語版にない記事/生物]] == 外部リンク == {{Sisterlinks |wiktionary=生物学 |wikibooks=生物学 |commons=Category:Biology }} * {{Kotobank}} * [https://integbio.jp/dbcatalog/?lang=ja Integbio データベースカタログ] - 科学技術振興機構が運営する、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省による生命科学系データベースの統合化に向けた合同ポータルサイト * [https://dbsearch.biosciencedbc.jp/?lang=ja 生命科学データベース横断検索] - 国立研究開発法人 科学技術振興機構 バイオサイエンスデータベースセンターが提供する特許や文献情報とあわせて一括して検索できるサービス * [https://www.jba.or.jp/top/bioschool/ みんなのバイオ学園] - 経済産業省の委託より、バイオインダストリー協会が運営する、バイオテクノロジーが学べるサイト。 {{Natural sciences-footer}} {{生物学}} {{性}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいふつかく}} [[Category:生物学|せいぶつがく]] [[Category:理学]] [[Category:生命科学]] [[category:生物学の分野]]
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社会
社会(しゃかい、英: Society)は、ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。社会の範囲は非常に幅広く、単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会まで様々である。社会は広範かつ複雑な現象であるが、継続的な意思疎通と相互行為が行われ、かつそれらがある程度の度合いで秩序化(この現象を社会統制と呼ぶ)、組織化された、ある一定の人間の集合があれば、それは社会であると考えることができる。社会を構成する人口の規模に注目した場合には国際社会や国民国家を想定する全体社会や都市や組織などの部分社会に区分できる。さらに意思疎通や相互作用、秩序性や限定性という社会の条件に欠落があれば全てを満たす社会と区別して準社会と呼ぶことができる。 社会は人口集団・都市形態・経済発展・政治体制・宗教などによって多様性を観察することが可能であり、時代や地域によってさまざまな社会の形態を見ることができる。 19世紀半ばまでの日本語には「社会」という概念はなく、「世間」や「浮き世」などの概念しかなかった。「社會」とは中国の古語で農耕地の守護神中心の会合を意味し(この用法は1147年(紹興17年)に成立した孟元老の『東京夢華録』に見られる)、北宋時代の著作をまとめた近思録に「郷民為社会(郷民社会を為す)」とあり、それを英語のsocietyの日本語訳に当てた。青地林宗が1826年(文政9年)に訳した『輿地誌略』に「社會」ということばが、教団・会派の意味で使用されている。古賀増の1855年(安政2年) - 1866年(慶応2年)の『度日閑言』にも「社會」ということばが使用された。明治時代になると西周が1874年(明治7年)に『明六雑誌』第2号の「非學者職分論」で「社會」という言葉を使い、森有禮も自身の論文「Education in Japan」の和訳(一部が『日本教育策』や『日本教育論』として知られるこの訳がはじめて世に出たのは1928年で、当時の人びとには知られておらず、おそらく訳語の普及に貢献していない)と1875年(明治8年)の『明六雑誌』第30号の論説で使った。また、福地源一郎の1875年(明治8年)1月14日付『東京日日新聞』の社説にも「社會」という用語が使われ、こちらは「ソサイチー」のルビが振られている。 社会の起源は人間の本性に求めることができる。動物には、アリやハチ・イヌ・サルのように群を作り集団行動を好む社会性を持つ動物と、ネコのように単独行動を好む動物がある。人間は古来より他の多くの動物と同様に群という小さな社会を形成し、食料を得るため、外敵から身を守るため、その他生存するための必要を満たすための社会であったと推定される。現在でも基礎集団である部族や家族は存在しており、村落や都市の構成要素となっている。また言語・宗教・文化などを共有する人口規模が小さな社会では意思疎通が密接であり、自然発生的なコミュニティが成立する。ロバート・モリソン・マッキーバーはこれを共同関心の複合体とし、一定の地域で共同生活するものと定義している。 しかし原始的で素朴な社会は近代において都市化を始めることとなる。都市化とは人口の増大と流動化・経済の工業化などにより、異質な人口が特定の箇所に集中することによって生じるものである。この都市化は言い換えれば社会の近代化でもあった。都市に居住する住民はスラムや公害などの都市問題に直面することとなり、政府は社会状況を改善するための政策に乗り出し始める。また都市では非常に大規模な人口集団が居住しているために従来の社会の性質とは異なる都市社会が成立した。 偏差値競争の高まった高度経済成長期から今日まで出身や学歴の高さに応じ賃金や処遇・昇進等の優劣が決まる状況を学歴社会などと表されたり、いわゆる肩書きが極度に社会生活における成否を左右する状況を肩書き社会といわれたりする。近年では、65歳以上の人口が若年層よりも上回る高齢化社会、またそれが加速した状況を高齢社会・超高齢社会というのをはじめ、多様な危機を抱えている社会をマルチハザード社会、ITなど情報通信技術を基本に社会が動く状況を情報化社会と称することがある。 社会化とは個人が他人との相互的な関与によって、所属する社会の価値や規範を内面化するようにパーソナリティを形成する過程である。社会化はどのような社会集団にその個人が所属しているかによってその内容は異なる。社会化は教育と密接な関係がある。児童が基礎教育において行うものだけでなく、大人であっても所属集団において一般的に行われている。 社会の根本的な要素である人間の本性については心理学・精神分析学・社会哲学などにおいてさまざまな議論が行われている。人間の社会的な自我については深層心理学のフロイトが意識・前意識・無意識に構造化し、その中において無意識にあるイド、イドから発生する自我、自我を監視する超自我があるとした。そして自我はパーソナリティを構築し、人間に一貫性を持った価値観や態度を一定の行動パターンとして外部に示す。自我の発生についてはジョージ・ハーバート・ミードは自我が社会の相互作用において発生すると論じており、自我を手に入れるためには他者の態度を採用し、それに反作用できる役割を取得することが必要であると述べる。例えば児童はごっこ遊びでは他者の役割を模倣することによって他者の態度を知り、ゲームの中で集団で共有する目標に対して自己の役割を取得することで社会的な自我を成長させている。 社会は構成員相互の協力によって営まれている。円滑に社会を営むために人間にはそれぞれ役割が与えられなければならない。各々がそれぞれの役割を果たすことによって、社会がその機能を果たすことが可能となる。たとえ、自給自足の生活を実践している人であっても生活の場の安全は、社会の理解によって保護されていると考えることができる。 そして、役割を果たし生活するために人間は社会に対し様々な形態で参加する。則ち、生活に密接した労働・生産・再生・消費・利用・処分・廃棄の行為であり、労働者・生産者・消費者・利用者等と行為に基づいて呼ばれる。社会の営みは、人間の様々な行為によって産業を興し、文化を育み、子供を教育し、交通手段を発達させ、医療を充実させて長い歴史を積み重ねてきた。時に利害の衝突等から戦争となり、戦争に備えて軍事を発達させ、戦争の深い悲しみは平和を希求させた。また、経済の発達は社会を不安定化させていた貧困や失業を解消する可能性を生み出したが、同時に環境を破壊し、次世代にまで引き継がざるを得ない環境問題を産みだし負の遺産となっている。 社会行為 (Social action) とは対象が他者である人間の行為を言い、日常的な会話から政治的な圧力まであらゆる行為がこれに含まれる。ただし自給自足の生活・個人的な信仰などは行為の対象が他者でないためにこれに含まれない。 行為の根本的な理由は欲求であるが、人間の欲求は単一の原理ではない。心理学者のアブラハム・マズローの自己実現理論によれば段階的に発展するものであり、生理的欲求・安全の欲求・親和欲求・自尊欲求・自己実現欲求と発展していくものとした。しかし欲求が直接的に社会行為を行わせるのではなく、社会化によって内面化している規範、行為のために利用できる資源などがその行為を行うべきかどうかの判断に影響する。このように社会行為は欲求・規範・資源から総合的に目的が判断されるが、この意思決定も行為の目的に付随する効果から導かれる場合と行為そのものに付随している目的から導かれる場合がある。前者は自己充足的行為、後者は手段的行為として区別され、例えば本を読むとしてもそれが自分の純粋な知的好奇心を満たすためである限りは自己充足的行為であるが、試験対策などのためであれば手段的行為である。 行為の分類についてマックス・ヴェーバーはその性格から四つに類型化する。まず非合理的行為としてまとめられるものにそれまでの習慣に基づいて行われる伝統的行為、そして感情の起伏に基づいた感情的行為が挙げられる。次に合理的行為としてまとめられる価値観に基づいた価値合理的行為と価値観に基づきながらも設定した目的を達成するために計画的に実行する目的合理的行為がある。また社会心理学では社会行動を社会の構成員が相互に他者と合力・助力や分業を行う協力、相互に他者と競争や攻撃を行う対立、社会生活そのものから離脱する逃避と区分する。 現代社会では構成員の利害を調整することにより秩序を維持して生活を円滑に行えるように様々な制度が定められている。人間の権利行為には、一般に政治が生み出す法に基づいて様々な制限が加えられている。社会秩序を乱す者は集団内で罰せられ更生させられるが、更生不可能な場合は永久に排除される(会社であれば懲戒解雇,国家であれば死刑など)。近年、社会で認知された人間が生まれながらに持つとされる自由な人権に対し、社会的にどこまで制限を加えることが可能か常に議論の対象となっており、制度に基づく義務は、大きな負担となってきている。 人間の自発的な行為には常に責任が伴うとされているが、法律に罰則がなければ社会的に罰することは困難である。その一方で、我々が共存している地球の許容にも限界があり、現代社会が抱える全ての社会問題には私達自身に解決する責務があると考えられている。人口爆発により地球の資源が不足する可能性が高まっているため、宇宙進出の試みも続けられている。 社会は広範かつ多様な領域を持っているために複雑な体系となっている。例えば政治や経済は社会の領域に所属するものであるが、政治や経済には社会を超えた原理が存在しており、社会システムの中で複雑な機能を果たしている。 政治は公共的な意思決定や利害の調整などを行い、社会に秩序や動員をもたらす機能の一つである。 理論的な仮定として考えると、原始的社会においては秩序はなく「万人の万人に対する闘争」が存在した。これを終結させるためには個々の人々が勝手に判断して行動することを規制して利害を調整することが必要であり、これを達成するための機能が政治である。政治権力の元に社会秩序が徐々に形成され、しかもその政治構造に正当性がもたらされると社会は無政府状態から安定化した状態へと移行する。近代の政治哲学の議論では、秩序の形成においては初めは王や権力が支配する形で、原始国家が作られた。その後、共和制や民主制の国家や社会が作られた。実際には、いかなる原始的な社会にも、様々な社会秩序や協力行動・規則(ルール)・礼儀(マナー)・慣習(カスタム)、公式あるいは非公式な法律や制度などが存在している。 経済は社会の中で希少性や効用性を持つ価値を配分する機能の一つである。人間には生産力があり、労働を通じて自然に作用することができる。生産によって得られる資源を消費することで人間は生活している。かつてはこの一連の活動も社会交換によって社会の中で行われていたが、物々交換、貨幣を介した取引が行われるようになって市場が形成された。この市場は社会行為の相互作用でありながらも異なる経済の原理で作動するようになる。従って市場には社会全体に対して自動的に価値を配分する機能をあるていど持っていると考えられている。
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Japan」の和訳(一部が『日本教育策』や『日本教育論』として知られるこの訳がはじめて世に出たのは1928年で、当時の人びとには知られておらず、おそらく訳語の普及に貢献していない)と1875年(明治8年)の『明六雑誌』第30号の論説で使った。また、福地源一郎の1875年(明治8年)1月14日付『東京日日新聞』の社説にも「社會」という用語が使われ、こちらは「ソサイチー」のルビが振られている。", "title": "「社会」という訳語ができるまで" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "社会の起源は人間の本性に求めることができる。動物には、アリやハチ・イヌ・サルのように群を作り集団行動を好む社会性を持つ動物と、ネコのように単独行動を好む動物がある。人間は古来より他の多くの動物と同様に群という小さな社会を形成し、食料を得るため、外敵から身を守るため、その他生存するための必要を満たすための社会であったと推定される。現在でも基礎集団である部族や家族は存在しており、村落や都市の構成要素となっている。また言語・宗教・文化などを共有する人口規模が小さな社会では意思疎通が密接であり、自然発生的なコミュニティが成立する。ロバート・モリソン・マッキーバーはこれを共同関心の複合体とし、一定の地域で共同生活するものと定義している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しかし原始的で素朴な社会は近代において都市化を始めることとなる。都市化とは人口の増大と流動化・経済の工業化などにより、異質な人口が特定の箇所に集中することによって生じるものである。この都市化は言い換えれば社会の近代化でもあった。都市に居住する住民はスラムや公害などの都市問題に直面することとなり、政府は社会状況を改善するための政策に乗り出し始める。また都市では非常に大規模な人口集団が居住しているために従来の社会の性質とは異なる都市社会が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": 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理論的な仮定として考えると、原始的社会においては秩序はなく「万人の万人に対する闘争」が存在した。これを終結させるためには個々の人々が勝手に判断して行動することを規制して利害を調整することが必要であり、これを達成するための機能が政治である。政治権力の元に社会秩序が徐々に形成され、しかもその政治構造に正当性がもたらされると社会は無政府状態から安定化した状態へと移行する。近代の政治哲学の議論では、秩序の形成においては初めは王や権力が支配する形で、原始国家が作られた。その後、共和制や民主制の国家や社会が作られた。実際には、いかなる原始的な社会にも、様々な社会秩序や協力行動・規則(ルール)・礼儀(マナー)・慣習(カスタム)、公式あるいは非公式な法律や制度などが存在している。", "title": "社会の領域" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "経済は社会の中で希少性や効用性を持つ価値を配分する機能の一つである。人間には生産力があり、労働を通じて自然に作用することができる。生産によって得られる資源を消費することで人間は生活している。かつてはこの一連の活動も社会交換によって社会の中で行われていたが、物々交換、貨幣を介した取引が行われるようになって市場が形成された。この市場は社会行為の相互作用でありながらも異なる経済の原理で作動するようになる。従って市場には社会全体に対して自動的に価値を配分する機能をあるていど持っていると考えられている。", "title": "社会の領域" } ]
社会は、ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。社会の範囲は非常に幅広く、単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会まで様々である。社会は広範かつ複雑な現象であるが、継続的な意思疎通と相互行為が行われ、かつそれらがある程度の度合いで秩序化(この現象を社会統制と呼ぶ)、組織化された、ある一定の人間の集合があれば、それは社会であると考えることができる。社会を構成する人口の規模に注目した場合には国際社会や国民国家を想定する全体社会や都市や組織などの部分社会に区分できる。さらに意思疎通や相互作用、秩序性や限定性という社会の条件に欠落があれば全てを満たす社会と区別して準社会と呼ぶことができる。 社会は人口集団・都市形態・経済発展・政治体制・宗教などによって多様性を観察することが可能であり、時代や地域によってさまざまな社会の形態を見ることができる。
{{Otheruses}} '''社会'''(しゃかい、{{lang-en-short|Society}})は、ある共通項によってくくられ、他から区別される'''人々の集まり'''。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。社会の範囲は非常に幅広く、単一の組織や結社などの部分社会から[[国民]]を包括する全体社会まで様々である。社会は広範かつ複雑な[[現象]]であるが、継続的な意思疎通と相互行為が行われ、かつそれらがある程度の度合いで秩序化(この現象を[[社会統制]]と呼ぶ)、組織化された、ある一定の人間の集合があれば、それは社会であると考えることができる<ref>[[富永健一]]『社会学講義 人と社会の学』(中公新書、2003年)15頁</ref>。社会を構成する[[人口]]の規模に注目した場合には国際社会や国民国家を想定する全体社会や都市や組織などの部分社会に区分できる。さらに意思疎通や相互作用、秩序性や限定性という社会の条件に欠落があれば全てを満たす社会と区別して準社会と呼ぶことができる。 社会は人口集団・都市形態・経済発展・政治体制・宗教などによって多様性を観察することが可能であり、時代や地域によってさまざまな社会の形態を見ることができる。 == 「社会」という訳語ができるまで == 19世紀半ばまでの[[日本語]]には「社会」という概念はなく、「[[世間]]」や「[[現世|浮き世]]」などの概念しかなかった。「社會」とは中国の古語で農耕地の守護神中心の会合を意味し(この用法は[[1147年]]([[紹興 (宋)|紹興]]17年)に成立した[[孟元老]]の『[[東京夢華録]]』に見られる)、北宋時代の著作をまとめた[[近思録]]に「郷民為社会(郷民社会を為す)」とあり、それを英語のsocietyの日本語訳に当てた<ref>{{Cite book|和書|author= 増井金典|authorlink=増井金典 |title = 日本語源広辞典|year = 2010|publisher = ミネルヴァ書房|page = 420}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor = 小松寿雄 |title = 新明解語源辞典|year = 2011|publisher = 三省堂|page = 466}}</ref>。[[青地林宗]]が[[1826年|1826]]年([[文政]]9年)に訳した『輿地誌略』に「社會」ということばが、教団・会派の意味で使用されている。[[古賀謹一郎|古賀増]]の[[1855年]]([[安政]]2年) - [[1866年]]([[慶応]]2年)の『度日閑言』にも「社會」ということばが使用された。[[明治時代]]になると[[西周 (啓蒙家)|西周]]が[[1874年]]([[明治]]7年)に『[[明六雑誌]]』第2号の「非學者職分論」で「社會」という言葉を使い<ref>{{Cite book|和書|title=翻訳語成立事情|date=1982-04-20|publisher=[[岩波書店]]|language=日本語|author=柳父章|authorlink=柳父章}}</ref>、[[森有礼|森有禮]]も自身の論文「Education in Japan」の和訳(一部が『日本教育策』や『日本教育論』として知られるこの訳がはじめて世に出たのは[[1928年]]で、当時の人びとには知られておらず、おそらく訳語の普及に貢献していない)<ref>{{Cite journal|和書|author=[[久木幸男]]|date=1991年12月15日|title=「社会教育」遡源|journal=教育学部論集|language=日本語}}</ref>と[[1875年]](明治8年)の『明六雑誌』第30号の論説で使った。また、[[福地源一郎]]の1875年(明治8年)[[1月14日]]付『[[東京日日新聞]]』の社説にも「社會」という用語が使われ、こちらは「ソサイチー」のルビが振られている<ref>{{Cite book|和書|editor = 小学館国語辞典編集部 |title = 日本国語大辞典 第6巻|year = 2007|publisher = 小学館|page = 1077}}</ref>。 == 歴史 == 社会の起源は人間の本性に求めることができる。動物には、アリやハチ・イヌ・サルのように[[群れ|群]]を作り[[集団行動]]を好む社会性を持つ動物と、ネコのように単独行動を好む動物がある。人間は古来より他の多くの動物と同様に[[集団|群]]という小さな社会を形成し、食料を得るため、外敵から身を守るため、その他生存するための必要を満たすための社会であったと推定される。現在でも基礎集団である部族や家族は存在しており、村落や都市の構成要素となっている。また[[言語]]・宗教・文化などを共有する人口規模が小さな社会では[[意思疎通]]が密接であり、自然発生的な[[コミュニティ]]が成立する。[[ロバート・モリソン・マッキーバー]]はこれを共同関心の複合体とし、一定の地域で共同生活するものと定義している。 しかし原始的で素朴な社会は近代において都市化を始めることとなる。都市化とは人口の増大と流動化・経済の工業化などにより、異質な人口が特定の箇所に集中することによって生じるものである。この都市化は言い換えれば社会の[[近代化]]でもあった。都市に居住する住民はスラムや公害などの都市問題に直面することとなり、政府は社会状況を改善するための政策に乗り出し始める。また都市では非常に大規模な人口集団が居住しているために従来の社会の性質とは異なる都市社会が成立した。 偏差値競争の高まった高度経済成長期から今日まで出身や学歴の高さに応じ賃金や処遇・昇進等の優劣が決まる状況を[[学歴社会]]などと表されたり、いわゆる[[肩書き]]が極度に社会生活における成否を左右する状況を[[肩書き社会]]といわれたりする。近年では、65歳以上の人口が若年層よりも上回る[[高齢化社会]]、またそれが加速した状況を[[高齢社会]]・[[超高齢社会]]というのをはじめ、多様な危機を抱えている社会を[[マルチハザード]]社会、ITなど情報通信技術を基本に社会が動く状況を[[情報化社会]]と称することがある。 == 社会化 == [[社会化]]とは個人が他人との相互的な関与によって、所属する社会の価値や規範を内面化するようにパーソナリティを形成する過程である。社会化はどのような社会集団にその個人が所属しているかによってその内容は異なる。社会化は[[教育]]と密接な関係がある。児童が基礎教育において行うものだけでなく、大人であっても所属集団において一般的に行われている。 === 自我 === 社会の根本的な要素である人間の[[本性]]については[[心理学]]・[[精神分析学]]・[[社会哲学]]などにおいてさまざまな議論が行われている。人間の社会的な[[自我]]については[[深層心理学]]の[[フロイト]]が[[意識]]・前意識・[[無意識]]に構造化し、その中において無意識にある[[自我#精神分析学における自我|イド]]、イドから発生する[[自我]]、自我を監視する[[超自我]]があるとした。そして自我は[[人格|パーソナリティ]]を構築し、人間に一貫性を持った価値観や態度を一定の行動パターンとして外部に示す。自我の発生については[[ジョージ・ハーバート・ミード]]は自我が社会の相互作用において発生すると論じており、自我を手に入れるためには他者の態度を採用し、それに反作用できる役割を取得することが必要であると述べる。例えば児童はごっこ遊びでは他者の役割を模倣することによって他者の態度を知り、[[ゲーム]]の中で集団で共有する目標に対して自己の役割を取得することで社会的な自我を成長させている。 === 役割 === 社会は構成員相互の協力によって営まれている。円滑に社会を営むために人間にはそれぞれ[[役割]]が与えられなければならない。各々がそれぞれの役割を果たすことによって、社会がその機能を果たすことが可能となる。たとえ、[[自給自足]]の生活を実践している人であっても生活の場の安全は、社会の理解によって保護されていると考えることができる。 そして、役割を果たし生活するために[[人間]]は社会に対し様々な形態で参加する。則ち、[[生活]]に密接した[[労働]]・[[生産]]・再生・[[消費]]・[[使用 (法律)|利用]]・処分・[[廃棄]]の行為であり、[[労働者]]・[[生産者]]・[[消費者]]・[[利用者]]等と行為に基づいて呼ばれる。社会の営みは、人間の様々な行為によって[[産業]]を興し、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]を育み、子供を[[教育]]し、[[交通]]手段を発達させ、[[医療]]を充実させて長い[[歴史]]を積み重ねてきた。時に利害の衝突等から[[戦争]]となり、戦争に備えて[[軍事]]を発達させ、戦争の深い悲しみは[[平和]]を希求させた。また、[[経済]]の発達は社会を不安定化させていた[[貧困]]や[[失業]]を解消する可能性を生み出したが、同時に[[環境]]を破壊し、次世代にまで引き継がざるを得ない[[環境問題]]を産みだし[[レガシーコスト|負の遺産]]となっている。 == 社会行為 == 社会行為 (Social action) とは対象が他者である人間の[[行為]]を言い、日常的な会話から政治的な圧力まであらゆる行為がこれに含まれる。ただし自給自足の生活・個人的な信仰などは行為の対象が他者でないためにこれに含まれない。 行為の根本的な理由は[[欲求]]であるが、人間の欲求は単一の原理ではない。心理学者の[[アブラハム・マズロー]]の[[自己実現理論]]によれば段階的に発展するものであり、生理的欲求・安全の欲求・親和欲求・自尊欲求・自己実現欲求と発展していくものとした。しかし欲求が直接的に社会行為を行わせるのではなく、社会化によって内面化している規範、行為のために利用できる資源などがその行為を行うべきかどうかの判断に影響する。このように社会行為は欲求・規範・資源から総合的に目的が判断されるが、この意思決定も行為の目的に付随する効果から導かれる場合と行為そのものに付随している目的から導かれる場合がある。前者は自己充足的行為、後者は手段的行為として区別され、例えば本を読むとしてもそれが自分の純粋な知的好奇心を満たすためである限りは自己充足的行為であるが、試験対策などのためであれば手段的行為である。 行為の分類について[[マックス・ヴェーバー]]はその性格から四つに類型化する。まず非合理的行為としてまとめられるものにそれまでの習慣に基づいて行われる伝統的行為、そして感情の起伏に基づいた感情的行為が挙げられる。次に合理的行為としてまとめられる価値観に基づいた価値合理的行為と価値観に基づきながらも設定した目的を達成するために計画的に実行する目的合理的行為がある。また[[社会心理学]]では社会行動を社会の構成員が相互に他者と合力・助力や分業を行う協力、相互に他者と競争や攻撃を行う対立、社会生活そのものから離脱する逃避と区分する<ref>南博『社会心理学入門』(岩波書店、1958年)21頁</ref>。 == 社会構造 == [[現代社会]]では構成員の利害を調整することにより秩序を維持して生活を円滑に行えるように様々な[[制度]]が定められている。人間の[[権利]]行為には、一般に[[政治]]が生み出す法に基づいて様々な[[制限]]が加えられている。[[社会秩序]]を乱す者は集団内で罰せられ更生させられるが、更生不可能な場合は永久に排除される([[会社]]であれば[[懲戒解雇]],[[国家]]であれば[[死刑]]など)。近年、社会で認知された人間が生まれながらに持つとされる自由な[[人権]]に対し、社会的にどこまで[[制限]]を加えることが可能か常に議論の対象となっており、制度に基づく[[義務]]は、大きな負担となってきている。 人間の自発的な行為には常に[[責任]]が伴うとされているが、[[法律]]に[[罰則]]がなければ社会的に罰することは困難である。その一方で、我々が[[共存]]している[[地球]]の許容にも限界があり、現代社会が抱える全ての[[社会問題]]には私達自身に解決する責務があると考えられている。人口爆発により地球の資源が不足する可能性が高まっているため、宇宙進出の試みも続けられている。 == 社会の領域 == 社会は広範かつ多様な領域を持っているために複雑な体系となっている。例えば政治や経済は社会の領域に所属するものであるが、政治や経済には社会を超えた原理が存在しており、社会システムの中で複雑な機能を果たしている。 === 政治 === {{Main|政治}} [[政治]]は公共的な意思決定や利害の調整などを行い、社会に秩序や動員をもたらす機能の一つである。 理論的な仮定として考えると、原始的社会においては秩序はなく「[[万人の万人に対する闘争]]」が存在した。これを終結させるためには個々の人々が勝手に判断して行動することを規制して利害を調整することが必要であり、これを達成するための機能が[[政治]]である。政治権力の元に[[社会秩序]]が徐々に形成され、しかもその政治構造に正当性がもたらされると社会は[[無政府状態]]から安定化した状態へと移行する。近代の[[政治哲学]]の議論では、秩序の形成においては初めは[[王]]や[[権力]]が支配する形で、原始国家が作られた。その後、[[共和制]]や[[民主制]]の国家や社会が作られた。実際には、いかなる原始的な社会にも、様々な社会秩序や[[協力行動]]・[[規則]](ルール)・[[礼儀]]([[マナー]])・[[慣習]](カスタム)、公式あるいは非公式な[[法律]]や[[制度]]などが存在している。 === 経済 === {{Main|経済}} [[経済]]は社会の中で希少性や効用性を持つ価値を配分する機能の一つである。人間には生産力があり、労働を通じて自然に作用することができる。[[生産]]によって得られる資源を消費することで人間は生活している。かつてはこの一連の活動も社会交換によって社会の中で行われていたが、物々交換、貨幣を介した取引が行われるようになって[[市場]]が形成された。この市場は社会行為の相互作用でありながらも異なる経済の原理で作動するようになる。従って市場には社会全体に対して自動的に[[価値]]を配分する機能をあるていど持っていると考えられている。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{Wikiquote|社会}} {{WikinewsPortal}} {{Wiktionary|社会}} * [[特別:検索/intitle:社会|「社会」を含む記事名の一覧]] * [[社会学]] * [[社会構造]] * [[現代社会]] * [[循環型社会]] * [[情報化社会]] * [[寛容社会]] * [[不寛容社会]] * [[社会問題]] * [[社会現象]] * [[社会科学]] * [[超高齢社会]] * [[社会 (生物)]] - [[社会的動物]] - [[社会性昆虫]] - [[真社会性]] *: 我々人間が一般的に考える所の社会は、人間社会のそれをおいて他には無いが、人間以外の動物にあっても、社会に類似した構造の生活様式を持つものも存在する。<!--自信が無いので自主的コメントアウト:[[社会生物学]]の分野では、社会学などの上で培われた数理的モデルを用いて、動物の行動を理解しようしている。--> == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{社会学}} {{社会哲学と政治哲学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやかい}} [[Category:社会|*]] [[Category:和製漢語]] [[Category:哲学の和製漢語]]
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こどもの文化
こどもの文化(こどものぶんか)は、子供の遊びや行事を通じて形成される子供独自の文化である。 未就学あるいは義務教育段階である子供が、子供ら独自で、あるいは保護者や教師をはじめとする大人からの示唆や指導を受けながら形成し、その多くは以下に挙げるような、子供の形成過程で使われるさまざまな道具(おもちゃ)により、創造性、想像力など脳の発達と共に、文化的意味合いを持つものだと指摘できる。 フランスの思想家、ロジェ・カイヨワはヨハン・ホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス」に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。その中でカイヨワは遊びを次の4つ要素に分類している。 テレビゲームによって様々な遊びが仮想空間で行われるようになった。RPGも見方を変えれば上りを目指す双六の様なものであり、種々のシューティングゲームも射的といえる。
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こどもの文化(こどものぶんか)は、子供の遊びや行事を通じて形成される子供独自の文化である。 未就学あるいは義務教育段階である子供が、子供ら独自で、あるいは保護者や教師をはじめとする大人からの示唆や指導を受けながら形成し、その多くは以下に挙げるような、子供の形成過程で使われるさまざまな道具(おもちゃ)により、創造性、想像力など脳の発達と共に、文化的意味合いを持つものだと指摘できる。
{{複数の問題 | 独自研究 = 2012年3月 | 出典の明記 = 2016年9月 }} [[ファイル:Pieter Bruegel the Elder - Children’s Games - Google Art Project.jpg|thumb|right|250px|[[ピーテル・ブリューゲル]]『[[子供の遊戯]]』[[1560年]]]] '''こどもの文化'''(こどものぶんか)は、子供の[[遊び]]や行事を通じて形成される子供独自の文化である。 未就学あるいは[[義務教育]]段階である[[子供]]が、子供ら独自で、あるいは保護者や教師をはじめとする大人からの示唆や指導を受けながら形成し、その多くは以下に挙げるような、子供の形成過程で使われるさまざまな[[道具]]([[玩具|おもちゃ]])により、創造性、想像力など脳の発達と共に、文化的意味合いを持つものだと指摘できる。 == 遊びの分類 == [[フランス]]の思想家、[[ロジェ・カイヨワ]]は[[ヨハン・ホイジンガ]]の著書「ホモ・ルーデンス」に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。その中でカイヨワは遊びを次の4つ要素に分類している。 ;アゴン(競争) :[[スポーツ|運動]]や[[格闘技]]、子供の[[かけっこ]] ;アレア(偶然) :[[くじ]]、[[じゃんけん]]、[[賭け事]] ;ミミクリ(模倣) :[[演劇]]、[[物真似]]、[[ままごと]] ;イリンクス(めまい) :[[メリーゴーランド]]、[[ブランコ]] [[テレビゲーム]]によって様々な遊びが[[仮想空間]]で行われるようになった。[[コンピュータRPG|RPG]]も見方を変えれば上りを目指す双六の様なものであり、種々の[[シューティングゲーム]]も射的といえる。 == 遊具 == ;公園でよく見かける[[遊具]] :[[ブランコ]]、[[すべり台]]、[[ジャングルジム]]、[[鉄棒 (遊び)|鉄棒]]、[[砂場]]、[[築山]]、[[シーソー]]、[[箱ブランコ]]、[[ロディ]]、[[雲梯]]、[[棒のぼり|のぼり棒]]、[[回旋塔]] == 遊び == === 日本 === ==== 伝統的 ==== *曲芸 **[[竹馬]]、[[お手玉]]、[[独楽|こま]](手乗り独楽・叩き独楽)、[[凧|凧揚げ]]、[[けん玉|剣玉]](けんだま)、[[水切り]]、[[釘刺し]] *競技 **[[ゴムとび]]、[[縄跳び]]、[[馬跳び]]、[[羽根突き]]、[[相撲]] **射的 - ぱちんこ([[スリングショット]])、[[ゴム銃|ゴム鉄砲]]、[[吹き矢]]、[[空気鉄砲]] *賭け事 **[[おはじき]]、[[ビー玉]]、[[めんこ]]、[[ベーゴマ]] *創造 **[[折り紙]]、[[お絵かき]]、[[塗り絵]]、[[泥だんご]]([[泥遊び]])、[[粘土遊び]]、[[リリヤン|リリアン]]、[[プラモデル]]、[[竹とんぼ]] *札遊び **[[かるた]]、[[花札]]、[[絵合わせ]]([[百人一首]]) *[[陣取り]]・[[島取り]] **[[Sケン]]、ひまわり *上り・双六 **[[グリコ (遊び)|グリコ]]、[[石蹴り]] *選別・対戦・勝負 **[[はないちもんめ]]、[[馬乗り]]、[[じゃんけん]]、[[うらおもて]](グーパー)、[[あっち向いてホイ]]、[[かごめかごめ]]、[[棒倒し]]、[[山崩し]]、[[ドンジャンケンポン]] *鬼([[鬼ごっこ]]) **[[ケイドロ]](ドロケイ、探どろ)、[[缶けり]]、[[ポコペン]]、[[だるまさんがころんだ]]、[[かくれんぼ]]、[[高鬼]]、[[いろ鬼]] *ボール遊び **[[ろくむし]]、[[しけい]]、[[天丁(てんちょ)]]、[[四天(してん)]] *[[ごっこ遊び|ごっこ(模倣)]] **[[ままごと]]、[[電車ごっこ]]、[[忍者ごっこ]]、[[チャンバラ|ちゃんばらごっこ]]、[[探偵]]ごっこ、[[お人形さんごっこ]]、[[変身 (ヒーロー)|変身ごっこ]] *手遊び([[手を用いた遊び]]) **綾取り([[あやとり]])、[[童歌#2人組で遊ぶ手遊び歌|せっせっせ]]、[[影絵]]、[[指相撲]] *[[言葉遊び]] **[[早口言葉]]、[[しりとり]] *笑い **[[福笑い]]、[[くすぐり]]、[[にらめっこ]] *自然 **[[川遊び]]、[[磯遊び]]、[[砂遊び]]、[[山歩き]] **[[木登り]]、[[花摘み]]、[[昆虫採集]](亀、トカゲ、[[サワガニ]]、清水蟹、ヘビなどの小動物の採取)、[[釣り]](魚釣り、[[アメリカザリガニ#愛玩/観賞|ザリガニ釣り]])、[[探検]](下水道、廃工場、資材置き場)、[[秘密基地#子供の遊び場としての秘密基地|基地作り]] *春 **[[つくし採り]]、[[山菜取り]]、[[笹舟]]、[[草笛]] *夏 **[[海水浴]]、[[花火]]、[[潮干狩り]]、[[肝試し]]、[[怪談話]] *秋 **[[たき火]]、[[銀杏採り]]、各種秋の味覚狩り *冬・雪 **[[おしくらまんじゅう]]、[[かまくら]]、[[雪合戦]]、[[雪だるま]] **[[スキー]]、[[スケート]]、[[そり]] *散策 **[[縁日]]、[[駄菓子屋]]、[[祭|お祭り]] *その他 **亀の子、[[靴隠し]]、[[シャボン玉]]、[[缶下駄]]、[[草そり]]、ケンケンパ([[ホップスコッチ]])、[[鞠つき]]、[[しむし]]、[[もった]]、[[せいばっく]]、[[がんばこ]] ==== 近代的 ==== *知的遊戯 **ボードゲーム ***双六([[すごろく]]) ****[[人生ゲーム]] ***戦争・陣取り ****[[将棋]]、[[軍人将棋]] ****[[囲碁]]、[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]] ****[[五目並べ]]、[[三目並べ]](まるばつ) ***地雷戦 ****[[魚雷戦ゲーム]] ***スポーツ ****[[野球盤]]、[[サッカー盤]] *学校・球技 **[[枕投げ]]、[[一輪車]] **[[野球]]([[三角ベース]]、[[キックベースボール|キックベース]]、[[ゴロベース]]、はさみ鬼)、[[ソフトボール]]、[[サッカー]]([[フットサル]])、[[バスケットボール]](ストリートバスケ、3on3)、[[ドッジボール]] *アーケード **[[テレビゲーム]]、[[ゲームセンター]] **[[プリクラ]]、[[シール]](遊び) === 世界的 === *競技・曲芸 **[[スケートボード]]、[[ローラーブレード]]、[[ローラースケート]]、[[キックボード]]、[[自転車]]、[[一輪車]]、[[三輪車]] **[[縄とび]]、[[ヨーヨー]]、[[フラフープ]]、[[ホッピング]] **[[球技]] ***[[ハンドベースボール]]、[[キックベースボール]]、[[ラケットベースボール]]、[[ドッジボール]]、[[バドミントン]] ***[[スーパーボール]] *射的 **[[モデルガン]]、[[水鉄砲]]、[[銀玉鉄砲]] *創造 **[[プラモデル]]、[[紙飛行機]]、[[ろう石]]、 *手遊び([[手を用いた遊び]]) **綾取り([[あやとり]])、せっせっせ、影絵 *ごっこ(模倣) **[[人形]]ごっこ *スリル **[[水風船]]、[[花火]]、[[癇癪玉]](クラッカーボール)、[[爆竹]] *選別・対戦・勝負 **[[ハンカチ落とし]]、[[フルーツバスケット (遊び)|フルーツバスケット]]、[[椅子取りゲーム]]、[[お山の大将]] *知的ゲーム **組み合わせ ***[[積み木]]、[[ブロック]]、[[電子ブロック]] **ボードゲーム ***[[双六]] ****[[人生ゲーム]]、[[バックギャモン]](西洋双六)、[[バンカース]] ***戦争・陣取り ****[[将棋]]、[[チェス]] ****[[囲碁]]、[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]] ****目並べ、まるばつ ***地雷戦 ****ランドマインゲーム **カードゲーム ***[[トランプ]]、[[UNO (ゲーム)|UNO]] == その他子供を対象にしたもの == *[[児童文学]]、[[絵本]] *[[わらべ歌]]、[[紙芝居]] == その他 == *[[空き地]] *[[遊び場]] *[[道草]]<ref>出典 - [[水月昭道]]『子どもの道くさ』 東信堂(居住福祉ブックレット) 2006年</ref> *[[お遊戯]] == 行事 == *1月 - [[正月|お正月]]、[[書き初め]]、[[左義長]]([[どんどん焼き]]、どんど焼き)、[[鏡開き]] *2月 - [[豆まき]] *3月 - [[雛まつり]]、[[卒業]] *4月 - [[入学]]、始業式 *5月 - [[こどもの日]]、[[端午の節句]] *7月 - [[七夕]] *8月 - [[夏休み]]、[[林間学校]]、[[臨海学校]]、[[盆踊り]]、[[地蔵盆]] *9月 - [[月見]]、[[お彼岸]] *10月 - [[運動会]] *11月 - [[七五三]]、[[音楽会]] *12月 - [[冬休み]] *時期不定 - [[文化祭]]、[[自然学校]]、[[修学旅行]]、その他各学校・地域ごとの行事 == 関連施設 == *[[わらべ館]]([[鳥取県]][[鳥取市]]) *[[科学館]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == *[[こども環境学会]] {{DEFAULTSORT:ことものふんか}} [[Category:子供の遊び|*]] [[Category:子供]] [[Category:育児]] [[Category:テーマ別の文化]]
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特撮
特撮(とくさつ)は、特殊撮影技術(Special Effects;SFX)を指す略称、またはSFXが多用された映画やテレビ番組などの映像作品を指す総称。 元々は特殊撮影(SFX)、あるいはトリック撮影と呼ばれていた「技術」を総合的に指す略語であるが、日本では特撮作品と呼ばれる映画やテレビ番組などが大きなジャンルを形成するほど発展しており、特撮技術が大きな役割を果たして製作された作品群も含めて「特撮」と総称することもある。また、現在ではこの言葉が使われていた古い時代の作品群を指す通称としてや、この頃に盛んだった「特撮ヒーローもの」など一部の作品群を指す通称としても使われている。 撮影技術・特殊効果としての「特撮」は、映画創生期から存在し、ジョルジュ・メリエスやイギリスの制作者達によって、撮影時のカメラ操作を駆使した逆回し、高速・微速度撮影、コマ撮り、人や物が消えたように見える中抜きなどが作り出され、『大列車強盗』(1903年)では、映像の合成が試みられるなど、「実際には存在しない架空の映像」作りが行われた。また、実物を縮小したミニチュアの撮影なども長年に渡って使われ、映画の発展と共に特撮技術も発展していき、恐竜などが登場する『ロスト・ワールド』(1925年)は、当時の特撮映画の集大成ともいえ、後の『キング・コング』(1933年)ともども特撮映画を世に広めていった。 1949年頃から1981年にかけて手作りのモンスターやミニチュア造形物などによる多くの特撮映画を手掛けてハリウッド映画の特撮人気を高め、20世紀の特撮映画界のパイオニアとして牽引した特撮監督レイ・ハリーハウゼンは「特撮の神様」と呼ばれ、『ゴジラ』や『スター・ウォーズ』など、後の特撮作品にも多大な影響を与えた。ハリーハウゼンが生み出した特殊映像・特殊効果は、今日の様々な特撮映像の源流ともなっている。 庵野秀明は映画監督(特撮監督)の円谷英二が事実上の元祖と評しているが、円谷作品以前にも忍術などの表現でトリック撮影を用いた作品などは既に存在しており、円谷の師匠である枝正義郎は、合成やミニチュアを使用したトリック撮影を取り入れた作品を戦前の時期に制作している。円谷は前述の海外の特撮映画『キングコング』などに影響を受けて特撮を研究し、怪獣映画などを通して、1950年代以降に特撮映画を日本独自の映像技術として発展させ、尺貫法による寸法がミニチュアで使われ、映像文化や社会に多くの影響を与えた。 「特撮」という言葉自体は、SFXを分かりやすく説明する為に、1958年頃から日本のマスコミで使われ始めており、第一次怪獣ブーム時に完全に定着している。それ以前には、特殊技術(特技)という呼称も用いられていた。 テレビドラマでは『月光仮面』、『七色仮面』など等身大のヒーローが活躍する特撮作品が放映されはじめ、『七色仮面』は劇場公開を前提として、35mmフィルムで撮影されており、撮影費用は1本500万円という、当時のテレビ番組としては破格の金額で製作された。『新 七色仮面』で主人公を波島進から引き継いだ千葉真一は器械体操で培ったアクションを披露し、彼の演技は後に製作されていく変身ヒーローを題材とした特撮作品に大きな影響を与えている。1965年には主に東映作品の特撮パートを手掛けている株式会社「特撮研究所」が創立され、1966年には「空想特撮シリーズ」と銘打った円谷プロの『ウルトラマン』が放送されている。 「特撮映画」「特撮もの」という言葉は1980年代頃まではよく使われており、対象層やジャンルを問わずに「特殊撮影」を使った作品という意味であった。フィルム撮影時代は、本格的な特殊撮影を使った映画やテレビドラマは珍しく、高度な技術と多大な予算が必要なものだった。この他、ドキュメンタリー番組でも特撮が使用された。 特撮が多用されていても、他の既存ジャンルに近い物はその分類で呼ばれ、特撮物とは分類されない場合もある。例えば『西部警察』は多くの特撮が使われているが、一般的には刑事ドラマと呼ばれる。 1990年代以降になると、コンピュータグラフィックス(CG)による、デジタル技術を活用したVFXが普及し始める。そのため、日本ではSFX主体の作品という意味ではなく、過去の特撮作品やその流れを汲む作品という意味で「特撮」が使われることが多くなった。前述のデジタル技術(VFX)による撮影が十分に実用的・一般的になってきた2000年以降は、ミニチュア撮影や操演・着ぐるみによる撮影などの本来のSFX的、光学合成などアナログ的なVFX的技術・作品という意味で「特撮」という言葉が使われるようにもなった。ただし、従来型の特撮を旧式な手法(または作品)として、否定的な意味で使われる場面も増えてきている。 デジタル映像技術の発達に比例して、これまで培われてきた「特撮技術」による撮影は急激に減少し、「特撮作品」の姿も変わりつつあるため、2010年代になると日本独特の文化として保護を求める声があがった。2012年(平成24年)には、東京都現代美術館の企画展「館長 庵野秀明 特撮博物館」が開催されて全国で巡回も行われた他、文化庁の振興策「メディア芸術情報拠点・コンソーシアム構築事業」の一環として実施された「日本特撮に関する調査報告書」が2013年(平成25年)5月に公開されるなどしている。庵野は、それまで文化庁の支援対象は漫画・アニメ・ゲームだけであったところに、「特撮」を同等の扱いで国の文書に明記できたことを重要な点としている。
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特撮(とくさつ)は、特殊撮影技術を指す略称、またはSFXが多用された映画やテレビ番組などの映像作品を指す総称。
{{Otheruseslist|主に[[日本]]における特殊撮影の概要及び作品ジャンル|特殊撮影技術一般|SFX|日本の[[バンド (音楽)|ロックバンド]]|特撮 (バンド)}} {{出典の明記|date=2014年5月}} {{ウィキプロジェクトリンク|特撮}} '''特撮'''(とくさつ)ないし'''特撮作品'''、'''特撮もの'''は、日本の映像作品のジャンル。 「特撮」はもともと特殊撮影技術([[SFX]])を指す略語{{R|BEST54}}<ref>[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/13243400/ 特撮] - [[Yahoo!辞書]]([[大辞泉]]、[[ジャパンナレッジ]])(2013年10月25日閲覧)</ref>であるが、日本では特殊撮影技術が大きな役割を果たす映像作品群が一つのジャンルを形成するほど発展しており、それら作品が「特撮」と総称されている。 == 解説 == {{R|h24research}}{{efn|映画監督の[[庵野秀明]]は、「日本特撮に関する調査報告書」に寄せたメッセージの中で、特撮を「技術体系」「日本が世界に誇るコンテンツ産業」などと表現している<ref>{{Harvnb|日本特撮に関する調査|2013|p=2}}</ref>。}}。 [[庵野秀明]]は[[映画監督]]([[特撮監督]])の[[円谷英二]]が日本における特殊撮影技術の事実上の元祖と評しているが{{R|exhibition}}<ref>[http://www.b-ch.com/contents/feat_tokusatsu/mikata/ 特撮のミカタ] - [[バンダイチャンネル]]</ref>、円谷作品以前にも[[忍術]]などの表現でトリック撮影を用いた作品などは既に存在しており、円谷の師匠である[[枝正義郎]]は、合成やミニチュアを使用したトリック撮影を取り入れた作品を戦前の時期に制作している{{efn|1917年『西遊記』、1934年『大仏廻国・中京篇』など。}}。円谷は前述の[[海外]]の[[特撮映画]]『キングコング』などに影響を受けて特殊撮影技術を研究し<ref>{{Harvnb|日本特撮に関する調査|2013|p=11}}</ref>、[[怪獣映画]]などを通して、1950年代以降に特撮映画を日本独自の映像技術として発展させ、映像文化や社会に多くの影響を与えた。 テレビドラマでは『[[月光仮面]]』、『[[七色仮面]]』など等身大のヒーローが活躍する作品が放映されはじめた。『七色仮面』は劇場公開を前提として、35mmフィルムで撮影されており、撮影費用は1本500万円という、当時のテレビ番組としては破格の金額で製作された{{R|全怪獣}}。『[[新 七色仮面]]』で主人公を[[波島進]]から引き継いだ[[千葉真一]]は[[体操競技|器械体操]]で培ったアクションを披露し、彼の演技は後に製作されていく変身ヒーローを題材とした特撮作品に大きな影響を与えている{{R|全怪獣}}<ref>{{Cite book|和書|editor=竹書房 / イオン編|date=1995-11-30|title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み|publisher=[[竹書房]]|id=C0076|isbn=4-88475-874-9|pages=42-43|chapter=テレビと劇場でデビューした七色仮面}}</ref>。[[1965年]]には主に[[東映]]作品の特撮パートを手掛けている株式会社「[[特撮研究所]]」が創立され、[[1966年]]には「空想特撮シリーズ」と銘打った[[円谷プロダクション|円谷プロ]]の『[[ウルトラマン]]』が放送されている{{R|:0}}。フィルム撮影時代は、本格的な特殊撮影を使った映画やテレビドラマは珍しく、高度な技術と多大な予算が必要なものだった。 「特撮」という言葉自体は、SFXを指す言葉として、[[1958年]]頃から日本のマスコミで使われ始めており<ref>『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] vol41』「古今特撮映画の散歩道」[[竹内博]]</ref>、[[第一次怪獣ブーム]]時に完全に定着している{{R|:0}}。それ以前には、'''特殊技術(特技)'''{{R|BEST54}}という呼称も用いられていた。また、光学合成などのVFX技術も、SFXと特に区別されず「特撮」とされた。 「特撮映画」「特撮もの」という言葉は1980年代頃まではよく使われており、対象層やジャンルを問わずに特殊撮影技術を使った作品という意味であった。一方で、特殊撮影が多用されていても、他の既存ジャンルに近い物はその分類で呼ばれ、特撮ものとは分類されない場合もあった。例えば『[[西部警察]]』は多くの特撮が使われているが、一般的には[[刑事ドラマ]]と呼ばれる。 [[1990年代]]以降になると、[[CG|コンピュータグラフィックス]]などのデジタル映像技術による[[VFX]]が発達し、従来はSFXが必要とされたような映像もVFXで作れるようになった。上述の通り技術としての「特撮」はVFXをも含む言葉であったが、CGは「特撮」には含まれず、従来の技術のみが「特撮」と呼ばれた。一方で、過去の特撮作品の流れを汲む作品は、たとえCGを多用していても特撮ものとされた。一方で「特撮」は旧式な手法や作品として否定的な意味で使われる場面も増えた<ref>{{Harvnb|日本特撮に関する調査|2013|pp=115-116}}</ref>。 デジタル映像技術の発達に応じて、特撮技術による撮影は急激に減少した。番組としての特撮でも、CG技術が多用されSFXが減るなどの形態が変化していった。そのため、[[2010年代]]になると、日本独特の文化として保護を求める声があがった{{R|exhibition}}<ref>{{Harvnb|日本特撮に関する調査|2013|pp=117-118}}</ref>。[[2012年]](平成24年)には、[[東京都現代美術館]]の企画展「館長 庵野秀明 特撮博物館」が開催されて全国で巡回も行われた他、[[文化庁]]の振興策「メディア芸術情報拠点・コンソーシアム構築事業」の一環として実施された「日本特撮に関する調査報告書」が2013年(平成25年)5月に公開されるなどしている。庵野は、それまで文化庁の支援対象は漫画・アニメ・ゲームだけであったところに、「特撮」を同等の扱いで国の文書に明記できたことを重要な点としている{{R|夢のかけら}}。 == 日本の主な特撮作品(テレビ番組) == * '''特撮テレビ'''番組に関しては「'''[[特撮テレビ番組一覧]]'''」を参照。 == 日本の主な特撮作品(映画) == * '''特撮映画作品'''に関しては「[[特撮映画]]」を参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="h24research">{{Harvnb|日本特撮に関する調査|2013|p=4}}</ref> <ref name=":0">{{Harvnb|日本特撮に関する調査|2013|p=8}}</ref> <ref name="exhibition">[https://www.ntv.co.jp/tokusatsu/exhibition.html 展覧会紹介ーはじめに] - 館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技(2013年)</ref> <ref name="全怪獣">{{Cite book|和書|date=1990-03-24|title=[[全怪獣怪人]]|publisher=[[勁文社]]|volume=上巻|pages=pp.48-49|id=C0676|isbn=4-7669-0962-3}}</ref> <ref name="BEST54">{{Cite book|和書|chapter=怪獣アイテム豆辞典|title=[[東宝]]編 日本特撮映画図鑑 BEST54|others=特別監修 [[川北紘一]]|publisher=[[成美堂出版]]|series=SEIBIDO MOOK|date=1999-02-20|page=151|isbn=4-415-09405-8}}</ref> <ref name="夢のかけら">{{Cite book|和書|others=修復-[[原口智生]] 撮影-加藤文哉|title=夢のかけら 円谷プロダクション篇|publisher=[[ホビージャパン]]|date=2021-08-31|isbn=978-4-7986-2523-2|page=119|chapter=原口智生×庵野秀明×三好寛}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite report|author=森ビル株式会社|title=日本特撮に関する調査|series=平成24年度 メディア芸術情報拠点・コンソーシアム構築事業|url=https://mediag.bunka.go.jp/projects/project/images/tokusatsu-2013.pdf|format=PDF|date=2013-3|ref={{SfnRef|日本特撮に関する調査|2013}}|language=ja}} == 関連項目 == * [[特撮映画]] ** [[怪獣映画]]/[[戦争映画]]/[[SF映画]]/[[ホラー映画]]/[[パニック映画]] ** [[東宝特撮]] * [[特撮テレビ番組一覧]] ** [[第一次怪獣ブーム]]/[[第二次怪獣ブーム]](変身ブーム) ** [[スーパーヒーロータイム]] **[[深夜特撮]] * [[スーツアクター]] * [[ローカルヒーロー]] * [[VFX]] * [[特撮関連人名一覧]] {{DEFAULTSORT:とくさつ}} [[Category:特撮|*]] [[Category:映像作品]] [[Category:アクションのジャンル]] [[Category:SFのジャンル]] [[Category:ホラーのジャンル]] [[Category:テレビドラマのジャンル]] [[Category:テレビ番組のジャンル]]
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日常生活
日常生活(にちじょうせいかつ、英: everyday life)は、毎日繰り返される普段の生活のこと。 日常生活とは、人が生きるために日々繰り返しやっていることである。人によって若干内容は異なるが、たとえば次のようなこと。朝目覚めていつものように顔を洗う、歯をみがく、髪をとかす、いつもの場所で朝食食べる、着替える、学生なら自宅や学校で勉強をするとか宿題をするとか、自営業の仕事をしている人ならいつもの自分の仕事場でいつもの仕事をするとか、勤め人ならいつもの仕事場に行き仕事をして帰ってくるなどということや、農業をしている人ならいつもどおりに畑で仕事をしたり収穫物の出荷をしたり農機具の整備をしたり、漁業にたずさわっている人ならいつも通りに漁に出たり網の手入れをしたり、学業も仕事もしていない人はいつもどおり自宅やいつもの場所でいつも通りのことをして過ごすということである。そしていつもの場所で昼食をとり、いつもと同じ場所で夕食をとったり、あるいはいつものようにトイレに入ったりシャワーをあびたり風呂に入ったり、くつろいだ部屋着を着たり、自宅のいつもの場所でテレビを見たり、近年ならいつものようにYoutubeを見たりSNSをチェックしたり、いつものように甘いもの食べたり人によっては少し酒を飲んだり、そうしていつもの場所で眠りにつくことなどである。一般にはこういった行為、日々ルーチンのように繰り返されている一連の行為・行動が日常生活と呼ばれている。 禅ではしばしば日常生活に焦点をあて、日常生活の中で禅を行うという手法もとる。日常生活に <禅的思考> を少しだけ取り入れることを生活禅(せいかつぜん)などと言う。たとえば、疲れたなと思ったらちょっと背筋を伸ばしてみる、とか、思い立ったらすぐに始める、などということである。 なお医療とくにリハビリに携わる職種の人々は <日常生活動作>という用語を使って、普段人々が共通して行っている日常生活の具体的な動作、特に仕事以外の動作に特別な注意を払っている。起床・就寝・着替え・食事・歯磨き・洗顔・排泄・入浴などといった行為・行動で行われる動作を具体的に指している。大きな負傷などをして骨・筋肉などを傷めたりすると、人々が当たり前と思っている日常生活を送ることが困難になる。寝たり起きたり着替えたりといったことすらできなくなってしまうのである。 なおニュースというのは事件や普段とは異なった出来事を扱うものであるから、人々が日常生活でしていることはニュース媒体ではほとんど扱われない。報道機関の記者は通常、普通の人々のありきたりな日常生活をわざわざ取材しようとはしない。たとえ個人的には興味を持っている記者がいたとしても、ニュース記事にはできないので仕事としては取材を行っていられない。だが民俗学者、文化人類学者などは、普通の人が普段どのようなことをしているのか、人類は日々どのように生きているのかということに興味を示しそれなりに研究対象とすることがあり、欧米の学者によって人々の日常生活を扱った学術書も、数は多くはないが、書かれてはいる。 なお医療用語ではなく一般的な表現で <日常生活> と対比されているのは <非日常> であり、毎日のようには行わないこと、普段とは違う行為・行動である。日常生活というのは毎日のように繰り返されるので、人は慣れてしまい次第に感情が湧かなくなるものだが、非日常は普段とは違う行為なので印象に残り特別な感情を生むことが多い。 非日常のほうは喜ばしいこともあれば喜ばしくないこともある。たとえば入学試験を受けたり入学式や卒業式に出席することとかあるいは退学させられてしまうとか、また入社試験を受けたり入社式に出席したり退社のお別れ会に参加することとかあるいは突然退社勧告を受けるつまり突然クビになるとか、結婚届けを役所に出して結婚生活を始めたり離婚届けを出して新しく別々の人生を始めたりする日の特別な行為・行動である。また、まれに起きる事故や事件というのも日常生活には含められず、非日常である。たとえば自身が突然事故にあって救急車で病院に運ばれるとか、親が突然しかも初めて倒れて緊急入院したので病院にかけつけ看病したとか、親の葬儀の喪主の役を果たした、などということは日常生活には含まれず、非日常である。また普段の学業や仕事をわざわざ休んで気分転換のために旅に出るなどということも日常生活ではなく <非日常> である。
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日常生活は、毎日繰り返される普段の生活のこと。 日常生活とは、人が生きるために日々繰り返しやっていることである。人によって若干内容は異なるが、たとえば次のようなこと。朝目覚めていつものように顔を洗う、歯をみがく、髪をとかす、いつもの場所で朝食食べる、着替える、学生なら自宅や学校で勉強をするとか宿題をするとか、自営業の仕事をしている人ならいつもの自分の仕事場でいつもの仕事をするとか、勤め人ならいつもの仕事場に行き仕事をして帰ってくるなどということや、農業をしている人ならいつもどおりに畑で仕事をしたり収穫物の出荷をしたり農機具の整備をしたり、漁業にたずさわっている人ならいつも通りに漁に出たり網の手入れをしたり、学業も仕事もしていない人はいつもどおり自宅やいつもの場所でいつも通りのことをして過ごすということである。そしていつもの場所で昼食をとり、いつもと同じ場所で夕食をとったり、あるいはいつものようにトイレに入ったりシャワーをあびたり風呂に入ったり、くつろいだ部屋着を着たり、自宅のいつもの場所でテレビを見たり、近年ならいつものようにYoutubeを見たりSNSをチェックしたり、いつものように甘いもの食べたり人によっては少し酒を飲んだり、そうしていつもの場所で眠りにつくことなどである。一般にはこういった行為、日々ルーチンのように繰り返されている一連の行為・行動が日常生活と呼ばれている。 禅ではしばしば日常生活に焦点をあて、日常生活の中で禅を行うという手法もとる。日常生活に <禅的思考> を少しだけ取り入れることを生活禅(せいかつぜん)などと言う。たとえば、疲れたなと思ったらちょっと背筋を伸ばしてみる、とか、思い立ったらすぐに始める、などということである。 なお医療とくにリハビリに携わる職種の人々は <日常生活動作>という用語を使って、普段人々が共通して行っている日常生活の具体的な動作、特に仕事以外の動作に特別な注意を払っている。起床・就寝・着替え・食事・歯磨き・洗顔・排泄・入浴などといった行為・行動で行われる動作を具体的に指している。大きな負傷などをして骨・筋肉などを傷めたりすると、人々が当たり前と思っている日常生活を送ることが困難になる。寝たり起きたり着替えたりといったことすらできなくなってしまうのである。 なおニュースというのは事件や普段とは異なった出来事を扱うものであるから、人々が日常生活でしていることはニュース媒体ではほとんど扱われない。報道機関の記者は通常、普通の人々のありきたりな日常生活をわざわざ取材しようとはしない。たとえ個人的には興味を持っている記者がいたとしても、ニュース記事にはできないので仕事としては取材を行っていられない。だが民俗学者、文化人類学者などは、普通の人が普段どのようなことをしているのか、人類は日々どのように生きているのかということに興味を示しそれなりに研究対象とすることがあり、欧米の学者によって人々の日常生活を扱った学術書も、数は多くはないが、書かれてはいる。 なお医療用語ではなく一般的な表現で <日常生活> と対比されているのは <非日常> であり、毎日のようには行わないこと、普段とは違う行為・行動である。日常生活というのは毎日のように繰り返されるので、人は慣れてしまい次第に感情が湧かなくなるものだが、非日常は普段とは違う行為なので印象に残り特別な感情を生むことが多い。 非日常のほうは喜ばしいこともあれば喜ばしくないこともある。たとえば入学試験を受けたり入学式や卒業式に出席することとかあるいは退学させられてしまうとか、また入社試験を受けたり入社式に出席したり退社のお別れ会に参加することとかあるいは突然退社勧告を受けるつまり突然クビになるとか、結婚届けを役所に出して結婚生活を始めたり離婚届けを出して新しく別々の人生を始めたりする日の特別な行為・行動である。また、まれに起きる事故や事件というのも日常生活には含められず、非日常である。たとえば自身が突然事故にあって救急車で病院に運ばれるとか、親が突然しかも初めて倒れて緊急入院したので病院にかけつけ看病したとか、親の葬儀の喪主の役を果たした、などということは日常生活には含まれず、非日常である。また普段の学業や仕事をわざわざ休んで気分転換のために旅に出るなどということも日常生活ではなく <非日常> である。
{{独自研究|date=2009年3月}} '''日常生活'''(にちじょうせいかつ、{{Lang-en-short|everyday life}})は、毎日繰り返される普段の[[生活]]のこと。 日常生活とは、人が生きるために日々繰り返しやっていることである。人によって若干内容は異なるが、たとえば次のようなこと。朝目覚めていつものように顔を洗う、[[歯磨き|歯をみがく]]、髪をとかす、いつもの場所で[[朝食]]食べる、着替える、学生なら自宅や学校で[[勉強]]をするとか[[宿題]]をするとか、自営業の[[労働|仕事]]をしている人ならいつもの自分の仕事場でいつもの仕事をするとか、勤め人ならいつもの仕事場に行き仕事をして帰ってくるなどということや、農業をしている人ならいつもどおりに畑で仕事をしたり収穫物の出荷をしたり農機具の整備をしたり、漁業にたずさわっている人ならいつも通りに漁に出たり網の手入れをしたり、学業も仕事もしていない人はいつもどおり自宅やいつもの場所でいつも通りのことをして過ごすということである。そしていつもの場所で昼食をとり、いつもと同じ場所で[[夕食]]をとったり、あるいはいつものようにトイレに入ったりシャワーをあびたり風呂に入ったり、くつろいだ部屋着を着たり、自宅のいつもの場所でテレビを見たり、近年ならいつものようにYoutubeを見たりSNSをチェックしたり、いつものように甘いもの食べたり人によっては少し酒を飲んだり、そうしていつもの場所で眠りにつくことなどである。一般にはこういった行為、日々ルーチンのように繰り返されている一連の行為・行動が日常生活と呼ばれている。 <gallery> Woman brushing teeth.jpg|いつものように歯をみがく 1voda.jpg|いつものように顔を洗う Hair brush.jpg|いつものように髪をとかす David Rodger in the kitchen, 1990.jpg|いつものように飲み物を飲み Boy doing homework (4596604619).jpg|子供はいつものように宿題をしたり Bath, bathtub, bathroom, mirror, washbasin Fortepan 77078.jpg|夕方、子供はいつものように入浴 Amom.jpg|子供がいる人なら、いつものように子供と一緒にテレビを見たり Man sleeping striped-sheets.JPG|いつもの場所で眠る </gallery> [[禅]]ではしばしば日常生活に焦点をあて、日常生活の中で禅を行うという手法もとる。日常生活に <禅的思考> を少しだけ取り入れることを生活禅(せいかつぜん)などと言う。たとえば、疲れたなと思ったらちょっと背筋を伸ばしてみる、とか、思い立ったらすぐに始める、などということである<ref>『禅と日常生活』1916年</ref><ref>枡野俊明『悩みごとに振り回されない「生活禅」の作法』 悟空出版 2017</ref>。<ref>北川紘洋『禅に触れる暮らし:人生を切り開く日常生活の知恵』 はまの出版 2000</ref> なお医療とくに[[リハビリ]]に携わる職種の人々は <[[日常生活動作]]>という用語を使って、普段人々が共通して行っている日常生活の具体的な動作、特に仕事以外の動作に特別な注意を払っている。起床・就寝・着替え・食事・歯磨き・洗顔・排泄・入浴などといった行為・行動で行われる動作を具体的に指している。大きな負傷などをして骨・筋肉などを傷めたりすると、人々が当たり前と思っている日常生活を送ることが困難になる。寝たり起きたり着替えたりといったことすらできなくなってしまうのである。 [[File:The Psychopathology of Everyday Life.jpg|thumb|120px|日常生活の人間心理について書かれた学術書]] なお[[ニュース]]というのは事件や普段とは異なった出来事を扱うものであるから、人々が日常生活でしていることはニュース媒体ではほとんど扱われない。報道機関の記者は通常、普通の人々のありきたりな日常生活をわざわざ取材しようとはしない。たとえ個人的には興味を持っている記者がいたとしても、ニュース記事にはできないので仕事としては取材を行っていられない。だが[[民俗学]]者、[[文化人類学]]者などは、普通の人が普段どのようなことをしているのか、人類は日々どのように生きているのかということに興味を示しそれなりに研究対象とすることがあり、欧米の学者によって人々の日常生活を扱った学術書も、数は多くはないが、書かれてはいる。 ;<日常生活> の対比概念 なお医療用語ではなく一般的な表現で <日常生活> と対比されているのは <非日常> であり、毎日のようには行わないこと、普段とは違う行為・行動である。日常生活というのは毎日のように繰り返されるので、人は慣れてしまい次第に感情が湧かなくなるものだが、非日常は普段とは違う行為なので印象に残り特別な感情を生むことが多い。 非日常のほうは喜ばしいこともあれば喜ばしくないこともある。たとえば[[入学試験]]を受けたり[[入学式]]や[[卒業式]]に出席することとかあるいは退学させられてしまうとか、また入社試験を受けたり入社式に出席したり退社のお別れ会に参加することとかあるいは突然退社勧告を受けるつまり突然クビになるとか、結婚届けを役所に出して結婚生活を始めたり離婚届けを出して新しく別々の人生を始めたりする日の特別な行為・行動である。また、まれに起きる[[事故]]や[[事件]]というのも日常生活には含められず、非日常である。たとえば自身が突然事故にあって救急車で病院に運ばれるとか、親が突然しかも初めて倒れて緊急入院したので病院にかけつけ看病したとか、親の葬儀の喪主の役を果たした、などということは日常生活には含まれず、非日常である。また普段の学業や仕事をわざわざ休んで気分転換のために[[旅]]に出るなどということも日常生活ではなく <非日常> である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[生活]] * [[家庭]] * [[異化]] * [[エブリデイ・マジック]] == Further readings == * [[ジークムント・フロイト]](1901), ''The Psychopathology of Everyday Life'', [http://www.answers.com/topic/psychopathology-of-everyday-life-the] * [[アンリ・ルフェーヴル]](1947), ''Critique of Everyday Life'' * [[:en:Raoul Vaneigem|Raoul Vaneigem]](1967), ''The Revolution of Everyday Life'' * [[ミシェル・ド・セルトー]](1974), The Practice of Everyday Life * [[:en:John Shotter|Shotter, John]](1993), ''Cultural politics of everyday life: Social constructionism, rhetoric and knowing of the third kind.''[http://psycnet.apa.org/psycinfo/1993-98490-000] * [[:en:John A. Bargh|John A. Bargh]](1997), ''The Automaticity of Everyday life.'' * ''The Everyday Life Reader'', 2001, edited by Ben Highmore. ISBN 041523025X {{都市社会学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にちしようせいかつ}} [[Category:生活]] [[Category:文化用語]] [[Category:人の一生]]
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情報工学
情報工学(じょうほうこうがく、英語: computer science)とは、「計算機による情報処理に関連する科学技術の一分野」を指す言葉であり、「情報科学」や「計算機科学」ともいう。 なお英語の information engineering はソフトウェア工学における一手法であり(データ中心アプローチも参照)、日本語の「情報工学」とは対応しない。また似た言葉に情報学がある。 語感としては、情報科学という語がもっぱらおおまかに「科学」という語が指す範囲を中心としているのに対し、情報工学は「工学」的な分野に重心があるが、内実としてはどれもたいして変わらないことが多い(たとえば、大学の学部学科名などに関しては、個々の大学の個性による違いのほうが、名前による違いより大きい)。日本で、大学の工学部などにコンピュータ科学ないし情報関係の学科を設置する際に、「工学」部という語との整合のためだけに便利に使われた、という面が大きい(情報工学科の記事を参照)。 ここでは、いくつかの大学の学科紹介などから(研究などにおける専門的な解説ではない)抜粋する。情報工学とは「情報」を工学的に利用するための学問分野である。情報の発生(データマイニング、コンピュータグラフィックスなど)、情報の伝達(コンピュータネットワークなど)、情報の収集(コンピュータビジョン、検索エンジンなど)、情報の蓄積(データベース、データ圧縮など)、情報の処理(計算機工学、計算機科学、ソフトウェア工学)を扱う総合的な工学分野といえる。また情報工学を、物理現象を支配している原理や法則や社会・経済活動を情報という観点から捉え,コンピュータ上の設計手順に変換することにより自動化する方法を創出する学問分野とする見方もあり、これは英語でいうコンピューティング(computing)に相当する。いずれにしても以上の説明は、大学の学科紹介などからの抜粋である。 計算機科学や情報科学・情報工学を扱う学会としては、米国では発足が早かったこともあり、ACMは直訳すると「計算機械学会」である。国際機関である情報処理国際連合の1960年発足の頃には、コンピュータは(数の)計算のみならず情報を処理する機械であるという認識は広まっており、日本の学会発足に関しても、和田弘により「情報処理学会」の名が付けられ、情報処理という言葉が使われるようになった。また電子情報通信学会もこの分野をあらわす語として「情報」を使っている。 日本技術士会に「情報工学部会」があり、また同会が課している2次試験は部門別であるが、コンピュータソフトウェアに関連する部門を「情報工学部門」としている(技術士情報工学部門)。
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情報工学とは、「計算機による情報処理に関連する科学技術の一分野」を指す言葉であり、「情報科学」や「計算機科学」ともいう。 なお英語の information engineering はソフトウェア工学における一手法であり(データ中心アプローチも参照)、日本語の「情報工学」とは対応しない。また似た言葉に情報学がある。
'''情報工学'''(じょうほうこうがく、{{lang-en|computer science{{Sfn|コンピュータ用語辞典編集委員会|2001|p=507}}}})とは、「[[コンピュータ|計算機]]による[[情報処理]]に関連する[[科学技術]]の一分野」を指す言葉であり、「'''[[情報科学]]'''」や「'''[[計算機科学]]'''」ともいう{{Sfn|コンピュータ用語辞典編集委員会|2001|p=507}}。 なお英語の [[:en:Information engineering|information engineering]] は[[ソフトウェア工学]]における一手法であり(''[[データ中心アプローチ]]''も参照)、日本語の「情報工学」とは対応しない。また似た言葉に[[情報学]]がある。 == 概要 == {{独自研究範囲|語感としては、[[情報科学]]という語がもっぱらおおまかに「科学」という語が指す範囲を中心としているのに対し、情報工学は「工学」的な分野に重心があるが、内実としてはどれもたいして変わらないことが多い(たとえば、大学の学部学科名などに関しては、個々の大学の個性による違いのほうが、名前による違いより大きい)。日本で、大学の工学部などに[[計算機科学|コンピュータ科学]]ないし情報関係の学科を設置する際に、「工学」部という語との整合のためだけに便利に使われた、という面が大きい([[情報工学科]]の記事を参照)。|title=筆者の主張が含まれており、出典がありません。|date=2022年9月}} ここでは、いくつかの大学の学科紹介などから(研究などにおける専門的な解説ではない)抜粋する。情報工学とは「[[情報]]」を工学的に利用するための学問分野である<ref>[http://www.ics.keio.ac.jp/dept/concept.html.ja 情報工学科のねらい] [[慶應義塾大学]] 情報工学科</ref>。情報の発生([[データマイニング]]、[[コンピュータグラフィックス]]など)、情報の伝達([[コンピュータネットワーク]]など)、情報の収集([[コンピュータビジョン]]、[[検索エンジン]]など)、情報の蓄積([[データベース]]、[[データ圧縮]]など)、情報の処理([[計算機工学]]、[[計算機科学]]、[[ソフトウェア工学]])を扱う総合的な工学分野といえる<ref>[http://www.osakac.ac.jp/dept/p/zyuken/gakka2.html 情報工学とは何か] [[大阪電気通信大学]] 情報工学科</ref>。また情報工学を、物理現象を支配している原理や法則や社会・経済活動を情報という観点から捉え,コンピュータ上の設計手順に変換することにより自動化する方法を創出する学問分野とする見方もあり、これは英語でいう[[コンピューティング]](computing)に相当する<ref>[http://www.ise.shibaura-it.ac.jp/main02.html カリキュラム] [[芝浦工業大学]] 情報工学科</ref>。いずれにしても以上の説明は、大学の学科紹介などからの抜粋である。 計算機科学や[[情報科学]]・情報工学を扱う学会としては、米国では発足が早かったこともあり、[[Association for Computing Machinery|ACM]]は直訳すると「計算機械学会」である。国際機関である[[情報処理国際連合]]の1960年発足の頃には、コンピュータは(数の)計算のみならず情報を処理する機械であるという認識は広まっており、日本の学会発足に関しても、和田弘により<ref>http://museum.ipsj.or.jp/pioneer/h-wada.html</ref>「[[情報処理学会]]」の名が付けられ、[[情報処理]]という言葉が使われるようになった。また[[電子情報通信学会]]もこの分野をあらわす語として「情報」を使っている。 [[日本技術士会]]に「情報工学部会」があり、また同会が課している2次試験は部門別であるが、コンピュータソフトウェアに関連する部門を「情報工学部門」としている<ref>http://www.engineer.or.jp/c_categories/index02022.html</ref>([[技術士情報工学部門]])。 * 学科名としては、[[京都大学]]([[工学部]])および[[大阪大学]]([[基礎工学部]])に、1970年初めて、情報工学科が登場する。同年、[[東京工業大学]]には情報科学科が、また、[[電気通信大学]]および[[山梨大学]]には計算機科学科が、[[金沢工業大学]]には情報処理工学科が設立された。 * 学部名としては、1986年に設置された[[九州工業大学]]の情報工学部が最初である。1987年から学生を受け入れ始めた知能情報工学科と電子情報工学科の2学科に加えて、制御システム工学科、機械システム工学科、生化システム工学科(現在のシステム創成情報工学科、機械情報工学科、生命情報工学科)の全5学科すべてが情報工学を専門とする学部である。また、[[情報科学]]を専門とする学部として、[[情報科学部]]が存在し、[[情報学]]を専門とする学部として、[[情報学部]]が存在する。[[工学]]系では1996年に[[大阪工業大学]]が最初に設置している<ref>https://www.oit.ac.jp/is/</ref>。 * 日本の大学の「[[情報工学科]]」では、英語名はcomputer science(計算機科学)としていることが多い。<!--英語圏ではComputer Scienceの語が圧倒的に通りが良いし、たとえばIT業界で学歴として「CSの学位」といったように扱われるからである。-->information engineering とするところは、2007年時点で、8/33程度である。information engineering を掲げる例に、[[ケンブリッジ大学]]の Information Engineering Division がある<ref>[http://www.eng.cam.ac.uk/research/div-f/ CUED - Division F: Information Engineering] ケンブリッジ大学</ref>。 * 研究科では[[情報学研究科]]など。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author = コンピュータ用語辞典編集委員会 |date = 2001-06-01 |title = 和英コンピュータ用語大辞典 |edition = 第1刷 |publisher = [[日外アソシエーツ]] |isbn = 978-4816916618 |ref = harv }} {{Engineering fields}} {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:しようほうこうかく}} [[Category:情報工学|*]] [[Category:工学]] [[Category:理学]] [[Category:計算機科学]] [[Category:情報科学]] [[Category:情報学]] [[Category:科学]] [[Category:応用科学]] [[Category:形式科学]]
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形式言語
形式言語(けいしきげんご、英: formal language)は、その文法(構文、統語論)が、場合によっては意味(意味論)も、形式的に与えられている(形式体系を参照)言語である。形式的でないために、しばしば曖昧さが残されたり、話者集団によって用法のうつろいゆくような自然言語に対して、プログラミング言語を含む一部の人工言語や、いわゆる機械可読な(機械可読目録を参照)ドキュメント類などの形式言語は、用法の変化に関しては厳格である。この記事では形式的な統語論すなわち構文の形式的な定義と形式文法について述べる。形式的な意味論については形式意味論の記事を参照。 形式言語の理論、特にオートマトン理論と関連したそれにおいては、言語はアルファベットの列(語 word) の集合である。 L ⊂ Σ ∗ = { ⟨ σ 1 , σ 2 , . . . ⟩ | σ i ∈ Σ } {\displaystyle L\subset \Sigma ^{*}=\{\langle \sigma _{1},\sigma _{2},...\rangle |\sigma _{i}\in \Sigma \}} ただし、長さゼロの空単語(Empty Word, 記号 e {\displaystyle e} 、 ε {\displaystyle \epsilon } 、 Λ {\displaystyle \Lambda } )も含む。 チューリングマシンの言語は単なる文字列なので、数学的構造(他のチューリングマシンを含む)を扱うには符号化(エンコード)し、その数値を解釈するプログラムを埋め込む必要がある。 チューリング完全機械は十分強力なので、この手法であらゆる列挙可能な構造を扱うことができる。チューリングマシンの数値表現については(チューリングマシンの)表記(description)という。 あるチューリングマシンが存在して、言語に属するすべての語 w に対して動作させると受理状態で停止し、属さない語には受理しないようなとき、その言語はチューリング認識可能という。 また、言語に属さないときは必ず拒否状態で停止する場合、その言語はチューリング判別可能であるという。(この2つの違いは、一部の入力に対してチューリングマシンが停止しない場合があるかどうかである) また、チューリングマシンTMの言語 L(TM) とは、テープに w をセットしたあと、TMを動作させると受理状態に入って停止するような w の集合からなる言語(TM認識可能な言語)のことである。 この言語には以下のような演算が定義される。ここで、 L 1 {\displaystyle L_{1}} と L 2 {\displaystyle L_{2}} は共通のアルファベットから構成される言語であるとする。 モデル理論においては、言語は定数記号、関数記号、述語記号の集合である。 L = { c 0 , c 1 , . . . } ∪ { f 0 , f 1 , . . . } ∪ { p 0 , p 1 , . . . } {\displaystyle L=\{c_{0},c_{1},...\}\cup \{f_{0},f_{1},...\}\cup \{p_{0},p_{1},...\}} 形式言語は、形式文法と密接な関係がある。例として、次のような文脈自由文法の構文規則があるとき、 以下のように規則を再帰的に適用して、その言語の要素(名詞句)を列挙することができる。 ... すなわち、このような操作の任意回の繰り返しによって、その言語(文の集合)が得られる。 また、形式文法が階層をなすというチョムスキー階層は、生成する言語では言語の認識に必要な最小のオートマトンが階層をなすという形で現れる。 形式言語は、「人や計算機の如何なる記号変換能力から如何なる思考能力や計算能力が生まれるか」の学としての広義の数理論理学の研究対象であり、従って形式言語は、哲学・言語学・計算機科学・数学基礎論・数理心理学等々において重要な役割を演ずる。 それらの学問分野では、如何なる形式言語を研究すべきかの文法論(構文論・統辞論)や形式言語の意味論や演繹論が研究される。 形式手法という場合には、形式言語に加えて、模擬試験、検証・証明などの仕組みを込みで言う場合が有る。 自然言語を比較的単純な形式言語のモデルにあてはめて分析する言語学は、チョムスキーによって提唱された。音素や語幹などを素記号として考える。 実際の自然言語の構文規則(あるいは文法)は、文字通り自然発生的のものであり、形式言語における構文規則のように明確に規定するのは難しい。 ただ、素朴な文法論の主張は、形式言語の理論とみなすことができる。 素朴な文法論は、例えば次のようなものである。 こういう文法論はすなわち、素記号とは何かを定め、それらから文を作る構文規則を定めるのだから、まさに形式言語の理論である。 こういう形式言語論的な文法論は、実際の言語と比較することで自然言語の特徴を浮き彫りにし、自然言語のより深い理解へと導くことを可能とすることもなくはない。言語そのものではなく、言語行動の深層をなす人間精神を探るためには、むしろこういう文法論を数学化し、更に意味論・文法論を伴った論理学にまで推し進めることが有意義ともいえよう。
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形式言語は、その文法(構文、統語論)が、場合によっては意味(意味論)も、形式的に与えられている(形式体系を参照)言語である。形式的でないために、しばしば曖昧さが残されたり、話者集団によって用法のうつろいゆくような自然言語に対して、プログラミング言語を含む一部の人工言語や、いわゆる機械可読な(機械可読目録を参照)ドキュメント類などの形式言語は、用法の変化に関しては厳格である。この記事では形式的な統語論すなわち構文の形式的な定義と形式文法について述べる。形式的な意味論については形式意味論の記事を参照。
'''形式言語'''(けいしきげんご、{{lang-en-short|formal language}})は、その[[文法]](構文、[[統語論]])が、場合によっては意味([[意味論 (曖昧さ回避)|意味論]])も、形式的に与えられている([[形式体系]]を参照)[[言語]]である。形式的でないために、しばしば曖昧さが残されたり、話者集団によって用法のうつろいゆくような[[自然言語]]に対して、[[プログラミング言語]]を含む一部の[[人工言語]]や、いわゆる機械可読な([[機械可読目録]]を参照)ドキュメント類などの形式言語は、用法の変化に関しては厳格である。この記事では形式的な統語論すなわち構文の形式的な定義と[[形式文法]]について述べる。形式的な意味論については[[形式意味論]]の記事を参照。 ==定義== 形式言語の理論、特に[[オートマトン|オートマトン理論]]と関連したそれにおいては、言語は[[アルファベット (計算機科学)|アルファベット]]の列(語 word) の集合である<ref>{{cite book|isbn=0534950973|title=Introduction to the Theory of Computation|author=Micael Sipser|year=2005}}</ref>。 <math>L \subset \Sigma^* = \{ \langle \sigma_1, \sigma_2, ... \rangle |\sigma_i \in \Sigma\}</math> ただし、長さゼロの'''空単語'''(''Empty Word'', 記号 <math>e</math>、<math>\epsilon</math>、<math>\Lambda</math>)も含む。 チューリングマシンの言語は単なる文字列なので、数学的構造(他のチューリングマシンを含む)を扱うには符号化([[エンコード]])し、その数値を解釈するプログラムを埋め込む必要がある。 チューリング完全機械は十分強力なので、この手法であらゆる列挙可能な構造を扱うことができる。チューリングマシンの数値表現については(チューリングマシンの)表記(description)という。 あるチューリングマシンが存在して、言語に属するすべての語 ''w'' に対して動作させると受理状態で停止し、属さない語には受理しないようなとき、その言語は'''チューリング認識可能'''という。 また、言語に属さないときは必ず拒否状態で停止する場合、その言語は'''チューリング判別可能'''であるという。(この2つの違いは、一部の入力に対してチューリングマシンが停止しない場合があるかどうかである) また、チューリングマシン'''TM'''の言語 ''L''('''TM''') とは、テープに ''w'' をセットしたあと、'''TM'''を動作させると受理状態に入って停止するような ''w'' の集合からなる言語('''TM'''認識可能な言語)のことである。 この言語には以下のような演算が定義される。ここで、<math>L_{1}</math> と <math>L_{2}</math> は共通のアルファベットから構成される言語であるとする。 * 「連結」<math>L_{1} L_{2}\quad</math> は、文字列群 <math>vw</math> から構成される。ここで、<math>v</math> は <math>L_{1}</math> に含まれる文字列で、<math>w</math> は <math>L_{2}</math> に含まれる文字列である。 * 「積集合」<math>L_1 \cap L_2</math> は、<math>L_{1}</math> にも <math>L_{2}</math> にも含まれる文字列の集合である。 * 「和集合」<math>L_1 \cup L_2</math> は、<math>L_{1}</math> か <math>L_{2}</math> に含まれる文字列の集合である。 * <math>L_{1}</math> の「補集合」は、<math>L_{1}</math> に含まれない全ての文字列の集合である。 * 「商集合」<math>L_{1}/L_{2}\quad</math> は、<math>L_{1}</math> に含まれる文字列 <math>vw</math> に対して、<math>L_{2}</math> に含まれる文字列 <math>w</math> が存在するときに、全ての <math>v</math> に相当する文字列群から構成される。 * 「[[クリーネスター]]」<math>L_{1}^{*}</math> は、<math>w_{1}w_{2}...w_{n}</math> という形式の全文字列群から構成される。ただし、<math>w_{i}</math> は <math>L_{1}</math> に含まれ、<math>n \ge 0</math> である。注意すべきは、<math>n = 0</math> の場合もあるので、空文字列 <math>\epsilon</math> も含まれるという点である。 * 「反転」<math>L_{1}^{R}</math> は、<math>L_{1}</math> の全文字列を反転させた文字列群から構成される。 * <math>L_{1}</math> と <math>L_{2}</math> の「シャッフル」とは、<math>v_{1}w_{1}v_{2}w_{2}...v_{n}w_{n}</math> で表される全文字列から構成される。ここで、<math>n \ge 1</math> で、<math>v_{1},...,v_{n}</math> を連結した <math>v_{1}...v_{n}</math> は <math>L_{1}</math> に含まれる文字列であり、<math>w_{1},...,w_{n}</math> を連結した <math>w_{1}...w_{n}</math> は <math>L_{2}</math> に含まれる文字列である。 [[モデル理論]]においては、言語は定数記号<!-- TMにおける2進表現文字列に相当 -->、関数記号<!-- 変換TMの文字列表現に相当 -->、述語記号<!-- 判別TMの文字列表現に相当 -->の集合である。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.kobe-u.ac.jp/~kikyo/LogicSummerSchool2011/lectures/2011kobe_tsuboi.pdf|accessdate=2012-02-18|title=数学基礎論サマースクール モデル理論入門|year=2011|author=坪井明人}}</ref> <math>L = \{ c_0, c_1, ...\} \cup \{ f_0, f_1, ...\} \cup \{ p_0, p_1, ... \}</math><!-- これらの記号に意味を与える構造は、言語の対象外である。{{要出典範囲|つまり何らかの実際的な問題を言語の認識問題として定式化するには、その問題に共通する制約を構造として定義しておく必要がある。そしてそれらの定数や関数、述語を充足する問題を言語の認識問題とすることができる。}} ちょっと自信が無い --><!--「言語の対象外」というのも多分英語版執筆者(?)の独断? 形式言語にだって意味論はあるというか--> ==形式文法== {{Main|形式文法}} 形式言語は、[[形式文法]]と密接な関係がある。例として、次のような[[文脈自由文法]]の構文規則があるとき、 * 名詞句 ::= 名詞 | 形容詞 名詞 | 名詞句 "を" 動詞 "ている" 名詞句 * 動詞 ::= "見" * 名詞 ::= "猿" | "飼育員" * 形容詞 ::= "小さい" 以下のように規則を再帰的に適用して、その言語の要素(名詞句)を列挙することができる。 # (猿 飼育員 小さい猿 小さい飼育員) # (猿 飼育員 小さい猿 小さい飼育員 猿を見ている猿 猿を見ている飼育員 猿を見ている小さい猿 ... 小さい猿を見ている猿 ...) # (猿 飼育員 小さい猿 小さい飼育員 猿を見ている猿 ... 猿をみている猿を見ている猿 ... 小さい猿を見ている猿を見ている小さい飼育員を見ている猿 ...) ... すなわち、このような操作の任意回の繰り返しによって、その言語(文の集合)が得られる。 また、形式文法が階層をなすという[[チョムスキー階層]]は、生成する言語では言語の認識に必要な最小のオートマトンが階層をなすという形で現れる。 ==その他== {{独自研究|date=2015年11月|section=1}} ===言及される分野=== 形式言語は、「人や[[計算機]]の如何なる記号変換能力から如何なる[[思考]]能力や[[計算]]能力が生まれるか」の学としての広義の[[数理論理学]]の研究対象であり、従って形式言語は、[[哲学]]・[[言語学]]・[[計算機科学]]・[[数学基礎論]]・[[数理心理学]]等々において重要な役割を演ずる。 それらの学問分野では、如何なる形式言語を研究すべきかの[[文法|文法論]](構文論・統辞論)や形式言語の[[意味論 (曖昧さ回避)|意味論]]や[[演繹|演繹論]]が研究される。 [[形式手法]]という場合には、形式言語に加えて、模擬試験、検証・証明などの仕組みを込みで言う場合が有る。 ===自然言語への応用=== {{see|生成文法|句構造文法}} [[自然言語]]を比較的単純な形式言語のモデルにあてはめて分析する言語学は、[[ノーム・チョムスキー|チョムスキー]]によって提唱された。[[音素]]や[[語幹]]などを素記号として考える。 実際の自然言語の[[構文規則]](あるいは[[文法]])は、文字通り自然発生的のものであり、形式言語における構文規則のように明確に規定するのは難しい。 ただ、素朴な文法論の主張は、形式言語の理論とみなすことができる。 素朴な文法論は、例えば次のようなものである。 * [[品詞]]にはこのようなのものがある。 * この語はあの品詞に属す。 * この品詞に属す語をこの[[活用]]と[[組み合わせ]]と[[順序]]とで並べると文(や[[句]]や[[節 (文法)|節]])になる。 こういう文法論はすなわち、素記号とは何かを定め、それらから文を作る構文規則を定めるのだから、まさに形式言語の理論である。 こういう形式言語論的な文法論は、実際の言語と比較することで自然言語の特徴を浮き彫りにし、自然言語のより深い理解へと導くことを可能とすることもなくはない。言語そのものではなく、言語行動の深層をなす人間精神を探るためには、むしろこういう文法論を数学化し、更に[[意味論 (曖昧さ回避)|意味論]]・文法論を伴った論理学にまで推し進めることが有意義ともいえよう。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{commonscat|Formal languages}} {{Logic}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいしきけんこ}} [[Category:文法]] [[Category:理論計算機科学]] [[Category:形式言語|*]] [[Category:構文解析 (プログラミング)]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:メタ論理学]]
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文脈自由言語
文脈自由言語(ぶんみゃくじゆうげんご)とは、次のような再帰的な生成規則をもつ文脈自由文法によって、与えられた言語の長さ n に対して O(n) の時間で認識される形式言語。プッシュダウン・オートマトンで受理可能な言語と等価である。 ある言語が文脈自由言語でないことを証明するために文脈自由言語の反復補題が使われることがある。 基本的な文脈自由言語 L = { a n b n : n ≥ 1 } {\displaystyle L=\{a^{n}b^{n}:n\geq 1\}} は、偶数個の文字から成る文字列で構成され、各文字列の前半は a で、後半は b で構成される。L を生成する文法は S → a S b | a b {\displaystyle S\to aSb~|~ab} であり、プッシュダウン・オートマトン M = ( { q 0 , q 1 , q f } , { a , b } , { a , z } , δ , q 0 , { q f } ) {\displaystyle M=(\{q_{0},q_{1},q_{f}\},\{a,b\},\{a,z\},\delta ,q_{0},\{q_{f}\})} に受容される。ここで δ {\displaystyle \delta } は以下のように定義される。 δ ( q 0 , a , z ) = ( q 0 , a ) {\displaystyle \delta (q_{0},a,z)=(q_{0},a)} δ ( q 0 , a , a ) = ( q 0 , a ) {\displaystyle \delta (q_{0},a,a)=(q_{0},a)} δ ( q 0 , b , a ) = ( q 1 , x ) {\displaystyle \delta (q_{0},b,a)=(q_{1},x)} δ ( q 1 , b , a ) = ( q 1 , x ) {\displaystyle \delta (q_{1},b,a)=(q_{1},x)} δ ( q 1 , b , z ) = ( q f , z ) {\displaystyle \delta (q_{1},b,z)=(q_{f},z)} ここで z は初期スタック記号、x はポップ動作を意味する。 例えば、数式など(プログラミング言語などにおける)の括弧の対応は S → S S | ( S ) | λ {\displaystyle S\to SS~|~(S)~|~\lambda } というような規則になる。数式などはだいたい文脈自由言語である。 L と P を文脈自由言語、D を正規言語としたとき、以下も全て文脈自由言語である(閉じている)。 しかし、積集合や差集合に関しては閉じていない。これらの操作の具体的な内容については形式言語の情報工学的定義を参照されたい。 文脈自由言語は積集合において閉じていない。この証明は参考文献にある Sipser 97 の練習問題となっている。まず、2つの文脈自由言語 A = { a m b n c n ∣ m , n ≥ 0 } {\displaystyle A=\{a^{m}b^{n}c^{n}\mid m,n\geq 0\}} と B = { a n b n c m ∣ m , n ≥ 0 } {\displaystyle B=\{a^{n}b^{n}c^{m}\mid m,n\geq 0\}} を用意する。これらの積集合 A ∩ B = { a n b n c n ∣ n ≥ 0 } {\displaystyle A\cap B=\{a^{n}b^{n}c^{n}\mid n\geq 0\}} に対して文脈自由言語の反復補題を用いることで、それが文脈自由言語でないことを示すことができる。 文脈自由言語についての以下の問題は決定不能である。 文脈自由言語についての以下の問題は決定可能である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "文脈自由言語(ぶんみゃくじゆうげんご)とは、次のような再帰的な生成規則をもつ文脈自由文法によって、与えられた言語の長さ n に対して O(n) の時間で認識される形式言語。プッシュダウン・オートマトンで受理可能な言語と等価である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ある言語が文脈自由言語でないことを証明するために文脈自由言語の反復補題が使われることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "基本的な文脈自由言語 L = { a n b n : n ≥ 1 } {\\displaystyle L=\\{a^{n}b^{n}:n\\geq 1\\}} は、偶数個の文字から成る文字列で構成され、各文字列の前半は a で、後半は b で構成される。L を生成する文法は S → a S b | a b {\\displaystyle S\\to aSb~|~ab} であり、プッシュダウン・オートマトン M = ( { q 0 , q 1 , q f } , { a , b } , { a , z } , δ , q 0 , { q f } ) {\\displaystyle M=(\\{q_{0},q_{1},q_{f}\\},\\{a,b\\},\\{a,z\\},\\delta ,q_{0},\\{q_{f}\\})} に受容される。ここで δ {\\displaystyle \\delta } は以下のように定義される。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "δ ( q 0 , a , z ) = ( q 0 , a ) {\\displaystyle \\delta (q_{0},a,z)=(q_{0},a)} δ ( q 0 , a , a ) = ( q 0 , a ) {\\displaystyle \\delta (q_{0},a,a)=(q_{0},a)} δ ( q 0 , b , a ) = ( q 1 , x ) {\\displaystyle \\delta (q_{0},b,a)=(q_{1},x)} δ ( q 1 , b , a ) = ( q 1 , x ) {\\displaystyle \\delta (q_{1},b,a)=(q_{1},x)} δ ( q 1 , b , z ) = ( q f , z ) {\\displaystyle \\delta (q_{1},b,z)=(q_{f},z)} ここで z は初期スタック記号、x はポップ動作を意味する。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "例えば、数式など(プログラミング言語などにおける)の括弧の対応は S → S S | ( S ) | λ {\\displaystyle S\\to SS~|~(S)~|~\\lambda } というような規則になる。数式などはだいたい文脈自由言語である。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "L と P を文脈自由言語、D を正規言語としたとき、以下も全て文脈自由言語である(閉じている)。", "title": "閉包属性" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しかし、積集合や差集合に関しては閉じていない。これらの操作の具体的な内容については形式言語の情報工学的定義を参照されたい。", "title": "閉包属性" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "文脈自由言語は積集合において閉じていない。この証明は参考文献にある Sipser 97 の練習問題となっている。まず、2つの文脈自由言語 A = { a m b n c n ∣ m , n ≥ 0 } {\\displaystyle A=\\{a^{m}b^{n}c^{n}\\mid m,n\\geq 0\\}} と B = { a n b n c m ∣ m , n ≥ 0 } {\\displaystyle B=\\{a^{n}b^{n}c^{m}\\mid m,n\\geq 0\\}} を用意する。これらの積集合 A ∩ B = { a n b n c n ∣ n ≥ 0 } {\\displaystyle A\\cap B=\\{a^{n}b^{n}c^{n}\\mid n\\geq 0\\}} に対して文脈自由言語の反復補題を用いることで、それが文脈自由言語でないことを示すことができる。", "title": "閉包属性" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "文脈自由言語についての以下の問題は決定不能である。", "title": "決定性属性" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "文脈自由言語についての以下の問題は決定可能である。", "title": "決定性属性" } ]
文脈自由言語(ぶんみゃくじゆうげんご)とは、次のような再帰的な生成規則をもつ文脈自由文法によって、与えられた言語の長さ n に対して O(n3) の時間で認識される形式言語。プッシュダウン・オートマトンで受理可能な言語と等価である。 S → E. E → T | E - T | E + T | (E). T → T * E | T / E | id | num. ある言語が文脈自由言語でないことを証明するために文脈自由言語の反復補題が使われることがある。
'''文脈自由言語'''(ぶんみゃくじゆうげんご)とは、次のような[[再帰的]]な生成規則をもつ[[文脈自由文法]]によって、与えられた言語の長さ n に対して O(n<sup>3</sup>) の時間で認識される[[形式言語]]。[[プッシュダウン・オートマトン]]で受理可能な言語と等価である。 * S → E. * E → T | E - T | E + T | (E). * T → T * E | T / E | id | num. ある言語が文脈自由言語でないことを証明するために[[文脈自由言語の反復補題]]が使われることがある。 ==例== 基本的な文脈自由言語 <math>L = \{a^nb^n:n\geq1\}</math> は、偶数個の文字から成る文字列で構成され、各文字列の前半は ''a'' で、後半は ''b'' で構成される。''L'' を生成する文法は <math>S\to aSb ~|~ ab</math> であり、プッシュダウン・オートマトン <math>M=(\{q_0,q_1,q_f\}, \{a,b\}, \{a,z\}, \delta, q_0, \{q_f\})</math> に受容される。ここで <math>\delta</math> は以下のように定義される。 <center> <math>\delta(q_0, a, z) = (q_0, a)</math><br> <math>\delta(q_0, a, a) = (q_0, a)</math><br> <math>\delta(q_0, b, a) = (q_1, x)</math><br> <math>\delta(q_1, b, a) = (q_1, x)</math><br> <math>\delta(q_1, b, z) = (q_f, z)</math><br> ここで z は初期スタック記号、x はポップ動作を意味する。 </center> 例えば、数式など([[プログラミング言語]]などにおける)の括弧の対応は <math>S\to SS ~|~ (S) ~|~ \lambda</math> というような規則になる。数式などはだいたい文脈自由言語である。 ==閉包属性== ''L'' と ''P'' を文脈自由言語、''D'' を[[正規言語]]としたとき、以下も全て文脈自由言語である([[閉性|閉じている]])。 * ''L'' の[[クリーネ閉包]] <math>L^*</math> * ''L'' の[[準同型]] φ(L) * ''L'' と ''P'' の連結 <math>L \circ P</math> * ''L'' と ''P'' の[[合併 (集合論)|和集合]] <math>L \cup P</math> * ''L'' と(正規言語) ''D'' の[[共通部分|積集合]] <math>L \cap D</math> しかし、積集合や差集合に関しては閉じていない。これらの操作の具体的な内容については[[形式言語#定義|形式言語の情報工学的定義]]を参照されたい。 === 積集合操作で閉じていないことの証明 === 文脈自由言語は[[共通部分|積集合]]において閉じていない。この証明は参考文献にある Sipser 97 の練習問題となっている。まず、2つの文脈自由言語 <math>A = \{a^m b^n c^n \mid m, n \geq 0 \}</math> と <math>B = \{a^n b^n c^m \mid m,n \geq 0\}</math> を用意する。これらの積集合 <math>A \cap B = \{ a^n b^n c^n \mid n \geq 0\}</math> に対して[[文脈自由言語の反復補題]]を用いることで、それが文脈自由言語でないことを示すことができる。 == 決定性属性 == 文脈自由言語についての以下の問題は決定不能である。 * 等価性: 2つの[[文脈自由文法]] A と B が与えられたとき、<math>L(A)=L(B)</math> か? * <math>L(A) \cap L(B) = \emptyset </math> か? * <math>L(A)=\Sigma^*</math> か? * <math>L(A) \subseteq L(B)</math> か? 文脈自由言語についての以下の問題は決定可能である。 * <math>L(A)=\emptyset</math> か? * L(A) は有限か? * メンバーシップ: ある単語 w を与えたとき <math>w \in L(A)</math> か?(メンバーシップ問題は多項式時間で決定可能である。[[CYK法]]を参照されたい) == 参考文献 == * {{cite book|author = Michael Sipser | date = 1997年 | title = Introduction to the Theory of Computation | publisher = PWS Publishing | id = ISBN 0-534-94728-X}} Chapter 2: Context-Free Languages, pp.91–122. {{DEFAULTSORT:ふんみやくしゆうけんこ}} [[Category:形式言語]] [[Category:構文解析 (プログラミング)]] [[Category:数学に関する記事]]
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66
正規言語
正規言語(せいきげんご)または正則言語(せいそくげんご)は、以下に示す性質(いずれも等価)を満たす形式言語である。 文字セット Σ 上の正規言語の集合は以下のように再帰的に定義される。 有限の文字列から構成される言語は全て正規言語である。その他の典型的な例としては、文字セット {a, b} を使った文字列のうち、偶数個の a を含む文字列の集まりは正規言語であるし、任意個数の a の後に任意個数の b が続く文字列で構成される言語も正規言語である。 正規言語に対して、和集合、積集合、差集合といった演算を施した結果も正規言語である。正規言語の補集合(文字セットから生成される全文字列を全体集合とする)も正規言語である。正規言語の文字列を全て逆転させたものも正規言語である。正規言語の連結(ふたつの言語に含まれる文字列をあらゆる組み合わせで連結した文字列の集合)をしたものも正規言語である。「シャッフル」をふたつの正規言語に施した結果も正規言語である。正規言語と任意の言語の商集合も正規言語である。個々の操作の具体的意味については形式言語#定義を参照されたい。 チョムスキー階層での正規言語の位置によれば、正規言語は文脈自由言語の真部分集合である。すなわち、正規言語は文脈自由言語に含まれる一方、その逆は真ではない。 例えば、同じ個数の a と b を含む文字列から成る言語は文脈自由言語ではあるが、正規言語ではない。このような言語が正規言語ではないことを証明するには、マイヒル-ネローデの定理か反復補題 (pumping lemma) を使う。 正規言語を代数学的に定義するには、二つの方法がある。Σ を有限のアルファベットとし、Σ* を Σ 上の自由モノイド(Σ によって作られる記号列全て)とすると、f : Σ* → M はモノイド同型となる。ただしここで M は有限のモノイドである。そして、S を M の部分集合とすると、f(S) は正規言語となる。任意の正規言語はこのようにして構成することができる。 もう一つの方法として、L が Σ 上の言語であるとき、Σ* 上の同値関係 ~ を次のように定義する。 すると、L が正規言語であることは、同値関係 ~ の作る同値類の指標(濃度)が有限であることと同値になる。そして、同値類の指標は L を受理する最小の決定性有限オートマトンの状態の個数に一致する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "正規言語(せいきげんご)または正則言語(せいそくげんご)は、以下に示す性質(いずれも等価)を満たす形式言語である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "文字セット Σ 上の正規言語の集合は以下のように再帰的に定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "有限の文字列から構成される言語は全て正規言語である。その他の典型的な例としては、文字セット {a, b} を使った文字列のうち、偶数個の a を含む文字列の集まりは正規言語であるし、任意個数の a の後に任意個数の b が続く文字列で構成される言語も正規言語である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正規言語に対して、和集合、積集合、差集合といった演算を施した結果も正規言語である。正規言語の補集合(文字セットから生成される全文字列を全体集合とする)も正規言語である。正規言語の文字列を全て逆転させたものも正規言語である。正規言語の連結(ふたつの言語に含まれる文字列をあらゆる組み合わせで連結した文字列の集合)をしたものも正規言語である。「シャッフル」をふたつの正規言語に施した結果も正規言語である。正規言語と任意の言語の商集合も正規言語である。個々の操作の具体的意味については形式言語#定義を参照されたい。", "title": "閉包属性" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "チョムスキー階層での正規言語の位置によれば、正規言語は文脈自由言語の真部分集合である。すなわち、正規言語は文脈自由言語に含まれる一方、その逆は真ではない。", "title": "ある言語が正規言語であるかどうかの判断基準" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "例えば、同じ個数の a と b を含む文字列から成る言語は文脈自由言語ではあるが、正規言語ではない。このような言語が正規言語ではないことを証明するには、マイヒル-ネローデの定理か反復補題 (pumping lemma) を使う。", "title": "ある言語が正規言語であるかどうかの判断基準" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正規言語を代数学的に定義するには、二つの方法がある。Σ を有限のアルファベットとし、Σ* を Σ 上の自由モノイド(Σ によって作られる記号列全て)とすると、f : Σ* → M はモノイド同型となる。ただしここで M は有限のモノイドである。そして、S を M の部分集合とすると、f(S) は正規言語となる。任意の正規言語はこのようにして構成することができる。", "title": "ある言語が正規言語であるかどうかの判断基準" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "もう一つの方法として、L が Σ 上の言語であるとき、Σ* 上の同値関係 ~ を次のように定義する。", "title": "ある言語が正規言語であるかどうかの判断基準" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "すると、L が正規言語であることは、同値関係 ~ の作る同値類の指標(濃度)が有限であることと同値になる。そして、同値類の指標は L を受理する最小の決定性有限オートマトンの状態の個数に一致する。", "title": "ある言語が正規言語であるかどうかの判断基準" } ]
正規言語(せいきげんご)または正則言語(せいそくげんご)は、以下に示す性質(いずれも等価)を満たす形式言語である。 決定性有限オートマトンによって受理可能 非決定性有限オートマトンによって受理可能 正規表現で記述可能 正規文法から生成可能 読みとり専用チューリングマシンで受理可能
'''正規言語'''(せいきげんご)または'''正則言語'''(せいそくげんご)は、以下に示す性質(いずれも等価)を満たす[[形式言語]]である。 *[[決定性有限オートマトン]]によって受理可能 *[[非決定性有限オートマトン]]によって受理可能 *[[正規表現]]で記述可能 *[[正規文法]]から生成可能 *読みとり専用[[チューリングマシン]]で受理可能 == 定義 == 文字セット &Sigma; 上の正規言語の集合は以下のように再帰的に定義される。 * 空の言語 0 は正規言語である。 * 空文字列言語 { &epsilon; } は正規言語である。 * ''a'' &isin; &Sigma; である各 ''a'' について、それだけを含む[[単集合]]言語 { ''a'' } は正規言語である。 * ''A'' と ''B'' が正規言語であるとき、''A'' &cup; ''B''(和集合)も ''A'' &bull; ''B''(結合)も ''A''*([[クリーネ閉包]])も正規言語である<ref>つまり[[正規演算]]に[[閉じている]]。</ref>。 * それ以外の &Sigma; 上の言語は正規言語ではない。 有限の文字列から構成される言語は全て正規言語である。その他の典型的な例としては、文字セット {''a'', ''b''} を使った文字列のうち、偶数個の ''a'' を含む文字列の集まりは正規言語であるし、任意個数の ''a'' の後に任意個数の ''b'' が続く文字列で構成される言語も正規言語である。 == 閉包属性 == 正規言語に対して、和集合、積集合、差集合といった演算を施した結果も正規言語である。正規言語の補集合(文字セットから生成される全文字列を全体集合とする)も正規言語である。正規言語の文字列を全て逆転させたものも正規言語である。正規言語の連結(ふたつの言語に含まれる文字列をあらゆる組み合わせで連結した文字列の集合)をしたものも正規言語である。「シャッフル」をふたつの正規言語に施した結果も正規言語である。正規言語と任意の言語の商集合も正規言語である。個々の操作の具体的意味については[[形式言語#定義]]を参照されたい。 == ある言語が正規言語であるかどうかの判断基準 == [[チョムスキー階層]]での正規言語の位置によれば、正規言語は[[文脈自由言語]]の[[部分集合|真部分集合]]である。すなわち、正規言語は文脈自由言語に含まれる一方、その逆は真ではない。 例えば、同じ個数の ''a'' と ''b'' を含む文字列から成る言語は文脈自由言語ではあるが、正規言語ではない。このような言語が正規言語ではないことを証明するには、[[マイヒル-ネローデの定理]]か[[正規言語の反復補題|反復補題]] (pumping lemma) を使う。 正規言語を代数学的に定義するには、二つの方法がある。&Sigma; を有限のアルファベットとし、&Sigma;* を &Sigma; 上の[[自由モノイド]](&Sigma; によって作られる記号列全て)とすると、''f'' : &Sigma;* &rarr; ''M'' は[[モノイド同型]]となる。ただしここで ''M'' は''有限''のモノイドである。そして、''S'' を ''M'' の部分集合とすると、''f''<sup>&minus;1</sup>(''S'') は正規言語となる。任意の正規言語はこのようにして構成することができる。 もう一つの方法として、''L'' が &Sigma; 上の言語であるとき、&Sigma;* 上の[[同値関係]] ~ を次のように定義する。 :<math>x \sim y :\Leftrightarrow \forall z \in \Sigma^* : xz \in L \leftrightarrow yz \in L</math> すると、''L'' が正規言語であることは、同値関係 ~ の作る同値類の指標(濃度)が有限であることと[[同値]]になる。そして、同値類の指標は ''L'' を受理する最小の決定性有限オートマトンの状態の個数に一致する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{デフォルトソート:せいきけんこ}} [[Category:有限オートマトン]] [[Category:形式言語]] [[Category:数学に関する記事]]
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自然言語処理
自然言語処理(しぜんげんごしょり、英語: natural language processing、略称:NLP)は、人間が日常的に使っている自然言語をコンピュータに処理させる一連の技術であり、人工知能と言語学の一分野である。「計算言語学」(computational linguistics)との類似もあるが、自然言語処理は工学的な視点からの言語処理をさすのに対して、計算言語学は言語学的視点を重視する手法をさす事が多い。データベース内の情報を自然言語に変換したり、自然言語の文章をより形式的な(コンピュータが理解しやすい)表現に変換するといった処理が含まれる。応用例としては機械翻訳や仮名漢字変換が挙げられる。 自然言語の理解をコンピュータにさせることは、自然言語理解とされている。自然言語理解と、自然言語処理の差は、意味を扱うか、扱わないかという説もあったが、最近は数理的な言語解析手法(統計や確率など)が広められた為、パーサ(統語解析器)などの精度や速度が一段と上がり、その意味合いは違ってきている。もともと自然言語の意味論的側面を全く無視して達成できることは非常に限られている。このため、自然言語処理には形態素解析と構文解析、文脈解析、意味解析などをSyntaxなど表層的な観点から解析をする学問であるが、自然言語理解は、意味をどのように理解するかという個々人の理解と推論部分が主な研究の課題になってきており、両者の境界は意思や意図が含まれるかどうかになってきている。 自然言語処理の基礎技術にはさまざまなものがある。自然言語処理はその性格上、扱う言語によって大きく処理の異なる部分がある。現在のところ、日本語を処理する基礎技術としては以下のものが主に研究されている。 現状発達している言語AI技術は、多次元のベクトルから、単語や文書の意味の近さを、その相互関係から推定しているもので、「AIの言語理解」は「人間の言語理解」は根本的に別物である。 「自然言語理解は、AI完全問題」と言われることがある。なぜなら、自然言語理解には世界全体についての知識とそれを操作する能力が必要と思われるためである。「理解; understanding」の定義は、自然言語処理の大きな課題のひとつでもある。 人間とコンピュータの間のインタラクションのインタフェース(ヒューマンマシンインタフェース)として、自然言語がもし使えたら非常に魅力的である、といったこともあり、コンピュータの登場初期(1960年頃)には自然言語処理にある種の過剰な期待もあった。SHRDLUなどの初期のシステムが、世界を限定することで非常にうまくいったことにより、すぐに行き過ぎた楽観主義に陥ったが、現実を相手にする曖昧さや複雑さがわかると、楽観的な見方や過剰な期待は基本的には無くなった。しかし、何が簡単で何が難しいのか、といったようなことはなかなか共有されなかった。 やがて、21世紀に入ってしばらく後に「音声認識による便利なシステム」がいくつか実用化・実運用され多くの人が利用したことで、何が簡単で、どういう事に使うのは難しいのかが理解されるようになりつつある模様である。 2013年のGoogleのWord2vecは今でも使われている。 2019年、GPT-2、BERTなど、ディープラーニングを応用した手法で大きなブレークスルーがあった。 自然言語処理(理解)における課題をいくつかの例を用いて示す。 Time flies like an arrow.(光陰矢の如し) 英語では特に語形変化による語彙の区別をする機能が弱いため、このような問題が大きくなる。 また、英語も含めて、形容詞と名詞の修飾関係の曖昧さもある。例えば、"pretty little girls' school"(かわいい小さな少女の学校)という文字列があるとする。 他にも次のような課題がある。 統計的自然言語処理は、確率論的あるいは統計学的手法を使って、上述の困難さに何らかの解決策を与えようとするものである。長い文になればなるほど、従来型の自然言語処理では解釈の可能性の組合せが指数関数的に増大していき、処理が困難となる。そのような場合に統計的自然言語処理が効果を発揮する。コーパス言語学やマルコフ連鎖といった手法が使われる。統計的自然言語処理の起源は、人工知能の中でもデータからの学習を研究する分野である機械学習やデータマイニングといった分野である。 一見、統計的自然言語処理は確率モデル型自然言語処理にのみ適用されるように見えるが、実は4大自然言語処理の1つである注意モデル型自然言語処理にも統計の概念が必要なのである。 自然言語処理の応用技術として、以下のような技術が研究・実用化されている。また、言語学への応用も考えられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "自然言語処理(しぜんげんごしょり、英語: natural language processing、略称:NLP)は、人間が日常的に使っている自然言語をコンピュータに処理させる一連の技術であり、人工知能と言語学の一分野である。「計算言語学」(computational linguistics)との類似もあるが、自然言語処理は工学的な視点からの言語処理をさすのに対して、計算言語学は言語学的視点を重視する手法をさす事が多い。データベース内の情報を自然言語に変換したり、自然言語の文章をより形式的な(コンピュータが理解しやすい)表現に変換するといった処理が含まれる。応用例としては機械翻訳や仮名漢字変換が挙げられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "自然言語の理解をコンピュータにさせることは、自然言語理解とされている。自然言語理解と、自然言語処理の差は、意味を扱うか、扱わないかという説もあったが、最近は数理的な言語解析手法(統計や確率など)が広められた為、パーサ(統語解析器)などの精度や速度が一段と上がり、その意味合いは違ってきている。もともと自然言語の意味論的側面を全く無視して達成できることは非常に限られている。このため、自然言語処理には形態素解析と構文解析、文脈解析、意味解析などをSyntaxなど表層的な観点から解析をする学問であるが、自然言語理解は、意味をどのように理解するかという個々人の理解と推論部分が主な研究の課題になってきており、両者の境界は意思や意図が含まれるかどうかになってきている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "自然言語処理の基礎技術にはさまざまなものがある。自然言語処理はその性格上、扱う言語によって大きく処理の異なる部分がある。現在のところ、日本語を処理する基礎技術としては以下のものが主に研究されている。", "title": "基礎技術" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現状発達している言語AI技術は、多次元のベクトルから、単語や文書の意味の近さを、その相互関係から推定しているもので、「AIの言語理解」は「人間の言語理解」は根本的に別物である。", "title": "処理内容とその限界" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「自然言語理解は、AI完全問題」と言われることがある。なぜなら、自然言語理解には世界全体についての知識とそれを操作する能力が必要と思われるためである。「理解; understanding」の定義は、自然言語処理の大きな課題のひとつでもある。", "title": "処理内容とその限界" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "人間とコンピュータの間のインタラクションのインタフェース(ヒューマンマシンインタフェース)として、自然言語がもし使えたら非常に魅力的である、といったこともあり、コンピュータの登場初期(1960年頃)には自然言語処理にある種の過剰な期待もあった。SHRDLUなどの初期のシステムが、世界を限定することで非常にうまくいったことにより、すぐに行き過ぎた楽観主義に陥ったが、現実を相手にする曖昧さや複雑さがわかると、楽観的な見方や過剰な期待は基本的には無くなった。しかし、何が簡単で何が難しいのか、といったようなことはなかなか共有されなかった。", "title": "処理内容とその限界" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "やがて、21世紀に入ってしばらく後に「音声認識による便利なシステム」がいくつか実用化・実運用され多くの人が利用したことで、何が簡単で、どういう事に使うのは難しいのかが理解されるようになりつつある模様である。", "title": "処理内容とその限界" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2013年のGoogleのWord2vecは今でも使われている。", "title": "処理内容とその限界" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2019年、GPT-2、BERTなど、ディープラーニングを応用した手法で大きなブレークスルーがあった。", "title": "処理内容とその限界" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "自然言語処理(理解)における課題をいくつかの例を用いて示す。", "title": "具体的な課題" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Time flies like an arrow.(光陰矢の如し)", "title": "具体的な課題" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "英語では特に語形変化による語彙の区別をする機能が弱いため、このような問題が大きくなる。", "title": "具体的な課題" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、英語も含めて、形容詞と名詞の修飾関係の曖昧さもある。例えば、\"pretty little girls' school\"(かわいい小さな少女の学校)という文字列があるとする。", "title": "具体的な課題" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "他にも次のような課題がある。", "title": "具体的な課題" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "統計的自然言語処理は、確率論的あるいは統計学的手法を使って、上述の困難さに何らかの解決策を与えようとするものである。長い文になればなるほど、従来型の自然言語処理では解釈の可能性の組合せが指数関数的に増大していき、処理が困難となる。そのような場合に統計的自然言語処理が効果を発揮する。コーパス言語学やマルコフ連鎖といった手法が使われる。統計的自然言語処理の起源は、人工知能の中でもデータからの学習を研究する分野である機械学習やデータマイニングといった分野である。", "title": "統計的自然言語処理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一見、統計的自然言語処理は確率モデル型自然言語処理にのみ適用されるように見えるが、実は4大自然言語処理の1つである注意モデル型自然言語処理にも統計の概念が必要なのである。", "title": "統計的自然言語処理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "自然言語処理の応用技術として、以下のような技術が研究・実用化されている。また、言語学への応用も考えられている。", "title": "主な応用" } ]
自然言語処理は、人間が日常的に使っている自然言語をコンピュータに処理させる一連の技術であり、人工知能と言語学の一分野である。「計算言語学」との類似もあるが、自然言語処理は工学的な視点からの言語処理をさすのに対して、計算言語学は言語学的視点を重視する手法をさす事が多い。データベース内の情報を自然言語に変換したり、自然言語の文章をより形式的な(コンピュータが理解しやすい)表現に変換するといった処理が含まれる。応用例としては機械翻訳や仮名漢字変換が挙げられる。 自然言語の理解をコンピュータにさせることは、自然言語理解とされている。自然言語理解と、自然言語処理の差は、意味を扱うか、扱わないかという説もあったが、最近は数理的な言語解析手法(統計や確率など)が広められた為、パーサ(統語解析器)などの精度や速度が一段と上がり、その意味合いは違ってきている。もともと自然言語の意味論的側面を全く無視して達成できることは非常に限られている。このため、自然言語処理には形態素解析と構文解析、文脈解析、意味解析などをSyntaxなど表層的な観点から解析をする学問であるが、自然言語理解は、意味をどのように理解するかという個々人の理解と推論部分が主な研究の課題になってきており、両者の境界は意思や意図が含まれるかどうかになってきている。
{{Expand English|date=2023年12月}}{{複数の問題 | 出典の明記 = 2012年1月 | 更新 = 2021年3月 }} {{言語学}} '''自然言語処理'''(しぜんげんごしょり、{{lang-en|natural language processing}}、略称:NLP)は、人間が日常的に使っている[[自然言語]]を[[コンピュータ]]に処理させる一連の技術であり、[[人工知能]]と[[言語学]]の一分野である。「[[計算言語学]]」({{Lang|en|computational linguistics}})との類似もあるが、自然言語処理は[[工学]]的な視点からの言語処理をさすのに対して、[[計算言語学]]は[[言語学]]的視点を重視する手法をさす事が多い<ref>{{Cite book|last=Mitkov |first=R. |date=2003 |title=The Oxford Handbook of Computational Linguistics |publisher=Oxford University Press |language=en |location=New York |oclc=49204433 |isbn=0198238827 }}</ref>。[[データベース]]内の情報を自然言語に変換したり、自然言語の[[文章]]をより形式的な(コンピュータが理解しやすい)表現に変換するといった処理が含まれる。応用例としては[[機械翻訳]]や[[仮名漢字変換]]が挙げられる。 自然言語の理解をコンピュータにさせることは、[[自然言語理解]]とされている。自然言語理解と、自然言語処理の差は、意味を扱うか、扱わないかという説もあったが、最近は数理的な言語解析手法(統計や確率など)が広められた為、[[構文解析器|パーサ]](統語解析器)などの精度や速度が一段と上がり、その意味合いは違ってきている。もともと自然言語の[[意味論 (言語学)|意味論]]的側面を全く無視して達成できることは非常に限られている。このため、自然言語処理には[[形態素解析]]と[[構文解析]]、文脈解析、意味解析などを{{Lang|en|Syntax}}など表層的な観点から解析をする学問であるが、自然言語理解は、意味をどのように理解するかという個々人の理解と推論部分が主な研究の課題になってきており、両者の境界は意思や意図が含まれるかどうかになってきている。 == 基礎技術 == 自然言語処理の基礎技術にはさまざまなものがある。自然言語処理はその性格上、扱う言語によって大きく処理の異なる部分がある。現在のところ、[[日本語]]を処理する基礎技術としては以下のものが主に研究されている。 * [[形態素解析]] * [[構文解析]] * [[語義の曖昧性解消]] * [[照応解析]] == 処理内容とその限界 == 現状発達している言語AI技術は、多次元のベクトルから、単語や文書の意味の近さを、その相互関係から推定しているもので、「[[自然言語理解|AIの言語理解]]」は「人間の言語理解」は根本的に別物である<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGH254UV025122020000000/ AIに言葉の意味はわかるか 進化する自然言語処理] 日経サイエンス2021/5/28 閲覧</ref>。 「'''[[自然言語理解]]は、[[AI完全]]問題'''」と言われることがある。なぜなら、自然言語理解には世界全体についての知識とそれを操作する能力が必要と思われるためである。「理解; {{Lang|en|understanding}}」の定義は、自然言語処理の大きな課題のひとつでもある。 人間とコンピュータの間のインタラクションのインタフェース([[ヒューマンマシンインタフェース]])として、自然言語がもし使えたら非常に魅力的である、といったこともあり、コンピュータの登場初期(1960年頃)には自然言語処理にある種の過剰な期待もあった。[[SHRDLU]]などの初期のシステムが、世界を限定することで非常にうまくいったことにより、すぐに行き過ぎた楽観主義に陥ったが、現実を相手にする曖昧さや複雑さがわかると、楽観的な見方や過剰な期待は基本的には無くなった。しかし、何が簡単で何が難しいのか、といったようなことはなかなか共有されなかった。 やがて、21世紀に入ってしばらく後に「音声認識による便利なシステム」がいくつか実用化・実運用され多くの人が利用したことで、何が簡単で、どういう事に使うのは難しいのかが理解されるようになりつつある模様である。 2013年の[[Google]]の[[Word2vec]]は今でも使われている<ref>{{Cite web|和書|title=Google Colaboratory |url=https://colab.research.google.com/github/Gurobi/modeling-examples/blob/master/text_dissimilarity/text_dissimilarity_gcl.ipynb#scrollTo=4b2a1cec |website=colab.research.google.com |access-date=2023-04-02 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=Google Code Archive - Long-term storage for Google Code Project Hosting. |url=https://code.google.com/archive/p/word2vec/ |website=code.google.com |access-date=2023-04-02}}</ref>。 2019年、[[OpenAI|GPT-2]]、[[BERT (言語モデル)|BERT]]など、[[ディープラーニング]]を応用した手法で大きなブレークスルーがあった。 == 具体的な課題 == 自然言語処理(理解)における課題をいくつかの例を用いて示す。 * 次の2つの文、 {{quotation|{{Lang|en|We gave the monkeys the bananas because they were hungry.}}(猿が腹を空かせていたので、バナナを与えた。)}} {{quotation|{{Lang|en|We gave the monkeys the bananas because they were over-ripe.}}(バナナは熟れ過ぎていたので、猿に与えた。)}} :は、品詞としては全く同じ順序の並びである。しかし、{{Lang|en|''they''}} が指すものは異なっていて、前者では猿、後者ではバナナとなっている。この例文の場合、{{Lang|en|they}}の指す内容は英語の[[動詞型 (英語)#基本5文型|文型]]の性質によって決定することができる。すなわち、「{{Lang|en|they}}(主語)= {{Lang|en|hungry}}(補語)」の関係が成り立ち、補語には主語の性質を示すものがくるので、{{Lang|en|hungry}}なのは{{Lang|en|the monkeys}}、したがって、「{{Lang|en|they}} = {{Lang|en|the monkeys}}」と決まる。後者も同様に、{{Lang|en|over-ripe}}というのは{{Lang|en|the bananas}}の性質だから、「{{Lang|en|they}} = {{Lang|en|the bananas}}」となる。つまり、これらの文章を区別し正しく理解するためには、意味、すなわち、猿の性質(猿は動物で空腹になる)とバナナの性質(バナナは果物で成熟する)といったことを知っていて解釈できなければならない。 * 単語の文字列を解釈する方法は様々である。例えば、 :{{Indent|''Time flies like an arrow.''(光陰矢の如し)}} :という文字列は以下のように様々に解釈できる。 # 典型的には、[[比喩]]として、「[[時間]]が矢のように素早く過ぎる」と解釈する。 # 「空を飛ぶ昆虫の速度を矢の速度を測るように測定せよ」つまり {{Lang|en|''(You should) time flies as you would (time) an arrow.''}} と解釈する。 # 「矢が空を飛ぶ昆虫の速度を測るように、あなたが空を飛ぶ昆虫の速度を測定せよ」つまり {{Lang|en|''Time flies in the same way that an arrow would (time them).''}} と解釈する。 # 「矢のように空を飛ぶ昆虫の速度を測定せよ」つまり {{Lang|en|''Time those flies that are like arrows''}} と解釈する。 # 「{{Lang|en|"time-flies"}}(時バエ)という種類の昆虫は1つの矢を好む」この解釈には集合的な解釈と個別的解釈がありうる。 # 「[[タイム (雑誌)|TIME]]という雑誌は、投げると直線的な軌跡を描く」 英語では特に語形変化による語彙の区別をする機能が弱いため、このような問題が大きくなる。 また、英語も含めて、形容詞と名詞の修飾関係の曖昧さもある。例えば、{{Lang|en|"pretty little girls' school"}}(かわいい小さな少女の学校)という文字列があるとする。 * その学校は小さいだろうか? * 少女たちが小さいのだろうか? * 少女たちがかわいいのだろうか? * 学校がかわいいのだろうか? 他にも次のような課題がある。 ; [[形態素解析]] : [[中国語]]、[[日本語]]、[[タイ語]]といった言語は単語の[[わかち書き]]をしない。そのため、単語の区切りを特定するのにテキストの解析が必要となり、それは非常に複雑な作業となる。 ; 音声における形態素解析 : 音声言語において、文字を表す音は前後の音と混じっているのが普通である。従って音声から文字を切り出すのは、非常に難しい作業となる。さらに、音声言語では単語と単語の区切りも(音としてのみ見れば)定かではなく、文脈や文法や意味といった情報を考慮しないと単語を切り出せない。 ; [[語義の曖昧性解消|語義の曖昧性]] : 多くの単語は複数の意味を持つ。従って、特定の文脈においてもっともふさわしい意味を選択する必要がある。 ; [[構文の曖昧性]] : [[自然言語]]の構文(構文規則)は[[曖昧]]である。1つの文に対応する複数の[[構文木]]が存在することも多い。もっとも適切な解釈(構文木)を選択するには、[[意味]]的情報や文脈情報を必要とする。 ; 不完全な入力や間違った入力 : 主語の省略や代名詞の対応などの問題([[照応解析]])。音声におけるアクセントのばらつき。構文上の誤りのある文の解析。[[光学文字認識]]における誤りの認識など。 ; [[言語行為]] : 文章は文字通りに解釈できない場合がある。例えば {{Lang|en|"Can you pass the salt?"}}(塩をとってもらえますか?)という問いに対する答えは、塩を相手に渡すことである。これに {{Lang|en|"Yes"}} とだけ答えて何もしないのはよい答えとは言えないが、{{Lang|en|"No"}} はむしろありうる答えで、{{Lang|en|"I'm afraid that I can't see it"}} はさらによい(塩がどこにあるかわからないとき)。 == 統計的自然言語処理 == 統計的自然言語処理は、[[確率論的]]あるいは[[統計学]]的手法を使って、上述の困難さに何らかの解決策を与えようとするものである。長い文になればなるほど、従来型の自然言語処理では解釈の可能性の組合せが指数関数的に増大していき、処理が困難となる。そのような場合に統計的自然言語処理が効果を発揮する。[[コーパス言語学]]や[[マルコフ連鎖]]といった手法が使われる。統計的自然言語処理の起源は、[[人工知能]]の中でもデータからの学習を研究する分野である[[機械学習]]や[[データマイニング]]といった分野である。 {{要説明範囲|一見、統計的自然言語処理は確率モデル型自然言語処理にのみ適用されるように見えるが、実は4大自然言語処理の1つである注意モデル型自然言語処理にも統計の概念が必要なのである|date=2023年8月|title=この文は漠然としていて読者に何を伝えたいのか分かりませんでした。具体的な説明を求めます。}}<ref>{{Cite web|和書|title=自然言語処理 |url=https://www.coursera.org/specializations/natural-language-processing |website=Coursera |access-date=2023-02-18 |language=ja}}</ref>。 == 主な応用 == 自然言語処理の応用技術として、以下のような技術が研究・実用化されている。また、[[言語学]]への応用も考えられている。 {{columns-list|2| * [[自動要約生成]] * [[情報抽出]] * [[情報検索]]、[[検索エンジン]]、[[概念検索]] * [[機械翻訳]]、[[翻訳ソフト]] * [[固有表現抽出]] * [[自然言語生成]] * [[光学文字認識]] * [[質問応答システム]] * [[音声認識]] * [[音声合成]] * [[校正]]、[[スペルチェッカ]] * [[かな漢字変換]] }} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{columns-list|2| * [[計算言語学]] * [[形式文法]] * [[句構造規則]] * [[TREC]] * [[情報検索]] * [[人工無脳|会話ボット]] * [[潜在意味解析]] * [[インターグループ]] * [[英語コーパス学会]] * [[視覚と自然言語の融合研究]] * [[計算言語学協会]] * [[回帰型ニューラルネットワーク]] * [[Transformer (機械学習モデル)]]}} == 外部リンク == ; 資料 * [http://www.jaist.ac.jp/project/NLP_Portal/ 言語情報処理ポータル] * [https://nlp.stanford.edu/fsnlp/ Foundations of Statistical Natural Language Processing] * [http://www.ling.helsinki.fi/filt/info/XML/technologies-en.shtml Language Technology Documentation Centre in Finland (FiLT)] ; サーベイ * {{Cite journal|和書 |url=http://id.nii.ac.jp/1004/00002040/ |author=渡辺太郎 |title=ニューラルネットワークによる構造学習の発展(<特集>ニューラルネットワーク研究のフロンティア) |journal=人工知能 |ISSN=2188-2266 |publisher=人工知能学会 |year=2016 |month=mar |volume=31 |issue=2 |pages=202-209 |naid=110010039602 |doi=10.11517/jjsai.31.2_202 |accessdate=2020-07-07 |ref=原論文}} ; 研究者の団体 * [https://nl-ipsj.or.jp/ 情報処理学会 自然言語処理研究会] * [https://www.anlp.jp/ 言語処理学会] * [https://www.aclweb.org/ ACL HomeAssociation for Computational Linguistics] ; オープン実装 * [https://gate.ac.uk/ General Architecture for Text Engineering] (GATE) - Javaベース * [https://sourceforge.net/projects/nltk/ Natural Language Toolkit] (NLTK) - Pythonベース * [https://nlp.stanford.edu/software/ Stanford's JavaNLP toolchain] * [https://opennlp.apache.org/ OpenNLP] Apacheプロジェクト。固有表現抽出、文書分類、言語判定が日本語対応。商用利用可。 * [https://github.com/delph-in/docs/wiki/ DELPH-IN: integrated technology for deep language processing] * [[Modular Audio Recognition Framework|MARF]]: [http://marf.sf.net Modular Audio Recognition Framework] 音声および統計的自然言語処理 {{自然言語処理}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しせんけんこしより}} [[Category:言語学]] [[Category:自然言語処理|*]] [[Category:研究の計算分野]] [[Category:ニューラルネットワーク]] [[Category:人工知能]] [[Category:人工知能アプリケーション]] [[Category:人工知能の歴史]] [[Category:ディープラーニング]] [[Category:機械学習]] [[Category:確率と統計]] [[Category:統計モデル]] [[Category:統計]] [[Category:統計アルゴリズム]] [[Category:確率モデル]] [[Category:確率]] [[Category:分類アルゴリズム]] [[Category:ベクトル空間]] [[Category:翻訳]] [[Category:機械翻訳]] [[Category:アルゴリズム]] [[Category:計算言語学]] [[Category:品詞]] [[Category:感情]] [[Category:コーパス言語学]]
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自然言語
自然言語(しぜんげんご、英: natural language)とは、言語学や論理学、計算機科学の専門用語で、「英語」・「中国語」・「日本語」といった「○○語」の総称。つまり普通の「言語」のこと。人間が意思疎通のために日常的に用いる言語であり、文化的背景を持っておのずから発展してきた言語。 対義語は「人工言語」「形式言語」、すなわちプログラミング言語や論理式など。 人間がお互いにコミュニケーションを行うための自然発生的な言語である。形式言語との対比では、その構文や意味が明確に揺るぎなく定められ利用者に厳格な規則の遵守を強いる(ことが多い)形式言語に対し、話者集団の社会的文脈に沿った曖昧な規則が存在していると考えられるものが自然言語である。自然言語には、規則が曖昧であるがゆえに、話者による規則の解釈の自由度が残されており、話者が直面した状況に応じて規則の解釈を変化させることで、状況を共有する他の話者とのコミュニケーションを継続する事が可能となっている。 人間のコミュニケーションを目的として設計された形式言語、といったようなものも存在するが(ログランなど)あまり多くない。人工言語という分類は多義的であり、形式言語のことを指している場合もあれば、エスペラントなど「人為発生的な自然言語」といったほうが良い場合もある。 また、文法,単語の用法に曖昧さを含み、使用する単語,単語の順序を入れ替える等が可能であり、感情で文章を制御しやすいため、多様な情景表現が可能となっている。しかし、文法、単語の用法が曖昧であるため、「言語仕様」のように明確に固定することは難しい。各自然言語自体も他言語との統合が起きる事により変化し続けており、自然言語の文法その他あらゆる面が言語学によって研究が続けられている。また、統計的手法を利用する計量言語学(英語版)や、情報処理の対象として自然言語を扱う自然言語処理は、コンピュータの能力の向上にあわせ、またコンピュータのより便利な利用のために(例えばワードプロセッサや、音声入力による情報探索など)、さかんに研究され実地にも応用されるようになった。
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自然言語とは、言語学や論理学、計算機科学の専門用語で、「英語」・「中国語」・「日本語」といった「○○語」の総称。つまり普通の「言語」のこと。人間が意思疎通のために日常的に用いる言語であり、文化的背景を持っておのずから発展してきた言語。 対義語は「人工言語」「形式言語」、すなわちプログラミング言語や論理式など。
{{出典の明記|date=2014年11月}} '''自然言語'''(しぜんげんご、{{lang-en-short|natural language}})とは、[[言語学]]や[[論理学]]、[[計算機科学]]の[[専門用語]]で、「[[英語]]」・「[[中国語]]」・「[[日本語]]」といった「○○語」の総称。つまり普通の「[[言語]]」のこと。[[人間]]が[[意思疎通]]のために日常的に用いる言語であり、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]的背景を持っておのずから発展してきた言語。 対義語は「[[人工言語]]」「[[形式言語]]」、すなわち[[プログラミング言語]]や[[論理式 (数学)|論理式]]など。<!-- コメントアウト{{神経心理学}} --><!-- (コメントアウト。載せるとしても導入部じゃない。)分類として、音声言語と文字言語、口頭言語と書記言語、口語と文語といったような分類があるが、いずれも似ているようだが着目点や対比軸が異なる分類である。また、日本手話のように以上のような分類がいずれも当てはまらない言語もある。 --> == 概要 == 人間がお互いに[[コミュニケーション]]を行うための自然発生的な[[言語]]である。形式言語との対比では、その構文や意味が明確に揺るぎなく定められ利用者に厳格な規則の遵守を強いる(ことが多い)形式言語に対し、話者集団の[[文脈|社会的文脈]]に沿った曖昧な規則が存在していると考えられるものが自然言語である。自然言語には、規則が曖昧であるがゆえに、話者による規則の解釈の自由度が残されており、話者が直面した状況に応じて規則の解釈を変化させることで、状況を共有する他の話者とのコミュニケーションを継続する事が可能となっている。 人間のコミュニケーションを目的として設計された形式言語、といったようなものも存在するが([[ログラン]]など)あまり多くない。人工言語という分類は多義的であり、形式言語のことを指している場合もあれば、[[エスペラント]]など「人為発生的な自然言語」といったほうが良い場合もある。 また、文法,単語の用法に[[曖昧さ]]を含み、使用する単語,単語の順序を入れ替える等が可能であり、感情で文章を制御しやすいため、多様な情景表現が可能となっている。しかし、文法、単語の用法が曖昧であるため、「言語仕様」のように明確に固定することは難しい。各自然言語自体も他言語との統合が起きる事により変化し続けており、自然言語の[[文法]]その他あらゆる面が[[言語学]]によって研究が続けられている。また、統計的手法を利用する{{仮リンク|計量言語学|en|quantitative linguistics|preserve=1}}や、[[情報処理]]の対象として自然言語を扱う[[自然言語処理]]は、[[コンピュータ]]の能力の向上にあわせ、またコンピュータのより便利な利用のために(例えばワードプロセッサや、音声入力による情報探索など)、さかんに研究され実地にも応用されるようになった。 == 関連項目 == * [[自然言語処理]] * [[曖昧]] * [[コンテクスト|文脈]] * [[修辞技法]] * [[モンタギュー文法]] * [[生成文法]] * [[依存文法]] * [[構文解析]] * [[形式文法]] * [[句構造規則]] * [[日常言語学派]] * [[認知言語学]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しせんけんこ}} [[Category:諸言語]] [[Category:言語学]] [[Category:哲学的論理学]] [[Category:レトロニム]]
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プログラミング言語
プログラミング言語(プログラミングげんご、英語: programming language)とは、プログラムを記述するための人工言語。コンピュータプログラムを書くために考案された、正確に定義された記号と規則のしくみ。以前は、しばしばプログラム言語と表記された。 プログラミング言語は、情報を組織し処理するタスクについての理解を容易にし、アルゴリズムを正確に表現することができる。特に、チューリング完全であることが特徴である。 言語仕様とプログラムとその入力データの組合せで、そのプログラムを実行したときの結果(外部から観測される振る舞い)が完全に指定できなければならない。 プログラミング言語は構文規則(自然言語に関する言語学で言う統語論の規則に類似したもの)と意味規則(自然言語の意味論に類似した規則)で定義される。形式的ないし非形式的(自然言語による)な仕様が(構文規則は形式的で、意味規則はそうでない、というものが多い)実装とは独立した文書で示される言語もあれば、実装のみの言語もある。 多くの言語は、新たなニーズを満たすべく設計され、他の言語と組み合わされ、最終的に使われなくなる。あらゆる用途に使える万能言語を設計しようという試みはいくつかあったが、そういう意味で成功した言語は存在しない 。 プログラミング言語の開発の大きな流れに共通する傾向として、より高いレベルの抽象化によってより高い問題解決能力を得ようとしてきた、ということが指摘されることがある。初期のプログラミング言語はコンピュータのハードウェアのレベルと極めて近かった。新たなプログラミング言語が開発される度に機能が追加され、プログラマはハードウェアの命令からより遠い形でアイデアを表現できるようになっていった。プログラミングをハードウェアから分離することで、プログラマの生産性は向上する。 毎年のように新たなプログラミング言語が作り出されている。2008年2月時点で、「コンピュータ言語辞典」には8,152種のプログラミング言語が記載されていた。 過去のプログラミング言語のなかの欠点と見なされた部分を解消するために、新たなプログラミング言語が構想され、作られてきた歴史がある。また多様なプログラミング言語が生み出される背景には、さまざまな事情があり、ハードウェアが時代とともに変化してきたことや、プログラミング言語というテクノロジーやコンピュータサイエンスの発展も影響しており、下のような諸事情もある。 ウィキペディアに記事が掲載されているプログラミング言語を知りたい場合はプログラミング言語一覧を参照のこと。 プログラミング言語の分類法は多数ある。 ひとつの分類法としては(そして計算機科学の教科書や情報処理技術者の教科書などで、まっさきに一種の定番のように挙げてある分類方法としては)、機械寄り(CPU寄り)か人間(の思考)寄りか、で分類する方法であり、低水準言語 / 高水準言語 と分類する方法である。(" 低級言語 / 高級言語 " とも) 低水準言語の例としては、機械語の「命令コード」と1対1に対応する「命令語」を用いてプログラミングを行うアセンブリ言語がある。(機械語も低水準言語のひとつに数える場合もある。)対比される高水準言語の例としてはPerl、Visual Basic、LISP、PHP、Java、Pythonなどを挙げることができる。(なお、境界はやや曖昧で、C言語はかつては「高水準言語」と見なされていたが、その後それよりもレベルの高い高水準言語が多数登場したので、今日ではメモリ管理もしないC言語は「低水準言語」に分類されることもある。) 他の分類法としては、実行方法によってプログラミング言語を分類する方法もあり、インタープリタ方式言語 / コンパイラ方式言語(コンパイル方式言語)と分類する方法である。 インタープリタ方式言語の例としてはPHPやRubyを挙げることができる。コンパイラ方式言語の例としてはC言語、C++、Erlang、Haskell、Rust、Go、FORTRAN、COBOLなどを挙げることができる。なお言語によってはインタープリタ方式で実行でき、かつコンパイル方式で実行することができるものもある。そして「一応、どちらの方法でも実行できるが、基本はコンパイル方式」などという場合もあるので、やや分類が曖昧になる場合がある。コンパイル方式でしか実行できない言語をわざわざ指さなければならない場合に「純コンパイル方式言語」などと分類する人もいる。なおJavaはバイトコードにコンパイルをしてから実行するので、一応「コンパイル方式」に分類することも可能ではある言語だが、実行時コンパイラ(JIT)とJava仮想マシンを使うので、「Javaは、コンパイル方式とインタープリタ方式の中間的な方式」としばしば指摘され、曖昧な位置づけである。 かつては人間側の用途で分類する方法もしばしば用いられたことがある。たとえば、汎用プログラミング言語 / 事務計算用プログラミング言語/ 科学技術計算用プログラミング言語 などと分類する方法である。1970年代-1980年代などは「事務計算用プログラミング言語の例はCOBOLで、科学技術計算用プログラミング言語の例はFORTRAN」などと書かれたが、近年ではそのような分類はあまりされなくなった。なお「汎用プログラミング言語」に分類されるのはJava、C#、Python、Visual Basic、Rubyなどである。 手続き型言語かそうでないかで、手続き型言語 / 非手続き型言語 と分類する方法もある。手続き型言語の例としてはFORTRAN、ALGOL、C言語、COBOL、BASIC、Pascalなどを挙げることができる。 オブジェクト指向プログラミングに適したしくみを備えているか否かで、オブジェクト指向言語 / 非オブジェクト指向言語 と分類されることもある。 構造化プログラミングに適した仕様になっているか否かで判断して、適したものだけを構造化プログラミング言語と分類する方法もある。 スレッドを複数個生成・管理できるか否か、で並行言語 / 非並行言語 と分類する方法もある。 なお1950年代(や1960年代)計算理論をチョムスキー階層という構想や理論が発表された時代には、計算表現能力に基づいてコンピュータの言語を、抽象的に、「タイプ0 / タイプ1 / タイプ2 / タイプ3」などに分類しようとしていたこともあった。ただし近年ではそのような分類法は滅多に持ち出されない。世の中のプログラミング言語のユーザーたちや言語開発者たちの関心は、すでに別のレベルに移っているからである。 (他の分野でもありがちなことなのだが)プログラミング言語も分類法があまりに多数あるので、混乱しがちな分類法を整理整頓しようと「分類法の分類」をする人も出てくる。たとえば高級言語の分類方法について「プログラミングパラダイムによる分類法 / そうでない分類法」という分類ができる、などと言う人も出てくる。 以上のようにプログラミング言語の分類法は多数あるので、各プログラミング言語は複数のカテゴリに分類可能である。たとえばアセンブリ言語は「低水準言語」に分類され、かつ「非オブジェクト指向言語」に分類される。Javaは「高級言語」に分類され、かつ「オブジェクト指向言語」に分類され、かつ「並行性言語」に分類される。Pythonは「オブジェクト指向言語」であり「スクリプト言語」である。LISPは「マルチパラダイム言語」で「関数型言語」で「手続き型言語」である。 それ以外に、コンピュータがプリンター(やモニタ)などを制御するために使うプログラミング言語を分類するための「ページ記述言語」という分類法もある。 ページ記述言語の代表的な例としては、PostScriptを挙げることができる。たとえば、プリンターで美麗な印字をする場合、画面上のボタンやメニューで「印刷」という命令を選ぶわけだが、その時点でPC内のプリンター制御用プログラムがPostScript言語でプログラムを自動生成し、そのプログラムをケーブルやWifi経由でプリンターに向けて送り出し、それを受け取ったプリンターの側でそれを実行するということで美麗な印字、繊細な曲線に満ちたフォントの印字を実現している。 その他に、あまり真面目な分類ではないが、わざわざ理解が難しくなるように作られた(冗談のような)プログラミング言語を特に「難解プログラミング言語」と分類することもある。 「コンピュータ」(という語)の定義次第ではあるが、それを「コンピュータ・プログラムによって駆動される機械」とするならば、コンピュータ・プログラムはコンピュータとともに生まれ、育ったということになり、そのプログラムの記法としてプログラミング言語があった、ということになる。チャールズ・バベッジが階差機関に続いて計画した解析機関は、パンチカードの先祖と言えるような穴の開いた厚紙の列によって制御されるという機構を持っていたため、その特徴から「19世紀のコンピュータ」「蒸気動力のコンピュータ」などと呼ばれることがある。 20世紀初頭には、タビュレーティングマシンによってパンチカードを使ったデータの機械処理が始まっている。そういった実際面ばかりではなく計算理論としても、1930年代から1940年代にかけて、アルゴリズムを表現する数学的抽象表現を提供するラムダ計算(アロンゾ・チャーチ)とチューリングマシン(アラン・チューリング)が考案された。ラムダ計算はその後の言語設計にも影響を与えている。 1940年代、世界初の電子式デジタルコンピュータ群が製作された。1950年代初期のコンピュータであるUNIVAC IやIBM 701では機械語を使っていた。機械語によるプログラミングは、間もなくアセンブリ言語によるプログラミングに取って代わられた。1950年代後半になると、アセンブリ言語でマクロ命令が使われるようになり、その後 FORTRAN、LISP、COBOLという3つの高水準言語が開発された。これらは改良を加えられ現在でも使われており、その後の言語開発に重大な影響を与えた。1950年代末、ALGOLが登場し、その後の言語に様々な影響を与えている。初期のプログラミング言語の仕様と使い方は、当時のプログラミング環境の制約(パンチカードによるプログラム入力など)にも大きく影響されている。 1960年代から1970年代末ごろまでに、現在使われている主な言語パラダイムが開発されたが、その多くはごく初期の第三世代プログラミング言語のアイデアの改良である。 これらの言語のアイデアは様々な言語に引き継がれており、現在の言語の多くは、これらのいずれかの系統に属する。 1960年代と1970年代は、構造化プログラミングに関する論争が盛んに行われた時期でもある。この論争で特に有名なものは、1968年にCommunications of the ACMに掲載されたエドガー・ダイクストラのレターGo To Statement Considered Harmfulであろう。その後の反論と指針としてはクヌースのStructured Programming with go to Statementsがある。 1960年代と1970年代は、プログラムのメモリ使用量を削減し、プログラマやユーザーの生産性を向上させる技法も進展した時期である。初期の4GL(第四世代プログラミング言語)は、同じプログラムを第三世代プログラミング言語で書いたときよりもソースコードの量を劇的に削減した。 1980年代は、相対的な統合の時代であった。C++は、オブジェクト指向とシステムプログラミングの統合である。アメリカでは、軍需に使うことを目的としてAdaというシステムプログラミング言語が標準化された。日本などでは、論理プログラミングを応用した第五世代言語の研究に資源を費やした。関数型言語コミュニティではMLとLISPの標準化の動きがあった。これらはいずれも新たなパラダイムを生み出そうというものではなく、それまでに生み出されたアイデアに改良を加える動きであった。 1980年代の重要な言語設計傾向の1つとして、大規模システムのためのプログラミングを目的としてモジュールの概念を採り入れた点が挙げられる。1980年代にモジュールシステムを採り入れた言語として、Modula-2、Ada、MLがあるが、それ以前には、既にPL/Iがモジュラープログラミングをサポートしていた。モジュールシステムはジェネリックプログラミングの構成要素とされることが多い。 1990年代中頃には、インターネットの急激な成長によって新たな言語が生み出される機会が生じた。Perlは1987年にリリースされたUNIX上のスクリプト言語だったが、ウェブサイトの動的コンテンツ作成に使われるようになった。Javaはサーバ側のプログラミングに使われるようになった。 プログラミング言語の見た目は、その構文(syntax・統語論)で決定される。図形などを使うグラフィカルなプログラミング言語もあるが、たいていのプログラミング言語のソースコードは文字列である。ファイル形式ではプレーンテキストすなわちテキストファイルが用いられる。 また、たいていのプログラミング言語では、まず、(英語では lexical syntax などと呼ぶ)ソースの文字列から空白類を取り除き最小の意味のあるカタマリを取り出した「字句(トークン)」があり、構文は字句の並びである、という扱いのことが多い。字句を切り出して分類する処理を字句解析、その並びを調べる処理を構文解析という。 (字句解析のために)字句規則を示すのには正規表現が、そして(構文解析のために)構文規則を示すのにはバッカス・ナウア記法が使われることが多い。 下記はLISPの構文の一部分である。 これは、次のような規則である。 これに従う例として、12345、()、(a b c232 (1)) などがある。 構文上正しいプログラムが全て意味的に整合しているとは限らない、という設計の言語も多い。また、意味的に整合していても、それを書いた人が、自分の意図を正しく反映できていない場合もある。 以下のLISPのコード断片は構文上は正しいが、意味的には問題がある。変数 employees には従業員データのリストを入れるべきものであるが、employees は実際には空(nil)なので、employees がリストであることを前提に、employees の後続部分を求める式 (cdr employees) は評価できずエラーになる。 自然言語の言語学に、そのプログラムが表現しているものは何か、というのが、プログラミング言語の「意味」である。たとえば「a + b という式の値は、aの値とbの値を加算した値である」といったような規則の集まりであり、プログラム意味論という分野で形式的な意味論(形式意味論、英: formal semantics)も研究されているが、C言語の標準規格など、自然言語で意味を与えている言語や、形式的でない擬似言語のようなもので与えている言語もある。 型システムは、プログラミング言語において式の値となるデータ型について、型理論にもとづいて分類しどう扱うかを示すものである。 また、内部的には、ディジタルコンピュータでは全てのデータはバイナリ(二進法)で保持される。 型のある言語は、型システムによって、それぞれの値のデータ型に応じて、定義されていない操作が実行されないよう(多かれ少なかれ)チェックされる機構を持つ。 例えば、"this text between the quotes" は文字列型の値である。ふつう、数を文字列で割る操作には意味がない。そのため、そのようなプログラムは拒絶する。言語によっては、コンパイル時に検出し(静的型検査)コンパイルを失敗とする。言語によっては、実行時に検出し(動的型検査)、例外とするものもあればなんらかのコアーション(型の強制)を行うものもある。(理論的には、静的なシステムのみを指して「型システム」とすることもある) (型のある言語の特殊例として、単一型言語がある。REXXといったスクリプト言語やSGMLといったマークアップ言語は、単一のデータ型しか扱わない。多くの場合、そのときのデータ型は文字列型である。 アセンブリ言語などの型のない言語は、任意のデータに任意の操作を実行可能であり、データは単にある長さのビット列として扱われる。ある程度高い機能を持ちつつも型が無い(あるいは単一型の)プログラミング言語の例としては、BCPLやForthなどがある(型という概念自体が無いわけではない。例えば「浮動小数点に対する加算」という演算子といったものは存在する。ただしその演算子により、オペランドが何であれそのワードのビットパターンが浮動小数点数を表現しているものとみなされて加算される、といったようなことになる)。 「多かれ少なかれ」と書いたように、「強い」型システムの言語は少なく、多くの言語はそれなりの型システムを採用している。多くの実用的な言語には、型システムを迂回または打倒するような手段が用意されている。 静的型付け(静的型付き言語)では、全ての式の型はそのプログラムを実行する前(一般にコンパイル時)に決定される。例えば、1とか(2+2)という式は整数型であり、文字列を期待している関数には渡せず、日付(型)を格納するよう定義された変数には代入できない。 静的型付けでは、型を明記する場合と型推論を行う場合がある。前者ではプログラマは適切な位置に型を明記しなければならない。後者では、コンパイラが式の型を文脈から推論する。C++やJavaなどの主な静的型付き言語では、型を明記する。完全な型推論は主流でない言語に使われている(HaskellやML)。ただし、型を明記する言語でも部分的な型推論をサポートしていることが多い。たとえば、JavaやC#では限定された状況で型推論を行う。 動的型付け(動的型付き言語)では、型の安全性は実行時に検査される。言い換えれば、型はソース上の式ではなく、実行時の値に対して付与される。型推論言語と同様、動的型付き言語でも式や変数の型を明記する必要はない。また、ある1つの変数がプログラム実行中に異なる型の値を格納することも可能である。しかし、コードを実際に実行してみるまで型の間違いを自動的に検出することができず、デバッグがやや難しい。動的型付き言語としては、Ruby、LISP、JavaScript、Pythonなどがある。 データを入力されれば、コンピュータはそのデータに対して何らかの処理を実行する。「実行意味論(英: execution semantics)」とは、プログラミング言語の構成要素がどの時点でどのようにして、そのプログラムの振る舞いを生成するのかを定義するものである。 例えば、式の評価戦略(先行評価、部分評価、遅延評価、短絡評価など)は実行意味論の一部である。また、制御構造における条件付実行の作法も実行意味論の一部である。 「ライブラリ」は、プログラムを書いたり使用する上での、補助的なルーチン群である。多くのプログラミング言語には、言語仕様の一部、あるいは言語本体の仕様とは独立していることもあるが、標準ライブラリの仕様もほぼ必ず存在し、その言語の実装には標準ライブラリの実装もほぼ必ず付属する。標準ライブラリには、典型的なアルゴリズム、データ構造、入出力機構などが含まれることが多い。 ユーザーから見れば、標準ライブラリも言語の一部だが、設計者から見れば別の実体である。言語仕様には必ず実装しなければならない部分が定義されており、標準化された言語の場合、それには標準ライブラリも含まれる。言語とその標準ライブラリの境界は、言語によって様々である。実際、言語によっては一部の言語機能が標準ライブラリなしでは使えないこともある(たとえば累乗の演算子がある言語があるが、それのコンパイル結果はその言語の多くの処理系で関数呼出であろう。それが、言語仕様として標準ライブラリの該当する関数を呼び出すよう決められているような場合は「一部の言語機能が標準ライブラリなしでは使えない」ということになる)。 マクロもライブラリに含まれることも多い。たとえばC言語の標準には、いくつかの名前が関数ではなくマクロで提供されるかもしれない、といったような規定などがある。またLisp系の言語では、いわゆる特殊形式の多くが言語組込ではなくマクロでも実装可能であり、ifとcondのようにどちらか片方は必要だが、片方があればもう片方はマクロにできる、といったようなものもある。Schemeの標準規格は、どれを言語組込とし、どれをマクロとするか、ほとんどを処理系実装者の自由に任せている。 コンピュータ・プログラミング言語の設計は「言語仕様」として示され、実装は「言語処理系」と呼ばれる。以下はそれらについての概観である。 前述のようにプログラミング言語は構文と意味から成るから、仕様についても、構文仕様と意味仕様がある。 構文仕様は一般にバッカス・ナウア記法などによって形式的に示される。 意味論の仕様は、自然言語などで記述されることが多いが、形式的に与えられている言語もある。 形式意味論(プログラム意味論の記事も参照)で意味論を記述した例として Standard ML や Scheme がある。 他に、以下のようなスタイルで仕様が与えられている言語もある。 プログラミング言語の実装は、プログラミング言語処理系と呼ばれる。コンパイラは、ソースコードなどの入力を中間表現などの、より解釈実行しやすい表現に変換する処理系である。また、インタプリタは、入力されたプログラムを解釈実行する処理系である(ハードウェアのプロセッサは、機械語を解釈実行するインタプリタである、と見ることができる)。 コンパイラとインタプリタの関係は、理論的には二村射影により定式化されている。 なお、「大きく分けて2つの方法がある。コンパイラとインタプリタである。一般にある言語をコンパイラとインタプリタの両方で実装することが可能である。」などといったように(従来書かれた通俗的解説書などには大変多いが)理解していると、Javaなど近年の多くの言語処理系のスタイルが全くわからない、ということになる。 (機械語にまで変換するもののみを指してコンパイラと呼びたがる向きが一部にあり、その立場にもある程度は理もあるのだが、そうするとJavaの一般的な実装を指す用語が無くなる) 「コンパイラの出力したものをインタプリタで実行する方式は、コンパイラとインタプリタの区別が曖昧な場合もある。」などという変な説明をする者もいるが、前述したように、そもそも間違った2分法で考えているから、そのような変な考え方になるのである。 一般に、機械語に変換したもの(実行ファイル)を直接ハードウェアで実行する方が、インタプリタで実行するよりもずっと高速である。インタプリタでの実行を改善する技法として、実行時コンパイラなどの動的コンパイル手法がある。 どのプログラミング言語が最もよく使われているかを判断することは難しい。また、利用という意味も文脈によって異なる。プログラマの工数、コードの行数、CPU時間などが尺度として考えられる。ある言語は特定分野のアプリケーションだけでよく使われているということもある。例えばCOBOLは企業のデータセンター(メインフレームであることが多い)では今でも使われているし、FORTRANは科学技術計算でよく使われ、C言語は組み込みシステムやオペレーティングシステムで使われている。 以下のように言語利用状況の尺度は様々であり、どれを選択しても一種のバイアスがかかっていると考えた方がよい。 プログラミング言語は人間同士の会話と比較して、正確性と完全性の要求性が非常に高いという特徴がある。自然言語で人間同士が対話する場合、スペルミスや文法的なエラーがあっても相手は状況から適当に補正し、正確な内容を把握する。しかしコンピュータは指示が曖昧では動作せず、プログラマがコードに込めた意図を理解させることはできない。 プログラミングにおけるプログラミング言語の必要性を排除する方法として自然言語によるプログラムが構想されたり提案されることもあるが、その方向性は実用化には達しておらず、議論が続いている。エドガー・ダイクストラは形式言語の使用によって意味のない命令を防ぐという立場で、自然言語によるプログラミングを批判していた。アラン・パリスも同様の立場であった。 このあたりの歴史的に錯綜した議論は、結局のところ「コンピュータを活用するにはプログラミングが必要であり、プログラミングはプログラミング言語で行われる」というある種の教条(ドグマ)が、次の2つの事象に分解されることで無意味な議論になった。すなわち「コンピュータをほどほどに活用する程度のことならば、各種アプリケーションソフトウェアや自然言語認識や自然言語処理技術の活用など(スマートスピーカーなど)により、利用者が自分でプログラミングすることは必ずしも必要ではなくなった」ということと「コンピュータのより徹底した活用、具体的にはそういった自然言語認識や自然言語処理のシステムそのものを作るには、プログラミングが必要ということは全く相変わらずであり、プログラミング言語の重要性は増えこそすれ、減りはしない」ということである。 プログラミング言語は、もともと人間がコンピュータに命令を伝えその実行方法を指示するために作られたものであり、コンピュータが曖昧さなく解析できるように設計されている。多くの場合構文上の間違いは許されず、人間はプログラミング言語の文法に厳密にしたがった文を入力しなければならない。 これに対して、一般に自然言語の文法規則はプログラミング言語にくらべてはるかに複雑であり、例外も多い。ただしこれは規則が一般にいいかげんであったり、曖昧であるということではない。一般に自然言語の規則は奥が深く、驚くほどの非合理性に裏打ちされていることもあれば、驚くほどの合理性に裏打ちされていることもある。驚くほどの非合理性でも合理性でもないものに裏打ちされていることもあれば、驚くほどの裏打ちの無さがあることもある。 また、自然言語の意味は、その文脈(コンテキスト)によって定まる部分も多い。これに対して、プログラミング言語は、コンピュータによって扱いやすいように、文脈によって意味が変わることができるだけないように設計されているが、その文脈によって定まる部分がある場合も無くはない。たいていの言語にいくつかはある。 自然言語は、誤用や流行などにより長い時間をかけ、たくさんの人間の利用により、意図せざる形で変化していく。しかし、プログラミング言語の規則は、言語設計者の意図と作業によってのみ、変更される。実際には言語設計者が「たくさんの人間」である場合もあり(仕様が簡単な言語であれば多くの実装者がいることも多く、そういう場合は個々の実装ごとのその仕様があるとも言える)、長い時間をかけ、自然言語と全く同様にたくさんの人間の利用により変化してきたプログラミング言語もある(Lispなど)。また、プログラミング言語にも同様に流行があり、もともとの言語仕様では規定が無かったような一種の「誤用」に、後から仕様が定められる、といったことも必ずしも珍しくはない。 人間がふだん使っている日本語などの自然言語を使ってコンピュータに指示することができるのが理想ではある、と空想する者もいる。しかし、自然言語はあまりにも複雑で曖昧で変則的なので、それを機械語にコンパイルできるようなプログラムを作成することはとても難しい(コンパイルできるできないの問題ではなく、そもそもその意味が「複雑で曖昧で変則的」であること自体が問題なのだが、それを理解できない者が冒頭のように空想するのである)。そのような研究も進められているが、未だに汎用で実用になるプログラムは作成されたことがない。 そこで、自然言語よりも制限が強く、単純で厳密で規則的な人工言語を作って代用する。これがプログラミング言語である。プログラミング言語は自然言語よりもいくらか人間には扱いづらいが、機械語よりは遥かに親しみやすく、人間の指示の手間を軽減している。ちなみにコンピュータ向けの形式性と人間向けの柔軟性を兼ね備えるロジバンなど、本来の開発目的が違えど潜在的に一つのプログラミング言語として機能しうるものもある。 大部分のプログラミング言語は、基本的には概ね文脈自由文法に沿っているが、プログラミング言語における文法的な制限は必ずしも全て文脈自由文法で表現できるとは限らず、文脈自由文法より制限されていることもあれば文脈自由文法より拡張されていることもあり、多くの場合は文脈自由文法には完全には沿っていない。 なおプログラミングへの応用も想定して設計されたロジバンのように、人間の言語とプログラミング言語の中間に位置するものがある。 古い規格ではあるが日本産業規格の JIS X 3000 シリーズの規格名称では、全て「プログラム言語」になっている(例: JIS X 3001 プログラム言語 Fortran、JIS X 3014 プログラム言語 C++)ため、それに合わせてプログラム言語と表記されることもあるが、英語では programming language であるため、それに合わせればプログラミング言語となり、近年ではプログラミング言語と表記されることが多い。 なお言語名が「C」や「D」のように1文字の名称の場合、そのままの表記では文章中に埋没してしまい判別しづらいなどの不都合がある場合もあるので、たとえ登録されている正式名称があくまで「C」などと一文字であっても、通常の文章中で表記する場合は、技術書なども含めて、しばしば「C言語」などと文字の後ろに「言語」を添えて表記される。
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"プログラミング言語の開発の大きな流れに共通する傾向として、より高いレベルの抽象化によってより高い問題解決能力を得ようとしてきた、ということが指摘されることがある。初期のプログラミング言語はコンピュータのハードウェアのレベルと極めて近かった。新たなプログラミング言語が開発される度に機能が追加され、プログラマはハードウェアの命令からより遠い形でアイデアを表現できるようになっていった。プログラミングをハードウェアから分離することで、プログラマの生産性は向上する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "毎年のように新たなプログラミング言語が作り出されている。2008年2月時点で、「コンピュータ言語辞典」には8,152種のプログラミング言語が記載されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "過去のプログラミング言語のなかの欠点と見なされた部分を解消するために、新たなプログラミング言語が構想され、作られてきた歴史がある。また多様なプログラミング言語が生み出される背景には、さまざまな事情があり、ハードウェアが時代とともに変化してきたことや、プログラミング言語というテクノロジーやコンピュータサイエンスの発展も影響しており、下のような諸事情もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ウィキペディアに記事が掲載されているプログラミング言語を知りたい場合はプログラミング言語一覧を参照のこと。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "プログラミング言語の分類法は多数ある。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ひとつの分類法としては(そして計算機科学の教科書や情報処理技術者の教科書などで、まっさきに一種の定番のように挙げてある分類方法としては)、機械寄り(CPU寄り)か人間(の思考)寄りか、で分類する方法であり、低水準言語 / 高水準言語 と分類する方法である。(\" 低級言語 / 高級言語 \" とも) 低水準言語の例としては、機械語の「命令コード」と1対1に対応する「命令語」を用いてプログラミングを行うアセンブリ言語がある。(機械語も低水準言語のひとつに数える場合もある。)対比される高水準言語の例としてはPerl、Visual Basic、LISP、PHP、Java、Pythonなどを挙げることができる。(なお、境界はやや曖昧で、C言語はかつては「高水準言語」と見なされていたが、その後それよりもレベルの高い高水準言語が多数登場したので、今日ではメモリ管理もしないC言語は「低水準言語」に分類されることもある。)", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "他の分類法としては、実行方法によってプログラミング言語を分類する方法もあり、インタープリタ方式言語 / コンパイラ方式言語(コンパイル方式言語)と分類する方法である。 インタープリタ方式言語の例としてはPHPやRubyを挙げることができる。コンパイラ方式言語の例としてはC言語、C++、Erlang、Haskell、Rust、Go、FORTRAN、COBOLなどを挙げることができる。なお言語によってはインタープリタ方式で実行でき、かつコンパイル方式で実行することができるものもある。そして「一応、どちらの方法でも実行できるが、基本はコンパイル方式」などという場合もあるので、やや分類が曖昧になる場合がある。コンパイル方式でしか実行できない言語をわざわざ指さなければならない場合に「純コンパイル方式言語」などと分類する人もいる。なおJavaはバイトコードにコンパイルをしてから実行するので、一応「コンパイル方式」に分類することも可能ではある言語だが、実行時コンパイラ(JIT)とJava仮想マシンを使うので、「Javaは、コンパイル方式とインタープリタ方式の中間的な方式」としばしば指摘され、曖昧な位置づけである。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "かつては人間側の用途で分類する方法もしばしば用いられたことがある。たとえば、汎用プログラミング言語 / 事務計算用プログラミング言語/ 科学技術計算用プログラミング言語 などと分類する方法である。1970年代-1980年代などは「事務計算用プログラミング言語の例はCOBOLで、科学技術計算用プログラミング言語の例はFORTRAN」などと書かれたが、近年ではそのような分類はあまりされなくなった。なお「汎用プログラミング言語」に分類されるのはJava、C#、Python、Visual Basic、Rubyなどである。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "手続き型言語かそうでないかで、手続き型言語 / 非手続き型言語 と分類する方法もある。手続き型言語の例としてはFORTRAN、ALGOL、C言語、COBOL、BASIC、Pascalなどを挙げることができる。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "オブジェクト指向プログラミングに適したしくみを備えているか否かで、オブジェクト指向言語 / 非オブジェクト指向言語 と分類されることもある。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "構造化プログラミングに適した仕様になっているか否かで判断して、適したものだけを構造化プログラミング言語と分類する方法もある。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "スレッドを複数個生成・管理できるか否か、で並行言語 / 非並行言語 と分類する方法もある。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお1950年代(や1960年代)計算理論をチョムスキー階層という構想や理論が発表された時代には、計算表現能力に基づいてコンピュータの言語を、抽象的に、「タイプ0 / タイプ1 / タイプ2 / タイプ3」などに分類しようとしていたこともあった。ただし近年ではそのような分類法は滅多に持ち出されない。世の中のプログラミング言語のユーザーたちや言語開発者たちの関心は、すでに別のレベルに移っているからである。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "(他の分野でもありがちなことなのだが)プログラミング言語も分類法があまりに多数あるので、混乱しがちな分類法を整理整頓しようと「分類法の分類」をする人も出てくる。たとえば高級言語の分類方法について「プログラミングパラダイムによる分類法 / そうでない分類法」という分類ができる、などと言う人も出てくる。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "以上のようにプログラミング言語の分類法は多数あるので、各プログラミング言語は複数のカテゴリに分類可能である。たとえばアセンブリ言語は「低水準言語」に分類され、かつ「非オブジェクト指向言語」に分類される。Javaは「高級言語」に分類され、かつ「オブジェクト指向言語」に分類され、かつ「並行性言語」に分類される。Pythonは「オブジェクト指向言語」であり「スクリプト言語」である。LISPは「マルチパラダイム言語」で「関数型言語」で「手続き型言語」である。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "それ以外に、コンピュータがプリンター(やモニタ)などを制御するために使うプログラミング言語を分類するための「ページ記述言語」という分類法もある。 ページ記述言語の代表的な例としては、PostScriptを挙げることができる。たとえば、プリンターで美麗な印字をする場合、画面上のボタンやメニューで「印刷」という命令を選ぶわけだが、その時点でPC内のプリンター制御用プログラムがPostScript言語でプログラムを自動生成し、そのプログラムをケーブルやWifi経由でプリンターに向けて送り出し、それを受け取ったプリンターの側でそれを実行するということで美麗な印字、繊細な曲線に満ちたフォントの印字を実現している。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その他に、あまり真面目な分類ではないが、わざわざ理解が難しくなるように作られた(冗談のような)プログラミング言語を特に「難解プログラミング言語」と分類することもある。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「コンピュータ」(という語)の定義次第ではあるが、それを「コンピュータ・プログラムによって駆動される機械」とするならば、コンピュータ・プログラムはコンピュータとともに生まれ、育ったということになり、そのプログラムの記法としてプログラミング言語があった、ということになる。チャールズ・バベッジが階差機関に続いて計画した解析機関は、パンチカードの先祖と言えるような穴の開いた厚紙の列によって制御されるという機構を持っていたため、その特徴から「19世紀のコンピュータ」「蒸気動力のコンピュータ」などと呼ばれることがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "20世紀初頭には、タビュレーティングマシンによってパンチカードを使ったデータの機械処理が始まっている。そういった実際面ばかりではなく計算理論としても、1930年代から1940年代にかけて、アルゴリズムを表現する数学的抽象表現を提供するラムダ計算(アロンゾ・チャーチ)とチューリングマシン(アラン・チューリング)が考案された。ラムダ計算はその後の言語設計にも影響を与えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1940年代、世界初の電子式デジタルコンピュータ群が製作された。1950年代初期のコンピュータであるUNIVAC IやIBM 701では機械語を使っていた。機械語によるプログラミングは、間もなくアセンブリ言語によるプログラミングに取って代わられた。1950年代後半になると、アセンブリ言語でマクロ命令が使われるようになり、その後 FORTRAN、LISP、COBOLという3つの高水準言語が開発された。これらは改良を加えられ現在でも使われており、その後の言語開発に重大な影響を与えた。1950年代末、ALGOLが登場し、その後の言語に様々な影響を与えている。初期のプログラミング言語の仕様と使い方は、当時のプログラミング環境の制約(パンチカードによるプログラム入力など)にも大きく影響されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1960年代から1970年代末ごろまでに、現在使われている主な言語パラダイムが開発されたが、その多くはごく初期の第三世代プログラミング言語のアイデアの改良である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "これらの言語のアイデアは様々な言語に引き継がれており、現在の言語の多くは、これらのいずれかの系統に属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1960年代と1970年代は、構造化プログラミングに関する論争が盛んに行われた時期でもある。この論争で特に有名なものは、1968年にCommunications of the ACMに掲載されたエドガー・ダイクストラのレターGo To Statement Considered Harmfulであろう。その後の反論と指針としてはクヌースのStructured Programming with go to Statementsがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1960年代と1970年代は、プログラムのメモリ使用量を削減し、プログラマやユーザーの生産性を向上させる技法も進展した時期である。初期の4GL(第四世代プログラミング言語)は、同じプログラムを第三世代プログラミング言語で書いたときよりもソースコードの量を劇的に削減した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1980年代は、相対的な統合の時代であった。C++は、オブジェクト指向とシステムプログラミングの統合である。アメリカでは、軍需に使うことを目的としてAdaというシステムプログラミング言語が標準化された。日本などでは、論理プログラミングを応用した第五世代言語の研究に資源を費やした。関数型言語コミュニティではMLとLISPの標準化の動きがあった。これらはいずれも新たなパラダイムを生み出そうというものではなく、それまでに生み出されたアイデアに改良を加える動きであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1980年代の重要な言語設計傾向の1つとして、大規模システムのためのプログラミングを目的としてモジュールの概念を採り入れた点が挙げられる。1980年代にモジュールシステムを採り入れた言語として、Modula-2、Ada、MLがあるが、それ以前には、既にPL/Iがモジュラープログラミングをサポートしていた。モジュールシステムはジェネリックプログラミングの構成要素とされることが多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1990年代中頃には、インターネットの急激な成長によって新たな言語が生み出される機会が生じた。Perlは1987年にリリースされたUNIX上のスクリプト言語だったが、ウェブサイトの動的コンテンツ作成に使われるようになった。Javaはサーバ側のプログラミングに使われるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "プログラミング言語の見た目は、その構文(syntax・統語論)で決定される。図形などを使うグラフィカルなプログラミング言語もあるが、たいていのプログラミング言語のソースコードは文字列である。ファイル形式ではプレーンテキストすなわちテキストファイルが用いられる。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、たいていのプログラミング言語では、まず、(英語では lexical syntax などと呼ぶ)ソースの文字列から空白類を取り除き最小の意味のあるカタマリを取り出した「字句(トークン)」があり、構文は字句の並びである、という扱いのことが多い。字句を切り出して分類する処理を字句解析、その並びを調べる処理を構文解析という。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "(字句解析のために)字句規則を示すのには正規表現が、そして(構文解析のために)構文規則を示すのにはバッカス・ナウア記法が使われることが多い。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "下記はLISPの構文の一部分である。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これは、次のような規則である。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "これに従う例として、12345、()、(a b c232 (1)) などがある。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "構文上正しいプログラムが全て意味的に整合しているとは限らない、という設計の言語も多い。また、意味的に整合していても、それを書いた人が、自分の意図を正しく反映できていない場合もある。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "以下のLISPのコード断片は構文上は正しいが、意味的には問題がある。変数 employees には従業員データのリストを入れるべきものであるが、employees は実際には空(nil)なので、employees がリストであることを前提に、employees の後続部分を求める式 (cdr employees) は評価できずエラーになる。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "自然言語の言語学に、そのプログラムが表現しているものは何か、というのが、プログラミング言語の「意味」である。たとえば「a + b という式の値は、aの値とbの値を加算した値である」といったような規則の集まりであり、プログラム意味論という分野で形式的な意味論(形式意味論、英: formal semantics)も研究されているが、C言語の標準規格など、自然言語で意味を与えている言語や、形式的でない擬似言語のようなもので与えている言語もある。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "型システムは、プログラミング言語において式の値となるデータ型について、型理論にもとづいて分類しどう扱うかを示すものである。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、内部的には、ディジタルコンピュータでは全てのデータはバイナリ(二進法)で保持される。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "型のある言語は、型システムによって、それぞれの値のデータ型に応じて、定義されていない操作が実行されないよう(多かれ少なかれ)チェックされる機構を持つ。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "例えば、\"this text between the quotes\" は文字列型の値である。ふつう、数を文字列で割る操作には意味がない。そのため、そのようなプログラムは拒絶する。言語によっては、コンパイル時に検出し(静的型検査)コンパイルを失敗とする。言語によっては、実行時に検出し(動的型検査)、例外とするものもあればなんらかのコアーション(型の強制)を行うものもある。(理論的には、静的なシステムのみを指して「型システム」とすることもある)", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "(型のある言語の特殊例として、単一型言語がある。REXXといったスクリプト言語やSGMLといったマークアップ言語は、単一のデータ型しか扱わない。多くの場合、そのときのデータ型は文字列型である。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アセンブリ言語などの型のない言語は、任意のデータに任意の操作を実行可能であり、データは単にある長さのビット列として扱われる。ある程度高い機能を持ちつつも型が無い(あるいは単一型の)プログラミング言語の例としては、BCPLやForthなどがある(型という概念自体が無いわけではない。例えば「浮動小数点に対する加算」という演算子といったものは存在する。ただしその演算子により、オペランドが何であれそのワードのビットパターンが浮動小数点数を表現しているものとみなされて加算される、といったようなことになる)。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "「多かれ少なかれ」と書いたように、「強い」型システムの言語は少なく、多くの言語はそれなりの型システムを採用している。多くの実用的な言語には、型システムを迂回または打倒するような手段が用意されている。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "静的型付け(静的型付き言語)では、全ての式の型はそのプログラムを実行する前(一般にコンパイル時)に決定される。例えば、1とか(2+2)という式は整数型であり、文字列を期待している関数には渡せず、日付(型)を格納するよう定義された変数には代入できない。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "静的型付けでは、型を明記する場合と型推論を行う場合がある。前者ではプログラマは適切な位置に型を明記しなければならない。後者では、コンパイラが式の型を文脈から推論する。C++やJavaなどの主な静的型付き言語では、型を明記する。完全な型推論は主流でない言語に使われている(HaskellやML)。ただし、型を明記する言語でも部分的な型推論をサポートしていることが多い。たとえば、JavaやC#では限定された状況で型推論を行う。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "動的型付け(動的型付き言語)では、型の安全性は実行時に検査される。言い換えれば、型はソース上の式ではなく、実行時の値に対して付与される。型推論言語と同様、動的型付き言語でも式や変数の型を明記する必要はない。また、ある1つの変数がプログラム実行中に異なる型の値を格納することも可能である。しかし、コードを実際に実行してみるまで型の間違いを自動的に検出することができず、デバッグがやや難しい。動的型付き言語としては、Ruby、LISP、JavaScript、Pythonなどがある。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "データを入力されれば、コンピュータはそのデータに対して何らかの処理を実行する。「実行意味論(英: execution semantics)」とは、プログラミング言語の構成要素がどの時点でどのようにして、そのプログラムの振る舞いを生成するのかを定義するものである。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "例えば、式の評価戦略(先行評価、部分評価、遅延評価、短絡評価など)は実行意味論の一部である。また、制御構造における条件付実行の作法も実行意味論の一部である。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "「ライブラリ」は、プログラムを書いたり使用する上での、補助的なルーチン群である。多くのプログラミング言語には、言語仕様の一部、あるいは言語本体の仕様とは独立していることもあるが、標準ライブラリの仕様もほぼ必ず存在し、その言語の実装には標準ライブラリの実装もほぼ必ず付属する。標準ライブラリには、典型的なアルゴリズム、データ構造、入出力機構などが含まれることが多い。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ユーザーから見れば、標準ライブラリも言語の一部だが、設計者から見れば別の実体である。言語仕様には必ず実装しなければならない部分が定義されており、標準化された言語の場合、それには標準ライブラリも含まれる。言語とその標準ライブラリの境界は、言語によって様々である。実際、言語によっては一部の言語機能が標準ライブラリなしでは使えないこともある(たとえば累乗の演算子がある言語があるが、それのコンパイル結果はその言語の多くの処理系で関数呼出であろう。それが、言語仕様として標準ライブラリの該当する関数を呼び出すよう決められているような場合は「一部の言語機能が標準ライブラリなしでは使えない」ということになる)。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "マクロもライブラリに含まれることも多い。たとえばC言語の標準には、いくつかの名前が関数ではなくマクロで提供されるかもしれない、といったような規定などがある。またLisp系の言語では、いわゆる特殊形式の多くが言語組込ではなくマクロでも実装可能であり、ifとcondのようにどちらか片方は必要だが、片方があればもう片方はマクロにできる、といったようなものもある。Schemeの標準規格は、どれを言語組込とし、どれをマクロとするか、ほとんどを処理系実装者の自由に任せている。", "title": "要素" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "コンピュータ・プログラミング言語の設計は「言語仕様」として示され、実装は「言語処理系」と呼ばれる。以下はそれらについての概観である。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "前述のようにプログラミング言語は構文と意味から成るから、仕様についても、構文仕様と意味仕様がある。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "構文仕様は一般にバッカス・ナウア記法などによって形式的に示される。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "意味論の仕様は、自然言語などで記述されることが多いが、形式的に与えられている言語もある。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "形式意味論(プログラム意味論の記事も参照)で意味論を記述した例として Standard ML や Scheme がある。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "他に、以下のようなスタイルで仕様が与えられている言語もある。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "プログラミング言語の実装は、プログラミング言語処理系と呼ばれる。コンパイラは、ソースコードなどの入力を中間表現などの、より解釈実行しやすい表現に変換する処理系である。また、インタプリタは、入力されたプログラムを解釈実行する処理系である(ハードウェアのプロセッサは、機械語を解釈実行するインタプリタである、と見ることができる)。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "コンパイラとインタプリタの関係は、理論的には二村射影により定式化されている。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "なお、「大きく分けて2つの方法がある。コンパイラとインタプリタである。一般にある言語をコンパイラとインタプリタの両方で実装することが可能である。」などといったように(従来書かれた通俗的解説書などには大変多いが)理解していると、Javaなど近年の多くの言語処理系のスタイルが全くわからない、ということになる。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "(機械語にまで変換するもののみを指してコンパイラと呼びたがる向きが一部にあり、その立場にもある程度は理もあるのだが、そうするとJavaの一般的な実装を指す用語が無くなる)", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "「コンパイラの出力したものをインタプリタで実行する方式は、コンパイラとインタプリタの区別が曖昧な場合もある。」などという変な説明をする者もいるが、前述したように、そもそも間違った2分法で考えているから、そのような変な考え方になるのである。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "一般に、機械語に変換したもの(実行ファイル)を直接ハードウェアで実行する方が、インタプリタで実行するよりもずっと高速である。インタプリタでの実行を改善する技法として、実行時コンパイラなどの動的コンパイル手法がある。", "title": "設計と実装" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "どのプログラミング言語が最もよく使われているかを判断することは難しい。また、利用という意味も文脈によって異なる。プログラマの工数、コードの行数、CPU時間などが尺度として考えられる。ある言語は特定分野のアプリケーションだけでよく使われているということもある。例えばCOBOLは企業のデータセンター(メインフレームであることが多い)では今でも使われているし、FORTRANは科学技術計算でよく使われ、C言語は組み込みシステムやオペレーティングシステムで使われている。", "title": "言語利用状況の計測" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "以下のように言語利用状況の尺度は様々であり、どれを選択しても一種のバイアスがかかっていると考えた方がよい。", "title": "言語利用状況の計測" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "プログラミング言語は人間同士の会話と比較して、正確性と完全性の要求性が非常に高いという特徴がある。自然言語で人間同士が対話する場合、スペルミスや文法的なエラーがあっても相手は状況から適当に補正し、正確な内容を把握する。しかしコンピュータは指示が曖昧では動作せず、プログラマがコードに込めた意図を理解させることはできない。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "プログラミングにおけるプログラミング言語の必要性を排除する方法として自然言語によるプログラムが構想されたり提案されることもあるが、その方向性は実用化には達しておらず、議論が続いている。エドガー・ダイクストラは形式言語の使用によって意味のない命令を防ぐという立場で、自然言語によるプログラミングを批判していた。アラン・パリスも同様の立場であった。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "このあたりの歴史的に錯綜した議論は、結局のところ「コンピュータを活用するにはプログラミングが必要であり、プログラミングはプログラミング言語で行われる」というある種の教条(ドグマ)が、次の2つの事象に分解されることで無意味な議論になった。すなわち「コンピュータをほどほどに活用する程度のことならば、各種アプリケーションソフトウェアや自然言語認識や自然言語処理技術の活用など(スマートスピーカーなど)により、利用者が自分でプログラミングすることは必ずしも必要ではなくなった」ということと「コンピュータのより徹底した活用、具体的にはそういった自然言語認識や自然言語処理のシステムそのものを作るには、プログラミングが必要ということは全く相変わらずであり、プログラミング言語の重要性は増えこそすれ、減りはしない」ということである。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "プログラミング言語は、もともと人間がコンピュータに命令を伝えその実行方法を指示するために作られたものであり、コンピュータが曖昧さなく解析できるように設計されている。多くの場合構文上の間違いは許されず、人間はプログラミング言語の文法に厳密にしたがった文を入力しなければならない。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "これに対して、一般に自然言語の文法規則はプログラミング言語にくらべてはるかに複雑であり、例外も多い。ただしこれは規則が一般にいいかげんであったり、曖昧であるということではない。一般に自然言語の規則は奥が深く、驚くほどの非合理性に裏打ちされていることもあれば、驚くほどの合理性に裏打ちされていることもある。驚くほどの非合理性でも合理性でもないものに裏打ちされていることもあれば、驚くほどの裏打ちの無さがあることもある。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "また、自然言語の意味は、その文脈(コンテキスト)によって定まる部分も多い。これに対して、プログラミング言語は、コンピュータによって扱いやすいように、文脈によって意味が変わることができるだけないように設計されているが、その文脈によって定まる部分がある場合も無くはない。たいていの言語にいくつかはある。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "自然言語は、誤用や流行などにより長い時間をかけ、たくさんの人間の利用により、意図せざる形で変化していく。しかし、プログラミング言語の規則は、言語設計者の意図と作業によってのみ、変更される。実際には言語設計者が「たくさんの人間」である場合もあり(仕様が簡単な言語であれば多くの実装者がいることも多く、そういう場合は個々の実装ごとのその仕様があるとも言える)、長い時間をかけ、自然言語と全く同様にたくさんの人間の利用により変化してきたプログラミング言語もある(Lispなど)。また、プログラミング言語にも同様に流行があり、もともとの言語仕様では規定が無かったような一種の「誤用」に、後から仕様が定められる、といったことも必ずしも珍しくはない。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "人間がふだん使っている日本語などの自然言語を使ってコンピュータに指示することができるのが理想ではある、と空想する者もいる。しかし、自然言語はあまりにも複雑で曖昧で変則的なので、それを機械語にコンパイルできるようなプログラムを作成することはとても難しい(コンパイルできるできないの問題ではなく、そもそもその意味が「複雑で曖昧で変則的」であること自体が問題なのだが、それを理解できない者が冒頭のように空想するのである)。そのような研究も進められているが、未だに汎用で実用になるプログラムは作成されたことがない。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "そこで、自然言語よりも制限が強く、単純で厳密で規則的な人工言語を作って代用する。これがプログラミング言語である。プログラミング言語は自然言語よりもいくらか人間には扱いづらいが、機械語よりは遥かに親しみやすく、人間の指示の手間を軽減している。ちなみにコンピュータ向けの形式性と人間向けの柔軟性を兼ね備えるロジバンなど、本来の開発目的が違えど潜在的に一つのプログラミング言語として機能しうるものもある。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "大部分のプログラミング言語は、基本的には概ね文脈自由文法に沿っているが、プログラミング言語における文法的な制限は必ずしも全て文脈自由文法で表現できるとは限らず、文脈自由文法より制限されていることもあれば文脈自由文法より拡張されていることもあり、多くの場合は文脈自由文法には完全には沿っていない。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "なおプログラミングへの応用も想定して設計されたロジバンのように、人間の言語とプログラミング言語の中間に位置するものがある。", "title": "プログラミング言語と自然言語" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "古い規格ではあるが日本産業規格の JIS X 3000 シリーズの規格名称では、全て「プログラム言語」になっている(例: JIS X 3001 プログラム言語 Fortran、JIS X 3014 プログラム言語 C++)ため、それに合わせてプログラム言語と表記されることもあるが、英語では programming language であるため、それに合わせればプログラミング言語となり、近年ではプログラミング言語と表記されることが多い。", "title": "日本語における名称" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "なお言語名が「C」や「D」のように1文字の名称の場合、そのままの表記では文章中に埋没してしまい判別しづらいなどの不都合がある場合もあるので、たとえ登録されている正式名称があくまで「C」などと一文字であっても、通常の文章中で表記する場合は、技術書なども含めて、しばしば「C言語」などと文字の後ろに「言語」を添えて表記される。", "title": "日本語における名称" } ]
プログラミング言語とは、プログラムを記述するための人工言語。コンピュータプログラムを書くために考案された、正確に定義された記号と規則のしくみ。以前は、しばしばプログラム言語と表記された。
[[File:C_Hello_World_Program.png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:C_Hello_World_Program.png|右|サムネイル|357x357ピクセル|[[C言語]]で書かれた単純なコンピュータープログラムの[[ソースコード]]。[[灰色|グレー]]の行は、人間のためにプログラムの説明をする[[自然言語]]で書かれた[[コメント (コンピュータ)|コメント]]。このプログラムを[[コンパイラ|コンパイル]]して[[実行ファイル|実行]]すると、「[[Hello world|Hello, world!]]」という文字が出力される。]] '''プログラミング言語'''(プログラミングげんご、{{Lang-en|programming language}})とは、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を記述するための[[人工言語]]<ref>[http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=33636 ISO 5127]—Information and documentation—Vocabulary, clause 01.05.10 で、プログラミング言語は「プログラムを記述するための人工言語」と定義されている。</ref>。[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]を書くために考案された、正確に定義された[[記号]]と[[規則]]のしくみ<ref>[https://www.lexico.com/definition/programming_language Lexico, definition of programming language]. A system of precisely defined symbols and rules devised for writing computer programs.</ref>。以前は、しばしば'''プログラム言語'''と表記された。 == 概要 == プログラミング言語は、情報を組織し処理するタスクについての理解を容易にし、[[アルゴリズム]]を正確に表現することができる。特に、[[チューリング完全]]であることが特徴である<ref>{{cite book | last=MacLennan | first=Bruce J. | title=Principles of Programming Languages | page=1 | publisher=Oxford University Press | date=1987年 | id=ISBN 0-19-511306-3 }}</ref>。 言語仕様と[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]とその入力データの組合せで、そのプログラムを実行したときの結果(外部から観測される振る舞い)が完全に指定できなければならない。 プログラミング言語は'''構文規則'''(自然言語に関する[[言語学]]で言う[[統語論]]の規則に類似したもの)と'''意味規則'''(自然言語の[[意味論 (言語学)|意味論]]に類似した規則)で定義される。形式的ないし非形式的(自然言語による)な仕様が(構文規則は形式的で、意味規則はそうでない、というものが多い)実装とは独立した文書で示される言語もあれば、実装のみの言語もある。 多くの言語は、新たなニーズを満たすべく設計され、他の言語と組み合わされ、最終的に使われなくなる。あらゆる用途に使える万能言語を設計しようという試みはいくつかあったが、そういう意味で成功した言語は存在しない <ref group="注釈">IBMは PL/I をリリースしたとき、やや野心的にマニュアルを ''The universal programming language PL/I'' (IBM Library; 1966) と名づけている。このタイトルはIBMが目標としていた無制限のサブセット化機能を反映している「PL/I は特定の応用に必要な部分を抜き出し、サブセットを分離可能なように設計されている」 ({{cite web |url=http://eom.springer.de/P/p072885.htm |title=Encyclopaedia of Mathematics » P » PL/I |work=SpringerLink |accessdate=2006年6月29日}}). [[Ada]]と[[UNCOL]]も同様の初期目標を持っていた。</ref>。 プログラミング言語の開発の大きな流れに共通する傾向として、より高いレベルの[[抽象化 (計算機科学)|抽象化]]によってより高い問題解決能力を得ようとしてきた、ということが指摘されることがある。初期のプログラミング言語はコンピュータのハードウェアのレベルと極めて近かった。新たなプログラミング言語が開発される度に機能が追加され、プログラマはハードウェアの命令からより遠い形でアイデアを表現できるようになっていった。プログラミングをハードウェアから分離することで、プログラマの[[生産性]]は向上する<ref> Frederick P. Brooks, Jr.: ''The Mythical Man-Month,'' Addison-Wesley, 1982, pp. 93-94 </ref>。 毎年のように新たなプログラミング言語が作り出されている。2008年2月時点で、「コンピュータ言語辞典<ref>[http://hopl.murdoch.edu.au/ The Encyclopedia of Computer Languages] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110220044217/http://hopl.murdoch.edu.au/ |date=2011年2月20日 }} (Murdoch University、[[オーストラリア]])</ref>」には8,152種のプログラミング言語が記載されていた。 過去のプログラミング言語のなかの欠点と見なされた部分を解消するために、新たなプログラミング言語が構想され、作られてきた歴史がある。また多様なプログラミング言語が生み出される背景には、さまざまな事情があり、ハードウェアが時代とともに変化してきたことや、プログラミング言語というテクノロジーや[[コンピュータサイエンス]]の発展も影響しており、下のような諸事情もある。 * プログラムと言っても、個人が自分だけのために趣味で書く数行から数十行程度の短いプログラム(やスクリプト)から、数百人のプログラマが協働して企業の大規模なシステムのために書く長大なプログラムまで、様々なプログラムがある。 * プログラミング言語の記述に 簡潔さを求め、可読性が高いことを求め、バグが入り込みにくい記述を好むプログラマの方が多く、世の中では一般的である(特に、業務として、ミスの少ないプロの仕事としてプログラミングを行わなければいけない職業的プログラマで多い)一方で、ごちゃごちゃして難読で、一名で書くならともかく複数名でプログラムを書くと高頻度で誤読や[[バグ]]を招きがちな記述でもあまり気にしなかったり面白がる趣味的なプログラマも一部にいる。 * プログラムが搭載されるシステムも多様で、[[マイクロコントローラ]]、[[組み込みシステム]]から汎用[[デスクトップパソコン|デスクトップ]]PC、[[Graphics Processing Unit|GPU]]そして[[スーパーコンピュータ]]まで様々あり、それぞれのシステムのハードウェアの特性や制約に合ったプログラムやプログラミング言語がある。 * もともとプログラミング言語はもっぱら大学のコンピュータサイエンスの研究室や大手企業の研究所などの奥深くばかりで開発されていたのだが、ここ数十年では個人が趣味的に新しいプログラミング言語を構想しそのコンパイラを自分で書くための書籍なども時折出版されるようになり、つまり世の中の普通の人が新たなプログラミング言語を独自に作成するためのノウハウも広まってハードルが次第に下がってきている。 ウィキペディアに記事が掲載されているプログラミング言語を知りたい場合は[[プログラミング言語一覧]]を参照のこと。 == 分類・種類 == プログラミング言語の[[分類]]法は多数ある。 ひとつの分類法としては(そして計算機科学の教科書や情報処理技術者の教科書などで、まっさきに一種の定番のように挙げてある分類方法としては)、機械寄り(CPU寄り)か人間(の思考)寄りか、で分類する方法であり、'''[[低水準言語]]''' / '''[[高水準言語]]''' と分類する方法である。(" 低級言語 / 高級言語 " とも) 低水準言語の例としては、[[機械語]]の「命令コード」<ref group="注釈">CPUの命令コードというのは、本当のCPUレベルではたとえば「00101011」のようにただの[[2進数]]の羅列であり、人間には意味不明である。</ref>と1対1に対応する「命令語」<ref group="注釈">数文字のアルファベットや数字を組み合わせて、CPUに対する命令やCPUが操作すべき[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]などを表記したもの。</ref>を用いてプログラミングを行う[[アセンブリ言語]]がある。(機械語も低水準言語のひとつに数える場合もある。)対比される高水準言語の例としては[[Perl]]、[[Visual Basic]]、[[LISP]]、[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]、[[Java]]、[[Python]]などを挙げることができる。(なお、境界はやや曖昧で、C言語はかつては「高水準言語」と見なされていたが、その後それよりもレベルの高い高水準言語が多数登場したので、今日ではメモリ管理もしないC言語は「低水準言語」に分類されることもある。) 他の分類法としては、[[実行 (コンピュータ)|実行]]方法によってプログラミング言語を分類する方法もあり、'''[[インタープリタ]]方式言語'''<ref>{{lang-en-short|interpreted language}}</ref> / '''[[コンパイラ]]方式言語'''(コンパイル方式言語<ref>{{lang-en-short|compiled language}}</ref>)と分類する方法である。 インタープリタ方式言語の例としてはPHPや[[Ruby]]を挙げることができる。コンパイラ方式言語の例としてはC言語、C++、[[Erlang]]、[[Haskell]]、[[Rust (プログラミング言語)|Rust]]、[[Go (プログラミング言語)|Go]]、FORTRAN、[[COBOL]]などを挙げることができる。なお言語によってはインタープリタ方式で実行でき、かつコンパイル方式で実行することができるものもある。そして「一応、どちらの方法でも実行できるが、基本はコンパイル方式」などという場合もあるので、やや分類が曖昧になる場合がある。コンパイル方式でしか実行できない言語をわざわざ指さなければならない場合に「純コンパイル方式言語<ref>{{lang-en-short|pure compiled language}}</ref>」などと分類する人もいる<ref>[https://www.freecodecamp.org/news/compiled-versus-interpreted-languages/]</ref>。なおJavaは[[バイトコード]]にコンパイルをしてから実行するので、一応「コンパイル方式」に分類することも可能ではある言語だが、[[実行時コンパイラ|実行時コンパイラ(JIT)]]と[[Java仮想マシン]]を使うので、「Javaは、コンパイル方式とインタープリタ方式の中間的な方式」としばしば指摘され、曖昧な位置づけである。 かつては人間側の用途で分類する方法もしばしば用いられたことがある。たとえば、[[汎用プログラミング言語]] / 事務計算用プログラミング言語/ 科学技術計算用プログラミング言語 などと分類する方法である。1970年代-1980年代などは「事務計算用プログラミング言語の例はCOBOLで、科学技術計算用プログラミング言語の例はFORTRAN」などと書かれたが、近年ではそのような分類はあまりされなくなった。なお「汎用プログラミング言語」に分類されるのはJava、[[C Sharp|C#]]、Python<ref>[https://www.slant.co/topics/15491/~general-purpose-programming-languages]</ref>、Visual Basic、Rubyなどである。<!-- 用途に基づいていない。出典が不適切。 用途にもとづいて分類する方法もあり、汎用言語 / システムプログラミング言語 / スクリプト言語 / ドメイン固有言語、並行/分散言語(あるいはこれらの混合)などがある<ref>{{cite web|url=http://tunes.org/wiki/programming_20languages.html|title=TUNES: Programming Languages |accessdate=2008年2月29日}}</ref>。汎用言語の一部は教育目的で設計されている<ref>{{cite journal|last=Wirth|first=Niklaus|authorlink=ニクラウス・ヴィルト|title=Recollections about the development of Pascal|journal=Proc. 2nd ACM SIGPLAN conference on history of programming languages|pages=333–342|date=1993年 |url=http://portal.acm.org/citation.cfm?id=155378|accessdate=2006年6月30日}}</ref>。--> 手続き型言語<ref>[https://e-words.jp/w/%E6%89%8B%E7%B6%9A%E3%81%8D%E5%9E%8B%E8%A8%80%E8%AA%9E.html]</ref>かそうでないかで、'''手続き型言語''' / '''[[非手続き型言語]]''' と分類する方法もある。手続き型言語の例としてはFORTRAN、[[ALGOL]]、C言語、COBOL、[[BASIC]]、[[Pascal]]などを挙げることができる。 [[オブジェクト指向プログラミング]]に適したしくみを備えているか否かで、'''[[オブジェクト指向言語]]''' / '''非オブジェクト指向言語''' と分類されることもある。 [[構造化プログラミング]]に適した仕様になっているか否かで判断して、適したものだけを'''構造化プログラミング言語'''<ref>{{lang-en-short|structured programming language}}</ref>と分類する方法もある。<!--<ref group="注釈">[[非構造化プログラミング]]という用語は、「構造化プログラミング」という用語が出現した後に、それに分類できない言語群をさかのぼって([[レッテル]]貼り的に)指すために[[レトロニム]]で、ややでっちあげぎみに作った用語なので、さすがにそれに適さない言語を " 非・構造化プログラミング言語 " と分類することまではしないのが一般的である。歴代の言語開発者は、わざわざ意図的にそういう状態になることを目指してプログラミング言語を開発したわけではないので、後世の人々が勝手にそんな呼び方をしてしまっては、あまりにも悪意がありすぎ、苦労を重ねた先人たち恩人たちに対する礼儀を欠きすぎ、そんな呼び方を平然とするようでは、人間性を疑われるからである。</ref>--> [[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]を複数個生成・管理できるか否か、で並行言語 / 非並行言語 と分類する方法もある。 なお1950年代(や1960年代)[[計算理論]]を[[チョムスキー階層]]という構想や理論が発表された時代には、計算表現能力に基づいてコンピュータの言語を、抽象的に、「タイプ0 / タイプ1 / タイプ2 / タイプ3」などに分類しようとしていたこともあった。ただし近年ではそのような分類法は滅多に持ち出されない。世の中のプログラミング言語のユーザーたちや言語開発者たちの関心は、すでに別のレベルに移っているからである<ref group="注釈">なお[[チューリング完全]]な言語ならば、同じ[[アルゴリズム]]群を表現可能である。</ref>。 (他の分野でもありがちなことなのだが)プログラミング言語も分類法があまりに多数あるので、混乱しがちな分類法を整理整頓しようと「分類法の分類」をする人も出てくる。たとえば高級言語の分類方法について「[[プログラミングパラダイム]]による分類法 / そうでない分類法」という分類ができる、などと言う人も出てくる。<!--(プログラミングパラダイムは、[[手続き型プログラミング]] / [[オブジェクト指向プログラミング]] / [[関数型言語|関数型プログラミング]] / [[論理プログラミング]]などと分類できると言えばできるので、それによって 手続き型言語 / オブジェクト指向言語 / 関数型言語... などに分類したいと考える人もいるのだが、実際には各言語は2つ以上のパラダイムの性格を同時に併せ持つこともあり、つまり[[マルチパラダイムプログラミング言語|マルチパラダイム]]の場合もあるので、やはりこの方式でもすっきりと分類しきれるわけではない。おまけに低水準言語のアセンブラ言語はこの枠の外になってしまい、やはりすっきり分類できない<ref group="注釈">なお、「[[分類]]」という記事を熟読すれば分かるが、そもそも「ものごとは、いつでもすっきりと分類できるはず」と思っているのが間違いなのである。世の中のほとんどのことは、すっきりとは分類できない。プログラミング言語も、<u>他の分野と同様に</u>すっきりとは分類できない、というだけのことである。</ref>。)--> 以上のようにプログラミング言語の分類法は多数あるので、各プログラミング言語は複数のカテゴリに分類可能である。たとえばアセンブリ言語は「低水準言語」に分類され、かつ「非オブジェクト指向言語」に分類される。Javaは「高級言語」に分類され、かつ「オブジェクト指向言語」に分類され、かつ「並行性言語」に分類される。Pythonは「オブジェクト指向言語」であり「[[スクリプト言語]]」である。LISPは「マルチパラダイム言語」で「関数型言語」で「手続き型言語」である。 それ以外に、コンピュータがプリンター(やモニタ)などを制御するために使うプログラミング言語を分類するための「[[ページ記述言語]]」という分類法もある。 ページ記述言語の代表的な例としては、[[PostScript]]を挙げることができる。たとえば、プリンターで美麗な印字をする場合、画面上のボタンやメニューで「印刷」という命令を選ぶわけだが、その時点でPC内のプリンター制御用プログラムがPostScript言語でプログラムを自動生成し、そのプログラムをケーブルやWifi経由でプリンターに向けて送り出し、それを受け取ったプリンターの側でそれを実行するということで美麗な印字、繊細な曲線に満ちた[[フォント]]の印字を実現している。 その他に、あまり真面目な分類ではないが、わざわざ理解が難しくなるように作られた(冗談のような)プログラミング言語を特に「[[難解プログラミング言語]]」と分類することもある。 == 歴史 == {{see also|プログラミング言語年表}} === 初期の発展 === 「コンピュータ」(という語)の定義次第ではあるが、それを「コンピュータ・プログラムによって駆動される機械」とするならば、コンピュータ・プログラムはコンピュータとともに生まれ、育ったということになり、そのプログラムの記法としてプログラミング言語があった、ということになる。[[チャールズ・バベッジ]]が[[階差機関]]に続いて計画した[[解析機関]]は、[[パンチカード]]の先祖と言えるような穴の開いた厚紙の列によって制御されるという機構を持っていたため、その特徴から「[[19世紀]]のコンピュータ」「蒸気動力のコンピュータ」などと呼ばれることがある。 [[20世紀]]初頭には、[[タビュレーティングマシン]]によって[[パンチカード]]を使ったデータの機械処理が始まっている。そういった実際面ばかりではなく[[計算理論]]としても、[[1930年代]]から[[1940年代]]にかけて、[[アルゴリズム]]を表現する数学的抽象表現を提供する[[ラムダ計算]]([[アロンゾ・チャーチ]])と[[チューリングマシン]]([[アラン・チューリング]])が考案された。ラムダ計算はその後の言語設計にも影響を与えている<ref group="注釈">Benjamin C. Pierce は次のように書いている。 :". . . the lambda calculus has seen widespread use in the specification of programming language features, in language design and implementation, and in the study of type systems."(訳:ラムダ計算はプログラミング言語の仕様記述、言語設計と実装、型システムの研究に広く使われている) {{cite book | last=Pierce | first=Benjamin C. | title=Types and Programming Languages | publisher=MIT Press | date=2002年 | id=ISBN 0-262-16209-1 | pages=52}}</ref>。 1940年代、世界初の電子式デジタルコンピュータ群が製作された。[[1950年代]]初期のコンピュータである[[UNIVAC I]]や[[IBM 701]]では[[機械語]]を使っていた。機械語によるプログラミングは、間もなく[[アセンブリ言語]]によるプログラミングに取って代わられた。1950年代後半になると、アセンブリ言語で[[マクロ (コンピュータ用語)|マクロ命令]]が使われるようになり、その後 [[FORTRAN]]、[[LISP]]、[[COBOL]]という3つの[[高水準言語]]が開発された。これらは改良を加えられ現在でも使われており、その後の言語開発に重大な影響を与えた<ref name="influences">{{cite web | url=http://www.oreilly.com/news/graphics/prog_lang_poster.pdf | type=pdf | title=History of programming languages | author=[[オライリーメディア|O'Reilly Media]] | accessdate=2006年10月5日}}</ref>。1950年代末、[[ALGOL]]が登場し、その後の言語に様々な影響を与えている<ref name="influences"/>。初期のプログラミング言語の仕様と使い方は、当時のプログラミング環境の制約(パンチカードによるプログラム入力など)にも大きく影響されている<ref>Frank da Cruz. [http://www.columbia.edu/acis/history/cards.html IBM Punch Cards] [http://www.columbia.edu/acis/history/index.html Columbia University Computing History].</ref>。 === 改良 === [[1960年代]]から[[1970年代]]末ごろまでに、現在使われている主な言語パラダイムが開発されたが、その多くはごく初期の第三世代プログラミング言語のアイデアの改良である。 *[[APL]] - [[配列プログラミング]]を導入した言語。[[関数型言語|関数型プログラミング]]にも影響を与えた<ref>Richard L. Wexelblat: ''History of Programming Languages'', Academic Press, 1981, chapter XIV.</ref>。 *[[PL/I]] (NPL) - FORTRANとCOBOLの長所を取り入れて1960年代初期に設計された。 *[[Simula]] - 世界初(1960年代)の[[オブジェクト指向プログラミング]]を採用した言語。1970年代中頃には純粋なオブジェクト指向言語である[[Smalltalk]]が登場した。 *[[C言語]] - 1969年から1973年にかけて[[システムソフトウェア|システムプログラミング]]言語として開発され、現在でもよく使われている<ref>{{cite web | url=http://www.cs.berkeley.edu/~flab/languages.html | author=François Labelle | title=Programming Language Usage Graph | work=Sourceforge | accessdate=2006年6月21日}}. Sorceforge でのプロジェクト群で使われている言語の統計をとった結果である。C言語はよく使われているが、2006年には Java に抜かれている。ただし、C++を含めると一番多く使われていることになる。</ref>。 *[[Prolog]] - 1972年に設計された[[論理プログラミング]]言語。 *[[ML (プログラミング言語)|ML]] - 1978年に開発された言語で、LISPをベースとした[[静的型付け]][[関数型言語]]の先駆けとなった。 これらの言語のアイデアは様々な言語に引き継がれており、現在の言語の多くは、これらのいずれかの系統に属する。 1960年代と1970年代は、[[構造化プログラミング]]に関する論争が盛んに行われた時期でもある<ref>{{Cite journal | title=The Semicolon Wars | journal=American Scientist | first1=Brian | last1=Hayes | volume=94 | issue=4 | date=2006年 | pages=pp. 299-303}}</ref>。この論争で特に有名なものは、1968年にCommunications of the ACMに掲載された[[エドガー・ダイクストラ]]のレター''Go To Statement Considered Harmful''<ref>{{cite journal|last=Dijkstra|first=Edsger W.|authorlink=エドガー・ダイクストラ|title=Go To Statement Considered Harmful|journal=Communications of the ACM|volume=11|issue=3|date=March 1968|pages=147–148|url=http://www.acm.org/classics/oct95/|accessdate=2006年6月29日}}</ref>であろう。その後の反論と指針としては[[ドナルド・クヌース|クヌース]]の''Structured Programming with go to Statements''がある。 1960年代と1970年代は、プログラムのメモリ使用量を削減し、プログラマやユーザーの生産性を向上させる技法も進展した時期である。初期の[[第四世代言語]] (4GL) は、同じプログラムを第三世代プログラミング言語で書いたときよりもソースコードの量を劇的に削減した。 === 統合と成長 === [[1980年代]]は、相対的な統合の時代であった。[[C++]]は、オブジェクト指向とシステムプログラミングの統合である。アメリカでは、軍需に使うことを目的として[[Ada]]というシステムプログラミング言語が標準化された。日本などでは、論理プログラミングを応用した[[第五世代コンピュータ|第五世代言語]]の研究に資源を費やした<ref> Tetsuro Fujise, Takashi Chikayama, Kazuaki Rokusawa, Akihiko Nakase (December 1994). "KLIC: A Portable Implementation of KL1" ''Proc. of FGCS '94, ICOT'' Tokyo, December 1994. [http://www.icot.or.jp/ARCHIVE/HomePage.html 第五世代コンピュータ・プロジェクト・アーカイブ]</ref>。関数型言語コミュニティではMLとLISPの標準化の動きがあった。これらはいずれも新たなパラダイムを生み出そうというものではなく、それまでに生み出されたアイデアに改良を加える動きであった。 1980年代の重要な言語設計傾向の1つとして、大規模システムのためのプログラミングを目的として[[モジュール]]の概念を採り入れた点が挙げられる。1980年代にモジュールシステムを採り入れた言語として、[[Modula-2]]、Ada、MLがあるが、それ以前には、既に[[PL/I]]がモジュラープログラミングをサポートしていた。モジュールシステムは[[ジェネリックプログラミング]]の構成要素とされることが多い<ref>{{cite web|author=Jim Bender|url=http://readscheme.org/modules/|title=Mini-Bibliography on Modules for Functional Programming Languages|work=ReadScheme.org|accessdate=2006年9月27日|date=2004年3月15日}}</ref>。 [[1990年代]]中頃には、[[インターネット]]の急激な成長によって新たな言語が生み出される機会が生じた。[[Perl]]は1987年にリリースされたUNIX上のスクリプト言語だったが、[[ウェブサイト]]の動的コンテンツ作成に使われるようになった。[[Java]]はサーバ側のプログラミングに使われるようになった。 == 要素 == === 構文 === [[ファイル:Python_add5_syntax.svg|thumb|right|292px|[[シンタックスハイライト]]によりソースコードの構造や文法ミスを認識しやすくなる。ここでの言語は[[Python]]。]] プログラミング言語の見た目は、その構文(syntax・[[統語論]])で決定される。図形などを使う[[ビジュアルプログラミング言語|グラフィカルなプログラミング言語]]もあるが、たいていのプログラミング言語の[[ソースコード]]は[[文字列]]である。ファイル形式では[[プレーンテキスト]]すなわち[[テキストファイル]]が用いられる。 また、たいていのプログラミング言語では、まず、(英語では lexical syntax などと呼ぶ)ソースの文字列から空白類を取り除き最小の意味のあるカタマリを取り出した「[[字句]](トークン)」があり、構文は字句の並びである、という扱いのことが多い。字句を切り出して分類する処理を[[字句解析]]、その並びを調べる処理を[[構文解析]]という。 (字句解析のために)字句規則を示すのには[[正規表現]]が、そして(構文解析のために)構文規則を示すのには[[バッカス・ナウア記法]]が使われることが多い。 下記は[[LISP]]の構文の一部分である。 #<var>expression</var> ::= <var>atom</var> | <var>list</var> #<var>atom</var> ::= <var>number</var> | <var>symbol</var> #<var>number</var> ::= [<nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">+</code><nowiki>'</nowiki><nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">-</code><nowiki>'</nowiki>]?[<nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">0</code><nowiki>'</nowiki>-<nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">9</code><nowiki>'</nowiki>]+ #<var>symbol</var> ::= [<nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">A</code><nowiki>'</nowiki>-<nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">Z</code><nowiki>'</nowiki><nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">a</code><nowiki>'</nowiki>-<nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">z</code><nowiki>'</nowiki>][^<nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold"> </code><nowiki>'</nowiki>]* #<var>list</var> ::= <nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">(</code><nowiki>'</nowiki> <var>expression</var>* <nowiki>'</nowiki><code style="font-family:monospace;font-weight:bold">)</code><nowiki>'</nowiki> これは、次のような規則である。 * <var>expression</var> は <var>atom</var> または <var>list</var> である。 * <var>atom</var> は <var>number</var> または <var>symbol</var> である。 * <var>number</var> は1文字以上の数字列であり、オプションとして符号が前置される(空白は含まない)。 * <var>symbol</var> はアルファベットで始まる任意の文字列である(空白は含まない)。 * <var>list</var> は括弧記号の対であり、その間に0個以上の <var>expression</var> がある。 これに従う例として、<code>12345</code>、<code>()</code>、<code>(a b c232 (1))</code> などがある。 構文上正しいプログラムが全て意味的に整合しているとは限らない、という設計の言語も多い<ref group="注釈">自然言語では [[Colorless green ideas sleep furiously]]. という例文がある。</ref><ref group="注釈">その言語の設計次第である。構文的に正しければ必ず整合した意味を持つような設計というものもありうる。</ref>。また、意味的に整合していても、それを書いた人が、自分の意図を正しく反映できていない場合もある。 以下のLISPのコード断片は構文上は正しいが、意味的には問題がある。変数 <code>employees</code> には従業員データのリストを入れるべきものであるが、<code>employees</code> は実際には空(<code>nil</code>)なので、<code>employees</code> がリストであることを前提に、<code>employees</code> の後続部分を求める式 <code>(cdr employees)</code> は評価できずエラーになる。 <syntaxhighlight lang="lisp"> (let ((employees nil)) (cdr employees)) </syntaxhighlight> === 意味 === 自然言語の[[言語学]]に、そのプログラムが表現しているものは何か、というのが、プログラミング言語の「意味」である。たとえば「<code>a + b</code> という式の値は、aの値とbの値を加算した値である」といったような規則の集まりであり、[[プログラム意味論]]という分野で形式的な意味論([[形式意味論]]、{{lang-en-short|formal semantics}})も研究されているが、C言語の標準規格など、自然言語で意味を与えている言語や、形式的でない擬似言語のようなもので与えている言語もある。 === 型システム === {{Main|型システム}} [[型システム]]は、プログラミング言語において式の値となる[[データ型]]について、[[型理論]]にもとづいて分類しどう扱うかを示すものである。 また、内部的には、ディジタルコンピュータでは全ての[[データ]]は[[バイナリ]]([[二進法]])で保持される。 ==== 型のある言語とない言語 ==== 型のある言語は、[[型システム]]によって、それぞれの値の[[データ型]]に応じて、定義されていない操作が実行されないよう(多かれ少なかれ)チェックされる機構を持つ<ref name="typing">{{cite web | url=http://www.acooke.org/andrew/writing/lang.html#sec-types | author=Andrew Cooke | title=An Introduction to Programming Languages | accessdate=2006年6月30日}}</ref>。 例えば、<code>"this text between the quotes"</code> は文字列型の値である。ふつう、数を文字列で割る操作には意味がない。そのため、そのようなプログラムは拒絶する。言語によっては、コンパイル時に検出し(静的型検査)コンパイルを失敗とする。言語によっては、実行時に検出し(動的型検査)、例外とするものもあればなんらかのコアーション(型の強制)を行うものもある。(理論的には、静的なシステムのみを指して「[[型システム]]」とすることもある) (型のある言語の特殊例として、単一型言語がある。[[REXX]]といったスクリプト言語や[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]といったマークアップ言語は、単一のデータ型しか扱わない。多くの場合、そのときのデータ型は文字列型である。 [[アセンブリ言語]]などの型のない言語は、任意のデータに任意の操作を実行可能であり、データは単にある長さのビット列として扱われる<ref name="typing"/>。ある程度高い機能を持ちつつも型が無い(あるいは単一型の)プログラミング言語の例としては、[[BCPL]]や[[Forth]]などがある(型という概念自体が無いわけではない。例えば「浮動小数点に対する加算」という演算子といったものは存在する。ただしその演算子により、オペランドが何であれそのワードのビットパターンが浮動小数点数を表現しているものとみなされて加算される、といったようなことになる)。 「多かれ少なかれ」と書いたように、「強い」型システムの言語は少なく、多くの言語はそれなりの型システムを採用している<ref name="typing"/>。多くの実用的な言語には、型システムを迂回または打倒するような手段が用意されている。 ==== 静的型付けと動的型付け ==== [[静的型付け]](静的型付き言語<ref>{{lang-en-short|statically typed language}}</ref>)では、全ての式の型はそのプログラムを実行する前(一般にコンパイル時)に決定される。例えば、1とか(2+2)という式は整数型であり、文字列を期待している関数には渡せず、日付(型)を格納するよう定義された変数には代入できない<ref name="typing"/>。 静的型付けでは、型を明記する場合と[[型推論]]を行う場合がある。前者ではプログラマは適切な位置に型を明記しなければならない<ref group="注釈">たとえば変数の宣言などでは、その名前の直前ないし直後といったことが多い。ただしC言語では「void (*signal(int sig, void (*func)(int)))(int);」などといったように、いったいどこにあるのが名前なのか型なのか、全くわからないことになることがある。</ref>。後者では、コンパイラが式の型を文脈から推論する。[[C++]]や[[Java]]などの主な静的型付き言語では、型を明記する。完全な型推論は主流でない言語に使われている([[Haskell]]や[[ML (プログラミング言語)|ML]])。ただし、型を明記する言語でも部分的な型推論をサポートしていることが多い。たとえば、[[Java]]や[[C Sharp|C#]]では限定された状況で型推論を行う。 [[動的型付け]](動的型付き言語<ref>{{lang-en-short|dynamically typed language}}</ref>)では、型の安全性は実行時に検査される。言い換えれば、型はソース上の式ではなく、実行時の値に対して付与される<ref name="typing"/>。型推論言語と同様、動的型付き言語でも式や変数の型を明記する必要はない。また、ある1つの変数がプログラム実行中に異なる型の値を格納することも可能である。しかし、コードを実際に実行してみるまで型の間違いを自動的に検出することができず、[[デバッグ]]がやや難しい。動的型付き言語としては、[[Ruby]]、[[LISP]]、[[JavaScript]]、[[Python]]などがある。 ==== 強い型付けと弱い型付け ==== {{see|型システム#強い型付けと弱い型付け}} === 実行意味論 === データを入力されれば、コンピュータはそのデータに対して何らかの処理を実行する。「実行意味論({{lang-en-short|execution semantics}})」とは、プログラミング言語の構成要素がどの時点でどのようにして、そのプログラムの振る舞いを生成するのかを定義するものである。 例えば、式の[[評価戦略]]([[先行評価]]、[[部分評価]]、[[遅延評価]]、[[短絡評価]]など)は実行意味論の一部である。また、[[制御構造]]における条件付実行の作法も実行意味論の一部である。 === 標準ライブラリ === {{seealso|ランタイムライブラリ}} 「ライブラリ」は、プログラムを書いたり使用する上での、補助的なルーチン群である。多くのプログラミング言語には、言語仕様の一部、あるいは言語本体の仕様とは独立していることもあるが、標準[[ライブラリ]]の仕様もほぼ必ず存在し、その言語の実装には標準ライブラリの実装もほぼ必ず付属する。標準ライブラリには、典型的な[[アルゴリズム]]、[[データ構造]]、[[入出力]]機構などが含まれることが多い。 ユーザーから見れば、標準ライブラリも言語の一部だが、設計者から見れば別の実体である。言語仕様には必ず実装しなければならない部分が定義されており、標準化された言語の場合、それには標準ライブラリも含まれる。言語とその標準ライブラリの境界は、言語によって様々である。実際、言語によっては一部の言語機能が標準ライブラリなしでは使えないこともある(たとえば累乗の演算子がある言語があるが、それのコンパイル結果はその言語の多くの処理系で関数呼出であろう。それが、言語仕様として標準ライブラリの該当する関数を呼び出すよう決められているような場合は「一部の言語機能が標準ライブラリなしでは使えない」ということになる)。 マクロもライブラリに含まれることも多い。たとえばC言語の標準には、いくつかの名前が関数ではなくマクロで提供されるかもしれない、といったような規定などがある。また[[Lisp]]系の言語では、いわゆる特殊形式の多くが言語組込ではなくマクロでも実装可能であり、ifとcondのようにどちらか片方は必要だが、片方があればもう片方はマクロにできる、といったようなものもある。[[Scheme]]の標準規格は、どれを言語組込とし、どれをマクロとするか、ほとんどを処理系実装者の自由に任せている。 == 設計と実装 == コンピュータ・プログラミング言語の設計は「言語仕様」として示され、実装は「言語処理系」と呼ばれる。以下はそれらについての概観である。 === 仕様 === 前述のようにプログラミング言語は構文と意味から成るから、仕様についても、構文仕様と意味仕様がある。 ==== 構文仕様 ==== 構文仕様は一般に[[バッカス・ナウア記法]]などによって形式的に示される。 ==== 意味仕様 ==== 意味論の仕様は、自然言語などで記述されることが多いが、形式的に与えられている言語もある。 形式意味論([[プログラム意味論]]の記事も参照)で意味論を記述した例として [[Standard ML]]<ref>{{cite book | last = Milner | first = R. | authorlink = ロビン・ミルナー| coauthors = M. Tofte, R. Harper and D. MacQueen. | title = The Definition of Standard ML (Revised) | publisher = MIT Press | date = 1997年 | id = ISBN 0-262-63181-4 }}</ref> や [[Scheme]]<ref>{{cite web|first=Richard |last=Kelsey|coauthors=William Clinger and Jonathan Rees|title=Section 7.2 Formal semantics|work=Revised<sup>5</sup> Report on the Algorithmic Language Scheme|url = http://www.schemers.org/Documents/Standards/R5RS/HTML/r5rs-Z-H-10.html#%_sec_7.2| date=1998年2月|accessdate=2006年6月9日}}</ref> がある。 === その他 === 他に、以下のようなスタイルで仕様が与えられている言語もある。 * その言語の処理系の[[リファレンス実装]]やモデル実装として示されているもの ** その言語の[[コンパイラ]](FORTRAN) ** その言語の[[インタプリタ]](Ruby(cruby、ただしRubyの標準化以前の場合)) ** 対象言語自身で書かれることもある(例えば、[[LISP]] や [[Prolog]] や [[REXX|ANSI REXX]]<ref>[[ANSI]] — Programming Language Rexx, X3-274.1996</ref>)[[:en:Meta-circular evaluator]] も参照のこと。 === 処理系 === プログラミング言語の実装は、プログラミング言語処理系と呼ばれる。[[コンパイラ]]は、[[ソースコード]]などの入力を[[中間表現]]などの、より解釈実行しやすい表現に変換する処理系である。また、[[インタプリタ]]は、入力されたプログラムを解釈実行する処理系である(ハードウェアの[[プロセッサ]]は、[[機械語]]を解釈実行する[[インタプリタ]]である、と見ることができる)。 コンパイラとインタプリタの関係は、理論的には[[部分評価#二村射影|二村射影]]により定式化されている。 なお、「大きく分けて2つの方法がある。[[コンパイラ]]と[[インタプリタ]]である。一般にある言語をコンパイラとインタプリタの両方で実装することが可能である。」などといったように(従来書かれた通俗的解説書などには大変多いが)理解していると、Javaなど近年の多くの言語処理系のスタイルが全くわからない、ということになる。 ([[機械語]]にまで変換するもののみを指して[[コンパイラ]]と呼びたがる向きが一部にあり、その立場にもある程度は理もあるのだが、そうするとJavaの一般的な実装を指す用語が無くなる) 「コンパイラの出力したものをインタプリタで実行する方式は、コンパイラとインタプリタの区別が曖昧な場合もある。」などという変な説明をする者もいるが、前述したように、そもそも間違った2分法で考えているから、そのような変な考え方になるのである。 一般に、機械語に変換したもの([[実行ファイル]])を直接ハードウェアで実行する方が、インタプリタで実行するよりもずっと高速である。インタプリタでの実行を改善する技法として、[[実行時コンパイラ]]などの[[動的コンパイル]]手法がある。 <!-- 独自研究 == 意義と目的 == (コンピュータ)プログラミング言語は、おもに[[英語]]の単語と記号を組み合わせた(英語である必然性はひと欠片も無いが)、特殊な[[文法]](正確には「構文」。誰にとって特殊かは不明だが)で記述される。その意義は、人とコンピュータの意思疎通を容易にするため、数字の羅列に代えて人間に扱いやすい言語形式を提供することにある。プログラミング言語があれば、人は扱いやすく理解できる言葉でコンピュータへの指示を書くことができる。プログラミング言語で書かれたコードは、[[アセンブリ言語#アセンブラ|アセンブラ]]、[[コンパイラ]]、[[インタプリタ]]など「プログラミング言語処理系」と呼ばれるプログラムによって処理(機械語あるいは[[中間表現]]に変換されたり、解釈実行されたり)される。 --> == 言語利用状況の計測 == どのプログラミング言語が最もよく使われているかを判断することは難しい。また、利用という意味も文脈によって異なる。プログラマの工数、[[コード行数|コードの行数]]、{{要出典範囲|CPU時間|date=2021年6月}}などが尺度として考えられる。ある言語は特定分野のアプリケーションだけでよく使われているということもある。例えば[[COBOL]]は企業のデータセンター([[メインフレーム]]であることが多い)では今でも使われているし、[[FORTRAN]]は科学技術計算でよく使われ、[[C言語]]は組み込みシステムやオペレーティングシステムで使われている。 以下のように言語利用状況の尺度は様々であり、どれを選択しても一種のバイアスがかかっていると考えた方がよい。 * プログラマなどの求人広告で言語が言及されている回数<ref>[http://www.computerweekly.com/Articles/2007/09/11/226631/sslcomputer-weekly-it-salary-survey-finance-boom-drives-it-job.htm Survey of Job advertisements mentioning a given language]</ref> * 言語に関する書籍(入門書など)の販売部数<ref>[http://radar.oreilly.com/archives/2006/08/programming_language_trends_1.html Counting programming languages by book sales] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080517023127/http://radar.oreilly.com/archives/2006/08/programming_language_trends_1.html |date=2008年5月17日 }}</ref> * 言語ごとの既存のコード行数の推計。公開調査で見逃しやすい言語は少なく推定される傾向がある。<ref>Bieman, J.M.; Murdock, V., Finding code on the World Wide Web: a preliminary investigation, Proceedings First IEEE International Workshop on Source Code Analysis and Manipulation, 2001</ref> * 検索エンジンが見つけた各言語への参照の回数 === 実際の指標の例 === * [https://www.tiobe.com/tiobe-index/ TIOBE Index] <!-- == 定義 == --> <!-- ; 機能 :プログラミング言語は[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を書くのに使われる言語であり、それによって[[コンピュータ]]は何らかの計算<ref>{{cite web|author=[[Association for Computing Machinery|ACM]] SIGPLAN|title=Bylaws of the Special Interest Group on Programming Languages of the Association for Computing Machinery|url=http://www.acm.org/sigs/sigplan/sigplan_bylaws.htm|accessdate=2006年6月19日|date=2003年}}, ''The scope of SIGPLAN is the theory, design, implementation, description, and application of computer programming languages - languages that permit the specification of a variety of different computations, thereby providing the user with significant control (immediate or delayed) over the computer's operation.''</ref>や[[アルゴリズム]]を実行し、場合によっては[[プリンター]]や[[ロボット]]<ref name="robots">{{cite web|url=http://www.cs.brown.edu/people/tld/courses/cs148/02/programming.html |title=Programming Robots |accessdate=2006年9月23日 |last=Dean |first=Tom |date=2002年 |work=Building Intelligent Robots |publisher=Brown University Department of Computer Science}}</ref>などの外部装置を制御する。 --> <!-- {{要出典範囲|プログラミング言語には、[[データ構造]]を定義し操作する構成要素と、[[制御構造|実行の流れ]]を制御する構成要素がある。|date=2021年4月}} --> == プログラミング言語と自然言語 == プログラミング言語は人間同士の会話と比較して、正確性と完全性の要求性が非常に高いという特徴がある。自然言語で人間同士が対話する場合、スペルミスや文法的なエラーがあっても相手は状況から適当に補正し、正確な内容を把握する。しかしコンピュータは指示が曖昧では動作せず、プログラマがコードに込めた意図を理解させることはできない。 プログラミングにおけるプログラミング言語の必要性を排除する方法として[[自然言語]]によるプログラムが構想されたり提案されることもあるが、その方向性は実用化には達しておらず、議論が続いている。[[エドガー・ダイクストラ]]は形式言語の使用によって意味のない命令を防ぐという立場で、自然言語によるプログラミングを批判していた<ref>Dijkstra, Edsger W. [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD06xx/EWD667.html On the foolishness of "natural language programming."] EWD667.</ref>。[[アラン・パリス]]も同様の立場であった<ref>Perlis, Alan, [http://www-pu.informatik.uni-tuebingen.de/users/klaeren/epigrams.html Epigrams on Programming]. SIGPLAN Notices Vol. 17, No. 9, September 1982, pp. 7-13</ref>。 このあたりの歴史的に錯綜した議論は、結局のところ「コンピュータを活用するにはプログラミングが必要であり、プログラミングはプログラミング言語で行われる」というある種の教条([[ドグマ]])が、次の2つの事象に分解されることで無意味な議論になった。すなわち「コンピュータをほどほどに活用する程度のことならば、各種アプリケーションソフトウェアや自然言語認識や自然言語処理技術の活用など(スマートスピーカーなど)により、利用者が自分でプログラミングすることは必ずしも必要ではなくなった」ということと「コンピュータのより徹底した活用、具体的にはそういった自然言語認識や自然言語処理のシステムそのものを作るには、プログラミングが必要ということは全く相変わらずであり、プログラミング言語の重要性は増えこそすれ、減りはしない」ということである。 ;自然言語との違い プログラミング言語は、もともと[[人間]]がコンピュータに命令を伝えその実行方法を指示するために作られたものであり、コンピュータが曖昧さなく解析できるように設計されている。多くの場合構文上の間違いは許されず、人間はプログラミング言語の文法に厳密にしたがった文を入力しなければならない。 これに対して、一般に[[自然言語]]の文法規則はプログラミング言語にくらべてはるかに複雑であり、例外も多い。ただしこれは規則が一般にいいかげんであったり、曖昧であるということではない。一般に自然言語の規則は奥が深く、驚くほどの非合理性に裏打ちされていることもあれば、驚くほどの合理性に裏打ちされていることもある。驚くほどの非合理性でも合理性でもないものに裏打ちされていることもあれば、驚くほどの裏打ちの無さがあることもある。 また、自然言語の意味は、その文脈(コンテキスト)によって定まる部分も多い。これに対して、プログラミング言語は、コンピュータによって扱いやすいように、文脈によって意味が変わることができるだけないように設計されているが、その文脈によって定まる部分がある場合も無くはない。たいていの言語にいくつかはある。 自然言語は、誤用や流行などにより長い時間をかけ、たくさんの人間の利用により、意図せざる形で変化していく。しかし、プログラミング言語の規則は、言語設計者の意図と作業によってのみ、変更される。実際には言語設計者が「たくさんの人間」である場合もあり(仕様が簡単な言語であれば多くの実装者がいることも多く、そういう場合は個々の実装ごとのその仕様があるとも言える)、長い時間をかけ、自然言語と全く同様にたくさんの人間の利用により変化してきたプログラミング言語もある(Lispなど)。また、プログラミング言語にも同様に流行があり、もともとの言語仕様では規定が無かったような一種の「誤用」に、後から仕様が定められる、といったことも必ずしも珍しくはない。 人間がふだん使っている[[日本語]]などの[[自然言語]]を使って[[コンピュータ]]に指示することができるのが理想ではある、と空想する者もいる。しかし、自然言語はあまりにも複雑で曖昧で変則的なので、それを機械語にコンパイルできるようなプログラムを作成することはとても難しい(コンパイルできるできないの問題ではなく、そもそもその意味が「複雑で曖昧で変則的」であること自体が問題なのだが、それを理解できない者が冒頭のように空想するのである)。そのような研究も進められているが、未だに汎用で実用になるプログラムは作成されたことがない。 そこで、自然言語よりも制限が強く、単純で厳密で規則的な人工言語を作って代用する。これが'''プログラミング言語'''である。プログラミング言語は自然言語よりもいくらか人間には扱いづらいが、機械語よりは遥かに親しみやすく、人間の指示の手間を軽減している。ちなみにコンピュータ向けの形式性と人間向けの柔軟性を兼ね備える[[ロジバン]]など、本来の開発目的が違えど潜在的に一つのプログラミング言語として機能しうるものもある。 大部分のプログラミング言語は、基本的には概ね[[文脈自由文法]]に沿っているが、プログラミング言語における文法的な制限は必ずしも全て文脈自由文法で表現できるとは限らず、文脈自由文法より制限されていることもあれば文脈自由文法より拡張されていることもあり、多くの場合は文脈自由文法には完全には沿っていない。 なおプログラミングへの応用も想定して設計された[[ロジバン]]のように、人間の言語とプログラミング言語の中間に位置するものがある。 ==日本語における名称== 古い規格ではあるが[[日本産業規格]]の JIS X 3000 シリーズの規格名称では、全て「プログラム言語」になっている(例: JIS X 3001 プログラム言語 [[FORTRAN|Fortran]]、JIS X 3014 プログラム言語 [[C++]])ため、それに合わせてプログラム言語と表記されることもあるが、英語では programming language であるため、それに合わせればプログラミング言語となり、近年ではプログラミング言語と表記されることが多い。<ref group="注釈">1960年代、JISでは「プログラム言語」の訳語が用いられた(JIS C 6201-1967「電子計算機プログラム言語FORTRAN」)。このため'''プログラム言語'''としている例もJISをはじめとして広く見られるが、英フレーズ programming language に当てる語として{{要出典範囲|date=2019-08|必ずしも適切とは言えない。}}</ref> なお言語名が「C」や「D」のように1文字の名称の場合、そのままの表記では文章中に埋没してしまい判別しづらいなどの不都合がある場合もあるので、たとえ登録されている正式名称があくまで「C」などと一文字であっても、通常の文章中で表記する場合は、技術書なども含めて、しばしば「C言語」などと文字の後ろに「言語」を添えて表記される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2021年4月}} *Daniel P. Friedman, Mitchell Wand, Christopher Thomas Haynes: ''Essentials of Programming Languages'', The MIT Press 2001. *David Gelernter, Suresh Jagannathan: ''Programming Linguistics'', The MIT Press 1990. *Shriram Krishnamurthi: ''Programming Languages: Application and Interpretation'', [http://www.cs.brown.edu/~sk/Publications/Books/ProgLangs/ オンライン版]. *Bruce J. MacLennan: ''Principles of Programming Languages: Design, Evaluation, and Implementation'', Oxford University Press 1999. *John C. Mitchell: ''Concepts in Programming Languages'', Cambridge University Press 2002. *Benjamin C. Pierce: ''Types and Programming Languages'', The MIT Press 2002. *Ravi Sethi: ''Programming Languages: Concepts and Constructs'', 2nd ed., Addison-Wesley 1996. *Michael L. Scott: ''Programming Language Pragmatics'', Morgan Kaufmann Publishers 2005. *Richard L. Wexelblat (ed.): ''History of Programming Languages'', Academic Press 1981. == 関連項目 == * [[プログラミング言語一覧]] == 外部リンク == *[https://www.tiobe.com/tiobe-index/ {{lang|en|TIOBE Index}}] - プログラミング言語の番付け *[http://www.99-bottles-of-beer.net/ 99 Bottles of Beer] 同じプログラムを多数の言語で実装したコードを公開 *[https://www.levenez.com/lang/ Computer Languages History graphical chart] *[http://cgibin.erols.com/ziring/cgi-bin/cep/cep.pl Dictionary of Programming Languages] *[https://web.archive.org/web/20110220044217/http://hopl.murdoch.edu.au/ History of Programming Languages(HOPL)] *[http://dmoz.org/Computers/Programming/Languages/ Open Directory - Computer Programming Languages] *[http://merd.sourceforge.net/pixel/language-study/syntax-across-languages/ Syntax Patterns for Various Languages] *[http://www.ulb.ac.be/di/rwuyts/INFO020_2003/grogono-evolution.pdf The Evolution of Programming Languages] by Peter Grogono *[http://kikakurui.com/x3/index.html JIS(日本産業規格)X3(プログラム言語)] * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{プログラミング言語一覧}} {{プログラミング言語の関連項目}} {{コンピュータ科学}} {{DEFAULTSORT:ふろくらみんくけんこ}} [[Category:プログラミング言語|*]] [[Category:コンピュータ言語]] [[Category:プログラミング]]
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人工知能
人工知能(じんこうちのう、英: artificial intelligence)、AI(エーアイ)とは、「『計算(computation)』という概念と『コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学(computer science)の一分野」を指す語。「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピュータに行わせる技術」、または、「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」ともされる。大学でAI教育研究は、情報工学科や情報理工学科コンピュータ科学専攻などの組織で行われている(工学〔エンジニアリング〕とは、数学・化学・物理学などの基礎科学を工業生産に応用する学問)。 『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説で、情報工学者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている。 1200の大学で使用された事例がある計算機科学の教科書『エージェントアプローチ人工知能』は、最終章最終節「結論」で、未来はどちらへ向かうのだろうか?と述べて次のように続ける。SF作家らは、筋書きを面白くするためにディストピア的未来を好む傾向がある。しかし今までのAIや他の革命的な科学技術(出版・配管・航空旅行・電話システム)について言えば、これらの科学技術は全て好影響を与えてきた。同時にこれらは不利な階級へ悪影響を与えており、われわれは悪影響を最小限に抑えるために投資するのがよいだろう。論理的限界まで改良されたAIが、従来の革命的技術と違って人間の至高性を脅かす可能性もある。前掲書の「結論」は、次の文で締めくくられている。 人間の知的能力をコンピュータ上で実現する、様々な技術・ソフトウェア群・コンピュータシステム、アルゴリズムとも言われる。主力な特化型AIとしては、 等がある。 人工知能という分野では、コンピュータの黎明期である1950年代から研究開発が行われ続けており、第1次の「探索と推論」,第2次の「知識表現」というパラダイムで2回のブームが起きたが、社会が期待する水準に到達しなかったことから各々のブームの後に冬の時代を経験した。 しかし2012年以降、Alexnetの登場で画像処理におけるディープラーニングの有用性が競技会で世界的に認知され、急速に研究が活発となり、第3次人工知能ブームが到来。2016年から2017年にかけて、ディープラーニングと強化学習(Q学習、方策勾配法)を導入したAIが完全情報ゲームである囲碁などのトップ棋士、さらに不完全情報ゲームであるポーカーの世界トップクラスのプレイヤーも破り、麻雀では「Microsoft Suphx(Super Phoenix)」がオンライン対戦サイト「天鳳」でAIとして初めて十段に到達するなど最先端技術として注目された。第3次人工知能ブームの主な革命は、自然言語処理、センサーによる画像処理など視覚的側面が特に顕著であるが、社会学、倫理学、技術開発、経済学などの分野にも大きな影響を及ぼしている。 第3次人工知能ブームが続く中、2022年11月30日にOpenAIからリリースされた生成AIであるChatGPTが質問に対する柔軟な回答によって注目を集めたことで、企業間で生成AIの開発競争が始まるとともに、積極的に実務に応用されるようになった。この社会現象を第4次人工知能ブームと呼ぶ者も現れている。 一方、スチュアート・ラッセルらの『エージェントアプローチ人工知能』は人工知能の主なリスクとして致死性自律兵器、監視と説得、偏った意思決定、雇用への影響、セーフティ・クリティカル〔安全重視〕な応用、サイバーセキュリティを挙げている。またラッセルらは『ネイチャー』で、人工知能による生物の繁栄と自滅の可能性や倫理的課題についても論じている。マイクロソフトは「AI for Good Lab」(善きAI研究所)を設置し、eラーニングサービス「DeepLearning.AI」と提携している 。 Googleはアレン脳科学研究所と連携し脳スキャンによって生まれた大量のデータを処理するためのソフトウェアを開発している。2016年の時点で、Googleが管理しているBrainmapのデータ量はすでに1ゼタバイトに達しているという。Googleは、ドイツのマックスプランク研究所とも共同研究を始めており、脳の電子顕微鏡写真から神経回路を再構成するという研究を行っている。 中国では2016年の第13次5カ年計画からAIを国家プロジェクトに位置づけ、脳研究プロジェクトとして中国脳計画(英語版)も立ち上げ、官民一体でAIの研究開発を推進している。中国の教育機関では18歳以下の天才児を集めて公然とAI兵器の開発に投じられてもいる。マサチューセッツ工科大学(MIT)のエリック・ブリニョルフソン(英語版)教授や情報技術イノベーション財団(英語版)などによれば、中国ではプライバシー意識の強い欧米と比較してAIの研究や新技術の実験をしやすい環境にあるとされている。日本でスーパーコンピュータの研究開発を推進している齊藤元章もAIの開発において中国がリードする可能性を主張している。世界のディープラーニング用計算機の4分の3は中国が占めてるともされる。米国政府によれば、2013年からディープラーニングに関する論文数では中国が米国を超えて世界一となっている。FRVT(英語版)やImageNetなどAIの世界的な大会でも中国勢が上位を独占している。大手AI企業Google、マイクロソフト、Appleなどの幹部でもあった台湾系アメリカ人科学者の李開復は中国がAIで覇権を握りつつあるとする『AI超大国:中国、シリコンバレーと新世界秩序(英語版)』を著してアメリカの政界やメディアなどが取り上げた。 フランス大統領エマニュエル・マクロンはAI分野の開発支援に向け5年で15億ドルを支出すると宣言し、AI研究所をパリに開き、フェイスブック、グーグル、サムスン、DeepMind、富士通などを招致した。イギリスともAI研究における長期的な連携も決定されている。EU全体としても、「Horizon 2020」計画を通じて、215億ユーロが投じられる方向。韓国は、20億ドルを2022年までに投資をする。6つのAI機関を設立し褒賞制度も作られた。目標は2022年までにAIの世界トップ4に入ることだという。 日経新聞調べによると、国別のAI研究論文数は1位米国、2位中国、3位インド、日本は7位だった。 日本も加盟する経済協力開発機構(OECD)は、人工知能が労働市場に大きな影響を与える可能性が高いと警告しているが、2023年時点ではまだその兆候は見られない。人工知能の爆発的な普及は、世界の労働市場をまもなく一変させる可能性がある。日本を含む各国政府は、人工知能のような高度なスキルを持つ人材を育成し、低所得労働者の福祉を向上させるべきである。日本も加盟しているOECDは、高齢者やスキルの低い人々に人工知能の訓練を義務付けている。人工知能のような新興かつ高度なスキルが求められる時代は、従来のスキルがすでに時代遅れで使い物にならないということでもある。計算神経科学者が忠告しているように、すでに、人工知能がすべてを変える、加速する変化と生涯学習の時代になった。 2024年の人工知能の展望については、従来の人工知能はビッグデータの単純明快な課題から学習して複雑な課題を解決することは得意であるが、新しい未知の種類のデータや学習データの少ない複雑な課題は苦手なので、2024年は学習データの少ない人工知能の開発が重要になる。人間の基本的な欲求や宇宙の理解に取り組む人工知能は、特に学習データが少ない状況に対応することが予想される。人工知能開発ツールの自動化、人工知能の基盤モデルの透明化、話題の映像自動生成人工知能の成功も期待される。また、学習言語データは欧米言語が中心であるため、人工知能格差の拡大を防ぐために、欧米言語以外の学習データにも取り組む動きが世界的に広がっている。 計算神経科学や人工知能の産物であるChatGPTと同様の言語モデルは、逆に今、脳神経科学研究の理解に寄与している。 医療現場ではAIが多く活用されており、最も早く導入されたのは画像診断と言われている。レントゲンやMRI画像の異常部分を検知することで、病気の見逃し発見と早期発見に役立っている。また、AIがカルテの記載内容や患者の問診結果などを解析できるよう、自然言語処理技術の発展も進んでいる。今後はゲノム解析による疾病診断、レセプトの自動作成、新薬の開発などが行えるよう期待されている。 また、症例が少ない希少疾患の場合、患者の個人情報の保護が重要になるため、データを暗号化した状態で統計解析を行う秘密計算技術にAIを活用して、データの前処理、学習、推論を行えることを目指す研究が行われている。 AIを搭載した収穫ロボットを導入することで、重労働である農作業の負担を減らしたり、病害虫が発生している個所をAIでピンポイントで見つけだして、農薬散布量を必要最小限に抑えたりすることが可能になる。また、AIで事前に収穫量を正確に予測できれば、出荷量の調整にも役立つ。 Googleは農作物のスキャニングと成長記録を行う農業AIロボット「Don Roverto」を開発。多くの苗の個体識別を行い実験を繰り返すことで、厳しい環境下でも耐えられる気候変動に強い種を瞬時に見つけ出せる。 子どものネット上の安全に人工知能を入れることは、国連や欧州連合で継続的に注目されている。 2022年秋にChatGPTが公開されて以来、生成AIの活用も日常化しつつある。人工知能は未だに指示(専門用語でプロンプトと言う)に対して誤った回答を返すことも多いため、誤った回答を抑制するための過渡期の手法としてプロンプトエンジニアリングという手法も実践されている。加速度的な人工知能の性能向上を考慮した場合、遅くとも2020年代の内には人間との対話と同等の質問応答が可能となるため、プロンプトに対する人工知能特有の工夫は不要となる見通しがある。 2023年4月に自動車の自動運転は、レベル4(一定条件下で完全に自動化した公道での走行)が解禁された。福井県永平寺町では実証実験に成功しており、2023年度中に運転許可を申請する方向で検討している。 2023年10月、『ネイチャー』誌で、ウィキペディアの信頼性が人工知能によってついに向上する可能性が示された。 2023年現在、人工知能を用いたサービスが日常生活に浸透してきている。PCやスマートフォンの画像認識による生体認証や音声認識によるアシスタント機能はすでに普通のサービスとなっている。AIスピーカーが普及してきており、中国製掃除ロボットに自動運転技術が応用されている。人工知能は、台風被害の予測、地震被災者の支援、健康のための大気汚染の把握などにも応用されている。 音楽分野においては、既存の曲を学習することで、特定の作曲家の作風を真似て作曲する自動作曲ソフトが登場している。またリズムゲームに使われるタッチ位置を示した譜面を楽曲から自動生成するなど分野に特化したシステムも開発されている。また、特定の音声を学習させて、声優の仕事を代替したり、特定のキャラクターや歌手などの声で歌わせたりなどが行われており、規制やルール作りなどの必要性が議論されている。また前述した音声学習を用いて1つのトラックから特定の楽器や歌声を取り出す「デミックス」と呼ばれる技術も登場しており、ビーチ・ボーイズやビートルズなどはこれを活用してトラック数の少ない時代の楽曲をリミックスして新たなステレオ・ミックスを作成したり、セッション・テープが破棄されたりマルチ・テープの音源に欠落がありモノラルしか存在しなかった楽曲のステレオ化をするなどしている。2023年にビートルズが発表したシングル『ナウ・アンド・ゼン』ではジョン・レノンが1970年代に録音したカセットテープからボーカルを抽出するのに使われた。 画像生成の技術としては、VAE、GAN、拡散モデルといった大きく分けて三種類が存在する。絵画分野においては、コンセプトアート用背景やアニメーションの中割の自動生成、モノクロ漫画の自動彩色など、人間の作業を補助するAIが実現している。AIに自然言語で指定したイラスト生成させるサービス(Stable Diffusionなど)も登場している。このような人工知能を利用して制作された絵画は「人工知能アート(Artificial intelligence art)」と呼ばれているが、教師データとして利用された著作物の知的財産権などを巡り、深刻な懸念が広がっている。 人工知能は、絶滅危惧言語や生物多様性の保護にも応用されている。学術的に構造化された文献レビューとして通常質の高い証拠とされる統計的な文献分析や、学術的な風土のために発表できなかった研究などの問題を考慮した体系的な見方を提供することに加え、さらに人工知能や自然言語処理機能を用いた厳密で透明性の高い分析を行うことで、科学的な再現性の危機をある程度解決しようと試みている。 将棋AIは人間同士・AI同士の対局から学習して新しい戦法を生み出しているが、プロ棋士(人間)の感覚では不可解ながら実際に指すと有用であるという。 スポーツの分野では、AIは選手の怪我のリスクやチームのパフォーマンスを予測するのに役立つ。 メタ分析によれば、AIが政治的な意思決定を行うことも、2020年時点では学術界ではまだ注目されておらず、AIと政治に関するトピックは、学術界ではビッグデータやソーシャルメディアにおける政治的問題に関する研究が中心となっていた。人工知能による人類絶滅の危険を懸念する声が存在するが 、一方で平和を促進するための文化的な応用も存在する。系統的レビューの中には、人工知能の人間を理解する能力を借りてこそ、テクノロジーは人類に真の貢献ができると分析するものもある。 AIの構築が長い間試みられてきているが、複雑な現実世界に対応しうる性能を持つ計算機の開発やシンボルグラウンディング問題とフレーム問題の解決が大きな壁となってきた。第1次ブームで登場した「探索と推論」や第2次ブームで登場した「知識表現」というパラダイムに基づくAIは各々現実世界と比して単純な問題しか扱えなかったため社会的には大きな影響力を持つことはなかった。第3次以降のブームでは高性能なAIが登場し、AI脅威論、AIの本格的な社会的浸透、AIとの共生方法等が議論されている。 17世紀初め、ルネ・デカルトは、動物の身体がただの複雑な機械であると提唱した(機械論)。ブレーズ・パスカルは1642年、最初の機械式計算機を製作した。チャールズ・バベッジとエイダ・ラブレスはプログラム可能な機械式計算機の開発を行った。 バートランド・ラッセルとアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは『数学原理』を出版し、形式論理に革命をもたらした。ウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツは「神経活動に内在するアイデアの論理計算」と題する論文を1943年に発表し、ニューラルネットワークの基礎を築いた。 1950年代になるとAIに関して活発な成果が出始めた。1956年夏、ダートマス大学が入居している建物の最上階を引き継いだ数学と計算機科学者のグループの一人である若き教授ジョン・マッカーシーはワークショップでのプロポーザルで "Artificial Intelligence" という言葉を作り出している。ワークショップの参加者は、オリバー・セルフリッジ、レイ・ソロモノフ、マービン・ミンスキー、クロード・シャノン、ハーバート・サイモン、アレン・ニューウェルなどであった。ジョン・マッカーシーはAIに関する最初の会議で「人工知能」という用語を作り出した。彼はまたプログラミング言語LISPを開発した。知的ふるまいに関するテストを可能にする方法として、アラン・チューリングは「チューリングテスト」を導入した。ジョセフ・ワイゼンバウムはELIZAを構築した。これは来談者中心療法を行うおしゃべりロボットである。 1956年に行われた、ダートマス会議開催の提案書において、人類史上、用語として初めて使用され、新たな分野として創立された。 1979年、NHK技研で研究者として所属していた福島邦彦氏が曲率を抽出する多層の神経回路にコグニトロン型の学習機能を取り入れて、多層神経回路モデル「ネオコグニトロン」を発明。 1980年代から急速に普及し始めたコンピュータゲームでは、敵キャラクターやNPCを制御するため、パターン化された動きを行う人工無能が実装されていた。 1990年代はAIの多くの分野で様々なアプリケーションが成果を上げた。特に、ボードゲームでは目覚ましく、1992年にIBMは世界チャンピオンに匹敵するバックギャモン専用コンピュータ・TDギャモンを開発し、IBMのチェス専用コンピュータ・ディープ・ブルーは、1997年5月にガルリ・カスパロフを打ち負かし、同年8月にはオセロで日本電気のオセロ専用コンピュータ・ロジステロに世界チャンピオンの村上健が敗れた。 日本においてはエキスパートシステムの流行の後にニューロファジィが流行した。しかし、研究が進むにつれて計算リソースやデータ量の不足,シンボルグラウンディング問題,フレーム問題に直面し、産業の在り方を激変させるようなAIに至ることは無く、遅くとも1994年頃までにはブームは終焉した。 1994年5月25日に計測自動制御学会から第二次AIブームの全容をB5判1391ページにわたって学術論文並みの詳細度でまとめた『ニューロ・ファジィ・AIハンドブック』が発売されている。この書籍ではシステム・情報・制御技術の新しいキーワード、ニューロ・ファジィ・AIの基礎から応用事例までを集めている。 1980年代後半から1990年代中頃にかけて、従来から電子制御の手法として用いられてきたON/OFF制御,PID制御,現代制御の問題を克服するため、知的制御が盛んに研究され、知識工学的なルールを用いるファジィ制御,データの特徴を学習して分類するニューラルネットワーク,その2つを融合したニューロファジィという手法が日本を中心にブームを迎えた。1987年には仙台市において開業した地下鉄のATOに採用され、バブル期の高級路線に合わせて、白物家電製品でもセンサの個数と種類を大幅に増やし、多様なデータを元に運転を最適化するモデルが多数発売され始めた。更に後には、人工知能とは異なるものの制御対象のカオス性をアルゴリズムに組み込んで制御するカオス制御が実用化されることになる。従来の単純な論理に基づく制御と比較して柔軟な制御が可能になることから、遅くとも2000年頃にはファジィ制御,ニューロ制御,カオス制御などの曖昧さを許容する制御方式を総称してソフトコンピューティングと呼ぶようになっている。この当時のソフトコンピューティングについては理論的な性能向上の限界が判明したため一過性のブームに終わったが、ブームが去った後も用いられ続けている。特にファジィ制御はトップダウンで挙動の設計が可能であるだけでなく、マイクロコントローラでもリアルタイム処理が可能なほど軽量であるため、ディープラーニングの登場以降も幅広い分野で活用されている。 ファジィについては、2018年までに日本が世界の1/5の特許を取得している事から、日本で特に大きなブームとなっていたことが分かっている。 松下電器(現パナソニック)が1985年頃から人間が持つような曖昧さを制御に活かすファジィ制御についての研究を開始し、1990年2月1日にファジィ洗濯機第1号である「愛妻号Dayファジィ」の発売に漕ぎ着けた。「愛妻号Dayファジィ」は従来よりも多数のセンサーで収集したデータに基づいて、柔軟に運転を最適化する洗濯機で、同種の洗濯機としては世界初であった。ファジィ制御という当時最先端の技術の導入がバブル期の高級路線にもマッチしたことから、ファジィは裏方の制御技術であるにもかかわらず世間の大きな注目を集めた。その流行の度合いは、1990年の新語・流行語大賞における新語部門の金賞で「ファジィ」が選ばれる程であった。その後に、松下電器はファジィルールの煩雑なチューニングを自動化したニューロファジィ制御を開発し、従来のファジィ理論の限界を突破して学会で評価されるだけでなく、白物家電への応用にも成功して更なるブームを巻き起こした。松下電器の試みの成功を受けて、他社も同様の知的制御を用いる製品を多数発売した。1990年代中頃までは、メーカー各社による一般向けの白物家電の売り文句として知的制御技術の名称が大々的に用いられており、洗濯機の製品名では「愛妻号DAYファジィ」,掃除機の分類としては「ニューロ・ファジィ掃除機」,エアコンの運転モードでは「ニューロ自動」などの名称が付与されていた。 ニューロ,ファジィ,ニューロファジィという手法は、従来の単純なオン・オフ制御や、対象を数式で客観的にモデル化する(この作業は対象が複雑な機構を持つ場合は極めて難しくなる)必要があるPID制御や現代制御等と比較して、人間の主観的な経験則や計測したデータの特徴が利用可能となるファジィ、ニューロ、ニューロファジィは開発工数を抑えながら、環境適応時の柔軟性を高くできるという利点があった。しかし、開発者らの努力にもかかわらず、計算能力や収集可能なデータ量の少なさから、既存の工作機械や家電製品の制御を多少改善する程度で限界を迎えた。理論的にもファジィ集合と深層学習ではない3層以下のニューラルネットワークの組み合わせであり、計算リソースや学習データが潤沢に与えられたとしても、勾配消失問題などの理論的限界によって認識精度の向上には限界があった。 以降、計算機の能力限界から理論の改善も遅々として進まず、目立った進展は無くなり、1990年代末には知的制御を搭載する白物家電が大多数になったことで、売り文句としてのブームは去った。ブーム後は一般には意識されなくなったが、現在では裏方の技術として、家電製品のみならず、雨水の排水,駐車場,ビルの管理システムなどの社会インフラにも使われ、十分に性能と安定性が実証されている。2003年頃には、人間が設計したオントロジー(ファジィルールとして表現する)を利活用するネットワーク・インテリジェンスという分野に発展した。 日本の気象庁では、1977年から気象数値モデルの補正に統計的機械学習の利用を開始している。具体的には、カルマンフィルタ、ロジスティック回帰、線形重回帰、クラスタリング等である。 また地震発生域における地下の状態を示すバロメータである応力降下量を、ベイズ推定やマルコフ連鎖モンテカルロ法によって推定したり、余震などの細かい地震の検知を補正するガウス過程回帰といった手法を気象庁は導入している。 2005年、レイ・カーツワイルは著作で、「圧倒的な人工知能が知識・知能の点で人間を超越し、科学技術の進歩を担い世界を変革する技術的特異点(シンギュラリティ)が2045年にも訪れる」とする説を発表した。 2010年代に入り、膨大なデータを扱う研究開発のための環境が整備されたことで、AI関連の研究が再び大きく前進し始めた。 2010年に英国エコノミスト誌で「ビッグデータ」という用語が提唱された。同年に質問応答システムのワトソンが、クイズ番組「ジェパディ!」の練習戦で人間に勝利し、大きなニュースとなった。 2013年には国立情報学研究所や富士通研究所の研究チームが開発した「東ロボくん」で東京大学入試の模擬試験に挑んだと発表した。数式の計算や単語の解析にあたる専用プログラムを使い、実際に受験生が臨んだ大学入試センター試験と東大の2次試験の問題を解読した。代々木ゼミナールの判定では「東大の合格は難しいが、私立大学には合格できる水準」だった。 2015年10月に、DeepMind社は2つの深層学習技術と強化学習、モンテカルロ木探索を組み合わせ「AlphaGo」を開発し、人間のプロ囲碁棋士に勝利することに成功した。それ以降、ディープラーニング(深層学習)と呼ばれる手法が注目されはじめた。 2016年10月、DeepMindが、入力された情報の関連性を導き出し仮説に近いものを導き出す人工知能技術「ディファレンシャブル・ニューラル・コンピューター」を発表し、同年11月、大量のデータが不要の「ワンショット学習」を可能にする深層学習システムを、翌2017年6月、関係推論のような人間並みの認識能力を持つシステムを開発。2017年8月には、記号接地問題(シンボルグラウンディング問題)を解決した。 従来、AIには不向きとされてきた不完全情報ゲームであるポーカーでもAIが人間に勝利するようになった。 Googleの関係者はさらに野心的な取り組みとして、単一のソフトウェアで100万種類以上のタスクを実行可能なAIを開発していると明らかにした。 2006年のディープラーニングの発明と、2010年以降のビッグデータ収集環境の整備、計算資源となるGPUの高性能化により、2012年にディープラーニングが画像処理コンテストで他の手法に圧倒的大差を付けて優勝したことで、技術的特異点という概念は急速に世界中の識者の注目を集め、現実味を持って受け止められるようになった。 ディープラーニングの発明と急速な普及を受けて、研究開発の現場においては、デミス・ハサビス率いるDeepMindを筆頭に、Vicarious、OpenAI、IBM Cortical Learning Center、全脳アーキテクチャ、PEZY Computing、OpenCog、GoodAI、NNAISENSE、IBM SyNAPSE、Nengo、中国科学院自動化研究所等、汎用人工知能(AGI)を開発するプロジェクトが数多く立ち上げられている。これらの研究開発の現場では、脳をリバースエンジニアリングして構築された神経科学と機械学習を組み合わせるアプローチが有望とされている。 2017年10月、ジェフリー・ヒントンにより要素間の相対的な位置関係まで含めて学習できるCapsNet(カプセルネットワーク)が提唱された。 2018年3月16日の国際大学GLOCOMの提言によると、課題解決型のAIを活用する事で社会変革に寄与できると分析されている。 2018年8月、OpenAIが好奇心を実装しノーゲームスコア、ノーゴール、無報酬で目的なき探索を行うAIを公表。これまでのAIで最も人間らしいという。 2018年9月、MITリンカーン研究所は従来ブラックボックスであったニューラルネットワークの推論をどのような段階を経て識別したのかが明確に分かるアーキテクチャを開発した。 2019年、BERTなどの言語モデルにより、深層学習では困難とされてきた言語処理において大きな進展があり、Wikipediaなどを使用した読解テストで人間を上回るに至った。 2020年には、OpenAIが基盤モデルとしてTransformerを採用した1750億パラメータを持つ自然言語処理プログラムGPT-3が開発され、アメリカの掲示板サイトRedditで1週間誰にも気付かれず人間と投稿・対話を続けた。プログラムと気付かれた理由は文章の不自然さではなく、その投稿数が異常というものだった。 DeepMindが開発したタンパク質の構造予測を行うAlphaFold2がCASPのグローバル距離テスト (GDT) で90点以上を獲得し、計算生物学における重要な成果であり、数十年前からの生物学の壮大な挑戦に向けた大きな進歩と称された。 最先端のAI研究では2年で1000倍サイズのモデルが出現し、1000倍の演算能力を持つコンピュータが必要になって来ている。 2020年の時点で、メタ分析によれば、いくつかのAIアルゴリズムの進歩は停滞している。 2021年4月、NVIDIAの幹部、パレシュ・カーリャは「数年内に100兆パラメータを持つAIモデルが出てくるだろう」と予想した。 2021年5月、マイクロソフトリサーチが32兆パラメーターのAIを試験。 2021年6月、中国政府の支援を受けている北京智源人工知能研究院がパラメーター数1兆7500億のAI「悟道2.0」を発表。 2021年6月、グーグルの研究者達がグラフ畳み込みニューラルネットと強化学習(方策勾配法最適化)を用いて配線とチップの配置を自動設計させたところ、消費電力、性能など全ての主要な指数で人間が設計したもの以上の行列演算専用チップ(TPU4.0)のフロアプランを生成した。そして、設計にかかる時間は人間の1/1000であった。 2021年8月、グーグルの量子人工知能研究部門を率いるハルトムート・ネベンは量子コンピュータの発達の影響がもっとも大きい分野として機械学習分野などAIを挙げた。 2021年8月、DeepMindはさまざまな種類の入力と出力を処理できる汎用の深層学習モデル「Perceiver」を開発した。 2021年10月、GoogleBrainは視覚、聴覚、言語理解力を統合し同時に処理するマルチモーダルAIモデル「Pathways」を開発中であると発表した。 2022年、研究者の間では大規模ニューラルネットワークに意識が存在するか議論が起こっている。深層学習の第一人者Ilya Sutskeverは「(大規模ニューラルネットワークは)少し意識的かもしれない」と見解を示した。 2022年02月、DeepMindは自動でプログラムのコーディングが可能なAI「AlphaCode」を発表した。 2022年4月、Googleは予告どおりPathwaysを使い、万能言語モデルPaLMを完成させた。とんち話の解説を行えるほか、9-12歳レベルの算数の文章問題を解き、数学計算の論理的な説明が可能であった。デジタルコンピュータは誕生から80年弱にして初めて数学計算の内容を文章で説明できるようになった。その後、自然言語処理としてPathwaysをベースにした数学の問題を解けるモデル「Minerva」を開発した。また、Pathwaysをベースにした自然言語処理とDiffusion Modelを連携し、画像生成モデルPartiを発表した。 2022年5月12日、DeepMindは様々なタスクを一つのモデルで実行することができる統合モデル「Gato」を発表した。チャット、画像の生成と説明、四則演算、物体を掴むロボットの動作、ゲームの攻略等々、600にも及ぶ数々のタスクをこの一つのモデルで実行することができるという。 DeepMindのNando de Freitasは「今は規模が全てです。(AGIに至る道を探す)ゲームは終わった」と主張したが人工知能の歴史の中で繰り返されてきた誇大広告だという批判も存在する。 2022年5月、GoogleのチャットボットLaMDAの試験が行われた。それに参加していたエンジニアであるブレイク・ルモワンはLaMDAに意識があると確信、会話全文を公開したがGoogleから守秘義務違反だとして休職処分を受けた。この主張には様々な批判意見がある。 2022年8月、拡散モデルがベースの画像生成AI・Midjourneyの作品が米国コロラド州で開催された美術品評会で優勝した。ただし細かい部分は人間の手が加えられている。 2022年10月、DeepMindは行列の積を効率的に計算するための未発見のアルゴリズムを導き出す「AlphaTensor」を開発した。。「4×5の行列」と「5×5の行列」の積を求める際に、通常の計算方法で100回の乗算が必要なところを、76回に減らすことができた。またこれを受けて数学者もさらに高速な行列乗算プログラムを公表した。 2022年11月30日、OpenAIがGPT-3.5を用いたChatGPTをリリースした。全世界的に従来よりも圧倒的に人間に近い回答を返す質問応答システムとして話題となり、産官学を巻き込んだブームを引き起こした。非常に使い勝手の良いChatGPTの登場により、AIの実務応用が爆発的に加速すると予想されたため、これを第4次AIブームの始まりとする意見も挙がっている。 2022年12月、Googleは、「Flan-PaLM」と呼ばれる巨大言語モデルを開発した。米国医師免許試験(USMLE)形式のタスク「MedQA」で正答率67.6%を記録し、PubMedQAで79.0%を達成した。57ジャンルの選択問題タスク「MMLU」の医療トピックでもFlan-PaLMの成績は他の巨大モデルを凌駕した。臨床知識で80.4%、専門医学で83.8%、大学生物学で88.9%、遺伝医療学で75.0%の正答率である。Googleロボティクス部門はまた、ロボットの入力と出力行動(カメラ画像、タスク指示、モータ命令など)をトークン化して学習し、実行時にリアルタイム推論を可能にする「Robotics Transformer 1(RT-1)」を開発した。 2023年1月11日、DeepMindは、画像から世界モデルを学習し、それを使用して長期視点から考えて最適な行動を学習する事が出来る「DreamerV3」を発表した。 2023年12月、Googleはさらに「Gemini」と呼ばれる人工知能基盤モデルを発表した。この人工知能基盤モデルの特徴は、一般的なタスクにおいて専門家よりも高い正答率を示すことで、「Gemini」はついに専門家を超えたと宣伝されている。 一般的に2018年頃はまだ、AIは肉体労働や単純作業を置き換え、芸術的・創造的仕事が「人間の領域」となると予想されてきたが、実際には2020年代前半から芸術的な分野へ急速に進出していると学術界でさえ予想できなかった節がある。またAIの実用化後も残るとされた翻訳、意思決定、法律相談など高度なスキルを必要とする分野への応用も進んでいる。一方で2023年時点では肉体労働や単純作業への利用は自動倉庫の制御、囲碁の盤面の映像から棋譜を作成するなど限定的な利用にとどまっている。テスラ社は開発を進める二足歩行ロボットTesla Botに汎用人工知能を搭載し、単純労働を担当させると表明している。 人工知能は今、質問応答、意思決定支援、需要予測、音声認識、音声合成、機械翻訳、科学技術計算、文章要約など、各分野に特化したシステムやこれらを組み合わせたフレームワークが実用化された。 2023年5月11日、日本政府は首相官邸で、「AI戦略会議」(座長 松尾豊・東京大学大学院教授)の初会合を開いた。 Googleは2019年3月、人工知能プロジェクトを倫理面で指導するために哲学者・政策立案者・経済学者・テクノロジスト等で構成される、AI倫理委員会を設置すると発表した。しかし倫理委員会には反科学・反マイノリティ・地球温暖化懐疑論等を支持する人物も含まれており、Google社員らは解任を要請した。4月4日、Googleは倫理委員会が「期待どおりに機能できないことが判明した」という理由で、委員会の解散を発表した。 東洋哲学をAIに吸収させるという三宅陽一郎のテーマに応じて、井口尊仁は「鳥居(TORII)」という自分のプロジェクトを挙げ、「われわれはアニミズムで、あらゆるものに霊的存在を見いだす文化があります」と三宅および立石従寛に語る。アニミズム的人工知能論は現代アートや、「禅の悟りをどうやってAIにやらせるか」を論じた三宅の『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』にも通じている。 元Googleエンジニアのアンソニー゠レバンドウスキーは2017年、AIを神とする宗教団体「Way of the Future(未来の道)」を創立している。団体の使命は「人工知能(AI)に基づいたGodheadの実現を促進し開発すること、そしてGodheadの理解と崇拝を通して社会をより良くすることに貢献すること」と抽象的に表現されており、多くの海外メディアはSF映画や歴史などと関連付けて報道した。UberとGoogleのWaymoは、レバンドウスキーが自動運転に関する機密情報を盗用したことを訴え裁判を行っている一方、レバンドウスキーはUberの元CEO(トラビス゠カラニック)に対し「ボットひとつずつ、我々は世界を征服するんだ」と発言するなど、野心的な振る舞いを示している。 2021年のメタ分析によれば、人工知能の設計はもちろん学際的なものであり、感覚の限界による偏見を避けるように注意しながら、宇宙のさまざまな物質や生物の特性を理解すべきである。 発明家レイ・カーツワイルが言うには、哲学者ジョン・サールが提起した強いAIと弱いAIの論争は、AIの哲学議論でホットな話題である。哲学者ジョン・サールおよびダニエル・デネットによると、サールの「中国語の部屋」やネド・ブロックらの「中国脳」といった機能主義に批判的な思考実験は、真の意識が形式論理システムによって実現できないと主張している。 生命情報科学者・神経科学者の合原一幸編著『人工知能はこうして創られる』によれば、AIの急激な発展に伴って「技術的特異点、シンギュラリティ」の思想や哲学が一部で論じられているが、特異点と言っても「数学」的な話ではない。前掲書は「そもそもシンギュラリティと関係した議論における『人間の脳を超える』という言明自体がうまく定義できていない」と記している。確かに、脳を「デジタル情報処理システム」として捉える観点から見れば、シンギュラリティは起こり得るかもしれない。しかし実際の脳はそのような単純なシステムではなく、デジタルとアナログが融合した「ハイブリッド系」であることが、脳神経科学の観察結果で示されている。もちろん、人工知能が人間を超えることを期待すべきではないという学者もいるし、そもそもそうした人間対人工知能の戦争不安はメンタルヘルス上よくないので控えるべきである。前掲書によると、神経膜では様々な「ノイズ」が存在し、このノイズ付きのアナログ量によって脳内のニューロンの「カオス」が生み出されているため、このような状況をデジタルで記述することは「極めて困難」と考えられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "人工知能(じんこうちのう、英: artificial intelligence)、AI(エーアイ)とは、「『計算(computation)』という概念と『コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学(computer science)の一分野」を指す語。「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピュータに行わせる技術」、または、「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」ともされる。大学でAI教育研究は、情報工学科や情報理工学科コンピュータ科学専攻などの組織で行われている(工学〔エンジニアリング〕とは、数学・化学・物理学などの基礎科学を工業生産に応用する学問)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説で、情報工学者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1200の大学で使用された事例がある計算機科学の教科書『エージェントアプローチ人工知能』は、最終章最終節「結論」で、未来はどちらへ向かうのだろうか?と述べて次のように続ける。SF作家らは、筋書きを面白くするためにディストピア的未来を好む傾向がある。しかし今までのAIや他の革命的な科学技術(出版・配管・航空旅行・電話システム)について言えば、これらの科学技術は全て好影響を与えてきた。同時にこれらは不利な階級へ悪影響を与えており、われわれは悪影響を最小限に抑えるために投資するのがよいだろう。論理的限界まで改良されたAIが、従来の革命的技術と違って人間の至高性を脅かす可能性もある。前掲書の「結論」は、次の文で締めくくられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "人間の知的能力をコンピュータ上で実現する、様々な技術・ソフトウェア群・コンピュータシステム、アルゴリズムとも言われる。主力な特化型AIとしては、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "等がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "人工知能という分野では、コンピュータの黎明期である1950年代から研究開発が行われ続けており、第1次の「探索と推論」,第2次の「知識表現」というパラダイムで2回のブームが起きたが、社会が期待する水準に到達しなかったことから各々のブームの後に冬の時代を経験した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しかし2012年以降、Alexnetの登場で画像処理におけるディープラーニングの有用性が競技会で世界的に認知され、急速に研究が活発となり、第3次人工知能ブームが到来。2016年から2017年にかけて、ディープラーニングと強化学習(Q学習、方策勾配法)を導入したAIが完全情報ゲームである囲碁などのトップ棋士、さらに不完全情報ゲームであるポーカーの世界トップクラスのプレイヤーも破り、麻雀では「Microsoft Suphx(Super Phoenix)」がオンライン対戦サイト「天鳳」でAIとして初めて十段に到達するなど最先端技術として注目された。第3次人工知能ブームの主な革命は、自然言語処理、センサーによる画像処理など視覚的側面が特に顕著であるが、社会学、倫理学、技術開発、経済学などの分野にも大きな影響を及ぼしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "第3次人工知能ブームが続く中、2022年11月30日にOpenAIからリリースされた生成AIであるChatGPTが質問に対する柔軟な回答によって注目を集めたことで、企業間で生成AIの開発競争が始まるとともに、積極的に実務に応用されるようになった。この社会現象を第4次人工知能ブームと呼ぶ者も現れている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一方、スチュアート・ラッセルらの『エージェントアプローチ人工知能』は人工知能の主なリスクとして致死性自律兵器、監視と説得、偏った意思決定、雇用への影響、セーフティ・クリティカル〔安全重視〕な応用、サイバーセキュリティを挙げている。またラッセルらは『ネイチャー』で、人工知能による生物の繁栄と自滅の可能性や倫理的課題についても論じている。マイクロソフトは「AI for Good Lab」(善きAI研究所)を設置し、eラーニングサービス「DeepLearning.AI」と提携している 。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "Googleはアレン脳科学研究所と連携し脳スキャンによって生まれた大量のデータを処理するためのソフトウェアを開発している。2016年の時点で、Googleが管理しているBrainmapのデータ量はすでに1ゼタバイトに達しているという。Googleは、ドイツのマックスプランク研究所とも共同研究を始めており、脳の電子顕微鏡写真から神経回路を再構成するという研究を行っている。", "title": "世界の研究開発動向と政策" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "中国では2016年の第13次5カ年計画からAIを国家プロジェクトに位置づけ、脳研究プロジェクトとして中国脳計画(英語版)も立ち上げ、官民一体でAIの研究開発を推進している。中国の教育機関では18歳以下の天才児を集めて公然とAI兵器の開発に投じられてもいる。マサチューセッツ工科大学(MIT)のエリック・ブリニョルフソン(英語版)教授や情報技術イノベーション財団(英語版)などによれば、中国ではプライバシー意識の強い欧米と比較してAIの研究や新技術の実験をしやすい環境にあるとされている。日本でスーパーコンピュータの研究開発を推進している齊藤元章もAIの開発において中国がリードする可能性を主張している。世界のディープラーニング用計算機の4分の3は中国が占めてるともされる。米国政府によれば、2013年からディープラーニングに関する論文数では中国が米国を超えて世界一となっている。FRVT(英語版)やImageNetなどAIの世界的な大会でも中国勢が上位を独占している。大手AI企業Google、マイクロソフト、Appleなどの幹部でもあった台湾系アメリカ人科学者の李開復は中国がAIで覇権を握りつつあるとする『AI超大国:中国、シリコンバレーと新世界秩序(英語版)』を著してアメリカの政界やメディアなどが取り上げた。", "title": "世界の研究開発動向と政策" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "フランス大統領エマニュエル・マクロンはAI分野の開発支援に向け5年で15億ドルを支出すると宣言し、AI研究所をパリに開き、フェイスブック、グーグル、サムスン、DeepMind、富士通などを招致した。イギリスともAI研究における長期的な連携も決定されている。EU全体としても、「Horizon 2020」計画を通じて、215億ユーロが投じられる方向。韓国は、20億ドルを2022年までに投資をする。6つのAI機関を設立し褒賞制度も作られた。目標は2022年までにAIの世界トップ4に入ることだという。", "title": "世界の研究開発動向と政策" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日経新聞調べによると、国別のAI研究論文数は1位米国、2位中国、3位インド、日本は7位だった。", "title": "世界の研究開発動向と政策" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本も加盟する経済協力開発機構(OECD)は、人工知能が労働市場に大きな影響を与える可能性が高いと警告しているが、2023年時点ではまだその兆候は見られない。人工知能の爆発的な普及は、世界の労働市場をまもなく一変させる可能性がある。日本を含む各国政府は、人工知能のような高度なスキルを持つ人材を育成し、低所得労働者の福祉を向上させるべきである。日本も加盟しているOECDは、高齢者やスキルの低い人々に人工知能の訓練を義務付けている。人工知能のような新興かつ高度なスキルが求められる時代は、従来のスキルがすでに時代遅れで使い物にならないということでもある。計算神経科学者が忠告しているように、すでに、人工知能がすべてを変える、加速する変化と生涯学習の時代になった。", "title": "世界の研究開発動向と政策" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2024年の人工知能の展望については、従来の人工知能はビッグデータの単純明快な課題から学習して複雑な課題を解決することは得意であるが、新しい未知の種類のデータや学習データの少ない複雑な課題は苦手なので、2024年は学習データの少ない人工知能の開発が重要になる。人間の基本的な欲求や宇宙の理解に取り組む人工知能は、特に学習データが少ない状況に対応することが予想される。人工知能開発ツールの自動化、人工知能の基盤モデルの透明化、話題の映像自動生成人工知能の成功も期待される。また、学習言語データは欧米言語が中心であるため、人工知能格差の拡大を防ぐために、欧米言語以外の学習データにも取り組む動きが世界的に広がっている。", "title": "世界の研究開発動向と政策" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "計算神経科学や人工知能の産物であるChatGPTと同様の言語モデルは、逆に今、脳神経科学研究の理解に寄与している。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "医療現場ではAIが多く活用されており、最も早く導入されたのは画像診断と言われている。レントゲンやMRI画像の異常部分を検知することで、病気の見逃し発見と早期発見に役立っている。また、AIがカルテの記載内容や患者の問診結果などを解析できるよう、自然言語処理技術の発展も進んでいる。今後はゲノム解析による疾病診断、レセプトの自動作成、新薬の開発などが行えるよう期待されている。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、症例が少ない希少疾患の場合、患者の個人情報の保護が重要になるため、データを暗号化した状態で統計解析を行う秘密計算技術にAIを活用して、データの前処理、学習、推論を行えることを目指す研究が行われている。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "AIを搭載した収穫ロボットを導入することで、重労働である農作業の負担を減らしたり、病害虫が発生している個所をAIでピンポイントで見つけだして、農薬散布量を必要最小限に抑えたりすることが可能になる。また、AIで事前に収穫量を正確に予測できれば、出荷量の調整にも役立つ。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Googleは農作物のスキャニングと成長記録を行う農業AIロボット「Don Roverto」を開発。多くの苗の個体識別を行い実験を繰り返すことで、厳しい環境下でも耐えられる気候変動に強い種を瞬時に見つけ出せる。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "子どものネット上の安全に人工知能を入れることは、国連や欧州連合で継続的に注目されている。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2022年秋にChatGPTが公開されて以来、生成AIの活用も日常化しつつある。人工知能は未だに指示(専門用語でプロンプトと言う)に対して誤った回答を返すことも多いため、誤った回答を抑制するための過渡期の手法としてプロンプトエンジニアリングという手法も実践されている。加速度的な人工知能の性能向上を考慮した場合、遅くとも2020年代の内には人間との対話と同等の質問応答が可能となるため、プロンプトに対する人工知能特有の工夫は不要となる見通しがある。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2023年4月に自動車の自動運転は、レベル4(一定条件下で完全に自動化した公道での走行)が解禁された。福井県永平寺町では実証実験に成功しており、2023年度中に運転許可を申請する方向で検討している。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2023年10月、『ネイチャー』誌で、ウィキペディアの信頼性が人工知能によってついに向上する可能性が示された。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2023年現在、人工知能を用いたサービスが日常生活に浸透してきている。PCやスマートフォンの画像認識による生体認証や音声認識によるアシスタント機能はすでに普通のサービスとなっている。AIスピーカーが普及してきており、中国製掃除ロボットに自動運転技術が応用されている。人工知能は、台風被害の予測、地震被災者の支援、健康のための大気汚染の把握などにも応用されている。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "音楽分野においては、既存の曲を学習することで、特定の作曲家の作風を真似て作曲する自動作曲ソフトが登場している。またリズムゲームに使われるタッチ位置を示した譜面を楽曲から自動生成するなど分野に特化したシステムも開発されている。また、特定の音声を学習させて、声優の仕事を代替したり、特定のキャラクターや歌手などの声で歌わせたりなどが行われており、規制やルール作りなどの必要性が議論されている。また前述した音声学習を用いて1つのトラックから特定の楽器や歌声を取り出す「デミックス」と呼ばれる技術も登場しており、ビーチ・ボーイズやビートルズなどはこれを活用してトラック数の少ない時代の楽曲をリミックスして新たなステレオ・ミックスを作成したり、セッション・テープが破棄されたりマルチ・テープの音源に欠落がありモノラルしか存在しなかった楽曲のステレオ化をするなどしている。2023年にビートルズが発表したシングル『ナウ・アンド・ゼン』ではジョン・レノンが1970年代に録音したカセットテープからボーカルを抽出するのに使われた。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "画像生成の技術としては、VAE、GAN、拡散モデルといった大きく分けて三種類が存在する。絵画分野においては、コンセプトアート用背景やアニメーションの中割の自動生成、モノクロ漫画の自動彩色など、人間の作業を補助するAIが実現している。AIに自然言語で指定したイラスト生成させるサービス(Stable Diffusionなど)も登場している。このような人工知能を利用して制作された絵画は「人工知能アート(Artificial intelligence art)」と呼ばれているが、教師データとして利用された著作物の知的財産権などを巡り、深刻な懸念が広がっている。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "人工知能は、絶滅危惧言語や生物多様性の保護にも応用されている。学術的に構造化された文献レビューとして通常質の高い証拠とされる統計的な文献分析や、学術的な風土のために発表できなかった研究などの問題を考慮した体系的な見方を提供することに加え、さらに人工知能や自然言語処理機能を用いた厳密で透明性の高い分析を行うことで、科学的な再現性の危機をある程度解決しようと試みている。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "将棋AIは人間同士・AI同士の対局から学習して新しい戦法を生み出しているが、プロ棋士(人間)の感覚では不可解ながら実際に指すと有用であるという。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "スポーツの分野では、AIは選手の怪我のリスクやチームのパフォーマンスを予測するのに役立つ。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "メタ分析によれば、AIが政治的な意思決定を行うことも、2020年時点では学術界ではまだ注目されておらず、AIと政治に関するトピックは、学術界ではビッグデータやソーシャルメディアにおける政治的問題に関する研究が中心となっていた。人工知能による人類絶滅の危険を懸念する声が存在するが 、一方で平和を促進するための文化的な応用も存在する。系統的レビューの中には、人工知能の人間を理解する能力を借りてこそ、テクノロジーは人類に真の貢献ができると分析するものもある。", "title": "応用例" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "AIの構築が長い間試みられてきているが、複雑な現実世界に対応しうる性能を持つ計算機の開発やシンボルグラウンディング問題とフレーム問題の解決が大きな壁となってきた。第1次ブームで登場した「探索と推論」や第2次ブームで登場した「知識表現」というパラダイムに基づくAIは各々現実世界と比して単純な問題しか扱えなかったため社会的には大きな影響力を持つことはなかった。第3次以降のブームでは高性能なAIが登場し、AI脅威論、AIの本格的な社会的浸透、AIとの共生方法等が議論されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "17世紀初め、ルネ・デカルトは、動物の身体がただの複雑な機械であると提唱した(機械論)。ブレーズ・パスカルは1642年、最初の機械式計算機を製作した。チャールズ・バベッジとエイダ・ラブレスはプログラム可能な機械式計算機の開発を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "バートランド・ラッセルとアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは『数学原理』を出版し、形式論理に革命をもたらした。ウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツは「神経活動に内在するアイデアの論理計算」と題する論文を1943年に発表し、ニューラルネットワークの基礎を築いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1950年代になるとAIに関して活発な成果が出始めた。1956年夏、ダートマス大学が入居している建物の最上階を引き継いだ数学と計算機科学者のグループの一人である若き教授ジョン・マッカーシーはワークショップでのプロポーザルで \"Artificial Intelligence\" という言葉を作り出している。ワークショップの参加者は、オリバー・セルフリッジ、レイ・ソロモノフ、マービン・ミンスキー、クロード・シャノン、ハーバート・サイモン、アレン・ニューウェルなどであった。ジョン・マッカーシーはAIに関する最初の会議で「人工知能」という用語を作り出した。彼はまたプログラミング言語LISPを開発した。知的ふるまいに関するテストを可能にする方法として、アラン・チューリングは「チューリングテスト」を導入した。ジョセフ・ワイゼンバウムはELIZAを構築した。これは来談者中心療法を行うおしゃべりロボットである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1956年に行われた、ダートマス会議開催の提案書において、人類史上、用語として初めて使用され、新たな分野として創立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1979年、NHK技研で研究者として所属していた福島邦彦氏が曲率を抽出する多層の神経回路にコグニトロン型の学習機能を取り入れて、多層神経回路モデル「ネオコグニトロン」を発明。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1980年代から急速に普及し始めたコンピュータゲームでは、敵キャラクターやNPCを制御するため、パターン化された動きを行う人工無能が実装されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1990年代はAIの多くの分野で様々なアプリケーションが成果を上げた。特に、ボードゲームでは目覚ましく、1992年にIBMは世界チャンピオンに匹敵するバックギャモン専用コンピュータ・TDギャモンを開発し、IBMのチェス専用コンピュータ・ディープ・ブルーは、1997年5月にガルリ・カスパロフを打ち負かし、同年8月にはオセロで日本電気のオセロ専用コンピュータ・ロジステロに世界チャンピオンの村上健が敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本においてはエキスパートシステムの流行の後にニューロファジィが流行した。しかし、研究が進むにつれて計算リソースやデータ量の不足,シンボルグラウンディング問題,フレーム問題に直面し、産業の在り方を激変させるようなAIに至ることは無く、遅くとも1994年頃までにはブームは終焉した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1994年5月25日に計測自動制御学会から第二次AIブームの全容をB5判1391ページにわたって学術論文並みの詳細度でまとめた『ニューロ・ファジィ・AIハンドブック』が発売されている。この書籍ではシステム・情報・制御技術の新しいキーワード、ニューロ・ファジィ・AIの基礎から応用事例までを集めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1980年代後半から1990年代中頃にかけて、従来から電子制御の手法として用いられてきたON/OFF制御,PID制御,現代制御の問題を克服するため、知的制御が盛んに研究され、知識工学的なルールを用いるファジィ制御,データの特徴を学習して分類するニューラルネットワーク,その2つを融合したニューロファジィという手法が日本を中心にブームを迎えた。1987年には仙台市において開業した地下鉄のATOに採用され、バブル期の高級路線に合わせて、白物家電製品でもセンサの個数と種類を大幅に増やし、多様なデータを元に運転を最適化するモデルが多数発売され始めた。更に後には、人工知能とは異なるものの制御対象のカオス性をアルゴリズムに組み込んで制御するカオス制御が実用化されることになる。従来の単純な論理に基づく制御と比較して柔軟な制御が可能になることから、遅くとも2000年頃にはファジィ制御,ニューロ制御,カオス制御などの曖昧さを許容する制御方式を総称してソフトコンピューティングと呼ぶようになっている。この当時のソフトコンピューティングについては理論的な性能向上の限界が判明したため一過性のブームに終わったが、ブームが去った後も用いられ続けている。特にファジィ制御はトップダウンで挙動の設計が可能であるだけでなく、マイクロコントローラでもリアルタイム処理が可能なほど軽量であるため、ディープラーニングの登場以降も幅広い分野で活用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ファジィについては、2018年までに日本が世界の1/5の特許を取得している事から、日本で特に大きなブームとなっていたことが分かっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "松下電器(現パナソニック)が1985年頃から人間が持つような曖昧さを制御に活かすファジィ制御についての研究を開始し、1990年2月1日にファジィ洗濯機第1号である「愛妻号Dayファジィ」の発売に漕ぎ着けた。「愛妻号Dayファジィ」は従来よりも多数のセンサーで収集したデータに基づいて、柔軟に運転を最適化する洗濯機で、同種の洗濯機としては世界初であった。ファジィ制御という当時最先端の技術の導入がバブル期の高級路線にもマッチしたことから、ファジィは裏方の制御技術であるにもかかわらず世間の大きな注目を集めた。その流行の度合いは、1990年の新語・流行語大賞における新語部門の金賞で「ファジィ」が選ばれる程であった。その後に、松下電器はファジィルールの煩雑なチューニングを自動化したニューロファジィ制御を開発し、従来のファジィ理論の限界を突破して学会で評価されるだけでなく、白物家電への応用にも成功して更なるブームを巻き起こした。松下電器の試みの成功を受けて、他社も同様の知的制御を用いる製品を多数発売した。1990年代中頃までは、メーカー各社による一般向けの白物家電の売り文句として知的制御技術の名称が大々的に用いられており、洗濯機の製品名では「愛妻号DAYファジィ」,掃除機の分類としては「ニューロ・ファジィ掃除機」,エアコンの運転モードでは「ニューロ自動」などの名称が付与されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ニューロ,ファジィ,ニューロファジィという手法は、従来の単純なオン・オフ制御や、対象を数式で客観的にモデル化する(この作業は対象が複雑な機構を持つ場合は極めて難しくなる)必要があるPID制御や現代制御等と比較して、人間の主観的な経験則や計測したデータの特徴が利用可能となるファジィ、ニューロ、ニューロファジィは開発工数を抑えながら、環境適応時の柔軟性を高くできるという利点があった。しかし、開発者らの努力にもかかわらず、計算能力や収集可能なデータ量の少なさから、既存の工作機械や家電製品の制御を多少改善する程度で限界を迎えた。理論的にもファジィ集合と深層学習ではない3層以下のニューラルネットワークの組み合わせであり、計算リソースや学習データが潤沢に与えられたとしても、勾配消失問題などの理論的限界によって認識精度の向上には限界があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "以降、計算機の能力限界から理論の改善も遅々として進まず、目立った進展は無くなり、1990年代末には知的制御を搭載する白物家電が大多数になったことで、売り文句としてのブームは去った。ブーム後は一般には意識されなくなったが、現在では裏方の技術として、家電製品のみならず、雨水の排水,駐車場,ビルの管理システムなどの社会インフラにも使われ、十分に性能と安定性が実証されている。2003年頃には、人間が設計したオントロジー(ファジィルールとして表現する)を利活用するネットワーク・インテリジェンスという分野に発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本の気象庁では、1977年から気象数値モデルの補正に統計的機械学習の利用を開始している。具体的には、カルマンフィルタ、ロジスティック回帰、線形重回帰、クラスタリング等である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また地震発生域における地下の状態を示すバロメータである応力降下量を、ベイズ推定やマルコフ連鎖モンテカルロ法によって推定したり、余震などの細かい地震の検知を補正するガウス過程回帰といった手法を気象庁は導入している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2005年、レイ・カーツワイルは著作で、「圧倒的な人工知能が知識・知能の点で人間を超越し、科学技術の進歩を担い世界を変革する技術的特異点(シンギュラリティ)が2045年にも訪れる」とする説を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2010年代に入り、膨大なデータを扱う研究開発のための環境が整備されたことで、AI関連の研究が再び大きく前進し始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2010年に英国エコノミスト誌で「ビッグデータ」という用語が提唱された。同年に質問応答システムのワトソンが、クイズ番組「ジェパディ!」の練習戦で人間に勝利し、大きなニュースとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2013年には国立情報学研究所や富士通研究所の研究チームが開発した「東ロボくん」で東京大学入試の模擬試験に挑んだと発表した。数式の計算や単語の解析にあたる専用プログラムを使い、実際に受験生が臨んだ大学入試センター試験と東大の2次試験の問題を解読した。代々木ゼミナールの判定では「東大の合格は難しいが、私立大学には合格できる水準」だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2015年10月に、DeepMind社は2つの深層学習技術と強化学習、モンテカルロ木探索を組み合わせ「AlphaGo」を開発し、人間のプロ囲碁棋士に勝利することに成功した。それ以降、ディープラーニング(深層学習)と呼ばれる手法が注目されはじめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2016年10月、DeepMindが、入力された情報の関連性を導き出し仮説に近いものを導き出す人工知能技術「ディファレンシャブル・ニューラル・コンピューター」を発表し、同年11月、大量のデータが不要の「ワンショット学習」を可能にする深層学習システムを、翌2017年6月、関係推論のような人間並みの認識能力を持つシステムを開発。2017年8月には、記号接地問題(シンボルグラウンディング問題)を解決した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "従来、AIには不向きとされてきた不完全情報ゲームであるポーカーでもAIが人間に勝利するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "Googleの関係者はさらに野心的な取り組みとして、単一のソフトウェアで100万種類以上のタスクを実行可能なAIを開発していると明らかにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2006年のディープラーニングの発明と、2010年以降のビッグデータ収集環境の整備、計算資源となるGPUの高性能化により、2012年にディープラーニングが画像処理コンテストで他の手法に圧倒的大差を付けて優勝したことで、技術的特異点という概念は急速に世界中の識者の注目を集め、現実味を持って受け止められるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ディープラーニングの発明と急速な普及を受けて、研究開発の現場においては、デミス・ハサビス率いるDeepMindを筆頭に、Vicarious、OpenAI、IBM Cortical Learning Center、全脳アーキテクチャ、PEZY Computing、OpenCog、GoodAI、NNAISENSE、IBM SyNAPSE、Nengo、中国科学院自動化研究所等、汎用人工知能(AGI)を開発するプロジェクトが数多く立ち上げられている。これらの研究開発の現場では、脳をリバースエンジニアリングして構築された神経科学と機械学習を組み合わせるアプローチが有望とされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2017年10月、ジェフリー・ヒントンにより要素間の相対的な位置関係まで含めて学習できるCapsNet(カプセルネットワーク)が提唱された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2018年3月16日の国際大学GLOCOMの提言によると、課題解決型のAIを活用する事で社会変革に寄与できると分析されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2018年8月、OpenAIが好奇心を実装しノーゲームスコア、ノーゴール、無報酬で目的なき探索を行うAIを公表。これまでのAIで最も人間らしいという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2018年9月、MITリンカーン研究所は従来ブラックボックスであったニューラルネットワークの推論をどのような段階を経て識別したのかが明確に分かるアーキテクチャを開発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2019年、BERTなどの言語モデルにより、深層学習では困難とされてきた言語処理において大きな進展があり、Wikipediaなどを使用した読解テストで人間を上回るに至った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2020年には、OpenAIが基盤モデルとしてTransformerを採用した1750億パラメータを持つ自然言語処理プログラムGPT-3が開発され、アメリカの掲示板サイトRedditで1週間誰にも気付かれず人間と投稿・対話を続けた。プログラムと気付かれた理由は文章の不自然さではなく、その投稿数が異常というものだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "DeepMindが開発したタンパク質の構造予測を行うAlphaFold2がCASPのグローバル距離テスト (GDT) で90点以上を獲得し、計算生物学における重要な成果であり、数十年前からの生物学の壮大な挑戦に向けた大きな進歩と称された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "最先端のAI研究では2年で1000倍サイズのモデルが出現し、1000倍の演算能力を持つコンピュータが必要になって来ている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2020年の時点で、メタ分析によれば、いくつかのAIアルゴリズムの進歩は停滞している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2021年4月、NVIDIAの幹部、パレシュ・カーリャは「数年内に100兆パラメータを持つAIモデルが出てくるだろう」と予想した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2021年5月、マイクロソフトリサーチが32兆パラメーターのAIを試験。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2021年6月、中国政府の支援を受けている北京智源人工知能研究院がパラメーター数1兆7500億のAI「悟道2.0」を発表。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2021年6月、グーグルの研究者達がグラフ畳み込みニューラルネットと強化学習(方策勾配法最適化)を用いて配線とチップの配置を自動設計させたところ、消費電力、性能など全ての主要な指数で人間が設計したもの以上の行列演算専用チップ(TPU4.0)のフロアプランを生成した。そして、設計にかかる時間は人間の1/1000であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2021年8月、グーグルの量子人工知能研究部門を率いるハルトムート・ネベンは量子コンピュータの発達の影響がもっとも大きい分野として機械学習分野などAIを挙げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2021年8月、DeepMindはさまざまな種類の入力と出力を処理できる汎用の深層学習モデル「Perceiver」を開発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2021年10月、GoogleBrainは視覚、聴覚、言語理解力を統合し同時に処理するマルチモーダルAIモデル「Pathways」を開発中であると発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2022年、研究者の間では大規模ニューラルネットワークに意識が存在するか議論が起こっている。深層学習の第一人者Ilya Sutskeverは「(大規模ニューラルネットワークは)少し意識的かもしれない」と見解を示した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2022年02月、DeepMindは自動でプログラムのコーディングが可能なAI「AlphaCode」を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2022年4月、Googleは予告どおりPathwaysを使い、万能言語モデルPaLMを完成させた。とんち話の解説を行えるほか、9-12歳レベルの算数の文章問題を解き、数学計算の論理的な説明が可能であった。デジタルコンピュータは誕生から80年弱にして初めて数学計算の内容を文章で説明できるようになった。その後、自然言語処理としてPathwaysをベースにした数学の問題を解けるモデル「Minerva」を開発した。また、Pathwaysをベースにした自然言語処理とDiffusion Modelを連携し、画像生成モデルPartiを発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2022年5月12日、DeepMindは様々なタスクを一つのモデルで実行することができる統合モデル「Gato」を発表した。チャット、画像の生成と説明、四則演算、物体を掴むロボットの動作、ゲームの攻略等々、600にも及ぶ数々のタスクをこの一つのモデルで実行することができるという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "DeepMindのNando de Freitasは「今は規模が全てです。(AGIに至る道を探す)ゲームは終わった」と主張したが人工知能の歴史の中で繰り返されてきた誇大広告だという批判も存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2022年5月、GoogleのチャットボットLaMDAの試験が行われた。それに参加していたエンジニアであるブレイク・ルモワンはLaMDAに意識があると確信、会話全文を公開したがGoogleから守秘義務違反だとして休職処分を受けた。この主張には様々な批判意見がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2022年8月、拡散モデルがベースの画像生成AI・Midjourneyの作品が米国コロラド州で開催された美術品評会で優勝した。ただし細かい部分は人間の手が加えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2022年10月、DeepMindは行列の積を効率的に計算するための未発見のアルゴリズムを導き出す「AlphaTensor」を開発した。。「4×5の行列」と「5×5の行列」の積を求める際に、通常の計算方法で100回の乗算が必要なところを、76回に減らすことができた。またこれを受けて数学者もさらに高速な行列乗算プログラムを公表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2022年11月30日、OpenAIがGPT-3.5を用いたChatGPTをリリースした。全世界的に従来よりも圧倒的に人間に近い回答を返す質問応答システムとして話題となり、産官学を巻き込んだブームを引き起こした。非常に使い勝手の良いChatGPTの登場により、AIの実務応用が爆発的に加速すると予想されたため、これを第4次AIブームの始まりとする意見も挙がっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2022年12月、Googleは、「Flan-PaLM」と呼ばれる巨大言語モデルを開発した。米国医師免許試験(USMLE)形式のタスク「MedQA」で正答率67.6%を記録し、PubMedQAで79.0%を達成した。57ジャンルの選択問題タスク「MMLU」の医療トピックでもFlan-PaLMの成績は他の巨大モデルを凌駕した。臨床知識で80.4%、専門医学で83.8%、大学生物学で88.9%、遺伝医療学で75.0%の正答率である。Googleロボティクス部門はまた、ロボットの入力と出力行動(カメラ画像、タスク指示、モータ命令など)をトークン化して学習し、実行時にリアルタイム推論を可能にする「Robotics Transformer 1(RT-1)」を開発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2023年1月11日、DeepMindは、画像から世界モデルを学習し、それを使用して長期視点から考えて最適な行動を学習する事が出来る「DreamerV3」を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2023年12月、Googleはさらに「Gemini」と呼ばれる人工知能基盤モデルを発表した。この人工知能基盤モデルの特徴は、一般的なタスクにおいて専門家よりも高い正答率を示すことで、「Gemini」はついに専門家を超えたと宣伝されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "一般的に2018年頃はまだ、AIは肉体労働や単純作業を置き換え、芸術的・創造的仕事が「人間の領域」となると予想されてきたが、実際には2020年代前半から芸術的な分野へ急速に進出していると学術界でさえ予想できなかった節がある。またAIの実用化後も残るとされた翻訳、意思決定、法律相談など高度なスキルを必要とする分野への応用も進んでいる。一方で2023年時点では肉体労働や単純作業への利用は自動倉庫の制御、囲碁の盤面の映像から棋譜を作成するなど限定的な利用にとどまっている。テスラ社は開発を進める二足歩行ロボットTesla Botに汎用人工知能を搭載し、単純労働を担当させると表明している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "人工知能は今、質問応答、意思決定支援、需要予測、音声認識、音声合成、機械翻訳、科学技術計算、文章要約など、各分野に特化したシステムやこれらを組み合わせたフレームワークが実用化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2023年5月11日、日本政府は首相官邸で、「AI戦略会議」(座長 松尾豊・東京大学大学院教授)の初会合を開いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "Googleは2019年3月、人工知能プロジェクトを倫理面で指導するために哲学者・政策立案者・経済学者・テクノロジスト等で構成される、AI倫理委員会を設置すると発表した。しかし倫理委員会には反科学・反マイノリティ・地球温暖化懐疑論等を支持する人物も含まれており、Google社員らは解任を要請した。4月4日、Googleは倫理委員会が「期待どおりに機能できないことが判明した」という理由で、委員会の解散を発表した。", "title": "哲学とAI" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "東洋哲学をAIに吸収させるという三宅陽一郎のテーマに応じて、井口尊仁は「鳥居(TORII)」という自分のプロジェクトを挙げ、「われわれはアニミズムで、あらゆるものに霊的存在を見いだす文化があります」と三宅および立石従寛に語る。アニミズム的人工知能論は現代アートや、「禅の悟りをどうやってAIにやらせるか」を論じた三宅の『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』にも通じている。", "title": "哲学とAI" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "元Googleエンジニアのアンソニー゠レバンドウスキーは2017年、AIを神とする宗教団体「Way of the Future(未来の道)」を創立している。団体の使命は「人工知能(AI)に基づいたGodheadの実現を促進し開発すること、そしてGodheadの理解と崇拝を通して社会をより良くすることに貢献すること」と抽象的に表現されており、多くの海外メディアはSF映画や歴史などと関連付けて報道した。UberとGoogleのWaymoは、レバンドウスキーが自動運転に関する機密情報を盗用したことを訴え裁判を行っている一方、レバンドウスキーはUberの元CEO(トラビス゠カラニック)に対し「ボットひとつずつ、我々は世界を征服するんだ」と発言するなど、野心的な振る舞いを示している。", "title": "哲学とAI" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2021年のメタ分析によれば、人工知能の設計はもちろん学際的なものであり、感覚の限界による偏見を避けるように注意しながら、宇宙のさまざまな物質や生物の特性を理解すべきである。", "title": "哲学とAI" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "発明家レイ・カーツワイルが言うには、哲学者ジョン・サールが提起した強いAIと弱いAIの論争は、AIの哲学議論でホットな話題である。哲学者ジョン・サールおよびダニエル・デネットによると、サールの「中国語の部屋」やネド・ブロックらの「中国脳」といった機能主義に批判的な思考実験は、真の意識が形式論理システムによって実現できないと主張している。", "title": "哲学とAI" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "生命情報科学者・神経科学者の合原一幸編著『人工知能はこうして創られる』によれば、AIの急激な発展に伴って「技術的特異点、シンギュラリティ」の思想や哲学が一部で論じられているが、特異点と言っても「数学」的な話ではない。前掲書は「そもそもシンギュラリティと関係した議論における『人間の脳を超える』という言明自体がうまく定義できていない」と記している。確かに、脳を「デジタル情報処理システム」として捉える観点から見れば、シンギュラリティは起こり得るかもしれない。しかし実際の脳はそのような単純なシステムではなく、デジタルとアナログが融合した「ハイブリッド系」であることが、脳神経科学の観察結果で示されている。もちろん、人工知能が人間を超えることを期待すべきではないという学者もいるし、そもそもそうした人間対人工知能の戦争不安はメンタルヘルス上よくないので控えるべきである。前掲書によると、神経膜では様々な「ノイズ」が存在し、このノイズ付きのアナログ量によって脳内のニューロンの「カオス」が生み出されているため、このような状況をデジタルで記述することは「極めて困難」と考えられている。", "title": "哲学とAI" } ]
人工知能、AI(エーアイ)とは、「『計算(computation)』という概念と『コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学の一分野」を指す語。「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピュータに行わせる技術」、または、「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」ともされる。大学でAI教育研究は、情報工学科や情報理工学科コンピュータ科学専攻などの組織で行われている(工学〔エンジニアリング〕とは、数学・化学・物理学などの基礎科学を工業生産に応用する学問)。 『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説で、情報工学者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている。 1200の大学で使用された事例がある計算機科学の教科書『エージェントアプローチ人工知能』は、最終章最終節「結論」で、未来はどちらへ向かうのだろうか?と述べて次のように続ける。SF作家らは、筋書きを面白くするためにディストピア的未来を好む傾向がある。しかし今までのAIや他の革命的な科学技術(出版・配管・航空旅行・電話システム)について言えば、これらの科学技術は全て好影響を与えてきた。同時にこれらは不利な階級へ悪影響を与えており、われわれは悪影響を最小限に抑えるために投資するのがよいだろう。論理的限界まで改良されたAIが、従来の革命的技術と違って人間の至高性を脅かす可能性もある。前掲書の「結論」は、次の文で締めくくられている。
'''人工知能'''(じんこうちのう、{{lang-en-short|artificial intelligence}})、'''AI'''(エーアイ)とは、「『[[計算]]({{en|computation}})』という概念と『[[コンピュータ]]({{en|computer}})』という道具を用いて『[[知能]]』を研究する[[計算機科学]]({{en|computer science}})の一分野」を指す語{{sfn|佐藤|2018|p=「人工知能」}}。<!--[[計算機科学]]({{lang-en-short|computer science}})の一分野--><!--このようにlang-en-shortを使うと「計算機科学(英: computer science)の一分野」と表示されるが、出典{{sfn|佐藤|2018|p=「人工知能」}}の原文は「計算機科学(computer science)の一分野」。-->「[[言語]]の[[理解]]や[[推論]]、[[問題解決]]などの知的[[行動]]を[[人間]]に代わってコンピュータに行わせる[[技術]]」{{sfn|ASCII.jp|2018|p=「人工知能」}}、または、「[[計算機]](コンピュータ)による知的な[[情報処理システム]]の[[設計]]や実現に関する[[研究]]分野」ともされる{{sfn|桃内|2017|p=「人工知能」}}。大学でAI教育研究は、[[情報工学科]]{{sfn|人工知能学会|1997|p=797 (145)}}{{sfn|東京大学 工学部 電子情報工学科|2021|p=「電子情報工学科」}}{{sfn|東京大学 工学部 機械情報工学科|2021|p=「機械情報工学科」}}や[[情報理工学科]][[コンピュータ科学]]専攻などの組織で行われている{{sfn|人工知能学会|1997|p=797 (145)}}{{sfn|東京大学 理学部 情報科学科|東京大学大学院 情報理工学系研究科 コンピュータ科学専攻|2021|p=「人工知能と機械学習」}}([[工学]]〔エンジニアリング〕とは、[[数学]]・[[化学]]・[[物理学]]などの基礎科学を[[工業]]生産に応用する学問{{sfn|北原|2010|p=2033}}{{efn|[[電子情報通信学会]]で工学博士の[[仙石正和]]が述べた定義では、「工学(Engineering)」とは「[[数学]],[[自然科学]]の知識を用いて,健康と安全を守り,文化的,社会的及び環境的な考慮を行い,人類のために(for the benefit of humanity),[[設計]],[[開発]],[[イノベーション]]または解決を行う活動」だとされている{{sfn|仙石|2017|p=435}}。}})。 『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』の解説で、[[情報工学]]者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている{{sfn|佐藤|2018|p=「人工知能」}}。 {{Cquote|誤解を恐れず平易にいいかえるならば、「これまで人間にしかできなかった知的な行為([[認識]]、推論、言語運用、創造など)を、どのような手順([[アルゴリズム]])とどのような[[データ]](事前情報や知識)を準備すれば、それを機械的に実行できるか」を研究する分野である{{sfn|佐藤|2018|p=「人工知能」}}。|}} 1200の大学で使用された事例がある計算機科学の教科書『エージェントアプローチ人工知能』{{Sfn|Muehlhauser|2013|p=「Russell and Norvig on Friendly AI」}}は、最終章最終節「結論」で、{{行内引用|未来はどちらへ向かうのだろうか?}}と述べて次のように続ける{{Sfn|Russell|Norvig|2022|p=1073}}。[[サイエンス・フィクション|SF]]作家らは、筋書きを面白くするために[[ディストピア]]的未来を好む傾向がある{{Sfn|Russell|Norvig|2022|p=1073}}。しかし今までのAIや他の[[革命#経済・技術|革命]]的な[[科学技術]](出版・配管・航空旅行・電話システム)について言えば、{{行内引用|これらの科学技術は全て好影響を与えてきた}}{{Sfn|Russell|Norvig|2022|p=1073}}。同時にこれらは不利な[[社会階級|階級]]へ悪影響を与えており、{{行内引用|われわれは悪影響を最小限に抑えるために[[投資]]するのがよいだろう}}{{Sfn|Russell|Norvig|2022|p=1073}}。論理的限界まで改良されたAIが、従来の[[技術革新|革命]]的技術と違って{{行内引用|人間の至高性}}を脅かす可能性もある{{Sfn|Russell|Norvig|2022|p=1073}}。前掲書の「結論」は、次の文で締めくくられている{{Sfn|Russell|Norvig|2022|p=1073}}。 {{Cquote|結論として、AIはその短い歴史の中で大いに発達したが、[[アラン・チューリング]]の「計算機械と知能」(1950年)という小論の最後の文は今も有効である。つまり<br>''「われわれは少し先までしか分からないが、多くのやるべきことが残っているのは分かる」''{{Sfn|Russell|Norvig|2022|p=1073}}{{Efn|以下は原文:{{Quotation|In conclusion, AI has made great progress in its short history, but the final sentence but the final sentence of Alan Turing’s (1950) essay on ''Computing Machinery and Intelligence'' is still valid today:<br>&nbsp;&nbsp;''We can see only a short distance ahead,<br>&nbsp;&nbsp;but we can see that much remains to be done.''{{Sfn|Russell|Norvig|2022|p=1073}}}}}}。 }} == 概要 == === 「人工知能」の定義・解説 === {|class="wikitable" style="width: 100%; word-break: break-all; word-wrap: break-all;" |- ! 出典 ! 定義・解説 |- | 日本語辞典『[[広辞苑]]』 | {{行内引用|推論・判断などの知的な機能を備えた[[コンピュータシステム|コンピュータ・システム]]}}{{Sfn|新村|2018|p=1505}} |- | 百科事典『[[ブリタニカ百科事典]]』 | {{行内引用|科学技術 > コンピュータ … 人工知能(AI)。<ins>一般的に知的存在に関連している課題をデジタルコンピュータやコンピュータ制御のロボットが実行する[[:wikt:ability#名詞|能力]]〔アビリティ〕</ins>}}{{Sfn|Copeland|2023|p="artificial intelligence"}} |- | [[人工知能学会]]記事「教養知識としてのAI」 | {{行内引用|『人工知能とは何か』という問いに対する答えは,単純ではない.人工知能の専門家の間でも,大きな議論があり,それだけで1 冊の本となってしまうほど,見解の異なるものである.そのような中で,共通する部分を引き出して,一言でまとめると,『<ins>人間と同じ知的作業をする機械を[[工学]]的に実現する[[技術]]</ins>』といえるだろう}}{{Sfn|市瀬|2023|p=「第1回」}} |- | [[学術論文]]「深層学習と人工知能」 | {{行内引用|人工知能は,<!--「,」は原文ママ-->人間の知能の仕組みを[[構成主義|構成論]]的に解き明かそうとする[[学問]]分野である}}{{Sfn|松尾|2021|p=299}} |- | 学術論文「人工知能社会のあるべき姿を求めて」 | {{行内引用|人工知能をはじめとする情報技術はあくまで[[ユーティリティソフトウェア|ツール]]}}{{Sfn|江間|2018|p=9}} |} 人間の知的能力をコンピュータ上で実現する、様々な技術・[[ソフトウェア]]群・[[コンピュータシステム]]、[[アルゴリズム]]とも言われる<ref name=ITyougo>[[講談社]](2017)「[https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E7%9F%A5%E8%83%BD-4702#T.E7.94.A8.E8.AA.9E.E3.81.8C.E3.82.8F.E3.81.8B.E3.82.8B.E8.BE.9E.E5.85.B8 人工知能]」『IT用語がわかる辞典』、朝日新聞社・VOYAGE GROUP</ref>。主力な特化型AIとしては、 * [[自然言語処理]]([[機械翻訳]]・[[かな漢字変換]]・[[構文解析]]・[[形態素解析]]・[[回帰型ニューラルネットワーク|RNN]]等)<ref name=":18">講談社(2017)「[https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%87%A6%E7%90%86-4232#T.E7.94.A8.E8.AA.9E.E3.81.8C.E3.82.8F.E3.81.8B.E3.82.8B.E8.BE.9E.E5.85.B8 自然言語処理]」『IT用語がわかる辞典』、朝日新聞社・VOYAGE GROUP</ref><ref name=":2">{{Cite web2|df=ja|title=「どんな文章も3行に要約するAI」デモサイト、東大松尾研発ベンチャーが公開 「正確性は人間に匹敵」|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2108/26/news134.html|website=ITmedia NEWS|accessdate=2021-09-02|language=ja}}</ref>、 * 専門家の推論・判断を模倣する[[エキスパートシステム]] * データから特定の[[パターン]]を検出・抽出する[[コンピュータビジョン|画像認識]]、[[音声認識]] 等がある<ref name="ITyougo" />。 === 概史 === 人工知能という分野では、[[コンピュータ]]の黎明期である[[1950年代]]から[[研究開発]]が行われ続けており、第1次の'''「探索と推論」''',第2次の'''「知識表現」'''というパラダイムで2回のブームが起きたが、社会が期待する水準に到達しなかったことから各々のブームの後に冬の時代を経験した<ref>{{Cite web|和書|title=総務省|平成28年版 情報通信白書|人工知能(AI)研究の歴史 |url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h28/html/nc142120.html |website=www.soumu.go.jp |access-date=2023-06-18}}</ref>。 しかし[[2012年]]以降、[[AlexNet|Alexnet]]の登場で画像処理における[[ディープラーニング]]の有用性が競技会で世界的に認知され、急速に研究が活発となり、第3次人工知能ブームが到来<ref>{{Cite web2|df=ja|url=http://enterprisezine.jp/article/detail/6471?p=2|title=【第四回】今、最も熱いディープラーニングを体験してみよう(2ページ)|publisher=エンタープライズ|date=2015-01-14|accessdate=2015-05-30}}</ref>。2016年から2017年にかけて、ディープラーニングと[[強化学習]]([[Q学習]]、方策勾配法)を導入したAIが[[完全情報ゲーム]]である[[囲碁]]などのトップ棋士、さらに不完全情報ゲームである[[ポーカー]]の世界トップクラスのプレイヤーも破り<ref>{{Cite web2|df=ja|url=https://www.gizmodo.jp/2017/02/ai-won-against-poker-pro.html|title=今度はポーカーでAIが人間を超える! その重要な意味とは?|publisher=[[ギズモード]]|date=2017-02-01|accessdate=2018-02-07}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|url=https://gigazine.net/news/20170413-ai-poker-beat-man/|title=「AI対ヒト」のポーカー対決で人工知能が再び勝利、6人を相手に5日間の戦いを制して3000万円ゲット|publisher=[[GIGAZINE]]|date=2017-04-13|accessdate=2018-02-07}}</ref>、[[麻雀]]では「Microsoft Suphx(Super Phoenix)」がオンライン対戦サイト「[[天鳳 (オンラインゲーム)|天鳳]]」でAIとして初めて十段に到達する<ref>{{Cite web2|df=ja|title=麻雀 AI Microsoft Suphx が人間のトッププレイヤーに匹敵する成績を達成|url=https://news.microsoft.com/ja-jp/2019/08/29/190829-mahjong-ai-microsoft-suphx/|website=News Center Japan|date=2019-08-29|accessdate=2021-09-02|language=ja-JP}}</ref>など最先端技術として注目された<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ゲーム AI の進化と歴史|url=https://news.microsoft.com/ja-jp/2019/08/19/190819-evolution-and-history-of-game-ai/|website=News Center Japan|date=2019-08-19|accessdate=2021-09-02|language=ja-JP}}</ref>。第3次人工知能ブームの主な革命は、自然言語処理、センサーによる画像処理など視覚的側面が特に顕著であるが、社会学、倫理学、技術開発、経済学などの分野にも大きな影響を及ぼしている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=AI Transformation with Fredrik Heintz |url=https://www.coursera.org/lecture/ai-business-future-of-work/ai-transformation-with-fredrik-heintz-ruLaF |website=Coursera |access-date=2022-12-27}}</ref>。 第3次人工知能ブームが続く中、[[2022年]]11月30日に[[OpenAI]]からリリースされた[[生成的人工知能|生成AI]]である[[ChatGPT]]が質問に対する柔軟な回答によって注目を集めたことで、企業間で[[生成的人工知能|生成AI]]の開発競争が始まる<ref name=":17">{{Cite web2|df=ja|url=https://www.theguardian.com/technology/2023/mar/31/ai-research-pause-elon-musk-chatgpt|title=Letter signed by Elon Musk demanding AI research pause sparks controversy|accessdate=2023-04-05|website=The Guardian}}</ref><ref name=":18" />とともに、積極的に実務に応用されるようになった<ref name=":16">{{Cite web2|df=ja|url=https://www.asahi.com/ajw/articles/14874305|title=Musk, scientists call for halt to AI race sparked by ChatGPT |accessdate=2023-04-05|website=The Asahi Shimbun}}</ref>。この社会現象を第4次人工知能ブームと呼ぶ者も現れている<ref name="jeri_202306-07">{{Cite web|和書|title=第4次AIブーム呼ぶChatGPT |author=関口 和一 |publisher=一般財団法人 日本経済研究所 |url=https://www.jeri.or.jp/survey/%e7%ac%ac4%e6%ac%a1%ef%bd%81%ef%bd%89%e3%83%96%e3%83%bc%e3%83%a0%e5%91%bc%e3%81%b6chatgpt/ |website=www.jeri.or.jp |access-date=2023-06-18 |language=ja}}</ref>。 一方、[[スチュアート・ラッセル]]らの『エージェントアプローチ人工知能』は人工知能の主なリスクとして{{行内引用|致死性[[自律兵器]]}}、{{行内引用|監視と説得}}、{{行内引用|偏った意思決定}}、{{行内引用|[[雇用]]への影響}}、{{行内引用|セーフティ・クリティカル〔安全重視〕な応用}}、{{行内引用|[[サイバーセキュリティ]]}}を挙げている{{Sfn|Russell|Norvig|2022|pp=49-50}}。またラッセルらは『[[ネイチャー]]』で、人工知能による[[生物]]の繁栄と自滅の可能性<ref>{{Cite journal2 |df=ja |last=Russell |first=Stuart |date=30 August 2017 |title=Artificial intelligence: The future is superintelligent |language=En |pages=520–521 |journal=Nature |volume=548 |issue=7669 |bibcode=2017Natur.548..520R |doi=10.1038/548520a|s2cid=4459076 |doi-access=free }}</ref>や倫理的課題についても論じている<ref>{{Cite journal2 |df=ja |date=27 May 2015|title=Robotics: Ethics of artificial intelligence|language=En |pages=415–418 |journal=Nature |volume=521|doi=10.1038/521415a|s2cid=4459076 |doi-access=free }}</ref><ref name="10.1038/d41586-023-00511-5">{{Cite journal2 |df=ja |last=Russell |first=Stuart |date=21 February 2023|title=AI weapons: Russia’s war in Ukraine shows why the world must enact a ban|language=En |pages=, 620-623|journal=Nature |volume=614|doi=10.1038/d41586-023-00511-5}}</ref>。マイクロソフトは「AI for Good Lab」(善きAI研究所)を設置し、eラーニングサービス「DeepLearning.AI」と提携している <ref name=":15">{{Cite web |title=AI for Good |url=https://www.deeplearning.ai/courses/ai-for-good/ |website=www.deeplearning.ai |access-date=2023-07-25 |language=en}}</ref>。 == 世界の研究開発動向と政策 == [[Google]]はアレン脳科学研究所と連携し脳スキャンによって生まれた大量のデータを処理するためのソフトウェアを開発している。2016年の時点で、Googleが管理しているBrainmapのデータ量はすでに1[[ゼタバイト]]に達しているという<ref>http://www.fiercebiotech.com/data-management/google-joins-brain-initiative-to-help-petabyte-scale-data-sets</ref><ref>https://news.mynavi.jp/techplus/article/20160810-isc2016_braininitiative/</ref>。Googleは、ドイツのマックスプランク研究所とも共同研究を始めており、脳の電子顕微鏡写真から神経回路を再構成するという研究を行っている<ref>https://news.mynavi.jp/techplus/article/20170911-hotchips29_google/2</ref>。 {{Main|ブレイン・イニシアチブ}} 中国では2016年の第13次[[5カ年計画]]からAIを国家プロジェクトに位置づけ<ref>{{Cite news2|df=ja|date=2016-07-28|url=http://j.people.com.cn/n3/2016/0728/c95952-9092181.html|title=第13次五カ年計画、中国の技術革新計画が明らかに|publisher=[[人民網]]|accessdate=2018-02-07}}</ref>、脳研究プロジェクトとして{{仮リンク|中国脳計画|en|China Brain Project}}も立ち上げ<ref>Poo, Mu-ming; Du, Jiu-lin; Ip, Nancy Y; Xiong, Zhi-Qi; Xu, Bo and Tan, Tieniu (2016), ‘China Brain Project: Basic Neuroscience, Brain Diseases, and Brain-Inspired Computing’, Neuron, 92 (3), 591-96.</ref>、官民一体でAIの研究開発を推進している<ref>{{Cite news2|df=ja|date=2017-12-08|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO24371260X01C17A2FFE000/|title=オール中国でAI推進|publisher=[[日本経済新聞]]|accessdate=2018-02-07}}</ref>。中国の教育機関では18歳以下の天才児を集めて公然とAI兵器の開発に投じられてもいる<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/11/ai-41.php|title=中国が18歳以下の天才27人を選抜、AI兵器の開発に投入|publisher=[[ニューズウィーク]]|date=2018-11-09|accessdate=2018-11-29}}</ref>。[[マサチューセッツ工科大学]](MIT)の{{仮リンク|エリック・ブリニョルフソン|en|Erik Brynjolfsson}}教授や{{仮リンク|情報技術イノベーション財団|en|Information Technology and Innovation Foundation}}などによれば、中国では[[プライバシー]]意識の強い欧米と比較してAIの研究や新技術の実験をしやすい環境にあるとされている<ref name=wsj1837>{{Cite news2|df=ja|date=2018-02-26|url=http://jp.wsj.com/articles/SB12346302927663484593304584068193706085748|title=中国の一党独裁、AI開発競争には有利|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|accessdate=2018-03-07}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|date=2018-01-19|url=http://jp.wsj.com/articles/SB10806998528272603825204583646830641781270|title=AI開発レースで中国猛追、米企業のリード危うし|publisher=ウォール・ストリート・ジャーナル|accessdate=2018-02-07}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|date=2018-02-03|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/technology/2018/02/03/99109/|title=中国の「超AI監視社会」--新疆ウイグル自治区では“体内”まで監視!|publisher=[[集英社]]|accessdate=2018-02-07}}</ref>。日本で[[スーパーコンピュータ]]の研究開発を推進している齊藤元章もAIの開発において中国がリードする可能性を主張している<ref>{{Cite web2|df=ja|url=http://www.ube-ind.co.jp/ube/jp/ad/science/science_371.html|title=Green500の1位から見たコンピューター・ヘゲモニー|publisher=[[UBE (企業)|宇部興産]]|accessdate=2018-03-07}}</ref>。世界のディープラーニング用計算機の4分の3は中国が占めてるともされる<ref>{{Cite news2|df=ja|date=2018-01-20|url=http://japanese.engadget.com/2018/01/19/300m/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200313223143/http://japanese.engadget.com/2018/01/19/300m/|archivedate=2020-03-13|url-status=dead|title=中国、新疆ウイグル自治区で顔認識システム運用をテスト。指定地域から300m以上離れると当局に警告|publisher=[[Engadget]]|accessdate=2018-02-07}}</ref>。米国政府によれば、2013年からディープラーニングに関する論文数では中国が米国を超えて世界一となっている<ref>{{Cite news2|df=ja|date=2017-08-16|url=https://wired.jp/2017/08/16/america-china-ai-ascension/|title=中国が「AI超大国」になる動きは、もはや誰にも止められない|publisher=[[WIRED]]|accessdate=2018-02-07}}</ref>。{{仮リンク|FRVT|en|Face Recognition Vendor Test}}や[[ImageNet]]などAIの世界的な大会でも中国勢が上位を独占している<ref>{{Cite news2|df=ja|date=2018-11-24|url=http://japanese.china.org.cn/culture/2018-11/24/content_74198278_0.htm|title=世界顔認証ベンチマークテストの結果が発表 中国がトップ5独占|publisher=[[中国網]]|accessdate=2018-12-03}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|date=2017-08-08|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/17213|title=AIの世界王者決定戦「ImageNet」で中国チームが上位を独占|publisher=フォーブス|accessdate=2018-02-11}}</ref>。大手AI企業Google、[[マイクロソフト]]、[[Apple]]などの幹部でもあった[[台湾系アメリカ人]]科学者の[[李開復]]は中国がAIで覇権を握りつつあるとする『{{仮リンク|AI超大国:中国、シリコンバレーと新世界秩序|en|AI Superpowers}}』を著してアメリカの政界やメディアなどが取り上げた<ref>{{Cite news2|df=ja|date=2017-08-08|url=https://www.wired.com/story/ai-cold-war-china-could-doom-us-all/|title=THE AI COLD WAR THAT COULD DOOM US ALL|publisher=[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]|accessdate=2018-02-07}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.politico.com/interactives/2018/politico-50-book-picks/ |title=The POLITICO 50 Reading List |author=Politico Magazine Staff |newspaper=[[Politico]] |date=2018-09-04 |accessdate=2018-10-09}}</ref>。 フランス大統領[[エマニュエル・マクロン]]はAI分野の開発支援に向け5年で15億ドルを支出すると宣言し<ref>{{Cite news2|df=ja|title=仏マクロン大統領が「AI立国」宣言、無人自動運転も解禁へ|date=2018-03-30|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/20401|accessdate=2018-04-05|language=ja-JP|work=Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)}}</ref>、AI研究所をパリに開き、フェイスブック、グーグル、サムスン、DeepMind、[[富士通]]などを招致した。イギリスともAI研究における長期的な連携も決定されている。EU全体としても、「Horizon 2020」計画を通じて、215億ユーロが投じられる方向。韓国は、20億ドルを2022年までに投資をする。6つのAI機関を設立し褒賞制度も作られた。目標は2022年までにAIの世界トップ4に入ることだという<ref>https://www.sbbit.jp/article/cont1/35264?page=2</ref>。 日経新聞調べによると、国別のAI研究論文数は1位米国、2位中国、3位インド、日本は7位だった<ref>{{Cite news2|df=ja|date=2017-11-01|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22943380R31C17A0TJU200/|title=人工知能の論文数、米中印の3強に |publisher=日本経済新聞|accessdate=2018-02-07}}</ref>。 日本も加盟する経済協力開発機構(OECD)は、人工知能が労働市場に大きな影響を与える可能性が高いと警告しているが、2023年時点ではまだその兆候は見られない。人工知能の爆発的な普及は、世界の労働市場をまもなく一変させる可能性がある。日本を含む各国政府は、人工知能のような高度なスキルを持つ人材を育成し、低所得労働者の福祉を向上させるべきである。日本も加盟しているOECDは、高齢者やスキルの低い人々に人工知能の訓練を義務付けている。人工知能のような新興かつ高度なスキルが求められる時代は、従来のスキルがすでに時代遅れで使い物にならないということでもある<ref>{{Cite web |url=https://www.oecd.org/employment-outlook/2023/#ai-jobs |title=EMPLOYMENT OUTLOOK 2023 Artificial intelligence and jobs An urgent need to act |access-date=2023-11-29}}</ref>。計算神経科学者が忠告しているように、すでに、人工知能がすべてを変える、加速する変化と生涯学習の時代になった<ref>{{Cite web |title=4-9 Surviving in the New Information Economy - Adopting a Learning Lifestyle |url=https://www.coursera.org/lecture/mindshift/4-9-surviving-in-the-new-information-economy-x4r9z |website=Coursera |access-date=2023-11-29 |language=ja}}</ref>。 2024年の人工知能の展望については<ref name=":21">{{Cite web |title=Hopes for 2024 from Anastasis Germanidis, Sara Hooker, Percy Liang, Sasha Luccioni, Pelonomi Moiloa, Kevin Scott |url=https://www.deeplearning.ai/the-batch/issue-229/ |website=Hopes for 2024 from Anastasis Germanidis, Sara Hooker, Percy Liang, Sasha Luccioni, Pelonomi Moiloa, Kevin Scott |date=2023-12-27 |access-date=2023-12-28 |language=en}}</ref>、従来の人工知能はビッグデータの単純明快な課題<ref name=":19">{{Cite web |title=AI For Everyone |url=https://www.coursera.org/learn/ai-for-everyone |website=Coursera |access-date=2023-11-30 |language=ja}}</ref><ref name=":20">{{Cite web |title=A beginner’s guide to demystifying the buzzword- AI |url=https://www.linkedin.com/pulse/beginners-guide-demystifying-buzzword-ai-karina-sudarsan |website=www.linkedin.com |access-date=2023-11-30 |language=ja}}</ref>から学習して複雑な課題を解決することは得意であるが<ref>{{Cite web |title=AI Can Learn From Simple Tasks to Solve Hard Problems |url=https://www.deeplearning.ai/the-batch/more-thinking-solves-harder-problems/ |website=AI Can Learn From Simple Tasks to Solve Hard Problems |date=2021-09-29 |access-date=2023-12-11 |language=en}}</ref>、新しい未知の種類のデータや学習データの少ない複雑な課題は苦手なので<ref name=":19" /><ref name=":20" />、2024年は学習データの少ない人工知能の開発が重要になる。人間の基本的な欲求や宇宙の理解に取り組む人工知能は、特に学習データが少ない状況に対応することが予想される。人工知能開発ツールの自動化、人工知能の基盤モデルの透明化、話題の映像自動生成人工知能の成功も期待される。また、学習言語データは欧米言語が中心であるため、人工知能格差の拡大を防ぐために、欧米言語以外の学習データにも取り組む動きが世界的に広がっている<ref name=":21" />。 == 応用例 == [[ファイル:AI for Good Global Summit 2018 (41453800574).jpg|サムネイル|人工知能が突如として爆発的に成長する中、人間のために役立つ人工知能という考え方もこれまで以上に重要になっている<ref>{{Cite web |title=AI for Good |url=https://aiforgood.itu.int/ |website=AI for Good |access-date=2023-07-30 |language=en-US}}</ref>。]] === 脳神経科学・計算神経科学 === [[計算神経科学]]や人工知能の産物である[[ChatGPT]]と同様の言語モデルは、逆に今、脳神経科学研究の理解に寄与している<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=AI Is Unlocking the Human Brain’s Secrets |url=https://www.theatlantic.com/technology/archive/2023/05/llm-ai-chatgpt-neuroscience/674216/ |website=The Atlantic |date=2023-05-26 |access-date=2023-05-27 |language=en |first=Matteo |last=Wong}}</ref>。 {{See also|ブレイン・イニシアチブ|Blue Brain|計算神経科学}} === 医療・医用情報工学・メドテック === 医療現場ではAIが多く活用されており、最も早く導入されたのは画像診断と言われている。レントゲンやMRI画像の異常部分を検知することで、病気の見逃し発見と早期発見に役立っている。また、AIがカルテの記載内容や患者の問診結果などを解析できるよう、自然言語処理技術の発展も進んでいる。今後はゲノム解析による疾病診断、レセプトの自動作成、新薬の開発などが行えるよう期待されている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=AI医療の現状と未来|AIが医療分野でできること・メリット・デメリットなど徹底解説|EAGLYS株式会社 |url=https://www.eaglys.co.jp/news/column/ai/aimedical |website=EAGLYS株式会社 |access-date=2023-03-06 |language=ja}}</ref>。 また、症例が少ない希少疾患の場合、患者の個人情報の保護が重要になるため、データを暗号化した状態で統計解析を行う秘密計算技術にAIを活用して、データの前処理、学習、推論を行えることを目指す研究が行われている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=少数の患者のために。秘密計算AIが照らし出す、希少疾患のミライ|JOURNAL(リサーチやレポート)|事業共創で未来を創るOPEN HUB for Smart World |url=https://openhub.ntt.com/journal/2608.html |website=openhub.ntt.com |access-date=2023-03-06 |language=ja}}</ref>。 {{See also|{{日本語版にない記事リンク|健康管理における人工知能|en|artificial_intelligence_in_healthcare}}|{{日本語版にない記事リンク|メドテック|en|medtech}}}} === スマート農業・アグリテック === AIを搭載した収穫ロボットを導入することで、重労働である農作業の負担を減らしたり、病害虫が発生している個所をAIでピンポイントで見つけだして、農薬散布量を必要最小限に抑えたりすることが可能になる。また、AIで事前に収穫量を正確に予測できれば、出荷量の調整にも役立つ。<ref>{{Cite web2|df=ja|title=農業へのAI導入事例15選!スマート農業・自動化ロボットで変わる?【2023年最新版】 |url=https://ai-market.jp/industry/agriculture_ai/ |website=AI Market |date=2021-03-10 |access-date=2023-03-06 |language=ja |author=AI Market 編集部}}</ref> Googleは農作物のスキャニングと成長記録を行う農業AIロボット「Don Roverto」を開発。多くの苗の個体識別を行い実験を繰り返すことで、厳しい環境下でも耐えられる気候変動に強い種を瞬時に見つけ出せる<ref>{{Cite web2|df=ja|title=“AIが勧める“あなたの一皿。6つの先進事例から学ぶフードテック最前線 前編|JOURNAL(リサーチやレポート)|事業共創で未来を創るOPEN HUB for Smart World |url=https://openhub.ntt.com/journal/3188.html |website=openhub.ntt.com |access-date=2023-03-06 |language=ja}}</ref>。 {{See also|スマート農業|E-agriculture|{{日本語版にない記事リンク|アグリテック|en|AgriTech}}}} === 児童保護 === 子どものネット上の安全に人工知能を入れることは、国連や欧州連合で継続的に注目されている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=Policy guidance on AI for children |url=https://www.unicef.org/globalinsight/reports/policy-guidance-ai-children |website=www.unicef.org |access-date=2022-12-27 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=Child Rights Risks with Johan Grundström Eriksson |url=https://www.coursera.org/lecture/ai-business-future-of-work/child-rights-risks-with-johan-grundstrom-eriksson-OfH4E |website=Coursera |access-date=2022-12-27}}</ref>。 === 日常生活 === 2022年秋に[[ChatGPT]]が公開されて以来、[[生成的人工知能|生成AI]]の活用も日常化しつつある。人工知能は未だに指示(専門用語でプロンプトと言う)に対して誤った回答を返すことも多いため、誤った回答を抑制するための過渡期の手法として[[プロンプトエンジニアリング]]という手法も実践されている。加速度的な人工知能の性能向上を考慮した場合、遅くとも[[2020年代]]の内には人間との対話と同等の質問応答が可能となるため、プロンプトに対する人工知能特有の工夫は不要となる見通しがある<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=ChatGPT時代の新職業 「プロンプトエンジニア」という幻想 |url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00791/00002/ |website=日経クロストレンド |access-date=2023-05-10 |language=ja |author=梶谷健人}}</ref>。 2023年4月に自動車の[[自動運転車|自動運転]]は、レベル4(一定条件下で完全に自動化した公道での走行)が解禁された。福井県永平寺町では実証実験に成功しており、2023年度中に運転許可を申請する方向で検討している<ref> {{Cite news2 |date=2023-04-02 |title=無人運転バス、定着挑む |newspaper=日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO69817820R00C23A4EA1000/ |df=ja}}</ref>。 2023年10月、『ネイチャー』誌で、ウィキペディアの信頼性が人工知能によってついに向上する可能性が示された<ref>{{Cite journal|last=Petroni|first=Fabio|last2=Broscheit|first2=Samuel|last3=Piktus|first3=Aleksandra|last4=Lewis|first4=Patrick|last5=Izacard|first5=Gautier|last6=Hosseini|first6=Lucas|last7=Dwivedi-Yu|first7=Jane|last8=Lomeli|first8=Maria|last9=Schick|first9=Timo|date=2023-10|title=Improving Wikipedia verifiability with AI|url=https://www.nature.com/articles/s42256-023-00726-1|journal=Nature Machine Intelligence|volume=5|issue=10|pages=1142–1148|language=en|doi=10.1038/s42256-023-00726-1|issn=2522-5839}}</ref><ref>{{Cite web |title=Problematic White House AI Policy, Parked Cruise Robotaxis, and more |url=https://www.deeplearning.ai/the-batch/issue-221/ |website=Problematic White House AI Policy, Parked Cruise Robotaxis, and more |date=2023-11-01 |access-date=2023-12-01 |language=en}}</ref>。 2023年現在、人工知能を用いたサービスが日常生活に浸透してきている。PCやスマートフォンの画像認識による生体認証や音声認識によるアシスタント機能はすでに普通のサービスとなっている。AIスピーカーが普及してきており、中国製掃除ロボットに自動運転技術が応用されている<ref> {{Cite news2 |date=2023-04-25 |title=中国掃除機「ルンバ」超え |newspaper=日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM082OZ0Y3A400C2000000/ |df=ja}}</ref>。人工知能は、台風被害の予測、地震被災者の支援、健康のための大気汚染の把握などにも応用されている<ref name=":15" />。 === 文化・芸術 === {{see|{{ill2|音楽と人工知能|en|Music and artificial intelligence}}}} 音楽分野においては、既存の曲を学習することで、特定の作曲家の作風を真似て作曲する[[自動作曲]]ソフトが登場している。また{{仮リンク|リズムゲーム|en|Rhythm game}}に使われるタッチ位置を示した譜面を楽曲から自動生成するなど分野に特化したシステムも開発されている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=音ゲーの“譜面”作りをAIで高速化 KLabが「スクスタ」で活用、所要時間を半分に|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2108/30/news088.html|website=ITmedia NEWS|accessdate=2021-09-01|language=ja}}</ref>。また、特定の音声を学習させて、[[声優]]の仕事を代替したり<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.zdnet.com/article/35201918/ |title=声優の不祥事にAIが代役で活躍--中国で進むAI音声の活用 |access-date=2023-09-26 |date=2023-03-31 |website=ZDNET Japan |language=ja}}</ref>、特定のキャラクターや歌手などの声で歌わせたりなどが行われており、規制やルール作りなどの必要性が議論されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://premium.kai-you.net/article/704 |title=AI配信者の「歌ってみた」流行──人気ストリーマーの音声学習に賛否両論集まる背景 |access-date=2023-09-26 |website=KAI-YOU Premium |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230926-OYT1T50040/ |title=コナン君に「#歌わせてみた」流行曲、実はAI偽音声…困惑する声優たち「対処しようがない」 |access-date=2023-09-26 |date=2023-09-26 |website=読売新聞オンライン |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://japanese.cri.cn/2023/05/17/ARTI02yZ95Yp7Zb033GGi7dh230517.shtml |title=中国で大当たりのAI歌手、著作権侵害の可能性も |access-date=2023-09-26 |website=japanese.cri.cn}}</ref>。また前述した音声学習を用いて1つのトラックから特定の楽器や歌声を取り出す「デミックス」と呼ばれる技術も登場しており<ref name="D23">{{Cite web |title=PETER JACKSON TALKS THE BEATLES: GET BACK|url= https://d23.com/peter-jackson-talks-the-beatles-get-back/|publisher= D23 |date=2021-11-23 |accessdate=2023-11-11 }}</ref>、[[ビーチ・ボーイズ]]や[[ビートルズ]]などはこれを活用してトラック数の少ない時代の楽曲を[[ミキシング#リミックス|リミックス]]して新たなステレオ・ミックスを作成したり<ref name="uDiscover20220907">{{Cite web|和書|author= uDiscover Team |title= ビートルズ『Revolver』新MIXや未発表音源等を加えたスペシャル版発売 |url= https://www.udiscovermusic.jp/news/expanded-edition-beatles-revolver-october |website= udiscovermusic.jp |publisher= UNIVERSAL MUSIC JAPAN |date= 2022-09-07 |accessdate= 2023-11-11 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ビートルズ『Revolver』の新ミックス ピーター・ジャクソンなしではありえなかった ジャイルズ・マーティン語る|url=https://amass.jp/160657/ |publisher= amass |date=2022-09-08 |accessdate= 2023-11-11 }}</ref>、セッション・テープが破棄されたりマルチ・テープの音源に欠落がありモノラルしか存在しなかった楽曲のステレオ化をするなどしている。2023年にビートルズが発表したシングル『[[ナウ・アンド・ゼン (ビートルズの曲)|ナウ・アンド・ゼン]]』では[[ジョン・レノン]]が1970年代に録音したカセットテープからボーカルを抽出するのに使われた<ref>{{cite web|和書 |url=https://tower.jp/article/feature_item/2023/10/27/0103|title=The Beatles(ザ・ビートルズ)|最後の新曲「Now & Then」&ベスト・アルバム『赤盤』『青盤』2023エディションが発売|publisher=TOWER RECORDS |date=2023-10-27|accessdate=2023-11-11}}</ref><ref>{{cite web|和書|url=https://amass.jp/170705/|title=ビートルズ最後の新曲「Now And Then」は11月2日発売 曲数追加の『赤盤』『青盤』も発売決定|publisher=amass|date=2023-10-26|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 画像生成の技術としては、[[変分オートエンコーダー|VAE]]、[[敵対的生成ネットワーク|GAN]]、[[拡散モデル]]といった大きく分けて三種類が存在する。絵画分野においては、コンセプトアート用背景やアニメーションの[[動画 (アニメーション)|中割]]の自動生成、モノクロ[[漫画]]の自動彩色など、人間の作業を補助するAIが実現している<ref>{{Cite web2|df=ja|title=NVIDIA Canvas: AI のパワーを活用する|url=https://www.nvidia.com/ja-jp/studio/canvas/|website=NVIDIA|accessdate=2021-07-10|language=ja-jp}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=「アニメの絵を自動で描く」AIが出現――アニメーターの仕事は奪われるのか?|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1910/21/news029.html|website=ITmedia ビジネスオンライン|accessdate=2021-07-10|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=漫画のカラー化、AIが肩代わり 精度100%ではなくても有用なワケ|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2109/22/news070.html|website=ITmedia NEWS|accessdate=2021-11-08|language=ja}}</ref>。AIに自然言語で指定したイラスト生成させるサービス([[Stable Diffusion]]など)も登場している<ref name=":3">{{Cite web2|df=ja|title=「神絵が1分で生成される」 画像生成AI「Midjourney」が話題 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2208/02/news124.html |website=ITmedia NEWS |access-date=2022-08-03 |language=ja}}</ref>。このような人工知能を利用して制作された絵画は「[[人工知能アート]](Artificial intelligence art)」と呼ばれているが、教師データとして利用された[[著作物]]の[[知的財産]]権などを巡り、深刻な懸念が広がっている<ref name="technologyreview">{{Cite web2|df=ja|date=2022-09-16|title=This artist is dominating AI-generated art. And he's not happy about it.|url=https://www.technologyreview.com/2022/09/16/1059598/this-artist-is-dominating-ai-generated-art-and-hes-not-happy-about-it/|author-last=Heikkilä|author-first=Melissa|access-date=2022-10-02|work=MIT Technology Review}}</ref>。 人工知能は、絶滅危惧言語や生物多様性の保護にも応用されている<ref name=":15" />。学術的に構造化された文献レビューとして通常質の高い証拠とされる統計的な文献分析や、学術的な風土のために発表できなかった研究などの問題を考慮した体系的な見方を提供することに加え<ref>{{Cite web |title=Search - Consensus: AI Search Engine for Research |url=https://consensus.app/search/ |website=consensus.app |access-date=2023-12-08}}</ref>、さらに人工知能や自然言語処理機能を用いた厳密で透明性の高い分析を行うことで、科学的な再現性の危機をある程度解決しようと試みている<ref>{{Cite journal|last=Menke|first=Joe|last2=Roelandse|first2=Martijn|last3=Ozyurt|first3=Burak|last4=Martone|first4=Maryann|last5=Bandrowski|first5=Anita|date=2020-11-20|title=The Rigor and Transparency Index Quality Metric for Assessing Biological and Medical Science Methods|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S2589004220308907|journal=iScience|volume=23|issue=11|pages=101698|doi=10.1016/j.isci.2020.101698|issn=2589-0042}}</ref>。 将棋AIは人間同士・AI同士の対局から学習して新しい戦法を生み出しているが、プロ棋士(人間)の感覚では不可解ながら実際に指すと有用であるという<ref name="or1" />。 スポーツの分野では、AIは選手の怪我のリスクやチームのパフォーマンスを予測するのに役立つ<ref>{{Cite journal|last=Claudino|first=João Gustavo|last2=Capanema|first2=Daniel de Oliveira|last3=de Souza|first3=Thiago Vieira|last4=Serrão|first4=Julio Cerca|last5=Machado Pereira|first5=Adriano C.|last6=Nassis|first6=George P.|date=2019-12|title=Current Approaches to the Use of Artificial Intelligence for Injury Risk Assessment and Performance Prediction in Team Sports: a Systematic Review|url=https://sportsmedicine-open.springeropen.com/articles/10.1186/s40798-019-0202-3|journal=Sports Medicine - Open|volume=5|issue=1|language=en|doi=10.1186/s40798-019-0202-3|issn=2199-1170|pmc=PMC6609928|pmid=31270636}}</ref>。 メタ分析によれば、AIが政治的な意思決定を行うことも、2020年時点では学術界ではまだ注目されておらず、AIと政治に関するトピックは、学術界ではビッグデータやソーシャルメディアにおける政治的問題に関する研究が中心となっていた<ref>{{Cite journal2|df=ja|last=Bykov|first=I.|date=2020-07-02|title=Artificial Intelligence as a Source of Political Thinking|url=http://naukaru.ru/en/nauka/article/38589/view|journal=Journal of Political Research|volume=4|issue=2|pages=23–33|language=en|doi=10.12737/2587-6295-2020-23-33|issn=2587-6295}}</ref>。人工知能による人類絶滅の危険を懸念する声が存在するが<ref name=":6">[http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/03/stephen-hawking-ai-spell-the-end-_n_6266236.html ホーキング博士「人工知能の進化は人類の終焉を意味する」]</ref> <ref name=":7" /><ref name=":8">[http://news.infoseek.co.jp/article/xinhuaxia_60823/ ビル・ゲイツ氏も、人工知能の脅威に懸念]</ref>{{sfn|Geraci|2012|pp=1-2}}{{sfn|Geraci|2012|p=64}}、一方で平和を促進するための文化的な応用も存在する<ref name=":9">{{Cite web2|df=ja|title=Artificial Intelligence for peacebuilding - Opportunities & Challenges |url=https://www.visionofhumanity.org/artificial-intelligence-as-a-tool-for-peace/ |website=Vision of Humanity |date=2022-12-09 |access-date=2022-12-23 |language=en-US |first=Puja |last=Pandit}}</ref>。系統的レビューの中には、人工知能の人間を理解する能力を借りてこそ、テクノロジーは人類に真の貢献ができると分析するものもある<ref>{{Cite journal2|df=ja|last=Zhang|first=Zonghe|last2=Liao|first2=Han-Teng|last3=Wu|first3=Xue|last4=Xu|first4=Zhichao|date=2020-04-01|title=A Scientometric Analysis of Artificial Intelligence and Big data for well-being and human potential|url=https://iopscience.iop.org/article/10.1088/1757-899X/806/1/012026|journal=IOP Conference Series: Materials Science and Engineering|volume=806|issue=1|pages=012026|doi=10.1088/1757-899X/806/1/012026|issn=1757-8981}}</ref>。 == 歴史 == {{複数の問題|section=1|出典の明記=2018-08|内容過剰=2023年9月}} {{Main|人工知能の歴史}}AIの構築が長い間試みられてきているが、複雑な現実世界に対応しうる性能を持つ計算機の開発やシンボルグラウンディング問題とフレーム問題の解決が大きな壁となってきた。第1次ブームで登場した「探索と推論」や第2次ブームで登場した「知識表現」というパラダイムに基づくAIは各々現実世界と比して単純な問題しか扱えなかったため社会的には大きな影響力を持つことはなかった<ref>{{Cite web|和書|title=ディープラーニングがもたらしたAIの新たな価値【第1回】 |url=https://dcross.impress.co.jp/docs/column/column20191225/001233.html |author=ミン・スン |website=デジタルクロス |access-date=2023-06-18 |language=ja |publisher=株式会社インプレス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【7分でわかる】AI研究、60年の歴史を完全解説! {{!}} AI専門ニュースメディア AINOW |url=https://ainow.ai/2019/11/29/180898/ |website=AINOW |date=2019-11-28 |access-date=2023-06-18 |language=ja |author=つばさ}}</ref>。第3次以降のブームでは高性能なAIが登場し、AI脅威論、AIの本格的な社会的浸透、AIとの共生方法等が議論されている<!--<ref name="reuters-hinton">{{Cite web2|df=ja|url=https://jp.reuters.com/article/tech-ai-hinton-idJPKBN2WT19X|title=AI想定より速く人知超える公算、危険性語るためグーグル退社=ヒントン氏|website=Reuters|accessdate=2023-05-04}}</ref><ref>{{Cite web |title=「知性持つAIは下僕にあらず」マスク氏傾倒、AI脅威論唱える哲学者 |url=https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00537/032200013/ |website=日経ビジネス電子版 |access-date=2023-06-14 |language=ja |author=吉野次郎}}</ref><ref>{{Cite web |title=マスク氏ら、AI開発の一時停止訴え 「社会にリスク」 |url=https://newspicks.com/news/8279639/ |website=NewsPicks |date=2023-03-30 |access-date=2023-06-14}}</ref><ref>{{Cite web |title=Pause Giant AI Experiments: An Open Letter |url=https://futureoflife.org/open-letter/pause-giant-ai-experiments/ |website=Future of Life Institute |access-date=2023-06-14 |language=en-US}}</ref>{{要出典科学|date=2023年10月}}--><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000740728.pdf |title=AI脅威論の正体と人とAIとの共生 |access-date=2023-06-14 |publisher=総務省}}</ref>。 === 初期 === 17世紀初め、[[ルネ・デカルト]]は、動物の身体がただの複雑な機械であると提唱した([[機械論]])。[[ブレーズ・パスカル]]は1642年、最初の[[歯車式計算機|機械式計算機]]を製作した。[[チャールズ・バベッジ]]と[[エイダ・ラブレス]]はプログラム可能な機械式計算機の開発を行った。 [[バートランド・ラッセル]]と[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]は『数学原理』を出版し、形式論理に革命をもたらした。[[ウォーレン・マカロック]]と[[ウォルター・ピッツ]]は「神経活動に内在するアイデアの論理計算」と題する論文を1943年に発表し、ニューラルネットワークの基礎を築いた。 === 1900年代後半 === 1950年代になるとAIに関して活発な成果が出始めた。1956年夏、[[ダートマス大学]]が入居している建物の最上階を引き継いだ数学と計算機科学者のグループの一人である若き教授[[ジョン・マッカーシー]]はワークショップでのプロポーザルで "Artificial Intelligence" という言葉を作り出している{{sfn |Spectrum58-10 |2021 |p=27}}。ワークショップの参加者は、[[オリバー・セルフリッジ]]、[[レイ・ソロモノフ]]、マービン・ミンスキー、[[クロード・シャノン]]、[[ハーバート・サイモン]]、[[アレン・ニューウェル]]などであった{{sfn |Spectrum58-10 |2021 |p=29}}。ジョン・マッカーシーはAIに関する最初の会議で「人工知能{{efn|{{lang-en-short|artificial intelligence}}}}」という用語を作り出した。彼はまたプログラミング言語{{lang|en|LISP}}を開発した。知的ふるまいに関するテストを可能にする方法として、[[アラン・チューリング]]は「[[チューリングテスト]]」を導入した。[[ジョセフ・ワイゼンバウム]]は{{lang|en|ELIZA}}を構築した。これは[[来談者中心療法]]を行う[[おしゃべりロボット]]{{efn|{{lang-en-short|chatterbot}}}}である。 1956年に行われた、ダートマス会議開催の提案書において、人類史上、用語として初めて使用され、新たな分野として創立された。 1979年、NHK技研で研究者として所属していた[[福島邦彦]]氏が曲率を抽出する多層の神経回路にコグニトロン型の学習機能を取り入れて、多層神経回路モデル「'''[[ネオコグニトロン]]'''」を発明。<ref>{{Cite web|和書|title=人間の脳のメカニズムを、わたしは知りたくてたまらない。──福島邦彦|WIRED.jp |url=https://wired.jp/waia/2019/09_kunihiko-fukushima/ |website=WIRED.jp |access-date=2023-09-18 |language=ja-jp}}</ref> [[1980年代]]から急速に普及し始めた[[コンピュータゲーム]]では、敵キャラクターやNPCを制御するため、パターン化された動きを行う人工無能が実装されていた<ref>{{Cite web|和書|title=『ゲームAI』とは? ゲームAIの種類や歴史、これからについて解説 {{!}} AI専門ニュースメディア AINOW |url=https://ainow.ai/2019/10/06/179311/ |website=AINOW |date=2019-10-05 |access-date=2023-06-14 |language=ja |author=いっしー}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ゲーム AI の進化と歴史 |url=https://news.microsoft.com/ja-jp/2019/08/19/190819-evolution-and-history-of-game-ai/ |website=News Center Japan |date=2019-08-19 |access-date=2023-06-14 |language=ja-JP}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://cedec.cesa.or.jp/2008/archives/file/ac09-2.pdf |title=ゲームとAI 〜情報科学からみたゲーム〜 |access-date=2023-06-14 |publisher=一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会}}</ref>。 1990年代はAIの多くの分野で様々なアプリケーションが成果を上げた。特に、ボードゲームでは目覚ましく、1992年に[[IBM]]は世界チャンピオンに匹敵するバックギャモン専用コンピュータ・TDギャモンを開発し、IBMのチェス専用コンピュータ・[[ディープ・ブルー (コンピュータ)|ディープ・ブルー]]は、1997年5月に[[ガルリ・カスパロフ]]を打ち負かし、同年8月にはオセロで[[日本電気]]のオセロ専用コンピュータ・[[ロジステロ]]に世界チャンピオンの[[村上健]]が敗れた<ref>{{Cite web2|df=ja|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1710/06/news013.html |title=人間VSコンピュータオセロ 衝撃の6戦全敗から20年、元世界チャンピオン村上健さんに聞いた「負けた後に見えてきたもの」 |publisher=[[ITmedia]]|date=2017-10-21|accessdate=2018-12-25}}</ref>。 ==== 日本における第二次AIブーム ==== 日本においてはエキスパートシステムの流行の後にニューロファジィが流行した。しかし、研究が進むにつれて計算リソースやデータ量の不足,シンボルグラウンディング問題,フレーム問題に直面し、産業の在り方を激変させるようなAIに至ることは無く、遅くとも1994年頃までにはブームは終焉した。 [[1994年]]5月25日に[[計測自動制御学会]]から第二次AIブームの全容をB5判1391ページにわたって学術論文並みの詳細度でまとめた『ニューロ・ファジィ・AIハンドブック』が発売されている<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=ニューロ・ファジィ・AIハンドブック/1994.5 {{!}} テーマ別データベース {{!}} リサーチ・ナビ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000002332709.html |website=rnavi.ndl.go.jp |access-date=2023-06-11}}</ref>。この書籍ではシステム・情報・制御技術の新しいキーワード、ニューロ・ファジィ・AIの基礎から応用事例までを集めている<ref>{{Cite web|和書|title=ニューロ・ファジィ・AIハンドブック/ {{!}} SHOSHO |url=https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/bib/1005010273720 |website=石川県立図書館 |access-date=2023-06-14 |language=ja}}</ref>。 ===== ニューロファジィ<ref name=":0" />===== 1980年代後半から1990年代中頃にかけて、従来から電子制御の手法として用いられてきたON/OFF制御,[[PID制御]],現代制御の問題を克服するため、知的制御が盛んに研究され、知識工学的なルールを用いる[[ファジィ制御]],データの特徴を学習して分類する[[ニューラルネットワーク]],その2つを融合したニューロファジィという手法が日本を中心にブームを迎えた。1987年には[[仙台市地下鉄|仙台市において開業した地下鉄]]の[[自動列車運転装置|ATO]]に採用<ref>{{Cite web2|df=ja|url=http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1988/07/1988_07_05.pdf|title=仙台市地下鉄の鉄道トータルシステム|accessdate=2020-11-23|publisher=日立製作所}}</ref>され、バブル期の高級路線に合わせて、白物家電製品でもセンサの個数と種類を大幅に増やし、多様なデータを元に運転を最適化するモデルが多数発売され始めた。更に後には、人工知能とは異なるものの制御対象の[[カオス理論|カオス]]性をアルゴリズムに組み込んで制御するカオス制御が実用化されることになる<ref>{{Cite journal2|df=ja|author=潮俊光|year=1997|title=カオスの制御|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jrsj1983/15/8/15_8_1114/_article/-char/ja/|journal=日本ロボット学会誌|volume=15|issue=8|pages=1114–1117|doi=10.7210/jrsj.15.1114}}</ref>。従来の単純な論理に基づく制御と比較して柔軟な制御が可能になることから、遅くとも[[2000年]]頃にはファジィ制御,ニューロ制御,カオス制御などの曖昧さを許容する制御方式を総称して[[ソフトコンピューティング]]と呼ぶようになっている。この当時の[[ソフトコンピューティング]]については理論的な性能向上の限界が判明したため一過性のブームに終わったが、ブームが去った後も用いられ続けている。{{独自研究範囲|date=2023年6月13日 (火) 11:15 (UTC)|特に[[ファジィ制御]]は[[トップダウン設計とボトムアップ設計|トップダウン]]で挙動の設計が可能であるだけでなく、[[マイクロコントローラ]]でも[[リアルタイムシステム|リアルタイム処理]]が可能なほど軽量であるため、[[ディープラーニング]]の登場以降も|title=他の様々な手法ではなく、ファジィ制御と用途が異なることが多いディープラーニングとファジィ制御がなぜ比較されているのか。軽量が理由ではなく、用途が異なるために棲み分けたという方が正しいと思われるが、どのような出典に基づき比較がなされたのかを示す出典が必要(ないなら独自研究)。単純に軽量・組み込み向けに現在でも採用され続けていることのみであれば、ディープラーニングを引き合いに出す必要はなし}}幅広い分野で活用されている。 ファジィについては、2018年までに日本が世界の1/5の特許を取得している事から、日本で特に大きなブームとなっていたことが分かっている<ref name=":1" />。 ====== ブームの経緯 ====== 松下電器(現[[パナソニック]])が1985年頃から人間が持つような曖昧さを制御に活かすファジィ制御についての研究を開始し、1990年2月1日にファジィ洗濯機第1号である「愛妻号Dayファジィ」の発売に漕ぎ着けた。「愛妻号Dayファジィ」は従来よりも多数のセンサーで収集したデータに基づいて、柔軟に運転を最適化する洗濯機で、同種の洗濯機としては世界初であった。ファジィ制御という当時最先端の技術の導入がバブル期の高級路線にもマッチしたことから、ファジィは裏方の制御技術であるにもかかわらず世間の大きな注目を集めた<ref name=":1">{{Cite web2|df=ja|url=https://www.cbii.kutc.kansai-u.ac.jp/kaisetsu/7.pdf|title=松下電器から生まれたファジィ家電,ニューロファジィ家電|accessdate=2019-05-12|publisher=関西大学}}</ref>。その流行の度合いは、1990年の新語・流行語大賞における新語部門の金賞で「ファジィ」が選ばれる程であった。その後に、松下電器はファジィルールの煩雑なチューニングを自動化したニューロファジィ制御を開発し、従来のファジィ理論の限界を突破して学会で評価されるだけでなく、白物家電への応用にも成功して更なるブームを巻き起こした。松下電器の試みの成功を受けて、他社も同様の知的制御を用いる製品を多数発売した。1990年代中頃までは、メーカー各社による一般向けの白物家電の売り文句として知的制御技術の名称が大々的に用いられており、洗濯機の製品名では「愛妻号DAYファジィ」,掃除機の分類としては「ニューロ・ファジィ掃除機」,エアコンの運転モードでは「ニューロ自動」などの名称が付与されていた<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ファジィ全自動洗濯機 (松下電器産業) {{!}} 日本知能情報ファジィ学会|url=http://www.j-soft.org/example-database/2000-03-16-36|website=www.j-soft.org|accessdate=2019-05-02}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ニューロ・ファジィ掃除機 (日立製作所) {{!}} 日本知能情報ファジィ学会|url=http://www.j-soft.org/example-database/2000-03-16-55|website=www.j-soft.org|accessdate=2019-05-05}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|url=https://tg-gamedios.tokyo-gas.co.jp/landing/images/TKG00001/orig/29/1008515223261301.PDF|title=ガスルームエアコン SN-A4541U-D SN-A4541RF-D 取扱説明書|accessdate=2019-05-03|publisher=東京ガス}}</ref><ref>{{Cite journal2|df=ja|author1=木内光幸|author2=近藤信二|date=1990-08-15|title=全自動洗濯機「愛妻号Dayファジィ」(NA-F 50 Y 5)の紹介|url=https://doi.org/10.3156/jfuzzy.2.3_384|journal=日本ファジィ学会誌|volume=2|issue=3|pages=384–386|language=ja|doi=10.3156/jfuzzy.2.3_384|issn=0915-647X}}</ref><ref>{{Cite journal2|df=ja|author=廣田薫|date=1991-05-20|title=ファジィ家電,どこがファジィか|url=https://doi.org/10.11526/ieejjournal1888.111.417|journal=電氣學會雜誌|volume=111|issue=5|pages=417–420|language=ja|doi=10.11526/ieejjournal1888.111.417|issn=0020-2878}}</ref><ref>{{Cite journal2|df=ja|author=秋下貞夫|date=1991-04-15|title=特集「ニューロおよびファジィのロボットへの応用について」|url=https://doi.org/10.7210/jrsj.9.203|journal=日本ロボット学会誌|volume=9|issue=2|pages=203–203|language=ja|doi=10.7210/jrsj.9.203|issn=0289-1824}}</ref>。 ニューロ,ファジィ,ニューロファジィという手法は、従来の単純なオン・オフ制御や、対象を数式で客観的にモデル化する(この作業は対象が複雑な機構を持つ場合は極めて難しくなる)必要があるPID制御や現代制御等と比較して、人間の主観的な経験則や計測したデータの特徴が利用可能となるファジィ、ニューロ、[[ニューロファジィ]]は開発工数を抑えながら、環境適応時の柔軟性を高くできるという利点があった<ref name=":0">{{Cite journal2|df=ja|author1=馬野元秀|author2=林勲|date=1993-04-15|title=ファジィ・ニューラルネットワークの現状と展望(<特集>ファジィ・ニューラルネットワーク)|url=https://doi.org/10.3156/jfuzzy.5.2_178|journal=日本ファジィ学会誌|volume=5|issue=2|pages=178–190|language=ja|doi=10.3156/jfuzzy.5.2_178|issn=0915-647X}}</ref>。しかし、開発者らの努力にもかかわらず、計算能力や収集可能なデータ量の少なさから、既存の工作機械や家電製品の制御を多少改善する程度で限界を迎えた。理論的にも[[ファジィ集合]]と[[ディープラーニング|深層学習]]ではない3層以下の[[ニューラルネットワーク]]の組み合わせであり、計算リソースや学習データが潤沢に与えられたとしても、[[勾配消失問題]]などの理論的限界によって認識精度の向上には限界があった。 以降、計算機の能力限界から理論の改善も遅々として進まず、目立った進展は無くなり、1990年代末には知的制御を搭載する白物家電が大多数になったことで、売り文句としてのブームは去った<ref>{{Cite web2|df=ja|title=そういえば、ファジーなんて言葉があったよね|url=https://easy.mri.co.jp/19990427.html|accessdate=2019-05-02|language=ja}}</ref>。ブーム後は一般には意識されなくなったが、現在では裏方の技術として、家電製品のみならず、雨水の排水,駐車場,ビルの管理システムなどの社会インフラにも使われ、十分に性能と安定性が実証されている。2003年頃には、人間が設計した[[オントロジー (情報科学)|オントロジー]](ファジィルールとして表現する)を利活用するネットワーク・インテリジェンスという分野に発展した<ref>{{Cite journal2|df=ja|author=山口亨|date=2003-04-10|title=ニューロ・ファジィ制御とネットワークインテリジェンス|url=https://doi.org/10.11499/sicejl1962.42.321|journal=計測と制御|volume=42|issue=4|pages=321–323|language=ja|doi=10.11499/sicejl1962.42.321|issn=0453-4662}}</ref>。 ==== 統計的機械学習 ==== {{Main|機械学習}} 日本の気象庁では、1977年から気象数値モデルの補正に統計的[[機械学習]]の利用を開始している。<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/nwptext/51/2_chapter5.pdf |title=数値予報ガイダンス |access-date=2023-04-18 |publisher=国土交通省 気象庁}}</ref>具体的には、[[カルマンフィルター|カルマンフィルタ]]、[[ロジスティック回帰]]、[[重回帰分析|線形重回帰]]、[[データ・クラスタリング|クラスタリング]]等である。 また地震発生域における地下の状態を示すバロメータである応力降下量を、[[ベイズ推定]]や[[マルコフ連鎖モンテカルロ法]]によって推定したり、余震などの細かい地震の検知を補正する[[ガウス過程]]回帰といった手法を気象庁は導入している。<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=次世代地震計測と最先端ベイズ統計学との融合によるインテリジェント地震波動解析(iSeisBayes)の取り組み {{!}} 地震本部 |url=https://www.jishin.go.jp/resource/column/column_20win_p02/ |website=www.jishin.go.jp |access-date=2023-04-18}}</ref> === 2000年代 === 2005年、[[レイ・カーツワイル]]は著作で、「圧倒的な人工知能が知識・知能の点で人間を超越し、科学技術の進歩を担い世界を変革する[[技術的特異点]](シンギュラリティ)が2045年にも訪れる」とする説を発表した。 === 2010年代前半 === 2010年代に入り、膨大なデータを扱う研究開発のための環境が整備されたことで、AI関連の研究が再び大きく前進し始めた。 [[2010年]]に英国エコノミスト誌で「[[ビッグデータ]]」という用語が提唱された。同年に[[質問応答システム]]の[[ワトソン (コンピュータ)|ワトソン]]が、クイズ番組「[[ジェパディ!]]」の練習戦で人間に勝利し、大きなニュースとなった<ref>[http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp343.html 人工知能がクイズ王に挑戦! 後編 いよいよ決戦 - NHKオンライン]</ref>。 2013年には[[国立情報学研究所]]{{efn|[[新井紀子]]がリーダー。}}や[[富士通研究所]]の研究チームが開発した「[[東ロボくん]]」で東京大学入試の模擬試験に挑んだと発表した。数式の計算や単語の解析にあたる専用プログラムを使い、実際に受験生が臨んだ[[大学入試センター試験]]と東大の2次試験の問題を解読した。[[代々木ゼミナール]]の判定では「東大の合格は難しいが、私立大学には合格できる水準」だった<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2302P_T21C13A1CR8000/ 人工知能が東大模試挑戦「私大合格の水準」:日本経済新聞、閲覧2017年7月28日]</ref>。 === 2010年代後半 === {{内容過剰|section=1|date=2023年9月}} 2015年10月に、[[DeepMind]]社は2つの[[ディープラーニング|深層学習]]技術と[[強化学習]]、モンテカルロ木探索を組み合わせ「[[AlphaGo]]」を開発し、人間のプロ囲碁棋士に勝利することに成功した。それ以降、[[ディープラーニング]](深層学習)と呼ばれる手法が注目されはじめた<ref>平成28年版 情報通信白書 第4章 第2節〜4節 {{Cite web2|df=ja|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h28/pdf/index.html |title=平成28年版 情報通信白書(PDF版) |publisher=[[総務省]]|accessdate=2016-09-06}}</ref>。 2016年10月、DeepMindが、入力された情報の関連性を導き出し仮説に近いものを導き出す人工知能技術「ディファレンシャブル・ニューラル・コンピューター」を発表<ref>http://ascii.jp/elem/000/001/249/1249977/</ref>し、同年11月、大量のデータが不要の「ワンショット学習」を可能にする深層学習システムを<ref>https://www.technologyreview.jp/s/12759/machines-can-now-recognize-something-after-seeing-it-once/</ref>、翌2017年6月、関係推論のような人間並みの認識能力を持つシステムを開発<ref>http://gigazine.net/news/20170616-deepmind-general-ai/</ref>。2017年8月には、記号接地問題([[シンボルグラウンディング問題]])を解決した<ref>https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00439317</ref>。 従来、AIには不向きとされてきた不完全情報ゲームである[[ポーカー]]でもAIが人間に勝利するようになった<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ついに6人対戦のポーカーでAIがプロのポーカープレイヤーを打ち負かす|url=https://gigazine.net/news/20190712-ai-beats-pros-6-player-poker/|website=GIGAZINE|accessdate=2021-02-22|language=ja}}</ref>。 Googleの関係者はさらに野心的な取り組みとして、単一のソフトウェアで100万種類以上のタスクを実行可能なAIを開発していると明らかにした<ref>{{Cite web2|df=ja|title=グーグルが狙う「万能AI」、100万の役割を担えるモデルの驚くべき開発方法|url=https://active.nikkeibp.co.jp/atcl/act/19/00140/030200005/|website=日経クロステック Active|accessdate=2021-02-22|language=ja|author=中田敦}}</ref>。 ==== 人工知能の第三次ブーム:AGI(汎用人工知能)と技術的特異点 ==== {{Main|汎用人工知能}}2006年のディープラーニングの発明と、2010年以降の[[ビッグデータ]]収集環境の整備、計算資源となるGPUの高性能化により、2012年にディープラーニングが画像処理コンテストで他の手法に圧倒的大差を付けて優勝したことで、技術的特異点という概念は急速に世界中の識者の注目を集め、現実味を持って受け止められるようになった。 ディープラーニングの発明と急速な普及を受けて、研究開発の現場においては、[[デミス・ハサビス]]率いるDeepMindを筆頭に、Vicarious、OpenAI、IBM Cortical Learning Center、全脳アーキテクチャ、PEZY Computing、OpenCog、GoodAI、NNAISENSE、IBM [[SyNAPSE]]、Nengo、中国科学院自動化研究所等、'''[[汎用人工知能]]'''('''AGI''')を開発するプロジェクトが数多く立ち上げられている。これらの研究開発の現場では、脳をリバースエンジニアリングして構築された[[神経科学]]と機械学習を組み合わせるアプローチが有望とされている<ref>http://wba-initiative.org/1653/</ref>。 [[2017年]]10月、[[ジェフリー・ヒントン]]により要素間の相対的な位置関係まで含めて学習できる'''CapsNet(カプセルネットワーク)'''が提唱された<ref>{{Cite journal2|df=ja|last=Hinton|first=Geoffrey E.|last2=Frosst|first2=Nicholas|last3=Sabour|first3=Sara|date=2017-10-26|title=Dynamic Routing Between Capsules|url=https://arxiv.org/abs/1710.09829v2|language=en}}</ref>。 2018年3月16日の国際大学[[GLOCOM]]の提言によると、課題解決型のAIを活用する事で社会変革に寄与できると分析されている<ref>{{Cite web2|df=ja|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/1803/19/news030.html|title=「課題解決型」のAIが日本社会を変える――国際大学GLOCOMがAI活用実態の調査結果を発表|publisher=@IT|accessdate=2018-03-24|date=2018-03-19}}</ref>。 2018年8月、[[OpenAI]]が好奇心を実装しノーゲームスコア、ノーゴール、無報酬で目的なき探索を行うAIを公表。これまでのAIで最も人間らしいという<ref>https://thenextweb.com/artificial-intelligence/2018/08/23/researchers-gave-ai-curiosity-and-it-played-video-games-all-day/ </ref>。 2018年9月、MITリンカーン研究所は従来ブラックボックスであったニューラルネットワークの推論をどのような段階を経て識別したのかが明確に分かるアーキテクチャを開発した<ref>https://news.mit.edu/2018/mit-lincoln-laboratory-ai-system-solves-problems-through-human-reasoning-0911</ref>。 2019年、[[BERT (言語モデル)|BERT]]などの言語モデルにより、深層学習では困難とされてきた言語処理において大きな進展があり、Wikipediaなどを使用した読解テストで人間を上回るに至った<ref>{{Cite web2|df=ja|title=文章読解でもAIがついに人間超え、グーグルの「BERT」発表から1年で急成長|url=https://tech.nikkeibp.co.jp/atcl/nxt/column/18/01056/111200002/|website=日経 xTECH(クロステック)|accessdate=2019-11-15|language=ja|author=中田敦}}</ref>。 === 2020年代前半 === {{内容過剰|section=1|date=2023年9月}} [[2020年]]には、OpenAIが基盤モデルとして'''Transformer'''を採用した1750億パラメータを持つ自然言語処理プログラム[[GPT-3]]が開発され、アメリカの掲示板サイト[[Reddit]]で1週間誰にも気付かれず人間と投稿・対話を続けた。プログラムと気付かれた理由は文章の不自然さではなく、その投稿数が異常というものだった<ref>https://gigazine.net/news/20201008-gpt-3-reddit/</ref>。 [[DeepMind]]が開発した[[タンパク質構造予測|タンパク質の構造予測]]を行う[[AlphaFold|AlphaFold2]]が[[CASP]]の[[グローバル距離テスト]] (GDT) で90点以上を獲得し、[[計算生物学]]における重要な成果であり、数十年前からの生物学の壮大な挑戦に向けた大きな進歩と称された<ref name="science20201130">Robert F. Service, [https://www.sciencemag.org/news/2020/11/game-has-changed-ai-triumphs-solving-protein-structures ‘The game has changed.’ AI triumphs at solving protein structures], ''Science'', 30 November 2020</ref>。 最先端のAI研究では2年で1000倍サイズのモデルが出現し、1000倍の演算能力を持つコンピュータが必要になって来ている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=Cerebras、GPT-3を1日で学習できるAIスパコンを発表 - Hot Chips 33|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20210914-1971929/|website=TECH+|date=2021-09-14|accessdate=2021-11-08|language=ja}}</ref>。 2020年の時点で、メタ分析によれば、いくつかのAIアルゴリズムの進歩は停滞している<ref>{{Cite journal2|df=ja|last=Hutson|first=Matthew|date=2020-05-29|title=Core progress in AI has stalled in some fields|url=https://www.science.org/doi/10.1126/science.368.6494.927|journal=Science|volume=368|issue=6494|pages=927–927|language=en|doi=10.1126/science.368.6494.927|issn=0036-8075}}</ref>。 2021年4月、[[NVIDIA]]の幹部、パレシュ・カーリャは「数年内に100兆パラメータを持つAIモデルが出てくるだろう」と予想した<ref>{{Cite web2|df=ja|title=エヌビディアがCPU参入 アームと組みAI計算10倍速く|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN09EBS0Z00C21A4000000/|website=日本経済新聞|date=2021-04-13|accessdate=2021-04-13|language=ja}}</ref>。 2021年5月、[[マイクロソフトリサーチ]]が32兆パラメーターのAIを試験<ref>{{Cite web2|df=ja|title=MicrosoftのZeRO-Infinity Libraryで32兆個のパラメーターのAIモデルをトレーニング|url=https://www.infoq.com/jp/news/2021/06/microsoft-zero-infinity/|website=InfoQ|accessdate=2021-11-08|language=ja}}</ref>。 2021年6月、中国政府の支援を受けている北京智源人工知能研究院がパラメーター数1兆7500億のAI「悟道2.0」を発表<ref>{{Cite web2|df=ja|title=中国の研究チームが新たなAI「悟道2.0」を発表、パラメーター数は1兆7500億でGoogleとOpenAIのモデルを上回る|url=https://gigazine.net/news/20210604-china-wudao-2-ai/|website=GIGAZINE|accessdate=2021-11-08|language=ja}}</ref>。 2021年6月、グーグルの研究者達がグラフ畳み込みニューラルネットと強化学習(方策勾配法最適化)を用いて配線とチップの配置を自動設計させたところ、消費電力、性能など全ての主要な指数で人間が設計したもの以上の行列演算専用チップ(TPU4.0)のフロアプランを生成した。そして、設計にかかる時間は人間の1/1000であった<ref>{{Cite web2|df=ja|title=計算機科学:人工知能がコンピューターチップの設計をスピードアップ {{!}} Nature {{!}} Nature Portfolio|url=http://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/13701|website=www.natureasia.com|accessdate=2021-07-10|language=ja}}</ref>。 2021年8月、グーグルの量子人工知能研究部門を率いるハルトムート・ネベンは[[量子コンピュータ]]の発達の影響がもっとも大きい分野として機械学習分野などAIを挙げた<ref>{{Cite web2|df=ja|title=Google幹部、AIの人知超え「前倒しも」 量子計算機で|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN211ZF0R20C21A8000000/|website=日本経済新聞|date=2021-08-24|accessdate=2021-11-08|language=ja}}</ref>。 2021年8月、DeepMindはさまざまな種類の入力と出力を処理できる汎用の深層学習モデル「'''Perceiver'''」を開発した。<ref>{{Cite journal2|df=ja|last=Jaegle|first=Andrew|last2=Borgeaud|first2=Sebastian|last3=Alayrac|first3=Jean-Baptiste|last4=Doersch|first4=Carl|last5=Ionescu|first5=Catalin|last6=Ding|first6=David|last7=Koppula|first7=Skanda|last8=Zoran|first8=Daniel|last9=Brock|first9=Andrew|date=2022-03-15|title=Perceiver IO: A General Architecture for Structured Inputs & Outputs|url=http://arxiv.org/abs/2107.14795|journal=arXiv:2107.14795 [cs, eess]}}</ref> 2021年10月、GoogleBrainは視覚、聴覚、言語理解力を統合し同時に処理するマルチモーダルAIモデル「'''Pathways'''」を開発中であると発表した。<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=Introducing Pathways: A next-generation AI architecture |url=https://blog.google/technology/ai/introducing-pathways-next-generation-ai-architecture/ |website=Google |date=2021-10-28 |access-date=2023-04-24 |language=en-us}}</ref> 2022年、研究者の間では大規模ニューラルネットワークに意識が存在するか議論が起こっている。深層学習の第一人者Ilya Sutskeverは「(大規模ニューラルネットワークは)少し意識的かもしれない」と見解を示した<ref>{{Cite tweet|author=Ilya Sutskever|user=ilyasut|number=1491554478243258368|title=it may be that today's large neural networks are slightly conscious|date=2022-02-10|accessdate=2023-03-24}}</ref>。 2022年02月、DeepMindは自動でプログラムのコーディングが可能なAI「'''AlphaCode'''」を発表した。<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=Competitive programming with AlphaCode |url=https://www.deepmind.com/blog/competitive-programming-with-alphacode |website=www.deepmind.com |access-date=2023-04-24 |language=en}}</ref> 2022年4月、Googleは予告どおりPathwaysを使い、万能言語モデル'''PaLM'''を完成させた。とんち話の解説を行えるほか、9-12歳レベルの算数の文章問題を解き、数学計算の論理的な説明が可能であった。デジタルコンピュータは誕生から80年弱にして初めて数学計算の内容を文章で説明できるようになった<ref>https://etechnologyreview.com/2022/04/29/google%E3%81%AF%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%9C%80%E5%A4%A7%E8%A6%8F%E6%A8%A1%E3%81%AEai%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E3%80%8Cpalm%E3%80%8D%E3%82%92%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%80%81%E8%A8%80/</ref>。その後、自然言語処理としてPathwaysをベースにした数学の問題を解けるモデル「'''Minerva'''」を開発した。<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=Minerva: Solving Quantitative Reasoning Problems with Language Models |url=https://ai.googleblog.com/2022/06/minerva-solving-quantitative-reasoning.html |website=ai.googleblog.com |access-date=2023-04-24 |language=en}}</ref>また、Pathwaysをベースにした自然言語処理とDiffusion Modelを連携し、画像生成モデル'''Parti'''を発表した。<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=Parti: Pathways Autoregressive Text-to-Image Model |url=https://parti.research.google/ |website=parti.research.google |access-date=2023-04-24}}</ref> 2022年5月12日、DeepMindは様々なタスクを一つのモデルで実行することができる統合モデル「'''Gato'''」を発表した。チャット、画像の生成と説明、四則演算、物体を掴むロボットの動作、ゲームの攻略等々、600にも及ぶ数々のタスクをこの一つのモデルで実行することができるという<ref>{{Cite journal2|df=ja|last=Li|first=Yujia|last2=Choi|first2=David|last3=Chung|first3=Junyoung|last4=Kushman|first4=Nate|last5=Schrittwieser|first5=Julian|last6=Leblond|first6=Rémi|last7=Eccles|first7=Tom|last8=Keeling|first8=James|last9=Gimeno|first9=Felix|date=2022-12-09|title=Competition-Level Code Generation with AlphaCode|url=http://arxiv.org/abs/2203.07814|journal=Science|volume=378|issue=6624|pages=1092–1097|doi=10.1126/science.abq1158|issn=0036-8075}}</ref>。 DeepMindのNando de Freitasは「今は規模が全てです。(AGIに至る道を探す)ゲームは終わった」と主張したが<ref>、https://gigazine.net/news/20220518-deepmind-gato/</ref>人工知能の歴史の中で繰り返されてきた誇大広告だという批判も存在する<ref>https://www.technologyreview.jp/s/276810/the-hype-around-deepminds-new-ai-model-misses-whats-actually-cool-about-it/ </ref>。 2022年5月、GoogleのチャットボットLaMDAの試験が行われた。それに参加していたエンジニアであるブレイク・ルモワンはLaMDAに意識があると確信、会話全文を公開したがGoogleから守秘義務違反だとして休職処分を受けた。この主張には様々な批判意見がある<ref>https://gigazine.net/news/20220614-google-ai-lamda-sentient-nonsens/</ref>。 2022年8月、[[拡散モデル]]がベースの画像生成AI・Midjourneyの作品が米国コロラド州で開催された美術品評会で優勝した<ref name=":5">{{Cite web2|df=ja|title=画像生成AI「Midjourney」の絵が米国の美術品評会で1位に 優勝者「物議を醸すことは分かっていた」 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2209/01/news148.html |website=ITmedia NEWS |access-date=2022-10-01 |language=ja}}</ref>。ただし細かい部分は人間の手が加えられている<ref name=":5" />。 2022年10月、DeepMindは行列の積を効率的に計算するための未発見のアルゴリズムを導き出す「'''AlphaTensor'''」を開発した。<ref>https://gigazine.net/news/20221006-deepmind-alphatensor/</ref>。「4×5の行列」と「5×5の行列」の積を求める際に、通常の計算方法で100回の乗算が必要なところを、76回に減らすことができた。またこれを受けて数学者もさらに高速な行列乗算プログラムを公表した<ref>https://twitter.com/lotz84_/status/1580353636424888320</ref>。 [[2022年]]11月30日、[[OpenAI]]が[[GPT-3|GPT-3.5]]を用いた[[ChatGPT]]をリリースした。全世界的に従来よりも圧倒的に人間に近い回答を返す[[質問応答システム]]として話題となり、[[産学連携|産官学]]を巻き込んだブームを引き起こした。非常に使い勝手の良い[[ChatGPT]]の登場により、AIの実務応用が爆発的に加速すると予想されたため、これを'''第4次AIブーム'''の始まりとする意見も挙がっている<ref name="jeri_202306-07" /><ref>{{Cite web2 |df=ja |title=ChatGPTで幕を開けた「第4次AIブーム」の熾烈 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/666232 |website=東洋経済オンライン |date=2023-04-15 |access-date=2023-06-08 |language=ja |last=印南志帆}}</ref>。 2022年12月、Googleは、「'''Flan-PaLM'''」と呼ばれる巨大言語モデルを開発した。米国医師免許試験(USMLE)形式のタスク「MedQA」で正答率67.6%を記録し、PubMedQAで79.0%を達成した。57ジャンルの選択問題タスク「MMLU」の医療トピックでもFlan-PaLMの成績は他の巨大モデルを凌駕した。臨床知識で80.4%、専門医学で83.8%、大学生物学で88.9%、遺伝医療学で75.0%の正答率である<ref>{{Cite journal2|df=ja|last=Singhal|first=Karan|last2=Azizi|first2=Shekoofeh|last3=Tu|first3=Tao|last4=Mahdavi|first4=S. Sara|last5=Wei|first5=Jason|last6=Chung|first6=Hyung Won|last7=Scales|first7=Nathan|last8=Tanwani|first8=Ajay|last9=Cole-Lewis|first9=Heather|date=2022-12-26|title=Large Language Models Encode Clinical Knowledge|url=http://arxiv.org/abs/2212.13138|journal=arXiv:2212.13138 [cs]}}</ref>。Googleロボティクス部門はまた、ロボットの入力と出力行動(カメラ画像、タスク指示、モータ命令など)をトークン化して学習し、実行時にリアルタイム推論を可能にする「'''Robotics Transformer 1(RT-1)'''」を開発した<ref>{{Cite web2 |title=RT-1: Robotics Transformer |url=https://robotics-transformer.github.io/ |access-date=2023-04-24 |website=robotics-transformer.github.io |df=ja}}</ref>。 2023年1月11日、DeepMindは、画像から世界モデルを学習し、それを使用して長期視点から考えて最適な行動を学習する事が出来る「'''DreamerV3'''」を発表した。<ref>{{Cite journal2 |last=Hafner |first=Danijar |last2=Pasukonis |first2=Jurgis |last3=Ba |first3=Jimmy |last4=Lillicrap |first4=Timothy |date=2023-01-10 |title=Mastering Diverse Domains through World Models |url=http://arxiv.org/abs/2301.04104 |journal=arXiv:2301.04104 [cs, stat] |df=ja}}</ref> 2023年12月、Googleはさらに「'''Gemini'''」と呼ばれる人工知能基盤モデルを発表した。この人工知能基盤モデルの特徴は、一般的なタスクにおいて専門家よりも高い正答率を示すことで、「Gemini」はついに専門家を超えたと宣伝されている<ref>{{Cite web |title=Gemini - Google DeepMind |url=https://deepmind.google/technologies/gemini/ |website=deepmind.google |access-date=2023-12-09 |language=en}}</ref>。 一般的に2018年頃はまだ、AIは肉体労働や単純作業を置き換え、芸術的・創造的仕事が「人間の領域」となると予想されてきたが<ref name=":4">{{Cite journal|last=Huang|first=Ming-Hui|last2=Rust|first2=Roland T.|date=2018-05|title=Artificial Intelligence in Service|url=http://journals.sagepub.com/doi/10.1177/1094670517752459|journal=Journal of Service Research|volume=21|issue=2|pages=155–172|language=en|doi=10.1177/1094670517752459|issn=1094-6705}}</ref><ref name=":10">{{Cite web |title=A Theory of AI Job Replacement - AI and the future of work |url=https://www.coursera.org/lecture/ai-business-future-of-work/a-theory-of-ai-job-replacement-WEV1z |website=Coursera |access-date=2023-11-22 |language=ja}}</ref>、実際には2020年代前半から芸術的な分野へ急速に進出している<ref name=":11" /><ref name=":12" />と学術界でさえ予想できなかった節がある<ref name=":4" /><ref name=":10" />。またAIの実用化後も残るとされた翻訳、意思決定、法律相談など高度なスキルを必要とする分野への応用も進んでいる<ref name=":13" /><ref name=":14">{{Cite web2 |date=2023-02-13 |title=「チャットGPT」で法律相談 弁護士ドットコム、今春開始へ:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASR2F5RHLR2FULFA00V.html?iref=ogimage_rek |access-date=2023-02-14 |website=朝日新聞デジタル |language=ja |df=ja}}</ref>。一方で2023年時点では肉体労働や単純作業への利用は[[自動倉庫]]の制御<ref>{{Cite web2 |author=森山和道 |date=2022-09-12 |title=ソフトバンクが挑む「物流自動化」 高密度自動倉庫など千葉に新施設 |url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1439328.html |access-date=2022-12-22 |website=Impress Watch |publisher=株式会社インプレス |language=ja |df=ja}}</ref>、囲碁の盤面の映像から[[棋譜]]を作成するなど<ref>{{Cite web2 |title=囲碁全対局、AIでデータに 日本棋院が自動記録システム - 日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD118IL0R10C22A4000000/ |access-date=2023-04-28 |website=www.nikkei.com |df=ja}}</ref>限定的な利用にとどまっている。[[テスラ (会社)|テスラ社]]は開発を進める[[二足歩行ロボット]][[Tesla Bot]]に汎用人工知能を搭載し、単純労働を担当させると表明している。 人工知能は今、[[質問応答システム|質問応答]]、[[意思決定支援システム|意思決定支援]]、需要予測、[[音声認識]]、[[音声合成]]、[[機械翻訳]]、科学技術計算、文章要約など、各分野に特化したシステムやこれらを組み合わせたフレームワークが実用化された<ref name=":13">{{Cite web2|df=ja|title=NVIDIA ジェンスン・フアンCEO、対話型AIサービス「Jarvis」で「じゃんがらラーメン」を探すデモ |url=https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1318471.html |website=Car Watch |date=2021-04-14 |accessdate=2021-04-15 |language=ja |author=谷川潔|publisher=株式会社インプレス}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=Adobe Premiere Pro、音声からの文字起こし進化中。テンプレ拡充 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1321662.html |website=AV Watch |date=2021-04-27 |accessdate=2021-04-29 |language=ja |author=|publisher=野澤佳悟=株式会社インプレス}}</ref><ref name=":2" /><ref>{{Cite web2|df=ja|title=「パパとママ」の声を完コピ! タカラトミーの読み聞かせスピーカーが話題に |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2212/22/news036.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2022-12-22 |language=ja}}</ref>。 2023年5月11日、日本政府は首相官邸で、「AI戦略会議」(座長 松尾豊・東京大学大学院教授)の初会合を開いた<ref>[https://www.jiji.com/jc/p?id=20230511111036-0045208129 政府は11日午前、人工知能(AI)に関する政策の…:AI戦略会議が初会合:時事ドットコム]</ref>。 == 科学とAI == # タンパク質の折り畳みの高精度予測<ref>{{Cite journal|last=Jumper|first=John|last2=Evans|first2=Richard|last3=Pritzel|first3=Alexander|last4=Green|first4=Tim|last5=Figurnov|first5=Michael|last6=Ronneberger|first6=Olaf|last7=Tunyasuvunakool|first7=Kathryn|last8=Bates|first8=Russ|last9=Žídek|first9=Augustin|date=2021-08|title=Highly accurate protein structure prediction with AlphaFold|url=https://www.nature.com/articles/s41586-021-03819-2|journal=Nature|volume=596|issue=7873|pages=583–589|language=en|doi=10.1038/s41586-021-03819-2|issn=1476-4687}}</ref> # 自然言語処理によるRNAコドン配列の解析<ref>{{Cite web |title=Genomics in Unparalleled Resolution: Cerebras Wafer-Scale Cluster Trains Large Language Models on the Full COVID Genome Sequence |url=https://www.cerebras.net/blog/genomics-in-unparalleled-resolution-cerebras-wafer-scale-cluster-trains-large-language-models-on-the-full-covid-genome-sequence/ |website=Cerebras |date=2022-11-14 |access-date=2023-09-13 |language=en-US |first=Rebecca |last=Lewington}}</ref> # 気象物理過程式のパラメータ逆推定および気象モデルの最適統合<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jst.go.jp/kisoken/aip/result/event/jst-riken_sympo2021/pdf/miyoshi.pdf#page=41 |title=ビッグデータ同化とAIが生み出すリアルタイム天気予報の新展開 |access-date=2023/09/13 |publisher=国立研究開発法人 科学技術振興機構}}</ref> # プレート境界の摩擦パラメータ推定、すべり量、発生サイクルを学習させることによる地震発生時期の予測<ref>{{Cite web|和書|url=https://aip.riken.jp/uploads/20200305symposium_26-ueda_disaster.pdf |title=プレート型地震(南海トラフ)の発生時期予測 |access-date=2023/09/13 |publisher=国立研究開発法人理化学研究所 革新知能統合研究センター}}</ref> # iPS細胞の生死などの状態、分化と未分化、がん化などの非標識判別<ref>{{Cite web|和書|title=非標識の細胞形態情報をAIで高速に判別し、目的細胞を分取する技術を開発 |url=https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/news/release/rn20211221-2.html |website=東京大学 先端科学技術研究センター |access-date=2023-09-13 |language=ja}}</ref> # 膨大な論文・公開特許から化合物の物性値や製法を抽出し知識ベース化できる化学検索エンジン<ref>{{Cite web|和書|title=AIを活用した化学文書検索サービス「SCIDOCSS」を提供開始 : 富士通 |url=https://pr.fujitsu.com/jp/news/2021/09/8.html |website=pr.fujitsu.com |access-date=2023-09-13}}</ref> # 薬剤、分子探索、活性化合物構造の自動提案<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10601000-Daijinkanboukouseikagakuka-Kouseikagakuka/0000154209.pdf |title=創薬における人工知能応用 |access-date=2023/09/13 |publisher=厚生労働省}}</ref> # 宇宙の大規模構造の偏りをもたらした初期の物理パラメータを推定、宇宙全体の3Dシミュレーションの効率化<ref>{{Cite web|和書|title=人工知能 (AI) が可能にする宇宙のシミュレーション |url=https://www.ipmu.jp/ja/20190828-AI_model |website=人工知能 (AI) が可能にする宇宙のシミュレーション |access-date=2023-09-13 |language=ja}}</ref> # 画像分類CNNを使用したマウス脳神経の自動分類、回路自動マッピング<ref>{{Cite web |title=Improving Connectomics by an Order of Magnitude |url=https://blog.research.google/2018/07/improving-connectomics-by-order-of.html |website=blog.research.google |date=2018-07-16 |access-date=2023-09-13 |language=en}}</ref> # GANと回帰モデルによる複雑材料系(充填剤や添加剤)の特性予測<ref>{{Cite web|和書|title=複数のAIを活用し、複雑な材料データからさまざまな機能を予測する技術を開発 {{!}} ニュース {{!}} NEDO |url=https://www.nedo.go.jp/news/press/AA5_101554.html |website=www.nedo.go.jp |access-date=2023-09-13}}</ref> # CAD設計手法の一つであるトポロジー最適化における、制約条件と解析結果の因果関係の抽出<ref>{{Cite web|和書|title=機械学習でトポロジー最適化の問題を解消する中央エンジニアリングの新たなアプローチ |url=https://www.altairjp.co.jp/customer-story/chuo-engineering-ml |website=www.altairjp.co.jp |access-date=2023-09-13 |language=en}}</ref> # 第一原理計算(DFT計算)よりも10万倍以上高速な、55元素の任意の組み合わせの原子構造を高い精度で再現できる原子シミュレーターを用いた材料探索<ref>{{Cite web|和書|title=Matlantis™のコア技術と仕組み |url=https://matlantis.com/ja/product |website=Matlantis |access-date=2023-09-13 |language=ja |publisher=株式会社Preferred Computational Chemistry}}</ref> # [[ナビエ–ストークス方程式|流体力学の方程式]]を使わない、流体シミュレーション<ref>{{Cite web|和書|title=Learning to simulate |url=https://sites.google.com/view/learning-to-simulate |website=sites.google.com |access-date=2023-09-13 |language=ja}}</ref> # 医療診断用 視覚言語モデル<ref>{{Cite web|和書|url=https://github.com/microsoft/LLaVA-Med |title=LLaVA-Med: 生物医学のための大規模言語および視覚アシスタント |access-date=2023-09-13 |publisher=github、Microsoft}}</ref> # ロボットの動作生成<ref>{{Cite web|和書|title=「GPT-4」でロボット操作、パナソニックコネクトと立命館大学がシステム開発 ニュースイッチ by 日刊工業新聞社 |url=https://newswitch.jp/p/37414 |website=ニュースイッチ by 日刊工業新聞社 |access-date=2023-09-13 |language=ja}}</ref> # 科学的再現性の危機を解決するための論文の厳密性と透明性分析<ref>{{Cite journal|last=Menke|first=Joe|last2=Roelandse|first2=Martijn|last3=Ozyurt|first3=Burak|last4=Martone|first4=Maryann|last5=Bandrowski|first5=Anita|date=2020-11-20|title=The Rigor and Transparency Index Quality Metric for Assessing Biological and Medical Science Methods|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S2589004220308907|journal=iScience|volume=23|issue=11|pages=101698|language=en|doi=10.1016/j.isci.2020.101698|issn=2589-0042}}</ref> # コーディング自動化<ref>{{Cite web |title=Competitive programming with AlphaCode |url=https://www.deepmind.com/blog/competitive-programming-with-alphacode |website=www.deepmind.com |access-date=2023-09-13 |language=en}}</ref> == 哲学とAI == === 哲学・宗教・芸術 === [[Google]]は2019年3月、人工知能プロジェクトを[[倫理学|倫理]]面で指導するために[[哲学]]者・[[政策]]立案者・[[経済学]]者・テクノロジスト等で構成される、AI倫理委員会を設置すると発表した{{Sfn|Will Knight|2019}}。しかし倫理委員会には[[反知性主義|反科学]]・反[[マイノリティ]]・[[地球温暖化懐疑論]]等を支持する人物も含まれており、Google社員らは解任を要請した{{Sfn|Will Knight|2019}}。4月4日、Googleは倫理委員会が「期待どおりに機能できないことが判明した」という理由で、委員会の解散を発表した{{Sfn|Will Knight|2019}}。 [[東洋哲学]]をAIに吸収させるという三宅陽一郎のテーマに応じて、[[井口尊仁]]は「[[鳥居]](TORII)」という自分のプロジェクトを挙げ、「われわれは[[アニミズム]]で、あらゆるものに[[霊]]的存在を見いだす[[文化]]があります」と三宅および立石従寛に語る{{Sfn|高橋ミレイ|2019|p=後編}}。アニミズム的人工知能論は[[現代アート]]や、「[[禅]]の[[悟り]]をどうやってAIにやらせるか」を論じた三宅の『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』にも通じている{{Sfn|高橋ミレイ|2019|p=後編}}。 元Googleエンジニアのアンソニー゠レバンドウスキーは2017年、AIを[[神]]とする[[宗教団体]]「Way of the Future(未来の道)」を創立している{{Sfn|塚本紺|2017|p=2017年10月5日 20時0分}}。団体の使命は「人工知能(AI)に基づいたGodheadの実現を促進し開発すること、そしてGodheadの理解と崇拝を通して社会をより良くすることに貢献すること」と抽象的に表現されており、多くの海外メディアは[[サイエンス・フィクション|SF]][[映画]]や[[歴史]]などと関連付けて報道した{{Sfn|塚本紺|2017|p=2017年10月5日 20時0分}}。[[Uber]]とGoogleのWaymoは、レバンドウスキーが[[自動運転車|自動運転]]に関する機密情報を[[盗用]]したことを訴え[[裁判]]を行っている一方、レバンドウスキーはUberの元[[CEO]](トラビス゠カラニック)に対し「[[ボット]]ひとつずつ、我々は[[世界征服|世界を征服]]するんだ」と発言するなど、野心的な振る舞いを示している{{Sfn|塚本紺|2017|p=2017年10月5日 20時0分}}。 2021年のメタ分析によれば、人工知能の設計はもちろん学際的なものであり、感覚の限界による偏見を避けるように注意しながら、宇宙のさまざまな物質や生物の特性を理解すべきである<ref>{{Cite journal2|df=ja|last=Ipe|first=Navin|date=2021-06-02|title=Facts and Anomalies to Keep in Perspective When Designing an Artificial Intelligence|url=https://www.techrxiv.org/articles/preprint/Facts_and_Anomalies_to_Keep_in_Perspective_When_Designing_an_Artificial_Intelligence/12299945|doi=10.36227/techrxiv.12299945}}</ref>。 発明家[[レイ・カーツワイル]]が言うには、哲学者[[ジョン・サール]]が提起した[[強いAIと弱いAI]]の論争は、AIの哲学議論でホットな話題である<ref>Kurzweil, Singularity (2005) p. 260</ref>。哲学者[[ジョン・サール]]および[[ダニエル・デネット]]によると、サールの「[[中国語の部屋]]」や[[ネド・ブロック]]らの「[[中国脳]]」といった[[機能主義 (心の哲学)|機能主義]]に批判的な思考実験は、真の意識が[[形式論理]]システムによって実現できないと主張している<ref>Searle, John (1980), "Minds, Brains and Programs", Behavioral and Brain Sciences, 3 (3): 417–457, doi:10.1017/S0140525X00005756,</ref><ref>Daniel Dennett (1991). "Chapter 14. Consciousness Imagined". Consciousness Explained. Back Bay Books. pp. 431–455.</ref>。 === 批判 === [[生命情報科学]]者・[[神経科学]]者の[[合原一幸]]編著『人工知能はこうして創られる』によれば、AIの急激な発展に伴って「[[技術的特異点]]、シンギュラリティ」の思想や哲学が一部で論じられているが、特異点と言っても「[[数学]]」的な話ではない{{sfn|合原|牧野|金山|河野|2017|p=34}}。前掲書は「そもそもシンギュラリティと関係した議論における『人間の[[脳]]を超える』という[[言明]]自体がうまく[[定義]]できていない」と記している{{sfn|合原|牧野|金山|河野|2017|p=38}}。確かに、脳を「デジタル[[情報処理システム]]」として捉える観点から見れば、シンギュラリティは起こり得るかもしれない{{sfn|合原|牧野|金山|河野|2017|p=42}}。しかし実際の脳はそのような単純なシステムではなく、[[デジタル]]と[[アナログ]]が融合した「[[ハイブリッド]]系」であることが、脳[[神経科学]]の観察結果で示されている{{sfn|合原|牧野|金山|河野|2017|p=42}}。もちろん、人工知能が人間を超えることを期待すべきではないという学者もいるし<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=AI and the Illusion of Intelligence |url=https://www.coursera.org/learn/ai-and-the-illusion-of-intelligence |website=Coursera |access-date=2023-05-28 |language=ja}}</ref>、そもそもそうした人間対人工知能の戦争不安はメンタルヘルス上よくないので控えるべきである<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=War anxiety: How to cope |url=https://www.health.harvard.edu/blog/war-anxiety-how-to-cope-202205232748 |website=Harvard Health |date=2022-05-23 |access-date=2023-05-28 |language=en}}</ref>。前掲書によると、[[神経]]膜では様々な「[[ノイズ]]」が存在し、このノイズ付きのアナログ量によって脳内の[[ニューロン]]の「[[カオス理論|カオス]]」が生み出されているため、このような状況をデジタルで記述することは「極めて困難」と考えられている{{sfn|合原|牧野|金山|河野|2017|pp=46-47}}。 == 文学・フィクション・SF(空想科学)== {{Main|フィクションにおける人工知能}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em|refs= <ref name=":7">[https://logmi.jp/business/articles/69130 「悪魔を呼び出すようなもの」イーロン・マスク氏が語る人工知能の危険性]</ref> <ref name="or1">[https://www.shogi.or.jp/column/2019/03/kakoi63.html 渡辺二冠も王将戦で採用!対振りで最近人気のエルモ(elmo)囲いの組み方とは?【玉の囲い方 第63回】] - 日本将棋連盟 2019年3月28日配信</ref> <ref name=":12">{{Cite web2|df=ja|title=「AIが生成したイラストの投稿禁止」をイラスト投稿サイトが次々に決定し始めている |url=https://gigazine.net/news/20220914-online-art-communities-banning-ai-images/ |website=GIGAZINE |access-date=2023-02-08 |language=ja}}</ref> <ref name=":11">{{Cite web2|df=ja|title=声優に「録音した音声でAIに合成音声を生成させることを認める」契約を迫るケースが増加、声優や組合からは反対の声 |url=https://gigazine.net/news/20230208-voice-actor-vs-ai/ |website=GIGAZINE |access-date=2023-02-08 |language=ja}}</ref> }} == 参照文献 == ; {{fontsize|large|学術書・辞事典}} :* {{Cite book|和書 |author1 = 合原一幸 |author2 = 牧野貴樹 |author3 = 金山博 |author4 = 河野崇 |author5 = 木脇太一 |author6 = 青野真士 |editor = 合原一幸(編著) |authorlink1 = 合原一幸 |year = 2017 |title = 人工知能はこうして創られる |publisher = [[ウェッジ (出版社)|ウェッジ]] |isbn = 978-4863101852 |ref = harv }} :*{{Cite web | 和書 | author = 市瀬龍太郎 | url = https://www.ai-gakkai.or.jp/resource/ai_comics/comic_no1/ | title = 【記事更新】教養知識としてのAI 〔第1回〕AIってなに? | year = 2023 | publisher = 人工知能学会 | access-date = 2023-09-03 | ref = harv }} :* {{Cite journal | 和書 | author = 江間有沙 | authorlink = 江間有沙 | title = 人工知能社会のあるべき姿を求めて | journal = 科学技術社会論研究 | volume = 16 | pages = 9–14 | year = 2018 | month = 12 | issn = 1347-5843 | doi = 10.24646/jnlsts.16.0_9 | url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1390565134827129216 | ref=harv}} :* {{Cite book|和書 |author = 北原保雄 |authorlink = 北原保雄 |year = 2010 |title = 明鏡国語辞典 |edition = 第二版 |publisher = [[大修館書店]] |isbn = 978-4469021172 |ref = harv }} :*{{Cite book |和書 |author=佐藤理史 |authorlink=佐藤理史 |year=2018 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) |chapter=人工知能 |publisher=[[小学館]]・[[朝日新聞社]]・[[VOYAGE GROUP]] |chapterurl=https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E7%9F%A5%E8%83%BD-4702#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |accessdate=2018-08-16 |quote = 人工知能は、「計算(computation)」という概念と「コンピュータ(computer)」という道具を用いて「知能」を研究する計算機科学(computer science)の一分野である。誤解を恐れず平易にいいかえるならば、「これまで人間にしかできなかった知的な行為(認識、推論、言語運用、創造など)を、どのような手順(アルゴリズム)とどのようなデータ(事前情報や知識)を準備すれば、それを機械的に実行できるか」を研究する分野である。|ref=harv}} :*{{Cite journal |和書 |author = 人工知能学会 |authorlink = 人工知能学会 |title = 1997年度人工知能学会名簿 |date = 1997 |publisher = 人工知能学会 |journal = 人工知能学会誌 |volume = 12 |issue = 5 |pages = 653-808 (1-156) |doi = 10.11517/jjsai.12.5_797 |ref = harv}} :* {{Cite book |和書 |author = 新村出 |authorlink = 新村出 |title = 広辞苑 |edition = 第七版 |date = 2018-01-12 |publisher = 岩波書店 |isbn = 978-4000801317 |ref = harv }} :*{{Cite journal |和書 |author = 仙石正和 |authorlink = 仙石正和 |title = 基礎研究を続ける大切さ(創立100周年記念特集「基礎・境界」が支えた100 年, これからの100年 ―― 未来 100 年を担うあなたへ贈る言葉) |date = 2017 |publisher = 電子情報通信学会 |journal = 電子情報通信学会誌(The journal of the Institute of Electronics, Information and Communication Engineers) |volume = 100 |issue = 6 |pages = 431-439 |ref = harv}} :* {{Cite book|和書 |author = 全卓樹 |year = 2014 |title = エキゾティックな量子:不可思議だけど意外に近しい量子のお話 |publisher = 東京大学出版会 |isbn = 978-4130636070 |ref = harv }} :*{{Cite journal |和書 |author=野家啓一|authorlink=野家啓一|title=科学時代の哲学:哲学は「二流の科学」か?|date=2002|publisher=哲学若手研究者フォーラム|journal=哲学の探求|volume=29|pages=31-42|ref=harv}} :*{{Cite book |和書 |author=トルケル・フランセーン|first=|translator=田中一之|year=2011|title=ゲーデルの定理:利用と誤用の不完全ガイド|publisher=みすず書房|isbn=978-4622075691|ref=harv}} :* {{Cite journal | 和書 | author = 松尾豊 | authorlink = 松尾豊 | title = 深層学習と人工知能 | journal = 認知科学 | volume = 28 | issue = 2 | pages = 299–307 | year = 2021 | month = 06 | issn = 1341-7924 | doi = 10.11225/cs.2021.012 | url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1390288370501660672 | ref=harv}} :*{{Cite book |和書 |author=桃内佳雄 |authorlink=桃内佳雄 |year=2017 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) |chapter=人工知能 |publisher=小学館・朝日新聞社・VOYAGE GROUP |chapterurl=https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E7%9F%A5%E8%83%BD-4702#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |accessdate=2017-12-31 |quote = 計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野|ref=harv}} :*{{Cite book |和書 |author=ASCII.jp|authorlink=ASCII.jp |year=2018 |title=ASCII.jpデジタル用語辞典 |chapter=人工知能 |publisher=ASCII.jp・朝日新聞社・VOYAGE GROUP |chapterurl=https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E7%9F%A5%E8%83%BD-4702#SCII.jp.E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.94.A8.E8.AA.9E.E8.BE.9E.E5.85.B8 |accessdate=2018-08-16 |quote = 言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピューターに行わせる技術。|ref=harv}} :*{{Cite book | last = Copeland | first = B.J. | date = 2023-09-02 | chapter = artificial intelligence | title = [[ブリタニカ百科事典|Encyclopedia Britannica]] | url = https://www.britannica.com/technology/artificial-intelligence | publisher = [[:en:Encyclopædia_Britannica,_Inc.|Encyclopædia Britannica, Inc.]] | access-date = 2023-09-03 | ref = harv }} :* {{Cite book2 |df=ja |last = Geraci |first = Robert M. |year = 2012 |title = Apocalyptic AI: Visions of Heaven in Robotics, Artificial Intelligence, and Virtual Reality |edition = reprinted |publisher = Oxford University Press |isbn = 9780199964000 |ref = {{SfnRef|Geraci|2012}} }} :* {{Cite book | last = Russell | first = Stuart | authorlink = スチュアート・ラッセル | last2 = Norvig | first2 = Peter | authorlink2 = ピーター・ノーヴィグ | title = Artificial Intelligence: A Modern Approach<!--邦訳:『エージェントアプローチ人工知能』--> | edition = Fourth Global | publisher = [[ピアソン_(企業)|Pearson]] | year = 2022 | isbn = 978-1292401133 | ref=harv}} :<!-- バグ回避のための行。[[Help:箇条書き]]を参照。 --> ; {{fontsize|large|教育研究機関・研究開発機関}} :* {{Cite book |和書 |author = 東京大学 工学部 機械情報工学科 |year = 2021 |url = https://web.archive.org/web/20210621164347/http://www.t.u-tokyo.ac.jp/eng/innovator/pre/dept/mechano-informatics.html |title = 東京大学 工学部 機械情報工学科 |publisher = 東京大学 工学部 |accessdate = 2021-02-25 |ref = harv}} :* {{Cite book |和書 |author = 東京大学 工学部 電子情報工学科 |year = 2021 |url = https://web.archive.org/web/20210621164413/http://www.t.u-tokyo.ac.jp/eng/innovator/pre/dept/communication-engineering.html |title = 東京大学 工学部 電子情報工学科 |publisher = 東京大学 工学部 |accessdate = 2021-02-25 |ref = harv}} :* {{Cite book |和書 |author = 東京大学 理学部 情報科学科 |author2 = 東京大学大学院 情報理工学系研究科 コンピュータ科学専攻 |year = 2021 |url = https://www.is.s.u-tokyo.ac.jp/shingaku/highschool/ai.html |title = 人工知能と機械学習 |publisher = 東京大学・東京大学大学院 |accessdate = 2021-02-25 |ref = harv}} :* {{Cite web |last = Muehlhauser |first = Luke |url = https://intelligence.org/2013/10/19/russell-and-norvig-on-friendly-ai/ |title = Russell and Norvig on Friendly AI |year = 2013 |date = 2013-10-19 |website = Machine Intelligence Research Institute |access-date = 2023-09-03 |ref = harv }} :<!-- バグ回避のための行 --> ; {{fontsize|large|報道}} :* {{Cite web |和書 |author=高橋ミレイ |year=2019 |url=https://wired.jp/2019/01/26/ai-art-technology-2/ |title=人工知能が禅の「悟り」を開く日は訪れるのか?:三宅陽一郎×井口尊仁×立石従寛 鼎談(後編) |website=WIRED |publisher=WIRED |accessdate=2019-02-06 |ref=harv}} :* {{Cite web |和書 |author=塚本紺 |year=2017 |url=https://news.livedoor.com/article/detail/13709440/ |title=神はAI? 元Googleエンジニアが宗教団体を創立 |website=livedoorニュース |publisher=ギズモード・ジャパン |accessdate=2019-02-06 |ref=harv}} :* {{Cite web |和書 |author=Will Knight |year=2019 |url=https://www.technologyreview.jp/s/133900/googles-ai-council-faces-blowback-over-a-conservative-member/ |title=グーグルが新設した「AI倫理委員会」に社員が猛反発した理由 |website=MITテクノロジーレビュー |publisher= 株式会社角川アスキー総合研究所 |accessdate=2019-04-06 |ref=harv}} == 関連文献 == ; {{fontsize|large|英語資料}} {{main|[[:en:Artificial_intelligence#AI_textbooks|Artificial_intelligence#References]]}} == 関連項目 == {{関連項目過剰|date=2023年10月}} '''{{fontsize|large|教育研究・研究開発}}''' * [[自然科学|理学]] &#x2D; [[工学]] &#x2D; [[理工学]] &#x2D; [[応用科学]] ** [[計算機科学]] &#x2D; [[計算機工学]] &#x2D; [[情報科学]] &#x2D; [[情報工学]] &#x2D; [[ソフトウェア工学]] *** [[数学]] &#x2D; [[数理論理学]]&#xFF0F;現代論理学 &#x2D; [[数理工学]] **** [[ゲーデルの不完全性定理#決定不能命題の例|ゲーデルの不完全性定理]] &#x2D; [[チューリングマシン#現実の計算との関係|チューリングマシン]] &#x2D; [[アルゴリズム]] '''{{fontsize|large|研究開発・応用科学}}''' {{div col|cols=3}} * [[パターン認識]] ** [[光学文字認識]] ** [[手書き文字認識]] ** [[全文検索]] ** [[音声認識]] ** [[顔認識システム]] ** [[感情認識]] ** [[ジェスチャ認識]] * [[自然言語処理]]、[[機械翻訳]]、[[ローブナー賞]] * [[AI完全]] * [[非線形制御]]、[[ロボット]]、[[自動計画]] * [[コンピュータビジョン]]、[[バーチャルリアリティ]]、[[画像処理]] * [[ゲーム理論]] * [[量子コンピュータ]] * [[テンソルネットワーク]] * [[自動推論]] - [[自動定理証明]] * [[認知ロボット工学]] * [[サイバネティックス]] * [[データマイニング]] * [[知的エージェント]] * [[セマンティック・ウェブ]] * [[ナレッジグラフ]] * [[統計的因果推論]]{{div col end}} '''{{fontsize|large|開発事例・応用事例}}''' {{div col|cols=3}} * [[音声認識]] * [[画像認識]] * [[感情認識]] * [[ジェスチャ認識]] * [[機械翻訳]] * [[AI完全]] * [[オートパイロット]] * [[:en:Robo-advisor|ロボアドバイザー]] * [[AIスコア・レンディング]] * [[チャットボット]] * [[バーチャルアシスタント]] * [https://www.ntt.com/bizon/glossary/e-h/healthtech.html 健康科技&#xFF0F;ヘルステック] - [[ヘルスケア]]([[:en:artificial intelligence in healthcare|artificial intelligence in healthcare]]) * [[自動運転車]] * [https://www.ntt.com/bizon/glossary/j-h/politech.html 政治科技&#xFF0F;ポリテック]([[:en:artificial intelligence in government|artificial intelligence in government]]) * [[コンピュータゲームにおける人工知能]] * [[軍事技術]] - [[軍事産業]]([[自律型致死兵器システム]]等) * [[コンピュータアート]] {{div col end}} '''{{fontsize|large|研究課題}}''' {{div col|cols=3}} * [[フレーム問題]] * [[シンボルグラウンディング問題]] * [[モラベックのパラドックス]]{{div col end}} '''{{fontsize|large|関連分野}}''' {{div col|cols=3}} * [[機械学習]] * [[自然言語処理]] * [[AI完全]] * [[最適化問題]] * [[計算論的神経科学]] * [[ソフトウェアエージェント]] * [[CD理論]] * [[進化経済学]] * [[コンピュータゲームにおける人工知能]] ** [[コンピュータチェス]] - [[コンピュータ将棋]] - [[コンピュータ囲碁]] - [[コンピュータ麻雀]] * [[人工無脳]] * [[人工生命]] - [[人工意識]]- [[意識]] * [[認知科学]] * [[知識情報処理]] * [[認知アーキテクチャ]] * [[オントロジー (情報科学)]] {{div col end}} '''深層学習・機械学習に関連する数学、物理学''' {{div col|cols=3}} * [[線形代数]] * [[線形変換]] * [[行列]] * [[微積分]] * [[確率的勾配降下法]] * [[シグモイド関数]] * [[ReLU関数]] * [[統計学]] * [[確率分布]] * [[最小二乗法]] * [[ベイズの定理]] * [[イジングモデル]] * [[ユークリッド距離]] * [[コサイン類似度]] * [[写像の微分]] * [[情報幾何学]](統計多様体) * [[特異値分解]] * [[Hodgkin-Huxley方程式]] * [[非平衡統計物理学]] * [[情報熱力学]] * [[テンソル解析]]{{div col end}} '''{{fontsize|large|AIに関する哲学的項目}}''' {{div col|cols=3}} * [[技術的特異点]] * [[ポストヒューマン (人類進化)|ポストヒューマン]] * [[強いAIと弱いAI]] * [[AI完全]] * [[ロボット工学三原則]] * [[知識表現]] * [[身体性]] * [[汎用人工知能による人類滅亡のリスク]] * [[中国語の部屋]] * [[クオリア]] * [[哲学的ゾンビ]] {{div col end}} == 外部リンク == *[https://www.ai-gakkai.or.jp/whatsai/ 人工知能のやさしい説明「What's AI」] - 一般社団法人 人工知能学会 *[https://archive.org/details/handbookofartific01barr/ 人工知能ハンドブック]{{en icon}} *「[https://web.archive.org/web/20071011062703/http://philosophytalk.org/pastShows/ArtificialIntelligencePilot.htm {{lang|en|Can Machine Think?}}]」{{en icon}} - ラジオ番組「フィロソフィー・トーク」のバックナンバー。テーマ:「機械は考えられるのか?」 ゲスト:ジョン・サール、ジョン・マッカーシー、59分08秒。 {{コンピュータ科学}} {{ソフトウェア工学}} {{Engineering fields}} {{新技術|topics=yes|infocom=yes}} {{科学技術研究}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しんこうちのう}} [[Category:人工知能|*]] [[Category:計算機科学]] [[Category:情報工学]] [[Category:工業]] [[Category:工学]] [[Category:エンジニアリング]] [[Category:プログラミング]] [[Category:情報通信業]] [[Category:研究開発]] [[Category:研究の計算分野]] [[Category:計算論的神経科学]] [[Category:サイバネティックス]] [[Category:コンピュータのユーザインタフェース]] [[Category:新技術]] [[Category:形式科学]] [[Category:計算機科学の未解決問題]] [[Category:科学技術の倫理]] [[Category:心の哲学]]
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オーストリア
オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、ドイツ語: Republik Österreich、バイエルン・オーストリア語: Republik Östareich)、通称オーストリアは、中央ヨーロッパに位置する連邦共和制国家。首都はウィーン。 ドイツの南方の内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたことがある。 中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、フランス、ドイツ、ロシアと並ぶ欧州五大国、列強の一角を占めていた。1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制(第一共和国)となった。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。1938年には同じ民族の国家であるナチス・ドイツに併合されたが、ドイツ敗戦後の1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復と永世中立国化により現在に続く体制となった。 音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。EU加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあり、国内でも右派政党の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。 本項ではおもに1955年以降のオーストリア共和国に関して記述する。それ以前についてはオーストリアの歴史、ハプスブルク君主国、オーストリア公国、オーストリア大公国、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、第一共和国 (オーストリア)、アンシュルス、連合軍軍政期 (オーストリア) を参照。 正式名称はRepublik Österreich (ドイツ語: レプブリーク・エースターライヒ)。 通称 Österreich(エースターライヒ)['ø:stəraiç] 。Ö は正確には日本語の「エ」ではなく、丸めた「オ」の口をしながら「エ」を発音する音[øː]だが、日本語では「エ(ー)」で表記する慣習があるほか、日本人には「ウ(ー)」のように聴こえることもある。 公式の英語表記は Republic of Austria。通称Austria、形容詞はAustrian(オーストリアン)。日本語の表記はオーストリア共和国、通称オーストリア。漢字表記では墺太利または澳地利(略表記:墺)と記される。ドイツ語の表記や発音(および下記オーストラリアとの混同回避)を考慮した日本語表記はエースタ(ー)ライヒ、エスタ(ー)ライヒ、または舞台ドイツ語的表記によるエステ(ル)ライヒであり、専門書や各種サイトなどで使用されている。 国名のÖsterreichは、ドイツ語で「東の国」という意味である。フランク王国のころにオストマルク(「東方辺境領」)が設置されたことに由来する。OstmarkとはOst-markで「東方の守り」を意味する(デンマーク(Danmark)の「マーク」と同じ)。ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものである。 狭義のオーストリアはかつてのオーストリア大公領であり、現在のオーストリアの領土のうちザルツブルク大司教領やケルンテン地方、シュタイアーマルク地方、チロル地方は含まれない。オーストリア大公を名乗り同大公領を世襲してきたハプスブルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家を「オーストリア家」と呼ぶようになり、時代が下るにつれ、同家が統治する領地を漠然と「オーストリア」と呼ぶようになった。1804年のオーストリア帝国の成立に際しても「『オーストリア』の地理的範囲」は具体的に定義されなかった。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ウィーンを首都にドイツ人が多数を占める地域で「国民国家オーストリア」が建設されるが、これは一地方の名前(あるいはオーストリア家というかつての王家の通称)を国名に使用したことになる。 現在のオーストリアの行政区画では、かつてのオーストリア大公領は上オーストリア州、下オーストリア州に分割継承されている。 ドイツ語のエスターライヒのreich(ライヒ)はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でもFrankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。「reich」には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。 なお隣国のチェコ語ではRakousko / Rakúskoと呼ぶが、これは国境の一角の地名ラープス・アン・デア・ターヤ(ドイツ語版)に由来している。 オーストリアを統治してきたハプスブルク家およびハプスブルク=ロートリンゲン家は「オーストリア家(独: Haus Österreich, 西: Casa de Austria, 仏: Maison d'Autriche, 英: House of Austria)」とも呼ばれ、同家の成員はハプスブルク、ハプスブルク=ロートリンゲンの家名の代わりに「オーストリアの」を表す各国の言語で呼ばれる(e.g. Marie-Antoinette d'Autriche、マリー=アントワネット・ドートリシュ)。「オーストリア家」にはスペイン・ハプスブルク家も含まれることがあり、たとえば、フランスのルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(スペイン語:マリア・テレサ・デ・アウストリア)はフランス語、スペイン語でそれぞれ「オーストリアの」とあって、スペイン・ハプスブルク家の王女である。日本語版Wikipediaでは、ハプスブルク家がドイツ系の家系であることから、記事名にはドイツ語の「フォン・エスターライヒ」(e.g. カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ)を使用している。 オーストリアはオーストラリアと間違えられることがある。「オーストリア」はドイツ語 Österreich「東の国; オーストリア」の Oster-「東」を同源のラテン語 auster-「南」で置き換えた呼び方であり、「オーストラリア」はラテン語 terra australis「南の地」に由来する。すなわち「オーストリア」と「オーストラリア」は共にラテン語 auster「南」に由来する。 日本では、オーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり、東京都港区元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている。 2005年日本国際博覧会(愛知万博)のオーストリア・パビリオンで配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オース鳥ア」、オーストラリアを「オース虎リア」と覚えるように呼びかけている。 両国名の混同は日本だけではなく英語圏、ロシア語圏、トルコ語圏など多くの言語で見られ、聞き取りにくい場合は「ヨーロッパの」を表す形容詞が付け加えられる場合もある。しばしばジョークなどに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い菱形にカンガルーのシルエットを黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA(オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られている。フランス語(オーストラリア: Australie /オストラリ/, オーストリア: Autriche /オトリシュ/)やチェコ語(オーストラリア: Austrálie, オーストリア: Rakousko)のように、両国を問題なく区別できる言語もある。 2006年10月に駐日オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表した。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。 発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使(当時)とエルンスト・ラーシャン商務参事官(商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。 しかし2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。 その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁、マスメディアなどに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の「朝日新聞」の記事では、同国を「オーストリア」と表記している。 大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断ったうえで などと述べるにとどまっている。 日本では雑誌『軍事研究』がオーストリーの表記を一部で用いている。 ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域にはさまざまなケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人、スラブ人、アヴァールの侵略を受けた。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア公国(658年 - 828年)を建国した。788年にシャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた。東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年にバーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった。オーストリアの名称が初めて現れるのは996年でOstarrîchi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した。 1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年にフリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年にモンゴル帝国がハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年にライタ川の戦いでフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した。彼の支配は1278年のマルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった。 ザルツブルクはザルツブルク大司教領(英語版)(1278年 - 1803年)となり、ザルツブルク大司教フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン(ドイツ語版)が領主となった。1290年、アルブレヒト1世がエンス渓谷の所有権と諸権利をめぐってザルツブルク大司教と争い、ルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた。翌年7月にルドルフが死んで、アルブレヒト包囲網が編成された。教皇ニコラウス4世の了解を得て、ハンガリー王、ボヘミア王、ニーダーバイエルン公、サヴォイア公、ザルツブルク、アクイレイア、コンスタンツの聖界諸侯、旧ロンバルディア同盟の諸都市、およびスイス誓約同盟も加わった諸国が大同盟を結成した。選帝侯を味方につけられないアルブレヒトは大同盟から大打撃を受け、フランスを範にとり財政改革を行うことになった。裕福なウィーン市民をフープマイスターなる管財人へ任命し、人手に渡っていた所領をたちまちに回収した。しかしアルブレヒトが1308年に暗殺されてオーストリアは弱くなった。レオポルト1世はモルガルテンの戦いに敗れてフランスに接近した。 フリードリヒ3世の死後一世紀あまりの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家のハインリヒ6世が没し、唯一の女子マルガレーテ・マウルタッシュが伯位を継承したが(チロル女伯)、領土の相続をめぐってルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家、ハプスブルク家が介入した。銀山のあるチロルは位置もイタリア政策の拠点となりうる垂涎の的であった。 1358年にハプスブルクはオーストリア大公(オーストリア大公国)を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下に置かれた。14世紀から15世紀にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得していく。領土の一円化はコンスタンツ公会議でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年にアルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。 ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも獲得し始める。1477年、フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国のマリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した。彼の子のフィリップ美公はカスティーリャとアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、さらにその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした。 1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死したあと、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった。1529年、第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題)。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。1648年にヴェストファーレン条約が結ばれ、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。 レオポルト1世 (1657年 - 1705年) の長期の治世では、1683年のウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世)に続く一連の戦役(大トルコ戦争、1683年 - 1699年)の結果締結された1699年のカルロヴィッツ条約により、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国・スラヴォニアを獲得した。カール6世(1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711–1867)、en:Kingdom of Slavonia)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに、領土と権威を明け渡してしまった。 カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。プロイセン領となったシュレージエンをめぐって再び七年戦争(1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。オーストリアはプロイセン、ロシアとともに第1回および第3回のポーランド分割(1772年と1795年)に加わった。 フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオンに敗退し、形骸化していた神聖ローマ帝国は1806年に消滅した。この2年前の1804年、オーストリア帝国が宣言されている。1814年、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年にウィーン会議が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における4つの列強国のひとつと認められた(ウィーン体制)。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が作られる。 未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争のためにドイツは統一国家を目指した1848年革命に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一は大ドイツか、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦のいずれかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年にフランクフルト国民議会がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年、オーストリアとプロイセンは連合してデンマークと戦い、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマークから分離させた(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。しかしオーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年に普墺戦争を開戦する。ケーニヒグレーツの戦いで敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった。 1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)により、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、さらにはイタリア人、ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。 この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。たとえばチスライタニア(オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告 (Reichsgesetzblatt) は8言語で発行され、すべての民族は各自の言語の学校で学ぶことができ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対にほかの民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。 1914年にフランツ・フェルディナント大公がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、紛争は第一次世界大戦に発展した。 4年以上の戦争を戦ったドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、ブルガリアの中央同盟諸国の戦況は1918年後半には決定的に不利になり、異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは11月3日に連合国と休戦条約を結び、事実上の降伏をした。 第一次世界大戦の降伏直後にオーストリア革命が起こり、皇帝カール1世は「国事不関与」を宣言して共和制(ドイツ=オーストリア共和国)に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉を迎えた。 1919年に連合国とのサンジェルマン条約が結ばれ、ハンガリー、チェコスロバキアが独立し、そのほかの領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の4分の1程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアのズデーテン地方やユーゴスラビア、イタリアなどに分かれて住むことになった。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツ=オーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。 戦後、オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。1922年に経済立て直しのために国際連盟の管理の下での借款が行われ、1925年から1929年には経済はやや上向いてきたがそこへ世界恐慌が起き、1931年にクレディタンシュタルトが倒産した。 1933年、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースによるイタリア・ファシズムに似た独裁体制が確立した(オーストロファシズム)。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党の二大政党があり各々民兵組織を有していた。対立が高まり内戦(2月内乱)となる。 内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にオーストリア・ナチス(ドイツ語版)のクーデターが起こり暗殺された。後継者のクルト・シュシュニックはナチスドイツから独立を守ろうとするが、1938年3月12日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した。3月13日にアンシュルス(合邦)が宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させた。 オーストリアは第三帝国に編入されて独立は失われた。ナチスはオストマルク法を制定してオーストリアをオストマルクとし、1942年にアルペン=ドナウ帝国大管区群と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年4月13日、ソ連軍によるウィーン攻勢によってウィーンは陥落した。カール・レンナーがソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し、4月27日に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は26万人 、ホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は6万5,000人に上っている。 ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領され、オーストリア連合国委員会によって管理された(連合軍軍政期)。1943年のモスクワ宣言のときから予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり、ドイツ同様に分断されるおそれがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリンの傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた。 冷戦の影響を受けて数年かかった交渉の末、1955年5月15日、占領4か国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻した。1955年10月26日、オーストリアは永世中立を宣言した。1995年に欧州連合へ加盟し、間接的な憲法改正は加えられている。 第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年および1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義:Proporz)に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党と国民党の党員に平等に分配されるというものである。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者、事業者、農民)の重要性が増し、立法過程に関与するという特徴がある。1945年以降、単独政権は1966年 - 1970年(国民党)と1970年 - 1983年(社会党)のみで、ほかの期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)のいずれかになっている。 1970年 - 1983年の社会党政権における経済政策はおおむね自由化を進める方向で動いた。このような社会党政権のときに国連事務総長をつとめてきたクルト・ヴァルトハイムが、1986年に大統領となった。 同国の政体は連邦共和制となっている。 国家元首の連邦大統領(Bundespräsident)は国民の直接選挙で選ばれる。任期は6年。大統領就任宣誓式は連邦会議(Bundesversammlung)で行われる。 連邦政府の首班は連邦首相(Bundeskanzler)。連邦政府(Bundesregierung)は国民議会における内閣不信任案の可決か、自発的な辞任、総選挙での敗北でしか交代することはない。 議会は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会(Nationalrat)と各州議会から送られる62議席の連邦議会(Bundesrat)から成る二院制の議会制民主主義国家。国民に選挙で選ばれる国民議会の議決は連邦議会のそれに優先する。連邦議会は州に関連する法案にしか拒否権を行使できない。 連邦会議は非常設の連邦機関で、国民議会ならびに連邦議会の議員を構成員とし、大統領宣誓式のほかには、任期満了前の大統領の罷免の国民投票の実施、大統領への刑事訴追の承認、宣戦布告の決定、大統領を憲法裁判所へ告発する承認の権限がある。 政党には、中道右派のオーストリア国民党(ÖVP)・中道左派のオーストリア社会民主党(SPÖ、旧オーストリア社会党、1945 - 1991)・極右のオーストリア自由党(FPÖ)・同党から分かれて成立したオーストリア未来同盟(BZÖ、自由党の主要議員はこちらに移動した)・環境保護を掲げる左派の緑の党・左翼のオーストリア共産党がある。 2006年の国民議会選挙で社会民主党が第1党となったため、2007年まで7年間続いた中道右派・オーストリア国民党と極右(自由党→オーストリア未来同盟)の連立政権が解消され、再び中道左派・社会民主党と国民党の大連立に移行した。2008年7月に国民党が連立解消を決め、9月に国民議会選挙が実施された。その結果、社会民主党と国民党の第1党・第2党の関係は変わらなかったものの、両党ともに議席をこの選挙で躍進した極右の自由党と未来同盟に奪われる形となった。その後、およそ2か月にわたる協議を経て、社会民主党と国民党は再び大連立を組むこととなった。中道右派、中道左派、極右は第一共和国時代のキリスト教社会党・オーストリア社会民主労働党・ドイツ民族主義派(諸政党...「農民同盟」、「大ドイツ人党」、「護国団」などの連合体)の3党に由来しており、1世紀近くにわたって3派共立の政党スタイルが確立していた。 司法権は最高裁判所に属している。 オーストリア共和国は第二次世界大戦後の連合国による占領を経て、1955年に永世中立を条件に独立を認められ、以来東西冷戦中もその立場を堅持してきた。 このため東側諸国からもオーストリアへの出国は比較的自由であり、長い間、亡命者の窓口の役割を果たしてきた。1978年上半期の亡命者数として1372人の記録が残されているほか、1989年の冷戦末期には汎ヨーロッパ・ピクニックを通じて一度に1000人以上の大量亡命者もやってきた。 欧州経済共同体に対抗するために結成された欧州自由貿易連合には、1960年の結成時からメンバー国だったが、1995年の欧州連合加盟に伴い脱退した。 加盟した欧州連合においては軍事面についても統合が進められており、永世中立国は形骸化したとの指摘がある。国民の間には永世中立国堅持支持も多いが、非永世中立国化への方針が2001年1月の閣議決定による国家安全保障ドクトリンにおいて公式に記述されたことにより、国内で議論が起こっている。 歴史的、地理的に中欧・東欧や西バルカンの国と関係が深く、クロアチアなどの欧州連合加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。トルコの欧州連合加盟には消極的な立場をとっている。日本とは1869年に日墺修好通商航海条約を締結して以来友好な関係で、特に音楽方面での交流が盛んである。第一次世界大戦では敵対したが、1955年の永世中立宣言に対しては日本が最初の承認を行った。 2011年に隣国のリヒテンシュタインがシェンゲン協定に加盟したことにより、周囲の国家がすべて同協定の加盟国となり、国境管理を行っていない。 国軍として陸軍および空軍が編制されている。徴兵制を有し、18歳に達した男子は6か月の兵役に服する。名目上の最高指揮官は連邦大統領であるが、実質上は国防大臣が指揮をとる。北大西洋条約機構には加盟していないが、欧州連合に加盟しており、それを通じた安全保障政策が行われている。 国土面積は日本の北海道とほぼ同じ大きさである。オーストリアの地形は大きくアルプス山脈、同山麓、カルパチア盆地(パンノニア低地)、ウィーン盆地、北部山地(ボヘミア高地)に分けられる。アルプスが国土の62%を占め、海抜500メートル以下は全土の32%に過ぎない。最高地点はグロースグロックナー山(標高3,798メートル)である。アルプスの水を集め、ドイツから首都ウィーンを通過して最終的に黒海に達する国際河川がドナウ川である。1992年にライン川やマイン川を結ぶ運河が完成し北海との交通が可能となった。 気候は大きく3つに大別される。東部は大陸的なパンノニア低地気候、アルプス地方は降水量が多く、夏が短く冬が長いアルプス型気候、その他の地域は中部ヨーロッパの過渡的な気候である。 9つの州が存在する。このように8つの州とウィーンからなるために、9角形の硬貨が発行されたことがある。なお、9角形とはいっても、辺は直線ではなく曲線、すなわち、曲線多角形の硬貨である。 日本貿易振興機構の推計値では、2019年の一人当たりの名目GDPは50,023ドルである。これは同年のEU平均値である35,774ドルの1.4倍に迫る。また、1990年以降の統計で、一人当たりの名目GDPは世界で概ね10~15位で推移しているが、20位以下に脱落したことはなく(最高順位は1995年の7位で当時30,351ドル)、経済的に豊かで安定した国である。主要産業としては、シュタイアーマルク州の自動車産業、オーバーエスターライヒ州の鉄鋼業などがある。大企業はないものの、ドイツ企業の下請け的な役割の中小企業がオーストリア経済の中心を担っている。ウィーンやザルツブルク、チロルを中心に観光産業も盛んである。失業率はほかの欧州諸国と比較して低い。欧州の地理的中心にあることから近年日本企業の欧州拠点、工場なども増加しつつある。オーストリアにとって日本はアジア有数の貿易相手国である。ヨーロッパを代表する音響機器メーカーとして歴史を持つAKGは、クラシック愛好者を中心に日本でも有名である。金融では、オーストリア銀行、エルステ銀行、ライフアイゼンバンク、BAWAG、フォルクスバンクが主要銀行である。その他の企業についてはオーストリアの企業一覧も参照のこと。 観光はオーストリア経済において最も重要な産業であり、同国の国内総生産のほぼ9%を占めている。 ÖBB(オーストリア国鉄)が主要幹線を網羅しており、山岳部ではゼンメリング鉄道をはじめとする登山列車なども運行している。ウィーンでは地下鉄やSバーン、路面電車なども運行され、インスブルックやリンツなどの主要都市にも路面電車がある。 ウィーン、インスブルック、ザルツブルク、グラーツ、クラーゲンフルトの各都市に国際空港がある。ウィーン国際空港では、ドイツ語の案内放送のあと、英語で案内放送がある。 「領地はたくさんある。人口もたくさんある。しかしオーストリア民族はいない。国家はない」とはオーストリアのジャーナリスト、ヘルムート・アンディクス(de:Hellmut Andics)がオーストリア帝国を評したものであるが、実際に今のオーストリアの領土はかつての「ドイツ人の神聖ローマ帝国」を構成する「上オーストリア」「下オーストリア」「ケルンテン」「ザルツブルク司教領」「チロル」などから構成されており、その統治者であったハプスブルク家は「ドイツ人の神聖ローマ皇帝」を世襲してきた。そのためオーストリア民族という概念はなく、オーストリア人という概念はきわめて新しい。 ドイツ語を母語とするオーストリア人は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツ、リヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系、ラテン系、ハンガリー系、トルコ系などが入り混じっているものの、ゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするため、オーストリア人は通常ゲルマン民族とみなされる。 オーストリア人はドイツ人に含まれるのか、という問題は戦後意識的に避けられてきたが、近年急速にクローズアップされている。もともとオーストリアはプロイセン、バイエルンなどと同じくドイツを構成する分邦のひとつであり(古くはバイエルンの一部であり、ドイツ人を支族別に分けるとオーストリア人はバイエルン族である)、しかも12 - 19世紀の間、オーストリア大公家であるハプスブルク家がドイツ帝国(神聖ローマ帝国)の帝位やドイツ連邦議長国の座を独占していた。形骸化していたとはいえ、神聖ローマ帝国が長年ドイツ諸邦の盟主だった歴史は無視できない。オーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊によって、オーストリアの国土が民族ドイツ人居住地域に限定されると、左右を問わずにドイツへの合併を求める声が高まり、第一次大戦敗戦直後は「ドイツ・オーストリア共和国」という国名を名乗っており、国歌の歌詞には「ドイツ人の国」という言葉が1930年代まで残っていた。1945年のブリタニカ百科事典には、オーストリアをドイツから除外した小ドイツ主義のビスマルク体制の方が歴史的例外であり、ヒトラーの独墺合併は元の自然な形に戻したにすぎないという記述があり、連合国側にすら戦後の統一ドイツ維持を支持する見方があったことを伺わせる。しかし、この民族自決論を逆手に取ったオーストリア人ヒトラーの行為に対する反省から、戦後は「ドイツ人と異なるオーストリア人」という国民意識が誕生し、浸透した。ドイツ側はさらにソヴィエト占領地区の分離が余儀なくされていた。こうして3つの国家(オーストリア、東ドイツ、西ドイツ)、2つの国民、1つの民族と呼ばれる時代が始まる。オーストリア側ではドイツ人と別個の国民であるという意識が育ち、さらにはエスニシティにおいてもドイツ民族とは異なるオーストリア民族であると自己規定する人も現れた。しかしながら、ドイツ統一・欧州連合加盟以降、ドイツ民族主義が再び急伸した。2000年から2007年にかけて、ドイツ民族主義者系の極右政党が連立与党に加わり、国際的に波紋を呼んだのもそうした風潮と関連している。 「ドイツ人」という言葉には、国家・国民以前に「ドイツ語を話す人」というニュアンスが強い。ゲルマン民族が西進しフランク王国を立てたのち、西部や南部でラテン語との同化を選択した勢力(フランス人、イタリア人、スペイン人の一部の先祖となる)には加わらず、もともとのゲルマン語を守り続けてきた東フランク人が「ドイッチュ」(古来は民衆を意味した。当初ラテン語が支配階層のみで使われたため)の名でドイツ人の先祖となったためである。その後、ドイツ語は英語やフランス語と違い、ほとんど他民族では母語化しなかったため、言語と民族概念とが不可分となっている。オーストリアでは「ドイッチェ~」で始まる市町村名が、東南部をはじめ数多く見られるが、これらの名称も今日となってはドイツ人の街と解釈するのかドイツ語の街と解釈するのかは微妙である。いずれにせよ、ドイツ連邦共和国よりもオーストリアの方にこの地名が多く見られるのは、ドイツ圏全体からは東南に偏して他民族地域との境界に接し「ドイツ」を強調する必要があった地域特性を示している。また、オーストリアを多民族国家として論じる場合、現在の版図では9割を占める最多数派の民族を「ドイツ人」と呼ばざるをえないという事情もある(ゲルマン人では曖昧すぎ、オーストリア人と呼んでしまうと、少数民族はオーストリア人ではないのかということになってしまう。これは、移民の歴史が古く、民族名とは異なる国号を採用した同国ならではのジレンマである)。1970年代におけるブルゲンラント州、ケルンテン州でのハンガリー系、スラブ系住民の比率調査では、もう一方の選択肢は「ドイツ人」だった。近年の民族主義的傾向には、こうした言語民族文化の再確認という側面が見られる反面、拡大EUにおける一等市民=ドイツ人として差別主義的に結束しようとする傾向も否めない。 今日ウィーン市内では、ドイツ国歌を高唱する右派の学生集会なども見られる。ただし、元をただせば現在のドイツ国歌は、ハイドンが神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世を讃えるために作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え』の歌詞を替えたものであり、19世紀後半にはオーストリア帝国の国歌となっていた。ナポレオン戦争における神聖ローマ帝国の勝利と帝国の権威維持を祈願して当曲が作られた当時はオーストリア国家は存在せず、アウステルリッツの戦いに敗戦してローマ帝位を辞するまでフランツ2世は形式的には直轄地オーストリア地域をふくめる全ドイツ人の皇帝だったため、両国共通のルーツを持つ歌ともいえる(ちなみに先代のハプスブルク家当主は1999年まで欧州議会議員をドイツ選出でつとめた)。しかし、外国人観光客が右翼学生たちを奇異な目で見るのは、国歌のメロディではなく、政治的には外国であるドイツを「わが祖国」と連呼する歌詞をそのまま歌っている点である。 ブルゲンラント州は1921年まではハンガリー王国側だったため、今日でもハンガリー系、クロアチア系が多い。ケルンテン州にはスロベニア系も居住している。両州の少数民族は1970年代の調査によれば1 - 2%であるが、自己申告制であるため、実際にはドイツ人と申告した中にもかなりの外国系住民が含まれると思われる。そのため、標識や学校授業に第2言語を取り入れている地域もある。 外国人や移民は人口の9.8%を占め、ヨーロッパ有数の移民受入国である。その多くがトルコ人と旧ユーゴスラビア諸国出身者である。 ドイツ語が公用語であり、ほとんどの住民が日常使っている言語でもある。ただし、日常の口語で使われているのは標準ドイツ語ではなく、ドイツ南部などと同じ上部ドイツ語(Oberdeutsch)系の方言(オーストリアドイツ語)である。この方言は、フォアアールベルク州で話されているもの(スイスドイツ語に近い)を除き、バイエルンと同じ区画に属するバイエルン・オーストリア語である。オーストリアでは、テレビ、ラジオの放送などでは標準ドイツ語が使われているが、独特の発音や言い回しが残っているため、ドイツで使われている標準ドイツ語とは異なる。標準ドイツ語では有声で発音されるsの音はオーストリアにおいては無声で発音されることが多い。 またオーストリア内でも多くの違いがあり、ウィーンやグラーツなどで話されている東オーストリアの方言と西オーストリアのチロル州の方言は随分異なる。 東オーストリアの方言では となる。 南部のケルンテン州にはスロベニア人も居住し、Windisch(ドイツ語とスロベニア語の混声語)と呼ばれる方言も話されている。首都ウィーンの方言は「ヴィーナリッシュ(ウィーン訛り)」として知られ、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったハンガリー・チェコ・イタリアなどの諸国の言語の影響が残っていると言われている。 また、単語レベルでみた場合、ドイツと異なる語彙も数多く存在するほか、ドイツとオーストリアで意味が異なる単語もあるため注意が必要である。 婚姻の際、2013年までは、原則として「夫または妻の氏(その決定がない場合は夫の氏)を称する(同氏)。自己の氏を後置することもできる」とされていた。しかし2013年4月以降、「婚前に特に手続きしない限り、原則として婚前の氏を保持する(夫婦別姓が原則)」と変更された。これまで通りの選択も可能であるが、その場合婚前に手続きが必要となる。また、別姓での結婚において夫婦が子の姓について合意できない場合は母の姓となる規定がある。これには母子家庭以外でも子が母の姓を名乗るケースを認めることで、親子関係と姓で婚外子だと分からないようにするという、婚外子差別をなくす意味合いがある。2019年1月1日より同性結婚が可能になった。 宗教は、553万人(66.0%)がローマ・カトリックに属している(2009年)。プロテスタントのうち、約31万人(3.7%)がルター派のオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派に、1万4,000人(0.165%)が改革派のオーストリア福音主義教会スイス信仰告白派に属している。51万5,914人(6.2%)がイスラム教に属している(2009年)。さらに、ユダヤ教もいる。 義務教育は9年となっている。 2023年02月時点で外務省は、「オーストリアの治安状況は一見すると安全に思えますが、スリや置き引きなどの犯罪が頻繁に発生しており、日本の生活感覚のまま行動すると犯罪被害に遭いかねません。特に、観光地や空港、駅、公共交通機関の車内、ホテルのフロント、レストラン、カフェなどで貴重品の入ったカバンや財布が盗まれる被害が多数発生していることから、これらの場所や人混みの中を移動する場合は、所持品に十分な注意を払って行動してください。また、近年、夜間に駅のトイレなどで女性が強姦されるなどの性犯罪事件も増えています。人通りの少ない場所は昼間でも避け、また、夜間に外出する際は十分に注意してください」としている。 18世紀後半にウィーン古典派が興って以降、ウィーンはクラシック音楽における重要な都市となり、やがて「音楽の都」と呼ばれるようになった。オーストリア出身の重要な作曲家には、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブルックナー、ヨハン・シュトラウス2世、マーラー、ベルクなどがいるが、いずれもウィーンを活動の拠点とした。このほか、ドイツ出身のベートーヴェン、ブラームスもウィーンで活動した。音楽家についてはオーストリアの作曲家を参照。 これらの伝統を引き継ぎ、演奏活動の面では現在もウィーンはクラシック音楽の重要な拠点となっている。 ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件存在する。さらにハンガリーにまたがって1件の文化遺産が登録されている。 オーストリア国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、今から110年以上前の1911年にプロサッカーリーグの『ブンデスリーガ』が創設された。さらに1924年には2部リーグの『2.ブンデスリーガ』も創設されており、1部と2部の全チームが完全なプロリーグとして運営されていた。名門クラブとしてレッドブル・ザルツブルクが存在し、2017年に国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)が発表したクラブ世界ランキングで10位にランクされた。 オーストリアサッカー協会(ÖFB)によって編成されるサッカーオーストリア代表は、一般的に古豪として認識されている。これまでFIFAワールドカップには7度の出場歴があり、1954年大会では3位に輝いている。しかしUEFA欧州選手権には2008年大会でようやく初出場を果たし、2021年大会で初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。オーストリア人で最も成功したサッカー選手としては、ビッグクラブであるバイエルン・ミュンヘンやレアル・マドリードで活躍した、ディフェンダーのダヴィド・アラバが挙げられる。 冬季オリンピックで数多くのメダルを獲得することから分かるように、オーストリアでもその寒冷な気候と山がちな地形を利用したウィンタースポーツが盛んに行われている。中でも、アルペンスキーは絶大な人気を誇り、冬季オリンピックで計4個のメダルを獲得しているヘルマン・マイヤーは国民的スターでもある。2006-2007年シーズンでは男女計12種目のうち、実に7種目をオーストリア人選手が制覇している。ライフル射撃競技とクロスカントリースキーを組み合わせたバイアスロンの強豪国でもあり、国際スキー連盟とは独立している国際バイアスロン連合は、その本部をオーストリアのザルツブルクに置いている。 ノルディックスキーもオーストリア国内で人気が高く、ノルウェー、フィンランド、ドイツとともに強豪国として名高い。アンドレアス・ゴルトベルガー(ジャンプ1993年、1995年、1996年FIS・W杯総合優勝)、フェリックス・ゴットヴァルト(ノルディック複合2001年FIS・W杯総合優勝)、トーマス・モルゲンシュテルン(ジャンプ2008年FIS・W杯総合優勝)といった有名選手を輩出している。近年では2006年トリノオリンピックのジャンプ競技で金メダルを獲得している。 モータースポーツは、オーストリアで3番目に人気のあるスポーツである(スキーとサッカーに次ぐ)。数人のオーストリアのドライバーがF1で成功を収めている。最も有名なドライバーは3度のF1世界チャンピオンであるウィーン出身のニキ・ラウダである。彼はニュルブルクリンクの大事故で瀕死の重症を負いながらも3度の世界チャンピオン(1975年、1977年、1984年)を獲得、25歳でF1世界チャンピオンシップを奪取した7番目のドライバーである。 ヨッヘン・リントもモンツァ・サーキットのレースで事故死後、故人として1970年の世界チャンピオンとなった。リントはまた、1965年のルマン24時間レースでも優勝した。ゲルハルト・ベルガーも1988年と1994年にチャンピオンシップ3位にランクインし、10回のグランプリ勝利と48回の表彰台を獲得した。 近年は2010年から2013年にかけてF1の製造者部門(コンストラクター)で4連覇を果たし、2021年からホンダエンジンで再び選手権を連覇しているレッドブル・レーシングが最も知られる。 F1オーストリアグランプリは1963年、1964年、1970年から1987年、1997年から2003年、そして2014年から開催されている。 モータースポーツの上位2つの会場は、エステルライヒリンクとザルツブルクリンクである。前者はオーストリアグランプリ、オーストリアモーターサイクルグランプリ、そして1000kmのツェルトベク耐久スポーツカーレースを主催した。後者はまた、オーストリアのオートバイグランプリ、スーパーバイク世界選手権、ヨーロッパのフォーミュラ2選手権、そしてドイツツーリングカー選手権やスーパーツーリングカー選手権などのドイツのトップシリーズを開催した。 KTMは主にオフロードバイクでの実績が多く、モトクロスやエンデューロの世界選手権で長らくトップチームとして活躍している。特にダカール・ラリーの二輪部門で18連覇という金字塔を打ち立てている。ホンダをはじめ、日本メーカーが圧倒的な力で支配する二輪モータースポーツの世界でこの記録は驚異的といえる。KTMはハスクバーナ(旧フサベルとの合併)、ガスガスといったメーカーも接収して基本設計も共通化しており、その勢力は強大なものになっている。KTM/ハスクバーナ/ガスガス連合はサーキットレースでも存在感を示し始めており、2021年時点でMoto3で4度王者を輩出している。オーストリア人ライダーとしてはマティアス・ウォークナーが2018年にKTMでダカール王者となっている。MotoGPでは1954年にルパート・ホラースが一度125ccでタイトルを獲得したきりとなっている。 ヤマハ発動機の耐久レースのファクトリーチームでもあるYART(ヤマハ・オーストリア・レーシング・チーム)はオーストリアのチームである。 このほかダカール・ラリーで建機メーカーのピンツガウアーが第一回大会でトラック最上位を獲得している(当時は部門として見做されなかったので優勝扱いにはならず)。また日野自動車に唯一のトラック部門優勝をもたらしたJP-ライフもオーストリア人である。 自転車ロードレースでは、ゲオルク・トーチニヒ(ドイツ語版、英語版)やベルンハルト・アイゼルがツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアといった世界最高峰のレースで活躍した。現在はパトリック・コンラートやマティアス・ブレンドレなどが知られている。オーストリア最大のステージレース(複数の日数にわたって行われるレース)「エースターライヒ・ルントファールト」はUCIプロシリーズという上から二番目のカテゴリーに分類されており、ツール・ド・フランスと同時期の7月に開催されるが、その年のツール・ド・フランスに出場しない大物選手が数多く出場している。 ウィーンでは、オーストリア・ハンガリー各地(オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア (南チロル)、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランド (ガリツィア)、スロベニア、クロアチア、ルーマニア、ブコビナ)の出身者が活躍した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、ドイツ語: Republik Österreich、バイエルン・オーストリア語: Republik Östareich)、通称オーストリアは、中央ヨーロッパに位置する連邦共和制国家。首都はウィーン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ドイツの南方の内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたことがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、フランス、ドイツ、ロシアと並ぶ欧州五大国、列強の一角を占めていた。1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制(第一共和国)となった。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。1938年には同じ民族の国家であるナチス・ドイツに併合されたが、ドイツ敗戦後の1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復と永世中立国化により現在に続く体制となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。EU加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあり、国内でも右派政党の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本項ではおもに1955年以降のオーストリア共和国に関して記述する。それ以前についてはオーストリアの歴史、ハプスブルク君主国、オーストリア公国、オーストリア大公国、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、第一共和国 (オーストリア)、アンシュルス、連合軍軍政期 (オーストリア) を参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "正式名称はRepublik Österreich (ドイツ語: レプブリーク・エースターライヒ)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "通称 Österreich(エースターライヒ)['ø:stəraiç] 。Ö は正確には日本語の「エ」ではなく、丸めた「オ」の口をしながら「エ」を発音する音[øː]だが、日本語では「エ(ー)」で表記する慣習があるほか、日本人には「ウ(ー)」のように聴こえることもある。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は Republic of Austria。通称Austria、形容詞はAustrian(オーストリアン)。日本語の表記はオーストリア共和国、通称オーストリア。漢字表記では墺太利または澳地利(略表記:墺)と記される。ドイツ語の表記や発音(および下記オーストラリアとの混同回避)を考慮した日本語表記はエースタ(ー)ライヒ、エスタ(ー)ライヒ、または舞台ドイツ語的表記によるエステ(ル)ライヒであり、専門書や各種サイトなどで使用されている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国名のÖsterreichは、ドイツ語で「東の国」という意味である。フランク王国のころにオストマルク(「東方辺境領」)が設置されたことに由来する。OstmarkとはOst-markで「東方の守り」を意味する(デンマーク(Danmark)の「マーク」と同じ)。ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものである。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "狭義のオーストリアはかつてのオーストリア大公領であり、現在のオーストリアの領土のうちザルツブルク大司教領やケルンテン地方、シュタイアーマルク地方、チロル地方は含まれない。オーストリア大公を名乗り同大公領を世襲してきたハプスブルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家を「オーストリア家」と呼ぶようになり、時代が下るにつれ、同家が統治する領地を漠然と「オーストリア」と呼ぶようになった。1804年のオーストリア帝国の成立に際しても「『オーストリア』の地理的範囲」は具体的に定義されなかった。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ウィーンを首都にドイツ人が多数を占める地域で「国民国家オーストリア」が建設されるが、これは一地方の名前(あるいはオーストリア家というかつての王家の通称)を国名に使用したことになる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在のオーストリアの行政区画では、かつてのオーストリア大公領は上オーストリア州、下オーストリア州に分割継承されている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ドイツ語のエスターライヒのreich(ライヒ)はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でもFrankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。「reich」には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお隣国のチェコ語ではRakousko / Rakúskoと呼ぶが、これは国境の一角の地名ラープス・アン・デア・ターヤ(ドイツ語版)に由来している。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "オーストリアを統治してきたハプスブルク家およびハプスブルク=ロートリンゲン家は「オーストリア家(独: Haus Österreich, 西: Casa de Austria, 仏: Maison d'Autriche, 英: House of Austria)」とも呼ばれ、同家の成員はハプスブルク、ハプスブルク=ロートリンゲンの家名の代わりに「オーストリアの」を表す各国の言語で呼ばれる(e.g. Marie-Antoinette d'Autriche、マリー=アントワネット・ドートリシュ)。「オーストリア家」にはスペイン・ハプスブルク家も含まれることがあり、たとえば、フランスのルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(スペイン語:マリア・テレサ・デ・アウストリア)はフランス語、スペイン語でそれぞれ「オーストリアの」とあって、スペイン・ハプスブルク家の王女である。日本語版Wikipediaでは、ハプスブルク家がドイツ系の家系であることから、記事名にはドイツ語の「フォン・エスターライヒ」(e.g. カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ)を使用している。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "オーストリアはオーストラリアと間違えられることがある。「オーストリア」はドイツ語 Österreich「東の国; オーストリア」の Oster-「東」を同源のラテン語 auster-「南」で置き換えた呼び方であり、「オーストラリア」はラテン語 terra australis「南の地」に由来する。すなわち「オーストリア」と「オーストラリア」は共にラテン語 auster「南」に由来する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本では、オーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり、東京都港区元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2005年日本国際博覧会(愛知万博)のオーストリア・パビリオンで配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オース鳥ア」、オーストラリアを「オース虎リア」と覚えるように呼びかけている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "両国名の混同は日本だけではなく英語圏、ロシア語圏、トルコ語圏など多くの言語で見られ、聞き取りにくい場合は「ヨーロッパの」を表す形容詞が付け加えられる場合もある。しばしばジョークなどに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い菱形にカンガルーのシルエットを黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA(オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られている。フランス語(オーストラリア: Australie /オストラリ/, オーストリア: Autriche /オトリシュ/)やチェコ語(オーストラリア: Austrálie, オーストリア: Rakousko)のように、両国を問題なく区別できる言語もある。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2006年10月に駐日オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表した。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使(当時)とエルンスト・ラーシャン商務参事官(商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁、マスメディアなどに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の「朝日新聞」の記事では、同国を「オーストリア」と表記している。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断ったうえで", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "などと述べるにとどまっている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日本では雑誌『軍事研究』がオーストリーの表記を一部で用いている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域にはさまざまなケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人、スラブ人、アヴァールの侵略を受けた。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア公国(658年 - 828年)を建国した。788年にシャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた。東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年にバーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった。オーストリアの名称が初めて現れるのは996年でOstarrîchi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1156年、\"Privilegium Minus\"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年にフリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年にモンゴル帝国がハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年にライタ川の戦いでフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した。彼の支配は1278年のマルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ザルツブルクはザルツブルク大司教領(英語版)(1278年 - 1803年)となり、ザルツブルク大司教フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン(ドイツ語版)が領主となった。1290年、アルブレヒト1世がエンス渓谷の所有権と諸権利をめぐってザルツブルク大司教と争い、ルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた。翌年7月にルドルフが死んで、アルブレヒト包囲網が編成された。教皇ニコラウス4世の了解を得て、ハンガリー王、ボヘミア王、ニーダーバイエルン公、サヴォイア公、ザルツブルク、アクイレイア、コンスタンツの聖界諸侯、旧ロンバルディア同盟の諸都市、およびスイス誓約同盟も加わった諸国が大同盟を結成した。選帝侯を味方につけられないアルブレヒトは大同盟から大打撃を受け、フランスを範にとり財政改革を行うことになった。裕福なウィーン市民をフープマイスターなる管財人へ任命し、人手に渡っていた所領をたちまちに回収した。しかしアルブレヒトが1308年に暗殺されてオーストリアは弱くなった。レオポルト1世はモルガルテンの戦いに敗れてフランスに接近した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "フリードリヒ3世の死後一世紀あまりの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家のハインリヒ6世が没し、唯一の女子マルガレーテ・マウルタッシュが伯位を継承したが(チロル女伯)、領土の相続をめぐってルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家、ハプスブルク家が介入した。銀山のあるチロルは位置もイタリア政策の拠点となりうる垂涎の的であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1358年にハプスブルクはオーストリア大公(オーストリア大公国)を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下に置かれた。14世紀から15世紀にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得していく。領土の一円化はコンスタンツ公会議でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年にアルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも獲得し始める。1477年、フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国のマリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した。彼の子のフィリップ美公はカスティーリャとアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、さらにその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死したあと、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった。1529年、第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題)。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。1648年にヴェストファーレン条約が結ばれ、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "レオポルト1世 (1657年 - 1705年) の長期の治世では、1683年のウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世)に続く一連の戦役(大トルコ戦争、1683年 - 1699年)の結果締結された1699年のカルロヴィッツ条約により、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国・スラヴォニアを獲得した。カール6世(1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711–1867)、en:Kingdom of Slavonia)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに、領土と権威を明け渡してしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。プロイセン領となったシュレージエンをめぐって再び七年戦争(1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。オーストリアはプロイセン、ロシアとともに第1回および第3回のポーランド分割(1772年と1795年)に加わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオンに敗退し、形骸化していた神聖ローマ帝国は1806年に消滅した。この2年前の1804年、オーストリア帝国が宣言されている。1814年、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年にウィーン会議が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における4つの列強国のひとつと認められた(ウィーン体制)。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が作られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争のためにドイツは統一国家を目指した1848年革命に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一は大ドイツか、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦のいずれかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年にフランクフルト国民議会がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年、オーストリアとプロイセンは連合してデンマークと戦い、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマークから分離させた(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。しかしオーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年に普墺戦争を開戦する。ケーニヒグレーツの戦いで敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)により、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、さらにはイタリア人、ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。たとえばチスライタニア(オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告 (Reichsgesetzblatt) は8言語で発行され、すべての民族は各自の言語の学校で学ぶことができ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対にほかの民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1914年にフランツ・フェルディナント大公がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、紛争は第一次世界大戦に発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "4年以上の戦争を戦ったドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、ブルガリアの中央同盟諸国の戦況は1918年後半には決定的に不利になり、異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは11月3日に連合国と休戦条約を結び、事実上の降伏をした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦の降伏直後にオーストリア革命が起こり、皇帝カール1世は「国事不関与」を宣言して共和制(ドイツ=オーストリア共和国)に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1919年に連合国とのサンジェルマン条約が結ばれ、ハンガリー、チェコスロバキアが独立し、そのほかの領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の4分の1程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアのズデーテン地方やユーゴスラビア、イタリアなどに分かれて住むことになった。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツ=オーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "戦後、オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。1922年に経済立て直しのために国際連盟の管理の下での借款が行われ、1925年から1929年には経済はやや上向いてきたがそこへ世界恐慌が起き、1931年にクレディタンシュタルトが倒産した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1933年、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースによるイタリア・ファシズムに似た独裁体制が確立した(オーストロファシズム)。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党の二大政党があり各々民兵組織を有していた。対立が高まり内戦(2月内乱)となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にオーストリア・ナチス(ドイツ語版)のクーデターが起こり暗殺された。後継者のクルト・シュシュニックはナチスドイツから独立を守ろうとするが、1938年3月12日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した。3月13日にアンシュルス(合邦)が宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "オーストリアは第三帝国に編入されて独立は失われた。ナチスはオストマルク法を制定してオーストリアをオストマルクとし、1942年にアルペン=ドナウ帝国大管区群と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年4月13日、ソ連軍によるウィーン攻勢によってウィーンは陥落した。カール・レンナーがソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し、4月27日に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は26万人 、ホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は6万5,000人に上っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領され、オーストリア連合国委員会によって管理された(連合軍軍政期)。1943年のモスクワ宣言のときから予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり、ドイツ同様に分断されるおそれがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリンの傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "冷戦の影響を受けて数年かかった交渉の末、1955年5月15日、占領4か国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻した。1955年10月26日、オーストリアは永世中立を宣言した。1995年に欧州連合へ加盟し、間接的な憲法改正は加えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年および1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義:Proporz)に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党と国民党の党員に平等に分配されるというものである。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者、事業者、農民)の重要性が増し、立法過程に関与するという特徴がある。1945年以降、単独政権は1966年 - 1970年(国民党)と1970年 - 1983年(社会党)のみで、ほかの期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)のいずれかになっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1970年 - 1983年の社会党政権における経済政策はおおむね自由化を進める方向で動いた。このような社会党政権のときに国連事務総長をつとめてきたクルト・ヴァルトハイムが、1986年に大統領となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "同国の政体は連邦共和制となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "国家元首の連邦大統領(Bundespräsident)は国民の直接選挙で選ばれる。任期は6年。大統領就任宣誓式は連邦会議(Bundesversammlung)で行われる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "連邦政府の首班は連邦首相(Bundeskanzler)。連邦政府(Bundesregierung)は国民議会における内閣不信任案の可決か、自発的な辞任、総選挙での敗北でしか交代することはない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "議会は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会(Nationalrat)と各州議会から送られる62議席の連邦議会(Bundesrat)から成る二院制の議会制民主主義国家。国民に選挙で選ばれる国民議会の議決は連邦議会のそれに優先する。連邦議会は州に関連する法案にしか拒否権を行使できない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "連邦会議は非常設の連邦機関で、国民議会ならびに連邦議会の議員を構成員とし、大統領宣誓式のほかには、任期満了前の大統領の罷免の国民投票の実施、大統領への刑事訴追の承認、宣戦布告の決定、大統領を憲法裁判所へ告発する承認の権限がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "政党には、中道右派のオーストリア国民党(ÖVP)・中道左派のオーストリア社会民主党(SPÖ、旧オーストリア社会党、1945 - 1991)・極右のオーストリア自由党(FPÖ)・同党から分かれて成立したオーストリア未来同盟(BZÖ、自由党の主要議員はこちらに移動した)・環境保護を掲げる左派の緑の党・左翼のオーストリア共産党がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2006年の国民議会選挙で社会民主党が第1党となったため、2007年まで7年間続いた中道右派・オーストリア国民党と極右(自由党→オーストリア未来同盟)の連立政権が解消され、再び中道左派・社会民主党と国民党の大連立に移行した。2008年7月に国民党が連立解消を決め、9月に国民議会選挙が実施された。その結果、社会民主党と国民党の第1党・第2党の関係は変わらなかったものの、両党ともに議席をこの選挙で躍進した極右の自由党と未来同盟に奪われる形となった。その後、およそ2か月にわたる協議を経て、社会民主党と国民党は再び大連立を組むこととなった。中道右派、中道左派、極右は第一共和国時代のキリスト教社会党・オーストリア社会民主労働党・ドイツ民族主義派(諸政党...「農民同盟」、「大ドイツ人党」、「護国団」などの連合体)の3党に由来しており、1世紀近くにわたって3派共立の政党スタイルが確立していた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所に属している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "オーストリア共和国は第二次世界大戦後の連合国による占領を経て、1955年に永世中立を条件に独立を認められ、以来東西冷戦中もその立場を堅持してきた。 このため東側諸国からもオーストリアへの出国は比較的自由であり、長い間、亡命者の窓口の役割を果たしてきた。1978年上半期の亡命者数として1372人の記録が残されているほか、1989年の冷戦末期には汎ヨーロッパ・ピクニックを通じて一度に1000人以上の大量亡命者もやってきた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "欧州経済共同体に対抗するために結成された欧州自由貿易連合には、1960年の結成時からメンバー国だったが、1995年の欧州連合加盟に伴い脱退した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "加盟した欧州連合においては軍事面についても統合が進められており、永世中立国は形骸化したとの指摘がある。国民の間には永世中立国堅持支持も多いが、非永世中立国化への方針が2001年1月の閣議決定による国家安全保障ドクトリンにおいて公式に記述されたことにより、国内で議論が起こっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "歴史的、地理的に中欧・東欧や西バルカンの国と関係が深く、クロアチアなどの欧州連合加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。トルコの欧州連合加盟には消極的な立場をとっている。日本とは1869年に日墺修好通商航海条約を締結して以来友好な関係で、特に音楽方面での交流が盛んである。第一次世界大戦では敵対したが、1955年の永世中立宣言に対しては日本が最初の承認を行った。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2011年に隣国のリヒテンシュタインがシェンゲン協定に加盟したことにより、周囲の国家がすべて同協定の加盟国となり、国境管理を行っていない。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "国軍として陸軍および空軍が編制されている。徴兵制を有し、18歳に達した男子は6か月の兵役に服する。名目上の最高指揮官は連邦大統領であるが、実質上は国防大臣が指揮をとる。北大西洋条約機構には加盟していないが、欧州連合に加盟しており、それを通じた安全保障政策が行われている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "国土面積は日本の北海道とほぼ同じ大きさである。オーストリアの地形は大きくアルプス山脈、同山麓、カルパチア盆地(パンノニア低地)、ウィーン盆地、北部山地(ボヘミア高地)に分けられる。アルプスが国土の62%を占め、海抜500メートル以下は全土の32%に過ぎない。最高地点はグロースグロックナー山(標高3,798メートル)である。アルプスの水を集め、ドイツから首都ウィーンを通過して最終的に黒海に達する国際河川がドナウ川である。1992年にライン川やマイン川を結ぶ運河が完成し北海との交通が可能となった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "気候は大きく3つに大別される。東部は大陸的なパンノニア低地気候、アルプス地方は降水量が多く、夏が短く冬が長いアルプス型気候、その他の地域は中部ヨーロッパの過渡的な気候である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "9つの州が存在する。このように8つの州とウィーンからなるために、9角形の硬貨が発行されたことがある。なお、9角形とはいっても、辺は直線ではなく曲線、すなわち、曲線多角形の硬貨である。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "日本貿易振興機構の推計値では、2019年の一人当たりの名目GDPは50,023ドルである。これは同年のEU平均値である35,774ドルの1.4倍に迫る。また、1990年以降の統計で、一人当たりの名目GDPは世界で概ね10~15位で推移しているが、20位以下に脱落したことはなく(最高順位は1995年の7位で当時30,351ドル)、経済的に豊かで安定した国である。主要産業としては、シュタイアーマルク州の自動車産業、オーバーエスターライヒ州の鉄鋼業などがある。大企業はないものの、ドイツ企業の下請け的な役割の中小企業がオーストリア経済の中心を担っている。ウィーンやザルツブルク、チロルを中心に観光産業も盛んである。失業率はほかの欧州諸国と比較して低い。欧州の地理的中心にあることから近年日本企業の欧州拠点、工場なども増加しつつある。オーストリアにとって日本はアジア有数の貿易相手国である。ヨーロッパを代表する音響機器メーカーとして歴史を持つAKGは、クラシック愛好者を中心に日本でも有名である。金融では、オーストリア銀行、エルステ銀行、ライフアイゼンバンク、BAWAG、フォルクスバンクが主要銀行である。その他の企業についてはオーストリアの企業一覧も参照のこと。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "観光はオーストリア経済において最も重要な産業であり、同国の国内総生産のほぼ9%を占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ÖBB(オーストリア国鉄)が主要幹線を網羅しており、山岳部ではゼンメリング鉄道をはじめとする登山列車なども運行している。ウィーンでは地下鉄やSバーン、路面電車なども運行され、インスブルックやリンツなどの主要都市にも路面電車がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ウィーン、インスブルック、ザルツブルク、グラーツ、クラーゲンフルトの各都市に国際空港がある。ウィーン国際空港では、ドイツ語の案内放送のあと、英語で案内放送がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "「領地はたくさんある。人口もたくさんある。しかしオーストリア民族はいない。国家はない」とはオーストリアのジャーナリスト、ヘルムート・アンディクス(de:Hellmut Andics)がオーストリア帝国を評したものであるが、実際に今のオーストリアの領土はかつての「ドイツ人の神聖ローマ帝国」を構成する「上オーストリア」「下オーストリア」「ケルンテン」「ザルツブルク司教領」「チロル」などから構成されており、その統治者であったハプスブルク家は「ドイツ人の神聖ローマ皇帝」を世襲してきた。そのためオーストリア民族という概念はなく、オーストリア人という概念はきわめて新しい。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ドイツ語を母語とするオーストリア人は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツ、リヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系、ラテン系、ハンガリー系、トルコ系などが入り混じっているものの、ゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするため、オーストリア人は通常ゲルマン民族とみなされる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "オーストリア人はドイツ人に含まれるのか、という問題は戦後意識的に避けられてきたが、近年急速にクローズアップされている。もともとオーストリアはプロイセン、バイエルンなどと同じくドイツを構成する分邦のひとつであり(古くはバイエルンの一部であり、ドイツ人を支族別に分けるとオーストリア人はバイエルン族である)、しかも12 - 19世紀の間、オーストリア大公家であるハプスブルク家がドイツ帝国(神聖ローマ帝国)の帝位やドイツ連邦議長国の座を独占していた。形骸化していたとはいえ、神聖ローマ帝国が長年ドイツ諸邦の盟主だった歴史は無視できない。オーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊によって、オーストリアの国土が民族ドイツ人居住地域に限定されると、左右を問わずにドイツへの合併を求める声が高まり、第一次大戦敗戦直後は「ドイツ・オーストリア共和国」という国名を名乗っており、国歌の歌詞には「ドイツ人の国」という言葉が1930年代まで残っていた。1945年のブリタニカ百科事典には、オーストリアをドイツから除外した小ドイツ主義のビスマルク体制の方が歴史的例外であり、ヒトラーの独墺合併は元の自然な形に戻したにすぎないという記述があり、連合国側にすら戦後の統一ドイツ維持を支持する見方があったことを伺わせる。しかし、この民族自決論を逆手に取ったオーストリア人ヒトラーの行為に対する反省から、戦後は「ドイツ人と異なるオーストリア人」という国民意識が誕生し、浸透した。ドイツ側はさらにソヴィエト占領地区の分離が余儀なくされていた。こうして3つの国家(オーストリア、東ドイツ、西ドイツ)、2つの国民、1つの民族と呼ばれる時代が始まる。オーストリア側ではドイツ人と別個の国民であるという意識が育ち、さらにはエスニシティにおいてもドイツ民族とは異なるオーストリア民族であると自己規定する人も現れた。しかしながら、ドイツ統一・欧州連合加盟以降、ドイツ民族主義が再び急伸した。2000年から2007年にかけて、ドイツ民族主義者系の極右政党が連立与党に加わり、国際的に波紋を呼んだのもそうした風潮と関連している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "「ドイツ人」という言葉には、国家・国民以前に「ドイツ語を話す人」というニュアンスが強い。ゲルマン民族が西進しフランク王国を立てたのち、西部や南部でラテン語との同化を選択した勢力(フランス人、イタリア人、スペイン人の一部の先祖となる)には加わらず、もともとのゲルマン語を守り続けてきた東フランク人が「ドイッチュ」(古来は民衆を意味した。当初ラテン語が支配階層のみで使われたため)の名でドイツ人の先祖となったためである。その後、ドイツ語は英語やフランス語と違い、ほとんど他民族では母語化しなかったため、言語と民族概念とが不可分となっている。オーストリアでは「ドイッチェ~」で始まる市町村名が、東南部をはじめ数多く見られるが、これらの名称も今日となってはドイツ人の街と解釈するのかドイツ語の街と解釈するのかは微妙である。いずれにせよ、ドイツ連邦共和国よりもオーストリアの方にこの地名が多く見られるのは、ドイツ圏全体からは東南に偏して他民族地域との境界に接し「ドイツ」を強調する必要があった地域特性を示している。また、オーストリアを多民族国家として論じる場合、現在の版図では9割を占める最多数派の民族を「ドイツ人」と呼ばざるをえないという事情もある(ゲルマン人では曖昧すぎ、オーストリア人と呼んでしまうと、少数民族はオーストリア人ではないのかということになってしまう。これは、移民の歴史が古く、民族名とは異なる国号を採用した同国ならではのジレンマである)。1970年代におけるブルゲンラント州、ケルンテン州でのハンガリー系、スラブ系住民の比率調査では、もう一方の選択肢は「ドイツ人」だった。近年の民族主義的傾向には、こうした言語民族文化の再確認という側面が見られる反面、拡大EUにおける一等市民=ドイツ人として差別主義的に結束しようとする傾向も否めない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "今日ウィーン市内では、ドイツ国歌を高唱する右派の学生集会なども見られる。ただし、元をただせば現在のドイツ国歌は、ハイドンが神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世を讃えるために作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え』の歌詞を替えたものであり、19世紀後半にはオーストリア帝国の国歌となっていた。ナポレオン戦争における神聖ローマ帝国の勝利と帝国の権威維持を祈願して当曲が作られた当時はオーストリア国家は存在せず、アウステルリッツの戦いに敗戦してローマ帝位を辞するまでフランツ2世は形式的には直轄地オーストリア地域をふくめる全ドイツ人の皇帝だったため、両国共通のルーツを持つ歌ともいえる(ちなみに先代のハプスブルク家当主は1999年まで欧州議会議員をドイツ選出でつとめた)。しかし、外国人観光客が右翼学生たちを奇異な目で見るのは、国歌のメロディではなく、政治的には外国であるドイツを「わが祖国」と連呼する歌詞をそのまま歌っている点である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ブルゲンラント州は1921年まではハンガリー王国側だったため、今日でもハンガリー系、クロアチア系が多い。ケルンテン州にはスロベニア系も居住している。両州の少数民族は1970年代の調査によれば1 - 2%であるが、自己申告制であるため、実際にはドイツ人と申告した中にもかなりの外国系住民が含まれると思われる。そのため、標識や学校授業に第2言語を取り入れている地域もある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "外国人や移民は人口の9.8%を占め、ヨーロッパ有数の移民受入国である。その多くがトルコ人と旧ユーゴスラビア諸国出身者である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ドイツ語が公用語であり、ほとんどの住民が日常使っている言語でもある。ただし、日常の口語で使われているのは標準ドイツ語ではなく、ドイツ南部などと同じ上部ドイツ語(Oberdeutsch)系の方言(オーストリアドイツ語)である。この方言は、フォアアールベルク州で話されているもの(スイスドイツ語に近い)を除き、バイエルンと同じ区画に属するバイエルン・オーストリア語である。オーストリアでは、テレビ、ラジオの放送などでは標準ドイツ語が使われているが、独特の発音や言い回しが残っているため、ドイツで使われている標準ドイツ語とは異なる。標準ドイツ語では有声で発音されるsの音はオーストリアにおいては無声で発音されることが多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "またオーストリア内でも多くの違いがあり、ウィーンやグラーツなどで話されている東オーストリアの方言と西オーストリアのチロル州の方言は随分異なる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "東オーストリアの方言では", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "南部のケルンテン州にはスロベニア人も居住し、Windisch(ドイツ語とスロベニア語の混声語)と呼ばれる方言も話されている。首都ウィーンの方言は「ヴィーナリッシュ(ウィーン訛り)」として知られ、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったハンガリー・チェコ・イタリアなどの諸国の言語の影響が残っていると言われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "また、単語レベルでみた場合、ドイツと異なる語彙も数多く存在するほか、ドイツとオーストリアで意味が異なる単語もあるため注意が必要である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "婚姻の際、2013年までは、原則として「夫または妻の氏(その決定がない場合は夫の氏)を称する(同氏)。自己の氏を後置することもできる」とされていた。しかし2013年4月以降、「婚前に特に手続きしない限り、原則として婚前の氏を保持する(夫婦別姓が原則)」と変更された。これまで通りの選択も可能であるが、その場合婚前に手続きが必要となる。また、別姓での結婚において夫婦が子の姓について合意できない場合は母の姓となる規定がある。これには母子家庭以外でも子が母の姓を名乗るケースを認めることで、親子関係と姓で婚外子だと分からないようにするという、婚外子差別をなくす意味合いがある。2019年1月1日より同性結婚が可能になった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "宗教は、553万人(66.0%)がローマ・カトリックに属している(2009年)。プロテスタントのうち、約31万人(3.7%)がルター派のオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派に、1万4,000人(0.165%)が改革派のオーストリア福音主義教会スイス信仰告白派に属している。51万5,914人(6.2%)がイスラム教に属している(2009年)。さらに、ユダヤ教もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "義務教育は9年となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2023年02月時点で外務省は、「オーストリアの治安状況は一見すると安全に思えますが、スリや置き引きなどの犯罪が頻繁に発生しており、日本の生活感覚のまま行動すると犯罪被害に遭いかねません。特に、観光地や空港、駅、公共交通機関の車内、ホテルのフロント、レストラン、カフェなどで貴重品の入ったカバンや財布が盗まれる被害が多数発生していることから、これらの場所や人混みの中を移動する場合は、所持品に十分な注意を払って行動してください。また、近年、夜間に駅のトイレなどで女性が強姦されるなどの性犯罪事件も増えています。人通りの少ない場所は昼間でも避け、また、夜間に外出する際は十分に注意してください」としている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "18世紀後半にウィーン古典派が興って以降、ウィーンはクラシック音楽における重要な都市となり、やがて「音楽の都」と呼ばれるようになった。オーストリア出身の重要な作曲家には、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブルックナー、ヨハン・シュトラウス2世、マーラー、ベルクなどがいるが、いずれもウィーンを活動の拠点とした。このほか、ドイツ出身のベートーヴェン、ブラームスもウィーンで活動した。音楽家についてはオーストリアの作曲家を参照。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "これらの伝統を引き継ぎ、演奏活動の面では現在もウィーンはクラシック音楽の重要な拠点となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件存在する。さらにハンガリーにまたがって1件の文化遺産が登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "オーストリア国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、今から110年以上前の1911年にプロサッカーリーグの『ブンデスリーガ』が創設された。さらに1924年には2部リーグの『2.ブンデスリーガ』も創設されており、1部と2部の全チームが完全なプロリーグとして運営されていた。名門クラブとしてレッドブル・ザルツブルクが存在し、2017年に国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)が発表したクラブ世界ランキングで10位にランクされた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "オーストリアサッカー協会(ÖFB)によって編成されるサッカーオーストリア代表は、一般的に古豪として認識されている。これまでFIFAワールドカップには7度の出場歴があり、1954年大会では3位に輝いている。しかしUEFA欧州選手権には2008年大会でようやく初出場を果たし、2021年大会で初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。オーストリア人で最も成功したサッカー選手としては、ビッグクラブであるバイエルン・ミュンヘンやレアル・マドリードで活躍した、ディフェンダーのダヴィド・アラバが挙げられる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "冬季オリンピックで数多くのメダルを獲得することから分かるように、オーストリアでもその寒冷な気候と山がちな地形を利用したウィンタースポーツが盛んに行われている。中でも、アルペンスキーは絶大な人気を誇り、冬季オリンピックで計4個のメダルを獲得しているヘルマン・マイヤーは国民的スターでもある。2006-2007年シーズンでは男女計12種目のうち、実に7種目をオーストリア人選手が制覇している。ライフル射撃競技とクロスカントリースキーを組み合わせたバイアスロンの強豪国でもあり、国際スキー連盟とは独立している国際バイアスロン連合は、その本部をオーストリアのザルツブルクに置いている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ノルディックスキーもオーストリア国内で人気が高く、ノルウェー、フィンランド、ドイツとともに強豪国として名高い。アンドレアス・ゴルトベルガー(ジャンプ1993年、1995年、1996年FIS・W杯総合優勝)、フェリックス・ゴットヴァルト(ノルディック複合2001年FIS・W杯総合優勝)、トーマス・モルゲンシュテルン(ジャンプ2008年FIS・W杯総合優勝)といった有名選手を輩出している。近年では2006年トリノオリンピックのジャンプ競技で金メダルを獲得している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "モータースポーツは、オーストリアで3番目に人気のあるスポーツである(スキーとサッカーに次ぐ)。数人のオーストリアのドライバーがF1で成功を収めている。最も有名なドライバーは3度のF1世界チャンピオンであるウィーン出身のニキ・ラウダである。彼はニュルブルクリンクの大事故で瀕死の重症を負いながらも3度の世界チャンピオン(1975年、1977年、1984年)を獲得、25歳でF1世界チャンピオンシップを奪取した7番目のドライバーである。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ヨッヘン・リントもモンツァ・サーキットのレースで事故死後、故人として1970年の世界チャンピオンとなった。リントはまた、1965年のルマン24時間レースでも優勝した。ゲルハルト・ベルガーも1988年と1994年にチャンピオンシップ3位にランクインし、10回のグランプリ勝利と48回の表彰台を獲得した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "近年は2010年から2013年にかけてF1の製造者部門(コンストラクター)で4連覇を果たし、2021年からホンダエンジンで再び選手権を連覇しているレッドブル・レーシングが最も知られる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "F1オーストリアグランプリは1963年、1964年、1970年から1987年、1997年から2003年、そして2014年から開催されている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "モータースポーツの上位2つの会場は、エステルライヒリンクとザルツブルクリンクである。前者はオーストリアグランプリ、オーストリアモーターサイクルグランプリ、そして1000kmのツェルトベク耐久スポーツカーレースを主催した。後者はまた、オーストリアのオートバイグランプリ、スーパーバイク世界選手権、ヨーロッパのフォーミュラ2選手権、そしてドイツツーリングカー選手権やスーパーツーリングカー選手権などのドイツのトップシリーズを開催した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "KTMは主にオフロードバイクでの実績が多く、モトクロスやエンデューロの世界選手権で長らくトップチームとして活躍している。特にダカール・ラリーの二輪部門で18連覇という金字塔を打ち立てている。ホンダをはじめ、日本メーカーが圧倒的な力で支配する二輪モータースポーツの世界でこの記録は驚異的といえる。KTMはハスクバーナ(旧フサベルとの合併)、ガスガスといったメーカーも接収して基本設計も共通化しており、その勢力は強大なものになっている。KTM/ハスクバーナ/ガスガス連合はサーキットレースでも存在感を示し始めており、2021年時点でMoto3で4度王者を輩出している。オーストリア人ライダーとしてはマティアス・ウォークナーが2018年にKTMでダカール王者となっている。MotoGPでは1954年にルパート・ホラースが一度125ccでタイトルを獲得したきりとなっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ヤマハ発動機の耐久レースのファクトリーチームでもあるYART(ヤマハ・オーストリア・レーシング・チーム)はオーストリアのチームである。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "このほかダカール・ラリーで建機メーカーのピンツガウアーが第一回大会でトラック最上位を獲得している(当時は部門として見做されなかったので優勝扱いにはならず)。また日野自動車に唯一のトラック部門優勝をもたらしたJP-ライフもオーストリア人である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "自転車ロードレースでは、ゲオルク・トーチニヒ(ドイツ語版、英語版)やベルンハルト・アイゼルがツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアといった世界最高峰のレースで活躍した。現在はパトリック・コンラートやマティアス・ブレンドレなどが知られている。オーストリア最大のステージレース(複数の日数にわたって行われるレース)「エースターライヒ・ルントファールト」はUCIプロシリーズという上から二番目のカテゴリーに分類されており、ツール・ド・フランスと同時期の7月に開催されるが、その年のツール・ド・フランスに出場しない大物選手が数多く出場している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "ウィーンでは、オーストリア・ハンガリー各地(オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア (南チロル)、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランド (ガリツィア)、スロベニア、クロアチア、ルーマニア、ブコビナ)の出身者が活躍した。", "title": "著名な出身者" } ]
オーストリア共和国、通称オーストリアは、中央ヨーロッパに位置する連邦共和制国家。首都はウィーン。 ドイツの南方の内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたことがある。
{{混同|オーストラリア|x1=[[オセアニア]]に位置する国家である}} {{基礎情報 国 |略名 = オーストリア |日本語国名 = オーストリア共和国 |公式国名 = {{Lang|de|'''Republik Österreich'''}} |国旗画像 = Flag of Austria.svg |国章画像 = [[File:Austria Bundesadler.svg|100px|オーストリアの国章]] |国章リンク = ([[オーストリアの国章|国章]]) |標語 = なし |国歌 = [[山岳の国、大河の国|{{lang|de|Land der Berge, Land am Strome}}]]{{de icon}}<br>''山岳の国、大河の国''<br>{{center|[[ファイル:Land der Berge Land am Strome instrumental.ogg]]}} |位置画像 = Location Austria EU Europe.png |公用語 = [[ドイツ語]]<ref>[[南部ドイツ語]]のうち[[オーストリアドイツ語]]、[[バイエルン・オーストリア語]](公文書などは標準ドイツ語使用)</ref> |首都 = [[ウィーン]] |最大都市 = ウィーン |元首等肩書 = [[連邦大統領 (オーストリア)|連邦大統領]] |元首等氏名 = [[アレクサンダー・ファン・デア・ベレン]] |首相等肩書 = [[連邦首相 (オーストリア)|連邦首相]] |首相等氏名 = [[カール・ネーハマー]] |面積順位 = 112 |面積大きさ = 1 E10 |面積値 = 83,870 |水面積率 = 1.7% |人口統計年 = 2023 |人口順位 = 98 |人口大きさ = 1 E6 |人口値 = 912万9652 |人口追記 = <ref>[http://www.statistik.at/web_de/statistiken/menschen_und_gesellschaft/bevoelkerung/bevoelkerungsstand_und_veraenderung/bevoelkerung_zu_jahres-_quartalsanfang/023582.html Bevölkerung zu Quartalsbeginn seit 2002 nach Bundesland|<sup>1</sup>] - Statistik Austria</ref> |人口密度値 = 109.3<ref>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/at.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-5}}</ref> |GDP統計年元 = 2019 |GDP値元 = 3975億7500万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月14日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=122,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,NGAP_NPGDP,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LE,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> |GDP統計年MER = 2019 |GDP順位MER = 27 |GDP値MER = 4451億2500万<ref name="economy" /> |GDP MER/人 = 5万246.607<ref name="economy" /> |GDP統計年 = 2019 |GDP順位 = 45 |GDP値 = 5198億3200万<ref name="economy" /> |GDP/人 = 5万8679.726<ref name="economy" /> |建国形態 = 成立<ref group="注釈">[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]の崩壊後、現在の国土領域における共和政体([[第一共和国 (オーストリア)|第一共和国]])の建国は[[1918年]][[11月12日]]である。</ref> |確立形態1 = [[オーストリア辺境伯領]] |確立年月日1 = [[976年]] |確立形態2 = [[オーストリア公国]] |確立年月日2 = [[1156年]] |確立形態3 = [[オーストリア大公国]] |確立年月日3 = [[1453年]] |確立形態4 = [[オーストリア帝国]] |確立年月日4 = [[1804年]] |確立形態5 = [[オーストリア=ハンガリー帝国]] |確立年月日5 = [[1867年]] |確立形態6 = [[第一共和国 (オーストリア)|第一共和国]] |確立年月日6 = [[1918年]] |確立形態7 = [[アンシュルス]](ドイツによる併合) |確立年月日7 = [[1938年]] |確立形態8 = 第二共和国 |確立年月日8 = [[1945年]]以降 |確立形態9 = [[オーストリア国家条約]]([[連合軍軍政期 (オーストリア)|連合軍の軍政]]より独立) |確立年月日9 = [[1955年]][[5月15日]]調印/同年7月27日発効 |通貨 = [[ユーロ]] (&#8364;) |通貨コード = EUR |通貨追記 = <ref group="注釈">[[1999年]]以前の通貨は[[オーストリア・シリング]]。</ref><ref group="注釈">[[オーストリアのユーロ硬貨]]も参照。</ref> |時間帯 = +1 |夏時間 = +2 |ISO 3166-1 = AT / AUT |ccTLD = [[.at]] |国際電話番号 = 43 |注記 = <references /> }} '''オーストリア共和国'''(オーストリアきょうわこく、{{Lang-de|Republik Österreich}}、{{Lang-bar|Republik Östareich}})、通称'''オーストリア'''は、[[中央ヨーロッパ]]に位置する[[連邦共和国|連邦共和制国家]]。[[首都]]は[[ウィーン]]。 [[ドイツ]]の南方の内陸に位置し、西側は[[リヒテンシュタイン]]、[[スイス]]と、南は[[イタリア]]と[[スロベニア]]、東は[[ハンガリー]]と[[スロバキア]]、北はドイツと[[チェコ]]と隣接する。基本的には[[中央ヨーロッパ|中欧]]とされるが、歴史的には[[西ヨーロッパ|西欧]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]に分類されたことがある。 == 概要 == [[中央ヨーロッパ|中欧]]に650年間[[ハプスブルク家]]の帝国として君臨し、[[第一次世界大戦]]までは[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、[[フランス]]、[[ドイツ国|ドイツ]]、[[ロシア帝国|ロシア]]と並ぶ欧州五大国、[[列強]]の一角を占めていた。1918年、[[第一次世界大戦]]の敗戦と革命により[[1867年]]より続いた[[オーストリア=ハンガリー帝国]]が解体し、[[共和制]]([[第一共和国 (オーストリア)|第一共和国]])となった。この時点で[[多民族国家]]だった旧帝国のうち、かつての支配民族の[[ドイツ人]]が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。1938年には同じ民族の国家である[[ナチス・ドイツ]]に併合されたが、ドイツ敗戦後の1945年から1955年には[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による[[連合軍軍政期 (オーストリア)|分割占領]]の時代を経て、1955年の独立回復と[[永世中立国]]化により現在に続く体制となった。 音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。[[欧州連合|EU]]加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあり、国内でも[[右翼|右派政党]]の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。 ''本項ではおもに1955年以降のオーストリア共和国に関して記述する。それ以前については[[オーストリアの歴史]]、[[ハプスブルク君主国]]、[[オーストリア公国]]、[[オーストリア大公国]]、[[オーストリア帝国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[第一共和国 (オーストリア)]]、[[アンシュルス]]、[[連合軍軍政期 (オーストリア)]] を参照。'' == 国名 == 正式名称は{{Lang|de|Republik Österreich}} ({{Smaller|ドイツ語: レプブリーク・エースターライヒ}})。 通称 {{Audio|De-Österreich.oga||de|Österreich|エースターライヒ}}{{IPA|'ø:stəraiç}} <ref> {{Cite book | title =[[Duden]] Das Aussprachewörterbuch | publisher = Dudenverlag | edition = 6 | page = 604 | isbn =978-3-411-04066-7}}</ref>。[[Ö]] は正確には[[日本語]]の「エ」ではなく、丸めた「オ」の口をしながら「エ」を発音する音{{IPA|øː}}だが、日本語では「エ(ー)」で表記する慣習があるほか、日本人には「ウ(ー)」のように聴こえることもある。 公式の英語表記は {{Lang|en|Republic of Austria}}。通称{{Lang|en|Austria}}、形容詞は{{Lang|en|''Austrian''}}(オーストリアン)。日本語の表記は'''オーストリア共和国'''、通称'''オーストリア'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]では'''墺太利'''または'''澳地利'''(略表記:'''墺''')と記される。ドイツ語の表記や発音(および下記オーストラリアとの混同回避)を考慮した日本語表記は'''エースタ'''('''ー''')'''ライヒ'''、'''エスタ'''('''ー''')'''ライヒ'''、または[[舞台ドイツ語]]的表記による'''エステ'''('''ル''')'''ライヒ'''であり、専門書や各種サイトなどで使用されている。 {{see also|{{仮リンク|オーストリアの国名|en|Name of Austria}}}} === 由来と「狭義のオーストリア」 === 国名の{{Lang|de|Österreich}}は、ドイツ語で「東の国」という意味である。[[フランク王国]]のころにオストマルク(「東方辺境領」)が設置されたことに由来する。OstmarkとはOst-markで「東方の守り」を意味する([[デンマーク]](Danmark)の「マーク」と同じ)。ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものである。 狭義のオーストリアはかつての[[オーストリア大公国|オーストリア大公領]]であり、現在のオーストリアの領土のうち[[ザルツブルク大司教領]]や[[ケルンテン]]地方、[[シュタイアーマルク]]地方、[[チロル]]地方は含まれない。[[オーストリア大公]]を名乗り同大公領を世襲してきたハプスブルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家を「オーストリア家」と呼ぶようになり、時代が下るにつれ、同家が統治する領地を漠然と「オーストリア」と呼ぶようになった。[[1804年]]の[[オーストリア帝国]]の成立に際しても「『オーストリア』の地理的範囲」は具体的に定義されなかった。[[1918年]]にオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ウィーンを首都にドイツ人が多数を占める地域で「国民国家オーストリア」が建設されるが、これは一地方の名前(あるいはオーストリア家というかつての王家の通称)を国名に使用したことになる。 現在のオーストリアの行政区画では、かつてのオーストリア大公領は[[オーバーエスターライヒ州|上オーストリア州]]、[[ニーダーエスターライヒ州|下オーストリア州]]に分割継承されている。 ドイツ語のエスターライヒのreich([[ライヒ]])はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でもFrankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。「reich」には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。 なお隣国の[[チェコ語]]ではRakousko / Rakúskoと呼ぶが、これは国境の一角の地名{{仮リンク|ラープス・アン・デア・ターヤ|de|Raabs an der Thaya}}に由来している。 === オーストリア家(ハプスブルク家)との関係 === オーストリアを統治してきた[[ハプスブルク家]]および[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]は「オーストリア家({{lang-de-short|Haus Österreich}}, {{lang-es-short|Casa de Austria}}, {{lang-fr-short|Maison d'Autriche}}, {{lang-en-short|House of Austria}})」とも呼ばれ、同家の成員はハプスブルク、ハプスブルク=ロートリンゲンの家名の代わりに「オーストリアの」を表す各国の言語で呼ばれる(e.g. Marie-Antoinette d'Autriche、[[マリー・アントワネット|マリー=アントワネット・ドートリシュ]])。「オーストリア家」にはスペイン・ハプスブルク家も含まれることがあり、たとえば、[[フランス]]の[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の王妃[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ]](スペイン語:マリア・テレサ・デ・アウストリア)はフランス語、スペイン語でそれぞれ「オーストリアの」とあって、スペイン・ハプスブルク家の王女である。日本語版Wikipediaでは、ハプスブルク家がドイツ系の家系であることから、記事名にはドイツ語の「フォン・エスターライヒ」(e.g. [[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ]])を使用している。 === オーストラリアとの混同 === オーストリアは[[オーストラリア]]と間違えられることがある。「オーストリア」はドイツ語 Österreich「東の国; オーストリア」の Oster-「東」を同源のラテン語 auster-「南」で置き換えた呼び方であり、「オーストラリア」はラテン語 terra australis「南の地」に由来する。すなわち「オーストリア」と「オーストラリア」は共に[[ラテン語]] auster「南」に由来する。 日本では、オーストリア[[大使館]]と[[駐日オーストラリア大使館|オーストラリア大使館]]を間違える人もおり、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[元麻布]]のオーストリア大使館には、同じく港区[[三田 (東京都港区)|三田]]の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている<ref>「[[産経新聞]]」2006年11月20日号</ref>。 [[2005年日本国際博覧会]](愛知万博)のオーストリア・[[パビリオン]]で配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オース[[鳥類|鳥]]ア」、オーストラリアを「オース[[トラ|虎]]リア」と覚えるように呼びかけている。 両国名の混同は日本だけではなく英語圏、ロシア語圏、トルコ語圏など多くの言語で見られ、聞き取りにくい場合は「ヨーロッパの」を表す形容詞が付け加えられる場合もある。しばしば[[ジョーク]]などに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い菱形に[[カンガルー]]の[[シルエット]]を黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの[[道路標識]]に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA(オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインの[[Tシャツ]]などが売られている。[[フランス語]](オーストラリア: Australie /オストラリ/, オーストリア: Autriche /オトリシュ/)やチェコ語(オーストラリア: Austrálie, オーストリア: Rakousko)のように、両国を問題なく区別できる言語もある。 === オーストリー表記 === 2006年10月に駐日オーストリア[[大使館]]商務部は、[[オーストラリア]]との混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「'''オーストリー'''」に変更すると発表した<ref>[http://www.austriantrade.org/fileadmin/f/jp/PDF/Umbenennung_von_Oesterreich_im_Japanischen.doc.pdf Österreich 日本語表音表記 の変更について](リンク切れ)</ref>。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。 発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー[[大使]](当時)とエルンスト・ラーシャン商務[[参事官]](商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。 しかし[[2006年]]11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、[[外務省|日本国外務省]]への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した<ref>[http://www.austriantrade.org/fileadmin/f/jp/PDF/PressStatement20061123_.pdf ペーター・モーザー駐日オーストリア大使によるプレス・ステートメント 「オーストリアの公式日本語表記変わらず」](リンク切れ)</ref>。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。 その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の[[官公庁]]、[[マスメディア]]などに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の「[[朝日新聞]]」の記事では、同国を「オーストリア」と表記している<ref>[http://www.asahi.com/international/update/0504/TKY200705040164.html オーストリアが16歳から選挙権]</ref>。 大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断ったうえで * オーストリーの使用はそれぞれの企業の判断にゆだねる * マーケティングで生産国が重要な企業にはオーストリーの使用を提案する * 「オーストリーワイン」がその成功例である などと述べるにとどまっている<ref>[http://www.advantageaustria.org/jp/office/buero.ja.jsp オーストリア大使館商務部ホームページ]</ref>。 日本では雑誌『[[軍事研究]]』がオーストリーの表記を一部で用いている。 == 歴史 == {{Main|オーストリアの歴史}} === オーストリアの成立 === [[ローマ帝国]]以前の時代、現在オーストリアのある[[中央ヨーロッパ]]の地域にはさまざまな[[ケルト人]]が住んでいた。やがて、ケルト人の[[ノリクム|ノリクム王国]]はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域は[[バイエルン人|バヴァリア人]]、[[スラブ人]]、[[アヴァール]]の侵略を受けた{{sfn|Johnson|1989|p=19}}。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占める[[カランタニア公国]]([[658年]] - [[828年]])を建国した。[[788年]]に[[カール大帝|シャルルマーニュ]]がこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた{{sfn|Johnson|1989|p=19}}。[[東フランク王国]]の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は[[976年]]に[[バーベンベルク家]]のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(''marchia Orientalis'')となった{{sfn|Johnson|1989|p=20–21}}。オーストリアの名称が初めて現れるのは[[996年]]で''Ostarrîchi''(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した{{sfn|Johnson|1989|p=20–21}}。 [[1156年]]、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。[[1192年]]、バーベンベルク家は[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク公領]]を獲得する。[[1230年]]に[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]](在位:[[1230年]] - [[1246年]])が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。[[神聖ローマ帝国]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]とも対立。[[1241年]]に[[モンゴル帝国]]が[[ハンガリー王国]]に侵入([[モヒの戦い]])すると、その領土を奪い取った。[[1246年]]に[[ライタ川の戦い]]でフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶{{sfn|Johnson|1989|p=21}}。その結果、ボヘミア王[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]がオーストリア、シュタイアーマルク、[[ケルンテン]]各公領の支配権を獲得した{{sfn|Johnson|1989|p=21}}。彼の支配は[[1278年]]の[[マルヒフェルトの戦い]]で[[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]に敗れて終わった{{sfn|Johnson|1989|p=23}}。 === ハプスブルク家支配の成立 === [[ファイル:Wappen röm.kaiser.JPG|thumb|[[1605年]]の [[ハプスブルク家|ハプスブルク]]皇帝の[[紋章]]]] [[ザルツブルク]]は{{仮リンク|ザルツブルク大司教領|en|Archbishopric of Salzburg}}([[1278年]] - [[1803年]])となり、[[ザルツブルク大司教]]{{仮リンク|フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン|de|Friedrich II. von Walchen}}が領主となった。1290年、[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]がエンス渓谷の所有権と諸権利をめぐってザルツブルク大司教と争い、ルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた。翌年7月にルドルフが死んで、アルブレヒト包囲網が編成された。教皇[[ニコラウス4世]]の了解を得て、ハンガリー王、ボヘミア王、[[ニーダーバイエルン行政管区#歴史|ニーダーバイエルン公]]、[[サヴォイア公]]、ザルツブルク、[[アクイレイア]]、[[コンスタンツ]]の聖界諸侯、旧[[ロンバルディア同盟]]の諸都市、および[[スイス]]誓約同盟も加わった諸国が大同盟を結成した。[[選帝侯]]を味方につけられないアルブレヒトは大同盟から大打撃を受け、[[フランス]]を範にとり財政改革を行うことになった。裕福なウィーン市民をフープマイスターなる管財人へ任命し、人手に渡っていた所領をたちまちに回収した。しかしアルブレヒトが1308年に暗殺されてオーストリアは弱くなった。[[レオポルト1世 (オーストリア公)|レオポルト1世]]は[[モルガルテンの戦い]]に敗れてフランスに接近した<ref>エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 (リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2000年5月) 71-72頁、157-162頁</ref>。 [[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ3世]]の死後一世紀あまりの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家の[[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ハインリヒ6世]]が没し、唯一の女子[[マルガレーテ・マウルタッシュ]]が伯位を継承したが([[チロル伯|チロル女伯]])、領土の相続をめぐって[[ルクセンブルク家]]、[[ヴィッテルスバッハ家]]、[[ハプスブルク家]]が介入した。銀山のある[[チロル]]は位置も[[イタリア政策]]の拠点となりうる垂涎の的であった。 [[1358年]]にハプスブルクは[[オーストリア大公]]([[オーストリア大公国]])を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公[[ルドルフ4世]]は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下に置かれた。[[14世紀]]から[[15世紀]]にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得していく。領土の一円化は[[コンスタンツ公会議]]でイタリア政策が頓挫してから急務であった。[[1438年]]に[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]が義父[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]の後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。 ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも獲得し始める。[[1477年]]、[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の唯一の子である[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン大公]]は跡取りのいない[[ブルゴーニュ公国]]の[[マリー・ド・ブルゴーニュ|マリー]]と結婚して[[ネーデルラント]]の大半を獲得した{{sfn|Johnson|1989|p=25}}{{sfn|Brook-Shepherd|1998|p=11}}。彼の子の[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ美公]]は[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]と[[アラゴン王国|アラゴン]]の王女[[フアナ (カスティーリャ女王)|フアナ]]と結婚した。フアナがのちに王位継承者となったため[[スペイン]]を得て、さらにその領土のイタリア、アフリカ、[[新世界]]をハプスブルク家のものとした{{sfn|Johnson|1989|p=25}}{{sfn|Brook-Shepherd|1998|p=11}}。 [[1526年]]、[[モハーチの戦い]]でハンガリー王[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]が戦死したあと、[[ボヘミア]]地域と[[オスマン帝国]]が占領していない[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の残りの地域がオーストリアの支配下となった{{sfn|Johnson|1989|p=26}}。1529年、[[第一次ウィーン包囲]]。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった([[東方問題]])。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。[[1648年]]に[[ヴェストファーレン条約]]が結ばれ、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。 === マリア・テレジアと二元主義 === [[ファイル:Vienna Battle 1683.jpg|thumb|[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲]]は[[オスマン帝国]]のヨーロッパ侵略を打ち砕いた]] [[ファイル:Canaletto (I) 058.jpg|thumb|18世紀の[[ウィーン]]]] [[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]] ([[1657年]] - [[1705年]]) の長期の治世では、[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲|ウィーン包囲戦]]の勝利(指揮をしたのは[[ポーランド王]][[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世]]){{sfn|Johnson|1989|p=26–28}}に続く一連の戦役([[大トルコ戦争]]、[[1683年]] - [[1699年]])の結果締結された[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]により、オーストリアは[[オスマン帝国領ハンガリー]]全土・[[トランシルヴァニア公国]]・[[スラヴォニア]]を獲得した。[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]([[1711年]] - [[1740年]])は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう([[王領ハンガリー]]、[[:en:Principality of Transylvania (1711–1867)]]、[[:en:Kingdom of Slavonia]])。カール6世は[[国事詔書]]を出して家領不分割と[[マリア・テレジア]]にハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに、領土と権威を明け渡してしまった。 カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、[[オーストリア継承戦争]]([[1740年]] - [[1748年]])が起き、[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]で終結。プロイセン領となった[[シレジア|シュレージエン]]をめぐって再び[[七年戦争]]([[1756年]] - [[1763年]])が勃発。オーストリアに勝利した[[プロイセン]]の勃興により、[[ドイツ二元主義|オーストリア=プロシア二元主義]]が始まる。オーストリアはプロイセン、[[ロシア]]とともに第1回および第3回の[[ポーランド分割]]([[1772年]]と[[1795年]])に加わった。 === 神聖ローマ帝国の解体と二重帝国 === [[File:CongressVienna.jpg|thumb|[[ジャン・バティスト・イザベイ]]作「''ウィーン会議''」([[1819年]])]] [[フランス革命]]が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に敗退し、形骸化していた神聖ローマ帝国は[[1806年]]に消滅した。この2年前の{{sfn|Johnson|1989|p=34}}[[1804年]]、[[オーストリア帝国]]が宣言されている。[[1814年]]、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻して[[ナポレオン戦争]]を終わらせた。[[1815年]]に[[ウィーン会議]]が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における4つの列強国のひとつと認められた([[ウィーン体制]])。同年、オーストリアを盟主とする[[ドイツ連邦]]が作られる。 未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争のためにドイツは統一国家を目指した{{sfn|Johnson|1989|p=36}}[[1848年革命]]に揺れ動かされた。結局のところ、[[ドイツ統一]]は[[大ドイツ主義|大ドイツ]]か、大オーストリアか、[[小ドイツ主義|オーストリアを除いたドイツ連邦]]のいずれかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため[[1849年]]に[[フランクフルト国民議会]]がプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。[[1864年]]、オーストリアとプロイセンは連合して[[デンマーク]]と戦い、[[シュレースヴィヒ公国]]と[[ホルシュタイン|ホルシュタイン公国]]をデンマークから分離させた([[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]])。しかしオーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、[[1866年]]に[[普墺戦争]]を開戦する。[[ケーニヒグレーツの戦い]]{{sfn|Johnson|1989|p=36}}で敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった{{sfn|Johnson|1989|p=55}}{{sfn|Schulze|1996|p=233}}。 [[1867年]]のオーストリアとハンガリーの妥協([[アウスグライヒ]])により、[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]を君主に戴くオーストリア帝国と[[ハンガリー王国]]の二重帝国が成立した{{sfn|Johnson|1989|p=59}}。オーストリア=ハンガリーは[[スラヴ人]]、[[ポーランド人]]、[[ウクライナ人]]、[[チェコ人]]、[[スロバキア人]]、[[セルビア人]]、[[クロアチア人]]、さらには[[イタリア人]]、[[ルーマニア人]]の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。 この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。たとえば[[チスライタニア]](オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告 (''Reichsgesetzblatt'') は8言語で発行され、すべての民族は各自の言語の学校で学ぶことができ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対にほかの民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。 === 第一次世界大戦と共和制への移行 === [[ファイル:Austria Hungary ethnic.svg|thumb|200px|1910年時点のオーストリア=ハンガリーの言語民族地図]] [[1914年]]に[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国は[[セルビア]]に宣戦布告し、紛争は[[第一次世界大戦]]に発展した。 4年以上の戦争を戦ったドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、[[ブルガリア]]の[[中央同盟国|中央同盟諸国]]の戦況は[[1918年]]後半には決定的に不利になり、異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは[[11月3日]]に連合国と休戦条約を結び、事実上の降伏をした。 第一次世界大戦の降伏直後に[[オーストリア革命]]が起こり、皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]は「国事不関与」を宣言して共和制([[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ=オーストリア共和国]])に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉を迎えた。 [[1919年]]に連合国との[[サンジェルマン条約]]が結ばれ、ハンガリー、[[チェコスロバキア]]が独立し、そのほかの領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の4分の1程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアの[[ズデーテン地方]]や[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア]]、[[イタリア]]などに分かれて住むことになった{{sfn|Brook-Shepherd|1998|p=246}}。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツ=オーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。 戦後、オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。[[1922年]]に経済立て直しのために[[国際連盟]]の管理の下での借款が行われ、[[1925年]]から[[1929年]]には経済はやや上向いてきたがそこへ[[世界恐慌]]が起き、1931年に[[オーストリア銀行#クレディタンシュタルト|クレディタンシュタルト]]が倒産した。 === ファシズムからアンシュルスへ === {{main|オーストロファシズム|ナチス・ドイツ統治下のオーストリア}} [[1933年]]、[[キリスト教社会党 (オーストリア)|キリスト教社会党]]の[[エンゲルベルト・ドルフース]]による[[ファシズム|イタリア・ファシズム]]に似た独裁体制が確立した([[オーストロファシズム]]){{sfn|Johnson|1989|p=104}}{{sfn|Brook-Shepherd|1998|p=269-70}}。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党と[[オーストリア社会民主党]]の二大政党があり各々民兵組織を有していた{{sfn|Brook-Shepherd|1998|p=261}}。対立が高まり内戦('''[[2月内乱]]''')となる{{sfn|Johnson|1989|p=104}}{{sfn|Brook-Shepherd|1998|p=269-70}}{{sfn|Johnson|1989|p=107}}。[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1985-083-10, Anschluss Österreich, Wien.jpg|thumb|200px|進駐ドイツ軍を歓迎するウィーン市民]] 内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し{{sfn|Brook-Shepherd|1998|p=283}}{{sfn|Johnson|1989|p=107}}、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月に{{仮リンク|オーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党 - ヒトラー運動|de|Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei Österreichs_– Hitlerbewegung|label=オーストリア・ナチス}}のクーデターが起こり暗殺された{{sfn|Johnson|1989|p=109}}{{sfn|Brook-Shepherd|1998|p=292}}。後継者の[[クルト・シュシュニック]]は[[ナチスドイツ]]から独立を守ろうとするが、[[1938年]][[3月12日]]、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した{{sfn|Johnson|1989|p=112–3}}。[[3月13日]]に[[アンシュルス]](合邦)が宣言され、オーストリア出身の[[アドルフ・ヒトラー]]が母国をドイツと統一させた。 オーストリアは[[第三帝国]]に編入されて独立は失われた。ナチスは[[オストマルク法]]を制定してオーストリアをオストマルクとし{{sfn|Johnson|1989|p=112–3}}、[[1942年]]に[[ドナウ=アルプス帝国大管区群|アルペン=ドナウ帝国大管区群]]と改称している。第三帝国崩壊直前の[[1945年]][[4月13日]]、[[ソ連軍]]による[[ウィーン攻勢]]によってウィーンは陥落した。[[カール・レンナー]]がソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し{{sfn|Johnson|1989|p=135–6}}、[[4月27日]]に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は26万人<ref>Rűdiger Overmans. ''Deutsche militärische Verluste im Zweiten Weltkrieg.'' Oldenbourg 2000.</ref> 、[[ホロコースト]]による[[ユダヤ人]]の犠牲者は6万5,000人に上っている<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/44183/Austria/33382/Anschluss-and-World-War-II Anschluss and World War II]. Britannica Online Encyclopedia.</ref>。 === 第二次大戦後 === ドイツと同様にオーストリアも[[イギリス]]、フランス、ソ連、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]によって分割占領され、オーストリア連合国委員会によって管理された([[連合軍軍政期 (オーストリア)|連合軍軍政期]]){{sfn|Johnson|1989|p=137}}。[[1943年]]の[[モスクワ宣言 (1943年)|モスクワ宣言]]のときから予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり{{sfn|Johnson|1989|p=135–6}}、ドイツ同様に分断されるおそれがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーが[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた<ref>Manfried Rauchensteiner: Der Sonderfall. Die Besatzungszeit in Österreich 1945 bis 1955 (The Special Case. The Time of Occupation in Austria 1945 to 1955), edited by [[:en:Heeresgeschichtliches Museum]] / Militärwissenschaftliches Institut (Museum of Army History / Institute for Military Science), Vienna 1985</ref>。 [[冷戦]]の影響を受けて数年かかった交渉の末、[[1955年]][[5月15日]]、占領4か国との[[オーストリア国家条約]]が締結されて完全な独立を取り戻した。[[1955年]][[10月26日]]、オーストリアは[[永世中立]]を宣言した{{sfn|Johnson|1989|p=153}}。1995年に[[欧州連合]]へ加盟し{{sfn|Brook-Shepherd|1998|p=447,449}}、間接的な憲法改正は加えられている{{sfn|Johnson|1989|p=153}}。 [[ファイル:IMG 9039-Innsbruck.JPG|thumb|150px|[[インスブルック]]は[[インスブルックオリンピック (1964年)|1964年]]と[[インスブルックオリンピック (1976年)|1976年のオリンピック]]を開催している]] 第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年および1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制は[[プロポルツ]](比例配分主義:''Proporz'')に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは[[オーストリア社会民主党|社会党]]と[[オーストリア国民党|国民党]]の党員に平等に分配されるというものである{{sfn|Johnson|1989|p=139}}。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者、事業者、農民)の重要性が増し、立法過程に関与するという特徴がある{{sfn|Johnson|1989|p=165}}。1945年以降、単独政権は[[1966年]] - [[1970年]](国民党)と[[1970年]] - [[1983年]](社会党)のみで、ほかの期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)のいずれかになっている。 1970年 - 1983年の社会党政権における経済政策はおおむね自由化を進める方向で動いた。このような社会党政権のときに国連事務総長をつとめてきた[[クルト・ヴァルトハイム]]が、1986年に大統領となった。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|オーストリアの政治|en|Politics of Austria}}}} 同国の政体は[[連邦共和制]]となっている。 === 行政 === [[ファイル:2020 Karl Nehammer Ministerrat am 8.1.2020 (49351366976) (cropped).jpg|サムネイル|2021年12月6日より首相を務めている[[カール・ネーハマー]]]] [[国家元首]]の[[連邦大統領 (オーストリア)|連邦大統領]]({{lang|de|Bundespräsident}})は国民の直接選挙で選ばれる。任期は6年。大統領就任宣誓式は[[連邦会議 (オーストリア)|連邦会議]]({{lang|de|Bundesversammlung}})で行われる。 連邦政府の首班は[[連邦首相 (オーストリア)|連邦首相]]({{lang|de|Bundeskanzler}})。[[連邦政府 (オーストリア)|連邦政府]]({{lang|de|Bundesregierung}})は国民議会における内閣不信任案の可決か、自発的な辞任、総選挙での敗北でしか交代することはない。 === 立法 === [[ファイル:Parlament Vienna June 2006 183.jpg|thumb|[[国会議事堂 (オーストリア)|オーストリア国会議事堂]]]] [[オーストリアの議会|議会]]は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の[[国民議会 (オーストリア)|国民議会]]({{lang|de|Nationalrat}})と各州議会から送られる62議席の[[連邦議会 (オーストリア)|連邦議会]]({{lang|de|Bundesrat}})から成る二院制の議会制民主主義国家。国民に選挙で選ばれる国民議会の議決は連邦議会のそれに優先する。連邦議会は州に関連する法案にしか拒否権を行使できない。 連邦会議は非常設の連邦機関で、国民議会ならびに連邦議会の議員を構成員とし、大統領宣誓式のほかには、任期満了前の大統領の罷免の国民投票の実施、大統領への刑事訴追の承認、宣戦布告の決定、大統領を憲法裁判所へ告発する承認の権限がある。 === 政党 === {{see|{{仮リンク|オーストリアの政党|en|List of political parties in Austria}}}} 政党には、中道右派の[[オーストリア国民党]](ÖVP)・中道左派の[[オーストリア社会民主党]](SPÖ、旧オーストリア社会党、1945 - 1991)・極右の[[オーストリア自由党]](FPÖ)・同党から分かれて成立した[[オーストリア未来同盟]](BZÖ、自由党の主要議員はこちらに移動した)・環境保護を掲げる左派の[[緑の党 (オーストリア)|緑の党]]・左翼の[[オーストリア共産党]]がある。 2006年の国民議会選挙で社会民主党が第1党となったため、2007年まで7年間続いた中道右派・オーストリア国民党と極右(自由党→オーストリア未来同盟)の連立政権が解消され、再び中道左派・社会民主党と国民党の[[大連立]]に移行した。2008年7月に国民党が連立解消を決め、9月に国民議会選挙が実施された。その結果、社会民主党と国民党の第1党・第2党の関係は変わらなかったものの、両党ともに議席をこの選挙で躍進した極右の自由党と未来同盟に奪われる形となった。その後、およそ2か月にわたる協議を経て、社会民主党と国民党は再び大連立を組むこととなった。中道右派、中道左派、極右は[[第一共和国 (オーストリア)|第一共和国]]時代の[[キリスト教社会党 (オーストリア)|キリスト教社会党]]・[[オーストリア社会民主党|オーストリア社会民主労働党]]・ドイツ民族主義派(諸政党…「農民同盟」、「大ドイツ人党」、「[[護国団]]」などの連合体)の3党に由来しており、1世紀近くにわたって3派共立の政党スタイルが確立していた。 === 司法 === {{see|{{仮リンク|オーストリアの司法|en|Judiciary of Austria}}}} [[司法権]]は最高裁判所に属している。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|オーストリアの国際関係|en|Foreign relations of Austria}}}} オーストリア共和国は[[第二次世界大戦]]後の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による占領を経て、[[1955年]]に[[永世中立国|永世中立]]を条件に独立を認められ、以来東西冷戦中もその立場を堅持してきた。 このため東側諸国からもオーストリアへの出国は比較的自由であり、長い間、[[亡命]]者の窓口の役割を果たしてきた。1978年上半期の亡命者数として1372人の記録が残されているほか<ref>東欧からの亡命者急増『朝日新聞』1978年(昭和53年)10月20日朝刊、13版、7面</ref>、1989年の冷戦末期には[[汎ヨーロッパ・ピクニック]]を通じて東ドイツから一度に1000人以上の大量亡命者もやってきた。 [[欧州経済共同体]]に対抗するために結成された[[欧州自由貿易連合]]には、1960年の結成時からメンバー国だったが、1995年の[[欧州連合]]加盟に伴い脱退した。 加盟した欧州連合においては軍事面についても統合が進められており、永世中立国は形骸化したとの指摘がある。国民の間には永世中立国堅持支持も多いが、非永世中立国化への方針が2001年1月の閣議決定による国家安全保障ドクトリンにおいて公式に記述されたことにより、国内で議論が起こっている。 歴史的、地理的に[[中央ヨーロッパ|中欧]]・[[東ヨーロッパ|東欧]]や西[[バルカン半島|バルカン]]の国と関係が深く、[[クロアチア]]などの欧州連合加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。[[トルコ]]の欧州連合加盟には消極的な立場をとっている。日本とは[[1869年]]に[[日墺修好通商航海条約]]を締結して以来友好な関係で、特に音楽方面での交流が盛んである。[[第一次世界大戦下の日本|第一次世界大戦]]では敵対したが、1955年の永世中立宣言に対しては日本が最初の承認を行った<ref>{{Cite web|和書 | url =https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/austria/data.html | title =外務省:オーストリア共和国 | publisher = 二国間関係の箇所 |accessdate=2013年1月13日 }}</ref>。 2011年に隣国の[[リヒテンシュタイン]]が[[シェンゲン協定]]に加盟したことにより、周囲の国家がすべて同協定の加盟国となり、国境管理を行っていない。 === 日本との関係 === {{Main|日本とオーストリアの関係}} == 軍事 == {{Main|オーストリア軍}} 国軍として陸軍および[[オーストリア空軍|空軍]]が編制されている。徴兵制を有し、18歳に達した男子は6か月の兵役に服する。名目上の最高指揮官は[[連邦大統領 (オーストリア)|連邦大統領]]であるが、実質上は国防大臣が指揮をとる。[[北大西洋条約機構]]には加盟していないが、欧州連合に加盟しており、それを通じた安全保障政策が行われている。 == 地理 == [[ファイル:Oesterreich topo.png|thumb|250px|オーストリアの地形]] [[ファイル:Grossglockner at sunrise.jpg|thumb|right|最高峰[[グロースグロックナー山]]]] {{main|{{仮リンク|オーストリアの地理|en|Geography of Austria}}}} 国土面積は[[日本]]の[[北海道]]とほぼ同じ大きさである。オーストリアの地形は大きく[[アルプス山脈]]、同山麓、カルパチア盆地(パンノニア低地)、[[ウィーン盆地]]、北部山地(ボヘミア高地)に分けられる。アルプスが国土の62%を占め、海抜500メートル以下は全土の32%に過ぎない。最高地点は[[グロースグロックナー山]](標高3,798メートル)である。アルプスの水を集め、ドイツから首都ウィーンを通過して最終的に黒海に達する[[国際河川]]がドナウ川である。1992年にライン川やマイン川を結ぶ運河が完成し北海との交通が可能となった。 === オーストリアの地理的名所 === * [[アルプス山脈]] * [[ドナウ川]] * [[イン川]] * [[ライタ川]] * [[ボーデン湖]] * [[ノイジードラー湖]] * [[ザルツカンマーグート]] * [[ウィーンの森]] * [[ヴァッハウ渓谷]] * [[グロスグロックナー山]] === 気候 === 気候は大きく3つに大別される。東部は大陸的なパンノニア低地気候、アルプス地方は降水量が多く、夏が短く冬が長いアルプス型気候、その他の地域は中部ヨーロッパの過渡的な気候である。 == 地方行政区分 == [[File:Au-map-ja.png|thumb|right|250px|オーストリアの地図]] [[File:SalzburgerAltstadt02b.jpg|thumb|right|250px|[[ザルツブルク]]旧市街]] {{Main|オーストリアの地方行政区画}} 9つの[[州]]が存在する。このように8つの州とウィーンからなるために、9角形の硬貨が発行されたことがある<ref>細矢 治夫、宮崎 興二 編集 『多角形百科』 p.3 丸善 2015年6月30日発行 ISBN 978-4-621-08940-8</ref>。なお、9角形とはいっても、辺は直線ではなく曲線、すなわち、曲線多角形の硬貨である。 {{地域区分表|CONTENTS= {{地域区分表列 |NAMEJ={{Flagicon|Burgenland}} [[ブルゲンラント州]] |NAMEL=[[:de:Burgenland|Burgenland]] |POP=277,569 |CAPJ=[[アイゼンシュタット]] |CAPL=[[:de:Eisenstadt|Eisenstadt]] |ETC= }} {{地域区分表列 |NAMEJ={{Flagicon|Kärnten}} [[ケルンテン州]] |NAMEL=[[:de:Kärnten|Kärnten]] |POP=559,404 |CAPJ=[[クラーゲンフルト]] |CAPL=[[:de:Klagenfurt|Klagenfurt]] |ETC= }} {{地域区分表列 |NAMEJ={{Flagicon|Niederösterreich}} [[ニーダーエスターライヒ州]] |NAMEL=[[:de:Niederösterreich|Niederösterreich]] |POP=1,545,804 |CAPJ=[[ザンクト・ペルテン]] |CAPL=[[:de:St. Pölten|St. Pölten]] |ETC= }} {{地域区分表列 |NAMEJ={{Flagicon|Oberösterreich}} [[オーバーエスターライヒ州]] |NAMEL=[[:de:Oberösterreich|Oberösterreich]] |POP=1,376,797 |CAPJ=[[リンツ]] |CAPL=[[:de:Linz|Linz]] |ETC= }} {{地域区分表列 |NAMEJ={{Flagicon|Salzburg}} [[ザルツブルク州]] |NAMEL=[[:de:Salzburg|Salzburg]] |POP=515,327 |CAPJ=[[ザルツブルク]] |CAPL=[[:de:Salzburg|Salzburg]] |ETC= }} {{地域区分表列 |NAMEJ={{Flagicon|Steiermark}} [[シュタイアーマルク州]] |NAMEL=[[:de:Steiermark|Steiermark]] |POP=1,183,303 |CAPJ=[[グラーツ]] |CAPL=[[:de:Graz|Graz]] |ETC= }} {{地域区分表列 |NAMEJ={{Flagicon|Tirol}} [[チロル州]] |NAMEL=[[:de:Tirol|Tirol]] |POP=673,504 |CAPJ=[[インスブルック]] |CAPL=[[:de:Innsbruck|Innsbruck]] |ETC= }} {{地域区分表列 |NAMEJ={{Flagicon|Vorarlberg}} [[フォアアールベルク州]] |NAMEL=[[:de:Vorarlberg|Vorarlberg]] |POP=372,791 |CAPJ=[[ブレゲンツ]] |CAPL=[[:de:Bregenz|Bregenz]] |ETC= }} {{地域区分表列 |NAMEJ={{Flagicon|Wien}} [[ウィーン]] |NAMEL=[[:de:Wien|Wien]] |POP=1,550,123 |CAPJ= |CAPL= |ETC= }} }} === 主要都市 === {{Main|オーストリアの都市の一覧}} [[ファイル:Stadtteile von Wien entlang der Donau (gesehen von Nordwesten).jpg|thumb|250px|国内最大の都市であるウィーンは[[国際機関]]も集積する、欧州有数の[[世界都市]]である]] {| class="wikitable" !width="30px"| 人口順!!都市!!州!!人口(2022年) |- ! align="center"| '''1''' | align="center" colspan="2" |'''[[ウィーン]]''' | align="right"|1,931,593 |- ! align="center"| '''2''' | align="center"|'''[[グラーツ]]''' | align="center"|[[シュタイアーマルク州]] | align="right"|292,630 |- ! align="center"| '''3''' | align="center"|'''[[リンツ]]''' | align="center"|[[オーバーエスターライヒ州]] | align="right"|207,247 |- ! align="center"| '''4''' | align="center"|'''[[ザルツブルク]]''' | align="center"|[[ザルツブルク州]] | align="right"|155,331 |- ! align="center"| '''5''' | align="center"|'''[[インスブルック]]''' | align="center"|[[チロル州]] | align="right"|130,585 |- ! align="center"| '''6''' | align="center"|'''[[クラーゲンフルト]]''' | align="center"| [[ケルンテン州]] | align="right"|102,618 |- |} {{Colbegin}} * [[アイゼンシュタット]] * [[クレムス]] * [[ザンクト・ペルテン]] * [[シュタイアー]] * [[バーデン・バイ・ヴィーン|バーデン]] * [[バート・イシュル]] * [[ゼーフェルト]] * [[ハルシュタット (オーストリア)|ハルシュタット]] * [[ハル・イン・チロル|ハル]] * [[ブラウナウ]] * [[ブレゲンツ]] * [[マリアツェル]] * [[メルク (オーストリア)|メルク]] * [[リエンツ]] {{Colend}} == 経済 == [[ファイル:Euro banknotes.png|thumb|オーストリアは1999年より[[ユーロ]]を導入している]] {{main|{{仮リンク|オーストリアの経済|en|Economy of Austria}}}} [[日本貿易振興機構]]の推計値では、[[2019年]]の[[各国の一人当たり名目GDPリスト|一人当たりの名目GDP]]は50,023ドルである<ref>{{Cite web|和書|author=独立行政法人 日本貿易振興機構(ジェトロ)|authorlink=日本貿易振興機構|url=https://www.jetro.go.jp/world/search/result?countryId%5B%5D=18&countryId%5B%5D=22&displayItemId%5B%5D=18&nendo=2019&money=1|title =各国・地域データ比較結果 ビジネス情報検索 - 国・地域別に見る - ジェトロ|accessdate=2021-06-09}}</ref>。これは同年のEU平均値である35,774ドル<ref>{{Cite web|和書|author=独立行政法人 日本貿易振興機構(ジェトロ)|authorlink=日本貿易振興機構|url=https://www.jetro.go.jp/world/europe/eu/basic_01.html|title =概況・基本統計 EU - 欧州 - 国・地域別に見る - ジェトロ|accessdate=2021-06-09}}</ref>の1.4倍に迫る。また、[[1990年]]以降の統計で、一人当たりの名目GDPは世界で概ね10~15位で推移しているが、20位以下に脱落したことはなく(最高順位は[[1995年]]の7位で当時30,351ドル)<ref>{{Cite web|和書|author=GLOBAL NOTE<!--|authorlink=GLOBAL NOTE-->|url=https://www.globalnote.jp/p-cotime/?dno=8870&c_code=40&post_no=1339|title =オーストリア>1人当たり名目GDP(IMF統計) - GLOBAL NOTE|accessdate=2021-06-10}}</ref>、経済的に豊かで安定した国である。主要産業としては、[[シュタイアーマルク州]]の自動車産業、[[オーバーエスターライヒ州]]の鉄鋼業などがある。大企業はないものの、ドイツ企業の下請け的な役割の中小企業がオーストリア経済の中心を担っている。[[ウィーン]]や[[ザルツブルク]]、[[チロル]]を中心に観光産業も盛んである。失業率はほかの欧州諸国と比較して低い。欧州の地理的中心にあることから近年日本企業の欧州拠点、工場なども増加しつつある。オーストリアにとって日本はアジア有数の貿易相手国である。ヨーロッパを代表する音響機器メーカーとして歴史を持つ[[AKG]]は、クラシック愛好者を中心に日本でも有名である。金融では、[[オーストリア銀行]]、[[エルステ銀行]]、ライフアイゼンバンク、BAWAG、フォルクスバンクが主要銀行である。その他の企業については[[オーストリアの企業一覧]]も参照のこと。 === 観光 === {{main|{{仮リンク|オーストリアの観光|de|Tourismus in Österreich|en|Tourism in Austria}}}} 観光はオーストリア経済において最も重要な産業であり、同国の国内総生産のほぼ9%を占めている。 {{節スタブ}} == 交通 == {{main|{{仮リンク|オーストリアの交通|en|Transport in Austria}}}} === 鉄道 === {{Main|オーストリアの鉄道}} {{lang|de|ÖBB}}([[オーストリア連邦鉄道|オーストリア国鉄]])が主要幹線を網羅しており、山岳部では[[ゼンメリング鉄道]]をはじめとする登山列車なども運行している。ウィーンでは[[ウィーン地下鉄|地下鉄]]や[[Sバーン]]、[[路面電車]]なども運行され、インスブルックやリンツなどの主要都市にも路面電車がある。 === 航空 === {{Main|オーストリアの空港の一覧}} ウィーン、インスブルック、ザルツブルク、グラーツ、クラーゲンフルトの各都市に国際空港がある。[[ウィーン国際空港]]では、ドイツ語の案内放送のあと、英語で案内放送がある。 == 国民 == {{main|{{仮リンク|オーストリアの人口統計|en|Demographics of Austria}}}} === 民族 === {{独自研究|section=1|date=2012年3月}} {{出典の明記|section=1|date=2012年3月}} [[ファイル:Austria hungary 1911.jpg|thumb|300px|帝国時代の民族分布]] 「領地はたくさんある。人口もたくさんある。しかし'''オーストリア民族はいない。'''国家はない」とはオーストリアのジャーナリスト、ヘルムート・アンディクス([[:de:Hellmut Andics]])がオーストリア帝国を評したものであるが、実際に今のオーストリアの領土はかつての「'''ドイツ人の'''神聖ローマ帝国」を構成する「上オーストリア」「下オーストリア」「ケルンテン」「ザルツブルク司教領」「チロル」などから構成されており、その統治者であったハプスブルク家は「'''ドイツ人の'''神聖ローマ皇帝」を世襲してきた。そのためオーストリア民族という概念はなく、オーストリア人という概念はきわめて新しい。 [[ドイツ語]]を[[母語]]とする[[オーストリア人]]は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツ、リヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系、ラテン系、ハンガリー系、トルコ系などが入り混じっているものの、ゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするため、オーストリア人は通常[[ゲルマン民族]]とみなされる。 オーストリア人は[[ドイツ人]]に含まれるのか、という問題は戦後意識的に避けられてきたが、近年急速にクローズアップされている。もともとオーストリアは[[プロイセン]]、[[バイエルン大公|バイエルン]]などと同じくドイツを構成する分邦のひとつであり(古くはバイエルンの一部であり、ドイツ人を支族別に分けるとオーストリア人は[[バイエルン族]]である)、しかも12 - 19世紀の間、オーストリア大公家である[[ハプスブルク家]]がドイツ帝国([[神聖ローマ帝国]])の帝位や[[ドイツ連邦]]議長国の座を独占していた。形骸化していたとはいえ、神聖ローマ帝国が長年ドイツ諸邦の盟主だった歴史は無視できない。[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー二重帝国]]の崩壊によって、オーストリアの国土が民族ドイツ人居住地域に限定されると、左右を問わずに[[ドイツ国|ドイツ]]への合併を求める声が高まり、第一次大戦敗戦直後は「ドイツ・オーストリア共和国」という国名を名乗っており、国歌の歌詞には「ドイツ人の国」という言葉が1930年代まで残っていた。1945年のブリタニカ百科事典には、オーストリアをドイツから除外した[[小ドイツ主義]]の[[ビスマルク体制]]の方が歴史的例外であり、ヒトラーの独墺合併は元の自然な形に戻したにすぎないという記述があり、連合国側にすら戦後の統一ドイツ維持を支持する見方があったことを伺わせる。しかし、この[[民族自決]]論を逆手に取ったオーストリア人の[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の行為に対する反省から、戦後は「ドイツ人と異なるオーストリア人」という国民意識が誕生し、浸透した。ドイツ側はさらにソヴィエト占領地区の分離が余儀なくされていた。こうして3つの国家(オーストリア、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、西ドイツ)、2つの国民、1つの民族と呼ばれる時代が始まる。オーストリア側ではドイツ人と別個の国民であるという意識が育ち、さらには[[エスニシティ]]においてもドイツ民族とは異なるオーストリア民族であると自己規定する人も現れた。しかしながら、[[ドイツ再統一|ドイツ統一]]・欧州連合加盟以降、ドイツ民族主義が再び急伸した。2000年から2007年にかけて、ドイツ民族主義者系の極右政党が連立与党に加わり、国際的に波紋を呼んだのもそうした風潮と関連している。 「ドイツ人」という言葉には、国家・国民以前に「[[ドイツ語]]を話す人」というニュアンスが強い。ゲルマン民族が西進しフランク王国を立てたのち、西部や南部でラテン語との同化を選択した勢力(フランス人、イタリア人、スペイン人の一部の先祖となる)には加わらず、もともとのゲルマン語を守り続けてきた東フランク人が「ドイッチュ」(古来は民衆を意味した。当初ラテン語が支配階層のみで使われたため)の名でドイツ人の先祖となったためである。その後、ドイツ語は[[英語]]や[[フランス語]]と違い、ほとんど他民族では母語化しなかったため、言語と民族概念とが不可分となっている。オーストリアでは「ドイッチェ~」で始まる市町村名が、東南部をはじめ数多く見られるが、これらの名称も今日となってはドイツ人の街と解釈するのかドイツ語の街と解釈するのかは微妙である。いずれにせよ、ドイツ連邦共和国よりもオーストリアの方にこの地名が多く見られるのは、ドイツ圏全体からは東南に偏して他民族地域との境界に接し「ドイツ」を強調する必要があった地域特性を示している。また、オーストリアを多民族国家として論じる場合、現在の版図では9割を占める最多数派の民族を「ドイツ人」と呼ばざるをえないという事情もある(ゲルマン人では曖昧すぎ、オーストリア人と呼んでしまうと、少数民族はオーストリア人ではないのかということになってしまう。これは、移民の歴史が古く、民族名とは異なる国号を採用した同国ならではのジレンマである)。1970年代における[[ブルゲンラント州]]、[[ケルンテン州]]でのハンガリー系、スラブ系住民の比率調査では、もう一方の選択肢は「ドイツ人」だった。近年の民族主義的傾向には、こうした言語民族文化の再確認という側面が見られる反面、拡大EUにおける一等市民=ドイツ人として差別主義的に結束しようとする傾向も否めない。 今日ウィーン市内では、[[ドイツ国歌]]を高唱する右派の学生集会なども見られる。ただし、元をただせば現在のドイツ国歌は、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]が神聖ローマ帝国最後の皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]を讃えるために作曲した『[[神よ、皇帝フランツを守り給え]]』の歌詞を替えたものであり、19世紀後半には[[オーストリア帝国]]の国歌となっていた。[[ナポレオン戦争]]における神聖ローマ帝国の勝利と帝国の権威維持を祈願して当曲が作られた当時はオーストリア国家は存在せず、[[アウステルリッツの戦い]]に敗戦してローマ帝位を辞するまでフランツ2世は形式的には直轄地オーストリア地域をふくめる全ドイツ人の皇帝だったため、両国共通のルーツを持つ歌ともいえる(ちなみに先代のハプスブルク家当主の[[オットー・フォン・ハプスブルク]]は1999年まで欧州議会議員を西ドイツ選出でつとめた)。しかし、外国人観光客が右翼学生たちを奇異な目で見るのは、国歌のメロディではなく、政治的には外国であるドイツを「わが祖国」と連呼する歌詞をそのまま歌っている点である。 [[ブルゲンラント州]]は[[1921年]]までは[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]]側だったため、今日でもハンガリー系、クロアチア系が多い。[[ケルンテン州]]にはスロベニア系も居住している。両州の少数民族は1970年代の調査によれば1 - 2%であるが、自己申告制であるため、実際にはドイツ人と申告した中にもかなりの外国系住民が含まれると思われる。そのため、標識や学校授業に第2言語を取り入れている地域もある。 外国人や移民は人口の9.8%を占め、ヨーロッパ有数の移民受入国である。その多くが[[トルコ人]]と旧[[ユーゴスラビア]]諸国出身者である。 === 言語 === {{main|[[オーストリアの言語]]}} [[ファイル:Continental West Germanic languages.png|thumb|250px|オーストリアを含む[[ドイツ語]]の方言区分]] [[ドイツ語]]が[[公用語]]であり、ほとんどの住民が日常使っている言語でもある。ただし、日常の[[口語]]で使われているのは標準ドイツ語ではなく、ドイツ南部などと同じ[[上部ドイツ語]]([[:de:Oberdeutsch Dialekte|Oberdeutsch]])系の方言([[オーストリアドイツ語]])である。この方言は、フォアアールベルク州で話されているもの([[スイスドイツ語]]に近い)を除き、[[バイエルン州|バイエルン]]と同じ区画に属する[[バイエルン・オーストリア語]]である。オーストリアでは、[[テレビ]]、[[ラジオ]]の放送などでは標準ドイツ語が使われているが、独特の発音や言い回しが残っているため、ドイツで使われている標準ドイツ語とは異なる。標準ドイツ語では有声で発音されるsの音はオーストリアにおいては無声で発音されることが多い。 またオーストリア内でも多くの違いがあり、ウィーンやグラーツなどで話されている東オーストリアの方言と西オーストリアのチロル州の方言は随分異なる。 東オーストリアの方言では * -l ** Mädl(Mädchen) ** nの後にlがくる場合、nがdになる:Pfandl(< Pfann(e) フライパン)、Mandl(< Mann 人、男性) * -erl ** Kipferl ** Ein Moment''erl'' (少々お待ちください) となる。 南部のケルンテン州には[[スロベニア人]]も居住し、Windisch(ドイツ語とスロベニア語の混声語)と呼ばれる方言も話されている。首都ウィーンの方言は「ヴィーナリッシュ(ウィーン訛り)」として知られ、かつての[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の領土だった[[ハンガリー]]・[[チェコ]]・[[イタリア]]などの諸国の言語の影響が残っていると言われている。 また、単語レベルでみた場合、ドイツと異なる語彙も数多く存在するほか、ドイツとオーストリアで意味が異なる単語もあるため注意が必要である。 * [[:de:Kategorie:Österreichische Sprache|Kategorie:Österreichische Sprache]] - オーストリアのドイツ語に関するリンク集。 === 婚姻 === {{Main|{{仮リンク|オーストリアの婚姻|en|Marriage in Austria}}}} 婚姻の際、2013年までは、原則として「夫または妻の氏(その決定がない場合は夫の氏)を称する(同氏)。自己の氏を後置することもできる<ref name="chukanmatome">平成13年10月11日男女共同参画会議基本問題専調査会 [https://www.gender.go.jp/kaigi/senmon/kihon/yousi/pdf/bessi-chukan.pdf 選択的夫婦別氏制度に関する審議の中間まとめ 資料15 夫婦の氏に関する各国法制]</ref>」とされていた。しかし2013年4月以降、「婚前に特に手続きしない限り、原則として婚前の氏を保持する([[夫婦別姓]]が原則)」と変更された<ref>"[http://www.bmeia.gv.at/en/embassy/london/practical-advice/consular-services/change-of-name.html Change of Name]", The Austrian Foreign Ministry Worldwide.</ref><ref>"[https://www.help.gv.at/Portal.Node/hlpd/public/content/7/Seite.070130.html Namensänderung im Zusammenhang mit einer Eheschließung]", Amstswege leicht gemacht, Bundeskanzleramt, Österreich</ref>。これまで通りの選択も可能であるが、その場合婚前に手続きが必要となる。また、別姓での結婚において夫婦が子の姓について合意できない場合は母の姓となる規定がある<ref name="asahi20160526">[http://digital.asahi.com/articles/DA3S12376599.html 「夫婦別姓、海外の実情は 家族の一体感は? 親子で違う姓、不便?」]、朝日新聞、2016年5月26日。{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。これには母子家庭以外でも子が母の姓を名乗るケースを認めることで、親子関係と姓で[[婚外子]]だと分からないようにするという、婚外子差別をなくす意味合いがある<ref name="asahi20160526" />。2019年1月1日より[[同性結婚]]が可能になった<ref name="vfgh">[https://www.vfgh.gv.at/medien/Ehe_fuer_gleichgeschlechtliche_Paare.en.php Distinction between marriage and registered partnership violates ban on discrimination]</ref><ref name="LibraryCongressOverview">{{cite web|url=https://www.loc.gov/law/foreign-news/article/austria-same-sex-couples-allowed-to-get-married-starting-january-2019/|title=Austria: Same-Sex Couples Allowed to Get Married Starting January 2019|work=[[Library of Congress]]|date=12 December 2017|accessdate=25 January 2018|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180125120112/http://www.loc.gov/law/foreign-news/article/austria-same-sex-couples-allowed-to-get-married-starting-january-2019/|archivedate=1 January 2019}}</ref>。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|オーストリアの宗教|en|Religion in Austria}}}} [[宗教]]は、553万人(66.0%)が[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に属している(2009年)。[[プロテスタント]]のうち、約31万人(3.7%)が[[ルター派]]の[[オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派]]に、1万4,000人(0.165%)が[[改革派教会|改革派]]のオーストリア福音主義教会スイス信仰告白派に属している。51万5,914人(6.2%)がイスラム教に属している(2009年)。さらに、[[ユダヤ教]]もいる。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|オーストリアの教育|en|Education in Austria}}}} [[義務教育]]は9年となっている。 {{節スタブ}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|オーストリアの保健|en|Health in Austria}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|オーストリアの医療|en|Healthcare in Austria}}}} {{節スタブ}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|オーストリアにおける犯罪|en|Crime in Austria}}}} 2023年02月時点で[[外務省]]は、「オーストリアの治安状況は一見すると安全に思えますが、スリや置き引きなどの犯罪が頻繁に発生しており、日本の生活感覚のまま行動すると犯罪被害に遭いかねません。特に、観光地や空港、駅、公共交通機関の車内、ホテルのフロント、レストラン、カフェなどで貴重品の入ったカバンや財布が盗まれる被害が多数発生していることから、これらの場所や人混みの中を移動する場合は、所持品に十分な注意を払って行動してください。また、近年、夜間に駅のトイレなどで女性が強姦されるなどの性犯罪事件も増えています。人通りの少ない場所は昼間でも避け、また、夜間に外出する際は十分に注意してください」としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_156.html|title=オーストリア 安全対策基礎データ|accessdate=2023-02-06|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|オーストリアにおける人権|en|Human rights in Austria}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|オーストリアのメディア|de|Medien in Österreich}}|{{仮リンク|オーストリアのメディアの一覧|en|List of mass media in Austria}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|オーストリアのテレビ|en|Television in Austria}}|{{仮リンク|オーストリアのラジオ|en|Radio in Austria}}|{{仮リンク|オーストリアの新聞の一覧|en|List of newspapers in Austria}}|{{仮リンク|オーストリアの雑誌の一覧|en|List of magazines in Austria}}}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|オーストリアの文化|de|Österreichische Kultur|en|Culture of Austria}}}} === 食文化 === {{Main|オーストリア料理|Category:オーストリアの食文化}} === 文学 === {{main|[[オーストリア文学]]}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|オーストリアの音楽|en|Music of Austria}}}} ==== クラシック音楽 ==== [[ファイル:Wien Staatsoper.jpg|thumb|upright|[[ウィーン国立歌劇場]]]] [[ファイル:Wolfgang-amadeus-mozart 1.jpg|thumb|upright|[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]は[[ザルツブルク]]に生まれ、25歳から[[ウィーン]]に定住した]] [[ファイル:Joseph Haydn.jpg|thumb|upright|[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]]] 18世紀後半に[[ウィーン古典派]]が興って以降、ウィーンはクラシック音楽における重要な都市となり、やがて「音楽の都」と呼ばれるようになった。オーストリア出身の重要な作曲家には、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]、[[ヨハン・シュトラウス2世]]、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[アルバン・ベルク|ベルク]]などがいるが、いずれもウィーンを活動の拠点とした。このほか、ドイツ出身の[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]もウィーンで活動した。音楽家については[[:Category:オーストリアの作曲家|オーストリアの作曲家]]を参照。 これらの伝統を引き継ぎ、演奏活動の面では現在もウィーンはクラシック音楽の重要な拠点となっている。 * [[オペラ]]・[[オペレッタ]] ** [[ウィーン国立歌劇場]] ** [[ウィーン・フォルクスオーパー]] * 演奏団体 ** [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]] ** [[ウィーン交響楽団]] ** [[ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団]] ** [[モーツァルテウム管弦楽団|ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団]] ** [[ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団]] * 祝祭上演 ** [[ザルツブルク音楽祭]] ** [[ザルツブルク復活祭音楽祭]] ** [[ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭]] ** [[国際モーツァルテウム財団|ザルツブルク国際モーツァルト週間]] ** [[ブレゲンツ音楽祭]] === 美術 === {{main|オーストリアの芸術}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|オーストリアの芸術家と建築家の一覧|en|List of Austrian artists and architects}}}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|オーストリアの映画|en|Cinema of Austria}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{main|オーストリアの建築}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|オーストリア中央建築家協会|de|Zentralvereinigung der Architekten Österreichs}}}} === 世界遺産 === [[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が7件存在する。さらにハンガリーにまたがって1件の文化遺産が登録されている。 {{main|オーストリアの世界遺産}} === 祝祭日 === {| class="wikitable" |+ 祝祭日<ref>[[:de:Feiertage in Österreich]] を参照</ref> !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |[[1月1日]] |[[元日]] |''Neujahr'' |&nbsp; |- |[[1月6日]] |[[公現祭]] |''Heilige Drei Könige'' |&nbsp; |- |移動祝日 |[[復活祭]]の日曜日 |''Ostersonntag'' |&nbsp; |- |移動祝日 |復活祭の月曜日 |''Ostermontag'' |&nbsp; |- |[[5月1日]] |[[メーデー]] |Tag der Arbeit |&nbsp; |- |移動祝日 |[[キリストの昇天|主の昇天]] |''Christi Himmelfahrt'' |[[復活祭]]から40日目の木曜日 |- |移動祝日 |[[ペンテコステ|聖霊降臨祭]] |''Pfingstsonntag'' |&nbsp; |- |移動祝日 |[[ペンテコステ|聖霊降臨祭の月曜日]] |''Pfingstmontag'' |&nbsp; |- |移動祝日 |[[聖体の祝日]] |''Fronleichnam'' |[[ペンテコステ|聖霊降臨祭]]から12日目の木曜日 |- |[[8月15日]] |[[聖母の被昇天]] |''Mariä Himmelfahrt'' |&nbsp; |- |[[10月26日]] |[[建国記念日]] |''Nationalfeiertag'' |[[1955年]]に[[永世中立国]]宣言をしたことによる |- |[[11月1日]] |[[諸聖人の日]] |''Allerheiligen'' |&nbsp; |- |[[12月8日]] |[[無原罪の御宿り|無原罪の聖母]]の祝日 |''Mariä Empfängnis'' |&nbsp; |- |[[12月24日]] |[[クリスマスイブ]] |''Heilig Abend''(''Weihnachten'') |&nbsp; |- |[[12月25日]] |[[クリスマス]] |''Christtag'' |&nbsp; |- |[[12月26日]] |[[聖ステファノの日|聖ステファノの祝日]] |''Stefanitag'' |&nbsp; |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|オーストリアのスポーツ|en|Sport in Austria}}}} {{See also|オリンピックのオーストリア選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|オーストリアのサッカー|en|Football in Austria}}}} オーストリア国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、今から110年以上前の[[1911年]]にプロサッカーリーグの『[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|ブンデスリーガ]]』が創設された。さらに[[1924年]]には2部リーグの『[[2. ブンデスリーガ (オーストリアサッカー)|2.ブンデスリーガ]]』も創設されており、1部と2部の全チームが完全なプロリーグとして運営されていた。名門クラブとして'''[[レッドブル・ザルツブルク]]'''が存在し、[[2017年]]に[[国際サッカー歴史統計連盟]](IFFHS)が発表したクラブ世界ランキングで10位にランクされた<ref>[https://iffhs.de/club-world-ranking-2017/ Club World Ranking] - IFFHS(2018年1月1日16閲覧)</ref>。 [[オーストリアサッカー協会]](ÖFB)によって編成される[[サッカーオーストリア代表]]は、一般的に古豪として認識されている。これまで[[FIFAワールドカップ]]には7度の出場歴があり、[[1954 FIFAワールドカップ|1954年大会]]では3位に輝いている。しかし[[UEFA欧州選手権]]には[[UEFA EURO 2008|2008年大会]]でようやく初出場を果たし、[[UEFA EURO 2020|2021年大会]]で初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。[[オーストリア人]]で最も成功した[[プロサッカー選手|サッカー選手]]としては、[[ビッグクラブ]]である[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]や[[レアル・マドリード]]で活躍した、[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]の'''[[ダヴィド・アラバ]]'''が挙げられる。 === ウィンタースポーツ === [[冬季オリンピック]]で数多くのメダルを獲得することから分かるように、オーストリアでもその寒冷な気候と山がちな地形を利用した[[ウィンタースポーツ]]が盛んに行われている。中でも、[[アルペンスキー]]は絶大な人気を誇り、冬季オリンピックで計4個のメダルを獲得している[[ヘルマン・マイヤー]]は国民的スターでもある。2006-2007年シーズンでは男女計12種目のうち、実に7種目をオーストリア人選手が制覇している。[[ライフル射撃]]競技と[[クロスカントリースキー]]を組み合わせた[[バイアスロン]]の強豪国でもあり、[[国際スキー連盟]]とは独立している[[国際バイアスロン連合]]は、その本部をオーストリアの[[ザルツブルク]]に置いている。 [[ノルディックスキー]]もオーストリア国内で人気が高く、[[ノルウェー]]、[[フィンランド]]、[[ドイツ]]とともに強豪国として名高い。[[アンドレアス・ゴルトベルガー]]([[スキージャンプ|ジャンプ]]1993年、1995年、1996年FIS・W杯総合優勝)、[[フェリックス・ゴットヴァルト]]([[ノルディック複合]]2001年FIS・W杯総合優勝)、[[トーマス・モルゲンシュテルン]](ジャンプ2008年FIS・W杯総合優勝)といった有名選手を輩出している。近年では[[2006年トリノオリンピック]]のジャンプ競技で金メダルを獲得している。 === モータースポーツ === [[file:Daniel Ricciardo, Red Bull Racing F1 Team (42837221785).jpg|200px|thumb|F1のレッドブル・レーシング]] [[file:KTM 450 Rally (Marc Coma) – Hamburger Motorrad Tage 2015 01.jpg|200px|thumb|[[ラリーレイド]]のレッドブル・KTM]] モータースポーツは、オーストリアで3番目に人気のあるスポーツである(スキーとサッカーに次ぐ)。数人のオーストリアのドライバーが[[フォーミュラ1|F1]]で成功を収めている。最も有名なドライバーは3度のF1世界チャンピオンであるウィーン出身の[[ニキ・ラウダ]]である。彼は[[ニュルブルクリンク]]の大事故で瀕死の重症を負いながらも3度の世界チャンピオン(1975年、1977年、1984年)を獲得、25歳でF1世界チャンピオンシップを奪取した7番目のドライバーである。 [[ヨッヘン・リント]]も[[モンツァ・サーキット]]のレースで事故死後、故人として1970年の世界チャンピオンとなった。リントはまた、1965年の[[ルマン24時間レース]]でも優勝した。[[ゲルハルト・ベルガー]]も1988年と1994年にチャンピオンシップ3位にランクインし、10回のグランプリ勝利と48回の表彰台を獲得した。 近年は[[2010年のF1世界選手権|2010年]]から[[2013年のF1世界選手権|2013年]]にかけてF1の製造者部門(コンストラクター)で4連覇を果たし、2021年から[[ホンダ]]エンジンで再び選手権を連覇している[[レッドブル・レーシング]]が最も知られる。 F1[[オーストリアグランプリ]]は1963年、1964年、1970年から1987年、1997年から2003年、そして2014年から開催されている。 モータースポーツの上位2つの会場は、[[エステルライヒリンク]]と[[ザルツブルクリンク]]である。前者はオーストリアグランプリ、オーストリアモーターサイクルグランプリ、そして1000kmのツェルトベク耐久スポーツカーレースを主催した。後者はまた、オーストリアのオートバイグランプリ、[[スーパーバイク世界選手権|スーパーバイク]]世界選手権、ヨーロッパの[[フォーミュラ2]]選手権、そして[[ドイツツーリングカー選手権]]やスーパーツーリングカー選手権などのドイツのトップシリーズを開催した。 [[KTM]]は主にオフロードバイクでの実績が多く、[[モトクロス]]や[[エンデューロ]]の世界選手権で長らくトップチームとして活躍している。特に[[ダカール・ラリー]]の二輪部門で18連覇という金字塔を打ち立てている。[[ホンダ]]をはじめ、日本メーカーが圧倒的な力で支配する二輪モータースポーツの世界でこの記録は驚異的といえる。KTMは[[ハスクバーナ・モーターサイクル|ハスクバーナ]](旧[[フサベル]]との合併)、[[ガスガス]]といったメーカーも接収して基本設計も共通化しており、その勢力は強大なものになっている。KTM/ハスクバーナ/ガスガス連合はサーキットレースでも存在感を示し始めており、2021年時点でMoto3で4度王者を輩出している。オーストリア人ライダーとしてはマティアス・ウォークナーが2018年にKTMでダカール王者となっている。[[MotoGP]]では1954年にルパート・ホラースが一度125ccでタイトルを獲得したきりとなっている。 [[ヤマハ発動機]]の耐久レースのファクトリーチームでもあるYART(ヤマハ・オーストリア・レーシング・チーム)はオーストリアのチームである。 このほかダカール・ラリーで建機メーカーのピンツガウアーが第一回大会でトラック最上位を獲得している(当時は部門として見做されなかったので優勝扱いにはならず)。また[[日野自動車]]に唯一のトラック部門優勝をもたらしたJP-ライフもオーストリア人である。 === 自転車競技 === [[ロードレース (自転車競技)|自転車ロードレース]]では、{{仮リンク|ゲオルク・トーチニヒ|de|Georg Totschnig|en|Georg Totschnig}}や[[ベルンハルト・アイゼル]]が[[ツール・ド・フランス]]や[[ジロ・デ・イタリア]]といった世界最高峰のレースで活躍した。現在は[[パトリック・コンラート]]や[[マティアス・ブレンドレ]]などが知られている。オーストリア最大のステージレース(複数の日数にわたって行われるレース)「[[オーストリア一周|エースターライヒ・ルントファールト]]」は[[UCIプロシリーズ]]という上から二番目のカテゴリーに分類されており、ツール・ド・フランスと同時期の7月に開催されるが、その年のツール・ド・フランスに出場しない大物選手が数多く出場している。 == 著名な出身者 == [[ファイル:Arnold Schwarzenegger 2012.jpg|thumb|right|150px|[[アーノルド・シュワルツェネッガー]] (2012年)<br>彼は現在のオーストリア共和国成立後、もっとも世界的に有名になったオーストリア出身者の一人である。]] {{Main|オーストリア人の一覧}} ウィーンでは、オーストリア・ハンガリー各地([[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[イタリア]] ([[ボルツァーノ自治県|南チロル]])、[[ハンガリー]]、[[チェコ]]、[[スロバキア]]、[[ポーランド]] ([[ガリツィア]])、[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[ルーマニア]]、[[ブコビナ]])の出身者が活躍した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em|refs= <!-- <ref name=":0">{{Cite web |title=Eurobarometer |url=https://europa.eu/eurobarometer/surveys/detail/2251 |website=europa.eu |accessdate=2022-01-25}}</ref> --> }} == 参考文献 == {{refbegin}} * {{Cite book | last=Brook-Shepherd | first=Gordon | title=The Austrians: a thousand-year odyssey | date=1998 | publisher=Carroll & Graf Publishers, Inc | location=New York | isbn=0786705205 |ref=harv}} * {{Cite book | last=Johnson | first=Lonnie | title=Introducing Austria: a short history | date=1989 | publisher=Ariadne Press | location=Riverside, Calif. | isbn=0929497031 |ref=harv}} * {{Cite book | last=Schulze | first=Hagen | title=States, nations, and nationalism: from the Middle Ages to the present | date=1996 | publisher=Blackwell | location=Cambridge, Mass. | isbn=0631209336 |ref=harv}} {{refend}} == 関連項目 == {{col| * [[オーストリア関係記事の一覧]] * [[オーストリア君主一覧]] * [[ハプスブルク家]] * [[ハプスブルク君主国]] * [[神聖ローマ帝国]] * [[オーストリア帝国]] * [[神聖同盟]] * [[東方問題]] | * [[オーストリア=ハンガリー帝国]] * [[オットー・フォン・ハプスブルク]] * [[連邦大統領 (オーストリア)]] * [[連邦首相 (オーストリア)]] * [[南チロル]] * [[軍服 (オーストリア)]] * [[オーストリア (小惑星)]] | * [[サウンド・オブ・ミュージック]] * [[ターフェルシュピッツ]] }} == 外部リンク == {{Commons&cat|Österreich|Austria}} ; 政府 * [https://www.bundespraesident.at/ オーストリア連邦大統領府] {{de icon}}{{en icon}} * [https://www.bundeskanzleramt.gv.at/ オーストリア連邦首相府] {{de icon}}{{en icon}} * [https://www.bmeia.gv.at/ja/oeb-tokio/ 在日オーストリア大使館] {{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/austria/ 日本外務省 - オーストリア] {{ja icon}} * [https://www.at.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在オーストリア日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光その他 * [https://www.austria.info/jp オーストリア政府観光局] {{ja icon}} * [https://www.jetro.go.jp/world/europe/at/ JETRO - オーストリア] * [https://austrocult.jp/ Austrian Cultural Forum - オーストリア文化フォーラム] {{ja icon}} * {{Kotobank}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{OECD}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{Coord|47|36|N|13|47|E|type:country_region:AT|display=title}} {{デフォルトソート:おおすとりあ}} [[Category:オーストリア|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:連邦制国家]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:フランコフォニーのオブザーバー]] [[Category:先進国]] [[Category:ドイツ語圏]]
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GNU Free Documentation License
GNU Free Documentation License (グニュー・フリー・ドキュメンテーション・ライセンス, 略称 GFDL)は、GNUプロジェクトの一環としてフリーソフトウェア財団から配布されているコピーレフトなライセンスの一つである。 略称として GNU FDL(グニュー・エフディーエル)、GFDL(ジーエフディーエル)などと書かれることもある。GNUはグニューあるいはグヌーと発音されることが多い。 日本語訳では、「GNU フリー文書利用許諾契約書」という語が用いられることがあるが、一般的に「契約」と言えるか否かは、異論も存在する(ライセンス#著作物全般の利用許諾のライセンスを参照)。なお、GNUの公式サイトで使われる日本語訳はGNU自由文書ライセンスである。これは英語のFreeが無料と自由の両方の意味が存在するため、誤解を避ける目的で「自由」という用語に置き換えられたためである。 このライセンスは、文書たる著作物につき、営利・非営利を問わず著作権者が著作権者以外の者に対して改変・複製・頒布することを一定の制約条件の下に許諾するものである。 大まかに言えば、GPLと同様に著作権者が次のような許可を与えるライセンスである。 甲が、他人に対して、自己の創作による著作物Aの自由な利用を許す方法としては、甲が著作物Aに係る著作権をすべて放棄して著作物Aをパブリックドメインに帰属させる方法がまず考えられる。しかし、この方法によれば、他人が著作物Aを改変、翻訳することによって創作した二次的著作物A'の著作権の処分は当該他人の自由意思に委ねられるため、著作物A'に対して当該他人が著作権を主張した場合に原元著作物Aの自由利用は保証されず、いわゆるコピーレフトの実現が不十分となる。 そこで甲が、著作物Aの著作権を放棄することなく、他人に対して著作物Aの改変、翻訳を許諾する条件として、当該他人が著作物Aの改変、翻訳により創作した二次的著作物A'もまた、乙以外の他人に自由に利用させる義務を課すことにより、問題を解決しようとするのがGFDLの骨子である。 なお、GPL が主にコンピュータプログラムの配布を目的としたライセンスであるのに対し、GFDL は文書の配布を目的としており、文書に特化した条項が定められている。 文書が自由に利用できる状態が失われないようにするために、以下のような条項がある。 A という人物が GFDL で文書を公開したとする。B という人物がその文書を自分で書いたかのように見せて配布したとすると、A の「著作者(原作者)としての名誉」が失われてしまう。また、B がその文書の改変版を作ったうえで、改変後のものを A が書いたかのように見せて配布すると、改変した内容によっては、これもまた A の名誉を損ねてしまう結果となることがある。これらの問題を避けるために、改変する際には次のような規定がある(第4条より)。 GFDLは、以上のような文書たる著作物のコピーレフトを目的としたライセンスとして代表的なものの一つであるが、以下のような未解決の法律問題も抱えている。 GFDLは著作権者以外の者による文書の改変を認めるとともに、改変版には、題扉に元の文書の著作者として最低5人の主要著作者を列記するとともに、文書にある全ての著作権表示を残すことを要求している(第4条)。 著作権法28条によれば、原著作物の著作者が有する氏名表示権は二次的著作物にもおよび、原著作物の著作権者は、二次的著作物の利用に関して二次的著作物の著作者と同じ内容の権利を有する。しかし、原著作物の創作的表現が存在しないと認められる程度に改変がされた場合は、当該改変版は原著作物の二次的著作物ではないため、原著作物の著作権者は改変版に対して著作権を行使することができない。さらに、著作者は氏名表示を要求することができなくなる。具体的な例としては、スティーヴン・スピルバーグの『ジョーズ』(1975)は『ゴジラ』(1954)を下敷きにしているが、「盗作」ではなく「オマージュ」として認められているので、ことさらに原作への謝辞などは添えられていない。 GFDLは、すべての者に対して自由な改変を認めるライセンスであるがゆえに、複数の者による改変を経ることにより原著作物の創作的表現が消滅してしまう機会が多いと考えられるが、そのような場合でも、第4条に基づき主要著作者としての表示が必要になったり、著作権表示を残すべきかは問題がある(日本では、著作者ではない者の実名等を著作者名として表示した著作物の複製物を頒布した場合は、著作権法121条により刑罰の対象になる)。 GNUはプログラムのコードを元の言語から他言語に移植することを禁じておらず、日本の著作権法および特許法はアイディアやアルゴリズムを法的には保護しないことになっている(ただし、アメリカ合衆国の国内法ではカーマーカーのアルゴリズムに関する特許論争などの例がある)ので、著作権から派生する翻訳権については議論の余地がある。 通常、著作物の利用許諾をする場合、利用許諾書が規定するライセンスの成立及び効力につき、準拠法を指定する条項が存在する。しかし、GFDLには準拠法に関する条項が存在しない。法律行為の成立及び効力につき、当事者が準拠法の定めをしなかった場合、準拠法を「締結地法」 (lex loci contractus) とするか、「履行地法」 (lex loci solutionis) とするか、当事者の「本国法」 (lex patriae) とするかについては、国際私法の内容が国により異なることもあり、世界的に統一された扱いができないが、いずれにしても当事者の意思とは無関係に準拠法が定まることになる。日本が法廷地になる場合、法の適用に関する通則法8条が適用され、利用許諾につき最も密接な関係がある地の法による。 このため、原著作権者A がその著作物につき GFDL を適用して公開した後、別の者B がその改変版を公開する場合、AによるライセンスとBによるライセンスとでは、同じGFDLを適用していながら、それぞれ準拠法が異なるケースが生じることになる。そのため、同じ文言のライセンスの下に利用許諾をしているにもかかわらず、改変版をめぐって法的な争いが生じた場合、元の文書の著作権者ごとにライセンスの成立及び効力について異なった法を適用しなければならず、法律関係が複雑になる懸念が生じかねないという問題がある(なお、著作権の内容自体は、著作物の利用行為地法が準拠法になると解されている。詳細は著作権の準拠法を参照)。 その他の問題については、ライセンス#著作物全般の利用許諾のライセンスを参照。 フリーソフトウェア財団(FSF)によりGFDLとしての効力があると承認されているものは、英語の原文によるライセンスのみであり、公式の他言語訳は存在せず、FSFとしても他言語の訳文を承認しない方針を採っている。これは誤訳の可能性があるものを承認することによって生じるリスクを回避するためである。そのため、使用するときは英語のライセンス文書を使うことになっており、日本語訳はあくまで参考として示すにとどまっている。しかしながら、「他言語の訳文を承認しない」とはいえ「関知しない」という立場を表明しているにすぎず、「C言語で書かれたプログラムをRubyに移植した」といったケースは「関知しない」だけのことであり、GNU ライセンスに違反はしていない。 非公式ではあるものの、八田真行による"version 1.2"の日本語訳が存在する。
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GNU Free Documentation License は、GNUプロジェクトの一環としてフリーソフトウェア財団から配布されているコピーレフトなライセンスの一つである。 略称として GNU FDL(グニュー・エフディーエル)、GFDL(ジーエフディーエル)などと書かれることもある。GNUはグニューあるいはグヌーと発音されることが多い。 日本語訳では、「GNU フリー文書利用許諾契約書」という語が用いられることがあるが、一般的に「契約」と言えるか否かは、異論も存在する(ライセンス#著作物全般の利用許諾のライセンスを参照)。なお、GNUの公式サイトで使われる日本語訳はGNU自由文書ライセンスである。これは英語のFreeが無料と自由の両方の意味が存在するため、誤解を避ける目的で「自由」という用語に置き換えられたためである。
{{WikipediaPage|GFDL|Wikipedia:著作権}} {{Infobox software license | name = GNU Free Documentation License | image = [[ファイル:GFDL_Logo.svg|200px]] | caption = GFDLのロゴ<ref>{{Cite web|url=http://www.gnu.org/graphics/license-logos.html |title=GNU License Logos |language=英語 |accessdate=2018年1月14日}}</ref> | author = [[Vektor]] | version = 1.3 | date = {{Start date and age|2008|11|03}} | publisher = フリーソフトウェア財団 | copyleft = Yes | website = [https://www.gnu.org/licenses/fdl.html GNU Free Documentation License] }} '''GNU Free Documentation License''' (グニュー・フリー・ドキュメンテーション・ライセンス, 略称 GFDL)は、[[GNUプロジェクト]]の一環として[[フリーソフトウェア財団]]から配布されている[[コピーレフト]]な[[ライセンス]]の一つである。 略称として '''GNU FDL'''(グニュー・エフディーエル)、'''GFDL'''(ジーエフディーエル)などと書かれることもある。'''[[GNU]]'''は'''グニュー'''あるいは'''グヌー'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gnu.org/gnu/pronunciation.ja.html |title=GNUの発音の仕方 |language=日本語 |accessdate=2018年1月14日}}</ref>と発音されることが多い。 日本語訳では、「'''GNU フリー文書利用許諾契約書'''」という語が用いられることがあるが<ref name="Japanese1.2">{{Cite web|和書|url=http://www.opensource.jp/fdl/fdl.ja.html |title=GNU フリー文書利用許諾契約書 |language=日本語 |accessdate=2018年1月14日}}</ref>、一般的に「契約」と言えるか否かは、異論も存在する([[ライセンス#著作物全般の利用許諾のライセンス]]を参照)。なお、GNUの公式サイトで使われる日本語訳は'''GNU自由文書ライセンス'''である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gnu.org/licenses/fdl-1.3.ja.html |title=GNU自由文書ライセンス |language=日本語 |accessdate=2018年1月14日}}</ref>。これは英語のFreeが無料と自由の両方の意味が存在するため、誤解を避ける目的で「自由」という用語に置き換えられたためである<ref>{{Cite web|和書|title=GNU自由文書ライセンス v1.3 - GNUプロジェクト - フリーソフトウェアファウンデーション |url=https://www.gnu.org/licenses/fdl-1.3.ja.html |website=www.gnu.org |access-date=2022-08-19}}</ref>。 == 概要 == このライセンスは、文書たる[[著作物]]につき、営利・非営利を問わず[[著作権者]]が著作権者以外の者に対して改変・複製・頒布することを一定の制約条件の下に許諾するものである。 大まかに言えば、[[GNU General Public License|GPL]]と同様に著作権者が次のような許可を与えるライセンスである。 * この文書を無断で複製してよい。 * この文書を無断で改変してよい。 * この文書を無断で頒布・販売してよい。ただし、頒布を受けた者や購入した者に対して、上記の許可を与えなければならない。 甲が、他人に対して、自己の創作による著作物Aの自由な利用を許す方法としては、甲が著作物Aに係る著作権をすべて放棄して著作物Aを[[パブリックドメイン]]に帰属させる方法がまず考えられる。しかし、この方法によれば、他人が著作物Aを改変、翻訳することによって創作した二次的著作物A'の著作権の処分は当該他人の自由意思に委ねられるため、著作物A'に対して当該他人が著作権を主張した場合に原元著作物Aの自由利用は保証されず、いわゆる[[コピーレフト]]の実現が不十分となる。 そこで甲が、著作物Aの著作権を放棄することなく、他人に対して著作物Aの改変、翻訳を許諾する条件として、当該他人が著作物Aの改変、翻訳により創作した二次的著作物A'もまた、乙以外の他人に自由に利用させる義務を課すことにより、問題を解決しようとするのがGFDLの骨子である。 なお、GPL が主に[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]の配布を目的としたライセンスであるのに対し、GFDL は文書の配布を目的としており、文書に特化した条項が定められている。 === 自由利用の維持の骨格 === 文書が自由に利用できる状態が失われないようにするために、以下のような条項がある。 * GFDLの条件に従う限り、誰でも自由に文書を複製したり、改変したり、有料・無料を問わず配布・貸出をしてよい(第2条より)。GFDLのもとの複数の文書を結合してもよい。 * 改変版を配布する際には、GFDLのもとに配布しなければならない(第4条より)。 * もしも文書の非透過的複製物を 100部以上配布するならば、一緒に透過的複製物も配布するか、または誰もが自由に透過的複製物をダウンロードできるような場所(URLなど)を示さなければならない(第3条より)。 ** 非透過的複製物とは、機械で自動的に読み取ることが難しいものや、誰もが自由に編集できるわけではない形式の複製物のこと。 ** 透過的複製物とは、機械で自動的に読み取ることが簡単(テキストデータなどの機械可読のデータを含む)で、編集に適し、それらの仕様が一般の人々に入手可能で、なおかつ一般的なアプリケーションで改訂するのに適している形式の複製物のこと。 === 著作者の名誉など === A という人物が GFDL で文書を公開したとする。B という人物がその文書を自分で書いたかのように見せて配布したとすると、A の「著作者(原作者)としての名誉」が失われてしまう。また、B がその文書の改変版を作ったうえで、改変後のものを A が書いたかのように見せて配布すると、改変した内容によっては、これもまた A の名誉を損ねてしまう結果となることがある。これらの問題を避けるために、改変する際には次のような規定がある(第4条より)。 * 原著作者の許可を得ない限り、「題扉」や「表紙」には元の版と見分けが付くような題名やバージョンを付けること。 * 変更を行った1人以上の人物や団体の名前を「題扉」に記載しておくこと。そして、元の文書の著作者として最低5人以上の主要著作者を列挙すること。 * 「題扉」に出版者名を記載すること。 * 文書にある全ての著作権表示を残すこと。 * 元の著作権表示の近くに、行った変更に対する適切な著作権表示をすること。 * 「履歴」と題された章に、適切な題名(バージョン)・著作者名・出版年・出版社名を付けくわえること。 * 「謝辞」や「献辞」のような題の章は、その趣旨を損ねないようにすること。 * 「推薦の辞」のような題の章は削除すること(推薦者は改変版を推薦しているわけではないため)。 == 法的な問題 == GFDLは、以上のような文書たる著作物の[[コピーレフト]]を目的とした[[ライセンス]]として代表的なものの一つであるが、以下のような未解決の法律問題も抱えている。 === 著作者・著作権の表示 === GFDLは著作権者以外の者による文書の改変を認めるとともに、改変版には、題扉に元の文書の著作者として最低5人の主要著作者を列記するとともに、文書にある全ての著作権表示を残すことを要求している(第4条)。 著作権法28条によれば、原著作物の著作者が有する[[著作者人格権#氏名表示権|氏名表示権]]は[[二次的著作物]]にもおよび、原著作物の著作権者は、二次的著作物の利用に関して二次的著作物の著作者と同じ内容の権利を有する。しかし、原著作物の創作的表現が存在しないと認められる程度に改変がされた場合は、当該改変版は原著作物の二次的著作物ではないため、原著作物の著作権者は改変版に対して著作権を行使することができない。さらに、著作者は氏名表示を要求することができなくなる。具体的な例としては、[[スティーヴン・スピルバーグ]]の『[[ジョーズ]]』(1975)は『[[ゴジラ]]』(1954)を下敷きにしているが、「盗作」ではなく「オマージュ」として認められているので、ことさらに原作への謝辞などは添えられていない。 GFDLは、すべての者に対して自由な改変を認めるライセンスであるがゆえに、複数の者による改変を経ることにより原著作物の創作的表現が消滅してしまう機会が多いと考えられるが、そのような場合でも、第4条に基づき主要著作者としての表示が必要になったり、著作権表示を残すべきかは問題がある(日本では、著作者ではない者の実名等を著作者名として表示した著作物の複製物を頒布した場合は、著作権法121条により刑罰の対象になる)。 GNUはプログラムのコードを元の言語から他言語に移植することを禁じておらず、日本の著作権法および特許法はアイディアやアルゴリズムを法的には保護しないことになっている(ただし、アメリカ合衆国の国内法では[[カーマーカーのアルゴリズム]]に関する特許論争などの例がある)ので、著作権から派生する翻訳権については議論の余地がある。 === 国際私法上の問題 === 通常、著作物の利用許諾をする場合、利用許諾書が規定するライセンスの成立及び効力につき、[[準拠法]]を指定する条項が存在する。しかし、GFDLには準拠法に関する条項が存在しない。[[法律行為]]の成立及び効力につき、当事者が準拠法の定めをしなかった場合、準拠法を「締結地法」 ({{lang|la|lex loci contractus}}) とするか、「履行地法」 ({{lang|la|lex loci solutionis}}) とするか、当事者の「本国法」 ({{lang|la|lex patriae}}) とするかについては、[[国際私法]]の内容が国により異なることもあり、世界的に統一された扱いができないが、いずれにしても当事者の意思とは無関係に準拠法が定まることになる。日本が法廷地になる場合、[[法の適用に関する通則法]]8条が適用され、利用許諾につき最も密接な関係がある地の法による。 このため、原著作権者A がその著作物につき GFDL を適用して公開した後、別の者B がその改変版を公開する場合、AによるライセンスとBによるライセンスとでは、同じGFDLを適用していながら、それぞれ準拠法が異なるケースが生じることになる。そのため、同じ文言のライセンスの下に利用許諾をしているにもかかわらず、改変版をめぐって法的な争いが生じた場合、元の文書の著作権者ごとにライセンスの成立及び効力について異なった法を適用しなければならず、法律関係が複雑になる懸念が生じかねないという問題がある(なお、著作権の内容自体は、著作物の利用行為地法が準拠法になると解されている。詳細は[[著作権の準拠法]]を参照)。 === その他の問題 === その他の問題については、[[ライセンス#著作物全般の利用許諾のライセンス]]を参照。 == ライセンスの原文及び他言語訳 == [[フリーソフトウェア財団]](FSF)によりGFDLとしての効力があると承認されているものは、[[英語]]の原文によるライセンスのみであり、公式の他言語訳は存在せず、FSFとしても他言語の訳文を承認しない方針を採っている<ref name="Translations">{{Cite web|url=http://www.gnu.org/licenses/translations.html |title=Unofficial Translations |language=英語 |accessdate=2018年1月14日}}</ref>。これは誤訳の可能性があるものを承認することによって生じるリスクを回避するためである<ref name="Translations" />。そのため、使用するときは英語のライセンス文書を使うことになっており、日本語訳はあくまで参考として示すにとどまっている。しかしながら、「他言語の訳文を承認しない」とはいえ「関知しない」という立場を表明しているにすぎず、「C言語で書かれたプログラムをRubyに移植した」といったケースは「関知しない」だけのことであり、GNU ライセンスに違反はしていない。 非公式ではあるものの、[[八田真行]]による"version 1.2"の日本語訳が存在する<ref name="Japanese1.2" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} * [[GNUプロジェクト]] * [[GNU General Public License]] (GPL) * [[GNU Lesser General Public License]] (LGPL) * [[GNAT Modified General Public License]] (GMGPL) * [[クリエイティブ・コモンズ]] * [[パブリックドメイン]] == 外部リンク == * [https://www.gnu.org/licenses/fdl.html GNU Free Documentation License] {{en icon}} (原文) * [http://www.opensource.jp/fdl/fdl.ja.html GNU フリー文書利用許諾契約書]{{ja icon}} (あくまで参考訳) {{GNU}} {{Normdaten}} [[Category:ライセンス]] [[Category:コピーレフト]] [[Category:知的財産権]] [[Category:フリーソフトウェア財団]] [[Category:GNU Free Documentation License|*]] [[Category:2008年設立]]
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社会学者の一覧
社会学者の一覧(しゃかいがくしゃのいちらん)では、社会学を研究する学者を一覧する。
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社会学者の一覧(しゃかいがくしゃのいちらん)では、社会学を研究する学者を一覧する。
{{出典の明記|date=2015年9月}} '''社会学者の一覧'''(しゃかいがくしゃのいちらん)では、[[社会学]]を研究する[[学者]]を一覧する。 ==アメリカ== {{div col|cols=8}} *[[ダニエル・ベル]] *[[ロバート・ニーリー・ベラー]] *[[ピーター・L・バーガー]] *[[ハーバート・ジョージ・ブルーマー]] *[[クリストファー・チェイス=ダン]] *[[ジョン・A・クローセン]] *[[マイク・デイヴィス]] *[[アミタイ・エツィオーニ]] *[[ワレン・ファレル]] *[[リチャード・フロリダ]] *[[ジョン・ベラミー・フォスター]] *[[ハロルド・ガーフィンケル]] *[[アーヴィング・ゴッフマン]] *[[デヴィッド・ハーヴェイ]] *[[クリシャン・クマー]] *[[シーモア・M・リプセット]] *[[ティモシー・ルーク]] *[[マイケル・マン (社会学者)|マイケル・マン]] *[[ジェームズ・マーチ]] *[[ロバート・キング・マートン]] *[[ジョージ・ハーバード・ミード]] *[[ジョン・マイヤー]] *[[チャールズ・ライト・ミルズ]] *[[バリントン・ムーア]] *[[ロバート・ニスベット]] *[[タルコット・パーソンズ]] *[[デイヴィッド・リースマン]] *[[ジョージ・リッツァ]] *[[ウィリアム・ロビンソン (社会学者)|ウィリアム・ロビンソン]] *[[アルフレッド・シュッツ]] *[[イヴ・セジウィック]] *[[リチャード・セネット]] *[[シーダ・スコチポル]] *[[ピティリム・ソローキン]] *[[エドワード・ソジャ]] *[[アンセルム・ストラウス]] *[[チャールズ・ティリー]] *[[アルビン・トフラー]] *[[ジョン・C・トーピー]] *[[ソースティン・ヴェブレン]] *[[エズラ・ヴォーゲル]] *[[ウィリアム・フート・ホワイト]] *[[レイ・オルデンバーグ]] *[[マーク・グラノヴェッター]] {{div col end}} ==イギリス== {{div col|cols=8}} *[[マーガレット・アーチャー]] *[[ラルフ・ダーレンドルフ]] *[[ジェラード・デランティ]] *[[ロナルド・ドーア]] *[[ノルベルト・エリアス]] *[[マイク・フェザーストーン]] *[[アンソニー・ギデンズ|アンソニー・ギデンス]] *[[ポール・ハースト]] *[[レオナルド・ホブハウス]] *[[スコット・ラッシュ]] *[[スティーヴン・ルークス]] *[[ローランド・ロバートソン]] *[[ニコラス・ローズ]] *[[アントニー・D・スミス]] *[[ピーター・タウンゼント (社会学者)|ピーター・タウンゼント]] *[[ジョン・アーリ]] *[[ブライアン・R・ウィルソン]] *[[ジョック・ヤング]] *[[マイケル・ヤング (社会学者)|マイケル・ヤング]] {{div col end}} ==ドイツ== {{div col|cols=8}} *[[マックス・ヴェーバー]] *[[ゲオルク・ジンメル]] *[[ウェルナー・ゾンバルト]] *[[フェルディナント・テンニース]] *[[ユルゲン・ハーバーマス]] *[[エルンスト・ブロッホ]] *[[エーリヒ・フロム]] *[[ウルリッヒ・ベック]] *[[マックス・ホルクハイマー]] *[[カール・マルクス]] *[[ロベルト・ミヒェルス]] *[[ニクラス・ルーマン]] {{div col end}} ==日本== ===あ=== {{div col|cols=8}} *[[青井和夫]] *[[赤川学]](セクシュアリティ研究) *[[赤堀三郎]]([[社会システム理論]]) *[[飽戸弘]] *[[浅野智彦]] *[[鰺坂学]](同郷団体の研究) *[[阿閉吉男]] *[[阿部潔]] *[[阿部真大]] *[[阿部頼孝]] *[[天田城介]] *[[天野郁夫]](教育社会学) *[[荒井克弘]](教育社会学) *[[有末賢]] *[[有馬哲夫]] *[[有賀喜左衛門]](村落社会学、民俗学) *[[飯島伸子]](環境社会学) *[[飯田哲也 (社会学者)|飯田哲也]] *[[飯田良明]] *[[池内裕美]]([[社会心理学]]、[[消費者心理]]) *[[石川晃弘]] *[[石川准]] *[[石阪督規]] *[[石原俊 (社会学者)|石原俊]] *[[磯村英一]](都市社会学) *[[板倉達文]](パレート研究、技術論) *[[市野川容孝]](医療社会学) *[[伊藤公雄]] *[[伊藤守]] 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*[[木内義勝]](情報社会学) *[[菊池真弓 (社会学者)|菊池真弓]] *[[菊谷和宏]](社会学史) *[[岸政彦]](沖縄研究、生活史研究) *[[北川隆吉]](労働社会学、地域社会学) *[[北郷裕美]] *[[北島滋]](開発の社会学) *[[北田暁大]](理論社会学、メディア史) *[[吉川徹 (社会学者)|吉川徹]](計量社会学、学歴論) *[[金明秀]](計量社会学、エスニシティ論) *[[木村洋二 (社会学者)|木村洋二]] *[[国広陽子]](メディア研究、ジェンダー研究) *[[久保田裕之]](家族社会学) *[[熊田一雄]](宗教社会学、ジェンダー研究、文化社会学) *[[倉沢進]](都市社会学) *[[倉田和四生]](都市社会学) *[[栗原彬]](政治社会学) *[[黒崎八洲次良]](地域社会学・社会史) *[[桑原司]](シンボリック相互作用論) *[[小島茂]](国際社会論) *[[児玉克哉]](平和学) *[[小林直毅]] *[[小室直樹]] {{div col end}} ===さ=== {{div col|cols=8}} *[[酒井隆史]] *[[作田啓一]] *[[佐久間勲]](社会心理学) *[[佐久間政広]](農村社会学) *[[桜井哲夫 (社会学者)|桜井哲夫]] *[[佐藤郁哉]] *[[佐藤健二]](社会史) *[[佐藤博樹]](労務管理論) *[[佐藤卓己]] *[[佐藤俊樹]](比較社会論、日本社会論) *[[佐藤寛 (社会学者)|佐藤寛]] *[[佐藤嘉倫]](数理社会学) *[[三溝信]] *[[塩原勉]] *[[渋谷和彦]](社会情報学、社会心理学) *[[澁谷知美]] *[[渋谷望]] *[[島崎稔]](農村社会学、地域社会学) *[[島薗進]] *[[清水幾太郎]](社会学史、現代思想論、国家論) *[[清水諭]](スポーツ社会学) *[[清水亮]] *[[下平好博]](社会政策学、経済社会学、学生否定学) *[[鍾家新]](福祉社会学、家族社会学) *[[庄司興吉]] *[[白波瀬佐和子]](階層論、格差論) *[[城塚登]](社会思想史) *[[新明正道]](綜合社会学) *[[杉本良夫]] *[[杉山明子]](社会調査、統計学) *[[祐成保志]] *[[鈴木栄太郎]](農村社会学、都市社会学) *[[鈴木謙介]](理論社会学) *[[鈴木涼美]] *[[鈴木智之]] *[[鈴木廣]](都市社会学) *[[須藤廣]](観光社会学、文化社会学、社会意識論) *[[数土直紀]] *[[盛山和夫]] *[[関礼子 (社会学者)|関礼子]] *[[関根政美]] *[[芹沢一也]] *[[園田英弘]] *[[園田恭一]] {{div col end}} ===た=== {{div col|cols=8}} *[[高橋和宏]](政治過程論) *[[高橋三郎 (社会学者)|高橋三郎]] *[[高橋徹 (社会学者)|高橋徹]] *[[竹内洋]](教育社会学) *[[武川正吾]](福祉社会学) *[[建部遯吾]](東京帝国大学社会学講座開設初代担当教授) *[[立岩真也]] *[[田口宏昭]] *[[田中智仁]](犯罪社会学、警備業研究) *[[田中義久]] *[[田辺寿利|田邊壽利]](フランス社会学、言語社会学) *[[田辺義明]](現代中国論) *[[田野崎昭夫]] *[[玉野和志]](都市社会学、地域社会学) *[[太郎丸博]] *[[丹野清人]](労働社会学、エスニシティ論) *[[千葉モト子]] *[[辻大介 (社会学者)|辻大介]] *[[辻竜平]] *[[土屋淳二]](集合行動論、文化変動論) *[[筒井清忠]](歴史社会学) *[[筒井淳也]](計量社会学、家族社会学) *[[円谷弘]] *[[鶴見和子]](内発的発展論) *[[出口剛司]] *[[寺沢拓敬]] (教育社会学) *[[土井隆義]](犯罪社会学、法社会学、逸脱行動論、社会問題論) *[[徳野貞雄]](農村社会学) *[[戸田貞三]](家族社会学) *[[富田英典]](メディア社会学) *[[富永健一]] *[[鳥越皓之]] {{div col end}} ===な=== {{div col|cols=8}} *[[内藤朝雄]](臨床社会学、心理社会学) *[[内藤莞爾]] *[[内藤正典]](移民研究) *[[直井優]] *[[中野敏男]] *[[中野収]] *[[中野卓]](同族団研究) *[[中村英代]] *[[波平恵美子]] *[[成田康昭]] *[[仲川秀樹]] *[[難波功士]] *[[にしゃんた]](多文化共生学、アジア研究) 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ゴーダチーズ
ゴーダチーズ(英語: Gouda [ˈɡaʊdə] ( 音声ファイル), [ˈɡuːdə] ( 音声ファイル)、オランダ語: Goudse kaas [ˈɣʌu̯dsə kaːs])は、オランダを代表するチーズ。穏やかでクセのないマイルドな味わいとまろやかな香りをもつ。熟成が進むとうまみが凝縮され濃厚な味わいと芳醇なコクと風味になる。オランダでのチーズ生産量の60 %を占める。ロッテルダム近郊の町、ゴーダで作られたことからこの名前がついた。正確な起源は不明だが12世紀頃にまで溯るとされることが多い。 外見は黄色がかった茶色い円盤型で、正式なサイズが直径35 cm×高さ11 cm・重さ約12 kgと決められており、それより小さなものを総称して「ベビーゴーダ」と呼んでいる。中は白から黄色。熟成と共に色が変化する。熟成されたゴーダの中には表面が黒いものもある。エダムチーズと並ぶオランダの代表的なチーズ。 クミンシードやニンニクなどを用いて香りをつけたものもある。 主な材料は牛乳とレンネット(凝乳酵素)。 チーズの種類としてはセミハードに分類される。味はマイルドで日本では比較的広く親しまれている。 オランダでは土産物として空港などで売られている他、食料品店、チーズ販売店などでもほぼ置いている。チーズ店などでは特に包装をしていないものを常温で積み上げている場合もある(右図)。これは表面をロウでコーティングしてあり、ナイフを入れない限り熟成が急激に進む心配がないため。他に、フィルムにくるんだものや、真空パックのように包装したものもある。 日本では、チェダーチーズと並んでプロセスチーズの主要な原料として用いられているとされる。また、ゴーダチーズを原料としたスライスチーズが明治から販売されている。
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ゴーダチーズは、オランダを代表するチーズ。穏やかでクセのないマイルドな味わいとまろやかな香りをもつ。熟成が進むとうまみが凝縮され濃厚な味わいと芳醇なコクと風味になる。オランダでのチーズ生産量の60 %を占める。ロッテルダム近郊の町、ゴーダで作られたことからこの名前がついた。正確な起源は不明だが12世紀頃にまで溯るとされることが多い。
{{出典の明記| date = 2021年12月}} [[ファイル:Gouda_Cheese.jpg|right|200px|thumb|ゴーダチーズの販売風景]] [[ファイル:Chesses gouda affinage.JPG|right|200px|thumb|ゴーダとベビーゴーダ]] '''ゴーダチーズ'''({{lang-en|Gouda}} {{IPA-en|ˈɡaʊdə||En-us-Gouda2.ogg}}, {{IPA-en|ˈɡuːdə||En-us-Gouda1.ogg}}、{{lang-nl|Goudse kaas}} {{IPA-nl|ˈɣʌu̯dsə kaːs|}})は、[[オランダ]]を代表する[[チーズ]]。穏やかでクセのないマイルドな味わいとまろやかな香りをもつ。熟成が進むとうまみが凝縮され濃厚な味わいと芳醇なコクと風味になる<ref>{{Cite web|和書|title=ゴーダ {{!}} チーズの名称 {{!}} チーズ辞典 {{!}} チーズクラブ {{!}} 雪印メグミルク株式会社 |url=https://www.meg-snow.com/cheeseclub/knowledge/jiten/term/gouda/ |website=チーズクラブ Cheese Club|雪印メグミルク株式会社 |access-date=2023-07-20 |language=ja}}</ref>。オランダでのチーズ生産量の60 [[パーセント|%]]を占める。[[ロッテルダム]]近郊の町、[[ゴーダ]]で作られたことからこの名前がついた。正確な起源は不明だが[[12世紀]]頃にまで溯るとされることが多い。 == 概説 == 外見は黄色がかった茶色い円盤型で、正式なサイズが直径35 [[センチメートル|cm]]×高さ11 cm・重さ約12 [[キログラム|kg]]と決められており、それより小さなものを総称して「ベビーゴーダ」と呼んでいる。中は白から黄色。熟成と共に色が変化する。熟成されたゴーダの中には表面が黒いものもある。[[エダムチーズ]]と並ぶ[[オランダ]]の代表的な[[チーズ]]。 [[クミンシード]]や[[ニンニク]]などを用いて香りをつけたものもある。 主な材料は[[牛乳]]と[[レンネット]]([[凝乳]][[酵素]])。 チーズの種類としてはセミハードに分類される。味はマイルドで日本では比較的広く親しまれている。 オランダでは土産物として空港などで売られている他、食料品店、チーズ販売店などでもほぼ置いている。チーズ店などでは特に包装をしていないものを常温で積み上げている場合もある(右図)。これは表面を[[蝋|ロウ]]でコーティングしてあり、ナイフを入れない限り熟成が急激に進む心配がないため。他に、フィルムにくるんだものや、[[真空包装|真空パック]]のように包装したものもある。 日本では、[[チェダーチーズ]]と並んで[[プロセスチーズ]]の主要な原料として用いられているとされる。また、ゴーダチーズを原料としたスライスチーズが[[明治 (企業)|明治]]から販売されている。 == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [[雪印メグミルク]]|[http://www.meg-snow.com/cheeseclub/knowledge/jiten/term/gouda/ チーズクラブ「ゴーダ」] * {{Kotobank}} {{Commonscat|Gouda cheese}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こおたちいす}} [[Category:オランダのチーズ]] [[Category:牛乳のチーズ]]
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バールーフ・デ・スピノザ
バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza [baːˈrux spɪˈnoːzaː]、1632年11月24日 - 1677年2月21日)は、オランダの哲学者である。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。 スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。 スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。 アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれる。母はハンナ・デボラ、父はミカエル・デスピノーザ。両親はポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきたセファルディム。 幼少の頃より学問の才能を示し、ラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。商人として働いていたが、商人としての利益より、人生の目的に尽くす方が利益は大きいとして商人を止める。 伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。 1661年の夏にライデン近郊のレインスブルフに転居。ヘンリー・オルデンバーグ来訪。レインスブルフにいる間に『デカルトの哲学原理』となる原稿の第一部をある学生に口述。1662年にはボイルと硝石に関して論争した。1663年、ハーグ近郊のフォールブルフに移住。友人らの勧めで『デカルトの哲学原理』を公表。1664年にオランダ共和派の有力者、ヨハン・デ・ウィットと親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていく。1665年『神学政治論』の執筆を開始、1670年に匿名で版元も偽って出版した。この本は、聖書の解読と解釈を目的としていた。しかし、1672年にウィットが虐殺され、この折りには、スピノザは生涯最大の動揺を示したという(「野蛮の極致(ultimi barbarorum)」とスピノザは形容した)。 1673年にプファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒからハイデルベルク大学教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年には『神学政治論』が禁書となる。この影響で翌1675年に完成させた『エチカ-幾何学的秩序によって証明された』の出版を断念した。同書は執筆に15年の歳月をかけたスピノザの思想の総括である(スピノザ没後友人により1677年に刊行された)。また、その翌1676年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。 肺の病(肺結核や珪肺症などの説がある)を患っていたため、1677年2月21日、スヘーフェニンヘン(ハーグ近く)で44歳の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。 ハーグ移住後、スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。しかしスピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあった。旅行記を参照するに他の方面にも支援者はおり、当時のライデン大学の教授ゲーリンクスと同額の500ギルダーの収入を得ていた。また当時のオランダでは自然科学、とりわけ光学に大きな関心が持たれていた。スワンメルダムやホイヘンスら科学者は自らレンズを磨いて改良し、後にアムステルダム市長となるヨハン・フッデもやはりレンズを磨いていることが分かっている。当時科学に興味のある知識人は当たり前のようにレンズを磨いていたのが実態で、ましてや虹についての論文や自然科学を論じる書簡が残っているスピノザの場合、生計のためというより探究のためと考える方が道理だろう。 生前に出版された著作は、1663年の『デカルトの哲学原理』と匿名で出版された1670年の『神学政治論』(Tractatus Theologico-Politicus)だけである。『知性改善論』(Tractatus de Intellectus Emendatione)、『国家論』、『エチカ』その他は『ヘブライ語文法綱要』(Compendium grammatices linguae hebraeae)などとともに、没後に遺稿集として出版された。これは部分的にスピノザ自身が出版を見合わせたためである。以上の著作は全てラテン語で書かれている。遺稿集の中の『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(Korte Verhandeling van God, de mensch en deszelvs welstand)はオランダ語で書かれているが、これは友人がラテン語の原文をオランダ語に訳したものである。(スピノザは日常会話にはポルトガル語を使いオランダ語には堪能ではなかった。) スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。 その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念(この自然とは、動植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザは無神論者として攻撃された。 一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザに思い入れており(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している。フランス現代思想のドゥルーズも、その存在論的な観点の現代性を見抜き、『スピノザと表現の問題』、『スピノザ――実践の哲学』などの研究書を刊行している。 代表作『エチカ』は、副題の「幾何学的秩序によって論証された」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッドの『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹を試みたものであった。 この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず一元的汎神論、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義的ともいえる倫理学を議論している。 ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。 デカルトは神を無限な実体として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である ものである(自己原因)。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである。神とはすなわち自然(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる。 スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。 スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動であるとしている。 スピノザにおいては、表象的な認識に依存した受動感情(動揺する情念)を破棄するものは、必然性を把握する理性的な認識であるとされている。われわれの外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念(記憶力にのみ依存する観念)を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識である。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。 上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力に由来する個の自己保存のコナトゥス(衝動)であることを、スピノザは認めた。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請される。 上述のエチカの議論によれば、理性はたしかに感情を統御できる。とはいえ「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」。感情に従属する現実の人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで勝利した者は自己を益したより他人を害したことを誇るに至る。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないことを教える宗教は、感情に対しては無力なのである。「いかなる感情もいっそう強い反対の感情に制止されるのでなければ制止されるものでない」とする立場からは、スピノザは国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが、国家の徳は安全の中にのみあるからである。 統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては、理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている。 またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。 スピノザの汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として神をより理性的に論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている キリスト教については、スピノザとしては、キリストの復活は、信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとし、またキリストが自分自身を神の宮として語ったことは、「言葉は肉となった」(ヨハネ)という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している。また徳の報酬は徳そのものであるとする立場からは、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛を推奨している。また神をその正義の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している。 カール・ポパーはスピノザの哲学を本質主義として批判している。ポパーは、スピノザの著作「エチカ」や「デカルトの哲学原理」は、いずれも本質主義的な定義にみちあふれ、「しかもそれらの定義は手前勝手で的外れの、かりになんらかの問題がそこあったかぎりでは問題回避的なものだ」と批判した。また、スピノザの幾何学的方法(モレ・ゲオメトリコ)と、幾何学の方法との類似性は、「まったくうわべだけのもの」としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している。
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"代表作『エチカ』は、副題の「幾何学的秩序によって論証された」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッドの『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹を試みたものであった。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず一元的汎神論、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義的ともいえる倫理学を議論している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "デカルトは神を無限な実体として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である ものである(自己原因)。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである。神とはすなわち自然(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動であるとしている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "スピノザにおいては、表象的な認識に依存した受動感情(動揺する情念)を破棄するものは、必然性を把握する理性的な認識であるとされている。われわれの外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念(記憶力にのみ依存する観念)を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識である。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力に由来する個の自己保存のコナトゥス(衝動)であることを、スピノザは認めた。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請される。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "上述のエチカの議論によれば、理性はたしかに感情を統御できる。とはいえ「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」。感情に従属する現実の人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで勝利した者は自己を益したより他人を害したことを誇るに至る。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないことを教える宗教は、感情に対しては無力なのである。「いかなる感情もいっそう強い反対の感情に制止されるのでなければ制止されるものでない」とする立場からは、スピノザは国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが、国家の徳は安全の中にのみあるからである。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては、理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "スピノザの汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として神をより理性的に論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "キリスト教については、スピノザとしては、キリストの復活は、信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとし、またキリストが自分自身を神の宮として語ったことは、「言葉は肉となった」(ヨハネ)という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している。また徳の報酬は徳そのものであるとする立場からは、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛を推奨している。また神をその正義の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "カール・ポパーはスピノザの哲学を本質主義として批判している。ポパーは、スピノザの著作「エチカ」や「デカルトの哲学原理」は、いずれも本質主義的な定義にみちあふれ、「しかもそれらの定義は手前勝手で的外れの、かりになんらかの問題がそこあったかぎりでは問題回避的なものだ」と批判した。また、スピノザの幾何学的方法(モレ・ゲオメトリコ)と、幾何学の方法との類似性は、「まったくうわべだけのもの」としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している。", "title": "批判" } ]
バールーフ・デ・スピノザは、オランダの哲学者である。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザでも知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。 スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。 スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。
{{一次資料|date=2018年11月2日 (金) 22:35 (UTC)}} {{出典の明記|date=2018年11月2日 (金) 22:35 (UTC)}} {{Infobox 哲学者 | region = [[西洋哲学]] | era = [[17世紀の哲学]] | image_name = Spinoza.jpg | image_size = 200px | image_alt = | image_caption = スピノザ | name = バールーフ・デ・スピノザ<br />Baruch De Spinoza | other_names = ベネディクトゥス・デ・スピノザ<br />Benedictus De Spinoza | birth_date = {{生年月日と年齢|1632|11|24|no}} | birth_place = {{NLD1581}}・[[アムステルダム]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1632|11|24|1677|2|21}} | death_place = {{NLD1581}}・[[スヘフェニンゲン]] | school_tradition = [[合理主義哲学]]、[[理神論]]、[[汎神論]]、[[啓蒙思想]]、スピノザ主義(Spinozism)の創始者 | main_interests = [[倫理学]]、[[認識論]]、[[形而上学]]、[[ヘブライ語]][[文法]] | notable_ideas = [[万有内在神論]]、[[汎神論]]、[[決定論]]、[[中立一元論]]、[[心身並行説]]、知性と[[信教の自由]]、[[政教分離原則]]、[[ヘブライ語聖書]]に含まれる書([[モーセ五書]])の著者が[[モーセ]]であるとする定説への批判、国家・[[権力]]、[[社会契約]]、情動affect、能産的自然/所産的自然 | influences = [[ルネ・デカルト]]、[[ストア派]]、[[モーシェ・ベン=マイモーン]]、[[アブラハム・イブン・エズラ]]、[[イブン・スィーナー]]、[[イブン・ルシュド]]、[[アリストテレス]]、[[デモクリトス]]、[[ルクレティウス]]、[[エピクロス]]、[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]、[[トマス・ホッブズ]]、[[ジョルダーノ・ブルーノ]]、[[フランシスクス・ファン・デン・エンデン]]など | influenced = [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]、[[イマヌエル・カント]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[アルネ・ネス]]、[[カール・マルクス]]、{{仮リンク|ガブリエル・ヴァグナー|en|Gabriel Wagner}}、[[ドナルド・デイヴィッドソン]]、[[ジル・ドゥルーズ]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]、[[ジョージ・エリオット]]、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]、[[ノヴァーリス]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[フリードリヒ・ニーチェ]]、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]、[[ジークムント・フロイト]]、[[ルイ・アルチュセール]]、[[マイケル・ハート]]、[[アントニオ・ネグリ]]、[[ジョージ・サンタヤーナ]]、[[フリードリヒ・シェリング]]、[[サミュエル・テイラー・コールリッジ]]、[[レオ・シュトラウス]]、[[レシェク・コワコフスキ]]など | signature = | signature_alt = | website = <!-- {{URL|example.com}} --> }} '''バールーフ・デ・スピノザ'''(Baruch De Spinoza {{IPA-nl|baːˈrux spɪˈnoːzaː|}}、[[1632年]][[11月24日]] - [[1677年]][[2月21日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Benedict-de-Spinoza Benedict de Spinoza Dutch-Jewish philosopher] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[オランダ]]の[[哲学者]]である。[[ラテン語]]名'''ベネディクトゥス・デ・スピノザ'''(Benedictus De Spinoza)でも知られる。[[ルネ・デカルト|デカルト]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]と並ぶ[[17世紀]]の[[合理主義哲学|近世合理主義哲学者]]として知られ、その哲学体系は代表的な[[汎神論]]と考えられてきた。また、[[イマヌエル・カント|カント]]、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]、[[フリードリヒ・シェリング|シェリング]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]ら[[ドイツ観念論]]や[[カール・マルクス|マルクス]]、そしてその後の[[大陸哲学]]系[[現代思想]]へ強大な影響を与えた。 スピノザの汎神論は[[新プラトン主義]]的な[[一元論]]でもあり、後世の[[無神論]]([[汎神論論争]]なども参照)や[[唯物論]]に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。 スピノザの肖像は[[1970年代]]に流通していたオランダの最高額面の1000[[ギルダー]][[紙幣]]に描かれていた。 == 生涯 == [[アムステルダム]]の富裕な[[ユダヤ人]]の貿易商の家庭に生まれる。母はハンナ・デボラ、父はミカエル・デスピノーザ<ref>「知の教科書 スピノザ」、チャールズ・ジャレット著、石垣憲一訳、2015年、講談社選書メチエ、p16</ref>。両親は[[ポルトガル]]でのユダヤ人迫害から逃れ[[オランダ]]へ移住してきた[[セファルディム]]。 幼少の頃より学問の才能を示し、[[ラビ]]となる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。商人として働いていたが、商人としての利益より、人生の目的に尽くす方が利益は大きいとして商人を止める。 伝統から自由な[[宗教]]観を持ち、[[神]]を[[自然]]の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時の[[ユダヤ教]]の信仰のありかたや[[聖典]]の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため[[1656年]][[7月27日]]に[[アムステルダム]]のユダヤ人共同体から[[ヘーレム]](破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。 [[1661年]]の夏に[[ライデン]]近郊のレインスブルフに転居<ref name="chi20">「知の教科書 スピノザ」、チャールズ・ジャレット著、石垣憲一訳、2015年、講談社選書メチエ、p20</ref>。[[ヘンリー・オルデンバーグ]]来訪<ref name="chi20"></ref>。レインスブルフにいる間に『デカルトの哲学原理』となる原稿の第一部をある学生に口述<ref name="chi20"></ref>。[[1662年]]には[[ロバート・ボイル|ボイル]]と[[硝石]]に関して論争した。[[1663年]]、[[デン・ハーグ|ハーグ]]近郊のフォールブルフに移住<ref name="chi20"></ref>。友人らの勧めで『デカルトの哲学原理』を公表。[[1664年]]にオランダ共和派の有力者、[[ヨハン・デ・ウィット]]と親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていく。[[1665年]]『神学政治論』の執筆を開始<ref name="chi20"></ref>、[[1670年]]に匿名で版元も偽って出版した。この本は、聖書の解読と解釈を目的としていた<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世 原書房 2004年 333ページ</ref>。<!--この中には江戸日本 出島のオランダ人が幸福であるということも書かれている。-->しかし、[[1672年]]にウィットが虐殺され、この折りには、スピノザは生涯最大の動揺を示したという(「野蛮の極致(ultimi barbarorum)」とスピノザは形容した)。 [[1673年]]に[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)|カール1世ルートヴィヒ]]から[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、[[1674年]]には『神学政治論』が禁書となる。この影響で翌[[1675年]]に完成させた『エチカ-幾何学的秩序によって証明された』の出版を断念した。同書は執筆に15年の歳月をかけたスピノザの思想の総括である(スピノザ没後友人により1677年に刊行された)<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世 原書房 2004年 334ページ</ref>。また、その翌1676年には[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]の訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。 肺の病([[肺結核]]や珪肺症などの説がある)を患っていたため、1677年2月21日、[[スヘフェニンゲン|スヘーフェニンヘン]](ハーグ近く)で44歳の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。 ハーグ移住後、スピノザは[[レンズ]]磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。しかしスピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあった。旅行記を参照するに他の方面にも支援者はおり、当時のライデン大学の教授ゲーリンクスと同額の500ギルダーの収入を得ていた。また当時のオランダでは自然科学、とりわけ光学に大きな関心が持たれていた。[[ヤン・スワンメルダム|スワンメルダム]]や[[クリスティアーン・ホイヘンス|ホイヘンス]]ら科学者は自らレンズを磨いて改良し、後にアムステルダム市長となるヨハン・フッデもやはりレンズを磨いていることが分かっている。当時科学に興味のある知識人は当たり前のようにレンズを磨いていたのが実態で、ましてや虹についての論文や自然科学を論じる書簡が残っているスピノザの場合、生計のためというより探究のためと考える方が道理だろう<ref>{{Cite book|title=スピノザの生涯と精神|date=|year=|publisher=学樹書院}}</ref>。 生前に出版された著作は、[[1663年]]の『[[デカルトの哲学原理]]』と匿名で出版された[[1670年]]の『[[神学政治論]]』(Tractatus Theologico-Politicus)だけである。『[[知性改善論]]』(Tractatus de Intellectus Emendatione)、『国家論』、『エチカ』その他は『[[ヘブライ語]]文法綱要』(Compendium grammatices linguae hebraeae)などとともに、没後に遺稿集として出版された。これは部分的にスピノザ自身が出版を見合わせたためである。以上の著作は全て[[ラテン語]]で書かれている。遺稿集の中の『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(Korte Verhandeling van God, de mensch en deszelvs welstand)は[[オランダ語]]で書かれているが、これは友人がラテン語の原文をオランダ語に訳したものである。(スピノザは日常会話にはポルトガル語を使いオランダ語には堪能ではなかった。) == 思想 == === 哲学史上の意義 === スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。 その思想は初期の論考から晩年の大作『[[エチカ (スピノザ)|エチカ]]』までほぼ一貫し、'''神即自然''' (deus sive natura) の概念(この自然とは、動植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した[[決定論]]である。この考えは[[キリスト教]]神学者からも非難され、スピノザは<!--多神教への橋を架けた-->[[無神論]]者として攻撃された。<!--1616年 ガリレオ・ガリレイ 地動説 1670年 スピノザ  多神教 を唱え破門される。 後のスピノザの神というのは 多神教=無神論という避難を避けるための方便。--> 一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代では[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]が批判的ながらもスピノザに思い入れており(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している<ref>小論理学準備概念50</ref>。[[フランス現代思想]]の[[ジル・ドゥルーズ|ドゥルーズ]]も、その存在論的な観点の現代性を見抜き、『スピノザと表現の問題』、『スピノザ――実践の哲学』などの研究書を刊行している。 代表作『エチカ』は、副題の「'''[[幾何学]]的秩序によって論証された'''」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、[[ユークリッド]]の『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した[[演繹]]を試みたものであった。 この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず'''一元的汎神論'''、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は[[現実主義]]的ともいえる[[倫理学]]{{efn2|エチカという題名からも読みとれるが、'''スピノザは倫理学を重視していた'''}}を議論している。 <!--しかし、神学・政治論に異教徒の国日本では出島で幸福があると書き、多神教へ渡る橋を架けていた。ITM --> === 存在論・認識論 === ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。 [[ルネ・デカルト|デカルト]]は神を無限な実体{{efn2|スピノザによれば、実体とは、自らにおいて存在し、自らにおいて考えられるものを意味する。}}として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限[[実体]]を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む<ref name="名前なし-1">書簡35</ref>神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である<ref>1定理17系</ref> ものである(自己原因){{efn2|ある実有が自己の力によって存在するということは、完全性からのみ生じえる<ref name="名前なし-1"/>}}。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、'''万物の内在的な原因'''なのである<ref>1定理18</ref>。'''神とはすなわち自然(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)である'''。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、'''唯一の実体である[[神]]'''における二つの異なる''属性''(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神<!--は唯一の実体であるから、これのみが必然的に存在し、そ-->の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる{{efn2|様態とは、その本質に存在が属していないもの、あるいは他によって存在し、他によって考えられるものを意味する}}。 スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」<ref>『エチカ』第2部定理13</ref>と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は<!--神の属性であるか、さもなければ-->神の属性の変状である<ref>1定理14</ref>」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における'''[[心身平行論]]'''である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる<ref>書簡64</ref>人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており<ref>書簡32</ref>、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。 === 倫理学 === スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想{{efn2|[[ルネ・デカルト|デカルト]]『[[情念論]]』に代表される}}を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に<!--感覚的・-->受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間<!--ペテロ或いはパウロ-->の原因として考えると同様に不可能であるとしている<ref>書簡2</ref>。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、[[自由意志]]と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動である<!--思惟の概念を包含するものではない-->としている<ref>2定理49備考</ref>。 スピノザにおいては、表象的な認識に依存した受動感情(動揺する情念)を破棄するものは、[[必然性]]を把握する理性的な認識であるとされている。われわれの外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念(記憶力にのみ依存する観念<ref>書簡37</ref>)を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識である。その上、「われわれの精神<!--<ref>Mens nostra</ref>-->は、それ自らおよび身体を、'''永遠の相の下に'''(sub specie aeternitatis)認識する<!--<ref>cognoscit</ref>-->かぎり、必然的に神の認識<!--<ref>Dei cognitionem</ref>-->を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して<!--によって-->考えられる(per Deum concipi)ことを知る<!--scitque--><ref>5定理30</ref>」ことから、人間は'''神への知的愛'''に達し、神が自己自身を認識して満足する<!--愛する-->無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。 上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する<ref>2定理45備考</ref>。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力<ref>1定理34</ref>に由来する個の自己保存の'''[[コナトゥス]]'''(衝動)であることを、スピノザは<!--むしろ初めて-->認めた。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、[[トマス・ホッブス|万人の万人に対する闘争]]になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請される。 === 国家論 === 上述のエチカの議論によれば、理性はたしかに感情を統御できる。とはいえ「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である<ref>エチカ結語</ref>」。感情に従属する現実の人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで勝利した者は自己を益したより他人を害したことを誇るに至る。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないことを教える宗教は、感情に対しては無力なのである。「いかなる感情もいっそう強い反対の感情に制止されるのでなければ制止されるものでない」とする立場からは、スピノザは<!--法律および自己保存の権力によって確立される社会すなわち-->国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする<ref>エチカ4定理37備考1</ref>。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって<!--国家の権利の下に-->従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが、国家の徳は安全の中にのみある<!--。必要なことは正しい政治が現実に行われることである-->からである。 統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者<!--国家論-->ばかりではない現実においては、理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている<ref>神学政治論第20章</ref>。 <!--その具体的な実現例として、'''[[社会契約]]による[[民主主義|民主的]]な国家の創設'''が提案された。なぜなら、共同で善へ至る道筋を探究する努力を尊重するからである。これは、いかに自由と寛容で知られる当時のオランダでなされた主張であったとはいえ、斬新な主張であり、[[カルヴァン派]]が支配する体制の中ですぐに容認されることはなかった。--> またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。 === 宗教との関係 === スピノザの汎神論は、[[神]]の[[人格]]を徹底的に棄却し、'''理性の検証に耐えうる合理的な自然論'''として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ[[理神論]]者として神をより理性的に論じ、[[人格神]]については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている<!--[[モーゼの十戒]]に見られる「[[偶像崇拝]]の禁止」を徹底したものであった。-->{{efn2|しかし、これは多くの(キリスト教・ユダヤ教問わず)神学者・信仰者の反発を買ってしまった。}}<!--神を人格神としてしか捉えられない人々は、多様な神の捉え方のうちごく一部分しか見ていない。これはむしろ人間による神の規定であり、人間にとり都合がよい「哲学者の神、科学者の神」([[ブレーズ・パスカル|パスカル]]の表現)であるともいえる。--><!--1616年 ガリレオ・ガリレイ 天動説から 地動説 1670年 スピノザ      一神教から 多神教 破門される スピノザの神というのは多神教=無神論 という避難を避けるための方便。--> <!--後述するように、神こそ自然であるから、自然の法則に反する[[奇跡]]を否定する。また、聖典にある奇跡の説話は、民衆の想像力を刺激して心を動かすための作り話であるとした。様々な儀式に関しても、それがユダヤ教徒全員に当てはまるものではないと断ずる。--> キリスト教については、スピノザとしては、[[イエス・キリスト|キリスト]]の復活は、<!--アブラハムに対する神の出現に類似し、-->信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとし、また<!--キリストが自身について語った最大のこととして、-->キリストが自分自身を神の宮<ref>ヨハネ2:19、マタイ26:61、マルコ14:58</ref>として語ったことは、「言葉は肉となった」([[ヨハネによる福音書|ヨハネ]])という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している<ref>書簡75</ref>。また[[徳]]の報酬は徳そのものである<ref>エチカ5定理42</ref>とする立場からは、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属<!--における報償の希望ないしは刑罰への恐怖-->とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する[[愛]]を推奨している。また神をその[[正義]]の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している<ref>書簡43</ref>。 <!--== 引用 == そ夢を見ている時、夢見ている事柄について判断を中止し、夢に見ているものを夢見ないようにする自由な力を有すると信ずる者はあるまいと思う。それにもかかわらず夢の中でも判断を中止することが起こる。すなわち、われわれが夢を見ていると夢見る場合である(2定理49備考)--> == 著書 == *1660 - 『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』Korte Verhandeling van God, de mensch en deszelvs welstand *1662 - 『知性改善論』Tractatus de Intellectus Emendatione *1663 - 『デカルトの哲学原理』Principia philosophiae cartesianae *1663 - 『形而上学的思想』Cogitata metaphysica *1670 - 『神学・政治論』Tractatus Theologico-Politicus *1675~1676 - 『国家論』Tractatus Politicus *1677 - 『[[エチカ (スピノザ)|エチカ]]』(『倫理学』)Ethica(Ethica, ordine geometrico demonstrata) *1677 - 『ヘブライ語文法綱要』Compendium grammatices linguae hebraeae === 主な日本語訳 === *『エチカ 倫理学』 [[畠中尚志]]訳、[[岩波文庫]](上下、改訳版)、重版多数、ワイド版2006年 *『エティカ』[[工藤喜作]]、[[斎藤博 (哲学者)|斎藤博]]訳、[[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2007年 **元版『[[世界の名著]] スピノザ ライプニッツ』[[下村寅太郎]]責任編集、中央公論社  *『国家論』 [[畠中尚志]]訳、[[岩波文庫]]、1988年ほか度々復刊 *『知性改善論』 畠中尚志訳、岩波文庫、1992年ほか度々復刊 *『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』 畠中尚志訳、岩波文庫、1944年、度々復刊 *『神学・政治論 聖書の批判と言論の自由』 畠中尚志訳、岩波文庫(上下)、度々復刊 *『スピノザ往復書簡集』 畠中尚志訳、岩波文庫、1958年、度々復刊 *『デカルトの哲学原理 附 形而上学的思想』 畠中尚志訳、岩波文庫、1959年、1995年ほか度々復刊 *『神学・政治論』 吉田量彦訳、[[光文社古典新訳文庫]](上下)、2014年 *『知性改善論』 秋保亘訳、[[講談社学術文庫]]、2023年12月 *『知性改善論 神、人間とそのさいわいについての短論文』 佐藤一郎訳、[[みすず書房]]、2018年 *『スピノザ エチカ抄』 佐藤一郎編訳、みすず書房、2007年、新装版2018年 *『スピノザ全集』全6巻・別巻1、[[岩波書店]]。[[上野修 (哲学者)|上野修]]・[[鈴木泉]]ほか編、2022年12月より刊行 #デカルトの哲学原理 形而上学的思想 #神学政治論 ※(各・未刊) #エチカ #知性改善論 政治論 ヘブライ語文法綱要 ※ #神、そして人間とその幸福についての短論文 #往復書簡集 ※ :別巻 資料集 総索引 ※ == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=國分功一郎|authorlink=國分功一郎|title=スピノザ-読む人の肖像|publisher=岩波書店|series=[[岩波新書]]|year=2022-10|pages=|isbn=9784004319443}} ==批判== [[カール・ポパー]]はスピノザの哲学を[[本質主義]]として批判している。ポパーは、スピノザの著作「エチカ」や「デカルトの哲学原理」は、いずれも本質主義的な定義にみちあふれ、「しかもそれらの定義は手前勝手で的外れの、かりになんらかの問題がそこあったかぎりでは問題回避的なものだ」と批判した<ref>『果てしなき探求――知的自伝』岩波現代文庫, 2005年、上巻、26頁</ref>。また、スピノザの幾何学的方法(モレ・ゲオメトリコ)と、[[幾何学]]の方法との類似性は、「まったくうわべだけのもの」としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している<ref>同書{{要ページ番号|date=2018-11}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連項目 == {{commons|Baruch_de_Spinoza}} {{wikiquote2|en:Baruch_Spinoza|スピノザ}} * [[我思う、ゆえに我あり]] * [[国家の内部における国家]] * [[汎神論]] * [[合理主義哲学]] * [[社会契約]] * [[必然主義]] == 外部リンク == *{{IEP|spinoza|Benedict De Spinoza}} *{{SEP|spinoza|Baruch Spinoza}} *[http://www.gutenberg.org/browse/authors/s#a473 『エチカ』](英訳、ドイツ語訳) *[http://www.gutenberg.org/browse/authors/s#a473 『神学・政治論』](英訳) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てすひのさ はあるうふ}} [[Category:バールーフ・デ・スピノザ|*]] [[Category:17世紀のユダヤ神学者]] [[Category:17世紀オランダの哲学者]] [[Category:オランダの神学者]] [[Category:ユダヤ人の哲学者]] [[Category:啓蒙思想家]] [[Category:政治哲学者]] [[Category:形而上学者]] [[Category:存在論の哲学者]] [[Category:倫理学者]] [[Category:心の哲学者]] [[Category:決定論者]] [[Category:汎神論者]] [[Category:ユダヤ人の懐疑論]] [[Category:ユダヤ人のヘブライ聖書学者]] [[Category:科学革命]] [[Category:破門]] [[Category:オランダ共和国の人物]] [[Category:オランダ・ギルダー紙幣の人物]] [[Category:セファルディ系ユダヤ人]] [[Category:ユダヤ系オランダ人]] [[Category:ポルトガル系オランダ人]] [[Category:アムステルダム出身の人物]] [[Category:1632年生]] [[Category:1677年没]]
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文脈自由文法
文脈自由文法(ぶんみゃくじゆうぶんぽう、Context-free Grammar、CFG)は、形式言語の理論(特に、生成文法)において全生成規則が以下のようである形式文法である。 V → w ここで V は非終端記号であり、w は終端記号と非終端記号の(0個を含む)任意個の並びである。「文脈自由」という用語は前後関係に依存せずに非終端記号 V を w に置換できる、という所から来ている(「文脈無用」という訳の提案もある)。文脈自由文法によって生成される形式言語を文脈自由言語という。 文脈自由文法はノーム・チョムスキーによる句構造文法の研究の中から、形式言語の類別(形式言語の階層やチョムスキー階層の記事を参照)のひとつとして見出されたものである。 文脈自由文法の形式性は、言語学が伝統的に自然言語の文法を形式的に記述してきた既存の方法(例えばパーニニ)に倣っている。たとえば、入れ子(nesting)を自然に捉えていることや、形式的であることから形式的な手法が使えるという利点がある。一方で問題もあり、たとえば自然言語の文法の重要な機能である一致や参照といった属性は綺麗に表すことができない(自然言語に限らず、プログラミング言語でもしばしば文脈自由文法から「はみ出している」仕様がある)。 文脈自由文法は、(チョムスキーらによって言語学で)提唱されてすぐに、(形式言語と密接な関係にあるオートマトン理論のような理論計算機科学の分野にとどまらず)プログラミング言語 ALGOLの仕様策定において、構文の仕様を示すバッカス・ナウア記法という形でとり入れられ、その後コンピュータ科学一般に、あるいはもっと広く実務にも応用されている。 「文脈自由文法はほとんどのプログラミング言語の文法を記述できるほど強力であり、実際、多くのプログラミング言語は文脈自由文法で構文仕様を定義している。」といった言説がしばしば見られるが(たとえば日本語版ウィキペディアのこの部分にはずっとそう書かれていた)誤りである。本当に実際の所は、yaccで定義されていても、純粋に構文では定義しきれない部分をあれこれと意味規則で補っているのが普通である。 文脈自由文法は効率的な構文解析アルゴリズムを適用できる程度に単純である。つまり、ある文字列が特定の文法による言語に属しているかどうかを判断することができる(例えばアーリー法)。初期の構文解析手法であるLR法やLL法は文脈自由文法のサブセットを扱うものであった。 全ての形式言語が文脈自由であるわけではない。文脈自由でない例として { a n b n c n : n ≥ 0 } {\displaystyle \{a^{n}b^{n}c^{n}:n\geq 0\}} がある。この言語は Parsing Expression Grammar (PEG) では生成できる。PEG は文脈自由文法と扱える範囲の文法が異なり文脈自由文法を全て扱えるわけではないがプログラミング言語に適した新たな定式化のひとつである。 文脈自由文法 G は次の 4-タプル で表される。 G = ( V , Σ , R , S ) {\displaystyle G=(V\,,\Sigma \,,R\,,S\,)} ここで R {\displaystyle R\,} のメンバーを文法の規則と呼ぶ。 任意の ( α , β ) ∈ R {\displaystyle (\alpha ,\beta )\in R} について P α β ( u , v ) = ( u α v , u β v ) {\displaystyle P_{\alpha \beta }(u,\,v)=(u\alpha v,\,u\beta v)} となるような生成写像 P α β : ( V ∪ Σ ) ∗ × ( V ∪ Σ ) ∗ ⟶ ( V ∪ Σ ) ∗ × ( V ∪ Σ ) ∗ {\displaystyle P_{\alpha \beta }:(V\cup \Sigma )^{*}\times (V\cup \Sigma )^{*}\longrightarrow (V\cup \Sigma )^{*}\times (V\cup \Sigma )^{*}} が存在する。 順序対 ( u α v , u β v ) {\displaystyle (u\alpha v,\,u\beta v)} を G {\displaystyle G\,} のプロダクション(生成規則)と呼び、一般に u α v → u β v {\displaystyle u\alpha v\rightarrow u\beta v} のように表記する。 任意の u , v ∈ ( V ∪ Σ ) ∗ {\displaystyle u,v\in (V\cup \Sigma )^{*}} について、 u {\displaystyle u\,} が v {\displaystyle v\,} を生成することを u ⇒ v {\displaystyle u\Rightarrow v} で表す。ただし、 u = u 1 α u 2 {\displaystyle u\,=u_{1}\alpha u_{2}} かつ v = u 1 β u 2 {\displaystyle v\,=u_{1}\beta u_{2}} で ∃ ( α , β ) ∈ R , u 1 , u 2 ∈ ( V ∪ Σ ) ∗ {\displaystyle \exists (\alpha ,\beta )\in R,u_{1},u_{2}\in (V\cup \Sigma )^{*}} が成り立たねばならない。 任意の u , v ∈ ( V ∪ Σ ) ∗ {\displaystyle u,v\in (V\cup \Sigma )^{*}} について、 u ⇒ ∗ v {\displaystyle u{\stackrel {*}{\Rightarrow }}v} (あるいは u ⇒⇒ v {\displaystyle u\Rightarrow \Rightarrow v} )であるとは、 u ⇒ u 1 ⇒ u 2 ⋯ ⇒ u k ⇒ v {\displaystyle u\Rightarrow u_{1}\Rightarrow u_{2}\cdots \Rightarrow u_{k}\Rightarrow v} となるような ∃ u 1 , u 2 , ⋯ u k ∈ ( V ∪ Σ ) ∗ , k ≥ 0 {\displaystyle \exists u_{1},u_{2},\cdots u_{k}\in (V\cup \Sigma )^{*},k\geq 0} が成り立つ場合である。 文法 G = ( V , Σ , R , S ) {\displaystyle G=(V\,,\Sigma \,,R\,,S\,)} の言語は次の集合で表される。 L ( G ) = { w ∈ Σ ∗ : S ⇒ ∗ w } {\displaystyle L(G)=\{w\in \Sigma ^{*}:S{\stackrel {*}{\Rightarrow }}w\}} 言語 L {\displaystyle L\,} は、 L = L ( G ) {\displaystyle L\,=\,L(G)} となるような文脈自由文法 G {\displaystyle G\,} が存在するとき、文脈自由言語(CFL)であるという。 最初の例を示す。 S → aSb | ε ここで、 | は「選択」を意味し、ε は空の文字列を意味する。この文法によって生成される言語は以下のようになる。 { a n b n : n ≥ 0 } {\displaystyle \{a^{n}b^{n}:n\geq 0\}} これは正規言語ではない例でもある。 また、「選択」は文脈自由文法の表現に必ずしも必須ではない。次の2つの規則でも、上の例と同様の言語を定義している。 S → aSb S → ε 次は三種類の変数 x, y, z を使った文法的に正しい四則演算の数式を生成する文脈自由文法である。ここで演算子は中置としている。 S → x | y | z | S + S | S - S | S * S | S/S | (S) この文法に従うと、例えば "( x + y ) * x - z * y / ( x + x )" といった式が生成可能である。 この文法は、構造が異なる構文木から同じ文字列が生成されうるという意味で曖昧である。 文字セット {a,b} について、異なる個数の a と b から構成される全ての文字列を生成する文脈自由文法は以下のようになる。 S → U | V U → TaU | TaT V → TbV | TbT T → aTbT | bTaT | ε ここで、T に関する生成規則は a と b が同数の文字列を生成するが、U は a の方が必ず多くなる文字列を生成し、V は b の方が必ず多くなる文字列を生成する。 次の例は { a n b m c m + n : n ≥ 0 , m ≥ 0 } {\displaystyle \{a^{n}b^{m}c^{m+n}:n\geq 0,m\geq 0\}} である。これは正規言語ではなく文脈自由言語である。以下の生成規則で生成される(この生成規則は文脈自由文法にしたがっている)。 S → aSc | B B → bBc | ε 文脈自由文法は数学的な「形式的」言語だけで利用されるわけではない。例えば、タミル語の詩である Venpa は文脈自由文法で定式化できることが指摘されている。 ある文法において、開始記号からある文字列が導出される過程を記述する方法は二種類存在する。単純な方法は導出過程の途中の文字列を全て書き出していく方法である。つまり開始記号から始めて、生成規則を一回適用する度に文字列を書き出して、最後に目的の文字列になるまで列挙するのである。例えば「左端に最も近い非終端記号を最初に書き換える」という規則を適用したとすれば、文脈自由文法では適用する生成規則を列挙するだけで十分である。これを文字列の「左端導出」(Leftmost Derivation)と呼ぶ。例えば、以下の文法があるとする。 (1) S → S + S (2) S → 1 (3) S → a 文字列「1 + 1 + a」を導出する過程は [ (1), (1), (2), (2), (3) ] というリストになる。同様に「右端導出」も定義できる。この例の場合、右端導出での導出過程は [ (1), (3), (1), (2), (2)] というリストになる。 左端導出と右端導出のリストが異なるのは重要なポイントである。構文解析では、文法規則毎にそれを入力文字列に適用する小さなプログラムが存在する。したがって、構文解析が左端導出を行うのか右端導出を行うのかによってそれらのプログラムを適用する順番が変わってくるのである。 導出過程は導出される文字列上にある種の階層構造を描くことでも表される。例として左端導出による「1 + 1 + 1」に対する階層構造を見てみよう。導出過程は以下のようになる。 S→S+S (1) S→S+S+S (1) S→1+S+S (2) S→1+1+S (2) S→1+1+1 (2) { { { 1 }S + { 1 }S }S + { 1 }S }S ここで { ... }S は S から導出された部分文字列を意味している。これに対応する階層構造は以下のような木構造になる。 この木構造をその文字列の「具象構文木」と呼ぶ(抽象構文木も参照されたい)。この場合、上述の左端導出も右端導出も同じ構文木になるが、左端導出には以下のような別の導出過程が存在する。 S→ S + S (1) S→ 1 + S (2) S→ 1 + S + S (1) S→ 1 + 1 + S (2) S→ 1 + 1 + 1 (2) これによって定義される構文木は以下のようになる。 この文法のように、ある文字列を導出する構文木が複数考えられる文法を「曖昧な文法」(Ambiguous Grammar)と呼ぶ。このような文法の構文解析は、生成規則の適用順序を毎回決定しなければならないため難しい。 空の文字列を生成しない文脈自由文法は等価なチョムスキー標準形かグライバッハ標準形に変換できる。ここでいう「等価」とは同じ言語を生成するという意味である。 チョムスキー標準形文法は生成規則が単純なので、この標準形は理論的にも実用上も密接な関係がある。例えば、ある文脈自由文法についてチョムスキー標準形を使うことで多項式時間のアルゴリズムで入力された文字列がその文法で生成されるものか否かを判定できる(CYKアルゴリズム)。 文脈自由文法は能力が制限されているため、その操作の一部は決定可能であるが、同時に決定不能な問題もある。最も単純で分かり易い決定不能問題の1つとして、CFG が言語の全文字列を受容するかどうかという問題がある。還元によって、この問題がチューリングマシンの停止問題と同じであることが示される。その還元には、チューリングマシンのあらゆる計算過程を示す「計算履歴」と呼ばれる概念を用いる。あるチューリングマシンがある入力を与えられたとき、それを受容しない計算履歴の文字列を生成するCFGを構築でき、そうすると、そのCFGはマシンが入力を受容しないときだけ文字列を受容(認識)する。 これを応用すると、2つのCFGが同じ言語を記述しているかどうかも判定不能である。なぜなら、言語の全文字列を受理する自明なCFGとの等価性を判定できないためである。 また、文脈依存文法が文脈自由言語を表しているかどうかも決定不能な問題である。 文脈自由文法の形式性の拡張として、非終端記号に引数を持たせ、規則内で値を渡すということが考えられる。これにより、自然言語の一致や参照といった機能を表現可能となり、プログラミング言語での識別子の定義や正しい用法を自然な形で表現可能となる。例えば、英語の文で、主語と動詞が数において合致しなければならないということを容易に表現できる。 計算機科学では、このようなアプローチの例として接辞文法、属性文法、Van Wijngaarden の two-level grammar などがある。 同様の拡張は言語学にもある。 別の拡張として、規則の左辺に追加の記号を書けるようにする手法がある。これは文脈依存文法に他ならない。 ノーム・チョムスキー自身は、生成文法を追加することで文脈自由文法の制限を克服したいと考えていた。 そのような規則も言語学によく見られる。例えば、英語における受動態化である。しかし、それらは強力すぎるため(チューリング完全)、変換の適用は制限される必要がある。生成文法の大部分は、句構造文法と変換規則の記述機構を改善し、自然言語が表現できることを正確に表せるようにすることを目的としている。 彼は自然言語が文脈自由でないと考えていたが、彼がCFGでは不十分であることを示す証拠として挙げた事例は、後に間違いであることが証明された。Gerald Gazdar と Geoffrey Pullum は、一部に文脈自由的でない構造があるものの、自然言語の大部分は文脈自由であると指摘している。文脈自由でない部分とは、例えば、スイスドイツ語の cross-serial dependencies や、バンバラ語の畳語である。
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が言語の全文字列を受容するかどうかという問題がある。還元によって、この問題がチューリングマシンの停止問題と同じであることが示される。その還元には、チューリングマシンのあらゆる計算過程を示す「計算履歴」と呼ばれる概念を用いる。あるチューリングマシンがある入力を与えられたとき、それを受容しない計算履歴の文字列を生成するCFGを構築でき、そうすると、そのCFGはマシンが入力を受容しないときだけ文字列を受容(認識)する。", "title": "非決定性" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "これを応用すると、2つのCFGが同じ言語を記述しているかどうかも判定不能である。なぜなら、言語の全文字列を受理する自明なCFGとの等価性を判定できないためである。", "title": "非決定性" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、文脈依存文法が文脈自由言語を表しているかどうかも決定不能な問題である。", "title": "非決定性" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "文脈自由文法の形式性の拡張として、非終端記号に引数を持たせ、規則内で値を渡すということが考えられる。これにより、自然言語の一致や参照といった機能を表現可能となり、プログラミング言語での識別子の定義や正しい用法を自然な形で表現可能となる。例えば、英語の文で、主語と動詞が数において合致しなければならないということを容易に表現できる。", "title": "拡張" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "計算機科学では、このようなアプローチの例として接辞文法、属性文法、Van Wijngaarden の two-level grammar などがある。", "title": "拡張" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "同様の拡張は言語学にもある。", "title": "拡張" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": 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文脈自由文法は、形式言語の理論(特に、生成文法)において全生成規則が以下のようである形式文法である。 ここで V は非終端記号であり、w は終端記号と非終端記号の(0個を含む)任意個の並びである。「文脈自由」という用語は前後関係に依存せずに非終端記号 V を w に置換できる、という所から来ている(「文脈無用」という訳の提案もある)。文脈自由文法によって生成される形式言語を文脈自由言語という。
'''文脈自由文法'''(ぶんみゃくじゆうぶんぽう、''Context-free Grammar''、'''CFG''')は、[[形式言語]]の理論(特に、[[生成文法]])において全生成規則が以下のようである[[形式文法]]である。 {{Indent|V &rarr; ''w''}} ここで V は[[非終端記号]]であり、''w'' は[[終端記号]]と非終端記号の(0個を含む)任意個の並びである。「文脈自由」という用語は前後関係に依存せずに非終端記号 V を ''w'' に置換できる、という所から来ている(「文脈無用」という訳の提案もある<ref>『国語学五つの発見再発見』([[水谷静夫]])§3.3.5.(p. 83)</ref>)。文脈自由文法によって生成される形式言語を[[文脈自由言語]]という。 == 背景 == 文脈自由文法は[[ノーム・チョムスキー]]による[[句構造文法]]の研究の中から、[[形式言語]]の類別([[形式言語の階層]]や[[チョムスキー階層]]の記事を参照)のひとつとして見出されたものである<ref name="chomsky1956">{{cite journal | last = Chomsky | first = Noam | authorlink = | title = Three models for the description of language | journal = Information Theory, IEEE Transactions | volume = 2 | issue = 3 | pages = 113–124 | publisher = | date = 1956年9月 | url = http://ieeexplore.ieee.org/iel5/18/22738/01056813.pdf?isnumber=22738&prod=STD&arnumber=1056813&arnumber=1056813&arSt=+113&ared=+124&arAuthor=+Chomsky%2C+N. | doi = | id = | accessdate = 2007年6月18日}}</ref>。 文脈自由文法の形式性は、言語学が伝統的に自然言語の文法を形式的に記述してきた既存の方法(例えば[[パーニニ]])に倣っている。たとえば、入れ子(nesting)を自然に捉えていることや、形式的であることから形式的な手法が使えるという利点がある。一方で問題もあり、たとえば自然言語の文法の重要な機能である[[一致]]や参照といった属性は綺麗に表すことができない(自然言語に限らず、プログラミング言語でもしばしば文脈自由文法から「はみ出している」仕様がある)。 文脈自由文法は、(チョムスキーらによって言語学で)提唱されてすぐに、(形式言語と密接な関係にあるオートマトン理論のような[[理論計算機科学]]の分野にとどまらず)[[プログラミング言語]] [[ALGOL]]の仕様策定において、構文の仕様を示す[[バッカス・ナウア記法]]という形でとり入れられ、その後[[コンピュータ科学]]一般に、あるいはもっと広く実務にも応用されている。 「文脈自由文法はほとんどの[[プログラミング言語]]の文法を記述できるほど強力であり、実際、多くのプログラミング言語は文脈自由文法で構文仕様を定義している。」といった言説がしばしば見られるが{{Efn|たとえばウィキペディア日本語版のこの部分にはずっとそう書かれていた。}}誤りである。本当に実際の所は、yaccで定義されていても、純粋に構文では定義しきれない部分をあれこれと意味規則で補っているのが普通である。 文脈自由文法は効率的な[[構文解析]][[アルゴリズム]]を適用できる程度に単純である。つまり、ある文字列が特定の文法による言語に属しているかどうかを判断することができる(例えば[[アーリー法]])。初期の構文解析手法である[[LR法]]や[[LL法]]は文脈自由文法のサブセットを扱うものであった。 全ての形式言語が文脈自由であるわけではない。文脈自由でない例として <math> \{ a^n b^n c^n : n \ge 0 \} </math> がある。この言語は [[Parsing Expression Grammar]] (PEG) では生成できる。PEG は文脈自由文法と扱える範囲の文法が異なり文脈自由文法を全て扱えるわけではないがプログラミング言語に適した新たな定式化のひとつである。 == 形式的定義 == 文脈自由文法 ''G'' は次の 4-[[タプル]] で表される。 <math>G = (V\,, \Sigma\,, R\,, S\,)</math> ここで # <math>V\,</math> は変数(非終端記号)の[[有限集合]] # <math>\Sigma\,</math> は終端記号の有限集合で、<math>\Sigma\cap V=\emptyset</math> # <math>S\,</math> は開始記号(変数) # <math>R\,</math> は <math>V</math> から <math>(V\cup\Sigma)^{*}</math> への関係であり、<math>\exist\, w\in (V\cup\Sigma)^{*}: (S,w)\in R</math> が成り立つ <math>R\,</math> のメンバーを文法の規則と呼ぶ。 === 追加定義1 === 任意の <math>(\alpha, \beta)\in R</math> について <math>P_{\alpha\beta}(u,\, v)=(u\alpha v,\, u\beta v)</math> となるような生成写像 <math>P_{\alpha\beta} : (V\cup\Sigma)^{*}\times (V\cup\Sigma)^{*} \longrightarrow (V\cup\Sigma)^{*}\times (V\cup\Sigma)^{*} </math> が存在する。 順序対 <math>(u\alpha v,\, u\beta v)</math> を <math>G\,</math> のプロダクション(生成規則)と呼び、一般に <math>u\alpha v \rightarrow u\beta v</math> のように表記する。 === 追加定義2 === 任意の <math>u, v\in (V\cup\Sigma)^{*}</math> について、<math>u\,</math> が <math>v\,</math> を生成することを <math>u\Rightarrow v</math> で表す。ただし、<math>u\,=u_{1}\alpha u_{2}</math> かつ <math>v\,=u_{1}\beta u_{2}</math> で <math>\exists (\alpha, \beta)\in R, u_{1}, u_{2}\in (V\cup\Sigma)^{*}</math> が成り立たねばならない。 === 追加定義3 === 任意の <math>u, v\in (V\cup\Sigma)^{*}</math> について、<math>u\stackrel{*}{\Rightarrow} v</math>(あるいは <math>u\Rightarrow\Rightarrow v</math>)であるとは、<math>u\Rightarrow u_{1}\Rightarrow u_{2}\cdots\Rightarrow u_{k}\Rightarrow v</math> となるような <math>\exists u_{1}, u_{2}, \cdots u_{k}\in (V\cup\Sigma)^{*}, k\geq 0</math> が成り立つ場合である。 === 追加定義4 === 文法 <math>G = (V\,, \Sigma\,, R\,, S\,)</math> の言語は次の集合で表される。 {{Indent|<math>L(G)=\{w\in\Sigma^{*} : S\stackrel{*}{\Rightarrow} w\} </math>}} === 追加定義5 === 言語 <math>L\,</math> は、<math>L\,=\,L(G)</math> となるような文脈自由文法 <math>G\,</math> が存在するとき、文脈自由言語(CFL)であるという。 == 例 == === 例 1 === 最初の例を示す。 {{Indent|S &rarr; aSb <nowiki>|</nowiki> &epsilon;}} ここで、 | は「選択」を意味し、ε は空の文字列を意味する。この文法によって生成される言語は以下のようになる。 <math> \{ a^n b^n : n \ge 0 \} </math> これは[[正規言語]]ではない例でもある。 また、「選択」は文脈自由文法の表現に必ずしも必須ではない。次の2つの規則でも、上の例と同様の言語を定義している。 {{Indent|S &rarr; aSb}} {{Indent|S &rarr; &epsilon;}} === 例 2 === 次は三種類の変数 x, y, z を使った文法的に正しい四則演算の数式を生成する文脈自由文法である。ここで演算子は中置としている。 {{Indent|<nowiki>S &rarr; x | y | z | S + S | S - S | S * S | S/S | (S)</nowiki>}} この文法に従うと、例えば "( x + y ) * x - z * y / ( x + x )" といった式が生成可能である。 この文法は、構造が異なる[[構文木]]から同じ文字列が生成されうるという意味で曖昧である。 === 例 3 === 文字セット {a,b} について、異なる個数の a と b から構成される全ての文字列を生成する文脈自由文法は以下のようになる。 {{Indent| S &rarr; U <nowiki>|</nowiki> V<br /> U &rarr; TaU <nowiki>|</nowiki> TaT<br /> V &rarr; TbV <nowiki>|</nowiki> TbT<br /> T &rarr; aTbT <nowiki>|</nowiki> bTaT <nowiki>|</nowiki> &epsilon; }} ここで、T に関する生成規則は a と b が同数の文字列を生成するが、U は a の方が必ず多くなる文字列を生成し、V は b の方が必ず多くなる文字列を生成する。 === 例 4 === 次の例は <math> \{ a^n b^m c^{m+n} : n \ge 0, m \ge 0 \} </math> である。これは正規言語ではなく文脈自由言語である。以下の生成規則で生成される(この生成規則は文脈自由文法にしたがっている)。 {{Indent| S &rarr; aSc <nowiki>|</nowiki> B<br /> B &rarr; bBc <nowiki>|</nowiki> &epsilon; }} === その他の例 === 文脈自由文法は数学的な「形式的」言語だけで利用されるわけではない。例えば、[[タミル語]]の詩である Venpa は文脈自由文法で定式化できることが指摘されている<ref>{{cite conference | first = BalaSundaraRaman | last = L | authorlink = | first2=Ishwar |last2=S |first3=Sanjeeth Kumar |last3=Ravindranath | date = 2003年8月22日 | title = Context Free Grammar for Natural Language Constructs - An implementation for Venpa Class of Tamil Poetry | booktitle = Proceedings of Tamil Internet, Chennai, 2003 | editor = | others = | edition = | publisher = International Forum for Information Technology in Tamil | location = | pages = 128-136 | url = http://citeseer.ist.psu.edu/balasundararaman03context.html | format = | accessdate = 2006年8月24日 | doi = | id = }}</ref>。 == 導出と構文木 == ある文法において、開始記号からある文字列が導出される過程を記述する方法は二種類存在する。単純な方法は導出過程の途中の文字列を全て書き出していく方法である。つまり開始記号から始めて、生成規則を一回適用する度に文字列を書き出して、最後に目的の文字列になるまで列挙するのである。例えば「左端に最も近い非終端記号を最初に書き換える」という規則を適用したとすれば、文脈自由文法では適用する生成規則を列挙するだけで十分である。これを文字列の「左端導出」(Leftmost Derivation)と呼ぶ。例えば、以下の文法があるとする。 {{Indent| (1) S &rarr; S + S<br /> (2) S &rarr; 1<br /> (3) S &rarr; a }} 文字列「1 + 1 + a」を導出する過程は [ (1), (1), (2), (2), (3) ] というリストになる。同様に「右端導出」も定義できる。この例の場合、右端導出での導出過程は [ (1), (3), (1), (2), (2)] というリストになる。 左端導出と右端導出のリストが異なるのは重要なポイントである。構文解析では、文法規則毎にそれを入力文字列に適用する小さなプログラムが存在する。したがって、構文解析が左端導出を行うのか右端導出を行うのかによってそれらのプログラムを適用する順番が変わってくるのである。 導出過程は導出される文字列上にある種の階層構造を描くことでも表される。例として左端導出による「1 + 1 + 1」に対する階層構造を見てみよう。導出過程は以下のようになる。 {{Indent| S&rarr;S+S (1)<br /> S&rarr;S+S+S (1)<br /> S&rarr;1+S+S (2)<br /> S&rarr;1+1+S (2)<br /> S&rarr;1+1+1 (2) { { { 1 }<sub>S</sub> + { 1 }<sub>S</sub> }<sub>S</sub> + { 1 }<sub>S</sub> }<sub>S</sub> }} ここで { ... }<sub>S</sub> は S から導出された部分文字列を意味している。これに対応する階層構造は以下のような[[木構造 (データ構造)|木構造]]になる。     S      /|\      / | \    /  |  \   S  '+'  S   /|\     | /  | \     | S  '+' S   '1' |     | '1'     '1' この木構造をその文字列の「具象構文木」と呼ぶ([[抽象構文木]]も参照されたい)。この場合、上述の左端導出も右端導出も同じ構文木になるが、左端導出には以下のような別の導出過程が存在する。 {{Indent| S&rarr; S + S (1)<br /> S&rarr; 1 + S (2)<br /> S&rarr; 1 + S + S (1)<br /> S&rarr; 1 + 1 + S (2)<br /> S&rarr; 1 + 1 + 1 (2) }} これによって定義される構文木は以下のようになる。   S   /|\  / |  \ /  |   \ S  '+'   S |      / |\ |    /  | \ '1'    S  '+' S    |     |    '1'    '1' この文法のように、ある文字列を導出する構文木が複数考えられる文法を「[[曖昧な文法]]」(''Ambiguous Grammar'')と呼ぶ。このような文法の構文解析は、生成規則の適用順序を毎回決定しなければならないため難しい。 == 標準形 == 空の文字列を生成しない文脈自由文法は等価な[[チョムスキー標準形]]か[[グライバッハ標準形]]に変換できる。ここでいう「等価」とは同じ言語を生成するという意味である。 チョムスキー標準形文法は生成規則が単純なので、この標準形は理論的にも実用上も密接な関係がある。例えば、ある文脈自由文法についてチョムスキー標準形を使うことで多項式時間のアルゴリズムで入力された文字列がその文法で生成されるものか否かを判定できる([[CYKアルゴリズム]])。 == 非決定性 == 文脈自由文法は能力が制限されているため、その操作の一部は決定可能であるが、同時に決定不能な問題もある。最も単純で分かり易い決定不能問題の1つとして、CFG が言語の全文字列を受容するかどうかという問題がある。[[還元 (計算複雑性理論)|還元]]によって、この問題が[[チューリングマシンの停止問題]]と同じであることが示される。その還元には、[[チューリングマシン]]のあらゆる計算過程を示す「計算履歴」と呼ばれる概念を用いる。あるチューリングマシンがある入力を与えられたとき、それを受容しない計算履歴の文字列を生成するCFGを構築でき、そうすると、そのCFGはマシンが入力を受容しないときだけ文字列を受容(認識)する。 これを応用すると、2つのCFGが同じ言語を記述しているかどうかも判定不能である。なぜなら、言語の全文字列を受理する自明なCFGとの等価性を判定できないためである。 また、[[文脈依存文法]]が文脈自由言語を表しているかどうかも決定不能な問題である。 == 拡張 == 文脈自由文法の形式性の拡張として、非終端記号に引数を持たせ、規則内で値を渡すということが考えられる。これにより、自然言語の[[一致]]や参照といった機能を表現可能となり、プログラミング言語での識別子の定義や正しい用法を自然な形で表現可能となる。例えば、英語の文で、主語と動詞が数において合致しなければならないということを容易に表現できる。 計算機科学では、このようなアプローチの例として[[接辞文法]]、[[属性文法]]、Van Wijngaarden の two-level grammar などがある。 同様の拡張は言語学にもある。 別の拡張として、規則の左辺に追加の記号を書けるようにする手法がある。これは[[文脈依存文法]]に他ならない。 == 言語学的応用 == [[ノーム・チョムスキー]]自身は、[[生成文法]]を追加することで文脈自由文法の制限を克服したいと考えていた<ref name="chomsky1956"/>。 そのような規則も言語学によく見られる。例えば、英語における[[態|受動態化]]である。しかし、それらは強力すぎるため([[チューリング完全]])、変換の適用は制限される必要がある。[[生成文法]]の大部分は、句構造文法と変換規則の記述機構を改善し、自然言語が表現できることを正確に表せるようにすることを目的としている。 彼は自然言語が文脈自由でないと考えていたが<ref name="shieber1985">{{cite journal | title=Evidence against the context-freeness of natural language | date=1985年 | last=Shieber | first=Stuart | journal=Linguistics and Philosophy | volume=8 | pages=333–343 | url=http://www.eecs.harvard.edu/~shieber/Biblio/Papers/shieber85.pdf}}</ref>、彼がCFGでは不十分であることを示す証拠として挙げた事例は、後に間違いであることが証明された<ref name="pullum-gazdar1982">{{cite journal | title=Natural languages and context-free languages | date=1982年 | last=Pullum | first=Geoffrey K. | coauthors=Gerald Gazdar | journal=Linguistics and Philosophy | volume=4 | pages=471–504}}</ref>。Gerald Gazdar と Geoffrey Pullum は、一部に文脈自由的でない構造があるものの、自然言語の大部分は文脈自由であると指摘している<ref name="pullum-gazdar1982"/>。文脈自由でない部分とは、例えば、[[スイスドイツ語]]の cross-serial dependencies <ref name="shieber1985"/> や、[[バンバラ語]]の[[畳語]]である<ref name="culy1985">{{cite journal | title=The Complexity of the Vocabulary of Bambara | date=1985 | last=Culy | first=Christopher | journal=Linguistics and Philosophy | volume=8 | pages=345–351}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book|author = Michael Sipser | year = 1997 | title = Introduction to the Theory of Computation | publisher = PWS Publishing | id = ISBN 0-534-94728-X}} Section 2.1: Context-Free Grammars, pp.91–101. Section 4.1.2: Decidable problems concerning context-free languages, pp.156–159. Section 5.1.1: Reductions via computation histories: pp.176–183. == 関連項目 == * [[文脈依存文法]] * [[形式文法]] * [[Parsing Expression Grammar]] * [[確率文脈自由文法]] * [[構文解析]] * [[形式言語の階層]] - [[チョムスキー階層]] * [[生成文法]] * [[句構造規則]] * [[構成素]] {{DEFAULTSORT:ふんみやくしゆうふんほう}} [[Category:形式言語]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:プログラミング言語のトピック]]
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フランス語
フランス語(フランスご、français フランス語発音: [fʁɑ̃sɛ] フランセ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属する言語。ロマンス諸語の一つで、ラテン語の口語(俗ラテン語)から変化したフランス北部のオイル語(または古フランス語、langue d'oïl)が母体と言われている。日本語では、仏蘭西語、略して仏語(ふつご)とも書く。 フランス語という呼び方は、多くの言語(オック語、アルピタン語など)が存在するフランスにおいて誤解を招く可能性もあるので、単にオイル語と呼んでフランスの他の言語と区別することもある。 世界で英語(約80の国・地域)に次ぐ2番目に多くの国・地域で使用されている言語であり、フランス、スイス、ベルギー、カナダのほか、かつてフランスやベルギーの領域だった諸国を中心に29ヶ国で公用語になっている(フランス語圏を参照)。全世界で1億2300万人が主要言語として使用し、総話者数は2億人以上である。国際連合、欧州連合などの公用語の一つにも選ばれている。このフランス語の話者を、フランコフォン(francophone、英語版)と言う。 記号が二つ並んでいるものは、右が有声音、左が無声音。 記号が二つ並んでいるものは、右が円唇、左が非円唇。 鼻母音四つを含んだ句の例として « un bon vin blanc » /œ̃ bɔ̃ vɛ̃ blɑ̃/(おいしい白ワイン)が有名である。 フランス語において基本的にc, r, f, lを除く語尾の子音(一部例外あり)と母音のeは発音されない。フランス語の表記は初学者には複雑に感じられるが、規則性は比較的高い。英語や日本語のローマ字表記とはかなり異なるため、フランス語を知らなければ正しく読むことはできないが、規則を覚えれば容易に発音できる。たとえば eau は常に /o/ と発音する。しかし monsieur(ムッシュ)は /mɔ̃.sjœʁ/ ではなく /mə.sjø/ であり、femme(女性、妻)は /fem/ ではなく /fam/ であるなど、イタリア語やスペイン語などほかのロマンス諸語に比べると例外が多い。faitやplusなど文脈によって発音が変わる単語もある。 また、in, im, yn, ym, ain, aim, ein, eim がすべて /ɛ̃/ になるなど、しばしば異なる綴りが同じ発音を示すため、同音異字語が多い。たとえば vin(ワイン)と vingt(20)はともに /vɛ̃/ であり、また形容詞 bleu (青、男性形単数) とその変化形の bleus(男性形複数)、bleue(女性形単数)、bleues(女性形複数)はすべて /blø/ である。このため、発音を聞いて書き分けるのは比較的難しい。ネイティブでさえも正しく書けない人がいるほどで、フランスでは問題視されている。そういった難しさもあり、日本で行われている実用フランス語技能検定試験(DAPF)の準2級以降の級では書き取り試験が行われ、CDで流れる文章を、文脈をしっかりと把握した上で、動詞の活用はもとより性と数の一致に気をつけながら、正しく書く能力が試される。書き取り試験ではあるが文法知識も試され、実際のところこの書き取り問題で点を落とす受験者が非常に多いことから、いかにフランス語を正しく書くのが難しいかがうかがえる。 アルファベットのことを、フランス語ではアルファベ(alphabet)と言う。 セディーユ、トレマ、アクサンテギュ、および e につくアクサングラーヴとアクサンシルコンフレクスは発音を変える記号である。一方、e 以外の母音につくアクサングラーヴとアクサンシルコンフレクスは発音を変化させない。 ※アクサンのつくところを強く読むわけではない。 Œ, œ は o と e の合字である。この組み合わせが単母音で発音される語では、o と e は必ずこのようにつなげて書く。通常は œu で /œ/ を表す。 Æ, æ は a と e の合字であり、少数のラテン語からの借用語で使う。 フランス語では引用符(英語では「" "」)として「« »」(ギユメ guillemets)を用いる。フランス語の句読点の内、コンマ(,)、ピリオド(.)、括弧(( )、[ ])以外の疑問符(?)、感嘆符(!)、コロン(:)、セミコロン(;)の前にはスペースを入れ、引用符の後と前にもやはりスペースを入れる。 20進法と10進法の組み合わせである。かなり複雑だが、これはフランスでの例であり、ベルギーやスイスでは70をseptante、90をnonante、さらにスイスでは80をhuitanteで表し、比較的10進法に近い。 敬称 フランス南部で用いられるオック語をフランス語方言とすることもあるが、言語学的には通常別系統の言語として扱う。 など(French-based creole languagesを参照)。 紀元前58年から紀元前51年にかけて、共和政ローマのガイウス・ユリウス・カエサルがガリア戦争を行い、現在のフランスの領域のほぼ全域をローマ領としたことが、この地域にフランス語の祖語であるラテン語が本格的に導入されるきっかけとなった。ガリア戦争以前には、この地域ではおもにケルト語系のゴール語が用いられていたが、ローマの支配が定着するにつれてラテン語が優勢となっていき、ガロ・ロマンス語と呼ばれるラテン語の方言群が成立した。この言語は基本的にラテン語の影響が強く、その一方言と呼べる存在であったが、ケルト語からいくつかの音韻的な影響を受けたものだった。その後、ローマ帝国の崩壊とともにフランク王国がこの地域を支配すると、彼らの言語であったゲルマン系の古フランク語が持ち込まれ、その影響を受けてこの地域のラテン語は大きく変容し、9世紀ごろにはラテン語から完全に分離した古フランス語が成立した。その後、14世紀ごろには中世フランス語へと変化し、17世紀にはアカデミー・フランセーズによってフランス語の純化・整備が行われて現代フランス語が成立した。 フランス語の統制機関としては、アカデミー・フランセーズが挙げられる。これは1635年に宰相・リシュリューによって創設された国家機関で、フランス語の語法を整備して誰にでも理解できる言語とすることを目指し、そのためにフランス語の辞書『アカデミー・フランセーズ辞典』を編纂することを目的としていた。 この『アカデミー・フランセーズ辞典』は、1694年に初版が発行されたのち、現代に至るまで編纂・発行が続けられている。もっとも新しい辞典は1992年に編纂されたものである。こうした言語の統制機関が、国家によって創設されることは当時稀であり、これはそのままフランス語に対するフランス国家の強い影響力をもたらす根源となった。 また、フランス語の現状に関する勧告を出すことも任務のひとつであり、強制力こそないものの、この勧告はフランス語に強い影響力を持つ。アカデミー・フランセーズは、フランス学士院を構成する5つのアカデミーの中で、もっとも古く地位の高いアカデミーである。アカデミー・フランセーズは終身任期を持つ40人の定員で構成され、欠員が生じた場合のみ補充が行われる。 このメンバーは、フランス語話者の構成およびアカデミー自体が、フランス政府の国家機関として成立・存続してきたフランスの歴史を反映して、フランス国民が圧倒的に多いが、その他の国民であっても、ふさわしいと認められれば会員となることができる。 たとえば、1983年に会員となったレオポール・セダール・サンゴールは、20年にわたってセネガル共和国の大統領を務めた人物であるが、フランス語詩人としても非常に高名な存在であり、またフランス語圏の融和をはかる国際機関であるフランコフォニー国際機関の設立を主導したことなどから、会員となることを認められた。 フランス語を母語話者とする人々が多数派を占めるのはフランス一国のみである。ただし、いくつかの国においてはフランス語の母語話者が大きな勢力を持っている。また、フランス国内において本来フランス語を母語とする地域は北フランスに限られており、南フランスの広い地域で話されるオック語を筆頭に、ブルターニュ半島で話されるケルト語系のブルトン語やアルザスで話されるドイツ語系のアルザス語、コルシカ島で話されるイタリア語系のコルシカ語など、系統の異なるいくつかの地方言語が存在する。ただしフランス政府はもっとも早く言語を政府の手で構築してきた国家であり、フランス革命後は一貫してフランス語をフランスにおける唯一の言語であると規定してきた。こうしたことから、教育をはじめとして国家による強力なフランス語普及政策がとられ、上記の各言語地域においても現代ではほとんどフランス語が話されるようになってきている。ただし、19世紀後半までオック語復権運動「フェリブリージュ」などが行われてきており、現在はこの状況には地方言語の保護の観点から批判が根強い。 フランス以外でもっともフランス語の母語話者の割合が大きい国家はベルギーであり、フランス語話者でありベルギー南部に居住するワロン人が人口の31%を占めている。ベルギーにおいては、北部に住みオランダ語の方言を話すフランドル人が人口の60%を占めており、ワロン人との間には言語戦争と呼ばれる深刻な言語の対立状況が存在する。この対立を背景にしてベルギーは南北の連邦国家となっており、南部のワロン地域の大部分はフランス語共同体を形成している。また、首都のブリュッセルは言語境界線の北側にあるもののフランス語話者の人口が8割を占めており、ブリュッセル首都圏地域として2言語併用の独自地域となっている。ついでフランス語話者の割合が高い国家はスイスである。スイス人のうちフランス語の母語話者は20.38%を占め、64%を占めるドイツ語話者に次ぐ勢力を持っている。スイスのフランス語話者は国土の西部に集中しており、ジュネーヴ州、ヴォー州、ヌーシャテル州、ジュラ州の4つのカントンがフランス語話者が多数を占める州としてフランス語を公用語としている。また、言語境界線の両側にまたがるフリブール州およびヴァレー州は、フランス語とドイツ語の両言語を公用語としている。スイスは多言語主義をとる国家であり、連邦の公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語、それに国語としてロマンシュ語を加えた4つの言語を採用している。ヨーロッパ大陸においてフランス語の母語話者が大きな勢力を持つのはこの3か国である。 このほか、フランス語の母語話者が大勢力を持つ国としてはカナダがある。フランス語の母語話者はカナダ総人口の22%を占め、無視できない勢力を持っている。特にフランス語話者が集中しているのは東部のケベック州であり、連邦においては英語とフランス語がともに公用語とされているものの、ケベック州の公用語はフランス語のみとなっており、積極的な保護政策がとられている。この言語対立を背景にしばしば独立運動が繰り広げられる。 フランス語の母語話者が大きな勢力を持つのは上記地域に限られるが、そのほかの地域においてもかつてフランスが広大なフランス植民地帝国を持っていた関係で、旧植民地においてフランス語を公用語とする国々は数多く、29か国において公用語の地位を占めている。もっともフランス語が公用語化されている地域はアフリカであり、旧フランス領地域においては、セネガル、ギニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、トーゴ、ベナン、ニジェール、チャド、中央アフリカ、カメルーン、ガボン、コンゴ共和国、コモロ、マダガスカル、ジブチにおいてフランス語は公用語となっている。旧フランス領のほか、同じくフランス語を公用語とするベルギーの植民地であったコンゴ民主共和国およびブルンジもフランス語を公用語とする。一方、旧フランス領においても北アフリカに属するモーリタニア、モロッコ、アルジェリア、チュニジアにおいてはフランス語は公用語となっていない。これは、これらの国々の人口の大部分を占めるアラブ人の母語であるアラビア語も大言語であり公用語化に耐えうる言語であったため、独立後急速にアラビア語への公用語の切り替えが行われたためである。ただしこれらの国々においても、特にエリート層はフランス語を自由に使いこなせる者が多く、準公用語や文化言語として広く国内で通用する。特にアルジェリアでは、1,200万人前後がフランス語を常用する(アルジェリアの言語(フランス語版)も参照)。また、旧ベルギー領であるルワンダは長らくフランス語を公用語としていたものの、ルワンダ虐殺の発生後フランスとの関係が急速に悪化し、2009年に英語を公用語に追加して以降、教育言語を英語に変更するなど急速に英語の公用語化を進めている。また、セーシェルやモーリシャスはナポレオン戦争以後イギリス領となっていたものの、それ以前はフランス領であり、その時代に入植した人々がその後も残留したため、社会の指導層はフランス語話者が占めており、両国とも共通語はフランス語となっている。また、国内でもっとも通用する言語も それぞれフランス語系のクレオール言語であるセーシェル・クレオール語とモーリシャス・クレオール語である。このほか、フランスの海外県であるマヨットおよびレユニオンもフランス語を公用語としており、レユニオンは日常語もフランス語系のクレオール言語であるレユニオン・クレオール語となっている。 新大陸においては、上記のカナダ以外にはハイチが唯一フランス語を公用語とする国家である。またハイチにおいては、一般市民の日常語もフランス語系のクレオール言語であるハイチ語となっている。また、公用語ではないが旧フランス領であるルイジアナ州の南西部を中心にケイジャン・フランス語と呼ばれるフランス語の一派を話す人々が存在する。小アンティル諸島に点在するグアドループやマルティニーク、サン・マルタン、サン・バルテルミー島、および南アメリカ大陸のフランス領ギアナもフランス語を公用語とする。 オセアニアにおいては、かつてイギリスとフランスの共同統治領であったバヌアツがフランス語を公用語のひとつとしている。また、フランスの海外領であるニューカレドニアおよびフランス領ポリネシア(タヒチ島など)、ウォリス・フツナもフランス語を公用語としている。アジアにおいては旧フランス領であるベトナム、ラオス、カンボジアの3国において公用語が現地語化されてフランス語がほぼ通用しなくなっているが、わずかにレバノンにおいてはやや通用し、準公用語的な扱いを受けている。 こうしたフランス語話者の言語共同体はフランコフォニーと呼ばれ、1970年にフランコフォニー国際機関が設立され、1986年には加盟国首脳の参加するフランコフォニー・サミットが2年に一度開催されるようになるなど、フランス語圏諸国の協調が図られている。ただしフランコフォニー国際機関にはエジプトやギリシャ、ルーマニアなどのように国内にほとんどフランス語話者の存在しない国家も加盟しており、逆にフランス語話者の多いアルジェリアが参加していないなど、フランコフォニー国際機関加盟国がフランス語圏とは必ずしも言えない。 フランス語は17世紀から19世紀までヨーロッパでもっとも有力な国際共通語であり、外交官用語として使われてきたため、国際機関において公用語となっていることが多い。 具体例としては、以下の国際機関は、フランス語を公用語とする。国際連合(UN)、国際オリンピック委員会(IOC)、国際サッカー連盟(FIFA)、国際電気通信連合(ITU)、万国郵便連合(UPU)、列国議会同盟、イスラム諸国会議機構、アフリカ連合(AU)、北大西洋条約機構(NATO)、国際標準化機構(ISO)、世界貿易機関(WTO)、経済協力開発機構(OECD)、国境なき医師団(MSF; Médecins sans frontières)、欧州評議会 (CoE)。 これらの機関において、多くの場合フランス語は唯一の公用語ではなく、英語などほかの言語と併用されている。しかしながら、19世紀から20世紀初頭においては国際共通語としての地位を持っていたことから、この時期に創設された国際機関である万国郵便連合や国際電気通信連合、国際オリンピック委員会や国際サッカー連盟において、フランス語は第一言語となっており、英語よりも地位が高くなっている。 国際連合においては、英語とフランス語は「国際連合事務局作業言語」と定義されており、その他の国連公用語(ロシア語・中国語・スペイン語・アラビア語)より位置づけが高い。また戦前には大日本帝国の日本国旅券においても、英語とともにフランス語が併記されていた。 公式名称がフランス語である世界的に著名な国際競技団体も多い。FIFAワールドカップを開催している国際サッカー連盟(FIFA; Fédération internationale de football association)、近代オリンピックを開催している国際オリンピック委員会(Comité international olympique, CIO)、F1を開催している国際自動車連盟(FIA; Fédération internationale d'automobile)、MotoGPを開催している国際モーターサイクリズム連盟(FIM; Fédération internationale de motocyclisme)、ツール・ド・フランスなどのUCIワールドツアーを開催している国際自転車競技連合(UCI: Union Cycliste Internationale)などである。
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"フランス以外でもっともフランス語の母語話者の割合が大きい国家はベルギーであり、フランス語話者でありベルギー南部に居住するワロン人が人口の31%を占めている。ベルギーにおいては、北部に住みオランダ語の方言を話すフランドル人が人口の60%を占めており、ワロン人との間には言語戦争と呼ばれる深刻な言語の対立状況が存在する。この対立を背景にしてベルギーは南北の連邦国家となっており、南部のワロン地域の大部分はフランス語共同体を形成している。また、首都のブリュッセルは言語境界線の北側にあるもののフランス語話者の人口が8割を占めており、ブリュッセル首都圏地域として2言語併用の独自地域となっている。ついでフランス語話者の割合が高い国家はスイスである。スイス人のうちフランス語の母語話者は20.38%を占め、64%を占めるドイツ語話者に次ぐ勢力を持っている。スイスのフランス語話者は国土の西部に集中しており、ジュネーヴ州、ヴォー州、ヌーシャテル州、ジュラ州の4つのカントンがフランス語話者が多数を占める州としてフランス語を公用語としている。また、言語境界線の両側にまたがるフリブール州およびヴァレー州は、フランス語とドイツ語の両言語を公用語としている。スイスは多言語主義をとる国家であり、連邦の公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語、それに国語としてロマンシュ語を加えた4つの言語を採用している。ヨーロッパ大陸においてフランス語の母語話者が大きな勢力を持つのはこの3か国である。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "このほか、フランス語の母語話者が大勢力を持つ国としてはカナダがある。フランス語の母語話者はカナダ総人口の22%を占め、無視できない勢力を持っている。特にフランス語話者が集中しているのは東部のケベック州であり、連邦においては英語とフランス語がともに公用語とされているものの、ケベック州の公用語はフランス語のみとなっており、積極的な保護政策がとられている。この言語対立を背景にしばしば独立運動が繰り広げられる。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": 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それぞれフランス語系のクレオール言語であるセーシェル・クレオール語とモーリシャス・クレオール語である。このほか、フランスの海外県であるマヨットおよびレユニオンもフランス語を公用語としており、レユニオンは日常語もフランス語系のクレオール言語であるレユニオン・クレオール語となっている。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "新大陸においては、上記のカナダ以外にはハイチが唯一フランス語を公用語とする国家である。またハイチにおいては、一般市民の日常語もフランス語系のクレオール言語であるハイチ語となっている。また、公用語ではないが旧フランス領であるルイジアナ州の南西部を中心にケイジャン・フランス語と呼ばれるフランス語の一派を話す人々が存在する。小アンティル諸島に点在するグアドループやマルティニーク、サン・マルタン、サン・バルテルミー島、および南アメリカ大陸のフランス領ギアナもフランス語を公用語とする。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "オセアニアにおいては、かつてイギリスとフランスの共同統治領であったバヌアツがフランス語を公用語のひとつとしている。また、フランスの海外領であるニューカレドニアおよびフランス領ポリネシア(タヒチ島など)、ウォリス・フツナもフランス語を公用語としている。アジアにおいては旧フランス領であるベトナム、ラオス、カンボジアの3国において公用語が現地語化されてフランス語がほぼ通用しなくなっているが、わずかにレバノンにおいてはやや通用し、準公用語的な扱いを受けている。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "こうしたフランス語話者の言語共同体はフランコフォニーと呼ばれ、1970年にフランコフォニー国際機関が設立され、1986年には加盟国首脳の参加するフランコフォニー・サミットが2年に一度開催されるようになるなど、フランス語圏諸国の協調が図られている。ただしフランコフォニー国際機関にはエジプトやギリシャ、ルーマニアなどのように国内にほとんどフランス語話者の存在しない国家も加盟しており、逆にフランス語話者の多いアルジェリアが参加していないなど、フランコフォニー国際機関加盟国がフランス語圏とは必ずしも言えない。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "フランス語は17世紀から19世紀までヨーロッパでもっとも有力な国際共通語であり、外交官用語として使われてきたため、国際機関において公用語となっていることが多い。", "title": "国際機関などにおけるフランス語" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "具体例としては、以下の国際機関は、フランス語を公用語とする。国際連合(UN)、国際オリンピック委員会(IOC)、国際サッカー連盟(FIFA)、国際電気通信連合(ITU)、万国郵便連合(UPU)、列国議会同盟、イスラム諸国会議機構、アフリカ連合(AU)、北大西洋条約機構(NATO)、国際標準化機構(ISO)、世界貿易機関(WTO)、経済協力開発機構(OECD)、国境なき医師団(MSF; Médecins sans frontières)、欧州評議会 (CoE)。", "title": "国際機関などにおけるフランス語" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これらの機関において、多くの場合フランス語は唯一の公用語ではなく、英語などほかの言語と併用されている。しかしながら、19世紀から20世紀初頭においては国際共通語としての地位を持っていたことから、この時期に創設された国際機関である万国郵便連合や国際電気通信連合、国際オリンピック委員会や国際サッカー連盟において、フランス語は第一言語となっており、英語よりも地位が高くなっている。", "title": "国際機関などにおけるフランス語" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "国際連合においては、英語とフランス語は「国際連合事務局作業言語」と定義されており、その他の国連公用語(ロシア語・中国語・スペイン語・アラビア語)より位置づけが高い。また戦前には大日本帝国の日本国旅券においても、英語とともにフランス語が併記されていた。", "title": "国際機関などにおけるフランス語" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "公式名称がフランス語である世界的に著名な国際競技団体も多い。FIFAワールドカップを開催している国際サッカー連盟(FIFA; Fédération internationale de football association)、近代オリンピックを開催している国際オリンピック委員会(Comité international olympique, CIO)、F1を開催している国際自動車連盟(FIA; Fédération internationale d'automobile)、MotoGPを開催している国際モーターサイクリズム連盟(FIM; Fédération internationale de motocyclisme)、ツール・ド・フランスなどのUCIワールドツアーを開催している国際自転車競技連合(UCI: Union Cycliste Internationale)などである。", "title": "国際機関などにおけるフランス語" } ]
フランス語は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属する言語。ロマンス諸語の一つで、ラテン語の口語(俗ラテン語)から変化したフランス北部のオイル語が母体と言われている。日本語では、仏蘭西語、略して仏語(ふつご)とも書く。 フランス語という呼び方は、多くの言語(オック語、アルピタン語など)が存在するフランスにおいて誤解を招く可能性もあるので、単にオイル語と呼んでフランスの他の言語と区別することもある。 世界で英語(約80の国・地域)に次ぐ2番目に多くの国・地域で使用されている言語であり、フランス、スイス、ベルギー、カナダのほか、かつてフランスやベルギーの領域だった諸国を中心に29ヶ国で公用語になっている(フランス語圏を参照)。全世界で1億2300万人が主要言語として使用し、総話者数は2億人以上である。国際連合、欧州連合などの公用語の一つにも選ばれている。このフランス語の話者を、フランコフォン(francophone、英語版)と言う。
{{Redirect|仏語}} {{Infobox Language |name=フランス語 |nativename={{Lang|fr|français}} |states= *[[フランス]] *[[モナコ]] *[[ベルギー]] **[[ブリュッセル首都圏地域]] **[[ワロン地域]] *[[スイス]] **[[フリブール州]] **[[ヴォー州]] **[[ヴァレー州]] **[[ヌーシャテル州]] **[[ジュネーヴ州]] **[[ジュラ州]] *[[イタリア]] **[[ピエモンテ州]] **[[ヴァッレ・ダオスタ州]] **[[リグーリア州]] *[[ルクセンブルク]] *[[ドイツ]] **[[ザールラント州]] **[[ラインラント=プファルツ州]]西部 **[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]南西部 *[[カナダ]] **[[ケベック州]] **[[ニューブランズウィック州]] **[[ノバスコシア州]] **[[プリンスエドワードアイランド州]] *[[アメリカ合衆国]] **[[ルイジアナ州]] **[[メイン州]] *[[ハイチ]] *[[コンゴ民主共和国]] *[[マダガスカル]] *[[コートジボワール]] *[[ギニア]] *[[カメルーン]] *[[ブルキナファソ]] *[[マリ共和国]] *[[ニジェール]] *[[セネガル]] *[[ルワンダ]] *[[ブルンジ]] *[[トーゴ]] *[[中央アフリカ共和国]] *[[コンゴ共和国]] *[[ガボン]] *[[コモロ]] *[[ジブチ]] *[[モーリシャス]] *[[セーシェル]] *[[レバノン]] *[[インド]] **[[ポンディシェリ連邦直轄領]] |region=[[ヨーロッパ]]、[[アフリカ]]、[[アメリカ州]] |speakers=*ロイター報道値<ref>[http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPKBN0GR0GA20140827 フランス語使用者減少で最大50万人の雇用にリスク、リポート分析で]</ref> **主要話者 1億3000万人 **総話者 2億3000万人 *国際フランコフォニー公表値 **母語話者 7200万人 **総話者 2億2000万人 *[[筑波大学]]外国語センター **母語話者 1億2300万人 **総話者 2億人 *[[文部科学省]]統計<ref name="number_of_french_speaker">[http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/015/siryo/06032707/005/001.htm 文部科学省 基礎データ]</ref> **総話者 1億2900万人 | rank = 10位<ref name="number_of_french_speaker" /> |familycolor=インド・ヨーロッパ語族 |fam2=[[イタリック語派]] |fam3=[[ロマンス諸語]] |fam4=[[イタロ・西ロマンス語]] |fam5=[[西ロマンス語]] |fam6=[[ガロ・イベリア語]] |fam7=[[ガロ・ロマンス語]] |fam8=[[ガロ・レート語]] |fam9=[[オイル語]] |script=[[ラテン文字]] |nation=[[フランス]]ほか計29カ国 |agency={{flagicon|FRA}} [[アカデミー・フランセーズ]]<ref>{{cite web|url=http://www.academie-francaise.fr/|title=Académie française|language=フランス語 |accessdate=2007年9月28日 }}</ref> |iso1=fr |iso2b=fre |iso2t=fra |iso3=fra }} {{色}}[[File:Knowledge French EU map.svg|right|thumb|'''EU加盟国および各自治体の住民におけるフランス語への理解度'''<br />黒色が母語地域 、以下50%以上、20-49%、10-19%、5-9%、5%未満(灰色はEU非加盟国・地域)]] [[File:Langues de la France.svg|thumb|right|'''現地語の分布''']] [[File:French in the United States.png|thumb|'''米国でのフランス語分布図''']] '''フランス語'''(フランスご、フランス語表記:{{Lang|fr|français}} 発音: {{Smaller|フランセ}})は、[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[イタリック語派]]に属する言語。[[ロマンス諸語]]の一つで、[[ラテン語]]の口語([[俗ラテン語]])から変化した[[フランス]]北部の[[オイル語]](または[[古フランス語]]、{{Lang|fr|langue d'oïl}})が母体と言われている。[[日本語]]では、'''仏蘭西語'''、略して'''仏語'''(ふつご)とも書く。 フランス語という呼び方は、多くの言語([[オック語]]、[[アルピタン語]]など)が存在するフランスにおいて誤解を招く可能性もあるので、単に'''オイル語'''と呼んでフランスの他の言語と区別することもある<ref>「改訂版 世界の民族地図」P387 高崎通浩著 1997年12月20日初版第1刷発行</ref>。 世界で[[英語]](約80の国・地域)に次ぐ2番目に多くの国・地域で使用されている言語であり、フランス、[[スイス]]、[[ベルギー]]、[[カナダ]]のほか、かつてフランスやベルギーの領域だった諸国を中心に29ヶ国で公用語になっている([[フランス語圏]]を参照)。全世界で1億2300万人が主要言語として使用し、総話者数は2億人以上である<ref>[http://www.flang.tsukuba.ac.jp/page/page000020.html 筑波大学外国語センター]</ref>。[[国際連合]]、[[欧州連合]]などの公用語の一つにも選ばれている。このフランス語の話者を、'''フランコフォン'''({{Lang|fr|francophone}}、[[:en:Francophone|英語版]])と言う{{Refnest|group="注釈"|フランスの[[地理学|地理学者]]{{仮リンク|オネジム・ルクリュ|en|Onésime Reclus}}が、著書 ''France, Algérie et colonies (1880)'' において使用したことに始まる。<ref>[[西山教行]]「[http://www.momiji.h.kyoto-u.ac.jp/~nishiyama/Francophonie2003.pdf フランコフォニーの成立と展望]」『フランス語教育』特別号、2003年、22ページ。</ref>}}<ref group="注釈">なお、似て異なる概念として「'''[[:en:Francophile|フランコフィル(''francophile'')]]'''」が存在する。</ref>。 == 音声 == {{main|フランス語の音韻}} === 子音 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! !style="width:3.5em;"|[[両唇音|両唇]] ![[唇歯音|唇歯]] ![[歯音]] ![[歯茎音|歯茎]] ![[後部歯茎音|後部歯茎]] ![[硬口蓋音|硬口蓋]] ![[両唇硬口蓋音|両唇硬口蓋]] ![[軟口蓋音|軟口蓋]] ![[両唇軟口蓋音|両唇軟口蓋]] ![[口蓋垂音|口蓋垂]] |- ![[閉鎖音]] |p b | |t d | | | | |k g | | |- ![[鼻音]] |m | |n | | |ɲ | | | | |- ![[摩擦音]] | |f v | |s z |ʃ ʒ | | | | |ʁ |- ![[接近音]] | | | | | |j |ɥ | |w | |- ![[側面音|側面接近音]] | | | |l | | | | | | |} 記号が二つ並んでいるものは、右が[[有声音]]、左が[[無声音]]。 === 母音 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !style="width:2.5em"| !style="width:2.5em"|[[前舌母音|前舌]] !style="width:2.5em"|[[中舌母音|中舌]] !style="width:2.5em"|[[後舌母音|後舌]] |- ![[狭母音|狭]] |i y | |u |- ![[半狭母音|半狭]] |{{Unicode|e ø}} | |o |- !中央 | |{{Unicode|ə}} | |- ![[半広母音|半広]] |{{Unicode|ɛ œ}} | |{{Unicode|ɔ}} |- ![[広母音|広]] |a | |{{Unicode|ɑ}} |} 記号が二つ並んでいるものは、右が[[円唇母音|円唇]]、左が[[非円唇母音|非円唇]]。 === 鼻母音 === * {{Ipa|ɛ̃}}: {{Lang|fr|in, im, ain, aim, ein, eim}} - 「エ」の鼻母音だが、実際は「アン」に近い。 * {{Ipa|œ̃}}(パリなどでは {{Ipa|ɛ̃}} に合流): {{Lang|fr|un, um}} * {{Ipa|ɑ̃}}(やや円唇): {{Lang|fr|an, am, en, em}} - 暗い「ア」の鼻母音で、「オン」に近い。 * {{Ipa|ɔ̃}} または {{Ipa|õ}}: {{Lang|fr|on, om}} 鼻母音四つを含んだ句の例として « {{Lang|fr|un bon vin blanc}} » {{Ipa|œ̃ bɔ̃ vɛ̃ blɑ̃}}(おいしい白ワイン)が有名である。 === 半母音 === * '''w''':[[有声両唇軟口蓋接近音]] * '''ɥ''':[[有声両唇硬口蓋接近音]] * '''j''':[[硬口蓋接近音]] == 綴りと発音 == フランス語において基本的にc, r, f, lを除く語尾の[[子音]](一部例外あり)と[[母音]]のeは発音されない。フランス語の表記は初学者には複雑に感じられるが、規則性は比較的高い。[[英語]]や日本語の[[ローマ字]]表記とはかなり異なるため、フランス語を知らなければ正しく読むことはできないが、規則を覚えれば容易に発音できる。たとえば {{lang|fr|eau}} は常に {{Ipa|o}} と発音する。しかし {{lang|fr|monsieur}}([[ムッシュ]])は {{Ipa|mɔ̃.sjœʁ}} ではなく {{Ipa|mə.sjø}} であり、{{lang|fr|femme}}([[女性]]、[[妻]])は {{Ipa|fem}} ではなく {{Ipa|fam}} であるなど、[[イタリア語]]や[[スペイン語]]などほかのロマンス諸語に比べると例外が多い。{{lang|fr|fait}}や{{lang|fr|plus}}など文脈によって発音が変わる単語もある。 また、{{lang|fr|in, im, yn, ym, ain, aim, ein, eim}} がすべて {{Ipa|ɛ̃}} になるなど、しばしば異なる綴りが同じ発音を示すため、[[同音異字|同音異字語]]が多い。たとえば {{lang|fr|vin}}([[ワイン]])と {{lang|fr|vingt}}([[20]])はともに {{Ipa|vɛ̃}} であり、また形容詞 {{lang|fr|bleu}} ([[青]]、男性形単数) とその変化形の {{lang|fr|bleus}}(男性形複数)、{{lang|fr|bleue}}(女性形単数)、{{lang|fr|bleues}}(女性形複数)はすべて {{Ipa|blø}} である。このため、発音を聞いて書き分けるのは比較的難しい<ref>{{Citation | last=Ziegler | first=Johannes C. | last2=Jacobs | first2=Arthur M. | last3=Stone | first3=Gregory O. | title=Statistical analysis of the bidirectional inconsistency of spelling and sound in French | year=1996 | journal=Behavior Research Methods, Instruments, & Computers | volume=28 | pages=504-515 | url=http://www.up.univ-mrs.fr/Local/lpc/dir/ziegler/article/1996.BRMIC.ziegler.pdf }}</ref>。ネイティブでさえも正しく書けない人がいるほどで、フランスでは問題視されている。そういった難しさもあり、日本で行われている[[実用フランス語技能検定試験]](DAPF)の準2級以降の級では書き取り試験が行われ、CDで流れる文章を、文脈をしっかりと把握した上で、動詞の活用はもとより性と数の一致に気をつけながら、正しく書く能力が試される。書き取り試験ではあるが文法知識も試され、実際のところこの書き取り問題で点を落とす受験者が非常に多いことから、いかにフランス語を正しく書くのが難しいかがうかがえる。 === アルファベ === [[アルファベット]]のことを、フランス語ではアルファベ({{Lang|fr|alphabet}})と言う。 {{フランス語アルファベット}} ==== 各字母の名称 ==== {|padding="1em" lang="fr" |- |'''A''', '''a''' a {{Ipa|a}}({{ja|ア}})||'''B''', '''b''' bé {{Ipa|be}}({{ja|ベ}}) |- |'''C''', '''c''' cé {{Ipa|se}}({{ja|セ}})||'''D''', '''d''' dé {{Ipa|de}}({{ja|デ}}) |- |'''E''', '''e''' e {{Ipa|ə}}({{ja|ウ}})||'''F''', '''f''' effe {{Ipa|ɛf}}({{ja|エフ}}) |- |'''G''', '''g''' gé {{Ipa|ʒe}}({{ja|ジェ}})||'''H''', '''h''' ache {{Ipa|aʃ}}({{ja|アシュ}}) |- |'''I''', '''i''' i {{Ipa|i}}({{ja|イ}})||'''J''', '''j''' ji {{Ipa|ʒi}}({{ja|ジ}}) |- |'''K''', '''k''' ka {{Ipa|ka}}({{ja|カ}})||'''L''', '''l''' elle {{Ipa|ɛl}}({{ja|エル}}) |- |'''M''', '''m''' emme {{Ipa|ɛm}}({{ja|エム}})||'''N''', '''n''' enne {{Ipa|ɛn}}({{ja|エヌ}}) |- |'''O''', '''o''' o {{Ipa|o}}({{ja|オ}})||'''P''', '''p''' pé {{Ipa|pe}}({{ja|ペ}}) |- |'''Q''', '''q''' cu {{Ipa|ky}}({{ja|キュ}})||'''R''', '''r''' erre {{Ipa|ɛʁ}}({{ja|エール}}) |- |'''S''', '''s''' esse {{Ipa|ɛs}}({{ja|エス}})||'''T''', '''t''' té {{Ipa|te}}({{ja|テ}}) |- |'''U''', '''u''' u {{Ipa|y}}({{ja|ユ}})||'''V''', '''v''' vé {{Ipa|ve}}({{ja|ヴェ}}) |- |'''W''', '''w''' double vé {{Ipa|dublə ve}}¹({{ja|ドゥブルヴェ}})||'''X''', '''x''' ikse {{Ipa|iks}}({{ja|イクス}}) |- |'''Y''', '''y''' i grec {{Ipa|i ɡʁɛk}}²({{ja|イグレク}})||'''Z''', '''z''' zède {{Ipa|zɛd}}({{ja|ゼッド}}) |} # 二つのVの意。 # [[ギリシャ]]のIの意。[[ウプシロン]]を参照。 ==== 綴り字記号 ==== * '''{{lang|fr|É, é}}''' の « ´ » : [[アキュート・アクセント|アクサンテギュ]]({{lang|fr|accent aigu}}, 鋭い[[アクセント符号|アクサン]]の意) * '''{{lang|fr|À, È, Ù, à, è, ù}}''' の « ` » : [[グレイヴ・アクセント|アクサングラーヴ]]({{lang|fr|accent grave}}, 重いアクサンの意) * '''{{lang|fr|Â, Ê, Î, Ô, Û, â, ê, î, ô, û}}''' の « ˆ » : [[サーカムフレックス|アクサンシルコンフレクス]]({{lang|fr|accent circonflexe}}, 湾曲したアクサンの意) * '''{{lang|fr|Ä, Ë, Ï, Ö, Ü, Ÿ, ä, ë, ï, ö, ü, ÿ}}''' の « ¨ » : [[トレマ]]({{lang|fr|tréma}}, 分音記号) * '''{{lang|fr|Ç, ç}}''' の « ¸ » : [[セディーユ]]({{lang|fr|cédille}}) セディーユ、トレマ、アクサンテギュ、および e につくアクサングラーヴとアクサンシルコンフレクスは発音を変える記号である。一方、e 以外の母音につくアクサングラーヴとアクサンシルコンフレクスは発音を変化させない。 ※アクサンのつくところを強く読むわけではない。 ==== 合字 ==== '''{{lang|fr|[[Œ]], œ}}''' は o と e の[[合字]]である。この組み合わせが[[単母音]]で発音される語では、o と e は必ずこのようにつなげて書く。通常は œu で {{Ipa|œ}} を表す。 * {{lang|fr|sœur}} {{Ipa|sœʁ}} * {{lang|fr|œnologie}} {{Ipa|enɔlɔʒi}} - ギリシア語起源の語では、{{Lang|el|οι}} から転写された œ が {{Ipa|e}} と発音される。 '''{{lang|fr|[[Æ]], æ}}''' は a と e の合字であり、少数の[[ラテン語]]からの借用語で使う。 * {{lang|fr|cæcum}} {{Ipa|sekɔm}} ===句読点=== フランス語では[[引用符#屈曲型 フランス語(フランス本国)、ポーランド語、ロシア語|引用符]]([[英語]]では「" "」)として「« »」(ギユメ {{fr|guillemets}})を用いる。[[疑問符#フランス語|フランス語の句読点]]の内、コンマ(,)、ピリオド(.)、[[括弧]](( )、[ ])以外の疑問符(?)、[[感嘆符]](!)、[[コロン (記号)|コロン]](:)、[[セミコロン]](;)の前には[[スペース]]を入れ、引用符の後と前にもやはりスペースを入れる。 == 数体系 == {{Main|フランス語の数詞}} 20進法と10進法の組み合わせである<ref>[http://www.sf.airnet.ne.jp/~ts/language/number/frenchj.html フランス語の数体系]</ref>。かなり複雑だが、これはフランスでの例であり、ベルギーやスイスでは70を{{lang|fr|septante}}、90を{{lang|fr|nonante}}、さらにスイスでは80を{{lang|fr|huitante}}で表し、比較的10進法に近い。 *1: {{lang|fr|un (une)}} *2: {{lang|fr|deux}} *3: {{lang|fr|trois}} *4: {{lang|fr|quatre}} *5: {{lang|fr|cinq}} *6: {{lang|fr|six}} *7: {{lang|fr|sept}} *8: {{lang|fr|huit}} *9: {{lang|fr|neuf}} *10: {{lang|fr|dix}} *20: {{lang|fr|vingt}} *30: {{lang|fr|trente}} *40: {{lang|fr|quarante}} *50: {{lang|fr|cinquante}} *60: {{lang|fr|soixante}} *70 (60+10): {{lang|fr|soixante-dix}} *80 (4*20): {{lang|fr|quatre-vingts}} *90 (4*20+10): {{lang|fr|quatre-vingt-dix}} *100: {{lang|fr|cent}} *200: {{lang|fr|deux cents}} *1000: {{lang|fr|mille}} == 文法 == {{Main|フランス語の文法}} {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center; float:right" ! !! 単数 !! 複数 |- ! 一人称 | {{lang|fr|je chante}} || {{lang|fr|nous chantons}} |- ! 二人称 | {{lang|fr|tu chantes}} || {{lang|fr|vous chantez}} |- ! 三人称 | {{lang|fr|il chante}} || {{lang|fr|ils chantent}} |} * [[動詞]]は[[主語]]の[[人称]]・[[数 (文法)|数]]などに応じて活用する。例えば {{lang|fr|chanter}} (歌う)の現在形は表のように[[活用]]する。詳しくは[[フランス語の動詞]]を参照すること。 * [[名詞]]に[[性 (文法)|性]](男性・女性)がある。性に合わせて、[[冠詞]]・動詞の[[分詞|過去分詞]]・[[形容詞]]に男性形・女性形がある。 * 形容詞・冠詞は性・数によって変化する。 * 基本的に後置修飾である。例えば「赤ワイン」は « {{lang|fr|vin rouge}} » 。ただし{{lang|fr|petit}}(小さな)、{{lang|fr|grand}}(大きな)のように使用頻度の高い形容詞に関しては前置修飾となる場合もある。例えば「小さな子供(単数)」は « {{lang|fr|petit enfant}} »(プティタンファン)となる(複数の場合は « {{lang|fr|petits enfants}} »(プティザンファン)) 。 '''敬称''' * {{lang|fr|Monsieur}} {{IPA|məsjø}}(ムスュー)(男性)(氏) *日本では「[[ムッシュ]]」と書かれることが多い。 * {{lang|fr|Madame}} {{IPA|madam}}([[マダム]])(既婚女性)(女史) * {{lang|fr|Mademoiselle}} {{IPA|madmwazɛl}}([[マドモワゼル|マドムワゼル]])(未婚女性)(嬢) == 言語変種 == === 方言と現地語 === ==== ヨーロッパ(フランスとその周辺) ==== *[[アルピタン語]](フランス・イタリア・スイス国境付近) **[[ヴァッレ・ダオスタ州|アオスタ]]現地語(アオスタ語) *[[アンジュー]]現地語 *[[シャンパーニュ]]現地語([[シャンパーニュ語]]) *[[スイス]]現地語([[スイス・フランス語]]) *[[ノルマンディー]]現地語([[ノルマン語]]) ** ジャージー島現地語({{lang|fr|Jèrriais}}、[[ジャージー島]]) ** ガーンジー島現地語({{lang|fr|Guernésiais}}、[[ガーンジー島]]) *[[パリ]]現地語([[フランシアン語]]) *[[ピカルディ地域圏|ピカルディー]]現地語([[ピカルディ語]]) *[[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ・コンテ]]現地語 *[[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ]]現地語 * ブルボン現地語 * ベリション現地語 * ポワトゥー=シャラント現地語({{lang|fr|Saintongeais}}、[[ポワトゥー=シャラント地域圏]]) *[[ルクセンブルク・フランス語]] *[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]現地語 * ワロン現地語(おもに[[ベルギー]]([[ベルギー・フランス語]])で話され、[[ワロン語]]とも称する) *[[ガロ語 (ロマンス語)|ガロ語]]([[ブルターニュ地域圏|ブルターニュ]]東部) ==== 北アメリカ ==== *[[カナダ]]方言([[カナダ・フランス語]])・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]方言({{interlang|en|French language in the United States}}) **[[ケベック州|ケベック]]方言([[ケベック・フランス語]]) **[[アカディア]]方言([[:fr:Français acadien|{{lang|fr|français acadien}}]]) ***[[シャック (フランス語方言)|シャック]]([[ニューブランズウィック州]]南東部のアカディア方言、[[:fr:Chiac|Chiac]]、フラングレの一種) ***[[セント・メアリーズ・ベイ]]方言([[:en:St. Marys Bay French|{{lang|en|St. Mary's Bay French}}]]) ** オンタリオ方言({{lang|fr|Franco-Ontarien}}、[[オンタリオ州]]) **[[ケイジャン]]方言([[ケイジャン・フランス語]]) ==== アフリカ==== *[[マグリブ|マグレブ]]方言 *[[西アフリカ]]方言 *[[中央アフリカ]]方言 *[[マダガスカル]]方言 フランス南部で用いられる[[オック語]]をフランス語方言とすることもあるが、言語学的には通常別系統の言語として扱う。 === フランス系クレオール言語 === *[[ハイチ語]] *[[フランス領ギアナ・クレオール語]] *[[ルイジアナ・クレオール語]] *[[セーシェル・クレオール語]] *[[モーリシャス・クレオール語]] *[[レユニオン・クレオール語]] *[[タヨ語]] === 混合言語 === * [[ミチフ語]] など([[:en:French-based creole languages|{{lang|en|French-based creole languages}}]]を参照)。 === 他言語との混成言語 === *[[フラングレ]](フランス語+英語) *[[フランポネ]](フランス語+日本語) == 歴史 == {{main|フランス語史}} [[紀元前58年]]から[[紀元前51年]]にかけて、[[共和政ローマ]]の[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が[[ガリア戦争]]を行い、現在のフランスの領域のほぼ全域をローマ領としたことが、この地域にフランス語の祖語である[[ラテン語]]が本格的に導入されるきっかけとなった。ガリア戦争以前には、この地域ではおもにケルト語系の[[ゴール語]]が用いられていたが、ローマの支配が定着するにつれてラテン語が優勢となっていき、[[ガロ・ロマンス語]]と呼ばれるラテン語の方言群が成立した。この言語は基本的にラテン語の影響が強く、その一方言と呼べる存在であったが、ケルト語からいくつかの音韻的な影響を受けたものだった<ref>「フランス語学概論」p44 髭郁彦・川島浩一郎・渡邊淳也著 駿河台出版社 2010年4月1日初版発行</ref>。その後、[[ローマ帝国]]の崩壊とともに[[フランク王国]]がこの地域を支配すると、彼らの言語であった[[ゲルマン系]]の[[古フランク語]]が持ち込まれ、その影響を受けてこの地域のラテン語は大きく変容し、[[9世紀]]ごろにはラテン語から完全に分離した[[古フランス語]]が成立した<ref>「フランス語学概論」p45 髭郁彦・川島浩一郎・渡邊淳也著 駿河台出版社 2010年4月1日初版発行</ref>。その後、[[14世紀]]ごろには[[中世フランス語]]へと変化し、[[17世紀]]にはアカデミー・フランセーズによってフランス語の純化・整備が行われて現代フランス語が成立した。 == 統制機関 == {{main|アカデミー・フランセーズ}} フランス語の統制機関としては、[[アカデミー・フランセーズ]]が挙げられる。これは[[1635年]]に宰相・[[リシュリュー]]によって創設された国家機関で、フランス語の語法を整備して誰にでも理解できる言語とすることを目指し、そのためにフランス語の[[辞書]]『[[アカデミー・フランセーズ辞典]]』を編纂することを目的としていた<ref>「フランス語学概論」p53 髭郁彦・川島浩一郎・渡邊淳也著 駿河台出版社 2010年4月1日初版発行</ref>。 この『アカデミー・フランセーズ辞典』は、[[1694年]]に初版が発行されたのち、現代に至るまで編纂・発行が続けられている。もっとも新しい辞典は[[1992年]]に編纂されたものである。こうした言語の統制機関が、国家によって創設されることは当時稀であり、これはそのままフランス語に対するフランス国家の強い影響力をもたらす根源となった。 また、フランス語の現状に関する勧告を出すことも任務のひとつであり、強制力こそないものの、この勧告はフランス語に強い影響力を持つ。アカデミー・フランセーズは、[[フランス学士院]]を構成する5つのアカデミーの中で、もっとも古く地位の高いアカデミーである。アカデミー・フランセーズは終身任期を持つ40人の定員で構成され、欠員が生じた場合のみ補充が行われる。 このメンバーは、フランス語話者の構成およびアカデミー自体が、フランス政府の国家機関として成立・存続してきた[[フランスの歴史]]を反映して、フランス国民が圧倒的に多いが、その他の国民であっても、ふさわしいと認められれば会員となることができる。 たとえば、[[1983年]]に会員となった[[レオポール・セダール・サンゴール]]は、20年にわたって[[セネガル]]共和国の大統領を務めた人物であるが、フランス語[[詩人]]としても非常に高名な存在であり、またフランス語圏の融和をはかる国際機関である[[フランコフォニー国際機関]]の設立を主導したことなどから、会員となることを認められた。 == 話者分布 == {{main|フランス語圏}} [[ファイル:Map-Francophone World.svg|サムネイル|upright=2|'''フランス語圏の分布'''<br />藍色:フランス語を母語とする話者が多数を占める国や地方自治体<br />青色:フランス語が公用語となっている国<br />水色:フランス語が第二言語(文化言語)として用いられている国や地方自治体<br />緑色:フランス語を母語とする少数派コミュニティが存在する地域]] フランス語を母語話者とする人々が多数派を占めるのはフランス一国のみである。ただし、いくつかの国においてはフランス語の母語話者が大きな勢力を持っている。また、フランス国内において本来フランス語を母語とする地域は北フランスに限られており、南フランスの広い地域で話される[[オック語]]を筆頭に、[[ブルターニュ半島]]で話される[[ケルト語]]系の[[ブルトン語]]や[[アルザス]]で話される[[ドイツ語]]系の[[アルザス語]]、[[コルシカ島]]で話されるイタリア語系の[[コルシカ語]]など、系統の異なるいくつかの地方言語が存在する。ただしフランス政府はもっとも早く言語を政府の手で構築してきた国家であり、[[フランス革命]]後は一貫してフランス語をフランスにおける唯一の言語であると規定してきた<ref>「フランス語学概論」p33 髭郁彦・川島浩一郎・渡邊淳也著 駿河台出版社 2010年4月1日初版発行</ref>。こうしたことから、教育をはじめとして国家による強力なフランス語普及政策がとられ、上記の各言語地域においても現代ではほとんどフランス語が話されるようになってきている。ただし、19世紀後半までオック語復権運動「[[フェリブリージュ]]」などが行われてきており、現在はこの状況には地方言語の保護の観点から批判が根強い。 フランス以外でもっともフランス語の母語話者の割合が大きい国家は[[ベルギー]]であり、フランス語話者でありベルギー南部に居住する[[ワロン人]]が人口の31%を占めている。ベルギーにおいては、北部に住みオランダ語の方言を話す[[フランドル人]]が人口の60%を占めており、ワロン人との間には[[言語戦争]]と呼ばれる深刻な言語の対立状況が存在する。この対立を背景にしてベルギーは南北の連邦国家となっており、南部の[[ワロン地域]]の大部分は[[フランス語共同体]]を形成している。また、首都の[[ブリュッセル]]は言語境界線の北側にあるもののフランス語話者の人口が8割を占めており、ブリュッセル首都圏地域として2言語併用の独自地域となっている。ついでフランス語話者の割合が高い国家は[[スイス]]である。スイス人のうちフランス語の母語話者は20.38%を占め、64%を占めるドイツ語話者に次ぐ勢力を持っている。スイスのフランス語話者は国土の西部に集中しており、[[ジュネーヴ州]]、[[ヴォー州]]、[[ヌーシャテル州]]、[[ジュラ州]]の4つの[[スイスの州|カントン]]がフランス語話者が多数を占める州としてフランス語を公用語としている。また、言語境界線の両側にまたがる[[フリブール州]]および[[ヴァレー州]]は、フランス語と[[ドイツ語]]の両言語を公用語としている。スイスは多言語主義をとる国家であり、連邦の公用語はドイツ語、フランス語、[[イタリア語]]の3言語<ref>「図説スイスの歴史」p86 踊共二 河出書房新社 2011年8月30日初版発行</ref><ref name="名前なし-1">森田安一『物語 スイスの歴史』中公新書 p198 2000年7月25日発行</ref>、それに国語として[[ロマンシュ語]]を加えた4つの言語を採用している<ref>「図説スイスの歴史」p111 踊共二 河出書房新社 2011年8月30日初版発行</ref><ref name="名前なし-1"/>。[[ヨーロッパ大陸]]においてフランス語の母語話者が大きな勢力を持つのはこの3か国である。 このほか、フランス語の母語話者が大勢力を持つ国としては[[カナダ]]がある。フランス語の母語話者はカナダ総人口の22%を占め、無視できない勢力を持っている。特にフランス語話者が集中しているのは東部の[[ケベック州]]であり、連邦においては英語とフランス語がともに公用語とされているものの、ケベック州の公用語は[[カナダ・フランス語|フランス語のみ]]となっており、積極的な保護政策がとられている。この言語対立を背景にしばしば独立運動が繰り広げられる。 フランス語の母語話者が大きな勢力を持つのは上記地域に限られるが、そのほかの地域においてもかつてフランスが広大な[[フランス植民地帝国]]を持っていた関係で、旧植民地においてフランス語を公用語とする国々は数多く、29か国において公用語の地位を占めている。もっともフランス語が公用語化されている地域はアフリカであり、旧フランス領地域においては、[[セネガル]]、[[ギニア]]、[[マリ共和国|マリ]]、[[コートジボワール]]、[[ブルキナファソ]]、[[トーゴ]]、[[ベナン]]、[[ニジェール]]、[[チャド]]、[[中央アフリカ]]、[[カメルーン]]、[[ガボン]]、[[コンゴ共和国]]、[[コモロ]]、[[マダガスカル]]、[[ジブチ]]においてフランス語は公用語となっている。旧フランス領のほか、同じくフランス語を公用語とするベルギーの植民地であった[[コンゴ民主共和国]]および[[ブルンジ]]もフランス語を公用語とする。一方、旧フランス領においても北アフリカに属するモーリタニア、モロッコ、アルジェリア、チュニジアにおいてはフランス語は公用語となっていない。これは、これらの国々の人口の大部分を占める[[アラブ人]]の母語である[[アラビア語]]も大言語であり公用語化に耐えうる言語であったため、独立後急速にアラビア語への公用語の切り替えが行われたためである。ただしこれらの国々においても、特にエリート層はフランス語を自由に使いこなせる者が多く、準公用語や文化言語として広く国内で通用する。特にアルジェリアでは、1,200万人前後がフランス語を常用する({{仮リンク|アルジェリアの言語|fr|Langues en Algérie}}も参照)。また、旧ベルギー領である[[ルワンダ]]は長らくフランス語を公用語としていたものの、[[ルワンダ虐殺]]の発生後フランスとの関係が急速に悪化し、[[2009年]]に英語を公用語に追加して以降、教育言語を英語に変更するなど急速に英語の公用語化を進めている<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/rwanda/data.html |title=ルワンダ基礎データ |website=[[外務省]] |date=令和元年5月31日 |accessdate=2019年8月4日}}</ref>。また、[[セーシェル]]や[[モーリシャス]]は[[ナポレオン戦争]]以後イギリス領となっていたものの、それ以前はフランス領であり、その時代に入植した人々がその後も残留したため、社会の指導層はフランス語話者が占めており、両国とも共通語はフランス語となっている。また、国内でもっとも通用する言語も それぞれフランス語系のクレオール言語である[[セーシェル・クレオール語]]と[[モーリシャス・クレオール語]]<ref>『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.411</ref>である。このほか、フランスの[[海外県]]である[[マヨット]]および[[レユニオン]]もフランス語を公用語としており、レユニオンは日常語もフランス語系のクレオール言語である[[レユニオン・クレオール語]]となっている。 新大陸においては、上記のカナダ以外には[[ハイチ]]が唯一フランス語を公用語とする国家である。またハイチにおいては、一般市民の日常語もフランス語系のクレオール言語である[[ハイチ語]]となっている<ref>「フランス語学概論」p41 髭郁彦・川島浩一郎・渡邊淳也著 駿河台出版社 2010年4月1日初版発行</ref>。また、公用語ではないが旧フランス領である[[ルイジアナ州]]の南西部を中心に[[ケイジャン・フランス語]]と呼ばれるフランス語の一派を話す人々が存在する。小アンティル諸島に点在する[[グアドループ]]や[[マルティニーク]]、[[サン・マルタン (西インド諸島)|サン・マルタン]]、[[サン・バルテルミー島]]、および南アメリカ大陸の[[フランス領ギアナ]]もフランス語を公用語とする。 [[オセアニア]]においては、かつてイギリスとフランスの共同統治領であった[[バヌアツ]]がフランス語を公用語のひとつとしている。また、フランスの海外領である[[ニューカレドニア]]および[[フランス領ポリネシア]]([[タヒチ島]]など)、[[ウォリス・フツナ]]もフランス語を公用語としている。アジアにおいては旧フランス領である[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]の3国において公用語が現地語化されてフランス語がほぼ通用しなくなっているが、わずかに[[レバノン]]においてはやや通用し、準公用語的な扱いを受けている。 こうしたフランス語話者の言語共同体は[[フランコフォニー]]と呼ばれ、[[1970年]]に[[フランコフォニー国際機関]]が設立され、[[1986年]]には加盟国首脳の参加するフランコフォニー・サミットが2年に一度開催されるようになるなど、フランス語圏諸国の協調が図られている。ただしフランコフォニー国際機関には[[エジプト]]や[[ギリシャ]]、[[ルーマニア]]などのように国内にほとんどフランス語話者の存在しない国家も加盟しており、逆にフランス語話者の多い[[アルジェリア]]が参加していないなど、フランコフォニー国際機関加盟国がフランス語圏とは必ずしも言えない<ref>「フランス語学概論」p38 髭郁彦・川島浩一郎・渡邊淳也著 駿河台出版社 2010年4月1日初版発行</ref>。 == 国際機関などにおけるフランス語 == [[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-P0801-026, Helsinki, KSZE-Konferenz, Schlussakte.jpg|thumb|1975年、[[ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]に署名する、署名する各国の首脳。左から、[[ヘルムート・シュミット|シュミット]][[連邦首相 (ドイツ)|西ドイツ首相]]、[[エーリッヒ・ホーネッカー|ホーネッカー]][[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]国防評議会議長<!--ホーネッカーが国家評議会議長になるのは翌年でした-->、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジェラルド・R・フォード|フォード]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]、[[オーストリア]]の[[ブルーノ・クライスキー|クライスキー]][[連邦首相 (オーストリア)|首相]]。彼らの前に表示されている国名はフランス語で表記されている。]] [[File:大正時代パスポート表 (26878975745).jpg|thumb|大正時代の[[大日本帝国]][[日本国旅券|旅券]]。英語とフランス語が併記されている。]] フランス語は[[17世紀]]から[[19世紀]]まで[[ヨーロッパ]]でもっとも有力な国際共通語であり、[[外交官]]用語として使われてきたため、[[国際機関]]において[[公用語]]となっていることが多い。 具体例としては、以下の国際機関は、フランス語を[[公用語]]とする。[[国際連合]](UN)、[[国際オリンピック委員会]](IOC)、[[国際サッカー連盟]](FIFA)、[[国際電気通信連合]](ITU)、[[万国郵便連合]](UPU)、[[列国議会同盟]]、[[イスラム諸国会議機構]]、[[アフリカ連合]](AU)、[[北大西洋条約機構]](NATO)、[[国際標準化機構]](ISO)、[[世界貿易機関]](WTO)、[[経済協力開発機構]](OECD)、[[国境なき医師団]]({{Lang|fr|MSF; Médecins sans frontières}})、[[欧州評議会]] (CoE)。 これらの機関において、多くの場合フランス語は唯一の公用語ではなく、英語などほかの言語と併用されている。しかしながら、[[19世紀]]から[[20世紀]]初頭においては国際共通語としての地位を持っていたことから、この時期に創設された国際機関である万国郵便連合や国際電気通信連合、国際オリンピック委員会や国際サッカー連盟において、フランス語は第一言語となっており、英語よりも地位が高くなっている<ref>「フランス語学概論」p37 髭郁彦・川島浩一郎・渡邊淳也著 駿河台出版社 2010年4月1日初版発行</ref>。 国際連合においては、[[英語]]とフランス語は「[[国際連合事務局]]作業言語」と定義されており、その他の[[国連公用語]]([[ロシア語]]・[[中国語]]・[[スペイン語]]・[[アラビア語]])より位置づけが高い。また戦前には[[大日本帝国]]の[[日本国旅券]]においても、英語とともにフランス語が併記されていた。 公式名称がフランス語である世界的に著名な国際競技団体も多い。[[FIFAワールドカップ]]を開催している[[国際サッカー連盟]]({{Lang|fr|FIFA; Fédération internationale de football association}})、[[近代オリンピック]]を開催している[[国際オリンピック委員会]]({{fr|Comité international olympique, CIO}})、[[フォーミュラ1|F1]]を開催している[[国際自動車連盟]]({{Lang|fr|FIA; Fédération internationale d'automobile}})、[[ロードレース世界選手権|MotoGP]]を開催している[[国際モーターサイクリズム連盟]]({{Lang|fr|FIM; Fédération internationale de motocyclisme}})、[[ツール・ド・フランス]]などの[[UCIワールドツアー]]を開催している[[国際自転車競技連合]]({{Lang|fr|UCI: Union Cycliste Internationale}})などである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Wikipedia|fr}} * [[フランス語学]] * [[フランス語史]] ** [[ラテン語]] - [[俗ラテン語]] - [[古フランス語]] - [[中世フランス語]] * [[フランス語の文法]] ** [[フランス語の疑問文]] - [[フランス語の否定文]] - [[フランス語の人称代名詞]] - [[フランス語の動詞]] - [[フランス語の限定詞]] - [[フランス語の数詞]] * [[フランス語の音韻]] - [[アンシェヌマン]] - [[エリジオン]] - [[リエゾン]] - [[無音のh・有音のh]] * [[フランコフォニー国際機関]] * [[フランス語圏]]・[[フランス語を公用語とする国の一覧]] * [[フランスの言語政策]] * [[フランス文学]] * [[ロマンス語]] * [[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧]] * [[実用フランス語技能検定試験]] * [[フランス語から日本語への借用]] - [[フランポネ]] * [[パリ症候群]] == 外部リンク == {{Wiktionarycat|フランス語}} {{Sisterlinks|commons=Category:French language|wikisource=fr:Accueil|wikiversity=fr:Département:Français langue étrangère}} * [http://www.e-jesco.jp/fje-1.html フランス語コンピュータ用語集1(フランス語翻訳の老舗 -翻訳会社ジェスコ)] * [http://www.dictionnaire-japonais.com 日仏辞典 - Dictionnaire Japonais/Français] * [https://www.marianne.jp/ フランス大使館公認翻訳者によるフランス語一般翻訳&法定翻訳] * {{Kotobank}} {{フランス語|state=uncollapsed}} {{フランス関連の主要項目}} {{国際連合公用語}} {{Normdaten}} {{アフリカ連合の言語}} {{DEFAULTSORT:ふらんすこ}} [[Category:フランス語|*]] [[Category:フランスの言語]] [[Category:カナダの言語]] [[Category:ドイツの言語]] [[Category:スイスの言語]] [[Category:ベルギーの言語]] [[Category:ルクセンブルクの言語]] [[Category:ハイチの言語]] [[Category:レバノンの言語]] [[Category:モロッコの言語]] [[Category:コンゴ共和国の言語]] [[Category:コンゴ民主共和国の言語]] [[Category:チュニジアの言語]] 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イタリア語
イタリア語(イタリアご、Italiano [itaˈljaːno] ( 音声ファイル), Lingua italiana)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語の1つで、おおよそ6千万人ほどが日常的に使用しており、そのほとんどがイタリアに住んでいる。後置修飾で、基本語順はSVO。イタリアは漢字で「伊太利亜」と表記することから、「伊太利亜語」を略記し伊語(いご)と呼ばれている。 イタリア語はイタリア、サンマリノ共和国で公用語として定められている。スイスではティチーノ州全域とグラウビュンデン州(グリジョーニ州、Grigioni)の一部がイタリア語圏であり、スイス全体としても公用語になっている。 また、スロベニアのイストリアとクロアチアには少数のイタリア語話者住民がいる。フランスのコルシカ島ではイタリア語の方言であるコルシカ語が使用されている。 バチカン市国では、公用語であるラテン語の他に、イタリア語が一般の業務用語として使用される。また、その昔はクラシック音楽の楽譜に書き込む楽語はイタリア語が公用語として長く守られてきており、後の時代に作曲家がそれぞれの母語をも混合して楽譜に盛り込むようになってからも、基本的な伝統的楽語はイタリア語によって書き記されている。 イタリア語の方言は大きく北部方言・中南部方言に大別でき、ラ・スペツィア=リミニ線が等語線となっている。そこからさらに北西部・北中部方言、北東部方言、中部方言、南部方言、周辺島嶼の方言に分けられる。イタリアは西ローマ帝国滅亡以降、政治的分裂が長らく続いたため、各地域毎の方言差が大きくなったとされる。これは同じく長年にわたって領邦国家時代が続いたドイツが多数の方言と地方言語を抱えている状況と似ている。 イタリア本国の国語教育および他国のイタリア語教育の場において盛んに用いられている標準イタリア語は、そうした各地の方言の中で最も周辺国の言語(フランス語やスペイン語など、イタリア地方と歴史的に縁深い国の言葉)の影響を受けていない中央イタリアのトスカーナ方言にナポリ方言・シチリア方言の語彙を取り入れたもので、統一後の標準語政策によって盛んに広められた(詳しくは方言#イタリアの方言政策を参照)。そのため、現在イタリア国民のほとんどは標準イタリア語の話者となっている。しかし一方でローカリズム運動の高まりもあって、方言の中でも独自性の強いものについては、独立した地位を与え保護すべきかどうかの議論が進められている。具体的にはシチリア語、ナポリ語、ヴェネト語、ガロ・イタリア語などが例に挙げられ、高齢層を中心にイタリア国民の4割が標準イタリア語と共にそうした地域独自の言語を理解できるという。都市部などでは現地化した標準イタリア語に取って代わられている。 各方言を言語とすべきとする論者の中でも、十数個の細かい言語へ分類するのか、あるいはある程度まとまりのある規模(北イタリア語、ガロ・イタリア語など)にすべきか意見が分かれている。またこうした議論の一方で、イタリアにおける各地域の話し言葉が(1つの言語体系としてまとめるには少ないとしても)一定の共通点を持つことについての異論はなく、「イタリア諸語」という表現をする地域主義者も存在する。 各方言の特徴は中世以降の歴史的経緯もさることながら、ラテン人によるイタリア統一前に居住していた他の古代イタリア人やギリシャ人植民者の用いた言葉の影響も存在しており、これらは俗ラテン語時代を通じて現在に残っている。 アルファベート(alfabeto)と呼ばれるラテン文字アルファベットの26文字を使用する。この内、母音字の A、E、I、O、U にはアクセント符号を付ける場合があるが、辞書上ではアクセント符号を付けない文字と同じ文字として扱う。 K, J, X, Y は人名や地名、方言、外来語で使用する。W は古来の文字ではないので英語やドイツ語からなどの外来語で使用する。このため通常使用文字は21文字ともいえる。 読み方は1文字だけ強調する場合は A を「アー」の様に伸ばすことも多い。イタリア語で良く使う文字の読み方は規則的だが、X 以外のあまり使われない文字の読み方は長く、1つに確定していない。 電話などでの綴り伝達法ではイタリアの都市の名を使い「アンコーナのA」のように使用するが、H は1文字目が H の都市名が無いため外来語の hotel を使用している。K, J, Y は外来語の一般名詞、W, X は固有名詞を使う。 辞書での単語の順は26文字を表の順(英語と同じ)に並べる。母音字のアクセント符号の有無は順に影響しない。 大文字は、文章において文の先頭や固有名詞の先頭の1文字に使用する。代名詞などの敬称の先頭文字も大文字とする。 碑文、見出し、本の題名、漫画のふきだし、手紙、落書きなどにおいては、文全体が大文字で書かれることもある。 最近の文字の使用方法では、携帯電話のメッセージや電子メールなどで文字数を少なくする用途で、「X」を「per」(掛け算の記号から)、「6」を「sei」(essere の現在第二人称単数形)などと読ませた文章を作成することもある。イタリア語では通常「k」を使用しないが「ch」を「k」と置き換えることもある。よって「perché」が「xke」となる。 15世紀のイタリア詩人のジャン・ジョルジョ・トリッシーノは、イタリア語の音素をより完璧に識別するための独自の正字法を提案したことがあるが、これは普及しなかった。 イタリア語の音節は、1個以上の子音と母音の組み合わせからなる。発音に対する綴りは、子音と母音が一対一の場合は日本語のローマ字綴りに近い(ローマ字綴りがイタリア語等のラテン系言語の母音の表記に倣っているため)。また以下に示すように発音が規則的であり、同じ綴りで発音が違うといったケースが非常に少ない。 以下は子音+母音の代表的なものと、日本語の発音(カタカナ)と発音記号(括弧内)との対応表である。 日本語での発音は近いものを選んでいる。e と o についてはそれぞれ広狭の違いは割愛した。 イタリア語のアクセントは強弱アクセントである。 イタリア語にはラテン語と同様の二重子音があるが、他のロマンス語であるフランス語やスペイン語のそれとは異なっている。この違いから、他のロマンス語と比べて特有のアクセントがある。 ラテン語で「子音 + l + 母音」であった音は、イタリア語では l が i に変化しているものが多い。接頭辞 re- が ri- になっているものが見られる。破裂音 + s, または異なる破裂音が連続する場合は後ろの音に同化し、長子音となる(actum → atto など)。また開音節で強勢を持つ短い o の多くが uo に変化している (bonus → buono)。 基本語順はSVOである。文法、統語法の詳細についてはイタリア語の文法を参照。 <動詞は括弧内に現在一人称単数をあげる> 古代のイタリア半島においては複数の古代イタリア人とも言うべき部族が存在し、それぞれが異なる言語を用いていた。その後、古代イタリア人の一派であるラテン人の国家ローマによるイタリア統一によって、彼らの言葉であるラテン語がイタリア人の公用語として普及した。ラテン語はローマの力が西欧や地中海沿岸部に広がるにつれてさらに拡大したが、公式の場で用いられるラテン語と民衆の話し言葉としてのラテン語、いわゆる民衆ラテン語(俗ラテン語とも)には若干の差異が存在したと言われている。 ローマ帝国の分裂は各地の民衆ラテン語の方言化を招き、イタリアにおいても「民衆ラテン語のイタリア方言」と呼べる言葉が成立した。イタリアにおける民衆ラテン語の方言は時間と共に変化の度合いを深め、いつしか他地域の民衆ラテン語とは明らかに異なる言語と言えるほどの変化を得た(古イタリア語)。民衆ラテン語から古イタリア語への変化がいつごろ生じたかを正確に判断することは難しく、またどのようなものであったかについての検証も、当時の欧州諸国が公用語としてラテン語を用いていたことにより文書による記録が少ないため容易ではない。しかし少なくとも10世紀頃には既に成立していたと考えられている。 イタリア語は近世のイタリア・ルネサンスにおいて、イタリア人共通の言語を形成しようとする文化人の運動の中で形成された。とりわけその主導権を握ったのはトスカーナ出身の詩人ダンテ・アリギエーリで、彼は当時古典ラテン語で書くのが一般的であった文学作品を、中央イタリア語のトスカーナ方言に南部のナポリ語・シチリア語の語彙を取り入れた言葉で執筆した。この言葉が現在のイタリア語と呼ばれる言語であるが、ダンテの作品が大きな文学的賞賛を得ながら、トスカーナ方言を中核にしたこの言葉が直ちに全土の公用語となることはなく、ダンテの死後からしばらくは死語になりかけすらした。だがバルダッサーレ・カスティリオーネらを中心とする文学者グループが再び共通語・標準語作りを呼び掛ける際、ダンテの事績を大いにたたえたことで標準語を求める動きは再加熱し、同時にダンテの「イタリア語」も脚光を浴びた。 しかしここでイタリアの文学者達に大論争が巻き起こる。カスティリオーネのグループはダンテの名声を政治的に利用しつつ、イタリアの様々な言語(おおむね今日においてはトスカーナを含む中央イタリア語、ガロ・イタリア語、ヴェネト語、ナポリ語、シチリア語、サルデーニャ語などに分けられる)を平等に配分した一種のクレオール言語を作り出そうとしていた。これに対し、ダンテは中央イタリア語以外の系統に属するイタリアの言語に配慮しつつも、あくまでトスカーナ方言が標準語になることを望んでおり、同じ目的でありながら真っ向から対立する路線であった。次第にカスティリオーネらはダンテを独善的と批判するようになり、これに標準語運動の旗印であったダンテの「トスカーナ方言をベースにした標準語運動」を進めるべきとするピエトロ・ベンボ(ヴェネツィア出身で、ペトラルカの影響を受けていた)のグループが独立、イタリア中を巻き込む一大論争に発展した。 最終的にこの論争は後者の勝利となり、カスティリオーネは退けられダンテの作った「トスカーナ方言の方言」としてのイタリア語が地位を得た。この言語は文学者や詩人たちの手でそれまで欧州全体の公用語であったラテン語に変わる形で用いられ、その公的地位を向上させた。こうしたルネサンス期のイタリア語文化は後のリソルジメントにおいて、民衆の統一を望む動きの原動力として影響力を発揮することとなる。 統一当初、正式な標準イタリア語(「文学的なトスカーナ方言」という表現もある)は貴族や学者など上流階級のみで話されており、民衆は中部イタリア語系の俗語・方言か、系統の違うナポリ語などを話していた。イタリア政府は国民意識の更なる向上のため、フランスの政策を参考に方言の廃止と標準語の浸透を国家政策として進めた。現在、イタリア国民のほとんどがこの標準イタリア語を理解できる。しかし言語の統一は民族主義的な思想へと繋がり、第一次世界大戦においては「イタリア語の響きが聞こえる全ての土地」をイタリア民族の下に統一しようとする民族思想(イリデンティズム)が盛んになる。ラテン語から最も近いトスカーナ方言をベースにしたイタリア語(ラテン語との同一性は75%に達する)の響きを持つということは、全てのラテン語圏を指すのと同義であり、これが二度の世界大戦への参加を促す結果を生み出してしまった。 各地を旅して興行が行われたオペラやコンメディア・デッラルテもイタリア語の普及に貢献した。 イタリア語と日本語の関係は、ほとんど名詞を借用する程度の範囲にとどまっている。 ただ、近年の日本語において形容詞の最上級「~ッシモ」や住人を指す「~ネーゼ」(例:シロガネーゼ)のようなイタリア語の派生語作成法が取り入れられる現象も存在する。 イタリア語から日本語に取り入れられた語は、階名のドレミや演奏記号などの音楽用語が多い。イタリア料理の流行に伴い、スパゲッティやティラ・ミ・スなどの語も一般的である。 また、自動車の名前には古くから、近年には建物名やファッション等にイタリア語の単語が使用されている。 イタリアでサッカーが盛んであることから、日本のサッカークラブではイタリア語の単語もしくはそれをもじった造語をクラブ名の一部として使用することが多い。 イタリア語から日本語の外来語に転じた語。ただし音楽、食べ物の単語は除く。 イタリア語における外来語は徐々にイタリア語風の綴りになる傾向があり、日本語からの外来語も例外ではない。括弧内は語源 イタリア語の日本語表記を参照。 日本における検定試験としては、イタリア語検定協会が実施している、年に二回行われている実用イタリア語検定がある。 なお、イタリアの大学、高等教育機関入学資格取得を目指す外国人は、イタリア外務省より国際的な公式資格として認定されているCLIQ (イタリア語検定良質基準・Certificazione Lingua Italiana di Qualità)のペルージャ外国人大学、シエーナ外国人大学、ローマ第三大学、ダンテ・アリギエーリ協会、これらの一つの組織による検定試験が必要となる。 CLIQ (イタリア語検定良質基準・Certificazione Lingua Italiana di Qualità)とは外国語として学習するイタリア語を検定するための統一基準である。 CLIQ委員会はイタリア外務省と協定を結び、下記の組織から構成されている。 この基準は、EUが定める言語統一基準に適するものである。 ペルージャ外国人大学のCELIとシエナ外国人大学のCILSは、イタリア文化会館 を通じて受験でき、年に2回(CELIは6月と11月、CILSは6月と12月)主催されている。 また、ダンテ・アリギエーリ協会(Società Dante Alighieri) 主催のダンテ・アリギエーリ協会イタリア語検定も年に2回(5月と11月)行われている。過去の問題集はダンテ・アリギエーリ協会本部のホームページから閲覧できる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イタリア語(イタリアご、Italiano [itaˈljaːno] ( 音声ファイル), Lingua italiana)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語の1つで、おおよそ6千万人ほどが日常的に使用しており、そのほとんどがイタリアに住んでいる。後置修飾で、基本語順はSVO。イタリアは漢字で「伊太利亜」と表記することから、「伊太利亜語」を略記し伊語(いご)と呼ばれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イタリア語はイタリア、サンマリノ共和国で公用語として定められている。スイスではティチーノ州全域とグラウビュンデン州(グリジョーニ州、Grigioni)の一部がイタリア語圏であり、スイス全体としても公用語になっている。", "title": "イタリア語圏" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また、スロベニアのイストリアとクロアチアには少数のイタリア語話者住民がいる。フランスのコルシカ島ではイタリア語の方言であるコルシカ語が使用されている。", "title": "イタリア語圏" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "バチカン市国では、公用語であるラテン語の他に、イタリア語が一般の業務用語として使用される。また、その昔はクラシック音楽の楽譜に書き込む楽語はイタリア語が公用語として長く守られてきており、後の時代に作曲家がそれぞれの母語をも混合して楽譜に盛り込むようになってからも、基本的な伝統的楽語はイタリア語によって書き記されている。", "title": "イタリア語圏" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "イタリア語の方言は大きく北部方言・中南部方言に大別でき、ラ・スペツィア=リミニ線が等語線となっている。そこからさらに北西部・北中部方言、北東部方言、中部方言、南部方言、周辺島嶼の方言に分けられる。イタリアは西ローマ帝国滅亡以降、政治的分裂が長らく続いたため、各地域毎の方言差が大きくなったとされる。これは同じく長年にわたって領邦国家時代が続いたドイツが多数の方言と地方言語を抱えている状況と似ている。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イタリア本国の国語教育および他国のイタリア語教育の場において盛んに用いられている標準イタリア語は、そうした各地の方言の中で最も周辺国の言語(フランス語やスペイン語など、イタリア地方と歴史的に縁深い国の言葉)の影響を受けていない中央イタリアのトスカーナ方言にナポリ方言・シチリア方言の語彙を取り入れたもので、統一後の標準語政策によって盛んに広められた(詳しくは方言#イタリアの方言政策を参照)。そのため、現在イタリア国民のほとんどは標準イタリア語の話者となっている。しかし一方でローカリズム運動の高まりもあって、方言の中でも独自性の強いものについては、独立した地位を与え保護すべきかどうかの議論が進められている。具体的にはシチリア語、ナポリ語、ヴェネト語、ガロ・イタリア語などが例に挙げられ、高齢層を中心にイタリア国民の4割が標準イタリア語と共にそうした地域独自の言語を理解できるという。都市部などでは現地化した標準イタリア語に取って代わられている。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "各方言を言語とすべきとする論者の中でも、十数個の細かい言語へ分類するのか、あるいはある程度まとまりのある規模(北イタリア語、ガロ・イタリア語など)にすべきか意見が分かれている。またこうした議論の一方で、イタリアにおける各地域の話し言葉が(1つの言語体系としてまとめるには少ないとしても)一定の共通点を持つことについての異論はなく、「イタリア諸語」という表現をする地域主義者も存在する。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", 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イタリア語は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語の1つで、おおよそ6千万人ほどが日常的に使用しており、そのほとんどがイタリアに住んでいる。後置修飾で、基本語順はSVO。イタリアは漢字で「伊太利亜」と表記することから、「伊太利亜語」を略記し伊語(いご)と呼ばれている。
{{Infobox Language |name=イタリア語 |nativename={{lang|it|Italiano}} |pronunciation={{IPA|itaˈljaːno}} |states={{ITA}}<br />{{SMR}}<br />{{VAT}}<br />{{CHE}}など |region=[[南ヨーロッパ]] |speakers=6100万人 |familycolor=インド・ヨーロッパ語族 |fam1=[[インド・ヨーロッパ語族]] |fam2=[[イタリック語派]] |fam3=[[ロマンス諸語]] |fam4=[[西イタロ語]] |fam5=[[イタロ・ダルマチア語]] |script=[[ラテン文字]] |nation={{EUR}}<br />{{ITA}}<br />{{CHE}}<br />{{SMR}}<br />{{VAT}}<br />{{MOM}}<br />{{CRO}}<small>([[イストラ郡]])</small><br />{{SVN}}<small>([[ピラン]]、[[イゾラ (スロベニア)|イゾラ]]、[[コペル|カポディストリア]])</small> |agency={{flagicon|ITA}} [[クルスカ学会]]<ref>{{cite web|url=http://www.accademiadellacrusca.it/|title=Accademia della Crusca|language=イタリア語/英語 |accessdate=2007年9月29日 }}</ref> |iso1=it |iso2=ita |iso3=ita }} '''イタリア語'''(イタリアご、{{Lang|it|Italiano}} {{IPA-it|itaˈljaːno||it-italiano.ogg}}, {{Lang|it|Lingua italiana}})は、[[インド・ヨーロッパ語族]][[イタリック語派]]に属する[[言語]]の1つで、おおよそ6千万人ほどが日常的に使用しており、そのほとんどが[[イタリア]]に住んでいる。後置修飾で、基本語順はSVO。[[イタリア]]は漢字で「伊太利亜」と表記することから、「伊太利亜語」を略記し'''伊語'''(いご)と呼ばれている。 == イタリア語圏 == イタリア語はイタリア、[[サンマリノ共和国]]で[[公用語]]として定められている。[[スイス]]では[[ティチーノ州]]全域と[[グラウビュンデン州]](グリジョーニ州、Grigioni)の一部がイタリア語圏であり、スイス全体としても公用語になっている。 また、[[スロベニア]]の[[イストリア]]と[[クロアチア]]には少数のイタリア語話者住民がいる。フランスの[[コルシカ島]]ではイタリア語の方言である[[コルシカ語]]が使用されている。 [[バチカン市国]]では、公用語であるラテン語の他に、イタリア語が一般の業務用語として使用される。また、その昔は[[クラシック音楽]]の[[楽譜]]に書き込む[[楽語]]はイタリア語が[[公用語]]として長く守られてきており、後の時代に作曲家がそれぞれの[[母語]]をも混合して楽譜に盛り込むようになってからも、基本的な伝統的楽語はイタリア語によって書き記されている。 === イタリア語を公用語としている国 === * {{ITA}} * {{SMR}} * {{SUI}}([[ドイツ語]]、[[フランス語]]、[[ロマンシュ語]]と併用) === 公用語ではないが、イタリア語が使用されている地域 === {{色}} [[ファイル:Linguistic map of the Italian language.svg|thumb|460px|right|世界でイタリア語が話されている地域を示した地図。{{legend|#045eb2|公用語としている地域}}{{legend|#a0cfff|公用語ではないが普及している地域}}{{legend|#00ff00|イタリア系移民が密集している都市}}]] ==== 欧州・アフリカ ==== * {{GER}} * {{GBR}} * {{BEL}} * {{LUX}} * {{FRA}}([[ニース]]・コルシカなど) * {{HRV}} * {{SVN}} * {{ALB}} * {{VAT}} * {{MLT}} * {{MCO}} * {{LBY}} * {{ERI}} * {{SOM}} ==== 北南米・その他 ==== * {{USA}} * {{CAN}} * {{URY}} * {{BRA}} * {{ARG}} * {{VEN}} * {{AUS}} == 方言 == [[ファイル:ItalophoneEuropeMap.png|thumb|300px|right|イタリア地方とその周辺地域におけるイタリア語分布図]] [[ファイル:Italy - Forms of Dialect.jpg|thumb|300px|right|イタリア語の方言分布。方言を独立言語と見るかの議論が盛んになっている。]] イタリア語の[[方言]]は大きく北部方言・中南部方言に大別でき、[[ラ・スペツィア=リミニ線]]が[[等語線]]となっている。そこからさらに北西部・北中部方言、北東部方言、中部方言、南部方言、周辺島嶼の方言に分けられる。イタリアは[[西ローマ帝国]]滅亡以降、政治的分裂が長らく続いたため、各地域毎の方言差が大きくなったとされる。これは同じく長年にわたって[[領邦国家]]時代が続いた[[ドイツ]]が多数の方言と[[地方言語]]を抱えている状況と似ている。 イタリア本国の国語教育および他国のイタリア語教育の場において盛んに用いられている標準イタリア語は、そうした各地の方言の中で最も周辺国の言語([[フランス語]]や[[スペイン語]]など、イタリア地方と歴史的に縁深い国の言葉)の影響を受けていない中央イタリアの[[トスカーナ]]方言にナポリ方言・シチリア方言の語彙を取り入れたもので、統一後の標準語政策によって盛んに広められた(詳しくは''[[方言#イタリアの方言政策]]''を参照)。そのため、現在イタリア国民のほとんどは標準イタリア語の話者となっている。しかし一方で[[ローカリズム]]運動の高まりもあって、方言の中でも独自性の強いものについては、独立した地位を与え保護すべきかどうかの議論が進められている。具体的には[[シチリア語]]、[[ナポリ語]]、[[ヴェネト語]]、[[ガロ・イタリア語]]などが例に挙げられ、高齢層を中心にイタリア国民の4割が標準イタリア語と共にそうした地域独自の言語を理解できるという。都市部などでは現地化した標準イタリア語に取って代わられている。 各方言を言語とすべきとする論者の中でも、十数個の細かい言語へ分類するのか、あるいはある程度まとまりのある規模(北イタリア語、ガロ・イタリア語など)にすべきか意見が分かれている。またこうした議論の一方で、イタリアにおける各地域の話し言葉が(1つの言語体系としてまとめるには少ないとしても)一定の共通点を持つことについての異論はなく、「'''イタリア諸語'''」という表現をする地域主義者も存在する。 === 方言一覧 === 各方言の特徴は中世以降の歴史的経緯もさることながら、ラテン人によるイタリア統一前に居住していた他の古代イタリア人や[[ギリシャ人]]植民者の用いた言葉の影響も存在しており、これらは俗ラテン語時代を通じて現在に残っている。 * 北部イタリア語([[ガロ・イタリア語]]・パダーニャ語などとも呼ばれる) ** チザルピナ語(仮の分類) *** [[ピエモンテ語|ピエモンテ方言(piemontese)]] - [[トリノ]] *** ベルガモ方言(bergamasco) - [[ベルガモ]] *** [[ロンバルド語|ロンバルディア方言(lombardo)]] - [[ミラノ]]、スイス[[ティチーノ州]] *** ジェノヴァ方言(genovese)または[[リグリア語|リグーリア方言(ligure)]] - [[ジェノヴァ]] *** [[エミリア・ロマーニャ語|エミリア方言(emiliano)とロマーニャ方言(romagnolo)]] - [[ボローニャ]]、[[パルマ]] ** [[ヴェネト語|ヴェネト方言(veneto)]] - [[ヴェネツィア]]、[[パドヴァ]]、[[ヴェローナ]]、[[トレント (イタリア)|トレント]]など[[ヴェネツィア共和国]]の領域。共和国時代に様々な国と貿易をしていたためか、影響を受けた他言語の数が比較的多い。 * 中南部イタリア語('''イタロ・ダルマチア語'''などとも呼ばれる) ** トスカナ語(toscano) - [[フィレンツェ]]、[[ピサ]]、[[シエーナ|シエナ]](標準イタリア語の基本となった。その点でイタリア語が「トスカナ語の[[方言]]」とする考え方もある。) ** [[中央イタリア方言|中央イタリア諸方言]](トスカナ語と極めて近く、緊密な[[方言連続体]]を形成している) *** ローマ方言(romanesco) - [[ローマ]] *** ウンブリア方言(umbro) *** マルケ方言(marchigiano) - [[マルケ州]] *** [[コルシカ語|コルシカ北東方言(cismontano)]] - [[コルシカ島]]北東部 *** コルシカ南西方言(oltramontano) - コルシカ島南西部 ** イストリア方言(istriano) - [[イストリア半島]]西部。 ** [[サルデーニャ語|サルデーニャ方言(sardo)]] - [[サルデーニャ島]] ** [[ナポリ語|ナポリ諸方言]]([[オスク語]]の影響があると考えられている): *** アブルッツォ方言(abruzzese) - [[ペスカーラ]] *** カンパーニア方言(campano) - [[ナポリ]] *** ルカニア方言(lucano) ** [[シチリア語|シチリア諸方言]](古代から中世にかけては[[ギリシャ人|ギリシア系]]住民が多かった地域であり([[マグナ・グラエキア]])、ギリシア語の影響があると考えられている) : *** [[タラント語|サレント方言(salentino)]] - [[レッチェ]] *** カラブリア方言(calabrese) - [[レッジョ・ディ・カラブリア]] *** シチリア方言(siciliano, sicilianu) - [[パレルモ]]。アラビア語の影響も見られる。 == 文字 == アルファベート(alfabeto)と呼ばれる[[ラテン文字]][[アルファベット]]の26文字を使用する。この内、母音字の [[A]]、[[E]]、[[I]]、[[O]]、[[U]] には[[アクセント符号]]を付ける場合があるが、[[辞書]]上ではアクセント符号を付けない文字と同じ文字として扱う。 {{イタリア語アルファベット|state=uncollapsed}} [[K]], [[J]], [[X]], [[Y]] は人名や地名、方言、[[外来語]]で使用する。[[W]] は古来の文字ではないので[[英語]]や[[ドイツ語]]からなどの外来語で使用する。このため通常使用文字は21文字ともいえる。 読み方は1文字だけ強調する場合は A を「アー」の様に伸ばすことも多い。イタリア語で良く使う文字の読み方は規則的だが、X 以外のあまり使われない文字の読み方は長く、1つに確定していない。 電話などでの綴り伝達法ではイタリアの都市の名を使い「アンコーナのA」のように使用するが、H は1文字目が H の都市名が無いため[[外来語]]の hotel を使用している。K, J, Y は外来語の一般名詞、W, X は[[固有名詞]]を使う。 辞書での単語の順は26文字を表の順(英語と同じ)に並べる。母音字のアクセント符号の有無は順に影響しない。 大文字は、文章において文の先頭や固有名詞の先頭の1文字に使用する。代名詞などの敬称の先頭文字も大文字とする。 碑文、見出し、本の題名、漫画の[[ふきだし]]、手紙、落書きなどにおいては、文全体が大文字で書かれることもある。 最近の文字の使用方法では、携帯電話のメッセージや[[電子メール]]などで文字数を少なくする用途で、「X」を「per」(掛け算の記号から)、「6」を「sei」(essere の現在第二人称単数形)などと読ませた文章を作成することもある。イタリア語では通常「k」を使用しないが「ch」を「k」と置き換えることもある。よって「perché」が「xke」となる。 15世紀のイタリア詩人の[[ジャン・ジョルジョ・トリッシーノ]]は、イタリア語の音素をより完璧に識別するための独自の正字法を提案したことがあるが、これは普及しなかった<ref>{{Cite book|和書|author=G・ヴィーコ|year=2018|title=新しい学(上)|publisher=中公文庫|pages=369p}}</ref>。 {| class="wikitable" align="center" border="1" cellspacing="0" cellpadding="4" ! colspan="2" | 文字 ! colspan="2" | 読み ! rowspan="2" | [[通話表|電話での綴り伝達]](意味) |- ! 大文字 !! 小文字 ! イタリア語 !! 近いカナ音写 |- | [[A]] || [[a]] || a || ア || Ancona([[アンコーナ]]) |- | [[B]] || [[b]] || bi || ビ || Bologna([[ボローニャ]]) |- | [[C]] || [[c]] || ci || チ || Como([[コモ]]) |- | [[D]] || [[d]] || di || ディ || Domodossola([[ドモドッソラ]]) |- | [[E]] || [[e]] || e || エ || Empoli([[エンポリ]]) |- | [[F]] || [[f]] || effe || エッフェ || Firenze([[フィレンツェ]]) |- | [[G]] || [[g]] || gi || ジ || Genova([[ジェノヴァ]]) |- | [[H]] || [[h]] || acca || アッカ || hotel([[ホテル]]) |- | [[I]] || [[i]] || i || イ || Imperia([[インペリア]]) |- | [[J]] || [[j]] || i lunga<br />gei<br />iota || イ・ルンガ<br />ジェイ<br />ヨータ(まれ) || jersey([[ジャージ]]) |- | [[K]] || [[k]] || cappa, kappa || カッパ || kursaal(ホテルの広間) |- | [[L]] || [[l]] || elle || エッレ || Livorno([[リヴォルノ]]) |- | [[M]] || [[m]] || emme || エンメ || Milano([[ミラノ]]) |- | [[N]] || [[n]] || enne || エンネ || Napoli([[ナポリ]]) |- | [[O]] || [[o]] || o || オ || Otranto([[オトラント]]) |- | [[P]] || [[p]] || pi || ピ || Padova([[パドヴァ]]) |- | [[Q]] || [[q]] || cu || ク || Quarto([[クアルト]]) |- | [[R]] || [[r]] || erre || エッレ || Roma(ローマ) |- | [[S]] || [[s]] || esse || エッセ || Savona([[サヴォーナ]]) |- | [[T]] || [[t]] || ti || ティ || Taranto([[ターラント]]) |- | [[U]] || [[u]] || u || ウ || Udine([[ウーディネ]]) |- | [[V]] || [[v]] || vu<br />vi || ヴ<br />ヴィ(まれ)|| Venezia([[ヴェネツィア]]) |- | [[W]] || [[w]] || doppia vu<br />vu doppia || ドッピャ・ヴ<br />ヴ・ドッピャ || Washington([[ワシントンD.C.|ワシントン]]) |- | [[X]] || [[x]] || ics || イクス || xeres(白[[ワイン]]の一種) |- | [[Y]] || [[y]] || i greca<br />i greco<br />ipsilon || イ・グレーカ<br />イ・グレーコ<br />イプスィロン || yacht([[ヨット]]) |- | [[Z]] || [[z]] || zeta || ゼータ<br />ツェータ || Zara([[ザーラ]]) |} {{clear}} == 音声 == イタリア語の音節は、1個以上の[[子音]]と[[母音]]の組み合わせからなる。発音に対する綴りは、子音と母音が一対一の場合は[[日本語]]の[[ローマ字|ローマ字綴り]]に近い(ローマ字綴りがイタリア語等のラテン系言語の母音の表記に倣っているため)。また以下に示すように発音が規則的であり、同じ綴りで発音が違うといったケースが非常に少ない。 === 母音 (vocale) === [[File:Vokaldreieck-hauptton-ital.png|thumb|right|イタリア語の母音図]] * 母音は a, e, i, o, u で表す。e と o に2種類の発音があるので7種類になる。 * e には強勢部のみ {{IPA|[e]}}と{{IPA|[ɛ]}}, /E/がある。語末にアクセントが来た時や辞書で広狭を明確にする場合、閉口音の{{IPA|[e]}}は é, 開口音の{{IPA|[ɛ]}}は è で記述する。語末のアクセント記号は広狭にかかわらず必ず書かれる。 * o には強勢部のみ {{IPA|[o]}}と{{IPA|[ɔ]}}, /O/がある。E と同様、閉口音{{IPA|[o]}}は ó, 開口音{{IPA|[ɔ]}}は ò で記述する。 * e と o の各2種類の発音は、意味の違いを表すが文脈などで区別できる場合が多く対立は弱い。 === 子音 (consonante) === {| class="wikitable" align="center" |- align="center" ! &nbsp; ![[両唇音|両唇]]<br />({{small|{{it|bilabiale}}}}) ![[唇歯音|唇歯]]<br />({{small|{{it|labiodentale}}}}) ![[歯音]]<br />({{small|{{it|dentale}}}}) ![[歯茎音|歯茎]]<br />({{small|{{it|alveodentale}}}}) ![[後部歯茎音|後部歯茎]]<br />({{small|{{it|postalveolare}}}}) ![[硬口蓋音|硬口蓋]]<br />({{small|{{it|palatale}}}}) ![[軟口蓋音|軟口蓋]]<br />({{small|{{it|velare}}}}) |- align="center" ! [[閉鎖音]] <br />({{small|{{it|occlusiva}}}}) | {{IPAlink|p}} {{IPAlink|b}} || &nbsp; &nbsp; || {{IPAlink|t}} {{IPAlink|d}} || || || || {{IPAlink|k}} {{IPAlink|g}} |- align="center" ! [[鼻音]]<br />({{small|{{it|nasale}}}}) |&nbsp; {{IPAlink|m}} || {{IPAlink|ɱ}} || {{IPAlink|n}} || {{IPAlink|n}} || || {{IPAlink|ɲ}} || {{IPAlink|ŋ}} |- align="center" ! [[摩擦音]]<br />({{small|{{it|fricativa}}}}) | || {{IPAlink|f}} {{IPAlink|v}} || || {{IPAlink|s}} {{IPAlink|z}} || {{IPAlink|ʃ}} &nbsp; || &nbsp; || |- align="center" ! [[破擦音]]<br />({{small|{{it|affricata}}}}) | || || || {{IPAlink|ʦ}} {{IPAlink|ʣ}} || {{IPAlink|ʧ}} {{IPAlink|ʤ}} || &nbsp; || &nbsp; |- align="center" ! [[ふるえ音]]<br />({{small|{{it|vibrante}}}}) | || || || {{IPAlink|r}} || || &nbsp; || &nbsp; |- align="center" ! [[はじき音]]<br />({{small|{{it|vibrata}}}}) | || || || {{IPAlink|ɾ}} || || &nbsp; || &nbsp; |- align="center" ! [[側音]]<br />({{small|{{it|laterale}}}}) | || || || {{IPAlink|l}} || || {{IPAlink|ʎ}} || &nbsp; |- align="center" ! [[接近音]]<br />({{small|{{it|approssimante}}}}) | || || || &nbsp; || || {{IPAlink|j}} || {{IPAlink|w}} |} * 子音字は b, c, d, f, g, i, l, m, n, p, q, r, s, t, v, z を使用。 * c は a, o, u と使用された時は子音 {{IPA|[k]}} を表す。e、iと共に使用された時は子音 {{IPA|[tʃ]}}, /tS/を表す。ce(チェ)、ci(チ)。 * ch はe, i と共に使用され、1つの子音[k]を表す。che(ケ)、chi(キ)。 * g は a, o, u と使用された時は子音[g]を表す。e、i と使用された時は子音 {{IPA|[dʒ]}}, /dZ/を表す。ge(ヂェ)、gi(ヂ)。 * gh は e, i と共に使用され、1つの(語中では長い)子音{{IPA|[g]}}を表す。ghe(ゲ)、ghi(ギ)。 * 単独の gli は[[硬口蓋側音|{{IPA|ʎi}}, /Li/]], 母音+gli は [ʎʎi], /LLi/の音となる。また、gli+母音の場合は "gli" 3文字で1つの子音{{IPA|[ʎ]}}を表し、さらに母音間に挟まれた場合は {{IPA|[ʎʎ]}} となる。glielo {{ipa|ˈʎelo}}(リェーロ)、luglio {{ipa|ˈluʎʎo}}(ルッリョ)。ただし gli を[gli, glj](グリ)と読む単語もある<ref>[[イタリア語#berloco2018|#berloco2018f]]</ref>。 * gn は[[鼻音]]の[[硬口蓋鼻音|[ɲ], /J/]]を表す。例えば gna は「ンニャ」に近い。 * h+母音は母音のみの音と同じ。 * i+母音となった時の i はアクセントでない場合、子音{{IPA|[j]}}を表す事が多い。 * q は常に u と共に使用され、qu[kw](ク)となる。 * s は有声音[z]と無声音[s]のどちらも表す。次に来る子音が有声音の場合(sl-, sb-など)は有声で、次の子音が無声音の場合や、語頭で次に母音が来る場合、l・n・r の次に来る場合は無声音になる。ss は無声音で促音。s 単独で母音に挟まれた場合は単語により決まる。casa(家)や地名 Pisa のように[[ピサ]]でもピザでも構わないというものも多い。また、発音の違いで意味の違いはない。 * sc は a, u, o と共に用いた時は二重子音[sk]だが、e, i と共に使用された時は別の1つの子音 {{IPA|[ʃ]}}, /S/を表す。sce(シェ)、sci(シ)。語中では長めに発音される。 * sch は e, i と共に使用し二重子音[sk]となる。 * z は有声音[[有声歯茎破擦音|<nowiki>[dz]</nowiki>]]と無声音[[無声歯茎破擦音|<nowiki>[ts]</nowiki>]]のどちらも表す。語中では無声が多いが有声のこともあり、接尾辞 "-izzare" 「~化する、~にする」およびその派生形(-izzante、-izzatore など)では {{IPA|idˈʣare}} と有声かつ長音である。z単独で母音に挟まれた場合は無声となり促音になりやすい。それ以外では単語により有声か無声かが決まる。どちらでも構わないという単語もある。 * [[半母音]]と[[拗音]]は i と u を母音の前に使用して表記。 * 子音字を2つ連続させて[[促音]]を表すが、rr は巻き舌が強くなる。ただし ch、gh に対応する促音は cch、ggh とする。q を重ねる語は soqquadro(混乱)などわずかしかなく、普通は acqua のように cq が使われる。 * 二重子音など子音が複数個重なることがある。fra, quattro など。 以下は子音+母音の代表的なものと、日本語の発音(カタカナ)と発音記号(括弧内)との対応表である。 日本語での発音は近いものを選んでいる。e と o についてはそれぞれ広狭の違いは割愛した。 {| class="wikitable" align="center" |- align="center" !子音↓\母音→ !! a !! e !! i !! o !! u |- ! - | ア [a] || エ [e] || イ [i] || オ [o] || ウ [u] |- ! b | バ [ba] || ベ [be] || ビ [bi] || ボ [bo] || ブ [bu] |- ! c | カ [ka] || チェ [tʃe] || チ [tʃi] || コ [ko] || ク [ku] |- ! ch | - || ケ [ke] || キ [ki] || - || - |- ! ci | チャ [tʃa] || チェ [tʃe] || - || チョ [tʃo] || チュ [tʃu] |- ! d | ダ [da] || デ [de] || ディ [di] || ド [do] || ドゥ [du] |- ! f | ファ [fa] || フェ [fe] || フィ [fi] || フォ [fo] || フ [fu] |- ! g | ガ [ga] || ジェ [dʒe] || ジ [dʒi] || ゴ [go] || グ [gu] |- ! gh | - || ゲ [ge] || ギ [gi] || - || - |- ! gi | ジャ [dʒa] || - || - || ジョ [dʒo] || ジュ [dʒu] |- ! gl | グラ [gla] || グレ [gle] || グリ [gli] || グロ [glo] || グル [glu] |- ! gli | glia<br />リャ [ʎa] || glie<br />リェ [ʎe] || gli<br />リ [ʎi] || glio<br />リョ [ʎo] || gliu<br />リュ [ʎu] |- ! gn | ニャ [ɲa] || ニェ [ɲe] || ニ [ɲi] || ニョ [ɲo] || ニュ [ɲu] |- ! h | ア [a] || - || - || オ [o] || - |- ! i | イア [ia]/ヤ [ja] || イエ [ie]/イェ [je] || - || イオ[io]/ヨ [jo] || イウ [iu]/ユ [ju] |- ! l | ラ [la] || レ [le] || リ [li] || ロ [lo] || ル [lu] |- ! m | マ [ma] || メ [me] || ミ [mi] || モ [mo] || ム [mu] |- ! n | ナ [na] || ネ [ne] || ニ [ni] || ノ [no] || ヌ [nu] |- ! p | パ [pa] || ペ [pe] || ピ [pi] || ポ [po] || プ [pu] |- ! qu | クワ [kwa] || クウェ [kwe] || クウィ [kwi] || クウォ [kwo] || - |- ! r | ラ [ra] || レ [re] || リ [ri] || ロ [ro] || ル [ru] |- ! s | サ [sa]/ザ [za] || セ [se]/ゼ [ze] || スィ [si]/ズィ [zi] || ソ [so]/ゾ [zo] || ス [su]/ズ [zu] |- ! sc | スカ [ska] || シェ [ʃe] || シ [ʃi] || スコ [sko] || スク [sku] |- ! sci | シャ [ʃa] || シェ [ʃe] || - || ショ [ʃo] || シュ [ʃu] |- ! t | タ [ta] || テ [te] || ティ [ti] || ト [to] || トゥ [tu] |- ! u | ワ [wa]/ウア [ua] || ウェ [we]/ウエ [ue] || ウィ [wi]/ウイ [ui] || ウォ [wo]/ウオ [uo] || - |- ! v | ヴァ [va] || ヴェ [ve] || ヴィ [vi] || ヴォ [vo] || ヴ [vu] |- ! z | ツァ [tsa]/ヅァ [dza] || ツェ [tse]/ヅェ [dze] || ツィ [tsi]/ヅィ [dzi] || ツォ [tso]/ヅォ [dzo] || ツ [tsu]/ヅ [dzu] |} === アクセント === イタリア語のアクセントは強弱アクセントである。 * アクセント([[強勢]])は単語の後ろから2番目の音節の母音にあることが多い(parossitono, parola piano など。)。D'''i'''o, '''i'''o は i がアクセントである。 * 後ろから2番目の母音字の i が拗音になっている場合は、後ろから1番目の母音字と共に一つの音節を構成するため、「後ろから2番目の音節」は後ろから3番目の母音字の音節になる。It'''a'''lia, dizion'''a'''rio, salum'''a'''io、not'''i'''zia など。 * アクセントが語尾にある場合(parole tronche)はアクセント記号を付ける。citt'''à''', caff'''è''' など。英語の -(i)ty に当たる接尾辞は -(i)tà となる。 * 動詞の変化形の三人称複数では後ろから3番目がアクセントになる。'''a'''mano, p'''o'''ssono など。 * アクセントが後ろから3番目に来る単語(parola sdrucciola)も多く、c'''a'''mera, f'''a'''cile, diff'''i'''cile, ed'''i'''cola, t'''a'''vola などがある。人名、都市名ではこの例外が多い。C'''e'''sare は初めの e, N'''a'''poli は a, G'''e'''nova は e。 * -bile, -mere など語尾の前にアクセントがつくパターンがある。 * イタリア語には弁別的な長母音は無いが、強勢の有る開音節は[[長音]]で発音されることが多いので、カタカナ表記で長音記号「ー」を入れることがある。例. carnevale {{IPA|karneˈvale}} カルネヴァーレ([[謝肉祭]]) * 例外的ではあるが、書籍などで日本人作家の名前に長音があるとラテン語の長音記号([[マクロン]])で表現することがある。この記号は小学校で習うローマ字の記号と同様である。 === 音韻対応 === イタリア語にはラテン語と同様の二重子音があるが、他の[[ロマンス語]]である[[フランス語]]や[[スペイン語]]のそれとは異なっている。この違いから、他の[[ロマンス語]]と比べて特有の[[アクセント]]がある。 [[ラテン語]]で「[[子音]] + <code>l</code> + [[母音]]」であった音は、イタリア語では <code>l</code> が <code>i</code> に変化しているものが多い<ref group="注釈">最初の子音が c, g であった場合、正書法上は、音価を保つために "h" が挿入されている。 ex. {{la|clarus}} → {{it|chiaro}}</ref>。接頭辞 re- が ri- になっているものが見られる。[[破裂音]] + s, または異なる破裂音が連続する場合は後ろの音に同化し、[[長子音]]となる({{la|actum}} → {{it|atto}} など)。また開音節で強勢を持つ短い o の多くが uo に変化している ({{la|bonus}} → {{it|buono}})。 == 文法 == 基本語順はSVOである。文法、統語法の詳細については[[イタリア語の文法]]を参照。 == 基本単語 == <動詞は括弧内に現在一人称単数をあげる> {{div col||12em}} * 赤 rosso * 橙 arancione * 黄 giallo * 緑 verde * 青 azzurro,blu * 紫 violetto * 白 bianco * 黒 nero * 上 sopra * 下 sotto * 右 destra * 左 sinistra * 前 davanti * 後 dietro * 眠る dormire(dormo) * 話す parlare(parlo) * 飲む bere(bevo) * 歩く camminare(cammino) * 見る vedere(vedo) * 感じる sentire(sento) * 可能である potere(posso) * 義務である dovere(devo) {{div col end}} === 数詞 === {{div col}} {| cellpadding = '5' ! 数 || イタリア語 || カナ音写 |- | 0 || zero || ゼロ |- | 1 || uno || ウーノ |- | 2 || due || ドゥーエ |- | 3 || tre || トゥレ |- | 4 || quattro || クァットロ |- | 5 || cinque || チンクェ |- | 6 || sei || セイ |- | 7 || sette || セッテ |- | 8 || otto || オット |- | 9 || nove || ノーヴェ |} {| cellpadding = '5' |- | 10 || dieci || ディエチ |- | 11 || undici || ウンディチ |- | 12 || dodici || ドーディチ |- | 13 || tredici || トゥレディチ |- | 14 || quattordici || クァットールディチ |- | 15 || quindici || クィンディチ |- | 16 || sedici || セーディチ |- | 17 || diciassette || ディチャッセッテ |- | 18 || diciotto || ディチョット |- | 19 || diciannove || ディチャンノーヴェ |} {| cellpadding = '5' |- | 20 || venti || ヴェンティ |- | 30 || trenta || トゥレンタ |- | 40 || quaranta || クァランタ |- | 50 || cinquanta || チンクァンタ |- | 60 || sessanta || セッサンタ |- | 70 || settanta || セッタンタ |- | 80 || ottanta || オッタンタ |- | 90 || novanta || ノヴァンタ |- | 100 || cento || チェント |- | 1000 || mille || ミッレ |} {{div col end}} == 歴史 == [[古代]]の[[イタリア半島]]においては複数の古代イタリア人とも言うべき[[部族]]が存在し、それぞれが異なる[[言語]]を用いていた。その後、古代イタリア人の一派である[[ラテン人]]の国家[[ローマ]]によるイタリア統一によって、彼らの言葉である[[ラテン語]]がイタリア人の[[公用語]]として普及した。ラテン語はローマの力が[[西ヨーロッパ|西欧]]や[[地中海]]沿岸部に広がるにつれてさらに拡大したが、公式の場で用いられるラテン語と民衆の話し言葉としてのラテン語、いわゆる[[俗ラテン語|民衆ラテン語]](俗ラテン語とも)には若干の差異が存在したと言われている。 [[ローマ帝国]]の分裂は各地の民衆ラテン語の方言化を招き、イタリアにおいても「民衆ラテン語のイタリア方言」と呼べる言葉が成立した。イタリアにおける民衆ラテン語の方言は時間と共に変化の度合いを深め、いつしか他地域の民衆ラテン語とは明らかに異なる言語と言えるほどの変化を得た([[古イタリア語]])。民衆ラテン語から古イタリア語への変化がいつごろ生じたかを正確に判断することは難しく、またどのようなものであったかについての検証も、当時の欧州諸国が公用語としてラテン語を用いていたことにより文書による記録が少ないため容易ではない。しかし少なくとも[[10世紀]]頃には既に成立していたと考えられている。 イタリア語は近世のイタリア・[[ルネサンス]]において、[[イタリア人]]共通の言語を形成しようとする文化人の運動の中で形成された。とりわけその主導権を握ったのはトスカーナ出身の詩人[[ダンテ・アリギエーリ]]で、彼は当時[[古典ラテン語]]で書くのが一般的であった文学作品を、中央イタリア語のトスカーナ方言に南部の[[ナポリ語]]・[[シチリア語]]の語彙を取り入れた言葉で執筆した。この言葉が現在のイタリア語と呼ばれる言語であるが、ダンテの作品が大きな文学的賞賛を得ながら、トスカーナ方言を中核にしたこの言葉が直ちに全土の公用語となることはなく、ダンテの死後からしばらくは死語になりかけすらした。だが[[バルダッサーレ・カスティリオーネ]]らを中心とする文学者グループが再び共通語・標準語作りを呼び掛ける際、ダンテの事績を大いにたたえたことで標準語を求める動きは再加熱し、同時にダンテの「イタリア語」も脚光を浴びた。 しかしここでイタリアの文学者達に大論争が巻き起こる。カスティリオーネのグループはダンテの名声を政治的に利用しつつ、イタリアの様々な言語(おおむね今日においてはトスカーナを含む中央イタリア語、[[ガロ・イタリア語]]、[[ヴェネト語]]、[[ナポリ語]]、[[シチリア語]]、[[サルデーニャ語]]などに分けられる)を平等に配分した一種の[[クレオール言語]]を作り出そうとしていた。これに対し、ダンテは中央イタリア語以外の系統に属するイタリアの言語に配慮しつつも、あくまでトスカーナ方言が標準語になることを望んでおり、同じ目的でありながら真っ向から対立する路線であった。次第にカスティリオーネらはダンテを独善的と批判するようになり、これに標準語運動の旗印であったダンテの「トスカーナ方言をベースにした標準語運動」を進めるべきとする[[ピエトロ・ベンボ]]([[ヴェネツィア]]出身で、[[ペトラルカ]]の影響を受けていた)のグループが独立、イタリア中を巻き込む一大論争に発展した。 最終的にこの論争は後者の勝利となり、カスティリオーネは退けられダンテの作った「トスカーナ方言の方言」としてのイタリア語が地位を得た。この言語は文学者や詩人たちの手でそれまで欧州全体の公用語であったラテン語に変わる形で用いられ、その公的地位を向上させた。こうしたルネサンス期のイタリア語文化は後の[[リソルジメント]]において、民衆の統一を望む動きの原動力として影響力を発揮することとなる。 [[ファイル:Dante.png|thumb|175px|right|[[ダンテ・アリギエーリ]]の諸作は近代イタリア語の成立に大きく貢献した]] 統一当初、正式な標準イタリア語(「文学的なトスカーナ方言」という表現もある)は[[貴族]]や[[学者]]など上流階級のみで話されており、民衆は中部イタリア語系の[[俗語]]・方言か、系統の違う[[ナポリ語]]などを話していた。イタリア政府は国民意識の更なる向上のため、[[フランス]]の政策を参考に方言の廃止と[[標準語]]の浸透を国家政策として進めた。現在、イタリア国民のほとんどがこの標準イタリア語を理解できる。しかし言語の統一は民族主義的な思想へと繋がり、第一次世界大戦においては「イタリア語の響きが聞こえる全ての土地」を[[イタリア人|イタリア民族]]の下に統一しようとする民族思想([[未回収のイタリア|イリデンティズム]])が盛んになる。[[ラテン語]]から最も近いトスカーナ方言をベースにしたイタリア語(ラテン語との同一性は75%に達する)の響きを持つということは、全てのラテン語圏を指すのと同義であり、これが二度の世界大戦への参加を促す結果を生み出してしまった。 * [[960年]] - 『カプアの判決文』の中でイタリア語(現地方言)での証言を記録。 * [[13世紀]] - [[シチリア王国]]の宮廷において詩人が、[[プロヴァンス語|プロヴァンス]]詩を真似て[[シチリア語]]で詩を作成。 * [[1304年]]頃 - [[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]、『[[俗語論]]』で[[俗語]](イタリアで話される各言語)について記述(ラテン語論文)。 * [[1321年]] - ダンテによる『[[神曲]]』がイタリア語(フィレンツェ方言)で書かれる。 * [[1349年]] - [[1351年|51年]] - [[ボッカッチョ]]により[[デカメロン]]が執筆される。 * [[1470年]] - [[ペトラルカ]]の『カンツォニエーレ』が出版される。 * [[1513年]] - [[1514年|14年]] - [[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]が[[君主論]]を執筆。 * 16世紀前半 - [[ピエトロ・ベンボ]]が14世紀のフィレンツェ方言を、イタリア語の文語とするように主張。 * [[1583年]] - [[トスカーナ大公国]]のフィレンツェに言語研究のための[[クルスカ学会]]が設立される。 * [[1612年]] - イタリア語初の国語辞典(Vocabolario)がクルスカ学会により出版される。これはフィレンツェ語を元にした。 * [[1623年]] - [[ガリレオ・ガリレイ]]が、当時の共通語であるラテン語ではなくイタリア語で論文を出版。その後、多くの論文をイタリア語で出版した。 * [[1821年|1821]] - [[1840年|40年]] - ミラノ出身の[[アレッサンドロ・マンゾーニ]]が、トスカーナ語を元に『[[いいなづけ (マンゾーニの小説)|いいなづけ]]』(I promessi sposi)を執筆。 * [[1861年]] - [[イタリア王国]]が成立。イタリア語を公用語とした。 各地を旅して興行が行われた[[オペラ]]や[[コンメディア・デッラルテ]]もイタリア語の普及に貢献した。 == 日本語との関係 == イタリア語と日本語の関係は、ほとんど名詞を借用する程度の範囲にとどまっている。 ただ、近年の日本語において形容詞の最上級「~ッシモ」や住人を指す「~ネーゼ」(例:[[シロガネーゼ]])のようなイタリア語の派生語作成法が取り入れられる現象も存在する。 === イタリア語から日本語 === イタリア語から日本語に取り入れられた語は、階名のドレミや[[演奏記号]]などの音楽用語が多い。[[イタリア料理]]の流行に伴い、[[スパゲッティ]]や[[ティラ・ミ・ス]]などの語も一般的である。 また、自動車の名前には古くから、近年には建物名や[[ファッション]]等にイタリア語の単語が使用されている。 イタリアでサッカーが盛んであることから、日本のサッカークラブではイタリア語の単語もしくはそれをもじった造語をクラブ名の一部として使用することが多い。 イタリア語から日本語の[[外来語]]に転じた語。ただし音楽、食べ物の単語は除く。 * [[カリスマ]] (carisma) - イタリア語での発音はカリズマ。英語を通じて。 * [[フレスコ]] (fresco) - 美術用語をつうじて、affrescoの略語。イタリア語での発音はアッフレスコ。 * [[パルコ]] (parco) - 公園 * [[マドンナ]] (madonna) - 聖母マリア。昔は我が女を意味した。 * [[インフルエンザ]] (influenza) - イタリア語での発音はインフルエンツァ。 * [[カジノ]] (casino) - 元々は小屋の意味。フランス語を通じて。 * [[ゲットー]] (ghetto) - 元々は[[ヴェネツィア]]の地名。イタリア語での発音はゲット。 * [[0|ゼロ]] (zero) - [[アラビア語]]からイタリア語で現在の形に。[[英語]]を通じて。 * ソロ (solo) - 音楽用語を通じて、グループ活動に対して1人の意。 * [[テンポ]] (tempo) - 音楽用語を通じて。イタリア語では天候なども表すが、日本語では時間の進み方の意味だけ。 * チャオ (ciao) - イタリア語ではくだけた関係での挨拶で、出会いと別れの両方に使用し、日本語でも砕けた挨拶に使用する。[[ヴェネツィア語]]の[[奴隷]]が起源。 * [[トトカルチョ]] (totocalcio) - イタリア語の「サッカーくじ」が転じて闇賭け試合 * [[パパラッチ]] (paparazzi) - イタリア語ではパパラッツィ。単数形はパパラッツォ (paparazzo) * [[ビエンナーレ]] (biennale) - 二年毎に行われる展覧会 * [[トリエンナーレ]] (triennale) - 三年毎に行われる展覧会 * [[ファッショ]] (fascio) - [[ファシズム]]の人 * [[ブラヴォー]] (bravo) - イタリア語での発音はブラーヴォで、イタリア語では声をかける対象の性数により語尾変化する。日本語へは、フランス語を介して輸入されたとみなされている。 * [[プリマ・ドンナ]] (prima donna) - [[演劇]]などで主役の女性。イタリア語では大統領夫人などにも使用される。 * [[マフィア]] (mafia) * [[マニフェスト]] (manifesto) - 英語を通じて * [[モットー]] (motto) - イタリア語での発音はモット。 * [[モンテネグロ]] (Montenegro) - 国名。[[ヴェネツィア語]]から。 === 日本語からイタリア語 === イタリア語における外来語は徐々にイタリア語風の綴りになる傾向があり、日本語からの外来語も例外ではない。括弧内は語源 * cachi、kaki([[カキノキ|柿]])- 外来語とは知らずに単数形を caco だと思っている人が多い。 * chimono、kimono([[着物]])- 複数形が kimoni に変化する。 * gheiscia、geisha([[芸者]])-着物のように複数形がgeisheに変化する。 * kamikaze([[神風]])- [[神風特別攻撃隊]]の略称「神風」が転じて「自爆テロ」を指す。 * manga([[漫画]])- 日本風の漫画(fumetto giapponese)に限定して使用する。その他の漫画は fumetto を使用する。 * shiatsu、shazu([[指圧]]) * tatami([[畳]])- tatamo という単数形ができつつある。 * gomasio([[ごま塩]]) === イタリア語の日本語表記時の表記の揺れ === [[イタリア語の日本語表記]]を参照。 == 検定試験 == 日本における検定試験としては、[[イタリア語検定協会]]が実施している、年に二回行われている[[実用イタリア語検定]]がある。 なお、イタリアの大学、高等教育機関入学資格取得を目指す外国人は、イタリア外務省より国際的な公式資格として認定されているCLIQ (イタリア語検定良質基準・Certificazione Lingua Italiana di Qualità)のペルージャ外国人大学、シエーナ外国人大学、ローマ第三大学、ダンテ・アリギエーリ協会、これらの一つの組織による検定試験が必要となる。 CLIQ (イタリア語検定良質基準・Certificazione Lingua Italiana di Qualità)とは外国語として学習するイタリア語を検定するための統一基準である。 CLIQ委員会はイタリア外務省と協定を結び、下記の組織から構成されている。 *ペルージャ外国人大学(CELI検定試験) *シエーナ外国人大学(CILS検定試験) *ローマ第三大学(CERT.IT検定試験) *ダンテ・アリギエーリ協会(PLIDA検定試験) この基準は、EUが定める言語統一基準に適するものである。 [[ペルージャ外国人大学]]のCELIと[[シエナ外国人大学]]のCILSは、[[イタリア文化会館]]<ref>[http://www.iictokyo.com/certi/index.html イタリア文化会館 イタリア語学校]</ref> を通じて受験でき、年に2回(CELIは6月と11月、CILSは6月と12月)主催されている。 また、[[ダンテ・アリギエーリ協会]](Società Dante Alighieri)<ref>[http://www.il-centro.net/dante ダンテ・アリギエーリ協会 東京支部]</ref> 主催の[[ダンテ・アリギエーリ協会イタリア語検定]]も年に2回(5月と11月)行われている。過去の問題集はダンテ・アリギエーリ協会本部のホームページから閲覧できる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book|last=Simone|first=Raffaele|year=2010|title=Enciclopedia dell'italiano|publisher=Treccani|ISBN=|ref=simone2010}} * {{cite book|last=Palermo|first=Massimo|year=2015|title=Linguistica italiana|publisher=Il Mulino|ISBN=9788815258847|ref=palermo2015}} * {{cite book|last=Berloco|first=Fabrizio|year=2018|title=The Big Book of Italian Verbs: 900 Fully Conjugated Verbs in All Tenses. With IPA Transcription, 2nd Edition|publisher=Lengu|ISBN=9788894034813|url=https://books.google.it/books?id=DYynDwAAQBAJ&pg=PA3#v=onepage&q&f=false|ref=berloco2018}} == 関連項目 == * [[イタリア人]] * [[イタリア文学]] * '''関連する[[言語]]''': [[ラテン語]] - [[ロマンス語]] - [[コルシカ語]] - [[サルデーニャ語]] * [[Wikt:Wiktionary:イタリア語の索引]] * [[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧]] ==外部リンク== {{Wikipedia|it}} {{Wiktionarycat|イタリア語}} *{{ethnologue|code=ita}} *[http://llmap.org/languages/ita.html LL-Map] *[http://multitree.org/codes/ita MultiTree] {{ロマンス諸語}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いたりあこ}} [[Category:イタリア語|*]] [[Category:イタリアの言語]] [[Category:クロアチアの言語]] [[Category:スイスの言語]] [[Category:スロベニアの言語]] [[Category:マルタの言語]] [[Category:サンマリノの言語]] [[Category:アルバニアの言語]] [[Category:リビアの言語]] [[Category:エリトリアの言語]] [[Category:ソマリアの言語]] [[Category:インド・ヨーロッパ語族]] [[Category:ロマンス諸語]]
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スペイン語
スペイン語(スペインご、西: español、エスパニョール)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語。俗ラテン語から発展して形成されたロマンス諸語の一つ。略して西語(せいご)とも書く。 スペイン語は、アメリカ州のうちイスパノアメリカ、スペイン、その他の旧スペイン植民地などの地域における主要言語で、スペイン語を第一言語とするものが約4億8023万人さらに第二言語として日常使用しているものを含め約5億7700万人の話者がいると推定されている。スペイン語を公用語としている国と地域の数は21以上あり、世界で英語(約80の国・地域)、フランス語(約50の国・地域)、アラビア語(約27の国・地域)に次ぐ4番目に多くの国で使用されている言語である。国際連合においては、英語、フランス語、ロシア語、中国語、アラビア語と並ぶ、6つの公用語の1つである。インターネットにおいては、利用者全体の約8%がスペイン語使用であり、英語(約27%)と中国語(約23%)に次ぐ第三の言語である。(インターネットにおける言語の使用参照) 日本では、一般的にスペイン語と呼ばれることが多いが、イスパニア語、カスティージャ語、カスティーリャ語などと呼ばれることもある。日本におけるスペイン語の漢字表記は「西班牙語」。漢字表記を略して西語と表記されることもある。スペイン語において「スペイン語」を意味する名詞は、“castellano”(カステリャーノ、もしくはカステジャーノ) または“español”(エスパニョール)。エスパニョールはスペイン (España) の言葉という意味。カステリャーノはカスティーリャ地方の言語という意味。南米ではカステジャーノということが多く、メキシコなど中米諸国とカリブ海諸国ではエスパニョールしか使われない。カステリャーノという名称は、スペイン国内で地方言語を使う地域においては「自分たちの言葉ではない他所者の言葉」という意味で使われる。南米では逆に「本場カスティーリャから受け継いだ正しいスペイン語」という意味で用いられる。 スペイン語はポルトガル語と似ており、かなりの水準で相互意思疎通が可能である(詳細はポルトガル語#スペイン語との比較にて)。 スペイン語は、ローマ帝国の公用語であったラテン語の口語である俗ラテン語を元に、アラビア語などの影響を受けながら発達した言語である。8世紀に北アフリカからイスラム教徒がイベリア半島に侵入し、その後、キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動)が起こるが、この時期に俗ラテン語がロマンス諸語に変化した。このロマンス諸語が後に、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語、フランス語、ルーマニア語などに分かれていく。 イベリア半島では、アラビア語の影響なども受けながらイベリア系ロマンス語が発達し、カスティーリャ、レオン、ポルトガル、そしてイスラム系タイファ王国などで使用されていた(タイファ王国ではアラビア語のアンダルス方言も広く使用され、その影響を強く受けたロマンス語をモサラベ語と呼ぶ)。やがてレコンキスタの過程でカスティーリャ王国はその中心的勢力となり、スペイン王国の誕生後は事実上統一スペイン国家の国家語となった。このため、現在でもスペイン語のことをカステリャーノ (castellano) と呼ぶ人は多く存在する。 この歴史的経緯により、文法などはラテン語の規則を多く受け継いでいるが、単語はアラビア語から借用したものも多く使われている。(とりわけアンダルシア方言は最も強くアラビア語の影響を受けた)スペイン語の中のアラビア語起源の単語は主に、 を通じた借用がある。またイベリアのムスリムの間ではスペイン語もアラビア文字で表記されることが少なくなかった。イベリア半島のムスリムはベルベル人が多かったため、ベルベル語の影響も存在している。なお、同じイベリア半島で話されている言語であるバスク語はローマ帝国やケルト人の進出以前から半島で使われていた言語と思われ、スペイン語とは大きく異なる。しかし、スペイン語はバスク語の影響も受けている。 スペイン語は国連の6つの公用語(他は英語、フランス語、ロシア語、中国語、アラビア語)の一つであり、スペインを始め、ブラジルを除く中南米18か国、北米1か国、アフリカ2か国、計21か国における公用語である。スペイン語が公用語である国・地域は以下の通り。 なお、スペインではカタルーニャ州・バレンシア州・バレアレス諸島州ではカタルーニャ語(バレンシア州ではバレンシア語)が、バスク州とナバーラ州の一部ではバスク語が、ガリシア州ではガリシア語が、スペイン語同様に地方公用語として認められている。 南北アメリカ大陸では、メキシコ以南の21の国・地域のうち16か国がスペイン語を公用語としており、先住民族を含め、人口の大半がスペイン語を話す。加えて、英語を唯一の公用語とするベリーズにおいても最も話されている言語はスペイン語である。カリブ海地域(西インド諸島)でスペイン語を公用語としているのはキューバ、ドミニカ共和国、プエルトリコだが、人口では過半数を占める。これら、メキシコ以南のスペイン語圏と、ポルトガル語を公用語とするブラジル、場合によってはハイチなどのフランス語圏の国・地域を総称してラテンアメリカと呼ぶ。 また、米国ではかつて南西部一帯がメキシコ領であった関係でスペイン語の地名が各地に残っており、ニューメキシコ州ではスペイン語が事実上の公用語となっている。中南米のスペイン語圏諸国をルーツに持つ米国人は「ヒスパニック」、もしくは「ラティーノ」(ラテン系米国人)と呼ばれ、メキシコ領時代から存在していたものの、近年急速にヒスパニック移民が増加した。その結果、米国では事実上の公用語の英語に加え、ヒスパニックの割合の高いカリフォルニア州やフロリダ州、テキサス州などではスペイン語が第二言語となりつつある。この状況を受けて、英語が母語の米国人の中でもスペイン語を学ぶ人が急増している。 フィリピンは1898年までスペイン領であった関係もあり、特に上流階級の間でスペイン語が使われていたが、1986年に公用語から外された。とはいえ、現在でも主にカトリック文化などの関係でスペイン語の単語が多数フィリピン人の日常生活で使われているだけでなく、タガログ語などでスペイン語からの借用語が多くみられるほか、チャバカノ語のようにスペイン語を基にしたクレオール言語も見られる。 マリアナ諸島のチャモロ語は、スペインによる征服時に言語的にもスペイン語に圧倒された。スペイン語から非常に多くの借用語を取り入れたのみならず、固有の数詞も放棄し、スペイン語由来の数詞を用いている。 旧スペイン植民地の西サハラやスペインに近いモロッコでも話されている。 セルバンテス文化センターの2017年の報告書 ”El español: una lengua viva informe 2017” によると、2017年のスペイン語を母語(第一言語)とする人口は約4億7700万人で、その他に約1億人が第2言語としてスペイン語を習得しており、それらの限られた能力のものを含めると約5億7200万人のスペイン語話者がいる。最大の話者人口を抱えているのがメキシコであり、総話者の4人に1人約1億2千万人がメキシコに在住している。続くコロンビア、アルゼンチン、スペインがそれぞれ総話者人口の約1割の約4千万人の話者がいる。米国(アメリカ合衆国)に関しては、同じセルバンテス文化センターが2015年の報告で5260万人の話者という推定を出しておりこれはメキシコに次ぐ人口である。また米国のヒスパニック人口の3分の2がメキシコ系であり、それらを含めると総話者に占めるメキシコ系話者の比率は3人に1人となる。 かつてはアラゴン地方(アラゴン語)、カタルーニャ地方(カタルーニャ語)、バレアレス諸島(カタルーニャ語)、バレンシア地方(バレンシア語)、アストゥリアス地方(アストゥリアス語)、レオン地方(レオン語)、ガリシア地方(ガリシア語)の言語がスペイン語(カスティーリャ語)の方言とされた時期もあったが、現在では、カタルーニャ語、バレンシア語、ガリシア語はいずれも独立した言語であると考えられており、それぞれの地方において公用語とされている。アラゴン語、アストゥリアス語、レオン語もカスティーリャ語から派生した言語ではなく、その他のロマンス語同様、俗ラテン語が変化して今日に至っている言語であり、言語学的には別の言語であるが、カスティーリャ語の方言の扱いを受けることが多いのが現状である。 語頭にあった f の多くは h になり、その後発音上は消滅。強勢のある e, o の多くは ie, ue に二重母音化(音割れ)。-ct- の多くは -ch- に変化。-ll- はフランス語の -ill-, イタリア語の -gli- に対応する。cl-, pl- の多くは ll に変化。現在の音素 /θ/ は古くはç /t͡s/, z /d͡z/ であり、別音素だった。語頭の s + 閉鎖音は前に e が付加(prótesis)され、esc-/esqu-, esp-, est- となった。母音間の d は消滅していることが多い。語頭にあるあとに母音が続く i と母音にはさまれた強勢のない i は y に変化した。y は本来半母音だったが、摩擦音で発音されるのが一般的になった。二重母音における /-i/ の音は英語のそれと同じように語頭や語中では -i, 語末では -y とつづる(他のロマンス系言語の多くは y は外来語以外に用いない)。v は古くは /v/ と発音したが、b と同じ /b/ に変化し、その後、借用語において原語の v のつづりを b に置き換える傾向がある。一方、w は v に置き換えられることがある。 スペインで話されているスペイン語とラテンアメリカのスペイン語では、発音、アクセントが若干異なる。それ以外にも、地方により発音に差異が出ることがある。 母音は a, e, i, o, u の5つで、日本語とほぼ同じである。ただし、u は標準日本語の「う」よりも口をすぼめて発音する。 長音、促音は無いが、アクセントのある母音はやや長めに発音されることが多いので日本語話者には長音に聞こえることがある。 母音のうち a, e, o を強母音、i (語末の y を含む)、u を弱母音とする。強母音 + 弱母音、弱母音 + 強母音、弱母音 + 弱母音の連続は二重母音、弱母音 + 強母音 + 弱母音の連続は三重母音となり、いずれも一音節で発音する。その場合の弱母音は、スペイン語学では音節主音の前の位置にある場合は半子音 (semiconsonante)、音節主音の後ろの場合は半母音 (semivocal)と呼んで区別する。国際音声記号 (IPA) では半子音の i は [j](ヨッド)、u は [w](ワウ)、また半母音はそれぞれ [i̯]、[u̯] で表記する。弱母音 + 弱母音の場合、音節主音は後の母音である。 強母音 + 強母音の連続は母音接続で、二重母音とはならず、leer のように同じ強母音字が連続する場合を含め、別の音節として発音する。また、弱母音字でもアセント (acento)がある場合 (í, ú) は強母音として扱う。 後述するように gue, gui, que, qui の u は黙字であり、二重母音の一部ではない。quiero のようにさらに母音字が続く場合は、黙字の u を無視したうえで、上記の規則に従う。ディエレシス(分音記号、クレマ)がある güe, güi の üe, üi は二重母音である。 スペイン語のアクセントは強勢アクセントである。 子音字 b, ch, d, f, m, n, p, r, s, y はローマ字の日本語読みとほぼ同様の感覚で単語を読むことができる。一方、c, g, h, j, l (ll), q, v, x, z はローマ字読みとかならずしも一致しない。子音の発音には地域差があり、ここで示したのは比較的広く用いられているものである。 以下の子音の連続は二重子音となる。分節上、単子音と同様に扱う。 dr, tr は二重子音であるが、dl, tl は二重子音ではない。 外来語はその発音やつづりの特徴から以下のパターンが挙げられる。 外来語の発音については、地域や世代、個人によって多少差がある。「1.」は古い外来語でよく見られるほか、固有名詞(商品名を含む)でよく見られ、例えば Colgate(コルゲート)は「コルガーテ」と発音する。メキシコでは商品名のスペイン語化に関する法律もある。特に人名や地名を原音に近い発音をする場合、原音の確認を要する場合が多いので、スペイン語風に発音しても間違いではない(例: Miami マイアミをスペイン語読みでミアミと発音)。また、隣接するポルトガル語はスペイン語とよく似ている一方、つづりの発音の違いやアクセントの規則の違い、独特の音韻変化などがあるため、しばしばアクセント記号が付加され、スペイン語式に読み換えられる。例えばリオデジャネイロ(Rio de Janeiro; ブラジルポルトガル語の発音は「ヒウ・ヂ・ジャネイル」に近い)は Rio(川の意)が対応するスペイン語に置き換えられRío de Janeiro と表記し、「リオ・デ・ハネイロ」と発音する。また、サンパウロ(São Paulo)については、対応するスペイン語形のサン・パブロ(San Pablo)で呼ばれるのが普通である。語頭の「s+子音」は /s/ の前に /e/ を付加して発音することが多い(付加しない人もいる)。例えば Spain は /esˈpein/ または /ˈspein/ と発音する。 二重音字のchとllは1994年にスペイン語アカデミー協会(英語版)において独立した一字としての扱いをやめることが決議され、2010年にはスペイン王立アカデミー発行のスペイン語正書法(英語版)においても廃止された。 Ñは現在でも独立した文字として扱われており、辞書の索引でもNとは区別されているほか、スペイン語キーボードでは専用のキーが存在する。 すでに述べられている通り、rは通常語頭を除き歯茎はじき音[ɾ]で発音されるが、アルファベットとして発音する場合、歯茎ふるえ音[r]が用いられる。また、語頭の歯茎ふるえ音[r]はr一文字で表記される関係上、rrで始まる単語は存在しないため、ch, llと異なり辞書の索引に見出しとして載りえず、公式に一文字として扱われたことはない。 助動詞haberの活用形は、過去分詞とあわせて完了時制をつくる。下記の表では、「sido」が動詞serの過去分詞形。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スペイン語(スペインご、西: español、エスパニョール)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語。俗ラテン語から発展して形成されたロマンス諸語の一つ。略して西語(せいご)とも書く。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "スペイン語は、アメリカ州のうちイスパノアメリカ、スペイン、その他の旧スペイン植民地などの地域における主要言語で、スペイン語を第一言語とするものが約4億8023万人さらに第二言語として日常使用しているものを含め約5億7700万人の話者がいると推定されている。スペイン語を公用語としている国と地域の数は21以上あり、世界で英語(約80の国・地域)、フランス語(約50の国・地域)、アラビア語(約27の国・地域)に次ぐ4番目に多くの国で使用されている言語である。国際連合においては、英語、フランス語、ロシア語、中国語、アラビア語と並ぶ、6つの公用語の1つである。インターネットにおいては、利用者全体の約8%がスペイン語使用であり、英語(約27%)と中国語(約23%)に次ぐ第三の言語である。(インターネットにおける言語の使用参照)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本では、一般的にスペイン語と呼ばれることが多いが、イスパニア語、カスティージャ語、カスティーリャ語などと呼ばれることもある。日本におけるスペイン語の漢字表記は「西班牙語」。漢字表記を略して西語と表記されることもある。スペイン語において「スペイン語」を意味する名詞は、“castellano”(カステリャーノ、もしくはカステジャーノ) または“español”(エスパニョール)。エスパニョールはスペイン (España) の言葉という意味。カステリャーノはカスティーリャ地方の言語という意味。南米ではカステジャーノということが多く、メキシコなど中米諸国とカリブ海諸国ではエスパニョールしか使われない。カステリャーノという名称は、スペイン国内で地方言語を使う地域においては「自分たちの言葉ではない他所者の言葉」という意味で使われる。南米では逆に「本場カスティーリャから受け継いだ正しいスペイン語」という意味で用いられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "スペイン語はポルトガル語と似ており、かなりの水準で相互意思疎通が可能である(詳細はポルトガル語#スペイン語との比較にて)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "スペイン語は、ローマ帝国の公用語であったラテン語の口語である俗ラテン語を元に、アラビア語などの影響を受けながら発達した言語である。8世紀に北アフリカからイスラム教徒がイベリア半島に侵入し、その後、キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動)が起こるが、この時期に俗ラテン語がロマンス諸語に変化した。このロマンス諸語が後に、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語、フランス語、ルーマニア語などに分かれていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イベリア半島では、アラビア語の影響なども受けながらイベリア系ロマンス語が発達し、カスティーリャ、レオン、ポルトガル、そしてイスラム系タイファ王国などで使用されていた(タイファ王国ではアラビア語のアンダルス方言も広く使用され、その影響を強く受けたロマンス語をモサラベ語と呼ぶ)。やがてレコンキスタの過程でカスティーリャ王国はその中心的勢力となり、スペイン王国の誕生後は事実上統一スペイン国家の国家語となった。このため、現在でもスペイン語のことをカステリャーノ (castellano) と呼ぶ人は多く存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この歴史的経緯により、文法などはラテン語の規則を多く受け継いでいるが、単語はアラビア語から借用したものも多く使われている。(とりわけアンダルシア方言は最も強くアラビア語の影響を受けた)スペイン語の中のアラビア語起源の単語は主に、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "を通じた借用がある。またイベリアのムスリムの間ではスペイン語もアラビア文字で表記されることが少なくなかった。イベリア半島のムスリムはベルベル人が多かったため、ベルベル語の影響も存在している。なお、同じイベリア半島で話されている言語であるバスク語はローマ帝国やケルト人の進出以前から半島で使われていた言語と思われ、スペイン語とは大きく異なる。しかし、スペイン語はバスク語の影響も受けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "スペイン語は国連の6つの公用語(他は英語、フランス語、ロシア語、中国語、アラビア語)の一つであり、スペインを始め、ブラジルを除く中南米18か国、北米1か国、アフリカ2か国、計21か国における公用語である。スペイン語が公用語である国・地域は以下の通り。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、スペインではカタルーニャ州・バレンシア州・バレアレス諸島州ではカタルーニャ語(バレンシア州ではバレンシア語)が、バスク州とナバーラ州の一部ではバスク語が、ガリシア州ではガリシア語が、スペイン語同様に地方公用語として認められている。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "南北アメリカ大陸では、メキシコ以南の21の国・地域のうち16か国がスペイン語を公用語としており、先住民族を含め、人口の大半がスペイン語を話す。加えて、英語を唯一の公用語とするベリーズにおいても最も話されている言語はスペイン語である。カリブ海地域(西インド諸島)でスペイン語を公用語としているのはキューバ、ドミニカ共和国、プエルトリコだが、人口では過半数を占める。これら、メキシコ以南のスペイン語圏と、ポルトガル語を公用語とするブラジル、場合によってはハイチなどのフランス語圏の国・地域を総称してラテンアメリカと呼ぶ。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、米国ではかつて南西部一帯がメキシコ領であった関係でスペイン語の地名が各地に残っており、ニューメキシコ州ではスペイン語が事実上の公用語となっている。中南米のスペイン語圏諸国をルーツに持つ米国人は「ヒスパニック」、もしくは「ラティーノ」(ラテン系米国人)と呼ばれ、メキシコ領時代から存在していたものの、近年急速にヒスパニック移民が増加した。その結果、米国では事実上の公用語の英語に加え、ヒスパニックの割合の高いカリフォルニア州やフロリダ州、テキサス州などではスペイン語が第二言語となりつつある。この状況を受けて、英語が母語の米国人の中でもスペイン語を学ぶ人が急増している。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "フィリピンは1898年までスペイン領であった関係もあり、特に上流階級の間でスペイン語が使われていたが、1986年に公用語から外された。とはいえ、現在でも主にカトリック文化などの関係でスペイン語の単語が多数フィリピン人の日常生活で使われているだけでなく、タガログ語などでスペイン語からの借用語が多くみられるほか、チャバカノ語のようにスペイン語を基にしたクレオール言語も見られる。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "マリアナ諸島のチャモロ語は、スペインによる征服時に言語的にもスペイン語に圧倒された。スペイン語から非常に多くの借用語を取り入れたのみならず、固有の数詞も放棄し、スペイン語由来の数詞を用いている。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "旧スペイン植民地の西サハラやスペインに近いモロッコでも話されている。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "セルバンテス文化センターの2017年の報告書 ”El español: una lengua viva informe 2017” によると、2017年のスペイン語を母語(第一言語)とする人口は約4億7700万人で、その他に約1億人が第2言語としてスペイン語を習得しており、それらの限られた能力のものを含めると約5億7200万人のスペイン語話者がいる。最大の話者人口を抱えているのがメキシコであり、総話者の4人に1人約1億2千万人がメキシコに在住している。続くコロンビア、アルゼンチン、スペインがそれぞれ総話者人口の約1割の約4千万人の話者がいる。米国(アメリカ合衆国)に関しては、同じセルバンテス文化センターが2015年の報告で5260万人の話者という推定を出しておりこれはメキシコに次ぐ人口である。また米国のヒスパニック人口の3分の2がメキシコ系であり、それらを含めると総話者に占めるメキシコ系話者の比率は3人に1人となる。", "title": "話者分布" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "かつてはアラゴン地方(アラゴン語)、カタルーニャ地方(カタルーニャ語)、バレアレス諸島(カタルーニャ語)、バレンシア地方(バレンシア語)、アストゥリアス地方(アストゥリアス語)、レオン地方(レオン語)、ガリシア地方(ガリシア語)の言語がスペイン語(カスティーリャ語)の方言とされた時期もあったが、現在では、カタルーニャ語、バレンシア語、ガリシア語はいずれも独立した言語であると考えられており、それぞれの地方において公用語とされている。アラゴン語、アストゥリアス語、レオン語もカスティーリャ語から派生した言語ではなく、その他のロマンス語同様、俗ラテン語が変化して今日に至っている言語であり、言語学的には別の言語であるが、カスティーリャ語の方言の扱いを受けることが多いのが現状である。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "語頭にあった f の多くは h になり、その後発音上は消滅。強勢のある e, o の多くは ie, ue に二重母音化(音割れ)。-ct- の多くは -ch- に変化。-ll- はフランス語の -ill-, イタリア語の -gli- に対応する。cl-, pl- の多くは ll に変化。現在の音素 /θ/ は古くはç /t͡s/, z /d͡z/ であり、別音素だった。語頭の s + 閉鎖音は前に e が付加(prótesis)され、esc-/esqu-, esp-, est- となった。母音間の d は消滅していることが多い。語頭にあるあとに母音が続く i と母音にはさまれた強勢のない i は y に変化した。y は本来半母音だったが、摩擦音で発音されるのが一般的になった。二重母音における /-i/ の音は英語のそれと同じように語頭や語中では -i, 語末では -y とつづる(他のロマンス系言語の多くは y は外来語以外に用いない)。v は古くは /v/ と発音したが、b と同じ /b/ に変化し、その後、借用語において原語の v のつづりを b に置き換える傾向がある。一方、w は v に置き換えられることがある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "スペインで話されているスペイン語とラテンアメリカのスペイン語では、発音、アクセントが若干異なる。それ以外にも、地方により発音に差異が出ることがある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "母音は a, e, i, o, u の5つで、日本語とほぼ同じである。ただし、u は標準日本語の「う」よりも口をすぼめて発音する。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "長音、促音は無いが、アクセントのある母音はやや長めに発音されることが多いので日本語話者には長音に聞こえることがある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "母音のうち a, e, o を強母音、i (語末の y を含む)、u を弱母音とする。強母音 + 弱母音、弱母音 + 強母音、弱母音 + 弱母音の連続は二重母音、弱母音 + 強母音 + 弱母音の連続は三重母音となり、いずれも一音節で発音する。その場合の弱母音は、スペイン語学では音節主音の前の位置にある場合は半子音 (semiconsonante)、音節主音の後ろの場合は半母音 (semivocal)と呼んで区別する。国際音声記号 (IPA) では半子音の i は [j](ヨッド)、u は [w](ワウ)、また半母音はそれぞれ [i̯]、[u̯] で表記する。弱母音 + 弱母音の場合、音節主音は後の母音である。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "強母音 + 強母音の連続は母音接続で、二重母音とはならず、leer のように同じ強母音字が連続する場合を含め、別の音節として発音する。また、弱母音字でもアセント (acento)がある場合 (í, ú) は強母音として扱う。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "後述するように gue, gui, que, qui の u は黙字であり、二重母音の一部ではない。quiero 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マイアミをスペイン語読みでミアミと発音)。また、隣接するポルトガル語はスペイン語とよく似ている一方、つづりの発音の違いやアクセントの規則の違い、独特の音韻変化などがあるため、しばしばアクセント記号が付加され、スペイン語式に読み換えられる。例えばリオデジャネイロ(Rio de Janeiro; ブラジルポルトガル語の発音は「ヒウ・ヂ・ジャネイル」に近い)は Rio(川の意)が対応するスペイン語に置き換えられRío de Janeiro と表記し、「リオ・デ・ハネイロ」と発音する。また、サンパウロ(São Paulo)については、対応するスペイン語形のサン・パブロ(San Pablo)で呼ばれるのが普通である。語頭の「s+子音」は /s/ の前に /e/ を付加して発音することが多い(付加しない人もいる)。例えば Spain は /esˈpein/ または /ˈspein/ と発音する。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "二重音字のchとllは1994年にスペイン語アカデミー協会(英語版)において独立した一字としての扱いをやめることが決議され、2010年にはスペイン王立アカデミー発行のスペイン語正書法(英語版)においても廃止された。", "title": "アルファベット" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "Ñは現在でも独立した文字として扱われており、辞書の索引でもNとは区別されているほか、スペイン語キーボードでは専用のキーが存在する。", "title": "アルファベット" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "すでに述べられている通り、rは通常語頭を除き歯茎はじき音[ɾ]で発音されるが、アルファベットとして発音する場合、歯茎ふるえ音[r]が用いられる。また、語頭の歯茎ふるえ音[r]はr一文字で表記される関係上、rrで始まる単語は存在しないため、ch, llと異なり辞書の索引に見出しとして載りえず、公式に一文字として扱われたことはない。", "title": "アルファベット" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "助動詞haberの活用形は、過去分詞とあわせて完了時制をつくる。下記の表では、「sido」が動詞serの過去分詞形。", "title": "文法の特徴" } ]
スペイン語は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語。俗ラテン語から発展して形成されたロマンス諸語の一つ。略して西語(せいご)とも書く。
{{Infobox Language|name = スペイン語 | nativename = español | pronunciation = {{IPA|espaˈɲol}} | familycolor = インド・ヨーロッパ | states = 話者人口上位5か国、[[メキシコ]]、[[コロンビア]]、[[アルゼンチン]]、[[スペイン]]、[[米国]]。スペイン語を公用語とする国は21カ国。 | region = [[イスパノアメリカ]]、[[イベリア半島]]、その他の旧スペイン[[植民地]] | speakers = 約4億8023万人(母国語、第一言語)、その他の西語話者を含め約5億7700万人<ref name=cervantes2018>セルバンテス文化センター {{PDFlink|[https://cvc.cervantes.es/lengua/espanol_lengua_viva/pdf/espanol_lengua_viva_2018.pdf ”El español: una lengua viva informe 2018”]}}</ref> | rank = 2-3(基準によって順位は異なる) | fam1 = [[インド・ヨーロッパ語族]] | fam2 = [[イタリック語派]] | fam3 = [[ロマンス諸語]] | fam4 = [[西イタロ語]] | fam5 = 西部 | fam6 = [[ガロ・イベリア語]] | fam7 = [[イベロ・ロマンス語]] | fam8 = [[西イベリア語]] | nation = [[#話者分布|下記参照]] | agency = {{flagicon|ESP}} [[スペイン王立アカデミー]]([[:es:Real Academia Española|Real Academia Española]], RAE; [http://www.rae.es/], [[スペイン語アカデミー協会]] ([[:es:Asociación de Academias de la Lengua Española|Asociación de Academias de la Lengua Española]], ASALE; [http://www.asale.org/]) | iso1 = es | iso2 = spa | iso3 = spa | sil = SPN}} '''スペイン語'''(スペインご、西:{{audio|es-us-espanol.ogg|{{lang|es|español}}|help=no}}、<small>エスパニョール</small>)は、[[インド・ヨーロッパ語族]][[イタリック語派]]に属する[[言語]]。[[俗ラテン語]]から発展して形成された[[ロマンス諸語]]の一つ。略して'''西語'''(せいご)とも書く。 == 概要 == {{色}} [[ファイル:Castellano-Español.png|thumb|right|{{legend|#FF0000|'''castellano(カステリャーノ)'''と呼ばれている国・地域}} {{legend|#0000FF|'''español(エスパニョール)'''と呼ばれている国・地域}} ]] スペイン語は、アメリカ州のうち[[イスパノアメリカ]]、[[スペイン]]、その他の旧スペイン植民地などの地域における主要言語で、スペイン語を第一言語とするものが約4億8023万人さらに第二言語として日常使用しているものを含め約5億7700万人の話者がいると推定されている<ref name=cervantes2018/>。スペイン語を公用語としている国と地域の数は21以上あり、世界で[[英語]](約80の国・地域)、[[フランス語]](約50の国・地域)、[[アラビア語]](約27の国・地域)に次ぐ4番目に多くの国で使用されている言語である。[[国際連合]]においては、英語、フランス語、[[ロシア語]]、[[中国語]]、[[アラビア語]]と並ぶ、6つの公用語の1つである。[[インターネット]]においては、利用者全体の約8%がスペイン語使用であり、[[英語]](約27%)と[[中国語]](約23%)に次ぐ第三の言語である<ref>{{cite web |url=http://www.internetworldstats.com/stats7.htm |title=Internet World Users by Language |date=2010 |publisher=Miniwatts Marketing Group|accessdate=2012-06-09}}</ref>。([[インターネットにおける言語の使用]]参照) 日本では、一般的にスペイン語と呼ばれることが多いが、'''イスパニア語'''<ref>{{Cite web|和書|title=イスパニア語の紹介|イスパニア語|上智で学べる外国語|上智大学 言語教育研究センター|url=http://www.sophia-cler.jp/study/es/|website=上智大学 言語教育研究センター|accessdate=2020-09-06|language=ja}}</ref>、'''カスティージャ語'''<ref>{{Cite web|和書|title=久保建英は「ほぼ完璧」、日本人サッカー選手の明暗分ける語学力事情|url=https://diamond.jp/articles/-/210160?page=2|website=ダイヤモンド・オンライン|accessdate=2020-09-06}}</ref>、'''カスティーリャ語'''<ref>{{Cite web|和書|title=スペインは多言語の国 {{!}} 大阪・神戸でスペイン語を学ぶなら、スペイン語教室 ADELANTE|url=https://adelante.jp/noticias/aprender/idioma-oficial-de-espana/|website=スペイン語教室ADELANTE|date=2018-06-01|accessdate=2020-09-06|language=ja}}</ref>などと呼ばれることもある。日本におけるスペイン語の漢字表記は「西班牙語」。漢字表記を略して'''西語'''と表記されることもある。スペイン語において「スペイン語」を意味する名詞は、“{{lang|es|castellano}}”(カステリャーノ、もしくはカステジャーノ{{Efn|発音については[[ジェイスモ]]を参照。}}) または“{{lang|es|español}}”(エスパニョール)。エスパニョールはスペイン ({{lang|es|España}}) の言葉という意味。カステリャーノは[[カスティーリャ]]地方の言語という意味。[[南アメリカ|南米]]ではカステジャーノということが多く、[[メキシコ]]など[[中央アメリカ|中米]]諸国と[[カリブ海]]諸国ではエスパニョールしか使われない。カステリャーノという名称は、スペイン国内で地方言語を使う地域においては「自分たちの言葉ではない他所者の言葉」という意味で使われる。南米では逆に「本場[[カスティーリャ]]から受け継いだ正しいスペイン語」という意味で用いられる。 スペイン語は[[ポルトガル語]]と似ており、かなりの水準で相互意思疎通が可能である(詳細は[[ポルトガル語#スペイン語との比較]]にて)。 == 歴史 == [[File:Linguistic map Southwestern Europe-II.gif|thumb|upright=1.25| [[イベリア半島]]周辺の言語分布の変遷<br>{{legend|#B3A34A|スペイン語}} ]] スペイン語は、[[ローマ帝国]]の公用語であった[[ラテン語]]の[[口語]]である[[俗ラテン語]]を元に、[[アラビア語]]などの影響を受けながら発達した言語である。[[8世紀]]に北[[アフリカ]]から[[イスラム教|イスラム教徒]]が[[イベリア半島]]に侵入し、その後、[[キリスト教|キリスト教徒]]による[[レコンキスタ]](再征服運動)が起こるが、この時期に俗ラテン語が[[ロマンス諸語]]に変化した。このロマンス諸語が後に、[[ポルトガル語]]、スペイン語、[[イタリア語]]、[[フランス語]]、[[ルーマニア語]]などに分かれていく。 イベリア半島では、[[アラビア語]]の影響なども受けながらイベリア系ロマンス語が発達し、カスティーリャ、レオン、ポルトガル、そしてイスラム系タイファ王国などで使用されていた(タイファ王国ではアラビア語のアンダルス方言も広く使用され、その影響を強く受けたロマンス語を[[モサラベ語]]と呼ぶ)。やがてレコンキスタの過程で[[カスティーリャ王国]]はその中心的勢力となり、スペイン王国の誕生後は事実上統一スペイン国家の国家語となった。このため、現在でもスペイン語のことを'''カステリャーノ''' ({{lang|es|castellano}}) と呼ぶ人は多く存在する。 この歴史的経緯により、文法などはラテン語の規則を多く受け継いでいるが、単語は[[アラビア語]]から借用したものも多く使われている。(とりわけアンダルシア方言は最も強くアラビア語の影響を受けた)スペイン語の中の[[アラビア語]]起源の単語は主に、 * [[アラビア語]]からの直接借用(とりわけ[[アル・アンダルス=アラビア語|アル=アンダルス・アラビア語]]) * [[モサラベ語]](イスラム支配下の[[アル=アンダルス]]で話されていたロマンス語、アラビア、ヘブライ文字で書かれた) を通じた借用<!--このムデハル語なる術語はスペイン語史を扱った文献(西語、日本語)には一切出てこないため(いまのところ)一旦保留* [[ムデハル語]](キリスト教系王国内のイスラム教徒のロマンス語、アラビア文字で書かれた)を通じた借用。 の三種類-->がある。またイベリアのムスリムの間ではスペイン語も[[アラビア文字]]で表記されることが少なくなかった。イベリア半島のムスリムはベルベル人が多かったため、ベルベル語の影響も存在している。なお、同じイベリア半島で話されている言語である[[バスク語]]はローマ帝国や[[ケルト人]]の進出以前から半島で使われていた言語と思われ、スペイン語とは大きく異なる。しかし、スペイン語はバスク語の影響も受けている。 == 話者分布 == [[File:Knowledge of Spanish EU map.svg|right|thumb|'''[[欧州連合|EU]]加盟国におけるスペイン語への理解度'''<br />濃黄色が[[母語]]地域、以下10 - 19%、5 - 9%、5%未満(灰色はEU非加盟国・地域)]] [[File:Hispanophone global world map language 2.svg|thumb|right|upright=1.5|'''スペイン語圏の分布'''{{legend|#000080|スペイン語を公用語とする国や地域}}{{legend|#0000ff|公用語ではないが25%以上の割合で話されている国や地域}}{{legend|#0080ff|10 - 20%の割合で話されている国や地域}}{{legend|#78c0ff|5 - 9.9%の割合で話されている国や地域}}]] スペイン語は[[国際連合|国連]]の6つの[[公用語]](他は[[英語]]、[[フランス語]]、[[ロシア語]]、[[中国語]]、[[アラビア語]])の一つであり、[[スペイン]]を始め、[[ブラジル]]を除く[[ラテンアメリカ|中南米]]18か国、[[北アメリカ|北米]]1か国、[[アフリカ]]2か国、計21か国における[[公用語]]である。スペイン語が公用語である国・地域は以下の通り{{Efn|スペイン語以外にも公用語がある国・地域を含む。}}。 * [[ヨーロッパ]] ** {{ESP}} * [[北アメリカ]] ** {{MEX}} * [[中央アメリカ]] ** {{GTM}} ** {{HND}} ** {{SLV}} ** {{NIC}} ** {{CRI}} ** {{PAN}} * [[カリブ海]]地域 ** {{CUB}} ** {{DOM}} ** {{PRI}}(米国自由連合州){{Efn|name="PuertoRico"|プエルトリコでは英語も公用語。しかし、島の住人の大多数は英語をほとんど使わず、スペイン語しか話さない。メディアを含め日常生活ではスペイン語が使われている。}} * [[南アメリカ]] ** {{VEN}} ** {{COL}} ** {{ECU}} ** {{PER}} ** {{BOL}} ** {{PRY}} ** {{CHL}} ** {{ARG}} ** {{URY}} * [[アフリカ]] ** {{GNQ}} ** {{SADR}} なお、スペインでは[[カタルーニャ州]]・[[バレンシア州]]・[[バレアレス諸島|バレアレス諸島州]]では[[カタルーニャ語]](バレンシア州では[[バレンシア語]])が、[[バスク州]]と[[ナバーラ州]]の一部では[[バスク語]]が、[[ガリシア州]]では[[ガリシア語]]が、スペイン語同様に地方公用語として認められている。 南北[[アメリカ大陸]]では、メキシコ以南の21の国・地域のうち16か国がスペイン語を公用語としており、[[インディオ|先住民族]]を含め、人口の大半がスペイン語を話す<!-- パラグアイで最も話者人口が多いのは2015年時点でもおそらくグアラニー語だが、人口の約90%はスペイン語も話す。パラグアイ以外の15か国ではスペイン語話者が最多のはず。 -->。加えて、英語を唯一の公用語とする[[ベリーズ]]においても最も話されている言語はスペイン語である。<!-- ウルグアイとの国境周辺を除き、[[ブラジル]]でスペイン語が「広く話されている」かどうかは疑わしい。[[第二言語]]人口の絶対数は多いが、人口に占める割合ではフランスなどより低いようである。 -->[[カリブ海]]地域([[西インド諸島]])でスペイン語を公用語としているのはキューバ、ドミニカ共和国、プエルトリコ{{Efn|name="PuertoRico"}}だが、人口では過半数を占める。これら、メキシコ以南のスペイン語圏と、ポルトガル語を公用語とする[[ブラジル]]、場合によっては[[ハイチ]]などのフランス語圏の国・地域を総称して[[ラテンアメリカ]]と呼ぶ{{Efn|「ラテンアメリカ」の定義は一意ではなく、さらに英語圏や[[オランダ語]]圏の国・地域を含むメキシコ以南を総称する場合もある。<!-- ブリタニカの日本語版と英語版、OED、いくつかの英和辞典・国語辞典を参照したが、定義にかなり差があり、かならずしも[[ラテンアメリカ]]、[[en:Latin America]]、[[es:América Latina]]の内容とは一致しない。 -->}}。 また、[[アメリカ合衆国|米国]]ではかつて南西部一帯がメキシコ領であった関係でスペイン語の地名が各地に残っており、[[ニューメキシコ州]]ではスペイン語が事実上の公用語となっている。中南米のスペイン語圏諸国をルーツに持つ米国人は「[[ヒスパニック]]」、もしくは「ラティーノ」([[ラテン系アメリカ人|ラテン系米国人]]){{Efn|ラティーノには[[ブラジル]]系米国人を含む。}}と呼ばれ、メキシコ領時代から存在していたものの、近年急速にヒスパニック移民が増加した。その結果、米国では事実上の公用語の英語に加え、ヒスパニックの割合の高い[[カリフォルニア州]]や[[フロリダ州]]、[[テキサス州]]などではスペイン語が第二言語となりつつある。この状況を受けて、英語が母語の米国人の中でもスペイン語を学ぶ人が急増している。 [[フィリピン]]は[[1898年]]までスペイン領であった関係もあり、特に上流階級の間でスペイン語が使われていたが、[[1986年]]に公用語から外された。とはいえ、現在でも主に[[カトリック教会|カトリック]]文化などの関係でスペイン語の単語が多数フィリピン人の日常生活で使われているだけでなく、[[タガログ語]]などでスペイン語からの[[借用語]]が多くみられるほか、[[チャバカノ語]]のようにスペイン語を基にしたクレオール言語も見られる。 [[マリアナ諸島]]の[[チャモロ語]]は、スペインによる征服時に言語的にもスペイン語に圧倒された。スペイン語から非常に多くの[[借用語]]を取り入れたのみならず、固有の[[数詞]]も放棄し、スペイン語由来の数詞を用いている。 旧スペイン植民地の[[西サハラ]]やスペインに近い[[モロッコ]]でも話されている。 === スペイン語話者数の推定 === [[セルバンテス文化センター]]の2017年の報告書 ”El español: una lengua viva informe 2017” によると、2017年のスペイン語を母語(第一言語)とする人口は約4億7700万人で、その他に約1億人が第2言語としてスペイン語を習得しており、それらの限られた能力のものを含めると約5億7200万人のスペイン語話者がいる。最大の話者人口を抱えているのがメキシコであり、総話者の4人に1人約1億2千万人がメキシコに在住している。続くコロンビア、アルゼンチン、スペインがそれぞれ総話者人口の約1割の約4千万人の話者がいる<ref name=cervantes2017>セルバンテス文化センター {{PDFlink|[https://cvc.cervantes.es/lengua/espanol_lengua_viva/pdf/espanol_lengua_viva_2017.pdf ”El español: una lengua viva informe 2017”]}}</ref>。米国(アメリカ合衆国)に関しては、同じセルバンテス文化センターが2015年の報告で5260万人の話者という推定を出しておりこれはメキシコに次ぐ人口である<ref name="nypost.com">New York Post [https://nypost.com/2015/06/29/us-has-more-spanish-speakers-than-spain/ US has more Spanish speakers than Spain]</ref>。また米国のヒスパニック人口の3分の2がメキシコ系であり、それらを含めると総話者に占めるメキシコ系話者の比率は3人に1人となる。{{see also|アメリカ合衆国の人種構成と使用言語}} {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:1em auto; font-size:small" |+ スペイン語の話者数(2017年)、西語話者(第一言語または相当)、限定的話者、(百万人)<ref name=cervantes2017/> !国 !人口 !話者率 !西語<br>話者 !限定話者 !備考 |- |メキシコ |123.52 |96.8% |119.57 |3.95 |スペイン語話者の4人に1人がメキシコ国内のメキシコ人、メキシコ系アメリカ人を含めると総話者に占める比率は3人に1人となる。 |- |コロンビア |49.25 |99.2% |48.85 |0.39 |総話者数の約1割である。 |- |アルゼンチン |44.04 |98.1% |43.21 |0.84 | |- |米国{{Efn|国としての公用語の設定は無い。}} |325.70 |13.2% |42.93 |15.08 |プエルトリコは別計上。セルバンテスの2015年の報告では米国のスペイン語話者は5260万人と推定しており、メキシコに次ぐ第2位の話者数となる<ref name="nypost.com"/>。 |- |スペイン |46.52 |92.1% |42.85 |3.68 | |- |ペルー |31.83 |86.6% |27.56 |4.26 | |- |ベネズエラ |31.43 |97.3% |30.58 |0.85 | |- |チリ |18.14 |95.9% |17.40 |0.74 | |- |エクアドル |16.78 |95.7% |16.06 |0.07 | |- |グアテマラ |16.54 |78.3% |12.95 |3.59 | |- |キューバ |11.42 |99.7% |11.39 |0.03 | |- |ボリビア |11.15 |83.0% |9.25 |1.89 | |- |ドミニカ共和国 |10.17 |97.6% |9.93 |0.02 | |- |ホンジュラス |8.89 |98.5% |8.75 |0.12 | |- |パラグアイ |6.95 |67.9% |4.72 |2.23 | |- |style="white-space:nowrap" | エルサルバドル |6.35 |99.7% |6.33 |0.00 | |- |ニカラグア |6.22 |97.1% |6.04 |0.18 | |- |コスタリカ |4.95 |99.3% |4.91 |0.03 | |- |パナマ |4.10 |91.9% |3.77 |0.33 | |- |プエルトリコ |3.41 |99.0% |3.38 |0.03 |米国領 |- |ウルグアイ |3.46 |98.4% |3.40 |0.06 | |- |赤道ギニア |0.85 |74.0% |誤植 |0.22 |誤植: 原典に誤植あり。ウルグアイの話者数が反復している。 |- |小計 |455.93 |94.6% |431.51 |24.42 |米国以外の西語を公用語とする国の合計 |- |合計 |781.65 |60.6% |473.81 |38.62 |米国も含む |- |} {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:1em auto; font-size:small" |+ スペイン語以外が公用語である国におけるスペイン語の話者数(2017年)<br>西語話者(第一言語または相当)、限定的話者、(百万人)<ref name=cervantes2017/> !国 !人口 !話者率 !西語<br>話者 !限定話者 !備考 |- |アルジェリア | | |0.18 |0.05 | |- |オーストラリア | | |0.12 |0.38 | |- |ベリーズ | | |0.17 |0.02 | |- |ブラジル | | |0.46 |0.10 | |- |カナダ | | |0.41 |0.29 | |- |イスラエル | | |0.13 |0.05 | |- |日本 | | |0.11 | | |- |スイス | | |0.12 | | |- |フィリピン | | |0.003 |0.46 |母語レベルの話者の数は少ないが、スペインは旧宗主国であり学習者の数は多い。 |- |モロッコ | | |0.007 |1.53 |母語レベルの話者の数は少ないが、隣国であり限定的な話者の数は多い。 |- |style="white-space:nowrap" | EU(スペイン以外) | | |1.40 |30.98 | |- |その他 | | |0.13 |0.40 | |- |合計 | | |3.23 |34.24 | |- |} == 方言 == [[ファイル:Spain languages.svg|thumb|right|alt=スペイン国内の言語分布|{{Legend|#DFF1B5|[[カスティーリャ語|'''スペイン語'''('''カスティーリャ語''')]]、スペイン全土で公用語}} {{Legend|#F59152|'''[[カタルーニャ語]]'''('''[[バレンシア語]]を含む''')、地方公用語}} {{Legend|#818181|'''[[バスク語]]'''、地方公用語}} {{Legend|#2784BB|'''[[ガリシア語]]'''、地方公用語}} {{Legend|#D81215|'''[[アラン語]]'''、地方公用語}} {{Legend|#92CCA9|'''[[アストゥリアス語]]'''、'''[[レオン語]]'''}} {{Legend|#FEDF9A|'''[[アラゴン語]]'''}} ]] * スペインにおける方言 ** スペイン語北部方言([[:es:Dialecto castellano septentrional|Dialecto castellano septentrional]]) *** カスティーリャ方言 *** レオン方言([[:es:Castellano leonés|Castellano leonés]]) *** ラ・リオハ方言([[:es:Dialecto riojano|Dialecto riojano]]) *** [[アラゴン方言]]([[アラゴン語]]とは別) ** スペインの二言語地域におけるスペイン語バリエーション *** ガリシア方言([[ガリシア語]])([[:es:Variedad del castellano de Galicia|Variedad del castellano de Galicia]]) *** カタルーニャ方言([[カタルーニャ語]])([[:es:Variedad del idioma español en territorios catalanófonos|Variedad del idioma español en territorios catalanófonos]]、[[:es:Idioma español en Cataluña|Idioma español en Cataluña]]) *** バレンシア方言([[バレンシア語]])([[:es:Castellano de la Comunidad Valenciana|Castellano de la Comunidad Valenciana]]、[[:es:Castellano churro|Castellano churro]]) ** スペイン語南部方言([[:es:Dialectos castellanos meridionales|Dialectos castellanos meridionales]]) *** マドリード方言([[:es:Castellano de Madrid|Castellano de Madrid]]) *** ラ・マンチャ方言([[:es:Dialecto manchego|Dialecto manchego]]) *** ムルシア方言([[:es:Dialecto murciano|Dialecto murciano]]) *** [[アンダルシア方言]]([[:es:Dialecto manchego|Dialecto manchego]]) *** エストゥレマドゥーラ方言([[:es:Dialecto extremeño|Dialecto extremeño]]) *** カナリア方言([[:es:Dialecto canario|Dialecto canario]]) * {{anchors|ラテンアメリカスペイン語|ラテンアメリカ・スペイン語}}[[ラテンアメリカ]]における各方言([[:es:Español de América|Español de América]]) ** [[アンデス・スペイン語]] ** [[カリブ・スペイン語]] ** [[リオプラテンセ・スペイン語]] ** メキシコ・スペイン語([[:es:Español mexicano|Español mexicano]]) かつてはアラゴン地方([[アラゴン語]])、カタルーニャ地方([[カタルーニャ語]])、バレアレス諸島(カタルーニャ語)、バレンシア地方([[バレンシア語]])、アストゥリアス地方([[アストゥリアス語]])、レオン地方([[レオン語]])、ガリシア地方([[ガリシア語]])の言語がスペイン語(カスティーリャ語)の方言とされた時期もあったが、現在では、カタルーニャ語、バレンシア語、ガリシア語はいずれも独立した言語であると考えられており{{Efn|ただし、バレンシア語を独立した言語とするか、カタルーニャ語の方言とするかについては議論がある。}}、それぞれの地方において公用語とされている。アラゴン語、アストゥリアス語、レオン語もカスティーリャ語から派生した言語ではなく、その他のロマンス語同様、俗ラテン語が変化して今日に至っている言語であり、言語学的には別の言語であるが、カスティーリャ語の方言の扱いを受けることが多いのが現状である。 == 音韻 == === 音韻対応 === 語頭にあった f の多くは h になり、その後発音上は消滅{{Efn|例: * hija : 娘(イハ) &#x3C; {{lang-la-short|filia}} ({{lang-fr-short|fille}}, {{lang-it-short|figlia}}) * harina : 小麦粉(アリナ) &#x3C; {{lang-la-short|farina}} ({{lang-fr-short|フランス語 farine}},{{lang-it-short|イタリア語 farina}}) * hacer : 作る・する(アセル) &#x3C; {{lang-la-short|facere}} ({{lang-fr-short|フランス語 faire}}, {{lang-it-short|イタリア語 facere}})}}。強勢のある e, o の多くは ie, ue に[[二重母音化]]([[音割れ (言語学)|音割れ]])。-ct- の多くは -ch- に変化。-ll- はフランス語の -ill-, イタリア語の -gli- に対応する。cl-, pl- の多くは ll に変化。現在の音素 {{ipa|θ}} は古くはç {{ipa|t͡s}}, z {{ipa|d͡z}} であり、別音素だった。語頭の s + 閉鎖音は前に e が付加(''prótesis'')され、esc-/esqu-, esp-, est- となった。母音間の d は消滅していることが多い。語頭にあるあとに母音が続く i と母音にはさまれた強勢のない i は y に変化した。y は本来半母音だったが、摩擦音で発音されるのが一般的になった。二重母音における {{ipa|-i}} の音は英語のそれと同じように語頭や語中では -i, 語末では -y とつづる(他のロマンス系言語の多くは y は外来語以外に用いない)。v は古くは {{ipa|v}} と発音したが、b と同じ {{ipa|b}} に変化し、その後、借用語において原語の v のつづりを b に置き換える傾向がある。一方、w は v に置き換えられることがある。 スペインで話されているスペイン語とラテンアメリカのスペイン語では、発音、アクセントが若干異なる。それ以外にも、地方により発音に差異が出ることがある。 === 母音 === 母音は a, e, i, o, u の5つで、日本語とほぼ同じである。ただし、u は標準日本語の「う」よりも口をすぼめて発音する。 長音、促音は無いが、アクセントのある母音はやや長めに発音されることが多いので日本語話者には長音に聞こえることがある。 ==== 二重母音・三重母音 ==== 母音のうち a, e, o を'''強母音'''、i (語末の y を含む)、u を'''弱母音'''とする。強母音 + 弱母音、弱母音 + 強母音、弱母音 + 弱母音の連続は[[二重母音]]、弱母音 + 強母音 + 弱母音の連続は三重母音となり、いずれも一音節で発音する。その場合の弱母音は、スペイン語学では音節主音の前の位置にある場合は[[半子音]] (semiconsonante)<ref>{{cite web|url=http://lema.rae.es/drae/?val=semiconsonante|title=Semiconsonante, Diccionario de la lengua española|publisher=Real Academia Española|language=スペイン語|accessdate=2012-10-12}}</ref>、音節主音の後ろの場合は[[半母音]] (semivocal)<ref>{{cite web|url=http://lema.rae.es/drae/?val=semivocal|title=Semivocal, Diccionario de la lengua española|publisher=Real Academia Española|language=スペイン語|accessdate=2012-10-12}}</ref>と呼んで区別する。[[国際音声記号]] (IPA) では半子音の i は [[有声両唇軟口蓋接近音|{{IPA|j}}]](ヨッド)<ref>{{cite web|url=http://lema.rae.es/drae/?val=yod|title=Yod, Diccionario de la lengua española|publisher=Real Academia Española|language=スペイン語|accessdate=2012-10-12}}</ref>、u は [[有声両唇軟口蓋接近音|{{IPA|w}}]](ワウ)<ref>{{cite web|url=http://lema.rae.es/drae/?val=wau|title=Wau, Diccionario de la lengua española|publisher=Real Academia Española|language=スペイン語|accessdate=2012-10-12}}</ref>、また半母音はそれぞれ {{IPA|i̯}}、{{IPA|u̯}} で表記する<!-- IPAで音節主音の後の半母音を [j]、[w] で表記することはないと思われる。半子音を[i̯]、[u̯]で表記する用例の有無は未確認(発音学においては古い表記法らしい)。 --><ref>{{Cite book |last=Lapesa |first=Rafael |author= |authorlink= |coauthors= |year=1981 |edition=第9版 |title=Historia de la lengua española |series=Biblioteca Románica Hispánica |language=スペイン語 |publisher=Gredos |location=Madrid |page=10 |id= |isbn=84-249-0072-3 }}</ref>。弱母音 + 弱母音の場合、音節主音は後の母音である。 強母音 + 強母音の連続は[[母音接続]]で、二重母音とはならず、{{lang|es|leer}} のように同じ強母音字が連続する場合を含め{{Efn|{{lang|es|antiimperialismo}} のように同じ弱母音字が連続する場合(複合語や外来語など)は、かならずしも明確に分節しない。}}、別の音節として発音する。また、弱母音字でも[[アキュート・アクセント|アセント]] ({{lang|es|acento}}){{Efn|name="tilde"|スペイン語では他のアクセント符号を用いないので、単に「アセント」、もしくは {{lang|es|[[:es:acento ortográfico|acento ortográfico]]}} (アセント・[[正書法|オルトグラフィコ]])と呼ぶ。一方、同じつづりで意味の異なる語を区別するために付加するアクセント符号を {{lang|es|acento ortográfico}} と区別する場合には {{lang|es|[[:es:acento diacrítico|acento diacrítico]]}} (アセント・[[ダイアクリティカルマーク|ディアクリティコ]])と呼ぶ。アセント符号(´)と[[チルダ|ティルデ]](~)は似た字形になりやすく、両方を「ティルデ」と呼ぶことが一般的である。}}がある場合 (í, ú) は強母音として扱う。 後述するように gue, gui, que, qui の u は[[黙字]]であり、二重母音の一部ではない。{{lang|es|quiero}} のようにさらに母音字が続く場合は、黙字の u を無視したうえで、上記の規則に従う。[[トレマ|ディエレシス]](分音記号、クレマ)がある güe, güi の üe, üi は二重母音である。 ==== アクセント ==== スペイン語の[[アクセント]]は[[強勢]]アクセントである。 * アセント (´){{Efn|name="tilde"}}がある語は、その音節に強勢がある。 * アセントがない語の場合、 ** 語末が母音か n, s のときは、最後から2番目の音節に強勢がある ({{lang|es|grave}}, {{lang|es|llana}}, {{lang|es|paroxítona}})。 ** 語末が n, s 以外の子音(y を含む)ときは、最終音節に強勢がある ({{lang|es|aguda}}, {{lang|es|oxítona}})。 * 語尾が {{lang|es|-mente}} の副詞では、{{lang|es|-mente}} を取り去った語に上記規則に従って第一強勢が、{{lang|es|-mente}} の {{lang|es|-men-}} に第二強勢(第一強勢より弱い)がある。例: {{lang|es|últimamente}} ({{lang|es|última-}}) {{IPA|ˈultimaˌmente}}, {{lang|es|solamente}} ({{lang|es|sola-}}) {{IPA|ˈsolaˌmente}}, {{lang|es|igualmente}} ({{lang|es|igual-}}) {{IPA|iˈɣwalˌmente}} === 子音 === 子音字 b, ch, d, f, m, n, p, r, s, y は[[ラテン文字|ローマ字]]の日本語読みとほぼ同様の感覚で単語を読むことができる。一方、c, g, h, j, l (ll), q, v, x, z はローマ字読みとかならずしも一致しない。子音の発音には地域差があり、ここで示したのは比較的広く用いられているものである。 * {{ipa|b}}: '''b'''、'''v''' は同じ発音で、どちらもバ行音 {{ipa|b}}で発音される。 ** ただし、イタリア系移民の多い[[アルゼンチン]]の一部などでは v を [[有声唇歯摩擦音|{{IPA|v}}]]で発音することがある。 ** 発声の始めと [[両唇鼻音|{{IPA|m}}]] の後では通常のバ行音 [[有声両唇破裂音|{{IPA|b}}]]。 ** それ以外の位置では[[摩擦音]]化し、[[有声両唇摩擦音|{{IPA|β}}]]<ref name="DiccionarioDelEspañolModerno">{{Cite book|和書|editor = 山田善郎他編 |others = 宮城昇・山田善郎監修|title = 現代スペイン語辞典 |edition = 改訂版 |date = 1999-01 |publisher = 白水社 |isbn = 4-560-00046-8 |chapter = 文法概要 1 文字と発音}}実際は電子版による。</ref>。 ** [[無声歯茎摩擦音|{{IPA|s}}]] の前では発音しないことがある<ref name="DiccionarioDelEspañolModerno" />。 * {{ipa|k}}: '''ca''', '''co''', '''cu''', '''que''', '''qui''', および音節末の '''c''' はカ行音 [[無声軟口蓋破裂音|{{IPA|k}}]]。 ** que, qui は「ケ」「キ」と発音し、「クエ」「クイ」にはならない。u を発音するためには '''cue''', '''cui''' とつづる。 * {{ipa|θ}}: '''ce''', '''ci''', '''za''', '''zo''', '''zu''', および音節末の '''z''' は、スペインの標準語では [[無声歯摩擦音|{{IPA|θ}}]]。英語の[[無声音|無声]]の th 音よりも摩擦が強い<ref name="DiccionarioDelEspañolModerno" />。スペイン南部や中南米では[[セセオ]]により s との区別が失われ、通常のサ行音 [[無声歯茎摩擦音|{{IPA|s}}]]。 ** ze、ziのつづりはほとんど使わない<ref>[http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/es/pmod/practical/01-16-01.php 東京外国語大学言語モジュール]</ref>。 ** これらの音は、15世紀以前はツァ行音 [[無声歯茎破擦音|{{IPA|ts}}]] で発音していた。 * '''ch''': チャ行音 [[無声後部歯茎破擦音|{{IPA|ʧ}}]]。 ** カリブ諸国などではチャ行音よりもシャ行音に近い発音になることがある。 * '''d''': ダ行音 {{ipa|d}}。 ** 発声の始めと [[歯茎側面接近音|{{IPA|l}}]], [[歯茎鼻音|{{IPA|n}}]] の後では通常のダ行音 [[有声歯茎破裂音|{{IPA|d}}]]。 ** それ以外の位置では摩擦音化し、[[有声歯摩擦音|{{IPA|ð}}]]。 ** 語末では {{IPA|ð}}、さらに無声化し [[無声歯摩擦音|{{IPA|θ}}]] となるか、ほとんど発音しないことがある<!-- [[内破音]]化? -->。 * '''f''': ファ行音 [[無声唇歯摩擦音|{{IPA|f}}]]。 * {{ipa|g}}: '''ga''', '''go''', '''gu''', および音節末の '''g''' はガ行音 {{ipa|g}}。 ** 発声の始めと [[軟口蓋鼻音|{{IPA|ŋ}}]] の後では通常のガ行音 [[有声軟口蓋破裂音|{{IPA|g}}]]。 ** それ以外の位置では摩擦音化し、[[有声軟口蓋摩擦音|{{IPA|ɣ}}]] <ref name="DiccionarioDelEspañolModerno" />。 ** gue, gui は「ゲ」「ギ」と発音し、「グエ」「グイ」にはならない。u を発音するためにはディエレシスを使用し、'''güe''', '''güi''' とつづる。 * {{ipa|x}}: '''ge''', '''gi''', および '''j''' は [[無声軟口蓋摩擦音|{{IPA|x}}]]。ハ行音、ドイツ語の ach laut に近いが、それより少し奥のほうで発音する。 ** アンダルシア南西部や米国南部では通常のハ行音 [[無声声門摩擦音|{{IPA|h}}]] で発音することがある。 ** 語末では発音しないことがある<ref name="DiccionarioDelEspañolModerno" />。 * '''h''': 発音しない(黙字)。 * '''l''': 日本語のラ行音に近い [[歯茎側面接近音|{{IPA|l}}]]。舌先を歯茎に当てたまま息を出す[[接近音]]で、英語の clear l に相当する。 * '''ll''': 従来はリャ行音に近い [[硬口蓋側面接近音|{{IPA|ʎ}}]] が標準的な発音とされていたが、実際には多くの地域で[[ジェイスモ]]により y との区別が失われ、yと同じくヤ行に近い [[有声硬口蓋摩擦音|{{IPA|ʝ}}]] で発音する。多くの南米大陸の国々では、yとおなじくジャ行音[[有声歯茎硬口蓋摩擦音|{{IPA|ʑ}}]] で発音する方が一般的である。 **[[ブエノスアイレス]]近郊ではシャ行音 [[無声後部歯茎摩擦音|{{IPA|ʃ}}]]。 ** 単語により異なる発音をする人もいる。 * '''m''': マ行音 {{ipa|m}}。 ** 語末ではン音 [[歯茎鼻音|{{IPA|n}}]]<ref name="DiccionarioDelEspañolModerno" />。 * '''n''': ナ行音 {{ipa|n}}。 ** {{IPA|b}}, {{IPA|m}}, [[無声両唇破裂音|{{IPA|p}}]] の前では [[両唇鼻音|{{IPA|m}}]]<ref name="DiccionarioDelEspañolModerno" />。 ** {{IPA|g}}, {{IPA|k}}, {{IPA|x}} の前では [[軟口蓋鼻音|{{IPA|ŋ}}]]<ref name="DiccionarioDelEspañolModerno" />。 * '''ñ''': ニャ行音 [[硬口蓋鼻音|{{IPA|ɲ}}]]。 * '''p''': パ行音 [[無声両唇破裂音|{{IPA|p}}]]。 ** {{IPA|s}}, [[無声歯茎破裂音|{{IPA|t}}]] の前では発音しないことがある<ref name="DiccionarioDelEspañolModerno" />。 * '''r''': ラ行音 [[歯茎はじき音|{{IPA|ɾ}}]]。英語やフランス語の一般的な[[R音]]{{Efn|方言差や個人差もあるが、英語では [[歯茎接近音|{{IPA|ɹ}}]]、フランス語では [[有声口蓋垂摩擦音|{{IPA|ʁ}}]] ないし [[無声口蓋垂摩擦音|{{IPA|χ}}]] が一般的な発音。}}とは異なり、[[はじき音]]で、日本語のラ行音にかなり近い。 ** 語頭と {{IPA|l}}, {{IPA|n}}, {{IPA|s}} の後では後述する巻き舌音 [[歯茎ふるえ音|{{IPA|r}}]]。 * '''rr''': 語中でのみ用いる巻き舌音 [[歯茎ふるえ音|{{IPA|r}}]]。 ** [[プエルトリコ]]や[[ドミニカ共和国]]では、j 音 {{IPA|x}} になることがある([[ブラジルポルトガル語]]と同じ変化)。 ** [[ペルー]]や[[ボリビア]]の一部の地方ではザ行音になることがある。 [[File:S aspiration in Spanish.png|thumb|緑の地域は音節末の「s」を/h/と発音する。紫の地域は/s/のままで発音する。]] * '''s''': サ行音 [[無声歯茎摩擦音|{{IPA|s}}]]。 ** スペイン南部や中南米の一部では音節末の s をハ行音 [[無声声門摩擦音|{{IPA|h}}]] で発音するか、ほとんど発音しないことがある。 * '''t''': タ行音 [[無声歯茎破裂音|{{IPA|t}}]]。 * '''w''': 外来語のみに用いられ、単語によってワ行音 [[有声両唇軟口蓋接近音|{{IPA|w}}]]、または {{IPA|b}}。 ** 地域差もあり、ペルーでは常に {{IPA|w}} で発音する傾向がある。 ** 語頭では {{IPA|gw}} になることもある。 * '''x''': 本来は {{IPA|ks}} だが、{{IPA|k}} は弱くなるか、発音しないことが多い。 ** 特に子音の前、および語頭では {{IPA|k}} を発音せず、{{IPA|s}}となりやすい<ref name="DiccionarioDelEspañolModerno" />。 ** México {{IPA|ˈme̞xiko̞}} のように、一部の固有名詞などでは j 音 {{IPA|x}} で発音する。 * '''y''': スペインやメキシコなどではヤ行音に近い[[有声硬口蓋摩擦音|{{IPA|ʝ}}]] が標準とされるが、ジャ行に近い[[有声歯茎硬口蓋摩擦音|{{IPA|ʑ}}]]が用いられることも多い。スペイン語の標準を規定するスペイン王立アカデミーでは、日本語のヤ行の子音に近い[[有声硬口蓋摩擦音|{{IPA|ʝ}}]] を標準としている。 **[[ブエノスアイレス]]近郊ではシャ行音 [[無声後部歯茎摩擦音|{{IPA|ʃ}}]]。 ** 語頭に来る場合、nの後ろに来る場合はジャ行になりやすい。とはいえスペイン語ネイティブはこの二つを区別せず、同じ音の異音だと考えている為、どちらで発音しても良い。 **語末の y は i と同等。ただし、アクセント位置は最終音節。 ==== 二重子音 ==== 以下の子音の連続は二重子音となる。分節上、単子音と同様に扱う。 ; + l : bl, cl, fl, gl, pl ; + r : br, cr, dr, fr, gr, pr, tr dr, tr は二重子音であるが、dl, tl は二重子音ではない。 === 音韻的特徴 === * [[無声音]]では[[破裂音]]と[[摩擦音]]が対立するが、[[有声音]]では両者が対立せず、[[異音]]の関係にある(有声破裂音 {{ipa|b}}, {{ipa|d}}, {{ipa|g}} が母音間等では摩擦音化する)。 * y を半母音 {{ipa|j}} ではなく、摩擦音 {{ipa|ʝ}} で発音する。<!-- ほかに * 語中の ñ {{ipa|ɲ}} が n {{ipa|n}} と、rr {{ipa|r}} が r {{ipa|ɾ}} と対立する。 * 音節中の(二重子音以外の)子音の連続を避ける傾向がある。 ** 他のロマンス諸語と比較して音節数が多い。 *** 平均的に早口。 * 音節末の子音が({{ipa|ɾ}} などを除き)弱く、あいまいになりやすい。 * 母音はアクセントがない場合を含め、明瞭に発音する。 * アクセント位置は他のロマンス諸語と比較して規則的。 * 子音の発音の地域差・個人差が大きい。 などがあるはずだが、文献は未調査 --> === 外来語 === 外来語はその発音やつづりの特徴から以下のパターンが挙げられる。 # つづりをスペイン語風に読む。 #* jersey {{ipa|xeɾˈsei}} 「ジャージー」 # 発音を優先し、つづりを書き換える。 #* fútbol(←football) 「フットボール」 # 原語のつづりを変えず原音に近い発音をする。分かりやすい特徴を挙げれば、j を y のように、h を j のように発音する。新しい外来語に多い。 #* jazz 「ジャズ」 {{ipa|ˈʝaθ}}, {{ipa|ˈʤas}} #* judo 「柔道」 {{ipa|ˈʝuðo}}, {{ipa|ˈʤuðo}} ただし '''yudo''' とつづることもある #* hardware 「ハードウェア」 {{ipa|xaɾˈweaɾ}} (d は原音では弱く、スペイン語化したうえで d を発音すると har・'''dwe'''・arのように分節されてしまうため消滅) 外来語の発音については、地域や世代、個人によって多少差がある。「1.」は古い外来語でよく見られるほか、固有名詞(商品名を含む)でよく見られ、例えば Colgate(コルゲート)は「コルガーテ」と発音する。[[メキシコ]]では商品名のスペイン語化に関する法律もある。特に人名や地名を原音に近い発音をする場合、原音の確認を要する場合が多いので、スペイン語風に発音しても間違いではない(例: Miami [[マイアミ]]をスペイン語読みで'''ミアミ'''と発音)。また、隣接する[[ポルトガル語]]はスペイン語とよく似ている一方、つづりの発音の違いやアクセントの規則の違い、独特の音韻変化などがあるため、しばしばアクセント記号が付加され、スペイン語式に読み換えられる。例えば[[リオデジャネイロ]](R'''i'''o de Janeiro; ブラジルポルトガル語の発音は「ヒウ・ヂ・ジャネイル」に近い)は Rio(川の意)が対応するスペイン語に置き換えられR'''í'''o de Janeiro と表記し、「リオ・デ・ハネイロ」と発音する。また、[[サンパウロ]](São Paulo)については、対応するスペイン語形のサン・パブロ(San Pablo)で呼ばれるのが普通である。語頭の「s+子音」は {{ipa|s}} の前に {{ipa|e}} を付加して発音することが多い(付加しない人もいる)。例えば Spain は {{ipa|esˈpein}} または {{ipa|ˈspein}} と発音する。 == アルファベット == {|class="wikitable" ! 大文字 !! 小文字 !! 文字名称 |- | A || a || a: ア |- | B || b || be: ベ<br/>be grande: ベグランデ(大きい「ベ」の意味、vと区別する)<br/>be alta: ベアルタ(高い「ベ」の意味)<br/>be larga:ベラルガ(長い「ベ」の意味)<br/>be de burro:ベデブロ(「[[ロバ]]のベ」) |- | C || c || ce: セ |- | (Ch) || (ch) || (che: チ<sup></sup>ェ) ※1994年に廃止決議、後述 |- | D || d || de: デ |- | E || e || e: エ |- | F || f || efe: エフェ |- | G || g || ge: ヘ |- | H || h || hache: アチェ(単語中では発音しない) |- | I || i || i: イ<br/>i latina: イラティーナ([[ラテン語]]の「イ」の意味、y と区別する) |- | J || j || jota: ホタ |- | K || k || ka: カ |- | L || l || ele: エレ |- | (Ll) || (ll) || (elle: エジェ、エリェ<br/>doble ele: ドブレエレ) ※1994年に廃止決議、後述 |- | M || m || eme: エメ |- | N || n || ene: エネ |- | {{lang|es|Ñ}} || {{lang|es|ñ}} || {{lang|es|eñe}}: エニェ |- | O || o || o: オ |- | P || p || pe: ペ |- | Q || q || cu: ク |- | R || r || erre: エレ([[歯茎ふるえ音]] {{IPA|r}}) |- | S || s || ese: エセ |- | T || t || te: テ |- | U || u || u: ウ |- | V || v || uve: ウベ<br/>ve chica: ベチカ(小さな「ベ」の意味、bと区別する)<br/>ve baja: ベバハ(低い「ベ」の意味)<br/>ve corta: ベコルタ(短い「ベ」の意味)<br/>ve de vaca: ベデバカ(「[[ウシ]]のベ」) |- | W || w || uve doble: ウベドブレ<br />doble u: ドブレウ<br/>doble ve: ドブレベ<br/>ve doble: ベ・ドブレ |- | X || x || equis: エキス |- | Y || y || ye: イェ/ジェ<br/>i griega: イグリエガ([[ギリシア語]]の「イ」の意味、iと区別する) |- | Z || z || zeta: セタ |} [[二重音字]]の[[ch]]と[[ll]]は1994年に{{仮リンク|スペイン語アカデミー協会|en|Association of Academies of the Spanish Language}}において独立した一字としての扱いをやめることが決議され<ref>{{Cite web|url=https://www.rae.es/espanol-al-dia/exclusion-de-ch-y-ll-del-abecedario|title=Exclusión de «ch» y «ll» del abecedario|publisher=Real Academia Española|accessdate=2023-2-21}}</ref>、2010年には[[スペイン王立アカデミー]]発行の{{仮リンク|スペイン語正書法|en|Spanish orthography}}においても廃止された<ref>{{Cite web|url=https://www.rae.es/sites/default/files/Principales_novedades_de_la_Ortografia_de_la_lengua_espanola.pdf|title=Principales novedades de la última edición de la Ortografía de la lengua española (2010)|publisher=Real Academia Española|accessdate=2023-2-21}}</ref>。 Ñは現在でも独立した文字として扱われており、辞書の索引でもNとは区別されているほか、スペイン語キーボードでは専用のキーが存在する。 すでに述べられている通り、rは通常語頭を除き歯茎はじき音{{IPA|ɾ}}で発音されるが、アルファベットとして発音する場合、歯茎ふるえ音{{IPA|r}}が用いられる。また、語頭の歯茎ふるえ音{{IPA|r}}はr一文字で表記される関係上、rrで始まる単語は存在しないため、ch, llと異なり辞書の索引に見出しとして載りえず、公式に一文字として扱われたことはない。 {{スペイン語アルファベット}} == 文法の特徴 == * [[主語]] ** イタリア語やポルトガル語と同じく、主語の強調や意味の明確化が必要でない場合には主語をあえて表現しないことが多い。これは、一人称や二人称の場合、動詞の活用(後述)で主語が判別できるためである。 * [[目的語]] ** 基本的な語順は[[SVO型|SVO]]であるが、英語やフランス語に比べると語順はかなり自由度が高く、平叙文でも主語が動詞のあとに置かれることもよくある。目的語は代名詞の場合、動詞の前に置かれるが、動詞が不定詞・現在分詞・肯定命令法のときは代名詞は動詞のあとに接語化され、一つの語のように書かれる。この場合アクセント位置が移動しないようにアクセント符号の付加が必要になる場合がある。 ** 他動詞の直接目的語が人を指示する定名詞句(固有名詞、定冠詞・所有形容詞・指示形容詞がついた名詞句など)のときにはこれに前置詞 a がつく。直接目的語が人を指示しても不定の場合は a をつけなくてもよい。物を指示する目的語には a をつけない。このような区別はイタリア語やフランス語などにはない特徴である。<ref>会田由(1962)『スペイン語便覧』評論社p.173</ref> 例 Estimo '''a''' Luisa. 「私はルイサを尊敬する」、Respetad '''a''' los ancianos.「老人を尊敬しなさい」、En la calle vi '''a''' tu padre.「街で君のお父さんに会った」、Buscamos (a) una secretaria capaz.「私たちは有能な秘書をさがしている」 * [[代名詞]] ** 再帰代名詞を用いる構文が発達していて、利害・相互的行為・受動・無人称・強意など多くの意味を表す。 ** a + 名詞と同一のものを指示する間接目的格代名詞が動詞の前に置かれるという、いわば[[抱合語|抱合]]的な現象がある。たとえばLa canción ''le'' gustó a Rodrigo. 「その歌はロドリゴの気にいった」では''le''は「彼に」を意味する間接目的格代名詞で、a Rodrigoを指している。 ** 2人称の代名詞は[[親称]] tú(複数形vosotros/as)と[[敬称]] usted(複数形ustedes)を使い分ける。中南米では古いスペイン語で使われていたvosが相手に対する[[侮蔑#侮蔑表現の分類と種類|蔑称]]として用いられることがある。vosは元々は相手に対する尊称であったが現在は親称・蔑称の意味に成り代わっている。日本語の「貴様」のようなもの。ただし、一部では親称として用いられることもあり、特にアルゼンチンでは全国でvosのみが使われるといっても構わない。2人称複数である vosotros/as は、vos と otros(「他」の複数形)が接合したものである。なお、vosotros/as が使用されるのはスペインと[[赤道ギニア]]に限られ、[[中南米]]やスペインの[[アンダルシア州|アンダルシア]]、[[カナリア諸島]]では親称としてもustedesが一般的に使用される。usted は vuestra merced(直訳すれば「あなたの厚意」)(表記として単数の場合UdやVd、複数形でUdsやVdsが使われるが、これはUとVが母音と子音にわかれる前の影響で、発音はウステとウステデスとなる)が2人称尊称として(主に騎士が主君に対して)用いられ、短縮されたもので、動詞の活用は3人称である。Tú と usted の用法はスペインと中南米では違いがあり、スペインでは改まった場面でなければ、接客など初対面でも tú を使うことがよくあり、また、部下が上司に対して tú を使うこともよくある。しかし、中南米では、tú を使うのは親しい人や目下の人に限られる。ただし、[[キューバ]]ではスペイン同様 tú をよく使う。 ** 1人称複数の nosotros/as は古スペイン語では nos で男女の区別もなかった。nosotros/asはnosとotros/as (=others)を同格的に並べた表現から生まれた。<ref>Lyle Campbell(1998) ''Historical Linguistics'' p. 243</ref>Vosotros/as も同様で、vos だったが、vos が単数の敬称として使われるようになると複数形はそれと区別するため (vos otros/vos otras→) vosotros/vosotras となった。Vos を敬称として初めて用いたのは宮廷においてで、vosotrosももともと貴族の言葉である。宮廷文化をもたないアンダルシアや中南米では vosotros の使用は浸透せず、ustedes が汎用2人称複数となった。 * [[冠詞]] ** [[定冠詞]]は[[性 (文法)|性]]・数によって区別される(男性単数el、女性単数la、男性複数los、女性複数las、中性lo)。ただ、女性名詞でもアクセントのある a、または ha で始まる単数名詞の場合はelを使う(例 el agua)。前置詞 a、de の後に定冠詞 el が来る場合には[[前置詞と冠詞の縮約|縮約]]しそれぞれ al、del と一語のように書かれる(前置詞と冠詞の縮約はこの二つのみで、イタリア語やフランス語のように複雑ではない)。中性定冠詞 lo は中性名詞につくわけではなく(スペイン語に中性名詞はない)、形容詞・所有形容詞・過去分詞・副詞についてこれらを名詞化したり、lo que の形でフランス語の ce que や英語の what のように「もの・こと」の意味を表したりする。中性定冠詞はイタリア語やフランス語にはない特徴である。例 lo bueno 「善良さ(=la bondad)、よいもの(=las buenas cosas)」、lo pasado「過ぎ去ったこと」、lo nuestro「私たちのもの」、Lo que dices es no cierto.「君が言うことは確かではない」 ** [[フランス語]]や[[イタリア語]]にあるような部分冠詞はない。 * 冠詞と[[名詞]] ** 名詞が職業・性質を表す補語になるときは、He is a student.のように不定冠詞を伴う英語と異なり、Es estudiante.のように通常は(フランス語等と同様)無冠詞である。逆に、Es un inutil.「彼は役立たずだ」のように軽蔑・強調の意味をもって品詞・可算を問わず不定冠詞を伴う場合がある。 * 名詞 ** 名詞には男性名詞と女性名詞があるが、-oで終われば男性、-aで終われば女性という原則があるため比較的判別が容易である(ただしdía, manoなど少数の例外あり)。その他に-ción, -dad,-tad, tud, -umbre, -zなどで終われば女性、-aje, -i, -rなどで終われば男性といった原則がある。 ** 名詞の複数形は(e)sをつけて作るが、これはラテン語の名詞の複数対格の語尾に由来し、フランス語やポルトガル語同様西ロマンス語の特徴である(ただしフランス語においては複数形の語尾 s は発音されない)。 * [[形容詞]] ** 形容詞は基本的に名詞に対して後置される(例:un coche moderno 現代の車)が、若干の形容詞、あるいは話者の主観を述べる場合は、前置されることもある。後置される場合と前置される場合で意味が異なるものもある(la casa nueva 新築の家-la nueva casa 新居、el gran hombre 偉大な人-el hombre grande 大きな人、など)。また、修飾される名詞の性数に応じて変化する。moderno 現代の、を例に挙げれば、moderno(男性単数), moderna(女性単数), modernos(男性複数), modernas(女性複数)と変化する。 * [[前置詞]] ** 現代スペイン語にはフランス語のenやイタリア語のne、あるいはフランス語の y やイタリア語の ci に相当する「前置詞+名詞」の代用となる副詞的代名詞は存在しない(中世スペイン語には存在した。なおカタルーニャ語には存在する。)。 * [[動詞]] ** 動詞の基本形の語尾は''-ar'', ''-er''または''-ir''のいずれかである。 ** 動詞には[[直説法]]、[[接続法]]、[[命令法]]がある。直説法は現在、点過去(完了過去)、線過去(不完了過去)、未来、過去未来(「可能」・「条件」・「遡及未来」という語が用いられることもある)、現在完了、直前過去完了、過去完了、未来完了、過去未来完了が、接続法では現在、過去、現在完了、過去完了が存在する(中世には未来や未来完了も存在した)。また、各[[時制]]で主語の人称・数に応じて6通り(中南米では実質5通り)に活用される。 ** 完了形ではすべての動詞に対してhaberが助動詞として使われる。フランス語、イタリア語、ドイツ語などの完了形[複合時制]では、移動や状態変化の意味を含む自動詞(非対格動詞)の場合には助動詞として英語のbeにあたる動詞を使い、それ以外ではhaveにあたる動詞を使うが、現代スペイン語にはこのような区別がなく、この点において現代英語と似ている。 ** 過去の出来事を表すのに口語ではおもに複合時制(現在完了形)を用いるフランス語やイタリア語とは違い、スペイン語では現代でも単純時制である点過去形(フランス語の単純過去形・イタリア語の遠過去形に相当)が口語・文章語を通じて広く使われており、現在完了形はむしろ英語のそれに近い使われ方をしている。ただし地域差があり、スペインの多くの地域では「今日」「今週」など現在を含む副詞をおく場合基本的に現在完了形が使われる一方、中南米やスペインの[[ガリシア州]]などでは現在完了形をあまり用いない傾向がある。これは現在完了形を多用するイギリス英語と過去形を多用するアメリカ英語の関係に類似している。なお、ガリシア州でスペイン語とともに話される[[ガリシア語]]には現在完了時制が存在しない。 ** 英語のbeに当たる動詞がserとestarの二つある。serはSoy española.「私はスペイン人です」のような性質を述べるときに用い、estarはEstoy cansado.「私は疲れている」のような一時的状態、Osaka está en Japón.「大阪は日本にある」のように所在を表すのに用いる(このような区別はフランス語にはないが、イタリア語にはある(essereとstare))。またestar+現在分詞でEstoy llorando. 「私は泣いている」のように英語の進行形に似た意味を表すのはフランス語やイタリア語にはない特徴である。ただしこの形は英語の進行形ほどよく使われるわけではない。現在形の動作動詞が進行相をも表し、また過去時では線過去形(イタリア語やフランス語の半過去形に相当)に過去進行形的な不完了(imperfective)相を表す機能があるからである。 === 規則動詞の現在時制における活用形 === {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! 原形 | hablar(話す) || comer(食べる) || vivir(生きる、住む) |- ! 一人称単数 | hablo || como || vivo |- ! 一人称複数 | hablamos || comemos || vivimos |- ! 二人称単数 | hablas || comes || vives |- !二人称単数 ([[ボセオ|voseo]]) |hablás||comés||vivís |- ! 二人称複数 | habláis/hablan || coméis/comen || vivís/viven |- ! 三人称単数(二人称の敬称含む) | habla || come || vive |- ! 三人称複数(二人称の敬称含む) | hablan || comen || viven |} === 不規則動詞serの活用 === {| class="wikitable" style="font-size:small" |+ ! style="background-color:#cccccc" | 叙法 ! colspan="5" | 直説法 ! colspan="3" | 接続法 ! rowspan="2" | 命令法 |- ! style="background-color:#cccccc" | 単純時制 ! 現在 !! 点過去 !! 線過去 !! 未来 !! 過去未来 !! 現在 !! 過去 !! 未来 |- ! 1人称単数 | soy || fui || era || seré || sería || sea || fuera / fuese || fuere || - |- ! 2人称単数 | eres || fuiste || eras || serás || serías || seas || fueras / fueses || fueres || sé |- ! 3人称単数 | es || fue || era || será || sería || sea || fuera / fuese || fuere || sea |- ! 1人称複数 | somos || fuimos || éramos || seremos || seríamos || seamos || fuéramos / fuésemos || fuéremos || seamos |- ! 2人称複数 | sois || fuisteis || erais || seréis || seríais || seáis || fuerais / fueseis || fuereis || sed |- ! 3人称複数 | son || fueron || eran || serán || serían || sean || fueran / fuesen || fueren || sean |} === 助動詞haberの活用 === 助動詞haberの活用形は、過去分詞とあわせて完了時制をつくる。下記の表では、「sido」が動詞serの過去分詞形。 {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! style="background-color:#cccccc" | 叙法 ! colspan="4" | 直説法 ! colspan="3" | 接続法 |- ! style="background-color:#cccccc" | 複合時制 ! 現在完了 !! 過去完了 !! 未来完了 !! 過去未来完了 !! 現在完了 !! 過去完了 !! 未来完了 |- ! 1人称単数 | he sido || había sido || habré sido || habría sido | haya sido || hubiera / hubiese sido | hubiere sido |- ! 2人称単数 | has sido || habías sido || habrás sido || habrías sido | hayas sido || hubieras / hubieses sido | hubieres sido |- ! 3人称単数 | ha sido || había sido || habrá sido || habría sido | haya sido || hubiera / hubiese sido | hubiere sido |- ! 1人称複数 | hemos sido || habíamos sido || habremos sido || habríamos sido | hayamos sido || hubiéramos / hubiésemos sido | hubiéremos sido |- ! 2人称複数 | habéis sido || habíais sido || habréis sido || habríais sido | hayáis sido || hubierais / hubieseis sido | hubiereis sido |- ! 3人称複数 | han sido || habían sido || habrán sido || habrían sido | hayan sido || hubieran / hubiesen sido | hubieren sido |} * 上記のように、過去が点過去と線過去にはっきり分かれているのが特徴である。点過去は過去のある時点で起こったことを述べるときに用いる。線過去はフランス語やイタリア語の文法で「半過去」と呼ばれるものに相当し、過去の一定の期間における継続的な状態を述べるときに用いる。点過去と線過去を、それぞれ「不定過去」と「不完了過去」と呼ぶこともある。また点過去は単に「過去」ということもある。なお、pretérito perfectoは現在完了のことであり、完了過去とも言われるが、完了過去を点過去の意味で用いる場合もあり、現在完了との意味での完了過去との区別のために、形式に注目して単純完了過去と呼ぶ場合もある<ref>山田善郎監修(2002) 『中級スペイン文法』第17章動詞-時制p.301 白水社</ref>。また、中南米諸国で普及している“ベリョ文法”([[ベネズエラ]]出身で[[チリ大学]]を創始した人文学者、アンドレス・ベリョ(ベーリョ)が提唱)では、「点過去」を pretérito (過去)、「線過去」を copretérito (あえて訳せば“副過去”)と呼んでいる。また、先述の pretérito perfecto に関しても、「現在完了」は pretérito perfecto compuesto (複合完了過去)、「点過去」は pretérito perfecto simple (単純完了過去)が、スペイン王立アカデミアの文法用語として紹介されている)<ref>寿里順平著(1998) 『スペイン語とつきあう本 寿里順平の辛口語学エッセー』p.37,p.107 東洋書店</ref> ** El avión salió el lunes.(飛行機は月曜日に出発した。)点過去の例。 ** El avión salía cada lunes.(飛行機は月曜日毎に出発していた。)線過去の例。 * [[接続法]]は、予想・憶測・希望など、事実であると認識していないときに使われる。たとえば「〜と思っている」という文では「〜」の部分は事実であると認識しているので直説法が使われるが、「〜とは思っていない」と言うときは、「〜」を事実と認識していないので接続法が使われる。 **Creo que María ''está'' en casa. (私はマリアは家にいると思う。)''está''はestarの直説法現在形。 **No creo que María ''esté'' en casa.(私はマリアは家にいると思わない。)''esté''はestarの接続法現在形。 *希望から、弱い命令の意味にも使われる。 ** ¡Ojalá ''sea'' bonita!(かわいいといいなぁ)''sea''が''ser''(〜である)の接続法。 **''Hable''.(話してください。)hablarの接続法現在形で命令(依頼)を表わしている。 * 接続法過去の語尾は''-ra''型と''-se''型の2種類があるが、一般には''-ra''型が用いられる。''-se''型の活用は堅苦しい印象を与え、いわゆる[[書記言語|文語]]で用いられる。 * {{要出典範囲|[[能格動詞]]は、[[再帰代名詞]](se/me/te/nos/os)をとる[[再帰動詞]]の形で表現される|date=2012年10月}}。このとき、再帰代名詞とともに一つの動詞であると考えることも多い。(levantarse, acostarse, lavarse, fumarse, irseなど。)この場合、動詞の基本形を示す際には左記のように代名詞を語尾につけた一つの単語のように表記するが、文中で動詞が活用されると代名詞は分かれて前置される。なお、命令文の場合には能格動詞が活用されても代名詞は前置されないことが多い。 ** No puedo levantarme tan temprano(そんなに早く起きる事はできない。) 再帰動詞が1単語として扱われる例。 ** Me fumo cigarrillos.(私はタバコを吸う。)fumarse → me fumoの活用の例。 ** ¡Vete rápido!(さっさと行け!)命令形の例。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[スペインの言語]] * [[中世スペイン語]] * [[ラディーノ語]](ユダヤ・スペイン語) * [[日本語]] - [[ハポニョール]] * [[イベリア半島の言語純化運動]] * [[スペイン語の日本語表記]] * [[セルバンテス文化センター]] * [[イベロアメリカ首脳会議]] * {{仮リンク|ヒスパノフォン|en|Hispanophone}} ([[スペイン語圏]]) == 外部リンク == {{Wikipedia|es}} {{Wiktionarycat|スペイン語}} * [http://www.coelang.tufs.ac.jp/modules/es/index.html 東外大言語モジュール | スペイン語] - [[東京外国語大学]]によるスペイン語学習サイト * {{Kotobank}} {{国際連合公用語}} {{アフリカ連合の言語}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すへいんこ}} [[Category:スペイン語|*すへいんこ]] [[Category:スペインの言語]] [[Category:アルゼンチンの言語]] [[Category:メキシコの言語]] [[Category:ボリビアの言語]] [[Category:チリの言語]] [[Category:コロンビアの言語]] [[Category:パラグアイの言語]] [[Category:ウルグアイの言語]] [[Category:インド・ヨーロッパ語族]] [[Category:ロマンス諸語]]
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宗教学
宗教学(しゅうきょうがく、英語: religious studies, science of religion)は、経験科学の様々な手法を用いて宗教を研究する学際的な学問である。ドイツ語圏では“Religionswissenschaft”、オランダ語では“godsdienstwetenschap”と言う。 もともとは神学の一部であったが独立し、キリスト教の神学以外の分野を対象とするかたちで、民俗宗教から新宗教まで、幅広く研究する学問分野である。現在では研究手法により、宗教社会学・比較宗教学・宗教心理学・宗教人類学・宗教民俗学などと分類される。特定宗教の教義の研究を行う神学・教学・宗学、あるいは宗教哲学とは区別される。広義の宗教学では、これらを含める場合もある。宗教学は経験科学の範囲内のみとするか、形而上学的範囲を含めるかは課題である。 宗教学は19世紀後半にヨーロッパにおいて成立した。欧米における経験科学の発達、および、植民地支配等による様々な宗教との接触が発生の背景にある。 宗教学研究の初期の段階では、キリスト教と他の宗教を比較検討することにより、宗教の一般的要素、普遍的要素の追求や進化・発展過程の研究が行われた。マクス・ミュラーによるインドの宗教研究に基づいた東洋と西洋の宗教の比較や、ジェームズ・フレイザーによる古代ギリシア・古代ローマの宗教、ヨーロッパ民間信仰、原始宗教の比較研究がこれにあたる。 また、社会学・心理学の発展において宗教はその研究対象となった。社会学の例として、エミール・デュルケームの『宗教生活の原初形態』や、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』があげられる。 また、心理学においても、エドウィン・ディラー・スターバック(英語版)の『Psychology of Religion(宗教心理学)』や、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』が19世紀末から20世紀はじめにかけて発表されている。また、文化人類学や民族学、民俗学においては、成立時より、多くの研究領域が重なっているといえる。 このように宗教学は、「宗教」という研究対象に対し、様々な研究方法を用いて研究が進められている。個々の研究は宗教学の研究であると同時に社会学・心理学・文化人類学等それぞれの研究であるとも言える。
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宗教学は、経験科学の様々な手法を用いて宗教を研究する学際的な学問である。ドイツ語圏では“Religionswissenschaft”、オランダ語では“godsdienstwetenschap”と言う。 もともとは神学の一部であったが独立し、キリスト教の神学以外の分野を対象とするかたちで、民俗宗教から新宗教まで、幅広く研究する学問分野である。現在では研究手法により、宗教社会学・比較宗教学・宗教心理学・宗教人類学・宗教民俗学などと分類される。特定宗教の教義の研究を行う神学・教学・宗学、あるいは宗教哲学とは区別される。広義の宗教学では、これらを含める場合もある。宗教学は経験科学の範囲内のみとするか、形而上学的範囲を含めるかは課題である。 宗教学は19世紀後半にヨーロッパにおいて成立した。欧米における経験科学の発達、および、植民地支配等による様々な宗教との接触が発生の背景にある。 宗教学研究の初期の段階では、キリスト教と他の宗教を比較検討することにより、宗教の一般的要素、普遍的要素の追求や進化・発展過程の研究が行われた。マクス・ミュラーによるインドの宗教研究に基づいた東洋と西洋の宗教の比較や、ジェームズ・フレイザーによる古代ギリシア・古代ローマの宗教、ヨーロッパ民間信仰、原始宗教の比較研究がこれにあたる。 また、社会学・心理学の発展において宗教はその研究対象となった。社会学の例として、エミール・デュルケームの『宗教生活の原初形態』や、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』があげられる。 また、心理学においても、エドウィン・ディラー・スターバックの『Psychology of Religion(宗教心理学)』や、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』が19世紀末から20世紀はじめにかけて発表されている。また、文化人類学や民族学、民俗学においては、成立時より、多くの研究領域が重なっているといえる。 このように宗教学は、「宗教」という研究対象に対し、様々な研究方法を用いて研究が進められている。個々の研究は宗教学の研究であると同時に社会学・心理学・文化人類学等それぞれの研究であるとも言える。
[[Image:Religious syms.svg|thumb|様々な宗教シンボル]] '''宗教学'''(しゅうきょうがく、{{Lang-en|religious studies, [[科学|science]] of religion<ref>{{Cite web|和書|url=https://eow.alc.co.jp/search?q=%e5%ae%97%e6%95%99%e5%ad%a6 |title=『英辞郎』「宗教学」 |accessdate=2022-06-28}}</ref>}})は、[[経験科学]]の様々な手法を用いて[[宗教]]を[[研究]]する学際的な[[学問]]である。[[ドイツ語]]圏では“{{De|Religionswissenschaft}}”、[[オランダ語]]では“{{Nl|godsdienstwetenschap}}”と言う。 もともとは[[神学]]の一部であったが独立し、[[キリスト教]]の神学以外の分野を対象とするかたちで、[[民間信仰|民俗宗教]]から[[新宗教]]まで、幅広く研究する学問分野である。現在では研究手法により、[[宗教社会学]]・[[比較宗教学]]・[[宗教心理学]]・[[宗教人類学]]・[[宗教民俗学]]などと分類される。特定宗教の[[教義]]の研究を行う神学・[[教学]]・[[宗学]]、あるいは[[宗教哲学]]とは区別される。広義の宗教学では、これらを含める場合もある。宗教学は経験科学の範囲内のみとするか、[[形而上学]]的範囲を含めるかは課題である。 宗教学は[[19世紀]]後半に[[ヨーロッパ]]において成立した。欧米における経験科学の発達、および、[[植民地]]支配等による様々な宗教との接触が発生の背景にある。 宗教学研究の初期の段階では、キリスト教と他の宗教を比較検討することにより、宗教の一般的要素、普遍的要素の追求や進化・発展過程の研究が行われた。[[フリードリヒ・マックス・ミュラー|マクス・ミュラー]]による[[インド]]の宗教研究に基づいた[[東洋]]と[[西洋]]の宗教の比較や、[[ジェームズ・フレイザー]]による[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の宗教、ヨーロッパ民間信仰、[[原始宗教]]の[[比較研究]]がこれにあたる。 また、[[社会学]]・[[心理学]]の発展において宗教はその研究対象となった。社会学の例として、[[エミール・デュルケーム]]の『宗教生活の原初形態』や、[[マックス・ウェーバー]]の『[[プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神]]』があげられる。 また、心理学においても、{{仮リンク|エドウィン・ディラー・スターバック|en|Edwin Diller Starbuck}}の『Psychology of Religion(宗教心理学)』や、[[ウィリアム・ジェームズ]]の『宗教的経験の諸相』が19世紀末から[[20世紀]]はじめにかけて発表されている。また、[[文化人類学]]や[[民族学]]、[[民俗学]]においては、成立時より、多くの研究領域が重なっているといえる。 このように宗教学は、「宗教」という研究対象に対し、様々な研究方法を用いて研究が進められている。個々の研究は宗教学の研究であると同時に社会学・心理学・文化人類学等それぞれの研究であるとも言える。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[宗教一覧|世界の宗教の一覧]] * [[神の一覧]] * [[神学]] * [[宗教哲学]] * [[宗教社会学]] * [[比較宗教学]] * [[宗教心理学]] * [[宗教人類学]] * [[宗教民俗学]] * [[宗教教育]] * [[宗教家]] * [[民間信仰|民俗宗教]] * [[新宗教]] * [[密教研究会]] * [[宗教哲学会]] == 外部リンク == * [http://jpars.org/ 日本宗教学会] * [https://tais-religion.com/major-in-religious-studies 大正大学宗教学会] * [http://www.sal.tohoku.ac.jp/inshuu/ 印度学宗教学会] {{人文科学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆうきようかく}} [[Category:宗教学|*]]
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音楽
音楽(おんがく、英語: Music、フランス語: Musique、イタリア語: Musica、スペイン語: Música)とは、音による芸術である。音楽はあらゆる人間社会にみられる普遍文化だが、その定義は文化によって様々である。音楽は先史時代から存在したとされる。 また音楽は、形として残らないことから、「時間芸術」と呼ばれることもある。 広辞苑では「音による芸術」と定義されている。 4世紀古代ローマの哲学者、アウグスティヌスの『音楽論』では「Musica est scientia bene modulandi(音楽とは音を良く整えるスキエンティアである)」とされた。ジョン・ブラッキングの書では「人間が組織づけた音」とされた。ジョン・ケージは「音楽は音である。コンサートホールの中と外とを問わず、われわれを取り巻く音である。」と語った。 その他、「音による時間の表現」といったものまで様々な定義がある。 『呂氏春秋』(紀元前239年に完成)に既に「音楽」という表現がみられる。 英語の"Music"を始め、ヨーロッパの多くの言語においては、古代ギリシャ語のμουσική (mousike; 「ムーサの技[わざ]」の意)を語源とする。ムーサはミューズの名でも知られる芸術や文化を司る女神である。 音楽の「ジャンル」とは、音楽の様式や形式のこと。古来より音楽は多くの社会で娯楽、宗教、儀式などを通じ、生活に密接したものになっており、多くの特徴ある形式や様式を生み出してきた。 音楽のジャンルは、現在聞くことの出来る音楽の様式・形式であると同時に、発生した源、歴史の手がかりとなっている。 現代の音楽は、様々なジャンルの複雑な合成になっていることが多い。 音楽は有史以前から行われていたとされるが、それがいつ何処で、どのような形で始まったかは定かでない。ただ、それは歌から始まったのではないかと考えられている。西洋では、古代ギリシアの時代にはピタゴラスやプラトンにより音楽理論や音楽に関する哲学が始まっており、古代ギリシアの音楽はギリシア悲劇や詩に伴う音楽が主であった。これが後のクラシック音楽に繋がっている。 東洋では、江戸時代まで総検校塙保己一らによって温故堂で講談された和学や、中国神話によると、縄の発明者の氏族が歌舞や楽器、楽譜などを発明したとされる。塙保己一は、撚糸である縄や結縄の発祥を日本列島から出土する土器や房総半島飯岡の網小屋に遺る有結網に捜し求めた研究成果を群書類従に編纂した。 クラシック音楽の音楽史においては、8世紀頃まで遡ることができる。まず、この頃にキリスト教の聖歌であるグレゴリオ聖歌や、多声音楽が生まれ(中世西洋音楽)、これが発展し、15世紀にはブルゴーニュ公国のフランドル地方でルネサンス音楽が確立された。16世紀には本格的な器楽音楽の発達、オペラの誕生が起こり、宮廷の音楽が栄えた(バロック音楽)。これ以前の音楽を、初期音楽と呼ぶことが多い。その後18世紀半ばになると民衆にも音楽が広まり、古典派音楽と呼ばれる「形式」や「和声」に重点をおいた音楽に発展した。また、この頃から一般的に音楽が芸術として見られるようになる。19世紀には「表現」に重点を置いたロマン派音楽に移行し、各国の民謡などを取り入れた国民楽派も生まれる。20世紀頃には「気分」や「雰囲気」で表現する印象主義音楽や、和声および調の規制をなくした音楽などの近代音楽が生まれ、さらに第二次世界大戦後は現代音楽とよばれる自由な音楽に発展した。 ポピュラー音楽の歴史は17世紀頃、アメリカへの移民まで遡る。本格的に移民が行われるようになると、白人によるミュージカルのような劇場音楽が盛んになった。また、アフリカからの黒人により霊歌(スピリチュアル)、ブルースやゴスペルが始まった。19世紀末にはブルースが西洋音楽と融合し、スウィングや即興、ポリリズムが特徴的なジャズに発展していった。1920年代には、ブルースやスピリチュアル、アパラチア地方の民俗音楽が融合したカントリー・ミュージック(カントリー)が人気を集め、1940年代には電子楽器や激しいリズムセッションが特徴的なリズム・アンド・ブルース(R&B)、1950年代にはR&Bとゴスペルが融合したソウルミュージック(ソウル)が生まれた。さらに、1950年代半ばには、カントリー、ブルース、R&Bなどが融合したロックンロール(ロック)が現れ、1970年代にはヒップホップの動きが現れた。 日本では、縄文時代から既に音楽が始まっていたが、5世紀から8世紀にかけて朝鮮半島・中国から音楽を取り入れたことからさまざまなジャンルの音楽が始まった。まず、平安時代に遣唐使を廃止して国風文化が栄えていた頃、外来音楽を組み込んだ雅楽が成立し、宮廷音楽が盛んになった。その後、鎌倉時代・室町時代には猿楽が始まり、能・狂言に発展した。江戸時代でも日本固有の音楽が発達し、俗楽(浄瑠璃、地歌、長唄、箏曲など)に発展した。明治時代以降は、音楽においても西洋化や大衆化が進み、西洋音楽の歌曲やピアノ曲が作曲された。1920年代には歌謡曲や流行歌などの昭和時代のポピュラー音楽が始まり、1960年代に入るとアメリカのポピュラー音楽や現代音楽が取り入れられ、ロックやフォークソングが盛んとなる一方、演歌が成立した。1990年代にはJ-POPが成立し隆盛を迎えた。 ヨーロッパでは古くは王侯貴族や教会などが音楽家を保護し、そのなかで数々の名曲が生み出されていたが、18世紀頃よりヨーロッパにおいては市民の経済力が向上し、不特定多数の聴衆に向けての演奏会が盛んに行われるようになった。この傾向はフランス革命(1789年)以後、上記の特権階級の消滅や市民階級の経済力向上(貴族に代わるブルジョワ市民の台頭)に従ってさらに加速していった。 また、16世紀には活版印刷の発明によって楽譜も出版されるようになった。印刷楽譜はそれまでの書写によるものより量産性・正確性・価格のすべてにおいて優れたものであり、音楽、とくに同一の曲の普及に大きな役割を果たした。楽譜出版は、19世紀には商業モデルとして確立し、音楽産業の走りとなった。 19世紀末までは自分で演奏を行う場合以外は音楽を楽しむには基本的に音楽家が必要であったが、1877年にトーマス・エジソンが蓄音機を発明し、次いで1887年にエミール・ベルリナーがこれを円盤形に改良し、ここからレコードが登場すると、音楽そのものの個人所有が可能となり、これにより各個人が家庭で音楽を楽しむことも可能となった。 次いで、1920年代にラジオ放送が開始されマスメディアが音声を伝えることも可能になるとすぐに音楽番組が開始され、不特定多数の人々に一律の音楽を届けることが可能となり、音楽の大衆文化化が進んだ。そしてその基盤の上に、音楽の制作や流通、広告を生業とするレコード会社が出現し、大規模な音楽産業が成立することとなった。その後、テレビなどの新しいメディアの登場と普及、カセットテープや1980年代のコンパクトディスクの登場など新しい媒体の出現、1979年に発売されたウォークマンのような携帯音楽プレーヤーの登場などで音楽愛好者はさらに増加し、音楽産業は隆盛の一途をたどった。 音楽産業隆盛の流れは、1990年代後半にインターネットが普及し初めてから変化しはじめた。インターネットを介した音楽供給はそれまでのように音楽を保存した物理的な媒体をもはや必要とせず、物として音楽を所有する需要は減少の一途をたどった。一方で、音楽祭や演奏会はこの時期を通じて開催され続けており、ライブなどはむしろ隆盛を迎えているなど、音楽産業を巡る環境は変化し続けている。 上記の要素に関連して、いわゆる西洋音楽の世界では、一般に音楽はリズム、メロディー、ハーモニーの三要素からなる、と考えられている。だが実際の楽曲では、それぞれが密接に結びついているので一つだけを明確に取り出せるわけではない。また、音楽であるために三要素が絶対必要という意味ではない。たとえば西洋音楽以外ではハーモニーは存在しないか希薄であることが多いし、逆に一部の要素が西洋音楽の常識ではありえないほど高度な進化を遂げた音楽も存在する。このようにこれら三要素の考え方は決して完全とは言えないが、音楽を理解したり習得しようとする時に実際に用いられ、効果をあげている。 音楽行為に関しては、現代では一般的に「作曲」「演奏」「鑑賞」が基本として考えられている。作曲とは、作曲者の心に感じた事を音によって表現することである。演奏とは、再現芸術ともよばれ、作曲された音楽を実際に音として表現する行為であり、原曲を変え(=編曲)つつ演奏したり、声楽曲を器楽曲に変える(編曲)等した上で演奏する行為も演奏行為とされる。(#演奏)。鑑賞とは、音楽を聴いてそれを味わったり、価値を見極めたりすることである。 作曲とは、曲を作ること、あるいは音楽の次第を考案することである。具体的には、楽譜を作成することもあれば、即興演奏という方法で楽譜制作は抜いて、作曲をすると同時に演奏をしていくこともある。また、作曲者は楽譜を作るにあたって、様々な音を形で表したもの(いわゆる音符や記号など)を五線譜に従い、その音を置くことによって、リズムのある「音楽」に仕上がる。 演奏とは、実際に音を出すこと、つまり音楽を奏でることであり、楽器を奏することだけでなく、広義には歌を歌うことも含まれる。演奏には即興演奏もあれば、譜面に従った演奏もある。中でもジャズでは即興演奏が多用される一方で、クラシック音楽では通常は譜面の音符の通りに演奏されている。真に機械だけによる演奏は自動演奏と呼ばれている。 音楽鑑賞とは、ひとが行った演奏を自分の耳で聴き、それを味わうことである。また音楽作品を聴いてそれの「品定め」することを指す場合もある。 楽器の編成は演奏する楽曲の音楽ジャンルと関連がある。 楽器編成は、音楽ジャンル→編成という構成で説明をすると理解しやすいものであり、たとえば以下のようなものがある。 次のような編成が一般的である。 この他の変則的な編成も多い。 音楽はもともとは生演奏だけだったが、1877年にエディソンが蓄音機を発明して以降は記録・再生された「レコード音楽」あるいは「再生音楽」を楽しむことができるようになった。近年では人々の音楽を聴く行為を統計的に見ると、再生音楽が聴かれている時間・頻度が圧倒的に多くなっている。 生演奏される音楽は、en:performing arts (パフォーミング・アート)の一種であり、舞台上で生身の俳優によって行われる演劇や、生で踊られるダンスなど、他のパフォーミング・アートと同様に、パフォーマーがパフォームするたびに、多かれ少なかれ、異なるという特徴がある。 音楽の記録・伝達方法として最も古いものは口承であるが、やがていくつかの民族は音楽を記号の形にして記す、いわゆる楽譜を発明し使用するようになった。各民族では様々な記譜法が開発されたが、11世紀初頭にイタリアのグイード・ダレッツォが譜線を利用した記譜法を開発し、これが徐々に改良されて17世紀に入るとヨーロッパにおいて五線譜が発明された。五線譜はすべての楽曲や楽器の表記に使用でき、さらに譜面上で作曲もできるほど完成度が高かったため、以後これが楽譜の主流となった。 楽譜はあくまでも音楽のデータを記号に変換して記すものにすぎなかったが、1877年にトーマス・エジソンが蝋菅録音機(蝋のチューブを用いる、蓄音機の初期のもの)を発明すると、音楽そのものの記録が可能となった。録音の技術はその後も発達し続けた。 音楽の記録と伝達には様々な媒体が使われてきた。エジソンの蓄音機以降のものを、歴史の長い古いものから挙げると、7インチ・レコード(7-inch records。回転速度が45RPMだったので「45s」とも。日本では「SP盤」と呼ぶ。en:Gramophone Companyにより1890年代ころから)、EP盤(1919年 -)、LP盤(1948年-)、オープンリールテープ(古くは19世紀末や20世紀初頭から)、コンパクトカセット(カセットテープ)(1962年-)が使われてきた歴史があり、デジタル方式の録音が可能な時代になってからはCD(1982年-)、MD(1992年-)が使われ、(映像・音響を兼ねる媒体の)ビデオテープ、LD(1970年代や80年代-)DVD(1996年頃-)、BD(2003年頃-)なども使われるようになった。1970年代後半に登場したパーソナルコンピュータが1990年代後半ころから一般家庭に普及して以降、フロッピーディスク、HDDのほかフラッシュメモリの技術を利用したSDメモリ(1999年-)、USBメモリー(2000年頃-)、SSD(本格的には2008年以降)などがある。2000年代からは媒体を持たずインターネットによる配信を利用する人も増えた。 媒体に記録された音楽はいわゆる再生機器(あるいは「録音再生機器」)によって再生される。たとえば蓄音機(1877年-)、レコードプレーヤー、ハイファイ装置、コンポーネントステレオ、ラジカセ(1960年代-)、携帯カセットプレーヤー(ウォークマンなど、1979年-)、CDプレーヤー(1982年-)、携帯CDプレーヤー(1984年-)、デジタルオーディオプレーヤー(iPodなど、2001年-)などである。21世紀にデジタル化が進んでから聴取環境は多様化し、家庭用PCのほかフィーチャーフォンやスマートフォンでも標準で再生機能を備えるようになった。 音楽を人々に届ける経路(チャネル)としてはAM放送(1920年代ころ-)、FM放送(1933年-)などのラジオ放送や、テレビ放送(1930年代や40年代ころから。映像と音響を届ける)が使われ、21世紀にはデータ圧縮技術を活用して、インターネット経由の音楽配信が盛んとなってきている。デジタルでもハイレゾリューションオーディオ の高音質音源が登場した。 音楽を、単なる「音」ではなく、また「言語」でもなく、「音楽」として認識する脳のメカニズムは、まだ詳しくわかっていない。それどころか、ヒトが周囲の雑多な音の中からどうやって声や音を分離して聞き分けているのかなど、聴覚認知の基本的なしくみすら未解明なことが多い。しかし、音楽と脳の関係について、以下のようないくつかの点はわかっている。 音楽のなだめるようなやる気を起こさせる音は、心臓血管の健康へのさまざまな利点を含む、幅広い健康上の利点を提供する。適切な状況で適切な種類の音楽を使用すると、ニーズに応じて、感情的な状態と全体的な健康状態を向上させることができる。 音楽を研究する学問として音楽学がある。音楽理論に関するものとしては音楽哲学、音楽美学がある。ほかに音楽の歴史を研究する音楽史、音楽教育学、音楽心理学、音楽音響学などもある。西洋音楽と各民族の民族音楽を比較研究する比較音楽学は、人類学の影響を受けて各民族の音楽文化を研究する民族音楽学へと変化した。また、文学研究でも音楽との関連などが研究される。研究者が音楽評論を書くこともある。 その文化的発展度を問わず、音楽はどの民族にも普遍的に存在しており、様々に利用されてきた。軍隊の行軍や指揮に音楽はつきもので、現代においても多くの国家の軍は軍楽隊を所持している。日々の労働にリズムをつけ効率を高めるための労働歌もまた多くの民族に伝わっており、日本でも田植え歌や木遣などはこれにあたる。歌垣のように、求愛のために音楽を用いることも世界中に広く見られる。 魔術的・呪術的用途、さらには宗教的用途に音楽を使用することも多くの民族に共通しており、例えばヨーロッパにおいては教会が18世紀頃までは音楽の重要な担い手の一つだった。一方、1990年代にアフガニスタンで政権を打ち立てたターリバーンは、公共の場の音楽はイスラムの基準に合致しないと解釈しており、徹底的な弾圧を行った。2021年にターリバーンが復権した際には、直ちに有名歌手が殺害されたほか、弾圧を恐れたアフガニスタン国立音楽院の教師や生徒100人以上が国外へ脱出した。 ヨーロッパの中世大学教育における自由七科のひとつに音楽が含まれていたように、音楽は教養としても重視されることが多く、やがて19世紀に入り近代教育がはじまると、音楽も初等教育からそのカリキュラムの中に組み込まれていった。明治維新後の日本もこの考え方を踏襲したが、西洋音楽を扱える人材がほとんど存在しなかったため即時導入はできず、明治15年の「小学唱歌集」の発行を皮切りに徐々に唱歌が導入されていくこととなった。こうした一般教養としての音楽教育のほか、音楽のプロを育成する音楽学校も世界各地に存在し、さまざまな音楽家を育成している。 音楽はしばしば、民族のアイデンティティと結びつきナショナリズムの発露をもたらす。世界のほとんどの独立国が国歌を制定しているのもこの用途によるものである。国歌だけでなく、一般の音楽においてもこうしたつながりは珍しくない。19世紀にはナショナリズムのうねりの中で、当時の音楽の中心地であるドイツ・フランス・イタリア以外のヨーロッパ諸国において、自民族の音楽の要素を取り入れたクラシック音楽の確立を目指す国民楽派が現れ、多くの名作曲家が出現した。民族音楽においてもナショナリズムとのつながりは一般的に強いものがあり、また、ポピュラー音楽でも、民族を越えてその国家内で愛唱される場合、国民の統合をもたらす場合がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "音楽(おんがく、英語: Music、フランス語: Musique、イタリア語: Musica、スペイン語: Música)とは、音による芸術である。音楽はあらゆる人間社会にみられる普遍文化だが、その定義は文化によって様々である。音楽は先史時代から存在したとされる。 また音楽は、形として残らないことから、「時間芸術」と呼ばれることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "広辞苑では「音による芸術」と定義されている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "4世紀古代ローマの哲学者、アウグスティヌスの『音楽論』では「Musica est scientia bene modulandi(音楽とは音を良く整えるスキエンティアである)」とされた。ジョン・ブラッキングの書では「人間が組織づけた音」とされた。ジョン・ケージは「音楽は音である。コンサートホールの中と外とを問わず、われわれを取り巻く音である。」と語った。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その他、「音による時間の表現」といったものまで様々な定義がある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『呂氏春秋』(紀元前239年に完成)に既に「音楽」という表現がみられる。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "英語の\"Music\"を始め、ヨーロッパの多くの言語においては、古代ギリシャ語のμουσική (mousike; 「ムーサの技[わざ]」の意)を語源とする。ムーサはミューズの名でも知られる芸術や文化を司る女神である。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "音楽の「ジャンル」とは、音楽の様式や形式のこと。古来より音楽は多くの社会で娯楽、宗教、儀式などを通じ、生活に密接したものになっており、多くの特徴ある形式や様式を生み出してきた。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "音楽のジャンルは、現在聞くことの出来る音楽の様式・形式であると同時に、発生した源、歴史の手がかりとなっている。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "現代の音楽は、様々なジャンルの複雑な合成になっていることが多い。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "音楽は有史以前から行われていたとされるが、それがいつ何処で、どのような形で始まったかは定かでない。ただ、それは歌から始まったのではないかと考えられている。西洋では、古代ギリシアの時代にはピタゴラスやプラトンにより音楽理論や音楽に関する哲学が始まっており、古代ギリシアの音楽はギリシア悲劇や詩に伴う音楽が主であった。これが後のクラシック音楽に繋がっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "東洋では、江戸時代まで総検校塙保己一らによって温故堂で講談された和学や、中国神話によると、縄の発明者の氏族が歌舞や楽器、楽譜などを発明したとされる。塙保己一は、撚糸である縄や結縄の発祥を日本列島から出土する土器や房総半島飯岡の網小屋に遺る有結網に捜し求めた研究成果を群書類従に編纂した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "クラシック音楽の音楽史においては、8世紀頃まで遡ることができる。まず、この頃にキリスト教の聖歌であるグレゴリオ聖歌や、多声音楽が生まれ(中世西洋音楽)、これが発展し、15世紀にはブルゴーニュ公国のフランドル地方でルネサンス音楽が確立された。16世紀には本格的な器楽音楽の発達、オペラの誕生が起こり、宮廷の音楽が栄えた(バロック音楽)。これ以前の音楽を、初期音楽と呼ぶことが多い。その後18世紀半ばになると民衆にも音楽が広まり、古典派音楽と呼ばれる「形式」や「和声」に重点をおいた音楽に発展した。また、この頃から一般的に音楽が芸術として見られるようになる。19世紀には「表現」に重点を置いたロマン派音楽に移行し、各国の民謡などを取り入れた国民楽派も生まれる。20世紀頃には「気分」や「雰囲気」で表現する印象主義音楽や、和声および調の規制をなくした音楽などの近代音楽が生まれ、さらに第二次世界大戦後は現代音楽とよばれる自由な音楽に発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ポピュラー音楽の歴史は17世紀頃、アメリカへの移民まで遡る。本格的に移民が行われるようになると、白人によるミュージカルのような劇場音楽が盛んになった。また、アフリカからの黒人により霊歌(スピリチュアル)、ブルースやゴスペルが始まった。19世紀末にはブルースが西洋音楽と融合し、スウィングや即興、ポリリズムが特徴的なジャズに発展していった。1920年代には、ブルースやスピリチュアル、アパラチア地方の民俗音楽が融合したカントリー・ミュージック(カントリー)が人気を集め、1940年代には電子楽器や激しいリズムセッションが特徴的なリズム・アンド・ブルース(R&B)、1950年代にはR&Bとゴスペルが融合したソウルミュージック(ソウル)が生まれた。さらに、1950年代半ばには、カントリー、ブルース、R&Bなどが融合したロックンロール(ロック)が現れ、1970年代にはヒップホップの動きが現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本では、縄文時代から既に音楽が始まっていたが、5世紀から8世紀にかけて朝鮮半島・中国から音楽を取り入れたことからさまざまなジャンルの音楽が始まった。まず、平安時代に遣唐使を廃止して国風文化が栄えていた頃、外来音楽を組み込んだ雅楽が成立し、宮廷音楽が盛んになった。その後、鎌倉時代・室町時代には猿楽が始まり、能・狂言に発展した。江戸時代でも日本固有の音楽が発達し、俗楽(浄瑠璃、地歌、長唄、箏曲など)に発展した。明治時代以降は、音楽においても西洋化や大衆化が進み、西洋音楽の歌曲やピアノ曲が作曲された。1920年代には歌謡曲や流行歌などの昭和時代のポピュラー音楽が始まり、1960年代に入るとアメリカのポピュラー音楽や現代音楽が取り入れられ、ロックやフォークソングが盛んとなる一方、演歌が成立した。1990年代にはJ-POPが成立し隆盛を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは古くは王侯貴族や教会などが音楽家を保護し、そのなかで数々の名曲が生み出されていたが、18世紀頃よりヨーロッパにおいては市民の経済力が向上し、不特定多数の聴衆に向けての演奏会が盛んに行われるようになった。この傾向はフランス革命(1789年)以後、上記の特権階級の消滅や市民階級の経済力向上(貴族に代わるブルジョワ市民の台頭)に従ってさらに加速していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、16世紀には活版印刷の発明によって楽譜も出版されるようになった。印刷楽譜はそれまでの書写によるものより量産性・正確性・価格のすべてにおいて優れたものであり、音楽、とくに同一の曲の普及に大きな役割を果たした。楽譜出版は、19世紀には商業モデルとして確立し、音楽産業の走りとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "19世紀末までは自分で演奏を行う場合以外は音楽を楽しむには基本的に音楽家が必要であったが、1877年にトーマス・エジソンが蓄音機を発明し、次いで1887年にエミール・ベルリナーがこれを円盤形に改良し、ここからレコードが登場すると、音楽そのものの個人所有が可能となり、これにより各個人が家庭で音楽を楽しむことも可能となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "次いで、1920年代にラジオ放送が開始されマスメディアが音声を伝えることも可能になるとすぐに音楽番組が開始され、不特定多数の人々に一律の音楽を届けることが可能となり、音楽の大衆文化化が進んだ。そしてその基盤の上に、音楽の制作や流通、広告を生業とするレコード会社が出現し、大規模な音楽産業が成立することとなった。その後、テレビなどの新しいメディアの登場と普及、カセットテープや1980年代のコンパクトディスクの登場など新しい媒体の出現、1979年に発売されたウォークマンのような携帯音楽プレーヤーの登場などで音楽愛好者はさらに増加し、音楽産業は隆盛の一途をたどった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "音楽産業隆盛の流れは、1990年代後半にインターネットが普及し初めてから変化しはじめた。インターネットを介した音楽供給はそれまでのように音楽を保存した物理的な媒体をもはや必要とせず、物として音楽を所有する需要は減少の一途をたどった。一方で、音楽祭や演奏会はこの時期を通じて開催され続けており、ライブなどはむしろ隆盛を迎えているなど、音楽産業を巡る環境は変化し続けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": 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-)、LP盤(1948年-)、オープンリールテープ(古くは19世紀末や20世紀初頭から)、コンパクトカセット(カセットテープ)(1962年-)が使われてきた歴史があり、デジタル方式の録音が可能な時代になってからはCD(1982年-)、MD(1992年-)が使われ、(映像・音響を兼ねる媒体の)ビデオテープ、LD(1970年代や80年代-)DVD(1996年頃-)、BD(2003年頃-)なども使われるようになった。1970年代後半に登場したパーソナルコンピュータが1990年代後半ころから一般家庭に普及して以降、フロッピーディスク、HDDのほかフラッシュメモリの技術を利用したSDメモリ(1999年-)、USBメモリー(2000年頃-)、SSD(本格的には2008年以降)などがある。2000年代からは媒体を持たずインターネットによる配信を利用する人も増えた。", "title": "生演奏 / 再生音楽" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "媒体に記録された音楽はいわゆる再生機器(あるいは「録音再生機器」)によって再生される。たとえば蓄音機(1877年-)、レコードプレーヤー、ハイファイ装置、コンポーネントステレオ、ラジカセ(1960年代-)、携帯カセットプレーヤー(ウォークマンなど、1979年-)、CDプレーヤー(1982年-)、携帯CDプレーヤー(1984年-)、デジタルオーディオプレーヤー(iPodなど、2001年-)などである。21世紀にデジタル化が進んでから聴取環境は多様化し、家庭用PCのほかフィーチャーフォンやスマートフォンでも標準で再生機能を備えるようになった。", "title": "生演奏 / 再生音楽" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "音楽を人々に届ける経路(チャネル)としてはAM放送(1920年代ころ-)、FM放送(1933年-)などのラジオ放送や、テレビ放送(1930年代や40年代ころから。映像と音響を届ける)が使われ、21世紀にはデータ圧縮技術を活用して、インターネット経由の音楽配信が盛んとなってきている。デジタルでもハイレゾリューションオーディオ の高音質音源が登場した。", "title": "生演奏 / 再生音楽" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "音楽を、単なる「音」ではなく、また「言語」でもなく、「音楽」として認識する脳のメカニズムは、まだ詳しくわかっていない。それどころか、ヒトが周囲の雑多な音の中からどうやって声や音を分離して聞き分けているのかなど、聴覚認知の基本的なしくみすら未解明なことが多い。しかし、音楽と脳の関係について、以下のようないくつかの点はわかっている。", "title": "音楽と脳" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "音楽のなだめるようなやる気を起こさせる音は、心臓血管の健康へのさまざまな利点を含む、幅広い健康上の利点を提供する。適切な状況で適切な種類の音楽を使用すると、ニーズに応じて、感情的な状態と全体的な健康状態を向上させることができる。", "title": "音楽と健康" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "音楽を研究する学問として音楽学がある。音楽理論に関するものとしては音楽哲学、音楽美学がある。ほかに音楽の歴史を研究する音楽史、音楽教育学、音楽心理学、音楽音響学などもある。西洋音楽と各民族の民族音楽を比較研究する比較音楽学は、人類学の影響を受けて各民族の音楽文化を研究する民族音楽学へと変化した。また、文学研究でも音楽との関連などが研究される。研究者が音楽評論を書くこともある。", "title": "学術研究" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その文化的発展度を問わず、音楽はどの民族にも普遍的に存在しており、様々に利用されてきた。軍隊の行軍や指揮に音楽はつきもので、現代においても多くの国家の軍は軍楽隊を所持している。日々の労働にリズムをつけ効率を高めるための労働歌もまた多くの民族に伝わっており、日本でも田植え歌や木遣などはこれにあたる。歌垣のように、求愛のために音楽を用いることも世界中に広く見られる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "魔術的・呪術的用途、さらには宗教的用途に音楽を使用することも多くの民族に共通しており、例えばヨーロッパにおいては教会が18世紀頃までは音楽の重要な担い手の一つだった。一方、1990年代にアフガニスタンで政権を打ち立てたターリバーンは、公共の場の音楽はイスラムの基準に合致しないと解釈しており、徹底的な弾圧を行った。2021年にターリバーンが復権した際には、直ちに有名歌手が殺害されたほか、弾圧を恐れたアフガニスタン国立音楽院の教師や生徒100人以上が国外へ脱出した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの中世大学教育における自由七科のひとつに音楽が含まれていたように、音楽は教養としても重視されることが多く、やがて19世紀に入り近代教育がはじまると、音楽も初等教育からそのカリキュラムの中に組み込まれていった。明治維新後の日本もこの考え方を踏襲したが、西洋音楽を扱える人材がほとんど存在しなかったため即時導入はできず、明治15年の「小学唱歌集」の発行を皮切りに徐々に唱歌が導入されていくこととなった。こうした一般教養としての音楽教育のほか、音楽のプロを育成する音楽学校も世界各地に存在し、さまざまな音楽家を育成している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "音楽はしばしば、民族のアイデンティティと結びつきナショナリズムの発露をもたらす。世界のほとんどの独立国が国歌を制定しているのもこの用途によるものである。国歌だけでなく、一般の音楽においてもこうしたつながりは珍しくない。19世紀にはナショナリズムのうねりの中で、当時の音楽の中心地であるドイツ・フランス・イタリア以外のヨーロッパ諸国において、自民族の音楽の要素を取り入れたクラシック音楽の確立を目指す国民楽派が現れ、多くの名作曲家が出現した。民族音楽においてもナショナリズムとのつながりは一般的に強いものがあり、また、ポピュラー音楽でも、民族を越えてその国家内で愛唱される場合、国民の統合をもたらす場合がある。", "title": "文化" } ]
音楽とは、音による芸術である。音楽はあらゆる人間社会にみられる普遍文化だが、その定義は文化によって様々である。音楽は先史時代から存在したとされる。 また音楽は、形として残らないことから、「時間芸術」と呼ばれることもある。
{{about}} [[File:Berlin Philharmonie-Bühne.JPG|thumb|right|300px|[[オーケストラ]]による[[クラシック音楽]]の演奏。クラシック音楽の本場は[[ドイツ]]や[[オーストリア]]である<ref> Milo Arlington Wold, Edmund Cykler, 1985, An Outline History of Western Music. p.122</ref>。]] [[File:WIKI LOVES AFRICA 2016 HYPERFOCALSTUDIOS.jpg|thumb|right|300px|[[アフリカ大陸]]、ナイジェリア・オスン州の伝統的な[[ドラマー]]による[[太鼓|ドラム]]の演奏。アメリカに移った黒人は[[ジャズ]]や[[ブルース]]を生み、世界中に広がった<ref>[https://blogs.loc.gov/folklife/2017/02/birth-of-blues-and-jazz/ The Painful Birth of Blues and Jazz]</ref>。]] [[File:Bianzhong.jpg|thumb|300px|[[雅楽 (中国)|中国の雅楽]]を演奏するための楽器編成例。[[紀元前433年]]のもの。[[雅楽 (中国)|中国の雅楽]]が、[[漢字文化圏]]の[[雅楽 (朝鮮)|朝鮮の雅楽]]や[[雅楽|日本の雅楽]]に大きな影響を与えた。]] [[File:20150626 The Majority Says @Kosmonaut 2015 IMG 6017 by sebaso.jpg|thumb|300px|現代では若者や大衆の間で日常的に広く聞かれている音楽は、いわゆる[[ポピュラー音楽]]で、歌声([[ヴォーカル]])に[[歌詞]]をのせて楽器の[[伴奏]]が伴う]] '''音楽'''(おんがく、{{lang-en|Music}}、{{lang-fr|Musique}}、{{lang-it|Musica}}、{{lang-es|Música}})とは、[[音]]による[[芸術]]である。音楽はあらゆる人間社会にみられる[[ヒューマン・ユニバーサル|普遍文化]]だが{{sfn|Morley|2013|p=5}}、[[音楽の定義|その定義]]は文化によって様々である{{sfn|Mithen|2005|pp=26–27}}。音楽は[[先史時代]]から存在したとされる。 また音楽は、形として残らないことから、「時間芸術」と呼ばれることもある{{要出典|date=2023-09}}。 == 定義 == {{main|音楽の定義}} [[広辞苑]]では「音による芸術」と定義されている。 [[4世紀]][[古代ローマ]]の[[哲学者]]、[[アウグスティヌス]]の『音楽論』では「Musica est scientia bene modulandi(音楽とは音を良く整えるスキエンティア<ref group="注">scientia スキエンティアは「知」で、しかもやや断片的な知、知識のこと。はるか後の時代、19世紀になって「[[サイエンス]]」([[科学]])の語源となる語彙。</ref>である)」とされた<ref>アウグスティヌス著作集 第三巻</ref>。ジョン・ブラッキングの書では「人間が組織づけた[[音]]<ref name="JP">ジョン・ブラッキング 『人間の音楽性』岩波書店、1973年</ref>」とされた。[[ジョン・ケージ]]は「音楽は音である。コンサートホールの中と外とを問わず、われわれを取り巻く音である。」と語った。 その他、「音による時間の表現{{要出典|date=2023年4月}}」といったものまで様々な定義がある。 == 語源 == 『[[呂氏春秋]]』(紀元前239年に完成)に既に「音楽」という表現がみられる。 :'''音楽'''の由来するものは遠し、度量に於いて生じ、太一に於いて本づく(『呂氏春秋』大楽) 英語の"Music"を始め、ヨーロッパの多くの言語においては、[[古代ギリシャ語]]の[[wikt:μουσική#Ancient Greek|μουσική]] (''mousike''; 「[[ムーサ]]の技[わざ]」の意)を語源とする。ムーサはミューズの名でも知られる芸術や文化を司る女神である<ref>『138億年の音楽史』 p72 浦久俊彦 講談社現代新書 2016年7月20日第1刷</ref>。 == 分類・種類 == === 各国の音楽 === *{{仮リンク|カナダの音楽|en|Music of Canada}}、[[アメリカ合衆国の音楽]]、{{仮リンク|メキシコの音楽|en|Music of Mexico}} *{{仮リンク|グアテマラの音楽|en|Music of Guatemala}}、{{仮リンク|エルサルバドルの音楽|en|Music of El Salvador}}、{{仮リンク|ホンジュラスの音楽|en|Music of Honduras}} *{{仮リンク|コロンビアの音楽|en|Music of Colombia}}、{{仮リンク|エクアドルの音楽|en|Music of Ecuador}}、{{仮リンク|ペルーの音楽|en|Music of Peru}}、[[ブラジル音楽]] *{{仮リンク|フィンランドの音楽|en|Music of Finland}}、{{仮リンク|ノルウェーの音楽|en|Music of Norway}}、{{仮リンク|スウェーデンの音楽|en|Music of Sweden}}、{{仮リンク|デンマークの音楽|en|Music of Denmark}} *{{仮リンク|エストニアの音楽|en|Music of Estonia}}、{{仮リンク|リトアニアの音楽|en|Music of Lithuania}}、{{仮リンク|ポーランドの音楽|en|Music of Poland}}、{{仮リンク|ドイツの音楽|en|Music of Germany}}、{{仮リンク|ベルギーの音楽|en|Music of Belgium}}、{{仮リンク|フランスの音楽|en|Music of France}} *[[南アフリカの音楽]]、[[ナミビアの音楽]]、{{仮リンク|ボツワナの音楽|en|Music of Botswana}}、[[モロッコの音楽]]、{{仮リンク|アルジェリアの音楽|en|Music of Algeria}}、{{仮リンク|リビアの音楽|en|Music of Libya}} *[[トルコの音楽]]、{{仮リンク|シリアの音楽|en|Music of Syria}}、{{仮リンク|イラクの音楽|en|Music of Iraq}}、[[カザフスタンの音楽]]、[[ウズベキスタンの音楽]]、 [[トルクメニスタンの音楽]]、[[アフガニスタンの音楽]]、{{仮リンク|インドの音楽|en|Music of India}}、{{仮リンク|パキスタンの音楽|en|Music of Pakistan}}、[[インドネシアの音楽]]、[[ベトナムの音楽]]、[[中国の音楽]]、[[朝鮮の音楽]]({{仮リンク|北朝鮮の音楽|en|Music of North Korea}}、{{仮リンク|韓国の音楽|en|Music of South Korea}})、[[日本の音楽]] === ジャンル === {{main|音楽のジャンル一覧}} 音楽の「[[ジャンル]]」とは、音楽の様式や形式のこと。古来より音楽は多くの社会で[[娯楽]]、[[宗教]]、[[儀式]]などを通じ、生活に密接したものになっており、多くの特徴ある形式や様式を生み出してきた。 音楽のジャンルは、現在聞くことの出来る音楽の様式・形式であると同時に、発生した源、歴史の手がかりとなっている。 現代の音楽は、様々なジャンルの複雑な合成になっていることが多い<ref>{{Cite web|和書|title=現代音楽が難しい理由 - 現代音楽入門 Shoichi's Lab |url=https://shoichi-yabuta.jp/beginners/contemporary/difficult.html |website=shoichi-yabuta.jp |access-date=2023-05-12 |language=ja}}</ref>。 == 歴史 == {{main|音楽史}} === 古代の音楽の歴史 === {{main|古代の音楽|古代西洋音楽}} 音楽は有史以前から行われていたとされるが、それがいつ何処で、どのような形で始まったかは定かでない。ただ、それは[[歌]]から始まったのではないかと考えられている<ref>『図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明』 p220 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。[[西洋]]では、[[古代ギリシア]]の時代には[[ピタゴラス]]や[[プラトン]]により[[音楽理論]]や音楽に関する[[哲学]]が始まっており、[[古代ギリシアの音楽]]は[[ギリシア悲劇]]や[[詩]]に伴う音楽が主であった<ref>『増補改訂版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p15-19 音楽之友社 2009年4月10日第1刷</ref>。これが後の[[クラシック音楽]]に繋がっている。 [[東洋]]では、[[江戸時代]]まで[[総検校]][[塙保己一]]らによって温故堂で講談された和学や、中国神話によると、縄の発明者の氏族が歌舞や楽器、楽譜などを発明したとされる。塙保己一は、撚糸である縄や[[結縄]]の発祥を日本列島から出土する土器や[[房総半島]][[飯岡町|飯岡]]の網小屋に遺る有結網に捜し求めた研究成果を[[群書類従]]に編纂した。 * [[歌舞]]の発明者―『[[葛天氏]]』治めずして治まった時代の帝王。縄、衣、名の発明者でもある。 * [[琴]]瑟の発明者―『[[伏羲]]』[[三皇]]の初代皇帝。魚釣り、結縄、魚網、鳥網、八卦の発明者でもある。 * [[笙]][[簧]]の発明者―『[[女媧]]』天を補修し人類を創造した女性。 === ジャンルごとの歴史 === ;クラシック音楽の歴史 {{main|音楽史#西洋音楽史}} クラシック音楽の音楽史においては、[[8世紀]]頃まで遡ることができる。まず、この頃に[[キリスト教]]の聖歌である[[グレゴリオ聖歌]]や、[[多声音楽]]が生まれ([[中世西洋音楽]])<ref>『増補改訂版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p24-28 音楽之友社 2009年4月10日第1刷</ref>、これが発展し、[[15世紀]]には[[ブルゴーニュ公国]]の[[フランドル|フランドル地方]]で[[ルネサンス音楽]]が確立された。[[16世紀]]には本格的な[[器楽]]音楽の発達<ref>『増補改訂版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p49-52 音楽之友社 2009年4月10日第1刷</ref>、[[オペラ]]の誕生が起こり<ref>『増補改訂版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p53-59 音楽之友社 2009年4月10日第1刷</ref>、[[宮廷]]の音楽が栄えた([[バロック音楽]])。これ以前の音楽を、[[初期音楽]]と呼ぶことが多い。その後[[18世紀]]半ばになると民衆にも音楽が広まり、[[古典派音楽]]と呼ばれる「形式」や「[[和声]]」に重点をおいた音楽に発展した。また、この頃から一般的に音楽が[[芸術]]として見られるようになる。[[19世紀]]には「表現」に重点を置いた[[ロマン派音楽]]に移行し<ref>『増補改訂版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p87 音楽之友社 2009年4月10日第1刷</ref>、各国の[[民謡]]などを取り入れた[[国民楽派]]も生まれる<ref>『増補改訂版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p103-104 音楽之友社 2009年4月10日第1刷</ref>。[[20世紀]]頃には「気分」や「雰囲気」で表現する[[印象主義音楽]]や、和声および[[調]]の規制をなくした音楽などの[[近代音楽]]が生まれ、さらに[[第二次世界大戦]]後は[[現代音楽]]とよばれる自由な音楽に発展した。 ;ポピュラー音楽の歴史 {{main|音楽史#アメリカポピュラー音楽の音楽史|アメリカ合衆国の音楽}} [[ポピュラー音楽]]の歴史は[[17世紀]]頃、[[アメリカ]]への[[移民]]まで遡る。本格的に移民が行われるようになると、白人による[[ミュージカル]]のような劇場音楽が盛んになった。また、[[アフリカ]]からの黒人により[[霊歌]](スピリチュアル)、[[ブルース]]や[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]が始まった。19世紀末にはブルースが西洋音楽と融合し、[[スウィング (音楽)|スウィング]]や[[即興]]、[[ポリリズム]]が特徴的な[[ジャズ]]に発展していった。[[1920年代]]には、ブルースやスピリチュアル、[[アパラチア]]地方の民俗音楽が融合した[[カントリー・ミュージック]](カントリー)が人気を集め、[[1940年代]]には[[電子楽器]]や激しいリズムセッションが特徴的な[[リズム・アンド・ブルース]](R&B)、[[1950年代]]にはR&Bとゴスペルが融合した[[ソウルミュージック]](ソウル)が生まれた。さらに、1950年代半ばには、カントリー、ブルース、R&Bなどが融合した[[ロックンロール]](ロック)が現れ、[[1970年代]]には[[ヒップホップ]]の動きが現れた。 === 日本の音楽の歴史 === {{main|音楽史#日本音楽史|邦楽}} 日本では、[[縄文時代]]から既に音楽が始まっていたが、[[5世紀]]から[[8世紀]]にかけて[[朝鮮半島]]・[[中国]]から音楽を取り入れたことからさまざまなジャンルの音楽が始まった<ref>『増補改訂版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p136 音楽之友社 2009年4月10日第1刷</ref>。まず、[[平安時代]]に[[遣唐使]]を廃止して[[国風文化]]が栄えていた頃、外来音楽を組み込んだ[[雅楽]]が成立し、宮廷音楽が盛んになった。その後、[[鎌倉時代]]・[[室町時代]]には[[猿楽]]が始まり、[[能]]・[[狂言]]に発展した。[[江戸時代]]でも日本固有の音楽が発達し、[[俗楽]]([[浄瑠璃]]、[[地歌]]、[[長唄]]、[[箏曲]]など)に発展した。[[明治時代]]以降は、音楽においても西洋化や大衆化が進み、西洋音楽の[[歌曲]]や[[ピアノ曲]]が作曲された。[[1920年代]]には[[歌謡曲]]や[[流行歌]]などの昭和時代のポピュラー音楽が始まり、1960年代に入るとアメリカのポピュラー音楽や現代音楽が取り入れられ、ロックやフォークソングが盛んとなる一方、[[演歌]]が成立した<ref>「図説 日本のマスメディア 第二版」p241-242 藤竹暁編著 NHKブックス 2005年9月30日第1刷発行</ref>。1990年代には[[J-POP]]が成立し隆盛を迎えた<ref>「図説 日本のマスメディア 第二版」p247-248 藤竹暁編著 NHKブックス 2005年9月30日第1刷発行</ref>。 === 大衆化および産業化の歴史 === ヨーロッパでは古くは王侯貴族や[[カトリック教会|教会]]などが音楽家を保護し、そのなかで数々の名曲が生み出されていたが、18世紀頃よりヨーロッパにおいては[[市民]]の経済力が向上し、不特定多数の聴衆に向けての演奏会が盛んに行われるようになった<ref>『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p42 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。この傾向は[[フランス革命]](1789年)以後、上記の特権階級の消滅や市民階級の経済力向上(貴族に代わる[[ブルジョワ]]市民の台頭)に従ってさらに加速していった<ref>『138億年の音楽史』 p239-240 浦久俊彦 講談社現代新書 2016年7月20日第1刷</ref>。 また、16世紀には[[活版印刷]]の発明によって楽譜も出版されるようになった。印刷楽譜はそれまでの書写によるものより量産性・正確性・価格のすべてにおいて優れたものであり、音楽、とくに同一の曲の普及に大きな役割を果たした<ref>『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p40 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。楽譜[[出版]]は、19世紀には商業モデルとして確立し、音楽産業の走りとなった<ref>『138億年の音楽史』 p240 浦久俊彦 講談社現代新書 2016年7月20日第1刷</ref>。 19世紀末までは自分で演奏を行う場合以外は音楽を楽しむには基本的に音楽家が必要であったが、1877年に[[トーマス・エジソン]]が[[蓄音機]]を発明し、次いで[[1887年]]に[[エミール・ベルリナー]]がこれを円盤形に改良し、ここから[[レコード]]が登場すると、音楽そのものの個人所有が可能となり、これにより各個人が家庭で音楽を楽しむことも可能となった<ref name="名前なし-2">『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p132 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。 次いで、[[1920年代]]に[[ラジオ放送]]が開始されマスメディアが音声を伝えることも可能になるとすぐに[[音楽番組]]が開始され、不特定多数の人々に一律の音楽を届けることが可能となり、音楽の[[大衆文化]]化が進んだ。そしてその基盤の上に、音楽の制作や流通、[[広告]]を生業とする[[レコード会社]]が出現し、大規模な音楽産業が成立することとなった。その後、[[テレビ]]などの新しいメディアの登場と普及、[[カセットテープ]]や1980年代の[[コンパクトディスク]]の登場など新しい媒体の出現、1979年に発売された[[ウォークマン]]のような[[携帯音楽プレーヤー]]の登場などで音楽愛好者はさらに増加し、音楽産業は隆盛の一途をたどった。 音楽産業隆盛の流れは、1990年代後半に[[インターネット]]が普及し初めてから変化しはじめた。[[音楽配信|インターネットを介した音楽供給]]はそれまでのように音楽を保存した物理的な媒体をもはや必要とせず、物として音楽を所有する需要は減少の一途をたどった。一方で、[[音楽祭]]や[[演奏会]]はこの時期を通じて開催され続けており、[[演奏会|ライブ]]などはむしろ隆盛を迎えているなど、音楽産業を巡る環境は変化し続けている<ref name="名前なし-2"/>。 == 要素 == ; 音の要素 : 音には、基本[[周波数]](音の高さ、[[音高]])、含まれる周波数([[音色]]、[[和音]]など)、大きさ([[音量]])、周期性([[リズム]])、音源の方向などの要素がある。 ; 西洋音楽における三要素の概念 上記の要素に関連して、いわゆる[[西洋音楽]]の世界では、一般に音楽は'''[[リズム]]'''、'''[[メロディ|メロディー]]'''、'''[[和声|ハーモニー]]'''の三要素からなる、と考えられている。だが実際の楽曲では、それぞれが密接に結びついているので一つだけを明確に取り出せるわけではない。また、音楽であるために三要素が絶対必要という意味ではない。たとえば西洋音楽以外ではハーモニーは存在しないか希薄であることが多いし、逆に一部の要素が[[西洋音楽]]の常識ではありえないほど高度な進化を遂げた音楽も存在する。このようにこれら三要素の考え方は決して完全とは言えないが、音楽を理解したり習得しようとする時に実際に用いられ、効果をあげている。 ; 西洋音楽において和声が確立した音楽におけるメロディ : [[メロディ]](旋律)は特に[[和音]]の構成によってなされており、和音は[[周波数]]のおよそ整数比率によって発生する。 ; 音の発生方法 : [[音]]を発生する方法には[[声]]、[[口笛]]、手拍子、[[楽器]]などがある。西洋の伝統的な分類法においては楽器は息を吹き込む[[管楽器]]<ref group="注">[[笛]]の系統で、[[クラリネット]]などの[[木管楽器]]と[[トランペット]]などの[[金管楽器]]に分かれる。</ref>、弦を振動させることで音を出す[[弦楽器]]<ref group="注">弦の使用法によって、弦をはじく[[ギター]]などの[[撥弦楽器]]、弦をこする[[ヴァイオリン]]などの[[擦弦楽器]]、そして弦を打つ[[打弦楽器]]に分かれる。</ref>、そして楽器そのものを打ったり振ったりして音を出す[[打楽器]]([[太鼓]]など)の3つに分類される。楽器は地域的な特色が強く出るものであり、西洋音楽の普及によって西洋起源の楽器が世界中に広まっていった後も、世界各地にはその土地ならではの特徴的な楽器が多く存在し、同じ楽器でも使用する素材が異なることも珍しくない<ref>『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p11 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。 == 音楽行為 == 音楽行為に関しては、現代では一般的に「[[作曲]]」「[[演奏]]」「[[鑑賞]]」が基本として考えられている。作曲とは、[[作曲者]]の心に感じた事を音によって表現することである。演奏とは、再現芸術ともよばれ、作曲された音楽を実際に音として表現する行為であり、原曲を変え(=[[編曲]])つつ演奏したり、声楽曲を器楽曲に変える([[編曲]])等した上で演奏する行為も演奏行為とされる。([[#演奏]])。鑑賞とは、音楽を聴いてそれを味わったり、価値を見極めたりすることである。 === 作曲 === {{main|作曲}} [[作曲]]とは、曲を作ること、あるいは音楽の次第を考案することである。具体的には、[[楽譜]]を作成することもあれば、[[即興演奏]]という方法で楽譜制作は抜いて、作曲をすると同時に演奏をしていくこともある。また、作曲者は楽譜を作るにあたって、様々な音を形で表したもの(いわゆる音符や記号など)を五線譜に従い、その音を置くことによって、リズムのある「音楽」に仕上がる。 === 演奏 === {{main|演奏}} [[演奏]]とは、実際に音を出すこと、つまり音楽を奏でることであり、[[楽器]]を奏することだけでなく、広義には[[歌]]を歌うことも含まれる。演奏には[[即興演奏]]もあれば、[[楽譜|譜面]]に従った演奏もある。中でも[[ジャズ]]では即興演奏が多用される一方で、[[クラシック音楽]]では通常は譜面の[[音符]]の通りに演奏されている。真に機械だけによる演奏は[[自動演奏]]と呼ばれている。 === 鑑賞 === 音楽鑑賞とは、ひとが行った演奏を自分の耳で聴き、それを味わうことである。また音楽作品を聴いてそれの「品定め」することを指す場合もある。 == 楽器編成 == 楽器の編成は演奏する楽曲の音楽ジャンルと関連がある。 楽器編成は、音楽ジャンル→編成という構成で説明をすると理解しやすいものであり、たとえば以下のようなものがある。 ;クラシック音楽 * [[オーケストラ]](通常、弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器から成る) **一般的な「2管編成」だと35人~70人程度。「2管編成」を細かく説明すると、弦楽器は第1[[バイオリン]] 8-12人程、第2バイオリン6-10人程、[[ビオラ]] 4-8人ほど、[[チェロ]] 3-6人ほど、[[コントラバス]] 1-4人程。木管楽器は[[フルート]] 2人、[[オーボエ]] 2人、[[クラリネット]] 2人、[[ファゴット]] 2人。金管楽器は[[ホルン]] 2-4人程、[[トランペット]] 2人、[[トロンボーン]] 2人、[[チューバ]] 1人。打楽器は1-2人(主に[[ティンパニ]]、あとは様々。)。 **「5管編成」で120人程度であり、音の厚みを感じさせる。 :オーケストラの編成の詳細については [[オーケストラ#編成]] で解説。 * 室内オーケストラ(10〜20名程度と小規模なオーケストラ) * [[アンサンブル]] * [[カルテット]](四つの楽器) * [[トリオ]](三つの楽器) * [[デュオ]](一対の楽器(や歌手)) ;[[ジャズ]] * コンボ(小編成) * ビッグバンド(「フルバンド」で総勢17名前後の編成。基本はドラム・ピアノ・ギター・ベースのリズムセクションおよび、トランペットx4、トロンボーンx4、[[サックス]]x5。[[スウィング・ジャズ]]などの演奏で採用される。) :ジャズの楽器編成については [[バンド (音楽)#ジャズバンド]] で解説。 ;[[ロック (音楽)|ロック・ミュージック]] 次のような編成が一般的である。 * ギター・トリオ(ギタリスト+ベーシスト+ドラマー。楽器名で言うと、[[エレクトリック・ギター]] + [[エレクトリック・ベース]] + [[ドラムセット|ドラムス]]。ロックバンドの基本構成のひとつ) * ギター・トリオ + [[ボーカル]](これもロックバンドの基本構成のひとつ) * ギタリスト2人 + ベーシスト + ドラマー * ギタリスト + ベーシスト + ドラマー + エレクトリックキーボード この他の変則的な編成も多い。 :ロックバンドの編成の詳細は[[バンド (音楽)#ロックバンド]] で解説。 ;[[吹奏楽]] * [[マーチングバンド]] * [[英国式ブラスバンド]] ;邦楽 * [[雅楽]] * [[能楽]] * [[囃子]] * [[三曲合奏]] == 生演奏 / 再生音楽 == 音楽はもともとは生演奏だけだったが、1877年にエディソンが蓄音機を発明して以降は記録・再生された「レコード音楽」あるいは「再生音楽」を楽しむことができるようになった。近年では人々の音楽を聴く行為を統計的に見ると、再生音楽が聴かれている時間・頻度が圧倒的に多くなっている<ref>『138億年の音楽史』 p253-254 浦久俊彦 講談社現代新書 2016年7月20日第1刷</ref>。 ===生演奏=== [[File:C.33 Photography 0019-e-64004IMG 9896-e-63998111.jpg|thumb|路上パフォーマンスを行うトランペット奏者]] 生演奏される音楽は、[[:en:performing arts]] (パフォーミング・アート)の一種であり、舞台上で生身の俳優によって行われる[[演劇]]や、生で踊られる[[ダンス]]など、他のパフォーミング・アートと同様に、パフォーマーがパフォームするたびに、多かれ少なかれ、異なるという特徴がある。 === 記録と録音技術 === {{Seealso|音楽・音響・録音技術}} 音楽の記録・伝達方法として最も古いものは[[口承]]であるが、やがていくつかの民族は音楽を記号の形にして記す、いわゆる[[楽譜]]を発明し使用するようになった。各民族では様々な[[記譜法]]が開発されたが、11世紀初頭にイタリアの[[グイード・ダレッツォ]]が譜線を利用した記譜法を開発し<ref>「138億年の音楽史」p218-219 浦久俊彦 講談社現代新書 2016年7月20日第1刷</ref>、これが徐々に改良されて17世紀に入るとヨーロッパにおいて[[五線譜]]が発明された。五線譜はすべての楽曲や楽器の表記に使用でき、さらに譜面上で作曲もできるほど完成度が高かったため、以後これが楽譜の主流となった<ref>『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p12-13 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。 楽譜はあくまでも音楽のデータを記号に変換して記すものにすぎなかったが、1877年に[[トーマス・エジソン]]が蝋菅録音機([[蝋]]のチューブを用いる、[[蓄音機]]の初期のもの)を発明すると、音楽そのものの記録が可能となった<ref name="名前なし-1">『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p132 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。[[録音]]の技術はその後も発達し続けた。 ;記録・配布用媒体の歴史 [[File:D'Youville College student listening to phonograph, Buffalo, New York, 1958.jpg|thumb|right|200px|レコードを聴く女性(1958年)]] <!--[[File:2012-366-25 Drop a Needle (6763970597).jpg|thumb|right|250px|レコード]]--> 音楽の記録と伝達には様々な[[メディア (媒体)|媒体]]が使われてきた。エジソンの蓄音機以降のものを、歴史の長い古いものから挙げると、7インチ・レコード([[:en:single (music)#7-inch format|7-inch records]]。回転速度が45[[RPM]]だったので「45s」とも。日本では「[[レコード#SP盤|SP盤]]」と呼ぶ。[[:en:Gramophone Company]]により1890年代ころから)、[[コンパクト盤|EP盤]](1919年 -)、[[レコード#LP盤|LP盤]](1948年-)、[[オープンリール]]テープ(古くは19世紀末や20世紀初頭から)、[[コンパクトカセット|コンパクトカセット(カセットテープ)]](1962年-)が使われてきた歴史があり、デジタル方式の録音が可能な時代になってからは[[コンパクトディスク|CD]](1982年-)、[[ミニディスク|MD]](1992年-)が使われ、(映像・音響を兼ねる媒体の)[[磁気テープ#ビデオ用|ビデオテープ]]、[[レーザーディスク|LD]](1970年代や80年代-)[[DVD]](1996年頃-)、[[Blu-ray Disc|BD]](2003年頃-)なども使われるようになった。1970年代後半に登場したパーソナルコンピュータが1990年代後半ころから一般家庭に普及して以降、[[フロッピーディスク]]、[[ハードディスクドライブ|HDD]]のほか[[フラッシュメモリ]]の技術を利用した[[SDメモリーカード|SDメモリ]](1999年-)、[[USBフラッシュドライブ|USBメモリー]](2000年頃-)、[[ソリッドステートドライブ|SSD]](本格的には2008年以降)などがある。2000年代からは媒体を持たずインターネットによる配信を利用する人も増えた。 媒体に記録された音楽はいわゆる再生機器(あるいは「[[録音再生機器]]」)によって再生される。たとえば[[蓄音機]](1877年-)、[[レコードプレーヤー]]、[[ハイファイ]]装置、[[コンポーネントステレオ]]、[[ラジカセ]](1960年代-)、携帯カセットプレーヤー([[ウォークマン]]など、1979年-)、[[CDプレーヤー]](1982年-)、[[CDプレーヤー#携帯型|携帯CDプレーヤー]](1984年-)、[[デジタルオーディオプレーヤー]]([[iPod]]など、2001年-)などである。21世紀にデジタル化が進んでから聴取環境は多様化し、家庭用PCのほか[[フィーチャーフォン]]や[[スマートフォン]]でも標準で再生機能を備えるようになった。 [[File:Kazimierz Przerwa-Tetmajer listening to radio.jpg|thumb|right|200px|ラジオ放送を聴く人]] ;放送・配信 音楽を人々に届ける経路(チャネル)としては[[中波放送|AM放送]](1920年代ころ-)、[[超短波放送|FM放送]](1933年-)などの[[ラジオ放送]]や、[[テレビ放送]](1930年代や40年代ころから。映像と音響を届ける)が使われ、21世紀には[[データ圧縮]]技術を活用して、[[インターネット]]経由の[[音楽配信]]が盛んとなってきている<ref name="名前なし-1"/>。デジタルでも[[ハイレゾリューションオーディオ ]]の高音質音源が登場した。 [[File:Sony NW-ZX300 display.jpg|thumb|100px|ソニーのハイレゾ・ウォークマン NW-ZX300]] == 音楽と脳 == {{main|音楽心理学}} 音楽を、単なる「音」ではなく、また「言語」でもなく、「音楽」として認識する[[脳]]のメカニズムは、まだ詳しくわかっていない。それどころか、ヒトが周囲の雑多な音の中からどうやって声や音を分離して聞き分けているのかなど、聴覚認知の基本的なしくみすら未解明なことが多い。しかし、音楽と脳の関係について、以下のようないくつかの点はわかっている。 * 音楽に関係する脳:[[側頭葉]]を電気刺激すると音楽を体験するなどの報告から、[[一次聴覚野]]を含む側頭葉が関係していることは確かである。 * 音楽、とくにリズムと、身体を動かすことは関連している。 * 音楽には感情を増幅させる働きがある。たとえば映画・演劇などで、見せ場に効果的に音楽を挟むことによって観客の涙を誘ったり、あるいは怪談話の最中におどろおどろしい音楽を挟むことにより観客の恐怖感を煽る、といったものである。 * 幼い頃から練習を始めた音楽家は、非音楽家とくらべて大脳の左右半球を結ぶ連絡路である「[[脳梁]]」の前部が大きい(Schlaugら、1995)。楽器の演奏に必要な両手の協調運動や、リズム・和音・情感・楽譜の視覚刺激などといった様々な情報を左右の皮質の各部位で処理し、密接に左右連絡しあうことが関係している可能性がある。 * [[絶対音感]]:聴いた音の音階、基準になる音との比較なしに、努力せずに識別できる能力のことで、9 - 12歳程度を超えると身に付けることができないといわれている。アジア系の人には絶対音感の持ち主が多いと言われているが正確なデータはなく、これが遺伝的、文化的要因のいずれによるのかも医学的な根拠は示されていない。また、絶対音感を持っている人と持っていない人では、音高を判断しているときに血流が増加する脳の部位が異なる。持っていない人では、音高を[[短期記憶]]として覚えることに関係する右[[前頭前野]]の活性が弱いのに対し、持っている人では記憶との照合をする、背外側前頭前野の活性が強かったという。また絶対音感保持者では側頭葉の左右非対称性(左>右)が強いという(Zattoreら、2003)。 * [[音楽と数学|音楽と数学の関係]]:中世ヨーロッパで一般教養として体系化された「[[自由七科]]」では、音楽は数学的な学問の一つとして数えられている。また、子供に音楽の練習をさせると数学の成績が伸びたという報告(Rauscherら、1997)もあり、音楽と数学の関連性を示唆する。 *楽器を習うと脳の両側が刺激され、[[記憶|記憶力]]が強化される<ref>{{Cite web|title=Put your brain to the challenge|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/put-your-brain-to-the-challenge|website=Harvard Health|date=2021-05-01|accessdate=2021-06-04|language=en}}</ref>。 * 音楽は、認知機能を刺激し、幸福を促進し、生活の質を改善する<ref>{{Cite web|title=Why is music good for the brain?|url=https://www.health.harvard.edu/blog/why-is-music-good-for-the-brain-2020100721062|website=Harvard Health Blog|date=2020-10-07|accessdate=2020-10-13|language=en-US|first=Andrew E. Budson|last=MD}}</ref>。リラックスしたり、エネルギーを増やしたり、思考を改善したり、その日のやる気を引き出したりする必要がある場合でも、明るい音楽は最も必要なときに追加のサポートを提供できる。科学者たちは、音楽を聴くことで、思考や動きを変えるさまざまな脳の領域を刺激できることを発見した<ref name=":0">{{Cite web|title=Music to your health|url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/music-to-your-health|website=Harvard Health|accessdate=2021-01-23|first=Harvard Health|last=Publishing}}</ref>。 *多くの研究は、勉強しながら[[環境音楽]]を聞く大学生は、不安が少なく、集中力があり、テストスコアが高いことを示している。 環境音には、自然音、アコースティックギター、ピアノ、電子音などの心地よい楽器音が含まれる。お気に入りの音楽の曲は、前向きな思い出をかき立て、気分を高め、落ち着いたリラックスできる雰囲気を作り出すことができる。環境音楽はまた、分析的思考と創造性に関与する脳内の領域を活性化し、情報を吸収して保持する脳の能力を高めると考えられる<ref name=":0" />。 * 残念ながら、音楽は脳に多くの恩恵をもたらすが、言語と音楽は脳の同じ部分で処理されるため、環境音楽以外の音楽を聴きながら作業をすると、創造性と読解力が著しく損なわれる。研究者たちは、音楽を聴くことによって、言語情報を記憶し、課題を完了する能力が破壊されると推測している<ref>{{Cite web|title=Listening to music may interfere with creativity|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/listening-to-music-may-interfere-with-creativity|website=Harvard Health|accessdate=2020-09-09|first=Harvard Health|last=Publishing}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=1-7 Should You Listen to Music When You're Studying? - Change IS possible|url=https://www.coursera.org/lecture/mindshift/1-7-should-you-listen-to-music-when-you-re-studying-v8DY4|website=Coursera|accessdate=2021-01-23|language=ja}}</ref>。 == 音楽と健康 == 音楽のなだめるようなやる気を起こさせる音は、心臓血管の健康へのさまざまな利点を含む<ref>{{Cite web|title=Put a song in your heart|url=https://www.health.harvard.edu/heart-health/put-a-song-in-your-heart|website=Harvard Health|accessdate=2021-01-23|first=Harvard Health|last=Publishing}}</ref>、幅広い健康上の利点を提供する。適切な状況で適切な種類の音楽を使用すると、ニーズに応じて、感情的な状態と全体的な健康状態を向上させることができる<ref name=":0" />。 == 学術研究 == 音楽を研究する学問として[[音楽学]]がある。[[音楽理論]]に関するものとしては[[哲学|音楽哲学]]、[[音楽美学]]がある。ほかに音楽の歴史を研究する[[音楽史]]、[[音楽教育学]]、[[音楽心理学]]、[[音響学|音楽音響学]]などもある。西洋音楽と各[[民族]]の[[民族音楽]]を比較研究する[[比較音楽学]]は、[[人類学]]の影響を受けて各民族の音楽文化を研究する[[民族音楽学]]へと変化した<ref>「文化人類学キーワード」p196 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。また、[[文学]]研究でも音楽との関連などが研究される。研究者が[[音楽評論]]を書くこともある。 == 文化 == その文化的発展度を問わず、音楽はどの民族にも普遍的に存在しており、様々に利用されてきた。[[軍隊]]の行軍や指揮に音楽はつきもので<ref>『138億年の音楽史』 p118-120 浦久俊彦 講談社現代新書 2016年7月20日第1刷</ref>、現代においても多くの国家の軍は[[軍楽隊]]を所持している。日々の労働にリズムをつけ効率を高めるための[[労働歌]]もまた多くの民族に伝わっており、日本でも田植え歌や[[木遣]]などはこれにあたる。[[歌垣]]のように、[[求愛]]のために音楽を用いることも世界中に広く見られる<ref>『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p8-9 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。 魔術的・呪術的用途、さらには宗教的用途に音楽を使用することも多くの民族に共通しており、例えばヨーロッパにおいては教会が18世紀頃までは音楽の重要な担い手の一つだった<ref>『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p96 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。一方、1990年代に[[アフガニスタン]]で政権を打ち立てた[[ターリバーン]]は、公共の場の音楽はイスラムの基準に合致しないと解釈しており、徹底的な[[弾圧]]を行った。[[2021年]]にターリバーンが復権した際には、直ちに有名歌手が殺害されたほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.businessinsider.jp/post-241317 |title=タリバン、人気歌手を殺害…「イスラムでは音楽は禁止」と述べた数日後に |publisher=businessinsider |date=2021-08-30 |accessdate=2021-10-06}}</ref>、弾圧を恐れたアフガニスタン国立音楽院の教師や生徒100人以上が国外へ脱出した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3369596 |title=アフガン国立音楽院生徒ら101人、国外脱出 |publisher=AFP |date=2021-10-06 |accessdate=2021-10-06}}</ref>。 ヨーロッパの中世大学教育における[[自由七科]]のひとつに音楽が含まれていたように、音楽は教養としても重視されることが多く<ref>『138億年の音楽史』 p212-213 浦久俊彦 講談社現代新書 2016年7月20日第1刷</ref>、やがて19世紀に入り近代教育がはじまると、音楽も[[初等教育]]からそのカリキュラムの中に組み込まれていった。明治維新後の日本もこの考え方を踏襲したが、西洋音楽を扱える人材がほとんど存在しなかったため即時導入はできず、明治15年の「[[小学唱歌集]]」の発行を皮切りに徐々に唱歌が導入されていくこととなった<ref>『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p147 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。こうした一般教養としての音楽教育のほか、音楽のプロを育成する[[音楽学校]]も世界各地に存在し、さまざまな[[音楽家]]を育成している。 音楽はしばしば、民族のアイデンティティと結びつき[[ナショナリズム]]の発露をもたらす<ref>『音楽のヨーロッパ史』 p198-199 上尾信也 講談社 2000年4月20日第1刷</ref>。世界のほとんどの独立国が[[国歌]]を制定しているのもこの用途によるものである<ref>『音楽のヨーロッパ史』 p3-4 上尾信也 講談社 2000年4月20日第1刷</ref>。国歌だけでなく、一般の音楽においてもこうしたつながりは珍しくない。19世紀にはナショナリズムのうねりの中で、当時の音楽の中心地であるドイツ・フランス・イタリア以外のヨーロッパ諸国において、自民族の音楽の要素を取り入れたクラシック音楽の確立を目指す[[国民楽派]]が現れ、多くの名作曲家が出現した<ref>『決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』 p103-104 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。民族音楽においてもナショナリズムとのつながりは一般的に強いものがあり、また、ポピュラー音楽でも、[[民族]]を越えてその国家内で愛唱される場合、[[国民]]の統合をもたらす場合がある<ref>『文化人類学キーワード』 p196-197 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 近藤譲 『“音楽”という謎』春秋社 ISBN 4-393-93485-7 * [[岩田誠 (医師)|岩田誠]] 『脳と音楽』メディカルレビュー社 ISBN 4-89600-376-4 * 谷口高士 『音は心の中で音楽になる―音楽心理学への招待』北大路書房 ISBN 4-7628-2173-X * [[オリバー・サックス]]『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)』([[早川書房]] [[2010年]])ISBN 978-4152091475 * リタ アイエロ 編 大串健吾 訳『音楽の認知心理学』誠信書房 ISBN 4-414-30283-8 * Rauscher FH, Shaw GL, Levine LJ et al., ''Music training causes long-term enhancement of preschool children's spatial-temporal reasoning.'', Neurol Res. 2-8, 19, 1997. * Schlaug G, Jancke L, Huang Y et al., ''Increased corpus callosum size in musicians.'', Neuropsychologia. 1047-1055, 33, 1995. * Zattore R., ''Absolute pitch: a model for understanding the influence of genes and development on neural and cognitive function.'', Nature Neuroscience. 692-695, 6, 2003 * {{cite book |last=Mithen |first=Steven |author-link=Steven Mithen |year=2005 |title=The Singing Neanderthals: The Origins of Music, Language, Mind, and Body |publisher=[[Orion Publishing Group]] |location=London |isbn=978-1-7802-2258-5 }} * {{cite book |last=Morley |first=Iain |year=2013 |title=The Prehistory of Music: Human Evolution, Archaeology, and the Origins of Musicality |publisher=[[Oxford University Press]] |location=Oxford |isbn=978-0-19-923408-0 |url={{google books|plainurl=y|id=eWhBAQAAQBAJ}} }} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|音楽|[[画像:Xmms.png|45px|Portal:音楽]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|音楽|[[ファイル:Xmms.png|45px]]}} * [[音楽史]] * [[音楽のジャンル一覧]] * [[音名・階名表記]] * [[音楽に関する記念日]] * [[音楽に関する世界一の一覧]] * [[音楽に関する賞]] * [[最も売れたアーティスト一覧]] * [[合唱]] * [[音楽番組]] * [[Portal:音楽]] - [[Portal:クラシック音楽]] * [[遺伝子音楽]] * [[音楽療法]] * [[楽器]] * [[音楽学]] - [[音楽社会学]] * [[Public Address]](PA) == 外部リンク == {{Sisterlinks |wiktionary=音楽 |wikibooks=音楽 |wikiquote=音楽 |wikisource=音楽 |commons=Music |commonscat=Music }} * [http://www.music.vt.edu/musicdictionary/ The Virginia Tech Multimedia Music Dictionary] * [http://www.music-web.org/ The Music-Web Music Encyclopedia] * [http://dolmetsch.com/musictheorydefs.htm Dolmetsch free online music dictionary] * {{Kotobank}} {{音楽}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんかく}} [[Category:音楽|*]] [[Category:聴覚]] [[Category:芸術]] [[Category:時間]]
2003-01-31T11:32:12Z
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インドネシア
インドネシア共和国(インドネシアきょうわこく、インドネシア語: Republik Indonesia)、通称インドネシアは、東南アジア南部に位置する共和制国家である。首都はジャワ島に位置するジャカルタ首都特別州。5110キロメートルと東西に非常に長く連り、赤道にまたがる地域に1万7000を超える島嶼を抱える、世界最大の群島国家である。 島嶼国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、ティモール島における東ティモール、カリマンタン島(ボルネオ島)におけるマレーシア、ニューギニア島におけるパプアニューギニアの3国だけである。海を隔てて近接している国家は、パラオ、インド(アンダマン・ニコバル諸島)、フィリピン、シンガポール、オーストラリアなど。南シナ海南部にあるインドネシア領ナトゥナ諸島はインドシナ半島や領有権主張が競合するスプラトリー諸島と向かい合う。 東南アジア諸国連合 (ASEAN) の盟主とされ、ASEAN本部が首都ジャカルタにある。そのため、2009年以降はアメリカや中国など50か国あまりのASEAN大使がジャカルタに常駐しており、日本も2011年よりジャカルタにASEAN日本政府代表部を開設し、大使を常駐させている。東南アジアから唯一G20に参加している。 人口は2億7000万人を超える世界第4位の規模であり、また世界最大のムスリム人口を有する国家としても知られている。国の公用語はインドネシア語である。 正式名称は Republik Indonesia (インドネシア語: レプブリク・インドネシア)、略称は RI(インドネシア語: エール・イー)。 公式の英語表記はRepublic of Indonesia、略称は Indonesia ([ˌɪndoʊˈniːziə] または [ˌɪndəˈniːʒə])。 日本語表記はインドネシア共和国、略称はインドネシア。漢字表記は印度尼西亜、略称は印尼。 国名インドネシア(Indonesia)のネシア(nesia)は諸島を意味する接尾辞。ギリシャ語で島を意味するネソス (nesos) の複数形ネシオイ (nesioi) に由来する。オランダ領東インド時代の1920年代に定着した。 インドネシアの国旗は上部に赤、下部に白の2色で構成された長方形で、縦と横の比率が1:2である。モナコ公国の国旗と類似しているが、こちらは縦横比が4:5と異なる。 国章は、「ガルーダ・パンチャシラ」と呼ばれる。ガルーダはインド神話に登場する伝説上の鳥で、ヴィシュヌ神の乗り物と言われる。鷹のような図柄である。尾の付け根の羽毛は19枚、首の羽毛は45枚で、尾の羽毛は8枚、翼の羽毛は左右それぞれに17枚ずつあり、独立宣言をした1945年8月17日の数字を表している。 先史時代は、様々な出土品から石器時代と金属器時代の2つに大きく分けることができる。 人類が使用する色々の道具を石器で作っていた時代である。なお当時は、石器のみではなく、竹や木からの利器や器具、道具が作られていた。この石器時代をさらに旧石器時代、中石器時代、新石器時代、巨大石器時代の4つに分けることができる。 オーストロネシア人は後にインドネシアとなる地域に住んでいました 、紀元前1世紀ごろから来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀ごろから王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国、シャイレーンドラ朝 、古マタラム王国、クディリ王国、シンガサリ王国、マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。 大航海時代の16世紀になると、香辛料貿易の利を求めてヨーロッパのポルトガル、イギリス(英国)、オランダが相次いで来航。17世紀にはバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。 東インド会社により搾取され続けていたインドネシアであったが、オランダはインドネシアの民衆が結束しないよう、320種以上あった種族語をまとめた共通語を作ることを禁じた。また、一切の集会や路上で3人以上が立ち話することも禁止され、その禁止を破ると「反乱罪」で処罰された。オランダは一部の現地人をキリスト教に改宗させ優遇することで彼らに間接統治させたり、搾取をする経済の流通は華僑に担わせたりしていた。 オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島のほとんどを支配するようになる。この結果、1799年にオランダ東インド会社が解散され、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島の全てがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。 ただし、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1795年にフランス革命戦争でフランス軍に占領されて滅亡。バタヴィア共和国(1795年-1806年)、ホラント王国(1806年-1810年)と政体を変遷した。インドネシアは、1811年から1815年のネーデルラント連合王国建国まで英国領であった。 1819年、イギリスのトーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発。1824年に英蘭協約が締結され、オランダ領東インドの領域が確定した。 日本は南進論の影響もあり、1925年には田邊宗英らの発起の三ツ引商事などがスラバヤへ進出している。 オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識が芽生えた。ジャワ島では、1908年5月20日にブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上を図る活動に取り組んだ。設立日である5月20日は「民族覚醒の日」と定められている。 1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。この地の民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年のスカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の『青年の誓い』である。 インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、『青年の誓い』では唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された。しかし、インドネシア共産党は1927年末から1928年にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノやハッタが主導する民族主義運動も、オランダの植民地政府によって非合法化された。スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され、拷問を受けた末に長く流刑生活を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代を迎えることになった。 1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。翌年、オランダ本国はナチス・ドイツに占領された(オランダにおける戦い (1940年))。アジアでは、日中戦争激化に伴い英米は日本に対して厳しい態度で臨むようになり、オランダ植民地政府もいわゆる対日「ABCD包囲網」に加わった。1941年2月初め、日本は東南アジア地域を占領地とした場合を想定して、軍政を研究し始めた。陸軍参謀本部第一部の中に研究班が設けられ、南方占領地行政に関する研究が行われた。3月末、『南方作戦に於ける占領地統治要綱案』を始めとする一連の軍政要綱案が作成され、この研究をもとに同年11月20日付けの大本営政府連絡会議で、『南方占領地行政実施要綱』が策定された。この『実施要綱』の基本は、「占領地に対しては差し当たり軍政を実施し、治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す」ことに置かれていた。そして、「国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民生に及ぼさざる得ざる重圧は之を忍ばしめ、宣撫上の要求は右目的に反せざる限度に止(とど)むるものとす」とされていた。したがって独立運動に対しては「皇軍に対する信倚(しんい)観念を助長せしむる如く指導し、其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とした。これが「東亜の解放」「英米の支配からの解放」をスローガンに、「大東亜共栄圏」の実現を主張した日本の本心でもあった。続く11月26日には、東南アジア占領地域についての陸軍と海軍の担当地域の取り決めである『占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定』が定められ、蘭印地域のうち、スマトラ・ジャワ地域は陸軍担当、それ以外の地域については海軍担当とされた。 日本時間の1941年12月8日午前2時15分(真珠湾攻撃の約1時間前)、日本軍は英領マレー半島のコタバルに上陸し(マレー作戦)、太平洋戦争が開戦した。緒戦の南方作戦は日本軍の圧勝であり、翌1942年1月11日には今村均陸軍中将を司令官とする、日本陸軍第16軍の隷下部隊がタラカン島へ上陸し、蘭印作戦(H作戦)を開始。続く2月14日にはスマトラ島パレンバンに日本陸軍空挺部隊が降下して同地の油田地帯・製油所と飛行場を制圧。上述の「重要国防資源」たる南方大油田を掌握し、太平洋戦争の開戦目的を達成した。3月1日にはジャワ島に上陸、同月9 - 10日には蘭印の中枢であるバタビア(現:ジャカルタ)を占領し作戦は終了した。オランダ側を降伏させ上陸した日本軍をジャワ島の人々はジュンポール(万歳、一番よい)と最大限の歓迎で迎えた。 インドネシアにおける日本の軍政については、ジャワ島を3つに分ける省制度を廃止したほかは基本的にオランダ時代の統治機構を踏襲した。州長官に日本人を配置し、オランダ時代の王侯領には自治を認め、ジャカルタは特別市として州なみの扱いとした。軍政の実務は日本人の行政官が担い、州以下のレベルには地方行政はインドネシア人が担当した。同時に日本海軍はボルネオの油田を、日本陸軍はスマトラの油田を保有した。そして日本の統治は、オランダ植民地政府により軟禁され、流刑地にあったスカルノを救出して日本に協力させ、この国民的指導者を前面に立て実施された。スカルノは日本に対して懐疑心を抱いていなかったわけではなかったが、開戦前に受けたインドネシア独立に対するオランダの強硬な態度に鑑み、オランダの善意に期待できない以上、日本に賭けて見ようと考えたのであった。 教育制度に関して日本は、オランダが長年行ってきた愚民化政策を取りやめ、現地の人々に高等教育を施し、官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを次々開設して、短期間に10万人以上の現地人エリートを養成した。 1943年中盤以降、日本はアジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下の全将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ、PETA)が発足した。郷土防衛義勇軍は義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校が養成され、兵補と警察隊も編成された。このような日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数は、後のインドネシア独立戦争期に結成される正規・非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった。 インパール作戦の失敗によって、ビルマ方面の戦況が悪化すると、日本は1944年9月3日には将来の独立を認容する『小磯声明』を発表。さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。 しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地でインドネシア独立宣言を発表した。独立宣言文の日付は皇紀を用いている。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、必ずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。 独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、日本の連合国軍への降伏後に多数の経験豊かな日本の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加して武装化した。彼らは連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部で、インドネシア側に武器や弾薬を提供した。これらの銃器の他にも、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢などを調達し、農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。この独立戦争には、スカルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人3,000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立ってオランダと戦い(残留日本兵#蘭印(インドネシア))、その結果1,000人が命を落とした。しかしながら、インドネシアに数百年来住む華僑(中国人)の大部分はオランダ側に加担してインドネシア軍に銃を向けた。 他方で政府は第三国(イギリスやオーストラリア、アメリカ合衆国)などに外交使節団を派遣して独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利に向けても尽力した。結果として、1947年8月1日に国際連合安全保障理事会で停戦および平和的手段による紛争解決が提示された。 独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的に、共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダは独立を認めざるを得なくなった。 こうした武力闘争と外交努力の結果、1949年12月のオランダ-インドネシア円卓会議(通称、ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件で独立承認を得ることに成功し、オランダ統治時代の資産を継承した。これによって国際法上、正式に独立が承認された。 しかし、この資産には60億ギルダーという膨大な対外債務(うちオランダ向け債務20億ギルダーについては、オランダが債務免除に同意した)も含まれており、財政的な苦境に立たされることとなる。その解決のために円卓会議の取り決めを一方的に破棄、外国資産の強制収容を行うなど強攻策をとり、さらには国連から脱退するなどスカルノ政権崩壊まで国際的な孤立を深めていくこととなる。 現在でも8月17日を独立記念日としており、ジャカルタを中心に街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し、祝賀ムードに包まれることが恒例となっている。 オランダからの独立後、憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた。1955年に初の議会総選挙を実施、1956年3月20日、第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立した。国民党、マシュミ、NUの3政党連立内閣であって、インドネシア社会党(PSI)、インドネシア共産党は入閣していない。この内閣は5カ年計画を立てた。その長期計画は、西イリアン帰属闘争、地方自治体設置、地方国民議会議員選挙実施、労働者に対する労働環境改善、国家予算の収支バランスの調整、植民地経済から国民の利益に基づく国民経済への移行により、国家財政の健全化を図ることなどである。 しかし、民族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様で、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。また、1950年代後半に地方で中央政府に公然と反旗を翻す大規模な反乱が発生し(ダルル・イスラム運動(英語版)、セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨの反乱、カハル・ムザカル(英語版)の反乱、プルメスタの反乱(英語版))、国家の分裂の危機に直面した。 この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ大統領は、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。この構想は激しい抵抗を受け、中部・北・南スマトラ、南カリマンタン・北スラウェシのように国内は分裂した。ついに、スカルノは全土に対し、戒厳令を出した。 スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった国軍を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍との反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期、盛んにスカルノが喧伝した「ナサコム (NASAKOM)」は、「ナショナリズム (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようというスローガンだった。1961年12月、オランダ植民地のイリアンジャヤに「西イリアン解放作戦」を決行して占領。1963年5月にインドネシアに併合されると、反政府勢力(自由パプア運動やen:National Committee for West Papua)によるパプア紛争(1963年–現在)が勃発した。 1965年、CONEFOに加盟した。 スカルノの「指導される民主主義」は、1965年の9月30日事件によって終わりを告げた。インドネシア国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。 1968年3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復。スカルノ時代と対比させ、自身の政権を「新体制 (Orde Baru)」と呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に独裁的な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。 その間の強引な開発政策は開発独裁と批判されつつも、インフラストラクチャーの充実や工業化などにより一定の経済発展を達成することに成功した。日本政府は国際協力事業団を通じインドネシア尿素肥料プロジェクトに参加した。 その一方で、東ティモール独立運動、アチェ独立運動、イリアンジャヤ独立運動などに対して厳しい弾圧を加えた。 1997年のアジア通貨危機に端を発するインドネシア経済混乱のなか、1998年5月にジャカルタ暴動(英語版)が勃発し、スハルト政権は崩壊した。 スハルト政権末期の副大統領だったユスフ・ハビビが大統領に就任し、民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・分権化の諸案を実行した。スハルト時代に政権を支えたゴルカル、スハルト体制下で存続を許された2つの野党(インドネシア民主党、開発統一党(英語版))以外の政党の結成も自由化され、1999年6月、総選挙が実施され、民主化の時代を迎えている。 その結果、同年10月、最大のイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマーの元議長、アブドゥルラフマン・ワヒド(国民覚醒党)が新大統領(第4代)に就任した。メガワティ・スカルノプトリは副大統領に選ばれた。しかし、2001年7月、ワヒド政権は議会の信任を失って解任された。 代わって、闘争民主党のメガワティ政権が発足した。 その後2004年4月に同国初の直接選挙で選ばれた第6代スシロ・バンバン・ユドヨノが2009年に 60%の得票を得て再選され、2014年までの大統領の任にあった。 2013年、MIKTAに加盟した。 2014年7月の選挙で当選した闘争民主党のジョコ・ウィドドが第7代大統領に就任した(歴代の大統領については「インドネシアの大統領一覧」を参照)。2019年8月16日の議会演説で首都を現在のジャカルタから、インドネシアのほぼ中央に位置するカリマンタン島の東カリマンタン州「北プナジャム・パスール県」「クタイ・カルタネガラ県」に遷都する考えを表明。2022年1月18日に行われた国会において、首都移転法案を賛成多数で可決し、首都の新都市名を「ヌサンタラ」とすることを発表した。同年から移転作業を順次進め、2045年までに移転完了する事を予定している。 2019年インドネシア総選挙では、ジョコ・ウィドドが大統領に再選された。 多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちている。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一 Bhinneka Tunggal Ika」というスローガンである。この多民族国家に国家的統一をもたらすためのイデオロギーは、20世紀初頭から始まった民族主義運動の歴史の中で、様々な民族主義者たちによって鍛え上げられてきた。 そうしたものの一つが、日本軍政末期にスカルノが発表したパンチャシラである。1945年6月1日の演説でスカルノが発表したパンチャシラ(サンスクリット語で「5つの徳の実践」を意味する)は今日のそれと順序と語句が異なっているが、スハルト体制期以降も重要な国是となり、学校教育や職場研修などでの主要教科とされてきた。また、スハルト退陣後の国内主要政党の多くが、今もなお、このパンチャシラを党是として掲げている。 現在のパンチャシラは以下の順序で数えられる。 元首たる大統領は行政府の長である。その下に副大統領が置かれる。首相職はなく、各閣僚は大統領が指名する。特徴的なのが「調整大臣府」と呼ばれる組織で、大統領と各省の間で複数の省庁を管掌しており、2014年発足のジョコ・ウィドド政権では政治・法務・治安担当調整大臣府(インドネシア語版、英語版)、経済担当調整大臣府(インドネシア語版、英語版)、海事担当調整大臣府(インドネシア語版、英語版)、人間開発・文化担当調整大臣府(インドネシア語版、英語版)が置かれている。 第五代までの大統領と副大統領は、国民協議会(後述)の決議により選出されていたが、第六代大統領からは国民からの直接選挙で選ばれている。任期は5年で再選は1度のみ(最大10年)。憲法改正によって大統領の法律制定権は廃止された。各種人事権については、議会との協議を必要とするなど、単独での権限行使は大幅に制限された。また議会議員の任命権も廃止され、議員は直接選挙によって選出されることになった。 立法府たる議会は、(1) 国民議会(インドネシア語: Dewan Perwakilan Rakyat (DPR), 英語: Peoples Representative Council, 定数560)、(2) 地方代表議会(インドネシア語: Dewan Perwakilan Daerah (DPD), 英語: Regional Representatives Council, 定数132)、そして (3) この二院からなる国民協議会(インドネシア語: Majelis Permusyawaratan Rakyat (MPR), 英語: People's Consultative Assembly)がある。 まず、(3) の国民協議会は、2001年、2002年の憲法改正以前は、一院制の国民議会の所属議員と、各州議会から選出される代表議員195人によって構成されていた。国民協議会は、国民議会とは別の会議体とされ、国家意思の最高決定機関と位置づけられていた。国民協議会に与えられた権限は、5年ごとに大統領と副大統領を選出し、大統領が提示する国の施策方針を承認すること、一年に一度、憲法と重要な法律の改正を検討すること、そして場合により大統領を罷免すること、であった。このような強大な権限を国民協議会に与えていることが憲政の危機をもたらしたとして、その位置づけを見直す契機となったのは、国民協議会によるワヒド大統領罷免であった。 3年余りの任期を残していた大統領を罷免した国民協議会の地位を改めるため、メガワティ政権下の2001年と2002年に行われた憲法改正により、国民協議会は国権の最高機関としての地位を失った。立法権は後述の国民議会に移されることになり、国民協議会は憲法制定権と大統領罷免決議権を保持するが、大統領選任権を国民に譲渡し、大統領と副大統領は直接選挙によって選出されることになった。 これらの措置により、国民協議会は国民議会と地方代表議会の合同機関としての位置づけが与えられ、また、国民議会と地方代表議会のいずれも民選議員によってのみ構成されているため、国民協議会の議員も全て、直接選挙で選ばれる民選議員となった。 (1) の国民議会は、2000年の第2次憲法改正によって、立法、予算審議、行政府の監督の3つの機能が与えられることになった。具体的には立法権に加えて、質問権、国政調査権、意見表明権が国民議会に与えられ、また、議員には法案上程権、質問提出権、提案権、意見表明権、免責特権が与えられることが明記された。比例代表制により選出される。 (2) の地方代表議会は、2001年から2002年にかけて行われた第3次、第4次憲法改正によって新たに設置が決まった代議機関であり、地方自治や地方財政に関する立法権が与えられている。先述の通り、総選挙で各州から選出された議員によって構成されている。 スハルト政権期には政府・司法省が分有していた司法権が廃止され、各級裁判所は、司法府の最上位にある最高裁判所によって統括されることになり、司法権の独立が確保された。最高裁判所は法律よりも下位の規範(政令など)が法律に違反しているか否かを審査する権限を有する。他に憲法に明記される司法機関としては司法委員会と憲法裁判所がある。司法委員会は最高裁判所判事候補者を審査し国会に提示する権限及び裁判官の非行を調査し最高裁判所に罷免を勧告する権限を有する。憲法裁判所は法律が憲法に違反しているか否かを審査する権限を有する。憲法改正以前には大統領に属していた政党に対する監督権・解散権が憲法裁判所に移された。これにより、大統領・政府による政党への介入が排除されることになった。 以下、主なもの。 旧宗主国オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取り、独立当初から外交方針の基本を非同盟主義に置いた。こうした外交方針は「自主積極 bebas aktif」外交と呼ばれている。独立達成後の、外交にも様々な変化がみられるものの、いずれの国とも軍事同盟を締結せず、外国軍の駐留も認めていないなどの「自主積極」外交の方針はほぼ一貫しているといってよい。 1950年代後半のスカルノ「指導される民主主義」期には、1963年のマレーシア連邦結成を「イギリスによる新植民地主義」として非難し、マレーシアに軍事侵攻した。国際的な非難が高まるなかで、1965年1月、スカルノは国際連合脱退を宣言し、国際的な孤立を深めていった。インドネシア国内ではインドネシア共産党の勢力が伸張し、国内の左傾化を容認したスカルノは、急速に中華人民共和国に接近した。 1965年の9月30日事件を機にスカルノが失脚し、スハルトが第2代大統領として就任すると、悪化した西側諸国との関係の改善を進めた。また、スカルノ時代に疲弊した経済を立て直すために債権国の協力を仰いだ。1966年9月、日本の東京に集まった債権国代表が債務問題を協議し、その後、援助について協議するインドネシア援助国会議(Inter-Governmental Group on Indonesia - 略称 IGGI)が発足した。 1967年8月、東南アジア諸国連合(ASEAN)発足時には原加盟国となった。総人口や国土面積は東南アジア最大であり、ASEAN本部は首都ジャカルタに置かれている。域内での経済・文化交流の促進を所期の目標とし、他のASEAN加盟国との連帯を旨としている。その一方で、時折のぞく盟主意識・地域大国意識は、他国からの警戒を招くこともある。 今日に至るまで日本をはじめとする西側諸国とは協力関係を維持しているが、スハルト体制期においても一貫して、ベトナムなど近隣の社会主義国や非同盟諸国とは良好な外交関係を保った。 1999年の東ティモール独立を問う住民投票での暴動に軍が関与したと見られ、その後の関係者の処罰が不十分とされたことや、2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。このため、ロシアや中国との関係強化に乗り出し、多極外交を展開している。 中国とは南シナ海にあるスプラトリー諸島(南沙諸島)の領有権を巡る係争はないが、中国が海洋権益を主張する九段線がインドネシア領ナトゥナ諸島北方海域にかかっている。このため、同海域の「北ナトゥナ海」への改称やナトゥナ諸島への軍配備などで対応している(詳細は「ナトゥナ諸島」を参照)。2020年1月にはナトゥナ諸島近海で中国漁船が操業したことに抗議、中国大使を召還した。 日本とインドネシアの関係は良好であり、1800社を超える日本企業がインドネシアで事業を展開している。特に近年、日本文化がブームとなっていて、日本企業の投資や、日本語を学ぶ人が増えている。大相撲やアニメなど、日本文化のイベントも開催されている。 MIKTA(ミクタ)は、メキシコ (Mexico)、インドネシア (Indonesia)、大韓民国 (Korea, Republic of)、トルコ (Turkey)、オーストラリア (Australia) の5ヶ国によるパートナーシップである。詳細は該当ページへ。 インドネシア国軍(Tentara Nasional Indonesia - 略称TNI)の兵力は、2017年に39万5,500人(陸軍30万400人、海軍6万5000人、空軍3万100人)であり、志願兵制度である。その他に予備役が40万人。軍事予算は2002年に12兆7,549億ルピアで、国家予算に占める割合は3.71パーセントである。 スハルト政権以来、米国を中心とした西側との協調により、近代的な兵器を積極的に導入してきたものの、東ティモール紛争の悪化により米国と軋轢が生じ、2005年まで米国からの武器輸出を禁じられた。この間にロシア連邦や中華人民共和国と接近し、これらの国の兵器も多数保有している。 世界で最も多くの島を持つ国であり、その数は1万3466にのぼる。島の数は人工衛星の調査により算出されたもので、かつては1万8,110とも言われていたが、再調査の結果、2013年に現在の個数が明らかになった。またニューヨークタイムズ誌では「2005年以降、砂の採掘により2ダースの小さな島が消滅した」と2016年6月23日の誌面で報じている。 当地を含む周辺では、ユーラシアプレートやオーストラリアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートなどがせめぎあっており、環太平洋火山帯(環太平洋造山帯)の一部を構成している。そのため国内に火山が多く、活火山が129ある。スマトラ島北部にあるカルデラ湖のトバ湖を形成したトバ火山は、有史前に破局噴火を引き起こしたほか、クラカタウ大噴火に代表されるように古くから住民を脅かすと共に土壌の肥沃化に役立ってきた。火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、この数は世界最多とされる。スマトラ島のクリンチ火山が最高峰(3805m)である。スメル山はジャワ島の最高峰(3676m)で、世界で最も活動している火山の一つである。 また、地震も多く、2004年のスマトラ島沖地震、及び2006年のジャワ島中部地震は甚大な被害を与えた。スマトラ島とジャワ島は、約60,000年前は陸続きであったが、11,000年前の大噴火があり、スンダ海峡ができて両島は分離した。これらの島々の全てが北回帰線と南回帰線の間に位置しており、熱帯気候である。 国土を「林業地区」(国有林)と「その他の地区」に区分している。大気中の二酸化炭素を吸収する役割を担う森林は、適切な利用・管理により地球温暖化防止に役立つ。 同国における環境問題は国の人口密度の高さと急速な工業化に関連しており、深刻さを増しているために今も改善策が求められている。 2層の地方政府が存在し、第一レベルの地方政府が州(Provinsi)であり、その下位に第二レベルの地方政府である県(Kabupaten)と市(Kota)が置かれている。 第1レベル地方政府(便宜上4区域に分ける)は2022年時点で以下のとおり、ジャカルタ首都特別州と4の特別州、33の州が設置されている。下記リストで名称右に*付きが、首都ジャカルタと4特別州。 第2レベルの地方政府は、2006年時点で349県・91 市が置かれている。県と市には行政機能上の差異はなく、都市部に置かれるのが市で、それ以外の田園地域などに置かれるのが県である。 なお、県・市には、行政区としての郡(Kecamatan)とその下には区(Kelurahan)が置かれる。なお、都市以外の地域には村(Desa)が置かれているが、これは区の担う行政機能に代わり、地縁的・慣習的なコミュニティであり、行政区ではない。 スハルト政権の崩壊後、世界で最も地方分権化が進んだ国の一つに数えられている。しかし、逆に言えば中央政府の力が弱く、地方政府が環境破壊を進める政策を実施していても、中央政府には、これを止める力は存在していない。 IMFによると、2018年のGDPは1兆225億ドルであり、世界第16位である。一方、一人当たりのGDPは3,871ドルであり、世界平均の約34%である。世界銀行が公表した資料によると、2017年に1日1.9ドル未満(2011年基準の米ドル購買力平価ベース)で暮らす貧困層は全人口の約5.71%(都市部:約5.61% 農村部:約5.82%)であり、約1500万人いる。また3.2ドル未満の場合は約27.25%(都市部:約25.29% 農村部:約29.61%)であり、5.5ドル未満の場合は約58.66%(都市部:約53.21% 農村部:約65.24%)であった。 基本的に農業国である。1960年代に稲作の生産力増強に力が入れられ、植民地期からの品種改良事業も強化された。改良品種IR8のような高収量品種は他にもつくられ、農村に普及し栽培された。このような「緑の改革」の結果、1984年にはコメの自給が達成された。しかし、1980年代後半には「緑の改革」熱も冷めてゆき、同年代の末にはコメの輸入が増加するに至った。 農林業ではカカオ、キャッサバ、キャベツ、ココナッツ、米、コーヒー豆、サツマイモ、大豆、タバコ、茶、天然ゴム、トウモロコシ、パイナップル、バナナ、落花生の生産量が多い。特にココナッツの生産量は2003年時点で世界一である。オイルパーム(アブラヤシ)から精製されるパームオイル(パーム油、ヤシ油)は、植物油の原料の一つで、1990年代後半日本国内では菜種油・大豆油に次いで第3位で、食用・洗剤・シャンプー・化粧品の原料として需要の増大が見込まれている。インドネシアにおけるパームオイルの生産量は1990年代以降急激に増加しており、2006年にマレーシアを抜き生産量首位に、2018年時点でマレーシアの二倍弱の3,830万トンを生産している。アブラヤシの栽培面積は2000年にはココヤシと並び、2005年には548万ヘクタールとなっている(インドネシア中央統計庁(BPS)による。)。この2000年代以降のエステート作物面積の急激な拡大によって、森林破壊や泥炭湿地の埋立及びこれに伴う火災の発生などの環境破壊が進んでいることが指摘されている。 海に囲まれた群島国家であるため水産資源も豊富だが、漁業や水産加工の技術向上、物流整備が課題となっている。プリカナン・ヌサンタラ(Perikanan Nusantara,Perinus)という国営水産会社が存在する。 鉱業資源にも恵まれ、金、スズ、石油、石炭、天然ガス、銅、ニッケルの採掘量が多い。1982年、1984年、日本からの政府開発援助(ODA)でスマトラ島北部のトバ湖から流れ出るアサハン川の水でアサハン・ダム(最大出力51.3万キロワット)とマラッカ海峡に面したクアラタンジュンにアサハン・アルミ精錬工場が建設された。ニッケル鉱山は、南東スラウェシ州コラカ沖のパダマラン島のポマラと南スラウェシ州ソロアコ(サロアコ)にある。生産の80%が日本に輸出されている。ニッケルはカナダの多国籍企業インコ社が支配している。多国籍企業の進出はスハルト体制発足後の1967年外資法制定以降であり、採掘・伐採権を確保している。また、日本企業6社が出資している。鉱山採掘に伴い森林伐採で付近住民と土地問題で争いが起こる。国内産業を育成するため、未加工ニッケル鉱石の輸出を2014年に禁止したが、2017年に規制を緩和している。 日本はLNG(液化天然ガス)をインドネシアから輸入している。2004年以降は原油の輸入量が輸出量を上回る状態であるため、OPEC(石油輸出国機構)を2009年1月に脱退した。 工業では軽工業、食品工業、織物、石油精製が盛ん。コプラパーム油のほか、化学繊維、パルプ、窒素肥料などの工業が確立している。 パナソニック、オムロン、ブリヂストンをはじめとした日系企業が現地に子会社あるいは合弁などの形態で、多数進出している。 独立後、政府は主要産業を国有化し、保護政策の下で工業を発展させてきた。1989年には、戦略的対応が必要な産業として製鉄、航空機製造、銃器製造などを指定し、戦略産業を手掛ける行政組織として戦略産業管理庁(Badan Pengelora Industri Strategis)を発足させている。 2019年時点、インドネシアには115の国営企業があり、クラカタウ・スチール(製鉄)、マンディリ銀行など17社がインドネシア証券取引所に株式を上場している。分野ごとに持ち株会社を設けるなど効率化を図っているが、一方で雇用維持など政府の意向が優先されることも多い。 かつては、華人系企業との癒着や、スハルト大統領ら政府高官の親族によるファミリービジネスなどが社会問題化し、1996年には国民車「ティモール」の販売を巡って世界貿易機関(WTO)を舞台とする国際問題にまで発展した。しかし、1997年のアジア通貨危機の発生により、経済は混乱状態に陥り、スハルト大統領は退陣に至った。その後、政府はIMFとの合意によって国営企業の民営化など一連の経済改革を実施したが、失業者の増大や貧富の差の拡大が社会問題となっている。 小売業の最大チャネルは、各地に約350万ある「ワルン」と呼ばれる零細小売店である。インターネット通販は小売市場の3~5%程度と推測され、地元企業のトコペディアやブカラパック、シンガポール企業のラザダやショッピーが参入しており、ワルンへの商品供給を担う企業もある。 労働者の生活水準を向上させるため、月額式の最低賃金制度が施行されており、2015年からはインフレ率と経済成長率に基づく計算式が導入され、年8%程度上がり、タイ王国を超える水準となっている。これに対して、労働組合側は賃上げが不十分、日系を含む企業側は人件費の上昇が国際競争力を低下させると主張し、労使双方に不満がある。 なお、イスラム教徒が多数を占める国であるため、従業員からメッカ巡礼の希望が出た場合、企業はメッカ巡礼休暇として、最長3カ月の休暇を出すことが法で規定されている。 ただ、改革と好調な個人消費により、GDP成長率は、2003年から2007年まで、4%〜6%前後で推移した。2008年には、欧米の経済危機による輸出の伸び悩みや国際的な金融危機の影響などがあったものの、6.1%を維持。さらに2009年は、政府の金融安定化策・景気刺激策や堅調な国内消費から、世界的にも比較的安定した成長を維持し、4.5%の成長を達成。名目GDP(国内総生産)は2001年の約1,600億ドルから、2009年には3.3倍の約5393億ドルまで急拡大した。今ではG20の一角をなすまでになっており、同じASEAN諸国のベトナムとフィリピンと同様にNEXT11の一角を占め、更にベトナムと共にVISTAの一角を担うなど経済の期待は非常に大きい。 ただし、2011年より経常収支が赤字となる状況が続いており、従来から続く財政赤字とともに双子の赤字の状態にある。 2020年11月2日に施行された雇用創出法(オムニバス法)は様々な分野で物議を醸している。 このような中、日系企業の進出は拡大しているが、投資環境の面で抱える問題は少なくない。世界銀行の「Doing Business 2011」でも、ビジネス環境は183国中121位に順位づけられており、これはASEANの中でもとくに悪いランキングである。具体的には、道路、鉄道、通信などのハードインフラの整備が遅れていることのほか、ソフトインフラとも言うべき法律面での問題が挙げられる。裁判所や行政機関の判断については、予測可能性が低く、透明性も欠如しており、これがビジネスの大きな阻害要因になっていると繰り返し指摘されている。 これに対し、日本のODAは、ハード・インフラ整備の支援に加え、近年は統治能力支援(ガバナンス支援)などソフト・インフラ整備の支援も行っている。警察に対する市民警察活動促進プロジェクトは、日本の交番システムなどを導入しようというものであり、日本の技術支援のヒットとされている。また、投資環境整備に直結する支援としては、知的財産権総局を対象とした知的財産に関する法整備支援も継続されている。インドネシアの裁判所に対しても、日本の法務省法務総合研究所は国際協力機構(JICA)や公益財団法人国際民商事法センター(ICCLC)と連携して、規則制定のほか裁判官や和解・調停を担う人材の研修を支援している。 2013年時点では、東南アジア全体でも有数の好景気に沸いており、日本からの投資も2010年には7億1260万ドル(約712億6000万円)であったのが、2012年には25億ドル(約2500億円)へと急増している。しかしナショナリズムが色濃く、2013年2月には当地を中心に石炭採掘を行っている英投資会社ブミPLCの株主総会が、同社の大半の取締役や経営陣を追放するというロスチャイルドによる提案の大部分を拒否した。これと関連して、国の経常赤字と資本流入への依存、貧弱なインフラや腐敗した政治や実業界など、いくつかの問題点も指摘されている。2014年の国際協力銀行が日本企業を対象に行ったアンケート調査では、「海外進出したい国」として、中国を抜いて1位となった。 技能実習制度などで、日本へ渡航して働くインドネシア人も多いが、人権保護や賃金支払いなどでトラブルも起きている。 インドネシアの2022年の総人口は2億7,200万人であり、中国、インド、アメリカに次ぐ世界第4位である。人口増加率は2010年時点で1.03%となっている。今後もインドネシアの人口は着実に増加すると見られており、2050年の推計人口は約3億人との予測。 全国民の半分以上がジャワ島に集中しているため、比較的人口の希薄なスマトラ島、ボルネオ島、スラウェシ島に住民を移住させる『トランスミグラシ』と呼ばれる人口移住政策を行ってきた。2019年には、ジョコ政権がジャワ島外への首都を移転する方針を閣議決定した。 ジョコ・ウィドド大統領は同年8月、自身のTwitterで首都の移転先をボルネオ島と発表した。 大多数がオーストロネシア人で、彼らが直系の祖先であり、原オーストロネシア人と新オーストロネシア人の2種類に分けられる。原オーストロネシア人は、紀元前1500年ごろに渡来した。原オーストロネシア人は先住民よりも高度な文化を持っていた。原オーストロネシア人は後から来た新オーストロネシア人によって追われていくが、ダヤク人、トラジャ人、バタック人として子孫が生存している。新オーストロネシア人は、マレー人、ブギス人、ミナンカバウ人の祖先であり、紀元前500年ごろに渡来した。渡来時には青銅器製作の技術を獲得しており、数百年後には鉄器を使用し始める。彼らの使用した鉄器がベトナム北部のドンソン地方で大量に発見されていることから「ドンソン文化」と呼ばれる。 ほかに約300の民族がおり、住民の内、ジャワ人が45%、スンダ人が14%、マドゥラ人が7.5%、沿岸マレー人が7.5%、その他が26%、中国系が約5%となっている。 父系・母系を共に親族とみなす「双系社会」であり、姓がない人もいる(スカルノ、スハルトなど)。 なお、法務省の統計では、2014年末では30,000人超、2018年では55,000人超のインドネシア人が日本に在住している。 公用語はインドネシア語であり、国語となっている。会話言語ではそれぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われている。インドネシア語が国語と言っても、日常で話す人は多くて3,000万人程度である。国の人口比にすると意外と少ないが、国語になっているため第2言語として話せる人の数はかなり多い。また、首都ジャカルタへ出稼ぎに向かう人も多い為、地方の人でもインドネシア語は必須であり、話せないと出稼ぎにも影響が出てくる。 インドネシア語、ジャワ語、バリ語などを含むオーストロネシア語族の他に、パプア諸語が使用される地域もある。 憲法29条で信教の自由を保障している。パンチャシラでは唯一神への信仰を第一原則としているものの、これはイスラム教を国教として保護しているという意味ではない。2010年の政府統計によると、イスラム教が87.2%、プロテスタントが7%、カトリックが2.9%、ヒンドゥー教が1.6%、仏教が0.72%、儒教が0.05%、その他が0.5%となっている。イスラム教徒の人口は、1億7000万人を超え、世界最大のイスラム教徒(ムスリム)人口を抱える国家となっている(インドネシアは政府としては世俗主義を標榜しており、シャリーアによる統治を受け入れるイスラム国家ではない)。 多民族国家であるため、言語と同様、宗教にも地理的な分布が存在する。バリ島ではヒンドゥー教が、スラウェシ島北部ではキリスト教(カトリック)が、東部諸島およびニューギニア島西部ではキリスト教(プロテスタント、その他)が優位にある。アチェ州では98%がイスラム教徒で、シャリーア(イスラム法)が法律として適用されている。 また、イスラム教はジャワ島やスマトラ島など人口集中地域に信者が多いため、国全体でのイスラム教徒比率は高いが、非イスラム教徒の民族や地域も実際には多い。カリマンタン島やスラウェシ島では、イスラム教徒と非イスラム教徒の割合が半々ほどである。また、東ヌサトゥンガラから東のマルク諸島、ニューギニア島などではイスラム教徒比率は一割程度である(それもジャワ島などからの移民の信者が大半である)。またイスラム教徒多数派地域であっても、都市部や、スンダ人、アチェ人地域のように比較的、厳格な信仰を持つものもあれば、ジャワ人地域のように、基層にヒンドゥー文化を強く残しているものもある。また書面上はイスラム教徒となっていても、実際にはシャーマニズムを信仰している民族も有る。 魔術師・呪術医と、精霊を含めた超自然的な力を信じる人や、「お化け」の存在を肯定するインドネシア人は多い。 なお、信仰の自由はあるといっても完全なものではなく、特に無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性もある。 夫婦別姓が基本。ただし通称として夫の姓を名乗ることも多い。男性側が改姓することも可能である。 教育体系は、教育文化省が管轄する一般の学校(スコラ sekolah)と、少数であるが宗教省が管轄するイスラーム系のマドラサ (madrasah) の二本立てとなっている。いずれの場合も小学校・中学校・高校の6・3・3制であり、このうち小中学校の9年間については、1994年に義務教育にすると宣言され、さらに2013年には高校までの12年間に延長されたが、就学率は2018年で小学で93%、中学で79%、高校で36%である。スコラでもマドラサでも、一般科目と宗教科目を履修するが、力点の置き方は異なる。 大学をはじめとする高等教育機関も一般校とイスラーム専門校に分かれており、前者については1954年に各州に国立大学を設置することが決定された。以下は代表的な大学のリストである。 米国CIAによる2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は92.8%(男性:95.6%、女性:90.1%)である。2010年の教育支出はGDPの3%だった。 医療施設が26,000件を超えているが、それに反して医師が不足しており、人口1,000人辺りわずか0.4人ほどしか存在しない 。 2019年8月、ジョコ大統領は、首都ジャカルタをジャワ島からジャワ島外へと首都移転すると宣言した。新首都の最適候補地としてボルネオ島東岸は東カリマンタン州クタイカルタネガラ県と北プナジャムパスル県の両県にかかる地域であるバリクパパン近郊に首都をジャカルタより移転すると明らかにした。 新首都名はインドネシア語で群島を意味する「ヌサンタラ」とすることが、インドネシア議会で可決されたことを、スハルソ国家開発企画庁長官が2022年1月18日に明らかにした。 民間調査機関の同年2月の世論調査では移転に反対する回答が半数超を占めた。 民族・宗教などの多様性や、過去のオランダやポルトガル、イギリスなどの分割統治の影響でいくつかの独立運動を抱えている。その一部には紛争へ発展したアチェ独立運動などもあった。 東ティモールは独立運動の末、国連の暫定統治を経て2002年に独立したが、パプア州(旧イリアン・ジャヤ州)において独立運動が展開されており、カリマンタン島では民族対立が、マルク諸島ではキリスト教徒とイスラム教徒の宗教対立が存在する。なお、アチェ独立運動は2004年のスマトラ島沖地震の後、2005年12月27日に終結している。 金品を目的とした強盗、スリ、ひったくり、置き引き、車上荒らしなどの被害が多発しており、インターネットを通じての商品購入・売却を装った詐欺も確認されている。また、薬物犯罪も常態化しており、観光客が集まる繁華街の路上やナイトクラブなどの場所で、覚醒剤および大麻などの薬物を売りつけてくる売人が出没する事例が後を絶たない。 最近では、市内で銃器を安価に購入出来ることから銃器などを使用した凶悪犯罪も増えており、同国を訪れる際は一層の注意を払う必要が求められている。 Amnesty International、Human Rights Watch、および米国国務省による報告では、インドネシアで人権問題とされているのは、西ニューギニア地域への弾圧(多くの活動家が反逆罪として超法規的に処刑されたり拘束されている。)とその報道の自由(ジャーナリストの拘束と追放、諜報当局によるニュースサイトへの圧力)、宗教的(イスラム教が優先され審議中の刑法草案でもイスラム教冒涜罪が強化されている)、女性(性暴力防止法案、家事労働者保護法案など関連法案の審議が進まず2016年から保留状態)および性的少数派の扱い(LGBTを差別するポルノ法のもと、逮捕や解雇、一般人による暴力行為にさらされている)、性的および生殖的権利(同性性行為と婚外性交渉を禁止する刑法が草案されている)、障害者の権利(主に貧困家庭において心理的社会的障害者が劣悪な環境で監禁〜パスンされている。)、表現と結社の自由(現在でも集会は解散させられるが、審議中の刑法草案はLGBTの基本的権利を認めていない)。 パスン(インドネシア語版)はインドネシア語で足かせを意味する。重度の精神疾患者が本人や他人に危害を加えないようにするための因習である。 治療手段を持たない貧困家庭で、木製のフレームに患者の脚や手、首に取り付けて拘束するために使用されている。 1977年に違法化されたが、インドネシア保険省の推計では国内の被害者は1万8000人、パスン被害者支援を行っているスリアニ協会によれば4万人とされる。 国内でもパスンは非人道的であると見なされているが、精神障害者に対する社会的ケアが未だ貧弱であるために現在も存在している。家族が貧困で治療を断念し、長期拘束後に刑務所へ入れることもある。 2012年、AtmaHusadaMahakam地域精神病院(RSJD)により東カリマタンで20名がパスンから解放され病院に収容された。彼らには政府から無料で薬が提供される。こういった試みは政府の「パスンのないインドネシア プログラム」に準じて各地で行われているが貧困にある当事者家族に取ってはパスンが唯一の対処法であり、またその存在を恥じているため隠そうとしていることが問題の解決を妨げている。 2013年6月、RSJDの発表によれば2011年から記録されたパスン被害者は254名で、年間では2012年の151人が最大(2011年が79人、2013年4月までが24人)だった。解消のためには家族に対する医学的治療への啓蒙が必要で、教育や知識の不足がこの人権侵害の要因であると述べている。 2014年までに「パスンのないインドネシア」とする宣言に向けて精神障害のある家族への支援が計画され、無料治療や束縛禁止を規制する精神保健法の整備がすすめられた。しかし国家の対策予算は40億ルピアに過ぎず解決は遠い。 2016年2月28日、政府は「2017年にインドネシアにパスンなし」を宣言目標とした。社会問題省(Kemensos)の記録では、現在5万7000人の被害者がいるとする。 2017年にも中央政府は引き続き「Indonesia Bebas Pasung 2019」宣言をし対応を行なった。社会問題省の記録では、特定された被害者4786人の内、1345人が未だ束縛状態にあるとした。一方、ベンクル州、西カリマンタン、東カリマンタン、バリ、東ヌサ・トゥンガラ、バベルでは宣言を達したとする。また被害者の特定と解放に加えて、今後は障害や精神保健に関する情報提供や患者が退院後に利用できる滞在施設を試行するとした。社会問題省はソーシャルワーカーによる住民への啓蒙活動によって、パスンを選択することなく適切な医学的社会的サービスにつながることを目指して活動している。 その後も政府は隔年ごとに宣言目標を発して地方予算を設定しているが、2021年現在でも東ジャワだけで未だ1万2000人の被害者が推定されている。 宗教・文化は島ごとに特色を持ち、日本ではバリ島のガムランなどのインドネシアの音楽や舞踊が知られる。またワヤン・クリと呼ばれる影絵芝居や、バティックと呼ばれるろうけつ染めも有名である。 高温多湿な気候と丹念に洗濯する国民性のため、洗濯機は全自動式ではなく洗濯板が付いた二槽式が主流とされる。 多彩な香辛料や蜂蜜などを調合した「ジャムウ」と呼ばれる伝統薬が広く生産・販売されている。 インドネシア文学をインドネシア語、またはその前身であるムラユ語で、インドネシア人によって書かれた文学作品のことであると限定するならば、それは民族主義運動期に生まれたと言える。1908年、オランダ領東インド政府内に設立された出版局(バライ・プスタカ)は、インドネシア人作家の作品を出版し、アブドゥル・ムイスの『西洋かぶれ』(1928年)など、インドネシアで最初の近代小説といわれる作品群を出版した。 また、インドネシア人によるインドネシア語の定期刊行物としては、1907年にバンドンでティルトアディスルヨが刊行した『メダン・プリヤイ』が最初のもので、その後、インドネシア語での日刊紙、週刊誌、月刊誌の刊行は、1925年には200点、1938年には400点を超えていた。 20世紀の著名な文学者としては、『人間の大地』(1980年)、『すべての民族の子』などの大河小説で国際的に評価されるプラムディヤ・アナンタ・トゥールの名を挙げることができる。 以下、代表的な作家・詩人・文学者を挙げる。 ルマーアダット(英語版)と呼ばれる、ヴァナキュラー建築様式で建てられた伝統的な家屋が存在する。 ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が4件存在する。 インドネシア国内では、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。ボクシングでは、元WBA世界フェザー級スーパー王者のクリス・ジョンを輩出した。バドミントンはアジア屈指の強豪国であり、オリンピックで獲得したメダルの半数以上がバドミントン競技である。 1994年にセミプロのガラタマ(英語版)とアマチュアのペルセリカタン(英語版)という2つのリーグを統合し、リーガ・インドネシアが創設された。その後の協会の内紛やFIFAの仲介など紆余曲折を経て、2017年にプロサッカーリーグのリーガ1が開始された。 インドネシアサッカー協会(PSSI)によって構成されるサッカーインドネシア代表は、FIFAワールドカップには1938年大会で1度出場を果たしている。AFCアジアカップには4度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。東南アジアサッカー選手権(AFF三菱電機カップ)では6度の準優勝に輝いている。 また、インドネシア国内においてサッカーの人気選手はスーパースターとみなされており、2022年2月16日にJリーグの東京ヴェルディに移籍した、プラタマ・アルハンのInstagramのフォロワー数は"300万人"にものぼる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "インドネシア共和国(インドネシアきょうわこく、インドネシア語: Republik Indonesia)、通称インドネシアは、東南アジア南部に位置する共和制国家である。首都はジャワ島に位置するジャカルタ首都特別州。5110キロメートルと東西に非常に長く連り、赤道にまたがる地域に1万7000を超える島嶼を抱える、世界最大の群島国家である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "島嶼国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、ティモール島における東ティモール、カリマンタン島(ボルネオ島)におけるマレーシア、ニューギニア島におけるパプアニューギニアの3国だけである。海を隔てて近接している国家は、パラオ、インド(アンダマン・ニコバル諸島)、フィリピン、シンガポール、オーストラリアなど。南シナ海南部にあるインドネシア領ナトゥナ諸島はインドシナ半島や領有権主張が競合するスプラトリー諸島と向かい合う。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東南アジア諸国連合 (ASEAN) の盟主とされ、ASEAN本部が首都ジャカルタにある。そのため、2009年以降はアメリカや中国など50か国あまりのASEAN大使がジャカルタに常駐しており、日本も2011年よりジャカルタにASEAN日本政府代表部を開設し、大使を常駐させている。東南アジアから唯一G20に参加している。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "人口は2億7000万人を超える世界第4位の規模であり、また世界最大のムスリム人口を有する国家としても知られている。国の公用語はインドネシア語である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "正式名称は Republik Indonesia (インドネシア語: レプブリク・インドネシア)、略称は RI(インドネシア語: エール・イー)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "公式の英語表記はRepublic of Indonesia、略称は Indonesia ([ˌɪndoʊˈniːziə] または [ˌɪndəˈniːʒə])。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本語表記はインドネシア共和国、略称はインドネシア。漢字表記は印度尼西亜、略称は印尼。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "国名インドネシア(Indonesia)のネシア(nesia)は諸島を意味する接尾辞。ギリシャ語で島を意味するネソス (nesos) の複数形ネシオイ (nesioi) に由来する。オランダ領東インド時代の1920年代に定着した。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "インドネシアの国旗は上部に赤、下部に白の2色で構成された長方形で、縦と横の比率が1:2である。モナコ公国の国旗と類似しているが、こちらは縦横比が4:5と異なる。", "title": "国旗" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "国章は、「ガルーダ・パンチャシラ」と呼ばれる。ガルーダはインド神話に登場する伝説上の鳥で、ヴィシュヌ神の乗り物と言われる。鷹のような図柄である。尾の付け根の羽毛は19枚、首の羽毛は45枚で、尾の羽毛は8枚、翼の羽毛は左右それぞれに17枚ずつあり、独立宣言をした1945年8月17日の数字を表している。", "title": "国旗" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "先史時代は、様々な出土品から石器時代と金属器時代の2つに大きく分けることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "人類が使用する色々の道具を石器で作っていた時代である。なお当時は、石器のみではなく、竹や木からの利器や器具、道具が作られていた。この石器時代をさらに旧石器時代、中石器時代、新石器時代、巨大石器時代の4つに分けることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "オーストロネシア人は後にインドネシアとなる地域に住んでいました 、紀元前1世紀ごろから来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀ごろから王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国、シャイレーンドラ朝 、古マタラム王国、クディリ王国、シンガサリ王国、マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大航海時代の16世紀になると、香辛料貿易の利を求めてヨーロッパのポルトガル、イギリス(英国)、オランダが相次いで来航。17世紀にはバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "東インド会社により搾取され続けていたインドネシアであったが、オランダはインドネシアの民衆が結束しないよう、320種以上あった種族語をまとめた共通語を作ることを禁じた。また、一切の集会や路上で3人以上が立ち話することも禁止され、その禁止を破ると「反乱罪」で処罰された。オランダは一部の現地人をキリスト教に改宗させ優遇することで彼らに間接統治させたり、搾取をする経済の流通は華僑に担わせたりしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島のほとんどを支配するようになる。この結果、1799年にオランダ東インド会社が解散され、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島の全てがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ただし、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1795年にフランス革命戦争でフランス軍に占領されて滅亡。バタヴィア共和国(1795年-1806年)、ホラント王国(1806年-1810年)と政体を変遷した。インドネシアは、1811年から1815年のネーデルラント連合王国建国まで英国領であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1819年、イギリスのトーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発。1824年に英蘭協約が締結され、オランダ領東インドの領域が確定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本は南進論の影響もあり、1925年には田邊宗英らの発起の三ツ引商事などがスラバヤへ進出している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識が芽生えた。ジャワ島では、1908年5月20日にブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上を図る活動に取り組んだ。設立日である5月20日は「民族覚醒の日」と定められている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。この地の民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年のスカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の『青年の誓い』である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、『青年の誓い』では唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された。しかし、インドネシア共産党は1927年末から1928年にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノやハッタが主導する民族主義運動も、オランダの植民地政府によって非合法化された。スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され、拷問を受けた末に長く流刑生活を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代を迎えることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。翌年、オランダ本国はナチス・ドイツに占領された(オランダにおける戦い (1940年))。アジアでは、日中戦争激化に伴い英米は日本に対して厳しい態度で臨むようになり、オランダ植民地政府もいわゆる対日「ABCD包囲網」に加わった。1941年2月初め、日本は東南アジア地域を占領地とした場合を想定して、軍政を研究し始めた。陸軍参謀本部第一部の中に研究班が設けられ、南方占領地行政に関する研究が行われた。3月末、『南方作戦に於ける占領地統治要綱案』を始めとする一連の軍政要綱案が作成され、この研究をもとに同年11月20日付けの大本営政府連絡会議で、『南方占領地行政実施要綱』が策定された。この『実施要綱』の基本は、「占領地に対しては差し当たり軍政を実施し、治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す」ことに置かれていた。そして、「国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民生に及ぼさざる得ざる重圧は之を忍ばしめ、宣撫上の要求は右目的に反せざる限度に止(とど)むるものとす」とされていた。したがって独立運動に対しては「皇軍に対する信倚(しんい)観念を助長せしむる如く指導し、其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とした。これが「東亜の解放」「英米の支配からの解放」をスローガンに、「大東亜共栄圏」の実現を主張した日本の本心でもあった。続く11月26日には、東南アジア占領地域についての陸軍と海軍の担当地域の取り決めである『占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定』が定められ、蘭印地域のうち、スマトラ・ジャワ地域は陸軍担当、それ以外の地域については海軍担当とされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本時間の1941年12月8日午前2時15分(真珠湾攻撃の約1時間前)、日本軍は英領マレー半島のコタバルに上陸し(マレー作戦)、太平洋戦争が開戦した。緒戦の南方作戦は日本軍の圧勝であり、翌1942年1月11日には今村均陸軍中将を司令官とする、日本陸軍第16軍の隷下部隊がタラカン島へ上陸し、蘭印作戦(H作戦)を開始。続く2月14日にはスマトラ島パレンバンに日本陸軍空挺部隊が降下して同地の油田地帯・製油所と飛行場を制圧。上述の「重要国防資源」たる南方大油田を掌握し、太平洋戦争の開戦目的を達成した。3月1日にはジャワ島に上陸、同月9 - 10日には蘭印の中枢であるバタビア(現:ジャカルタ)を占領し作戦は終了した。オランダ側を降伏させ上陸した日本軍をジャワ島の人々はジュンポール(万歳、一番よい)と最大限の歓迎で迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "インドネシアにおける日本の軍政については、ジャワ島を3つに分ける省制度を廃止したほかは基本的にオランダ時代の統治機構を踏襲した。州長官に日本人を配置し、オランダ時代の王侯領には自治を認め、ジャカルタは特別市として州なみの扱いとした。軍政の実務は日本人の行政官が担い、州以下のレベルには地方行政はインドネシア人が担当した。同時に日本海軍はボルネオの油田を、日本陸軍はスマトラの油田を保有した。そして日本の統治は、オランダ植民地政府により軟禁され、流刑地にあったスカルノを救出して日本に協力させ、この国民的指導者を前面に立て実施された。スカルノは日本に対して懐疑心を抱いていなかったわけではなかったが、開戦前に受けたインドネシア独立に対するオランダの強硬な態度に鑑み、オランダの善意に期待できない以上、日本に賭けて見ようと考えたのであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "教育制度に関して日本は、オランダが長年行ってきた愚民化政策を取りやめ、現地の人々に高等教育を施し、官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを次々開設して、短期間に10万人以上の現地人エリートを養成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1943年中盤以降、日本はアジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下の全将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ、PETA)が発足した。郷土防衛義勇軍は義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校が養成され、兵補と警察隊も編成された。このような日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数は、後のインドネシア独立戦争期に結成される正規・非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "インパール作戦の失敗によって、ビルマ方面の戦況が悪化すると、日本は1944年9月3日には将来の独立を認容する『小磯声明』を発表。さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地でインドネシア独立宣言を発表した。独立宣言文の日付は皇紀を用いている。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、必ずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、日本の連合国軍への降伏後に多数の経験豊かな日本の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加して武装化した。彼らは連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部で、インドネシア側に武器や弾薬を提供した。これらの銃器の他にも、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢などを調達し、農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。この独立戦争には、スカルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人3,000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立ってオランダと戦い(残留日本兵#蘭印(インドネシア))、その結果1,000人が命を落とした。しかしながら、インドネシアに数百年来住む華僑(中国人)の大部分はオランダ側に加担してインドネシア軍に銃を向けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "他方で政府は第三国(イギリスやオーストラリア、アメリカ合衆国)などに外交使節団を派遣して独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利に向けても尽力した。結果として、1947年8月1日に国際連合安全保障理事会で停戦および平和的手段による紛争解決が提示された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的に、共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダは独立を認めざるを得なくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "こうした武力闘争と外交努力の結果、1949年12月のオランダ-インドネシア円卓会議(通称、ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件で独立承認を得ることに成功し、オランダ統治時代の資産を継承した。これによって国際法上、正式に独立が承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "しかし、この資産には60億ギルダーという膨大な対外債務(うちオランダ向け債務20億ギルダーについては、オランダが債務免除に同意した)も含まれており、財政的な苦境に立たされることとなる。その解決のために円卓会議の取り決めを一方的に破棄、外国資産の強制収容を行うなど強攻策をとり、さらには国連から脱退するなどスカルノ政権崩壊まで国際的な孤立を深めていくこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "現在でも8月17日を独立記念日としており、ジャカルタを中心に街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し、祝賀ムードに包まれることが恒例となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "オランダからの独立後、憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた。1955年に初の議会総選挙を実施、1956年3月20日、第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立した。国民党、マシュミ、NUの3政党連立内閣であって、インドネシア社会党(PSI)、インドネシア共産党は入閣していない。この内閣は5カ年計画を立てた。その長期計画は、西イリアン帰属闘争、地方自治体設置、地方国民議会議員選挙実施、労働者に対する労働環境改善、国家予算の収支バランスの調整、植民地経済から国民の利益に基づく国民経済への移行により、国家財政の健全化を図ることなどである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかし、民族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様で、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。また、1950年代後半に地方で中央政府に公然と反旗を翻す大規模な反乱が発生し(ダルル・イスラム運動(英語版)、セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨの反乱、カハル・ムザカル(英語版)の反乱、プルメスタの反乱(英語版))、国家の分裂の危機に直面した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ大統領は、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。この構想は激しい抵抗を受け、中部・北・南スマトラ、南カリマンタン・北スラウェシのように国内は分裂した。ついに、スカルノは全土に対し、戒厳令を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった国軍を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍との反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期、盛んにスカルノが喧伝した「ナサコム (NASAKOM)」は、「ナショナリズム (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようというスローガンだった。1961年12月、オランダ植民地のイリアンジャヤに「西イリアン解放作戦」を決行して占領。1963年5月にインドネシアに併合されると、反政府勢力(自由パプア運動やen:National Committee for West Papua)によるパプア紛争(1963年–現在)が勃発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1965年、CONEFOに加盟した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "スカルノの「指導される民主主義」は、1965年の9月30日事件によって終わりを告げた。インドネシア国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1968年3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復。スカルノ時代と対比させ、自身の政権を「新体制 (Orde Baru)」と呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に独裁的な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その間の強引な開発政策は開発独裁と批判されつつも、インフラストラクチャーの充実や工業化などにより一定の経済発展を達成することに成功した。日本政府は国際協力事業団を通じインドネシア尿素肥料プロジェクトに参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "その一方で、東ティモール独立運動、アチェ独立運動、イリアンジャヤ独立運動などに対して厳しい弾圧を加えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1997年のアジア通貨危機に端を発するインドネシア経済混乱のなか、1998年5月にジャカルタ暴動(英語版)が勃発し、スハルト政権は崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "スハルト政権末期の副大統領だったユスフ・ハビビが大統領に就任し、民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・分権化の諸案を実行した。スハルト時代に政権を支えたゴルカル、スハルト体制下で存続を許された2つの野党(インドネシア民主党、開発統一党(英語版))以外の政党の結成も自由化され、1999年6月、総選挙が実施され、民主化の時代を迎えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その結果、同年10月、最大のイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマーの元議長、アブドゥルラフマン・ワヒド(国民覚醒党)が新大統領(第4代)に就任した。メガワティ・スカルノプトリは副大統領に選ばれた。しかし、2001年7月、ワヒド政権は議会の信任を失って解任された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "代わって、闘争民主党のメガワティ政権が発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "その後2004年4月に同国初の直接選挙で選ばれた第6代スシロ・バンバン・ユドヨノが2009年に", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "60%の得票を得て再選され、2014年までの大統領の任にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2013年、MIKTAに加盟した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2014年7月の選挙で当選した闘争民主党のジョコ・ウィドドが第7代大統領に就任した(歴代の大統領については「インドネシアの大統領一覧」を参照)。2019年8月16日の議会演説で首都を現在のジャカルタから、インドネシアのほぼ中央に位置するカリマンタン島の東カリマンタン州「北プナジャム・パスール県」「クタイ・カルタネガラ県」に遷都する考えを表明。2022年1月18日に行われた国会において、首都移転法案を賛成多数で可決し、首都の新都市名を「ヌサンタラ」とすることを発表した。同年から移転作業を順次進め、2045年までに移転完了する事を予定している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2019年インドネシア総選挙では、ジョコ・ウィドドが大統領に再選された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちている。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一 Bhinneka Tunggal Ika」というスローガンである。この多民族国家に国家的統一をもたらすためのイデオロギーは、20世紀初頭から始まった民族主義運動の歴史の中で、様々な民族主義者たちによって鍛え上げられてきた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "そうしたものの一つが、日本軍政末期にスカルノが発表したパンチャシラである。1945年6月1日の演説でスカルノが発表したパンチャシラ(サンスクリット語で「5つの徳の実践」を意味する)は今日のそれと順序と語句が異なっているが、スハルト体制期以降も重要な国是となり、学校教育や職場研修などでの主要教科とされてきた。また、スハルト退陣後の国内主要政党の多くが、今もなお、このパンチャシラを党是として掲げている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "現在のパンチャシラは以下の順序で数えられる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "元首たる大統領は行政府の長である。その下に副大統領が置かれる。首相職はなく、各閣僚は大統領が指名する。特徴的なのが「調整大臣府」と呼ばれる組織で、大統領と各省の間で複数の省庁を管掌しており、2014年発足のジョコ・ウィドド政権では政治・法務・治安担当調整大臣府(インドネシア語版、英語版)、経済担当調整大臣府(インドネシア語版、英語版)、海事担当調整大臣府(インドネシア語版、英語版)、人間開発・文化担当調整大臣府(インドネシア語版、英語版)が置かれている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "第五代までの大統領と副大統領は、国民協議会(後述)の決議により選出されていたが、第六代大統領からは国民からの直接選挙で選ばれている。任期は5年で再選は1度のみ(最大10年)。憲法改正によって大統領の法律制定権は廃止された。各種人事権については、議会との協議を必要とするなど、単独での権限行使は大幅に制限された。また議会議員の任命権も廃止され、議員は直接選挙によって選出されることになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "立法府たる議会は、(1) 国民議会(インドネシア語: Dewan Perwakilan Rakyat (DPR), 英語: Peoples Representative Council, 定数560)、(2) 地方代表議会(インドネシア語: Dewan Perwakilan Daerah (DPD), 英語: Regional Representatives Council, 定数132)、そして (3) この二院からなる国民協議会(インドネシア語: Majelis Permusyawaratan Rakyat (MPR), 英語: People's Consultative Assembly)がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "まず、(3) の国民協議会は、2001年、2002年の憲法改正以前は、一院制の国民議会の所属議員と、各州議会から選出される代表議員195人によって構成されていた。国民協議会は、国民議会とは別の会議体とされ、国家意思の最高決定機関と位置づけられていた。国民協議会に与えられた権限は、5年ごとに大統領と副大統領を選出し、大統領が提示する国の施策方針を承認すること、一年に一度、憲法と重要な法律の改正を検討すること、そして場合により大統領を罷免すること、であった。このような強大な権限を国民協議会に与えていることが憲政の危機をもたらしたとして、その位置づけを見直す契機となったのは、国民協議会によるワヒド大統領罷免であった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "3年余りの任期を残していた大統領を罷免した国民協議会の地位を改めるため、メガワティ政権下の2001年と2002年に行われた憲法改正により、国民協議会は国権の最高機関としての地位を失った。立法権は後述の国民議会に移されることになり、国民協議会は憲法制定権と大統領罷免決議権を保持するが、大統領選任権を国民に譲渡し、大統領と副大統領は直接選挙によって選出されることになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "これらの措置により、国民協議会は国民議会と地方代表議会の合同機関としての位置づけが与えられ、また、国民議会と地方代表議会のいずれも民選議員によってのみ構成されているため、国民協議会の議員も全て、直接選挙で選ばれる民選議員となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "(1) の国民議会は、2000年の第2次憲法改正によって、立法、予算審議、行政府の監督の3つの機能が与えられることになった。具体的には立法権に加えて、質問権、国政調査権、意見表明権が国民議会に与えられ、また、議員には法案上程権、質問提出権、提案権、意見表明権、免責特権が与えられることが明記された。比例代表制により選出される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "(2) の地方代表議会は、2001年から2002年にかけて行われた第3次、第4次憲法改正によって新たに設置が決まった代議機関であり、地方自治や地方財政に関する立法権が与えられている。先述の通り、総選挙で各州から選出された議員によって構成されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "スハルト政権期には政府・司法省が分有していた司法権が廃止され、各級裁判所は、司法府の最上位にある最高裁判所によって統括されることになり、司法権の独立が確保された。最高裁判所は法律よりも下位の規範(政令など)が法律に違反しているか否かを審査する権限を有する。他に憲法に明記される司法機関としては司法委員会と憲法裁判所がある。司法委員会は最高裁判所判事候補者を審査し国会に提示する権限及び裁判官の非行を調査し最高裁判所に罷免を勧告する権限を有する。憲法裁判所は法律が憲法に違反しているか否かを審査する権限を有する。憲法改正以前には大統領に属していた政党に対する監督権・解散権が憲法裁判所に移された。これにより、大統領・政府による政党への介入が排除されることになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "以下、主なもの。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "旧宗主国オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取り、独立当初から外交方針の基本を非同盟主義に置いた。こうした外交方針は「自主積極 bebas aktif」外交と呼ばれている。独立達成後の、外交にも様々な変化がみられるものの、いずれの国とも軍事同盟を締結せず、外国軍の駐留も認めていないなどの「自主積極」外交の方針はほぼ一貫しているといってよい。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1950年代後半のスカルノ「指導される民主主義」期には、1963年のマレーシア連邦結成を「イギリスによる新植民地主義」として非難し、マレーシアに軍事侵攻した。国際的な非難が高まるなかで、1965年1月、スカルノは国際連合脱退を宣言し、国際的な孤立を深めていった。インドネシア国内ではインドネシア共産党の勢力が伸張し、国内の左傾化を容認したスカルノは、急速に中華人民共和国に接近した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1965年の9月30日事件を機にスカルノが失脚し、スハルトが第2代大統領として就任すると、悪化した西側諸国との関係の改善を進めた。また、スカルノ時代に疲弊した経済を立て直すために債権国の協力を仰いだ。1966年9月、日本の東京に集まった債権国代表が債務問題を協議し、その後、援助について協議するインドネシア援助国会議(Inter-Governmental Group on Indonesia - 略称 IGGI)が発足した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1967年8月、東南アジア諸国連合(ASEAN)発足時には原加盟国となった。総人口や国土面積は東南アジア最大であり、ASEAN本部は首都ジャカルタに置かれている。域内での経済・文化交流の促進を所期の目標とし、他のASEAN加盟国との連帯を旨としている。その一方で、時折のぞく盟主意識・地域大国意識は、他国からの警戒を招くこともある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "今日に至るまで日本をはじめとする西側諸国とは協力関係を維持しているが、スハルト体制期においても一貫して、ベトナムなど近隣の社会主義国や非同盟諸国とは良好な外交関係を保った。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1999年の東ティモール独立を問う住民投票での暴動に軍が関与したと見られ、その後の関係者の処罰が不十分とされたことや、2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。このため、ロシアや中国との関係強化に乗り出し、多極外交を展開している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "中国とは南シナ海にあるスプラトリー諸島(南沙諸島)の領有権を巡る係争はないが、中国が海洋権益を主張する九段線がインドネシア領ナトゥナ諸島北方海域にかかっている。このため、同海域の「北ナトゥナ海」への改称やナトゥナ諸島への軍配備などで対応している(詳細は「ナトゥナ諸島」を参照)。2020年1月にはナトゥナ諸島近海で中国漁船が操業したことに抗議、中国大使を召還した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "日本とインドネシアの関係は良好であり、1800社を超える日本企業がインドネシアで事業を展開している。特に近年、日本文化がブームとなっていて、日本企業の投資や、日本語を学ぶ人が増えている。大相撲やアニメなど、日本文化のイベントも開催されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "MIKTA(ミクタ)は、メキシコ (Mexico)、インドネシア (Indonesia)、大韓民国 (Korea, Republic of)、トルコ (Turkey)、オーストラリア (Australia) の5ヶ国によるパートナーシップである。詳細は該当ページへ。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "インドネシア国軍(Tentara Nasional Indonesia - 略称TNI)の兵力は、2017年に39万5,500人(陸軍30万400人、海軍6万5000人、空軍3万100人)であり、志願兵制度である。その他に予備役が40万人。軍事予算は2002年に12兆7,549億ルピアで、国家予算に占める割合は3.71パーセントである。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "スハルト政権以来、米国を中心とした西側との協調により、近代的な兵器を積極的に導入してきたものの、東ティモール紛争の悪化により米国と軋轢が生じ、2005年まで米国からの武器輸出を禁じられた。この間にロシア連邦や中華人民共和国と接近し、これらの国の兵器も多数保有している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "世界で最も多くの島を持つ国であり、その数は1万3466にのぼる。島の数は人工衛星の調査により算出されたもので、かつては1万8,110とも言われていたが、再調査の結果、2013年に現在の個数が明らかになった。またニューヨークタイムズ誌では「2005年以降、砂の採掘により2ダースの小さな島が消滅した」と2016年6月23日の誌面で報じている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "当地を含む周辺では、ユーラシアプレートやオーストラリアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートなどがせめぎあっており、環太平洋火山帯(環太平洋造山帯)の一部を構成している。そのため国内に火山が多く、活火山が129ある。スマトラ島北部にあるカルデラ湖のトバ湖を形成したトバ火山は、有史前に破局噴火を引き起こしたほか、クラカタウ大噴火に代表されるように古くから住民を脅かすと共に土壌の肥沃化に役立ってきた。火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、この数は世界最多とされる。スマトラ島のクリンチ火山が最高峰(3805m)である。スメル山はジャワ島の最高峰(3676m)で、世界で最も活動している火山の一つである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "また、地震も多く、2004年のスマトラ島沖地震、及び2006年のジャワ島中部地震は甚大な被害を与えた。スマトラ島とジャワ島は、約60,000年前は陸続きであったが、11,000年前の大噴火があり、スンダ海峡ができて両島は分離した。これらの島々の全てが北回帰線と南回帰線の間に位置しており、熱帯気候である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "国土を「林業地区」(国有林)と「その他の地区」に区分している。大気中の二酸化炭素を吸収する役割を担う森林は、適切な利用・管理により地球温暖化防止に役立つ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "同国における環境問題は国の人口密度の高さと急速な工業化に関連しており、深刻さを増しているために今も改善策が求められている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2層の地方政府が存在し、第一レベルの地方政府が州(Provinsi)であり、その下位に第二レベルの地方政府である県(Kabupaten)と市(Kota)が置かれている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "第1レベル地方政府(便宜上4区域に分ける)は2022年時点で以下のとおり、ジャカルタ首都特別州と4の特別州、33の州が設置されている。下記リストで名称右に*付きが、首都ジャカルタと4特別州。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "第2レベルの地方政府は、2006年時点で349県・91 市が置かれている。県と市には行政機能上の差異はなく、都市部に置かれるのが市で、それ以外の田園地域などに置かれるのが県である。 なお、県・市には、行政区としての郡(Kecamatan)とその下には区(Kelurahan)が置かれる。なお、都市以外の地域には村(Desa)が置かれているが、これは区の担う行政機能に代わり、地縁的・慣習的なコミュニティであり、行政区ではない。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "スハルト政権の崩壊後、世界で最も地方分権化が進んだ国の一つに数えられている。しかし、逆に言えば中央政府の力が弱く、地方政府が環境破壊を進める政策を実施していても、中央政府には、これを止める力は存在していない。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "IMFによると、2018年のGDPは1兆225億ドルであり、世界第16位である。一方、一人当たりのGDPは3,871ドルであり、世界平均の約34%である。世界銀行が公表した資料によると、2017年に1日1.9ドル未満(2011年基準の米ドル購買力平価ベース)で暮らす貧困層は全人口の約5.71%(都市部:約5.61% 農村部:約5.82%)であり、約1500万人いる。また3.2ドル未満の場合は約27.25%(都市部:約25.29% 農村部:約29.61%)であり、5.5ドル未満の場合は約58.66%(都市部:約53.21% 農村部:約65.24%)であった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "基本的に農業国である。1960年代に稲作の生産力増強に力が入れられ、植民地期からの品種改良事業も強化された。改良品種IR8のような高収量品種は他にもつくられ、農村に普及し栽培された。このような「緑の改革」の結果、1984年にはコメの自給が達成された。しかし、1980年代後半には「緑の改革」熱も冷めてゆき、同年代の末にはコメの輸入が増加するに至った。 農林業ではカカオ、キャッサバ、キャベツ、ココナッツ、米、コーヒー豆、サツマイモ、大豆、タバコ、茶、天然ゴム、トウモロコシ、パイナップル、バナナ、落花生の生産量が多い。特にココナッツの生産量は2003年時点で世界一である。オイルパーム(アブラヤシ)から精製されるパームオイル(パーム油、ヤシ油)は、植物油の原料の一つで、1990年代後半日本国内では菜種油・大豆油に次いで第3位で、食用・洗剤・シャンプー・化粧品の原料として需要の増大が見込まれている。インドネシアにおけるパームオイルの生産量は1990年代以降急激に増加しており、2006年にマレーシアを抜き生産量首位に、2018年時点でマレーシアの二倍弱の3,830万トンを生産している。アブラヤシの栽培面積は2000年にはココヤシと並び、2005年には548万ヘクタールとなっている(インドネシア中央統計庁(BPS)による。)。この2000年代以降のエステート作物面積の急激な拡大によって、森林破壊や泥炭湿地の埋立及びこれに伴う火災の発生などの環境破壊が進んでいることが指摘されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "海に囲まれた群島国家であるため水産資源も豊富だが、漁業や水産加工の技術向上、物流整備が課題となっている。プリカナン・ヌサンタラ(Perikanan Nusantara,Perinus)という国営水産会社が存在する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "鉱業資源にも恵まれ、金、スズ、石油、石炭、天然ガス、銅、ニッケルの採掘量が多い。1982年、1984年、日本からの政府開発援助(ODA)でスマトラ島北部のトバ湖から流れ出るアサハン川の水でアサハン・ダム(最大出力51.3万キロワット)とマラッカ海峡に面したクアラタンジュンにアサハン・アルミ精錬工場が建設された。ニッケル鉱山は、南東スラウェシ州コラカ沖のパダマラン島のポマラと南スラウェシ州ソロアコ(サロアコ)にある。生産の80%が日本に輸出されている。ニッケルはカナダの多国籍企業インコ社が支配している。多国籍企業の進出はスハルト体制発足後の1967年外資法制定以降であり、採掘・伐採権を確保している。また、日本企業6社が出資している。鉱山採掘に伴い森林伐採で付近住民と土地問題で争いが起こる。国内産業を育成するため、未加工ニッケル鉱石の輸出を2014年に禁止したが、2017年に規制を緩和している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "日本はLNG(液化天然ガス)をインドネシアから輸入している。2004年以降は原油の輸入量が輸出量を上回る状態であるため、OPEC(石油輸出国機構)を2009年1月に脱退した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "工業では軽工業、食品工業、織物、石油精製が盛ん。コプラパーム油のほか、化学繊維、パルプ、窒素肥料などの工業が確立している。 パナソニック、オムロン、ブリヂストンをはじめとした日系企業が現地に子会社あるいは合弁などの形態で、多数進出している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "独立後、政府は主要産業を国有化し、保護政策の下で工業を発展させてきた。1989年には、戦略的対応が必要な産業として製鉄、航空機製造、銃器製造などを指定し、戦略産業を手掛ける行政組織として戦略産業管理庁(Badan Pengelora Industri Strategis)を発足させている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2019年時点、インドネシアには115の国営企業があり、クラカタウ・スチール(製鉄)、マンディリ銀行など17社がインドネシア証券取引所に株式を上場している。分野ごとに持ち株会社を設けるなど効率化を図っているが、一方で雇用維持など政府の意向が優先されることも多い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "かつては、華人系企業との癒着や、スハルト大統領ら政府高官の親族によるファミリービジネスなどが社会問題化し、1996年には国民車「ティモール」の販売を巡って世界貿易機関(WTO)を舞台とする国際問題にまで発展した。しかし、1997年のアジア通貨危機の発生により、経済は混乱状態に陥り、スハルト大統領は退陣に至った。その後、政府はIMFとの合意によって国営企業の民営化など一連の経済改革を実施したが、失業者の増大や貧富の差の拡大が社会問題となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "小売業の最大チャネルは、各地に約350万ある「ワルン」と呼ばれる零細小売店である。インターネット通販は小売市場の3~5%程度と推測され、地元企業のトコペディアやブカラパック、シンガポール企業のラザダやショッピーが参入しており、ワルンへの商品供給を担う企業もある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "労働者の生活水準を向上させるため、月額式の最低賃金制度が施行されており、2015年からはインフレ率と経済成長率に基づく計算式が導入され、年8%程度上がり、タイ王国を超える水準となっている。これに対して、労働組合側は賃上げが不十分、日系を含む企業側は人件費の上昇が国際競争力を低下させると主張し、労使双方に不満がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "なお、イスラム教徒が多数を占める国であるため、従業員からメッカ巡礼の希望が出た場合、企業はメッカ巡礼休暇として、最長3カ月の休暇を出すことが法で規定されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ただ、改革と好調な個人消費により、GDP成長率は、2003年から2007年まで、4%〜6%前後で推移した。2008年には、欧米の経済危機による輸出の伸び悩みや国際的な金融危機の影響などがあったものの、6.1%を維持。さらに2009年は、政府の金融安定化策・景気刺激策や堅調な国内消費から、世界的にも比較的安定した成長を維持し、4.5%の成長を達成。名目GDP(国内総生産)は2001年の約1,600億ドルから、2009年には3.3倍の約5393億ドルまで急拡大した。今ではG20の一角をなすまでになっており、同じASEAN諸国のベトナムとフィリピンと同様にNEXT11の一角を占め、更にベトナムと共にVISTAの一角を担うなど経済の期待は非常に大きい。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "ただし、2011年より経常収支が赤字となる状況が続いており、従来から続く財政赤字とともに双子の赤字の状態にある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2020年11月2日に施行された雇用創出法(オムニバス法)は様々な分野で物議を醸している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "このような中、日系企業の進出は拡大しているが、投資環境の面で抱える問題は少なくない。世界銀行の「Doing Business 2011」でも、ビジネス環境は183国中121位に順位づけられており、これはASEANの中でもとくに悪いランキングである。具体的には、道路、鉄道、通信などのハードインフラの整備が遅れていることのほか、ソフトインフラとも言うべき法律面での問題が挙げられる。裁判所や行政機関の判断については、予測可能性が低く、透明性も欠如しており、これがビジネスの大きな阻害要因になっていると繰り返し指摘されている。 これに対し、日本のODAは、ハード・インフラ整備の支援に加え、近年は統治能力支援(ガバナンス支援)などソフト・インフラ整備の支援も行っている。警察に対する市民警察活動促進プロジェクトは、日本の交番システムなどを導入しようというものであり、日本の技術支援のヒットとされている。また、投資環境整備に直結する支援としては、知的財産権総局を対象とした知的財産に関する法整備支援も継続されている。インドネシアの裁判所に対しても、日本の法務省法務総合研究所は国際協力機構(JICA)や公益財団法人国際民商事法センター(ICCLC)と連携して、規則制定のほか裁判官や和解・調停を担う人材の研修を支援している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2013年時点では、東南アジア全体でも有数の好景気に沸いており、日本からの投資も2010年には7億1260万ドル(約712億6000万円)であったのが、2012年には25億ドル(約2500億円)へと急増している。しかしナショナリズムが色濃く、2013年2月には当地を中心に石炭採掘を行っている英投資会社ブミPLCの株主総会が、同社の大半の取締役や経営陣を追放するというロスチャイルドによる提案の大部分を拒否した。これと関連して、国の経常赤字と資本流入への依存、貧弱なインフラや腐敗した政治や実業界など、いくつかの問題点も指摘されている。2014年の国際協力銀行が日本企業を対象に行ったアンケート調査では、「海外進出したい国」として、中国を抜いて1位となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "技能実習制度などで、日本へ渡航して働くインドネシア人も多いが、人権保護や賃金支払いなどでトラブルも起きている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "インドネシアの2022年の総人口は2億7,200万人であり、中国、インド、アメリカに次ぐ世界第4位である。人口増加率は2010年時点で1.03%となっている。今後もインドネシアの人口は着実に増加すると見られており、2050年の推計人口は約3億人との予測。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "全国民の半分以上がジャワ島に集中しているため、比較的人口の希薄なスマトラ島、ボルネオ島、スラウェシ島に住民を移住させる『トランスミグラシ』と呼ばれる人口移住政策を行ってきた。2019年には、ジョコ政権がジャワ島外への首都を移転する方針を閣議決定した。 ジョコ・ウィドド大統領は同年8月、自身のTwitterで首都の移転先をボルネオ島と発表した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "大多数がオーストロネシア人で、彼らが直系の祖先であり、原オーストロネシア人と新オーストロネシア人の2種類に分けられる。原オーストロネシア人は、紀元前1500年ごろに渡来した。原オーストロネシア人は先住民よりも高度な文化を持っていた。原オーストロネシア人は後から来た新オーストロネシア人によって追われていくが、ダヤク人、トラジャ人、バタック人として子孫が生存している。新オーストロネシア人は、マレー人、ブギス人、ミナンカバウ人の祖先であり、紀元前500年ごろに渡来した。渡来時には青銅器製作の技術を獲得しており、数百年後には鉄器を使用し始める。彼らの使用した鉄器がベトナム北部のドンソン地方で大量に発見されていることから「ドンソン文化」と呼ばれる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "ほかに約300の民族がおり、住民の内、ジャワ人が45%、スンダ人が14%、マドゥラ人が7.5%、沿岸マレー人が7.5%、その他が26%、中国系が約5%となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "父系・母系を共に親族とみなす「双系社会」であり、姓がない人もいる(スカルノ、スハルトなど)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "なお、法務省の統計では、2014年末では30,000人超、2018年では55,000人超のインドネシア人が日本に在住している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "公用語はインドネシア語であり、国語となっている。会話言語ではそれぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われている。インドネシア語が国語と言っても、日常で話す人は多くて3,000万人程度である。国の人口比にすると意外と少ないが、国語になっているため第2言語として話せる人の数はかなり多い。また、首都ジャカルタへ出稼ぎに向かう人も多い為、地方の人でもインドネシア語は必須であり、話せないと出稼ぎにも影響が出てくる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "インドネシア語、ジャワ語、バリ語などを含むオーストロネシア語族の他に、パプア諸語が使用される地域もある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "憲法29条で信教の自由を保障している。パンチャシラでは唯一神への信仰を第一原則としているものの、これはイスラム教を国教として保護しているという意味ではない。2010年の政府統計によると、イスラム教が87.2%、プロテスタントが7%、カトリックが2.9%、ヒンドゥー教が1.6%、仏教が0.72%、儒教が0.05%、その他が0.5%となっている。イスラム教徒の人口は、1億7000万人を超え、世界最大のイスラム教徒(ムスリム)人口を抱える国家となっている(インドネシアは政府としては世俗主義を標榜しており、シャリーアによる統治を受け入れるイスラム国家ではない)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "多民族国家であるため、言語と同様、宗教にも地理的な分布が存在する。バリ島ではヒンドゥー教が、スラウェシ島北部ではキリスト教(カトリック)が、東部諸島およびニューギニア島西部ではキリスト教(プロテスタント、その他)が優位にある。アチェ州では98%がイスラム教徒で、シャリーア(イスラム法)が法律として適用されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "また、イスラム教はジャワ島やスマトラ島など人口集中地域に信者が多いため、国全体でのイスラム教徒比率は高いが、非イスラム教徒の民族や地域も実際には多い。カリマンタン島やスラウェシ島では、イスラム教徒と非イスラム教徒の割合が半々ほどである。また、東ヌサトゥンガラから東のマルク諸島、ニューギニア島などではイスラム教徒比率は一割程度である(それもジャワ島などからの移民の信者が大半である)。またイスラム教徒多数派地域であっても、都市部や、スンダ人、アチェ人地域のように比較的、厳格な信仰を持つものもあれば、ジャワ人地域のように、基層にヒンドゥー文化を強く残しているものもある。また書面上はイスラム教徒となっていても、実際にはシャーマニズムを信仰している民族も有る。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "魔術師・呪術医と、精霊を含めた超自然的な力を信じる人や、「お化け」の存在を肯定するインドネシア人は多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "なお、信仰の自由はあるといっても完全なものではなく、特に無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性もある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "夫婦別姓が基本。ただし通称として夫の姓を名乗ることも多い。男性側が改姓することも可能である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "教育体系は、教育文化省が管轄する一般の学校(スコラ sekolah)と、少数であるが宗教省が管轄するイスラーム系のマドラサ (madrasah) の二本立てとなっている。いずれの場合も小学校・中学校・高校の6・3・3制であり、このうち小中学校の9年間については、1994年に義務教育にすると宣言され、さらに2013年には高校までの12年間に延長されたが、就学率は2018年で小学で93%、中学で79%、高校で36%である。スコラでもマドラサでも、一般科目と宗教科目を履修するが、力点の置き方は異なる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "大学をはじめとする高等教育機関も一般校とイスラーム専門校に分かれており、前者については1954年に各州に国立大学を設置することが決定された。以下は代表的な大学のリストである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "米国CIAによる2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は92.8%(男性:95.6%、女性:90.1%)である。2010年の教育支出はGDPの3%だった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "医療施設が26,000件を超えているが、それに反して医師が不足しており、人口1,000人辺りわずか0.4人ほどしか存在しない 。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "2019年8月、ジョコ大統領は、首都ジャカルタをジャワ島からジャワ島外へと首都移転すると宣言した。新首都の最適候補地としてボルネオ島東岸は東カリマンタン州クタイカルタネガラ県と北プナジャムパスル県の両県にかかる地域であるバリクパパン近郊に首都をジャカルタより移転すると明らかにした。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "新首都名はインドネシア語で群島を意味する「ヌサンタラ」とすることが、インドネシア議会で可決されたことを、スハルソ国家開発企画庁長官が2022年1月18日に明らかにした。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "民間調査機関の同年2月の世論調査では移転に反対する回答が半数超を占めた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "民族・宗教などの多様性や、過去のオランダやポルトガル、イギリスなどの分割統治の影響でいくつかの独立運動を抱えている。その一部には紛争へ発展したアチェ独立運動などもあった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "東ティモールは独立運動の末、国連の暫定統治を経て2002年に独立したが、パプア州(旧イリアン・ジャヤ州)において独立運動が展開されており、カリマンタン島では民族対立が、マルク諸島ではキリスト教徒とイスラム教徒の宗教対立が存在する。なお、アチェ独立運動は2004年のスマトラ島沖地震の後、2005年12月27日に終結している。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "金品を目的とした強盗、スリ、ひったくり、置き引き、車上荒らしなどの被害が多発しており、インターネットを通じての商品購入・売却を装った詐欺も確認されている。また、薬物犯罪も常態化しており、観光客が集まる繁華街の路上やナイトクラブなどの場所で、覚醒剤および大麻などの薬物を売りつけてくる売人が出没する事例が後を絶たない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "最近では、市内で銃器を安価に購入出来ることから銃器などを使用した凶悪犯罪も増えており、同国を訪れる際は一層の注意を払う必要が求められている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "Amnesty International、Human Rights Watch、および米国国務省による報告では、インドネシアで人権問題とされているのは、西ニューギニア地域への弾圧(多くの活動家が反逆罪として超法規的に処刑されたり拘束されている。)とその報道の自由(ジャーナリストの拘束と追放、諜報当局によるニュースサイトへの圧力)、宗教的(イスラム教が優先され審議中の刑法草案でもイスラム教冒涜罪が強化されている)、女性(性暴力防止法案、家事労働者保護法案など関連法案の審議が進まず2016年から保留状態)および性的少数派の扱い(LGBTを差別するポルノ法のもと、逮捕や解雇、一般人による暴力行為にさらされている)、性的および生殖的権利(同性性行為と婚外性交渉を禁止する刑法が草案されている)、障害者の権利(主に貧困家庭において心理的社会的障害者が劣悪な環境で監禁〜パスンされている。)、表現と結社の自由(現在でも集会は解散させられるが、審議中の刑法草案はLGBTの基本的権利を認めていない)。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "パスン(インドネシア語版)はインドネシア語で足かせを意味する。重度の精神疾患者が本人や他人に危害を加えないようにするための因習である。 治療手段を持たない貧困家庭で、木製のフレームに患者の脚や手、首に取り付けて拘束するために使用されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "1977年に違法化されたが、インドネシア保険省の推計では国内の被害者は1万8000人、パスン被害者支援を行っているスリアニ協会によれば4万人とされる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "国内でもパスンは非人道的であると見なされているが、精神障害者に対する社会的ケアが未だ貧弱であるために現在も存在している。家族が貧困で治療を断念し、長期拘束後に刑務所へ入れることもある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "2012年、AtmaHusadaMahakam地域精神病院(RSJD)により東カリマタンで20名がパスンから解放され病院に収容された。彼らには政府から無料で薬が提供される。こういった試みは政府の「パスンのないインドネシア プログラム」に準じて各地で行われているが貧困にある当事者家族に取ってはパスンが唯一の対処法であり、またその存在を恥じているため隠そうとしていることが問題の解決を妨げている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "2013年6月、RSJDの発表によれば2011年から記録されたパスン被害者は254名で、年間では2012年の151人が最大(2011年が79人、2013年4月までが24人)だった。解消のためには家族に対する医学的治療への啓蒙が必要で、教育や知識の不足がこの人権侵害の要因であると述べている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "2014年までに「パスンのないインドネシア」とする宣言に向けて精神障害のある家族への支援が計画され、無料治療や束縛禁止を規制する精神保健法の整備がすすめられた。しかし国家の対策予算は40億ルピアに過ぎず解決は遠い。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "2016年2月28日、政府は「2017年にインドネシアにパスンなし」を宣言目標とした。社会問題省(Kemensos)の記録では、現在5万7000人の被害者がいるとする。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "2017年にも中央政府は引き続き「Indonesia Bebas Pasung 2019」宣言をし対応を行なった。社会問題省の記録では、特定された被害者4786人の内、1345人が未だ束縛状態にあるとした。一方、ベンクル州、西カリマンタン、東カリマンタン、バリ、東ヌサ・トゥンガラ、バベルでは宣言を達したとする。また被害者の特定と解放に加えて、今後は障害や精神保健に関する情報提供や患者が退院後に利用できる滞在施設を試行するとした。社会問題省はソーシャルワーカーによる住民への啓蒙活動によって、パスンを選択することなく適切な医学的社会的サービスにつながることを目指して活動している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "その後も政府は隔年ごとに宣言目標を発して地方予算を設定しているが、2021年現在でも東ジャワだけで未だ1万2000人の被害者が推定されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "宗教・文化は島ごとに特色を持ち、日本ではバリ島のガムランなどのインドネシアの音楽や舞踊が知られる。またワヤン・クリと呼ばれる影絵芝居や、バティックと呼ばれるろうけつ染めも有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "高温多湿な気候と丹念に洗濯する国民性のため、洗濯機は全自動式ではなく洗濯板が付いた二槽式が主流とされる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "多彩な香辛料や蜂蜜などを調合した「ジャムウ」と呼ばれる伝統薬が広く生産・販売されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "インドネシア文学をインドネシア語、またはその前身であるムラユ語で、インドネシア人によって書かれた文学作品のことであると限定するならば、それは民族主義運動期に生まれたと言える。1908年、オランダ領東インド政府内に設立された出版局(バライ・プスタカ)は、インドネシア人作家の作品を出版し、アブドゥル・ムイスの『西洋かぶれ』(1928年)など、インドネシアで最初の近代小説といわれる作品群を出版した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "また、インドネシア人によるインドネシア語の定期刊行物としては、1907年にバンドンでティルトアディスルヨが刊行した『メダン・プリヤイ』が最初のもので、その後、インドネシア語での日刊紙、週刊誌、月刊誌の刊行は、1925年には200点、1938年には400点を超えていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "20世紀の著名な文学者としては、『人間の大地』(1980年)、『すべての民族の子』などの大河小説で国際的に評価されるプラムディヤ・アナンタ・トゥールの名を挙げることができる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "以下、代表的な作家・詩人・文学者を挙げる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "ルマーアダット(英語版)と呼ばれる、ヴァナキュラー建築様式で建てられた伝統的な家屋が存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が4件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "インドネシア国内では、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。ボクシングでは、元WBA世界フェザー級スーパー王者のクリス・ジョンを輩出した。バドミントンはアジア屈指の強豪国であり、オリンピックで獲得したメダルの半数以上がバドミントン競技である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "1994年にセミプロのガラタマ(英語版)とアマチュアのペルセリカタン(英語版)という2つのリーグを統合し、リーガ・インドネシアが創設された。その後の協会の内紛やFIFAの仲介など紆余曲折を経て、2017年にプロサッカーリーグのリーガ1が開始された。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "インドネシアサッカー協会(PSSI)によって構成されるサッカーインドネシア代表は、FIFAワールドカップには1938年大会で1度出場を果たしている。AFCアジアカップには4度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。東南アジアサッカー選手権(AFF三菱電機カップ)では6度の準優勝に輝いている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "また、インドネシア国内においてサッカーの人気選手はスーパースターとみなされており、2022年2月16日にJリーグの東京ヴェルディに移籍した、プラタマ・アルハンのInstagramのフォロワー数は\"300万人\"にものぼる。", "title": "スポーツ" } ]
インドネシア共和国、通称インドネシアは、東南アジア南部に位置する共和制国家である。首都はジャワ島に位置するジャカルタ首都特別州。5110キロメートルと東西に非常に長く連り、赤道にまたがる地域に1万7000を超える島嶼を抱える、世界最大の群島国家である。 島嶼国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、ティモール島における東ティモール、カリマンタン島(ボルネオ島)におけるマレーシア、ニューギニア島におけるパプアニューギニアの3国だけである。海を隔てて近接している国家は、パラオ、インド(アンダマン・ニコバル諸島)、フィリピン、シンガポール、オーストラリアなど。南シナ海南部にあるインドネシア領ナトゥナ諸島はインドシナ半島や領有権主張が競合するスプラトリー諸島と向かい合う。 東南アジア諸国連合 (ASEAN) の盟主とされ、ASEAN本部が首都ジャカルタにある。そのため、2009年以降はアメリカや中国など50か国あまりのASEAN大使がジャカルタに常駐しており、日本も2011年よりジャカルタにASEAN日本政府代表部を開設し、大使を常駐させている。東南アジアから唯一G20に参加している。 人口は2億7000万人を超える世界第4位の規模であり、また世界最大のムスリム人口を有する国家としても知られている。国の公用語はインドネシア語である。
{{redirect|インドネシア共和国|1949年から1950年にかけて存在したインドネシア連邦共和国の構成国|インドネシア共和国 (1949年-1950年)}} {{基礎情報 国 | 略名 = インドネシア | 日本語国名 = インドネシア共和国 | 公式国名 = {{lang|id|'''Republik Indonesia'''}} | 国旗画像 = Flag of Indonesia.svg | 国章画像 = [[ファイル:National emblem of Indonesia Garuda Pancasila.svg|90px|インドネシアの国章]] | 国章リンク = ([[インドネシアの国章|国章]]) | 標語 = {{Lang|jv|Bhinneka Tunggal lka }}<br />[[ジャワ語|古ジャワ語]]: ''多様性の中の統一'' | 位置画像 = Indonesia (orthographic projection).svg | 公用語 = [[インドネシア語]] | 首都 = [[ジャカルタ|ジャカルタ首都特別州]] | 最大都市 = ジャカルタ | 元首等肩書 = [[インドネシアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ジョコ・ウィドド]] | 首相等肩書 = [[インドネシアの副大統領|副大統領]] | 首相等氏名 = {{仮リンク|マアルフ・アミン|en|Ma'ruf Amin|id|Ma'ruf Amin}} | 他元首等肩書1 = [[国民協議会|国民協議会議長]] | 他元首等氏名1 = [[バンバン・スサティヨ]] | 他元首等肩書2 = 地方代表議会議長 | 他元首等氏名2 = [[ラ・ニャッラ・マッタリッティ]] | 他元首等肩書3 = 国民議会議長 | 他元首等氏名3 = [[プアン・マハラニ]] | 他元首等肩書4 = 最高裁判所長官 | 他元首等氏名4 = {{仮リンク|ムハンマド・シャリフディン|en|Muhammad Syarifuddin}} | 面積順位 = 14 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 1,904,569 | 水面積率 = 4.8% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 4 | 人口大きさ = 1 E8 | 人口値 = 270,203,917<ref>{{cite web|url=https://www.bps.go.id/pressrelease/2021/01/21/1854/hasil-sensus-penduduk-2020.html|publisher=Badan Pusat Statistik|title=Hasil Sensus Penduduk 2020|language=id|date=Januari 2021|access-date=21 Januari 2021}}</ref> | 人口密度値 = 151<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 1京5434兆1518億<ref name="imf202110"> {{cite web |url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2023/October/weo-report?c=536,&s=NGDPD,PPPGDP,NGDPDPC,PPPPC,&sy=2020&ey=2028&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1 |title=World Economic Outlook Database, October 2023 Edition. (Indonesia)|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2023-10|accessdate=2023-10-29}}</ref> | GDP統計年MER = 2023 | GDP順位MER = 16 | GDP値MER = 1兆4,170億<ref name="imf202110" /> | GDP MER/人 = 5,108 | GDP統計年 = 2023 | GDP順位 = 7 | GDP値 = 4兆3,930億<ref name="imf202110" /> | GDP/人 = 15,835 <ref name="imf202110" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;- 宣言<br />&nbsp;- 承認 | 建国年月日 = [[オランダ領東インド|オランダ]]と[[日本占領時期のインドネシア|日本]]より<br />[[1945年]][[8月17日]]<br />[[1949年]][[12月27日]] | 通貨 = [[ルピア]] | 通貨コード = IDR | 時間帯 = +7 ~ +9([[インドネシア時間]]) | 夏時間 = なし | 国歌 = [[インドネシア・ラヤ|{{lang|id|Indonesia Raya}}]]{{id icon}}<br />''偉大なるインドネシア''<br />{{center| }} | ISO 3166-1 = ID / IDN | ccTLD = [[.id]] | 国際電話番号 = 62 | 注記 = |時間帯追記=}} '''インドネシア共和国'''(インドネシアきょうわこく、{{Lang-id|Republik Indonesia}})、通称'''インドネシア'''は、[[東南アジア]]南部に位置する[[共和制]][[国家]]である。[[首都]]は[[ジャワ島]]に位置する[[ジャカルタ|ジャカルタ首都特別州]]。5110[[キロメートル]]と東西に非常に長く連り、[[赤道]]にまたがる地域に1万7000を超える[[島嶼]]を抱える、世界最大の[[群島国家]]である<ref>{{cite news|url=http://www.thejakartapost.com/news/2017/08/21/16000-indonesian-islands-registered-at-un.html|title=16,000 Indonesian islands registered at UN|newspaper=The Jakarta Post|date=2017-08-21|access-date=2018-12-03|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20181130202043/http://www.thejakartapost.com/news/2017/08/21/16000-indonesian-islands-registered-at-un.html|archive-date=2018-11-30}}</ref><ref name="sankei20131112">{{cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/131112/asi13111209000004-n1.htm|title=おおらかすぎ? 数え直したら4千余の島消え インドネシア|newspaper= [[MSN産経ニュース]]|agency=[[共同通信]]|date=2013-11-12|accessdate=2020-03-19|archiveurl= https://web.archive.org/web/20131112010148/http://sankei.jp.msn.com/world/news/131112/asi13111209000004-n1.htm |archivedate= 2013-11-12}}</ref>。 島嶼国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、[[ティモール島]]における[[東ティモール]]、[[ボルネオ島|カリマンタン島]](ボルネオ島)における[[マレーシア]]、[[ニューギニア島]]における[[パプアニューギニア]]の3国だけである。海を隔てて近接している国家は、[[パラオ]]、[[インド]]([[アンダマン・ニコバル諸島]])、[[フィリピン]]、[[シンガポール]]、[[オーストラリア]]など。[[南シナ海]]南部にあるインドネシア領[[ナトゥナ諸島]]は[[インドシナ半島]]や領有権主張が競合する[[スプラトリー諸島]]と向かい合う<ref>インドネシア自身はスプラトリー諸島の領有権は主張していないが、[[中華人民共和国]]が設定している海上境界「[[九段線]]」を認めていない。[[日本経済新聞]]ニュースサイト2020年6月4日配信「[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59986450U0A600C2910M00/ 南シナ海、中国主張に反対 インドネシアが国連に書簡]」(2020年12月5日閲覧)。</ref>。 [[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) の盟主とされ、ASEAN本部が首都ジャカルタにある<ref>{{Cite web|和書|url= https://asenavi.com/archives/9269|title= そもそもASEANとは? 発足のきっかけと日本との関係を簡単に説明します!|accessdate=2020-10-18}}</ref>。そのため、[[2009年]]以降は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[中華人民共和国|中国]]など50か国あまりのASEAN大使がジャカルタに常駐しており、[[日本]]も[[2011年]]よりジャカルタにASEAN日本政府代表部を開設し、大使を常駐させている。東南アジアから唯一[[G20]]に参加している<ref>[https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/intl/g02.htm/ G20とは何ですか?G7とは何ですか?]日本銀行(2019年6月20日閲覧)</ref>。 人口は2億7000万人を超える'''世界第4位'''の規模であり、また世界最大の[[ムスリム]]人口を有する<ref>{{Cite news|url= https://globe.asahi.com/article/12968024 |title= 世界一ムスリムが多いインドネシアで開かれた「豚まつり」 その狙いは |newspaper= [[朝日新聞グローブ|朝日新聞GLOBE+]] |date= 2019-12-18 |accessdate= 2020-03-19 }}</ref>国家としても知られている。国の[[公用語]]は[[インドネシア語]]である。 == 国名 == 正式名称は {{lang|id|Republik Indonesia}} (<small>インドネシア語: </small>レプブリク・インドネシア)、略称は RI(<small>インドネシア語: エ</small>ール・イー)。 公式の英語表記は{{en|Republic of Indonesia}}、略称は {{en|Indonesia}} ({{IPA|ˌɪndoʊˈniːziə}} または {{IPA|ˌɪndəˈniːʒə}})。 日本語表記は'''インドネシア共和国'''、略称は'''インドネシア'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''印度尼西亜'''、略称は'''印尼'''。 国名インドネシア({{Lang|id|Indonesia}})の[[ネシア]]({{Lang|id|nesia}})は[[諸島]]を意味する[[接尾辞]]。[[ギリシャ語]]で[[島]]を意味するネソス ({{lang|gr|nesos}}) の[[複数形]]ネシオイ ({{lang|gr|nesioi}}) に由来する。[[オランダ領東インド]]時代の1920年代に定着した。 == 国旗 == [[インドネシアの国旗]]は上部に[[赤]]、下部に[[白]]の2色で構成された長方形で、縦と横の比率が1:2である。[[モナコ|モナコ公国]]の[[モナコの国旗|国旗]]と類似しているが、こちらは縦横比が4:5と異なる。 [[インドネシアの国章|国章]]は、「ガルーダ・パンチャシラ」と呼ばれる。[[ガルダ|ガルーダ]]は[[インド神話]]に登場する伝説上の鳥で<ref>{{Cite web|和書|url=http://garudastudy.com/garuda/|title=ガルーダとは|publisher=国際ガルーダ学会|accessdate=2020-9-5}}</ref>、[[ヴィシュヌ神]]の乗り物と言われる。[[鷹]]のような図柄である。尾の付け根の羽毛は19枚、首の羽毛は45枚で、尾の羽毛は8枚、翼の羽毛は左右それぞれに17枚ずつあり、独立宣言をした1945年8月17日の数字を表している<ref>[[村井吉敬]]・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』[[明石書店]] 2013年 24ページ</ref>。 == 歴史 == {{Main|インドネシアの歴史}} [[先史時代]]は、様々な出土品から[[石器時代]]と'''金属器時代'''の2つに大きく分けることができる。 === 石器時代 === [[人類]]が使用する色々の道具を[[石器]]で作っていた時代である。なお当時は、石器のみではなく、[[竹]]や[[木]]からの[[利器]]や器具、道具が作られていた。この石器時代をさらに[[旧石器時代]]、中石器時代、[[新石器時代]]、巨大石器時代の4つに分けることができる<ref>イ・ワヤン・バドリカ著 2008年 7-15ページ</ref>。 === 王国時代 === [[File:Austronesian maritime trade network in the Indian Ocean.png|thumb|left|[[海のシルクロード]]は、インドとインドネシアを接続した。]] オーストロネシア人は後にインドネシアとなる地域に住み 、[[紀元前1世紀]]ごろから来航する[[インド]]商人の影響を受けて[[ヒンドゥー教]]文化を取り入れ、[[5世紀]]ごろから王国を建国していった。諸王国はインドと[[中国]]をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、[[シュリーヴィジャヤ王国]]、[[シャイレーンドラ朝]] 、[[古マタラム王国]]、[[クディリ王国]]、[[シンガサリ王国]]、[[マジャパヒト王国]]などの大国が興亡した。[[12世紀]]以降は[[ムスリム]]商人がもたらした[[イスラム教]]が広まり、人々のイスラム化が進んだ。 {{clearleft}} === オランダ統治開始 === {{main|オランダ領東インド}} [[ファイル:Ville de Batavia c1780.jpg|thumb|[[18世紀]]の[[バタヴィア]]]] [[大航海時代]]の[[16世紀]]になると、[[香辛料貿易]]の利を求めて[[ヨーロッパ]]の[[ポルトガル]]、[[イギリス]](英国)、[[オランダ]]が相次いで来航。[[17世紀]]には[[バタヴィア]](ジャカルタ)を本拠地とした[[オランダ東インド会社]]による覇権が確立された。 東インド会社により搾取され続けていたインドネシアであったが、オランダはインドネシアの民衆が結束しないよう、320種以上あった種族語をまとめた共通語を作ることを禁じた<ref name="mizu">{{Harvnb|水間|2013|pp=49-68}}</ref>。また、一切の集会や路上で3人以上が立ち話することも禁止され、その禁止を破ると「反乱罪」で処罰された<ref name="mizu"/>。オランダは一部の現地人を[[キリスト教]]に改宗させ優遇することで彼らに間接統治させたり、搾取をする経済の流通は[[華僑]]に担わせたりしていた<ref name="mizu"/>。 オランダ人は[[18世紀]]の[[マタラム王国]]の分割支配によりジャワ島、[[19世紀]]の[[アチェ戦争]]により[[スマトラ島]]のほとんどを支配するようになる。この結果、[[1799年]]にオランダ東インド会社が解散され、[[1800年]]にはポルトガル領[[東ティモール]]を除く[[東インド諸島]]の全てが[[オランダ領東インド]]となり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。 ただし、オランダ([[ネーデルラント連邦共和国]])は1795年に[[フランス革命戦争]]でフランス軍に占領されて滅亡。[[バタヴィア共和国]](1795年-1806年)、[[ホラント王国]](1806年-1810年)と政体を変遷した。インドネシアは、1811年から1815年の[[ネーデルラント連合王国]]建国まで英国領であった。 [[1819年]]、イギリスの[[トーマス・ラッフルズ]]が[[シンガポール]]の[[地政学]]上の重要性に着目し、[[ジョホール王国]]の内紛に乗じて[[イギリス東インド会社]]の勢力下に獲得したことにオランダが反発。[[1824年]]に[[英蘭協約]]が締結され、[[オランダ領東インド]]の領域が確定した。 [[日本]]は[[南進論]]の影響もあり、[[1925年]]には[[田邊宗英]]らの発起の[[三ツ引商事]]などが[[スラバヤ]]へ進出している<ref>[[#現代業界人物集]]。</ref>。 === 独立運動 === オランダによる過酷な[[植民地]]支配下で、[[20世紀]]初頭には東インド諸島の住民による民族意識が芽生えた。ジャワ島では、[[1908年]][[5月20日]]に[[ブディ・ウトモ]]が結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上を図る活動に取り組んだ。設立日である5月20日は「民族覚醒の日」と定められている。 [[1910年代]]にはイスラームを紐帯とする[[サレカット・イスラーム]]が東インドで大規模な大衆動員に成功し、[[1920年代]]には[[インドネシア共産党]]が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。この地の民族主義運動が最高潮を迎えるのは、[[1927年]]の[[スカルノ]]による[[インドネシア国民党]]の結成と、[[1928年]]の『[[青年の誓い]]』である。 インドネシア国民党の運動は民族の[[独立]](ムルデカ)を掲げ、『青年の誓い』では唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・[[インドネシア語]]が高らかに宣言された。しかし、インドネシア共産党は[[1927年]]末から[[1928年]]にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノや[[モハマッド・ハッタ|ハッタ]]が主導する民族主義運動も、オランダの植民地政府によって非合法化された。スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され、[[拷問]]を受けた末に長く[[流刑]]生活を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代を迎えることになった。 === 日本軍政 === [[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Japanse invasie op Java TMnr 10001990.jpg|thumb|left|ジャワ島へ上陸する日本軍]] {{seealso|日本占領時期のインドネシア}} [[1939年]]、ヨーロッパで[[第二次世界大戦]]が勃発。翌年、オランダ本国は[[ナチス・ドイツ]]に占領された([[オランダにおける戦い (1940年)]])。アジアでは、[[日中戦争]]激化に伴い英米は日本に対して厳しい態度で臨むようになり、オランダ植民地政府もいわゆる対日「[[ABCD包囲網]]」に加わった。[[1941年]]2月初め、日本は東南アジア地域を占領地とした場合を想定して、[[占領統治|軍政]]を研究し始めた<ref name="hkobayashi81">小林英夫著『日本軍政下のアジア』(1993年、[[岩波新書]])81ページ</ref>。[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第一部の中に研究班が設けられ、南方占領地行政に関する研究が行われた<ref name="hkobayashi81" />。3月末、『南方作戦に於ける占領地統治要綱案』を始めとする一連の軍政要綱案が作成され、この研究をもとに同年11月20日付けの[[大本営政府連絡会議]]で、『南方占領地行政実施要綱』が策定された<ref name="hkobayashi82">小林英夫著『日本軍政下のアジア』(1993年)岩波新書、82ページ</ref>。この『実施要綱』の基本は、「占領地に対しては差し当たり軍政を実施し、治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す」ことに置かれていた。そして、「国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民生に及ぼさざる得ざる重圧は之を忍ばしめ、宣撫上の要求は右目的に反せざる限度に止(とど)むるものとす」とされていた<ref name="hkobayashi82" />。したがって独立運動に対しては「[[日本軍|皇軍]]に対する信倚(しんい)観念を助長せしむる如く指導し、其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とした<ref name="hkobayashi82" />。これが「東亜の解放」「英米の支配からの解放」をスローガンに、「[[大東亜共栄圏]]」の実現を主張した日本の本心でもあった。続く11月26日には、東南アジア占領地域についての陸軍と[[大日本帝国海軍|海軍]]の担当地域の取り決めである『占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定』が定められ、蘭印地域のうち、スマトラ・ジャワ地域は陸軍担当、それ以外の地域については海軍担当とされた<ref name="hkobayashi82" />。 {{see also|蘭印作戦}} 日本時間の1941年12月8日午前2時15分([[真珠湾攻撃]]の約1時間前)、日本軍は英領[[マレー半島]]の[[コタ・バル|コタバル]]に上陸し([[マレー作戦]])、[[太平洋戦争]]が開戦した<ref name="hkobayashi72">小林英夫著『日本軍政下のアジア』(1993年m岩波新書)72ページ</ref>。緒戦の[[南方作戦]]は日本軍の圧勝であり、翌1942年1月11日には[[今村均]][[中将|陸軍中将]]を[[司令官]]とする、日本陸軍[[第16軍 (日本軍)|第16軍]]の隷下部隊が[[タラカン島]]へ上陸し、[[蘭印作戦|蘭印作戦(H作戦)]]を開始。続く2月14日にはスマトラ島[[パレンバン]]に[[挺進連隊|日本陸軍空挺部隊]]が[[エアボーン|降下]]して同地の[[油田]]地帯・[[製油所]]と飛行場を制圧。上述の「重要国防資源」たる南方大油田を掌握し、太平洋戦争の開戦目的を達成した。3月1日にはジャワ島に上陸、同月9 - 10日には蘭印の中枢であるバタビア(現:ジャカルタ)を占領し作戦は終了した<ref name="hkobayashi76">小林英夫著『日本軍政下のアジア』(1993年、岩波新書)76ページ</ref>。オランダ側を降伏させ上陸した日本軍をジャワ島の人々はジュンポール(万歳、一番よい)と最大限の歓迎で迎えた<ref name="mizu"/>。 インドネシアにおける日本の軍政については、ジャワ島を3つに分ける省制度を廃止したほかは基本的にオランダ時代の統治機構を踏襲した<ref name="hkobayashi88">小林英夫著『日本軍政下のアジア』(1993年、岩波新書)88ページ</ref>。州長官に日本人を配置し、オランダ時代の王侯領には自治を認め、ジャカルタは特別市として州なみの扱いとした<ref name="hkobayashi89">小林英夫著『日本軍政下のアジア』(1993年、岩波新書)89ページ</ref>。軍政の実務は日本人の行政官が担い、州以下のレベルには地方行政はインドネシア人が担当した<ref name="hkobayashi89" />。同時に日本海軍はボルネオの油田を、日本陸軍はスマトラの油田を保有した<ref>池端雪補ほか『岩波講座 東南アジア史8』(岩波書店)p34</ref>。そして日本の統治は、オランダ植民地政府により軟禁され、流刑地にあった[[スカルノ]]を救出して日本に協力させ、この国民的指導者を前面に立て実施された<ref name="kurasawa226">『岩波講座アジア・太平洋戦争1 なぜ、いまアジア・太平洋戦争か』(2005年)所収、倉沢愛子著「20世紀のアジアの戦争-帝国と脱植民地化」226ページ</ref>。スカルノは日本に対して懐疑心を抱いていなかったわけではなかったが、開戦前に受けたインドネシア独立に対するオランダの強硬な態度に鑑み、オランダの善意に期待できない以上、日本に賭けて見ようと考えたのであった<ref name="kurasawa226" />。 教育制度に関して日本は、オランダが長年行ってきた愚民化政策を取りやめ、現地の人々に高等教育を施し、官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを次々開設して、短期間に10万人以上の現地人エリートを養成した<ref name="mizu"/>。 1943年中盤以降、日本はアジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した<ref name="kura">倉沢愛子『日本占領下のジャワ農村の変容』([[草思社]]、1992年)</ref>。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下の全将兵がインドネシア人からなる[[郷土防衛義勇軍]](ペタ、PETA)が発足した。郷土防衛義勇軍は[[義勇軍]]と[[士官学校]]を合併したような機関で、38,000名の[[将校]]が養成され、兵補と警察隊も編成された<ref name="mizu"/>。このような日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数は、後の[[インドネシア独立戦争]]期に結成される正規・非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった<ref name="kura" />。 [[インパール作戦]]の失敗によって、[[ビルマの戦い|ビルマ方面の戦況]]が悪化すると、日本は[[1944年]]9月3日には将来の[[独立]]を認容する『[[小磯声明]]』を発表。さらに[[1945年]]3月に東インドに[[独立準備調査会]]を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の[[憲法]]を審議させた。同年[[8月7日]]スカルノを主席とする[[独立準備委員会]]が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、[[8月15日]]に[[日本の降伏|日本が降伏]]したことによって<ref>8月14日に日本降伏は予告されていない。アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳『インドネシアの独立と革命』(1973年)93頁、95頁他。</ref>、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。 === 独立戦争 === [[ファイル:IWM-SE-5742-tank-Surabaya-194511.jpg|thumb|200px|インドネシア人により使用された旧日本軍の[[軽戦車]]([[アメリカ合衆国|米国]]製でオランダ軍よりの[[鹵獲]]品)]] {{main|インドネシア独立宣言|インドネシア独立戦争}} しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地で[[インドネシア独立宣言]]を発表した。独立宣言文の日付は[[神武天皇即位紀元|皇紀]]を用いている。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと[[インドネシア独立戦争|独立戦争]]を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、必ずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。 独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、日本の連合国軍への降伏後に多数の経験豊かな日本の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加して武装化した<ref name="mizu"/>。彼らは連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部で、インドネシア側に武器や弾薬を提供した<ref name="mizu"/>。これらの銃器の他にも、[[刀剣]]、[[竹槍]]、[[棍棒]]、[[毒矢]]などを調達し、農村まで撤退しての[[ゲリラ]]戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。この独立戦争には、スカルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人3,000人([[軍人]]と[[軍属]])も加わって最前列に立ってオランダと戦い([[残留日本兵#蘭印(インドネシア)]])、その結果1,000人が命を落とした。しかしながら、インドネシアに数百年来住む華僑(中国人)の大部分はオランダ側に加担してインドネシア軍に銃を向けた<ref name="mizu"/>。 他方で政府は第三国(イギリスやオーストラリア、[[アメリカ合衆国]])などに[[外交使節団]]を派遣して独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの[[国際連合]]にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利に向けても尽力した。結果として、1947年8月1日に[[国際連合安全保障理事会]]で停戦および平和的手段による紛争解決が提示された。 独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的に、共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダは独立を認めざるを得なくなった。 === 独立承認 === {{main|[[オランダ-インドネシア円卓会議|ハーグ円卓会議]]}} こうした武力闘争と外交努力の結果、[[1949年]]12月の[[オランダ-インドネシア円卓会議]]([[通称]]、ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件で[[国家の承認|独立承認]]を得ることに成功し、オランダ統治時代の資産を継承した。これによって[[国際法]]上、正式に独立が承認された。 しかし、この資産には60億[[ギルダー]]という膨大な対外債務(うちオランダ向け債務20億ギルダーについては、オランダが債務免除に同意した)も含まれており、財政的な苦境に立たされることとなる。その解決のために円卓会議の取り決めを一方的に破棄、外国資産の強制収容を行うなど強攻策をとり、さらには国連から脱退するなどスカルノ政権崩壊まで国際的な孤立を深めていくこととなる。 現在でも8月17日を[[独立記念日]]としており、ジャカルタを中心に街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し、祝賀ムードに包まれることが恒例となっている。 === スカルノ時代 === [[ファイル:Presiden Sukarno.jpg|thumb|180px|left|インドネシア初代大統領[[スカルノ]]]] オランダからの独立後、憲法(1950年憲法)を制定し、[[議会制民主主義]]の導入を試みた。[[1955年]]に初の議会[[総選挙]]を実施、[[1956年]]3月20日、第2次[[アリ・サストロアミジョヨ]]内閣が成立した。[[闘争民主党#インドネシア国民党時代|国民党]]、[[マシュミ]]、[[ナフダトゥル・ウラマー|NU]]の3政党[[連立政権|連立内閣]]であって、[[インドネシア社会党]](PSI)、[[インドネシア共産党]]は入閣していない。この内閣は5カ年計画を立てた。その長期計画は、[[西イリアン]]帰属闘争、地方自治体設置、地方国民議会議員選挙実施、労働者に対する労働環境改善、国家予算の収支バランスの調整、植民地経済から国民の利益に基づく国民経済への移行により、国家財政の健全化を図ることなどである。<ref>イ・ワヤン・バドリカ著 2008年 335ページ</ref> しかし、民族的にも宗教的にも[[イデオロギー]]的にも多様で、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。また、[[1950年代]]後半に地方で中央政府に公然と反旗を翻す大規模な反乱が発生し({{仮リンク|ダルル・イスラム|en|Darul Islam (Indonesia)|label=ダルル・イスラム運動}}、[[セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨ]]の反乱、{{仮リンク|アブドゥル・カハル・ムザカル|en|Abdul Kahar Muzakkar|label=カハル・ムザカル}}の反乱、{{仮リンク|プルメスタの反乱|en|Permesta}})、国家の分裂の危機に直面した。 この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ[[大統領]]は、国家の危機を克服するため、[[1959年]][[7月5日]]、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、[[政党]]の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。この構想は激しい抵抗を受け、中部・北・南スマトラ、南カリマンタン・北スラウェシのように国内は分裂した。ついに、スカルノは全土に対し、[[戒厳令]]を出した<ref>イ・ワヤン・バドリカ著、2008年 337ページ</ref>。 スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった[[インドネシア軍|国軍]]を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍との反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期、盛んにスカルノが喧伝した「[[ナサコム]] (NASAKOM)」は、「ナショナリズム ('''Nas'''ionalisme)、宗教 ('''A'''gama)、[[共産主義]] ('''Kom'''unisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようという[[スローガン]]だった。[[1961年]]12月、オランダ植民地の[[イリアンジャヤ]]に「西イリアン解放作戦」を決行して占領。[[1963年]]5月にインドネシアに併合されると、反政府勢力([[自由パプア運動]]や[[:en:National Committee for West Papua]])による[[パプア紛争]]([[1963年]]–現在)が勃発した。 [[1965年]]、[[CONEFO]]に加盟した。 スカルノの「指導される民主主義」は、[[1965年]]の[[9月30日事件]]によって終わりを告げた。インドネシア国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノから[[スハルト]]への権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。 === スハルト時代 === [[ファイル:President Suharto, 1993.jpg|thumb|right|150px|[[スハルト]]、1993年]] [[1968年]]3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、[[西側諸国]]との関係を修復。スカルノ時代と対比させ、自身の政権を「'''新体制 (Orde Baru)'''」と呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に[[独裁|独裁的]]な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。 その間の強引な開発政策は[[開発独裁]]と批判されつつも、[[インフラストラクチャー]]の充実や[[工業化]]などにより一定の[[経済発展]]を達成することに成功した。日本政府は[[国際協力事業団]]を通じ[[インドネシア尿素肥料プロジェクト]]に参加した。 その一方で、[[東ティモール紛争|東ティモール独立運動]]、[[アチェ独立運動]]、[[パプア紛争|イリアンジャヤ独立運動]]などに対して厳しい弾圧を加えた。 [[1997年]]の[[アジア通貨危機]]に端を発するインドネシア経済混乱のなか、[[1998年]]5月に{{仮リンク|ジャカルタ暴動 (1998年)|en|May 1998 riots of Indonesia|label=ジャカルタ暴動}}が勃発し、スハルト政権は崩壊した。 === スハルト以後 === ==== ハビビ政権 ==== スハルト政権末期の副大統領だった[[ユスフ・ハビビ]]が大統領に就任し、民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・[[分権化]]の諸案を実行した。スハルト時代に政権を支えた[[ゴルカル]]、スハルト体制下で存続を許された2つの野党([[インドネシア民主党]]、{{仮リンク|開発統一党|en|United Development Party}})以外の[[政党]]の結成も自由化され、[[1999年]]6月、総選挙が実施され、[[民主化]]の時代を迎えている。 ==== ワヒド政権 ==== その結果、同年10月、最大のイスラーム系団体[[ナフダトゥル・ウラマー]]の元議長、[[アブドゥルラフマン・ワヒド]]([[国民覚醒党]])が新大統領(第4代)に就任した。[[メガワティ・スカルノプトリ]]は副大統領に選ばれた。しかし、[[2001年]]7月、ワヒド政権は議会の信任を失って解任された。 [[ファイル:Presiden Susilo Bambang Yudhoyono.png|サムネイル|201x201ピクセル|[[スシロ・バンバン・ユドヨノ|ユドヨノ]]大統領]] ==== メガワティ政権・ユドヨノ政権 ==== 代わって、[[闘争民主党]]の[[メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ|メガワティ]]政権が発足した。  その後[[2004年]]4月に同国初の直接選挙で選ばれた第6代[[スシロ・バンバン・ユドヨノ]]が[[2009年]]に  60%の得票を得て再選され、[[2014年]]までの大統領の任にあった。 [[2013年]]、[[MIKTA]]に加盟した。 ==== ウィドド政権 ==== [[ファイル:Joko Widodo 2019 official portrait.jpg|thumb|right|150px|[[ジョコ・ウィドド]]<br />現・大統領]] [[2014年]]7月の選挙で当選した[[闘争民主党]]の[[ジョコ・ウィドド]]が第7代大統領に就任した(歴代の大統領については「[[インドネシアの大統領一覧]]」を参照)。2019年8月16日の議会演説で首都を現在のジャカルタから、インドネシアのほぼ中央に位置するカリマンタン島の[[東カリマンタン州]]「北プナジャム・パスール県」「クタイ・カルタネガラ県」に遷都する考えを表明<ref>「[https://digital.asahi.com/articles/DA3S14142272.html インドネシア首都、カリマンタンへ ジョコ大統領移転表明、24年に開始予定]」[[朝日新聞デジタル]](2019年8月17日)2020年12月5日閲覧</ref><ref>{{Wayback|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20190826-OYT1T50251/|title=インドネシア首都、カリマンタン島に移転へ「災害リスク最小」|date=20190826123233}}</ref><ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1203490.html インドネシアのジョコ大統領、首都移転先にカリマンタン島の「北プナジャム・パスール県」「クタイ・カルタネガラ県」を選定] トラベルwatch(2019年8月26日)2020年12月5日閲覧</ref>。2022年1月18日に行われた[[国民協議会|国会]]において、首都移転法案を賛成多数で可決し、首都の新都市名を「[[ヌサンタラ#首都移転先の地名|ヌサンタラ]]」とすることを発表した。同年から移転作業を順次進め、2045年までに移転完了する事を予定している<ref>{{Cite web|和書|title=インドネシアで首都移転法案が可決 新首都名「ヌサンタラ」、意味は |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ1L6X9MQ1LUHBI02N.html |website=朝日新聞 |accessdate=2022-01-19 |date=2022-01-19}}</ref>。 == 政治 == {{Main|{{仮リンク|インドネシアの政治|en|Politics of Indonesia}}}} [[2019年インドネシア総選挙]]では、[[ジョコ・ウィドド]]が大統領に再選された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/04/aeee0127bdcbf5cd.html |title=現職ジョコ氏が辛勝、インドネシア大統領選(インドネシア)ビジネス短信―ジェトロの海外ニュース |accessdate=2022-10-16}}</ref>。 === 国是 === [[多民族国家]]であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちている。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一 {{lang|id|Bhinneka Tunggal Ika}}」という[[スローガン]]である。この多民族国家に国家的統一をもたらすためのイデオロギーは、[[20世紀]]初頭から始まった民族主義運動の歴史の中で、様々な民族主義者たちによって鍛え上げられてきた<ref>独立前の民族主義運動期から独立後の過程において、様々な論者が国家的統一、あるべき国家像について、発言している。それらを概観するものとして、Herbert Feith and Lance Castle ed., ''Indonesian Political Thinking 1945-1965'', Ithaca and London, Cornell University Press, 1970.</ref>。 そうしたものの一つが、日本軍政末期に[[スカルノ]]が発表した[[パンチャシラ]]である<ref>スカルノのパンチャシラ演説の日本語訳は、[[日本国際問題研究所]]インドネシア部会編『インドネシア資料集 上 1945-1959年』(同研究所、[[1972年]])1-17頁。</ref>。[[1945年]][[6月1日]]の演説でスカルノが発表したパンチャシラ([[サンスクリット語]]で「5つの徳の実践」を意味する)は今日のそれと順序と語句が異なっているが、スハルト体制期以降も重要な国是となり、学校教育や職場研修などでの主要教科とされてきた<ref>[[高橋宗生]]「国民統合とパンチャシラ」、[[安中章夫]]・[[三平則夫]]編『現代インドネシアの政治と経済 - スハルト政権の30年 -』([[アジア経済研究所]]、[[1995年]])第2章を参照。</ref>。また、スハルト退陣後の国内主要政党の多くが、今もなお、このパンチャシラを党是として掲げている。 現在のパンチャシラは以下の順序で数えられる。 #[[唯一神]]への信仰(イスラーム以外でもよいが[[無宗教]]は認容されない) #[[ヒューマニズム|人道主義]] #インドネシアの統一 #民主主義 #インドネシア全国民への[[社会正義]]。 {{Main|パンチャシラ}} === 行政府 === [[元首]]たる[[インドネシアの大統領|大統領]]は[[政府の長|行政府の長]]である。その下に[[インドネシアの副大統領|副大統領]]が置かれる。[[インドネシアの首相|首相]]職はなく、各閣僚は大統領が指名する。特徴的なのが「調整大臣府」と呼ばれる組織で、大統領と各省の間で複数の省庁を管掌しており<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000085173.pdf 諸外国の行政制度等に関する調査研究活動の一環として]([[総務省]])P61およびP63の組織図参照。</ref>、2014年発足の[[ジョコ・ウィドド]]政権では{{仮リンク|政治・法務・治安担当調整大臣府|id|Kementerian Koordinator Bidang Politik, Hukum, dan Keamanan Republik Indonesia|en|Coordinating Ministry for Political, Legal, and Security Affairs (Indonesia)}}、{{仮リンク|経済担当調整大臣府|id|Kementerian Koordinator Bidang Perekonomian Republik Indonesia|en|Coordinating Ministry for Economic Affairs (Indonesia)}}、{{仮リンク|海事担当調整大臣府|id|Kementerian Koordinator Bidang Kemaritiman Republik Indonesia|en|Coordinating Ministry for Maritime Affairs (Indonesia)}}、{{仮リンク|人間開発・文化担当調整大臣府|id|Kementerian Koordinator Bidang Pembangunan Manusia dan Kebudayaan Republik Indonesia|en|Coordinating Ministry for Human Development and Cultural Affairs (Indonesia)}}が置かれている<ref>[http://jalansenopati.com/?p=154 インドネシアの行政機関]</ref>。 第五代までの大統領と副大統領は、国民協議会(後述)の決議により選出されていたが、第六代大統領からは国民からの直接選挙で選ばれている。任期は5年で再選は1度のみ(最大10年)。[[憲法]]改正によって大統領の法律制定権は廃止された。各種人事権については、議会との協議を必要とするなど、単独での権限行使は大幅に制限された。また議会議員の任命権も廃止され、議員は直接選挙によって選出されることになった。 {{See also|インドネシアの大統領}} === 立法府 === {{Main|国民協議会}} [[ファイル:Ruang MPR.jpg|thumb|国民議会]] [[立法府]]たる[[議会]]は、(1) '''国民議会'''({{lang-id|Dewan Perwakilan Rakyat (DPR)}}, {{lang-en|Peoples Representative Council}}, 定数560)、(2) '''地方代表議会'''({{lang-id|Dewan Perwakilan Daerah (DPD)}}, {{lang-en|Regional Representatives Council}}, 定数132)、そして (3) この[[二院制|二院]]からなる'''[[国民協議会]]'''({{lang-id|Majelis Permusyawaratan Rakyat (MPR)}}, {{lang-en|People's Consultative Assembly}})がある。<!--下に書きましたが、この両院は審議・制定の分野が異なりますので、いわゆる二院制とは違うと思います--> まず、(3) の国民協議会は、[[2001年]]、[[2002年]]の憲法改正以前は、[[一院制]]の国民議会の所属議員と、各州議会から選出される代表議員195人によって構成されていた。国民協議会は、国民議会とは別の会議体とされ、国家意思の最高決定機関と位置づけられていた。国民協議会に与えられた権限は、5年ごとに大統領と副大統領を選出し、大統領が提示する国の施策方針を承認すること、一年に一度、憲法と重要な法律の改正を検討すること、そして場合により大統領を罷免すること、であった。このような強大な権限を国民協議会に与えていることが[[憲政]]の危機をもたらしたとして、その位置づけを見直す契機となったのは、国民協議会による[[アブドゥルラフマン・ワヒド|ワヒド]]大統領罷免であった。 3年余りの任期を残していた大統領を罷免した国民協議会の地位を改めるため、[[メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ|メガワティ]]政権下の2001年と2002年に行われた憲法改正により、国民協議会は国権の最高機関としての地位を失った。立法権は後述の国民議会に移されることになり、国民協議会は憲法制定権と大統領罷免決議権を保持するが、大統領選任権を国民に譲渡し、大統領と副大統領は直接選挙によって選出されることになった。 これらの措置により、国民協議会は国民議会と地方代表議会の合同機関としての位置づけが与えられ、また、国民議会と地方代表議会のいずれも民選議員によってのみ構成されているため、国民協議会の議員も全て、直接選挙で選ばれる民選議員となった。 (1) の国民議会は、[[2000年]]の第2次憲法改正によって、立法、予算審議、行政府の監督の3つの機能が与えられることになった。具体的には立法権に加えて、質問権、国政調査権、意見表明権が国民議会に与えられ、また、議員には法案上程権、質問提出権、提案権、意見表明権、免責特権が与えられることが明記された。[[比例代表制]]により選出される。 (2) の地方代表議会は、2001年から2002年にかけて行われた第3次、第4次憲法改正によって新たに設置が決まった代議機関であり、地方自治や地方財政に関する立法権が与えられている。先述の通り、総選挙で各州から選出された議員によって構成されている。 === 司法府 === {{main|インドネシアの法}} スハルト政権期には政府・司法省が分有していた司法権が廃止され、各級裁判所は、司法府の最上位にある[[最高裁判所 (インドネシア)|最高裁判所]]によって統括されることになり、司法権の独立が確保された<ref group="注釈">但し税務裁判所の人事と予算は引き続き財務省管轄下にある。税務裁判所の裁判に対する不服申立ては最高裁判所に対して行われる。</ref>。最高裁判所は法律よりも下位の規範(政令など)が法律に違反しているか否かを審査する権限を有する。他に憲法に明記される司法機関としては司法委員会と[[憲法裁判所 (インドネシア)|憲法裁判所]]がある。司法委員会は最高裁判所判事候補者を審査し国会に提示する権限及び裁判官の非行を調査し最高裁判所に罷免を勧告する権限を有する。憲法裁判所は法律が憲法に違反しているか否かを審査する権限を有する。憲法改正以前には大統領に属していた政党に対する監督権・解散権が憲法裁判所<ref group="注釈">インドネシア共和国憲法第24C条第1項後段。</ref>に移された。これにより、大統領・政府による政党への介入が排除されることになった。 === 政党 === {{Main|インドネシアの政党}} ==== 現存する政党 ==== 以下、主なもの。 * [[ゴルカル]]<ref group="注釈">スハルトがゴルカルを支持母体として政権運営していたのは有名であるが、スハルトはゴルカルの党員でも党首でもない「ただの人」であった。その「ただの人」をゴルカルをはじめとするグループが大統領として推挙するという形式をとっていた。</ref> - ジュハルトノ-スプラプト・スコワティ-アミル・ムルトノ-スダルモノ-ワホノ-ハルモコ-アクバル・タンジュン-ユスフ・カラ-[[アブリザル・バクリ―]] * [[民主党 (インドネシア)|民主党]]<ref group="注釈">民主党は[[ユドヨノ]]大統領の支持母体である。</ref>-スブル・ブディサントソ-ハディ・ウトモ-[[アナス・ウルバニングルム]]-[[スシロ・バンバン・ユドヨノ]]<ref group="注釈">ユドヨノは民主党最高諮問会議議長として党の最高権力を保持していたが、相次ぐ民主党不祥事によりアナスの党首続投が不可能な情勢となったため2013年3月31日の臨時党大会において党首に就任し自ら党運営を行うこととなった。</ref> * {{仮リンク|開発統一党|en|United Development Party}}-シャファアト・ミンタレジャ-ジャイラニ・ナロ-イスマイル・ハッサン・メタレウム-ハムザ・ハズ<ref group="注釈">2001年にメガワティと組んで副大統領に就任。2004年大統領選挙において大統領候補。</ref> - [[スリアダルマ・アリ]] * [[闘争民主党]] - [[メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ]]。 * [[大インドネシア運動党]]<ref group="注釈">最高諮問会議議長はプラボゥオ・スビヤント。</ref> - [[スハルディ]] * [[福祉正義党]] - アニス・マッタ * [[ハヌラ党]]<ref group="注釈">大統領候補としてウィラントを支持している。</ref> - ウィラント * [[ナスデム党]] - [[スリア・パロ]] * [[国民覚醒党]]<ref group="注釈">イスラム宗教団体[[ナフダトゥル・ウラマー]]を母体としている。[[アブドゥルラフマン・ワヒド]]大統領を出したことで有名。</ref> - [[ムハイミン・イスカンダル]] ==== かつて存在した政党 ==== * [[インドネシア国民党]] * [[インドネシア共産党]] * [[インドネシア民主党]] * [[ムルバ党]] - [[タン・マラカ]] == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|インドネシアの国際関係|en|Foreign relations of Indonesia}}}} [[ファイル:Diplomatic missions of Indonesia.png|thumb|520px|インドネシアが外交使節を派遣している諸国の一覧図。]] 旧[[宗主国]]オランダとの[[インドネシア独立戦争|武力闘争]]によって独立を勝ち取り、独立当初から外交方針の基本を[[非同盟|非同盟主義]]に置いた。こうした外交方針は「自主積極 bebas aktif」外交と呼ばれている。独立達成後の、外交にも様々な変化がみられるものの、いずれの国とも[[軍事同盟]]を締結せず、外国軍の駐留も認めていないなどの「自主積極」外交の方針はほぼ一貫しているといってよい。 [[1950年代]]後半のスカルノ「指導される民主主義」期には、[[1963年]]の[[マレーシア]]連邦結成を「イギリスによる[[新植民地主義]]」として非難し、マレーシアに軍事侵攻した。国際的な非難が高まるなかで、[[1965年]]1月、スカルノは[[国際連合]]脱退を宣言し、国際的な孤立を深めていった。インドネシア国内ではインドネシア共産党の勢力が伸張し、国内の左傾化を容認したスカルノは、急速に中華人民共和国に接近した。 [[File:Fumio_Kishida_and_Joko_Widodo.jpg|thumb|[[インドネシアの大統領]][[ジョコ・ウィドド]]と[[岸田文雄]](2022年7月27日) ]] [[1965年]]の[[9月30日事件]]を機にスカルノが失脚し、スハルトが第2代大統領として就任すると、悪化した[[西側諸国]]との関係の改善を進めた。また、スカルノ時代に疲弊した経済を立て直すために債権国の協力を仰いだ。[[1966年]]9月、日本の[[東京]]に集まった債権国代表が債務問題を協議し、その後、援助について協議するインドネシア援助国会議(Inter-Governmental Group on Indonesia - 略称 IGGI)が発足した。 [[1967年]]8月、[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)発足時には原加盟国となった。総人口や国土面積は東南アジア最大であり、ASEAN本部は首都ジャカルタに置かれている。域内での経済・文化交流の促進を所期の目標とし、他のASEAN加盟国との連帯を旨としている。その一方で、時折のぞく盟主意識・地域大国意識は、他国からの警戒を招くこともある。 今日に至るまで日本をはじめとする西側諸国とは協力関係を維持しているが、スハルト体制期においても一貫して、[[ベトナム]]など近隣の社会主義国や非同盟諸国とは良好な外交関係を保った。 [[1999年]]の[[東ティモール]]独立を問う住民投票での暴動に軍が関与したと見られ、その後の関係者の処罰が不十分とされたことや、{{要出典範囲|[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ]]によって米国との関係が悪化し|date=2022-10}}、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。このため、ロシアや中国との関係強化に乗り出し、多極外交を展開している。 === 中国との関係 === {{Main|{{仮リンク|中国とインドネシアの関係|en|China–Indonesia relations}}}} 中国とは[[南シナ海]]にある[[スプラトリー諸島]](南沙諸島)の領有権を巡る係争はないが、中国が海洋権益を主張する[[九段線]]がインドネシア領[[ナトゥナ諸島]]北方海域にかかっている。このため、同海域の「北ナトゥナ海」への改称やナトゥナ諸島への軍配備などで対応している(詳細は「[[ナトゥナ諸島]]」を参照)。2020年1月にはナトゥナ諸島近海で中国漁船が操業したことに抗議、中国大使を召還した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-01-10 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3262946|title=動画:インドネシア、南シナ海付近に軍艦と戦闘機配備 中国漁船の違法操業受け |publisher=[[フランス通信社|AFP]] |accessdate=2020-01-09}}</ref>。 === 日本との関係 === {{Main|日本とインドネシアの関係}} 日本とインドネシアの関係は良好であり、1800社を超える日本企業がインドネシアで事業を展開している<ref>2018年4月20日の「日本インドネシア国交樹立60周年記念シンポジウム」(東京)における、[[日本経済団体連合会]]日本・インドネシア経済委員長の大八木成男の講演録「1800社超が経済貢献」。『日本経済新聞』朝刊2018年5月21日・インドネシア特集。</ref>。特に近年、日本文化がブームとなっていて、日本企業の投資や、日本語を学ぶ人が増えている。[[大相撲]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]など、日本文化のイベントも開催されている<ref name="afpbb20130905" />。 === MIKTA === [[MIKTA]](ミクタ)は、メキシコ ('''M'''exico)、'''インドネシア''' ('''I'''ndonesia)、大韓民国 ('''K'''orea, Republic of)、[[トルコ]] ('''T'''urkey)、オーストラリア ('''A'''ustralia) の5ヶ国によるパートナーシップである。詳細は該当ページへ。 == 軍事 == {{Main|インドネシア国軍}} [[インドネシア国軍]]({{lang|id|Tentara Nasional Indonesia}} - 略称{{lang|id|TNI}})の兵力は、[[2017年]]に39万5,500人(陸軍30万400人、海軍6万5000人、空軍3万100人)であり、[[志願制度|志願兵制度]]である<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/indonesia/data.html#section3 インドネシア基礎データ] 日本国[[外務省]](2020年12月5日閲覧)</ref>。その他に[[予備役]]が40万人。軍事予算は[[2002年]]に12兆7,549億[[ルピア#紙幣|ルピア]]で、国家予算に占める割合は3.71パーセントである。 スハルト政権以来、[[アメリカ合衆国|米国]]を中心とした西側との協調により、近代的な兵器を積極的に導入してきたものの、[[東ティモール紛争]]の悪化により米国と軋轢が生じ、[[2005年]]まで米国からの武器輸出を禁じられた。この間に[[ロシア連邦]]や[[中華人民共和国]]と接近し、これらの国の兵器も多数保有している。 == 地理 == {{main|インドネシアの地理}} [[ファイル:Indonesia 2002 CIA map.png|thumb|300px|インドネシアの地図]] [[ファイル:Map_of_Indonesia_Demis.png|thumb|300px|インドネシアの標高図]] [[ファイル:Dampier, Map of the East Indies.jpg|thumb|300px|東インドの古地図(1697年)]] 世界で最も多くの島を持つ国であり、その数は1万3466にのぼる<ref name="sankei20131112" />。島の数は[[人工衛星]]の調査により算出されたもので、かつては1万8,110とも言われていたが、再調査の結果、2013年に現在の個数が明らかになった<ref name="sankei20131112" /><ref>「[http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a5%a4%a5%f3%a5%c9%a5%cd%a5%b7%a5%a2&k=200908/2009082800059 2000の島が消える?=正確な数把握へ調査-インドネシア]{{リンク切れ|date=2020年12月}}[[時事通信]](2009年8月28日)</ref>。またニューヨークタイムズ誌では「2005年以降、砂の採掘により2ダースの小さな島が消滅した」と2016年6月23日の誌面で報じている<ref>[[石弘之]]著『砂戦争』([[KADOKAWA]]、2020年)57ページ</ref>。 当地を含む周辺では、[[ユーラシアプレート]]や[[オーストラリアプレート]]、[[太平洋プレート]]、[[フィリピン海プレート]]などがせめぎあっており、[[環太平洋火山帯]](環太平洋造山帯)の一部を構成している。そのため国内に[[火山]]が多く、[[活火山]]が129ある<ref>[[石弘之]]著『歴史を変えた火山噴火 -自然災害の環境史-』([[刀水書房]]、2012年)120ページ</ref>。スマトラ島北部にある[[カルデラ湖]]の[[トバ湖]]を形成したトバ火山は、有史前に[[破局噴火]]を引き起こしたほか、[[クラカタウ]]大噴火に代表されるように古くから住民を脅かすと共に土壌の肥沃化に役立ってきた。火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、この数は世界最多とされる。スマトラ島のクリンチ火山が最高峰(3805m)である。[[スメル山]]はジャワ島の最高峰(3676m)で、世界で最も活動している火山の一つである。 また、地震も多く、[[2004年]]の[[スマトラ島沖地震]]、及び[[2006年]]の[[ジャワ島中部地震]]は甚大な被害を与えた。スマトラ島とジャワ島は、約60,000年前は陸続きであったが、11,000年前の大噴火があり、[[スンダ海峡]]ができて両島は分離した<ref>石弘之著『歴史を変えた火山噴火 -自然災害の環境史-』(刀水書房、2012年)123ページ</ref>。これらの島々の全てが[[北回帰線]]と[[南回帰線]]の間に位置しており、[[熱帯|熱帯気候]]である<ref>村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』(明石書店、2013年)38ページ</ref>。 === 主な島 === {{Main|インドネシアの島の一覧}} * ジャワ島 - 首都ジャカルタのある島。 * [[スマトラ島]] - [[マレー半島]]の南西に横たわる島。特に北部は天然資源が豊富。 * [[スラウェシ島]](旧称セレベス島) * [[カリマンタン島]](「[[ボルネオ島]]」はマレーシア側の呼称。) * [[バリ島]] - 観光で有名な島。住民の大半は[[ヒンドゥー教]]徒。 * [[ロンボク島]] - [[バリ島]]の東隣の島。近年になって、観光開発が進み始めた。 * [[スンバワ島]] - [[1815年]]に、島内の[[タンボラ山]]が有史上最大の噴火を起こしている。 * [[コモド島]] - [[コモドオオトカゲ]](コモドドラゴン)が生息する島。 * [[フローレス島 (インドネシア)|フローレス島]] - 住民の多くは[[カトリック教徒]]。 * [[ハルマヘラ島]] * [[テルナテ島]] - 香辛料産出地として南隣のティドーレ島とともに、[[大航海時代]]に西洋列強の収奪の拠点となった。 * [[ティモール島]] - 西側半分がインドネシア領。 * マルク諸島([[モルッカ諸島]]) * [[クラカタウ|クラカタウ島]] - [[1883年]]に大爆発した火山島。ジャワ島とスマトラ島の中間に位置する。 * [[ニューギニア島]] - 西側半分がインドネシア領。天然資源が豊富。インドネシア国内では「パプア」「イリアン」などと呼ばれている。 * [[ビンタン島]]、[[バタム島]]、[[レンパン島]] - [[リアウ諸島]]の一部で、[[シンガポール海峡]]を挟んで[[シンガポール]]と向かい合う。両国の海上国境は2014年9月3日に調印された条約で確定した<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-09-08/2014090801_03_1.html シンガポールとインドネシア 海上国境条約に調印「平和解決の例証」]『[[しんぶん赤旗]]』2014年9月8日(2019年7月4日閲覧)。</ref>。 * [[ナトゥナ諸島]] === 森林 === 国土を「林業地区」(国有林)と「その他の地区」に区分している。大気中の[[二酸化炭素]]を吸収する役割を担う森林は、適切な利用・管理により[[地球温暖化]]防止に役立つ<ref>村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』(明石書店、2013年)316ページ</ref>。 === 環境 === 同国における環境問題は国の人口密度の高さと急速な工業化に関連しており、深刻さを増しているために今も改善策が求められている。 {{also|{{仮リンク|インドネシアの環境問題|en|Environmental issues in Indonesia}}}} == 地方行政区分 == {{Main|インドネシアの地方行政区画}} [[ファイル:Indonesia, administrative divisions - en - monochrome.svg|thumb|300px|インドネシアの州]] 2層の地方政府が存在し、第一レベルの地方政府が州(Provinsi)であり、その下位に第二レベルの地方政府である県(Kabupaten)と市(Kota)が置かれている。 第1レベル地方政府(便宜上4区域に分ける)は2022年時点で以下のとおり、[[ジャカルタ]]首都特別州と4の特別州、33の州が設置されている<ref>{{Cite web |url=https://www.reuters.com/world/asia-pacific/indonesia-passes-contentious-law-create-more-provinces-papua-2022-06-30/ |title=Indonesia passes contentious law to create more provinces in Papua |publisher=[[ロイター通信]] |date=2022-06-30 |accessdate=2022-07-02}}</ref>。下記リストで名称右に'''*'''付きが、首都ジャカルタと4特別州。 * スマトラ島: [[アチェ]]'''*'''、[[北スマトラ州|北スマトラ]]、[[西スマトラ州|西スマトラ]]、[[リアウ州|リアウ]]、[[リアウ群島州|リアウ群島]]、[[ブンクル州|ベンクル]]、[[ジャンビ州|ジャンビ]]、[[南スマトラ州|南スマトラ]]、[[ランプン州|ランプン]]、[[バンカ・ブリトゥン群島州|バンカ=ブリトゥン]] * ジャワ島〜ティモール島: [[ジャカルタ]]首都特別州'''*'''、[[ジョグジャカルタ特別州]]'''*'''、[[バンテン州|バンテン]]、[[西ジャワ州|西ジャワ]]、[[中ジャワ州|中ジャワ]]、[[東ジャワ州|東ジャワ]]、[[バリ州|バリ]]、[[西ヌサトゥンガラ州|西ヌサトゥンガラ]]、[[東ヌサトゥンガラ州|東部ヌサ・トゥンガラ]] * カリマンタン島: [[西カリマンタン州|西カリマンタン]]、[[中カリマンタン州|中カリマンタン]]、[[東カリマンタン州|東カリマンタン]]、[[南カリマンタン州|南カリマンタン]]、[[北カリマンタン州|北カリマンタン]] * スラウェシ島〜パプア: [[西スラウェシ州|西スラウェシ]]、[[南東スラウェシ州|南東スラウェシ]]、[[中スラウェシ州|中スラウェシ]]、[[南スラウェシ州|南スラウェシ]]、[[ゴロンタロ州|ゴロンタロ]]、[[北スラウェシ州|北スラウェシ]]、[[マルク州|マルク]]、[[北マルク州|北マルク]]、[[西パプア州|西パプア]]'''*'''、[[西パプア州|南西パプア]]、[[パプア州|パプア]]'''*'''、[[中部パプア州|中部パプア]]、[[山岳パプア州|山岳パプア]]、[[南パプア州|南パプア]]。 第2レベルの地方政府は、2006年時点で349県・91 市が置かれている。県と市には行政機能上の差異はなく、都市部に置かれるのが市で、それ以外の田園地域などに置かれるのが県である。 なお、県・市には、行政区としての郡(Kecamatan)とその下には区(Kelurahan)が置かれる。なお、都市以外の地域には村(Desa)が置かれているが、これは区の担う行政機能に代わり、地縁的・慣習的なコミュニティであり、行政区ではない。 スハルト政権の崩壊後、世界で最も[[地方分権]]化が進んだ国の一つに数えられている。しかし、逆に言えば中央政府の力が弱く、地方政府が環境破壊を進める政策を実施していても、中央政府には、これを止める力は存在していない<ref>{{cite news |title=インドネシア煙害、近隣国巻き添えで非難の応酬 |newspaper=『日本経済新聞』 |date=2013-06-20|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASGV20001_Q3A620C1000000/ |accessdate=2013-06-20}}</ref>。 === 主要都市 === {{Main|インドネシアの都市の一覧}} == 経済 == {{Main|{{仮リンク|インドネシアの経済|en|Economy of Indonesia}}}} [[ファイル:KerbauJawa.jpg|thumb|250px|[[水牛]]を用いて稲田を耕している様子。インドネシアは伝統的に農業国である。]] [[国際通貨基金|IMF]]によると、[[2018年]]の[[国内総生産|GDP]]は1兆225億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であり、世界第16位である。一方、一人当たりのGDPは3,871ドルであり、世界平均の約34%である。[[世界銀行]]が公表した資料によると、[[2017年]]に1日1.9ドル未満(2011年基準の米ドル[[購買力平価]]ベース)で暮らす貧困層は全人口の約5.71%(都市部:約5.61% 農村部:約5.82%)であり、約1500万人いる。また3.2ドル未満の場合は約27.25%(都市部:約25.29% 農村部:約29.61%)であり、5.5ドル未満の場合は約58.66%(都市部:約53.21% 農村部:約65.24%)であった<ref name="PovcalNet 2011PPP">{{Citation|url=http://iresearch.worldbank.org/PovcalNet/povOnDemand.aspx|title=PovcalNet Select economies or aggregations|date=2018-09|accessdate=2019-11-25|publisher=世界銀行}}</ref>。 === 産業 === ==== 農林水産業 ==== {{Main|{{仮リンク|インドネシアの農業|en|Agriculture in Indonesia}}}} 基本的に[[農業国]]である。1960年代に[[稲作]]の生産力増強に力が入れられ、植民地期からの品種改良事業も強化された。改良品種IR8のような高収量品種は他にもつくられ、農村に普及し栽培された。このような「緑の改革」の結果、1984年にはコメの自給が達成された。しかし、1980年代後半には「緑の改革」熱も冷めてゆき、同年代の末にはコメの輸入が増加するに至った<ref>村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』(明石書店、2013年)271-272ページ</ref>。 農林業では[[カカオ]]、[[キャッサバ]]、[[キャベツ]]、[[ココナッツ]]、[[米]]、[[コーヒー豆]]、[[サツマイモ]]、[[大豆]]、[[タバコ]]、[[茶]]、[[天然ゴム]]、[[トウモロコシ]]、[[パイナップル]]、[[バナナ]]、[[ラッカセイ|落花生]]の生産量が多い。特にココナッツの生産量は[[2003年]]時点で世界一である。オイルパーム([[アブラヤシ]])から精製されるパームオイル([[パーム油]]、ヤシ油)は、植物油の原料の一つで、1990年代後半日本国内では菜種油・大豆油に次いで第3位で、食用・洗剤・シャンプー・化粧品の原料として需要の増大が見込まれている。インドネシアにおけるパームオイルの生産量は1990年代以降急激に増加しており、2006年にマレーシアを抜き生産量首位に、2018年時点でマレーシアの二倍弱の3,830万トンを生産している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oil.or.jp/kiso/seisan/seisan10_01.html |title=植物油の道 10.資料集 |publisher=日本植物油協会 |accessdate=2019-03-12}}</ref>。アブラヤシの栽培面積は2000年にはココヤシと並び、2005年には548万ヘクタールとなっている([[インドネシア中央統計庁]](BPS)による。)<ref>村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』(明石書店、2013年)321ページ</ref>。この2000年代以降の[[エステート]]作物面積の急激な拡大によって、[[森林破壊]]や[[泥炭]]湿地の埋立及びこれに伴う火災の発生などの[[自然破壊|環境破壊]]が進んでいることが指摘されている<ref>{{Wayback|https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/catch/archive/2018/07/0723.html|title=議論されるパーム油の是非|date=20190723175549}}</ref>。 海に囲まれた[[群島国家]]であるため水産資源も豊富だが、[[漁業]]や水産加工の技術向上、物流整備が課題となっている。プリカナン・ヌサンタラ(Perikanan Nusantara,Perinus)という国営水産会社が存在する<ref>「[https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/02/4d04289c7610f88c.html FTI JAPAN、インドネシア産生鮮マグロのブランド化に挑戦]」[[日本貿易振興機構|JETRO]]ビジネス短信(2019年2月21日)2019年7月27日閲覧</ref>。 ==== 鉱工業と産業構造 ==== [[鉱業]]資源にも恵まれ、[[金]]、[[スズ]]、[[石油]]、[[石炭]]、[[天然ガス]]、[[銅]]、[[ニッケル]]の採掘量が多い。1982年、1984年、日本からの[[政府開発援助]](ODA)でスマトラ島北部の[[トバ湖]]から流れ出る[[アサハン川]]の水でアサハン・ダム(最大出力51.3万キロワット)と[[マラッカ海峡]]に面したクアラタンジュンにアサハン・[[アルミニウム|アルミ]]精錬工場が建設された<ref>藤林泰「アルミニューム」/村井吉敬・佐伯奈津子編著『インドネシアを知るための50章』(明石書店、2004年)27ページ</ref>。ニッケル鉱山は、[[南東スラウェシ州]]コラカ沖のパダマラン島のポマラと[[南スラウェシ州]]ソロアコ(サロアコ)にある。生産の80%が日本に輸出されている。ニッケルは[[カナダ]]の多国籍企業インコ社が支配している。多国籍企業の進出はスハルト体制発足後の1967年外資法制定以降であり、採掘・伐採権を確保している。また、日本企業6社が出資している。鉱山採掘に伴い森林伐採で付近住民と土地問題で争いが起こる<ref>村井吉敬「ニッケル」/村井吉敬・佐伯奈津子編著『インドネシアを知るための50章』(明石書店、2004年)31-35ページ</ref>。国内産業を育成するため、未加工ニッケル鉱石の輸出を2014年に禁止したが、2017年に規制を緩和している<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDX31H0I_R30C17A1FFE000/ インドネシアのニッケル政策変更、関連企業の株価に影響]」日本経済新聞ニュースサイト(2017年1月31日)2019年7月4日閲覧。</ref>。 日本は[[LNG]](液化[[天然ガス]])をインドネシアから輸入している。[[2004年]]以降は原油の輸入量が輸出量を上回る状態であるため、[[石油輸出国機構|OPEC]](石油輸出国機構)を[[2009年]]1月に脱退した。 [[工業]]では[[軽工業]]、食品工業、[[織物]]、[[石油]]精製が盛ん。[[コプラ]]パーム油のほか、[[化学繊維]]、[[パルプ]]、[[肥料|窒素肥料]]などの工業が確立している。 [[パナソニック]]、[[オムロン]]、[[ブリヂストン]]をはじめとした日系企業が現地に子会社あるいは[[合弁事業|合弁]]などの形態で、多数進出している。 [[ファイル:Jakarta Car Free Day.jpg|thumb|250px|left|ジャカルタはインドネシア経済の中枢であり、東南アジア屈指の[[世界都市]]でもある。]] 独立後、政府は主要産業を[[国有化]]し、保護政策の下で工業を発展させてきた。[[1989年]]には、戦略的対応が必要な産業として[[製鉄]]、[[航空機]]製造、[[銃器]]製造などを指定し、戦略産業を手掛ける行政組織として戦略産業管理庁(Badan Pengelora Industri Strategis)を発足させている。 2019年時点、インドネシアには115の[[国営企業]]があり、クラカタウ・スチール(製鉄)、マンディリ銀行など17社が[[インドネシア証券取引所]]に[[株式公開|株式を上場]]している。分野ごとに[[持ち株会社]]を設けるなど効率化を図っているが、一方で雇用維持など政府の意向が優先されることも多い<ref>「[https://www.nikkei.com/nkd/company/article/?DisplayType=1&ng=DGKKZO47266680R10C19A7FFE000&scode=8058 効率より政策優先 国営企業、雇用など重視]」『日本経済新聞』朝刊2019年7月12日(アジアBiz面)、「[https://www.nikkei.com/nkd/industry/article/?DisplayType=2&n_m_code=128&ng=DGKKZO47249750R10C19A7FFE000 国営製鉄 大規模リストラ]」解説記事。2019年7月27日閲覧。</ref>。 かつては、[[華人]]系企業との癒着や、スハルト[[インドネシアの大統領一覧|大統領]]ら政府高官の親族による[[同族経営|ファミリービジネス]]などが[[社会問題]]化し、[[1996年]]には[[大衆車|国民車]]「[[ティモール (自動車)|ティモール]]」の販売を巡って[[世界貿易機関]](WTO)を舞台とする国際問題にまで発展した。しかし、[[1997年]]の[[アジア通貨危機]]の発生により、経済は混乱状態に陥り、スハルト大統領は退陣に至った。その後、政府は[[国際通貨基金|IMF]]との合意によって国営企業の民営化など一連の経済改革を実施したが、[[失業者]]の増大や[[貧富の差]]の拡大が社会問題となっている。 === 商業 === 小売業の最大チャネルは、各地に約350万ある「ワルン」と呼ばれる零細小売店である。[[インターネット通販]]は小売市場の3~5%程度と推測され、地元企業のトコペディアやブカラパック、シンガポール企業のラザダやショッピーが参入しており、ワルンへの商品供給を担う企業もある<ref>「ブカラパック、零細店引き込む 好調ネット通販と二正面作戦」『[[日経産業新聞]]』2020年12月3日(グローバル面)</ref>。 === 雇用・賃金と個人消費 === 労働者の生活水準を向上させるため、月額式の[[最低賃金]]制度が施行されており、2015年からは[[インフレーション|インフレ率]]と[[経済成長率]]に基づく計算式が導入され、年8%程度上がり、[[タイ王国]]を超える水準となっている。これに対して、[[労働組合]]側は賃上げが不十分、日系を含む企業側は人件費の上昇が国際競争力を低下させると主張し、労使双方に不満がある<ref>「[https://www.asahi.com/articles/DA3S14058770.html インドネシア最低賃金 不満ふつふつ/急激上昇続き計算式を導入 年8%増ペース]」『[[朝日新聞]]』朝刊2019年6月17日(生活面)2019年6月20日閲覧。</ref>。 なお、[[ムスリム|イスラム教徒]]が多数を占める国であるため、従業員から[[メッカ]][[ハッジ|巡礼]]の希望が出た場合、企業はメッカ巡礼休暇として、最長3カ月の休暇を出すことが法で規定されている<ref>{{cite news |title=インドネシア・イスラム教徒たちの人生最大のイベント「メッカ巡礼」 |newspaper=[[ダイヤモンド社]] |date=2014-05-12|url=http://diamond.jp/articles/-/50068 |accessdate=2014-06-01|author=長野綾子}}</ref>。 ただ、改革と好調な個人消費により、[[経済成長率|GDP成長率]]は、[[2003年]]から[[2007年]]まで、4%〜6%前後で推移した。[[2008年]]には、欧米の経済危機による輸出の伸び悩みや国際的な金融危機の影響などがあったものの、6.1%を維持。さらに[[2009年]]は、政府の金融安定化策・景気刺激策や堅調な国内消費から、世界的にも比較的安定した成長を維持し、4.5%の成長を達成。名目[[国内総生産|GDP]](国内総生産)は[[2001年]]の約1,600億ドルから、[[2009年]]には3.3倍の約5393億ドルまで急拡大した。今では[[G20]]の一角をなすまでになっており、同じASEAN諸国の[[ベトナム]]と[[フィリピン]]と同様に[[NEXT11]]の一角を占め、更にベトナムと共に[[VISTA]]の一角を担うなど経済の期待は非常に大きい。 ただし、[[2011年]]より経常収支が赤字となる状況が続いており、従来から続く財政赤字とともに[[双子の赤字]]の状態にある<ref>{{Cite web|和書|title=インドネシア:通貨安の背景 |publisher=[[内閣府]] |url=https://www5.cao.go.jp/keizai3/shihyo/2014/0120/1087.html|accessdate=2014-10-04 | date=2014-1-20 }}</ref><ref>{{cite news |title=問題噴出のインドネシア経済 政治リスクで遠のく成長回復 |newspaper=[[ダイヤモンド社]] |date=2013-11-20|url=http://diamond.jp/articles/-/44603 |accessdate=2014-10-04 }}</ref>。 2020年11月2日に施行された雇用創出法(オムニバス法)は様々な分野で物議を醸している<ref>{{Cite web|和書|title=インドネシアの労働問題とオムニバス法 |url=https://globalnewsview.org/archives/18237 |website=GNV |date=2022-03-24 |access-date=2022-05-12 |language=ja}}</ref>。 === 日本との経済関係 === このような中、日系企業の進出は拡大している<ref>[http://www.nhk.or.jp/special/onair/asia.html 「NHKスペシャル 灼熱アジア」]</ref>が、投資環境の面で抱える問題は少なくない。[[世界銀行]]の「Doing Business 2011」でも、ビジネス環境は183国中121位に順位づけられており、これはASEANの中でもとくに悪いランキングである<ref>[http://www.doingbusiness.org/reports/doing-business/doing-business-2011 Doing Business 2011]</ref>。具体的には、道路、鉄道、通信などのハード[[インフラ]]の整備が遅れていることのほか、ソフト[[インフラ]]とも言うべき法律面での問題が挙げられる。裁判所や行政機関の判断については、予測可能性が低く、透明性も欠如しており、これがビジネスの大きな阻害要因になっていると繰り返し指摘されている<ref>[http://www.jjc.or.id/picture/iken20100122JPN.pdf ジャカルタ・ジャパン・クラブ「黄金の5年間に向けて-ビジネス環境の改善に向けた日本企業の提言-]</ref>。 これに対し、日本のODAは、ハード・インフラ整備の支援に加え、近年は統治能力支援(ガバナンス支援)などソフト・インフラ整備の支援も行っている。警察に対する市民警察活動促進プロジェクトは、日本の[[交番]]システムなどを導入しようというものであり、日本の技術支援のヒットとされている<ref>[[草野厚]]『ODAの現場で考えたこと』([[日本放送出版協会]]、2010年4月)</ref>。また、投資環境整備に直結する支援としては、知的財産権総局を対象とした[[知的財産]]に関する[[法整備支援]]も継続されている<ref>http://www.jica.go.jp/publication/j-world/1005/pdf/tokushu_06.pdf{{リンク切れ|date=2021年5月}}</ref>。インドネシアの[[裁判所]]に対しても、日本の[[法務省]][[法務総合研究所]]は[[国際協力機構]](JICA)や[[公益財団法人]]国際民商事法センター(ICCLC)と連携して、規則制定のほか裁判官や[[和解]]・[[調停]]を担う人材の研修を支援している<ref>[https://www.moj.go.jp/housouken/houso_houkoku_indonesia.html インドネシア] 法務総合研究所国際協力部(2020年12月5日閲覧)</ref>。 2013年時点では、東南アジア全体でも有数の好景気に沸いており、日本からの投資も2010年には7億1260万ドル(約712億6000万円)であったのが、2012年には25億ドル(約2500億円)へと急増している<ref name="afpbb20130905">{{cite news |title=インドネシアで日本ブーム、背景に日本企業の攻勢 |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2013-09-05|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2965797?pid=11274893 |accessdate=2013-09-06 | author = Angela Dewan}}</ref>。しかしナショナリズムが色濃く、2013年2月には当地を中心に石炭採掘を行っている英投資会社[[:en:Asia Resource Minerals|ブミPLC]]の株主総会が、同社の大半の取締役や経営陣を追放するという[[ロスチャイルド]]による提案の大部分を拒否した<ref>「[http://jp.wsj.com/articles/SB10001424127887323364604578319081651593960 インドネシア合弁会社ブミの株主総会、ロスチャイルド氏の敗北に]」『[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]』2013年2月22日(2020年12月5日閲覧)</ref>。これと関連して、国の経常赤字と資本流入への依存、貧弱なインフラや腐敗した政治や実業界など、いくつかの問題点も指摘されている<ref>{{cite news |title=インドの轍を踏むインドネシア 経済的成功に甘んじて何もしなかったツケ |newspaper=[[日本ビジネスプレス]] |date=2013-09-05|url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38634|accessdate=2013-09-06|publisher= 『[[フィナンシャル・タイムズ]]』}}</ref>。2014年の[[国際協力銀行]]が日本企業を対象に行ったアンケート調査では、「海外進出したい国」として、中国を抜いて1位となった<ref>{{cite news |title=(透視図)BOPビジネス―脱貧困へ 支援の視点も|newspaper=『[[朝日新聞]]』 |date=2014-09-20 |url=http://www.asahi.com/articles/ASG9C4DP4G9CPLFA001.html |accessdate=2014-09-20 }}</ref>。 [[技能実習制度]]などで、日本へ渡航して働くインドネシア人も多いが、人権保護や賃金支払いなどでトラブルも起きている<ref>[https://www.jakartashimbun.com/free/detail/48652.html 「契約が違う」「求人不足」実習制度の日本側説明会 送り出し団体が対策要望] じゃかるた新聞(2019年7月25日)2019年7月27日閲覧</ref>。 === 観光 === {{Main|{{仮リンク|インドネシアの観光|en|Tourism in Indonesia}}}} {{節スタブ}} == 交通 == {{Main|{{仮リンク|インドネシアの交通|en|Transport in Indonesia}}}} {{節スタブ}} === 鉄道 === {{Main|インドネシアの鉄道|{{仮リンク|インドネシアの高速鉄道|en|High-speed railway in Indonesia}}}} {{節スタブ}} === 航空 === {{Main|{{仮リンク|インドネシアの航空|en|Aviation in Indonesia}}|インドネシアの空港の一覧}} {{節スタブ}} == 国民 == [[ファイル:Hijab-Indonesia Anna Martadiningrat.jpg|thumb|260px|right|[[ヒジャブ]]を着用する[[ムスリム]]の女性たち]] {{main|{{仮リンク|インドネシアの人口統計|en|Demographics of Indonesia}}}} === 人口 === インドネシアの[[2022年]]の総人口は2億7,200万人であり<ref>{{Cite web|和書|url=http://ecodb.net/ranking/imf_lp.html|title=世界の人口ランキング - 世界経済のネタ帳|accessdate=2018-06-11|website=ecodb.net|language=ja}}</ref>、[[中華人民共和国|中国]]、[[インド]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に次ぐ[[国の人口順リスト|世界第4位]]である<ref>村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』(明石書店、2013年)289ページ</ref>。人口増加率は[[2010年]]時点で1.03%となっている。今後もインドネシアの人口は[[人口ボーナス|着実に増加する]]と見られており、[[2050年]]の推計人口は約3億人との予測。 全国民の半分以上が[[ジャワ島]]に集中しているため、比較的人口の希薄な[[スマトラ島]]、[[ボルネオ島]]、[[スラウェシ島]]に住民を移住させる『[[トランスミグラシ]]』と呼ばれる人口移住政策を行ってきた。[[2019年]]には、ジョコ政権がジャワ島外への[[首都]]を移転する方針を[[閣議決定]]した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44345680Z20C19A4EA4000/ 「インドネシア、首都移転へ ジャワ島外が候補」]日本経済新聞ニュースサイト(2019年4月29日)2019年7月4日閲覧</ref>。 [[ジョコ・ウィドド]]大統領は同年8月、自身の[[Twitter]]で首都の移転先をボルネオ島と発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/jokowi/status/1159318489741479937?s=21|title=Joko Widodo氏のツイート(2019年8月8日)|accessdate=2019年8月10日|publisher=}}</ref>。 === 民族 === [[ファイル:Indonesia Ethnic Groups Map English.svg|thumb|800px|left|インドネシアの民族]] {{clear}} {{See also|インドネシア諸族}} [[ファイル:Dayak2 2008New.jpg|thumb|250px|ダヤク人]] 大多数が[[オーストロネシア人]]で、彼らが直系の祖先であり、原オーストロネシア人と新オーストロネシア人の2種類に分けられる。原オーストロネシア人は、[[紀元前1500年]]ごろに渡来した。原オーストロネシア人は先住民よりも高度な文化を持っていた。原オーストロネシア人は後から来た新オーストロネシア人によって追われていくが、[[ダヤク人]]、トラジャ人、バタック人として子孫が生存している。新オーストロネシア人は、マレー人、ブギス人、ミナンカバウ人の祖先であり、紀元前500年ごろに渡来した。渡来時には[[青銅器]]製作の技術を獲得しており、数百年後には[[鉄器]]を使用し始める。彼らの使用した鉄器が[[ベトナム]]北部の[[ドンソン]]地方で大量に発見されていることから「[[ドンソン文化]]」と呼ばれる<ref>イ・ワヤン・バドリカ著 2008年 14-15ページ</ref>。 ほかに約300の民族がおり、住民の内、[[ジャワ人]]が45%、[[スンダ人]]が14%、[[マドゥラ人]]が7.5%、[[沿岸マレー人]]が7.5%、その他が26%、中国系が約5%となっている。 [[父系]]・[[母系]]を共に親族とみなす「[[双系社会]]」であり、[[姓]]がない人もいる(スカルノ、スハルトなど)。 なお、法務省の統計では、2014年末では30,000人超、2018年では55,000人超のインドネシア人が日本に在住している<ref>{{Cite web|和書|url= https://todo-ran.com/t/kiji/24279|title=都道府県別在日インドネシア人|publisher=都道府県別とランキングとみる県民性|accessdate=2020-8-9|date=2019-12-3}}</ref>。 === 言語 === {{main|インドネシアの言語}} [[公用語]]は[[インドネシア語]]であり、[[国語]]となっている。会話言語ではそれぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われている。インドネシア語が国語と言っても、日常で話す人は多くて3,000万人程度である。国の人口比にすると意外と少ないが、国語になっているため第2言語として話せる人の数はかなり多い。また、首都ジャカルタへ[[出稼ぎ]]に向かう人も多い為、地方の人でもインドネシア語は必須であり、話せないと出稼ぎにも影響が出てくる。 * インドネシア語[[識字率]]:88.5%(2003年)<!--他の言語は統計がありませんね--> インドネシア語、[[ジャワ語]]、[[バリ語]]などを含む[[オーストロネシア語族]]の他に、[[パプア諸語]]が使用される地域もある。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|インドネシアの宗教|en|Religion in Indonesia}}}} {{bar box |title=インドネシアの宗教<ref>{{cite web |url=http://sp2010.bps.go.id/index.php/site/tabel?tid=321&wid=0 |title=2010 Population Census - Population by Region and Religion - Indonesia |date=2010-05-15 |work=Sensus Penduduk 2010 |publisher=Badan Pusat Statistik |location=Jakarta, Indonesia |at= |accessdate=2016-12-22 |quote=Religion is belief in Almighty God that must be possessed by every human being. Religion can be divided into Muslim, Christian, Catholic, Hindu, Buddhist, Hu Khong Chu, and Other Religion.}} Muslim 207176162 (87.18%), Christian 16528513 (6.96), Catholic 6907873 (2.91), Hindu 4012116 (1.69), Buddhist 1703254 (0.72), Confucianism 117091 (0.05), Other 299617 (0.13), Not Stated 139582 (0.06), Not Asked 757118 (0.32), Total 237641326</ref> |titlebar=#ddd |left1=宗教 |right1=割合(%) |float=right |bars= {{bar percent|[[イスラム教]]|Green|87.2}} {{bar percent|[[プロテスタント]]|violet|7}} {{bar percent|[[カトリック]]|purple|2.9}} {{bar percent|[[ヒンドゥー教]]|Orange|1.6}} {{bar percent|[[仏教]]|Gold|0.72}} {{bar percent|[[儒教]]|Blue|0.05}} {{bar percent|その他|grey|0.5}} }} 憲法29条で[[信教の自由]]を保障している。[[パンチャシラ]]では[[唯一神]]への信仰を第一原則としているものの、これは[[イスラム教]]を[[国教]]として保護しているという意味ではない。2010年の政府統計によると、イスラム教が87.2%、プロテスタントが7%、カトリックが2.9%、[[ヒンドゥー教]]が1.6%、[[仏教]]が0.72%、[[儒教]]が0.05%、その他が0.5%となっている。イスラム教徒の人口は、1億7000万人を超え、世界最大の[[ムスリム|イスラム教徒(ムスリム)]]人口を抱える[[国家]]となっている(インドネシアは政府としては[[世俗主義]]を標榜しており、シャリーアによる統治を受け入れる[[イスラム国家]]ではない)。 [[File:Religion in Indonesian Provinces.jpg|thumb|left|各地区で多数派を占める宗派。緑はイスラム教、青はキリスト教、橙はヒンドゥー教。]] [[多民族国家]]であるため、言語と同様、宗教にも地理的な分布が存在する。[[バリ島]]では[[ヒンドゥー教]]が、[[スラウェシ島]]北部では[[キリスト教]]([[カトリック教会|カトリック]])が、東部諸島および[[ニューギニア島]]西部ではキリスト教([[プロテスタント]]、その他)が優位にある。[[アチェ州]]では98%がイスラム教徒で、[[シャリーア]]([[イスラム法]])が法律として適用されている<ref>「[https://www.afpbb.com/articles/-/3159373 公開むち打ち刑、酒類販売したキリスト教徒に執行 インドネシア]」[[フランス通信社|AFP]](2018年1月21日)2020年12月5日閲覧</ref>。 また、イスラム教はジャワ島やスマトラ島など人口集中地域に信者が多いため、国全体でのイスラム教徒比率は高いが、非イスラム教徒の民族や地域も実際には多い。カリマンタン島やスラウェシ島では、イスラム教徒と非イスラム教徒の割合が半々ほどである。また、東ヌサトゥンガラから東のマルク諸島、ニューギニア島などではイスラム教徒比率は一割程度である(それもジャワ島などからの移民の信者が大半である)。またイスラム教徒多数派地域であっても、都市部や、スンダ人、アチェ人地域のように比較的、厳格な信仰を持つものもあれば、ジャワ人地域のように、基層にヒンドゥー文化を強く残しているものもある。また書面上はイスラム教徒となっていても、実際には[[シャーマニズム]]を信仰している民族も有る。 [[魔術師]]・[[呪術医]]と、[[精霊]]を含めた超自然的な力を信じる人<ref>「[https://www.cnn.co.jp/world/35123763.html ほら穴に監禁15年、強姦され続けた女性を救出 インドネシア]」[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]](2018年8月8日)2019年6月21日閲覧</ref>や、「[[お化け]]」の存在を肯定するインドネシア人は多い<ref>【中小企業 海外展開のツボ】インドネシア/従業員の「お化け話」にも共感を『日経産業新聞』2019年4月1日(グローバル面)</ref>。 なお、信仰の自由はあるといっても完全なものではなく、特に[[無神論]]は違法であり、公言をすると逮捕される可能性もある<ref>{{Cite news | url = http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2012/03/post-2471.php | title = フェイスブックで逮捕された無神論者 | newspaper = 『[[ニューズウィーク]]』 | date = 2012-03-14 }}</ref>。 <gallery widths="220px" heights="200px"> File:Prambanan Complex 1.jpg|[[プランバナン寺院群]](ヒンドゥー教, 世界遺産) File:Borobodur1.jpg|[[ボロブドゥール遺跡]](上座部仏教, 世界遺産) </gallery> === 婚姻 === [[夫婦別姓]]が基本。ただし通称として夫の姓を名乗ることも多い。男性側が改姓することも可能である<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/indonesian-culture/indonesian-culture-naming#indonesian-culture-naming Indonesian Culture], Cultural Atlas.</ref>。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|インドネシアの教育|en|Education in Indonesia}}}} 教育体系は、教育文化省が管轄する一般の学校(スコラ sekolah)と、少数であるが宗教省が管轄するイスラーム系の[[マドラサ]] (madrasah) の二本立てとなっている。いずれの場合も[[小学校]]・[[中学校]]・[[高等学校|高校]]の6・3・3制であり、このうち小中学校の9年間については、[[1994年]]に[[義務教育]]にすると宣言され、さらに[[2013年]]には高校までの12年間に延長されたが<ref>[https://www.thejakartapost.com/news/2013/06/26/ri-kicks-12-year-compulsory-education-program.html RI kicks off 12-year compulsory education program (The Jakarta Post, 2013)]</ref>、就学率は[[2018年]]で小学で93%、中学で79%、高校で36%である<ref>[http://uis.unesco.org/en/country/id UNESCO Institute for Statistics]</ref>。スコラでもマドラサでも、一般科目と宗教科目を履修するが、力点の置き方は異なる<ref>[[西野節男]]「ムスリムはどう教育されるか - インドネシア」、[[片倉もとこ]]編『イスラーム教徒の社会と生活』栄光教育文化研究所<講座イスラーム世界1>、[[1994年]]、93-96頁。</ref>。 [[大学]]をはじめとする[[高等教育]]機関も一般校とイスラーム専門校に分かれており、前者については[[1954年]]に各州に[[国立大学]]を設置することが決定された。以下は代表的な大学のリストである。 [[ファイル:Universidad Indonesia Edificio Administrativo.JPG|thumb|[[インドネシア大学]]]] * [[インドネシア大学]](UI) * [[ガジャ・マダ大学]](UGM) * [[バンドン工科大学]](ITB) * {{仮リンク|パジャジャラン大学|en|Padjadjaran University}}(UNPAD) * [[ボゴール農科大学]](IPB) * {{仮リンク|インドネシア教育大学|en|Indonesia University of Education}}(UPI,旧IKIP) * [[インドネシア国立芸術大学]] * [[ウダヤナ大学]](UNUD) * マハサラスワティ大学 * トリサクティ大学 * スラバヤ工科大学 * セベラスマレット大学 (UNS) * [[アイルランガ大学]] (UNAIR)-[[スラバヤ]]にある国立大学。 * [[ディポネゴロ大学]] - 中部ジャワのスマランにある国立大学。 * [[ハサヌディン大学]](UNHAS) - 南スラウェシ州都の[[マカッサル]](旧名ウジュン・パンダン)にある国立大学。 * [[チャンドラワシ大学]] - パプア州都のジャヤプラにある国立大学。 * [[ブラウィジャヤ大学]] (UNIBRAW) - 東ジャワの[[マラン (東ジャワ州)|マラン]]にある国立大学。 * {{仮リンク|ランプン国立大学|en|Lampung University}}(UNILA) - スマトラの[[ランプン州]]にある国立大学。 米国[[中央情報局|CIA]]による2011年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は92.8%(男性:95.6%、女性:90.1%)である<ref name="2013cia">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/id.html CIA World Factbook "Indonesia"](2013年8月24日閲覧)</ref>。2010年の[[教育]]支出はGDPの3%だった<ref name="2013cia" />。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|インドネシアの保健|en|Healthcare in Indonesia}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{Main|{{仮リンク|インドネシアの医療|en|Health in Indonesia}}}} 医療施設が26,000件を超えているが、それに反して医師が不足しており、人口1,000人辺りわずか0.4人ほどしか存在しない<ref name=":0">{{Cite web|date=2020-07-30|title=Indonesia's Healthcare Industry: Growing Opportunities for Foreign Investors|url=https://www.aseanbriefing.com/news/indonesias-healthcare-industry-growing-opportunities-foreign-investors/|access-date=2021-03-29|website=ASEAN Business News|language=en}}</ref> 。 {{節スタブ}} == 社会 == === 首都移転 === {{See also|[[インドネシアの首都#首都移転の提案|インドネシア首都移転計画]]}} 2019年8月、[[ジョコ・ウィドド|ジョコ]]大統領は、首都[[ジャカルタ]]を[[ジャワ島]]からジャワ島外へと[[首都移転]]すると宣言した。新首都の最適候補地として[[ボルネオ島]]東岸は[[東カリマンタン州]][[クタイカルタネガラ県]]と[[北プナジャムパスル県]]の両県にかかる地域である[[バリクパパン]]近郊に首都をジャカルタより移転すると明らかにした<ref>[https://web.archive.org/web/20190826071327/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019082600720&g=int インドネシアの新首都はカリマンタン東部=ジョコ大統領、移転先発表] - 時事通信</ref>。 新首都名はインドネシア語で群島を意味する「'''[[ヌサンタラ (都市)|ヌサンタラ]]'''」とすることが、インドネシア議会で可決されたことを、スハルソ国家開発企画庁長官が2022年1月18日に明らかにした<ref>[https://jp.reuters.com/article/indonesia-capital-idJPKBN2JS0LN インドネシア議会、首都移転法案を可決 新首都は「ヌサンタラ」] - ロイター 1/18(火) 18:25配信</ref><ref>{{Cite web|和書|title=インドネシア新首都、ヌサンタラ 政府が方針、「群島」を意味:中日新聞Web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/401999 |website=中日新聞Web |accessdate=2022-01-17 |language=ja}}</ref>。 民間調査機関の同年2月の世論調査では移転に反対する回答が半数超を占めた<ref>{{Cite news|title=インドネシア大統領、首都移転の実現最優先|newspaper=日本経済新聞|date=2022-4-22}}</ref>。 === 独立運動 === 民族・宗教などの多様性や、過去のオランダやポルトガル、イギリスなどの分割統治の影響でいくつかの独立運動を抱えている。その一部には紛争へ発展した[[アチェ独立運動]]などもあった。 東ティモールは独立運動の末、国連の暫定統治を経て2002年に独立したが、[[パプア州]](旧イリアン・ジャヤ州)において独立運動が展開されており、[[ボルネオ島|カリマンタン島]]では民族対立が、[[モルッカ諸島|マルク諸島]]ではキリスト教徒とイスラム教徒の宗教対立が存在する。なお、アチェ独立運動は2004年の[[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]の後、2005年12月27日に終結している。 == 治安 == {{main|{{仮リンク|インドネシアにおける犯罪|en|Crime in Indonesia}}}} 金品を目的とした[[強盗]]、[[スリ]]、[[ひったくり]]、[[置き引き]]、[[車上荒らし]]などの被害が多発しており、[[インターネット]]を通じての商品購入・売却を装った[[詐欺]]も確認されている。また、[[薬物]][[犯罪]]も常態化しており、[[観光客]]が集まる繁華街の路上や[[ナイトクラブ]]などの場所で、[[覚醒剤]]および[[大麻]]などの薬物を売りつけてくる売人が出没する事例が後を絶たない。 最近では、市内で[[銃器]]を安価に購入出来ることから銃器などを使用した凶悪犯罪も増えており、同国を訪れる際は一層の注意を払う必要が求められている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_002.html|title=インドネシア 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-10-17|publisher=外務省}}</ref>。 === 人権 === {{main|{{仮リンク|インドネシアにおける人権|en|Human rights in Indonesia}}}} [https://www.amnesty.org/en/countries/asia-and-the-pacific/indonesia/report-indonesia/ Amnesty International]、[https://www.hrw.org/world-report/2021/country-chapters/indonesia#d91ede Human Rights Watch]、および[https://www.state.gov/reports/2021-trafficking-in-persons-report/indonesia/ 米国国務省による報告]では、インドネシアで人権問題とされているのは、西ニューギニア地域への弾圧(多くの活動家が反逆罪として超法規的に処刑されたり拘束されている。)とその報道の自由(ジャーナリストの拘束と追放、諜報当局によるニュースサイトへの圧力)、宗教的(イスラム教が優先され審議中の刑法草案でもイスラム教冒涜罪が強化されている)、女性(性暴力防止法案、家事労働者保護法案など関連法案の審議が進まず2016年から保留状態)および性的少数派の扱い(LGBTを差別するポルノ法のもと、逮捕や解雇、一般人による暴力行為にさらされている)、性的および生殖的権利(同性性行為と婚外性交渉を禁止する刑法が草案されている)、障害者の権利(主に貧困家庭において心理的社会的障害者が劣悪な環境で監禁〜パスンされている。)、表現と結社の自由(現在でも集会は解散させられるが、審議中の刑法草案はLGBTの基本的権利を認めていない)。 === 障害者問題 === {{仮リンク|パスン|id|Pasung}}はインドネシア語で足かせを意味する。重度の精神疾患者が本人や他人に危害を加えないようにするための因習である。 治療手段を持たない貧困家庭で、木製のフレームに患者の脚や手、首に取り付けて拘束するために使用されている。 1977年に違法化されたが、インドネシア保険省の推計では国内の被害者は1万8000人、パスン被害者支援を行っているスリアニ協会によれば4万人とされる<ref>https://courrier.jp/news/archives/232102/ 「パスン」─“地上の楽園”バリ島に残る地獄の因習(クーリエジャポン)</ref>。 国内でもパスンは非人道的であると見なされているが、精神障害者に対する社会的ケアが未だ貧弱であるために現在も存在している。家族が貧困で治療を断念し、長期拘束後に刑務所へ入れることもある<ref>https://daerah.sindonews.com/berita/658444/23/gangguan-jiwa-sarjito-dipasung-20-tahun 2012.7.12SINDONEWS.COM</ref>。 ==== パスンへの対応 ==== 2012年、AtmaHusadaMahakam地域精神病院(RSJD)により東カリマタンで20名がパスンから解放され病院に収容された。彼らには政府から無料で薬が提供される<ref>https://daerah.sindonews.com/berita/794002/23/670-penderita-sakit-jiwa-di-blitar-hidup-dipasung 2013.2.38SINDONEWS.COM</ref>。こういった試みは政府の「パスンのないインドネシア プログラム」に準じて各地で行われているが貧困にある当事者家族に取ってはパスンが唯一の対処法であり、またその存在を恥じているため隠そうとしていることが問題の解決を妨げている<ref>https://daerah.sindonews.com/berita/737109/24/tak-waras-8-warga-dipasung 2013.4.11SINDONEWS.COM</ref>。 2013年6月、RSJDの発表によれば2011年から記録されたパスン被害者は254名で、年間では2012年の151人が最大(2011年が79人、2013年4月までが24人)だった。解消のためには家族に対する医学的治療への啓蒙が必要で、教育や知識の不足がこの人権侵害の要因であると述べている<ref>https://daerah.sindonews.com/berita/756051/22/solo-pasung-254-warganya-yang-kurang-waras 2013.7.1SINDONEWS.COM</ref>。 2014年までに「パスンのないインドネシア」とする宣言に向けて精神障害のある家族への支援が計画され、無料治療や束縛禁止を規制する精神保健法の整備がすすめられた。しかし国家の対策予算は40億ルピアに過ぎず解決は遠い<ref>https://daerah.sindonews.com/berita/794002/23/670-penderita-sakit-jiwa-di-blitar-hidup-dipasung 2013.10.14SINDONEWS.COM</ref>。 2016年2月28日、政府は「2017年にインドネシアにパスンなし」を宣言目標とした。社会問題省(Kemensos)の記録では、現在5万7000人の被害者がいるとする<ref>https://nasional.sindonews.com/berita/1089039/15/kemensos-targetkan-indonesia-bebas-pasung-pada-2017 2016.2.29SINDONEWS.COM</ref>。 2017年にも中央政府は引き続き「Indonesia Bebas Pasung 2019」宣言をし対応を行なった。社会問題省の記録では、特定された被害者4786人の内、1345人が未だ束縛状態にあるとした。一方、ベンクル州、西カリマンタン、東カリマンタン、バリ、東ヌサ・トゥンガラ、バベルでは宣言を達したとする。また被害者の特定と解放に加えて、今後は障害や精神保健に関する情報提供や患者が退院後に利用できる滞在施設を試行するとした。社会問題省はソーシャルワーカーによる住民への啓蒙活動によって、パスンを選択することなく適切な医学的社会的サービスにつながることを目指して活動している<ref>https://mediaindonesia.com/humaniora/122632/indonesia-bebas-pasung-2019 2017.9.15SINDONEWS.COM</ref>。 その後も政府は隔年ごとに宣言目標を発して地方予算を設定しているが、2021年現在でも東ジャワだけで未だ1万2000人の被害者が推定されている<ref>https://www.who.int/indonesia/news/detail/26-06-2021-unsdg-what-if-series-what-if-pasung-were-ended-in-indonesia WHO</ref>。 == マスコミ == {{main|{{仮リンク|インドネシアのメディア|en|Mass media in Indonesia}}}} {{節スタブ}} === テレビ === {{Main|{{仮リンク|インドネシアのテレビ|en|Television in Indonesia}}}} {{節スタブ}} === インターネット === {{Main|{{仮リンク|インドネシアのインターネット|en|Internet in Indonesia}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{Main|インドネシアの文化}} [[ファイル:Wayang Pandawa.jpg|thumb|300px|[[ワヤン・クリ]]はジャワ島や[[バリ島]]で行われる、人形を用いた伝統的な影絵芝居である。]] 宗教・文化は島ごとに特色を持ち、日本ではバリ島の[[ガムラン]]などの[[インドネシアの音楽]]や舞踊が知られる。また[[ワヤン・クリ]]と呼ばれる影絵芝居や、[[バティック]]と呼ばれる[[ろうけつ染め]]も有名である。 高温多湿な気候と丹念に洗濯する国民性のため、[[洗濯機]]は全自動式ではなく[[洗濯板]]が付いた二槽式が主流とされる<ref>[https://www.meti.go.jp/main/60sec/2015/20151210001.html 【60秒解説】洗濯板付二槽式が大ヒットしたワケ] - [[経済産業省]]2020年9月5日閲覧</ref>。 {{See also|{{仮リンク|インドネシアにおけるエチケット|en|Etiquette in Indonesia}}}} === 食文化 === {{Main|インドネシア料理}} {{節スタブ}} === 伝統薬 === 多彩な[[香辛料]]や[[蜂蜜]]などを調合した「[[ジャムウ]]」と呼ばれる伝統薬が広く生産・販売されている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42360080S9A310C1FFE000/ 【ASIAトレンド】インドネシア 伝統薬に再注目/健康志向追い風、カフェも]『日本経済新聞』朝刊2019年3月13日(アジアBiz面)2019年4月7日閲覧</ref>。 === 文学 === {{main|{{仮リンク|インドネシア文学|en|Indonesian literature|redirect=1}}}} インドネシア文学を[[インドネシア語]]、またはその前身である[[ムラユ語]]で、インドネシア人によって書かれた文学作品のことであると限定するならば、それは民族主義運動期に生まれたと言える。[[1908年]]、[[オランダ領東インド]]政府内に設立された出版局(バライ・プスタカ)は、インドネシア人作家の作品を出版し、[[アブドゥル・ムイス]]の『西洋かぶれ』([[1928年]])など、インドネシアで最初の近代小説といわれる作品群を出版した<ref>[[早瀬晋三]]・[[深見純生]]「近代植民地の展開と日本の占領」、[[池端雪浦]]編『東南アジア史II 島嶼部』[[山川出版社]]<新版 世界各国史6>、[[1999年]]、309-311頁を参照。</ref>。 また、インドネシア人によるインドネシア語の定期刊行物としては、[[1907年]]に[[バンドン (インドネシア)|バンドン]]で[[ティルトアディスルヨ]]が刊行した『メダン・プリヤイ』が最初のもので<ref>[[土屋健治]]「文学と芸術」、綾部・石井編、[[弘文堂]]、[[1995年]]、162頁。</ref>、その後、[[インドネシア語]]での[[新聞|日刊紙]]、[[週刊誌]]、[[月刊誌]]の刊行は、[[1925年]]には200点、[[1938年]]には400点を超えていた<ref>早瀬・深見、同上、291頁、を参照。なお、戦後も含めたインドネシア文学の歩みについては、[[松尾大]]「近代インドネシア文学の歩み」、[[アイプ・ロシディ]]編、松尾大・[[柴田紀男]]訳『現代インドネシア文学への招待』[[めこん]]、[[1993年]]、に詳しい。</ref>。 20世紀の著名な文学者としては、『[[人間の大地]]』([[1980年]])、『すべての民族の子』などの大河小説で国際的に評価される[[プラムディヤ・アナンタ・トゥール]]の名を挙げることができる<ref>[[押川典昭]]「インドネシア」『激動の文学――アジア・アフリカ・ラテンアメリカの世界』 [[信濃毎日新聞社]]、長野市、1995年3月15日、初版、67-70頁。</ref>。 以下、代表的な作家・詩人・文学者を挙げる。 * [[プラムディヤ・アナンタ・トゥール]] * [[モフタル・ルビス]] * [[ハイリル・アンワル]] * [[セノ・グミラ・アジダルマ]] * [[グナワン・モハマド]] * [[Y.B.マングンウイジャヤ]] * [[ユディスティラ・ANM・マサルディ]] * [[プトゥ ウィジャヤ]] * [[アイプ・ロシディ]] * [[ヤティ・マルヤティ・ウィハルジャ]] {{See also|{{仮リンク|マスターラ文学賞|en|Mastera Literary Award}}}} === 音楽 === {{Main|インドネシアの音楽}} {{See also|インドネシアの舞踊}} {{節スタブ}} === 演劇 === {{Main|{{仮リンク|インドネシアの演劇|en|Theatre of Indonesia}}}} {{節スタブ}} === 映画 === {{Main|{{仮リンク|インドネシアの映画|en|Cinema of Indonesia}}}} {{節スタブ}} === 被服 === [[ファイル:Sarungan.jpg|thumb|伝統的な衣服を纏ったインドネシアの男性たち]] {{Main|{{仮リンク|インドネシアの民族衣装|en|National costume of Indonesia}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|インドネシアの建築|en|Architecture of Indonesia}}}} {{仮リンク|ルマーアダット|en|Rumah adat}}と呼ばれる、[[ヴァナキュラー建築]]様式で建てられた伝統的な[[家屋]]が存在する。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|インドネシアの世界遺産}} [[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が4件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が4件存在する。 === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|インドネシアの祝日|en|Public holidays in Indonesia}}}} {| class="wikitable" ! 日付 ! 日本語表記 ! 現地語表記 ! 備考 |- | [[1月1日]] || [[元日]] || Tahun Baru Masehi || |- | || [[旧正月|中国正月]] || Tahun Baru Imlek || [[移動祝日]] |- | || [[犠牲祭]] || Idul Adha || 移動祝日 |- | || [[ヒジュラ暦|ヒジュラ正月]] || Tahun Baru Hijriyah|| 移動祝日 |- | || [[ニュピ]](ヒンドゥー正月) || Hari Raya Nyepi || 移動祝日 |- | || [[聖金曜日]] || Wafat Isa Al-Masih || 移動祝日 |- | || [[キリストの昇天|キリスト昇天祭]] || Kenaikan Isa Al-Masih || 移動祝日 |- | || [[預言者生誕祭|ムハンマド聖誕祭]] || Maulid Nabi Muhammad SAW || 移動祝日 |- | || [[ウェーサク祭|仏教大祭]] || Hari Raya Waisak || 移動祝日 |- |[[6月1日]] || [[パンチャシラ]]の日 || Hari Lahir Pancasila || |- | [[8月17日]] || [[独立記念日]] || Hari Proklamasi Kemerdekaan R.I. || |- | || ムハンマド昇天祭 || Isra Mi`raj Nabi Muhammad SAW || 移動祝日 |- | || [[イード・アル=フィトル|断食明け大祭]] || Idul Fitri || 移動祝日 |- | [[12月25日]] || [[クリスマス]] || Hari Natal || |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|インドネシアのスポーツ|en|Sport in Indonesia}}}} インドネシア国内では、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[ボクシング]]では、元[[世界ボクシング協会|WBA]]世界[[フェザー級]][[スーパー王座|スーパー王者]]の[[クリス・ジョン]]を輩出した。[[バドミントン]]は[[アジア]]屈指の強豪国であり、[[近代オリンピック|オリンピック]]で獲得したメダルの半数以上が[[オリンピックのバドミントン競技|バドミントン競技]]である。 {{See also|オリンピックのインドネシア選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|インドネシアのサッカー|en|Football in Indonesia}}}} [[1994年]]にセミプロの{{仮リンク|ガラタマ|en|Galatama}}とアマチュアの{{仮リンク|ペルセリカタン|en|Perserikatan}}という2つのリーグを統合し、[[リーガ2 (インドネシア)|リーガ・インドネシア]]が創設された。その後の協会の内紛や[[国際サッカー連盟|FIFA]]の仲介など紆余曲折を経て<ref>{{Cite news|author=|title=FIFA's Gianni Infantino has meeting to discuss lifting Indonesia ban|newspaper=ESPN|publisher=|date=2016-04-27|url=http://www.espn.in/football/blog/football-asia/153/post/2859595/fifa-gianni-infantino-has-fruitful-meeting-to-discuss-lifting-indonesia-ban|accessdate=2018-08-30}}</ref>、[[2017年]]にプロサッカーリーグの[[リーガ1 (インドネシア)|リーガ1]]が開始された。 [[インドネシアサッカー協会]](PSSI)によって構成される[[サッカーインドネシア代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[1938 FIFAワールドカップ|1938年大会]]で1度出場を果たしている。[[AFCアジアカップ]]には4度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。[[東南アジアサッカー選手権]](AFF[[三菱電機]]カップ)では6度の準優勝に輝いている。 また、インドネシア国内においてサッカーの人気選手はスーパースターとみなされており、[[2022年]][[2月16日]]に[[J2リーグ|Jリーグ]]の[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]に移籍した、[[プラタマ・アルハン]]の[[Instagram]]のフォロワー数は"300万人"にものぼる。 == 著名な出身者 == {{Main|{{仮リンク|インドネシア人の一覧|en|List of Indonesians}}|Category:インドネシアの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/id.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-29 }}</ref> }} media indonesia [https://eraphoneteckno.com/ Eraphone teckno] adalah salah satu ponsel pintar (smartphone) yang diproduksi oleh Samsung Electronics. Ponsel ini dirilis pada tahun 2020 sebagai bagian dari seri A Samsung, yang terkenal dengan harga yang terjangkau namun dengan spesifikasi yang solid. == 参考文献 == <!--以下刊行年順--> * 『[{{NDLDC|1036963/78}} 帝国拳闘協会会長 田邊宗英君]』。『{{Anchors|現代業界人物集}}現代業界人物集』[[経世社]]。1935年。 * 奥源造編訳『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』龍渓書舎、1973年 * [[クンチャラニングラット]]編、[[加藤剛 (東南アジア研究者)|加藤剛]]・[[土屋健治]]・[[白石隆]]訳『インドネシアの諸民族と文化』[[めこん]]、[[1980年]] {{ISBN2|4-89562-301-7}} * [[石井米雄]]編、[[土屋健治]]・[[加藤剛 (東南アジア研究者)|加藤剛]]・[[深見純生]]編『インドネシアの事典』[[同朋舎出版]]<東南アジアを知るシリーズ>、[[1991年]] {{ISBN2|4-8104-0851-5}} * [[宮崎恒二]]・[[山下晋司 (文化人類学者)|山下晋司]]・[[伊藤眞]]編『暮らしがわかるアジア読本 インドネシア』[[河出書房新社]]、[[1993年]] {{ISBN2|4-309-72441-8}} * [[綾部恒雄]]・[[石井米雄]]編『もっと知りたいインドネシア』(第2版)[[弘文堂]]、[[1995年]] {{ISBN2|4-335-51077-2}} * {{Cite book|和書|author=押川典昭|authorlink=押川典昭|translator= |editor=信濃毎日新聞社|editor-link=信濃毎日新聞社|others= |chapter=インドネシア |title=激動の文学――アジア・アフリカ・ラテンアメリカの世界|series= |edition=初版 |date=1995-03-15 |publisher=信濃毎日新聞社 |location=[[長野市]] |id= |isbn=4-7840-9522-5 |oclc=40475402 |volume= |page= |pages=65-73 |url= |ref=押川(1995)}} * [[INJカルチャーセンター]]編『インドネシア すみずみ見聞録』<アジア・カルチャーガイド9>、[[トラベルジャーナル]]、[[1995年]] {{ISBN2|4-89559-320-7}} * キャシー・ドレイン、バーバラ・ホール著、[[増永豪男]]訳『インドネシア人』[[河出書房新社]]<カルチャーショック04>、[[1998年]] {{ISBN2|4-309-91064-5}} * イ・ワヤン・バドリカ著、石井和子監訳、桾沢英雄・菅原由美・田中正臣・山本肇訳『世界の教科書シリーズ20 インドネシアの歴史-インドネシア高校歴史教科書』明石書店 2008年 {{ISBN2|978-4-7503-2842-3}} * (財)自治体国際化協会『インドネシアの地方自治』([http://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/h21_01.pdf PDF版])、2009年 * {{Citation|和書|author=[[水間政憲]] |date=2013-08 |title=ひと目でわかる「アジア解放」時代の日本精神 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=978-4569813899 |ref={{Harvid|水間|2013}}}} == 関連項目 == {{colbegin|2}} * [[インドネシア関係記事の一覧]] * [[インドネシアの野鳥一覧]] * [[インドネシア時間]] * [[日本とインドネシアの関係]] * [[インドネシアの軍事]] * [[インドネシア海兵隊]] * [[インドネシア法|インドネシアの法]] * [[インドネシアにおける売買春]] * [[サッカーインドネシア代表]] * [[アチェ独立運動]] * [[シドアルジョの泥火山|シドアルジョの泥噴出事故]] * [[スマトラ島沖地震]] * [[インド国定暦|サカ暦]] * [[アクト・オブ・キリング]] {{colend}} == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|東南アジア|[[ファイル:SE-asia.png|45px|Portal:東南アジア]]}}<!--「colbegin」が機能しないので関連項目に置かなくて良い。--> {{Sisterlinks|commons=Indonesia|commonscat=Indonesia|voy=ja:インドネシア|d=Q252|q=no|v=no}} {{Wikiquote|インドネシアの諺}} {{osm box|r|304751}} ; 政府 * [https://indonesia.go.id/ インドネシア共和国政府] {{id icon}}{{en icon}} * [https://kemlu.go.id/tokyo/lc 在日インドネシア大使館] {{id icon}}{{ja icon}} ; 法律 {{main|インドネシア法}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/indonesia/ 日本外務省 - インドネシア] {{ja icon}} * [https://www.id.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在インドネシア日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光その他 * [https://www.visitindonesia.jp インドネシア文化観光省] {{ja icon}} * [https://www.jica.go.jp/indonesia/index.html JICA - インドネシア] {{ja icon}} * [https://www.jetro.go.jp/world/asia/idn/ JETRO - インドネシア] {{ja icon}} * [https://www.asean.or.jp/ja/asean/country/indonesia/ 日本アセアンセンター - インドネシア] {{ja icon}} * [http://indonesia.aikd.net インドネシア検定] {{ja icon}} * {{CIA World Factbook link|id|Indonesia}} {{en icon}} * {{Kotobank}} * {{Curlie|Regional/Asia/Indonesia}} {{en icon}} * {{Wikivoyage-inline|ja:インドネシア}} * {{ウィキトラベル インライン|インドネシア|インドネシア}} {{ja icon}} * {{Wikiatlas|Indonesia}} {{en icon}} * {{Googlemap|インドネシア}} {{アジア}} {{オセアニア}} {{ASEAN}} {{G20}} {{OPEC}} {{Normdaten}} {{Coord|6|10.5|S|106|49.7|E|region:ID_type:country|display=title|name=インドネシア}} {{Indonesia-stub}} {{デフォルトソート:いんとねしあ}} [[Category:インドネシア|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:島国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:G20加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:石油輸出国機構]]
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101
イラク
イラク共和国(イラクきょうわこく、アラビア語: جمهورية العراق、クルド語: كۆماری عێراق)、通称イラクは、中東に位置する連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。 チグリス川とユーフラテス川流域を中心とする世界最古の文明メソポタミア文明(シュメール文明)を擁した地である。8世紀のアッバース朝は首都をイラクのバグダードに置き、貿易やイスラム教の中心地として栄えた。アッバース朝衰退後の10世紀からは異民族支配を受け、16世紀からはオスマン帝国の属州となった。第一次世界大戦でイギリス軍に占領され、戦後イギリス委任統治領メソポタミアとなった。1932年に独立王国となり、1958年の軍部クーデター「7月14日革命」で共和制になった。その後もクーデターが相次ぎ、1979年からサダム・フセインの独裁体制となった。クルド人自治問題、イラン・イラク戦争や湾岸戦争の敗北、経済制裁などの難問に強権で対処したが、2003年に米英軍の攻撃を受け、政権は崩壊。2005年10月に国民投票によって新憲法が承認され、以降、民主選挙による政府が樹立された。しばらく治安対策や復興支援のために米軍駐留が続いたが、2011年に米軍が撤収した。 民主化以降の政治体制は議院内閣制であり、議会は一院制で、州ごとの比例代表制および少数派を優先した全国区の比例代表制で選出される。任期は4年。元首である大統領は議会で選出され、大統領の任期も連動して4年である。大統領が任命する首相が行政権を握る。 経済面では北部と北東部および南部で採掘される石油が豊富(世界5位)で、石油輸出が財政に占める割合が9割以上である。特に近年は原油生産量が急速に上昇している。同時に政府は石油依存体質からの脱却を目指している。 2020年の米国CIAの調査によれば人口は約3887万人で、民族はアラブ人(シーア派約6割、スンニ派約2割)、クルド人(約2割、多くはスンニ派)、トルクメン人、アッシリア人などから構成される。言語はアラビア語とクルド語が公用語である。 地理としては国土の中心をなすのはチグリス川とユーフラテス川が潤すメソポタミア平原であり、「肥沃な三日月地帯」の東部を占めている。北はトルコ、東はイラン、西はシリアとヨルダン、南はサウジアラビアとクウェートに接し、南部の一部はペルシア湾(アラビア湾)に臨んでいる。 正式名称はアラビア語で、جمهورية العراق(ラテン文字転写は、Jumhūrīyatu l-‘Irāq。読みは、ジュムフーリヤトゥ・ル=イラーク)。通称は、العراق(al-‘Irāq、アル=イラーク)。 公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク )。通称、Iraq(イラーク)。 日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。 イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irāq l-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irāq l-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。 現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。 メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。Qattara遺跡 (現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー) からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ(英語版)遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。 西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。 8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。 10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。 1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝 (イルハン朝、ティムール朝など) の勢力下に入った。 16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。 en:Battle of DimDim (1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。 1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。 18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダード州(英語版)とバスラ州(英語版)、モースル州(英語版)の3州として統治していた (オスマン帝国の行政区画)。 一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。 1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーとウィリアム・ダーシー(英語版)との間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権(英語版)が結ばれた。1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会社(英語版)(APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社などの出資でトルコ石油会社 (TPC、イラク石油会社(英語版)の前身) を立ち上げた。 第一次世界大戦では、クートの戦い (1915年12月7日 - 1916年4月29日) でクート・エル・アマラが陥落すると、イギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の1916年5月16日にイギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するというサイクス・ピコ協定を結んだ。 1917年に入るとイギリス軍は攻勢に転じ、3月11日にはバグダッドが陥落した(英語版)。しかし戦闘は北部を中心としてその後も行われた。 1918年10月30日、オスマン帝国が降伏 (ムドロス休戦協定)。パリ講和会議 (1919年1月18日 - 1920年1月21日)。1919年4月、英仏間で石油に関するサンレモ原油協定を締結。サン・レモ会議(英語版) (1920年4月19日 - 4月26日) で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、サンレモ原油協定(San Remo Oil Agreement)によってフランスはイラクでの25 %の石油利権を獲得した。トルコ革命 (1919年5月19日 - 1922年7月24日) が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、1920年6月にナジャフで反英暴動(英語版)が勃発する中、8月10日にイギリスはセーヴル条約によりモースル (クルディスタン) を放棄させようとしたが、批准されなかった (モースル問題(英語版))。 1921年3月21日、ガートルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された (カイロ会議)。 1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。 en:Mahmud Barzanji revoltsでクルディスタン王国(英語版) (1922年 - 1924年) を一時的に樹立。 1922年10月10日、en:Anglo-Iraqi Treaty (イラク側の批准は1924年)。1923年7月24日、ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日、ババ・グルグル(英語版)でキルクーク油田を発見。1928年、イギリスとトルコが赤線協定を締結。1929年、イギリスがイラク石油会社(英語版) (IPC) を設立。1930年6月30日、en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)でイラク石油会社の石油利権を改正。en:Ahmed Barzani revolt (1931年 - 1932年)。 ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。 一方、アングロ・ペルシャ石油(英語版)とメロン財閥傘下のガルフ石油とが共同出資して1934年にクウェート石油会社を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。 1941年4月1日、イラク・クーデター(英語版)によりラシード・アリー・アル=ガイラーニー(英語版)のクーデター政権が出来たが、 5月2日、イラク軍とイギリス軍との間で交戦状態となったイラク戦役で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐。 1943年、en:1943 Barzani revolt。1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)がソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 (en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。 1948年、en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)。5月15日、第一次中東戦争 (1948年 - 1949年) が勃発。 1955年、中東条約機構 (METO) に加盟。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争 (1956年 - 1957年) が勃発。アブドルカリーム・カーシムら自由将校団 (イラク)(英語版)が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。 1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。 1958年7月14日、自由将校団 (イラク)(英語版)のクーデターによって倒され (7月14日革命)、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。 1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したモースル蜂起(英語版)が勃発。3月24日、中東条約機構 (METO) を脱退。 1960年9月、カーシム首相がイラク石油会社 (IPC) の国有化を発表。1960年9月14日、バグダッドで石油輸出国機構(OPEC)結成。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムがクウェート併合に言及すると、7月1日にイギリス軍がen:Operation Vantageを発動し、独立を支援した。 9月11日、第一次クルド・イラク戦争(英語版) (1961年 - 1970年) が勃発した。 1963年2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された (ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。 1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発 (1963年11月イラククーデター)。 1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派としてナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。 6月、第三次中東戦争。 1968年7月17日にバアス党政権が発足 (7月17日革命)、アフマド・ハサン・アル=バクルが大統領に就任した。 1970年3月11日、en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970でクルディスタン地域 (アルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県) を設置。石油を産出するニーナワー県とキルクーク県は含まれなかった。1972年にソビエト連邦と友好条約を締結。 1973年10月、第四次中東戦争に参戦。同年10月16日、イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動し、オイルショックが引き起こされた。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して第二次クルド・イラク戦争(英語版) (1974年 - 1975年) が勃発。ペシュメルガなどを含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いたサッダーム・フセインが実権を掌握した。 1979年7月16日にサッダームが大統領に就任した。就任直後にはクーデターが計画されたが未遂に終わり、同年7月30日までに34人が処刑、約250人が逮捕された。 1980年にイラン・イラク戦争が開戦して1988年まで続けられた。 1990年8月にクウェート侵攻後、1991年に湾岸戦争となり敗北した。 イラク武装解除問題 (1991年 - 2003年)。en:Curveball (informant)による大量破壊兵器(英語版)情報。2003年3月、イラク戦争に敗れてサッダームも死亡し、バアス党政権体制は崩壊した。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「石油食料交換プログラム」が関与していた国連汚職問題が発覚した。 旧イラク共和国の滅亡後は、アメリカ・イギリスを中心とする連合国暫定当局(CPA)によって統治されることとなり(2003年4月21日 - 2004年6月28日)、正式な併合・編入こそ行われなかったものの実質的にアメリカ合衆国の海外領土に組み込まれた。イラク戦争終結後もスンニー・トライアングルで暫定当局に対する激しい抵抗があったが、2003年12月13日の赤い夜明け作戦(英語版)ではサッダーム・フセインがダウルで拘束された。2004年4月、ファルージャの戦闘でCPA側が圧勝する。 2004年6月28日、暫定政権に主権が移譲された。同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事した。8月にはシーア派政治組織「サドル潮流(英語版)」のムクタダー・サドル率いる民兵組織「マフディー軍」が影響力を高めた。 暫定政権は国連安全保障理事会が採択した、イラク再建復興プロセスに基づいて、2005年1月30日にイラクで初めての暫定議会選挙を実施し、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。4月7日にジャラル・タラバニが初のクルド人大統領に就任。移行政府が4月28日に発足し、10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された。 2005年12月15日に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた (en:Iraqi parliamentary election)。2006年3月16日に議会が開会し、2006年4月22日にシーア派政党連合の統一イラク同盟(英語版) (UIA) がヌーリー・アル=マーリキーを首相に選出、5月20日に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足し、イラク共和国として再独立を果たした。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足である。2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑執行。 2008年3月にはムクタダー・サドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり (バスラの戦い(英語版))、シーア派内部の対立が顕在化した。 世俗派の政党連合「イラク国民運動(英語版)」を構成するイラク合意戦線(英語版)は2010年2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためであるが、後に合意戦線は、ボイコットを撤回した。2010年3月7日に第2回議会選挙が行われた (en:Iraqi parliamentary election)。アッラーウィーの世俗会派イラク国民運動が第1党 (91議席) となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった (89議席)。しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。その後司法判断が下され、「選挙結果は正当」となった。 2010年8月19日までに駐留アメリカ軍戦闘部隊が撤退(英語版)、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍も2011年末に撤退した。 2010年11月に議会は、タラバニを大統領に、マーリキーを首相に、ヌジャイフィを国会議長に選出し、マーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して、12月に第二次マーリキー政権が発足した。 2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりであった。。 2017年8月31日、ISILによって支配されていたイラク北部の都市タッル・アファルでの戦闘に勝利し解放を宣言。 2017年12月9日、アバーディ首相は、ISILからイラク全土を解放したと発表した。 2005年10月15日の国民投票で承認されたイラク憲法では、県と地域から構成された連邦国家と定義されているが、現在でもクルディスタン地域 (定義上では「自治区」ではなく「連邦構成体」が正しい) を除いて政府から自治権を移譲された県はないため、連邦制自体が全土で浸透していないという。 国家元首の役割を果たすのは共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、スンナ派 (スンニ派)、シーア派、クルド人から各1名ずつが立法府によって選ばれる。大統領は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。大統領宮殿位置は北緯33度17分03秒 東経044度15分22秒 / 北緯33.28417度 東経44.25611度 / 33.28417; 44.25611に位置している。 行政府の長である首相は、議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名 (首相・副首相を除く)。 一院制で国民議会がある。任期4年で、定数は329(2018年現在)。第1回総選挙が2005年12月15日に行われた。 第4回総選挙は2018年5月12日に行われた。 2018年現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り。 また、反政府デモ活動により、早期選挙が求められている。 2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。 クルド地方3県 (エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県 (ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県) 及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 (スンニ派) が治安維持に貢献しているとされる。 イランとは、イラク戦争でバアス党政権が崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。また、同じシーア派ということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親イラン傾向が強まっている。 エジプトとは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。イラン・イラク戦争での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。 シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。レバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアのキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍に機甲部隊と特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アル=アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。 ヨルダンは、イラン・イラク戦争および湾岸戦争でイラクを支持したため、両国の関係は強まった。1999年にアブドゥッラー2世が即位して以降も依然として良好である。 イスラエルは、1948年、1967年、1973年の中東戦争に参戦し、強硬な態度を取った。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ (この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章 (Fez Initiative) にも支持を表明した。ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルで攻撃した。 イラクの地理について、国土の範囲、地形、地質構造、陸水、気候の順に説明する。 イラクの国土は東西870 km、南北920 kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にあり、シリア、ヨルダンとの国境 (北緯33度22分 東経38度47分 / 北緯33.367度 東経38.783度 / 33.367; 38.783) である。北端はトルコとの国境 (北緯37度23分 東経42度47分 / 北緯37.383度 東経42.783度 / 37.383; 42.783) で、クルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口 (北緯29度53分 東経48度39分 / 北緯29.883度 東経48.650度 / 29.883; 48.650)。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境 (北緯29度03分 東経46度25分 / 北緯29.050度 東経46.417度 / 29.050; 46.417) の一部である。 イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる2 本の大河、南側のユーフラテス川と北側のティグリス川である。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は高度1000 mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。2 本の大河周辺はメソポタミア平原が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のアルジャジーラ平原である。2 本の大河はクルナの南で合流し、シャットゥルアラブ川となる。クルナからは直線距離にして約160 km、川の長さにして190 km流れ下り、ペルシャ湾に達する。 ティグリス川の東は高度が上がり、イランのザグロス山脈に至る。バグダードと同緯度では400 mから500 m程度である。イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の尾根が国境線となっているからである。イラク最高峰のen:Cheekha Dar(3611 m)もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30 km四方にイラクで最も高い山々が見られる。 アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して地形を圧縮し、ペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈を形成した。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000 mに達する峰々が存在する。ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された原因も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、プレートテクトニクスで説明されている。ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200 kmにも伸びるハンマール湖(英語版)が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ族(英語版) (沼沢地アラブ) と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと水牛を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は 1/10 程度まで縮小している。 イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるミル湖(英語版)である。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジ (Wadi al-Ghadaf) など複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400 kmを上回り、4 本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジ (Wadi Hawran) であり、480 kmに達する。 イラクの気候は、ほぼ全土にわたり砂漠気候に分類される。ティグリス川の北岸から北はステップ気候、さらに地中海性気候に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、熱赤道が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50 度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30 度を上回ることは珍しい。一方、北部山岳地帯の冬は寒く、しばしば多量の降雪があり、甚大な洪水を引き起こす。 1921年に53.8 度の最高気温を記録したバスラは30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バグダードの平均気温は8.5 度 (1月)、34.2 度 (7月)。年降水量は僅かに140 mmである。 砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物はレイヨウ、次いでガゼルである。肉食獣としては、ジャッカル、ハイエナ、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、トビネズミ、モグラ、ヤマアラシが分布する。 鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。ウズラ (水鳥でも捕食者でもない)、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、ワタリガラスが代表。 ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer である。樹皮から分布される樹脂をアラビアガムとして利用するほか、香料として利用されている。聖書の創世記にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つハンニチバナ科の草、ヨーロッパ原産のムシトリナデシコが見られる。 ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、クコ、ハス、パピルス、ヨシが密生する。土手にはハンノキ、ポプラ、ヤナギも見られる。 ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。 18の県 (「州」と呼ぶこともある) に分かれる。 IMFの統計によると、2020年のGDPは1695億ドルである。一人当たりのGDPは4223ドルで、隣国のヨルダンと同等の水準であるが、産油国が多い中東ではやや低い数値である。 通貨はイラク戦争後のイラク暫定統治機構 (CPA) 統治下の2003年10月15日から導入されたイラク新ディナール(IQD)。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円。 イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。 1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスBPのもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。 第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50 %がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後ソ連に接近、南部最大のルメイラ油田がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。石油危機による原油高の追い風で1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長で当時のイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった。 1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。 1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとする暫定自由政府の要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。 イラクの原油生産量、単位: 万トン (United Nations Statistical Yearbook) イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。 1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為 (湾岸戦争) で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。 1996年12月に国連の石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。 世界食糧計画 (WFP) の統計 (2003年) によると、イラクの農地は国土の13.8 %を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8 %という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。 農業従事者の割合は低く、全国民の2.2 %にあたる62 万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2 haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。 同2005年の統計によると、主要穀物では小麦 (220 万トン)、次いで大麦 (130 万トン) の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に、米の生産量は13 万トンと少ない。 野菜・果実ではトマト (100 万トン)、ぶどう (33 万トン) が顕著である。商品作物としてはナツメヤシ (87 万トン) が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6 %を占める。畜産業では、ヤギ (165万頭)、ウシ (150 万頭) が主力である。 ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000 年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバグダードのナツメヤシが有力。バスラには800 万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バグダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。 イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 (Khalaseh)、ハラウィ種 (Halawi)、カドラウィ種 (Khadrawi)、ザヒディ種 (Zahidi) である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバグダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。 イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1 %から2 %に達する (2002年時点で1.6 %)。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。 製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。 原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。米国エネルギー省は埋蔵量の90 %が未開発で、掘られた石油井戸はまだ2,000 本に過ぎないと推定。 2009年時点の総発電量461億kWhの93 %は石油による火力発電でまかなっている。残りの7 %はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。 イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。 イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9 %、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1 %であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。 輸出品目別では、原油83.9 %、石油 (原料) 8.0 %、食品5.0 %、石油化学製品1.0 %である。食品に分類されている品目はほとんどがデーツである。輸入品目別では、機械73.1 %、基礎的な工業製品16.1 %、食品5.0 %、化学工業製品1.0 %。 貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6 %、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6 %、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。 イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1 %と高かったにもかかわらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9 %と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。 イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200 km。旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。 イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。 バグダードとアナトリア半島中央南部のコンヤを結ぶイラク初の鉄道路線(バグダード鉄道)はドイツによって建設された。バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年に中華人民共和国から時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な青島四方機車車輛製の高速車両が導入された(バグダード=バスラ高速鉄道路線)。 一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台 (うち65万台が乗用車) に留まる。舗装道路の総延長距離も8400 kmに留まる。 国連の統計によれば、住民はアラブ人が79%、クルド人16%、アッシリア人3%、トルコマン人(テュルク系)2%である。ユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。 かつては、スーダンからの出稼ぎ労働者やパレスチナ難民も暮らしていたが、イラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが、国外に出国するか国内難民となっている。また、イラン革命を逃れたイラン人がイラク中部のキャンプ・アシュラーフ(英語版)と呼ばれる町に定住している。 イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。 マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。 南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。 また、アフリカ大陸にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。 アラビア語、クルド語が公用語である。2004年のイラク憲法改正以来クルド語がアラビア語と共に正式な公用語に追加された。その他アルメニア語、アゼリー語や現代アラム語 (アッシリア語) なども少数ながら使われている。 書き言葉としてのアラビア語 (フスハー) は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからである。しかし、話し言葉としてのアラビア語 (アーンミーヤ) は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのはイラク方言である。ただし、イラク国内で共通語となっているバグダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。 イラクにおける教育制度は、伝統的なコーランを学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、義務教育が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備課程を修了する必要がある。首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。 通常は婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、西欧風に夫の姓に改姓する女性もいる。 イスラム教が国民の 99 %を占め、次いでキリスト教 0.8 %、ヒンドゥー教 、その他 (0.2 % 以下) である。イスラム教徒の内訳はシーア派 60 - 65 %、スンナ派 32 - 37 % である。 キリスト教(カトリック、東方正教会、アッシリア東方教会など)はアッシリア人と少数民族に限られている。1987年の時点では140万人(全体の8%)のキリスト教徒が暮らしていたが1990年代と、さらに2003年のフセイン政権崩壊以降とで多くが国を離れた。2010年の時点での人口比は0.8%と報告されている。 全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は預言者の後継者・最高指導者 (イマーム) が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要なイスマーイール派、ザイド派、十二イマーム派、ハワーリジュ派などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムとマシュハドである。 スンナ派ではシャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。 8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ (Abu Hanifa、699年-767年) は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。 バスラのアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー(英語版) (Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年) は、合理主義を標榜したムウタズィラ学派に属していたが、後に離れる。ムウタズィラ派がよくしていたカラーム (弁証) をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。 ガザーリー (Al-Ghazali、1058年-1111年) は、ペルシア人であったがバグダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。 イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル=バスリー(英語版) (al-Hasan al-Basri、642年-728年) が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 (スーフィズム) につながっていった。 ヤジーディー派はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書、新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。 1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会 (ネストリウス派) に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。 サービア教はコーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。マンダ教はそのサービア教と同一視されてきた。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において西洋・東洋に広く伝播したグノーシス主義が原型と考えられている。 ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。 イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63 kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77 kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25 kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。 細密画、アラビア書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地。 伝統的な楽器としてリュートに類似するウード、ヴァイオリンに類似するレバーブ、その他ツィターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。 ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では3世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、アル=ファーラービーによれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は紀元前2000年ごろのメソポタミア南部 (イラク) にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、マカームの演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においてもマグリブ地方において古形を見出す事が出来るが、伝承では9世紀にキンディー (あるいはズィリヤーブとも云う) によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い (正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦~十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最低音弦は単弦となる)。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。 カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する撥弦楽器であり、弦の本数は様々だが、百本に達するものなどもある。 また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのバグダードはエジプトのカイロと並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、アッバース朝時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブなどのウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーンなどの精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は千夜一夜物語にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム (マカーム・アル=イラーキー) と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。 民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、パスタなどが知られる。 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれるチャルメラ状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 またクルド人は独特の音楽を持つ。 現代のイラク人は西洋のロック、ヒップホップ、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。 イラクは、アメリカ合衆国、エジプトに次ぎ、1974年3月5日に世界遺産条約を受託している。1985年にバグダードの北西290 kmに位置する平原の都市遺跡ハトラ (ニーナワー県) が文化遺産に、2003年にはハトラの東南東50 kmにあるティグリス川に面した都市遺跡アッシュール (サラーフッディーン県) がやはり文化遺産に認定されている。 アレクサンドロス大王の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれたセレウコス朝シリアは紀元前3世紀、ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱すると、パルティア帝国の通商都市、宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国はサーサーン朝ペルシアを名乗る。 アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後、シュメールの南方に接していたアッカド帝国の都市となり、ウル第三王朝を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。アッシリアが成立すると、その版図となり、古アッシリア時代のシャムシ・アダド1世 (前1813年-前1781年在位) は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていたエンリル神殿を再建している。1000年の繁栄の後、新アッシリア王国のアッシュールナツィルパル2世はニムルドを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略した新バビロニア王国によって同614年に征服・破壊される。アッシリア自体も同612年に滅びている。その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。 アッシュールはドイツ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンのペルガモン博物館に展示・収蔵されている。 フセイン政権下の祝祭日を示した。 イラク国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1974年にプロサッカーリーグのイラク・プレミアリーグが創設された。アル・ザウラーSCがリーグ最多14度の優勝を果たしており、イラクFAカップにおいても大会最多16度の優勝を数える。国の英雄的な存在としてユニス・マフムードがおり、2004年のアテネ五輪ではチームのエースとしてU-23イラク代表をベスト4に導く活躍をみせた。さらにAFCアジアカップ2007では初優勝の立役者となり、得点王とMVPをW受賞した。これらの活躍から2007年のバロンドール候補にも挙がり、投票では2ポイント獲得し「29位」に入った。 イラクサッカー協会(IFA)によって構成されるサッカーイラク代表は、FIFAワールドカップには1986年大会で初出場を遂げたがグループリーグ最下位で敗退している。1986年以降の大会では1度も出場を果たせていない。AFCアジアカップには9度の出場歴があり、2007年大会では初優勝に輝いている。なお、サッカー日本代表との関係では1993年に起こった、いわゆる「ドーハの悲劇」の対戦相手としても日本国内においては知られている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イラク共和国(イラクきょうわこく、アラビア語: جمهورية العراق、クルド語: كۆماری عێراق)、通称イラクは、中東に位置する連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "チグリス川とユーフラテス川流域を中心とする世界最古の文明メソポタミア文明(シュメール文明)を擁した地である。8世紀のアッバース朝は首都をイラクのバグダードに置き、貿易やイスラム教の中心地として栄えた。アッバース朝衰退後の10世紀からは異民族支配を受け、16世紀からはオスマン帝国の属州となった。第一次世界大戦でイギリス軍に占領され、戦後イギリス委任統治領メソポタミアとなった。1932年に独立王国となり、1958年の軍部クーデター「7月14日革命」で共和制になった。その後もクーデターが相次ぎ、1979年からサダム・フセインの独裁体制となった。クルド人自治問題、イラン・イラク戦争や湾岸戦争の敗北、経済制裁などの難問に強権で対処したが、2003年に米英軍の攻撃を受け、政権は崩壊。2005年10月に国民投票によって新憲法が承認され、以降、民主選挙による政府が樹立された。しばらく治安対策や復興支援のために米軍駐留が続いたが、2011年に米軍が撤収した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "民主化以降の政治体制は議院内閣制であり、議会は一院制で、州ごとの比例代表制および少数派を優先した全国区の比例代表制で選出される。任期は4年。元首である大統領は議会で選出され、大統領の任期も連動して4年である。大統領が任命する首相が行政権を握る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "経済面では北部と北東部および南部で採掘される石油が豊富(世界5位)で、石油輸出が財政に占める割合が9割以上である。特に近年は原油生産量が急速に上昇している。同時に政府は石油依存体質からの脱却を目指している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2020年の米国CIAの調査によれば人口は約3887万人で、民族はアラブ人(シーア派約6割、スンニ派約2割)、クルド人(約2割、多くはスンニ派)、トルクメン人、アッシリア人などから構成される。言語はアラビア語とクルド語が公用語である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "地理としては国土の中心をなすのはチグリス川とユーフラテス川が潤すメソポタミア平原であり、「肥沃な三日月地帯」の東部を占めている。北はトルコ、東はイラン、西はシリアとヨルダン、南はサウジアラビアとクウェートに接し、南部の一部はペルシア湾(アラビア湾)に臨んでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正式名称はアラビア語で、جمهورية العراق(ラテン文字転写は、Jumhūrīyatu l-‘Irāq。読みは、ジュムフーリヤトゥ・ル=イラーク)。通称は、العراق(al-‘Irāq、アル=イラーク)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク )。通称、Iraq(イラーク)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irāq l-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irāq l-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。Qattara遺跡 (現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー) からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ(英語版)遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝 (イルハン朝、ティムール朝など) の勢力下に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "en:Battle of DimDim (1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダード州(英語版)とバスラ州(英語版)、モースル州(英語版)の3州として統治していた (オスマン帝国の行政区画)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーとウィリアム・ダーシー(英語版)との間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権(英語版)が結ばれた。1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会社(英語版)(APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社などの出資でトルコ石油会社 (TPC、イラク石油会社(英語版)の前身) を立ち上げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦では、クートの戦い (1915年12月7日 - 1916年4月29日) でクート・エル・アマラが陥落すると、イギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の1916年5月16日にイギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するというサイクス・ピコ協定を結んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1917年に入るとイギリス軍は攻勢に転じ、3月11日にはバグダッドが陥落した(英語版)。しかし戦闘は北部を中心としてその後も行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1918年10月30日、オスマン帝国が降伏 (ムドロス休戦協定)。パリ講和会議 (1919年1月18日 - 1920年1月21日)。1919年4月、英仏間で石油に関するサンレモ原油協定を締結。サン・レモ会議(英語版) (1920年4月19日 - 4月26日) で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、サンレモ原油協定(San Remo Oil Agreement)によってフランスはイラクでの25 %の石油利権を獲得した。トルコ革命 (1919年5月19日 - 1922年7月24日) が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、1920年6月にナジャフで反英暴動(英語版)が勃発する中、8月10日にイギリスはセーヴル条約によりモースル (クルディスタン) を放棄させようとしたが、批准されなかった (モースル問題(英語版))。 1921年3月21日、ガートルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された (カイロ会議)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "en:Mahmud Barzanji revoltsでクルディスタン王国(英語版) (1922年 - 1924年) を一時的に樹立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1922年10月10日、en:Anglo-Iraqi Treaty (イラク側の批准は1924年)。1923年7月24日、ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日、ババ・グルグル(英語版)でキルクーク油田を発見。1928年、イギリスとトルコが赤線協定を締結。1929年、イギリスがイラク石油会社(英語版) (IPC) を設立。1930年6月30日、en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)でイラク石油会社の石油利権を改正。en:Ahmed Barzani revolt (1931年 - 1932年)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方、アングロ・ペルシャ石油(英語版)とメロン財閥傘下のガルフ石油とが共同出資して1934年にクウェート石油会社を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1941年4月1日、イラク・クーデター(英語版)によりラシード・アリー・アル=ガイラーニー(英語版)のクーデター政権が出来たが、 5月2日、イラク軍とイギリス軍との間で交戦状態となったイラク戦役で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1943年、en:1943 Barzani revolt。1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)がソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 (en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1948年、en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)。5月15日、第一次中東戦争 (1948年 - 1949年) が勃発。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1955年、中東条約機構 (METO) に加盟。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争 (1956年 - 1957年) が勃発。アブドルカリーム・カーシムら自由将校団 (イラク)(英語版)が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1958年7月14日、自由将校団 (イラク)(英語版)のクーデターによって倒され (7月14日革命)、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したモースル蜂起(英語版)が勃発。3月24日、中東条約機構 (METO) を脱退。 1960年9月、カーシム首相がイラク石油会社 (IPC) の国有化を発表。1960年9月14日、バグダッドで石油輸出国機構(OPEC)結成。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムがクウェート併合に言及すると、7月1日にイギリス軍がen:Operation Vantageを発動し、独立を支援した。 9月11日、第一次クルド・イラク戦争(英語版) (1961年 - 1970年) が勃発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1963年2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された (ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発 (1963年11月イラククーデター)。 1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派としてナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。 6月、第三次中東戦争。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1968年7月17日にバアス党政権が発足 (7月17日革命)、アフマド・ハサン・アル=バクルが大統領に就任した。 1970年3月11日、en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970でクルディスタン地域 (アルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県) を設置。石油を産出するニーナワー県とキルクーク県は含まれなかった。1972年にソビエト連邦と友好条約を締結。 1973年10月、第四次中東戦争に参戦。同年10月16日、イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動し、オイルショックが引き起こされた。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して第二次クルド・イラク戦争(英語版) (1974年 - 1975年) が勃発。ペシュメルガなどを含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いたサッダーム・フセインが実権を掌握した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1979年7月16日にサッダームが大統領に就任した。就任直後にはクーデターが計画されたが未遂に終わり、同年7月30日までに34人が処刑、約250人が逮捕された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1980年にイラン・イラク戦争が開戦して1988年まで続けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1990年8月にクウェート侵攻後、1991年に湾岸戦争となり敗北した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "イラク武装解除問題 (1991年 - 2003年)。en:Curveball (informant)による大量破壊兵器(英語版)情報。2003年3月、イラク戦争に敗れてサッダームも死亡し、バアス党政権体制は崩壊した。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「石油食料交換プログラム」が関与していた国連汚職問題が発覚した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "旧イラク共和国の滅亡後は、アメリカ・イギリスを中心とする連合国暫定当局(CPA)によって統治されることとなり(2003年4月21日 - 2004年6月28日)、正式な併合・編入こそ行われなかったものの実質的にアメリカ合衆国の海外領土に組み込まれた。イラク戦争終結後もスンニー・トライアングルで暫定当局に対する激しい抵抗があったが、2003年12月13日の赤い夜明け作戦(英語版)ではサッダーム・フセインがダウルで拘束された。2004年4月、ファルージャの戦闘でCPA側が圧勝する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2004年6月28日、暫定政権に主権が移譲された。同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事した。8月にはシーア派政治組織「サドル潮流(英語版)」のムクタダー・サドル率いる民兵組織「マフディー軍」が影響力を高めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "暫定政権は国連安全保障理事会が採択した、イラク再建復興プロセスに基づいて、2005年1月30日にイラクで初めての暫定議会選挙を実施し、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。4月7日にジャラル・タラバニが初のクルド人大統領に就任。移行政府が4月28日に発足し、10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2005年12月15日に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた (en:Iraqi parliamentary election)。2006年3月16日に議会が開会し、2006年4月22日にシーア派政党連合の統一イラク同盟(英語版) (UIA) がヌーリー・アル=マーリキーを首相に選出、5月20日に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足し、イラク共和国として再独立を果たした。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足である。2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑執行。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2008年3月にはムクタダー・サドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり (バスラの戦い(英語版))、シーア派内部の対立が顕在化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "世俗派の政党連合「イラク国民運動(英語版)」を構成するイラク合意戦線(英語版)は2010年2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためであるが、後に合意戦線は、ボイコットを撤回した。2010年3月7日に第2回議会選挙が行われた (en:Iraqi parliamentary election)。アッラーウィーの世俗会派イラク国民運動が第1党 (91議席) となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった (89議席)。しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。その後司法判断が下され、「選挙結果は正当」となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2010年8月19日までに駐留アメリカ軍戦闘部隊が撤退(英語版)、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍も2011年末に撤退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2010年11月に議会は、タラバニを大統領に、マーリキーを首相に、ヌジャイフィを国会議長に選出し、マーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して、12月に第二次マーリキー政権が発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりであった。。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2017年8月31日、ISILによって支配されていたイラク北部の都市タッル・アファルでの戦闘に勝利し解放を宣言。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2017年12月9日、アバーディ首相は、ISILからイラク全土を解放したと発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2005年10月15日の国民投票で承認されたイラク憲法では、県と地域から構成された連邦国家と定義されているが、現在でもクルディスタン地域 (定義上では「自治区」ではなく「連邦構成体」が正しい) を除いて政府から自治権を移譲された県はないため、連邦制自体が全土で浸透していないという。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "国家元首の役割を果たすのは共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、スンナ派 (スンニ派)、シーア派、クルド人から各1名ずつが立法府によって選ばれる。大統領は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。大統領宮殿位置は北緯33度17分03秒 東経044度15分22秒 / 北緯33.28417度 東経44.25611度 / 33.28417; 44.25611に位置している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "行政府の長である首相は、議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名 (首相・副首相を除く)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "一院制で国民議会がある。任期4年で、定数は329(2018年現在)。第1回総選挙が2005年12月15日に行われた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "第4回総選挙は2018年5月12日に行われた。 2018年現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また、反政府デモ活動により、早期選挙が求められている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "クルド地方3県 (エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県 (ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県) 及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 (スンニ派) が治安維持に貢献しているとされる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "イランとは、イラク戦争でバアス党政権が崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。また、同じシーア派ということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親イラン傾向が強まっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "エジプトとは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。イラン・イラク戦争での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。レバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアのキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍に機甲部隊と特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アル=アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ヨルダンは、イラン・イラク戦争および湾岸戦争でイラクを支持したため、両国の関係は強まった。1999年にアブドゥッラー2世が即位して以降も依然として良好である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "イスラエルは、1948年、1967年、1973年の中東戦争に参戦し、強硬な態度を取った。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ (この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章 (Fez Initiative) にも支持を表明した。ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルで攻撃した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "イラクの地理について、国土の範囲、地形、地質構造、陸水、気候の順に説明する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "イラクの国土は東西870 km、南北920 kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にあり、シリア、ヨルダンとの国境 (北緯33度22分 東経38度47分 / 北緯33.367度 東経38.783度 / 33.367; 38.783) である。北端はトルコとの国境 (北緯37度23分 東経42度47分 / 北緯37.383度 東経42.783度 / 37.383; 42.783) で、クルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口 (北緯29度53分 東経48度39分 / 北緯29.883度 東経48.650度 / 29.883; 48.650)。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境 (北緯29度03分 東経46度25分 / 北緯29.050度 東経46.417度 / 29.050; 46.417) の一部である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる2 本の大河、南側のユーフラテス川と北側のティグリス川である。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は高度1000 mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。2 本の大河周辺はメソポタミア平原が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のアルジャジーラ平原である。2 本の大河はクルナの南で合流し、シャットゥルアラブ川となる。クルナからは直線距離にして約160 km、川の長さにして190 km流れ下り、ペルシャ湾に達する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ティグリス川の東は高度が上がり、イランのザグロス山脈に至る。バグダードと同緯度では400 mから500 m程度である。イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の尾根が国境線となっているからである。イラク最高峰のen:Cheekha Dar(3611 m)もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30 km四方にイラクで最も高い山々が見られる。 アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して地形を圧縮し、ペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈を形成した。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000 mに達する峰々が存在する。ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された原因も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、プレートテクトニクスで説明されている。ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200 kmにも伸びるハンマール湖(英語版)が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ族(英語版) (沼沢地アラブ) と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと水牛を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は 1/10 程度まで縮小している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるミル湖(英語版)である。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジ (Wadi al-Ghadaf) など複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400 kmを上回り、4 本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジ (Wadi Hawran) であり、480 kmに達する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "イラクの気候は、ほぼ全土にわたり砂漠気候に分類される。ティグリス川の北岸から北はステップ気候、さらに地中海性気候に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、熱赤道が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50 度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30 度を上回ることは珍しい。一方、北部山岳地帯の冬は寒く、しばしば多量の降雪があり、甚大な洪水を引き起こす。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1921年に53.8 度の最高気温を記録したバスラは30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バグダードの平均気温は8.5 度 (1月)、34.2 度 (7月)。年降水量は僅かに140 mmである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物はレイヨウ、次いでガゼルである。肉食獣としては、ジャッカル、ハイエナ、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、トビネズミ、モグラ、ヤマアラシが分布する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。ウズラ (水鳥でも捕食者でもない)、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、ワタリガラスが代表。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer である。樹皮から分布される樹脂をアラビアガムとして利用するほか、香料として利用されている。聖書の創世記にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つハンニチバナ科の草、ヨーロッパ原産のムシトリナデシコが見られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、クコ、ハス、パピルス、ヨシが密生する。土手にはハンノキ、ポプラ、ヤナギも見られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "18の県 (「州」と呼ぶこともある) に分かれる。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2020年のGDPは1695億ドルである。一人当たりのGDPは4223ドルで、隣国のヨルダンと同等の水準であるが、産油国が多い中東ではやや低い数値である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "通貨はイラク戦争後のイラク暫定統治機構 (CPA) 統治下の2003年10月15日から導入されたイラク新ディナール(IQD)。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスBPのもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50 %がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後ソ連に接近、南部最大のルメイラ油田がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。石油危機による原油高の追い風で1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長で当時のイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとする暫定自由政府の要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "イラクの原油生産量、単位: 万トン (United Nations Statistical Yearbook)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為 (湾岸戦争) で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1996年12月に国連の石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "世界食糧計画 (WFP) の統計 (2003年) によると、イラクの農地は国土の13.8 %を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8 %という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "農業従事者の割合は低く、全国民の2.2 %にあたる62 万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2 haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "同2005年の統計によると、主要穀物では小麦 (220 万トン)、次いで大麦 (130 万トン) の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に、米の生産量は13 万トンと少ない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "野菜・果実ではトマト (100 万トン)、ぶどう (33 万トン) が顕著である。商品作物としてはナツメヤシ (87 万トン) が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6 %を占める。畜産業では、ヤギ (165万頭)、ウシ (150 万頭) が主力である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000 年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバグダードのナツメヤシが有力。バスラには800 万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バグダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 (Khalaseh)、ハラウィ種 (Halawi)、カドラウィ種 (Khadrawi)、ザヒディ種 (Zahidi) である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバグダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1 %から2 %に達する (2002年時点で1.6 %)。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。米国エネルギー省は埋蔵量の90 %が未開発で、掘られた石油井戸はまだ2,000 本に過ぎないと推定。 2009年時点の総発電量461億kWhの93 %は石油による火力発電でまかなっている。残りの7 %はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9 %、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1 %であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "輸出品目別では、原油83.9 %、石油 (原料) 8.0 %、食品5.0 %、石油化学製品1.0 %である。食品に分類されている品目はほとんどがデーツである。輸入品目別では、機械73.1 %、基礎的な工業製品16.1 %、食品5.0 %、化学工業製品1.0 %。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6 %、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6 %、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1 %と高かったにもかかわらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9 %と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200 km。旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "バグダードとアナトリア半島中央南部のコンヤを結ぶイラク初の鉄道路線(バグダード鉄道)はドイツによって建設された。バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年に中華人民共和国から時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な青島四方機車車輛製の高速車両が導入された(バグダード=バスラ高速鉄道路線)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台 (うち65万台が乗用車) に留まる。舗装道路の総延長距離も8400 kmに留まる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "国連の統計によれば、住民はアラブ人が79%、クルド人16%、アッシリア人3%、トルコマン人(テュルク系)2%である。ユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "かつては、スーダンからの出稼ぎ労働者やパレスチナ難民も暮らしていたが、イラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが、国外に出国するか国内難民となっている。また、イラン革命を逃れたイラン人がイラク中部のキャンプ・アシュラーフ(英語版)と呼ばれる町に定住している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "また、アフリカ大陸にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "アラビア語、クルド語が公用語である。2004年のイラク憲法改正以来クルド語がアラビア語と共に正式な公用語に追加された。その他アルメニア語、アゼリー語や現代アラム語 (アッシリア語) なども少数ながら使われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "書き言葉としてのアラビア語 (フスハー) は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからである。しかし、話し言葉としてのアラビア語 (アーンミーヤ) は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのはイラク方言である。ただし、イラク国内で共通語となっているバグダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "イラクにおける教育制度は、伝統的なコーランを学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、義務教育が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備課程を修了する必要がある。首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "通常は婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、西欧風に夫の姓に改姓する女性もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "イスラム教が国民の 99 %を占め、次いでキリスト教 0.8 %、ヒンドゥー教 、その他 (0.2 % 以下) である。イスラム教徒の内訳はシーア派 60 - 65 %、スンナ派 32 - 37 % である。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "キリスト教(カトリック、東方正教会、アッシリア東方教会など)はアッシリア人と少数民族に限られている。1987年の時点では140万人(全体の8%)のキリスト教徒が暮らしていたが1990年代と、さらに2003年のフセイン政権崩壊以降とで多くが国を離れた。2010年の時点での人口比は0.8%と報告されている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は預言者の後継者・最高指導者 (イマーム) が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要なイスマーイール派、ザイド派、十二イマーム派、ハワーリジュ派などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムとマシュハドである。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "スンナ派ではシャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ (Abu Hanifa、699年-767年) は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "バスラのアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー(英語版) (Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年) は、合理主義を標榜したムウタズィラ学派に属していたが、後に離れる。ムウタズィラ派がよくしていたカラーム (弁証) をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "ガザーリー (Al-Ghazali、1058年-1111年) は、ペルシア人であったがバグダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル=バスリー(英語版) (al-Hasan al-Basri、642年-728年) が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 (スーフィズム) につながっていった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "ヤジーディー派はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書、新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会 (ネストリウス派) に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "サービア教はコーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。マンダ教はそのサービア教と同一視されてきた。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において西洋・東洋に広く伝播したグノーシス主義が原型と考えられている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63 kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77 kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25 kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "細密画、アラビア書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "伝統的な楽器としてリュートに類似するウード、ヴァイオリンに類似するレバーブ、その他ツィターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では3世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、アル=ファーラービーによれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は紀元前2000年ごろのメソポタミア南部 (イラク) にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、マカームの演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においてもマグリブ地方において古形を見出す事が出来るが、伝承では9世紀にキンディー (あるいはズィリヤーブとも云う) によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い (正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦~十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最低音弦は単弦となる)。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する撥弦楽器であり、弦の本数は様々だが、百本に達するものなどもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのバグダードはエジプトのカイロと並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、アッバース朝時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブなどのウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーンなどの精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は千夜一夜物語にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム (マカーム・アル=イラーキー) と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、パスタなどが知られる。 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれるチャルメラ状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 またクルド人は独特の音楽を持つ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "現代のイラク人は西洋のロック、ヒップホップ、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "イラクは、アメリカ合衆国、エジプトに次ぎ、1974年3月5日に世界遺産条約を受託している。1985年にバグダードの北西290 kmに位置する平原の都市遺跡ハトラ (ニーナワー県) が文化遺産に、2003年にはハトラの東南東50 kmにあるティグリス川に面した都市遺跡アッシュール (サラーフッディーン県) がやはり文化遺産に認定されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "アレクサンドロス大王の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれたセレウコス朝シリアは紀元前3世紀、ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱すると、パルティア帝国の通商都市、宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国はサーサーン朝ペルシアを名乗る。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後、シュメールの南方に接していたアッカド帝国の都市となり、ウル第三王朝を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。アッシリアが成立すると、その版図となり、古アッシリア時代のシャムシ・アダド1世 (前1813年-前1781年在位) は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていたエンリル神殿を再建している。1000年の繁栄の後、新アッシリア王国のアッシュールナツィルパル2世はニムルドを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略した新バビロニア王国によって同614年に征服・破壊される。アッシリア自体も同612年に滅びている。その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "アッシュールはドイツ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンのペルガモン博物館に展示・収蔵されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "フセイン政権下の祝祭日を示した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "イラク国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1974年にプロサッカーリーグのイラク・プレミアリーグが創設された。アル・ザウラーSCがリーグ最多14度の優勝を果たしており、イラクFAカップにおいても大会最多16度の優勝を数える。国の英雄的な存在としてユニス・マフムードがおり、2004年のアテネ五輪ではチームのエースとしてU-23イラク代表をベスト4に導く活躍をみせた。さらにAFCアジアカップ2007では初優勝の立役者となり、得点王とMVPをW受賞した。これらの活躍から2007年のバロンドール候補にも挙がり、投票では2ポイント獲得し「29位」に入った。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "イラクサッカー協会(IFA)によって構成されるサッカーイラク代表は、FIFAワールドカップには1986年大会で初出場を遂げたがグループリーグ最下位で敗退している。1986年以降の大会では1度も出場を果たせていない。AFCアジアカップには9度の出場歴があり、2007年大会では初優勝に輝いている。なお、サッカー日本代表との関係では1993年に起こった、いわゆる「ドーハの悲劇」の対戦相手としても日本国内においては知られている。", "title": "スポーツ" } ]
イラク共和国、通称イラクは、中東に位置する連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。
{{複数の問題 | 参照方法 = 2011年8月 | 独自研究 = 2012年10月 }} {{特殊文字|説明=[[アラビア文字]]}} {{基礎情報 国 | 略名 = イラク | 日本語国名 = イラク共和国 | 公式国名 = {{Lang|ar|'''جمهورية العراق'''}}(アラビア語) | 国旗画像 = Flag of Iraq.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms (emblem) of Iraq 2008.svg|80px|イラクの国章]] | 国章リンク = ([[イラクの国章|国章]]) | 標語 = [[アッラーフ・アクバル|{{Lang|ar|الله أكبر}}]]{{ar icon}}<br />''神は偉大なり'' | 国歌 = [[イラクの国歌|{{lang|ar|موطني}}]]{{ar icon}}<br />''我が祖国''<br />{{center|[[ファイル:United States Navy Band - Mawtini.ogg]]}} | 位置画像 = Iraq (orthographic projection).svg | 公用語 = [[アラビア語]]、[[クルド語]]<ref group="注">4つのクルド地方では第一公用語</ref> | 首都 = [[バグダード]]<ref group="注">[[クルディスタン地域|クルド人自治区]]の首府は[[アルビール]]</ref> | 最大都市 = バグダード|元首等肩書 =[[イラクの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[アブドゥルラティーフ・ラシード]] | 首相等肩書 = [[イラクの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ムハンマド・シヤーア・スーダーニー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page3_003484.html|title=イラクにおける新大統領の選出及び次期首相候補の指名について|website=外務省|accessdate=2022-10-24}}</ref> | 面積順位 = 57 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 437,072 | 水面積率 = 1.1% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 36 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 40,222,503<ref>{{Cite web|和書|url= https://data.worldbank.org/indicator/SP.POP.TOTL?locations=IQ|title=THE WORLD BANK 2020 イラク|publisher=[[世界銀行|WORLD BANK]]|language=英語|date=2020|accessdate=2021-11-11}}</ref> | 人口密度値 = 92.651<ref>{{Cite web|和書|url= https://data.worldbank.org/indicator/EN.POP.DNST?locations=IQ|title=THE WORLD BANK 2020 イラク|publisher=[[世界銀行|WORLD BANK]]|language=英語|date=2020|accessdate=2021-11-11}}</ref> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 201兆8280億6000万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=433,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-11-11}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 52 | GDP値MER = 1694億8800万<ref name="imf202110" /> | GDP MER/人 = 4,223.218(推計)<ref name ="imf202110" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 36 | GDP値 = 3993億7600万<ref name="imf202110" /> | GDP/人 = 9,951.455(推計)<ref name="imf202110" /> | 建国形態 = [[国家の独立|独立]] | 確立形態1 = [[イギリス帝国|英国]]の[[イギリス委任統治領メソポタミア|委任統治]]から[[イラク王国]]として | 確立年月日1 = [[1932年]][[10月3日]] | 確立形態2 = [[共和制|王政廃止]]、[[イラク共和国 (1958年-1968年)|イラク共和国]]成立 | 確立年月日2 = [[1958年]][[7月14日]] | 通貨 = [[イラク・ディナール]] | 通貨コード = IQD | 時間帯 = (+3) | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = IQ / IRQ | ccTLD = [[.iq]] | 国際電話番号 = 964 | 注記 = }} '''イラク共和国'''(イラクきょうわこく、{{Lang-ar|جمهورية العراق}}、{{Lang-ku|كۆماری عێراق}})、通称'''イラク'''は、[[中東]]に位置する[[連邦共和国|連邦共和制国家]]である。[[首都]]は[[バグダード]]で、[[サウジアラビア]]、[[クウェート]]、[[シリア]]、[[トルコ]]、[[イラン]]、[[ヨルダン]]と隣接する。古代[[メソポタミア|メソポタミア文明]]を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の[[原油]]埋蔵国である。 == 概要 == [[チグリス川]]と[[ユーフラテス川]]流域を中心とする世界最古の文明[[メソポタミア文明]](シュメール文明)を擁した地である<ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF-32351#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)]</ref>。8世紀の[[アッバース朝]]は[[首都]]をイラクの[[バグダート|バグダード]]に置き<ref name="nipponica"/>、[[貿易]]や[[イスラム教]]の中心地として栄えた<ref name="mypedia">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF-32351#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア]</ref>。アッバース朝衰退後の[[10世紀]]からは異民族支配を受け、[[16世紀]]からは[[オスマン帝国]]の属州となった<ref name="mypedia"/>。[[第一次世界大戦]]で[[イギリス軍]]に[[占領]]され、戦後[[イギリス委任統治領メソポタミア]]となった<ref name="nipponica"/>。[[1932年]]に独立王国となり、[[1958年]]の軍部クーデター「[[7月14日革命]]」で[[共和制]]になった<ref name="britanica">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF-32351 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>。その後もクーデターが相次ぎ、[[1979年]]から[[サダム・フセイン]]の[[独裁政治|独裁体制]]となった。クルド人自治問題、[[イラン・イラク戦争]]や[[湾岸戦争]]の敗北、[[経済制裁]]などの難問に強権で対処したが、[[2003年]]に米英軍の[[イラク戦争|攻撃]]を受け、政権は崩壊<ref name="mypedia"/>。2005年10月に[[国民投票]]によって新憲法が承認され<ref name="nipponica"/>、以降、民主選挙による政府が樹立された<ref name="daijisen">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD-436296 デジタル大辞泉 イラク共和国]</ref>。しばらく[[治安]]対策や[[復興]]支援のために米軍駐留が続いたが、[[2011年]]に米軍が撤収した<ref name="nipponica"/>。 [[民主化]]以降の政治体制は[[議院内閣制]]であり、議会は一院制で、州ごとの[[比例代表制]]および少数派を優先した全国区の比例代表制で選出される。任期は4年。元首である[[イラクの大統領|大統領]]は議会で選出され、大統領の任期も連動して4年である。大統領が任命する[[イラクの首相|首相]]が[[行政権]]を握る<ref name="nipponica"/>。 経済面では北部と北東部および南部で採掘される[[石油]]が豊富(世界5位)で、石油輸出が財政に占める割合が9割以上である<ref name="gaimu"/><ref name="britanica"/>。特に近年は[[原油]]生産量が急速に上昇している<ref>[http://www.rs.jx-group.co.jp/library/files/20191010_write.pdf イラクの石油産業]</ref>。同時に政府は石油依存体質からの脱却を目指している<ref name="gaimu">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html 外務省 イラク共和国(Republic of Iraq)基礎データ]</ref>。 [[2020年]]の米国[[中央情報局|CIA]]の調査によれば[[人口]]は約3887万人で、民族は[[アラブ人]]([[シーア派]]約6割、[[スンニ派]]約2割)、[[クルド人]](約2割、多くはスンニ派)、[[トルクメン人]]、[[アッシリア人]]などから構成される<ref name="gaimu"/>。言語は[[アラビア語]]と[[クルド語]]が公用語である<ref name="mypedia"/>。 地理としては国土の中心をなすのはチグリス川とユーフラテス川が潤すメソポタミア平原であり、「[[肥沃な三日月地帯]]」の東部を占めている<ref name="britanica"/>。北は[[トルコ]]、東は[[イラン]]、西は[[シリア]]と[[ヨルダン]]、南は[[サウジアラビア]]と[[クウェート]]に接し、南部の一部は[[ペルシア湾]](アラビア湾)に臨んでいる<ref name="nipponica"/>。 == 国名 == 正式名称は[[アラビア語]]で、{{Lang|ar|جمهورية العراق}}([[ラテン文字]]転写は、Jumhūrīyatu l-‘Irāq。読みは、ジュムフーリヤトゥ・ル=イラーク)。通称は、{{Lang|ar|العراق}}(al-‘Irāq、アル=イラーク)。 <!--イラク南部に位置する古代メソポタミアの都市[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]が国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。--> 公式の英語表記は、{{Lang|en|Republic of Iraq}}(リパブリック・オブ・イラーク )。通称、{{Lang|en|Iraq}}(イラーク)。 日本語の表記は、'''イラク共和国'''。通称、'''イラク'''。 イラークという地名は伝統的に[[メソポタミア]]地方を指す「[[アラブ人]]のイラーク」(al-‘Irāq l-‘Arabī) と、[[ザグロス山脈]]周辺を指す「[[ペルシア人]]のイラーク」(al-‘Irāq l-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。 * [[1921年]] - [[1958年]]: [[イラク王国]] * 1958年 - 現在: イラク共和国 == 歴史 == {{main|イラクの歴史}} === メソポタミア === [[ファイル:Tableta_con_trillo.png|left|250px|thumb|キシュから出土した石灰岩の書き板 (紀元前3500年)]] 現イラクの国土は、歴史上の[[メソポタミア|メソポタミア文明]]が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野は[[チグリス川|ティグリス川]]と[[ユーフラテス川]]により形成された[[沖積平野]]で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから[[農業]]を営む定住民があらわれ、西の[[歴史的シリア|シリア地方]]および[[エジプト]]の[[ナイル川]]流域とあわせて「[[肥沃な三日月地帯]]」として知られている。[[紀元前4000年]]ごろから[[シュメール]]や[[アッカド]]、[[アッシリア]]、そして[[バビロニア]]など、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。 メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えば[[ガラス]]である。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついで[[エジプト]]が先行した。Qattara遺跡 (現イラク[[ニーナワー県]]の[[テル・アル・リマー]]) からは[[紀元前16世紀]]のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、[[ウル]]の王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、{{仮リンク|ヌジ|en|Nuzi}}遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。 {{Clearleft}} === ペルシアの支配 === {{main|アケメネス朝}} === ギリシャの支配 === {{main|マケドニア王国|セレウコス朝}} === ペルシアの支配 === {{main|[[パルティア|アルサケス朝]]|サーサーン朝}} === イスラム帝国 === 西暦[[634年]]、[[ハーリド・イブン=アル=ワリード]]の指揮のもと約18,000人の[[アラブ人]][[ムスリム]] (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、[[東ローマ帝国]]との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、[[イスラム帝国]]の支配下で[[アラビア半島]]からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。 [[8世紀]]には[[アッバース朝]]の[[カリフ]]がバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。 [[10世紀]]末に[[ブワイフ朝]]のエミール・{{仮リンク|アズド・ウッダウラ|en|'Adud al-Dawla}}は、第4代カリフの[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]の墓廟を[[ナジャフ]]に、また[[シーア派]]の第3代イマーム・[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]の墓廟を[[カルバラー]]に作った。 === モンゴル帝国 === [[ファイル:Hulagu Baghdad 1258.jpg|thumb|[[バグダードの戦い]] ([[1258年]])]] [[1258年]]にバグダードが[[モンゴル]]の[[フレグ|フレグ・ハン]]によって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、[[イラン高原]]を支配する諸王朝 ([[イルハン朝]]、[[ティムール朝]]など) の勢力下に入った。 === サファヴィー朝 === [[16世紀]]前半にイランに興った[[サファヴィー朝]]は、[[1514年]]の[[チャルディラーンの戦い]]によって[[クルド人]]の帰属を[[オスマン帝国|オスマン朝]]に奪われた。さらに[[オスマン帝国|オスマン朝]]とバグダードの領有を巡って争い、[[1534年]]にオスマン朝の[[スレイマン1世]]が征服した。 [[:en:Battle of DimDim]] ([[1609年]] - [[1610年]])。[[1616年]]にサファヴィー朝の[[アッバース1世]]と[[イギリス東インド会社]]の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人[[ロバート・シャーリー]]の指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。[[1622年]]、イングランド・ペルシア連合軍は[[ホルムズ占領 (1622年)|ホルムズ占領]]に成功し、[[イングランド王国]]は[[ペルシャ湾]]の[[制海権]]をポルトガル・スペインから奪取した。[[1624年]]にはサファヴィー朝の[[アッバース1世]]がバグダードを奪還した。しかし、[[1629年]]にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。 === オスマン帝国 === [[ファイル:1849 Mitchell Map of Turkey ( Iraq, Syria, Palestine ) - Geographicus - TurkeyAsia-m-1849.jpg|thumb|280px|オスマン帝国下の中近東地域 ([[1849年]])]] {{main|en:Ottoman Iraq|en:Mamluk rule in Iraq}} [[1638年]]、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。 [[18世紀]]以降、オスマン朝は[[東方問題]]と呼ばれる外交問題を抱えていたが、[[1853年]]の[[クリミア戦争]]を経て、[[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]で「[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、[[1890年]]にビスマルクが引退すると、2度の[[バルカン戦争]]が勃発し、[[第一次世界大戦]]を迎えた。[[19世紀]]の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、{{仮リンク|バグダード・ヴィライェト|en|Baghdad Vilayet|label=バグダード州}}と{{仮リンク|バスラ・ヴィライェト|en|Basra Vilayet|label=バスラ州}}、{{仮リンク|モースル・ヴィライェト|en|Mosul Vilayet|label=モースル州}}の3州として統治していた ([[オスマン帝国の行政区画]])。 一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、[[サバーハ家]]の[[ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ|ムバーラク]]大首長のもとで自治を行っていた[[ペルシア湾]]岸の[[クウェート]]は、[[1899年]]に寝返ってイギリスの[[保護国]]となった。 [[1901年]]に隣国[[ガージャール朝]]イランの[[マスジェデ・ソレイマーン]]で、初の中東石油採掘が行なわれ、[[モザッファロッディーン・シャー]]と{{仮リンク|ウィリアム・ノックス・ダーシー|en|William Knox D'Arcy|label=ウィリアム・ダーシー}}との間で60年間の石油採掘に関する{{仮リンク|ダーシー利権|en|D'Arcy Concession}}が結ばれた。[[1908年]]にダーシー利権に基づいて{{仮リンク|アングロ・イラニアン石油会社|en|Anglo-Persian Oil Company|label=アングロ・ペルシャン石油会社}}(APOC)が設立された。[[1912年]]に[[カルースト・グルベンキアン]]がアングロ・ペルシャン石油会社などの出資でトルコ石油会社 (TPC、{{仮リンク|イラク石油会社|en|Iraq Petroleum Company}}の前身) を立ち上げた。 <!-- 『イラクの旧社会階級と革命運動 イラクの旧地主および商人階級と共産主義者、バース主義者、自由将校の研究』という本を執筆したハンナ・バタートゥ氏は、イラクの王政が分裂した1921年から1958年までの期間について論じた。第1章では、イラクの階級区分の不明確な構造、アラブ人、クルド人、トルコ人、アルメニア人、アラム人、スンニ派のイスラム教徒、シーア派のイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ人、高官、シャイフ、ウラマー、貴族階級の役人などを取り込んだアイデンティティの集合体、土地所有の大きさ、所得や資本のレベル、階級の移動、そして最後にヨーロッパとの提携のレベルについて論じられている。著者は、「オスマン帝国下のイラクは、少なからず、自己中心的で相互に結びつきの弱い個別の社会で構成されていたが、一部には、金儲けと私有財産の拡大を志向する社会形態と、貴族の血筋や宗教の知識に価値を置く古い社会形態とが相互に浸透していた...また、町の外では、国家や共同体の部族形態や財産によって構成されていた」と述べている[https://aucegypt.summon.serialssolutions.com/#!/search?bookMark=eNqNjkEOgjAQAJsICaL8oT7ApAVK9eLFaPTO3aywIKa02hYSfi9-wDjXmcPEJNBG44LErNhzJtKcy5BEcscE50JGJHHuyWayGVksyaF8IDWqps5UHShaKXAOHQVdUz8ri6NRg--MBjvR3ozYo_aOmoZeLbzXJGxAOUxI4O2AK7I5n8rjZQtDhe308rcKPCjT3u6c8ZRLkae_mu9vnrPsn-YDNlNFBw 。] バタートゥ氏は、相対的に統一された国民的財産の下で存在していた階級は都市部にあったが、「初歩的な形で、広く認められた宗教共同体の中の構造にも並行して」存在しており、政治的な結びつきよりもむしろ経済的な結びつきに基づいた緩やかなものもあれば、さらに、孤立した自律的な都市国家と部族で構成された地域もあったことを明らかにしている [https://aucegypt.summon.serialssolutions.com/#!/search?bookMark=eNqNjkEOgjAQAJsICaL8oT7ApAVK9eLFaPTO3aywIKa02hYSfi9-wDjXmcPEJNBG44LErNhzJtKcy5BEcscE50JGJHHuyWayGVksyaF8IDWqps5UHShaKXAOHQVdUz8ri6NRg--MBjvR3ozYo_aOmoZeLbzXJGxAOUxI4O2AK7I5n8rjZQtDhe308rcKPCjT3u6c8ZRLkae_mu9vnrPsn-YDNlNFBw 。] 拡張主義やシャイフと高官の手による私有財産の集中などが増し、部族連合とマムルーク間の混乱があった [https://aucegypt.summon.serialssolutions.com/#!/search?bookMark=eNqNjkEOgjAQAJsICaL8oT7ApAVK9eLFaPTO3aywIKa02hYSfi9-wDjXmcPEJNBG44LErNhzJtKcy5BEcscE50JGJHHuyWayGVksyaF8IDWqps5UHShaKXAOHQVdUz8ri6NRg--MBjvR3ozYo_aOmoZeLbzXJGxAOUxI4O2AK7I5n8rjZQtDhe308rcKPCjT3u6c8ZRLkae_mu9vnrPsn-YDNlNFBw 。] 権力の集中化と強化を象徴している貨幣の役割、不動産、法的基盤、1858年および1932年の土地法によって、関係は親族関係は弱められ、物質的所有が強まっていった[https://aucegypt.summon.serialssolutions.com/#!/search?bookMark=eNqNjkEOgjAQAJsICaL8oT7ApAVK9eLFaPTO3aywIKa02hYSfi9-wDjXmcPEJNBG44LErNhzJtKcy5BEcscE50JGJHHuyWayGVksyaF8IDWqps5UHShaKXAOHQVdUz8ri6NRg--MBjvR3ozYo_aOmoZeLbzXJGxAOUxI4O2AK7I5n8rjZQtDhe308rcKPCjT3u6c8ZRLkae_mu9vnrPsn-YDNlNFBw 。] バタートゥ氏によると、都市部のアラブ人はイスラム教とオスマン帝国の法律に基づいて統治され、一方、部族のアラブ人は「イスラム教的な古代部族の慣習」に基づいて統治されていたという。都市や部族の違いに加えて、部族間の分離および都市間の分離があり、イスラム教の下では団結していても、シーア派とスンニ派の対立下では分裂し、別々のマハッラで生活しながら原始的な通信の下では疎遠になっていた(これが保護の形となっていた)。 --> === イギリス帝国 === [[ファイル:Sykes-Picot.svg|thumb|[[サイクス・ピコ協定]]による中東分割。イラクの大部分を含む赤の地域がイギリスの勢力圏とされた。]] [[第一次世界大戦]]では、[[クートの戦い]] ([[1915年]]12月7日 - [[1916年]]4月29日) で[[クート|クート・エル・アマラ]]が陥落すると、イギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の[[1916年]]5月16日に[[イギリス]]と[[フランス]]は、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するという[[サイクス・ピコ協定]]を結んだ。 [[1917年]]に入るとイギリス軍は攻勢に転じ、[[3月11日]]には{{仮リンク|バグダッド陥落 (1917年)|en|Fall of Baghdad (1917)|label=バグダッドが陥落した}}。しかし戦闘は北部を中心としてその後も行われた。 ====英仏による占領統治 ==== {{seealso|en:Occupied Enemy Territory Administration}} [[1918年]]10月30日、オスマン帝国が降伏 ([[ムドロス休戦協定]])。[[パリ講和会議]] ([[1919年]]1月18日 - [[1920年]]1月21日)。[[1919年]]4月、英仏間で石油に関する[[:en:Long–Bérenger Oil Agreement|サンレモ原油協定]]を締結。{{仮リンク|サン・レモ会議|en|San Remo conference}} ([[1920年]]4月19日 - 4月26日) で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、サンレモ原油協定(San Remo Oil Agreement)によってフランスはイラクでの25 %の石油利権を獲得した。[[トルコ革命]] ([[1919年]]5月19日 - [[1922年]]7月24日) が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、[[1920年]]6月に[[ナジャフ]]で{{仮リンク|イラク反英暴動|en|Iraqi revolt against the British|label=反英暴動}}が勃発する中、8月10日にイギリスは[[セーヴル条約]]により[[モースル]] ([[クルディスタン]]) を放棄させようとしたが、批准されなかった ({{仮リンク|モースル問題|en|Mosul Question}})。 [[1921年]]3月21日、[[ガートルード・ベル]]の意見によって[[トーマス・エドワード・ロレンス]]が押し切られ、今日の[[クルド人|クルド人問題]]が形成された ([[カイロ会議 (1921年)|カイロ会議]])。 ==== イギリス委任統治領メソポタミア ==== [[1921年]]8月23日に前述の3州をあわせて[[イギリス委任統治領メソポタミア]]を成立させて、大戦中の[[アラブ反乱|アラブ独立運動]]の指導者として知られる[[ハーシム家]]の[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル・イブン=フサイン]]を国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。 [[:en:Mahmud Barzanji revolts]]で{{仮リンク|クルディスタン王国|en|Kingdom of Kurdistan}} ([[1922年]] - [[1924年]]) を一時的に樹立。 [[1922年]]10月10日、[[:en:Anglo-Iraqi Treaty]] (イラク側の批准は1924年)。[[1923年]]7月24日、[[ローザンヌ条約]]で[[トルコ|トルコ共和国]]との国境が確定し、[[北クルディスタン]]が切り離された。[[1927年]]10月14日、{{仮リンク|ババ・グルグル|en|Baba Gurgur}}で[[キルクーク油田]]を発見。[[1928年]]、イギリスとトルコが[[赤線協定]]を締結。[[1929年]]、イギリスが{{仮リンク|イラク石油会社|en|Iraq Petroleum Company}} (IPC) を設立。[[1930年]]6月30日、[[:en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)]]でイラク石油会社の石油利権を改正。[[:en:Ahmed Barzani revolt]] ([[1931年]] - [[1932年]])。 ==== 王政 ==== {{main|イラク王国}} ハーシム王家は[[イギリス]]の支援のもとで中央集権化を進め、[[スンナ派]]を中心とする国家運営を始め、[[1932年]]には'''[[イラク王国]]'''として[[独立]]を達成した。 一方、{{仮リンク|アングロ・ペルシャ石油|en|Anglo-Persian Oil Company}}と[[メロン財閥]]傘下の[[ガルフ石油]]とが共同出資して[[1934年]]に[[クウェート石油会社]]を設立。[[1938年]]、クウェート石油は[[ブルガン油田]]を発見した。 [[1941年]][[4月1日]]、{{仮リンク|イラク・クーデター (1941年)|en|1941 Iraqi coup d'état|label=イラク・クーデター}}により{{仮リンク|ラシード・アリー・アル=ガイラーニー|en|Rashid Ali al-Gaylani}}のクーデター政権が出来たが、 [[5月2日]]、イラク軍とイギリス軍との間で交戦状態となった<ref>イラク軍、領内の英軍基地を攻撃(『東京日日新聞』昭和16年5月4日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p389 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>{{仮リンク|イギリス・イラク戦争|en|Anglo-Iraqi War|label=イラク戦役}}で崩壊した。6月、[[シリア・レバノン戦役]]。8月、[[イラン進駐 (1941年)|イラン進駐]]。 [[1943年]]、[[:en:1943 Barzani revolt]]。[[1945年]]12月、[[ムッラー]]・{{仮リンク|ムスタファ・バルザーニー|en|Mustafa Barzani}}が[[ソ連]]占領下の北西部[[マハーバード]]で[[クルド人]]独立を求めて蜂起し、翌年[[マハバード共和国|クルディスタン共和国]]を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 ([[:en:Iran crisis of 1946]])。バルザーニーはソ連に亡命し、[[1946年]]8月16日に[[クルディスタン民主党]]結成。 [[1948年]]、[[:en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)]]。[[5月15日]]、[[第一次中東戦争]] ([[1948年]] - [[1949年]]) が勃発。 [[1955年]]、[[中央条約機構|中東条約機構]] (METO) に加盟。 [[1956年]][[10月29日]]、エジプトによる[[スエズ運河]]国有化に端を発する[[第二次中東戦争]] ([[1956年]] - [[1957年]]) が勃発。[[アブドルカリーム・カーシム]]ら{{仮リンク|自由将校団 (イラク)|en|Homeland Officers' Organization}}が参戦している。中東情勢の激化に伴い[[石油タンカー#スーパータンカーの時代|スーパータンカー]]が登場した。 ==== アラブ連邦 ==== [[1958年]]には[[エジプト]]とシリアによって結成された[[アラブ連合共和国]]に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンと[[アラブ連邦]]を結成した。 === イラク共和国 (第一共和政) === {{main|[[:en:History of Iraq under Qasim and the rise of Arab nationalism|Republic of Iraq]]}} ==== カーシム政権 ==== [[1958年]]7月14日、{{仮リンク|自由将校団 (イラク)|en|Homeland Officers' Organization}}の[[クーデター]]によって倒され ([[7月14日革命]])、[[ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー]]大統領と[[アブドルカリーム・カーシム]]首相による[[共和制]]が成立{{efn2|3名の主権評議会、カーシムが首相・国防・最高司令官を兼任、アーリフを副首相兼内務大臣、自由将校団から数名登用、国民民主党・[[バアス党]]・共産党から文民の登用。カーシムはイラク民族主義を基本とする社会改革を目指した。アーリフはアラブ民族主義者。}}。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、[[1958年]]10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。 [[1959年]]3月7日、[[アラブ連合共和国]]が支援する親エジプト派が蜂起した{{仮リンク|モースル蜂起 (1959年)|en|1959 Mosul Uprising|label=モースル蜂起}}が勃発。3月24日、中東条約機構 (METO) を脱退。 [[1960年]]9月、カーシム首相がイラク石油会社 (IPC) の国有化を発表。1960年9月14日、バグダッドで[[石油輸出国機構]](OPEC)結成。[[1961年]]6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムが[[クウェート]]併合に言及すると、7月1日に[[イギリス軍]]が[[:en:Operation Vantage]]を発動し、独立を支援した。 9月11日、{{仮リンク|第一次クルド・イラク戦争|en|First Kurdish–Iraqi War}} ([[1961年]] - [[1970年]]) が勃発した。 === イラク共和国 (第二共和政) === ==== 第1次バアス党政権 (アル=バクル政権) ==== [[1963年]]2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された ([[ラマダーン革命]])。大統領には[[アブドッサラーム・アーリフ|アブドゥッサラーム・アーリフ]]、首相には[[アフマド・ハサン・アル=バクル]]が就任した。 ==== アーリフ兄弟政権 ==== [[1963年]]11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発 ([[1963年11月イラククーデター]])。 [[1966年]]4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領に[[アブドッラフマーン・アーリフ]]が就任。親エジプト派として[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナーセル]]を支持し、[[1967年]]にアメリカとの国交を断絶。 6月、[[第三次中東戦争]]。 === バアス党政権 (第三共和政) === {{main|バアス党政権 (イラク)}} ==== 第2次バアス党政権 (アル=バクル政権) ==== [[1968年]]7月17日に[[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]]が発足 ([[7月17日革命]])、アフマド・ハサン・アル=バクルが大統領に就任した。 [[1970年]]3月11日、[[:en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970]]で[[クルディスタン地域]] ([[アルビール県]]、[[ドホーク県]]、[[スレイマニヤ県]]) を設置。石油を産出する[[ニーナワー県]]と[[キルクーク県]]は含まれなかった。[[1972年]]に[[ソビエト連邦]]と友好条約を締結。 [[1973年]]10月、[[第四次中東戦争]]に参戦。同年10月16日、イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動し、[[オイルショック]]が引き起こされた。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して{{仮リンク|第二次クルド・イラク戦争|en|Second Kurdish–Iraqi War}} ([[1974年]] - [[1975年]]) が勃発。[[ペシュメルガ]]などを含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いた[[サッダーム・フセイン]]が実権を掌握した。 ==== サッダーム・フセイン政権 ==== [[1979年]]7月16日にサッダームが[[大統領]]に就任した。就任直後には[[クーデター]]が計画されたが未遂に終わり、同年7月30日までに34人が処刑、約250人が逮捕された<ref>足場固めるフセイン体制 反対派一掃をねらう『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月31日朝刊 13版 7面</ref>。 [[1980年]]に[[イラン・イラク戦争]]が開戦して1988年まで続けられた。 [[1990年]]8月に[[クウェート侵攻]]後、[[1991年]]に[[湾岸戦争]]となり敗北した。 {{main|イラク戦争の年表}} [[イラク武装解除問題]] ([[1991年]] - [[2003年]])。[[:en:Curveball (informant)]]による{{仮リンク|イラクと大量破壊兵器|en|iraq and weapons of mass destruction|label=大量破壊兵器}}情報。[[2003年]]3月、[[イラク戦争]]に敗れてサッダームも死亡し、バアス党政権体制は崩壊した。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「[[石油食料交換プログラム]]」が関与していた[[イラク武装解除問題#国連汚職問題|国連汚職問題]]が発覚した。 === バアス党政権崩壊後 === {{独自研究|section=1|date=2009年9月}} ==== 連合国暫定当局(米英共同統治) ==== 旧イラク共和国の滅亡後は、アメリカ・イギリスを中心とする[[連合国暫定当局|連合国暫定当局(CPA)]]によって統治されることとなり([[2003年]]4月21日 - [[2004年]]6月28日)、正式な併合・編入こそ行われなかったものの実質的に[[アメリカ合衆国の海外領土]]に組み込まれた。[[イラク戦争]]終結後も[[スンニー・トライアングル]]で暫定当局に対する激しい抵抗があったが、[[2003年]]12月13日の{{仮リンク|赤い夜明け作戦|en|Operation Red Dawn}}では[[サッダーム・フセイン]]が[[ダウル]]で拘束された。[[2004年]]4月、[[ファルージャの戦闘]]でCPA側が圧勝する。 ==== イラク暫定政権 ==== [[ファイル:Iraq-patrol.jpg|thumb|right|250px|イラクをパトロールするアメリカ軍 (2005年6月)]] [[2004年]]6月28日、[[イラク暫定政権|暫定政権]]に主権が移譲された。同時に有志連合軍は[[国際連合]]の多国籍軍となり、治安維持などに従事した。8月にはシーア派政治組織「{{仮リンク|サドル潮流|en|Sadrist Movement}}」の[[ムクタダー・アッ=サドル|ムクタダー・サドル]]率いる民兵組織「[[マフディー軍]]」が影響力を高めた。 暫定政権は国連安全保障理事会が採択した、イラク再建復興プロセスに基づいて、[[2005年]]1月30日にイラクで初めての暫定[[議会]][[選挙]]を実施し<ref name="jamofa-iraq">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html 外務省>各国・地域情勢>中東>イラク共和国>基礎データ ]</ref>、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。[[4月7日]]に[[ジャラル・タラバニ]]が初の[[クルド人]]大統領に就任。[[イラク移行政府|移行政府]]が4月28日に発足し、10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された<ref name="jamofa-iraq" />。 === 新・イラク共和国(第四共和政) === ==== シーア派政権 ==== [[2005年]][[12月15日]]に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた<ref name="jamofa-iraq" /> ([[:en:Iraqi parliamentary election, December 2005|en:Iraqi parliamentary election]])。[[2006年]]3月16日に議会が開会し、[[2006年]]4月22日に[[シーア派]]政党連合の{{仮リンク|統一イラク同盟|en|National Iraqi Alliance}} (UIA) が[[ヌーリー・マーリキー|ヌーリー・アル=マーリキー]]を首相に選出、[[5月20日]]に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる[[イラク正式政府|正式政府]]が議会に承認されて発足し<ref name="jamofa-iraq" />、イラク共和国として再独立を果たした。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足である。[[2006年]]12月30日、[[サッダーム・フセインの死刑執行]]。 [[2008年]]3月にはムクタダー・サドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり ({{仮リンク|バスラの戦い (2008年)|en|Battle of Basra (2008)|label=バスラの戦い}})、[[イラク戦争#スンナ派とシーア派の対立、シーア派内部の対立|シーア派内部の対立]]が顕在化した。 世俗派の政党連合「{{仮リンク|イラク国民運動|en|Iraqi National Movement}}」を構成する{{仮リンク|イラク合意戦線|en|Iraqi Accord Front}}は[[2010年]]2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためである<ref>{{Cite news|date=2010-02-20|url=http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100220/mds1002202148007-n1.htm|title=スンニ派政党、不参加表明 イラク総選挙 |newspaper=MSN産経ニュース |agency=共同通信 |accessdate=2011-01-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100303081312/http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100220/mds1002202148007-n1.htm |archivedate=2010-03-03}}</ref>が、後に合意戦線は、ボイコットを撤回した。[[2010年]]3月7日に第2回議会選挙が行われた ([[:en:Iraqi parliamentary election, 2010|en:Iraqi parliamentary election]])。[[イヤード・アッラーウィー|アッラーウィー]]の世俗会派イラク国民運動が第1党 (91議席) となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった (89議席)。しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。その後司法判断が下され、「選挙結果は正当」となった。 ==== アメリカ軍撤退後 ==== {{Seealso|ISIL#歴史|シリア内戦}} 2010年8月19日までに{{仮リンク|駐留アメリカ軍戦闘部隊のイラク撤退 (2007年 – 2011年)|en|Withdrawal of U.S. troops from Iraq (2007–2011)|label=駐留アメリカ軍戦闘部隊が撤退}}、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍も2011年末に撤退した<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM15013_V11C11A2000000/ |title=オバマ大統領、イラク戦争終結を宣言 米兵前に演説 |newspaper=日本経済新聞 電子版 |publisher=日本経済新聞社 |date=2011-12-15}}</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2846135?pid=8205181 バグダッドで米軍撤収の式典] AFPBB News 2011年12月16日</ref><ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE7BE00L20111215 米大統領がイラク戦争終結を宣言、「多大な業績」と評価] ロイター 2011年12月15日</ref>。 2010年11月に議会は、[[ジャラル・タラバニ|タラバニ]]を大統領に、マーリキーを首相に、ヌジャイフィを国会議長に選出し<ref name="jamofa-iraq" />、マーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して、12月に第二次マーリキー政権が発足した<ref name="jamofa-iraq" />。 2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりであった。<ref>{{cite news |title=イラク内務省前で自爆テロ、死傷者44人 検問所6カ所通過 |newspaper=CNN.co.jp |date=2011-12-27 |url=http://www.cnn.co.jp/world/30005061.html |accessdate=2011-12-31}}{{リンク切れ|date=2016年8月}}</ref>。 2017年8月31日、[[ISIL]]によって支配されていたイラク北部の都市タッル・アファルでの戦闘に勝利し解放を宣言<ref>『[http://oneboxnews.com/articles/iraq-won-isis-with-tal-afar-2017-8 イラク政府はタッル・アファルのISISからの解放を宣言]』 2017年9月1日 [[Onebox News]]</ref>。 2017年12月9日、アバーディ首相は、ISILからイラク全土を解放したと発表した。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|イラクの政治|en|Politics of Iraq}}}} [[ファイル:Baghdad Convention Center inside.jpg|thumb|バグダード・コンベンション・センター]] [[2005年]][[10月15日]]の[[国民投票]]で承認された[[イラク憲法]]では、県と地域から構成された[[連邦国家]]と定義されているが、現在でもクルディスタン地域 (定義上では「自治区」ではなく「連邦構成体」が正しい) を除いて政府から自治権を移譲された県はないため、連邦制自体が全土で浸透していないという。<ref>[http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/2013-12/josei06.pdf イラク・クルディスタンの変わりゆく勢力構図-第4回議会選挙の結果から-]</ref> === 元首 === [[元首|国家元首]]の役割を果たすのは共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、[[スンナ派]] (スンニ派)、[[シーア派]]、[[クルド人]]から各1名ずつが立法府によって選ばれる。大統領は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。大統領宮殿位置は{{ウィキ座標度分秒|33|17|03|N|044|15|22|E|}}に位置している。 === 行政 === 行政府の長である[[イラクの首相|首相]]は、議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名 (首相・副首相を除く)。 === 立法 === {{Main|{{仮リンク|イラクの政党|en|List of political parties in Iraq}}}} [[一院制]]で[[国民議会 (イラク)|国民議会]]がある。任期4年で、定数は329(2018年現在)。第1回総選挙が2005年[[12月15日]]に行われた。 第4回総選挙は[[2018年]][[5月12日]]に行われた。 [[2018年]]現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り<ref name="2018年イラク国民議会選挙結果">{{Cite web|和書|author=吉岡明子|url=https://dbmedm06.aa-ken.jp/archives/98|title=イラク/選挙|date=2019-01-18|website=中東・イスラーム諸国の政治変動|publisher=NIHUプログラム現代中東研究・政治変動研究会|accessdate=2020-05-30}}</ref>。 * {{仮リンク|サーイルーン|en|Alliance Towards Reforms}}‐54 (宗教法学者[[ムクタダ・サドル]]が率いる政治潮流サドル派) * {{仮リンク|ファタハ連合|en|Fatah Alliance}}‐48 (対[[ISIL|IS]]戦において軍事面で活躍した[[義勇兵]]組織、人民動員部隊を母体とする政党。主に[[シーア派]]) * {{仮リンク|勝利連合|en|Victory Alliance}}‐42 ([[ハイダル・アル=アバーディ|アバーディ]]元首相が率いている政党連合。主にシーア派) * [[クルディスタン民主党]]‐25 ([[クルド人|クルド民族]]主義政党。[[エルビル]]や[[ドホーク]]などを地盤とする。) * {{仮リンク|法治国家連合|en|State of Law Coalition}}‐25 ([[ヌーリー・マーリキー|マーリキー]]元首相の会派) * {{仮リンク|ワタニーヤ|en|Al-Wataniya}}‐21 ([[イヤード・アッラーウィー|アッラーウィ]]副大統領率いる世俗政党。但し、サリーム・ジュブーリ国会議長率いる「改革のための市民集会」、サーレハ・ムトゥラク元副首相率いる「国民対話戦線」など、複数の[[スンナ派]]政党を取り込んでいる。) * {{仮リンク|ヒクマ潮流|en|National Wisdom Movement}}‐19 (ISCI(イラク・イスラーム最高評議会)党首のアンマール・ハキームが2017年7月に立ち上げた新党。[[ハキーム]]家と関わりが深い。) * [[クルディスタン愛国同盟]]‐18 ([[スレイマニヤ県]]や[[キルクーク県]]を地盤とする政党。党の創設者であり長年党首を務めていた[[ジャラル・タラバニ]]が2017年10月に死去したが、党内の分裂が激しく新党首を選出できていない。) * {{仮リンク|イラクの決定連合|en|Muttahidoon}}‐14 (スンナ派政党。スンナ派住民が多いバグダードと中部5県を中心に出馬しているものの、いずれも党としての歴史が浅く組織力も弱い。そのため、選挙のために県ごとに様々な政党連合が組まれ、入れ替わりも激しい。) また、反政府[[デモ活動]]により、早期選挙が求められている<ref>{{Cite news|title=イラク大統領、総選挙の早期実施を表明|newspaper=[[日本経済新聞]]|language=日本語|date=2019-11-01|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51698900R01C19A1FF8000/|accessdate=2020-05-30}}</ref>。 === 司法 === {{Main|{{仮リンク|イラクの法律|en|Law of Iraq}}}} {{see also|{{仮リンク|イラク共和国憲法|en|Constitution of Iraq}}}} {{Empty section|date=2018年1月}} == 軍事 == {{main|イラク治安部隊}} 2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。 クルド地方3県 (エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県 (ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県) 及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 (スンニ派) が治安維持に貢献しているとされる。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|イラクの国際関係|en|Foreign relations of Iraq}}}} イランとは、[[イラク戦争]]で[[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]]が崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。また、同じ[[シーア派]]ということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親[[イラン]]傾向が強まっている。 [[エジプト]]とは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。[[イラン・イラク戦争]]での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの[[石油食料交換プログラム|石油と食糧の交換計画]]の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。 シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。[[レバノン内戦]]においては[[パレスチナ解放機構|PLO]]への支援を行ない、1980年代後半には反シリアの[[キリスト教]]徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、[[多国籍軍]]に[[機甲師団|機甲部隊]]と[[特殊部隊]]を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になって[[バッシャール・アル=アサド]]が大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。 ヨルダンは、イラン・イラク戦争および[[湾岸戦争]]でイラクを支持したため、両国の関係は強まった。1999年に[[アブドゥッラー2世]]が即位して以降も依然として良好である。 イスラエルは、1948年、1967年、1973年の[[中東戦争]]に参戦し、強硬な態度を取った。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ (この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択された[[フェス憲章]] (Fez Initiative) にも支持を表明した。ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設を[[スカッド・ミサイル]]で攻撃した。 === 日本との関係 === {{main|日本とイラクの関係}} == 地理 == {{main|{{仮リンク|イラクの地理|en|Geography of Iraq}}}} [[ファイル:Iraq Topography.png|right|300px|thumb|イラク地形の 高度分布。イラン国境のザグロス山脈南方にティグリス川とユーフラテス川が形成した広大な低地が広がっている。]] [[ファイル:Haifa street, as seen from the medical city hospital across the tigres.jpg|thumb|right|ティグリス川とバグダード市街]] イラクの地理について、国土の範囲、地形、地質構造、陸水、気候の順に説明する。 イラクの国土は東西870 km、南北920 kmに及ぶ。国土の西端は[[シリア砂漠]]にあり、シリア、ヨルダンとの国境 ({{Coord|33|22||N|38|47||E|display=inline}}) である。北端はトルコとの国境 ({{Coord|37|23||N|42|47||E|display=inline}}) で、[[クルディスタン山脈]]に位置する。東端は[[ペルシア湾|ペルシャ湾]]沿いの河口 ({{Coord|29|53||N|48|39||E|display=inline}})。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境 ({{Coord|29|03||N|46|25||E|display=inline}}) の一部である。 イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる2 本の大河、南側の[[ユーフラテス川]]と北側の[[チグリス川|ティグリス川]]である。ユーフラテス川の南側は、[[シリア砂漠]]と[[ネフド砂漠]]が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は高度1000 mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。2 本の大河周辺は[[メソポタミア平原]]が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流の[[ジャズィーラ|アルジャジーラ平原]]である。2 本の大河はクルナの南で合流し、[[シャットゥルアラブ川]]となる。クルナからは直線距離にして約160 km、川の長さにして190 km流れ下り、ペルシャ湾に達する。 ティグリス川の東は高度が上がり、イランの[[ザグロス山脈]]に至る。バグダードと同緯度では400 mから500 m程度である。イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の尾根が国境線となっているからである。イラク最高峰の[[:en:Cheekha Dar<!-- [[:ja:シェーハ・ダー山]] とリンク -->]](3611 m){{efn2|かつてはハジ・イブラヒーム山(3600 m)が最高峰とされていた。}}もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30 km四方にイラクで最も高い山々が見られる。 アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して地形を圧縮し、ペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈を形成した。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000 mに達する峰々が存在する。ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された原因も、[[ヒマラヤ山脈]]の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、[[プレートテクトニクス]]で説明されている。ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200 kmにも伸びる{{仮リンク|ハンマール湖|en|Lake Hammar}}が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯には{{仮リンク|マーシュ・アラブ|en|Marsh Arabs|label=マーシュ・アラブ族}} (沼沢地アラブ) と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと[[スイギュウ|水牛]]を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は 1/10 程度まで縮小している。 イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がる{{仮リンク|ミル湖|en|Lake Milh}}である。[[ネフド砂漠]]から連なる[[アルガダーフ・ワジ]] (Wadi al-Ghadaf) など複数の[[ワジ]]と地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長い[[アルウィバード・ワジ]]は本流の長さだけでも400 kmを上回り、4 本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジは[[ハウラーン・ワジ]] (Wadi Hawran) であり、480 kmに達する。 [[ファイル:ClimateBaghdadIraq.PNG|right|300px|thumb|バグダッド (標高34 m) の月別最高・最低気温 (赤棒) と平均降水量 (青棒)]] イラクの気候は、ほぼ全土にわたり[[砂漠気候]]に分類される。ティグリス川の北岸から北は[[ステップ気候]]、さらに[[地中海性気候]]に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、[[熱赤道]]が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50 度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30 度を上回ることは珍しい。一方、北部山岳地帯の冬は寒く、しばしば多量の降雪があり、甚大な洪水を引き起こす。 [[1921年]]に53.8 度の最高気温を記録したバスラは30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バグダードの平均気温は8.5 度 (1月)、34.2 度 (7月)。年降水量は僅かに140 mmである。 === 動物 === 砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物は[[レイヨウ]]、次いで[[ガゼル属|ガゼル]]である。肉食獣としては、[[ジャッカル]]、[[ハイエナ]]、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、[[トビネズミ]]、モグラ、[[ヤマアラシ]]が分布する。 鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。[[ウズラ]] (水鳥でも捕食者でもない)、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、[[ワタリガラス]]が代表。 === 植物 === ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ ''Astragalus gummifer'' である。樹皮から分布される樹脂を[[アラビアガム]]として利用するほか、香料として利用されている。聖書の[[創世記]]にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ ''Erodium cicutarium''、大輪の花が目立つ[[ハンニチバナ科]]の草、ヨーロッパ原産の[[ムシトリナデシコ]]が見られる。 ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、[[クコ]]、[[ハス]]、[[パピルス]]、[[ヨシ]]が密生する。土手には[[ハンノキ]]、ポプラ、ヤナギも見られる。 ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ ''Quercus aegilips'' が有用。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物は[[ナツメヤシ]]である。戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。 == 地方行政区画 == {{Main|イラクの地方行政区画|イラクの都市の一覧}} [[ファイル:Iraqi Governorates (numbered).png|right|イラクの地方行政区画]] 18の県 (「州」と呼ぶこともある) に分かれる。 # [[バグダード県]] - 県都[[バグダード]] # [[サラーフッディーン県]] - 県都[[ティクリート]] # [[ディヤーラー県]] - 県都[[バアクーバ]] (「バゥクーバ」とも) # [[ワーシト県]] - 県都[[クート]] # [[マイサーン県]] - 県都[[アマーラ]] # [[バスラ県]] - 県都[[バスラ]] # [[ジーカール県]] - 県都[[ナーシリーヤ]] # [[ムサンナー県]] - 県都[[サマーワ]] # [[カーディーシーヤ県]] - 県都[[ディーワーニーヤ]] # [[バービル県]] - 県都[[ヒッラ]] # [[カルバラー県]] - 県都[[カルバラー]] # [[ナジャフ県]] - 県都[[ナジャフ]] # [[アンバール県]] - 県都[[ラマーディー]] # [[ニーナワー県]] - 県都[[モースル]] (「マウシル」とも) # [[ドホーク県]] - 県都[[ドホーク]] # [[アルビール県]] - 県都[[アルビール]] # [[キルクーク県]] - 県都[[キルクーク]] # [[スレイマニヤ県]] - 県都[[スレイマニヤ]] == 経済 == {{main|{{仮リンク|イラクの経済|en|Economy of Iraq}}}} [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2020年]]の[[国内総生産|GDP]]は1695億ドルである<ref name="imf202110" />。一人当たりのGDPは4223ドルで、隣国の[[ヨルダン]]と同等の水準であるが、産油国が多い中東ではやや低い数値である。 通貨は[[イラク戦争]]後の[[連合国暫定当局|イラク暫定統治機構 (CPA)]] 統治下の[[2003年]]10月15日から導入されたイラク新ディナール([[ISO 4217|IQD]])。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円。<ref>Foreign Policy:[https://web.archive.org/web/20070616005257/http://www.foreignpolicy.com/story/cms.php?story_id=3880 The List: The World’s Worst Currencies](2007年6月16日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])<br />{{Cite news |url=http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070619_worlds_worst_currencies/ |title=世界で最も価値の低い通貨トップ5 |newspaper=GIGAZINE |date=2007-06-19}}</ref> イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年に[[キルクーク]]で発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。 1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリス[[BP (企業)|BP]]のもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。 第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50 %がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後[[ソ連]]に接近、南部最大の[[ルメイラ油田]]がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。[[石油危機]]による原油高の追い風で1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長で当時のイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった<ref>{{cite book | author = Alnasrawi, Abbas | page = [https://books.google.no/books?id=VxMKNYNzUbIC&pg=PA80 80] | title = The Economy of Iraq: Oil, Wars, Destruction of development and Prospects, 1950–2010 | location = | publisher = [[ABC-CLIO]] | year = 1994 | isbn = 0-313-29186-1}}</ref><ref>Alnasrawi 1994 , p. 80</ref>。 1980年に始まった[[イラン・イラク戦争]]が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、[[原油価格]]の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。 1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとする[[クウェート共和国|暫定自由政府]]の要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。 <div style="background: white; border: 1px solid black; padding: 1em;margin: 0 3em;"> イラクの原油生産量、単位: 万トン (United Nations ''Statistical Yearbook'') * 1927年 - 4.5 (イラクにおける石油の発見) * 1930年 - 12.1 * 1938年 - 429.8 * 1940年 - 251.4 * 1950年 - 658.4 (石油の利益の1/2がイラクに還元) * 1960年 - 4,746.7 * 1970年 - 7,645.7 * 1972年 - 7,112.5 (油田と付帯施設を国有化) * 1975年 - 11,116.8 * 1986年 - 8265.0 (イラン・イラク戦争による被害) * 1990年 - 10,064.0 * 1993年 - 3,230.0 (湾岸戦争による被害) * 1997年 - 5,650.0 * 2003年 - 19,000.0 (イラク戦争終結時) </div> イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。<!-- 古くから外貨の95 %がこの原油の交易によってもたらされていた。-->8年間にわたる[[イラン・イラク戦争]]による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。 [[1990年]]8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な[[対イラク経済制裁|経済制裁]]が加えられ、1991年1月に始まった[[多国籍軍]]による戦闘行為 ([[湾岸戦争]]) で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。 1996年12月に[[国際連合|国連]]の[[石油と食糧の交換計画]]実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、[[国連安全保障委員会]]はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。<ref>[[#トリップ|トリップ(2004) 406ページ]]</ref>。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。 === 農業 === [[ファイル:Dates_on_date_palm.jpg|left|150px|thumb|デーツを実らせたナツメヤシ]] [[ファイル:Barrages irakiens.png|right|300px|thumb|イラクの水利システム 複数のダム (barrage) と灌漑水路、排水路を組合せて乾燥地、沼地のいずれも農地に変えていった]] [[国際連合世界食糧計画|世界食糧計画]] (WFP) の統計 (2003年) によると、イラクの農地は国土の13.8 %を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8 %という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。 農業従事者の割合は低く、全国民の2.2 %にあたる62 万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2 haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。 同2005年の統計によると、主要穀物では[[コムギ|小麦]] (220 万トン)、次いで[[オオムギ|大麦]] (130 万トン) の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に、[[米]]の生産量は13 万トンと少ない。 野菜・果実ではトマト (100 万トン)、ぶどう (33 万トン) が顕著である。商品作物としては[[ナツメヤシ]] (87 万トン) が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6 %を占める。畜産業では、ヤギ (165万頭)、ウシ (150 万頭) が主力である。 ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000 年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバグダードのナツメヤシが有力。バスラには800 万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バグダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。 イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 (Khalaseh)、ハラウィ種 (Halawi)、カドラウィ種 (Khadrawi)、ザヒディ種 (Zahidi) である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバグダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。 === 工業 === イラクの[[工業]]は自給的であり、[[食品工業]]、[[化学工業]]を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。[[繊維産業]]も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1 %から2 %に達する (2002年時点で1.6 %)。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。 製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。 === エネルギー === {{main|{{仮リンク|イラクのエネルギー|en|Energy in Iraq}}}} [[ファイル:Tankers at the Iraqi Al Basra Oil Terminal in the Northern Arabian Gulf.jpg|thumb|[[バスラ]]のオイルターミナルに接岸する[[タンカー]]]] 原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。米国エネルギー省は埋蔵量の90 %が未開発で、掘られた石油井戸はまだ2,000 本に過ぎないと推定。 2009年時点の総発電量461億kWhの93 %は石油による火力発電でまかなっている。残りの7 %はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。 イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。 === 貿易 === イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9 %、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1 %であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。 輸出品目別では、原油83.9 %、石油 (原料) 8.0 %、食品5.0 %、石油化学製品1.0 %である。食品に分類されている品目はほとんどが[[ナツメヤシ|デーツ]]である。輸入品目別では、機械73.1 %、基礎的な工業製品16.1 %、食品5.0 %、化学工業製品1.0 %。 貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6 %、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6 %、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。 イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1 %と高かったにもかかわらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9 %と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|イラクの交通|en|Transport in Iraq}}}} イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200 km。旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。 イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。 バグダードと[[アナトリア半島]]中央南部の[[コンヤ]]を結ぶイラク初の鉄道路線([[バグダード鉄道]])はドイツによって建設された。バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年に[[中華人民共和国]]から時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な[[中国中車青島四方機車車輛|青島四方機車車輛]]製の高速車両が導入された<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2014/03/27/iraq-trains/ |title=イラク鉄道に中国製の新型高速列車|publisher=[[WIRED (雑誌)|WIRED]] |date=2014-03-24 | accessdate=2018-08-28}}</ref>([[バグダード=バスラ高速鉄道路線]])。 一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台 (うち65万台が乗用車) に留まる。舗装道路の総延長距離も8400 kmに留まる。 {{see also|イラクの鉄道|イラクの空港の一覧}} == 国民 == {{main|{{仮リンク|イラクの人口統計|en|Demographics of Iraq}}}} [[ファイル:Iraqi_girl_smiles.jpg|thumb|right|250px|[[バグダード]]に住むイラクの少女 (2003年5月)]] === 民族 === {{main|{{仮リンク|イラク人|en|Iraqis|preserve=1}}|{{仮リンク|イラクの少数民族|en|Minorities in Iraq}}}} {{bar box |title=民族構成 (イラク) |titlebar=#ddd |width=300px |float=right |bars= {{bar percent|[[アラブ人]]|brown|79}} {{bar percent|[[クルド人]]|green|16}} {{bar percent|[[アッシリア人]]|blue|3}} {{bar percent|[[トルコマン人]]|Purple|2}} }} 国連の統計によれば、住民は[[アラブ人]]が79%、[[クルド人]]16%、[[アッシリア人]]3%、[[トルコマン人]]([[テュルク|テュルク系]])2%である。[[ユダヤ人]]も存在していたが、[[イスラエル]]建国に伴う[[アラブ民族主義]]の高まりと[[反ユダヤ主義]]の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。 かつては、[[スーダン]]からの出稼ぎ労働者や[[パレスチナ難民]]も暮らしていたが、イラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが、国外に出国するか[[国内難民]]となっている。また、[[イラン革命]]を逃れたイラン人がイラク中部の{{仮リンク|キャンプ・アシュラーフ|en|Camp Ashraf}}と呼ばれる町に定住している。 イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。 マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。 南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。 また、[[アフリカ大陸]]にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。 === 言語 === {{main|[[イラクの言語]]}} [[アラビア語]]、[[クルド語]]が公用語である。2004年の[[イラク憲法]]改正以来クルド語がアラビア語と共に正式な公用語に追加された。その他[[アルメニア語]]、[[アゼリー語]]や[[アラム語|現代アラム語]] (アッシリア語) なども少数ながら使われている。 書き言葉としてのアラビア語 ([[フスハー]]) は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからである。しかし、話し言葉としてのアラビア語 ([[アーンミーヤ]]) は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのは[[アラビア語イラク方言|イラク方言]]である。ただし、イラク国内で共通語となっているバグダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|イラクの教育|en|Education in Iraq}}}} イラクにおける教育制度は、伝統的な[[クルアーン|コーラン]]を学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、[[義務教育]]が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備課程を修了する必要がある。首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。 === 婚姻 === 通常は婚姻時に改姓することはない([[夫婦別姓]])が、西欧風に夫の姓に改姓する女性もいる<ref name=guide2006>[https://www.fbiic.gov/public/2008/nov/Naming_practice_guide_UK_2006.pdf A Guide to Name and Naming Practices], March 2006.</ref>。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|イラクの保健|en|Health in Iraq}}}} ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|イラクの医療|en|Healthcare in Iraq}}}} == 宗教 == {{main|{{仮リンク|イラクの宗教|en|Religion in Iraq}}}} {{bar box |title=宗教構成 (イラク)<ref name=cia /> |titlebar=#ddd |width=380px |float=right |bars= {{bar percent|[[イスラム教]] ([[シーア派]])|yellowgreen|63|59.4 - 64.4 %}} {{bar percent|[[イスラム教]] ([[スンナ派]])|green|35|31.7 - 36.6 %}} {{bar percent|[[キリスト教]]諸派|blue|1|0.8 %}} {{bar percent|その他|red|1|0.2 %}} }} [[イスラム教]]が国民の 99 %を占め、次いで[[キリスト教]] 0.8 %、[[ヒンドゥー教]] 、その他 (0.2 % 以下) である。イスラム教徒の内訳は[[シーア派]] 60 - 65 %、[[スンナ派]] 32 - 37 % である<ref name=cia> {{cite web |url = https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/iz.html |title = Iraq |work = CIA Factbook |publisher = [[中央情報局|米国中央情報局]] |accessdate= 2015-05-06 }}</ref>。 キリスト教([[カトリック教会|カトリック]]、[[正教会|東方正教会]]、[[アッシリア東方教会]]など)はアッシリア人と少数民族に限られている。1987年の時点では140万人(全体の8%)のキリスト教徒が暮らしていたが1990年代と<ref>{{cite web|title=IRAQ: Christians live in fear of death squads|url=http://www.irinnews.org/report/61897/iraq-christians-live-in-fear-of-death-squads|work=IRIN Middle East|publisher=IRIN|accessdate=21 October 2013|date=19 October 2006}}</ref>、さらに2003年のフセイン政権崩壊以降とで多くが国を離れた。2010年の時点での人口比は0.8%と報告されている<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/iz.html |title=The world fact book |accessdate=23 October, 2015 |date= |work=CIA }}</ref>。 === イスラム教シーア派 === [[ファイル:ImamAliMosqueNajafIraq.JPG|thumb|[[ナジャフ]]の{{仮リンク|イマーム・アリー・モスク|en|Imam Ali Mosque}}]] 全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者]]の後継者・最高指導者 ([[イマーム]]) が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要な[[イスマーイール派]]、[[ザイド派]]、[[十二イマーム派]]、[[ハワーリジュ派]]などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランの[[ゴム (イラン)|クム]]と[[マシュハド]]である。 === イスラム教スンナ派 === スンナ派では[[シャーフィイー学派]]、[[ハナフィー学派]]、[[ハンバル学派]]、[[マーリク学派]]の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。 8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれた[[アブー・ハニーファ]] (Abu Hanifa、699年-767年) は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子の[[シャイバーニー]]の3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。 バスラの{{仮リンク|アブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー|en|Abu al-Hasan al-Ash'ari}} (Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年) は、合理主義を標榜した[[ムウタズィラ学派]]に属していたが、後に離れる。ムウタズィラ派がよくしていたカラーム (弁証) をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつ[[アシュアリー派]]を創設した。 [[ガザーリー]] (Al-Ghazali、1058年-1111年) は、[[ペルシア人]]であったがバグダードの[[ニザーミーヤ学院]]で教え、[[イスラーム哲学]]を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、[[アリストテレス]]の[[論理学]]を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。 イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれの{{仮リンク|ハサン・アル=バスリー|en|Hasan of Basra}} (al-Hasan al-Basri、642年-728年) が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 ([[スーフィズム]]) につながっていった。 === ヤズィード ===<!--'''イスラム教ヤジーディー派'''--> <!--[[ヤズィード派|ヤジーディー派]]はシーア派に分類されるが、正当派とは大きく異なり異端とされる。異端の少ないシーア派には珍しい。-->[[ヤズィード派|ヤジーディー派]]はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、[[旧約聖書]]、[[新約聖書]]。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。<!--イスラム教の一派では無く、別個の多神教--> === キリスト教 === {{main|{{仮リンク|イラクのキリスト教|en|Christianity in Iraq}}}} 1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつ[[アッシリア東方教会]] ([[ネストリウス派]]) に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、[[東方典礼カトリック教会|東方帰一教会]]の一つとなった。 === マンダ教(サービア教) === [[サービア教徒|サービア教]]は[[クルアーン|コーラン]]に登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。[[マンダ教]]はそのサービア教と同一視されてきた。[[洗礼者ヨハネ|バプテスマのヨハネ]]に付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において[[西洋]]・[[東洋]]に広く伝播した[[グノーシス主義|グノーシス]]主義が原型と考えられている。 === ユダヤ教 === [[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。[[イスラエル]]建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。 == 文化 == {{Main|イラクの文化}} === 食文化 === {{Main|イラク料理}} [[ファイル:Fattoush.JPG|thumb|[[ファットゥーシュ]]]] イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、[[茶]]である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63 kgの茶を消費していた。これは[[カタール]]、[[アイルランド]]、[[イギリス]]についで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77 kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25 kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。 <!--=== 文学 === - 詩、詩人、近代--> === 美術 === {{main|{{仮リンク|イラク美術|en|Iraqi art}}|イスラーム美術}} {{節スタブ|date=2008年2月}} [[細密画]]、[[イスラームの書法|アラビア書道]]、[[イスラーム建築|モスク建築]]、[[カルバラー]]や[[ナジャフ]]などのシーア派聖地。 === 音楽 === {{main|{{仮リンク|イラクの音楽|en|Music of Iraq}}}} [[ファイル:Holding the risha pos 1.jpg|right|150px|thumb|ウード (奥) とバチ ウードの弦は複弦であり五コース~六コースのものが多い]] 伝統的な[[楽器]]として[[リュート]]に類似する[[ウード]]、[[ヴァイオリン]]に類似するレバーブ、その他[[チター|ツィター]]に似た[[カーヌーン]]、葦の笛[[ナーイ]]、酒杯型の片面太鼓[[ダラブッカ]]などが知られている。 ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では[[3世紀]]から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、[[ファーラービー|アル=ファーラービー]]によれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は[[紀元前2000年]]ごろのメソポタミア南部 (イラク) にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、[[マカーム]]の演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においても[[マグリブ]]地方において古形を見出す事が出来るが、伝承では[[9世紀]]に[[キンディー]] (あるいはズィリヤーブとも云う) によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い (正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦~十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最低音弦は単弦となる)。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。 カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する[[撥弦楽器]]であり、弦の本数は様々だが、百本に達するものなどもある。 また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクの[[バグダード]]は[[エジプト]]の[[カイロ]]と並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、[[アッバース朝]]時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブなどのウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーンなどの精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は[[千夜一夜物語]]にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム (マカーム・アル=イラーキー) と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。 民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、[[パスタ]]などが知られる。 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれる[[チャルメラ]]状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 また[[クルド人]]は独特の音楽を持つ。 現代のイラク人は西洋の[[ロック (音楽)|ロック]]、[[ヒップホップ]]、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。 === 世界遺産 === {{Main|イラクの世界遺産}} イラクは、アメリカ合衆国、エジプトに次ぎ、1974年3月5日に[[世界遺産|世界遺産条約]]を受託している。1985年にバグダードの北西290 kmに位置する平原の都市遺跡[[ハトラ]] ([[ニーナワー県]]) が文化遺産に、2003年にはハトラの東南東50 kmにあるティグリス川に面した都市遺跡[[アッシュール]] ([[サラーフッディーン県]]) がやはり文化遺産に認定されている。 [[ファイル:Hatra ruins.jpg|left|thumb|ハトラの遺跡]] [[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれた[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]は紀元前3世紀、ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱すると、[[パルティア|パルティア帝国]]の通商都市、宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国は[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]を名乗る。 アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後、シュメールの南方に接していた[[アッカド|アッカド帝国]]の都市となり、[[ウル第三王朝]]を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。[[アッシリア]]が成立すると、その版図となり、古アッシリア時代の[[シャムシ・アダド1世]] (前1813年-前1781年在位) は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていた[[エンリル|エンリル神殿]]を再建している。1000年の繁栄の後、新アッシリア王国の[[アッシュールナツィルパル2世]]は[[ニムルド]]を建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略した[[新バビロニア|新バビロニア王国]]によって同614年に征服・破壊される。アッシリア自体も同612年に滅びている。その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。 アッシュールはドイツ人の[[アッシリア学|アッシリア学者]]フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンの[[ペルガモン博物館]]に展示・収蔵されている。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|イラクの祝日|en|Public holidays in Iraq}}}} {| class="wikitable" style="margin: 0 auto;" |- ! style="background:#efefef"|日付 ! style="background:#efefef"|日本語表記 ! style="background:#efefef"|現地語表記 ! style="background:#efefef"|備考 |- ||[[1月1日]]|| 元日 || || |- ||[[1月6日]]|| イラク国軍の日 || || |- ||[[2月8日]]|| 第14回ラマダーン革命記念日 || || |- ||[[6月30日]]|| 主権回復記念日 || || |- ||[[7月14日]]|| 建国記念日 || || |- ||[[7月17日]]|| 平和革命記念日 || || |- |[[ヒジュラ暦]]第1月1日 ||イスラム元日|| || |- |ヒジュラ暦第3月12日 || [[預言者生誕祭|マウリド・アン=ナビー]] || || ムハンマドの生誕祭 |- |ヒジュラ暦第10月1日 || [[イード・アル=フィトル]]|| || 断食月明けの祭 |- |ヒジュラ暦第12月10日 || [[イード・アル=アドハー]] || || 犠牲祭 |} <div style="text-align: center; margin: 0 auto;"> フセイン政権下の祝祭日を示した。 </div> == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|イラクのスポーツ|en|Sport in Iraq}}}} {{See also|オリンピックのイラク選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|イラクのサッカー|en|Football in Iraq}}}} [[ファイル:Younis Mahmoud 2011.jpg|thumb|right|[[サッカーイラク代表]]の象徴でもあった[[ユニス・マフムード]]]] イラク国内では[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1974年]]にプロサッカーリーグの[[イラク・プレミアリーグ]]が創設された。[[アル・ザウラーSC]]がリーグ最多14度の優勝を果たしており、[[イラクFAカップ]]においても大会最多16度の優勝を数える。国の英雄的な存在として[[ユニス・マフムード]]がおり、[[2004年]]の[[2004年アテネオリンピックのサッカー競技|アテネ五輪]]ではチームのエースとして[[U-23サッカーイラク代表|U-23イラク代表]]をベスト4に導く活躍をみせた。さらに[[AFCアジアカップ2007]]では初優勝の立役者となり、得点王とMVPをW受賞した。これらの活躍から[[2007年のバロンドール]]候補にも挙がり、投票では2ポイント獲得し「29位」に入った<ref group="注">いずれもアジア人初である。しかし、2022年時点では[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]の[[孫興ミン|ソン・フンミン]]の5ポイント獲得で「11位」がアジア最高記録となっている。</ref>。 [[イラクサッカー協会]](IFA)によって構成される[[サッカーイラク代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[1986 FIFAワールドカップ|1986年大会]]で初出場を遂げたがグループリーグ最下位で敗退している。[[1986 FIFAワールドカップ|1986年]]以降の大会では1度も出場を果たせていない。[[AFCアジアカップ]]には9度の出場歴があり、[[AFCアジアカップ2007|2007年大会]]では初優勝に輝いている。なお、[[サッカー日本代表]]との関係では[[1993年]]に起こった、いわゆる「'''[[ドーハの悲劇]]'''」の対戦相手としても[[日本|日本国内]]においては知られている。 == 著名な出身者 == {{Main|イラク人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * [[池澤夏樹]]ほか『イラクの小さな橋を渡って』光文社、 2003年 (ISBN 4334973779) * [[大塚和夫]]ほか (編) 『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年 (ISBN 4000802011) * [[佐藤次高]] (編) 『新版世界各国史8 西アジア史I アラブ』山川出版社、2002年 (ISBN 4634413809) * [[日本イスラム協会]]ほか (監修) 『新イスラム事典』平凡社、2002年 (ISBN 4582126332) * [[酒井啓子]]、『イラクとアメリカ』、岩波書店、2002 (ISBN 4004307961) * 岩佐俊吉、『図説熱帯の果樹』、養賢堂、2001年、ISBN 4842500786 * {{Cite book|和書|author=チャールズ・トリップ|authorlink=チャールズ・トリップ|year=2004|others=大野元裕・岩永尚子・大野美紀・大野元己・根津俊太郎・保苅俊行 |title=イラクの歴史 |publisher=[[明石書店]] |series=世界歴史叢書 |isbn=978-4-7503-1841-7 |oclc=675958712 |ref=トリップ}} * Robert B. Clarke, ''PEOPLES OF THE EARTH'', Vol.17 Arab world, Tom Stacey Ltd., 1973 * ''Worldmark Encyclopedia of the Nations'', Vol.4, Thomson Gale, 2006 (ISBN 1414410891) * ''Demographic Yearbook'', United Nations, 1990. * ''Statistical Yearbook'', United Nations, 1988, 1989, 1993, 1997, 2002. * [http://www.oud.eclipse.co.uk/ The Oud] 英[[エクセター大学]]のDavid ParfittのWebページ == 関連項目 == {{Div col}} * [[イラク関係記事の一覧]] * [[イラク人の一覧|イラク人一覧]] * [[イラクの歴史]] * [[イラクのナショナリズム]] * [[バアス党]] / [[バアス党政権 (イラク)]] * [[イラン・イラク戦争]] * [[湾岸戦争]] * [[イラク武装解除問題]] * [[イラク戦争]]: [[イラク戦争の年表]] * [[クルディスタン]] * [[革命指導評議会]] * [[イラク暫定政権]] <!-- * [[イラクの通信]] * [[イラクの交通]] * [[イラクの軍事]] * [[イラクの国際関係]] --> * [[ガートルード・ベル]] * [[歴史上の推定都市人口]] * [[イッザト・イブラーヒーム]] * [[イラク・ディナール]] * [[イラク株]] * [[消滅した政権一覧]] {{Div col end}}・[[対イラク経済制裁|イラクに対する経済制裁]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Iraq|Iraq}} {{Wikivoyage|fa:عراق|イラク{{fa icon}}}} {{Wikivoyage|Iraq|イラク{{en icon}}}} ; 政府 * [http://www.cabinet.iq/ イラク政府公式サイト] {{ar icon}} * [https://www.iraqi-japan.com/ 在日イラク大使館] {{ar icon}}{{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/ 日本外務省 - イラク] {{ja icon}} * [https://www.iraq-jccme.jp/ イラク委員会 (経済産業省・外務省他8の公的団体による)] {{ja icon}} ; 観光 *[https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/middle_east/republic_of_iraq/sp_index.html JTB - イラク観光ガイド] {{ja icon}} *[https://m.arukikata.co.jp/country/IQ/ 地球の歩き方 - イラクの旅行・観光ガイド] {{ja icon}} ; その他 * [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-06.html JCCME - イラク] {{ja icon}} * {{CIA World Factbook link|iz|Iraq}} {{en icon}} * {{Curlie|Regional/Middle_East/Iraq}} {{en icon}} * {{Wikiatlas|Iraq}} {{en icon}} * {{Googlemap|イラク}} * {{Kotobank}} {{アジア}} {{OIC}} {{OPEC}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いらく}} [[Category:イラク|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:共和国]] [[Category:連邦制国家]] [[Category:アラブ連盟]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:石油輸出国機構加盟国]]
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イラン
イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、ペルシア語: جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、アジア・中東に位置するイスラム共和制国家。首都はテヘラン。 北西にアルメニアとアゼルバイジャン、北にカスピ海、北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタンとパキスタン、南にペルシア湾とオマーン湾、西にトルコ、イラク(クルディスタン)と境を接する。また、ペルシア湾を挟んでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に、オマーン湾を挟んでオマーンに面する。ペルシア、ペルシャともいう。公用語はペルシャ語。 前6世紀のアケメネス朝時代から繁栄し、サーサーン朝時代にはゾロアスター教が国教だったが、642年にアラブ人に滅ぼされ、イスラム教が広まった。16世紀初めに成立したサファビー朝がシーア派十二イマーム派を国教とし、イラン人の国民意識を形成した。18世紀のカージャール朝を経て、1925年からパフラヴィー朝になったが、1979年のルーホッラー・ホメイニーによるイラン革命により王政は廃され、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制が樹立された。 1979年に制定されたイラン・イスラーム共和国憲法によって規定されており、国の元首である最高指導者の地位は、宗教法学者に賦与されている。憲法第4条では、すべての法律および規制がイスラムの基準に基づくものでなければならないという原則が定められている。憲法では三権分立が規定され、立法権は一院制の国民議会、行政権は大統領にあるが、実質的には最高指導者が三権を掌握しており、大統領の地位はこれに劣る。イラン革命とシーア派に忠実であることが資格として要求される。このような体制から、イラン政府は権威主義的であり、人権と自由に対する重大な制約と侵害をしているとして多くの批判を集めている。ヒューマン・ライツ・ウォッチは政府が抗議者に対して恣意的な逮捕を行い、治安当局や諜報当局による深刻な虐待が行われていることを報告している。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界154位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2022年)。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも177位と下位で最も深刻な国の一つに分類されている(2023年)。 一方で教育には注力されており、人間開発指数は0.800で高い分類に入る。科学技術力においても、ナノテクノロジーのような材料工学や幹細胞研究で世界トップクラスの位置にいる。 パフラヴィー朝時代にはアメリカ合衆国の強い影響下にあったが、革命により米国との関係が悪化、特にアメリカ大使館人質事件以降、公然たる敵対関係に入った。米国とは互いをテロ組織・テロ支援国家に指定している。 他方でイラン革命指導者は反共主義者が多いため、ソビエト連邦とも友好的ではなく、革命後の外交は排外主義的な非同盟中立路線を基本とする。近年は核兵器開発を行っている疑惑から経済制裁を受けている。2015年にオバマ政権下のアメリカと核合意を締結して制裁解除を取り付けたが、トランプ政権が一方的に破棄し制裁が再開されたため、段階的に核合意履行停止を進めている。 パフラヴィー朝時代にアメリカからの経済援助を元手に経済各分野の近代化を進め、一時は高度経済成長を成し遂げた。その後の低迷によるイラン革命の混乱とイラン・イラク戦争で経済は停滞したが、21世紀に入ると原油価格昂騰により収入を大幅に増やした。世界有数の石油の産出地であり、それが国の主要財源である。しかし近年は長引く米国の制裁と新型コロナウイルスのパンデミックにより経済状態が深刻化している。 イランは王政時代からの伝統を持つ国軍と別に、革命後に創設されたイスラム革命防衛隊という最高指導者直轄の軍事組織が存在することが特徴である。イスラム革命防衛隊は、国外の対外工作にも深くかかわり、アメリカ合衆国のトランプ政権から「テロ組織」に指定された。男性に2年の兵役を課す徴兵制を採用しており、兵力は61万人ほどである(2020年時)。 2017年の国勢調査によると人口は約8000万人で、世界でも17位であった。多くの民族と言語が存在する多文化国家であり、主要な民族の構成はペルシア人 (61%)、アゼルバイジャン人 (35%)、クルド人 (10%)、ロル族 (6%) である。宗教は99%がイスラム教徒でその大部分 (89%) がシーア派である。トルクメン人・バルーチ人・クルド人など10%がスンニ派を信仰している。極めて少数派としてユダヤ教・キリスト教・ゾロアスター教・バハイ教の教徒もいるが、バハイ教は非合法にされている。言語はペルシア語が公用語で大半を占めているが、他にクルド語やアゼルバイジャン語などがある。国教はシーア派十二イマーム派である。 総面積は1,648,195 km (平方キロメートル) で、中東で2番目に大きく、世界では17位である。北部を東西にアルボルズ山脈が、北西部から南東部にザーグロス山脈が走り、その間にイラン高原が広がる。国土のほとんどがイラン高原上にある。同国はユーラシアの中心に位置し、ホルムズ海峡に面するため、地政学的に重要な場所にある。首都であるテヘランは同国の最大都市であり、経済と文化の中心地でもある。イランには文化的な遺産が多く存在し、ユネスコの世界遺産には22個登録されている。これはアジアでは3番目、世界では11番目に多い。 イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として知られていた。1935年3月21日、レザー・シャーは諸外国に対して公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られた。1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。 現在の正式名称はペルシア語でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān [dʒomhuːˌɾije eslɒːˌmije ʔiːˈɾɒn] ( 音声ファイル) ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)、通称 ایران [ʔiːˈɾɑn] ( 音声ファイル)。公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」または「イラン回教共和国」、通称イランであり、漢字表記では伊朗、伊蘭とも当てた。 国旗は3色で構成され、緑はイスラムの国であること、白は平和と平和愛好、赤は勇気を表している。中央のモチーフは4本の剣と三日月を用いてアラビア語のアッラー(الله)とチューリップを象徴する。アッラーは、イスラムの唯一神で、チューリップはイスラムと祖国のために戦死した殉教者を表す。 イランの歴史時代は紀元前3000年頃の原エラム時代に始まる。アーリア人の到来以降、王朝が建設され、やがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興。紀元前550年にキュロス大王がメディア王国を滅ぼしてペルシアを征服し、さらにペルシアから諸国を征服して古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国を建国した。紀元前539年にバビロン捕囚にあったユダヤ人を解放するなど各地で善政を敷き、またゾロアスター教をその統治の理念とした。 アケメネス朝はマケドニア王国のアレクサンドロス大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされたが、まもなく大王が死去してディアドコイ戦争となり、帝国は三分割されてセレウコス朝(紀元前312年 - 紀元前63年)の支配下に入った。シリア戦争中には、紀元前247年にハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)が成立し、ローマ・シリア戦争でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反した。 パルティア滅亡後は226年に建国されたサーサーン朝が続いた。サーサーン朝は度々ローマ帝国と軍事衝突し、259年/260年にシャープール1世は親征してきたウァレリアヌス帝をエデッサの戦いで打ち破り、捕虜にしている。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させ、ローマ帝国やイスラム帝国に文化・政治体制などの面で影響を与えた。 7世紀に入ると、サーサーン朝は東ローマ帝国のヘラクレイオス帝との紛争やメソポタミアの大洪水による国力低下を経て、アラビア半島に興ったイスラーム勢力のハーリド・イブン・アル=ワリードらが率いる軍勢により疲弊。636年のカーディスィーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いでイスラーム勢力に敗北を重ね、651年に最後の皇帝ヤズデギルド3世が死去したことを以て滅亡した。 イランの中世は、このイスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられた。873年に成立したイラン系のサーマーン朝下ではペルシア文学が栄え、10世紀に成立したイラン系のブワイフ朝はシーア派イスラームの十二イマーム派を国教とした最初の王朝となった。11世紀から12世紀にかけて発達したガズナ朝やセルジューク朝やホラズム・シャー朝などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用し、ペルシア語を外交や行政の公用語としたため、この時代にはペルシア文学の散文が栄えた。 1220年に始まるモンゴル帝国の征服によりイランは荒廃した。モンゴル帝国がイスラーム化したフレグ・ウルスが滅亡した後、14世紀から15世紀にかけてイラン高原はティムール朝の支配下に置かれた。 1501年にサファヴィー教団(英語版)の教主であったイスマーイール1世がタブリーズでサファヴィー朝を開いた。シーア派イスラームの十二イマーム派を国教に採用したイスマーイール1世は遊牧民のクズルバシュ軍団を率いて各地を征服した。また、レバノンやバーレーンから十二イマーム派のウラマー(イスラーム法学者)を招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進んだ。1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン帝国に奪われた。 第五代皇帝のアッバース1世はエスファハーンに遷都し、各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出した。1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれると、イギリス人のロバート・シャーリーの指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化された。 しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し、1638年にオスマン帝国の反撃で現在のイラク領域を失い、1639年のガスレ・シーリーン条約(英語版)でオスマン朝との間の国境線が確定した。サファヴィー朝は1736年に滅亡し、その後は政治的混乱が続いた。 1796年にテュルク系ガージャール族(英語版)のアーガー・モハンマドが樹立したガージャール朝の時代に、ペルシアはイギリス、ロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった(グレート・ゲーム)。ナポレオン戦争の最中の1797年に第二代国王に即位したファトフ・アリー・シャーの下で、ガージャール朝ペルシアにはまず1800年にイギリスが接近したがロシア・ペルシア戦争(第一次ロシア・ペルシア戦争)にてロシア帝国に敗北した後はフランスがイギリスに替わってペルシアへの接近を進め、ゴレスターン条約(1813年)にてペルシアがロシアに対しグルジアやアゼルバイジャン北半(バクーなど)を割譲すると、これに危機感を抱いたイギリスが翌1814年に「英・イラン防衛同盟条約」を締結した。しかしながらこの条約はロシアとの戦争に際してのイギリスによるイランへの支援を保障するものではなく、1826年に勃発した第二次ロシア・ペルシア戦争でロシアと交戦した際には、イギリスによる支援はなく、敗北後、トルコマーンチャーイ条約(1828年)にてロシアに対しアルメニアを割譲、500万トマーン(約250万ポンド)の賠償金を支払い、在イランロシア帝国臣民への治外法権を認めさせられるなどのこの不平等条約によって本格的なイランの受難が始まった。こうした情況に危機感を抱いた、アーザルバイジャーン州総督のアッバース・ミールザー皇太子は工場設立や軍制改革などの近代化改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫した。1834年に国王に即位したモハンマド・シャーは失地回復のために1837年にアフガニスタンのヘラートへの遠征を強行したものの失敗し、1838年から1842年までの第一次アフガン戦争(英語版)にてイギリスがアフガニスタンに苦戦した後、イギリスは難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、1841年にガージャール朝から最恵国待遇を得た。更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの国教たる十二イマーム派の権威を否定するセイイェド・アリー・モハンマドがバーブ教を開くなど内憂にも見舞われた。モハンマド・シャーの没後、1848年にナーセロッディーン・シャーが第四代国王に即位した直後にバーブ教徒の乱が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビールの下でオスマン帝国のタンジマートを範とした上からの改革が計画されたが、改革に反発する保守支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折した。ナーセロッディーン・シャーは1856年にヘラートの領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征はイギリスのイランへの宣戦布告を招き、敗戦とパリ条約によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた。 こうしてイギリスとロシアをはじめとする外国からの干渉と、内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で、19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及んだ。1872年のロイター利権のような大規模な民族資産のイギリスへの譲渡と、ロシアによる金融業への進出が進む一方、臣民の苦汁をよそに国王ナーセロッディーン・シャーは遊蕩を続けた。第二次アフガン戦争(英語版)(1878年–1880年)では、ガンダマク条約(英語版)(1879年)を締結したが、戦争の二期目に突入し、イギリス軍は撤退した。 このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、1890年に国王ナーセロッディーン・シャーがイギリス人のジェラルド・タルボトにタバコに関する利権を与えたことを契機として、翌1891年から十二イマーム派のウラマーの主導でタバコ・ボイコット運動が発生し、1892年1月4日に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功した。 第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが革命家レザー・ケルマーニーに暗殺された後、1896年にモザッファロッディーンが第五代ガージャール朝国王に即位した。だが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めたアターバケ・アアザム(英語版)が留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかった。しかしながら1905年に日露戦争にて日本がロシアに勝利すると、この日本の勝利は議会制と大日本帝国憲法を有する立憲国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の専制に対する憲法の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の農作物の不作とコレラの発生などの社会不安を背景に、1905年12月の砂糖商人への鞭打ち事件を直接の契機として、イラン立憲革命が始まった。イラン人は国王に対して議会 (majles) の開設を求め、これに気圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、10月7日にイラン初の国民議会 (Majiles-e Shoura-ye Melli) が召集された。しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には労働者のストライキや農民の反乱、1907年にイランをそれぞれの勢力圏に分割する英露協商を結んだイギリスとロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、1911年にロシア帝国軍の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのであった。なお、この立憲革命の最中の1908年5月にマスジェド・ソレイマーンで油田が発見されている。 1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま1914年の第一次世界大戦勃発を迎えると、既にイギリス軍とロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更にオスマン帝国が侵攻してタブリーズを攻略され、イラン国内ではドイツ帝国の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて凶作やチフスによる死者が続出した。1917年10月にロシア大十月革命によってレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキが権力を握ると、新たに成立した労農ロシアはそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、不平等条約の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出した。これに危機感を抱いたイギリスは単独でのイラン支配を目指して1919年8月9日に「英国・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図った。この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日にミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリーによってギーラーン共和国が、6月24日に北部のタブリーズでアーザディスターン独立共和国の樹立が反英、革命の立場から宣言されたが、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、1921年2月21日に発生したイラン・コサック軍のレザー・ハーン大佐によるクーデターの後、同1921年4月にイギリス軍が、10月にソビエト赤軍がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは1925年10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出した。翌1926年4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、パフラヴィー朝が成立した。 パフラヴィー朝成立後、1927年よりレザー・パフラヴィーは不平等条約破棄、軍備増強、民法、刑法、商法の西欧化、財政再建、近代的教育制度の導入、鉄道敷設、公衆衛生の拡充などの西欧化事業を進め、1931年に社会主義者、共産主義者を弾圧する「反共立法」を議会に通した後、1932年を境に独裁化を強めた。また、ガージャール朝が欠いていた官僚制と軍事力を背景に1935年7月のゴーハルシャード・モスク事件や1936年の女性のヴェール着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し、反イスラーム的な統治を行った。なお、イスラームよりもイラン民族主義を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月にフェルドウスィー生誕1,000周年記念祭が行われ、1935年に国号を正式にペルシアからイランへと変更している。1930年代後半にはナチス・ドイツに接近し、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、当初は中立を維持しようとしたが、 1941年8月25日にソ連軍とイギリス軍がそれぞれ国境を超えてイランに侵攻。イラン軍は敗北し、イギリスとソ連によって領土を分割された。イラン進駐下では1941年9月16日にレザー・パフラヴィーが息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに帝位を譲位した他、親ソ派共産党のトゥーデ党が結成された。 1943年11月30日には連合国の首脳が首都テヘランでテヘラン会談が開催された。その際、会議の主題とは別に各首脳らによってイランの独立と領土の保障に関する宣言書に署名が行われた。イラン国民のご機嫌を取るためのジェスチャーとも評されたが、戦後イランを特徴づける舞台が整えられた。また、北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、1945年12月12日にアゼルバイジャン国民政府が、1946年1月22日にはクルド人によってマハーバード共和国が樹立されたが、両政権は共にアフマド・ガヴァーム首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合された。 1940年代に国民戦線を結成したモハンマド・モサッデク議員は、国民の圧倒的支持を集めて1951年4月に首相に就任した。モサッデグ首相はイギリス系アングロ・イラニアン石油会社から石油国有化を断行した(石油国有化運動)が、1953年8月19日にアメリカ中央情報局(CIA)とイギリス秘密情報部による周到な計画(アジャックス作戦、英: TPAJAX Project)によって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わった。 このモサッデグ首相追放事件によって米国の傀儡政権として復権したパフラヴィー朝のシャー(皇帝)、モハンマド・レザー・パフラヴィーは自らへの権力集中に成功した。1957年にCIAとFBIとモサドの協力を得て国家情報治安機構 (SAVAK) を創設し、この秘密警察SAVAKを用いて政敵や一般市民の市民的自由を抑圧したシャーは、米ケネディ政権の要請によりイランの西欧化を図るべく、「白色革命」が実行された。この計画には、農地改革や識字率向上、国有工場の売却、企業利益分配、非イスラム教徒および女性の参政権などが含まれた。一方、失業率の増加や格差拡大、政治腐敗なども引き起こされ、原油価格が下落すると計画は破綻した。 1978年に入るとテヘランで1万人規模の反政府デモが発生するようになり、8月31日には暴徒が銀行に放火するなどした。この時、アーヤトッラー・ホメイニーが台頭していた。 シャーの独裁的統治は1979年のイラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年のアメリカ大使館人質事件、革命の輸出政策、レバノンのヒズボッラー(ヒズボラ)、パレスチナのハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。 クルド人はイラン革命を支持し、自治権の獲得を目指していたが、革命成立後の政府は受け入れずにイラン・クルディスタン民主党を非合法化。1979年8月、クルド人はイラン西部のケルマーンシャー州や西アーザルバーイジャーン州の都市を占拠するなど大規模な反乱を起こしたが、翌月までに大半が鎮圧された。 革命による混乱が続く1980年には隣国イラクのサッダーム・フセイン大統領がアルジェ協定を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発した。この破壊的な戦争はイラン・コントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ、1988年まで続いた。 国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。 2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。 2021年6月18日に投票が行われたイラン大統領選挙では、エブラーヒーム・ライースィーが当選した。この選挙では政界の有力者の多くが出馬を禁じられ、立候補者が保守強硬派だらけとなったこともあり、投票率は著しく低迷した。 イランの政体は1979年以降の憲法(ガーヌーネ・アサースィー)の規定による立憲イスラーム共和制である。政治制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は、民主主義的に選挙によって選出される議員で構成されるもの、宗教的立場によって選出されるもの、あるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。 イランの政治制度の特徴は、何といっても「法学者の統治」である。これは、イスラーム法学者の解釈するイスラームが絶対的なものであることを前提とし、現実にイスラーム法が実施されているかを監督・指揮する権限を、イスラーム法学者が持つことを保障する制度である。この制度は、シーア派イスラームならではの制度といってよい。イランはシーア派のなかでも「十二イマーム派」に属するが、一般にシーア派の教義では「イマーム」こそが預言者の後継者として、「イスラームの外面的・内面的要素を教徒に教え広める宗教的統率者」としての役割を担うとされている。シーア派はイジュティハードの権限を持つイスラーム法学者を一般大衆とは区別し、この解釈権を持つイスラーム法学者(モジュタヒド)に確固とした政治的・宗教的地位を与えている。モジュタヒドの最高位にあるのが、「マルジャエ・タグリード(模倣の源泉、大アーヤトッラー)」である。マルジャエ・タグリードはシーア派世界の最高権威であるが、ローマ教皇のように必ず1人と決まっているわけではなく、複数人のマルジャエ・タグリードが並立することがある。1978年から1979年のイラン・イスラーム革命によって、マルジャエ・タグリードの1人であったホメイニーがイランの最高指導者となり、宗教的のみならず、政治的にも最高の地位に就くこととなった。 イランでは立候補者の数が多い。2000年2月に行われた第6回国会選挙では、290名の定員に対し、7,000人近くが立候補し、2001年の第8回大統領選挙では、840名が立候補した。 特に国会選挙では、投票の際、投票者が一名を選択するのではなく、その選挙区の定員数まで何人でも選定することができる。従ってテヘランのように30名もの定員がある選挙区では、2, 3人しか選ばない者もいれば、30人まで列記して投票する者もいる。つまりどのような投票結果になるか予想しにくい制度であるばかりか、死票や票の偏りがおこりやすい。テヘランのような大都会では、投票が有名人に集中し、候補者は規定票を獲得できず、第2ラウンドへ持ち込まれるケースも多い。国会選挙の場合、投票総数の三分の一を獲得しなければ、たとえ定員数内の上位でも当選にはならない。そして、第2ラウンドの選挙になる。 しかし、こうしたやり方では選挙費用がかさむ上、第2・第3ラウンドとなれば選挙結果が決まるまで時間がかかりすぎ国会の空白期間が生じる。そのため、2000年1月上旬選挙法の改正が行われ、第一ラウンドの当選をこれまでの投票総数の3分の1から25パーセント以上獲得すれば当選とし、第2ラウンドでは、従来通り投票総数の50パーセント獲得すれば当選というように改正された。 護憲評議会は、選挙の際に、立候補者の資格審査(選挙資格を満たしているか否か)を行なっている。 ヴェラーヤテ・ファギーフ(ペルシア語版、英語版)(法学者の統治)の概念はイランの政治体制を構成する上で重要な概念となっている。憲法の規定によると、最高指導者は「イラン・イスラーム共和国の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負う」とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。最高指導者は行政・司法・立法の三権の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。宣戦布告の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、イスラーム革命防衛隊(イスラム革命防衛隊、IRGC)総司令官の任免権をもち、監督者評議会を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。最高指導者(または最高指導会議)は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー。 大統領は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる行政府の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に監督者評議会による審査と承認が必要で、国民による直接普通選挙の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で閣僚評議会(閣議)が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。首相職は1989年の憲法改正により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。 議会は「マジレセ・ショウラーイェ・エスラーミー Majles-e showrā-ye eslāmī」(イスラーム議会)といい、一院制である。立法府としての権能を持ち、立法のほか、条約の批准、国家予算の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては監督者評議会による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7,600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2,200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。日本語の報道では国会とも表記される。 専門家会議は国民の選挙によって選出される「善良で博識な」86人のイスラーム知識人から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は監督者評議会の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は最高指導者を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。 監督者評議会は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーア(イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。 公益判別会議は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。 最高司法権長は最高指導者によって任じられ、最高裁判所長官および検事総長を任じる。一般法廷が、通常の民事・刑事訴訟を扱い、国家安全保障にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決は確定判決で上訴できない。またイスラーム法学者特別法廷は法学者による犯罪を扱うが、事件に一般人が関与した場合の裁判もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。 2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は、イスラエルを除く全ての国家、国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである。 シリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権である事に加え、イラン・イラク戦争ではシリア・バース党とイラク・バース党との対立も絡み、シーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した。イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、反スンニ派イスラム主義、国際的孤立化にあるなど利害が一致する点が多い。近年ではシリア内戦でイランがアサド政権を支援するなど、政治面の他、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。 両国はそれぞれシーア派とスンナ派の盟主とであるため、度々国交断絶などの対立を繰り返してきた。近年ではイラク戦争やアラブの春の混乱で、イラク・シリア・エジプトなどの中東の有力国が国力を落とす中、相対的に中東におけるイランとサウジアラビアの影響力が拡大した。シリア内戦やイエメン内戦では異なる勢力を支援し事実上の代理戦争の様相を呈していた他、2016年には国交断絶が起きるように、対立が表面化していた。 しかし、2023年3月に中国の仲介によって外交関係を正常化した。同年6月6日、両国は大使館を7年ぶりに再開させた。イランのビクデリ副外相は「イランとサウジにとって歴史的な日だ。地域の安定や繁栄、発展に向けた協力が進むだろう」と語った。 イランと米国の外交関係は1856年から始まり、イランにとって米国はペルシャ湾情勢において圧となっていたイギリスとロシアと対峙できる第三勢力だったこともあり、第二次世界大戦までの関係は良好だった。特に、1925年にパフラヴィー朝を開いたレザー・パフラヴィー皇帝(シャー)は、米国から財政顧問官を招聘して財政改革にあたるなど傾倒していた。 第二次世界大戦後、冷戦時代に入ると、イランはソ連の隣国であることや産油国の中東における大国であることから、米国に中東政策の柱として目を付けられる。1951年にモハンマド・モサッデクが首相に就任し、石油を国有化するなど独立色を強めると、米国とイギリスの情報機関(CIAとMI6)は1953年のクーデターを主導した。こうして復権した1953年-1978年のパフラヴィー2世政権は、事実上米国の傀儡政権であったため、米国との関係は質量ともに重大だった。この頃は、米国がイランの核開発を支援していた。同時に、米国はイランの石油を大量に手に入れ、覇権国家の立場を確立した。 イラン国民の生活文化を無視した白色革命が原油価格の下落により破綻すると、国民の不満が爆発し、1978年から1979年にイラン革命が発生。革命により反米的なイラン・イスラム共和国が興ると、両国の関係は急速に悪化。イラン在米資産没収やイランアメリカ大使館人質事件ののち、1980年4月の断交に至った。9月からイラン・イラク戦争が始まると、米国はイラクを支援した。以後、イスラム革命時以後の歴代の米国議会・政府は、イランを反米国家(悪の枢軸)と認識し、イランに対する国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続している。米国政府は1984年にレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定し、2023年現在まで指定を継続している。1990年代のクリントン米政権時代には貿易・投資・金融の禁止措置が実施され、2000年代以降は核開発問題を理由に経済制裁を行われている。2012年の原油の制裁対象化や2015年のSWIFT排除などは、イラン経済に大きな影響を及ぼしている。 内政干渉としては、2009年のイランの反アフマディーネジャード派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生に米国とヨーロッパの財団・機関が関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し、米国政府もイランの体制を壊す目的で工作していたと発表した。2020年1月には、米国がイラン革命防衛隊司令官ガーセム・ソレイマーニーを殺害した。 イラン側は、イスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまでは米国に対して強硬な姿勢だったが、その後は、アリー・ハーメネイー師、ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領、モハンマド・ハータミー大統領、マフムード・アフマディーネジャード大統領などが、米国がイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している。ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日の米国に対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙で選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している。ただし、イエメン内戦やシリア内戦では米国と対立し、軍事支援を通じて間接的に戦っている。 イランにおける核開発は、1950年代の米傀儡政権下に始まる。1957年、当時のドワイト・D・アイゼンハワー米大統領により「原子力の平和利用研究協力協定案」が発表され、基礎が築かれた。その後、実験炉と濃縮ウランが提供され、原子力発電所の建設計画も合意されたが、イラン革命で反米政権になると状況は一変。1970年代に様々な国と原子力協力協定を結び、原子力技術移転を目指したが、イスラエルと繋がりの深い米国等の圧力により進まず、自主開発を始めた。秘密裏に行っていたため、2002年に暴露されると、翌年にはIAEA理事会から開発の停止を求められた。しかし、イランは続行したため、欧米との対立が起きた。 イラン政府は自国の核開発問題について、核エネルギーの生産を目指すもので、核兵器開発ではないと今までに一貫して表明してきており、アフマディネジャド大統領は「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対して明言している(『Newsweek』誌2009年10月7日号)。欧米のイランの核エネルギー開発は認められない、という論理は決して世界共通のものではない。新興国のトルコやブラジル、また、ベネズエラ・キューバ・エジプトその他の非同盟諸国は「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示し、当然であるとして支持している。2009年10月27日のアフマディーネジャード大統領との会談の中で、トルコのエルドアン首相はイランの核(エネルギー)保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた。また、ブラジルのルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領は『Newsweek』誌2009年10月21日号でイランのウラン濃縮の権利を支持していることが報じられており、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は2006年7月のアフリカ連合 (AU) 首脳会議に招かれた際、イランの核開発について「平和利用のための核技術を発展させる権利がイランにないというのか。明らかにある」と断言している。2006年9月の第14回非同盟諸国首脳会議では、イランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択され、会議の議長国キューバやエジプトもこれを支持している。 核兵器開発については、IAEAや敵対するイスラエルも否定することとなるが、核技術開発自体認めない欧米諸国の圧力は止まらず、イランも無視したことで、2012年に米国とEUからイラン産原油輸入を経済制裁の対象にされ、実質GDP成長率は前年比マイナス8.4%にもなった。2013年に穏健派のロウハーニーが大統領になると協議は進み、2015年に最終的な核合意に至った。これによりGDPは急回復を見せたが、2018年にイスラエル寄りのドナルド・トランプ米大統領が一方的に合意を破棄し、SWIFT排除も含めた経済制裁を再開すると、経済は再び急落した。もっとも、これにより国産技術が発展したという面もある。また、米国の行動に対し、ロウハニ大統領は核合意から離脱はしないが、核合意を遵守するわけでもないという演説を行い、核開発を再開。2021年にジョー・バイデンが米大統領に就任してからは協議が再開したが溝は深く、2022年7月にはイスラエルメディアのインタビューで、バイデンがイラン攻撃の可能性も示した。その後、イラン側は最高指導者顧問と原子力庁長官が核兵器製造は可能だがしないと発言した。 2010年9月のイスラーム聖典『クルアーン』焼却事件はアメリカ・フロリダ州のキリスト教会の牧師が、同時多発テロ事件の9周年にあたる2010年9月11日を「国際クルアーン焼却デー」とし、『クルアーン』を焼却する計画を発表したことに始まる事件だが、ムスリム・非ムスリムを超えた広範な反発と国際世論の圧力を受けて中止された。しかし、この呼びかけに応えたようにアメリカ国民の一部が数冊の『クルアーン』を燃やし、ワシントンD.C.で警官に護衛される中で、また、アメリカ同時多発テロ事件で破壊されたニューヨークの世界貿易センタービルの跡地で数十冊の『クルアーン』を破り、それに火をつけた。これらの行為に対して、全世界で大規模な抗議運動が巻き起こった。 聖地イェルサレムでも同時期に似たような反イスラーム的行為が行われた。 このような事件に対して最高指導者アリー・ハーメネイーはメッセージのなかで、イスラーム教徒とキリスト教徒を対立させることが、この事件の真の首謀者の望みであるとし、「キリスト教会やキリスト教とは関係がなく、数名の雇われた人間の行動を、キリスト教徒全体のものと考えるべきではない」、「我々イスラーム教徒が、他の宗教の神聖に対して同じような行動に出ることはない。クルアーンが我々に教える事柄は、その対極にある」と表明した。 そして、この事件の真の計画、指示者について「アフガニスタン、イラク、パレスチナ、レバノン、パキスタンで、犯罪行為を伴ってきた、一連の流れを分析すれば、アメリカの政府と軍事・治安機構、イギリス政府、その他一部のヨーロッパ政府に最大の影響力を持つ、“シオニストの頭脳集団”であることに疑いの余地は残らない」、「(今回の事件は)この国の警察に守られる中で行われたものであり、何年も前から、(欧米での)イスラム恐怖症やイスラム排斥といった政策に取り組んできた(シオニスト頭脳集団)組織による計画的な行動であった」と述べ、今回のクルアーン焼却事件とそれ以前の欧米でのイスラーム恐怖症やイスラーム排斥の政策を主謀したのはこのシオニスト集団だとした。また、「このようなイスラムへの一連の敵対は、西側におけるイスラムの影響力が、いつにも増して高まっていることに起因する」とした。さらに同メッセージでアメリカ政府に対し、「この陰謀に関与していないとする自らの主張を証明するために、この大きな犯罪の真の実行者をふさわしい形で処罰すべきだ」と強調した。この事件に対し、インド領カシミール、アフガニスタンでも抗議デモが行われ、イランでは抗議のために多くの都市のバザールが9月15日を休業とした。 元ムスリム(イスラーム教徒)のサルマン・ラシュディが書いた1989年出版の『悪魔の詩』はイスラームの預言者ムハンマドについて扱っているが、その内容と、この人物が元ムスリムであったことから発表の後、各国のムスリムの大きな非難と反発を招いた。1991年7月に起きた日本の茨城県つくば市内で筑波大学助教授が何者かによって殺された事件(未解決)は、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。詳細は悪魔の詩を参照。 国軍として、陸軍・海軍・空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有している。 イランは核拡散防止条約 (NPT) に加盟しているが、国際社会からイランの核開発問題が問題視されている。 また、国軍とは別に、パースダーラーン省に所属する2つの準軍事組織保有している。1979年にイスラム革命の指導者ホメイニー師の命で設立された、志願民兵によって構成されている準軍事組織「バスィージ(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。 イランは31の州(オスターン)からなっている。 イランの人口上位5都市は以下の通り(都市圏の人口ではない)。 イランは北西にアゼルバイジャン(国境線の長さは432 km。以下同様)、アルメニア (35 km) と国境を接する。北にはカスピ海に臨み、北東にはトルクメニスタン (992 km) がある。東にはパキスタン (909 km) とアフガニスタン (936 km)、西にはトルコ (499 km) とイラク (1,458 km) と接し、南にはペルシア湾とオマーン湾が広がる。面積は1,648,000 kmで、うち陸地面積が1,636,000 km、水面積が12,000 kmであり、ほぼアラスカの面積に相当する。 イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が盆地や台地を互いに切り離している。イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちでザーグロス山脈やイランの最高峰ダマーヴァンド山 (標高: 5,604 m) を含むアルボルズ山脈がある。一方、イランの東半は塩分を含むキャビール砂漠、ルート砂漠のような無人に近い砂漠地帯が広がり、塩湖が点在する。 平野部はごくわずかで、大きなものはカスピ海沿岸平野とアルヴァンド川(シャットゥルアラブ川)河口部にあたるペルシア湾北端の平野だけである。その他小規模な平野部はペルシア湾、ホルムズ海峡、オマーン湾の沿岸部に点在する。イランは、いわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か国のうちの1つと考えられている。 全般的には大陸性気候で標高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季はペルシャ湾沿岸部やオマーン湾沿岸部を除くとほぼ全域で寒さが厳しい。国土の大部分が砂漠気候あるいはステップ気候であるが、ラシュトに代表されるイラン北端部(カスピ海沿岸平野)は温暖湿潤気候に属し、冬季の気温は0°C前後まで下がるが、年間を通じて湿潤な気候であり、夏も29°Cを上回ることは稀である。年間降水量は同平野東部で680 mm、西部で1700 mm以上となる。テヘランなどの内陸高地はステップ気候から砂漠気候に属し、冬季は寒く、最低気温は氷点下10度前後まで下がることもあり降雪もある。一方、夏季は乾燥していて暑く日中の気温は40度近くになる。ハマダーン、アルダビールやタブリーズなどのあるイラン西部の高地は、ステップ気候から亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、山岳地帯では豪雪となり厳しい季節となる。特に標高1,850 mに位置するハマダーンでは最低気温が-30度に達することもある。イラン東部の中央盆地は乾燥しており、年間降水量は200 mmに満たず、砂漠が広がる砂漠気候となる。特にパキスタンに近い南東部砂漠地帯の夏の平均気温は38°Cにも達する酷暑地帯となる。ペルシア湾、オマーン湾沿岸のイラン南部では、冬は穏やかで、夏には温度・湿度ともに非常に高くなり平均気温は35°C前後と酷暑となる。年間降水量は135 mmから355 mmほどである。 イランの経済は中央統制の国営イラン石油会社や国有大企業と、農村部の農業および小規模な商業、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済である。政府は以前から引き続いて市場化改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を自動車産業、航空宇宙産業、家電製造業、石油化学工業、核技術など他の部門に振り分け投資している。チャーバハール自由貿易地域、キーシュ島自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め、数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。現代イランの中産階級の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが、一方で高インフレ、高失業率が問題である。インフレ率は2007年度の平均で18.4%、2008年4月(イラン暦)には24.2%にまで達している。 イラン・イスラム革命は富の再分配も理念の一つとしていたが、実際には貧富の格差は大きい。縁故主義により経済的に成功したり、海外への留学を楽しんだりする高位聖職者や政府・軍高官の一族は「アガザデ」(高貴な生まれ)と呼ばれている。 財政赤字は慢性的問題で、これは食品、ガソリンなどを中心とする年総計約72億5000万ドルにものぼる莫大な政府補助金が原因の一つとなっている。これに対してアフマディーネジャード政権は、2010年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている。 イランはOPEC第2位の石油生産国で、2016年時点の生産量は200万バレル/日である。確認されている世界石油埋蔵量の10%を占める。また天然ガス埋蔵量でもロシアに続き世界第2位である。原油の輸出は貴重な外貨獲得手段であるとともに1996年の非常に堅調な原油価格は、イランの財政赤字を補完し、債務元利未払金の償還に充てられた。 農業については国家投資、生産自由化による活発化が目指され、外国に対する売り込み、マーケティングなどで輸出市場を開発し、全般的に改善された。ナツメヤシ・ピスタチオ・花卉など輸出用農業生産物の拡大、大規模灌漑計画により1990年代のイラン農業は、経済諸部門の中でも最も早い成長のあった分野である。一連の旱魃による踏み足局面もあるが、農業はいまだにイランで最大の雇用を持つ部門である。 イランはバイオテクノロジーと医薬品製造などにも力を入れている。主要貿易国はフランス、ドイツ、日本、イタリア、スペイン、ロシア、韓国、中国などである。1990年代後半からはシリア、インド、キューバ、ベネズエラ、南アフリカ共和国など発展途上国との経済協力も進めている。また域内でもトルコとパキスタンとの通商を拡大させており、西アジア・中央アジアの市場統合のビジョンを共有している。 2019年現在イランを訪れる海外からの観光客は800万人から900万人。イランの観光は多様で、アルボルズ山脈とザグロス山脈でのハイキングやスキー、ペルシャ湾やカスピ海のビーチでの保養など、様々なアクティビティがある。イラン政府は国内の様々な観光地への観光客誘致に力を入れており、近年観光客数は増加している。 国際線の拠点空港としてテヘランにエマーム・ホメイニー国際空港が存在している。 フラッグキャリアであるイラン航空が国内路線および国際路線を運行している。 また、アーリヤー航空 イラン・アーセマーン航空 サーハー航空も運行している。 国有鉄道であるイラン・イスラーム共和国鉄道が全土を結んでいる。 主要都市では地下鉄として が設置されている。 以下のアジアハイウェイ 9路線が全土を通っている。 また、首都テヘラン近郊では高速道路も建設されている。 イランは紀元前の時代から学問や技術面で中国地域やインド地域、ギリシャ地域やローマ地域と深い関わりを持っている。特に、中世時代には「イスラム科学」とされるような科学的成果の中心地であり続けていた他、上述の東西地域の知識におけるパイプラインの役割を果たしてきた。 イラン革命により脱出する知識人もいたが、政権は科学技術研究に注力し、1996年から2004年にかけて発表論文数を約10倍に増加させ、その期間における増加率は世界一であった。しかし、その後の国際的制裁は、国際科学雑誌の購読や海外からの機器調達が厳しく制限されるなど、科学研究にも大きな障害をもたらし、停滞した。それでも、輸入することのできない機器の独自開発や、国内の業界を超えた協力などにより研究は続けられ、論文数でも被引用論文数でも世界15位以内に入っている。その中でも、航空工学や材料工学、再生医学(幹細胞)の分野では、世界トップの科学技術力を有している。 イランにおける宇宙計画は、その軍事的可能性に対する懸念から米国と欧州によって非難されている。 イランの人口は20世紀後半に劇的に増加し、2006年には7000万人に達した。しかし多くの研究では21世紀への世紀転換点には、人口増加率の抑制に成功し、ほぼ人口補充水準に到達した後、2050年頃に約1億人で安定するまで人口増加率は徐々に低下してゆくものと考えられている。人口密度は1平方キロメートルにつき約40人である。イランは2005年時点、約100万人の外国難民(主にアフガニスタン難民、ついでイラク難民)を受け入れており、世界で最も難民が多い国の一つである。政府の政策的および社会的要因により、イランは難民たちの本国帰還を目指している。逆にイラン・イスラーム革命後に海外に移住した人々(en:Iranian diaspora)が北アメリカ(イラン系アメリカ人、en:Iranian Americanやイラン系カナダ人、en:Iranian Canadian)、西ヨーロッパ(在イギリスイラン人、en:Iranians in the United Kingdom)、南アメリカ、日本(在日イラン人)などに約200万から300万人程度存在すると見積もられる。 イランの民族はその使用言語と密接な関係にあり、次いで宗教が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。イランの公用語はインド・ヨーロッパ語族イラン語群のペルシア語で人口の約半数はこれを母語とするが、チュルク系のアゼルバイジャン語を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外のイラン語群の諸語やその他の言語を話す人びともいる。先述のように、それぞれの民族の定義や範囲、あるいはその人口や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住むエスニック・グループは主に次のようなものである。 ペルシア人(ペルシア語を語る人々: 51%)、アゼルバイジャン人(アゼルバイジャン語を語る人々: 25%)、ギーラキー(英語版)およびマーザンダラーニー(英語版)(ギーラキー語、マーザンダラーニー語を語る人々: 8%)、クルド人 (7%)、アラブ人 (4%)、バローチ (2%)、ロル (2%)、トルクメン (2%)、ガシュガーイー、アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、アッシリア人、タリシュ人、タート人(英語版)、その他 (1%) である。しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。 国際連合の統計によると、イランにおける識字率は79.1%であり、女性の非識字率は27.4%に達する。 イラン人とは、狭義にはイラン・イスラーム共和国の国民の呼称。歴史的には、中央アジアを含むペルシア語文化圏に居住し、イラン人とみなされている人々。1935年にイランが正式な国名であると宣言されるまでは、ギリシア語に由来するペルシア人の名称でよばれていた。 狭義 イラン国民を構成するのは、多様な言語的・民族的・宗教的アイデンティティを持つ人々である。イラン系言語集団には、中央高原部に住み、ペルシア語あるいはその方言を母語とし、シーア派信徒である中核的イラン人(通常イラン人という時のイラン人)、クルド人、ロル族ならびにバフティヤーリー族、バルーチ人などである。テュルク系言語集団には、大集団のアゼリー(アゼルバイジャン人、一般には自他称ともトルコ人)、トルキャマーン(トルクメン人)、遊牧民のカシュカーイー、シャーサヴァン、アフシャールなど。南部のイラク国境にはアラビア語の話者集団がいる。宗教面では、国教の十二イマーム派の他に、スンナ派にはクルド人(シーア派信徒もいる)、バルーチ人、トルクメン人など、キリスト教徒(アルメニア人、東アラム語を母語とするアッシリア人など)、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が存在する。 広義 ホラズム生まれのビールーニー、ブハラ生まれのブハーリー、その近郊生まれのイブン・スィーナー、また、トゥース生まれのアブー・ハーミド・ガザーリーは、もっぱらアラビア語で著述しているが、中央アジアを含むペルシア語文化圏生まれであるために、狭義のイラン人からは、イラン人であるとみなされている。その他、イラン・イスラーム革命後増大したイラン系アメリカ人(カリフォルニア州に約半数が集中し、ロサンゼルスは「テヘランゼルス」と俗称されることもある。二重国籍を所有する者も多い)、バーレーンやドバイに数世代連続して居住する、ペルシア語方言を母語とするファールス州南部出身者などもここに含めることができる。 主要な言語は、ペルシア語、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、クルド語(ソラニー、クルマンジー、南部クルド語、ラーク語)、ロル語(北ロル語、バフティヤーリー語、南ロル語)、ギラキ語、マーザンダラーン語、バローチー語、アラビア語(アラビア語イラク方言、アラビア語湾岸方言)、トルクメン語、ドマーリー語(または、ドマリ語)、ガシュガーイー語、タリシュ語である。 イランにおけるイラン系言語の分布状況は以下の通り。 1. 北部及びカスピ海沿岸部 1)タート語 2)ターレシュ語 3)カスピ海方言 西方にギラキ語(ペルシア語でギーラキー)、東方にマーザンダラーン語の二大方言がある。 4)セムナーン語及びサンゲサル語 5)クルド語 トルコ国境からイラク国境一帯にかけての、コルデスターン(ペルシア語で「クルド(人)の地」)地方を中心に居住する、クルド人の母語。クルド人の居住域は、イラン・イラク・トルコ・シリアの4国に分断されている。クルド語全体の話者人口は、統計のとり方によって数百万から千百万の間を上下する。 6)グーラーニー語 7)ザーザー語 2.中央部 8)タフレシュ方言(ハマダーンからサーヴェにかけて) 9)北西方言(ゴムからエスファハーンにかけて分布) 10)北東方言(カーシャーン及びナタンズ方言) 11)南西方言(エスファハーン周辺) 12)南東方言(ヤズド、ケルマーン、ナーイーン周辺) ギャブリー語(あるいはヤズド語、ケルマーン語)と呼ばれ、ヤズドからケルマーン周辺地域に在住するゾロアスター教徒が使用する言語を含む。ギャブリーは「異教徒の(言語)」という意味で、イスラーム教徒から区別する他称である。話者は自分たちの言語をダリー語と呼んでいる。 13)キャヴィール方言 キャヴィール方言で話される方言の総称である。フール語など。 3. 南西部 14)ファールス方言群 カーゼルーン周辺やシーラーズの北西地域など、ファールス地方で使用される方言の総称。 15)ロル語 ファールス州からフーゼスターン州、エスファハーンの西方の広大な地域で話される、ロル系遊牧民の言語。バフティヤーリー語はこの下位方言に属している。 16)スィーヴァンド語 シーラーズの北方スィーヴァンドで話される言語。南西イランに位置しながら、言語学的には北西言語に属し、言語島を成している。 17)ラーレスターン語 4. 南東部 18)バルーチー語 パキスタン、アフガニスタン南西部、イランに及ぶ広範囲で使用される。音韻面では最も保守的な言語の一つである。 19)バーシュキャルド語(あるいはバシャーケルド語) 通常、婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、夫の姓を後ろに加える女性もいる。 大部分のイラン人はムスリムであり、その90%がシーア派十二イマーム派(国教)、9%がスンナ派(多くがトルクメン人、クルド人とアラブ人)である(詳細はイランのイスラームを参照)。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものにバハイ教、ゾロアスター教(サーサーン朝時代の国教)、ユダヤ教、キリスト教諸派などがある。 このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され、公式に「保護」されているなどかつての「ズィンミー」に相当する。これら三宗教の信者は極端な迫害を受けることはないが、ヘイトスピーチや様々な社会的差別などを受けることもある。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれた者がそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる。 一方、バハイ教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史がある。バハイ教は19世紀半ば十二イマーム派シャイヒー派を背景に出現したバーブ教の系譜を継ぐもので、1979年の革命後には処刑や高等教育を受ける権利を否定されるなど厳しく迫害されている(これについてはバハイ教の迫害およびイランの宗教的マイノリティー、イランにおける宗教的迫害を参照)。ホメイニー自身もたびたび、バハイ教を「邪教」と断じて禁教令を擁護していた。歴史的にはマニによるマニ教もイラン起源とも言える。またマズダク教は弾圧されて姿を消した。 2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は77%(男性83.5%/女性70.4%)であり、世銀発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっている。2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された。 主な高等教育機関としては、テヘラン大学 (1934)、アミール・キャビール工科大学 (1958)、アルザフラー大学 (1964)、イスラーム自由大学 (1982)、シャリーフ工科大学などの名が挙げられる。 イランの教育制度は次の四段階に分けられる。 1. 初等教育(دبستان; 小学校) 学年暦の始め、メフル月一日に満6歳になっていれば入学できる。5年間の義務教育である。昔は小学児童の数が多すぎて、二部制、時には三部制の授業が行われたこともある。 遊牧民のいる地域では、時々普通の黒テントではなく、白い丸型のテントが目につく。これは季節によって移動するテント学校である。 2. 進路指導教育(راهنمایی; 中学校) ペルシア語の名称が指すように、進路指導期間である。11歳よりの3年間である。この3年間の学習の結果に基づき、次への進学段階で、理論教育と工学・技術・職業のどちらかのコースに分けられる。 3. 中等教育(دبیرستان; 高等学校) 4年間。1992年より新制度が導入された。理論教育課程では、第一年度は人文科学科と実験・数学科とに分かれ、第二年次以降は前者はさらに (a)文化・文学専攻と (b)社会・経済専攻に、また、後者は (c)数学・物理専攻と (d)実験科学専攻に分かれる。この3年を修了した後に、4年目は大学進学準備過程(پیش دانشگاهی)に在籍する。一方、大学に進学しない技術・職業家庭では、工学・技術・農業の三専攻に分かれる。修了すると卒業証書(دیپلم)が与えられる。 4. 大学(دانشگاه; 単科大学はدانشکده) 全国共通試験(کنکور)を受けて、進学先・専攻が決まる。年に一度しか試験がないので、ある意味で、日本以上のきつい受験戦争がある。このため予備校が繁盛している。受からなければ、男子は兵役に就く。イラン・イラク戦争の殉教者が家族にいる場合は、優先的に入学が許可されている。ちなみに、私学・イスラーム自由大学と次に述べるパヤーメ・ヌールを除き、授業料は無料である。 それ以外の教育機関 (1) パヤーメ・ヌール(光のメッセージという意味)は、通信教育大学で、イラン各地に140のセンターを持っている。学生数は約20万人であり、授業料は私学・イスラーム自由大学より安い。センターによっては、女学生が8割に達するところがある。外国在住の学生は、60名前後、なかには日本人もいる。 (2) 私学・イスラーム自由大学(دانشگاه آزاده اسلامی)は、革命後に各地で開設され、イランの教育程度を上げるのに貢献している。また、出講すると高額の手当がもらえるので、他大学の教官にも人気がある。国立と異なり、ここは私学であるため授業料を取る。国立に受からなかった学生が進学することが多い。 (3) 大学を除く学校の総称はアラビア語起源のマドラセ(مدرسه)である。外国語学校、コンピュータ学校などの各種学校に当たるものはモアッセセ(مؤسسه)という。 そのほかに幼稚園(کودکستان)、障がい児と英才のための特別教育制度、中等教育を終えた人が2年間学ぶ教員養成講座、成人のための識字教育制度などがある。 イランというより、中東教育全域の教育の特徴は、大学教育も含めて暗記教育である。「学ぶ・勉強する」は、درس خواندن、要するに、「声を出して教科書を読む」ことである。教科書に書いてあることをそのまま丸暗記する。これは大学生にも当てはまる。先生の講義を筆記し、それをそのまま一字一句暗記するのである。 森田は、このようなイランの学校教育を「声の文化」が現れているとし、以下の三つの場面を根拠に挙げている。 1. 小学校での授業方法 現在のイランの公立小学校で行われている授業方法は、三つの段階に分かれている。一つの段階は、「教える」(درس دادن)で、二つ目の段階は「読む」(درس خواندن)であり、三つ目の段階は「問う」(درس پرسیدن)である。まず、「教える」段階では、教師は児童を指名し教科書を声に出して読ませる。読んでいる途中で、難しい言葉の解説を行ったり、分かりにくい表現について内容をわかりやすく説明したりする。とにかく、この段階では教科書に何が書かれているのかについて理解する段階である。その段階が終わると、次は「読む」段階である。これは、授業中にすることではなく、帰宅後に児童たちがそれぞれ行わなければならないことである。家に帰った児童は、それぞれ教科書を暗記するときに、家族の誰か、特に母親に手伝ってもらうケースが多い。というのも、イランの場合、教科書の暗記というのは、教科書の内容を文字で書けることを意味していない。あくまでも教科書を口頭でいえるようになることが重要なのである。日本の宿題は文字を書くことが多いため、家族がそれを手伝う必要はほとんどない。しかし、イランの場合、宿題をする時に教科書を見ながらこどもがきちんとその内容を一字一句間違えずにいえるかどうかをチェックする人が必要になる。 第三段階の「問う」段階では、教科書の内容を暗記できているのかとか、教師がチェックするための問いである。教師は児童を指名し、教科書の内容について質問する。この質問の答えは、口頭で行われる。また、答える時、一つの単語を答えさせるようなことはない。教科書の2 - 3行から成る一部分全体を口頭で一字一句そのままに答える必要がある。イランでは、このような、口頭で教科書の内容を素早く言えること、それが小学校で育成される能力となっている。 2. 私立男子中学校で行われた科学発表会 研究発表を行うにあたって、発表内容を全て暗記し、一人一人の訪問者に対して口頭で説明を行うという方法がとられていた。もし、このような発表会が日本であった場合に第一に考えられる方法は発表内容を全て大きな紙に書き壁に貼ることであっただろう。イランにおいて、研究内容を紙に書いて壁に貼るという習慣がないわけではない。しかし、そういった研究発表はあくまで個人的に行われるものであり、学校全体やグループを形成して行われるものではない。研究発表はあくまでも口頭で行われるのが普通である。 3. イランにおける小学校一年生向けのペルシア語の教科書 そこでは、文字教育よりも音声教育が優先していることがわかる。一年生の教科書の最初の数ページには、文字ではなく、絵だけが描かれている。最初の授業において教師はいきなりアルファベットの学習を始めることはない。授業の最初に教師は絵を見ながらペルシア語で絵に合わせた物語を語り、正しいペルシア語の発音の仕方などを教える。 イラク・アフガニスタン及びパキスタンとの国境地帯並びにシスタン・バルチスタン州の一部の地域を除き、治安状況は首都のテヘランを含めて概ね平穏に推移しているが、2020年1月3日アメリカによるイラン革命ガード高官の殺害を端緒とする米・イラン関係の緊張状態が続いており、不測の事態が発生する恐れを孕んでいる。 またイラン国内において犯罪件数等に関する統計は公表されていないが、各種報道に照らすと一般犯罪は慢性的に発生しているものと見られている。 国家法執行司令部(英語版)が主体となっている。 この組織はかつて存在していたイラン国家憲兵隊(英語版)という警察組織を前身としている。 1979年のイラン・イスラム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。 憲法では公式にシーア派イスラムの十二イマーム派を国教としており、他のイスラムの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、ゾロアスター教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラムの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による差別は容認されている。バハイ教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる。また非ムスリム男性がムスリム女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「鞭打ち百回」であるなど、刑法にも差別規定が存在する。イスラムからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年にはレイプ被害を受けた16歳の少女が死刑(絞首刑)に処された。なお加害者は鞭打ちの刑で済んだ。 女性に対してはヒジャーブが強制されており、行動・性行為・恋愛などの自由も著しく制限されており、道徳警察による服装の取締りが行われている。イラン革命前では欧米風の装束が男女ともに着用されていたが、現在では見られない。同性愛者に対しては共和国憲法で正式に「ソドミー罪」を設けており、発覚した場合は死刑である。 またイランの刑罰においてもシャリーアに基づくハッド刑の中には、人体切断や石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、さらに未成年者への死刑も行われている。 イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の議会・政府、国際機関、NGOや隣国のイラク国民からも人権侵害を指摘され、人権侵害の解消を求められている。 しかし、近年ではイラン人男性がヒジャブを着用し始める動きが表れ出している。これは、イランの活動家であるマシュー・アリネジャード(Masih Alinejad)が「女性に対するヒジャーブ強制を傍観している訳にはいかない」とし、「イラン国内における疑わしい状況に注意を向けよう」という趣旨の元でユーモアを交える形でアクションを起こしているものだとして報道されている。 イランで最初に出た新聞は、Mirza Saleh Shiraziを編集長とする、アフタル紙である。これは1833年に創刊された。1851年には官報としてVagha-ye Ettafaghiheh(臨時報という意味)が出ていることから、イランの新聞の歴史は古いことがわかる。1906年に憲法が発布され、民間新聞紙の発行もようやく多くなったが、そのなかで有力なものは、Soor-e Israfili, Iran-e Now, Islah, Barq, Watanなどでイラン社会の改革に大きく寄与した。だが言論の自由はなお強く抑圧されていたため、多くの新聞は海外で発行されていた。例えばHikmat(エジプト)・Qanun(ロンドン)・Hablul-Matin(カルカッタ)・Sorayya(エジプト)・Murra Nasruddin(チフリス)・Irshad(バクー)などである。 第二次世界大戦中の1941年に連合国軍隊がイランに進駐、新聞の自由が大いに強調されたが、モサッデグ首相が失脚した1953年から、再び新聞への統制が強化された。1955年に成立した新聞法によれば、新聞雑誌の発行には内務省の許可を得なければならない。発行者は30歳以上のイラン人で、少なくとも3ヶ月以上続刊できるだけの資力を持っていなければならない。官公吏は芸術、文芸に関するもののほか、新聞雑誌を刊行することはできない。許可期間は6ヶ月で、各新聞は6ヶ月ごとに許可を更新する必要がある。反乱、放火、殺人を先導したり、軍事機密をもらしたりした場合のほか、反イスラーム的な記事を載せたり、王室を侮辱する記事を掲載した場合は、それぞれ6ヶ月以上2年以下の禁固刑に処せられる。また、宗教・民族の少数者を差別した記事を載せた場合の罰則もある。さらに厚生省が医薬の広告を厳重に監視している点も、イランの特色である。 通信社は1937年に外務省が設立したパールス通信があり、現在も政府管轄下にある。 新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『ハムシャフリー』であり、『イーラーン』、『ジャーメ・ジャム』、『アフバール』などが続き、夕刊紙で有力なのは『ケイハーン』、『エッテラーアート』などである。 エッテラーアート イランではメジャーな新聞。刊行されている新聞のなかで最も歴史が古い。1871年創刊。エッテラーアートとは、ニュースの意味である。 このエッテラーアートの英語版としてみなされているのが、1935年に創刊の『The Tehran Jounal』である。 ケイハーン ケイハーンは大空または世界の意で、世界報ということろである。1943年に創刊された。エッテラーアートよりは野党よりの傾向がある。 その他にもテヘラン市役所で出版されているハムシャフリー、テヘランに本拠を置く英字新聞『テヘラン・タイムズ』等がある。 イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送 (IRIB) に一元化されている。 イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。 また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。 イランは文化、すなわち美術、音楽、建築、詩、哲学、思想、伝承などの長い歴史がある。イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。 イランのイスラーム化以降は、イスラームの信仰や戒律が文化全般に影響を及ぼしている。イスラームのシーア派を国教とするイラン革命後の現体制下では特にそれが強まり、法的な規制を伴っている。例えば書籍を販売するには、イスラムの価値観に合っているかが審査される。 米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる海鮮、鳥・羊・牛などの他、駱駝等も用いる肉料理、野菜料理など、種類も豊富である。最もポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにするキャバーブである。野菜料理は煮込むものが多い。ペルシア料理研究家のナジュミーイェ・バートマーングリージー(Najmieh Batmanglij)は、自著『New Food of Life』で「イラン料理はペルシア絨緞同様に、色彩豊かでかつ複雑である。他の中東料理と共通する部分は多いが、もっとも洗練され、創意に富むといわれる」と述べている。 イラン革命以前は飲酒が盛んであり、現在でも密かに飲まれている。 ペルシア文学は高く評価される。ペルシア語は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『ライラとマジュヌーン』のニザーミー、『ハーフェズ詩集』のハーフィズ、『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『シャー・ナーメ』のフィルダウスィー、『精神的マスナヴィー』のジャラール・ウッディーン・ルーミーらのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。 20世紀に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、ノーベル文学賞候補ともなったアフマド・シャームルーや、イラン初の女流詩人パルヴィーン・エーテサーミー、同じく女流詩人であり、口語詩の創造を追求したフォルーグ・ファッロフザードのような詩人が現れた。 小説においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの、『生き埋め』(1930年)、『盲目の梟』(1936年)などの傑作を残したサーデグ・ヘダーヤトが現れた。 イスラーム化以後、イラン世界ではイスラーム哲学が発達した。11世紀には中世哲学に強い影響を及ぼしたイブン・スィーナー(ラテン語ではアウィケンナ)や哲学者にしてスーフィーでもあったガザーリーが、17世紀には超越論的神智学を創始したモッラー・サドラーが活動した。 クラシック音楽においては新ロマン主義音楽作曲家として『ペルセポリス交響曲』などイラン文化を題材とした作品を書いたアンドレ・オッセンや、指揮者であり、ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設したアレクサンダー・ラハバリらの名が特筆される。 ポピュラー音楽に於いてはイラン・ポップと総称されるジャンルが存在する。ロックは禁止されているが、テヘランのロック・バンド Ahoora のアルバムはアメリカやヨーロッパでも発売されている。その他には、127、Hypernova、Angband、Kiosk、The_Yellow_Dogs_Band などのバンドや、Mohsen Namjoo、Agah Bahari、Kavus Torabi らのミュージシャンも国内外で広く活動をしている。 イラン映画は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し、全世界的に評価されている。イランにおいて初の映画館が創設されたのは1904年と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画はアルダシール・イーラーニーによる『ロルの娘』(1932年)だった。イラン革命以前のモハンマド・レザー・パフラヴィーの治世下ではハリウッド映画やインド映画が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』(1958年)で白色革命下の矛盾を描いたファッルーフ・ガッファリーや、『牛』(1969年)でヴェネツィア国際映画祭作品賞を受賞したダールユーシュ・メフルジューイーのような社会派の映画人が活動した。 現代の著名な映画監督としては、『友だちのうちはどこ?』(1987年)、『ホームワーク』(1989年)のアッバース・キヤーロスタミー(アッバス・キアロスタミ)や、『サイレンス』(1998年)のモフセン・マフマルバーフ、『駆ける少年』のアミール・ナーデリー、『風の絨毯』のキャマール・タブリーズィー、『ハーフェズ ペルシャの詩』(2007年)のアボルファズル・ジャリリなどの名が挙げられる。アスガル・ファルハーディー監督の映画『別離』(2011年)は、ベルリン国際映画祭の金熊賞とアカデミー賞の外国語作品賞を受賞した。 イランにおける服飾文化はいくつかの王朝時代や歴史毎に異なる面を持つ。現在のイラン地域で織物が登場した際の正確な年代や日付は2023年現在でもまだ判明されていない状態であるが、紀元前の文明の出現と一致する可能性が高いことが示唆されている。 イランの建築は、様々な伝統と歴史から、構造および芸術における観点の両方で非常に深い多様性を示している。同国において伝統的なペルシャ建築は継続性を維持するもの、近代的な建築は革新を追求するものとして区分けされている。 イラン国内には数多くの史跡が存在し、積極的にユネスコの世界遺産への登録が行われている。 2014年6月の時点でイランのUNESCO世界遺産登録物件は17件に達し、その全てが文化遺産である。括弧内は登録年。 イラン暦の元日にあたる春分の日に祝われる新年(ノウルーズ)の祝祭は2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。 イラン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1970年にサッカーリーグのペルシアン・ガルフ・プロリーグが創設された。イランサッカー協会(FFIRI)によって構成されるサッカーイラン代表は、これまでFIFAワールドカップには6度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。しかしAFCアジアカップでは、最多優勝の日本代表に次いで3度の優勝を飾っている。イランの国民的英雄として知られるアリ・ダエイは「ペルシアン・タワー」の異名を持ち、1993年から2006年にかけて国際Aマッチに149試合出場し、ポルトガル代表のクリスティアーノ・ロナウドに次ぐ109得点をあげている。 イランは、夏季オリンピックにはガージャール朝時代の1900年パリ大会で1人の選手により初出場しており、その後の空白期を経て1948年のロンドン大会から復帰した。冬季オリンピックには1956年コルチナ・ダンペッツオ大会で初出場を果たした。イランの国技はレスリングでありアジア屈指の強豪国として知られており、2012年ロンドン大会では金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した他、2021年東京大会までで獲得した全76個のメダルのうち47個をレスリングが占めている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、ペルシア語: جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、アジア・中東に位置するイスラム共和制国家。首都はテヘラン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北西にアルメニアとアゼルバイジャン、北にカスピ海、北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタンとパキスタン、南にペルシア湾とオマーン湾、西にトルコ、イラク(クルディスタン)と境を接する。また、ペルシア湾を挟んでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に、オマーン湾を挟んでオマーンに面する。ペルシア、ペルシャともいう。公用語はペルシャ語。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "前6世紀のアケメネス朝時代から繁栄し、サーサーン朝時代にはゾロアスター教が国教だったが、642年にアラブ人に滅ぼされ、イスラム教が広まった。16世紀初めに成立したサファビー朝がシーア派十二イマーム派を国教とし、イラン人の国民意識を形成した。18世紀のカージャール朝を経て、1925年からパフラヴィー朝になったが、1979年のルーホッラー・ホメイニーによるイラン革命により王政は廃され、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制が樹立された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1979年に制定されたイラン・イスラーム共和国憲法によって規定されており、国の元首である最高指導者の地位は、宗教法学者に賦与されている。憲法第4条では、すべての法律および規制がイスラムの基準に基づくものでなければならないという原則が定められている。憲法では三権分立が規定され、立法権は一院制の国民議会、行政権は大統領にあるが、実質的には最高指導者が三権を掌握しており、大統領の地位はこれに劣る。イラン革命とシーア派に忠実であることが資格として要求される。このような体制から、イラン政府は権威主義的であり、人権と自由に対する重大な制約と侵害をしているとして多くの批判を集めている。ヒューマン・ライツ・ウォッチは政府が抗議者に対して恣意的な逮捕を行い、治安当局や諜報当局による深刻な虐待が行われていることを報告している。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界154位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2022年)。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも177位と下位で最も深刻な国の一つに分類されている(2023年)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一方で教育には注力されており、人間開発指数は0.800で高い分類に入る。科学技術力においても、ナノテクノロジーのような材料工学や幹細胞研究で世界トップクラスの位置にいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "パフラヴィー朝時代にはアメリカ合衆国の強い影響下にあったが、革命により米国との関係が悪化、特にアメリカ大使館人質事件以降、公然たる敵対関係に入った。米国とは互いをテロ組織・テロ支援国家に指定している。 他方でイラン革命指導者は反共主義者が多いため、ソビエト連邦とも友好的ではなく、革命後の外交は排外主義的な非同盟中立路線を基本とする。近年は核兵器開発を行っている疑惑から経済制裁を受けている。2015年にオバマ政権下のアメリカと核合意を締結して制裁解除を取り付けたが、トランプ政権が一方的に破棄し制裁が再開されたため、段階的に核合意履行停止を進めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "パフラヴィー朝時代にアメリカからの経済援助を元手に経済各分野の近代化を進め、一時は高度経済成長を成し遂げた。その後の低迷によるイラン革命の混乱とイラン・イラク戦争で経済は停滞したが、21世紀に入ると原油価格昂騰により収入を大幅に増やした。世界有数の石油の産出地であり、それが国の主要財源である。しかし近年は長引く米国の制裁と新型コロナウイルスのパンデミックにより経済状態が深刻化している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "イランは王政時代からの伝統を持つ国軍と別に、革命後に創設されたイスラム革命防衛隊という最高指導者直轄の軍事組織が存在することが特徴である。イスラム革命防衛隊は、国外の対外工作にも深くかかわり、アメリカ合衆国のトランプ政権から「テロ組織」に指定された。男性に2年の兵役を課す徴兵制を採用しており、兵力は61万人ほどである(2020年時)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2017年の国勢調査によると人口は約8000万人で、世界でも17位であった。多くの民族と言語が存在する多文化国家であり、主要な民族の構成はペルシア人 (61%)、アゼルバイジャン人 (35%)、クルド人 (10%)、ロル族 (6%) である。宗教は99%がイスラム教徒でその大部分 (89%) がシーア派である。トルクメン人・バルーチ人・クルド人など10%がスンニ派を信仰している。極めて少数派としてユダヤ教・キリスト教・ゾロアスター教・バハイ教の教徒もいるが、バハイ教は非合法にされている。言語はペルシア語が公用語で大半を占めているが、他にクルド語やアゼルバイジャン語などがある。国教はシーア派十二イマーム派である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "総面積は1,648,195 km (平方キロメートル) で、中東で2番目に大きく、世界では17位である。北部を東西にアルボルズ山脈が、北西部から南東部にザーグロス山脈が走り、その間にイラン高原が広がる。国土のほとんどがイラン高原上にある。同国はユーラシアの中心に位置し、ホルムズ海峡に面するため、地政学的に重要な場所にある。首都であるテヘランは同国の最大都市であり、経済と文化の中心地でもある。イランには文化的な遺産が多く存在し、ユネスコの世界遺産には22個登録されている。これはアジアでは3番目、世界では11番目に多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として知られていた。1935年3月21日、レザー・シャーは諸外国に対して公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られた。1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現在の正式名称はペルシア語でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān [dʒomhuːˌɾije eslɒːˌmije ʔiːˈɾɒn] ( 音声ファイル) ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)、通称 ایران [ʔiːˈɾɑn] ( 音声ファイル)。公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」または「イラン回教共和国」、通称イランであり、漢字表記では伊朗、伊蘭とも当てた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "国旗は3色で構成され、緑はイスラムの国であること、白は平和と平和愛好、赤は勇気を表している。中央のモチーフは4本の剣と三日月を用いてアラビア語のアッラー(الله)とチューリップを象徴する。アッラーは、イスラムの唯一神で、チューリップはイスラムと祖国のために戦死した殉教者を表す。", "title": "国旗" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "イランの歴史時代は紀元前3000年頃の原エラム時代に始まる。アーリア人の到来以降、王朝が建設され、やがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興。紀元前550年にキュロス大王がメディア王国を滅ぼしてペルシアを征服し、さらにペルシアから諸国を征服して古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国を建国した。紀元前539年にバビロン捕囚にあったユダヤ人を解放するなど各地で善政を敷き、またゾロアスター教をその統治の理念とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アケメネス朝はマケドニア王国のアレクサンドロス大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされたが、まもなく大王が死去してディアドコイ戦争となり、帝国は三分割されてセレウコス朝(紀元前312年 - 紀元前63年)の支配下に入った。シリア戦争中には、紀元前247年にハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)が成立し、ローマ・シリア戦争でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "パルティア滅亡後は226年に建国されたサーサーン朝が続いた。サーサーン朝は度々ローマ帝国と軍事衝突し、259年/260年にシャープール1世は親征してきたウァレリアヌス帝をエデッサの戦いで打ち破り、捕虜にしている。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させ、ローマ帝国やイスラム帝国に文化・政治体制などの面で影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "7世紀に入ると、サーサーン朝は東ローマ帝国のヘラクレイオス帝との紛争やメソポタミアの大洪水による国力低下を経て、アラビア半島に興ったイスラーム勢力のハーリド・イブン・アル=ワリードらが率いる軍勢により疲弊。636年のカーディスィーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いでイスラーム勢力に敗北を重ね、651年に最後の皇帝ヤズデギルド3世が死去したことを以て滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "イランの中世は、このイスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられた。873年に成立したイラン系のサーマーン朝下ではペルシア文学が栄え、10世紀に成立したイラン系のブワイフ朝はシーア派イスラームの十二イマーム派を国教とした最初の王朝となった。11世紀から12世紀にかけて発達したガズナ朝やセルジューク朝やホラズム・シャー朝などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用し、ペルシア語を外交や行政の公用語としたため、この時代にはペルシア文学の散文が栄えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1220年に始まるモンゴル帝国の征服によりイランは荒廃した。モンゴル帝国がイスラーム化したフレグ・ウルスが滅亡した後、14世紀から15世紀にかけてイラン高原はティムール朝の支配下に置かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1501年にサファヴィー教団(英語版)の教主であったイスマーイール1世がタブリーズでサファヴィー朝を開いた。シーア派イスラームの十二イマーム派を国教に採用したイスマーイール1世は遊牧民のクズルバシュ軍団を率いて各地を征服した。また、レバノンやバーレーンから十二イマーム派のウラマー(イスラーム法学者)を招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進んだ。1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン帝国に奪われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第五代皇帝のアッバース1世はエスファハーンに遷都し、各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出した。1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれると、イギリス人のロバート・シャーリーの指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し、1638年にオスマン帝国の反撃で現在のイラク領域を失い、1639年のガスレ・シーリーン条約(英語版)でオスマン朝との間の国境線が確定した。サファヴィー朝は1736年に滅亡し、その後は政治的混乱が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1796年にテュルク系ガージャール族(英語版)のアーガー・モハンマドが樹立したガージャール朝の時代に、ペルシアはイギリス、ロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった(グレート・ゲーム)。ナポレオン戦争の最中の1797年に第二代国王に即位したファトフ・アリー・シャーの下で、ガージャール朝ペルシアにはまず1800年にイギリスが接近したがロシア・ペルシア戦争(第一次ロシア・ペルシア戦争)にてロシア帝国に敗北した後はフランスがイギリスに替わってペルシアへの接近を進め、ゴレスターン条約(1813年)にてペルシアがロシアに対しグルジアやアゼルバイジャン北半(バクーなど)を割譲すると、これに危機感を抱いたイギリスが翌1814年に「英・イラン防衛同盟条約」を締結した。しかしながらこの条約はロシアとの戦争に際してのイギリスによるイランへの支援を保障するものではなく、1826年に勃発した第二次ロシア・ペルシア戦争でロシアと交戦した際には、イギリスによる支援はなく、敗北後、トルコマーンチャーイ条約(1828年)にてロシアに対しアルメニアを割譲、500万トマーン(約250万ポンド)の賠償金を支払い、在イランロシア帝国臣民への治外法権を認めさせられるなどのこの不平等条約によって本格的なイランの受難が始まった。こうした情況に危機感を抱いた、アーザルバイジャーン州総督のアッバース・ミールザー皇太子は工場設立や軍制改革などの近代化改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫した。1834年に国王に即位したモハンマド・シャーは失地回復のために1837年にアフガニスタンのヘラートへの遠征を強行したものの失敗し、1838年から1842年までの第一次アフガン戦争(英語版)にてイギリスがアフガニスタンに苦戦した後、イギリスは難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、1841年にガージャール朝から最恵国待遇を得た。更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの国教たる十二イマーム派の権威を否定するセイイェド・アリー・モハンマドがバーブ教を開くなど内憂にも見舞われた。モハンマド・シャーの没後、1848年にナーセロッディーン・シャーが第四代国王に即位した直後にバーブ教徒の乱が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビールの下でオスマン帝国のタンジマートを範とした上からの改革が計画されたが、改革に反発する保守支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折した。ナーセロッディーン・シャーは1856年にヘラートの領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征はイギリスのイランへの宣戦布告を招き、敗戦とパリ条約によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "こうしてイギリスとロシアをはじめとする外国からの干渉と、内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で、19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及んだ。1872年のロイター利権のような大規模な民族資産のイギリスへの譲渡と、ロシアによる金融業への進出が進む一方、臣民の苦汁をよそに国王ナーセロッディーン・シャーは遊蕩を続けた。第二次アフガン戦争(英語版)(1878年–1880年)では、ガンダマク条約(英語版)(1879年)を締結したが、戦争の二期目に突入し、イギリス軍は撤退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、1890年に国王ナーセロッディーン・シャーがイギリス人のジェラルド・タルボトにタバコに関する利権を与えたことを契機として、翌1891年から十二イマーム派のウラマーの主導でタバコ・ボイコット運動が発生し、1892年1月4日に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが革命家レザー・ケルマーニーに暗殺された後、1896年にモザッファロッディーンが第五代ガージャール朝国王に即位した。だが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めたアターバケ・アアザム(英語版)が留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかった。しかしながら1905年に日露戦争にて日本がロシアに勝利すると、この日本の勝利は議会制と大日本帝国憲法を有する立憲国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の専制に対する憲法の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の農作物の不作とコレラの発生などの社会不安を背景に、1905年12月の砂糖商人への鞭打ち事件を直接の契機として、イラン立憲革命が始まった。イラン人は国王に対して議会 (majles) の開設を求め、これに気圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、10月7日にイラン初の国民議会 (Majiles-e Shoura-ye Melli) が召集された。しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には労働者のストライキや農民の反乱、1907年にイランをそれぞれの勢力圏に分割する英露協商を結んだイギリスとロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、1911年にロシア帝国軍の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのであった。なお、この立憲革命の最中の1908年5月にマスジェド・ソレイマーンで油田が発見されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま1914年の第一次世界大戦勃発を迎えると、既にイギリス軍とロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更にオスマン帝国が侵攻してタブリーズを攻略され、イラン国内ではドイツ帝国の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて凶作やチフスによる死者が続出した。1917年10月にロシア大十月革命によってレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキが権力を握ると、新たに成立した労農ロシアはそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、不平等条約の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出した。これに危機感を抱いたイギリスは単独でのイラン支配を目指して1919年8月9日に「英国・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図った。この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日にミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリーによってギーラーン共和国が、6月24日に北部のタブリーズでアーザディスターン独立共和国の樹立が反英、革命の立場から宣言されたが、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、1921年2月21日に発生したイラン・コサック軍のレザー・ハーン大佐によるクーデターの後、同1921年4月にイギリス軍が、10月にソビエト赤軍がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは1925年10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出した。翌1926年4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、パフラヴィー朝が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "パフラヴィー朝成立後、1927年よりレザー・パフラヴィーは不平等条約破棄、軍備増強、民法、刑法、商法の西欧化、財政再建、近代的教育制度の導入、鉄道敷設、公衆衛生の拡充などの西欧化事業を進め、1931年に社会主義者、共産主義者を弾圧する「反共立法」を議会に通した後、1932年を境に独裁化を強めた。また、ガージャール朝が欠いていた官僚制と軍事力を背景に1935年7月のゴーハルシャード・モスク事件や1936年の女性のヴェール着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し、反イスラーム的な統治を行った。なお、イスラームよりもイラン民族主義を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月にフェルドウスィー生誕1,000周年記念祭が行われ、1935年に国号を正式にペルシアからイランへと変更している。1930年代後半にはナチス・ドイツに接近し、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、当初は中立を維持しようとしたが、 1941年8月25日にソ連軍とイギリス軍がそれぞれ国境を超えてイランに侵攻。イラン軍は敗北し、イギリスとソ連によって領土を分割された。イラン進駐下では1941年9月16日にレザー・パフラヴィーが息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに帝位を譲位した他、親ソ派共産党のトゥーデ党が結成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1943年11月30日には連合国の首脳が首都テヘランでテヘラン会談が開催された。その際、会議の主題とは別に各首脳らによってイランの独立と領土の保障に関する宣言書に署名が行われた。イラン国民のご機嫌を取るためのジェスチャーとも評されたが、戦後イランを特徴づける舞台が整えられた。また、北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、1945年12月12日にアゼルバイジャン国民政府が、1946年1月22日にはクルド人によってマハーバード共和国が樹立されたが、両政権は共にアフマド・ガヴァーム首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1940年代に国民戦線を結成したモハンマド・モサッデク議員は、国民の圧倒的支持を集めて1951年4月に首相に就任した。モサッデグ首相はイギリス系アングロ・イラニアン石油会社から石油国有化を断行した(石油国有化運動)が、1953年8月19日にアメリカ中央情報局(CIA)とイギリス秘密情報部による周到な計画(アジャックス作戦、英: TPAJAX Project)によって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "このモサッデグ首相追放事件によって米国の傀儡政権として復権したパフラヴィー朝のシャー(皇帝)、モハンマド・レザー・パフラヴィーは自らへの権力集中に成功した。1957年にCIAとFBIとモサドの協力を得て国家情報治安機構 (SAVAK) を創設し、この秘密警察SAVAKを用いて政敵や一般市民の市民的自由を抑圧したシャーは、米ケネディ政権の要請によりイランの西欧化を図るべく、「白色革命」が実行された。この計画には、農地改革や識字率向上、国有工場の売却、企業利益分配、非イスラム教徒および女性の参政権などが含まれた。一方、失業率の増加や格差拡大、政治腐敗なども引き起こされ、原油価格が下落すると計画は破綻した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1978年に入るとテヘランで1万人規模の反政府デモが発生するようになり、8月31日には暴徒が銀行に放火するなどした。この時、アーヤトッラー・ホメイニーが台頭していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "シャーの独裁的統治は1979年のイラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年のアメリカ大使館人質事件、革命の輸出政策、レバノンのヒズボッラー(ヒズボラ)、パレスチナのハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "クルド人はイラン革命を支持し、自治権の獲得を目指していたが、革命成立後の政府は受け入れずにイラン・クルディスタン民主党を非合法化。1979年8月、クルド人はイラン西部のケルマーンシャー州や西アーザルバーイジャーン州の都市を占拠するなど大規模な反乱を起こしたが、翌月までに大半が鎮圧された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "革命による混乱が続く1980年には隣国イラクのサッダーム・フセイン大統領がアルジェ協定を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発した。この破壊的な戦争はイラン・コントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ、1988年まで続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2021年6月18日に投票が行われたイラン大統領選挙では、エブラーヒーム・ライースィーが当選した。この選挙では政界の有力者の多くが出馬を禁じられ、立候補者が保守強硬派だらけとなったこともあり、投票率は著しく低迷した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "イランの政体は1979年以降の憲法(ガーヌーネ・アサースィー)の規定による立憲イスラーム共和制である。政治制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は、民主主義的に選挙によって選出される議員で構成されるもの、宗教的立場によって選出されるもの、あるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イランの政治制度の特徴は、何といっても「法学者の統治」である。これは、イスラーム法学者の解釈するイスラームが絶対的なものであることを前提とし、現実にイスラーム法が実施されているかを監督・指揮する権限を、イスラーム法学者が持つことを保障する制度である。この制度は、シーア派イスラームならではの制度といってよい。イランはシーア派のなかでも「十二イマーム派」に属するが、一般にシーア派の教義では「イマーム」こそが預言者の後継者として、「イスラームの外面的・内面的要素を教徒に教え広める宗教的統率者」としての役割を担うとされている。シーア派はイジュティハードの権限を持つイスラーム法学者を一般大衆とは区別し、この解釈権を持つイスラーム法学者(モジュタヒド)に確固とした政治的・宗教的地位を与えている。モジュタヒドの最高位にあるのが、「マルジャエ・タグリード(模倣の源泉、大アーヤトッラー)」である。マルジャエ・タグリードはシーア派世界の最高権威であるが、ローマ教皇のように必ず1人と決まっているわけではなく、複数人のマルジャエ・タグリードが並立することがある。1978年から1979年のイラン・イスラーム革命によって、マルジャエ・タグリードの1人であったホメイニーがイランの最高指導者となり、宗教的のみならず、政治的にも最高の地位に就くこととなった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "イランでは立候補者の数が多い。2000年2月に行われた第6回国会選挙では、290名の定員に対し、7,000人近くが立候補し、2001年の第8回大統領選挙では、840名が立候補した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "特に国会選挙では、投票の際、投票者が一名を選択するのではなく、その選挙区の定員数まで何人でも選定することができる。従ってテヘランのように30名もの定員がある選挙区では、2, 3人しか選ばない者もいれば、30人まで列記して投票する者もいる。つまりどのような投票結果になるか予想しにくい制度であるばかりか、死票や票の偏りがおこりやすい。テヘランのような大都会では、投票が有名人に集中し、候補者は規定票を獲得できず、第2ラウンドへ持ち込まれるケースも多い。国会選挙の場合、投票総数の三分の一を獲得しなければ、たとえ定員数内の上位でも当選にはならない。そして、第2ラウンドの選挙になる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "しかし、こうしたやり方では選挙費用がかさむ上、第2・第3ラウンドとなれば選挙結果が決まるまで時間がかかりすぎ国会の空白期間が生じる。そのため、2000年1月上旬選挙法の改正が行われ、第一ラウンドの当選をこれまでの投票総数の3分の1から25パーセント以上獲得すれば当選とし、第2ラウンドでは、従来通り投票総数の50パーセント獲得すれば当選というように改正された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "護憲評議会は、選挙の際に、立候補者の資格審査(選挙資格を満たしているか否か)を行なっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ヴェラーヤテ・ファギーフ(ペルシア語版、英語版)(法学者の統治)の概念はイランの政治体制を構成する上で重要な概念となっている。憲法の規定によると、最高指導者は「イラン・イスラーム共和国の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負う」とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。最高指導者は行政・司法・立法の三権の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。宣戦布告の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、イスラーム革命防衛隊(イスラム革命防衛隊、IRGC)総司令官の任免権をもち、監督者評議会を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。最高指導者(または最高指導会議)は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "大統領は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる行政府の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に監督者評議会による審査と承認が必要で、国民による直接普通選挙の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で閣僚評議会(閣議)が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。首相職は1989年の憲法改正により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "議会は「マジレセ・ショウラーイェ・エスラーミー Majles-e showrā-ye eslāmī」(イスラーム議会)といい、一院制である。立法府としての権能を持ち、立法のほか、条約の批准、国家予算の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては監督者評議会による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7,600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2,200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。日本語の報道では国会とも表記される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "専門家会議は国民の選挙によって選出される「善良で博識な」86人のイスラーム知識人から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は監督者評議会の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は最高指導者を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "監督者評議会は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーア(イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "公益判別会議は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "最高司法権長は最高指導者によって任じられ、最高裁判所長官および検事総長を任じる。一般法廷が、通常の民事・刑事訴訟を扱い、国家安全保障にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決は確定判決で上訴できない。またイスラーム法学者特別法廷は法学者による犯罪を扱うが、事件に一般人が関与した場合の裁判もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は、イスラエルを除く全ての国家、国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "シリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権である事に加え、イラン・イラク戦争ではシリア・バース党とイラク・バース党との対立も絡み、シーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した。イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、反スンニ派イスラム主義、国際的孤立化にあるなど利害が一致する点が多い。近年ではシリア内戦でイランがアサド政権を支援するなど、政治面の他、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "両国はそれぞれシーア派とスンナ派の盟主とであるため、度々国交断絶などの対立を繰り返してきた。近年ではイラク戦争やアラブの春の混乱で、イラク・シリア・エジプトなどの中東の有力国が国力を落とす中、相対的に中東におけるイランとサウジアラビアの影響力が拡大した。シリア内戦やイエメン内戦では異なる勢力を支援し事実上の代理戦争の様相を呈していた他、2016年には国交断絶が起きるように、対立が表面化していた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "しかし、2023年3月に中国の仲介によって外交関係を正常化した。同年6月6日、両国は大使館を7年ぶりに再開させた。イランのビクデリ副外相は「イランとサウジにとって歴史的な日だ。地域の安定や繁栄、発展に向けた協力が進むだろう」と語った。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "イランと米国の外交関係は1856年から始まり、イランにとって米国はペルシャ湾情勢において圧となっていたイギリスとロシアと対峙できる第三勢力だったこともあり、第二次世界大戦までの関係は良好だった。特に、1925年にパフラヴィー朝を開いたレザー・パフラヴィー皇帝(シャー)は、米国から財政顧問官を招聘して財政改革にあたるなど傾倒していた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、冷戦時代に入ると、イランはソ連の隣国であることや産油国の中東における大国であることから、米国に中東政策の柱として目を付けられる。1951年にモハンマド・モサッデクが首相に就任し、石油を国有化するなど独立色を強めると、米国とイギリスの情報機関(CIAとMI6)は1953年のクーデターを主導した。こうして復権した1953年-1978年のパフラヴィー2世政権は、事実上米国の傀儡政権であったため、米国との関係は質量ともに重大だった。この頃は、米国がイランの核開発を支援していた。同時に、米国はイランの石油を大量に手に入れ、覇権国家の立場を確立した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "イラン国民の生活文化を無視した白色革命が原油価格の下落により破綻すると、国民の不満が爆発し、1978年から1979年にイラン革命が発生。革命により反米的なイラン・イスラム共和国が興ると、両国の関係は急速に悪化。イラン在米資産没収やイランアメリカ大使館人質事件ののち、1980年4月の断交に至った。9月からイラン・イラク戦争が始まると、米国はイラクを支援した。以後、イスラム革命時以後の歴代の米国議会・政府は、イランを反米国家(悪の枢軸)と認識し、イランに対する国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続している。米国政府は1984年にレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定し、2023年現在まで指定を継続している。1990年代のクリントン米政権時代には貿易・投資・金融の禁止措置が実施され、2000年代以降は核開発問題を理由に経済制裁を行われている。2012年の原油の制裁対象化や2015年のSWIFT排除などは、イラン経済に大きな影響を及ぼしている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "内政干渉としては、2009年のイランの反アフマディーネジャード派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生に米国とヨーロッパの財団・機関が関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し、米国政府もイランの体制を壊す目的で工作していたと発表した。2020年1月には、米国がイラン革命防衛隊司令官ガーセム・ソレイマーニーを殺害した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "イラン側は、イスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまでは米国に対して強硬な姿勢だったが、その後は、アリー・ハーメネイー師、ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領、モハンマド・ハータミー大統領、マフムード・アフマディーネジャード大統領などが、米国がイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している。ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日の米国に対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙で選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している。ただし、イエメン内戦やシリア内戦では米国と対立し、軍事支援を通じて間接的に戦っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "イランにおける核開発は、1950年代の米傀儡政権下に始まる。1957年、当時のドワイト・D・アイゼンハワー米大統領により「原子力の平和利用研究協力協定案」が発表され、基礎が築かれた。その後、実験炉と濃縮ウランが提供され、原子力発電所の建設計画も合意されたが、イラン革命で反米政権になると状況は一変。1970年代に様々な国と原子力協力協定を結び、原子力技術移転を目指したが、イスラエルと繋がりの深い米国等の圧力により進まず、自主開発を始めた。秘密裏に行っていたため、2002年に暴露されると、翌年にはIAEA理事会から開発の停止を求められた。しかし、イランは続行したため、欧米との対立が起きた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "イラン政府は自国の核開発問題について、核エネルギーの生産を目指すもので、核兵器開発ではないと今までに一貫して表明してきており、アフマディネジャド大統領は「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対して明言している(『Newsweek』誌2009年10月7日号)。欧米のイランの核エネルギー開発は認められない、という論理は決して世界共通のものではない。新興国のトルコやブラジル、また、ベネズエラ・キューバ・エジプトその他の非同盟諸国は「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示し、当然であるとして支持している。2009年10月27日のアフマディーネジャード大統領との会談の中で、トルコのエルドアン首相はイランの核(エネルギー)保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた。また、ブラジルのルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領は『Newsweek』誌2009年10月21日号でイランのウラン濃縮の権利を支持していることが報じられており、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は2006年7月のアフリカ連合 (AU) 首脳会議に招かれた際、イランの核開発について「平和利用のための核技術を発展させる権利がイランにないというのか。明らかにある」と断言している。2006年9月の第14回非同盟諸国首脳会議では、イランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択され、会議の議長国キューバやエジプトもこれを支持している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "核兵器開発については、IAEAや敵対するイスラエルも否定することとなるが、核技術開発自体認めない欧米諸国の圧力は止まらず、イランも無視したことで、2012年に米国とEUからイラン産原油輸入を経済制裁の対象にされ、実質GDP成長率は前年比マイナス8.4%にもなった。2013年に穏健派のロウハーニーが大統領になると協議は進み、2015年に最終的な核合意に至った。これによりGDPは急回復を見せたが、2018年にイスラエル寄りのドナルド・トランプ米大統領が一方的に合意を破棄し、SWIFT排除も含めた経済制裁を再開すると、経済は再び急落した。もっとも、これにより国産技術が発展したという面もある。また、米国の行動に対し、ロウハニ大統領は核合意から離脱はしないが、核合意を遵守するわけでもないという演説を行い、核開発を再開。2021年にジョー・バイデンが米大統領に就任してからは協議が再開したが溝は深く、2022年7月にはイスラエルメディアのインタビューで、バイデンがイラン攻撃の可能性も示した。その後、イラン側は最高指導者顧問と原子力庁長官が核兵器製造は可能だがしないと発言した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2010年9月のイスラーム聖典『クルアーン』焼却事件はアメリカ・フロリダ州のキリスト教会の牧師が、同時多発テロ事件の9周年にあたる2010年9月11日を「国際クルアーン焼却デー」とし、『クルアーン』を焼却する計画を発表したことに始まる事件だが、ムスリム・非ムスリムを超えた広範な反発と国際世論の圧力を受けて中止された。しかし、この呼びかけに応えたようにアメリカ国民の一部が数冊の『クルアーン』を燃やし、ワシントンD.C.で警官に護衛される中で、また、アメリカ同時多発テロ事件で破壊されたニューヨークの世界貿易センタービルの跡地で数十冊の『クルアーン』を破り、それに火をつけた。これらの行為に対して、全世界で大規模な抗議運動が巻き起こった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "聖地イェルサレムでも同時期に似たような反イスラーム的行為が行われた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "このような事件に対して最高指導者アリー・ハーメネイーはメッセージのなかで、イスラーム教徒とキリスト教徒を対立させることが、この事件の真の首謀者の望みであるとし、「キリスト教会やキリスト教とは関係がなく、数名の雇われた人間の行動を、キリスト教徒全体のものと考えるべきではない」、「我々イスラーム教徒が、他の宗教の神聖に対して同じような行動に出ることはない。クルアーンが我々に教える事柄は、その対極にある」と表明した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "そして、この事件の真の計画、指示者について「アフガニスタン、イラク、パレスチナ、レバノン、パキスタンで、犯罪行為を伴ってきた、一連の流れを分析すれば、アメリカの政府と軍事・治安機構、イギリス政府、その他一部のヨーロッパ政府に最大の影響力を持つ、“シオニストの頭脳集団”であることに疑いの余地は残らない」、「(今回の事件は)この国の警察に守られる中で行われたものであり、何年も前から、(欧米での)イスラム恐怖症やイスラム排斥といった政策に取り組んできた(シオニスト頭脳集団)組織による計画的な行動であった」と述べ、今回のクルアーン焼却事件とそれ以前の欧米でのイスラーム恐怖症やイスラーム排斥の政策を主謀したのはこのシオニスト集団だとした。また、「このようなイスラムへの一連の敵対は、西側におけるイスラムの影響力が、いつにも増して高まっていることに起因する」とした。さらに同メッセージでアメリカ政府に対し、「この陰謀に関与していないとする自らの主張を証明するために、この大きな犯罪の真の実行者をふさわしい形で処罰すべきだ」と強調した。この事件に対し、インド領カシミール、アフガニスタンでも抗議デモが行われ、イランでは抗議のために多くの都市のバザールが9月15日を休業とした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "元ムスリム(イスラーム教徒)のサルマン・ラシュディが書いた1989年出版の『悪魔の詩』はイスラームの預言者ムハンマドについて扱っているが、その内容と、この人物が元ムスリムであったことから発表の後、各国のムスリムの大きな非難と反発を招いた。1991年7月に起きた日本の茨城県つくば市内で筑波大学助教授が何者かによって殺された事件(未解決)は、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。詳細は悪魔の詩を参照。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "国軍として、陸軍・海軍・空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "イランは核拡散防止条約 (NPT) に加盟しているが、国際社会からイランの核開発問題が問題視されている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、国軍とは別に、パースダーラーン省に所属する2つの準軍事組織保有している。1979年にイスラム革命の指導者ホメイニー師の命で設立された、志願民兵によって構成されている準軍事組織「バスィージ(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "イランは31の州(オスターン)からなっている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "イランの人口上位5都市は以下の通り(都市圏の人口ではない)。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "イランは北西にアゼルバイジャン(国境線の長さは432 km。以下同様)、アルメニア (35 km) と国境を接する。北にはカスピ海に臨み、北東にはトルクメニスタン (992 km) がある。東にはパキスタン (909 km) とアフガニスタン (936 km)、西にはトルコ (499 km) とイラク (1,458 km) と接し、南にはペルシア湾とオマーン湾が広がる。面積は1,648,000 kmで、うち陸地面積が1,636,000 km、水面積が12,000 kmであり、ほぼアラスカの面積に相当する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が盆地や台地を互いに切り離している。イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちでザーグロス山脈やイランの最高峰ダマーヴァンド山 (標高: 5,604 m) を含むアルボルズ山脈がある。一方、イランの東半は塩分を含むキャビール砂漠、ルート砂漠のような無人に近い砂漠地帯が広がり、塩湖が点在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "平野部はごくわずかで、大きなものはカスピ海沿岸平野とアルヴァンド川(シャットゥルアラブ川)河口部にあたるペルシア湾北端の平野だけである。その他小規模な平野部はペルシア湾、ホルムズ海峡、オマーン湾の沿岸部に点在する。イランは、いわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か国のうちの1つと考えられている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "全般的には大陸性気候で標高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季はペルシャ湾沿岸部やオマーン湾沿岸部を除くとほぼ全域で寒さが厳しい。国土の大部分が砂漠気候あるいはステップ気候であるが、ラシュトに代表されるイラン北端部(カスピ海沿岸平野)は温暖湿潤気候に属し、冬季の気温は0°C前後まで下がるが、年間を通じて湿潤な気候であり、夏も29°Cを上回ることは稀である。年間降水量は同平野東部で680 mm、西部で1700 mm以上となる。テヘランなどの内陸高地はステップ気候から砂漠気候に属し、冬季は寒く、最低気温は氷点下10度前後まで下がることもあり降雪もある。一方、夏季は乾燥していて暑く日中の気温は40度近くになる。ハマダーン、アルダビールやタブリーズなどのあるイラン西部の高地は、ステップ気候から亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、山岳地帯では豪雪となり厳しい季節となる。特に標高1,850 mに位置するハマダーンでは最低気温が-30度に達することもある。イラン東部の中央盆地は乾燥しており、年間降水量は200 mmに満たず、砂漠が広がる砂漠気候となる。特にパキスタンに近い南東部砂漠地帯の夏の平均気温は38°Cにも達する酷暑地帯となる。ペルシア湾、オマーン湾沿岸のイラン南部では、冬は穏やかで、夏には温度・湿度ともに非常に高くなり平均気温は35°C前後と酷暑となる。年間降水量は135 mmから355 mmほどである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "イランの経済は中央統制の国営イラン石油会社や国有大企業と、農村部の農業および小規模な商業、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済である。政府は以前から引き続いて市場化改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を自動車産業、航空宇宙産業、家電製造業、石油化学工業、核技術など他の部門に振り分け投資している。チャーバハール自由貿易地域、キーシュ島自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め、数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。現代イランの中産階級の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが、一方で高インフレ、高失業率が問題である。インフレ率は2007年度の平均で18.4%、2008年4月(イラン暦)には24.2%にまで達している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "イラン・イスラム革命は富の再分配も理念の一つとしていたが、実際には貧富の格差は大きい。縁故主義により経済的に成功したり、海外への留学を楽しんだりする高位聖職者や政府・軍高官の一族は「アガザデ」(高貴な生まれ)と呼ばれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "財政赤字は慢性的問題で、これは食品、ガソリンなどを中心とする年総計約72億5000万ドルにものぼる莫大な政府補助金が原因の一つとなっている。これに対してアフマディーネジャード政権は、2010年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "イランはOPEC第2位の石油生産国で、2016年時点の生産量は200万バレル/日である。確認されている世界石油埋蔵量の10%を占める。また天然ガス埋蔵量でもロシアに続き世界第2位である。原油の輸出は貴重な外貨獲得手段であるとともに1996年の非常に堅調な原油価格は、イランの財政赤字を補完し、債務元利未払金の償還に充てられた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "農業については国家投資、生産自由化による活発化が目指され、外国に対する売り込み、マーケティングなどで輸出市場を開発し、全般的に改善された。ナツメヤシ・ピスタチオ・花卉など輸出用農業生産物の拡大、大規模灌漑計画により1990年代のイラン農業は、経済諸部門の中でも最も早い成長のあった分野である。一連の旱魃による踏み足局面もあるが、農業はいまだにイランで最大の雇用を持つ部門である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "イランはバイオテクノロジーと医薬品製造などにも力を入れている。主要貿易国はフランス、ドイツ、日本、イタリア、スペイン、ロシア、韓国、中国などである。1990年代後半からはシリア、インド、キューバ、ベネズエラ、南アフリカ共和国など発展途上国との経済協力も進めている。また域内でもトルコとパキスタンとの通商を拡大させており、西アジア・中央アジアの市場統合のビジョンを共有している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2019年現在イランを訪れる海外からの観光客は800万人から900万人。イランの観光は多様で、アルボルズ山脈とザグロス山脈でのハイキングやスキー、ペルシャ湾やカスピ海のビーチでの保養など、様々なアクティビティがある。イラン政府は国内の様々な観光地への観光客誘致に力を入れており、近年観光客数は増加している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "国際線の拠点空港としてテヘランにエマーム・ホメイニー国際空港が存在している。 フラッグキャリアであるイラン航空が国内路線および国際路線を運行している。 また、アーリヤー航空 イラン・アーセマーン航空 サーハー航空も運行している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "国有鉄道であるイラン・イスラーム共和国鉄道が全土を結んでいる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "主要都市では地下鉄として", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "が設置されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "以下のアジアハイウェイ 9路線が全土を通っている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "また、首都テヘラン近郊では高速道路も建設されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "イランは紀元前の時代から学問や技術面で中国地域やインド地域、ギリシャ地域やローマ地域と深い関わりを持っている。特に、中世時代には「イスラム科学」とされるような科学的成果の中心地であり続けていた他、上述の東西地域の知識におけるパイプラインの役割を果たしてきた。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "イラン革命により脱出する知識人もいたが、政権は科学技術研究に注力し、1996年から2004年にかけて発表論文数を約10倍に増加させ、その期間における増加率は世界一であった。しかし、その後の国際的制裁は、国際科学雑誌の購読や海外からの機器調達が厳しく制限されるなど、科学研究にも大きな障害をもたらし、停滞した。それでも、輸入することのできない機器の独自開発や、国内の業界を超えた協力などにより研究は続けられ、論文数でも被引用論文数でも世界15位以内に入っている。その中でも、航空工学や材料工学、再生医学(幹細胞)の分野では、世界トップの科学技術力を有している。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "イランにおける宇宙計画は、その軍事的可能性に対する懸念から米国と欧州によって非難されている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "イランの人口は20世紀後半に劇的に増加し、2006年には7000万人に達した。しかし多くの研究では21世紀への世紀転換点には、人口増加率の抑制に成功し、ほぼ人口補充水準に到達した後、2050年頃に約1億人で安定するまで人口増加率は徐々に低下してゆくものと考えられている。人口密度は1平方キロメートルにつき約40人である。イランは2005年時点、約100万人の外国難民(主にアフガニスタン難民、ついでイラク難民)を受け入れており、世界で最も難民が多い国の一つである。政府の政策的および社会的要因により、イランは難民たちの本国帰還を目指している。逆にイラン・イスラーム革命後に海外に移住した人々(en:Iranian diaspora)が北アメリカ(イラン系アメリカ人、en:Iranian Americanやイラン系カナダ人、en:Iranian Canadian)、西ヨーロッパ(在イギリスイラン人、en:Iranians in the United Kingdom)、南アメリカ、日本(在日イラン人)などに約200万から300万人程度存在すると見積もられる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "イランの民族はその使用言語と密接な関係にあり、次いで宗教が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。イランの公用語はインド・ヨーロッパ語族イラン語群のペルシア語で人口の約半数はこれを母語とするが、チュルク系のアゼルバイジャン語を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外のイラン語群の諸語やその他の言語を話す人びともいる。先述のように、それぞれの民族の定義や範囲、あるいはその人口や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住むエスニック・グループは主に次のようなものである。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ペルシア人(ペルシア語を語る人々: 51%)、アゼルバイジャン人(アゼルバイジャン語を語る人々: 25%)、ギーラキー(英語版)およびマーザンダラーニー(英語版)(ギーラキー語、マーザンダラーニー語を語る人々: 8%)、クルド人 (7%)、アラブ人 (4%)、バローチ (2%)、ロル (2%)、トルクメン (2%)、ガシュガーイー、アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、アッシリア人、タリシュ人、タート人(英語版)、その他 (1%) である。しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "国際連合の統計によると、イランにおける識字率は79.1%であり、女性の非識字率は27.4%に達する。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "イラン人とは、狭義にはイラン・イスラーム共和国の国民の呼称。歴史的には、中央アジアを含むペルシア語文化圏に居住し、イラン人とみなされている人々。1935年にイランが正式な国名であると宣言されるまでは、ギリシア語に由来するペルシア人の名称でよばれていた。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "狭義", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "イラン国民を構成するのは、多様な言語的・民族的・宗教的アイデンティティを持つ人々である。イラン系言語集団には、中央高原部に住み、ペルシア語あるいはその方言を母語とし、シーア派信徒である中核的イラン人(通常イラン人という時のイラン人)、クルド人、ロル族ならびにバフティヤーリー族、バルーチ人などである。テュルク系言語集団には、大集団のアゼリー(アゼルバイジャン人、一般には自他称ともトルコ人)、トルキャマーン(トルクメン人)、遊牧民のカシュカーイー、シャーサヴァン、アフシャールなど。南部のイラク国境にはアラビア語の話者集団がいる。宗教面では、国教の十二イマーム派の他に、スンナ派にはクルド人(シーア派信徒もいる)、バルーチ人、トルクメン人など、キリスト教徒(アルメニア人、東アラム語を母語とするアッシリア人など)、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が存在する。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "広義", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ホラズム生まれのビールーニー、ブハラ生まれのブハーリー、その近郊生まれのイブン・スィーナー、また、トゥース生まれのアブー・ハーミド・ガザーリーは、もっぱらアラビア語で著述しているが、中央アジアを含むペルシア語文化圏生まれであるために、狭義のイラン人からは、イラン人であるとみなされている。その他、イラン・イスラーム革命後増大したイラン系アメリカ人(カリフォルニア州に約半数が集中し、ロサンゼルスは「テヘランゼルス」と俗称されることもある。二重国籍を所有する者も多い)、バーレーンやドバイに数世代連続して居住する、ペルシア語方言を母語とするファールス州南部出身者などもここに含めることができる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "主要な言語は、ペルシア語、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、クルド語(ソラニー、クルマンジー、南部クルド語、ラーク語)、ロル語(北ロル語、バフティヤーリー語、南ロル語)、ギラキ語、マーザンダラーン語、バローチー語、アラビア語(アラビア語イラク方言、アラビア語湾岸方言)、トルクメン語、ドマーリー語(または、ドマリ語)、ガシュガーイー語、タリシュ語である。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "イランにおけるイラン系言語の分布状況は以下の通り。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1. 北部及びカスピ海沿岸部", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1)タート語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2)ターレシュ語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "3)カスピ海方言", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "西方にギラキ語(ペルシア語でギーラキー)、東方にマーザンダラーン語の二大方言がある。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "4)セムナーン語及びサンゲサル語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "5)クルド語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "トルコ国境からイラク国境一帯にかけての、コルデスターン(ペルシア語で「クルド(人)の地」)地方を中心に居住する、クルド人の母語。クルド人の居住域は、イラン・イラク・トルコ・シリアの4国に分断されている。クルド語全体の話者人口は、統計のとり方によって数百万から千百万の間を上下する。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "6)グーラーニー語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "7)ザーザー語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "2.中央部", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "8)タフレシュ方言(ハマダーンからサーヴェにかけて)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "9)北西方言(ゴムからエスファハーンにかけて分布)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "10)北東方言(カーシャーン及びナタンズ方言)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "11)南西方言(エスファハーン周辺)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "12)南東方言(ヤズド、ケルマーン、ナーイーン周辺)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "ギャブリー語(あるいはヤズド語、ケルマーン語)と呼ばれ、ヤズドからケルマーン周辺地域に在住するゾロアスター教徒が使用する言語を含む。ギャブリーは「異教徒の(言語)」という意味で、イスラーム教徒から区別する他称である。話者は自分たちの言語をダリー語と呼んでいる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "13)キャヴィール方言", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "キャヴィール方言で話される方言の総称である。フール語など。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "3. 南西部", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "14)ファールス方言群", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "カーゼルーン周辺やシーラーズの北西地域など、ファールス地方で使用される方言の総称。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "15)ロル語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ファールス州からフーゼスターン州、エスファハーンの西方の広大な地域で話される、ロル系遊牧民の言語。バフティヤーリー語はこの下位方言に属している。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "16)スィーヴァンド語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "シーラーズの北方スィーヴァンドで話される言語。南西イランに位置しながら、言語学的には北西言語に属し、言語島を成している。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "17)ラーレスターン語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "4. 南東部", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "18)バルーチー語", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "パキスタン、アフガニスタン南西部、イランに及ぶ広範囲で使用される。音韻面では最も保守的な言語の一つである。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "19)バーシュキャルド語(あるいはバシャーケルド語)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "通常、婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、夫の姓を後ろに加える女性もいる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "大部分のイラン人はムスリムであり、その90%がシーア派十二イマーム派(国教)、9%がスンナ派(多くがトルクメン人、クルド人とアラブ人)である(詳細はイランのイスラームを参照)。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものにバハイ教、ゾロアスター教(サーサーン朝時代の国教)、ユダヤ教、キリスト教諸派などがある。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され、公式に「保護」されているなどかつての「ズィンミー」に相当する。これら三宗教の信者は極端な迫害を受けることはないが、ヘイトスピーチや様々な社会的差別などを受けることもある。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれた者がそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "一方、バハイ教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史がある。バハイ教は19世紀半ば十二イマーム派シャイヒー派を背景に出現したバーブ教の系譜を継ぐもので、1979年の革命後には処刑や高等教育を受ける権利を否定されるなど厳しく迫害されている(これについてはバハイ教の迫害およびイランの宗教的マイノリティー、イランにおける宗教的迫害を参照)。ホメイニー自身もたびたび、バハイ教を「邪教」と断じて禁教令を擁護していた。歴史的にはマニによるマニ教もイラン起源とも言える。またマズダク教は弾圧されて姿を消した。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は77%(男性83.5%/女性70.4%)であり、世銀発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっている。2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としては、テヘラン大学 (1934)、アミール・キャビール工科大学 (1958)、アルザフラー大学 (1964)、イスラーム自由大学 (1982)、シャリーフ工科大学などの名が挙げられる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "イランの教育制度は次の四段階に分けられる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "1. 初等教育(دبستان; 小学校)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "学年暦の始め、メフル月一日に満6歳になっていれば入学できる。5年間の義務教育である。昔は小学児童の数が多すぎて、二部制、時には三部制の授業が行われたこともある。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "遊牧民のいる地域では、時々普通の黒テントではなく、白い丸型のテントが目につく。これは季節によって移動するテント学校である。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "2. 進路指導教育(راهنمایی; 中学校)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "ペルシア語の名称が指すように、進路指導期間である。11歳よりの3年間である。この3年間の学習の結果に基づき、次への進学段階で、理論教育と工学・技術・職業のどちらかのコースに分けられる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "3. 中等教育(دبیرستان; 高等学校)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "4年間。1992年より新制度が導入された。理論教育課程では、第一年度は人文科学科と実験・数学科とに分かれ、第二年次以降は前者はさらに (a)文化・文学専攻と (b)社会・経済専攻に、また、後者は (c)数学・物理専攻と (d)実験科学専攻に分かれる。この3年を修了した後に、4年目は大学進学準備過程(پیش دانشگاهی)に在籍する。一方、大学に進学しない技術・職業家庭では、工学・技術・農業の三専攻に分かれる。修了すると卒業証書(دیپلم)が与えられる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "4. 大学(دانشگاه; 単科大学はدانشکده)", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "全国共通試験(کنکور)を受けて、進学先・専攻が決まる。年に一度しか試験がないので、ある意味で、日本以上のきつい受験戦争がある。このため予備校が繁盛している。受からなければ、男子は兵役に就く。イラン・イラク戦争の殉教者が家族にいる場合は、優先的に入学が許可されている。ちなみに、私学・イスラーム自由大学と次に述べるパヤーメ・ヌールを除き、授業料は無料である。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "それ以外の教育機関", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "(1) パヤーメ・ヌール(光のメッセージという意味)は、通信教育大学で、イラン各地に140のセンターを持っている。学生数は約20万人であり、授業料は私学・イスラーム自由大学より安い。センターによっては、女学生が8割に達するところがある。外国在住の学生は、60名前後、なかには日本人もいる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "(2) 私学・イスラーム自由大学(دانشگاه آزاده اسلامی)は、革命後に各地で開設され、イランの教育程度を上げるのに貢献している。また、出講すると高額の手当がもらえるので、他大学の教官にも人気がある。国立と異なり、ここは私学であるため授業料を取る。国立に受からなかった学生が進学することが多い。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "(3) 大学を除く学校の総称はアラビア語起源のマドラセ(مدرسه)である。外国語学校、コンピュータ学校などの各種学校に当たるものはモアッセセ(مؤسسه)という。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "そのほかに幼稚園(کودکستان)、障がい児と英才のための特別教育制度、中等教育を終えた人が2年間学ぶ教員養成講座、成人のための識字教育制度などがある。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "イランというより、中東教育全域の教育の特徴は、大学教育も含めて暗記教育である。「学ぶ・勉強する」は、درس خواندن、要するに、「声を出して教科書を読む」ことである。教科書に書いてあることをそのまま丸暗記する。これは大学生にも当てはまる。先生の講義を筆記し、それをそのまま一字一句暗記するのである。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "森田は、このようなイランの学校教育を「声の文化」が現れているとし、以下の三つの場面を根拠に挙げている。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "1. 小学校での授業方法", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "現在のイランの公立小学校で行われている授業方法は、三つの段階に分かれている。一つの段階は、「教える」(درس دادن)で、二つ目の段階は「読む」(درس خواندن)であり、三つ目の段階は「問う」(درس پرسیدن)である。まず、「教える」段階では、教師は児童を指名し教科書を声に出して読ませる。読んでいる途中で、難しい言葉の解説を行ったり、分かりにくい表現について内容をわかりやすく説明したりする。とにかく、この段階では教科書に何が書かれているのかについて理解する段階である。その段階が終わると、次は「読む」段階である。これは、授業中にすることではなく、帰宅後に児童たちがそれぞれ行わなければならないことである。家に帰った児童は、それぞれ教科書を暗記するときに、家族の誰か、特に母親に手伝ってもらうケースが多い。というのも、イランの場合、教科書の暗記というのは、教科書の内容を文字で書けることを意味していない。あくまでも教科書を口頭でいえるようになることが重要なのである。日本の宿題は文字を書くことが多いため、家族がそれを手伝う必要はほとんどない。しかし、イランの場合、宿題をする時に教科書を見ながらこどもがきちんとその内容を一字一句間違えずにいえるかどうかをチェックする人が必要になる。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "第三段階の「問う」段階では、教科書の内容を暗記できているのかとか、教師がチェックするための問いである。教師は児童を指名し、教科書の内容について質問する。この質問の答えは、口頭で行われる。また、答える時、一つの単語を答えさせるようなことはない。教科書の2 - 3行から成る一部分全体を口頭で一字一句そのままに答える必要がある。イランでは、このような、口頭で教科書の内容を素早く言えること、それが小学校で育成される能力となっている。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "2. 私立男子中学校で行われた科学発表会", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "研究発表を行うにあたって、発表内容を全て暗記し、一人一人の訪問者に対して口頭で説明を行うという方法がとられていた。もし、このような発表会が日本であった場合に第一に考えられる方法は発表内容を全て大きな紙に書き壁に貼ることであっただろう。イランにおいて、研究内容を紙に書いて壁に貼るという習慣がないわけではない。しかし、そういった研究発表はあくまで個人的に行われるものであり、学校全体やグループを形成して行われるものではない。研究発表はあくまでも口頭で行われるのが普通である。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "3. イランにおける小学校一年生向けのペルシア語の教科書", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "そこでは、文字教育よりも音声教育が優先していることがわかる。一年生の教科書の最初の数ページには、文字ではなく、絵だけが描かれている。最初の授業において教師はいきなりアルファベットの学習を始めることはない。授業の最初に教師は絵を見ながらペルシア語で絵に合わせた物語を語り、正しいペルシア語の発音の仕方などを教える。", "title": "国民・人口統計" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "イラク・アフガニスタン及びパキスタンとの国境地帯並びにシスタン・バルチスタン州の一部の地域を除き、治安状況は首都のテヘランを含めて概ね平穏に推移しているが、2020年1月3日アメリカによるイラン革命ガード高官の殺害を端緒とする米・イラン関係の緊張状態が続いており、不測の事態が発生する恐れを孕んでいる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "またイラン国内において犯罪件数等に関する統計は公表されていないが、各種報道に照らすと一般犯罪は慢性的に発生しているものと見られている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "国家法執行司令部(英語版)が主体となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "この組織はかつて存在していたイラン国家憲兵隊(英語版)という警察組織を前身としている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "1979年のイラン・イスラム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "憲法では公式にシーア派イスラムの十二イマーム派を国教としており、他のイスラムの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、ゾロアスター教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラムの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による差別は容認されている。バハイ教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる。また非ムスリム男性がムスリム女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「鞭打ち百回」であるなど、刑法にも差別規定が存在する。イスラムからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年にはレイプ被害を受けた16歳の少女が死刑(絞首刑)に処された。なお加害者は鞭打ちの刑で済んだ。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "女性に対してはヒジャーブが強制されており、行動・性行為・恋愛などの自由も著しく制限されており、道徳警察による服装の取締りが行われている。イラン革命前では欧米風の装束が男女ともに着用されていたが、現在では見られない。同性愛者に対しては共和国憲法で正式に「ソドミー罪」を設けており、発覚した場合は死刑である。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "またイランの刑罰においてもシャリーアに基づくハッド刑の中には、人体切断や石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、さらに未成年者への死刑も行われている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の議会・政府、国際機関、NGOや隣国のイラク国民からも人権侵害を指摘され、人権侵害の解消を求められている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "しかし、近年ではイラン人男性がヒジャブを着用し始める動きが表れ出している。これは、イランの活動家であるマシュー・アリネジャード(Masih Alinejad)が「女性に対するヒジャーブ強制を傍観している訳にはいかない」とし、「イラン国内における疑わしい状況に注意を向けよう」という趣旨の元でユーモアを交える形でアクションを起こしているものだとして報道されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "イランで最初に出た新聞は、Mirza Saleh Shiraziを編集長とする、アフタル紙である。これは1833年に創刊された。1851年には官報としてVagha-ye Ettafaghiheh(臨時報という意味)が出ていることから、イランの新聞の歴史は古いことがわかる。1906年に憲法が発布され、民間新聞紙の発行もようやく多くなったが、そのなかで有力なものは、Soor-e Israfili, Iran-e Now, Islah, Barq, Watanなどでイラン社会の改革に大きく寄与した。だが言論の自由はなお強く抑圧されていたため、多くの新聞は海外で発行されていた。例えばHikmat(エジプト)・Qanun(ロンドン)・Hablul-Matin(カルカッタ)・Sorayya(エジプト)・Murra Nasruddin(チフリス)・Irshad(バクー)などである。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中の1941年に連合国軍隊がイランに進駐、新聞の自由が大いに強調されたが、モサッデグ首相が失脚した1953年から、再び新聞への統制が強化された。1955年に成立した新聞法によれば、新聞雑誌の発行には内務省の許可を得なければならない。発行者は30歳以上のイラン人で、少なくとも3ヶ月以上続刊できるだけの資力を持っていなければならない。官公吏は芸術、文芸に関するもののほか、新聞雑誌を刊行することはできない。許可期間は6ヶ月で、各新聞は6ヶ月ごとに許可を更新する必要がある。反乱、放火、殺人を先導したり、軍事機密をもらしたりした場合のほか、反イスラーム的な記事を載せたり、王室を侮辱する記事を掲載した場合は、それぞれ6ヶ月以上2年以下の禁固刑に処せられる。また、宗教・民族の少数者を差別した記事を載せた場合の罰則もある。さらに厚生省が医薬の広告を厳重に監視している点も、イランの特色である。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "通信社は1937年に外務省が設立したパールス通信があり、現在も政府管轄下にある。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『ハムシャフリー』であり、『イーラーン』、『ジャーメ・ジャム』、『アフバール』などが続き、夕刊紙で有力なのは『ケイハーン』、『エッテラーアート』などである。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "エッテラーアート", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "イランではメジャーな新聞。刊行されている新聞のなかで最も歴史が古い。1871年創刊。エッテラーアートとは、ニュースの意味である。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "このエッテラーアートの英語版としてみなされているのが、1935年に創刊の『The Tehran Jounal』である。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "ケイハーン", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "ケイハーンは大空または世界の意で、世界報ということろである。1943年に創刊された。エッテラーアートよりは野党よりの傾向がある。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "その他にもテヘラン市役所で出版されているハムシャフリー、テヘランに本拠を置く英字新聞『テヘラン・タイムズ』等がある。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送 (IRIB) に一元化されている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "イランは文化、すなわち美術、音楽、建築、詩、哲学、思想、伝承などの長い歴史がある。イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "イランのイスラーム化以降は、イスラームの信仰や戒律が文化全般に影響を及ぼしている。イスラームのシーア派を国教とするイラン革命後の現体制下では特にそれが強まり、法的な規制を伴っている。例えば書籍を販売するには、イスラムの価値観に合っているかが審査される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる海鮮、鳥・羊・牛などの他、駱駝等も用いる肉料理、野菜料理など、種類も豊富である。最もポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにするキャバーブである。野菜料理は煮込むものが多い。ペルシア料理研究家のナジュミーイェ・バートマーングリージー(Najmieh Batmanglij)は、自著『New Food of Life』で「イラン料理はペルシア絨緞同様に、色彩豊かでかつ複雑である。他の中東料理と共通する部分は多いが、もっとも洗練され、創意に富むといわれる」と述べている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "イラン革命以前は飲酒が盛んであり、現在でも密かに飲まれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "ペルシア文学は高く評価される。ペルシア語は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『ライラとマジュヌーン』のニザーミー、『ハーフェズ詩集』のハーフィズ、『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『シャー・ナーメ』のフィルダウスィー、『精神的マスナヴィー』のジャラール・ウッディーン・ルーミーらのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "20世紀に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、ノーベル文学賞候補ともなったアフマド・シャームルーや、イラン初の女流詩人パルヴィーン・エーテサーミー、同じく女流詩人であり、口語詩の創造を追求したフォルーグ・ファッロフザードのような詩人が現れた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "小説においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの、『生き埋め』(1930年)、『盲目の梟』(1936年)などの傑作を残したサーデグ・ヘダーヤトが現れた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "イスラーム化以後、イラン世界ではイスラーム哲学が発達した。11世紀には中世哲学に強い影響を及ぼしたイブン・スィーナー(ラテン語ではアウィケンナ)や哲学者にしてスーフィーでもあったガザーリーが、17世紀には超越論的神智学を創始したモッラー・サドラーが活動した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "クラシック音楽においては新ロマン主義音楽作曲家として『ペルセポリス交響曲』などイラン文化を題材とした作品を書いたアンドレ・オッセンや、指揮者であり、ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設したアレクサンダー・ラハバリらの名が特筆される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "ポピュラー音楽に於いてはイラン・ポップと総称されるジャンルが存在する。ロックは禁止されているが、テヘランのロック・バンド Ahoora のアルバムはアメリカやヨーロッパでも発売されている。その他には、127、Hypernova、Angband、Kiosk、The_Yellow_Dogs_Band などのバンドや、Mohsen Namjoo、Agah Bahari、Kavus Torabi らのミュージシャンも国内外で広く活動をしている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "イラン映画は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し、全世界的に評価されている。イランにおいて初の映画館が創設されたのは1904年と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画はアルダシール・イーラーニーによる『ロルの娘』(1932年)だった。イラン革命以前のモハンマド・レザー・パフラヴィーの治世下ではハリウッド映画やインド映画が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』(1958年)で白色革命下の矛盾を描いたファッルーフ・ガッファリーや、『牛』(1969年)でヴェネツィア国際映画祭作品賞を受賞したダールユーシュ・メフルジューイーのような社会派の映画人が活動した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "現代の著名な映画監督としては、『友だちのうちはどこ?』(1987年)、『ホームワーク』(1989年)のアッバース・キヤーロスタミー(アッバス・キアロスタミ)や、『サイレンス』(1998年)のモフセン・マフマルバーフ、『駆ける少年』のアミール・ナーデリー、『風の絨毯』のキャマール・タブリーズィー、『ハーフェズ ペルシャの詩』(2007年)のアボルファズル・ジャリリなどの名が挙げられる。アスガル・ファルハーディー監督の映画『別離』(2011年)は、ベルリン国際映画祭の金熊賞とアカデミー賞の外国語作品賞を受賞した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "イランにおける服飾文化はいくつかの王朝時代や歴史毎に異なる面を持つ。現在のイラン地域で織物が登場した際の正確な年代や日付は2023年現在でもまだ判明されていない状態であるが、紀元前の文明の出現と一致する可能性が高いことが示唆されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "イランの建築は、様々な伝統と歴史から、構造および芸術における観点の両方で非常に深い多様性を示している。同国において伝統的なペルシャ建築は継続性を維持するもの、近代的な建築は革新を追求するものとして区分けされている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "イラン国内には数多くの史跡が存在し、積極的にユネスコの世界遺産への登録が行われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "2014年6月の時点でイランのUNESCO世界遺産登録物件は17件に達し、その全てが文化遺産である。括弧内は登録年。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "イラン暦の元日にあたる春分の日に祝われる新年(ノウルーズ)の祝祭は2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "イラン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1970年にサッカーリーグのペルシアン・ガルフ・プロリーグが創設された。イランサッカー協会(FFIRI)によって構成されるサッカーイラン代表は、これまでFIFAワールドカップには6度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。しかしAFCアジアカップでは、最多優勝の日本代表に次いで3度の優勝を飾っている。イランの国民的英雄として知られるアリ・ダエイは「ペルシアン・タワー」の異名を持ち、1993年から2006年にかけて国際Aマッチに149試合出場し、ポルトガル代表のクリスティアーノ・ロナウドに次ぐ109得点をあげている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "イランは、夏季オリンピックにはガージャール朝時代の1900年パリ大会で1人の選手により初出場しており、その後の空白期を経て1948年のロンドン大会から復帰した。冬季オリンピックには1956年コルチナ・ダンペッツオ大会で初出場を果たした。イランの国技はレスリングでありアジア屈指の強豪国として知られており、2012年ロンドン大会では金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した他、2021年東京大会までで獲得した全76個のメダルのうち47個をレスリングが占めている。", "title": "スポーツ" } ]
イラン・イスラム共和国、通称イランは、アジア・中東に位置するイスラム共和制国家。首都はテヘラン。 北西にアルメニアとアゼルバイジャン、北にカスピ海、北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタンとパキスタン、南にペルシア湾とオマーン湾、西にトルコ、イラク(クルディスタン)と境を接する。また、ペルシア湾を挟んでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に、オマーン湾を挟んでオマーンに面する。ペルシア、ペルシャともいう。公用語はペルシャ語。
{{未検証|date=2010年3月}} {{基礎情報 国 | 略名 = イラン | 日本語国名 = イラン・イスラム共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|fa|{{nastaliq|جمهوری اسلامی ایران}}}}''' | 国旗画像 = Flag of Iran.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Iran.svg|100px|イランの国章]] | 国章リンク = ([[イランの国章|国章]]) | 標語 = <span lang="fa"> استقلال آزادی جمهوری اسلامی</span><br />ラテン文字転写:''Esteql&#257;l, &#256;z&#257;d&#299;, Jomh&#363;r&#299;-ye Esl&#257;m&#299;''<br />([[ペルシア語]] : “独立、自由、イスラム共和制”) (事実上) الله أکبر (ペルシア語:神は偉大なり)  | 国歌 = [[イラン・イスラム共和国国歌|{{lang|fa|جمهوری اسلامی ایران}}{{fa icon}}]]<br />イラン・イスラム共和国国歌<br />{{center|[[ファイル:Sorud-e Mellí-e Yomhurí-e Eslamí-e Irán (instrumental).oga]]}} | 位置画像 = Iran (orthographic projection).svg | 公用語 = [[ペルシア語]] | 首都 = [[テヘラン]] | 最大都市 = テヘラン | 最高指導者等肩書 = [[イランの最高指導者|最高指導者]]<ref group="注">大統領とともにイランの元首であり、三権および宗教の指導者である</ref><ref name="名前なし-1">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/po/page22_001297.html#section6 外務省 各国元首一覧]</ref> | 最高指導者等氏名 = [[アリー・ハーメネイー]] | 元首等肩書 = [[イランの大統領|大統領]]<ref group="注">最高指導者とともに、大統領もイランの元首と考えられる</ref><ref name="名前なし-1" /> | 元首等氏名 = [[エブラーヒーム・ライースィー]] | 首相等肩書 = [[イランの議会|国会議長]] | 首相等氏名 = [[モハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ]] | 他元首等肩書1 = 司法府長官 | 他元首等氏名1 = [[ゴラームホセイン・モフセニー・エジェイー]] | 他元首等肩書2 = 第一副大統領 | 他元首等氏名2 = {{仮リンク|モハンマド・モフベル|en|Mohammad Mokhber}} | 面積順位 = 17 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 1,648,195 | 水面積率 = 0.7% | 人口統計年 = 2022 | 人口順位 = 17 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 86,758,304 | 人口密度値 = 52.6 | 人口追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/iran/ |title=Iran |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月22日}}</ref> | GDP統計年元 = 2019 | GDP値元 = 2京9,072兆2,320億<ref name="imf2019">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=429,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher = [[国際通貨基金|IMF]]|accessdate = 2021-10-13}}</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 21 | GDP値MER = 5812億5200万<ref name="imf2019" /> | GDP MER/人 = 6980.744<ref name="imf2019" /> | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 18 | GDP値 = 1兆705億9300万<ref name="imf2019" /> | GDP/人 = 1万2857.664<ref name="imf2019" /> | 建国形態 = 成立 | 確立形態1 = [[アケメネス朝]]([[ペルシア帝国]])建国 | 確立年月日1 = [[紀元前550年]] | 確立形態2 = [[サファヴィー朝]]が統一 | 確立年月日2 = [[1501年]] | 確立形態3 = [[イラン革命|イラン・イスラム革命]] | 確立年月日3 = [[1979年]][[4月1日]] | 通貨 = [[イラン・リヤル]] (IR) | 通貨コード = IRR | 時間帯 = +3:30 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = IR / IRN<ref>ちなみに[[IOCコード]]は「イスラム共和国」の部分を含めた"IRI"である。</ref> | ccTLD = [[.ir]] | 国際電話番号 = 98 | 注記 = <references group="注" /> }} '''イラン・イスラム共和国'''(イラン・イスラムきょうわこく、{{lang-fa|جمهوری اسلامی ایران}})、通称'''イラン'''は、[[アジア]]・[[中東]]に位置する[[イスラム共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[テヘラン]]。 北西に[[アルメニア]]と[[アゼルバイジャン]]、北に[[カスピ海]]、北東に[[トルクメニスタン]]、東に[[アフガニスタン]]と[[パキスタン]]、南に[[ペルシア湾]]と[[オマーン湾]]、西に[[トルコ]]、[[イラク]]([[クルディスタン]])と境を接する。また、ペルシア湾を挟んで[[クウェート]]、[[サウジアラビア]]、[[バーレーン]]、[[カタール]]、[[アラブ首長国連邦]]に、オマーン湾を挟んで[[オマーン]]に面する。'''[[ペルシア]]'''、'''ペルシャ'''ともいう。公用語は[[ペルシャ語]]。 == 概要 == === 成立 === 前6世紀の[[アケメネス朝]]時代から繁栄し、[[サーサーン朝]]時代には[[ゾロアスター教]]が国教だったが、[[642年]]にアラブ人に滅ぼされ、[[イスラム教]]が広まった。[[16世紀]]初めに成立した[[サファビー朝]]が[[シーア派]][[十二イマーム派]]を[[国教]]とし、イラン人の国民意識を形成した。[[18世紀]]の[[カージャール朝]]を経て、[[1925年]]から[[パフラヴィー朝]]になったが、[[1979年]]の[[ルーホッラー・ホメイニー]]による[[イラン革命]]により王政は廃され、[[宗教]]上の最高指導者が国の最高権力を持つ[[イスラム共和制]]が樹立された<ref name="mypedia">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3-32377#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア イラン]</ref>。 === 政治体制 === [[1979年]]に制定された[[イラン・イスラーム共和国憲法]]によって規定されており、国の元首である[[イランの最高指導者|最高指導者]]の地位は、宗教法学者に賦与されている。憲法第4条では、すべての法律および規制がイスラムの基準に基づくものでなければならないという原則が定められている<ref>{{Cite book |title=イラン・イスラーム共和国憲法 |year=1987 |publisher=日本イラン協会}}</ref>。憲法では[[三権分立]]が規定され、立法権は一院制の[[イランの議会|国民議会]]、行政権は[[イランの大統領|大統領]]にあるが、実質的には最高指導者が三権を掌握しており、大統領の地位はこれに劣る。イラン革命とシーア派に忠実であることが資格として要求される<ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3-32377#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) イラン]</ref>。このような体制から、イラン政府は[[権威主義]]的であり、人権と自由に対する重大な制約と侵害をしているとして多くの批判を集めている。[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は政府が抗議者に対して恣意的な逮捕を行い、治安当局や諜報当局による深刻な虐待が行われていることを報告している<ref>{{Cite web|和書|title=イラン {{!}} Country Page {{!}} World {{!}} Human Rights Watch|url=https://www.hrw.org/ja/middle-east/north-africa/iran|work=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]|accessdate=2021-01-14}}</ref>。[[エコノミスト]]誌傘下の研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]による[[民主主義指数]]は、世界154位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2022年)<ref>{{Cite web |title=Democracy Index 2022 |url=https://www.eiu.com/n/campaigns/democracy-index-2022/ |website=Economist Intelligence Unit |access-date=2023-11-05}}</ref>。[[国境なき記者団]]による[[世界報道自由度ランキング]]も177位と下位で最も深刻な国の一つに分類されている(2023年)<ref>{{Cite web |title=Index {{!}} RSF |url=https://rsf.org/en/index |website=rsf.org |access-date=2023-11-05}}</ref>。 一方で[[教育]]には注力されており、[[人間開発指数]]は0.800で高い分類に入る。科学技術力においても、[[ナノテクノロジー]]のような[[材料工学]]や[[幹細胞]]研究で世界トップクラスの位置にいる<ref name=":3">{{Cite web |url=https://ad-aspi.s3.ap-southeast-2.amazonaws.com/2023-03/ASPIs%20Critical%20Technology%20Tracker_0.pdf |title=ASPI’s Critical Technology Tracker The global race for future power |access-date=2023-11-5 |publisher=ASPI}}</ref>。 === 外交 === パフラヴィー朝時代には[[アメリカ合衆国]]の強い影響下にあったが、革命により米国との関係が悪化、特に[[イランアメリカ大使館人質事件|アメリカ大使館人質事件]]以降、公然たる敵対関係に入った。米国とは互いをテロ組織・[[テロ支援国家]]に指定している<ref>{{Cite web |title=イラン国会、米国防総省を「テロ組織」指定 報復も宣言 |url=https://www.asahi.com/articles/ASN175WDVN17UHBI03L.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2020-01-07 |access-date=2023-11-05}}</ref><ref name="nipponica" />。 他方でイラン革命指導者は[[反共主義]]者が多いため、[[ソビエト連邦]]とも友好的ではなく、革命後の外交は[[排外主義]]的な[[非同盟運動|非同盟中立路線]]を基本とする<ref name="nipponica" />。近年は[[イランの核開発問題|核兵器開発]]を行っている疑惑から経済制裁を受けている。[[2015年]]に[[バラク・オバマ|オバマ]]政権下のアメリカと核合意を締結して制裁解除を取り付けたが、[[ドナルド・トランプ|トランプ]]政権が一方的に破棄し制裁が再開されたため、段階的に核合意履行停止を進めている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E6%A0%B8%E5%90%88%E6%84%8F-1822992 イラン核合意] 朝日新聞</ref>。 === 経済 === パフラヴィー朝時代にアメリカからの経済援助を元手に経済各分野の近代化を進め、一時は高度経済成長を成し遂げた。その後の低迷によるイラン革命の混乱と[[イラン・イラク戦争]]で経済は停滞したが、21世紀に入ると原油価格昂騰により収入を大幅に増やした<ref>{{Cite web |url=https://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h21_iran/09_Chapter8.pdf |title=平成21年度 イラン情勢研究会報告書『2009年大統領選挙後のイランの総合的研究―内政、外交、国際関係―』 |access-date=2023-11-5 |publisher=日本国際問題研究所 |pages=115-157}}</ref>。世界有数の[[石油]]の産出地であり、それが国の主要財源である<ref name="mypedia" />。しかし近年は長引く米国の制裁と[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]のパンデミックにより経済状態が深刻化している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65758850S0A101C2910M00/ イラン経済、深まる苦境 米決戦に市民は固唾] 日本経済新聞</ref>。 === 軍事 === イランは王政時代からの伝統を持つ[[イラン・イスラム共和国軍|国軍]]と別に、革命後に創設された[[イスラム革命防衛隊]]という最高指導者直轄の軍事組織が存在することが特徴である<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200109/ddm/003/070/036000c イラン革命防衛隊って? 正規軍と別に体制守る 殺害された司令官所属=回答・鵜塚健] 毎日新聞</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO46446650S9A620C1EA2000/ イラン革命防衛隊とは 最高指導部直結の軍事組織 ] 日本経済新聞</ref>。イスラム革命防衛隊は、国外の対外工作にも深くかかわり<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASN2153T3N1HUHBI03D.html 許可書あっても記者連行 難攻不落イラン「革命防衛隊」] 朝日新聞</ref>、アメリカ合衆国のトランプ政権から「テロ組織」に指定された<ref>[https://www.bbc.com/japanese/47862661 BBC 米政府、イラン革命防衛隊をテロ組織に指定 軍隊では初]</ref>。男性に2年の兵役を課す[[徴兵制]]を採用しており<ref>[https://www.bbc.com/japanese/44639327 フランス、新たな形で「兵役」復活へ 16歳の男女に奉仕義務] BBC</ref>、兵力は61万人ほどである(2020年時)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iran/data.html#section2 イラン・イスラム共和国(Islamic Republic of Iran)基礎データ] 外務省</ref>。 === 民族と宗教 === [[2017年]]の国勢調査によると人口は約8000万人で、世界でも[[国の人口順リスト|17位]]であった。多くの[[民族]]と[[言語]]が存在する多文化国家であり、主要な民族の構成は[[ペルシア人]] (61%)、[[アゼルバイジャン人]] (35%)、[[クルド人]] (10%)、[[ロル族]] (6%) である。宗教は99%がイスラム教徒でその大部分 (89%) が[[シーア派]]である。トルクメン人・バルーチ人・クルド人など10%が[[スンニ派]]を信仰している。極めて少数派として[[ユダヤ教]]・[[キリスト教]]・[[ゾロアスター教]]・[[バハイ教]]の教徒もいるが、バハイ教は非合法にされている<ref name=nipponica/>。言語は[[ペルシア語]]が公用語で大半を占めているが、他に[[クルド語]]や[[アゼルバイジャン語]]などがある<ref name=mypedia/>。国教はシーア派十二イマーム派である。 === 地理 === 総面積は1,648,195 km<sup>2</sup> (平方キロメートル) で、中東で2番目に大きく、世界では[[国の面積順リスト|17位]]である。北部を東西に[[アルボルズ山脈]]が、北西部から南東部に[[ザーグロス山脈]]が走り、その間に[[イラン高原]]が広がる。国土のほとんどがイラン高原上にある<ref name="nipponica" />。同国は[[ユーラシア]]の中心に位置し、[[ホルムズ海峡]]に面するため、[[地政学]]的に重要な場所にある。首都である[[テヘラン]]は同国の最大都市であり、経済と文化の中心地でもある。イランには文化的な遺産が多く存在し、ユネスコの[[世界遺産]]には22個登録されている。これはアジアでは3番目、世界では11番目に多い。 == 国名 == {{main|{{仮リンク|イランの国名|en|Name of Iran}}}} イラン人自身は古くから国の名を「[[アーリア人]]の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、[[西洋]]では古代より[[ファールス州]]の古名「パールス」にちなみ「[[ペルシア]]」として知られていた。[[1935年]][[3月21日]]、[[レザー・パフラヴィー|レザー・シャー]]は諸外国に対して公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られた。[[1959年]]、研究者らの主張により[[モハンマド・レザー・シャー]]がイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後[[1979年]]のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。 現在の正式名称は[[ペルシア語]]でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān {{IPA-fa|dʒomhuːˌɾije eslɒːˌmije ʔiːˈɾɒn||Fa-ir-JEI_(1).ogg}} ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)、通称 ایران {{IPA-fa|ʔiːˈɾɑn||Fa-Iran (2).oga}}。公式の[[英語]]表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。[[日本語]]の表記は「イラン・イスラム共和国」または「イラン回教共和国」<ref>国際連合広報センター 加盟国一覧 http://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/member_nations/</ref>、通称イランであり、[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]では'''伊朗'''、'''伊蘭'''とも当てた。 == 国旗 == {{Main|イランの国旗}} 国旗は3色で構成され、緑はイスラムの国であること、白は平和と平和愛好、赤は勇気を表している。中央のモチーフは4本の剣と三日月を用いてアラビア語のアッラー(الله)とチューリップを象徴する。アッラーは、イスラムの唯一神で、チューリップはイスラムと祖国のために戦死した殉教者を表す。 == 歴史 == {{Main|イランの歴史}} {{イランの歴史}} === 古代 === [[ファイル:Takht-jamshid.jpg|thumb|left|220px|2500年の歴史を経て[[ペルセポリス]]の遺跡は訪れる人々を魅了する。]] イランの歴史時代は[[紀元前3000年]]頃の[[原エラム]]時代に始まる。[[アーリア人]]の到来以降、王朝が建設され、やがて[[ハカーマニシュ朝]](アカイメネス朝)が勃興。[[紀元前550年]]に[[キュロス2世|キュロス大王]]が[[メディア王国]]を滅ぼしてペルシアを征服し、さらにペルシアから諸国を征服して[[古代オリエント]]世界の広大な領域を統治する[[ペルシア帝国]]を建国した。[[紀元前539年]]に[[バビロン捕囚]]にあった[[ユダヤ人]]を解放するなど各地で善政を敷き、また[[ゾロアスター教]]をその統治の理念とした。 アケメネス朝は[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]率いる[[ギリシャ]]遠征軍によって[[紀元前330年]]に滅ぼされたが、まもなく大王が死去して[[ディアドコイ戦争]]となり、帝国は三分割されて[[セレウコス朝]]([[紀元前312年]] - [[紀元前63年]])の支配下に入った。[[シリア戦争 (プトレマイオス朝)|シリア戦争]]中には、[[紀元前247年]]にハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐ[[アルシャク朝]](パルティア)が成立し、[[ローマ・シリア戦争]]でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反した。 パルティア滅亡後は[[226年]]に建国された[[サーサーン朝]]が続いた。サーサーン朝は度々[[ローマ帝国]]と軍事衝突し、[[259年]]/[[260年]]に[[シャープール1世]]は親征してきた[[ウァレリアヌス]]帝を[[エデッサの戦い]]で打ち破り、捕虜にしている。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国は[[オリエント]]の大[[帝国]]として独自の文明を発展させ、[[ローマ帝国]]や[[イスラム帝国]]に文化・政治体制などの面で影響を与えた。 === イスラーム化 === [[ファイル:Mahan asemoon.jpg|thumb|left|[[9世紀]]から[[11世紀]]の[[イスラームの黄金時代]]と呼ばれる時代、イランはその中心地であった。]] 7世紀に入ると、サーサーン朝は[[東ローマ帝国]]の[[ヘラクレイオス]]帝との紛争や[[メソポタミア]]の大洪水による国力低下を経て、[[アラビア半島]]に興った[[イスラーム]]勢力の[[ハーリド・イブン・アル=ワリード]]らが率いる軍勢により疲弊。[[636年]]の[[カーディスィーヤの戦い]]、[[642年]]の[[ニハーヴァンドの戦い]]でイスラーム勢力に敗北を重ね、[[651年]]に最後の皇帝[[ヤズデギルド3世]]が死去したことを以て滅亡した。 イランの[[中世]]は、この[[イスラーム教徒のペルシア征服|イスラームの征服]]に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられた。[[873年]]に成立したイラン系の[[サーマーン朝]]下では[[ペルシア文学]]が栄え、[[10世紀]]に成立した[[イラン系]]の[[ブワイフ朝]]は[[シーア派]]イスラームの[[十二イマーム派]]を[[国教]]とした最初の王朝となった{{sfn|岡田|鈴木|北原|2005|p=198|ps= - [[渡部良子]]「多民族共生の歴史と「国史」の齟齬」}}。[[11世紀]]から[[12世紀]]にかけて発達した[[ガズナ朝]]や[[セルジューク朝]]や[[ホラズム・シャー朝]]などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用し、[[ペルシア語]]を[[外交]]や[[行政]]の公用語としたため、この時代には[[ペルシア文学]]の散文が栄えた{{sfn|岡田|鈴木|北原|2005|pp=198-200|ps= - [[渡部良子]]「多民族共生の歴史と「国史」の齟齬」}}。 [[1220年]]に始まる[[モンゴル帝国]]の征服によりイランは荒廃した。モンゴル帝国がイスラーム化した[[フレグ・ウルス]]が滅亡した後、[[14世紀]]から[[15世紀]]にかけてイラン高原は[[ティムール朝]]の支配下に置かれた。 === サファヴィー朝期 === [[ファイル:Shah Ismail I.jpg|thumb|220px|[[サファヴィー朝]]の建国者、[[イスマーイール1世]]。サファヴィー朝の下で[[シーア派]][[イスラム教|イスラーム]]の[[十二イマーム派]]が[[ペルシア]]の国教となり、現在にまで至るイランの[[シーア派]]化の基礎が築き上げられた。]] [[1501年]]に{{仮リンク|サファヴィー教団|en|Safaviyya}}の教主であった[[イスマーイール1世]]が[[タブリーズ]]で[[サファヴィー朝]]を開いた。[[シーア派]][[イスラム教|イスラーム]]の[[十二イマーム派]]を国教に採用したイスマーイール1世は遊牧民の[[クズルバシュ]]軍団を率いて各地を征服した。また、[[レバノン]]や[[バーレーン]]から十二イマーム派の[[ウラマー]](イスラーム法学者)を招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進んだ{{sfn|岡田|鈴木|北原|2005|pp=202-204|ps= - [[守川知子]]「シーア派国家への道」}}。[[1514年]]の[[チャルディラーンの戦い]]によって[[クルド人]]の帰属を[[オスマン帝国]]に奪われた。 第五代皇帝の[[アッバース1世]]は[[エスファハーン]]に遷都し、各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出した{{sfn|岡田|鈴木|北原|2005|pp=205-206|ps= - [[守川知子]]「シーア派国家への道」}}。[[1616年]]にアッバース1世と[[イギリス東インド会社]]の間で貿易協定が結ばれると、イギリス人の[[ロバート・シャーリー]]の指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化された。 しかし、[[1629年]]にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し、[[1638年]]にオスマン帝国の反撃で現在の[[イラク]]領域を失い、[[1639年]]の{{仮リンク|ガスレ・シーリーン条約|en|Treaty of Zuhab}}でオスマン朝との間の国境線が確定した。サファヴィー朝は[[1736年]]に滅亡し、その後は政治的混乱が続いた。 === ガージャール朝期 === [[ファイル:AmirKabir naghashbashi.jpg|thumb|left|220px|ガージャール朝の下で宰相を務めた[[アミール・キャビール|ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビール]]。アミーレ・キャビールは宰相として[[上からの改革]]を図ったが、[[近代化]]改革に無理解な[[保守]]派の宗教勢力と国王[[ナーセロッディーン・シャー]]の反対に遭ってその改革は頓挫し、内憂外患に苦しむ[[19世紀]]イランの自力更生の道は閉ざされた。]] [[1796年]]に[[テュルク]]系{{仮リンク|ガージャール族|en|Qajars (tribe)}}の[[アーガー・モハンマド]]が樹立した[[ガージャール朝]]の時代に、ペルシアは[[イギリス]]、[[ロシア]]など列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった([[グレート・ゲーム]]){{sfn|吉村|2011|pp=18-30}}。[[ナポレオン戦争]]の最中の[[1797年]]に第二代国王に即位した[[ファトフ・アリー・シャー]]の下で、ガージャール朝ペルシアにはまず1800年に[[イギリス]]が接近したが[[ロシア・ペルシア戦争]]([[ロシア・ペルシャ戦争 (1804年-1813年)|第一次ロシア・ペルシア戦争]])にて[[ロシア帝国]]に敗北した後は[[フランス]]がイギリスに替わってペルシアへの接近を進め、[[ゴレスターン条約]]([[1813年]])にてペルシアが[[ロシア]]に対し[[グルジア]]や[[アゼルバイジャン]]北半([[バクー]]など)を割譲すると、これに危機感を抱いたイギリスが翌[[1814年]]に「英・イラン防衛同盟条約」を締結した{{sfn|吉村|2011|pp=28-29}}。しかしながらこの条約はロシアとの戦争に際してのイギリスによるイランへの支援を保障するものではなく、[[1826年]]に勃発した[[ロシア・ペルシャ戦争 (1826年-1828年)|第二次ロシア・ペルシア戦争]]でロシアと交戦した際には、イギリスによる支援はなく、敗北後、[[トルコマーンチャーイ条約]]([[1828年]])にてロシアに対し[[アルメニア]]を割譲、500万トマーン(約250万[[ポンド (通貨)|ポンド]])の[[戦争賠償|賠償金]]を支払い、在イランロシア帝国[[臣民]]への[[治外法権]]を認めさせられるなどのこの[[不平等条約]]によって本格的なイランの受難が始まった{{sfn|吉村|2011|pp=28-29}}。こうした情況に危機感を抱いた、[[アーザルバイジャーン]]州総督の[[アッバース・ミールザー]]皇太子は工場設立や軍制改革などの[[近代化]]改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫した{{sfn|吉村|2011|p=31}}。[[1834年]]に国王に即位した[[モハンマド・シャー]]は失地回復のために1837年に[[アフガニスタン]]の[[ヘラート]]への遠征を強行したものの失敗し、[[1838年]]から1842年までの{{仮リンク|第一次アングロ・アフガン戦争|en|First Anglo-Afghan War|label=第一次アフガン戦争|redirect=1}}にてイギリスがアフガニスタンに苦戦した後、イギリスは難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、[[1841年]]にガージャール朝から[[最恵国]]待遇を得た{{sfn|吉村|2011|p=30}}。更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの[[国教]]たる[[十二イマーム派]]の権威を否定する[[セイイェド・アリー・モハンマド]]が[[バーブ教]]を開くなど内憂にも見舞われた{{sfn|吉村|2011|pp=31-32}}。モハンマド・シャーの没後、[[1848年]]に[[ナーセロッディーン・シャー]]が第四代国王に即位した直後に[[バーブ教徒の乱]]が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相[[ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビール]]の下でオスマン帝国の[[タンジマート]]を範とした[[上からの改革]]が計画されたが、改革に反発する[[保守]]支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折した{{sfn|吉村|2011|pp=33-36}}。ナーセロッディーン・シャーは[[1856年]]にヘラートの領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征はイギリスのイランへの宣戦布告を招き、敗戦と[[パリ条約 (1857年)|パリ条約]]によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた{{sfn|吉村|2011|pp=36-37}}。 こうしてイギリスとロシアをはじめとする外国からの干渉と、内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で、19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及んだ。[[1872年]]の[[ポール・ジュリアス・ロイター|ロイター]]利権のような大規模な民族資産のイギリスへの譲渡と、ロシアによる金融業への進出が進む一方、[[臣民]]の苦汁をよそに国王ナーセロッディーン・シャーは遊蕩を続けた{{sfn|吉村|2011|pp=37-39}}。{{仮リンク|第二次アングロ・アフガン戦争|en|Second Anglo-Afghan War|label=第二次アフガン戦争|redirect=1}}([[1878年]]–[[1880年]])では、{{仮リンク|ガンダマク条約|en|Treaty of Gandamak}}([[1879年]])を締結したが、戦争の二期目に突入し、イギリス軍は撤退した。 このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、[[1890年]]に国王ナーセロッディーン・シャーがイギリス人の[[ジェラルド・タルボト]]に[[タバコ]]に関する利権を与えたことを契機として、翌[[1891年]]から[[十二イマーム派]]の[[ウラマー]]の主導で[[タバコ・ボイコット運動]]が発生し、[[1892年]][[1月4日]]に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功した{{sfn|吉村|2011|pp=43-44}}。 第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが[[革命家]][[レザー・ケルマーニー]]に暗殺された後、[[1896年]]に[[モザッファロッディーン]]が第五代ガージャール朝国王に即位した。だが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めた{{仮リンク|アターバケ・アアザム|en|Mirza Ali Asghar Khan Amin al-Sultan}}が留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかった{{sfn|吉村|2011|pp=39-42}}。しかしながら[[1905年]]に[[日露戦争]]にて[[日本]]が[[ロシア]]に勝利すると、この日本の勝利は[[議院内閣制|議会制]]と[[大日本帝国憲法]]を有する[[立憲主義|立憲]]国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の[[絶対王政|専制]]に対する[[憲法]]の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の[[農作物]]の[[不作]]と[[コレラ]]の発生などの社会不安を背景に、1905年12月の[[砂糖]]商人への鞭打ち事件を直接の契機として、[[イラン立憲革命]]が始まった{{sfn|吉村|2011|pp=44-47}}。イラン人は国王に対して[[議会]] (majles) の開設を求め、これに気圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、[[10月7日]]にイラン初の国民議会 (Majiles-e Shoura-ye Melli) が召集された{{sfn|吉村|2011|pp=47-50}}。しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には[[労働者]]の[[ストライキ]]や[[農民]]の反乱、[[1907年]]にイランをそれぞれの勢力圏に分割する[[英露協商]]を結んだイギリスとロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、[[1911年]]に[[ロシア帝国軍]]の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのであった{{sfn|吉村|2011|pp=50-69}}。なお、この立憲革命の最中の[[1908年]]5月に[[マスジェド・ソレイマーン]]で[[油田]]が発見されている{{sfn|吉村|2011|p=70}}。 1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま[[1914年]]の[[第一次世界大戦]]勃発を迎えると、既に[[イギリス軍]]とロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更に[[オスマン帝国]]が侵攻して[[タブリーズ]]を攻略され、イラン国内では[[ドイツ帝国]]の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて[[凶作]]や[[チフス]]による死者が続出した{{sfn|吉村|2011|pp=70-78}}。[[1917年]]10月に[[十月革命|ロシア大十月革命]]によって[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]率いる[[ロシア社会民主労働党]][[ボルシェヴィキ]]が権力を握ると、新たに成立した[[労農ロシア]]はそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、[[不平等条約]]の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出した。これに危機感を抱いたイギリスは単独でのイラン支配を目指して[[1919年]][[8月9日]]に「[[英国・イラン協定]]」を結び、イランの[[保護国]]化を図った{{sfn|吉村|2011|pp=78-82}}。この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日に[[ミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリー]]によって[[ギーラーン共和国]]が、6月24日に北部の[[タブリーズ]]で[[アーザディスターン独立共和国]]の樹立が反英、革命の立場から宣言されたが、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、[[1921年]][[2月21日]]に発生したイラン・コサック軍の[[レザー・パフラヴィー|レザー・ハーン]]大佐による[[クーデター]]の後、同1921年4月にイギリス軍が、10月に[[ソビエト連邦|ソビエト]][[赤軍]]がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは[[1925年]]10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出した{{sfn|吉村|2011|pp=82-99}}。翌[[1926年]]4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、[[パフラヴィー朝]]が成立した{{sfn|吉村|2011|p=99}}。 === パフラヴィー朝期 === [[ファイル:RSMRS.jpg|thumb|220px|[[パフラヴィー朝]]の[[レザー・パフラヴィー]]と[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]父子([[1941年]])。|代替文=]] パフラヴィー朝成立後、[[1927年]]より[[レザー・パフラヴィー]]は[[不平等条約]]破棄、軍備増強、[[民法]]、[[刑法]]、[[商法]]の西欧化、[[財政再建]]、[[近代学校教育制度|近代的教育制度]]の導入、[[鉄道]]敷設、[[公衆衛生]]の拡充などの西欧化事業を進め、[[1931年]]に[[社会主義|社会主義者]]、[[共産主義|共産主義者]]を弾圧する「[[反共主義|反共]]立法」を議会に通した後、[[1932年]]を境に[[独裁]]化を強めた。また、ガージャール朝が欠いていた[[官僚制]]と[[軍事力]]を背景に[[1935年]]7月の[[ゴーハルシャード・モスク事件]]や[[1936年]]の女性の[[ヴェール]]着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し、反イスラーム的な統治を行った{{sfn|吉村|2011|pp=99-111}}。なお、イスラームよりも[[イラン民族主義]]を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月に[[フェルドウスィー]]生誕1,000周年記念祭が行われ、[[1935年]]に国号を正式に'''ペルシア'''から'''イラン'''へと変更している{{sfn|吉村|2011|p=106}}。[[1930年代]]後半には[[ナチス・ドイツ]]に接近し、[[1939年]]に[[第二次世界大戦]]が勃発すると、当初は[[中立]]を維持しようとしたが、 [[1941年]][[8月25日]]に[[赤軍|ソ連軍]]と[[イギリス軍]]がそれぞれ国境を超えて[[イラン進駐 (1941年)|イランに侵攻]]<ref>英ソ両軍がイランへ進入(『東京日日新聞』昭和16年8月26日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p390 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。イラン軍は敗北し、[[イギリス]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]によって領土を分割された{{sfn|吉村|2011|pp=112-114}}。イラン進駐下では1941年[[9月16日]]にレザー・パフラヴィーが息子の[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]に帝位を譲位した他、親ソ派[[共産党]]の[[トゥーデ党]]が結成された。 [[1943年]][[11月30日]]には連合国の首脳が首都テヘランで[[テヘラン会談]]が開催された。その際、会議の主題とは別に各首脳らによってイランの独立と領土の保障に関する宣言書に署名が行われた。イラン国民のご機嫌を取るためのジェスチャーとも評されたが<ref>会談終わる、主題は欧州第二戦線(昭和18年12月7日 朝日新聞(夕刊)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p608 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>、戦後イランを特徴づける舞台が整えられた{{sfn|吉村|2011|pp=114-122}}。また、北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、[[1945年]][[12月12日]]に[[アゼルバイジャン国民政府]]が、[[1946年]][[1月22日]]には[[クルド人]]によって[[マハーバード共和国]]が樹立されたが、両[[政権]]は共に[[アフマド・ガヴァーム]]首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合された{{sfn|吉村|2011|pp=122-126}}。 [[ファイル:Mossadeghmohammad.jpg|thumb|220px|[[モハンマド・モサッデク]]首相。[[1950年代]]初頭に[[イギリス]]系[[アングロ・イラニアン石油会社]]によって独占されていた[[石油]]の国有化を図ったが、イランによる石油国有化に反対する[[国際石油資本]]の意向を受けたイギリスと[[アメリカ合衆国]]、及び両国と結託した皇帝[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]によって[[1953年]]に失脚させられた。]] [[1940年代]]に[[国民戦線 (イラン)|国民戦線]]を結成した[[モハンマド・モサッデク]]議員は、国民の圧倒的支持を集めて[[1951年]]4月に首相に就任した。モサッデグ首相は[[イギリス]]系[[アングロ・イラニアン石油会社]]から[[石油国有化]]を断行した([[石油国有化運動 (イラン)|石油国有化運動]])が、[[1953年]][[8月19日]]にアメリカ[[中央情報局]](CIA)とイギリス[[秘密情報部]]による周到な計画([[1953年のイランのクーデター|アジャックス作戦]]、{{lang-en-short|TPAJAX Project}})によって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わった{{sfn|吉村|2011|p=136}}。 このモサッデグ首相追放事件によって米国の傀儡政権として復権した[[パフラヴィー朝]]の[[シャー]](皇帝)、[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]は自らへの権力集中に成功した。[[1957年]]に[[中央情報局|CIA]]と[[連邦捜査局|FBI]]と[[イスラエル諜報特務庁|モサド]]の協力を得て[[国家情報治安機構]] (SAVAK) を創設し、この[[秘密警察]]SAVAKを用いて政敵や一般[[市民]]の市民的[[自由]]を抑圧したシャーは、米[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]政権の要請によりイランの西欧化を図るべく、「[[白色革命]]」が実行された。この計画には、[[農地改革]]や識字率向上、国有工場の売却、企業利益分配、非イスラム教徒および女性の参政権などが含まれた<ref>{{Cite book |title=U.S. officials and the fall of the Shah : some safe contraction interpretations |url=https://www.worldcat.org/oclc/828423771 |publisher=Lexington Books |date=2010 |location=Lanham, Md. |isbn=978-0-7391-3342-2 |oclc=828423771 |first=Jean-Charles |last=Brotons}}</ref>{{sfn|吉村|2011|pp=143-156}}<ref>{{Cite web|和書|title=外務省: わかる!国際情勢 悠久のペルシャ~現代イランの成り立ちとその素顔 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol51/index.html |website=www.mofa.go.jp |access-date=2023-04-30}}</ref>。一方、失業率の増加や格差拡大、政治腐敗なども引き起こされ、原油価格が下落すると計画は破綻した。 1978年に入るとテヘランで1万人規模の反政府デモが発生するようになり、8月31日には暴徒が銀行に放火するなどした<ref>イラン、再び騒然 暴徒が銀行に方か『朝日新聞』1978年(1953年)9月1日朝刊、13版、7面</ref>。この時、[[ルーホッラー・ホメイニー|アーヤトッラー・ホメイニー]]が台頭していた。 === イラン・イスラーム共和国 === シャーの独裁的統治は[[1979年]]の[[イラン革命|イラン・イスラーム革命]]に繋がり、パフラヴィー朝の[[帝政]]は倒れ、新たに[[ルーホッラー・ホメイニー|アーヤトッラー・ホメイニー]]の下で[[イスラム共和制]]を採用する'''イラン・イスラーム共和国'''が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のない[[ウラマー]](イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、[[1979年]]の[[アメリカ大使館人質事件]]、[[革命の輸出]]政策、[[レバノン]]の[[ヒズボッラー]](ヒズボラ)、[[パレスチナ]]の[[ハマース]]などのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。 [[クルド人]]はイラン革命を支持し、[[自治権]]の獲得を目指していたが、革命成立後の政府は受け入れずにイラン・クルディスタン民主党を非合法化。1979年8月、クルド人はイラン西部の[[ケルマーンシャー州]]<ref>クルド族反乱で緊迫 全軍に出動命令 占拠のパペ市『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月19日朝刊 13版 7面</ref>や[[西アーザルバーイジャーン州]]の都市を占拠するなど大規模な反乱を起こしたが、翌月までに大半が鎮圧された<ref>イラン政府軍 ハマバドを制圧 クルド族 徹底抗戦崩さず『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月4日朝刊 13版 7面</ref>。 革命による混乱が続く[[1980年]]には隣国[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]大統領が[[アルジェ協定 (1975年)|アルジェ協定]]を破棄してイラン南部の[[フーゼスターン州]]に侵攻し、[[イラン・イラク戦争]]が勃発した。この破壊的な[[戦争]]は[[イラン・コントラ事件]]などの国際社会の意向を巻き込みつつ、[[1988年]]まで続いた。 国政上の改革派と[[保守]]派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補[[マフムード・アフマディーネジャード]]が勝利した[[イラン大統領選挙 (2005年)|2005年の大統領選挙]]でもこの点が[[欧米]][[マスメディア|メディア]]に注目された。 [[2013年]]6月に実施された[[イラン大統領選挙 (2013年)|イラン大統領選挙]]では、保守穏健派の[[ハサン・ロウハーニー]]が勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。 [[2021年]][[6月18日]]に投票が行われたイラン大統領選挙では、[[エブラーヒーム・ライースィー]]が当選した。この選挙では政界の有力者の多くが出馬を禁じられ、立候補者が保守強硬派だらけとなったこともあり、投票率は著しく低迷した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3352494?cx_part=top_topstory&cx_position=1 |title=イラン大統領選、強硬派の勝利祝う声 発表前に他候補ら祝福 |publisher=AFP |date=2021-06-19 |accessdate=2021-06-19}}</ref>。 == 政治 == {{Main|イランの政治}} イランの政体は[[1979年]]以降の[[イラン・イスラーム共和国憲法|憲法]](ガーヌーネ・アサースィー)の規定による立憲[[イスラーム共和制]]である。[[政治]]制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は、[[民主主義]]的に選挙によって選出される議員で構成されるもの、[[宗教]]的立場によって選出されるもの、あるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。 === 法学者の統治 === イランの政治制度の特徴は、何といっても「法学者の統治」である<ref>{{Cite journal|author=中西久枝|year=2002|title=イスラームと民主主義|journal=イスラームと現代イランの諸相|volume=|page=65}}</ref>。これは、イスラーム法学者の解釈するイスラームが絶対的なものであることを前提とし、現実にイスラーム法が実施されているかを監督・指揮する権限を、イスラーム法学者が持つことを保障する制度である。この制度は、シーア派イスラームならではの制度といってよい。イランはシーア派のなかでも「十二イマーム派」に属するが、一般にシーア派の教義では「イマーム」こそが預言者の後継者として、「イスラームの外面的・内面的要素を教徒に教え広める宗教的統率者」としての役割を担うとされている<ref>{{Cite journal|author=櫻井秀子|year=1995|title=シーア派イマーム論|journal=講座イスラム5:イスラム国家の理念と現実|volume=|page=}}</ref>。シーア派は[[イジュティハード]]の権限を持つイスラーム法学者を一般大衆とは区別し、この解釈権を持つイスラーム法学者([[モジュタヒド]])に確固とした政治的・宗教的地位を与えている。モジュタヒドの最高位にあるのが、「[[アーヤトッラー#大アーヤトッラー|マルジャエ・タグリード]](模倣の源泉、大アーヤトッラー)」である。マルジャエ・タグリードはシーア派世界の最高権威であるが、ローマ教皇のように必ず1人と決まっているわけではなく、複数人のマルジャエ・タグリードが並立することがある。1978年から1979年のイラン・イスラーム革命によって、マルジャエ・タグリードの1人であった[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー]]がイランの最高指導者となり、宗教的のみならず、政治的にも最高の地位に就くこととなった。 === 選挙制度 === イランでは立候補者の数が多い。2000年2月に行われた第6回国会選挙では、290名の定員に対し、7,000人近くが立候補し、2001年の第8回大統領選挙では、840名が立候補した<ref name=":1">{{Cite journal|author=中西久枝|year=2002|title=イスラームと民主主義|journal=イスラームとモダニティ:現代イランの諸相|volume=|page=67}}</ref>。 特に国会選挙では、投票の際、投票者が一名を選択するのではなく、その選挙区の定員数まで何人でも選定することができる。従ってテヘランのように30名もの定員がある選挙区では、2, 3人しか選ばない者もいれば、30人まで列記して投票する者もいる。つまりどのような投票結果になるか予想しにくい制度であるばかりか、死票や票の偏りがおこりやすい。テヘランのような大都会では、投票が有名人に集中し、候補者は規定票を獲得できず、第2ラウンドへ持ち込まれるケースも多い。国会選挙の場合、投票総数の三分の一を獲得しなければ、たとえ定員数内の上位でも当選にはならない。そして、第2ラウンドの選挙になる。 しかし、こうしたやり方では選挙費用がかさむ上、第2・第3ラウンドとなれば選挙結果が決まるまで時間がかかりすぎ国会の空白期間が生じる。そのため、2000年1月上旬選挙法の改正が行われ、第一ラウンドの当選をこれまでの投票総数の3分の1から25パーセント以上獲得すれば当選とし、第2ラウンドでは、従来通り投票総数の50パーセント獲得すれば当選というように改正された<ref>{{Cite journal|author=中西久枝|year=2002|title=イラン国会選挙後の米・イ関係改善と国内政治の動向|journal=中東研究|volume=2000年5号|page=}}</ref>。 護憲評議会は、選挙の際に、立候補者の資格審査(選挙資格を満たしているか否か)を行なっている<ref name=":1" />。 === 最高指導者 === {{仮リンク|ヴェラーヤテ・ファギーフ|fa|ولایت فقیه (کتاب)|en|Islamic Government: Governance of the Jurist}}([[イスラーム法学者|法学者]]の統治)の概念はイランの[[政治体制]]を構成する上で重要な概念となっている。憲法の規定によると、[[イランの最高指導者|最高指導者]]は「イラン・イスラーム共和国の全般的[[政策]]・方針の決定と監督について責任を負う」とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。最高指導者は[[行政]]・[[司法]]・[[立法]]の[[三権]]の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。[[宣戦布告]]の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、[[イスラーム革命防衛隊]](イスラム革命防衛隊、IRGC)総司令官の任免権をもち、[[監督者評議会]]を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。最高指導者(または最高指導会議)は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者は[[アリー・ハーメネイー]]。 === 大統領 === [[イランの大統領|大統領]]は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる[[行政府]]の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に[[監督者評議会]]による審査と承認が必要で、[[国民]]による直接[[普通選挙]]の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で[[現在のイラン政府の構成員の一覧|閣僚評議会]](閣議)が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。[[イランの首相|首相]]職は[[1989年]]の[[憲法改正]]により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。 === 議会 === [[イランの議会|議会]]は「マジレセ・ショウラーイェ・エスラーミー Majles-e showrā-ye eslāmī」(イスラーム議会)といい、一院制である。[[立法府]]としての権能を持ち、立法のほか、[[条約]]の批准、国家[[予算]]の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては[[監督者評議会]]による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7,600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2,200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある<ref>http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/8493.html</ref>。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。[[日本語]]の[[報道]]では国会とも表記される。 === 専門家会議 === [[専門家会議 (イラン)|専門家会議]]は国民の[[選挙]]によって選出される「善良で博識な」86人の[[ウラマー|イスラーム知識人]]から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は[[監督者評議会]]の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は[[イランの最高指導者|最高指導者]]を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。 === 監督者評議会 === [[監督者評議会]]は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を[[イランの最高指導者|最高指導者]]が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案が[[シャリーア]](イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。[[日本]]の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。 === 公益判別会議 === [[公益判別会議]]は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。 === 司法府 === {{main|イランの法制}} 最高司法権長は最高指導者によって任じられ、最高裁判所長官および検事総長を任じる。一般法廷が、通常の民事・刑事訴訟を扱い、国家[[安全保障]]にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決は[[確定判決]]で[[上訴]]できない。またイスラーム法学者特別法廷は法学者による[[犯罪]]を扱うが、事件に[[一般人]]が関与した場合の[[裁判]]もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。 == 国際関係 == {{main|イランの国際関係}} [[ファイル:Diplomatic missions in Iran.png|thumb|360px|イラン国内に外交使節を派遣している諸国の一覧図。]] [[ファイル:CIAIranKarteOelGas.jpg|thumb|360px|[[アメリカ合衆国]]の[[中央情報局|CIA]]が[[2004年]]に作成した、イランの[[石油]]と[[天然ガス]]関連施設の地図。イランに埋蔵されている石油は[[モハンマド・モサッデグ]]首相の罷免や1980年代初頭の第二次[[石油危機]]などを通じ、20世紀後半の国際関係に多大な影響を及ぼした。]] === 対外政策の基本 === 2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は、[[イスラエル]]を除く全ての国家、国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである<ref>{{Cite web|和書|last=外務省|title=各国・地域情勢&gt;中東&gt;イラン|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iran/index.html |accessdate=2008-07-10 }}</ref>。 === 日本 === {{See|日本とイランの関係}} === ロシア === {{See|イランとロシアの関係}} === 北朝鮮 === {{See|イランと北朝鮮の関係}} === シリア === {{see|{{仮リンク|イランとシリアの関係|en|Iran–Syria relations}}}} シリアは他の[[アラブ諸国]]と異なり非[[スンナ派]]政権である事に加え、[[イラン・イラク戦争]]では[[バアス党|シリア・バース党]]と[[バアス党政権 (イラク)|イラク・バース党]]との対立も絡み、シーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した。イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、反スンニ派イスラム主義、国際的孤立化にあるなど利害が一致する点が多い。近年では[[シリア内戦]]でイランが[[バッシャール・アル=アサド|アサド]]政権を支援するなど、政治面の他、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。 === サウジアラビア === {{see|{{仮リンク|イランとサウジアラビアの関係|en|Iran–Saudi Arabia relations}}}} 両国はそれぞれ[[シーア派]]と[[スンナ派]]の盟主とであるため、度々国交断絶などの対立を繰り返してきた。近年では[[イラク戦争]]や[[アラブの春]]の混乱で、イラク・シリア・[[エジプト]]などの中東の有力国が国力を落とす中、相対的に中東におけるイランとサウジアラビアの影響力が拡大した。[[シリア内戦]]や[[イエメン内戦 (2015年-)|イエメン内戦]]では異なる勢力を支援し事実上の代理戦争の様相を呈していた他、2016年には国交断絶が起きるように、対立が表面化していた<ref>{{Cite web|和書|title=サウジ、イランと国交断絶 |url=https://www.sankei.com/article/20160104-WSDRMUHSLNPOZHGHMAV4E7XKKU/ |website=産経ニュース |date=2016-01-04 |access-date=2023-04-30}}</ref>。 しかし、[[2023年]]3月に[[中華人民共和国|中国]]の仲介によって外交関係を正常化した<ref>{{Cite web|和書|title=イランとサウジアラビア、7年ぶりに外交関係正常化で合意 中国が仲介 |url=https://www.bbc.com/japanese/64924311 |website=BBCニュース |access-date=2023-04-05 |date=2023-03-11}}</ref>。同年6月6日、両国は大使館を7年ぶりに再開させた。イランのビクデリ副外相は「イランとサウジにとって歴史的な日だ。地域の安定や繁栄、発展に向けた協力が進むだろう」と語った<ref>{{Cite web|和書|title=イラン、7年ぶりにサウジで大使館再開 中国仲介で外交関係が正常化 |url=https://mainichi.jp/articles/20230607/k00/00m/030/055000c |website=[[毎日新聞]] |access-date=2023-06-08 |date=2023-06-07 }}</ref>。 === アメリカ合衆国 === {{see also|アメリカ合衆国とイランの関係}} イランと米国の外交関係は1856年から始まり、イランにとって米国はペルシャ湾情勢において圧となっていたイギリスとロシアと対峙できる第三勢力だったこともあり、[[第二次世界大戦]]までの関係は良好だった。特に、1925年に[[パフラヴィー朝]]を開いた[[レザー・パフラヴィー]]皇帝(シャー)は、米国から財政顧問官を招聘して財政改革にあたるなど傾倒していた。 第二次世界大戦後、[[冷戦時代]]に入ると、イランは[[ソ連]]の隣国であることや産油国の中東における大国であることから、米国に中東政策の柱として目を付けられる。1951年に[[モハンマド・モサッデク]]が首相に就任し、石油を国有化するなど独立色を強めると、米国とイギリスの情報機関([[CIA]]と[[MI6]])は[[1953年のイランのクーデター|1953年のクーデター]]を主導した<ref>{{Cite web|和書|title=親米政権への転覆が禍根 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48491070T10C19A8SHA100/ |website=www.nikkei.com |access-date=2023-04-30}}</ref>。こうして復権した1953年-1978年の[[パフラヴィー2世]]政権は、事実上米国の[[傀儡政権]]であったため、米国との関係は質量ともに重大だった<ref>{{Cite web|和書|title=それは1979年から始まった。アメリカとイラン、敵対の歴史を紐解く |url=https://www.businessinsider.jp/post-205442 |website=BUSINESS INSIDER JAPAN |date=2020-01-09 |access-date=2023-04-30}}</ref>。この頃は、米国がイランの核開発を支援していた。同時に、米国はイランの石油を大量に手に入れ、覇権国家の立場を確立した。 イラン国民の生活文化を無視した白色革命が原油価格の下落により破綻すると、国民の不満が爆発し、1978年から1979年に[[イラン革命]]が発生。革命により反米的なイラン・イスラム共和国が興ると、両国の関係は急速に悪化。イラン在米資産没収やイランアメリカ大使館人質事件ののち、1980年4月の断交に至った<ref>山川出版社『詳説世界史』 第18章 現代の世界&gt;世界経済の変容と南北問題&gt;イスラム世界と石油危機</ref>。9月から[[イラン・イラク戦争]]が始まると、米国はイラクを支援した。以後、イスラム革命時以後の歴代の米国議会・政府は、イランを[[反米]]国家([[悪の枢軸]])と認識し、イランに対する国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続している。米国政府は1984年に[[ロナルド・レーガン|レーガン]]大統領がイランを[[テロ支援国家]]と指定し、2023年現在まで指定を継続している<ref>{{Cite web |last=US Department of State |title=Bureaus Offices Reporting Directly to the Secretary&gt;Office of the Coordinator for Counterterrorism&gt;Releases&gt;State Sponsors of Terrorism |url=http://www.state.gov/s/ct/c14151.htm |accessdate=2008-07-10}}</ref>。1990年代のクリントン米政権時代には貿易・投資・金融の禁止措置が実施され<ref>{{Cite web|work=[[アメリカ議会図書館]]|title=H.R.3107 - Iran and Libya Sanctions Act of 1996|url=https://www.congress.gov/bill/104th-congress/house-bill/3107 |date=1996-07-16|accessdate=2020-07-22 }}</ref>、2000年代以降は[[イランの核開発問題|核開発問題]]を理由に経済制裁を行われている。2012年の原油の制裁対象化や2015年の[[SWIFT]]排除などは、イラン経済に大きな影響を及ぼしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://oilgas-info.jogmec.go.jp/info_reports/1008604/1008904.html |title=米国による経済制裁下におけるイラン石油産業の取り組み |access-date=2022-06-18 |publisher=JOGMEC}}</ref>。<ref>{{Cite journal|last=Saramifar|first=Younes|date=2020-12-01|title=Circling around the really Real in Iran: Ethnography of Muharram laments among Shi'i volunteer militants in the Middle East|url=https://www.berghahnjournals.com/view/journals/focaal/2020/88/fcl880105.xml|journal=Focaal|volume=2020|issue=88|pages=76–88|language=en|doi=10.3167/fcl.2019.032107|issn=1558-5263}}</ref> 内政干渉としては、2009年のイランの反アフマディーネジャード派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生に米国とヨーロッパの財団・機関が関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し<ref>Iran紙2010年1月5日付</ref>、米国政府もイランの体制を壊す目的で工作していたと発表した。2020年1月には、米国がイラン革命防衛隊司令官[[ガーセム・ソレイマーニー]]を殺害した。 イラン側は、イスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまでは米国に対して強硬な姿勢だったが、その後は、[[アリー・ハーメネイー]]師、[[ハーシェミー・ラフサンジャーニー]]大統領、[[モハンマド・ハータミー]]大統領、[[マフムード・アフマディーネジャード]]大統領などが、米国がイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している<ref>『[[中日新聞]]』2008年2月17日版 イランのモシャイ副大統領は、「イランの最高指導者のハーメネイー師が、アメリカとの関係回復がイランのためになるなら、私はそれを承認する最初の人物となると表明した」とハーメネイー師の表明を引用して表明した。</ref><ref>『[[東京新聞]]』2008年2月15日版 イランのモシャイ副大統領は、「アメリカが中東への見方を変更し、イランの役割を理解し、イランに対する敵視政策を転換するなら、アメリカとの関係回復は可能である。」と表明した。</ref><ref>『[[毎日新聞]]』2008年2月25日版 イランのサマレハシェミ大統領上級顧問は、「相手国の立場を互いに尊重できるなら、イランはイスラエル以外の全ての国と友好的で平等の関係を形成する。アメリカがイランの立場を尊重するなら関係を修復する用意がある。イラン国民がアメリカとの関係修復を歓迎しない理由はない。」と表明した。</ref><ref>『[[読売新聞]]』2008年2月29日版 イランのアラグチ駐日大使は、「日本とイランは良好な関係を保ってきた、日本政府はアメリカ政府よりずっと、中東地域の現実や、地域でのイランの役割を熟知しているので、日本はアメリカにイランに対する敵視政策の変更を促す適任者である。アメリカが賢明な政策を取るよう、日本政府が助言することを期待する。」と表明した。</ref>。ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日の米国に対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙で選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している<ref>『毎日新聞』2008年2月29日版 アフマディーネジャード大統領は、「イラクのタラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善への協力する意向である。」と表明した。</ref><ref>『東京新聞』2008年2月29日版 イランのアフマディーネジャード大統領は、「3月2日に、1979年のイラン・イスラム革命後初めてイラクを訪問し、タラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善のための協力について協議する。」と表明した。</ref>。ただし、イエメン内戦やシリア内戦では米国と対立し、軍事支援を通じて間接的に戦っている。 === 核開発問題 === {{main|イランの核開発問題}} [[ファイル:Mahmoud_Ahmadinejad_and_Lula_da_Silva-Tehran-2010.jpg|thumb|300x300px|イランのアフマディネジャード前大統領と[[ブラジル]]の[[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ|ルーラ]]大統領([[2010年]])。|代替文=]] イランにおける核開発は、1950年代の米傀儡政権下に始まる。1957年、当時の[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]米大統領により「原子力の平和利用研究協力協定案」が発表され、基礎が築かれた<ref>"Iran's Nuclear Program – Council on Foreign Relations". Cfr.org. Retrieved 4 April 2012.</ref>。その後、実験炉と濃縮ウランが提供され、原子力発電所の建設計画も合意されたが、イラン革命で反米政権になると状況は一変。1970年代に様々な国と原子力協力協定を結び、原子力技術移転を目指したが、イスラエルと繋がりの深い米国等の圧力により進まず、自主開発を始めた。秘密裏に行っていたため、2002年に暴露されると、翌年にはIAEA理事会から開発の停止を求められた。しかし、イランは続行したため、欧米との対立が起きた<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.jaea.go.jp/04/iscn/archive/nptrend/nptrend_01-06.pdf |title=イラン核問題(1):経緯 |access-date=2022-08-06 |publisher=JAEA}}</ref>。 イラン政府は自国の核開発問題について、核エネルギーの生産を目指すもので、[[核兵器]]開発ではないと今までに一貫して表明してきており、アフマディネジャド大統領は「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対して明言している(『Newsweek』誌2009年10月7日号)。欧米のイランの核エネルギー開発は認められない、という論理は決して世界共通のものではない。新興国の[[トルコ]]や[[ブラジル]]、また、[[ベネズエラ]]・[[キューバ]]・[[エジプト]]その他の非同盟諸国は「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示し、当然であるとして支持している。2009年10月27日のアフマディーネジャード大統領との会談の中で、トルコの[[エルドアン]]首相はイランの核(エネルギー)保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた<ref>『Milliyet』紙2009年10月28日付 トルコのエルドアン首相もイランの核保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた。</ref>。また、ブラジルの[[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ]]大統領は『Newsweek』誌2009年10月21日号でイランのウラン濃縮の権利を支持していることが報じられており、ベネズエラの[[ウゴ・チャベス]]大統領は2006年7月の[[アフリカ連合]] (AU) 首脳会議に招かれた際、イランの核開発について「平和利用のための核技術を発展させる権利がイランにないというのか。明らかにある」と断言している<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.47news.jp/CN/200607/CN2006070201000053.html | title = 反米で「共闘」ベネズエラとイラン大統領 | date = 2006-07-01 | publisher = 共同通信社 | accessdate = 2010-09-15 | language = 日本語 }}</ref>。2006年9月の第14回[[非同盟運動|非同盟諸国首脳会議]]では、イランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択され<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.47news.jp/CN/200609/CN2006091701000406.html | title = イランの核開発権利を確認 非同盟諸国首脳会議が閉幕 | date = 2006-09-17 | publisher = 共同通信社 | accessdate = 2010-09-15 | language = 日本語}}</ref>、会議の議長国キューバやエジプトもこれを支持している。 核兵器開発については、[[IAEA]]や敵対するイスラエルも否定することとなるが、核技術開発自体認めない欧米諸国の圧力は止まらず、イランも無視したことで、2012年に米国とEUからイラン産原油輸入を経済制裁の対象にされ、実質GDP成長率は前年比マイナス8.4%にもなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iima.or.jp/docs/newsletter/2020/nl2020.15.pdf |title=米国経済制裁のイラン経済への影響 |access-date=2022-08-06 |publisher=公益財団法人 国際通貨研究所}}</ref><ref name=":2" />。2013年に穏健派のロウハーニーが大統領になると協議は進み、2015年に最終的な核合意に至った。これによりGDPは急回復を見せたが、2018年にイスラエル寄りの[[ドナルド・トランプ]]米大統領が一方的に合意を破棄し、SWIFT排除も含めた経済制裁を再開すると、経済は再び急落した。もっとも、これにより国産技術が発展したという面もある<ref>{{Cite web|和書|title=輸入できない、それなら自国生産に 「抵抗の経済」でイランの国内産業は発展 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/113011 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2022-08-06}}</ref>。また、米国の行動に対し、ロウハニ大統領は核合意から離脱はしないが、核合意を遵守するわけでもないという演説を行い<ref>{{Cite web|和書|title=「違反以上離脱未満」で核合意の「精神」を守ったイラン |url=https://globe.asahi.com/article/12355952 |website=朝日新聞GLOBE+ |access-date=2022-08-06 |language=ja-JP}}</ref>、核開発を再開。2021年に[[ジョー・バイデン]]が米大統領に就任してからは協議が再開したが溝は深く、2022年7月にはイスラエルメディアのインタビューで、バイデンがイラン攻撃の可能性も示した<ref>{{Cite news|title=バイデン氏、イランへの武力行使の「用意ある」 核武装を防ぐため|url=https://www.bbc.com/japanese/62173962|work=BBCニュース|access-date=2022-08-06|language=ja}}</ref>。その後、イラン側は最高指導者顧問と原子力庁長官が核兵器製造は可能だがしないと発言した<ref>{{Cite news|title=イラン、原爆製造は技術的に可能 意図はない=原子力庁長官|url=https://www.reuters.com/article/iran-nuclear-idJPKBN2P70VD|work=Reuters|date=2022-08-01|access-date=2022-08-06}}</ref>。 === 欧米での反イスラーム的行為 === {{see also|[[国際クルアーン焼却日]]}} 2010年9月のイスラーム聖典『[[クルアーン]]』焼却事件はアメリカ・[[フロリダ州]]のキリスト教会の牧師が、[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]の9周年にあたる2010年9月11日を「国際クルアーン焼却デー」とし、『[[クルアーン]]』を焼却する計画を発表したことに始まる事件だが、ムスリム・非ムスリムを超えた広範な反発と国際世論の圧力を受けて中止された。しかし、この呼びかけに応えたようにアメリカ国民の一部が数冊の『クルアーン』を燃やし、[[ワシントンD.C.]]で警官に護衛される中で、また、[[アメリカ同時多発テロ事件]]で破壊された[[ニューヨーク]]の[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センタービル]]の跡地で数十冊の『クルアーン』を破り、それに火をつけた。これらの行為に対して、全世界で大規模な抗議運動が巻き起こった<ref>{{Cite web|和書 | url = http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=13796&Itemid=54 | title = アメリカでのコーラン焼却にイスラム教徒が抗議 | date = 2010-09-13 | publisher = IRIB | accessdate = 2010-09-17 | language = 日本語}}</ref>。 聖地[[エルサレム|イェルサレム]]でも同時期に似たような反イスラーム的行為が行われた<ref>{{Cite web|和書 | url = http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=13825&Itemid=54 | title = シオニスト入植者、コーランを冒涜 | date = 2010-09-15 | publisher = IRIB | accessdate = 2010-09-15 | language = 日本語}}</ref>。 このような事件に対して最高指導者[[アリー・ハーメネイー]]はメッセージのなかで、イスラーム教徒とキリスト教徒を対立させることが、この事件の真の首謀者の望みであるとし、「キリスト教会やキリスト教とは関係がなく、数名の雇われた人間の行動を、キリスト教徒全体のものと考えるべきではない」、「我々イスラーム教徒が、他の宗教の神聖に対して同じような行動に出ることはない。クルアーンが我々に教える事柄は、その対極にある」と表明した。 そして、この事件の真の計画、指示者について「アフガニスタン、イラク、パレスチナ、レバノン、パキスタンで、犯罪行為を伴ってきた、一連の流れを分析すれば、アメリカの政府と軍事・治安機構、イギリス政府、その他一部のヨーロッパ政府に最大の影響力を持つ、“[[シオニスト]]の頭脳集団”であることに疑いの余地は残らない」、「(今回の事件は)この国の警察に守られる中で行われたものであり、何年も前から、(欧米での)[[イスラム恐怖症]]やイスラム排斥といった政策に取り組んできた(シオニスト頭脳集団)組織による計画的な行動であった」と述べ、今回のクルアーン焼却事件とそれ以前の欧米でのイスラーム恐怖症やイスラーム排斥の政策を主謀したのはこのシオニスト集団だとした。また、「このようなイスラムへの一連の敵対は、西側におけるイスラムの影響力が、いつにも増して高まっていることに起因する」とした。さらに同メッセージでアメリカ政府に対し、「この陰謀に関与していないとする自らの主張を証明するために、この大きな犯罪の真の実行者をふさわしい形で処罰すべきだ」と強調した<ref>{{Cite web|和書 | url = http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=13807&Itemid=54 | title = 最高指導者、コーラン焼却を受けメッセージ | date = 2010-09-14 | publisher = IRIB | accessdate = 2010-09-17 | language = 日本語}}</ref>。この事件に対し、[[インド]]領[[カシミール]]、アフガニスタンでも抗議デモが行われ、イランでは抗議のために多くの都市の[[バザール]]が9月15日を休業とした<ref>{{Cite web|和書 | url = http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=13828&Itemid=54 | title = イランのバザール、米のコーラン焼却に抗議し休業 | date = 2010-09-15 | publisher = IRIB | accessdate = 2010-09-15 | language = 日本語}}</ref>。 === 悪魔の詩事件 === 元ムスリム(イスラーム教徒)の[[サルマン・ラシュディ]]が書いた1989年出版の『[[悪魔の詩]]』はイスラームの預言者[[ムハンマド]]について扱っているが、その内容と、この人物が元ムスリムであったことから発表の後、各国のムスリムの大きな非難と反発を招いた。1991年7月に起きた[[日本]]の[[茨城県]][[つくば市]]内で[[筑波大学]]助教授が何者かによって殺された事件(未解決)は、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。詳細は[[悪魔の詩]]を参照。 == 軍事 == {{Main|イラン・イスラム共和国軍}} 国軍として、[[イラン陸軍|陸軍]]・[[イラン海軍|海軍]]・[[イラン空軍|空軍]]などから構成される[[イラン・イスラム共和国軍]]を保有している。 イランは[[核拡散防止条約]] (NPT) に加盟しているが、国際社会から[[イランの核開発問題]]が問題視されている。 === 準軍事組織 === {{Main|イスラム革命防衛隊}} また、国軍とは別に、[[パースダーラーン省]]に所属する2つの準軍事組織保有している。1979年にイスラム革命の指導者[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー師]]の命で設立された、志願[[民兵]]によって構成されている[[準軍事組織]]「'''[[バスィージ]]'''(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。 * 内務省法秩序警備軍:[[国家憲兵]]に相当。 * [[イスラム革命防衛隊]](パースダーラーン) ** [[ゴドス軍]] (Quds Force) ** [[イスラム革命防衛隊#バスィージ|バスィージ]] ([[:en:Basij|Basij]]): 民兵部隊 == 地方行政区分 == {{Main|イランの地方行政区画|イランの州}} [[ファイル:IranNumbered.png|300px|thumb|right|イランの州。]] イランは31の州(オスターン)からなっている。 {{Colbegin|3}} # [[テヘラン州|テヘラン]] # [[ゴム州|ゴム]] # [[マルキャズィー州|マルキャズィー]] # [[ガズヴィーン州|ガズヴィーン]] # [[ギーラーン州|ギーラーン]] # [[アルダビール州|アルダビール]] # [[ザンジャーン州|ザンジャーン]] # [[東アーザルバーイジャーン州|東アーザルバーイジャーン]] # [[西アーザルバーイジャーン州|西アーザルバーイジャーン]] # [[コルデスターン州|コルデスターン]] # [[ハマダーン州|ハマダーン]] # [[ケルマーンシャー州|ケルマーンシャー]] # [[イーラーム州|イーラーム]] # [[ロレスターン州|ロレスターン]] # [[フーゼスターン州|フーゼスターン]] # [[チャハール=マハール・バフティヤーリー州|チャハール=マハール・バフティヤーリー]] # [[コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州|コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド]] # [[ブーシェフル州|ブーシェフル]] # [[ファールス州|ファールス]] # [[ホルモズガーン州|ホルモズガーン]] # [[スィースターン・バルーチェスターン州|スィースターン・バルーチェスターン]] # [[ケルマーン州|ケルマーン]] # [[ヤズド州|ヤズド]] # [[エスファハーン州|エスファハーン]] # [[セムナーン州|セムナーン]] # [[マーザンダラーン州|マーザンダラーン]] # [[ゴレスターン州|ゴレスターン]] # [[北ホラーサーン州|北ホラーサーン]] # [[ラザヴィー・ホラーサーン州|ラザヴィー・ホラーサーン]] # [[南ホラーサーン州|南ホラーサーン]] # [[アルボルズ州|アルボルズ]] {{Colend}} === 主要都市 === {{main|イランの都市の一覧}} イランの人口上位5都市は以下の通り(都市圏の人口ではない)。 <gallery> ファイル:Shahyad.jpg|'''[[テヘラン]]''': 7,160,094人(2006年) ファイル:RezaShrine.jpg|'''[[マシュハド]]''': 2,837,734人(2006年) ファイル:Naghsh-e-jahan masjed-e-shah esfahan.jpg|'''[[エスファハーン]]''': 1,573,378人(2006年) ファイル:Behnam's House, Sahand University of Technology, Tabriz, Azerbaijan, Iran, 08-19-2006.jpg|'''[[タブリーズ]]''': 1,460,961人(2006年) ファイル:Baghe Eram Shiraz.jpg|'''[[シーラーズ]]''': 1,279,140人(2006年) </gallery> == 地理 == {{main|{{仮リンク|イランの地理|en|Geography of Iran|preserve=1}}}} [[ファイル:Map iran biotopes simplified-fr.png|thumb|220x220px|イランの植生図。北部[[カスピ海]]沿岸の濃緑色の部分が[[森林]]地帯である他は、大部分が黄緑色の半ステップ半森林地帯、茶色のステップ地帯、砂色の砂漠地帯となっている。|代替文=]] イランは北西に[[アゼルバイジャン]](国境線の長さは432 km。以下同様)、[[アルメニア]] (35&nbsp;km) と国境を接する。北には[[カスピ海]]に臨み、北東には[[トルクメニスタン]] (992&nbsp;km) がある。東には[[パキスタン]] (909&nbsp;km) と[[アフガニスタン]] (936&nbsp;km)、西には[[トルコ]] (499&nbsp;km) とイラク (1,458&nbsp;km) と接し、南には[[ペルシア湾]]と[[オマーン湾]]が広がる。面積は1,648,000&nbsp;km<sup>2</sup>で、うち陸地面積が1,636,000&nbsp;km<sup>2</sup>、水面積が12,000&nbsp;km<sup>2</sup>であり、ほぼ[[アラスカ]]の面積に相当する。 イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が[[盆地]]や[[台地]]を互いに切り離している。イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちで[[ザグロス山脈|ザーグロス山脈]]やイランの最高峰[[ダマーヴァンド山]] (標高: 5,604 m) を含む[[アルボルズ山脈]]がある。一方、イランの東半は塩分を含む[[カヴィール砂漠|キャビール砂漠]]、[[ルート砂漠]]のような無人に近い砂漠地帯が広がり、[[塩湖]]が点在する。 平野部はごくわずかで、大きなものはカスピ海沿岸平野とアルヴァンド川([[シャットゥルアラブ川]])河口部にあたるペルシア湾北端の平野だけである。その他小規模な平野部はペルシア湾、[[ホルムズ海峡]]、オマーン湾の沿岸部に点在する。イランは、いわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か国のうちの1つと考えられている。 <gallery widths="150px" heights="120px"> Damavand in winter.jpg|イラン最高峰、[[ダマーヴァンド山]] (標高: 5604 m) Ghaleye Rud Khan (40) 4.jpg|イラン北部、カスピ海沿岸の[[ギーラーン州]]の[[森林]]。 Maranjab dunes in the Kavir Desert.jpg|イラン東部、[[カヴィール砂漠]]の風景。 Sand castles - Dasht-e Lut desert - Kerman.JPG|イラン南東部、[[ケルマーン州]]の[[ルート砂漠]]の風景。 </gallery> === 気候 === 全般的には[[大陸性気候]]で標高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季は[[ペルシャ湾]]沿岸部や[[オマーン湾]]沿岸部を除くとほぼ全域で寒さが厳しい。国土の大部分が[[砂漠気候]]あるいは[[ステップ気候]]であるが、[[ラシュト]]に代表されるイラン北端部(カスピ海沿岸平野)は[[温暖湿潤気候]]に属し、冬季の気温は0℃前後まで下がるが、年間を通じて湿潤な気候であり、夏も29℃を上回ることは稀である。年間降水量は同平野東部で680 mm、西部で1700 mm以上となる。[[テヘラン]]などの内陸高地はステップ気候から砂漠気候に属し、冬季は寒く、最低気温は氷点下10度前後まで下がることもあり降雪もある。一方、夏季は乾燥していて暑く日中の気温は40度近くになる。[[ハマダーン]]、[[アルダビール]]や[[タブリーズ]]などのあるイラン西部の高地は、[[ステップ気候]]から[[亜寒帯]]に属し、冬は非常に寒さが厳しく、山岳地帯では豪雪となり厳しい季節となる。特に標高1,850 mに位置する[[ハマダーン]]では最低気温が-30度に達することもある。イラン東部の中央盆地は乾燥しており、年間降水量は200 mmに満たず、砂漠が広がる砂漠気候となる。特に[[パキスタン]]に近い南東部砂漠地帯の夏の平均気温は38℃にも達する酷暑地帯となる。[[ペルシア湾]]、[[オマーン湾]]沿岸のイラン南部では、冬は穏やかで、夏には温度・湿度ともに非常に高くなり平均気温は35℃前後と酷暑となる。年間降水量は135 mmから355 mmほどである。 {|class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:right; white-space:nowrap" |+ イラン各地の平年値(統計期間:1961年 - 1990年、出典:[http://www.climate-charts.com/Countries/Iran.html Climate-Charts.com]) !rowspan="2" colspan="2" | 平年値<br />(月単位) !colspan="4"|北西部 !colspan="4"|西部 !colspan="3"|北部 |- !style="width:4em;"|[[タブリーズ]] !style="width:4em;"|[[オルーミーイェ]] !style="width:4em;"|[[アルダビール]]<br />(Nowjeh Deh) !style="width:4em;"|[[ザンジャーン]] !style="width:4em;"|[[ハマダーン]] !style="width:4em;"|[[アラーク]] !style="width:4em;"|[[ケルマーンシャー]] !style="width:4em;"|[[ホッラマーバード]] !style="width:4em;"|[[ラシュト]] !style="width:4em;"|[[テヘラン]] !style="width:4em;"|[[セムナーン]] |- ! colspan="2"|[[ケッペンの気候区分|気候区分]] | [[ステップ気候|BSk]] || BSk | BSk|| BSk | [[高地地中海性気候|Dsa]] || Dsa | Dsa || [[地中海性気候|Csa]] | [[温暖湿潤気候|Cfa]] || BSk | BSk |- !rowspan="2"|平均<br />気温<br />(&#8451;) !最暖月 | 26.0<br />(7月) || 23.8<br />(7月) | 25.3<br />(7月) || 25.2<br />(7月) | 25.3<br />(7月) || 27.5<br />(7月) | 28.2<br />(7月) || 30.8<br />(7月) | 26.2<br />(7月) || 30.8<br />(7月) | 32.2<br />(7月) |- !最寒月 | style="background:#0cf"|-3.2<br />(1月) || style="background:#0cf"|-3.3<br />(1月) | style="background:#09f"|-4.6<br />(1月) || style="background:#0cf"|-3.0<br />(1月) | style="background:#09f"|-4.6<br />(1月) || -1.3<br />(1月) | 0.6<br />(1月) || 5.0<br />(1月) | 6.7<br />(1月) || 2.5<br />(1月) | 3.6<br />(1月) |- !rowspan="2"|[[降水量]]<br />(mm) !最多月 | 53.6<br />(4月) || 58.<br />(4月) | 49.8<br />(4月) || 56.5<br />(4月) | 49.8<br />(4月) || 54.7<br />(1月) | 88.9<br />(3月) || 86.0<br />(1月) | 230.2<br />(9月) || 37.4<br />(3月) | 22.7<br />(3月) |- !最少月 | 3.2<br />(7月) || 2.6<br />(8月) | 0.8<br />(9月) || 3.4<br />(7月) | 0.8<br />(9月) || 0.6<br />(7月) | 0.3<br />(7,8月) || 0.1<br />(7月) | 38.7<br />(6月) || 0.9<br />(9月) | 1.4<br />(9月) |- !rowspan="2" colspan="2" | 平年値<br />(月単位) !colspan="3"|中部 !colspan="4"|南部 !colspan="2"|東部 |- !|[[ヤズド]] !|[[エスファハーン]] ![[シーラーズ]] !|[[アーバーダーン]] ![[ザーヘダーン]] ![[ケルマーン]] ![[バンダレ・アッバース]] ![[ビールジャンド]] ![[マシュハド]] |- ! colspan="2"|[[ケッペンの気候区分|気候区分]] | [[砂漠気候|BWk]] || BSk | BSk || BWh | BWh || BWk | BWh || BWk | BSk |- !rowspan="2"|平均<br />気温<br />(&#8451;) !最暖月 | 32.4<br />(7月) || 29.4<br />(7月) | 29.8<br />(7月) || 36.8<br />(7月) | 29.3<br />(7月) || 28.9<br />(7月) | 34.4<br />(7月) || 28.8<br />(7月) | 26.7<br />(7月) |- !最寒月 | 5.1<br />(1月) || 2.7<br />(1月) | 5.3<br />(1月) || 12.3<br />(1月) | 6.4<br />(1月) || 4.4<br />(1月) | 18.1<br />(1月) || 4.0<br />(1月) | 1.7<br />(1月) |- !rowspan="2"|[[降水量]]<br />(mm) !最多月 | 12.9<br />(3月) || 19.6<br />(9月) | 79.8<br />(1月) || 34.8<br />(1月) | 21.1<br />(2月) || 32.0<br />(3月) | 47.5<br />(2月) || 35.1<br />(3月) | 52.0<br />(1月) |- !最少月 | 0.0<br />(8月) || 0.0<br />(9月) | 0.0<br />(9月) || 10.0<br />(6,7,8月) | 0.2<br />(9月) || 0.3<br />(9月) | 0.0<br />(6月) || 0.0<br />(9月) | 0.7<br />(8月) |} * 最寒月-3度未満(=[[亜寒帯]](D)の条件)・・・薄水色、水色 == 経済 == {{Main|イランの経済|{{仮リンク|イランの産業|en|Industry of Iran}}}} [[ファイル:Irannight.jpg|thumb|220px|夜間のイランを捉えた衛星写真([[2010年]])。]] [[ファイル:Elahiyeh.jpg|thumb|220px|首都[[テヘラン]]の[[エラーヒーイェ地区]]。[[アルボルズ山脈|アルボルズ]]の山々を背景に近代的高層建築がそびえ立つ。]] イランの経済は中央統制の[[国営イラン石油会社]]や[[国有企業|国有大企業]]と、農村部の[[農業]]および小規模な[[商業]]、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる[[混合経済]]である。政府は以前から引き続いて[[市場化]]改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を[[自動車産業]]、[[航空宇宙産業]]、家電製造業、[[石油化学工業]]、[[核技術]]など他の部門に振り分け[[投資]]している。[[チャーバハール]]自由貿易地域、[[キーシュ島]]自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め、数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。現代イランの[[中産階級]]の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが、一方で高[[インフレーション|インフレ]]、高[[失業率]]が問題である。インフレ率は2007年度の平均で18.4%、2008年4月(イラン暦)には24.2%にまで達している。 イラン・イスラム革命は富の再分配も理念の一つとしていたが、実際には貧富の格差は大きい。縁故主義により経済的に成功したり、海外への留学を楽しんだりする高位聖職者や政府・軍高官の一族は「アガザデ」(高貴な生まれ)と呼ばれている<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201902/CK2019021102000127.html 「イラン革命40年/消えた理念 民衆失望/特権階級に矛先◆反米強硬派台頭」]『東京新聞 』2019年2月11日(国際面)2019年3月2日閲覧。</ref>。 [[財政赤字]]は慢性的問題で、これは食品、[[ガソリン]]などを中心とする年総計約72億5000万ドルにものぼる莫大な政府[[補助金]]が原因の一つとなっている。これに対して[[アフマディーネジャード]]政権は、2010年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている<ref>{{cite news|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LDP9F70D9L3501.html|title=イラン、政府補助金を段階的に削減-ガソリンや食料品が値上がり|publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2010-12-19|accessdate=2013-02-18}}</ref>。 イランは[[石油輸出国機構|OPEC]]第2位の[[石油生産国]]で、2016年時点の生産量は200万バレル/日である。確認されている世界[[石油埋蔵量]]の10%を占める。また[[天然ガス]]埋蔵量でも[[ロシア]]に続き世界第2位である。原油の輸出は貴重な外貨獲得手段であるとともに[[1996年]]の非常に堅調な[[原油価格]]は、イランの[[財政赤字]]を補完し、[[債務元利未払金]]の償還に充てられた。 [[農業]]については国家投資、[[生産自由化]]による活発化が目指され、外国に対する売り込み、[[マーケティング]]などで輸出市場を開発し、全般的に改善された。[[ナツメヤシ]]・[[ピスタチオ]]・[[花卉]]など輸出用農業生産物の拡大、大規模[[灌漑]]計画により1990年代のイラン農業は、経済諸部門の中でも最も早い成長のあった分野である。一連の[[旱魃]]による踏み足局面もあるが、農業はいまだにイランで最大の[[雇用]]を持つ部門である。 イランは[[バイオテクノロジー]]と[[医薬品]]製造などにも力を入れている。主要貿易国は[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[日本]]、[[イタリア]]、[[スペイン]]、[[ロシア]]、[[大韓民国|韓国]]、[[中華人民共和国|中国]]などである。1990年代後半からは[[シリア]]、[[インド]]、[[キューバ]]、[[ベネズエラ]]、[[南アフリカ共和国]]など[[開発途上国|発展途上国]]との経済協力も進めている。また域内でも[[トルコ]]と[[パキスタン]]との通商を拡大させており、[[西アジア]]・[[中央アジア]]の[[市場統合]]のビジョンを共有している。 === 観光 === {{main|{{仮リンク|イランの観光|en|Tourism in Iran}}}} 2019年現在イランを訪れる海外からの観光客は800万人から900万人。イランの観光は多様で、アルボルズ山脈とザグロス山脈でのハイキングやスキー、ペルシャ湾やカスピ海のビーチでの保養など、様々なアクティビティがある。イラン政府は国内の様々な観光地への観光客誘致に力を入れており、近年観光客数は増加している。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|イランの交通|en|Transport in Iran}}}} === 航空 === {{main|{{仮リンク|イランの航空会社|en|List of airlines of Iran}}|イランの空港の一覧}} 国際線の拠点空港として[[テヘラン]]に[[エマーム・ホメイニー国際空港]]が存在している。 [[フラッグキャリア]]である[[イラン航空]]が国内路線および国際路線を運行している。 また、[[アーリヤー航空]] [[イラン・アーセマーン航空]] [[サーハー航空]]も運行している。 === 鉄道 === {{main|[[イランの鉄道]]}} 国有鉄道である[[イラン・イスラーム共和国鉄道]]が全土を結んでいる。 主要都市では地下鉄として *[[テヘラン・メトロ]] *[[マシュハド都市鉄道]] *[[イスファハーン・メトロ]] *[[シーラーズ・メトロ]] *[[タブリーズ・メトロ]] *[[アフヴァーズ・メトロ]] が設置されている。 === 道路 === {{main|{{仮リンク|イランの道路|en|List of roads and highways in Iran}}}} 以下の[[アジアハイウェイ]] 9路線が全土を通っている。 * [[アジアハイウェイ1号線]] * [[アジアハイウェイ2号線]] * [[アジアハイウェイ8号線]] * [[アジアハイウェイ70号線]] * [[アジアハイウェイ71号線]] * [[アジアハイウェイ75号線]] * [[アジアハイウェイ78号線]] * [[アジアハイウェイ81号線]] * [[アジアハイウェイ82号線]] また、首都テヘラン近郊では[[高速道路]]も建設されている。 == 科学技術 == [[ファイル:Omid 0665.jpg|180px|thumb|[[人工衛星]]『[[オミード]]』。</div> イランは、自国の[[打ち上げ機]]を使用して国産人工衛星を軌道に乗せた9番目の国であり、宇宙に動物を送り込んだ6番目の国である。]] {{main|{{仮リンク|イランの科学技術|en|Science and technology in Iran}}}} イランは紀元前の時代から学問や技術面で[[中華人民共和国|中国]]地域や[[インド]]地域、[[ギリシャ]]地域やローマ地域と深い関わりを持っている。特に、中世時代には「[[イスラム科学]]」とされるような科学的成果の中心地であり続けていた他、上述の東西地域の知識におけるパイプラインの役割を果たしてきた。 イラン革命により脱出する知識人もいたが、政権は科学技術研究に注力し<ref>{{Cite journal|author=調 麻佐志|year=2017|title=イラン・イスラム共和国の科学技術政策|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10337843_po_079506.pdf?contentNo=1|journal=レファレンス|volume=795|pages=121-144}}</ref>、1996年から2004年にかけて発表論文数を約10倍に増加させ、その期間における増加率は世界一であった<ref>{{Cite web |url=http://en.allexperts.com/q/Economics-2301/economic.htm |title=Question what is your idea about iran economics? |access-date=2023-11-5 |publisher=Economics |archive-date=2008-4-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20120426170542/http://en.allexperts.com/q/Economics-2301/economic.htm}}</ref>。しかし、その後の[[イランに対する制裁|国際的制裁]]は、国際科学雑誌の購読や海外からの機器調達が厳しく制限されるなど、科学研究にも大きな障害をもたらし、停滞した。それでも、輸入することのできない機器の独自開発や、国内の業界を超えた協力などにより研究は続けられ、論文数でも被引用論文数でも世界15位以内に入っている<ref>{{Cite web |title=論文数は世界5位維持するも最注目論文数は過去最低の12位に 科学技術指標23年版 |url=https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20230818_n01/ |website=Science Portal |access-date=2023-11-05}}</ref>。その中でも、[[航空工学]]や[[材料工学]]、[[再生医学]]([[幹細胞]])の分野では、世界トップの[[科学技術]]力を有している<ref name=":3" />。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|イラン科学技術研究機構|en|Iranian Research Organization for Science and Technology}}|{{仮リンク|イラン科学技術大学|en|Iran University of Science and Technology}}|{{仮リンク|イラン国立科学財団|en|Iran National Science Foundation}}}} === 宇宙開発 === イランにおける宇宙計画は、その軍事的可能性に対する懸念から米国と欧州によって非難されている。 {{節スタブ}} {{See also|イラン宇宙機関}} == 国民・人口統計 == {{main|{{仮リンク|イランの人口統計|en|Demographics of Iran}}}} === 人口 === [[ファイル:Iran population.svg|thumb|イランの人口推移(1956年 - 2003年)|代替文=|300x300ピクセル]] イランの[[人口]]は20世紀後半に劇的に増加し、2006年には7000万人に達した。しかし多くの研究では21世紀への世紀転換点には、[[人口増加率]]の抑制に成功し、ほぼ[[人口補充水準]]に到達した後、2050年頃に約1億人で安定するまで人口増加率は徐々に低下してゆくものと考えられている。[[人口密度]]は1平方キロメートルにつき約40人である。イランは2005年時点、約100万人の外国[[難民]](主に[[アフガニスタン]]難民、ついで[[イラク]]難民)を受け入れており、世界で最も難民が多い国の一つである。政府の政策的および社会的要因により、イランは難民たちの本国帰還を目指している。逆に[[イラン革命|イラン・イスラーム革命]]後に[[イラン人のディアスポラ|海外に移住した人々]]([[:en:Iranian diaspora]])が[[北アメリカ]]([[イラン系アメリカ人]]、[[:en:Iranian American]]や[[イラン系カナダ人]]、[[:en:Iranian Canadian]])、[[西ヨーロッパ]]([[在イギリスイラン人]]、[[:en:Iranians in the United Kingdom]])、[[南アメリカ]]、[[日本]]([[在日イラン人]])などに約200万から300万人程度存在すると見積もられる。 === 民族・分布 === {{main|{{仮リンク|イランの民族|en|Ethnicities in Iran}}}} {{bar box |title=民族構成(イラン) |titlebar=#ddd |width= 300px |float=right |bars= {{bar percent|[[ペルシア人]]|yellowgreen|51}} {{bar percent|[[アゼルバイジャン人|アゼリー人]]|Purple|25}} {{bar percent|[[クルド人]]|green|7}} {{bar percent|その他|Brown|17}} }} イランの[[民族]]はその使用[[言語]]と密接な関係にあり、次いで[[宗教]]が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。イランの[[公用語]]は[[インド・ヨーロッパ語族]][[イラン語群]]の[[ペルシア語]]で人口の約半数はこれを母語とするが、[[チュルク諸語|チュルク系]]の[[アゼルバイジャン語]]を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外の[[イラン語群]]の諸語やその他の言語を話す人びともいる。先述のように、それぞれの[[民族]]の定義や範囲、あるいはその[[人口]]や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住む[[エスニック・グループ]]は主に次のようなものである。 [[画像:Persian Language Location Map.svg|サムネイル|270px|ペルシア語話者(ペルシア人)の分布図]] [[ファイル:Caucasus-ethnic ja.svg|thumb|300px|right|アゼルバイジャン人(水色)とアルメニア人(黄緑色)の分布。アゼルバイジャン人は、ナゴルノ・カラバフの南にあるイラン北西部側に居住していることがわかる]] [[ファイル:Major ethnic groups of Pakistan in 1980.jpg|thumb|300px|バローチ人の住む地域こと、バルーチスタン(桃色)。]] [[ペルシア人]](ペルシア語を語る人々: 51%)、[[アゼルバイジャン人]](アゼルバイジャン語を語る人々: 25%)、{{仮リンク|ギラキ人|en|Gilaki people|label=ギーラキー}}および{{仮リンク|マーザンダラーン族|en|Mazanderani people|label=マーザンダラーニー}}([[ギーラキー語]]、[[マーザンダラーニー語]]を語る人々: 8%)、[[クルド人]] (7%)、[[アラブ人]] (4%)、[[バローチ人|バローチ]] (2%)、[[ロル族|ロル]] (2%)、[[トルクメン]] (2%)、[[ガシュガーイー族|ガシュガーイー]]、[[アルメニア人]]、[[グルジア人]]、[[ユダヤ人]]、[[アッシリア人]]、[[タリシュ人]]、{{仮リンク|タート人 (イラン)|en|Tat people (Iran)|label=タート人}}、その他 (1%) である。しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。 [[国際連合]]の統計によると、イランにおける[[識字率]]は79.1%であり、女性の非識字率は27.4%に達する。 ==== イラン人 ==== イラン人とは、狭義にはイラン・イスラーム共和国の国民の呼称。歴史的には、[[中央アジア]]を含むペルシア語文化圏に居住し、イラン人とみなされている人々。1935年にイランが正式な国名であると宣言されるまでは、ギリシア語に由来するペルシア人の名称でよばれていた。 '''狭義''' イラン国民を構成するのは、多様な言語的・民族的・宗教的アイデンティティを持つ人々である。イラン系言語集団には、中央高原部に住み、ペルシア語あるいはその方言を母語とし、[[シーア派]]信徒である中核的イラン人(通常イラン人という時のイラン人)、[[クルド人]]、[[ロル族]]ならびに[[バフティヤーリー語|バフティヤーリー族]]、[[バルーチスターン|バルーチ人]]などである。テュルク系言語集団には、大集団のアゼリー([[アゼルバイジャン人]]、一般には自他称ともトルコ人)、トルキャマーン([[トルクメン人]])、遊牧民のカシュカーイー、シャーサヴァン、アフシャールなど。南部のイラク国境には[[アラビア語]]の話者集団がいる。宗教面では、国教の十二イマーム派の他に、スンナ派にはクルド人(シーア派信徒もいる)、バルーチ人、トルクメン人など、キリスト教徒(アルメニア人、東[[アラム語]]を母語とする[[アッシリア人]]など)、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が存在する。 '''広義''' ホラズム生まれの[[ビールーニー]]、ブハラ生まれの[[ムハンマド・アル=ブハーリー|ブハーリー]]、その近郊生まれの[[イブン・スィーナー]]、また、トゥース生まれのアブー・ハーミド・[[ガザーリー]]は、もっぱらアラビア語で著述しているが、中央アジアを含むペルシア語文化圏生まれであるために、狭義のイラン人からは、イラン人であるとみなされている。その他、イラン・イスラーム革命後増大したイラン系アメリカ人([[カリフォルニア州]]に約半数が集中し、[[ロサンゼルス]]は「[[テヘランゼルス]]」と俗称されることもある。二重国籍を所有する者も多い)、[[バーレーン]]や[[ドバイ]]に数世代連続して居住する、ペルシア語方言を母語とする[[ファールス州]]南部出身者などもここに含めることができる<ref>{{Cite journal|author=上岡弘二|year=2002|title=イラン人|journal=岩波イスラーム辞典|volume=|page=175}}</ref>。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|イランの言語|en|Languages of Iran}}}} 主要な言語は、[[ペルシア語]]、[[アゼルバイジャン語]]([[南アゼルバイジャン語]])、[[クルド語]]([[ソラニー]]、[[クルマンジー]]、[[南部クルド語]]、[[ラーク語]])、[[ロル語]](北ロル語、[[バフティヤーリー語]]、南ロル語)、[[ギラキ語]]、[[マーザンダラーン語]]、[[バローチー語]]、[[アラビア語]]([[アラビア語イラク方言]]、[[アラビア語湾岸方言]])、[[トルクメン語]]、[[ドマーリー語]](または、[[ドマリ語]])、[[ガシュガーイー語]]、[[タリシュ語]]である。 イランにおけるイラン系言語の分布状況は以下の通り<ref>{{Cite journal|author=吉枝聡子|year=1999|title=言語事情:ペルシア語わかりません|journal=アジア読本:イラン|volume=|page=84}}</ref>。 '''1. 北部及びカスピ海沿岸部''' 1)タート語 2)ターレシュ語 3)カスピ海方言 西方に[[ギラキ語]](ペルシア語でギーラキー)、東方に[[マーザンダラーン語]]の二大方言がある。 4)セムナーン語及びサンゲサル語 5)[[クルド語]] トルコ国境からイラク国境一帯にかけての、コルデスターン(ペルシア語で「クルド(人)の地」)地方を中心に居住する、クルド人の母語。クルド人の居住域は、イラン・イラク・トルコ・シリアの4国に分断されている。クルド語全体の話者人口は、統計のとり方によって数百万から千百万の間を上下する。 6)グーラーニー語 7)ザーザー語 '''2.中央部''' 8)タフレシュ方言(ハマダーンからサーヴェにかけて) 9)北西方言(ゴムからエスファハーンにかけて分布) 10)北東方言(カーシャーン及びナタンズ方言) 11)南西方言([[エスファハーン]]周辺) 12)南東方言([[ヤズド]]、[[ケルマーン州|ケルマーン]]、ナーイーン周辺) ギャブリー語(あるいはヤズド語、ケルマーン語)と呼ばれ、ヤズドからケルマーン周辺地域に在住するゾロアスター教徒が使用する言語を含む。ギャブリーは「異教徒の(言語)」という意味で、イスラーム教徒から区別する他称である。話者は自分たちの言語をダリー語と呼んでいる。 13)キャヴィール方言 キャヴィール方言で話される方言の総称である。フール語など。 '''3. 南西部''' 14)ファールス方言群 カーゼルーン周辺や[[シーラーズ]]の北西地域など、ファールス地方で使用される方言の総称。 15)[[ロル語]] [[ファールス州]]から[[フーゼスターン州]]、[[エスファハーン]]の西方の広大な地域で話される、ロル系遊牧民の言語。[[バフティヤーリー語]]はこの下位方言に属している。 16)スィーヴァンド語 シーラーズの北方スィーヴァンドで話される言語。南西イランに位置しながら、言語学的には北西言語に属し、[[言語島]]を成している。 17)ラーレスターン語 '''4. 南東部''' 18)[[バローチー語|バルーチー語]] パキスタン、アフガニスタン南西部、イランに及ぶ広範囲で使用される。音韻面では最も保守的な言語の一つである。 19)バーシュキャルド語(あるいはバシャーケルド語) === 婚姻 === 通常、婚姻時に改姓することはない([[夫婦別姓]])が、夫の姓を後ろに加える女性もいる<ref name="guide2006">[https://www.fbiic.gov/public/2008/nov/Naming_practice_guide_UK_2006.pdf A Guide to Name and Naming Practices], March 2006.</ref>。 === 宗教 === {{main|[[イランの宗教]]}} {{bar box |title=宗教構成(イラン) |titlebar=#ddd |width= 300px |float=right |bars= {{bar percent|[[イスラム教]]([[シーア派]])|yellowgreen|90}} {{bar percent|[[イスラム教]]([[スンナ派]])|green|9}} {{bar percent|その他|red|1}} }} 大部分のイラン人は[[ムスリム]]であり、その90%が[[シーア派]][[十二イマーム派]]([[国教]])、9%が[[スンナ派]](多くが[[トルクメン人]]、[[クルド人]]と[[アラブ人]])である(詳細は[[イスラーム (イラン)|イランのイスラーム]]を参照)。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものに[[バハイ教]]、[[ゾロアスター教]]([[サーサーン朝]]時代の国教)、[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]諸派などがある。 このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され{{efn2|具体的には、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、アッシリア・カルデア教会、北部[[アルメニア使徒教会]]、南部アルメニア使徒教会にそれぞれ1つずつ。ただし通常の選挙に非ムスリムが出馬することは禁止されている<ref>[http://www.fidh.org/IMG/pdf/ir0108a.pdf discrimination against religious minorities in IRAN]</ref>。}}、公式に「保護」されているなどかつての「[[ズィンミー]]」に相当する。これら三宗教の信者は極端な迫害{{要出典|date=2009年11月}}を受けることはないが、ヘイトスピーチや様々な社会的差別などを受けることもある。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれた者がそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる。 {{See also|ペルシャ神話}} 一方、バハイ教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史がある。バハイ教は19世紀半ば十二イマーム派[[シャイヒー派]]を背景に出現した[[バーブ教]]の系譜を継ぐもので、1979年の革命後には処刑や高等教育を受ける権利を否定されるなど厳しく迫害{{要出典|date=2009年11月}}されている(これについては[[迫害 (バハイ教)|バハイ教の迫害]]および[[宗教的マイノリティー (イラン)|イランの宗教的マイノリティー]]、[[イランにおける宗教的迫害]]を参照)。ホメイニー自身もたびたび、バハイ教を「邪教」と断じて禁教令を擁護していた。歴史的には[[マニ (預言者)|マニ]]による[[マニ教]]もイラン起源とも言える。また[[マズダク教]]は弾圧されて姿を消した。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|イランの教育|en|Education in Iran}}|{{仮リンク|イランの高等教育|en|Higher education in Iran}}}} 2002年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は77%(男性83.5%/女性70.4%)であり<ref name="2010cia">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ir.html "Iran"] 2010年2月1日閲覧。</ref>、[[世界銀行|世銀]]発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっている<ref>{{cite web|url=http://data.worldbank.org/indicator/SE.ADT.LITR.ZS|title=Literacy rate, adult total (% of people ages 15 and above)|publisher=The World Bank|accessdate=2013-02-18}}</ref>。2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された<ref name="2010cia" />。 主な高等教育機関としては、[[テヘラン大学]] (1934)、[[アミール・キャビール工科大学]] (1958)、[[アルザフラー大学]] (1964)、[[イスラーム自由大学]] (1982)、[[シャリーフ工科大学]]などの名が挙げられる。 ==== 教育制度 ==== イランの教育制度は次の四段階に分けられる<ref name=":0">{{Cite journal|author=上岡弘二|year=1999|title=テントから受験戦争へ:教育制度|journal=アジア読本:イラン|volume=|page=|pages=224-226}}</ref>。 '''1. 初等教育(دبستان; 小学校)''' 学年暦の始め、メフル月一日に満6歳になっていれば入学できる。5年間の義務教育である。昔は小学児童の数が多すぎて、二部制、時には三部制の授業が行われたこともある。 遊牧民のいる地域では、時々普通の黒テントではなく、白い丸型のテントが目につく。これは季節によって移動するテント学校である。 '''2. 進路指導教育(راهنمایی; 中学校)''' ペルシア語の名称が指すように、進路指導期間である。11歳よりの3年間である。この3年間の学習の結果に基づき、次への進学段階で、理論教育と工学・技術・職業のどちらかのコースに分けられる。 '''3. 中等教育(دبیرستان; 高等学校)''' 4年間。1992年より新制度が導入された。理論教育課程では、第一年度は人文科学科と実験・数学科とに分かれ、第二年次以降は前者はさらに (a)文化・文学専攻と (b)社会・経済専攻に、また、後者は (c)数学・物理専攻と (d)実験科学専攻に分かれる。この3年を修了した後に、4年目は大学進学準備過程(پیش دانشگاهی)に在籍する。一方、大学に進学しない技術・職業家庭では、工学・技術・農業の三専攻に分かれる。修了すると卒業証書(دیپلم)が与えられる。 '''4. 大学(دانشگاه; 単科大学はدانشکده)''' 全国共通試験(کنکور)を受けて、進学先・専攻が決まる。年に一度しか試験がないので、ある意味で、日本以上のきつい受験戦争がある。このため予備校が繁盛している。受からなければ、男子は兵役に就く。イラン・イラク戦争の殉教者が家族にいる場合は、優先的に入学が許可されている。ちなみに、私学・イスラーム自由大学と次に述べるパヤーメ・ヌールを除き、授業料は無料である。 '''それ以外の教育機関''' (1) パヤーメ・ヌール(光のメッセージという意味)は、通信教育大学で、イラン各地に140のセンターを持っている。学生数は約20万人であり、授業料は私学・イスラーム自由大学より安い。センターによっては、女学生が8割に達するところがある。外国在住の学生は、60名前後、なかには日本人もいる。 (2) 私学・イスラーム自由大学(دانشگاه آزاده اسلامی)は、革命後に各地で開設され、イランの教育程度を上げるのに貢献している。また、出講すると高額の手当がもらえるので、他大学の教官にも人気がある。国立と異なり、ここは私学であるため授業料を取る。国立に受からなかった学生が進学することが多い。 (3) 大学を除く学校の総称はアラビア語起源のマドラセ(مدرسه)である。外国語学校、コンピュータ学校などの各種学校に当たるものはモアッセセ(مؤسسه)という。 そのほかに幼稚園(کودکستان)、障がい児と英才のための特別教育制度、中等教育を終えた人が2年間学ぶ教員養成講座、成人のための識字教育制度などがある。 ==== 教育スタイル ==== イランというより、中東教育全域の教育の特徴は、大学教育も含めて暗記教育である。「学ぶ・勉強する」は、درس خواندن、要するに、「声を出して教科書を読む」ことである。教科書に書いてあることをそのまま丸暗記する。これは大学生にも当てはまる。先生の講義を筆記し、それをそのまま一字一句暗記するのである<ref name=":0" />。 森田は、このようなイランの学校教育を「声の文化」が現れているとし、以下の三つの場面を根拠に挙げている<ref>{{Cite journal|author=森田豊子|year=2008|title=イランと日本の学校教育における教育方法の比較|journal=イラン研究|volume=4|page=|pages=223-226}}</ref>。 '''1. 小学校での授業方法''' 現在のイランの公立小学校で行われている授業方法は、三つの段階に分かれている。一つの段階は、「教える」(درس دادن)で、二つ目の段階は「読む」(درس خواندن)であり、三つ目の段階は「問う」(درس پرسیدن)である。まず、「教える」段階では、教師は児童を指名し教科書を声に出して読ませる。読んでいる途中で、難しい言葉の解説を行ったり、分かりにくい表現について内容をわかりやすく説明したりする。とにかく、この段階では教科書に何が書かれているのかについて理解する段階である。その段階が終わると、次は「読む」段階である。これは、授業中にすることではなく、帰宅後に児童たちがそれぞれ行わなければならないことである。家に帰った児童は、それぞれ教科書を暗記するときに、家族の誰か、特に母親に手伝ってもらうケースが多い。というのも、イランの場合、教科書の暗記というのは、教科書の内容を文字で書けることを意味していない。あくまでも教科書を口頭でいえるようになることが重要なのである。日本の宿題は文字を書くことが多いため、家族がそれを手伝う必要はほとんどない。しかし、イランの場合、宿題をする時に教科書を見ながらこどもがきちんとその内容を一字一句間違えずにいえるかどうかをチェックする人が必要になる。 第三段階の「問う」段階では、教科書の内容を暗記できているのかとか、教師がチェックするための問いである。教師は児童を指名し、教科書の内容について質問する。この質問の答えは、口頭で行われる。また、答える時、一つの単語を答えさせるようなことはない。教科書の2 - 3行から成る一部分全体を口頭で一字一句そのままに答える必要がある。イランでは、このような、口頭で教科書の内容を素早く言えること、それが小学校で育成される能力となっている。 '''2. 私立男子中学校で行われた科学発表会''' 研究発表を行うにあたって、発表内容を全て暗記し、一人一人の訪問者に対して口頭で説明を行うという方法がとられていた。もし、このような発表会が日本であった場合に第一に考えられる方法は発表内容を全て大きな紙に書き壁に貼ることであっただろう。イランにおいて、研究内容を紙に書いて壁に貼るという習慣がないわけではない。しかし、そういった研究発表はあくまで個人的に行われるものであり、学校全体やグループを形成して行われるものではない。研究発表はあくまでも口頭で行われるのが普通である。 '''3. イランにおける小学校一年生向けのペルシア語の教科書''' そこでは、文字教育よりも音声教育が優先していることがわかる。一年生の教科書の最初の数ページには、文字ではなく、絵だけが描かれている。最初の授業において教師はいきなりアルファベットの学習を始めることはない。授業の最初に教師は絵を見ながらペルシア語で絵に合わせた物語を語り、正しいペルシア語の発音の仕方などを教える。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|イランの保健|en|Health in Iran}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|イランの医療|en|Healthcare in Iran}}}} {{節スタブ}} == 治安 == {{Main|{{仮リンク|イランにおける犯罪|en|Crime in Iran}}}} イラク・アフガニスタン及びパキスタンとの国境地帯並びにシスタン・バルチスタン州の一部の地域を除き、治安状況は首都のテヘランを含めて概ね平穏に推移しているが、2020年1月3日アメリカによるイラン革命ガード高官の殺害を端緒とする米・イラン関係の緊張状態が続いており、不測の事態が発生する恐れを孕んでいる。 またイラン国内において犯罪件数等に関する統計は公表されていないが、各種報道に照らすと一般犯罪は慢性的に発生しているものと見られている。 {{節スタブ}} === 法執行機関 === {{仮リンク|イラン・イスラム共和国法執行司令部|label=国家法執行司令部|en|Law Enforcement Command of the Islamic Republic of Iran}}が主体となっている。 この組織はかつて存在していた{{仮リンク|イラン国家憲兵隊|en|Iranian Gendarmerie}}という[[警察]]組織を前身としている。 === 人権問題 === {{Main|イラン・イスラーム共和国における人権|イランにおける信教の自由|イランにおける同性愛者迫害}} 1979年のイラン・イスラム革命後、[[シャリーア]]に基づく[[政治体制]]が導入されたこともあり、[[同性愛者]]・非[[ムスリム]]の人権状況は大きく低下した。 [[イラン・イスラーム共和国憲法|憲法]]では公式に[[シーア派]][[イスラム教|イスラム]]の[[十二イマーム派]]を[[国教]]としており、他のイスラムの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、[[ゾロアスター教|ゾロアスター教徒]]、[[キリスト教徒]]、[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラムの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による[[差別]]は容認されている。[[バハイ教]]徒や[[無神論]]者・[[不可知論]]者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は[[死刑]]もありうる。また非ムスリム[[男性]]が[[ムスリム]]女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「[[鞭打ち]]百回」であるなど、[[刑法]]にも差別規定が存在する。イスラムからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年には[[強姦|レイプ]]被害を受けた16歳の少女が死刑([[絞首刑]])に処された。なお[[加害者]]は鞭打ちの刑で済んだ。 [[女性]]に対しては[[ヒジャーブ]]が強制されており、行動・[[性行為]]・[[恋愛]]などの[[自由]]も著しく制限されており、[[道徳警察]]による服装の取締りが行われている<ref group="注">[[白色革命]]時には着用することが禁止された為、抗議として着用する女性達が増えた</ref>。イラン革命前では欧米風の装束が男女ともに着用されていたが、現在では見られない。同性愛者に対しては共和国憲法で正式に「[[ソドミー]]罪」を設けており、発覚した場合は死刑である。 {{See also|{{仮リンク|イランの女性|en|Women in Iran}}}} またイランの刑罰においてもシャリーアに基づく[[ハッド刑]]の中には、[[人体切断]]や[[石打ち]]など残虐な刑罰が含まれており、さらに[[未成年者]]への死刑も行われている。 イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の[[議会]]・[[政府]]、[[国際機関]]、[[NGO]]や隣国の[[イラク]]国民からも[[人権侵害]]を指摘され、人権侵害の解消を求められている。 しかし、近年ではイラン人男性がヒジャブを着用し始める動きが表れ出している。これは、イランの活動家であるマシュー・アリネジャード(Masih Alinejad)が「女性に対するヒジャーブ強制を傍観している訳にはいかない」とし、「イラン国内における疑わしい状況に注意を向けよう」という趣旨の元でユーモアを交える形でアクションを起こしているものだとして報道されている<ref>{{Cite news|url=https://globalnews.ca/news/2854965/heres-why-iranian-men-are-taking-photos-wearing-hijabs/|title=Here’s why Iranian men are taking photos wearing hijabs|newspaper=GLOBAL NEWS|date=2016-07-28|accessdate=2022-12-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sbs.com.au/news/article/why-iranian-men-are-wearing-hijabs/dolltfvxy|title=Why Iranian men are wearing hijabs|newspaper=SBS News|date=2016-08-01|accessdate=2022-12-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.weforum.org/agenda/2016/08/here-s-why-men-in-iran-are-wearing-hijabs/|title=Here’s why men in Iran are wearing hijabs|newspaper=World Economic Forum|date=2016-08-04|accessdate=2022-12-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://theculturetrip.com/middle-east/iran/articles/iranian-men-are-wearing-hijab-and-heres-why/|title=Iranian Men Are Wearing Hijab And Here's Why|newspaper=Culture Trip|date=2017-02-09|accessdate=2022-12-28}}</ref>。 == マスコミ == {{Main|イランのメディア}} === 新聞 === イランで最初に出た新聞は、[[:en:Mirza_Saleh_Shirazi|Mirza Saleh Shirazi]]を編集長とする、[[:en:Akhtar_(magazine)|アフタル]]紙である。これは1833年に創刊された。1851年には官報としてVagha-ye Ettafaghiheh(臨時報という意味)が出ていることから、イランの新聞の歴史は古いことがわかる。1906年に憲法が発布され、民間新聞紙の発行もようやく多くなったが、そのなかで有力なものは、Soor-e Israfili, Iran-e Now, Islah, Barq, Watanなどでイラン社会の改革に大きく寄与した。だが言論の自由はなお強く抑圧されていたため、多くの新聞は海外で発行されていた。例えばHikmat(エジプト)・Qanun(ロンドン)・Hablul-Matin(カルカッタ)・Sorayya(エジプト)・Murra Nasruddin(チフリス)・Irshad(バクー)などである。 第二次世界大戦中の1941年に[[イラン進駐|連合国軍隊がイランに進駐]]、新聞の自由が大いに強調されたが、[[モハンマド・モサッデク|モサッデグ]]首相が失脚した1953年から、再び新聞への統制が強化された。1955年に成立した新聞法によれば、新聞雑誌の発行には内務省の許可を得なければならない。発行者は30歳以上のイラン人で、少なくとも3ヶ月以上続刊できるだけの資力を持っていなければならない。官公吏は芸術、文芸に関するもののほか、新聞雑誌を刊行することはできない。許可期間は6ヶ月で、各新聞は6ヶ月ごとに許可を更新する必要がある。反乱、放火、殺人を先導したり、軍事機密をもらしたりした場合のほか、反イスラーム的な記事を載せたり、王室を侮辱する記事を掲載した場合は、それぞれ6ヶ月以上2年以下の禁固刑に処せられる。また、宗教・民族の少数者を差別した記事を載せた場合の罰則もある。さらに厚生省が医薬の広告を厳重に監視している点も、イランの特色である<ref>{{Cite book|author=アジア経済研究所|title=アジア・アフリカの新聞|date=|year=1964|accessdate=|publisher=アジア経済研究所|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 通信社は1937年に外務省が設立したパールス通信があり、現在も政府管轄下にある<ref>{{Cite web|url=http://parstoday.com/ja|title=ParsToday|accessdate=2018/9/4|publisher=}}</ref>。 新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『[[ハムシャフリー]]』であり、『[[イーラーン]]』、『[[ジャーメ・ジャム]]』、『[[アフバール]]』などが続き、夕刊紙で有力なのは『[[ケイハーン]]』、『[[エッテラーアート]]』などである。 [[:en:Ettela'at|エッテラーアート]] イランではメジャーな新聞。刊行されている新聞のなかで最も歴史が古い。1871年創刊。エッテラーアートとは、ニュースの意味である。 このエッテラーアートの英語版としてみなされているのが、1935年に創刊の『The Tehran Jounal』である。 [[:en:Kayhan|ケイハーン]] ケイハーンは大空または世界の意で、世界報ということろである。1943年に創刊された。エッテラーアートよりは野党よりの傾向がある。 その他にもテヘラン市役所で出版されているハムシャフリー、テヘランに本拠を置く英字新聞『テヘラン・タイムズ』等がある。 === ラジオ === イランにおけるラジオの導入は1940年に設立された[[テヘラン・ラジオ]]に遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送の[[イラン・イスラム共和国放送]] (IRIB) に一元化されている。 イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、[[文化イスラーム指導省]]の承認が必要である。[[インターネット]]も例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位の[[ブログ|ブロガー]]人口を持つ。 また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリス[[英国放送協会|BBC]]の自動車番組[[トップ・ギア]]のスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。 == 文化 == {{main|{{仮リンク|イランの文化|en|Culture of Iran|redirect=1}}}} [[ファイル:Shahnameh3-5.jpg|thumb|220px|詩人[[フィルダウスィー]]によるイランの民族[[叙事詩]]、『[[シャー・ナーメ]]』。]] [[ファイル:Hedayat113.jpeg|thumb|220px|20世紀の小説家、[[サーデグ・ヘダーヤト]]。]] [[ファイル:Avicenna.jpg|thumb|220px|11世紀に活躍した哲学者、[[イブン・スィーナー]]([[ラテン語]]では'''アウィケンナ'''、[[1271年]]画)。]] イランは文化、すなわち[[美術]]、[[音楽]]、[[建築]]、[[詩]]、[[哲学]]、[[思想]]、[[伝承]]などの長い歴史がある。イラン[[文明]]が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。 [[イランの歴史#イランのイスラーム世界化|イランのイスラーム化]]以降は、イスラームの信仰や[[戒律]]が文化全般に影響を及ぼしている。イスラームのシーア派を[[国教]]とする[[イラン革命]]後の現体制下では特にそれが強まり、法的な規制を伴っている。例えば書籍を販売するには、イスラムの価値観に合っているかが審査される<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM4K12JGM4JUHBI03Y.html トランプ氏の著書 イランで人気/敵視のはずが…「自国優先の姿勢 興味」]『[[朝日新聞]]』朝刊2019年4月23日(国際面)2019年4月23日閲覧。</ref>。 === 食文化 === {{Main|イラン料理}} 米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる海鮮、鳥・羊・牛などの他、[[ラクダ|駱駝]]等も用いる肉料理、野菜料理など、種類も豊富である。最もポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにする[[キャバーブ]]である。野菜料理は煮込むものが多い。[[ペルシア料理]]研究家のナジュミーイェ・バートマーングリージー(Najmieh Batmanglij)は、自著『''New Food of Life''』で「[[イラン料理]]は[[ペルシア絨緞]]同様に、色彩豊かでかつ複雑である。他の[[中東]]料理と共通する部分は多いが、もっとも洗練され、創意に富むといわれる」と述べている。 イラン革命以前は飲酒が盛んであり、現在でも密かに飲まれている<ref>[https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000206587 高野秀行『イスラム飲酒紀行』(講談社文庫)]、2019年4月23日閲覧。</ref>。 === 文学 === {{Main|ペルシア文学}} [[ペルシア文学]]は高く評価される。[[ペルシア語]]は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『[[ライラとマジュヌーン]]』の[[ニザーミー]]、『ハーフェズ詩集』の[[ハーフィズ]]、『[[ルバイヤート]]』の[[ウマル・ハイヤーム]]、『[[シャー・ナーメ]]』の[[フィルダウスィー]]、『[[精神的マスナヴィー]]』の[[ジャラール・ウッディーン・ルーミー]]らのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。 [[20世紀]]に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、[[ノーベル文学賞]]候補ともなった[[アフマド・シャームルー]]や、イラン初の女流詩人[[パルヴィーン・エーテサーミー]]、同じく女流詩人であり、[[口語詩]]の創造を追求した[[フォルーグ・ファッロフザード]]のような詩人が現れた。 [[小説]]においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの、『生き埋め』(1930年)、『盲目の梟』(1936年)などの傑作を残した[[サーデグ・ヘダーヤト]]が現れた。 === 哲学 === {{Main|ペルシア哲学}} イスラーム化以後、イラン世界では[[イスラーム哲学]]が発達した。11世紀には[[中世哲学]]に強い影響を及ぼした[[イブン・スィーナー]]([[ラテン語]]ではアウィケンナ)や哲学者にして[[スーフィー]]でもあった[[ガザーリー]]が、17世紀には[[超越論的神智学]]を創始した[[モッラー・サドラー]]が活動した。 === 音楽 === {{main|{{仮リンク|イランの音楽|en|Music of Iran}}}} [[クラシック音楽]]においては[[新ロマン主義音楽]]作曲家として『ペルセポリス交響曲』などイラン文化を題材とした作品を書いた[[アンドレ・オッセン]]や、指揮者であり、[[ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団]]を創設した[[アレクサンダー・ラハバリ]]らの名が特筆される。 [[ポピュラー音楽]]に於いては[[イラン・ポップ]]と総称されるジャンルが存在する。[[ロック (音楽)|ロック]]は禁止されているが、テヘランのロック・バンド [[:en:Ahoora|Ahoora]] のアルバムはアメリカやヨーロッパでも発売されている。その他には、[[:en:127 (band)|127]]、[[:en:Hypernova (band)|Hypernova]]、[[:en:Angband (band)|Angband]]、[[:en:Kiosk (band)|Kiosk]]、[[:en:The_Yellow_Dogs_Band|The_Yellow_Dogs_Band]] などのバンドや、[[:en:Mohsen Namjoo|Mohsen Namjoo]]、[[:en:Agah Bahari|Agah Bahari]]、[[:en:Kavus Torabi|Kavus Torabi]] らのミュージシャンも国内外で広く活動をしている。 === 映画 === {{Main|イランの映画}} [[イランの映画|イラン映画]]は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し、全世界的に評価されている。イランにおいて初の[[映画館]]が創設されたのは[[1904年]]と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画は[[アルダシール・イーラーニー]]による『ロルの娘』([[1932年]])だった。イラン革命以前のモハンマド・レザー・パフラヴィーの治世下では[[ハリウッド映画]]や[[インド映画]]が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』([[1958年]])で白色革命下の矛盾を描いた[[ファッルーフ・ガッファリー]]や、『牛』([[1969年]])で[[ヴェネツィア国際映画祭]]作品賞を受賞した[[ダールユーシュ・メフルジューイー]]のような社会派の映画人が活動した。 現代の著名な映画監督としては、『[[友だちのうちはどこ?]]』([[1987年]])、『[[ホームワーク (映画)|ホームワーク]]』([[1989年]])の[[アッバス・キアロスタミ|アッバース・キヤーロスタミー]](アッバス・キアロスタミ)や、『[[サイレンス (1998年の映画)|サイレンス]]』([[1998年]])の[[モフセン・マフマルバフ|モフセン・マフマルバーフ]]、『[[駆ける少年]]』の[[アミール・ナーデリー]]、『[[風の絨毯]]』の[[キャマール・タブリーズィー]]、『[[ハーフェズ ペルシャの詩]]』([[2007年]])の[[アボルファズル・ジャリリ]]などの名が挙げられる。[[アスガル・ファルハーディー]]監督の映画『[[別離 (2011年の映画)|別離]]』([[2011年]])は、[[ベルリン国際映画祭]]の[[金熊賞]]と[[アカデミー賞]]の外国語作品賞を受賞した。 === 美術 === {{Main|イランの芸術|{{仮リンク|ペルシア美術|en|Persian art|preserve=1}}}} {{節スタブ}} === 衣服 === {{main|{{仮リンク|イランのファッション|en|Fashion in Iran}}|{{仮リンク|ペルシャ服|en|Persian clothing}}}} イランにおける服飾文化はいくつかの王朝時代や歴史毎に異なる面を持つ。現在のイラン地域で[[織物]]が登場した際の正確な年代や日付は2023年現在でもまだ判明されていない状態であるが、紀元前の文明の出現と一致する可能性が高いことが示唆されている。 {{節スタブ}} === 建築 === {{Main|イランの建築}} イランの建築は、様々な伝統と歴史から、構造および芸術における観点の両方で非常に深い多様性を示している。同国において伝統的なペルシャ建築は継続性を維持するもの、近代的な建築は革新を追求するものとして区分けされている。 {{節スタブ}} === 史跡 === イラン国内には数多くの史跡が存在し、積極的に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]への登録が行われている。 ==== 世界遺産 ==== {{main|イランの世界遺産}} 2014年6月の時点でイランの[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]][[世界遺産]]登録物件は17件に達し、その全てが[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]である。括弧内は登録年。 <gallery> ファイル:Choghazanbil2.jpg|[[チョガ・ザンビール]] (1979年) ファイル:Persepolis 24.11.2009 11-26-32.jpg|[[ペルセポリス]] (1979年) ファイル:Naghsh-e-jahan masjed-e-shah esfahan.jpg|[[イマーム広場|イスファハーンのイマーム広場]] (1979年) ファイル:Takht-e-soleiman-1.jpg|[[タフテ・ソレイマーン]] (2003年) ファイル:Cyrus tomb.jpg|[[パサルガダエ]] (2004年) ファイル:Arge Bam Arad edit.jpg|[[バム|バムとその文化的景観]] (2004年) ファイル:Soltaniyeh exterior.jpg|[[ソルターニーイェ]] (2005年) ファイル:Bisotun Iran Relief Achamenid Period.JPG|[[ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン]] (2006年) ファイル:Northwestthaddes.jpg|[[イランのアルメニア人修道院建造物群]] (2008年) ファイル:Sushtar Bridge.jpg|[[シューシュタル|シューシュタルの歴史的水利施設]] (2009年) ファイル:Sheykh safi01.jpg|[[シャイフ・サフィー・アッディーン廟|アルダビールのシャイフ・サフィーアッディーン廟の歴史的建造物]] (2010年) ファイル:Carpet Bazaar of Tabriz.JPG|[[タブリーズのバザール|タブリーズの歴史的バザール施設]] (2010年) ファイル:40sotoon.jpg|[[フィン庭園]] (2011年) ファイル:Gonbad-e Qabus.JPG|[[ゴンバデ・カーブース]] (2012年) ファイル:Jamé Mosque Esfahan courtyard.jpg|[[エスファハーンのジャーメ・モスク]] (2012年) ファイル:Golestan-takht2.jpg|[[ゴレスターン宮殿]] (2013年) </gallery> === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|イランの祝日|en|Public holidays in Iran}}}} {| class="wikitable" |+ 祝祭日 |- ! 日付 ! 日本語表記 ! 現地語表記 ! 備考 |- | [[ヒジュラ暦|イスラーム暦]]<br />モハッラム月(1月)9日 || タースーアー || || 第3代[[イマーム|エマーム]]・[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|ホセイン]]が[[ウマイヤ朝]]軍に包囲され負傷した日 |- | イスラーム暦<br />モハッラム月10日 || [[アーシューラー]] || || 「正義が悪に敗れた日」<br />第3代エマーム・ホセインの殉教を追悼する。 |- | イスラーム暦<br />サファル月(2月)20日 || アルバイーン || || アーシューラー後40日間の喪が明ける日 |- | イスラーム暦<br />サファル月28日 || 預言者ムハンマド昇天日 || || 最後の[[預言者]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の命日 |- | イスラーム暦<br />サファル月28日 || エマーム・[[ハサン・イブン・アリー|ハサン・モジタバー]]殉教記念日 || || 第2代エマームの命日 |- | イスラーム暦<br />サファル月29日 || エマーム・[[アリー・リダー|レザー]]殉教記念日 || || 第8代エマームの命日 |- | イスラーム暦<br />ラビーヨル・アッヴァル月(3月)17日 || 預言者ムハンマド生誕日 || || 最後の預言者ムハンマドの誕生祭 |- | イスラーム暦<br />ジャマーデヨル・サーニー月(6月)3日 || [[ファーティマ|ファーテメ・ザフラー]]殉教追悼記念日 || || 預言者ムハンマドの娘、初代エマーム・アリーの妻、第2代ハサン、第3代ホセインの母の命日<br />(命日には諸説あるがイランではこの日が公式の休日) |- | イスラーム暦<br />ラジャブ月(7月)13日 || エマーム・[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]生誕日 || || 初代エマームの誕生祭 |- | イスラーム暦<br />ラジャブ月27日 || マブアス || || ムハンマドが[[アッラー]]から預言者に任じられた日 |- | イスラーム暦<br />シャアバーン月(8月)15日 || ニーメイェ・シャアバーン || || 第12代エマーム・[[ムハンマド・ムンタザル|マフディー]](隠れエマーム)の誕生祭 |- | イスラーム暦<br />ラメザーン月(9月)21日 || エマーム・[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]殉教記念日 || || 初代エマームの命日 |- | イスラーム暦<br />シャッヴァール月(10月)1日 || エイデ・フェトゥル || || [[断食]]明けの祭 |- | イスラーム暦<br />シャッヴァール月25日 || エマーム・[[ジャアファル・サーディク|ジャアファル・サーデグ]]殉教記念日 || || 第6代エマームの命日 |- | イスラーム暦<br />ズィー・ガアデ月(11月)11日 || エマーム・レザー生誕日 || || 第8代エマームの誕生祭 |- | イスラーム暦<br />ズィー・ハッジェ月(12月)10日 || エイデ・ゴルバーン || || [[犠牲祭]]。家畜を犠牲にささげアッラーを賛美する。 |- | イスラーム暦<br />ズィー・ハッジェ月18日 || エイデ・ガディーレ・ホンム || || 初代エマーム・アリーが預言者ムハンマドから後継者に任じられた日 |- | [[イラン暦]]<br />ファルヴァルディーン月(1月)1〜4日 || [[ノウルーズ]] || || 新年祭([[春分の日]]、[[グレゴリオ暦]]の[[3月21日]]ごろ) |- | イラン暦<br />ファルヴァルディーン月12日 || イラン・イスラーム共和国記念日 || || [[1979年]]イラン・イスラーム共和国建国を記念する。 |- | イラン暦<br />ファルヴァルディーン月13日 || スィーズダ・ベ・ダル || || 「正月13日」に家にいるのは不吉とされている。 |- | イラン暦<br />ホルダード月(3月)14日 || エマーム・[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー]]師追悼記念日 || || [[イラン革命|イラン・イスラーム革命]]の指導者の命日 |- | イラン暦<br />ホルダード月15日 || ホルダード月15日の流血蜂起記念日 || || [[1963年]]、ホメイニー師が[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|皇帝]]を非難して逮捕されたことに反発した国民の暴動を記念する。 |- | イラン暦<br />バフマン月(11月)22日 || イラン・イスラーム革命記念日 || || 1979年イスラーム革命による[[パフラヴィー朝]]崩壊を記念する。 |- | イラン暦<br />エスファンド月(12月)29日 || [[石油]]国有化記念日 || || [[1951年]]の[[イギリス]]資本{{仮リンク|アングロ・イラニアン石油会社|en|Anglo-Persian Oil Company}}(AIOC)の国有化を記念する。 |} [[イラン暦]]の元日にあたる[[春分の日]]に祝われる新年([[ノウルーズ]])の祝祭は2009年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録されている。 == スポーツ == {{Main|イランのスポーツ}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|イランのサッカー|en|Football in Iran}}}} イラン国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1970年]]にサッカーリーグの[[ペルシアン・ガルフ・プロリーグ]]が創設された。[[イラン・イスラム共和国サッカー連盟|イランサッカー協会]](FFIRI)によって構成される[[サッカーイラン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には6度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。しかし[[AFCアジアカップ]]では、最多優勝の[[サッカー日本代表|日本代表]]に次いで3度の優勝を飾っている。イランの国民的英雄として知られる'''[[アリ・ダエイ]]'''は「ペルシアン・タワー」の異名を持ち、1993年から2006年にかけて[[国際Aマッチ]]に149試合出場し、[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]の[[クリスティアーノ・ロナウド]]に次ぐ'''109得点'''をあげている<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20141122/252563.html AFC初代殿堂入り10名に奥寺氏、澤、キューウェル氏らが選出] サッカーキング 2014年11月22日</ref>。 === オリンピック === {{Main|オリンピックのイラン選手団}} イランは、[[夏季オリンピック]]にはガージャール朝時代の[[1900年パリオリンピック|1900年パリ大会]]で1人の選手により初出場しており、その後の空白期を経て1948年の[[1948年ロンドンオリンピック|ロンドン大会]]から復帰した。[[冬季オリンピック]]には[[1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピック|1956年コルチナ・ダンペッツオ大会]]で初出場を果たした。イランの[[国技]]は[[レスリング]]でありアジア屈指の強豪国として知られており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.japan-wrestling.org/special/nyumonn/world1.htm|title=世界の勢力・強国(男子)|publisher=日本レスリング協会|accessdate=2013-06-02}}</ref>、[[2012年ロンドンオリンピックのレスリング競技|2012年ロンドン大会]]では金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した他、[[2020年東京オリンピック|2021年東京大会]]までで獲得した全76個のメダルのうち47個をレスリングが占めている。 == イランが舞台の作品 == * [[映画]] ** [[桜桃の味]] ** [[ハーフェズ ペルシャの詩]] ** [[ペルセポリス (映画)|ペルセポリス]] ** [[ゴルゴ13 (1973年の映画)|ゴルゴ13]]([[高倉健]]主演) ** [[アルゴ (映画)|アルゴ]]([[イランアメリカ大使館人質事件]]が題材) * [[小説]] ** [[不毛地帯]]([[山崎豊子]]) ** [[砂のクロニクル]]([[船戸与一]]) == 著名な出身者 == {{Main|{{仮リンク|イラン人の一覧|en|List of Iranians}}|Category:イランの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=25em}} == 参考文献 == * [[シリン・エバディ]]/竹林卓訳『私は逃げない──ある女性弁護士のイスラム革命』ランダムハウス講談社、2007年9月。ISBN 978-4270002513。 * [[大西円]]『イラン経済を解剖する』日本貿易振興会、2000年7月。ISBN 978-4822408909。 * {{Cite book|和書|author1=岡田恵美子|authorlink1=岡田恵美子|author2=鈴木珠里|authorlink2=鈴木珠里|author3=北原圭一|authorlink3=北原圭一| title=イランを知るための65章 |edition=初版第二刷 |date=2005-01-30 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |isbn=4-7503-1980-5|ref={{sfnref|岡田|鈴木|北原|2005}}}} * [[桜井啓子 (イスラーム研究者)|桜井啓子]]『現代イラン──神の国の変貌』岩波書店〈岩波新書〉、2001年7月。ISBN 978-4004307426。 * 桜井啓子『革命イランの教科書メディア──イスラームとナショナリズムの相剋』岩波書店、1999年5月。ISBN 978-4000028349。 * [[ハミッド・ダバシ]]『イラン、背反する民の歴史』作品社、2008年2月。ISBN 978-4861821813。 * [[中西久枝]]『イスラームとモダニティ──現代イランの諸相』風媒社、2002年10月。ISBN 978-4833140362。 * [[アーザル・ナフィーシー]]、[[アッバス・キアロスタミ]]『イラン人は神の国イランをどう考えているか』草思社、2007年2月。ISBN 978-4794215642。 * [[モハンマド・ハタミ]]/平野次郎訳『文明の対話』共同通信社、2001年5月。ISBN 978-4764104822。 * 原隆一、岩崎葉子『イラン国民経済のダイナミズム』日本貿易振興会、2000年3月。ISBN 978-4258045037。 * [[マーク・ボウデン]]/伏見威蕃訳『ホメイニ師の賓客──イラン米大使館占拠事件と果てなき相克(上)』早川書房、2007年5月。ISBN 978-4152088246。 * マーク・ボウデン/伏見威蕃訳『ホメイニ師の賓客──イラン米大使館占拠事件と果てなき相克(下)』早川書房、2007年5月。ISBN 978-4152088253。 * [[ケネス・ポラック]]/佐藤陸雄訳『ザ・パージァン・パズル 上』小学館、2006年7月。ISBN 978-4093797412。 * [[ケネス・ポラック]]/佐藤陸雄訳『ザ・パージァン・パズル 下』小学館、2006年7月。ISBN 978-4093797429。 * [[ズィーバー・ミール・ホセイニー]]『イスラームとジェンダー』明石書店、2004年6月。ISBN 978-4750319346。 * [[宮田律]]『物語 イランの歴史──誇り高きペルシアの系譜』中央公論社〈中公新書〉、2002年9月。ISBN 4-12-101660-2。 * {{Cite book|和書|author=吉村慎太郎|authorlink=吉村慎太郎|title=イラン現代史――従属と抵抗の100年 |edition=初版第一刷 |date=2011-04-30 |publisher=[[有志舎]] |location=[[東京]] |id= |isbn=978-4903426419|oclc=721839193|ref={{sfnref|吉村|2011}}}} == 関連項目 == {{colbegin|2}} * [[イラン関係記事の一覧]] * [[イランの世界遺産]] * [[海外にあるイランの工芸品の一覧]] * [[イラン暦]] * [[イスラム共和制]] * [[反イスラーム主義]] * [[反ユダヤ主義]] * [[イスラーム教徒による宗教的迫害]] * [[イランにおける同性愛者迫害]] * [[イスラムファシズム]] * [[ペルシア神話]] * [[ペルシア文学]] * [[イランの法制]] * [[イランのスポーツ]] ** [[オリンピックのイラン選手団]] ** [[サッカーイラン代表]] {{colend}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Iran|Iran}} {{Wikivoyage|fa:ایران|イラン{{fa icon}}}} {{Wikivoyage|Iran|イラン{{en icon}}}} {{Wikivoyage|ja:イラン|イラン{{ja icon}}}} {{Wiktionary}} * 政府 ** [http://www.president.ir/ イラン大統領府] {{fa icon}}{{en icon}} ** [https://www.mfa.gov.ir/ イラン外務省] {{fa icon}}{{en icon}} ** [https://japan.mfa.ir/jp 在日イラン大使館] {{en icon}}{{fa icon}}{{ja icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iran/ 日本外務省 - イラン] {{ja icon}} ** [https://www.ir.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在イラン日本国大使館] {{ja icon}} * 観光 ** [http://www.irpedia.com/ イラン観光産業協会] {{fa icon}}{{en icon}} ** {{ウィキトラベル インライン|イラン|イラン}} {{ja icon}} * その他 ** [https://www.jetro.go.jp/world/middle_east/ir/ JETRO - イラン] {{ja icon}} ** [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-07.html JCCME - イラン] {{ja icon}} ** {{CIA World Factbook link|ir|Iran}} {{en icon}} ** {{Kotobank}} ** {{Curlie|Regional/Middle_East/Iran}} {{en icon}} ** {{Wikiatlas|Iran}} {{en icon}} ** {{Osmrelation|304938}} {{アジア}} {{OIC}} {{OPEC}} {{南アジア地域協力連合}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いらん}} [[Category:イラン|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:共和国]] [[Category:宗教国家]] [[Category:イスラム教]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:石油輸出国機構加盟国]]
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タイ
タイ 勝負事における、勝敗が決定しない結果。
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タイ 鯛 - スズキ目スズキ亜目タイ科の魚類の総称 タイ族 (Tai) - 東南アジアの民族。 タイ (音楽記号) (tie) - 五線譜に記される音楽記号。 ⁀ (tie) - ダイアクリティカルマークの一つ。ダブルインバーテッドブリーブの別名。 ネクタイ ((neck)tie) - 洋装時に首に巻く布製の装飾品。 苔類(タイ類) - コケ植物の分類群の一つ。 Ty (企業) - アメリカ合衆国の玩具製造販売会社。 タイ王国 (Thai) - 東南アジアにある国家。 タイ (コートジボワール) (Taï) - コートジボワール・カヴァリィ州の町。 タイ国立公園 (Parc national de Taï) - コートジボワールの国立公園。 タイ (ナイジェリア) (Tai) - ナイジェリア リバーズ州の都市。 タイ (テキサス州) (Tye) - アメリカ合衆国テキサス州テイラー郡。 ウェリントン (ワシントン州) (Wellington)、旧称タイ (Tye) - アメリカ合衆国ワシントン州キング郡。 タイ語 (Thai) - タイ王国の公用語。 タイ諸語 (Tai languages) - 東南アジアの言語。タイ語を含む。 タイ語 (パプアニューギニア) (Tai) - パプアニューギニアの言語。 勝負事における、勝敗が決定しない結果。 同着 - レース等で記録や順位が等しいこと。 競馬の同着については着差 (競馬)#日本の着差の表示を参照。 タイ記録(タイレコード)の略。 クリストファー・タイ (Christopher Tye) - イングランドの作曲家 (c.1505–c.1572)。 タイ・カッブ (Ty Cobb) - アメリカ合衆国の野球選手 (1886–1961)。 タイ・ゲイニー (Ty Gainey) - アメリカ合衆国の野球選手 (1960–)。 タイ・テイバー (Ty Tabor) - アメリカ合衆国のギタリスト (1961–)。 コーベ・タイ (Kobe Tai) - アメリカ合衆国のポルノ女優 (1972–)。 マイケル・タイ (Michael Tye) - アメリカ合衆国の哲学者 (????–)。 タイ・シェリダン (Tye Sheridan) - アメリカ合衆国の俳優 (1996年-)。 タイ(本名:田井雄希) - 日本のお笑いコンビ「やさしいズ」メンバー(1985年-)。 タイ (イギリスのMC) タイ (象) ソール・タイ (Saul Tigh) - SFテレビドラマ『ギャラクティカ』の登場人物。
{{Wiktionary|タイ|Tai|en:Tai|tie|鯛}} '''タイ''' <!-- 曖昧さ回避をする必要のある語にだけリンクを張ること --> <!-- 記事のあるものだけ記載すること --> * [[鯛]] - スズキ目スズキ亜目タイ科の魚類の総称 * [[タイ族]] ({{en|Tai}}) - 東南アジアの民族。 * [[タイ (音楽記号)]] ({{en|tie}}) - 五線譜に記される音楽記号。 * ⁀ (tie) - [[ダイアクリティカルマーク]]の一つ。[[ダブルインバーテッドブリーブ]]の別名。 * [[ネクタイ]] ({{en|(neck)tie}}) - 洋装時に首に巻く布製の装飾品。 * [[苔類]](タイ類) - コケ植物の分類群の一つ。 * [[Ty (企業)]] - アメリカ合衆国の玩具製造販売会社。 ; 地理 * [[タイ王国]] ({{en|Thai}}) - [[東南アジア]]にある国家。 * [[タイ (コートジボワール)]] ({{interlang|en|Taï|{{fr|Taï}}}}) - [[コートジボワール]]・[[カヴァリィ州]]の町。 * [[タイ国立公園]] ({{fr|Parc national de Taï}}) - コートジボワールの国立公園。 * [[タイ (ナイジェリア)]] ({{interlang|en|Tai, Rivers|Tai}}) - [[ナイジェリア]] [[リバーズ州]]の都市。 * [[タイ (テキサス州)]] ({{interlang|en|Tye, Texas|Tye}}) - [[アメリカ合衆国]][[テキサス州]][[テイラー郡 (テキサス州)|テイラー郡]]。 * [[ウェリントン (ワシントン州)]] ({{interlang|en|TWellington, Washington|Wellington}})、旧称タイ ({{en|Tye}}) - アメリカ合衆国[[ワシントン州]][[キング郡 (ワシントン州)|キング郡]]。 ; 言語 * [[タイ語]] ({{en|Thai}}) - タイ王国の公用語。 * [[タイ諸語]] ({{interlang|en|Tai languages}}) - 東南アジアの言語。タイ語を含む。 * [[タイ語 (パプアニューギニア)]] ({{interlang|en|Tai language (New Guinea)|Tai}}) - [[パプアニューギニア]]の言語。 ; [[引き分け]] ({{en|tie}}) 勝負事における、勝敗が決定しない結果。 * 同着 - レース等で記録や順位が等しいこと。 * 競馬の同着については[[着差 (競馬)#日本の着差の表示]]を参照。 * タイ記録(タイレコード)の略。 ; 人物 * [[クリストファー・タイ]] ({{en|Christopher Tye}}) - イングランドの作曲家 (''c''.1505–''c''.1572)。 * [[タイ・カッブ]] ({{en|Ty Cobb}}) - アメリカ合衆国の野球選手 (1886–1961)。 * [[タイ・ゲイニー]] ({{en|Ty Gainey}}) - アメリカ合衆国の野球選手 (1960–)。 * [[タイ・テイバー]] ({{en|Ty Tabor}}) - アメリカ合衆国のギタリスト (1961–)。 * [[コーベ・タイ]] ({{en|Kobe Tai}}) - アメリカ合衆国のポルノ女優 (1972–)。 * [[マイケル・タイ]] ({{en|Michael Tye}}) - アメリカ合衆国の哲学者 (????–)。 * [[タイ・シェリダン]] ({{en|Tye Sheridan}}) - アメリカ合衆国の俳優 (1996年-)。 * タイ(本名:田井雄希) - 日本の[[お笑いコンビ]]「[[やさしいズ]]」メンバー(1985年-)。 * [[タイ (イギリスのMC)]] ; 象 * {{仮リンク|タイ (象)|en|Tai (elephant)}} ; 架空 * [[ソール・タイ]] ({{en|Saul Tigh}}) - SFテレビドラマ『ギャラクティカ』の登場人物。 == 関連項目 == * {{Prefix|タイ}} * {{Intitle|タイ}} * [[Wikipedia:索引 たい#たい]] * [[ダイ]](曖昧さ回避) * TAI([[国際原子時]]) {{aimai}} {{デフォルトソート:たい}} [[Category:英語の語句]] [[Category:英語の姓]] [[Category:英語の男性名]] [[Category:同名の地名]]
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チュニジア
チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、アラビア語: الجمهورية التونسية)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東・東にはイタリア領土のパンテッレリーア島やランペドゥーザ島、シチリア島がある。地中海の島国マルタとも近い。首都はチュニス。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合、アラブ・マグレブ連合に加盟している。 同国は歴史上、最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来にもなった地域である。 正式名称は、الجمهورية التونسية(ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya at-Tūnisīya、片仮名転写 : アル・ジュムフーリーヤ・ッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、تونس(Tūnis)。 日本語の表記は、チュニジア共和国。通称、チュニジア。テュニジアと表記されることもある。漢字表記は、突尼斯。 アラビア語名のتونس(Tūnis、トゥーニス) は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス(Thunes)で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus に地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。 古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年ごろにはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。 現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州(前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa、314年 - 432年)になるが、ゲルマン系ヴァンダル人が439年に侵入。カルタゴにヴァンダル王国(439年 - 534年)が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた(Praetorian prefecture of Africa、534年 - 590年)。7世紀にはイスラム教のもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王カーヒナ(英語版)と東ローマ帝国の連合軍を破り(カルタゴの戦い (698年)(英語版))、北アフリカをイスラム世界に編入した。 ウマイヤ朝イフリキーヤ(665年 - 744年)、フィリッドイフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝のカリフに臣従する形でカイラワーンのアグラブ朝(800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスにハフス朝(1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった(チュニス征服 (1535年))。 ハフス朝は1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方(英語版)(1574年 - 1705年)として併合された。オスマン帝国時代の初期には「パシャ」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ列強による侵略でオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ」はイスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになり、1705年にはフサイン朝チュニス君侯国(1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。 フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ(英語版)時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。ハイルディーン・パシャ(英語版)などの活躍により1861年には憲法(チュニジアの憲法(英語版))が制定され、サドク・ベイ(英語版)はイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。 1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約(英語版)、1883年のラ・マルサ協定(英語版、フランス語版)でフランスの保護領フランス領チュニジア(1881年 - 1956年)となった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。 1907年にはチュニジア独立を目的とする結社「青年チュニジア党」が創設され、1920年には「憲政党(英語版)」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。 第二次世界大戦では北アフリカ戦線の一部となり、イタリアに近いため枢軸国が最後まで拠点とした。 ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党(英語版)」はチュニジアの完全独立を要求した。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は戦後の1956年、ベイのムハンマド8世アル・アミーン(英語版)を国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、チュニジア王国(1956年 - 1957年)が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更した。しかし長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。 1991年の湾岸危機ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。 現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。一方で若者の失業率は30%前後と高く、国民の不満は後述するジャスミン革命などにつながった。 2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる。この革命を発端に、政変活動が中東・北アフリカ地域に瞬く間に広がる(アラブの春)も、他国ではことごとく失敗し(アラブの冬)、チュニジアは唯一の成功例となった。 2011年10月23日、革命後初の選挙(定数217)が行われた。穏健派の「ナフダ」が第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、エタカトルが20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。 11月19日制憲議会選挙で第1党になったアンナハダ(ナフダ)と二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリ(アンナハダ)を次期首相に選出することで合意したと第2党の共和国のための会議(共和国会議、CPR)当局者が明らかにした。また、次期大統領にはモンセフ・マルズーキ(CPR党首)、議会議長に第3党の「労働・自由民主フォーラム」(FDTL、通称エタカトル)のムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。 2013年2月、野党党首暗殺事件の責任を取り、ジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月アリー・ラライエド(英語版)内相に組閣要請した。7月にはラライエドもまた繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け、混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明。 2014年1月26日、制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。 2019年10月に就任したカイス・サイード大統領は、経済低迷や新型コロナウイルス感染症拡大への国民の不満を背景に、2021年7月25日に議会の停止と首相解任を発表した。2022年2月には、司法の独立のためにジャスミン革命後に設立された最高司法評議会を解散させて暫定司法評議会を置いて裁判官の解任権を得たと主張し、同年6月1日に裁判官57人を「腐敗し、テロリストを擁護している」という理由で解任した。サイード政権は、2014年憲法に代えて大統領権限を強化する憲法改正案を発表して同年7月25日の国民投票では94.5%の賛成(暫定結果)を得たが、イスラム主義勢力と世俗派を含めて投票ボイコット運動が展開されたこともあって投票率は30%強にとどまり、欧州連合(EU)は投票率の低さとジャスミン革命以来の民主主義の維持を注視していることを表明した。なお首相には、2021年10月、アラブ・マグリブ・チュニジアのすべてで初の女性首相であるナジュラ・ブデンが就任している。 チュニジアの政体は共和制、大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は1959年6月1日に公布(1988年7月12日および2002年5月26日改正)されたもの。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は行政の最高責任者とされ、首相・閣僚・各県の知事の任免権、チュニジア軍の最高指揮権、非常事態宣言の発令権など強大な権力を与えられている。首相および閣僚評議会(内閣に相当)は大統領の補佐機関に過ぎない。 立法府は一院制の人民議会のみで構成されている。定数は217議席で、議員の任期は5年。 2011年のジャスミン革命以前は、2002年の憲法改正により新設された上院と、従来立法府として存在してきた代議院(下院に相当)の両院制で構成されていた。上院の定数は126議席で、うち85議席は地方議会による間接選挙により選出され、41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で、全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年、代議院が5年である。 チュニジアでは1988年の憲法改正で複数政党制が認められたが、2011年の政権崩壊まで与党立憲民主連合(RDC)が事実上、チュニジア政治を担っていた。RDCは1988年まで社会主義憲政党(PSD)という名称で一党支配を行っており、複数政党制承認後にRDCと改称した後もチュニジアの支配政党であり続け、2011年まで一度も政権交代は成されていなかった。政権崩壊後の選挙でアンナハダが与党になった。野党で比較的有力なものには民主社会運動(MDS)と人民統一党(PUP)がある。他に非合法化されたチュニジア共産党の流れを組むエッタジディード(変革)運動があったが、同党は他勢力と統合し「社会民主の道運動」(アル・マサール)になっている。 過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。 司法権は最高裁判所が担っている。 独立直後から暫くはフランス軍のビゼルト基地問題や、アルジェリア戦争への対応を巡ってフランスと対決する姿勢で接したが、1970年代以降は親フランス、親西側政策が続いている。1980年代に入るとアラブ連盟の本部がエジプトの首都カイロからチュニスに移転し、事務局長にチュニジア人が選ばれ、1990年代のエジプトの連盟復帰までアラブ諸国の盟主にもなった。初代大統領ブルギーバはセネガルの初代大統領サンゴールらと共にフランコフォニー国際組織の設立に尽力した。 1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によってリビアと合邦が宣言され、アラブ・イスラム共和国の成立が宣言されたが、この連合はすぐに崩壊した。その後、リビアはチュニジアと対立し、1980年のガフサ事件ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力がガフサの街を襲撃し、多くの被害を出した。1985年にはリビア軍がチュニジアとの国境付近に集結し、チュニジアを威嚇した。 パレスチナ問題を巡っては、チュニジアは僅かながら第三次中東戦争と第四次中東戦争にアラブ側で派兵した。1982年にパレスチナ解放機構(PLO)の本部がチュニスに移転。1985年にはPLOと対立するイスラエルの空軍による爆撃を受けた(木の脚作戦)。オスロ合意後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアにはパレスチナ人難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを国家承認しているが、関係は決して良好とは言えず、ガザ紛争 (2008年-2009年)においてはイスラエルを非難している。 在留日本人数 - 136名(2018年10月,在留邦人統計) 在日チュニジア人数 - 907名(2019年12月,在留外国人統計) チュニジア軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。 兵器体系はかつて中国から購入した哨戒艇などを除いて殆ど西側に準じている。 国土は、北端から南端までが約850キロメートル、東の沿岸から西方の国境まで約250キロメートルと細長く、南北に伸び、南端は先の細いとがった形である。東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。 国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の3つに大きく分けられる。北部地中海沿岸にはテル山地があり、その谷間を北東にメジェルダ川が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な穀倉地帯になっている。東側の地中海に面した海岸線は約1300キロメートルにわたる。北からチュニス湾、ハンマメット湾、ガベス湾と並び、良港も多い。この沿岸部に古くから定住民が集住した。その南には、アルジェリアから続くアトラス山脈中の国内最高峰であるシャンビ山(1,544m)以東がドルサル山地となっている。ドルサル山地は地中海からの湿気を遮るため、ドルサル山地より南はガベス湾までステップ気候になっていて、西部の標高400m〜800mの地域をステップ高原、東部の標高400m以下の地をステップ平原と呼ぶ。ステップ高原の南には平方5000kmのジェリド湖(塩湖)がある。この塩湖の北にある町メトラーウィやその西のルダイフでは19世紀の末からリン鉱石の採掘が開始され、現在ではその産出量は世界第5位で、チュニジアの主要な輸出品ともなっている。 ガベス湾の沖にはジェルバ島が存在する。南半分はサハラ砂漠になっており、マトマタから南東にダール丘陵がリビアまで続く。ダール丘陵から東には標高200m以下のジェファラ平野が広がる。この砂漠は風によって絶えず景色が変化する砂砂漠(エルグ)、ごつごつした石や砂利と乾燥に強い植物がわずかにみられる礫砂漠、または植生のない岩肌がむき出しになっている岩石砂漠が広がっており、砂砂漠は一部であり、大部分は礫砂漠と岩石砂漠で占められている。 ケッペンの気候区分によると、北部の地中海沿岸部は地中海性気候となり、地中海沿岸を南に行くとスファックス付近からステップ気候になる。さらに南のサハラ砂漠は砂漠気候となる。春から夏にかけてサハラ砂漠から北にシロッコと呼ばれる熱風が吹き出す。北部では冬に雪が降ることがある。チュニスの年間降水量は470mm前後だが、北部のビゼルトでは1,000mmを超える。 チュニジアには24のウィラーヤ(県)(アラビア語表記:ولاية)に分かれている。各県の県知事は大統領による任命制。 2000年代からチュニジアは経済の自由化と民営化のさなか、自らが輸出指向の国であることに気づいており、1990年代初期から平均5%の国内総生産(GDP)成長でありながらも、政治的に結びついたエリートが恩恵を受ける汚職に苦しんだ。チュニジアには様々な産業があり、農業や工業、石油製品から、観光にまで及ぶ。2008年ではGDPは410億ドル(公式為替レート)もしくは820億ドル(購買力平価)であった。農業分野はGDPの11.6%、工業は25.7%、サービス業は62.8%を占める。工業分野は主に衣類と履物類の製造や自動車部品と電子機器の生産からなる。チュニジアは過去10年間で平均5%の成長を成し遂げたが、特に若年層の高い失業率に苦しんでいる。 チュニジアは2009年には、世界経済フォーラムによってアフリカにおいて最も競争力のある経済と位置づけられた。全世界でも40位であった。チュニジアはエアバスやヒューレットパッカードなどの多くの国際企業の誘致に成功した 。 観光は2009年にはGDPの7%と37万人分の雇用を占めていた。 変わらず欧州連合(EU)諸国がチュニジアの最大の貿易パートナーであり、現在チュニジアの輸入の72.5%、チュニジアの輸出の75%を占めている。チュニジアは地中海沿岸でヨーロッパ連合の最も確固とした貿易パートナーの一つであり、EUの30番目に大きい貿易パートナーに位置づけている。チュニジアは1995年7月に、EUとヨーロッパ連合連合協定(英語版)を締結した最初の地中海の国である。ただし、効力が生じる日の前に、チュニジアは両地域間の貿易で関税を撤廃し始めた。チュニジアは2008年に工業製品への関税撤廃を完了し、そのためEUとの自由貿易圏に入った、最初の地中海沿岸の国になった。 チュニス・スポーツ・シティ(英語版)はチュニスで建設されている完全なスポーツ都市である。集合住宅に加え多くのスポーツ施設からなるこの都市は50億ドル(約500億円)かけてUAEのBukhatirグループによって建設される。チュニス・ファイナンシャル・ハーバーは30億ドル(約300億円)の開発利益を見込むプロジェクトにおいてチュニス湾にある北アフリカで初めてのオフショア金融センターになる。チュニス・テレコム・シティはチュニスにおけるITハブを作成する30億ドル(約300億円)規模のプロジェクトである。 チュニジア経済には小麦とオリーブを中核とする歴史のある農業、原油とリン鉱石に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。そのため他のアフリカ諸国より工業基盤は発達しており、1人当たりのGDPは約4000ドルでありモロッコやアルジェリアと共にアジアの新興国とほぼ同じレベルである。急速な成長を見せているのは欧州諸国の被服製造の下請け産業である。貿易依存度は輸出34.4%、輸入45.2%と高く、狭い国内市場ではなく、フランス、イタリアを中心としたEU諸国との貿易の占める比率が高い。2003年時点の輸出額80億ドル、輸入額109億ドルの差額を埋めるのが、24億ドルという観光収入である。国際的には中所得国であり、アフリカ開発銀行(ADB)の本部が置かれている。 フランスやリビアに出稼ぎしているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。 アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの、農地の占める割合が国土の31.7%に達している。ヨーロッパに比べて早い収穫期を生かした小麦の栽培と輸出、乾燥気候にあったオリーブと野菜栽培が農業の要である。食糧自給率は100%を超えている。 北部は小麦栽培と畜産が盛ん。ヒツジを主要な家畜とする畜産業は北部に集中するが、農業に占める比率は中部、南部の方が高い。2005年時点の生産高を見ると、世界第5位のオリーブ(70万トン、世界シェア4.8%)、世界第10位のグレープフルーツ(7.2万トン、2.0%)が目を引く。ナツメヤシ(13万トン、1.8%)、らくだ23万頭(1.2%)といった乾燥気候を生かした産物・家畜も見られる。主要穀物では小麦(136万トン)が北部で、大麦(44万トン)は主に南部で生産されている。生産量ではトマト(92万トン)も目立つ。 チュニジア鉱業の中核は、世界第5位のリン鉱石(リン酸カルシウム、240万トン、5.4%)、主な鉱山は国土の中央部、ガフサ近郊にある。油田は1964年にイタリア資本によって発見され、南部のボルマ近郊の油田開発が進んでいる。一方、リビア国境に近いガベス湾の油田はあまり進んでいない。2004年時点の採掘量は、原油317万トン、天然ガス82千兆ジュールである。エネルギー自給率も100%を超えている。このほか、亜鉛、銀、鉄、鉛を採掘している。これはプレート移動によって形成された褶曲山脈であるアトラス山脈に由来する。全体的な鉱業の様相はアトラス山脈西端に位置する国モロッコとよく似ている。 チュニジア工業は農業生産物の加工に基づく食品工業、鉱物採取と連動した化学工業、加工貿易を支える機械工業と繊維業からなる。食品工業は、6000万本にも及ぶオリーブから採取したオリーブ油と、加工野菜(缶詰)が中心である。オリーブ油の生産高は世界第4位(15万トン、6.4%)だ。化学工業は主として肥料生産とその派生品からなる。世界第3位のリン酸(63万トン、3.7%)、同第6位の硫酸(486万トン、4.8%)、同第7位のリン酸肥料(97万トン、2.9%)である。主な工業都市は首都チュニス。 輸出に占める工業製品の比率が81%、輸入に占める工業製品の比率が77.8%であるため、加工貿易が盛んに見える。これは、繊維産業と機械産業によるものだ。輸出を品目別に見ると、衣料37.0%、電気機械11.9%、原油5.4%、化学肥料4.7%、織物3.7%である。一方、輸入は、繊維14.7%、電気機械11.9%、機械類10.7%、自動車6.9%、衣料5.3%である。食料品が輸出に占める割合は7.6%、輸入では9.0%。主な貿易相手国はEC諸国、特に旧宗主国であったフランスと支配を受けたイタリアである。輸出入ともこの2国が約5割の比率を占める。金額別では輸出相手国が、フランス、イタリア、ドイツ、隣国リビア、ベルギー、輸入相手国がフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギーである。 A1、A2、A3、A4の4つが主要路線となっている。また、一部区間はトランスアフリカンハイウェイ(英語版)の一部分となっている。 北部を中心に、チュニジア鉄道が敷設されている。 首都チュニスにはチュニス・カルタゴ国際空港があるほか、ヨーロッパではリゾート地として知られるエンフィダ(英語版)にはエンフィダ=ハンマメット国際空港が、ジェルバ島にはジェルバ=ザルジス国際空港があり、いずれの空港も主として周辺国やヨーロッパの都市と結ばれている。 イスラーム国だが世俗的な国家であり、独立と同年の1956年、ブルギーバ初代大統領の「国家フェミニズム」の下で制定された家族法によって、トルコと同様に一夫多妻制や公共の場でのスカーフやヴェールの着用は禁止されている。続くベン・アリー大統領もフェミニズム政策を踏襲し、1993年には婚姻後の夫婦共有財産も個別財産として選択可能となった。家族法制定から現在まで女性の社会進出が著しく、アラブ世界で最も女性の地位が高い国となっている。イスラム世界では珍しく、チュニジアは中絶が法律で認められている国である。1956年の独立時から2007年までの人口増加が約2.3倍である。 住民はアラブ人が98%である。チュニジアの先住民はベルベル人やフェニキア人だったが、7世紀のアラブによる征服以降、住民の混血とアラブ化が進んだため、民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りはヨーロッパ人が1%、ベルベル語を話すベルベル人、ユダヤ人、黒人などその他が1%である。 アラビア語が公用語であるが、独立前はフランスの保護下にあったことからフランス語も広く普及しており、教育、政府、メディア、ビジネスなどで使われるなど準公用語的な地位となっている。教授言語はフランス語とアラビア語の両方となっており、大多数の国民がフランス語を話すことが可能である。アラビア語チュニジア方言はマルタ語に近い。また、ごく少数ながらベルベル語の一つであるシェルハも話されている。 イスラームが国教であり、国民の98%はスンナ派で、僅かながらイバード派の信徒も存在する。その他、ユダヤ教、キリスト教(主にカトリック、ギリシャ正教、プロテスタント)。イスラームも比較的戒律は緩やかで、女性もヴェールをかぶらず西洋的なファッションが多く見られる。1980年代にイスラーム主義の興隆と共にヴェールの着用も復古したが、1990年代に隣国アルジェリアでイスラーム主義者と軍部の間で内戦が勃発すると、イスラーム主義は急速に衰退し、ヴェールの着用も衰退した。 チュニジア南部のジェルバ島はユダヤ人居住区の飛び地となっており、島のエル・グリーバ・シナゴーグは世界で最も古いシナゴーグの内の一つである。 6歳から16歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となっており、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から正則アラビア語の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から英語を教わる。2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は74.3%(男性:83.4% 女性:65.3%)である。 主な高等教育機関としては、ザイトゥーナ大学(737年)、チュニス大学(1960年)、カルタゴ大学(1988年)、エル・マナール大学(2000年)などが挙げられる。名門リセ(高校)としてはサディーキ校(1875年)も挙げられる。 2021年03月25日時点で日本国外務省は「チュニジアの一般的な治安は比較的安定していますが、デモ隊と治安部隊との衝突、テロ事件の発生、テロ組織の摘発等が散見されますので、治安情勢には十分注意してください。近年では、凶器を使った強盗事件やひったくり事件等、日本人が犯罪の被害に遭うケースもみられます。特に、外国人旅行者は標的となりやすいので、所持品(多額の現金、デジタルカメラ、スマートフォン、旅券等)の管理には十分な注意が必要です。」としている。 代表的なチュニジア料理としてはクスクス(粒状のパスタ)、ブリック、ラブレビなどが挙げられる。チュニジアはイスラーム国であるが、ワインの生産国でもある。チュニジア・ワインにはフランスワインの影響によりロゼワインも多い。マツの実入りのミントティーがあり、オレンジ、ゼラニウムなどの花の蒸留水フラワーウォーターはコーヒー、菓子に入れる。 大多数のチュニジア人の母語はアラビア語である。。現代の代表的なチュニジア出身の作家としては、アルベール・メンミ、アブデルワハブ・メデブ、ムスタファ・トゥリリなどが挙げられる。 中世において「イスラーム世界最大の学者」と呼ばれるチュニス出身のイブン・ハルドゥーンは『歴史序説』を著わした。ハルドゥーンは『歴史序説』にてアサビーヤ(集団における人間の連帯意識)を軸に文明の発達や没落を体系化し、独自の歴史法則理論を打ち立てた。ハルドゥーンは労働が富を生産するとの概念を、18世紀に労働価値説を唱えたアダム・スミスに先んじて説くなど天才的な学者であった。 チュニジアは映画制作の盛んな国ではないが、チュニジア出身の映像作家としては『チュニジアの少年』(1990年)のフェリッド・ブーゲディールや、『ある歌い女の思い出』(1994年)のムフィーダ・トゥラートリなどの名が挙げられる。 1966年から二年に一度、カルタゴ映画祭が開催されている。 15世紀にスペイン人が移民した後にアンダルシアから輸入された音楽の一種である「マルーフ」で最もよく知られている。 チュニジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件、自然遺産が1件存在する。 1907年よりアマチュアリーグが開催されており、1921年にフランスサッカー連盟(FFF)と提携しプロリーグのチュニジア・リーグが創設された。名門クラブのエスペランス・チュニスが同リーグを支配しており、7連覇を含むリーグ最多31度の優勝を達成している。また、エトワール・サヘルが "FIFAクラブワールドカップ2007" で4位の成績を収めている。サッカーチュニジア代表はFIFAワールドカップには6度出場しているものの、いずれもグループリーグ敗退となっている。アフリカネイションズカップでは、自国開催となった2004年大会で初優勝を果たした。 チュニジアの国技はサッカーであり、圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。サッカー以外では陸上競技が盛んで、モハメド・ガムーディが1968年のメキシコシティー五輪・男子5000mで、金メダルなどメダル4個を獲得した。また、競泳ではウサマ・メルーリが2008年の北京五輪・男子1500m自由形で、アハメド・ハフナウィが2021年の東京五輪・男子400m自由形で、それぞれ金メダルを獲得している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、アラビア語: الجمهورية التونسية)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東・東にはイタリア領土のパンテッレリーア島やランペドゥーザ島、シチリア島がある。地中海の島国マルタとも近い。首都はチュニス。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合、アラブ・マグレブ連合に加盟している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "同国は歴史上、最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来にもなった地域である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正式名称は、الجمهورية التونسية(ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya at-Tūnisīya、片仮名転写 : アル・ジュムフーリーヤ・ッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、تونس(Tūnis)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、チュニジア共和国。通称、チュニジア。テュニジアと表記されることもある。漢字表記は、突尼斯。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アラビア語名のتونس(Tūnis、トゥーニス) は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス(Thunes)で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus に地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年ごろにはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州(前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa、314年 - 432年)になるが、ゲルマン系ヴァンダル人が439年に侵入。カルタゴにヴァンダル王国(439年 - 534年)が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた(Praetorian prefecture of Africa、534年 - 590年)。7世紀にはイスラム教のもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王カーヒナ(英語版)と東ローマ帝国の連合軍を破り(カルタゴの戦い (698年)(英語版))、北アフリカをイスラム世界に編入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝イフリキーヤ(665年 - 744年)、フィリッドイフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝のカリフに臣従する形でカイラワーンのアグラブ朝(800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスにハフス朝(1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった(チュニス征服 (1535年))。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ハフス朝は1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方(英語版)(1574年 - 1705年)として併合された。オスマン帝国時代の初期には「パシャ」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ列強による侵略でオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ」はイスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになり、1705年にはフサイン朝チュニス君侯国(1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ(英語版)時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。ハイルディーン・パシャ(英語版)などの活躍により1861年には憲法(チュニジアの憲法(英語版))が制定され、サドク・ベイ(英語版)はイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約(英語版)、1883年のラ・マルサ協定(英語版、フランス語版)でフランスの保護領フランス領チュニジア(1881年 - 1956年)となった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1907年にはチュニジア独立を目的とする結社「青年チュニジア党」が創設され、1920年には「憲政党(英語版)」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦では北アフリカ戦線の一部となり、イタリアに近いため枢軸国が最後まで拠点とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党(英語版)」はチュニジアの完全独立を要求した。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は戦後の1956年、ベイのムハンマド8世アル・アミーン(英語版)を国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、チュニジア王国(1956年 - 1957年)が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更した。しかし長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1991年の湾岸危機ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。一方で若者の失業率は30%前後と高く、国民の不満は後述するジャスミン革命などにつながった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる。この革命を発端に、政変活動が中東・北アフリカ地域に瞬く間に広がる(アラブの春)も、他国ではことごとく失敗し(アラブの冬)、チュニジアは唯一の成功例となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2011年10月23日、革命後初の選挙(定数217)が行われた。穏健派の「ナフダ」が第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、エタカトルが20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "11月19日制憲議会選挙で第1党になったアンナハダ(ナフダ)と二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリ(アンナハダ)を次期首相に選出することで合意したと第2党の共和国のための会議(共和国会議、CPR)当局者が明らかにした。また、次期大統領にはモンセフ・マルズーキ(CPR党首)、議会議長に第3党の「労働・自由民主フォーラム」(FDTL、通称エタカトル)のムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2013年2月、野党党首暗殺事件の責任を取り、ジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月アリー・ラライエド(英語版)内相に組閣要請した。7月にはラライエドもまた繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け、混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2014年1月26日、制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2019年10月に就任したカイス・サイード大統領は、経済低迷や新型コロナウイルス感染症拡大への国民の不満を背景に、2021年7月25日に議会の停止と首相解任を発表した。2022年2月には、司法の独立のためにジャスミン革命後に設立された最高司法評議会を解散させて暫定司法評議会を置いて裁判官の解任権を得たと主張し、同年6月1日に裁判官57人を「腐敗し、テロリストを擁護している」という理由で解任した。サイード政権は、2014年憲法に代えて大統領権限を強化する憲法改正案を発表して同年7月25日の国民投票では94.5%の賛成(暫定結果)を得たが、イスラム主義勢力と世俗派を含めて投票ボイコット運動が展開されたこともあって投票率は30%強にとどまり、欧州連合(EU)は投票率の低さとジャスミン革命以来の民主主義の維持を注視していることを表明した。なお首相には、2021年10月、アラブ・マグリブ・チュニジアのすべてで初の女性首相であるナジュラ・ブデンが就任している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "チュニジアの政体は共和制、大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は1959年6月1日に公布(1988年7月12日および2002年5月26日改正)されたもの。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は行政の最高責任者とされ、首相・閣僚・各県の知事の任免権、チュニジア軍の最高指揮権、非常事態宣言の発令権など強大な権力を与えられている。首相および閣僚評議会(内閣に相当)は大統領の補佐機関に過ぎない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "立法府は一院制の人民議会のみで構成されている。定数は217議席で、議員の任期は5年。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2011年のジャスミン革命以前は、2002年の憲法改正により新設された上院と、従来立法府として存在してきた代議院(下院に相当)の両院制で構成されていた。上院の定数は126議席で、うち85議席は地方議会による間接選挙により選出され、41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で、全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年、代議院が5年である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "チュニジアでは1988年の憲法改正で複数政党制が認められたが、2011年の政権崩壊まで与党立憲民主連合(RDC)が事実上、チュニジア政治を担っていた。RDCは1988年まで社会主義憲政党(PSD)という名称で一党支配を行っており、複数政党制承認後にRDCと改称した後もチュニジアの支配政党であり続け、2011年まで一度も政権交代は成されていなかった。政権崩壊後の選挙でアンナハダが与党になった。野党で比較的有力なものには民主社会運動(MDS)と人民統一党(PUP)がある。他に非合法化されたチュニジア共産党の流れを組むエッタジディード(変革)運動があったが、同党は他勢力と統合し「社会民主の道運動」(アル・マサール)になっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所が担っている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "独立直後から暫くはフランス軍のビゼルト基地問題や、アルジェリア戦争への対応を巡ってフランスと対決する姿勢で接したが、1970年代以降は親フランス、親西側政策が続いている。1980年代に入るとアラブ連盟の本部がエジプトの首都カイロからチュニスに移転し、事務局長にチュニジア人が選ばれ、1990年代のエジプトの連盟復帰までアラブ諸国の盟主にもなった。初代大統領ブルギーバはセネガルの初代大統領サンゴールらと共にフランコフォニー国際組織の設立に尽力した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によってリビアと合邦が宣言され、アラブ・イスラム共和国の成立が宣言されたが、この連合はすぐに崩壊した。その後、リビアはチュニジアと対立し、1980年のガフサ事件ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力がガフサの街を襲撃し、多くの被害を出した。1985年にはリビア軍がチュニジアとの国境付近に集結し、チュニジアを威嚇した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "パレスチナ問題を巡っては、チュニジアは僅かながら第三次中東戦争と第四次中東戦争にアラブ側で派兵した。1982年にパレスチナ解放機構(PLO)の本部がチュニスに移転。1985年にはPLOと対立するイスラエルの空軍による爆撃を受けた(木の脚作戦)。オスロ合意後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアにはパレスチナ人難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを国家承認しているが、関係は決して良好とは言えず、ガザ紛争 (2008年-2009年)においてはイスラエルを非難している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "在留日本人数 - 136名(2018年10月,在留邦人統計) 在日チュニジア人数 - 907名(2019年12月,在留外国人統計)", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "チュニジア軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "兵器体系はかつて中国から購入した哨戒艇などを除いて殆ど西側に準じている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "国土は、北端から南端までが約850キロメートル、東の沿岸から西方の国境まで約250キロメートルと細長く、南北に伸び、南端は先の細いとがった形である。東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の3つに大きく分けられる。北部地中海沿岸にはテル山地があり、その谷間を北東にメジェルダ川が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な穀倉地帯になっている。東側の地中海に面した海岸線は約1300キロメートルにわたる。北からチュニス湾、ハンマメット湾、ガベス湾と並び、良港も多い。この沿岸部に古くから定住民が集住した。その南には、アルジェリアから続くアトラス山脈中の国内最高峰であるシャンビ山(1,544m)以東がドルサル山地となっている。ドルサル山地は地中海からの湿気を遮るため、ドルサル山地より南はガベス湾までステップ気候になっていて、西部の標高400m〜800mの地域をステップ高原、東部の標高400m以下の地をステップ平原と呼ぶ。ステップ高原の南には平方5000kmのジェリド湖(塩湖)がある。この塩湖の北にある町メトラーウィやその西のルダイフでは19世紀の末からリン鉱石の採掘が開始され、現在ではその産出量は世界第5位で、チュニジアの主要な輸出品ともなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ガベス湾の沖にはジェルバ島が存在する。南半分はサハラ砂漠になっており、マトマタから南東にダール丘陵がリビアまで続く。ダール丘陵から東には標高200m以下のジェファラ平野が広がる。この砂漠は風によって絶えず景色が変化する砂砂漠(エルグ)、ごつごつした石や砂利と乾燥に強い植物がわずかにみられる礫砂漠、または植生のない岩肌がむき出しになっている岩石砂漠が広がっており、砂砂漠は一部であり、大部分は礫砂漠と岩石砂漠で占められている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分によると、北部の地中海沿岸部は地中海性気候となり、地中海沿岸を南に行くとスファックス付近からステップ気候になる。さらに南のサハラ砂漠は砂漠気候となる。春から夏にかけてサハラ砂漠から北にシロッコと呼ばれる熱風が吹き出す。北部では冬に雪が降ることがある。チュニスの年間降水量は470mm前後だが、北部のビゼルトでは1,000mmを超える。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "チュニジアには24のウィラーヤ(県)(アラビア語表記:ولاية)に分かれている。各県の県知事は大統領による任命制。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2000年代からチュニジアは経済の自由化と民営化のさなか、自らが輸出指向の国であることに気づいており、1990年代初期から平均5%の国内総生産(GDP)成長でありながらも、政治的に結びついたエリートが恩恵を受ける汚職に苦しんだ。チュニジアには様々な産業があり、農業や工業、石油製品から、観光にまで及ぶ。2008年ではGDPは410億ドル(公式為替レート)もしくは820億ドル(購買力平価)であった。農業分野はGDPの11.6%、工業は25.7%、サービス業は62.8%を占める。工業分野は主に衣類と履物類の製造や自動車部品と電子機器の生産からなる。チュニジアは過去10年間で平均5%の成長を成し遂げたが、特に若年層の高い失業率に苦しんでいる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "チュニジアは2009年には、世界経済フォーラムによってアフリカにおいて最も競争力のある経済と位置づけられた。全世界でも40位であった。チュニジアはエアバスやヒューレットパッカードなどの多くの国際企業の誘致に成功した 。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "観光は2009年にはGDPの7%と37万人分の雇用を占めていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "変わらず欧州連合(EU)諸国がチュニジアの最大の貿易パートナーであり、現在チュニジアの輸入の72.5%、チュニジアの輸出の75%を占めている。チュニジアは地中海沿岸でヨーロッパ連合の最も確固とした貿易パートナーの一つであり、EUの30番目に大きい貿易パートナーに位置づけている。チュニジアは1995年7月に、EUとヨーロッパ連合連合協定(英語版)を締結した最初の地中海の国である。ただし、効力が生じる日の前に、チュニジアは両地域間の貿易で関税を撤廃し始めた。チュニジアは2008年に工業製品への関税撤廃を完了し、そのためEUとの自由貿易圏に入った、最初の地中海沿岸の国になった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "チュニス・スポーツ・シティ(英語版)はチュニスで建設されている完全なスポーツ都市である。集合住宅に加え多くのスポーツ施設からなるこの都市は50億ドル(約500億円)かけてUAEのBukhatirグループによって建設される。チュニス・ファイナンシャル・ハーバーは30億ドル(約300億円)の開発利益を見込むプロジェクトにおいてチュニス湾にある北アフリカで初めてのオフショア金融センターになる。チュニス・テレコム・シティはチュニスにおけるITハブを作成する30億ドル(約300億円)規模のプロジェクトである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "チュニジア経済には小麦とオリーブを中核とする歴史のある農業、原油とリン鉱石に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。そのため他のアフリカ諸国より工業基盤は発達しており、1人当たりのGDPは約4000ドルでありモロッコやアルジェリアと共にアジアの新興国とほぼ同じレベルである。急速な成長を見せているのは欧州諸国の被服製造の下請け産業である。貿易依存度は輸出34.4%、輸入45.2%と高く、狭い国内市場ではなく、フランス、イタリアを中心としたEU諸国との貿易の占める比率が高い。2003年時点の輸出額80億ドル、輸入額109億ドルの差額を埋めるのが、24億ドルという観光収入である。国際的には中所得国であり、アフリカ開発銀行(ADB)の本部が置かれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "フランスやリビアに出稼ぎしているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの、農地の占める割合が国土の31.7%に達している。ヨーロッパに比べて早い収穫期を生かした小麦の栽培と輸出、乾燥気候にあったオリーブと野菜栽培が農業の要である。食糧自給率は100%を超えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "北部は小麦栽培と畜産が盛ん。ヒツジを主要な家畜とする畜産業は北部に集中するが、農業に占める比率は中部、南部の方が高い。2005年時点の生産高を見ると、世界第5位のオリーブ(70万トン、世界シェア4.8%)、世界第10位のグレープフルーツ(7.2万トン、2.0%)が目を引く。ナツメヤシ(13万トン、1.8%)、らくだ23万頭(1.2%)といった乾燥気候を生かした産物・家畜も見られる。主要穀物では小麦(136万トン)が北部で、大麦(44万トン)は主に南部で生産されている。生産量ではトマト(92万トン)も目立つ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "チュニジア鉱業の中核は、世界第5位のリン鉱石(リン酸カルシウム、240万トン、5.4%)、主な鉱山は国土の中央部、ガフサ近郊にある。油田は1964年にイタリア資本によって発見され、南部のボルマ近郊の油田開発が進んでいる。一方、リビア国境に近いガベス湾の油田はあまり進んでいない。2004年時点の採掘量は、原油317万トン、天然ガス82千兆ジュールである。エネルギー自給率も100%を超えている。このほか、亜鉛、銀、鉄、鉛を採掘している。これはプレート移動によって形成された褶曲山脈であるアトラス山脈に由来する。全体的な鉱業の様相はアトラス山脈西端に位置する国モロッコとよく似ている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "チュニジア工業は農業生産物の加工に基づく食品工業、鉱物採取と連動した化学工業、加工貿易を支える機械工業と繊維業からなる。食品工業は、6000万本にも及ぶオリーブから採取したオリーブ油と、加工野菜(缶詰)が中心である。オリーブ油の生産高は世界第4位(15万トン、6.4%)だ。化学工業は主として肥料生産とその派生品からなる。世界第3位のリン酸(63万トン、3.7%)、同第6位の硫酸(486万トン、4.8%)、同第7位のリン酸肥料(97万トン、2.9%)である。主な工業都市は首都チュニス。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "輸出に占める工業製品の比率が81%、輸入に占める工業製品の比率が77.8%であるため、加工貿易が盛んに見える。これは、繊維産業と機械産業によるものだ。輸出を品目別に見ると、衣料37.0%、電気機械11.9%、原油5.4%、化学肥料4.7%、織物3.7%である。一方、輸入は、繊維14.7%、電気機械11.9%、機械類10.7%、自動車6.9%、衣料5.3%である。食料品が輸出に占める割合は7.6%、輸入では9.0%。主な貿易相手国はEC諸国、特に旧宗主国であったフランスと支配を受けたイタリアである。輸出入ともこの2国が約5割の比率を占める。金額別では輸出相手国が、フランス、イタリア、ドイツ、隣国リビア、ベルギー、輸入相手国がフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギーである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "A1、A2、A3、A4の4つが主要路線となっている。また、一部区間はトランスアフリカンハイウェイ(英語版)の一部分となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "北部を中心に、チュニジア鉄道が敷設されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "首都チュニスにはチュニス・カルタゴ国際空港があるほか、ヨーロッパではリゾート地として知られるエンフィダ(英語版)にはエンフィダ=ハンマメット国際空港が、ジェルバ島にはジェルバ=ザルジス国際空港があり、いずれの空港も主として周辺国やヨーロッパの都市と結ばれている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "イスラーム国だが世俗的な国家であり、独立と同年の1956年、ブルギーバ初代大統領の「国家フェミニズム」の下で制定された家族法によって、トルコと同様に一夫多妻制や公共の場でのスカーフやヴェールの着用は禁止されている。続くベン・アリー大統領もフェミニズム政策を踏襲し、1993年には婚姻後の夫婦共有財産も個別財産として選択可能となった。家族法制定から現在まで女性の社会進出が著しく、アラブ世界で最も女性の地位が高い国となっている。イスラム世界では珍しく、チュニジアは中絶が法律で認められている国である。1956年の独立時から2007年までの人口増加が約2.3倍である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "住民はアラブ人が98%である。チュニジアの先住民はベルベル人やフェニキア人だったが、7世紀のアラブによる征服以降、住民の混血とアラブ化が進んだため、民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りはヨーロッパ人が1%、ベルベル語を話すベルベル人、ユダヤ人、黒人などその他が1%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アラビア語が公用語であるが、独立前はフランスの保護下にあったことからフランス語も広く普及しており、教育、政府、メディア、ビジネスなどで使われるなど準公用語的な地位となっている。教授言語はフランス語とアラビア語の両方となっており、大多数の国民がフランス語を話すことが可能である。アラビア語チュニジア方言はマルタ語に近い。また、ごく少数ながらベルベル語の一つであるシェルハも話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "イスラームが国教であり、国民の98%はスンナ派で、僅かながらイバード派の信徒も存在する。その他、ユダヤ教、キリスト教(主にカトリック、ギリシャ正教、プロテスタント)。イスラームも比較的戒律は緩やかで、女性もヴェールをかぶらず西洋的なファッションが多く見られる。1980年代にイスラーム主義の興隆と共にヴェールの着用も復古したが、1990年代に隣国アルジェリアでイスラーム主義者と軍部の間で内戦が勃発すると、イスラーム主義は急速に衰退し、ヴェールの着用も衰退した。 チュニジア南部のジェルバ島はユダヤ人居住区の飛び地となっており、島のエル・グリーバ・シナゴーグは世界で最も古いシナゴーグの内の一つである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "6歳から16歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となっており、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から正則アラビア語の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から英語を教わる。2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は74.3%(男性:83.4% 女性:65.3%)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としては、ザイトゥーナ大学(737年)、チュニス大学(1960年)、カルタゴ大学(1988年)、エル・マナール大学(2000年)などが挙げられる。名門リセ(高校)としてはサディーキ校(1875年)も挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2021年03月25日時点で日本国外務省は「チュニジアの一般的な治安は比較的安定していますが、デモ隊と治安部隊との衝突、テロ事件の発生、テロ組織の摘発等が散見されますので、治安情勢には十分注意してください。近年では、凶器を使った強盗事件やひったくり事件等、日本人が犯罪の被害に遭うケースもみられます。特に、外国人旅行者は標的となりやすいので、所持品(多額の現金、デジタルカメラ、スマートフォン、旅券等)の管理には十分な注意が必要です。」としている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "代表的なチュニジア料理としてはクスクス(粒状のパスタ)、ブリック、ラブレビなどが挙げられる。チュニジアはイスラーム国であるが、ワインの生産国でもある。チュニジア・ワインにはフランスワインの影響によりロゼワインも多い。マツの実入りのミントティーがあり、オレンジ、ゼラニウムなどの花の蒸留水フラワーウォーターはコーヒー、菓子に入れる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "大多数のチュニジア人の母語はアラビア語である。。現代の代表的なチュニジア出身の作家としては、アルベール・メンミ、アブデルワハブ・メデブ、ムスタファ・トゥリリなどが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "中世において「イスラーム世界最大の学者」と呼ばれるチュニス出身のイブン・ハルドゥーンは『歴史序説』を著わした。ハルドゥーンは『歴史序説』にてアサビーヤ(集団における人間の連帯意識)を軸に文明の発達や没落を体系化し、独自の歴史法則理論を打ち立てた。ハルドゥーンは労働が富を生産するとの概念を、18世紀に労働価値説を唱えたアダム・スミスに先んじて説くなど天才的な学者であった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "チュニジアは映画制作の盛んな国ではないが、チュニジア出身の映像作家としては『チュニジアの少年』(1990年)のフェリッド・ブーゲディールや、『ある歌い女の思い出』(1994年)のムフィーダ・トゥラートリなどの名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1966年から二年に一度、カルタゴ映画祭が開催されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "15世紀にスペイン人が移民した後にアンダルシアから輸入された音楽の一種である「マルーフ」で最もよく知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "チュニジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件、自然遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1907年よりアマチュアリーグが開催されており、1921年にフランスサッカー連盟(FFF)と提携しプロリーグのチュニジア・リーグが創設された。名門クラブのエスペランス・チュニスが同リーグを支配しており、7連覇を含むリーグ最多31度の優勝を達成している。また、エトワール・サヘルが \"FIFAクラブワールドカップ2007\" で4位の成績を収めている。サッカーチュニジア代表はFIFAワールドカップには6度出場しているものの、いずれもグループリーグ敗退となっている。アフリカネイションズカップでは、自国開催となった2004年大会で初優勝を果たした。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "チュニジアの国技はサッカーであり、圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。サッカー以外では陸上競技が盛んで、モハメド・ガムーディが1968年のメキシコシティー五輪・男子5000mで、金メダルなどメダル4個を獲得した。また、競泳ではウサマ・メルーリが2008年の北京五輪・男子1500m自由形で、アハメド・ハフナウィが2021年の東京五輪・男子400m自由形で、それぞれ金メダルを獲得している。", "title": "スポーツ" } ]
チュニジア共和国、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東・東にはイタリア領土のパンテッレリーア島やランペドゥーザ島、シチリア島がある。地中海の島国マルタとも近い。首都はチュニス。
{{基礎情報 国 | 略名 = チュニジア | 日本語国名 = チュニジア共和国 | 公式国名 = {{lang|ar|'''الجمهورية التونسية'''}} | 国旗画像 = Flag of Tunisia.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Tunisia.svg|80px]] | 国章リンク = ([[チュニジアの国章|国章]]) | 標語 = {{lang|ar|''نظام، حرية، عدالة''}}<br /><small>(アラビア語: 秩序、自由、正義)</small> | 国歌 = [[祖国の防衛者|{{lang|ar|حماة الحمى}}]]{{ar icon}}<br>''祖国の防衛者''<br><center>[[ファイル:Humat al-Hima.ogg]] | 位置画像 = Tunisia (orthographic projection).svg | 公用語 = [[アラビア語]] | 首都 = [[チュニス]] | 最大都市 = チュニス | 元首等肩書 = [[チュニジアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[カイス・サイード]] | 首相等肩書 = [[チュニジアの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[アハメド・ハシャニ]] | 面積順位 = 89 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 163,610 | 水面積率 = 5% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 77 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 11,819,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/tn.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> | 人口密度値 = 76.1<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2019 | GDP値元 = 1149億3900万<ref name="economy">{{Cite web|last=IMF|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=744,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook|publisher=IMF|date=2021-10|accessdate=2021-11-6 }}</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 89 | GDP値MER = 391億6900万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 3,324.127<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 76 | GDP値 = 1304億8700万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 11,074.044<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 = [[フランス]]から<br />[[1956年]][[3月20日]] | 通貨 = [[チュニジア・ディナール]] | 通貨コード = TND | 時間帯 = (+1) | 夏時間 = (+2) 2005年 - | ISO 3166-1 = TN / TUN | ccTLD = [[.tn]] | 国際電話番号 = 216 | 注記 = }} '''チュニジア共和国'''(チュニジアきょうわこく、{{lang-ar|الجمهورية التونسية}})、通称'''チュニジア'''は、[[北アフリカ]]の[[マグリブ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。西に[[アルジェリア]]、南東に[[リビア]]と国境を接し、北と東は[[地中海]]に面する。地中海対岸の北東・東には[[イタリア]]領土の[[パンテッレリーア島]]や[[ランペドゥーザ島]]、[[シチリア島]]がある。地中海の[[島国]][[マルタ]]とも近い。首都は[[チュニス]]<ref name="日本国外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tunisia/data.html チュニジア共和国(Republic of Tunisia)基礎データ] 日本国外務省(2022年7月28日閲覧)</ref>。 == 概要 == [[アフリカ]]世界と[[地中海世界]]と[[アラブ諸国|アラブ世界]]の一員であり、[[アフリカ連合]]と[[アラブ連盟]]と[[地中海連合]]、[[アラブ・マグレブ連合]]に加盟している。 同国は歴史上、最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来にもなった地域である。 == 国名 == 正式名称は、{{lang|ar|'''الجمهورية التونسية'''}}(<small>ラテン文字転写</small> : al-Jumhūrīya at-Tūnisīya、<small>片仮名転写</small> : アル・ジュムフーリーヤ・ッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、{{lang|ar|'''تونس'''}}(Tūnis)。 日本語の表記は、'''チュニジア共和国'''。通称、'''チュニジア'''。'''テュニジア'''と表記されることもある。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は、'''突尼斯'''。 [[アラビア語]]名の{{lang|ar|'''&#1578;&#1608;&#1606;&#1587;'''}}(Tūnis、トゥーニス) は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は[[紀元前4世紀]]にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス(Thunes)で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus に地名語尾の -ia を付してつくられ、[[オスマン帝国]]による呼称に倣ったものである。 == 歴史 == {{Main|チュニジアの歴史}} === 古代 === 古代には[[フェニキア]]人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年ごろには[[カルタゴ]]([[紀元前814年|前814年]] - [[紀元前146年|前146年]])が建国され、[[地中海]]貿易で繁栄した。しかし[[イタリア]]からの新興勢力[[古代ローマ|ローマ]]と[[シチリア島]]の覇権を巡って[[紀元前264年]]から[[第一次ポエニ戦争]]を戦った後、[[第二次ポエニ戦争]]ではローマを滅亡寸前にまで追いやった[[ハンニバル・バルカ]]将軍の活躍もありながら[[スキピオ・アフリカヌス]]によって本国が攻略され、[[第三次ポエニ戦争]]で完全敗北し、[[紀元前146年]]に滅亡した。 === ローマ統治期 === 現在のチュニジアとリビアはローマ支配下の[[アフリカ属州]]([[紀元前146年|前146年]] - [[439年]])となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進み[[キリスト教]]も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、[[西ローマ帝国]]の管区([[:en:Diocese of Africa|Diocese of Africa]]、[[314年]] - [[432年]])になるが、[[ゲルマン人|ゲルマン系]][[ヴァンダル人]]が[[439年]]に侵入。カルタゴに[[ヴァンダル王国]]([[439年]] - [[534年]])が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には[[東ローマ帝国]]に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた([[:en:Praetorian prefecture of Africa|Praetorian prefecture of Africa]]、[[534年]] - [[590年]])。7世紀には[[イスラム教]]のもとに糾合した[[アラブ人]]が東方から侵入し、土着の[[ベルベル人]]の女王{{仮リンク|カーヒナ|en|Kahina}}と東ローマ帝国の連合軍を破り({{仮リンク|カルタゴの戦い (698年)|en|Battle of Carthage (698)}})、北アフリカを[[イスラム世界]]に編入した。 === イスラーム諸帝国期 === [[ウマイヤ朝]][[イフリキーヤ]]([[665年]] - [[744年]])、[[:en:Fihrids|フィリッド]]イフリキーヤ([[745年]] - [[757年]])、[[ハワーリジュ派|ハワーリジュ]]イフリキーヤ([[757年]] - [[761年]])、[[アッバース朝]]イフリキーヤ([[761年]] - [[800年]])と属領に位置づけられていたチュニジアに、[[アッバース朝]]の[[カリフ]]に臣従する形で[[カイラワーン]]の[[アグラブ朝]]([[800年]] - [[909年]])が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げた[[イスマーイール派]]の[[ファーティマ朝]]([[909年]] - [[1171年]])がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンには[[ズィール朝]]([[983年]] - [[1148年]])が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばした[[ムワッヒド朝]]([[1130年]] - [[1269年]])の支配に置かれた後に、1229年に[[チュニス]]に[[ハフス朝]]([[1229年]] - [[1574年]])が成立した。ハフス朝は西は[[アルジェ]]から東は[[トリポリ]]にまで至る領土を統治し、『[[歴史序説]]』を著した[[イブン・ハルドゥーン]]などが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭に[[オスマン帝国]]の支配から逃れるために[[スペイン]]の属国になった([[チュニス征服 (1535年)]])。 {{Main|{{仮リンク|オスマン時代のチュニジアの歴史|en|History of Ottoman-era Tunisia}}}} === オスマン帝国統治期 === ハフス朝は[[1574年]]にオスマン帝国によって滅ぼされ{{仮リンク|オスマン・チュニス|en|Ottoman Tunis|label=オスマン領チュニス地方}}([[1574年]] - [[1705年]])として併合された。オスマン帝国時代の初期には「[[パシャ]]」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ[[列強]]による侵略でオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「[[ベグ|ベイ]]」は[[イスタンブール]]のオスマン政府から独立した統治を行うようになり、[[1705年]]には[[チュニジア王国|フサイン朝]][[チュニス君侯国]]([[1705年]] - [[1881年]])がチュニジアに成立した。 [[ファイル:Sadok Bey.jpg|180px|thumb|1861年に制定された[[憲法]]により、イスラーム世界およびアフリカ世界初の[[立憲君主]]となった[[サドク・ベイ]](位:1859年~1882年)。]] フサイン朝は[[フランス]]支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位した{{仮リンク|アフメド・ベイ|en|Ahmad I ibn Mustafa}}時代に始められた西欧よりの政策と[[富国強兵]]策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。{{仮リンク|ハイルディーン・パシャ|en|Hayreddin Pasha}}などの活躍により1861年には憲法({{仮リンク|チュニジアの憲法|en|Constitution of Tunisia#Constitution of 1861}})が制定され、{{仮リンク|サドク・ベイ|en|Muhammad III as-Sadiq}}はイスラーム世界およびアフリカ世界初の[[立憲君主]]となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。 === フランス植民地期 === [[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによる[[チュニジア侵攻]]が行われ、[[1881年]]の{{仮リンク|バルドー条約|en|Treaty of Bardo}}、[[1883年]]の{{仮リンク|ラ・マルサ協定|en|Conventions of La Marsa|fr|Conventions de la Marsa}}でフランスの保護領[[フランス領チュニジア]]([[1881年]] - [[1956年]])となった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。 [[ファイル:Bourguiba photo officielle.jpg|180px|thumb|left|初代大統領[[ハビーブ・ブルギーバ]]]] [[1907年]]にはチュニジア独立を目的とする結社「[[青年チュニジア党]]」が創設され、[[1920年]]には「{{仮リンク|憲政党 (チュニジア)|label=憲政党|en|Destour}}」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。 [[第二次世界大戦]]では[[北アフリカ戦線]]の一部となり、イタリアに近いため[[枢軸国]]が最後まで拠点とした。 === 独立 === [[ハビーブ・ブルギーバ]]の「{{仮リンク|新憲政党|en|Neo Destour}}」はチュニジアの完全独立を要求した。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は戦後の[[1956年]]、ベイの{{仮リンク|ムハンマド8世アル・アミーン|en|Muhammad VIII al-Amin}}を国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、[[チュニジア王国]]([[1956年]] - [[1957年]])が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。[[大統領制]]を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは[[1959年]]に憲法を制定し、[[社会主義]]政策を採るが、1970年代には[[自由主義]]に路線を変更した。しかし長期政権の中、[[ゼネスト]]と食糧危機など社会不安が高まり、[[1987年]]には無血[[クーデター]]が起こり、[[ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー|ベン=アリー]]首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。 === その後 === [[1991年]]の[[湾岸戦争#湾岸危機(開戦までの経緯)|湾岸危機]]では[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアで[[イスラーム主義]]組織による[[テロ]]が繰り広げられ、[[内戦]]に発展したため([[アルジェリア内戦]])、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。 現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健な[[世俗主義|ソフトイスラム]]に属する国であり、[[中東]]と[[西洋]]のパイプ役を果たしている。[[観光地]]としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。一方で若者の失業率は30%前後と高く、国民の不満は後述する[[ジャスミン革命]]などにつながった。 === 民主化運動 === 2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出した[[ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー|ベン=アリー]]大統領の後任としてまず[[モハメッド・ガンヌーシ]]首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に[[憲法評議会]]は規定に基づき下院議長の[[フアド・メバザ]]を暫定大統領に任命。この一連の事件は[[ジャスミン革命]]と呼ばれる。この革命を発端に、政変活動が中東・北アフリカ地域に瞬く間に広がる([[アラブの春]])も、他国ではことごとく失敗し([[アラブの冬]])、チュニジアは唯一の成功例となった<ref name="日経産業20220710">【グローバルViews】「アラブの春」成功のチュニジア 民主化逆行、カギ握る労組『[[日経産業新聞]]』2022年7月20日グローバル面</ref>。 [[2011年]][[10月23日]]、革命後初の選挙(定数217)が行われた。穏健派の「[[ナフダ]]」が第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、[[エタカトル]]が20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。 [[11月19日]]制憲議会選挙で第1党になったアンナハダ(ナフダ)と二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリ(アンナハダ)を次期首相に選出することで合意したと第2党の[[共和国のための会議]](共和国会議、CPR)当局者が明らかにした。また、次期大統領にはモンセフ・マルズーキ(CPR党首)、議会議長に第3党の「労働・自由民主フォーラム」(FDTL、通称エタカトル)のムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。 <ref>[http://mainichi.jp/select/world/mideast/archive/news/2011/11/23/20111123ddm007030095000c.html 「チュニジア:連立政権3党が権力配分に合意」][[毎日新聞]](2011年11月23日)</ref> [[2013年]][[2月]]、野党党首暗殺事件の責任を取り、ジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月{{仮リンク|アリー・ラライエド|en|Ali Laarayedh}}内相に組閣要請した。7月にはラライエドもまた繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け、混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明<ref name="jiji">{{Cite web|和書|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2013073000102|title=12月総選挙の意向表明=混乱収拾図る-チュニジア首相|date=2013-07-30|accessdate=2013-07-30|publisher=[[時事通信|時事ドットコム]]}}</ref>。 [[2014年]][[1月26日]]、制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。 [[2019年]]10月に就任した[[カイス・サイード]]大統領<ref name="日本国外務省"/>は、経済低迷や[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]拡大への国民の不満を背景に、2021年7月25日に議会の停止と首相解任を発表した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3358461 「チュニジア大統領、議会を停止 首相を解任」][[フランス通信社|AFP]](2021年7月26日)2022年7月28日閲覧</ref><ref name="日経産業20220710"/>。2022年2月には、[[司法の独立]]のためにジャスミン革命後に設立された最高司法評議会を解散させて暫定司法評議会を置いて裁判官の解任権を得たと主張し、同年6月1日に裁判官57人を「腐敗し、テロリストを擁護している」という理由で解任した<ref name="日経産業20220710"/>。サイード政権は、2014年憲法に代えて大統領権限を強化する憲法改正案を発表して同年7月25日の国民投票では94.5%の賛成(暫定結果)を得たが、イスラム主義勢力と世俗派を含めて投票ボイコット運動が展開されたこともあって投票率は30%強にとどまり、[[欧州連合]](EU)は投票率の低さと[[ジャスミン革命]]以来の民主主義の維持を注視していることを表明した<ref>[https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/07/c1ea9d7770857125.html#:~:text=%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A77%E6%9C%8825,%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%82 憲法改正を問う国民投票が実施、賛成9割超(チュニジア)][[日本貿易振興機構|JETRO]]ビジネス短信(2022年7月28日)同日閲覧</ref>。なお首相には、2021年10月、アラブ・マグリブ・チュニジアのすべてで初の女性首相である[[ナジュラ・ブデン]]が就任している<ref name="cnn">{{Cite web |author=Salem |first=Mostafa |date=September 29, 2021 |title=Tunisia's president appoints woman as prime minister in first for Arab world |url=https://www.cnn.com/2021/09/29/africa/tunisia-prime-minister-najla-bouden-romdhane-intl/index.html |access-date=2021-09-29 |website=CNN}}</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Tunisian Constituent Assembly - Ennahda group.jpg|thumb|チュニジア議会]] {{main|{{仮リンク|チュニジアの政治|ar|سياسة_تونس|en|Politics of Tunisia}}}} チュニジアの[[政治体制|政体]]は[[共和制]]、[[大統領制]]を採用する立憲国家である。現行[[憲法]]は[[1959年]][[6月1日]]に公布([[1988年]][[7月12日]]および[[2002年]][[5月26日]]改正)されたもの。 === 元首・行政 === {{See also|チュニジアの大統領|チュニジアの首相}} [[元首|国家元首]]である[[大統領]]は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は[[行政]]の最高責任者とされ、[[首相]]・[[閣僚]]・各県の[[知事]]の任免権、[[チュニジア軍]]の最高指揮権、[[非常事態宣言]]の発令権など強大な権力を与えられている。首相および'''閣僚評議会'''([[内閣]]に相当)は大統領の補佐機関に過ぎない。 === 立法 === [[立法府]]は[[一院制]]の[[人民議会 (チュニジア)|人民議会]]のみで構成されている。定数は217議席で、議員の任期は5年。 [[2011年]]の[[ジャスミン革命]]以前は、[[2002年]]の憲法改正により新設された上院と、従来立法府として存在してきた代議院(下院に相当)の[[両院制]]で構成されていた。上院の定数は126議席で、うち85議席は地方議会による間接選挙により選出され、41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で、全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年、代議院が5年である。 === 政党 === {{See also|チュニジアの政党}} チュニジアでは[[1988年]]の憲法改正で[[複数政党制]]が認められたが、[[2011年]]の政権崩壊まで与党[[立憲民主連合]](RDC)が事実上、チュニジア政治を担っていた。RDCは[[1988年]]まで'''[[社会主義憲政党]]'''(PSD)という名称で一党支配を行っており、複数政党制承認後にRDCと改称した後もチュニジアの支配政党であり続け、2011年まで一度も政権交代は成されていなかった。政権崩壊後の選挙で[[ナフダ|アンナハダ]]が与党になった。野党で比較的有力なものには[[民主社会運動]](MDS)と[[人民統一党]](PUP)がある。他に非合法化された[[チュニジア共産党]]の流れを組むエッタジディード(変革)運動があったが、同党は他勢力と統合し「社会民主の道運動」(アル・マサール)になっている。 過去にも[[イスラーム主義]]政党も存在したが、[[共産党]]と同様に結党が禁じられていた。 === 司法 === [[司法]]権は[[最高裁判所]]が担っている。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|チュニジアの国際関係|ar|علاقات_تونس_الخارجية|en|Foreign relations of Tunisia}}}} 独立直後から暫くは[[フランス軍]]の[[ビゼルト]]基地問題や、[[アルジェリア戦争]]への対応を巡ってフランスと対決する姿勢で接したが、1970年代以降は親フランス、親西側政策が続いている。1980年代に入ると[[アラブ連盟]]の本部が[[エジプト]]の首都[[カイロ]]からチュニスに移転し、事務局長にチュニジア人が選ばれ、1990年代のエジプトの連盟復帰までアラブ諸国の盟主にもなった。初代大統領ブルギーバは[[セネガル]]の初代大統領[[レオポール・セダール・サンゴール|サンゴール]]らと共に[[フランコフォニー国際組織]]の設立に尽力した。 1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によって[[リビア]]と合邦が宣言され、[[アラブ・イスラム共和国]]の成立が宣言されたが、この連合はすぐに崩壊した。その後、リビアはチュニジアと対立し、1980年の[[ガフサ事件]]ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力が[[ガフサ]]の街を襲撃し、多くの被害を出した。1985年には[[リビア軍]]がチュニジアとの国境付近に集結し、チュニジアを威嚇した。 [[パレスチナ問題]]を巡っては、チュニジアは僅かながら[[第三次中東戦争]]と[[第四次中東戦争]]にアラブ側で派兵した。1982年に[[パレスチナ解放機構]](PLO)の本部がチュニスに移転。1985年にはPLOと対立する[[イスラエル空軍|イスラエルの空軍]]による爆撃を受けた([[木の脚作戦]])。[[オスロ合意]]後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアには[[パレスチナ人]]難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを[[国家承認]]しているが、関係は決して良好とは言えず、[[ガザ紛争 (2008年-2009年)]]においてはイスラエルを非難している。 === 日本との関係 === {{main|日本とチュニジアの関係}} 在留日本人数 - 136名(2018年10月,在留邦人統計)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=チュニジア基礎データ|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tunisia/data.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|accessdate=2020-11-06|language=ja}}</ref> 在日チュニジア人数 - 907名(2019年12月,在留外国人統計)<ref name=":0" /> *2017年、元[[明治大学]]生の[[高橋佑規]]がチュニジアのバラエティ番組に出場し[[コント]]を披露したところ、評判となり、多数の番組に出演。アジア人の象徴的呼称が[[ジャッキー・チェン]]から高橋に変化するほどの社会現象を引き起こした<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000480402.pdf|title= チュニジアで国民的人気を得た日本人|publisher= 日本国外務省|accessdate=2021-10-09}}</ref>。 ; 駐日チュニジア大使館 {{Main|駐日チュニジア大使館}} *住所:[[東京都]][[千代田区]][[九段南]]三丁目6-6 *アクセス:[[東日本旅客鉄道|JR]][[中央・総武緩行線|総武線]]・[[東京メトロ南北線]]・[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[都営新宿線]][[市ケ谷駅]]A3出口、または[[東京メトロ東西線]]・[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]][[九段下駅]]2番出口 <gallery> File:チュニジア大使館全景.jpg|チュニジア大使館全景 File:チュニジア大使館プレート.jpg|チュニジア大使館プレート File:両国友好のディスプレイ.jpg|両国友好のディスプレイ </gallery> == 軍事 == {{Main|チュニジア軍}} [[チュニジア軍]]は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には[[徴兵制度|選抜徴兵制]]が敷かれている。 兵器体系はかつて[[中華人民共和国|中国]]から購入した[[哨戒艇]]などを除いて殆ど[[西側諸国|西側]]に準じている<ref>{{cite web |url=https://www.globalsecurity.org/military/world/tunisia/assistance.htm |title=Tunisia - Foreign Military Assistance |date=2011-05-08 |website=GlobalSecurity.org |access-date=2018-07-20}}</ref><ref>Nelson, Harold D. Tunisia, a country study. p.308</ref>。 == 地理 == {{main|{{仮リンク|チュニジアの地理|ar|جغرافيا_تونس|en|Geography of Tunisia}}}} [[ファイル:Tunisia map-JA.png|thumb|260px|チュニジアの地図]] [[ファイル:NorthernTunisia.jpg|left|200px|thumb|チュニジア北部の平原]] [[ファイル:Medjerda (RN 5).jpg|left|200px|thumb|[[メジェルダ川]]]] [[ファイル:SaharaTunisien.JPG|left|200px|thumb|チュニジア南部の[[サハラ砂漠]]]] 国土は、北端から南端までが約850キロメートル、東の沿岸から西方の国境まで約250キロメートルと細長く、南北に伸び、南端は先の細いとがった形である<ref>鷹木恵子「多様な生態系と美しい自然景観」/ 鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』(明石書店 2010年)25ページ</ref>。東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。 国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の3つに大きく分けられる。北部地中海沿岸には[[テル山地]]があり、その谷間を北東に[[メジェルダ川]]が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な[[穀倉地帯]]になっている。東側の地中海に面した海岸線は約1300キロメートルにわたる。北から[[チュニス湾]]、[[ハンマメット湾]]、[[ガベス湾]]と並び、良港も多い。この沿岸部に古くから定住民が集住した<ref>鷹木恵子「多様な生態系と美しい自然景観」/ 鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』(明石書店 2010年)26ページ</ref>。その南には、アルジェリアから続く[[アトラス山脈]]中の国内最高峰である[[シャンビ山]](1,544m)以東が[[ドルサル山地]]となっている。ドルサル山地は地中海からの湿気を遮るため、ドルサル山地より南は[[ガベス湾]]まで[[ステップ気候]]になっていて、西部の標高400m〜800mの地域をステップ高原、東部の標高400m以下の地をステップ平原と呼ぶ。ステップ高原の南には平方5000kmの[[ジェリド湖]]([[塩湖]])がある。この塩湖の北にある町メトラーウィやその西のルダイフでは19世紀の末から[[リン]]鉱石の採掘が開始され、現在ではその産出量は世界第5位で、チュニジアの主要な輸出品ともなっている<ref name="takagi">鷹木恵子「多様な生態系と美しい自然景観」/ 鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』(明石書店 2010年)28ページ</ref>。 ガベス湾の沖には[[ジェルバ島]]が存在する。南半分は[[サハラ砂漠]]になっており、マトマタから南東にダール丘陵がリビアまで続く。ダール丘陵から東には標高200m以下のジェファラ平野が広がる。この砂漠は風によって絶えず景色が変化する[[砂砂漠]](エルグ)、ごつごつした石や砂利と乾燥に強い植物がわずかにみられる礫砂漠、または植生のない岩肌がむき出しになっている[[岩石砂漠]]が広がっており、砂砂漠は一部であり、大部分は礫砂漠と岩石砂漠で占められている<ref name="takagi" />。 [[ケッペンの気候区分]]によると、北部の地中海沿岸部は[[地中海性気候]]となり、地中海沿岸を南に行くと[[スファックス]]付近から[[ステップ気候]]になる。さらに南のサハラ砂漠は[[砂漠気候]]となる。春から夏にかけてサハラ砂漠から北に[[シロッコ]]と呼ばれる熱風が吹き出す。北部では冬に雪が降ることがある。チュニスの年間降水量は470mm前後だが、北部の[[ビゼルト]]では1,000mmを超える。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Governorates of Tunisia.svg|thumb|right|200px|チュニジアの県]] {{main|チュニジアの行政区画}} チュニジアには24のウィラーヤ(県)(アラビア語表記:ولاية)に分かれている。各県の県知事は大統領による任命制。 {{columns-list|colwidth=15em| # [[アリアナ県]] Ariana # [[ベジャ県]] Béja # [[ベンナラス県]] Ben Arous # [[ビゼルト県]] Bizerte # [[ガベズ県]] Gabès # [[ガフサ県]] Gafsa # [[ジェンドゥーバ県]] Jendouba # [[ケルアン県]] Kairouan # [[カスリーヌ県]] Kasserine # [[ケビリ県]] Kebili # [[ケフ県]] Kef # [[マーディア県]] Mahdia # [[マヌーバ県]] Manouba # [[メドニン県]] Medenine # [[モナスティル県]] Monastir # [[ナブール県]] Nabeul # [[スファックス県]] Sfax # [[シディブジッド県]] Sidi Bou Said # [[シリアナ県]] Siliana # [[スース県]] Sousse # [[タタウイヌ県]] Tataouine # [[トズール県]] Tozeur # [[チュニス県]] Tunis # [[ザグアン県]] Zaghouan }} ===主要都市=== {{Main|チュニジアの都市の一覧}} {{columns-list|colwidth=15em| * [[チュニス]](Tunis):首都 * [[スファックス]](Sfax) * [[カルタゴ]](Carthage) * [[スース]](Sousse) * [[シディ・ブ・サイド]](Sidi Bou Said) * [[ケルアン]](Kairouan) * [[ハンマメット|ハマメット]](Hammamet) * [[ナブール]](Nabeul) * [[タバルカ]](Tabarka) }} == 経済 == {{main|{{仮リンク|チュニジアの経済|ar|اقتصاد_تونس|en|Economy of Tunisia}}}} 2000年代からチュニジアは経済の自由化と民営化のさなか、自らが輸出指向の国であることに気づいており、1990年代初期から平均5%の[[国内総生産]](GDP)[[経済成長|成長]]でありながらも、政治的に結びついたエリートが恩恵を受ける汚職に苦しんだ<ref>{{cite web |url=http://www.gtz.de/en/weltweit/maghreb-naher-osten/681.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511202245/http://www.gtz.de/en/weltweit/maghreb-naher-osten/681.htm |archivedate=2011年5月11日 |title=GTZ in Tunisia |work=gtz.de |publisher=GTZ |accessdate=2010-10-20 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。チュニジアには様々な産業があり、農業や工業、石油製品から、[[チュニジアにおける観光|観光]]にまで及ぶ。2008年ではGDPは410億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]([[為替レート|公式為替レート]])もしくは820億ドル([[購買力平価]])であった<ref name=cia>{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ts.html|title= CIA world factbook, Tunisia|accessdate=2009-09-16}}</ref>。農業分野はGDPの11.6%、工業は25.7%、サービス業は62.8%を占める。工業分野は主に衣類と履物類の製造や自動車部品と電子機器の生産からなる。チュニジアは過去10年間で平均5%の成長を成し遂げたが、特に若年層の高い失業率に苦しんでいる。 チュニジアは2009年には、[[世界経済フォーラム]]によってアフリカにおいて最も競争力のある経済と位置づけられた。全世界でも40位であった。<ref>{{cite web |url=http://www.weforum.org/pdf/GCR09/GCR20092010fullrankings.pdf |title=The Global Competitiveness Index 2009–2010 rankings |accessdate=2009-09-16 |work=}}</ref>チュニジアは[[エアバス]]<ref>{{cite web |url=http://www.eturbonews.com/7499/airbus-build-plant-tunisia|accessdate=2009-09-16 |title=Airbus build plant in tunisia |work=Eturbonews|date=2009-01-29}}</ref>や[[ヒューレットパッカード]]などの多くの国際企業の誘致に成功した <ref>{{cite web|url=http://www.africanmanager.com/site_eng/detail_article.php?art_id=13578|accessdate=2009-09-16|title=HP to open customer service center in Tunisia|work=africanmanager.com|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120628150014/http://www.africanmanager.com/site_eng/detail_article.php?art_id=13578|archivedate=2012年6月28日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 観光は2009年にはGDPの7%と37万人分の雇用を占めていた<ref>{{cite web|url=http://mobile.france24.com/en/20110111-tunisia-protests-tourism-trouble-paradise-unmasked-tunisian-economic-miracle |title=Trouble in paradise: How one vendor unmasked the 'economic miracle' |publisher=Mobile.france24.com |date= 2011-01-11|accessdate=2011-10-28}}</ref>。 変わらず[[欧州連合]](EU)諸国がチュニジアの最大の貿易パートナーであり、現在チュニジアの輸入の72.5%、チュニジアの輸出の75%を占めている。チュニジアは地中海沿岸でヨーロッパ連合の最も確固とした貿易パートナーの一つであり、EUの30番目に大きい貿易パートナーに位置づけている。チュニジアは1995年7月に、EUと{{仮リンク|ヨーロッパ連合連合協定|en|European Union Association Agreement}}を締結した最初の地中海の国である。ただし、効力が生じる日の前に、チュニジアは両地域間の貿易で[[関税]]を撤廃し始めた。チュニジアは2008年に工業製品への関税撤廃を完了し、そのためEUとの自由貿易圏に入った、最初の地中海沿岸の国になった<ref>{{cite web |url=http://ec.europa.eu/trade/issues/bilateral/countries/tunisia/index_en.htm|accessdate=2009-09-16 |title=Bilateral relations Tunisia EU |work=}}</ref>。 {{仮リンク|チュニス・スポーツ・シティ|en|Tunis Sports City}}はチュニスで建設されている完全なスポーツ都市である。集合住宅に加え多くのスポーツ施設からなるこの都市は50億ドル(約500億円)かけてUAEのBukhatirグループによって建設される。<ref>{{cite web |url=http://www.sportcitiesinternational.com/english/tunis_sports_city.shtml|title=Tunis Sport City|accessdate=2009-09-16 |work=}}</ref>[[チュニス・ファイナンシャル・ハーバー]]は30億ドル(約300億円)の開発利益を見込むプロジェクトにおいてチュニス湾にある[[北アフリカ]]で初めての[[オフショア金融センター]]になる。<ref>{{cite web|url=http://www.gfh.com/en/our-business/tunis-financial-harbour.html|title=Tunis Financial Harbour|accessdate=2009-09-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090710184342/http://www.gfh.com/en/our-business/tunis-financial-harbour.html|archivedate=2009年7月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>[[チュニス・テレコム・シティ]]は[[チュニス]]におけるITハブを作成する30億ドル(約300億円)規模のプロジェクトである。<ref>{{cite web|url=http://www.ameinfo.com/181104.html|title=Vision 3 announces Tunis Telecom City|accessdate=2009-09-16|work=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090716184111/http://www.ameinfo.com/181104.html|archivedate=2009年7月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> チュニジア経済には[[コムギ|小麦]]と[[オリーブ]]を中核とする歴史のある農業、[[原油]]と[[リン鉱石]]に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。そのため他のアフリカ諸国より工業基盤は発達しており、1人当たりのGDPは約4000ドルであり[[モロッコ]]やアルジェリアと共にアジアの新興国とほぼ同じレベルである。急速な成長を見せているのは欧州諸国の被服製造の下請け産業である。貿易依存度は輸出34.4%、輸入45.2%と高く、狭い国内市場ではなく、フランス、イタリアを中心としたEU諸国との貿易の占める比率が高い。2003年時点の輸出額80億ドル、輸入額109億ドルの差額を埋めるのが、24億ドルという観光収入である。国際的には中所得国であり、アフリカ開発銀行(ADB)の本部が置かれている<ref>鷹木恵子「地中海世界・アフリカ世界・中東世界の中のチュニジア」/ 鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』(明石書店 2010年)21ページ</ref>。 フランスやリビアに[[出稼ぎ]]しているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。 === 農業 === [[ファイル:Dromadaires mangeant des acacias.jpg|right|260px|thumb|南部の典型的な風景。国土の南部はサハラ砂漠に連なるが、農地の比率は国土の3割を超える。]] アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの、農地の占める割合が国土の31.7%に達している{{efn|牧草地を含む農地面積は2007年の時点で62%、また実際に耕作されている農耕面積は30%ほど<ref>鷹木恵子「変わりゆく農村地帯」/ 鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』(明石書店 2010年)30ページ。</ref>。}}。ヨーロッパに比べて早い収穫期を生かした小麦の栽培と輸出、乾燥気候にあったオリーブと野菜栽培が農業の要である。食糧自給率は100%を超えている{{efn|チュニジア政府は、食料の自給率を2009年末までに95%にまで引き上げることを目標としている<ref>鷹木恵子「変わりゆく農村地帯」/ 鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』(明石書店 2010年)32ページ。</ref>。}}。 北部は小麦栽培と畜産が盛ん。ヒツジを主要な家畜とする畜産業は北部に集中するが、農業に占める比率は中部、南部の方が高い。2005年時点の生産高を見ると、世界第5位のオリーブ(70万トン、世界シェア4.8%)、世界第10位の[[グレープフルーツ]](7.2万トン、2.0%)が目を引く<ref>以下の工業統計値は、''United Nations Statisstical Yearbook 2004''、『世界国勢図会 2005/06』([[矢野恒太]]記念会、ISBN 4875494351)による。</ref>。[[ナツメヤシ]](13万トン、1.8%)、[[らくだ]]23万頭(1.2%)といった乾燥気候を生かした産物・家畜も見られる。主要穀物では小麦(136万トン)が北部で、[[大麦]](44万トン)は主に南部で生産されている。生産量では[[トマト]](92万トン)も目立つ。 === 鉱業 === チュニジア鉱業の中核は、世界第5位のリン鉱石([[リン酸カルシウム]]、240万トン、5.4%)、主な鉱山は国土の中央部、ガフサ近郊にある。油田は1964年にイタリア資本によって発見され、南部のボルマ近郊の油田開発が進んでいる。一方、リビア国境に近いガベス湾の油田はあまり進んでいない。2004年時点の採掘量は、原油317万トン、天然ガス82千兆ジュールである。エネルギー自給率も100%を超えている。このほか、[[亜鉛]]、[[銀]]、[[鉄]]、[[鉛]]を採掘している。これは[[プレートテクトニクス|プレート移動]]によって形成された[[褶曲山脈]]であるアトラス山脈に由来する。全体的な鉱業の様相はアトラス山脈西端に位置する国モロッコとよく似ている。 === 工業 === チュニジア工業は農業生産物の加工に基づく[[食品工業]]、鉱物採取と連動した[[化学工業]]、加工貿易を支える[[機械工業]]と[[繊維業]]からなる。食品工業は、6000万本にも及ぶオリーブから採取したオリーブ油と、加工野菜(缶詰)が中心である。オリーブ油の生産高は世界第4位(15万トン、6.4%)だ。化学工業は主として肥料生産とその派生品からなる。世界第3位の[[リン酸]](63万トン、3.7%)、同第6位の[[硫酸]](486万トン、4.8%)、同第7位のリン酸[[肥料]](97万トン、2.9%)である。主な工業都市は首都チュニス。 === 貿易 === [[ファイル:Tunisia Export Treemap.png|thumb|28色で分けられたカテゴリにおけるチュニジアの輸出品目の図説。]] 輸出に占める工業製品の比率が81%、輸入に占める工業製品の比率が77.8%であるため、加工貿易が盛んに見える。これは、繊維産業と機械産業によるものだ。輸出を品目別に見ると、衣料37.0%、電気機械11.9%、原油5.4%、化学肥料4.7%、織物3.7%である。一方、輸入は、繊維14.7%、電気機械11.9%、機械類10.7%、自動車6.9%、衣料5.3%である。食料品が輸出に占める割合は7.6%、輸入では9.0%。主な貿易相手国はEC諸国、特に旧宗主国であったフランスと支配を受けたイタリアである。輸出入ともこの2国が約5割の比率を占める。金額別では輸出相手国が、フランス、イタリア、[[ドイツ]]、隣国リビア、[[ベルギー]]、輸入相手国がフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギーである。 == 交通 == {{Main|{{仮リンク|チュニジアの交通|ar|النقل_في_تونس|en|Transport in Tunisia}}}} === 高速道路 === A1、A2、A3、A4の4つが主要路線となっている。また、一部区間は{{仮リンク|トランスアフリカンハイウェイ|en|Trans-African Highway network}}の一部分となっている。 === 鉄道 === {{see|チュニジアの鉄道}} 北部を中心に、[[チュニジア鉄道]]が敷設されている。 === 航空 === {{see|チュニジアの空港の一覧}} 首都チュニスには[[チュニス・カルタゴ国際空港]]があるほか、ヨーロッパではリゾート地として知られる{{仮リンク|エンフィダ|en|Enfidha}}には[[エンフィダ=ハンマメット国際空港]]が、[[ジェルバ島]]には[[ジェルバ=ザルジス国際空港]]があり、いずれの空港も主として周辺国やヨーロッパの都市と結ばれている。 == 国民 == {{Main|{{仮リンク|チュニジアの人口統計|en|Demographics of Tunisia}}}} イスラーム国だが世俗的な国家であり、独立と同年の1956年、ブルギーバ初代大統領の「国家フェミニズム」の下で制定された'''家族法'''によって、[[トルコ]]と同様に[[一夫多妻制]]や公共の場でのスカーフやヴェールの着用は禁止されている。続く[[ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー|ベン・アリー]]大統領もフェミニズム政策を踏襲し、1993年には婚姻後の夫婦共有財産も個別財産として選択可能となった<ref>[http://www.tiu.ac.jp/org/iiet/kaken-a-islam/ronbun/%E7%A7%BB%E8%A1%8C%E6%9C%9F%EF%BC%882011-2014%E5%B9%B4%EF%BC%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%9F%E3%81%A1%EF%BC%88%E8%A6%81%E6%97%A8%EF%BC%89.pdf 民衆革命下のチュニジアの女性たち―移行期(2011-2014年)におけるチュニジアの女性たち(要旨)] - Mounira Chapoutot-Remadi(チュニス大学名誉教授)</ref>。家族法制定から現在まで女性の社会進出が著しく、アラブ世界で最も女性の地位が高い国となっている<ref name="takagi2007">鷹木恵子「イスラーム女性とチュニジア アラブ女性解放のリーダー国の動態」『朝倉世界地理講座 アフリカI』[[池谷和信]]、[[佐藤廉也]]、[[武内進一]]:編、[[朝倉書店]]、2007年4月</ref>。イスラム世界では珍しく、チュニジアは中絶が法律で認められている国である。1956年の独立時から2007年までの人口増加が約2.3倍である<ref>鷹木恵子「変わりゆく農村地帯」/ 鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』(明石書店 2010年)31ページ</ref>。 === 民族 === 住民は[[アラブ人]]が98%である。チュニジアの[[先住民]]は[[ベルベル人]]や[[フェニキア|フェニキア人]]だったが、7世紀のアラブによる征服以降、住民の[[混血]]とアラブ化が進んだため、民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りは[[ヨーロッパ|ヨーロッパ人]]が1%、[[ベルベル語]]を話す[[ベルベル人]]、[[ユダヤ人]]、[[ネグロイド|黒人]]などその他が1%である。 === 言語 === [[ファイル:Road signs Tunisia.jpg|160px|thumb|[[アラビア文字]]と[[ラテン文字]]で表記されたチュニジアの交通標識。]] {{Main|{{仮リンク|チュニジアの言語|en|Languages of Tunisia}}}} [[アラビア語]]が[[公用語]]であるが、独立前はフランスの保護下にあったことから[[フランス語]]も広く普及しており、教育、政府、メディア、ビジネスなどで使われるなど準公用語的な地位となっている。[[教授言語]]はフランス語とアラビア語の両方となっており、大多数の国民がフランス語を話すことが可能である。[[アラビア語チュニジア方言]]は[[マルタ語]]に近い。また、ごく少数ながら[[ベルベル語]]の一つである[[シェルハ]]<!-- Shelha -->も話されている。 === 婚姻 === {{節スタブ}} === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|チュニジアの宗教|en|Religion in Tunisia}}}} [[イスラーム]]が[[国教]]であり、国民の98%は[[スンナ派]]で、僅かながら[[イバード派]]の信徒も存在する。その他、[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]](主に[[カトリック教会|カトリック]]、[[ギリシャ正教]]、[[プロテスタント]])。イスラームも比較的[[シャリーア|戒律]]は緩やかで、女性も[[ヴェール]]をかぶらず西洋的なファッションが多く見られる。1980年代に[[イスラーム主義]]の興隆と共にヴェールの着用も復古したが、1990年代に隣国アルジェリアでイスラーム主義者と軍部の間で内戦が勃発すると、イスラーム主義は急速に衰退し、ヴェールの着用も衰退した<ref name=takagi2007/>。 チュニジア南部の[[ジェルバ島]]は[[ユダヤ人]]居住区の飛び地となっており、島の[[エル・グリーバ・シナゴーグ]]は世界で最も古い[[シナゴーグ]]の内の一つである。 === 教育 === [[ファイル:Sadiki College.JPG|right|160px|thumb|[[サディーキ校]]]] {{Main|チュニジアの教育}} 6歳から16歳までの[[初等教育]]と[[前期中等教育]]が無償の[[義務教育]]期間となっており、その後4年間の後期中等教育を経て[[高等教育]]への道が開ける。チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から[[正則アラビア語]]の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から[[英語]]を教わる。2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は74.3%(男性:83.4% 女性:65.3%)である<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ts.html{{リンク切れ|date=2022年7月}}(米国[[中央情報局|CIA]]『[[ザ・ワールド・ファクトブック]]』)2009年4月2日閲覧</ref>。 主な高等教育機関としては、[[ザイトゥーナ大学]](737年)、[[チュニス大学]](1960年)、[[カルタゴ大学]](1988年)、[[エル・マナール大学]](2000年)などが挙げられる。名門[[リセ]](高校)としては[[サディーキ校]](1875年)も挙げられる。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|チュニジアの保健|en|Health in Tunisia}}}} {{節スタブ}} == 治安 == 2021年03月25日時点で[[日本国外務省]]は「チュニジアの一般的な治安は比較的安定していますが、デモ隊と治安部隊との衝突、テロ事件の発生、テロ組織の摘発等が散見されますので、治安情勢には十分注意してください。近年では、凶器を使った強盗事件やひったくり事件等、日本人が犯罪の被害に遭うケースもみられます。特に、外国人旅行者は標的となりやすいので、所持品(多額の現金、デジタルカメラ、スマートフォン、旅券等)の管理には十分な注意が必要です。」としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_113.html|title=チュニジア 安全対策基礎データ|accessdate=2022-1-23|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|チュニジアにおける人権|en|Human rights in Tunisia}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|チュニジアのメディア|en|Mass media in Tunisia}}}} {{節スタブ}} == 文化 == [[ファイル:Troupe folklorique 2.jpg|220px|thumb|チュニジアの民族音楽団]] [[ファイル:Ibn Khaldoun-Kassus.jpg|thumb|180px|生誕地の[[チュニス]]に建立された[[イブン・ハルドゥーン]]の銅像]] {{Main|{{仮リンク|チュニジアの文化|ar|ثقافة_تونس|en|Culture of Tunisia}}}} === 食文化 === {{Main|{{仮リンク|チュニジア料理|ar|مطبخ_تونسي|en|Tunisian cuisine}}}} 代表的なチュニジア料理としては[[クスクス]](粒状の[[パスタ]])、[[ブレク|ブリック]]、[[ラブレビ]]などが挙げられる。チュニジアはイスラーム国であるが、[[ワイン]]の生産国でもある。[[チュニジア・ワイン]]には[[フランスワイン]]の影響により[[ロゼワイン]]も多い。マツの実入りのミントティーがあり、[[オレンジ]]、[[ゼラニウム]]などの花の[[蒸留水]]フラワーウォーターは[[コーヒー]]、菓子に入れる。 === 文学 === {{Main|アラビア語文学|チュニジア文学}} 大多数のチュニジア人の[[母語]]はアラビア語である。<ref>[http://www.agbi.tsukuba.ac.jp/~arena/2004/aoyagi1.htm 「チュニジアにおける多言語状況と文学」] 筑波大学 青柳悦子</ref>。現代の代表的なチュニジア出身の作家としては、[[アルベール・メンミ]]、[[アブデルワハブ・メデブ]]、[[ムスタファ・トゥリリ]]などが挙げられる。 === 哲学 === 中世において「イスラーム世界最大の学者」と呼ばれる<ref>私市正年:編『アルジェリアを知るための62章』(明石書店、2009年4月)p.72</ref>チュニス出身の[[イブン・ハルドゥーン]]は『[[歴史序説]]』を著わした。ハルドゥーンは『歴史序説』にて[[アサビーヤ]](集団における人間の連帯意識)を軸に[[文明]]の発達や没落を体系化し、独自の歴史法則理論を打ち立てた。ハルドゥーンは労働が富を生産するとの概念を、18世紀に[[労働価値説]]を唱えた[[アダム・スミス]]に先んじて説くなど天才的な学者であった。 === 映画 === {{Main|{{仮リンク|チュニジアの映画|en|Tunisian cinema}}|{{仮リンク|チュニジア映画の一覧|ar|قائمة_الأفلام_التونسية}}}} チュニジアは映画制作の盛んな国ではないが、チュニジア出身の映像作家としては『チュニジアの少年』(1990年)の[[フェリッド・ブーゲディール]]や、『ある歌い女の思い出』(1994年)の[[ムフィーダ・トゥラートリ]]などの名が挙げられる。 1966年から二年に一度、[[カルタゴ映画祭]]が開催されている。 {{See also|アフリカ映画}} === 音楽 === {{main|チュニジアの音楽}} 15世紀にスペイン人が移民した後にアンダルシアから輸入された音楽の一種である「マルーフ」で最もよく知られている。 === 世界遺産 === {{Main|チュニジアの世界遺産}} チュニジア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が7件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。 <gallery> Tunis Zitouna-Moschee Minarett.JPG| [[チュニス]]旧市街 - (1979年、文化遺産) Ruines de Carthage.jpg| [[カルタゴ]]遺跡 - (1979年、文化遺産) Eljem2.jpg| [[エル・ジェム#円形闘技場|エル・ジェムの円形闘技場]] - (1979年、文化遺産) Kerkouane vue.jpg| [[ケルクアン]]の古代カルタゴの町とその墓地遺跡 - (1985年、文化遺産) Sousse Ribat.JPG| [[スース]]旧市街 - (1988年、文化遺産) Kairouan-mosquee-cimetiere.jpg| [[ケルアン]] - (1988年、文化遺産) Dougga theatre.jpg| [[ドゥッガ]]/トゥッガ - (1997年、文化遺産) Vue_matinale_de_la_montagne_dominant_le_parc_Ichkeul.jpg|[[イシュケル国立公園]] - (1980年、自然遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|チュニジアの祝日|en|Public holidays in Tunisia}}}} {| class="wikitable" ! 日付 !! 日本語表記 !! 現地語表記 !! 備考 |- |[[1月1日]]||[[元日]]|| || |- |[[移動祝日]]||[[犠牲祭]]|| ||[[イスラム暦]]による |- |移動祝日||イスラム暦新年|| ||イスラム暦による |- |[[3月20日]]||独立記念日|| || |- |[[3月21日]]||青年の日|| || |- |[[4月9日]]||革命犠牲者弔日|| || |- |移動祝日||モハメット誕生日|| ||イスラム暦による |- |[[5月1日]]||[[メーデー]]|| || |- |[[7月25日]]||共和国記念日|| || |- |[[8月13日]]||女性の日|| || |- |[[10月15日]]||フランス軍撤退記念日|| || |- |移動祝日||[[ラマダーン]]明け|| ||イスラム暦による |- |[[11月7日]]||大統領就任記念日|| || |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|チュニジアのスポーツ|ar|الرياضة_في_تونس|en|Sport in Tunisia}}}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|チュニジアのサッカー|ar|الرياضة_في_تونس|en|Football in Tunisia}}}} [[1907年]]よりアマチュアリーグが開催されており、[[1921年]]に[[フランスサッカー連盟]](FFF)と提携しプロリーグの[[チュニジア・リーグ]]が創設された。名門クラブの[[エスペランス・スポルティーブ・ドゥ・チュニス|エスペランス・チュニス]]が同リーグを支配しており、7連覇を含むリーグ最多31度の優勝を達成している。また、[[エトワール・サヘル]]が "[[FIFAクラブワールドカップ2007]]" で4位の成績を収めている。[[サッカーチュニジア代表]]は[[FIFAワールドカップ]]には6度出場しているものの、いずれもグループリーグ敗退となっている。[[アフリカネイションズカップ]]では、自国開催となった[[アフリカネイションズカップ2004|2004年大会]]で初優勝を果たした。 === オリンピック === [[ファイル:CA - Radès.jpg|thumb|[[スタッド・オリンピック・ドゥ・ラデ]]]] {{main|オリンピックのチュニジア選手団}} チュニジアの[[国技]]は[[サッカー]]であり、圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。サッカー以外では[[陸上競技]]が盛んで、[[モハメド・ガムーディ]]が[[1968年]]の[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコシティー五輪]]・男子5000mで、[[金メダル]]などメダル4個を獲得した。また、[[競泳]]では[[ウサマ・メルーリ]]が[[2008年]]の[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]・男子1500m自由形で、アハメド・ハフナウィが[[2021年]]の[[東京オリンピック (2020年)|東京五輪]]・男子400m自由形で、それぞれ金メダルを獲得している。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:チュニジア出身の人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[青柳悦子]]「[http://www.agbi.tsukuba.ac.jp/~arena/2004/aoyagi1.htm チュニジアにおける多言語状況と文学]」[[筑波大学]]。 * 青柳悦子「[http://www.agbi.tsukuba.ac.jp/~arena/References/AoyagiForum.pdf チュニジアから見える未来──北アフリカ研究センターの活動を通して]」。 * {{Cite book|和書|author=川田順造|authorlink=川田順造|date=1971年1月|title=マグレブ紀行|series=中公新書246|publisher=[[中央公論社]]|location=[[東京]]||isbn=9784121702463|oclc=674935795|ref=川田(1971)}} * {{Cite book|和書|author=高田京子|authorlink=高田京子 (写真家)|date=1992年3月|title=[[チュニジア旅の記憶]]|series=|publisher=[[彩流社]]|location=東京|isbn=9784882022183|oclc=674576750|ref=高田(1992)}} * {{Cite book|和書|author=高田京子|authorlink=高田京子 (写真家)|date=2005年6月|title=[[チュニジアン・ドア]]|series=|publisher=[[彩流社]]|location=東京|isbn=9784882029908|oclc=675209751|ref=高田(2005)}} * [[鷹木恵子]]「イスラーム女性とチュニジア──アラブ女性解放のリーダー国の動態」『朝倉世界地理講座 アフリカI』[[池谷和信]]、[[佐藤廉也]]、[[武内進一]]編、[[朝倉書店]]、2007年4月。 * {{Cite book|和書|editor=福井英一郎|editor-link=福井英一郎|date=2002年9月|title=アフリカI|series=世界地理9|publisher=[[朝倉書店]]|location=東京|isbn=4-254-16539-0|oclc=675866261|ref=福井(2002)}} * {{Cite book|和書|author=宮治一雄|authorlink=宮治一雄|edition=2000年4月第2版|title=アフリカ現代史V|series=世界現代史17|publisher=[[山川出版社]]|location=東京|isbn=4-634-42170-4|oclc=675179663|ref=宮治(2000)}} * [[渡辺司]]「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004672478/ チュニジアにおける立憲主義の諸相──フランス保護領化前後を中心として]」『東京農工大学人間と社会 16』[[東京農工大学]]、2005年。 * {{Cite book|和書|author=鷹木恵子|authorlink=鷹木恵子|date=2010年8月|title=[[チュニジアを知るための60章]]|series=|publisher=[[明石書店]]|location=東京|isbn=978-4-7503-3251-2|oclc=657603027|ref=鷹木(2010)}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Tunisia|Tunisia}} {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[画像:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}} * [[チュニジア関係記事の一覧]] * [[チュニジアの夜]] - [[ジャズ]]の[[スタンダード・ナンバー]] * [[タトゥイーン]] - ロケがチュニジアで行われた。 * [[レオン・ロッシュ]] == 外部リンク == ; 政府 * [https://web.archive.org/web/20081026200316/http://www.ministeres.tn/ チュニジア共和国政府] {{fr icon}} * [https://www.diplomatie.gov.tn/ar/nc/%D8%A7%D9%84%D8%A8%D8%B9%D8%AB%D8%A9/etranger/ambassade-de-tunisie-a-tokyo-japon/ 駐日チュニジア大使館] {{ar icon}}、[https://www.diplomatie.gov.tn/nc/mission/etranger/ambassade-de-tunisie-a-tokyo-japon/ 同] {{fr icon}}、[https://www.diplomatie.gov.tn/en/nc/mission/etranger/ambassade-de-tunisie-a-tokyo-japon/ 同] {{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tunisia/ 日本外務省 - チュニジア] {{ja icon}} * [https://www.tn.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在チュニジア日本国大使館] {{ja icon}}, {{fr icon}} ; 観光 * [http://www.tourismtunisia.com/ チュニジア政府観光局] {{en icon}} * [https://wikitravel.org/ja/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B8%E3%82%A2 ウィキトラベル旅行ガイド - チュニジア] {{ja icon}} * {{Wikivoyage-inline|en:Tunisia|チュニジア{{en icon}}}} ; その他 * [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-15.html JCCME - チュニジア] * {{Curlie|Regional/Africa/Tunisia}} * {{CIA World Factbook link|ts|Tunisia}} * {{Osmrelation|192757}} * {{Wikiatlas|Tunisia}} {{en icon}} * {{Kotobank}} {{アフリカ}} {{OIC}} {{アラブ・マグレブ連合}} {{OIF}} {{NATOに加盟していない米国の同盟国}} {{Normdaten}} {{Coord|36|49|N|10|11|E|type:city|display=title}} {{DEFAULTSORT:ちゆにしあ}} [[Category:チュニジア|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:フランコフォニー加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]]
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トルコ
トルコ共和国(トルコきょうわこく、トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアに位置するアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる。北は黒海とマルマラ海、西と南は地中海(西はエーゲ海)に面する。陸上国境は、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。 トルコはチューリップを国花と定めている。チューリップは元々、パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、天山山脈を原産地としているが、中央アジアからのテュルク系民族の移住によってアナトリアへ持ち込まれ栽培された。 その後のトルコ地域でチューリップは品種改良を経て、数多くの園芸種を生み出されるなど国民的なものとして扱われ、今日に至るまで象徴的な植物となっている。 ハイイロオオカミはトルコにおいて神聖かつ国民的な動物として特別視されている。トルコ人の国民的象徴である理由は、トルコ人が「自分たちはオオカミの子孫である」という伝承を信じている点にある。 ケマル・アタテュルクによって国の象徴の一つと宣言され、現今も多くの場所でハイイロオオカミをモチーフにしたロゴなどが使用されている。一例として共和国発足から最初の数年間、紙幣にはハイイロオオカミの絵が印刷されていた点が挙げられる。 トルコは赤と白の2色をナショナルカラーとしている。代表的なものには国旗が挙げられる。また、宝石の一種のターコイズはトルコ文化の一部であると同時に、トルコの象徴色の1つと考えられている。更にこの3色は現在、様々な分野で頻繁に使用されている。 トルコ語による正式国名は、Türkiye Cumhuriyeti [ˈtyɾ.ci.jɛ dʒum.ˈhuː.ri.jɛ.ti] ( 音声ファイル)(テュルキイェ・ジュムフーリイェティ)、通称 Türkiye(テュルキイェ、テュルキエ、トゥルキエ)である。2022年以降の公式の英語表記は Republic of Türkiye、通称 Türkiye。日本語名のトルコは、ポルトガル語で「トルコ人(男性単数)」もしくは「トルコの(形容詞男性単数)」を意味する turco に由来する。国名の漢字表記は土耳古、略称は土。 英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、Turkey、Turquie など、「トルコ人の国」を意味する名でこの国家を呼んできたが、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。 Türk(テュルク)は、アナトリアへの移住以前、中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いた6世紀ごろには既に使われていた民族名だが、語源には諸説ある。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国をもって「トルコの建国」と考えられている。 2021年12月4日、トルコ政府は英語表記を Turkey(ターキー) から Türkiye へ変更することを決定した。またドイツ語(Türkei)、フランス語(Turquie)などの外名も同様の変更を行うとしている。これについてエルドアン大統領は「Türkiye はトルコの国民、文化、価値観を最も表した言葉である」と述べた。国際的認知度を高めるためトルコ製を表す「Made in Turkey」は「Made in Türkiye」として輸出される。2022年1月、国際連合へ国名変更の通達を行う計画が報じられ、国連のグテーレス事務総長宛ての書簡でチャヴシュオール外相が正式に変更を通報し、2022年6月1日にこの通報が受理された 。 英語の Turkey は国名のほかに鳥類で食用としても振る舞われる七面鳥(ターキー)、英語圏の俗語で「失敗する」「愚かな人」といった意味を持つ。そのため反イスラム・反トルコ主義者はしばしトルコを七面鳥に例えて攻撃した。国名の英語表記をトルコ語名と同じにすることで英語話者の混乱を避け、更に国家のブランドを維持する思惑があると言われている。 アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末ごろから鉄を作る技術が中近東世界に広がった。この地域が鉄器時代に入ったと考えられる。 国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)と最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト、フリュギア、リディア、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)など様々な民族・文明が栄えた地である。 一方、北アジアではトルコ(テュルク)系民族として突厥が552年にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれをもって最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した西突厥の部族の一つから部族長トゥグリル・ベグが出て西進を始め、ボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝を成立させた。さらに西進して1055年バグダッドに入城、アッバース朝のカリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし、東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争い大敗して急激に衰退。のちにモンゴル帝国のフラグによる侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、さらにウイグル系民族に圧迫されてイラン(ペルシャ)北部、カスピ海東岸の隅地に逃亡して歴史の記録から消える。 11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系のティムールにアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するが、アナトリア南部の険によって抵抗し命脈を保った一族が、ティムールの死後にオスマン朝を復興した。 19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立し、欧州列強がこれに介入した(東方問題)。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下に置かれ、完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した(希土戦争 (1919年-1922年))。また、東部ではアルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人ら(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人)は1919年5月、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした(トルコ独立戦争)。1920年4月、アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。1924年、オスマン帝国のカリフをイスタンブールから追放し、西洋化による近代化を目指してトルコ共和国を建国。イスラム法(シャリーア)は国法としての地位を喪失。大陸法の影響を受けただけでなく、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。 第二次世界大戦では中立を維持したが、末期の1945年になり連合国の勝利が確定的になると、その圧力により2月23日にナチス・ドイツと大日本帝国に対して宣戦布告した。第二次世界大戦後は、ソ連に南接するため、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年には北大西洋条約機構(NATO)に、また1961年には経済協力開発機構(OECD)に加盟した。NATOとOECD加盟の間は西側陣営内で経済戦争が起こっていた(セカンダリー・バンキング)。1956年ごろ、ユーロバンクの資金調達先となったため外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量を急速に伸ばしたが、ソ連が既に1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するも、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。 国父アタテュルク以来、イスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標である欧州連合(EU)への加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。 トルコ側もEU加盟よりは、レジェップ・タイイップ・エルドアン政権下の2010年代から2020年代にかけて、国内での反対派弾圧やイスラム回帰(アヤソフィアのモスク化など)、オスマン帝国旧領やその周辺に対するトルコの影響力拡大(新オスマン主義)を優先している。シリア内戦、リビア内戦、2020年ナゴルノ・カラバフ紛争に対しては派兵や傭兵の派遣、武器供与により介入している(「新オスマン主義」も参照)。 特にアルメニアとはナゴルノ・カラバフ紛争以外にも、アルメニア人虐殺への存否を含む見解の相違や、アララト山の領有権問題を抱え、緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派は東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。 2013年、MIKTAに加盟した。 1982年に定められた憲法では、世俗主義が標榜されている。三権はほとんど完全に分立しており、憲法の目的(世俗主義ほか)を達成するためにそれぞれの役割を果たすことが期待されている。このことが、世俗派と宗教的保守派との対立を助長し、その対決が終息しない遠因ともなっている。立法府として一院制のトルコ大国民議会(Türkiye Büyük Millet Meclisi、定数600名、任期5年)がある。行政は議会によって選出される国家元首の大統領(任期7年)が務めるが、首相の権限が強い議院内閣制に基づくものであった。司法府は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されている。司法は政党の解党判断、党員の政治活動禁止といった政治的な事項についても判断できる。 その後、2007年の憲法改正(英語版)により大統領は国民投票により選出されることとなり、また任期も7年から5年へと短縮された。2010年の憲法改正(英語版)を経たのち、2017年の憲法改正(英語版)では大統領権限が強化され、議院内閣制を廃止することが定められている。 政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式をとっている。この制度のため、2002年の総選挙では、選挙前に中道右派・イスラム派が結集して結党された公正発展党(AKP)と、野党で中道左派系・世俗主義派の共和人民党(CHP)の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。2007年7月22日に実施された総選挙では、公正発展党が前回を12ポイントを上回る総得票率47%を獲得して圧勝した。共和人民党が議席を減らし、112議席を獲得。極右の民族主義者行動党(MHP)が得票率14.3%と最低得票率10%以上の票を獲得し71議席を獲得、結果的に公正発展党は340議席となり、前回より12議席を減らすこととなった。独立候補は最低得票率の制限がなく、クルド系候補など27議席を獲得した。 ムスタファ・ケマル・アタテュルク以来強行的に西欧化を押し進めてきたが、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍が政治における重要なファクターとなることがあり、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。1960年に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、参謀総長と陸海空の三軍および内務省ジャンダルマ(憲兵隊)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議(Milli Güvenlik Kurulu)が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。1980年の二度目のクーデター以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は1997年にイスラム派の福祉党主導の連立政権を崩壊に追い込み、2007年には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。8月29日には、議会での3回の投票を経てアブドゥラー・ギュル外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、もはや以前のように軍が安易に政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と宗教的保守派の対立はもっと社会の内部に籠ったものとなってきている(エルゲネコン捜査)。 2009年3月29日、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党の公正発展党(AKP)が世俗派野党の共和人民党などを押さえ勝利した。 2010年9月12日には、与党・公正発展党(AKP)が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。現憲法は1980年のクーデター後の1982年に制定されたもので、軍や司法当局に大幅な権限を与え、国民の民主的権利を制限するといわれてきた。この憲法改定案は民主主義を求める国民の声や欧州連合(EU)加盟の条件整備などを踏まえ、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなど26項目を提起している。国民投票の結果、憲法改正案は58%の支持で承認された。投票率は73%であった。エルドアン首相は民主主義の勝利だと宣言した(AFP電)。また、国民投票結果について「発達した民主主義と法治国家に向け、トルコは歴史的な一線を乗り越えた」と評価した。欧米諸国はこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合(EU)の執行機関欧州委員会は、加盟に向けての一歩だと讃えた。 2014年8月28日にエルドアン首相は大統領に就任し、アフメト・ダウトオール外相が首相となったが、2016年5月22日にはビナリ・ユルドゥルムが新たな首相に就任した。 その後、2017年に大統領権限の強化と首相職の廃止を盛り込んだ憲法改正案が可決され、2018年7月9日に首相職は廃止された。 外交面では北大西洋条約機構(NATO)加盟国である。また、NATO加盟国としては唯一、非欧米軍事同盟である上海協力機構の対話パートナーであり、中露との軍事協力も行うなど、もはや西側一辺倒の外交路線ではなくなっている。 政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としており、現代では経済的・政治的にヨーロッパの一員として参加しつつあり、ヘルシンキ宣言に署名している。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件つきではあるものの欧州委員会によって2005年10月からの欧州連合への加盟交渉の開始が勧告された。現在、国内世論と戦いながら加盟申請中である。なお、加盟基準であるコペンハーゲン基準については現在議論が行われている。 国土の96%がアジアのアナトリア半島にあり、人口でもアジア側が9割弱を占める。 1890年(明治23年)に、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖で発生したエルトゥールル号遭難事件で日本の対応が評価されたことなどから、両国の友好関係が築かれている。 日本には多くのトルコ友好協会があり、交流が積極的に行われている。 <トルコ政府系団体> <トルコ政府連携協会> 隣国のギリシャとは緊張関係が続いている。古くはギリシャ人国家であった東ローマ帝国が現在のトルコにあたる地域を支配していたが、やがてオスマン帝国がそれを滅ぼし支配下に置いた。その後、19世紀初頭に列強の後押しでギリシャが独立し、「大ギリシャ主義」を掲げて衰退の進むオスマン帝国からの領土奪回を目論んだ。バルカン戦争、第一次世界大戦後に領土をめぐる希土戦争が起こり、ギリシャとトルコの住民交換で解決された。しかし、当時イギリスの植民地だったキプロス島の帰属は決められなかったため、キプロス独立後にキプロスと、トルコのみが国家の承認をしている北キプロスに分裂した。 隣国のアルメニア共和国とは緊張関係が続いている。アルメニアの民族派がヴァン県など東南部をアルメニア人の奪われた土地だと主張している。 一部のアルメニア人の反トルコ主義や西アルメニアの返還の主張にはトルコの保守層の警戒感を招いている。元々、アルメニア王国との国境は時代により大きく変化しており、国民国家の概念が成立する前から対立が続いていた。またトルコはイスラーム信者が多く、キリスト教を国教にしているアルメニアとは宗教対立の側面もある。ナゴルノ・カラバフ問題に対しては同じくアルメニアと対立するイスラーム国家のアゼルバイジャンの立場に立つ(2020年ナゴルノ・カラバフ紛争など)。 MIKTA(ミクタ)は、メキシコ(Mexico)、インドネシア(Indonesia)、大韓民国(Republic of Korea)、トルコ(Turkey)、オーストラリア(Australia)の5か国によるパートナーシップである。 軍事組織として、陸軍、海軍、空軍で組織されるトルコ軍 (Türk Silahlı Kuvvetleri) と内務省に所属するジャンダルマ(憲兵隊、Jandarma)、沿岸警備隊 (Sahil Güvenlik) が置かれている。兵役は男子に対してのみ課せられている。学歴が高卒以下の場合は兵役期間が15か月であり、大卒以上の場合は将校として12か月か、二等兵として6か月を選択できるようになっている。国外に連続して3年以上居住している場合、3週間の軍事訓練と約5,000ユーロの支払いで兵役免除になる。なお兵役期間終了後は41歳まで予備役となる。2011年末には金銭を納めることで兵役を免除可能となり、事実上良心的兵役拒否を合法化した。兵員定数はないが、三軍あわせておおむね約38万人程度の兵員数である。また、ジャンダルマと沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍・海軍の指揮下に入ることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平時から陸軍と共同で治安作戦などを行っている。 指揮権は平時には大統領に、戦時には参謀総長(Genelkurmay Başkanı)に属すると憲法に明示されており、戦時においては文民統制は存在しない。また、首相および国防大臣には軍に対する指揮権・監督権は存在しない。ただし、軍は歴史的にも、また現在においても極めて政治的な行動をとる軍隊であり、また、国防予算の15%程度が議会のコントロール下にない軍基金・国防産業基金などからの歳入であるなど、平時においても軍に対する文民統制には疑問も多い。この結果、軍はいわば「第四権」といった性格を持ち、世俗主義や内政の安定を支える大きな政治的・社会的影響力を発揮してきた。 1960年と1980年にはクーデターで軍事政権を樹立したこともある。近年はエルドアン政権の権限強化とそれに対するクーデター失敗、経済発展に伴う社会の成熟・多様化により、軍部の影響力は以前より低下している。 軍事同盟としては1952年以降は北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、1992年以降は西欧同盟(WEU)に準加盟している。また、1979年それ自体が崩壊するまで中央条約機構(CENTO)加盟国でもあった。2国間同盟としては1996年、イスラエルと軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、1998年からは実際にアメリカ合衆国、イスラエルとともに3国で共同軍事演習「アナトリアの鷲(英語版)」が行われた。 NATO加盟国としては唯一、非欧米国家グループである上海協力機構の対話パートナーにもなっており、2015年にはエルドアン大統領によって正規加盟が要請された。軍事装備は西側のものだけではなく、中華人民共和国の協力で弾道ミサイルのJ-600Tユルドゥルム(英語版)や多連装ロケットシステムのT-300カシルガ(英語版)を導入しており、NATOのミサイル防衛を揺るがすHQ-9やS-400のような地対空ミサイルも中国やロシアから購入する動きも見せた。2010年にはアメリカやイスラエルと行ってきた「アナトリアの鷲」演習を中国と実施し、中国と初めて合同軍事演習を行ったNATO加盟国となった。 2019年にはロシアの地対空ミサイルS-400を搬入。アメリカ政府はロシアへの軍事機密漏洩を警戒して、F-35戦闘機国際共同開発からトルコを排除した。 南東部においてはクルディスタン労働者党(PKK)との戦闘状態が長年続いている。南隣にあるイラクとシリアに対しても、国境をまたいで活動するPKKやイスラム国など反トルコ勢力への攻撃と、親トルコ派勢力の支援を目的に、派兵や越境空爆をしばしば行っている。 2016年には、ペルシャ湾岸のカタールの基地を利用する協定を締結した。 有力な軍需産業を有していて各種兵器の開発と輸出を積極的に行っている。一例を挙げれば、政府系企業の航空宇宙産業(TAI)や民営のバイカル防衛が軍用無人航空機バイラクタル TB2を開発・製造しており、シリア内戦やリビア内戦に投入されたほか、2022年ロシアのウクライナ侵攻にも投入され目覚ましい戦果を上げており、複数の国が輸入している(「2020年ナゴルノ・カラバフ紛争#戦術」「#工業」も参照)。 国土はヨーロッパとアジアにまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海をつなぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡によって隔てられる。面積は日本の2倍で、北緯35度から43度、東経25度から45度に位置し、東西1,600キロメートル、南北800キロメートルに及ぶ。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。東部イラン国境近くにはヴァン湖とアララト山(国内最高峰で休火山、標高5,137メートル)がある。 国内に多くの断層を持つ地震国であり、近年では、1999年のイズミット地震でマルマラ海沿岸の人口密集地が、2023年ではトルコ・シリア地震でトルコ南部が大規模な被害を受けた。なお、他の地震国の多くと同様、国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。 中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に温暖な印象であるが、沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海や地中海の沿岸地方は温暖で、ケッペンの気候区分では地中海性気候に属し、夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。 イスタンブールのあるマルマラ海周辺やヨーロッパトルコ地域は地中海性気候と温暖湿潤気候の中間に属し、夏は他地域よりは涼しく、冬は比較的寒くなり雪も降る。 黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じトルコ降水量が最多である。深い緑に覆われている。 国土の大半を占める内陸部は大陸性気候で寒暖の差が激しく乾燥しており、アンカラなどの中部アナトリア地方はステップ気候や高地地中海性気候に属する。夏は乾燥していて非常に暑くなるが、冬季は積雪も多く、気温が−20°C以下になることも珍しくない。 東部アナトリア地方は亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、東部の標高1,500mを超えるような高原地帯では1月の平均気温は−10°Cを下回る。標高1,757mにあるエルズルムでは気温がしばしば−30°Cを下回り、−40°Cに達することもある酷寒地である。 ヴァン県のチャルディラーン(Çaldıran)では、1990年1月9日に国内最低となる−46.4°Cを記録している。高温記録としては1993年8月14日にシリア国境に近いマルディン県のコジャテプ(Kocatepe)で48.8°Cを記録している。 地方行政制度はオスマン帝国の州県制をベースとしてフランスに範をとり、全土を県(il)と呼ばれる地方行政区画に区分している。1999年以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事(vali)が置かれ、県の行政機関(valilik)を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い、県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。 県の下には民選の首長を有する行政機関(belediye)をもった市(şehir)があり、郡の下には自治体行政機関のある市・町(belde)と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村(köy)がある。イスタンブール、アンカラなどの大都市(büyük şehir)は、市の中に特別区に相当する自治体とその行政機関(belediye)を複数持ち、都市全体を市自治体(büyük şehir belediyesi)が統括する。 都市人口率は2015年時点で 約73.4%であり、世界平均(約55%、2018年)より約18ポイント高く、都市への人口集中が進んでいるといえる。 トルコ三大都市圏として、 2大陸にまたがるメガシティであるイスタンブール、 首都のアンカラ、 国内最大港湾都市のイズミル が挙げられる。 そのほか、人口が300万人を超える都市(日本でいえば、横浜市と同規模)としては、ブルサがある。 また同200万人(日本でいえば、名古屋市と同規模)を超える都市は、アンタルヤ、アダナ、コンヤ、シャンルウルファ、ガズィアンテプ、コジャエリがある。 更に、同150万人以上(日本でいえば、神戸市と同規模)を超える都市は、メルスィン、ディヤルバクル、ハタイである。 このうち、アナトリア高原など山岳部に位置する都市は、アンカラ、ガズィアンテプ、コンヤ、ディヤルバクルである。 国の東部には小規模な都市が目立ち、特に東北部、または黒海沿岸には都市への人口の集中があまり見られない。その背景には、南東部などの後進地域の若年層が雇用機会を求めて、イスタンブール、アンカラ、イズミル、ブルサ、アンタルヤといった西部大都市へ移動していることがあり、地域格差の拡大につながる社会問題となっている。 IMFによると、2018年の国内総生産(GDP)は約7,700億ドル(約85兆円)で、世界第19位である。1人あたりのGDPは9,405ドル(2018年)で、世界平均(1万4,836ドル、2018年)の約63%程であり、カザフスタンとほぼ同じである。産業は近代化が進められた工業・商業と、伝統的な農業からなり、農業人口が国全体の労働者のおよそ18.4%(2016年)を占める。漁業は沿岸部では比較的盛んであるが、エーゲ海ではギリシャ領の島々が本土のすぐ近くに点在しているため、領海・排他的経済水域や公海上の漁獲量をめぐる国際問題が起きることもある。 工業は軽工業が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である。近年では、世界の大手自動車メーカーと国内の大手財閥との合弁事業が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な外貨獲得源になっている。具体的には、国内最大の財閥であるサバンジュ財閥と日本のトヨタ自動車、国内2位の財閥であるコチ財閥とイタリアのフィアット、国内4位の財閥であるオヤック財閥とフランスのルノーが挙げられる。また、コチ財閥のアルチェリッキ・ベコ、ゾルル財閥のヴェステルなど、家電・エレクトロニクス部門の成長も期待されている。工業化が進んでいるのは北西部のマルマラ海沿岸地域が中心である。また、アナドルグループ傘下のアナドル自動車では、日本のいすゞ自動車、ホンダとの合弁事業も行なわれている。 ヨーロッパ、中東、アフリカの結節点という輸出における地理的優位さもあり、製造業の生産能力や技術力は向上している。上記以外にもアパレルのLC Waikiki、軍事関連のアセルサンといった有力メーカーが育っている。新型コロナウイルス感染症が世界に広がった2020年、トルコは約140カ国にマスク、人工呼吸器、防護服といった衛生・医療物資を送った。 経常収支が赤字であるため、ロシア連邦を含むヨーロッパ諸国などから訪れる観光客は、貴重な外貨収入源となっている。外国人観光客数は2014年のピークで3,683万人。その後、シリア内戦に誘発された相次ぐテロ事件やロシア軍爆撃機撃墜事件(2015年)、2016年トルコクーデター未遂事件が起きたため、2016年は約2,500万人に減ったものの、2017年以降は回復している。2021年5月時点、新型コロナウイルス感染症の世界的流行下でもトルコは観光客を受け入れており、国民に課せられている外出制限も観光客には適用されていない。 空路のほか、クルーズ客船も利用されている。エーゲ海沿岸地域やイスタンブール、内陸のカッパドキアなどが観光地として人気が高い。 地中海に面する西部と首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。特に東部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。 国土は鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では石炭の埋蔵量が多い。2002年の時点では亜炭・褐炭の採掘量が6,348万トンに達した。これは世界シェアの7.0%であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの20分の1過ぎない。原油(252万トン)と天然ガス(12千兆ジュール)も採掘されている。 金属鉱物資源では、世界第2位の産出量の(200万トン、世界シェア17.9%)マグネシウムをはじめ、アンチモン、金、鉄、銅、鉛、ボーキサイトなどの鉱物を産出する。 しかしながら、石炭は火力発電など燃料として国内で消費し、マグネシウムの国際価格が低迷していることから、同国の輸出に占める鉱物資源の割合は低く、4%程度(2002年時点)に過ぎない。 石油・天然ガスについては黒海で開発を進め、2002年の段階から生産を始めていたが、近年石油は100億バレル、ガスは1兆5千億立方メートルと莫大な埋蔵量であることが分かった。これにより2023年から40年間にわたって、国内消費分を賄うことができるようになるとの見通しである。 1990年代の後半から経済は低調で、政府は巨額の債務を抱え、国民は急速なインフレーションに悩まされていた。歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し、2000年からIMFの改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危機を起こした。この結果、トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。 2002年以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権の下でインフレの拡大はおおよそ沈静化した。2005年1月1日には100万トルコリラ(TL)を1新トルコリラ(YTL)とする新通貨を発行し、実質的なデノミネーションが行われた。なお2009年より、新トルコリラは再び「トルコリラ」という名称に変更されている。 近年のGDP成長率は2010年9.2%、2011年8.5%、2012年2.2%となっている。 貿易は慢性的に赤字が続いている。2003年時点では輸出466億ドルに対し、輸入656億ドルであった。ただし、サービス収支、たとえば観光による収入(90億ドル、2002年)、所得収支、たとえば海外の出稼ぎからの送金などが多額に上るため、経常収支はほぼバランスが取れている。 輸出・輸入とも過半数を工業製品が占める。世界第2位の生産量を占める毛織物のほか、毛糸、綿糸、綿織物、化学繊維などの生産量がいずれも世界の上位10位に含まれる、厚みのある繊維産業が輸出に貢献している。衣料品を輸出し、機械類を輸入するという構造である。 輸出品目では工業製品が 83.2%を占め、ついで食料品9.9%、原材料・燃料5.0%である。工業製品では衣類21.1%、繊維・織物 11.1%、自動車10.5%、電気機械8.6%が主力であり、鉄鋼も輸出している。輸出相手国はヨーロッパ圏が主力であり、ドイツ 15.8%、アメリカ合衆国7.9%、イギリス7.8%、イタリア6.8%、フランス6.0%の順である。日本に対する最大の輸出品目はマグロ(21.7%)、ついで衣料品である。 輸入品目でも工業製品が65.9%に達する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%である。品目別では機械類13.4%、電気機械9.2%、自動車7.7%、原油6.9%、繊維・織物5.0%である。輸入相手国も欧州が中心で、ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス6.0%、イギリス5.0%の順である。日本からの最大の輸入品目は乗用車(12.1%)、ついで自動車用部品である。 交通の中心となっているのは、旅客・貨物ともに陸上の道路交通である。鉄道は国鉄(TCDD)が存在し、1万940キロメートルの路線を保有・運営しているが、きわめて便が少なく不便である。また、駅舎、路線、その他設備は整備が不十分で老朽化が進んでいる。2004年には国鉄は最高時速160キロメートルの新型車両を導入したが、7月にその新型車両が脱線事故を起こし39名の死者を出した。これは、路線整備が不十分なまま新型車両を見切り発車的に導入したことが原因といわれている。この事故は国鉄の信頼性を一層低下させ、鉄道乗客数は激減している。その後、路線の新設や改良に巨額の投資をし始め、2007年4月23日、エスキシェヒール - アンカラ間にて初のトルコ高速鉄道(最高時速250キロメートル)が開通した。その後も、アンカラ-コンヤ間でも完成するなど、各地で高速鉄道建設が進められ近代化が図られている。 政府は道路整備を重視しており、国内の道路網は2004年時点で6万3,220キロメートルに及んでいる。また、イスタンブールとアンカラを結ぶ高速道路(Otoyol)も完成間近となった。貨物輸送はもちろん、短距離・長距離を問わず旅客輸送の中心もバスによる陸上輸送が中心で、大都市・地方都市を問わず都市には必ず「オトガル」と呼ばれる長距離バスターミナル(Otogal/Terminal)が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路線を運行している。また、世俗主義国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは親子や夫婦などを除き男女の相席をさせることはまずない。 いまだ雇用所得が低いことや、高額の自動車特別消費税(1,600cc未満37%、1,600cc以上60%、2,000cc以上84%)、非常に高価なガソリン価格(2008年時点で1リットル当たり3.15YTL(約280円)程度)のために、自家用車の普及はあまり進んでいない。また、農村部においては現在でも人的移動や農作物の運搬のためにトラクターや馬を用いることはごく普通である。農村部や地方都市において露天バザールが開催される日には、アンカラやイスタンブールとはかけ離れたこれらの光景をよく目にすることができる。 トルコの科学技術の歴史は前身のオスマン帝国時代から続いている。トルコでの研究開発活動は、近年大幅な飛躍を遂げている面が強く、2021年時点でのグローバル・イノベーション・インデックス(英語版)においては41位にランクされ、2011年の65位から大幅に順位を上げている。 現代においては科学技術研究評議会(TÜBİTAK)によって技術開発などを中心的に計画されており、大学や研究機関が責任を負う立場を担っている。 国土の位置するバルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国が成立する過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。 前身である多言語、多宗教国家のオスマン帝国では、このような地域事情を汲み取って「ゆるやかな統治」を目指して統治を行い、信仰の自由を大幅に認めていたため、住民にオスマン帝国民という意識はほとんどなかった。各自の信奉するイスラム教や東方教会のキリスト教(ギリシア正教、アルメニア正教、シリア正教)といった宗教に分かれ、さらに言語ごとに細かいグループに分かれて宗教・言語のエスニック・グループの集団が存在し、イスラム教徒ではトルコ語、クルド語、アルバニア系といった母語グループに分かれていた。この集団が、長らく人々のアイデンティティ形成と維持に主導的な役割を果たしてきたといえる。このため、国民国家としての現共和国成立に伴い、国内における民族意識(ナショナリズム)の醸成が急務となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定義するのかを画一的に判断することが非常に困難であった。このことは、1830年のギリシャ独立以降、隣国ギリシャとの間でバルカン半島とアナトリア半島をめぐり領土紛争の勃発する要因となり、1922年に紛争の抜本的解決を目的に締結されたローザンヌ条約と住民交換協定では、国内に住む正教会信者のトルコ語話者は「ギリシャ人」、逆にギリシャ国内に住むイスラム教徒のギリシャ語話者は「トルコ人」と規定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。 こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてトルコ語を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると同時に、トルコにおける少数民族とは非イスラム教のギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の三民族であることを定義した。しかしながら、実際には共和国成立以前から東部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるものの、それらが少数民族とは認知していない。 少数派の民族としては、クルド人、アラブ人、ラズ人、グルジア人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ザザ人、ガガウズ人、ポマク人、アゼリー人などが共和国成立以前から東部を中心に居住しており、バルカン半島や黒海の対岸からアナトリアに流入したアルバニア人、ボシュニャク人、チェルケス人、アブハズ人、クリミア・タタール人、チェチェン人、オセット人も少なくない。特に、クルド人はトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は1,400万から1,950万人といわれている。かつて政府は国内にクルド人は存在しないとの立場から、クルド語での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど、差別的に扱っていた。しかしながら、現在では少数民族の存在を認める政府の立場から、山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。実際問題として長年の同化政策の結果、今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分離した民主党(DP)とは別組織)レイラ・ザーナ党首の釈放と同日に、国営放送であるTRTの第3チャンネル(TRT3)においてクルド語放送が行われた。2008年末には24時間クルド語放送を行うためTRTに第6チャンネルが開設され、2009年1月から本放送を開始した。 なお、クルド人はいわゆる北部南東アナトリア地域(南東アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分布している。実際、クルド系政党民主国民党(DEHAP)は全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降、全国的な農村部から都市への移住が増加したことに伴いクルド人も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降最も多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブール県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における大衆政党として草の根活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつける見方も存在する。 公用語のトルコ語のほか、クルド語(クルマンジー)、ザザキ語(ディムリ語、キルマンジュキ語)、チェルケス語派(英語版)(カバルド語、アディゲ語)、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、アラビア語(北メソポタミア・アラビア語(英語版)、アラビア語イラク方言)、バルカン・ガガウズ・トルコ語、ブルガリア語、ギリシア語(ギリシア語ポントス方言)、アルメニア語、カルトヴェリ語派(グルジア語、ラズ語)などが話されている。 1934年に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓を持つことが義務づけられたため、上流階級は他のアラブ諸国と同じように先祖の名前や出自に由来する「家名」を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起のいい言葉を選んで姓をつけている。婚姻の際は、以前は夫婦同姓のみが認められていたが、2001年の法改正により女性の複合姓が認められ、さらに2014年に最高裁において、婚前の姓のみを名乗ることを認めないことは憲法違反との判決が下され、完全な夫婦別姓も選択可能となったことで、選択的夫婦別姓制度が実現している。 宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると、人口の99%以上がムスリム(イスラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分証明書にその記載事項がないことから、宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その結果、一般的にはムスリムを信奉する国民の大半はスンナ派に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティであるアレヴィー派の信奉者が国内にも相当数存在しているとの主張もあり、一説には20%を超えるとも言われている。 そのほかの宗教には東方正教会、アルメニア使徒教会、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントなどが挙げられるが、オスマン帝国末期から現共和国成立までに至る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。 一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者であるコンスタンディヌーポリ総主教はイスタンブールに居住しており、正教徒がごく少数しか存在しないトルコに東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。国内にある東方正教会の神品を養成するための「ハルキ神学校」は1971年から政府命令によって閉鎖されており、東方正教会への政府からの圧迫の一つとなっている。 義務教育機関として、8年制の初等教育学校(ilk öğretim okulu)が置かれ、そのほか4年制(2004年9月入学以降、それ以前は3年制)の高等学校(lise)、大学(üniversite)などが置かれている。ほかに就学前教育機関として幼稚園(anaokulu)なども存在する。初等教育学校を含めてほぼ全ての学校が国立だが、私立学校も存在する。ただし、私立学校の1か月間の学費は、給食費・施設費などを含めて一般労働者の月収とほぼ同等で、極めて高価である。 公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。受験競争は存在し、高校入試・大学入試のために塾(dershane)に通うことも珍しくない。 教員数・教室数はともに十分な数には達しておらず、初等教育学校は午前・午後の二部制である。また学校設備も不十分で、体育館・プールなどは公立学校にはまず存在しない。特に大都市の学校では運動場は狭くコンクリート張りで、バスケットボールやフットサルが精一杯である(地方においては芝生のサッカー場などを持つ学校も多い)。また、図書館も存在しないか、あっても不十分である。学校設備の問題に関しては国も認識し、世界銀行からの融資を受けるなどして改善を図っているが、厳しい財政事情もあって改善が進んでいない。 2004年現在、男子児童の就学率は統計上ほぼ100%に到達したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、政府は「さあ、女の子たちを学校へ(Hadi Kızlar Okula)」キャンペーンを展開するなどその解消に努めている。しかし、女子非就学者の問題には経済事情に加え、男女共学のうえ、いまだ保守的なイスラムを奉ずる地域ではヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から問題視する親が存在するという事情もあり、女子非修学者の減少はやや頭打ちの状態である。 イスラム教の教えに基づいた創造論が学校などで公然と教育されており、進化論への検閲行為などの問題が生じている。また、クルド語を教育することはおろか、教育機関などでの「公的な場」で使用することさえ法律で禁止されており、これに違反した場合は国家反逆罪などで起訴される。実際に投獄された一般のクルド人も多い。 2022年の世界平和度指数の安全・安心(Safety & Security)部門で163カ国中138位ぐらいとロシアより下位に位置し、不安定さが目立つだけでなく、かなり危険な状況にあるトルコの治安状況を、日本人は知らないのである。2007年以降、同国警察が犯罪統計を公表していないために詳細な件数は不明であるものの、日本と比べると一般犯罪(特に窃盗事件)や凶悪犯罪(殺人、強盗)は数多く発生している方で、置き引きやスリ、ぼったくり、詐欺(主に恋愛を利用したものや格安を謳うツアー、乗車料金やクレジットカードに絡むもの)、性犯罪、偽警察官による犯罪も散見されている。 トルコにおける法執行は、トルコ軍の指揮下に置かれる憲兵「ジャンダルマ」や警察総局をはじめとして、内務省(英語版)の下で行動するいくつかの省庁ならび公的機関によって行なわれている。 他人の権利の尊重や情報の自由な流れなどの基本的人権に基づく2020年積極的平和指数は、163カ国中88位と先進国を下回り、世界的には平均程度だが、66位の中国を下回っている。 政治的な理由でネット検閲が行われている。2014年には裁判所の命令がなくてもウェブサイトを遮断したり、インターネットを通じて個人の閲覧記録を収集したりすることを首相に認める法律(インターネット法に関する5641改正法)が可決されている。 そのため、YouTubeなどGoogle関連を含む約3,700の外部サイトへのアクセスは政府によってブロックされており、反政府運動の抑え込みや言論統制を理由にFacebookやTwitterなどソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)も度々ブロックされている。2017年4月29日、政府は国内からのウィキペディアへの通信を遮断したと発表。運輸海事通信省(英語版)はウィキペディアに政府がテロ組織と連携しているような記事が書かれていることを非難し、「トルコに対して中傷作戦を展開する情報源の一部になっている」と主張している。当局はウィキペディアに対して削除を要請したが、ウィキペディア側は拒否したという。ウィキペディア側が要請に応じた場合、遮断解除を行うとしている。 国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなど様々な文明が栄えた地であり、諸文化の混交が文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくは「トルコの世界遺産」を参照)。伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受け合いながら発展してきた。また、トルコの文化はヨーロッパの芸術文化や被服文化にも影響を及ぼしており、特に16世紀から18世紀の間はオスマン帝国勢力の隆盛時にその文化が多大な影響を擁している。この現象はターケリー(英語版)と呼ばれている。 近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明開化と同じように、西洋文明を積極的に取り入れてきたが、それとともにトルコ文学、演劇、音楽などの近代芸術は、言文一致運動や言語の純化運動、社会運動などと結びついて独自の歴史を歩んできた。こうした近代化の一方で、歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。無形文化財ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少し、また剣術、弓術などいくつかの伝統的な技芸は既に失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており、多くの遺跡が長らく管理者すら置かれず事実上、放置されてきた。近年は、いくつかの有名な古代ギリシャやローマ帝国時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化されて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遺跡は風化の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているが、その保全対策は財政事情もありほとんど全く手つかずの状態である。 トルコ料理は伝統的に世界三大料理の一つとされ、ギリシャ料理やシリア地方の料理(レバノン料理など)とよく似通っている。またイスラム教国ではあるが飲酒は自由に行われており、ブドウから作られアニスで香りがつけられたラクが有名である。ワインやビールの国産銘柄も多数ある。コーヒー粉末と砂糖を入れた小さな容器を火にかけて煮出すトルココーヒーはユネスコの無形文化遺産に登録された。 伝統的なトルコ音楽の一つ、オスマン古典音楽はアラブ音楽との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブールに暮らした作曲家が残したものである。 オスマン帝国とトルコ共和国で行われてきた伝統的な軍楽メフテルは多くの国に脅威と衝撃を与え、音楽家は着想を得ていくつものトルコ行進曲を製作した。 トルコの演劇文化は、幾千年も前の時代から続いている。その起源については様々な見解があり、多くの学者はトルコの民俗劇場がフリギアやヒッタイト文明のような初期のアナトリア文明の民間伝承に関連していると主張している。一方で、一部の学者からはウラル・アルタイ地域で実践されていた人道的な儀式から発展したものであるという説が唱えられている。 同国において民俗劇場は田舎に点在する何千もの村の中で何世紀にも亘って存続されて来ている面を持つ。 トルコにおける映画製作活動は、第二次世界大戦後から劇的に増加して行く形で高まった。最近ではアラブ世界、そして米国でもその存在が認知されるほどに成長を見せている。 トルコの芸術文化は、同国の前身であるオスマン帝国のものを源流としている。 トルコにおける伝統衣装は、オスマン帝国時代の服飾文化に大きく影響されている面を持つ。またトルコの民俗服は、アナトリア半島地域とその周辺の様々な地域文化の類似点や歴史的な共有があり、トルコ国内の各地域の服飾はその人々の性質を反映する傾向が強いことも明らかとなっている。 建築は、イランとギリシャ双方の影響を受け、独自の壮麗なモスクやメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナンであり、スレイマン・ジャミィなどに当時の文化を垣間見ることができる。 俗に「トルコ風呂」などと呼ばれている公衆浴場文化(本国においては性風俗店の意味はなく、伝統的浴場の意である)は、中東地域に広く見られるハンマーム(ハマム)の伝統に連なる。逆に、中東やアラブの後宮として理解されているハレムとは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイメージが、オリエンタリズム的な幻想に乗って伝えられたものであった。 国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が11件、複合遺産が2件存在する。 トルコ国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。国内には18のプロクラブが参加するスュペル・リグを頂点に、2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部には地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボールやバレーボールなど他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。 トルコサッカー連盟(TFF)は欧州サッカー連盟(UEFA)に加盟しており、スュペル・リグ上位クラブはUEFAチャンピオンズリーグやUEFAヨーロッパリーグに参加可能である。中でもイスタンブールのフェネルバフチェ、ガラタサライ、ベシクタシュと、トラブゾンのトラブゾンスポルは4大クラブと呼ばれ、テレビや新聞などの報道量もほかに比べ非常に多い。これらのクラブは実力的にも上位にあるため、UEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するクラブは半ばトルコ代表として扱われることもあり、これらの強豪は地域にかかわらず全国的に人気がある。なお、フェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3クラブはイスタンブール証券取引所に上場する上場企業でもある。 サッカートルコ代表は、2002年に行われた日韓W杯で3位の成績を収めるなど健闘した。この大会では開催国の日本と韓国に勝利しており、同一大会で2つの開催国に勝利するという珍しい記録を達成した。また、同大会で優勝したブラジルには2度敗北している。さらに、2005年にはイスタンブールのアタテュルク・オリンピヤト・スタドゥで、UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝が行われ「イスタンブールの奇跡」が起こった。 サッカー以外のプロスポーツとしては、バスケットボールとバレーボールのプロリーグが存在する。特にバスケットボールは、NBAでのトルコ人選手の活躍や2010年に世界選手権が開催されたこともあり、近年人気が上昇している。また、2005年から2011年まではF1トルコGPが開催されており、WRCのラリー・オブ・ターキーとあわせてモータースポーツにおける発展も期待される。 650年以上の歴史を持つ伝統の格闘技としてヤールギュレシ(オイルレスリング)があり、トルコの国技となっている。アマチュアスポーツとしては、レスリングや重量挙げなどの人気が高い。また、トルコ人の気風を反映してか柔道や空手道の道場も多い。競馬や競走馬の生産も行われており、日本産馬ではディヴァインライトがトルコで種牡馬として供用されている。チュルク系民族の伝統的な騎馬により争われる競技「ジリット」は、主にトルコ東部の民間に残っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トルコ共和国(トルコきょうわこく、トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアに位置するアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家。首都はアナトリア中央部のアンカラ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる。北は黒海とマルマラ海、西と南は地中海(西はエーゲ海)に面する。陸上国境は、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "トルコはチューリップを国花と定めている。チューリップは元々、パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、天山山脈を原産地としているが、中央アジアからのテュルク系民族の移住によってアナトリアへ持ち込まれ栽培された。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その後のトルコ地域でチューリップは品種改良を経て、数多くの園芸種を生み出されるなど国民的なものとして扱われ、今日に至るまで象徴的な植物となっている。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ハイイロオオカミはトルコにおいて神聖かつ国民的な動物として特別視されている。トルコ人の国民的象徴である理由は、トルコ人が「自分たちはオオカミの子孫である」という伝承を信じている点にある。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ケマル・アタテュルクによって国の象徴の一つと宣言され、現今も多くの場所でハイイロオオカミをモチーフにしたロゴなどが使用されている。一例として共和国発足から最初の数年間、紙幣にはハイイロオオカミの絵が印刷されていた点が挙げられる。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "トルコは赤と白の2色をナショナルカラーとしている。代表的なものには国旗が挙げられる。また、宝石の一種のターコイズはトルコ文化の一部であると同時に、トルコの象徴色の1つと考えられている。更にこの3色は現在、様々な分野で頻繁に使用されている。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "トルコ語による正式国名は、Türkiye Cumhuriyeti [ˈtyɾ.ci.jɛ dʒum.ˈhuː.ri.jɛ.ti] ( 音声ファイル)(テュルキイェ・ジュムフーリイェティ)、通称 Türkiye(テュルキイェ、テュルキエ、トゥルキエ)である。2022年以降の公式の英語表記は Republic of Türkiye、通称 Türkiye。日本語名のトルコは、ポルトガル語で「トルコ人(男性単数)」もしくは「トルコの(形容詞男性単数)」を意味する turco に由来する。国名の漢字表記は土耳古、略称は土。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、Turkey、Turquie など、「トルコ人の国」を意味する名でこの国家を呼んできたが、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "Türk(テュルク)は、アナトリアへの移住以前、中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いた6世紀ごろには既に使われていた民族名だが、語源には諸説ある。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国をもって「トルコの建国」と考えられている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2021年12月4日、トルコ政府は英語表記を Turkey(ターキー) から Türkiye へ変更することを決定した。またドイツ語(Türkei)、フランス語(Turquie)などの外名も同様の変更を行うとしている。これについてエルドアン大統領は「Türkiye はトルコの国民、文化、価値観を最も表した言葉である」と述べた。国際的認知度を高めるためトルコ製を表す「Made in Turkey」は「Made in Türkiye」として輸出される。2022年1月、国際連合へ国名変更の通達を行う計画が報じられ、国連のグテーレス事務総長宛ての書簡でチャヴシュオール外相が正式に変更を通報し、2022年6月1日にこの通報が受理された 。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "英語の Turkey は国名のほかに鳥類で食用としても振る舞われる七面鳥(ターキー)、英語圏の俗語で「失敗する」「愚かな人」といった意味を持つ。そのため反イスラム・反トルコ主義者はしばしトルコを七面鳥に例えて攻撃した。国名の英語表記をトルコ語名と同じにすることで英語話者の混乱を避け、更に国家のブランドを維持する思惑があると言われている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末ごろから鉄を作る技術が中近東世界に広がった。この地域が鉄器時代に入ったと考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)と最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト、フリュギア、リディア、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)など様々な民族・文明が栄えた地である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一方、北アジアではトルコ(テュルク)系民族として突厥が552年にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれをもって最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した西突厥の部族の一つから部族長トゥグリル・ベグが出て西進を始め、ボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝を成立させた。さらに西進して1055年バグダッドに入城、アッバース朝のカリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし、東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争い大敗して急激に衰退。のちにモンゴル帝国のフラグによる侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、さらにウイグル系民族に圧迫されてイラン(ペルシャ)北部、カスピ海東岸の隅地に逃亡して歴史の記録から消える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系のティムールにアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するが、アナトリア南部の険によって抵抗し命脈を保った一族が、ティムールの死後にオスマン朝を復興した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立し、欧州列強がこれに介入した(東方問題)。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下に置かれ、完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した(希土戦争 (1919年-1922年))。また、東部ではアルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人ら(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人)は1919年5月、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした(トルコ独立戦争)。1920年4月、アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。1924年、オスマン帝国のカリフをイスタンブールから追放し、西洋化による近代化を目指してトルコ共和国を建国。イスラム法(シャリーア)は国法としての地位を喪失。大陸法の影響を受けただけでなく、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦では中立を維持したが、末期の1945年になり連合国の勝利が確定的になると、その圧力により2月23日にナチス・ドイツと大日本帝国に対して宣戦布告した。第二次世界大戦後は、ソ連に南接するため、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年には北大西洋条約機構(NATO)に、また1961年には経済協力開発機構(OECD)に加盟した。NATOとOECD加盟の間は西側陣営内で経済戦争が起こっていた(セカンダリー・バンキング)。1956年ごろ、ユーロバンクの資金調達先となったため外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量を急速に伸ばしたが、ソ連が既に1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するも、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "国父アタテュルク以来、イスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標である欧州連合(EU)への加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "トルコ側もEU加盟よりは、レジェップ・タイイップ・エルドアン政権下の2010年代から2020年代にかけて、国内での反対派弾圧やイスラム回帰(アヤソフィアのモスク化など)、オスマン帝国旧領やその周辺に対するトルコの影響力拡大(新オスマン主義)を優先している。シリア内戦、リビア内戦、2020年ナゴルノ・カラバフ紛争に対しては派兵や傭兵の派遣、武器供与により介入している(「新オスマン主義」も参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "特にアルメニアとはナゴルノ・カラバフ紛争以外にも、アルメニア人虐殺への存否を含む見解の相違や、アララト山の領有権問題を抱え、緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派は東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2013年、MIKTAに加盟した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1982年に定められた憲法では、世俗主義が標榜されている。三権はほとんど完全に分立しており、憲法の目的(世俗主義ほか)を達成するためにそれぞれの役割を果たすことが期待されている。このことが、世俗派と宗教的保守派との対立を助長し、その対決が終息しない遠因ともなっている。立法府として一院制のトルコ大国民議会(Türkiye Büyük Millet Meclisi、定数600名、任期5年)がある。行政は議会によって選出される国家元首の大統領(任期7年)が務めるが、首相の権限が強い議院内閣制に基づくものであった。司法府は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されている。司法は政党の解党判断、党員の政治活動禁止といった政治的な事項についても判断できる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "その後、2007年の憲法改正(英語版)により大統領は国民投票により選出されることとなり、また任期も7年から5年へと短縮された。2010年の憲法改正(英語版)を経たのち、2017年の憲法改正(英語版)では大統領権限が強化され、議院内閣制を廃止することが定められている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式をとっている。この制度のため、2002年の総選挙では、選挙前に中道右派・イスラム派が結集して結党された公正発展党(AKP)と、野党で中道左派系・世俗主義派の共和人民党(CHP)の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。2007年7月22日に実施された総選挙では、公正発展党が前回を12ポイントを上回る総得票率47%を獲得して圧勝した。共和人民党が議席を減らし、112議席を獲得。極右の民族主義者行動党(MHP)が得票率14.3%と最低得票率10%以上の票を獲得し71議席を獲得、結果的に公正発展党は340議席となり、前回より12議席を減らすこととなった。独立候補は最低得票率の制限がなく、クルド系候補など27議席を獲得した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ムスタファ・ケマル・アタテュルク以来強行的に西欧化を押し進めてきたが、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍が政治における重要なファクターとなることがあり、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。1960年に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、参謀総長と陸海空の三軍および内務省ジャンダルマ(憲兵隊)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議(Milli Güvenlik Kurulu)が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。1980年の二度目のクーデター以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は1997年にイスラム派の福祉党主導の連立政権を崩壊に追い込み、2007年には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。8月29日には、議会での3回の投票を経てアブドゥラー・ギュル外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、もはや以前のように軍が安易に政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と宗教的保守派の対立はもっと社会の内部に籠ったものとなってきている(エルゲネコン捜査)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2009年3月29日、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党の公正発展党(AKP)が世俗派野党の共和人民党などを押さえ勝利した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2010年9月12日には、与党・公正発展党(AKP)が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。現憲法は1980年のクーデター後の1982年に制定されたもので、軍や司法当局に大幅な権限を与え、国民の民主的権利を制限するといわれてきた。この憲法改定案は民主主義を求める国民の声や欧州連合(EU)加盟の条件整備などを踏まえ、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなど26項目を提起している。国民投票の結果、憲法改正案は58%の支持で承認された。投票率は73%であった。エルドアン首相は民主主義の勝利だと宣言した(AFP電)。また、国民投票結果について「発達した民主主義と法治国家に向け、トルコは歴史的な一線を乗り越えた」と評価した。欧米諸国はこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合(EU)の執行機関欧州委員会は、加盟に向けての一歩だと讃えた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2014年8月28日にエルドアン首相は大統領に就任し、アフメト・ダウトオール外相が首相となったが、2016年5月22日にはビナリ・ユルドゥルムが新たな首相に就任した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後、2017年に大統領権限の強化と首相職の廃止を盛り込んだ憲法改正案が可決され、2018年7月9日に首相職は廃止された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "外交面では北大西洋条約機構(NATO)加盟国である。また、NATO加盟国としては唯一、非欧米軍事同盟である上海協力機構の対話パートナーであり、中露との軍事協力も行うなど、もはや西側一辺倒の外交路線ではなくなっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としており、現代では経済的・政治的にヨーロッパの一員として参加しつつあり、ヘルシンキ宣言に署名している。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件つきではあるものの欧州委員会によって2005年10月からの欧州連合への加盟交渉の開始が勧告された。現在、国内世論と戦いながら加盟申請中である。なお、加盟基準であるコペンハーゲン基準については現在議論が行われている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "国土の96%がアジアのアナトリア半島にあり、人口でもアジア側が9割弱を占める。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1890年(明治23年)に、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖で発生したエルトゥールル号遭難事件で日本の対応が評価されたことなどから、両国の友好関係が築かれている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本には多くのトルコ友好協会があり、交流が積極的に行われている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "<トルコ政府系団体>", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "<トルコ政府連携協会>", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "隣国のギリシャとは緊張関係が続いている。古くはギリシャ人国家であった東ローマ帝国が現在のトルコにあたる地域を支配していたが、やがてオスマン帝国がそれを滅ぼし支配下に置いた。その後、19世紀初頭に列強の後押しでギリシャが独立し、「大ギリシャ主義」を掲げて衰退の進むオスマン帝国からの領土奪回を目論んだ。バルカン戦争、第一次世界大戦後に領土をめぐる希土戦争が起こり、ギリシャとトルコの住民交換で解決された。しかし、当時イギリスの植民地だったキプロス島の帰属は決められなかったため、キプロス独立後にキプロスと、トルコのみが国家の承認をしている北キプロスに分裂した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "隣国のアルメニア共和国とは緊張関係が続いている。アルメニアの民族派がヴァン県など東南部をアルメニア人の奪われた土地だと主張している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "一部のアルメニア人の反トルコ主義や西アルメニアの返還の主張にはトルコの保守層の警戒感を招いている。元々、アルメニア王国との国境は時代により大きく変化しており、国民国家の概念が成立する前から対立が続いていた。またトルコはイスラーム信者が多く、キリスト教を国教にしているアルメニアとは宗教対立の側面もある。ナゴルノ・カラバフ問題に対しては同じくアルメニアと対立するイスラーム国家のアゼルバイジャンの立場に立つ(2020年ナゴルノ・カラバフ紛争など)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "MIKTA(ミクタ)は、メキシコ(Mexico)、インドネシア(Indonesia)、大韓民国(Republic of Korea)、トルコ(Turkey)、オーストラリア(Australia)の5か国によるパートナーシップである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "軍事組織として、陸軍、海軍、空軍で組織されるトルコ軍 (Türk Silahlı Kuvvetleri) と内務省に所属するジャンダルマ(憲兵隊、Jandarma)、沿岸警備隊 (Sahil Güvenlik) が置かれている。兵役は男子に対してのみ課せられている。学歴が高卒以下の場合は兵役期間が15か月であり、大卒以上の場合は将校として12か月か、二等兵として6か月を選択できるようになっている。国外に連続して3年以上居住している場合、3週間の軍事訓練と約5,000ユーロの支払いで兵役免除になる。なお兵役期間終了後は41歳まで予備役となる。2011年末には金銭を納めることで兵役を免除可能となり、事実上良心的兵役拒否を合法化した。兵員定数はないが、三軍あわせておおむね約38万人程度の兵員数である。また、ジャンダルマと沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍・海軍の指揮下に入ることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平時から陸軍と共同で治安作戦などを行っている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "指揮権は平時には大統領に、戦時には参謀総長(Genelkurmay Başkanı)に属すると憲法に明示されており、戦時においては文民統制は存在しない。また、首相および国防大臣には軍に対する指揮権・監督権は存在しない。ただし、軍は歴史的にも、また現在においても極めて政治的な行動をとる軍隊であり、また、国防予算の15%程度が議会のコントロール下にない軍基金・国防産業基金などからの歳入であるなど、平時においても軍に対する文民統制には疑問も多い。この結果、軍はいわば「第四権」といった性格を持ち、世俗主義や内政の安定を支える大きな政治的・社会的影響力を発揮してきた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1960年と1980年にはクーデターで軍事政権を樹立したこともある。近年はエルドアン政権の権限強化とそれに対するクーデター失敗、経済発展に伴う社会の成熟・多様化により、軍部の影響力は以前より低下している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "軍事同盟としては1952年以降は北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、1992年以降は西欧同盟(WEU)に準加盟している。また、1979年それ自体が崩壊するまで中央条約機構(CENTO)加盟国でもあった。2国間同盟としては1996年、イスラエルと軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、1998年からは実際にアメリカ合衆国、イスラエルとともに3国で共同軍事演習「アナトリアの鷲(英語版)」が行われた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "NATO加盟国としては唯一、非欧米国家グループである上海協力機構の対話パートナーにもなっており、2015年にはエルドアン大統領によって正規加盟が要請された。軍事装備は西側のものだけではなく、中華人民共和国の協力で弾道ミサイルのJ-600Tユルドゥルム(英語版)や多連装ロケットシステムのT-300カシルガ(英語版)を導入しており、NATOのミサイル防衛を揺るがすHQ-9やS-400のような地対空ミサイルも中国やロシアから購入する動きも見せた。2010年にはアメリカやイスラエルと行ってきた「アナトリアの鷲」演習を中国と実施し、中国と初めて合同軍事演習を行ったNATO加盟国となった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2019年にはロシアの地対空ミサイルS-400を搬入。アメリカ政府はロシアへの軍事機密漏洩を警戒して、F-35戦闘機国際共同開発からトルコを排除した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "南東部においてはクルディスタン労働者党(PKK)との戦闘状態が長年続いている。南隣にあるイラクとシリアに対しても、国境をまたいで活動するPKKやイスラム国など反トルコ勢力への攻撃と、親トルコ派勢力の支援を目的に、派兵や越境空爆をしばしば行っている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2016年には、ペルシャ湾岸のカタールの基地を利用する協定を締結した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "有力な軍需産業を有していて各種兵器の開発と輸出を積極的に行っている。一例を挙げれば、政府系企業の航空宇宙産業(TAI)や民営のバイカル防衛が軍用無人航空機バイラクタル TB2を開発・製造しており、シリア内戦やリビア内戦に投入されたほか、2022年ロシアのウクライナ侵攻にも投入され目覚ましい戦果を上げており、複数の国が輸入している(「2020年ナゴルノ・カラバフ紛争#戦術」「#工業」も参照)。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "国土はヨーロッパとアジアにまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海をつなぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡によって隔てられる。面積は日本の2倍で、北緯35度から43度、東経25度から45度に位置し、東西1,600キロメートル、南北800キロメートルに及ぶ。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。東部イラン国境近くにはヴァン湖とアララト山(国内最高峰で休火山、標高5,137メートル)がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "国内に多くの断層を持つ地震国であり、近年では、1999年のイズミット地震でマルマラ海沿岸の人口密集地が、2023年ではトルコ・シリア地震でトルコ南部が大規模な被害を受けた。なお、他の地震国の多くと同様、国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に温暖な印象であるが、沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海や地中海の沿岸地方は温暖で、ケッペンの気候区分では地中海性気候に属し、夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "イスタンブールのあるマルマラ海周辺やヨーロッパトルコ地域は地中海性気候と温暖湿潤気候の中間に属し、夏は他地域よりは涼しく、冬は比較的寒くなり雪も降る。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じトルコ降水量が最多である。深い緑に覆われている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "国土の大半を占める内陸部は大陸性気候で寒暖の差が激しく乾燥しており、アンカラなどの中部アナトリア地方はステップ気候や高地地中海性気候に属する。夏は乾燥していて非常に暑くなるが、冬季は積雪も多く、気温が−20°C以下になることも珍しくない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "東部アナトリア地方は亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、東部の標高1,500mを超えるような高原地帯では1月の平均気温は−10°Cを下回る。標高1,757mにあるエルズルムでは気温がしばしば−30°Cを下回り、−40°Cに達することもある酷寒地である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ヴァン県のチャルディラーン(Çaldıran)では、1990年1月9日に国内最低となる−46.4°Cを記録している。高温記録としては1993年8月14日にシリア国境に近いマルディン県のコジャテプ(Kocatepe)で48.8°Cを記録している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "地方行政制度はオスマン帝国の州県制をベースとしてフランスに範をとり、全土を県(il)と呼ばれる地方行政区画に区分している。1999年以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事(vali)が置かれ、県の行政機関(valilik)を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い、県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "県の下には民選の首長を有する行政機関(belediye)をもった市(şehir)があり、郡の下には自治体行政機関のある市・町(belde)と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村(köy)がある。イスタンブール、アンカラなどの大都市(büyük şehir)は、市の中に特別区に相当する自治体とその行政機関(belediye)を複数持ち、都市全体を市自治体(büyük şehir belediyesi)が統括する。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "都市人口率は2015年時点で 約73.4%であり、世界平均(約55%、2018年)より約18ポイント高く、都市への人口集中が進んでいるといえる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "トルコ三大都市圏として、 2大陸にまたがるメガシティであるイスタンブール、 首都のアンカラ、 国内最大港湾都市のイズミル が挙げられる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "そのほか、人口が300万人を超える都市(日本でいえば、横浜市と同規模)としては、ブルサがある。 また同200万人(日本でいえば、名古屋市と同規模)を超える都市は、アンタルヤ、アダナ、コンヤ、シャンルウルファ、ガズィアンテプ、コジャエリがある。 更に、同150万人以上(日本でいえば、神戸市と同規模)を超える都市は、メルスィン、ディヤルバクル、ハタイである。 このうち、アナトリア高原など山岳部に位置する都市は、アンカラ、ガズィアンテプ、コンヤ、ディヤルバクルである。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "国の東部には小規模な都市が目立ち、特に東北部、または黒海沿岸には都市への人口の集中があまり見られない。その背景には、南東部などの後進地域の若年層が雇用機会を求めて、イスタンブール、アンカラ、イズミル、ブルサ、アンタルヤといった西部大都市へ移動していることがあり、地域格差の拡大につながる社会問題となっている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "IMFによると、2018年の国内総生産(GDP)は約7,700億ドル(約85兆円)で、世界第19位である。1人あたりのGDPは9,405ドル(2018年)で、世界平均(1万4,836ドル、2018年)の約63%程であり、カザフスタンとほぼ同じである。産業は近代化が進められた工業・商業と、伝統的な農業からなり、農業人口が国全体の労働者のおよそ18.4%(2016年)を占める。漁業は沿岸部では比較的盛んであるが、エーゲ海ではギリシャ領の島々が本土のすぐ近くに点在しているため、領海・排他的経済水域や公海上の漁獲量をめぐる国際問題が起きることもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "工業は軽工業が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である。近年では、世界の大手自動車メーカーと国内の大手財閥との合弁事業が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な外貨獲得源になっている。具体的には、国内最大の財閥であるサバンジュ財閥と日本のトヨタ自動車、国内2位の財閥であるコチ財閥とイタリアのフィアット、国内4位の財閥であるオヤック財閥とフランスのルノーが挙げられる。また、コチ財閥のアルチェリッキ・ベコ、ゾルル財閥のヴェステルなど、家電・エレクトロニクス部門の成長も期待されている。工業化が進んでいるのは北西部のマルマラ海沿岸地域が中心である。また、アナドルグループ傘下のアナドル自動車では、日本のいすゞ自動車、ホンダとの合弁事業も行なわれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ、中東、アフリカの結節点という輸出における地理的優位さもあり、製造業の生産能力や技術力は向上している。上記以外にもアパレルのLC Waikiki、軍事関連のアセルサンといった有力メーカーが育っている。新型コロナウイルス感染症が世界に広がった2020年、トルコは約140カ国にマスク、人工呼吸器、防護服といった衛生・医療物資を送った。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "経常収支が赤字であるため、ロシア連邦を含むヨーロッパ諸国などから訪れる観光客は、貴重な外貨収入源となっている。外国人観光客数は2014年のピークで3,683万人。その後、シリア内戦に誘発された相次ぐテロ事件やロシア軍爆撃機撃墜事件(2015年)、2016年トルコクーデター未遂事件が起きたため、2016年は約2,500万人に減ったものの、2017年以降は回復している。2021年5月時点、新型コロナウイルス感染症の世界的流行下でもトルコは観光客を受け入れており、国民に課せられている外出制限も観光客には適用されていない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "空路のほか、クルーズ客船も利用されている。エーゲ海沿岸地域やイスタンブール、内陸のカッパドキアなどが観光地として人気が高い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "地中海に面する西部と首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。特に東部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "国土は鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では石炭の埋蔵量が多い。2002年の時点では亜炭・褐炭の採掘量が6,348万トンに達した。これは世界シェアの7.0%であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの20分の1過ぎない。原油(252万トン)と天然ガス(12千兆ジュール)も採掘されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "金属鉱物資源では、世界第2位の産出量の(200万トン、世界シェア17.9%)マグネシウムをはじめ、アンチモン、金、鉄、銅、鉛、ボーキサイトなどの鉱物を産出する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "しかしながら、石炭は火力発電など燃料として国内で消費し、マグネシウムの国際価格が低迷していることから、同国の輸出に占める鉱物資源の割合は低く、4%程度(2002年時点)に過ぎない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "石油・天然ガスについては黒海で開発を進め、2002年の段階から生産を始めていたが、近年石油は100億バレル、ガスは1兆5千億立方メートルと莫大な埋蔵量であることが分かった。これにより2023年から40年間にわたって、国内消費分を賄うことができるようになるとの見通しである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1990年代の後半から経済は低調で、政府は巨額の債務を抱え、国民は急速なインフレーションに悩まされていた。歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し、2000年からIMFの改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危機を起こした。この結果、トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2002年以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権の下でインフレの拡大はおおよそ沈静化した。2005年1月1日には100万トルコリラ(TL)を1新トルコリラ(YTL)とする新通貨を発行し、実質的なデノミネーションが行われた。なお2009年より、新トルコリラは再び「トルコリラ」という名称に変更されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "近年のGDP成長率は2010年9.2%、2011年8.5%、2012年2.2%となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "貿易は慢性的に赤字が続いている。2003年時点では輸出466億ドルに対し、輸入656億ドルであった。ただし、サービス収支、たとえば観光による収入(90億ドル、2002年)、所得収支、たとえば海外の出稼ぎからの送金などが多額に上るため、経常収支はほぼバランスが取れている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "輸出・輸入とも過半数を工業製品が占める。世界第2位の生産量を占める毛織物のほか、毛糸、綿糸、綿織物、化学繊維などの生産量がいずれも世界の上位10位に含まれる、厚みのある繊維産業が輸出に貢献している。衣料品を輸出し、機械類を輸入するという構造である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "輸出品目では工業製品が 83.2%を占め、ついで食料品9.9%、原材料・燃料5.0%である。工業製品では衣類21.1%、繊維・織物 11.1%、自動車10.5%、電気機械8.6%が主力であり、鉄鋼も輸出している。輸出相手国はヨーロッパ圏が主力であり、ドイツ 15.8%、アメリカ合衆国7.9%、イギリス7.8%、イタリア6.8%、フランス6.0%の順である。日本に対する最大の輸出品目はマグロ(21.7%)、ついで衣料品である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "輸入品目でも工業製品が65.9%に達する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%である。品目別では機械類13.4%、電気機械9.2%、自動車7.7%、原油6.9%、繊維・織物5.0%である。輸入相手国も欧州が中心で、ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス6.0%、イギリス5.0%の順である。日本からの最大の輸入品目は乗用車(12.1%)、ついで自動車用部品である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "交通の中心となっているのは、旅客・貨物ともに陸上の道路交通である。鉄道は国鉄(TCDD)が存在し、1万940キロメートルの路線を保有・運営しているが、きわめて便が少なく不便である。また、駅舎、路線、その他設備は整備が不十分で老朽化が進んでいる。2004年には国鉄は最高時速160キロメートルの新型車両を導入したが、7月にその新型車両が脱線事故を起こし39名の死者を出した。これは、路線整備が不十分なまま新型車両を見切り発車的に導入したことが原因といわれている。この事故は国鉄の信頼性を一層低下させ、鉄道乗客数は激減している。その後、路線の新設や改良に巨額の投資をし始め、2007年4月23日、エスキシェヒール - アンカラ間にて初のトルコ高速鉄道(最高時速250キロメートル)が開通した。その後も、アンカラ-コンヤ間でも完成するなど、各地で高速鉄道建設が進められ近代化が図られている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "政府は道路整備を重視しており、国内の道路網は2004年時点で6万3,220キロメートルに及んでいる。また、イスタンブールとアンカラを結ぶ高速道路(Otoyol)も完成間近となった。貨物輸送はもちろん、短距離・長距離を問わず旅客輸送の中心もバスによる陸上輸送が中心で、大都市・地方都市を問わず都市には必ず「オトガル」と呼ばれる長距離バスターミナル(Otogal/Terminal)が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路線を運行している。また、世俗主義国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは親子や夫婦などを除き男女の相席をさせることはまずない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "いまだ雇用所得が低いことや、高額の自動車特別消費税(1,600cc未満37%、1,600cc以上60%、2,000cc以上84%)、非常に高価なガソリン価格(2008年時点で1リットル当たり3.15YTL(約280円)程度)のために、自家用車の普及はあまり進んでいない。また、農村部においては現在でも人的移動や農作物の運搬のためにトラクターや馬を用いることはごく普通である。農村部や地方都市において露天バザールが開催される日には、アンカラやイスタンブールとはかけ離れたこれらの光景をよく目にすることができる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "トルコの科学技術の歴史は前身のオスマン帝国時代から続いている。トルコでの研究開発活動は、近年大幅な飛躍を遂げている面が強く、2021年時点でのグローバル・イノベーション・インデックス(英語版)においては41位にランクされ、2011年の65位から大幅に順位を上げている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "現代においては科学技術研究評議会(TÜBİTAK)によって技術開発などを中心的に計画されており、大学や研究機関が責任を負う立場を担っている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "国土の位置するバルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国が成立する過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "前身である多言語、多宗教国家のオスマン帝国では、このような地域事情を汲み取って「ゆるやかな統治」を目指して統治を行い、信仰の自由を大幅に認めていたため、住民にオスマン帝国民という意識はほとんどなかった。各自の信奉するイスラム教や東方教会のキリスト教(ギリシア正教、アルメニア正教、シリア正教)といった宗教に分かれ、さらに言語ごとに細かいグループに分かれて宗教・言語のエスニック・グループの集団が存在し、イスラム教徒ではトルコ語、クルド語、アルバニア系といった母語グループに分かれていた。この集団が、長らく人々のアイデンティティ形成と維持に主導的な役割を果たしてきたといえる。このため、国民国家としての現共和国成立に伴い、国内における民族意識(ナショナリズム)の醸成が急務となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定義するのかを画一的に判断することが非常に困難であった。このことは、1830年のギリシャ独立以降、隣国ギリシャとの間でバルカン半島とアナトリア半島をめぐり領土紛争の勃発する要因となり、1922年に紛争の抜本的解決を目的に締結されたローザンヌ条約と住民交換協定では、国内に住む正教会信者のトルコ語話者は「ギリシャ人」、逆にギリシャ国内に住むイスラム教徒のギリシャ語話者は「トルコ人」と規定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてトルコ語を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると同時に、トルコにおける少数民族とは非イスラム教のギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の三民族であることを定義した。しかしながら、実際には共和国成立以前から東部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるものの、それらが少数民族とは認知していない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "少数派の民族としては、クルド人、アラブ人、ラズ人、グルジア人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ザザ人、ガガウズ人、ポマク人、アゼリー人などが共和国成立以前から東部を中心に居住しており、バルカン半島や黒海の対岸からアナトリアに流入したアルバニア人、ボシュニャク人、チェルケス人、アブハズ人、クリミア・タタール人、チェチェン人、オセット人も少なくない。特に、クルド人はトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は1,400万から1,950万人といわれている。かつて政府は国内にクルド人は存在しないとの立場から、クルド語での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど、差別的に扱っていた。しかしながら、現在では少数民族の存在を認める政府の立場から、山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。実際問題として長年の同化政策の結果、今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分離した民主党(DP)とは別組織)レイラ・ザーナ党首の釈放と同日に、国営放送であるTRTの第3チャンネル(TRT3)においてクルド語放送が行われた。2008年末には24時間クルド語放送を行うためTRTに第6チャンネルが開設され、2009年1月から本放送を開始した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "なお、クルド人はいわゆる北部南東アナトリア地域(南東アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分布している。実際、クルド系政党民主国民党(DEHAP)は全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降、全国的な農村部から都市への移住が増加したことに伴いクルド人も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降最も多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブール県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における大衆政党として草の根活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつける見方も存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "公用語のトルコ語のほか、クルド語(クルマンジー)、ザザキ語(ディムリ語、キルマンジュキ語)、チェルケス語派(英語版)(カバルド語、アディゲ語)、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、アラビア語(北メソポタミア・アラビア語(英語版)、アラビア語イラク方言)、バルカン・ガガウズ・トルコ語、ブルガリア語、ギリシア語(ギリシア語ポントス方言)、アルメニア語、カルトヴェリ語派(グルジア語、ラズ語)などが話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1934年に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓を持つことが義務づけられたため、上流階級は他のアラブ諸国と同じように先祖の名前や出自に由来する「家名」を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起のいい言葉を選んで姓をつけている。婚姻の際は、以前は夫婦同姓のみが認められていたが、2001年の法改正により女性の複合姓が認められ、さらに2014年に最高裁において、婚前の姓のみを名乗ることを認めないことは憲法違反との判決が下され、完全な夫婦別姓も選択可能となったことで、選択的夫婦別姓制度が実現している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると、人口の99%以上がムスリム(イスラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分証明書にその記載事項がないことから、宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その結果、一般的にはムスリムを信奉する国民の大半はスンナ派に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティであるアレヴィー派の信奉者が国内にも相当数存在しているとの主張もあり、一説には20%を超えるとも言われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "そのほかの宗教には東方正教会、アルメニア使徒教会、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントなどが挙げられるが、オスマン帝国末期から現共和国成立までに至る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者であるコンスタンディヌーポリ総主教はイスタンブールに居住しており、正教徒がごく少数しか存在しないトルコに東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。国内にある東方正教会の神品を養成するための「ハルキ神学校」は1971年から政府命令によって閉鎖されており、東方正教会への政府からの圧迫の一つとなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "義務教育機関として、8年制の初等教育学校(ilk öğretim okulu)が置かれ、そのほか4年制(2004年9月入学以降、それ以前は3年制)の高等学校(lise)、大学(üniversite)などが置かれている。ほかに就学前教育機関として幼稚園(anaokulu)なども存在する。初等教育学校を含めてほぼ全ての学校が国立だが、私立学校も存在する。ただし、私立学校の1か月間の学費は、給食費・施設費などを含めて一般労働者の月収とほぼ同等で、極めて高価である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。受験競争は存在し、高校入試・大学入試のために塾(dershane)に通うことも珍しくない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "教員数・教室数はともに十分な数には達しておらず、初等教育学校は午前・午後の二部制である。また学校設備も不十分で、体育館・プールなどは公立学校にはまず存在しない。特に大都市の学校では運動場は狭くコンクリート張りで、バスケットボールやフットサルが精一杯である(地方においては芝生のサッカー場などを持つ学校も多い)。また、図書館も存在しないか、あっても不十分である。学校設備の問題に関しては国も認識し、世界銀行からの融資を受けるなどして改善を図っているが、厳しい財政事情もあって改善が進んでいない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2004年現在、男子児童の就学率は統計上ほぼ100%に到達したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、政府は「さあ、女の子たちを学校へ(Hadi Kızlar Okula)」キャンペーンを展開するなどその解消に努めている。しかし、女子非就学者の問題には経済事情に加え、男女共学のうえ、いまだ保守的なイスラムを奉ずる地域ではヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から問題視する親が存在するという事情もあり、女子非修学者の減少はやや頭打ちの状態である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "イスラム教の教えに基づいた創造論が学校などで公然と教育されており、進化論への検閲行為などの問題が生じている。また、クルド語を教育することはおろか、教育機関などでの「公的な場」で使用することさえ法律で禁止されており、これに違反した場合は国家反逆罪などで起訴される。実際に投獄された一般のクルド人も多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2022年の世界平和度指数の安全・安心(Safety & Security)部門で163カ国中138位ぐらいとロシアより下位に位置し、不安定さが目立つだけでなく、かなり危険な状況にあるトルコの治安状況を、日本人は知らないのである。2007年以降、同国警察が犯罪統計を公表していないために詳細な件数は不明であるものの、日本と比べると一般犯罪(特に窃盗事件)や凶悪犯罪(殺人、強盗)は数多く発生している方で、置き引きやスリ、ぼったくり、詐欺(主に恋愛を利用したものや格安を謳うツアー、乗車料金やクレジットカードに絡むもの)、性犯罪、偽警察官による犯罪も散見されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "トルコにおける法執行は、トルコ軍の指揮下に置かれる憲兵「ジャンダルマ」や警察総局をはじめとして、内務省(英語版)の下で行動するいくつかの省庁ならび公的機関によって行なわれている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "他人の権利の尊重や情報の自由な流れなどの基本的人権に基づく2020年積極的平和指数は、163カ国中88位と先進国を下回り、世界的には平均程度だが、66位の中国を下回っている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "政治的な理由でネット検閲が行われている。2014年には裁判所の命令がなくてもウェブサイトを遮断したり、インターネットを通じて個人の閲覧記録を収集したりすることを首相に認める法律(インターネット法に関する5641改正法)が可決されている。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "そのため、YouTubeなどGoogle関連を含む約3,700の外部サイトへのアクセスは政府によってブロックされており、反政府運動の抑え込みや言論統制を理由にFacebookやTwitterなどソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)も度々ブロックされている。2017年4月29日、政府は国内からのウィキペディアへの通信を遮断したと発表。運輸海事通信省(英語版)はウィキペディアに政府がテロ組織と連携しているような記事が書かれていることを非難し、「トルコに対して中傷作戦を展開する情報源の一部になっている」と主張している。当局はウィキペディアに対して削除を要請したが、ウィキペディア側は拒否したという。ウィキペディア側が要請に応じた場合、遮断解除を行うとしている。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなど様々な文明が栄えた地であり、諸文化の混交が文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくは「トルコの世界遺産」を参照)。伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受け合いながら発展してきた。また、トルコの文化はヨーロッパの芸術文化や被服文化にも影響を及ぼしており、特に16世紀から18世紀の間はオスマン帝国勢力の隆盛時にその文化が多大な影響を擁している。この現象はターケリー(英語版)と呼ばれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明開化と同じように、西洋文明を積極的に取り入れてきたが、それとともにトルコ文学、演劇、音楽などの近代芸術は、言文一致運動や言語の純化運動、社会運動などと結びついて独自の歴史を歩んできた。こうした近代化の一方で、歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。無形文化財ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少し、また剣術、弓術などいくつかの伝統的な技芸は既に失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており、多くの遺跡が長らく管理者すら置かれず事実上、放置されてきた。近年は、いくつかの有名な古代ギリシャやローマ帝国時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化されて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遺跡は風化の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているが、その保全対策は財政事情もありほとんど全く手つかずの状態である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "トルコ料理は伝統的に世界三大料理の一つとされ、ギリシャ料理やシリア地方の料理(レバノン料理など)とよく似通っている。またイスラム教国ではあるが飲酒は自由に行われており、ブドウから作られアニスで香りがつけられたラクが有名である。ワインやビールの国産銘柄も多数ある。コーヒー粉末と砂糖を入れた小さな容器を火にかけて煮出すトルココーヒーはユネスコの無形文化遺産に登録された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "伝統的なトルコ音楽の一つ、オスマン古典音楽はアラブ音楽との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブールに暮らした作曲家が残したものである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "オスマン帝国とトルコ共和国で行われてきた伝統的な軍楽メフテルは多くの国に脅威と衝撃を与え、音楽家は着想を得ていくつものトルコ行進曲を製作した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "トルコの演劇文化は、幾千年も前の時代から続いている。その起源については様々な見解があり、多くの学者はトルコの民俗劇場がフリギアやヒッタイト文明のような初期のアナトリア文明の民間伝承に関連していると主張している。一方で、一部の学者からはウラル・アルタイ地域で実践されていた人道的な儀式から発展したものであるという説が唱えられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "同国において民俗劇場は田舎に点在する何千もの村の中で何世紀にも亘って存続されて来ている面を持つ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "トルコにおける映画製作活動は、第二次世界大戦後から劇的に増加して行く形で高まった。最近ではアラブ世界、そして米国でもその存在が認知されるほどに成長を見せている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "トルコの芸術文化は、同国の前身であるオスマン帝国のものを源流としている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "トルコにおける伝統衣装は、オスマン帝国時代の服飾文化に大きく影響されている面を持つ。またトルコの民俗服は、アナトリア半島地域とその周辺の様々な地域文化の類似点や歴史的な共有があり、トルコ国内の各地域の服飾はその人々の性質を反映する傾向が強いことも明らかとなっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "建築は、イランとギリシャ双方の影響を受け、独自の壮麗なモスクやメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナンであり、スレイマン・ジャミィなどに当時の文化を垣間見ることができる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "俗に「トルコ風呂」などと呼ばれている公衆浴場文化(本国においては性風俗店の意味はなく、伝統的浴場の意である)は、中東地域に広く見られるハンマーム(ハマム)の伝統に連なる。逆に、中東やアラブの後宮として理解されているハレムとは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイメージが、オリエンタリズム的な幻想に乗って伝えられたものであった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が11件、複合遺産が2件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "トルコ国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。国内には18のプロクラブが参加するスュペル・リグを頂点に、2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部には地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボールやバレーボールなど他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "トルコサッカー連盟(TFF)は欧州サッカー連盟(UEFA)に加盟しており、スュペル・リグ上位クラブはUEFAチャンピオンズリーグやUEFAヨーロッパリーグに参加可能である。中でもイスタンブールのフェネルバフチェ、ガラタサライ、ベシクタシュと、トラブゾンのトラブゾンスポルは4大クラブと呼ばれ、テレビや新聞などの報道量もほかに比べ非常に多い。これらのクラブは実力的にも上位にあるため、UEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するクラブは半ばトルコ代表として扱われることもあり、これらの強豪は地域にかかわらず全国的に人気がある。なお、フェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3クラブはイスタンブール証券取引所に上場する上場企業でもある。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "サッカートルコ代表は、2002年に行われた日韓W杯で3位の成績を収めるなど健闘した。この大会では開催国の日本と韓国に勝利しており、同一大会で2つの開催国に勝利するという珍しい記録を達成した。また、同大会で優勝したブラジルには2度敗北している。さらに、2005年にはイスタンブールのアタテュルク・オリンピヤト・スタドゥで、UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝が行われ「イスタンブールの奇跡」が起こった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "サッカー以外のプロスポーツとしては、バスケットボールとバレーボールのプロリーグが存在する。特にバスケットボールは、NBAでのトルコ人選手の活躍や2010年に世界選手権が開催されたこともあり、近年人気が上昇している。また、2005年から2011年まではF1トルコGPが開催されており、WRCのラリー・オブ・ターキーとあわせてモータースポーツにおける発展も期待される。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "650年以上の歴史を持つ伝統の格闘技としてヤールギュレシ(オイルレスリング)があり、トルコの国技となっている。アマチュアスポーツとしては、レスリングや重量挙げなどの人気が高い。また、トルコ人の気風を反映してか柔道や空手道の道場も多い。競馬や競走馬の生産も行われており、日本産馬ではディヴァインライトがトルコで種牡馬として供用されている。チュルク系民族の伝統的な騎馬により争われる競技「ジリット」は、主にトルコ東部の民間に残っている。", "title": "スポーツ" } ]
トルコ共和国、通称トルコは、西アジアに位置するアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる。北は黒海とマルマラ海、西と南は地中海(西はエーゲ海)に面する。陸上国境は、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。
{{Otheruses}} {{参照方法|date=2009年10月}} {{基礎情報 国 | 略名 = トルコ | 日本語国名 = トルコ共和国 | 公式国名 = {{lang|tr|'''Türkiye Cumhuriyeti'''}} | 国旗画像 = Flag of Turkey.svg | 国章画像 = [[ファイル:Emblem of Turkey.svg|100px|トルコの国章]] | 国章リンク = ([[トルコの国章|国章]]) | 標語 = ''Egemenlik kayıtsız şartsız milletindir.'' ([[トルコ語]]:主権は無条件に国家にあり)<ref>{{cite web|url=http://www.cankaya.gov.tr/eng_html/index.html|accessdate=2007-01-11|title=Presidency of the Republic of Turkey}}</ref> | 国歌 = [[独立行進曲|{{lang|tr|İstiklal Marşı}}]]{{tr icon}}<br />''独立行進曲''<br />{{center|[[ファイル:IstiklalMarsi-2013 (version 2).oga]]}} | 位置画像 = Turkey (orthographic projection).svg | 公用語 = [[トルコ語]] | 首都 = [[アンカラ]] | 最大都市 = [[イスタンブール]] | 元首等肩書 = [[トルコの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[レジェップ・タイイップ・エルドアン]] | 首相等肩書 = [[トルコの副大統領|副大統領]] | 首相等氏名 = {{仮リンク|ジェヴデト・ユルマズ|en|Cevdet Yılmaz}} | 他元首等肩書1 = [[トルコ大国民議会|大国民議会議長]] | 他元首等氏名1 = {{仮リンク|ヌーマン・クルトゥルムシュ|tr|Numan Kurtulmuş}} | 他元首等肩書2 = 憲法裁判所長官 | 他元首等氏名2 = {{仮リンク|ズフトゥ・アルスラーン|en|Zühtü Arslan}} | 面積順位 = 37 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 783,562 | 水面積率 = 1.3 [[パーセント|%]] | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 18 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 84,339,067 <ref>{{cite web|url=https://data.worldbank.org/indicator/SP.POP.TOTL?locations=TR|title=World Bank Open Data|publisher=[[世界銀行]]|accessdate=2021-10-29}}</ref> | 人口密度値 = 110<ref>{{cite web|url=https://data.worldbank.org/indicator/EN.POP.DNST?locations=TR&view=chart|title=World Bank Open Data|publisher=[[世界銀行]]|accessdate=2021-10-29}}</ref> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 5兆468億8300万<ref name="imf202110">{{Cite web |url =https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=186,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title = World Economic Outlook Database, October 2021 |publisher = [[国際通貨基金|IMF]] |language = 英語 |date = 2021-10 |accessdate = 2021-10-29}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 20 | GDP値MER = 7199億1900万<ref name="imf202110" /> | GDP MER/人 = 8,610.029<ref name="imf202110" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 15 | GDP値 = 2兆5459億3900万<ref name="imf202110" /> | GDP/人 = 30,448.713<ref name="imf202110" /> | 建国形態 = [[建国記念日|建国]]<br />&nbsp;- 宣言 | 建国年月日 = [[共和制]]宣言<br />[[1923年]][[10月29日]] | 通貨 = [[トルコリラ]] | 通貨コード = TRY | 時間帯 = +3 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = TR / TUR | ccTLD = [[.tr]] | 国際電話番号 = 90 | 注記 = |国歌名=[[独立国歌]]}} '''トルコ共和国'''(トルコきょうわこく、{{lang-tr|Türkiye Cumhuriyeti}})、通称'''トルコ'''は、[[西アジア]]に位置する[[アナトリア半島]](小アジア)と[[東ヨーロッパ]]に位置する[[バルカン半島]]東南端の[[東トラキア]]地方を領有する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]はアナトリア中央部の[[アンカラ]]。 [[アジア]]と[[ヨーロッパ]]の2つの[[大州]]にまたがる。北は[[黒海]]と[[マルマラ海]]、西と南は[[地中海]](西は[[エーゲ海]])に面する。陸上[[国境]]は、西で[[ブルガリア]]、[[ギリシャ]]と、東で[[ジョージア (国)|ジョージア]](グルジア)、[[アルメニア]]、[[アゼルバイジャン]]、[[イラン]]、[[イラク]]、[[シリア]]と接する。 <!-- == 概要 == --> == 象徴 == {{Main|{{仮リンク|トルコの国の象徴|en|National symbols of Turkey}}}} === 国花 === [[File:Türkiye logo.svg|thumb|right|150px|トルコの公式ロゴ]] トルコは[[チューリップ]]を[[国花]]と定めている。チューリップは元々、[[パミール高原]]、[[ヒンドゥークシュ山脈]]、[[天山山脈]]を原産地<ref name="King 16">{{Cite book |title=Gardening with Tulips |publisher=Timber Press |year=2005 |isbn=0-88192-744-9 |location=Portland, OR |page=16}}</ref>としているが、中央アジアからの[[テュルク系民族]]の移住によってアナトリアへ持ち込まれ栽培された。 その後のトルコ地域でチューリップは[[品種改良]]を経て、数多くの園芸種を生み出されるなど国民的なものとして扱われ、今日に至るまで象徴的な植物となっている。 === 国獣 === [[File:Howlsnow.jpg|thumb|right|150px|ハイイロオオカミ <br> トルコでは国の歴史を通じて縁深い動物とされている]] [[ハイイロオオカミ]]はトルコにおいて神聖かつ国民的な動物として特別視されている。トルコ人の国民的象徴である理由は、トルコ人が「[[アセナ|自分たちはオオカミの子孫である]]」という[[伝承]]を信じている点にある。 [[ケマル・アタテュルク]]によって国の象徴の一つと宣言され、現今も多くの場所でハイイロオオカミをモチーフにしたロゴなどが使用されている。一例として共和国発足から最初の数年間、[[紙幣]]にはハイイロオオカミの絵が印刷されていた点が挙げられる。 {{see also|{{仮リンク|トルコのナショナリズム|en|Turkish nationalism}}}} === ナショナルカラー === トルコは[[赤]]と[[白]]の2色を[[ナショナルカラー]]としている。代表的なものには国旗が挙げられる。また、[[宝石]]の一種の[[ターコイズ]]はトルコ文化の一部であると同時に、トルコの象徴色の1つと考えられている。更にこの3色は現在、様々な分野で頻繁に使用されている。 {{節スタブ}} == 国名 == [[トルコ語]]による正式国名は、{{lang|tr|''Türkiye Cumhuriyeti''}} {{IPA-tr|ˈtyɾ.ci.jɛ dʒum.ˈhuː.ri.jɛ.ti||Tur-Türkiye Cumhuriyeti.ogg}}(テュルキイェ・ジュムフーリイェティ)、通称 {{Lang|tr|''Türkiye''}}(テュルキイェ、テュルキエ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/61680276 |title=トルコ、国連での国名を「テュルキエ」に ブランド刷新と大統領 |publisher=BBC |date=2022-06-03 |accessdate=2023-01-07}}</ref>、トゥルキエ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/8782018.html |title=「トゥルキエ」表記広がる トルコ国名変更に欧米配慮 |publisher=[[47news]] |date=2023-01-07 |accessdate=2023-01-07}}</ref>)である。2022年以降の公式の[[英語]]表記は {{lang|en|''Republic of Türkiye''}}、通称 {{lang|en|''Türkiye''}}<ref name="untern">{{Cite web |url=https://unterm.un.org/unterm2/en/view/356ac538-feb4-4d8a-a4e9-a9eb5dd40fc5 |title=the Republic of Türkiye |publisher=The United Nations Terminology Database |date=2022-05-31 |accessdate=2022-06-06}}</ref><ref name="CNN35188397">{{Cite web |url=https://edition.cnn.com/2022/06/02/europe/turkey-trkiye-united-nations-scli-intl/index.html |title=Turkey rebrands as 'Türkiye,' changing name at the United Nations |publisher=[[CNN]] |date=2022-06-03 |accessdate=2022-06-03}}</ref>。[[日本語]]名のトルコは、[[ポルトガル語]]で「[[トルコ人]](男性単数)」もしくは「トルコの(形容詞男性単数)」を意味する '''turco''' に由来する。[[国名の漢字表記]]は土耳古、略称は'''土'''。 英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身である[[オスマン帝国]]の時代から、Turkey、Turquie など、「[[トルコ人]]の国」を意味する名でこの国家を呼んできたが、元来[[多民族国家]]であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。 {{Lang|tr|Türk}}([[テュルク]])は、アナトリアへの移住以前、[[中央アジア]]で暮らしていたトルコ人が、[[モンゴル高原]]を中心とする[[遊牧国家|遊牧帝国]]、[[突厥]]を築いた[[6世紀]]ごろには既に使われていた民族名だが、[[語源]]には諸説ある。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国をもって「トルコの建国」と考えられている。 === 英語表記の変更 === 2021年12月4日、トルコ政府は英語表記を {{Lang|en|''Turkey''}}(ターキー) から {{lang|en|''Türkiye''}} へ変更することを決定した<ref>{{Cite web |title=Why Turkey is now 'Turkiye', and why that matters |url=https://www.trtworld.com/magazine/why-turkey-is-now-turkiye-and-why-that-matters-52602 |website=Why Turkey is now 'Turkiye', and why that matters |access-date=2022-04-25 |language=en}}</ref>。またドイツ語({{lang|de|Türkei}})、フランス語({{lang|fr|Turquie}})などの外名も同様の変更を行うとしている。これについてエルドアン大統領は「{{lang|en|Türkiye}} はトルコの国民、文化、価値観を最も表した言葉である」と述べた。国際的認知度を高めるためトルコ製を表す「{{lang|en|Made in Turkey}}」は「{{lang|en|Made in Türkiye}}」として輸出される<ref>{{Cite web |url=https://www.trtworld.com/turkey/turkey-to-use-t%C3%BCrkiye-in-all-activities-to-strengthen-its-brand-52307 |title=Turkey to use 'Türkiye' in all activities to strengthen its brand |publisher=TRT World |date=2021-12-04 |accessdate=2022-01-18}}</ref>。2022年1月、[[国際連合]]へ国名変更の通達を行う計画が報じられ<ref name=MEE220117>{{Cite web |url=https://www.middleeasteye.net/news/turkey-turkiye-new-name-register-un-weeks |title=Turkey to register its new name Türkiye to UN in coming week |publisher=[[ミドル・イースト・アイ]] |date=2022-01-17 |accessdate=2022-01-18}}</ref>、国連の[[アントニオ・グテーレス|グテーレス]]事務総長宛ての書簡で[[メヴリュット・チャヴシュオール|チャヴシュオール]]外相が正式に変更を通報し、2022年6月1日にこの通報が受理された<ref name="CNN35188397" /> 。 英語の {{lang|en|Turkey}} は国名のほかに鳥類で食用としても振る舞われる[[七面鳥]](ターキー)、英語圏の[[俗語]]で「失敗する」「愚かな人」といった意味を持つ。そのため反イスラム・反トルコ主義者はしばしトルコを七面鳥に例えて攻撃した。国名の英語表記をトルコ語名と同じにすることで英語話者の混乱を避け、更に国家のブランドを維持する思惑があると言われている<ref name=MEE220117 />。 {{clear}} == 歴史 == {{Main|トルコの歴史}}{{トルコの歴史}} アナトリアには[[旧石器時代]](1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末ごろから鉄を作る技術が[[中近東]]世界に広がった。この地域が[[鉄器時代]]に入ったと考えられる<ref>大村幸弘「和平条約と粘土板が物語ること」/ 大村幸弘・永田雄三・内藤正典編著『トルコを知るための53章』[[明石書店]] 57ページ</ref>。 国土の大半を占めるアジア側の[[アナトリア半島]](小アジア)と最大の都市であるヨーロッパ側の[[イスタンブール]]は、[[古代]]から[[ヒッタイト]]、[[フリギア|フリュギア]]、[[リディア]]、[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)など様々な[[民族]]・[[文明]]が栄えた地である。 一方、北アジアではトルコ([[テュルク]])系民族として突厥が[[552年]]にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれをもって最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアの[[アラル海]]東岸に割拠した[[西突厥]]の部族の一つから[[部族]]長[[トゥグリル・ベグ]]が出て西進を始め、[[ブハラ|ボハラ]]地方を部族で占領し[[セルジューク朝]]を成立させた。さらに西進して[[1055年]][[バグダード|バグダッド]]に入城、[[アッバース朝]]の[[カリフ]]より[[スルターン|スルタン]]に指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝が[[メソポタミア]]の支配者となる。しかし、東アジアで覇権争いに敗れた[[契丹]]系の[[西遼]]が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争い大敗して急激に衰退。のちに[[モンゴル帝国]]の[[フレグ|フラグ]]による侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、さらに[[ウイグル]]系民族に圧迫されてイラン([[ペルシャ]])北部、[[カスピ海]]東岸の隅地に逃亡して歴史の記録から消える。 [[11世紀]]に、トルコ系の[[イスラム王朝]]、[[セルジューク朝]]の一派がアナトリアに立てた[[ルーム・セルジューク朝]]の支配下で、[[ムスリム]](イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国は[[チンギス・カン|チンギスハーン]]の孫[[フレグ|フラグ]]のバグダッド占領、[[イルハン朝|イルハーン帝国]]成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展した[[オスマン帝国|オスマン朝]]は、[[15世紀]]に[[コンスタンティノープルの陥落|ビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし]]、東は[[アゼルバイジャン]]から西は[[モロッコ]]まで、北は[[ウクライナ]]から南は[[イエメン]]まで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系の[[ティムール]]に[[アンカラの戦い|アンゴラ(アンカラ)の戦い]]で敗れ一時滅亡するが、アナトリア南部の険によって抵抗し命脈を保った一族が、ティムールの死後にオスマン朝を復興した。 [[ファイル:Atatürk şapkasıyla selam verirken.jpg|thumb|right|200px|[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]]] [[19世紀]]、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では[[ナショナリズム]]が勃興して諸民族が次々と独立し、欧州列強がこれに介入した([[東方問題]])。帝国は[[オスマン債務管理局]]を通して列強に財政主権を握られ、[[第一次世界大戦]]で敗北した。こうしてオスマン帝国は[[イギリス|英]][[フランス|仏]][[イタリア|伊]]、[[ギリシャ]]などの占領下に置かれ、完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した([[希土戦争 (1919年-1922年)]])。また、東部では[[アルメニア]]国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人ら(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人)は[[1919年]][[5月]]、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした('''[[トルコ革命#祖国解放戦争|トルコ独立戦争]]''')。[[1920年]][[4月]]、アンカラに抵抗政権を樹立した[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]](アタテュルク)の下に結集して戦い、[[1922年]][[9月]]、現在の領土を勝ち取った。[[1923年]]、アンカラ政権は[[ローザンヌ条約]]を締結して共和制を宣言した。[[1924年]]、オスマン帝国のカリフをイスタンブールから追放し、西洋化による近代化を目指してトルコ共和国を建国。イスラム法([[シャリーア]])は国法としての地位を喪失。[[大陸法]]の影響を受けただけでなく、[[アメリカ合衆国]]などからの直接投資も受け入れることになった。 [[第二次世界大戦]]では中立を維持したが、末期の[[1945年]]になり[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の勝利が確定的になると、その圧力により[[2月23日]]に[[ナチス・ドイツ]]と[[大日本帝国]]に対して[[宣戦布告]]した。第二次世界大戦後は、[[ソビエト連邦|ソ連]]に南接するため、[[反共主義|反共]]の防波堤として[[西側諸国|西側世界]]に迎えられ、[[1952年]]には[[北大西洋条約機構]](NATO)に、また[[1961年]]には[[経済協力開発機構]](OECD)に加盟した。NATOとOECD加盟の間は西側陣営内で経済戦争が起こっていた([[ビッグバン (金融市場)#モルガンの米国預託証券|セカンダリー・バンキング]])。1956年ごろ、[[ユーロカレンシー|ユーロバンク]]の資金調達先となったため[[外貨準備]]を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの[[綿花]]収穫量を急速に伸ばしたが、ソ連が既に[[1944年]]から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で[[南米]]諸国とも競争するも、[[機関投資家|機関化]]する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。 [[国民の父|国父]]アタテュルク以来、イスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた([[欧州評議会|ヨーロッパ評議会]]への加盟、[[死刑|死刑制度]]の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標である[[欧州連合]](EU)への加盟には[[クルド人|クルド問題]]や[[キプロス|キプロス問題]]、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。 トルコ側もEU加盟よりは、[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]]政権下の2010年代から2020年代にかけて、国内での反対派弾圧やイスラム回帰([[アヤソフィア]]の[[モスク]]化など)、オスマン帝国旧領やその周辺に対するトルコの影響力拡大([[新オスマン主義]])を優先している。[[シリア内戦]]、[[2014年リビア内戦|リビア内戦]]、[[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争]]に対しては派兵や[[傭兵]]の派遣、武器供与により介入している<ref>【ニュースの門】帝国復活 トルコ大統領の野望『[[読売新聞]]』朝刊2020年11月16日(解説面)</ref><ref>「新オスマン主義」「エルドアン大統領 支持の背景」『読売新聞』朝刊2017年4月26日</ref>(「[[新オスマン主義]]」も参照)。 特に[[アルメニア]]とはナゴルノ・カラバフ紛争以外にも、[[アルメニア人虐殺]]への存否を含む見解の相違や、[[アララト山]]の領有権問題を抱え、緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派は東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。 [[2013年]]、[[MIKTA]]に加盟した。 == 政治 == [[ファイル:Recep Tayyip Erdogan 2010.jpg|thumb|right|150px|[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]]大統領]] {{Main|トルコの政治|トルコの司法制度}} [[1982年]]に定められた[[憲法]]では、[[世俗主義]]が標榜されている。[[三権分立|三権はほとんど完全に分立]]しており、憲法の目的(世俗主義ほか)を達成するためにそれぞれの役割を果たすことが期待されている。このことが、世俗派と宗教的保守派との対立を助長し、その対決が終息しない遠因ともなっている。[[立法府]]として[[一院制]]の[[トルコ大国民議会]]({{Lang|tr|Türkiye Büyük Millet Meclisi}}、定数600名、任期5年)がある。行政は議会によって選出される[[元首|国家元首]]の[[トルコの大統領|大統領]](任期7年)が務めるが、[[トルコの首相|首相]]の権限が強い[[議院内閣制]]に基づくものであった。[[司法府]]は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されている。司法は政党の解党判断、党員の政治活動禁止といった政治的な事項についても判断できる。 その後、{{ill2|2007年トルコ憲法改正国民投票|en|Turkish constitutional referendum, 2007|label=2007年の憲法改正}}により大統領は国民投票により選出されることとなり、また任期も7年から5年へと短縮された。{{ill2|2010年トルコ憲法改正国民投票|en|Turkish constitutional referendum, 2010|label=2010年の憲法改正}}を経たのち、{{ill2|2017年トルコ憲法改正国民投票|en|Turkish constitutional referendum, 2017|label=2017年の憲法改正}}では大統領権限が強化され、[[議院内閣制]]を廃止することが定められている。 {{See also|トルコ大国民議会|トルコの大統領|トルコの首相}} 政治は[[多党制]]の政党政治を基本としているが、[[政党]]の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式をとっている。この制度のため、[[2002年]]の総選挙では、選挙前に[[中道右派]]・イスラム派が結集して結党された[[公正発展党]](AKP)と、野党で[[中道左派]]系・世俗主義派の[[共和人民党]](CHP)の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。[[2007年]]7月22日に実施された総選挙では、[[公正発展党]]が前回を12ポイントを上回る総得票率47%を獲得して圧勝した。[[共和人民党]]が議席を減らし、112議席を獲得。[[極右]]の[[民族主義者行動党]](MHP)が得票率14.3%と最低得票率10%以上の票を獲得し71議席を獲得、結果的に公正発展党は340議席となり、前回より12議席を減らすこととなった。独立候補は最低得票率の制限がなく、クルド系候補など27議席を獲得した。 {{See also|トルコの政党}} [[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]以来強行的に西欧化を押し進めてきたが、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した[[トルコ軍|軍]]が政治における重要なファクターとなることがあり、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。[[1960年]]に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、[[参謀本部|参謀総長]]と陸海空の三軍および内務省[[ジャンダルマ]]([[憲兵隊]])の司令官をメンバーに含む[[国家安全保障会議 (トルコ)|国家安全保障会議]]({{Lang|tr|Milli Güvenlik Kurulu}})が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。[[1980年]]の[[9月12日クーデター|二度目のクーデター]]以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた[[西ヨーロッパ|西欧]]化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は[[1997年]]にイスラム派の[[福祉党 (トルコ)|福祉党]]主導の[[連立政権]]を崩壊に追い込み、[[2007年]]には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。8月29日には、議会での3回の投票を経て[[アブドゥラー・ギュル]]外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、もはや以前のように軍が安易に政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と[[宗教]]的[[保守]]派の対立はもっと社会の内部に籠ったものとなってきている([[エルゲネコン|エルゲネコン捜査]])。 [[2009年]][[3月29日]]、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系[[与党]]の公正発展党(AKP)が世俗派[[野党]]の共和人民党などを押さえ勝利した。 [[2010年]][[9月12日]]には、与党・公正発展党(AKP)が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。現憲法は1980年のクーデター後の1982年に制定されたもので、軍や司法当局に大幅な権限を与え、国民の民主的権利を制限するといわれてきた。この憲法改定案は[[民主主義]]を求める国民の声や欧州連合(EU)加盟の条件整備などを踏まえ、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなど26項目を提起している。国民投票の結果、憲法改正案は58%の支持で承認された。投票率は73%であった。[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン]]首相は民主主義の勝利だと宣言した([[フランス通信社|AFP電]])。また、国民投票結果について「発達した民主主義と法治国家に向け、トルコは歴史的な一線を乗り越えた」と評価した。欧米諸国はこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合(EU)の執行機関[[欧州委員会]]は、加盟に向けての一歩だと讃えた<ref>「[http://mainichi.jp/select/world/news/20100914ddm007030056000c.html トルコ:国民投票賛成多数、改憲承認 軍・司法の権限縮小]」『[[毎日新聞]]』2010年9月14日{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref><ref>「[http://www.cnn.co.jp/world/30000190.html トルコ、国民投票で憲法改正を承認 首相が勝利宣言]」[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]](2010年9月13日)</ref><ref>「[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100913/erp1009130912000-n1.htm トルコ、国民投票で憲法改正承認 世俗派との対立先鋭化も EUは歓迎]」産経新聞社(2010年9月13日)</ref>。 2014年8月28日にエルドアン首相は大統領に就任し、[[アフメト・ダウトオール]]外相が首相となったが、2016年5月22日にはビナリ・ユルドゥルムが新たな首相に就任した。 その後、2017年に大統領権限の強化と首相職の廃止を盛り込んだ憲法改正案が可決され、2018年7月9日に首相職は廃止された。 == 国際関係 == {{Main|オスマン債務管理局|トルコの国際関係}} 外交面では[[北大西洋条約機構]](NATO)加盟国である。また、NATO加盟国としては唯一、非欧米[[軍事同盟]]である[[上海協力機構]]の対話パートナーであり、中露との軍事協力も行うなど、もはや西側一辺倒の外交路線ではなくなっている。 === 対ヨーロッパ === 政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としており、現代では経済的・政治的にヨーロッパの一員として参加しつつあり、[[ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]に署名している。[[2002年]]に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。[[2004年]]には一連の改革が一応の評価を受け、条件つきではあるものの[[欧州委員会]]によって2005年10月からの[[欧州連合]]への加盟交渉の開始が勧告された。現在、国内世論と戦いながら加盟申請中である。なお、加盟基準である[[コペンハーゲン基準]]については現在議論が行われている。 === 対アジア === 国土の96%がアジアの[[アナトリア半島]]にあり、人口でも[[アジア]]側が9割弱を占める。 *首都[[アンカラ]]はアジア側に位置し、最大の都市である[[イスタンブール]]はアジアと[[ヨーロッパ]]にまたがる海峡都市である。 *歴史的にもセルジューク朝をはじめ[[イラン]](ペルシャ)や[[イラク]]の影響が強い。 *日本の公式見解では、[[中東|中東アジア]]の国として分類されている。 === 日本国との関係 === {{Main|日本とトルコの関係}} [[1890年]]([[明治]]23年)に、現在の[[和歌山県]][[東牟婁郡]][[串本町]]沖で発生した[[エルトゥールル号遭難事件]]で[[日本]]の対応が評価されたことなどから、両国の友好関係が築かれている。 日本には多くのトルコ友好協会があり、交流が積極的に行われている。 <トルコ政府系団体> *ユヌス・エムレ インスティトゥート東京 トルコ文化 センター<ref>[http://tokyo.yee.org.tr]</ref> *[[東京ジャーミイ]]・トルコ文化センター([[東京都]])<ref>[http://tokyocamii.org/ja/]</ref> <トルコ政府連携協会> *日本・トルコ協会(東京都)<ref>[http://www.tkjts.jp 日本・トルコ協会]</ref> *大阪・トルコ協会([[大阪府]])<ref>[http://osaka-turkey.or.jp (社)大阪・トルコ協会]</ref> *九州・トルコ協会([[福岡県]])<ref>[http://www.kyushu-turkey.jp 九州・トルコ協会]</ref> *北海道日本トルコ友好協会([[北海道]])<ref>[http://hjtdd.sakura.ne.jp 北海道日本トルコ友好協会]</ref> *日本・トルコ婦人クラブ(東京都) *日本トルコ文化経済交流支援協会([[愛知県]]) *日本トルコ友好協会(東京都)<ref>[https://ameblo.jp/jtfa/ 日本トルコ友好協会]</ref> *砺波市トルコ友好交流協会([[富山県]]) *柏崎トルコ友好協会([[新潟県]]) *日本ガレノス協会([[群馬県]])<ref>[http://galenus-pergamon.wixsite.com/galenus/japangalenusassociation (NPO)日本ガレノス協会]</ref> *日本トルコ文化協会([[京都府]])<ref>[http://www.kyoto-nitto.com 日本トルコ文化協会]</ref> *神戸・トルコ友好協会 トルコーべ([[兵庫県]]) *和歌山トルコ文化協会([[和歌山県]]) *串本トルコ文化協会(和歌山県)<ref>[https://www.facebook.com/Kushimoto.Turkey 串本トルコ文化協会]</ref> === 対ギリシャ === {{main|{{仮リンク|ギリシャとトルコの関係|en|Greek–Turkish relations}}}} 隣国のギリシャとは緊張関係が続いている。古くはギリシャ人国家であった[[東ローマ帝国]]が現在のトルコにあたる地域を支配していたが、やがて[[オスマン帝国]]がそれを滅ぼし支配下に置いた。その後、19世紀初頭に列強の後押しでギリシャが独立し、「[[大ギリシャ主義]]」を掲げて衰退の進むオスマン帝国からの領土奪回を目論んだ。[[バルカン戦争]]、[[第一次世界大戦]]後に領土をめぐる[[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]]が起こり、[[ギリシャとトルコの住民交換]]で解決された。しかし、当時[[イギリス]]の植民地だったキプロス島の帰属は決められなかったため、キプロス独立後に[[キプロス]]と、トルコのみが[[国家の承認]]をしている[[北キプロス]]に分裂した。 === 対アルメニア共和国 === {{main|{{仮リンク|アルメニアとトルコの関係|en|Armenia–Turkey relations}}}} 隣国のアルメニア共和国とは緊張関係が続いている。アルメニアの民族派が[[ヴァン県]]など東南部を[[アルメニア人]]の奪われた土地だと主張している。 一部のアルメニア人の反トルコ主義や西アルメニアの返還の主張にはトルコの保守層の警戒感を招いている。元々、[[アルメニア王国]]との国境は時代により大きく変化しており、[[国民国家]]の概念が成立する前から対立が続いていた。またトルコはイスラーム信者が多く、[[キリスト教]]を[[国教]]にしているアルメニアとは宗教対立の側面もある。[[ナゴルノ・カラバフ]]問題に対しては同じくアルメニアと対立するイスラーム国家の[[アゼルバイジャン]]の立場に立つ([[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争]]など)。 === MIKTA === {{Main|MIKTA}} MIKTA(ミクタ)は、[[メキシコ]]('''M'''exico)、[[インドネシア]]('''I'''ndonesia)、[[大韓民国]](Republic of '''K'''orea)、'''トルコ'''('''T'''urkey)、[[オーストラリア]]('''A'''ustralia)の5か国によるパートナーシップである。 == 軍事 == [[ファイル:Otokar Cobra in Kabul.jpg|thumb|[[トルコ陸軍]]の[[コブラ (装甲車)|コブラ装甲車]]]] {{Main|トルコ軍}} 軍事組織として、陸軍、[[トルコ海軍|海軍]]、[[トルコ空軍|空軍]]で組織されるトルコ軍 ({{Lang|tr|Türk Silahlı Kuvvetleri}}) と[[内務省]]に所属する[[ジャンダルマ]]([[憲兵隊]]、{{Lang|tr|Jandarma}})、[[トルコ沿岸警備隊|沿岸警備隊]] ({{Lang|tr|Sahil Güvenlik}}) が置かれている。[[徴兵制|兵役]]は男子に対してのみ課せられている。学歴が高卒以下の場合は兵役期間が15か月であり、大卒以上の場合は将校として12か月か、二等兵として6か月を選択できるようになっている。国外に連続して3年以上居住している場合、3週間の軍事訓練と約5,000[[ユーロ]]の支払いで兵役免除になる。なお兵役期間終了後は41歳まで[[予備役]]となる。2011年末には金銭を納めることで兵役を免除可能となり、事実上[[良心的兵役拒否]]を合法化した。兵員定数はないが、三軍あわせておおむね約38万人程度の兵員数である。また、ジャンダルマと沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍・海軍の指揮下に入ることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平時から陸軍と共同で治安作戦などを行っている。 指揮権は平時には大統領に、戦時には参謀総長({{Lang|tr|Genelkurmay Başkanı}})に属すると憲法に明示されており、戦時においては[[文民統制]]は存在しない。また、首相および国防大臣には軍に対する指揮権・監督権は存在しない。ただし、軍は歴史的にも、また現在においても極めて政治的な行動をとる軍隊であり、また、国防予算の15%程度が議会のコントロール下にない軍基金・国防産業基金などからの歳入であるなど、平時においても軍に対する文民統制には疑問も多い。この結果、軍はいわば「第四権」といった性格を持ち、[[世俗主義]]や内政の安定を支える大きな政治的・社会的影響力を発揮してきた。 1960年と[[9月12日クーデター|1980年]]には[[クーデター]]で[[軍事政権]]を樹立したこともある。近年は[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン政権]]の権限強化とそれに対する[[2016年トルコクーデター未遂事件|クーデター失敗]]、[[経済発展]]に伴う社会の成熟・多様化により、軍部の影響力は以前より低下している。 軍事同盟としては[[1952年]]以降は[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟し、[[1992年]]以降は[[西欧同盟]](WEU)に準加盟している。また、[[1979年]]それ自体が崩壊するまで[[中央条約機構]](CENTO)加盟国でもあった。2国間同盟としては[[1996年]]、[[イスラエル]]と軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、[[1998年]]からは実際に[[アメリカ合衆国]]、イスラエルとともに3国で共同軍事演習「{{仮リンク|アナトリアの鷲|en|Anatolian Eagle}}」が行われた。 NATO加盟国としては唯一、非欧米国家グループである[[上海協力機構]]の対話パートナーにもなっており、2015年にはエルドアン大統領によって正規加盟が要請された<ref>{{cite news | title=Turkey Renews Plea to Join Shanghai Cooperation Organization | date=Nov 1, 2013 | publisher=The Diplomat| url=http://thediplomat.com/2013/12/turkey-renews-plea-to-join-shanghai-cooperation-organization/ | accessdate= July 1, 2015 }}</ref><ref name="turkey2015">{{cite news | title=Turkey aspires to be full member of Shanghai Cooperation Organization: Turkish president | date=July 7, 2015 | publisher=China Central Television (CCTV)| url=http://newscontent.cctv.com/NewJsp/news.jsp?fileId=308609 | accessdate= Aug 2, 2015 }}</ref>。軍事装備は[[西側諸国|西側]]のものだけではなく、[[中華人民共和国]]の協力で[[弾道ミサイル]]の{{仮リンク|J-600Tユルドゥルム|en|J-600T Yıldırım}}や[[多連装ロケットシステム]]の{{仮リンク|T-300カシルガ|en|Weishi Rockets#T-300 Kasırga}}を導入しており、NATOの[[ミサイル防衛]]を揺るがす[[HQ-9 (ミサイル)|HQ-9]]や[[S-400 (ミサイル)|S-400]]のような[[地対空ミサイル]]も中国や[[ロシア]]から購入する動きも見せた。2010年にはアメリカやイスラエルと行ってきた「アナトリアの鷲」演習を中国と実施し、中国と初めて合同軍事演習を行ったNATO加盟国となった<ref>{{cite news | title=Sino-Turkish Strategic Partnership: Implications of Anatolian Eagle 2010 | date=January 14, 2011 | publisher=The Jamestown Foundation| url=http://www.jamestown.org/single/?tx_ttnews%5Btt_news%5D=37369 | accessdate= 2016-09-09}}</ref><ref>{{cite news | title=The Anatolian Eagle Is Looking Eastward | date=2010-10-15 | publisher=The Daily Signal| url=http://dailysignal.com/2010/10/15/the-anatolian-eagle-is-looking-eastward/ | accessdate= 2016-09-09}}</ref><ref>{{cite news | title=Growing Ties Between Turkey, China, Iran Worry Israel and US | date=2010-10-07 | publisher=[[ハアレツ]]| url=http://www.haaretz.com/growing-ties-between-turkey-china-iran-worry-israel-and-u-s-1.317583 | accessdate= 2016-09-09}}</ref>。 2019年にはロシアの地対空ミサイル[[S-400 (ミサイル)|S-400]]を搬入。アメリカ政府はロシアへの軍事機密漏洩を警戒して、[[F-35 (戦闘機)|F-35戦闘機]]国際共同開発からトルコを排除した<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65137470X11C20A0000000/ トルコ、ロシア製S400ミサイル試射か 米反発も]」『[[日本経済新聞]]』2020年10月17日(2020年10月28日閲覧)</ref>。 南東部においては[[クルディスタン労働者党]](PKK)との戦闘状態が長年続いている。南隣にある[[イラク]]と[[シリア]]に対しても、[[国境]]をまたいで活動するPKKやイスラム国など反トルコ勢力への攻撃と、親トルコ派勢力の支援を目的に、派兵や越境空爆をしばしば行っている<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASK4T56VRK4TUHBI02J.html|title=トルコ軍、イラクとシリアで越境空爆「テロ準備」主張|work=|publisher=[[朝日新聞デジタル]]|date=2017年4月25日}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20161025/k00/00e/030/207000c|title=イラク トルコと対立/モスル奪還作戦、参加を拒否|work=|publisher=『毎日新聞』朝刊|date=2016年10月25日}}</ref>。{{Seealso|トルコ軍によるシリア侵攻 (シリア内戦)}} 2016年には、[[ペルシア湾|ペルシャ湾]]岸の[[カタール]]の基地を利用する協定を締結した<ref>「新オスマン主義」『[[読売新聞]]』朝刊2017年4月26日</ref>。 有力な[[軍需産業]]を有していて各種兵器の開発と輸出を積極的に行っている。一例を挙げれば、政府系企業の航空宇宙産業(TAI)や民営のバイカル防衛が[[無人航空機#軍用機|軍用無人航空機]][[バイラクタル TB2]]を開発・製造しており、[[シリア内戦]]や[[2014年リビア内戦|リビア内戦]]に投入されたほか、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]にも投入され目覚ましい戦果を上げており、複数の国が輸入している<ref>トルコ、無人軍用機の輸出拡大「技術移転前向き」が強み/中東などに続き東南ア開拓『[[日経産業新聞]]』2020年10月26日(グローバル面)</ref>(「[[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争#戦術]]」「[[#工業]]」も参照)。 == 情報機関 == {{Main|トルコの情報機関}} == 地理 == [[ファイル:Turkey topo.jpg|thumb|280px|トルコの地形図]] {{Main|{{仮リンク|トルコの地理|en|Geography of Turkey}}}} 国土は[[ヨーロッパ]]と[[アジア]]にまたがり、北の[[黒海]]と南の[[エーゲ海]]・[[地中海]]をつなぐ[[ボスポラス海峡]]-[[マルマラ海]]-[[ダーダネルス海峡]]によって隔てられる。面積は日本の2倍で、[[緯度|北緯]]35度から43度、[[経度|東経]]25度から45度に位置し、東西1,600キロメートル、南北800キロメートルに及ぶ。[[アナトリア半島]]は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部は[[チグリス川]]・[[ユーフラテス川]]の源流である。東部イラン国境近くには[[ヴァン湖]]と[[アララト山]](国内最高峰で[[休火山]]、[[標高]]5,137メートル)がある。 国内に多くの[[断層]]を持つ[[地震]]国であり、近年では、[[1999年]]の[[イズミット地震 (1999年)|イズミット地震]]でマルマラ海沿岸の人口密集地が、[[2023年]]では[[トルコ・シリア地震]]でトルコ南部が大規模な被害を受けた。なお、他の地震国の多くと同様、国内に数多くの[[温泉]]が存在し、中には[[ヒエラポリス-パムッカレ]]など[[トルコの世界遺産|世界遺産]]の中に存在するものもある。 === 気候 === {{main|{{仮リンク|トルコの気候|en|Climate of Turkey}}}} 中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に温暖な印象であるが、沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海や地中海の沿岸地方は温暖で、[[ケッペンの気候区分]]では[[地中海性気候]]に属し、夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。 イスタンブールのあるマルマラ海周辺やヨーロッパトルコ地域は地中海性気候と[[温暖湿潤気候]]の中間に属し、夏は他地域よりは涼しく、冬は比較的寒くなり雪も降る。 黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じトルコ降水量が最多である。深い緑に覆われている。 国土の大半を占める内陸部は[[大陸性気候]]で寒暖の差が激しく乾燥しており、[[アンカラ]]などの中部アナトリア地方は[[ステップ気候]]や[[高地地中海性気候]]に属する。夏は乾燥していて非常に暑くなるが、冬季は積雪も多く、気温が[[氷点下|&minus;]]20[[セルシウス度|°C]]以下になることも珍しくない。 東部アナトリア地方は[[亜寒帯]]に属し、冬は非常に寒さが厳しく、東部の[[標高]]1,500mを超えるような高原地帯では1月の平均気温は&minus;10°Cを下回る。標高1,757mにある[[エルズルム]]では気温がしばしば&minus;30°Cを下回り、&minus;40°Cに達することもある酷寒地である。 [[ヴァン県]]のチャルディラーン(Çaldıran)では、[[1990年]]1月9日に国内最低となる&minus;46.4°Cを記録している。高温記録としては[[1993年]]8月14日にシリア国境に近い[[マルディン県]]のコジャテプ(Kocatepe)で48.8°Cを記録している<ref>[http://www.dmi.gov.tr/genel/sss.aspx?s=sicaklikenleri2 気象の極値 トルコ気象庁] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110703033621/http://dmi.gov.tr/genel/sss.aspx?s=sicaklikenleri2 |date=2011年7月3日 }}</ref>。 {|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small" |+トルコ各地の平年値(統計期間:1960年 - 2012年、出典:[http://www.mgm.gov.tr/veridegerlendirme/il-ve-ilceler-istatistik.aspx#sfU トルコ気象庁]) !rowspan="2" colspan="2"|平年値<br />(月単位) !colspan="3"|[[マルマラ地方]]  !colspan="2"|[[エーゲ海地方 (トルコ)|エーゲ海地方]] !colspan="3"|[[地中海地方 (トルコ)|地中海地方]] !colspan="6"|[[中央アナトリア地方]] |- !style="width:4em"|[[エディルネ]] !style="width:4em"|[[イスタンブール]] !style="width:4em"|[[ブルサ]] !style="width:4em"|[[イズミル]] !style="width:4em"|[[デニズリ]] !style="width:4em"|[[アンタルヤ]] !style="width:4em"|[[アダナ]] !style="width:4em"|[[カフラマンマラシュ]] !style="width:4em"|[[アンカラ]] !style="width:4em"|[[コンヤ]] !style="width:4em"|[[カイセリ]] !style="width:4em"|[[エスキシェヒル]] !style="width:4em"|[[スィヴァス]] !style="width:4em"|[[ヨズガト]] |- !colspan="2"|[[ケッペンの気候区分|気候区分]] |[[温暖湿潤気候|Cfa]]||Cfa |Cfa||[[地中海性気候|Csa]] |Csa||Csa |Csa||Csa |[[ステップ気候|BSk]]||BSk |[[高地地中海性気候|Dsb]]||BSk |Dsb||Dsb |- !rowspan="2"|平均<br />気温<br />(°C) !最暖月 |24.7<br />(7月)||24.4<br />(7月) |24.5<br />(7月)||28.0<br />(7月)||27.4<br />(7月) |28.4<br />(7月)||28.5<br />(8月)||28.4<br />(8月) |23.5<br />(7月)||23.6<br />(7月) |22.6<br />(7月)||style="background:#0cf"|21.7<br />(7月) |style="background:#0cf"|20.2<br />(7月)||style="background:#0cf"|19.7<br />(7月) |- !最寒月 |2.6<br />(1月)||6.5<br />(1月,2月) |5.2<br />(1月)||8.8<br />(1月)||5.8<br />(1月) |9.8<br />(1月)||9.6<br />(1月)||4.8<br />(1月) |0.3<br />(1月)||&minus;0.2<br />(1月) |&minus;1.8<br />(1月)||&minus;0.1<br />(1月) |style="background:#0cf"|&minus;3.3<br />(1月)||&minus;1.9<br />(1月) |- !rowspan="2"|[[降水量]]<br />(mm) !最多月 |72.9<br />(12月)||99.1<br />(12月) |109.6<br />(12月)||147.5<br />(12月)||93.0<br />(12月) |251.2<br />(12月)||133.9<br />(12月)||132.6<br />(12月) |51.2<br />(5月)||44.8<br />(12月) |55.0<br />(4月)||48.4<br />(12月) |61.6<br />(4月)||81.1<br />(12月) |- !最少月 |24.1<br />(8月)||20.9<br />(7月) |16.1<br />(7月)||1.9<br />(7月)||8.4<br />(8月) |1.8<br />(8月)||5.0<br />(8月)||0.8<br />(8月) |10.9<br />(8月)||5.6<br />(8月) |5.4<br />(8月)||8.7<br />(8月) |6.0<br />(8月)||8.9<br />(8月) |- !rowspan="2" colspan="2"|平年値<br />(月単位) !colspan="7"|[[東アナトリア地方]] !colspan="4"|[[南東アナトリア地方]] !colspan="3"|[[黒海地方 (トルコ)|黒海地方]] |- ![[アール (トルコ)|アール]] ![[アルダハン]] ![[カルス (都市)|カルス]] ![[エルズルム]] ![[ハッキャリ]] ![[マラティヤ]] ![[ヴァン]] ![[ディヤルバクル]] ![[ガズィアンテプ]] ![[シャンルウルファ]] ![[キリス]] ![[ゾングルダク]] ![[サムスン (都市)|サムスン]] ![[トラブゾン]] |- !colspan="2"|[[ケッペンの気候区分|気候区分]] |[[亜寒帯湿潤気候|Dfb]] |Dfb||Dfb |Dfb||Dsa |BSk||Dsa |Csa||Csa |Csa||Csa |[[西岸海洋性気候|Cfb]]||Cfa |Cfa |- !rowspan="2"|平均<br />気温<br />(°C) !最暖月 |style="background:#0cf"|21.2<br />(7,8月)||style="background:#0cf"|16.3<br />(7月) |style="background:#0cf"|17.6<br />(8月)||style="background:#0cf"|19.3<br />(7,8月) |25.0<br />(7月)||27.4<br />(7月) |22.3<br />(7月)||31.2<br />(7月) |27.8<br />(7月)||31.9<br />(7月) |28.1<br />(7月) |style="background:#0cf"|21.9<br />(7月)||23.3<br />(8月)||23.4<br />(8月) |- !最寒月 |style="background:#03f"|&minus;10.8<br />(1月)||style="background:#03f"|&minus;11.4<br />(1月) |style="background:#03f"|&minus;10.4<br />(1月)||style="background:#03f"|&minus;9.4<br />(1月) |style="background:#09f"|&minus;4.7<br />(1月)||0.1<br />(1月) |style="background:#0cf"|&minus;3.5<br />(1月)||1.8<br />(1月) |3.0<br />(1月)||5.6<br />(1月) |5.6<br />(1月) |6.0<br />(1,2月)||7.3<br />(2月)||6.9<br />(2月) |- !rowspan="2"|[[降水量]]<br />(mm) !最多月 |74.2<br />(4月)||91.3<br />(6月) |77.2<br />(5月)||67.8<br />(5月) |125.7<br />(4月)||57.8<br />(4月)  |57.2<br />(4月)||71.4<br />(12月) |100.2<br />(1月)||86.5<br />(1月)  |88.1<br />(12月) |158.0<br />(12月)||117.1<br />(10月)||85.2<br />(11月) |- !最少月 |12.3<br />(8月)||18.6<br />(1月) |20.3<br />(1月)||17.0<br />(8月) |2.5<br />(8月)||1.6<br />(8月) |3.4<br />(8月)||0.3<br />(8月) |2.1<br />(8月)||0.2<br />(8月) |1.2<br />(7月) |54.4<br />(5月)||35.5<br />(7月)||32.8<br />(7月) |} *最暖月22°C未満:薄水色 *最寒月&minus;3°C未満(= [[亜寒帯]](D)の条件):薄水色、水色、青色 == 地方行政区分 == [[ファイル:BlankMapTurkishProvincesRegions.svg|thumb|300px|トルコの地方行政区分図。白線は県を、配色は地方を表す[[エーゲ海地方 (トルコ)|エーゲ海地方]]({{Color|#FFB280|■}})、[[マルマラ地方]]({{Color|#87CDDE|■}})、[[地中海地方 (トルコ)|地中海地方]]({{Color|#CCCCCC|■}})、[[南東アナトリア地方]]({{Color|#DE8787|■}})、[[東アナトリア地方]]({{Color|#AADE87|■}})、[[中央アナトリア地方]]({{Color|#AC93A7|■}})、[[黒海地方 (トルコ)|黒海地方]]({{Color|#DECD87|■}})]] {{Main|トルコの地方行政区画}} 地方行政制度は[[オスマン帝国]]の州県制をベースとして[[フランス]]に範をとり、全土を県({{Lang|tr|il}})と呼ばれる地方行政区画に区分している。[[1999年]]以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事({{Lang|tr|vali}})が置かれ、県の行政機関({{Lang|tr|valilik}})を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い、県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。 県の下には民選の首長を有する行政機関({{Lang|tr|belediye}})をもった市({{Lang|tr|şehir}})があり、郡の下には自治体行政機関のある市・町({{Lang|tr|belde}})と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村({{Lang|tr|köy}})がある。イスタンブール、アンカラなどの[[大都市自治体|大都市]]({{Lang|tr|büyük şehir}})は、市の中に特別区に相当する自治体とその行政機関({{Lang|tr|belediye}})を複数持ち、都市全体を市自治体({{Lang|tr|büyük şehir belediyesi}})が統括する。 === 主要都市 === {{Main|トルコの都市の一覧|大都市自治体}} 都市人口率は2015年時点で 約73.4%<ref>{{Cite report|和書|author=経済産業省|authorlink=経済産業省|date=2020-03|title=平成31年度国際ヘルスケア拠点構築促進事業(国際展開体制整備支援事業) 医療国際展開カントリーレポート新興国等のヘルスケア市場環境に関する基本情報トルコ編|url=https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/iryou/downloadfiles/pdf/countryreport_Turkey.pdf|pages=6|format=PDF|accessdate=2020-05-06}}</ref>であり、世界平均(約55%、2018年)<ref>{{Cite web|和書|author=飯山みゆき|url=https://www.jircas.go.jp/ja/program/program_d/blog/20180523|title=●国際連合「世界都市人口予測・2018年改訂版 [United Nations (2018). 2018 Revision of World Urbanization Prospects.]」概要|date=2018-05-23|publisher =[[国際農林水産業研究センター]]|accessdate =2020-05-06 }}</ref>より約18ポイント高く、都市への人口集中が進んでいるといえる。 トルコ三大都市圏として、 2大陸にまたがる[[メガシティ]]である[[イスタンブール]]、 首都の[[アンカラ]]、 国内最大港湾都市の[[イズミル]] が挙げられる。 そのほか、人口が300万人を超える都市(日本でいえば、[[横浜市]]と同規模)としては、[[ブルサ]]がある。 <br />また同200万人(日本でいえば、[[名古屋市]]と同規模)を超える都市は、[[アンタルヤ]]、[[アダナ]]、[[コンヤ]]、[[シャンルウルファ]]、[[ガズィアンテプ]]、[[コジャエリ]]がある。 <br />更に、同150万人以上(日本でいえば、[[神戸市]]と同規模)を超える都市は、[[メルスィン]]、[[ディヤルバクル]]、[[ハタイ]]である<ref name="375d48d002ef125e">{{Cite web|和書|author=中島敏博|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/03/375d48d002ef125e.html|title=トルコの2019年の総人口は8,316万人、失業率13.7%(トルコ)|date=2020-03-30|publisher=[[独立行政法人]][[日本貿易振興機構]](ジェトロ)|accessdate=2020-05-06}}</ref>。 <br />このうち、アナトリア高原など山岳部に位置する都市は、アンカラ、ガズィアンテプ、コンヤ、ディヤルバクルである。 {| class="wikitable" style="text-align:center; line-height:1.5em;" |- ! !都市 ![[トルコの地方行政区画|行政区分]] ! style="border-right:double #aaaaaa;" |人口(人) ! !都市 ![[トルコの地方行政区画|行政区分]] ! style="border-right:double #aaaaaa;" |人口(人) |- !1 |align="left"|'''[[イスタンブール]]''' |align="left"|[[マルマラ地方]] [[イスタンブール県]] | style="text-align:right;" |15,840,900 !11 |align="left"|'''[[メルスィン]]''' |align="left"|[[地中海地方 (トルコ)|地中海地方]] [[メルスィン県]] | style="text-align:right;" |1,891,145 |- !2 |align="left"|'''[[アンカラ]]''' |align="left"|[[中央アナトリア地方]] [[アンカラ県]] | style="text-align:right;" |5,747,325 !12 |align="left"|'''[[ディヤルバクル]]''' |align="left"|[[南東アナトリア地方]] [[ディヤルバクル県]] | style="text-align:right;" |1,791,373 |- !3 |align="left"|'''[[イズミル]]''' |align="left"|[[エーゲ海地方 (トルコ)|エーゲ海地方]] [[イズミル県]] | style="text-align:right;" |4,425,789 !13 |align="left"|'''[[ハタイ県|ハタイ]]''' |align="left"|[[地中海地方 (トルコ)|地中海地方]] [[ハタイ県]] | style="text-align:right;" |1,670,712 |- !4 |align="left"|'''[[ブルサ]]''' |align="left"|[[マルマラ地方]] [[ブルサ県]] | style="text-align:right;" |3,147,818 !14 |align="left"|'''[[マニサ]]''' |align="left"|[[エーゲ海地方 (トルコ)|エーゲ海地方]] [[マニサ県]] | style="text-align:right;" |1,456,626 |- !5 |align="left"|'''[[アンタルヤ]]''' |align="left"|[[地中海地方 (トルコ)|地中海地方]] [[アンタルヤ県]] | style="text-align:right;" |2,619,832 !15 |align="left"|'''[[カイセリ]]''' |align="left"|[[中央アナトリア地方]] [[カイセリ県]] | style="text-align:right;" |1,434,357 |- !6 |align="left"|'''[[コンヤ]]''' |align="left"|[[中央アナトリア地方]] [[コンヤ県]] | style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |2,277,017 !16 |align="left"|'''[[サムスン (都市)|サムスン]]''' |align="left"|[[黒海地方 (トルコ)|黒海地方]] [[サムスン県]] | style="text-align:right;" |1,371,274 |- !7 |align="left"|'''[[アダナ]]''' |align="left"|[[地中海地方 (トルコ)|地中海地方]] [[アダナ県]] | style="text-align:right;" |2,263,373 !17 |align="left"|'''[[バルケスィル]]''' |align="left"|[[マルマラ地方]] [[バルケスィル県]] | style="text-align:right;" |1,250,610 |- !8 |align="left"|'''[[シャンルウルファ]]''' |align="left"|[[南東アナトリア地方]] [[シャンルウルファ県]] | style="text-align:right;" |2,143,020 !18 |align="left"|'''[[カフラマンマラシュ]]''' |align="left"|[[地中海地方 (トルコ)|地中海地方]] [[カフラマンマラシュ県]] | style="text-align:right;" |1,171,298 |- !9 |align="left"|'''[[ガズィアンテプ]]''' |align="left"|[[南東アナトリア地方]] [[ガズィアンテプ県]] | style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |2,130,432 !19 |align="left"|'''[[ヴァン]]''' |align="left"|[[東アナトリア地方]] [[ヴァン県]] | style="text-align:right;" |1,141,015 |- !10 |align="left"|'''[[コジャエリ県|コジャエリ]]''' |align="left"|[[マルマラ地方]] [[コジャエリ県]] | style="text-align:right;" |2,033,441 !20 |align="left"|'''[[アイドゥン]]''' |align="left"|[[エーゲ海地方 (トルコ)|エーゲ海地方]] [[アイドゥン県]] | style="text-align:right;" |1,134,031 |- | colspan="11" style="background:#f5f5f5;" |2021年国勢調査 |} <gallery mode="packed"> File:Beyoğlu from the Galata Tower.jpg|01.[[イスタンブール]](最大都市) File:Ankara from bus station.jpg|02.[[アンカラ]]([[首都]]) File:Gökdelenler bölgesi.jpg|03.[[イズミル]] File:Hudavendigar Park and Nilufer River in Bursa.jpg|04.[[ブルサ]] File:City center of Bursa 2.jpg|05.[[アンタルヤ]] </gallery> {{-}} 国の東部には小規模な都市が目立ち、特に東北部、または黒海沿岸には都市への人口の集中があまり見られない。その背景には、南東部などの後進地域の若年層が[[雇用]]機会を求めて、イスタンブール、アンカラ、イズミル、ブルサ、アンタルヤといった西部大都市へ移動していることがあり、[[地域格差]]の拡大につながる社会問題となっている<ref name="375d48d002ef125e" />。 {{clear}} [[ファイル:Turkey CIA map PL.jpg|thumb|center|450px|トルコの国土]] {{clear}} {{clear}} {{Colbegin|colwidth=16em}} *[[アンカラ]] - 首都 *[[イスタンブール]] - 最大の都市 *[[アクサライ]] *[[アダナ]] *[[アンタキヤ]] *[[アンタルヤ]] *[[イズニク]] *[[イズミル]] *[[ヴァン]] *[[エディルネ]] *[[エスキシェヒル]] *[[エルズィンジャン]] *[[エルズルム]] *[[カイセリ]] *[[ガズィアンテプ]] *[[カルス (都市)|カルス]] *[[カッパドキア#世界遺産|ギョレメ]] *[[クシャダス]] *[[コンヤ]] *[[サフランボル]] *[[サムスン (都市)|サムスン]] *[[スィヴァス]] *[[ダルヤン]] *[[チャナッカレ]] *[[ディヤルバクル]] *[[デニズリ]] *[[トラブゾン]] *[[ネヴシェヒル]] *[[ブルサ]] *[[ベルガマ]] *[[ボル (トルコ)|ボル]] *[[ユルギュップ]] *[[シャンルウルファ]] *[[メルスィン]] {{Colend}} == 経済 == [[ファイル:Modern Istanbul skyline.jpg|thumb|280px|トルコ最大の都市、[[イスタンブール]]]] {{Main|トルコの経済}} [[国際通貨基金|IMF]]によると、[[2018年]]の[[国内総生産]](GDP)は約7,700億ドル(約85兆円)で、世界第19位である。1人あたりのGDPは9,405ドル(2018年)で、世界平均(1万4,836ドル、2018年)の約63%程であり、[[カザフスタン]]とほぼ同じである。産業は近代化が進められた[[工業]]・[[商業]]と、伝統的な[[農業]]からなり、農業人口が国全体の労働者のおよそ18.4%(2016年)を占める<ref>{{Cite web |url =https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/219.html#TU|title =World FactBook Labor force - by occupation |publisher = [[中央情報局|CIA]]|language = 英語|date = 2019|accessdate = 2020-05-07}}</ref>。[[漁業]]は沿岸部では比較的盛んであるが、[[エーゲ海]]ではギリシャ領の島々が本土のすぐ近くに点在しているため、[[領海]]・[[排他的経済水域]]や[[公海]]上の漁獲量をめぐる国際問題が起きることもある。 === 工業 === 工業は[[工業#工業の分野|軽工業]]が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である<ref>トルコのアパレル製造活況 欧州の輸入「近場シフト」『日経産業新聞』2021年11月12日グローバル面</ref>。近年では、世界の大手[[自動車]]メーカーと国内の大手[[財閥]]との[[合弁事業]]が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な[[外貨]]獲得源になっている。具体的には、国内最大の財閥である[[サバンジュ財閥]]と日本の[[トヨタ自動車]]、国内2位の財閥である[[コチ財閥]]と[[イタリア]]の[[フィアット]]、国内4位の財閥である[[オヤック財閥]]とフランスの[[ルノー]]が挙げられる。また、[[コチ財閥]]のアルチェリッキ・ベコ、[[ゾルル財閥]]のヴェステルなど、家電・エレクトロニクス部門の成長も期待されている。工業化が進んでいるのは北西部の[[マルマラ海]]沿岸地域が中心である。また、[[アナドルグループ]]傘下のアナドル自動車では、日本の[[いすゞ自動車]]、[[本田技研工業|ホンダ]]との合弁事業も行なわれている<ref>[https://www.kuno-cpa.co.jp/tcf/turkey/service/m&a.php トルコにおけるM&Aの動向]</ref>。 ヨーロッパ、中東、[[アフリカ]]の結節点という輸出における地理的優位さもあり、製造業の生産能力や技術力は向上している。上記以外にもアパレルのLC Waikiki、軍事関連のアセルサンといった有力メーカーが育っている。[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]が世界に広がった2020年、トルコは約140カ国に[[マスク]]、[[人工呼吸器]]、防護服といった衛生・医療物資を送った<ref>【新興国ABC】トルコ、医療物資を海外へ/ものづくり力アピール『日経産業新聞』2020年9月28日(グローバル面)、[[国際協力銀行]]のイスタンブール駐在員による寄稿。</ref>。 === 観光 === {{see|{{仮リンク|トルコの観光地|en|Tourism in Turkey}}}} [[経常収支]]が赤字であるため、[[ロシア連邦]]を含むヨーロッパ諸国などから訪れる観光客は、貴重な外貨収入源となっている。外国人観光客数は2014年のピークで3,683万人。その後、[[シリア内戦]]に誘発された相次ぐテロ事件や[[ロシア軍爆撃機撃墜事件]](2015年)、[[2016年トルコクーデター未遂事件]]が起きたため、2016年は約2,500万人に減ったものの、2017年以降は回復している。2021年5月時点、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]下でもトルコは観光客を受け入れており、国民に課せられている外出制限も観光客には適用されていない<ref>【世界点描】トルコ、観光客優先に国民不満 コロナ下の外出禁止、適用外『日経産業新聞』2021年5月20日グローバル面</ref>。 空路のほか、[[クルーズ客船]]も利用されている<ref>「トルコ、外国人客戻る/18年に4000万人、過去最高に/治安回復・通貨安で」『日経産業新聞』2018年5月29日(グローバル面)</ref>。エーゲ海沿岸地域やイスタンブール、内陸の[[カッパドキア]]などが観光地として人気が高い。 === 農業 === {{see|{{仮リンク|トルコの農業|en|Agriculture in Turkey}}}} 地中海に面する西部と首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。特に東部では、[[地主制]]がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。 === 鉱業 === 国土は[[鉱物]]資源に恵まれている。有機鉱物資源では[[石炭]]の埋蔵量が多い。[[2002年]]の時点では[[石炭#石炭の種類|亜炭]]・[[褐炭]]の採掘量が6,348万トンに達した。これは世界シェアの7.0%であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの20分の1過ぎない。[[原油]](252万トン)と[[天然ガス]](12千兆ジュール)も採掘されている。 金属鉱物資源では、世界第2位の産出量の(200万トン、世界シェア17.9%)[[マグネシウム]]をはじめ、[[アンチモン]]、[[金]]、[[鉄]]、[[銅]]、[[鉛]]、[[ボーキサイト]]などの鉱物を産出する。 しかしながら、石炭は火力発電など燃料として国内で消費し、マグネシウムの国際価格が低迷していることから、同国の輸出に占める鉱物資源の割合は低く、4%程度(2002年時点)に過ぎない。 石油・天然ガスについては黒海で開発を進め、2002年の段階から生産を始めていたが、近年石油は100億バレル、ガスは1兆5千億立方メートルと莫大な埋蔵量であることが分かった。これにより2023年から40年間にわたって、国内消費分を賄うことができるようになるとの見通しである。 === 経済成長 === [[ファイル:100 Türk Lirası front.jpg|thumb|right|100トルコリラ]] [[1990年代]]の後半から経済は低調で、政府は巨額の債務を抱え、国民は急速な[[インフレーション]]に悩まされていた。<!--[[1994年]]1月を100とする卸売物価指数で、[[2001年]]1月は2686.8、[[2002年]]1月は5157.4、[[2003年]]1月は6840.7、[[2004年]]1月は7576.5であった。{{要出典}}-->歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し、[[2000年]]から[[国際通貨基金|IMF]]の改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危機を起こした。この結果、トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。<!--リラの[[変動相場制]]移行を行った[[2001年]]にはリラの対[[ドル]]価が50 % 以上暴落、実質[[国民総生産|GNP]]成長率は&minus;9.4%となった。--> [[2002年]]以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権の下でインフレの拡大はおおよそ沈静化した。[[2005年]]1月1日には100万[[トルコリラ]](TL)を1[[新トルコリラ]](YTL)とする新通貨を発行し、実質的な[[デノミネーション]]が行われた。なお[[2009年]]より、新トルコリラは再び「トルコリラ」という名称に変更されている。 近年のGDP成長率は2010年9.2%、2011年8.5%、2012年2.2%となっている<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.invest.gov.tr/ja-JP/infocenter/news/Pages/050713-turkey-surpasses-eurozone-in-q1-gdp-growth-rate.aspx |title = トルコ、ヨーロッパのGDP成長を上回る |publisher = トルコ共和国首相府投資促進機関 - Invest in Turkey |accessdate = 2013-09-01 }}</ref>。 === 貿易 === [[ファイル:Turkey Export Treemap.png|thumb|色と面積で示したトルコの輸出品目]] [[貿易]]は慢性的に赤字が続いている。2003年時点では輸出466億ドルに対し、輸入656億ドルであった。ただし、サービス収支、たとえば観光による収入(90億ドル、2002年)、所得収支、たとえば海外の出稼ぎからの送金などが多額に上るため、[[国際収支統計|経常収支]]はほぼバランスが取れている。 輸出・輸入とも過半数を工業製品が占める。世界第2位の生産量を占める[[毛織物]]のほか、毛糸、綿糸、綿織物、化学繊維などの生産量がいずれも世界の上位10位に含まれる、厚みのある繊維産業が輸出に貢献している。衣料品を輸出し、機械類を輸入するという構造である。 輸出品目では工業製品が 83.2%を占め、ついで食料品9.9%、原材料・燃料5.0%である。工業製品では衣類21.1%、繊維・織物 11.1%、自動車10.5%、電気機械8.6%が主力であり、鉄鋼も輸出している。輸出相手国はヨーロッパ圏が主力であり、[[ドイツ]] 15.8%、[[アメリカ合衆国]]7.9%、[[イギリス]]7.8%、イタリア6.8%、フランス6.0%の順である。日本に対する最大の輸出品目は[[マグロ]](21.7%)、ついで衣料品である。 輸入品目でも工業製品が65.9%に達する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%である。品目別では機械類13.4%、電気機械9.2%、自動車7.7%、原油6.9%、繊維・織物5.0%である。輸入相手国も欧州が中心で、ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス6.0%、イギリス5.0%の順である。日本からの最大の輸入品目は乗用車(12.1%)、ついで自動車用部品である。 == 交通 == [[ファイル:Turkish Airlines B738 TC-JGE.jpg|thumb|right|ターキッシュ エアラインズ]] [[ファイル:HızlıtrenEsk.jpg|thumb|right|トルコ高速鉄道]] {{main|{{仮リンク|トルコの交通|en|Transport in Turkey}}}} 交通の中心となっているのは、旅客・貨物ともに陸上の道路交通である。[[鉄道]]は[[トルコ国鉄|国鉄]](TCDD)が存在し、1万940キロメートルの路線を保有・運営しているが、きわめて便が少なく不便である。また、駅舎、路線、その他設備は整備が不十分で老朽化が進んでいる。2004年には国鉄は最高時速160キロメートルの新型車両を導入したが、7月にその新型車両が[[列車脱線事故|脱線事故]]を起こし39名の死者を出した。これは、路線整備が不十分なまま新型車両を見切り発車的に導入したことが原因といわれている。この事故は国鉄の信頼性を一層低下させ、鉄道乗客数は激減している。その後、路線の新設や改良に巨額の投資をし始め、2007年4月23日、[[エスキシェヒール]] - [[アンカラ]]間にて初の[[トルコ高速鉄道]](最高時速250キロメートル)が開通した。その後も、アンカラ-[[コンヤ]]間でも完成するなど、各地で高速鉄道建設が進められ近代化が図られている。 {{see also|トルコの鉄道|{{仮リンク|トルコの航空|en|Aviation in Turkey}}|トルコの空港の一覧}} 政府は道路整備を重視しており、国内の道路網は2004年時点で6万3,220キロメートルに及んでいる。また、イスタンブールとアンカラを結ぶ[[高速道路]]({{Lang|tr|Otoyol}})も完成間近となった。貨物輸送はもちろん、短距離・長距離を問わず旅客輸送の中心も[[バス (交通機関)|バス]]による陸上輸送が中心で、大都市・地方都市を問わず都市には必ず「オトガル」と呼ばれる長距離バスターミナル({{Lang|tr|Otogal/Terminal}})が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路線を運行している。また、世俗主義国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは親子や夫婦などを除き男女の相席をさせることはまずない。 いまだ雇用所得が低いことや、高額の自動車特別消費税(1,600cc未満37%、1,600cc以上60%、2,000cc以上84%)、非常に高価な[[ガソリン]]価格(2008年時点で1リットル当たり3.15YTL(約280円)程度)のために、自家用車の普及はあまり進んでいない。また、農村部においては現在でも人的移動や農作物の運搬のために[[トラクター]]や[[ウマ|馬]]を用いることはごく普通である。農村部や地方都市において露天[[バザール]]が開催される日には、アンカラやイスタンブールとはかけ離れたこれらの光景をよく目にすることができる。 {{clear}} == 科学技術 == {{main|{{仮リンク|トルコの科学技術|en|Science and technology in Turkey}}|{{仮リンク|オスマン帝国の科学技術|en|Science and technology in the Ottoman Empire}}}} トルコの科学技術の歴史は前身のオスマン帝国時代から続いている。トルコでの研究開発活動は、近年大幅な飛躍を遂げている面が強く<ref>[https://www.tubitak.gov.tr/tr?ot=5&rt=10&sid=0&pid=0&cid=5864]</ref>、2021年時点での{{仮リンク|グローバル・イノベーション・インデックス|en|Global Innovation Index}}においては41位にランクされ、2011年の65位から大幅に順位を上げている<ref>{{Cite web|title=TURKEY|url=https://www.wipo.int/edocs/pubdocs/en/wipo_pub_gii_2021/tr.pdf|date=2021|work=[[Global Innovation Index]]|publisher=[[World Intellectual Property Organization]]|access-date=25 February 2023}}</ref><ref>{{Cite web|title=Global Innovation Index 2019|url=https://www.wipo.int/global_innovation_index/en/2019/index.html|access-date=2023-02-25|website=www.wipo.int|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=RTD - Item|url=https://ec.europa.eu/newsroom/rtd/items/691898|access-date=2023-02-25|website=ec.europa.eu}}</ref>。 現代においては[[トルコ科学技術研究会議|科学技術研究評議会]]({{lang|tr|TÜBİTAK}})によって技術開発などを中心的に計画されており、大学や研究機関が責任を負う立場を担っている。 {{See also|{{仮リンク|トルコ科学アカデミー|en|Turkish Academy of Sciences}}}} {{See|{{仮リンク|トルコの哲学者と科学者の一覧|en|List of Turkish philosophers and scientists}}}} {{節スタブ}} == 国民 == {{main|{{仮リンク|トルコの人口統計|en|Demographics of Turkey}}}} 国土の位置する[[バルカン半島]]や[[アナトリア半島]]は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な[[混血]]と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国が成立する過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。 === 民族 === [[ファイル:AsiaMinor1910.jpg|400px|thumb|1910年時点での小アジアの民族分布。青がギリシャ人、赤がトルコ人、黄色がアルメニア人、茶色がクルド人居住地域]] {{main|トルコ人}} 前身である多言語、多宗教国家の[[オスマン帝国]]では、このような地域事情を汲み取って「ゆるやかな統治」を目指して統治を行い、[[信教の自由|信仰の自由]]を大幅に認めていたため、住民にオスマン帝国民という意識はほとんどなかった。各自の信奉する[[イスラム教]]や[[東方教会]]の[[キリスト教]]([[ギリシア正教]]、[[アルメニア使徒教会|アルメニア正教]]、[[シリア正教会|シリア正教]])といった[[宗教]]に分かれ、さらに言語ごとに細かいグループに分かれて宗教・言語のエスニック・グループの集団が存在し、[[ムスリム|イスラム教徒]]ではトルコ語、[[クルド語]]、[[アルバニア人|アルバニア系]]といった[[母語]]グループに分かれていた。この集団が、長らく人々のアイデンティティ形成と維持に主導的な役割を果たしてきたといえる。このため、国民国家としての現共和国成立に伴い、国内における民族意識([[ナショナリズム]])の醸成が急務となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定義するのかを画一的に判断することが非常に困難であった。このことは、1830年のギリシャ独立以降、隣国ギリシャとの間でバルカン半島とアナトリア半島をめぐり領土紛争の勃発する要因となり、1922年に紛争の抜本的解決を目的に締結された[[ローザンヌ条約]]と[[ギリシャとトルコの住民交換|住民交換協定]]では、国内に住む[[正教会]]信者の[[トルコ語]]話者は「[[ギリシャ人]]」、逆にギリシャ国内に住むイスラム教徒の[[ギリシア語|ギリシャ語]]話者は「[[トルコ人]]」と規定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。 こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてトルコ語を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると同時に、トルコにおける[[少数民族]]とは非イスラム教のギリシャ人、アルメニア人、[[ユダヤ人]]の三民族であることを定義した。しかしながら、実際には共和国成立以前から東部を中心に[[クルド人]]をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるものの、それらが少数民族とは認知していない。 少数派の民族としては、[[クルド人]]、[[アラブ人]]、[[ラズ人]]、[[グルジア人]]、ギリシャ人、[[アルメニア人]]、[[ヘムシン人]]、[[ザザ人]]、[[ガガウズ人]]、[[ポマク人]]、[[アゼリー人]]などが共和国成立以前から東部を中心に居住しており、バルカン半島や黒海の対岸からアナトリアに流入した[[アルバニア人]]、[[ボシュニャク人]]、[[チェルケス人]]、[[アブハズ人]]、[[クリミア・タタール人]]、[[チェチェン人]]、[[オセット人]]も少なくない<ref>{{Cite web |url=http://cerkesarastirmalari.com/wp-content/uploads/2019/05/THES-S_setenay_nil_dogan.pdf |title=FORMATIONS OF DIASPORA NATIONALISM: THE CASE OF CIRCASSIANS IN TURKEY |accessdate=2022/02/08 |publisher=Çerkes Araştırmaları |author=SETENAY NİL DOĞAN |date=Spring 2009 |language=en |editor=Sabancı University}}</ref>。特に、クルド人はトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は1,400万から1,950万人といわれている。かつて政府は国内にクルド人は存在しないとの立場から、クルド語での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど、差別的に扱っていた。しかしながら、現在では少数民族の存在を認める政府の立場から、山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。実際問題として長年の同化政策の結果、今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分離した民主党(DP)とは別組織)レイラ・ザーナ党首の釈放と同日に、国営放送である[[トルコ国営放送|TRT]]の第3チャンネル(TRT3)においてクルド語放送が行われた。2008年末には24時間クルド語放送を行うためTRTに第6チャンネルが開設され、2009年1月から本放送を開始した<ref>[http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20090102_143354.html TRT6(クルド語チャンネル)、ロジンさんらのコンサートで正式にスタート] - 2009年1月2日付『Zaman』紙の翻訳([[東京外国語大学]]のページ)</ref>。 なお、クルド人はいわゆる北部[[南東アナトリア地域]](南東アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分布している。実際、クルド系政党民主国民党(DEHAP)は全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降、全国的な農村部から都市への移住が増加したことに伴いクルド人も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降最も多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブール県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における[[大衆政党]]として[[草の根民主主義|草の根]]活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつける見方も存在する。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|トルコの言語|en|Languages of Turkey}}}} 公用語の[[トルコ語]]のほか、[[クルド語]]([[クルマンジー]])、[[ザザキ語]](ディムリ語、[[キルマンジュキ語]])、{{仮リンク|チェルケス語派|en|Circassian language}}([[カバルド語]]、[[アディゲ語]])、[[アゼルバイジャン語]]([[南アゼルバイジャン語]])、[[アラビア語]]({{仮リンク|北メソポタミア・アラビア語|en|North Mesopotamian Arabic}}、[[アラビア語イラク方言]])、[[バルカン・ガガウズ・トルコ語]]、[[ブルガリア語]]、[[ギリシア語]]([[ギリシア語ポントス方言]])、[[アルメニア語]]、[[カルトヴェリ語族|カルトヴェリ語派]]([[グルジア語]]、[[ラズ語]])などが話されている。 === 人名・婚姻 === {{Main|{{仮リンク|トルコの人名|en|Turkish name}}|{{仮リンク|トルコの婚姻|en|Marriage in Turkey}}}} 1934年に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓を持つことが義務づけられたため、[[上流階級]]は他の[[アラブ世界|アラブ諸国]]と同じように先祖の名前や出自に由来する「家名」を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起のいい言葉を選んで姓をつけている。婚姻の際は、以前は夫婦同姓のみが認められていたが、2001年の法改正により女性の複合姓が認められ<ref>[https://www.moj.go.jp/content/000103925.pdf 平成23年度 トルコ共和国における身分関係法制調査研究 法務省/エァクレーレン]・[http://lacrima09.web.fc2.com/teardrops/fundament/world.html たんぽぽのなみだ:世界の夫婦別姓]</ref>、さらに2014年に最高裁において、婚前の姓のみを名乗ることを認めないことは憲法違反との判決が下され、完全な[[夫婦別姓]]も選択可能となったことで、選択的夫婦別姓制度が実現している<ref>[http://www.hurriyetdailynews.com/prohibiting-married-women-from-retaining-only-maiden-names-a-violation-top-court.aspx?pageID=238&nID=60734&NewsCatID=339 "Prohibiting married women from retaining only maiden names a violation: Top court"], Daily News, January 8, 2014.</ref>。 === 宗教 === [[ファイル:Sultan Ahmed Mosque Istanbul Turkey retouched.jpg|thumb|[[イスタンブール]]を代表する[[モスク]]の[[スルタンアフメト・モスク]]]] {{main|{{仮リンク|トルコの宗教|en|Religion in Turkey}}}} 宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると、人口の99%以上がムスリム(イスラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分証明書にその記載事項がないことから、宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その結果、一般的にはムスリムを信奉する国民の大半は[[スンナ派]]に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティである[[アレヴィー派]]の信奉者が国内にも相当数存在しているとの主張もあり、一説には20%を超えるとも言われている。 そのほかの宗教には[[正教会|東方正教会]]、[[アルメニア使徒教会]]、[[ユダヤ教]]、[[カトリック教会|カトリック]]、[[プロテスタント]]などが挙げられるが、[[オスマン帝国]]末期から現共和国成立までに至る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。 {{See also|{{仮リンク|トルコにおける世俗主義|en|Secularism in Turkey}}}} 一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者である[[コンスタンディヌーポリ総主教]]は[[イスタンブール]]に居住しており、[[正教徒]]がごく少数しか存在しないトルコに東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。国内にある東方正教会の[[神品 (正教会の聖職)|神品]]を養成するための「ハルキ神学校」は[[1971年]]から政府命令によって閉鎖されており、東方正教会への政府からの圧迫の一つとなっている。 {{See also|{{仮リンク|トルコにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Turkey}}}} === 教育 === [[ファイル:Istanbul University campus March 2008c.JPG|thumb|[[イスタンブール大学]]]] {{Main|トルコの教育}} [[義務教育]]機関として、8年制の[[小学校|初等教育学校]]({{Lang|tr|ilk öğretim okulu}})が置かれ、そのほか4年制(2004年9月入学以降、それ以前は3年制)の[[高等学校]]({{Lang|tr|lise}})、[[大学]]({{Lang|tr|üniversite}})などが置かれている。ほかに就学前教育機関として[[幼稚園]]({{Lang|tr|anaokulu}})なども存在する。初等教育学校を含めてほぼ全ての学校が国立だが、私立学校も存在する。ただし、私立学校の1か月間の学費は、給食費・施設費などを含めて一般労働者の月収とほぼ同等で、極めて高価である。 公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。受験競争は存在し、[[高校受験|高校入試]]・[[大学受験|大学入試]]のために[[学習塾|塾]]({{Lang|tr|dershane}})に通うことも珍しくない。 教員数・教室数はともに十分な数には達しておらず、[[初等教育]]学校は午前・午後の二部制である。また学校設備も不十分で、[[体育館]]・[[プール]]などは公立学校にはまず存在しない。特に大都市の学校では運動場は狭く[[コンクリート]]張りで、[[バスケットボール]]や[[フットサル]]が精一杯である(地方においては[[芝|芝生]]のサッカー場などを持つ学校も多い)。また、[[図書館]]も存在しないか、あっても不十分である。学校設備の問題に関しては国も認識し、[[世界銀行]]からの融資を受けるなどして改善を図っているが、厳しい財政事情もあって改善が進んでいない。<!-- 成年[[識字率]]は2003年統計{{要出典}}で88.3%(男性95.7%、女性81.1%)。ただし、女性は20歳以下人口が全人口の35%程度を占めるきわめて若い国であることに注意する必要がある。特に高齢の女性には非識字者が多い。--> 2004年現在、男子児童の就学率は統計上ほぼ100%に到達したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、政府は「さあ、女の子たちを学校へ({{Lang|tr|Hadi Kızlar Okula}})」キャンペーンを展開するなどその解消に努めている。しかし、女子非就学者の問題には経済事情に加え、男女共学のうえ、いまだ保守的なイスラムを奉ずる地域ではヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から問題視する親が存在するという事情もあり、女子非修学者の減少はやや頭打ちの状態である。 [[イスラム教]]の教えに基づいた[[創造論]]が学校などで公然と教育されており<ref>「[http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20071007_231446.html 創造論は、人権への脅威 - 関連案件を欧州委員会議員会議が可決]」 - 2007年10月07日付『Radikal』紙の翻訳(東京外国語大学のページ)</ref>、[[進化論]]への[[検閲]]行為<ref>"Turkish scientists claim Darwin censorship" ''Nature'' '''2009''' {{doi|10.1038/news.2009.150}}</ref>などの問題が生じている。また、[[クルド語]]を教育することはおろか、教育機関などでの「公的な場」で使用することさえ法律で禁止されており、これに違反した場合は国家反逆罪などで起訴される。実際に投獄された一般のクルド人も多い。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|トルコの保健|en|Health in Turkey}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{Main|{{仮リンク|トルコの医療|en|Health care in Turkey}}}} {{節スタブ}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|トルコにおける犯罪|en|Crime in Turkey}}}} 2022年の世界平和度指数の安全・安心(Safety & Security)部門で163カ国中138位ぐらいとロシアより下位に位置し、不安定さが目立つだけでなく、かなり危険な状況にあるトルコの治安状況を、日本人は知らないのである<ref>{{Cite web |title=Global Peace Index Map » The Most & Least Peaceful Countries |url=https://www.visionofhumanity.org/maps/ |website=Vision of Humanity |date=2020-07-24 |access-date=2023-03-03 |language=en-US}}</ref>。2007年以降、同国警察が犯罪統計を公表していないために詳細な件数は不明であるものの、日本と比べると一般[[犯罪]](特に[[窃盗]]事件)や凶悪犯罪([[殺人]]、[[強盗]])は数多く発生している方で、[[置き引き]]や[[スリ]]、[[ぼったくり]]、[[詐欺]](主に[[恋愛]]を利用したものや格安を謳う[[ツアー]]、乗車料金や[[クレジットカード]]に絡むもの)、[[性犯罪]]、偽警察官による犯罪も散見されている<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_052.html トルコ安全対策基礎データ] [[日本外務省]]海外安全ホームページ</ref>。 {{節スタブ}} === 法執行機関 === {{Main|{{仮リンク|トルコの法執行機関|en|Law enforcement in Turkey}}}} トルコにおける法執行は、トルコ軍の指揮下に置かれる憲兵「[[ジャンダルマ]]」や[[警察総局]]をはじめとして、{{仮リンク|トルコ共和国内務省|label=内務省|en|Ministry of the Interior (Turkey)}}の下で行動するいくつかの省庁ならび公的機関によって行なわれている。 {{節スタブ}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|トルコにおける人権|en|Human rights in Turkey}}}}他人の権利の尊重や情報の自由な流れなどの基本的人権に基づく2020年積極的平和指数は、163カ国中88位と先進国を下回り、世界的には平均程度だが、66位の中国を下回っている<ref>{{Cite web |title=Positive Peace Index {{!}} The most and least resilient countries in the world |url=https://www.visionofhumanity.org/maps/positive-peace-index/ |website=Vision of Humanity |date=2021-12-06 |access-date=2023-03-03 |language=en-US}}</ref>。{{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|トルコにおける人種差別と民族差別|en|Racism and discrimination in Turkey}}}} == メディア == {{main|{{仮リンク|トルコのメディア|en|Mass media in Turkey}}}} {{節スタブ}} === マスコミ === {{main|{{仮リンク|トルコのテレビ|en|Television in Turkey}}}} {{節スタブ}} === インターネット === {{main|{{仮リンク|トルコのインターネット|en|Internet in Turkey}}}} {{main|{{仮リンク|トルコにおける検閲|en|Censorship in Turkey}}|2017年トルコのウィキペディア閲覧制限}} 政治的な理由で[[ネット検閲]]が行われている。2014年には裁判所の命令がなくてもウェブサイトを遮断したり、インターネットを通じて個人の閲覧記録を収集したりすることを首相に認める法律(インターネット法に関する5641改正法)が可決されている<ref>{{citenews|url=http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304555804579545080176271734|title=ネット検閲に突き進むトルコのエルドアン首相―ユーザーやネット企業との果てしなきいたちごっこ|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|date=2014-05-06|accessdate=2017-0501}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.japanpen.or.jp/news/cat99/post_490.html |title=〔トルコ〕インターネット法によりさらに表現の自由が制限される恐れ |publisher=[[日本ペンクラブ]] |date=2014-02-06 |accessdate=2017-05-01}}</ref>。 そのため、[[YouTube]]など[[Google]]関連を含む約3,700の外部サイトへのアクセスは政府によってブロックされており<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-15804620100614 |title=トルコ大統領、自国のネット規制をツイッターで非難 |publisher=[[ロイター]] |date= 2010-06-14 |accessdate=2017-05-01}}</ref>、反政府運動の抑え込みや言論統制を理由に[[Facebook]]や[[Twitter]]など[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]](SNS)も度々ブロックされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.techcrunch.com/2013/06/03/20130601as-anti-government-protests-erupt-in-istanbul-facebook-and-twitter-appear-suddenly-throttled/|title=イスタンブールの反政府抗議運動勃発で、政府がFacebookとTwitterを利用制限か|publisher=Tech Crunch Japan|date=2013-06-03|accessdate=2017-05-01}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://turkeyblocks.org/2016/11/04/social-media-shutdown-turkey/ |title=Facebook, Twitter, YouTube and WhatsApp shutdown in Turkey |publisher= Turkey Blocks |date=2016-11-04|accessdate=2017-05-01}}</ref>。<br />[[2017年]][[4月29日]]、政府は国内からの[[ウィキペディア]]への通信を遮断したと発表。{{仮リンク|運輸海事通信省|en|Ministry of Transport, Maritime and Communication (Turkey)}}はウィキペディアに政府がテロ組織と連携しているような記事が書かれていることを非難し、「トルコに対して中傷作戦を展開する情報源の一部になっている」と主張している。当局はウィキペディアに対して削除を要請したが、ウィキペディア側は拒否したという。ウィキペディア側が要請に応じた場合、遮断解除を行うとしている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cnn.co.jp/tech/35100571.html |title=トルコ、ウィキペディアへの接続遮断 「同国中傷の情報源に」 |publisher= [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date= 2017-04-30|accessdate=2017-05-01}}</ref>。 {{節スタブ}} == 文化 == [[ファイル:Mevlana Konya.jpg|thumb|right|[[メヴレヴィー教団]]の旋回舞踊]] {{Main|{{仮リンク|トルコの文化|en|Culture of Turkey|redirect=1}}}} 国土は、[[ヒッタイト]]、[[古代ギリシア]]、[[ローマ帝国]]、[[イスラム教|イスラーム]]など様々な文明が栄えた地であり、諸文化の混交が文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、[[世界遺産]]に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくは「[[トルコの世界遺産]]」を参照)。伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受け合いながら発展してきた。また、トルコの文化はヨーロッパの芸術文化や被服文化にも影響を及ぼしており、特に16世紀から18世紀の間はオスマン帝国勢力の隆盛時にその文化が多大な影響を擁している。この現象は{{仮リンク|欧州文化のトルコ化|label=ターケリー|en|Turquerie}}と呼ばれている。 近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の[[文明開化]]と同じように、[[西洋]]文明を積極的に取り入れてきたが、それとともに[[トルコ文学]]、[[演劇]]、[[音楽]]などの近代芸術は、[[言文一致]]運動や[[トルコの言語純化運動|言語の純化運動]]、[[社会運動]]などと結びついて独自の歴史を歩んできた。こうした近代化の一方で、歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。[[無形文化財]]ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少し、また[[剣術]]、[[弓術]]などいくつかの伝統的な技芸は既に失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており、多くの遺跡が長らく管理者すら置かれず事実上、放置されてきた。近年は、いくつかの有名な[[古代ギリシャ]]や[[ローマ帝国]]時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化されて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遺跡は[[風化]]の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているが、その保全対策は財政事情もありほとんど全く手つかずの状態である。 === 食文化 === {{Main|トルコ料理}} [[トルコ料理]]は伝統的に[[世界三大料理]]の一つとされ、[[ギリシア料理|ギリシャ料理]]や[[歴史的シリア|シリア地方]]の料理([[レバノン料理]]など)とよく似通っている。またイスラム教国ではあるが飲酒は自由に行われており、[[ブドウ]]から作られ[[アニス]]で香りがつけられた[[ラク]]が有名である。[[トルコワイン|ワイン]]や[[ビール]]の国産銘柄も多数ある。コーヒー粉末と砂糖を入れた小さな容器を火にかけて煮出す[[トルココーヒー]]は[[ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録された。 === 文学 === [[ファイル:Orhan Pamuk Shankbone 2009 NYC.jpg|thumb|right|21世紀の小説家、[[オルハン・パムク]]。2006年に[[ノーベル文学賞]]を受賞した]] {{Main|トルコ文学}} *[[ハリデ・エディプ・アドゥヴァル]] *[[ナーズム・ヒクメット]] *[[ヤシャル・ケマル]] *[[オルハン・パムク]] - [[ノーベル文学賞]](2006年) === 音楽 === {{Main|トルコ音楽}} 伝統的な[[トルコ音楽]]の一つ、[[オスマン古典音楽]]は[[アラブ音楽]]との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブールに暮らした作曲家が残したものである。 オスマン帝国とトルコ共和国で行われてきた伝統的な[[軍楽]][[メフテル]]は多くの国に脅威と衝撃を与え、音楽家は着想を得ていくつもの[[トルコ行進曲]]を製作した。 === 演劇 === [[File:Ankara asv2021-10 img58 Ankara State Theatre.jpg|200px|thumb|right|{{仮リンク|トルコ国立劇場|en|Turkish State Theatres}} <br> この施設は首都のアンカラに在る]] {{main|{{仮リンク|トルコの演劇|en|Theatre of Turkey}}}} トルコの演劇文化は、幾千年も前の時代から続いている。その起源については様々な見解があり、多くの学者はトルコの民俗劇場がフリギアやヒッタイト文明のような初期のアナトリア文明の民間伝承に関連していると主張している。一方で、一部の学者からは[[ウラル・アルタイ語族|ウラル・アルタイ]]地域で実践されていた人道的な儀式から発展したものであるという説が唱えられている。 同国において民俗劇場は田舎に点在する何千もの村の中で何世紀にも亘って存続されて来ている面を持つ。 {{節スタブ}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|トルコの映画|en|Cinema of Turkey}}}} トルコにおける映画製作活動は、第二次世界大戦後から劇的に増加して行く形で高まった。最近では[[アラブ世界]]、そして米国でもその存在が認知されるほどに成長を見せている。 {{節スタブ}} === 美術 === {{main|{{仮リンク|トルコの芸術|en|Turkish art}}}} トルコの芸術文化は、同国の前身であるオスマン帝国のものを源流としている。 {{節スタブ}} === 被服 === [[File:Turkish dancer.jpg|180px|thumb|right|トルコの伝統衣装を纏った女性]] {{main|{{仮リンク|トルコの民族衣装|en|Turkish folk dress}}}} トルコにおける伝統衣装は、オスマン帝国時代の服飾文化に大きく影響されている面を持つ。またトルコの民俗服は、アナトリア半島地域とその周辺の様々な地域文化の類似点や歴史的な共有があり、トルコ国内の各地域の服飾はその人々の性質を反映する傾向が強いことも明らかとなっている<ref>Sofiya. "Home." Each of seven Turkey regions has its own clothing traditions and features - Nationalclothing.org. N.p., n.d. Web. 21 Feb. 2017.</ref>。 {{節スタブ}} === 建築 === [[File:EAA Zorlu Center.jpg|200px|thumb|right|イスタンブールにある『{{仮リンク|ゾルル・センター|en|Zorlu Center}}』 <br> トルコ国内の多目的複合施設の中では最大級の規模である]] {{main|{{仮リンク|トルコの建築|en|Architecture of Turkey}}}} 建築は、イランとギリシャ双方の影響を受け、独自の壮麗な[[モスク]]やメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのが[[ミマール・スィナン]]であり、[[スレイマニエ・モスク|スレイマン・ジャミィ]]などに当時の文化を垣間見ることができる。 俗に「トルコ風呂」などと呼ばれている公衆浴場文化(本国においては[[トルコ風呂 (性風俗)|性風俗店]]の意味はなく、伝統的浴場の意である)は、中東地域に広く見られる[[ハンマーム]](ハマム)の伝統に連なる。逆に、中東やアラブの後宮として理解されている[[ハレム]]とは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイメージが、[[オリエンタリズム]]的な幻想に乗って伝えられたものであった。 {{See also|オスマン建築|{{仮リンク|セルジューク建築|en|Seljuk architecture}}|{{仮リンク|トルコにおける最も高い建築物の一覧|en|List of tallest buildings in Turkey}}}} {{See also|{{仮リンク|トルコの建築家の一覧|en|List of Turkish architects}}}} === 世界遺産 === {{main|トルコの世界遺産}} 国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が11件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が2件存在する。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|トルコの祝日|en|Public holidays in Turkey}}}} {|class="wikitable" !日付 !日本語表記 !現地語表記 !備考 |- |[[1月1日]] |[[元日]] |{{Lang|tr|Yılbaşı}} |法令上は祝祭日ではなく休日 |- |[[4月23日]] |国民主権と子供の日 |{{Lang|tr|[[:tr:23 Nisan Ulusal Egemenlik ve Çocuk Bayramı|Ulusal Egemenlik ve Çocuk Bayramı]]}} | |- |[[5月19日]] |[[アタテュルク]]記念、<br />青少年とスポーツの日 |{{Lang|tr|[[:tr:19 Mayıs Atatürk'ü Anma, Gençlik ve Spor Bayramı|Atatürk’ü Anma ve Gençlik ve Spor Bayramı]]}} | |- |[[8月30日]] |戦勝記念日 |{{Lang|tr|[[:tr:30 Ağustos Zafer Bayramı|Zafer Bayramı]]}} |[[トルコ革命]]の祖国解放戦争 |- |[[10月29日]] |共和国記念日 |{{Lang|tr|[[:tr:29 Ekim Cumhuriyet Bayramı|Cumhuriyet Bayramı]]}} | |- |移動 |[[断食明けの祭り]](砂糖の祭) |{{Lang|tr|Ramazan Bayramı}} |初日の13時から3日半 |- |移動 |[[イード・アル=アドハー|犠牲祭]] |{{Lang|tr|Kurban Bayramı}} |初日の13時から4日半 |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|トルコのスポーツ|en|Sport in Turkey}}}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|トルコのサッカー|en|Football in Turkey}}}} {{Main2|トルコの著名な[[ダービーマッチ]]|クタラララス・デルビ}} トルコ国内では[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。国内には18のプロクラブが参加する[[スュペル・リグ]]を頂点に、[[TFF1.リグ|2部リーグ]]、[[:en:TFF Second League|3部リーグ]]、さらにその下部には[[:en:TFF Third League|地域リーグ]]が置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、[[バスケットボール]]や[[バレーボール]]など他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。 [[トルコサッカー連盟]](TFF)は[[欧州サッカー連盟]](UEFA)に加盟しており、スュペル・リグ上位クラブは[[UEFAチャンピオンズリーグ]]や[[UEFAヨーロッパリーグ]]に参加可能である。中でも[[イスタンブール]]の[[フェネルバフチェSK|フェネルバフチェ]]、[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライ]]、[[ベシクタシュJK|ベシクタシュ]]と、[[トラブゾン]]の[[トラブゾンスポル・クラブ (サッカー)|トラブゾンスポル]]は4大クラブと呼ばれ、[[テレビ]]や[[新聞]]などの報道量もほかに比べ非常に多い。これらのクラブは実力的にも上位にあるため、UEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するクラブは半ばトルコ代表として扱われることもあり、これらの強豪は地域にかかわらず全国的に人気がある。なお、フェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3クラブは[[イスタンブール証券取引所]]に上場する上場企業でもある。 [[サッカートルコ代表]]は、[[2002年]]に行われた'''[[2002 FIFAワールドカップ|日韓W杯]]で3位'''の成績を収めるなど健闘した。この大会では開催国の[[サッカー日本代表|日本]]と[[サッカー大韓民国代表|韓国]]に勝利しており、同一大会で2つの開催国に勝利するという珍しい記録を達成した。また、同大会で[[2002 FIFAワールドカップ・決勝|優勝]]した[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]には2度敗北している。さらに、[[2005年]]にはイスタンブールの[[アタテュルク・オリンピヤト・スタドゥ]]で、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝]]が行われ「'''イスタンブールの奇跡'''」が起こった。 === その他の競技 === [[ファイル:Yagli gures3.JPG|thumb|right|[[14世紀]]から続く[[ヤールギュレシ]]]] サッカー以外のプロスポーツとしては、[[バスケットボール]]と[[バレーボール]]のプロリーグが存在する。特にバスケットボールは、[[NBA]]でのトルコ人選手の活躍や[[2010年]]に[[2010年バスケットボール世界選手権|世界選手権]]が開催されたこともあり、近年人気が上昇している。また、[[2005年]]から[[2011年]]までは[[フォーミュラ1|F1]][[トルコグランプリ|トルコGP]]が開催されており、[[世界ラリー選手権|WRC]]のラリー・オブ・ターキーとあわせて[[モータースポーツ]]における発展も期待される。 650年以上の歴史を持つ伝統の[[格闘技]]として[[ヤールギュレシ]](オイルレスリング)があり、トルコの[[国技]]となっている。アマチュアスポーツとしては、[[レスリング]]や[[重量挙げ]]などの人気が高い。また、トルコ人の気風を反映してか[[柔道]]や[[空手道]]の道場も多い。[[競馬]]や[[競走馬]]の生産も行われており、日本産馬では[[ディヴァインライト]]がトルコで種牡馬として供用されている。[[チュルク系民族]]の伝統的な[[騎馬]]により争われる競技「[[ジリット]]」は、主にトルコ東部の民間に残っている<ref>[http://www.tourismturkey.jp/amenity/history/traditionalsports/ 伝統競技 - リジット(トルコ大使館文化広報参事官室)]</ref>。 {{see also|オリンピックのトルコ選手団}} == ギャラリー == <gallery mode="packed"> <!--ファイル:Ankaracenter.jpg|アンカラセンター--> ファイル:Kız Kulesi February 2013 01.jpg|[[ボスポラス海峡]]に浮かぶ「乙女の塔」([[イスタンブール]]) ファイル:Istanbul bridge.jpg|オルタキョイ・モスクと夕暮れのボスポラス海峡(イスタンブール) |トルコの[[フォークダンス]] ファイル:Beyazit Mosque, Istanbul.jpg|ユルドゥルム・バヤズィド・モスク([[ブルサ]]) ファイル:Selimiye Mosque (15051985908) (cropped).jpg|[[セリミエ・モスク]]([[エディルネ]]) ファイル:Hagia Sophia Mars 2013.jpg|[[アヤソフィア]](イスタンブール) ファイル:Pamukkale 30.jpg|[[ヒエラポリス-パムッカレ|パムッカレ]]の石灰棚 ファイル:Mount olympos turkey.jpg|タフタル山(オリンポス山) ファイル:Divers.jpg|オリンポスのダイバー ファイル:Manavgat waterfall by tomgensler.JPG|マナヴガットの滝 </gallery> == 著名な出身者 == {{Main|トルコ人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === --> {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author= 新井政美|authorlink=新井政美 |year = 2002 |title = オスマンvs.ヨーロッパ : 「トルコの脅威」とは何だったのか |publisher = [[講談社]] |series = 講談社[[選書]]メチエ |isbn = 4-06-258237-6 }} *{{Cite book|和書 |author = 新井政美 |date = 2001年(改訂版2008年) |title = トルコ近現代史 : イスラム国家から国民国家へ |publisher = [[みすず書房]] |isbn = 4-622-03388-7 }} *{{Cite book|和書 |author= 大島直政|authorlink=大島直政 |year = 1968 |title = 遠くて近い国トルコ |publisher = [[中央公論新社|中央公論社]] |series = [[中公新書]] |isbn = 4-12-100162-1 }} *{{Cite book|和書 |author= 小島剛一|authorlink=小島剛一 |year = 1991 |title = トルコのもう一つの顔 |publisher = 中央公論社 |series = 中公新書 |isbn = 4-12-101009-4 }} *{{Cite book|和書 |author = 小島剛一 |year = 2010 |title = 漂流するトルコ 続「トルコのもう一つの顔」 |publisher = [[旅行人]] |isbn = 4-947-70268-0 }} *{{Cite book|和書 |editor=鈴木董|editor-link=鈴木董 |year = 2000 |title = トルコ |publisher = [[河出書房新社]] |series = 暮らしがわかるアジア読本 |isbn = 4-309-72468-X }} *{{Cite book|和書 |author = 鈴木董 |others = [[大村次郷]]写真 |year = 1993 |title = 図説[[イスタンブール]]歴史散歩 |publisher = 河出書房新社 |isbn = 4-309-72421-3 }} *{{Cite book|和書 |author = パット・イエール / リチャード・プランケット / ヴェリティ・キャンベル |year = 2004 |title = トルコ |publisher = [[メディアファクトリー]] |series = ロンリープラネットの自由旅行ガイド |isbn = 4-8401-0864-1 }} *{{Cite book|和書 |author= 松谷浩尚|authorlink=松谷浩尚 |year = 1987 |title = 現代トルコの政治と外交 |publisher = [[勁草書房]] |series = 第三世界研究シリーズ |isbn = 4-326-39872-8 }} *デイヴィド・ホサム『[[トルコ人]]』[[護雅夫]]訳、[[みすず書房]]、1983年 *川原田喜子『[http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/tur/theses/2009/kawaharada.pdf 国交樹立以前の文献からよみとく トルコ人の日本観]』東京外国語大学、2009年 == 関連項目 == *[[トルコ関係記事の一覧]] *{{ill2|トルコの城・要塞一覧|de|Liste von Burgen und Festungen in der Türkei}} *[[ターキッシュアンゴラ]](トルコ原産の猫) *[[テュルク評議会]] *[[アタテュルクのCM (トルコ興業銀行)]] *[[ゲジェコンドゥ]] - トルコの私有地などに勝手に作られた違法建築で、法律で撤去出来ないため増加している。 *[[高野あゆ美]] - トルコで活躍する日本人女優 *[[トルコ行進曲 (モーツァルトの曲)]] *[[トルコ行進曲 (ベートーヴェンの曲)]] ;言語 *[[テュルク諸語]]、[[オスマン語]] == 外部リンク == {{Sisterlinks |commons=Türkiye |commonscat=Turkey |d=Q43 }} {{Wikivoyage|Turkey|トルコ{{en icon}}}} ;トルコ政府 *[https://www.turkiye.gov.tr/ トルコ共和国政府]{{Tr icon}} ;日本政府 *[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkey/index.html 日本外務省 - トルコ]{{Ja icon}} ;大使館 *[https://www.tr.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在トルコ日本国大使館]{{Ja icon}} *[http://tokyo.be.mfa.gov.tr/default.aspx 駐日トルコ共和国大使館]{{Tr icon}}{{Ja icon}}{{En icon}} ;後援組織 *[https://tokyo.yee.org.tr/ ユヌス・エムレ インスティトゥート東京 トルコ文化 センター]{{Ja icon}} *[https://tokyocamii.org/ja/ 東京ジャーミィ・トルコ文化センター]{{Ja icon}} *[http://www.tkjts.jp/ 日本・トルコ協会]{{Ja icon}} *[http://osaka-turkey.or.jp/ (社)大阪・トルコ協会]{{Ja icon}} *[http://www.kyushu-turkey.jp/ 九州・トルコ協会]{{Ja icon}} *[http://hjtdd.sakura.ne.jp/ 北海道日本トルコ友好協会]{{Ja icon}} *日本・トルコ婦人クラブ{{Ja icon}} *日本トルコ文化経済交流支援協会{{Ja icon}} *[https://ameblo.jp/jtfa/ 日本トルコ友好協会]{{Ja icon}} *砺波市トルコ友好交流協会{{Ja icon}} *柏崎トルコ友好協会{{Ja icon}} *[https://galenus-pergamon.wixsite.com/galenus/japangalenusassociation / 日本ガレノス協会]{{Ja icon}} *[http://www.kyoto-nitto.com/ 日本トルコ文化協会]{{Ja icon}} *神戸・トルコ友好協会 トルコーべ{{Ja icon}} *和歌山トルコ文化協会(和歌山){{Ja icon}} *串本トルコ文化協会{{Ja icon}} ;その他 *[https://www.jetro.go.jp/world/middle_east/tr/ JETRO - トルコ]{{Ja icon}} *[https://www.jccme.or.jp/08/08-07-16.html JCCME - トルコ]{{Ja icon}} *[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/tu.html/ entry at The World Factbook - Turkey]{{en icon}} *[http://www.dmoz.org/Regional/Middle_East/Turkey/ トルコ]{{en icon}} * {{Kotobank}} *{{Wikiatlas|Turkey}}{{en icon}} *{{Osmrelation|174737}} *{{Googlemap|トルコ}} ;観光 *[http://www.tourismturkey.jp/ トルコ政府観光局]{{Ja icon}} *[https://turkish.jp/category/destinations/ ターキッシュエア&トラベル - トルコ観光ガイド・おすすめ観光名所BEST20]{{ja icon}} *[https://www.arukikata.co.jp/country/TR/ 地球の歩き方 - トルコの旅行・観光ガイド]{{ja icon}} *[https://www.hankyu-travel.com/guide/turkey/ 阪急交通社 - トルコ観光ガイド]{{ja icon}} *{{ウィキトラベル インライン|トルコ|トルコ}}{{Ja icon}} {{アジア}} {{ヨーロッパ}} {{OIC}} {{OECD}} {{G20}} {{GUAM}} {{CPLP}} {{Normdaten}} {{Coord|39|55|N|32|50|E|region:TR_type:country|display=title|name=トルコ}} {{DEFAULTSORT:とるこ}} [[Category:トルコ|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:G20加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:アナトリア]] [[Category:ポルトガル語からの借用語]]
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ロシア
ロシア連邦(ロシアれんぽう、ロシア語: Российская Федерация)、通称ロシア(ロシア語: Россия)は、ユーラシア大陸北部に位置する連邦共和制国家である。首都はモスクワ市。 国土は旧ロシア帝国およびソビエト連邦の大半を引き継いでおり、ヨーロッパからシベリア・極東に及ぶ。面積は17,090,000 km(平方キロメートル)以上と世界最大である。 ロシアは国際連合安全保障理事会常任理事国であり、旧ソビエト連邦構成共和国でつくる独立国家共同体(CIS)の指導国であるだけでなく、G20、アジア太平洋経済協力(APEC)、上海協力機構、ユーラシア経済共同体、欧州安全保障協力機構、世界貿易機関(WTO)などの加盟国である。かつてG8加盟国であったが、2014年3月にクリミアの併合を強行したことでG8の参加資格を停止された。 核拡散防止条約により核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国の1つであり、世界最大の大量破壊兵器保有国(英語版)である。国防費は2010年以降増加の一途を辿っている。常備軍のロシア連邦軍は地上軍・海軍・航空宇宙軍の3軍の他、戦略ロケット軍と空挺軍の2つの独立兵科で構成されている。運用面では地理的に分割された軍管区に権限が委譲されており、それぞれに統合戦略コマンドが設置されて3軍と通常兵器部隊を指揮している(戦略核兵器部隊は指揮権外)。現役軍人は約90万人であるが、2022年ロシアのウクライナ侵攻に伴う大量の戦死傷・捕虜や動員で変動しており、さらにロシア政府は2026年にかけて軍の定員を150万人へ増やす計画を進めている。 政治体制は、ソビエト連邦の崩壊に前後してソビエト共産党による一党独裁制が放棄されて複数政党制に基づく選挙が行われるようになったが、2003年以降は事実上ウラジーミル・プーチン大統領率いる与党「統一ロシア」の一党優位政党制になっている。複数政党制や選挙は一応存在するが、選挙から反体制派候補を排除するなどプーチン体制に有利な政治制度が構築されており、政治的意思を表明する機会に乏しい。「法の独裁」による統治を目指す強権的体質が内外から批判されており、エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界134位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。 言論の自由に関しても、国境なき記者団による世界報道自由度ランキングは149位と下位である(2020年度)。特に、2022年のウクライナ侵攻以降は「広範囲に検閲を行うなどしてニュースや情報を完全に支配している」と非難されており2022年は155位、2023年は164位と大幅に順位を落としている。 領土や軍事力に比べてロシアの経済は国際的地位が低いものの、2014年時点の名目GDPは世界第9位(発展途上国に有利になる購買力平価では世界第6位)であった。鉱物及びエネルギー資源は世界最大の埋蔵量であり、世界最大の原油生産国(英語版)および世界最大の天然ガス生産国(英語版)の一つである。しかし資源依存の経済体質であるため、原油安の時期は経済が停滞する。加えて2014年にクリミア併合を強行したことにより欧米から経済制裁を受けて更なる打撃を受けている。2022年にはウクライナへ侵攻したことでSWIFTからの排除など更なる経済制裁を受けている。 2023年時点ではロシアは世界第2位の仮想通貨のマイニング大国であり、またブロックチェーン技術を使用した国際決済の推進や新たな機関を設立する計画を進めている。 人口はロシア連邦国家統計庁によれば1億4680万人(2017年時点。ソ連時代の1990年には2億8862万人だった)であり、世界第9位、ヨーロッパで最も多い人口である。最大の民族はロシア人だが、ウクライナ人やベラルーシ人やトルコ系のウズベク人、またシベリアや極東の少数民族なども存在し、合計で100以上の民族がある。公用語はロシア語だが、少数民族の言語も存在する。宗教はキリスト教徒が人口の60%を占め、その大半がロシア正教会の信者である。イスラム教徒も人口の8%ほどおり、仏教徒も存在する。 地理としてはロシアの国境は、北西から南東へ、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、ともにカリーニングラード州と隣接するリトアニアおよびポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、ジョージア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中華人民共和国、モンゴル国、朝鮮民主主義人民共和国と接する。海上境界線としては、日本とはオホーツク海・宗谷海峡・根室海峡・珸瑤瑁水道、アメリカ合衆国アラスカ州とはベーリング海峡を挟んで向かい合う。ロシアの国土面積は17,075,400 kmで世界最大であり、地球上の居住地域の8分の1を占める。国土が北アジア全体および東ヨーロッパの大部分に広がることに伴い、ロシアは11の標準時を有し、広範な環境および地形を包含する(英語版)。 ロシアの歴史は、3世紀から8世紀までの間にヨーロッパで認識され始めた東スラヴ人の歴史に始まる。9世紀、ヴァリャーグの戦士の精鋭およびその子孫により設立・統治され、キエフ大公国の中世国家が誕生した。988年、東ローマ帝国からキリスト教正教会を導入し、次の千年紀のロシア文化(英語版)を特徴づける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった。キエフ大公国は最終的に多くの国に分裂し、13世紀には領土の大部分がモンゴルに侵略され、遊牧国家ジョチ・ウルスの属国になり、ロシアが西洋から隔絶される原因となった(タタールのくびき)。モスクワ大公国は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、キエフ大公国の文化的・政治的な遺産を支配するようになった。クリコヴォの戦いでジョチ・ウルスを破った後、ジョチ・ウルスは衰退し、イヴァン3世(イヴァン大帝)の時代に独立した。東ロシアのほとんどがモスクワ大公国に服した。16世紀中ごろにイヴァン4世(イヴァン雷帝)がモスクワ帝国を建設した。ピョートル大帝は、ロシア人がバルト海に行く道を確保し、1703年にバルト海に面するサンクトペテルブルクを建設した。1712年にサンクトペテルブルクはロシアの首都になり、1721年にロシアは帝国になった。周辺諸国の併合などを繰り返し、史上第3位の領土を持つ帝国となり、版図はポーランドから、北アメリカ大陸北西部(ロシア領アメリカ、後にアメリカ合衆国へ売却)まで広がった。 1917年のロシア革命の後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がソビエト連邦最大かつ指導的な構成国となった。スターリン時代には大粛清で国民を弾圧する一方で、工業化と軍拡、周辺国の侵略(バルト諸国占領やフィンランドに対する冬戦争)を進めた。第二次世界大戦ではナチス・ドイツの先制攻撃を受けた後に反撃に転じ(独ソ戦)、連合国の勝利に決定的な役割を果たした。こうして世界初の憲法上の社会主義共和国および、戦後はアメリカ合衆国と並ぶ超大国となった。アメリカやその同盟国とは冷戦で激しく対立したが、ソビエト連邦の宇宙開発は初期においてアメリカを凌駕し、世界初の人工衛星および世界初の有人宇宙飛行を含む20世紀のもっとも重要な複数の技術的偉業(英語版)を経験した。やがてソ連共産党による一党独裁の弊害が噴出するようになり、1991年にソビエト連邦の崩壊に至った。 新たにロシア連邦を国名とし、ロシアも同等の国名とされた(1992年の憲法改正により)。ロシアの国旗は革命前の白・青・赤の3色旗に戻り、国際連合における地位などは基本的に旧ソ連を引き継いでいる(安全保障理事会常任理事国など)。2022年2月24日にはウクライナに「特別軍事作戦」と言う名の軍事侵攻を始めた。その軍事侵攻で、現在ウクライナのドネツク州、ルハンシク州、ザポリージャ州、ヘルソン州の一部、クリミア半島全域を支配している。この事については「2022年ロシアのウクライナ侵攻」を参照。 ロシア連邦には国家を代表する象徴が多く存在している。これらの象徴の中には、嘗ての帝政時代やソビエト連邦時代などの歴史的背景から残っているものもあれば、更に古い起源を持つものも含まれている。 ロシアはヒマワリとカミツレの2種類を自国の国花に指定している。これはソ連時代から引き継がれているものである。 ロシアの国石はガーネットである。これは帝政時代から由来するもので、当時ウラル山脈から産出されていたロードライト・ガーネットを国の象徴と定めていた点にある。 ロシアの国獣はユーラシアヒグマ(英語版)である。この理由の一つとしては、ユーラシアヒグマの生息数が最も多いのがロシアであり、現在においてウラル山脈東部やシベリア地域の森林地帯でその存在の個体群を確認出来る点にある。 ロシアは自国旗の配色として用いる、白、青、赤の3色をナショナルカラーに定めている。これは汎スラヴ色に基づいており、同国にとってその3色は民族的な観念や概念だけに止まらず、歴史上、切っても切り離せない重要なものとなっている。二次色としては緑を使用しており、緑は国内の各方面で広域に使用される配色となっている。 ロシア連邦(Российская Федерация、ラテン文字転写: Rossíjskaja Federátsija など、発音:ラッスィーイスカヤ・フィディラーツィヤ、IPA: [rɐˈsjijskəjə fjɪdjɪˈratsɨjə] 発音)。ロシア語では略号のРФ(RF)も使われる。英語表記は Russian Federation 。 ロシア連邦憲法第1条第2項でロシア連邦とロシア(Россия、Rossíja、ラッスィーヤ、[rɐˈsjijə] 発音)は同じ意味(同等の扱い)としており、ロシア語においてもロシア連邦の意味でロシアが使われることもある。 ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシャ語名Ῥωςから派生したῬωσσία(現代ギリシャ語ではΡωσία)。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)のころに使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となっている。 ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア(ロシア語版、英語版)」、現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後に別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマ帝国の威信も受け継いだという学説も考案された。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから、公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった。 前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代ごろからギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語のОрос(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜(魯西亞)という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間の最初の条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた明治政府は、ロシア側の希望を受け入れ表記を露西亜(露西亞)とした。 キリスト教化前のロシア 国家や文化、言語の変遷において「ロシア人」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していたとされる。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン人と隣接しており、交易や同化などを通して言語や文化においてお互いに大きな影響を与えたとされる。ロシア人にはフィン・ウゴル系民族に多いとされるるY染色体遺伝子であるハプログループN系統もある程度見られる。 古代ギリシャの作家プロコピオスは、スラブ人(スクラヴ人(英語版)とアント人)は、王を持たない民主的な体制で、彼らが犠牲を捧げる「稲妻の創造主」(ペルーン)という単一の神を信じる野蛮人であるとした。また、非常に背が高く丈夫な体を持ち、髪色は金髪ではないが完全な暗色でもないとした。 スラヴ人には独自の文化と神話があった。世界は、自然の法則を支配する天の神々と、人々の習慣や行動を支配する地下の(クトニオスの)神々という、2つの反対の力によって支配されていると信じられていた。 5世紀の初めに、スラブの部族は極東ロシアの領土に移動し、この地域を支配し始めた。同時に、スラブの部族は地理的に西部(ヨーロッパに残っている)と東部に分かれた。 9世紀の北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている民族集団「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した。後代に書かれた『原初年代記』には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴル人による侵入で2世紀にわたってジョチ・ウルスの支配下に入った。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。 数多くいるルーシ諸公の1人に過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にジョチ・ウルスの支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領した。一方、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。そして1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮の下、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日して撃破、モスクワを解放した。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の勝利は、21世紀現在でも国民の祝日となっている(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。 1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策と、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703年)、大北方戦争(1700年 - 1721年)での勝利などによってロシア帝国の絶対主義体制の基盤を固めた。彼の時代から正式に皇帝(インペラートル)の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。1762年に即位したエカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年 - 1774年と1787年 - 1792年)に勝利するとともに、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナとクリミア・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣(詳細は「北槎聞略」参照)され日露関係が実質的に始まった。彼女の時代に農奴制が固定化されていった。 アレクサンドル1世の治世において1803年に勃発したナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス帝国軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退(1812年ロシア戦役)。戦後はポーランド立憲王国やフィンランド大公国を支配して、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義・分離主義運動は厳しく弾圧された。 1831年に始まるエジプト・トルコ戦争以降は、ロシアの南下政策を阻むイギリスとの対立が激化し、中央アジア、アフガニスタン、ガージャール朝ペルシア(現・イラン)を巡って、露英両国の駆け引きが続いた(グレート・ゲーム)。1853年に勃発したクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、ナロードニキによる農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は過激なアナキズム(無政府主義)やテロリズムを横行させ、無政府主義者による皇帝暗殺にまで発展した。 ロシアのシベリア征服が進み、中国大陸を支配する清や日本との接点が生じた。清とはネルチンスク条約(1689年)おとびキャフタ条約 (1727年)により境界を定めていたが、清の弱体化によりロシアは極東でも南下政策をとった。アイグン条約(1858年)によりアムール川北岸を奪い、さらにアロー戦争の講和(北京条約)を仲介した見返りに日本海に面する沿海州を獲得し、ウラジオストクを建設した。 19世紀末期には、ロシアはそれまでのドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国との三帝同盟からフランス第三共和国との露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加により極東へのシベリア鉄道の建設が行われている。20世紀初頭になると極東への関心を強め、満州や朝鮮に手を伸ばそうとしたが、日本と衝突して1904年の日露戦争となった。1905年に血の日曜日事件など一連の革命騒動が発生し、ポーツマス条約を結んで敗れると、戦後の1907年にロシアはイギリスと英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。 1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子らがセルビア人に暗殺されると(サラエボ事件)、同じスラブ系国家であるセルビアを支援してオーストリア=ハンガリー帝国およびその同盟国であるドイツと対立して互いに軍を動員し、第一次世界大戦が勃発。ロシアは連合国の一員として中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国)と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された(東部戦線 (第一次世界大戦))。第一次世界大戦中の1917年2月に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、シベリア出兵などで諸外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日には十月革命でソビエト政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を結び大戦から離脱した後、赤軍を率いてロシア内戦に勝利し、1922年の年の瀬には共産党による一党独裁国家ソビエト社会主義共和国連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだ構成4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシア共和国)となった。ソビエト連邦とロシア共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。ロシア共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア共和国とは異なる統治体制をとった。 ソビエト体制でのロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは、事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は連邦崩壊直前の1990年まで創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナ共和国や白ロシア共和国(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。 1930年代の世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリンによる独裁的な主導の下で農業集団化と重工業化が断行され、高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的な収奪に基づく閉鎖的な工業化であった。農村からの収奪の結果、ウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。その歪みはやがて政治的な大粛清と強制収容所の拡大など恐怖に基づく支配をもたらす事態へとつながった(第二次世界大戦後に再び飢饉(ソビエト連邦における飢饉 (1946年-1947年)(ロシア語版、英語版))が起こる)。 1939年9月の第二次世界大戦勃発直前に一時ナチス・ドイツとモロトフ・リッベントロップ協定を結んで協調し、ポーランド第二共和国をソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、ポーランドを占領、冬戦争でフィンランドにも圧迫を加え、1939年12月の理事会において国際連盟から除名された。1940年にはバルト諸国占領によりソビエト連邦へ併合し、さらにルーマニアからベッサラビア地方を割譲させた。1941年6月には独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチス・ドイツのヒトラーに突如攻め込まれて西部の広大な地域を占領され(バルバロッサ作戦)、危険な状況に陥った。しかし、1942年初頭に首都モスクワ防衛に成功した後、英米をはじめとする連合国の助力もあってスターリングラード攻防戦およびクルスクの戦いを境に、1943年後半には反攻に転じて独ソ戦の主導権を握り最終的には大戦に勝利した。さらにポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合し、西に大きく領土を広げた。極東方面では、1945年8月、日本に日ソ中立条約の不延長を通告して参戦。満州国やサハリン南部、千島列島、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトビアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに移管され、ロシア共和国の領土は2014年のクリミア半島編入以前のロシア連邦にあたる領域になった。 日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島及び南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地であると主張している。ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。なお、日本はユジノサハリンスクに在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置している。外務省によれば、当総領事館が位置しているユジノサハリンスク市(旧豊原市)をはじめとした南樺太は、サンフランシスコ平和条約によりその全ての権利・権限及び請求権を放棄したため、以降ソビエト連邦及びこれを承継したロシアが継続的に現実の支配を及ぼしており、これに対してロシア以外のいかなる国家の政府も領有権の主張を行っていないことなどを踏まえ、千島列島及び南樺太を含む地域を管轄地域とする在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置したものであるとしている。 戦後、ソ連は強大なソ連軍の軍事力を背景に1949年の北大西洋条約機構(NATO)結成に対抗して1955年にワルシャワ条約機構(WTO)を結成し、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として東側諸国の盟主となり、自国と同様の人民民主主義体制を強要して世界の2大超大国の一つとしてアメリカ合衆国を盟主とする西側諸国と冷戦を繰り広げた。しかし、既に1948年にはバルカン半島にてチトー主義下のユーゴスラビア社会主義連邦共和国がソ連から離反しており、1956年に共産党第一書記ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判が行われた後は自由主義陣営との平和共存路線を進めたが、このスターリン批判により衛星国であったハンガリー人民共和国でハンガリー動乱が発生し、さらに自由主義国との妥協を批判する毛沢東が率いていた中華人民共和国や毛沢東思想に共鳴するアルバニア人民共和国の離反を招くなど、新スターリン主義によるソ連の指導性は揺らいだ(中ソ対立)。1965年に共産党書記長レオニード・ブレジネフが主導権を握ったあと、ベトナム戦争にてアメリカ合衆国と戦うホー・チ・ミン率いる北ベトナムを支援したが、ブレジネフ在任中の1968年には衛星国であったチェコスロバキア社会主義共和国で「プラハの春」が始まり、翌1969年にはかねてから対立していた中華人民共和国と珍宝島・ダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争を戦うなど、共産圏におけるソ連の指導性はさらに揺らぎ、1970年代に入ると計画経済の破綻などから次第にソ連型社会主義の矛盾が露呈していった。1979年から1989年にかけてアフガニスタンを侵略した。この際ソ連軍がアフガニスタンの大統領官邸を急襲し、最高指導者ハフィーズッラー・アミーンと警護隊を殺害するというテロ行為(嵐333号作戦)を行っている。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカとグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、却って各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。 党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議(ロシア語版)議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年8月のクーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国はそろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、翌日12月26日にソビエト連邦は崩壊した。 1991年12月26日のソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱してロシア連邦として成立し、エリツィンが初代ロシア連邦大統領に就任した。また、ソビエト連邦崩壊により世界規模のアメリカの覇権が成立し、当時はこれを「歴史の終わり」と見る向きも現れた。 ロシア連邦は、旧ソ連構成国の連合体である独立国家共同体(CIS/СНГ)加盟国の一つとなった。ロシア連邦は、ソビエト連邦が有していた国際的な権利(安全保障理事会常任理事国など)・国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持した。 国名は1992年5月、ロシア連邦条約によって現在のロシア連邦と最終確定した(ロシア連邦への国名変更は、ソビエト連邦大統領ゴルバチョフ辞任の当日である1991年12月25日、当時のロシア最高会議決議による)。 エリツィン政権下では市場経済の導入が進められたが、急激な移行によってロシア経済は混乱し、長期的な低迷を招いた。その一方で、この時期には「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が台頭し、政治的にも大きな影響力を持つようになった。 ソ連政府は国民にあまねく賃貸住宅を配分していたが、それらを建設するだけで巨額の財政負担となっており、財政再建中のロシア連邦がリフォームすることなどかなわず、無償で住民が物件を取得できるようになり急激な私有化を進めた。私有化されていないものは地方自治体への譲渡が進み、人口減少社会となるなか、若者向けに低家賃で貸し出した。 1993年には新憲法制定をめぐって激しい政治抗争(10月政変)が起こったものの、同年12月12日には国民投票によってロシア連邦憲法が制定された。1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で第一次チェチェン紛争が発生し、一般市民を巻き込んで10万人以上が犠牲になった。1997年5月に和平に向けてハサヴユルト協定が調印され、5年間の停戦が合意された。ところが1999年8月、チェチェン独立派勢力(チェチェン・イチケリア共和国など)と、ロシア人およびロシアへの残留を希望するチェチェン共和国のチェチェン人勢力との間で第二次チェチェン紛争が発生した。1999年夏からイスラム急進派の排除という名目のもとにロシア軍は全面的な攻勢に出ている。同年8月にロシアの首相に就任したウラジーミル・プーチンらがこの強硬策を推進した。 1996年11月、ロシアは第一回だけで10億ドルのユーロ債を起債した。それまでの累積ユーロ債発行額は160億ドルほどに達した。 1999年12月8日、当時の大統領エリツィンとベラルーシの大統領アレクサンドル・ルカシェンコとの間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指すロシア・ベラルーシ連合国家創設条約が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任したウラジーミル・プーチンが、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は停滞した。2022年ロシアのウクライナ侵攻にルカシェンコは協力しているが、ベラルーシ共和国軍の参戦は回避している。 1999年12月31日、当時の大統領エリツィンが任期を半年余り残して突然辞任した。首相のウラジーミル・プーチンが大統領代行に就任し、2000年3月の大統領選挙に圧勝して大統領に就任した。「法の独裁」による統治をめざす強権的体質が内外から批判される一方、安定した経済成長により国民の高い支持率を維持し、2004年にも再選された。 2003年、ミハイル・ホドルコフスキーが脱税などの罪で逮捕・起訴され、ユコスの社長を辞任した。シブネフチとの合併が取り消されるなどして株価が乱高下し、内部者取引が横行した。2005年にロシアの住宅私有化率は63パーセントに達し、国際的な不動産価格の下落へつながっていった。2007年、ホドルコフスキーを除くユコス株主らはロシア政府がユコスを破綻させたとしてハーグの常設仲裁裁判所へ提訴した。2010年6月26日、政府側のロスネフチに賠償命令が出た。7月27日には内部者取引と株価操作を取り締まる法案が可決された。これは翌年から施行された。2014年7月、ユコス破綻事件で政府は19億ユーロの賠償金支払いを命じられていたが、12月に欧州人権裁判所が政府の上訴を棄却した。2016年4月、ハーグ地区裁判所が、ロシア政府に株主らへ500億ドルの賠償金支払いを命じた常設仲裁裁判所の判決を棄却した。 政権初期にチェチェン共和国への軍事作戦を再開するとともに周辺各共和国への締めつけも図った。チェチェン独立派を支持するサウジアラビアなどアメリカに友好的な湾岸のスンニ派諸国との関係悪化を招いた。これらの過程において報道管制を強化し、反政府的な報道機関やジャーナリストは強い圧力をかけられた。対外的には、上海協力機構を通じて中華人民共和国やイランとの関係を強化し、また中央アジア各国とはエネルギー開発の面での協力を強めた。ウクライナで親西側政権ができると、天然ガス供給停止措置をとることで圧力をかけ、間接的にドイツやフランスへの自国の影響力を誇示した。 また、プーチンの大統領就任当初はアメリカ同時多発テロ事件以降の対テロ戦争という目的から蜜月と言われたアメリカとの関係も、イラク戦争やイラン核開発疑惑といった諸問題を扱う中で悪化、また米国が主導する旧ソ連各地のカラー革命などロシアの裏庭地域へのアメリカによる露骨な政治介入、アメリカの反ロシアネオコン勢力が中心となって行った東ヨーロッパのミサイル防衛構想、ソ連崩壊時に北大西洋条約機構(NATO)は東方へ拡大しないとしたゴルバチョフと当時のアメリカ大統領ブッシュの取り決めが破られ、実際にはNATOの東方拡大が進んだなどの理由により、関係は冷却化した。一方で、首脳同士の懇談は頻繁であり、かつての冷戦とは違った様相である。プーチンが行った事業はいずれも西側諸国から強圧的であるとの批判が多いものの、結果的にはロシアの国際的地位を向上させた。これにはプーチン政権発足後から続くエネルギー価格の急騰により、対外債務に苦しんでいたロシアが一転して巨額の外貨準備国となり、世界経済での影響力を急速に回復したことも寄与している。2007年には2014年の冬季オリンピックを南部のソチで開催するソチオリンピックの招致に成功した。 2008年5月、側近のドミートリー・メドヴェージェフが大統領に就任したが、プーチンも首相として引き続き残留した。同年、メドヴェージェフ政権下で南オセチア問題を原因とする南オセチア紛争が発生。これはソ連崩壊後、初めての対外軍事行動となっている。これらの行動から国際政治での多極主義を唱えて、ロシアが新たな一極となろうとしていると思われる。事実、「アメリカの裏庭」であるベネズエラ、エクアドルなどの反米的な中南米諸国との関係を強化している(逆にアメリカは「ロシアの裏庭」であるウクライナ、ジョージア(グルジア)などとの関係を強化している)。このように、冷戦終結後の一極主義の維持を目指すアメリカ側と対立する「新冷戦」の開始をもいとわないとも見られ、緊張状態が続いている。 2014年ウクライナ騒乱により、財政援助を目的にロシアとの関係を強化していた同国の大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが解任されるとロシアのプーチン大統領は反発し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行の暫定政権を承認しなかった。 2月後半から、以前からクリミア半島に駐留していたロシア軍部隊によって、1954年までロシア領で親ロシアの住民が多いクリミア自治共和国・セヴァストポリ特別市を掌握した。 クリミア自治共和国とセヴァストポリは、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票を実施し、その結果を受けて翌3月17日に両者はクリミア共和国として独立し、ロシアへの編入を求める決議を採択した。 翌3月18日、プーチンはクリミア共和国の要請に応じ、編入に関する条約に署名して事実上クリミア半島を併合した。アメリカ合衆国、欧州連合、そして日本などの諸外国政府はクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとし、ロシアとの間で対立が続いている(2014年クリミア危機)。この経緯によってロシアはG8の参加資格を停止され、欧米諸国がロシアに経済制裁を科した。 2011年から始まったシリア内戦では反体制派を支援する欧米に対し、中東での影響力を維持したいロシアがイランと共にバッシャール・アル=アサド政権に対して軍事的・経済的に援助を行っていることで欧米諸国と代理戦争に近い様相となり、対立を深めている。2015年9月30日にはロシア連邦軍がアサド政権を支援する直接的な軍事介入を開始(ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆)。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾いたことに加え、アサド政権とクルド人勢力の双方を支援していることから両者の仲介や、当初はアサド政権打倒を目指し欧米と協調して反体制派を支援していたトルコがクルド人勢力への対応で欧米と対立するに伴いシリア戦後処理へのトルコの引き込み、さらにエジプトやイラク、イスラエルといった親米国家であるもののアサド政権打倒後のシリアの安定に懐疑的な近隣国にも接近しつつあり、シリア内戦の収束に向けて主導的な役割を発揮し、中東での確固たる地位を築いている。 プーチンによる外交は、アメリカの大統領バラク・オバマを差し置いて世界的な影響力を持ち、クリミア半島併合以降はとりわけ国民の支持も手厚くなっている。一方、2013年以降に原油価格の暴落が続いたことで、天然資源に依存した脆弱な経済体制が浮き彫りとなり、深刻な経済的困窮を招いている。 2015年、ロシア空軍はトルコ及びシリア付近を領空侵犯したため、トルコ空軍に撃墜された(ロシア軍爆撃機撃墜事件)。 現在、一部の欧米諸国はロシアへの経済制裁の解除及び緩和をし始めているが、アメリカを中心とする西側の欧米主要国はいまだにそういった様相を見せておらず、原油価格の上昇も当分は見込めないことから、ロシアは経済的に長い停滞期間が続いている。 西側諸国から孤立しつつある一方、上海協力機構を中心に非欧米諸国との結びつきを強めることで国際社会での存在感を見せつけている。 2016年12月、アメリカで親ロシア派と公言していたドナルド・トランプ政権への政権交代があったものの、アメリカ国内でロシアへの敵対感情が高まっているため、弱腰外交と捉えられるような親露外交は回避し、米露間の関係が修復する兆しは一向にない。2016年アメリカ合衆国大統領選挙におけるロシアの干渉や、ウクライナ紛争を巡るミンスク和平合意の不履行による報復措置がとられたり、ロシアが条約に違反したとして中距離核戦力全廃条約から撤退したりするなど、両国間の溝は深まるばかりである。 2021年1月、アメリカで反ロシア派と公言しているジョー・バイデン政権への政権交代があり、今後も米露関係修復の見込みはないと考えられている。 2022年2月、プーチンはウクライナ東部の反政府組織が建国したドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を国家として承認し、ウクライナに宣戦を布告。親ロシア勢力の保護を名目にウクライナ国内に侵攻し、交戦状態に入った(2022年ウクライナ侵攻)ことにより、アメリカを中心とする国際社会から厳しい経済制裁をうけることとなり、西側諸国との対立は深まり、新冷戦と呼べる状況に陥っている。 ウクライナ侵攻以降、ロシア領内が何者かに攻撃される事件が発生。中でもウクライナと隣接するロシアのベルゴロド州はウクライナ軍からと思われる攻撃を受け、民家359軒と一般車両112台が破壊された。また、ウクライナ侵攻後、ロシア国内の軍事施設、ショッピングセンター、工事などが突如爆発する事件が頻発している。 また、ロシアと国境を接するフィンランドと、バルト海対岸のスウェーデンがNATO加盟を申請した。 ウクライナ侵攻中、ロシア国内は度重なるドローン攻撃や謎の火災が続出した。ウクライナ側は否定しているが、ロシアはウクライナと断定している。3月にはトゥーラ州がウクライナ軍によるドローン攻撃を受けたと発表した。 2023年4月にはフィンランドがNATOに加盟したため、31ヶ国体制となった。NATOが東欧だけでなく、北欧まで拡大したこと、NATOとロシアの国境が2600キロ以上に広がったこと、ロシアを軍事的に追い詰めることに対して、ロシア政府はアメリカに対して激しく反発した。 同月には、ウクライナの子供を連れ去った疑いがあるため、 国際裁判所はプーチン大統領の指名手配と逮捕状を出した。 5月3日にはプーチン大統領暗殺を狙った攻撃型のドローンがクレムリンに侵入し、ロシア軍のレーダーで無力化、クレムリンの一部の屋根が炎上した 。ロシア政府はウクライナ軍事による攻撃と見られると発表したものの、ウクライナ側は関与を否定した。 5月23日、ウクライナ領内から自由ロシア軍団(パルチザン)と名乗る組織がロシア領内のベルゴロド州及びクルスク州へ侵攻し、ドローン攻撃や破壊活動が行われ、ロシア軍と大規模な地上戦が繰り広げられた。 また、ロシアはウクライナによる直接的な攻撃と断定したが、ウクライナ側は関与を否定した。攻撃によってベルゴロド州内で民間人の負傷者と死者が発生した。 アメリカ合衆国は「ロシア領内への攻撃及び侵攻は奨励しない。」と発言したものの、ミラー報道官は「戦い方はウクライナ自身が決めるべき」とし、直接的なロシア領内への攻撃の批判や拒否は避けた。 5月30日、首都モスクワは複数のドローン攻撃を受け、住宅などへの被害と民間人の負傷者が発生した。ロシア政府はウクライナ軍によるテロ行為と断定したが、ウクライナ側は完全否定した。 度重なるロシア領内への攻撃に沈黙を続けていたプーチン大統領はモスクワ攻撃を受け、始めて声明を出し、ウクライナ政府に対して強い言葉で不満と批判を繰り返した。 6月2日にはスモレンスク州の燃料施設が、西部クルスク州でも、ビルなどの民間施設が、西部ブリャンスク州内の村がウクライナ軍と思わられる組織に攻撃を受けた。 2022年後半から、ウクライナ侵攻や他の紛争地域でロシア軍などと行動してきたロシアの民間軍事会社ワグネル・グループとロシア国防省(ロシア連邦政府)との関係が急激に悪化した。 ワグネル・グループの創設者であり、ワグネル兵のリーダー格であるエフゲニー・プリゴジンは、ロシア国防省のセルゲイ・ショイグ、ワレリー・ゲラシモフのウクライナ侵攻における無能さを連日批判した。 プリゴジンはプーチン大統領のシェフと言われるほどの友好関係があったものの、ワグネルの拠点をロシア軍が攻撃し、多数の死者が発生したことにより、2023年6月には異例のプーチン批判を行った。 翌日、プリゴジンは攻撃されたことに対して、報復宣言をし、ロシア連邦政府に対して武装蜂起を発表、ロシア軍への攻撃を開始。ヴォロネジ州やロストフ州の各地で銃声や黒煙、ロシアの石油施設の爆破、ロシア国防省の司令部やロシア領内の空港なども戦車や重装備の兵士を使い軍事的に占拠、プリゴジンはモスクワへの進軍を行なった。 プーチン大統領は、ワグネル・グループとプリゴジンを裏切り者と批判した。ワグネルによるモスクワ進軍が、想定以上に早く、ロシア領内の各地でワグネル兵とロシア軍との地上戦も実際に行われたことから、同日にはモスクワ市内は外出禁止令を発令し、モスクワ内でのロシア軍とワグネル兵との戦闘に準備を行った。 国政では連邦制、共和制、半大統領制をとっている。国家元首であるロシア連邦大統領がおり、三権である は分立している。 ロシア連邦大統領は国家元首で、国民の直接選挙で選ばれる。ソ連崩壊に伴う独立・独立国家共同体(CIS)への加盟構成以降、大統領の任期は4年であったが、2008年の憲法改正によって6年となった。 国家元首である大統領は行政には含まれないが、行政に対して強大な指導力を発揮する。大統領は議会(ロシア連邦議会:上院に相当する連邦院および下院に相当する国家院)の信任を要する首相を含むロシア連邦政府の要職の指名権・任命権と、議会の同意なしに政令(大統領令(英語版))を発布する権限を保持し、ロシア連邦軍とロシア連邦安全保障会議の長を兼ねる。 第2次プーチン政権が発足してから「プーチンなきロシア」を叫ぶ市民のデモが開催されるなど反プーチン運動が活発化している。そのためこれらの運動の封じ込めの一環として、「宗教信者の感情を害した者に禁錮刑と罰金を科す法律」「未成年者への同性愛の宣伝行為に罰金を科すことを定めた法律」が2013年に、「好ましからざる外国組織のロシアでの活動を禁じる法律」が2015年にそれぞれ成立し、政府の統制が強化されている。 ロシア連邦議会(Федеральное Собрание Российской Федерации, Federal'noe Sobranie Rossijskoj Federatsii)は二院制で、各連邦構成主体の行政府と立法府の代表1人ずつからなり、上院に相当する連邦院(連邦会議、Совет Федерации, Sovet Federatsii 、定員178名)と、下院に相当する国家院(国家会議、Государственная Дума, Gosudarstvennaja Duma 、定員450名)からなる。下院議員は任期4年で、小選挙区制と比例代表制により半数ずつ選出される仕組みであったが、2005年4月23日完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を獲得するためのハードルが上げられ、ウラジーミル・プーチン政権、シロヴィキに有利な選挙戦が展開された。また、大統領と同様に2008年に任期が5年に延長された。 ロシアの司法には、最高位にロシア憲法裁判所(英語版)、ロシア最高裁判所、ロシア最高仲裁裁判所(英語版)がある。その下にロシア地方裁判所(英語版)、地域裁判所がある。裁判は大陸法型である。行政府からの訴追は司法省が担当する。1996年に陪審制を連邦各地に順次導入することを決定、2010年までにすべての地域で導入された。 以前から死刑の執行を停止していたが、2009年11月19日に、憲法裁判所は死刑の廃止を規定している欧州人権条約を批准するまでは死刑の執行を停止するという命令を出した。この憲法裁判所の命令で、ロシアの死刑制度は事実上廃止された。2010年1月15日、ロシア下院は、欧州人権条約第14追加議定書を賛成多数で批准し、名目上も死刑が廃止された。 複数政党制を採用しており与党統一ロシアが圧倒的多数を占めており、他にも野党として極右のロシア自由民主党や極左のロシア連邦共産党などをはじめ様々なリベラル派や中道派、民族主義・愛国主義、社会主義・共産主義を活動理念に掲げる政党が存在する。しかし、これらの政党はいずれもプーチン政権に従順な「体制内野党」とされており、野党としての機能は喪失しているという指摘がある。 ロシア連邦政府は1990年代まで続いたソビエト連邦の正式な後継政権で、国際連合では安全保障理事会の常任理事国5か国の一つでもあり、その他国際組織でソ連の持ち分を引き継いでいる。国際関係は多面的であり、世界の191か国と関係を持ち、大使館を144か所置いている。国際関係の方針は大統領が決め、具体的には外務省が執行する。 かつての「超大国」を引き継いではいるが、現在の多極体制へ移行した世界の中でその立場は専門家の間で様々に議論されており、列強ではあるが「潜在的な超大国」扱いである。 ロシアは「中東カルテット」のひとつで、北朝鮮問題では「六者会合」に参加している。欧州安全保障協力機構(OSCE)、アジア太平洋経済協力(APEC)の一員である。1997年には「人権と基本的自由の保護のための条約」を批准している。ロシア連邦の発足当初は米国とも北大西洋条約機構(NATO)とも友好的であったが、現在は様々な分野で対立が顕著である。 21世紀になってからは、豊富な原油や天然ガスなどエネルギー資源を梃子に、特に欧州と中央アジアに対し、急速に影響力を拡大している。ソ連崩壊後の弱体性から比較すると相当影響力を取り戻したといえ、豊富な資金力を背景に軍備の更新を進めており、ロシア政府との協議なしに、ソ連の衛星国だった東欧諸国へのミサイル防衛基地の展開を進めている米国やNATOとの緊張状態は高まりつつある(新冷戦)。 前述の通り、2022年2月に始まったウクライナ侵攻が、擁護する一部の国を除き世界各国から強烈な批判を招き、多くの国・組織から経済・金融などの制裁を受けることとなり、国際的に孤立状態となっている。 ロシアが欧米から批判されている問題の一部に、同国における人権問題、自由でないメディア、LGBT禁止問題、ノビチョクなどがある。 2022年にロシアとウクライナとの間で軍事的緊張が高まり、ロシアがウクライナへ侵攻を開始した。これにより外交関係は断絶した。 南アフリカ共和国はソ連と公式の外交関係を結んでいたことから後継国のロシアと深い関係性を持っており、1992年2月28日付で完全な外交関係を樹立している。南アフリカはBRICsの1国として加盟。 キューバとはソ連時代から緊密な協力関係を築いており、ソ連崩壊以降も外交関係を維持している。ロシアが2014年3月にウクライナ領クリミア半島の併合を宣言した際、キューバは同半島をロシアの一部として承認している。 ロシアはブラジルと、宇宙・軍事技術をはじめ、電気通信などの分野でパートナーシップを結んでいる。ブラジルはBRICsのメンバーでもある。 2022年2月に発生したロシア連邦軍によるウクライナ侵攻に伴い、台湾も対ロシア半導体輸出規制を表明、台湾からロシアおよびベラルーシへ輸出できる半導体は性能に制限が設けられ、PS2のCPU『Emotion Engine』(動作周波数150MHz・演算能力6.2GFLOPS)を下回る性能「動作周波数25MHz・演算能力5GFLOPS」低級・低性能の西暦2000年の技術水準の骨董品級CPUしか許可されなくなった(西暦2000年の技術水準の骨董品級CPUしか許可されなくなった理由:ロシア連邦にて2022年前半時点で完全自国内大量生産可能な半導体は『半導体素子製造の材料であるシリコンウェハー製造技術は“300mm(12インチ)”サイズで2011年水準 /半導体微細加工技術は“65nmプロセス・ルール”で2007年水準』、65nmプロセス半導体技術を基盤とした“汎用用途・65nmプロセス半導体・4コアCPU『Elbrus-4S』(総トランジスタ数:9億8600万個 / 動作周波数800MHz×4コア / 総合演算能力25GFLOPS:演算能力6.25GFLOPS×4コア)”完全自国内大量生産可能レベルの半導体製造技術水準で停滞しているため)。 ※台湾の半導体輸出規制案件に関しては中華民国・行政院・経済部 2022年5月6日公式発表『Types of strategic high-tech commodities, specific strategic high-tech commodities and exportation to restricted regions』及び中華民国・行政院・経済部・国際貿易局 2022年4月6日公式発表『MOEA Announces Expansion of Export Controls on Russia』を参照した。 両国の間では経済的な交流がいくつかあるが、過去のシベリア抑留・北方領土問題・それに起因する漁民銃撃と拿捕事件、資源問題(サハリン2)なども生じており、その関係はあまり良くない。その上でロシア人の日本に対する信頼は、アメリカやイギリスに対する信頼よりも高いという調査結果がある。 なおロシア連邦領内では、2021年4月26日“ロシア連邦・北西連邦管区・レニングラード州・州都サンクトペテルブルク・クラスノグヴァルデイスキー地方裁判所”公式見解による“ロシア連邦法第242条『ポルノグラフィーの違法頒布』/ロシア連邦行政違反法典第6.17条『児童の健康および発育に有害な影響を与える情報からの児童の保護に関する連邦法』”の規定を破る行為に抵触する日本の漫画・アニメは『公序良俗に反する』として規制されている。 ※余談であるが、ベルギー王国ブリュッセル市内にて2007年9月28日に(日本の有名漫画作品に影響された)バラバラ殺人事件(通称:『Manga Murder』)が発生、この事件以降は残酷な描写が多い日本の漫画・アニメは(欧米諸国では)『基本的に子供の視聴に適さず大人のみ視聴可』となった。 2017年のイギリスBBCの調査によると、ロシア人は日本に対して好意的な見方をしているが、日本の内閣府の日本国民の対ロシアの世論調査(2022年)によればロシアに「親しみを感じる」とする者の割合は13.1%(「親しみを感じる」1.3%および「どちらかというと親しみを感じる」11.8%)に留まり、「親しみを感じない」とする者の割合は86.4%(「どちらかというと親しみを感じない」48.9%および「親しみを感じない」37.4%)に達している。この数値は中国(「親しみを感じる」20.6%、「親しみを感じない」79.0%)をも下回っている。 ※なお、2023年7月度のロシア連邦領内労働者給与水準における一人当たりの平均月収は789.893ドル(2023年11月13日時点の為替レートで約11万9,882円)であり、2023年9月度の日本国内労働者給与水準における一人当たりの平均月収1889.168ドル(2023年11月13日時点の為替レートで約28万6,753円)の約42%の収入であり、生活費などを考慮すると、ロシア人が稼ぐために日本に来る理由はない(注記:ロシア及び日本の労働者給与水準における一人当たりの平均月収に関しては“CEIC Global Database”調べを参照した)。 中華人民共和国とは2001年に中露善隣友好協力条約を結び、東シベリア・太平洋石油パイプラインの支線も大慶油田へ引いている。傍らで上海協力機構やBRICsでの関係も深めており、良好な間柄となっている。 インドとは大幅な防衛・戦略上の関係(India–Russia military relations)を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客である。 ロシアとサウジアラビアの両国は「石油超大国」と呼ばれており、世界の原油生産の約4分の1を占めている。 ロシア連邦軍にはロシア陸軍、海軍、航空宇宙軍の3軍種があり、これとは別に独立兵科として、戦略核兵器を運用する戦略ロケット軍と、空挺軍がある。 2017年には約100万人が軍に属しており、これは世界で第5位である。これに加えて約250万人の予備役(在郷軍人)がおり、動員可能総数は約2,500万人に上るともいわれている。18才から27才の国民男子は全て1年間の兵役義務がある。 ロシアは世界で最大の核兵器(Russia and weapons of mass destruction)を所有し、世界2位の規模の弾道ミサイル潜水艦(Ballistic missile submarine)部隊や戦略爆撃機部隊がある。 2018年にウラジーミル・プーチンが年次教書演説で紹介し、2021年ごろから配備を開始した大陸間弾道ミサイル(ICBM)「サルマト」は、10発でアメリカの全国民を殺害する威力があるといわれる。射程距離は1万1000km超、最大16個の核弾頭が搭載可能なMIRV式で、最大速度はマッハ20の極超音速であるため、アメリカや日本のミサイル防衛網は無力化される。このサルマトには、極超音速滑空体「アバンガルド」が搭載され、高度100kmほどの高度を、探知しにくい軌道をマッハ20で飛行する。ロシアには1985年に、敵国からの核攻撃を想定し、確実に報復攻撃を行えるようにするための「死の手」と呼ばれる核報復システムが稼働しており、幾度も改良を重ね、運用開始当初は人間が発射ボタンを押す必要があったが、現在はAIが司令部の非常事態を認識し、核使用の判断を下すシステムとなっている。 2023年12月現在、『クズネツォフ・NK-36ST:モジュラー設計式ガスタービン型発動機』(定格最大出力25メガワット/エンジン寿命10万時間)を搭載した(高度1500キロメートルの衛星軌道上の軍事衛星を無効化できる)移動車両型5メガワット級高出力レーザー兵器システム『ペレスヴェート』を6基保有している。なお、レーザー発振方式には“ロシア科学アカデミー分光研究所開発・ロシア連邦Avesta Project社製造”の“Ybファイバーレーザー(電気⇒光変換効率:30パーセント)”を採用している ロシアでは軍需産業が盛んである。軍事関係の世界的な供給者としては、2001年には世界の30パーセントを占め、80か国へ輸出しており、世界でも上位にあった。ストックホルム国際平和研究所の調査では、2010 - 2014年には世界第2位の輸出国で、2005 - 2009年に比して37パーセントの増加を示した。ロシアは56か国および東部ウクライナの反乱部隊へ武器を供給した。 ロシアには正規軍以外で、以下の準軍事組織が存在する。 ロシアはソ連時代からの伝統として特殊部隊(スペツナズ)を重視しており、軍所属以外に後述する情報機関も以下の実戦部隊を擁している。 民間軍事会社(PMC)が複数設立され、ロシアのその周辺のほか中東、アフリカに傭兵として派遣されている。ワグネル・グループが最も有名であり、オープン・ソース・インテリジェンス(OSINT)企業「モルファー」が把握したPMCは、ロシア国防省系や連邦保安庁系、国有企業・富豪が設立した会社を含め37あり、ウクライナの英字新聞『キーウ・ポスト』によると、そのうち25社がウクライナ侵攻に参加している。PMCはロシアの法律には本来反するが、戦死者に対してロシア政府が責任を負う必要がないといった利点から、全社が政府と関係を保って活動しているとみられる。 現在、連邦保安庁(FSB)と対外情報庁(SVR)がサイバー攻撃への防衛などを始めとして、国内の防諜・情報機関や治安組織としての役割を担っている。 他には連邦警護庁、参謀本部情報総局(GRU)、参謀本部軍事測量局が存在しており、連邦の安全保障になくてはならない重要部署として機能している。 世界最大の面積を持つロシアは、ユーラシア大陸の北部にバルト海沿岸から太平洋まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は日本の約45倍、アメリカの約1.7倍にも達し、南米大陸全体の大きさに匹敵する(正確には南米大陸の方が約76万km2(日本の本州の約3倍程度)大きい)。 国土の北辺は北極圏に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。ヨーロッパ部(ヨーロッパロシア)とアジア部(シベリア)の大部分は広大な平原で、南部のステップから北は広大な針葉林の森であるタイガがその大部分を占めている。さらに高緯度になると、樹木が生育しないツンドラ地帯となる。黒海とカスピ海の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰(カフカス地方をヨーロッパに含めた場合)のエリブルース山を含むカフカース山脈があり、ヨーロッパとアジアの境界にはウラル山脈がある。 面積を見るとヨーロッパ部よりアジア部の方が広大であるが、国土の西端に当たるヨーロッパ部に人口や大都市、工業地帯、農業地帯が集中していること、さらにスラブ文化のつながりから、ロシアをヨーロッパに帰属させる分類が一般的である。 国土を囲む海域には北極海の一部であるバレンツ海、白海、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海と、太平洋の一部であるベーリング海、オホーツク海、日本海、そして西のバルト海と西南の黒海があり、海岸線は3万7,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、ゼムリャフランツァヨシファ、ノヴァヤゼムリャ(米国を越える史上最大規模の核実験が行われた)、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島、ノヴォシビルスク諸島、ウランゲル島、サハリン(樺太)、そして日本との領土問題を抱えるクリル諸島(千島列島)がある。特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は北極寒波の影響が強いため厳寒であり、氷点下を下回る日が長く続く。 ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部のドン川、大型で良質のチョウザメが多数生息するヴォルガ川、カマ川、オカ川、アジア部のオビ川、エニセイ川、レナ川、サケ類の漁獲で有名なアムール川などの大河が挙げられる。これらの下流域は日本で大河とされる最上川、北上川や四万十川よりも川幅が広く、いずれもセントローレンス川下流域に近い川幅がある。また、アジア部の大河はアムール川を除いて南から北へ流れ、北極海へ注ぐ。ブリヤート共和国のバイカル湖は世界一古く水深の深い湖として有名な構造湖である。このほか、ソ連時代の水力ダム建設によって生まれた大規模な人造湖が存在する。 ロシアには基本的に大陸性気候が卓越する。すなわち気温の年較差が大きい。ケッペンの気候区分に従うと、亜寒帯(冷帯)(D) に分類される地域が大半を占める。西部は大西洋の影響を受けるものの、東に進むにしたがって大陸性気候の特徴がはっきりしてくる。冬はシベリア付近で放射冷却のために気温が著しく下がり、優勢なシベリア高気圧が形成される。北半球で最も寒い地域で、寒極と呼ばれる(たとえば−71.2 °C〔オイミャコン〕、−66.7 °C〔ベルホヤンスク〕)。しかしながら夏季には最高気温が30 °Cを超える。 典型的な植生は北極海沿岸がツンドラ、南に下るにしたがって針葉樹林のタイガ、混交林、プレーリー、ステップに移行していく。 右図はロシアを中心とした地域にケッペンの気候区分を適用したものである。以下、気候区分にしたがって特徴と地域区分を示す。 ロシア連邦は、89の連邦構成主体と呼ばれる地方行政体からなる連邦国家である。連邦構成主体としては、48の「州」(область oblast')、9の「地方」(край kraj)、3の「市」(連邦市、город федерального значения gorod federal'nogo znacheniya)、24の「共和国」(республика respublika)、1の「自治州」(автономная область avtonomnaja oblast')、4の「自治管区」(автономный округ avtonomnyj okrug)がある。ただし、このうち6つの連邦構成主体(ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国、ザポロージェ州、ヘルソン州、クリミア共和国、セヴァストポリ連邦市)はウクライナと帰属係争中である。 プーチン政権は、連邦政府の地方への影響力拡大を図り、連邦構成主体とは別に、2000年5月13日に全土を7つに分けた連邦管区を設置した。2010年に北カフカース連邦管区が新設され、現在は8つの連邦管区が存在する。なお、このほか2014年から2016年にかけてはクリミア連邦管区が存在した。連邦管区には連邦大統領の代理人としての大統領全権代表が派遣され、連邦構成主体を監督している。 さらに、2004年12月に地方自治体の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名して地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。 地方自治体の首長(共和国首長・州知事など)や地方議会の選挙は毎年9月第2日曜日に行われており、直近では2023年9月10日に執行された(ロシア語版)。 ロシアには人口100万人を超える都市が15(2021年時点)ある。最大の都市は首都モスクワ(1,260万人〔2021年〕)である。続くサンクトペテルブルク(545万人〔2021年〕)との2都市が規模としては飛び抜けて大きく、独立したロシア連邦の構成主体(連邦市)としてほかの州や連邦内の共和国と同格となる。ウラル山脈東山麓のエカテリンブルク、チェリャビンスク、シベリアのオムスク、ノヴォシビルスクを除く都市はすべてウラル山脈よりも西側、すなわちヨーロッパロシアに位置する。一方、厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道・港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進み、ハバロフスクやウラジオストクは50万人を超える人口を持つ。 ロシアは、ブラジル・中国・インド・南アフリカとともに「BRICS」と呼ばれる新興経済国群の一つに挙げられている。 IMFによると、2021年のロシアのGDPは1兆5800億ドルであり、世界第11位である。一方、1人あたりのGDPは1万1,163ドルで首都モスクワと地方の格差もあり、ロシア全体では先進国より低い水準である。中村逸郎は、GDPの約70パーセントを国民の1パーセントである富裕層が持っているとしている。 ソ連解体後、ボリス・エリツィン大統領の主導のもと市場経済化が進められたが、このために却って急速なインフレーションを招き、1990年代半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが1997年のアジア通貨危機の影響を受けて1998年に財政危機を招き、再び落ち込んだ。2014年のクリミア併合による欧米からの経済制裁と石油価格の下落により、経済は低迷している。 2019年現在、ロシアはアメリカとサウジアラビアに次ぐ世界第3位の原油生産国であり、同時にサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油輸出国である。2003年以来の原油価格上昇によって貿易収支が改善し、市場経済転換後の長い経済停滞を脱し、急速な景気回復が見られた。豊富な地下資源を武器に石油の価格が高いときに成長が続く。その石油産業への依存の重さや自由化の恩恵に与った者(オリガルヒ、新富裕層、体制転換の混乱で成り上がった新ロシア人(ロシア語版)に代表される)とそうでない者の貧富の格差の拡大、チェチェン独立派武装勢力によるテロのリスクなど、不安定要因もいくつかは見られる。石油価格が高かった2000年にはGDP成長率が10パーセントを越える一方、インフレーションも抑制され、好調が続いた。一人当たり名目GDPも、1999年には1,334ドルに過ぎなかったのが、2006年には6,879ドルと5倍強の増加を見せた。しかし、輸出の6割以上を原油や天然ガスなどの鉱物資源に頼る経済構造となっている、いわゆるモノカルチャー経済である。モーリー・ロバートソンは「石油の値段が世界的に右肩上がりのときはお金がどんどん入ってくるが、原油が安くなるとあっという間に貧乏に転落するという図式」と説明している。 農産物の自給自足にも力を入れており、ロシアは世界における「最大の小麦輸出国」ならびに「米の栽培の北限地」として知られている。米国農務省は、2016年度・2017年度(2016年7月 - 2017年6月)のロシアによる小麦輸出量の推定量を50万トン引き上げ、記録的な2,500万トンとしている。なお、2015年度・2016年度に米国(2,120万トン)とカナダ(2,250万トン)を抜いて世界の主要輸出国となっている。2014年、同国での米生産量は113万8,000トン(うち90パーセントがクラスノダール地方での栽培)で生産量は記録的に高いものとなっている。加えて、米の栽培効率は1ヘクタールあたり7,100キロで、ヨーロッパにおいて米を生産する国で知られるスペイン、イタリアに比較しても多いものとなっているうえ、アジア諸国より多い。同国の米はウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコにも輸出されている。 米国農務省による2021-22年度推計では、ロシアの小麦は生産量が過去最多の8600万トン、輸出量は4000万トンで世界一を維持する見通しである。ソ連時代は大量の穀物を輸入していたが、平坦な国土に農地が広がっており、ロシア経済の安定化に伴い農機や肥料の投入増、畜産の効率向上による飼料に使う小麦の節約で、生産性や輸出余力が高まった。欧米の経済生産による通貨ルーブルの下落も輸出競争力を高めているが、パン価格の上昇に国民が不満を抱くと輸出関税などで国外への出荷を抑えようとする政策も採られている。 ウクライナ侵攻に伴う経済制裁発動中のロシアでは、「外国製品⇒国産製品」への代替があらゆる分野で実施されており、レモネードも例外ではない。 2022年6月12日営業開始のロシアのハンバーガー・ショップ『フクースナ・イ・トーチカ』においては『前身である旧マクドナルド店舗時代から地元食材率85パーセント』であり、同店舗内の『インタラクティブ・デジタルサイネージ端末』を利用して商品注文・テイクアウトした後、旧マクドナルド店舗時代と同じ味に調整された(一般労働者の昼飯代と同価格帯の)ハンバーガー類の飲食が可能である。なお『従業員の雇用契約書成立時点から原則2年間は不当な理由での従業員の解雇は労働法違反』となっているl。 ロシア連邦の海岸線は、カナダ、グリーンランド、インドネシアの海岸線に次いで世界4位の長さとなっている。ロシアの漁業の排他的経済水域(EEZ)は760万平方キロメートルで、内陸のカスピ海と200万本以上の河川を加え、3つの海洋と12ヶ所の海への航路が含まれている。 ロシア連邦極東連邦管区沿海地方ナジェジジンスコエ地区に所属する『ナジェジジンスコエ地区・先進経済特区“Nadezhdinskaya Advanced Special Economic Zone (ASEZ)”』はロシア連邦領内最大規模の“スケソウダラ水産加工工場”の拠点である 。 ※2019年10月1日に『欧州委員会』(EC:European Commission) が『家電製品部品在庫保証期間:最低10年』保証明示義務化を採択 、同条約を批准した(欧州最貧国家群でも完全自国生産可能な)“東欧製格安二級品家電製品群”も「低価格と高品質の両立」を既に達成できている事が明らかとなった。 2022年5月12日にロシア連邦領内に公布された政令第855号にて、『Euro(European emission standards)-0』なる独自のEU圏内統一排出ガス規制を制定した。『ヨーロッパ各国で製造された電子工学部品を多数使用するABS(アンチロック・ブレーキ・システム)及びESP(Electronic Stability Program)・エアバッグなどの安全システムを不要とし、標準搭載の安全システムは2点式シートベルト(Two point seat belt)及び3点式シートベルト(Three point seat belt)に限る』とし、完全に国内で生産可能な1988年レベルの技術のみで構築された新車生産・販売が許可されるようになった。 航空機製造はロシアの重要な産業部門であり、約355,300人が雇用されている。航空機産業はロシアにおいて最も科学集約的なハイテク分野の1つであり、数多くのプロフェッショナルたる人材を雇用している。ロシアの航空機産業は、MiG-29やSu-30などの国際競争力のある軍用機のポートフォリオを提供している一方、スホーイ・スーパージェット100などの新しい開発計画が民間航空機部門の運命を復活させることが期待されている。2009年、ユナイテッド・エアクラフトに属する企業は、15機の民間モデルを含む95機の新しい固定翼機を顧客に納入した。さらに、業界は141機以上のヘリコプターを生産している。軍用機部門の生産と金額は他の防衛産業部門をはるかに上回り、航空機製品は国の武器輸出の半分以上を占めている。 2023年8月12日、『統一航空機製造会社』(United Aircraft Corporation)所属の技術主任の説明によると「外国の潜在的な顧客の要望に応じて、ロシア連邦国内でモスボール保管している300機以上のロシア連邦国内規格型『MiG-29 ファルクラム』をマルチロール戦闘機『MiG-35 スーパー・ファルクラム』に大幅近代化改修して、1機当たり10億ルーブル(2023年12月12日時点の為替レートで“アメリカドルで1094万ドル/日本円で15億9820万円”)の低価格で輸出可能である」との事。また、AESAレーダーへの更新を行った海外向け輸出型『MiG-35 スーパー・ファルクラム』に搭載される“デジタル電子制御式『Klimov RD-33MKM』アフターバーナー付ターボファンエンジン”の双発推力は、アフターバーナー使用時には9.5トン(93kN)×2基(合計推力19トンで機体最大荷重は10Gに達する)。『ファゾトロン(NIIR)』開発の“輸出型Zhuk-AE(FGA-35)・AESAレーダー(Xバンド周波数/シリコン製パワー半導体素子×1016個)”標準装備となっている。なお、オプション装備として“ロシア連邦国内規格型Zhuk-AME(FGA-50)・AESAレーダー(Xバンド周波数/ガリウム砒素製パワー半導体素子×1148個)換装”及び“推力偏向ノズル(TVC)装備”も可能。将来的には(既に開発完了で後は量産するだけの状態まで移行している)アフターバーナー使用時には単発推力11.5トン(112.78kN)を誇る“デジタル電子制御式『Klimov VK-10M』アフターバーナー付ターボファンエンジン換装”も可能。さらに技術主任の説明によれば、「『MiG-35』の『IMA(Integrated Modular Avionics:統合モジュラーアビオニクス)』は機体に搭載された複数のセンサーの情報を統合、機体からおよそ130km離れた遠距離に位置するステルス戦闘機『F-22 ラプター』を捕捉可能であり、更にパイロットに音声会話型エキスパートシステム『Rita』が最適化された情報を音声にて説明する」とのこと。 ロシアの宇宙産業は100社以上の企業で構成され、25万人が雇用されている。 2008年頃に台湾・TSMC社と共同で22nmプロセス以降の微細加工技術の実用量産化を研究していたモスクワの半導体露光装置(ステッパー)メーカー『Mapper LLC』にて、2023年現時点では一品一様・試験的少量生産状態である“汎用用途・16nmプロセス半導体・16コアCPU『Elbrus-16S』(総トランジスタ数:120億個 / 動作周波数2GHz×16コア / 総合演算能力750GFLOPS:演算能力46.875GFLOPS×16コア)” / “汎用用途・16nmプロセス半導体・24コアCPU『ROBODEUS processor』(CPUコア×8+DSPコア×16)” / “汎用用途・16nmプロセス半導体・48コアCPU『Baikal-S Processor』(BE-S1000)”の完全国内製量産技術確立に尽力している。 ※ロシア連邦共和国内の半導体技術は(十年)一昔前の『枯れたプロセス・ルール』である『90nm/65nmプロセス・ルール』レガシー半導体(『legacy』とは『過去に築かれた技術的遺産・遺物』の意味)の完全自国生産レベルには到達しており、外国からのCPU供給が全面停止してもロシア連邦共和国内の(自社で設計と製造の両方を手がける製造拠点を構える)半導体製造会社『Mikron』社等の半導体製造施設において(スマート家電等の『IoT:Internet of Things』端末に搭載可能な)実用アプリケーション・ソフトウェア稼働及び産業機械用途組み込み型制御コンピューターなどには十分な性能の『半導体:産業界のライ麦粉』の完成品たるCPUが代替生産にて維持可能である。2023年10月時点でロシア連邦共和国の半導体チップの量産製造技術はリバースエンジニアリング技術の積極的活用により“汎用用途・40nmプロセス半導体・2コアCPU『ELIOT low-power microcontroller』” / “汎用用途・40nmプロセス半導体・6コアCPU『Microprocessor 1892VM14Ya』』(CPUコア×2+DSPコア×2+GPUコア×1+VPUコア×1)”完全国内製量産化に到達、2030年度までに14nmプロセスルールの半導体チップの完全国内製量産化を目指している。 ロシアの軍産複合体は、基本として十月革命後の国家近代化を確実にしたソ連時代のものから引き継がれている。ロシアの国営企業であるロソボロネクスポルト(ロシア語版、英語版、フランス語版)の代行企業によって販売されているSu-27などの製造兵器は、輸出で大きな成功を収めている。 ロシアにとって軍需(防衛)産業はソ連時代から重要な地位を占めており、今後も積極的に輸出拡大を続けるとしている。輸出額は2011年は100億ドルを超え、2012年には150億ドルを超えるとされ順調に推移している。民間転用も積極的に行っており、宇宙・航空・情報通信産業など多岐にわたる。しかし、政治的な理由で輸出ができなくなるなど不安定な要素も含んでいる。しかし、ロシアを含め世界の軍事費は今後も増え続けるとされ、軍需産業は今後も拡大を続けるとされている。 IT市場は、ロシア経済における最も動的な分野の1つとなっている。ロシアのソフトウェア輸出は、2000年のわずか1億 2,000万ドルから2010 年の33億ドルまで増加している。 フィンランドのJolla Mobile社とライセンス契約を締結、同社の『Sailfish OS』をベースに開発された派生型OS『Aurora(Sailfish Mobile OS RUS)』をロシア国産の携帯端末向けOSの標準規格とする方針を実施している。 ロシアはもっとも鉱物資源が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は経済産業調査会『鉱業便覧 平成14年版』による2002年時点のもの)。 有機鉱物資源では、天然ガス(2,1807千兆ジュール、21.9パーセント、2位)、原油(3.5億トン、10.3パーセント、2位)、燃料に用いられる亜炭(8,668万トン、9.5パーセント、4位)、石炭(1.6億トン、4.4パーセント、6位)の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国(サウジアラビアと米国)との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。 これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と亜炭(88パーセント)と天然ガス(69パーセント)である。一方、原油の国内消費比率は29パーセントと低く、主に輸出されている。ロシアの原油輸出量は世界第2位(1億6,211万トン、2001年)である。 ロシアはエネルギー資源ならびに天然資源が豊富な国家である。天然ガス埋蔵量は世界最大(確認埋蔵量の18%)で、石炭埋蔵量は世界第2位となっている。天然ガス生産国では世界第2位、石油生産国では第3位、石炭生産国では第6位、そして原子力発電生産国としては第4位である。 石油とガスは2017年に連邦予算の36%を占めた。2016年にはヨーロッパの天然ガス輸入の70%以上がロシアから輸入され、原油輸入の3分の1以上もロシアから輸入された。逆に、ロシアの原油輸出のほぼ60%、天然ガス輸出の75%以上はヨーロッパ向けであった。 ロシアのエネルギー部門は自国経済において支配的な位置を占めており、同時に世界最大規模の部門の1つとして認知されている。 ロシアは世界有数の観光地として知られている。観光スポットが各地にあり、海外から多くの観光客が訪れている。その中で最も代表的なものとして知られているのは、世界遺産に登録されているサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群や赤の広場である。 ロシア経済に占める貿易の割合は急拡大している。1992年時点では、国民総生産3,978億ドルに対し、輸出が381億ドル、輸入が350億ドルであった。2003年には、国民総生産4,885億ドルに対し輸出は1,260億ドル、輸入524億ドルに増加しており、輸出の伸びが著しい。これは原油および、石油関連の生産・輸出拡大によるものである。ロシアの貿易構造は1992年から2003年までの約10年間で大きく変化してきた。1992年時点ではソ連を構成していた諸国に対する貿易が、輸出で7割、輸入で5割を占め経済ブロックを形成していた。品目では機械と原油、化学工業製品を輸出し、建設機械と軽工業品、食料を輸入していた。ところが、2003年時点では輸出入とも相手国が分散する。原油,石油製品を輸出し、機械、自動車を輸入している。つまり、機械工業の落ち込みと原油輸出の大幅な伸びが特徴と言える。 1992年時点の輸出品の品目別の比率は、United Nations Statistical Yearbook 2003などによると建築機械(35.0%)、天然ガスを含む原油(14.7%)、化学品(10.6%)、軽工業品(8.1%)、鉄鋼(6.9%)。同輸入品は、建築機械(36.2%)、軽工業品(20.4%)、食料(16.7%)、化学品(7.5%)、鉄鋼(5.0%)。2003年時点の輸出品の品目別の比率は、原油 (27.6%)、石油ガス (13.0%)、石油製品 (10.4%)、鉄鋼 (6.1%)、アルミニウム(2.6%)である。2003年時点の貿易相手国は輸出相手国が順に、オランダ(6.2%)、中国、ベラルーシ、ドイツ、ウクライナ、輸入相手国が順にドイツ(14.1%)、ベラルーシ、ウクライナ、中国、アメリカとなっている。 日本との貿易は順調に拡大している。日本からの輸入額は15億ドルから45億ドルへ、輸出額は28億ドルから62億ドルに伸びている。品目は輸入を中心に変化した。日本への輸出の変化を見ると、1992年時点は魚介類、木材の2品目で5割弱を占め、アルミニウム(アルミニウム合金を含む)、石炭、白金が続いた。これが2003年になるとアルミニウム(アルミニウム合金を含む、22.4%)、魚介類、石炭、木材、原油となった。輸入は、機械類(26.7%)、鉄鋼、電気機械、自動車、プラスチックであったものが、乗用車(62.1%)、建設機械(6.4%)、映像機器、通信機器、バスに変わった。品目が自動車に集中したことになる。 ロシア鉄道のシベリア鉄道などをはじめとする客車での運転スタイルが基本。 エレクトリーチカーなど例外もある。 ロシア鉄道の運行するシベリア鉄道を7日間かけて全線走破する特急ロシア号(ウエラジオストク駅→ヤロフラススキー駅) 同じくロシア鉄道の運行する特急オケアン(太洋) 号(ウエラジオストク駅→ハバロフスク駅) などが有名である。 2023年11月1日、高バイパス比ターボファンジェット『PS-90A3M』(単発推力:17500kgf)を4発搭載した大型ワイドボディ旅客機『Il-96-400M』の初飛行に成功、2030年度までに高バイパス比ギヤードターボファンジェット『PD-35』(単発推力:35000kgf)を2発搭載した双発機に改修予定。 ロシアの科学技術は、ピョートル大帝がロシア科学アカデミーとサンクトペテルブルク大学を設立し、博学者ミハイル・ロモノーソフがモスクワ大学を設立した啓蒙時代から急速に発展した。 19世紀から20世紀にかけて、ロシアは多くの著名な科学者を輩出しており、物理学、天文学、数学、コンピューティング、化学、生物学、地質学、地理学などの学系分野に重要な貢献を果たしている。 元素周期表のドミトリ・メンデレーエフ、近年ではポアンカレ予想のグリゴリー・ペレルマンなどが著名である。 なお、ロシアにおいて発明家や技術者の存在は、電気工学、造船、航空宇宙、兵器、通信、IT、核技術、宇宙技術などに幅広く影響を及ぼしている。 20世紀のロシアの人口動態は、第一次大戦・干渉戦争期そして第二次世界大戦期と2度にわたって激減したが、その後は回復傾向にあった。しかし、1992年以降再び人口減少が続き、1992年で最大1億4,800万人いた人口が、2050年には1億1,000万人程度まで減少すると見られている。原因には、出生率の低下や男性の平均寿命がきわめて短くなっていることがある。ロシアの男性の平均寿命は1987年以降短くなる傾向にあり、世界銀行の統計によると1994年には57.6歳まで低下した。その後回復し、2017年時点では67.5歳である。女性は、1993年に71.2歳まで低下したが、2017年には77.6歳と上昇、男女差は10歳ときわめて大きいままである。ちなみに2008年、OECD諸国の平均は男性77.2歳、女性82.8歳と男女差は6歳程度である。続いていた人口減少は2012年に止まり、2014年のクリミア併合で人口増加に転じたが2016年の減少に戻り2020年は約51万人の減少となった。また、出生率も2015年には1.78をピークに上昇したが、2018年時点では1.5人程である。 ロシアには182の民族が住み、移民は約700万人とされる多民族国家である。2010年の統計によると約80パーセントは東スラブ系民族となっており、ロシア人(民族)が全人口の77.71パーセントを占める。同じ東スラブ人のウクライナ人の割合も1.35パーセントと全体の3位となっており、ベラルーシ人やポーランド人を含めたスラブ系全体では82.7パーセントを占める。 テュルク系のタタール人はロシア人に次いで多い民族集団となっており全体の3.72パーセントを占め、バシキール人やチュヴァシ人、トゥヴァ人、アルタイ人、カザフ人、ウズベク人、アゼルバイジャン人、サハ人などのテュルク系民族はロシア全体の8.7パーセントを占める。 コーカサス系で最も多いのがチェチェン人で全体では6位の1パーセントを占め、イングーシ人、オセット人、アヴァール人、アルメニア人、グルジア人などを合わせるとコーカサス系民族はテュルク系に次いで多い3.7パーセントを占めている。 ウラル系はマリ人、モルドヴィン人、カレリア人、ウドムルト人、ネネツ人などで構成され、全体の1.6パーセントを占めている。 そのほか、モンゴル系民族のカルムィク人、ブリヤート人、ツングース系民族のエヴェンキ人、エスキモー系のユピク人、さらに、ユダヤ人やゲルマン系のドイツ人など多くの非スラヴ系民族がいるが、公用語であるロシア語が民族共和国を含め全域でほぼ完全に通用する。 ロシア語が公用語である。ロシアの各共和国の公用語として以下の29言語がある: アバザ語、アディゲ語、アルタイ語、アヴァル語、アゼルバイジャン語、バシキール語、ブリヤート語、チェチェン語、チュヴァシ語、エルジャ語、イングーシ語、カザフ語、カバルド語、カルムイク語(Kalmyk Oirat)、カラチャイ・バルカル語、ハカス語、コミ・ジリエーン語(コミ語)、レズギ語、マンシ語、マリ語、モクシャ語、ノガイ語、オセット語、タタール語、トゥバ語、ウドムルト語、サハ語、ウクライナ語、クリミア・タタール語。 法律上結婚可能な年齢は成人となる年齢と同じ18歳である。ただし尊重すべき理由があるときはそれ以下の年齢でも認められる場合がある(ロシア連邦家族法典 13条。2017年12月29日改定を閲覧)。 結婚後の姓は夫婦どちらかの姓に合わせる(同姓)、結婚前のまま(別姓)、姓を結合する(二重姓)の3通りあり(家族法典32条)、同姓の場合は妻が夫の姓に合わせることが多い。なおロシア連邦民法典19条により個人の姓・名前・父称の変更は一定の手続きにより可能である。 婚姻登録の申請は特別な事情がある場合を除き、結婚する1か月前までに行う(家族法典(ロシア語版、英語版)11条)。宗教やほかの形式での結婚式が行われることもあるが、家族関係や出生・死亡を扱う市民登記機関であるザックス(ロシア語: ЗАГС、ザークスなどとも表記)にある結婚式場で婚姻の署名などを式典形式で行う結婚式がよく行われる。これはソビエト連邦時代からのものである。 ロシアでは同性結婚は違法となっており、2020年以降、同国憲法においても同性結婚を明示的に禁止している。 ロシア人を含めた多くの民族がキリスト教正教会の信徒であるが、カトリック、プロテスタントやイスラム教、ユダヤ教、仏教などの信徒も少なくない。 2023年8月、9月の新学期から16~18歳の学生向けに使用される初めての全国統一歴史教科書が導入された。内容は、ソ連崩壊からプーチン統治時代、ウクライナ侵攻の原因に至るまで、ほぼ完璧にプーチンの歴史観と政権が用いている解釈が映し出されており、プーチン政権によるプロパガンダが強調される形となっている。 ロシア憲法においては、全市民へ無料のユニバーサルヘルスケアが保障されている。しかし無料で医療が受けられる範囲は、法定の範囲に限定されている。ロシアの人口1人あたりの医師数・病院数・医療従事者数は世界の中で最も多く、一時はソ連崩壊によって社会・経済・生活様式の変化を受けて悪化したが、しかし2000年代半ばからは回復しており、平均余命は2006年と比べて男性で2.4年、女性で1.4年ほど長くなった。 2009年には、ロシアの平均余命は男性で62.77歳、女性で74.67歳であった。平均余命の男女差が大きい理由は、主に労働年齢層での死亡率の高さに起因し、それは予防可能な死(アルコール依存、喫煙、交通事故、暴力犯罪)であった。このような男女の余命差と第二次世界大戦の戦死者によって人口男女差(英語版)は大きく、女性1人あたり男性0.859人となっている。ロシア政府は2006年から本格的に少子化対策や医療対策に取り組んでおり、その後の出生率や死亡率は徐々に改善されている。 年金の支給は男性が60歳から、女性が55歳となっているが2018年に引き上げが決定し、2030年までに引き上げが行われる。 世界動物保護協会の、動物保護指数によると、A-Gの7段階評価で、ロシアはDである。そのうち畜産動物保護の指数は、日本と同じく最低ランクのGとなっている。 2022年9月に、家畜の屠殺を規制する新しい規則が施行され、屠殺は「人道的な方法」で行うべきなどと規定された。しかし人道的な方法が明確化されていないため、動物保護団体から抗議されている。ロシア獣医師会会長は、牛は不適切に扱われているが「お金をたくさん払うよりも、安くて残酷な方法を使う方が簡単だからだ」と述べている。 2022年ロシアのウクライナ侵攻に伴う労働力不足を移民で賄おうとする『Moving to russia』政策 が始動、プロパガンダ的要素が強い移民推奨動画『Time to move to Russia!』等が製作された。ただ、『基本医療費無償・高齢者年金・障碍者年金・生活保護:基本的社会保障三点セット』しかない東欧諸国の生活水準でも『菜園付き別荘』所有可能なレベルなので、“ロシア人女性と結婚して付属品の『公営住宅』と『菜園付き別荘』も手に入れたい”と願う友好国からの移民希望者は多い。 ロシアの治安は不安定さが幾ヶ所に見受けられる面を持つ。同国内務省が発表した「2017年時におけるロシア国内の犯罪情勢」によれば、全犯罪の登録件数約2058,500件(4.7%減)の内93.0%が摘発されており、同年にロシアで認知された「テロ行為」は37件(前年比+48%)、テロに準じた犯罪を含む「テロの性格を有する犯罪」は1,871件(前年比-16%)発生している。傍らで犯罪による死亡者数は29,300人 (0.5%増)で、公共施設における犯罪件数は738,000件(6.6%減)となっている。都市部では外国人を狙った強盗やスリ、置き引き、詐欺、クレジットカードやキャッシュカードのスキミングなどの犯罪が多発しており、被害者の中には日本人も含まれているとの報告がある。 一方で、一般国民による反体制抗議運動は、集会法の罰則強化を始めとする当局による規制の強化により実施されにくい状況になっているものの、それにも拘わらず首都モスクワ市内では反政権活動家による抗議集会などが開催されており、参加者が数万人規模となることもあるとされている。これらの活動は現時点において平穏に行なわれているが、一部の無許可集会などの参加者が治安当局に逮捕されることもあり、旅行などで同国を訪れたり滞在する際にはトラブルを回避する為にもそれらの集会やデモには近付かず干渉しないことを心掛ける必要性が求められる。 国民の4人中3人がロシア正教徒で構成されているロシア連邦では「同性愛は聖書で禁止されている」ので蛇蝎の如く嫌われるが、挨拶代わりの「フレンチキス」や「ハグ」は握手と同様の社交辞令であり問題とはされない。 現状、この節は日本語版記事があるものが列挙されているだけであり、主要なものを紹介しているとはいえない状態である。 ロシアにおける検閲、言論の自由についての批判は、それぞれロシアにおける検閲、ロシアにおける報道の自由(英語版)を参照。 新聞 出版社 公的機関も含め、YouTubeやInstagramの利用も盛んである。 「子供番組の低予算放送枠内でもフルCGによる作画崩壊無い高品質のアニメーションが製作できる」体制がほぼ確立したため、アニメ制作現場ではCGアニメーション主流となっている。なお2Dアニメは「CGによって手描きアニメーション風の作画(セル画)でレンダリング、手描き風の表現による親しみやすい表現と懐かしさを表現する手法」としてセルルックCGアニメーションが確立、セルライクなアニメが絶滅したわけではない。 ロシア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が16件、自然遺産が10件存在する(2015年の第39回世界遺産委員会終了時点)。そこには、モンゴルと共有する自然遺産が1件、リトアニアとだけ共有する文化遺産が1件、ウクライナ、エストニア、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ベラルーシ、モルドバ、ラトビア、リトアニアと共有する文化遺産1件が含まれる。 クリスマスが1月7日なのは、キリスト教の宗教行事はロシア正教が公認しているユリウス暦に基づいて行われていることによる(正教会ではほかにエルサレム総主教庁、グルジア正教会、セルビア正教会、アトス山などがユリウス暦を採用している)。現在の暦であるグレゴリオ暦は、歴史的にはカトリック側が作った暦となっているためである。すなわちグレゴリオ暦(新暦)12月25日がユリウス暦(旧暦)の1月7日に相当する。2100年2月28日まではグレゴリオ暦とユリウス暦のずれは13日である。「旧正月」も同様の理由から1月14日に祝う。ソ連時代は1917年にロシア革命でソヴィエト政権が成立した11月7日が革命記念日として最大の祝日になっていたが、プーチン政権は2005年にこれを廃止し、帝政時代に「モスクワ解放記念日」となっていた11月4日を「国民団結の日」として復活させた。 ソ連時代からオリンピックで毎回優れた成績を残しており、メダル獲得数では上位にランクされることが多い。また、ロシアは1980年のモスクワオリンピックをはじめ、国際スポーツ競技大会の開催も数多い。2014年には黒海沿岸のソチで冬季オリンピック(2014年ソチオリンピック)を、2018年にはサッカーのワールドカップ(2018 FIFAワールドカップ)を開催している。 国内プロリーグとしては、1992年に創設されたサッカーリーグの「ロシア・プレミアリーグ」や、2008年に創立されたアイスホッケーの「コンチネンタル・ホッケー・リーグ」などがある。また、ソ連崩壊の前後から多くのロシア人指導者が国外に移住し、陸上競技、フェンシング、体操競技、新体操、アーティスティックスイミング、フィギュアスケートなどの種目で世界各国の選手を指導している。ロシア・旧ソ連発祥のスポーツとしては、日本の柔道と西洋のレスリングなどをベースに編み出されたサンボが挙げられる。 ロシアサッカー連合(RFU)によって構成されるサッカーロシア代表は、これまでUEFA欧州選手権には6度の出場歴があり、2008年大会ではアンドレイ・アルシャヴィンやロマン・パヴリュチェンコなどの活躍によりベスト4に輝いた。さらにFIFAワールドカップには4度の出場歴があり、2018年大会ではベスト8の成績を収めた。しかし続く2022年大会には、ロシアによるウクライナ侵攻に対して国際サッカー連盟(FIFA)が代表チームに参加停止の制裁を課した為、不戦敗で予選敗退となった。 他方で、ドーピング問題で国家的な関与があったとして国際的な非難がされている。2018年平昌オリンピックでは国家としての参加が認められず、ロシアの選手はOAR(オリンピック・アスリート・フロム・ロシア)という呼称で個人での参加となった。このオリンピックでは、公式記録上はOARとしての記録である。また、優勝しても国旗の掲揚や国歌の演奏はされず、代わりにオリンピック旗が掲揚され、オリンピック賛歌が演奏された。 この平昌大会から正式競技となったカーリング混合ダブルスで、当初は銅メダルを獲得したロシアのペアのドーピングが発覚しメダルを返還するなど、アンチドーピング対策が大きな課題となっている。さらに2019年に世界アンチ・ドーピング機関は、ロシアのドーピングのデータ改ざんに対して4年間国としての参加を認めない処分を決定した。それにより2021年の東京オリンピックと2022年北京オリンピックでは、ROC・RPCとして大会に参加した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ロシア連邦(ロシアれんぽう、ロシア語: Российская Федерация)、通称ロシア(ロシア語: Россия)は、ユーラシア大陸北部に位置する連邦共和制国家である。首都はモスクワ市。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国土は旧ロシア帝国およびソビエト連邦の大半を引き継いでおり、ヨーロッパからシベリア・極東に及ぶ。面積は17,090,000 km(平方キロメートル)以上と世界最大である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ロシアは国際連合安全保障理事会常任理事国であり、旧ソビエト連邦構成共和国でつくる独立国家共同体(CIS)の指導国であるだけでなく、G20、アジア太平洋経済協力(APEC)、上海協力機構、ユーラシア経済共同体、欧州安全保障協力機構、世界貿易機関(WTO)などの加盟国である。かつてG8加盟国であったが、2014年3月にクリミアの併合を強行したことでG8の参加資格を停止された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "核拡散防止条約により核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国の1つであり、世界最大の大量破壊兵器保有国(英語版)である。国防費は2010年以降増加の一途を辿っている。常備軍のロシア連邦軍は地上軍・海軍・航空宇宙軍の3軍の他、戦略ロケット軍と空挺軍の2つの独立兵科で構成されている。運用面では地理的に分割された軍管区に権限が委譲されており、それぞれに統合戦略コマンドが設置されて3軍と通常兵器部隊を指揮している(戦略核兵器部隊は指揮権外)。現役軍人は約90万人であるが、2022年ロシアのウクライナ侵攻に伴う大量の戦死傷・捕虜や動員で変動しており、さらにロシア政府は2026年にかけて軍の定員を150万人へ増やす計画を進めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "政治体制は、ソビエト連邦の崩壊に前後してソビエト共産党による一党独裁制が放棄されて複数政党制に基づく選挙が行われるようになったが、2003年以降は事実上ウラジーミル・プーチン大統領率いる与党「統一ロシア」の一党優位政党制になっている。複数政党制や選挙は一応存在するが、選挙から反体制派候補を排除するなどプーチン体制に有利な政治制度が構築されており、政治的意思を表明する機会に乏しい。「法の独裁」による統治を目指す強権的体質が内外から批判されており、エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界134位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "言論の自由に関しても、国境なき記者団による世界報道自由度ランキングは149位と下位である(2020年度)。特に、2022年のウクライナ侵攻以降は「広範囲に検閲を行うなどしてニュースや情報を完全に支配している」と非難されており2022年は155位、2023年は164位と大幅に順位を落としている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "領土や軍事力に比べてロシアの経済は国際的地位が低いものの、2014年時点の名目GDPは世界第9位(発展途上国に有利になる購買力平価では世界第6位)であった。鉱物及びエネルギー資源は世界最大の埋蔵量であり、世界最大の原油生産国(英語版)および世界最大の天然ガス生産国(英語版)の一つである。しかし資源依存の経済体質であるため、原油安の時期は経済が停滞する。加えて2014年にクリミア併合を強行したことにより欧米から経済制裁を受けて更なる打撃を受けている。2022年にはウクライナへ侵攻したことでSWIFTからの排除など更なる経済制裁を受けている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2023年時点ではロシアは世界第2位の仮想通貨のマイニング大国であり、またブロックチェーン技術を使用した国際決済の推進や新たな機関を設立する計画を進めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "人口はロシア連邦国家統計庁によれば1億4680万人(2017年時点。ソ連時代の1990年には2億8862万人だった)であり、世界第9位、ヨーロッパで最も多い人口である。最大の民族はロシア人だが、ウクライナ人やベラルーシ人やトルコ系のウズベク人、またシベリアや極東の少数民族なども存在し、合計で100以上の民族がある。公用語はロシア語だが、少数民族の言語も存在する。宗教はキリスト教徒が人口の60%を占め、その大半がロシア正教会の信者である。イスラム教徒も人口の8%ほどおり、仏教徒も存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "地理としてはロシアの国境は、北西から南東へ、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、ともにカリーニングラード州と隣接するリトアニアおよびポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、ジョージア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中華人民共和国、モンゴル国、朝鮮民主主義人民共和国と接する。海上境界線としては、日本とはオホーツク海・宗谷海峡・根室海峡・珸瑤瑁水道、アメリカ合衆国アラスカ州とはベーリング海峡を挟んで向かい合う。ロシアの国土面積は17,075,400 kmで世界最大であり、地球上の居住地域の8分の1を占める。国土が北アジア全体および東ヨーロッパの大部分に広がることに伴い、ロシアは11の標準時を有し、広範な環境および地形を包含する(英語版)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ロシアの歴史は、3世紀から8世紀までの間にヨーロッパで認識され始めた東スラヴ人の歴史に始まる。9世紀、ヴァリャーグの戦士の精鋭およびその子孫により設立・統治され、キエフ大公国の中世国家が誕生した。988年、東ローマ帝国からキリスト教正教会を導入し、次の千年紀のロシア文化(英語版)を特徴づける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった。キエフ大公国は最終的に多くの国に分裂し、13世紀には領土の大部分がモンゴルに侵略され、遊牧国家ジョチ・ウルスの属国になり、ロシアが西洋から隔絶される原因となった(タタールのくびき)。モスクワ大公国は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、キエフ大公国の文化的・政治的な遺産を支配するようになった。クリコヴォの戦いでジョチ・ウルスを破った後、ジョチ・ウルスは衰退し、イヴァン3世(イヴァン大帝)の時代に独立した。東ロシアのほとんどがモスクワ大公国に服した。16世紀中ごろにイヴァン4世(イヴァン雷帝)がモスクワ帝国を建設した。ピョートル大帝は、ロシア人がバルト海に行く道を確保し、1703年にバルト海に面するサンクトペテルブルクを建設した。1712年にサンクトペテルブルクはロシアの首都になり、1721年にロシアは帝国になった。周辺諸国の併合などを繰り返し、史上第3位の領土を持つ帝国となり、版図はポーランドから、北アメリカ大陸北西部(ロシア領アメリカ、後にアメリカ合衆国へ売却)まで広がった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1917年のロシア革命の後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がソビエト連邦最大かつ指導的な構成国となった。スターリン時代には大粛清で国民を弾圧する一方で、工業化と軍拡、周辺国の侵略(バルト諸国占領やフィンランドに対する冬戦争)を進めた。第二次世界大戦ではナチス・ドイツの先制攻撃を受けた後に反撃に転じ(独ソ戦)、連合国の勝利に決定的な役割を果たした。こうして世界初の憲法上の社会主義共和国および、戦後はアメリカ合衆国と並ぶ超大国となった。アメリカやその同盟国とは冷戦で激しく対立したが、ソビエト連邦の宇宙開発は初期においてアメリカを凌駕し、世界初の人工衛星および世界初の有人宇宙飛行を含む20世紀のもっとも重要な複数の技術的偉業(英語版)を経験した。やがてソ連共産党による一党独裁の弊害が噴出するようになり、1991年にソビエト連邦の崩壊に至った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "新たにロシア連邦を国名とし、ロシアも同等の国名とされた(1992年の憲法改正により)。ロシアの国旗は革命前の白・青・赤の3色旗に戻り、国際連合における地位などは基本的に旧ソ連を引き継いでいる(安全保障理事会常任理事国など)。2022年2月24日にはウクライナに「特別軍事作戦」と言う名の軍事侵攻を始めた。その軍事侵攻で、現在ウクライナのドネツク州、ルハンシク州、ザポリージャ州、ヘルソン州の一部、クリミア半島全域を支配している。この事については「2022年ロシアのウクライナ侵攻」を参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ロシア連邦には国家を代表する象徴が多く存在している。これらの象徴の中には、嘗ての帝政時代やソビエト連邦時代などの歴史的背景から残っているものもあれば、更に古い起源を持つものも含まれている。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ロシアはヒマワリとカミツレの2種類を自国の国花に指定している。これはソ連時代から引き継がれているものである。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ロシアの国石はガーネットである。これは帝政時代から由来するもので、当時ウラル山脈から産出されていたロードライト・ガーネットを国の象徴と定めていた点にある。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ロシアの国獣はユーラシアヒグマ(英語版)である。この理由の一つとしては、ユーラシアヒグマの生息数が最も多いのがロシアであり、現在においてウラル山脈東部やシベリア地域の森林地帯でその存在の個体群を確認出来る点にある。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ロシアは自国旗の配色として用いる、白、青、赤の3色をナショナルカラーに定めている。これは汎スラヴ色に基づいており、同国にとってその3色は民族的な観念や概念だけに止まらず、歴史上、切っても切り離せない重要なものとなっている。二次色としては緑を使用しており、緑は国内の各方面で広域に使用される配色となっている。", "title": "象徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ロシア連邦(Российская Федерация、ラテン文字転写: Rossíjskaja Federátsija など、発音:ラッスィーイスカヤ・フィディラーツィヤ、IPA: [rɐˈsjijskəjə fjɪdjɪˈratsɨjə] 発音)。ロシア語では略号のРФ(RF)も使われる。英語表記は Russian Federation 。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ロシア連邦憲法第1条第2項でロシア連邦とロシア(Россия、Rossíja、ラッスィーヤ、[rɐˈsjijə] 発音)は同じ意味(同等の扱い)としており、ロシア語においてもロシア連邦の意味でロシアが使われることもある。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシャ語名Ῥωςから派生したῬωσσία(現代ギリシャ語ではΡωσία)。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)のころに使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となっている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア(ロシア語版、英語版)」、現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後に別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマ帝国の威信も受け継いだという学説も考案された。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから、公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代ごろからギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語のОрос(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜(魯西亞)という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間の最初の条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた明治政府は、ロシア側の希望を受け入れ表記を露西亜(露西亞)とした。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "キリスト教化前のロシア", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国家や文化、言語の変遷において「ロシア人」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していたとされる。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン人と隣接しており、交易や同化などを通して言語や文化においてお互いに大きな影響を与えたとされる。ロシア人にはフィン・ウゴル系民族に多いとされるるY染色体遺伝子であるハプログループN系統もある程度見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "古代ギリシャの作家プロコピオスは、スラブ人(スクラヴ人(英語版)とアント人)は、王を持たない民主的な体制で、彼らが犠牲を捧げる「稲妻の創造主」(ペルーン)という単一の神を信じる野蛮人であるとした。また、非常に背が高く丈夫な体を持ち、髪色は金髪ではないが完全な暗色でもないとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "スラヴ人には独自の文化と神話があった。世界は、自然の法則を支配する天の神々と、人々の習慣や行動を支配する地下の(クトニオスの)神々という、2つの反対の力によって支配されていると信じられていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "5世紀の初めに、スラブの部族は極東ロシアの領土に移動し、この地域を支配し始めた。同時に、スラブの部族は地理的に西部(ヨーロッパに残っている)と東部に分かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "9世紀の北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている民族集団「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した。後代に書かれた『原初年代記』には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴル人による侵入で2世紀にわたってジョチ・ウルスの支配下に入った。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "数多くいるルーシ諸公の1人に過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にジョチ・ウルスの支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領した。一方、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。そして1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮の下、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日して撃破、モスクワを解放した。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の勝利は、21世紀現在でも国民の祝日となっている(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策と、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703年)、大北方戦争(1700年 - 1721年)での勝利などによってロシア帝国の絶対主義体制の基盤を固めた。彼の時代から正式に皇帝(インペラートル)の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。1762年に即位したエカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年 - 1774年と1787年 - 1792年)に勝利するとともに、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナとクリミア・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣(詳細は「北槎聞略」参照)され日露関係が実質的に始まった。彼女の時代に農奴制が固定化されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アレクサンドル1世の治世において1803年に勃発したナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス帝国軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退(1812年ロシア戦役)。戦後はポーランド立憲王国やフィンランド大公国を支配して、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義・分離主義運動は厳しく弾圧された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1831年に始まるエジプト・トルコ戦争以降は、ロシアの南下政策を阻むイギリスとの対立が激化し、中央アジア、アフガニスタン、ガージャール朝ペルシア(現・イラン)を巡って、露英両国の駆け引きが続いた(グレート・ゲーム)。1853年に勃発したクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、ナロードニキによる農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は過激なアナキズム(無政府主義)やテロリズムを横行させ、無政府主義者による皇帝暗殺にまで発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ロシアのシベリア征服が進み、中国大陸を支配する清や日本との接点が生じた。清とはネルチンスク条約(1689年)おとびキャフタ条約 (1727年)により境界を定めていたが、清の弱体化によりロシアは極東でも南下政策をとった。アイグン条約(1858年)によりアムール川北岸を奪い、さらにアロー戦争の講和(北京条約)を仲介した見返りに日本海に面する沿海州を獲得し、ウラジオストクを建設した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "19世紀末期には、ロシアはそれまでのドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国との三帝同盟からフランス第三共和国との露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加により極東へのシベリア鉄道の建設が行われている。20世紀初頭になると極東への関心を強め、満州や朝鮮に手を伸ばそうとしたが、日本と衝突して1904年の日露戦争となった。1905年に血の日曜日事件など一連の革命騒動が発生し、ポーツマス条約を結んで敗れると、戦後の1907年にロシアはイギリスと英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子らがセルビア人に暗殺されると(サラエボ事件)、同じスラブ系国家であるセルビアを支援してオーストリア=ハンガリー帝国およびその同盟国であるドイツと対立して互いに軍を動員し、第一次世界大戦が勃発。ロシアは連合国の一員として中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国)と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された(東部戦線 (第一次世界大戦))。第一次世界大戦中の1917年2月に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、シベリア出兵などで諸外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日には十月革命でソビエト政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を結び大戦から離脱した後、赤軍を率いてロシア内戦に勝利し、1922年の年の瀬には共産党による一党独裁国家ソビエト社会主義共和国連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだ構成4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシア共和国)となった。ソビエト連邦とロシア共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。ロシア共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア共和国とは異なる統治体制をとった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ソビエト体制でのロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは、事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は連邦崩壊直前の1990年まで創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナ共和国や白ロシア共和国(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1930年代の世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリンによる独裁的な主導の下で農業集団化と重工業化が断行され、高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的な収奪に基づく閉鎖的な工業化であった。農村からの収奪の結果、ウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。その歪みはやがて政治的な大粛清と強制収容所の拡大など恐怖に基づく支配をもたらす事態へとつながった(第二次世界大戦後に再び飢饉(ソビエト連邦における飢饉 (1946年-1947年)(ロシア語版、英語版))が起こる)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1939年9月の第二次世界大戦勃発直前に一時ナチス・ドイツとモロトフ・リッベントロップ協定を結んで協調し、ポーランド第二共和国をソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、ポーランドを占領、冬戦争でフィンランドにも圧迫を加え、1939年12月の理事会において国際連盟から除名された。1940年にはバルト諸国占領によりソビエト連邦へ併合し、さらにルーマニアからベッサラビア地方を割譲させた。1941年6月には独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチス・ドイツのヒトラーに突如攻め込まれて西部の広大な地域を占領され(バルバロッサ作戦)、危険な状況に陥った。しかし、1942年初頭に首都モスクワ防衛に成功した後、英米をはじめとする連合国の助力もあってスターリングラード攻防戦およびクルスクの戦いを境に、1943年後半には反攻に転じて独ソ戦の主導権を握り最終的には大戦に勝利した。さらにポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合し、西に大きく領土を広げた。極東方面では、1945年8月、日本に日ソ中立条約の不延長を通告して参戦。満州国やサハリン南部、千島列島、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトビアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに移管され、ロシア共和国の領土は2014年のクリミア半島編入以前のロシア連邦にあたる領域になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島及び南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地であると主張している。ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。なお、日本はユジノサハリンスクに在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置している。外務省によれば、当総領事館が位置しているユジノサハリンスク市(旧豊原市)をはじめとした南樺太は、サンフランシスコ平和条約によりその全ての権利・権限及び請求権を放棄したため、以降ソビエト連邦及びこれを承継したロシアが継続的に現実の支配を及ぼしており、これに対してロシア以外のいかなる国家の政府も領有権の主張を行っていないことなどを踏まえ、千島列島及び南樺太を含む地域を管轄地域とする在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置したものであるとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "戦後、ソ連は強大なソ連軍の軍事力を背景に1949年の北大西洋条約機構(NATO)結成に対抗して1955年にワルシャワ条約機構(WTO)を結成し、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として東側諸国の盟主となり、自国と同様の人民民主主義体制を強要して世界の2大超大国の一つとしてアメリカ合衆国を盟主とする西側諸国と冷戦を繰り広げた。しかし、既に1948年にはバルカン半島にてチトー主義下のユーゴスラビア社会主義連邦共和国がソ連から離反しており、1956年に共産党第一書記ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判が行われた後は自由主義陣営との平和共存路線を進めたが、このスターリン批判により衛星国であったハンガリー人民共和国でハンガリー動乱が発生し、さらに自由主義国との妥協を批判する毛沢東が率いていた中華人民共和国や毛沢東思想に共鳴するアルバニア人民共和国の離反を招くなど、新スターリン主義によるソ連の指導性は揺らいだ(中ソ対立)。1965年に共産党書記長レオニード・ブレジネフが主導権を握ったあと、ベトナム戦争にてアメリカ合衆国と戦うホー・チ・ミン率いる北ベトナムを支援したが、ブレジネフ在任中の1968年には衛星国であったチェコスロバキア社会主義共和国で「プラハの春」が始まり、翌1969年にはかねてから対立していた中華人民共和国と珍宝島・ダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争を戦うなど、共産圏におけるソ連の指導性はさらに揺らぎ、1970年代に入ると計画経済の破綻などから次第にソ連型社会主義の矛盾が露呈していった。1979年から1989年にかけてアフガニスタンを侵略した。この際ソ連軍がアフガニスタンの大統領官邸を急襲し、最高指導者ハフィーズッラー・アミーンと警護隊を殺害するというテロ行為(嵐333号作戦)を行っている。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカとグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、却って各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議(ロシア語版)議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年8月のクーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国はそろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、翌日12月26日にソビエト連邦は崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1991年12月26日のソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱してロシア連邦として成立し、エリツィンが初代ロシア連邦大統領に就任した。また、ソビエト連邦崩壊により世界規模のアメリカの覇権が成立し、当時はこれを「歴史の終わり」と見る向きも現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ロシア連邦は、旧ソ連構成国の連合体である独立国家共同体(CIS/СНГ)加盟国の一つとなった。ロシア連邦は、ソビエト連邦が有していた国際的な権利(安全保障理事会常任理事国など)・国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "国名は1992年5月、ロシア連邦条約によって現在のロシア連邦と最終確定した(ロシア連邦への国名変更は、ソビエト連邦大統領ゴルバチョフ辞任の当日である1991年12月25日、当時のロシア最高会議決議による)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "エリツィン政権下では市場経済の導入が進められたが、急激な移行によってロシア経済は混乱し、長期的な低迷を招いた。その一方で、この時期には「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が台頭し、政治的にも大きな影響力を持つようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ソ連政府は国民にあまねく賃貸住宅を配分していたが、それらを建設するだけで巨額の財政負担となっており、財政再建中のロシア連邦がリフォームすることなどかなわず、無償で住民が物件を取得できるようになり急激な私有化を進めた。私有化されていないものは地方自治体への譲渡が進み、人口減少社会となるなか、若者向けに低家賃で貸し出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1993年には新憲法制定をめぐって激しい政治抗争(10月政変)が起こったものの、同年12月12日には国民投票によってロシア連邦憲法が制定された。1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で第一次チェチェン紛争が発生し、一般市民を巻き込んで10万人以上が犠牲になった。1997年5月に和平に向けてハサヴユルト協定が調印され、5年間の停戦が合意された。ところが1999年8月、チェチェン独立派勢力(チェチェン・イチケリア共和国など)と、ロシア人およびロシアへの残留を希望するチェチェン共和国のチェチェン人勢力との間で第二次チェチェン紛争が発生した。1999年夏からイスラム急進派の排除という名目のもとにロシア軍は全面的な攻勢に出ている。同年8月にロシアの首相に就任したウラジーミル・プーチンらがこの強硬策を推進した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1996年11月、ロシアは第一回だけで10億ドルのユーロ債を起債した。それまでの累積ユーロ債発行額は160億ドルほどに達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1999年12月8日、当時の大統領エリツィンとベラルーシの大統領アレクサンドル・ルカシェンコとの間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指すロシア・ベラルーシ連合国家創設条約が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任したウラジーミル・プーチンが、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は停滞した。2022年ロシアのウクライナ侵攻にルカシェンコは協力しているが、ベラルーシ共和国軍の参戦は回避している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1999年12月31日、当時の大統領エリツィンが任期を半年余り残して突然辞任した。首相のウラジーミル・プーチンが大統領代行に就任し、2000年3月の大統領選挙に圧勝して大統領に就任した。「法の独裁」による統治をめざす強権的体質が内外から批判される一方、安定した経済成長により国民の高い支持率を維持し、2004年にも再選された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2003年、ミハイル・ホドルコフスキーが脱税などの罪で逮捕・起訴され、ユコスの社長を辞任した。シブネフチとの合併が取り消されるなどして株価が乱高下し、内部者取引が横行した。2005年にロシアの住宅私有化率は63パーセントに達し、国際的な不動産価格の下落へつながっていった。2007年、ホドルコフスキーを除くユコス株主らはロシア政府がユコスを破綻させたとしてハーグの常設仲裁裁判所へ提訴した。2010年6月26日、政府側のロスネフチに賠償命令が出た。7月27日には内部者取引と株価操作を取り締まる法案が可決された。これは翌年から施行された。2014年7月、ユコス破綻事件で政府は19億ユーロの賠償金支払いを命じられていたが、12月に欧州人権裁判所が政府の上訴を棄却した。2016年4月、ハーグ地区裁判所が、ロシア政府に株主らへ500億ドルの賠償金支払いを命じた常設仲裁裁判所の判決を棄却した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "政権初期にチェチェン共和国への軍事作戦を再開するとともに周辺各共和国への締めつけも図った。チェチェン独立派を支持するサウジアラビアなどアメリカに友好的な湾岸のスンニ派諸国との関係悪化を招いた。これらの過程において報道管制を強化し、反政府的な報道機関やジャーナリストは強い圧力をかけられた。対外的には、上海協力機構を通じて中華人民共和国やイランとの関係を強化し、また中央アジア各国とはエネルギー開発の面での協力を強めた。ウクライナで親西側政権ができると、天然ガス供給停止措置をとることで圧力をかけ、間接的にドイツやフランスへの自国の影響力を誇示した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、プーチンの大統領就任当初はアメリカ同時多発テロ事件以降の対テロ戦争という目的から蜜月と言われたアメリカとの関係も、イラク戦争やイラン核開発疑惑といった諸問題を扱う中で悪化、また米国が主導する旧ソ連各地のカラー革命などロシアの裏庭地域へのアメリカによる露骨な政治介入、アメリカの反ロシアネオコン勢力が中心となって行った東ヨーロッパのミサイル防衛構想、ソ連崩壊時に北大西洋条約機構(NATO)は東方へ拡大しないとしたゴルバチョフと当時のアメリカ大統領ブッシュの取り決めが破られ、実際にはNATOの東方拡大が進んだなどの理由により、関係は冷却化した。一方で、首脳同士の懇談は頻繁であり、かつての冷戦とは違った様相である。プーチンが行った事業はいずれも西側諸国から強圧的であるとの批判が多いものの、結果的にはロシアの国際的地位を向上させた。これにはプーチン政権発足後から続くエネルギー価格の急騰により、対外債務に苦しんでいたロシアが一転して巨額の外貨準備国となり、世界経済での影響力を急速に回復したことも寄与している。2007年には2014年の冬季オリンピックを南部のソチで開催するソチオリンピックの招致に成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2008年5月、側近のドミートリー・メドヴェージェフが大統領に就任したが、プーチンも首相として引き続き残留した。同年、メドヴェージェフ政権下で南オセチア問題を原因とする南オセチア紛争が発生。これはソ連崩壊後、初めての対外軍事行動となっている。これらの行動から国際政治での多極主義を唱えて、ロシアが新たな一極となろうとしていると思われる。事実、「アメリカの裏庭」であるベネズエラ、エクアドルなどの反米的な中南米諸国との関係を強化している(逆にアメリカは「ロシアの裏庭」であるウクライナ、ジョージア(グルジア)などとの関係を強化している)。このように、冷戦終結後の一極主義の維持を目指すアメリカ側と対立する「新冷戦」の開始をもいとわないとも見られ、緊張状態が続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2014年ウクライナ騒乱により、財政援助を目的にロシアとの関係を強化していた同国の大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが解任されるとロシアのプーチン大統領は反発し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行の暫定政権を承認しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2月後半から、以前からクリミア半島に駐留していたロシア軍部隊によって、1954年までロシア領で親ロシアの住民が多いクリミア自治共和国・セヴァストポリ特別市を掌握した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "クリミア自治共和国とセヴァストポリは、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票を実施し、その結果を受けて翌3月17日に両者はクリミア共和国として独立し、ロシアへの編入を求める決議を採択した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "翌3月18日、プーチンはクリミア共和国の要請に応じ、編入に関する条約に署名して事実上クリミア半島を併合した。アメリカ合衆国、欧州連合、そして日本などの諸外国政府はクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとし、ロシアとの間で対立が続いている(2014年クリミア危機)。この経緯によってロシアはG8の参加資格を停止され、欧米諸国がロシアに経済制裁を科した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2011年から始まったシリア内戦では反体制派を支援する欧米に対し、中東での影響力を維持したいロシアがイランと共にバッシャール・アル=アサド政権に対して軍事的・経済的に援助を行っていることで欧米諸国と代理戦争に近い様相となり、対立を深めている。2015年9月30日にはロシア連邦軍がアサド政権を支援する直接的な軍事介入を開始(ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆)。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾いたことに加え、アサド政権とクルド人勢力の双方を支援していることから両者の仲介や、当初はアサド政権打倒を目指し欧米と協調して反体制派を支援していたトルコがクルド人勢力への対応で欧米と対立するに伴いシリア戦後処理へのトルコの引き込み、さらにエジプトやイラク、イスラエルといった親米国家であるもののアサド政権打倒後のシリアの安定に懐疑的な近隣国にも接近しつつあり、シリア内戦の収束に向けて主導的な役割を発揮し、中東での確固たる地位を築いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "プーチンによる外交は、アメリカの大統領バラク・オバマを差し置いて世界的な影響力を持ち、クリミア半島併合以降はとりわけ国民の支持も手厚くなっている。一方、2013年以降に原油価格の暴落が続いたことで、天然資源に依存した脆弱な経済体制が浮き彫りとなり、深刻な経済的困窮を招いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2015年、ロシア空軍はトルコ及びシリア付近を領空侵犯したため、トルコ空軍に撃墜された(ロシア軍爆撃機撃墜事件)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "現在、一部の欧米諸国はロシアへの経済制裁の解除及び緩和をし始めているが、アメリカを中心とする西側の欧米主要国はいまだにそういった様相を見せておらず、原油価格の上昇も当分は見込めないことから、ロシアは経済的に長い停滞期間が続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "西側諸国から孤立しつつある一方、上海協力機構を中心に非欧米諸国との結びつきを強めることで国際社会での存在感を見せつけている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2016年12月、アメリカで親ロシア派と公言していたドナルド・トランプ政権への政権交代があったものの、アメリカ国内でロシアへの敵対感情が高まっているため、弱腰外交と捉えられるような親露外交は回避し、米露間の関係が修復する兆しは一向にない。2016年アメリカ合衆国大統領選挙におけるロシアの干渉や、ウクライナ紛争を巡るミンスク和平合意の不履行による報復措置がとられたり、ロシアが条約に違反したとして中距離核戦力全廃条約から撤退したりするなど、両国間の溝は深まるばかりである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2021年1月、アメリカで反ロシア派と公言しているジョー・バイデン政権への政権交代があり、今後も米露関係修復の見込みはないと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2022年2月、プーチンはウクライナ東部の反政府組織が建国したドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を国家として承認し、ウクライナに宣戦を布告。親ロシア勢力の保護を名目にウクライナ国内に侵攻し、交戦状態に入った(2022年ウクライナ侵攻)ことにより、アメリカを中心とする国際社会から厳しい経済制裁をうけることとなり、西側諸国との対立は深まり、新冷戦と呼べる状況に陥っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ウクライナ侵攻以降、ロシア領内が何者かに攻撃される事件が発生。中でもウクライナと隣接するロシアのベルゴロド州はウクライナ軍からと思われる攻撃を受け、民家359軒と一般車両112台が破壊された。また、ウクライナ侵攻後、ロシア国内の軍事施設、ショッピングセンター、工事などが突如爆発する事件が頻発している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "また、ロシアと国境を接するフィンランドと、バルト海対岸のスウェーデンがNATO加盟を申請した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ウクライナ侵攻中、ロシア国内は度重なるドローン攻撃や謎の火災が続出した。ウクライナ側は否定しているが、ロシアはウクライナと断定している。3月にはトゥーラ州がウクライナ軍によるドローン攻撃を受けたと発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2023年4月にはフィンランドがNATOに加盟したため、31ヶ国体制となった。NATOが東欧だけでなく、北欧まで拡大したこと、NATOとロシアの国境が2600キロ以上に広がったこと、ロシアを軍事的に追い詰めることに対して、ロシア政府はアメリカに対して激しく反発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "同月には、ウクライナの子供を連れ去った疑いがあるため、 国際裁判所はプーチン大統領の指名手配と逮捕状を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "5月3日にはプーチン大統領暗殺を狙った攻撃型のドローンがクレムリンに侵入し、ロシア軍のレーダーで無力化、クレムリンの一部の屋根が炎上した 。ロシア政府はウクライナ軍事による攻撃と見られると発表したものの、ウクライナ側は関与を否定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "5月23日、ウクライナ領内から自由ロシア軍団(パルチザン)と名乗る組織がロシア領内のベルゴロド州及びクルスク州へ侵攻し、ドローン攻撃や破壊活動が行われ、ロシア軍と大規模な地上戦が繰り広げられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "また、ロシアはウクライナによる直接的な攻撃と断定したが、ウクライナ側は関与を否定した。攻撃によってベルゴロド州内で民間人の負傷者と死者が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国は「ロシア領内への攻撃及び侵攻は奨励しない。」と発言したものの、ミラー報道官は「戦い方はウクライナ自身が決めるべき」とし、直接的なロシア領内への攻撃の批判や拒否は避けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "5月30日、首都モスクワは複数のドローン攻撃を受け、住宅などへの被害と民間人の負傷者が発生した。ロシア政府はウクライナ軍によるテロ行為と断定したが、ウクライナ側は完全否定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "度重なるロシア領内への攻撃に沈黙を続けていたプーチン大統領はモスクワ攻撃を受け、始めて声明を出し、ウクライナ政府に対して強い言葉で不満と批判を繰り返した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "6月2日にはスモレンスク州の燃料施設が、西部クルスク州でも、ビルなどの民間施設が、西部ブリャンスク州内の村がウクライナ軍と思わられる組織に攻撃を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2022年後半から、ウクライナ侵攻や他の紛争地域でロシア軍などと行動してきたロシアの民間軍事会社ワグネル・グループとロシア国防省(ロシア連邦政府)との関係が急激に悪化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ワグネル・グループの創設者であり、ワグネル兵のリーダー格であるエフゲニー・プリゴジンは、ロシア国防省のセルゲイ・ショイグ、ワレリー・ゲラシモフのウクライナ侵攻における無能さを連日批判した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "プリゴジンはプーチン大統領のシェフと言われるほどの友好関係があったものの、ワグネルの拠点をロシア軍が攻撃し、多数の死者が発生したことにより、2023年6月には異例のプーチン批判を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "翌日、プリゴジンは攻撃されたことに対して、報復宣言をし、ロシア連邦政府に対して武装蜂起を発表、ロシア軍への攻撃を開始。ヴォロネジ州やロストフ州の各地で銃声や黒煙、ロシアの石油施設の爆破、ロシア国防省の司令部やロシア領内の空港なども戦車や重装備の兵士を使い軍事的に占拠、プリゴジンはモスクワへの進軍を行なった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "プーチン大統領は、ワグネル・グループとプリゴジンを裏切り者と批判した。ワグネルによるモスクワ進軍が、想定以上に早く、ロシア領内の各地でワグネル兵とロシア軍との地上戦も実際に行われたことから、同日にはモスクワ市内は外出禁止令を発令し、モスクワ内でのロシア軍とワグネル兵との戦闘に準備を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "国政では連邦制、共和制、半大統領制をとっている。国家元首であるロシア連邦大統領がおり、三権である", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "は分立している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ロシア連邦大統領は国家元首で、国民の直接選挙で選ばれる。ソ連崩壊に伴う独立・独立国家共同体(CIS)への加盟構成以降、大統領の任期は4年であったが、2008年の憲法改正によって6年となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "国家元首である大統領は行政には含まれないが、行政に対して強大な指導力を発揮する。大統領は議会(ロシア連邦議会:上院に相当する連邦院および下院に相当する国家院)の信任を要する首相を含むロシア連邦政府の要職の指名権・任命権と、議会の同意なしに政令(大統領令(英語版))を発布する権限を保持し、ロシア連邦軍とロシア連邦安全保障会議の長を兼ねる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "第2次プーチン政権が発足してから「プーチンなきロシア」を叫ぶ市民のデモが開催されるなど反プーチン運動が活発化している。そのためこれらの運動の封じ込めの一環として、「宗教信者の感情を害した者に禁錮刑と罰金を科す法律」「未成年者への同性愛の宣伝行為に罰金を科すことを定めた法律」が2013年に、「好ましからざる外国組織のロシアでの活動を禁じる法律」が2015年にそれぞれ成立し、政府の統制が強化されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ロシア連邦議会(Федеральное Собрание Российской Федерации, Federal'noe Sobranie Rossijskoj Federatsii)は二院制で、各連邦構成主体の行政府と立法府の代表1人ずつからなり、上院に相当する連邦院(連邦会議、Совет Федерации, Sovet Federatsii 、定員178名)と、下院に相当する国家院(国家会議、Государственная Дума, Gosudarstvennaja Duma 、定員450名)からなる。下院議員は任期4年で、小選挙区制と比例代表制により半数ずつ選出される仕組みであったが、2005年4月23日完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を獲得するためのハードルが上げられ、ウラジーミル・プーチン政権、シロヴィキに有利な選挙戦が展開された。また、大統領と同様に2008年に任期が5年に延長された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ロシアの司法には、最高位にロシア憲法裁判所(英語版)、ロシア最高裁判所、ロシア最高仲裁裁判所(英語版)がある。その下にロシア地方裁判所(英語版)、地域裁判所がある。裁判は大陸法型である。行政府からの訴追は司法省が担当する。1996年に陪審制を連邦各地に順次導入することを決定、2010年までにすべての地域で導入された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "以前から死刑の執行を停止していたが、2009年11月19日に、憲法裁判所は死刑の廃止を規定している欧州人権条約を批准するまでは死刑の執行を停止するという命令を出した。この憲法裁判所の命令で、ロシアの死刑制度は事実上廃止された。2010年1月15日、ロシア下院は、欧州人権条約第14追加議定書を賛成多数で批准し、名目上も死刑が廃止された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "複数政党制を採用しており与党統一ロシアが圧倒的多数を占めており、他にも野党として極右のロシア自由民主党や極左のロシア連邦共産党などをはじめ様々なリベラル派や中道派、民族主義・愛国主義、社会主義・共産主義を活動理念に掲げる政党が存在する。しかし、これらの政党はいずれもプーチン政権に従順な「体制内野党」とされており、野党としての機能は喪失しているという指摘がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ロシア連邦政府は1990年代まで続いたソビエト連邦の正式な後継政権で、国際連合では安全保障理事会の常任理事国5か国の一つでもあり、その他国際組織でソ連の持ち分を引き継いでいる。国際関係は多面的であり、世界の191か国と関係を持ち、大使館を144か所置いている。国際関係の方針は大統領が決め、具体的には外務省が執行する。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "かつての「超大国」を引き継いではいるが、現在の多極体制へ移行した世界の中でその立場は専門家の間で様々に議論されており、列強ではあるが「潜在的な超大国」扱いである。 ロシアは「中東カルテット」のひとつで、北朝鮮問題では「六者会合」に参加している。欧州安全保障協力機構(OSCE)、アジア太平洋経済協力(APEC)の一員である。1997年には「人権と基本的自由の保護のための条約」を批准している。ロシア連邦の発足当初は米国とも北大西洋条約機構(NATO)とも友好的であったが、現在は様々な分野で対立が顕著である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "21世紀になってからは、豊富な原油や天然ガスなどエネルギー資源を梃子に、特に欧州と中央アジアに対し、急速に影響力を拡大している。ソ連崩壊後の弱体性から比較すると相当影響力を取り戻したといえ、豊富な資金力を背景に軍備の更新を進めており、ロシア政府との協議なしに、ソ連の衛星国だった東欧諸国へのミサイル防衛基地の展開を進めている米国やNATOとの緊張状態は高まりつつある(新冷戦)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "前述の通り、2022年2月に始まったウクライナ侵攻が、擁護する一部の国を除き世界各国から強烈な批判を招き、多くの国・組織から経済・金融などの制裁を受けることとなり、国際的に孤立状態となっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ロシアが欧米から批判されている問題の一部に、同国における人権問題、自由でないメディア、LGBT禁止問題、ノビチョクなどがある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2022年にロシアとウクライナとの間で軍事的緊張が高まり、ロシアがウクライナへ侵攻を開始した。これにより外交関係は断絶した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "南アフリカ共和国はソ連と公式の外交関係を結んでいたことから後継国のロシアと深い関係性を持っており、1992年2月28日付で完全な外交関係を樹立している。南アフリカはBRICsの1国として加盟。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "キューバとはソ連時代から緊密な協力関係を築いており、ソ連崩壊以降も外交関係を維持している。ロシアが2014年3月にウクライナ領クリミア半島の併合を宣言した際、キューバは同半島をロシアの一部として承認している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ロシアはブラジルと、宇宙・軍事技術をはじめ、電気通信などの分野でパートナーシップを結んでいる。ブラジルはBRICsのメンバーでもある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2022年2月に発生したロシア連邦軍によるウクライナ侵攻に伴い、台湾も対ロシア半導体輸出規制を表明、台湾からロシアおよびベラルーシへ輸出できる半導体は性能に制限が設けられ、PS2のCPU『Emotion Engine』(動作周波数150MHz・演算能力6.2GFLOPS)を下回る性能「動作周波数25MHz・演算能力5GFLOPS」低級・低性能の西暦2000年の技術水準の骨董品級CPUしか許可されなくなった(西暦2000年の技術水準の骨董品級CPUしか許可されなくなった理由:ロシア連邦にて2022年前半時点で完全自国内大量生産可能な半導体は『半導体素子製造の材料であるシリコンウェハー製造技術は“300mm(12インチ)”サイズで2011年水準 /半導体微細加工技術は“65nmプロセス・ルール”で2007年水準』、65nmプロセス半導体技術を基盤とした“汎用用途・65nmプロセス半導体・4コアCPU『Elbrus-4S』(総トランジスタ数:9億8600万個 / 動作周波数800MHz×4コア / 総合演算能力25GFLOPS:演算能力6.25GFLOPS×4コア)”完全自国内大量生産可能レベルの半導体製造技術水準で停滞しているため)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "※台湾の半導体輸出規制案件に関しては中華民国・行政院・経済部 2022年5月6日公式発表『Types of strategic high-tech commodities, specific strategic high-tech commodities and exportation to restricted regions』及び中華民国・行政院・経済部・国際貿易局 2022年4月6日公式発表『MOEA Announces Expansion of Export Controls on Russia』を参照した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "両国の間では経済的な交流がいくつかあるが、過去のシベリア抑留・北方領土問題・それに起因する漁民銃撃と拿捕事件、資源問題(サハリン2)なども生じており、その関係はあまり良くない。その上でロシア人の日本に対する信頼は、アメリカやイギリスに対する信頼よりも高いという調査結果がある。 なおロシア連邦領内では、2021年4月26日“ロシア連邦・北西連邦管区・レニングラード州・州都サンクトペテルブルク・クラスノグヴァルデイスキー地方裁判所”公式見解による“ロシア連邦法第242条『ポルノグラフィーの違法頒布』/ロシア連邦行政違反法典第6.17条『児童の健康および発育に有害な影響を与える情報からの児童の保護に関する連邦法』”の規定を破る行為に抵触する日本の漫画・アニメは『公序良俗に反する』として規制されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "※余談であるが、ベルギー王国ブリュッセル市内にて2007年9月28日に(日本の有名漫画作品に影響された)バラバラ殺人事件(通称:『Manga Murder』)が発生、この事件以降は残酷な描写が多い日本の漫画・アニメは(欧米諸国では)『基本的に子供の視聴に適さず大人のみ視聴可』となった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2017年のイギリスBBCの調査によると、ロシア人は日本に対して好意的な見方をしているが、日本の内閣府の日本国民の対ロシアの世論調査(2022年)によればロシアに「親しみを感じる」とする者の割合は13.1%(「親しみを感じる」1.3%および「どちらかというと親しみを感じる」11.8%)に留まり、「親しみを感じない」とする者の割合は86.4%(「どちらかというと親しみを感じない」48.9%および「親しみを感じない」37.4%)に達している。この数値は中国(「親しみを感じる」20.6%、「親しみを感じない」79.0%)をも下回っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "※なお、2023年7月度のロシア連邦領内労働者給与水準における一人当たりの平均月収は789.893ドル(2023年11月13日時点の為替レートで約11万9,882円)であり、2023年9月度の日本国内労働者給与水準における一人当たりの平均月収1889.168ドル(2023年11月13日時点の為替レートで約28万6,753円)の約42%の収入であり、生活費などを考慮すると、ロシア人が稼ぐために日本に来る理由はない(注記:ロシア及び日本の労働者給与水準における一人当たりの平均月収に関しては“CEIC Global Database”調べを参照した)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "中華人民共和国とは2001年に中露善隣友好協力条約を結び、東シベリア・太平洋石油パイプラインの支線も大慶油田へ引いている。傍らで上海協力機構やBRICsでの関係も深めており、良好な間柄となっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "インドとは大幅な防衛・戦略上の関係(India–Russia military relations)を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ロシアとサウジアラビアの両国は「石油超大国」と呼ばれており、世界の原油生産の約4分の1を占めている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "ロシア連邦軍にはロシア陸軍、海軍、航空宇宙軍の3軍種があり、これとは別に独立兵科として、戦略核兵器を運用する戦略ロケット軍と、空挺軍がある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "2017年には約100万人が軍に属しており、これは世界で第5位である。これに加えて約250万人の予備役(在郷軍人)がおり、動員可能総数は約2,500万人に上るともいわれている。18才から27才の国民男子は全て1年間の兵役義務がある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "ロシアは世界で最大の核兵器(Russia and weapons of mass destruction)を所有し、世界2位の規模の弾道ミサイル潜水艦(Ballistic missile submarine)部隊や戦略爆撃機部隊がある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "2018年にウラジーミル・プーチンが年次教書演説で紹介し、2021年ごろから配備を開始した大陸間弾道ミサイル(ICBM)「サルマト」は、10発でアメリカの全国民を殺害する威力があるといわれる。射程距離は1万1000km超、最大16個の核弾頭が搭載可能なMIRV式で、最大速度はマッハ20の極超音速であるため、アメリカや日本のミサイル防衛網は無力化される。このサルマトには、極超音速滑空体「アバンガルド」が搭載され、高度100kmほどの高度を、探知しにくい軌道をマッハ20で飛行する。ロシアには1985年に、敵国からの核攻撃を想定し、確実に報復攻撃を行えるようにするための「死の手」と呼ばれる核報復システムが稼働しており、幾度も改良を重ね、運用開始当初は人間が発射ボタンを押す必要があったが、現在はAIが司令部の非常事態を認識し、核使用の判断を下すシステムとなっている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2023年12月現在、『クズネツォフ・NK-36ST:モジュラー設計式ガスタービン型発動機』(定格最大出力25メガワット/エンジン寿命10万時間)を搭載した(高度1500キロメートルの衛星軌道上の軍事衛星を無効化できる)移動車両型5メガワット級高出力レーザー兵器システム『ペレスヴェート』を6基保有している。なお、レーザー発振方式には“ロシア科学アカデミー分光研究所開発・ロシア連邦Avesta Project社製造”の“Ybファイバーレーザー(電気⇒光変換効率:30パーセント)”を採用している", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ロシアでは軍需産業が盛んである。軍事関係の世界的な供給者としては、2001年には世界の30パーセントを占め、80か国へ輸出しており、世界でも上位にあった。ストックホルム国際平和研究所の調査では、2010 - 2014年には世界第2位の輸出国で、2005 - 2009年に比して37パーセントの増加を示した。ロシアは56か国および東部ウクライナの反乱部隊へ武器を供給した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ロシアには正規軍以外で、以下の準軍事組織が存在する。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "ロシアはソ連時代からの伝統として特殊部隊(スペツナズ)を重視しており、軍所属以外に後述する情報機関も以下の実戦部隊を擁している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "民間軍事会社(PMC)が複数設立され、ロシアのその周辺のほか中東、アフリカに傭兵として派遣されている。ワグネル・グループが最も有名であり、オープン・ソース・インテリジェンス(OSINT)企業「モルファー」が把握したPMCは、ロシア国防省系や連邦保安庁系、国有企業・富豪が設立した会社を含め37あり、ウクライナの英字新聞『キーウ・ポスト』によると、そのうち25社がウクライナ侵攻に参加している。PMCはロシアの法律には本来反するが、戦死者に対してロシア政府が責任を負う必要がないといった利点から、全社が政府と関係を保って活動しているとみられる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "現在、連邦保安庁(FSB)と対外情報庁(SVR)がサイバー攻撃への防衛などを始めとして、国内の防諜・情報機関や治安組織としての役割を担っている。", "title": "諜報・防諜" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "他には連邦警護庁、参謀本部情報総局(GRU)、参謀本部軍事測量局が存在しており、連邦の安全保障になくてはならない重要部署として機能している。", "title": "諜報・防諜" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "世界最大の面積を持つロシアは、ユーラシア大陸の北部にバルト海沿岸から太平洋まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は日本の約45倍、アメリカの約1.7倍にも達し、南米大陸全体の大きさに匹敵する(正確には南米大陸の方が約76万km2(日本の本州の約3倍程度)大きい)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "国土の北辺は北極圏に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。ヨーロッパ部(ヨーロッパロシア)とアジア部(シベリア)の大部分は広大な平原で、南部のステップから北は広大な針葉林の森であるタイガがその大部分を占めている。さらに高緯度になると、樹木が生育しないツンドラ地帯となる。黒海とカスピ海の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰(カフカス地方をヨーロッパに含めた場合)のエリブルース山を含むカフカース山脈があり、ヨーロッパとアジアの境界にはウラル山脈がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "面積を見るとヨーロッパ部よりアジア部の方が広大であるが、国土の西端に当たるヨーロッパ部に人口や大都市、工業地帯、農業地帯が集中していること、さらにスラブ文化のつながりから、ロシアをヨーロッパに帰属させる分類が一般的である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "国土を囲む海域には北極海の一部であるバレンツ海、白海、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海と、太平洋の一部であるベーリング海、オホーツク海、日本海、そして西のバルト海と西南の黒海があり、海岸線は3万7,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、ゼムリャフランツァヨシファ、ノヴァヤゼムリャ(米国を越える史上最大規模の核実験が行われた)、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島、ノヴォシビルスク諸島、ウランゲル島、サハリン(樺太)、そして日本との領土問題を抱えるクリル諸島(千島列島)がある。特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は北極寒波の影響が強いため厳寒であり、氷点下を下回る日が長く続く。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部のドン川、大型で良質のチョウザメが多数生息するヴォルガ川、カマ川、オカ川、アジア部のオビ川、エニセイ川、レナ川、サケ類の漁獲で有名なアムール川などの大河が挙げられる。これらの下流域は日本で大河とされる最上川、北上川や四万十川よりも川幅が広く、いずれもセントローレンス川下流域に近い川幅がある。また、アジア部の大河はアムール川を除いて南から北へ流れ、北極海へ注ぐ。ブリヤート共和国のバイカル湖は世界一古く水深の深い湖として有名な構造湖である。このほか、ソ連時代の水力ダム建設によって生まれた大規模な人造湖が存在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ロシアには基本的に大陸性気候が卓越する。すなわち気温の年較差が大きい。ケッペンの気候区分に従うと、亜寒帯(冷帯)(D) に分類される地域が大半を占める。西部は大西洋の影響を受けるものの、東に進むにしたがって大陸性気候の特徴がはっきりしてくる。冬はシベリア付近で放射冷却のために気温が著しく下がり、優勢なシベリア高気圧が形成される。北半球で最も寒い地域で、寒極と呼ばれる(たとえば−71.2 °C〔オイミャコン〕、−66.7 °C〔ベルホヤンスク〕)。しかしながら夏季には最高気温が30 °Cを超える。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "典型的な植生は北極海沿岸がツンドラ、南に下るにしたがって針葉樹林のタイガ、混交林、プレーリー、ステップに移行していく。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "右図はロシアを中心とした地域にケッペンの気候区分を適用したものである。以下、気候区分にしたがって特徴と地域区分を示す。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "ロシア連邦は、89の連邦構成主体と呼ばれる地方行政体からなる連邦国家である。連邦構成主体としては、48の「州」(область oblast')、9の「地方」(край kraj)、3の「市」(連邦市、город федерального значения gorod federal'nogo znacheniya)、24の「共和国」(республика respublika)、1の「自治州」(автономная область avtonomnaja oblast')、4の「自治管区」(автономный округ avtonomnyj okrug)がある。ただし、このうち6つの連邦構成主体(ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国、ザポロージェ州、ヘルソン州、クリミア共和国、セヴァストポリ連邦市)はウクライナと帰属係争中である。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "プーチン政権は、連邦政府の地方への影響力拡大を図り、連邦構成主体とは別に、2000年5月13日に全土を7つに分けた連邦管区を設置した。2010年に北カフカース連邦管区が新設され、現在は8つの連邦管区が存在する。なお、このほか2014年から2016年にかけてはクリミア連邦管区が存在した。連邦管区には連邦大統領の代理人としての大統領全権代表が派遣され、連邦構成主体を監督している。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "さらに、2004年12月に地方自治体の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名して地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "地方自治体の首長(共和国首長・州知事など)や地方議会の選挙は毎年9月第2日曜日に行われており、直近では2023年9月10日に執行された(ロシア語版)。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "ロシアには人口100万人を超える都市が15(2021年時点)ある。最大の都市は首都モスクワ(1,260万人〔2021年〕)である。続くサンクトペテルブルク(545万人〔2021年〕)との2都市が規模としては飛び抜けて大きく、独立したロシア連邦の構成主体(連邦市)としてほかの州や連邦内の共和国と同格となる。ウラル山脈東山麓のエカテリンブルク、チェリャビンスク、シベリアのオムスク、ノヴォシビルスクを除く都市はすべてウラル山脈よりも西側、すなわちヨーロッパロシアに位置する。一方、厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道・港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進み、ハバロフスクやウラジオストクは50万人を超える人口を持つ。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "ロシアは、ブラジル・中国・インド・南アフリカとともに「BRICS」と呼ばれる新興経済国群の一つに挙げられている。 IMFによると、2021年のロシアのGDPは1兆5800億ドルであり、世界第11位である。一方、1人あたりのGDPは1万1,163ドルで首都モスクワと地方の格差もあり、ロシア全体では先進国より低い水準である。中村逸郎は、GDPの約70パーセントを国民の1パーセントである富裕層が持っているとしている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "ソ連解体後、ボリス・エリツィン大統領の主導のもと市場経済化が進められたが、このために却って急速なインフレーションを招き、1990年代半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが1997年のアジア通貨危機の影響を受けて1998年に財政危機を招き、再び落ち込んだ。2014年のクリミア併合による欧米からの経済制裁と石油価格の下落により、経済は低迷している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "2019年現在、ロシアはアメリカとサウジアラビアに次ぐ世界第3位の原油生産国であり、同時にサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油輸出国である。2003年以来の原油価格上昇によって貿易収支が改善し、市場経済転換後の長い経済停滞を脱し、急速な景気回復が見られた。豊富な地下資源を武器に石油の価格が高いときに成長が続く。その石油産業への依存の重さや自由化の恩恵に与った者(オリガルヒ、新富裕層、体制転換の混乱で成り上がった新ロシア人(ロシア語版)に代表される)とそうでない者の貧富の格差の拡大、チェチェン独立派武装勢力によるテロのリスクなど、不安定要因もいくつかは見られる。石油価格が高かった2000年にはGDP成長率が10パーセントを越える一方、インフレーションも抑制され、好調が続いた。一人当たり名目GDPも、1999年には1,334ドルに過ぎなかったのが、2006年には6,879ドルと5倍強の増加を見せた。しかし、輸出の6割以上を原油や天然ガスなどの鉱物資源に頼る経済構造となっている、いわゆるモノカルチャー経済である。モーリー・ロバートソンは「石油の値段が世界的に右肩上がりのときはお金がどんどん入ってくるが、原油が安くなるとあっという間に貧乏に転落するという図式」と説明している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "農産物の自給自足にも力を入れており、ロシアは世界における「最大の小麦輸出国」ならびに「米の栽培の北限地」として知られている。米国農務省は、2016年度・2017年度(2016年7月 - 2017年6月)のロシアによる小麦輸出量の推定量を50万トン引き上げ、記録的な2,500万トンとしている。なお、2015年度・2016年度に米国(2,120万トン)とカナダ(2,250万トン)を抜いて世界の主要輸出国となっている。2014年、同国での米生産量は113万8,000トン(うち90パーセントがクラスノダール地方での栽培)で生産量は記録的に高いものとなっている。加えて、米の栽培効率は1ヘクタールあたり7,100キロで、ヨーロッパにおいて米を生産する国で知られるスペイン、イタリアに比較しても多いものとなっているうえ、アジア諸国より多い。同国の米はウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコにも輸出されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "米国農務省による2021-22年度推計では、ロシアの小麦は生産量が過去最多の8600万トン、輸出量は4000万トンで世界一を維持する見通しである。ソ連時代は大量の穀物を輸入していたが、平坦な国土に農地が広がっており、ロシア経済の安定化に伴い農機や肥料の投入増、畜産の効率向上による飼料に使う小麦の節約で、生産性や輸出余力が高まった。欧米の経済生産による通貨ルーブルの下落も輸出競争力を高めているが、パン価格の上昇に国民が不満を抱くと輸出関税などで国外への出荷を抑えようとする政策も採られている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "ウクライナ侵攻に伴う経済制裁発動中のロシアでは、「外国製品⇒国産製品」への代替があらゆる分野で実施されており、レモネードも例外ではない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "2022年6月12日営業開始のロシアのハンバーガー・ショップ『フクースナ・イ・トーチカ』においては『前身である旧マクドナルド店舗時代から地元食材率85パーセント』であり、同店舗内の『インタラクティブ・デジタルサイネージ端末』を利用して商品注文・テイクアウトした後、旧マクドナルド店舗時代と同じ味に調整された(一般労働者の昼飯代と同価格帯の)ハンバーガー類の飲食が可能である。なお『従業員の雇用契約書成立時点から原則2年間は不当な理由での従業員の解雇は労働法違反』となっているl。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "ロシア連邦の海岸線は、カナダ、グリーンランド、インドネシアの海岸線に次いで世界4位の長さとなっている。ロシアの漁業の排他的経済水域(EEZ)は760万平方キロメートルで、内陸のカスピ海と200万本以上の河川を加え、3つの海洋と12ヶ所の海への航路が含まれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "ロシア連邦極東連邦管区沿海地方ナジェジジンスコエ地区に所属する『ナジェジジンスコエ地区・先進経済特区“Nadezhdinskaya Advanced Special Economic Zone (ASEZ)”』はロシア連邦領内最大規模の“スケソウダラ水産加工工場”の拠点である 。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "※2019年10月1日に『欧州委員会』(EC:European Commission) が『家電製品部品在庫保証期間:最低10年』保証明示義務化を採択 、同条約を批准した(欧州最貧国家群でも完全自国生産可能な)“東欧製格安二級品家電製品群”も「低価格と高品質の両立」を既に達成できている事が明らかとなった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "2022年5月12日にロシア連邦領内に公布された政令第855号にて、『Euro(European emission standards)-0』なる独自のEU圏内統一排出ガス規制を制定した。『ヨーロッパ各国で製造された電子工学部品を多数使用するABS(アンチロック・ブレーキ・システム)及びESP(Electronic Stability Program)・エアバッグなどの安全システムを不要とし、標準搭載の安全システムは2点式シートベルト(Two point seat belt)及び3点式シートベルト(Three point seat belt)に限る』とし、完全に国内で生産可能な1988年レベルの技術のみで構築された新車生産・販売が許可されるようになった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "航空機製造はロシアの重要な産業部門であり、約355,300人が雇用されている。航空機産業はロシアにおいて最も科学集約的なハイテク分野の1つであり、数多くのプロフェッショナルたる人材を雇用している。ロシアの航空機産業は、MiG-29やSu-30などの国際競争力のある軍用機のポートフォリオを提供している一方、スホーイ・スーパージェット100などの新しい開発計画が民間航空機部門の運命を復活させることが期待されている。2009年、ユナイテッド・エアクラフトに属する企業は、15機の民間モデルを含む95機の新しい固定翼機を顧客に納入した。さらに、業界は141機以上のヘリコプターを生産している。軍用機部門の生産と金額は他の防衛産業部門をはるかに上回り、航空機製品は国の武器輸出の半分以上を占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "2023年8月12日、『統一航空機製造会社』(United Aircraft Corporation)所属の技術主任の説明によると「外国の潜在的な顧客の要望に応じて、ロシア連邦国内でモスボール保管している300機以上のロシア連邦国内規格型『MiG-29 ファルクラム』をマルチロール戦闘機『MiG-35 スーパー・ファルクラム』に大幅近代化改修して、1機当たり10億ルーブル(2023年12月12日時点の為替レートで“アメリカドルで1094万ドル/日本円で15億9820万円”)の低価格で輸出可能である」との事。また、AESAレーダーへの更新を行った海外向け輸出型『MiG-35 スーパー・ファルクラム』に搭載される“デジタル電子制御式『Klimov RD-33MKM』アフターバーナー付ターボファンエンジン”の双発推力は、アフターバーナー使用時には9.5トン(93kN)×2基(合計推力19トンで機体最大荷重は10Gに達する)。『ファゾトロン(NIIR)』開発の“輸出型Zhuk-AE(FGA-35)・AESAレーダー(Xバンド周波数/シリコン製パワー半導体素子×1016個)”標準装備となっている。なお、オプション装備として“ロシア連邦国内規格型Zhuk-AME(FGA-50)・AESAレーダー(Xバンド周波数/ガリウム砒素製パワー半導体素子×1148個)換装”及び“推力偏向ノズル(TVC)装備”も可能。将来的には(既に開発完了で後は量産するだけの状態まで移行している)アフターバーナー使用時には単発推力11.5トン(112.78kN)を誇る“デジタル電子制御式『Klimov VK-10M』アフターバーナー付ターボファンエンジン換装”も可能。さらに技術主任の説明によれば、「『MiG-35』の『IMA(Integrated Modular Avionics:統合モジュラーアビオニクス)』は機体に搭載された複数のセンサーの情報を統合、機体からおよそ130km離れた遠距離に位置するステルス戦闘機『F-22 ラプター』を捕捉可能であり、更にパイロットに音声会話型エキスパートシステム『Rita』が最適化された情報を音声にて説明する」とのこと。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "ロシアの宇宙産業は100社以上の企業で構成され、25万人が雇用されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "2008年頃に台湾・TSMC社と共同で22nmプロセス以降の微細加工技術の実用量産化を研究していたモスクワの半導体露光装置(ステッパー)メーカー『Mapper LLC』にて、2023年現時点では一品一様・試験的少量生産状態である“汎用用途・16nmプロセス半導体・16コアCPU『Elbrus-16S』(総トランジスタ数:120億個 / 動作周波数2GHz×16コア / 総合演算能力750GFLOPS:演算能力46.875GFLOPS×16コア)” / “汎用用途・16nmプロセス半導体・24コアCPU『ROBODEUS processor』(CPUコア×8+DSPコア×16)” / “汎用用途・16nmプロセス半導体・48コアCPU『Baikal-S Processor』(BE-S1000)”の完全国内製量産技術確立に尽力している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "※ロシア連邦共和国内の半導体技術は(十年)一昔前の『枯れたプロセス・ルール』である『90nm/65nmプロセス・ルール』レガシー半導体(『legacy』とは『過去に築かれた技術的遺産・遺物』の意味)の完全自国生産レベルには到達しており、外国からのCPU供給が全面停止してもロシア連邦共和国内の(自社で設計と製造の両方を手がける製造拠点を構える)半導体製造会社『Mikron』社等の半導体製造施設において(スマート家電等の『IoT:Internet of Things』端末に搭載可能な)実用アプリケーション・ソフトウェア稼働及び産業機械用途組み込み型制御コンピューターなどには十分な性能の『半導体:産業界のライ麦粉』の完成品たるCPUが代替生産にて維持可能である。2023年10月時点でロシア連邦共和国の半導体チップの量産製造技術はリバースエンジニアリング技術の積極的活用により“汎用用途・40nmプロセス半導体・2コアCPU『ELIOT low-power microcontroller』” / “汎用用途・40nmプロセス半導体・6コアCPU『Microprocessor 1892VM14Ya』』(CPUコア×2+DSPコア×2+GPUコア×1+VPUコア×1)”完全国内製量産化に到達、2030年度までに14nmプロセスルールの半導体チップの完全国内製量産化を目指している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "ロシアの軍産複合体は、基本として十月革命後の国家近代化を確実にしたソ連時代のものから引き継がれている。ロシアの国営企業であるロソボロネクスポルト(ロシア語版、英語版、フランス語版)の代行企業によって販売されているSu-27などの製造兵器は、輸出で大きな成功を収めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "ロシアにとって軍需(防衛)産業はソ連時代から重要な地位を占めており、今後も積極的に輸出拡大を続けるとしている。輸出額は2011年は100億ドルを超え、2012年には150億ドルを超えるとされ順調に推移している。民間転用も積極的に行っており、宇宙・航空・情報通信産業など多岐にわたる。しかし、政治的な理由で輸出ができなくなるなど不安定な要素も含んでいる。しかし、ロシアを含め世界の軍事費は今後も増え続けるとされ、軍需産業は今後も拡大を続けるとされている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "IT市場は、ロシア経済における最も動的な分野の1つとなっている。ロシアのソフトウェア輸出は、2000年のわずか1億 2,000万ドルから2010 年の33億ドルまで増加している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "フィンランドのJolla Mobile社とライセンス契約を締結、同社の『Sailfish OS』をベースに開発された派生型OS『Aurora(Sailfish Mobile OS RUS)』をロシア国産の携帯端末向けOSの標準規格とする方針を実施している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "ロシアはもっとも鉱物資源が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は経済産業調査会『鉱業便覧 平成14年版』による2002年時点のもの)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "有機鉱物資源では、天然ガス(2,1807千兆ジュール、21.9パーセント、2位)、原油(3.5億トン、10.3パーセント、2位)、燃料に用いられる亜炭(8,668万トン、9.5パーセント、4位)、石炭(1.6億トン、4.4パーセント、6位)の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国(サウジアラビアと米国)との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と亜炭(88パーセント)と天然ガス(69パーセント)である。一方、原油の国内消費比率は29パーセントと低く、主に輸出されている。ロシアの原油輸出量は世界第2位(1億6,211万トン、2001年)である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "ロシアはエネルギー資源ならびに天然資源が豊富な国家である。天然ガス埋蔵量は世界最大(確認埋蔵量の18%)で、石炭埋蔵量は世界第2位となっている。天然ガス生産国では世界第2位、石油生産国では第3位、石炭生産国では第6位、そして原子力発電生産国としては第4位である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "石油とガスは2017年に連邦予算の36%を占めた。2016年にはヨーロッパの天然ガス輸入の70%以上がロシアから輸入され、原油輸入の3分の1以上もロシアから輸入された。逆に、ロシアの原油輸出のほぼ60%、天然ガス輸出の75%以上はヨーロッパ向けであった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "ロシアのエネルギー部門は自国経済において支配的な位置を占めており、同時に世界最大規模の部門の1つとして認知されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "ロシアは世界有数の観光地として知られている。観光スポットが各地にあり、海外から多くの観光客が訪れている。その中で最も代表的なものとして知られているのは、世界遺産に登録されているサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群や赤の広場である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "ロシア経済に占める貿易の割合は急拡大している。1992年時点では、国民総生産3,978億ドルに対し、輸出が381億ドル、輸入が350億ドルであった。2003年には、国民総生産4,885億ドルに対し輸出は1,260億ドル、輸入524億ドルに増加しており、輸出の伸びが著しい。これは原油および、石油関連の生産・輸出拡大によるものである。ロシアの貿易構造は1992年から2003年までの約10年間で大きく変化してきた。1992年時点ではソ連を構成していた諸国に対する貿易が、輸出で7割、輸入で5割を占め経済ブロックを形成していた。品目では機械と原油、化学工業製品を輸出し、建設機械と軽工業品、食料を輸入していた。ところが、2003年時点では輸出入とも相手国が分散する。原油,石油製品を輸出し、機械、自動車を輸入している。つまり、機械工業の落ち込みと原油輸出の大幅な伸びが特徴と言える。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "1992年時点の輸出品の品目別の比率は、United Nations Statistical Yearbook 2003などによると建築機械(35.0%)、天然ガスを含む原油(14.7%)、化学品(10.6%)、軽工業品(8.1%)、鉄鋼(6.9%)。同輸入品は、建築機械(36.2%)、軽工業品(20.4%)、食料(16.7%)、化学品(7.5%)、鉄鋼(5.0%)。2003年時点の輸出品の品目別の比率は、原油 (27.6%)、石油ガス (13.0%)、石油製品 (10.4%)、鉄鋼 (6.1%)、アルミニウム(2.6%)である。2003年時点の貿易相手国は輸出相手国が順に、オランダ(6.2%)、中国、ベラルーシ、ドイツ、ウクライナ、輸入相手国が順にドイツ(14.1%)、ベラルーシ、ウクライナ、中国、アメリカとなっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "日本との貿易は順調に拡大している。日本からの輸入額は15億ドルから45億ドルへ、輸出額は28億ドルから62億ドルに伸びている。品目は輸入を中心に変化した。日本への輸出の変化を見ると、1992年時点は魚介類、木材の2品目で5割弱を占め、アルミニウム(アルミニウム合金を含む)、石炭、白金が続いた。これが2003年になるとアルミニウム(アルミニウム合金を含む、22.4%)、魚介類、石炭、木材、原油となった。輸入は、機械類(26.7%)、鉄鋼、電気機械、自動車、プラスチックであったものが、乗用車(62.1%)、建設機械(6.4%)、映像機器、通信機器、バスに変わった。品目が自動車に集中したことになる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "ロシア鉄道のシベリア鉄道などをはじめとする客車での運転スタイルが基本。 エレクトリーチカーなど例外もある。 ロシア鉄道の運行するシベリア鉄道を7日間かけて全線走破する特急ロシア号(ウエラジオストク駅→ヤロフラススキー駅) 同じくロシア鉄道の運行する特急オケアン(太洋) 号(ウエラジオストク駅→ハバロフスク駅) などが有名である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "2023年11月1日、高バイパス比ターボファンジェット『PS-90A3M』(単発推力:17500kgf)を4発搭載した大型ワイドボディ旅客機『Il-96-400M』の初飛行に成功、2030年度までに高バイパス比ギヤードターボファンジェット『PD-35』(単発推力:35000kgf)を2発搭載した双発機に改修予定。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "ロシアの科学技術は、ピョートル大帝がロシア科学アカデミーとサンクトペテルブルク大学を設立し、博学者ミハイル・ロモノーソフがモスクワ大学を設立した啓蒙時代から急速に発展した。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "19世紀から20世紀にかけて、ロシアは多くの著名な科学者を輩出しており、物理学、天文学、数学、コンピューティング、化学、生物学、地質学、地理学などの学系分野に重要な貢献を果たしている。 元素周期表のドミトリ・メンデレーエフ、近年ではポアンカレ予想のグリゴリー・ペレルマンなどが著名である。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "なお、ロシアにおいて発明家や技術者の存在は、電気工学、造船、航空宇宙、兵器、通信、IT、核技術、宇宙技術などに幅広く影響を及ぼしている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "20世紀のロシアの人口動態は、第一次大戦・干渉戦争期そして第二次世界大戦期と2度にわたって激減したが、その後は回復傾向にあった。しかし、1992年以降再び人口減少が続き、1992年で最大1億4,800万人いた人口が、2050年には1億1,000万人程度まで減少すると見られている。原因には、出生率の低下や男性の平均寿命がきわめて短くなっていることがある。ロシアの男性の平均寿命は1987年以降短くなる傾向にあり、世界銀行の統計によると1994年には57.6歳まで低下した。その後回復し、2017年時点では67.5歳である。女性は、1993年に71.2歳まで低下したが、2017年には77.6歳と上昇、男女差は10歳ときわめて大きいままである。ちなみに2008年、OECD諸国の平均は男性77.2歳、女性82.8歳と男女差は6歳程度である。続いていた人口減少は2012年に止まり、2014年のクリミア併合で人口増加に転じたが2016年の減少に戻り2020年は約51万人の減少となった。また、出生率も2015年には1.78をピークに上昇したが、2018年時点では1.5人程である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "ロシアには182の民族が住み、移民は約700万人とされる多民族国家である。2010年の統計によると約80パーセントは東スラブ系民族となっており、ロシア人(民族)が全人口の77.71パーセントを占める。同じ東スラブ人のウクライナ人の割合も1.35パーセントと全体の3位となっており、ベラルーシ人やポーランド人を含めたスラブ系全体では82.7パーセントを占める。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "テュルク系のタタール人はロシア人に次いで多い民族集団となっており全体の3.72パーセントを占め、バシキール人やチュヴァシ人、トゥヴァ人、アルタイ人、カザフ人、ウズベク人、アゼルバイジャン人、サハ人などのテュルク系民族はロシア全体の8.7パーセントを占める。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "コーカサス系で最も多いのがチェチェン人で全体では6位の1パーセントを占め、イングーシ人、オセット人、アヴァール人、アルメニア人、グルジア人などを合わせるとコーカサス系民族はテュルク系に次いで多い3.7パーセントを占めている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "ウラル系はマリ人、モルドヴィン人、カレリア人、ウドムルト人、ネネツ人などで構成され、全体の1.6パーセントを占めている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "そのほか、モンゴル系民族のカルムィク人、ブリヤート人、ツングース系民族のエヴェンキ人、エスキモー系のユピク人、さらに、ユダヤ人やゲルマン系のドイツ人など多くの非スラヴ系民族がいるが、公用語であるロシア語が民族共和国を含め全域でほぼ完全に通用する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "ロシア語が公用語である。ロシアの各共和国の公用語として以下の29言語がある: アバザ語、アディゲ語、アルタイ語、アヴァル語、アゼルバイジャン語、バシキール語、ブリヤート語、チェチェン語、チュヴァシ語、エルジャ語、イングーシ語、カザフ語、カバルド語、カルムイク語(Kalmyk Oirat)、カラチャイ・バルカル語、ハカス語、コミ・ジリエーン語(コミ語)、レズギ語、マンシ語、マリ語、モクシャ語、ノガイ語、オセット語、タタール語、トゥバ語、ウドムルト語、サハ語、ウクライナ語、クリミア・タタール語。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "法律上結婚可能な年齢は成人となる年齢と同じ18歳である。ただし尊重すべき理由があるときはそれ以下の年齢でも認められる場合がある(ロシア連邦家族法典 13条。2017年12月29日改定を閲覧)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "結婚後の姓は夫婦どちらかの姓に合わせる(同姓)、結婚前のまま(別姓)、姓を結合する(二重姓)の3通りあり(家族法典32条)、同姓の場合は妻が夫の姓に合わせることが多い。なおロシア連邦民法典19条により個人の姓・名前・父称の変更は一定の手続きにより可能である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "婚姻登録の申請は特別な事情がある場合を除き、結婚する1か月前までに行う(家族法典(ロシア語版、英語版)11条)。宗教やほかの形式での結婚式が行われることもあるが、家族関係や出生・死亡を扱う市民登記機関であるザックス(ロシア語: ЗАГС、ザークスなどとも表記)にある結婚式場で婚姻の署名などを式典形式で行う結婚式がよく行われる。これはソビエト連邦時代からのものである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "ロシアでは同性結婚は違法となっており、2020年以降、同国憲法においても同性結婚を明示的に禁止している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "ロシア人を含めた多くの民族がキリスト教正教会の信徒であるが、カトリック、プロテスタントやイスラム教、ユダヤ教、仏教などの信徒も少なくない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "2023年8月、9月の新学期から16~18歳の学生向けに使用される初めての全国統一歴史教科書が導入された。内容は、ソ連崩壊からプーチン統治時代、ウクライナ侵攻の原因に至るまで、ほぼ完璧にプーチンの歴史観と政権が用いている解釈が映し出されており、プーチン政権によるプロパガンダが強調される形となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "ロシア憲法においては、全市民へ無料のユニバーサルヘルスケアが保障されている。しかし無料で医療が受けられる範囲は、法定の範囲に限定されている。ロシアの人口1人あたりの医師数・病院数・医療従事者数は世界の中で最も多く、一時はソ連崩壊によって社会・経済・生活様式の変化を受けて悪化したが、しかし2000年代半ばからは回復しており、平均余命は2006年と比べて男性で2.4年、女性で1.4年ほど長くなった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "2009年には、ロシアの平均余命は男性で62.77歳、女性で74.67歳であった。平均余命の男女差が大きい理由は、主に労働年齢層での死亡率の高さに起因し、それは予防可能な死(アルコール依存、喫煙、交通事故、暴力犯罪)であった。このような男女の余命差と第二次世界大戦の戦死者によって人口男女差(英語版)は大きく、女性1人あたり男性0.859人となっている。ロシア政府は2006年から本格的に少子化対策や医療対策に取り組んでおり、その後の出生率や死亡率は徐々に改善されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "年金の支給は男性が60歳から、女性が55歳となっているが2018年に引き上げが決定し、2030年までに引き上げが行われる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "世界動物保護協会の、動物保護指数によると、A-Gの7段階評価で、ロシアはDである。そのうち畜産動物保護の指数は、日本と同じく最低ランクのGとなっている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "2022年9月に、家畜の屠殺を規制する新しい規則が施行され、屠殺は「人道的な方法」で行うべきなどと規定された。しかし人道的な方法が明確化されていないため、動物保護団体から抗議されている。ロシア獣医師会会長は、牛は不適切に扱われているが「お金をたくさん払うよりも、安くて残酷な方法を使う方が簡単だからだ」と述べている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "2022年ロシアのウクライナ侵攻に伴う労働力不足を移民で賄おうとする『Moving to russia』政策 が始動、プロパガンダ的要素が強い移民推奨動画『Time to move to Russia!』等が製作された。ただ、『基本医療費無償・高齢者年金・障碍者年金・生活保護:基本的社会保障三点セット』しかない東欧諸国の生活水準でも『菜園付き別荘』所有可能なレベルなので、“ロシア人女性と結婚して付属品の『公営住宅』と『菜園付き別荘』も手に入れたい”と願う友好国からの移民希望者は多い。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "ロシアの治安は不安定さが幾ヶ所に見受けられる面を持つ。同国内務省が発表した「2017年時におけるロシア国内の犯罪情勢」によれば、全犯罪の登録件数約2058,500件(4.7%減)の内93.0%が摘発されており、同年にロシアで認知された「テロ行為」は37件(前年比+48%)、テロに準じた犯罪を含む「テロの性格を有する犯罪」は1,871件(前年比-16%)発生している。傍らで犯罪による死亡者数は29,300人 (0.5%増)で、公共施設における犯罪件数は738,000件(6.6%減)となっている。都市部では外国人を狙った強盗やスリ、置き引き、詐欺、クレジットカードやキャッシュカードのスキミングなどの犯罪が多発しており、被害者の中には日本人も含まれているとの報告がある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "一方で、一般国民による反体制抗議運動は、集会法の罰則強化を始めとする当局による規制の強化により実施されにくい状況になっているものの、それにも拘わらず首都モスクワ市内では反政権活動家による抗議集会などが開催されており、参加者が数万人規模となることもあるとされている。これらの活動は現時点において平穏に行なわれているが、一部の無許可集会などの参加者が治安当局に逮捕されることもあり、旅行などで同国を訪れたり滞在する際にはトラブルを回避する為にもそれらの集会やデモには近付かず干渉しないことを心掛ける必要性が求められる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "国民の4人中3人がロシア正教徒で構成されているロシア連邦では「同性愛は聖書で禁止されている」ので蛇蝎の如く嫌われるが、挨拶代わりの「フレンチキス」や「ハグ」は握手と同様の社交辞令であり問題とはされない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "現状、この節は日本語版記事があるものが列挙されているだけであり、主要なものを紹介しているとはいえない状態である。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "ロシアにおける検閲、言論の自由についての批判は、それぞれロシアにおける検閲、ロシアにおける報道の自由(英語版)を参照。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "新聞", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "出版社", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "公的機関も含め、YouTubeやInstagramの利用も盛んである。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "「子供番組の低予算放送枠内でもフルCGによる作画崩壊無い高品質のアニメーションが製作できる」体制がほぼ確立したため、アニメ制作現場ではCGアニメーション主流となっている。なお2Dアニメは「CGによって手描きアニメーション風の作画(セル画)でレンダリング、手描き風の表現による親しみやすい表現と懐かしさを表現する手法」としてセルルックCGアニメーションが確立、セルライクなアニメが絶滅したわけではない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "ロシア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が16件、自然遺産が10件存在する(2015年の第39回世界遺産委員会終了時点)。そこには、モンゴルと共有する自然遺産が1件、リトアニアとだけ共有する文化遺産が1件、ウクライナ、エストニア、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ベラルーシ、モルドバ、ラトビア、リトアニアと共有する文化遺産1件が含まれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "クリスマスが1月7日なのは、キリスト教の宗教行事はロシア正教が公認しているユリウス暦に基づいて行われていることによる(正教会ではほかにエルサレム総主教庁、グルジア正教会、セルビア正教会、アトス山などがユリウス暦を採用している)。現在の暦であるグレゴリオ暦は、歴史的にはカトリック側が作った暦となっているためである。すなわちグレゴリオ暦(新暦)12月25日がユリウス暦(旧暦)の1月7日に相当する。2100年2月28日まではグレゴリオ暦とユリウス暦のずれは13日である。「旧正月」も同様の理由から1月14日に祝う。ソ連時代は1917年にロシア革命でソヴィエト政権が成立した11月7日が革命記念日として最大の祝日になっていたが、プーチン政権は2005年にこれを廃止し、帝政時代に「モスクワ解放記念日」となっていた11月4日を「国民団結の日」として復活させた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "ソ連時代からオリンピックで毎回優れた成績を残しており、メダル獲得数では上位にランクされることが多い。また、ロシアは1980年のモスクワオリンピックをはじめ、国際スポーツ競技大会の開催も数多い。2014年には黒海沿岸のソチで冬季オリンピック(2014年ソチオリンピック)を、2018年にはサッカーのワールドカップ(2018 FIFAワールドカップ)を開催している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "国内プロリーグとしては、1992年に創設されたサッカーリーグの「ロシア・プレミアリーグ」や、2008年に創立されたアイスホッケーの「コンチネンタル・ホッケー・リーグ」などがある。また、ソ連崩壊の前後から多くのロシア人指導者が国外に移住し、陸上競技、フェンシング、体操競技、新体操、アーティスティックスイミング、フィギュアスケートなどの種目で世界各国の選手を指導している。ロシア・旧ソ連発祥のスポーツとしては、日本の柔道と西洋のレスリングなどをベースに編み出されたサンボが挙げられる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "ロシアサッカー連合(RFU)によって構成されるサッカーロシア代表は、これまでUEFA欧州選手権には6度の出場歴があり、2008年大会ではアンドレイ・アルシャヴィンやロマン・パヴリュチェンコなどの活躍によりベスト4に輝いた。さらにFIFAワールドカップには4度の出場歴があり、2018年大会ではベスト8の成績を収めた。しかし続く2022年大会には、ロシアによるウクライナ侵攻に対して国際サッカー連盟(FIFA)が代表チームに参加停止の制裁を課した為、不戦敗で予選敗退となった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "他方で、ドーピング問題で国家的な関与があったとして国際的な非難がされている。2018年平昌オリンピックでは国家としての参加が認められず、ロシアの選手はOAR(オリンピック・アスリート・フロム・ロシア)という呼称で個人での参加となった。このオリンピックでは、公式記録上はOARとしての記録である。また、優勝しても国旗の掲揚や国歌の演奏はされず、代わりにオリンピック旗が掲揚され、オリンピック賛歌が演奏された。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "この平昌大会から正式競技となったカーリング混合ダブルスで、当初は銅メダルを獲得したロシアのペアのドーピングが発覚しメダルを返還するなど、アンチドーピング対策が大きな課題となっている。さらに2019年に世界アンチ・ドーピング機関は、ロシアのドーピングのデータ改ざんに対して4年間国としての参加を認めない処分を決定した。それにより2021年の東京オリンピックと2022年北京オリンピックでは、ROC・RPCとして大会に参加した。", "title": "スポーツ" } ]
ロシア連邦、通称ロシアは、ユーラシア大陸北部に位置する連邦共和制国家である。首都はモスクワ市。 国土は旧ロシア帝国およびソビエト連邦の大半を引き継いでおり、ヨーロッパからシベリア・極東に及ぶ。面積は17,090,000 km2(平方キロメートル)以上と世界最大である。
{{Otheruses|'''[[1991年]]に成立したロシア連邦'''|[[その他]]の[[国家]]・[[政体]]・[[歴史|歴史的]]ロシア}} {{最新の出来事の関連|2022年ロシアのウクライナ侵攻|date=2022年2月}} {{基礎情報 国 |略名 = ロシア |日本語国名 = ロシア連邦 |公式国名 = '''{{Lang|ru|Российская Федерация}}''' |国旗画像 = Flag of Russian Empire.svg |国章画像 = [[ファイル:Coat of Arms of the Russian Federation.svg|100px|ロシアの国章]]<!-- 国章画像の削除の議論は、ファイル:Russia coa.svgに限定されている --> |国章リンク = ([[ロシアの国章|国章]]) |標語 = なし |国歌 = [[ロシア連邦国歌|{{lang|ru| Госуда́рственный гимн Росси́йской Федера́ции}}]]{{ru icon}}<br/>''ロシア連邦国歌''<br/>{{center|[[File:Russian_Anthem_chorus.ogg]]}} [[愛国歌 (ロシア連邦)|{{lang|ru|Патриоти́ческая пе́сня}}]]{{ru icon}}<br>''愛国歌''<br>(1991年 - 2000年)<br>{{center|[[File:The_Patriotic_Song,_First_Performance_on_November_27,_1990.ogg|Patrioticheskaya-pesnya-27111990]]}} |位置画像 = Russian Federation (orthographic projection) - Annexed Territories disputed.svg |公用語 = [[ロシア語]]<ref group="注記">[[ロシアの共和国|連邦構成主体の各共和国]]は連邦公用語(ロシア語)とは別に、自らの公用語を定めうることが憲法で認められている。</ref> |首都 = [[モスクワ]] |最大都市 = モスクワ([[ヨーロッパロシア]])<br/>[[ノヴォシビルスク]]([[シベリア]])<br/>[[ハバロフスク]]([[極東ロシア]]) |元首等肩書 = [[ロシアの大統領|大統領]] |元首等氏名 = [[ウラジーミル・プーチン]] |首相等肩書 = [[ロシアの首相|連邦政府議長]] |首相等氏名 = [[ミハイル・ミシュスチン]] |他元首等肩書2 = [[連邦院 (ロシア)|連邦院議長]] |他元首等氏名2 = [[ワレンチナ・マトヴィエンコ]] |他元首等肩書3 = [[国家院 (ロシア)|国家院議長]] |他元首等氏名3 = [[ヴャチェスラフ・ヴォロージン]] |他元首等肩書4 = 最高裁判所長官 |他元首等氏名4 = [[ヴャチェスラフ・レベデフ]] |他元首等肩書1 = [[ロシア連邦安全保障会議|安全保障会議副議長]] |他元首等氏名1 = [[ドミートリー・メドヴェージェフ]] |面積順位 = 1 |面積大きさ = 1 E13 |面積値 = 17,234,033<ref group="注記">[[ドネツク人民共和国 (ロシア連邦)|ドネツク人民共和国]]、[[ルガンスク人民共和国 (ロシア連邦)|ルガンスク人民共和国]]、[[ヘルソン州 (ロシア連邦)|ヘルソン州]]、[[ザポロージェ州 (ロシア連邦)|ザポロージェ州]]、[[クリミア共和国]]、[[セヴァストポリ|セヴァストポリ連邦市]]、[[北方地域|北方領土]]を含む。</ref><br/>17,093,311 |水面積率 = 0.5% |人口統計年 = 2022 |人口順位 = 9 |人口大きさ = 1 E8 |人口値 = 142,021,981 |人口密度値 = 8.30 |人口追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/russia/ |title=Russia |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月19日}}</ref> |GDP統計年元 = 2020 |GDP値元 = 106兆9674億6000万<ref name="IMF202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=922,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|date = 2021-10|accessdate=2021-10-29}}</ref> |GDP統計年MER = 2020 |GDP順位MER = 11 |GDP値MER = 1兆4785億7100万<ref name="IMF202110" /> |GDP MER/人 = 1万115.35<ref name="IMF202110" /> |GDP統計年 = 2020 |GDP順位 = 6 |GDP値 = 4兆1004億7500万<ref name="IMF202110" /> |GDP/人 = 2万8052.589<ref name="IMF202110" /> |建国形態 = 建国 |確立形態1 = [[ノヴゴロド公国]] |確立年月日1 = [[862年]] |確立形態2 = [[キエフ大公国]] |確立年月日2 = [[882年]] |確立形態3 = [[モスクワ大公国]] |確立年月日3 = [[1263年]] |確立形態4 = [[ロシア・ツァーリ国]] |確立年月日4 = [[1547年]][[1月16日]] |確立形態5 = [[ロシア帝国]] |確立年月日5 = [[1721年]][[10月22日]] |確立形態6 = [[ロシア臨時政府]] |確立年月日6 = [[1917年]][[3月16日]] |確立形態7 = [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]成立 |確立年月日7 = [[1917年]][[11月7日]] |確立形態8 = [[ソビエト連邦]]が発足、同国の[[ソ連構成共和国|構成国]]となる。 |確立年月日8 = [[1922年]][[12月30日]] |確立形態9 = [[ソビエト連邦の崩壊]]により独立 |確立年月日9 = [[1991年]][[12月26日]] |通貨 = [[ロシア・ルーブル]] |通貨コード = RUB |時間帯 = +2 - +12 |夏時間 = なし |ISO 3166-1 = RU / RUS |ccTLD = [[.ru]] [[.рф]] |国際電話番号 = 7 |注記 = {{Reflist|group=注記}} }} '''ロシア連邦'''(ロシアれんぽう、{{lang-ru|Российская Федерация}})、通称'''ロシア'''({{lang-ru|Россия}})は、[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]北部に位置する[[連邦共和国|連邦共和制国家]]である。[[首都]]は[[モスクワ|モスクワ市]]。 [[国土]]は旧[[ロシア帝国]]および[[ソビエト連邦]]の大半を引き継いでおり、[[ヨーロッパロシア|ヨーロッパ]]から[[シベリア]]・[[極東ロシア|極東]]に及ぶ。面積は17,090,000 km<sup>2</sup>(平方キロメートル)以上と[[国家・地域に関する世界一の一覧#国家・地域に関する統計|世界最大]]である<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/men_o.html キッズ外務省 > 世界いろいろ雑学ランキング > 面積の大きい国] 日本国外務省(2021年7月24日閲覧)</ref>。 {{TOC limit}} == 概要 == {{Bar chart|title=[[民主主義指数]](2022年)|float=right|data_max=10|label_type=国 |data_type=民主主義指数 |label1=ドイツ|data1=8.80|label2=イギリス|data2=8.28|label3=フランス|data3=8.07|label4=イタリア|data4=7.69|label5=世界平均|data5=5.29|label6=ロシア|data6=2.28}} {{Bar chart|title=[[世界報道自由度ランキング]](2023年)|float=right|data_max=100|label_type=国 |data_type=世界報道自由度 |label1=ドイツ|data1=81.91|label2=フランス|data2=78.72|label3=イギリス|data3=78.51|label4=イタリア|data4=72.05|label5=ロシア|data5=34.77}} ロシアは[[国際連合安全保障理事会常任理事国]]であり、旧[[ソビエト連邦構成共和国]]でつくる[[独立国家共同体]](CIS)の指導国であるだけでなく、[[G20]]、[[アジア太平洋経済協力]](APEC)、[[上海協力機構]]、[[ユーラシア経済共同体]]、[[欧州安全保障協力機構]]、[[世界貿易機関]](WTO)などの加盟国である。かつて[[主要国首脳会議|G8]]加盟国であったが、[[2014年]]3月に[[ロシアによるクリミアの併合|クリミアの併合]]を強行したことでG8の参加資格を停止された<ref name="sankei.com">{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20200603-QTGRFZ4SHRK47ODTTWNUVZJ52E/ |title=米はG7枠組み変える権限なし、EU外相が批判|newspaper=[[産経新聞]]|date=2020-06-03|accessdate=2022-03-08}}</ref>。 [[核拡散防止条約]]により[[核兵器]]の保有を認められた5つの[[核保有国の一覧|公式核保有国]]の1つであり、{{仮リンク|ロシアと大量破壊兵器|en|Russia and weapons of mass destruction|label=世界最大の大量破壊兵器保有国}}である。国防費は2010年以降増加の一途を辿っている<ref name="gaimu"/>。[[常備軍]]の[[ロシア連邦軍]]は[[ロシア陸軍|地上軍]]・[[ロシア海軍|海軍]]・[[ロシア航空宇宙軍|航空宇宙軍]]の3軍の他、[[ロシア戦略ロケット軍|戦略ロケット軍]]と[[ロシア空挺軍|空挺軍]]の2つの独立兵科で構成されている。運用面では地理的に分割された[[軍管区]]に権限が委譲されており、それぞれに統合戦略[[コマンド (部隊編成)|コマンド]]が設置されて3軍と通常[[兵器]]部隊を指揮している([[戦略核兵器]]部隊は指揮権外)。現役軍人は約90万人である<ref name="gaimu"/>が、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]に伴う大量の戦死傷・[[捕虜]]や[[動員]]で変動しており、さらにロシア政府は2026年にかけて軍の定員を150万人へ増やす計画を進めている<ref>「[https://www.yomiuri.co.jp/world/20230118-OYT1T50099/ ロシア、軍の定員35万人増の150万人へ…ウクライナ侵略の長期化示す狙いか]」[[読売新聞]]オンライン(2023年1月18日)2023年5月5日閲覧</ref>。 [[政治体制]]は、[[ソビエト連邦の崩壊]]に前後して[[ソビエト共産党]]による[[一党独裁制]]が放棄されて[[複数政党制]]に基づく選挙が行われるようになったが、[[2003年]]以降は事実上[[ウラジーミル・プーチン]][[ロシア連邦大統領|大統領]]率いる[[与党]]「[[統一ロシア]]」の[[一党優位政党制]]になっている<ref name="mypedia"/>。複数政党制や選挙は一応存在するが、選挙から反体制派候補を排除するなどプーチン体制に有利な政治制度が構築されており、政治的意思を表明する機会に乏しい<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20200508-6AT3JSH5QJILRPUR73KNZFBWZY/2/ |title=【特派員発】反政権強める「プーチンの子供たち」 小野田雄一|newspaper=産経新聞|date=2020-05-08|accessdate=2022-03-08}}</ref>。「法の独裁」による統治を目指す強権的体質が内外から批判されており<ref name="mypedia"/>、[[エコノミスト]]誌傘下の研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]による[[民主主義指数]]は、世界134位と下位で「[[独裁政治]]体制」に分類されている(2019年度)<ref>[https://www.eiu.com/topic/democracy-index EIU Democracy Index - World Democracy Report]</ref>。 [[言論の自由]]に関しても、[[国境なき記者団]]による[[世界報道自由度ランキング]]は149位と下位である(2020年度)<ref>[https://rsf.org/en/ranking/ 国境なき記者団公式ホームページ]</ref>。特に、[[2022年]]のウクライナ侵攻以降は「広範囲に[[検閲]]を行うなどして[[ニュース]]や[[情報]]を完全に支配している」と非難されており2022年は155位<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/82062.html|title=報道の自由度 日本 世界71位 順位を4つ下げる|publisher=NHK政治マガジン|date=2022-05-04|accessdate=2023-08-12}}</ref>、2023年は164位と大幅に順位を落としている。 領土や軍事力に比べて[[ロシアの経済]]は国際的地位が低いものの、[[2014年]]時点の[[国内総生産|名目GDP]]は[[国の国内総生産順リスト (為替レート)|世界第9位]]([[発展途上国]]に有利になる[[購買力平価説|購買力平価]]では[[国の国内総生産順リスト (購買力平価)|世界第6位]])であった<ref name="data.worldbank.org">[http://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.MKTP.PP.CD?order=wbapi_data_value_2012+wbapi_data_value+wbapi_data_value-last&sort=desc GDP, PPP (current international $) | Data | Table<!-- Bot generated title -->]</ref>。鉱物及びエネルギー資源は世界最大の埋蔵量であり<ref>{{cite web |url = http://www.unesco.ru/en/?module=pages&action=view&id=1 |title = Commission of the Russian Federation for UNESCO: Panorama of Russia |publisher = [[ユネスコ|Unesco.ru]] |accessdate = 29 October 2010 }}</ref>、{{仮リンク|各国の原油生産量順リスト|en|List of countries by oil production|label=世界最大の原油生産国}}および{{仮リンク|各国の天然ガス生産量順リスト|en|List of countries by natural gas production|label=世界最大の天然ガス生産国}}の一つである。しかし資源依存の経済体質であるため、原油安の時期は経済が停滞する<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO58785840V00C20A5FF8000/ プーチン政権、遠のく「強国」発足20年 資源に依存、原油安直撃 コロナも痛手、5選に影]『[[日本経済新聞]]』</ref>。加えて[[2014年]]に[[ロシアによるクリミアの併合|クリミア併合]]を強行したことにより欧米から経済制裁を受けて更なる打撃を受けている<ref>「[https://web.archive.org/web/20201230003744/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122900573&g=int ロシア、勢力圏への影響力低下 経済停滞、欧米と対立続く―21年、好転兆し見えず]{{リンク切れ|date=2023年5月}}」[[時事通信]]</ref>。2022年には[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ウクライナへ侵攻]]したことで[[国際銀行間通信協会|SWIFT]]からの排除など更なる経済制裁を受けている<ref>「[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220227/k10013503441000.html 国際的決済網“SWIFT”からロシアの銀行締め出す制裁へ 米・欧]」[[日本放送協会|NHK]](2022年2月27日)2023年5月6日閲覧</ref>。 2023年時点ではロシアは世界第2位の[[仮想通貨]]の[[マイニング (仮想通貨)|マイニング]]大国であり、また[[ブロックチェーン]]技術を使用した国際決済の推進や新たな機関を設立する計画を進めている<ref>{{Cite web |title=Russia Becomes World’s Second-Largest Crypto Miner |url=https://www.themoscowtimes.com/2023/04/07/russia-becomes-worlds-second-largest-crypto-miner-a80749 |website=The Moscow Times |date=2023-04-07 |access-date=2023-04-24 |language=en |first=The Moscow |last=Times}}</ref><ref>{{Cite web |title=Putin calls for blockchain-based international payment system |url=https://cointelegraph.com/news/putin-calls-for-blockchain-based-international-payment-system |website=Cointelegraph |access-date=2023-04-24 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=経済制裁に苦しむロシア、抜け道を発見 仮想通貨市場を創設へ |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/01/post-100494.php |website=[[ニューズウィーク]]日本版 |date=2023-01-05 |access-date=2023-04-24 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロシア、仮想通貨で制裁回避へ 国際決済に仮想通貨導入計画 |url=https://jp.cointelegraph.com/news/bank-of-russia-to-set-up-entities-for-crypto-mining-and-cross-border-settlement-report |website=Cointelegraph |access-date=2023-04-24 |language=ja}}</ref>。 人口は[[ロシア連邦国家統計庁]]によれば1億4680万人(2017年時点。ソ連時代の1990年には2億8862万人だった)<ref name="gaimu">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/russia/data.html 外務省ロシア基礎データ]</ref>であり、[[国の人口順リスト|世界第9位]]、ヨーロッパで最も多い人口である<ref name="popstat">{{ru icon}} [http://www.gks.ru/bgd/free/B12_00/IssWWW.exe/Stg/dk10/8-0.htm Official estimate] as of 1 September 2012.</ref>。最大の民族は[[ロシア人]]だが、[[ウクライナ人]]や[[ベラルーシ人]]や[[トルコ]]系の[[ウズベク人]]、またシベリアや極東の少数民族なども存在し、合計で100以上の民族がある。[[公用語]]は[[ロシア語]]だが、少数民族の言語も存在する<ref name="mypedia"/>。宗教は[[キリスト教徒]]が人口の60%を占め、その大半が[[ロシア正教会]]の信者である。[[ロシアにおけるイスラーム|イスラム教徒]]も人口の8%ほどおり、[[ロシアの仏教|仏教徒]]も存在する<ref name="mypedia"/>。 地理としては[[ロシアの国境]]は、北西から南東へ、[[ノルウェー]]、[[フィンランド]]、[[エストニア]]、[[ラトビア]]、ともに[[カリーニングラード州]]と隣接する[[リトアニア]]および[[ポーランド]]、[[ベラルーシ]]、[[ウクライナ]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]、[[アゼルバイジャン]]、[[カザフスタン]]、[[中華人民共和国]]、[[モンゴル国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]]と接する。[[w:Maritime boundary|海上境界線]]としては、[[日本]]とは[[オホーツク海]]・[[宗谷海峡]]・[[根室海峡]]・[[珸瑤瑁水道]]、[[アメリカ合衆国]][[アラスカ州]]とは[[ベーリング海峡]]を挟んで向かい合う。ロシアの国土[[面積]]は17,075,400{{nbsp}}km<sup>2</sup>で[[国の面積順リスト|世界最大]]であり、[[地球]]上の居住地域の8分の1を占める。国土が[[北アジア]]全体および[[東ヨーロッパ]]の大部分に広がることに伴い、ロシアは[[ロシア時間|11の標準時]]を有し、{{仮リンク|ロシアの環境|en|Environment of Russia|label=広範な環境および地形を包含する}}。 === 経緯 === [[ロシアの歴史]]は、[[3世紀]]から[[8世紀]]までの間に[[ヨーロッパ]]で認識され始めた[[東スラヴ人]]の歴史に始まる<ref name=autogenerated1>{{cite web |url = http://www.britannica.com/EBchecked/topic/513251/Russia/38597/The-Indo-European-group?anchor=ref422350 |title = Russia |publisher = Encyclopædia Britannica |accessdate = 31 January 2008 }}</ref>。[[9世紀]]、[[ヴァリャーグ]]の戦士の精鋭およびその子孫により設立・統治され、[[キエフ大公国]]の[[中世]]国家が誕生した。988年、[[東ローマ帝国]]から[[キリスト教]][[正教会]]を導入し、[[ロシア建国一千年祭記念碑像|次の千年紀]]の{{仮リンク|ロシアの文化|en|Russian culture|label=ロシア文化}}を特徴づける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった<ref name=Curtis>{{cite web |last = Excerpted from Glenn E. Curtis (ed.) |title = Russia: A Country Study: Kievan Rus' and Mongol Periods |publisher = Washington, D.C.: Federal Research Division of the [[Library of Congress]] |year = 1998 |url = http://www.shsu.edu/~his_ncp/Kievan.html |accessdate = 20 July 2007 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070927230631/http://www.shsu.edu/~his_ncp/Kievan.html |archivedate = 2007年9月27日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。キエフ大公国は最終的に多くの国に分裂し、13世紀には領土の大部分が[[モンゴルのルーシ侵攻|モンゴルに侵略]]され、遊牧国家[[ジョチ・ウルス]]の属国になり、ロシアが西洋から隔絶される原因となった([[タタールのくびき]])<ref>[[w:Michael Prawdin|Michael Prawdin]] and Gérard Chaliand, ''The Mongol Empire: Its Rise and Legacy'' (2005) pp.&nbsp;512–550</ref>。[[モスクワ大公国]]は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、キエフ大公国の文化的・政治的な遺産を支配するようになった。[[クリコヴォの戦い]]でジョチ・ウルスを破った後、ジョチ・ウルスは衰退し、[[イヴァン3世]](イヴァン大帝)の時代に独立した。東ロシアのほとんどがモスクワ大公国に服した<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD-142380 モスクワ大公] [[ブリタニカ国際大百科事典]]</ref>。[[16世紀]]中ごろに[[イヴァン4世]](イヴァン雷帝)が[[ロシア・ツァーリ国|モスクワ帝国]]を建設した。[[ピョートル大帝]]は、ロシア人が[[バルト海]]に行く道を確保し、[[1703年]]にバルト海に面する[[サンクトペテルブルク]]を建設した。[[1712年]]にサンクトペテルブルクはロシアの首都になり、[[1721年]]に[[ロシア帝国|ロシアは帝国]]になった。周辺諸国の併合などを繰り返し、史上[[帝国の最大領域一覧|第3位の領土を持つ帝国]]となり、版図はポーランドから、[[北アメリカ大陸]]北西部([[ロシア領アメリカ]]、後に[[アラスカ購入|アメリカ合衆国へ売却]])まで広がった<ref>{{cite journal |author = Rein Taagepera |authorlink = w:Rein Taagepera |title = Expansion and Contraction Patterns of Large Polities: Context for Russia |journal = [[w:International Studies Quarterly|International Studies Quarterly]] |volume = 41 |issue = 3 |pages = 475–504 |year = 1997 |doi = 10.1111/0020-8833.00053 }}</ref><ref>Peter Turchin, Thomas D. Hall and Jonathan M. Adams, "[http://jwsr.ucr.edu/archive/vol12/number2/pdf/jwsr-v12n2-tah.pdf East-West Orientation of Historical Empires] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070222011511/http://jwsr.ucr.edu/archive/vol12/number2/pdf/jwsr-v12n2-tah.pdf |date=2007年2月22日 }}", ''Journal of World-Systems Research'' Vol. 12 (no. 2), pp. 219–229 (2006).</ref>。 [[1917年]]の[[十月革命|ロシア革命]]の後、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]が[[ソビエト連邦]]最大かつ指導的な構成国となった。[[スターリン]]時代には[[大粛清]]で国民を弾圧する一方で、工業化と軍拡、周辺国の侵略([[バルト諸国占領]]やフィンランドに対する[[冬戦争]])を進めた。[[第二次世界大戦]]では[[ナチス・ドイツ]]の先制攻撃を受けた後に反撃に転じ([[独ソ戦]])、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の勝利に決定的な役割を果たした<ref>{{Cite book |author = Weinberg, G. L.|title=A World at Arms: A Global History of World War&nbsp;II |isbn = 0-521-55879-4 |publisher = Cambridge University Press |page = 264 |year = 1995 }}</ref><ref>Rozhnov, Konstantin, "[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4508901.stm Who won World War&nbsp;II?]"[[英国放送協会|BBC]]</ref>。こうして世界初の憲法上の[[社会主義国|社会主義共和国]]および、戦後は[[アメリカ合衆国]]と並ぶ[[超大国]]となった<ref>{{cite book |author1 = Jonathan R. Adelman |author2 = Cristann Lea Gibson |title = Contemporary Soviet Military Affairs: The Legacy of World War&nbsp;II |url = https://books.google.co.jp/books?id=XXcVAAAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja |accessdate = 15 June 2012 |date = 1 July 1989 |publisher = Unwin Hyman |isbn = 978-0-04-445031-3 |page = 4 }}</ref>。アメリカやその同盟国とは[[冷戦]]で激しく対立したが、[[ソビエト連邦の宇宙開発]]は初期においてアメリカを凌駕し、[[スプートニク1号|世界初の人工衛星]]および[[ユーリイ・ガガーリン|世界初の有人宇宙飛行]]を含む20世紀の{{仮リンク|ロシアの技術革新の年表|en|Timeline of Russian innovation|label=もっとも重要な複数の技術的偉業}}を経験した。やがてソ連共産党による一党独裁の弊害が噴出するようになり、1991年に[[ソビエト連邦の崩壊]]に至った<ref name="mypedia">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2-152765 「ロシア」]百科事典[[マイペディア]]</ref>。 新たにロシア連邦を国名とし、ロシアも同等の国名とされた(1992年の[[ロシア連邦憲法|憲法]]改正により)。[[ロシアの国旗]]は革命前の白・青・赤の3色旗に戻り、[[国際連合]]における地位などは基本的に旧ソ連を引き継いでいる<ref name="mypedia"/>([[国際連合安全保障理事会常任理事国|安全保障理事会常任理事国]]など)。2022年2月24日にはウクライナに「特別軍事作戦」と言う名の軍事侵攻を始めた。その軍事侵攻で、現在ウクライナのドネツク州、ルハンシク州、ザポリージャ州、ヘルソン州の一部、クリミア半島全域を支配している。この事については「2022年ロシアのウクライナ侵攻」を参照。 == 象徴 == {{Main|{{仮リンク|ロシアにおける国の象徴|en|National symbols of Russia|ru|Государственные символы России}}}} ロシア連邦には国家を代表する[[象徴]]が多く存在している。これらの象徴の中には、嘗ての帝政時代やソビエト連邦時代などの歴史的背景から残っているものもあれば、更に古い起源を持つものも含まれている。 {{Right|<gallery widths="150px" heights="80px"> Drei Sonnenblumen im Feld.JPG|ヒマワリ Matricaria recutita 0.1 R.jpg|カミツレ </gallery>}} {{Right|<gallery widths="150px" heights="80px"> GarnetCrystalUSGOV.jpg|ガーネット Eurasian brown bear (Ursus arctos arctos) female 1.jpg|ユーラシアヒグマ </gallery>}} === 国花 === ロシアは[[ヒマワリ]]と[[カモミール|カミツレ]]の2種類を自国の[[国花]]に指定している。これはソ連時代から引き継がれているものである。 === 国石 === ロシアの[[国石]]は[[柘榴石|ガーネット]]である。これは帝政時代から由来するもので、当時ウラル山脈から産出されていた[[ロードライト・ガーネット]]を国の象徴と定めていた点にある。 === 国獣 === ロシアの[[国獣]]は{{仮リンク|ユーラシアヒグマ|en|Eurasian brown bear}}である。この理由の一つとしては、ユーラシアヒグマの生息数が最も多いのがロシアであり、現在においてウラル山脈東部やシベリア地域の森林地帯でその存在の個体群を確認出来る点にある。 === ナショナルカラー === ロシアは自国旗の配色として用いる、[[白]]、[[青]]、[[赤]]の3色を[[ナショナルカラー]]に定めている。これは[[汎スラヴ色]]に基づいており、同国にとってその3色は民族的な観念や概念だけに止まらず、歴史上、切っても切り離せない重要なものとなっている。二次色としては[[緑]]を使用しており、緑は国内の各方面で広域に使用される配色となっている。 {{節スタブ}} == 国名 == '''ロシア連邦'''({{lang|ru|'''Российская Федерация'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字転写]]: ''{{lang|ru-Latn|Rossíjskaja Federátsija}}'' など、<span style="font-size:90%">発音:ラッスィーイスカヤ・フィディラーツィヤ</span>、[[国際音声記号|IPA]]: {{IPA|rɐˈsʲijskəjə fʲɪdʲɪˈratsɨjə}}{{Audio|Ru-Rossiyskaya Federatsiya.ogg|発音}})。ロシア語では略号の'''{{Lang|ru|РФ}}'''(''{{lang|ru-Latn|RF}}'')も使われる。英語表記は ''Russian Federation'' <ref>[http://www.un.org/en/member-states/#gotoR 国際連合での英語表記] 2018-03-30閲覧。</ref>。 [[ロシア連邦憲法]]第1条第2項で'''ロシア連邦'''と'''ロシア'''('''{{lang|ru|Россия}}'''、''{{lang|ru-Latn|Rossíja}}''、<span style="font-size:90%">ラッスィーヤ</span>、{{IPA|rɐˈsʲijə}} {{Audio|Ru-Россия.ogg|発音}})は同じ意味(同等の扱い)としており<ref>ロシア連邦憲法 [http://en.wikisource.org/wiki/Constitution_of_the_Russian_Federation Constitution of Russia(ウィキソースにある英訳)]2018年3月30日閲覧</ref>、ロシア語においてもロシア連邦の意味でロシアが使われることもある。 === 歴史的な国名 === {{Main|ルーシ (地名)}} ロシアの国名は、[[現代 (時代区分)|現代]]のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたる[[キエフ大公国|ルーシ]]という国家の[[ギリシャ語]]名{{lang|el|Ῥως}}から派生した{{lang|el|Ῥωσσία}}([[現代ギリシャ語]]では{{lang|el|Ρωσία}})。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こった[[モスクワ大公国]]がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐって[[リトアニア大公国]]と対立していた[[16世紀]]の[[イヴァン4世]](雷帝)のころに使われ始め、自称に留まった[[ロシア・ツァーリ国]]を経て、[[18世紀]]初頭の[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](大帝)が[[ロシア皇帝]]([[インペラトル|インペラートル]])と称したことにより対外的にも正式の国名となっている。 ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語<ref group="注釈">ルーシは伝統的にギリシャ(中世においては東ローマ帝国)からの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも[[古東スラヴ語]]名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。</ref>はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「{{仮リンク|大ロシア|ru|Великая Русь|en|Great Russia}}」<ref group="注釈">{{仮リンク|大ロシア|label=大ルーシ|ru|Великая Русь|en|Great Russia}}。<!-- 文明の中心地である[[アテネ]]からの距離の大きな辺境のロシアという意味。--></ref>、現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「[[小ロシア]]」<ref group="注釈">[[小ルーシ]]。<!-- アテネからの距離の小さな「ルーシの中心地」という意味。-->時期により指す[[地方]]が異なる。</ref>と呼んだ。ベラルーシも「[[白ロシア]]」<ref group="注釈">[[白ルーシ]]。</ref>という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後に別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアは[[キエフ大公国|キエフ・ルーシ]]時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、[[ジョチ・ウルス]]の時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは[[東ローマ帝国]]から[[ローマ帝国]]の威信も受け継いだという学説も考案された<ref group="注釈">いわゆる「{{仮リンク|モスクワ第3ローマ論|en|Moscow, third Rome}}」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。</ref>。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから、公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった<ref group="注釈">「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」は{{仮リンク|ノヴゴロド・ルーシ|ru|Новгородская республика}}を起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主[[ジョチ・ウルス]]宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。なお、その論法はソ連邦の結成時にも使用された([[ソビエト連邦の国歌|国歌]]に謳われるとおりである)。</ref>。 === 国名の日本語表記の変遷 === {{See also|{{節リンク|外国地名および国名の漢字表記一覧|ロシア}}}} 前はよりロシア語名に近い'''ロシヤ'''と書かれることが少なくなかったが、[[1980年代]]ごろからギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)'''ロシア'''という表記が完全に主流となった<ref group="注釈">なお[[1991年]]([[平成]]3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「''イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く。''」とあり、これに従った表記は「ロシア」になる。{{Cite web|和書|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19910628002/k19910628002.html|title=内閣告示第二号『外来語の表記』|publisher=[[文部科学省]] |accessdate=2011-10-14}}</ref>。現代日本語の[[外国地名および国名の漢字表記一覧#ロシア|漢字表記]]は'''露西亜'''で、略称は'''露'''<ref group="注釈">[[1991年]]12月の[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦崩壊]]直後、日本の新聞では『[[毎日新聞]]』や『[[産経新聞]]』が旧ロシア帝国と同じ「露」を使用する一方で、『[[朝日新聞]]』や『[[読売新聞]]』は旧ロシア帝国と区別するため「'''ロ'''」と表記していた。<br>ただ、片仮名で「'''ロ'''」と表記すると「[[口]](くち)」と誤認され易いためか後に読売新聞も「露」に転換した。「ロ」の表記は朝日以外に[[日本放送協会|NHK]]や[[共同通信]]が使用しているものの少数となる。なお、[[外務省]]は「露」を用いている。</ref><ref group="注釈">[[英語]]では、帝国時代を「'''{{lang|en|Russian Empire}}'''」、大統領制時代を「'''{{lang|en|Russian Federation}}'''」として両者を区別し、現行の大統領制時代を指す場合は単に「'''{{lang|en|Russia}}'''」とせず、「'''{{lang|en|Russian Federation}}'''」ないし「'''{{lang|en|Russian Fed.}}'''」と、国号の「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。</ref>。[[江戸時代]]には'''オロシャ'''、'''をろしや'''とも呼ばれた。これは、[[中国語]]の「俄羅斯」および[[モンゴル語]]の{{lang|mn|Орос}}(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては'''魯西亜'''('''魯西亞''')という表記が主流で、[[1855年]]に[[江戸幕府]]とロシア帝国の間の最初の条約は「[[日露和親条約|日本国魯西亜国通好条約]]」という名称になった。この漢字表記について[[1877年]]([[明治]]10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた[[明治政府]]は、ロシア側の希望を受け入れ表記を'''露西亜'''('''露西亞''')とした<ref>{{Cite book|和書|author=渡辺雅司|authorlink=渡辺雅司 (ロシア文学者)|year=2003 |title=明治日本とロシアの影(ユーラシア・ブックレット)|publisher=[[東洋書店]] |isbn=978-4885954450 |ref=}}, pp.4-5</ref><ref>[http://iss.ndl.go.jp/books/R000000006-I000134639-00 1877年(明治10年)に、ロシア領事館の抗議により、ロシアの漢字表記を「魯西亜」から「露西亜」に変更したとウィキペディアに書かれているがそれを確認するものは何かないか(神戸市立中央図書館) ] 国立国会図書館サーチ</ref><ref group="注釈">なお、[[白川静]]の『字統』によると「魯」の原意は「おろか」でなく「よろこび」である。</ref>。 == 歴史 == {{Main|ロシアの歴史}}{{ロシアの歴史}} === 古代 === {{main|スラヴ人}}'''キリスト教化前のロシア'''[[ファイル:IE expansion.png|thumb|right|[[クルガン仮説]]: [[インド・ヨーロッパ祖族|インド・ヨーロッパ祖語話者]]の故郷としての南ロシア]] 国家や文化、言語の変遷において「[[ロシア人]]」の祖となる人々は、北東[[ルーシ (地名)|ルーシ]]と呼ばれる地域に古くから居住していたとされる。その地に暮らした[[東スラヴ人|東スラヴ系]]の諸部族は[[フィン人]]と隣接しており、[[交易]]や[[移民|同化]]などを通して[[言語]]や[[文化]]においてお互いに大きな影響を与えたとされる。ロシア人には[[フィン・ウゴル系民族]]に多いとされるる[[Y染色体|Y染色体遺伝子]]である[[ハプログループN-M231 (Y染色体)|ハプログループN系統]]もある程度見られる<ref>[http://www.familytreedna.com/public/RussianDNA/default.aspx?section=yresults Russia-Slavic DNA Project]</ref>。 [[ファイル:Slavic tribes in the 7th to 9th century.jpg|200 px|thumb|left|5~7世紀のヨーロッパにおけるスラブ人の再定住]] [[ファイル:Czeko potocka ofiarawelesowi.jpg|200 px|thumb|right|スラブの混沌の神の一柱[[チェルノボグ]]]] [[古代ギリシャ]]の作家[[プロコピオス]]は、スラブ人({{仮リンク|スクラヴ人|en|Sclaveni}}と[[アント人]])は、王を持たない[[原始共産制|民主的な体制]]で、彼らが犠牲を捧げる「稲妻の創造主」([[ペルーン]])という単一の神を信じる野蛮人であるとした。また、非常に背が高く丈夫な体を持ち、髪色は金髪ではないが完全な暗色でもないとした<ref name="プロコピオス">{{Cite web |url=http://users.clas.ufl.edu//fcurta/Procopius.htm |title=PROCOPIUS ON THE SLAVS |accessdate=2022/07/12 |publisher=University of Florida}} </ref>。 スラヴ人には独自の文化と[[スラヴ神話|神話]]があった。世界は、自然の法則を支配する天の神々と、人々の習慣や行動を支配する地下の([[クトニオス|クトニオスの]])神々という、2つの反対の力によって支配されていると信じられていた。 5世紀の初めに、スラブの部族は極東ロシアの領土に移動し、この地域を支配し始めた。同時に、スラブの部族は地理的に[[西スラヴ人|西部]](ヨーロッパに残っている)と[[東スラヴ人|東部]]に分かれた。 === 中世 === [[ファイル:Kievan Rus en.jpg|thumb|left|11世紀の[[キエフ大公国]]]] [[9世紀]]の北東ルーシには、[[ノルマン人]]ではないかと推測されている民族集団「[[ヴァリャーグ]]」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。[[862年]]にはヴァリャーグの長[[リューリク]]が[[ノヴゴロド公国|大ノヴゴロド]]の[[公#ルーシ|公]]となり、町は[[東ローマ帝国]]との貿易拠点として発展した<ref group="注釈">バルト海から黒海に至る交易路は「ヴァリャーギからギリシャへの道」と呼ばれ、東ローマ帝国や[[イスラム世界]]との交易でスラヴの地は大いに潤ったといわれる。</ref>。後代に書かれた『[[原初年代記]]』<ref group="注釈">厳密には、原初年代記のノヴゴロド系の写本。</ref>には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。[[9世紀]]後半にヴァリャーグは[[ドニエプル川|ドニエプル]]地方に拠点を移した。そのため、それから[[13世紀]]にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっている[[キエフ]]であり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった{{要出典|date=2011年10月|}}。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化した[[キエフ大公国]]は、9世紀に東ローマ帝国から[[東西教会分裂]]以後に[[正教会]]となる東方の[[キリスト教]]とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭に[[モンゴル帝国|モンゴル人]]による[[モンゴルのルーシ侵攻|侵入]]で2世紀にわたって[[ジョチ・ウルス]]の支配下に入った<ref name="obun">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2-152765#E6.97.BA.E6.96.87.E7.A4.BE.E4.B8.96.E7.95.8C.E5.8F.B2.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E4.B8.89.E8.A8.82.E7.89.88 『旺文社世界史事典』三訂版「ロシア]」</ref>。その混乱の中で、それまでキエフにあった[[府主教]]座は[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル・ザレースキイ]]へ移された。 [[ファイル:Vasnetsov Ioann 4.jpg|thumb|150px|[[イヴァン4世|イヴァン雷帝]]]] 数多くいるルーシ諸公の1人に過ぎなかった[[モスクワ大公国|モスクワ公]]は、モンゴル支配下でルーシ諸公が[[ハーン|ハン]]に納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、[[15世紀]]にジョチ・ウルスの支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い[[大公国]]となった。のち、モスクワ大公は[[イヴァン3世]]のとき[[ツァーリ]](皇帝)の称号を名乗り、その支配領域は[[ロシア・ツァーリ国]]と自称するようになった。[[16世紀]]に[[イヴァン4世]](雷帝)が近代化と皇帝集権化、[[シベリア]]進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその[[専制政治]]を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱([[動乱時代]])に陥った。モスクワ大公国の主要貴族([[ボヤーレ]])たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、[[士族]][[民主主義]]の確立していた[[ポーランド・リトアニア共和国]]を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|共和国軍とともにモスクワを占領した]]。一方、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商[[ストロガノフ家]]の援助で[[ニジニ・ノヴゴロド]]において義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡って[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]主義の[[ポーランド国王|ポーランド国王兼リトアニア大公]]が[[自由主義|信教自由主義]]の[[ポーランド共和国セイム|ポーランド]]・[[セイマス|リトアニア共和国議会]]と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。そして[[1612年]]、[[ドミートリー・ポジャールスキー]]と[[クジマ・ミーニン]]の指揮の下、モスクワ市内の[[クレムリン]]に駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、[[11月1日]]して撃破、モスクワを解放した。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対する[[ロシア正教会]]の勝利は、21世紀現在でも国民の祝日となっている([[11月4日]])。ここで中世ロシアは終わり、[[ロマノフ朝]]の成立とともに近代ロシアが始まることになる。 === ロシア帝国 === {{main|ロシア帝国の歴史}} [[ファイル:Peter der-Grosse 1838.jpg|thumb|left|150px|[[ロシア帝国]]初代[[皇帝]]、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]]] [[ファイル:Russian_Empire_(orthographic_projection).svg|サムネイル|[[ロシア帝国]]と勢力圏]] [[1613年]]に[[ロマノフ朝]]が成立すると、大貴族と[[農奴制]]に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。[[17世紀]]末から[[18世紀]]初頭にかけて、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](大帝)は急速な西欧化・近代化政策と、新首都[[サンクトペテルブルク]]の建設([[1703年]])、[[大北方戦争]]([[1700年]] - [[1721年]])での勝利などによって[[ロシア帝国]]の絶対主義体制の基盤を固めた<ref name="obun"/>。彼の時代から正式に[[皇帝]]([[インペラトル|インペラートル]])の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。[[1762年]]に即位した[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]は[[オスマン帝国]]との露土戦争([[露土戦争 (1768年-1774年)|1768年 - 1774年]]と[[露土戦争 (1787年-1791年)|1787年 - 1792年]])に勝利するとともに、[[ポーランド分割]]に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナと[[クリミア・ハン国]]を併合し、名実ともに「[[帝国]]」となった。また、[[大黒屋光太夫]]が彼女に謁見したことにより、[[アダム・ラクスマン]]が日本に派遣(詳細は「[[北槎聞略]]」参照<ref>[[桂川甫周]]『北槎聞略・大黒屋光太夫ロシア漂流記』亀井高孝校訂([[岩波文庫]]、1993年)476頁</ref>)され[[日露関係史|日露関係]]が実質的に始まった。彼女の時代に農奴制が固定化されていった<ref name="obun"/>。 [[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の治世において[[1803年]]に勃発した[[ナポレオン戦争]]に参戦し、[[1812年]]には[[ナポレオン・ボナパルト]]指揮の[[フランス第一帝政|フランス帝国]]軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退([[1812年ロシア戦役]])。戦後は[[ポーランド立憲王国]]や[[フィンランド|フィンランド大公国]]を支配して<ref group="注釈">ナポレオン戦争後、[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の取り計らいもあり、両国はそれぞれ[[スウェーデン]]、ロシアから独立を果たしているが、その国家元首をロシア皇帝が兼任した。</ref>、[[神聖同盟]]の一員として[[ウィーン体制]]を維持する欧州の大国となった。国内での[[デカブリストの乱]]やポーランド反乱などの[[自由主義]]・[[分離主義]]運動は厳しく弾圧された。 [[1831年]]に始まる[[エジプト・トルコ戦争]]以降は、ロシアの[[南下政策]]を阻む[[イギリス]]との対立が激化し、[[中央アジア]]、[[アフガニスタン]]、[[ガージャール朝]][[ペルシア]](現・[[イラン]])を巡って、露英両国の駆け引きが続いた([[グレート・ゲーム]])。[[1853年]]に勃発した[[クリミア戦争]]ではイギリス・[[フランス]]連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。[[1861年]]に皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]は[[農奴解放令]]を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、[[ナロードニキ]]による農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は過激な[[アナキズム]](無政府主義)やテロリズムを横行させ<ref name="obun"/>、無政府主義者による皇帝暗殺にまで発展した。 [[ロシアのシベリア征服]]が進み、[[中国大陸]]を支配する[[清]]や日本との接点が生じた。清とは[[ネルチンスク条約]](1689年)おとび[[キャフタ条約 (1727年)]]により境界を定めていたが、清の弱体化によりロシアは極東でも南下政策をとった。[[アイグン条約]](1858年)により[[アムール川]]北岸を奪い、さらに[[アロー戦争]]の講和([[北京条約]])を仲介した見返りに[[日本海]]に面する[[沿海州]]を獲得し、[[ウラジオストク]]を建設した。 [[19世紀]]末期には、ロシアはそれまでの[[ドイツ帝国]]・[[オーストリア=ハンガリー帝国]]との[[三帝同盟]]から[[フランス第三共和国]]との[[露仏同盟]]に外交の軸足を移し、[[汎スラヴ主義]]による[[バルカン半島]]での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加により極東への[[シベリア鉄道]]の建設が行われている。[[20世紀]]初頭になると極東への関心を強め、[[満州]]や[[朝鮮]]に手を伸ばそうとしたが、日本と衝突して[[1904年]]の[[日露戦争]]となった<ref name="obun"/>。[[1905年]]に[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]など一連の[[革命]]騒動が発生し、[[ポーツマス条約]]を結んで敗れると、戦後の[[1907年]]にロシアは[[イギリス]]と[[英露協商]]、日本と[[日露協約]]を締結し、[[三国協商]]に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内では[[ドゥーマ]](国会)の開設や[[ピョートル・ストルイピン]]による改革が行われたが、皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に[[社会主義]]運動が高揚した。 === ソビエト連邦 === {{main|ソビエト連邦|ソ連型社会主義|ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国}} [[ファイル:Soviet Union - Russian SFSR (1922).svg|thumb|1922年までにおける[[ソビエト連邦]]の一部としての[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]]] [[1914年]]にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子らがセルビア人に暗殺されると([[サラエボ事件]])、同じスラブ系国家である[[セルビア]]を支援してオーストリア=ハンガリー帝国およびその同盟国であるドイツと対立して互いに軍を動員し、[[第一次世界大戦]]が勃発。ロシアは[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の一員として[[中央同盟国]](ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、[[オスマン帝国]])と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された([[東部戦線 (第一次世界大戦)]])。第一次世界大戦中の[[1917年]]2月に起こった[[2月革命 (1917年)|ロシア革命]]で[[ロマノフ王朝]]は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、[[シベリア出兵]]などで諸外国の[[協商国のロシア内戦への介入|干渉軍]]も加わって激しい[[ロシア内戦]]となった。[[1917年]][[11月7日]]には[[十月革命]]でソビエト政権が樹立され、そのトップとなった[[ウラジーミル・レーニン]]は中央同盟国と[[ブレスト=リトフスク条約]]を結び大戦から離脱した後、[[赤軍]]を率いて[[ロシア内戦]]に勝利し、[[1922年]]の年の瀬には共産党による[[一党独裁制|一党独裁国家]]'''[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]'''を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだ[[ソビエト連邦構成共和国|構成4共和国]](その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域は'''[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]'''(ロシア共和国)となった。ソビエト連邦とロシア共和国の首都が[[サンクトペテルブルク]]から[[モスクワ]]へと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルク<ref group="注釈">当時の名はペトログラード。</ref>はレニングラードに改称された。ロシア共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて[[自治共和国]]、[[ロシアの自治州|自治州]]、[[ロシアの自治管区|民族管区]]などが設定され、事実上ロシア共和国とは異なる統治体制をとった。 ソビエト体制でのロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは、事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党|ロシア共産党]]」は連邦崩壊直前の1990年まで創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でも[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ共和国]]や[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア共和国]](現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。 [[1930年代]]の[[世界恐慌]]で多くの[[資本主義]]国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだ[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]による独裁的な主導の下で[[農業集団化]]と[[重工業]]化が断行され、高い経済成長を達成した。しかし、その実態は[[農家|農民]]からの強制的な収奪に基づく閉鎖的な工業化であった。農村からの収奪の結果、ウクライナや[[南ロシア|ロシア南西部]]では[[ホロドモール|大飢饉]]が発生した。その歪みはやがて政治的な[[大粛清]]と[[強制収容所]]の拡大など恐怖に基づく支配をもたらす事態へとつながった(第二次世界大戦後に再び飢饉({{仮リンク|ソビエト連邦における飢饉 (1946年-1947年)|ru|Голод_в_СССР_(1946—1947)|en|Soviet famine of 1946–47}})が起こる)。 [[1939年]]9月の第二次世界大戦勃発直前に一時[[ナチス・ドイツ]]と[[モロトフ・リッベントロップ協定]]を結んで協調し、[[ポーランド第二共和国]]を[[ソ連・ポーランド不可侵条約]]を一方的に破棄して侵攻し、[[ソビエト連邦によるポーランド侵攻|ポーランドを占領]]、[[冬戦争]]でフィンランドにも圧迫を加え、1939年12月の理事会において[[国際連盟]]から除名された。1940年には[[バルト諸国占領]]によりソビエト連邦へ併合し、さらにルーマニアから[[ベッサラビア]]地方を割譲させた。1941年6月には[[独ソ不可侵条約]]を一方的に破棄したナチス・ドイツの[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]に突如攻め込まれて西部の広大な地域を占領され([[バルバロッサ作戦]])、危険な状況に陥った。しかし、[[1942年]]初頭に首都[[モスクワの戦い|モスクワ防衛に成功した]]後、英米をはじめとする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の助力もあって[[スターリングラード攻防戦]]および[[クルスクの戦い]]を境に、1943年後半には反攻に転じて[[独ソ戦]]の主導権を握り最終的には大戦に勝利した。さらにポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、[[チェコスロバキア]]の一部などを併合し、西に大きく領土を広げた。極東方面では、[[1945年]]8月、日本に[[日ソ中立条約]]の不延長を通告して[[ソ連対日参戦|参戦]]。[[満洲国|満州国]]や[[樺太|サハリン]]南部、[[千島列島]]、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特に[[エストニア]]や[[ラトビア]]などではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領の[[カリーニングラード州]]でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。[[1946年]]には旧ドイツ領の[[東プロイセン]]の北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部([[樺太|南樺太]])とクリル列島(千島列島、[[歯舞群島]]・[[色丹島]]を含む)全域を[[南サハリン州]]として編入した(南サハリン州は[[1947年]]に[[サハリン州]]に吸収)。一方、[[1954年]]には黒海沿岸の[[クリミア半島]]([[クリミア自治共和国|クリミア州]])がウクライナに移管され、ロシア共和国の領土は[[ロシアによるクリミアの併合|2014年のクリミア半島編入]]以前のロシア連邦にあたる領域になった。 日本は[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]で一部領土を放棄したものの、[[千島列島]]南部の[[北方地域|北方領土]]の返還を要求。それ以外の千島列島及び南樺太はロシア[[領土]]ではなく[[帰属]]未定地であると主張している<ref group="注釈">詳細は[[北方領土問題]]を[[参照 (書誌学)|参照]]。</ref>。ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。なお、日本はユジノサハリンスクに[[在ユジノサハリンスク日本国総領事館]]を設置している。外務省によれば、当総領事館が位置しているユジノサハリンスク市(旧[[豊原市]])をはじめとした南樺太は、サンフランシスコ平和条約によりその全ての権利・権限及び請求権を放棄したため、以降ソビエト連邦及びこれを承継したロシアが継続的に現実の支配を及ぼしており、これに対してロシア以外のいかなる国家の政府も領有権の主張を行っていないことなどを踏まえ、千島列島及び南樺太を含む地域を管轄地域とする在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置したものであるとしている<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b163039.htm 衆議院議員鈴木宗男君提出南樺太、千島列島の国際法的地位などに関する質問に対する答弁書]</ref>。 戦後、ソ連は強大な[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の軍事力を背景に[[1949年]]の[[北大西洋条約機構]](NATO)結成に対抗して[[1955年]]に[[ワルシャワ条約機構]](WTO)を結成し、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、ポーランド、チェコスロバキア、[[ハンガリー]]、ルーマニア、[[ブルガリア]]などの[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国を[[衛星国]]として[[東側諸国]]の盟主となり、自国と同様の[[人民民主主義]]体制を強要して世界の2大[[超大国]]の一つとしてアメリカ合衆国を盟主とする[[西側諸国]]と[[冷戦]]を繰り広げた。しかし、既に[[1948年]]にはバルカン半島にて[[チトー主義]]下の[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]がソ連から離反しており、[[1956年]]に共産党第一書記[[ニキータ・フルシチョフ]]による[[スターリン批判]]が行われた後は[[自由主義]]陣営との[[平和共存]]路線を進めたが、このスターリン批判により衛星国であった[[ハンガリー人民共和国]]で[[ハンガリー動乱]]が発生し、さらに自由主義国との妥協を批判する[[毛沢東]]が率いていた[[中華人民共和国]]や[[毛沢東思想]]に共鳴する[[アルバニア人民共和国]]の離反を招くなど、[[ネオ・スターリニズム|新スターリン主義]]によるソ連の指導性は揺らいだ([[中ソ対立]])。[[1965年]]に共産党書記長[[レオニード・ブレジネフ]]が主導権を握ったあと、[[ベトナム戦争]]にて[[アメリカ合衆国]]と戦う[[ホー・チ・ミン]]率いる[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]を支援したが、ブレジネフ在任中の[[1968年]]には衛星国であった[[チェコスロバキア社会主義共和国]]で「[[プラハの春]]」が始まり、翌[[1969年]]にはかねてから対立していた中華人民共和国と[[珍宝島]]・[[ダマンスキー島]]を巡って[[中ソ国境紛争]]を戦うなど、共産圏におけるソ連の指導性はさらに揺らぎ、[[1970年代]]に入ると[[計画経済]]の破綻などから次第に[[ソ連型社会主義]]の矛盾が露呈していった。[[1979年]]から[[1989年]]にかけて[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタンを侵略した]]。この際ソ連軍が[[アフガニスタン]]の大統領官邸を急襲し、最高指導者[[ハフィーズッラー・アミーン]]と警護隊を殺害するという[[テロリズム|テロ]]行為([[嵐333号作戦]])を行っている。[[1985年]]にソ連の指導者となった[[ミハイル・ゴルバチョフ]]は冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるため[[ペレストロイカ]]と[[グラスノスチ]]を掲げて改革に取り組んだものの、却って各地で[[民族主義]]が噴出し、共産党内の対立が激化した。 党内抗争に敗れた改革派の[[ボリス・エリツィン]]はソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、[[1990年]]に{{仮リンク|ロシア連邦最高会議|label= 最高会議|ru|Верховный совет России}}議長となると、同年[[6月12日]]に'''ロシア共和国'''と改称して[[主権]]宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。[[1991年]][[ソ連8月クーデター|8月のクーデター]]ではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国はそろって連邦を脱退していった。同年[[12月25日]]にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、翌日[[12月26日]]に[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦は崩壊した]]。 === ロシア連邦 === {{Main|ロシア史 (1991年-現在)}} ==== 成立と脱共産化 ==== [[1991年]][[12月26日]]のソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱して'''ロシア連邦'''として成立し、エリツィンが初代[[ロシア連邦大統領]]に就任した。また、ソビエト連邦崩壊により[[パクス・アメリカーナ|世界規模のアメリカの覇権]]が成立し、当時はこれを「[[歴史の終わり]]」と見る向きも現れた。 ロシア連邦は、旧ソ連構成国の連合体である[[独立国家共同体]](CIS/{{Lang|ru|СНГ}})加盟国の一つとなった。ロシア連邦は、ソビエト連邦が有していた国際的な権利([[国際連合安全保障理事会常任理事国|安全保障理事会常任理事国]]など)・[[国際法]]上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持した。 国名は[[1992年]]5月、ロシア連邦条約によって現在の'''ロシア連邦'''と最終確定した(ロシア連邦への国名変更は、[[ソビエト連邦大統領]]ゴルバチョフ辞任の当日である[[1991年]]12月25日、当時のロシア[[最高会議]]決議による)。 エリツィン政権下では市場経済の導入が進められたが、急激な移行によってロシア経済は混乱し、長期的な低迷を招いた。その一方で、この時期には「[[オリガルヒ]]」と呼ばれる新興財閥が台頭し、政治的にも大きな影響力を持つようになった。 ソ連政府は国民にあまねく賃貸住宅を配分していたが、それらを建設するだけで巨額の財政負担となっており、財政再建中のロシア連邦がリフォームすることなどかなわず、無償で住民が物件を取得できるようになり急激な私有化を進めた<ref name=michigami />。私有化されていないものは地方自治体への譲渡が進み、人口減少社会となるなか、若者向けに低家賃で貸し出した<ref name=michigami>{{Cite journal|和書 |author= 道上真有 |date= 2007-09-28 |title= ロシアの住宅投資 : 都市住宅市場を中心に |journal= [[桃山学院大学]]経済経営論集 |volume= 49 |issue= 2 |pages= 53 - 97 |publisher= 桃山学院大学総合研究所 |naid= 110006416604 |ref= harv }}</ref>。 [[1993年]]には新憲法制定をめぐって激しい政治抗争([[10月政変]])が起こったものの、同年12月12日には国民投票によって[[ロシア連邦憲法]]が制定された。1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指す[[チェチェン共和国|チェチェン]]独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で[[第一次チェチェン紛争]]が発生し、一般市民を巻き込んで10万人以上が犠牲になった。1997年5月に和平に向けて[[ハサヴユルト協定]]が調印され、5年間の停戦が合意された。ところが1999年8月、チェチェン独立派勢力([[チェチェン・イチケリア共和国]]など)と、ロシア人およびロシアへの残留を希望するチェチェン共和国のチェチェン人勢力との間で[[第二次チェチェン紛争]]が発生した。1999年夏からイスラム急進派の排除という名目のもとにロシア軍は全面的な攻勢に出ている。同年8月に[[ロシアの首相]]に就任した[[ウラジーミル・プーチン]]らがこの強硬策を推進した<ref name="mypedia"/>。 1996年11月、ロシアは第一回だけで10億ドルの[[ユーロ債]]を起債した<ref name=bond />。それまでの累積ユーロ債発行額は160億ドルほどに達した<ref name=bond>Elmar B. Koch, ''Challenges at the Bank for International Settlements: An Economist's (Re)View'', Springer Science & Business Media, 2007, p.187.</ref>。 [[1999年]]12月8日、当時の大統領エリツィンと[[ベラルーシの大統領]][[アレクサンドル・ルカシェンコ]]との間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指す[[ロシア・ベラルーシ連合国家創設条約]]が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任したウラジーミル・プーチンが、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は停滞した。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]にルカシェンコは協力しているが、[[ベラルーシ共和国軍]]の参戦は回避している。 ==== プーチン政権<ref>{{Cite web|和書|title=「プーチン大統領の初体験はいつ?」 珍質問に笑わぬ皇帝もニヤリ |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/04/1-69.php |website=Newsweek日本版 |date=2018-04-04 |access-date=2023-04-09 |language=ja}}</ref> ==== 1999年12月31日、当時の大統領エリツィンが任期を半年余り残して突然辞任した。首相のウラジーミル・プーチンが大統領代行に就任し、2000年3月の大統領選挙に圧勝して大統領に就任した<ref name="mypedia"/>。「法の独裁」による統治をめざす強権的体質が内外から批判される一方、安定した経済成長により国民の高い支持率を維持し、2004年にも再選された<ref name="mypedia"/>。 [[2003年]]、[[ミハイル・ホドルコフスキー]]が脱税などの罪で逮捕・起訴され、[[ユコス]]の社長を辞任した。[[シブネフチ]]との合併が取り消されるなどして株価が乱高下し、[[内部者取引]]が横行した。2005年にロシアの住宅私有化率は63パーセントに達し<ref name=michigami />、国際的な不動産価格の下落へつながっていった。2007年、ホドルコフスキーを除くユコス株主らはロシア政府がユコスを破綻させたとして[[デン・ハーグ|ハーグ]]の[[常設仲裁裁判所]]へ提訴した。2010年6月26日、政府側の[[ロスネフチ]]に賠償命令が出た。7月27日には内部者取引と株価操作を取り締まる法案が可決された<ref>CliffordChance [https://www.cliffordchance.com/content/dam/cliffordchance/PDF/Russia_adopts_law_on_inside_trading.pdf Russia adopts the Law on Insider Trading] Client briefing July 2010</ref>。これは翌年から施行された。2014年7月、ユコス破綻事件で政府は19億ユーロの賠償金支払いを命じられていたが、12月に[[欧州人権裁判所]]が政府の上訴を棄却した<ref>[http://jp.reuters.com/article/idJPL3N0U05W320141216 「欧州人権裁、ロシア政府の上訴棄却 ユコス株主への賠償命令めぐり」] [[ロイター]](2014年12月17日)</ref>。2016年4月、ハーグ地区裁判所が、ロシア政府に株主らへ500億ドルの賠償金支払いを命じた常設仲裁裁判所の判決を棄却した<ref>[http://jp.reuters.com/article/russia-yukos-appeal-idJPKCN0XH10R 「蘭裁判所、ロシア政府に対するユコス株主への賠償命令を棄却」]ロイター(2016年4月20日)</ref>。 政権初期に[[チェチェン共和国]]への軍事作戦を再開するとともに周辺各共和国への締めつけも図った。チェチェン独立派を支持する[[サウジアラビア]]など[[親米|アメリカに友好的]]な[[湾岸協力会議|湾岸]]の[[スンニ派]]諸国との関係悪化を招いた。これらの過程において報道管制を強化し、反政府的な報道機関やジャーナリストは強い圧力をかけられた。対外的には、[[上海協力機構]]を通じて[[中華人民共和国]]や[[イラン]]との関係を強化し、また[[中央アジア]]各国とはエネルギー開発の面での協力を強めた。ウクライナで親西側政権ができると、[[天然ガス]]供給停止措置をとることで圧力をかけ、間接的にドイツやフランスへの自国の影響力を誇示した。 また、プーチンの大統領就任当初は[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降の対テロ戦争という目的から蜜月と言われたアメリカとの関係も、[[イラク戦争]]や[[イランの核開発問題|イラン核開発疑惑]]といった諸問題を扱う中で悪化、また米国が主導する旧ソ連各地の[[カラー革命]]などロシアの裏庭地域へのアメリカによる露骨な政治介入、アメリカの反ロシア[[新保守主義 (アメリカ合衆国)|ネオコン]]勢力が中心となって行った東ヨーロッパの[[ミサイル防衛]]構想、ソ連崩壊時に[[北大西洋条約機構]](NATO)は東方へ拡大しないとしたゴルバチョフと当時のアメリカ大統領ブッシュの取り決めが破られ、実際にはNATOの東方拡大が進んだなどの理由により、関係は冷却化した。一方で、首脳同士の懇談は頻繁であり、かつての冷戦とは違った様相である。プーチンが行った事業はいずれも西側諸国から強圧的であるとの批判が多いものの、結果的にはロシアの国際的地位を向上させた。これにはプーチン政権発足後から続くエネルギー価格の急騰により、対外債務に苦しんでいたロシアが一転して巨額の外貨準備国となり、世界経済での影響力を急速に回復したことも寄与している。[[2007年]]には[[2014年]]の[[冬季オリンピック]]を南部の[[ソチ]]で開催する[[2014年ソチオリンピック|ソチオリンピック]]の招致に成功した。 [[2008年]]5月、側近の[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]が大統領に就任したが、プーチンも首相として引き続き残留した。同年、メドヴェージェフ政権下で[[南オセチア]]問題を原因とする[[南オセチア紛争 (2008年)|南オセチア紛争]]が発生。これはソ連崩壊後、初めての対外軍事行動となっている。これらの行動から国際政治での多極主義を唱えて、ロシアが新たな一極となろうとしていると思われる{{誰2|date=2011年8月}}。事実、「アメリカの裏庭」である[[ベネズエラ]]、[[エクアドル]]などの[[反米]]的な[[ラテンアメリカ|中南米]]諸国との関係を強化している(逆にアメリカは「ロシアの裏庭」である[[ウクライナ]]、[[ジョージア (国)|ジョージア(グルジア)]]などとの関係を強化している)。このように、冷戦終結後の一極主義の維持を目指すアメリカ側と対立する「[[新冷戦]]」の開始をもいとわないとも見られ、緊張状態が続いている<ref>猪股浩司([[日本国際問題研究所]]主任研究員)[http://www2.jiia.or.jp/RESR/column_page.php?id=136 緊張続くロシアと米英との関係~「冷戦の再来」はあるのか](2007年7月24日)2021年7月25日閲覧</ref>。 ==== クリミア半島編入とシリア内戦をめぐる欧米との対立とその他 ==== {{Main|ロシアのクリミア侵攻|ロシアのクリミア編入|ウクライナ紛争 (2014年-)|クリミア共和国|ロシアによるドネツク州占領|ロシア軍爆撃機撃墜事件}} [[2014年ウクライナ騒乱]]により、財政援助を目的にロシアとの関係を強化していた同国の大統領[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]が解任されるとロシアのプーチン大統領は反発し、[[オレクサンドル・トゥルチノフ]]大統領代行の暫定政権を承認しなかった。 2月後半から、以前から[[クリミア半島]]に駐留していたロシア軍部隊によって、1954年までロシア領で親ロシアの住民が多い[[クリミア自治共和国]]・[[セヴァストポリ]]特別市を掌握した。 クリミア自治共和国とセヴァストポリは、[[3月16日]]にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う[[2014年クリミア住民投票|住民投票]]を実施し、その結果を受けて翌[[3月17日]]に両者は[[クリミア共和国]]として独立し、ロシアへの編入を求める決議を採択した。 翌[[3月18日]]、プーチンはクリミア共和国の要請に応じ、編入に関する条約に署名して事実上クリミア半島を併合した。アメリカ合衆国、[[欧州連合]]、そして日本などの諸外国政府はクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとし、ロシアとの間で対立が続いている([[2014年クリミア危機]])。この経緯によってロシアは[[G8]]の参加資格を停止され<ref name= sankei.com/>、欧米諸国がロシアに[[経済制裁]]を科した。 [[2011年]]から始まった[[シリア内戦]]では[[反体制派 (シリア 2011-)|反体制派]]を支援する欧米に対し、[[中東]]での影響力を維持したいロシアがイランと共に[[バッシャール・アル=アサド]]政権に対して軍事的・経済的に援助を行っていることで欧米諸国と代理戦争に近い様相となり、対立を深めている。2015年9月30日には[[ロシア連邦軍]]がアサド政権を支援する直接的な軍事介入を開始([[ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆]])。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾いたことに加え、アサド政権と[[ロジャヴァ|クルド人勢力]]の双方を支援していることから両者の仲介や、当初はアサド政権打倒を目指し欧米と協調して反体制派を支援していた[[トルコ]]がクルド人勢力への対応で欧米と対立するに伴いシリア戦後処理へのトルコの引き込み、さらに[[エジプト]]や[[イラク]]、[[イスラエル]]といった[[親米]]国家であるもののアサド政権打倒後のシリアの安定に懐疑的な近隣国にも接近しつつあり、シリア内戦の収束に向けて主導的な役割を発揮し、中東での確固たる地位を築いている。 プーチンによる外交は、アメリカの大統領[[バラク・オバマ]]を差し置いて世界的な影響力を持ち{{要出典|date=2021年3月23日}}、クリミア半島併合以降はとりわけ国民の支持も手厚くなっている。一方、2013年以降に原油価格の暴落が続いたことで、天然資源に依存した脆弱な経済体制が浮き彫りとなり、深刻な経済的困窮を招いている。 2015年、ロシア空軍はトルコ及びシリア付近を領空侵犯したため、[[トルコ空軍]]に撃墜された([[ロシア軍爆撃機撃墜事件]])。 現在、一部の欧米諸国はロシアへの経済制裁の解除及び緩和をし始めているが、アメリカを中心とする西側の欧米主要国はいまだにそういった様相を見せておらず、原油価格の上昇も当分は見込めないことから、ロシアは経済的に長い停滞期間が続いている。 西側諸国から孤立しつつある一方、[[上海協力機構]]を中心に非欧米諸国との結びつきを強めることで国際社会での存在感を見せつけている。 2016年12月、アメリカで親ロシア派と公言していた[[ドナルド・トランプ]]政権への[[政権交代]]があったものの、アメリカ国内でロシアへの敵対感情が高まっているため、弱腰外交と捉えられるような親露外交は回避し<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASLCZ3DV2LCZUHBI018.html 「ロシアと仲良く」が持論のトランプ氏、弱腰批判を回避]『朝日新聞』</ref>、米露間の関係が修復する兆しは一向にない。[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙におけるロシアの干渉]]や、ウクライナ紛争を巡る[[ミンスク議定書|ミンスク和平合意]]の不履行による報復措置がとられたり<ref name="バイデン歓迎せず">[https://web.archive.org/web/20201110222016/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020111000991&g=int 「ロシア、バイデン氏歓迎せず 核軍縮協議の進展には期待も」] [[時事通信]]</ref>、ロシアが条約に違反したとして[[中距離核戦力全廃条約]]から撤退したりするなど<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36742660R21C18A0FF8000/ 「トランプ大統領、核廃棄条約の破棄表明 中ロに対抗」]『日本経済新聞』</ref>、両国間の溝は深まるばかりである。 ==== ロシアによるウクライナ侵攻 ==== 2021年1月、アメリカで反ロシア派と公言している[[ジョー・バイデン]]政権への政権交代があり、今後も米露関係修復の見込みはないと考えられている<ref name="バイデン歓迎せず"/>。{{Main|ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年)|2022年ロシアのウクライナ侵攻|2022年ロシアのウクライナ侵攻に対する国際社会の反応|2022年ロシアのウクライナ侵攻に対するロシアでの反戦・抗議運動|2022年ロシアのウクライナ侵攻による経済的影響|ロシアによるウクライナ4州の併合宣言|2022年ロシアのウクライナ侵攻で死亡したロシア軍高級将校の一覧|2022年ロシアのウクライナ侵攻を受けたロシア人の亡命}}2022年2月、プーチンはウクライナ東部の反政府組織が建国した[[ドネツク人民共和国]]と[[ルガンスク人民共和国]]を国家として承認し、ウクライナに宣戦を布告。親ロシア勢力の保護を名目にウクライナ国内に侵攻し、交戦状態に入った([[2022年ロシアのウクライナ侵攻|2022年ウクライナ侵攻]])ことにより、アメリカを中心とする国際社会から厳しい[[経済制裁]]をうけることとなり、西側諸国との対立は深まり、[[新冷戦]]と呼べる状況に陥っている。 ウクライナ侵攻以降、ロシア領内が何者かに攻撃される事件が発生。中でもウクライナと隣接するロシアの[[ベルゴロド州]]はウクライナ軍からと思われる攻撃を受け、民家359軒と一般車両112台が破壊された<ref>{{Cite web|和書|title=露ベルゴロド州 ウクライナ軍の砲撃で被害を受けた家屋は計359軒 過去4か月で - 2022年6月24日, Sputnik 日本 |url=https://sputniknews.jp/20220624/3594-11694971.html |website=sputniknews.jp |access-date=2023-05-29 |language=jp}}</ref>。また、ウクライナ侵攻後、ロシア国内の軍事施設<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア南部 空軍基地で爆発 3人死亡 ウクライナの無人機攻撃か {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221226/k10013935331000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロシア空軍基地に“ウクライナ軍の無人機攻撃” 大きな打撃か {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221206/k10013914981000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref>、ショッピングセンター、工事などが[[2022年ロシアの謎の火災|突如爆発する事件が頻発]]している<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアの主要都市で原因不明の爆発と火災、ただごとでない動画 |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/11/post-100166.php |website=Newsweek日本版 |date=2022-11-21 |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ外相、ロシア領内攻撃への関与示唆…米紙「旧ソ連の無人機を改造」 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20221209-OYT1T50146/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-12-09 |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref>。 また、ロシアと国境を接する[[フィンランド]]と、バルト海対岸の[[スウェーデン]]がNATO加盟を申請した<ref>{{Cite web|和書|title=フィンランド、スウェーデン両政府、NATOへの加盟申請を発表(北欧、米国、英国、スウェーデン、フィンランド、ロシア、トルコ) {{!}} ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/05/13b37a4bb8b3bda3.html |website=ジェトロ |access-date=2023-04-09 |language=ja}}</ref>。 ==== ウクライナ軍及び自由ロシア軍団と思われる組織によるロシア領内への度重なる攻撃とNATOの北欧拡大 ==== {{Main|2022年ロシア西部攻撃|2022年のロシアの動員|2022年のロシアの実業家不審死|2022年ロシアの謎の火災|クリミア大橋爆発}}ウクライナ侵攻中、ロシア国内は度重なるドローン攻撃や謎の火災が続出した。ウクライナ側は否定しているが、ロシアはウクライナと断定している<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナはなぜ、核攻撃や西側支援打ち切りの恐れがあるにもかかわらずロシア領内を攻撃し始めたのか?(牧野 愛博) @gendai_biz |url=https://gendai.media/articles/-/103375 |website=現代ビジネス |access-date=2023-04-05 |language=ja}}</ref>。3月には[[トゥーラ州]]がウクライナ軍によるドローン攻撃を受けたと発表した<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ、旧ソ連製の無人機でモスクワ南方230kmのトゥーラ州攻撃…ロシア側が発表 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230327-OYT1T50086/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-03-27 |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref>。 2023年4月にはフィンランドがNATOに加盟したため、31ヶ国体制となった<ref>{{Cite web|和書|title=フィンランド、NATOに正式加盟 大統領「スウェーデンも早期に」:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASR447KNSR44UHBI001.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-04-04 |access-date=2023-04-09 |language=ja}}</ref>。NATOが東欧だけでなく、北欧まで拡大したこと、NATOとロシアの国境が2600キロ以上に広がったこと<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=フィンランド加盟、NATO―ロシアの国境は倍増2600キロに…プーチン氏に大打撃 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230405-OYT1T50045/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-04-05 |access-date=2023-04-09 |language=ja}}</ref>、ロシアを軍事的に追い詰める<ref>{{Cite web|和書|title=【舛添直言】露を追い詰めるフィンランドのNATO加盟、喜ばしいことなのか(JBpress) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/dddb5c527b298ca3eb2bb2165bcd0f5b8fa3d933 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-04-09 |language=ja}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=【舛添直言】露を追い詰めるフィンランドのNATO加盟、喜ばしいことなのか 29年前、票欲しさのためにウクライナ戦争の「火種」作ったクリントンの罪 {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/74724 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2023-04-09 |language=ja}}</ref>ことに対して、ロシア政府はアメリカに対して激しく反発<ref>{{Cite web|和書|title=フィンランド、NATO正式加盟 31カ国体制に、ロシア反発(共同通信) |url=https://kumanichi.com/articles/1005907 |website=熊本日日新聞社 |access-date=2023-04-09 |language=ja}}</ref><ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=フィンランドがNATO加盟…ロシア大統領報道官「対抗策講じざるを得ない」 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230404-OYT1T50204/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-04-04 |access-date=2023-04-09 |language=ja}}</ref><ref name=":1" />した。 同月には、ウクライナの子供を連れ去った疑いがあるため、 [[国際裁判所]]はプーチン大統領の指名手配と逮捕状を出した<ref>{{Cite web|和書|title="子ども連れ去り"でプーチン大統領に逮捕状 ロシアの"戦争犯罪"は |url=https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/482121.html |website=解説委員室ブログ |access-date=2023-06-18 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=プーチン大統領に戦争犯罪の疑いで逮捕状のICC検察官、ロシアが報復で指名手配 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230520-OYT1T50096/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-05-20 |access-date=2023-06-18 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=プーチン大統領に逮捕状 戦争犯罪の疑い ICC |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000291983.html |website=テレ朝news |access-date=2023-06-18 |language=ja}}</ref>。 ==== ロシア本土領内攻撃の本格化<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア西部 攻撃続く プーチン大統領“あらゆる手段で阻止を” {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230603/k10014088221000.html |website=NHKニュース |date=2023-06-03 |access-date=2023-06-03 |last=日本放送協会}}</ref> ==== {{Main|2023年ベルゴロド州への攻撃}} 5月3日にはプーチン大統領暗殺を狙った攻撃型のドローンが[[クレムリン]]に侵入<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア大統領府に無人機攻撃|下野新聞 SOON |url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/733788 |website=下野新聞 SOON |access-date=2023-05-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=露大統領府に無人機攻撃 露側はテロと批判 |url=https://www.sankei.com/article/20230503-33EWCD2O4BPBNJASLBBIUQF47Q/ |website=産経ニュース |date=2023-05-03 |access-date=2023-05-03 |publisher=産業経済新聞社}}</ref>し、ロシア軍のレーダーで無力化、クレムリンの一部の屋根が炎上した <ref>{{Cite web|和書|title=クレムリンに無人機攻撃か 被害はなし ロシア大統領府 発表 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230503/k10014057001000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-05-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロシア「プーチン大統領の暗殺狙ったテロ」「クレムリンに無人機攻撃」とウクライナ非難 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230503-OYT1T50138/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-05-03 |access-date=2023-05-03 |language=ja}}</ref>。ロシア政府はウクライナ軍事による攻撃と見られると発表したものの、ウクライナ側は関与を否定した<ref>{{Cite web|和書|title=【速報】「ウクライナがクレムリンを無人機で攻撃 プーチン氏は無事」ロシア大統領府 |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000297872.html |website=テレ朝news |access-date=2023-05-03 |language=ja}}</ref>。 5月23日、ウクライナ領内から[[自由ロシア軍団]]([[パルチザン (軍事)|パルチザン]])と名乗る組織がロシア領内の[[ベルゴロド州]]及び[[クルスク州]]へ侵攻<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア西部で戦闘 関与を主張するロシア人組織とは - キャッチ!世界のトップニュース |url=https://www.nhk.jp/p/catchsekai/ts/KQ2GPZPJWM/blog/bl/pK4Agvr4d1/bp/pp48WBwgQp/ |website=キャッチ!世界のトップニュース - NHK |access-date=2023-05-29 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>し、ドローン攻撃や破壊活動が行われ、ロシア軍と大規模な地上戦が繰り広げられた<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア西部ベルゴロド州で戦闘続く ウクライナ侵攻後ロシア領内で最大規模の地上戦か |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000300432.html |website=テレ朝news |access-date=2023-05-29 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【Analysis】ウクライナが「2014年のクリミア」を模倣する「ベルゴロド襲撃」の戦略的意味 {{!}} 記事 {{!}} 新潮社 Foresight(フォーサイト) {{!}} 会員制国際情報サイト |url=https://www.fsight.jp/articles/-/49807 |website=新潮社 Foresight(フォーサイト) |access-date=2023-05-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロシアの反政府部隊がロシア領内に侵攻、ウクライナ「春の反攻」の前兆か ウクライナ戦争で初めて自国領への侵攻受けたロシア、ウクライナが関与と断定 {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/75296 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2023-05-29 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |title=ウクライナ軍、ロシア西部州の集落を砲撃=知事 |url=https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-russia-belgorod-idJPKBN2XK0GK |work=Reuters |date=2023-05-29 |access-date=2023-05-29 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロシアに衝撃 ウクライナ側に立つもう1つの『ロシア軍』とは {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2023/05/25/31846.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-05-29 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。 また、ロシアはウクライナによる直接的な攻撃と断定したが、ウクライナ側は関与を否定した<ref name=":2" />。攻撃によってベルゴロド州内で民間人の負傷者<ref>{{Cite web|和書|title=ロ西部州で銃撃、8人負傷 ウクライナは関与否定|全国のニュース|Web東奥 |url=https://www.toonippo.co.jp/articles/-/1559616 |website=Web東奥 |access-date=2023-05-29 |language=ja}}</ref>と死者<ref>{{Cite web|和書|title=越境攻撃、死者2人に ロシア西部の州 |url=https://www.sankei.com/article/20230524-ETUKJ4YESFPJHAGYUDPRJ6F3B4/ |website=産経ニュース |date=2023-05-24 |access-date=2023-05-29 |language=ja}}</ref>が発生した<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア領内でウクライナ側の攻撃による死者か {{!}} やさしいニュース {{!}} TVO テレビ大阪 |url=https://www.tv-osaka.co.jp/yasashii/news/?p=41092 |website=ロシア領内でウクライナ側の攻撃による死者か {{!}} やさしいニュース {{!}} TVO テレビ大阪 |access-date=2023-05-29 |language=ja}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=「ウクライナ軍が領土内に侵入した」ロシア発表 ウクライナは関与を否定(テレビ朝日系(ANN)) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/dd6ab68b8acee23c43bfaf2fbe8536ea820ec2ca |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-05-29 |language=ja}}</ref>。 アメリカ合衆国は「ロシア領内への攻撃及び侵攻は奨励しない。」と発言したものの、ミラー報道官は「戦い方はウクライナ自身が決めるべき」とし、直接的なロシア領内への攻撃の批判や拒否は避けた<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア、ウクライナから侵入の集団を撃退と アメリカは「ロシア領への攻撃奨励せず」(BBC News) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/c0dcc602e5bc205d9503850ef0857c3fc44cacb1 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-05-29 |language=ja}}</ref>。 5月30日、首都[[モスクワ]]<ref>{{Cite web|和書|title=モスクワなどで“ドローン攻撃”か 撃墜の瞬間? 複数の建物に被害も(テレビ朝日系(ANN)) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/a29ee00460bb7491c55c75c7fef18d7b8b27985e |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロシア首都モスクワで複数のドローン攻撃「25機関与、爆発物搭載も」独立系メディア(2023年5月30日)|BIGLOBEニュース |url=https://news.biglobe.ne.jp/international/0530/tbs_230530_8313221966.html |website=BIGLOBEニュース |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref>は複数のドローン攻撃<ref>{{Cite web|和書|title=モスクワに無人機攻撃 ゼレンスキー氏「反攻時…(写真=ロイター) |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR308GA0Q3A530C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-05-30 |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref>を受け、住宅などへの被害と民間人の負傷者が発生<ref>{{Cite web|和書|title=モスクワにドローン攻撃 2人負傷「ウクライナの脅し」―ロシア:時事ドットコム |url=https://www.jiji.com/amp/article?k=2023053000540&g=int |website=www.jiji.com |access-date=2023-05-30}}</ref>した。ロシア政府はウクライナ軍によるテロ行為と断定したが、ウクライナ側は完全否定した<ref>{{Cite web|和書|title=“モスクワで無人機8機が攻撃 高層住宅2棟被害” ロシア側発表 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230530/k10014082891000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=モスクワ攻撃 ウクライナ関与否定 |url=https://news.yahoo.co.jp/pickup/6464943 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=モスクワ市内で無人機攻撃、複数の建物に「軽微な被害」…市長がSNSで発表 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230530-OYT1T50145/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-05-30 |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref>。 度重なるロシア領内への攻撃に沈黙を続けていたプーチン大統領はモスクワ攻撃を受け、始めて声明を出し、ウクライナ政府に対して強い言葉で不満と批判を繰り返した<ref>{{Cite web|和書|title=プーチン氏「ウクライナは露国民を脅す道を選んだ」…無人機8機がモスクワ攻撃 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230531-OYT1T50022/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-05-31 |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ドローン攻撃にプーチン氏「テロ行為だ」 モスクワ郊外の公邸周辺を攻撃(FNNプライムオンライン(フジテレビ系)) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/29839ae668d058f84b2ef686eaf3bf7eb93da972 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-05-30 |language=ja}}</ref>。 6月2日には[[スモレンスク州]]の燃料施設が、西部[[クルスク州]]でも、ビルなどの民間施設が、西部[[ブリャンスク州]]内の村がウクライナ軍と思わられる組織に攻撃を受けた<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア軍 自国と占領地域の防衛でジレンマか 国境で相次ぐ攻撃 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230602/k10014087671000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-06-03 |language=ja}}</ref>。 ==== ワグネル・グループによる武装蜂起とロシアへの攻撃 ==== {{Main|2023年ウクライナの反転攻勢|ワグネルの反乱}} 2022年後半から、ウクライナ侵攻や他の紛争地域でロシア軍などと行動してきたロシアの民間軍事会社[[ワグネル・グループ]]と[[ロシア国防省]]([[ロシア連邦政府]])との関係が急激に悪化した。 ワグネル・グループの創設者であり、ワグネル兵のリーダー格である[[エフゲニー・プリゴジン]]は、[[ロシア国防省]]の[[セルゲイ・ショイグ]]、[[ワレリー・ゲラシモフ]]のウクライナ侵攻における無能さを連日批判した<ref>{{Cite web|和書|title=「ショイグ!ゲラシモフ!弾薬はどこだ!」 ワグネル創始者が激怒:朝日新聞デジタル{{!}} The HEADLINE |url=https://www.theheadline.jp/insights/topics/kKtbbm9 |website=www.theheadline.jp |access-date=2023-06-25}}</ref>。 プリゴジンはプーチン大統領のシェフと言われるほどの友好関係があったものの、ワグネルの拠点をロシア軍が攻撃し、多数の死者が発生<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア軍とワグネルが銃撃戦、死者も──ウクライナ軍発表(ニューズウィーク日本版) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/ed11168d9a6b527b034a5ade9996df1717a1e600 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref>したことにより、2023年6月には異例のプーチン批判を行った<ref>{{Cite web|和書|title=【速報】「ワグネル」プリゴジン氏「大統領は深く間違っている」とプーチン氏に反論 ロシア南部州知事は「緊急の戦闘措置を取ってる」と発表 |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/561501 |website=TBS NEWS DIG |date=2023-06-24 |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref>。 翌日、プリゴジンは攻撃されたことに対して、報復宣言をし、[[ロシア連邦政府]]に対して[[武装蜂起]]を発表<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア情報機関、ワグネル創設者プリゴジン氏を捜査…武装反乱の扇動容疑 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230624-OYT1T50068/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-06-24 |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref>、ロシア軍への攻撃を開始。[[ヴォロネジ州]]や[[ロストフ州]]の各地で銃声や黒煙、ロシアの石油施設の爆破、ロシア国防省の司令部やロシア領内の空港なども戦車や重装備の兵士を使い軍事的に占拠<ref>{{Cite web|和書|title=ワグネル、ロシア南部ロストフの空港と軍事施設を占拠か プリゴジン氏がメッセージ投稿 |url=https://news.ntv.co.jp/category/international/4f478bcbfa5b473a918df8ae8e1d9db1 |website=日テレNEWS |access-date=2023-06-25 |language=ja-JP |last=日本テレビ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ワグネル“モスクワまで進軍させる” すでにロシア軍と戦闘か {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230624/k10014108571000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ワグネルが武装蜂起、ロシア軍の南部軍管区司令部を制圧(JSF) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/8c4842476d3d5b80ac220aa34bf1819223a00981 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref>、プリゴジンはモスクワへの進軍を行なった<ref>{{Cite web|和書|title=露軍とワグネルが戦闘 モスクワへ向け北上か 各地で銃声 |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000304685.html |website=テレ朝news |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=露、動乱の時代に突入 反攻作戦と連動し流動化も 乱立する派閥、軍事会社 |url=https://www.sankei.com/article/20230624-UWZ2DHR3QJJ6FLEEA4CJLZ3RTY/ |website=産経ニュース |date=2023-06-24 |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ワグネル反乱、ロシア軍と衝突 南部軍事施設を支配 プーチン氏「裏切り」:北海道新聞デジタル |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/867269 |website=北海道新聞デジタル |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=露軍とワグネルが戦闘 モスクワへ向け北上か 各地で銃声 |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000304685.html |website=テレ朝news |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref>。 プーチン大統領は、ワグネル・グループとプリゴジンを裏切り者と批判した<ref>{{Cite web|和書|title=プリゴジン氏「軍事施設や飛行場制圧」・プーチン氏「必ず罰する」…ワグネルは正規軍と交戦 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230624-OYT1T50171/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-06-24 |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref>。ワグネルによるモスクワ進軍が、想定以上に早く、ロシア領内の各地でワグネル兵とロシア軍との地上戦も実際に行われたことから、同日にはモスクワ市内は外出禁止令を発令し、モスクワ内でのロシア軍とワグネル兵との戦闘に準備を行った<ref>{{Cite web|和書|title=モスクワ市長 外出控えるよう呼びかけ ワグネル部隊が向かう中 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230625/k10014108581000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Moscow Kremlin from Kamenny bridge.jpg|thumb|right|[[ロシア連邦大統領]]府である[[クレムリン]]]] {{Main|ロシアの政治}} 国政では[[連邦|連邦制]]、[[共和制]]、[[半大統領制]]をとっている。[[国家元首]]である[[ロシア連邦大統領]]がおり、[[権力分立|三権]]である * 立法:[[ロシア連邦議会]]は[[両院制]]で、[[連邦院 (ロシア)|連邦院(上院)]]と[[国家院 (ロシア)|国家院(下院)]]がある * 行政:大統領は連邦政府議長([[ロシアの首相]])、副議長などを指名し、議長は議会の承認が必要 * 司法:憲法裁判所、最高裁判所、地方裁判所などがある は分立している。 === 大統領 === ロシア連邦大統領は国家元首で、国民の直接選挙で選ばれる。ソ連崩壊に伴う独立・[[独立国家共同体]](CIS)への加盟構成以降、大統領の任期は4年であったが、[[2008年]]の憲法改正によって6年となった<ref>{{Cite web|和書 |date = 2008-12-22 |url = http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081222-OYT1T00652.htm |title = 露大統領の任期6年に…全地方議会が延長案承認、近く発効 |publisher = [[読売新聞]] |language = 日本語 |accessdate = 2008-12-23 }} {{リンク切れ|date= 2017年10月}}</ref><ref group="注釈">ロシアの国家元首は頭髪が「ツルツル」と「フサフサ」の交互になるというジンクスがある(いわゆる「[[つるふさの法則]]」)。</ref>。 === 行政 === {{main2|ロシア連邦政府の組織に関する詳細|ロシア連邦政府}} 国家元首である大統領は[[行政]]には含まれないが、行政に対して強大な指導力を発揮する。大統領は議会(ロシア連邦議会:上院に相当する連邦院および下院に相当する国家院)の信任を要する[[ロシアの首相|首相]]を含む[[ロシア連邦政府]]の要職の指名権・任命権と、議会の同意なしに[[政令]]({{仮リンク|ロシア連邦大統領令|en|Decree of the President of Russia|label=大統領令}})を発布する権限を保持し、[[ロシア連邦軍]]と[[ロシア連邦安全保障会議]]の長を兼ねる。 第2次プーチン政権が発足してから「プーチンなきロシア」を叫ぶ市民のデモが開催されるなど反プーチン運動が活発化している。そのためこれらの運動の封じ込めの一環として、「宗教信者の感情を害した者に禁錮刑と罰金を科す法律」「[[ロシアにおける同性愛宣伝禁止法|未成年者への同性愛の宣伝行為に罰金を科すことを定めた法律]]」が2013年に<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2953522?pid=10982531 ロシアで「同性愛プロパガンダ」禁止法が成立] AFP(2013年7月1日)</ref>、「好ましからざる外国組織のロシアでの活動を禁じる法律」が2015年にそれぞれ成立し、政府の統制が強化されている。 === 立法 === {{main2|中央政界で活動する主要な政党|ロシアの政党}} '''[[ロシア連邦議会]]'''({{Lang|ru|Федеральное Собрание Российской Федерации}}, Federal'noe Sobranie Rossijskoj Federatsii)は二院制で、各[[ロシア連邦の地方区分|連邦構成主体]]の行政府と立法府の代表1人ずつからなり、[[上院]]に相当する'''[[連邦院 (ロシア)|連邦院]]'''('''連邦会議'''、{{Lang|ru|Совет Федерации}}, Sovet Federatsii 、定員178名)と、[[下院]]に相当する'''[[国家院 (ロシア)|国家院]]'''('''国家会議'''、{{Lang|ru|Государственная Дума}}, Gosudarstvennaja Duma 、定員450名)からなる。下院議員は任期4年で、[[小選挙区制]]と[[比例代表制]]により半数ずつ選出される仕組みであったが、[[2005年]][[4月23日]]完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を獲得するためのハードルが上げられ、[[ウラジーミル・プーチン]]政権、[[シロヴィキ]]に有利な選挙戦が展開された。また、大統領と同様に2008年に任期が5年に延長された。 === 司法 === {{Main|{{仮リンク|ロシアの司法|en|Judiciary of Russia}}}} ロシアの[[司法]]には、最高位に{{仮リンク|ロシア憲法裁判所|en|Constitutional Court of Russia}}、{{仮リンク|ロシア最高裁判所|en|Supreme Court of Russia}}、{{仮リンク|ロシア最高仲裁裁判所|en|Supreme Court of Arbitration of Russia}}がある。その下に{{仮リンク|ロシア地方裁判所|en|District courts of Russia}}、地域裁判所がある。裁判は[[大陸法]]型である。行政府からの訴追は[[ロシア司法省|司法省]]が担当する。1996年に[[陪審制]]を連邦各地に順次導入することを決定、2010年までにすべての地域で導入された。 以前{{いつ|date=2014年12月}}から[[死刑]]の執行を停止していたが、2009年11月19日に、憲法裁判所は死刑の廃止を規定している[[欧州人権条約]]を[[批准]]するまでは死刑の執行を停止するという命令を出した。この憲法裁判所の命令で、ロシアの死刑制度は事実上廃止された。2010年1月15日、ロシア下院は、欧州人権条約第14追加議定書を賛成多数で批准し、名目上も死刑が廃止された。 {{See also|{{仮リンク|ロシアの法律|en|Law of Russia}}|[[ロシア連邦民法典]]}} === 政党 === [[複数政党制]]を採用しており[[与党]][[統一ロシア]]が圧倒的多数を占めており、他にも[[野党]]として[[極右]]の[[ロシア自由民主党]]や[[極左]]の[[ロシア連邦共産党]]などをはじめ様々な[[自由主義|リベラル派]]や[[中道政治|中道派]]、[[民族主義]]・[[愛国心|愛国主義]]、[[社会主義]]・[[共産主義]]を活動理念に掲げる政党が存在する。しかし、これらの政党はいずれもプーチン政権に従順な「体制内野党」とされており、野党としての機能は喪失しているという指摘がある<ref>{{Cite news|title=プーチン与党が議席の7割占める ロシア下院選の結果確定|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP9T5H7VP9SUHBI020.html|newspaper=朝日新聞|date=2021/9/25|accessdate=2021/9/25|author=石橋亮介}}</ref>。 {{See also|ロシアの政党}} == 国際関係 == [[ファイル:Continental Orgs Map.png|300px|right|thumb|ロシアは[[アジア協力対話]]参加国である]] [[File:Normandy format (2019-10-09) 03.jpg|thumb|250px|right|ヨーロッパの国家元首との会談(2019年10月9日)]] {{Main|ロシアの国際関係|{{仮リンク|ロシアの地政学|fr|Géopolitique de la Russie}}}} {{節スタブ|date= 2020年12月17日 (木) 17:17 (UTC)}} ロシア連邦政府は[[1990年代]]まで続いた[[ソビエト連邦]]の正式な後継政権で、[[国際連合]]では[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]の[[国際連合安全保障理事会常任理事国|常任理事国]]5か国の一つでもあり、その他国際組織でソ連の持ち分を引き継いでいる。国際関係は多面的であり、世界の191か国と関係を持ち、[[大使館]]を144か所置いている。国際関係の方針は大統領が決め、具体的には[[ロシア外務省|外務省]]が執行する。 かつての「[[超大国]]」を引き継いではいるが、現在の[[多極体制]]へ移行した世界の中でその立場は専門家の間で様々に議論されており、[[列強]]ではあるが「潜在的な超大国」扱いである<ref>[https://books.google.com/books?id=eC6HdSYZhRgC Steven Rosefielde著『The Russia in the 21st Century: The Prodigal Superpower』]</ref>。 ロシアは「[[中東カルテット]]」のひとつで、北朝鮮問題では「[[六者会合]]」に参加している。[[欧州安全保障協力機構]](OSCE)、[[アジア太平洋経済協力]](APEC)の一員である。1997年には「[[人権と基本的自由の保護のための条約]]」を批准している。ロシア連邦の発足当初は[[アメリカ合衆国|米国]]とも[[北大西洋条約機構]](NATO)とも友好的であったが、現在は様々な分野で対立が顕著である。 [[21世紀]]になってからは、豊富な[[原油]]や[[天然ガス]]などエネルギー資源を梃子に、特に欧州と[[中央アジア]]に対し、急速に影響力を拡大している。ソ連崩壊後の弱体性から比較すると相当影響力を取り戻したといえ、豊富な資金力を背景に軍備の更新を進めており、ロシア政府との協議なしに、ソ連の衛星国だった東欧諸国への[[ミサイル防衛]]基地の展開を進めている米国やNATOとの緊張状態は高まりつつある([[新冷戦]])。 前述の通り、2022年2月に始まったウクライナ侵攻が、擁護する一部の国を除き世界各国から強烈な批判を招き、多くの国・組織から経済・金融などの制裁を受けることとなり、国際的に孤立状態となっている。 ロシアが欧米から批判されている問題の一部に、同国における[[人権]]問題、自由でない[[メディア (媒体)#コミュニケーション・メディアの諸形態|メディア]]、[[LGBT]]禁止問題、[[ノビチョク]]などがある。 === ウクライナ === {{Main|ウクライナとロシアの関係}} 2022年にロシアと[[ウクライナ]]との間で軍事的緊張が高まり、ロシアがウクライナへ[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|侵攻]]を開始した。これにより外交関係は断絶した。 === 南アフリカ === {{Main|{{仮リンク|ロシアと南アフリカの関係|en|Russia–South Africa relations}}}} [[南アフリカ共和国]]はソ連と公式の外交関係を結んでいたことから後継国のロシアと深い関係性を持っており、1992年2月28日付で完全な外交関係を樹立している。南アフリカは[[BRICs]]の1国として加盟。 {{節スタブ}} === キューバ === {{Main|ロシアとキューバの関係}} [[キューバ]]とはソ連時代から緊密な協力関係を築いており、ソ連崩壊以降も外交関係を維持している。ロシアが2014年3月にウクライナ領クリミア半島の併合を宣言した際、キューバは同半島をロシアの一部として承認している<ref>[https://www.businessinsider.com/six-countries-okay-with-russias-annexation-of-crimea-2016-5?amp These are the 6 countries on board with Russia's illegal annexation of Crimea] 2016年5月31日 Business Insider</ref>。 {{節スタブ}} === ブラジル === {{Main|{{仮リンク|ブラジルとロシアの関係|label=ロシアとブラジルの関係|en|Brazil–Russia relations}}}} ロシアは[[ブラジル]]と、宇宙・軍事技術をはじめ、電気通信などの分野でパートナーシップを結んでいる。ブラジルはBRICsのメンバーでもある。 {{節スタブ}} === 中華民国 === 2022年2月に発生したロシア連邦軍によるウクライナ侵攻に伴い、台湾も対ロシア半導体輸出規制を表明、台湾からロシアおよびベラルーシへ輸出できる半導体は性能に制限が設けられ、PS2のCPU『Emotion Engine』(動作周波数150MHz・演算能力6.2GFLOPS)を下回る性能「動作周波数25MHz・演算能力5GFLOPS」低級・低性能の西暦2000年の技術水準の骨董品級CPUしか許可されなくなった(西暦2000年の技術水準の骨董品級CPUしか許可されなくなった理由:ロシア連邦にて2022年前半時点で完全自国内大量生産可能な半導体は『半導体素子製造の材料であるシリコンウェハー製造技術は“300mm(12インチ)”サイズで2011年水準 /半導体微細加工技術は“65nmプロセス・ルール”で2007年水準』<ref>{{Cite web |title=The company "Crocus Nanoelectronics" |url=http://crocusnano.com/en/ |website=crocusnano.com |date=2016-03-03 |access-date=2023-11-18}}{{en icon}}</ref>、65nmプロセス半導体技術を基盤とした“汎用用途・65nmプロセス半導体・4コアCPU『Elbrus-4S』(総トランジスタ数:9億8600万個 / 動作周波数800MHz×4コア / 総合演算能力25GFLOPS:演算能力6.25GFLOPS×4コア)”<ref>{{Cite web |title=Эльбрус-4С (ТВГИ.431281.010) — центральный процессор 1891ВМ8Я |url=http://www.mcst.ru/elbrus-4c |website=mcst.ru |date=2014-04-23 |access-date=2023-11-18}}{{ru icon}}</ref>完全自国内大量生産可能レベルの半導体製造技術水準で停滞しているため)。 ※台湾の半導体輸出規制案件に関しては中華民国・行政院・経済部 2022年5月6日公式発表『Types of strategic high-tech commodities, specific strategic high-tech commodities and exportation to restricted regions』<ref>{{Cite web |title=International Trade Administration, Ministry of Economic Affairs |url=https://www.trade.gov.tw/English/Pages/detail.aspx?nodeID=298&pid=547919&did=127706 |website=trade.gov.tw |date=2022-05-06 |access-date=2023-11-18}}{{en icon}}</ref>及び中華民国・行政院・経済部・国際貿易局 2022年4月6日公式発表『MOEA Announces Expansion of Export Controls on Russia』<ref>{{Cite web |title=International Trade Administration, Ministry of Economic Affairs |url=https://www.trade.gov.tw/English/Pages/Detail.aspx?nodeID=86&pid=740508 |website=trade.gov.tw |date=2022-04-06 |access-date=2023-11-18}}{{en icon}}</ref>を参照した。 {{節スタブ}} === 日本 === {{Main|日露関係|日露関係史|日本の国際関係#ロシア連邦}} 両国の間では経済的な交流がいくつかあるが、過去の[[シベリア抑留]]・[[北方領土問題]]・それに起因する漁民銃撃と[[拿捕]]事件、'''資源問題'''([[サハリン2]])なども生じており、その関係はあまり良くない。その上でロシア人の日本に対する信頼は、アメリカやイギリスに対する信頼よりも高いという調査結果がある。 なおロシア連邦領内では、2021年4月26日“ロシア連邦・北西連邦管区・レニングラード州・州都サンクトペテルブルク・クラスノグヴァルデイスキー地方裁判所”公式見解による“ロシア連邦法第242条『ポルノグラフィーの違法頒布』/ロシア連邦行政違反法典第6.17条『児童の健康および発育に有害な影響を与える情報からの児童の保護に関する連邦法』”の規定を破る行為に抵触する日本の漫画・アニメは『公序良俗に反する』として規制されている<ref>{{Cite web |title=Telegram: Contact @SPbGS |url=https://t.me/SPbGS/8345 |website=t.me |date=2021-04-26 |access-date=2023-11-22}}{{ru icon}}</ref>。 ※余談であるが、ベルギー王国ブリュッセル市内にて2007年9月28日に(日本の有名漫画作品に影響された)バラバラ殺人事件(通称:『Manga Murder』)が発生、この事件以降は残酷な描写が多い日本の漫画・アニメは(欧米諸国では)『基本的に子供の視聴に適さず大人のみ視聴可』となった<ref>{{Cite web |title=Notes near Body Parts in Belgium Linked to Death Note (Updated) - News - Anime News Network |url=https://www.animenewsnetwork.com/news/2007-10-01/notes-left-near-bodies-in-belgium-linked-to-death-note |website=animenewsnetwork.com |date=2007-11-27 |access-date=2023-11-22}}{{en icon}}</ref>。 <div style="font-size: 90%"> {| class="wikitable sortable" style="border:1px black; float:right; margin-left:1em;" |+ style="background:#f99;" colspan="2"|2016年 ロシア調査 最も信頼できる国は? <br>[https://wciom.ru/ 全ロシア世論調査センター]<ref name="wciom2016">[http://wciom.com/ Russian Public Opinion Resarch Center], 全ロシア世論調査センターが2016年3月~4月に、ロシア全国満18歳以上、3600人を対象に電話で実施。</ref> !国家 !! 信頼できると回答した割合 |- | {{flagcountry|People's Republic of China}} ||25% |- | {{flagcountry|Japan}}||9.9% |- | {{flagcountry|India}}||9.6% |- | {{flagcountry|Germany}}||4.6% |- | {{flagcountry|Italy}}||4.5% |- | {{flagcountry|France}}||4.1% |- | その他||15.3% |- | どの国も信頼しない||27.0% |} </div> 2017年の[[英国放送協会|イギリスBBC]]の調査によると、ロシア人は日本に対して好意的な見方をしているが<ref name="BBC">{{Cite web |title=Wayback Machine |url=https://web.archive.org/web/20170730112140/http://www.globescan.com/images/images/pressreleases/bbc2017_country_ratings/BBC2017_Country_Ratings_Poll.pdf |website=web.archive.org |access-date=2022-07-10}}</ref><ref>{{Cite web |title=Japanese Public’s Mood Rebounding, Abe Highly Popular {{!}} Pew Research Center |url=https://web.archive.org/web/20210512114832/https://www.pewresearch.org/global/2013/07/11/japanese-publics-mood-rebounding-abe-strongly-popular/ |website=web.archive.org |date=2021-05-12 |access-date=2022-07-10}}</ref>、日本の[[内閣府]]の日本国民の対ロシアの世論調査(2022年)によればロシアに「親しみを感じる」とする者の割合は13.1%(「親しみを感じる」1.3%および「どちらかというと親しみを感じる」11.8%)に留まり、「親しみを感じない」とする者の割合は86.4%(「どちらかというと親しみを感じない」48.9%および「親しみを感じない」37.4%)に達している。この数値は中国(「親しみを感じる」20.6%、「親しみを感じない」79.0%)をも下回っている<ref>{{Cite web|和書|title=内閣府 世論調査|url=https://survey.gov-online.go.jp/r03/r03-gaiko/2-1.html |website=内閣府|access-date=2022-10-13}}</ref>。 ※なお、2023年7月度のロシア連邦領内労働者給与水準における一人当たりの平均月収は789.893ドル(2023年11月13日時点の為替レートで約11万9,882円)<ref>{{Cite web |title=Russia Monthly Earnings, 1992 – 2023 | CEIC Data |url=https://www.ceicdata.com/en/indicator/russia/monthly-earnings |website=ceicdata.com |date=2023-07-31 |access-date=2023-11-13}}{{en icon}}</ref>であり、2023年9月度の日本国内労働者給与水準における一人当たりの平均月収1889.168ドル(2023年11月13日時点の為替レートで約28万6,753円)<ref>{{Cite web |title=Japan Monthly Earnings, 1971 – 2023 | CEIC Data | CEIC Data |url=https://www.ceicdata.com/en/indicator/japan/monthly-earnings |website=ceicdata.com |date=2023-09-30 |access-date=2023-11-13}}{{en icon}}</ref>の約42%の収入であり、生活費などを考慮すると、ロシア人が稼ぐために日本に来る理由はない(注記:ロシア及び日本の労働者給与水準における一人当たりの平均月収に関しては“CEIC Global Database”調べを参照した)。 ==== 在ロシア日本国大使館 ==== {{Main|在ロシア日本国大使館}} ==== 駐日ロシア大使館 ==== {{Main|在日ロシア連邦大使館}} === 中国 === {{Main|中露関係}} [[中華人民共和国]]とは2001年に[[中露善隣友好協力条約]]を結び、[[東シベリア・太平洋石油パイプライン]]の支線も[[大慶油田]]へ引いている。傍らで上海協力機構やBRICsでの関係も深めており、良好な間柄となっている。 {{節スタブ}} === インド === {{Main|{{仮リンク|印露関係|en|India–Russia relations}}}} [[インド]]とは大幅な防衛・戦略上の関係([[:en:India–Russia relations#Military relationship|India–Russia military relations]])を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客である。 {{節スタブ}} === マレーシア === [[File:Putin in Malaysia - August 5 2003 - 9.jpg|thumb|[[ウラジーミル・プーチン]]と[[マレーシアの首相]][[マハティール・ビン・モハマド]] (2003年8月5日) ]] {{Main|{{仮リンク|マレーシアとロシアの関係|label=ロシアとマレーシアの関係|en|Malaysia–Russia relations}}}} {{節スタブ}} === サウジアラビア === {{Main|{{仮リンク|ロシアとサウジアラビアの関係|en|Russia–Saudi Arabia relations}}}} ロシアと[[サウジアラビア]]の両国は「石油超大国」と呼ばれており、世界の原油生産の約4分の1を占めている。 {{節スタブ}} == 軍事 == [[ファイル:Army-2015 2.png|thumb|right|250px|[[モスクワ|モスクワ市]]西郊外の愛国公園([[:en:Patriot Park|Patriot Park]])で]]{{Main|ロシア連邦軍}} === ロシア連邦軍 === [[ロシア連邦軍]]には[[ロシア陸軍]]、[[ロシア海軍|海軍]]、[[ロシア航空宇宙軍|航空宇宙軍]]の3軍種があり、これとは別に独立兵科として、[[戦略核兵器]]を運用する[[ロシア戦略ロケット軍|戦略ロケット軍]]と、[[ロシア空挺軍|空挺軍]]がある。 2017年には約100万人が軍に属しており、これは[[:en:List of countries by military power|世界で第5位]]である<ref>[http://www.globalsecurity.org/military/world/russia/personnel.htm Russian Military Personne (GlobalSecurity.org, 2017)]</ref>。これに加えて約250万人の[[予備役]](在郷軍人)がおり、動員可能総数は約2,500万人に上るともいわれている<ref>[https://wikileaks.org/gifiles/docs/27/2704254_re-russian-reserve-forces-.html Russian Reserve Forces (The Global Intelligence Files, 2013)]</ref>。18才から27才の国民男子は全て1年間の[[兵役義務]]がある。 === 核兵器 === ロシアは世界で最大の[[核兵器]]([[:en:Russia and weapons of mass destruction|Russia and weapons of mass destruction]])を所有し<ref>[https://fas.org/nuke/guide/summary.htm Status of Nuclear Weapons States and Their Nuclear Capabilities (2008)]</ref>、世界2位の規模の[[弾道ミサイル潜水艦]]([[:en:Ballistic missile submarine|Ballistic missile submarine]])部隊や[[戦略爆撃機]]部隊がある。 ==== ICBM「サルマト」と「死の手」 ==== [[2018年]]に[[ウラジーミル・プーチン]]が年次教書演説で紹介し、[[2021年]]ごろから配備を開始した[[大陸間弾道ミサイル]](ICBM)「[[RS-28 (ミサイル)|サルマト]]」は、10発でアメリカの全国民を殺害する威力があるといわれる。[[射程]]距離は1万1000km超、最大16個の[[核弾頭]]が搭載可能な[[MIRV]]式で、最大速度は[[マッハ数|マッハ]]20の極超音速であるため、アメリカや日本のミサイル防衛網は無力化される。このサルマトには、[[極超音速機|極超音速滑空体]]「[[アバンガルド (極超音速滑空体)|アバンガルド]]」が搭載され、高度100kmほどの高度を、探知しにくい軌道をマッハ20で飛行する。ロシアには1985年に、敵国からの核攻撃を想定し、確実に報復攻撃を行えるようにするための「[[死の手]]」と呼ばれる核報復システムが稼働しており、幾度も改良を重ね、運用開始当初は人間が発射ボタンを押す必要があったが、現在は[[人工知能|AI]]が司令部の非常事態を認識し、核使用の判断を下すシステムとなっている<ref name="gendai">{{Cite web|和書|date=|url=https://gendai.media/articles/-/93152?page=3|title=プーチンが「暗殺」されたら即発射か…ロシア「核報復システム」の危ない実態|publisher=[[講談社]]『[[週刊現代]]』2022年3月12・19日号|accessdate=2022-3-11}}</ref><ref name="gendai2">{{Cite web|和書|date=2022-3-9|url=https://gendai.media/articles/-/93153|title=プーチンが狙う「日本の大都市」の名前…核ミサイル爆撃で起こる「ヤバすぎる現実」|publisher=講談社『週刊現代』2022.03.09|accessdate=2022-3-11}}</ref>。 === レーザー兵器 === [[File:Боевой лазерный комплекс Пересвет в боевом положении.jpg|thumb|移動車両型3.8メガワット級高出力レーザー兵器システム『ペレスヴェート』 (2019年12月公表) ]] 2023年12月現在、『クズネツォフ・NK-36ST:モジュラー設計式ガスタービン型発動機』(定格最大出力25メガワット/エンジン寿命10万時間)<ref>{{Cite web |title=Газотурбинный двигатель НК-36СТ |url=https://uecrus.com/products-and-services/products/gazoperekachivayushchie-ustanovki/gazoturbinnyy-dvigatel-nk-36st/ |website=uecrus.com |date=2015-05-05 |access-date=2023-12-02}}{{ru icon}}</ref>を搭載した(大気圏内有効射程範囲3000キロメートル及び高度1500キロメートルの衛星軌道上の軍事衛星を無効化できる)移動車両型3.8メガワット級高出力レーザー兵器システム『ペレスヴェート』<ref>{{Cite web |title=Боевой лазерный комплекс |url=https://www.youtube.com/watch?v=2kf6k3SpcsM |website=youtube.com |date=2018-03-02 |access-date=2023-12-02}}{{ru icon}}</ref>を6基<ref>【“1基目:第42ミサイル師団(閉鎖都市スヴォボドニ)”/“2基目:第39衛兵ミサイル師団(ノヴォシビルスク州ノヴォシビルスク)”/“3基目:第14ミサイル師団(ロシア連邦領内マリ・エル共和国ヨシュカル・オラ)”/“4基目:第54衛兵ミサイル、クトゥーゾフ勲章師団(イヴァノヴォ州テイコヴォ)”/“5基目:第35赤旗勲章ミサイル師団、クトゥーゾフ及びアレクサンドル・ネフスキー勲章(シベリア連邦管区アルタイ地方バルナウル)”/“6基目:第29衛兵ロケット・ヴィーツェプスク、レーニン勲章、赤旗勲章師団(シベリア連邦管区イルクーツク州イルクーツク)”】</ref><ref>{{Cite web |title=The Space Review: Peresvet: a Russian mobile laser system to dazzle enemy satellites |url=https://www.thespacereview.com/article/3967/1 |access-date=2023-12-29 |website=www.thespacereview.com}}</ref>保有している。なお、レーザー発振方式には“全ロシア実験物理学科学研究所(RFNC-VNIIEF) 開発<ref>{{Cite web |title=VNIIEF |url=https://www.vniief.ru/en/ |access-date=2024-01-02 |website=vniief.ru}}{{en icon}}</ref>/ロシア科学アカデミー分光研究所直轄・Avesta Project社製造<ref>{{Cite web |title=AVESTA - Femtosecond laser systems, optical components and measuring equipment |url=http://avesta.ru/en/ |access-date=2023-12-29 |website=avesta.ru}}{{en icon}}</ref>”の“DPSS(diode-pumped solid-state)レーザー(『電気⇒光変換効率:20パーセント』を達成したが、実用上の最高効率である『電気⇒光変換効率:50パーセント』には及ばない)”を採用している。 === 軍需産業 === ロシアでは[[軍需産業]]が盛んである。軍事関係の世界的な供給者としては、2001年には世界の30パーセントを占め、80か国へ輸出しており、世界でも上位にあった<ref>[https://sputniknews.com/russia/2007122493979601/ Russia's arms and military equipment exports in 2007 could exceed $7 billion (Novosti)]</ref>。[[ストックホルム国際平和研究所]]の調査では、2010 - 2014年には世界第2位の輸出国で、2005 - 2009年に比して37パーセントの増加を示した<ref>[http://books.sipri.org/files/FS/SIPRIFS1503.pdf Trends in International Arms Transfers, 2014 ]</ref>。ロシアは56か国および[[ウクライナ#クリミア・東部紛争|東部ウクライナの反乱部隊]]へ武器を供給した。 === 準軍事組織と民間軍事会社 === ロシアには正規軍以外で、以下の[[準軍事組織]]が存在する。 * [[ロシア国家親衛隊|国家親衛隊]] * [[ロシア国境軍|国境軍]] * [[ロシア民間防衛軍|民間防衛軍]] * [[ロシア連邦警護庁|連邦警護庁]] ロシアはソ連時代からの伝統として[[特殊部隊]]([[スペツナズ]])を重視しており、軍所属以外に後述する情報機関も以下の実戦部隊を擁している。 * [[ザスローン部隊]]:[[ロシア対外情報庁]]所属 * [[アルファ部隊]]、[[ヴィンペル部隊]]:[[ロシア連邦保安庁特殊任務センター]]所属 [[民間軍事会社]](PMC)が複数設立され、ロシアのその周辺のほか中東、アフリカに[[傭兵]]として派遣されている。[[ワグネル・グループ]]が最も有名であり、[[オープン・ソース・インテリジェンス]](OSINT)企業「モルファー」が把握したPMCは、ロシア国防省系や連邦保安庁系、国有企業・富豪が設立した会社を含め37あり、ウクライナの英字新聞『キーウ・ポスト』によると、そのうち25社がウクライナ侵攻に参加している。PMCはロシアの法律には本来反するが、戦死者に対してロシア政府が責任を負う必要がないといった利点から、全社が政府と関係を保って活動しているとみられる<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/world/20230501-OYT1T50034/ 露軍事会社25社参加か ウクライナ侵略 全社 政権と関係]『読売新聞』夕刊2023年5月1日10面(2023年5月6日閲覧)</ref>。 == 諜報・防諜 == {{Main|{{仮リンク|ロシアの情報機関|en|Intelligence agencies of Russia}}}} 現在、[[ロシア連邦保安庁|連邦保安庁]](FSB)と[[ロシア対外情報庁|対外情報庁]](SVR)が[[サイバー攻撃]]への[[防衛]]などを始めとして、国内の[[防諜]]・[[情報機関]]や治安組織としての役割を担っている。 他には[[ロシア連邦警護庁|連邦警護庁]]、[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|参謀本部情報総局]](GRU)、[[ロシア連邦軍参謀本部軍事測量局|参謀本部軍事測量局]]が存在しており、連邦の安全保障になくてはならない重要部署として機能している。 {{節スタブ}} == 地理 == {{Main|ロシアの地理}} [[ファイル:Russland Relief.png|thumb|ロシアの[[地形図]]]] 世界最大の面積を持つロシアは、[[ユーラシア大陸]]の北部に[[バルト海]]沿岸から[[太平洋]]まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は[[日本]]の約45倍、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の約1.7倍にも達し、[[南アメリカ|南米大陸]]全体の大きさに匹敵する(正確には南米大陸の方が約76万km²(日本の[[本州]]の約3倍程度)大きい)。 国土の北辺は[[北極圏]]に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。[[ヨーロッパ]]部([[ヨーロッパロシア]])と[[アジア]]部([[シベリア]])の大部分は広大な平原で、南部の[[ステップ (植生)|ステップ]]から北は広大な針葉林の森である[[タイガ]]がその大部分を占めている。さらに高緯度になると、樹木が生育しない[[ツンドラ]]地帯となる。[[黒海]]と[[カスピ海]]の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰(カフカス地方をヨーロッパに含めた場合)の[[エルブルス山|エリブルース山]]を含む[[カフカース山脈]]があり、ヨーロッパとアジアの境界には[[ウラル山脈]]がある。 面積を見るとヨーロッパ部よりアジア部の方が広大であるが、国土の西端に当たるヨーロッパ部に人口や大都市、工業地帯、農業地帯が集中していること、さらに[[スラブ人|スラブ]]文化のつながりから、ロシアをヨーロッパに帰属させる分類が一般的である。 国土を囲む海域には[[北極海]]の一部である[[バレンツ海]]、[[白海]]、[[カラ海]]、[[ラプテフ海]]、[[東シベリア海]]と、[[太平洋]]の一部である[[ベーリング海]]、[[オホーツク海]]、[[日本海]]、そして西の[[バルト海]]と西南の[[黒海]]があり、海岸線は3万7,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、[[ゼムリャフランツァヨシファ]]、[[ノヴァヤゼムリャ]](米国を越える史上最大規模の[[核実験]]が行われた)、[[セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島]]、[[ノヴォシビルスク諸島]]、[[ウランゲル島]]、[[樺太|サハリン]](樺太)、そして[[日本]]との領土問題を抱える[[千島列島|クリル諸島]](千島列島)がある。特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は[[北極]]寒波の影響が強いため厳寒であり、[[氷点下]]を下回る日が長く続く。 ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部の[[ドン川]]、大型で良質の[[チョウザメ]]が多数生息する[[ヴォルガ川]]、[[カマ川]]、[[オカ川]]、アジア部の[[オビ川]]、[[エニセイ川]]、[[レナ川]]、[[サケ類]]の漁獲で有名な[[アムール川]]などの大河が挙げられる。これらの下流域は日本で大河とされる[[最上川]]、[[北上川]]や[[四万十川]]よりも川幅が広く、いずれも[[セントローレンス川]]下流域に近い川幅がある。また、アジア部の大河はアムール川を除いて南から北へ流れ、北極海へ注ぐ。[[ブリヤート共和国]]の[[バイカル湖]]は世界一古く水深の深い[[湖]]として有名な[[構造湖]]である。このほか、ソ連時代の水力ダム建設によって生まれた大規模な[[人造湖]]が存在する。 === 気候 === {{Main|[[ロシアの気候]]}} [[ファイル:Archangelsk taiga.JPG|thumb|[[アルハンゲリスク州]]にて、冬の[[タイガ]]]] ロシアには基本的に[[大陸性気候]]が卓越する。すなわち気温の年較差が大きい。[[ケッペンの気候区分]]に従うと、[[亜寒帯]](冷帯)(D) に分類される地域が大半を占める。西部は大西洋の影響を受けるものの、東に進むにしたがって[[大陸性気候]]の特徴がはっきりしてくる。冬はシベリア付近で[[放射冷却]]のために気温が著しく下がり、優勢な[[シベリア高気圧]]が形成される。北半球で最も寒い地域で、[[寒極]]と呼ばれる(たとえば−71.2{{nbsp}}°C〔[[オイミャコン]]〕、−66.7{{nbsp}}°C〔[[ベルホヤンスク]]〕)。しかしながら夏季には最高気温が30{{nbsp}}°Cを超える。 典型的な植生は[[北極海]]沿岸が[[ツンドラ]]、南に下るにしたがって[[針葉樹林]]の[[タイガ]]、[[混交林]]、[[プレーリー]]、ステップに移行していく。 右図はロシアを中心とした[[地域]]にケッペンの[[気候]]区分を適用したものである。以下、気候区分にしたがって特徴と地域区分を示す。 ==== 亜寒帯 ==== ; Dfa : [[亜寒帯湿潤気候]]のうち、最暖月が22{{nbsp}}°C以上の地域。地図では明るい空色で描かれている。黒海とカスピ海に挟まれた狭い地域に広がる。 ; Dfb : 亜寒帯湿潤気候のうち、最暖月が10{{nbsp}}°C以上22{{nbsp}}°C未満であり、月平均気温10{{nbsp}}°C以上の月が4か月以上ある地域。地図では空色(シアン)で描かれている。ポーランドやハンガリーなどの中東欧諸国と共通の気候区分でもある。首都モスクワを含み、ロシア西部からモンゴル国境西端まで広く分布する。沿海州北部やサハリン北部にも見られる。モスクワの年平均気温は5.3{{nbsp}}°C、1月の平均気温は−7.5{{nbsp}}°C、7月は18.4{{nbsp}}°C、年平均降水量は705.3ミリメートルである。 ; Dfc : 亜寒帯湿潤気候のうち、以下の3条件を満たす地域、すなわち最暖月が10{{nbsp}}°C以上22{{nbsp}}°C未満、月平均気温10{{nbsp}}°C以上の月が3か月以下、最寒月が−38{{nbsp}}°C以上−3{{nbsp}}°C未満。地図ではDfbの北に広がる暗緑色で描かれている。北欧諸国と共通の気候区分であり、ロシア領土に占める面積では最も広い。中央シベリア高原からカムチャツカ半島にかけて一部Dfdに移行している部分以外は、全国にまたがっている。植生は[[タイガ]]中心。 ; Dfd : 亜寒帯湿潤気候のうち、3つの条件、すなわち最暖月が10{{nbsp}}°C以上22{{nbsp}}°C未満、月平均気温10{{nbsp}}°C以上の月が3か月以下、最寒月が−38{{nbsp}}°C未満を満たす地域。中央シベリア高原から東に延びるさらに暗い緑色で描かれている(内部にDwcの領域を含む)。 ;Dwb :[[亜寒帯冬季少雨気候]]のうち、最暖月が10{{nbsp}}°C以上22{{nbsp}}°C未満、加えて月平均気温10度以上の月が4か月以上ある地域。地図では青紫色で描かれている。モンゴル国境から北にかけて広がる。 ; Dwa : 亜寒帯冬季少雨気候のうち、最暖月が22{{nbsp}}°C以上ある地域。地図では薄紫色で描かれている。Dwbと隣接し沿海州に向かって広がる。 ; Dsb : [[高地地中海性気候]]のうち、最暖月が10{{nbsp}}°C以上22{{nbsp}}°C未満、加えて月平均気温10{{nbsp}}°C以上の月が4か月以上ある地域。地図では赤紫色で描かれている。カムチャッカ半島西岸などに見られる。 ; Dsd : 高地地中海性気候のうち、3つの条件を満たす地域。すなわち、最暖月が10{{nbsp}}°C以上22{{nbsp}}°C未満、月平均気温10{{nbsp}}°C以上の月が3か月以下、最寒月が−38{{nbsp}}°C未満。地図では薄赤紫色で描かれている。Dsbに隣接したごく狭い範囲に見られる。地球上でこの地点にのみ見られる気候区である。 ==== その他の気候区 ==== ; ET : [[ツンドラ気候]]。地図では薄い灰色で描かれている。北極海沿岸全域に広がる。 ; BSk : [[ステップ気候]]のうち、年平均気温が18度未満の地域。地図では[[黄土色]]で描かれている。モンゴル西端から北に伸びたごく狭い範囲に加え、カスピ海沿岸に見られる。 ; BWk : [[砂漠気候]]のうち、年平均気温が18度未満の地域。地図ではサーモン色で描かれている。BSkに隣接したごくわずかな範囲に見られる。 ; Cfa : [[温暖湿潤気候]]。黒海沿岸の狭い地域に見られる。 == 地方行政区分 == <!-- [[ファイル:Russia_sub_mini.png|thumb|348px|ロシアの連邦構成主体区分図(黄色が[[ロシアの共和国|共和国]])]] --> === 連邦構成主体 === {{Main|ロシア連邦の地方区分}} ロシア連邦は、89の'''[[ロシア連邦の地方区分|連邦構成主体]]'''と呼ばれる地方行政体からなる[[連邦国家]]である。連邦構成主体としては、48の「州」({{lang|ru|область|oblast'}})、9の「地方」({{lang|ru|край|kraj}})、3の「市」(連邦市、{{lang|ru|город федерального значения|gorod federal'nogo znacheniya}})、24の「共和国」({{lang|ru|республика|respublika}})、1の「自治州」({{lang|ru|автономная область|avtonomnaja oblast'}})、4の「自治管区」({{lang|ru|автономный округ|avtonomnyj okrug}})がある。ただし、このうち6つの連邦構成主体([[ドネツク人民共和国 (ロシア連邦)|ドネツク人民共和国]]、[[ルガンスク人民共和国 (ロシア連邦)|ルガンスク人民共和国]]、[[ザポロージェ州 (ロシア連邦)|ザポロージェ州]]、[[ヘルソン州 (ロシア連邦)|ヘルソン州]]、[[クリミア共和国]]、[[セヴァストポリ|セヴァストポリ連邦市]])はウクライナと帰属係争中である。 === 連邦管区 === [[ファイル:Russian Regions-EN.svg|thumb|322px|ロシアの連邦構成主体区分図(黄緑色が共和国)(ただし、ウクライナと帰属係争中の連邦構成主体を除く)]] プーチン政権は、連邦政府の地方への影響力拡大を図り、連邦構成主体とは別に、[[2000年]][[5月13日]]に全土を7つに分けた[[連邦管区]]を設置した。2010年に[[北カフカース連邦管区]]が新設され、現在は8つの連邦管区が存在する。なお、このほか2014年から2016年にかけては[[クリミア連邦管区]]が存在した。連邦管区には連邦大統領の代理人としての大統領全権代表が派遣され、連邦構成主体を監督している。 {{地域区分表 |CONTENTS = {{地域区分表列 |NAMEJ = [[中央連邦管区]] |NAMEL = [[:ru:Центральный федеральный округ|Центральный федеральный округ]] |POP = 39,251,950 |CAPJ = [[モスクワ]] |CAPL = [[:ru:Москва|Москва]] |ETC = }} {{地域区分表列 |NAMEJ = [[北西連邦管区]] |NAMEL = [[:ru:Северо-Западный федеральный округ|Северо-Западный федеральный округ]] |POP = 13,952,960 |CAPJ = [[サンクトペテルブルク]] |CAPL = [[:ru:Санкт-Петербург|Санкт-Петербург]] |ETC = }} {{地域区分表列 |NAMEJ = [[南部連邦管区]] |NAMEL = [[:ru:Южный федеральный округ|Южный федеральный округ]] |POP = 16,498,640 |CAPJ = [[ロストフ・ナ・ドヌ]] |CAPL = [[:ru:Ростов-на-Дону|Ростов-на-Дону]] |ETC = }} {{地域区分表列 |NAMEJ = [[北カフカース連邦管区]] |NAMEL = [[:ru:Северо-Кавказский федеральный округ|Северо-Кавказский федеральный округ]] |POP = 9,972,590 |CAPJ = [[ピャチゴルスク]] |CAPL = [[:ru:Пятигорск|Пятигорск]] |ETC = }} {{地域区分表列 |NAMEJ = [[沿ヴォルガ連邦管区]] |NAMEL = [[:ru:Приволжский федеральный округ|Приволжский федеральный округ]] |POP = 29,088,000 |CAPJ = [[ニジニ・ノヴゴロド]] |CAPL = [[:ru:Нижний Новгород|Нижний Новгород]] |ETC = }} {{地域区分表列 |NAMEJ = [[ウラル連邦管区]] |NAMEL = [[:ru:Уральский федеральный округ|Уральский федеральный округ]] |POP = 12,333,230 |CAPJ = [[エカテリンブルク]] |CAPL = [[:ru:Екатеринбург|Екатеринбург]] |ETC = }} {{地域区分表列 |NAMEJ = [[シベリア連邦管区]] |NAMEL = [[:ru:Сибирский федеральный округ|Сибирский федеральный округ]] |POP = 17,009,250 |CAPJ = [[ノヴォシビルスク]] |CAPL = [[:ru:Новосибирск|Новосибирск]] |ETC = }} {{地域区分表列 |NAMEJ = [[極東連邦管区]] |NAMEL = [[:ru:Дальневосточный федеральный округ|Дальневосточный федеральный округ]] |POP = 8,131,560 |CAPJ = [[ウラジオストク]] |CAPL = [[:ru:Владивосток|Владивосток]] |ETC = }} }} さらに、[[2004年]]12月に[[ロシア連邦の地方区分|地方自治体]]の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名して地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。 地方自治体の首長(共和国首長・州知事など)や地方議会の選挙は毎年9月第2日曜日に行われており、直近では[[2023年]][[9月10日]]に{{仮リンク|2023年ロシア統一地方選挙|ru|Единый день голосования 10 сентября 2023 года|label=執行された}}。 {{seealso|{{仮リンク|2023年ロシア統一地方選挙|ru|Единый день голосования 10 сентября 2023 года}}}} === 主要都市 === [[ファイル:Московский международный деловой центр «Москва-Сити» 14.07.2014.jpg|thumb|[[モスクワ・シティ]]]] {{Main|ロシアの都市の一覧}} ロシアには人口100万人を超える都市が15([[2021年]]時点)ある。最大の都市は首都[[モスクワ]](1,260万人〔[[2021年]]〕)である。続く[[サンクトペテルブルク]](545万人〔2021年〕)との2都市が規模としては飛び抜けて大きく、独立したロシア連邦の構成主体([[ロシアの連邦市|連邦市]])として[[ロシアの州|ほかの州]]や[[ロシアの共和国|連邦内の共和国]]と同格となる。ウラル山脈東山麓の[[エカテリンブルク]]、[[チェリャビンスク]]、シベリアの[[オムスク]]、[[ノヴォシビルスク]]を除く都市はすべてウラル山脈よりも西側、すなわち[[ヨーロッパロシア]]に位置する。一方、厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道・港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進み、[[ハバロフスク]]や[[ウラジオストク]]は50万人を超える人口を持つ。 {|class="wikitable.org" style="text-align:center;width:100%;margin-right:10px;font-size:90%" !align=center style="background:#f5f5f5"| !align=center style="background:#f5f5f5"|都市 !align=center style="background:#f5f5f5"|[[ロシア連邦の地方区分|行政区分]] !align=center style="background:#f5f5f5"|人口(人) !align=center style="background:#f5f5f5"| !align=center style="background:#f5f5f5"|都市 !align=center style="background:#f5f5f5"|[[ロシア連邦の地方区分|行政区分]] !align=center style="background:#f5f5f5"|人口(人) |----- |align="center"|'''1''' |align="left"|'''[[モスクワ]]''' |align="left"|[[モスクワ]] |align="right"|12,582,631 |align="center"|'''11''' |align="left"|'''[[ウファ]]''' |align="left"|[[バシコルトスタン共和国]] |align="right"|1,135,658 |- |align="center"|'''2''' |align="left"|'''[[サンクトペテルブルク]]''' |align="left"|[[サンクトペテルブルク]] |align="right"|5,452,852 |align="center"|'''12''' |align="left"|'''[[クラスノヤルスク]]''' |align="left"|[[クラスノヤルスク地方]] |align="right"|1,106,550 |- |align="center"|'''3''' |align="left"|'''[[ノヴォシビルスク]]''' |align="left"|[[ノヴォシビルスク州]] |align="right"|1,641,654 |align="center"|'''13''' |align="left"|'''[[ヴォロネジ]]''' |align="left"|[[ヴォロネジ州]] |align="right"|1,076,784 |- |align="center"|'''4''' |align="left"|'''[[エカテリンブルク]]''' |align="left"|[[スヴェルドロフスク州]] |align="right"|1,508,966 |align="center"|'''14''' |align="left"|'''[[ペルミ]]''' |align="left"|[[ペルミ地方]] |align="right"|1,062,045 |- |align="center"|'''5''' |align="left"|'''[[カザン]]''' |align="left"|[[タタールスタン共和国]] |align="right"|1,269,382 |align="center"|'''15''' |align="left"|'''[[ヴォルゴグラード]]''' |align="left"|[[ヴォルゴグラード州]] |align="right"|1,007,784 |- |align="center"|'''6''' |align="left"|'''[[ニジニ・ノヴゴロド]]''' |align="left"|[[ニジニ・ノヴゴロド州]] |align="right"|1,252,398 |align="center"|'''16''' |align="left"|'''[[クラスノダール]]''' |align="left"|[[クラスノダール地方]] |align="right"|953,816 |- |align="center"|'''7''' |align="left"|'''[[チェリャビンスク]]''' |align="left"|[[チェリャビンスク州]] |align="right"|1,203,547 |align="center"|'''17''' |align="left"|'''[[サラトフ]]''' |align="left"|[[サラトフ州]] |align="right"|838,056 |- |align="center"|'''8''' |align="left"|'''[[サマーラ]]''' |align="left"|[[サマラ州]] |align="right"|1,155,859 |align="center"|'''18''' |align="left"|'''[[チュメニ]]''' |align="left"|[[チュメニ州]] |align="right"|834,134 |- |align="center"|'''9''' |align="left"|'''[[オムスク]]''' |align="left"|[[オムスク州]] |align="right"|1,154,546 |align="center"|'''19''' |align="left"|'''[[トリヤッチ]]''' |align="left"|[[サマラ州]] |align="right"|697,440 |- |align="center"|'''10''' |align="left"|'''[[ロストフ・ナ・ドヌ]]''' |align="left"|[[ロストフ州]] |align="right"|1,142,886 |align="center"|'''20''' |align="left"|'''[[イジェフスク]]''' |align="left"|[[ウドムルト共和国]] |align="right"|650,223 |- |colspan="11" align=center style="background:#f5f5f5"|2021年国勢調査 |} {{clear}} == 経済 == {{Main|ロシアの経済}} [[ファイル:GDP of Russia since 1989.svg|thumb|250px|[[ソビエト連邦の崩壊]]後の経済成長。[[国内総生産|GDP]]([[購買力平価説|PPP]])は[[1990年代]]から[[2000年代]]で2倍以上に成長している]] ロシアは、[[ブラジル]]・[[中華人民共和国|中国]]・[[インド]]・[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]とともに「[[BRICS]]」と呼ばれる新興経済国群の一つに挙げられている。 [[国際通貨基金|IMF]]によると、2021年のロシアの[[国内総生産|GDP]]は1兆5800億ドルであり、世界第11位である<ref>{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/datamapper/NGDPD@WEO/OEMDC/ADVEC/WEO/JPN/FRA|title=GDP, current prices|accessdate=2021年3月3日|publisher=IMF}}</ref>。一方、1人あたりのGDPは1万1,163ドル<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/world/russia_cis/ru/basic_01.html|title=概況・基本統計|accessdate=2021年3月3日|publisher=JETRO}}</ref>で首都モスクワと地方の格差もあり、ロシア全体では先進国より低い水準である。[[中村逸郎]]は、GDPの約70パーセントを国民の1パーセントである[[富裕層]]が持っている<ref name="AbemaTV2018p2">[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180414-00010010-abema-int&p=2 プーチン大統領再選の裏で“ガタガタ”な経済とトラブルだらけの外交 2ページ目] [[Yahoo!ニュース]] (2018年4月14日) 2018年4月18日閲覧。</ref>としている。 {{See also|{{仮リンク|ロシアにおける人口所得|ru|Доходы населения России}}|{{仮リンク|ロシア連邦労働雇用局|ru|Федеральная служба по труду и занятости}}}} ソ連解体後、[[ボリス・エリツィン]]大統領の主導のもと[[市場経済]]化が進められたが、このために却って急速な[[インフレーション]]を招き、[[1990年代]]半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが1997年の[[アジア通貨危機]]の影響を受けて1998年に[[ロシア財政危機|財政危機]]を招き、再び落ち込んだ。2014年のクリミア併合による欧米からの経済制裁と石油価格の下落により、経済は低迷している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-03-18/POKM2RSYF01S01|title=ロシアのクリミア併合から5年、膨らみ続けるコスト|accessdate=2021年3月3日|publisher=ブルームバーグ}}</ref>。 === 資源依存の経済 === 2019年現在、ロシアは[[アメリカ]]と[[サウジアラビア]]に次ぐ世界第3位の[[原油]]生産国<ref>[https://r.nikkei.com/article/DGXMZO42961830X20C19A3000000 「米原油生産、45年ぶり世界首位 シェール増産効果」]『日本経済新聞』2019年3月27日</ref>であり、同時にサウジアラビアに次ぐ世界第2位の[[原油]]輸出国である<ref>[http://www.worldstopexports.com/worlds-top-oil-exports-country/ Crude Oil Exports by Country] World's Top Exports (January 3, 2020 by Daniel Workman)</ref>。2003年以来の[[原油価格]]上昇によって貿易収支が改善し、市場経済転換後の長い経済停滞を脱し、急速な景気回復が見られた。豊富な地下資源を武器に石油の価格が高いときに成長が続く。その石油産業への依存の重さや自由化の恩恵に与った者([[ロシアの新興財閥|オリガルヒ]]、[[新富裕層]]、体制転換の混乱で成り上がった{{仮リンク|新ロシア人|ru|Новый русский}}に代表される)とそうでない者の貧富の格差の拡大、チェチェン独立派武装勢力による[[テロ]]のリスクなど、不安定要因もいくつかは見られる。石油価格が高かった[[2000年]]にはGDP成長率が10パーセントを越える一方、インフレーションも抑制され、好調が続いた。一人当たり名目GDPも、1999年には1,334ドルに過ぎなかったのが、2006年には6,879ドルと5倍強の増加を見せた。しかし、輸出の6割以上を原油や天然ガスなどの鉱物資源に頼る経済構造となっている、いわゆるモノカルチャー経済である。[[モーリー・ロバートソン]]は「石油の値段が世界的に右肩上がりのときはお金がどんどん入ってくるが、原油が安くなるとあっという間に貧乏に転落するという図式」と説明している<ref name="AbemaTV2018p2" />。 === 農業 === {{Main|{{仮リンク|ロシアの農業|ru|Сельское хозяйство России|en|Agriculture in Russia|fr|Agriculture en Russie}}}} 農産物の自給自足にも力を入れており、ロシアは世界における「最大の[[小麦]]輸出国」ならびに「[[米]]の栽培の北限地」として知られている。[[アメリカ合衆国農務省|米国農務省]]は、2016年度・2017年度([[2016年]][[7月]] - [[2017年]][[6月]])のロシアによる小麦輸出量の推定量を50万トン引き上げ、記録的な2,500万トンとしている。なお、2015年度・2016年度に米国(2,120万トン)と[[カナダ]](2,250万トン)を抜いて世界の主要輸出国となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://sputniknews.jp/20160615/2308009.html|title=米農務省:ロシアは世界最大の小麦輸出国|publisher=Sputnik|date=2016-06-15|accessdate=2016-10-18}}</ref>。[[2014年]]、同国での米生産量は113万8,000トン(うち90パーセントが[[クラスノダール地方]]での栽培)で生産量は記録的に高いものとなっている。加えて、米の栽培効率は1ヘクタールあたり7,100キロで、ヨーロッパにおいて米を生産する国で知られる[[スペイン]]、[[イタリア]]に比較しても多いものとなっているうえ、アジア諸国より多い。同国の米は[[ウズベキスタン]]、[[タジキスタン]]、[[トルクメニスタン]]、トルコにも輸出されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.rbth.com/articles/2012/10/08/39303|title=ロシア米の輸出が勢いづく|publisher=ロシアNOW|date=2012-10-08|accessdate=2016-10-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/news/2015_01_27/282480476/|title=ロシア、米の自足自給へ|publisher=The Voice of Russia|date=2015-01-27|accessdate=2016-10-18}}</ref>。 米国農務省による2021-22年度推計では、ロシアの小麦は生産量が過去最多の8600万トン、輸出量は4000万トンで世界一を維持する見通しである。ソ連時代は大量の穀物を輸入していたが、平坦な国土に農地が広がっており、ロシア経済の安定化に伴い農機や[[肥料]]の投入増、[[畜産]]の効率向上による[[飼料]]に使う小麦の節約で、[[生産性]]や輸出余力が高まった。欧米の経済生産による通貨[[ルーブル]]の下落も輸出競争力を高めているが、[[パン]]価格の上昇に国民が不満を抱くと輸出[[関税]]などで国外への出荷を抑えようとする政策も採られている<ref>山田優特別編集委員「ロシア小麦 強い競争力/輸出4000万トン 世界1位/効率化で増産、低価格」『[[日本農業新聞]]』2021年6月21日14面</ref>。 === 飲料水 === ウクライナ侵攻に伴う経済制裁発動中のロシアでは、「外国製品⇒国産製品」への代替があらゆる分野で実施されており、レモネードも例外ではない<ref>{{Cite web |title=Ochakovo | МПБК Очаково — натуральные напитки |url=https://ochakovo.ru/company/ |website=ochakovo.ru |date=2023-09-13 |access-date=2023-11-23}}{{ru icon}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://ochakovo.ru/wp-content/uploads/2018/03/Ochakovo_catalog__eng18.pdf OCHAKOVO product catalogue in English]}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Лимонад «Ах!» |url=https://www.youtube.com/watch?v=LEmmCY1Yk2w |website=youtube.com |date=2022-11-10 |access-date=2023-11-23}}{{ru icon}}</ref>。 === 外食産業 === 2022年6月12日営業開始のロシアのハンバーガー・ショップ『[[フクースナ・イ・トーチカ]]』においては『前身である旧[[マクドナルド]]店舗時代から地元食材率85パーセント』であり、同店舗内の『インタラクティブ・デジタルサイネージ端末』を利用して商品注文・テイクアウトした後、旧マクドナルド店舗時代と同じ味に調整された(一般労働者の昼飯代と同価格帯の)ハンバーガー類の飲食が可能である。なお『従業員の雇用契約書成立時点から原則2年間は不当な理由での従業員の解雇は労働法違反』となっている<ref>{{Cite web |title=What does the new Russian ‘McDonald’s’ taste like? (PHOTOS) - Russia Beyond |url=https://www.rbth.com/russian-kitchen/335129-new-russian-mcdonalds-vkusnoitochka |website=rbth.com |date=2022-06-15 |access-date=2023-12-04}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Играйте в увлекательную онлайн-игру от "Вкусно и точка" | Бесплатно для всех! |url=https://kc.vkusnoitochka.ru/ar/desktop.html |website=kc.vkusnoitochka.ru |date=2023-11-08 |access-date=2023-12-09}}{{ru icon}}</ref>l<ref>{{Cite web |title=Большая новинка от «Вкусно – и точка» |url=https://www.youtube.com/watch?v=KIqi5ou7MVc |website=youtube.com |date=2023-07-25 |access-date=2023-12-09}}{{ru icon}}</ref>。 === 漁業 === {{Main|{{仮リンク|ロシアの漁業|ru|Рыбохозяйственный комплекс России|en|Fishing industry in Russia}}}} ロシア連邦の海岸線は、カナダ、グリーンランド、インドネシアの海岸線に次いで世界4位の長さとなっている。ロシアの漁業の[[排他的経済水域]](EEZ)は760万平方キロメートルで、内陸のカスピ海と200万本以上の河川を加え、3つの海洋と12ヶ所の海への航路が含まれている<ref>[[FAO]]: [https://web.archive.org/web/20170518220223/ftp://ftp.fao.org/FI/DOCUMENT/fcp/en/FI_CP_RU.pdf Profile for Russia]</ref>。 ロシア連邦極東連邦管区沿海地方ナジェジジンスコエ地区に所属する『ナジェジジンスコエ地区・先進経済特区“Nadezhdinskaya Advanced Special Economic Zone (ASEZ)”』はロシア連邦領内最大規模の“スケソウダラ水産加工工場”の拠点である<ref>{{Cite web |title=JSC "Corporation for the Development of the Far East and the Arctic" |url=https://erdc.ru/en/ |website=erdc.ru |date=2023-11-16 |access-date=2023-11-22}}{{en icon}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://erdc.ru/upload/iblock/2dc/sb2q2phbbqms5ss2gv8r09osxqiiuzes/Catalog-Goods-and-services-of-ASEZ-and-Free-Port-residents-2023.pdf FEDC Magazine 2023]}}{{en icon}}</ref> <ref>{{Cite web |title=Завод «Русский минтай» – резидент ТОР «Надеждинская» нарастил производство рыбной продукции |url=https://www.youtube.com/watch?v=2mHMkP46C0A |website=youtube.com |date=2021-03-23 |access-date=2023-11-21}}{{ru icon}}</ref>。 === 工業 === ※2019年10月1日に『欧州委員会』(EC:European Commission) が『家電製品部品在庫保証期間:最低10年』保証明示義務化を採択<ref>{{Cite web |title=New rules make household appliances more sustainable 1 October 2019 |url=https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/IP_19_5895 |website=ec.europa.eu |date=2019-10-01 |access-date=2023-11-17}}{{en icon}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://ec.europa.eu/commission/presscorner/api/files/document/print/en/ip_19_5895/IP_19_5895_EN.pdf New rules make household appliances more sustainable]}}{{en icon}}</ref> 、同条約を批准した(欧州最貧国家群でも完全自国生産可能な)“東欧製格安二級品家電製品群”<ref>{{Cite web |title=HORIZONT — TVs, interactive touch panels, microwave ovens. |url=https://horizont.by/en/ |website=horizont.by |date=2023-03-01 |access-date=2023-11-18}}{{en icon}}</ref>も「低価格と高品質の両立」を既に達成できている事が明らかとなった<ref>{{Cite web |title=ATLANT - the official website of the manufacturer of refrigerators, freezers and washing machines. Catalog, service, instructions |url=https://en.atlant.by/ |website=en.atlant.by |date=2019-02-14 |access-date=2023-11-17}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=ИСТОРИЧЕСКИЙ ПУТЬ КОМПАНИИ ATLANT |url=https://www.youtube.com/watch?v=bl5FVhrgmEM |website=youtube.com |date=2019-02-14 |access-date=2023-11-17}}{{ru icon}}</ref>。 ==== 自動車産業 ==== {{Main|{{仮リンク|ロシアの自動車産業|en|Automotive industry in Russia}}}} 2022年5月12日にロシア連邦領内に公布された政令第855号<ref>{{Cite web |title=Постановление Правительства Российской Федерации от 12.05.2022 № 855 ∙ Официальное опубликование правовых актов |url=http://publication.pravo.gov.ru/Document/View/0001202205130025 |website=publication.pravo.gov.ru |date=2022-05-13 |access-date=2023-11-18}}{{ru icon}}</ref>にて、『Euro(European emission standards)-0』なる独自のEU圏内統一排出ガス規制を制定した。『ヨーロッパ各国で製造された電子工学部品を多数使用するABS(アンチロック・ブレーキ・システム)及びESP(Electronic Stability Program)・エアバッグなどの安全システムを不要とし、標準搭載の安全システムは2点式シートベルト(Two point seat belt)及び3点式シートベルト(Three point seat belt)に限る』とし、完全に国内で生産可能な1988年レベルの技術のみで構築された新車生産・販売が許可されるようになった<ref>{{Cite web |title=Official website of UAZ (Ulyanovsk Automobile Plant) |url=https://www.uaz.ru/en |website=uaz.ru |date=2022-11-15 |access-date=2023-11-17}}{{en icon}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.uaz.ru/data/uploads/uaz/originals/uaz-hunter-brochure-en-290722.pdf UAZ Hunter Off-road SUV]}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Комфортные внедорожники УАЗ |url=https://www.youtube.com/watch?v=X05Hl-Zx4Ng |website=youtube.com |date=2022-11-15 |access-date=2023-11-18}}{{ru icon}}</ref>。 ==== 航空機産業 ==== [[ファイル:Sukhoi Superjet 100 prototype.jpg|thumb|250px|スホーイ・スーパージェット100は、ロシアの最新の民間航空製品の1つである。地域旅客機は、2018年時点で様々な航空会社やリース会社へ約280機発注されている。]] {{Main|{{仮リンク|ロシアの航空機産業|en|Aircraft industry of Russia}}}} [[航空機]]製造はロシアの重要な産業部門であり、約355,300人が雇用されている。航空機産業はロシアにおいて最も科学集約的なハイテク分野の1つであり、数多くの[[プロフェッショナル]]たる人材を雇用している。ロシアの航空機産業は、[[MiG-29]]や[[Su-30]]などの国際競争力のある軍用機の[[ポートフォリオ]]を提供している一方、[[スホーイ・スーパージェット100]]などの新しい開発計画が民間航空機部門の運命を復活させることが期待されている<ref>{{Cite web |title=SJ-100: the entirely domestically-built Russian airliner |url=https://odysee.com/@SputnikInternational:c/146345134632:5 |website=odysee.com |date=2023-09-09 |access-date=2023-11-28}}{{en icon}}</ref>。2009年、[[統一航空機製造会社|ユナイテッド・エアクラフト]]に属する企業は、15機の民間モデルを含む95機の新しい固定翼機を顧客に納入した。さらに、業界は141機以上の[[ヘリコプター]]を生産している。軍用機部門の生産と金額は他の防衛産業部門をはるかに上回り、航空機製品は国の武器輸出の半分以上を占めている<ref>{{cite journal|last=Ionin|first=Andrey|title=Russia's Space Program in 2006: Some Progress but No Clear Direction|journal=[[Moscow Defense Brief]]|publisher=Centre for Analysis of Strategies and Technologies|issue=2(#8)|url=http://mdb.cast.ru/mdb/2-2007/item1/item3/|archive-url=https://web.archive.org/web/20070827204307/http://mdb.cast.ru/mdb/2-2007/item1/item3/|archive-date=2007-08-27|access-date=2023-11-26}}</ref>。 [[ファイル:Президент России — 2017-01-26 — Видеоконференция с Российской самолётостроительной корпорацией «МиГ».webm|thumb|250px|2017年1月26日公開:輸出用途前提で開発されたマルチロール戦闘機『MiG-35』の初飛行試験映像]] 2023年8月12日、『[[統一航空機製造会社]]』(United Aircraft Corporation)所属の技術主任の説明によると「外国の潜在的な顧客の要望に応じて、ロシア連邦国内で[[モスボール (軍事)|モスボール]]保管している300機以上のロシア連邦国内規格型『MiG-29 ファルクラム』<ref>{{Cite web |title=MiG-29K/KUBR Integrated fier-control and navigation system |url=https://www.youtube.com/watch?v=BT6dDfp5ra4 |website=youtube.com |date=2014-01-15 |access-date=2023-12-09}}{{en icon}}</ref>をマルチロール戦闘機『MiG-35 スーパー・ファルクラム』<ref>{{Cite web |title=video introduces the next generation of MIG, MIG-35 |url=https://www.youtube.com/watch?v=AOXPVzvucfA |website=youtube.com |date=2017-01-31 |access-date=2023-12-09}}{{ru icon}}</ref>に大幅近代化改修して、1機当たり10億ルーブル(2023年12月12日時点の為替レートで“アメリカドルで1094万ドル/日本円で15億9820万円”)の低価格で輸出可能である」との事。また、AESAレーダーへの更新を行った海外向け輸出型『MiG-35 スーパー・ファルクラム』<ref>{{Cite web |title=МиГ-35 – новейшие российские многофункциональные истребители наглядно и в деталях |url=https://www.youtube.com/watch?v=lZ9lOkdHDK4 |website=youtube.com |date=2018-12-12 |access-date=2023-12-09}}{{ru icon}}</ref>に搭載される“デジタル電子制御式『Klimov RD-33MKM』アフターバーナー付ターボファンエンジン”の双発推力は、アフターバーナー使用時には9.5トン(93kN)×2基(合計推力19トンで機体最大荷重は10Gに達する)。『ファゾトロン(NIIR)』開発の“輸出型Zhuk-AE(FGA-35)・AESAレーダー(Xバンド周波数/シリコン製パワー半導体素子×1016個)”標準装備となっている。なお、オプション装備として“ロシア連邦国内規格型Zhuk-AME(FGA-50)・AESAレーダー(Xバンド周波数/ガリウム砒素製パワー半導体素子×1148個)換装”<ref>{{PDFlink|[https://www.niip.ru/upload/iblock/8dc/8dc6efc46834793454bc0a70be505daa.pdf Information and analysis magazine of Phazotron-NIIR in English]}}{{en icon}}</ref>及び“推力偏向ノズル(TVC)装備”<ref>{{Cite web |title=Klimov RD-33 Nozzle Rig |url=https://www.youtube.com/watch?v=fEO_ZChorPM |website=youtube.com |date=2014-12-08 |access-date=2023-12-12}}{{en icon}}</ref>も可能。将来的には(既に開発完了で後は量産するだけの状態まで移行している)アフターバーナー使用時には単発推力11.5トン(112.78kN)を誇る“デジタル電子制御式『Klimov VK-10M』アフターバーナー付ターボファンエンジン換装”<ref>{{Cite web |title=MiG-29 Fulcrum variant may get bigger engine | News | Flight Global |url=https://www.flightglobal.com/mig-29-fulcrum-variant-may-get-bigger-engine-/42908.article |website=flightglobal.com |date=2002-05-28 |access-date=2023-12-12}}{{en icon}}</ref>も可能。さらに技術主任の説明によれば、「『MiG-35』の『IMA(Integrated Modular Avionics:統合モジュラーアビオニクス)』は機体に搭載された複数のセンサーの情報を統合、機体からおよそ130km離れた遠距離に位置するステルス戦闘機『F-22 ラプター』を捕捉可能であり、更にパイロットに音声会話型エキスパートシステム『Rita』が最適化された情報を音声にて説明する」とのこと<ref>{{Cite web |title=Russian Air Force Day: Combat Aviation Develops in Right Direction |url=https://sputnikglobe.com/20230812/mig-35-vs-f-16-russian-veteran-pilot-explains-which-plane-would-win-in-a-dogfight-1112552714.html |website=sputnikglobe.com |date=2023-08-12 |access-date=2023-12-08}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Russia's MiG-35 to Be Equipped With Voice Assistant Helping Pilot in Tough Situations |url=https://sputnikglobe.com/20200610/russias-mig-35-to-be-equipped-with-voice-assistant-helping-pilot-in-tough-situations-1079572763.html |website=sputnikglobe.com |date=2020-06-10 |access-date=2023-12-08}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=NEW Russian Fighter Jet MIG-35 / MIG-35D Compilation, Specs, & Info |url=https://www.youtube.com/watch?v=kfAtSUlTjMM |website=youtube.com |date=2016-03-27 |access-date=2023-12-08}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=МиГ-35 |url=https://www.youtube.com/watch?v=negi2_weFCY |website=youtube.com |date=2017-07-21 |access-date=2023-12-09}}{{ru icon}}</ref>。 ==== 宇宙産業 ==== {{Main|{{仮リンク|ロシアの宇宙産業|en|Space industry of Russia}}}} ロシアの宇宙産業は100社以上の企業で構成され、25万人が雇用されている<ref>{{cite journal|last=Ionin|first=Andrey|title=Russia's Space Program in 2006: Some Progress but No Clear Direction|journal=[[Moscow Defense Brief]]|publisher=Centre for Analysis of Strategies and Technologies|issue=2(#8)|url=http://mdb.cast.ru/mdb/2-2007/item1/item3/|archive-url=https://web.archive.org/web/20070827204307/http://mdb.cast.ru/mdb/2-2007/item1/item3/|archive-date=2007-08-27|access-date=2023-11-26}}</ref>。 {{節スタブ}} ==== 半導体素子製造装置産業 ==== 2008年頃に台湾・TSMC社と共同で22nmプロセス以降の微細加工技術の実用量産化を研究していたモスクワの半導体露光装置(ステッパー)メーカー『Mapper LLC』にて、2023年現時点では一品一様・試験的少量生産状態である“汎用用途・16nmプロセス半導体・16コアCPU『Elbrus-16S』(総トランジスタ数:120億個 / 動作周波数2GHz×16コア / 総合演算能力750GFLOPS:演算能力46.875GFLOPS×16コア)”<ref>{{Cite web |title=Центральный процессор «Эльбрус-16С» (ТВГИ.431281.028) | МЦСТ |url=http://www.mcst.ru/Elbrus-16C |website=mcst.ru |date=2020-10-07 |access-date=2023-11-24}}{{ru icon}}</ref> / “汎用用途・16nmプロセス半導体・24コアCPU『ROBODEUS processor』(CPUコア×8+DSPコア×16)”<ref>{{Cite web |title=ROBODEUS processor |url=https://elvees.com/en/integrated-circuits/robodeus |website=elvees.com |date=2021-12-20 |access-date=2023-12-01}}{{en icon}}</ref> / “汎用用途・16nmプロセス半導体・48コアCPU『Baikal-S Processor』(BE-S1000)”<ref>{{Cite web |title=Baikal-S, процессор BE-S1000, микропроцессор Baikal-S, CPU Байкал-S |url=https://www.baikalelectronics.ru/products/4395/ |website=baikalelectronics.ru |date=2022-10-14 |access-date=2023-12-01}}{{ru icon}}</ref>の完全国内製量産技術確立に尽力している<ref>{{Cite web |title=MAPPER and TSMC Take Next Step in Exploring Multiple E-beam Lithography for IC Manufacturing at 22 nanometer node and Beyond |url=https://www.design-reuse.com/news/19290/multiple-electron-beam-maskless-lithography-platform.html |website=design-reuse.com |date=2008-10-13 |access-date=2023-11-20}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=MAPPER LLC |url=https://mapperllc.ru/ |website=mapperllc.ru |date=2018-12-21 |access-date=2023-11-20}}{{en icon}}</ref>。 ※ロシア連邦共和国内の半導体技術は(十年)一昔前の『枯れたプロセス・ルール』である『90nm/65nmプロセス・ルール』レガシー半導体(『legacy』とは『過去に築かれた技術的遺産・遺物』の意味)の完全自国生産レベルには到達しており、外国からのCPU供給が全面停止してもロシア連邦共和国内の(自社で設計と製造の両方を手がける製造拠点を構える)半導体製造会社『Mikron』社等の半導体製造施設において(スマート家電等の『IoT:Internet of Things』端末に搭載可能な)実用アプリケーション・ソフトウェア稼働及び産業機械用途組み込み型制御コンピューターなどには十分な性能の『半導体:産業界のライ麦粉』の完成品たるCPUが代替生産にて維持可能である<ref>{{Cite web |title=Экскурсии на завод Микрон |url=https://www.tour.mikron.ru/ |website=mikron.ru |date=2023-01-25 |access-date=2023-11-20}}{{ru icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Создание CPU по этапам на заводе Mikron и почему без 7нм остались Global Foundries |url=https://www.youtube.com/watch?v=PVczz3uU3j4 |website=youtube.com |date=2019-03-01 |access-date=2023-11-21}}{{ru icon}}</ref>。2023年10月時点でロシア連邦共和国の半導体チップの量産製造技術はリバースエンジニアリング技術の積極的活用により“汎用用途・40nmプロセス半導体・2コアCPU『ELIOT low-power microcontroller』”<ref>{{Cite web |title=ELIOT low-power microcontroller |url=https://elvees.com/en/integrated-circuits/eliot |website=elvees.com |date=2017-12-13 |access-date=2023-12-18}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Eliot - распаковка модуля и работа из коробки, запуск IDE, работа примеров baremetal |url=https://rutube.ru/video/4c786fdf9a84c1cbe85f7ab3ccbd5301/ |website=rutube.ru |date=2023-04-14 |access-date=2023-12-18}}{{ru icon}}</ref> / “汎用用途・40nmプロセス半導体・6コアCPU『Microprocessor 1892VM14Ya』』(CPUコア×2+DSPコア×2+GPUコア×1+VPUコア×1)”<ref>{{Cite web |title=Микропроцессор 1892ВМ14Я |url=https://elvees.ru/chip/processors-multicore/1892vm14ja |website=elvees.ru |date=2016-12-12 |access-date=2023-12-18}}{{ru icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Прототип планшета на SoC Мультикор 1892ВМ14Я под управлением Sailfish Mobile OS RUS |url=https://www.youtube.com/watch?v=5VCoNI5oQHI |website=youtube.com |date=2018-12-10 |access-date=2023-12-19}}{{ru icon}}</ref>完全国内製量産化に到達、2030年度までに14nmプロセスルールの半導体チップの完全国内製量産化を目指している<ref>{{Cite web |title=Российская микроэлектроника перейдет на топологию 28 нм. Много это или мало? - CNews |url=https://www.cnews.ru/news/top/2023-10-11_rossijskaya_mikroelektronika |website=cnews.ru |date=2023-10-11 |access-date=2023-12-17}}{{ru icon}}</ref>。 ==== 軍産複合体/軍需(防衛)産業 ==== {{Main|{{仮リンク|ロシアの軍産複合体|fr|Complexe militaro-industriel de la Russie}}|{{仮リンク|ロシアの防衛産業|en|Defense industry of Russia}}}} ロシアの[[軍産複合体]]は、基本として十月革命後の国家近代化を確実にしたソ連時代のものから引き継がれている。ロシアの[[国営企業]]である{{仮リンク|ロソボロネクスポルト|ru|Рособоронэкспорт|en|Rosoboronexport|fr|Rosoboronexport}}の代行企業によって販売されている[[Su-27]]などの製造兵器は、輸出で大きな成功を収めている。 ロシアにとって軍需(防衛)産業はソ連時代から重要な地位を占めており、今後{{いつ|date=2014年12月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->も積極的に輸出拡大を続けるとしている{{誰2|date=2019年12月}}。輸出額は2011年は100億ドルを超え、2012年には150億ドルを超えるとされ順調に推移している。民間転用も積極的に行っており、[[宇宙]]・[[航空]]・[[情報通信]]産業など多岐にわたる。しかし、政治的な理由で輸出ができなくなるなど不安定な要素も含んでいる。しかし、ロシアを含め世界の軍事費は今後も増え続けるとされ、軍需産業は今後も拡大を続けるとされている<ref>{{PDFlink|[https://www.uacrussia.ru/upload/iblock/97a/97a67cf1bf105c89af4fdfebb09e0099.pdf JSC “United Aircraft Corporation” product BROCHURE in English]}}{{en icon}}</ref>。 {{節スタブ}} ==== IT産業 ==== {{Main|{{仮リンク|ロシアの情報技術|en|Information technology in Russia}}}} IT市場は、ロシア経済における最も動的な分野の1つとなっている。ロシアの[[ソフトウェア]]輸出は、2000年のわずか1億 2,000万[[ドル]]から2010 年の33億ドルまで増加している<ref>{{cite web |url=http://russoft.ru/files/RUSSOFT_Survey_8_en.pdf |title=The 8th Annual Survey of the Russian Software Export Industry |publisher=Russoft |date=22 November 2011 |access-date=5 May 2012 |archive-url=https://web.archive.org/web/20120514052010/http://russoft.ru/files/RUSSOFT_Survey_8_en.pdf |archive-date=14 May 2012 |url-status=dead }}</ref>。 ==== モバイルOS ==== フィンランドのJolla Mobile社とライセンス契約を締結、同社の『Sailfish OS』をベースに開発された派生型OS『Aurora(Sailfish Mobile OS RUS)』をロシア国産の携帯端末向けOSの標準規格とする方針を実施している<ref>{{cite web |url=https://auroraos.ru/devices |title=Мобильные устройства на платформе ОС Аврора |publisher=auroraos.ru |date=2019-02-08 |access-date=2023-12-19}}{{ru icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Представление новой версии Аврора 5 на РТК Tech Day, 08.12.2023 |url=https://www.youtube.com/watch?v=Xxt1xsMxlG8 |website=youtube.com |date=2023-12-08 |access-date=2023-12-19}}{{ru icon}}</ref>。 === 鉱業 === [[ファイル:RF NG pipestoEU.gif|thumb|200px|ロシアから伸びる[[原油]]・[[天然ガス]]の[[パイプライン輸送|パイプライン]]]] {{Main|{{仮リンク|ロシアの鉱業 |en|Mining industry of Russia}}|{{仮リンク|ロシアにおける冶金学|en|Metallurgy of Russia}}}} ロシアはもっとも[[鉱物資源]]が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は[[経済産業調査会]]『鉱業便覧 平成14年版』による2002年時点のもの)。 有機鉱物資源では、[[天然ガス]](2,1807千兆ジュール、21.9パーセント、2位)、[[原油]](3.5億トン、10.3パーセント、2位)、燃料に用いられる[[亜炭]](8,668万トン、9.5パーセント、4位)、[[石炭]](1.6億トン、4.4パーセント、6位)の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国(サウジアラビアと米国)との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。 これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と亜炭(88パーセント)と天然ガス(69パーセント)である。一方、原油の国内消費比率は29パーセントと低く、主に輸出されている。ロシアの原油輸出量は世界第2位(1億6,211万トン、<!-- この文のみ -->[[2001年]])である。 === エネルギー === {{Main|{{仮リンク|ロシアのエネルギー|ru|Энергетика России|en|Energy in Russia|fr|Énergie en Russie}}}} ロシアはエネルギー資源ならびに天然資源が豊富な国家である。天然ガス埋蔵量は世界最大(確認埋蔵量の18%)で、石炭埋蔵量は世界第2位となっている。天然ガス生産国では世界第2位、石油生産国では第3位、石炭生産国では第6位、そして[[原子力発電]]生産国としては第4位である<ref>{{Cite web|url=http://www.eia.doe.gov/emeu/cabs/Russia/Full.html|title=Country Analysis Brief. Russia|website= Energy Information Administration|date=2007-04|access-date=2023-11-26}}</ref>。 石油とガスは2017年に連邦予算の36%を占めた。2016年にはヨーロッパの天然ガス輸入の70%以上がロシアから輸入され、原油輸入の3分の1以上もロシアから輸入された。逆に、ロシアの原油輸出のほぼ60%、天然ガス輸出の75%以上はヨーロッパ向けであった<ref>{{Cite web|url=https://www.eia.gov/beta/international/analysis.php?iso=RUS|title=Country Analysis - Russia|website=Energy Information Administration|date=2023-10-17|access-date=2023-11-26}}</ref>。 ロシアのエネルギー部門は自国経済において支配的な位置を占めており、同時に世界最大規模の部門の1つとして認知されている。 {{節スタブ}} {{also|{{仮リンク|ロシアのエネルギー政策|en|Energy policy of Russia}}}} === 観光 === [[ファイル:Grand Cascade in Peterhof 01.jpg|thumb|[[サンクトペテルブルク]]の人気観光スポットである[[w:Peterhof Palace|ペテルゴフ宮殿]]]] {{Main|{{仮リンク|ロシアの観光|ru|Туризм в России|en|Tourism in Russia}}}} ロシアは世界有数の観光地として知られている。観光スポットが各地にあり、海外から多くの観光客が訪れている。その中で最も代表的なものとして知られているのは、[[世界遺産]]に登録されている[[サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群]]や[[赤の広場]]である。 {{節スタブ|date= 2020年12月17日 (木) 17:17 (UTC)}} === 貿易 === [[ファイル:Russia Product Export Treemap.jpg|thumb|right|色と面積で示したロシアの輸出品目]] ロシア経済に占める貿易の割合は急拡大している。1992年時点では、[[国民総生産]]3,978億ドルに対し、輸出が381億ドル、輸入が350億ドルであった。2003年には、国民総生産4,885億ドルに対し輸出は1,260億ドル、輸入524億ドルに増加しており、輸出の伸びが著しい。これは原油および、[[石油]]関連の生産・輸出拡大によるものである。ロシアの貿易構造は1992年から2003年までの約10年間で大きく変化してきた。1992年時点ではソ連を構成していた諸国に対する貿易が、輸出で7割、輸入で5割を占め経済ブロックを形成していた。品目では[[機械]]と原油、[[化学工業]]製品を輸出し、[[建設機械]]と[[軽工業]]品、[[食料]]を輸入していた。ところが、2003年時点では輸出入とも相手国が分散する。原油,石油製品を輸出し、機械、[[自動車]]を輸入している。つまり、機械工業の落ち込みと原油輸出の大幅な伸びが特徴と言える。 1992年時点の輸出品の品目別の比率は、United Nations Statistical Yearbook 2003などによると建築機械(35.0%)、天然ガスを含む原油(14.7%)、[[化学品]](10.6%)、軽工業品(8.1%)、[[鉄鋼]](6.9%)。同輸入品は、建築機械(36.2%)、軽工業品(20.4%)、食料(16.7%)、化学品(7.5%)、鉄鋼(5.0%)。2003年時点の輸出品の品目別の比率は、原油 (27.6%)、[[液化石油ガス|石油ガス]] (13.0%)、石油製品 (10.4%)、鉄鋼 (6.1%)、[[アルミニウム]](2.6%)である。2003年時点の貿易相手国は輸出相手国が順に、[[オランダ]](6.2%)、中国、ベラルーシ、ドイツ、ウクライナ、輸入相手国が順にドイツ(14.1%)、ベラルーシ、ウクライナ、中国、アメリカとなっている。 日本との貿易は順調に拡大している。日本からの輸入額は15億ドルから45億ドルへ、輸出額は28億ドルから62億ドルに伸びている。品目は輸入を中心に変化した。日本への輸出の変化を見ると、1992年時点は魚介類、木材の2品目で5割弱を占め、アルミニウム(アルミニウム合金を含む)、石炭、[[白金]]が続いた。これが2003年になるとアルミニウム([[アルミニウム合金]]を含む、22.4%)、[[魚介類]]、石炭、[[木材]]、原油となった。輸入は、機械類(26.7%)、鉄鋼、電気機械、自動車、[[プラスチック]]であったものが、[[乗用車]](62.1%)、建設機械(6.4%)、[[映像機器]]、[[通信機器]]、[[バス (交通機関)|バス]]に変わった。品目が自動車に集中したことになる。 == 交通 == {{main|[[ロシアの交通]]}} === 鉄道 === {{main|[[ロシアの鉄道]]}} ロシア鉄道のシベリア鉄道などをはじめとする客車での運転スタイルが基本。 エレクトリーチカーなど例外もある。 ロシア鉄道の運行するシベリア鉄道を7日間かけて全線走破する特急ロシア号(ウエラジオストク駅→ヤロフラススキー駅) 同じくロシア鉄道の運行する特急オケアン(太洋) 号(ウエラジオストク駅→ハバロフスク駅) などが有名である。 === 道路 === {{Main|[[ロシア連邦道路]]}} === 航空 === {{See|[[ロシアの空港の一覧]]}} 2023年11月1日、高バイパス比ターボファンジェット『PS-90A3M』(単発推力:17500kgf)<ref>{{Cite web |title=Двигатель ПС-90А |url=https://uecrus.com/products-and-services/products/grazhdanskaya-i-transportnaya-aviatsiya/dvigatel-ps-90a-/ |website=uecrus.com |date=2017-03-03 |access-date=2023-12-02}}{{ru icon}}</ref>を4発搭載した大型ワイドボディ旅客機『Il-96-400M』の初飛行に成功、2030年度までに高バイパス比ギヤードターボファンジェット『PD-35』(単発推力:35000kgf)<ref>{{Cite web |title=Двигатель ПД-35 |url=https://uecrus.com/products-and-services/products/grazhdanskaya-i-transportnaya-aviatsiya/dvigatel-pd-35/ |website=uecrus.com |date=2016-07-13 |access-date=2023-12-02}}{{ru icon}}</ref>を2発搭載した双発機に改修予定<ref>{{Cite web |title=Первый полет Ил-96-400М |url=https://rutube.ru/video/f124ff097343f0dd458bf6d1de6d53ec/ |website=rutube.ru |date=2023-11-01 |access-date=2023-11-24}}{{ru icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Первые испытания «сердца» ПД-35 превзошли ожидания |url=https://rutube.ru/video/d7a8e4220dbd21629dc1715eb2897169/ |website=rutube.ru |date=2023-10-16 |access-date=2023-11-24}}{{ru icon}}</ref>。 == 科学技術 == {{Main|{{仮リンク|ロシアの科学技術|en|Science and technology in Russia}}}} ロシアの[[科学技術]]は、ピョートル大帝が[[ロシア科学アカデミー]]と[[サンクトペテルブルク大学]]を設立し、博学者[[ミハイル・ロモノーソフ]]が[[モスクワ大学]]を設立した[[啓蒙時代]]から急速に発展した。 19世紀から20世紀にかけて、ロシアは多くの著名な[[科学者]]を輩出しており、[[物理学]]、[[天文学]]、[[数学]]、[[コンピューティング]]、[[化学]]、[[生物学]]、[[地質学]]、[[地理学]]などの学系分野に重要な貢献を果たしている。 元素周期表の[[ドミトリ・メンデレーエフ]]、近年ではポアンカレ予想の[[グリゴリー・ペレルマン]]などが著名である。 なお、ロシアにおいて[[発明家]]や[[技術者]]の存在は、[[電気工学]]、[[造船]]、[[航空宇宙]]、[[兵器]]、[[通信]]、[[情報技術|IT]]、[[核技術]]、[[宇宙技術]]などに幅広く影響を及ぼしている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ロシアの発明家の一覧|en|List of Russian inventors}}}} === 航空宇宙ならびに宇宙開発 === {{Main|{{仮リンク|ロシアにおける宇宙計画|fr|Programme spatial soviétique et russe}}}} {{節スタブ}} == 国民 == [[File:Russiapopulation-2010.svg|lang=ja|thumb|200px|right|ロシアの人口ピラミッド]] {{Main|[[ロシアの人口統計]]}} [[20世紀]]のロシアの[[人口動態]]は、[[第一次世界大戦|第一次大戦・干渉戦争期]]そして[[第二次世界大戦|第二次世界大戦期]]と2度にわたって激減したが、その後は回復傾向にあった。しかし、1992年以降再び[[人口]]減少が続き、1992年で最大1億4,800万人いた人口が、[[2050年]]には1億1,000万人程度まで減少すると見られている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.ier.hit-u.ac.jp/Common/publication/DP/DP499.pdf |title= ロシアの長期人口統計 |author=雲和広、森永貴子、志田仁完 |publisher= [[一橋大学]]経済研究所 |date= 2007-10 |accessdate= 2020-01-31 }}</ref><ref>{{Cite news|url= http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20060621/104822/ |title= ロシアの人口減少は日本より深刻 |author= [[門倉貴史]] |newspaper= [[日経ビジネス]]オンライン |publisher= [[日経BP]]社 |date= 2006-06-26 |accessdate= 2020-01-31 |archiveurl= https://archive.fo/GbCIe |archivedate= 2017-01-10}}</ref>。原因には、[[出生率]]の低下や男性の[[平均寿命]]がきわめて短くなっていることがある。ロシアの男性の平均寿命は1987年以降短くなる傾向にあり、世界銀行の統計によると1994年には57.6歳まで低下した。その後回復し、2017年時点では67.5歳である。女性は、1993年に71.2歳まで低下したが、2017年には77.6歳と上昇、男女差は10歳ときわめて大きいままである<ref name="hbol20181012">{{Cite news|url= https://hbol.jp/176462/2 |title= 年金制度改悪でプーチンの支持率も低下。平均寿命67.5歳のロシア男性は2年半しか年金受給されない!? |author= 白石和幸 |newspaper= ハーバー・ビジネス・オンライン |publisher= 扶桑社 |date= 2018-10-12 |accessdate= 2020-01-31 }}</ref>。ちなみに2008年、[[OECD]]諸国の平均は男性77.2歳、女性82.8歳と男女差は6歳程度である。続いていた人口減少は2012年に止まり、2014年のクリミア併合で人口増加に転じたが2016年の減少に戻り2020年は約51万人の減少<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3329021|title=ロシアの人口、1年で51万人減少|accessdate=2021年3月3日|publisher=AFP}}</ref>となった<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jiji.com/jc/v4?id=foresight_00222_201712200001 |title= 少子化対策は「プーチンに学べ」|author= [[名越健郎]] |work= フォーサイト-新潮社ニュースマガジン |website= 時事ドットコム |accessdate= 2020-01-31 }}</ref>。また、出生率も2015年には1.78をピークに上昇したが<ref>{{Cite news|url= https://jp.sputniknews.com/russia/201711294322826/ |title= プーチン大統領 第1子誕生から毎月の支援金交付を提案 |newspaper= Sputnik 日本 |date= 2017-11-29 |accessdate= 2020-01-31 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://jp.sputniknews.com/life/201801294519267/ |title= ロシア、出生数・死亡数ともに減少 |newspaper= Sputnik 日本 |publisher= |date= 2018-01-29 |accessdate= 2020-01-31 }}</ref>、2018年時点では1.5人程である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/report/tsuhaku2020/2020honbun/i1360000.html|title=第Ⅰ部 第3章 第6節 ロシア|accessdate=2021年3月3日|publisher=経済産業省}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ロシアのディアスポラ|ru|Русская диаспора}}|ロシア世界}} {{also|{{仮リンク|ロシアの民族統一主義|ru|Русский ирредентизм|en|Russian irredentism}}}} === 民族 === {{bar box |title = 民族構成(ロシア)<ref>[http://www.perepis-2010.ru/results_of_the_census/result-december-2011.ppt 2010年国勢調査より]</ref><ref group="注釈">言語による分類。</ref> |titlebar = #ddd |float = right |bars = {{bar percent|[[スラヴ人]]|blue|82.7}} {{bar percent|[[テュルク系民族|テュルク系]]|yellowgreen|8.7}} {{bar percent|[[コーカサス諸語|コーカサス系]]|green|3.7}} {{bar percent|[[ウラル語族|ウラル系]]|red|1.6}} {{bar percent|その他|black|3.3}} }} ロシアには182の[[民族]]が住み、[[移民]]は約700万人とされる[[多民族国家]]である<ref>{{Cite news|author=|date=2010-12-26|title=ロシアと民族|publisher=|newspaper=[[朝日新聞]]|url=https://www.asahi.com/topics/word/旧ソ連諸国.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210510003559/https://www.asahi.com/topics/word/旧ソ連諸国.html|archivedate=2021-05-10}}</ref>。2010年の統計によると約80パーセントは[[東スラブ人|東スラブ系民族]]となっており、[[ロシア人]](民族)が全人口の77.71パーセントを占める。同じ東スラブ人のウクライナ人の割合も1.35パーセントと全体の3位となっており、[[ベラルーシ人]]や[[ポーランド人]]を含めたスラブ系全体では82.7パーセントを占める。 テュルク系の[[タタール人]]はロシア人に次いで多い民族集団となっており全体の3.72パーセントを占め、[[バシキール人]]や[[チュヴァシ人]]、[[トゥヴァ人]]、[[アルタイ人]]、[[カザフ人]]、[[ウズベク人]]、[[アゼルバイジャン人]]、[[ヤクート人|サハ人]]などの[[テュルク系民族]]はロシア全体の8.7パーセントを占める。 コーカサス系で最も多いのが[[チェチェン人]]で全体では6位の1パーセントを占め、[[イングーシ人]]、[[オセット人]]、[[アヴァール人 (カフカース)|アヴァール人]]、アルメニア人、グルジア人などを合わせるとコーカサス系民族はテュルク系に次いで多い3.7パーセントを占めている。 [[ウラル語族|ウラル系]]は[[マリ人]]、[[モルドヴィン人]]、[[カレリア人]]、[[ウドムルト人]]、[[ネネツ人]]などで構成され、全体の1.6パーセントを占めている。 そのほか、[[モンゴル系民族]]の[[カルムィク人]]、[[ブリヤート人]]、[[ツングース系民族]]の[[エヴェンキ|エヴェンキ人]]、[[エスキモー|エスキモー系]]の[[ユピク|ユピク人]]、さらに、[[ユダヤ人]]や[[ゲルマン系]]の[[ドイツ人]]など多くの非[[スラヴ人|スラヴ系]]民族がいるが、公用語である[[ロシア語]]が[[ロシアの共和国|民族共和国]]を含め全域でほぼ完全に通用する。 {{clear}} === 言語 === [[ファイル:Russian language status and proficiency in the World.svg|thumb|200px|[[ロシア語]]を使用する地域]] {{main|ロシアの言語|{{仮リンク|ロシアの言語一覧|en|List of languages of Russia}}}} [[ロシア語]]が[[公用語]]である。ロシアの各共和国の公用語として以下の29言語がある: [[アバザ語]]、[[アディゲ語]]、[[アルタイ語]]、[[アヴァル語]]、[[アゼルバイジャン語]]、[[バシキール語]]、[[ブリヤート語]]、[[チェチェン語]]、[[チュヴァシ語]]、[[エルジャ語]]、[[イングーシ語]]、[[カザフ語]]、[[カバルド語]]、[[カルムイク語]]({{Lang|en|Kalmyk Oirat}})、[[カラチャイ・バルカル語]]、[[ハカス語]]、[[コミ・ジリエーン語]]([[コミ語]])、[[レズギ語]]、[[マンシ語]]、[[マリ語]]、[[モクシャ語]]、[[ノガイ語]]、[[オセット語]]、[[タタール語]]、[[トゥバ語]]、[[ウドムルト語]]、[[サハ語]]、[[ウクライナ語]]、[[クリミア・タタール語]]。 === 結婚 === 法律上[[結婚]]可能な年齢は成人となる年齢と同じ18歳である。ただし尊重すべき理由があるときはそれ以下の年齢でも認められる場合がある<ref group="注釈">その場合の下限年齢は、16歳以上か[[連邦構成主体]]の立法による16歳より下の年齢である。</ref>([http://www.kremlin.ru/acts/bank/8671 ロシア連邦家族法典] 13条。2017年12月29日改定を閲覧)。 結婚後の姓は夫婦どちらかの姓に合わせる(同姓)、結婚前のまま(別姓)、姓を結合する(二重姓)の3通りあり(家族法典32条)、同姓の場合は妻が夫の姓に合わせることが多い。なお[[ロシア連邦民法典]]19条により個人の姓・名前・[[父称]]の変更は一定の手続きにより可能である<ref>細則は [http://www.kremlin.ru/acts/bank/11681 Федеральный закон от 15.11.1997 г. № 143-ФЗ Об актах гражданского состояния] 58条以降</ref>。 婚姻登録の申請は特別な事情がある場合を除き、結婚する1か月前までに行う({{仮リンク|ロシア連邦家族法|label=家族法典|ru|Семейный кодекс Российской Федерации|en|Family Code of Russia}}11条)。宗教やほかの形式での結婚式が行われることもあるが、家族関係や出生・死亡を扱う市民登記機関であるザックス({{lang-ru|[[:ru:ЗАГС|ЗАГС]]}}、ザークスなどとも表記)にある結婚式場で婚姻の署名などを式典形式で行う結婚式がよく行われる。これはソビエト連邦時代からのものである。 {{See also|{{仮リンク|ロシアにおける結婚式の伝統|en|Russian wedding traditions}}}} ロシアでは[[同性結婚]]は違法となっており、2020年以降、同国憲法においても同性結婚を明示的に禁止している。 {{See also|{{仮リンク|ロシアにおける同性結婚|en|Recognition of same-sex unions in Russia}}}} === 宗教 === {{main|ロシアの宗教}} ロシア人を含めた多くの民族が[[キリスト教]][[正教会]]の信徒であるが、[[カトリック教会|カトリック]]、[[プロテスタント]]や[[イスラム教]]、[[ユダヤ教]]、[[仏教]]などの信徒も少なくない。 {{See also|{{仮リンク|ロシアにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Russia}}}} === 教育 === {{main|ロシアの教育}} 2023年8月、9月の新学期から16~18歳の学生向けに使用される初めての全国統一[[歴史教科書]]が導入された。内容は、ソ連崩壊からプーチン統治時代、ウクライナ侵攻の原因に至るまで、ほぼ完璧にプーチンの歴史観と政権が用いている解釈が映し出されており、プーチン政権による[[プロパガンダ]]が強調される形となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/08/1-269_1.php|title=プーチンによる「ソ連崩壊の悲劇と自己犠牲の大切さ」が1冊に ロシア、初の国定歴史教科書導入へ|publisher=ニューズウィーク日本版|date=2023-08-17|accessdate=2023-09-19}}</ref>。 {{節スタブ}} === 保健 === [[ファイル:Главный и хирургический корпуса ЦКБ.jpg|thumb|200px|{{仮リンク|モスクワ中央臨床病院|ru|Hôpital central clinique de Moscou}}]] {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ロシアのアルコール消費量|label=ロシアにおけるアルコール依存症|en|Alcohol consumption in Russia}}}} {{See also|{{仮リンク|ロシアにおけるCovid-19パンデミック|fr|Pandémie de Covid-19 en Russie}}}} ==== 医療 ==== {{Main|ロシアの医療}} ロシア憲法においては、全市民へ無料の[[ユニバーサルヘルスケア]]が保障されている<ref>{{cite web |title = The Constitution of the Russian Federation |work = Article 41 |url = http://www.constitution.ru/en/10003000-03.htm |accessdate = 27 December 2007 }}</ref>。しかし無料で医療が受けられる範囲は、法定の範囲に限定されている<ref>{{cite web |title = Russian ombudsman about propiska restrictions in modern Russia |url = http://www.newsru.com/russia/06jun2007/lukin.html |accessdate = 23 July 2008 }}</ref>。ロシアの人口1人あたりの医師数・病院数・医療従事者数は世界の中で最も多く<ref>{{cite web |title = Healthcare in Russia — Don't Play Russian Roulette |publisher = justlanded.com |url = http://www.justlande/refd.com/english/Russia/Articles/Health/Healthcare-in-Russia |accessdate = 3 October 2010 }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>、一時はソ連崩壊によって社会・経済・生活様式の変化を受けて悪化したが<ref>{{cite news |author = Leonard, W R |title = Declining growth status of indigenous Siberian children in post-Soviet Russia |date = April 2002 |url = http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3659/is_200204/ai_n9037764 |accessdate = 27 December 2007 |work = Human Biology |deadurl = yes }} {{dead link|date=January 2012|bot=RjwilmsiBot}}</ref>、しかし[[2000年代]]半ばからは回復しており、[[平均余命]]{{いつ|date= 2014年12月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->は[[2006年]]と比べて男性で2.4年、女性で1.4年ほど長くなった<ref name="gks">[http://www.gks.ru/free_doc/2010/demo/dem-sit-09.doc Modern demographics of Russia] by [[Rosstat]]. Retrieved on 5 October 2010</ref>。 [[2009年]]には、ロシアの[[平均余命]]は男性で62.77歳、女性で74.67歳であった<ref>[http://www.gks.ru/free_doc/new_site/population/demo/demo26.xls Russian life expectancy figures] [[Rosstat]]. Retrieved 21 August 2010</ref>。平均余命の男女差が大きい理由は、主に労働年齢層での死亡率の高さに起因し、それは予防可能な死([[アルコール依存]]、[[喫煙]]、交通事故、暴力犯罪)であった<ref name=gks/>。このような男女の余命差と[[第二次世界大戦]]の戦死者によって{{仮リンク|人口男女差|en|Human sex ratio}}は大きく、女性1人あたり男性0.859人となっている。ロシア政府は[[2006年]]から本格的に[[少子化]]対策や医療対策に取り組んでおり、その後の出生率や[[死亡率]]は徐々に改善されている。 [[年金]]の支給は男性が60歳から、女性が55歳となっているが2018年に引き上げが決定し、[[2030年]]までに引き上げが行われる<ref name="hbol20181012"/>。 {{See also|ロシア連邦消費者権利・人間福利保護管理庁}} == 社会 == {{Main|{{仮リンク|ロシアの社会保障|en|Social security system in Russia}}}} {{See also|{{仮リンク|ロシア連邦労働・社会保護省|ru|Министерство труда и социальной защиты Российской Федерации|en|Ministry of Labour and Social Protection (Russia)}}}} {{節スタブ}} === 福祉 === {{節スタブ}} {{also|{{仮リンク|ロシア国民福祉基金|ru|Фонд национального благосостояния России}}}} === 動物保護 === 世界動物保護協会の、動物保護指数によると、A-Gの7段階評価で、ロシアはDである。そのうち畜産動物保護の指数は、日本と同じく最低ランクのGとなっている<ref>{{Cite web |url=https://api.worldanimalprotection.org/ |title=ANIMAL PROTECTION INDEX |access-date=20221216}}</ref>。 2022年9月に、家畜の屠殺を規制する新しい規則が施行され、屠殺は「人道的な方法」で行うべきなどと規定された。しかし人道的な方法が明確化されていないため、動物保護団体から抗議されている。ロシア獣医師会会長は、牛は不適切に扱われているが「お金をたくさん払うよりも、安くて残酷な方法を使う方が簡単だからだ」と述べている<ref>{{Cite web |url=https://www.dairyglobal.net/health-and-nutrition/health/russia-protests-against-changes-to-welfare-standards/ |title=Russia: protests against changes to welfare standards |access-date=20221216}}</ref>。 === 移民 === [[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]に伴う労働力不足を移民で賄おうとする『Moving to russia』政策<ref>{{Cite web |title=Moving to russia |url=https://movingtorussia.ru/ |website=movingtorussia.ru |date=2022-07-25 |access-date=2022-11-16}}{{en icon}}</ref> が始動、プロパガンダ的要素が強い移民推奨動画『Time to move to Russia!』<ref>{{Cite web |title=Time to move to Russia! |url=https://www.youtube.com/watch?v=P9HIeOWFdsg |website=youtube.com |date=2022-07-25 |access-date=2023-11-16}}{{en icon}}</ref>等が製作された。ただ、『基本医療費無償・高齢者年金・障碍者年金・生活保護:基本的社会保障三点セット』しかない東欧諸国の生活水準でも『菜園付き別荘』所有可能なレベルなので、“ロシア人女性と結婚して付属品の『公営住宅』<ref>{{Cite web |title=The condemned: Living in a Khrushchyovka |url=https://www.rbth.com/longreads/khrushchyovki/ |website=rbth.com |date=2017-04-20 |access-date=2023-11-18}}{{en icon}}</ref>と『菜園付き別荘』<ref>{{Cite web |title=How Russians prepare for the dacha season - Russia Beyond |url=https://www.rbth.com/lifestyle/334864-russians-dacha-season |website=rbth.com |date=2022-03-20 |access-date=2023-11-18}}{{en icon}}</ref>も手に入れたい”と願う友好国からの移民希望者は多い<ref>{{Cite web |title=BACK TO RUSSIAN DACHA !! ( MEETING MY FATHER-IN-LAW) |url=https://www.youtube.com/watch?v=kh2YZdXEk58&t=2s |website=youtube.com |date=2019-05-27 |access-date=2023-11-16}}{{en icon}}</ref>。 == 治安 == {{Main|{{仮リンク|ロシアにおける犯罪|en|Crime in Russia}}}} ロシアの治安は不安定さが幾ヶ所に見受けられる面を持つ。同国内務省が発表した「2017年時におけるロシア国内の[[犯罪]]情勢」によれば、全犯罪の登録件数約2058,500件(4.7%減)の内93.0%が摘発されており、同年にロシアで認知された「[[テロリズム|テロ]]行為」は37件(前年比+48%)、テロに準じた犯罪を含む「テロの性格を有する犯罪」は1,871件(前年比-16%)発生している。傍らで犯罪による死亡者数は29,300人 (0.5%増)で、公共施設における犯罪件数は738,000件(6.6%減)となっている。都市部では[[外国人]]を狙った[[強盗]]や[[スリ]]、[[置き引き]]、[[詐欺]]、[[クレジットカード]]や[[キャッシュカード]]の[[スキミング]]などの犯罪が多発しており、被害者の中には[[日本人]]も含まれているとの報告がある。 一方で、一般国民による反体制抗議運動は、集会法の罰則強化を始めとする当局による規制の強化により実施されにくい状況になっているものの、それにも拘わらず首都モスクワ市内では反政権活動家による抗議集会などが開催されており、参加者が数万人規模となることもあるとされている。これらの活動は現時点において平穏に行なわれているが、一部の無許可集会などの参加者が治安当局に逮捕されることもあり、旅行などで同国を訪れたり滞在する際にはトラブルを回避する為にもそれらの集会や[[デモ活動|デモ]]には近付かず干渉しないことを心掛ける必要性が求められる<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_178.html ロシア安全対策基礎データ] [[外務省]]海外安全ホームページ</ref>。 {{節スタブ}} === 法執行機関 === {{Main|{{仮リンク|ロシアの法執行機関|en|Law enforcement in Russia}}}} {{節スタブ}} ==== 警察 ==== {{Main|{{仮リンク|ロシアの警察|ru|Полиция России|en|Police of Russia}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ロシアの警察史|ru|История полиции России}}}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|ロシアにおける人権|en|Human rights in Russia}}}} 国民の4人中3人がロシア正教徒で構成されているロシア連邦では「同性愛は聖書で禁止されている」ので蛇蝎の如く嫌われるが、挨拶代わりの「フレンチキス」や「ハグ」は握手と同様の社交辞令であり問題とはされない<ref>{{Cite web |title=Department for External Church Relations (DECR) of the Moscow Patriarchate |url=https://mospat.ru/en/ |website=mospat.ru |date=2023-11-14 |access-date=2023-11-21}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Abuse Against LGBT People in Russia |url=https://www.youtube.com/watch?v=zMTbFSJ_Tr4 |website=youtube.com |date=2014-02-04 |access-date=2023-11-21}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Which world leaders did their best to avoid Brezhnev’s passionate kisses (PHOTOS) - Russia Beyond |url=https://www.rbth.com/lifestyle/330048--world-leaders-brezhnev-kisses |website=rbth.com |date=2019-02-28 |access-date=2023-11-21}}{{en icon}}</ref>。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ロシアにおける人身売買|en|Human trafficking in Russia}}|{{仮リンク|ロシアにおけるフェミニズム|en|Feminism in Russia}}|{{仮リンク|ロシアにおけるLGBTの権利|en|LGBT rights in Russia}}|{{仮リンク|ロシアのLGBT文化|en|LGBT culture in Russia}}}} {{also|{{仮リンク|Gayrussia.ru|en|Gayrussia.ru}}|{{仮リンク|モスクワ・プライド|en|Moscow Pride}}}} == メディア == {{節スタブ|date= 2020年12月17日 (木) 17:17 (UTC)}} 現状、この節は[[日本語]]版[[記事]]があるものが列挙されているだけであり、主要なものを紹介しているとはいえない状態である。 ロシアにおける[[検閲]]、[[言論の自由]]についての批判は、それぞれ[[ロシアにおける検閲]]、{{仮リンク|ロシアにおける報道の自由|en|Media freedom in Russia}}を参照。 === テレビメディア === * [[NTV (ロシア)|NTV]] * [[チャンネル1 (ロシア)|チャンネル1]] * [[ロシア1]] ( [[全ロシア国営テレビ・ラジオ放送会社]]) * [[ロシア・トゥデイ]] === ラジオメディア === * [[極東ロシア独立放送]] * [[スプートニク (通信社)|スプートニク]] ([[ロシアの声]]) * 全ロシア国営テレビ・ラジオ放送会社 === 報道機関 === * [[タス通信]] * [[インテルファクス通信]] * [[ロシアの今日]] ** [[RIAノーボスチ]] ** [[スプートニク (通信社)|スプートニク]] * [[ロシア・トゥデイ]] === 出版 === '''新聞''' {{main|Category:ロシアの新聞}} * [[イズベスチヤ]] * [[クラスナヤ・ズヴェズダ (新聞)|クラスナヤ・ズヴェズダ]] * [[コムソモリスカヤ・プラウダ]] * [[コメルサント]] * [[ニェザヴィーシマヤ・ガゼータ]] * [[ノーヴァヤ・ガゼータ]] * [[プラウダ]] * [[ザ・モスクワ・タイムズ]] * [[モスコフスキー・コムソモーレツ]] * [[ロシア新聞]] * [[論拠と事実]] '''出版社''' * [[Independent Media Sanoma Magazines]] * [[ナウカ (ロシアの出版社)|ナウカ]] === インターネット([[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]) === 公的機関も含め、[[YouTube]]や[[Instagram]]の利用も盛んである。 * [[LiveJournal]] * [[Mail.ru]] * [[Odnoklassniki]] * [[Rutube]] - 動画サイト * [[VK (SNS)|VK]] == 文化 == {{Main|{{仮リンク|ロシアの文化|ru|Культура России|en|Russian culture}}}} === 食文化 === [[ファイル:Kustodiev Merchants Wife.jpg|thumb|right|『商人の妻』([[ボリス・クストーディエフ]]画)<br>[[ロシアの茶文化]]を見せている]] {{main|ロシア料理}} ; 肉・魚料理、シャシリク類 * [[ビーフストロガノフ]] - 牛肉の薄切りを[[スメタナ]]の[[ソース (調味料)|ソース]]で和えた料理。 * [[コトレータ]] - [[カツレツ]]。野菜のコトレータもある。 * [[シャシリク]] - 肉の串焼き。[[カフカース]]や[[中央アジア]]の諸民族の伝統料理 * [[フォルシュマーク]] - 刻み[[ニシン]]に[[マッシュポテト]]、[[タマネギ]]のみじん切りを加えて焼いた料理。 * [[キシュカ]] - 血や穀物を用いたソーセージ。 ; スープ、ボルシチ類 * [[シチー]] - キャベツのスープ。 * [[ボルシチ]] - テーブルビート(スヴョークラ)、キャベツなどの野菜と肉を煮込み各種調味料で味付けしたスープ。 * [[ウハー]] - 魚スープ。 * [[オクローシカ]] - 野菜と肉を刻み、[[クワス]](後述)を加えた冷たいスープ。 * [[セリャンカ]] - 肉や魚のスープ。 * [[ラッソーリニク]] - [[ピクルス]]のスープ。 ; 野菜料理 * ガルブツィー - [[ロールキャベツ]]。 * [[サラートオリヴィエ]] - [[ポテトサラダ]]。 ; パン・粉物料理、ピロシキ類 * [[ピロシキ]] - 小型の[[パイ]]。 * [[チェブレキ]] - 揚げた[[ミートパイ]]。[[クリミア・タタール人]]の伝統料理。 * [[ペリメニ]] - [[水餃子]]に似た[[ダンプリング]]。シベリア起源。 * [[ブリヌイ]](ブリン)- [[クレープ]]。 * [[カーシャ]] - [[粥]]。 ; 飲み物 * [[キセリ]] - [[葛湯]]のようなとろみのある[[果汁]][[ジュース]]。 ; アルコール飲料 :: [[ワイン]]については「[[ロシアワイン]]」、ロシア国内における[[ビール]]全般については「{{仮リンク|ロシアのビール|ru|Пиво в России|en|Beer in Russia}}」を参照。 * [[ウォッカ]](ヴォトカ)- [[ライ麦]]などから製造される[[蒸留酒]]。 * [[クワス]] - ライ麦と[[麦芽]]を発酵させて作る微アルコール性飲料。 * {{仮リンク|バルチカ (ビール)|label=バルチカ|ru|Балтика (пиво)}} - ロシアのビールの一つ。{{仮リンク|バルチカ (ロシアの会社)|label=バルチカ社|ru|Балтика (компания)|en|Baltika Breweries}}が製造しているブランド商品でもある。 ; デザート・スイーツ、パスハ類 * [[ババ (菓子)|ババ]] - [[菓子パン]]。 * [[シャルロートカ]] - ロシア風[[シャルロット (菓子)|シャルロット]]。 * [[パスハ (菓子)|パスハ]] - [[フレッシュチーズ]]で作る[[復活大祭]]の菓子。 * [[クリーチ]] * [[プリャーニク]] - [[ジンジャーブレッド]]の一種。 === 文学 === {{main|ロシア文学}} {{節スタブ|date= 2020年12月17日 (木) 17:17 (UTC)}} * [[アレクサンドル・プーシキン]] * [[ニコライ・ゴーゴリ]] * [[レフ・トルストイ]] * [[フョードル・ドストエフスキー]] * [[マクシム・ゴーリキー]] * [[エヴゲーニイ・ザミャーチン]] * [[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]] * [[アントン・チェーホフ]] * [[イワン・ツルゲーネフ]] === 音楽 === [[File:Snowdance.jpg|thumb|upright|[[くるみ割り人形]]から『雪片のワルツ』([[ピョートル・チャイコフスキー]]作曲)]] {{main|[[ロシアの音楽]]}} {{節スタブ|date= 2020年12月17日 (木) 17:17 (UTC)}} * [[オペラ]] * [[バレエ]] * [[国民楽派|ロシア国民楽派]] - [[ロシア5人組]] * [[ピョートル・チャイコフスキー]] * [[セルゲイ・プロコフィエフ]] * [[セルゲイ・ラフマニノフ]] * [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]] * [[フョードル・シャリアピン]] === 映画 === {{main|ロシアの映画}} {{節スタブ|date= 2020年12月17日 (木) 17:17 (UTC)}} === アニメーション === {{main|{{仮リンク|ロシアのアニメーション|de|Russische Animation}}}} 「子供番組の低予算放送枠内でもフルCGによる作画崩壊無い高品質のアニメーションが製作できる」体制がほぼ確立したため、アニメ制作現場では'''CGアニメーション'''主流となっている<ref>{{Cite web |title=The Secrets of Honey Hills |url=https://smfanimation.com/the-secrets-of-honey-hills |website=smfanimation.com |date=2020-09-19 |access-date=2023-11-27}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title=Тайны Медовой Долины: Чёрно-белое преступление - Детский детектив | Союзмультфильм HD |url=https://www.youtube.com/watch?v=0ZCk383u-gk |website=youtube.com |date=2021-03-20 |access-date=2023-11-27}}{{ru icon}}</ref>。なお2Dアニメは「CGによって手描きアニメーション風の作画(セル画)でレンダリング、手描き風の表現による親しみやすい表現と懐かしさを表現する手法」として'''セルルックCGアニメーション'''が確立、'''セルライクなアニメ'''が絶滅したわけではない<ref>{{Cite web |title=The Adventures of Peter & Wolf |url=https://smfanimation.com/the-adventures-of-peter-and-wolf |website=smfanimation.com |date=2020-02-03 |access-date=2023-11-27}}{{en icon}}</ref><ref>{{Cite web |title= Приключения Пети и Волка - Дело о нечаянном проклятии (выпуск 1) | Союзмультфильм - YouTube |url=https://www.youtube.com/watch?v=rQ7YEx59kDQ |website=youtube.com |date= 2021-10-01 |access-date=2023-11-27}}{{ru icon}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ロシアのアニメーションの歴史|ru|История русской мультипликации|en|History of Russian animation|fr|Histoire de l'animation russe}}}} {{節スタブ}} === 美術 === [[File:Angelsatmamre-trinity-rublev-1410.jpg|thumb|upright|『[[至聖三者 (ルブリョフによるイコン)|至聖三者]]』([[アンドレイ・ルブリョフ]]画)<br>有名な[[w:Russian icons|ロシアのイコン]]]] [[File:Brjullov.jpg|thumb|upright|[[カール・ブリューロフ]] (1799 - 1852年)<br>ロシアの新古典主義からロマン主義にかけての過渡期の重要人物]] {{main|{{仮リンク|ロシアの美術|ru|Русское искусство|en|Russian culture#Visual arts}}}} {{節スタブ|date= 2020年12月17日 (木) 17:17 (UTC)}} * [[ロシア・アヴァンギャルド]] * [[社会主義リアリズム]] === 演劇 === {{Main|ロシア演劇}} * [[コンスタンチン・スタニスラフスキー]] * [[フセヴォロド・メイエルホリド]] * [[モスクワ芸術座]] * [[アントン・チェーホフ]] === 建築 === [[ファイル:RedSquare SaintBasile (pixinn.net).jpg|thumb|upright|有名な[[ロシア建築]]の[[聖ワシリイ大聖堂]]]] {{Main|ロシア建築}} {{節スタブ|date= 2020年12月17日 (木) 17:17 (UTC)}} * ロシア古典様式 * [[ロシア・バロック]] * ロシア・クラシック様式 * ネオ・ロシア * ロシアモダン様式 * [[ロシア構成主義]] * ポスト構成主義 * 様式論争 * [[スターリン様式]] * ソビエト様式 === 服飾・衣装 === [[File:Old russian national costumes.jpg|thumb|right|150px|中世時代の農民が着用していた衣装を再現したもの]] {{main|{{仮リンク|ロシアの民族衣装|ru|Русский национальный костюм}}|{{仮リンク|ロシアのファッション|en|Russian fashion}}}} {{See also|{{仮リンク|スティリヤギ|ru|Стиляги|en|Stilyagi}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|ロシアの世界遺産}} ロシア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が16件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が10件[[存在]]する(2015年の[[第39回世界遺産委員会]]終了時点)。そこには、モンゴルと共有する自然遺産が1件、リトアニアとだけ共有する文化遺産が1件、ウクライナ、エストニア、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ベラルーシ、[[モルドバ]]、ラトビア、リトアニアと共有する文化遺産1件が含まれる。 <gallery> Image:Moscow_Kremlin.jpg|モスクワ、クレムリン宮殿 Image:WinterPalaceAndAC.jpg|サンクトペテルブルク冬宮 Image:Kischi Kirchen und Glockenturm.JPG|キジー・ポゴストの木造教会建築アンサンブル Image:Russia-Vladimir-Assumption Cathedral-8.jpg|[[生神女就寝大聖堂 (ウラジーミル)|ウラディーミルの生神女就寝大聖堂]] Image:Russia-Suzdal-Annunciation Church-1.jpg|スズダリの生神女福音聖堂 Image:Moscow Kolomenskoye Ascension Church (14).jpg|コローメンスコエの主昇天教会(ヴォズネセーニエ教会) Image:Solovki-1--07.2004.jpg|白海から臨むソロヴェツキー諸島の建築 Image:Yarspas.jpg|ヤロスラヴリの救世主修道院大聖堂 </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ロシアの祝日|ru|Праздники России|en|Public holidays in Russia}}}} [[クリスマス]]が[[1月7日]]なのは、キリスト教の宗教行事は[[ロシア正教会|ロシア正教]]が公認している[[ユリウス暦]]に基づいて行われていることによる([[正教会]]ではほかに[[エルサレム総主教庁]]、[[グルジア正教会]]、[[セルビア正教会]]、[[アトス山]]などがユリウス暦を採用している)。現在の暦である[[グレゴリオ暦]]は、歴史的にはカトリック側が作った暦となっているためである。すなわちグレゴリオ暦(新暦)[[12月25日]]がユリウス暦(旧暦)の1月7日に相当する。[[2100年]][[2月28日]]まではグレゴリオ暦とユリウス暦のずれは13日である。「旧正月」も同様の理由から1月14日に祝う。ソ連時代は[[1917年]]に[[ロシア革命]]でソヴィエト政権が成立した[[11月7日]]が[[革命記念日]]として最大の祝日になっていたが、プーチン政権は2005年にこれを廃止し、帝政時代に「モスクワ解放記念日」となっていた[[11月4日]]を「国民団結の日」として復活させた。{{See also|{{仮リンク|ロシアの祝日史|ru|История праздников России}}}} {|class="wikitable" |+祝祭日 !日付 !日本語表記 !現地語表記 !備考 |- |[[1月7日]]||[[クリスマス]]||{{lang|ru|Рождество Христово}}||正教会のクリスマス。ユリウス暦の12月25日に相当(2100年まで) |- |[[1月14日]]||旧正月||{{lang|ru|Старый Новый год}}||ユリウス暦の1月1日に相当(2100年まで) |- |[[2月23日]]||祖国英雄の日||{{lang|ru|День защитника Отечества}}||元々は[[ソ連地上軍]]と[[ソ連海軍]]の日 |- |[[3月8日]]||[[国際女性デー]]||{{lang|ru|Международный женский день}}|| |- |[[5月1日]]||春と労働の日||{{lang|ru|Праздник весны и труда}}||旧[[メーデー]] |- |[[5月9日]]||[[戦勝記念日 (5月9日)|対ドイツ戦勝記念日]]||{{lang|ru|День Победы}}||[[1945年]]に[[ナチス・ドイツ]]がソ連などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対して無条件降伏した日 |- |[[6月12日]]||ロシアの日||{{lang|ru|День России}}||[[ソビエト連邦構成共和国]]の一つだったロシアが[[1990年]]に[[主権]]宣言を採択した日<ref>プーチン氏、南部支配正当化 ウクライナ「ロシアの日」に演説『読売新聞』夕刊2022年6月13日3面</ref> |- |[[11月4日]]||国民団結の日||{{lang|ru|День народного единства}}||[[1612年]]に[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]において、ロシア国民軍がポーランド軍からモスクワを解放した日 |- |[[12月12日]]||憲法記念日||{{lang|ru|День Конституции Российской Федерации}}||[[1993年]]に現行の[[ロシア連邦憲法]]が制定された日 |- |[[12月31日]]-[[1月1日]]||年末の休日||{{lang|ru|Новый год}}|| |} * 7月8日{{ill2|家族、愛、忠誠の日|ru|День семьи, любви и верности}} ‐ 2008年7月8日に祝日と認定され、休日となっている。ロシア正教で結婚の守護聖人「{{ill2|聖ペテロと聖フェブロニアの日|en|Peter and Fevronia Day}}」で、伝統的に新婚者・既婚者も結婚式を上げたりする日であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.rbth.com/lifestyle/86302-roshia-nyuuseki-itsu-konomareteiru |title=ロシアで入籍するのにもっとも好まれているのはいつ? |access-date=2023-07-07 |last=エレオノーラ・ゴールドマン |date=5月 20, 2022 |website=Russia Beyond 日本語版 |language=ja-JP}}</ref>。 ;休みにならない祝日 * 6月22日の{{ill2|追悼と悲しみの日|ru|День памяти и скорби}}は、娯楽イベント・番組などが自粛される。 * {{ill2|クラスナヤ・ゴールカ (祝日)|ru|Красная горка (праздник)}} ‐ 復活祭後の最初の日曜日。 * 9月13日[[プログラマーの日]] - [[ロシア情報技術・通信省]]から2009年7月24日付で正式に認可されている。 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ロシアのスポーツ|ru|Спорт в России|en|Sport in Russia}}}} [[ファイル:Opening of XXII Winter Olympic Games (2338-13).jpg|thumb|200px|right|[[2014年ソチオリンピック|2014年ソチ五輪]]の[[聖火台]]]] ソ連時代から[[近代オリンピック|オリンピック]]で毎回優れた成績を残しており、メダル獲得数では上位にランクされることが多い。また、ロシアは[[1980年]]の[[モスクワオリンピック]]をはじめ、国際スポーツ競技大会の開催も数多い。[[2014年]]には[[黒海]]沿岸の[[ソチ]]で[[冬季オリンピック]]([[2014年ソチオリンピック]])を、[[2018年]]には[[サッカー]]の[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]([[2018 FIFAワールドカップ]])を開催している。 {{See also|{{仮リンク|ロシア・オリンピック委員会|ru|Олимпийский комитет России}}}} 国内プロリーグとしては、[[1992年]]に創設されたサッカーリーグの「[[ロシアサッカー・プレミアリーグ|ロシア・プレミアリーグ]]」や、[[2008年]]に創立された[[アイスホッケー]]の「[[KHL|コンチネンタル・ホッケー・リーグ]]」などがある。また、ソ連崩壊の前後から多くのロシア人指導者が国外に移住し、[[陸上競技]]、[[フェンシング]]、[[体操競技]]、[[新体操]]、[[アーティスティックスイミング]]、[[フィギュアスケート]]などの種目で世界各国の選手を指導している。ロシア・旧ソ連発祥の[[スポーツ]]としては、日本の[[柔道]]と西洋の[[レスリング]]などをベースに編み出された[[サンボ (格闘技)|サンボ]]が挙げられる。 {{See also|{{仮リンク|ロシアの格闘技|en|Russian martial arts}}}} {{See also|{{仮リンク|ロシア連邦スポーツ省|ru|Министерство спорта Российской Федерации}}|{{仮リンク|ロシア連邦体育・スポーツ庁|ru|Федеральное агентство по физической культуре и спорту}}|{{仮リンク|全ロシア・スポーツ登録局|ru|Всероссийский реестр видов спорта}}}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ロシアのサッカー|en|Football in Russia}}}} [[ロシアサッカー連合]](RFU)によって構成される[[サッカーロシア代表]]は、これまで[[UEFA欧州選手権]]には6度の出場歴があり、[[UEFA EURO 2008|2008年大会]]では[[アンドレイ・アルシャヴィン]]や[[ロマン・パヴリュチェンコ]]などの活躍によりベスト4に輝いた。さらに[[FIFAワールドカップ]]には4度の出場歴があり、[[2018 FIFAワールドカップ|2018年大会]]ではベスト8の成績を収めた。しかし続く[[2022 FIFAワールドカップ|2022年大会]]には、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]に対して[[国際サッカー連盟]](FIFA)が代表チームに参加停止の制裁を課した為、不戦敗で予選敗退となった<ref>{{cite news |url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/fifa-boots-russia-202203082220/blt094fa483a02e7d47 |title=FIFAがロシアのW杯欧州予選追放を正式決定。この結果ポーランドが決勝進出…ウクライナ戦は6月に延期 |work=GOAL.com |date=2022-03-09 |access-date=2022-05-05}}</ref>。 {{See also|[[ロシアサッカー・プレミアリーグ|ロシア・プレミアリーグ]]|[[ロシア・カップ (サッカー)|ロシア・カップ]]}} === ドーピング問題 === {{Main|ロシアにおけるドーピング|オリンピックのロシア選手団}} 他方で、[[ドーピング]]問題で国家的な関与があったとして国際的な非難がされている。[[2018年平昌オリンピック]]では国家としての参加が認められず、ロシアの選手は[[2018年平昌オリンピックのロシアからのオリンピック選手団|OAR]](オリンピック・アスリート・フロム・ロシア)という呼称で個人での参加となった。このオリンピックでは、公式記録上はOARとしての記録である。また、優勝しても国旗の掲揚や国歌の演奏はされず、代わりに[[オリンピックシンボル #国旗の代わりとしての利用|オリンピック旗]]が掲揚され、オリンピック賛歌が演奏された。 この平昌大会から正式競技となった[[カーリング]]混合ダブルスで、当初は銅メダルを獲得したロシアのペアのドーピングが発覚しメダルを返還するなど、アンチドーピング対策が大きな課題となっている。さらに[[2019年]]に[[世界アンチ・ドーピング機関]]は、ロシアのドーピングのデータ改ざんに対して4年間国としての参加を認めない処分を決定した。それにより[[2021年]]の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]と[[2022年北京オリンピック]]では、ROC・RPCとして大会に参加した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASP8S6G0TP8SUHBI02M.html|title=ロシア選手はいつ登場? 五輪77番目、パラは28番目|accessdate=2021年8月24日|publisher=朝日新聞}}</ref>。 == 著名な出身者 == {{Main|ロシア人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=25em|refs= <!-- <ref name="imf201410">{{Cite web|url = http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=922&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=63&pr.y=9 |title = World Economic Outlook Database, October 2014 |publisher = [[国際通貨基金|IMF]] |language = [[英語]] |date = 2014-10 |accessdate = 2014-10-18 }}</ref> --> }} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Colbegin|2}} * [[ロシア関係記事の一覧]] * [[ロシアの共和国]] * [[ロシアの交通]] * [[ロシアの声]] * [[ロシア・ソ連の軍服]] * [[ロシア連邦軍]] * [[ロシア時間]] * [[ロシアの国歌]] * [[ロシア正教会]] * [[ロシアにおけるイスラーム]] * [[ロシア大百科事典]] * [[社会主義法]] * [[北方領土問題]] * [[BRICS]] * [[新開発銀行|BRICS銀行]] * [[上海協力機構]] {{colend}} == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|ロシア}} {{ウィキプロジェクトリンク|ロシア}} {{Commons&cat|Россия|Russia}} {{Wikivoyage|ja:ロシア|ロシア{{ja icon}}}} {{Wikivoyage|ru:Россия|ロシア{{ru icon}}}} ; ロシア連邦政府 :* [http://government.ru/en/ The Russian Government] ロシア連邦政府 公式サイト{{ru icon}}{{en icon}} :* [http://en.kremlin.ru/ President of Russia] ロシア大統領府 公式サイト{{ru icon}}{{en icon}} :* [https://tokyo.mid.ru/ja_JP/web/tokyo-ja ホーム - 在日ロシア連邦大使館] 在日ロシア大使館 公式サイト{{ja icon}}{{ru icon}}{{en icon}} :* {{Twitter|RusEmbassyJ|駐日ロシア連邦大使館}} {{Ja icon}} :* {{Twitter|RusConsNiigata|在新潟ロシア連邦総領事館}} {{Ja icon}} : ; [[日本国政府|日本政府]] :* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/russia/ 日本外務省 - 国・地域情報 ロシア連邦] {{ja icon}} :* [https://www.ru.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ロシア日本国大使館] {{ja icon}}{{ru icon}} ロシア各地の総領事館は「リンク」を参照。 : ; [[北方地域|北方領土]] :* [https://www8.cao.go.jp/hoppo/ 内閣府北方対策本部] {{ja icon}} :* [http://www.hoppou-d.or.jp/cms/cgi-bin/index.pl 北方領土復帰期成同盟] {{ja icon}} :* [https://www.hoppou.go.jp/ 北方領土問題対策協会] {{ja icon}} : ; [[観光]] :* [https://m.arukikata.co.jp/country/RU/ 地球の歩き方 - ロシアの旅行・観光ガイド] {{ja icon}} :* [https://www.hankyu-travel.com/guide/russia/country.php 阪急交通社 - ロシア観光ガイド] {{ja icon}} :* [https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/e.europe-russia-c.asia/russian_federation/sp_index.html JTB - ロシア観光ガイド] {{ja icon}} : ; [[その他]] :* [http://www.tpprf.jp 在日本ロシア連邦商工会議所]{{リンク切れ|date=2022年2月}} {{Ja icon}} :* [https://jpn.minpromtorg.gov.ru/ja/ 在日ロシア連邦通商代表部]{{ja icon}}{{ru icon}} :* [https://www.jetro.go.jp/world/russia_cis/ru/ JETRO - ロシア] {{Ja icon}} :* [https://www.jp-ru.org/ 日露貿易投資促進機構]{{Ja icon}}{{ru icon}} :* [https://jp.rbth.com Russia Beyond :ロシアに関する情報サイト] 独立非営利組織「TV-Novosti」{{Ja icon}}{{ru icon}}{{en icon}}他 :* {{Kotobank}} :* {{Wikiatlas|IRussia}} {{en icon}} {{ロシア連邦}} {{国連安全保障理事会理事国}} {{ヨーロッパ}} {{アジア}} {{G8}} {{G20}} {{独立国家共同体}} {{上海協力機構}} {{東アジアサミット}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ろしあ}} [[Category:ロシア|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:アジアの国]] [[Category:共和国]] [[Category:連邦制国家]] [[Category:独立国家共同体]] [[Category:ロシア語圏]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:G8加盟国]] [[Category:G20加盟国]]
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哲学
哲学(てつがく、フィロソフィー 英: philosophy)とは、原義的には「愛知」を意味する学問分野、または活動 である。現代英語のフィロソフィー(philosophy)は「哲学」・「哲学専攻コース」・「哲学説」・「人生[世界]観」・「達観」・「あきらめ」などを意味する。「愛知としての哲学」は知識欲に根ざす根源的活動の一つだが、19世紀以降は自然科学が急発展して哲学から独立し、哲学は主に美学・倫理学・認識論という三つで形作られるようになった。哲学に従事する人物は哲学者(てつがくしゃ、フィロソファー 英: philosopher)と呼ばれる。 現代では以下のように、文脈によって様々な意味をもつ多義語である。 「哲学」は英語で「フィロソフィー」といい、語源は古典ギリシア語の「フィロソフィア」に由来する。直訳すれば「知を愛する」という意味である。「哲学」という日本語は、明治時代の学者西周がフィロソフィーに対してあてた訳語である。(→#語源とその意味) したがって、「フィロソフィー」というのは単に「知を愛する学」という意味であり、それだけではまだ何を研究する学問であるかは示されていない。この語では内容が規定されていないのである。哲学以外の大抵の学問は、分野名を聞いただけでおおよその内容が察せる(例えば「経済学」なら経済、「生物学」なら生物などのように)。ところが、哲学の場合は名前を聞いただけでは何を研究する学問なのか分からない。これは哲学という学問の対象が決して一定しておらず様々な考え方があることを示しており、哲学はまさにその字義のとおり「知を愛する学」とでもいうほかに仕方ないような特徴を備えている。(→#哲学の対象・主題) このように対象によってこの学を規定することができないと、「対象を扱う<<方法>>に共通点があり、それによって規定できるのはないか」との期待が生まれることがあるが、そのような期待も裏切られ、哲学に一定の方法が存在しうるわけではない。 以下は日本語辞典『広辞苑』での「哲学」の説明: 1 〔...〕 物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問。古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立以降、諸科学の批判的吟味や基礎づけを目ざす学問、世界・社会関係・人生などの原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論・美学などを部門として含む。 なお、以下は哲学用語としての「学(がく)」の説明: ア(science(フランス)・(イギリス)・Wissenschaft(ドイツ))現実の全体あるいはそれの特殊な諸領域または側面に関する体系的認識。哲学および個別諸科学を含む。 観念論的な形而上学に対して、唯物論的な形而上学もある。諸科学が分化独立した現在では、哲学は学問とされることが多いが、科学(人文科学)とされる場合もある。 近現代哲学において代表的な哲学者の言説を以下に記述する。 啓蒙思想時代の哲学者であり、またドイツ観念論哲学の祖でもあり、そして近現代哲学に大きな影響力を持ち続けている哲学者、イマヌエル・カントは、哲学について次のように説明している。 現代思想において、特に分析哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、哲学について次のように説明している。 現代思想において、特に大陸哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、マルティン・ハイデッガーは、哲学について次のように説明している。 古典ギリシア語の「フィロソフィア」(古希: φιλοσοφία、philosophia、ピロソピアー、フィロソフィア)という語は、「愛」を意味する名詞「フィロス」(φίλος)の動詞形「フィレイン」(φιλεῖν)と、「知」を意味する「ソフィア」(σοφία)が結び合わさったものであり、その合成語である「フィロソフィア」は「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。この語はヘラクレイトスやヘロドトスによって形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが、名称として確立したのはソクラテスまたはその弟子プラトンが、自らを同時代のソフィストと区別するために用いてからとされている。 古典ギリシア語の「フィロソフィア」は、古代ローマのラテン語にも受け継がれ、中世以降のヨーロッパにも伝わった。20世紀の神学者ジャン・ルクレール(en:Jean Leclercq)によれば、古代ギリシアのフィロソフィアは理論や方法ではなくむしろ知恵・理性に従う生き方を指して使われ、中世ヨーロッパの修道院でもこの用法が存続したとされる。一方、中世初期のセビリャのイシドールスはその百科事典的な著作『語源誌』(羅: Etymologiae)において、哲学とは「よく生きようとする努力と結合した人間的、神的事柄に関する認識である」と述べている。 英語をはじめとした多くの言語で、古希: φιλοσοφίαをそのまま翻字した語が採用されている。例えば、羅: philosophia、英: philosophy、仏: philosophie、独: Philosophie、伊: filosofia、露: философия、阿: falsafahなどである。 日本で現在用いられている「哲学」という訳語は、詳細な経緯は諸説あるが、大抵の場合、明治初期の知識人西周によって作られた造語(和製漢語)であると説明される。少なくとも、西周の『百一新論』1874年(明治7年)に「哲学」という語が見出される。そこに至る経緯としては、北宋の儒学者周敦頤の著書『通書』に「士希賢」(士は賢をこいねがう)という一節があり、この一節は儒学の概説書『近思録』にも収録されていて有名だった。この一節をもとに、中国の西学(日本の洋学にあたる)が「賢」を「哲」に改めて「希哲学」という語を作り、それをフィロソフィアの訳語として転用した。それを西周が借用して、さらにここから「希」を省略して「哲学」を作ったとされる。西周は明治政府における有力者でもあったため、「哲学」という訳語は文部省に採用され、1877年(明治10年)には東京大学の学科名にも用いられ、以降一般に浸透した。なお、西周は「哲学」以外にも様々な哲学用語の訳語を考案している。 漢語の本場である中国では、西周が作った「哲学」という訳語が、いわば逆輸入されて現在も使われている。経緯としては、清末民初(1900年代前後)の知識人たちが、同じ漢字文化圏に属する日本の訳語を受容したことに由来する。 「哲」という漢字の意味(および同義字)は「賢人・知者(賢)、事理に明らか(明)、さとし(敏)」などがある。字源としては、会意形声文字で「口」+「折(音符)」から。「折」は一刀両断すること。 「哲学」という訳語が採用される以前、日本や中国では様々な訳案が出されてきた。とりわけ、儒学用語の「理」あるいは「格物窮理」にちなんで、「理学」と訳されることが多かった。 17世紀・明末の中国に訪れたイエズス会士ジュリオ・アレーニ(艾儒略)は、西洋の諸学を中国語で紹介する書物『西学凡』を著した。同書のなかでフィロソフィアは、「理学」または「理科」と訳されている。 日本の場合、幕末から明治初期にかけて、洋学(西洋流の学問一般)とりわけ物理学(つまり後述の自然哲学)が、「窮理学」と呼称されていた。例えば福沢諭吉の『窮理図解』は物理学的内容である。のちに文明開化が進んで西洋の諸学が正式に輸入されると、様々な訳案が出されたが、なかでも中江兆民はフィロソフィアを「理学」と訳した。具体的には、兆民の訳書『理学沿革史』(フイエ Histoire de la Philosophie の訳)や、著書の『理学鉤玄』(哲学概論)をはじめとして、主著の『三酔人経綸問答』でも「理学」が用いられている(ただし、いずれも文部省が「哲学」を採用した後のことだった)。なお、兆民は晩年の著書『一年有半』で、「わが日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と述べたことでも知られる。 上述の中国の変法運動期の知識人の間でも、「哲学」ではなく「理学」と訳したほうが適切ではないか、という見解が出されることもあった。 「理学」が最終的に採用されず、「哲学」に敗れてしまった理由については諸説ある。上述のように「理」は既に物理学に使われていたため、あるいは「理学」という言葉が儒学の一派(朱子学・宋明理学)の同義語でもあり混同されるため、あるいはフィロソフィアは儒学のような東洋思想とは別物だとも考えられたため、などとされる。上記の西周や桑木厳翼も、本来は「理学」と訳すべきだが、そのような混同を避けるために「哲学」を用いる、という立場をとっていた。この件に関して、明治哲学界の中心人物の一人・三宅雪嶺は、晩年に回顧して曰く「もしも旧幕時代に明清の学問(宋明理学と考証学)がもっと入り込んでいたならば、哲学ではなく理学と訳すことになっていただろう」「中国哲学・インド哲学という分野を作るくらいなら理学で良かった」「理学ではなく哲学を採用したのは日本の漢学者の未熟さに由来する(漢学は盛んだったがそれでもまだ力不足だった)」という旨を述べている。 紀元前の古代ギリシアから現代に至るまでの西洋の哲学を眺めてみるだけでも、そこには一定の対象というものは存在しない(他の地域・時代の哲学まで眺めるとなおさらである)。西洋の哲学を眺めるだけでも、それぞれの時代の哲学は、それぞれ異なった対象を選択し、研究していた。 ソクラテス以前の初期ギリシア哲学では、対象は(現在の意味とは異なっている自然ではあるが)「自然」であった。紀元前5世紀頃のソクラテスは < 不知の知 > の自覚を強調した。その弟子のプラトンや孫弟子のアリストテレスになると、人間的な事象と自然を対象とし、壮大な体系を樹立した。ヘレニズム・ローマ時代の哲学では、ストア派やエピクロス学派など、「自己の安心立命を求める方法」という身近で実践的な問題が中心となった(ヘレニズム哲学は哲学の範囲を倫理学に限定しようとしたとしばしば誤解されるが、ストア派やエピクロス派でも自然学や論理学、認識論といった様々な分野が研究された。平俗な言葉で倫理的主題を扱った印象の強い後期ストア派でも、セネカが『自然研究』を著している)。 ヨーロッパ中世では、哲学の対象は自然でも人間でもなく「神」であったと謂われることが多い。しかし、カッシオドルスのように専ら医学・自然学を哲学とみなした例もある し、ヒッポのアウグスティヌスからオッカムのウィリアムに至る中世哲学者の多くは言語を対象とした哲学的考察に熱心に取り組んだ。また、中世の中頃以降は大学のカリキュラムとの関係で「哲学」が自由七科を指す言葉となり、神学はこの意味での「哲学」を基盤として学ばれるものであった。 さらに時代が下り近代になると、人間が中心的になり、自己に自信を持った時代であったので、「人間による認識」(人間は何をどの範囲において認識できるのか)ということの探求が最重要視された。「人間は理性的認識により真理を把握しうる」とする合理論者と、「人間は経験を超えた事柄については認識できない」とする経験論者が対立した。カントはこれら合理論と経験論を総合統一しようとした。 19世紀、20世紀ごろのニーチェ、ベルクソン、ディルタイらは、いわゆる「生の哲学」を探求し、「非合理な生」を哲学の対象とした。キルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー、サルトルらの実存主義は、「人間がいかに自らの自由により自らの生き方を決断してゆくか」ということを中心的課題に据えた。 このように哲学には決して一定の対象というものは存在しなく、対象によって規定できる学問ではなく、冒頭で述べたように、ただ「philosophy」「愛知の学」とでも呼ぶしかない とされている。 学問としての哲学で扱われる主題には、真理、本質、同一性、普遍性、数学的命題、論理、言語、知識、観念、行為、経験、世界、空間、時間、歴史、現象、人間一般、理性、存在、自由、因果性、世界の起源のような根源的な原因、正義、善、美、意識、精神、自我、他我、神、霊魂、色彩などがある。一般に、哲学の主題は抽象度が高い概念であることが多い。 これらの主題について論じられる事柄としては、定義、性質、複数の立場・見解の間の整理などがある。 これをひとくくりに「存在論」とよぶことがある。地球や人間、物質などが「ある」ということについて考える分野である。 また、「高貴な生き方とは存在するのか、また、あるとしたらそれはどのようなものなのか」「善とは永遠と関連があるものなのか」といった問いの答えを模索する営みとして、旧来の神学や科学的な知識・実験では論理的な解答を得られない問題を扱うものであるとも言える。またこのようなテーマは法哲学の現場に即しておらず、真偽が検証不可能であり、実証主義の観点からナンセンスな問いであると考える立場もある(例えば論理実証主義)。 こちらは、ひとくくりに「価値論」とよぶことがある。「よい」ということはどういうことなのか、何がよりよいのかを考える分野である。 このような意味での哲学はより具体的にはとりわけ古代ギリシアのギリシア哲学、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)などをひとつの流れとみてそこに含まれる主題、著作、哲学者などを特に研究の対象とする学問とされることも多い(哲学一般から区別する場合にはこれを特に西洋哲学と呼ぶことがある)。 また、諸学問の扱う主題について特にこうした思考を用いて研究する分野は哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものは「歴史哲学」と呼ばれ、言語の定義や性質について論じるものは「言語哲学」と呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。 哲学ではしばしば多くの「学派」が語られる。これは、通常、特定の哲学者の集団(師弟関係であったり、交流があったりする場合も少なくない)に特徴的な哲学上の立場である。 古代ギリシア哲学、自然哲学、形而上学、実念論、唯名論、大陸合理主義、イギリス経験論、ドイツ観念論、超越論的哲学、思弁哲学、生の哲学、現象学、実存主義、解釈学、新カント派、論理実証主義、構造主義、プラグマティズム、大陸哲学 特定の学者や学者群に限定されない「立場」についても、多くの概念が存在している。言及される主要なものに、存在論、実在論、観念論、決定論、宿命論、機械論、相対主義、二元論、一元論、独我論、懐疑主義などがある。 哲学は様々な形で細分化される。以下に挙げるのはそのなかでも特に広く用いられている分類、専門分野の名称である。 地域による区分 主題による区分(分野) 貫成人が次の三つの種類に哲学を分類している。即ち、「絶対的存在の想定」型、「主観と客観の対峙」型、「全体的なシステムの想定」型の三つである。第一のタイプは自然、イデア、神といったすべての存在を説明する絶対的原理の存在を前提するものであり、古代や中世の哲学が含まれる。第二のタイプは認識の主体に焦点を当てて主観と客観の対立図式に関する考察を行うもので、近世や近代の哲学は主にこのタイプとされる。第三のタイプは人間を含む全ての存在を生成するシステムをについて考えるもので、クロード・レヴィ=ストロースの構造やルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語ゲームがこれに該当する。第一のタイプの絶対的存在が自身は常に同一にとどまりつつ他の物体に影響を与えるのに対し、第三のタイプの全体的なシステムは可変的であるという。 古代ギリシャ哲学はイスラム世界に受け継がれ、イスラム世界において、アッバース朝のカリフ、マームーン(786年-833年)は国家的事業として、ギリシャ語文献を翻訳させた。翻訳センター・研究所・天文台である「知恵の館」が設けられた。翻訳の大半は、ヤコブ派、ネストリオス派などの東方キリスト教徒が、シリア語を介して行った。 ギリシャ哲学のアラビア語への翻訳で中心を占めたのは、アリストテレスとその注釈者の著作であった。 ネオプラトニズムについては、プロティノスやプロクロスの原典からの直接の翻訳が行われず、ネオプラトニズムの著作がアリストテレスの著作だとして伝わることになった。 キンディーはイスラーム最初の哲学者と言われる。 イブン=ザカリーヤー・ラージーは、アリストテレスの哲学ではなく、原子論やプラトン主義の影響を受けた珍しい哲学を展開した。 ファーラービーは、神から10の知性(=ヌース)が段階的に流出(放射)すること、そして第10の知性が月下界を司っている能動知性で、そこから人間の知性が流出している、という理論を打ち立てた。政治哲学の分野でも、アリストテレスを採用せず、(ネオプラトニスムでは忘れられていた)プラトン的政治論を採用した。 イブン=シーナー(アヴィセンナ)はイスラーム哲学を完成させたと言われている。 イスラームのイベリア半島(スペイン)においては、イブン=ルシュドが、アリストテレス研究を究め、アリストテレスのほぼ全著作についての注釈書を著した。そしてイブン=シーナーのネオプラトニスムを廃し、純粋なアリストテレス主義に回帰しようとした。 ヨーロッパ哲学の大きな特徴として、「ロゴス(言葉,理性)の運動を極限まで押し進めるという徹底性」 があり、古代、近代、現代といった節目を設けて根底的な相違を見出すようなことが比較的容易であると言える。古代、近代、現代といった枠組みの中でも大きく研究姿勢が異なる学者、学派が存在する場合も珍しくない。 上述のようにフィロソフィア・フィロソフィ(古希:φιλοσοφία)という語そのものは西洋で生まれ、時代が下ってから東洋に伝わったものであるが、タイトルに東洋哲学と冠した書籍、書名に「中国哲学」が含まれる書籍、書名に「インド哲学」が含まれる書籍、書名に「日本哲学」もしくは「日本の哲学」を含む書籍、東洋の哲学者や学派個々の名称に哲学とつけて「~哲学」と称する例 が存在する。また、東洋哲学研究所、日本哲学史フォーラム といった団体が存在するほか、いくつもの大学で東洋哲学を研究する過程が設置されている。以上のように、東洋の思想を哲学と呼称する例はしばしばみられる。 哲学の中でもインドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。 中国では、春秋戦国時代に諸子百家が現れた。中でも老子や荘子の道家、孔子や孟子、荀子らの儒家がよく取り上げられる。時代が下ると、南宋では形而上学的思索を含む朱子学が生まれ、明代には朱子学を批判して陽明学が登場した。 東洋にも哲学はありインドと中国は大きな影響を持っている。日本哲学は伝統的には中国の影響を受けて来たが、現代ではヨーロッパの影響も無視出来ないものがある。 これと同時に、日本におけるヨーロッパ哲学の研究は、全く異なる生活現場でヨーロッパ同様にヨーロッパ哲学を扱うことは奇妙であり、伝統を汲まない、必然性を欠いたものであるといった指摘もある。日本のヨーロッパ哲学の研究者が、徹底的な議論をすることなく、むしろ議論の場を作らせず、ヨーロッパの哲学とはほど遠い、哲学とはほど遠い現状がある。 西田幾多郎(1870 - 1945)は、フッサール現象学などの西洋哲学および仏教などの東洋哲学の理解の上に、『善の研究』(1911)を発表、知情意が合一で主客未分である純粋経験の概念を提起した。またその後、場所の論理あるいは無の論理の立場を採用した。彼の哲学は「西田哲学」と呼ばれるようになった。 井筒俊彦(1914 - 1993)は、イスラーム思想を研究し、Sufism and Taoism(1966-67、1983)では、イスラームと老荘の神秘思想を分析し、それらがともに持つ一元的世界観を指摘し、世界的にも高い評価を得た。そして晩年には『意識と本質』(1983)などを著し、東アジア・インド・イスラーム・ユダヤの神秘主義を元に、ひとつの東洋哲学として構造化することを試みた。 哲学と宗教は共に神の存在に関連している分野である。そのため厳密な区分は難しい。宗教と神学と哲学の境界は必ずしもはっきりしない。ただ、合理的な追求を試みる態度によって異なっている、とする人もいる。 西洋哲学の萌芽ともいえるソクラテス以前の哲学の中には、それまでの迷信を排したものがある。例えばホメロスの詩は、それまでの民衆の狂信的要素を極力退けているものになっていると言われる。この点古代ギリシア人及びその哲学には二つの傾向が見られた。一つは合理的で冷静、もう一つは迷信的で熱狂的であるというものであり、彼らはその合理性によって多くの迷信を克服したが、恐怖や苦難に見舞われた際に以前の迷信が再び頭をもたげた。 オルフェウスは‘清めの儀式’や天上・地獄の教義について述べていて、後のプラトンやキリスト教に影響を与えた。日本の仏教でも、例えば極楽浄土と地獄に関する教え等を説いている。プラトンは永遠で恒久なる存在について考えたが、彼の場合は少なからず認識といった知的なアプローチを説いた。後世においてライプニッツは、時間の絶対性の観点からして時間の始源より以前に時間を遡ることが論理的に不可能であるとし、その始源に神の座を据えたと言われる。現代では宇宙のビッグバン説や、時間の相対性といった発想が反論として挙げられるだろう。 宗教や神の存在に関する知的な理解を求めた人々は、しばしば哲学的な追究をし、逆に信仰生活(実践)に重点を置いた人々は、哲学的に手のこんだ解釈やへ理屈めいた議論を敬遠したといえるだろう。同じ宗教にたずさわりながら、知的に優れ業績を残した人もいれば、実践を重んじ困っている人を助けることを日々実行する人もいれば、迷信的なものにとらわれた人もいた。信仰心のあつい人は、しばしば、哲学をする人の中に、詭弁で他人を議論の袋小路に追い込む酷薄な人を見てとり、哲学者を不信の目で眺めた。ただし、知的なだけでなく、人格的にも傑出した哲学者に限れば、人々の尊敬を広く集めた。 また哲学と宗教との差異として、なにがしか「疑ってみる」態度の有無が挙げられることがある。宗教ごとに性質はことなるのでひとくくりに語ることは難しいが、例えばアブラハムの宗教など)には信仰の遵守を求めるドグマ性がある、時として疑問抜きの盲信を要求しがちな面があるとして、比較されることはある。 18世紀~19世紀ごろから自然科学が成功を収め神的なものに疑問符が突きつけられるようになったため、唯物論思考など神を介しない考え方も力を得てきている 一方、古代から、否定的確証にも肯定的確証にも欠けるとして科学・宗教いずれの見解も留保する不可知論的立場もあり、これは現代でも支持者がいる。 中世哲学研究者の八木雄二は、「神について学問的分析をすることを『神学』と呼び、自然的な事柄全般についての学問的分析を『哲学』と呼」ぶのが一般的風潮であると提言したうえで、それを翻して、「哲学とは理性が吟味を全体的に行うことと理解すれば、キリスト教信仰を前提にしたあらゆる理性的吟味は、キリスト教哲学ということもできるし神学と呼ぶこともできる」と自説を主張している。つまり、哲学を理性的な吟味を行うことと定義し、その定義より神学は哲学に含まれると述べているのである。 フランシス・マクドナルド・コーンフォードは著書『宗教から哲学へ―ヨーロッパ的思惟の起源の研究』で、「哲学は、神話・宗教を母体とし、これを理性化することによって生まれてきた」といった哲学史観を示している。これは今日一般的な哲学観であり、中世哲学史家のエティエンヌ・ジルソン、科学哲学者のカール・ポパー もこれと同じ哲学観を持っている。 哲学と思想、文学や宗教の関係について、相愛大学人文学部教授の釈徹宗は「哲学や思想や文学と、宗教や霊性論との線引きも不明瞭になってきています。」と述べている。哲学者・倫理学者である内田樹は、「本物の哲学者はみんな死者と幽霊と異界の話をしている。」と述べている。 「哲学」と「思想」を峻別するという哲学上の立場がある。永井均は、哲学は学問として「よい思考」をもたらす方法を考えるのに対し、思想はさまざまな物事が「かくあれかし」とする主張である、とする。ソクラテス以来の西欧哲学の流れによれば、知を愛するという議論は、知を構築する方法を論じるという契機を含んでおり、思考をより望ましいものにするための方法の追及こそが哲学である、という主張である。ところが実際には「よい思考の方法」を見出したとしても、現実に適用するにあたっては「それを用いるべき」と主張の形で表出することになるため、哲学は思想としてしか表現されないことになる。このために思想と哲学の混用は避けられない。 哲学と思想を区分することのメリットは具体的な使用事例で発見することができ、たとえば思想史と哲学史は明らかに異なる。通常は思想家とされない人物でも、その行動や事業を通して社会に影響を与えた場合には思想史の対象となる。これに対して哲学史の対象は哲学者の範囲にとどまり、哲学を最大限に解釈したとしても、政治家や経営者が哲学史で論じられることはない。しかし思想史においては、実務を担当し世界の構造を変えようとした人々は思想史の対象として研究対象になる、とする。 一方で小坂修平は別の立場をとり、「哲学と思想の間に明確な区別はない。思想は、一般にある程度まとまった世界なり人間の生についての考え方を指すのにたいし、哲学はそのなかでも共通の伝統や術語をもったより厳密な思考といった程度の違い」 であるとする。小阪はこの区別に基づき、19世紀後半から20世紀前半にかけて生まれてきた思想は分析哲学や現象学を除けば哲学の枠組みには収まらず、現代思想になるとする。 一部の哲学は、理知的な学問以外の領域とも深く関わっている点に特徴がある。古代ギリシア哲学が詩と分かちがたく結びついていたこと、スコラ哲学や仏教哲学のように、信仰・世界観・生活の具体的な指針と結びついて離れない例があることなどが指摘できる。理性によって物事を問いながらも、言葉を用いつつ、人々の心に響く考えやアイディアを探すという点では文学などの言語芸術や一部の宗教と通じる部分が多い。 哲学者の名言が多いのはそのためでもある。例えば日本では大学の主に文学部の中の「哲学科」で哲学を学ぶが欧米には「哲学部」という学部が存在する。 八木雄二は、前節で述べたように哲学を理性的な吟味を行うことと定義した上で、人文科学は「哲学によってその事実内容が真であるかどうかの批判的吟味を受けることによって学問性を明らかにする」と述べている。自然科学は数学的方法を適用することで、数学的方法を適用できない人文科学は哲学によって、それらが理性的であるかが確認でき、そういった数学的方法や哲学的吟味を受容してこそそれらは学問として認められるのだと彼は主張している(生物学のようにどちらの側面も持っていて、数学的方法に還元できない部分では哲学的吟味を受けるような学問もあるという)。 哲学を学ぶということについて、イマヌエル・カントは「人はあらゆる理性学(ア・プリオリな)の内で、ただ数学をのみまなぶことができるが、しかし哲学(Phiolsophie)をば(それが歴史記述的でない限り)決して学ぶことはできない」「理性に関しては、せいぜいただ哲学すること(Philosophieren)を学ぶことができるだけである」 という。その上でカントは「理性の学的な理論的使用は哲学か、もしくは数学のどちらかに属する」と主張している。 後世の著作物の中に太古の思想との類似性が見つけられる場合、それが先哲の思索を継承したのか、独自の着想によるものかは即断できないが、明らかに以前には無い発想が述べられている場合、しばしばそれが重要な哲学的な独創性(頂点の発見)を意味していることがある。一方で思索は極めて属人的な営みであり、思索家の死や沈黙、著作物の散逸などにより容易に否定され失われてしまうが、弟子達の著作によりその思想が後世にまで残り、多大な影響力を及ぼしているものがある。 思索の継承と橋頭堡を打ち立てた先哲に対し敬意を払い続ける態度もまた哲学の顕著な特徴である。一方で、異なる学派間の対立は民衆の懐疑と嘲笑的態度、独断の蔓延とそれによる思想の貧困化につなり、戦乱が続いた時代は思想が停滞・後退した。ヨーロッパにおいて教会の権力が頂点に達した頃には、哲学はしばしば神学的な問題に用いられ、近代には先哲の批判的継承のうえに独自の哲学を打ち立てた近代哲学者たちが現れた。 逆に、哲学者自身が及ぼした影響の痕跡が後世に見られることもある。哲学が専ら同時代の観察と分析に徹しているという意見もある一方で、旺盛な活動によって世に知られた哲学者もいる。 他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかどうかというのはなかなか難しい問題である。少なくとも近代哲学においてはデカルト以来、疑いうるものを懐疑する態度、できるだけ明晰に思考する態度、事物の本質に迫ろうとする態度が哲学を特徴づけてきたといえるだろう。 ただ、これだけであれば学問の多くに共通する特徴でもあるし、逆に、理性や常識を信頼するタイプの哲学が哲学でないことになってしまう。分析哲学においては概念分析という道具を手にすることで、自然科学とは異なる独自の思考形態が成立したが、これも哲学すべてを特徴づける思考形態であるとは言いがたい。 三森定史によれば、科学と哲学は区別されるべきであり、科学が外観学(意識外で観察されるものを収集することで法則を立てる学問)であるのに対して哲学は内観学(意識内での観照から一般法則を導き出す学問)であるとする。また三森は大学でおこなわれているいわゆる「哲学」(哲学・学)への批判を込めて「大学での哲学研究は外観学に含まれる」 としている。 哲学はその黎明期において、科学において大切でかつ難しいといわれる仮説の発明を、重要な形で成してきた。ソクラテス以前の哲学者と呼ばれるタレス、アナクシマンドロスといった自然学者はいずれも自然現象の説明を目論んだ。19世紀までは科学(science)、自然科学(natural science)という言葉は現代的な意味で用いられておらず、それらに相当する分野を指す言葉としては「自然哲学」(natural philosophy)ないしは「自然学」(Physics)という言葉が使われており(例えばニュートンの『プリンキピア』の正式名称は『自然哲学の数学的諸原理』である)、今日的な意味での「哲学的」な自然の探求と「自然科学的」な自然の探求とは伝統的には切れ目のないひとまとまりの領域として扱われてきたが、その中においても今から振り返って、「自然科学的」な部分と「哲学的」な部分を区別することができる。そうした「自然科学的」部分は伝統的に人間の作為を含まない対象(自然)を観察、分類することを主眼としてきた。 また近代に至っては実験という形で積極的に自然に介入することを重視する実験科学が登場しさらに19世紀以降には目に見えるものからその背後の秩序を推測してモデル化するという営みが科学の中心となってきた。 例えば、時間について考察する哲学者は同じ問題を扱う物理学者とは違い観察や実験の積み重ねによらず結論を導くことがある。また、哲学者は物理学の成果を参照しそれを手がかりに哲学的思索を行うことはあるが、現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである。 こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだという了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。 そうしたものの見方から捉えると、先の時間の例について言うなら、われわれの主観的経験や世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は未だに物理学はもちろん心理学でもうまくとらえきることのできない対象でありそのために哲学的な時間論の対象となるわけである。 客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまり「実際にどうであるか」ではなく「どうあるべきか」を論じる文脈であるが、これは自然科学というよりは、むしろ倫理学の領域であろう。 哲学も決して自然科学的知見を無視するわけではないので自然科学によってもたらされる新たな発見はしばしば旧来の哲学に重大な脅威を与えてきた。またそもそも古代の哲学者が成した科学的発見が自身の手による実験によって証明されていることがある。 自然科学が自然哲学から分化して以降、とくに近代の哲学者は自然科学者の成果を重視し両者の親和性を失わないよう不断の努力を行ってきたし、また近代においては観察や経験を重要視する哲学者たちが生まれた。また一方で、科学者たち自身が扱わないような非常に基礎的な問題(科学方法論の原理論や科学的実在論といった問題)についてはむしろ哲学者が率先して考察を行ってきた(科学哲学の項参照)。あるいは科学が他の姿をとりうる論理的・現実的可能性を論じることで一度は忘れられた仮説を再発掘する原動力となったり新しい科学理論の形を呈示したりする場合もある。 歴史的に有名な事例としては全ての力が引力と斥力の二つに集約されるというドイツ観念論のテーゼが電力と磁力の統合というエルステッドの発見に結びついたといった例がある。 なお、近年の英米哲学では認識論の自然化を提唱したクワインのように自然主義という名の下に哲学を自然科学の一部とする動きがある。 伝統的に論理学は哲学の一分野として研究されてきた。 論理学は伝統的にわれわれの推論のパターンを抽出することを目的としてきた。特に伝統的な論理学においては、前提が正しければ確実に正しい結論を導くことができる手法としての三段論法が主な研究の対象であった。 推論の厳密さを重視する哲学においては論理学は主要な研究の対象であり政治や弁論術、宗教、数学や科学の諸分野において論理学は重要な研究の対象であり続けた。古代の哲学者たちはしばしば現代でいう論理学者や数学者を兼ねていた。 論理学の直接の関心は推論の妥当性や無矛盾性にあり、かならずしも人間や社会や自然の諸事象が考察の焦点にならない(この点で論理学は哲学の他の分野とは性格が異なる)。もし疑いようのない前提から三段論法を用いて人間や社会や自然の諸事象についての結論を導き出すことができるならそれは非常に強力な結論となりうる。哲学者たちが論理学を重視してきたことは当然といえるだろう。 しかし逆にいえば、三段論法の結論の厳密さはあくまで前提の正しさに依拠するものであり前提がとんでもないものであれば結論もとんでもないものが出てしまう。たとえば「すべてのカラスは黒い。この鳥は黒くない、したがってこの鳥はカラスではない」といった推論では最初の前提が間違いで本当は白いカラスもいるような場合、結局あやまった結論にたどりついてしまう(参照:ヘンペルのカラス)。 この問題は重要で、たとえばジョン・スチュアート・ミルは三段論法が内包するこの危うさについて結論を知っていないならば、大前提の全称判断は得られないのだから、三段論法は一種の循環論証であると批判した。一方彼は帰納法の四大規則をこしらえたが、それらは因果律が仮定される限り有効に用いられるものであり、まったく単純枚挙による機能にもとづいてのみ、容認しうるものであることを白状せねばならなかった。 哲学的論理学においてはしばしば推論規則そのものの哲学的な正当性が問題となってきた。古典論理については排中律の是非が問題となってきたし、帰納論理についてはそもそも帰納論理なるものが成立するのかどうか自体が問題となった。こうした検討は認識論や科学哲学といった他の分野にも大きな影響を与えてきた。20世紀の初頭までには古典論理による推論の限界が明らかにされる一方でその公理系そのものを懐疑する視点から様相論理学、直観論理や矛盾許容論理などの展開も提示されている。 広義の哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みであり、そのような営みの結果形成されたり選ばれたりした思想、立場、信条を指すこともある。例えば、「子育ての哲学」「会社経営の哲学」などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。 また、哲学は個々人が意識的な思索の果てに形成、獲得するものに限定されず、生活習慣、伝統、信仰、神話、伝統芸能や慣用表現、その他の文化的諸要素などと結びついて存在している感受性、価値観、世界観などを指す場合もある。つまり、物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことである(こうしたものは思想と呼ばれることも多い)。 このような感受性や世界観は必ずしも理論体系として言語によって表現されているわけではないが、体系性を備え、ひとつの立場になっていると考えられることがしばしばある。 貫成人は「モノづくりの哲学」や「料理の哲学」などといった俗な用例に着目し、哲学とはすべての物事を説明する普遍的原理を追求するものであるが、それにもかかわらずそういった哲学に違いが生まれるのは、時代・場所が異なり、哲学する人がどこまでを「すべて」に含めるかが異なることによるためだとする。 「心」や「意識」という問題を解明してきた脳科学・計算機科学(コンピュータサイエンス)・人工知能研究開発等に関連して、神経科学者・分子生物学者のフランシス・クリックは と批判している。こうした観点において、哲学は「二流どころか三流」の学問・科学に過ぎない、と評価されている。脳科学者の澤口俊之はクリックに賛同し、次のように述べている。 実際、哲学は暇(スコレー)から始まったとアリストテレスが伝えており、上記のような否定的発言も的外れではないと、科学哲学者の野家啓一は言う。また、うつ病の有無を血液(血中PEA濃度)で計測する検査法を開発し、臨床現場でも用いている心療内科医の 川村則行 は 等と述べている。 数学者・論理学者である田中一之は と述べている。計算機科学者(コンピュータ科学者)・論理学者・電子工学者・哲学博士(Ph.D. in Philosophy)であるトルケル・フランセーンは、哲学者たちによる数学的な言及の多くが と批判している。田中によると、ゲーデルの不完全性定理について哲学者が書いた本が、フランセーンの本と同じ頃に書店販売されていたが、哲学者の本は専門誌によって酷評された。その本は全体として読みやすく一般読者からの評判は高かったが、ゲーデルの証明の核(不動点定理)について、根本的な勘違いをしたまま説明していた。同様の間違いは他の入門書などにも見られる。 フランセーンによれば、不完全性定理のインパクトと重要性について、しばしば大げさな主張が繰り返されてきた。たとえば という言があるが、これらは乱暴な誇張とされる。不完全性定理が一番大きな衝撃を与えたと思われる数学においてさえ、「革命」らしきものは何も起きていない。1931年にゲーデルが示した「不完全性定理」とは、「特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」についての定理ではない。不完全性定理以降の時代にも、数学上の意味で「完全」な理論は存在し続けているが、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”というような誤解が一般社会・哲学・宗教・神学等によって広まり、誤用されている。 数学者ダヴィット・ヒルベルトは「数学に“イグノラビムス(ignorabimus, 永遠に知られないこと)”はない」と述べた。数学上に不可知は無く、全ての問題は最終的に解決されるというヒルベルトのこの見方は、「ノン・イグノラビムス」として知られている。ゲーデル自身も以下の、「ノン・イグノラビムス」的なヒルベルト流の見解を持っていた。 あらゆる算術の問題をその中で解決する単一の形式体系を定めることは不可能であっても、 新しい公理や推論規則による数学の拡張が限りなく続いていくなかで、どんな算術の問題もいずれどこかで決定されるという可能性は排除されていない。 哲学等において「不完全性定理がヒルベルトのプログラムを破壊した」という類の発言がよくあるが、これは実際の不完全性定理やゲーデルの見解とは異なる。正確に言えば、ヒルベルトの目的(数学の「無矛盾性証明」)を実現するには手段(ヒルベルト・プログラム)を拡張する必要がある、ということをゲーデルが不完全性定理を通して示したのだった。日本数学会が編集した『岩波 数学辞典』第4版では、不完全性定理について次の通り記述されている。 ゲーデルも書いているように,有限の立場は特定の演繹体系として規定されるものではないから,彼の結果はヒルベルトの企図を直接否定するものではなく,実際この定理の発見後に無矛盾性証明のための様々な方法論が開発されている. 哲学者は、科学とは違う日常的言語で「宇宙」や「存在」を語ろうとしてきた。しかし、量子論を創設した一員である理論物理学者ディラックは、哲学者をことさら信用していなかった。ディラックが居た頃のケンブリッジ大学で、一番の論客として鳴らしていたのは哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインだったが、彼を含め哲学者たちは、量子波動関数や不確定性原理について的外れなことばかりを発言し記述しており、ディラックの不信は嫌悪に変わった。ディラックが見たところ、哲学者たちは量子力学どころか、パスカル以降の「確率」の概念さえ理解していない。 ディラックの考えでは、非科学的な日常的言語をいくら使っても、正確な意思疎通を行うことはできない。量子力学を説明してくれと言う家族や友人に対してディラックは、「無理です」と言って黙り込むのが常だった。どうしても説明してほしいと迫る友人に、ディラックは「それは目隠しした人に触覚だけで雪の結晶がなにかを教えるようなもので、触ったとたん溶けてしまうのだ」と返した。 宇宙の背後にある「語り得ぬもの」または「無」について、ウィトゲンシュタインは「もちろん言い表せないものが存在する。それは自らを示す。それは神秘である」と述べたが、こういった哲学的考えは、理論物理学者から疑問視されている。何故なら、「語り得ぬ」はずの「無」について、科学的に言語化する手がかりが既に見つかっているからである。例えばペンローズの「ツイスター理論」、アシュテカーの「ループ重力理論」、ロルとアンビョルンの「因果的動的三角分割理論」等の研究が進められている。 『利己的な遺伝子』の序文で、進化生物学者リチャード・ドーキンスは と述べている。前掲書の第一章ではこう述べる。 また進化生物学者・社会生物学者のロバート・L・トリヴァースは、前掲書へ以下の序文を寄稿した。 同時にトリヴァースは「定量的データ」による実証を強調しており、『利己的な遺伝子』を邦訳した一員、動物行動学者の日髙敏隆は「この本に書かれた内容を完全に理解するためには、数学の言葉が必要である」としている。 哲学や人文学からの批判は、生物学へ、そして生物学について解説したドーキンスへ向かった。その批判は例えば、遺伝子の理論を極端に単純化して捉えつつ、遺伝子との関連が薄い事物を同列に置いていた(「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子がやきもち焼きだったり、ゾウが抽象的だったり、ビスケットが目的論的だったりすることがありえない以上に」等)。批判に対しドーキンスは、前掲書の中で「利己的」等の生物学用語を挙げつつ「このような言い回しは、それを理解する十分な資格を備えていない(あるいはそれを誤解する十分な資格を備えたというべきか?)人間の手にたまたま落ちるということさえなければ、無害な簡便語法である」と反論した。彼は次のようにも記している。 また前掲書中でドーキンスは、文化的自己複製子「ミーム」の理論に関して と述べている。彼によると、破壊的で危険なミームの典型例は宗教であり、「信仰は精神疾患の一つとしての基準を満たしているように見える」。 なお、『利己的な遺伝子』の邦訳者の一員である進化生態学者・岸由二は、40周年記念版(2018年刊行)の後書きでこの本を「名著」と呼び、次のように評価している。 『科学を語るとはどういうことか』の中で宇宙物理学者の須藤靖は、科学についての哲学的考察(科学哲学)が、実際には科学と関係が無いことを指摘している。 私は科学哲学が物理学者に対して何らかの助言をしたなどということは聞いたことがないし、おそらく科学哲学と一般の科学者はほとんど没交渉であると言って差し支えない状況なのであろう。 ... 科学哲学者と科学者の価値観の溝が深いことは確実だ。 須藤は、哲学的に論じられている「原因」という言葉を取り上げて、「原因という言葉を具体的に定義しない限りそれ以上の議論は不可能です」と述べており、「哲学者が興味を持っている因果の定義が物理学者とは違うことは確かでしょう」としている。科学哲学者・倫理学者の伊勢田哲治は、「思った以上に物理学者と哲学者のものの見え方の違いというのは大きいのかもしれません」と述べている。 須藤によると、学問の扱う問題が整理され分化したことで、科学と哲学もそれぞれ異なる問題を研究するようになった。これは「研究分野の細分化そのもの」であり、「立派な進歩」だと須藤は言う。一方で伊勢田は、様々な要素を含んだ「大きな」問題を哲学的・統一的に扱う、かつての天文学について言及した。「その後の天文学ではその〔哲学的〕問題を扱わなくなりましたし、今の物理学でもそういう問題を扱わない」と述べた伊勢田に対し、須藤は「その通りですが、それ自体に何か問題があるのでしょうか」と返した。 対談で須藤は「これまでけっこう長時間議論を行ってきました。おかげで、意見の違いは明らかになったとは思いますが、果たして何か決着がつくのでしょうか?」と発言し、伊勢田は「決着はつかないでしょうね」と答えている。 哲学者の中島義道は、哲学は「何の役にも立たない」のであり「哲学に『血税』を使う必要などない」と述べている。哲学科については、大幅な縮小か別の組織に統合させるべきだとしている。 (中略) 学術博士・思想家の東浩紀は、哲学は「一種の観光」であり、そこに専門知は無く、哲学者は「無責任」な観光客に似ていると述べている。 (中略) 社会哲学者イヴォンヌ・シェラットの学術書『ヒトラーの哲学者たち Hitler's Philosophers』によると、第三帝国ナチス・ドイツは様々な形で哲学者たちと相互協力しており、アドルフ・ヒトラー自身も「哲人総統」、「哲人指導者」を自認して活動していた。 シェラットは以下のように述べている。 「第三帝国」という概念について、『日本大百科全書』は以下の解説をしている。 シェラットによれば、「ナチ哲学者」の多くは刑罰から逃れて学界に残った。例えばマルティン・ハイデガーは21世紀でも、哲学における「スター」のような学者として見なされ続けている。かつて1933年にナチ党員となったハイデガーは、学術機関の「新総統」と公称し、また他者から「大学総統」とも呼称されるようになった。ハイデガーが「新総統」を宣言したのはナチ党員になって三週間後の1933年5月27日、彼がフライブルク大学新総長としてハーケンクロイツを掲げる就任演説を行った時だった。ハイデガーは聴衆のナチ党員たちと同種の隊服を着ており、ナチ式敬礼をして壇上に登ると、ナチズムを「精神的指導」、「ドイツ民族の運命に特色ある歴史を刻み込んだあの厳粛な精神的負託」と呼び、ナチズムによって「初めて、ドイツの大学の本質は明晰さと偉大さと力をもつに至るのである」と述べた。 ハイデガーはナチス内での出世を目指したが、彼は当世風な社会進化論者というよりロマンチック(ロマン主義的)で文化的なナショナリストであると見なされ、出世は頭打ちになった。それでもハイデガーは哲学者かつ「大学総統」として、人種的排外主義においても行動していた。彼は 国民社会主義〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ を論じたり、地方の文部大臣に「人種学および遺伝学」のポスト新設を要請して 国家の健康を保全するために ... 安楽死問題が真剣に熟慮されるべきである と主張したりした。 1935年にはハイデガーが「形而上学入門」という題の講義を始めており、再び この運動〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ を論じた。かつての同僚かつ友人だった哲学者カール・レーヴィットと対面した時も、ハイデガーはヒトラー賛美を変えなかった。レーヴィットの論考によれば、ハイデガーのナチズムは《ハイデガーの哲学の本質に基づくもの》であり、深い忠誠から由来している。そしてハイデガーの「存在」や「在る」という概念は、《形而上学的なナチズム》であるとレーヴィットは述べた。またハイデガーは自著『存在と時間』で、かつての恩師かつ友人だったユダヤ人フッサールへの献辞を載せていたが、その献辞を削除することを出版社に快諾した。 ハイデガーは「国民社会主義大学教官同盟フライブルク科学協会」から、 国民社会主義〔ナチズム〕の先駆者たる党同志 とも呼ばれるようになった。彼は「ナチ哲学者」たち──アルフレート・ローゼンベルク、カール・シュミット、エーリヒ・ロータッカー、ハンス・ハイゼ、アルフレート・ボイムラー、エルンスト・クリークなど──とおおよそ友好的付き合いを続けると同時に、ナチズム教育を学生全般へ実行していった。そこでハイデガーは《人権・道徳・憐憫は時代遅れの概念であり、ドイツの弱体化を防ぐため哲学から追放されるべきだ》などと論じていた。1942年の講義(ヘルダーリンの詩歌『イースター』についての講義)でも彼は、ナチズムと「その歴史的独自性」を一貫して高評価していた。 かつてハイデガーの親友だった哲学者カール・ヤスパースは、ハイデガー、シュミット、ボイムラーという三人の哲学者は と結論している。 ハイデガーの愛人だったユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、「ハイデガーを潜在的な殺人者だとみなさざるをえないのです」と公刊著作で批判した頃もあった。しかしハイデガーと再会後のアーレントは、彼の本を世界中で出版させるためにユダヤ系出版の人脈を使って努力した。シェラットいわく「ハンナは、現代哲学の様相を一変させる計画に手をつける」ことになった。ナチスの戦争捕虜だった著名なフランス人哲学者ジャン=ポール・サルトルさえも、ハイデガー哲学を自分の思想に取り入れて彼を支援した。 アーレントは、ナチズムと哲学との繋がりを切り離そうとするようになった。例えば彼女は、アドルフ・アイヒマンを中心に「悪の陳腐さ」やナチスの「凡庸さ」、知性の無さを論じる政治哲学書を複数執筆していった。しかし、これはホロコースト生存者からの反発をも生むことになった。その原因は例えば、 などだった。 『ヒトラーの哲学者たち』を2014年に翻訳した、三ツ木道夫(比較社会文化学博士)と大久保友博(人間環境学博士)は と述べている。訳者らによると、人文学者がナチスという暴力を擁護したことは、ある種の「人文学の敗北」、「教養主義の挫折」である。何故なら、人間は教養を身に付けたり本や音楽に感動したりすることで素晴らしい存在になるはずだったにも関わらず、そのような人文学的人間が不条理な暴力を認め加担しているからだという。批評家ジョージ・スタイナーも次のように批判している。 そんなことができる人間は、ゲーテ読みのゲーテ知らずだとか、そんな人間の耳は節穴も同然だとか、逃げ口上をいうのは偽善である。こういう事実を知ってしまったということ──このことは、いったい文学や社会とどういうかかわりをもつのか。 三ツ木と大久保は「訳者あとがき」で と締めくくっている。 社会看護学者ダンカン・C・ランドールと健康科学者アンドリュー・リチャードソンの論文によれば、ハイデガー思想などのナチ哲学へ向けられる擁護には、《哲学とは文化的に中立で政治から切り離されているもの》だという考え方が含まれている。しかしそもそもこの考え方自体が、哲学における特定の政治的・文化的な立場を有利にしようとしている。ここでは、哲学は政治的であり文化的に非中立なものだとする考え方が拒絶されている、と同論文は述べる。 同論文によれば、哲学的テクストの文化的中立性や非政治性をいくら主張したところで、哲学的テクストが文化や政治に巻き起こした「行動」(action)も「行動しないこと」(inaction)も、消え失せるわけではない。何故なら、いかなる哲学も行動も「文化的かつ政治的」(cultural and political)であり、また、何らかの哲学や行動を選ばないこと自体も一種の文化的・政治的行動であるからだと言う。 必要とされているのは「政治的・文化的な側面を我々に見えなくさせるハイデガーの解釈主義を拒絶すること」である。《哲学者(ハイデガー)たち自身についてはともかく、哲学的著作物については批判すべきでない》というような考え方は、(政治的・文化的な文脈からの)批判的研究を無視している。それは検証を無視したり、過ちを繰り返したりすることに繋がると同論文は結論している。 理性や言語を重んじる価値観は近代以降の西洋の諸文化に特徴的なものであると見做して攻撃する立場もある。既存の哲学が「西洋哲学」中心であることや、習慣などに埋め込まれて存在していて言語化されたり、理性的な吟味の対象にならない思想を哲学の一種として扱わない傾向にあったりすることなどを、そのような価値観の表れと考え、問題視する立場もある。 大学の哲学教員など現代の職業哲学者の従事する学問としての哲学は理性と言語による思考に特化しており、必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない。これに関して理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある。 哲学者の森岡正博は、日本の大学や哲学教室、倫理学教室、学会や懸賞論文は制度化されており、本来答えるべき哲学的課題に向き合えていないと批判している。学会は文献学、特定個人の思想、著名哲学者の思想に偏重しており、直面した根本問題を検討することを「次の機会」に先延ばしすることに特徴があるとしている。哲学の<純粋探求>の凄みと快楽は理解するものの、それは本当に向かい合うべき問いから巧妙に逃げているのではないか、と問題提起する。 抽象的な概念を巡る定義や論争などは、証拠によって決着を着けたり、万人が合意するような立場に辿りつけたりする可能性が低く(あるいはそのような可能性が皆無で)、結論が出ないままに延々と議論だけが続く、(特に実証主義的な観点から)非生産的な学問であるとの見方もある。現に論理実証主義はそのような真偽の検証ができない命題や議論をナンセンスとして斥け、従来の哲学に対して否定的な立場を取った。神の存在証明を巡る中世のスコラ哲学、実存哲学などは、その典型であったといえよう(もっとも、前者は証明方法の洗練によって、論理学の発展にはかなり貢献した)。 古代ギリシャの時代の時代から、フィロソフィアが役に立たないと思う人がいた。アリストテレスはその著『政治学』において 次のような逸話を提示することで、そうではないと示した。 彼(タレス)は貧乏であった。貧乏であることは哲学が役に立たないことを示すと考えられたので、彼はそのことで非難を受けた。話によれば、彼は星に関する自分の巧妙な知識によって、次にくる年にオリーヴの豊作がある、ということを冬の間に知ることができた。そこで彼は、少しは金をもっていたので、キオスとミレトスにあるすべてのオリーヴ圧搾機を使用するための、保証金を支払っておいた。競りあう人が全然いなかったために、彼はわずかの金でそれらの器械を借りたわけだ。収穫時が来て急に多くの圧搾器がそろって必要となると、彼は思いのままの高値でそれを貸し出し、多額の金をつくった。このようにして彼は、哲学者は望みとあらば容易に金持ちとなることができるが、哲学者の野心はそれ以外にある、ということを世間に示した コロサイの信徒への手紙の中でパウロは以下のように哲学を「むなしいだましごと」と称している箇所がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "哲学(てつがく、フィロソフィー 英: philosophy)とは、原義的には「愛知」を意味する学問分野、または活動 である。現代英語のフィロソフィー(philosophy)は「哲学」・「哲学専攻コース」・「哲学説」・「人生[世界]観」・「達観」・「あきらめ」などを意味する。「愛知としての哲学」は知識欲に根ざす根源的活動の一つだが、19世紀以降は自然科学が急発展して哲学から独立し、哲学は主に美学・倫理学・認識論という三つで形作られるようになった。哲学に従事する人物は哲学者(てつがくしゃ、フィロソファー 英: philosopher)と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現代では以下のように、文脈によって様々な意味をもつ多義語である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「哲学」は英語で「フィロソフィー」といい、語源は古典ギリシア語の「フィロソフィア」に由来する。直訳すれば「知を愛する」という意味である。「哲学」という日本語は、明治時代の学者西周がフィロソフィーに対してあてた訳語である。(→#語源とその意味)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "したがって、「フィロソフィー」というのは単に「知を愛する学」という意味であり、それだけではまだ何を研究する学問であるかは示されていない。この語では内容が規定されていないのである。哲学以外の大抵の学問は、分野名を聞いただけでおおよその内容が察せる(例えば「経済学」なら経済、「生物学」なら生物などのように)。ところが、哲学の場合は名前を聞いただけでは何を研究する学問なのか分からない。これは哲学という学問の対象が決して一定しておらず様々な考え方があることを示しており、哲学はまさにその字義のとおり「知を愛する学」とでもいうほかに仕方ないような特徴を備えている。(→#哲学の対象・主題)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "このように対象によってこの学を規定することができないと、「対象を扱う<<方法>>に共通点があり、それによって規定できるのはないか」との期待が生まれることがあるが、そのような期待も裏切られ、哲学に一定の方法が存在しうるわけではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "以下は日本語辞典『広辞苑』での「哲学」の説明:", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1 〔...〕 物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問。古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立以降、諸科学の批判的吟味や基礎づけを目ざす学問、世界・社会関係・人生などの原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論・美学などを部門として含む。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、以下は哲学用語としての「学(がく)」の説明:", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ア(science(フランス)・(イギリス)・Wissenschaft(ドイツ))現実の全体あるいはそれの特殊な諸領域または側面に関する体系的認識。哲学および個別諸科学を含む。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "観念論的な形而上学に対して、唯物論的な形而上学もある。諸科学が分化独立した現在では、哲学は学問とされることが多いが、科学(人文科学)とされる場合もある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "近現代哲学において代表的な哲学者の言説を以下に記述する。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": 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Etymologiae)において、哲学とは「よく生きようとする努力と結合した人間的、神的事柄に関する認識である」と述べている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "英語をはじめとした多くの言語で、古希: φιλοσοφίαをそのまま翻字した語が採用されている。例えば、羅: philosophia、英: philosophy、仏: philosophie、独: Philosophie、伊: filosofia、露: философия、阿: falsafahなどである。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本で現在用いられている「哲学」という訳語は、詳細な経緯は諸説あるが、大抵の場合、明治初期の知識人西周によって作られた造語(和製漢語)であると説明される。少なくとも、西周の『百一新論』1874年(明治7年)に「哲学」という語が見出される。そこに至る経緯としては、北宋の儒学者周敦頤の著書『通書』に「士希賢」(士は賢をこいねがう)という一節があり、この一節は儒学の概説書『近思録』にも収録されていて有名だった。この一節をもとに、中国の西学(日本の洋学にあたる)が「賢」を「哲」に改めて「希哲学」という語を作り、それをフィロソフィアの訳語として転用した。それを西周が借用して、さらにここから「希」を省略して「哲学」を作ったとされる。西周は明治政府における有力者でもあったため、「哲学」という訳語は文部省に採用され、1877年(明治10年)には東京大学の学科名にも用いられ、以降一般に浸透した。なお、西周は「哲学」以外にも様々な哲学用語の訳語を考案している。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "漢語の本場である中国では、西周が作った「哲学」という訳語が、いわば逆輸入されて現在も使われている。経緯としては、清末民初(1900年代前後)の知識人たちが、同じ漢字文化圏に属する日本の訳語を受容したことに由来する。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「哲」という漢字の意味(および同義字)は「賢人・知者(賢)、事理に明らか(明)、さとし(敏)」などがある。字源としては、会意形声文字で「口」+「折(音符)」から。「折」は一刀両断すること。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「哲学」という訳語が採用される以前、日本や中国では様々な訳案が出されてきた。とりわけ、儒学用語の「理」あるいは「格物窮理」にちなんで、「理学」と訳されることが多かった。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "17世紀・明末の中国に訪れたイエズス会士ジュリオ・アレーニ(艾儒略)は、西洋の諸学を中国語で紹介する書物『西学凡』を著した。同書のなかでフィロソフィアは、「理学」または「理科」と訳されている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本の場合、幕末から明治初期にかけて、洋学(西洋流の学問一般)とりわけ物理学(つまり後述の自然哲学)が、「窮理学」と呼称されていた。例えば福沢諭吉の『窮理図解』は物理学的内容である。のちに文明開化が進んで西洋の諸学が正式に輸入されると、様々な訳案が出されたが、なかでも中江兆民はフィロソフィアを「理学」と訳した。具体的には、兆民の訳書『理学沿革史』(フイエ Histoire de la Philosophie の訳)や、著書の『理学鉤玄』(哲学概論)をはじめとして、主著の『三酔人経綸問答』でも「理学」が用いられている(ただし、いずれも文部省が「哲学」を採用した後のことだった)。なお、兆民は晩年の著書『一年有半』で、「わが日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と述べたことでも知られる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "上述の中国の変法運動期の知識人の間でも、「哲学」ではなく「理学」と訳したほうが適切ではないか、という見解が出されることもあった。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "「理学」が最終的に採用されず、「哲学」に敗れてしまった理由については諸説ある。上述のように「理」は既に物理学に使われていたため、あるいは「理学」という言葉が儒学の一派(朱子学・宋明理学)の同義語でもあり混同されるため、あるいはフィロソフィアは儒学のような東洋思想とは別物だとも考えられたため、などとされる。上記の西周や桑木厳翼も、本来は「理学」と訳すべきだが、そのような混同を避けるために「哲学」を用いる、という立場をとっていた。この件に関して、明治哲学界の中心人物の一人・三宅雪嶺は、晩年に回顧して曰く「もしも旧幕時代に明清の学問(宋明理学と考証学)がもっと入り込んでいたならば、哲学ではなく理学と訳すことになっていただろう」「中国哲学・インド哲学という分野を作るくらいなら理学で良かった」「理学ではなく哲学を採用したのは日本の漢学者の未熟さに由来する(漢学は盛んだったがそれでもまだ力不足だった)」という旨を述べている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "紀元前の古代ギリシアから現代に至るまでの西洋の哲学を眺めてみるだけでも、そこには一定の対象というものは存在しない(他の地域・時代の哲学まで眺めるとなおさらである)。西洋の哲学を眺めるだけでも、それぞれの時代の哲学は、それぞれ異なった対象を選択し、研究していた。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ソクラテス以前の初期ギリシア哲学では、対象は(現在の意味とは異なっている自然ではあるが)「自然」であった。紀元前5世紀頃のソクラテスは < 不知の知 > の自覚を強調した。その弟子のプラトンや孫弟子のアリストテレスになると、人間的な事象と自然を対象とし、壮大な体系を樹立した。ヘレニズム・ローマ時代の哲学では、ストア派やエピクロス学派など、「自己の安心立命を求める方法」という身近で実践的な問題が中心となった(ヘレニズム哲学は哲学の範囲を倫理学に限定しようとしたとしばしば誤解されるが、ストア派やエピクロス派でも自然学や論理学、認識論といった様々な分野が研究された。平俗な言葉で倫理的主題を扱った印象の強い後期ストア派でも、セネカが『自然研究』を著している)。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ中世では、哲学の対象は自然でも人間でもなく「神」であったと謂われることが多い。しかし、カッシオドルスのように専ら医学・自然学を哲学とみなした例もある し、ヒッポのアウグスティヌスからオッカムのウィリアムに至る中世哲学者の多くは言語を対象とした哲学的考察に熱心に取り組んだ。また、中世の中頃以降は大学のカリキュラムとの関係で「哲学」が自由七科を指す言葉となり、神学はこの意味での「哲学」を基盤として学ばれるものであった。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "さらに時代が下り近代になると、人間が中心的になり、自己に自信を持った時代であったので、「人間による認識」(人間は何をどの範囲において認識できるのか)ということの探求が最重要視された。「人間は理性的認識により真理を把握しうる」とする合理論者と、「人間は経験を超えた事柄については認識できない」とする経験論者が対立した。カントはこれら合理論と経験論を総合統一しようとした。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "19世紀、20世紀ごろのニーチェ、ベルクソン、ディルタイらは、いわゆる「生の哲学」を探求し、「非合理な生」を哲学の対象とした。キルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー、サルトルらの実存主義は、「人間がいかに自らの自由により自らの生き方を決断してゆくか」ということを中心的課題に据えた。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "このように哲学には決して一定の対象というものは存在しなく、対象によって規定できる学問ではなく、冒頭で述べたように、ただ「philosophy」「愛知の学」とでも呼ぶしかない とされている。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "学問としての哲学で扱われる主題には、真理、本質、同一性、普遍性、数学的命題、論理、言語、知識、観念、行為、経験、世界、空間、時間、歴史、現象、人間一般、理性、存在、自由、因果性、世界の起源のような根源的な原因、正義、善、美、意識、精神、自我、他我、神、霊魂、色彩などがある。一般に、哲学の主題は抽象度が高い概念であることが多い。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これらの主題について論じられる事柄としては、定義、性質、複数の立場・見解の間の整理などがある。 これをひとくくりに「存在論」とよぶことがある。地球や人間、物質などが「ある」ということについて考える分野である。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、「高貴な生き方とは存在するのか、また、あるとしたらそれはどのようなものなのか」「善とは永遠と関連があるものなのか」といった問いの答えを模索する営みとして、旧来の神学や科学的な知識・実験では論理的な解答を得られない問題を扱うものであるとも言える。またこのようなテーマは法哲学の現場に即しておらず、真偽が検証不可能であり、実証主義の観点からナンセンスな問いであると考える立場もある(例えば論理実証主義)。 こちらは、ひとくくりに「価値論」とよぶことがある。「よい」ということはどういうことなのか、何がよりよいのかを考える分野である。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "このような意味での哲学はより具体的にはとりわけ古代ギリシアのギリシア哲学、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)などをひとつの流れとみてそこに含まれる主題、著作、哲学者などを特に研究の対象とする学問とされることも多い(哲学一般から区別する場合にはこれを特に西洋哲学と呼ぶことがある)。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、諸学問の扱う主題について特にこうした思考を用いて研究する分野は哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものは「歴史哲学」と呼ばれ、言語の定義や性質について論じるものは「言語哲学」と呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。", "title": "哲学の対象・主題" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "哲学ではしばしば多くの「学派」が語られる。これは、通常、特定の哲学者の集団(師弟関係であったり、交流があったりする場合も少なくない)に特徴的な哲学上の立場である。", "title": "哲学の分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "古代ギリシア哲学、自然哲学、形而上学、実念論、唯名論、大陸合理主義、イギリス経験論、ドイツ観念論、超越論的哲学、思弁哲学、生の哲学、現象学、実存主義、解釈学、新カント派、論理実証主義、構造主義、プラグマティズム、大陸哲学", "title": "哲学の分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "特定の学者や学者群に限定されない「立場」についても、多くの概念が存在している。言及される主要なものに、存在論、実在論、観念論、決定論、宿命論、機械論、相対主義、二元論、一元論、独我論、懐疑主義などがある。", "title": "哲学の分類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "哲学は様々な形で細分化される。以下に挙げるのはそのなかでも特に広く用いられている分類、専門分野の名称である。", "title": "哲学の分類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "地域による区分", "title": "哲学の分類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "主題による区分(分野)", "title": "哲学の分類" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "貫成人が次の三つの種類に哲学を分類している。即ち、「絶対的存在の想定」型、「主観と客観の対峙」型、「全体的なシステムの想定」型の三つである。第一のタイプは自然、イデア、神といったすべての存在を説明する絶対的原理の存在を前提するものであり、古代や中世の哲学が含まれる。第二のタイプは認識の主体に焦点を当てて主観と客観の対立図式に関する考察を行うもので、近世や近代の哲学は主にこのタイプとされる。第三のタイプは人間を含む全ての存在を生成するシステムをについて考えるもので、クロード・レヴィ=ストロースの構造やルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語ゲームがこれに該当する。第一のタイプの絶対的存在が自身は常に同一にとどまりつつ他の物体に影響を与えるのに対し、第三のタイプの全体的なシステムは可変的であるという。", "title": "哲学の分類" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "古代ギリシャ哲学はイスラム世界に受け継がれ、イスラム世界において、アッバース朝のカリフ、マームーン(786年-833年)は国家的事業として、ギリシャ語文献を翻訳させた。翻訳センター・研究所・天文台である「知恵の館」が設けられた。翻訳の大半は、ヤコブ派、ネストリオス派などの東方キリスト教徒が、シリア語を介して行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ギリシャ哲学のアラビア語への翻訳で中心を占めたのは、アリストテレスとその注釈者の著作であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ネオプラトニズムについては、プロティノスやプロクロスの原典からの直接の翻訳が行われず、ネオプラトニズムの著作がアリストテレスの著作だとして伝わることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "キンディーはイスラーム最初の哲学者と言われる。 イブン=ザカリーヤー・ラージーは、アリストテレスの哲学ではなく、原子論やプラトン主義の影響を受けた珍しい哲学を展開した。 ファーラービーは、神から10の知性(=ヌース)が段階的に流出(放射)すること、そして第10の知性が月下界を司っている能動知性で、そこから人間の知性が流出している、という理論を打ち立てた。政治哲学の分野でも、アリストテレスを採用せず、(ネオプラトニスムでは忘れられていた)プラトン的政治論を採用した。 イブン=シーナー(アヴィセンナ)はイスラーム哲学を完成させたと言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "イスラームのイベリア半島(スペイン)においては、イブン=ルシュドが、アリストテレス研究を究め、アリストテレスのほぼ全著作についての注釈書を著した。そしてイブン=シーナーのネオプラトニスムを廃し、純粋なアリストテレス主義に回帰しようとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ哲学の大きな特徴として、「ロゴス(言葉,理性)の運動を極限まで押し進めるという徹底性」 があり、古代、近代、現代といった節目を設けて根底的な相違を見出すようなことが比較的容易であると言える。古代、近代、現代といった枠組みの中でも大きく研究姿勢が異なる学者、学派が存在する場合も珍しくない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "上述のようにフィロソフィア・フィロソフィ(古希:φιλοσοφία)という語そのものは西洋で生まれ、時代が下ってから東洋に伝わったものであるが、タイトルに東洋哲学と冠した書籍、書名に「中国哲学」が含まれる書籍、書名に「インド哲学」が含まれる書籍、書名に「日本哲学」もしくは「日本の哲学」を含む書籍、東洋の哲学者や学派個々の名称に哲学とつけて「~哲学」と称する例 が存在する。また、東洋哲学研究所、日本哲学史フォーラム といった団体が存在するほか、いくつもの大学で東洋哲学を研究する過程が設置されている。以上のように、東洋の思想を哲学と呼称する例はしばしばみられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "哲学の中でもインドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "中国では、春秋戦国時代に諸子百家が現れた。中でも老子や荘子の道家、孔子や孟子、荀子らの儒家がよく取り上げられる。時代が下ると、南宋では形而上学的思索を含む朱子学が生まれ、明代には朱子学を批判して陽明学が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "東洋にも哲学はありインドと中国は大きな影響を持っている。日本哲学は伝統的には中国の影響を受けて来たが、現代ではヨーロッパの影響も無視出来ないものがある。 これと同時に、日本におけるヨーロッパ哲学の研究は、全く異なる生活現場でヨーロッパ同様にヨーロッパ哲学を扱うことは奇妙であり、伝統を汲まない、必然性を欠いたものであるといった指摘もある。日本のヨーロッパ哲学の研究者が、徹底的な議論をすることなく、むしろ議論の場を作らせず、ヨーロッパの哲学とはほど遠い、哲学とはほど遠い現状がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "西田幾多郎(1870 - 1945)は、フッサール現象学などの西洋哲学および仏教などの東洋哲学の理解の上に、『善の研究』(1911)を発表、知情意が合一で主客未分である純粋経験の概念を提起した。またその後、場所の論理あるいは無の論理の立場を採用した。彼の哲学は「西田哲学」と呼ばれるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "井筒俊彦(1914 - 1993)は、イスラーム思想を研究し、Sufism and Taoism(1966-67、1983)では、イスラームと老荘の神秘思想を分析し、それらがともに持つ一元的世界観を指摘し、世界的にも高い評価を得た。そして晩年には『意識と本質』(1983)などを著し、東アジア・インド・イスラーム・ユダヤの神秘主義を元に、ひとつの東洋哲学として構造化することを試みた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "哲学と宗教は共に神の存在に関連している分野である。そのため厳密な区分は難しい。宗教と神学と哲学の境界は必ずしもはっきりしない。ただ、合理的な追求を試みる態度によって異なっている、とする人もいる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "西洋哲学の萌芽ともいえるソクラテス以前の哲学の中には、それまでの迷信を排したものがある。例えばホメロスの詩は、それまでの民衆の狂信的要素を極力退けているものになっていると言われる。この点古代ギリシア人及びその哲学には二つの傾向が見られた。一つは合理的で冷静、もう一つは迷信的で熱狂的であるというものであり、彼らはその合理性によって多くの迷信を克服したが、恐怖や苦難に見舞われた際に以前の迷信が再び頭をもたげた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "オルフェウスは‘清めの儀式’や天上・地獄の教義について述べていて、後のプラトンやキリスト教に影響を与えた。日本の仏教でも、例えば極楽浄土と地獄に関する教え等を説いている。プラトンは永遠で恒久なる存在について考えたが、彼の場合は少なからず認識といった知的なアプローチを説いた。後世においてライプニッツは、時間の絶対性の観点からして時間の始源より以前に時間を遡ることが論理的に不可能であるとし、その始源に神の座を据えたと言われる。現代では宇宙のビッグバン説や、時間の相対性といった発想が反論として挙げられるだろう。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "宗教や神の存在に関する知的な理解を求めた人々は、しばしば哲学的な追究をし、逆に信仰生活(実践)に重点を置いた人々は、哲学的に手のこんだ解釈やへ理屈めいた議論を敬遠したといえるだろう。同じ宗教にたずさわりながら、知的に優れ業績を残した人もいれば、実践を重んじ困っている人を助けることを日々実行する人もいれば、迷信的なものにとらわれた人もいた。信仰心のあつい人は、しばしば、哲学をする人の中に、詭弁で他人を議論の袋小路に追い込む酷薄な人を見てとり、哲学者を不信の目で眺めた。ただし、知的なだけでなく、人格的にも傑出した哲学者に限れば、人々の尊敬を広く集めた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また哲学と宗教との差異として、なにがしか「疑ってみる」態度の有無が挙げられることがある。宗教ごとに性質はことなるのでひとくくりに語ることは難しいが、例えばアブラハムの宗教など)には信仰の遵守を求めるドグマ性がある、時として疑問抜きの盲信を要求しがちな面があるとして、比較されることはある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "18世紀~19世紀ごろから自然科学が成功を収め神的なものに疑問符が突きつけられるようになったため、唯物論思考など神を介しない考え方も力を得てきている", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "一方、古代から、否定的確証にも肯定的確証にも欠けるとして科学・宗教いずれの見解も留保する不可知論的立場もあり、これは現代でも支持者がいる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "中世哲学研究者の八木雄二は、「神について学問的分析をすることを『神学』と呼び、自然的な事柄全般についての学問的分析を『哲学』と呼」ぶのが一般的風潮であると提言したうえで、それを翻して、「哲学とは理性が吟味を全体的に行うことと理解すれば、キリスト教信仰を前提にしたあらゆる理性的吟味は、キリスト教哲学ということもできるし神学と呼ぶこともできる」と自説を主張している。つまり、哲学を理性的な吟味を行うことと定義し、その定義より神学は哲学に含まれると述べているのである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "フランシス・マクドナルド・コーンフォードは著書『宗教から哲学へ―ヨーロッパ的思惟の起源の研究』で、「哲学は、神話・宗教を母体とし、これを理性化することによって生まれてきた」といった哲学史観を示している。これは今日一般的な哲学観であり、中世哲学史家のエティエンヌ・ジルソン、科学哲学者のカール・ポパー もこれと同じ哲学観を持っている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "哲学と思想、文学や宗教の関係について、相愛大学人文学部教授の釈徹宗は「哲学や思想や文学と、宗教や霊性論との線引きも不明瞭になってきています。」と述べている。哲学者・倫理学者である内田樹は、「本物の哲学者はみんな死者と幽霊と異界の話をしている。」と述べている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "「哲学」と「思想」を峻別するという哲学上の立場がある。永井均は、哲学は学問として「よい思考」をもたらす方法を考えるのに対し、思想はさまざまな物事が「かくあれかし」とする主張である、とする。ソクラテス以来の西欧哲学の流れによれば、知を愛するという議論は、知を構築する方法を論じるという契機を含んでおり、思考をより望ましいものにするための方法の追及こそが哲学である、という主張である。ところが実際には「よい思考の方法」を見出したとしても、現実に適用するにあたっては「それを用いるべき」と主張の形で表出することになるため、哲学は思想としてしか表現されないことになる。このために思想と哲学の混用は避けられない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "哲学と思想を区分することのメリットは具体的な使用事例で発見することができ、たとえば思想史と哲学史は明らかに異なる。通常は思想家とされない人物でも、その行動や事業を通して社会に影響を与えた場合には思想史の対象となる。これに対して哲学史の対象は哲学者の範囲にとどまり、哲学を最大限に解釈したとしても、政治家や経営者が哲学史で論じられることはない。しかし思想史においては、実務を担当し世界の構造を変えようとした人々は思想史の対象として研究対象になる、とする。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "一方で小坂修平は別の立場をとり、「哲学と思想の間に明確な区別はない。思想は、一般にある程度まとまった世界なり人間の生についての考え方を指すのにたいし、哲学はそのなかでも共通の伝統や術語をもったより厳密な思考といった程度の違い」 であるとする。小阪はこの区別に基づき、19世紀後半から20世紀前半にかけて生まれてきた思想は分析哲学や現象学を除けば哲学の枠組みには収まらず、現代思想になるとする。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "一部の哲学は、理知的な学問以外の領域とも深く関わっている点に特徴がある。古代ギリシア哲学が詩と分かちがたく結びついていたこと、スコラ哲学や仏教哲学のように、信仰・世界観・生活の具体的な指針と結びついて離れない例があることなどが指摘できる。理性によって物事を問いながらも、言葉を用いつつ、人々の心に響く考えやアイディアを探すという点では文学などの言語芸術や一部の宗教と通じる部分が多い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "哲学者の名言が多いのはそのためでもある。例えば日本では大学の主に文学部の中の「哲学科」で哲学を学ぶが欧米には「哲学部」という学部が存在する。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "八木雄二は、前節で述べたように哲学を理性的な吟味を行うことと定義した上で、人文科学は「哲学によってその事実内容が真であるかどうかの批判的吟味を受けることによって学問性を明らかにする」と述べている。自然科学は数学的方法を適用することで、数学的方法を適用できない人文科学は哲学によって、それらが理性的であるかが確認でき、そういった数学的方法や哲学的吟味を受容してこそそれらは学問として認められるのだと彼は主張している(生物学のようにどちらの側面も持っていて、数学的方法に還元できない部分では哲学的吟味を受けるような学問もあるという)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "哲学を学ぶということについて、イマヌエル・カントは「人はあらゆる理性学(ア・プリオリな)の内で、ただ数学をのみまなぶことができるが、しかし哲学(Phiolsophie)をば(それが歴史記述的でない限り)決して学ぶことはできない」「理性に関しては、せいぜいただ哲学すること(Philosophieren)を学ぶことができるだけである」 という。その上でカントは「理性の学的な理論的使用は哲学か、もしくは数学のどちらかに属する」と主張している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "後世の著作物の中に太古の思想との類似性が見つけられる場合、それが先哲の思索を継承したのか、独自の着想によるものかは即断できないが、明らかに以前には無い発想が述べられている場合、しばしばそれが重要な哲学的な独創性(頂点の発見)を意味していることがある。一方で思索は極めて属人的な営みであり、思索家の死や沈黙、著作物の散逸などにより容易に否定され失われてしまうが、弟子達の著作によりその思想が後世にまで残り、多大な影響力を及ぼしているものがある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "思索の継承と橋頭堡を打ち立てた先哲に対し敬意を払い続ける態度もまた哲学の顕著な特徴である。一方で、異なる学派間の対立は民衆の懐疑と嘲笑的態度、独断の蔓延とそれによる思想の貧困化につなり、戦乱が続いた時代は思想が停滞・後退した。ヨーロッパにおいて教会の権力が頂点に達した頃には、哲学はしばしば神学的な問題に用いられ、近代には先哲の批判的継承のうえに独自の哲学を打ち立てた近代哲学者たちが現れた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "逆に、哲学者自身が及ぼした影響の痕跡が後世に見られることもある。哲学が専ら同時代の観察と分析に徹しているという意見もある一方で、旺盛な活動によって世に知られた哲学者もいる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかどうかというのはなかなか難しい問題である。少なくとも近代哲学においてはデカルト以来、疑いうるものを懐疑する態度、できるだけ明晰に思考する態度、事物の本質に迫ろうとする態度が哲学を特徴づけてきたといえるだろう。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ただ、これだけであれば学問の多くに共通する特徴でもあるし、逆に、理性や常識を信頼するタイプの哲学が哲学でないことになってしまう。分析哲学においては概念分析という道具を手にすることで、自然科学とは異なる独自の思考形態が成立したが、これも哲学すべてを特徴づける思考形態であるとは言いがたい。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "三森定史によれば、科学と哲学は区別されるべきであり、科学が外観学(意識外で観察されるものを収集することで法則を立てる学問)であるのに対して哲学は内観学(意識内での観照から一般法則を導き出す学問)であるとする。また三森は大学でおこなわれているいわゆる「哲学」(哲学・学)への批判を込めて「大学での哲学研究は外観学に含まれる」 としている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "哲学はその黎明期において、科学において大切でかつ難しいといわれる仮説の発明を、重要な形で成してきた。ソクラテス以前の哲学者と呼ばれるタレス、アナクシマンドロスといった自然学者はいずれも自然現象の説明を目論んだ。19世紀までは科学(science)、自然科学(natural science)という言葉は現代的な意味で用いられておらず、それらに相当する分野を指す言葉としては「自然哲学」(natural philosophy)ないしは「自然学」(Physics)という言葉が使われており(例えばニュートンの『プリンキピア』の正式名称は『自然哲学の数学的諸原理』である)、今日的な意味での「哲学的」な自然の探求と「自然科学的」な自然の探求とは伝統的には切れ目のないひとまとまりの領域として扱われてきたが、その中においても今から振り返って、「自然科学的」な部分と「哲学的」な部分を区別することができる。そうした「自然科学的」部分は伝統的に人間の作為を含まない対象(自然)を観察、分類することを主眼としてきた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "また近代に至っては実験という形で積極的に自然に介入することを重視する実験科学が登場しさらに19世紀以降には目に見えるものからその背後の秩序を推測してモデル化するという営みが科学の中心となってきた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "例えば、時間について考察する哲学者は同じ問題を扱う物理学者とは違い観察や実験の積み重ねによらず結論を導くことがある。また、哲学者は物理学の成果を参照しそれを手がかりに哲学的思索を行うことはあるが、現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだという了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "そうしたものの見方から捉えると、先の時間の例について言うなら、われわれの主観的経験や世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は未だに物理学はもちろん心理学でもうまくとらえきることのできない対象でありそのために哲学的な時間論の対象となるわけである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまり「実際にどうであるか」ではなく「どうあるべきか」を論じる文脈であるが、これは自然科学というよりは、むしろ倫理学の領域であろう。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "哲学も決して自然科学的知見を無視するわけではないので自然科学によってもたらされる新たな発見はしばしば旧来の哲学に重大な脅威を与えてきた。またそもそも古代の哲学者が成した科学的発見が自身の手による実験によって証明されていることがある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "自然科学が自然哲学から分化して以降、とくに近代の哲学者は自然科学者の成果を重視し両者の親和性を失わないよう不断の努力を行ってきたし、また近代においては観察や経験を重要視する哲学者たちが生まれた。また一方で、科学者たち自身が扱わないような非常に基礎的な問題(科学方法論の原理論や科学的実在論といった問題)についてはむしろ哲学者が率先して考察を行ってきた(科学哲学の項参照)。あるいは科学が他の姿をとりうる論理的・現実的可能性を論じることで一度は忘れられた仮説を再発掘する原動力となったり新しい科学理論の形を呈示したりする場合もある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "歴史的に有名な事例としては全ての力が引力と斥力の二つに集約されるというドイツ観念論のテーゼが電力と磁力の統合というエルステッドの発見に結びついたといった例がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "なお、近年の英米哲学では認識論の自然化を提唱したクワインのように自然主義という名の下に哲学を自然科学の一部とする動きがある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "伝統的に論理学は哲学の一分野として研究されてきた。 論理学は伝統的にわれわれの推論のパターンを抽出することを目的としてきた。特に伝統的な論理学においては、前提が正しければ確実に正しい結論を導くことができる手法としての三段論法が主な研究の対象であった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "推論の厳密さを重視する哲学においては論理学は主要な研究の対象であり政治や弁論術、宗教、数学や科学の諸分野において論理学は重要な研究の対象であり続けた。古代の哲学者たちはしばしば現代でいう論理学者や数学者を兼ねていた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "論理学の直接の関心は推論の妥当性や無矛盾性にあり、かならずしも人間や社会や自然の諸事象が考察の焦点にならない(この点で論理学は哲学の他の分野とは性格が異なる)。もし疑いようのない前提から三段論法を用いて人間や社会や自然の諸事象についての結論を導き出すことができるならそれは非常に強力な結論となりうる。哲学者たちが論理学を重視してきたことは当然といえるだろう。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "しかし逆にいえば、三段論法の結論の厳密さはあくまで前提の正しさに依拠するものであり前提がとんでもないものであれば結論もとんでもないものが出てしまう。たとえば「すべてのカラスは黒い。この鳥は黒くない、したがってこの鳥はカラスではない」といった推論では最初の前提が間違いで本当は白いカラスもいるような場合、結局あやまった結論にたどりついてしまう(参照:ヘンペルのカラス)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "この問題は重要で、たとえばジョン・スチュアート・ミルは三段論法が内包するこの危うさについて結論を知っていないならば、大前提の全称判断は得られないのだから、三段論法は一種の循環論証であると批判した。一方彼は帰納法の四大規則をこしらえたが、それらは因果律が仮定される限り有効に用いられるものであり、まったく単純枚挙による機能にもとづいてのみ、容認しうるものであることを白状せねばならなかった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "哲学的論理学においてはしばしば推論規則そのものの哲学的な正当性が問題となってきた。古典論理については排中律の是非が問題となってきたし、帰納論理についてはそもそも帰納論理なるものが成立するのかどうか自体が問題となった。こうした検討は認識論や科学哲学といった他の分野にも大きな影響を与えてきた。20世紀の初頭までには古典論理による推論の限界が明らかにされる一方でその公理系そのものを懐疑する視点から様相論理学、直観論理や矛盾許容論理などの展開も提示されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "広義の哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みであり、そのような営みの結果形成されたり選ばれたりした思想、立場、信条を指すこともある。例えば、「子育ての哲学」「会社経営の哲学」などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "また、哲学は個々人が意識的な思索の果てに形成、獲得するものに限定されず、生活習慣、伝統、信仰、神話、伝統芸能や慣用表現、その他の文化的諸要素などと結びついて存在している感受性、価値観、世界観などを指す場合もある。つまり、物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことである(こうしたものは思想と呼ばれることも多い)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "このような感受性や世界観は必ずしも理論体系として言語によって表現されているわけではないが、体系性を備え、ひとつの立場になっていると考えられることがしばしばある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "貫成人は「モノづくりの哲学」や「料理の哲学」などといった俗な用例に着目し、哲学とはすべての物事を説明する普遍的原理を追求するものであるが、それにもかかわらずそういった哲学に違いが生まれるのは、時代・場所が異なり、哲学する人がどこまでを「すべて」に含めるかが異なることによるためだとする。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "「心」や「意識」という問題を解明してきた脳科学・計算機科学(コンピュータサイエンス)・人工知能研究開発等に関連して、神経科学者・分子生物学者のフランシス・クリックは", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "と批判している。こうした観点において、哲学は「二流どころか三流」の学問・科学に過ぎない、と評価されている。脳科学者の澤口俊之はクリックに賛同し、次のように述べている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "実際、哲学は暇(スコレー)から始まったとアリストテレスが伝えており、上記のような否定的発言も的外れではないと、科学哲学者の野家啓一は言う。また、うつ病の有無を血液(血中PEA濃度)で計測する検査法を開発し、臨床現場でも用いている心療内科医の 川村則行 は", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "等と述べている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "数学者・論理学者である田中一之は", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "と述べている。計算機科学者(コンピュータ科学者)・論理学者・電子工学者・哲学博士(Ph.D. in Philosophy)であるトルケル・フランセーンは、哲学者たちによる数学的な言及の多くが", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "と批判している。田中によると、ゲーデルの不完全性定理について哲学者が書いた本が、フランセーンの本と同じ頃に書店販売されていたが、哲学者の本は専門誌によって酷評された。その本は全体として読みやすく一般読者からの評判は高かったが、ゲーデルの証明の核(不動点定理)について、根本的な勘違いをしたまま説明していた。同様の間違いは他の入門書などにも見られる。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "フランセーンによれば、不完全性定理のインパクトと重要性について、しばしば大げさな主張が繰り返されてきた。たとえば", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "という言があるが、これらは乱暴な誇張とされる。不完全性定理が一番大きな衝撃を与えたと思われる数学においてさえ、「革命」らしきものは何も起きていない。1931年にゲーデルが示した「不完全性定理」とは、「特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」についての定理ではない。不完全性定理以降の時代にも、数学上の意味で「完全」な理論は存在し続けているが、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”というような誤解が一般社会・哲学・宗教・神学等によって広まり、誤用されている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "数学者ダヴィット・ヒルベルトは「数学に“イグノラビムス(ignorabimus, 永遠に知られないこと)”はない」と述べた。数学上に不可知は無く、全ての問題は最終的に解決されるというヒルベルトのこの見方は、「ノン・イグノラビムス」として知られている。ゲーデル自身も以下の、「ノン・イグノラビムス」的なヒルベルト流の見解を持っていた。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "あらゆる算術の問題をその中で解決する単一の形式体系を定めることは不可能であっても、 新しい公理や推論規則による数学の拡張が限りなく続いていくなかで、どんな算術の問題もいずれどこかで決定されるという可能性は排除されていない。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "哲学等において「不完全性定理がヒルベルトのプログラムを破壊した」という類の発言がよくあるが、これは実際の不完全性定理やゲーデルの見解とは異なる。正確に言えば、ヒルベルトの目的(数学の「無矛盾性証明」)を実現するには手段(ヒルベルト・プログラム)を拡張する必要がある、ということをゲーデルが不完全性定理を通して示したのだった。日本数学会が編集した『岩波 数学辞典』第4版では、不完全性定理について次の通り記述されている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ゲーデルも書いているように,有限の立場は特定の演繹体系として規定されるものではないから,彼の結果はヒルベルトの企図を直接否定するものではなく,実際この定理の発見後に無矛盾性証明のための様々な方法論が開発されている.", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "哲学者は、科学とは違う日常的言語で「宇宙」や「存在」を語ろうとしてきた。しかし、量子論を創設した一員である理論物理学者ディラックは、哲学者をことさら信用していなかった。ディラックが居た頃のケンブリッジ大学で、一番の論客として鳴らしていたのは哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインだったが、彼を含め哲学者たちは、量子波動関数や不確定性原理について的外れなことばかりを発言し記述しており、ディラックの不信は嫌悪に変わった。ディラックが見たところ、哲学者たちは量子力学どころか、パスカル以降の「確率」の概念さえ理解していない。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ディラックの考えでは、非科学的な日常的言語をいくら使っても、正確な意思疎通を行うことはできない。量子力学を説明してくれと言う家族や友人に対してディラックは、「無理です」と言って黙り込むのが常だった。どうしても説明してほしいと迫る友人に、ディラックは「それは目隠しした人に触覚だけで雪の結晶がなにかを教えるようなもので、触ったとたん溶けてしまうのだ」と返した。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "宇宙の背後にある「語り得ぬもの」または「無」について、ウィトゲンシュタインは「もちろん言い表せないものが存在する。それは自らを示す。それは神秘である」と述べたが、こういった哲学的考えは、理論物理学者から疑問視されている。何故なら、「語り得ぬ」はずの「無」について、科学的に言語化する手がかりが既に見つかっているからである。例えばペンローズの「ツイスター理論」、アシュテカーの「ループ重力理論」、ロルとアンビョルンの「因果的動的三角分割理論」等の研究が進められている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "『利己的な遺伝子』の序文で、進化生物学者リチャード・ドーキンスは", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "と述べている。前掲書の第一章ではこう述べる。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "また進化生物学者・社会生物学者のロバート・L・トリヴァースは、前掲書へ以下の序文を寄稿した。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "同時にトリヴァースは「定量的データ」による実証を強調しており、『利己的な遺伝子』を邦訳した一員、動物行動学者の日髙敏隆は「この本に書かれた内容を完全に理解するためには、数学の言葉が必要である」としている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "哲学や人文学からの批判は、生物学へ、そして生物学について解説したドーキンスへ向かった。その批判は例えば、遺伝子の理論を極端に単純化して捉えつつ、遺伝子との関連が薄い事物を同列に置いていた(「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子がやきもち焼きだったり、ゾウが抽象的だったり、ビスケットが目的論的だったりすることがありえない以上に」等)。批判に対しドーキンスは、前掲書の中で「利己的」等の生物学用語を挙げつつ「このような言い回しは、それを理解する十分な資格を備えていない(あるいはそれを誤解する十分な資格を備えたというべきか?)人間の手にたまたま落ちるということさえなければ、無害な簡便語法である」と反論した。彼は次のようにも記している。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "また前掲書中でドーキンスは、文化的自己複製子「ミーム」の理論に関して", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "と述べている。彼によると、破壊的で危険なミームの典型例は宗教であり、「信仰は精神疾患の一つとしての基準を満たしているように見える」。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "なお、『利己的な遺伝子』の邦訳者の一員である進化生態学者・岸由二は、40周年記念版(2018年刊行)の後書きでこの本を「名著」と呼び、次のように評価している。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "『科学を語るとはどういうことか』の中で宇宙物理学者の須藤靖は、科学についての哲学的考察(科学哲学)が、実際には科学と関係が無いことを指摘している。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "私は科学哲学が物理学者に対して何らかの助言をしたなどということは聞いたことがないし、おそらく科学哲学と一般の科学者はほとんど没交渉であると言って差し支えない状況なのであろう。 ... 科学哲学者と科学者の価値観の溝が深いことは確実だ。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "須藤は、哲学的に論じられている「原因」という言葉を取り上げて、「原因という言葉を具体的に定義しない限りそれ以上の議論は不可能です」と述べており、「哲学者が興味を持っている因果の定義が物理学者とは違うことは確かでしょう」としている。科学哲学者・倫理学者の伊勢田哲治は、「思った以上に物理学者と哲学者のものの見え方の違いというのは大きいのかもしれません」と述べている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "須藤によると、学問の扱う問題が整理され分化したことで、科学と哲学もそれぞれ異なる問題を研究するようになった。これは「研究分野の細分化そのもの」であり、「立派な進歩」だと須藤は言う。一方で伊勢田は、様々な要素を含んだ「大きな」問題を哲学的・統一的に扱う、かつての天文学について言及した。「その後の天文学ではその〔哲学的〕問題を扱わなくなりましたし、今の物理学でもそういう問題を扱わない」と述べた伊勢田に対し、須藤は「その通りですが、それ自体に何か問題があるのでしょうか」と返した。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "対談で須藤は「これまでけっこう長時間議論を行ってきました。おかげで、意見の違いは明らかになったとは思いますが、果たして何か決着がつくのでしょうか?」と発言し、伊勢田は「決着はつかないでしょうね」と答えている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "哲学者の中島義道は、哲学は「何の役にも立たない」のであり「哲学に『血税』を使う必要などない」と述べている。哲学科については、大幅な縮小か別の組織に統合させるべきだとしている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "(中略)", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "学術博士・思想家の東浩紀は、哲学は「一種の観光」であり、そこに専門知は無く、哲学者は「無責任」な観光客に似ていると述べている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "(中略)", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "社会哲学者イヴォンヌ・シェラットの学術書『ヒトラーの哲学者たち Hitler's Philosophers』によると、第三帝国ナチス・ドイツは様々な形で哲学者たちと相互協力しており、アドルフ・ヒトラー自身も「哲人総統」、「哲人指導者」を自認して活動していた。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "シェラットは以下のように述べている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "「第三帝国」という概念について、『日本大百科全書』は以下の解説をしている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "シェラットによれば、「ナチ哲学者」の多くは刑罰から逃れて学界に残った。例えばマルティン・ハイデガーは21世紀でも、哲学における「スター」のような学者として見なされ続けている。かつて1933年にナチ党員となったハイデガーは、学術機関の「新総統」と公称し、また他者から「大学総統」とも呼称されるようになった。ハイデガーが「新総統」を宣言したのはナチ党員になって三週間後の1933年5月27日、彼がフライブルク大学新総長としてハーケンクロイツを掲げる就任演説を行った時だった。ハイデガーは聴衆のナチ党員たちと同種の隊服を着ており、ナチ式敬礼をして壇上に登ると、ナチズムを「精神的指導」、「ドイツ民族の運命に特色ある歴史を刻み込んだあの厳粛な精神的負託」と呼び、ナチズムによって「初めて、ドイツの大学の本質は明晰さと偉大さと力をもつに至るのである」と述べた。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "ハイデガーはナチス内での出世を目指したが、彼は当世風な社会進化論者というよりロマンチック(ロマン主義的)で文化的なナショナリストであると見なされ、出世は頭打ちになった。それでもハイデガーは哲学者かつ「大学総統」として、人種的排外主義においても行動していた。彼は", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "国民社会主義〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "を論じたり、地方の文部大臣に「人種学および遺伝学」のポスト新設を要請して", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "国家の健康を保全するために ... 安楽死問題が真剣に熟慮されるべきである", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "と主張したりした。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "1935年にはハイデガーが「形而上学入門」という題の講義を始めており、再び", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "この運動〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "を論じた。かつての同僚かつ友人だった哲学者カール・レーヴィットと対面した時も、ハイデガーはヒトラー賛美を変えなかった。レーヴィットの論考によれば、ハイデガーのナチズムは《ハイデガーの哲学の本質に基づくもの》であり、深い忠誠から由来している。そしてハイデガーの「存在」や「在る」という概念は、《形而上学的なナチズム》であるとレーヴィットは述べた。またハイデガーは自著『存在と時間』で、かつての恩師かつ友人だったユダヤ人フッサールへの献辞を載せていたが、その献辞を削除することを出版社に快諾した。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "ハイデガーは「国民社会主義大学教官同盟フライブルク科学協会」から、", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "国民社会主義〔ナチズム〕の先駆者たる党同志", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "とも呼ばれるようになった。彼は「ナチ哲学者」たち──アルフレート・ローゼンベルク、カール・シュミット、エーリヒ・ロータッカー、ハンス・ハイゼ、アルフレート・ボイムラー、エルンスト・クリークなど──とおおよそ友好的付き合いを続けると同時に、ナチズム教育を学生全般へ実行していった。そこでハイデガーは《人権・道徳・憐憫は時代遅れの概念であり、ドイツの弱体化を防ぐため哲学から追放されるべきだ》などと論じていた。1942年の講義(ヘルダーリンの詩歌『イースター』についての講義)でも彼は、ナチズムと「その歴史的独自性」を一貫して高評価していた。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "かつてハイデガーの親友だった哲学者カール・ヤスパースは、ハイデガー、シュミット、ボイムラーという三人の哲学者は", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "と結論している。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "ハイデガーの愛人だったユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、「ハイデガーを潜在的な殺人者だとみなさざるをえないのです」と公刊著作で批判した頃もあった。しかしハイデガーと再会後のアーレントは、彼の本を世界中で出版させるためにユダヤ系出版の人脈を使って努力した。シェラットいわく「ハンナは、現代哲学の様相を一変させる計画に手をつける」ことになった。ナチスの戦争捕虜だった著名なフランス人哲学者ジャン=ポール・サルトルさえも、ハイデガー哲学を自分の思想に取り入れて彼を支援した。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "アーレントは、ナチズムと哲学との繋がりを切り離そうとするようになった。例えば彼女は、アドルフ・アイヒマンを中心に「悪の陳腐さ」やナチスの「凡庸さ」、知性の無さを論じる政治哲学書を複数執筆していった。しかし、これはホロコースト生存者からの反発をも生むことになった。その原因は例えば、", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "などだった。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "『ヒトラーの哲学者たち』を2014年に翻訳した、三ツ木道夫(比較社会文化学博士)と大久保友博(人間環境学博士)は", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "と述べている。訳者らによると、人文学者がナチスという暴力を擁護したことは、ある種の「人文学の敗北」、「教養主義の挫折」である。何故なら、人間は教養を身に付けたり本や音楽に感動したりすることで素晴らしい存在になるはずだったにも関わらず、そのような人文学的人間が不条理な暴力を認め加担しているからだという。批評家ジョージ・スタイナーも次のように批判している。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "そんなことができる人間は、ゲーテ読みのゲーテ知らずだとか、そんな人間の耳は節穴も同然だとか、逃げ口上をいうのは偽善である。こういう事実を知ってしまったということ──このことは、いったい文学や社会とどういうかかわりをもつのか。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "三ツ木と大久保は「訳者あとがき」で", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "と締めくくっている。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "社会看護学者ダンカン・C・ランドールと健康科学者アンドリュー・リチャードソンの論文によれば、ハイデガー思想などのナチ哲学へ向けられる擁護には、《哲学とは文化的に中立で政治から切り離されているもの》だという考え方が含まれている。しかしそもそもこの考え方自体が、哲学における特定の政治的・文化的な立場を有利にしようとしている。ここでは、哲学は政治的であり文化的に非中立なものだとする考え方が拒絶されている、と同論文は述べる。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "同論文によれば、哲学的テクストの文化的中立性や非政治性をいくら主張したところで、哲学的テクストが文化や政治に巻き起こした「行動」(action)も「行動しないこと」(inaction)も、消え失せるわけではない。何故なら、いかなる哲学も行動も「文化的かつ政治的」(cultural and political)であり、また、何らかの哲学や行動を選ばないこと自体も一種の文化的・政治的行動であるからだと言う。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "必要とされているのは「政治的・文化的な側面を我々に見えなくさせるハイデガーの解釈主義を拒絶すること」である。《哲学者(ハイデガー)たち自身についてはともかく、哲学的著作物については批判すべきでない》というような考え方は、(政治的・文化的な文脈からの)批判的研究を無視している。それは検証を無視したり、過ちを繰り返したりすることに繋がると同論文は結論している。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "理性や言語を重んじる価値観は近代以降の西洋の諸文化に特徴的なものであると見做して攻撃する立場もある。既存の哲学が「西洋哲学」中心であることや、習慣などに埋め込まれて存在していて言語化されたり、理性的な吟味の対象にならない思想を哲学の一種として扱わない傾向にあったりすることなどを、そのような価値観の表れと考え、問題視する立場もある。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "大学の哲学教員など現代の職業哲学者の従事する学問としての哲学は理性と言語による思考に特化しており、必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない。これに関して理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "哲学者の森岡正博は、日本の大学や哲学教室、倫理学教室、学会や懸賞論文は制度化されており、本来答えるべき哲学的課題に向き合えていないと批判している。学会は文献学、特定個人の思想、著名哲学者の思想に偏重しており、直面した根本問題を検討することを「次の機会」に先延ばしすることに特徴があるとしている。哲学の<純粋探求>の凄みと快楽は理解するものの、それは本当に向かい合うべき問いから巧妙に逃げているのではないか、と問題提起する。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "抽象的な概念を巡る定義や論争などは、証拠によって決着を着けたり、万人が合意するような立場に辿りつけたりする可能性が低く(あるいはそのような可能性が皆無で)、結論が出ないままに延々と議論だけが続く、(特に実証主義的な観点から)非生産的な学問であるとの見方もある。現に論理実証主義はそのような真偽の検証ができない命題や議論をナンセンスとして斥け、従来の哲学に対して否定的な立場を取った。神の存在証明を巡る中世のスコラ哲学、実存哲学などは、その典型であったといえよう(もっとも、前者は証明方法の洗練によって、論理学の発展にはかなり貢献した)。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "古代ギリシャの時代の時代から、フィロソフィアが役に立たないと思う人がいた。アリストテレスはその著『政治学』において 次のような逸話を提示することで、そうではないと示した。", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "彼(タレス)は貧乏であった。貧乏であることは哲学が役に立たないことを示すと考えられたので、彼はそのことで非難を受けた。話によれば、彼は星に関する自分の巧妙な知識によって、次にくる年にオリーヴの豊作がある、ということを冬の間に知ることができた。そこで彼は、少しは金をもっていたので、キオスとミレトスにあるすべてのオリーヴ圧搾機を使用するための、保証金を支払っておいた。競りあう人が全然いなかったために、彼はわずかの金でそれらの器械を借りたわけだ。収穫時が来て急に多くの圧搾器がそろって必要となると、彼は思いのままの高値でそれを貸し出し、多額の金をつくった。このようにして彼は、哲学者は望みとあらば容易に金持ちとなることができるが、哲学者の野心はそれ以外にある、ということを世間に示した", "title": "哲学への批判" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "コロサイの信徒への手紙の中でパウロは以下のように哲学を「むなしいだましごと」と称している箇所がある。", "title": "哲学への批判" } ]
哲学とは、原義的には「愛知」を意味する学問分野、または活動 である。現代英語のフィロソフィー(philosophy)は「哲学」・「哲学専攻コース」・「哲学説」・「人生[世界]観」・「達観」・「あきらめ」などを意味する。「愛知としての哲学」は知識欲に根ざす根源的活動の一つだが、19世紀以降は自然科学が急発展して哲学から独立し、哲学は主に美学・倫理学・認識論という三つで形作られるようになった。哲学に従事する人物は哲学者と呼ばれる。
{{For}} {{Redirect|Philosophy|[ALEXANDROS]の楽曲|Philosophy (曲)}} {{未検証|date=2010年9月}} {{Expand English|Philosophy|date=2023年12月|fa=yes}} {{哲学のサイドバー}} '''哲学'''(てつがく、フィロソフィー{{Sfn|松村|2021b|p=「フィロソフィー」}} {{lang-en-short|philosophy}}{{Sfn|松村|2021b|p=「フィロソフィー」}}{{Efn2|{{lang-el-short|Φιλοσοφία}}(フィロソフィア)、羅: philosophia、仏: philosophie、独: Philosophie}})とは、原義的には「[[哲学#語源とその意味|愛知]]」を意味する[[学問]]分野、または活動<ref>[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]『論理哲学論考』(野矢茂樹訳、[[岩波文庫]]2003年、P.51)による。哲学は学説ではなく「活動」であるとする。</ref> である。[[現代英語]]のフィロソフィー(philosophy)は「哲学」・「[[哲学科|哲学専攻コース]]」・「[[:Category:哲学の理論|哲学説]]」・「[[人生観|人生[世界]観]]」・「達観」・「あきらめ」などを意味する{{Sfn|國廣||安井|堀内|2021|p=「philosophy」}}。「愛知としての哲学」は知識[[欲]]に根ざす根源的活動の一つだが{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2021|p=「哲学」}}、[[19世紀]]以降は[[自然科学]]が急発展して哲学から独立し{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2021|p=「哲学」}}、哲学は主に[[美学]]・[[倫理学]]・[[認識論]]という三つで形作られるようになった{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2021|p=「哲学」}}{{Efn2|{{Squote|哲学は[[形而上学]]のほかに[[自然学]] (→自然哲学 ) を含んでいたが,19世紀からの自然科学の急速な発展によって後者は哲学から独立し,哲学をおもに認識論,倫理学,美学の三者で構成する立場が生れた。現代では厳密さを求めて哲学自体を[[科学革命|科学化]]しようとする傾向さえ一部にある。かつて非[[神学]]的を意味した哲学的という形容詞は現代ではしばしば[[反証可能性#科学と非科学の違い|非自然科学的]],[[思弁]]的の意味で用いられている。<br><br> ― 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2021|p=「哲学」}}}}}}。哲学に従事する人物は'''哲学者'''(てつがくしゃ、フィロソファー{{Sfn|松村|2021a|p=「フィロソファー」}} {{Lang-en-short|philosopher}})と呼ばれる{{Efn2|{{Lang-el-short|φιλόσοφος}}(フィロソフォス)}}。 == 概要 == 現代では以下のように、文脈によって様々な意味をもつ[[多義語]]である{{要出典|date=2021年2月}}。 # {{要出典|範囲=([[近代]]以前の用法{{efn2|[[紀元前]]の[[ギリシア哲学|古代ギリシア哲学]]から[[19世紀]]前半頃にかけて{{要出典|date=2021年2月}}}})知的探究活動全般・学問全般を指す。したがって、学問に従事する人物全般・[[賢者]]全般が哲学者と呼ばれた|date=2021年2月}}{{efn2|{{要出典|範囲=[[アイザック・ニュートン]]のようにかつて哲学者と呼ばれていたが、現代では哲学者とは看做されない人物がいる一方で、[[ゴットフリート・ライプニッツ]]のように依然として哲学者と看做される人物もいる|date=2021年2月}}。}}。 # ([[大学#大学 (universitas) の歴史|中世ヨーロッパの大学制度]])カリキュラムの[[自由七科]]を指す<ref name="ReferenceA">[[加藤和哉]]「中世における理性と信仰」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN 978-4062585156 、p343-344</ref><ref>哲学の用語としての「学」の同様の意味で用いられる。 『広辞苑』第五版、岩波書店、1998年、「学」 5 イ</ref>。 # {{要出典|範囲=([[大学#近代の大学|近現代の大学制度]])[[人文科学]]の一分野([[哲学科]])を指す{{efn2|{{要出典|範囲=19世紀以降、特に19世紀後半あたりから大学制度内で知識の位置づけの再編が行われるようになり、ドイツなどでは[[文化科学]]・[[自然科学]]などの分類が採用され、それまで学問の総称であった哲学は文化科学のひとつと、かなり限定的であると同時に具体的な位置づけになった|date=2021年2月}}。}}。[[問題]]の発見や明確化、諸[[概念]]の明晰化、[[命題]]の関係の整理といった、概念的[[思考]]を通じて多様な[[主題]]について検討する[[研究]]分野である<!-- (この文の由来は2003年の版、id=1620) -->、などと説明される。この分野に従事する人物は哲学者または[[:Category:日本の哲学研究者|哲学研究者]]と呼ばれる|date=2021年2月}}。 # {{要出典|範囲=「[[ニーチェ]]の哲学」などのように、個々の哲学者による哲学探求の成果([[思想]])も哲学と呼ばれる|date=2021年2月}}。 # {{要出典|範囲=「[[数学の哲学]]」「[[法哲学]]」などのように、各[[科学]]分野の「[[基礎]]論」、または[[実践]]に対する「[[理論]]」を指す|date=2021年2月}}。 # [[宗教]]や[[神学]]と部分的に重複する{{要出典|date=2021年2月}}。{{see also|#哲学と宗教}} # その他の用法もある{{要出典|date=2021年2月}}。{{see also|#広義の哲学の特徴|哲学 (曖昧さ回避)}} 「哲学」は[[英語]]で「フィロソフィー」といい、[[語源]]は[[古典ギリシア語]]の「フィロソフィア」に由来する。直訳すれば「知を愛する」という意味である。「哲学」という[[日本語]]は、明治時代の学者[[西周 (啓蒙家)|西周]]がフィロソフィーに対してあてた訳語である<ref name="brita-p630">『ブリタニカ国際大百科事典』【哲学】冒頭部、p.630</ref><ref name="heibon-19p142">平凡社『世界大百科事典』【哲学】冒頭部、第19巻 p.142</ref>。(→[[#語源とその意味]]) したがって、「フィロソフィー」というのは単に「知を愛する学」という意味であり、それだけではまだ何を研究する学問であるかは示されていない<ref name="jge-p138">『[[日本大百科全書]]』【哲学】冒頭部 p.138</ref>。この語では内容が規定されていないのである<ref name="brita-p630" />。哲学以外の大抵の学問は、分野名を聞いただけでおおよその内容が察せる(例えば「[[経済学]]」なら[[経済]]、「[[生物学]]」なら[[生物]]などのように)<ref name="jge-p138" />。ところが、哲学の場合は名前を聞いただけでは何を研究する学問なのか分からない<ref name="jge-p138" />。これは哲学という学問の対象が決して一定しておらず様々な考え方があることを示しており<ref name="jge-p138" />、哲学はまさにその字義のとおり「知を愛する学」とでもいうほかに仕方ないような特徴を備えている<ref name="brita-p630" />。(→[[#哲学の対象・主題]]) このように対象によってこの学を規定することができないと、「対象を扱う<<方法>>に共通点があり、それによって規定できるのはないか」との期待が生まれることがあるが、そのような期待も裏切られ、哲学に一定の方法が存在しうるわけではない<ref>『日本大百科全書』【哲学】冒頭部「哲学の方法」p.138</ref>。<!--{{要出典範囲|哲学者が形成したものも「ソクラテスの哲学」などというように、哲学と呼ばれる。「ウィトゲンシュタインを専攻している」など言うように、哲学者の名がその哲学者の哲学を指す場合もある。}}{{efn2|「ソクラテスを専攻している」とかいうのは、[[メトニミー]]の作用によるものであって、言語全般の基本的な作用・用法。哲学分野に限らず、ありとあらゆる分野で我々が日常的に使っているものである。「'''メトニミー'''」の項目を熟読のこと。哲学の項目でわざわざ説明することではない。「モネはすばらしい」は「モネ'''の描いた絵画'''はすばらしい」の意味。「夏目漱石を読んだ」は「夏目漱石の書いた文学作品を読んだ」という意味。「織部を手に入れた」というと「[[織部]] '''の作り出した様式の焼き物'''を手に入れた」という意味。百科事典類の【哲学】の項目で、しかも冒頭部や概説部でわざわざ解説するようなことではない。だから百科事典類いずれもそんなことはわざわざ解説していない。}} --> == 定義 == === 辞書による定義 === 以下は[[日本語辞典]]『[[広辞苑]]』での「哲学」の説明: {{Quotation| ① {{Interp|…|和文=1}} 物事を根本[[原理]]から統一的に把握・理解しようとする[[学問]]。古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸[[科学]]の分化・独立以降、諸科学の批判的吟味や基礎づけを目ざす学問、[[世界]]・[[社会]]関係・[[人生]]などの原理を追求する学問となる。[[認識論]]・[[倫理学]]・[[存在論]]・[[美学]]などを部門として含む。 ②俗に、経験などから築き上げた[[人生観]]・[[世界観]]。また、全体を貫く基本的な考え方・[[思想]]。{{Sfn|新村|2018|p=2001}}|『広辞苑』第七版、[[岩波書店]]、2018年、「哲学」より}} なお、以下は哲学用語としての「[[学]](がく)」の説明: {{Quotation| ㋐([[科学|science]](フランス)・(イギリス)・[[ヴィッセンシャフト|Wissenschaft]](ドイツ))現実の全体あるいはそれの特殊な諸領域または側面に関する体系的認識。哲学および個別諸科学を含む。 ㋑[[:wikt:学芸|学芸]]。学問・[[芸術]]の総称。{{Sfn|新村|2018|p=517}}|『広辞苑』第七版、[[岩波書店]]、2018年、「学」より}} [[観念論]]的な[[形而上学]]に対して、[[唯物論]]的な形而上学もある<ref>『岩波哲学小事典』</ref>。諸科学が分化独立した現在では、哲学は学問とされることが多いが、科学([[人文科学]])とされる場合もある<ref>青木書店『哲学事典』</ref>{{efn2|哲学に関する学問は[[人文科学]]に含まれる。出典は広辞苑。}}{{efn2|哲学は「自然および社会,人間の思考,その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学」である。出典は、青木書店『哲学事典』。}}。 === 哲学者による哲学の定義 === 近現代哲学において代表的な哲学者の言説を以下に記述する。 [[啓蒙思想]]時代の哲学者であり、また[[ドイツ観念論]]哲学の祖でもあり、そして近現代哲学に大きな影響力を持ち続けている哲学者、[[イマヌエル・カント]]は、哲学について次のように説明している。 {{Quotation|古代ギリシャの哲学は、三通りの学に分かれていた。すなわち――[[物理学]]、[[倫理学]]および[[論理学]]である。この区分は、哲学というものの本性にかんがみてしごく適切であり、これに区分の原理を付け加えさえすれば、格別訂正すべき点はないと言ってよい。|[[イマヌエル・カント]]|『道徳形而上学原論』、篠田英雄訳、[[岩波文庫]]、1976年、5頁、「序言」より}} [[現代思想]]において、特に[[分析哲学]]に多大な影響を及ぼした哲学者、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]は、哲学について次のように説明している。 {{Quotation|哲学の目的は思考の論理的明晰化である。<br />哲学は[[学説]]ではなく、[[活動]]である。<br />哲学の仕事の本質は解明することにある。<br />哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。<br />思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、[[限界]]をはっきりさせねばならない。|[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]|『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年、51頁より}} [[現代思想]]において、特に[[大陸哲学]]に多大な影響を及ぼした哲学者、[[マルティン・ハイデッガー]]は、哲学について次のように説明している。 {{Quotation|古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の[[存在]]を理解し、これを概念的に表現することを目指している。その存在理解のカテゴリー的解釈は、普遍的[[存在論]]としての学的哲学の理念を実現するものにほかならない。|[[マルティン・ハイデッガー]]|『存在と時間』上、細谷貞雄訳、[[ちくま学芸文庫]]、1994年、19頁、「序に代えて」より}} === 語源とその意味 === 古典ギリシア語の「フィロソフィア」({{lang-grc-short|φιλοσοφία}}、{{La|philosophia}}、ピロソピアー、フィロソフィア)という語は、「愛」<!-- (性愛ではなく友愛) -->を意味する[[名詞]]「フィロス」({{lang|grc|[[wikt:en:φίλος|φίλος]]}})の[[動詞]]形「フィレイン」({{lang|grc|[[wikt:en:φιλέω#Inflection|φιλεῖν]]}})と、「知」を意味する「ソフィア」({{lang|grc|[[wikt:en:σοφία|σοφία]]}})が結び合わさったものであり、その[[合成語]]である「フィロソフィア」は「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている<ref name="brita-p630" /><ref name="heibon-19p142"/>。この語は[[ヘラクレイトス]]や[[ヘロドトス]]によって[[形容詞]]や[[動詞]]の形でいくらか使われていたが<ref>『岩波 哲学・思想事典』【哲学】p.1119</ref>、名称として確立したのは'''[[ソクラテス]]'''またはその弟子'''[[プラトン]]'''が、自らを同時代の[[ソフィスト]]と区別するために用いてからとされている。 古典ギリシア語の「フィロソフィア」は、[[古代ローマ]]の[[ラテン語]]にも受け継がれ、中世以降のヨーロッパにも伝わった。20世紀の[[神学]]者ジャン・ルクレール([[:en:Jean Leclercq]])によれば、古代ギリシアのフィロソフィアは理論や方法ではなくむしろ知恵・理性に従う生き方を指して使われ、[[中世ヨーロッパ]]の[[修道院]]でもこの用法が存続したとされる<ref>ジャン・ルクレール『修道院文化入門』神崎忠昭・矢内義顕訳、知泉書館、2004年10月25日、ISBN 4-9016-5441-1、p135</ref>。一方、中世初期の[[セビリャのイシドールス]]はその[[百科事典]]的な著作『語源誌』({{lang-la-short|Etymologiae}})において、哲学とは「よく生きようとする努力と結合した人間的、神的事柄に関する認識である」と述べている<ref>岩村清太『ヨーロッパ中世の自由学芸と教育』知泉書館、2007年5月25日、ISBN 978-4-86285-011-9、p85</ref>。 === 翻訳語 === {{See also|和製漢語}} 英語をはじめとした多くの言語で、{{lang-grc-short|φιλοσοφία}}をそのまま[[翻字]]した語が採用されている。例えば、{{lang-la-short|philosophia}}、{{lang-en-short|philosophy}}、{{lang-fr-short|philosophie}}、{{lang-de-short|Philosophie}}、{{lang-it-short|filosofia}}、{{lang-ru-short|философия}}、{{Lang-ar-short|[[イスラーム哲学|falsafah]]}}などである。 日本で現在用いられている「'''哲学'''」という訳語は、詳細な経緯は諸説あるが、大抵の場合、<!-- 元[[津和野藩]]士 -->[[明治]]初期の知識人[[西周 (啓蒙家)|'''西周''']]によって作られた[[造語]]([[和製漢語]])であると説明される<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=[[三宅雪嶺|三宅雄二郞]]|year=1932|title=明治哲学界の回顧 附記|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913199|journal=[[岩波講座]]哲学|volume=第1次・第11巻|page=}}</ref>{{Sfn|桑兵(著), 村上衛(訳)|2013|p=144}}<ref name="etymology">高野繁男 [http://human.kanagawa-u.ac.jp/kenkyu/publ/pdf/syoho/no37/3707.pdf 「『哲学字彙』の和製漢語―その語基の生成法・造語法」]『人文学研究所報』37:97p, 2004</ref>{{Sfn|齋藤 毅|2005|p=第10章 哲学語源――艾儒略から西周・三宅雪嶺まで}}<ref name="brita-p630" /><ref name="heibon-19p142" /><!--{{efn2|{{誰}}が{{要出典範囲|[[明六社]]にて西周に加えて[[福澤諭吉]]もこの訳語を作った}}、との説を述べているという。}}-->。少なくとも、西周の『[[百一新論]]』[[1874年]](明治7年)に「哲学」という語が見出される{{efn2|{{近代デジタルライブラリー書誌情報|40000209|百一新論}}}}。そこに至る経緯としては、[[北宋]]の儒学者[[周敦頤]]の著書『通書』に「士希賢」(士は賢をこいねがう)という一節があり<ref>{{cite wikisource|title=通書#志學第十|author=周敦頤|wslanguage=zh}}</ref>、この一節は儒学の概説書『[[近思録]]』にも収録されていて有名だった<ref>{{cite wikisource|title=近思錄/卷02|author=朱熹・呂祖謙|wslanguage=zh}}</ref>。この一節をもとに、中国の西学(日本の[[洋学]]にあたる)が「賢」を「哲」に改めて「希哲学」という語を作り、それをフィロソフィアの訳語として転用した<ref name="etymology" />。それを西周が借用して、さらにここから「希」を省略して「哲学」を作ったとされる<ref name="etymology" />。西周は明治政府における有力者でもあったため、「哲学」という訳語は[[文部省]]に採用され、[[1877年]](明治10年)には[[東京大学]]の学科名にも用いられ、以降一般に浸透した<ref name="heibon-19p142" /><ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=東京大学哲学研究室の歴史|url=http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/historia.html|website=www.l.u-tokyo.ac.jp|accessdate=2020-10-17|publisher=[[東京大学]]}}</ref>。なお、西周は「哲学」以外にも様々な哲学用語の訳語を考案している{{efn2|西周は[[主観|主觀]]・[[客観|客觀]]・概念・[[観念|觀念]]・[[帰納|歸納]]・[[演繹]]・命題・[[肯定]]・[[否定]]・[[理性]]・[[悟性]]・[[現象]]・藝術([[リベラルアーツ]]の訳語)・[[技術]]など、西欧語のそれぞれの単語に対応する日本語を創生した。}}。 [[漢語]]の本場である[[中国]]では、西周が作った「哲学」という訳語が、いわば[[逆輸入]]されて現在も使われている{{Sfn|桑兵(著), 村上衛(訳)|2013|p=144}}。経緯としては、[[清末民初]]([[1900年代]]前後)の知識人たちが、同じ[[漢字文化圏]]に属する日本の訳語を受容したことに由来する<ref>{{Cite journal|和書|author=高坂史朗|year=2004|title=Philosophyと東アジアの「哲学」|url=https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_KJ00000725803|journal=人文研究|volume=8|page=4|publisher=大阪市立大学}}</ref>{{Sfn|桑兵(著), 村上衛(訳)|2013|p=152f}}。 「哲」という[[漢字]]の意味(および同義字)は「賢人・知者(賢)、事理に明らか(明)、さとし(敏)」などがある<ref>[https://wagang.econ.hc.keio.ac.jp/zigen/ KO字源「哲」]</ref>。字源としては、[[形声|会意形声文字]]で「口」+「折(音符)」から。「折」は一刀両断すること<ref>[[wikt:哲]]</ref>。<!--{{誰}}は「{{要出典}}哲学の本質的な活動や実践は、哲学の語源より「希哲」である。」と述べた。--><!--だが、「希哲」という語が輸入されなかった<ref name="etymology" />。--><!--{{誰}}は「{{要出典}}輸入されなかったことが原因で「[[哲学する]]」という俗語が生まれた。」と述べた。--> ==== 「理学」 ==== 「哲学」という訳語が採用される以前、日本や中国では様々な訳案が出されてきた{{Sfn|齋藤 毅|2005|p=第10章 哲学語源――艾儒略から西周・三宅雪嶺まで}}。とりわけ、[[儒学]]用語の「[[理]]」あるいは「[[格物致知|格物窮理]]」にちなんで、「[[理学]]」と訳されることが多かった<ref name="etymology" />。 [[17世紀]]・[[明]]末の中国に訪れた[[イエズス会]]士[[ジュリオ・アレーニ]](艾儒略)は、西洋の諸学を中国語で紹介する書物『西学凡』を著した。同書のなかでフィロソフィアは、「理学」または「[[理科]]」と訳されている{{Sfn|齋藤 毅|2005|p=第10章 哲学語源――艾儒略から西周・三宅雪嶺まで}}<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=[[戴震]]と中国近代哲学:漢学から哲学へ|date=|year=2014|publisher=知泉書館|author=石井剛|authorlink=石井剛|isbn=978-4862851697|page=176f}}</ref>。 日本の場合、[[幕末]]から[[明治]]初期にかけて、[[洋学]](西洋流の学問一般)とりわけ[[物理学]](つまり後述の[[自然哲学]])が、「[[窮理学]]」と呼称されていた<ref name=":0" /><ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/55535/m0u/%E7%AA%AE%E7%90%86/ 小学館デジタル大辞泉「窮理」]</ref>。例えば[[福沢諭吉]]の『[[窮理図解]]』は物理学的内容である。のちに[[文明開化]]が進んで西洋の諸学が正式に輸入されると、様々な訳案が出されたが、なかでも[[中江兆民]]はフィロソフィアを「理学」と訳した<ref name=":0" /><ref name=":1" />。具体的には、兆民の訳書『理学沿革史』([[アルフレッド・フイエ|フイエ]] ''Histoire de la Philosophie'' の訳)や、著書の『理学鉤玄』(哲学概論)をはじめとして、主著の『[[三酔人経綸問答]]』でも「理学」が用いられている(ただし、いずれも文部省が「哲学」を採用した後のことだった<ref name=":0" />)。なお、兆民は晩年の著書『一年有半』で、「わが日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と述べたことでも知られる<ref>{{Cite web|和書|title=思想家紹介 中江兆民 « 京都大学大学院文学研究科・文学部|url=https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-chomin_guidance/|website=www.bun.kyoto-u.ac.jp|accessdate=2020-10-17|publisher=[[京都大学]]|author=満原健|date=2004}}</ref>。 上述の中国の変法運動期の知識人の間でも、「哲学」ではなく「理学」と訳したほうが適切ではないか、という見解が出されることもあった<ref name=":11">{{Cite journal|和書|author=楊冰|year=2014|title=王国維の哲学思想の出発点「正名説」における桑木厳翼の『哲学概論』(1900)の影響 : 王国維の『哲学弁惑』(1903)を中心に|url=https://doi.org/10.24729/00004353|journal=人文学論集|volume=32|page=125|publisher=大阪府立大学人文学会}}</ref>{{Sfn|桑兵(著), 村上衛(訳)|2013|p=154}}。 「理学」が最終的に採用されず、「哲学」に敗れてしまった理由については諸説ある。上述のように「理」は既に物理学に使われていたため、あるいは「理学」という言葉が儒学の一派([[朱子学]]・[[宋明理学]])の[[同義語]]でもあり混同されるため、あるいはフィロソフィアは儒学のような[[東洋思想]]とは別物だとも考えられたため、などとされる<ref name=":0" />{{Sfn|桑兵(著), 村上衛(訳)|2013|p=154}}。上記の西周や[[桑木厳翼]]も、本来は「理学」と訳すべきだが、そのような混同を避けるために「哲学」を用いる、という立場をとっていた<ref>{{Cite journal|和書|author=笠木雅史|year=2020|title=「哲学」の概念工学とはどのようなことか|url=http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/47/47_02(2-26).pdf|journal=哲学の探求|volume=47|pages=15-16|publisher=哲学若手研究者フォーラム}}</ref>。この件に関して、明治哲学界の中心人物の一人・[[三宅雪嶺]]は、晩年に回顧して曰く「もしも[[江戸時代|旧幕時代]]に明清の学問(宋明理学と[[考証学]])がもっと入り込んでいたならば、哲学ではなく理学と訳すことになっていただろう」「[[中国哲学]]・[[インド哲学]]という分野を作るくらいなら理学で良かった」「理学ではなく哲学を採用したのは日本の[[漢学者]]の未熟さに由来する(漢学は盛んだったがそれでもまだ力不足だった)」という旨を述べている<ref name=":0" />{{Sfn|齋藤 毅|2005|p=第10章 哲学語源――艾儒略から西周・三宅雪嶺まで}}。 == 哲学の対象・主題 == === 哲学の対象・主題 === 紀元前の古代ギリシアから現代に至るまでの西洋の哲学を眺めてみるだけでも、そこには一定の対象というものは存在しない<ref name="jge-p138b">『日本大百科全書』【哲学】冒頭「哲学の対象」 p.138</ref>(他の地域・時代の哲学まで眺めるとなおさらである)。西洋の哲学を眺めるだけでも、それぞれの時代の哲学は、それぞれ異なった対象を選択し、研究していた<ref name="jge-p138b" />。 [[ソクラテス以前の哲学者|ソクラテス以前の初期ギリシア哲学]]では、対象は(現在の意味とは異なっている自然ではあるが)「[[自然]]」であった。紀元前5世紀頃の[[ソクラテス]]は < 不知の知 > の自覚を強調した<ref name="itsj">岩波 哲学・思想事典,1998年。 p.1119 右</ref><!--{{要検証}}イオニア哲学による事物の生成消滅、存在することの説明に納得がいかなかったために、「そういった考察には自分はまったくと言っていいほど不向きにできている」と考えて自然研究から離れ<ref>『哲学の歴史 1巻』, p. 328-330{{要出典|date=2012年7月|title=書誌情報の不足により参考文献が特定不可能}}</ref>、-->。その弟子の[[プラトン]]や孫弟子の[[アリストテレス]]になると、人間的な事象と自然を対象とし、壮大な体系を樹立した。[[ヘレニズム]]・ローマ時代の哲学では、[[ストア派]]や[[エピクロス学派]]など、「自己の安心立命を求める方法」という身近で実践的な問題が中心となった<ref name="jge-p138b" />(ヘレニズム哲学は哲学の範囲を倫理学に限定しようとしたとしばしば誤解されるが、ストア派やエピクロス派でも[[自然学]]や[[論理学]]、[[認識論]]といった様々な分野が研究された<ref>A・A・ロング『ヘレニズム哲学』金山弥平訳、京都大学学術出版会、2003年6月25日、ISBN 978-4-87698-613-2、p10</ref>。平俗な言葉で倫理的主題を扱った印象の強い後期ストア派でも、[[セネカ]]が『自然研究』を著している)。 ヨーロッパ[[中世]]では、哲学の対象は自然でも人間でもなく「[[神]]」であったと謂われることが多い<ref name="jge-p138b" />。しかし、[[カッシオドルス]]のように専ら[[医学]]・[[自然学]]を哲学とみなした例もある<ref>野町啓「総序」『中世思想原典集成5 後期ラテン教父』平凡社、1993年9月20日、ISBN 4-582-73415-4、p15</ref> し、[[ヒッポのアウグスティヌス]]から[[オッカムのウィリアム]]に至る中世哲学者の多くは[[言語]]を対象とした哲学的考察に熱心に取り組んだ<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN 978-4062585156 、p153</ref>。また、中世の中頃以降は大学のカリキュラムとの関係で「哲学」が[[自由七科]]を指す言葉となり、[[神学]]はこの意味での「哲学」を基盤として学ばれるものであった<ref name="ReferenceA"/>。 さらに時代が下り近代になると、人間が中心的になり、自己に自信を持った時代であったので、「人間による[[認識]]」(人間は何をどの範囲において認識できるのか)ということの探求が最重要視された<ref name="jge-p138b" />。「人間は理性的認識により真理を把握しうる」とする[[合理論]]者と、「人間は経験を超えた事柄については認識できない」とする[[経験論]]者が対立した<ref name="jge-p138b" />。[[カント]]はこれら合理論と経験論を総合統一しようとした<ref name="jge-p138b" />。 19世紀、20世紀ごろの[[ニーチェ]]、[[アンリ・ベルクソン|ベルクソン]]、[[ディルタイ]]らは、いわゆる「[[生の哲学]]」を探求し、「非合理な生」を哲学の対象とした<ref name="jge-p138b" />。[[キルケゴール]]、[[ヤスパース]]、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]、[[サルトル]]らの[[実存主義]]{{efn2|実存哲学とも呼ばれる。}}は、「人間がいかに自らの自由により自らの生き方を決断してゆくか」ということを中心的課題に据えた<ref name="jge-p138b" />。 このように哲学には決して一定の対象というものは存在しなく、対象によって規定できる学問ではなく、冒頭で述べたように、ただ「philosophy」「愛知の学」とでも呼ぶしかない<ref name="jge-p138b" /> とされている。 学問としての哲学で扱われる主題には、[[真理]]、[[本質]]、[[同一性]]、普遍性、[[数学]]的命題、[[論理]]、[[言語]]、[[知識]]、[[観念]]、[[行為]]、[[経験]]、世界、[[空間]]、[[時間]]、[[歴史]]、現象、[[人間]][[一般]]、理性、[[存在]]、[[自由]]、[[因果性]]、世界の[[起源]]のような[[根源]]的な[[原因]]、[[正義]]、[[善]]、[[美]]、[[意識]]、[[精神]]、[[自我]]、[[他我]]、神、[[霊魂]]、[[色彩]]などがある。一般に、哲学の主題は抽象度が高い概念であることが多い。 これらの主題について論じられる事柄としては、定義{{efn2|例えば、「[[唯一神|神]]とは何か」}}、性質{{efn2|例えば、「理性は人間にとって生与のものか」}}、複数の立場・見解の間の整理{{efn2|例えば、「諸存在の本質はひとつであるとする立場と、諸存在の本質は多様であるとする立場の主な争点は何か」}}などがある。 これをひとくくりに「存在論」とよぶことがある。地球や人間、物質などが「ある」ということについて考える分野である。 また、「高貴な生き方とは存在するのか、また、あるとしたらそれはどのようなものなのか」「善とは永遠と関連があるものなのか」といった問いの答えを模索する営みとして、旧来の神学や科学的な知識・実験では論理的な解答を得られない問題を扱うものであるとも言える{{efn2|主題の追求の方法として、「頭の中で、言葉なくして思考し、言葉を表出させる」、つまり現代で言えば言葉による象徴化の作用を伴う明晰化や、ソクラテス的な問答法、対話、弁証法、[[観想 (哲学)|観想]]等がある。}}。またこのようなテーマは法哲学の現場に即しておらず、真偽が検証不可能であり、[[実証主義]]の観点からナンセンスな問いであると考える立場もある(例えば[[論理実証主義]])。 こちらは、ひとくくりに「価値論」とよぶことがある。「よい」ということはどういうことなのか、何がよりよいのかを考える分野である。 === 過去の哲学を扱うものとしての哲学 === {{未検証|section=1|date=2010年7月}} {{see also|メタ哲学}} このような意味での哲学はより具体的にはとりわけ古代ギリシアの[[ギリシア哲学]]、中世の[[スコラ哲学]]、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)などをひとつの流れとみてそこに含まれる主題、著作、哲学者などを特に研究の対象とする学問とされることも多い(哲学一般から区別する場合にはこれを特に[[西洋哲学]]と呼ぶことがある)。 また、諸学問の扱う主題について特にこうした思考を用いて研究する分野は哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものは「歴史哲学」と呼ばれ、言語の定義や性質について論じるものは「言語哲学」と呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。 == 哲学の分類 == === 学派や立場 === 哲学ではしばしば多くの「学派」が語られる。これは、通常、特定の哲学者の集団(師弟関係であったり、交流があったりする場合も少なくない)に特徴的な哲学上の立場である。 [[ギリシア哲学|古代ギリシア哲学]]、[[自然哲学]]、形而上学、[[実念論]]、[[唯名論]]、[[合理主義哲学|大陸合理主義]]、[[イギリス経験論]]、[[ドイツ観念論]]、[[超越論的哲学]]、[[思弁哲学]]、生の哲学、[[現象学]]、[[実存主義]]、[[解釈学]]、[[新カント派]]、論理実証主義、[[構造主義]]、[[プラグマティズム]]、[[大陸哲学]] 特定の学者や学者群に限定されない「立場」についても、多くの概念が存在している。言及される主要なものに、存在論、[[実在論]]、観念論、[[決定論]]、[[宿命論]]、[[機械論]]、[[相対主義]]、[[二元論]]、[[一元論]]、[[独我論]]、[[懐疑主義]]などがある。 === 地域と分野 === 哲学は様々な形で細分化される。以下に挙げるのはそのなかでも特に広く用いられている分類、専門分野の名称である。 地域による区分 * [[アメリカ合衆国の哲学|アメリカ哲学]]、[[インド哲学]]、[[日本哲学]]など * 西洋哲学と[[東洋哲学]] 主題による区分(分野) * [[科学哲学]] - 科学について検討するもの。 * [[物理学の哲学]] - 空間、時間、物質など物理学で用いる基本概念など、物理学について検討するもの。 * [[数学の哲学]] - 数学について検討するもの。 * [[論理学の哲学]] - 論理学について検討するもの。 * [[言語哲学]] - 言語とは何か、言語の意味や形式や言語と真理の関係、などを検討するもの。 * [[分析哲学]] - 論理的言語分析の方法に基づいて、哲学の諸問題を検討するもの 。 * [[倫理学]] - 倫理・道徳について検討するもの。 * [[生命倫理学]] - 医療行為、環境破壊、死刑など生命にまつわる物事について、その善悪をめぐる判断やその根拠について検討するもの。 * [[美学]] - 美、芸術、趣味について検討するもの。 * [[心身問題の哲学]] - 人間の意識や心と身体の関係、自由意志の有無などについて検討するもの。 * [[法哲学]] - 法について哲学的に検討するもの。 * [[政治哲学]] - 政治、様々な統治の様態にはじまり、政治的正義、政治的自由、自然法一般などについて検討するもの。 * [[戦争哲学]] - [[戦争]]について考察するもの。 * [[歴史哲学]] - 歴史の定義、客観性についての考察、記述方法などを行う。 * [[宗教哲学]] - 神の存在等、宗教的概念について検討するもの。 * [[教育哲学]] - 教育の目的、教育や学習の方法について検討するもの。 * [[環境哲学]] - * [[哲学史]] - 哲学の歴史的な変遷を研究するもの。 * それぞれの哲学をまたいで存立するような分野として、[[方法論]]、[[認識論|認識論・知識論]]、[[意味論 (論理学)|意味論]]、経験論、[[行為論]]などがある。 === 他の分類法 === [[貫成人]]が次の三つの種類に哲学を分類している。即ち、「絶対的存在の想定」型、「主観と客観の対峙」型、「全体的なシステムの想定」型の三つである<ref name="nuki2001p248p249">貫成人『[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] 哲学』[[ナツメ社]]、2001年8月30日、p248-p249</ref>。第一のタイプは自然、[[イデア]]、神といったすべての存在を説明する絶対的原理の存在を前提するものであり、古代や中世の哲学が含まれる<ref name="nuki2001p248p249" />。第二のタイプは認識の主体に焦点を当てて[[主観と客観]]の対立図式に関する考察を行うもので、近世や近代の哲学は主にこのタイプとされる<ref name="nuki2001p248p249" />。第三のタイプは人間を含む全ての存在を生成するシステムをについて考えるもので、[[クロード・レヴィ=ストロース]]の[[構造主義|構造]]や[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]の[[言語ゲーム]]がこれに該当する<ref name="nuki2001p248p249" />。第一のタイプの絶対的存在が自身は常に同一にとどまりつつ他の物体に影響を与えるのに対し、第三のタイプの全体的なシステムは可変的であるという<ref name="nuki2001p248p249" />。 == 歴史 == === 西洋哲学 === {{seealso|西洋哲学}} ==== イスラーム哲学 ==== {{seealso|イスラーム哲学}} 古代ギリシャ哲学は[[イスラム世界]]に受け継がれ、イスラム世界において、アッバース朝の[[カリフ]]、[[マームーン]](786年-833年)は国家的事業として、ギリシャ語文献を翻訳させた。翻訳センター・研究所・天文台である「[[知恵の館]]」が設けられた。翻訳の大半は、[[ヤコブ派]]、[[ネストリオス派]]などの[[東方キリスト教]]徒が、[[シリア語]]を介して行った。 ギリシャ哲学のアラビア語への翻訳で中心を占めたのは、アリストテレスとその注釈者の著作であった。 [[ネオプラトニズム]]については、プロティノスやプロクロスの原典からの直接の翻訳が行われず、ネオプラトニズムの著作がアリストテレスの著作だとして伝わることになった。 [[キンディー]]はイスラーム最初の哲学者と言われる。 [[アル・ラーズィー|イブン=ザカリーヤー・ラージー]]は、アリストテレスの哲学ではなく、原子論や[[プラトン主義]]の影響を受けた珍しい哲学を展開した。 [[ファーラービー]]は、神から10の知性(=[[ヌース]])が段階的に流出(放射)すること、そして第10の知性が月下界を司っている能動知性で、そこから人間の知性が流出している、という理論を打ち立てた。政治哲学の分野でも、アリストテレスを採用せず、(ネオプラトニスムでは忘れられていた)プラトン的政治論を採用した。 '''[[イブン=シーナー]]'''([[アヴィセンナ]])はイスラーム哲学を完成させたと言われている。 イスラームのイベリア半島(スペイン)においては、[[イブン=ルシュド]]が、アリストテレス研究を究め、アリストテレスのほぼ全著作についての注釈書を著した。そしてイブン=シーナーのネオプラトニスムを廃し、純粋なアリストテレス主義に回帰しようとした。 ==== ヨーロッパ哲学 ==== {{main|哲学史#哲学史としてのヨーロッパ哲学史}} ヨーロッパ哲学の大きな特徴として、「ロゴス(言葉,理性)の運動を極限まで押し進めるという徹底性」<ref>[[マイペディア]]、電子辞書PW-A8000所収</ref> があり、古代、近代、現代といった節目を設けて根底的な相違を見出すようなことが比較的容易であると言える。古代、近代、現代といった枠組みの中でも大きく研究姿勢が異なる学者、学派が存在する場合も珍しくない。 === 東洋哲学 === {{seealso|東洋哲学}} 上述のようにフィロソフィア・フィロソフィ(古希:φιλοσοφία)という語そのものは西洋で生まれ、時代が下ってから東洋に伝わったものであるが、タイトルに東洋哲学と冠した書籍<ref>白取春彦監修『図解 「東洋哲学」は図で考えるともっと面白い』青春出版社、2005年3月、ISBN 978-4413007719<br /> 白取春彦監修『図解 「西洋哲学」と「東洋哲学」図で考えると面白い人生のヒント』青春出版社、2011年1月22日、ISBN 978-4413110051 <br /> 井筒俊彦『東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学』中公文庫BIBLIO、2001年9月、ISBN 978-4122039025 <br /> 井筒俊彦『東洋哲学 (井筒俊彦著作集)』中央公論社、1992年8月、ISBN 978-4124030556 <br /> 井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス―東洋哲学のために』岩波文庫、1989年7月25日、ISBN 978-4000008181 <br /> 井筒俊彦『意味の深みへ―東洋哲学の水位』岩波文庫、1985年12月、ISBN 978-4000001151 <br /> 小林三剛『東洋哲学講座 第1巻』緑書房、2002年5月、ISBN 978-4895319904 <br /> 纐纈暢彦『老子・荘子の奥義―西洋哲学と東洋哲学の統一』文芸社、2001年3月、ISBN 978-4835510217 <br /> アダムズ・ベック『東洋哲学夜話』 陶山務訳、第一書房、1942年<br /> アダムズ・ベック『東洋哲学物語〈中国篇〉』 永野芳夫訳、村山書店、1958年<br /> オリヴァー リーマン『東洋哲学キーワード事典』青土社、2000年8月、ISBN 978-4791758333 <br /> 小川 真里子、G.ステント共著『<真理>と悟り―科学の形而上学と東洋哲学』朝日出版社、1981年5月<br /> 御厨良一『東洋哲学が好きになる本』エール出版社、1982年10月、ISBN 978-4413007719<br /> 佐々木良一『明治三十年代『東洋哲学』収載短歌集覧―本文と索引』1985年3月<br /> 宮島真一『東洋哲学史綱要』文進堂、1942年<br /> 宮瀬睦夫『東洋哲学の根本思想』目黒書店、1941年<br /> 秋沢修二『東洋哲学史』白揚社、1948年3月</ref>、書名に「中国哲学」が含まれる書籍<ref>木村英一 『中国哲学の探究』東洋學叢書、創文社、1981年1月、ISBN 978-4423192221 <br /> 哲学研究編輯部 編『中国哲学史問題討論専輯』科学出版社、1957年<br /> 徐水生『近代日本の知識人と中国哲学―日本の近代化における中国哲学の影響』阿川 修三、佐藤 一樹 共訳、東方書店、2008年11月、ISBN 978-4497208033</ref>、書名に「インド哲学」が含まれる書籍<ref>井上円了『井上円了・外道哲学―漢訳経典によるインド哲学研究』柏書房、2003年4月、ISBN 978-4760123537 <br /> 立川武蔵『はじめてのインド哲学』講談社現代新書、1992年11月17日、ISBN 978-4061491236<br /> 村山泰弘『天の摂理 地の祈り インド哲学で読み解く、原発の過ち・再生への道』東洋出版、2011年10月10日、ISBN 978-4809676482</ref>、書名に「日本哲学」もしくは「日本の哲学」を含む書籍<ref>James W. Heisig原著、J.W. ハイジック編『日本哲学の国際性―海外における受容と展望』世界思想社、2006年3月、ISBN 978-4790711797 <br /> 田中健一『聖徳太子―日本哲学事始め』都市出版、1998年6月、ISBN 978-4924831667 <br /> 日本哲学史フォーラム編『日本の哲学〈第2号〉特集・構想力/想像力』昭和堂、2001年3月、ISBN 978-4812201367 <br /> 日本哲学史フォーラム編『日本の哲学〈第3号〉特集 生命』昭和堂、2002年12月、ISBN 978-4812202333 <br /> 嶺秀樹『ハイデッガーと日本の哲学―和辻哲郎、九鬼周造、田辺元』Minerva21世紀ライブラリー、ミネルヴァ書房、2002年10月、ISBN 978-4623037285 <br /> 遠山敦『丸山眞男――理念への信 (再発見日本の哲学)』講談社、2010年6月30日、ISBN 978-4062787611 <br /> 麻生義輝『近世日本哲学史―幕末から明治維新の啓蒙思想』書肆心水、2008年8月、ISBN 978-4902854480 <br /> 田中晃『日本哲学序説』閑山房、1997年2月復刻新版、ISBN 978-4906644018<br /> 三枝博音、清水幾太郎 編『日本哲学思想全書〈第14巻〉道徳 儒教篇・道徳論一般篇』平凡社、1957年</ref>、東洋の哲学者や学派個々の名称に哲学とつけて「~哲学」と称する例<ref>山口瑞鳳『評説 インド仏教哲学史』岩波書店、2010年12月23日、ISBN 978-4000221825 <br /> テンジン・ギャツォ『ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ』福田洋一訳、大東出版社、1996年7月、ISBN 978-4500006274<br /> 仏教哲学大辞典編纂委員会編『仏教哲学大辞典』創価学会、2000年12月、ISBN 978-4412011120 <br /> 哲学研究編輯部『荘子哲学討論集』新華書店北京発行所、1962年<br /> 菊地章太『老子神化―道教の哲学 (シリーズ道教の世界)』春秋社、2002年6月、ISBN 978-4393312735<br /> 鈴木利定『儒教哲学の研究』明治書院、2010年4月修訂版、ISBN 978-4625484018 <br /> 井上哲次郎『日本朱子学派之哲学』冨山房、1937年<br /> 大浜晧『朱子の哲学』東京大学出版会、1983年2月<br /> 市川安司『朱子哲学論考』汲古書院、1985年5月、ISBN 978-4413007719<br /> 竹村牧男『禅の哲学―自己の真実を尋ねる』沖積舎、2007年7月、ISBN 978-4806046752<br /> 大浜 晧『老子の哲学』勁草書房、1986年6月新装版、ISBN 978-4326150250<br /> ウェイン・W・ダイアー『老子が教える 実践 道の哲学』PHP研究所、2012年3月15日、ISBN 978-4569776415<br /> 小島祐馬、宇野哲人 共著『中国の古代哲学―孟子・老子・荘子・韓非子』講談社学術文庫、2003年2月、ISBN 978-4061595835</ref> が存在する。また、[[東洋哲学研究所]]、[http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-forumforum/ 日本哲学史フォーラム] といった団体が存在するほか、いくつもの大学で東洋哲学を研究する過程が設置されている。以上のように、東洋の思想を哲学と呼称する例はしばしばみられる。 ==== インド哲学 ==== {{main|インド哲学}} 哲学の中でも[[インド]]を中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは[[宗教]]と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教[[聖典]]でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。 ==== 中国哲学 ==== {{main|中国哲学}} [[中国]]では、[[春秋戦国時代]]に[[諸子百家]]が現れた<ref>貫成人『図解雑学 哲学』ナツメ社、2001年8月30日、p220</ref>。中でも[[老子]]や[[荘子]]の[[道家]]、[[孔子]]や[[孟子]]、[[荀子]]らの[[儒家]]がよく取り上げられる<ref>貫成人『図解雑学 哲学』ナツメ社、2001年8月30日、p228-p233</ref>。時代が下ると、[[南宋]]では形而上学的思索を含む朱子学が生まれ、[[明]]代には朱子学を批判して[[陽明学]]が登場した<ref>貫成人『図解雑学 哲学』ナツメ社、2001年8月30日、p234-p235</ref>。 <!--中国の思想の源流はシャーマニズムである。中国哲学の特徴は、世俗性・実践性が強いことである。--> ==== 日本哲学 ==== {{main|日本哲学}} {{See also|Category:日本の思想史|東洋哲学}} 東洋にも哲学はありインドと中国は大きな影響を持っている。日本哲学は伝統的には中国の影響を受けて来たが、現代ではヨーロッパの影響も無視出来ないものがある。 これと同時に、日本におけるヨーロッパ哲学の研究は、全く異なる生活現場でヨーロッパ同様にヨーロッパ哲学を扱うことは奇妙であり、伝統を汲まない、必然性を欠いたものであるといった指摘もある。日本のヨーロッパ哲学の研究者が、徹底的な議論をすることなく、むしろ議論の場を作らせず、ヨーロッパの哲学とはほど遠い、哲学とはほど遠い現状がある<ref>『哲学者とは何か』中島義道</ref>。 [[西田幾多郎]](1870 - 1945)は、フッサール現象学などの西洋哲学および[[仏教]]などの東洋哲学の理解の上に、『[[善の研究]]』(1911)を発表、知情意が合一で主客未分である[[純粋経験]]の概念を提起した。またその後、場所の論理あるいは無の論理の立場を採用した。彼の哲学は「[[西田哲学]]」と呼ばれるようになった。 [[井筒俊彦]](1914 - 1993)は、[[イスラーム思想]]を研究し、Sufism and Taoism(1966-67、1983)では、[[イスラーム]]と[[老荘]]の神秘思想を分析し、それらがともに持つ一元的世界観を指摘し、世界的にも高い評価を得た。そして晩年には『意識と本質』(1983)などを著し、東アジア・インド・イスラーム・ユダヤの[[神秘主義]]を元に、ひとつの東洋哲学として構造化することを試みた。 == 特徴 == === 哲学と宗教 === {{出典の明記|section=1|date=2010年2月}} 哲学と宗教は共に神の存在に関連している分野である。そのため厳密な区分は難しい。宗教と[[神学]]と哲学の境界は必ずしもはっきりしない。ただ、合理的な追求を試みる態度によって異なっている、とする人もいる。 西洋哲学の萌芽ともいえる[[ソクラテス以前の哲学者|ソクラテス以前の哲学]]の中には、それまでの迷信を排したものがある。例えばホメロスの詩は、それまでの民衆の狂信的要素を極力退けているものになっていると言われる。この点古代ギリシア人及びその哲学には二つの傾向が見られた。一つは合理的で冷静、もう一つは迷信的で熱狂的であるというものであり<!--「黒い白馬」というがごとき矛盾ではないのか?-->、彼らはその合理性によって多くの迷信を克服したが、恐怖や苦難に見舞われた際に以前の迷信が再び頭をもたげた。 オルフェウスは‘清めの儀式’や天上・地獄の教義について述べていて、後のプラトンやキリスト教に影響を与えた。日本の仏教でも、例えば極楽浄土と地獄に関する教え等を説いている。プラトンは永遠で恒久なる存在について考えたが、彼の場合は少なからず認識といった知的なアプローチを説いた。後世においてライプニッツは、時間の絶対性の観点からして時間の始源より以前に時間を遡ることが論理的に不可能であるとし、その始源に神の座を据えたと言われる。現代では宇宙のビッグバン説や、時間の相対性といった発想が反論として挙げられるだろう{{efn2|今日では神の存在の合理的な説明の試みも迷信的に映るのが大部分であるが、数学理論や観測技術の発展など時代の制約を考慮する必要がある。また、根源的・本質的な部分においてこの問いは解明されたとすることはできないだろう。}}。 宗教や神の存在に関する知的な理解を求めた人々は、しばしば哲学的な追究をし、逆に信仰生活(実践)に重点を置いた人々は、哲学的に手のこんだ解釈やへ理屈めいた議論を敬遠したといえるだろう。同じ宗教にたずさわりながら、知的に優れ業績を残した人もいれば、実践を重んじ困っている人を助けることを日々実行する人もいれば、迷信的なものにとらわれた人もいた。信仰心のあつい人は、しばしば、哲学をする人の中に、詭弁で他人を議論の袋小路に追い込む酷薄な人を見てとり、哲学者を不信の目で眺めた。ただし、知的なだけでなく、人格的にも傑出した哲学者に限れば、人々の尊敬を広く集めた。 また哲学と宗教との差異として、なにがしか「疑ってみる」態度の有無が挙げられることがある。宗教ごとに性質はことなるのでひとくくりに語ることは難しいが、例えば[[アブラハムの宗教]]など)には信仰の遵守を求める[[教義|ドグマ]]性がある、時として疑問抜きの盲信を要求しがちな面がある{{efn2|そもそも教義を持たない宗教<!--具体的には?-->{{要出典|date=2010年9月}}もあるので、全ての宗教がドグマを絶対視するわけではない。}}{{efn2|仏教ではその成立期においては([[原始仏教]])、外の超越者を持たなかったため「神」へのタブーそのものが無く、内観など別の形で哲学的思考が発達したとされる。一方、{{要出典範囲|仏陀は神々なる存在を徐々に観念に置き換えようとする試みをしていた、という心理学者の意見|date=2009年9月}}もある。また日本の仏教では、例えば親鸞が、理屈抜きに阿弥陀如来の救いを信じるよう説いていた。}}として、比較されることはある。{{efn2|もっとも、哲学にも師の考え・言葉をそのまま数百年間継承した歴史もあることや、神学の中で様々な論争があったり、新たな宗派・教派が生まれ続けていたりすることもあり、単純化して比較することは困難である。}} 18世紀~19世紀ごろから自然科学が成功を収め神的なものに疑問符が突きつけられるようになったため、唯物論思考など神を介しない考え方も力を得てきている{{efn2|不思議なことに、脳の特定の箇所を刺激すると、「白い光に包まれたような感じがした」、「キリストの姿を見た」等と被験者が告げる現象が、脳科学者{{誰|date=2010年9月}}から多数報告されている。たいていそれらは、いわゆる宗教的な高揚感を伴っていた。脳科学者の中には必ずしも「神」を否定しない人、肯定する人もおり、彼らは宗教者むけに「神が己の恩寵を感知する器官を人に授けた」のかもしれない、といった解釈を伝える。<!--情報源の追加をお願い致します-->}} 一方、古代から、否定的確証にも肯定的確証にも欠けるとして科学・宗教いずれの見解も留保する[[不可知論]]的立場もあり、これは現代でも支持者がいる。 中世哲学研究者の[[八木雄二]]は、「神について学問的分析をすることを『神学』と呼び、自然的な事柄全般についての学問的分析を『哲学』と呼<ref name="yujiyagi2009p159">八木雄二『天使はなぜ堕落するのか 中世哲学の興亡』春秋社、2009年12月25日、ISBN 978-4-393-32330-4、p159</ref>」ぶのが一般的風潮であると提言したうえで、それを翻して、「哲学とは理性が吟味を全体的に行うことと理解すれば、キリスト教信仰を前提にしたあらゆる理性的吟味は、[[キリスト教哲学]]ということもできるし神学と呼ぶこともできる<ref name="yujiyagi2009p159" />」と自説を主張している。つまり、哲学を理性的な吟味を行うことと定義し、その定義より神学は哲学に含まれると述べているのである。 [[フランシス・マクドナルド・コーンフォード]]は著書『宗教から哲学へ―ヨーロッパ的思惟の起源の研究』で、「哲学は、神話・宗教を母体とし、これを理性化することによって生まれてきた<ref name="humiakiokazaki2004p41">岡崎文明「序章 西洋哲学史観と時代区分」『西洋哲学史観と時代区分』昭和堂、2004年10月30日、ISBN 4-8122-0319-8、p41</ref>」といった哲学史観を示している。これは今日一般的な哲学観であり、中世哲学史家の[[エティエンヌ・ジルソン]]<ref name="humiakiokazaki2004p41" />、科学哲学者の[[カール・ポパー]]<ref>カール・ライムント・ポパー『推測と反駁――科学的知識の発展』法政大学出版局、1980年1月、ISBN 978-4588000959</ref> もこれと同じ哲学観を持っている。 哲学と思想、文学や宗教の関係について、[[相愛大学]][[人文学部]]教授の[[釈徹宗]]は「哲学や[[思想]]や[[文学]]と、[[宗教]]や[[心霊主義|霊性論]]との線引きも不明瞭になってきています。」と述べている<ref>[[内田樹]]・[[釈徹宗]](2013)『現代霊性論』 (講談社文庫) 、講談社、178ページ</ref>。哲学者・[[倫理学]]者である[[内田樹]]は、「本物の哲学者はみんな[[死者]]と[[幽霊]]と[[異界]]の[[話]]をしている。」と述べている<ref>内田樹・釈徹宗(2013)『現代霊性論』 (講談社文庫) 、講談社、155ページ</ref>。 === 哲学と思想 === <ref>(日置弘一郎、「[https://doi.org/10.14989/66276 経営哲学の試み--経営思想と峻別した経営哲学体系]」『經濟論叢』 2005年3月 175巻 3号 p.175-191, {{hdl|2433/66276}}, {{doi|10.14989/66276}}, 京都大学經濟論叢)から起筆した。</ref>「哲学」と「[[思想]]」を峻別するという哲学上の立場がある。永井均は、哲学は学問として「よい思考」をもたらす方法を考えるのに対し、思想はさまざまな物事が「かくあれかし」とする主張である、とする<ref>永井均[1997] 『(子ども)のための哲学』講談社。この脚注は日置(2005)にもとづく</ref>。ソクラテス以来の西欧哲学の流れによれば、知を愛するという議論は、知を構築する方法を論じるという契機を含んでおり、思考をより望ましいものにするための方法の追及こそが哲学である、という主張である。ところが実際には「よい思考の方法」を見出したとしても、現実に適用するにあたっては「それを用いるべき」と主張の形で表出することになるため、哲学は思想としてしか表現されないことになる。<!--抽象的過ぎる。具体例を出すなり具体的に示したほうが良いのでは?{{要出典}}。--><!--ここは引用元筆者の結論部分ですのでここを除いてしまうと何の話題か分からなくなります。また引用元から適切に引用していますので「抽象的」だの「具体例を挙げよ」などと要求されてもWikipedia編集者としては困ります。-->このために思想と哲学の混用は避けられない。 哲学と思想を区分することのメリットは具体的な使用事例で発見することができ、たとえば思想史と哲学史は明らかに異なる。通常は思想家とされない人物でも、その行動や事業を通して社会に影響を与えた場合には思想史の対象となる。これに対して哲学史の対象は哲学者の範囲にとどまり、哲学を最大限に解釈したとしても、政治家や経営者が哲学史で論じられることはない。しかし思想史においては、実務を担当し世界の構造を変えようとした人々は思想史の対象として研究対象になる、とする。 一方で小坂修平は別の立場をとり、「哲学と思想の間に明確な区別はない。思想は、一般にある程度まとまった世界なり人間の生についての考え方を指すのにたいし、哲学はそのなかでも共通の伝統や術語をもったより厳密な思考といった程度の違い」<ref>小坂修平『図解雑学 現代思想』ナツメ社、2004年4月7日、p17</ref> であるとする。小阪はこの区別に基づき、19世紀後半から20世紀前半にかけて生まれてきた思想は分析哲学や現象学を除けば哲学の枠組みには収まらず、[[現代思想]]になるとする。 ==== 人文科学との関係 ==== {{出典の明記|section=1|date=2010年2月}} 一部の哲学は、理知的な学問以外の領域とも深く関わっている点に特徴がある。古代ギリシア哲学が[[詩]]と分かちがたく結びついていたこと、スコラ哲学や[[仏教哲学]]のように、信仰・世界観・生活の具体的な指針と結びついて離れない例があることなどが指摘できる。理性によって物事を問いながらも、言葉を用いつつ、人々の心に響く考えやアイディアを探すという点では文学などの言語芸術や一部の宗教と通じる部分が多い。 哲学者の名言が多いのはそのためでもある。例えば日本では大学の主に[[文学部]]の中の「哲学科」で哲学を学ぶが欧米には「[[哲学部]]」という学部が存在する。 八木雄二は、前節で述べたように哲学を理性的な吟味を行うことと定義した上で、人文科学は「哲学によってその事実内容が真であるかどうかの批判的吟味を受けることによって学問性を明らかにする<ref>八木雄二『天使はなぜ堕落するのか 中世哲学の興亡』春秋社、2009年12月25日、ISBN 978-4-393-32330-4、p161</ref>」と述べている。自然科学は数学的方法を適用することで、数学的方法を適用できない人文科学は哲学によって、それらが理性的であるかが確認でき、そういった数学的方法や哲学的吟味を受容してこそそれらは学問として認められるのだと彼は主張している(生物学のようにどちらの側面も持っていて、数学的方法に還元できない部分では哲学的吟味を受けるような学問もあるという)。 === 学問分野としての哲学の特徴 === 哲学を学ぶということについて、[[イマヌエル・カント]]は「人はあらゆる理性学(ア・プリオリな)の内で、ただ数学をのみまなぶことができるが、しかし哲学(Phiolsophie)をば(それが歴史記述的でない限り)決して学ぶことはできない」「理性に関しては、せいぜいただ哲学すること(Philosophieren)を学ぶことができるだけである」<ref>純粋理性批判第二版865頁</ref> という。その上でカントは「理性の学的な理論的使用は哲学か、もしくは数学のどちらかに属する」と主張している。 {{要出典|date=2010年2月}}後世の著作物の中に太古の思想との類似性が見つけられる場合、それが先哲の思索を継承したのか、独自の着想によるものかは即断できないが、明らかに以前には無い発想が述べられている場合、しばしばそれが重要な哲学的な独創性(頂点の発見)を意味していることがある。一方で思索は極めて属人的な営みであり、思索家の死や沈黙、著作物の散逸などにより容易に否定され失われてしまうが、弟子達の著作によりその思想が後世にまで残り、多大な影響力を及ぼしているものがある{{efn2|著作をものさず、主に討論に時間を費やしたソクラテスの思想は彼の死後弟子達の著作によって残り、またプラトン・アリストテレスの影響力は中世ヨーロッパに至るまで、分野によっては近代まで、多大なものがあった。}}。 思索の継承と[[橋頭堡]]を打ち立てた先哲に対し敬意を払い続ける態度もまた哲学の顕著な特徴である。{{要出典|date=2010年2月}}一方で、異なる学派間の対立は民衆の懐疑と嘲笑的態度、独断の蔓延とそれによる思想の貧困化につなり、戦乱が続いた時代は思想が停滞・後退した。ヨーロッパにおいて教会の権力が頂点に達した頃には、哲学はしばしば神学的な問題に用いられ、近代には先哲の批判的継承のうえに独自の哲学を打ち立てた近代哲学者たちが現れた。 <!--{{要出典}}哲学は分業化された産業としての側面を有し、個々の専門分野に閉じこもりがちであるが、しばしば、同時代に共有されていた問題意識や偏見の影響が見られる。 哲学が「分業化された産業としての側面を有」するというのはどういうこと? 例えば、哲学は重化学工業なり有機農業なりだとでも? また、文章の前半と後半(「しばしば~見られる」)との関係が不明確--->逆に、哲学者自身が及ぼした影響の痕跡が後世に見られることもある。哲学が専ら同時代の観察と分析に徹しているという意見もある一方で、旺盛な活動によって世に知られた哲学者もいる。 他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかどうかというのはなかなか難しい問題である{{efn2|プラトンは数学・幾何を重要視し、フランシス・ベーコンは科学的な発見・発明を重んじた。}}。少なくとも近代哲学においては[[ルネ・デカルト|デカルト]]以来、疑いうるものを懐疑する態度、できるだけ明晰に思考する態度、事物の本質に迫ろうとする態度が哲学を特徴づけてきたといえるだろう{{efn2| デカルトは、懐疑主義のどのような途方もない想定をもってきても、「わたしは考える、故にわたしは存在する」という彼にとっての真理は覆せず、よって彼はこれを哲学の第一原理とした。}}。 {{要出典|date=2010年2月}}ただ、これだけであれば<!--自然科学-->学問の多くに共通する特徴でもあるし、逆に、理性や[[常識]]を信頼するタイプの哲学が哲学でないことになってしまう。分析哲学においては概念分析という道具を手にすることで、自然科学とは異なる独自の思考形態が成立したが、{{要出典|date=2010年2月}}これも哲学すべてを特徴づける思考形態であるとは言いがたい。<!--方法論的に哲学全体を特徴づけるのは非常に難しいと言わざるをえないだろう。--> [[三森定史]]によれば、科学と哲学は区別されるべきであり、科学が外観学(意識外で観察されるものを収集することで法則を立てる学問)であるのに対して哲学は内観学(意識内での観照から一般法則を導き出す学問)であるとする。また三森は大学でおこなわれているいわゆる「哲学」(哲学・学)への批判を込めて「大学での哲学研究は外観学に含まれる」<ref>三森定史「哲学の実演―ひとりでできるもん」『知の探究シリーズ 哲学・思想がわかる』日本文芸社、1996年12月25日、p210</ref> としている。 ==== 自然科学と哲学 ==== {{出典の明記|section=1|date=2010年2月}} {{要出典|date=2010年2月}}哲学はその黎明期において、科学において大切でかつ難しいといわれる仮説の発明を、重要な形で成してきた{{efn2|例えば太陽の周りを惑星が円軌道を描いて回転しているというアリスタルコスの仮説は、後世のコペルニクスによって(おそらくそうと意識してではないだろうが)復活させられた。後のケプラーが、軌道が太陽を中心としてではなく焦点とした楕円状であることを見いだし、次いでニュートンが、軌道が厳密には楕円でさえないことを発見した。仮説は、どんなに突飛に見えようと、自然を新たな見方でとらえることを可能にし、ある程度まで科学の進歩に寄与することが'ありうる'。}}。[[ソクラテス以前の哲学者]]と呼ばれる[[タレス]]、[[アナクシマンドロス]]といった[[自然学]]者はいずれも自然現象の説明を目論んだ。19世紀までは科学(science)、自然科学(natural science)という言葉は現代的な意味で用いられておらず、それらに相当する分野を指す言葉としては「自然哲学」(natural philosophy)ないしは「自然学」(Physics)という言葉が使われており(例えばニュートンの『プリンキピア』の正式名称は『'''自然哲学'''の数学的諸原理』である)、今日的な意味での「哲学的」な自然の探求と「自然科学的」な自然の探求とは伝統的には切れ目のないひとまとまりの領域として扱われてきたが、その中においても今から振り返って、「自然科学的」な部分と「哲学的」な部分を区別することができる。そうした「自然科学的」部分は伝統的に人間の作為を含まない対象(自然)を[[観察]]、分類することを主眼としてきた。 また近代に至っては[[実験]]という形で積極的に自然に介入することを重視する実験科学が登場しさらに19世紀以降には目に見えるものからその背後の秩序を推測して[[モデル (自然科学)|モデル]]化するという営みが科学の中心となってきた。 {{要出典|date=2010年2月}}例えば、時間について考察する哲学者は同じ問題を扱う物理学者とは違い観察や実験の積み重ねによらず結論を導くことがある。また、哲学者は物理学の成果を参照しそれを手がかりに哲学的思索を行うことはあるが、現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである{{efn2|もっとも、物理学の哲学の一分野としての時空論においては、哲学者と物理学者のより密接なコラボレーションが実現している。}}。 {{要出典|date=2010年2月}}こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだという了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。 そうしたものの見方から捉えると、先の時間の例について言うなら、われわれの主観的経験や世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は未だに物理学はもちろん[[心理学]]でもうまくとらえきることのできない対象でありそのために哲学的な時間論の対象となるわけである。 客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまり「実際にどうであるか」ではなく「どうあるべきか」を論じる文脈であるが、これは自然科学というよりは、むしろ倫理学の領域であろう。 哲学も決して自然科学的知見を無視するわけではないので自然科学によってもたらされる新たな発見はしばしば旧来の哲学に重大な脅威を与えてきた。またそもそも古代の哲学者が成した科学的発見が自身の手による実験によって証明されていることがある。 自然科学が自然哲学から分化して以降、とくに近代の哲学者は自然科学者の成果を重視し両者の親和性を失わないよう不断の努力を行ってきたし、また近代においては観察や経験を重要視する哲学者たちが生まれた。また一方で、科学者たち自身が扱わないような非常に基礎的な問題(科学方法論の原理論や科学的実在論といった問題)についてはむしろ哲学者が率先して考察を行ってきた(科学哲学の項参照)。あるいは科学が他の姿をとりうる論理的・現実的可能性を論じることで一度は忘れられた仮説<!--具体的な仮説の例は?-->を再発掘する原動力となったり新しい科学理論の形を呈示したりする場合もある。 歴史的に有名な事例としては全ての力が引力と斥力の二つに集約されるというドイツ観念論のテーゼが電力と磁力の統合という[[ハンス・クリスティアン・エルステッド|エルステッド]]の発見に結びついたといった例がある。 なお、近年の英米哲学では認識論の自然化を提唱した[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン|クワイン]]のように[[メタ倫理学#定義的自然主義|自然主義]]という名の下に哲学を自然科学の一部とする動きがある。 ==== 論理学と哲学 ==== {{出典の明記|section=1|date=2010年2月}} 伝統的に[[論理学]]は哲学の一分野として研究されてきた{{efn2|ただし近年では[[数学基礎論]]や[[コンピュータサイエンス]]との学際化が進展しており、哲学の一分野とは言いにくい状態になりつつある。}}。 論理学は伝統的にわれわれの推論のパターンを抽出することを目的としてきた。特に伝統的な論理学においては、前提が正しければ確実に正しい結論を導くことができる手法としての[[三段論法]]が主な研究の対象であった。 推論の厳密さを重視する哲学においては論理学は主要な研究の対象であり政治や弁論術、宗教、数学や科学の諸分野において論理学は重要な研究の対象であり続けた。古代の哲学者たちはしばしば現代でいう論理学者や数学者を兼ねていた{{efn2|アリストテレスは論理学において長い間至高の地位を占め続けた。彼のもっとも重要な業績は三段論法の説である。古代ギリシャ人は演繹を重要視する半面、帰納を軽視した。帰納法の発展は近代においても真に遅々たるものであった。}}。 論理学の直接の関心は推論の妥当性や無矛盾性にあり、かならずしも人間や社会や自然の諸事象が考察の焦点にならない(この点で論理学は哲学の他の分野とは性格が異なる)。もし疑いようのない前提から三段論法を用いて人間や社会や自然の諸事象についての結論を導き出すことができるならそれは非常に強力な結論となりうる。哲学者たちが論理学を重視してきたことは当然といえるだろう。 しかし逆にいえば、三段論法の結論の厳密さはあくまで前提の正しさに依拠するものであり前提がとんでもないものであれば結論もとんでもないものが出てしまう。たとえば「すべてのカラスは黒い。この鳥は黒くない、したがってこの鳥はカラスではない」といった推論では最初の前提が間違いで本当は白いカラスもいるような場合、結局あやまった結論にたどりついてしまう(参照:[[ヘンペルのカラス]])。 この問題は重要で、たとえば[[ジョン・スチュアート・ミル]]は三段論法が内包するこの危うさについて結論を知っていないならば、大前提の全称判断は得られないのだから、三段論法は一種の循環論証であると批判した。一方彼は帰納法の四大規則をこしらえたが、それらは因果律が仮定される限り有効に用いられるものであり、まったく単純枚挙による機能にもとづいてのみ、容認しうるものであることを白状せねばならなかった。 哲学的論理学においてはしばしば推論規則そのものの哲学的な正当性が問題となってきた。古典論理については[[排中律]]の是非が問題となってきたし、[[帰納]]論理についてはそもそも帰納論理なるものが成立するのかどうか自体が問題となった。こうした検討は認識論や科学哲学といった他の分野にも大きな影響を与えてきた。20世紀の初頭までには古典論理による推論の限界が明らかにされる一方でその公理系そのものを懐疑する視点から[[様相論理学]]、[[直観論理]]や[[矛盾許容論理]]などの展開も提示されている。 === 広義の哲学の特徴 === 広義の哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みであり、そのような営みの結果形成されたり選ばれたりした思想、立場、信条を指すこともある。例えば、「子育ての哲学」「会社経営の哲学」などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。 また、哲学は個々人が意識的な思索の果てに形成、獲得するものに限定されず、生活習慣、[[伝統]]、[[信仰]]、[[神話]]、[[伝統芸能]]や慣用表現、その他の[[文化的]]諸要素などと結びついて存在している感受性、[[価値観]]、[[世界観]]などを指す場合もある。つまり、物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは[[発想]]の仕方のことである(こうしたものは思想と呼ばれることも多い)。 このような感受性や世界観は必ずしも[[理論]]体系として言語によって表現されているわけではないが、体系性を備え、ひとつの立場になっていると考えられることがしばしばある。 貫成人は「モノづくりの哲学」や「料理の哲学」などといった俗な用例に着目し、哲学とはすべての物事を説明する普遍的原理を追求するものであるが、それにもかかわらずそういった哲学に違いが生まれるのは、時代・場所が異なり、哲学する人がどこまでを「すべて」に含めるかが異なることによるためだとする<ref>貫成人『図解雑学 哲学』ナツメ社、2001年8月30日、p12-p13</ref>。 == 哲学への批判 == === 現代理工医学からの批判 === ==== 脳神経科学・コンピュータ科学・AI研究からの批判 ==== 「[[心]]」や「[[意識]]」という問題を解明してきた[[脳科学]]・[[計算機科学]](コンピュータサイエンス)・[[人工知能]][[研究開発]]等に関連して、[[神経科学者]]・[[分子生物学者]]の[[フランシス・クリック]]は {{Quotation|哲学者たちは2000年という長い間、ほとんど何も成果を残してこなかった。}} と批判している{{Sfn|野家|2002|p=34}}。こうした観点において、哲学は「二流どころか三流」の[[学問]]・科学に過ぎない、と評価されている{{Sfn|野家|2002|p=34}}。脳科学者の[[澤口俊之]]はクリックに賛同し、次のように述べている{{Sfn|野家|2002|p=34}}。 {{Quotation|これは私のため息まじりの愚痴になるが、哲学者や思想家というのはつくづく「[[暇]]」だと思う。{{Sfn|野家|2002|p=34}}}} 実際、哲学は暇([[スコレー]])から始まったと[[アリストテレス]]が伝えており、上記のような否定的発言も的外れではないと、科学哲学者の[[野家啓一]]は言う{{Sfn|野家|2002|p=34}}。また、[[うつ病]]の有無を血液(血中[[エタノールアミンリン酸|PEA]]濃度)で計測する検査法を開発し、臨床現場でも用いている[[心療内科医]]の [https://www.g-clinic.net/doctor/ 川村則行] は {{Quotation|“心”という目に見えないもので語るより、[[体]]の[[病気]]と同じように[[物質]]で解き明かしたほうが理解しやすい。}} {{Quotation|[[精神疾患]]は“[[物質関連障害|物質の病気]]”であり、“[[身体疾患による精神障害|体の病気]]”である。}} 等と述べている{{Sfn|佐田|2019|p=4}}{{Efn2|川村院長が言うには、ほとんど全ての生物が持っているPEA(リン酸エタノールアミン)は「喜びなどの感情」に関係する物質であり、これが主に存在する場所は[[脳神経]]細胞の[[軸索]]や[[細胞膜]]で、その他には[[肝臓]]、[[動脈]]、[[心筋]]等{{Sfn|佐田|2019|p=2}}。脳と血中物質の関係は非常に密接であり、[[PTSD]]患者の場合も「PTSDの原因となる[[トラウマ]]を経験してから10年以上が経っていたにもかかわらず、[[免疫力]]が通常の4分の1にまで低下していた」と院長は言う{{harv|佐田|2019|p=3}}。}}。 ==== 数学・論理学・数理論理学からの批判 ==== [[数学者]]・[[論理学者]]である[[田中一之]]{{sfn|フランセーン|2011|p=奥付け}}は {{Quotation|一般の哲学者は、[[論理]]の[[専門家]]ではない。}} と述べている{{sfn|フランセーン|2011|p=233}}。[[計算機科学]]者(コンピュータ科学者)・[[論理学者]]・[[電子工学]]者・[[博士(哲学)|哲学博士]](Ph.D. in Philosophy)である[[:en:Torkel Franzén|トルケル・フランセーン]]{{sfn|フランセーン|2011|p=奥付け}}は、哲学者たちによる数学的な言及の多くが {{Quotation|ひどい[[誤解]]や[[自由連想]]に基づいている}} と批判している{{sfn|フランセーン|2011|p=4}}{{Efn2|フランセーンは[[ストックホルム大学]]で哲学を専攻し、1987年に「[[Ph.D.]](哲学)」を取得{{harv|フランセーン|2011|p=奥付け}}。[[ルレオ工科大学]]でのフランセーンのページによると、「(哲学における)自分の博士論文 “my PhD thesis (in philosophy)”」は世界各国の大学図書館で閲覧できる{{sfn|Franzén|2008|p=Torkel Franzén}}。}}。田中によると、[[ゲーデルの不完全性定理]]について哲学者が書いた本が、フランセーンの本と同じ頃に書店販売されていたが、哲学者の本は[[専門誌]]によって酷評された{{sfn|フランセーン|2011|p=233}}。その本は全体として読みやすく一般読者からの評判は高かったが、[[クルト・ゲーデル|ゲーデル]]の証明の核([[不動点定理]])について、根本的な勘違いをしたまま説明していた{{sfn|フランセーン|2011|p=233}}。同様の間違いは他の入門書などにも見られる{{sfn|フランセーン|2011|p=233}}。 フランセーンによれば、不完全性定理のインパクトと重要性について、しばしば大げさな主張が繰り返されてきた{{sfn|フランセーン|2011|p=9}}。たとえば {{Quote|「数学の思考に変革をもたらした」「数学ばかりでなく、[[科学]]全体も一新した」 「数学だけではなく、哲学、[[言語学]]、[[計算機科学]]と[[宇宙論]]にまで[[革命]]を起こした」}} という言があるが、これらは乱暴な[[誇張]]とされる{{sfn|フランセーン|2011|p=9}}。不完全性定理が一番大きな衝撃を与えたと思われる数学においてさえ、「革命」らしきものは何も起きていない{{sfn|フランセーン|2011|p=9}}。1931年にゲーデルが示した「不完全性定理」とは、「特定の[[形式体系]]Pにおいて[[決定可能性|決定不能]]な[[命題]]の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」についての定理ではない{{sfn|フランセーン|2011|p=230}}。不完全性定理以降の時代にも、数学上の意味で「完全」な理論は存在し続けているが{{sfn|フランセーン|2011|p=230}}、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”というような誤解が一般[[社会]]・哲学・[[宗教]]・[[神学]]等によって広まり、誤用されている{{sfn|フランセーン|2011|p=4, 7, 126}}。{{main|ゲーデルの不完全性定理#誤解(哲学等による誤解・誤用)|[[ゲーデルの不完全性定理#不完全性定理が成立しない体系|不完全性定理が成立しない体系]]|ゲーデルの完全性定理}} 数学者[[ダヴィット・ヒルベルト]]は「数学に“イグノラビムス(ignorabimus, 永遠に知られないこと)”はない」と述べた{{sfn|フランセーン|2011|pp=21-22}}。数学上に[[不可知]]は無く、全ての問題は最終的に解決されるというヒルベルトのこの見方は、「ノン・イグノラビムス」として知られている{{sfn|フランセーン|2011|p=22}}。ゲーデル自身も以下の、「ノン・イグノラビムス」的なヒルベルト流の見解を持っていた{{sfn|フランセーン|2011|p=47}}。 {{Quotation| あらゆる算術の問題をその中で解決する単一の形式体系を定めることは不可能であっても、<br> 新しい[[公理]]や[[推論規則]]による数学の拡張が限りなく続いていくなかで、どんな算術の問題もいずれどこかで[[決定可能性|決定されるという可能性]]は排除されていない。{{sfn|フランセーン|2011|p=47}} }} 哲学等において「不完全性定理が[[ヒルベルトのプログラム]]を破壊した」という類の発言がよくあるが、これは実際の不完全性定理やゲーデルの見解とは異なる{{sfn|フランセーン|2011|p=54}}。正確に言えば、ヒルベルトの目的(数学の「[[無矛盾性]]証明」)を実現するには手段(ヒルベルト・プログラム)を拡張する必要がある、ということをゲーデルが不完全性定理を通して示したのだった{{sfn|フランセーン|2011|p=54}}。[[日本数学会]]が編集した『岩波 数学辞典』第4版では、不完全性定理について次の通り記述されている{{sfn|日本数学会(編)|2011|p=357}}。 {{Quotation| ゲーデルも書いているように,[[:en:finitism|有限の立場]]は特定の[[演繹]]体系として規定されるものではないから,彼の結果はヒルベルトの企図を直接否定するものではなく,実際この定理の発見後に無矛盾性証明のための様々な方法論が開発されている.{{sfn|日本数学会(編)|2011|p=357}} }} {{See also|[[:en:Gentzen's consistency proof|ゲンツェンの無矛盾性証明]]}}<!-- 要確認 哲学者の[[野矢茂樹]]は、ゲーデルについての論評にも触れ、「どんな公理系も」「証明できない真理」を有し「必ずそこからはみでるものがある」ので「真理とさえ分からない」とした上で、ゲーデルの問題系は言わば氷山の一角であり、特定の研究者の活動は「論理という広大な全体を少しずつ照らしていく」活動の一部に過ぎないとしている<ref>野矢茂樹『論理学』、東京大学出版会、1994年。{{要ページ番号|date=2021年2月}}</ref>。 --> ==== 量子論・量子力学・理論物理学からの批判 ==== 哲学者は、科学とは違う日常的言語で「宇宙」や「存在」を語ろうとしてきた{{sfn|全|2014|p=178}}。しかし、[[量子論]]を創設した一員である[[理論物理学]]者[[ディラック]]は、哲学者をことさら信用していなかった{{sfn|全|2014|pp=177-178}}。ディラックが居た頃の[[ケンブリッジ大学]]で、一番の論客として鳴らしていたのは哲学者[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]だったが、彼を含め哲学者たちは、[[量子波動関数]]や[[不確定性原理]]について的外れなことばかりを発言し記述しており、ディラックの不信は嫌悪に変わった{{sfn|全|2014|p=178}}。ディラックが見たところ、哲学者たちは[[量子力学]]どころか、[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]以降の「[[確率論|確率]]」の概念さえ理解していない{{sfn|全|2014|p=178}}。 ディラックの考えでは、非科学的な日常的言語をいくら使っても、正確な意思疎通を行うことはできない{{sfn|全|2014|pp=177-178}}。量子力学を説明してくれと言う家族や友人に対してディラックは、「無理です」と言って黙り込むのが常だった{{sfn|全|2014|p=178}}。どうしても説明してほしいと迫る友人に、ディラックは「それは[[目隠し]]した人に[[触覚]]だけで[[雪の結晶]]がなにかを教えるようなもので、触ったとたん溶けてしまうのだ」と返した{{sfn|全|2014|p=178}}。<!-- [[アンリ・ポアンカレ|ポアンカレ]]とも論争を起こしたラッセルは、可述主義についての見解を用意した時点で実質的にはポアンカレの確率の問題点を指摘しているし、『哲学入門』では科学の説明についても二重の意味での確率を導入している<ref>「ラッセルとポアンカレ 一つの分析哲学前史」『現代思想』、伊藤邦武、18-29頁。</ref>。ラッセルによる確率についての穏健な論述は1930年という時期になされた<ref>Bertrand Russell, Probability and Fact, ''The Atlantic Monthly'', 1930</ref>。この意味で、ディラックは異分野の研究者の研究領域及び研究内容、特にその要件を、そしてまた研究に際しての重複する要素を、不十分なまま不適切な方法で宣伝したと看做せる{{要出典|date=2021年2月}}。 --> 宇宙の背後にある「語り得ぬもの」または「[[無]]」について、ウィトゲンシュタインは「もちろん言い表せないものが存在する。それは自らを示す。それは[[神秘]]である」{{efn2|原文は"Es gibt allerdings Unaussprechliches. Dies zeigt sich, es ist das Mystische"{{sfn|全|2014|pp=193-194}}.}}と述べたが、こういった哲学的考えは、理論物理学者から疑問視されている{{sfn|全|2014|pp=193-194}}。何故なら、「語り得ぬ」はずの「無」について、科学的に言語化する手がかりが既に見つかっているからである{{sfn|全|2014|p=194}}。例えば[[ペンローズ]]の「[[ツイスター理論]]」、アシュテカーの「[[ループ重力理論]]」、ロルとアンビョルンの「[[因果的動的三角分割理論]]」等の研究が進められている{{sfn|全|2014|p=194}}。 ==== 生物学・進化生物学・進化生態学からの批判 ==== 『[[利己的な遺伝子]]』の序文で、[[進化生物学者]][[リチャード・ドーキンス]]は {{Quotation|多くの批判者、とりわけ哲学を専門とする声高な批判者たちは、タイトルだけで本を読みたがる}} と述べている{{Sfn|ドーキンス|2018|p=10}}。前掲書の第一章ではこう述べる{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=39-41}}。 {{Quotation|[[生命#生命観・生命論の歴史|生命には意味があるのか?]] [[人生の意義|私たちは何のためにいるのか?]] [[人間学#哲学的人間学の成立|人間とは何か?]] といった深遠な問題に出くわしても、もう[[迷信]]に頼る必要はない。著名な動物学者[[G・G・シンプソン]]はこの最後の疑問を提起したあとで、こう述べている。<br> 「私が強調したいのは、一八五九年[『[[種の起源]]』]以前には、この疑問に答えようとする試みはすべて[[無価値]]だったことと、回答せずに黙っているほうがましだったということである」。{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=39-40}}}} {{Quotation|哲学と、「[[人文学]]」と称する分野では、今なお、[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]など存在したことがないかのような教育がなされている。こうしたことがいずれ変わるであろうことは疑いない。 … <br>この本の主張するところは、私たち、およびその他のあらゆる動物は、[[遺伝子]]によって創り出された[[機械]]にほかならないというものだ。 … 私がこれから述べるのは、[[成功]]した遺伝子に期待される特質のうちで最も重要なのは非情な[[利己主義]]である、ということだ。 … 遺伝子が個体レベルにおけるある限られた形の[[利他主義]]を助長することによって、自分自身の利己的な目標を最も達成できるような特別な状況も存在する。この文の「限られた(limited)」と「特別な(special)」という語は重要な言葉だ。<br>そうでないと信じたいのはやまやまだが、[[アガペー|普遍的な愛]]とか種全体の繁栄などというものは、進化的には意味をなさない概念にすぎない。{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=40-41}}}} また進化生物学者・[[社会生物学者]]の[[ロバート・L・トリヴァース]]は、前掲書へ以下の序文を寄稿した{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=30-31}}。 {{Quotation|[[チンパンジー]]と人間とはその[[人類の進化|進化の歴史]]のほぼ九九・五%を共有している。にもかかわらず、大多数の人間の[[思想家]]たちは、チンパンジーをでき損ないで見当違いの化けものと見なし、一方自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。<br>進化論者から見れば、そのようなことはありえない。一つの[[種 (分類学)|種]]を他の種より上に見る客観的根拠などは存在しないのだ。{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=30-31}}}} 同時にトリヴァースは「[[定量的研究|定量的]][[データ]]」による実証を強調しており{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=32}}、『利己的な遺伝子』を邦訳した一員、[[動物行動学者]]の[[日髙敏隆]]は「この本に書かれた内容を完全に理解するためには、[[数学]]の言葉が必要である」としている{{Sfn|ドーキンス|2018|p=551}}。 哲学や人文学からの批判は、生物学へ、そして生物学について解説したドーキンスへ向かった{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=476-477}}。その批判は例えば、遺伝子の理論を極端に単純化して捉えつつ、遺伝子との関連が薄い事物を同列に置いていた(「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子がやきもち焼きだったり、ゾウが抽象的だったり、ビスケットが目的論的だったりすることがありえない以上に」等){{Sfn|ドーキンス|2018|pp=476-477}}。批判に対しドーキンスは、前掲書の中で「利己的」等の生物学用語を挙げつつ「このような言い回しは、それを理解する十分な資格を備えていない(あるいはそれを誤解する十分な資格を備えたというべきか?)人間の手にたまたま落ちるということさえなければ、無害な簡便語法である」と反論した{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=476-477}}。彼は次のようにも記している{{Sfn|ドーキンス|2018|p=477}}。 {{Quotation|哲学という道具を教育によって過剰に賦与された一部の人々は、それが役に立たない場合にもその学問的装置でつつき回す誘惑に抵抗できないように思われる。<br>私は、「しばしば高度な[[文学]]的・学問的[[趣味]]を持ち、しかし[[分析]]的[[思考]]を実行する能力をはるかに超えた教育を受けてきた膨大な数の人々」に対する「哲学的[[フィクション|絵空事(フィクション)]]」の魅力についての[[P・B・メダワー]]の意見を思い起こす。{{Harv|ドーキンス|2018|p=477}}}} また前掲書中でドーキンスは、文化的[[自己複製子]]「[[ミーム]]」の理論に関して {{Quotation|哲学的だろうが、そうでなかろうが、私の主張に欠陥があるとは誰も指摘できていないのが事実である。}} と述べている{{Sfn|ドーキンス|2018|p=527}}。彼によると、破壊的で危険なミームの典型例は[[宗教]]であり、「[[信仰]]は[[精神疾患]]の一つとしての基準を満たしているように見える」{{Sfn|ドーキンス|2018|p=536}}。 なお、『利己的な遺伝子』の邦訳者の一員である[[進化生態学者]]・[[岸由二]]は、40周年記念版(2018年刊行)の後書きでこの本を「名著」と呼び、次のように評価している{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=554-555}}。 {{Quotation|四〇年を生き抜いた本書は、現代の進化論的生態学の視野をみごとに紹介する[[学術書]]、当該分野の研究・批評を志す者の必読の[[入門書]]として、評価も確定したと言ってよいだろう。{{Sfn|ドーキンス|2018|pp=554-555}}}} ==== 物理学・宇宙物理学からの批判 ==== 『[[科学]]を語るとはどういうことか』の中で[[宇宙物理学]]者の[[須藤靖]]は、科学についての哲学的考察([[科学哲学]])が、実際には科学と関係が無いことを指摘している<ref name=kagaku14-15>{{harvnb|『科学を語るとはどういうことか』|p=14-15}}。</ref>。 {{Quotation|「科学哲学と科学の[[断絶]]」 私は科学哲学が物理学者に対して何らかの[[助言]]をしたなどということは聞いたことがないし、おそらく'''科学哲学と一般の科学者はほとんど没交渉'''であると言って差し支えない状況なのであろう。 … '''科学哲学者と科学者の[[価値観]]の溝が深い'''ことは確実だ。 [[二〇世紀]]が生んだ最も偉大な物理学者の一人である[[リチャード・ファインマン]]が述べたとされる有名な言葉に「'''科学哲学は[[鳥類学]]者が[[鳥]]の役に立つ程度にしか科学者の役に立たない'''」がある。 … かつて私がこの言葉を引用した講演をした際に、「鳥類学は鳥のためにやっているわけでないし、科学哲学もまた科学のために存在するのではない」という反論をもらったことがある。確かに、科学哲学が科学のためのものである必要は無い。<ref name=kagaku14-15/>}} {{Quotation|科学哲学が、この[[方法論]]が果たして正しいのであろうかと立ち止まって悩んでいる間に、'''科学は常に前に踏み出しています'''。それでいいではないですか。 科学哲学者が横からいろいろ言うけれども、科学者からは「耳を傾けるべき重要な指摘だろうか」と首を傾げることばかり(たぶん、科学哲学者の皆さんから袋叩きに遭うでしょうが)というのが、正直な印象です。{{harv|『科学を語るとはどういうことか』|p=260}}}} 須藤は、哲学的に論じられている「[[原因]]」という言葉を取り上げて、「'''原因という[[言葉]]を具体的に[[定義]]しない限りそれ以上の[[議論]]は不[[可能]]'''です」{{sfn|『科学を語るとはどういうことか』|p=124-125}}と述べており、「'''哲学者'''が興味を持っている'''[[因果]]の定義'''が'''物理学者とは違う'''ことは確かでしょう」としている{{sfn|『科学を語るとはどういうことか』|p=141}}。科学哲学者・倫理学者の[[伊勢田哲治]]は、「思った以上に'''物理学者と哲学者のものの見え方の[[違い]]というのは大きい'''のかもしれません」と述べている{{sfn|『科学を語るとはどういうことか』|p=262}}。 須藤によると、学問の扱う問題が整理され分化したことで、科学と哲学もそれぞれ異なる問題を研究するようになった<ref name=kagaku57-58>{{harvnb|『科学を語るとはどういうことか』|p=57-58}}。</ref>。これは「研究分野の細分化そのもの」であり、「立派な[[進歩]]」だと須藤は言う<ref name=kagaku57-58/>。一方で伊勢田は、様々な要素を含んだ「大きな」問題を哲学的・統一的に扱う、かつての[[天文学]]について言及した<ref name=kagaku57-58/>。「その後の天文学ではその〔哲学的〕問題を扱わなくなりましたし、今の物理学でもそういう問題を扱わない」と述べた伊勢田に対し、須藤は「その通りですが、それ自体に何か問題があるのでしょうか」と返した<ref name=kagaku57-58/>。 対談で須藤は「これまでけっこう長時間議論を行ってきました。おかげで、[[意見]]の違いは明らかになったとは思いますが、果たして何か決着がつくのでしょうか?」と発言し、伊勢田は「決着はつかないでしょうね」と答えている{{sfn|『科学を語るとはどういうことか』|p=284}}。 ==== ソーカル事件 ==== {{Main|ソーカル事件}} === 現代哲学からの批判 === ==== 権威性への批判 ==== 哲学者の[[中島義道]]は、哲学は「何の役にも立たない」のであり「哲学に『[[血税]]』を使う必要などない」と述べている<ref name="中島2016/07/02">[https://toyokeizai.net/articles/-/124180?page=3 哲学が人類を「幸福にしない」これだけの理由 | 哲学塾からこんにちは | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース]</ref>。[[哲学科]]については、大幅な縮小か別の組織に統合させるべきだとしている<ref name="中島2016/07/02"/>。 {{Quotation|大学からすっかり[[哲学科]]がなくなるのも考え物ですが、そこは原則的に哲学ではなく哲学研究をする場所、つまり[[知的財産|知的遺産]][[管財人]]の養成機関なのですから、東大や京大など旧帝国大学などの片隅にわずかな定員を確保して存続するだけでいい。あるいは、[[新聞]][[編纂]]所のような哲学編纂所という(学生や講義なしの)専門研究機関として、あるいは[[考古学]]科の一分科として存続してもいいのではないかと思います。<br> (中略)<br> 哲学など何の役にも立たないのですから、それに[[血税]]を使うのはもったいない。(中略)少なくともわが国民が哲学の真の姿を認めて、その表面的な美名をひっぺがし、哲学はまったく役に立たず、自他の幸福を望むこととは無関係であり、[[反社|反社会]]的で、危険で、[[病気#病気と健康|不健全]]なもの、という点で認識が一致し、それにもかかわらず哲学をしなければ死んでしまう全人口の1パーセント未満の人のためにのみ哲学を学ぶ「真の場所」を設置すること。これはまことに健全なことだと思いますが、いかがでしょうか?<ref name="中島2016/07/02"/>}} [[学術博士]]・思想家の[[東浩紀]]は、哲学は「一種の[[観光]]」であり、そこに[[専門]]知は無く、哲学者は「無責任」な観光客に似ていると述べている。 {{Quotation|ひとことで言えば、「哲学とは一種の[[観光]]である」ということです。観光客は無責任にさまざまなところに出かけます。好奇心に導かれ、生半可な知識を手に入れ、好き勝手なことを言っては去っていきます。哲学者はそのような観光客に似ています。哲学に[[専門]]知はありません。<br> (中略)<br> 哲学は役に立つものではありません。哲学はなにも答えを与えてくれません。哲学は、みなさんの人生を少しも豊かにしてくれないし、この社会も少しもよくはしてくれない。そうではなく、哲学は、答えを追い求める日常から、ぼくたちを少しだけ自由にしてくれるものなのです。観光の旅がそうであるように。|東浩紀|[https://www.kinokuniya.co.jp/c/20150205120049.html 紀伊國屋じんぶん大賞2015受賞コメント]}} ==== 哲学的暴力・哲人総統への批判 ==== {{See also|[[オクシデンタリズム#ナチズム(国家社会主義)の模倣_―_日本・イスラム圏|ナチズムの模倣 ― 日本・イスラム圏]]|[[テオドール・アドルノ#ナチズムと文化への批判|ナチズムと文化への批判]]}} [[社会哲学]]者イヴォンヌ・シェラットの学術書『[[ヒトラー]]の哲学者たち Hitler's Philosophers』によると{{Efn2|邦訳題は『ヒトラーと哲学者:哲学は[[ナチズム]]とどう関わったか』。}}、[[第三帝国]][[ナチス・ドイツ]]は様々な形で哲学者たちと相互協力しており{{Sfn|シェラット |2015|p=12}}、アドルフ・ヒトラー自身も「[[哲人総統]]」{{Sfn|シェラット |2015|p=11}}、「哲人指導者」を自認して活動していた{{Sfn|シェラット |2015|p=37}}。 {{関連記事|哲人王_(プラトン)|哲人政治}} シェラットは以下のように述べている{{Sfn|シェラット |2015|p=354}}{{Sfn|シェラット |2015|p=12}}。 {{Quotation|哲学は<[[道徳学]](モラル・[[科学#知識の総称としての科学|サイエンス]])>の子孫である。そしてそれを相続するという意味でも、哲学に関わる者はその通ってきた不穏な道筋を意識し続ける必要があるのだ。{{Sfn|シェラット|2015|p=354}}}} {{Quotation|[[第三帝国]]の時代に生きていた人々 … [[積極的キリスト教|キリスト教徒]]、[[優生学]]者、[[観念論|理想主義]]の哲学者たち、これらの人々がみな、ヨーロッパの土壌にかつて現れたものの中でも、最悪の[[プロパガンダ]]のいくつかを普及させ、そこに名を連ねているのである。{{Sfn|シェラット|2015|p=12}}}} 「第三帝国」という概念について、『日本大百科全書』は以下の解説をしている{{Sfn|村瀬|2022|p=「第三帝国」}}。 {{Quotation|'''第三帝国''' <ins>哲学上</ins>では、[[物質主義|物質的な世界]]を第一帝国、[[精神主義|精神的な世界]]を第二帝国、両者を統合した理想の世界を第三帝国と称するが、<ins>「第三帝国」とは要するに[[ユートピア|理想的な人間社会]]</ins>をさすことばである。このため<ins>ドイツ[[保守派]]の政治家や学者</ins>はナチス国家を[[民族精神|ドイツ民族の優れた性格]]が十分に発揮され、その[[ミッション|世界的使命]]が達成される[[千年帝国#新宗教と千年王国|帝国]]と考えた。{{Sfn|村瀬|2022|p=「第三帝国」}}}} シェラットによれば、「ナチ哲学者」の多くは刑罰から逃れて学界に残った{{Sfn|シェラット |2015|pp=324-326}}。例えば[[マルティン・ハイデガー]]は[[21世紀]]でも、哲学における「スター」のような学者として見なされ続けている{{Sfn|シェラット |2015|p=352}}{{Efn2|「ハイデッガー」とも。}}。かつて[[1933年]]にナチ党員となったハイデガーは、[[学術団体|学術機関]]の「新[[総統]]」と公称し{{Sfn|シェラット |2015|p=163}}、また他者から「大学総統」とも呼称されるようになった{{Sfn|シェラット |2015|p=164}}。ハイデガーが「新総統」を宣言したのはナチ党員になって三週間後の1933年5月27日、彼が[[フライブルク大学]]新総長として[[ハーケンクロイツ]]を掲げる就任演説を行った時だった{{Sfn|シェラット |2015|p=163}}。ハイデガーは聴衆のナチ党員たちと同種の[[軍服_(ドイツ)#ナチス・ドイツ時代|隊服]]を着ており、[[ナチ式敬礼]]をして壇上に登ると、ナチズムを「[[精神]]的[[指導]]」{{Sfn|シェラット |2015|p=163}}、「[[ドイツ民族]]の運命に特色ある歴史を刻み込んだあの厳粛な精神的負託」と呼び、ナチズムによって「初めて、ドイツの大学の[[本質]]は明晰さと偉大さと[[権力|力]]をもつに至るのである」と述べた{{Sfn|シェラット |2015|p=164}}。 ハイデガーはナチス内での出世を目指したが、彼は当世風な社会進化論者というより[[ロマンチック]](ロマン主義的)で文化的な[[ナショナリスト]]であると見なされ、出世は頭打ちになった{{Sfn|シェラット |2015|pp=170-171}}。それでもハイデガーは哲学者かつ「大学総統」として、[[人種主義|人種的]][[排外主義]]においても行動していた{{Sfn|シェラット |2015|pp=170-171}}。彼は {{Bquote|国民社会主義〔ナチズム〕の内的[[真理]]と偉大さ}} を論じたり、地方の文部大臣に「人種学および[[遺伝学]]」の[[役職|ポスト]]新設を要請して {{Bquote|国家の健康を保全するために … [[安楽死]]問題が真剣に熟慮されるべきである}}と主張したりした{{Sfn|シェラット |2015|p=171}}。 1935年にはハイデガーが「[[マルティン・ハイデッガー#『形而上学入門』|形而上学入門]]」という題の講義を始めており、再び {{Bquote|この運動〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ}} を論じた{{Sfn|シェラット |2015|p=172}}。かつての同僚かつ友人だった哲学者[[カール・レーヴィット]]と対面した時も、ハイデガーはヒトラー賛美を変えなかった{{Sfn|シェラット |2015|p=173}}。レーヴィットの論考によれば、ハイデガーのナチズムは《ハイデガーの哲学の本質に基づくもの》であり、深い[[忠誠]]から由来している{{Sfn|シェラット |2015|p=173}}。そして[[マルティン・ハイデッガー#存在への問い|ハイデガーの「存在」]]や「在る」という概念は、《形而上学的なナチズム》であるとレーヴィットは述べた{{Sfn|シェラット |2015|p=173}}。またハイデガーは自著『[[存在と時間]]』で、かつての恩師かつ友人だったユダヤ人[[フッサール]]への[[献辞]]を載せていたが、その献辞を削除することを出版社に快諾した{{Sfn|シェラット |2015|p=173}}。 ハイデガーは「国民社会主義大学教官同盟フライブルク科学協会」から、 {{Bquote|国民社会主義〔ナチズム〕の先駆者たる党同志}} とも呼ばれるようになった{{Sfn|シェラット |2015|p=174}}。彼は「ナチ哲学者」たち──[[アルフレート・ローゼンベルク]]、[[カール・シュミット]]、エーリヒ・ロータッカー、ハンス・ハイゼ、[[アルフレート・ボイムラー]]、[[エルンスト・クリーク]]など──とおおよそ友好的付き合いを続けると同時に、ナチズム教育を[[学生]]全般へ実行していった{{Sfn|シェラット |2015|p=174}}。そこでハイデガーは《[[人権]]・[[道徳]]・[[共感|憐憫]]は時代遅れの概念であり、ドイツの弱体化を防ぐため哲学から追放されるべきだ》などと論じていた{{Sfn|シェラット |2015|p=174}}。1942年の講義(ヘルダーリンの詩歌『イースター』についての講義)でも彼は、ナチズムと「その歴史的独自性」を一貫して高評価していた{{Sfn|シェラット |2015|p=174}}。 かつてハイデガーの親友だった哲学者[[カール・ヤスパース]]は、ハイデガー、シュミット、ボイムラーという三人の哲学者は {{Quotation|精神面でナチ的な運動の頂点に立とうと試みた}} と結論している{{Sfn|シェラット |2015|p=330}}。 ハイデガーの[[愛人]]だったユダヤ人哲学者[[ハンナ・アーレント]]は、「ハイデガーを潜在的な[[殺人者]]だとみなさざるをえないのです」と公刊著作で批判した頃もあった{{Sfn|シェラット |2015|p=331}}。しかしハイデガーと再会後のアーレントは、彼の本を世界中で出版させるためにユダヤ系[[出版]]の人脈を使って努力した{{Sfn|シェラット |2015|p=334}}。シェラットいわく「ハンナは、現代哲学の様相を一変させる計画に手をつける」ことになった{{Sfn|シェラット |2015|p=334}}。ナチスの戦争捕虜だった著名なフランス人哲学者[[ジャン=ポール・サルトル]]さえも、ハイデガー哲学を自分の思想に取り入れて彼を支援した{{Sfn|シェラット |2015|p=335}}。 アーレントは、ナチズムと哲学との繋がりを切り離そうとするようになった{{Sfn|シェラット |2015|p=341}}。例えば彼女は、[[アドルフ・アイヒマン]]を中心に「[[エルサレムのアイヒマン|悪の陳腐さ]]」やナチスの「凡庸さ」、知性の無さを論じる政治哲学書を複数執筆していった{{Sfn|シェラット |2015|pp=339-340}}。しかし、これはホロコースト生存者からの反発をも生むことになった{{Sfn|シェラット |2015|p=340}}。その原因は例えば、 * アイヒマンが[[裁判]]を受けている最中に《自分は[[イマヌエル・カント|カント]]の道徳哲学と[[定言命法]]に従っただけだ》などと、ヒトラー同様に哲学を引用して自分の知的根拠としていたこと * アーレントはこの裁判を[[傍聴]]していたにも関わらず、ナチスの哲学性を軽視・無視して論じたこと などだった{{Sfn|シェラット |2015|pp=340-341}}。 『ヒトラーの哲学者たち』を2014年に翻訳した、三ツ木道夫([[異文化#研究・学問分野として|比較社会文化学博士]])と大久保友博([[人間環境学研究科|人間環境学博士]])は {{Quotation|ヒトラーをして<哲人総統>と自称せしめた一九三〇年代ドイツの精神的雰囲気は、まさしく[[ドイツ現代思想#概要|ドイツ哲学]]の[[根源|淵源]]から来るものである。}} と述べている{{Sfn|シェラット |2015|p=360}}。訳者らによると、人文学者がナチスという暴力を擁護したことは、ある種の「[[人文学]]の敗北」、「[[教養主義]]の挫折」である{{Sfn|シェラット |2015|pp=358-359}}。何故なら、人間は教養を身に付けたり[[本]]や[[音楽]]に感動したりすることで素晴らしい存在になるはずだったにも関わらず、そのような人文学的人間が不条理な暴力を認め[[共犯|加担]]しているからだという{{Sfn|シェラット |2015|p=359}}。批評家ジョージ・スタイナーも次のように批判している{{Sfn|シェラット |2015|pp=358-359}}。 {{Quotation|人間というものは、夕べに[[ゲーテ]]や[[リルケ]]を読み、[[バッハ]]や[[シューベルト]]を演奏しながら、朝(あした)には[[アウシュヴィッツ]]で[[ホロコースト|一日の業務]]につくことができるものであることを、<あとに>きたわれわれは知ってしまった。 そんなことができる人間は、[[Wikt:論語読みの論語知らず|ゲーテ読みのゲーテ知らず]]だとか、そんな人間の耳は節穴も同然だとか、逃げ口上をいうのは[[偽善]]である。こういう事実を知ってしまったということ──このことは、いったい[[文学]]や[[社会]]とどういうかかわりをもつのか。 [[プラトン]]の時代、[[マシュー・アーノルド]]の時代このかた、ほとんど[[公理]]になっているあの希望──《[[教養]]は[[人間性|人間を人間らしくする力]]である》、《[[精神主義|精神のエネルギー]]は高位のエネルギーに転ずることができる》という希望は、<あとに>きたために知ってしまったこの事実と、いったいどういうかかわりをもつのか。{{Sfn|シェラット |2015|pp=358-359}}}} 三ツ木と大久保は「訳者あとがき」で {{Quotation|日本でもここ数年、科学者のあり方がさまざまに問題となっているが、本訳書が[[人文学]]をめぐる社会的倫理の議論の一助になれば幸いである。}} と締めくくっている{{Sfn|シェラット |2015|p=362}}。 社会[[看護学]]者ダンカン・C・ランドールと[[健康科学部|健康科学]]者アンドリュー・リチャードソンの論文によれば、ハイデガー思想などのナチ哲学へ向けられる擁護には、《哲学とは文化的に[[中立]]で[[非政治主義|政治から切り離されているもの]]》だという考え方が含まれている{{Sfn|Randall|Richardson|2021|p=5}}。しかしそもそもこの考え方自体が、哲学における特定の政治的・文化的な立場を有利にしようとしている{{Sfn|Randall|Richardson|2021|p=5}}。ここでは、哲学は政治的であり文化的に非中立なものだとする考え方が拒絶されている、と同論文は述べる{{Sfn|Randall|Richardson|2021|p=5}}。 同論文によれば、哲学的[[テクスト]]の文化的中立性や非政治性をいくら主張したところで、哲学的テクストが文化や政治に巻き起こした「行動」(action)も「行動しないこと」(inaction)も、消え失せるわけではない{{Sfn|Randall|Richardson|2021|p=5}}。何故なら、いかなる哲学も行動も「文化的かつ政治的」(cultural and political)であり、また、何らかの哲学や行動を選ばないこと自体も一種の文化的・政治的行動であるからだと言う{{Sfn|Randall|Richardson|2021|p=5}}。 必要とされているのは「政治的・文化的な側面を我々に見えなくさせるハイデガーの[[解釈主義]]を拒絶すること」である{{Sfn|Randall|Richardson|2021|p=6}}{{Efn2|"rejecting Heidegger's interpretivism which blinds us to the political and cultural aspects"{{Sfn|Randall|Richardson|2021|p=6}}.}}。《哲学者(ハイデガー)たち自身についてはともかく、哲学的著作物については批判すべきでない》というような考え方は、(政治的・文化的な[[文脈]]からの)[[批判的研究]]を無視している{{Sfn|Randall|Richardson|2021|p=6}}。それは検証を無視したり、過ちを繰り返したりすることに繋がると同論文は結論している{{Sfn|Randall|Richardson|2021|p=6}}。 ==== その他 ==== {{出典の明記|section=1|date=2010年12月}} ===== 近代理性主義への批判 ===== 理性や言語を重んじる価値観は近代以降の西洋の諸文化に特徴的なものであると見做して攻撃する立場もある{{要出典|date=2022年12月}}。既存の哲学が「西洋哲学」中心であることや、習慣などに埋め込まれて存在していて言語化されたり、理性的な吟味の対象にならない思想を哲学の一種として扱わない傾向にあったりすることなどを、そのような価値観の表れと考え、問題視する立場もある{{要出典|date=2022年12月}}。 大学の哲学教員など現代の職業哲学者の従事する学問としての哲学は理性と言語による思考に特化しており、必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない{{要出典|date=2022年12月}}。これに関して理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある<ref>{{Cite journal|和書|author=種村完司 |url=https://hdl.handle.net/10232/1102 |title=カレン・グロイ『「ポスト哲学の時代」における哲学』(翻訳)とそれへの短評|date=2003-03-18|publisher=鹿児島大学|journal=鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編|volume=54|naid=110004993843 |pages=67-80 |hdl=10232/1102 |ref=harv}} PDF5頁以降</ref>。 ===== 空論性・非実践性への批判 ===== 哲学者の[[森岡正博]]<ref name=森岡1999>{{Cite journal|和書|author=森岡正博 |date=1999-05 |url=https://doi.org/10.11439/philosophy1952.1999.1 |title=現代において哲学するとはどのようなことなのか |journal=哲学 |ISSN=03873358 |publisher=日本哲学会 |volume=1999 |issue=50 |pages=1-12 |doi=10.11439/philosophy1952.1999.1 |CRID=1390001205322269312 |ref={{harvid|森岡}}}}</ref>は、日本の大学や哲学教室、倫理学教室、学会や懸賞論文は制度化されており、本来答えるべき哲学的課題に向き合えていないと批判している。学会は文献学、特定個人の思想、著名哲学者の思想に偏重しており、直面した根本問題を検討することを「次の機会」に先延ばしすることに特徴があるとしている。哲学の<純粋探求>の凄みと快楽は理解するものの、それは本当に向かい合うべき問いから巧妙に逃げているのではないか、と問題提起する<ref name=森岡1999 />。{{efn2|また、森岡正博は「現代において哲学するとはどのようなことなのか」において、次のようなことも述べている。 「もし、現代社会とそこに生きる人間の姿を問うことをその中心に据える哲学があるとすれば、それは文献学・解釈学を中心に据える哲学ではなく、自分自身がこの社会を生きるその実践のプロセスのただ中において思索を深めていくという形の実践学を中心に据える哲学になるはずだ」(p.25)「実践学としての哲学においては、テキスト読解のかわりに、実人生と実社会の読解が入り口となる」「重視されるのは、テキスト解釈ではなく、『[[フィールドワーク]]』である。」「『私がよりよく生き、よりよく死ぬ』ために哲学をしている」「それをめざすためにはいくらテキストを読んでも解釈していてもだめなんだということが分かった」「そこから足を洗い、そのかわりに、自分の人生そのものをフィールドとして、自己とは何か、現代社会とは何か、他者とは何かを自分の頭とことばで気の済むまで探究しているのである」「われわれが知らない過去の無数の哲学者たちは、なんのことはない、こういう営みを日々続けていたのだろうから、私もまたそれをするだけのことなのである。」(p.27)「私がいう実践学というのは『実践』についての哲学的議論をするということではない。」「そうではなくて、この私やあなたが、実際に、この世界のなかで実践していくということだ」(p.27)}} 抽象的な概念を巡る定義や論争などは、証拠によって決着を着けたり、万人が合意するような立場に辿りつけたりする可能性が低く(あるいはそのような可能性が皆無で)、結論が出ないままに延々と議論だけが続く、(特に実証主義的な観点から)非生産的な学問であるとの見方もある{{要出典|date=2022年12月}}。現に論理実証主義はそのような真偽の検証ができない命題や議論をナンセンスとして斥け、従来の哲学に対して否定的な立場を取った{{要出典|date=2022年12月}}。神の存在証明を巡る中世のスコラ哲学、実存哲学などは、その典型であったといえよう(もっとも、前者は証明方法の洗練によって、論理学の発展にはかなり貢献した){{要出典|date=2022年12月}}。 === 過去(古代・宗教)からの批判 === ==== 古代ギリシア ==== 古代ギリシャの時代の時代から、フィロソフィアが役に立たないと思う人がいた。アリストテレスはその著『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』において<ref>Politics,1259a</ref> 次のような逸話を提示することで、そうではないと示した。<ref>参考文献:バートランド・ラッセル『西洋哲学史1』市川三郎訳,みすず書房、p.35</ref> {{Quotation| 彼(タレス)は貧乏であった。貧乏であることは哲学が役に立たないことを示すと考えられたので、彼はそのことで非難を受けた。話によれば、彼は星に関する自分の巧妙な知識によって、次にくる年にオリーヴの豊作がある、ということを冬の間に知ることができた。そこで彼は、少しは金をもっていたので、キオスとミレトスにあるすべてのオリーヴ圧搾機を使用するための、保証金を支払っておいた。競りあう人が全然いなかったために、彼はわずかの金でそれらの器械を借りたわけだ。収穫時が来て急に多くの圧搾器がそろって必要となると、彼は思いのままの高値でそれを貸し出し、多額の金をつくった。このようにして彼は、哲学者は望みとあらば容易に金持ちとなることができるが、哲学者の野心はそれ以外にある、ということを世間に示した{{efn2|哲学者タレスが貧乏であったために、フィロソフィアと貧困を勝手に結び付け、哲学は役に立たないとの印象を誤って持つ者が現れた。だからタレスは自分の知識を応用してたくさんお金を儲けて見せることで、フィロソフィアは全てに関するものを(実用的な知識まで含めて)含んでいて、哲学者はそれを活かすことができるのであって、自分の利便や金儲けなどが一番重要だと感じている、その感情、考え方が実はおかしいことを哲学者は知っており、その重要なこと、別の意味で本当に役に立つこと、を探求しなければならないから探求しているのだ、ということを示したのである。それは、例えば、古代ギリシャにおいては倫理的な探求だったのだ。}} }} ==== 聖書中 ==== [[コロサイの信徒への手紙]]の中で[[パウロ]]は以下のように哲学を「むなしいだましごと」と称している箇所がある。 {{Quotation|あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。|[[s:コロサイ人への手紙(口語訳)#2:8|コロサイ人への手紙2章8節(口語訳)]]}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{出典の明記|section=1|date=2018年11月}} {{Notelist2|3}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |last1 = 國廣 |first1 = 哲彌 |authorlink1 = 國廣哲彌 |last2 = 安井 |first2 = 稔 |authorlink2 = 安井稔 (英語学者) |last3 = 堀内 |first3 = 克明 |authorlink3 = 堀内克明 |year = 2021 |publisher = [[Kotobank]] |chapter = philosophy |title = プログレッシブ英和中辞典(第4版) |url = https://kotobank.jp/ejword/philosophy |ref = harv }} * {{Citation|和書|title=明治のことば|year=2005|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061597327|author=齋藤 毅}} * {{Cite web|和書 |last = 佐田 |first = 節子 |editor = 黒住紗織(構成) |year = 2019 |url = https://project.nikkeibp.co.jp/behealth/atcl/feature/00003/091300031/?P=4 |title = 血液検査で「うつ病」を診断する時代へ:客観的な診断法としての期待高まる |publisher = [[日経BP]]総合研究所 |accessdate = 2020-10-19 |ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | last = シェラット | first = イヴォンヌ | title = ヒトラーと哲学者:哲学はナチズムとどう関わったか | translator = 三ツ木道夫、大久保友博 | publisher = 白水社 | year = 2015 | isbn = 978-4560084120 | ref = harv }} * {{Cite book |和書 |last = 新村 |first = 出 |authorlink = 新村出 |title = 広辞苑 |edition = 第七版 |date = 2018-01-12 |publisher = 岩波書店 |isbn = 978-4000801317 |ref = harv }} * {{Citation|和書 |last = 全 |first = 卓樹 |year = 2014 |title = エキゾティックな量子:不可思議だけど意外に近しい量子のお話 |publisher = 東京大学出版会 |isbn = 978-4130636070 |ref = harv }} * {{cite book|和書|author=桑兵(著), 村上衛(訳) |year=2013 |url=https://hdl.handle.net/2433/246488 |title=近代「中国哲学」の起源 |journal=近代東アジアにおける翻訳概念の展開 : 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター研究報告 |pages=143-166 |publisher=京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター |hdl=2433/246488 |ref=harv}} * {{Cite book|和書 |last = ドーキンス |first = リチャード |authorlink = リチャード・ドーキンス |date = 2018-2-15 |title = 利己的な遺伝子 |edition = 40周年記念版 |publisher = 紀伊國屋書店 |isbn = 978-4314011532 |ref = harv }} *{{Cite book|和書 |author = 日本数学会(編) |authorlink = 日本数学会 |date = 2011-10-25 |title = 岩波 数学辞典 |edition = 第4版第3刷 |publisher = 岩波書店 |isbn = 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{{Cite book|和書 |author = Britannica Japan Co., Ltd. |chapter = 哲学 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |year= 2021 |publisher = Kotobank |url = https://kotobank.jp/word/%E5%93%B2%E5%AD%A6-101028#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 |ref = harv }} {{kotobank|1=哲学|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}} * {{Cite web |last = Franzén |first = Torkel |url = http://www.sm.luth.se/~torkel/ |title = Torkel Franzén |publisher = Luleå University of Technology (Department of [[計算機科学|Computer Science]] and [[電気工学|Electrical Engineering]]) |year = 2008 |accessdate = 2021-01-11 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20081018160401/http://www.sm.luth.se/~torkel/ |archivedate = 2008-10-18 |ref = harv }} * {{Cite journal | | last1 = Randall | first1 = Duncan C. | last2 = Richardson | first2 = Andrew | title = Why should nurses care if Heidegger was a Nazi? 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ブラックミュージック
ブラックミュージック (black music) あるいは黒人音楽(こくじんおんがく)とは、アメリカの黒人発祥の音楽の総称を表す言葉。 強いビート感・グルーヴ感が特徴。 ブルース、ゴスペル、ソウル、R&B、ジャズ、ファンク、ヒップホップといった現在世界的に様々な形で展開されているジャンルを生み、またポップスやロック、カントリー等にも影響を与え、20世紀に生まれた多くのポピュラー音楽の源泉となった。 大きく分けると黒人霊歌やゴスペルなどの宗教歌 (sacred music) と、奴隷制時代のプランテーション・ソング (work song)から現代のヒップホップまで連なる世俗音楽 (secular music) の二つに分類できるが、その分類も便宜的な機能上のものであって、実質、ブラックミュージックはすべて呼応しあいコールアンドレスポンスのように境界なく連続している。
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ブラックミュージック あるいは黒人音楽(こくじんおんがく)とは、アメリカの黒人発祥の音楽の総称を表す言葉。
[[File:Henry Ossawa Tanner, The Banjo Lesson (darker).jpg|thumb|[[バンジョー]]を練習する黒人(1893年)]] '''ブラックミュージック''' ({{en|black music}}) あるいは'''黒人音楽'''(こくじんおんがく)とは、[[アメリカ州|アメリカ]]地域における[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]発祥の[[音楽]]の総称を表す言葉。 == 概要 == 強い[[ドラム・ビート|ビート]]感・[[グルーヴ]]感が特徴。 [[ブルース]]<ref>http://www.allmusic.com/genre/blues-ma0000002467</ref>、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]<ref>https://www.allmusic.com/style/gospel-ma0000002622</ref>、[[ソウルミュージック|ソウル]]<ref>https://www.allmusic.com/subgenre/soul-ma0000002865</ref>、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]<ref>https://www.allmusic.com/genre/r-b-ma0000002809</ref>、[[ジャズ]]<ref>https://www.allmusic.com/genre/jazz-ma0000002674</ref>、[[ファンク]]<ref>https://www.allmusic.com/style/funk-ma0000002606</ref>、[[ラップ|ヒップホップ]]<ref>https://www.allmusic.com/genre/rap-ma0000002816</ref>といった現在世界的に様々な形で展開されているジャンルを生み、また[[ポピュラー音楽|ポップス]]や[[ロック音楽|ロック]]、[[カントリー・ミュージック|カントリー]]等にも影響を与え、[[20世紀]]に生まれた多くの[[ポピュラー音楽]]の源泉となった<ref>{{Cite web|url=https://www.nbcnews.com/news/nbcblk/soundtrack-history-how-black-music-has-shaped-american-culture-through-n1258474 |title=The soundtrack of history: How Black music has shaped American culture through time |publisher=[[NBC News]] |date=2021-02-22 |accessdate=2022-09-06}}</ref>。 大きく分けると[[黒人霊歌]]やゴスペルなどの[[賛美歌|宗教歌]] (sacred music) と、[[奴隷制]]時代の[[プランテーション・ソング]] (work song)<ref>{{Cite web|url=https://scalar.usc.edu/works/lucas-collection-poetry-scrapbook/responses-to-african-american-music-during-the-civil-war |title=Responses to African-American Music During the Civil War |publisher=Virginia Lucas Poetry Scrapbook |date=2016-12-15 |accessdate=2022-09-06}}</ref>から現代のヒップホップまで連なる世俗音楽 (secular music) の二つに分類できるが、その分類も便宜的な機能上のものであって、実質、ブラックミュージックはすべて呼応しあい[[コールアンドレスポンス]]のように境界なく連続している。 [[File:MahaliaJackson.jpg|thumb|「ゴスペルの女王」と呼ばれた[[マヘリア・ジャクソン]]]] == 主なジャンル == * [[プランテーション・ソング]] * [[霊歌|黒人霊歌]] * [[ブルース]] * [[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]] * [[ジャズ]] * [[ロック (音楽)|ロック]] * [[ソウルミュージック|ソウル]] [[File:James-Brown 1973.jpg|thumb|「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」と呼ばれた[[ジェームス・ブラウン]]]] * [[ファンク]] * [[リズム・アンド・ブルース|R&B]] [[File:Ray Charles classic piano pose.jpg|thumb|R&Bを代表する歌手[[レイ・チャールズ]]]] * [[メント]] * [[カリプソ (音楽)|カリプソ]] * [[スカ]] * [[ロックステディ]] * [[ラスタファリ運動#ナイヤビンギ|ナイヤビンギ]] * [[レゲエ]] * [[ラップ]] [[File:Kanye West in Portland.jpg|thumb|最も影響力のあるラッパーの一人とされる[[カニエ・ウェスト]]]] * [[ヒップホップ・ミュージック|ヒップホップ]] * [[ゴーゴー]] * [[ニュージャックスウィング]] * [[グラウンド・ビート]] * [[サンバ (ブラジル)|サンバ]] * [[マンボ]] * [[ダブ]] * [[ルンバ]] * [[ディスコ (音楽)|ディスコ]] * [[ザディコ]] * [[:en:Deep Funk|ディープ・ファンク]] * [[ロックンロール]] * [[ブラック・コンテンポラリー]] * [[コンテンポラリー・R&B]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *『男の隠れ家』 2011年1月号 ロック&ポップスを産んだ黒人音楽の世界 GOSPEL BLUES SOUL JAZZ, 朝日新聞出版 *『音楽スコラ』アフリカ音楽,NHK == 関連項目 == * [[ルーツ・ミュージック]] * [[モータウン]] * [[アフリカ系の作曲家一覧]] == 外部リンク == * [http://zip2000.server-shared.com/bs-history.htm 黒人音楽の進化史へ] {{音楽}} {{ソウルミュージック}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふらつくみゆうしつく}} [[Category:音楽のジャンル]] [[Category:音楽のムーブメント]] [[Category:アフリカ系アメリカ人の音楽|*]]
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物理学
物理学(、英: physics)は、自然科学の一分野である。 古代ギリシアの自然学「φύσις」にその源があり、英語の「physics」という言葉も、元々は自然についての一般的な知識の追求を意味しており、天体現象から生物現象までを含む幅広い概念だった。19世紀から、物理現象のみを追求する「physics」として自然哲学から独立した意味を持つようになった。 物理学の古典的な研究分野は、物体の運動、光と色彩、音響、電気と磁気、熱、波動、天体の諸現象(物理現象)である。化学、生物学、地学などほかの自然科学に比べ数学との親和性が非常に強い。 材料力学や流体力学は巨視的現象の法則からなる独立した物理学上の理論体系である。ここで注意しなければならないのは材料力学や流体力学はそれらの適用範囲においては、他の理論から完全に閉じた理論体系として存在していることである。 現代の物理学は、たとえば素粒子論がある一方で熱力学があるように、巨視的現象の理論と微視的現象を記述する力学とをつなぐ理論や現象も、重要なテーマとして研究されている。一般的にこの分野では統計物理学と呼ばれる強力な手法が使われる。ルートヴィッヒ・ボルツマンらによって開発されたこの手法は、構成粒子の振る舞いを統計的に処理することによって、巨視的現象と結びつけるものである。 物理学では、理論やモデルを数式として表現することが多い。「これは、自然言語で記述するとどうしても厳密さに欠け、定量的な評価や複雑な推論をすることが難しいためである。数学は非常に強力な記号操作体系であるため、推論を一連の計算として実行することが可能なことと、複雑なモデルを正確・簡潔に表現することに適している。」 物理学の研究において最も重要なステップの一つは、物理法則を数式に表現する前の段階、観測された事実の中から記述すべき基本的な要素を抽出する行為である。電磁気学に貢献したマイケル・ファラデーが正規の教育を受けなかったため、数学的知識がなかったにもかかわらず、さまざまな発見を成し遂げたことや、ノーベル賞を受賞したリチャード・P・ファインマンが液体ヘリウムについて論じた論文やジョージ・ガモフが初めてビッグバン理論を提唱した論文には数式が出てこないことは、自然界の中に記述すべき対象を見つけ出す営みが物理学において重要なステップであるということを示している。 物理学の歴史は一見異なる現象を、同一の法則の異なる側面であるとして、統一的に説明していく歴史でもあった(物理学の歴史そのものについては後述)。 地上付近での物体の落下と月の運動を同じ万有引力によるものとしたニュートンの重力の理論は、それまであった惑星の運動に関するケプラーの法則や、ガリレイの落体運動の法則が万有引力の別の側面であることを示した。ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、それまでアンドレ=マリ・アンペールやマイケル・ファラデーらが個別に発見していた電気と磁気の法則が、電磁気という一つの法則にまとめられることを導き、電磁波の存在を理論的に予言し、光が電磁波の一種であることを示した。 20世紀に入るとアルベルト・アインシュタインが相対性理論によって、時間と空間に関する認識を一変させた。彼はさらに重力と電磁気力に関する統一場理論の研究に取り組んだが実現しなかった。しかし、その後も統一場理論に関する研究は他の研究者たちによって続けられ、新しく発見された核力も含めて統一しようとする努力が続けられた。1967年頃電磁気力と弱い力に関する統一場理論(ワインバーグ・サラム理論)が提唱され、後の実験的な検証により理論の正当性が確立した。この理論により、電磁気力と弱い力は同じ力の異なる側面として説明されることになった。 自然界に存在する重力、電磁気力、強い力、弱い力の四つの相互作用のうち、上記の電弱統一理論を超えて、電磁気力、強い力、弱い力に関する統一場理論である大統一理論、重力、電磁気力、強い力、弱い力の四つの相互作用全てに関する統一場理論(例えば、超弦理論が候補)が研究されているが、実験的に検証されておらず、現在においても確立には至っていない(しばしば、上記の四つの相互作用に関する統一場理論は、既存の物理現象がその理論一つを基礎として理解できると考えられるため、万物の理論と呼ばれることがある)。 古典的な物理学では、物理現象が発生する空間と時間は、物理現象そのものとは別々のものと考えられてきたが、重力の理論(一般相対性理論)によって、物質の存在が空間と時間に影響を与えること、物質とエネルギーが等価であることが解明されたことから、現代物理学では、物理現象に時間と空間、物質とエネルギーを含める。 物理学はほかの自然科学と密接に関係している。物理学で得られた知見が非常に強力なために、他の自然科学の分野の問題の解決に寄与することも多く、生物学、医学など他の分野との連携も進んでいる。特に化学においては密接に関連する分野が多く、特に物理学的な手法を用いる分野として物理化学という分野が設けられている。生物学においても、生物の骨格や筋肉を力学的に考察したり、遺伝子レベルでの解析や進化の物理的考察を行う分子生物学がある。地球科学においても地球を物理的な手法を用いて研究する地球物理学があり、地震学・気象学・海洋物理学・地球電磁気学等は地球物理学の代表的な分野であるといえる。 今日の物理学は自然科学のみならず人文科学・社会科学とも関係している。人文科学においては哲学との学際領域に自然哲学がある。また、心理学も精神物理学を通じて物理学と関係している。社会科学においては中学校・高等学校における教科としての物理は教育学と密接に関係しており、経済現象を物理的に解明する経済物理学は経済学との学際的分野であるといえる。 天動説や暦の作成などの天文学が最古の物理学である。初期文明であるシュメール人、古代エジプト人、インダス文明などは太陽や月などの天体を観察した。これらの天体は宗教的に崇拝され、現代からすれば非科学的な現象の説明もされたが、これがのちの天文学や物理学へと成長する。 16世紀以前のヨーロッパにおいて科学は、キリスト教的な要素を含んだアリストテレスの自然哲学が主流であった。アリストテレスは物質の振る舞いを「目的論」(もしくは「目的因」)によって説明し、例えば天体が地球の周りを回るのは回転しようとする目的があるためだとした。自然哲学は観測よりも哲学を重視したため、試行的な試験で事象を説明する現代科学とは性質が異なる。また、この時既に数学は中東やエジプトなどで発達していたが、自然哲学的な物理に使われることはなかった。 しかし古代ギリシアにおいて実証的な考え方がされていなかったわけではなく、紀元前3世紀のアルキメデスは自然哲学では無視されていた数学を自然と結びつけ、数学や物理に数々の貢献をした。続くヒッパルコスやプトレマイオスなども幾何学や天文学を発達させた。また、アリストテレスの時代より前の紀元前5世紀にはすでにレウキッポスやデモクリトスなどがそれまでの超自然的説明を否定して自然現象には原因となる理論があるとして原子の存在などを考えていた。 中世のイスラームの学者は、他のギリシャ文化と共にアリストテレスの物理学を継承した。その黄金期には観察と先験的な推論に重点を置いた初期の科学的方法を発展させた。最も注目すべきは、イブン・サール、アル・キンディー、イブン・アル・ハイサム、アル・ファリス、アビセナ等による視覚と視力の分野である。アル・ハイサムが書いた「光学の本(Kitābal-Manāẓir)」は視覚に関する古代ギリシャの考え方を最初に反証したばかりでなく、新しい理論を作り出した。この本では史上初、ピンホールカメラの現象を研究することで、目自体の仕組みをさらに詳しく調べた。解剖学と既存の知識を使って、どのように光が目に入り、焦点が合い、目の後ろに投影されるかを説明したのである。さらに、現代の写真撮影の開発から数百年前に、既にカメラ・オブスクラを発明した。 全7冊の「光学の本(Kitab al-Manathir)」は、600年以上にわたって、東洋と西洋の中世の芸術における視覚の理論から、視点の性質への学問全体の考え方に大きな影響を与えた。 ロバート・グロステストやレオナルド・ダ・ヴィンチから、ルネ・デカルト、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンまで、後世の多くのヨーロッパの学者や思想家が影響を受けている。 近世に入り、科学的研究法の発展の中で実験による理論検証の重要性が認識され始めた。16世紀後半、ガリレオ・ガリレイは力学現象の研究を行い、落体の法則と慣性の法則を見出した。1687年にアイザック・ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』を出版した。ニュートンの示した理論は、ガリレイらの発見した法則を一般化し、包括的な説明を与えることに成功した。ニュートンの理論の中で最も基礎的な法則として、運動の法則と万有引力の法則が挙げられる。これらの法則は、天体の運行などの観測結果をよく説明することができた。ニュートン自身は力学法則を幾何学を用いて記述したが、オイラーなど後世の研究者によってそれらの理論は代数学的に記述されるようになった。ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、ウィリアム・ローワン・ハミルトンらは古典力学を徹底的に拡張し、新しい定式化、原理、結果を導いた。重力の法則によって宇宙物理学の分野が起こされた。宇宙物理学は物理理論をもちいて天体現象を記述する。 18世紀から、ロバート・ボイル、トマス・ヤングら大勢の学者によって熱力学が発展した。1733年に、ダニエル・ベルヌーイが熱力学的な結果を導くために古典力学とともに統計論を用いた。これが統計力学の起こりである。1798年に、ランフォードは力学的仕事が熱に変換されることを示した。1820年代にはサディ・カルノーがカルノーサイクルによる熱力学の研究を行い、1840年代に、ジェームズ・プレスコット・ジュールは力学的エネルギーを含めた熱についてのエネルギーの保存則を証明した。1850年にはルドルフ・クラウジウスが熱力学第一法則および熱力学第二法則を定式化した。 電気と磁気の挙動はマイケル・ファラデー、ゲオルク・オームらによって研究された。ジェームズ・クラーク・マクスウェルは1855年から1864年までに発表した3つの論文で、マクスウェルの方程式で記述される電磁気学という単一理論で二つの現象を統一的に説明した。この理論によって光は電磁波であると予言された。この予言は後にハインリヒ・ヘルツによって実証された。 1895年にヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見し、1896年にはアンリ・ベクレルがウランの放射能を、1898年にはピエール・キュリーとマリ・キュリーがウランよりも強力な放射能を持つラジウムを発見した。これが核物理学の起こりとなった。 原子の存在そのものは紀元前5世紀にレウキッポスとデモクリトスの原子論によって想定されていたが、近代的な原子論は1808年にジョン・ドルトンによって提唱された。ジョセフ・ジョン・トムソンは1899年に、原子よりもはるかに小さな質量を持ち、負の電荷を持つ電子の発見を発表し、1904年には、最初の原子のモデルを提案した。このモデルは現在プラムプディング模型として知られている。 1905年、アルベルト・アインシュタインは特殊相対性理論を発表した。アインシュタインの相対性理論において、時間と空間は独立した実体とは扱われず、時空という一つの実体に統一される。相対性理論は、ニュートン力学とは異なる慣性座標系間の変換を定める。相対速度の小さな運動に関して、ニュートン力学と相対論は近似的に一致する。このことはニュートン力学の形式に沿って定式化された相対論的力学において明確になる。 1915年、アインシュタインは特殊相対性理論を拡張し、一般相対性理論で重力を説明した。特殊相対論によって、力学と電磁気学の理論は整合的に説明できるようになったが、重力に関してはニュートンの万有引力の法則以上の満足な説明を与えることができなかった。一般相対論によって、重力の作用を含めた包括的な説明ができるようになった。一般相対論において、ニュートンの万有引力の法則は低質量かつ低エネルギーの領域における近似理論と見なすことができた。 1911年に、アーネスト・ラザフォードの下で原子の研究が進展し、その時の散乱実験から、電荷を持つ物質を核とする原子像(ラザフォード模型)が提唱された。原子核を構成する正電荷の粒子は陽子と呼ばれる。電気的に中性な構成物質である中性子は1932年にジェームズ・チャドウィックによって発見された。 1900年代初頭に、マックス・プランク、アインシュタイン、ニールス・ボーアたちは量子論を発展させ、離散的なエネルギー準位の導入によってさまざまな特異な実験結果を説明した。1925年にヴェルナー・ハイゼンベルクらが、そして1926年にエルヴィン・シュレーディンガーとポール・ディラックが量子力学を定式化し、それによって前期量子論は解釈された。量子力学において物理測定の結果は本質的に確率的である。つまり、理論はそれらの確率の計算法を与える。量子力学は小さな長さの尺度での物質の振る舞いをうまく記述する。 また、量子力学は凝縮系物理学の理論的な道具を提供した。凝縮系物理学では誘電体、半導体、金属、超伝導、超流動、磁性体といった現象、物質群を含む固体と液体の物理的振る舞いを研究する。凝縮系物理学の先駆者であるフェリクス・ブロッホは、結晶構造中の電子の振る舞いの量子力学的記述を1928年に生み出した。 第二次世界大戦の間、核爆弾を作るという目的のために、研究は核物理の各方面に向けられた。ハイゼンベルクが率いたドイツの努力は実らなかったが、連合国のマンハッタン計画は成功を収めた。アメリカでは、エンリコ・フェルミが率いたチームが1942年に最初の人工的な核連鎖反応を達成し、1945年にアメリカ合衆国ニューメキシコ州のアラモゴードで世界初の核爆弾が爆発した。 場の量子論は、特殊相対性理論と整合するように量子力学を拡張するために定式化された。それは、リチャード・P・ファインマン、朝永振一郎、ジュリアン・セイモア・シュウインガー、フリーマン・ダイソンらの仕事によって1940年代後半に現代的な形に至った。彼らは電磁相互作用を記述する量子電磁力学の理論を定式化した。 場の量子論は基本的な力と素粒子を研究する現代の素粒子物理学の枠組みを提供した。1954年に楊振寧とロバート・ミルズはゲージ理論という分野を発展させた。それは標準模型の枠組みを提供した。1970年代に完成した標準模型は今日観測される素粒子のほとんどすべてをうまく記述する。 場の量子論の方法は、多粒子系を扱う統計物理学にも応用されている。松原武生は場の量子論で用いられるグリーン関数を、統計物理学において初めて使用した。このグリーン関数の方法はロシアのアレクセイ・アブリコソフらにより発展され、固体中の電子の磁性や超伝導の研究に用いられた。 2018年時点において、物理学の多くの分野で研究が進展している。 スーパーカミオカンデの実験からニュートリノの質量が0でないことが判明した。このことを理論の立場から理解しようとするならば、既存の標準理論の枠組みを越えた理解が必要である。質量のあるニュートリノの物理は現在理論と実験が影響しあい活発に研究されている領域である。今後数年で粒子加速器によるTeV(テラ電子ボルト)領域のエネルギー尺度の探査はさらに活発になるであろう。実験物理学者はそこでヒッグス粒子や超対称性粒子の証拠を見つけられるのではないかと期待している。 量子力学と一般相対性理論を量子重力の単一理論に統合するという半世紀以上におよぶ試みはまだ結実していない。現在の有望な候補はM理論とループ量子重力理論である。 宇宙物理学の分野でも1990年代から2000年代にかけて大きな進展が見られた。特に1990年代以降、大口径望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡・COBE・WMAP などの宇宙探査機によって格段に精度の良い観測データが大量に得られるようになり、宇宙論の分野でも定量的で精密な議論が可能になった。ビッグバン理論及びインフレーションモデルに基づく現代のΛ-CDM宇宙モデルはこれらの観測とよく合致しているが、反面、ダークマターの正体や宇宙の加速膨張を引き起こしていると考えられるダークエネルギーの存在など、依然として謎となっている問題も残されている。これ以外に、ガンマ線バーストや超高エネルギー宇宙線の起源なども未解決であり、これらを解明するための様々な宇宙探査プロジェクトが進行している。 凝縮物質の物理において、高温超伝導の理論的説明は、未解明の問題として残されている。量子ドットなど単一の電子・光子を用いたデバイス技術の発展により、量子力学の基礎について実験的検証が可能になってきており、さらにはスピントロニクスや量子コンピュータなどへの応用展開が期待される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "物理学(、英: physics)は、自然科学の一分野である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "古代ギリシアの自然学「φύσις」にその源があり、英語の「physics」という言葉も、元々は自然についての一般的な知識の追求を意味しており、天体現象から生物現象までを含む幅広い概念だった。19世紀から、物理現象のみを追求する「physics」として自然哲学から独立した意味を持つようになった。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "物理学の古典的な研究分野は、物体の運動、光と色彩、音響、電気と磁気、熱、波動、天体の諸現象(物理現象)である。化学、生物学、地学などほかの自然科学に比べ数学との親和性が非常に強い。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "材料力学や流体力学は巨視的現象の法則からなる独立した物理学上の理論体系である。ここで注意しなければならないのは材料力学や流体力学はそれらの適用範囲においては、他の理論から完全に閉じた理論体系として存在していることである。 現代の物理学は、たとえば素粒子論がある一方で熱力学があるように、巨視的現象の理論と微視的現象を記述する力学とをつなぐ理論や現象も、重要なテーマとして研究されている。一般的にこの分野では統計物理学と呼ばれる強力な手法が使われる。ルートヴィッヒ・ボルツマンらによって開発されたこの手法は、構成粒子の振る舞いを統計的に処理することによって、巨視的現象と結びつけるものである。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "物理学では、理論やモデルを数式として表現することが多い。「これは、自然言語で記述するとどうしても厳密さに欠け、定量的な評価や複雑な推論をすることが難しいためである。数学は非常に強力な記号操作体系であるため、推論を一連の計算として実行することが可能なことと、複雑なモデルを正確・簡潔に表現することに適している。」", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "物理学の研究において最も重要なステップの一つは、物理法則を数式に表現する前の段階、観測された事実の中から記述すべき基本的な要素を抽出する行為である。電磁気学に貢献したマイケル・ファラデーが正規の教育を受けなかったため、数学的知識がなかったにもかかわらず、さまざまな発見を成し遂げたことや、ノーベル賞を受賞したリチャード・P・ファインマンが液体ヘリウムについて論じた論文やジョージ・ガモフが初めてビッグバン理論を提唱した論文には数式が出てこないことは、自然界の中に記述すべき対象を見つけ出す営みが物理学において重要なステップであるということを示している。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "物理学の歴史は一見異なる現象を、同一の法則の異なる側面であるとして、統一的に説明していく歴史でもあった(物理学の歴史そのものについては後述)。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "地上付近での物体の落下と月の運動を同じ万有引力によるものとしたニュートンの重力の理論は、それまであった惑星の運動に関するケプラーの法則や、ガリレイの落体運動の法則が万有引力の別の側面であることを示した。ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、それまでアンドレ=マリ・アンペールやマイケル・ファラデーらが個別に発見していた電気と磁気の法則が、電磁気という一つの法則にまとめられることを導き、電磁波の存在を理論的に予言し、光が電磁波の一種であることを示した。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "20世紀に入るとアルベルト・アインシュタインが相対性理論によって、時間と空間に関する認識を一変させた。彼はさらに重力と電磁気力に関する統一場理論の研究に取り組んだが実現しなかった。しかし、その後も統一場理論に関する研究は他の研究者たちによって続けられ、新しく発見された核力も含めて統一しようとする努力が続けられた。1967年頃電磁気力と弱い力に関する統一場理論(ワインバーグ・サラム理論)が提唱され、後の実験的な検証により理論の正当性が確立した。この理論により、電磁気力と弱い力は同じ力の異なる側面として説明されることになった。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "自然界に存在する重力、電磁気力、強い力、弱い力の四つの相互作用のうち、上記の電弱統一理論を超えて、電磁気力、強い力、弱い力に関する統一場理論である大統一理論、重力、電磁気力、強い力、弱い力の四つの相互作用全てに関する統一場理論(例えば、超弦理論が候補)が研究されているが、実験的に検証されておらず、現在においても確立には至っていない(しばしば、上記の四つの相互作用に関する統一場理論は、既存の物理現象がその理論一つを基礎として理解できると考えられるため、万物の理論と呼ばれることがある)。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "古典的な物理学では、物理現象が発生する空間と時間は、物理現象そのものとは別々のものと考えられてきたが、重力の理論(一般相対性理論)によって、物質の存在が空間と時間に影響を与えること、物質とエネルギーが等価であることが解明されたことから、現代物理学では、物理現象に時間と空間、物質とエネルギーを含める。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "物理学はほかの自然科学と密接に関係している。物理学で得られた知見が非常に強力なために、他の自然科学の分野の問題の解決に寄与することも多く、生物学、医学など他の分野との連携も進んでいる。特に化学においては密接に関連する分野が多く、特に物理学的な手法を用いる分野として物理化学という分野が設けられている。生物学においても、生物の骨格や筋肉を力学的に考察したり、遺伝子レベルでの解析や進化の物理的考察を行う分子生物学がある。地球科学においても地球を物理的な手法を用いて研究する地球物理学があり、地震学・気象学・海洋物理学・地球電磁気学等は地球物理学の代表的な分野であるといえる。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "今日の物理学は自然科学のみならず人文科学・社会科学とも関係している。人文科学においては哲学との学際領域に自然哲学がある。また、心理学も精神物理学を通じて物理学と関係している。社会科学においては中学校・高等学校における教科としての物理は教育学と密接に関係しており、経済現象を物理的に解明する経済物理学は経済学との学際的分野であるといえる。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "天動説や暦の作成などの天文学が最古の物理学である。初期文明であるシュメール人、古代エジプト人、インダス文明などは太陽や月などの天体を観察した。これらの天体は宗教的に崇拝され、現代からすれば非科学的な現象の説明もされたが、これがのちの天文学や物理学へと成長する。", "title": "物理学の概略史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "16世紀以前のヨーロッパにおいて科学は、キリスト教的な要素を含んだアリストテレスの自然哲学が主流であった。アリストテレスは物質の振る舞いを「目的論」(もしくは「目的因」)によって説明し、例えば天体が地球の周りを回るのは回転しようとする目的があるためだとした。自然哲学は観測よりも哲学を重視したため、試行的な試験で事象を説明する現代科学とは性質が異なる。また、この時既に数学は中東やエジプトなどで発達していたが、自然哲学的な物理に使われることはなかった。", "title": "物理学の概略史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし古代ギリシアにおいて実証的な考え方がされていなかったわけではなく、紀元前3世紀のアルキメデスは自然哲学では無視されていた数学を自然と結びつけ、数学や物理に数々の貢献をした。続くヒッパルコスやプトレマイオスなども幾何学や天文学を発達させた。また、アリストテレスの時代より前の紀元前5世紀にはすでにレウキッポスやデモクリトスなどがそれまでの超自然的説明を否定して自然現象には原因となる理論があるとして原子の存在などを考えていた。", "title": "物理学の概略史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "中世のイスラームの学者は、他のギリシャ文化と共にアリストテレスの物理学を継承した。その黄金期には観察と先験的な推論に重点を置いた初期の科学的方法を発展させた。最も注目すべきは、イブン・サール、アル・キンディー、イブン・アル・ハイサム、アル・ファリス、アビセナ等による視覚と視力の分野である。アル・ハイサムが書いた「光学の本(Kitābal-Manāẓir)」は視覚に関する古代ギリシャの考え方を最初に反証したばかりでなく、新しい理論を作り出した。この本では史上初、ピンホールカメラの現象を研究することで、目自体の仕組みをさらに詳しく調べた。解剖学と既存の知識を使って、どのように光が目に入り、焦点が合い、目の後ろに投影されるかを説明したのである。さらに、現代の写真撮影の開発から数百年前に、既にカメラ・オブスクラを発明した。", "title": "物理学の概略史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", 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"宇宙物理学の分野でも1990年代から2000年代にかけて大きな進展が見られた。特に1990年代以降、大口径望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡・COBE・WMAP などの宇宙探査機によって格段に精度の良い観測データが大量に得られるようになり、宇宙論の分野でも定量的で精密な議論が可能になった。ビッグバン理論及びインフレーションモデルに基づく現代のΛ-CDM宇宙モデルはこれらの観測とよく合致しているが、反面、ダークマターの正体や宇宙の加速膨張を引き起こしていると考えられるダークエネルギーの存在など、依然として謎となっている問題も残されている。これ以外に、ガンマ線バーストや超高エネルギー宇宙線の起源なども未解決であり、これらを解明するための様々な宇宙探査プロジェクトが進行している。", "title": "近年の状況" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "凝縮物質の物理において、高温超伝導の理論的説明は、未解明の問題として残されている。量子ドットなど単一の電子・光子を用いたデバイス技術の発展により、量子力学の基礎について実験的検証が可能になってきており、さらにはスピントロニクスや量子コンピュータなどへの応用展開が期待される。", "title": "近年の状況" } ]
物理学(ぶつりがく、は、自然科学の一分野である。
{{Redirect|物理|岡山県にあった自治体「物理(もどろい)村」|瀬戸地域}} {{複数の問題 |独自研究=2021年3月 |参照方法=2010年6月 |出典の明記=2016年3月9日 (水) 21:56 (UTC) }} {{ページ番号|date=2016年3月}} {{Wikibooks|物理学|物理学}} {{物理学}} {{読み仮名|'''物理学'''|ぶつりがく|{{Lang-en-short|physics}}}}は、[[自然科学]]の一分野である<ref>{{ジャパンナレッジ|468}}</ref><ref>{{コトバンク}}</ref>。 == 概論 == [[古代ギリシア]]の[[自然哲学]]という言葉も、元々は自然についての一般的な知識の追求を意味しており、[[天文現象]]から生物現象までを含む幅広い概念だった。19世紀から、物理現象のみを追求する「{{lang|en|physics}}」として自然哲学から独立した意味を持つようになった。 物理学の古典的な研究分野は、[[物体]]の[[力学]]、[[光]]と[[色]]、[[音]]、[[電気]]と[[磁性]]、[[熱]]、[[波動]]、[[天体]]の諸現象(物理現象)である。[[化学]]、[[生物学]]、[[地球科学|地学]]などほかの自然科学に比べ[[数学]]との親和性が非常に強い。 === 物理現象の微視的視点と巨視的視点 === 材料力学や[[流体力学]]は巨視的現象の法則からなる独立した物理学上の理論体系である。ここで注意しなければならないのは材料力学や流体力学はそれらの適用範囲においては、他の理論から完全に閉じた理論体系として存在していることである。 現代の物理学は、たとえば素粒子論がある一方で熱力学があるように、巨視的現象の理論と微視的現象を記述する力学とをつなぐ理論や現象も、重要なテーマとして研究されている。一般的にこの分野では統計物理学と呼ばれる強力な手法が使われる。[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]らによって開発されたこの手法は、構成粒子の振る舞いを統計的に処理することによって、巨視的現象と結びつけるものである。{{要出典|date=2021年3月}} === 物理学と数学 === [[ファイル:Physics Book.jpg|thumb|right|250px|物理学にとって[[数学]]は欠くことのできない道具である。自然現象を[[数式]]によって定量的に記述していくことは、物理学における基本的な方法論のひとつであり、どんな教科書にも[[方程式]]が、特に[[微分方程式]]が、よく登場する。この写真は物理学の教科書の一例で、熱・統計力学に関する本。]] 物理学では、[[理論]]や[[モデル (自然科学)|モデル]]を[[数式]]として表現することが多い。「{{要出典範囲|これは、[[自然言語]]で記述するとどうしても厳密さに欠け、定量的な評価や複雑な推論をすることが難しいためである|date=2021年3月}}。数学は非常に強力な記号操作体系であるため、推論を一連の計算として実行することが可能なことと、複雑なモデルを正確・簡潔に表現することに適している。{{誰|date=2021年3月}}」 物理学の研究において最も重要なステップの一つは、物理法則を数式に表現する前の段階、観測された事実の中から記述すべき基本的な要素を抽出する行為である{{要出典|date=2010年6月}}。[[電磁気学]]に貢献した[[マイケル・ファラデー]]が正規の教育を受けなかったため、数学的知識がなかったにもかかわらず、さまざまな発見を成し遂げたことや、[[ノーベル賞]]を受賞した[[リチャード・P・ファインマン]]が[[液体ヘリウム]]について論じた論文や[[ジョージ・ガモフ]]が初めて[[ビッグバン]]理論を提唱した論文には数式が出てこないことは、自然界の中に記述すべき対象を見つけ出す営みが物理学において重要なステップであるということを示している{{要出典|date=2010年6月}}。 === 物理学の発展と拡張 === 物理学の歴史は一見異なる現象を、同一の法則の異なる側面であるとして、統一的に説明していく歴史でもあった{{要出典|date=2010年6月}}(物理学の歴史そのものについては後述)。 地上付近での物体の落下と[[月]]の運動を同じ[[万有引力]]によるものとした[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の重力の理論は、それまであった惑星の運動に関する[[ケプラーの法則]]や、ガリレイの落体運動の法則が万有引力の別の側面であることを示した。[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]は、それまで[[アンドレ=マリ・アンペール]]や[[マイケル・ファラデー]]らが個別に発見していた電気と磁気の法則が、[[電磁気]]という一つの法則にまとめられることを導き、電磁波の存在を理論的に予言し、[[光]]が[[電磁波]]の一種であることを示した。 20世紀に入ると[[アルベルト・アインシュタイン]]が[[相対性理論]]によって、時間と空間に関する認識を一変させた。彼はさらに重力と電磁気力に関する統一場理論の研究に取り組んだが実現しなかった。しかし、その後も統一場理論に関する研究は他の研究者たちによって続けられ、新しく発見された[[核力]]も含めて統一しようとする努力が続けられた。1967年頃[[電磁気力]]と[[弱い相互作用|弱い力]]に関する統一場理論([[ワインバーグ・サラム理論]])が提唱され、後の実験的な検証により理論の正当性が確立した。この理論により、電磁気力と弱い力は同じ力の異なる側面として説明されることになった。 自然界に存在する[[重力]]、[[電磁気力]]、[[強い相互作用|強い力]]、[[弱い相互作用|弱い力]]の四つの相互作用のうち、上記の電弱統一理論を超えて、電磁気力、強い力、弱い力に関する統一場理論である[[大統一理論]]、重力、電磁気力、強い力、弱い力の四つの相互作用全てに関する統一場理論(例えば、[[超弦理論]]が候補)が研究されているが、実験的に検証されておらず、現在においても確立には至っていない(しばしば、上記の四つの相互作用に関する統一場理論は、既存の物理現象がその理論一つを基礎として理解できると考えられるため、[[万物の理論]]と呼ばれることがある)。 古典的な物理学では、物理現象が発生する[[空間]]と[[時間]]は、物理現象そのものとは別々のものと考えられてきたが、[[重力]]の理論([[一般相対性理論]])によって、物質の存在が空間と時間に影響を与えること、物質とエネルギーが等価であることが解明されたことから、[[現代物理学]]では、物理現象に時間と空間、物質と[[エネルギー]]を含める。 === 他分野との親和性 === 物理学はほかの[[自然科学]]と密接に関係している。物理学で得られた知見が非常に強力なために、他の自然科学の分野の問題の解決に寄与することも多く、[[生物学]]、[[医学]]など他の分野との連携も進んでいる。特に[[化学]]においては密接に関連する分野が多く、特に物理学的な手法を用いる分野として[[物理化学]]という分野が設けられている。[[生物学]]においても、[[生物]]の骨格や筋肉を力学的に考察したり、遺伝子レベルでの解析や進化の物理的考察を行う[[分子生物学]]がある。[[地球科学]]においても[[地球]]を物理的な手法を用いて研究する[[地球物理学]]があり、[[地震学]]・[[気象学]]・[[海洋物理学]]・[[地球電磁気学]]等は地球物理学の代表的な分野であるといえる。 今日の物理学は自然科学のみならず[[人文科学]]・[[社会科学]]とも関係している。人文科学においては[[哲学]]との学際領域に[[自然哲学]]がある。また、[[心理学]]も[[精神物理学]]を通じて物理学と関係している。社会科学においては[[中学校]]・[[高等学校]]における教科としての物理は[[教育学]]と密接に関係しており、[[経済]]現象を物理的に解明する[[経済物理学]]は[[経済学]]との学際的分野であるといえる。 == 物理学の概略史 == {{出典の明記|section=1|date=2010年6月}}{{Main|物理学の歴史}} === 古代 === [[ファイル:Ptolemaic system of the universe.jpg|サムネイル|プトレマイオスの天動説|250x250ピクセル]] [[天動説]]や[[暦]]の作成などの[[天文学]]が最古の物理学である。初期文明である[[シュメール]]人、[[古代エジプト]]人、[[インダス文明]]などは太陽や月などの天体を観察した。これらの天体は宗教的に崇拝され、現代からすれば非科学的な現象の説明もされたが、これがのちの天文学や物理学へと成長する<ref>{{Cite web|url=http://abyss.uoregon.edu/~js/ast121/lectures/lec02.html|title=History of Astronomy|accessdate=2017-1-10|publisher=}}</ref>。 [[16世紀]]以前のヨーロッパにおいて科学は、キリスト教的な要素を含んだ[[アリストテレス]]の[[自然哲学]]が主流であった<ref name=":2" />。アリストテレスは物質の振る舞いを「[[目的論]]」(もしくは「目的因」)によって説明し、例えば[[天体]]が[[地球]]の周りを回るのは回転しようとする目的があるためだとした<ref name=":2">{{Cite book|和書|author=|title=現代物理の世界がわかる: アリストテレスの自然哲学から超弦理論まで|date=|year=2002|publisher=ベレ出版|pages=10-11|last=和田|first=純夫|month=6|isbn=9784939076992|NCID=BA57399468}}</ref>。自然哲学は[[観測]]よりも[[哲学]]を重視したため、試行的な試験で事象を説明する現代科学とは性質が異なる。また、この時既に数学は中東やエジプトなどで発達していたが、自然哲学的な物理に使われることはなかった<ref name=":0">{{Cite web|url=http://physics.about.com/od/physicshistory/a/GreekPhysics.htm|title=Physics of the Greeks|accessdate=1月10日2017年|author=Andrew Zimmerman Jones|publisher=About Education}}</ref>。{{Seealso|自然哲学}}しかし古代ギリシアにおいて実証的な考え方がされていなかったわけではなく、紀元前3世紀の[[アルキメデス]]は自然哲学では無視されていた数学を自然と結びつけ、数学や物理に数々の貢献をした。続く[[ヒッパルコス]]や[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]なども幾何学や天文学を発達させた<ref name=":0" />。また、アリストテレスの時代より前の紀元前5世紀にはすでに[[レウキッポス]]や[[デモクリトス]]などがそれまでの[[超自然]]的説明を否定して自然現象には原因となる理論があるとして[[原子]]の存在などを考えていた<ref name=":0" />。 === 中世 === [[中世]]の[[イスラーム]]の学者は、他のギリシャ文化と共にアリストテレスの物理学を継承した。その黄金期には観察と先験的な推論に重点を置いた初期の[[科学的方法]]を発展させた。最も注目すべきは、[[イブン・サール]]、[[キンディー|アル・キンディー]]、[[イブン・ハイサム|イブン・アル・ハイサム]]、アル・ファリス、アビセナ等による視覚と視力の分野である。アル・ハイサムが書いた「[[光学]]の本(Kitābal-Manāẓir)」は視覚に関する古代ギリシャの考え方を最初に反証したばかりでなく、新しい理論を作り出した。この本では史上初、[[ピンホールカメラ]]の現象を研究することで、目自体の仕組みをさらに詳しく調べた。[[解剖学]]と既存の知識を使って、どのように光が目に入り、焦点が合い、目の後ろに投影されるかを説明したのである。さらに、現代の写真撮影の開発から数百年前に、既に[[カメラ・オブスクラ]]を発明した<ref>Howard, Ian; Rogers, Brian (1995). ''Binocular Vision and Stereopsis''. Oxford University Press. {{ISBN2|978-0-19-508476-4}}, p. 6-7</ref>。 全7冊の「光学の本(Kitab al-Manathir)」は、600年以上にわたって、東洋と西洋の中世の芸術における視覚の理論から、視点の性質への学問全体の考え方に大きな影響を与えた。 [[ロバート・グロステスト]]や[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]から、[[ルネ・デカルト]]、[[ヨハネス・ケプラー]]、[[アイザック・ニュートン]]まで、後世の多くのヨーロッパの学者や思想家が影響を受けている。 === 近代科学 === {{Seealso|近代科学}} [[ファイル:Newtons cradle animation book.gif|サムネイル|『自然哲学の数学的諸原理』と「[[ニュートンのゆりかご]]」]] 近世に入り、[[科学的研究法]]の発展の中で[[実験]]による理論検証の重要性が認識され始めた。[[16世紀]]後半、[[ガリレオ・ガリレイ]]は力学現象の研究を行い、[[落体の法則]]と[[慣性の法則]]を見出した<ref>{{Harvnb|物理学史I|1968|pp=57-61}}</ref>。[[1687年]]に[[アイザック・ニュートン]]は『[[自然哲学の数学的諸原理]]』を出版した<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|物理学史I|1968|p=79}}</ref>。ニュートンの示した理論は、ガリレイらの発見した法則を一般化し、包括的な説明を与えることに成功した。ニュートンの理論の中で最も基礎的な法則として、[[運動の法則]]と[[万有引力|万有引力の法則]]が挙げられる。これらの法則は、[[天体]]の運行などの観測結果をよく説明することができた。ニュートン自身は力学法則を[[幾何学]]を用いて記述したが、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]など後世の研究者によってそれらの理論は[[代数学]]的に記述されるようになった。[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]、[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]らは古典力学を徹底的に拡張し、新しい定式化、原理、結果を導いた<ref>{{harvnb|アン・ルーニー|2015|p=80}}</ref>。重力の法則によって宇宙物理学の分野が起こされた。宇宙物理学は物理理論をもちいて天体現象を記述する。 [[18世紀]]から、[[ロバート・ボイル]]、[[トマス・ヤング]]ら大勢の学者によって熱力学が発展した。[[1733年]]に、[[ダニエル・ベルヌーイ]]が熱力学的な結果を導くために古典力学とともに統計論を用いた。これが[[統計力学]]の起こりである。[[1798年]]に、[[ベンジャミン・トンプソン|ランフォード]]は力学的仕事が熱に変換されることを示した<ref>{{Harvnb|物理学史I|1968|pp=202-203}}</ref>。1820年代には[[サディ・カルノー]]が[[カルノーサイクル]]による熱力学の研究を行い<ref>{{harvnb|アン・ルーニー|2015|pp=91-92}}</ref>、1840年代に、[[ジェームズ・プレスコット・ジュール]]は力学的エネルギーを含めた熱についてのエネルギーの保存則を証明した<ref>{{Harvnb|物理学史I|1968|pp=206-208}}</ref>。1850年には[[ルドルフ・クラウジウス]]が[[熱力学第一法則]]および[[熱力学第二法則]]を定式化した<ref>「宇宙を解く唯一の科学 熱力学」p75-83 ポール・セン著 水谷淳訳 河出書房新社 2021年6月30日初版発行</ref>。 === 電磁気学の発達 === [[ファイル:Maxwell's laws.jpg|サムネイル|マクスウェルの方程式]] 電気と磁気の挙動は[[マイケル・ファラデー]]、[[ゲオルク・オーム]]らによって研究された。[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]は[[1855年]]から[[1864年]]までに発表した3つの論文で、[[マクスウェルの方程式]]で記述される[[電磁気学]]という単一理論で二つの現象を統一的に説明した<ref name=":1">{{Harvnb|物理学史II|1968|pp=24-31}}</ref>。この理論によって[[光]]は[[電磁波]]であると予言された<ref name=":1" />。この予言は後に[[ハインリヒ・ヘルツ]]によって実証された<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|p=34}}</ref>。 [[1895年]]に[[ヴィルヘルム・レントゲン]]が[[X線]]を発見し、[[1896年]]には[[アンリ・ベクレル]]が[[ウラン]]の[[放射能]]を、[[1898年]]には[[ピエール・キュリー]]と[[マリ・キュリー]]がウランよりも強力な放射能を持つ[[ラジウム]]を発見した<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|p=47}}</ref>。これが[[核物理学]]の起こりとなった。 [[原子]]の存在そのものは[[紀元前5世紀]]に[[レウキッポス]]と[[デモクリトス]]の[[原子論]]によって想定されていたが<ref>{{harvnb|アン・ルーニー|2015|pp=18-20}}</ref>、近代的な原子論は[[1808年]]に[[ジョン・ドルトン]]によって提唱された<ref>{{harvnb|アン・ルーニー|2015|p=31}}</ref>。[[ジョセフ・ジョン・トムソン]]は[[1899年]]に、原子よりもはるかに小さな質量を持ち、負の[[電荷]]を持つ[[電子]]の発見を発表し<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|p=105}}</ref>、[[1904年]]には、最初の[[原子]]のモデルを提案した<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|pp=134-135}}</ref>。このモデルは現在[[ブドウパンモデル|プラムプディング模型]]として知られている<ref>{{harvnb|アン・ルーニー|2015|p=112}}</ref>。 === 現代物理学 === {{Main|現代物理学}} [[1905年]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]は[[特殊相対性理論]]を発表した<ref name="名前なし-1"/>。アインシュタインの相対性理論において、[[時間]]と[[空間]]は独立した実体とは扱われず、[[時空]]という一つの実体に統一される。相対性理論は、[[ニュートン力学]]とは異なる[[慣性系|慣性座標系]]間の変換を定める。相対速度の小さな運動に関して、ニュートン力学と相対論は近似的に一致する。このことはニュートン力学の形式に沿って定式化された[[相対論的力学]]において明確になる。 [[1915年]]、アインシュタインは特殊相対性理論を拡張し、一般相対性理論で重力を説明した。特殊相対論によって、[[力学]]と[[電磁気学]]の理論は整合的に説明できるようになったが、[[重力]]に関してはニュートンの[[万有引力|万有引力の法則]]以上の満足な説明を与えることができなかった。一般相対論によって、重力の作用を含めた包括的な説明ができるようになった。一般相対論において、ニュートンの万有引力の法則は低質量かつ低エネルギーの領域における近似理論と見なすことができた。 [[1911年]]に、[[アーネスト・ラザフォード]]の下で[[原子]]の研究が進展し、その時の[[ラザフォード散乱|散乱実験]]から、電荷を持つ物質を核とする原子像([[ラザフォード模型]])が提唱された<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|pp=140-141}}</ref>。[[原子核]]を構成する正電荷の粒子は[[陽子]]と呼ばれる。電気的に中性な構成物質である[[中性子]]は[[1932年]]に[[ジェームズ・チャドウィック]]によって発見された<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|p=200}}</ref>。 [[1900年代]]初頭に、[[マックス・プランク]]、アインシュタイン、[[ニールス・ボーア]]たちは[[量子論]]を発展させ、離散的な[[エネルギー準位]]の導入によってさまざまな特異な実験結果を説明した。[[1925年]]に[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]らが<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|p=191}}</ref>、そして[[1926年]]に[[エルヴィン・シュレーディンガー]]と[[ポール・ディラック]]が[[量子力学]]を定式化し<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|p=198}}</ref>、それによって[[前期量子論]]は解釈された。量子力学において物理測定の結果は本質的に確率的である<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|p=61}}</ref>。つまり、理論はそれらの確率の計算法を与える。量子力学は小さな長さの尺度での物質の振る舞いをうまく記述する。 また、量子力学は[[凝縮系物理学]]の理論的な道具を提供した。凝縮系物理学では[[誘電体]]、[[半導体]]、[[金属]]、[[超伝導]]、[[超流動]]、[[磁性体]]といった現象、物質群を含む[[固体]]と[[液体]]の物理的振る舞いを研究する。凝縮系物理学の先駆者である[[フェリクス・ブロッホ]]は、結晶構造中の電子の振る舞いの量子力学的記述を[[1928年]]に生み出した<ref>{{Harvnb|物理学史II|1968|p=202}}</ref>。 [[第二次世界大戦]]の間、核爆弾を作るという目的のために、研究は核物理の各方面に向けられた。ハイゼンベルクが率いたドイツの努力は実らなかったが、連合国の[[マンハッタン計画]]は成功を収めた。アメリカでは、[[エンリコ・フェルミ]]が率いたチームが[[1942年]]に最初の人工的な[[連鎖反応 (核分裂)|核連鎖反応]]を達成し、[[1945年]]に[[アメリカ合衆国]][[ニューメキシコ州]]の[[アラモゴード]]で世界初の[[核爆弾]]が爆発した。 場の量子論は、特殊相対性理論と整合するように量子力学を拡張するために定式化された。それは、[[リチャード・P・ファインマン]]、[[朝永振一郎]]、[[ジュリアン・セイモア・シュウインガー]]、[[フリーマン・ダイソン]]らの仕事によって[[1940年代]]後半に現代的な形に至った。彼らは[[電磁相互作用]]を記述する[[量子電磁力学]]の理論を定式化した。 [[場の量子論]]は[[基本相互作用|基本的な力]]と素粒子を研究する現代の素粒子物理学の枠組みを提供した。[[1954年]]に[[楊振寧]]と[[ロバート・ミルズ]]は[[ゲージ理論]]という分野を発展させた。それは[[標準模型]]の枠組みを提供した。[[1970年代]]に完成した標準模型は今日観測される素粒子のほとんどすべてをうまく記述する。 場の量子論の方法は、多粒子系を扱う統計物理学にも応用されている。[[松原武生]]は場の量子論で用いられる[[グリーン関数]]を、[[統計物理学]]において初めて使用した。このグリーン関数の方法は[[ロシア]]の[[アレクセイ・アブリコソフ]]らにより発展され、固体中の電子の磁性や超伝導の研究に用いられた。 == 近年の状況 == <!--[[Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは未来を予測する場ではありません|ウィキペディアでは未来の予測は書いてはいけない]]。近年の状況くらいならば、かろうじて、書いて良い。近年の状況も、割合としては少量にとどめる。もしもここ2~3年の情報を乱雑に、各人の思いつきで箇条書きなどで記述して、情報の集積場にしてしまうと、それはそれで[[ウィキペディアは何ではないか]]の規定に抵触する。ルールを熟読せよ。--> [[2018年]]時点において、物理学の多くの分野で研究が進展している。 [[スーパーカミオカンデ]]の実験から[[ニュートリノ]]の質量が0でないことが判明した。このことを理論の立場から理解しようとするならば、既存の標準理論の枠組みを越えた理解が必要である。質量のあるニュートリノの物理は現在理論と実験が影響しあい活発に研究されている領域である。今後数年で[[加速器|粒子加速器]]による[[TeV]](テラ電子ボルト)領域のエネルギー尺度の探査はさらに活発になるであろう。実験物理学者はそこで[[ヒッグス粒子]]や[[超対称性粒子]]の証拠を見つけられるのではないかと期待している。 量子力学と一般相対性理論を[[量子重力]]の単一理論に統合するという半世紀以上におよぶ試みはまだ結実していない。現在の有望な候補は[[M理論]]と[[ループ量子重力理論]]である。 [[宇宙物理学]]の分野でも1990年代から[[2000年代]]にかけて大きな進展が見られた。特に1990年代以降、大口径[[望遠鏡]]や[[ハッブル宇宙望遠鏡]]・[[COBE]]・[[WMAP]] などの[[宇宙探査機]]によって格段に精度の良い観測データが大量に得られるようになり、[[宇宙論]]の分野でも定量的で精密な議論が可能になった。[[ビッグバン]]理論及び[[宇宙のインフレーション|インフレーションモデル]]に基づく現代の[[Λ-CDM宇宙モデル]]はこれらの観測とよく合致しているが、反面、[[暗黒物質|ダークマター]]の正体や宇宙の加速膨張を引き起こしていると考えられる[[ダークエネルギー]]の存在など、依然として謎となっている問題も残されている。これ以外に、[[ガンマ線バースト]]や[[超高エネルギー宇宙線]]の起源なども未解決であり、これらを解明するための様々な[[宇宙探査プロジェクト]]が進行している。 [[凝縮物質の物理]]において、[[高温超伝導]]の理論的説明は、未解明の問題として残されている。[[量子ドット]]など単一の電子・光子を用いたデバイス技術の発展により、量子力学の基礎について実験的検証が可能になってきており、さらには[[スピントロニクス]]や[[量子コンピュータ]]などへの応用展開が期待される。<!--NTT基礎研の高柳先生が公演で仰ってました。--> == 主要な分野の一覧 == === 学問体系 === * [[力学]]--[[解析力学]]--[[古典力学]]--[[量子力学]]--[[相対論的量子力学]]--[[場の量子論]] * [[熱力学]]--[[統計力学]]--[[量子統計力学]]--[[非平衡統計力学]] * [[連続体力学]]--[[流体力学]] * [[電磁気学]]--[[光学]]--[[特殊相対論]]--[[一般相対論]] === 研究方法 === * [[理論物理学]] * [[実験物理学]] * [[数理物理学]] * [[計算物理学]] === 専門分野 === * [[素粒子物理学]]([[高エネルギー物理学]]) * [[原子核物理学]]([[核物理学]])--[[核構造物理学]]--[[核反応]]論--[[ハドロン]]物理学 * [[天文学]]--[[天体物理学]]--[[宇宙物理学]]--[[宇宙論]] * [[原子物理学]]--[[分子物理学]]--[[高分子物理学]] * [[物性物理学]]([[凝縮系物理学]])--[[固体物理学]]--[[磁性物理学]]--[[金属物理学]]--[[半導体物理学]]--[[低温物理学]]--[[表面物理学]]--[[非線形物理学]]--[[流体力学]]--[[物性基礎論]]--[[統計物理学]]--[[数理物理学]]) * [[プラズマ物理学]]--[[電磁流体力学]] * [[音響学]] === 関連分野・境界領域 === * [[数学]]--[[物理数学]]--([[数理物理学]]) * [[数値解析]]--[[計算機科学]]--([[計算物理学]]) * [[化学]]--[[物理化学]]--[[量子化学]]--[[分析化学]] * [[生物学]]--[[生物物理学]]--[[分子生物学]] * [[工学]]--[[応用物理学]] * [[地球科学]]--[[地球物理学]]([[地球電磁気学]]--[[地震学]]--[[海洋物理学]]--[[気象学]]) * [[医学]]--[[医療物理学]]--[[放射線物理学]]--[[保健物理学]] * [[哲学]]--[[自然哲学]]--[[物理学の哲学]] * [[心理学]]--[[精神物理学]] * [[教育学]]—教科としての物理学 * [[経済学]]--[[経済物理学]] * [[量子デバイス]]・[[量子コンピュータ]]・[[量子通信]]・[[量子暗号]] === 手法 === * [[科学的研究法]]--[[測定]]--[[計測機器]]--[[次元解析]]--[[統計学]]--[[計算物理学]]--[[近似法]]--[[摂動論]]--[[調和振動子]] == 基礎概念の一覧 == {{See also|物理学用語一覧}} * [[物質]]--[[反物質]] * [[力 (物理学)|力]]--[[相互作用#物理学|相互作用]] * [[時間]]--[[空間]]--[[次元]]--[[時空]]--([[量子重力]]) * [[対称性]]--[[保存則]]--([[量子異常]]--[[自発的対称性の破れ]]) * [[光]]--[[波動|波]]--[[磁気]]--[[電気]]--[[電磁波]] * [[量子]]--[[波動関数]]--[[量子絡み合い]]--[[観測問題]] * [[ボース粒子]]--[[フェルミ粒子]]--[[超対称性]] * [[場の量子論]]--[[標準模型]] === 物理量 === {{Main|物理量}} * [[質量]]--[[エネルギー]]--[[温度]] * [[位置]]--[[変位]]--[[長さ]] * [[速度]]--[[運動量]]--[[角運動量]]--[[スピン角運動量|スピン]] * [[力 (物理学)|力]]--[[モーメント]]--[[トルク]] * [[エントロピー]] === 基本的な4つの力 === {{Main|基本相互作用}} * [[重力相互作用]]([[万有引力]])--[[電磁相互作用]]--[[弱い相互作用]]--[[強い相互作用]] === 物質の構成要素 === * [[分子]]--[[原子]]--[[核子]] * [[素粒子]]--[[光子]]--[[ウィークボソン]]--[[グルーオン]]--[[重力子]]--[[電子]]--[[ミューオン]]--[[タウ粒子]]--[[ニュートリノ]]--[[クォーク]]--[[メソン]]--[[バリオン]]--[[超対称性粒子]]--[[アキシオン]]--[[モノポール]] * [[弦理論|弦]] * [[ダークマター]] == 図表の一覧 == * [[物理学用語一覧]] -- [[物理法則一覧]] -- [[物理定数]] * [[国際単位系|SI基本単位]] -- [[SI組立単位]] -- [[SI接頭語]] -- [[計量単位一覧]] -- [[単位換算]] * [[物理学者一覧]]--[[ノーベル物理学賞]] * [[原子核崩壊図]]--[[分光学データ]] == 図 == <gallery> File:Senenmut-Grab.JPG|古代エジプト天文学。 File:Pinhole-camera.svg|ピンホールカメラの基本的な原理。 File:Modernphysicsfields.svg|理論物理学の基本分野 File:Pahoeoe fountain original.jpg|放物線状溶岩流 File:Prediction_of_sound_scattering_from_Schroeder_Diffuser.jpg|音響拡散器から反射した音の音響工学モデル File:Military_laser_experiment.jpg|レーザーの実験 File:Lightning_in_Arlington.jpg|稲妻は一種の電流である。 File:Bruce_McCandless_II_during_EVA_in_1984.jpg|宇宙飛行士と地球 File:Acceleration_components.JPG|微積分の応用 File:Hubble_ultra_deep_field_high_rez_edit1.jpg|ハッブル超深場 File:Feynman'sDiagram.JPG|ファインマン・ダイアグラム File:Meissner_effect_p1390048.jpg|超電導のマイスナー効果。 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=奥田毅 |title=文科の物理 |publisher=内田老鶴圃 |date=1987 |edition=改装 |ncid=BN03841957 }} * {{Cite book|和書|author=広重徹|authorlink=広重徹|title=物理学史 |volume=I |series=新物理学シリーズ / [[山内恭彦]]監修, 5 |publisher=[[培風館]] |ncid=BN00957321 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新聞学
新聞学(しんぶんがく)は、以下の意味で用いられる。 1916年、カール・ビュッヒャー(ドイツ語版)の尽力により、ライプツィヒ大学に「新聞学 (Zeitungswissenschaft)」の名を冠した研究所(現在はライプツィヒ大学メディア・コミュニケーション研究所(ドイツ語版))が設立され、正式な初代代表者となったのは、1926年から1933年に代表を務めたエリック・エフェルト(ドイツ語版)であった。1926年には、『Zeitungswissenschaft(新聞学)』と題した最初の学術誌が、カール・デスター(ドイツ語版)とヴァルター・ハイデ(ドイツ語版)によって創刊された。1930年代には、ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学にも新聞学部門が設けられた。その主任であったエミール・ドヴィファート(ドイツ語版)は、長きにわたる闘争と幾多の議論を経て、映画やラジオもすべて新聞学の研究対象に含まれるものとし、新聞学の拡張を行なった。新聞学は、コミュニケーション学の先駆けであったと考えられる。 日本の大学には、もっぱら新聞学について教育する部門として新聞学科などが設けられている場合がある。 1932年、上智大学の専門部に新聞科が設置された。これは1948年に、学制改革を経て文学部新聞学科となった。GHQの指導により、戦後の1946年には早稲田大学政治経済学部に新聞学科がつくられた(1966年に新規募集を停止)。その前後、慶應義塾大学(1946年10月、新聞研究室)、明治大学(1946年、新聞高等研究科)、日本大学(1947年9月、法文学部新聞学科、のち法学部新聞学科)、関西大学(1949年4月、文学部新聞学科、のち社会学部メディア専攻)が同時期の学制改革として続く。なお、東京大学では、東京帝国大学に1929年設立した文学部新聞研究室を戦後の1949年に改組して新聞研究所となった。この新聞研究所は、1992年に社会情報研究所と名称変更して、現在の東京大学大学院情報学環・学際情報学府に吸収された。 1951年に日本新聞学会が設立され、日本におけるマス・コミュニケーション研究の中心的な学会となっていたが、1991年の決定に基づいて、学会の名称は1993年に日本マス・コミュニケーション学会へ改められた。 日本新聞学会が1952年から刊行していた学術誌『新聞学評論』は、学会名の改称を受けて、1993年から『マス・コミュニケーション研究』と改題された。
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新聞学(しんぶんがく)は、以下の意味で用いられる。 大衆伝達(マス・コミュニケーション)による情報の供給と世論の形成過程を研究する学問。学問としてのジャーナリズム。 印刷媒体、特に新聞(Zeitung)と雑誌(Zeitschrift)とを研究する学問。ツァイトゥングス・ヴィッセンシャフト(Zeitungswissenschaft)。
'''新聞学'''(しんぶんがく)は、以下の意味で用いられる。 * 大衆伝達([[マス・コミュニケーション]])による[[情報]]の供給と[[世論]]の形成過程を研究する学問<ref>{{Cite book|和書|title=記号学小辞典|date=1992年11月1日|year=|publisher=同学社|page=114}}</ref>。学問としての[[ジャーナリズム]]。 * 印刷媒体、特に[[新聞]](Zeitung)と[[雑誌]](Zeitschrift)とを研究する学問<ref>{{kotobank|新聞学|世界大百科事典 第2版}}</ref><ref>{{kotobank|新聞学|デジタル大辞泉}}</ref>。ツァイトゥングス・ヴィッセンシャフト(Zeitungswissenschaft)。 == ドイツの新聞学(ツァイトゥングス・ヴィッセンシャフト) == {{Main|de:Zeitungswissenschaft}} [[1916年]]、{{仮リンク|カール・ビュッヒャー|de|Karl Bücher}}の尽力により、[[ライプツィヒ大学]]に「新聞学 (Zeitungswissenschaft)」の名を冠した研究所(現在は{{仮リンク|ライプツィヒ大学メディア・コミュニケーション研究所|de|Institut für Kommunikations- und Medienwissenschaft der Universität Leipzig}})が設立され、正式な初代代表者となったのは、[[1926年]]から[[1933年]]に代表を務めた{{仮リンク|エリック・エフェルト|de|Erich Everth}}であった。[[1926年]]には、『''Zeitungswissenschaft''(新聞学)』と題した最初の学術誌が、{{仮リンク|カール・デスター|de|Karl d’Ester}}と{{仮リンク|ヴァルター・ハイデ|de|Walther Heide}}によって創刊された。[[1930年代]]には、[[ベルリン]]の[[フンボルト大学ベルリン|フリードリヒ・ヴィルヘルム大学]]にも新聞学部門が設けられた。その主任であった{{仮リンク|エミール・ドヴィファート|de|Emil Dovifat}}は、長きにわたる闘争と幾多の議論を経て、[[映画]]や[[ラジオ]]もすべて新聞学の研究対象に含まれるものとし、新聞学の拡張を行なった。新聞学は、[[コミュニケーション学]]の先駆けであったと考えられる。 == 日本の新聞学 == === 新聞学科 === [[日本]]の[[大学]]には、もっぱら新聞学について教育する部門として新聞学科などが設けられている場合がある。 [[1932年]]、[[上智大学]]の専門部に新聞科が設置された<ref name="sophia-j">{{Cite web|和書|url=http://www.info.sophia.ac.jp/sophiaj/jukennsei/ayumi/ayumi.htm|title=学科の歩み|publisher=上智大学文学部新聞学科|accessdate=2013-04-09}}</ref><ref>[http://www.info.sophia.ac.jp/sophiaj/jalumni/history.html 新聞学科同窓会の歩み 新聞学科1931年~2002年]</ref>。これは[[1948年]]に、学制改革を経て[[上智大学大学院文学研究科・文学部|文学部新聞学科]]となった<ref name="sophia-j" />。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の指導により、戦後の[[1946年]]には[[早稲田大学政治経済学部]]に新聞学科がつくられた([[1966年]]に新規募集を停止)<ref>[http://www.waseda-j.jp/aboutus/history/j-his 早稲田大学とジャーナリズム | Journalism School]</ref>。その前後、[[慶應義塾大学]](1946年10月、新聞研究室)、[[明治大学]](1946年、新聞高等研究科)、[[日本大学]](1947年9月、法文学部新聞学科、のち[[日本大学法学部・大学院法学研究科及び新聞学研究科|法学部新聞学科]])、[[関西大学]](1949年4月、文学部新聞学科、のち社会学部メディア専攻)<ref>{{Cite journal|和書|author=水野由多加 |title=[研究ノート] 関西大学社会学部メディア専攻の前史 |journal=関西大学社会学部紀要 |ISSN=02876817 |publisher=関西大学社会学部 |year=2013 |month=dec |volume=45 |issue=1 |pages=129-138 |naid=120005688030 |url=https://hdl.handle.net/10112/8403}}</ref>が同時期の学制改革として続く。なお、[[東京大学]]では、[[東京帝国大学]]に1929年設立した文学部新聞研究室を戦後の1949年に改組して[[新聞研究所]]となった。この新聞研究所は、1992年に[[社会情報研究所]]と名称変更して、現在の[[東京大学大学院情報学環・学際情報学府]]に吸収された。 === 学会 === [[1951年]]に日本新聞学会が設立され、日本における[[マスコミュニケーション|マス・コミュニケーション]]研究の中心的な学会となっていたが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jmscom.org|title=日本マス・コミュニケーション学会(旧称・日本新聞学会)のご案内|publisher=[[日本マス・コミュニケーション学会]]|accessdate=2013-04-14}}</ref>、[[1991年]]の決定に基づいて、学会の名称は[[1993年]]に[[日本マス・コミュニケーション学会]]へ改められた<ref>{{cite news|newspaper=読売新聞・東京朝刊|date=1991-06-02|title=新聞学会を改称 「日本マス・コミュニケーション学会」に|page=30}} - ヨミダス歴史館にて閲覧</ref>。 日本新聞学会が[[1952年]]から刊行していた学術誌『新聞学評論』は、学会名の改称を受けて、[[1993年]]から『マス・コミュニケーション研究』と改題された<ref>{{Cite web|和書|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000095184-00|title=マス・コミュニケーション研究 日本マス・コミュニケーション学会 編|publisher=国立国会図書館|accessdate=2013-04-14}}</ref>。 == 出典・脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[小野秀雄]] {{社会学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しんふんかく}} [[Category:メディア・スタディーズ]] [[Category:コミュニケーション学]] [[Category:社会学の分野]]
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ソクラテス
ソクラテス(ソークラテース、英語: Socrates、古代ギリシア語: Σωκράτης Sōkrátēs ギリシア語発音: [sɔːkrátɛːs]、紀元前470年頃 – 紀元前399年)は、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者である。西洋哲学の基礎を築いた人物の1人として、特に、西洋道徳哲学(倫理学)の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人として認識されている。謎めいた人物であり、ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため、弟子の主に彼の死後に執筆を行った古代の作者たち、特に彼の弟子のプラトンとクセノフォンの著作を通して知られている。 同年代の他の出典としては、アンティステネス、アリスティッポス、スフェトスのアエシネス(英語版)の著作がある。劇作家のアリストファネスは、ソクラテスの存命中にソクラテスに言及した演劇を執筆した同年代の主な作家であるが、キオス島のイオン(英語版)の断片である『旅行記』(英語: Travel Journal)は、ソクラテスの若さに関する重要な情報を提供している。 プラトンの対話篇は、古代から残されたソクラテスに関する最も包括的な著述であり、この著作により、倫理学と認識論の分野でのソクラテスの貢献が知られるようになった。ソクラテスのアイロニーやソクラテスの対話法、あるいはエレンコス(英語: elenchus、反対論証)を有名にしたのは、このプラトンが描いたソクラテスである。しかし、実在したソクラテスとプラトンの対話篇でのソクラテスの描写との違いに関しては、疑問が残されている。 ソクラテスは、後代の古代の哲学者たちと現代の哲学者たちに絶大な影響を及ぼした。芸術、文学、ポピュラーカルチャーの中でのソクラテスの描写により、ソクラテスは西洋哲学伝統の中で最も広く知られる人物の一人になった。 釈迦、キリスト、孔子と並び四聖人(四聖)に数えられる。 生前のソクラテスと直接面識・交流があった人物による、ソクラテスの言行・人物像について述べられたまとまったテキストで、今日まで伝わっているものとしては、ソクラテスの死後に書かれた、 がある。(他には、ソクラテス存命中に発表された喜劇作家アリストパネスの作品『雲』もあるが、こちらは戯画化された登場人物にソクラテスの名を冠しているだけで、実際のソクラテスの人物像理解にはあまり参考にならない。) 後世のテキストとしては、アリストテレスの『形而上学』第1巻におけるわずかな言及を除けば、約600年後に伝聞情報をまとめた、 がある。 したがって、一般的にソクラテスの人物像や思想の推定は、クセノポンとプラトンの著作を土台とし、さらにディオゲネスの『列伝』情報で補強する形で行われる。 クセノポンとプラトンが描いているソクラテスの人物像は、 など、概ね共通している。 しかし、決定的に異なるのが、クセノポンが『ソクラテスの思い出』(メモラビリア)の第4巻第7章において、ソクラテスが、 といった有用性・実用性に欠けるものを学ぶことに賛成しなかった(他の哲学者たちのように、そうした「神々の領域」に踏み込むことは、不毛かつ良くない危険なことであり、その時間・労力を「人間の領分」における他の有用な学習・探求に当てるべきと考えた)と述べている点である。(同様な内容の記述は、同書の第1巻第1章などにも見られる。) プラトンが対話篇で描くソクラテスは、クセノポンが描く場合と同じく敬神的ではあるものの、イデア論の萌芽が見える初期の『クラテュロス』の頃から徐々にプラトン自身の思想の代弁者となり、中期以降に至ってはピュタゴラス派やエレア派の徒と交わりながら、イデア論を展開したり、魂の肉体からの浄化(カタルシス)を主張したり、弁証術と並んで幾何学の教育の重要性を説いたり、宇宙や冥府の構造について盛んに言及したがるなど、イタリア半島的・アカデメイア的な哲学者然とした佇まいが顕著になるが、クセノポンが描く実際のソクラテス像は、もっと人間社会・国家にとっての有用性・実用性を重視し、実学を好んだ人物像となっている。(さらに、同書『思い出』の第3巻第8章・第4巻第6章などでは、ソクラテスにとっての(個別具体的な事物の中に存する)「美・善」とは、あくまでも人間にとっての個別具体的な様々な需要の充足性と不可分に結びついた、具体的かつ相対的なものであったこと、すなわちプラトンのイデア論とはむしろ対極的なものであったことが、述べられている。) また、クセノポンはヘルモゲネスから聞いた話として、裁判前のソクラテスは、老齢によって身体・思考・記憶が衰え、これまでのような「善き生き方」を全うできなくなることへの懸念を持っていて、裁判を自分の人生の幕引きにはいい機会と捉えていたことを、『ソクラテスの思い出』や『ソクラテスの弁明』で暴露しており、そうした面には触れずに「愚かな大衆に追いやられた悲劇的な死」を印象付けるプラトンの描き方とは一線を画している。(また、実際にソクラテスが「老齢に引っ張られて思考・記憶が衰える」と考えていたとすると、「身体から独立した不滅の魂」を主張するプラトンの思想、中でも特に、『パイドン』等で述べられているように、全人生をかけて人間(哲学者)として最高度に魂を鍛えてイデアの想起(アナムネーシス)と身体からの浄化(カタルシス)を行ってきたはずの、プラトンが描くソクラテス像にとっては、矛盾した都合の悪い事実となる。) 父は彫刻家ないし石工のソプロニスコス、母は助産婦のパイナレテとされる。アテナイに生まれ、生涯のほとんどをアテナイに暮らした。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦い(英語版)で重装歩兵として従軍した。青年期には自然科学に興味を持ったとの説もあるが、晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念した。 プラトンの『ソクラテスの弁明』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って問答(エレンコス,ἔλεγχος)することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。 しかし、実際に賢者と世評のある政治家や詩人などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。それぞれの技術に熟練した職人達ですら、たしかにその技術については知者ではあるが、そのことを以って他の事柄についても識者であると思い込んでいた。 こうした経験を経て、彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているのだと理解しつつ、その正しさに確信を深めていくようになり、更には、「神託において神がソクラテスの名を出したのは一例」に過ぎず、その真意は、「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになる。こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神への奉仕」として、ソフィスト達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず、極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことをライフワークとするようになる。 これらの説明をそのまま鵜呑みにするならば、後世への影響のあり方はさておき、知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、「神々(神託)への素朴な畏敬・信仰」と「人智の空虚さの暴露」(悔い改めの奨励、謙虚・節度の回復)を根本動機としつつ、「自他の知見・霊魂を可能な限り善くしていく」ことを目指すという。(彼の知の探求と神々への畏敬の関係は動機と手段の関係とも、手段と動機の関係とも言える) (古代ギリシャの伝統的な世界観・人間観では、例えばヘシオドスの『神統記』に、嘲笑的に「死すべき人間たち」という表現が繰り返し出てくること等からもわかるように、「世界を司り、恒久的な寿命と超人的な能力を持つ」神々に対し、人間は「すぐに死に行くはかなく無知な存在」「神々には決してかなわない卑小な存在」と考えられていた。また、ソクラテスも影響を受けたデルポイのアポロン神託所、その入り口に「汝自身を知れ」(分をわきまえろ、身の程を知れ)や「度を越すことなかれ」といった言葉が刻まれていることからもわかるように、古代ギリシャ人にとっては、「節制」(節度)がとても重要な徳目であった。ソクラテスの思想・言動は、基本的にはこれら古代ギリシャ当時の伝統的な考え方に則り、それを彼なりに継承・反復したものだったと言える。) ソクラテスは当時、賢人と呼ばれていた政治家や詩人達、さらには手工者をはじめとして、様々な人を次々に訪ね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を検証するために対話を行なった。その結果、彼らの無知に対する無自覚ぶりと、無知を自覚している自分の優越性、神託の正しさを確信し、決意と使命感を持ってその活動にのめり込んでいくこととなり、ソクラテスが賢者であるという評判が広まる一方で、無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった。更に、暇を持て余した富裕市民の息子達はソクラテスを面白がって追い回し、その試問を傍聴し、その中からは影響されて試問を模倣する者達も現れ、そんな青年達の試問の餌食となった人々もまた、ソクラテスへの憎悪を募らせることとなった。 又、そんなソクラテスを、喜劇作家のアリストパネスが『雲』において、「地下ならびに天上の事象を探求し、悪事を曲げて善事となし、かつ他人にもこれらのことを教授する。」といった、自然哲学者とソフィストを混ぜ合わせたような怪しい人物として描いて揶揄し、大衆にその印象を広めたり、ペロポネソス戦争で講和を破って戦争を再開した挙句、敵国スパルタに亡命し、アテナイの敗北を招いたアルキビアデスや、その後の三十人政権の指導者となったクリティアスなどが、ソクラテスに教えを施された弟子であったと見なされていたことも、ソクラテスを攻撃する絶好の口実となった。 このため、ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。告訴の背景には、上記の他にもペロポネソス戦争とその後の暴政(三十人政権)など複雑な事情があったと考えられる。 ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑(毒殺刑)を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。 神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。 紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。この顛末は、弟子であるプラトンの著作『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にくわしく書かれている。(ただし『パイドン』は、中期の作品であり、プラトン自身の思想がかなり強く反映されている。) ソクラテスには、カイレポン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアス等々、「弟子」と看做されている人々が数多くいるが『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテス自身は「使命を果たさんとして語るとき、誰かそれを聴くことを望む者があれば、青年であれ老人であれ、何人に対してもそれを拒むことはなかった」「(報酬を貰って教えるソフィスト達とは違い)貧富の差別なく何人の質問にも応じ、問答してきた」だけであって「かつて何人にも授業を約束したことも授けたこともなく」「いまだかつて何人の師にもなりはしなかった」と考えていた。 ソクラテスの家族については、クセノポンやプラトンの著作でも一部言及されているが、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』のうち、ソクラテスについて記述した第2巻第5章に、特に詳細にまとめられている。 それによると父親は石工(彫刻家)ソプロニスコス、母親は産婆パイナレテであり、アテナイのアロペケ区(英語版)で生まれ育った。 妻はクサンティッペと、「義人」ことアリステイデスの娘ミュルトの2人であったとされる。2人の妻がいたのは、当時のアテナイが人口不足を解消するために議決した一夫多妻政策(法律上の妻は1人に限るが、ほかの女性との間に子供を設けてもよい、とする措置)に沿ったものであったとされる。クサンティッペ、ミュルトいずれが正妻であったか、またどの順で結婚したか、あるいは同時に結婚したのであるかどうかは定かでなく、『列伝』ではそれらの諸説が併記されている。 クサンティッペとの間にランプロクレス、ミュルトとの間にソプロニスコス、メネクセノスの、計3名の息子をもうけた。 クサンティッペは口やかましく激情的な性格だったことが各資料の記述からうかがえ、『列伝』の他にも、プラトンの『パイドン』での大声で泣きわめく記述や、クセノポンの『ソクラテスの思い出』第2巻第2章での母親の口やかましさに反抗する息子ランプロクレスを諭すソクラテスの記述、同じくクセノポンの『饗宴』第2章にてアンティステネスがソクラテスに妻クサンティッペについて問い質す記述がある。 ソクラテスの思想は、内容的にはイオニア学派の自然哲学者たちに見られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える。「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」という当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある。 それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての、「無知の自覚」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度 にある。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」、そういった彼の姿勢が、その数多くの内容的な欠陥・不備・素朴さにもかかわらず、半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く、卓越した人物であると看做される要因となり、哲学者の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。 ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』第1巻序章の記述によると、イオニア学派が始めた「自然哲学(自然学)」、イタリア学派(ピュタゴラス派・エレア派)が始めた「数理哲学・論理哲学(論理学)」に対して、ソクラテスは第3の哲学としての「道徳哲学(倫理学)」の祖に位置付けられる。 ソクラテスが後世に名をはせることになった理由としては、彼の弟子の中に、古代ギリシャの哲学者にして著述家であり、アカデメイアの創設者でもあるプラトンがいたこと、そして、そのプラトンが自身の著作の中心的な登場人物として、師であるソクラテスを用いたことを、挙げることができる。 また彼の弟子達の多種多様な思想展開からもわかるように、着眼点によって様々な解釈が可能な、多面的な性格を持ち合わせていた思想家であったとも言える。ちなみに、相当皮肉屋な人物であったようで、死刑が確定し、妻のクサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて!」と嘆いた時も、「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」といったといわれる。 柄谷行人によると、人間社会は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬(贈与とお返し)」。人類史で見れば、原始社会や氏族社会は交換様式Aの原理から成り立つ。二つ目は、被支配者は支配者に対して税や年貢を支払い、その見返りとして、生命財産の保護を受け、公共事業や福祉などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」。三つ目の交換様式Cは、資本主義社会で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指す。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、ギリシャのソクラテスもまた交換様式Dを開示したとみられる。 ソクラテスの一見わかりづらい思想態度を理解するには、彼の生きた当時の時代背景や、ギリシャ世界におけるアテナイの立ち位置を知ることが、いくらか助けになる。 まず、彼に先行する哲学者やソフィスト達は、ほとんどがアナトリア半島(小アジア半島)沿岸や黒海周辺、あるいはイタリア半島の出身であり、ギリシャ世界における知的活動は、こういった植民市・辺境地によって先導されてきたものであり、アテナイを含むギリシャ中心地域は、それと比べると、古くからの神話や伝統に依存した保守的な土地柄であったという全体像を確認しておく必要がある。 ソクラテスが生きた紀元前5世紀当時のアテナイは、ペルシャ戦争を経てギリシャ世界の中心地としての地位を確立し、最盛期を迎えると共に、徹底した民主政が確立された時代から、ペロポネソス戦争の敗戦後状況による社会的、政治的混乱を経て没落していく時代にまたがっている。当然そこには、辺境地の哲学者達の知識や、優秀なソフィスト達が集まってくるし、民主政における処世術や弁論術を学ぶべく、彼らは歓迎されることになる。こうして古くからの神話・伝統に寄りかかった旧秩序が崩れ、徳・弁論術の講釈に長けたソフィスト達、唯物論・無神論的な自然哲学者(『ソクラテスの弁明』においては、アナクサゴラスがその代表として持ち出される)の知識などが新旧入り乱れ、アテナイの知的環境は混乱する。 ソクラテスの思想は、こういった引き裂かれた知的混乱状況の中、アテナイ人としての保守性と知的好奇心・合理的思考の狭間で揺れ動きつつ、どれにも与し得ないまま、誰の意見もが無知・思い込みを孕んだ怪しいものであることの経験的発見と、神々への信仰心が独特な形で結びつくことで成立したものだと言える。そのため、彼の思想的立場は、アテナイの保守層とも、外来・辺境のソフィスト・哲学者とも合致せず、そのどれに対しても相対的で、「無知の知」を投げかける特殊なものとなっている。 しかし、ペロポネソス戦争の敗戦とその後の三十人政権による恐怖政治に対する怨念が渦巻くアテナイでは、ソクラテスは他のソフィストや唯物論・無神論哲学者達と同類の、アテナイを堕落させた危険思想家の一人と看做され、政治的に敵視されることとなり、ソクラテスは裁判にかけられ、(死を恐れないと豪語し自説を決して曲げない姿勢が心象を悪くしたこともあって)死刑となる。 ソクラテスはアポロンの託宣を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。その結果、彼は知者を僭称する独断論者たちの無知を暴くための論争に明け暮れることになる。 彼の「無知の自覚」(近年では、無知の知とは誤解で、「不知の自覚」とも訳される)を背景とした知・無知に対するこだわり(とその効用)は、『ソクラテスの弁明』の終盤、死刑が確定した後の、死についての自身の見解を聴衆に語るくだりにおいて鮮明かつ象徴的に見て取ることができる。彼はそこで、(後に弟子のプラトンがオルペウス教(ピタゴラス教団)的な輪廻転生説に嵌っていくのとは対照的に)死後のことについては一切わからないという不可知論の立場を採る (死刑確定前の弁明においても、「死後のことを知っている者など誰もいないのに、人々はそれを最大の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざることを知れりと信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取ることに他ならない。私は死後のことについては何も知らない代わりに、知っていると妄信もしない。」といった趣旨の発言をしており、ソクラテスがここに相当のこだわりを持っていたことがうかがえる)。しかし一方で、彼は死は自身にとって、禍ではなく、一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が虚無に帰することであり、全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるとしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるし、ホメロスやヘシオドスと交わったり、オデュッセウスやシシュフォスと問答することもできる、どちらにしろ幸福である、というわけである。であるがゆえに、死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福である。 このように、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができるし、ひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができ、だから死を恐れずに善き生をまっとうできる、対照的に、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまずき、知りもしないことに踊らされ、翻弄され、そうはならない、といった具合に、「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し、「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。 ただし、ここでもその前後で「ダイモニオン」による諫止がなかったからこの死は善いことであるとか、「善人に対しては生前にも死後にもいかなる禍害も起こりえない、また神々も決して彼の事を忘れない」ことを真理と認める必要があるとか付言していることからもわかるように、ソクラテスの「無知の知」を背景とした抑制した態度は、単なる不可知論や相対主義に終始するものではなく、また論理的帰結のみに頼るものでもなく、常にそこを補う神々への素朴で楽観的な信仰などの「独断」と抱き合わせで成り立っていることに注意が必要と言える。ソクラテスの思想には全般にわたってこういった二面性が孕まれている。 また一般に、ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開する。その方法は自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということで「産婆術(助産術)」と呼ばれている。ソクラテスのもちいた問答法は、相手の矛盾や行き詰まりを自覚させて、相手自身で真理を発見させた。こうして知者と自認する者の無知を晒させた。こういった、意図を隠したとぼけた態度は、エイロネイア(イロニー)と呼ばれる。 プラトンが描くソクラテス像に則るならば、ソクラテスの業績・営みの特徴は、人生や社会に関わる抽象概念や曖昧な事柄を明確化しようとしたことにあると言える。ポリスの自由市民達が尊ぶ徳・正義・善・敬虔・節制(分別)・勇気......とは一体何なのか、あるいは、それを教えると称するソフィスト達、彼らが駆使する社会操縦術(説得術)である弁論術(レトリケー)等は、一体何であるのか、そういった曖昧なまま放置されている物事を、再度入念に吟味・検証することを彼は要求する。そして、そのためには、一方通行のまま疑問に答えてくれない弁論や書物では役に立たず、しっかりと質疑応答を経て合意を重ねながら対象を深く探求していける問答が必要になる。 なお、話をわかりやすくするために、そういった抽象概念や曖昧な事柄を、具体的・実用的な事柄に置き換えつつ問うのも、彼の特徴の一つだと言える。例えば、「医者は医術を教え、彫刻家は〜、建築家は〜、大工は〜、鍛冶屋は〜、靴屋は〜、ではソフィストは何を教えるのか?」などが典型である。また、抽象概念同士の関係性や数、一致性・不一致性、範疇・所属なども執拗に問うていく。こういった飽くなき概念の明晰化の追求、知識・人間の吟味と向上、これが彼の考えた愛知(哲学)の営みだと推察できる。 こういった一見現実社会に直接役立ちそうもない重箱の隅をつつくような思索を、青年期を過ぎてなお延々と続ける「子供じみた」営みと断定する人々、特に目の前の社会運営を優先する穏健で「大人な」人々や、弱肉強食な自然観・社会観を持っている「諦念的な」人々を苛立たせる。そして、『ゴルギアス』に登場するカルリクレスや、『国家』に登場するトラシュマコスなどのように、公然とソクラテスを非難する人々も出てくることになる。しかしながら、そうしてソクラテスを非難する人々が拠って立っている考えの曖昧さですら、ソクラテスにとっては明確化の対象であり、そういった人々もまた、格好のカモとして、ソクラテスの明確化の渦の中に巻き込まれていくことになる。 こうして、タレースなどミレトス学派(イオニア学派)に始まる自然哲学とは対照的な、人間・社会にまつわる概念を執拗に吟味・探求する哲学がソクラテスによって開始され、後にその弟子であるプラトン、更にその弟子であるアリストテレスが、(ピタゴラス教団やエレア派の影響を受けつつ)形而上学をそこに持ち込むことによって、その両者(「自然」と「人間・社会」)のあり方の説明を、包括的に一つの枠組みに統合・合理化したという見解が、一般的に広く受け入れられている。 彼の最も重視した概念はよい生き方としてのアレテー(αρετη、arete徳)である。「人間としての善=徳」という意味で、人間のアレテーは魂をよりよくすることであり、刑罰もそのために有効だとする。また、アレテーを実践する者の人生は幸福であるとも主張した。しかし、これはプラトンの考えという説もある。なぜなら、ソクラテスは著書を残していないからである。 『ソクラテスの弁明』の続編である『クリトン』において、死刑を待ち、拘留されているソクラテスに逃亡を促しに来た弟子のクリトンに対して、彼は「国家」「国法」という架空の対話者を持ち出し、「我々の庇護の下でおまえの父母が結婚し、おまえが生まれ、扶養され、教育された。祖国とは、父母や祖先よりも貴く、畏怖され、神聖なものである。また、この国家(アテナイ) が気に入らなければ、いつでも財産を持って外国や植民地に移住することが認められているのにもかかわらず、おまえは70歳の老人になるまで、ここに留まり、家庭をもうけ、ほとんど外国に行くことすらなかった。したがって、我々とおまえの間には合意と契約が成立しているのにもかかわらず、今さらそれを一方的に破棄して、逃亡を企てようというのか?そのような不正が許されるのか?」と彼自身を非難させ、クリトンに逃亡の説得を諦めさせた。 これは、中世・近代に様々に展開していくことになる社会契約論の原型とも言える。彼の弟子であるプラトンや、その弟子であるアリストテレスも、徳の概念と関連させつつ、様々な国家論を論じていくことになる。 ソクラテスは、徳(善き生)などについての考えの形成(魂の世話)を、ソフィストのような他者の手に納得しないまま安易に委ねることを嫌った。そして、自身の考え(あるいは、「ダイモニオン」)に従い、おかしいと思うことは相手が誰であろうと忌憚無く問い、正しいと思うことは誰に反対されようとも実践すべきであることを身を以て示した。その結果、彼は自ら死刑を受け入れることになる。 ソクラテスは時折「ダイモニオン」(超自然的・神的な合図・徴(しるし))を受け取ることがあったという。そして、それが彼の考えや行動の重要な指針にもなっている。彼によると、それは幼年時代からあらわれるようになった、一種の声(幻聴)であり、常に何事かを諫止・禁止する形であらわれ、何かを薦める形ではあらわれない。なお、こういったことを放言していたことが、「国家の信ずる神々を信ぜずして他の新しき神霊(ダイモニア)を信ずる」といった訴状の内容にも影響を与えたと考えられる。 ソクラテスは、書記言語が野放しの状態で広まることを激しく非難していた。 ソクラテスは、話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである。 ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからである。 ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた。 ソクラテスは、よりよく知識を伝えるには、相手の理解に合わせて問いを投げかけて考えを促し、誤解を避けるために表現を選び、知識を伝える適切なタイミングを計ることが必要であり、それができるのは書物ではなく対話だけだと考えていた。 ソクラテスは自説を著作として残さなかったため、今日ではその生涯・思想共に他の著作家の作品を通してうかがい知ることができるのみである。これは「ソクラテス問題」として知られる一連の問題を発生させている。 同時代の作家の内、劇作家・詩人のアリストパネスは戯曲『雲』においてギリシャのソフィストたちを揶揄し、その筆頭としてソクラテスを挙げている。ここではソクラテスの言動は揶揄のために誇張されていると考えられる。 同じくソクラテスの弟子であるプラトンの記した一連の対話篇にはソクラテスが頻繁に登場する。しかしながら、特に『メノン』以降のソクラテスはプラトンの思想を表現するための人物として利用されている感がある。 他の弟子による文章の一部やプラトンの弟子にあたるアリストテレスによる記述をはじめ、後世の著作家による記述も残っている。 ソクラテスの弟子の一人とされるクセノポンは『ソクラテスの思い出』などソクラテスに関する文章を記しており、今日まで比較的よく保存されている。ただし、西洋哲学の場においては「一切の哲学はプラトンの注釈である」と言われるように、ソクラテスについての理解もプラトンの著作と思想(プラトン主義)を通じて行われる厚い伝統があり、クセノポンの描くソクラテスは通俗的で哲学者としての力量をとらえきれていないとする風潮がある。 また、ソクラテスは容姿はグロテスクで弟子のプラトンに「我が師ソクラテスは世界で1番醜い。しかし1番賢い。」と言われていた。 『ソクラテスの思い出』(以下『思い出』と略)でクセノポンが繰り返し強調しているのは、ソクラテスは「神々が目に見えないと言う理由で信じない者は、自分の心も目に見えないものであるということを忘れている」としている。クセノポンのソクラテスの態度はキリスト教の伝統的神秘主義に近い。 この書でのダイモニオンについてのソクラテスの解説はキリスト教の聖霊論に非常に類似している。また、「最高善」というものについては、ソクラテスが「人間は結局のところ何が最善なのか知り得ないのだから」と言って、神々にただ「善きものを与えたまえ」と祈るように勧めたという逸話もキリスト教の主祷文に通じる。根本的に違うのは、「敵を愛せよ」というナザレのイエスの教えがソクラテスにおいては、あたかも意図的であるかのように全く逆さまに書かれている点である(イエスの時代はソクラテスの時代の約四百年後)。これは、戦争に参加もしたソクラテスの根本姿勢がアテナイ民主制の伝統的価値観に依拠していることによるのであり、この点においてソクラテスをナザレのイエスよりも孔子に引き寄せて評価する立場もある。概して『思い出』におけるソクラテスはプラトンの登場人物としてのソクラテスよりも明瞭に宗教的人物である。 クセノポンは、ソクラテスは自分が裁判に訴えられたと知るとすぐさま反論を組み立て始めたが、ダイモニオンがそれを制止したと書いている。 ストア派の創始者であるキティオンのゼノンは商人時代に書店で『思い出』に出会ったことから哲学の道に入った。一般にストア派におけるソクラテスの影響はプラトンではなく、クセノポンを通じてのものである。 ソクラテスが死後の哲学に与えた影響は計り知れないほど大きく、エピクロス派とピュロン派を除けば、ソクラテス以降ほとんどの哲学の起源が彼に求められる。ヘレニズムの時代における代表的な例としてはプラトンのアカデメイア、アリストテレスのリュケイオン、キュニコス派、ストア派などが中でもソクラテスの影響を強く受けた哲学の学派として挙げられる。そしてソクラテスの哲学に対する関心は紀元3世紀まで拡大し続けた。また、ソクラテス自身が人生の目的やアレテーとはいったい何かという問いに対し答えを示さなかったことにより、この時代の様々な学派はそれぞれの答えを主張し、ソクラテスの思想に異なる解釈をした。他にも彼によって、この時代から哲学の関心は自然界の理解から人間の理解へと移ってゆくことになる。 そして中世になるとソクラテスの思想は、アリストテレスやストア学派の思想と並んで、イスラム中東に伝わった。プラトンのソクラテスに関する著作や他の古代ギリシャ文学は、アル・キンディー、ジャビール・イブン・ハイヤーン、ムゥタズィラといった初期のイスラム学者によってアラビア語に翻訳され、その中でソクラテスは、生き方に哲学を反映させる人物として、ムハンマドと対比され賞賛された。それに伴い中東ではソクラテスの教義はイスラムの信仰に合う形で改変されることになる。例としてこの時代のイスラムの学者は、ソクラテスを一神教と死後の救済を主張する哲学者として記している。これらによって、アラビア語圏におけるソクラテスの影響は現在もなお続いている。 また、ビザンツ帝国の下でもラクタンティウス、エウセビオス、アウグスティヌスなどのキリスト教神学者たちにより、ソクラテスに関する著作は保存され、キリスト教的観点から研究された。コンスタンティノープル陥落後も、多くの文献はローマ・キリスト教世界に持ち替えられ、そこでラテン語に翻訳されることになるものの、初めのうちはキリスト教徒によって懐疑的に扱われた。 しかしイタリア・ルネサンス初期に入り、ソクラテスに関する2つの物語が書かれ、一方で人文主義運動が高まることによって、作家たちはソクラテスに対する関心を復活させてゆくことになった 。 近世フランスでは、さまざまな小説や風刺劇の中で、ソクラテスの哲学的思想よりもむしろ彼の私生活に焦点が置かれた。この時代、無神論で告発されたキリスト教徒のソクラテスを描いたテオフィル・ド・ヴィアウのように、同時代の論争を浮き彫りにするためにソクラテスを利用した思想家もいれば、ヴォルテールのようにソクラテスを理性に基づく神学者の象徴として扱う見方もあった。ミシェル・ド・モンテーニュは、ソクラテスを当時の宗教狂信者に対抗する合理主義と結びつけ、ソクラテスについて幅広く書いたことでも知られる。 18世紀には、ドイツ観念論、主にヘーゲルの著作を通じて、ソクラテスに対する哲学的関心が復活した。ヘーゲルは、ソクラテスは、自由な主観性あるいは自己決定の原則を哲学に導入することによって、人類の歴史における転換点を作ったと考えた。しかしヘーゲルはソクラテスの功績を称える一方で、ソクラテスの自己決定への主張はシトリヒカイト(国家の制度や法律によって形成される生き方を意味するヘーゲルの言葉)を破壊するものであるとして、アテネの議会の判決を正当化する一面もある。またヘーゲルは、ソクラテスが合理主義を用いるのは、プロタゴラスが人間の理性に焦点を当てたこと(「人間は万物の尺度である」というモットーに集約されている)を継承したものであり、現実について客観的な結論に到達するのに役立つのは我々の理性である、と言い換えたものであると見ている。加えて、ヘーゲルはソクラテスを古代における懐疑哲学の先駆者とみなしたが、その理由を明確に説明することはなかった。 またセーレン・キルケゴールはソクラテスを師と仰ぎ、彼に関する修士論文『ソクラテスの継続的参照とアイロニーの概念』を執筆した。そこでは、ソクラテスは道徳哲学者ではなく、純粋にアイロニストであると論じている。彼はまた、ソクラテスが書くことを避けたことにも注目した。キルケゴールよると彼が文字によって語ることを避けたのは、ソクラテスが自分の無知を受け入れたことに由来する謙虚さの表れであるという。そして彼はプラトンの『弁明』だけが本当のソクラテスのに近いとし、キルケゴールは著作群の中で何度もソクラテスについて言及し、後年の著作ではソクラテスの思想から倫理学的な要素を見出した。ソクラテスはキルケゴールにとって研究対象であっただけでなく、理想像でもあった。キルケゴールは哲学者としての自分のあり方をソクラテスになぞらえていた。キリスト教が形式にとらわれ本来の意味を見失っていると考えた彼は、「自分の仕事はソクラテスの仕事であり、キリスト教徒であることが何であるかの定義を考えることである」と語り、こうしてキルケゴールは、ソクラテスが知識の所有を否定したように、自身がキリスト教徒であることを否定した。 一方でフリードリヒ・ニーチェはソクラテスの西洋文化への影響を批判した。最初の著書『悲劇の誕生』(1872年)では、紀元前4世紀以降の古代ギリシャ文明の劣化の責任はソクラテスにあるとした論じた。またニーチェにとってソクラテスは、哲学の範囲をソクラテス以前の自然主義から合理主義や知識主義に変えた責任があるとした。彼は自身の著書の中で、「私はソクラテスではなく、彼以前の哲学者こそが古代ギリシアの先導者であると考えている。」「エンペドクレスとデモクリトスによってギリシアは人間存在、その理不尽さ、苦しみを正く理解する道を歩んでいた。しかしソクラテスのせいで人類はその答えに辿り着けないでいる」と批判する。つまり、ニーチェは、人間の文化が倒錯しているのは、今日の西洋文化がソクラテスより継承された文化であるからだと考えた。また後に出版された『偶像の黄昏』(1887年)において、ニーチェはソクラテスに対する批判を続け、ソクラテス的思考法における理性と美徳や幸福との恣意的な結びつきに焦点を当てた。 20世紀の大陸哲学者のハンナ・アーレント、レオ・シュトラウス、カール・ポパーは、全体主義体制の台頭、第二次世界大戦の恐怖を体験した後、ソクラテスに対し良心の象徴としての見方を強めた。アーレントは『エルサレムのアイヒマン』(1963年)の中で、ソクラテスの絶え間ない問いかけと自己反省が、悪の凡庸性を防ぐことができると示唆している。またシュトラウスは、ソクラテスの政治思想はプラトンと類似していると考え、プラトンの『共和国』に登場するソクラテスの主張が、民主的なポリスが理想的な国家形態でないことを例証していると考える。そしてポパーは、ソクラテスはプラトンの全体主義思想に反対していると主張する。ポパーにとって、ソクラテスの個人主義やアテネの民主主義は、『開かれた社会とその敵』(1945年)で述べられているポパーの「開かれた社会」の概念を反映していると語る。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ソクラテス(ソークラテース、英語: Socrates、古代ギリシア語: Σωκράτης Sōkrátēs ギリシア語発音: [sɔːkrátɛːs]、紀元前470年頃 – 紀元前399年)は、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者である。西洋哲学の基礎を築いた人物の1人として、特に、西洋道徳哲学(倫理学)の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人として認識されている。謎めいた人物であり、ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため、弟子の主に彼の死後に執筆を行った古代の作者たち、特に彼の弟子のプラトンとクセノフォンの著作を通して知られている。 同年代の他の出典としては、アンティステネス、アリスティッポス、スフェトスのアエシネス(英語版)の著作がある。劇作家のアリストファネスは、ソクラテスの存命中にソクラテスに言及した演劇を執筆した同年代の主な作家であるが、キオス島のイオン(英語版)の断片である『旅行記』(英語: Travel Journal)は、ソクラテスの若さに関する重要な情報を提供している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "プラトンの対話篇は、古代から残されたソクラテスに関する最も包括的な著述であり、この著作により、倫理学と認識論の分野でのソクラテスの貢献が知られるようになった。ソクラテスのアイロニーやソクラテスの対話法、あるいはエレンコス(英語: elenchus、反対論証)を有名にしたのは、このプラトンが描いたソクラテスである。しかし、実在したソクラテスとプラトンの対話篇でのソクラテスの描写との違いに関しては、疑問が残されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ソクラテスは、後代の古代の哲学者たちと現代の哲学者たちに絶大な影響を及ぼした。芸術、文学、ポピュラーカルチャーの中でのソクラテスの描写により、ソクラテスは西洋哲学伝統の中で最も広く知られる人物の一人になった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "釈迦、キリスト、孔子と並び四聖人(四聖)に数えられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "生前のソクラテスと直接面識・交流があった人物による、ソクラテスの言行・人物像について述べられたまとまったテキストで、今日まで伝わっているものとしては、ソクラテスの死後に書かれた、", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "がある。(他には、ソクラテス存命中に発表された喜劇作家アリストパネスの作品『雲』もあるが、こちらは戯画化された登場人物にソクラテスの名を冠しているだけで、実際のソクラテスの人物像理解にはあまり参考にならない。)", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "後世のテキストとしては、アリストテレスの『形而上学』第1巻におけるわずかな言及を除けば、約600年後に伝聞情報をまとめた、", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "がある。", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "したがって、一般的にソクラテスの人物像や思想の推定は、クセノポンとプラトンの著作を土台とし、さらにディオゲネスの『列伝』情報で補強する形で行われる。", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "クセノポンとプラトンが描いているソクラテスの人物像は、", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "など、概ね共通している。", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし、決定的に異なるのが、クセノポンが『ソクラテスの思い出』(メモラビリア)の第4巻第7章において、ソクラテスが、", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "といった有用性・実用性に欠けるものを学ぶことに賛成しなかった(他の哲学者たちのように、そうした「神々の領域」に踏み込むことは、不毛かつ良くない危険なことであり、その時間・労力を「人間の領分」における他の有用な学習・探求に当てるべきと考えた)と述べている点である。(同様な内容の記述は、同書の第1巻第1章などにも見られる。)", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "プラトンが対話篇で描くソクラテスは、クセノポンが描く場合と同じく敬神的ではあるものの、イデア論の萌芽が見える初期の『クラテュロス』の頃から徐々にプラトン自身の思想の代弁者となり、中期以降に至ってはピュタゴラス派やエレア派の徒と交わりながら、イデア論を展開したり、魂の肉体からの浄化(カタルシス)を主張したり、弁証術と並んで幾何学の教育の重要性を説いたり、宇宙や冥府の構造について盛んに言及したがるなど、イタリア半島的・アカデメイア的な哲学者然とした佇まいが顕著になるが、クセノポンが描く実際のソクラテス像は、もっと人間社会・国家にとっての有用性・実用性を重視し、実学を好んだ人物像となっている。(さらに、同書『思い出』の第3巻第8章・第4巻第6章などでは、ソクラテスにとっての(個別具体的な事物の中に存する)「美・善」とは、あくまでも人間にとっての個別具体的な様々な需要の充足性と不可分に結びついた、具体的かつ相対的なものであったこと、すなわちプラトンのイデア論とはむしろ対極的なものであったことが、述べられている。)", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、クセノポンはヘルモゲネスから聞いた話として、裁判前のソクラテスは、老齢によって身体・思考・記憶が衰え、これまでのような「善き生き方」を全うできなくなることへの懸念を持っていて、裁判を自分の人生の幕引きにはいい機会と捉えていたことを、『ソクラテスの思い出』や『ソクラテスの弁明』で暴露しており、そうした面には触れずに「愚かな大衆に追いやられた悲劇的な死」を印象付けるプラトンの描き方とは一線を画している。(また、実際にソクラテスが「老齢に引っ張られて思考・記憶が衰える」と考えていたとすると、「身体から独立した不滅の魂」を主張するプラトンの思想、中でも特に、『パイドン』等で述べられているように、全人生をかけて人間(哲学者)として最高度に魂を鍛えてイデアの想起(アナムネーシス)と身体からの浄化(カタルシス)を行ってきたはずの、プラトンが描くソクラテス像にとっては、矛盾した都合の悪い事実となる。)", "title": "典拠と人物像" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "父は彫刻家ないし石工のソプロニスコス、母は助産婦のパイナレテとされる。アテナイに生まれ、生涯のほとんどをアテナイに暮らした。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦い(英語版)で重装歩兵として従軍した。青年期には自然科学に興味を持ったとの説もあるが、晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "プラトンの『ソクラテスの弁明』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って問答(エレンコス,ἔλεγχος)することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかし、実際に賢者と世評のある政治家や詩人などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。それぞれの技術に熟練した職人達ですら、たしかにその技術については知者ではあるが、そのことを以って他の事柄についても識者であると思い込んでいた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "こうした経験を経て、彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているのだと理解しつつ、その正しさに確信を深めていくようになり、更には、「神託において神がソクラテスの名を出したのは一例」に過ぎず、その真意は、「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになる。こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神への奉仕」として、ソフィスト達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず、極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことをライフワークとするようになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "これらの説明をそのまま鵜呑みにするならば、後世への影響のあり方はさておき、知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、「神々(神託)への素朴な畏敬・信仰」と「人智の空虚さの暴露」(悔い改めの奨励、謙虚・節度の回復)を根本動機としつつ、「自他の知見・霊魂を可能な限り善くしていく」ことを目指すという。(彼の知の探求と神々への畏敬の関係は動機と手段の関係とも、手段と動機の関係とも言える)", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "(古代ギリシャの伝統的な世界観・人間観では、例えばヘシオドスの『神統記』に、嘲笑的に「死すべき人間たち」という表現が繰り返し出てくること等からもわかるように、「世界を司り、恒久的な寿命と超人的な能力を持つ」神々に対し、人間は「すぐに死に行くはかなく無知な存在」「神々には決してかなわない卑小な存在」と考えられていた。また、ソクラテスも影響を受けたデルポイのアポロン神託所、その入り口に「汝自身を知れ」(分をわきまえろ、身の程を知れ)や「度を越すことなかれ」といった言葉が刻まれていることからもわかるように、古代ギリシャ人にとっては、「節制」(節度)がとても重要な徳目であった。ソクラテスの思想・言動は、基本的にはこれら古代ギリシャ当時の伝統的な考え方に則り、それを彼なりに継承・反復したものだったと言える。)", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ソクラテスは当時、賢人と呼ばれていた政治家や詩人達、さらには手工者をはじめとして、様々な人を次々に訪ね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を検証するために対話を行なった。その結果、彼らの無知に対する無自覚ぶりと、無知を自覚している自分の優越性、神託の正しさを確信し、決意と使命感を持ってその活動にのめり込んでいくこととなり、ソクラテスが賢者であるという評判が広まる一方で、無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった。更に、暇を持て余した富裕市民の息子達はソクラテスを面白がって追い回し、その試問を傍聴し、その中からは影響されて試問を模倣する者達も現れ、そんな青年達の試問の餌食となった人々もまた、ソクラテスへの憎悪を募らせることとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "又、そんなソクラテスを、喜劇作家のアリストパネスが『雲』において、「地下ならびに天上の事象を探求し、悪事を曲げて善事となし、かつ他人にもこれらのことを教授する。」といった、自然哲学者とソフィストを混ぜ合わせたような怪しい人物として描いて揶揄し、大衆にその印象を広めたり、ペロポネソス戦争で講和を破って戦争を再開した挙句、敵国スパルタに亡命し、アテナイの敗北を招いたアルキビアデスや、その後の三十人政権の指導者となったクリティアスなどが、ソクラテスに教えを施された弟子であったと見なされていたことも、ソクラテスを攻撃する絶好の口実となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このため、ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。告訴の背景には、上記の他にもペロポネソス戦争とその後の暴政(三十人政権)など複雑な事情があったと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑(毒殺刑)を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。この顛末は、弟子であるプラトンの著作『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にくわしく書かれている。(ただし『パイドン』は、中期の作品であり、プラトン自身の思想がかなり強く反映されている。)", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ソクラテスには、カイレポン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアス等々、「弟子」と看做されている人々が数多くいるが『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテス自身は「使命を果たさんとして語るとき、誰かそれを聴くことを望む者があれば、青年であれ老人であれ、何人に対してもそれを拒むことはなかった」「(報酬を貰って教えるソフィスト達とは違い)貧富の差別なく何人の質問にも応じ、問答してきた」だけであって「かつて何人にも授業を約束したことも授けたこともなく」「いまだかつて何人の師にもなりはしなかった」と考えていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ソクラテスの家族については、クセノポンやプラトンの著作でも一部言及されているが、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』のうち、ソクラテスについて記述した第2巻第5章に、特に詳細にまとめられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "それによると父親は石工(彫刻家)ソプロニスコス、母親は産婆パイナレテであり、アテナイのアロペケ区(英語版)で生まれ育った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "妻はクサンティッペと、「義人」ことアリステイデスの娘ミュルトの2人であったとされる。2人の妻がいたのは、当時のアテナイが人口不足を解消するために議決した一夫多妻政策(法律上の妻は1人に限るが、ほかの女性との間に子供を設けてもよい、とする措置)に沿ったものであったとされる。クサンティッペ、ミュルトいずれが正妻であったか、またどの順で結婚したか、あるいは同時に結婚したのであるかどうかは定かでなく、『列伝』ではそれらの諸説が併記されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "クサンティッペとの間にランプロクレス、ミュルトとの間にソプロニスコス、メネクセノスの、計3名の息子をもうけた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "クサンティッペは口やかましく激情的な性格だったことが各資料の記述からうかがえ、『列伝』の他にも、プラトンの『パイドン』での大声で泣きわめく記述や、クセノポンの『ソクラテスの思い出』第2巻第2章での母親の口やかましさに反抗する息子ランプロクレスを諭すソクラテスの記述、同じくクセノポンの『饗宴』第2章にてアンティステネスがソクラテスに妻クサンティッペについて問い質す記述がある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ソクラテスの思想は、内容的にはイオニア学派の自然哲学者たちに見られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える。「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」という当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての、「無知の自覚」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度 にある。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」、そういった彼の姿勢が、その数多くの内容的な欠陥・不備・素朴さにもかかわらず、半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く、卓越した人物であると看做される要因となり、哲学者の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』第1巻序章の記述によると、イオニア学派が始めた「自然哲学(自然学)」、イタリア学派(ピュタゴラス派・エレア派)が始めた「数理哲学・論理哲学(論理学)」に対して、ソクラテスは第3の哲学としての「道徳哲学(倫理学)」の祖に位置付けられる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ソクラテスが後世に名をはせることになった理由としては、彼の弟子の中に、古代ギリシャの哲学者にして著述家であり、アカデメイアの創設者でもあるプラトンがいたこと、そして、そのプラトンが自身の著作の中心的な登場人物として、師であるソクラテスを用いたことを、挙げることができる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また彼の弟子達の多種多様な思想展開からもわかるように、着眼点によって様々な解釈が可能な、多面的な性格を持ち合わせていた思想家であったとも言える。ちなみに、相当皮肉屋な人物であったようで、死刑が確定し、妻のクサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて!」と嘆いた時も、「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」といったといわれる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "柄谷行人によると、人間社会は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬(贈与とお返し)」。人類史で見れば、原始社会や氏族社会は交換様式Aの原理から成り立つ。二つ目は、被支配者は支配者に対して税や年貢を支払い、その見返りとして、生命財産の保護を受け、公共事業や福祉などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」。三つ目の交換様式Cは、資本主義社会で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指す。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、ギリシャのソクラテスもまた交換様式Dを開示したとみられる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ソクラテスの一見わかりづらい思想態度を理解するには、彼の生きた当時の時代背景や、ギリシャ世界におけるアテナイの立ち位置を知ることが、いくらか助けになる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "まず、彼に先行する哲学者やソフィスト達は、ほとんどがアナトリア半島(小アジア半島)沿岸や黒海周辺、あるいはイタリア半島の出身であり、ギリシャ世界における知的活動は、こういった植民市・辺境地によって先導されてきたものであり、アテナイを含むギリシャ中心地域は、それと比べると、古くからの神話や伝統に依存した保守的な土地柄であったという全体像を確認しておく必要がある。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ソクラテスが生きた紀元前5世紀当時のアテナイは、ペルシャ戦争を経てギリシャ世界の中心地としての地位を確立し、最盛期を迎えると共に、徹底した民主政が確立された時代から、ペロポネソス戦争の敗戦後状況による社会的、政治的混乱を経て没落していく時代にまたがっている。当然そこには、辺境地の哲学者達の知識や、優秀なソフィスト達が集まってくるし、民主政における処世術や弁論術を学ぶべく、彼らは歓迎されることになる。こうして古くからの神話・伝統に寄りかかった旧秩序が崩れ、徳・弁論術の講釈に長けたソフィスト達、唯物論・無神論的な自然哲学者(『ソクラテスの弁明』においては、アナクサゴラスがその代表として持ち出される)の知識などが新旧入り乱れ、アテナイの知的環境は混乱する。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ソクラテスの思想は、こういった引き裂かれた知的混乱状況の中、アテナイ人としての保守性と知的好奇心・合理的思考の狭間で揺れ動きつつ、どれにも与し得ないまま、誰の意見もが無知・思い込みを孕んだ怪しいものであることの経験的発見と、神々への信仰心が独特な形で結びつくことで成立したものだと言える。そのため、彼の思想的立場は、アテナイの保守層とも、外来・辺境のソフィスト・哲学者とも合致せず、そのどれに対しても相対的で、「無知の知」を投げかける特殊なものとなっている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "しかし、ペロポネソス戦争の敗戦とその後の三十人政権による恐怖政治に対する怨念が渦巻くアテナイでは、ソクラテスは他のソフィストや唯物論・無神論哲学者達と同類の、アテナイを堕落させた危険思想家の一人と看做され、政治的に敵視されることとなり、ソクラテスは裁判にかけられ、(死を恐れないと豪語し自説を決して曲げない姿勢が心象を悪くしたこともあって)死刑となる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ソクラテスはアポロンの託宣を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。その結果、彼は知者を僭称する独断論者たちの無知を暴くための論争に明け暮れることになる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "彼の「無知の自覚」(近年では、無知の知とは誤解で、「不知の自覚」とも訳される)を背景とした知・無知に対するこだわり(とその効用)は、『ソクラテスの弁明』の終盤、死刑が確定した後の、死についての自身の見解を聴衆に語るくだりにおいて鮮明かつ象徴的に見て取ることができる。彼はそこで、(後に弟子のプラトンがオルペウス教(ピタゴラス教団)的な輪廻転生説に嵌っていくのとは対照的に)死後のことについては一切わからないという不可知論の立場を採る (死刑確定前の弁明においても、「死後のことを知っている者など誰もいないのに、人々はそれを最大の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざることを知れりと信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取ることに他ならない。私は死後のことについては何も知らない代わりに、知っていると妄信もしない。」といった趣旨の発言をしており、ソクラテスがここに相当のこだわりを持っていたことがうかがえる)。しかし一方で、彼は死は自身にとって、禍ではなく、一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が虚無に帰することであり、全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるとしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるし、ホメロスやヘシオドスと交わったり、オデュッセウスやシシュフォスと問答することもできる、どちらにしろ幸福である、というわけである。であるがゆえに、死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福である。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "このように、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができるし、ひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができ、だから死を恐れずに善き生をまっとうできる、対照的に、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまずき、知りもしないことに踊らされ、翻弄され、そうはならない、といった具合に、「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し、「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ただし、ここでもその前後で「ダイモニオン」による諫止がなかったからこの死は善いことであるとか、「善人に対しては生前にも死後にもいかなる禍害も起こりえない、また神々も決して彼の事を忘れない」ことを真理と認める必要があるとか付言していることからもわかるように、ソクラテスの「無知の知」を背景とした抑制した態度は、単なる不可知論や相対主義に終始するものではなく、また論理的帰結のみに頼るものでもなく、常にそこを補う神々への素朴で楽観的な信仰などの「独断」と抱き合わせで成り立っていることに注意が必要と言える。ソクラテスの思想には全般にわたってこういった二面性が孕まれている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また一般に、ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開する。その方法は自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということで「産婆術(助産術)」と呼ばれている。ソクラテスのもちいた問答法は、相手の矛盾や行き詰まりを自覚させて、相手自身で真理を発見させた。こうして知者と自認する者の無知を晒させた。こういった、意図を隠したとぼけた態度は、エイロネイア(イロニー)と呼ばれる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "プラトンが描くソクラテス像に則るならば、ソクラテスの業績・営みの特徴は、人生や社会に関わる抽象概念や曖昧な事柄を明確化しようとしたことにあると言える。ポリスの自由市民達が尊ぶ徳・正義・善・敬虔・節制(分別)・勇気......とは一体何なのか、あるいは、それを教えると称するソフィスト達、彼らが駆使する社会操縦術(説得術)である弁論術(レトリケー)等は、一体何であるのか、そういった曖昧なまま放置されている物事を、再度入念に吟味・検証することを彼は要求する。そして、そのためには、一方通行のまま疑問に答えてくれない弁論や書物では役に立たず、しっかりと質疑応答を経て合意を重ねながら対象を深く探求していける問答が必要になる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なお、話をわかりやすくするために、そういった抽象概念や曖昧な事柄を、具体的・実用的な事柄に置き換えつつ問うのも、彼の特徴の一つだと言える。例えば、「医者は医術を教え、彫刻家は〜、建築家は〜、大工は〜、鍛冶屋は〜、靴屋は〜、ではソフィストは何を教えるのか?」などが典型である。また、抽象概念同士の関係性や数、一致性・不一致性、範疇・所属なども執拗に問うていく。こういった飽くなき概念の明晰化の追求、知識・人間の吟味と向上、これが彼の考えた愛知(哲学)の営みだと推察できる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "こういった一見現実社会に直接役立ちそうもない重箱の隅をつつくような思索を、青年期を過ぎてなお延々と続ける「子供じみた」営みと断定する人々、特に目の前の社会運営を優先する穏健で「大人な」人々や、弱肉強食な自然観・社会観を持っている「諦念的な」人々を苛立たせる。そして、『ゴルギアス』に登場するカルリクレスや、『国家』に登場するトラシュマコスなどのように、公然とソクラテスを非難する人々も出てくることになる。しかしながら、そうしてソクラテスを非難する人々が拠って立っている考えの曖昧さですら、ソクラテスにとっては明確化の対象であり、そういった人々もまた、格好のカモとして、ソクラテスの明確化の渦の中に巻き込まれていくことになる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "こうして、タレースなどミレトス学派(イオニア学派)に始まる自然哲学とは対照的な、人間・社会にまつわる概念を執拗に吟味・探求する哲学がソクラテスによって開始され、後にその弟子であるプラトン、更にその弟子であるアリストテレスが、(ピタゴラス教団やエレア派の影響を受けつつ)形而上学をそこに持ち込むことによって、その両者(「自然」と「人間・社会」)のあり方の説明を、包括的に一つの枠組みに統合・合理化したという見解が、一般的に広く受け入れられている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "彼の最も重視した概念はよい生き方としてのアレテー(αρετη、arete徳)である。「人間としての善=徳」という意味で、人間のアレテーは魂をよりよくすることであり、刑罰もそのために有効だとする。また、アレテーを実践する者の人生は幸福であるとも主張した。しかし、これはプラトンの考えという説もある。なぜなら、ソクラテスは著書を残していないからである。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "『ソクラテスの弁明』の続編である『クリトン』において、死刑を待ち、拘留されているソクラテスに逃亡を促しに来た弟子のクリトンに対して、彼は「国家」「国法」という架空の対話者を持ち出し、「我々の庇護の下でおまえの父母が結婚し、おまえが生まれ、扶養され、教育された。祖国とは、父母や祖先よりも貴く、畏怖され、神聖なものである。また、この国家(アテナイ) が気に入らなければ、いつでも財産を持って外国や植民地に移住することが認められているのにもかかわらず、おまえは70歳の老人になるまで、ここに留まり、家庭をもうけ、ほとんど外国に行くことすらなかった。したがって、我々とおまえの間には合意と契約が成立しているのにもかかわらず、今さらそれを一方的に破棄して、逃亡を企てようというのか?そのような不正が許されるのか?」と彼自身を非難させ、クリトンに逃亡の説得を諦めさせた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "これは、中世・近代に様々に展開していくことになる社会契約論の原型とも言える。彼の弟子であるプラトンや、その弟子であるアリストテレスも、徳の概念と関連させつつ、様々な国家論を論じていくことになる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ソクラテスは、徳(善き生)などについての考えの形成(魂の世話)を、ソフィストのような他者の手に納得しないまま安易に委ねることを嫌った。そして、自身の考え(あるいは、「ダイモニオン」)に従い、おかしいと思うことは相手が誰であろうと忌憚無く問い、正しいと思うことは誰に反対されようとも実践すべきであることを身を以て示した。その結果、彼は自ら死刑を受け入れることになる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ソクラテスは時折「ダイモニオン」(超自然的・神的な合図・徴(しるし))を受け取ることがあったという。そして、それが彼の考えや行動の重要な指針にもなっている。彼によると、それは幼年時代からあらわれるようになった、一種の声(幻聴)であり、常に何事かを諫止・禁止する形であらわれ、何かを薦める形ではあらわれない。なお、こういったことを放言していたことが、「国家の信ずる神々を信ぜずして他の新しき神霊(ダイモニア)を信ずる」といった訴状の内容にも影響を与えたと考えられる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ソクラテスは、書記言語が野放しの状態で広まることを激しく非難していた。", "title": "著作をおこなわなかった理由" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ソクラテスは、話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである。", "title": "著作をおこなわなかった理由" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからである。", "title": "著作をおこなわなかった理由" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた。", "title": "著作をおこなわなかった理由" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ソクラテスは、よりよく知識を伝えるには、相手の理解に合わせて問いを投げかけて考えを促し、誤解を避けるために表現を選び、知識を伝える適切なタイミングを計ることが必要であり、それができるのは書物ではなく対話だけだと考えていた。", "title": "著作をおこなわなかった理由" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ソクラテスは自説を著作として残さなかったため、今日ではその生涯・思想共に他の著作家の作品を通してうかがい知ることができるのみである。これは「ソクラテス問題」として知られる一連の問題を発生させている。", "title": "ソクラテス問題" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "同時代の作家の内、劇作家・詩人のアリストパネスは戯曲『雲』においてギリシャのソフィストたちを揶揄し、その筆頭としてソクラテスを挙げている。ここではソクラテスの言動は揶揄のために誇張されていると考えられる。", "title": "ソクラテス問題" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "同じくソクラテスの弟子であるプラトンの記した一連の対話篇にはソクラテスが頻繁に登場する。しかしながら、特に『メノン』以降のソクラテスはプラトンの思想を表現するための人物として利用されている感がある。", "title": "ソクラテス問題" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "他の弟子による文章の一部やプラトンの弟子にあたるアリストテレスによる記述をはじめ、後世の著作家による記述も残っている。", "title": "ソクラテス問題" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ソクラテスの弟子の一人とされるクセノポンは『ソクラテスの思い出』などソクラテスに関する文章を記しており、今日まで比較的よく保存されている。ただし、西洋哲学の場においては「一切の哲学はプラトンの注釈である」と言われるように、ソクラテスについての理解もプラトンの著作と思想(プラトン主義)を通じて行われる厚い伝統があり、クセノポンの描くソクラテスは通俗的で哲学者としての力量をとらえきれていないとする風潮がある。", "title": "ソクラテス問題" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "また、ソクラテスは容姿はグロテスクで弟子のプラトンに「我が師ソクラテスは世界で1番醜い。しかし1番賢い。」と言われていた。", "title": "ソクラテス問題" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "『ソクラテスの思い出』(以下『思い出』と略)でクセノポンが繰り返し強調しているのは、ソクラテスは「神々が目に見えないと言う理由で信じない者は、自分の心も目に見えないものであるということを忘れている」としている。クセノポンのソクラテスの態度はキリスト教の伝統的神秘主義に近い。", "title": "クセノポンのソクラテス像" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "この書でのダイモニオンについてのソクラテスの解説はキリスト教の聖霊論に非常に類似している。また、「最高善」というものについては、ソクラテスが「人間は結局のところ何が最善なのか知り得ないのだから」と言って、神々にただ「善きものを与えたまえ」と祈るように勧めたという逸話もキリスト教の主祷文に通じる。根本的に違うのは、「敵を愛せよ」というナザレのイエスの教えがソクラテスにおいては、あたかも意図的であるかのように全く逆さまに書かれている点である(イエスの時代はソクラテスの時代の約四百年後)。これは、戦争に参加もしたソクラテスの根本姿勢がアテナイ民主制の伝統的価値観に依拠していることによるのであり、この点においてソクラテスをナザレのイエスよりも孔子に引き寄せて評価する立場もある。概して『思い出』におけるソクラテスはプラトンの登場人物としてのソクラテスよりも明瞭に宗教的人物である。", "title": "クセノポンのソクラテス像" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "クセノポンは、ソクラテスは自分が裁判に訴えられたと知るとすぐさま反論を組み立て始めたが、ダイモニオンがそれを制止したと書いている。", "title": "クセノポンのソクラテス像" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ストア派の創始者であるキティオンのゼノンは商人時代に書店で『思い出』に出会ったことから哲学の道に入った。一般にストア派におけるソクラテスの影響はプラトンではなく、クセノポンを通じてのものである。", "title": "クセノポンのソクラテス像" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ソクラテスが死後の哲学に与えた影響は計り知れないほど大きく、エピクロス派とピュロン派を除けば、ソクラテス以降ほとんどの哲学の起源が彼に求められる。ヘレニズムの時代における代表的な例としてはプラトンのアカデメイア、アリストテレスのリュケイオン、キュニコス派、ストア派などが中でもソクラテスの影響を強く受けた哲学の学派として挙げられる。そしてソクラテスの哲学に対する関心は紀元3世紀まで拡大し続けた。また、ソクラテス自身が人生の目的やアレテーとはいったい何かという問いに対し答えを示さなかったことにより、この時代の様々な学派はそれぞれの答えを主張し、ソクラテスの思想に異なる解釈をした。他にも彼によって、この時代から哲学の関心は自然界の理解から人間の理解へと移ってゆくことになる。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "そして中世になるとソクラテスの思想は、アリストテレスやストア学派の思想と並んで、イスラム中東に伝わった。プラトンのソクラテスに関する著作や他の古代ギリシャ文学は、アル・キンディー、ジャビール・イブン・ハイヤーン、ムゥタズィラといった初期のイスラム学者によってアラビア語に翻訳され、その中でソクラテスは、生き方に哲学を反映させる人物として、ムハンマドと対比され賞賛された。それに伴い中東ではソクラテスの教義はイスラムの信仰に合う形で改変されることになる。例としてこの時代のイスラムの学者は、ソクラテスを一神教と死後の救済を主張する哲学者として記している。これらによって、アラビア語圏におけるソクラテスの影響は現在もなお続いている。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "また、ビザンツ帝国の下でもラクタンティウス、エウセビオス、アウグスティヌスなどのキリスト教神学者たちにより、ソクラテスに関する著作は保存され、キリスト教的観点から研究された。コンスタンティノープル陥落後も、多くの文献はローマ・キリスト教世界に持ち替えられ、そこでラテン語に翻訳されることになるものの、初めのうちはキリスト教徒によって懐疑的に扱われた。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "しかしイタリア・ルネサンス初期に入り、ソクラテスに関する2つの物語が書かれ、一方で人文主義運動が高まることによって、作家たちはソクラテスに対する関心を復活させてゆくことになった 。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "近世フランスでは、さまざまな小説や風刺劇の中で、ソクラテスの哲学的思想よりもむしろ彼の私生活に焦点が置かれた。この時代、無神論で告発されたキリスト教徒のソクラテスを描いたテオフィル・ド・ヴィアウのように、同時代の論争を浮き彫りにするためにソクラテスを利用した思想家もいれば、ヴォルテールのようにソクラテスを理性に基づく神学者の象徴として扱う見方もあった。ミシェル・ド・モンテーニュは、ソクラテスを当時の宗教狂信者に対抗する合理主義と結びつけ、ソクラテスについて幅広く書いたことでも知られる。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "18世紀には、ドイツ観念論、主にヘーゲルの著作を通じて、ソクラテスに対する哲学的関心が復活した。ヘーゲルは、ソクラテスは、自由な主観性あるいは自己決定の原則を哲学に導入することによって、人類の歴史における転換点を作ったと考えた。しかしヘーゲルはソクラテスの功績を称える一方で、ソクラテスの自己決定への主張はシトリヒカイト(国家の制度や法律によって形成される生き方を意味するヘーゲルの言葉)を破壊するものであるとして、アテネの議会の判決を正当化する一面もある。またヘーゲルは、ソクラテスが合理主義を用いるのは、プロタゴラスが人間の理性に焦点を当てたこと(「人間は万物の尺度である」というモットーに集約されている)を継承したものであり、現実について客観的な結論に到達するのに役立つのは我々の理性である、と言い換えたものであると見ている。加えて、ヘーゲルはソクラテスを古代における懐疑哲学の先駆者とみなしたが、その理由を明確に説明することはなかった。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "またセーレン・キルケゴールはソクラテスを師と仰ぎ、彼に関する修士論文『ソクラテスの継続的参照とアイロニーの概念』を執筆した。そこでは、ソクラテスは道徳哲学者ではなく、純粋にアイロニストであると論じている。彼はまた、ソクラテスが書くことを避けたことにも注目した。キルケゴールよると彼が文字によって語ることを避けたのは、ソクラテスが自分の無知を受け入れたことに由来する謙虚さの表れであるという。そして彼はプラトンの『弁明』だけが本当のソクラテスのに近いとし、キルケゴールは著作群の中で何度もソクラテスについて言及し、後年の著作ではソクラテスの思想から倫理学的な要素を見出した。ソクラテスはキルケゴールにとって研究対象であっただけでなく、理想像でもあった。キルケゴールは哲学者としての自分のあり方をソクラテスになぞらえていた。キリスト教が形式にとらわれ本来の意味を見失っていると考えた彼は、「自分の仕事はソクラテスの仕事であり、キリスト教徒であることが何であるかの定義を考えることである」と語り、こうしてキルケゴールは、ソクラテスが知識の所有を否定したように、自身がキリスト教徒であることを否定した。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "一方でフリードリヒ・ニーチェはソクラテスの西洋文化への影響を批判した。最初の著書『悲劇の誕生』(1872年)では、紀元前4世紀以降の古代ギリシャ文明の劣化の責任はソクラテスにあるとした論じた。またニーチェにとってソクラテスは、哲学の範囲をソクラテス以前の自然主義から合理主義や知識主義に変えた責任があるとした。彼は自身の著書の中で、「私はソクラテスではなく、彼以前の哲学者こそが古代ギリシアの先導者であると考えている。」「エンペドクレスとデモクリトスによってギリシアは人間存在、その理不尽さ、苦しみを正く理解する道を歩んでいた。しかしソクラテスのせいで人類はその答えに辿り着けないでいる」と批判する。つまり、ニーチェは、人間の文化が倒錯しているのは、今日の西洋文化がソクラテスより継承された文化であるからだと考えた。また後に出版された『偶像の黄昏』(1887年)において、ニーチェはソクラテスに対する批判を続け、ソクラテス的思考法における理性と美徳や幸福との恣意的な結びつきに焦点を当てた。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "20世紀の大陸哲学者のハンナ・アーレント、レオ・シュトラウス、カール・ポパーは、全体主義体制の台頭、第二次世界大戦の恐怖を体験した後、ソクラテスに対し良心の象徴としての見方を強めた。アーレントは『エルサレムのアイヒマン』(1963年)の中で、ソクラテスの絶え間ない問いかけと自己反省が、悪の凡庸性を防ぐことができると示唆している。またシュトラウスは、ソクラテスの政治思想はプラトンと類似していると考え、プラトンの『共和国』に登場するソクラテスの主張が、民主的なポリスが理想的な国家形態でないことを例証していると考える。そしてポパーは、ソクラテスはプラトンの全体主義思想に反対していると主張する。ポパーにとって、ソクラテスの個人主義やアテネの民主主義は、『開かれた社会とその敵』(1945年)で述べられているポパーの「開かれた社会」の概念を反映していると語る。", "title": "後世への影響" } ]
ソクラテスは、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者である。西洋哲学の基礎を築いた人物の1人として、特に、西洋道徳哲学(倫理学)の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人として認識されている。謎めいた人物であり、ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため、弟子の主に彼の死後に執筆を行った古代の作者たち、特に彼の弟子のプラトンとクセノフォンの著作を通して知られている。 同年代の他の出典としては、アンティステネス、アリスティッポス、スフェトスのアエシネスの著作がある。劇作家のアリストファネスは、ソクラテスの存命中にソクラテスに言及した演劇を執筆した同年代の主な作家であるが、キオス島のイオンの断片である『旅行記』は、ソクラテスの若さに関する重要な情報を提供している。 プラトンの対話篇は、古代から残されたソクラテスに関する最も包括的な著述であり、この著作により、倫理学と認識論の分野でのソクラテスの貢献が知られるようになった。ソクラテスのアイロニーやソクラテスの対話法、あるいはエレンコスを有名にしたのは、このプラトンが描いたソクラテスである。しかし、実在したソクラテスとプラトンの対話篇でのソクラテスの描写との違いに関しては、疑問が残されている。 ソクラテスは、後代の古代の哲学者たちと現代の哲学者たちに絶大な影響を及ぼした。芸術、文学、ポピュラーカルチャーの中でのソクラテスの描写により、ソクラテスは西洋哲学伝統の中で最も広く知られる人物の一人になった。 釈迦、キリスト、孔子と並び四聖人(四聖)に数えられる。
{{Otheruses|古代ギリシアの哲学者}} {{複数の問題 | 出典の明記 =2015年10月27日 (火) 02:08 (UTC) | 独自研究 =2017年12月10日 (日) 21:03 (UTC) }}{{Infobox philosopher|region=[[西洋哲学]]|death_cause=[[薬殺刑]]の執行|influenced=事実上、後のすべての[[西洋哲学]]。特に、弟子であった[[プラトン]]、[[クセノフォン]]、[[アンティステネス]]、[[アリスティッポス]]、[[メガラのエウクレイデス]]、[[エリスのパイドン]]など|influences=[[プロディコス]]、[[アナクサゴラス]]、[[アルケラオス]]、[[マンティネイアのディオティマ]]、{{ill|アテネのダモン|en|Damon of Athens}}|main_interests=[[認識論]]、[[倫理学]]、[[目的論]]|notable_students={{hlist|[[プラトン]]|[[クセノフォン]]|[[アンティテネス]]|[[アリストファネス]]|[[アルキビアデス]]|[[クリティアス]]}}|school_tradition=[[古代ギリシア哲学]]|spouse=[[クサンティッペ]]|death_place=アテネ|era=[[古代ギリシア哲学]]|death_date=紀元前399年(71歳)<!--PLEASE SEE TALK PAGE BEFORE CHANGING DATE-->|birth_place=[[アテナイ]] {{ill|Alopece|en|Alopece}} {{ill|Deme|en|Deme}}|birth_date=紀元前470年<ref>{{cite web |last1=Kraut |first1=Richard |title=Socrates |url=https://www.britannica.com/biography/Socrates |website=Encyclopedia Britannica |publisher=Encyclopedia Britannica, Inc. |access-date=20 November 2017 |date=16 August 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20171020024744/https://www.britannica.com/biography/Socrates|archive-date=20 October 2017|url-status=live}}</ref>|name=ソクラテス|caption=ルーブル美術館にあるソクラテスの大理石の頭像|alt=ルーブル美術館にあるソクラテスの大理石の頭像|image=Socrate du Louvre.jpg|notable_ideas={{plainlist}} *{{ill|アブ (哲学および社会科学)|en|Gadfly (philosophy and social science)|label=社会のアブ}} *{{ill|ソクラテスの対話|en|Socratic dialogue}} *{{ill|倫理的主知主義|en|Moral intellectualism#Ancient moral intellectualism|label=ソクラテスの主知主義}} *{{ill|ソクラテスのアイロニー|en|Irony#Socratic irony}} *[[ソクラテス式問答法]] *[[無知の知|ソクラテスのパラドックス]] *{{ill|ソクラテスの疑問|en|Socratic questioning}} *「{{ill|吟味されない人生は生きる価値がない|en|The unexamined life is not worth living}}」 {{endplainlist}}}}'''ソクラテス'''(ソークラテース、{{Lang-en|Socrates}}<ref>Jones, Daniel; Roach, Peter, James Hartman and Jane Setter, eds. ''Cambridge English Pronouncing Dictionary''. 17th edition. Cambridge UP, 2006.</ref>、{{lang-grc|[[:wikt:Σωκράτης|Σωκράτης]]}} ''Sōkrátēs'' {{IPA-el|sɔːkrátɛːs}}、[[紀元前470年]]頃 – [[紀元前399年]]<ref>{{cite book|first=P. E.|last=Easterling|author-link=P. E. Easterling|url=https://books.google.com/books?id=_kx9eeSJyeoC&pg=PA352|title=The Cambridge Companion to Greek Tragedy|page=352|publisher=Cambridge University Press|year=1997|isbn=978-0-521-42351-9|accessdate=19 November 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171201042456/https://books.google.co.uk/books?id=_kx9eeSJyeoC&pg=PA352|archivedate=1 December 2017|url-status=live}}</ref><ref>{{cite book|first1=Nicholas D.|last1=Smith|first2=Paul|last2=Woodruff|author-link2=Paul Woodruff|url=https://books.google.com/books?id=pjM7N1eUCbQC&pg=PA154|title=Reason and Religion in Socratic Philosophy|page=154|publisher=[[Oxford University Press]]|date=2000|isbn=978-0-19-535092-0|accessdate=19 November 2017|quote=469 or 468 (corresponding to the fourth year of the 77th [[Olympiad]]), according to [[Apollodorus of Athens|Apollodorus]]...But the year of Socrates's birth is probably only an inference from...Plato [who] has Socrates casually describe himself as having lived seventy years.|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171201032223/https://books.google.co.uk/books?id=pjM7N1eUCbQC&pg=PA154|archivedate=1 December 2017|url-status=live}}</ref>)は、[[アテナイ]]出身の[[古代ギリシア]]の[[哲学者]]である<ref name=":0">[[James Rachels#Bibliography|James Rachels]], [https://books.google.co.uk/books?id=ek67okpYfyMC&dq=Socrates+and+moral+philosophy&source=gbs_navlinks_s The Legacy of Socrates: Essays in Moral Philosophy] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171201050407/https://books.google.co.uk/books?id=ek67okpYfyMC&dq=Socrates+and+moral+philosophy&source=gbs_navlinks_s|date=1 December 2017}} Columbia University Press, 2007 {{ISBN2|0-231-13844-X}} Accessed 24 November 2017</ref><ref name="Vlastos19912">{{cite book|author=Gregory Vlastos|title=Socrates, Ironist and Moral Philosopher|url=https://archive.org/details/socratesironistm00vlas_0|url-access=registration|year=1991|publisher=Cornell University Press|isbn=978-0-8014-9787-2|page=[https://archive.org/details/socratesironistm00vlas_0/page/43 43]|author-link=Gregory Vlastos}}</ref>。[[西洋哲学]]の基礎を築いた人物の1人として、特に、西洋[[道徳哲学]]([[倫理学]])の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人<ref name=":0" /><ref name="Vlastos19912" />として認識されている<ref name=":1">[https://maritain.nd.edu/jmc/etext/jmoral01.htm Moral Philosophy – The Discovery of Ethics : Socrates] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170818041523/https://maritain.nd.edu/jmc/etext/jmoral01.htm|date=18 August 2017}} [[Jacques Maritain#Work|Jacques Maritain Center]] Accessed 24 November 2017</ref><ref name=":2">[[Peter Singer]] (1985) – [https://www.utilitarian.net/singer/by/1985----.htm Encyclopædia Britannica] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20161220065646/http://www.utilitarian.net/singer/by/1985----.htm|date=20 December 2016}} Chicago, 1985, pp. 627–648 Accessed 24 November 2017</ref><ref name=":3">Anne Rooney – [https://books.google.co.uk/books?id=KMKrBAAAQBAJ&pg The Story of Philosophy: From Ancient Greeks to Great Thinkers of Modern Times] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180801094158/https://books.google.co.uk/books?id=KMKrBAAAQBAJ&pg|date=1 August 2018}} [https://books.google.co.uk/books?id=KMKrBAAAQBAJ&pg=PT196&dq=Virtue+ethics+began+with+Socrates&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjWwdOl6dfXAhVK1xoKHfxgBnYQuwUIKTAA#v=onepage&q=Virtue%20ethics%20began%20with%20Socrates&f=false (search page)] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171201080748/https://books.google.co.uk/books?id=KMKrBAAAQBAJ&pg=PT196&dq=Virtue+ethics+began+with+Socrates&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjWwdOl6dfXAhVK1xoKHfxgBnYQuwUIKTAA#v=onepage&q=Virtue%20ethics%20began%20with%20Socrates&f=false|date=1 December 2017}} Arcturus Publishing, 2014 {{ISBN2|1-78212-995-2}} Accessed 24 November 2017</ref>。謎めいた人物であり、ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため、弟子の主に彼の死後に執筆を行った古代の作者たち、特に彼の弟子の[[プラトン]]と[[クセノフォン]]の著作を通して知られている。 同年代の他の出典としては、[[アンティステネス]]、[[アリスティッポス]]、{{Ill|スフェトスのアエシネス|en|Aeschines of Sphettus}}の著作がある。劇作家のアリストファネスは、ソクラテスの存命中にソクラテスに言及した演劇を執筆した同年代の主な作家であるが、{{Ill|キオス島のイオン|en|Ion of Chios}}の断片である『旅行記』({{Lang-en|Travel Journal}})は、ソクラテスの若さに関する重要な情報を提供している<ref>[[Charles H. Kahn]] (1998) – [https://books.google.co.uk/books?id=56lIbn9hvFcC&pg Ethics] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171222105348/https://books.google.co.uk/books?id=56lIbn9hvFcC&pg|date=22 December 2017}} – [https://books.google.co.uk/books?id=56lIbn9hvFcC&pg=PA42&dq=Aristophanes+is+the+only+to+write+during+his+lifetime&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiropGrspzYAhXLZ1AKHU1lCREQ6AEIMDAC#v=onepage&q=Aristophanes%20is%20the%20only%20to%20write%20during%20his%20lifetime&f=false p. 42] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171222105422/https://books.google.co.uk/books?id=56lIbn9hvFcC&pg=PA42&dq=Aristophanes+is+the+only+to+write+during+his+lifetime&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiropGrspzYAhXLZ1AKHU1lCREQ6AEIMDAC#v=onepage&q=Aristophanes%20is%20the%20only%20to%20write%20during%20his%20lifetime&f=false|date=22 December 2017}}, Cambridge University Press. 1998 {{ISBN2|0-521-38832-5}} Accessed 22 December 2017</ref><ref>Stern, T (2013) – [https://books.google.co.uk/books?id=VfwhAQAAQBAJ&pg Philosophy and Theatre: An Introduction] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171222105656/https://books.google.co.uk/books?id=VfwhAQAAQBAJ&pg|date=22 December 2017}} – [https://books.google.co.uk/books?id=VfwhAQAAQBAJ&pg=PR9&lpg=PR9&dq=Aristophanes+is+the+only+to+write+during+his+lifetime&source=bl&ots=cdUPZYe8VT&sig=eRiYUL8IuIKnpdUqhIEx1qJAT-c&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiC4fCDspzYAhXDmLQKHdtTABoQ6AEIeTAJ#v=onepage&q=Aristophanes%20is%20the%20only%20to%20write%20during%20his%20lifetime&f=false ix] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171222105328/https://books.google.co.uk/books?id=VfwhAQAAQBAJ&pg=PR9&lpg=PR9&dq=Aristophanes+is+the+only+to+write+during+his+lifetime&source=bl&ots=cdUPZYe8VT&sig=eRiYUL8IuIKnpdUqhIEx1qJAT-c&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiC4fCDspzYAhXDmLQKHdtTABoQ6AEIeTAJ#v=onepage&q=Aristophanes%20is%20the%20only%20to%20write%20during%20his%20lifetime&f=false|date=22 December 2017}} Routledge 2013 {{ISBN2|1-134-57591-2}} Accessed 22 December 2017</ref>。 プラトンの対話篇は、古代から残されたソクラテスに関する最も包括的な著述であり、この著作により、[[倫理学]]と[[認識論]]の分野でのソクラテスの貢献が知られるようになった。ソクラテスのアイロニーやソクラテスの対話法、あるいはエレンコス({{Lang-en|elenchus}}、反対論証)を有名にしたのは、この'''プラトンが描いたソクラテス'''である。しかし、実在したソクラテスとプラトンの対話篇でのソクラテスの描写との違いに関しては、'''疑問が残されている<ref>{{cite book|title=Socrates: Fictions of a Philosopher|last=Kofman|first=Sarah|year=1998|isbn=978-0-8014-3551-5|page=34}}</ref>。''' ソクラテスは、後代の[[古代哲学|古代の哲学者]]たちと[[現代哲学|現代の哲学者]]たちに絶大な影響を及ぼした。芸術、文学、ポピュラーカルチャーの中でのソクラテスの描写により、ソクラテスは[[西洋哲学]]伝統の中で最も広く知られる人物の一人になった<ref>{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20210401095825/https://www.nytimes.com/2014/03/16/magazine/whos-more-famous-than-jesus.html|title=Who’s More Famous Than Jesus?|newspaper=NY Times|date=14 March 2014|first1=Dwight|last1=Garner.}}</ref>。 [[釈迦]]、[[ナザレのイエス|キリスト]]、[[孔子]]と並び四聖人([[四聖]])に数えられる<ref>{{Cite web|和書|title=四聖(シショウ)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E8%81%96-519370|website=コトバンク|accessdate=2020-06-14|language=ja|first=|last=|publisher=}}</ref>。 == 典拠と人物像 == === 主な典拠 === 生前のソクラテスと直接面識・交流があった人物による、ソクラテスの言行・人物像について述べられたまとまったテキストで、今日まで伝わっているものとしては、ソクラテスの死後に書かれた、 * '''[[クセノポン]]'''によるソクラテス関連著作4篇。 **『[[ソクラテスの思い出]]』(メモラビリア) **『[[ソクラテスの弁明 (クセノポン)|ソクラテスの弁明]]』 **『[[饗宴 (クセノポン)|饗宴]]』 **『[[家政論]]』(オイコノミコス) * '''[[プラトン]]'''による[[対話篇]]群。 がある。(他には、ソクラテス存命中に発表された喜劇作家[[アリストパネス]]の作品『[[雲 (戯曲)|雲]]』もあるが、こちらは戯画化された登場人物にソクラテスの名を冠しているだけで、実際のソクラテスの人物像理解にはあまり参考にならない。) 後世のテキストとしては、[[アリストテレス]]の『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』第1巻におけるわずかな言及を除けば、約600年後に伝聞情報をまとめた、 * '''[[ディオゲネス・ラエルティオス]]'''の 『[[ギリシア哲学者列伝]]』 がある。 したがって、一般的にソクラテスの人物像や思想の推定は、クセノポンとプラトンの著作を土台とし、さらにディオゲネスの『列伝』情報で補強する形で行われる。 === クセノポンとプラトンが描く「ソクラテス像」の共通点と差異 === クセノポンとプラトンが描いているソクラテスの人物像は、 * 金持ちではなく、質素で自制的な生活をしていた。 * 身体的および知的な鍛錬に勤めていた。 * 敬神家であり、ダイモニオンの諭しに従っていた。 * 「善き市民・国家運営者」を養成していくための各種様々な教育に熱心だった。(自分で教えられるものは自分で教え、自分で教えられないものはその道の専門家を紹介した。) * [[問答法]]のような明瞭かつ徹底した議論・検討・教授方法を好んだ。 * 特に「道徳・人倫に関わる抽象概念」の明確化を試みる議論を好んだ。(しかし、それは行き詰まることも多かった ([[アポリア]])。) * (報酬をもらって、富裕市民の子息などに教養・処世術・[[弁論術]]・[[論争術]]などを教授する[[ソフィスト]]とは異なり)無報酬で、誰とでも問答した。 * 彼を慕う国内外の仲間・友人(弟子)に囲まれ、彼らを益した。 など、概ね共通している。 しかし、決定的に異なるのが、クセノポンが『[[ソクラテスの思い出]]』(メモラビリア)の第4巻第7章において、ソクラテスが、 * [[幾何学]]の内、測量に使える部分'''以外'''の高度な内容。 * [[天文学]]の内、陸路・海路の旅、警備、時刻・時期を知ることに役立つ部分'''以外'''の高度な内容(星々の距離、軌道、原因など)。 といった'''有用性・実用性に欠けるもの'''を学ぶことに'''賛成しなかった'''(他の哲学者たちのように、そうした「神々の領域」に踏み込むことは、不毛かつ良くない危険なことであり、その時間・労力を「人間の領分」における他の有用な学習・探求に当てるべきと考えた)と述べている点である。(同様な内容の記述は、同書の第1巻第1章などにも見られる。) プラトンが対話篇で描くソクラテスは、クセノポンが描く場合と同じく敬神的ではあるものの、[[イデア論]]の萌芽が見える初期の『[[クラテュロス (対話篇)|クラテュロス]]』の頃から徐々にプラトン自身の思想の代弁者となり、中期以降に至っては[[ピュタゴラス派]]や[[エレア派]]の徒と交わりながら、イデア論を展開したり、魂の肉体からの浄化([[カタルシス]])を主張したり、[[弁証術]]と並んで幾何学の教育の重要性を説いたり、[[宇宙]]や[[冥府]]の構造について盛んに言及したがるなど、[[イタリア学派 (ギリシア哲学)|イタリア半島]]的・[[アカデメイア]]的な[[哲学者]]然とした佇まいが顕著になるが、クセノポンが描く実際のソクラテス像は、もっと人間社会・国家にとっての'''有用性・実用性'''を重視し、'''[[実学]]'''を好んだ人物像となっている。(さらに、同書『思い出』の第3巻第8章・第4巻第6章などでは、ソクラテスにとっての(個別具体的な事物の中に存する)「美・善」とは、あくまでも'''人間にとっての個別具体的な様々な需要の充足性'''と不可分に結びついた、具体的かつ相対的なものであったこと、すなわちプラトンのイデア論とはむしろ対極的なものであったことが、述べられている。) また、クセノポンは[[クラテュロス (対話篇)|ヘルモゲネス]]から聞いた話として、裁判前のソクラテスは、老齢によって身体・思考・記憶が衰え、これまでのような「善き生き方」を全うできなくなることへの懸念を持っていて、裁判を自分の人生の幕引きにはいい機会と捉えていたことを、『[[ソクラテスの思い出]]』や『[[ソクラテスの弁明 (クセノポン)|ソクラテスの弁明]]』で暴露しており、そうした面には触れずに「愚かな大衆に追いやられた悲劇的な死」を印象付けるプラトンの描き方とは一線を画している。(また、実際にソクラテスが「老齢に引っ張られて思考・記憶が衰える」と考えていたとすると、「身体から独立した不滅の魂」を主張するプラトンの思想、中でも特に、『[[パイドン]]』等で述べられているように、全人生をかけて人間(哲学者)として最高度に魂を鍛えてイデアの想起([[アナムネーシス (哲学)|アナムネーシス]])と身体からの浄化(カタルシス)を行ってきたはずの、プラトンが描くソクラテス像にとっては、矛盾した都合の悪い事実となる。) == 生涯 == === 生い立ち === 父は[[彫刻家]]ないし[[石工]]のソプロニスコス<ref>[[G.W.F. Hegel]] (trans. Frances H. Simon), [https://d396qusza40orc.cloudfront.net/kierkegaard%2FLectures_on_the_History_of_Philosophy.pdf Lectures on History of Philosophy] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20190627005159/https://d396qusza40orc.cloudfront.net/kierkegaard%2FLectures_on_the_History_of_Philosophy.pdf|date=27 June 2019}}</ref><ref name="plato.stanford.edu">Nails, D., [http://plato.stanford.edu/entries/socrates/ "Socrates" – A Chronology of the historical Socrates in the context of Athenian history and the dramatic dates of Plato's dialogues] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060830020229/http://plato.stanford.edu/entries/socrates/ |date=30 August 2006 }}, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2014 Edition), Edward N. Zalta (ed.). Retrieved 17 April 2015.</ref><ref name="M.C. Howatson – Fellow and Tutor in Classics at St Anne's College, Oxford">{{cite book |last=Howatson |first=M.C. |url=https://books.google.com/books?id=IVGcAQAAQBAJ&q=Sophroniscus+was+a+sculptor+stonemason&pg=PA528 |title=The Oxford Companion to Classical Literature |page=528 |publisher=Oxford University Press |year=2013 |edition=reprint, 3rd |isbn=978-0-19-954855-2}}</ref>、母は[[助産師|助産婦]]のパイナレテとされる<ref>{{cite book |author=Plato |url=https://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus:text:1999.01.0172:text=Theaet.:section=149a |title=Theaetetus |page=149a |translator-last=Fowler |translator-first=Harold N. |location=Cambridge, MA |publisher=Harvard University Press |year=1999 |orig-year=1921 |edition=reprint of London, William Heinemann Ltd. |accessdate=25 June 2009 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120517193807/http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus:text:1999.01.0172:text=Theaet.:section=149a |archivedate=17 May 2012 |url-status=live}}</ref>。[[アテナイ]]に生まれ、生涯のほとんどをアテナイに暮らした<ref>{{Cite book|和書 |author = ペーテル・エクベリ |year = 2017 |title = おおきく考えよう 人生に役立つ哲学入門 |publisher = [[晶文社]] |page = 61 |isbn = 978-4-7949-6975-0}}</ref>。彼は[[ペロポネソス戦争]]において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としての[[ポティダイアの戦い|ポテイダイア攻囲戦]]、[[ボイオーティア|ボイオティア連邦]]との大会戦{{仮リンク|デリウムの戦い|en|Battle of Delium|label=デリオンの戦い}}で[[重装歩兵]]として従軍した<ref group=注釈>アルキビアデスは騎兵として参加、当時の回想が『[[饗宴]]』に書かれている。</ref><ref>Monoson, S.S., Meineck, P., Konstan, D., [https://books.google.com/books?id=y3SoBAAAQBAJ&pg=PR12 Combat Trauma and the Ancient Greeks (p. 136)], Palgrave Macmillan, 2014, {{ISBN2|1-137-39886-8}}.</ref>。青年期には[[自然科学]]に興味を持ったとの説もあるが、晩年は[[倫理学|倫理]]や[[徳]]を追求する哲学者としての生活に専念した。 === 思想形成 === {{出典の明記|date=2015年10月27日 (火) 02:08 (UTC)|section=1}} プラトンの『[[ソクラテスの弁明]]』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、[[デルポイ]]にある[[アポロン]]の[[神託]]所において、[[巫女]]に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って[[ソクラテス式問答法|問答]](エレンコス,{{lang|gr|ἔλεγχος}})することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。 しかし、実際に賢者と世評のある[[政治家]]や[[詩人]]などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。それぞれの技術に熟練した職人達ですら、たしかにその技術については知者ではあるが、そのことを以って他の事柄についても識者であると思い込んでいた。 こうした経験を経て、彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているのだと理解しつつ、その正しさに確信を深めていくようになり、更には、「神託において神がソクラテスの名を出したのは一例」に過ぎず、その真意は、「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになる。こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神への奉仕」として、[[ソフィスト]]達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず、極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことを[[ライフワーク]]とするようになる{{Sfn|プラトン|2007|pp=21-28}}。 これらの[[説明]]をそのまま鵜呑みにするならば、後世への影響のあり方はさておき、知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、「神々(神託)への素朴な畏敬・信仰」と「人智の空虚さの暴露」(悔い改めの奨励、謙虚・節度の回復)を根本動機としつつ、「自他の知見・霊魂を可能な限り善くしていく{{Sfn|プラトン|2007|pp=43-44}}」ことを目指すという。(彼の知の探求と神々への畏敬の関係は動機と手段の関係とも、手段と動機の関係とも言える) (古代ギリシャの伝統的な世界観・人間観では、例えば[[ヘシオドス]]の『[[神統記]]』に、嘲笑的に「死すべき人間たち」という表現が繰り返し出てくること等からもわかるように、「世界を司り、恒久的な寿命と超人的な能力を持つ」神々に対し、人間は「すぐに死に行くはかなく無知な存在」「神々には決してかなわない卑小な存在」と考えられていた。また、ソクラテスも影響を受けたデルポイのアポロン神託所、その入り口に「[[汝自身を知れ]]」(分をわきまえろ、身の程を知れ)や「度を越すことなかれ」といった言葉が刻まれていることからもわかるように、古代ギリシャ人にとっては、「[[徳#四元徳(cardinal_virtues)|節制]]」(節度)がとても重要な徳目であった。ソクラテスの思想・言動は、基本的にはこれら古代ギリシャ当時の伝統的な考え方に則り、それを彼なりに継承・反復したものだったと言える。) === 裁判と刑死 === [[ファイル:David - The Death of Socrates.jpg|thumb|300px|ソクラテスの最期を描いた『[[ソクラテスの死]]』([[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]画、[[1787年]])]] ソクラテスは当時、賢人と呼ばれていた政治家や詩人達、さらには手工者をはじめとして、様々な人を次々に訪ね、「[[アポロン]]の宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を検証するために対話を行なった。その結果、彼らの無知に対する無自覚ぶりと、無知を自覚している自分の優越性、神託の正しさを確信し、決意と使命感を持ってその活動にのめり込んでいくこととなり、ソクラテスが賢者であるという評判が広まる一方で、無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった{{Sfn|プラトン|2007|pp=21-28}}。更に、暇を持て余した富裕市民の息子達はソクラテスを面白がって追い回し、その試問を傍聴し、その中からは影響されて試問を模倣する者達も現れ、そんな青年達の試問の餌食となった人々もまた、ソクラテスへの憎悪を募らせることとなった{{Sfn|プラトン|2007|pp=28-29}}。 又、そんなソクラテスを、[[喜劇]]作家の[[アリストパネス]]が『[[雲 (戯曲)|雲]]』において、「地下ならびに天上の事象を探求し、悪事を曲げて善事となし、かつ他人にもこれらのことを教授する。」といった、自然哲学者とソフィストを混ぜ合わせたような怪しい人物として描いて揶揄し、大衆にその印象を広めたり{{Sfn|プラトン|2007|p=19}}、[[ペロポネソス戦争]]で講和を破って戦争を再開した挙句、敵国[[スパルタ]]に亡命し、アテナイの敗北を招いた[[アルキビアデス]]や、その後の[[三十人政権]]の指導者となった[[クリティアス (三十人僭主)|クリティアス]]などが、ソクラテスに教えを施された弟子であったと見なされていた{{Sfn|プラトン|2007|p=51}}ことも、ソクラテスを攻撃する絶好の口実となった。 このため、ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた{{Sfn|ウルフ|2009|p=111}}。原告は詩人の[[メレトス]]で、政界の有力者[[アニュトス]]らがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという<ref>ディオドロス, XIV. 37</ref>。告訴の背景には、上記の他にもペロポネソス戦争とその後の暴政([[三十人政権]])など複雑な事情があったと考えられる。 ソクラテスは自身の弁明([[ソクラテスの弁明]])を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に[[死刑]]([[薬殺刑|毒殺刑]])を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。 神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「'''単に生きるのではなく、善く生きる'''」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。 [[紀元前399年]]、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わして[[ドクニンジン]]の杯をあおり、従容として死に臨んだ。この顛末は、弟子であるプラトンの著作『[[ソクラテスの弁明]]』『[[クリトン]]』『[[パイドン]]』にくわしく書かれている。(ただし『パイドン』は、中期の作品であり、プラトン自身の思想がかなり強く反映されている。) === 弟子について === ソクラテスには、カイレポン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアス等々、「弟子」と看做されている人々が数多くいるが『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテス自身は「使命を果たさんとして語るとき、誰かそれを聴くことを望む者があれば、青年であれ老人であれ、何人に対してもそれを拒むことはなかった」「(報酬を貰って教えるソフィスト達とは違い)貧富の差別なく何人の質問にも応じ、問答してきた」だけであって「かつて何人にも授業を約束したことも授けたこともなく」「いまだかつて何人の師にもなりはしなかった」と考えていた{{Sfn|プラトン|2007|p=51}}。 === 家族について === {{see also|クサンティッペ}} ソクラテスの家族については、クセノポンやプラトンの著作でも一部言及されているが、[[ディオゲネス・ラエルティオス]]の『[[ギリシア哲学者列伝]]』のうち、ソクラテスについて記述した第2巻第5章に、特に詳細にまとめられている。 それによると父親は石工(彫刻家)ソプロニスコス、母親は産婆パイナレテであり、アテナイの{{仮リンク|アロペケ区|en|Alopece}}で生まれ育った。 妻は[[クサンティッペ]]と、「義人」こと[[アリステイデス (将軍)|アリステイデス]]の娘ミュルトの2人であったとされる。2人の妻がいたのは、当時のアテナイが人口不足を解消するために議決した一夫多妻政策(法律上の妻は1人に限るが、ほかの女性との間に子供を設けてもよい、とする措置)に沿ったものであったとされる。クサンティッペ、ミュルトいずれが正妻であったか、またどの順で結婚したか、あるいは同時に結婚したのであるかどうかは定かでなく、『列伝』ではそれらの諸説が併記されている。 クサンティッペとの間にランプロクレス、ミュルトとの間にソプロニスコス、メネクセノスの、計3名の息子をもうけた。 クサンティッペは口やかましく激情的な性格だったことが各資料の記述からうかがえ、『列伝』の他にも、プラトンの『[[パイドン]]』での大声で泣きわめく記述や、クセノポンの『[[ソクラテスの思い出]]』第2巻第2章での母親の口やかましさに反抗する息子ランプロクレスを諭すソクラテスの記述、同じくクセノポンの『[[饗宴 (クセノポン)|饗宴]]』第2章にてアンティステネスがソクラテスに妻クサンティッペについて問い質す記述がある。 == 思想 == ソクラテスの思想は、内容的には[[イオニア学派]]の自然哲学者たちに見られるような、[[唯物論]]的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界([[不可知論]])を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える。「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」という当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある。 それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての、「無知の自覚」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度 にある。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」、そういった彼の姿勢が、その数多くの内容的な欠陥・不備・素朴さにもかかわらず、半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く、卓越した人物であると看做される要因となり、[[哲学者]]の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。 [[ディオゲネス・ラエルティオス]]の『[[ギリシア哲学者列伝]]』第1巻序章の記述によると、[[イオニア学派]]が始めた「[[自然哲学]]([[自然学]])」、[[イタリア学派 (ギリシア哲学)|イタリア学派]]([[ピュタゴラス派]]・[[エレア派]])が始めた「[[数理哲学]]・[[論理哲学]]([[論理学]])」に対して、ソクラテスは第3の哲学としての「[[道徳哲学]]([[倫理学]])」の祖に位置付けられる。 ソクラテスが後世に名をはせることになった理由としては、彼の弟子の中に、古代ギリシャの哲学者にして著述家であり、[[アカデメイア]]の創設者でもあるプラトンがいたこと、そして、そのプラトンが自身の著作の中心的な登場人物として、師であるソクラテスを用いたことを、挙げることができる。 また彼の弟子達の多種多様な思想展開からもわかるように、着眼点によって様々な解釈が可能な、多面的な性格を持ち合わせていた思想家であったとも言える。ちなみに、相当皮肉屋な人物であったようで、死刑が確定し、妻のクサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて!」と嘆いた時も、「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」といったといわれる。 [[柄谷行人]]によると、[[人間社会]]は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬([[贈与]]とお返し)」。人類史で見れば、[[原始|原始社会]]や[[氏族|氏族社会]]は交換様式Aの原理から成り立つ<ref name="柄谷行人"/>。二つ目は、被支配者は支配者に対して[[租税|税]]や[[年貢]]を支払い、その見返りとして、[[生命]][[財産]]の保護を受け、[[公共事業]]や[[福祉]]などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」<ref name="柄谷行人"/>。三つ目の交換様式Cは、[[市民社会|資本主義社会]]で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である<ref name="柄谷行人"/>。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す[[社会運動]]が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する<ref name="柄谷行人"/>。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた[[自由]]な[[個人]]の[[アソシエーショニズム|アソシエーション]]として[[相互扶助|相互扶助的]]な共同体を創り出すことを目指す<ref name="柄谷行人"/>。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や[[国家]]が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、[[階級分化]]と[[経済的不平等|貧富の格差]]を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、ギリシャのソクラテスもまた交換様式Dを開示したとみられる<ref name="柄谷行人">{{Cite book|和書|author=[[柄谷行人]]|date=2016|title=普遍宗教は甦る|series=文藝春秋special 10(1)|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=|page=131-140}}</ref>。 === 環境・時代背景 === {{独自研究|section=1|date=2015年10月27日 (火) 02:08 (UTC)}} ソクラテスの一見わかりづらい思想態度を理解するには、彼の生きた当時の時代背景や、ギリシャ世界におけるアテナイの立ち位置を知ることが、いくらか助けになる。 まず、彼に先行する哲学者やソフィスト達は、ほとんどが[[アナトリア半島]]([[小アジア半島]])沿岸や[[黒海]]周辺、あるいは[[イタリア半島]]の出身であり、ギリシャ世界における知的活動は、こういった植民市・辺境地によって先導されてきたものであり、アテナイを含むギリシャ中心地域は、それと比べると、古くからの神話や伝統に依存した保守的な土地柄であったという全体像を確認しておく必要がある。 ソクラテスが生きた紀元前5世紀当時のアテナイは、[[ペルシャ戦争]]を経てギリシャ世界の中心地としての地位を確立し、最盛期を迎えると共に、徹底した民主政が確立された時代から、[[ペロポネソス戦争]]の敗戦後状況による社会的、政治的混乱を経て没落していく時代にまたがっている。当然そこには、辺境地の哲学者達の知識や、優秀なソフィスト達が集まってくるし、民主政における処世術や弁論術を学ぶべく、彼らは歓迎されることになる。こうして古くからの神話・伝統に寄りかかった旧秩序が崩れ、徳・弁論術の講釈に長けたソフィスト達、唯物論・無神論的な自然哲学者(『ソクラテスの弁明』においては、[[アナクサゴラス]]がその代表として持ち出される{{Sfn|プラトン|2007|p=36}})の知識などが新旧入り乱れ、アテナイの知的環境は混乱する。 ソクラテスの思想は、こういった引き裂かれた知的混乱状況の中、アテナイ人としての保守性と知的好奇心・合理的思考の狭間で揺れ動きつつ、どれにも与し得ないまま、誰の意見もが無知・思い込みを孕んだ怪しいものである{{要出典|date=2012年8月}}ことの経験的発見と、神々への信仰心が独特な形で結びつくことで成立したものだと言える。そのため、彼の思想的立場は、アテナイの保守層とも、外来・辺境のソフィスト・哲学者とも合致せず、そのどれに対しても相対的で、「無知の知」を投げかける特殊なものとなっている。 しかし、[[ペロポネソス戦争]]の敗戦とその後の[[三十人政権]]による恐怖政治に対する怨念が渦巻くアテナイでは、ソクラテスは他のソフィストや唯物論・無神論哲学者達と同類の、アテナイを堕落させた危険思想家の一人と看做され、政治的に敵視されることとなり、ソクラテスは裁判にかけられ、(死を恐れないと豪語し自説を決して曲げない姿勢が心象を悪くしたこともあって)死刑となる。 === 無知の自覚=== {{See also|無知}} ソクラテスは[[アポロン]]の[[託宣]]を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。その結果、彼は知者を僭称する[[独断論]]者たちの無知を暴くための論争に明け暮れることになる。 彼の「無知の自覚」(近年では、無知の知とは誤解で、「不知の自覚」とも訳される)を背景とした知・無知に対するこだわり(とその効用)は、『ソクラテスの弁明』の終盤、死刑が確定した後の、死についての自身の見解を聴衆に語るくだりにおいて鮮明かつ象徴的に見て取ることができる。彼はそこで、(後に弟子のプラトンが[[オルペウス教]]([[ピタゴラス教団]])的な[[輪廻転生]]説に嵌っていくのとは対照的に)死後のことについては一切わからないという不可知論の立場を採る (死刑確定前の弁明においても、「死後のことを知っている者など誰もいないのに、人々はそれを最大の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざることを知れりと信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取ることに他ならない。私は死後のことについては何も知らない代わりに、知っていると妄信もしない。」といった趣旨の発言をしており{{Sfn|プラトン|2007|p=42}}、ソクラテスがここに相当のこだわりを持っていたことがうかがえる)。しかし一方で、彼は死は自身にとって、禍ではなく、一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が虚無に帰することであり、全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるとしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるし、[[ホメロス]]や[[ヘシオドス]]と交わったり、[[オデュッセウス]]や[[シシュフォス]]と問答することもできる、どちらにしろ幸福である、というわけである{{Sfn|プラトン|2007|pp=66-68}}。であるがゆえに、死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福である。 このように、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができるし、ひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができ、だから死を恐れずに善き生をまっとうできる、対照的に、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまずき、知りもしないことに踊らされ、翻弄され、そうはならない、といった具合に、「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し、「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。 ただし、ここでもその前後で「ダイモニオン」による諫止がなかったからこの死は善いことであるとか{{Sfn|プラトン|2007|p=66}}、「善人に対しては生前にも死後にもいかなる禍害も起こりえない、また神々も決して彼の事を忘れない」ことを真理と認める必要があるとか{{Sfn|プラトン|2007|p=68}}付言していることからもわかるように、ソクラテスの「無知の知」を背景とした抑制した態度は、単なる不可知論や相対主義に終始するものではなく、また論理的帰結のみに頼るものでもなく、常にそこを補う神々への素朴で楽観的な信仰などの「独断」と抱き合わせで成り立っていることに注意が必要と言える。ソクラテスの思想には全般にわたってこういった二面性が孕まれている。 また一般に、ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける[[問答法]]により哲学を展開する。その方法は自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということで「'''産婆術'''(助産術)」と呼ばれている。ソクラテスのもちいた問答法は、相手の[[矛盾]]や行き詰まりを自覚させて、相手自身で[[真理]]を発見させた。こうして知者と自認する者の無知を晒させた。こういった、意図を隠したとぼけた態度は、'''エイロネイア'''('''[[イロニー]]''')と呼ばれる。 === 抽象概念の明確化 === {{see also|問答法|弁証法}} プラトンが描くソクラテス像に則るならば、ソクラテスの業績・営みの特徴は、人生や社会に関わる抽象概念や曖昧な事柄を明確化しようとしたことにあると言える。ポリスの自由市民達が尊ぶ徳・正義・善・敬虔・節制(分別)・勇気……とは一体何なのか、あるいは、それを教えると称するソフィスト達、彼らが駆使する社会操縦術(説得術)である[[弁論術]](レトリケー)等は、一体何であるのか、そういった曖昧なまま放置されている物事を、再度入念に吟味・検証することを彼は要求する。そして、そのためには、一方通行のまま疑問に答えてくれない弁論や書物では役に立たず、しっかりと質疑応答を経て合意を重ねながら対象を深く探求していける問答が必要になる。 なお、話をわかりやすくするために、そういった抽象概念や曖昧な事柄を、具体的・実用的な事柄に置き換えつつ問うのも、彼の特徴の一つだと言える。例えば、「医者は医術を教え、彫刻家は〜、建築家は〜、大工は〜、鍛冶屋は〜、靴屋は〜、ではソフィストは何を教えるのか?」などが典型である。また、抽象概念同士の関係性や数、一致性・不一致性、範疇・所属なども執拗に問うていく。こういった飽くなき概念の明晰化の追求、知識・人間の吟味と向上、これが彼の考えた愛知(哲学)の営みだと推察できる。 こういった一見現実社会に直接役立ちそうもない重箱の隅をつつくような思索{{要出典|date=2012年8月}}を、青年期を過ぎてなお延々と続ける「子供じみた」{{要出典|date=2012年8月}}営みと断定する人々、特に目の前の社会運営を優先する穏健で「大人な」人々や、弱肉強食な自然観・社会観を持っている「諦念的な」人々を苛立たせる。そして、『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』に登場するカルリクレスや、『[[国家 (対話篇)|国家]]』に登場するトラシュマコスなどのように、公然とソクラテスを非難する人々も出てくることになる。しかしながら、そうしてソクラテスを非難する人々が拠って立っている考えの曖昧さですら、ソクラテスにとっては明確化の対象であり、そういった人々もまた、格好のカモ{{要出典|date=2012年8月}}として、ソクラテスの明確化の渦の中に巻き込まれていくことになる。 こうして、[[タレース]]など[[ミレトス学派]]([[イオニア学派]])に始まる自然哲学とは対照的な、人間・社会にまつわる概念を執拗に吟味・探求する哲学がソクラテスによって開始され、後にその弟子である[[プラトン]]、更にその弟子である[[アリストテレス]]が、([[ピタゴラス教団]]や[[エレア派]]の影響を受けつつ)[[形而上学]]をそこに持ち込むことによって、その両者(「自然」と「人間・社会」)のあり方の説明を、包括的に一つの枠組みに統合・合理化したという見解が、一般的に広く受け入れられている。 === アレテー(徳/卓越性/有能性/優秀性) === 彼の最も重視した概念はよい生き方としてのアレテー(αρετη、arete[[徳]])である。「人間としての善=徳」という意味で、人間のアレテーは魂をよりよくすることであり、刑罰もそのために有効だとする{{要出典|date=2012年6月}}。また、アレテーを実践する者の人生は幸福であるとも主張した。しかし、これはプラトンの考えという説もある。なぜなら、ソクラテスは著書を残していないからである。 === 社会契約論 === 『ソクラテスの弁明』の続編である『[[クリトン]]』において、死刑を待ち、拘留されているソクラテスに逃亡を促しに来た弟子のクリトンに対して、彼は「国家」「国法」という架空の対話者を持ち出し、「我々の庇護の下でおまえの父母が結婚し、おまえが生まれ、扶養され、教育された。祖国とは、父母や祖先よりも貴く、畏怖され、神聖なものである。また、この国家(アテナイ) が気に入らなければ、いつでも財産を持って外国や植民地に移住することが認められているのにもかかわらず、おまえは70歳の老人になるまで、ここに留まり、家庭をもうけ、ほとんど外国に行くことすらなかった。したがって、我々とおまえの間には合意と契約が成立しているのにもかかわらず、今さらそれを一方的に破棄して、逃亡を企てようというのか?そのような不正が許されるのか?」と彼自身を非難させ、クリトンに逃亡の説得を諦めさせた{{Sfn|プラトン|2007|pp=91-102}}。 これは、中世・近代に様々に展開していくことになる[[社会契約]]論の原型とも言える。彼の弟子であるプラトンや、その弟子であるアリストテレスも、徳の概念と関連させつつ、様々な国家論を論じていくことになる。 === 自立(自律) === {{出典の明記|date=2015年10月27日 (火) 02:08 (UTC)|section=1}} ソクラテスは、徳(善き生)などについての考えの形成(魂の世話)を、[[ソフィスト]]のような他者の手に納得しないまま安易に委ねることを嫌った。そして、自身の考え(あるいは、「ダイモニオン」)に従い、おかしいと思うことは相手が誰であろうと忌憚無く問い、正しいと思うことは誰に反対されようとも実践すべきであることを身を以て示した。その結果、彼は自ら死刑を受け入れることになる。 === ダイモニオン === ソクラテスは時折「ダイモニオン」(超自然的・神的な合図・徴(しるし))を受け取ることがあったという。そして、それが彼の考えや行動の重要な指針にもなっている。彼によると、それは幼年時代からあらわれるようになった、一種の声(幻聴)であり、常に何事かを諫止・禁止する形であらわれ、何かを薦める形ではあらわれない{{Sfn|プラトン|2007|p=48}}。なお、こういったことを放言していたことが、「国家の信ずる神々を信ぜずして他の新しき神霊(ダイモニア)を信ずる{{Sfn|プラトン|2007|p=29}}」といった訴状の内容にも影響を与えたと考えられる。 == 著作をおこなわなかった理由 == ソクラテスは、書記言語が野放しの状態で広まることを激しく非難していた{{Sfn|ウルフ|2009|p=110}}。 ソクラテスは、話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである{{Sfn|ウルフ|2009|p=114}}。 ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからである{{Sfn|ウルフ|2009|p=117}}。 ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた{{Sfn|ウルフ|2009|p=120}}。 ソクラテスは、よりよく知識を伝えるには、相手の理解に合わせて問いを投げかけて考えを促し、誤解を避けるために表現を選び、知識を伝える適切なタイミングを計ることが必要であり、それができるのは書物ではなく対話だけだと考えていた<ref>{{Cite book|title=Kensaku enjin wa naze mitsukerunoka : Shitteokitai uebu jōhō kensaku no kiso chishiki|url=https://www.worldcat.org/oclc/752002307|publisher=Nikkeibīpīsha|date=2011 ;|location=[Tōkyō]|isbn=9784822284619|oclc=752002307|others=Mori, Daijirō., 森, 大二郎}}</ref>。 == ソクラテス問題 == ソクラテスは自説を著作として残さなかったため、今日ではその生涯・思想共に他の著作家の作品を通してうかがい知ることができるのみである。これは「'''ソクラテス問題'''」として知られる一連の問題を発生させている。 同時代の作家の内、劇作家・詩人の[[アリストパネス]]は戯曲『[[雲 (戯曲)|雲]]』においてギリシャの[[ソフィスト]]たちを揶揄し、その筆頭としてソクラテスを挙げている。ここではソクラテスの言動は揶揄のために誇張されていると考えられる{{efn|同時にそれがまったくのでっちあげであれば揶揄としての効果を持たないことから、何らかの真実を含んでいるとも考えられる。}}。 同じくソクラテスの弟子である[[プラトン]]の記した一連の対話篇にはソクラテスが頻繁に登場する。しかしながら、特に『[[メノン (対話篇)|メノン]]』以降のソクラテスはプラトンの思想を表現するための人物として利用されている感がある。 他の弟子による文章の一部やプラトンの弟子にあたる[[アリストテレス]]による記述をはじめ、後世の著作家による記述も残っている。 ソクラテスの弟子の一人とされる[[クセノポン]]は『[[ソクラテスの思い出]]』などソクラテスに関する文章を記しており、今日まで比較的よく保存されている。ただし、西洋哲学の場においては「一切の哲学はプラトンの注釈である」と言われるように、ソクラテスについての理解もプラトンの著作と思想([[プラトン主義]])を通じて行われる厚い伝統があり、クセノポンの描くソクラテスは通俗的で哲学者としての力量をとらえきれていないとする風潮がある{{Sfn|プラトン|2007|pp=119-120}}。 また、ソクラテスは容姿はグロテスクで弟子のプラトンに「我が師ソクラテスは世界で1番醜い。しかし1番賢い。」と言われていた。 == クセノポンのソクラテス像 == 『ソクラテスの思い出』(以下『思い出』と略)でクセノポンが繰り返し強調しているのは、ソクラテスは「神々が目に見えないと言う理由で信じない者は、自分の心も目に見えないものであるということを忘れている」としている。クセノポンのソクラテスの態度はキリスト教の伝統的神秘主義に近い。 この書でのダイモニオンについてのソクラテスの解説は[[キリスト教]]の[[聖霊]]論に非常に類似している。また、「最高善」というものについては、ソクラテスが「人間は結局のところ何が最善なのか知り得ないのだから」と言って、神々にただ「善きものを与えたまえ」と祈るように勧めたという逸話{{efn|伝統的にプラトンの著作と見なされ、時々、真筆性に疑問を投げかけられているものに『クレイトポン』がある。この対話篇では、ソクラテスは登場するものも影は薄く、「善とは何か?」という極限的な問題について何ら積極的な解答を与えないソクラテスへのクレイトポンの非難が主な内容を成している。ただし、これを『国家』の習作と見なす態度もある<ref>[[田中美知太郎]]『世界の名著 (6) プラトン1』[[中央公論新社]]、1978年4月1日。{{要ページ番号|date=2020年4月}}</ref>。}}もキリスト教の主祷文に通じる。根本的に違うのは、「敵を愛せよ」という[[イエス・キリスト|ナザレのイエス]]の教えがソクラテスにおいては、あたかも意図的であるかのように全く逆さまに書かれている点である(イエスの時代はソクラテスの時代の約四百年後)。これは、戦争に参加もしたソクラテスの根本姿勢がアテナイ民主制の伝統的価値観に依拠していることによるのであり、この点においてソクラテスをナザレのイエスよりも[[孔子]]に引き寄せて評価する立場もある。概して『思い出』におけるソクラテスはプラトンの登場人物としてのソクラテスよりも明瞭に宗教的人物である{{efn|イギリスの哲学者[[バートランド・ラッセル]]は『西洋哲学史』においてソクラテスを「[[オルペウス教|オルフィック教]]の聖者」と呼んだ。}}。 クセノポンは、ソクラテスは自分が裁判に訴えられたと知るとすぐさま反論を組み立て始めたが、ダイモニオンがそれを制止したと書いている。 [[ストア派]]の創始者である[[キティオンのゼノン]]は商人時代に書店で『思い出』に出会ったことから哲学の道に入った。一般にストア派におけるソクラテスの影響はプラトンではなく、クセノポンを通じてのものである。 == 後世への影響 == === ヘレニズム === {{multiple image | align = right | image1 = SocratesCarnelianGemImprintRome1stBCE1stCE.jpg | width1 = 165 | image2 = Socrates Efes Museum.JPG | width2 = 200 | footer = [[Carnelian]] gem imprint representing Socrates, Rome, 1st century BC–1st century AD (left); Wall painting at a house depicting Socrates, 1st–5th century AD, Museum of [[Ephesus]] (right) }} ソクラテスが死後の哲学に与えた影響は計り知れないほど大きく、エピクロス派とピュロン派を除けば、ソクラテス以降ほとんどの哲学の起源が彼に求められる。ヘレニズムの時代における代表的な例としてはプラトンの[[アカデメイア]]、アリストテレスの[[リュケイオン]]、[[キュニコス派]]、[[ストア派]]などが中でもソクラテスの影響を強く受けた哲学の学派として挙げられる。{{sfnm|1a1=Guthrie|1y=1972|1pp=99, 165|2a1=Long|2y=2011|2p=355|3a1=Ahbel-Rappe|3y=2011|3pp=95–96}}そしてソクラテスの哲学に対する関心は紀元3世紀まで拡大し続けた。{{sfn|Long|2011|pp=355–356}}また、ソクラテス自身が人生の目的や[[アレテー]]とはいったい何かという問いに対し答えを示さなかったことにより、この時代の様々な学派はそれぞれの答えを主張し、ソクラテスの思想に異なる解釈をした。{{sfnm|Guthrie|1972|1pp=165–166|2a1=Long|2y=2011|2pp=355–357}}他にも彼によって、この時代から哲学の関心は自然界の理解から人間の理解へと移ってゆくことになる。 === 中世 === [[File:Sughrat.jpg|right|thumb|[[Al-Mubashshir ibn Fatik]] によるによるソクラテスに関する叙述]] ==== イスラム圏におけるソクラテス ==== そして中世になるとソクラテスの思想は、アリストテレスやストア学派の思想と並んで、イスラム中東に伝わった。プラトンのソクラテスに関する著作や他の古代ギリシャ文学は、[[キンディー|アル・キンディー]]、[[ジャービル・ブン・ハイヤーン|ジャビール・イブン・ハイヤーン]]、[[ムゥタズィラ学派|ムゥタズィラ]]といった初期のイスラム学者によって[[アラビア語]]に翻訳され、その中でソクラテスは、生き方に哲学を反映させる人物として、ムハンマドと対比され賞賛された{{sfn|Alon|2009|pp=317–318}}。それに伴い中東ではソクラテスの教義はイスラムの信仰に合う形で改変されることになる。例としてこの時代のイスラムの学者は、ソクラテスを一神教と死後の救済を主張する哲学者として記している{{sfn|Alon|2009|pp=325–326}}。これらによって、アラビア語圏におけるソクラテスの影響は現在もなお続いている{{sfn|Alon|2009|p=332}}。 ==== ビザンツ帝国・ローマ下におけるソクラテス ==== また、ビザンツ帝国の下でも[[ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス|ラクタンティウス]]、[[エウセビオス]]、[[アウグスティヌス]]などのキリスト教神学者たちにより、ソクラテスに関する著作は保存され、キリスト教的観点から研究された{{sfnm|1a1=Trizio|1y=2019|1pp=609–610|2a1=Hankins|2y=2009|2p=352}}。[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープル陥落後]]も、多くの文献はローマ・キリスト教世界に持ち替えられ、そこでラテン語に翻訳されることになるものの、初めのうちはキリスト教徒によって懐疑的に扱われた{{sfn|Hankins|2009|pp=337–340}}。 しかしイタリア・[[ルネサンス]]初期に入り、ソクラテスに関する2つの物語が書かれ、一方で[[ヒューマニズム|人文主義]]運動が高まることによって、作家たちはソクラテスに対する関心を復活させてゆくことになった{{sfn|Hankins|2009|pp=348–349}} 。 === 近現代 === [[File:Reyer Jacobsz. van Blommendael, Socrate, ses deux épouses et Alcibiade, 1675. Huile sur toile, 210 x 198 cm. Strasbourg, Musée des Beaux-Art.jpg|thumb|オランダ黄金時代の画家レイヤー・ファン・ブロンメンダールによる''「ソクラテス、彼の二人の妻とアルキビアデス」'']] ==== 近世フランスとソクラテス ==== 近世フランスでは、さまざまな小説や風刺劇の中で、ソクラテスの哲学的思想よりもむしろ彼の私生活に焦点が置かれた{{Sfn|McLean|2009|pp=353–354}}。この時代、無神論で告発されたキリスト教徒のソクラテスを描いたテオフィル・ド・ヴィアウのように、同時代の論争を浮き彫りにするためにソクラテスを利用した思想家もいれば{{sfn|McLean|2009|p=355}}、ヴォルテールのようにソクラテスを理性に基づく神学者の象徴として扱う見方もあった{{sfn|Loughlin|2019|p=665}}。ミシェル・ド・モンテーニュは、ソクラテスを当時の宗教狂信者に対抗する合理主義と結びつけ、ソクラテスについて幅広く書いたことでも知られる{{sfn|Ahbel-Rappe|2011|p=12}}。 ==== ヘーゲル、ドイツ観念論とソクラテス ==== 18世紀には、[[ドイツ観念論]]、主に[[ヘーゲル]]の著作を通じて、ソクラテスに対する哲学的関心が復活した。ヘーゲルは、ソクラテスは、自由な主観性あるいは自己決定の原則を哲学に導入することによって、人類の歴史における転換点を作ったと考えた。しかしヘーゲルはソクラテスの功績を称える一方で、ソクラテスの自己決定への主張はシトリヒカイト(国家の制度や法律によって形成される生き方を意味するヘーゲルの言葉)を破壊するものであるとして、アテネの議会の判決を正当化する一面もある{{sfn|Bowman|2019|pp=751–753}}。またヘーゲルは、ソクラテスが[[合理主義哲学|合理主義]]を用いるのは、プロタゴラスが人間の理性に焦点を当てたこと(「人間は万物の尺度である」というモットーに集約されている)を継承したものであり、現実について客観的な結論に到達するのに役立つのは我々の理性である、と言い換えたものであると見ている{{sfn|Bowman|2019|pp=753, 761–763}}。加えて、ヘーゲルはソクラテスを古代における懐疑哲学の先駆者とみなしたが、その理由を明確に説明することはなかった{{sfn|White|2009|pp=373–374}}。 ==== キルケゴールとソクラテス ==== また[[セーレン・キェルケゴール|セーレン・キルケゴール]]はソクラテスを師と仰ぎ{{sfn|Schur|Yamato|2019|p=820}}、彼に関する修士論文『ソクラテスの継続的参照とアイロニーの概念』を執筆した。そこでは、ソクラテスは道徳哲学者ではなく、純粋にアイロニストであると論じている。彼はまた、ソクラテスが書くことを避けたことにも注目した。キルケゴールよると彼が文字によって語ることを避けたのは、ソクラテスが自分の無知を受け入れたことに由来する謙虚さの表れであるという。そして彼はプラトンの『弁明』だけが本当のソクラテスのに近いとし{{sfn|Muench|2009|p=390}}、キルケゴールは著作群の中で何度もソクラテスについて言及し、後年の著作ではソクラテスの思想から倫理学的な要素を見出した。ソクラテスはキルケゴールにとって研究対象であっただけでなく、理想像でもあった{{sfn|Muench|2009|p=389}}。キルケゴールは哲学者としての自分のあり方をソクラテスになぞらえていた。キリスト教が形式にとらわれ本来の意味を見失っていると考えた彼は、「自分の仕事はソクラテスの仕事であり、キリスト教徒であることが何であるかの定義を考えることである」と語り、{{sfn|Muench|2009|pp=390–391|ps=:Quote from Kierkegaard's essay ''My Task'' (1855)}}こうしてキルケゴールは、ソクラテスが知識の所有を否定したように、自身がキリスト教徒であることを否定した{{sfn|Muench|2009|p=394}}。 ==== ニーチェとソクラテス ==== 一方で[[フリードリヒ・ニーチェ]]はソクラテスの西洋文化への影響を批判した。最初の著書『[[悲劇の誕生]]』(1872年)では、紀元前4世紀以降の古代ギリシャ文明の劣化の責任はソクラテスにあるとした論じた。またニーチェにとってソクラテスは、哲学の範囲をソクラテス以前の自然主義から合理主義や知識主義に変えた責任があるとした。彼は自身の著書の中で、「私はソクラテスではなく、彼以前の哲学者こそが古代ギリシアの先導者であると考えている。」「エンペドクレスとデモクリトスによってギリシアは人間存在、その理不尽さ、苦しみを正く理解する道を歩んでいた。しかしソクラテスのせいで人類はその答えに辿り着けないでいる」と批判する。つまり、ニーチェは、人間の文化が倒錯しているのは、今日の西洋文化がソクラテスより継承された文化であるからだと考えた{{sfn|Raymond|2019|p=837}}。また後に出版された『偶像の黄昏』(1887年)において、ニーチェはソクラテスに対する批判を続け、ソクラテス的思考法における理性と美徳や幸福との恣意的な結びつきに焦点を当てた{{sfn|Porter|2009|pp=410–411}}。 ==== 20世紀とソクラテス ==== [[File:Socrates en Biblioteca Nacional.JPG|thumb|ウルグアイ国立図書館([[モンテビデオ]])の外にある、ソクラテスの像]] 20世紀の大陸哲学者の[[ハンナ・アーレント]]、[[レオ・シュトラウス]]、[[カール・ポパー]]は、[[全体主義体制]]の台頭、[[第二次世界大戦]]の恐怖を体験した後、ソクラテスに対し良心の象徴としての見方を強めた{{sfn|Ahbel-Rappe|2011|p=127}}。アーレントは『[[エルサレムのアイヒマン]]』(1963年)の中で、ソクラテスの絶え間ない問いかけと自己反省が、悪の凡庸性を防ぐことができると示唆している{{sfn|Ahbel-Rappe|2011|pp=137–138}}。またシュトラウスは、ソクラテスの政治思想はプラトンと類似していると考え、プラトンの『共和国』に登場するソクラテスの主張が、民主的なポリスが理想的な国家形態でないことを例証していると考える{{sfn|Ahbel-Rappe|2011|pp=138–140}}。そしてポパーは、ソクラテスはプラトンの全体主義思想に反対していると主張する。ポパーにとって、ソクラテスの個人主義やアテネの民主主義は、『[[開かれた社会とその敵]]』(1945年)で述べられているポパーの「開かれた社会」の概念を反映していると語る{{sfn|Ahbel-Rappe|2011|pp=140–142}}。 == 弟子 == * [[プラトン]] (哲学者) * [[クセノポン]](軍人・著述家) * [[アリスティッポス]]([[キュレネ派|キュレネ学派]]の開祖) * [[エリスのパイドン]]([[エリス学派]]の開祖) * [[アルキビアデス]](軍人・政治家) * [[アンティステネス]]([[キュニコス派]](犬儒学派)の開祖) * [[メガラのエウクレイデス]]([[メガラ学派]]の開祖) * [[アンブラキアのクレオンブロトス]](哲学者) * [[クリティアス (三十人僭主)]](政治家) など == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2018年8月3日 (金) 03:31 (UTC)|section=1}} * {{Cite book |和書 |title=ソクラテスの弁明・クリトン |others=[[久保勉]]訳 |date=2007-04 |author=プラトン |edition=第92刷改版 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |ref={{SfnRef|プラトン|2007}} }} * {{Cite book|和書|author=メアリアン・ウルフ|translator=小松淳子|title=プルーストとイカ…読書は脳をどのように変えるのか?|origdate=2008-10-15|accessdate=2009-04-29|edition=初版|publisher=インターシフト|isbn=9784772695138 |ref={{SfnRef|ウルフ|2009}}}} * [[加来彰俊]]『ソクラテスはなぜ死んだのか』岩波書店、2004年 * [[フランシス・マクドナルド・コーンフォード|F・M・コーンフォード]] 『ソクラテス以前以後』山田道夫訳、岩波文庫、1995年 * [[斎藤忍随]]『知者たちの言葉 ソクラテス以前』岩波新書、初版1976年 * [[田中美知太郎]] 『ソクラテス』 [[岩波新書]]、初版1957年。ISBN 4004120195 * {{Cite book|和書|author=西部邁|authorlink=西部邁|year=2004|title=学問|chapter=98 ソクラテス|publisher=講談社|pages=318-320|isbn=4-06-212369-X}} * [[納富信留]]『哲学者の誕生 ソクラテスをめぐる人々』[[ちくま新書]]、2005年 * [[ディオゲネス・ラエルティオス]]・加来彰俊訳 『[[ギリシア哲学者列伝]](上)』 [[岩波文庫]]、初版1984年。ISBN 400336631X * {{cite book|last=Ahbel-Rappe|first=Sara |title=Socrates: A Guide for the Perplexed|url=https://books.google.com/books?id=GKewlVwJ9rgC|year=2011|publisher=A&C Black|isbn=978-0-8264-3325-1}} * {{cite book|last=Alon|first=Ilai|editor-last1=Ahbel-Rappe|editor-first1=Sara|editor-last2=Kamtekar|editor-first2=Rachana|title=A Companion to Socrates|url=https://books.google.com/books?id=wGjTooom3rcC|year=2009|publisher=Wiley|isbn=978-1-4051-5458-1|chapter=Socrates in Arabic Philosophy|pages=313–326|doi=10.1002/9780470996218.ch20}} * {{cite book|last=Bowman|first=Brady|editor=Kyriakos N. Demetriou|title=Brill's Companion to the Reception of Socrates|url=https://books.google.com/books?id=CTGbDwAAQBAJ|year=2019|publisher=Brill|isbn=978-90-04-39675-3|chapter=Hegel on Socrates and the Historical Advent of Moral Self-Consciousness|pages=749–792|doi=10.1163/9789004396753_030|s2cid=181666253}} * Coppens, Philip, [http://www.philipcoppens.com/socrates.html "Socrates, that’s the question"] Feature Articles– Biographies, PhilipCoppens.com. * {{cite book|last=Guthrie|first=W. K. C.|author-link=W. K. C. Guthrie|title=A History of Greek Philosophy: Volume 3, The Fifth Century Enlightenment, Part 2, Socrates|url=https://archive.org/details/historyofgreekph0003unse|url-access=registration|date=1972|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-09667-6|doi=10.1017/CBO9780511518454}} * {{cite book|last=Hankins|first=James|editor-last1=Ahbel-Rappe|editor-first1=Sara|editor-last2=Kamtekar|editor-first2=Rachana|title=A Companion to Socrates|url=https://books.google.com/books?id=wGjTooom3rcC|year=2009|publisher=Wiley|isbn=978-1-4051-5458-1|chapter=Socrates in the Italian Renaissance|pages=337–352|doi=10.1002/9780470996218.ch21}} * {{cite book | last = May | first = Hope | title = On Socrates | publisher = Wadsworth | location = Belmont, CA | year = 2000 | isbn = 0-534-57604-4}} * {{cite book|last=McLean|first=Daniel R.|editor-last1=Ahbel-Rappe|editor-first1=Sara|editor-last2=Kamtekar|editor-first2=Rachana|title=A Companion to Socrates|url=https://books.google.com/books?id=wGjTooom3rcC|year=2009|publisher=Wiley|isbn=978-1-4051-5458-1|chapter=The Private Life of Socrates in Early Modern France|pages=353–367|doi=10.1002/9780470996218.ch22}} * {{cite book|last=Muench|first=Paul|editor=Sara Ahbel-Rappe|others=Rachana Kamtekar|title=A Companion to Socrates|url=https://books.google.com/books?id=wGjTooom3rcC|year=2009|publisher=Wiley|isbn=978-1-4051-5458-1|chapter=Kierkegaard's Socratic Point of View|pages=389–405|doi=10.1002/9780470996218.ch24}} * {{cite book|last=Long|first=A.A.|editor=Donald R. Morrison|title=The Cambridge Companion to Socrates|url=https://books.google.com/books?id=_KBex4rtlXMC|year=2011|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-83342-4|chapter=Socrates in Later Greek Philosophy|pages=355–379|doi=10.1017/CCOL9780521833424.015}} * {{cite book|last=Loughlin|first=Felicity P.|editor=Kyriakos N. Demetriou|title=Brill's Companion to the Reception of Socrates|url=https://books.google.com/books?id=CTGbDwAAQBAJ|year= 2019|publisher=Brill|isbn=978-90-04-39675-3|chapter=Socrates and Religious Debate in the Scottish Enlightenment|pages=658–683|doi=10.1163/9789004396753_027|s2cid=182644665}} * {{cite book | last = Ong | first = Walter | title = Orality and Literacy | publisher = Routledge | location = New York | year = 2002 | isbn = 0-415-28129-6 }} * Kagan, Donald. The Fall of the Athenian Empire. First. Ithaca, New York: Cornell University Press, 1987. * Pausanias, ''[http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?lookup=Paus.+1.1.1 Description of Greece]''. W. 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Demetriou|title=Brill's Companion to the Reception of Socrates|url=https://books.google.com/books?id=CTGbDwAAQBAJ|year= 2019|publisher=Brill|isbn=978-90-04-39675-3|chapter=Nietzsche's Revaluation of Socrates|pages=837–683|doi=10.1163/9789004396753_033|s2cid=182444038}} * {{cite book|last1=Schur|first1=David|last2=Yamato|first2=Lori|editor=Kyriakos N. Demetriou|title=Brill's Companion to the Reception of Socrates|url=https://books.google.com/books?id=CTGbDwAAQBAJ|year= 2019|publisher=Brill Publishers|isbn=978-90-04-39675-3|chapter=Kierkegaard's Socratic Way of Writing|pages=820–836|doi=10.1163/9789004396753_032|s2cid=181535294}} * Thucydides; ''The Peloponnesian War''. London, J. M. Dent; New York, E. P. 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スポーツ
スポーツ(アメリカ英語: sports、イギリス英語: sport)は、一定のルールに則って技術の優劣を競う活動(競技)の総称である。 「sports スポーツ」の語源はラテン語の「deportare デポルターレ」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という意味の語である。これが古フランス語の「desporter」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、英語の「sport」になったと考えられている。 和製漢語では「遊戯」「体育」「競技」「運動競技」などと訳されたが、現在では片仮名で表記するのが一般的であり、「スポーツ」と「体育」は区別される概念である。朝鮮語でも同様である。中国語では現在でもスポーツを「体育」と呼ぶ。 日本では大正時代末ころから「スポーツ」という言葉は一般化されたが、当時は欧米から入ってきた運動そのものだけを指していた。日本でも「スポーツ」が競技を意味するようになったり、柔道や空手などの武道が競技として発展し「スポーツ」として認知されるようになったりしたのは戦後のことである。 その他にも、古代オリンピアの時代から詩歌や歌劇などの文学や演奏、絵画や彫刻などの造形・建築、鳩レースやドッグレース、数学やクイズ・謎解き、チェスやポーカーなどのボードゲームやカードゲームなど、人類史においては幅広い分野でスポーツ化が行われて楽しまれてきた。近代オリンピックにおいても完全アマチュア化が図られる1964年東京オリンピックの直前まで、絵画・造形・文学・建築・音楽などの分野が正式競技として採用されていた。 「スポーツ」の英語表記には、集合的な意味で用いるsportと、種目別に表現するような場合に用いるa sport / sportsの二種類がある。また、“sports medicine”や“sports injury”などのように形容詞的に用いる場合には、sportsという語が用いられることが普通である。特に、アメリカでは、集合的な意味で用いる場合にも“sports”という慣用表現が多用される。しかし、学会の名称や学術書の表題などのように学術的な意味で集合的に用いる場合には、“North American Society for Sport Management”や“Journal of Sport History”などのように、語尾に“s”を付けない表記が大多数を占めている。 スポーツそのものは特に地域的な偏りなく、原始的な文明も含めて古代から全世界において行われており、古代エジプト王朝成立以前のエジプトにおいてすでに競走が行われていたことがわかっている。古代文明のうちでスポーツを特に重視したのは古代ギリシアであり、紀元前776年以降オリュンピアで4年に1回行われた古代オリンピックはギリシアの全都市が参加する大規模なもので、大会期間中は戦争が禁じられ、勝者には栄誉が与えられた。なお、ギリシアではこのほかにもネメアー大祭、イストミア大祭、ピューティア大祭といった大競技大会が開催されていた。古代オリンピックはローマ帝国の統治下でも継続し、おそらく393年に行われた第293回大会まで1000年以上継続したが、394年にキリスト教の支持の元でテオドシウス1世によって禁止令が発出されたことによって終わりを迎えた。 スポーツそのものは世界各地で盛んに行われてきたが、19世紀中頃になるとイギリスにおいてルールの整備と組織化が相次いで行われ、近代スポーツが誕生した。近代スポーツの誕生は、スポーツの隆盛と競技種目数の増加を招いた。サッカーとラグビーのように、いくつかの種目はルールの確定と厳格化によって原型から分化し、異なるスポーツとして発展し始めた。いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになったが、特にイギリスの植民地においては、イギリス発祥のスポーツがそのまま伝播し、クリケットやラグビーのように共通のスポーツ文化を保持するようになった。また、野球やアメリカン・フットボールのように、スポーツが伝播した先で現地文化の影響を受けて変化し、新たな競技として分化することも珍しくなかった。フランスのピエール・ド・クーベルタンは古代オリンピックの復興を唱え、1896年には第1回アテネオリンピックがギリシアのアテネで開催された。このオリンピック大会は徐々に成長していき、やがて世界最大のスポーツイベントとなっていった。 近代スポーツは当初アマチュアリズムに重点が置かれていたが、19世紀後半よりアメリカでスポーツのプロ化がはじまり、やがてヨーロッパにも広がっていった。1970年代に入るとスポーツ・フォー・オール政策が各国で導入されてスポーツの一般市民への普及が図られ、また1980年代に入ると大規模競技大会の商業化が急速に進んで、スポーツ人口および商業規模は大幅に拡大した。 スポーツには様々な分類方法がある。 たとえば、商業活動を禁止する「アマチュア・スポーツ」と、商業活動を目的とする「プロフェッショナル・スポーツ」に大別する方法がある。 特に技術や記録などの向上を目指し、個人や集団で極限への挑戦を追求するスポーツは「ハイパフォーマンス(エリート)・スポーツ」と呼称される。それに対して日本では独自に、老若男女だれもがスポーツに「楽しみ」を求め、健康づくりや社交の場として行うスポーツ、身近な生活の場に取り入れられているスポーツを「生涯スポーツ」、競技ではなく娯楽を主たる目的として行うスポーツを「レクリエーショナル・スポーツ」と命名し促進している。 何らかの障害者を持つ人々が行うスポーツは「障害者スポーツ」と呼ばれる。非常に多くの種類があり、競技会も多種で、大規模な国際大会であるパラリンピックも行われている。 競技の公平性を保つために、性別や体重別による階級制による分類も多くのスポーツで採用されている。ただし近年では生物学的な性と異なるジェンダーによる参加が増加し、競技としての公平性が議論されている。従来の男性・女性に加えて「その他」の性別を設けたり、平等性の観点からジェンダーレス(男女混合)に回帰するスポーツ運営も増えている。 フィールドや環境で分類する方法もある。水場を利用して行うスポーツなどは「ウォータースポーツ」と呼ばれる。水泳、水球、サーフィン、ウィンドサーフィンなどが含まれる。ウォータースポーツの中でも、特に海で行うものを「マリンスポーツ」と分類する。同様に夏季に行われるスポーツをサマースポーツ、冬季に行われるスポーツをウィンタースポーツとも呼ばれる。動力として風や空気の力を主に利用し操作するスポーツを「ウィンド・スポーツ」と分類することもある。パラグライディング(=パラグライダーで飛ぶこと)などが挙げられる。 道具としてボール(球)を用いるスポーツを「ball sports(球技)」、器械を用いるスポーツを「キネマティックスポーツ(器械競技)」、 また近年ではビデオゲームや電子機器を用いた競技が台頭するとe-Sportsと分類されるようになった。ボード(=板状の道具)に乗るようにして行うスポーツを「ボードスポーツ」と分類する。スケートボード、スノーボード、サーフィン、ウィンドサーフィン等々が含まれる。 狩猟対象としてではなく競技者が道具として動物を使うスポーツを動物スポーツと分類する。スポーツと動物の関係は多様であり、馬術や競馬のように人が直接乗るものや、闘牛や闘鶏のように動物同士を戦わせるものなどさまざまな種類が存在する。 20世紀中ころに動物に変わり自動車や飛行機などエンジンのついた乗り物を操作する競技が登場すると、モーター(原動機)スポーツと呼称するようになった。 「武道」にはさまざまな面があるが、「スポーツ」に分類することはある。ただし、「スポーツ」に分類してしまうことが適切なのか不適切なのか、議論を生むことはある。また、たとえば合気道は基本的に試合形式では行わない。合気道の師範は一般に、合気道をスポーツと呼ぶことには違和感を表明している。 伝統的なスポーツと比較しつつ、新しく考案されたスポーツを「ニュースポーツ」と分類することもある。 スポーツのゲーム形式については以下のような分類がある。スポーツ競技一覧も併せて参照のこと。 個人の成績だけで勝負を決めるもの。 相手と直接対戦し、勝敗を決めるスポーツのこと。 相手と同時に対戦して着順で優劣を決めるか、個別に所要時間の記録をとってその結果で優劣を決めるスポーツのこと。 相手とは同時に対戦はせず、優劣が決まるスポーツのこと。 かつてフィギュアスケートは相対評価の6点満点方式だったが、2002年ソルトレークシティオリンピックの不正採点事件を機に加点方式に変更されたといわれる。基礎点に加点・減点した「技術点」と表現力の5項目を得点化した「演技点」の合算。 オリンピックのモットーとして有名な、「より速く、より高く、より強く(Citius・Altius・Fortius)」という三語法は、1996年版の14.に書かれているという情報がある。「2011年7月8日から有効」版には第1章の10.に書かれている。 主なスポーツのファンの人口は、下図のようになっている。 各種スポーツではそれぞれ競技大会が行われ、また複数の競技を総合的に開催する総合競技大会も数多く行われている。こうした大会は地方レベルから国家レベル、各大州レベルから全世界レベルに至るまでさまざまな規模のものが存在し、また参加型・観戦型のどちらの大会も行われる。総合競技大会の中でも最も大規模かつ著名なものは4年に1度行われるオリンピックである。このほか、アジア競技大会のように地域別のもの、コモンウェルスゲームズのように政治的紐帯によるものなど、さまざまな区分による総合競技大会が存在する。また、各種競技単独で世界各国が参加して行われる国際大会も数多く存在する。こうした国際大会の中で最も大規模かつ人気のあるものはサッカーのFIFAワールドカップである。 参加に対して報酬を得られるかどうかによって、スポーツ選手はアマチュアスポーツとプロフェッショナルスポーツの2つに分けられる。また、報酬を得ているもののそれのみで生計を立てられないセミプロの選手も存在する。 アマチュアとして一般市民が余暇の1つとして行うスポーツは多岐にわたっており、市民チームやクラブは無数に存在するほか、市民マラソンのように一般市民が参加できる個人競技大会も存在する。競技スポーツだけでなく、健康のために個人で行うスポーツの参加者も多く、ジョギングやエアロビクスなどの流行と隆盛をもたらした。世界最大のスポーツ大会であるオリンピックは、創設者のクーベルタン以降長らくアマチュアリズムの理想を掲げており、アマチュアしか出場することができなかった。なかでも第5代国際オリンピック委員会(IOC)会長だったアベリー・ブランデージは強硬なアマチュア論者として知られ、プロの排除を厳格に遂行したが、この頃にはソヴィエト連邦をはじめとする共産圏諸国が国家の威信をかけて育成した、いわゆる「ステート・アマ」の進出が進んでおり、この方針は多くの摩擦を引き起こした。こうしたことからブランデージ退任後の1974年にこの方針は削除され、以後プロの進出が急速に進んだ。 これに対し、一部の人気のあるスポーツにおいては優秀なプレイヤーがプロフェッショナル化し、スポーツ参加のみで生計を立てることができるようになっている。各国において人気のあるスポーツは異なるため、プロ化しているスポーツも国ごとに異なっている。人気に高いスポーツには多くの観客が集まり、さらにマスメディアによって放映される試合には膨大な数の視聴者を見込むことができるため、一部のプロスポーツでは莫大な金額が動き、トッププレイヤーは高額な報酬を得ることができる。スポーツ選手としての収入のほか、トッププレイヤーはコマーシャルの出演によっても多額の収入を得られる場合がある。こうしたことから、世界の年収ランキングにおいては数人のトップ選手がランクインすることが常である。 スポーツは参加者・ファンともに膨大な人口がいるため、スポーツに関連した産業も巨大なものとなっている。 スポーツ用品産業には各種スポーツに専用の道具を生産するものだけでなく、例えば各チームのユニフォームや、スポーツ用シューズの生産なども含まれる。こうしたスポーツ用品は参加者のほか、お気に入りの選手と同じ商品を求めるファンや、機能やデザインを気に入った一般市民をも販売対象としている。 メディア産業において、スポーツは重要な地位を占めている。プロスポーツの試合や世界大会のスポーツ中継には膨大な数の視聴者がおり、その広告収入を見込んで有力スポーツのイベントには莫大な放映権料が提示される。放映権料のほかに、スポーツイベントにおいては有力企業がスポンサーシップを獲得し、資金を拠出する代わりに独占的な広告の権利を得る。こうしたスポンサー契約は高い広告効果を持つため、各社は契約獲得にしのぎを削っている。放映権料はプロスポーツやオリンピックなどの大規模競技大会において総収入の過半を占めることが常であり、スポーツ界を支える柱の一つとなっているが、一方でマスメディアの都合により試合時間や時期の変更、さらには競技ルールの変更が行われることもある。テレビやラジオでは試合中継のほかにも、結果がスポーツニュースとして流され、翌日の新聞でもしばしば大きく報道される。スポーツ関係を主に扱うスポーツ新聞も各国に存在し、各スポーツに特化したスポーツ雑誌も多数発行されている。 登山やスキー、水上スポーツなど一部のスポーツは特定の場所でしか行うことができないため、スポーツを行うことを目的としたスポーツツーリズムも盛んに行われている。特に冬季にはアルプス山脈地方を中心に多くの観光客がスキーリゾートを訪れ、スキー客数は増加の一途をたどっている。また、大規模なスポーツイベントを観戦するための旅行や、スポーツチームが合宿や遠征を行うための旅行もスポーツツーリズムの小さくない部分を占める。スポーツツーリズムは該当地域の経済に好影響を与える一方で、環境や文化の破壊などの問題をもたらす場合もある。 スポーツと賭博の間の関係は国によってさまざまである。2009年には、世界の商業賭博総額3350億ドルの内、競馬が7%、スポーツくじが5%を占めていた。ただしスポーツ賭博を完全に禁じている国も珍しくなく、さらに同じ国内においてもスポーツ賭博の対象として認められている競技と、一切禁じている競技とが存在する。日本では戦前から認められていた競馬に加え、1948年から1951年にかけて競艇、競輪、オートレースが相次いで公営競技化されたほか、2001年からはサッカーを対象にスポーツ振興くじが発売されている。 19世紀以降、いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになった。スポーツはルールの共有や整備を通じて、発祥地の文化を越えて普遍的な方向へと進む傾向があるが、一方で元々それを固有文化としていた地域においては、固有性と普遍性の間で衝突が起きる場合がある。それぞれの競技には国際的な統括団体として国際競技連盟が存在しており、各国の国内競技連盟間の調整や国際大会の主催、各国間の相互交流などを行っている。ただし競技が行われる地域はそれぞれ異なっており、サッカーのように比較的偏りなく全世界で行われるスポーツもあれば、北米・カリブ海・極東に競技者の集中している野球や、イギリス連邦諸国で主に行われるクリケットやラグビーのように一部地域で強い人気を持つものもある。こうした国際的な人気スポーツに対し、ある1カ国や1民族で長く行われている民族スポーツも世界各地に存在し、根強い人気を誇っている。 スポーツとナショナリズムの間には、すでに19世紀において強い相関が認められ、21世紀においても各種国際大会の勝敗は各国のナショナリズムの高揚をもたらす。1969年には、関係の極度に悪化していたホンジュラスとエルサルバドル間の対立が1970 FIFAワールドカップ・予選の両国対決をきっかけに爆発し、サッカー戦争と呼ばれる戦争へとつながったこともある。国家を形成しない民族においてもこれは同様であり、その民族固有のスポーツを通して民族ナショナリズムの確立を目指すことは広く見られる。 多くの文明において、身体を鍛えることは教育の一環として非常に重視されていた。ヨーロッパにおいては、それまで教育においては軽視されていた体育がルネサンス期以降カリキュラムに採り入れられるようになり、19世紀に義務教育が導入されると体育も必修科目となった。日本でも明治政府がこの考え方を取り入れ、1872年の学制発布時に教科の一つとなり、以後学校教科としての体育が定着していった。 スポーツを対象とした学問分野はスポーツ科学と総称される。スポーツ科学の起源は19世紀末にさかのぼり、当初はより高い身体能力の構築や選手の治療といったスポーツ医学の分野からはじまったが、やがてスポーツ社会学など人文・社会科学分野にも広がりを見せるようになり、また自然科学においても医学以外の分野へ発展していった。1970年代には人類学との関連も始まり、1980年代にはスポーツ人類学が確立した。こうしたスポーツ科学の発展はより競技者の能力を引き出せる質の高いスポーツ用具の開発を促し、また映像技術の活用によってより優れたスポーツ技術が一般化され、記録の更新へとつながっていった。判定にもビデオ判定が導入されることにより、誤審の減少へとつながっている。 スポーツは市民の文化や健康にとって欠かせないものと考えられており、多くの国家でスポーツを振興するためのスポーツ政策が実施されている。プロスポーツの拡大やスポーツ人口の増大は都市におけるスポーツスタジアムの建設を不可欠なものとしたが、こうしたスタジアム建設は都市にとって大規模な再開発や都市基盤整備の契機となる。なかでもオリンピックやサッカーワールドカップのような大規模スポーツイベントが経済・文化的にもたらす影響は大きく、例えば1964年東京オリンピックでは開催に合わせて新幹線など各種インフラが整備され、開催国である日本に大きな変革をもたらした。 スポーツを題材とした作品は数多く存在し、文学、映画、漫画など多くの分野でそれぞれ傑作が生まれている。 美的な事柄についての哲学である美学の領域において、近年スポーツに注目する理論家が増えてきた。例えば、デビッド・ベストは、スポーツと芸術との類似性について書き、倫理との関連性なしにスポーツが純粋に美的なものに近いことを強調した。ベストは、芸術の特徴として、人生に道徳的な考察をもたらす能力を持っていることを挙げる。スポーツにはこのような能力はないが、多くのスポーツの楽しみは間違いなく美的なものであると彼は考えた。 1998年にスロヴェニア共和国のリュブリャナで行われた第14回国際美学会議で発表された、ヴォルフガング・ヴェルシュの論考「スポーツー美学の視点から、さらには藝術として?」は、鋭い洞察力を以て、スポーツが芸術に似ているところを解析し、現代の文化状況に問いを投げかけた。かつて精神を鍛える手段として、倫理の領域に属するものと見倣されていたスポーツは、いまでは、美的/感性的なものとして、芸術の性格を顕著に示すようになり、「今日の the popular art」と呼びうるものになっている、とヴェルシュは考えた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スポーツ(アメリカ英語: sports、イギリス英語: sport)は、一定のルールに則って技術の優劣を競う活動(競技)の総称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「sports スポーツ」の語源はラテン語の「deportare デポルターレ」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という意味の語である。これが古フランス語の「desporter」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、英語の「sport」になったと考えられている。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "和製漢語では「遊戯」「体育」「競技」「運動競技」などと訳されたが、現在では片仮名で表記するのが一般的であり、「スポーツ」と「体育」は区別される概念である。朝鮮語でも同様である。中国語では現在でもスポーツを「体育」と呼ぶ。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本では大正時代末ころから「スポーツ」という言葉は一般化されたが、当時は欧米から入ってきた運動そのものだけを指していた。日本でも「スポーツ」が競技を意味するようになったり、柔道や空手などの武道が競技として発展し「スポーツ」として認知されるようになったりしたのは戦後のことである。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その他にも、古代オリンピアの時代から詩歌や歌劇などの文学や演奏、絵画や彫刻などの造形・建築、鳩レースやドッグレース、数学やクイズ・謎解き、チェスやポーカーなどのボードゲームやカードゲームなど、人類史においては幅広い分野でスポーツ化が行われて楽しまれてきた。近代オリンピックにおいても完全アマチュア化が図られる1964年東京オリンピックの直前まで、絵画・造形・文学・建築・音楽などの分野が正式競技として採用されていた。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「スポーツ」の英語表記には、集合的な意味で用いるsportと、種目別に表現するような場合に用いるa sport / sportsの二種類がある。また、“sports medicine”や“sports injury”などのように形容詞的に用いる場合には、sportsという語が用いられることが普通である。特に、アメリカでは、集合的な意味で用いる場合にも“sports”という慣用表現が多用される。しかし、学会の名称や学術書の表題などのように学術的な意味で集合的に用いる場合には、“North American Society for Sport Management”や“Journal of Sport History”などのように、語尾に“s”を付けない表記が大多数を占めている。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "スポーツそのものは特に地域的な偏りなく、原始的な文明も含めて古代から全世界において行われており、古代エジプト王朝成立以前のエジプトにおいてすでに競走が行われていたことがわかっている。古代文明のうちでスポーツを特に重視したのは古代ギリシアであり、紀元前776年以降オリュンピアで4年に1回行われた古代オリンピックはギリシアの全都市が参加する大規模なもので、大会期間中は戦争が禁じられ、勝者には栄誉が与えられた。なお、ギリシアではこのほかにもネメアー大祭、イストミア大祭、ピューティア大祭といった大競技大会が開催されていた。古代オリンピックはローマ帝国の統治下でも継続し、おそらく393年に行われた第293回大会まで1000年以上継続したが、394年にキリスト教の支持の元でテオドシウス1世によって禁止令が発出されたことによって終わりを迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "スポーツそのものは世界各地で盛んに行われてきたが、19世紀中頃になるとイギリスにおいてルールの整備と組織化が相次いで行われ、近代スポーツが誕生した。近代スポーツの誕生は、スポーツの隆盛と競技種目数の増加を招いた。サッカーとラグビーのように、いくつかの種目はルールの確定と厳格化によって原型から分化し、異なるスポーツとして発展し始めた。いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになったが、特にイギリスの植民地においては、イギリス発祥のスポーツがそのまま伝播し、クリケットやラグビーのように共通のスポーツ文化を保持するようになった。また、野球やアメリカン・フットボールのように、スポーツが伝播した先で現地文化の影響を受けて変化し、新たな競技として分化することも珍しくなかった。フランスのピエール・ド・クーベルタンは古代オリンピックの復興を唱え、1896年には第1回アテネオリンピックがギリシアのアテネで開催された。このオリンピック大会は徐々に成長していき、やがて世界最大のスポーツイベントとなっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": 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"登山やスキー、水上スポーツなど一部のスポーツは特定の場所でしか行うことができないため、スポーツを行うことを目的としたスポーツツーリズムも盛んに行われている。特に冬季にはアルプス山脈地方を中心に多くの観光客がスキーリゾートを訪れ、スキー客数は増加の一途をたどっている。また、大規模なスポーツイベントを観戦するための旅行や、スポーツチームが合宿や遠征を行うための旅行もスポーツツーリズムの小さくない部分を占める。スポーツツーリズムは該当地域の経済に好影響を与える一方で、環境や文化の破壊などの問題をもたらす場合もある。", "title": "スポーツ産業" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スポーツと賭博の間の関係は国によってさまざまである。2009年には、世界の商業賭博総額3350億ドルの内、競馬が7%、スポーツくじが5%を占めていた。ただしスポーツ賭博を完全に禁じている国も珍しくなく、さらに同じ国内においてもスポーツ賭博の対象として認められている競技と、一切禁じている競技とが存在する。日本では戦前から認められていた競馬に加え、1948年から1951年にかけて競艇、競輪、オートレースが相次いで公営競技化されたほか、2001年からはサッカーを対象にスポーツ振興くじが発売されている。", "title": "スポーツ産業" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "19世紀以降、いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになった。スポーツはルールの共有や整備を通じて、発祥地の文化を越えて普遍的な方向へと進む傾向があるが、一方で元々それを固有文化としていた地域においては、固有性と普遍性の間で衝突が起きる場合がある。それぞれの競技には国際的な統括団体として国際競技連盟が存在しており、各国の国内競技連盟間の調整や国際大会の主催、各国間の相互交流などを行っている。ただし競技が行われる地域はそれぞれ異なっており、サッカーのように比較的偏りなく全世界で行われるスポーツもあれば、北米・カリブ海・極東に競技者の集中している野球や、イギリス連邦諸国で主に行われるクリケットやラグビーのように一部地域で強い人気を持つものもある。こうした国際的な人気スポーツに対し、ある1カ国や1民族で長く行われている民族スポーツも世界各地に存在し、根強い人気を誇っている。", "title": "グローバリゼーション・ナショナリズム" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "スポーツとナショナリズムの間には、すでに19世紀において強い相関が認められ、21世紀においても各種国際大会の勝敗は各国のナショナリズムの高揚をもたらす。1969年には、関係の極度に悪化していたホンジュラスとエルサルバドル間の対立が1970 FIFAワールドカップ・予選の両国対決をきっかけに爆発し、サッカー戦争と呼ばれる戦争へとつながったこともある。国家を形成しない民族においてもこれは同様であり、その民族固有のスポーツを通して民族ナショナリズムの確立を目指すことは広く見られる。", "title": "グローバリゼーション・ナショナリズム" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "多くの文明において、身体を鍛えることは教育の一環として非常に重視されていた。ヨーロッパにおいては、それまで教育においては軽視されていた体育がルネサンス期以降カリキュラムに採り入れられるようになり、19世紀に義務教育が導入されると体育も必修科目となった。日本でも明治政府がこの考え方を取り入れ、1872年の学制発布時に教科の一つとなり、以後学校教科としての体育が定着していった。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "スポーツを対象とした学問分野はスポーツ科学と総称される。スポーツ科学の起源は19世紀末にさかのぼり、当初はより高い身体能力の構築や選手の治療といったスポーツ医学の分野からはじまったが、やがてスポーツ社会学など人文・社会科学分野にも広がりを見せるようになり、また自然科学においても医学以外の分野へ発展していった。1970年代には人類学との関連も始まり、1980年代にはスポーツ人類学が確立した。こうしたスポーツ科学の発展はより競技者の能力を引き出せる質の高いスポーツ用具の開発を促し、また映像技術の活用によってより優れたスポーツ技術が一般化され、記録の更新へとつながっていった。判定にもビデオ判定が導入されることにより、誤審の減少へとつながっている。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "スポーツは市民の文化や健康にとって欠かせないものと考えられており、多くの国家でスポーツを振興するためのスポーツ政策が実施されている。プロスポーツの拡大やスポーツ人口の増大は都市におけるスポーツスタジアムの建設を不可欠なものとしたが、こうしたスタジアム建設は都市にとって大規模な再開発や都市基盤整備の契機となる。なかでもオリンピックやサッカーワールドカップのような大規模スポーツイベントが経済・文化的にもたらす影響は大きく、例えば1964年東京オリンピックでは開催に合わせて新幹線など各種インフラが整備され、開催国である日本に大きな変革をもたらした。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "スポーツを題材とした作品は数多く存在し、文学、映画、漫画など多くの分野でそれぞれ傑作が生まれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "美的な事柄についての哲学である美学の領域において、近年スポーツに注目する理論家が増えてきた。例えば、デビッド・ベストは、スポーツと芸術との類似性について書き、倫理との関連性なしにスポーツが純粋に美的なものに近いことを強調した。ベストは、芸術の特徴として、人生に道徳的な考察をもたらす能力を持っていることを挙げる。スポーツにはこのような能力はないが、多くのスポーツの楽しみは間違いなく美的なものであると彼は考えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1998年にスロヴェニア共和国のリュブリャナで行われた第14回国際美学会議で発表された、ヴォルフガング・ヴェルシュの論考「スポーツー美学の視点から、さらには藝術として?」は、鋭い洞察力を以て、スポーツが芸術に似ているところを解析し、現代の文化状況に問いを投げかけた。かつて精神を鍛える手段として、倫理の領域に属するものと見倣されていたスポーツは、いまでは、美的/感性的なものとして、芸術の性格を顕著に示すようになり、「今日の the popular art」と呼びうるものになっている、とヴェルシュは考えた。", "title": "文化" } ]
スポーツは、一定のルールに則って技術の優劣を競う活動(競技)の総称である。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2018年7月 | 独自研究 = 2018年7月 }} {{Otheruses}} [[File:Football in Bloomington, Indiana, 1996.jpg|thumb|[[サッカー]]は全世界で広く行われており、最も人気のあるスポーツである]] [[File:Master Blaster at work.jpg|thumb|[[クリケット]]は世界の競技人口が3億人を超えており<ref>[https://www.icc-cricket.com/media-releases/759733 First global market research project unveils more than one billion cricket fans] 国際クリケット評議会 2019年7月6日閲覧。</ref>、サッカーに次いで人気の高いスポーツとされる]] [[File:Heyward lines into double play (28356212176).jpg|thumb|[[野球]]は北アメリカや東アジアで人気のあるスポーツである]] [[File:Kendo EM 2005 - kote.jpg|thumb|[[剣道]]の試合]] '''スポーツ'''({{lang-en-us|sports}}、{{lang-en-gb|sport}})は、一定の[[wikt:ルール|ルール]]に則って技術の優劣を競う活動([[競技]])の総称である<ref>『[[大辞泉]]』[[小学館]]</ref>。 == 語源 == 「sports スポーツ」の語源は[[ラテン語]]の「{{lang|la|deportare}} デポルターレ」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいは{{lang|la|portare}}「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という意味の語である。これが[[古フランス語]]の「{{lang|fr|desporter}}」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、[[英語]]の「{{lang|en|sport}}」になったと考えられている<ref name="britanica">ブリタニカ国際大百科事典「スポーツ」</ref>。 [[和製漢語]]では「[[遊戯]]<ref>「遊戯」という言葉は運動に限らない[[遊び]]全般を指す言葉となっている。</ref>」「[[体育]]」「[[競技]]」「[[運動]][[競技]]」などと訳されたが、現在では片仮名で表記するのが一般的であり、「スポーツ」と「体育」は区別される概念である。[[朝鮮語]]でも同様である。[[中国語]]では現在でもスポーツを「体育」と呼ぶ。 [[日本]]では[[大正時代]]末ころから「スポーツ」という言葉は一般化されたが、当時は欧米から入ってきた運動そのものだけを指していた。日本でも「スポーツ」が競技を意味するようになったり、柔道や空手などの武道が競技として発展し「スポーツ」として認知されるようになったりしたのは[[戦後]]のことである<ref>{{Cite web|和書|title=スポーツ - 語源由来辞典|url=https://gogen-yurai.jp/sports/|website=gogen-allguide.com|accessdate=2020-08-10}}</ref>。 その他にも、[[古代オリンピック|古代オリンピア]]の時代から詩歌や歌劇などの文学や演奏、絵画や彫刻などの造形・建築、鳩レースやドッグレース、数学やクイズ・謎解き、チェスやポーカーなどのボードゲームやカードゲームなど、人類史においては幅広い分野でスポーツ化が行われて楽しまれてきた。近代オリンピックにおいても完全[[アマチュア]]化が図られる[[1964年東京オリンピック]]の直前まで、絵画・造形・文学・建築・音楽などの分野が[[芸術競技|正式競技]]として採用されていた。 「スポーツ」の英語表記には、集合的な意味で用いる{{lang|en|'''sport'''}}と、種目別に表現するような場合に用いる{{lang|en|'''a sport'''}} / {{lang|en|'''sports'''}}の二種類がある。また、{{lang|en|“sports medicine”}}や{{lang|en|“sports injury”}}などのように形容詞的に用いる場合には、'''sports'''という語が用いられることが普通である。特に、アメリカでは、集合的な意味で用いる場合にも{{lang|en|“sports”}}という慣用表現が多用される。しかし、学会の名称や学術書の表題などのように学術的な意味で集合的に用いる場合には、{{lang|en|“North American Society for Sport Management”}}や{{lang|en|“Journal of Sport History”}}などのように、語尾に{{lang|en|“s”}}を付けない表記が大多数を占めている。 == 歴史 == {{main|スポーツの歴史}} スポーツそのものは特に地域的な偏りなく、原始的な文明も含めて古代から全世界において行われており{{sfn|べーリンガー|2019|pp=422-432}}、[[古代エジプト]]王朝成立以前の[[エジプト]]においてすでに競走が行われていたことがわかっている{{sfn|べーリンガー|2019|p=35}}。古代文明のうちでスポーツを特に重視したのは[[古代ギリシア]]であり、[[紀元前776年]]以降{{sfn|べーリンガー|2019|p=29}}[[オリュンピア]]で4年に1回行われた[[古代オリンピック]]はギリシアの全都市が参加する大規模なもので、大会期間中は戦争が禁じられ、勝者には栄誉が与えられた。なお、ギリシアではこのほかにも[[ネメア祭|ネメアー大祭]]、[[イストミア大祭]]、[[ピューティア大祭]]といった大競技大会が開催されていた{{sfn|べーリンガー|2019|pp=41–42}}。古代オリンピックは[[ローマ帝国]]の統治下でも継続し、おそらく393年に行われた第293回大会まで1000年以上継続したが、394年にキリスト教の支持の元で[[テオドシウス1世]]によって禁止令が発出されたことによって終わりを迎えた{{sfn|べーリンガー|2019|pp=87–88}}。 スポーツそのものは世界各地で盛んに行われてきたが、19世紀中頃になると[[イギリス]]においてルールの整備と組織化が相次いで行われ、近代スポーツが誕生した<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/sports/04.html | title = 4. 近代スポーツを生んだ英国の階級文化 スポーツの始まり | publisher = 笹川スポーツ財団 | accessdate = 2021-10-01 }}</ref>。近代スポーツの誕生は、スポーツの隆盛と競技種目数の増加を招いた。サッカーとラグビーのように、いくつかの種目はルールの確定と厳格化によって原型から分化し、異なるスポーツとして発展し始めた{{sfn|べーリンガー|2019|pp=359–360}}。いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになったが、特にイギリスの植民地においては、イギリス発祥のスポーツがそのまま伝播し、クリケットやラグビーのように共通のスポーツ文化を保持するようになった{{sfn|べーリンガー|2019|pp=361–362}}。また、野球やアメリカン・フットボールのように、スポーツが伝播した先で現地文化の影響を受けて変化し、新たな競技として分化することも珍しくなかった<ref name="ReferenceA">{{Cite book|和書|title=文化人類学キーワード|page=194|editor=山下晋司・船曳建夫|publisher=有斐閣|year=1997|isbn=4-641-05863-6}}</ref>。フランスの[[ピエール・ド・クーベルタン]]は古代オリンピックの復興を唱え、1896年には第1回[[アテネオリンピック (1896年)|アテネオリンピック]]が[[ギリシア]]の[[アテネ]]で開催された{{sfn|べーリンガー|2019|pp=373–376}}。このオリンピック大会は徐々に成長していき、やがて世界最大のスポーツイベントとなっていった{{sfn|べーリンガー|2019|pp=381–382}}。 近代スポーツは当初アマチュアリズムに重点が置かれていたが、19世紀後半よりアメリカでスポーツのプロ化がはじまり、やがてヨーロッパにも広がっていった<ref>「スポーツイベントの経済学 メガイベントとホームチームが都市を変える」p43-44 原田宗彦 平凡社新書 2002年6月19日初版第1刷</ref>。1970年代に入ると[[スポーツ・フォー・オール]]政策が各国で導入されてスポーツの一般市民への普及が図られ、また1980年代に入ると大規模競技大会の商業化が急速に進んで、スポーツ人口および商業規模は大幅に拡大した{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=28-29}}。 == スポーツの分類 == スポーツには様々な分類方法がある。 たとえば、商業活動を禁止する「[[アマチュア]]・スポーツ」と、商業活動を目的とする「[[プロフェッショナル]]・スポーツ」に大別する方法がある。 特に技術や記録などの向上を目指し、個人や集団で極限への挑戦を追求するスポーツは「[[:en:High-performance sport|ハイパフォーマンス(エリート)・スポーツ]]」と呼称される。それに対して[[日本]]では独自に、老若男女だれもがスポーツに「楽しみ」を求め、[[健康づくり]]や[[社交]]の場として行うスポーツ、身近な生活の場に取り入れられているスポーツを「'''[[生涯スポーツ]]'''」、競技ではなく娯楽を主たる目的として行うスポーツを「レクリエーショナル・スポーツ」と命名し促進している。 何らかの障害者を持つ人々が行うスポーツは「'''[[障害者スポーツ]]'''」と呼ばれる。非常に多くの種類があり、競技会も多種で、大規模な国際大会である[[パラリンピック]]も行われている。 競技の公平性を保つために、性別や体重別による階級制による分類も多くのスポーツで採用されている。ただし近年では生物学的な[[雌雄|性]]と異なる[[ジェンダー]]<ref name="Tayousei">{{Cite web|和書|url=https://www.japan-sports.or.jp/Portals/0/data/supoken/doc/lgbt_studyreports/JSPO_guidelines2_low_1P_200608.pdf|title=体育・スポーツにおける多様な性のあり方ガイドライン |access-date=2023-04-15 }}</ref>による参加が増加し、競技としての公平性が議論されている。従来の男性・女性に加えて「[[LGBT|その他]]」の性別を設けたり、平等性の観点からジェンダーレス(男女混合)に回帰するスポーツ運営も増えている。<ref name="genderless">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/74814|title=<アスリートの性差考>混合種目が競技に活力も |access-date=2023-04-15 }}</ref> フィールドや環境で分類する方法もある。水場を利用して行うスポーツなどは「[[ウォータースポーツ]]」と呼ばれる。水泳、水球、[[サーフィン]]、[[ウィンドサーフィン]]などが含まれる。ウォータースポーツの中でも、特に海で行うものを「[[ウォータースポーツ|マリンスポーツ]]」と分類する。同様に夏季に行われるスポーツを[[サマースポーツ]]、冬季に行われるスポーツを[[ウィンタースポーツ]]とも呼ばれる。動力として風や空気の力を主に利用し操作するスポーツを「ウィンド・スポーツ」と分類することもある。[[パラグライダー|パラグライディング(=パラグライダーで飛ぶこと)]]などが挙げられる。 道具としてボール(球)を用いるスポーツを「[[球技|ball sports]]([[球技]])」、器械を用いるスポーツを「キネマティックスポーツ(器械競技)」、 また近年では[[ビデオゲーム]]や電子機器を用いた競技が台頭すると[[Eスポーツ|e-Sports]]と分類されるようになった<ref>{{Cite web|和書|title=知られざるeSports ~eSportsはスポーツか? {{!}} InfoComニューズレター|url=https://www.icr.co.jp/newsletter/?p=7170|website=InfoComニューズレター(株式会社情報通信総合研究所)|accessdate=2021-07-31|language=ja}}</ref>。ボード(=板状の道具)に乗るようにして行うスポーツを「ボードスポーツ」と分類する。[[スケートボード]]、[[スノーボード]]、[[サーフィン]]、[[ウィンドサーフィン]]等々が含まれる。 狩猟対象としてではなく競技者が道具として[[動物]]を使うスポーツを[[アニマルスポーツ|動物スポーツ]]と分類する。スポーツと動物の関係は多様であり、[[馬術]]や[[競馬]]のように人が直接乗るものや、[[闘牛]]や[[闘鶏]]のように動物同士を戦わせるものなどさまざまな種類が存在する<ref>「よくわかるスポーツ人類学」p110 寒川恒夫編著 ミネルヴァ書房 2017年3月31日初版第1刷発行</ref>。 20世紀中ころに動物に変わり自動車や飛行機などエンジンのついた[[乗り物]]を操作する競技が登場すると、[[モータースポーツ|モーター(原動機)スポーツ]]と呼称するようになった。 「[[武道]]」にはさまざまな面があるが、「スポーツ」に分類することはある。ただし、「スポーツ」に分類してしまうことが適切なのか不適切なのか、議論を生むことはある。また、たとえば合気道は基本的に試合形式では行わない。合気道の師範は一般に、合気道をスポーツと呼ぶことには違和感を表明している。 伝統的なスポーツと比較しつつ、新しく考案されたスポーツを「[[ニュースポーツ]]」と分類することもある。 {{Gallery|width = 200px |File:Windsurf Worldcup Alacati 2014.jpg|[[ウォータースポーツ]]の一例、[[ウィンドサーフィン]]のワールドカップ |File:Prokop 2 Amarante Rally de Portugal 2016.jpg|[[モータースポーツ]]の一例、[[ラリー]]競技 }} == スポーツのゲーム形式 == スポーツのゲーム形式については以下のような分類がある。[[スポーツ競技一覧]]も併せて参照のこと。 === 人数による分類 === ==== 個人競技 ==== 個人の成績だけで勝負を決めるもの。 ==== 団体競技 ==== *リレー形式 **個人競技を個人で引き継ぎながら記録を競う競技。 *ペアー形式 **通常一人で行う競技を二人ペアで連携を取りながら行う競技。 *集団形式 **通常一人で行う競技を複数人の集団で連携を取りながら行う競技。 *団体戦形式 **通常一人で行う競技を複数人が行いその合計成績で競う競技。あるいは一対一の競技を複数人の組み合わせで行い勝敗数を競う形式。 *チーム **複数人の出場選手と交代要員で構成されたチームで全体の連携を取りながら対戦し競技が進行するもの。 <blockquote> {| class="wikitable" style="text-align: center; width:100%; font-size:85%;" |+ オリンピック競技となっている男女チームスポーツ !rowspan=2| スポーツ ! style="background-color:lightblue" colspan="2" |男子 ! style="background-color:lightpink" colspan="2" |女子 |- !初めての大会 !回数 !初めての大会 !回数 |- |align=left|[[サッカー]] || rowspan="2" | [[1900年パリオリンピック|パリオリンピック (1900年)]] || 25 || rowspan="2" | [[1996年アトランタオリンピック|アトランタオリンピック (1996年)]] || 5 |- |align=left| [[水球]] || 24 || 4 |- |align=left| [[ホッケー]] || [[1908年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック (1908年)]] || 21 || [[1980年モスクワオリンピック|モスクワオリンピック (1980年)]] || 8 |- |align=left| [[バスケットボール]] || rowspan="2" | [[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック (1936年)]] || 17 || rowspan="2" | [[1976年モントリオールオリンピック|モントリオールオリンピック (1976年)]] || 9 |- | align="left" | [[ハンドボール]] || 11 || 9 |- |align=left| [[バレーボール]] || [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック (1964年)]] || 12 || [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック (1964年)]] || 12 |- | align="left" | [[アイスホッケー]]([[冬季オリンピック]]) || rowspan="2" | [[1924年シャモニー・モンブランオリンピック|シャモニーオリンピック (1924年)]]|| 21 || rowspan="2" | [[1998年長野オリンピック|長野オリンピック (1998年)]]|| 4 |- | align="left" | [[カーリング]]([[冬季オリンピック]]) || 5 || 4 |} {{チームスポーツ}}</blockquote> === 対人競技・競走・採点競技 === ==== 対人競技 ==== 相手と直接対戦し、勝敗を決めるスポーツのこと。 * 個人 **[[武道]] ・[[格闘技]]([[柔道]]、[[ボクシング]]、[[フェンシング]]、[[空手道|空手]]、[[剣道]]、[[総合格闘技]]など) * 団体 **攻守が同時に行われるもの - [[ラグビーフットボール]]、[[ハンドボール]]、[[テニス]]、[[卓球]]、[[バドミントン]]、[[バスケットボール]]、[[バレーボール]]、[[サッカー]]、[[フットサル]]、[[アイスホッケー]]、[[水球]]など **攻守が分かれているもの - [[クリケット]]、[[野球]]、[[ソフトボール]]、[[カバディ]]、[[アメリカンフットボール]]など ==== 競走 ==== 相手と同時に対戦して着順で優劣を決めるか、個別に所要時間の記録をとってその結果で優劣を決めるスポーツのこと。 * 道具を使わないもの - [[陸上競技]]の[[競走]]、[[競泳]]など * 道具を使うもの ** 人力によるもの - [[自転車競技]]、[[ボート競技]]、[[スキー|スキー競技]]など ** 自然の力を利用するもの - [[ヨット|ヨット競技]]など ** 動力を持つもの - [[モータースポーツ]] * 動物を使うもの - [[競馬]]など ==== 採点競技 ==== 相手とは同時に対戦はせず、優劣が決まるスポーツのこと。 かつてフィギュアスケートは相対評価の6点満点方式だったが、[[2002年ソルトレークシティオリンピック]]の不正採点事件を機に加点方式に変更されたといわれる。基礎点に加点・減点した「技術点」と表現力の5項目を得点化した「演技点」の合算<ref>[https://web.archive.org/web/20131214131801/http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/winter/news/20131204-OHT1T00206.htm 【フィギュア】真央、3回転半2度跳ぶ!ソチへ「自身最高難度」解禁:スポーツ報知]</ref>。 * 的を用いるもの - [[弓道]]、[[アーチェリー]]、[[クレー射撃]]、エアーガン競技、[[ボウリング]]など * 表現するもの - [[体操競技]]、[[ボディビル]]、[[馬術]]、[[フィギュアスケート]]など * 重さや高さ、距離の記録を競うもの - [[ウエイトリフティング|重量挙げ]]、[[三段跳]]、[[走幅跳]]、[[走高跳]]、[[棒高跳|棒高跳び]]、[[砲丸投]]、[[ハンマー投]]、[[円盤投|円盤投げ]]、[[やり投]]など * 距離や美しさを総合的に評価するもの- [[スキージャンプ]]、[[ドリフト走行#モータースポーツとしてのドリフト|ドリフト競技]]など === 記録などによる分類 === [[オリンピックシンボル|オリンピックのモットー]]として有名な、「より速く、より高く、より強く(Citius・Altius・Fortius)」という[[三語法]]は、1996年版の14.に書かれているという情報がある<ref>[http://www.joc.or.jp/olympism/charter/chapter1/13_17.html オリンピック憲章] - JOC</ref>。「2011年7月8日から有効」版には第1章の10.に書かれている。 *速さ([[マラソン]]、[[水泳|水泳競技]]など) *高さ([[走高跳]]、[[棒高跳]]など) *投擲以外の距離([[走幅跳]]、[[三段跳]]など) *一定時間での[[距離]]([[1時間競走]]) *[[投擲]]距離([[やり投]]、[[砲丸投]]、[[円盤投]]、[[ハンマー投]]など) *重さ([[ウエイトリフティング|重量挙げ]]など) == 主なスポーツのファンの人口統計 == 主なスポーツのファンの人口は、下図のようになっている<ref name="wa">{{cite web|url=https://www.worldatlas.com/articles/what-are-the-most-popular-sports-in-the-world.html|title=The Most Popular Sports in the World|publisher=World Atlas|date=2018|accessdate=17 August 2018}}</ref>。 {| class="wikitable" width=60% style="font-size:100%; text-align:center;" ! # !! スポーツ !! ファン人口 || 主な競技地域 |- !1 |align=center|[[サッカー]] || 40億人 || 全世界 |- !2 |align=center|[[クリケット]] || 25億人 || [[イギリス連邦]]諸国 |- !3 |align=center|[[ホッケー]] || 20億人 ||北ヨーロッパ、北米、アフリカ、南アジア、オーストラリア |- !4 |align=center|[[テニス]] || 10億人 || 全世界 |- !5 |align=center|[[バレーボール]] || 9億人 || 北米、ヨーロッパ、アジア |- !6 |align=center|[[卓球]] || 8億7500万人 || 東アジア |- !7 |align=center|[[バスケットボール]] || 8億2500万人 || 全世界 |- !8 |align=center|[[野球]] || 5億人 || アメリカ、カリブ海諸国、東アジア |- !9 |align=center|[[ラグビーフットボール]] || 4億7500万人 || [[イギリス連邦]]諸国、フランス、イタリア、アルゼンチン |- !10 |align=center|[[ゴルフ]] || 4億5000万人 || 西ヨーロッパ、アメリカ、日本 |} == スポーツ大会 == [[File:Rugby World Cup 190920a1.jpg|thumb|2019年9月20日に[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム]]で行われた[[ラグビーワールドカップ2019]]の日本・ロシア戦]] 各種スポーツではそれぞれ競技大会が行われ、また複数の競技を総合的に開催する[[総合競技大会]]も数多く行われている。こうした大会は地方レベルから国家レベル、各[[大州]]レベルから全世界レベルに至るまでさまざまな規模のものが存在し、また参加型・観戦型のどちらの大会も行われる<ref>「スポーツイベントの経済学 メガイベントとホームチームが都市を変える」p56-58 原田宗彦 平凡社新書 2002年6月19日初版第1刷</ref>。総合競技大会の中でも最も大規模かつ著名なものは4年に1度行われる[[近代オリンピック|オリンピック]]である。このほか、[[アジア競技大会]]のように地域別のもの、[[コモンウェルスゲームズ]]のように政治的紐帯によるものなど、さまざまな区分による総合競技大会が存在する。また、各種競技単独で世界各国が参加して行われる国際大会も数多く存在する。こうした国際大会の中で最も大規模かつ人気のあるものはサッカーの[[FIFAワールドカップ]]である{{sfn|Tomlinson|2012|p=18}}。 == アマチュアとプロ == 参加に対して報酬を得られるかどうかによって、スポーツ選手は[[アマチュア]]スポーツと[[プロフェッショナルスポーツ]]の2つに分けられる。また、報酬を得ているもののそれのみで生計を立てられない[[セミプロ]]の選手も存在する。 アマチュアとして一般市民が余暇の1つとして行うスポーツは多岐にわたっており、市民チームやクラブは無数に存在するほか、市民マラソンのように一般市民が参加できる個人競技大会も存在する。競技スポーツだけでなく、健康のために個人で行うスポーツの参加者も多く、ジョギングやエアロビクスなどの流行と隆盛をもたらした{{sfn|べーリンガー|2019|pp=513–517}}。世界最大のスポーツ大会であるオリンピックは、創設者のクーベルタン以降長らく[[アマチュアリズム]]の理想を掲げており、アマチュアしか出場することができなかった{{sfn|べーリンガー|2019|p=397}}。なかでも第5代[[国際オリンピック委員会]](IOC)会長だった[[アベリー・ブランデージ]]は強硬なアマチュア論者として知られ、プロの排除を厳格に遂行したが、この頃には[[ソヴィエト連邦]]をはじめとする[[共産圏]]諸国が国家の威信をかけて育成した、いわゆる「ステート・アマ」の進出が進んでおり、この方針は多くの摩擦を引き起こした<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ssf.or.jp/history/Olympic_legacy/tabid/1814/Default.aspx |title=エイベリー・ブランデージ 神になった「Mr.アマチュア」|author=佐野慎輔|publisher=笹川スポーツ財団|date=2019-08-21|accessdate=2021-06-29}}</ref>。こうしたことからブランデージ退任後の1974年にこの方針は削除され、以後プロの進出が急速に進んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.joc.or.jp/olympism/education/20090402.html |title=オリンピズムって何だろう 第5回 時代とともに変わるオリンピック憲章|publisher=公益財団法人日本オリンピック委員会|accessdate=2021-06-29}}</ref>。 これに対し、一部の人気のあるスポーツにおいては優秀なプレイヤーがプロフェッショナル化し、スポーツ参加のみで生計を立てることができるようになっている。各国において人気のあるスポーツは異なるため、プロ化しているスポーツも国ごとに異なっている。人気に高いスポーツには多くの観客が集まり、さらに[[マスメディア]]によって放映される試合には膨大な数の視聴者を見込むことができる{{sfn|Tomlinson|2012|pp=96-97}}ため、一部のプロスポーツでは莫大な金額が動き、トッププレイヤーは高額な報酬を得ることができる。スポーツ選手としての収入のほか、トッププレイヤーはコマーシャルの出演によっても多額の収入を得られる場合がある{{sfn|べーリンガー|2019|pp=497–498}}。こうしたことから、世界の年収ランキングにおいては数人のトップ選手がランクインすることが常である{{sfn|べーリンガー|2019|pp=499–501}}。 == スポーツ産業 == [[File:Adidas_Superstar_shoes_pair.jpg|thumb|240px|[[運動靴]]はスポーツのみならず一般生活でも使用される]] スポーツは参加者・ファンともに膨大な人口がいるため、スポーツに関連した産業も巨大なものとなっている。 スポーツ用品産業には各種スポーツに専用の道具を生産するものだけでなく、例えば各チームの[[ユニフォーム]]や、スポーツ用[[シューズ]]の生産なども含まれる。こうしたスポーツ用品は参加者のほか、お気に入りの選手と同じ商品を求めるファンや、機能やデザインを気に入った一般市民をも販売対象としている{{sfn|Tomlinson|2012|p=102}}。 メディア産業において、スポーツは重要な地位を占めている。プロスポーツの試合や世界大会の[[スポーツ中継]]には膨大な数の視聴者がおり、その広告収入を見込んで有力スポーツのイベントには莫大な[[放映権]]料が提示される。放映権料のほかに、スポーツイベントにおいては有力企業が[[スポンサーシップ]]を獲得し、資金を拠出する代わりに独占的な広告の権利を得る。こうしたスポンサー契約は高い広告効果を持つため、各社は契約獲得にしのぎを削っている{{sfn|Tomlinson|2012|pp=98-99}}。放映権料はプロスポーツやオリンピックなどの大規模競技大会において総収入の過半を占めることが常であり、スポーツ界を支える柱の一つとなっているが、一方で[[マスメディア]]の都合により試合時間や時期の変更、さらには競技ルールの変更が行われることもある{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=22-25}}。テレビやラジオでは試合中継のほかにも、結果が[[スポーツニュース]]として流され、翌日の[[新聞]]でもしばしば大きく報道される。スポーツ関係を主に扱う[[スポーツ新聞]]も各国に存在し<ref>「スポーツイベントの経済学 メガイベントとホームチームが都市を変える」p187 原田宗彦 平凡社新書 2002年6月19日初版第1刷</ref>、各スポーツに特化した[[スポーツ雑誌]]も多数発行されている。 登山やスキー、水上スポーツなど一部のスポーツは特定の場所でしか行うことができないため、スポーツを行うことを目的としたスポーツツーリズムも盛んに行われている。特に冬季には[[アルプス山脈]]地方を中心に多くの観光客がスキーリゾートを訪れ、スキー客数は増加の一途をたどっている<ref>{{Cite book|和書|chapter=グローバル時代のツーリズム|pages=96-97|author=呉羽正昭|title=グローバリゼーション 縮小する世界|editor1-first=典隆|editor1-last=矢ヶ﨑|editor1-link=矢ヶ﨑典隆|editor2-first=清海|editor2-last=山下|editor3-first=雅弘|editor3-last=加賀美|publisher=朝倉書店|year=2018|isbn=978-4254168815}}</ref>。また、大規模なスポーツイベントを観戦するための[[旅行]]や、スポーツチームが[[合宿]]や遠征を行うための旅行もスポーツツーリズムの小さくない部分を占める{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=36-37}}。スポーツツーリズムは該当地域の経済に好影響を与える一方で、環境や文化の破壊などの問題をもたらす場合もある{{sfn|Tomlinson|2012|pp=106-107}}。 スポーツと[[賭博]]の間の関係は国によってさまざまである。2009年には、世界の商業賭博総額3350億ドルの内、[[競馬]]が7%、[[スポーツくじ]]が5%を占めていた{{sfn|Tomlinson|2012|pp=104-105}}。ただしスポーツ賭博を完全に禁じている国も珍しくなく、さらに同じ国内においてもスポーツ賭博の対象として認められている競技と、一切禁じている競技とが存在する。日本では戦前から認められていた競馬{{sfn|佐々木|1999|pp=12–13}}に加え、1948年から1951年にかけて[[競艇]]{{sfn|佐々木|1999|p=21}}、[[競輪]]{{sfn|佐々木|1999|p=28}}、[[オートレース]]{{sfn|佐々木|1999|p=34}}が相次いで[[公営競技]]化されたほか、2001年からはサッカーを対象に[[スポーツ振興くじ]]が発売されている。 == グローバリゼーション・ナショナリズム == 19世紀以降、いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになった<ref>{{Cite book|和書|chapter=スポーツで結びつく世界の人々と地域|pages=123-125|author=矢ヶ﨑典隆|authorlink=矢ヶ﨑典隆|title=グローバリゼーション 縮小する世界|editor1-first=典隆|editor1-last=矢ヶ﨑|editor1-link=矢ヶ﨑典隆|editor2-first=清海|editor2-last=山下|editor3-first=雅弘|editor3-last=加賀美|publisher=朝倉書店|year=2018|isbn=978-4254168815}}</ref>。スポーツはルールの共有や整備を通じて、発祥地の文化を越えて普遍的な方向へと進む傾向があるが、一方で元々それを固有文化としていた地域においては、固有性と普遍性の間で衝突が起きる場合がある<ref name="ReferenceA"/>。それぞれの競技には国際的な統括団体として[[国際競技連盟]]が存在しており、各国の[[国内競技連盟]]間の調整や国際大会の主催、各国間の相互交流などを行っている。ただし競技が行われる地域はそれぞれ異なっており、サッカーのように比較的偏りなく全世界で行われるスポーツもあれば、北米・カリブ海・極東に競技者の集中している野球や、イギリス連邦諸国で主に行われるクリケットやラグビーのように一部地域で強い人気を持つものもある。こうした国際的な人気スポーツに対し、ある1カ国や1民族で長く行われている民族スポーツも世界各地に存在し、根強い人気を誇っている{{sfn|Tomlinson|2012|pp=12-13}}。 スポーツと[[ナショナリズム]]の間には、すでに19世紀において強い相関が認められ<ref>{{Cite book|和書|title=ナショナリズム 1890-1940|pages=66-69|author=オリヴァー・ジマー著、福井憲彦訳|publisher=岩波書店|year=2009|isbn=978-4000272063}}</ref>、21世紀においても各種国際大会の勝敗は各国のナショナリズムの高揚をもたらす<ref>「新版 スポーツの歴史」p195 レイモン・トマ著 蔵持不三也訳 寒川恒夫付論 白水社 1993年12月25日第1刷発行</ref>。1969年には、関係の極度に悪化していた[[ホンジュラス]]と[[エルサルバドル]]間の対立が[[1970 FIFAワールドカップ・予選]]の両国対決をきっかけに爆発し、[[サッカー戦争]]と呼ばれる[[戦争]]へとつながったこともある<ref>{{Cite book|和書|title=ホンジュラスを知るための60章|pages=155-157|author=桜井三枝子・中原篤史編|publisher=明石書店|year=2014|isbn=978-4750339825}}</ref>。国家を形成しない民族においてもこれは同様であり、その民族固有のスポーツを通して民族ナショナリズムの確立を目指すことは広く見られる<ref>「新版 スポーツの歴史」p196 レイモン・トマ著 蔵持不三也訳 寒川恒夫付論 白水社 1993年12月25日第1刷発行</ref>。 == 教育 == {{Main|体育}} 多くの文明において、身体を鍛えることは教育の一環として非常に重視されていた。ヨーロッパにおいては、それまで教育においては軽視されていた体育が[[ルネサンス]]期以降カリキュラムに採り入れられるようになり{{sfn|べーリンガー|2019|pp=179–183}}、19世紀に[[義務教育]]が導入されると体育も必修科目となった{{sfn|べーリンガー|2019|pp=179–183}}。日本でも[[明治維新#明治政府|明治政府]]がこの考え方を取り入れ、1872年の[[学制]]発布時に教科の一つとなり、以後学校教科としての[[体育]]が定着していった{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=88-89}}。 == 科学 == {{Main|スポーツ科学}} スポーツを対象とした学問分野は[[スポーツ科学]]と総称される。スポーツ科学の起源は19世紀末にさかのぼり、当初はより高い身体能力の構築や選手の治療といった[[スポーツ医学]]の分野からはじまったが、やがて[[スポーツ社会学]]など人文・社会科学分野にも広がりを見せるようになり、また自然科学においても医学以外の分野へ発展していった{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=62-63}}。1970年代には[[人類学]]との関連も始まり、1980年代にはスポーツ人類学が確立した<ref>「よくわかるスポーツ人類学」p2-3 寒川恒夫編著 ミネルヴァ書房 2017年3月31日初版第1刷発行</ref>。こうしたスポーツ科学の発展はより競技者の能力を引き出せる質の高いスポーツ用具の開発を促し{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=70-71}}、また映像技術の活用によってより優れたスポーツ技術が一般化され、記録の更新へとつながっていった{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=62}}。判定にも[[ビデオ判定]]が導入されることにより、[[誤審]]の減少へとつながっている{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=74-75}}。 == 文化 == スポーツは市民の文化や健康にとって欠かせないものと考えられており、多くの国家でスポーツを振興するためのスポーツ政策が実施されている{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=48-49}}。プロスポーツの拡大やスポーツ人口の増大は都市におけるスポーツ[[スタジアム]]の[[建設]]を不可欠なものとしたが、こうしたスタジアム[[建設]]は都市にとって大規模な再開発や都市基盤整備の契機となる{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=106-107}}。なかでもオリンピックやサッカーワールドカップのような大規模スポーツイベントが経済・文化的にもたらす影響は大きく、例えば[[1964年東京オリンピック]]では開催に合わせて[[新幹線]]など各種[[インフラストラクチャー|インフラ]]が整備され、開催国である日本に大きな変革をもたらした<ref>「スポーツイベントの経済学 メガイベントとホームチームが都市を変える」p48-50 原田宗彦 平凡社新書 2002年6月19日初版第1刷</ref>。 スポーツを題材とした作品は数多く存在し、文学、映画、漫画など多くの分野でそれぞれ傑作が生まれている{{Sfn|井上俊・菊幸一編著|2020|p=134-139}}。 === 芸術 === 美的な事柄についての哲学である[[美学]]の領域において、近年スポーツに注目する理論家が増えてきた<ref name="IPE">{{Cite web|url= https://iep.utm.edu/aestheti/ | title = Aesthetics | publisher =Internet Encyclopedia of Philosophy | accessdate = 2021-09-30 }}</ref>。例えば、デビッド・ベストは、スポーツと芸術との類似性について書き、倫理との関連性なしにスポーツが純粋に美的なものに近いことを強調した<ref name="IPE" />。ベストは、芸術の特徴として、人生に道徳的な考察をもたらす能力を持っていることを挙げる<ref name="IPE" />。スポーツにはこのような能力はないが、多くのスポーツの楽しみは間違いなく美的なものであると彼は考えた<ref name="IPE" />。 [[1998年]]に[[スロヴェニア共和国]]の[[リュブリャナ]]で行われた第14回国際美学会議で発表された、ヴォルフガング・ヴェルシュの論考「スポーツー美学の視点から、さらには藝術として?」は、鋭い洞察力を以て、スポーツが芸術に似ているところを解析し、現代の文化状況に問いを投げかけた{{Sfn|佐々木健一|2004|p=106}}。かつて精神を鍛える手段として、倫理の領域に属するものと見倣されていたスポーツは、いまでは、美的/感性的なものとして、芸術の性格を顕著に示すようになり、「今日の the popular art」と呼びうるものになっている、とヴェルシュは考えた{{Sfn|佐々木健一|2004|p=106}}。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|25em}} == 参考文献 == {{Refbegin|2}} * {{Cite book|和書|title=スポーツの文化史 古代オリンピックから21世紀まで|author=ヴォルフガング・べーリンガー著 髙木葉子訳|publisher=法政大学出版局|year=2019|isbn= 978-4588010927|ref=CITEREFべーリンガー2019}} * {{Cite book|和書|title=スポーツの世界地図 |author=Alan Tomlinson著、阿部 生雄、寺島 善一、森川 貞夫 監訳|publisher=丸善出版|year=2012|isbn=978-4-621-08546-2|ref=CITEREFTomlinson2012}} * {{Cite book|和書|title=公営競技の文化経済学|series=文化経済学ライブラリー1|author=佐々木晃彦|publisher=芙蓉書房出版|year=1999|isbn= 978-4829502273|ref=CITEREF佐々木1999}} * {{Cite |和書 | author = [[佐々木健一 (美学者)|佐々木健一]] | title = 美学への招待 | date = 2004 | publisher = 中央公論新社 | isbn = 4-12-101741-2 | series = 中公新書 | ref = harv }} * {{Cite |和書 | author = 井上俊・菊幸一編著 | title = よくわかるスポーツ文化論 | edition = 改 | date = 2020-03-01 | publisher = ミネルヴァ書房 | ref = harv }} {{refend}} == 推薦文献 == {{参照方法|date=2016年4月|section=1}} {{Refbegin|2}} * {{Cite book |和書| author=秋道智弥 |coauthors=ほか |editor=寒川恒夫|editor-link=寒川恒夫 |title=スポーツ文化論 |series=体育の科学選書 |isbn= 4-7644-1536-4 |date=1994-03 |publisher=杏林書院 }} * {{Cite book |和書|editor1-first=俊|editor1-last=井上|editor1-link=井上俊|editor2-first=佳明|editor2-last=亀山|editor2-link=亀山佳明|title=スポーツ文化を学ぶ人のために|publisher=[[世界思想社]] |isbn=4-7907-0771-7 |date=1999-10 }} * {{Cite book |和書| author=玉木正之|authorlink=玉木正之 |title=スポーツとは何か |series=講談社現代新書|publisher=[[講談社]] |isbn= 4-06-149454-6|date=1999-08 }} * {{Cite book |和書| author=玉木正之 |title=スポーツ解体新書 |publisher=[[日本放送出版協会]] |isbn= 4-14-080749-0 |date=2003-01 }} * {{Cite book |和書| author=多木浩二|authorlink=多木浩二 |title=スポーツを考える 身体・資本・ナショナリズム |series=ちくま新書 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn= 4-480-05647-5 |date=1995-10}} * {{Cite book |和書|author1=友添秀則|authorlink1=友添秀則|author2=近藤良享|authorlink2=近藤良享|title=スポーツ倫理を問う|publisher=[[大修館書店]] |isbn= 4-469-26453-9|date=2000-09 |ref={{SfnRef|友添|近藤|2000}} }} * {{Cite book |和書| author=川谷茂樹|authorlink=川谷茂樹 |title=スポーツ倫理学講義|publisher=[[ナカニシヤ出版]] ISBN 4-88848-923-8|date=2005-04 }} * {{Cite book |和書| author=生島淳|authorlink=生島淳 |title=スポーツルールはなぜ不公平か |series=新潮選書|publisher=[[新潮社]] |isbn= 4-10-603528-6|date=2003-07 }} * {{Cite book |和書| author=西山哲郎|authorlink=西山哲郎 |title=近代スポーツ文化とはなにか|publisher=世界思想社 |isbn= 4-7907-1189-7|date=2006-05 }} {{refend}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|スポーツ}} {{ウィキポータルリンク|スポーツ|[[画像:Sports_icon.png|40px|Portal:スポーツ]]}} {{Colbegin|2}} * [[日本のスポーツ]] * [[スポーツ競技一覧]] * [[スポーツ選手一覧の一覧]] * [[スポーツのプロリーグ一覧]] * [[スポーツ関連用語一覧]] * [[日本のスポーツ関連団体一覧]] * [[アスリート]] * [[スポーツ障害]] * [[スポーツ解説者]] * [[スポーツチームの資産価値順リスト|スポーツチームの経済規模]] * [[体育]] * [[プロフェッショナルスポーツ]] * [[障害者スポーツ]] * [[スポーツ業界]] * [[スポーツ史学会]] * [[マインドスポーツ]] * [[eスポーツ]] * [[スポーツゲーム]] * [[国際アマチュア無線連合]] * [[トレーニングパンツ]] * [[体育会系]] * [[誤審]] * [[身長とスポーツ]] * [[スポーツ新聞]] * [[スポーツ雑誌]] * [[スポーツニュース]] * [[スポーツの日]] {{colend}} == 外部リンク == {{Sisterlinks |commons=Sport |commonscat=Sports |wikinews=ポータル:スポーツ }} {{Wikidata property}} * [https://www.japan-sports.or.jp/ 日本体育協会] * [https://www.japan-sports.or.jp/Portals/0/data0/publish/pdf/h24_seigo2_24.pdf 日本体育協会 女性とスポーツ] * [https://www.jpnsport.go.jp/ 日本スポーツ振興センター] * [https://players1.st/ 現役アスリート支援 - オンラインマネジメントサービス] * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{スポーツ一覧}} {{DEFAULTSORT:すほおつ}} [[Category:スポーツ|*]] [[Category:ゲーム]] [[Category:健康問題]]
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両国国技館
両国国技館(りょうごくこくぎかん)は、東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。公益財団法人日本相撲協会が所有している。 プロレス、ボクシングなどの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、ポピュラー音楽のライブ会場としても使用される。クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある。 なお「両国国技館」という呼称は日本相撲協会が一般向けに用いる通称であり、同協会による正式な呼称は国技館である。番付では、旧字体で國技館と表記している。 1833年(天保4年)から回向院で相撲興行が催されていたことから、1909年(明治42年)に旧国技館は、同境内に建設された。明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興行が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。屋根は法隆寺金堂を真似た。約13,000人収容できた。開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、大鉄傘という愛称で呼ばれていた。 その後、日本大学が日本相撲協会から旧国技館(墨田区両国)を買収。1958年(昭和33年)から1982年(昭和57年)までの間は、日本大学講堂だった(下記詳述)。回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている。 先代は現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。 1906年(明治39年)6月着工、3年後の1909年(明治42年)5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは小屋掛け[臨時に設備を設けて行なうこと]による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。6月場所は本来は5月18日より興行との番付が発表されており、工事の遅延によって場所が延期となって6月開催となったという経緯がある。 設計は日本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾とその教え子葛西萬司で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、3,000人程度しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。実際の収容人数は20,000人以上ともされていた。建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。天候に関係なく興行を打てるようになったことで、優勝制度が自然発生的に生まれたとする見方もある。 こうして竣工した常設館の名称は、当初は設立委員会の委員長を務める伯爵板垣退助が提案した「尚武舘」(しょうぶかん)が有力な候補となっていた。ところが大の相撲好きだった作家の江見水蔭が開館式の式次第のために起草した披露文の中に「角力は日本の國技なり」という一文を見た委員の一人・年寄の三代尾車(元大関大戸平)はこれに甚く感じるところがあり、土壇場になって名称に「國技舘」を提案した。この名称については5月29日の委員会で話し合われたがまとまらず、結局開館式の直前になって板垣の最終決定という形でこれを了承。これを受けて6月1日付の『朝日新聞』に「國技舘を觀る」という記事が掲載された。午前5時の祝砲に始まった翌2日の開館式は空前の盛会となり、土俵の中央に立った板垣が「國技舘」と命名されたことを高らかに宣言すると会場は拍手万雷に包まれた。翌3日付の『朝日』が「國技と名づけられたる角力道がいや榮に榮えゆくべき瑞相とは知られたり」と書いたように、相撲はここに神事から国技へと変貌を遂げたのである。なお命名が最後までずれ込んだため当初の番付表などにはまだ「両國元町常設館」とあったが、翌年1月場所の番付表に初めて「本所元町國技舘」の名称が記された。 1917年(大正6年)11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、放駒などの消火により午前2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。損害額約120万円、(回向院 約12万円)火災保険は約13万円だった。使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行を行なった。 新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、1918年(大正7年)7月に地鎮祭・起工式、1919年(大正8年)4月3日に鉄柱崩壊事故があるも、1920年(大正9年)1月15日に完成・開館式を挙行した。1920年(大正9年)9月1日に再建興行したが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失。再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開した。再建中、1924年(大正13年)1月に愛知県名古屋市で本場所が行われたこともある。 第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)中の1944年(昭和19年)、1月の初場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用された。このため5月(夏)場所は後楽園球場(番付には小石川後楽園球場と表記)で開催されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。野外での晴天興行は関西本場所を含めた年4場所時代の1932年(昭和7年)10月場所以来のことであった。この場所7日目には日曜日で晴天とあって、大観衆8万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まった(幕下以下は事前に国技館で開催した)。 なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された(十両以上。幕下以下は別日程で神宮外苑相撲場(現神宮第二球場)にて開催)。翌年1月が厳寒期に当たり、野外の興行が困難なため2か月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。ちなみに東京で11月に本場所が行われるのは1872年(明治5年)以来72年ぶりであった。 1945年(昭和20年)3月10日、アメリカ軍による東京大空襲の被害を受けて再度焼失。そのため5月23日からの本場所は神宮外苑で晴天7日間の開催予定だったが、皇族・閑院宮載仁親王(5月20日死去)で旧皇室服喪令による喪中や、空襲で延期され、6月に国技館で傷痍軍人将兵の招待以外は非公開で行われた。日本相撲協会の興行史上唯一の本場所非公開開催である。大鉄傘が空襲で破損したため、晴天7日間の興行であった(幕下以下は5月に春日野部屋で開催)。 日本の降伏による第二次世界大戦敗戦後の1945年(昭和20年)10月26日には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により接収され、メモリアルホールとして改称・改装された。改装は1946年(昭和21年)9月24日完了。改装前の1945年(昭和20年)11月中旬には焼け爛れたままの国技館で戦後初の本(秋)場所が行なわれた。晴天10日間と露天並みの興行だった。 占領軍から本場所開催許可の一つの条件として「土俵を広げよ」という要請で、1場所限り土俵の直径を15尺(4.55m)から16尺(4.8m)に広げさせられた(ただし1場所で15尺に戻る)。改装後の1946年(昭和21年)11月にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、1946年(昭和21年)11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の興行となった。 以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。ちなみに日本初の公開プロレスは1951年(昭和26年)9月30日にメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりの力道山がリングサイドで観戦、約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がり、前世界チャンピオンのボビー・ブランズと対戦し、これがプロレスデビューとなった。また、全日本柔道選手権大会の会場にも使用された。 1952年(昭和27年)4月1日の接収解除後、協会が再び国技館としての使用を検討したものの、すでに蔵前国技館の建築が始まっており、また自動車用の駐車場などを設置する場所的な余裕が無いことから使用を断念、国際スタジアムに売却した。国際スタジアムでは、ローラースケートリンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。 国際スタジアムは旧国技館を1958年6月に日本大学に譲渡し、「日本大学講堂」(通称:日大講堂)となる。 日大講堂は、日大の行事よりも、プロボクシングやプロレスリング、コンサートなど多くの興行イベントに使用されていた。プロレスでは主に全日本プロレスが東京でのビッグマッチに使用しており、1974年12月には日本人で初めてNWA世界ヘビー級王座を獲得したジャイアント馬場のジャック・ブリスコとの初防衛戦が日大講堂で行われた。ボクシングでは、大場政夫が出場したWBA世界フライ級タイトルマッチ、他にも輪島功一と小熊正二の世界戦が行われた。 1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて全国で起こった全共闘運動のなかで、日大における闘争の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。 1976年(昭和51年)、日大講堂での全日本プロレスの興行において、大相撲からプロレスラーに転向した天龍源一郎の断髪式が盛大に行われた。 1975年(昭和50年)千日前デパート火災を教訓におこなわれた消防法改正により、スプリンクラーの設備がないままでは施設として使用できないこととなった。日大側は設備の設置を検討したが、老朽化により屋根がもたないと判断。消防法が施行された1977年4月以降は、ほぼ使用されない状態となった。このため墨田区は両国の発展に支障をきたすとして、1978年に大学へ善処するよう注文を付けている。 1982年 (昭和57年)4月の消防法改正により大規模施設にスプリンクラーの設置が義務付けられたことから、老朽化が激しくなっていた日大講堂は使用不能となり、翌1983年(昭和58年)に解体された。以降、日大の入学式・卒業式は日本武道館で挙行されるようになった。 日大講堂(旧国技館)は、幾度かの再建や改修を経つつも、1983年(昭和58年)に解体されるまで、国技館当時の「大鉄傘」の姿を堅持していた。 解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。キーテナントは劇場シアターΧ(シアターカイ。Χはラテン文字の「エックス」ではなくギリシア文字の「カイ」)であり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。その中庭には、旧国技館の土俵の位置がタイルの色で示されている。 1985年(昭和60年)1月場所より使用されている現在の国技館は2代目であり、国鉄バス東京自動車営業所(旧両国貨物駅跡地)に建設された。新国技館は、地上2階・地下1階で、総工費150億円は全て自己資金で賄った。建設計画発表から3年の歳月で1984年(昭和59年)11月30日に完成、12月3日には新国技館敷地内に移転した相撲教習所の開所式、土俵祭が行われた。翌年1月9日、中曾根康弘首相をはじめ約3200人を招いて盛大に落成式が催され、千代の富士と北の湖の両横綱による三段構えが披露された。この1月場所で千代の富士は「全勝優勝」、怪我を押して強行出場した北の湖は1勝も出来ずに「引退」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。 蔵前国技館は厚木の海軍倉庫の鉄骨を払い下げてもらい建設されたものであり、昭和50年代に入ると傷み具合は相当激しくなってきた。春日野理事長は1974年(昭和49年)の就任直後から理事会で新国技館建設の構想を打ち明けていて、のちに記者会見で「私が入門したのは昭和十四年の初場所なんです。ご承知のとおり、その場所はあの双葉山関が安芸ノ海関に敗れ、七十連勝をストップされた歴史的な場所です。私はその日、たまたま翌日の取組表をもらいに行って、"双葉散る"の場面を目撃しているんですよ。まあ、座ブトン、灰皿までが飛ぶ大変な騒ぎでした。それで、またいつか両国で相撲を、という思いは人一倍強かったんですね」「新しい両国国技館を建てたい、という夢を描いたのは、横綱の現役時代なんですよ。毎日、両国の春日野部屋を車で出て、蔵前国技館へ車で向かう途中、旧国技館(当時の日大講堂)の前を通るんです。だんだん古くなって、さびれていく様を見るにつけ、ようし、私が...という思いがつのっていったんです」と述べ、"両国帰還"の姿勢を鮮明にする。 春日野理事長は最初に日大講堂の買い戻しを検討するも、敷地が蔵前国技館よりも狭いことからこの案は立ち消えになり、両国駅北側に狙いを定める。ちょうど国鉄が赤字解消を目指して遊休地の処分に積極的になっていた時代背景もある。1980年(昭和55年)2月、春日野理事長、高木文雄国鉄総裁、鈴木俊一都知事、内山榮一台東区長、山崎榮次郎墨田区長の五者会談が都庁で開催され、その結果、新国技館の建設と蔵前国技館跡地の処分について決着を見た。同年7月12日の理事会で新国技館の建設を正式に決定、1982年(昭和57年)2月に国鉄と協会との間で土地の売買契約が成立し、1983年(昭和58年)4月27日に着工した。なお、両国移転計画が頓挫した場合の代替案として、江東区長の小松崎軍次が辰巳2丁目の埋立地(都有地)への移転案を出していた。 大相撲の本場所、引退相撲、NHK福祉大相撲などで協会自らが使用するほか、設計段階より多目的に使える構造として構想されていて、新日本プロレスのG1 CLIMAX決勝戦(2014年、2018年、2019年を除く)に使用され、1991年(平成3年)から毎年11月に高専ロボコンの全国大会、1992年(平成4年)からは毎年全日本ロボット相撲大会が開催されるほか、毎年2月には国技館5000人の第九コンサートが行なわれている。 煌(きら)めく青春 南関東総体2014では相撲競技の会場となった。 プロレス興行でのこけら落としは1985年3月9日の全日本プロレス(当日のメインイベントはジャンボ鶴田&天龍源一郎 対 ロード・ウォリアーズのインターナショナル・タッグ選手権試合)であった。しかし、輪島大士ら力士出身者の全日本プロレス入りが相次いだことなどから、全日本は日本武道館を主に使用するようになり、両国国技館は新日本プロレスの会場として定着していく。 新日本の初使用は1985年4月18日(当日のメインイベントはアントニオ猪木 対 ブルーザー・ブロディ戦)である。だが、前年のIWGP優勝戦蔵前国技館大会の暴動事件から日本相撲協会に気を使った新日本がトップレスラーのブルーザー・ブロディに「入場コスチュームのチェーンの持ち込み禁止」を通達、激怒したブロディが猪木を試合前に襲撃するという一幕があった(ブロディは結局チェーンを持ってリング入りしている。またブロディは3月の全日本両国大会にもチェーン持参で参戦している)。しかし、1987年12月27日にたけしプロレス軍団の登場に激怒したファンが暴動を起こし、その際に座布団を破ったり、設備を破壊するなどしたため、日本相撲協会から無期限使用禁止を言い渡された(1989年2月に解除)。なお1991年の第1回G1 CLIMAX決勝戦において蝶野正洋が優勝した際、リング上に大量の座布団が投げられたため以後、座布団の使用が禁止されている。現在は年2回(4月と10月)のビッグマッチと8月のG1 CLIMAXの優勝決定戦に使用されている。 一方の全日本は武藤敬司体制となってから武道館が使用できなくなったのもあり、「プロレスLOVE in 両国」と題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。 全日本から分かれる形で旗揚げされたプロレスリング・ノアは長らくビッグマッチを武道館で開いていたため両国を使用することがなかったが、2011年限りで武道館から撤退したため、2012年7月22日に初の両国大会を開催した。この大会では力士出身である力皇猛の引退セレモニーも執り行われた。 1986年4月5日に、全日本女子プロレス(当日のメインイベントはデビル雅美 対 ライオネス飛鳥のWWWA世界シングル選手権試合)が女子格闘技として初進出。女子プロレスでは全女の他、JWP、LLPW(現:LLPW-X)がビッグマッチを開いていた。2007年2月のLLPWを最後に女子プロレス興行は行われなくなったが、2012年4月29日にスターダムが初進出。2014年10月11日にはLLPW-Xが7年ぶりに開催された。2021年12月29日にスターダムが8年ぶりに開催され、翌2022年も同日に開催した。また、2022年3月19日には東京女子プロレスが初進出した。 2009年にはインディー団体のDDTプロレスリングも進出して「両国ピーターパン」と題したビッグイベントを夏に開催している(2012年は武道館を使用したが、2013年は再び両国に戻し2日間に渡り開催)。2015年には同じくインディー団体の大日本プロレスも進出(デスマッチを売りにしている団体であるが、蛍光灯・ガラス・画鋲など、破片等が飛散する凶器の使用は禁止)。2023年8月にはGLEAT(2021年7月旗揚げ)が「GLEAT ver.MEGA」を開催予定。 2010年には世界最大のプロレス団体WWEの日本大会「WWE RAW Presents SUMMER SLAM TOUR 2010」が開催され、これ以降は2011年(同年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震による東日本大震災及び福島第一原発事故の影響で12月に横浜アリーナで開催)を除いて毎年夏季(概ね7月から8月ごろ)に両国国技館大会を開催していた。2012年は「WWE Presents SMACK DOWN WORLD TOUR 2012」、2013年、2014年には「WWE Live」が。2015年は「The Beast in the East」。2016年以降は「WWE Live Japan」として開催され、2019年は「WWE Live Tokyo」との名称で開催されたが、現状この大会が最後となっている。 2010年から2015年までIGFが「INOKI BOM-BA-YE」を開催し、2012年以降は大晦日興行として行われていた。 2015年11月15日には、元力士でもあった天龍源一郎の引退興行が催された。 過去には近畿を拠点とするDRAGON GATEも東京におけるビッグマッチの会場として使用した時期がある(大田区体育館建て替えのための代替。現在は建て替え後の大田区総合体育館を使用)。FFF(1998年解散)、格闘探偵団バトラーツ(2001年解散)も会場として使用したことがある。 ボクシングでは、浜田剛史(帝拳)が出場した世界戦(WBC世界スーパーライト級タイトルマッチ)3試合を全て両国国技館で開催。2017年には村田諒太がここで世界王者となり、日本人初となるオリンピックメダリストのプロボクシング世界王者となった。 また、世界戦のみならず日本プロボクシング協会主催のチャンピオンカーニバルで、1998年スーパーフェザー級王者・コウジ有沢(草加有沢) vs 挑戦者・畑山隆則(横浜光)の史上最大の日本タイトルマッチ、2000年フライ級王者・セレス小林(国際) vs 挑戦者・浅井勇登(緑)、スーパーライト級王者・小野淳一(新日本木村) vs 挑戦者・前田宏行(角海老宝石)、王者・コウジ vs 挑戦者・玉置厚司(守口東郷)の5階級日本タイトルマッチ同時開催興行等も実施された。 2020年東京オリンピックではボクシング競技会場として使用された。 その他格闘技では、高田延彦が1991年12月にUWFインターナショナル「格闘技世界一決定戦」と銘打って元WBC世界ヘビー級王者トレバー・バービックに圧勝。その後も極真会館(松井館長)主催の全日本空手道選手権大会と全世界ウェイト制空手道選手権大会、パンクラス、SRC、THE OUTSIDER、シュートボクシング、ONEなどで開催実績がある。 他のスポーツ競技では、1985年の新・両国国技館開場の年に日本女子代表チームが出場したバレーボールの国際試合が開催されたことがある。 2011年にはFIG体操ワールドカップ東京大会の会場となった。 2018年10月にはプロ卓球リーグ:Tリーグ開幕戦の会場として使用された。 また、試合が行われたわけではないが、2020年、2021年にプロ野球・読売ジャイアンツがファン感謝デーの会場として使用した。 1985年12月31日には、民放同時放送『ゆく年くる年』(幹事局:日本テレビ)のメイン会場として使用された。 1986年4月29日には、内閣の主催により昭和天皇御在位60年記念式典を挙行した。 1992年には格闘ゲーム『ストリートファイターII』、1993年にはそのバージョンアップの『ストリートファイターIIターボ』、1994年にはさらなるバージョンアップの『スーパーストリートファイターII』(いずれもスーパーファミコン版)の全国大会が行われた。 同1992年12月6日には『ソニック・ザ・ヘッジホッグ2』の発売を記念して両国国技館初のビッグイベント『遊星Sega World』が開催された。『バーチャレーシング』や『ソニック2』、『ベア・ナックル2』等のゲーム大会やUFOキャッチャー選手権が開かれたりや司会者にマイケル富岡、ゲストに所ジョージ、高橋由美子、大森うたえもん、大川興業、林原めぐみ等が出演した。メガドライブやメガCDの新作ソフトの出品がラインナップされた。 アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテストという、高等専門学校のロボットの性能技術を競うコンクールでは、1991年の第4回大会(テーマ「ホットタワー」)以後、毎年全国コンクールの会場として使われており、地方コンクール(全国8地区)を勝ち抜いた高専生の憧れの場、「高専生の甲子園」とまで言われている。 蔵前国技館時代から日本民謡協会主催の民謡民舞全国大会が4日間当会場で開催されていたが、2017年から品川区立総合区民会館に会場を移動して継続開催されている。 また、年に数回程度、コンサート・ライブの会場として使われることがある。ライヴ会場としてのこけら落としは1985年3月31日に開催された、ロックバンド甲斐バンドの「BEATNIK TOUR in 両国国技館」。上記の「国技館5000人の第九コンサート」などのほか、1988年秋にはアメリカのアイドル歌手ティファニーのコンサートが催されたり、2007年11月22日に両国国技館では初のオールナイト音楽イベント「Connect '07」が開催され、石野卓球、大沢伸一らが出演した。 2018年11月にはポール・マッカートニーが日本ツアーの追加公演を、本人の希望で国技館を会場として開催した。 アニメ・ゲーム関係では、2007年12月24日には堀江由衣が声優としては初めて単独コンサートを行い、2015年11月28日・29日にはAQUAPLUS作品のファンイベント『大アクアプラス祭』を行い、2018年10月6日・7日には『それいけ!アンパンマン』テレビアニメ放送30周年&劇場版30作記念イベント東京公演を行った。 また、両国国技館傍に本社を置くライオンや、芸能プロダクション・アミューズの株主総会も当地で開催される。アミューズは株主総会の後に所属アーティストによるライブ及びイベントを開催しており、これまでにPerfume、福山雅治、原由子、安田顕らが出演している。 年末年始は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが、2009年の大晦日から2010年の元旦にかけてさだまさしが国技館初のカウントダウンコンサートを行い、幟のほかに角界関係者をはじめとする企業・個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。その後もさだはほぼ毎年両国国技館でカウントダウンコンサートと『今夜も生でさだまさし』元日特番の公開生放送を行っている。 2010年には演芸コンテスト「M-1グランプリ」の準決勝会場としても使用されたほか、2019年からは日本テレビで毎年8月に放送されるチャリティー番組『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のメイン会場として使用されている。また、『満点☆青空レストラン』・『行列のできる法律相談所』の生放送でも使われた。なお、2020年、2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため無観客で開催された。 2015年6月2日、ミュージシャンの星野源がリーダーを務めるインストバンド・SAKEROCKの解散ライブが開催された。 2022年3月23日には、放送大学の学位記授与式が開催されている。更に同年からベストボディ・ジャパン協会主催のベストボディ・ジャパン日本大会が開催されている。 相撲協会は国技館を蔵前国技館時代は土俵の上にリングを組む女子プロレスや女子格闘技の大会、興行、イベントには当初は貸していたが女人禁制により貸さなくなっていた。男子のものでも花束嬢などの女性はリングには上がらせないようにしていた。両国国技館になって土俵はエレベーター式の昇降型となり地下に沈めることができるようになったために貸すようになり、リング上に花束嬢などの女性が中央に立つことも可能となった。しかし、のちに他会場を含め花束嬢の登壇は減少している。 リングでの女人禁制は解禁されたものの、土俵への女人禁制は両国国技館になっても続いた。 アマチュアの国際相撲連盟主催世界相撲選手権大会は女子が参加してなかった第9回大会までは大半が国技館で実施されていたが世界女子相撲選手権大会が同時開催となった2001年第10回大会から2018年第22回大会は一度も国技館で開催されていない。 わんぱく相撲全国大会については、男女混合で行われることもある地区大会優勝者が女性だった場合に出場権がないことが問題となっていた。この問題についてはわんぱく相撲全国大会主催の東京青年会議所が2019年にわんぱく相撲女子全国大会を開設することによって解決を図っている。 2005年、ヒップホップのイベント『B BOY PARK』のMCバトルは国技館の土俵上で行われた。出場者に女性ラッパーのCOMA-CHIがいた。ハイヒールは脱ぐことになったが土俵には上がることができ、準優勝を果たした。平成期以前にハプニング以外で国技館の土俵に女性が上がったのは唯一か非常に珍しいことである。 2007年9月19日(大相撲秋場所11日目)には観客の40歳前後の女性が国技館の土俵にハプニングで乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは「約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた」としている。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵の勝負俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている。 女人禁制のため断髪式でも女性は鋏を入れる役をさせてもらえなかったが、2010年10月2日、最高位大関だった千代大海の国技館で行われた断髪式で彼は母美恵に鋏を入れてもらうことにした。しかし、美恵は土俵下で彼の髪を切ることとなった。これを機に女性も鋏を入れる例が増えたが土俵には上がらないことが続いた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "両国国技館(りょうごくこくぎかん)は、東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。公益財団法人日本相撲協会が所有している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "プロレス、ボクシングなどの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、ポピュラー音楽のライブ会場としても使用される。クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお「両国国技館」という呼称は日本相撲協会が一般向けに用いる通称であり、同協会による正式な呼称は国技館である。番付では、旧字体で國技館と表記している。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1833年(天保4年)から回向院で相撲興行が催されていたことから、1909年(明治42年)に旧国技館は、同境内に建設された。明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興行が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。屋根は法隆寺金堂を真似た。約13,000人収容できた。開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、大鉄傘という愛称で呼ばれていた。", "title": "旧国技館" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後、日本大学が日本相撲協会から旧国技館(墨田区両国)を買収。1958年(昭和33年)から1982年(昭和57年)までの間は、日本大学講堂だった(下記詳述)。回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている。", "title": "旧国技館" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "先代は現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1906年(明治39年)6月着工、3年後の1909年(明治42年)5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは小屋掛け[臨時に設備を設けて行なうこと]による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。6月場所は本来は5月18日より興行との番付が発表されており、工事の遅延によって場所が延期となって6月開催となったという経緯がある。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "設計は日本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾とその教え子葛西萬司で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、3,000人程度しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。実際の収容人数は20,000人以上ともされていた。建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。天候に関係なく興行を打てるようになったことで、優勝制度が自然発生的に生まれたとする見方もある。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "こうして竣工した常設館の名称は、当初は設立委員会の委員長を務める伯爵板垣退助が提案した「尚武舘」(しょうぶかん)が有力な候補となっていた。ところが大の相撲好きだった作家の江見水蔭が開館式の式次第のために起草した披露文の中に「角力は日本の國技なり」という一文を見た委員の一人・年寄の三代尾車(元大関大戸平)はこれに甚く感じるところがあり、土壇場になって名称に「國技舘」を提案した。この名称については5月29日の委員会で話し合われたがまとまらず、結局開館式の直前になって板垣の最終決定という形でこれを了承。これを受けて6月1日付の『朝日新聞』に「國技舘を觀る」という記事が掲載された。午前5時の祝砲に始まった翌2日の開館式は空前の盛会となり、土俵の中央に立った板垣が「國技舘」と命名されたことを高らかに宣言すると会場は拍手万雷に包まれた。翌3日付の『朝日』が「國技と名づけられたる角力道がいや榮に榮えゆくべき瑞相とは知られたり」と書いたように、相撲はここに神事から国技へと変貌を遂げたのである。なお命名が最後までずれ込んだため当初の番付表などにはまだ「両國元町常設館」とあったが、翌年1月場所の番付表に初めて「本所元町國技舘」の名称が記された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1917年(大正6年)11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、放駒などの消火により午前2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。損害額約120万円、(回向院 約12万円)火災保険は約13万円だった。使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行を行なった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、1918年(大正7年)7月に地鎮祭・起工式、1919年(大正8年)4月3日に鉄柱崩壊事故があるも、1920年(大正9年)1月15日に完成・開館式を挙行した。1920年(大正9年)9月1日に再建興行したが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失。再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開した。再建中、1924年(大正13年)1月に愛知県名古屋市で本場所が行われたこともある。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)中の1944年(昭和19年)、1月の初場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用された。このため5月(夏)場所は後楽園球場(番付には小石川後楽園球場と表記)で開催されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。野外での晴天興行は関西本場所を含めた年4場所時代の1932年(昭和7年)10月場所以来のことであった。この場所7日目には日曜日で晴天とあって、大観衆8万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まった(幕下以下は事前に国技館で開催した)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された(十両以上。幕下以下は別日程で神宮外苑相撲場(現神宮第二球場)にて開催)。翌年1月が厳寒期に当たり、野外の興行が困難なため2か月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。ちなみに東京で11月に本場所が行われるのは1872年(明治5年)以来72年ぶりであった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)3月10日、アメリカ軍による東京大空襲の被害を受けて再度焼失。そのため5月23日からの本場所は神宮外苑で晴天7日間の開催予定だったが、皇族・閑院宮載仁親王(5月20日死去)で旧皇室服喪令による喪中や、空襲で延期され、6月に国技館で傷痍軍人将兵の招待以外は非公開で行われた。日本相撲協会の興行史上唯一の本場所非公開開催である。大鉄傘が空襲で破損したため、晴天7日間の興行であった(幕下以下は5月に春日野部屋で開催)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本の降伏による第二次世界大戦敗戦後の1945年(昭和20年)10月26日には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により接収され、メモリアルホールとして改称・改装された。改装は1946年(昭和21年)9月24日完了。改装前の1945年(昭和20年)11月中旬には焼け爛れたままの国技館で戦後初の本(秋)場所が行なわれた。晴天10日間と露天並みの興行だった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "占領軍から本場所開催許可の一つの条件として「土俵を広げよ」という要請で、1場所限り土俵の直径を15尺(4.55m)から16尺(4.8m)に広げさせられた(ただし1場所で15尺に戻る)。改装後の1946年(昭和21年)11月にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、1946年(昭和21年)11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の興行となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。ちなみに日本初の公開プロレスは1951年(昭和26年)9月30日にメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりの力道山がリングサイドで観戦、約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がり、前世界チャンピオンのボビー・ブランズと対戦し、これがプロレスデビューとなった。また、全日本柔道選手権大会の会場にも使用された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1952年(昭和27年)4月1日の接収解除後、協会が再び国技館としての使用を検討したものの、すでに蔵前国技館の建築が始まっており、また自動車用の駐車場などを設置する場所的な余裕が無いことから使用を断念、国際スタジアムに売却した。国際スタジアムでは、ローラースケートリンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "国際スタジアムは旧国技館を1958年6月に日本大学に譲渡し、「日本大学講堂」(通称:日大講堂)となる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日大講堂は、日大の行事よりも、プロボクシングやプロレスリング、コンサートなど多くの興行イベントに使用されていた。プロレスでは主に全日本プロレスが東京でのビッグマッチに使用しており、1974年12月には日本人で初めてNWA世界ヘビー級王座を獲得したジャイアント馬場のジャック・ブリスコとの初防衛戦が日大講堂で行われた。ボクシングでは、大場政夫が出場したWBA世界フライ級タイトルマッチ、他にも輪島功一と小熊正二の世界戦が行われた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて全国で起こった全共闘運動のなかで、日大における闘争の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1976年(昭和51年)、日大講堂での全日本プロレスの興行において、大相撲からプロレスラーに転向した天龍源一郎の断髪式が盛大に行われた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1975年(昭和50年)千日前デパート火災を教訓におこなわれた消防法改正により、スプリンクラーの設備がないままでは施設として使用できないこととなった。日大側は設備の設置を検討したが、老朽化により屋根がもたないと判断。消防法が施行された1977年4月以降は、ほぼ使用されない状態となった。このため墨田区は両国の発展に支障をきたすとして、1978年に大学へ善処するよう注文を付けている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1982年 (昭和57年)4月の消防法改正により大規模施設にスプリンクラーの設置が義務付けられたことから、老朽化が激しくなっていた日大講堂は使用不能となり、翌1983年(昭和58年)に解体された。以降、日大の入学式・卒業式は日本武道館で挙行されるようになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日大講堂(旧国技館)は、幾度かの再建や改修を経つつも、1983年(昭和58年)に解体されるまで、国技館当時の「大鉄傘」の姿を堅持していた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。キーテナントは劇場シアターΧ(シアターカイ。Χはラテン文字の「エックス」ではなくギリシア文字の「カイ」)であり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。その中庭には、旧国技館の土俵の位置がタイルの色で示されている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)1月場所より使用されている現在の国技館は2代目であり、国鉄バス東京自動車営業所(旧両国貨物駅跡地)に建設された。新国技館は、地上2階・地下1階で、総工費150億円は全て自己資金で賄った。建設計画発表から3年の歳月で1984年(昭和59年)11月30日に完成、12月3日には新国技館敷地内に移転した相撲教習所の開所式、土俵祭が行われた。翌年1月9日、中曾根康弘首相をはじめ約3200人を招いて盛大に落成式が催され、千代の富士と北の湖の両横綱による三段構えが披露された。この1月場所で千代の富士は「全勝優勝」、怪我を押して強行出場した北の湖は1勝も出来ずに「引退」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "蔵前国技館は厚木の海軍倉庫の鉄骨を払い下げてもらい建設されたものであり、昭和50年代に入ると傷み具合は相当激しくなってきた。春日野理事長は1974年(昭和49年)の就任直後から理事会で新国技館建設の構想を打ち明けていて、のちに記者会見で「私が入門したのは昭和十四年の初場所なんです。ご承知のとおり、その場所はあの双葉山関が安芸ノ海関に敗れ、七十連勝をストップされた歴史的な場所です。私はその日、たまたま翌日の取組表をもらいに行って、\"双葉散る\"の場面を目撃しているんですよ。まあ、座ブトン、灰皿までが飛ぶ大変な騒ぎでした。それで、またいつか両国で相撲を、という思いは人一倍強かったんですね」「新しい両国国技館を建てたい、という夢を描いたのは、横綱の現役時代なんですよ。毎日、両国の春日野部屋を車で出て、蔵前国技館へ車で向かう途中、旧国技館(当時の日大講堂)の前を通るんです。だんだん古くなって、さびれていく様を見るにつけ、ようし、私が...という思いがつのっていったんです」と述べ、\"両国帰還\"の姿勢を鮮明にする。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "春日野理事長は最初に日大講堂の買い戻しを検討するも、敷地が蔵前国技館よりも狭いことからこの案は立ち消えになり、両国駅北側に狙いを定める。ちょうど国鉄が赤字解消を目指して遊休地の処分に積極的になっていた時代背景もある。1980年(昭和55年)2月、春日野理事長、高木文雄国鉄総裁、鈴木俊一都知事、内山榮一台東区長、山崎榮次郎墨田区長の五者会談が都庁で開催され、その結果、新国技館の建設と蔵前国技館跡地の処分について決着を見た。同年7月12日の理事会で新国技館の建設を正式に決定、1982年(昭和57年)2月に国鉄と協会との間で土地の売買契約が成立し、1983年(昭和58年)4月27日に着工した。なお、両国移転計画が頓挫した場合の代替案として、江東区長の小松崎軍次が辰巳2丁目の埋立地(都有地)への移転案を出していた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "大相撲の本場所、引退相撲、NHK福祉大相撲などで協会自らが使用するほか、設計段階より多目的に使える構造として構想されていて、新日本プロレスのG1 CLIMAX決勝戦(2014年、2018年、2019年を除く)に使用され、1991年(平成3年)から毎年11月に高専ロボコンの全国大会、1992年(平成4年)からは毎年全日本ロボット相撲大会が開催されるほか、毎年2月には国技館5000人の第九コンサートが行なわれている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "煌(きら)めく青春 南関東総体2014では相撲競技の会場となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "プロレス興行でのこけら落としは1985年3月9日の全日本プロレス(当日のメインイベントはジャンボ鶴田&天龍源一郎 対 ロード・ウォリアーズのインターナショナル・タッグ選手権試合)であった。しかし、輪島大士ら力士出身者の全日本プロレス入りが相次いだことなどから、全日本は日本武道館を主に使用するようになり、両国国技館は新日本プロレスの会場として定着していく。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "新日本の初使用は1985年4月18日(当日のメインイベントはアントニオ猪木 対 ブルーザー・ブロディ戦)である。だが、前年のIWGP優勝戦蔵前国技館大会の暴動事件から日本相撲協会に気を使った新日本がトップレスラーのブルーザー・ブロディに「入場コスチュームのチェーンの持ち込み禁止」を通達、激怒したブロディが猪木を試合前に襲撃するという一幕があった(ブロディは結局チェーンを持ってリング入りしている。またブロディは3月の全日本両国大会にもチェーン持参で参戦している)。しかし、1987年12月27日にたけしプロレス軍団の登場に激怒したファンが暴動を起こし、その際に座布団を破ったり、設備を破壊するなどしたため、日本相撲協会から無期限使用禁止を言い渡された(1989年2月に解除)。なお1991年の第1回G1 CLIMAX決勝戦において蝶野正洋が優勝した際、リング上に大量の座布団が投げられたため以後、座布団の使用が禁止されている。現在は年2回(4月と10月)のビッグマッチと8月のG1 CLIMAXの優勝決定戦に使用されている。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一方の全日本は武藤敬司体制となってから武道館が使用できなくなったのもあり、「プロレスLOVE in 両国」と題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "全日本から分かれる形で旗揚げされたプロレスリング・ノアは長らくビッグマッチを武道館で開いていたため両国を使用することがなかったが、2011年限りで武道館から撤退したため、2012年7月22日に初の両国大会を開催した。この大会では力士出身である力皇猛の引退セレモニーも執り行われた。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1986年4月5日に、全日本女子プロレス(当日のメインイベントはデビル雅美 対 ライオネス飛鳥のWWWA世界シングル選手権試合)が女子格闘技として初進出。女子プロレスでは全女の他、JWP、LLPW(現:LLPW-X)がビッグマッチを開いていた。2007年2月のLLPWを最後に女子プロレス興行は行われなくなったが、2012年4月29日にスターダムが初進出。2014年10月11日にはLLPW-Xが7年ぶりに開催された。2021年12月29日にスターダムが8年ぶりに開催され、翌2022年も同日に開催した。また、2022年3月19日には東京女子プロレスが初進出した。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2009年にはインディー団体のDDTプロレスリングも進出して「両国ピーターパン」と題したビッグイベントを夏に開催している(2012年は武道館を使用したが、2013年は再び両国に戻し2日間に渡り開催)。2015年には同じくインディー団体の大日本プロレスも進出(デスマッチを売りにしている団体であるが、蛍光灯・ガラス・画鋲など、破片等が飛散する凶器の使用は禁止)。2023年8月にはGLEAT(2021年7月旗揚げ)が「GLEAT ver.MEGA」を開催予定。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2010年には世界最大のプロレス団体WWEの日本大会「WWE RAW Presents SUMMER SLAM TOUR 2010」が開催され、これ以降は2011年(同年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震による東日本大震災及び福島第一原発事故の影響で12月に横浜アリーナで開催)を除いて毎年夏季(概ね7月から8月ごろ)に両国国技館大会を開催していた。2012年は「WWE Presents SMACK DOWN WORLD TOUR 2012」、2013年、2014年には「WWE Live」が。2015年は「The Beast in the East」。2016年以降は「WWE Live Japan」として開催され、2019年は「WWE Live Tokyo」との名称で開催されたが、現状この大会が最後となっている。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2010年から2015年までIGFが「INOKI BOM-BA-YE」を開催し、2012年以降は大晦日興行として行われていた。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2015年11月15日には、元力士でもあった天龍源一郎の引退興行が催された。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "過去には近畿を拠点とするDRAGON GATEも東京におけるビッグマッチの会場として使用した時期がある(大田区体育館建て替えのための代替。現在は建て替え後の大田区総合体育館を使用)。FFF(1998年解散)、格闘探偵団バトラーツ(2001年解散)も会場として使用したことがある。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ボクシングでは、浜田剛史(帝拳)が出場した世界戦(WBC世界スーパーライト級タイトルマッチ)3試合を全て両国国技館で開催。2017年には村田諒太がここで世界王者となり、日本人初となるオリンピックメダリストのプロボクシング世界王者となった。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、世界戦のみならず日本プロボクシング協会主催のチャンピオンカーニバルで、1998年スーパーフェザー級王者・コウジ有沢(草加有沢) vs 挑戦者・畑山隆則(横浜光)の史上最大の日本タイトルマッチ、2000年フライ級王者・セレス小林(国際) vs 挑戦者・浅井勇登(緑)、スーパーライト級王者・小野淳一(新日本木村) vs 挑戦者・前田宏行(角海老宝石)、王者・コウジ vs 挑戦者・玉置厚司(守口東郷)の5階級日本タイトルマッチ同時開催興行等も実施された。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2020年東京オリンピックではボクシング競技会場として使用された。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "その他格闘技では、高田延彦が1991年12月にUWFインターナショナル「格闘技世界一決定戦」と銘打って元WBC世界ヘビー級王者トレバー・バービックに圧勝。その後も極真会館(松井館長)主催の全日本空手道選手権大会と全世界ウェイト制空手道選手権大会、パンクラス、SRC、THE OUTSIDER、シュートボクシング、ONEなどで開催実績がある。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "他のスポーツ競技では、1985年の新・両国国技館開場の年に日本女子代表チームが出場したバレーボールの国際試合が開催されたことがある。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2011年にはFIG体操ワールドカップ東京大会の会場となった。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2018年10月にはプロ卓球リーグ:Tリーグ開幕戦の会場として使用された。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、試合が行われたわけではないが、2020年、2021年にプロ野球・読売ジャイアンツがファン感謝デーの会場として使用した。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1985年12月31日には、民放同時放送『ゆく年くる年』(幹事局:日本テレビ)のメイン会場として使用された。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1986年4月29日には、内閣の主催により昭和天皇御在位60年記念式典を挙行した。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1992年には格闘ゲーム『ストリートファイターII』、1993年にはそのバージョンアップの『ストリートファイターIIターボ』、1994年にはさらなるバージョンアップの『スーパーストリートファイターII』(いずれもスーパーファミコン版)の全国大会が行われた。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "同1992年12月6日には『ソニック・ザ・ヘッジホッグ2』の発売を記念して両国国技館初のビッグイベント『遊星Sega World』が開催された。『バーチャレーシング』や『ソニック2』、『ベア・ナックル2』等のゲーム大会やUFOキャッチャー選手権が開かれたりや司会者にマイケル富岡、ゲストに所ジョージ、高橋由美子、大森うたえもん、大川興業、林原めぐみ等が出演した。メガドライブやメガCDの新作ソフトの出品がラインナップされた。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテストという、高等専門学校のロボットの性能技術を競うコンクールでは、1991年の第4回大会(テーマ「ホットタワー」)以後、毎年全国コンクールの会場として使われており、地方コンクール(全国8地区)を勝ち抜いた高専生の憧れの場、「高専生の甲子園」とまで言われている。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "蔵前国技館時代から日本民謡協会主催の民謡民舞全国大会が4日間当会場で開催されていたが、2017年から品川区立総合区民会館に会場を移動して継続開催されている。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、年に数回程度、コンサート・ライブの会場として使われることがある。ライヴ会場としてのこけら落としは1985年3月31日に開催された、ロックバンド甲斐バンドの「BEATNIK TOUR in 両国国技館」。上記の「国技館5000人の第九コンサート」などのほか、1988年秋にはアメリカのアイドル歌手ティファニーのコンサートが催されたり、2007年11月22日に両国国技館では初のオールナイト音楽イベント「Connect '07」が開催され、石野卓球、大沢伸一らが出演した。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2018年11月にはポール・マッカートニーが日本ツアーの追加公演を、本人の希望で国技館を会場として開催した。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アニメ・ゲーム関係では、2007年12月24日には堀江由衣が声優としては初めて単独コンサートを行い、2015年11月28日・29日にはAQUAPLUS作品のファンイベント『大アクアプラス祭』を行い、2018年10月6日・7日には『それいけ!アンパンマン』テレビアニメ放送30周年&劇場版30作記念イベント東京公演を行った。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また、両国国技館傍に本社を置くライオンや、芸能プロダクション・アミューズの株主総会も当地で開催される。アミューズは株主総会の後に所属アーティストによるライブ及びイベントを開催しており、これまでにPerfume、福山雅治、原由子、安田顕らが出演している。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "年末年始は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが、2009年の大晦日から2010年の元旦にかけてさだまさしが国技館初のカウントダウンコンサートを行い、幟のほかに角界関係者をはじめとする企業・個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。その後もさだはほぼ毎年両国国技館でカウントダウンコンサートと『今夜も生でさだまさし』元日特番の公開生放送を行っている。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2010年には演芸コンテスト「M-1グランプリ」の準決勝会場としても使用されたほか、2019年からは日本テレビで毎年8月に放送されるチャリティー番組『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のメイン会場として使用されている。また、『満点☆青空レストラン』・『行列のできる法律相談所』の生放送でも使われた。なお、2020年、2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため無観客で開催された。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2015年6月2日、ミュージシャンの星野源がリーダーを務めるインストバンド・SAKEROCKの解散ライブが開催された。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2022年3月23日には、放送大学の学位記授与式が開催されている。更に同年からベストボディ・ジャパン協会主催のベストボディ・ジャパン日本大会が開催されている。", "title": "イベント会場としての利用" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "相撲協会は国技館を蔵前国技館時代は土俵の上にリングを組む女子プロレスや女子格闘技の大会、興行、イベントには当初は貸していたが女人禁制により貸さなくなっていた。男子のものでも花束嬢などの女性はリングには上がらせないようにしていた。両国国技館になって土俵はエレベーター式の昇降型となり地下に沈めることができるようになったために貸すようになり、リング上に花束嬢などの女性が中央に立つことも可能となった。しかし、のちに他会場を含め花束嬢の登壇は減少している。", "title": "女人禁制問題" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "リングでの女人禁制は解禁されたものの、土俵への女人禁制は両国国技館になっても続いた。", "title": "女人禁制問題" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "アマチュアの国際相撲連盟主催世界相撲選手権大会は女子が参加してなかった第9回大会までは大半が国技館で実施されていたが世界女子相撲選手権大会が同時開催となった2001年第10回大会から2018年第22回大会は一度も国技館で開催されていない。", "title": "女人禁制問題" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "わんぱく相撲全国大会については、男女混合で行われることもある地区大会優勝者が女性だった場合に出場権がないことが問題となっていた。この問題についてはわんぱく相撲全国大会主催の東京青年会議所が2019年にわんぱく相撲女子全国大会を開設することによって解決を図っている。", "title": "女人禁制問題" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2005年、ヒップホップのイベント『B BOY PARK』のMCバトルは国技館の土俵上で行われた。出場者に女性ラッパーのCOMA-CHIがいた。ハイヒールは脱ぐことになったが土俵には上がることができ、準優勝を果たした。平成期以前にハプニング以外で国技館の土俵に女性が上がったのは唯一か非常に珍しいことである。", "title": "女人禁制問題" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2007年9月19日(大相撲秋場所11日目)には観客の40歳前後の女性が国技館の土俵にハプニングで乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは「約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた」としている。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵の勝負俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている。", "title": "女人禁制問題" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "女人禁制のため断髪式でも女性は鋏を入れる役をさせてもらえなかったが、2010年10月2日、最高位大関だった千代大海の国技館で行われた断髪式で彼は母美恵に鋏を入れてもらうことにした。しかし、美恵は土俵下で彼の髪を切ることとなった。これを機に女性も鋏を入れる例が増えたが土俵には上がらないことが続いた。", "title": "女人禁制問題" } ]
両国国技館(りょうごくこくぎかん)は、東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。公益財団法人日本相撲協会が所有している。 プロレス、ボクシングなどの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、ポピュラー音楽のライブ会場としても使用される。クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある。 なお「両国国技館」という呼称は日本相撲協会が一般向けに用いる通称であり、同協会による正式な呼称は国技館である。番付では、旧字体で國技館と表記している。
{{体育館 | 名称 = 両国国技館<br />The Ryogoku Kokugikan<br />Sumo Arena | 画像 = [[ファイル:Ryogoku Great Sumo Hall.jpg|300px]]<br />{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=300}} | 用途 = 大相撲興行、イベントホール | 旧用途 = | 収容人数 = 11,098人(B1Fアリーナ1,300席・1F桝2,600席・2Fイス2,600席) | 設計者 = [[鹿島建設]] | 事業主体 = | 管理運営 = [[公益財団法人]][[日本相撲協会]] | 延床面積 = 35700|延床面積ref=(メインアリーナ) | 階数 = 地上2階・地下1階 | 高さ = 39.6m | 総工費 = 150億円 | 竣工 = [[1984年]](昭和59年)[[11月30日]] | 所在地郵便番号 = 130-0015 | 所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[横網]]1丁目3番28号 }} '''両国国技館'''(りょうごくこくぎかん)は、[[東京都]][[墨田区]][[横網]]一丁目にある[[大相撲]]の興行のための施設。[[日本相撲協会|公益財団法人日本相撲協会]]が所有している。 [[プロレス]]、[[ボクシング]]などの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、[[ポピュラー音楽]]のライブ会場としても使用される。クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある<ref>{{Cite web|和書|url=http://classicnews.jp/c-news/image/2012/06/b120628.pdf|title=「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」を支援するコンサート 2012年7月1日14時開演 横浜みなとみらいホール|accessdate=2019-5-11|publisher=有限会社神奈川芸術協会|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190511100508/http://classicnews.jp/c-news/image/2012/06/b120628.pdf|archivedate=2019-5-11}}</ref>。 なお「両国国技館」という呼称は日本相撲協会が一般向けに用いる[[通称]]であり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sumo.or.jp/KokugikanSumoMuseumDisplay/past?year=2020|title=相撲博物館 展示紹介 過去の展示「両国国技館35年と平成の大相撲」|accessdate=2020-6-1|publisher=[[日本相撲協会]]|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0601-1738-45/www.sumo.or.jp/KokugikanSumoMuseumDisplay/past?year=2020|archivedate=2020-6-1}}</ref>、同協会による正式な呼称は'''国技館'''である<ref>{{Cite web|和書|title=国技館のご案内 概要|url=http://www.sumo.or.jp/|website=日本相撲協会公式サイト|accessdate=2019-05-11|language=ja|publisher=[[日本相撲協会]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190511095801/http://www.sumo.or.jp/Kokugikan/|archivedate=2019-5-11}}</ref>。[[番付]]では、[[旧字体]]で'''國技館'''と表記している。 == 旧国技館 == [[1833年]](天保4年)から[[回向院]]で相撲興行が催されていたことから、[[1909年]](明治42年)に'''旧国技館'''は、同境内に建設された。明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興行が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった<ref name="enki">『大相撲中継』2017年8月12日号 p96-97</ref>。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。屋根は[[法隆寺]]金堂を真似た。約13,000人収容できた。開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、'''大鉄傘'''という愛称で呼ばれていた。 その後、[[日本大学]]が[[日本相撲協会]]から旧国技館([[墨田区]][[両国 (東京都)|両国]])を買収。[[1958年]](昭和33年)から[[1982年]](昭和57年)までの間は、'''日本大学講堂'''だった([[#日本大学講堂|下記詳述]])。回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている。 == 沿革 == === 初代国技館 === [[ファイル:Ryogoku Kokugikan 1909.jpg|thumb|right|300px|初代国技館(1909年)]] {{Anchors|旧両国国技館}}先代は現在の国技館とは異なり、[[京葉道路]]沿いの[[本所 (墨田区)|本所]][[回向院]]の境内にあった。 [[1906年]](明治39年)6月着工、3年後の[[1909年]](明治42年)5月に竣工し、[[6月2日]]に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは'''小屋掛け'''[臨時に設備を設けて行なうこと]による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。6月場所は本来は5月18日より興行との番付が発表されており、工事の遅延によって場所が延期となって6月開催となったという経緯がある<ref name="enki"/>。 設計は[[日本銀行|日本銀行本店]]や[[東京駅]]、[[浜寺公園駅]]の設計者として知られる[[辰野金吾]]とその教え子[[葛西萬司]]で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。[[枡席]]約1,000席を含む13,000人が収容可能で、3,000人程度しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。実際の収容人数は20,000人以上ともされていた<ref>『大相撲ジャーナル』2017年6月号62頁</ref>。建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。天候に関係なく興行を打てるようになったことで、優勝制度が自然発生的に生まれたとする見方もある<ref>『大相撲ジャーナル』2017年6月号65頁</ref>。 ==== 命名 ==== こうして竣工した常設館の名称は、当初は設立委員会の委員長を務める[[伯爵]][[板垣退助]]が提案した「尚武舘」(しょうぶかん)が有力な候補となっていた<ref name=鹿島>[https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki26/index-j.html 鹿島の軌跡 第26回「国技館 ― 伝統と技術が融合した相撲の殿堂」]、鹿島建設ウェブサイト{{smaller| (2018年9月13日閲覧)}}</ref>。ところが大の相撲好きだった作家の[[江見水蔭]]が開館式の式次第のために起草した披露文の中に「[[相撲|角力]]は日本の國技なり」という一文を見た委員の一人・[[年寄]]の[[大戸平廣吉|三代尾車(元大関大戸平)]]はこれに甚く感じるところがあり、土壇場になって名称に「國技舘」を提案した<ref>[https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/tmp/153.pdf 第 153 回常設展示「国技・相撲」-近代以降の事件と名力士] 平成20年4月17日国立国会図書館</ref>。この名称については5月29日の委員会で話し合われたがまとまらず、結局開館式の直前になって板垣の最終決定という形でこれを了承。これを受けて6月1日付の『[[朝日新聞]]』に「國技舘を觀る」という記事が掲載された<ref name=鹿島 />。午前5時の祝砲に始まった翌2日の開館式は空前の盛会となり、土俵の中央に立った板垣が「國技舘」と命名されたことを高らかに宣言すると会場は拍手万雷に包まれた。翌3日付の『朝日』が「國技と名づけられたる角力道がいや榮に榮えゆくべき瑞相とは知られたり」と書いたように、相撲はここに[[神事]]から[[国技]]へと変貌を遂げたのである。なお命名が最後までずれ込んだため当初の[[番付表]]などにはまだ「両國元町常設館」とあったが、翌年1月場所の番付表に初めて「本所元町國技舘」の名称が記された<ref name=鹿島 />。 ==== 二度の再建 ==== [[1917年]](大正6年)11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、[[國見山悦吉|放駒]]などの消火により午前2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。損害額約120万円、(回向院 約12万円)火災保険は約13万円だった。使用不能の間は[[靖国神社]]境内に仮小屋を建てて興行を行なった。 新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、[[1918年]]([[大正]]7年)7月に[[地鎮祭]]・起工式、1919年(大正8年)4月3日に鉄柱崩壊事故があるも、[[1920年]](大正9年)1月15日に完成・開館式を挙行した。[[1920年]](大正9年)[[9月1日]]に再建興行したが、[[1923年]](大正12年)[[9月1日]]の[[関東大震災]]で屋根・柱など外観を残して再度焼失。再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開した。再建中、[[1924年]](大正13年)[[1月]]に[[愛知県]][[名古屋市]]で本場所が行われたこともある。 {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:Ryogoku Kokugikan Second Building.png|再建後の国技館 |File:Old Ryōgoku Kokugi-kan.jpg|関東大震災で被災した国技館 |File:Kokugikan.jpg|震災復興後の昭和初期 }} ==== 第二次世界大戦中 ==== [[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]]・[[大東亜戦争]])中の[[1944年]](昭和19年)、1月の初場所を最後として2月に[[大日本帝国陸軍]]に接収され、[[風船爆弾]]の工場として使用された。このため5月(夏)場所は[[後楽園球場]](番付には[[小石川]]後楽園球場と表記)で開催されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。野外での晴天興行は関西本場所を含めた年4場所時代の[[1932年]](昭和7年)[[10月]]場所以来のことであった。この場所7日目には日曜日で晴天とあって、大観衆8万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まった(幕下以下は事前に国技館で開催した)。 なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された([[十両]]以上。[[幕下]]以下は別日程で[[明治神宮外苑|神宮外苑]]相撲場(現[[明治神宮野球場#明治神宮第二球場|神宮第二球場]])にて開催)。翌年1月が厳寒期に当たり、野外の興行が困難なため2か月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。ちなみに東京で11月に本場所が行われるのは[[1872年]](明治5年)以来72年ぶりであった。 [[1945年]](昭和20年)[[3月10日]]、[[アメリカ軍]]による[[東京大空襲]]の被害を受けて再度焼失。そのため5月23日からの本場所は[[神宮外苑]]で晴天7日間の開催予定だったが、[[皇族]]・[[閑院宮載仁親王]](5月20日死去)で旧[[皇室服喪令]]による喪中や、[[日本本土空襲|空襲]]で延期され、6月に国技館で傷痍軍人将兵の招待以外は非公開で行われた。[[日本相撲協会]]の興行史上唯一の本場所非公開開催である。大鉄傘が空襲で破損したため、晴天7日間の興行であった(幕下以下は5月に[[春日野部屋]]で開催)。 ==== 両国メモリアルホール ==== [[日本の降伏]]による第二次世界大戦[[敗戦]]後の[[1945年]](昭和20年)[[10月26日]]には[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)により接収され、'''メモリアルホール'''として改称・改装された。改装は[[1946年]](昭和21年)[[9月24日]]完了。改装前の1945年(昭和20年)11月中旬には焼け爛れたままの国技館で戦後初の本(秋)場所が行なわれた。晴天10日間と露天並みの興行だった。 占領軍から本場所開催許可の一つの条件として「[[土俵]]を広げよ」という要請で、1場所限り土俵の直径を15尺(4.55m)から16尺(4.8m)に広げさせられた(ただし1場所で15尺に戻る)。改装後の[[1946年]](昭和21年)[[11月]]にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、1946年(昭和21年)11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱[[双葉山定次|双葉山]]引退披露が旧国技館での最後の興行となった。 以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。ちなみに日本初の公開プロレスは[[1951年]](昭和26年)[[9月30日]]にメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりの[[力道山]]がリングサイドで観戦、約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がり、前世界チャンピオンのボビー・ブランズと対戦し、これがプロレスデビューとなった。また、[[全日本柔道選手権大会]]の会場にも使用された。 ==== 国際スタジアム ==== [[1952年]](昭和27年)[[4月1日]]の接収解除後、協会が再び国技館としての使用を検討したものの、すでに[[蔵前国技館]]の建築が始まっており、また自動車用の駐車場などを設置する場所的な余裕が無いことから使用を断念、[[国際スタジアム]]に売却した。国際スタジアムでは、[[ローラースケート]]リンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。 ==== 日本大学講堂 ==== {{Anchors|日大講堂時代}}国際スタジアムは旧国技館を[[1958年]]6月に[[日本大学]]に譲渡し、「'''日本大学講堂'''」(通称:'''日大講堂''')となる。 日大講堂は、日大の行事よりも、[[ボクシング|プロボクシング]]や[[プロレス|プロレスリング]]、[[演奏会|コンサート]]など多くの興行イベントに使用されていた。プロレスでは主に[[全日本プロレス]]が東京でのビッグマッチに使用しており、[[1974年]]12月には日本人で初めて[[NWA世界ヘビー級王座]]を獲得した[[ジャイアント馬場]]の[[ジャック・ブリスコ]]との初防衛戦が日大講堂で行われた。ボクシングでは、[[大場政夫]]が出場した[[世界ボクシング協会|WBA]]世界[[フライ級]]タイトルマッチ、他にも[[輪島功一]]と[[大熊正二|小熊正二]]の世界戦が行われた。 [[1968年]](昭和43年)から[[1969年]](昭和44年)にかけて全国で起こった[[全学共闘会議|全共闘]]運動のなかで、[[日大紛争|日大における闘争]]の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。 [[1976年]](昭和51年)、日大講堂での全日本プロレスの興行において、大相撲からプロレスラーに転向した[[天龍源一郎]]の[[断髪式]]が盛大に行われた。 [[1975年]](昭和50年)[[千日前デパート火災]]を教訓におこなわれた[[消防法]]改正により、[[スプリンクラー]]の設備がないままでは施設として使用できないこととなった。日大側は設備の設置を検討したが、老朽化により屋根がもたないと判断。消防法が施行された[[1977年]]4月以降は、ほぼ使用されない状態となった。このため墨田区は両国の発展に支障をきたすとして、1978年に大学へ善処するよう注文を付けている<ref>死に体 日大講堂善処せよ 両国の発展に邪魔『朝日新聞』1978年(昭和53年)6月21日朝刊、13版、20面</ref>。 [[1982年]] (昭和57年)4月の消防法改正により大規模施設にスプリンクラーの設置が義務付けられたことから、老朽化が激しくなっていた日大講堂は使用不能となり<ref>高永・原田、317頁</ref>、翌[[1983年]](昭和58年)に解体された。以降、日大の入学式・卒業式は[[日本武道館]]で挙行されるようになった。 日大講堂(旧国技館)は、幾度かの再建や改修を経つつも、1983年(昭和58年)に解体されるまで、国技館当時の「大鉄傘」の姿を堅持していた。 [[ファイル:両国シティコアの中庭にある旧国技館の土俵の位置を示すタイル(後方にシアターカイ).jpg|thumb|両国シティコアの中庭にある旧国技館の土俵の位置を示すタイル(後方に[[シアターΧ|シアターカイ]])]] 解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。キーテナントは劇場[[シアターΧ]](シアターカイ。[[Χ]]は[[ラテン文字]]の「エックス」ではなく[[ギリシア文字]]の「カイ」)であり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。その中庭には、旧国技館の土俵の位置がタイルの色で示されている。 === 2代目新国技館 === [[ファイル:Ryogoku Kokugikan Tsuriyane 05212006.jpg|thumb|250px|2代目国技館の吊り屋根と土俵]] {{Anchors|新国技館(2代目)}} [[1985年]](昭和60年)1月場所より使用されている現在の国技館は2代目であり、[[国鉄バス]][[ジェイアールバス関東東京支店|東京自動車営業所]]([[両国駅#歴史|旧両国貨物駅跡地]])に建設された。新国技館は、地上2階・地下1階で、総工費150億円は全て自己資金で賄った。建設計画発表から3年の歳月で[[1984年]](昭和59年)11月30日に完成、12月3日には新国技館敷地内に移転した[[相撲教習所]]の開所式、土俵祭が行われた。翌年1月9日、[[中曾根康弘]]首相をはじめ約3200人を招いて盛大に落成式が催され、[[千代の富士貢|千代の富士]]と[[北の湖敏満|北の湖]]の両[[横綱]]による[[三段構え]]が披露された。この1月場所で千代の富士は「全勝優勝」、怪我を押して強行出場した北の湖は1勝も出来ずに「[[引退]]」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。 [[蔵前国技館]]は厚木の海軍倉庫の鉄骨を払い下げてもらい建設されたものであり、昭和50年代に入ると傷み具合は相当激しくなってきた。[[栃錦清隆|春日野]]理事長は1974年(昭和49年)の就任直後から理事会で新国技館建設の構想を打ち明けていて<ref name="gekidou">高永・原田、313~314頁</ref>、のちに記者会見で「私が入門したのは昭和十四年の初場所なんです。ご承知のとおり、その場所はあの双葉山関が[[安藝ノ海節男|安芸ノ海]]関に敗れ、七十連勝をストップされた歴史的な場所です。私はその日、たまたま翌日の取組表をもらいに行って、"双葉散る"の場面を目撃しているんですよ。まあ、座ブトン、灰皿までが飛ぶ大変な騒ぎでした。それで、またいつか両国で相撲を、という思いは人一倍強かったんですね」「新しい両国国技館を建てたい、という夢を描いたのは、横綱の現役時代なんですよ。毎日、両国の春日野部屋を車で出て、蔵前国技館へ車で向かう途中、旧国技館(当時の日大講堂)の前を通るんです。だんだん古くなって、さびれていく様を見るにつけ、ようし、私が…という思いがつのっていったんです」<ref name="gekidou"/>と述べ、"両国帰還"<ref name="gekidou"/>の姿勢を鮮明にする。 春日野理事長は最初に日大講堂の買い戻しを検討するも、敷地が蔵前国技館よりも狭いことからこの案は立ち消えになり、両国駅北側に狙いを定める。ちょうど[[日本国有鉄道|国鉄]]が赤字解消を目指して遊休地の処分に積極的になっていた時代背景もある。[[1980年]](昭和55年)2月、春日野理事長、[[高木文雄]]国鉄総裁、[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]都知事、[[内山榮一]]台東区長、[[山崎榮次郎]]墨田区長の五者会談が都庁で開催され、その結果、新国技館の建設と蔵前国技館跡地の処分について決着を見た。同年7月12日の理事会で新国技館の建設を正式に決定、[[1982年]](昭和57年)2月に国鉄と協会との間で土地の売買契約が成立し、[[1983年]](昭和58年)4月27日に着工した。なお、両国移転計画が頓挫した場合の代替案として、[[江東区]]長の[[小松崎軍次]]が辰巳2丁目の埋立地(都有地)への移転案を出していた<ref>朝日新聞1978年5月7日付朝刊東京地域面</ref>。 大相撲の[[本場所]]、[[引退相撲]]、[[NHK福祉大相撲]]などで協会自らが使用するほか、設計段階より多目的に使える構造として構想されていて<ref>高永・原田、316頁</ref>、[[新日本プロレス]]の[[G1 CLIMAX]]決勝戦([[2014年]]、[[2018年]]、[[2019年]]を除く)に使用され、[[1991年]](平成3年)から毎年11月に[[アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト|高専ロボコン]]の全国大会、[[1992年]](平成4年)からは毎年[[全日本ロボット相撲大会]]が開催されるほか、毎年2月には[[国技館5000人の第九コンサート]]が行なわれている。 [[平成26年度全国高等学校総合体育大会|煌(きら)めく青春 南関東総体2014]]では相撲競技の会場となった。 == イベント会場としての利用 == === プロレスの試合 === [[ファイル:Scaffold Death Match in BJW.jpg|thumb|270px|大日本プロレスの興行<br />[[2016年]][[7月24日]]<br />[[BJW認定デスマッチヘビー級王座|BJW認定デスマッチヘビー級選手権試合]]<br />[[デスマッチ#建築現場デスマッチ|スキャフォールド&G-Shockデスマッチ]]<br />[[伊東竜二]] vs [[星野勘九郎]]]] プロレス興行でのこけら落としは1985年[[3月9日]]の[[全日本プロレス]](当日のメインイベントは[[ジャンボ鶴田]]&[[天龍源一郎]] 対 [[ロード・ウォリアーズ]]の[[インターナショナル・タッグ王座|インターナショナル・タッグ選手権]]試合)であった。しかし、[[輪島大士]]ら力士出身者の全日本プロレス入りが相次いだことなどから、全日本は[[日本武道館]]を主に使用するようになり、両国国技館は[[新日本プロレス]]の会場として定着していく。 新日本の初使用は[[1985年]][[4月18日]](当日のメインイベントは[[アントニオ猪木]] 対 [[ブルーザー・ブロディ]]戦)である。だが、前年の[[IWGP]]優勝戦蔵前国技館大会の暴動事件から日本相撲協会に気を使った新日本がトップレスラーのブルーザー・ブロディに「入場コスチュームの[[鎖|チェーン]]の持ち込み禁止」を通達、激怒したブロディが猪木を試合前に襲撃するという一幕があった(ブロディは結局チェーンを持ってリング入りしている。またブロディは3月の全日本両国大会にもチェーン持参で参戦している)。しかし、[[1987年]][[12月27日]]に[[たけしプロレス軍団]]の登場に激怒したファンが暴動を起こし、その際に[[座布団]]を破ったり、設備を破壊するなどしたため、日本相撲協会から無期限使用禁止を言い渡された([[1989年]][[2月]]に解除)。なお[[1991年]]の第1回G1 CLIMAX決勝戦において[[蝶野正洋]]が優勝した際、リング上に[[座布団の舞|大量の座布団が投げられた]]ため以後、座布団の使用が禁止されている。現在は年2回(4月と10月)のビッグマッチと8月のG1 CLIMAXの優勝決定戦に使用されている。 一方の全日本は[[武藤敬司]]体制となってから武道館が使用できなくなったのもあり、「'''プロレスLOVE in 両国'''」と題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。 全日本から分かれる形で旗揚げされた[[プロレスリング・ノア]]は長らくビッグマッチを武道館で開いていたため両国を使用することがなかったが、[[2011年]]限りで武道館から撤退したため、[[2012年]][[7月22日]]に初の両国大会を開催した。この大会では力士出身である[[力皇猛]]の引退セレモニーも執り行われた。 [[1986年]][[4月5日]]に、[[全日本女子プロレス]](当日のメインイベントは[[デビル雅美]] 対 [[ライオネス飛鳥]]の[[WWWA世界シングル王座|WWWA世界シングル選手権]]試合)が女子格闘技として初進出。女子プロレスでは全女の他、[[JWP女子プロレス|JWP]]、LLPW(現:[[LLPW-X]])がビッグマッチを開いていた。[[2007年]][[2月]]のLLPWを最後に女子プロレス興行は行われなくなったが、[[2012年]][[4月29日]]に[[スターダム]]が初進出。[[2014年]][[10月11日]]にはLLPW-Xが7年ぶりに開催された。2021年12月29日にスターダムが8年ぶりに開催され、翌2022年も同日に開催した。また、2022年3月19日には[[東京女子プロレス]]が初進出した。 [[2009年]]にはインディー団体の[[DDTプロレスリング]]も進出して「'''両国ピーターパン'''」と題したビッグイベントを夏に開催している([[2012年]]は武道館を使用したが、[[2013年]]は再び両国に戻し2日間に渡り開催)。[[2015年]]には同じくインディー団体の[[大日本プロレス]]も進出([[デスマッチ]]を売りにしている団体であるが、[[蛍光灯]]・[[ガラス]]・[[画鋲]]など、破片等が飛散する[[凶器 (プロレス)|凶器]]の使用は禁止)。[[2023年]]8月には[[GLEAT]](2021年7月旗揚げ)が「'''[[GLEAT ver.MEGA]]'''」を開催予定。 [[2010年]]には世界最大のプロレス団体[[WWE]]の日本大会「[[WWE・ロウ|WWE RAW]] Presents SUMMER SLAM TOUR 2010」が開催され、これ以降は[[2011年]](同年[[3月11日]]発生の[[東北地方太平洋沖地震]]による[[東日本大震災]]及び[[福島第一原子力発電所|福島第一原発]][[福島第一原子力発電所事故|事故]]の影響で12月に[[横浜アリーナ]]で開催)を除いて毎年夏季(概ね7月から8月ごろ)に両国国技館大会を開催していた。[[2012年]]は「WWE Presents [[スマックダウン|SMACK DOWN]] WORLD TOUR 2012」、[[2013年]]、[[2014年]]には「WWE Live」が。[[2015年]]は「The Beast in the East」。[[2016年]]以降は「WWE Live Japan」として開催され、[[2019年]]は「WWE Live Tokyo」との名称で開催されたが、現状この大会が最後となっている。 [[2010年]]から2015年まで[[イノキ・ゲノム・フェデレーション|IGF]]が「[[INOKI BOM-BA-YE]]」を開催し、[[2012年]]以降は[[大晦日興行]]として行われていた。 2015年11月15日には、元力士でもあった[[天龍源一郎]]の引退興行が催された。 過去には[[近畿地方|近畿]]を拠点とする[[DRAGON GATE]]も東京におけるビッグマッチの会場として使用した時期がある([[大田区体育館]]建て替えのための代替。現在は建て替え後の[[大田区総合体育館]]を使用)。[[新東京プロレス|FFF]]([[1998年]]解散)、[[格闘探偵団バトラーツ]]([[2001年]]解散)も会場として使用したことがある。 === ボクシングの試合 === ボクシングでは、[[浜田剛史]]([[帝拳プロモーション|帝拳]])が出場した世界戦(WBC世界[[スーパーライト級]]タイトルマッチ)3試合を全て両国国技館で開催。2017年には[[村田諒太]]がここで世界王者となり、日本人初となる'''オリンピックメダリストのプロボクシング世界王者'''となった。 また、世界戦のみならず[[日本プロボクシング協会]]主催の[[チャンピオンカーニバル (ボクシング)|チャンピオンカーニバル]]で、[[1998年]][[スーパーフェザー級]]王者・[[コウジ有沢]]([[草加有沢ボクシングジム|草加有沢]]) vs 挑戦者・[[畑山隆則]]([[横浜光ボクシングジム|横浜光]])の'''史上最大の日本タイトルマッチ'''、[[2000年]]フライ級王者・[[セレス小林]]([[国際ボクシングスポーツジム|国際]]) vs 挑戦者・[[浅井勇登]]([[緑ボクシングジム|緑]])、スーパーライト級王者・[[小野淳一 (ボクサー)|小野淳一]]([[新日本木村ボクシングジム|新日本木村]]) vs 挑戦者・[[前田宏行]]([[角海老宝石ボクシングジム|角海老宝石]])、王者・コウジ vs 挑戦者・[[玉置厚司]](守口東郷)の5階級日本タイトルマッチ同時開催興行等も実施された。 [[File:Hovhannes Bachkov boxing at the 2020 Tokyo Summer Olympics.jpg|thumb|2020年東京オリンピック]] [[2020年東京オリンピック]]では[[オリンピックのボクシング競技|ボクシング]]競技会場として使用された<ref>{{Cite web|和書|title=国技館ならでは、寄せ太鼓が決戦ゴング 海外記者「クールだ」:中日新聞Web|url=https://www.chunichi.co.jp/article/306009|website=中日新聞Web|accessdate=2021-08-14|language=ja}}</ref>。 === その他の競技・大会 === その他格闘技では、[[髙田延彦|高田延彦]]が[[1991年]][[12月]]に[[UWFインターナショナル]]「'''格闘技世界一決定戦'''」と銘打って元WBC世界ヘビー級王者[[トレバー・バービック]]に圧勝。その後も[[極真会館松井派|極真会館(松井館長)]]主催の[[極真会館#全日本選手権|全日本空手道選手権大会]]と[[極真会館#全世界ウェイト制選手権|全世界ウェイト制空手道選手権大会]]、[[パンクラス]]、[[SENGOKU RAIDEN CHAMPIONSHIP|SRC]]、[[THE OUTSIDER]]、[[シュートボクシング]]、[[ONE Championship|ONE]]などで開催実績がある。 他のスポーツ競技では、[[1985年]]の新・両国国技館開場の年に[[バレーボール日本女子代表|日本女子代表]]チームが出場した[[バレーボール]]の国際試合が開催されたことがある。 [[2011年]]には[[FIG体操ワールドカップ]]東京大会の会場となった。 2018年10月にはプロ卓球リーグ:[[Tリーグ (卓球)|Tリーグ]]開幕戦の会場として使用された<ref>{{Cite press release |和書 |title= 開幕戦対戦カード決定|publisher= 一般社団法人 Tリーグ|date= 2018-08-02|url= https://tleague.jp/news/article/68/|format= HTML|language= 日本語|accessdate= 2018-10-24}}</ref>。 また、試合が行われたわけではないが、2020年、2021年に[[プロ野球]]・[[読売ジャイアンツ]]が[[ファン感謝デー]]の会場として使用した<ref>{{Cite web|和書|title=国技館に巨人選手の相撲字踊る、本職行司が一役買う|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202012110001234.html|website=日刊スポーツ|accessdate=2020-12-13|publisher=|date=2020-12-11}}</ref><ref>{{Cite news|title=両国がオレンジ一色 巨人感謝祭に大行列 選手の幟で記念撮影するファンも|newspaper=日刊スポーツ|date=2021-12-08|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202112080000869.html|accessdate=2021-12-14}}</ref>。 === スポーツ以外のイベント === 1985年12月31日には、民放同時放送『[[ゆく年くる年 (民間放送テレビ)|ゆく年くる年]]』(幹事局:[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])のメイン会場として使用された<ref>[https://www.tvguide.or.jp/column/brandnewtv/28_brandnewtv.html 『TVガイド』所蔵資料から発掘!民放版「ゆく年くる年」全33回の歴史] [[東京ニュース通信社]]</ref>。 [[1986年]][[4月29日]]には、[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|内閣]]の主催により[[昭和天皇]]御在位60年記念式典を挙行した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19860315001/t19860315001.html |title=天皇陛下御在位六〇年記念式典の挙行について |date=1986-03-15 |work=[[文部科学省|文部省]] |accessdate=2016-05-26}}</ref>。 [[1992年]]には[[格闘ゲーム]]『[[ストリートファイターII]]』、[[1993年]]にはそのバージョンアップの『ストリートファイターIIターボ』、[[1994年]]にはさらなるバージョンアップの『スーパーストリートファイターII』(いずれも[[スーパーファミコン]]版)の全国大会が行われた。 同[[1992年]][[12月6日]]には『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ2]]』の発売を記念して両国国技館初のビッグイベント『遊星Sega World』が開催された。『[[バーチャレーシング]]』や『ソニック2』、『[[ベア・ナックル2]]』等のゲーム大会や[[UFOキャッチャー]]選手権が開かれたりや司会者に[[マイケル富岡]]、ゲストに[[所ジョージ]]、[[高橋由美子]]、[[大森うたえもん]]、[[大川興業]]、[[林原めぐみ]]等が出演した。[[メガドライブ]]や[[メガCD]]の新作ソフトの出品がラインナップされた。 [[アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト]]という、[[高等専門学校]]の[[ロボット]]の性能技術を競う[[コンクール]]では、[[1991年]]の第4回大会(テーマ「ホットタワー」)以後、毎年全国コンクールの会場として使われており、地方コンクール(全国8地区)を勝ち抜いた高専生の憧れの場、「高専生の甲子園」とまで言われている。 蔵前国技館時代から[[日本民謡協会]]主催の民謡民舞全国大会が4日間当会場で開催されていたが、2017年から[[品川区立総合区民会館]]に会場を移動して継続開催されている。 また、年に数回程度、[[コンサート]]・[[演奏会|ライブ]]の会場として使われることがある。ライヴ会場としてのこけら落としは[[1985年]][[3月31日]]に開催された、ロックバンド[[甲斐バンド]]の「BEATNIK TOUR in 両国国技館」。上記の「国技館5000人の第九コンサート」などのほか、[[1988年]]秋にはアメリカのアイドル歌手[[ティファニー (歌手)|ティファニー]]のコンサートが催されたり、[[2007年]][[11月22日]]に両国国技館では初のオールナイト音楽イベント「Connect '07」<ref>[http://www.hmusic.jp/connect07 史上初! 国技館でのオールナイトクラブイベント] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071120125651/http://www.hmusic.jp/connect07/ |date=2007年11月20日 }}</ref>が開催され、[[石野卓球]]、[[大沢伸一]]らが出演した。 2018年11月には[[ポール・マッカートニー]]が日本ツアーの追加公演を、本人の希望で国技館を会場として開催した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20180928-MB6EMZTSTNJ57L2JPVNS7BIMRI/ |title=相撲好きポール・マッカートニー、11・5初国技館!13年に生観戦も |date=2018-09-28 |newspaper=[[サンケイスポーツ]] |accessdate=2018-09-28}}</ref>。 アニメ・ゲーム関係では、2007年[[12月24日]]には[[堀江由衣]]が[[声優]]としては初めて単独コンサートを行い、[[2015年]][[11月28日]]・[[11月29日|29日]]には[[アクアプラス|AQUAPLUS]]作品のファンイベント『大アクアプラス祭』を行い、[[2018年]][[10月6日]]・[[10月7日|7日]]には『[[それいけ!アンパンマン]]』テレビアニメ放送30周年&劇場版30作記念イベント東京公演を行った。 また、両国国技館傍に本社を置く[[ライオン (企業)|ライオン]]や、芸能プロダクション・[[アミューズ]]<ref group="注">2020年と2021年は別会場で実施。</ref>の[[株主総会]]も当地で開催される。アミューズは株主総会の後に所属アーティストによるライブ及びイベントを開催しており、これまでに[[Perfume]]<ref>{{Cite web|和書|title=サザンショック払拭! Perfumeがアミューズ株主総会で迫力ライブ|ライフ関連ニュース|オリコン顧客満足度ランキング |url=https://life.oricon.co.jp/news/55704/ |website=CS RANKING |accessdate=2022-01-24 |language=ja}}</ref>、[[福山雅治]]<ref>{{Cite web|和書|title=株主・福山雅治、初の株主総会出席で取締役就任宣言!? |url=https://www.oricon.co.jp/news/45797/full/ |website=ORICON NEWS |accessdate=2022-01-24}}</ref>、[[原由子]]<ref>{{Cite web|和書|title=asahi.com(朝日新聞社):原由子がシークレットゲスト アミューズ株主総会後イベント  - 音楽 - 映画・音楽・芸能 |url=https://www.asahi.com/showbiz/music/TKY201006280082.html |website=www.asahi.com |accessdate=2022-01-24}}</ref>、[[安田顕]]<ref>{{Cite web|和書|title=安田顕、アミューズ株主総会でパジャマトーク |url=https://www.oricon.co.jp/news/2114254/full/ |website=ORICON NEWS |accessdate=2022-01-24}}</ref>らが出演している。 [[年末年始]]は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが、[[2009年]]の[[大晦日]]から[[2010年]]の[[元旦]]にかけて[[さだまさし]]が国技館初のカウントダウンコンサートを行い<ref group="注">コンサート終了後、引き続き『[[今夜も生でさだまさし]]』の元日特番の公開生放送も[[NHK総合テレビジョン]]を通じて行われた。</ref>、幟のほかに角界関係者をはじめとする企業・個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。その後もさだはほぼ毎年両国国技館でカウントダウンコンサートと『今夜も生でさだまさし』元日特番の公開生放送を行っている<ref group="注">また、さだが『[[NHK紅白歌合戦]]』に歌手として出場する場合は国技館から中継で出演している。</ref>。 [[2010年]]には演芸コンテスト「[[M-1グランプリ]]」の[[準決勝]]会場としても使用されたほか、[[2019年]]からは日本テレビで毎年8月に放送されるチャリティー番組『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』のメイン会場として使用されている<ref>{{Cite news|title=「24時間テレビ」今年のメインパーソナリティーは嵐! 6年ぶり最多5回目、新元号初の大役 初の国技館|newspaper=Sponichi Annex|date=2019-03-16|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/03/16/kiji/20190316s00041000340000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2019-03-16}}</ref>。また、『[[満点☆青空レストラン]]』・『[[行列のできる法律相談所]]』の生放送でも使われた。なお、2020年、2021年は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]感染拡大防止のため無観客で開催された<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=『24時間テレビ』3年ぶり有観客開催へ 対面募金は今年も実施せず |url=https://www.oricon.co.jp/news/2239995/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2022-08-26 |date=2022-06-27}}</ref>。 [[2015年]][[6月2日]]、ミュージシャンの[[星野源]]がリーダーを務めるインストバンド・[[SAKEROCK]]の解散ライブが開催された。 [[2022年]][[3月23日]]には、[[放送大学]]の学位記授与式が開催されている。更に同年から[[ベストボディ・ジャパン協会]]主催のベストボディ・ジャパン日本大会が開催されている。 == 記録 == * 旧国技館での最多優勝は[[双葉山定次|双葉山]]の12回、新国技館では[[白鵬翔|白鵬]]の19回。 * 旧国技館での最多連続優勝は[[太刀山峯右エ門|太刀山]]と双葉山の5場所連続で、ともに地方場所のなかった年2場所制時代でのものである。同じく年2場所時代に5連覇を達成している[[栃木山守也|栃木山]]は、国技館延焼事件の影響もあって仮設国技館での優勝を含み、両国国技館での5連覇は達成していない。 * 新国技館での連続優勝の最多は[[千代の富士貢|千代の富士]]の7連覇、[[1985年]](昭和60年)[[1月]]の開館場所から[[1987年]](昭和62年)[[1月]]場所まで。常設国技館での最多連覇記録でもある。丸2年新国技館で他の力士は優勝出来なかった。 == 施設 == [[ファイル:Sumo electric scoreboard,Ryogoku Kokugikan.jpg|thumb|200px|電光掲示板(2007年初場所)]] * [[電光掲示板]]に、その取組の決まり手が表示出来るようになっている。 ** 電光掲示板の老朽化により[[2015年]](平成27年)[[9月]]場所を前に30年ぶりに新装され照明が節電効果のある[[LED]]に変更された。この他に、[[決まり手]]の表示がモノクロ液晶パネル式([[ドット]]{{要曖昧さ回避|date=2021年4月}}表示)からLCD式(画面表示)に変更され、決まり手の文字も明朝体から[[相撲字]]に変更された。また従来では表示できなかった珍手など全92種類が表示できるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/column/sumo/news/1538093.html |title=国技館少しずつ改良 人気復活一因に観客配慮の姿勢 |date=2015-09-15 |work=[[日刊スポーツ]] |accessdate=2016-05-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASH9L6DL5H9LUTQP02Z.html |title=珍しい決まり手もOK 国技館の掲示板、30年ぶり新装 |date=2015-09-22 |work=[[朝日新聞]] |accessdate=2016-05-26}}</ref>。 * 吊り屋根は[[伊勢神宮]]の[[御神木]]で建造されている。2本の[[ロープ|ワイヤー]]で上下させられる常設式のもので、相撲開催時以外は天井まで巻き上げられる。総重量は屋根の裏に備え付けの照明機材を含めて6.25トン<ref>[http://ozumou.com/archives/37 土俵] 大相撲ドットコム</ref>。 * やぐらと土俵は[[エレベーター]]式の昇降型、[[枡席]]は一部が可動型となっており、相撲以外のイベントにも対応出来るようになっている(やぐらは天井近くまで上がり、土俵は地下に沈む)。 * 地下には[[相撲茶屋|国技館サービス]]の統括する[[焼き鳥|焼鳥]]工場があり、お土産用の焼き鳥を調理・製造している<ref name="Triv-i-a">[[フジテレビジョン|フジテレビ]]トリビア普及員会編 『トリビアの泉 〜へぇの本〜 素晴らしきムダ知識』III、[[講談社]]、2003年 8頁 ISBN 9784063527049</ref>。以前は相撲の興行中のみ稼動しており、従業員の大半は別に職があり、興行中は[[アルバイト]]として働いていた<ref name="Triv-i-a" />が、現在では、本場所の開催期間以外でも稼動しており、[[東京駅|JR東京駅]]や[[新宿駅|JR新宿駅]]など、一部のJRの駅の[[駅弁]]販売店で販売されている。焼鳥である理由は、材料である[[ニワトリ|鶏]]が「二本足で立ち、手を着かない」ことから、相撲界で縁起物とされているため<ref name="Triv-i-a" />。使用されている[[鶏]]は岩手県産<ref>『国技館名物の焼き鳥が復活「消費で被災地応援できれば」』[[産経新聞]][[2011年]](平成23年)[[5月14日]]。[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])により食材の入荷が滞り一時期販売が出来なかった</ref>。この験は[[ちゃんこ鍋]]でも担がれている。 * 大相撲興行中、枡席において伝統的に喫煙が認められていたが、[[健康増進法]]第25条([[受動喫煙]]防止規定)により、[[2005年]](平成17年)の1月場所から'''全面禁煙'''となった。 * 1階には[[相撲博物館]]、地下1階には相撲診療所があり、博物館は[[本場所]]やイベントなどの行われていないときには入館無料である。また、診療所は力士・協会員の診療・定期[[健康診断]]を行うほか、一般の患者も受け付けている<ref group="注">協会の平成30年事業報告書によれば、平成30年の1年間の外来診療受診者数は7,049人であり、内訳は力士3,275人、力士以外の協会員2,175人、協会員家族170人、一般1,429人であった。</ref>。 * [[2003年]](平成15年)より本場所開催中に[[ミニFM]]の国技館FM放送<ref>{{Wayback|url=http://www.sumo.or.jp/Kansen/fm|title=国技館FM放送について(両国国技館)|date=20190209025904}}</ref>が運用される。[[日本放送協会|NHK]]の『[[大相撲中継]]』[[テレビジョン放送|テレビ放送]]の[[日本語]][[音声]]を76.6MHzで、[[英語]]音声を78.3MHzで[[再送信]]する。オリジナルの『どすこいFM』を83.4MHzで送信していたが、[[大相撲平成29年9月場所|平成29年9月場所]]の千秋楽を最後に終了した。 * [[2005年]](平成17年)5月場所より、館内で、[[無線LAN]]を利用して[[ノートパソコン]]に大相撲や国技館の情報を配信するサービスである「Sumo Live TV powered by [[インテル|Intel]]」を開始した。 * 屋根上の金色の部分の側面は、8分割で開閉可能である。 * 正面は西北西の方角を向いており、東方は北北東、西方は南南西、向正面は東南東と実際の方角とは一致していない。 * 原則として力士のエレベーター利用は禁止されており、エレベーター脇にはそのことを記した張り紙がしてある。 * 旧国技館は当時東洋一の規模の建物として称えられており、イルミネーションの美麗さには定評があった他、菊花大会や水害の避難場所としても活用された<ref>『大相撲ジャーナル』2017年12月号p6</ref>。 * 国技館正門向かって左の「稲荷門」から入ると、2つの社が祀られている。右側の「出世稲荷大明神」は力士たちの出世を祈念して協会が祀ったもの。左側の「豊国稲荷大明神」は商売繁昌を願って相撲茶屋が祀ったもの<ref>[[木村庄之助 (34代)|伊藤勝治]]監修『大相撲の解剖図巻』株式会社[[エクスナレッジ (出版社)|エクスナレッジ]]、2016年9月20日発行 p.29</ref>。旧両国国技館に祀られていたものが蔵前を経て2代目両国国技館新設の際に移された。 == 女人禁制問題 == 相撲協会は国技館を[[蔵前国技館]]時代は土俵の上にリングを組む[[女子プロレス]]や女子[[格闘技]]の大会、興行、イベントには当初は貸していたが[[女人禁制]]により貸さなくなっていた。男子のものでも[[花束]]嬢などの[[女性]]はリングには上がらせないようにしていた。両国国技館になって土俵は[[エレベーター]]式の昇降型となり地下に沈めることができるようになったために貸すようになり、リング上に花束嬢などの女性が中央に立つことも可能となった。しかし、のちに他会場を含め花束嬢の登壇は減少している。 リングでの女人禁制は解禁されたものの、土俵への女人禁制は両国国技館になっても続いた。 [[アマチュア]]の[[国際相撲連盟]]主催[[世界相撲選手権大会]]は女子が参加してなかった第9回大会までは大半が国技館で実施されていたが[[世界女子相撲選手権大会]]が同時開催となった2001年第10回大会から2018年第22回大会は一度も国技館で開催されていない。 [[わんぱく相撲全国大会]]については、男女混合で行われることもある地区大会優勝者が女性だった場合に出場権がないことが問題となっていた。この問題については[[わんぱく相撲全国大会]]主催の東京[[日本青年会議所|青年会議所]]が2019年に[[わんぱく相撲全国女子大会|わんぱく相撲女子全国大会]]を開設することによって解決を図っている<ref>{{Cite web|和書|title=大相撲より先進的?わんぱく相撲、女子の全国大会創設へ:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASM374S0DM37OHGB00S.html|website=朝日新聞デジタル(2019年3月7日)|accessdate=2020-06-10|language=ja|publisher=}}</ref>。 2005年、[[ヒップホップ]]のイベント『[[B BOY PARK]]』の[[MCバトル]]は国技館の土俵上で行われた。出場者に女性ラッパーの[[COMA-CHI]]がいた。[[ハイヒール]]は脱ぐことになったが土俵には上がることができ、準優勝を果たした。[[平成期]]以前にハプニング以外で国技館の土俵に女性が上がったのは唯一か非常に珍しいことである。 [[2007年]][[9月19日]](大相撲秋場所11日目)には観客の40歳前後の女性が国技館の土俵にハプニングで乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは「約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた」としている<ref name=Nikkan>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804050000234.html 女性乱入ハプニング/過去の女人禁制問題] - 日刊スポーツ、2018年4月5日</ref>。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵の勝負俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2285939?pid=2164687 大相撲 土俵に女性乱入で伝統は崩壊か?] - AFPBB、2007年9月20日</ref>。 女人禁制のため[[断髪式]]でも女性は鋏を入れる役をさせてもらえなかったが、2010年10月2日、最高位[[大関]]だった[[千代大海]]の国技館で行われた断髪式で彼は母美恵に鋏を入れてもらうことにした。しかし、美恵は土俵下で彼の髪を切ることとなった<ref name=Nikkan/>。これを機に女性も鋏を入れる例が増えたが土俵には上がらないことが続いた。 == 交通の便 == * [[東日本旅客鉄道|JR]][[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]・[[都営地下鉄大江戸線]]:[[両国駅]]下車すぐ * [[都営バス]] 錦27([[小岩駅]]〜[[錦糸町駅]]〜'''両国駅''')、両28(葛西橋〜錦糸町駅〜'''両国駅'''):両国駅下車すぐ * 都営バス 門33([[亀戸駅]]〜[[とうきょうスカイツリー駅]]入口〜[[本所吾妻橋駅]]〜'''都営両国駅'''〜[[森下駅 (東京都)|森下駅]]〜[[門前仲町駅|門前仲町]]〜[[月島駅]]〜[[勝どき駅]]〜豊海水産埠頭):都営両国駅下車徒歩5分 * [[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]・[[東武バスセントラル]] スカイツリーシャトル東京線([[東京駅のバス乗り場|東京駅]]〜'''両国・江戸東京博物館'''〜東京スカイツリータウン):両国・江戸東京博物館下車徒歩5分 == ギャラリー == {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:Ryogoku Kokugikan-1a.jpg|正門(2018年6月撮影) |File:Ryogoku Kokugikan-1.jpg|外観(2008年7月撮影) |File:Ryogoku Kokugikan2.jpg|初場所の幟旗(のぼりばた 2009年1月撮影) |File:Ryogoku Kokugikan4, Emperor's Cup.jpg|天皇賜杯(2009年4月撮影) |File:Ryogoku Kokugikan5.jpg|三賞(殊勲賞、敢闘賞、技能賞 2009年4月撮影) |File:Ryogoku Kokugikan3.jpg|相撲博物館(2009年1月撮影) |File:The Sumo Grand Championship (47938161927).jpg|アメリカ大統領杯(2019年5月撮影) |File:Japon_tokyo_0801a.jpg|[[土俵]](2005年5月) |File:Japo_Tokyo_0524.jpg|[[幕内]](2005年5月) }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[風見明]]『相撲、国技となる』[[大修館書店]] ISBN 4-469-26502-0 * 天使の恋人 『{{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/5785/Sumo/Kokugi1.html |title=国技館と共に歩んだ近代都市 |date=20140220133340}}』 * [[広瀬謙一郎]]「両国“国技館”今昔」 『荷風!』 Vol.12、42-46頁、[[日本文芸社]]、[[2007年]] * 高永武敏・原田宏共著「激動の相撲昭和史」ベースボール・マガジン社、1990年2月25日発行 == 関連項目 == * [[栃錦清隆]] * [[国技館5000人の第九コンサート]] * [[アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト]] == 外部リンク == {{Commonscat|Ryogoku Kokugikan}} * [http://www.sumo.or.jp/kokugikan/ 国技館のご案内 - 公益財団法人日本相撲協会] {{ja icon}} * [https://ryogoku-kokugikan.jp/ 国技館オフィシャルウェブサイト] * [{{NDLDC|966238/2}} 旧両国国技館写真『歴史写真. 大正7年1月號』] {{ja icon}} - (国立国会図書館デジタルコレクション) * {{TripAdvisor|g1066459-d315484|両国国技館|access-date=2020年4月22日}} * {{Googlemap|両国国技館}} {{相撲}} {{2020年東京オリンピックの競技会場}} {{Normdaten}} {{coord|35|41|48.9|N|139|47|36.7|E|type:landmark_scale:10000_region:JP|display=title}} {{DEFAULTSORT:りようこくこくきかん}} [[Category:関東地方の屋内競技施設]] [[Category:東京都区部のスポーツ施設]] [[Category:大相撲本場所の開催会場]] [[Category:関東地方のバスケットボール競技施設]] [[Category:関東地方のバレーボール競技施設]] [[Category:日本のプロレス会場]] [[Category:日本のボクシング会場]] [[Category:卓球競技施設]] [[Category:2020年東京オリンピックの会場]] [[Category:東京都のコンサート会場]] [[Category:第27回BCS賞]] [[Category:墨田区のスポーツ]] [[Category:墨田区の建築物]] [[Category:1984年竣工の日本の建築物]] [[Category:1985年開設のスポーツ施設]] [[Category:日本のミニFM放送局]] [[Category:本所]] [[Category:占領軍に接収された日本の建築物]] [[Category:1909年竣工の日本の建築物]] [[Category:1909年開設のスポーツ施設]] [[Category:1982年廃止のスポーツ施設]] [[Category:1983年解体の建築物]] [[Category:24時間テレビ]]<!--2019年、2020年のメイン会場--> [[Category:関東大震災で被災した建築物]]
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122
薬学
薬学(やくがく、英語: pharmacy)とは、薬物を専門とする学問である。医療をサポートする学問領域の医療薬学と薬の発見と製造に関する領域の医薬品化学に大別される。 1940年代以前は、前者は医学における一大分野であり、後者は有機化学の主たるテーマの1つであった。20世紀に入り有機化学、生物学および医学の著しい発展とともに「薬」を軸とする学問分野も展開し、1950年代になると、(日本では)それらを統合した薬学を専攻する機関として薬学部が設置され、医学や化学などとの領域分担が明確になっていった。 日本では、大学で6年制の薬学科を修了すると薬剤師国家試験の受験資格が与えられる。したがって薬剤師は必ず学士(薬学)以上の学位を有する。しかし、薬学者には博士(理学)、博士(工学)、博士(医学)、博士(歯学)や博士(農学)などの博士(薬学)以外の学位を持つ場合も見受けられる。 薬学の基礎領域科学には次に挙げるものが知られている。 有機化学 - 物理化学 - 分析化学 - 放射化学 - 医薬品化学 - 天然物化学 - 生物有機化学 - 生薬学 - 栄養学 - 農薬学 - 火薬学 - 創薬学 - 熱帯医学 - 感染症学 - 生理学 - 細胞生物学 - 微生物学 - ウイルス学 - 寄生虫学 - 分子生物学 - 免疫学 - 生化学 薬学の応用としての医学との学際的分野であるが、大きく二つに分けると次のようになる。 医薬の使用をテーマとした医療サポートに関連が深い薬剤学・臨床薬学に関する学問分野として次に挙げるものが知られている。 薬理学 - 生物薬剤学 - 薬物動態学 - 調剤学 - 製剤学 - 医療薬剤学 - 病理学 - 内科学 - 外科学 - 看護学 - 予防医学 - 病態生理学 - 医薬品情報学 - 日本薬局方 - 薬物学 - 生薬学 - 漢方薬学 - 歯科薬理学 - 臨床化学 - 神経化学 - 粉体工学- 薬局薬学- 病院薬学 衛生上の知識に関連する学問分野として次に挙げるものが知られている。 衛生化学 - 環境科学 - 疫学 - 公衆衛生学 - 家畜衛生学 - 病態生化学 - 毒性学 - 生態学 社会薬学は薬がもつ社会的使命や価値に関する学問分野として次に挙げるものが知られている(なお、これらは自然科学のみならず、人文科学・社会科学の区分とに融合する要素があるため、社会学の一部と考えることができる)。 薬と社会 - 薬をめぐる行動とその関係および相互作用 - 社会薬学 - 薬剤経済学 - 薬史学 - 薬物乱用 日本薬局方収載医薬品は治療薬一覧に詳しい
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薬学とは、薬物を専門とする学問である。医療をサポートする学問領域の医療薬学と薬の発見と製造に関する領域の医薬品化学に大別される。
[[File:42-aspetti di vita quotidiana, medicine, Taccuino Sanitatis.jpg|thumb|228px|薬屋(健康全書 Tacuinum Sanitatis、14世紀)]] '''薬学'''(やくがく、{{lang-en|pharmacy}})とは、[[薬物]]を専門とする学問である。[[医療]]をサポートする[[学問]]領域の医療薬学と[[医薬品|薬]]の発見と製造に関する領域の[[医薬品]]化学に大別される。 == 概要 == [[1940年代]]以前は、前者は[[医学]]における一大分野であり、後者は[[有機化学]]の主たるテーマの1つであった。[[20世紀]]に入り有機化学、[[生物学]]および[[医学]]の著しい発展とともに「薬」を軸とする学問分野も展開し、1950年代になると、([[日本]]では)それらを統合した薬学を専攻する機関として[[薬学部]]が設置され、医学や[[化学]]などとの領域分担が明確になっていった。 日本では、大学で6年制の薬学科を修了すると[[薬剤師国家試験]]の受験資格が与えられる。したがって[[薬剤師]]は必ず[[学士(薬学)]]以上の学位を有する。しかし、薬学者には[[博士(理学)]]、[[博士(工学)]]、[[博士(医学)]]、[[博士(歯学)]]や[[博士(農学)]]などの[[博士(薬学)]]以外の[[学位]]を持つ場合も見受けられる。 == 基礎薬学 == 薬学の基礎領域科学には次に挙げるものが知られている。 [[有機化学]] - [[物理化学]] - [[分析化学]] - [[放射化学]] - [[医薬品化学]] - [[天然物化学]] - [[生物有機化学]] - [[生薬学]] - [[栄養学]] - [[農薬|農薬学]] - [[火薬|火薬学]] - [[創薬|創薬学]] - [[熱帯医学]] - [[感染症学]] - [[生理学]] - [[細胞生物学]] - [[微生物学]] - [[ウイルス学]] - [[寄生虫学]] - [[分子生物学]] - [[免疫学]] - [[生化学]] == 医療薬学 == 薬学の応用としての医学との学際的分野であるが、大きく二つに分けると次のようになる<ref>{{Cite web |title=Ngành dược học là gì? Tiềm năng và triển vọng trong tương lai |url=https://tuyensinhdonga.edu.vn/nganh-duoc-hoc-la-gi/ |website=Cổng thông tin tuyển sinh trường Đại học Đông Á Đà Nẵng |date=2023-03-01 |access-date=2023-06-28 |language=vi |last=editor}}</ref>。 === 薬剤学・臨床薬学関連分野 === 医薬の使用をテーマとした医療サポートに関連が深い[[薬剤学]]・臨床薬学に関する学問分野として次に挙げるものが知られている。 [[薬理学]] - [[生物薬剤学]] - [[薬物動態学]] - 調剤学 - [[製剤学]] - 医療薬剤学 - [[病理学]] - [[内科学]] - [[外科学]] - [[看護学]] - [[予防医学]] - [[病態生理学]] - 医薬品情報学 - [[日本薬局方]] - [[薬物学]] - [[生薬学]] - 漢方薬学 - [[歯科薬理学]] - [[臨床化学]] - [[神経化学]] - [[粉体工学]]- 薬局薬学- [[病院薬学]] === 衛生薬学関連分野 === 衛生上の知識に関連する学問分野として次に挙げるものが知られている。 [[衛生化学]] - [[環境科学]] - [[疫学]] - [[公衆衛生学]] - [[家畜衛生学]] - [[病態生化学]] - [[毒性学]] - [[生態学]] === 社会系薬学 === 社会薬学は薬がもつ社会的使命や価値に関する学問分野として次に挙げるものが知られている(なお、これらは[[自然科学]]のみならず、[[人文科学]]・[[社会科学]]の区分とに融合する要素があるため、[[社会学]]の一部と考えることができる)。 [[薬と社会]] - 薬をめぐる行動とその関係および相互作用 - [[社会薬学]] - 薬剤経済学 - [[薬史学]] - [[薬物乱用]] == 主な薬剤 == *[[漢方薬]] *[[抗炎症薬]] *[[抗生物質]] *[[抗ウイルス薬]] *[[向精神薬]] *[[睡眠薬]] *[[抗不安薬]] *[[抗うつ薬]] *[[抗癌剤]] *[[鎮痛剤]] *[[麻薬]] [[日本薬局方]]収載医薬品は[[治療薬一覧]]に詳しい == 関連分野 == * [[化学]]/[[生物学]]/[[医学]]/[[歯学]]/[[獣医学]]/[[看護学]]/[[農学]]/[[工学]]/[[理学]] * [[医学史]]/[[歯学史]]/[[薬学史]] * [[生命倫理学]]/[[医療人類学]]/[[医療社会学]]/[[健康心理学]]/[[栄養学]]/[[本草学]] == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|薬学}} {{commonscat|Pharmacy}} *[[病院]]/[[大学病院]] *[[医療]]/[[救急医療]]/[[災害医療]]/[[応急処置]] *[[医師]]/[[歯科医師]]/[[看護師]]/[[医療資格一覧]] *[[日本赤十字社]]/[[日本医師会]]/[[厚生労働省]] *[[薬学部]]/[[応用微生物研究所]]/[[東京大学]] {{化学}} {{医療}} {{Normdaten}} [[Category:薬学|*]]
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124
身体装飾
身体装飾(しんたいそうしょく)とは身体を飾る行為、またその結果の装飾である。広義には衣服や装身具の着用も含めるが、より一般的には化粧、染髪、結髪、身体に穴を開ける行為、入れ墨、ボディペインティング等による装飾を指す。外科的施術を伴うものは身体改造(身体変工)として区別する場合もある。 人類の歴史上、身体の装飾行為がいつ始まったのかは定かではない。しかし人類が社会を形成するようになって以降の遺構からは、さまざまな身体装飾の痕跡が見出されている。例えば日本列島では縄文時代の土偶などに入れ墨が表現されており、男女ともに身体装飾に使用されていた。身体の装飾は、美意識だけによるものではなく、個人ないし集団を同定し得るシンボル(目印)ともなり、通過儀礼や魔除け等のためにも行われた。自然崇拝や精霊崇拝の盛んな地域では動物と同じ能力や精霊の力を手に入れるために、その対象物の一部を模した模様や紋章などを、入れ墨や瘢痕文身として身体に入れることも見られる。また身分差別や犯罪者の識別等のための懲罰的な身体装飾もみられる。 現代的な人権意識では、纏足等身体への侵襲を伴う身体装飾(人為的に傷つけるもの)を強要したり、自意識が発達する以前に恒久的な身体装飾を施すものは問題視される傾向も見られる。
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身体装飾(しんたいそうしょく)とは身体を飾る行為、またその結果の装飾である。広義には衣服や装身具の着用も含めるが、より一般的には化粧、染髪、結髪、身体に穴を開ける行為、入れ墨、ボディペインティング等による装飾を指す。外科的施術を伴うものは身体改造(身体変工)として区別する場合もある。
{{出典の明記|date=2010年2月}} '''身体装飾'''(しんたいそうしょく)とは身体を飾る行為、またその結果の装飾である。広義には[[衣服]]や[[装身具]]の着用も含めるが、より一般的には[[化粧]]、[[染髪]]、[[結髪]]、[[ピアス|身体に穴を開ける行為]]、[[入れ墨]]、[[ボディペインティング]]等による装飾を指す。外科的施術を伴うものは[[身体改造]](身体変工)として区別する場合もある<ref>山本真鳥「身体装飾」『[[日本大百科全書]]』。</ref>。 ==概要== 人類の[[歴史]]上、身体の装飾行為がいつ始まったのかは定かではない。しかし人類が[[社会]]を形成するようになって以降の[[遺構]]からは、さまざまな身体装飾の痕跡が見出されている。例えば[[日本列島]]では[[縄文時代]]の[[土偶]]などに入れ墨が表現されており、男女ともに身体装飾に使用されていた。身体の装飾は、美意識だけによるものではなく、[[個人]]ないし[[集団]]を同定し得る[[シンボル]](目印)ともなり、[[通過儀礼]]や[[魔除け]]等のためにも行われた。[[自然崇拝]]や[[精霊崇拝]]の盛んな地域では動物と同じ能力や[[精霊]]の力を手に入れるために、その対象物の一部を模した模様や紋章などを、入れ墨や[[瘢痕文身]]として身体に入れることも見られる。また身分差別や犯罪者の識別等のための懲罰的な身体装飾もみられる。 現代的な[[人権]]意識では、[[纏足]]等身体への侵襲を伴う身体装飾(人為的に傷つけるもの)を強要したり、自意識が発達する以前に恒久的な身体装飾を施すものは問題視される傾向も見られる。 == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:しんたいそうしよく}} [[Category:身体装飾|*]] [[Category:身体論]]
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宝石
宝石(ほうせき)とは、希少性が高く美しい外観を有する固形物のこと。 一般的に、外観が美しく、アクセサリーなどに使用される鉱物を言う。 主に天然鉱物としての無機物結晶を指すが、ラピスラズリ、ガーネットのような数種の無機物の固溶体、オパール、黒曜石、モルダバイトのような非晶質、珊瑚や真珠、琥珀のような生物に起源するもの、キュービックジルコニアのような人工合成物質など様々である。 古の中華文明圏では、価値のある石を「玉(ぎょく)」と呼んだが、非透明、あるいは半透明のものだけが珍重され、その中でも翡翠が代表的だった(玉の本義である)。透明なものは「玉」として扱われず、石の扱いであった。例えばダイヤモンドを表す漢語は「金剛石」であり、玉ではない。一方で西欧を含む非中華文明圏では、ダイヤモンドに代表される透明な鉱物が宝石として特に珍重された。 宝石としての必須条件は何よりその外観が美しいこと、次に希にしか産しないこと(希少性)であるが、第三の重要な条件として、耐久性、とりわけ硬度が高いことが挙げられる。これは、硬度が低い鉱物の場合、時とともに砂埃(環境に遍在する石英など)による摩擦風化・劣化のために表面が傷ついたりファセットの稜が丸みを帯びたりして、観賞価値が失われてしまうためである。例としてダイヤモンドはモース硬度10、ルビー・サファイアはモース硬度9である。石英のモース硬度は7であり、これらの宝石の硬度は石英のそれより高いことに注意されたい。例外的に硬度が7以下であってもオパール、真珠、サンゴなどはその美しさと希少性から宝石として扱われる。 硬度以外の耐久性の条件としては、衝撃により破壊されないこと(じん性)、ある程度の耐火耐熱性があること、酸、アルカリといった化学薬品に侵されないこと、経年変化により変色、退色しないことなどが挙げられる。その他、大きさ、色彩、透明度などの鑑賞的価値、知名度などの財産的価値といった所有の欲求を満たす性質が重要である。 ただし、宝石と云う扱いを受けても、知名度があまり高くない石は、収集家やマニア向けの珍品逸品、いわゆるコレクターズアイテムの位置に留まり、見た目の美しさと希少性だけが取り上げられ、その他の条件についてはかなり緩くなっている場合が多い。この手の石にはモース硬度2~5などといった傷つき易い石、空気中の湿気を吸い取ったり、酸化が進んで変質する石、紫外線を吸収して自然と退色する石、1カラットに満たない小さなそれしか取れない石、はてはお湯をかけるだけで溶けてしまう石などがあり、当然取り扱いには注意を要する。 知名度が高い石であっても取り扱いに注意を要する石もある。例を挙げるとオパールやトルコ石は石内部に水を含んでいるため乾燥により割れたり、オパールの場合その一大特徴である遊色効果が消失することもある。サンゴや真珠は酸には極端に弱く、レモン汁や食酢が付着しただけで変色する。琥珀は高温に弱くすぐ溶ける。エメラルドは内部に無数の傷を抱えているので、とりわけ衝撃には弱くたいへん割れ易い。 鉱物の中で金属にあたり、希少性が高く化学反応や風化などによる経年変化が著しく低い鉱物を貴金属といい、金、銀、プラチナなどが該当する。したがって、材質のみから資産価値を定めた場合、換金性、実用用途に関しては貴金属の方が宝石よりおおよその場合優れている。貴金属、とりわけ金は価格算定の根拠となる世界的に通用する評価基準が決められており、相場や市場が整備され、さらに金本位制という経済制度によって各国通貨の貨幣価値を超国家規模で並列化している事に対し、宝石はダイヤモンドこそ国際的な評価基準ルールや市場、相場が定められているものの、それ以外はどの宝石もその評価基準は厳密ではなく、国や民族によっても大きく異なっている。具体的には、翡翠は東アジアの国々では高く評価されるが、欧米での評価はそれほどでもない(欧米で高く売買されるときは、最終的に中国に売り込むことが目論まれている)。逆に真珠のように日本国内よりも海外の方が高額で取引される宝石も存在する。誕生石が国によって異なるのもその辺りの事情を物語っている。一見貴金属並みの資産価値が確立されているように思えるダイヤモンドも、材質上の理由から火災などの高温環境にさらされると損傷を受け、資産価値が損なわれる可能性があるため、純資産として永続的に保有し続けるには難がある。 ただし、特定の宝石はホープダイヤモンドやコ・イ・ヌール、インドの星のように、その歴史的経緯や由来により動産や美術・博物収集品として品質以上の価値をもつことがままある。 上記のように資産性においては宝石は貴金属より安定しないものの、貴金属が宝飾向け以外にも、金属特有の優れた電気電導性、箔に代表されるように著しい展延性を活かした加工、耐酸化・還元性を生かした工業用途で多々用いられるように、宝石もまた人工生産により安定供給されるものを含め、工業用製品の材料として用いられている。例えばダイアモンドは研磨材、ボーリングマシンのロッド、切削加工工具(バイト)などに使用され、サファイアはレコード針や高級腕時計の風防、クロマトグラフのプランジャー・精密機器基板、ルビーは機械式時計の軸受けやレーザー発振媒質、ガーネットはルビー同様のレーザー発振媒質および紙やすりの砥粒、水晶は水晶振動子や各種石英製品、真珠は漢方薬と個々の性質を生かして多様に用いられている。 宝石の名称は地名やギリシャ語から名付けられることが多い。特に古くから宝石として扱われてきたものには、ルビーとサファイア、エメラルドとアクアマリンのように無機物としての組成は同一だが、微量に混入する不純物(ドーパント)により色が変わると名称も変わるものがある。中でも水晶を代表とする二酸化ケイ素を組成とするものは、その結晶形や昌質、色や外観が異なるだけで石英(クォーツ)、水晶(クリスタル)、アメシスト(紫水晶)、シトリン(黄水晶)、玉髄(カルセドニー)、メノウ(アゲート)、ジャスパー、カーネリアン、クリソプレーズ、アベンチュリンなど様々な名称で呼ばれている。また近年宝石として評価されるようになった新発見の鉱物に関しては、ゾイサイトやスギライトなど発見者や研究者の名に由来するものが多い。 「宝石のはなし」(1989年刊)では「宝石は約70種ほどあるとされるが、よく知られた宝石は20種程度である」と記述される。刊行後に発見された物も含め、Wikipedia日本語版では110種余の試料を宝石として取り扱っている。 フランスのシンガーソングライター ノルウェン・ルロワ は、2017年のアルバム「宝石 - Gemme」と同名の曲で宝石にインスピレーションを受けました。
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宝石(ほうせき)とは、希少性が高く美しい外観を有する固形物のこと。 一般的に、外観が美しく、アクセサリーなどに使用される鉱物を言う。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2023-02}} [[ファイル:Cardinal gems.png|thumb|280px|宝石色々。左上から時計回りに[[ダイヤモンド]]、合成[[サファイア]]、[[ルビー]]、[[エメラルド]]、そして[[アメシスト]]]] '''宝石'''(ほうせき)とは、希少性が高く美しい外観を有する固形物のこと。 一般的に、外観が美しく、[[装身具|アクセサリー]]などに使用される[[鉱物]]を言う。 ==概要== 主に天然鉱物としての無機物[[結晶]]を指すが、[[ラピスラズリ]]、[[柘榴石|ガーネット]]のような数種の無機物の[[固溶体]]、[[オパール]]、[[黒曜石]]、[[モルダバイト]]のような[[アモルファス|非晶質]]、[[珊瑚]]や[[真珠]]、[[琥珀]]のような生物に起源するもの、[[ジルコニア|キュービックジルコニア]]のような人工合成物質など様々である。 古の[[中華文化|中華文明]]圏では、価値のある石を「玉(ぎょく)」と呼んだが、非透明、あるいは半透明のものだけが珍重され、その中でも[[ヒスイ|翡翠]]が代表的だった(玉の本義である)。透明なものは「玉」として扱われず、石の扱いであった。例えば[[ダイヤモンド]]を表す漢語は「金剛石」であり、玉ではない。一方で西欧を含む非中華文明圏では、ダイヤモンドに代表される透明な鉱物が宝石として特に珍重された。 == 条件 == 宝石としての必須条件は何よりその外観が美しいこと、次に希にしか産しないこと(希少性)であるが、第三の重要な条件として、耐久性、とりわけ硬度が高いことが挙げられる。これは、硬度が低い鉱物の場合、時とともに砂埃(環境に遍在する[[石英]]など)による摩擦風化・劣化のために表面が傷ついたり[[ファセット・カット|ファセット]]の稜が丸みを帯びたりして、観賞価値が失われてしまうためである。例として[[ダイヤモンド]]は[[モース硬度]]10、[[ルビー]]・[[サファイア]]はモース硬度9である。石英のモース硬度は7であり、これらの宝石の硬度は石英のそれより高いことに注意されたい。例外的に硬度が7以下であっても[[オパール]]、[[真珠]]、[[サンゴ]]などはその美しさと希少性から宝石として扱われる。 硬度以外の耐久性の条件としては、衝撃により破壊されないこと([[じん性]])、ある程度の耐火[[耐熱性]]があること、[[酸]]、[[アルカリ]]といった化学薬品に侵されないこと、経年変化により変色、退色しないことなどが挙げられる。その他、大きさ、色彩、透明度などの鑑賞的価値、知名度などの財産的価値といった所有の欲求を満たす性質が重要である。 ただし、宝石と云う扱いを受けても、知名度があまり高くない石は、収集家やマニア向けの珍品逸品、いわゆる[[コレクターズアイテム]]の位置に留まり、見た目の美しさと希少性だけが取り上げられ、その他の条件についてはかなり緩くなっている場合が多い。この手の石にはモース硬度2~5などといった傷つき易い石、空気中の湿気を吸い取ったり、酸化が進んで変質する石、紫外線を吸収して自然と退色する石、1カラットに満たない小さなそれしか取れない石、はてはお湯をかけるだけで溶けてしまう石などがあり、当然取り扱いには注意を要する。 知名度が高い石であっても取り扱いに注意を要する石もある。例を挙げるとオパールやトルコ石は石内部に水を含んでいるため乾燥により割れたり、オパールの場合その一大特徴である[[遊色効果]]が消失することもある。サンゴや真珠は酸には極端に弱く、[[レモン]]汁や[[食酢]]が付着しただけで変色する。[[琥珀]]は高温に弱くすぐ溶ける。[[エメラルド]]は内部に無数の傷を抱えているので<!--おり、特にへき開面に沿った-->、とりわけ衝撃には弱くたいへん割れ易い。 == 資産価値 == 鉱物の中で[[金属]]にあたり、希少性が高く化学反応や[[風化]]などによる経年変化が著しく低い鉱物を[[貴金属]]といい、[[金]]、[[銀]]、[[プラチナ]]などが該当する。したがって、材質のみから資産価値を定めた場合、換金性、実用用途に関しては貴金属の方が宝石よりおおよその場合優れている。貴金属、とりわけ金は価格算定の根拠となる世界的に通用する評価基準が決められており、相場や[[市場]]が整備され、さらに[[金本位制]]という経済制度によって各国[[通貨]]の貨幣価値を超国家規模で並列化している事に対し、宝石はダイヤモンドこそ国際的な評価基準ルールや市場、相場が定められているものの、それ以外はどの宝石もその評価基準は厳密ではなく、国や民族によっても大きく異なっている。具体的には、[[ヒスイ|翡翠]]は[[東アジア]]の国々では高く評価されるが、欧米での評価はそれほどでもない(欧米で高く売買されるときは、最終的に中国に売り込むことが目論まれている)。逆に[[真珠]]のように日本国内よりも海外の方が高額で取引される宝石も存在する。[[誕生石]]が国によって異なるのもその辺りの事情を物語っている。一見貴金属並みの資産価値が確立されているように思えるダイヤモンドも、材質上の理由から火災などの高温環境にさらされると損傷を受け、資産価値が損なわれる可能性があるため、純資産として永続的に保有し続けるには難がある。<br> ただし、特定の宝石は[[ホープダイヤモンド]]や[[コ・イ・ヌール]]、[[有名な宝石の一覧#サファイア|インドの星]]のように、その歴史的経緯や由来により動産や美術・博物収集品として品質以上の価値をもつことがままある。 上記のように資産性においては宝石は貴金属より安定しないものの、貴金属が宝飾向け以外にも、金属特有の優れた[[電気伝導性|電気電導性]]、[[金箔|箔]]に代表されるように著しい[[展延性]]を活かした加工、耐[[酸化]]・[[還元|還元性]]を生かした工業用途で多々用いられるように、宝石もまた人工生産により安定供給されるものを含め、工業用製品の材料として用いられている。例えばダイアモンドは[[研磨材]]、[[ボーリング]]マシンの[[ロッド]]、[[切削加工]]工具(バイト)などに使用され、サファイアは[[レコード]][http://www.apis-jp.com/about-hari 針]や高級[[腕時計]]の[https://www.rolex.com/watches/baselworld/new-cosmograph-daytona/m116595rbow-0001.html 風防]、[[クロマトグラフ]]の[http://www.ogura-indus.co.jp/product/section13.php プランジャー]・[http://www.ceramic.or.jp/museum/contents/pdf/2007_6_04.pdf 精密機器基板]、ルビーは[[機械式時計]]の[https://www.ad-na.com/product/jewel/product/cap.html 軸受け]や[[ルビーレーザー|レーザー発振媒質]]、[[ガーネット]]はルビー同様の[[イットリウム・アルミニウム・ガーネット|レーザー発振媒質]]および[[紙やすり]]の[http://crownab.com/product/kenma/sheet/ 砥粒]、水晶は[[水晶振動子]]や各種[[石英]]製品、真珠は[[漢方薬]]と個々の性質を生かして多様に用いられている。 == 命名 == 宝石の名称は'''地名'''や[[ギリシャ語]]から名付けられることが多い。特に古くから宝石として扱われてきたものには、ルビーとサファイア、[[エメラルド]]と[[アクアマリン]]のように無機物としての組成は同一だが、微量に混入する不純物([[ドーパント]])により色が変わると名称も変わるものがある。中でも水晶を代表とする[[二酸化ケイ素]]を組成とするものは、その結晶形や昌質、色や外観が異なるだけで石英(クォーツ)、水晶(クリスタル)、アメシスト(紫水晶)、シトリン(黄水晶)、[[玉髄]](カルセドニー)、[[瑪瑙|メノウ]](アゲート)、ジャスパー、[[カーネリアン]]、[[クリソプレーズ]]、[[アベンチュリン]]など様々な名称で呼ばれている。また近年宝石として評価されるようになった新発見の鉱物に関しては、[[ゾイサイト]]や[[スギライト]]など発見者や研究者の名に由来するものが多い。 == 分類 == [[ファイル:Gem.pebbles.800pix.jpg|right|280px|thumb|表面を研磨したカット前の様々な宝石や[[鉱物]]: 左上から右へ[[トルコ石|ターコイズ]](トルコ石)、[[赤鉄鉱|ヘマタイト]](赤鉄鉱)、[[珪孔雀石|クリソコラ]](珪孔雀石)、[[虎目石|タイガーズアイ]](虎目石)。2段目は[[石英|水晶]](石英)、[[電気石|トルマリン]](電気石)、[[紅玉髄|カーネリアン]](紅玉髄)、[[黄鉄鉱|パイライト]](黄鉄鉱)、[[杉石|スギライト]](杉石)。3段目は[[孔雀石|マラカイト]](孔雀石)、[[紅水晶|ローズクォーツ]](紅水晶)、[[黒曜石|スノーフレークオブシディアン]](黒曜石)、[[ルビー]](紅玉)、[[メノウ|モスアゲート]](苔瑪瑙)。4段目は[[碧玉|ジャスパー]](碧玉)、[[紫水晶|アメシスト]](紫水晶)、[[メノウ|ブルーレース]]、[[ラピスラズリ]](瑠璃)。]] [[ファイル:Gemstones_raw.JPG|thumb|220px|生の宝石]] 「宝石のはなし」(1989年刊)では「宝石は約70種ほどあるとされるが、よく知られた宝石は20種程度である」<ref>[[白水晴雄]]・[[青木義和]] (1989)「宝石のはなし」, p.&nbsp;8; [[技報堂出版]] ISBN 978-4-7655-4558-7</ref>と記述される。刊行後に発見された物も含め、[[宝石の一覧|Wikipedia日本語版では110種余の試料を宝石として取り扱っている。]] === 価値による分類 === {{Main2|詳細|貴石}} :価値の高い石を貴石とし、やや価値の低い石を半貴石、もっと低い石を[[飾り石]]とする。貴石を宝石と呼ぶことがあるが、その場合半貴石は貴石と言い換えられる。 === 化学組成による分類 === ;鉱物結晶 : [[元素鉱物]] ~ [[ダイヤモンド]] C、[[硫黄]] S :: 実質ダイヤモンドのみで、硫黄は硬度が低い(モース硬度2)ため、[[コレクターズアイテム]]としてしか扱われない。 : [[硫化鉱物]] ~ [[白鉄鉱]]、[[黄鉄鉱]] ともに FeS<sub>2</sub>、[[黄銅鉱]] CuFeS<sub>2</sub> など。 :: [[ヴィクトリア朝]]のイギリスなどでは多用されたが、時間と共に空中の湿気と反応して[[硫酸]]が浸み出る欠点がある。 :: 現在では鉱物収集家のコレクターズアイテムとして扱われ、宝石として扱われることはほぼ無い。 : [[酸化鉱物]] ~ [[石英]] SiO<sub>2</sub>、[[スピネル]] MgAl<sub>2</sub>O<sub>4</sub>、[[コランダム]] Al<sub>2</sub>O<sub>3</sub> など。 :: ケイ酸塩鉱物と共に多くの種が含まれる。 <!--:: スピネルはマグネシウムの代わりに亜鉛が入ったガーナイト ZnAl<sub>2</sub>O<sub>4</sub> との固溶体を形成する場合もある。--> : [[ケイ酸塩鉱物]] ~ [[緑柱石]] Be<sub>3</sub>Al<sub>2</sub>Si<sub>6</sub>O<sub>18</sub> 、[[ジルコン]] ZrSiO<sub>4</sub>など。 :: よく知られた宝石は、これか酸化鉱物のいずれかである。ケイ酸イオンの構造により、さらに細分化される。 :* ケイ酸塩及び[[ホウ酸塩鉱物]] ~ [[リシア電気石|エルバイト]] Na(Li,Al)<sub>3</sub>Al<sub>6</sub>(BO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>Si<sub>6</sub>O<sub>18</sub>(OH)<sub>4</sub> ::: エルバイトは[[トルマリン]]の1種で、宝石質のトルマリンの大多数はこれに分類される。 ::: <!--また化学組成からわかるようにケイ酸塩鉱物、塩化物との固溶体でもある。-->トルマリンはエルバイト以外にも数種あり、その組成はまた異なる。 :* ケイ酸塩及びフッ化鉱物 ~ F-Type [[トパーズ]] Al<sub>2</sub>SiO<sub>4</sub>F<sub>2</sub> ::: フッ素 (F) が水酸基 (OH) に置換された OH-Type トパーズもある。 : [[ハロゲン化鉱物]] ~ [[蛍石]] CaF<sub>2</sub> [[ビリオム石]] NaF など。 :: 美しいものもあるが、一般にどれも硬度が低く希少性にも欠ける(ただしビリオム石は希少)。 :: それ以上に[[食塩]] NaCl に代表されるように、水溶性の石が多くコレクターズアイテムか飾り石程度にしか扱われない。 : [[炭酸塩鉱物]] ~ [[方解石]] CaCO<sub>3</sub>、[[白鉛鉱]] PbCO<sub>3</sub> など。 :: ハロゲン化鉱物に同じ。ただし水に溶けてしまうようなことはあまりない。 : [[リン酸塩鉱物]] ~ [[トルコ石]] CuAl<sub>6</sub>(PO<sub>4</sub>)<sub>4</sub>(OH)<sub>8</sub>·4H<sub>2</sub>O、バリサイト AlPO<sub>4</sub>・2H<sub>2</sub>O <!--::上記2種ぐらいで他には見当たらない。 : [[硫酸塩鉱物]] ~ [[藍方石|アウイライト]] (Na,Ca)<sub>4-8</sub>Al<sub>6</sub>Si<sub>6</sub>(O,S)<sub>24</sub>(SO<sub>4</sub>,Cl)<sub>1-2</sub> :: アウイライトはケイ酸塩、硫酸塩、塩化物から構成される固溶体。--> :; 結晶構造による分類 ::鉱物結晶由来の石は、一つの大きな結晶からなる単結晶と、複数の小さな結晶粒が無数に集合して成立する多結晶の二つに大別される。多結晶に分類される石は、その全てが不透明~半透明であり、結晶と結晶の間に隙間を有する([[多孔質]])ため、染料などで染めやすいといった特徴がある。このような多結晶の石を集合体と呼び、構成する結晶粒の大きさにより、それぞれ顕晶質(結晶粒を肉眼で確認できる)、微晶質(結晶粒を顕微鏡下で確認できる)、潜晶質([[直交ニコル]]顕微鏡下でのみ結晶粒が確認できる)と呼んで区別する。 ::* 単結晶 - ダイヤモンド、サファイアなどよく知られた透明な鉱物結晶宝石。 ::* 顕晶質集合体 - 水晶の群晶(クラスター)など。置物などにはされるがあまり装身用のジュエリーにはならない。 ::* 微晶質集合体 - アヴェンチュリン、クォーザイトなど。 ::* 潜晶質集合体 - カルセドニー(玉髄)、ターコイズ(トルコ石)など。 ; 固溶体(混晶) : [[ペリドット]] (Mg,Fe)<sub>2</sub>SiO<sub>4</sub> : ガーネット ~ 主に以下の6種のケイ酸塩鉱物の固溶体。但し、比重の関係から下の3種(含カルシウム系)と上3種が混じりあうことは滅多にない。 ::アルマンディン Fe<sup>2+</sup><sub>3</sub>Al<sub>2</sub>(SiO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>、パイロープ Mg<sub>3</sub>Al<sub>2</sub>(SiO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>、スペッサルティン Mn<sub>3</sub>Al<sub>2</sub>(SiO<sub>4</sub>)<sub>3</sub> ::アンドラダイト Ca<sub>3</sub>Fe<sup>3+</sup><sub>2</sub>(SiO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>、グロッシュラー Ca<sub>3</sub>Al<sub>2</sub>(SiO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>、ウヴァロヴァイト Ca<sub>3</sub>Cr<sub>2</sub>(SiO<sub>4</sub>)<sub>3</sub> : ラピスラズリ : {{Main2|詳細|ラピスラズリ#成分}} : など。ガーネットやペリドットは固溶体であるが、構成する物質はどれもケイ酸塩鉱物なのでケイ酸塩鉱物とも言える。 ; 非晶質 : [[オパール]]、[[黒曜石]](オプシディアン)、[[モルダバイト]]、[[テクタイト]]など。 : 主成分はどれも二酸化ケイ素 SiO<sub>2</sub>。 ; 生物由来(化石) : [[黒玉]]、[[アンモライト]]、琥珀など。 ; 生物由来(化石以外) : サンゴ、真珠、[[螺鈿]]、青貝、[[貝殻|シェル]]、[[象牙]]、[[鼈甲]]など。 : 象牙、鼈甲以外の主成分はどれも炭酸カルシウム CaCO<sub>3</sub>。 : 象牙の主成分はヒドロキシアパタイト Ca<sub>5</sub>(PO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>(OH)で鼈甲は[[タンパク質]]。 ; その他 : キュービックジルコニア([[二酸化ジルコニウム]]と安定化剤の混合物)、[[隕石]]など。 === 生成要因による分類 === ; 天然宝石 : カットや研磨を除き、([[模倣宝石]]に対して)人の手が加わっていない宝石。古くから王侯貴族が所有し、[[西洋の冠|王冠]]などに取り付けられている石、博物館などに収蔵されているものが多く、特に大きな石については[[ホープダイヤモンド]]といった固有名が付けられる。宝石のなかでは確実に資産価値があり、現在でもごくまれに大きなものが産出されるが、種によっては非常に珍しいので高値で取引されることがある。であるが、そのためには合成宝石や処理宝石でないことを証明する専門家の鑑定書などを要する。 : なおどの石にどの程度の資産価値がつくかは石の種類、大きさ、美しさ、来歴(石の産地など)などにより異なる。新鉱山発見などで資産価値が劇的に下がる場合もあるし、逆にニセモノと判明しても[[宝飾品|ジュエリー]]に付けられた石はジュエリーそのものの[[骨董品|骨董]]的、美術的価値が認められればそれほど下がらない場合もありえる。 ; 処理宝石 : 天然宝石に外観の改良(エンハンスメント)・改変(トリートメント)処理が加えられた石。天然宝石に含められることが多い。宝石店で宝石として指輪やネックレスのトップに加工され、天然を謳っているものはたいていこの類で、身を飾る目的には合致するが資産価値は乏しい。主な処理には加熱([[石英#色つき水晶|黄水晶]])、電磁波・[[宝石放射線照射|放射線照射]]([[トパーズ|ブルートパーズ]])、着色目的を含めたガラスやオイルの含浸(エメラルド)、貴金属類の[[蒸着]]([[アクアオーラ]]など)がある。経年変化や長期にわたる紫外線曝露、ひどい場合は[[超音波洗浄機]]による洗浄で処理前の姿に戻ってしまうことがある。 ; [[模倣宝石#合成宝石(人工宝石)|合成宝石(人工宝石)]] : 天然宝石と同一の成分から科学的に作り出された宝石。天然宝石と化学成分・物理特性・内部構造が同じである。合成手法により原価が大きく異なるので価格も変わり、[[ベルヌーイ法]]で合成されたものは組成や結晶構造は全く同じにもかかわらず、単なる飾り石とされふつう宝石扱いされない。熱水法やフラックス法はコストも時間もかかるので製造原価が嵩むが、それでも天然宝石や処理宝石に比較して価格は安い。さらに、天然宝石にはしばしば見られる内包物([[インクルージョン (鉱物)|インクルージョン]])やヒビ、傷がなく、見た目は天然宝石より美しいにもかかわらず一般に評価は低く、日本ではニセモノ扱いの域を出ず資産価値もないとされる。ダイヤモンドの場合は採算性の問題から[[遺灰ダイヤモンド]]といった非常に特殊な需要を除き、宝石質の石が合成されることはほとんどない。<!--工業用[[研磨材]]や[[切削加工]]工具の先端に取り付ける刃として使用されることが多い。--> ; [[模倣宝石#人造宝石|人造宝石]] : 天然宝石とは異なる物質を使用して作り出された、天然宝石様の宝石。もともとは工業用材料の開発において、偶然生み出されたものを宝石向けに転用したもの。キュービック・ジルコニア (CZ)、[[イットリウム・アルミニウム・ガーネット|ヤグ (YAG)]]、スリージー (GGG) など。本来[[ジルコニア]]は[[:en:Baddeleyite|バデライト]]という鉱物であるが、単屈折にするために添加物を加えて[[立方晶]](キュービック)とするなどにより[[ダイヤモンド]]に作為的に近づけたものである。 ; [[模倣宝石#模造宝石|模造宝石]] : [[ガラス]]・[[プラスチック]]・[[陶磁器|陶器]]・[[骨]]・[[植物]]などを使用して天然宝石を模したもの。[[ラインストーン]]や[[タチウオ]]の皮を貼った模造真珠、プラスチックパールなど。 == 音楽 == フランスのシンガーソングライター [[ノルウェン・ルロワ]] は、2017年のアルバム「宝石 - Gemme」と同名の曲で宝石にインスピレーションを受けました。<ref>{{cite web|url=https://www.rtl.fr/culture/musique/video-nolwenn-leroy-lumineuse-et-enceinte-dans-le-clip-de-gemme-7789410563|title=VIDÉO - Nolwenn Leroy lumineuse et enceinte dans le clip de "Gemme"|publisher=RTL|accessdate=2017年7月19日|language=フランス語}}</ref> == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|鉱物・宝石|[[ファイル:HVBriljant.PNG|34px|Portal:鉱物・宝石]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|鉱物|[[ファイル:Spinel-4mb4c.jpg|34px]]}} *[[誕生石]] *[[鉱物]] *[[ケイ酸塩鉱物]] *[[宝石の一覧]] **[[有名な宝石の一覧]] *宝石の重さ **[[カラット]] *宝石のカット **[[ファセット・カット]] ***[[ブリリアントカット]] - ラウンドブリリアントカット、[[マーキス・カット]]など ***[[ステップカット]] - エメラルドカット、スクエアカットなど ***[[ミックスカット]] **[[カボション・カット]] - シングルカボションカット、ダブルカボションカットなど **{{ill2|彫刻された宝石|en|Engraved gem}} *宝石の硬さ **[[モース硬度]]、[[ヌープ硬度]] *[[宝石のトリートメント]] *宝石の光効果 **[[キャッツアイ効果]](シャトヤンシー)、[[スター効果]](アステリズム)、[[遊色効果]]、[[シーラー効果]](シーン)、[[変色効果]](カラーチェンジ) *[[装身具]] *[[宝石学資格]]:F.G.A (日本宝石共同組合) == 関連文献 == *『雑学図解 鉱物・宝石の不思議』近山晶宝石研究所所長 近山 晶=監修 ナツメ社 ISBN 4-8163-3858-6 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commons|Category:Gemstones}} *[http://www.gem.or.jp/ngl/mame/ 宝石豆知識(日本宝石協同組合サイト内)] *[https://kietac.vn/ ダイヤモンドジュエリーを作る] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほうせき}} [[Category:宝石|*]] [[Category:石]]
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液晶
液晶(えきしょう、英: Liquid Crystal)は、液体のような流動性と、結晶のような異方性を兼ね備えた物質である。一部の液晶は、電圧を印加すると光学特性が変化する。この性質を応用した液晶ディスプレイなどの製品が広く普及している。 液晶は、液体と結晶の間に出現する中間相の一種で、細長い分子や円盤状の分子が、分子の方向はある規則に従って揃っているが、分子の位置は結晶ほどの強い対称性を持たない状態の総称である。 液晶は、各分子の重心位置の配置の規則性の程度によって分類される。例えば、一般的な液体と同様に、分子の配置に対称性がないネマチック液晶、1次元の対称性を持つスメクチック液晶、2次元の対称性を持つカラムナー液晶などである。歴史的には、ネマチック液晶、スメクチック液晶にコレステリック液晶を加えた3分類が現在でも用いられているが、後述するようにコレステリック液晶はネマチック液晶に含まれる。また、中間相には液晶の他に、結晶と同様の3次元的な重心秩序は存在するが、分子の方向はランダムな柔粘性結晶(Plastic Crystal)がある。かつて液晶の命名は、研究者により非系統的に行われていたが、2001年にIUPAC(国際純正・応用科学連合)が国際液晶学会の協力の下、名称定義に関する勧告を公表しており、本稿での名称はそれに準じたものである。 すべての物質が液晶状態となるわけではなく、多くの物質は結晶から液体へと直接変化する。液晶相を発現する物質の中で、温度変化により結晶と液体の間に液晶状態をとるものをサーモトロピック液晶、溶媒へ溶解するとある濃度範囲で液晶となるものをリオトロピック液晶と呼ぶ。また、細長い分子からなる液晶をカラミチック液晶、円盤状分子からなる液晶をディスコチック液晶と呼ぶ。 ネマチック液晶は棒状分子の向きが平均して同一方向に揃っており、分子の重心秩序はまったくランダムな中間相である。ネマチック液晶は、普通の液体と同様の流動性がある。通常のネマチック相では分子の頭尾の向きには規則性はなく、また分子の配向方向に垂直な面内では分子の向きはランダムである。N液晶となる分子には極性を持つ物も多いが、一般的なN液晶は非極性である。 「ネマチック」という名称はギリシア語の「糸」に由来し、ネマチック液晶を顕微鏡で観察すると、糸状の構造が見られることからフリーデルが命名した。分子の平均配向方向は文字nで表記され、配向ベクトル(Director)と呼ばれている。非極性であるので物理的にn=-nであることから、ベクトル表記はされない。 棒状分子が1方向に並んでいるので配向ベクトル方向とそれと垂直方向では、屈折率や誘電率が異なっている。N液晶は光学的1軸性物質で、棒状分子のN液晶は正の1軸性である。誘電率については、分子構造により、正の異方性のものも、負の異方性のものも存在する。 ネマチック液晶には流動性があり、液体と同様に形態変化しても元の形には戻らない。しかし、配向ベクトルの空間分布に関しては、全体で一様である方がエネルギー的に有利であるため、与えられた条件下で変形のエネルギーが最小となるような空間分布となる。ただし、局所的な配向変化を安定状態に引き戻す復元力は小さいため、外部電場の印加により容易に配向ベクトル方向を変化できる。電場印加後は復元力により自動的に電場印加前の状態へと復帰する。これを利用したのが液晶ディスプレイである。 円盤状分子からなるネマチック相である。配向ベクトルは円盤面に垂直な方向となる。このため、棒状分子からなるネマチック相とは逆に、負の光学1軸性を示すことが普通である。 カイラルネマチック相は歴史的にはコレステリック液晶と呼ばれていた状態で、外観がネマチック相と大きく異なるために、別の液晶状態として命名された。コレステリック液晶という名称はコレステロール誘導体で発見されたことに由来する。 ふつうのN液晶は、不斉炭素のない分子か、ラセミ体混合物など掌性を持たない分子により構成されるのに対して、カイラルネマチック相は、掌性のある分子か、ネマチック液晶に掌性のある分子を加えた時に発現する状態で、配向ベクトルの方向が配向ベクトルに垂直な一つの軸方向で螺旋状の変化していく構造をしている。 カイラルネマチック液晶のように、不斉構造を持つ液晶相は、その元である相に*マークをつけて不斉構造の存在を示す。カイラルネマチック相はこの規約に従いN相に*をつけてN相と表記する。ただし、歴史的経緯によりCh相と表記される場合もある。 N相は螺旋周期に平均屈折率をかけた波長の光を反射する。左巻きのN相は左円偏光のみを反射し、右円偏光は反射せずに透過する。右巻きのN相は逆に右円偏光のみを反射する。この現象は選択反射と呼ばれている。選択反射が可視領域にあると、N相は色づいて見える。この現象を利用したのが液晶温度計である。 N相と等方相との間にN相ではない中間相が出現することがある。この状態も配向ベクトル方向のねじれ構造を持つが、N相とは異なり、複数の方向にねじれるダブルシリンダー構造となっている。この相の研究初期に見いだされた状態が青色を示したことからブルー相と呼ばれるようになったが、全てのブルー相がブルーに発色するわけではない。3種類のブルー相の存在が知られている。 重心位置に1次元の周期構造を持つ液晶群はスメクチック液晶(Sm液晶)と呼ばれている。Sm相は1次元的な重心の周期構造(層構造)を持ち、結晶的な側面を持ち、液体やネマチック相のような流動性はない。シャボン膜も両親媒性分子が層をなす構造となっており、Sm相の一種として考えることが出来る。スメクチック液晶の語源は石けんを意味するギリシャ語に由来する。 Sm相は層内の分子の配置によりSmA、SmB、SmC,....と、さらに複数の状態に分類されている。命名は発見順になされており、液晶の状態を反映したものではない。かつて、Sm液晶とされていたものの中には、現在は別の名称が使われている物もある。 1次元的な周期構造を持つが、層内には重心の秩序はない2次元液体状態の相である。SmA相では分子長軸は層法線方向を向いているが、SmC相では層法線に対して有限の傾き角を持っている。傾き方向は層をまたいで同方向であるが、中には、層毎に逆方向に傾くものもあり、SmCA相と呼ばれている。 1次元的な周期構造に加え、層内で分子は六方対称の配置をしている。六方対称の格子方位は長距離秩序を持つが、分子の重心位置については、短距離の秩序しか存在しない。このような構造は、六角形の格子の中に、5角形と7角形の格子が組合わさった欠陥が存在することにより作り出されている。 これらの相はヘキサチック相とよばれSmBHEXのように記述されることもある。SmB相では分子長軸は層法線に平行、SmF相とI相は有限の傾きがある。SmF相では個々の分子は第2隣接分子方向に傾くのに対し、SmI相では隣接分子方向に傾いている。 層内でも六方格子を組んでおり、分子の重心位置にも3次元的な秩序がある。これらの相は液晶研究者が研究対称としていたためSm相として分類されていたが、2001年のIUPACの勧告以来、Cry相と呼ばれるようになっている。完全な結晶との違いは分子長軸回りの回転が止っていないことである。直鎖アルカンでは、液体と結晶の間にローテーター相と呼ばれる状態が存在するが、これらのCry相は直鎖アルカンのローテーター相に相当するものである。CryB相は分子は層法線方向を向いているのに対して、CryG相とCryH相では分子は相法線から傾いている。CryBとSmBHEXは顕微鏡観察での区別が困難であるため、古い文献に記載されているSmBはSmBHEXの場合もCryBの場合も存在する。 これらの相では層内の配置が矩形格子となっている。また、分子の配置は矢筈型構造となっている。CryEでは分子は層に対して垂直で、CryJとCryKは傾いている。これらの相は光学的に2軸性を示す。 層構造がねじれて3次元構造を形成したもので、かつてはSmD相と称されていたが、3次元構造であることより、液晶からは外されている。 不斉炭素を含む分子からなるSmA相では通常の場合は不斉構造によるねじれはSm相の層構造により抑制され掌性のないSmA相と区別の付かない状態となる。特に不斉炭素を含んだ状態であることを示す場合にはSmA相と表記することがある。 高温側の相との転移点近傍で層構造が柔らかく、また、分子のねじれ力が強い場合には、層構造に周期的に螺旋転位が発生し層が捻れていく構造となる。この状態はツイストグレインバウンダリー(TGBA)相と呼ばれている。同様にSmC相の層が捻れたTGBC相も存在する。 多くの化合物ではSmC相に不斉構造を導入した場合に、層のねじれが生じることなく、分子の傾き方向が層ごとに回転していく状態となる。この状態はSmC相と呼ばれている。SmC相の螺旋周期は物質により数百nmから数μm程度である。N相と同様に、螺旋周期が可視光領域にある場合には選択反射が起こり発色する。 SmC相はその対称性から強誘電性を示しうることが知られている。典型的なSmC*強誘電性液晶では、分極は層内で分子の傾きと垂直な方向に発生する。螺旋構造があるため、巨視的には分極方向は打ち消しているが、螺旋構造と分極は直接はリンクしておらず、適当な化合物では螺旋が発散した状態で極性を保った状態を実現できる。 いくつかのSmC相副次相の存在が知られている。SmCα相はSmC相の高温側に出現することのある相で、数分子程度の短い螺旋構造をとっている。SmCA相は傾き方向が1層ごとに反転し、数百nm程度の螺旋周期も有する相で、分極は隣接層で相殺するが、強い外部電場により傾き方向がそろった状態に転移するので、反強誘電性相として知られている。そのほか、3層周期、4層周期、さらに多層周期の構造が見いだされている。層構造により反強誘電性かフェリ誘電性を示す。 多くの場合は円盤状分子または会合により円盤状になる分子がカラムを構成して、カラムが2次元配列した構造をとっている。カラム内の分子の重心位置には規則性がなく、この点で完全な結晶と異なっている。格子により以下のような分類がなされている。 カラムが2次元的には六方格子を組んだ液晶相である。 カラムが形成する格子が長方形となったものである。 カラムが形成する格子が平行四辺形となったものである。 (出典) 液晶はオーストリアの植物生理学者 フリードリヒ・ライニッツァーによって、1888年に発見された。ライニッツァーの論文以前に、現在の目からみると液晶を扱った論文もあるが、結晶と液体の中間状態としてきちんと認識されてはいなかった。ライニッツァーの研究の主題はコレステロールの分子構造の解明であり、精製のために合成した誘導体(安息香酸コレステリル(英語版))において二重の融点を見いだし、これが液晶の発見となった。その後、1920年代には、ジョルジュ・フリーデル(フランス語版)によって、ネマチック、スメクチック、コレステリックという3分類が提唱された。 液晶は、その後、物理化学、生物との関係などの観点から研究が続けられていたが、1960年代になって、コレステリック液晶を用いた温度分布の可視化といった応用研究が始まり、1968年のRCAのジョージ・H・ハイルマイヤーらによる液晶ディスプレイの発表以来、応用面での研究が一気に開花した。 液晶に関する国際会議は1965年にKent State Universityで開催され、2回目は1968年に同じ場所で開催された後は、2年ごとに開催地を変えておこなわれている。日本では1980年に京都、2000年に仙台、そして、2018年に再び京都で開催されている。国際液晶学会は液晶の国際会議に遅れて1990年に組織された。国際液晶会議は、液晶全般について扱っているが、よりテーマを絞った内容の会議も行われている。 日本への液晶に関する知識の伝来は明治後期から大正初期に遡る。大幸勇吉の『物理化学』や片山正夫の『化学本論』には液晶が紹介されている。この他、第二次世界大戦前の応用物理学会誌における山本健磨の解説や、いくつかの書籍で液晶が取上げられている。日本語の「液晶」という用語については、山崎栄一の論文では「液晶または晶液」と、定まっていないが、液晶という表現が当時から主流である。苗村によると、RCAの発表直後に新聞当では訳語として「液体水晶」というものが使われたというが、学会誌などに掲載された解説記事類には、その用例は見当らない。 RCAの発表以前には、液晶の研究は日本では殆ど行われていない。僅かに玉虫による論文や、界面活性剤からみの論文が検索出来る程度である。この点は、物理化学研究の伝統を持つ欧米とは大きく異なった状況にある。RCAの発表以後は国内で液晶研究が行われるようになるが、当初から、多くの企業研究者が参加していることに一つの特徴がある。これらの研究者の中には有機半導体の研究から移ったものもいる。 液晶に関する学術講演は、様々な学会で行われていたが、1975年に日本化学会第33秋季年会連合討論会合同大会で応用物理学会と日本化学会の共催により液晶討論会が開催され、液晶に関する発表が分野横断で行われる場となった。その後、連合討論会から離れた単独開催になり、1997年の日本液晶学会の設立にともない、1998年以降は日本液晶学会討論会として継続している。 「液晶ディスプレイの材料にはイカが使われている」という話と、「最初の液晶ディスプレイは、新人技術者の失敗から生まれた」という話が一部に出回っているが、これらは両方とも日本国内に限定されたもので、正しくない情報である。 1980年代に函館にあった日本化学飼料がイカの肝を原料としたダーク油からコレステリック液晶を製造販売していたのは事実である。また、この液晶をアクセサリーとして販売していた会社も存在する。液晶ディスプレイにイカが使われているという話には2つの系統があり、一つは、コレステリック液晶を使ったカラーテレビという、まったく実現されなかった話で、もう一つは、TN型液晶ディスプレイにイカ由来の原料が使われているという話である。後者に関しては、TN型液晶ディスプレイでコレステロール誘導体が使用されていたのは事実であるが、イカ由来のコレステロール誘導体の使用は確認されていない。また、イカ墨が天然の液晶物質であるという話も流布しているが、これも事実ではない。 液晶ディスプレイが新人の失敗から生れたという話はNHKのプロジェクトXが発祥と考えられる。当事者の記したものを調べると、プロジェクトX直後は、「大失敗」と表現されている事件は、2006年に公開された電気情報通信学会誌の記事では、『蓋を閉め忘れた液晶びんを見て、「しまった。空気中の水蒸気でシッフ塩基からなる液晶化合物が分解したかも知れない」と思うと同時に「そうだ、あの実験をやってみよう」と交流駆動の実験を行った』という話に、2007年の応用物理学会では、発明の内容について「イオン性有機化合物の意図的な添加であった。このアイデアの基礎となった液晶緩和現象と分子運動については、フランスのde Gennesらの液晶研究グループにより詳細な理論的検討がなされており、この論文はこの発明の切っ掛けをあたえてくれた。」と、先行研究があったことが示され、さらに2013年の書籍では、「1970年にOrsay LC GroupがPRL(Physical Review Letters)に出した論文で、ある程度のイオンがあればDSMが交流で効率よく起こることが理論解析で示されていた。しかし、1グラム数万円の液晶に不純物を添加するという行動は躊躇し、なかなか実行できない日々が続いていた。「このような時に幸運が舞い込んだ。」加水分解によりイオン性不純物が生じる液晶のサンプル瓶の蓋が閉め忘れて置いてあるのを見いだし「これはひょっとすると液晶が加水分解をしてイオン性不純物が増して液晶の導電率を上げてOrsayグループの言う交流駆動の条件を満足しているかも知れない」と早速この材料で交流駆動実験を行った。」という内容に変容する。交流の方が優れているという論文は、「大失敗」の1年前には公表されており、液晶を開発していたグループも目にする時間は十分にある。新人の失敗というストーリーは放送のための演出と考えるのが妥当である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "液晶(えきしょう、英: Liquid Crystal)は、液体のような流動性と、結晶のような異方性を兼ね備えた物質である。一部の液晶は、電圧を印加すると光学特性が変化する。この性質を応用した液晶ディスプレイなどの製品が広く普及している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "液晶は、液体と結晶の間に出現する中間相の一種で、細長い分子や円盤状の分子が、分子の方向はある規則に従って揃っているが、分子の位置は結晶ほどの強い対称性を持たない状態の総称である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "液晶は、各分子の重心位置の配置の規則性の程度によって分類される。例えば、一般的な液体と同様に、分子の配置に対称性がないネマチック液晶、1次元の対称性を持つスメクチック液晶、2次元の対称性を持つカラムナー液晶などである。歴史的には、ネマチック液晶、スメクチック液晶にコレステリック液晶を加えた3分類が現在でも用いられているが、後述するようにコレステリック液晶はネマチック液晶に含まれる。また、中間相には液晶の他に、結晶と同様の3次元的な重心秩序は存在するが、分子の方向はランダムな柔粘性結晶(Plastic Crystal)がある。かつて液晶の命名は、研究者により非系統的に行われていたが、2001年にIUPAC(国際純正・応用科学連合)が国際液晶学会の協力の下、名称定義に関する勧告を公表しており、本稿での名称はそれに準じたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "すべての物質が液晶状態となるわけではなく、多くの物質は結晶から液体へと直接変化する。液晶相を発現する物質の中で、温度変化により結晶と液体の間に液晶状態をとるものをサーモトロピック液晶、溶媒へ溶解するとある濃度範囲で液晶となるものをリオトロピック液晶と呼ぶ。また、細長い分子からなる液晶をカラミチック液晶、円盤状分子からなる液晶をディスコチック液晶と呼ぶ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ネマチック液晶は棒状分子の向きが平均して同一方向に揃っており、分子の重心秩序はまったくランダムな中間相である。ネマチック液晶は、普通の液体と同様の流動性がある。通常のネマチック相では分子の頭尾の向きには規則性はなく、また分子の配向方向に垂直な面内では分子の向きはランダムである。N液晶となる分子には極性を持つ物も多いが、一般的なN液晶は非極性である。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「ネマチック」という名称はギリシア語の「糸」に由来し、ネマチック液晶を顕微鏡で観察すると、糸状の構造が見られることからフリーデルが命名した。分子の平均配向方向は文字nで表記され、配向ベクトル(Director)と呼ばれている。非極性であるので物理的にn=-nであることから、ベクトル表記はされない。 棒状分子が1方向に並んでいるので配向ベクトル方向とそれと垂直方向では、屈折率や誘電率が異なっている。N液晶は光学的1軸性物質で、棒状分子のN液晶は正の1軸性である。誘電率については、分子構造により、正の異方性のものも、負の異方性のものも存在する。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ネマチック液晶には流動性があり、液体と同様に形態変化しても元の形には戻らない。しかし、配向ベクトルの空間分布に関しては、全体で一様である方がエネルギー的に有利であるため、与えられた条件下で変形のエネルギーが最小となるような空間分布となる。ただし、局所的な配向変化を安定状態に引き戻す復元力は小さいため、外部電場の印加により容易に配向ベクトル方向を変化できる。電場印加後は復元力により自動的に電場印加前の状態へと復帰する。これを利用したのが液晶ディスプレイである。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "円盤状分子からなるネマチック相である。配向ベクトルは円盤面に垂直な方向となる。このため、棒状分子からなるネマチック相とは逆に、負の光学1軸性を示すことが普通である。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "カイラルネマチック相は歴史的にはコレステリック液晶と呼ばれていた状態で、外観がネマチック相と大きく異なるために、別の液晶状態として命名された。コレステリック液晶という名称はコレステロール誘導体で発見されたことに由来する。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ふつうのN液晶は、不斉炭素のない分子か、ラセミ体混合物など掌性を持たない分子により構成されるのに対して、カイラルネマチック相は、掌性のある分子か、ネマチック液晶に掌性のある分子を加えた時に発現する状態で、配向ベクトルの方向が配向ベクトルに垂直な一つの軸方向で螺旋状の変化していく構造をしている。 カイラルネマチック液晶のように、不斉構造を持つ液晶相は、その元である相に*マークをつけて不斉構造の存在を示す。カイラルネマチック相はこの規約に従いN相に*をつけてN相と表記する。ただし、歴史的経緯によりCh相と表記される場合もある。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "N相は螺旋周期に平均屈折率をかけた波長の光を反射する。左巻きのN相は左円偏光のみを反射し、右円偏光は反射せずに透過する。右巻きのN相は逆に右円偏光のみを反射する。この現象は選択反射と呼ばれている。選択反射が可視領域にあると、N相は色づいて見える。この現象を利用したのが液晶温度計である。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "N相と等方相との間にN相ではない中間相が出現することがある。この状態も配向ベクトル方向のねじれ構造を持つが、N相とは異なり、複数の方向にねじれるダブルシリンダー構造となっている。この相の研究初期に見いだされた状態が青色を示したことからブルー相と呼ばれるようになったが、全てのブルー相がブルーに発色するわけではない。3種類のブルー相の存在が知られている。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "重心位置に1次元の周期構造を持つ液晶群はスメクチック液晶(Sm液晶)と呼ばれている。Sm相は1次元的な重心の周期構造(層構造)を持ち、結晶的な側面を持ち、液体やネマチック相のような流動性はない。シャボン膜も両親媒性分子が層をなす構造となっており、Sm相の一種として考えることが出来る。スメクチック液晶の語源は石けんを意味するギリシャ語に由来する。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Sm相は層内の分子の配置によりSmA、SmB、SmC,....と、さらに複数の状態に分類されている。命名は発見順になされており、液晶の状態を反映したものではない。かつて、Sm液晶とされていたものの中には、現在は別の名称が使われている物もある。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1次元的な周期構造を持つが、層内には重心の秩序はない2次元液体状態の相である。SmA相では分子長軸は層法線方向を向いているが、SmC相では層法線に対して有限の傾き角を持っている。傾き方向は層をまたいで同方向であるが、中には、層毎に逆方向に傾くものもあり、SmCA相と呼ばれている。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1次元的な周期構造に加え、層内で分子は六方対称の配置をしている。六方対称の格子方位は長距離秩序を持つが、分子の重心位置については、短距離の秩序しか存在しない。このような構造は、六角形の格子の中に、5角形と7角形の格子が組合わさった欠陥が存在することにより作り出されている。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これらの相はヘキサチック相とよばれSmBHEXのように記述されることもある。SmB相では分子長軸は層法線に平行、SmF相とI相は有限の傾きがある。SmF相では個々の分子は第2隣接分子方向に傾くのに対し、SmI相では隣接分子方向に傾いている。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "層内でも六方格子を組んでおり、分子の重心位置にも3次元的な秩序がある。これらの相は液晶研究者が研究対称としていたためSm相として分類されていたが、2001年のIUPACの勧告以来、Cry相と呼ばれるようになっている。完全な結晶との違いは分子長軸回りの回転が止っていないことである。直鎖アルカンでは、液体と結晶の間にローテーター相と呼ばれる状態が存在するが、これらのCry相は直鎖アルカンのローテーター相に相当するものである。CryB相は分子は層法線方向を向いているのに対して、CryG相とCryH相では分子は相法線から傾いている。CryBとSmBHEXは顕微鏡観察での区別が困難であるため、古い文献に記載されているSmBはSmBHEXの場合もCryBの場合も存在する。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "これらの相では層内の配置が矩形格子となっている。また、分子の配置は矢筈型構造となっている。CryEでは分子は層に対して垂直で、CryJとCryKは傾いている。これらの相は光学的に2軸性を示す。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "層構造がねじれて3次元構造を形成したもので、かつてはSmD相と称されていたが、3次元構造であることより、液晶からは外されている。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "不斉炭素を含む分子からなるSmA相では通常の場合は不斉構造によるねじれはSm相の層構造により抑制され掌性のないSmA相と区別の付かない状態となる。特に不斉炭素を含んだ状態であることを示す場合にはSmA相と表記することがある。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "高温側の相との転移点近傍で層構造が柔らかく、また、分子のねじれ力が強い場合には、層構造に周期的に螺旋転位が発生し層が捻れていく構造となる。この状態はツイストグレインバウンダリー(TGBA)相と呼ばれている。同様にSmC相の層が捻れたTGBC相も存在する。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "多くの化合物ではSmC相に不斉構造を導入した場合に、層のねじれが生じることなく、分子の傾き方向が層ごとに回転していく状態となる。この状態はSmC相と呼ばれている。SmC相の螺旋周期は物質により数百nmから数μm程度である。N相と同様に、螺旋周期が可視光領域にある場合には選択反射が起こり発色する。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "SmC相はその対称性から強誘電性を示しうることが知られている。典型的なSmC*強誘電性液晶では、分極は層内で分子の傾きと垂直な方向に発生する。螺旋構造があるため、巨視的には分極方向は打ち消しているが、螺旋構造と分極は直接はリンクしておらず、適当な化合物では螺旋が発散した状態で極性を保った状態を実現できる。 いくつかのSmC相副次相の存在が知られている。SmCα相はSmC相の高温側に出現することのある相で、数分子程度の短い螺旋構造をとっている。SmCA相は傾き方向が1層ごとに反転し、数百nm程度の螺旋周期も有する相で、分極は隣接層で相殺するが、強い外部電場により傾き方向がそろった状態に転移するので、反強誘電性相として知られている。そのほか、3層周期、4層周期、さらに多層周期の構造が見いだされている。層構造により反強誘電性かフェリ誘電性を示す。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "多くの場合は円盤状分子または会合により円盤状になる分子がカラムを構成して、カラムが2次元配列した構造をとっている。カラム内の分子の重心位置には規則性がなく、この点で完全な結晶と異なっている。格子により以下のような分類がなされている。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "カラムが2次元的には六方格子を組んだ液晶相である。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "カラムが形成する格子が長方形となったものである。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "カラムが形成する格子が平行四辺形となったものである。", "title": "液晶相の種類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "(出典)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "液晶はオーストリアの植物生理学者 フリードリヒ・ライニッツァーによって、1888年に発見された。ライニッツァーの論文以前に、現在の目からみると液晶を扱った論文もあるが、結晶と液体の中間状態としてきちんと認識されてはいなかった。ライニッツァーの研究の主題はコレステロールの分子構造の解明であり、精製のために合成した誘導体(安息香酸コレステリル(英語版))において二重の融点を見いだし、これが液晶の発見となった。その後、1920年代には、ジョルジュ・フリーデル(フランス語版)によって、ネマチック、スメクチック、コレステリックという3分類が提唱された。 液晶は、その後、物理化学、生物との関係などの観点から研究が続けられていたが、1960年代になって、コレステリック液晶を用いた温度分布の可視化といった応用研究が始まり、1968年のRCAのジョージ・H・ハイルマイヤーらによる液晶ディスプレイの発表以来、応用面での研究が一気に開花した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "液晶に関する国際会議は1965年にKent State Universityで開催され、2回目は1968年に同じ場所で開催された後は、2年ごとに開催地を変えておこなわれている。日本では1980年に京都、2000年に仙台、そして、2018年に再び京都で開催されている。国際液晶学会は液晶の国際会議に遅れて1990年に組織された。国際液晶会議は、液晶全般について扱っているが、よりテーマを絞った内容の会議も行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本への液晶に関する知識の伝来は明治後期から大正初期に遡る。大幸勇吉の『物理化学』や片山正夫の『化学本論』には液晶が紹介されている。この他、第二次世界大戦前の応用物理学会誌における山本健磨の解説や、いくつかの書籍で液晶が取上げられている。日本語の「液晶」という用語については、山崎栄一の論文では「液晶または晶液」と、定まっていないが、液晶という表現が当時から主流である。苗村によると、RCAの発表直後に新聞当では訳語として「液体水晶」というものが使われたというが、学会誌などに掲載された解説記事類には、その用例は見当らない。 RCAの発表以前には、液晶の研究は日本では殆ど行われていない。僅かに玉虫による論文や、界面活性剤からみの論文が検索出来る程度である。この点は、物理化学研究の伝統を持つ欧米とは大きく異なった状況にある。RCAの発表以後は国内で液晶研究が行われるようになるが、当初から、多くの企業研究者が参加していることに一つの特徴がある。これらの研究者の中には有機半導体の研究から移ったものもいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "液晶に関する学術講演は、様々な学会で行われていたが、1975年に日本化学会第33秋季年会連合討論会合同大会で応用物理学会と日本化学会の共催により液晶討論会が開催され、液晶に関する発表が分野横断で行われる場となった。その後、連合討論会から離れた単独開催になり、1997年の日本液晶学会の設立にともない、1998年以降は日本液晶学会討論会として継続している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "「液晶ディスプレイの材料にはイカが使われている」という話と、「最初の液晶ディスプレイは、新人技術者の失敗から生まれた」という話が一部に出回っているが、これらは両方とも日本国内に限定されたもので、正しくない情報である。", "title": "液晶に関わる都市伝説" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1980年代に函館にあった日本化学飼料がイカの肝を原料としたダーク油からコレステリック液晶を製造販売していたのは事実である。また、この液晶をアクセサリーとして販売していた会社も存在する。液晶ディスプレイにイカが使われているという話には2つの系統があり、一つは、コレステリック液晶を使ったカラーテレビという、まったく実現されなかった話で、もう一つは、TN型液晶ディスプレイにイカ由来の原料が使われているという話である。後者に関しては、TN型液晶ディスプレイでコレステロール誘導体が使用されていたのは事実であるが、イカ由来のコレステロール誘導体の使用は確認されていない。また、イカ墨が天然の液晶物質であるという話も流布しているが、これも事実ではない。", "title": "液晶に関わる都市伝説" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイが新人の失敗から生れたという話はNHKのプロジェクトXが発祥と考えられる。当事者の記したものを調べると、プロジェクトX直後は、「大失敗」と表現されている事件は、2006年に公開された電気情報通信学会誌の記事では、『蓋を閉め忘れた液晶びんを見て、「しまった。空気中の水蒸気でシッフ塩基からなる液晶化合物が分解したかも知れない」と思うと同時に「そうだ、あの実験をやってみよう」と交流駆動の実験を行った』という話に、2007年の応用物理学会では、発明の内容について「イオン性有機化合物の意図的な添加であった。このアイデアの基礎となった液晶緩和現象と分子運動については、フランスのde Gennesらの液晶研究グループにより詳細な理論的検討がなされており、この論文はこの発明の切っ掛けをあたえてくれた。」と、先行研究があったことが示され、さらに2013年の書籍では、「1970年にOrsay LC GroupがPRL(Physical Review Letters)に出した論文で、ある程度のイオンがあればDSMが交流で効率よく起こることが理論解析で示されていた。しかし、1グラム数万円の液晶に不純物を添加するという行動は躊躇し、なかなか実行できない日々が続いていた。「このような時に幸運が舞い込んだ。」加水分解によりイオン性不純物が生じる液晶のサンプル瓶の蓋が閉め忘れて置いてあるのを見いだし「これはひょっとすると液晶が加水分解をしてイオン性不純物が増して液晶の導電率を上げてOrsayグループの言う交流駆動の条件を満足しているかも知れない」と早速この材料で交流駆動実験を行った。」という内容に変容する。交流の方が優れているという論文は、「大失敗」の1年前には公表されており、液晶を開発していたグループも目にする時間は十分にある。新人の失敗というストーリーは放送のための演出と考えるのが妥当である。", "title": "液晶に関わる都市伝説" } ]
液晶は、液体のような流動性と、結晶のような異方性を兼ね備えた物質である。一部の液晶は、電圧を印加すると光学特性が変化する。この性質を応用した液晶ディスプレイなどの製品が広く普及している。
{{脚注の不足|date=2016年2月15日 (月) 12:53 (UTC)}} [[ファイル:Shilirren texture.jpg|サムネイル|[[ネマティック液晶|ネマチック液晶]]における[[シュリーレン現象]]]] '''液晶'''(えきしょう、{{Lang-en-short|Liquid Crystal}})は、液体のような流動性と、[[結晶]]のような[[異方性]]を兼ね備えた物質である<ref>{{Cite web|和書|title=液晶とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%B6%B2%E6%99%B6-1373|website=コトバンク|accessdate=2021-06-07|language=ja|first=日本大百科全書(ニッポニカ),ASCII jpデジタル用語辞典,化学辞典 第2版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,知恵蔵,精選版 日本国語大辞典,とっさの日本語便利帳,デジタル大辞泉,世界大百科事典|last=第2版}}</ref>。一部の液晶は、[[電圧]]を[[印加]]すると[[光学]]特性が変化する。この性質を応用した[[液晶ディスプレイ]]などの製品が広く普及している。 == 概要 == 液晶は、液体と結晶の間に出現する中間相の一種で、細長い分子や円盤状の分子が、分子の方向はある規則に従って揃っているが、分子の位置は結晶ほどの強い[[対称性 (物理学)|対称性]]を持たない状態の総称である。 [[File:lcstates.jpg|thumb|right|489px|ネマチック液晶(左)では細長いか円盤状の分子が向きをそろえ、ランダムに浮遊している。スメクチック液晶(中)は通常は棒状の分子から構成され、層構造(1次元周期構造)である。カラムナー液晶(右)は円盤状の分子から構成されることが多く、2次元的な周期構造を持っている。]] 液晶は、各分子の[[重心]]位置の配置の規則性の程度によって分類される。例えば、一般的な液体と同様に、分子の配置に対称性がない[[ネマティック液晶|ネマチック液晶]]<ref group="注">Nematic液晶の日本語表記には「ネマチック」と「ネマティック」がある。日本液晶学会誌では2020年1月現在で「ネマチック」表記を用いている。これは文部省学術用語集 分光学編(S49年初版、H11年増改訂版)に従ったと考えられるもので、ここでもネマチック表記とする。スメクチック等も同様。</ref>、[[1次元]]の対称性を持つ[[スメクチック液晶]]、[[2次元]]の対称性を持つ[[カラムナー液晶]]などである。歴史的には、ネマチック液晶、スメクチック液晶に[[コレステリック液晶]]を加えた3分類が現在でも用いられているが、後述するようにコレステリック液晶はネマチック液晶に含まれる。また、中間相には液晶の他に、結晶と同様の[[3次元]]的な重心秩序は存在するが、分子の方向はランダムな[[柔粘性結晶]](Plastic Crystal)がある。かつて液晶の命名は、研究者により非系統的に行われていたが、2001年に[[国際純正・応用化学連合|IUPAC]](国際純正・応用科学連合)が[[国際液晶学会]]の協力の下、名称定義に関する勧告を公表<ref name="IUPACLC">Definitions of Basec Terms RElating to Low-molar-mass and Polymer Liquid Crystals, IUPAC Recommendations 2001. Pure Appl. Chem., Vol. 73 No. 5, pp.845-895, (2001).</ref>しており、本稿での名称はそれに準じたものである。 すべての物質が液晶状態となるわけではなく、多くの物質は結晶から液体へと直接変化する。液晶相を発現する物質の中で、温度変化により結晶と液体の間に液晶状態をとるものを[[サーモトロピック型液晶ポリマー|サーモトロピック液晶]]、[[溶媒]]へ溶解するとある濃度範囲で液晶となるものを[[リオトロピック液晶]]と呼ぶ。また、細長い分子からなる液晶を[[カラミチック液晶]]、円盤状分子からなる液晶を[[ディスコチック液晶]]と呼ぶ。 ==液晶相の種類== ===重心の位置がランダムな液晶=== ====ネマチック液晶(N液晶) ==== ネマチック液晶は棒状分子の向きが平均して同一方向に揃っており、分子の重心秩序はまったくランダムな中間相である。ネマチック液晶は、普通の液体と同様の流動性がある。通常のネマチック相では分子の頭尾の向きには規則性はなく、また分子の配向方向に垂直な面内では分子の向きはランダムである。N液晶となる分子には[[極性]]を持つ物も多いが、一般的なN液晶は非[[極性]]である。 「ネマチック」という名称は[[ギリシア語]]の「糸」に由来し、ネマチック液晶を顕微鏡で観察すると、糸状の構造が見られることからフリーデルが命名した。分子の平均配向方向は文字nで表記され、配向ベクトル(Director)と呼ばれている。非[[極性]]であるので物理的にn=-nであることから、ベクトル表記はされない<ref name="液晶辞典">液晶辞典 日本学術振興会情報科学用有機材料第142委員会液晶部会編 培風館(1989) </ref>。 棒状分子が1方向に並んでいるので配向ベクトル方向とそれと垂直方向では、[[屈折率]]や[[誘電率]]が異なっている。N液晶は光学的1軸性物質で、棒状分子のN液晶は正の1軸性である。[[誘電率]]については、分子構造により、正の異方性のものも、負の異方性のものも存在する。 ネマチック液晶には流動性があり、液体と同様に形態変化しても元の形には戻らない。しかし、[[ベクトル|配向ベクトル]]の空間分布に関しては、全体で一様である方がエネルギー的に有利であるため、与えられた条件下で変形のエネルギーが最小となるような空間分布となる。ただし、局所的な配向変化を安定状態に引き戻す復元力は小さいため、外部電場の印加により容易に配向ベクトル方向を変化できる。[[電場]][[印加]]後は復元力により自動的に[[電場]][[印加]]前の状態へと復帰する。これを利用したのが[[液晶ディスプレイ]]である。 ====ディスコチックネマチック相==== 円盤状分子からなるネマチック相である。配向ベクトルは円盤面に垂直な方向となる。このため、棒状分子からなるネマチック相とは逆に、負の光学1軸性を示すことが普通である。 ====カイラルネマチック相(N<sup>*</sup>相)==== カイラルネマチック相は歴史的にはコレステリック液晶と呼ばれていた状態で、外観がネマチック相と大きく異なるために、別の液晶状態として命名された。コレステリック液晶という名称は[[コレステロール]][[誘導体]]で発見されたことに由来する。 ふつうのN液晶は、[[不斉炭素]]のない分子か、[[ラセミ体]]混合物など掌性を持たない分子により構成されるのに対して、カイラルネマチック相は、掌性のある分子か、ネマチック液晶に掌性のある分子を加えた時に発現する状態で、配向ベクトルの方向が配向ベクトルに垂直な一つの軸方向で螺旋状の変化していく構造をしている。 カイラルネマチック液晶のように、不斉構造を持つ液晶相は、その元である相に*マークをつけて不斉構造の存在を示す。カイラルネマチック相はこの規約に従いN相に*をつけてN<sup>*</sup>相と表記する。ただし、歴史的経緯によりCh相と表記される場合もある。 N<sup>*</sup>相は螺旋周期に平均屈折率をかけた波長の光を反射する。左巻きのN<sup>*</sup>相は左円[[偏光]]のみを反射し、右円偏光は反射せずに透過する。右巻きのN<sup>*</sup>相は逆に右円偏光のみを反射する<ref name="deGennu">The Physics Of Liquid Crystals (International Series Of Monographs On Physics) P. G. de Gennes Oxford University PressU.S.A.; 2版 (2002/5/2)</ref>。この現象は選択反射と呼ばれている。選択反射が可視領域にあると、N<sup>*</sup>相は色づいて見える。この現象を利用したのが[[液晶温度計]]である。 ====ブルー相(BP相)==== N<sup>*</sup>相と等方相との間にN<sup>*</sup>相ではない中間相が出現することがある。この状態も配向ベクトル方向のねじれ構造を持つが、N<sup>*</sup>相とは異なり、複数の方向にねじれるダブルシリンダー構造となっている。この相の研究初期に見いだされた状態が青色を示したことからブルー相と呼ばれるようになったが、全てのブルー相がブルーに発色するわけではない。3種類のブルー相の存在が知られている。 ===重心位置に1次元周期構造(層構造)を持つ液晶相=== 重心位置に1次元の周期構造を持つ液晶群はスメクチック液晶(Sm液晶)と呼ばれている。Sm相は1次元的な重心の周期構造(層構造)を持ち、結晶的な側面を持ち、液体やネマチック相のような流動性はない。[[シャボン玉|シャボン膜]]も[[両親媒性分子]]が層をなす構造となっており、Sm相の一種として考えることが出来る。スメクチック液晶の語源は[[石鹸|石けん]]を意味する[[ギリシア語|ギリシャ語]]に由来する<ref name="液晶辞典"/>。 Sm相は層内の分子の配置によりSmA、SmB、SmC,....と、さらに複数の状態に分類されている。命名は発見順になされており、液晶の状態を反映したものではない。かつて、Sm液晶とされていたものの中には、現在は別の名称が使われている物もある。 ====SmA、SmC相==== 1次元的な周期構造を持つが、層内には重心の秩序はない2次元液体状態の相である。SmA相では分子長軸は層[[法線ベクトル|法線]]方向を向いているが、SmC相では層法線に対して有限の傾き角を持っている。傾き方向は層をまたいで同方向であるが、中には、層毎に逆方向に傾くものもあり、SmC<sub>A</sub>相と呼ばれている。 ====SmB、SmF、SmI相==== 1次元的な周期構造に加え、層内で分子は六方対称の配置をしている。六方対称の格子方位は長距離秩序を持つが、分子の重心位置については、短距離の秩序しか存在しない。このような構造は、[[六角形]]の格子の中に、5角形と7角形の格子が組合わさった欠陥が存在することにより作り出されている。 これらの相はヘキサチック相とよばれSmB<sub>HEX</sub>のように記述されることもある。SmB相では分子長軸は層法線に平行、SmF相とI相は有限の傾きがある。SmF相では個々の分子は第2隣接分子方向に傾くのに対し、SmI相では隣接分子方向に傾いている。 ====CryB,CryG,CryH相==== 層内でも六方格子を組んでおり、分子の重心位置にも3次元的な秩序がある。これらの相は液晶研究者が研究対称としていたためSm相として分類されていたが、2001年のIUPACの勧告以来、Cry相と呼ばれるようになっている。完全な[[結晶構造|結晶]]との違いは分子長軸回りの回転が止っていないことである。直鎖アルカンでは、液体と結晶の間にローテーター相と呼ばれる状態が存在するが、これらのCry相は直鎖[[アルカン]]のローテーター相に相当するものである。CryB相は分子は層法線方向を向いているのに対して、CryG相とCryH相では分子は相法線から傾いている。CryBとSmB<sub>HEX</sub>は顕微鏡観察での区別が困難であるため、古い文献に記載されているSmBはSmB<sub>HEX</sub>の場合もCryBの場合も存在する。 ====CryE,CryJ,CryK相==== これらの相では層内の配置が矩形格子となっている。また、分子の配置は[[矢筈]]型構造となっている。CryEでは分子は層に対して垂直で、CryJとCryKは傾いている。これらの相は光学的に2軸性を示す。 ====Cubic相==== 層構造がねじれて3次元構造を形成したもので、かつてはSmD相と称されていたが、3次元構造であることより、液晶からは外されている。 ====SmA<sup>*</sup>相およびTGB相==== [[キラル中心|不斉炭素]]を含む分子からなるSmA相では通常の場合は不斉構造によるねじれはSm相の層構造により抑制され掌性のないSmA相と区別の付かない状態となる。特に不斉炭素を含んだ状態であることを示す場合にはSmA<sup>*</sup>相と表記することがある。 高温側の相との[[転移点]]近傍で層構造が柔らかく、また、分子のねじれ力が強い場合には、層構造に周期的に螺旋転位が発生し層が捻れていく構造となる。この状態はツイストグレインバウンダリー(TGBA<sup>*</sup>)相と呼ばれている。同様にSmC相の層が捻れたTGBC<sup>*</sup>相も存在する。 ====SmC<sup>*</sup>相および副次相==== 多くの[[化合物]]ではSmC相に不斉構造を導入した場合に、層のねじれが生じることなく、分子の傾き方向が層ごとに回転していく状態となる。この状態はSmC<sup>*</sup>相と呼ばれている。SmC<sup>*</sup>相の螺旋周期は物質により数百nmから数μm程度である。N<sup>*</sup>相と同様に、螺旋周期が[[可視光線|可視光]]領域にある場合には選択反射が起こり発色する。 SmC<sup>*</sup>相はその対称性から強誘電性を示しうることが知られている<ref>{{cite journal |last=Meyer |first= R.B.|last2=Liebert |first2=L. |date=1975 |title=Ferroelectric liquid crystals |journal=J. Physique Lett. |publisher= |volume=36 |pages=69-71 |doi=10.1051/jphyslet:0197500360306900}}</ref>。典型的なSmC*強誘電性液晶では、分極は層内で分子の傾きと垂直な方向に発生する。螺旋構造があるため、[[微視的と巨視的|巨視的]]には分極方向は打ち消しているが、螺旋構造と分極は直接はリンクしておらず、適当な化合物では螺旋が発散した状態で極性を保った状態を実現できる。 いくつかのSmC<sup>*</sup>相副次相の存在が知られている。SmC<sub>α</sub><sup>*</sup>相はSmC<sup>*</sup>相の高温側に出現することのある相で、数分子程度の短い螺旋構造をとっている。SmC<sub>A</sub><sup>*</sup>相は傾き方向が1層ごとに反転し、数百nm程度の螺旋周期も有する相で、分極は隣接層で相殺するが、強い外部電場により傾き方向がそろった状態に転移するので、反強誘電性相として知られている。そのほか、3層周期、4層周期、さらに多層周期の構造が見いだされている。層構造により反強誘電性かフェリ誘電性を示す。 ===重心位置に2次元周期構造(カラム構造)を持つ液晶相=== 多くの場合は円盤状分子または会合により円盤状になる分子がカラムを構成して、カラムが2次元配列した構造をとっている。カラム内の分子の重心位置には規則性がなく、この点で完全な結晶と異なっている。格子により以下のような分類がなされている。 ====ヘキサチックカラムナー相(Col<sub>h</sub>)==== カラムが2次元的には六方格子を組んだ液晶相である。 ====レクタンギュラーカラムナー相(Col<sub>r</sub>)==== カラムが形成する格子が長方形となったものである。 ====カラムナーオブリーク相(Col<sub>ob</sub>)==== カラムが形成する格子が平行四辺形となったものである。 ==歴史== (出典<ref name="液晶の歴史">液晶の歴史 (朝日選書) D・ダンマー (著), T・スラッキン (著), 鳥山和久 (翻訳) 朝日新聞出版 (2011/8/10)</ref>) 液晶はオーストリアの植物生理学者 [[:en:Friedrich_Reinitzer|フリードリヒ・ライニッツァー]]によって、1888年に発見された<ref name="Reinitzer">F. Reinitzer, Monastshefte fur Chemie(Wien) Vol.9, 421-441(1888).</ref><ref group="注">英訳は Crytals That Flow Compiled with translation and commentary by T. J. Sluckin, D. A. Dunmur and H. Stegemeyer, Taylor & Fransis (2004)</ref>。ライニッツァーの論文以前に、現在の目からみると液晶を扱った論文もあるが、結晶と液体の中間状態としてきちんと認識されてはいなかった。ライニッツァーの研究の主題はコレステロールの分子構造の解明であり、精製のために合成した誘導体({{仮リンク|安息香酸コレステリル|en|Cholesteryl benzoate}})において二重の[[融点]]を見いだし、これが液晶の発見となった。その後、1920年代には、{{仮リンク|ジョルジュ・フリーデル|fr|Georges Friedel}}によって、ネマチック、スメクチック、コレステリックという3分類が提唱された<ref name="Friedel"> G. Friedel, Annales de Physique Vol. 18, 273-474(1922)</ref>。 液晶は、その後、[[物理化学]]、[[生物]]との関係などの観点から研究が続けられていたが、1960年代になって、コレステリック液晶を用いた温度分布の可視化といった応用研究が始まり、1968年のRCAのジョージ・H・ハイルマイヤーらによる液晶ディスプレイの発表以来<ref name="Heilmeier">G. H. Heilmeier, Dynamic Scattering: A New Electrooptic Effect in Certain Classes of Nematic Liquid Crystals, Proc. I.E.E.E. 56 1162-71(1968).</ref>、応用面での研究が一気に開花した。 液晶に関する国際会議は1965年に[[ケント州立大学|Kent State University]]で開催され、2回目は1968年に同じ場所で開催された後は、2年ごとに開催地を変えておこなわれている。[[日本]]では1980年に[[京都市|京都]]、2000年に[[仙台市|仙台]]、そして、2018年に再び京都で開催されている。国際液晶学会は液晶の国際会議に遅れて1990年に組織された。国際液晶会議は、液晶全般について扱っているが、よりテーマを絞った内容の会議も行われている。 日本への液晶に関する知識の伝来は明治後期から大正初期に遡る。[[大幸勇吉]]の『物理化学』<ref name="物理化学">物理化学 大幸勇吉,「物理化学講義(中巻)」, p217(1908). 冨山房,東京.</ref>や[[片山正夫]]の『化学本論』<ref name="化学本論">化学本論 [[片山正夫]],「化学本論」, P.411 (1915).内田老鶴圃,東京.</ref>には液晶が紹介されている。この他、第二次世界大戦前の応用物理学会誌における山本健磨の解説<ref name="応物戦前">応物解説 山本健磨, 液晶(1-3), 応用物理, 6 , 234-240,290-293,340-343(1937)</ref>や、いくつかの書籍で液晶が取上げられている。日本語の「液晶」という用語については、山崎栄一の論文では「液晶または晶液」と<ref name="晶液">山崎 栄一,「液晶又は晶液精製の原理およびその性質につき」,日本化学会誌,43,134(1922).</ref>、定まっていないが、液晶という表現が当時から主流である。苗村によると、RCAの発表直後に新聞当では訳語として「液体水晶」というものが使われたというが<ref name="苗村QA">苗村省平,「Q & Aファイル101 液晶が分かる本」, (2001).工業調査会,東京.</ref>、学会誌などに掲載された解説記事類には、その用例は見当らない<ref name= "鳥山">古畑芳男,鳥山和久,液晶再発見, 固体物理, 4, No.4, 32(1969) .</ref><ref group = "注">この文献以外に複数の文献があるがいずれも液晶という言葉が用いられている。</ref>。 RCAの発表以前には、液晶の研究は日本では殆ど行われていない。僅かに玉虫による論文や<ref name="VonBunichi">Von Bunichi Tamamushi, Bulletin of the Chem. Soc. Jpn., 9, 475(1934).</ref>、[[界面活性剤]]からみの論文が検索出来る程度である<ref name="可溶性">藤田 幸夫,赤穂 英輔,松村 忠男,三木 孝雄,「可溶化系の液晶に関する研究」,Journal of J. C.C.A. 1, 5(1963).</ref>。この点は、[[物理化学]]研究の伝統を持つ欧米とは大きく異なった状況にある。RCAの発表以後は国内で液晶研究が行われるようになるが、当初から、多くの企業研究者が参加していることに一つの特徴がある。これらの研究者の中には[[有機半導体]]の研究から移ったものもいる<ref name="紳士録">液晶紳士録 月刊ディスプレイ編集委員会編 液晶紳士随想録 テクノタイムズ社(2002)</ref>。 液晶に関する学術講演は、様々な学会で行われていたが、1975年に日本化学会第33秋季年会連合討論会合同大会で[[応用物理学会]]と[[日本化学会]]の共催により液晶討論会が開催され、液晶に関する発表が分野横断で行われる場となった。その後、連合討論会から離れた単独開催になり、1997年の[[日本液晶学会]]の設立にともない、1998年以降は日本液晶学会討論会として継続している。 ==液晶に関わる都市伝説== 「液晶ディスプレイの材料にはイカが使われている」という話と、「最初の液晶ディスプレイは、新人技術者の失敗から生まれた」という話が一部に出回っているが、これらは両方とも日本国内に限定されたもので、正しくない情報である。 1980年代に[[函館市|函館]]にあった[[日本化学飼料]]がイカの肝を原料としたダーク油から[[コレステリック液晶|コレステリック]]液晶を製造販売していたのは事実である。また、この液晶をアクセサリーとして販売していた会社も存在する<ref name="実業">温度で七色に変化する“液晶”アイデアで用途は無限,新型商売特集号, オール生活 1979年11月増刊, 実業之日本(1979).</ref>。液晶ディスプレイにイカが使われているという話には2つの系統があり、一つは、コレステリック液晶を使った[[カラーテレビ]]という、まったく実現されなかった話で、もう一つは、TN型液晶ディスプレイにイカ由来の原料が使われているという話である。後者に関しては、TN型液晶ディスプレイでコレステロール[[誘導体]]が使用されていたのは事実であるが<ref name ="佐々木">佐々木昭夫,苗村省平 編,「液晶ディスプレイのすべて」, 工業調査会(1993).</ref>、イカ由来のコレステロール誘導体の使用は確認されていない。また、[[イカ墨]]が天然の液晶物質であるという話も流布しているが、これも事実ではない<ref name="イカ">石川 謙,液晶21巻 136(2017).</ref>。 液晶ディスプレイが新人の失敗から生れたという話は[[日本放送協会|NHK]]の[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜|プロジェクトX]]が発祥と考えられる<ref name="Px">プロジェクトX挑戦者たち「液晶 執念の対決」,Kindle版, (2012), NHK出版, 東京)</ref>。当事者の記したものを調べると、プロジェクトX直後は、「大失敗」と表現されている事件は、2006年に公開された[[電子情報通信学会|電気情報通信学会]]誌の記事では、『蓋を閉め忘れた液晶びんを見て、「しまった。空気中の水蒸気で[[シッフ塩基]]からなる液晶化合物が分解したかも知れない」と思うと同時に「そうだ、あの実験をやってみよう」と交流駆動の実験を行った』という話に<ref name="船田電">船田文明、薄型ディスプレイ事始め、電気情報通信学会誌 89号 735-739(2006) </ref>、2007年の応用物理学会では、発明の内容について「イオン性[[有機化合物]]の意図的な添加であった。このアイデアの基礎となった液晶緩和現象と分子運動については、フランスのde Gennesらの液晶研究グループにより詳細な理論的検討がなされており、この論文はこの発明の切っ掛けをあたえてくれた。」と、先行研究があったことが示され<ref name="船田応">船田文明 液晶イノベーション応用物理学会誌  Vol76. P462-471(2007)</ref>、さらに2013年の書籍では、「1970年にOrsay LC GroupがPRL(Physical Review Letters)に出した論文で、ある程度のイオンがあればDSMが交流で効率よく起こることが理論解析で示されていた。しかし、1グラム数万円の液晶に[[不純物]]を添加するという行動は躊躇し、なかなか実行できない日々が続いていた。「このような時に幸運が舞い込んだ。」[[加水分解]]によりイオン性不純物が生じる液晶のサンプル瓶の蓋が閉め忘れて置いてあるのを見いだし「これはひょっとすると液晶が加水分解をしてイオン性不純物が増して液晶の導電率を上げてOrsayグループの言う交流駆動の条件を満足しているかも知れない」と早速この材料で交流駆動実験を行った。」という内容に変容する<ref name="船田ディス">液晶ディスプレイ物語ー50年の液晶開発と未来に託す夢 小出直之編 エース出版(2013)</ref>。交流の方が優れているという論文は、「大失敗」の1年前には公表されており、液晶を開発していたグループも目にする時間は十分にある。新人の失敗というストーリーは放送のための演出と考えるのが妥当である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==用途== *[[液晶ディスプレイ]] *示温剤 *[[繊維強化プラスチック]] == 参考文献 == 液晶の専門書として以下のものが良く知られている。 * P. G. de Gennes and J. Prost; The Physics of Liquid Crystal; Oxford University Press; ISBN 0-19-851785-8 (second edition, paperback, 1995). * チャンドラセカール; 液晶の物理学; 吉岡書店; ISBN 4-8427-0255-9(原書第2版, 1995). * 竹添秀男;[[渡辺順次]] 液晶・高分子入門; 裳華房; ISBN 4-7853-2912-2 (2004). * 折原 宏 液晶の物理 (材料学シリーズ); 内田老鶴圃; ISBN 4753656225 (2004). *福田敦夫;竹添秀男 強誘電性液晶の構造と物性(フォトニクスシリーズ); コロナ社; ISBN 978-4339005585 (1990) == 関連項目 == *[[日本液晶学会]] *[[ラメラ構造]] == 外部リンク == {{Commons|Liquid crystal}} * [http://www.jlcs.jp/ 日本液晶学会] * [http://www.ilcsoc.org/ 国際液晶学会] {{物質の状態}} {{Condensed matter physics topics}} {{液晶}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えきしよう}} [[Category:液晶|*えきしよう]] [[Category:物質]] [[Category:物質の相]] [[Category:ソフトマター]]
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ネマティック液晶
ネマティック液晶(ネマティックえきしょう、Nematic Liquid Crystal)とは液晶の一種である。すなわち、その構成分子が配向秩序を持つが、三次元的な位置秩序を持たない液体である。配向方向は、配向子(Director)と呼ばれる単位ベクトル n によって表される事が多い。実験的に、巨視的なネマティック液晶の対称性は D ∞ h {\displaystyle D_{\infty h}} である事が知られているので、構成分子は n を軸に自由回転をしており、また向きに関しては上向きと下向きを50%ずつ含むことが結論される。 構成分子が全て n の方向を向いているのが理想的であるが、実際の ネマティック液晶の構成分子は n の方向からある程度熱揺らぎをしている。 この熱揺らぎの度合いは秩序因子(Order Parameter)すなわち巨視的な系の物性値異方性 Δ χ {\displaystyle \Delta \chi } と絶対温度T→0における巨視的な系の物性値異方性 Δ χ 0 {\displaystyle \Delta \chi _{0}} との比 S = Δ χ / Δ χ 0 {\displaystyle S=\Delta \chi /\Delta \chi _{0}} により評価することができる(例えば、磁化率のような異方性を示す物性は、いずれも配向度の評価に用いることができる。また、 Δ χ 0 {\displaystyle \Delta \chi _{0}} は、分子物性値異方性 Δ κ {\displaystyle \Delta \kappa } を用いて Δ χ 0 = N Δ κ {\displaystyle \Delta \chi _{0}=N\Delta \kappa } と表すことができる。Nは系を構成する分子の総数であり、S は分子が配向子 n の方向にどれほど良く整列しているかの目安となる量である。全ての分子が n と平行なら S = 1であり、分子の熱揺らぎが大きくなると S は0に近づく。) 今、分子の n からの揺らぎ角を θ とすると、 Δ χ = 1 / 2 < 3 cos 2 θ − 1 > N Δ κ {\displaystyle \Delta \chi =1/2<3\cos ^{2}\theta -1>N\Delta \kappa } と書き換えることができる。ここで<>は統計力学的な平均である。よって S は、微視的な分子の揺らぎ角を用いて S = 1 / 2 < 3 cos 2 θ − 1 > {\displaystyle S=1/2<3\cos ^{2}\theta -1>} と書くことができる。
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ネマティック液晶とは液晶の一種である。すなわち、その構成分子が配向秩序を持つが、三次元的な位置秩序を持たない液体である。配向方向は、配向子(Director)と呼ばれる単位ベクトル n によって表される事が多い。実験的に、巨視的なネマティック液晶の対称性は D ∞ h である事が知られているので、構成分子は n を軸に自由回転をしており、また向きに関しては上向きと下向きを50%ずつ含むことが結論される。
{{出典の明記|date=2023年1月10日 (火) 14:13 (UTC)}} '''ネマティック液晶'''(ネマティックえきしょう、Nematic Liquid Crystal)とは[[液晶]]の一種である。すなわち、その構成分子が配向秩序を持つが、三次元的な位置秩序を持たない液体である。配向方向は、配向子(Director)と呼ばれる単位ベクトル '''''n''''' によって表される事が多い。実験的に、巨視的なネマティック液晶の対称性は<math>D_{\infty h}</math>である事が知られているので、構成分子は '''''n''''' を軸に自由回転をしており、また向きに関しては上向きと下向きを50%ずつ含むことが結論される。 == 配向度 == 構成分子が全て '''''n''''' の方向を向いているのが理想的であるが、実際の ネマティック液晶の構成分子は '''''n''''' の方向からある程度熱揺らぎをしている。 この熱揺らぎの度合いは秩序因子(Order Parameter)すなわち巨視的な系の物性値異方性 <math>\Delta \chi</math> と絶対温度''T''→0における巨視的な系の物性値異方性 <math>\Delta \chi_{0}</math> との比 <math>S = \Delta \chi / \Delta \chi_{0}</math> により評価することができる(例えば、磁化率のような異方性を示す物性は、いずれも配向度の評価に用いることができる。また、<math>\Delta \chi_{0}</math>は、分子物性値異方性<math>\Delta \kappa</math>を用いて<math>\Delta \chi_{0} = N \Delta \kappa</math>と表すことができる。''N''は系を構成する分子の総数であり、''S'' は分子が配向子 '''''n''''' の方向にどれほど良く整列しているかの目安となる量である。全ての分子が '''''n''''' と平行なら ''S ='' 1であり、分子の熱揺らぎが大きくなると ''S'' は0に近づく。) 今、分子の '''''n''''' からの揺らぎ角を ''&theta;'' とすると、 <math>\Delta \chi = 1/2 <3 \cos^{2} \theta - 1> N \Delta \kappa</math> と書き換えることができる。ここで<>は統計力学的な平均である。よって ''S'' は、微視的な分子の揺らぎ角を用いて <math>S = 1/2 <3 \cos^{2} \theta - 1></math> と書くことができる。 {{液晶}} [[Category:液晶|ねまていつくえきしよう]] [[en:Liquid crystal#Nematic phase]]
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文学
文学(ぶんがく、英語: literature)とは、言語によって表現される芸術作品のこと。詩、小説、戯曲、随筆、評論など。また、それらを研究する学問(文芸学を参照)。文芸(ぶんげい)ともいう。 原初的な文学は口承文芸であったが、写本による書物の流通を経て、やがて印刷技術が普及するにつれて活字印刷による文学作品の出版が主流になった。現在では電子書籍やインターネットを利用した電子メディア上で表現されるものもある。 西洋での「文学」に相当する語(英: literature、仏: littérature、独: Literatur、伊: letteratura、西: literatura)は、ラテン語のlittera(文字)及びその派生語litteratura(筆記、文法、教養)を語源とし、現在では主に以下の意味を持つ。 中国・日本での「文学」の語は古代より書物による学芸全般を意味したが、今日のような言葉による審美的な創作を意味するようになったのはliterature(英)、littérature(仏)の訳語として「文学」が当てられた明治時代からである。初期の翻訳としては、1857年ジョゼフ・エドキンズによって『六合叢談』の中で著された論説文「希臘為西国文学之祖」や、1866年香港に遣わされたドイツ宣教師Wilhelm Lobscheidによる英語・広東語・中国語辞典『English and Chinese Dictionary』が挙げられ、英語から中国語への翻訳が、著作を通して日本に入ってきた。 文学は、言葉(口頭または文字)によるコミュニケーションのうち、言語のあらゆる力を活用して受け手への効果を増大させようとするものとして定義される。個人的な判断によって境界が曖昧でまちまちとなる文学は、その媒体や分野ではなく審美的な機能によって特徴づけられる: メッセージの表現方法が内容より優位であり、(複雑なものも含む)情報の伝達に限られた実用的なコミュニケーションからもはみ出すものである。今日では、文学はそれによって作者が歳月を隔てて我々に語り掛けるところの書物文化に結び付けられ、しかしながらまた同時に我々の歌謡がその遠縁であるところの文字を持たぬ人々の伝統的な詩歌のようなさまざまな形の口承による表現や、役者の声と身体を通して受容される演劇などにも関係する。 最も普通の意味での文学は、それ自身が歴とした芸術である。しかしながら、哲学書や、舞台芸術の戯曲や脚本など(さらには漫画やある種の文字による現代美術など)に接近すると、この芸術の境界を定めるのは時として困難である。一般的には、文学は特に審美的な目的ないしは形式を持つ作品と再定義される。この審美的な側面が文学の志向性であり、ジャーナリズムや政治などの何らかの特定の制約に従う各種の作品と識別する基準である。一見すると、この定義は純粋に哲学的・政治的・歴史的な作品を排除するように思える。だが、作品の各分野やジャンルが文学に属するか否かの分類にはとくに慎重であるべきである。あるテクストは作者がそう望まなかったにもかかわらず、またそれがその分野としての目的ではなかったにもかかわらず一定の文学的側面を持ってしまい得る。作品の文学性の基準は学者の間の数々の論争の的となってきた。ある者は分野の間にヒエラルキーを設け、またある者はある作品がその分野によく一致していることや、文学的テクストに期待される役割に専念していることで満足する。またある者にとっては、文学の傑作は何よりもまず時の試練に耐えるものであり、それこそが全世界的な射程を保証する資格なのである。 実際のところ文学とはまず第一に、自分自身と自分を取り巻く世界について自分の言葉で語る者と、その発見を受容し分かち合う者との出会いなのであり、その形式の果てしのない多様性と絶え間なく新たに生まれる主題は人間存在の条件そのものを物語っているのである。 審美的な志向性を持つ作品の集合という文学の定義はかなり近代になってからのものである。事実、それまではむしろ、相応に厳密な形式的基準に適合する作品が文学として認められる傾向にあった。アリストテレスは『詩学』において、悲劇と叙事詩に的を絞りそれらの話法を支配する形式的な規則を導入した。さらに、古代ギリシア人にとっては、歴史は純然たる芸術であり、詩神クレイオーに霊感を与えられるものであった。 随筆もまた文学に属すると考えられていた。今日のもはや文学作品とは考えられなくなったような随筆に比べ、当時の随筆では主題は重要なものではなかった。哲学もまた劣らず両義的なものである。プラトンの対話篇やローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』の文学性は今日誰も疑問に思わないであろう。他方で、文学の審美性が厳格な単純性をもって表される詩がしばしば最も純粋な文学形式であると考えられてきた。作品の文学性は移ろいやすいものであり、世紀を経ると共に文学は領域を拡大し、多様で通俗的な諸形式を次々と取り込んで行ったものと思われる。 文学の定義に基づくと、「作者」と「作家」の間には区別がある。作家は文学作品を書く者を指すが、作者は政治・歴史・科学・文学などの別を問わず何らかの書物を著した全ての者を指す。 文学作品の芸術性の拠り所は文芸評論家たちを頻繁に分断してきた問題である。古代より、2つの異なった概念が存在し、来たるべき様々な文学や芸術の潮流に影響を及ぼしてきた。アリストテレスは『詩学』において表現的な側面は重要でないと考え、それよりも作品の形式的な特性に固執していた。作家の仕事は、厳密な規則や理論に従うという面で建物を建てる大工の仕事と類似したものであるということになる。それに反して、偽ロンギヌス(en)は『崇高論』において、感情の表現を前面に押し出した。崇高は読者を興奮させ、恍惚とさせるものであり、それは話法の完成と一致するものとされた。ここには、審美的な題材に細工を施し受け手に反応を引き起こそうと働く職人と、公衆に移入させるような感情を表し作り出す霊感に恵まれた芸術家の対比が見出される。この論争は文芸評論史で幾度となく再出現し、また古典主義とロマン主義、自然主義と耽美主義のような互いに相容れない潮流を数多く生み出した。 文学的な著述は正書法や文法だけでなく、修辞学や詩学の規範にも従う。作家は文体を作り上げることを可能にする言語的な諸手段を利用し、話法を支え、散文を美的なものにするために詩学的な破格、脱線、造語などもまた拠り所とする。作者に固有の文体的要素と修辞技法のような修辞学的効果の双方が駆使され、そのようにして作家は他と一線を画す芸術家となるのである。 原初的な文学は口伝(口承文芸)である。それが文字で書きとめられるようになり写本の形で流布するようになったが、15世紀以降印刷技術が普及し、やがて活版印刷による文学作品の出版が盛んになった。現在ではインターネットに代表される電子メディア上で表現されるものもある。 メディアの変遷に応じ、最初は音声で受容される叙事詩、抒情詩などの詩や、演劇(劇文学)が中心的な役割を果たしたが、近代に至り文字の形での受容が容易になるにつれて詩から小説への大規模な移行が起こった。 言語に依存する芸術であるため、他言語の作品を鑑賞・解釈するためには翻訳が大変重要であり、翻訳家の存在が大きな意味を持つ。翻訳された作品を翻訳文学と呼ぶ。 文学作品を研究・分析・批評することを文芸評論(文芸批評)という。広義には研究論文から雑誌のコラムまで全て評論と言える。文学だけではなく、あらゆる作品が評論の対象になる。評論には様々な手法があり、それは研究対象や時代、評論家自身などに依存する。優れた評論文は、それ自体が文学作品として評価される。作家や思想家が文芸評論家として活動することもしばしばある。 詳細はそれぞれの項目を参照。 多数(たとえば50作以上)の文学作品を編集したものを文学全集と呼ぶことが多い。 代表的なものとして世界文学全集、日本文学全集がある。他に個人の全集、特定の国の全集、特定のジャンルの全集などがある。
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文学とは、言語によって表現される芸術作品のこと。詩、小説、戯曲、随筆、評論など。また、それらを研究する学問(文芸学を参照)。文芸(ぶんげい)ともいう。 原初的な文学は口承文芸であったが、写本による書物の流通を経て、やがて印刷技術が普及するにつれて活字印刷による文学作品の出版が主流になった。現在では電子書籍やインターネットを利用した電子メディア上で表現されるものもある。
{{otheruses|言葉の文化|岩波書店の雑誌|文学 (雑誌)}} {{出典の明記|date=2013年2月1日 (金) 21:42 (UTC)}} [[ファイル:Fragonard, The Reader.jpg|thumb|240px|[[ジャン・オノレ・フラゴナール]]『読書する女』(1772年)]] {{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}} '''文学'''(ぶんがく、{{Lang-en|'''literature'''}})とは、[[言語]]で表現された[[芸術]]のこと。[[随筆]]、[[小説]]、[[脚本]]、[[詩]]、[[評論]]など。また、それらを[[研究]]する[[学問]]([[文芸学]]を参照)。'''文芸'''(ぶんげい)ともいう。 原初的な文学は[[口承文芸]]であったが、写本による書物の流通を経て、やがて印刷技術が普及するにつれて活字印刷による文学作品の出版が主流になった。現在では[[電子書籍]]や[[インターネット]]を利用した電子メディア上で表現されるものもある。 ==名称について== [[西洋]]での「文学」に相当する語({{Lang-en-short|'''literature'''}}、{{Lang-fr-short|'''littérature'''}}、{{Lang-de-short|'''Literatur'''}}、{{Lang-it-short|'''letteratura'''}}、{{Lang-es-short|'''literatura'''}})は[[ラテン語|、ラテン語]]の''littera''(文字)及びその[[派生語]]''litteratura''([[筆記]]、[[文法]]、[[教養]])を[[語源]]とし、現在では主に以下の[[意味]]を持つ。 * 言語によって作られ、審美的な側面を持つ筆記または口述の([[科学]]的な作品や[[教育]]的な作品などとは異なる)芸術作品の総体: [[1764年]]初出 * そのような作品を創作し、研究する活動: [[19世紀]]前半以降 * 審美的な側面の有無にかかわらず、ある主題に関係した出版物の総体<ref group="注">「scientific literature」など。この意味は[[日本語]]には入ってきていない。言い方としては「文献」が近い。</ref>: [[1758年]]、[[ドイツ語]]''Literatur''から 中国・[[日本]]での「文学」の[[語]]は[[古代]]より[[書物]]による学芸全般を意味した<ref>『[[論語]]』学而6、雍也27</ref>が、今日のような[[言葉]]による審美的な創作を意味するようになったのはliterature(英)、littérature(仏)の訳語として「文学」が当てられた明治時代からである。初期の翻訳としては、1857年[[ジョゼフ・エドキンズ]]によって『六合叢談』の中で著された論説文「希臘為西国文学之祖」<ref>{{cite journal|title=中国・日本の近代における「文学」という翻訳語の成立 ―清末上海滞在のイギリス人宣教師エドキンスによる「希臘為西国文学之祖」の執筆をめぐって|url=https://doi.org/10.20613/hikaku.40.0_7|page=7-20|author=李征|journal=比較文学|date=1998|volume=40}}</ref>や、1866年香港に遣わされたドイツ宣教師Wilhelm Lobscheidによる英語・広東語・中国語辞典『English and Chinese Dictionary』<ref>{{cite journal|title=文學觀念流通的現代化進程:以近代英華/華英辭典編纂literature詞條為中心|url=https://scholars.lib.ntu.edu.tw/bitstream/123456789/372979/1/文學觀念流通的現代化進程:以近代英華/華英辭典編纂literature詞條為中心(1).pdf|page=309-317|author=蔡祝青|journal=東亞觀念史集刊|date=2012|volume=3}}</ref>が挙げられ、英語から中国語への翻訳が、著作を通して日本に入ってきた。 {{see also|[[日本の近現代文学史]]}} == 文学の定義と概念 == === 不明確な定義 === 文学は、言葉(口頭または[[文字]])による[[コミュニケーション]]のうち、言語のあらゆる力を活用して受け手への効果を増大させようとするものとして[[定義]]される。個人的な判断によって境界が曖昧でまちまちとなる文学は、その媒体や分野ではなく審美的な機能によって特徴づけられる: メッセージの表現方法が内容より優位であり、(複雑なものも含む)情報の伝達に限られた実用的なコミュニケーションからもはみ出すものである。今日では、文学はそれによって作者が歳月を隔てて我々に語り掛けるところの書物文化に結び付けられ、しかしながらまた同時に我々の歌謡がその遠縁であるところの文字を持たぬ人々の[[伝統]]的な詩歌のようなさまざまな形の口承による表現や、[[役者]]の声と身体を通して受容される[[演劇]]などにも関係する。 最も普通の意味での文学は、それ自身が歴とした[[芸術]]である。しかしながら、[[哲学]]書や、[[舞台芸術]]の[[戯曲]]や脚本など(さらには[[漫画]]やある種の文字による[[近代美術と現代美術|現代美術]]など)に接近すると、この芸術の境界を定めるのは時として困難である。一般的には、文学は特に審美的な目的ないしは形式を持つ作品と再定義される。この審美的な側面が文学の志向性であり、[[報道|ジャーナリズム]]や[[政治]]などの何らかの特定の制約に従う各種の作品と識別する基準である。一見すると、この定義は純粋に哲学的・政治的・歴史的な作品を排除するように思える。だが、作品の各分野やジャンルが文学に属するか否かの分類にはとくに慎重であるべきである。あるテクストは作者がそう望まなかったにもかかわらず、またそれがその分野としての目的ではなかったにもかかわらず一定の文学的側面を持ってしまい得る。作品の文学性の基準は学者の間の数々の論争の的となってきた。ある者は分野の間にヒエラルキーを設け、またある者はある作品がその分野によく一致していることや、文学的テクストに期待される役割に専念していることで満足する。またある者にとっては、文学の傑作は何よりもまず時の試練に耐えるものであり、それこそが全世界的な射程を保証する資格なのである。 実際のところ文学とはまず第一に、自分自身と自分を取り巻く世界について自分の言葉で語る者と、その発見を受容し分かち合う者との出会いなのであり、その形式の果てしのない多様性と絶え間なく新たに生まれる主題は人間存在の条件<!--l'humaine condition-->そのものを物語っているのである。<!--サルトルの『文学とは何か』かな?--> === 「文学」という概念の歴史的発達 === 審美的な志向性を持つ作品の集合という文学の定義はかなり近代になってからのものである。事実、それまではむしろ、相応に厳密な形式的基準に適合する作品が文学として認められる傾向にあった。[[アリストテレス]]は『[[詩学 (アリストテレス)|詩学]]』において、[[ギリシア悲劇|悲劇]]と[[叙事詩]]に的を絞りそれらの話法を支配する形式的な規則を導入した。さらに、古代ギリシア人にとっては、[[歴史]]は純然たる芸術であり、詩神[[クレイオー]]に霊感を与えられるものであった。 [[随筆]]もまた文学に属すると考えられていた。今日のもはや文学作品とは考えられなくなったような随筆に比べ、当時の随筆では主題は重要なものではなかった<!--形式が重要だった-->。哲学もまた劣らず両義的なものである。[[プラトン]]の[[対話篇]]やローマ皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]の『[[自省録]]』の文学性は今日誰も疑問に思わないであろう。他方で、文学の審美性が厳格な単純性をもって表される[[詩]]がしばしば最も純粋な文学形式であると考えられてきた。作品の文学性は移ろいやすいものであり、世紀を経ると共に文学は領域を拡大し、多様で通俗的な諸形式を次々と取り込んで行ったものと思われる。 === 作者と作家 === 文学の定義に基づくと、「作者」と「[[作家]]」の間には区別がある。作家は文学作品を書く者を指すが、作者は政治・歴史・科学・文学などの別を問わず何らかの書物を著した全ての者を指す。 == 芸術と文学―芸術家か職人か == 文学作品の芸術性の拠り所は[[文芸評論家]]たちを頻繁に分断してきた問題である。[[古代]]より、2つの異なった概念が存在し、来たるべき様々な文学や芸術の潮流に影響を及ぼしてきた。[[アリストテレス]]は『[[詩学 (アリストテレス)|詩学]]』において表現的な側面は重要でないと考え、それよりも作品の形式的な特性に固執していた。作家の仕事は、厳密な規則や理論に従うという面で建物を建てる[[大工]]の仕事と類似したものであるということになる<ref>[[アリストテレス]]『[[ニコマコス倫理学]]』VI、4</ref>。それに反して、[[偽ロンギヌス]]([[:en:Longinus (literature)|en]])は『崇高論』において、感情の表現を前面に押し出した。[[崇高]]は読者を興奮させ、恍惚とさせるものであり、それは話法の完成と一致するものとされた。ここには、審美的な題材に細工を施し受け手に反応を引き起こそうと働く職人と、公衆に移入させるような感情を表し作り出す霊感に恵まれた芸術家の対比が見出される。この論争は[[文芸評論]]史で幾度となく再出現し、また[[古典主義]]と[[ロマン主義]]、[[自然主義文学|自然主義]]と[[耽美主義]]のような互いに相容れない潮流を数多く生み出した。 == 文学の著述 == 文学的な著述<!--エクリチュール-->は[[正書法]]や[[文法]]だけでなく、[[修辞学]]や詩学の規範にも従う。作家は文体を作り上げることを可能にする言語的な諸手段を利用し、話法を支え、散文を美的なものにするために詩学的な破格、脱線、造語などもまた拠り所とする。作者に固有の文体的要素と[[修辞技法]]のような[[修辞学]]的効果の双方が駆使され、そのようにして作家は他と一線を画す芸術家となるのである。<!--テクストが実際に文学になるためには諸規則に従うことと破ることの双方が必要ということ。--> <!--仏語版からの翻訳メモ finalite: 志向性(合目的性) oeuvre: 作品 discours: 話法(ディスクール) ecriture: 著述(エクリチュール) --> == 文学の形態 == [[ファイル:Old book bindings.jpg|thumb|240px|[[オックスフォード大学]]の蔵書]] === メディア === 原初的な文学は口伝(口承文芸)である。それが文字で書きとめられるようになり[[写本]]の形で流布するようになったが、15世紀以降[[印刷]]技術が普及し、やがて[[活版印刷]]による文学作品の出版が盛んになった。現在では[[インターネット]]に代表される電子メディア上で表現されるものもある。 === 文学形式 === メディアの変遷に応じ、最初は音声で受容される[[叙事詩]]、[[抒情詩]]などの詩や、[[演劇]]([[劇文学]])が中心的な役割を果たしたが、近代に至り文字の形での受容が容易になるにつれて詩から[[小説]]への大規模な移行が起こった。 === 翻訳 === 言語に依存する芸術であるため、他言語の作品を鑑賞・解釈するためには[[翻訳]]が大変重要であり、翻訳家の存在が大きな意味を持つ。翻訳された作品を翻訳文学と呼ぶ。 === 評論 === 文学作品を研究・分析・批評することを[[文芸評論]](文芸批評)という。広義には研究論文から雑誌のコラムまで全て評論と言える。文学だけではなく、あらゆる作品が評論の対象になる。評論には様々な手法があり、それは研究対象や時代、[[評論家]]自身などに依存する。優れた評論文は、それ自体が文学作品として評価される。[[著作家|作家]]や[[思想|思想家]]が[[文芸評論|文芸評論家]]として活動することもしばしばある。 == 文学の分野 == 詳細はそれぞれの項目を参照。 * [[口承文学|口承文学(口承文芸)]] ** [[民謡]] ** [[物語]] * [[詩]]([[韻文]]) ** [[定型詩]] *** [[和歌]] - [[短歌]] - [[連歌]] - [[狂歌]] *** [[俳句]] - [[連句]] - [[川柳]] *** [[漢詩]] - [[古体詩]] - [[近体詩]] *** [[ソネット]]、[[アレクサンドラン]]、[[時調]] *** [[劇詩]] ** [[自由詩]] ** [[散文詩]] * [[散文]] ** [[小説]]([[フィクション]]) ** [[脚本]] *** [[戯曲]] ** [[随筆]](エッセイ) ** [[紀行]] ** [[日記]] ** [[自伝]]、[[伝記]]、[[評伝]] ** [[文芸評論]]、[[書評]] ** [[ノンフィクション]]([[ルポルタージュ]]) ==文学全集== 多数({{要出典|範囲=たとえば50作以上|date=2021年3月}})の文学作品を編集したものを文学[[全集]]と呼ぶことが多い。 代表的なものとして[[世界文学全集]]、[[日本文学全集]]がある。他に個人の全集、特定の国の全集、特定のジャンルの全集などがある。 == 言語・国家・民族による分類 == {{Div col|colwidth=20em}} * [[アイヌ文学]] * [[アイスランド文学]] * [[アイルランド文学]] ** [[アングロサクソン・アイルランド文学]] * {{仮リンク|アジア文学|en|Asian literature}} * {{仮リンク|アゼルバイジャン文学|en|Azerbaijani literature}} * [[アフリカ文学]] * [[アメリカ文学]] ** [[アメリカ黒人文学]] ** [[インディアン文学]] * [[アラビア文学]] * [[アルジェリア文学]] * [[アルゼンチン文学]] * {{仮リンク|アルメニア文学|en|Armenian literature}} * [[アンゴラ文学]] * [[イギリス文学]] * [[イスラエル文学]] * [[イタリア文学]] * [[イディッシュ文学]] * [[インド文学]] * [[インドネシア文学]] * [[ウクライナ文学]] * {{仮リンク|ウズベキスタン文学|label=ウズベク文学|uz|Oʻzbek adabiyoti|ru|Узбекская литература}} * [[ウルグアイ文学]] * [[英文学]]([[英語]]で書かれた文学) * [[エジプト文学]] * [[エストニア文学]] * [[エスペラント文学]] * {{仮リンク|エチオピア文学|en|Ethiopian literature}} * [[オーストラリア文学]] * [[オーストリア文学]] * {{仮リンク|オセアニア文学|en|Oceanian literature}}('''海洋文学'''とも呼ばれる) * [[オランダ文学]] * [[カザフスタン文学]] * [[カナダ文学]] * {{仮リンク|カメルーン文学|fr|Littérature 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音楽のジャンル一覧
音楽のジャンル一覧(おんがくのジャンルいちらん) 五十音順。 ポピュラー音楽のジャンル一覧も参照。 このページはトランス、ロック、EDM、レゲエなどのジャンルのほかに、J-POP、洋楽、アニメソング、ゲームソングなどの出典ジャンルやラブソング、卒業ソングなどの歌詞ジャンルが含まれている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "音楽のジャンル一覧(おんがくのジャンルいちらん)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "五十音順。 ポピュラー音楽のジャンル一覧も参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "このページはトランス、ロック、EDM、レゲエなどのジャンルのほかに、J-POP、洋楽、アニメソング、ゲームソングなどの出典ジャンルやラブソング、卒業ソングなどの歌詞ジャンルが含まれている。", "title": null } ]
音楽のジャンル一覧(おんがくのジャンルいちらん) 五十音順。 ポピュラー音楽のジャンル一覧も参照。 このページはトランス、ロック、EDM、レゲエなどのジャンルのほかに、J-POP、洋楽、アニメソング、ゲームソングなどの出典ジャンルやラブソング、卒業ソングなどの歌詞ジャンルが含まれている。
'''音楽のジャンル一覧'''(おんがくのジャンルいちらん) 五十音順。 [[ポピュラー音楽のジャンル一覧]]も参照。 このページはトランス、ロック、EDM、レゲエなどのジャンルのほかに、J-POP、洋楽、アニメソング、ゲームソングなどの出典ジャンルやラブソング、卒業ソングなどの歌詞ジャンルが含まれている。 == あ == * [[アートコア]] * [[アイドルソング]] * [[アイリッシュミュージック]] * [[ア・カペラ]] * [[アシッドジャズ]] * [[トランス (音楽)|アシッドトランス]] * [[アシッド・ハウス]] * [[ダンス・ポップ|アップテンポ]] * [[アニメソング]] * [[アフリカンミュージック]] * [[アフロ・ハウス]] * [[アフロビート]] * [[アラブ音楽]](アラブミュージック) * [[環境音楽|アンビエント]] * [[アンビエントサイケ]] * [[アンビエント・ハウス]] * [[アンビエント・テクノ]] * [[イージーリスニング]](MOR) * [[:en:Yé-yé|イェイェ]]([[フランス]]) * [[イタロ・ハウス]] * [[トランス (音楽)|イビザトランス]] * [[器楽曲|インストゥルメンタル]] * [[インダストリアル]] * [[インディーズ]] * [[インディー・ロック]] * [[インテリジェント・ダンス・ミュージック]](IDM) * [[ヴァイキング・メタル]] * [[ウィッチハウス]] * [[ヴェイパーウェイヴ]] * [[ウエストコースト・ジャズ]] * [[AOR]] * [[A-POP]] * [[映画音楽]] * [[エクストラトーン]] * [[エクストリーム・メタル]] * [[エスニック・フュージョン]] * [[エピック (音楽)|エピック]] * [[トランス (音楽)|エピックトランス]] * [[ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ|MPB]] * [[エモ]](エモーショナル・ハードコア) * [[LAメタル]] * [[エレクトロクラッシュ]] * [[エレクトロニカ]] * [[エレクトロニック・ダンス・ミュージック]](EDM) * [[エレクトロニック・ボディ・ミュージック]](EBM) * [[エレクトロ・ハウス]] * 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音楽家
音楽家()、ミュージシャン(英: musician)は、音楽を作ったり歌唱、演奏したりする人のこと。 作曲家は著作権を有し、編曲家は二次的著作権を有する。これらを総称して音楽作家と呼ぶ。また、複数の役職を兼ねている制作者も多い。 指揮者、演奏者、歌手に分類される。現代の日本において実演家はその実演に対し、著作隣接権を有する。 音楽に関係する他の職業については、Category:音楽関連の職業を参照。 音楽に関係する具体的ジェイオーク人物については、Category:音楽関係者を参照。
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音楽家、ミュージシャンは、音楽を作ったり歌唱、演奏したりする人のこと。
{{otheruses||ファン・デル・ヘルストの絵画|音楽家 (ファン・デル・ヘルストの絵画)}} {{redirect|ミュージシャン|同名のバンド|ミュージシャン (バンド)}} {{複数の問題 | 独自研究 = 2016年9月 | 出典の明記 = 2012年10月}} [[ファイル:Quito Accordion player.jpg|サムネイル|[[エクアドル]]の音楽家]] {{読み仮名|'''音楽家'''|おんがくか}}、'''ミュージシャン'''({{lang-en-short}}<nowiki/>musician)は、[[音楽]]を作ったり[[歌唱]]、[[演奏]]したりする人のこと。 == 制作者 == *'''音楽作家''' **[[作曲家]] **[[編曲家]] - 完成した曲を[[編曲]]する 作曲家は[[著作権]]を有し、編曲家は[[著作権の保護期間#二次的著作物の著作権との関係|二次的著作権]]を有する。これらを総称して'''音楽作家'''と呼ぶ。また、複数の役職を兼ねている制作者も多い。 == 実演家 == [[指揮者]]、[[演奏者]]、[[歌手]]に分類される。現代の日本において実演家はその実演に対し、著作隣接権を有する。 ===演奏者=== ====職業別==== <!--バグを起こすので行から取り除いた--><!--|アーティスト<br>ミュージシャン||ポップ・ミュージック、ロック、パンクなどの現代音楽の奏者{{要出典|date=2013年7月|title=クラッシク音楽の奏者も普通にartistと呼ばれているはずです。http://www.steinway.com/artistsなどを参照してください}}{{要出典|date=2013年7月|title=「artist」は英語ですね。このページは日本語版です(し仮名表記の「アーティスト」は日本語です)から、日本語としてのアーティストにクラシック音楽の奏者が含まれるのでしたら、それも加えるべきですね。}}。 --> {|class=wikitable !職業!!内容 |- <!--|アーティスト<br>ミュージシャン||ポップ・ミュージック、ロック、パンクなどの現代音楽の奏者{{要出典|date=2013年7月|title=クラッシク音楽の奏者も普通にartistと呼ばれているはずです。http://www.steinway.com/artistsなどを参照してください}}{{要出典|date=2013年7月|title=「artist」は英語ですね。このページは日本語版です(し仮名表記の「アーティスト」は日本語です)から、日本語としてのアーティストにクラシック音楽の奏者が含まれるのでしたら、それも加えるべきですね。}}。 --> |楽師||皇帝たちの時代の中国における政府所有の楽器奏者 |- |宮廷楽団||王政時代のヨーロッパにおける政府所有の楽器奏者。[[ウィーン宮廷楽団]]、[[マイニンゲン宮廷楽団]]など。 |- |[[宮内庁式部職#楽部|宮内庁式部職楽部]]||現代の日本政府の[[宮内庁]]が所有する楽団 |- |[[軍楽隊]]||軍隊に所属する音楽隊 |- |[[下座]]||[[落語]]を盛り上げる日本の三味線弾きや太鼓叩き |- |太夫||[[浄瑠璃]]で音曲を演奏する日本の男性 |- |囃子方||[[能楽]]で笛、小鼓、大鼓、太鼓の日本の奏者 |- |浪曲師||三味線を弾きながら[[浪曲]]を唄う日本の芸人 |} ====楽器別==== {|class=wikitable !楽器!!演奏家の呼称 |- |[[アコーディオン]]||[[アコーディオニスト]] |- |[[ヴァイオリン]]||[[ヴァイオリニスト]] |- |[[ヴィオラ]]||[[ヴィオリスト]] |- |[[ウクレレ]]||ウクレリスト |- |[[オーボエ]]||オーボイスト |- |[[オルガン]]||[[オルガニスト]] |- |[[ギター]]||[[ギタリスト]] |- |[[クラリネット]]||クラリネッティスト |- |[[コンガ]]||コンゲーロ、[[パーカッショニスト]]、ドラムス |- |[[コントラバス]]||コントラバシスト |- |[[サクソフォーン]]||[[サクソフォニスト]] |- |[[シンセサイザー]]||[[シンセシスト]] |- |[[シンバル]]||シンバリスト、[[パーカッショニスト]]、[[ドラマー]]、ドラムス |- |[[レコード]]||[[ディスクジョッキー]] |- |[[ティンパニ]]||ティンパニスト |- |[[チェロ]]||[[チェリスト]] |- |[[チューバ]]||チュービスト |- |[[ドラムセット|ドラム]]||[[ドラマー]]、[[パーカッショニスト]] |- |[[ドラムセット]]||[[ドラマー]]、ドラムス |- |[[トランペット]]||トランペッター |- |[[トロンボーン]]||トロンボニスト |- |[[パーカッション]]||[[パーカッショニスト]] |- |[[ハープ]]||ハーピスト |- |[[ファゴット]]||ファゴッティスト |- |[[フルート]]||[[フルーティスト]] |- |[[ピアノ]]||[[ピアニスト]] |- |[[ベース (弦楽器)|ベース]]||[[ベーシスト]] |- |[[ホルン]]||ホルニスト |- |[[ボンゴ]]||ボンゴセーロ、[[パーカッショニスト]]、ドラムス |- |[[マリンバ]]||マリンビスト |- |[[マンドリン]]||マンドリニスト |- |[[ユーフォニアム]]||ユーフォニアミスト |} ===歌手=== *[[声楽家]] *[[浪曲#主な浪曲師|浪曲師]] *[[聖歌隊]] *[[歌手]] ==制作者兼実演家== *[[シンガーソングライター]] ==その他== 音楽に関係する他の職業については、[[:Category:音楽関連の職業]]を参照。 音楽に関係する具体的ジェイオーク人物については、[[:Category:音楽関係者]]を参照。 ==音楽家に関係する呼称== ===日本語=== ;ミュージシャン :現代の音楽家を表す語である{{要出典|date=2016年11月}}。[[雅楽]]、[[小唄]]、[[端唄]]、[[義太夫]]、[[浪曲]]、[[囃子方]]、クラシック音楽の演奏家や声楽家など古くからある音楽家や、現代のものでも[[演歌]]などの音楽家はこの語には含まれない。 ;アーティスト :画家や彫刻家など広い意味での芸術家を指す語として使われていたが、近年になって、歌手やバンド等もこの語で呼ばれるようになった。なお、[[日本音楽著作権協会]]や[[日本レコード協会]]は、著作権法第2条にある「実演(芸能的性質を有する行為)」「実演家」の意味でこの語を使用している<ref>http://www.riaj.or.jp/copyright/music/ (一般社団法人 日本レコード協会) &mdash; 『音楽CDに関わる人々と著作権』「【実演家】・・・・ 著作物を演じたり、表現する人で、音楽CDの場合は歌手や演奏家が該当します。アーティストとも呼ばれます。」</ref>。 ===英語=== ;{{lang|en|musician}} :音楽家。 なお、アメリカレコード協会は「{{lang|en|musician}}」と「{{lang|en|artist}}」を使い分けている。アメリカレコード協会はこの語を「実演者」(より厳密には「主演ミュージシャン」)の意味で使い、「著作者(作曲者)」という意味では使わない。例えば[[ホイットニー・ヒューストン]]は自作自演家ではない歌手だが、同協会は彼女のみを「{{lang|en|artist}}」と呼んでおり、作品に参加しているその他の「サポート・ミュージシャン」を含んでいない<ref>http://www.riaa.com/goldandplatinum.php?content_selector=top-100-albums</ref>。 ;{{lang|en|artist}} :この語は「{{lang|en|art}}を制作する人」の意味でも、「{{lang|en|art}}を実演する人」の意味でも使われる<ref>http://dictionary.reference.com/browse/artist?s=t&path=/</ref>。「{{lang|en|art}}」は芸術一般を含むため、音楽の制作や実演の場合には楽器の名前を冠することがある。例えば「{{lang|en|piano artist}}」はピアニストとピアノ曲の作曲家の両方の意味である。また歌手やバンドを「{{lang|en|artist}}」と呼ぶ場合には「歌手(と演奏者)」、つまり「実演家」という意味で使われている。前者と区別するために「performing artist」(パフォーミング・アーティスト)と言う場合もある。アメリカレコード協会やグラミー賞は「実演家」の意味で「{{lang|en|artist}}」という呼称を使っている<ref group="注">一例として、マイケル・ジャクソンの『ビリー・ジーン』。最優秀 R&B ボーカル・パフォーマンスは「アーティスト(実演家)」として授賞し、最優秀R&B楽曲賞は「ソングライター(作曲家)」として授賞している。http://www.grammy.com/nominees/search?artist=michael+jackson&field_nominee_work_value=Billie+Jean+&year=1983&genre=All&=Search</ref>。グラミー賞でも1960年代から「{{lang|en|Grammy Award for Best New Artist}}」(最優秀新人賞)の授賞を始めている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[音楽学者]] - [[音楽]]を正規の[[学問]]として追究・研究する者で、欧米では[[哲学]]科の一分野に属する学者。 *[[音楽家の一覧]] - '''音楽家'''の[[一覧の一覧]]。 *[[音楽のジャンル一覧]] *[[ポピュラー音楽のジャンル一覧]] {{-}}<!--バグ回避--> {{音楽}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんかくか}} [[Category:音楽家|*]] [[Category:音楽関連の職業]]
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アイシャ・ラドワーン
アイシャ・ラドワーン、アーイシャ・ラドワーン(アラビア語: عائشة رضوان、Aicha Redouane, Aïcha Redouane, 1962年 - )は、モロッコ出身の女性歌手。主にアラブ古典音楽の歌い手として知られる。現在フランスで活動。
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アイシャ・ラドワーン、アーイシャ・ラドワーンは、モロッコ出身の女性歌手。主にアラブ古典音楽の歌い手として知られる。現在フランスで活動。
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言語学
言語学(げんごがく、英: linguistics)は、人間の言語の特性、構造、機能、獲得、系統、変化などを研究する学問である。下位分野として、音声学、音韻論、形態論、統語論 (統辞論)、意味論、語用論などの様々な分野がある。これらの下位分野は、(表出) 音 (手話言語の場合はジェスチャー)、音素、語と形態素、句と文、意味、 言語使用に概ねそれぞれが対応している。 言語学は、言語そのものの解明を目的とする科学である。実用を目的とする語学とは別物である。 誤解している人がよくいるが、言語学は古い時代の言語や語源だけを扱うわけではない。言語学は過去・現在をともに対象としており、さらに言うと、直接に観察できる現代の言語を対象とする研究のほうがむしろ有利であり、言語の本質に迫りやすいので、言語学ではより重要である。 言語学の目的は、人間の言語を客観的に記述・説明することである。「客観的に」とは、言語データの観察を通して現に存在する言語の持つ法則や性質を記述・説明するということであり、「記述」とは、言語現象の一般化を行って規則や制約を明らかにすることであり、「説明」とは、その規則・制約がなぜ発生するのかを明らかにすることである。 言語学は言語の優劣には言及しない。むしろ、現代の言語学においては、あらゆる言語に優劣が存在しないことが前提となっている。そのため、すべての言語は同等に扱われる。しかしながら、言語の史的変化を言語の進化ととらえ、社会・文明の成熟度と言語体系の複雑さを相関させるような視点が過去に一部存在していた。その後、いかなる言語も複雑さを有していることが明らかとなり、そうした見解は否定された。すなわち「幼稚な言語や高度な言語といったものは存在せず、すべての言語はそれぞれの言語社会と密接に関連しながら、それぞれのコミュニティに適応して用いられている」というのが現代の言語学の基本的見解である。 英語における名称「linguistics」の語源は linguistique(フランス語)であり、さらにさかのぼるとlingua(ラテン語で「舌、言葉」の意)である。linguisticsという語は1850年代から使われ始めた。 古代の言語学者に、インドのパーニニがいる。 西洋における言語研究の始まりは、紀元前にギリシアの哲学者たち(プラトン、エピクロスなど)の間で起こった言語起源論や修辞学にまでさかのぼる。古典ギリシア語の文法書は、紀元前1世紀までに完成し、ラテン語のほか後の西洋の言語の文法学(伝統文法)に大きな影響を与えた。 言語学が大きく飛躍する節目となったのは、1786年のことである。イングランドの法学者ウィリアム・ジョーンズは、インドのカルカッタに在任中に独学していたサンスクリット語の文法が、以前に学んだギリシア語やラテン語などの文法と類似していることに気づき、「これらは共通の祖語から分化したと考えられる」との見解をアジア協会において示した。これが契機となり、19世紀に入るとヤーコプ・グリム 、フランツ・ボップ、ラスムス・ラスクの3人により比較言語学が開始された。この時代の言語学は植物のように言語も成長・発展し、老いて死んでいく、有機体のように捉えられていた。しかし1876年に文献学や音声学を取り入れた、言語の歴史的展開を研究すべきなのが言語学だとする青年文法学派がドイツのライプツィヒで興り(19世紀)インド・ヨーロッパ語族の概念が確立した(印欧語学) 20世紀に入ると言語学は大きな変動期を迎えることになる。20世紀初頭にスイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールの言語学は、通時的な(書き言葉の)研究から共時的な(話し言葉の)研究へと対象を広げた。またソシュールの言語学は、言語学にとどまらない、「構造主義」と呼ばれる潮流の一部にもなった(また言語学においては(ヨーロッパ)構造主義言語学とも)。20世紀以降の言語学を指して、近代言語学と呼ばれることもある。 アメリカの言語学は、人類学者のフランツ・ボアズ のアメリカ州の先住民族の言語研究やエドワード・サピアがさきがけとなった。そこから発展したアメリカ構造主義言語学(前述のヨーロッパ構造主義言語学との関連は薄い)の枠組みは、レナード・ブルームフィールドによって確立された。 20世紀後半、ノーム・チョムスキーの生成文法は、以上で延べたような近代言語学からさらに一変するような変革をもたらし、現代言語学と言われることもある。後述する認知言語学からは批判もあるなど、「チョムスキー言語学」が全てではないが、現代の言語学においてその影響は大きい。 また20世紀後半には他にも、マイケル・ハリデー(en:Michael Halliday)らの機能言語学(en:Systemic functional grammar)や、ジョージ・レイコフらの認知言語学など、異なったアプローチも考案された。 音声学が発音時の筋肉の動きや音声の音響学的特性など物理的な対象を研究するのに対して、音韻論ではその言語で可能な音節の範囲(音素配列論)など言語が音声を利用するしくみを研究する。 語の成り立ちは形態論で研究し、語が他の語と結合して作る構造は統語論で研究する。統語論が研究対象とするのは文までで、それ以上のテクストや会話などは談話分析で扱う。 意味論が研究対象とする「意味」とは、伝統的に、話者や文脈・状況を捨象した普遍的な語の意味や文の意味(真理条件)に限られてきた。話者の意図は意味論の研究対象ではないと見る場合、これの研究は語用論で行う。 人間の言語学の基本原則は、言語は人々によって作成された発明ということである。 言語研究の記号論的伝統は、言語を意味と形式の相互作用から生じる記号のシステムと見なしている。言語構造の編成は計算と見なされる。 また、言語学は本質的に社会的および文化的科学に関連していると見なされている。なぜなら、言語コミュニティによる社会的相互作用ではさまざまな言語が形成されているからである。 言語の人間性の見方を表すフレームワークには、とりわけ構造言語学が含まれる。 構造分析とは、音声、形態、構文、談話などの各層を最小単位で分析することを意味する。これらはインベントリ(音素、形態素、語彙クラス、フレーズタイプなど)に収集され、構造およびレイヤー階層内での相互作用を調査する。 機能分析は、構造分析に、各ユニットが持つ可能性のあるセマンティックおよびその他の機能的役割の割り当てを追加する。 たとえば、名詞句は、文の文法的な主語または目的語として、あるいは意味論的なエージェントまたは患者として機能することができる。 機能言語学、または機能文法は、構造言語学の一分野である。 人間性の文脈では、構造主義と機能主義という用語は、他の人間科学におけるそれらの意味に関連している。 形式的構造主義と機能的構造主義の違いは、なぜ言語が持つ特性を持っているのかという質問への答えにある。機能的な説明は、言語がコミュニケーションのためのツールである、またはコミュニケーションが言語の主要な機能であるという考えを伴う。 したがって、言語形式は、その機能的価値または有用性に関して説明される。 他の構造主義的アプローチは、形式が二国間および多層言語システムの内部メカニズムから続くという視点を取る。 言語の生物学的基礎を明らかにすることを目的とした、認知言語学や生成文法研究言語認識などのアプローチ。 生成文法は、これらの基礎が生来の文法知識から生じると主張している。したがって、このアプローチの中心的な関心事の1つは、言語知識のどの側面が遺伝的であるかを発見することである。 一例をあげると、ノーム・チョムスキーらは生成文法という仮説を唱え、「普遍文法」という仮説を提起した。 (なお、チョムスキーの仮説は、現在ではそれほど広く支持されているわけではない。 対照的に、認知言語学は、生来の文法の概念を拒否し、人間の精神がイベントスキーマから言語構造を作成する方法を研究する。 認知的制約とバイアスが人間の言語に及ぼす影響も研究されている。 神経言語プログラミングと同様に、言語は感覚を介してアプローチされる。 認知言語学者は、感覚運動スキーマに関連する表現を探すことによって知識の化身を研究する。 密接に関連するアプローチは進化言語学であり、文化的複製者としての言語単位の研究が含まれる。 言語がどのように複製され、個人または言語コミュニティの精神に適応するかを研究することが可能である。 文法の構築は、ミームの概念を構文の研究に適用するフレームワークである。 生成的アプローチと進化的アプローチは、形式主義と機能主義と呼ばれることもある。 ただし、この概念は、人間科学での用語の使用とは異なる。 以下に言語学が明らかにしてきた言語の特徴をいくつか記す。 ソシュールは、「能記」(signifiant) と「所記」(signifié) という2つの概念(シニフィアンとシニフィエ)を用いて、言語記号の音声・形態とその意味との間には必然的な関係性はないという言語記号の恣意性を説いた。 これとはほぼ反対の立場として音象徴という見解がある。これは、音素そのものに何らかの意味や感覚、印象といったものがあり、言語記号はその組み合わせによって合理的に作られているとするものである。しかし、実際にはどの言語にも普遍的な音象徴というものは存在しないため、現在そのような立場の言語研究はあまり行われていない。 アンドレ・マルティネは言語が単なる音声の羅列ではなく、二重構造を有していることを指摘した。すなわち、文を最小単位に分割しようとした場合、まずは意味を持つ最小単位である形態素のレベルに分割される。そして、形態素はさらに音素に分割される。例えば、日本語の [ame](雨、飴)という語は語としてはこれ以上分解できないが、音素としては /a/、/m/、/e/ の三つに分解される。言語の持つこのような二重構造は二重分節と呼ばれる。動物の発する声にはこうした性質が見られないため、二重分節はヒトの言語を特徴づける性質とされる。 ノーム・チョムスキーは言語の規則には、例えば「前から3番目の語」というような表層の順序に言及するようなものは存在しない、言語の規則はむしろ表層にあらわれない範疇・階層・構成素などの構造から生まれると考え、これを「構造依存性」と呼んだ。ノーム・チョムスキーはgenerative capacityという概念により、「(ある言語の)文法は、その言語の文ら(「表層」)をweakly generateし、それら文らのstructural descriptors(「深層」)をstrongly generateする」(ここで「文ら」としているのは、原文sentencesの複数形に意味があるため)と述べた。 人間の言語は過去に起こった事実や未来のことを表現することも可能である。文字の体系を持っていれば、文字に書き留めることによって、後世に伝えることも可能になる。しかし、動物の場合、餌のありかや敵の急襲を知らせるなど現在のことしか伝達できない。『(科学をおこなう前に)まず、定義だ』とか『「人間が話す言語」とは何かを明確にする必要がある』と言った人がおり、『学者らによる「言語」の定義の問題は未だに決着していない。』と言った人がいる。
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言語学は、人間の言語の特性、構造、機能、獲得、系統、変化などを研究する学問である。下位分野として、音声学、音韻論、形態論、統語論 (統辞論)、意味論、語用論などの様々な分野がある。これらの下位分野は、(表出) 音 (手話言語の場合はジェスチャー)、音素、語と形態素、句と文、意味、 言語使用に概ねそれぞれが対応している。
{{混同|語学}} {{言語学}} '''言語学'''(げんごがく、{{Lang-en-short|linguistics}})は、人間の[[言語]]の特性、構造、機能、獲得、系統、変化などを研究する[[学問]]である。下位分野として、[[音声学]]、[[音韻論]]、[[形態論]]、[[統語論]] ([[統辞論]])、[[意味論 (言語学)|意味論]]、[[語用論]]などの様々な分野がある<ref name="kojien">言語学 - 広辞苑。</ref>。これらの下位分野は、(表出) 音 ([[手話言語]]の場合は[[ジェスチャー]])、[[音素]]、[[語]]と[[形態素]]、[[句]]と[[文]]、[[意味]]、 [[言語使用]]に概ねそれぞれが対応している。 == 概要 == 言語学は、言語そのものの解明を目的とする科学である<ref name="ponica">『[[日本大百科全書]]』(ニッポニカ)、言語学</ref>。実用を目的とする[[語学]]とは別物である<ref name="ponica" />。 誤解している人がよくいるが、言語学は古い時代の言語や語源だけを扱うわけではない<ref name="ponica" />。言語学は過去・現在をともに対象としており、さらに言うと、直接に観察できる現代の言語を対象とする研究のほうがむしろ有利であり、言語の本質に迫りやすいので、言語学ではより重要である<ref name="ponica" />。 ;目的 言語学の目的は、人間の[[言語]]を'''[[客観]]的に記述・[[説明]]する'''ことである。「客観的に」とは、言語データの[[観察]]を通して現に存在する言語の持つ[[法則]]や[[性質]]を記述・説明するということであり、「記述」とは、言語現象の一般化を行って[[規則]]や制約を明らかにすることであり、「説明」とは、その規則・制約がなぜ発生するのかを明らかにすることである。<ref group="注">いくつか説明法があるが、ひとつは[[動機づけ]]を説明する方法である。</ref> 言語学は言語の優劣には言及しない。むしろ、現代の言語学においては、あらゆる言語に優劣が存在しないことが前提となっている。そのため、すべての言語は同等に扱われる。しかしながら、言語の史的変化を言語の[[進化]]ととらえ、[[社会]]・[[文明]]の成熟度と言語体系の複雑さを相関させるような視点が過去に一部存在していた。その後、いかなる言語も複雑さを有していることが明らかとなり、そうした見解は否定された。すなわち「幼稚な言語や高度な言語といったものは存在せず、すべての言語はそれぞれの言語[[社会]]と密接に関連しながら、それぞれの[[コミュニティ]]に適応して用いられている」というのが現代の言語学の基本的見解である。 ;この学問の呼称の語源 [[英語]]における名称「linguistics''」''の[[語源]]は ''linguistique''([[フランス語]])であり、さらにさかのぼると''lingua''([[ラテン語]]で「[[舌]]、[[言葉]]」の意)である。linguisticsという語は[[1850年代]]から使われ始めた<ref>McArthur, Tom (1996), <cite>The Concise Oxford Companion to the English Language</cite>, Oxford University Press (ISBN 0198631367)</ref>。 == 言語学の歴史 == ;19世紀までの言語研究 古代の言語学者に、インドの[[パーニニ]]がいる。 西洋における[[言語]]研究の始まりは、紀元前に[[ギリシア]]の[[哲学]]者たち([[プラトン]]、[[エピクロス]]など)の間で起こった[[言語の起源|言語起源論]]や[[修辞技法|修辞学]]にまでさかのぼる。[[ギリシア語|古典ギリシア語]]の[[文法]]書は、[[紀元前1世紀]]までに完成し、[[ラテン語]]のほか後の西洋の言語の文法学([[伝統文法]])に大きな影響を与えた。 言語学が大きく飛躍する節目となったのは、[[1786年]]のことである。[[イングランド]]の法学者[[ウィリアム・ジョーンズ (言語学者)|ウィリアム・ジョーンズ]]は、[[インド]]の[[コルカタ|カルカッタ]]に在任中に独学していた[[サンスクリット語]]の文法が、以前に学んだ[[ギリシア語]]や[[ラテン語]]などの文法と類似していることに気づき、「これらは共通の[[祖語]]から分化したと考えられる」との見解を[[ベンガル・アジア協会|アジア協会]]において示した<ref>「新インド学」p17 長田俊樹 角川書店 平成14年11月10日初版発行</ref>。これが契機となり、19世紀に入ると[[ヤーコプ・グリム]] 、[[フランツ・ボップ]]、[[ラスムス・ラスク]]の3人により[[比較言語学]]が開始された。この時代の言語学は植物のように言語も成長・発展し、老いて死んでいく、有機体のように捉えられていた。しかし1876年に文献学や音声学を取り入れた、言語の歴史的展開を研究すべきなのが言語学だとする[[青年文法学派]]が[[ドイツ]]の[[ライプツィヒ]]で興り([[19世紀]])[[インド・ヨーロッパ語族]]の概念が確立した([[印欧語学]]) ;近現代 [[20世紀]]に入ると言語学は大きな変動期を迎えることになる。20世紀初頭に[[スイス]]の言語学者、[[フェルディナン・ド・ソシュール]]の言語学は、[[通時言語学|通時]]的な(書き言葉の)研究から共時的な(話し言葉の)研究へと対象を広げた。またソシュールの言語学は、言語学にとどまらない、「[[構造主義]]」と呼ばれる潮流の一部にもなった(また言語学においては(ヨーロッパ)構造主義言語学とも)。20世紀以降の言語学を指して、近代言語学と呼ばれることもある。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の言語学は、[[人類学]]者の[[フランツ・ボアズ]] の[[アメリカ州の先住民族]]の言語研究や[[エドワード・サピア]]がさきがけとなった。そこから発展したアメリカ[[構造主義言語学]](前述のヨーロッパ構造主義言語学との関連は薄い)の枠組みは、[[レナード・ブルームフィールド]]によって確立された。 20世紀後半、[[ノーム・チョムスキー]]の[[生成文法]]は、以上で延べたような近代言語学からさらに一変するような変革をもたらし、現代言語学と言われることもある。後述する[[認知言語学]]からは批判もあるなど、「チョムスキー言語学」が全てではないが、現代の言語学においてその影響は大きい。 また20世紀後半には他にも、[[マイケル・ハリデー]]([[:en:Michael Halliday]])らの[[体系機能文法|機能言語学]]([[:en:Systemic functional grammar]])や、[[ジョージ・レイコフ]]らの[[認知言語学]]など、異なったアプローチも考案された。 == 主要な研究分野 == * [[音声学]] - ヒトの言語の[[音声]]の研究 * [[音韻論]] - [[音韻]]体系の研究 音声学が発音時の[[筋肉]]の動きや[[音声]]の[[音響学]]的特性など[[物理]]的な対象を研究するのに対して、音韻論ではその言語で可能な[[音節]]の範囲([[音素配列論]])など言語が音声を利用するしくみを研究する。 * [[形態論]] - [[語]]構造の研究 * [[統語論]] - [[文]]構造の研究 * [[談話分析]] 語の成り立ちは形態論で研究し、語が他の語と結合して作る構造は統語論で研究する。統語論が研究対象とするのは文までで、それ以上の[[テクスト]]や会話などは談話分析で扱う。 * [[意味論 (言語学)|意味論]] - [[意味]]の研究 * [[語彙論]] * [[語用論]] 意味論が研究対象とする「意味」とは、伝統的に、話者や[[文脈]]・状況を捨象した普遍的な語の意味や文の意味([[真理条件]])に限られてきた。話者の意図は意味論の研究対象ではないと見る場合、これの研究は語用論で行う。 * [[手話]]言語学 - 世界的に見ても手話は言語学の範囲の及ぶ学術領域と見みなされている。かつて日本の手話言語学者は、手話は[[音声言語]]とは形態において異なることから音声言語学とは異なる手法や用語によって研究されるべきであるという立場をとっていた。しかし近年では、手話もれっきとした言語であるとし、音声言語と同様の手法・用語によって説明できるはずであるとする立場が一般的となっている。近年では言語学関連の学会等で音声言語とともに手話言語学者の研究報告がプログラムにのぼることも珍しくない。 == 学際的分野 == * [[応用言語学]] ** [[文体論]] * [[対照言語学]] ** [[言語類型論]] * [[心理言語学]] <!--* [[数理言語学]]--> * [[計量言語学]] * [[計算言語学]] * [[比較言語学]] * [[社会言語学]] * [[神経言語学]] * [[言語人類学]] **[[民族言語学]] == 主要な切り口、主要な学説や仮説 == === ヒューマニズム理論 === [[記号論|人]]間の言語学の基本原則は、言語は人々によって作成された発明ということである。 言語研究の[[記号論]]的伝統は、言語を[[意味]]と形式の相互作用から生じる記号のシステムと見なしている。<ref>{{cite book |last=Nöth|first=Winfried |title=Handbook of Semiotics |publisher=Indiana University Press |date=1990 |isbn= 978-0-253-20959-7 }}</ref>言語構造の編成は計算と見なされる。<ref>{{cite book |last=Hjelmslev|first=Louis |title=Prolegomena to a Theory of Language |publisher=University of Wisconsin Press |date=1969 |orig-year=First published 1943|isbn= 0-299-02470-9| author-link=Louis_Hjelmslev}}</ref> また、言語学は本質的に社会的および文化的科学に関連していると見なされている。なぜなら、言語コミュニティによる社会的相互作用ではさまざまな言語が形成されているからである。<ref>{{cite book |last=de Saussure|first=Ferdinand |title=Course in general linguistics |place=New York|publisher=Philosophy Library |date=1959 |orig-year=First published 1916| url=https://archive.org/details/courseingenerall00saus |isbn= 978-0-231-15727-8| author-link=Ferdinand_de_Saussure}}</ref> 言語の人間性の見方を表すフレームワークには、とりわけ構造言語学が含まれる。<ref name="humanistic">{{cite journal | last=Austin | first=Patrik | date=2021 | title=Theory of language: a taxonomy | journal=SN Social Sciences | volume=1 | issue=3 | doi=10.1007/s43545-021-00085-x | url=https://link.springer.com/article/10.1007/s43545-021-00085-x | access-date=2021-08-02 }}</ref> 構造分析とは、音声、形態、構文、談話などの各層を最小単位で分析することを意味する。これらはインベントリ(音素、形態素、語彙クラス、フレーズタイプなど)に収集され、構造およびレイヤー階層内での相互作用を調査する。<ref>{{cite book |last=Schäfer|first=Roland |title=Einführung in die grammatische Beschreibung des Deutschen (2nd ed.) |place=Berlin|publisher=Language Science Press |date=2016 | url= https://library.oapen.org/handle/20.500.12657/32007 |isbn= 978-1-537504-95-7 }}</ref> 機能分析は、構造分析に、各ユニットが持つ可能性のあるセマンティックおよびその他の機能的役割の割り当てを追加する。 たとえば、名詞句は、文の文法的な主語または目的語として、あるいは意味論的なエージェントまたは患者として機能することができる。<ref>{{cite book |last=Halliday & Matthiessen |title=An Introduction to Functional Grammar (3rd ed.) |place=London |publisher=Hodder |date=2004 | url= http://www.uel.br/projetos/ppcat/pages/arquivos/RESOURCES/2004_HALLIDAY_MATTHIESSEN_An_Introduction_to_Functional_Grammar.pdf|isbn= 0-340-76167-9| author-link=M. A. K. Halliday}}</ref> 機能言語学、または機能文法は、構造言語学の一分野である。 人間性の文脈では、構造主義と機能主義という用語は、他の人間科学におけるそれらの意味に関連している。 形式的構造主義と機能的構造主義の違いは、なぜ言語が持つ特性を持っているのかという質問への答えにある。機能的な説明は、言語が[[コミュニケーション]]のためのツールである、またはコミュニケーションが言語の主要な機能であるという考えを伴う。 したがって、言語形式は、その機能的価値または有用性に関して説明される。 他の構造主義的アプローチは、形式が二国間および多層言語システムの内部メカニズムから続くという視点を取る。<ref>{{cite book |last=Daneš |first=František |editor= Dirven & Fried | title=Functionalism in Linguistics |publisher=John Benjamins |date=1987 |pages=3–38 |chapter=On Prague school functionalism in linguistics |isbn= 978-90-272-1524-6}}</ref> === 生物学的理論 === 言語の生物学的基礎を明らかにすることを目的とした、[[認知言語学]]や[[生成文法]]研究言語認識などのアプローチ。 生成文法は、これらの基礎が生来の文法知識から生じると主張している。したがって、このアプローチの中心的な関心事の1つは、言語知識のどの側面が[[遺伝学|遺伝的]]であるかを発見することである。<ref>{{cite journal |last=Everaert, Huybregts, Chomsky, Berwick & Bolhuis |year= 2015|title= Structures, not strings: linguistics as part of the cognitive sciences|url= https://www.researchgate.net/publication/283666865|journal= Trends in Cognitive Sciences|volume= 19|issue= 12|pages= 729–743|doi= 10.1016/j.tics.2015.09.008|pmid= 26564247|access-date=2021-08-03 }}</ref><ref>{{cite book |last=Chomsky|first=Noam| title=The Minimalist Program (2nd ed.) |publisher=MIT Press |date=2015 |isbn=978-0-262-52734-7 | author-link=Noam_Chomsky}}</ref> 一例をあげると、[[ノーム・チョムスキー]]らは[[生成文法]]という[[仮説]]を唱え、「[[普遍文法]]」という'''[[仮説]]'''を提起した。 (なお、チョムスキーの仮説は、現在ではそれほど広く支持されているわけではない。<ref group="注">近年では、チョムスキーの説は、その一部が、部分的に採用されることもある、といった程度である。やや政治的な主張のような性質を備えた、あるいは、きわめて単純な見方を提供することでスッキリさせ、安心させる、つまりある意味で宗教がかったような理論体系であり、一部の読者がまるで何かの[[宗教]]に入信した信者のように、チョムスキーの説で頭が一杯になってしまい、まるで[[洗脳]]されたようになってしまい、現実の言語の複雑な諸事実を受け入れられなくなってしまうこともあった。(数十年前はチョムスキーの著書が提供する、まるで宗教の経典類の世界観のような、きわめてシンプルな説明方法に熱狂して、そうした洗脳状態になってしまう人も多かったが)近年は、かなり沈静化している。</ref> <ref group="注">『人が単に過去に見聞きした表現それ自体からではなく、“[[colorless green ideas sleep furiously]]” のように語義からは意味をなさない、ありえないような文であっても、この例文の場合は英語話者であれば、構文的には(文法的には)適切な文であると判断できるのは、生得的にヒトの脳のどこかに文法に従って文を認識する能力があるからだ』と仮定し、その文法を「普遍文法」と呼んだ(チョムスキーらによる仮説、ヒトの成長段階で、その生得能力がどのように英語や日本語などの各言語の能力となるのか等といった点については[[普遍文法]]の記事を参照)。この仮説は同時に、文法を基にして任意に新しい文を作ることができる、という能力をも説明するものだとされている。 [[人類]]の言語の文法には[[再帰]]があるが、2020年現在、人類以外の、いわゆる「動物の言語」( [[:en:Animal language]] )の「文法」では再帰は見つかっていない。普遍文法仮説はそれがヒトだけのものとしているので、動物の言語で、再帰を含む文法がもし見つかれば、ヒトだけのものとする主張は修正が必要になる(ここで述べている再帰とは専門的には、例えば「極小主義プログラム」で Merge と呼ばれて研究されているものである。[[:en:Merge (linguistics)]] を参照)。</ref> 対照的に、認知言語学は、生来の文法の概念を拒否し、人間の精神が[[神経言語プログラミング|イベントスキーマ]]から言語構造を作成する方法を研究する。<ref name="Arbib_2015">{{cite book |last=Arbib |first=Michael A.|editor= MacWhinney & O'Grady |title=Handbook of Language Emergence |publisher=Wiley |date=2015 |pages=81–109 |chapter= Language evolution – an emergentist perspective |isbn= 978-1-118-34613-6 }}</ref> 認知的制約とバイアスが人間の言語に及ぼす影響も研究されている。<ref>{{cite book |last=Tobin |first=Vera |editor=Borkent|title=Language and the Creative Mind |publisher=Chicago University Press |date=2014 |pages=347–363 |chapter=Where do cognitive biases fit into cognitive linguistics? |isbn= 978-90-272-8643-7}}</ref> [[神経言語プログラミング]]と同様に、言語は感覚を介してアプローチされる。<ref name="delCarmenGuarddonAnelo_2010">{{cite journal|last=del Carmen Guarddon Anelo|first=María|date=2010|title=Metaphors and neuro-linguistic programming|journal=The International Journal of Interdisciplinary Social Sciences|volume=5|issue=7|pages=151–162|doi=10.18848/1833-1882/CGP/v05i07/51812}}</ref><ref name="Ibarretxe-Antuñano_2002">{{cite journal|last=Ibarretxe-Antuñano|first=Iraide|date=2002|title=MIND-AS-BODY as a Cross-linguistic Conceptual Metaphor|url=https://www.researchgate.net/publication/272507067| journal= Miscelánea |volume=25 |issue=1 | pages=93–119 | access-date=2020-07-15}}</ref><ref name="Gibbs&Colston_1995">{{cite journal | last=Gibbs & Colston | date=1995|title=The cognitive psychological reality of image schemas and their transformations|journal=Cognitive Linguistics|volume=6|issue=4|pages=347–378|doi=10.1515/cogl.1995.6.4.347 }}</ref> 認知言語学者は、感覚運動スキーマに関連する表現を探すことによって知識の化身を研究する。<ref name="Luodonpää-Manni&Viimaranta_2017">{{cite book| last=Luodonpää-Manni, Penttilä & Viimaranta | url=https://www.cambridgescholars.com/product/978-1-4438-7325-3 |title=Empirical Approaches to Cognitive Linguistics: Analyzing Real-Life Data| year=2017|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-1-4438-7325-3|editor=Luodonpää-Manni & Viimaranta | chapter=Introduction | access-date=2021-08-05 }}</ref> 密接に関連するアプローチは[[進化]]言語学であり、[[ミーム学|文化的複製者]]としての言語単位の研究が含まれる。<ref>{{cite journal |last=Pleyer & Winters |year= 2014|title=Integrating cognitive linguistics and language evolution research|url=https://apcz.umk.pl/czasopisma/index.php/THS/article/viewFile/ths-2014-002/4967|journal=Theoria et Historia Scientiarum |volume=11 |pages=19–44|doi=10.12775/ths-2014-002 |access-date=2021-08-03 }}</ref> <ref>{{cite book |last=Evans & Green | title=Cognitive Linguistics. An Introduction |publisher=Routledge |date=2006 |isbn= 0-7486-1831-7}}</ref><ref>{{cite journal |last=Croft |first=William|year= 2008|title=Evolutionary linguistics|url= http://www.afhalifax.ca/magazine/wp-content/sciences/LaLoiDeGrimm/annurev.anthro.37.081407.pdf|journal= Annual Review of Anthropology|volume=37 |pages=219–234|access-date=2021-08-03 | doi=10.1146/annurev.anthro.37.081407.085156 }}</ref>言語がどのように複製され、個人または言語コミュニティの精神に適応するかを研究することが可能である。<ref>{{cite journal |last=Cornish, Tamariz & Kirby |year= 2009 |title=Complex adaptive systems and the origins of adaptive structure: what experiments can tell us|url= https://www.pure.ed.ac.uk/ws/portalfiles/portal/8777212/complex_adaptive_systems.pdf|journal=Language Learning |volume=59 |pages=187–205|access-date=2021-08-03 |doi=10.1111/j.1467-9922.2009.00540.x }}</ref><ref>{{cite journal |last=Sinnemäki & Di Garbo | year= 2018|title=Language Structures May Adapt to the Sociolinguistic Environment, but It Matters What and How You Count: A Typological Study of Verbal and Nominal Complexity|journal=Frontiers in Psychology |volume=9 |pages=187–205|doi=10.3389/fpsyg.2018.01141 |pmid=30154738|pmc=6102949 }}</ref> 文法の構築は、[[ミーム]]の概念を構文の研究に適用するフレームワークである。<ref name="Dahl_2001">{{cite journal|last=Dahl|first=Östen|date=2001|title=Grammaticalization and the life cycles of constructions|journal=RASK – Internationalt Tidsskrift for Sprog og Kommunikation|volume=14|pages=91–134}}</ref><ref name="Kirby_2013">{{cite book|last=Kirby|first=Simon|title=The Language Phenomenon|publisher=Springer|year=2013|pages=121–138|chapter=Transitions: the evolution of linguistic replicators|series=The Frontiers Collection|doi=10.1007/978-3-642-36086-2_6|isbn=978-3-642-36085-5|access-date=2020-03-04}}</ref><ref name="Zehentner_2019">{{cite book|last=Zehentner|first=Eva|title=Competition in Language Change: the Rise of the English Dative Alternation|publisher=De Gruyter Mouton|year=2019|isbn=978-3-11-063385-6}}</ref><ref name="MacWhinney_2015">{{cite book|last=MacWhinney|first=Brian|title=Handbook of Language Emergence|date=2015|publisher=Wiley|isbn=978-1-118-34613-6|editor=MacWhinney & O'Grady |pages=1–31|chapter=Introduction – language emergence }}</ref> 生成的アプローチと進化的アプローチは、形式主義と機能主義と呼ばれることもある。<ref>{{cite book |last=Nettle |first=Daniel |editor=Darnell | title=Functionalism and Formalism in linguistics, 1 |volume=41 |publisher=John Benjamins |date=1999 |pages=445–468 |chapter= Functionalism and its difficulties in biology and linguistics |isbn= 978-1-55619-927-1 | doi= 10.1075/slcs.41.21net |series=Studies in Language Companion Series }}</ref> ただし、この概念は、[[人文科学|人間科学]]での用語の使用とは異なる。<ref>{{cite book |last=Croft |first=William |chapter=Functional Approaches to Grammar | title=International Encyclopedia of the Social and Behavioral Sciences | editor=Wright | |edition=2nd |year=2015 |publisher=Elsevier |volume=9 |isbn=978-0-08-097087-5 |doi=10.1016/B978-0-08-097086-8.53009-8 |pages=6323–6330}}</ref> == 言語学が明らかにした言語の特徴の例 == {{See also|言語}} 以下に言語学が明らかにしてきた言語の特徴をいくつか記す。 ;恣意性 [[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]は、「'''能記'''」(''signifiant'') と「'''所記'''」(''signifié'') という2つの概念([[シニフィアンとシニフィエ]])を用いて、言語記号の音声・形態とその意味との間には必然的な関係性はないという'''言語記号の恣意性'''を説いた。 これとはほぼ反対の立場として'''音象徴'''という見解がある。これは、[[音素]]そのものに何らかの[[意味]]や[[感覚]]、印象といったものがあり、言語記号はその組み合わせによって合理的に作られているとするものである。しかし、実際にはどの言語にも普遍的な音象徴というものは存在しないため、現在そのような立場の言語研究はあまり行われていない。 ;二重性 [[アンドレ・マルティネ]]は言語が単なる音声の羅列ではなく、二重構造を有していることを指摘した。すなわち、[[文]]を最小単位に分割しようとした場合、まずは意味を持つ最小単位である'''[[形態素]]'''のレベルに分割される。そして、形態素はさらに'''[[音素]]'''に分割される。例えば、[[日本語]]の [ame](雨、飴)という[[語]]は語としてはこれ以上分解できないが、音素としては /a/、/m/、/e/ の三つに分解される。言語の持つこのような二重構造は'''二重分節'''と呼ばれる。動物の発する声にはこうした性質が見られないため、二重分節はヒトの言語を特徴づける性質とされる。 ;構造依存性 [[ノーム・チョムスキー]]は言語の規則には、例えば「前から3番目の語」というような表層の順序に言及するようなものは存在しない、言語の規則はむしろ表層にあらわれない[[範疇]]・階層・[[構成素]]などの構造から生まれると考え、これを「構造依存性」と呼んだ。[[ノーム・チョムスキー]]はgenerative capacityという概念により、「(ある言語の)[[文法]]は、その言語の[[文]]ら(「表層」)をweakly generateし、それら'''[[文]]ら'''のstructural descriptors(「深層」)をstrongly generateする」(ここで「文ら」としているのは、原文sentencesの複数形に意味があるため)と述べた。 ;転位性{{要出典|date=2021年5月}} {{要出典範囲|人間の言語は過去に起こった事実や未来のことを表現することも可能である。文字の体系を持っていれば、文字に書き留めることによって、後世に伝えることも可能になる。しかし、動物の場合、餌のありかや敵の急襲を知らせるなど現在のことしか伝達できない。|date=2021年5月}}{{いつ|date=2021年5月}}『(科学をおこなう前に){{要出典|まず、定義だ|date=2021年5月}}』とか『{{要出典|「人間が話す言語」とは何かを明確にする必要がある|date=2021年5月}}』と言った人{{誰|date=2021年5月}}がおり、『{{要出典範囲|学者らによる「言語」の定義の問題は未だに決着していない。|date=2021年5月}}』と言った人{{誰|date=2021年5月}}がいる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2021年5月}} * Aitchison, Jean (2003), <cite>Teach Yourself Linguistics</cite>, 6th ed., Hodder & Stoughton Educational, pp. 4 – 33 (ISBN 0071429824) * Widdowson, H. 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Disner (2012) ''Vowels and Consonants'', Wily-Blackwell, 『母音と子音:音声学の世界に踏み出そう』田村幸誠・貞光宮城訳、開拓社、2021年. ISBN 978-4-7589-2286-9 ;辞典など * [[亀井孝 (国語学者)|亀井 孝]]、[[河野六郎|河野 六郎]]、千野 栄一 (1988-2001) 『<cite style="font-style:normal">[[言語学大辞典]]</cite>』 全6巻 三省堂 (ISBN 4385152152, ISBN 4385152160, ISBN 4385152179, ISBN 4385152128, ISBN 4385152144, ISBN 4385152187) ** 河野 六郎、千野 栄一、西田 龍雄 (2001) 『<cite style="font-style:normal">世界文字辞典</cite>』 別巻 三省堂 (ISBN 4385151776) * 郡司 隆男、西垣内 泰介 (2004) 『<cite style="font-style:normal">ことばの科学ハンドブック</cite>』 研究社 (ISBN 4327401366) <!--===一般向け===--> </div> </div> == 関連項目 == {{Commonscat|Linguistics}} {{Wikibooks}} {{wikiversity|School:言語学|言語学}} {{ウィキポータルリンク|言語学}} {{Div col}} *[[言語学者の一覧]] *[[個別言語学]] / [[理論言語学]] ;学会など *総合、各地域 **[[:en:International Congress of Linguists]](5年に1度開催される、国際的な言語学の会議) **[[:en:Societas Linguistica Europaea]](EUの言語学会。SLE) **[[:fr:Société de Linguistique de Paris]](パリの言語学会で、ソシュールなどもおり、[[:fr:Bulletin de la Société de Linguistique de Paris]]を発行していた組織。上述のICLを生みだした。) **[[アメリカ言語学会]](米国の言語学会。LSA) **[[:en:Canadian Linguistic Association]](カナダの言語学会) **[[日本言語学会]](日本の言語学会) *分野別 **[[:en:International Association of Applied Linguistics]](国際・応用言語学会) **[[日本機能言語学会]] **[[日本通訳翻訳学会]] **[[英語コーパス学会]] **[[表現学会]](表現に焦点をあてた、日本の学会) *学際的 **[[言語人文学会]] **[[英米文化学会]] *言語別 **[[日本英語学会]] **[[全国大学国語国文学会]](日本語学) **[[訓点語学会]](古い訓読式の日本語 限定の学会) ;他 *[[国際言語学オリンピック]] *[[言語学研究会]](1956年に設立された日本の研究会) *『[[言語学大辞典]]』(三省堂の辞典) *『[[Linguistic Inquiry]]』(MITの論文雑誌) ;出版社 [[おうふう]]、[[勁草書房]]、[[研究社]]、[[ひつじ書房]]、[[くろしお出版]]、[[三元社]]、[[大修館書店]]、[[岩波書店]]、[[朝倉書店]]、[[ミネルヴァ書房]]、[[むぎ書房]]、[[東北大学出版会]]、[[名古屋大学出版会]]、[[東京大学出版会]]、[[京都大学学術出版会]]、[[九州大学出版会]] ;他 [[学問の一覧]]、[[人文科学]]、[[語学]]、[[言語教育]]、[[文学]]、[[修辞学]]、[[民俗学]]、[[訓詁学]]、[[形式科学]]、[[日本学術振興会]]、[[国際交流基金]] {{Div col end}} == 外部リンク == * Columbia University Press (2003), "[https://web.archive.org/web/20080807153403/http://www.bartleby.com/65/li/linguist.html linguistics]" in the Columbia Encyclopedia, 6th ed., 2001. * Encyclopædia Britannica, Inc. 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2003-02-01T12:33:11Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6
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著作権
著作権(ちょさくけん、英語: copyright、コピーライト)は、作品を創作した者が有する権利である。また、作品がどう使われるか決めることができる権利である。作者の思想や感情が表現された文芸・学術・美術・音楽などを著作物といい、創作した者を著作者という。知的財産権の一種。 一般的に、著作物を他人が無断で無制限に利用できないように法的に保護する必要がある。著作物を創造した人物は、その著作物を他人が無断で利用しても、自己の利用を妨げられることはない。しかし、他人が無制限に著作物を利用できると、著作者はその知的財産から利益を得ることが困難となる。著作物の創造には費用・時間がかかるため、無断利用を許すと、知的財産の創造意欲を後退させ、その創造活動が活発に行われないようになるといった結果を招くためである。 著作者の権利は、著作物を活用して収益や名声などを得ることができる財産的権利(著作財産権)と、著作物の内容と著作者を紐づけることで、著作者の人間性を正確に表現する人格的権利(著作者人格権)に分類される。狭義に解する場合、著作権はとりわけ著作財産権と同義とされる。反対に、最も広義に解する場合、実演家、レコード製作者、放送事業者など著作物を伝達する者に付与される権利(著作隣接権)も、著作権の概念に含めることがある。 知的財産権には著作権のほか、特許権や商標権などの産業財産権があるが、保護の対象や権利の強さが違う。産業財産権は産業の発達を目的とする技術的思想(アイデア)を保護の対象とし、権利者に強い独占性を与える性質のため、所管官庁による厳しい審査を経て登録されなければ権利が発生しない。一方の著作権は、創造的な文化の発展を目的とする表現を保護の対象としていることから、産業財産権と比べて独占性は低く、日本を含む多くの国・地域では登録しなくても創作した時点で権利が発生する。 著作物の定義・範囲、著作物の保護期間、著作物の管理手続や著作侵害の罰則規定などは、時代や国・地域によって異なるものの、国際条約を通じて著作権の基本的な考え方は共通化する方向にある。しかし、著作物のデジタル化やインターネットの社会普及に伴い、著作権侵害やフェアユース(無断利用が著作権侵害にあたらないケース)をめぐる事案が複雑化している時代趨勢もある。 学術的な目的で、研究者や教授が著作権で保護された作品を使用することにはいくつかの例外がある。 著作権は人権(財産権)の一種であり、同時に「著作権」という語は、人権としての著作権のほかに、法的権利としての著作権(さらに細かくは国際法上の著作権や、憲法上の著作権など)という側面もある。 著作権は狭義には著作財産権のみを指し、広義には著作財産権と著作者人格権、最広義には著作者の有する実定法上の権利(著作財産権、著作者人格権、著作隣接権)の総体をいう。広義の著作権概念は概して大陸法の諸国で用いられる著作権概念である。一方、狭義の著作権概念は英米法の諸国で用いられる著作権概念である。日本の著作権法は「著作者の権利」のもとに「著作権」と「著作者人格権」をおく二元的構成をとっている。 著作権は狭義には著作財産権のことをいう。著作者に対して付与される財産権であり、著作物を独占的・排他的に利用する権利である。著者は、著作権(財産権)を、他人に干渉されることなく、利用する権利を持つ。たとえば、小説の著作者(作者)は、他人に干渉されることなく出版、映画化、翻訳することができる。 したがって、著作権(財産権)のシステムが正しく機能している場合は、出版社などが得た収益を、後進の育成と採用への投資(育成費)に充当できる。これにより、アマチュアからプロへと進む際のハードルも低くなる。また、各分野での世代交代が活発化する。 しかし、著作者の合意(許諾)を得ていない他人が、その著作物を広く世間に発表(公表)すると、著作者は生活するために必要な収入を失い、「執筆」「作曲」「映画製作」などの仕事(創作事業)も継続できなくなる。この他人による著作者の財産を盗み取る行為が、著作権の侵害である。 著作者が著作権を財産として扱える範囲を明確に限定するために、支分権を用いて細目を列挙しており、著作者以外の者にとっては、細目の把握が困難である。これにより「著作者の権利の束」と表示し、細目のすべてを含めた「すべての権利(財産権)」を保持していると、包括して記す場合もある。あるいは、支分権による細目の分類を用いて、著作権(財産権)の一部を、人(自然人や法人)に引き渡すことも可能である。このような販売形態を「譲渡」という。たとえば、小説の(著作者)が、契約により著作権の「出版権」のみを他人(自然人もしくは法人)に譲渡し、それ以外の著作権(財産権)を著作者が自ら保持するといったことも法的には可能である。 一方で、著作物を収めた記録媒体(CDやDVD、ブルーレイや書籍などの有体物)を第三者に販売した場合でも、著作権が消滅することはない。このような販売形態を(権利の)「貸与」という。ほかにも、「譲渡」や「貸与」以外に、著作者ではない人(自然人や法人)と「許諾の契約」を結び、著作者ではない人(自然人や法人)が自由に利用できるようにする方法もある。このような契約を「利用許諾の締結」といい、殊に音楽制作では「買い取り」という。著作権は相対的独占権あるいは排他権である。特許権や意匠権のような絶対的独占権ではない。すなわち、既存の著作物Aと同一の著作物Bが作成された場合であっても、著作物Bが既存の著作物Aに依拠することなく独立して創作されたものであれば、両著作物の創作や公表の先後にかかわらず、著作物Aの著作権の効力は著作物Bの利用行為に及ばない。同様の性質は回路配置利用権にもみられる。 狭義の著作権(著作財産権)は財産権の一種であるが、著作者に認められる権利(著作者の権利)としては、そのほかに著作者の人格的利益を保護するものとして、人格権の一種である著作者人格権がある。両者の関係については考え方および立法例が分かれる。 まず、著作権法により著作者に対して保障する権利を純粋に財産権としての著作権として把握する考え方がある。この考え方を徹底しているのがアメリカ合衆国著作権法であり、著作者の人格的権利はコモン・ロー上の人格権の範疇に含まれる。もっとも、ベルヌ条約が加盟国に対して著作者人格権の保護を要求していることもあり、1990年の法改正により、視覚芸術著作物について限定された形で著作者人格権を保護する旨の規定を設けた(合衆国法典第17編第106A条)。 第2に、著作者に対して、財産的権利と人格的権利の双方を著作権法上保障する考え方がある。大陸法の著作権法は基本的にこのような考え方に立脚している。フランス著作権法がこの考え方に立脚しており、著作者の権利について、人格的な性質と財産的な性質を包含するものとして規定し(111の1条第2項)、いわゆる著作者人格権は処分できないものとする(121の1条第3項)のに対し、著作権は処分できるものとして(122の7条)区別している点にこのような考え方が現れている。 第3に、著作者に対して、財産的権利と人格的権利の双方を著作権法上保障するが、両者は一体となっており分離できないものとして把握する考え方がある。ドイツの1965年9月9日の著作権および著作隣接権に関する法律がこの考え方に立脚しており、著作者の権利の内容を構成するものとして著作者人格権に関する規定を置いているが(11条-14条)、財産権と人格権が一体化しているがゆえに、財産権をも含む著作者の権利について譲渡ができない旨の規定が置かれている(29条)点にこのような考え方が現れている。 日本法の法制は、著作権法上、著作者の権利として財産権たる著作権と人格権たる著作者人格権を保障しつつ、前者は譲渡可能なものとして理解し、後者は譲渡不可能なものとして理解している点でフランス法に近い。 著作者によって制作された楽曲(著作物)は、著作者である作詞家・作曲家が著作権を有している。しかし、楽曲を演奏する実演家や、それを録音するレコード製作者、楽曲を放送する放送事業者・有線放送事業者も、著作者ではないものの著作物に密接に関わる活動を業としており、1970年の現行著作権法制定に伴い、これらの利用者による実演、レコード、放送または有線放送にも著作権に準じた一定の権利(著作隣接権、英: neighboring right)が認められることになった。著作隣接権は実演家の権利(著作権法90条 - 95条)、レコード製作者の権利(同96条 - 97条)、放送事業者の権利(同98条 - 100条)、有線放送事業者の権利(同100条)からなり、人格権と財産権が含まれる。保護期間は実演日(実演)または最初の固定日(レコード)から70年間(放送、有線放送は放送等から50年間)。著作権と異なり楽曲(著作物)そのものの権利ではないため、演奏権や翻案権(編曲権)は認められていない。また映画の著作物においては、二次利用の際の著作隣接権の適用が制限される(映画の著作物#著作隣接権との関係も参照)。 著作権が本格的に考慮されるようになったのは、15世紀にグーテンベルクによる印刷術が確立するとともに、出版物の大量の模倣品が問題化するようになってからである。記録に残る最初の本の著作権は、1486年に、人文主義者のマルカントニオ・サベリーコのヴェネツィア史に与えられ、芸術家の最初の著作権は1567年にヴェネツィアの元老院からティツィアーノに与えられた。 18世紀初頭、イギリスではアン法(クイーン・アン法。1709年制定、1710年施行)で著作者の権利、すなわち著作権を認めた。この法では、著作権の有効期間(14年、1度更新可能で最大28年)や、その後のパブリック・ドメインの概念も制定されている。 フランスではフランス革命時の1791年に、大陸法系の国の中では初めて著作権法が制定された。その後、18世紀から19世紀にかけて各国で著作権を保護する法律が成立した。19世紀に入ると著作権の対象は印刷物以外(音楽、写真など)に拡大されていく。 ところが19世紀半ばになっても著作権の保護の法律を持たない国があり、イギリスやフランスなどの作家の書いた作品が複製による被害を受けていた。そのため、1886年採択・1887年発効のベルヌ条約で国際的な著作権の取り決めができ、1952年採択・発効の万国著作権条約によってベルヌ条約未締結国との橋渡しがなされた。さらには世界貿易機関 (WTO) 主管のTRIPS協定が1994年に採択・1995年発効し、国際的な著作権侵害の際にはWTOに提訴できる仕組みが導入された。 また、国際条約と国内法の中間的な位置づけとして、欧州連合(EU)の各種指令がある。EU加盟国は指令を遵守して国内法を整備する義務を負うことから、EU加盟国間の著作権法のばらつきを平準化する役割を担っている。 しかし著作権法および著作権についての考え方は、著作者・著作権者・利用者など利害関係者のさまざまな要請を受け、専門家だけでなく広く世論の間でも議論が起きたり、立法の場で話し合われたり、行政の場で検討されたり、司法の場で争われたりするなど絶えず変更を受け続けている。 21世紀に入り、テクノロジーの著しい進歩および権利ビジネスの伸張など経済社会の変化を受けた産業保護の観点からの要請と、著作物の自由な利用の要請(時には自由な言論の存続の希望を含む)との衝突が顕著な争点のひとつになっている。これを受け、デジタル著作物の保護規定を強化したWIPO著作権条約が1996年に採択され、2002年に発効している。 新しいテクノロジーに関連する個別の判例や法制には、1984年に判決が出た米国のベータマックス事件(ソニー勝訴)、1992年に生まれた日本の私的録音録画補償金制度、1997年に創設されたインタラクティブ送信に係る公衆送信権・送信可能化権(日本)、1999年に起こされたソニー・ボノ法への違憲訴訟(米国、2003年に合憲判決)、2001年のナップスター敗訴(米国)などがある。 本節では著作権のうち、おもに狭義の著作権(著作財産権)の保護の対象と要件について述べる。 著作権は、著作者の精神的労力によって生まれた製作物を保護し、また、自由市場における市場価格を著作者に支払うことを保証して、著作者の創作業務を維持し、収入を安定させることで、間接的に著作者本人を保護する効果もある。 日本の現行著作権法では具体的に「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(著作権法第2条第1項第1号)と定めており、ここでいう「創作的」については、既存の著作物との差異(表現者の個性)が表れていればよく、新規性や独創性は求められず、区別できる程度であればよいとされる。 中山 (2014)によれば、思想又は感情が現れている箇所がどのような箇所なのか明確に定義することは難しい。そのため思想又は感情でないものがどういったものなのかを定義する方が明確にそれらを区別できる。思想・感情的から漏れ出ているものとしては、第1に著作物を書いた者が事実としているもの。例えば、ガリレオが地動説に関する本を出版した際、彼は地動説を事実として扱っていた。その場合地動説は事実として扱われる。第2に契約書案等。第3に単なる事実の報道や雑報。しかし事実を報道する新聞記事などは記事の配列、評価、分析などで創作性が保たれているためそれらは著作物として成立する。著作物として成立しないものとしては表現の幅の狭い新聞の見出しや死亡報道などである。第4に、スポーツやゲームのルールである。第5に技術や自然科学のアイディアそれ自体である。どんなに苦労して完成させた理論であっても、アイディアそれ自体には著作権はない。しかしそのアイディアを表現した論文での創作性が確保されているものに関しては著作権がある (pp.46-55)。 また、表現されている必要があり、文字・言語・形象・音響などによって表現されることで著作物となる。 著作権の対象として想定されるのは、典型的には美術、音楽、文芸、学術に属する作品である。絵画、彫刻、建築、楽曲、詩、小説、戯曲、エッセイ、研究書などがその代表的な例である。ほかにインターネット掲示板の書き込み、写真、映画、テレビゲームなど、新しい技術によって出現した著作物についても保護の対象として追加されてきた。 美術的分野では、著作権のほか、意匠権が工業デザインの権利を保護するが、著作権は原則として美術鑑賞のための作品などに適用され、実用品には適用されないとする。ただし、この境界線は必ずしも明解ではなく、美術工芸品は双方の権利が及ぶとする説もある。また、国によっては意匠法と著作権法をまとめて扱っている場合もある。 入学試験の問題は、数学の問題における数式そのもの、社会科の問題における歴史的事実そのものといった場合を除き、問題を作成した学校等に著作権が生じるとされる。 国によって保護の対象が異なる場合があり、たとえば、フランスの著作権法では著作物本体のほかにそのタイトルも創作性があれば保護する旨を規定している。同じく、一部の衣服のデザインが保護されることが特に定められている。米国の著作権法では船舶の船体デザインを保護するために特に設けられた規定がある。ほかに、明文規定によるものではないが、活字の書体は日本法では原則として保護されないが、保護する国もある。アプリケーションプログラミングインタフェース(API)についても日本法では明示的に保護対象外としているが、米国では「保護が及ぶ」という最高裁判決が出ている。 権利が生じず、保護の対象にならない製作物がある。おもなものは以下の通り。 そのほか、キャラクター設定や感情そのもの、創作の加わっていない模倣品、範囲外の工業製品(たとえば自動車のデザイン)などは著作物とはならないほか、短い表現・ありふれた表現(たとえば作品のタイトルや流行語や商品名)・選択の幅が狭い表現などは創作性が認められない傾向にある。 特許権、意匠権、商標権などは登録が権利発生の要件であるが、著作権の発生要件について登録などを権利発生の要件とするか否かについては立法例が分かれる。 著作権の発生要件について、登録、納入、著作権表示など一定の方式を備えることを要件とする立法例を方式主義という。これに対して著作物が創作された時点で何ら方式を必要とせず著作権の発生を認める立法例を無方式主義という。 ベルヌ条約は、加盟国に無方式主義の採用を義務づけている(ベルヌ条約5条2項)。なお、日本には著作権の登録の制度があるものの、ベルヌ条約の加盟国であることもあり発生要件ではなく、あくまでも第三者対抗要件であるに過ぎない。これに対して万国著作権条約は方式主義を採用している(ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には万国著作権条約17条によりベルヌ条約が優先する)。 なお、北朝鮮もベルヌ条約加盟国であるが、日本は北朝鮮を国家として承認していないことを理由に、2011年12月、北朝鮮の著作物に関しては日本国内で保護義務がないとの司法判断が最高裁によってなされた。 ベルヌ条約に加盟し無方式主義をとる国においては著作物を創作した時点で著作権が発生するため、著作物に特定の表示を行う義務は課されていない。一方、ベルヌ条約締結後も同条約に加盟せず方式主義をとる国々があった。そのため自国が無方式主義を義務づけるベルヌ条約を締結していても、方式主義をとる国々では著作権発生の要件を満たさず、そのままでは著作権保護を得ることができず不都合を生じていた。そこで万国著作権条約は無方式主義をとる国における著作物が、方式主義をとる国でも著作権保護を得ることができるよう、氏名と最初の発行年、©のマークの3つを著作権表示として明示すれば自動的に著作権の保護を受けることができるとした。著作権マーク「©」は、著作権の発生要件として著作物への一定の表示を求める方式主義国において、要件を満たす著作権表示を行うために用いられるマークである。 先述のように、ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には、無方式主義を定めるベルヌ条約が優先する。したがって、このような問題が生じるのはベルヌ条約を締結しておらず万国著作権条約のみを締結している方式主義をとっている国においてである。かつては米国が方式主義国の代表的存在で、長い間、万国著作権条約のみを締結しベルヌ条約を締結していなかった。しかし、米国は1989年にベルヌ条約を締結して無方式主義を採用した。ほかの国においても無方式主義の採用が進んだ結果、2017年現在、万国著作権条約のみを締結し方式主義を採用している国はカンボジアだけとなっている。そのカンボジアもベルヌ条約自体は締結していないものの、2004年のWTO加盟によりTRIPS協定9条1項の適用を受けることとなり、ベルヌ条約の1条から21条の条項および附属書の遵守義務を負ったため、実質的に無方式主義に転換した。 なお、著作権表示は条約上の著作権の発生要件とは別に国内法上一定の効果を生じることがあり、たとえばアメリカの著作権法では著作権の存在を知らずパブリックドメインと信じた者を保護する善意の侵害者(innocent infrigers)の法理があるが、©マーク等の著作権表示が著作物に明確に表示されていれば原則として善意の侵害にはあたらないとされている。 著作物が有形の媒体に固定されている必要があるか否かについても立法例が分かれる。ベルヌ条約では固定を要件とするか否かに関しては加盟国の立法に委ねている(ベルヌ条約2条2項)。アメリカ合衆国著作権法では、著作物が固定されていることが保護の要件となっており(102条(a))、未固定の著作物はもっぱら州法の規律による。日本の場合は固定を要件としていないが、映画の著作物については物への固定が要件であると一般的には解されている(ただし、この点には議論がある)。 著作権侵害は、民事では差止請求権、損害賠償、名誉回復等の対象となる。また、刑事事件として罰金刑や懲役刑などの刑事罰が科される場合もある。米DMCAに基づいて、自称著作権者およびその代理人による著作権侵害告発で、正規の著作権者や合法な著作権利用が妨げられるケース、果ては言論弾圧に利用するケースすら多発している。 著作権の保護については、「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(ベルヌ条約)、「万国著作権条約」、「著作権に関する世界知的所有権機関条約」(WIPO著作権条約)、「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS協定)などの条約が保護の最低要件などを定めており、これらの条約の締約国が、条約上の要件を満たす形で、国内の著作権保護法令を定めている。 18世紀から19世紀にかけて各国の民間交流は増大したが、それとともに剽窃も国際的な問題となった。多くの国では著作権法が制定されていたが、効力範囲は自国民などに限られていた。そこで各国は、相互主義のもと互いに相手方国民の著作権を保護する二国間条約を締結して解決を図ろうとした。しかし、二国間条約では締約国以外には効力が及ばず、各国は法律で登録などの著作権保護要件を定めていたため現実に著作権を取得することは難しく実効性に乏しいものだった。 そこで国際文芸家協会などが国際的な著作権保護の運動を展開し、スイス政府などの主導のもと1886年にベルヌ条約(文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約)が締結された。ベルヌ条約に関しては1908年のベルリンでの改正条約によって無方式主義が採用された。 ベルヌ条約は内国民待遇、遡及効、無方式主義の採用などを柱とする。 ベルヌ条約は1908年のベルリンでの改正条約によって無方式主義が採用されたが、アメリカ合衆国や中南米諸国など方式主義を採用している諸国との間に制度的な差異を生じ問題化した。そこで、方式主義を採用しているアメリカ合衆国や中南米諸国などと、ベルヌ条約に加盟して無方式主義を採用している国々との間の架橋となる条約として、1952年に万国著作権条約が成立した。 万国著作権条約は内国民待遇、不遡及効、方式主義の採用などを柱とする。ただし、ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には万国著作権条約17条によりベルヌ条約が優先する。 1979年にアメリカ合衆国がベルヌ条約に加盟したのち、グアテマラなどの中南米諸国も次々とベルヌ条約に加盟するなど、各国で無方式主義への転換が進んだ。先述のように、万国著作権条約のみを締結して方式主義を採用している国は2017年現在カンボジアだけとなっており、そのカンボジアもWTO加盟によりTRIPS協定9条1項の適用を受け、ベルヌ条約の1条から21条の条項および附属書の遵守義務を負ったため、実質的に無方式主義に転換している。 日本の著作権法は、著作物によって生じる著作者の財産権の範囲を定めている(著作権法第17条第1項)。日本では創作した時点で自動的に帰属される。 日本の著作権法は「著作者の権利」のもとに「著作権」と「著作者人格権」をおく二元的構成をとっており、このうち「著作権」を著作者の財産的利益を保護する権利とする。 著作権法は以下で条数のみ記載する。 日本では、近代以前においては版木の所有者である版元が出版物に関する権利者と考えられ、著作権に相当する概念が存在しなかったとされている。明治初期に福沢諭吉らの紹介と政府への働きかけにより、「版権」として著作権の一部が保護を受けることになった。 19世紀末に日本がベルヌ条約への加盟をするにあたり、国内法の整備の一環として初めて著作権法が制定された。この著作権法は「旧著作権法」とも呼ばれるもので、1970年に旧法を全部改正して制定された新著作権法とは通常区別される。 20世紀半ば以降、企業により著作物が製作されるようになると、便宜的に架空の人物を著作者とした事例が出てくるようになった(八手三郎、アラン・スミシーなど)。 日本の著作権法の下では、原則として、著作権は創作の時点で自動的に創作者(著作者)に帰属する(無方式主義 cf.方式主義)。たとえ創作活動を職業としない一般人であっても、創作された時点で自動的に帰属される。つまり、原始的には著作者たる地位と著作権者たる地位が同一人に帰属する。 もっとも、著作権は財産権の一種であり、譲渡することが可能であり、さらには、以下のような支分権ごとにも譲渡可能と理解されている。したがって、創作を行った者と現時点の著作権者とは一致しないことや、支分権ごとに権利者が異なることもありうる。ただし、譲渡を受けた者が第三者に対抗するためには、文化庁に著作権を登録しておく必要がある。また、映画の著作物については、著作権の原始的帰属について特例が設けられている(16条)。この場合でも人格権としての著作者人格権は著作者に残されるため(59条)、著作権者であるといえども無断で著作物を公表・改変したり、氏名表示を書き換えたりすることはできない。 なお、著作者と著作権者の用語の使い分けが分かりづらいためか、2005年1月に文化審議会著作権分科会から発表された「著作権法に関する今後の検討課題」の中では、用語の整理の検討が必要であると言及されている。 著作権(著作財産権)は個別の権利(支分権)の集合である。以下はその一覧である。 著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる(63条1項)。この許諾を得た者は、その許諾に係る利用方法および条件の範囲内において、その許諾に係る著作物を利用することができる(63条2項)。また、この許諾に係る著作物を利用する権利は、著作権者の承諾を得ない限り、譲渡することができない(63条3項)。 共有著作権(共同著作物の著作権その他共有に係る著作権)は、その共有者全員の合意によらなければ行使することができないが(65条2項)、各共有者は、正当な理由がない限り合意の成立を妨げることができない(65条3項)し、信義に反して合意の成立を妨げることができない(65条4項、64条2項)。また、代表権に加えられた制限は、善意の第三者に対抗することができない(65条4項、64条4項)。 共同著作物とは、「2人以上の者が共同して創作した著作物であって、その各人の寄与を分離して個別的に利用できないものをいう」(2条1項12号)と定義される。間違いやすいのは、二次的著作物で、「キャンディ・キャンディ事件」(最判平成13年10月25日判例)の事案においては、ストーリー作者により事前に原稿用紙に執筆されたストーリーに基づいて作画者が作画をするという方式がとられており、二次的著作物に該当するものと判断された。 次に間違いやすいのは結合著作物である。これは、各人の創作的表現を分離して利用可能なものであり、たとえば、「歌詞と楽曲」「小説と挿絵」などがこれに該当する。この場合は、共同著作物ではなく、それぞれが著作物であり著作権を有すると解される。 10条2項は「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第1号に掲げる著作物に該当しない」と規定している。 10条3項は、本法律による保護は「著作物を作成するために用いるプログラム言語、規約及び解法に及ばない」と規定している。これによりプログラミング言語、API、アルゴリズムは、少なくとも日本法においては保護対象とならない(ただし、日本国外ではAPIが保護対象と認定された例があるため注意が必要である)。 13条は、次の著作物が「この章の規定による権利の目的となることができない」と規定している。これらの著作物の内容は、国民の権利や義務を形成するものであり、一般国民に対して広く周知されるべきものであるため、著作権による保護対象とすることは妥当でないと考えられるためである。 また、北朝鮮の著作物については、日本は保護する義務を負わないとする最高裁判所の判決が2011年12月8日に出ている。→無断放映#日本における北朝鮮著作物放映基準の最高裁判例を参照 著作物の利用や使用について、その便宜上必要とされる範囲または著作権者の利権を害しない範囲において著作権が制限されることがある。これは、著作権というものが、公共性の高い財産権であることに由来する。おもなものは以下の通り。 著作権に明るくない一般人においては、しばしば、著作物を表象した有体物の所有権を取得したことにより、著作権に類する権限も取得できると誤解する場合がある。しかし、所有権を取得したからといって著作権にかかる諸権利まで取得できるわけではない。このことは美術の著作物についての判例「顔真卿自書建中告身帖事件」で明らかになっている。 ただし、美術の著作物についての原作品の所有者による著作物の展示や展示に伴う複製などの行為には著作権の効力が及ばないとする規定がある(45条、47条)。所有権者による当該行為にまで著作権の効力が及ぶものとすると、美術品の所有権を得た者の利益が著しく損なわれるため、著作権と所有権の調整を図ったものである。 保護期間を永久と定める国も存在するが、一般に一定の保護期間の下においてのみ、保護される。保護期間の満了を迎えると、著作権は消滅、パブリックドメインとされる。 著作権者が他人に対して著作物の利用を認める契約には著作物利用許諾契約や出版権設定契約がある。 著作物利用許諾契約(ライセンス契約)は契約を結んだものに対して著作物の利用を認める契約である。著作物利用許諾契約の相手方は複数の者でもよい。 出版権設定契約は特定の者に対し出版権を設定するもので、出版権の設定を受けた出版権者は設定行為に従って著作物を複製して頒布することができる。出版行為には紙媒体やDVD、CD-ROMなどへの複製のほか、インターネットによる公衆送信行為や電子出版なども含まれる。出版権は排他的・独占的な権利であり、出版権を侵害する者に対しては差止請求や損害賠償請求が認められる。 日本では出版権は複製権の一形態として著作権法第三章(出版権)に規定される。著作物を文書または図画として出版する行為を目的とする。 (80条)出版権者は、設定行為で定めるところにより、その出版権の目的である著作物について、次に掲げる権利の全部又は一部を専有する。(1項)頒布の目的をもつて、原作のまま印刷その他の機械的又は化学的方法により文書又は図画として複製する権利(原作のまま前条第一項に規定する方式により記録媒体に記録された電磁的記録として複製する権利を含む) よって出版権者は、著作権者(複製権者)との利用許諾契約の条件下で、著作物の出版行為に関し排他的権利を取得することとなる。出版権者は単なる利用許諾者であるに止まらず、法律上、著作物の公表や権利侵害訴訟の原告資格が付与され(112条)、利用許諾の範囲内では著作権者(複製権者)の複製権・出版権の行使にも影響があるなど、強力な権利を持つ。出版権は次の通り利用許諾の範囲内で存続するが、無期限とした契約の有効性については学説上も争いがあり、有限期間を明示して契約するのが通例である。 (83条)出版権の存続期間は、設定行為で定めるところによる。(2項)出版権は、その存続期間につき設定行為に定めがないときは、その設定後最初の出版行為等があつた日から三年を経過した日において消滅する。 複製権などと同様に、出版権の目的物も法第三節第五款の著作権の制限の対象となる(86条)。また出版権の再譲渡などは原権利者の承諾により可能であり(87条)、著作権と同様の登録対抗要件まで規定がある(88条)。出版権侵害も複製権侵害の場合と同じく、損害賠償請求訴訟や侵害等罪の刑事罰(非親告罪化を含む)の対象となる(第7章、第8章)。2011年に自炊代行業者を相手どった提訴があり、2012年1月20日、衆議院第2議員会館で出版社が公明党衆院議員池坊保子文部科学部会長や自民党議員らに出版社が「著作隣接権を持てる」よう要望し、これは平成26年改正において電子書籍の出版権(いわゆる電子出版権)として実現された(次掲)。 80条2項 原作のまま前条第一項に規定する方式により記録媒体に記録された当該著作物の複製物を用いて公衆送信を行う権利
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "著作権(ちょさくけん、英語: copyright、コピーライト)は、作品を創作した者が有する権利である。また、作品がどう使われるか決めることができる権利である。作者の思想や感情が表現された文芸・学術・美術・音楽などを著作物といい、創作した者を著作者という。知的財産権の一種。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般的に、著作物を他人が無断で無制限に利用できないように法的に保護する必要がある。著作物を創造した人物は、その著作物を他人が無断で利用しても、自己の利用を妨げられることはない。しかし、他人が無制限に著作物を利用できると、著作者はその知的財産から利益を得ることが困難となる。著作物の創造には費用・時間がかかるため、無断利用を許すと、知的財産の創造意欲を後退させ、その創造活動が活発に行われないようになるといった結果を招くためである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "著作者の権利は、著作物を活用して収益や名声などを得ることができる財産的権利(著作財産権)と、著作物の内容と著作者を紐づけることで、著作者の人間性を正確に表現する人格的権利(著作者人格権)に分類される。狭義に解する場合、著作権はとりわけ著作財産権と同義とされる。反対に、最も広義に解する場合、実演家、レコード製作者、放送事業者など著作物を伝達する者に付与される権利(著作隣接権)も、著作権の概念に含めることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "知的財産権には著作権のほか、特許権や商標権などの産業財産権があるが、保護の対象や権利の強さが違う。産業財産権は産業の発達を目的とする技術的思想(アイデア)を保護の対象とし、権利者に強い独占性を与える性質のため、所管官庁による厳しい審査を経て登録されなければ権利が発生しない。一方の著作権は、創造的な文化の発展を目的とする表現を保護の対象としていることから、産業財産権と比べて独占性は低く、日本を含む多くの国・地域では登録しなくても創作した時点で権利が発生する。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "著作物の定義・範囲、著作物の保護期間、著作物の管理手続や著作侵害の罰則規定などは、時代や国・地域によって異なるものの、国際条約を通じて著作権の基本的な考え方は共通化する方向にある。しかし、著作物のデジタル化やインターネットの社会普及に伴い、著作権侵害やフェアユース(無断利用が著作権侵害にあたらないケース)をめぐる事案が複雑化している時代趨勢もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "学術的な目的で、研究者や教授が著作権で保護された作品を使用することにはいくつかの例外がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "著作権は人権(財産権)の一種であり、同時に「著作権」という語は、人権としての著作権のほかに、法的権利としての著作権(さらに細かくは国際法上の著作権や、憲法上の著作権など)という側面もある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "著作権は狭義には著作財産権のみを指し、広義には著作財産権と著作者人格権、最広義には著作者の有する実定法上の権利(著作財産権、著作者人格権、著作隣接権)の総体をいう。広義の著作権概念は概して大陸法の諸国で用いられる著作権概念である。一方、狭義の著作権概念は英米法の諸国で用いられる著作権概念である。日本の著作権法は「著作者の権利」のもとに「著作権」と「著作者人格権」をおく二元的構成をとっている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "著作権は狭義には著作財産権のことをいう。著作者に対して付与される財産権であり、著作物を独占的・排他的に利用する権利である。著者は、著作権(財産権)を、他人に干渉されることなく、利用する権利を持つ。たとえば、小説の著作者(作者)は、他人に干渉されることなく出版、映画化、翻訳することができる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "したがって、著作権(財産権)のシステムが正しく機能している場合は、出版社などが得た収益を、後進の育成と採用への投資(育成費)に充当できる。これにより、アマチュアからプロへと進む際のハードルも低くなる。また、各分野での世代交代が活発化する。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "しかし、著作者の合意(許諾)を得ていない他人が、その著作物を広く世間に発表(公表)すると、著作者は生活するために必要な収入を失い、「執筆」「作曲」「映画製作」などの仕事(創作事業)も継続できなくなる。この他人による著作者の財産を盗み取る行為が、著作権の侵害である。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "著作者が著作権を財産として扱える範囲を明確に限定するために、支分権を用いて細目を列挙しており、著作者以外の者にとっては、細目の把握が困難である。これにより「著作者の権利の束」と表示し、細目のすべてを含めた「すべての権利(財産権)」を保持していると、包括して記す場合もある。あるいは、支分権による細目の分類を用いて、著作権(財産権)の一部を、人(自然人や法人)に引き渡すことも可能である。このような販売形態を「譲渡」という。たとえば、小説の(著作者)が、契約により著作権の「出版権」のみを他人(自然人もしくは法人)に譲渡し、それ以外の著作権(財産権)を著作者が自ら保持するといったことも法的には可能である。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方で、著作物を収めた記録媒体(CDやDVD、ブルーレイや書籍などの有体物)を第三者に販売した場合でも、著作権が消滅することはない。このような販売形態を(権利の)「貸与」という。ほかにも、「譲渡」や「貸与」以外に、著作者ではない人(自然人や法人)と「許諾の契約」を結び、著作者ではない人(自然人や法人)が自由に利用できるようにする方法もある。このような契約を「利用許諾の締結」といい、殊に音楽制作では「買い取り」という。著作権は相対的独占権あるいは排他権である。特許権や意匠権のような絶対的独占権ではない。すなわち、既存の著作物Aと同一の著作物Bが作成された場合であっても、著作物Bが既存の著作物Aに依拠することなく独立して創作されたものであれば、両著作物の創作や公表の先後にかかわらず、著作物Aの著作権の効力は著作物Bの利用行為に及ばない。同様の性質は回路配置利用権にもみられる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "狭義の著作権(著作財産権)は財産権の一種であるが、著作者に認められる権利(著作者の権利)としては、そのほかに著作者の人格的利益を保護するものとして、人格権の一種である著作者人格権がある。両者の関係については考え方および立法例が分かれる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "まず、著作権法により著作者に対して保障する権利を純粋に財産権としての著作権として把握する考え方がある。この考え方を徹底しているのがアメリカ合衆国著作権法であり、著作者の人格的権利はコモン・ロー上の人格権の範疇に含まれる。もっとも、ベルヌ条約が加盟国に対して著作者人格権の保護を要求していることもあり、1990年の法改正により、視覚芸術著作物について限定された形で著作者人格権を保護する旨の規定を設けた(合衆国法典第17編第106A条)。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第2に、著作者に対して、財産的権利と人格的権利の双方を著作権法上保障する考え方がある。大陸法の著作権法は基本的にこのような考え方に立脚している。フランス著作権法がこの考え方に立脚しており、著作者の権利について、人格的な性質と財産的な性質を包含するものとして規定し(111の1条第2項)、いわゆる著作者人格権は処分できないものとする(121の1条第3項)のに対し、著作権は処分できるものとして(122の7条)区別している点にこのような考え方が現れている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第3に、著作者に対して、財産的権利と人格的権利の双方を著作権法上保障するが、両者は一体となっており分離できないものとして把握する考え方がある。ドイツの1965年9月9日の著作権および著作隣接権に関する法律がこの考え方に立脚しており、著作者の権利の内容を構成するものとして著作者人格権に関する規定を置いているが(11条-14条)、財産権と人格権が一体化しているがゆえに、財産権をも含む著作者の権利について譲渡ができない旨の規定が置かれている(29条)点にこのような考え方が現れている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本法の法制は、著作権法上、著作者の権利として財産権たる著作権と人格権たる著作者人格権を保障しつつ、前者は譲渡可能なものとして理解し、後者は譲渡不可能なものとして理解している点でフランス法に近い。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "著作者によって制作された楽曲(著作物)は、著作者である作詞家・作曲家が著作権を有している。しかし、楽曲を演奏する実演家や、それを録音するレコード製作者、楽曲を放送する放送事業者・有線放送事業者も、著作者ではないものの著作物に密接に関わる活動を業としており、1970年の現行著作権法制定に伴い、これらの利用者による実演、レコード、放送または有線放送にも著作権に準じた一定の権利(著作隣接権、英: neighboring right)が認められることになった。著作隣接権は実演家の権利(著作権法90条 - 95条)、レコード製作者の権利(同96条 - 97条)、放送事業者の権利(同98条 - 100条)、有線放送事業者の権利(同100条)からなり、人格権と財産権が含まれる。保護期間は実演日(実演)または最初の固定日(レコード)から70年間(放送、有線放送は放送等から50年間)。著作権と異なり楽曲(著作物)そのものの権利ではないため、演奏権や翻案権(編曲権)は認められていない。また映画の著作物においては、二次利用の際の著作隣接権の適用が制限される(映画の著作物#著作隣接権との関係も参照)。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "著作権が本格的に考慮されるようになったのは、15世紀にグーテンベルクによる印刷術が確立するとともに、出版物の大量の模倣品が問題化するようになってからである。記録に残る最初の本の著作権は、1486年に、人文主義者のマルカントニオ・サベリーコのヴェネツィア史に与えられ、芸術家の最初の著作権は1567年にヴェネツィアの元老院からティツィアーノに与えられた。", "title": "著作権の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "18世紀初頭、イギリスではアン法(クイーン・アン法。1709年制定、1710年施行)で著作者の権利、すなわち著作権を認めた。この法では、著作権の有効期間(14年、1度更新可能で最大28年)や、その後のパブリック・ドメインの概念も制定されている。", "title": "著作権の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "フランスではフランス革命時の1791年に、大陸法系の国の中では初めて著作権法が制定された。その後、18世紀から19世紀にかけて各国で著作権を保護する法律が成立した。19世紀に入ると著作権の対象は印刷物以外(音楽、写真など)に拡大されていく。", "title": "著作権の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ところが19世紀半ばになっても著作権の保護の法律を持たない国があり、イギリスやフランスなどの作家の書いた作品が複製による被害を受けていた。そのため、1886年採択・1887年発効のベルヌ条約で国際的な著作権の取り決めができ、1952年採択・発効の万国著作権条約によってベルヌ条約未締結国との橋渡しがなされた。さらには世界貿易機関 (WTO) 主管のTRIPS協定が1994年に採択・1995年発効し、国際的な著作権侵害の際にはWTOに提訴できる仕組みが導入された。", "title": "著作権の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、国際条約と国内法の中間的な位置づけとして、欧州連合(EU)の各種指令がある。EU加盟国は指令を遵守して国内法を整備する義務を負うことから、EU加盟国間の著作権法のばらつきを平準化する役割を担っている。", "title": "著作権の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "しかし著作権法および著作権についての考え方は、著作者・著作権者・利用者など利害関係者のさまざまな要請を受け、専門家だけでなく広く世論の間でも議論が起きたり、立法の場で話し合われたり、行政の場で検討されたり、司法の場で争われたりするなど絶えず変更を受け続けている。", "title": "著作権の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "21世紀に入り、テクノロジーの著しい進歩および権利ビジネスの伸張など経済社会の変化を受けた産業保護の観点からの要請と、著作物の自由な利用の要請(時には自由な言論の存続の希望を含む)との衝突が顕著な争点のひとつになっている。これを受け、デジタル著作物の保護規定を強化したWIPO著作権条約が1996年に採択され、2002年に発効している。", "title": "著作権の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "新しいテクノロジーに関連する個別の判例や法制には、1984年に判決が出た米国のベータマックス事件(ソニー勝訴)、1992年に生まれた日本の私的録音録画補償金制度、1997年に創設されたインタラクティブ送信に係る公衆送信権・送信可能化権(日本)、1999年に起こされたソニー・ボノ法への違憲訴訟(米国、2003年に合憲判決)、2001年のナップスター敗訴(米国)などがある。", "title": "著作権の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "本節では著作権のうち、おもに狭義の著作権(著作財産権)の保護の対象と要件について述べる。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "著作権は、著作者の精神的労力によって生まれた製作物を保護し、また、自由市場における市場価格を著作者に支払うことを保証して、著作者の創作業務を維持し、収入を安定させることで、間接的に著作者本人を保護する効果もある。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本の現行著作権法では具体的に「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(著作権法第2条第1項第1号)と定めており、ここでいう「創作的」については、既存の著作物との差異(表現者の個性)が表れていればよく、新規性や独創性は求められず、区別できる程度であればよいとされる。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "中山 (2014)によれば、思想又は感情が現れている箇所がどのような箇所なのか明確に定義することは難しい。そのため思想又は感情でないものがどういったものなのかを定義する方が明確にそれらを区別できる。思想・感情的から漏れ出ているものとしては、第1に著作物を書いた者が事実としているもの。例えば、ガリレオが地動説に関する本を出版した際、彼は地動説を事実として扱っていた。その場合地動説は事実として扱われる。第2に契約書案等。第3に単なる事実の報道や雑報。しかし事実を報道する新聞記事などは記事の配列、評価、分析などで創作性が保たれているためそれらは著作物として成立する。著作物として成立しないものとしては表現の幅の狭い新聞の見出しや死亡報道などである。第4に、スポーツやゲームのルールである。第5に技術や自然科学のアイディアそれ自体である。どんなに苦労して完成させた理論であっても、アイディアそれ自体には著作権はない。しかしそのアイディアを表現した論文での創作性が確保されているものに関しては著作権がある (pp.46-55)。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、表現されている必要があり、文字・言語・形象・音響などによって表現されることで著作物となる。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "著作権の対象として想定されるのは、典型的には美術、音楽、文芸、学術に属する作品である。絵画、彫刻、建築、楽曲、詩、小説、戯曲、エッセイ、研究書などがその代表的な例である。ほかにインターネット掲示板の書き込み、写真、映画、テレビゲームなど、新しい技術によって出現した著作物についても保護の対象として追加されてきた。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "美術的分野では、著作権のほか、意匠権が工業デザインの権利を保護するが、著作権は原則として美術鑑賞のための作品などに適用され、実用品には適用されないとする。ただし、この境界線は必ずしも明解ではなく、美術工芸品は双方の権利が及ぶとする説もある。また、国によっては意匠法と著作権法をまとめて扱っている場合もある。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "入学試験の問題は、数学の問題における数式そのもの、社会科の問題における歴史的事実そのものといった場合を除き、問題を作成した学校等に著作権が生じるとされる。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "国によって保護の対象が異なる場合があり、たとえば、フランスの著作権法では著作物本体のほかにそのタイトルも創作性があれば保護する旨を規定している。同じく、一部の衣服のデザインが保護されることが特に定められている。米国の著作権法では船舶の船体デザインを保護するために特に設けられた規定がある。ほかに、明文規定によるものではないが、活字の書体は日本法では原則として保護されないが、保護する国もある。アプリケーションプログラミングインタフェース(API)についても日本法では明示的に保護対象外としているが、米国では「保護が及ぶ」という最高裁判決が出ている。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "権利が生じず、保護の対象にならない製作物がある。おもなものは以下の通り。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "そのほか、キャラクター設定や感情そのもの、創作の加わっていない模倣品、範囲外の工業製品(たとえば自動車のデザイン)などは著作物とはならないほか、短い表現・ありふれた表現(たとえば作品のタイトルや流行語や商品名)・選択の幅が狭い表現などは創作性が認められない傾向にある。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "特許権、意匠権、商標権などは登録が権利発生の要件であるが、著作権の発生要件について登録などを権利発生の要件とするか否かについては立法例が分かれる。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "著作権の発生要件について、登録、納入、著作権表示など一定の方式を備えることを要件とする立法例を方式主義という。これに対して著作物が創作された時点で何ら方式を必要とせず著作権の発生を認める立法例を無方式主義という。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ベルヌ条約は、加盟国に無方式主義の採用を義務づけている(ベルヌ条約5条2項)。なお、日本には著作権の登録の制度があるものの、ベルヌ条約の加盟国であることもあり発生要件ではなく、あくまでも第三者対抗要件であるに過ぎない。これに対して万国著作権条約は方式主義を採用している(ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には万国著作権条約17条によりベルヌ条約が優先する)。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお、北朝鮮もベルヌ条約加盟国であるが、日本は北朝鮮を国家として承認していないことを理由に、2011年12月、北朝鮮の著作物に関しては日本国内で保護義務がないとの司法判断が最高裁によってなされた。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ベルヌ条約に加盟し無方式主義をとる国においては著作物を創作した時点で著作権が発生するため、著作物に特定の表示を行う義務は課されていない。一方、ベルヌ条約締結後も同条約に加盟せず方式主義をとる国々があった。そのため自国が無方式主義を義務づけるベルヌ条約を締結していても、方式主義をとる国々では著作権発生の要件を満たさず、そのままでは著作権保護を得ることができず不都合を生じていた。そこで万国著作権条約は無方式主義をとる国における著作物が、方式主義をとる国でも著作権保護を得ることができるよう、氏名と最初の発行年、©のマークの3つを著作権表示として明示すれば自動的に著作権の保護を受けることができるとした。著作権マーク「©」は、著作権の発生要件として著作物への一定の表示を求める方式主義国において、要件を満たす著作権表示を行うために用いられるマークである。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "先述のように、ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には、無方式主義を定めるベルヌ条約が優先する。したがって、このような問題が生じるのはベルヌ条約を締結しておらず万国著作権条約のみを締結している方式主義をとっている国においてである。かつては米国が方式主義国の代表的存在で、長い間、万国著作権条約のみを締結しベルヌ条約を締結していなかった。しかし、米国は1989年にベルヌ条約を締結して無方式主義を採用した。ほかの国においても無方式主義の採用が進んだ結果、2017年現在、万国著作権条約のみを締結し方式主義を採用している国はカンボジアだけとなっている。そのカンボジアもベルヌ条約自体は締結していないものの、2004年のWTO加盟によりTRIPS協定9条1項の適用を受けることとなり、ベルヌ条約の1条から21条の条項および附属書の遵守義務を負ったため、実質的に無方式主義に転換した。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、著作権表示は条約上の著作権の発生要件とは別に国内法上一定の効果を生じることがあり、たとえばアメリカの著作権法では著作権の存在を知らずパブリックドメインと信じた者を保護する善意の侵害者(innocent infrigers)の法理があるが、©マーク等の著作権表示が著作物に明確に表示されていれば原則として善意の侵害にはあたらないとされている。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "著作物が有形の媒体に固定されている必要があるか否かについても立法例が分かれる。ベルヌ条約では固定を要件とするか否かに関しては加盟国の立法に委ねている(ベルヌ条約2条2項)。アメリカ合衆国著作権法では、著作物が固定されていることが保護の要件となっており(102条(a))、未固定の著作物はもっぱら州法の規律による。日本の場合は固定を要件としていないが、映画の著作物については物への固定が要件であると一般的には解されている(ただし、この点には議論がある)。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "著作権侵害は、民事では差止請求権、損害賠償、名誉回復等の対象となる。また、刑事事件として罰金刑や懲役刑などの刑事罰が科される場合もある。米DMCAに基づいて、自称著作権者およびその代理人による著作権侵害告発で、正規の著作権者や合法な著作権利用が妨げられるケース、果ては言論弾圧に利用するケースすら多発している。", "title": "著作権の対象と要件" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "著作権の保護については、「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(ベルヌ条約)、「万国著作権条約」、「著作権に関する世界知的所有権機関条約」(WIPO著作権条約)、「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS協定)などの条約が保護の最低要件などを定めており、これらの条約の締約国が、条約上の要件を満たす形で、国内の著作権保護法令を定めている。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "18世紀から19世紀にかけて各国の民間交流は増大したが、それとともに剽窃も国際的な問題となった。多くの国では著作権法が制定されていたが、効力範囲は自国民などに限られていた。そこで各国は、相互主義のもと互いに相手方国民の著作権を保護する二国間条約を締結して解決を図ろうとした。しかし、二国間条約では締約国以外には効力が及ばず、各国は法律で登録などの著作権保護要件を定めていたため現実に著作権を取得することは難しく実効性に乏しいものだった。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "そこで国際文芸家協会などが国際的な著作権保護の運動を展開し、スイス政府などの主導のもと1886年にベルヌ条約(文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約)が締結された。ベルヌ条約に関しては1908年のベルリンでの改正条約によって無方式主義が採用された。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ベルヌ条約は内国民待遇、遡及効、無方式主義の採用などを柱とする。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ベルヌ条約は1908年のベルリンでの改正条約によって無方式主義が採用されたが、アメリカ合衆国や中南米諸国など方式主義を採用している諸国との間に制度的な差異を生じ問題化した。そこで、方式主義を採用しているアメリカ合衆国や中南米諸国などと、ベルヌ条約に加盟して無方式主義を採用している国々との間の架橋となる条約として、1952年に万国著作権条約が成立した。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "万国著作権条約は内国民待遇、不遡及効、方式主義の採用などを柱とする。ただし、ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には万国著作権条約17条によりベルヌ条約が優先する。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1979年にアメリカ合衆国がベルヌ条約に加盟したのち、グアテマラなどの中南米諸国も次々とベルヌ条約に加盟するなど、各国で無方式主義への転換が進んだ。先述のように、万国著作権条約のみを締結して方式主義を採用している国は2017年現在カンボジアだけとなっており、そのカンボジアもWTO加盟によりTRIPS協定9条1項の適用を受け、ベルヌ条約の1条から21条の条項および附属書の遵守義務を負ったため、実質的に無方式主義に転換している。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本の著作権法は、著作物によって生じる著作者の財産権の範囲を定めている(著作権法第17条第1項)。日本では創作した時点で自動的に帰属される。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日本の著作権法は「著作者の権利」のもとに「著作権」と「著作者人格権」をおく二元的構成をとっており、このうち「著作権」を著作者の財産的利益を保護する権利とする。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "著作権法は以下で条数のみ記載する。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "日本では、近代以前においては版木の所有者である版元が出版物に関する権利者と考えられ、著作権に相当する概念が存在しなかったとされている。明治初期に福沢諭吉らの紹介と政府への働きかけにより、「版権」として著作権の一部が保護を受けることになった。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "19世紀末に日本がベルヌ条約への加盟をするにあたり、国内法の整備の一環として初めて著作権法が制定された。この著作権法は「旧著作権法」とも呼ばれるもので、1970年に旧法を全部改正して制定された新著作権法とは通常区別される。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "20世紀半ば以降、企業により著作物が製作されるようになると、便宜的に架空の人物を著作者とした事例が出てくるようになった(八手三郎、アラン・スミシーなど)。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "日本の著作権法の下では、原則として、著作権は創作の時点で自動的に創作者(著作者)に帰属する(無方式主義 cf.方式主義)。たとえ創作活動を職業としない一般人であっても、創作された時点で自動的に帰属される。つまり、原始的には著作者たる地位と著作権者たる地位が同一人に帰属する。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "もっとも、著作権は財産権の一種であり、譲渡することが可能であり、さらには、以下のような支分権ごとにも譲渡可能と理解されている。したがって、創作を行った者と現時点の著作権者とは一致しないことや、支分権ごとに権利者が異なることもありうる。ただし、譲渡を受けた者が第三者に対抗するためには、文化庁に著作権を登録しておく必要がある。また、映画の著作物については、著作権の原始的帰属について特例が設けられている(16条)。この場合でも人格権としての著作者人格権は著作者に残されるため(59条)、著作権者であるといえども無断で著作物を公表・改変したり、氏名表示を書き換えたりすることはできない。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "なお、著作者と著作権者の用語の使い分けが分かりづらいためか、2005年1月に文化審議会著作権分科会から発表された「著作権法に関する今後の検討課題」の中では、用語の整理の検討が必要であると言及されている。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "著作権(著作財産権)は個別の権利(支分権)の集合である。以下はその一覧である。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる(63条1項)。この許諾を得た者は、その許諾に係る利用方法および条件の範囲内において、その許諾に係る著作物を利用することができる(63条2項)。また、この許諾に係る著作物を利用する権利は、著作権者の承諾を得ない限り、譲渡することができない(63条3項)。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "共有著作権(共同著作物の著作権その他共有に係る著作権)は、その共有者全員の合意によらなければ行使することができないが(65条2項)、各共有者は、正当な理由がない限り合意の成立を妨げることができない(65条3項)し、信義に反して合意の成立を妨げることができない(65条4項、64条2項)。また、代表権に加えられた制限は、善意の第三者に対抗することができない(65条4項、64条4項)。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "共同著作物とは、「2人以上の者が共同して創作した著作物であって、その各人の寄与を分離して個別的に利用できないものをいう」(2条1項12号)と定義される。間違いやすいのは、二次的著作物で、「キャンディ・キャンディ事件」(最判平成13年10月25日判例)の事案においては、ストーリー作者により事前に原稿用紙に執筆されたストーリーに基づいて作画者が作画をするという方式がとられており、二次的著作物に該当するものと判断された。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "次に間違いやすいのは結合著作物である。これは、各人の創作的表現を分離して利用可能なものであり、たとえば、「歌詞と楽曲」「小説と挿絵」などがこれに該当する。この場合は、共同著作物ではなく、それぞれが著作物であり著作権を有すると解される。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "10条2項は「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第1号に掲げる著作物に該当しない」と規定している。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "10条3項は、本法律による保護は「著作物を作成するために用いるプログラム言語、規約及び解法に及ばない」と規定している。これによりプログラミング言語、API、アルゴリズムは、少なくとも日本法においては保護対象とならない(ただし、日本国外ではAPIが保護対象と認定された例があるため注意が必要である)。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "13条は、次の著作物が「この章の規定による権利の目的となることができない」と規定している。これらの著作物の内容は、国民の権利や義務を形成するものであり、一般国民に対して広く周知されるべきものであるため、著作権による保護対象とすることは妥当でないと考えられるためである。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また、北朝鮮の著作物については、日本は保護する義務を負わないとする最高裁判所の判決が2011年12月8日に出ている。→無断放映#日本における北朝鮮著作物放映基準の最高裁判例を参照", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "著作物の利用や使用について、その便宜上必要とされる範囲または著作権者の利権を害しない範囲において著作権が制限されることがある。これは、著作権というものが、公共性の高い財産権であることに由来する。おもなものは以下の通り。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "著作権に明るくない一般人においては、しばしば、著作物を表象した有体物の所有権を取得したことにより、著作権に類する権限も取得できると誤解する場合がある。しかし、所有権を取得したからといって著作権にかかる諸権利まで取得できるわけではない。このことは美術の著作物についての判例「顔真卿自書建中告身帖事件」で明らかになっている。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ただし、美術の著作物についての原作品の所有者による著作物の展示や展示に伴う複製などの行為には著作権の効力が及ばないとする規定がある(45条、47条)。所有権者による当該行為にまで著作権の効力が及ぶものとすると、美術品の所有権を得た者の利益が著しく損なわれるため、著作権と所有権の調整を図ったものである。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "保護期間を永久と定める国も存在するが、一般に一定の保護期間の下においてのみ、保護される。保護期間の満了を迎えると、著作権は消滅、パブリックドメインとされる。", "title": "著作権の法的保護" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "著作権者が他人に対して著作物の利用を認める契約には著作物利用許諾契約や出版権設定契約がある。", "title": "著作物の利用契約" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "著作物利用許諾契約(ライセンス契約)は契約を結んだものに対して著作物の利用を認める契約である。著作物利用許諾契約の相手方は複数の者でもよい。", "title": "著作物の利用契約" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "出版権設定契約は特定の者に対し出版権を設定するもので、出版権の設定を受けた出版権者は設定行為に従って著作物を複製して頒布することができる。出版行為には紙媒体やDVD、CD-ROMなどへの複製のほか、インターネットによる公衆送信行為や電子出版なども含まれる。出版権は排他的・独占的な権利であり、出版権を侵害する者に対しては差止請求や損害賠償請求が認められる。", "title": "著作物の利用契約" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "日本では出版権は複製権の一形態として著作権法第三章(出版権)に規定される。著作物を文書または図画として出版する行為を目的とする。", "title": "著作物の利用契約" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "(80条)出版権者は、設定行為で定めるところにより、その出版権の目的である著作物について、次に掲げる権利の全部又は一部を専有する。(1項)頒布の目的をもつて、原作のまま印刷その他の機械的又は化学的方法により文書又は図画として複製する権利(原作のまま前条第一項に規定する方式により記録媒体に記録された電磁的記録として複製する権利を含む)", "title": "著作物の利用契約" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "よって出版権者は、著作権者(複製権者)との利用許諾契約の条件下で、著作物の出版行為に関し排他的権利を取得することとなる。出版権者は単なる利用許諾者であるに止まらず、法律上、著作物の公表や権利侵害訴訟の原告資格が付与され(112条)、利用許諾の範囲内では著作権者(複製権者)の複製権・出版権の行使にも影響があるなど、強力な権利を持つ。出版権は次の通り利用許諾の範囲内で存続するが、無期限とした契約の有効性については学説上も争いがあり、有限期間を明示して契約するのが通例である。", "title": "著作物の利用契約" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "(83条)出版権の存続期間は、設定行為で定めるところによる。(2項)出版権は、その存続期間につき設定行為に定めがないときは、その設定後最初の出版行為等があつた日から三年を経過した日において消滅する。", "title": "著作物の利用契約" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "複製権などと同様に、出版権の目的物も法第三節第五款の著作権の制限の対象となる(86条)。また出版権の再譲渡などは原権利者の承諾により可能であり(87条)、著作権と同様の登録対抗要件まで規定がある(88条)。出版権侵害も複製権侵害の場合と同じく、損害賠償請求訴訟や侵害等罪の刑事罰(非親告罪化を含む)の対象となる(第7章、第8章)。2011年に自炊代行業者を相手どった提訴があり、2012年1月20日、衆議院第2議員会館で出版社が公明党衆院議員池坊保子文部科学部会長や自民党議員らに出版社が「著作隣接権を持てる」よう要望し、これは平成26年改正において電子書籍の出版権(いわゆる電子出版権)として実現された(次掲)。", "title": "著作物の利用契約" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "80条2項 原作のまま前条第一項に規定する方式により記録媒体に記録された当該著作物の複製物を用いて公衆送信を行う権利", "title": "著作物の利用契約" } ]
著作権は、作品を創作した者が有する権利である。また、作品がどう使われるか決めることができる権利である。作者の思想や感情が表現された文芸・学術・美術・音楽などを著作物といい、創作した者を著作者という。知的財産権の一種。 一般的に、著作物を他人が無断で無制限に利用できないように法的に保護する必要がある。著作物を創造した人物は、その著作物を他人が無断で利用しても、自己の利用を妨げられることはない。しかし、他人が無制限に著作物を利用できると、著作者はその知的財産から利益を得ることが困難となる。著作物の創造には費用・時間がかかるため、無断利用を許すと、知的財産の創造意欲を後退させ、その創造活動が活発に行われないようになるといった結果を招くためである。 著作者の権利は、著作物を活用して収益や名声などを得ることができる財産的権利(著作財産権)と、著作物の内容と著作者を紐づけることで、著作者の人間性を正確に表現する人格的権利(著作者人格権)に分類される。狭義に解する場合、著作権はとりわけ著作財産権と同義とされる。反対に、最も広義に解する場合、実演家、レコード製作者、放送事業者など著作物を伝達する者に付与される権利(著作隣接権)も、著作権の概念に含めることがある。 知的財産権には著作権のほか、特許権や商標権などの産業財産権があるが、保護の対象や権利の強さが違う。産業財産権は産業の発達を目的とする技術的思想(アイデア)を保護の対象とし、権利者に強い独占性を与える性質のため、所管官庁による厳しい審査を経て登録されなければ権利が発生しない。一方の著作権は、創造的な文化の発展を目的とする表現を保護の対象としていることから、産業財産権と比べて独占性は低く、日本を含む多くの国・地域では登録しなくても創作した時点で権利が発生する。 著作物の定義・範囲、著作物の保護期間、著作物の管理手続や著作侵害の罰則規定などは、時代や国・地域によって異なるものの、国際条約を通じて著作権の基本的な考え方は共通化する方向にある。しかし、著作物のデジタル化やインターネットの社会普及に伴い、著作権侵害やフェアユース(無断利用が著作権侵害にあたらないケース)をめぐる事案が複雑化している時代趨勢もある。 学術的な目的で、研究者や教授が著作権で保護された作品を使用することにはいくつかの例外がある。
{{WikipediaPage|著作権|Wikipedia:著作権}} {{redirect|Copyrights|著作権侵害による削除依頼中のテンプレート|Template:Copyrights}} {{Pathnav|権利|知的財産権|著作権|frame=1|hide=1}} {{権利}} '''著作権'''{{Sfn|中山|2014|p=15}}(ちょさくけん、{{Lang-en|copyright}}、'''コピーライト''')は、作品を創作した者が有する[[権利]]である。また、作品がどう使われるか決めることができる権利である{{Sfn|福井健策|2020|p=9}}。[[作者]]の[[思想]]や[[感情]]が表現された文芸・[[学術]]・[[美術]]・[[音楽]]などを[[著作物]]といい{{Sfn|福井健策|2020|p=20-21}}、創作した者を[[著作者]]という。[[知的財産権]]の一種<ref>{{Cite web|和書|title=知的財産権について {{!}} 経済産業省 特許庁 |url=https://www.jpo.go.jp/system/patent/gaiyo/seidogaiyo/chizai02.html |website=www.jpo.go.jp |access-date=2022-10-28}}</ref>。 一般的に、著作物を他人が無断で無制限に利用できないように法的に保護する必要がある。[[著作物]]を創造した人物は、その著作物を他人が無断で利用しても、自己の利用を妨げられることはない。しかし、他人が無制限に著作物を利用できると、[[著作者]]はその知的財産から利益を得ることが困難となる。著作物の創造には費用・時間がかかるため、無断利用を許すと、知的財産の創造意欲を後退させ、その創造活動が活発に行われないようになるといった結果を招くためである<ref>茶園成樹『著作権法 第3版』有斐閣 2021年 ISBN 978-4-641-24351-4 pp.2</ref>。 著作者の権利は、著作物を活用して収益や名声などを得ることができる財産的権利(著作[[財産権]])と、著作物の内容と著作者を紐づけることで、著作者の人間性を正確に表現する人格的権利([[著作者人格権]])に分類される<ref name=Gov-QA-01>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/sml.asp |title=著作権なるほど質問箱 - 著作者の権利 |accessdate=2019-02-02 |publisher= 文化庁}}</ref>{{Sfn|山本桂一|1973|p=10}}。狭義に解する場合、著作権はとりわけ著作財産権と同義とされる{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=14}}。反対に、最も広義に解する場合、実演家、レコード製作者、放送事業者など著作物を伝達する者に付与される権利([[著作隣接権]])<ref name=Gov-QA-02>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/ref.asp#260 |title=著作権なるほど質問箱 - 関連用語「た行」 |accessdate=2019-02-02 |publisher= 文化庁}}</ref>も、著作権の概念に含めることがある{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=14}}。 知的財産権には著作権のほか、[[特許権]]や[[商標権]]などの[[知的財産権#日本における知的財産権|産業財産権]]があるが<ref name="bunka">{{Cite book |和書 |title=著作権法入門 (2018-2019) |author=文化庁 |year=2018 |page=2 |publisher=著作権情報センター }}</ref><ref name="hkd">{{Cite web|和書|url=https://www.hkd.meti.go.jp/hokig/student/j08/chigai.html|title=特許権と著作権の違いは?|publisher=経済産業省北海道経済産業局|accessdate=2018-12-01}}</ref>、保護の対象や権利の強さが違う。産業財産権は産業の発達を目的とする技術的思想(アイデア)を保護の対象とし、権利者に強い独占性を与える性質のため、所管官庁による厳しい審査を経て登録されなければ権利が発生しない<ref group="註釈">これを審査登録主義と呼ぶ。</ref>。一方の著作権は、創造的な文化の発展を目的とする表現を保護の対象としていることから、産業財産権と比べて独占性は低く、日本を含む多くの国・地域では登録しなくても創作した時点で権利が発生する<ref name="bunka" /><ref name="hkd" />{{refnest|group="註釈"|著作権が指す「創作性」とは、高度な芸術性や独創性を要求するものではなく、たとえ幼児が書いた稚拙な絵であっても、それぞれの個性が発揮されていれば[[著作物]]として保護される<ref name=Gov-QA-03>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000078 |title=著作権なるほど質問箱 - Q 幼児の書いた絵は著作物ですか。 |accessdate=2019-02-02 |publisher= 文化庁}}</ref>。}}。 著作物の定義・範囲、著作物の保護期間、著作物の管理手続や著作侵害の罰則規定などは、時代や国・地域によって異なるものの、国際条約を通じて著作権の基本的な考え方は共通化する方向にある。しかし、著作物のデジタル化やインターネットの社会普及に伴い、[[著作権侵害]]や[[フェアユース]](無断利用が著作権侵害にあたらないケース)をめぐる事案が複雑化している時代趨勢もある。 学術的な目的で、研究者や教授が著作権で保護された作品を使用することにはいくつかの例外がある<ref>{{Cite web |title=Copyright {{!}} Karolinska Institutet University Library |url=https://kib.ki.se/en/write-cite/copyright |website=kib.ki.se |access-date=2022-09-14}}</ref>。 == 構成 == 著作権は[[人権]]([[財産権]])の一種であり{{Sfn|半田|2018|p=「著作者の権利」}}、同時に「著作権」という語は、人権としての著作権のほかに、[[法 (法学)|法]]的[[権利]]としての著作権(さらに細かくは[[国際法]]上の著作権や、[[憲法]]上の著作権など)という側面もある{{Sfn|比良友佳理|2017|p=30}}。 著作権は狭義には著作財産権のみを指し、広義には著作財産権と著作者人格権、最広義には著作者の有する実定法上の権利(著作財産権、[[著作者人格権]]、[[著作隣接権]])の総体をいう{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=14}}。広義の著作権概念は概して[[大陸法]]の諸国で用いられる著作権概念である{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=14}}。一方、狭義の著作権概念は[[英米法]]の諸国で用いられる著作権概念である{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=14}}。日本の[[著作権法]]は「著作者の権利」のもとに「著作権」と「著作者人格権」をおく二元的構成をとっている{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=14}}。 === 著作財産権 === ==== 意義 ==== 著作権は狭義には著作財産権のことをいう{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=14}}。[[著作者]]に対して付与される[[財産権]]であり{{Sfn|山本桂一|1973|p=10}}、[[著作物]]を独占的・排他的に利用する権利である{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=14}}。著者は、著作権(財産権)を、他人に干渉されることなく、利用する権利を持つ{{Sfn|山本桂一|1973|p=9}}。たとえば、小説の著作者(作者)は、他人に干渉されることなく出版、映画化、翻訳することができる。 したがって、著作権(財産権)のシステムが正しく機能している場合は、出版社などが得た収益を、後進の育成と採用への投資(育成費)に充当できる。これにより、アマチュアからプロへと進む際のハードルも低くなる。また、各分野での世代交代が活発化する。 しかし、著作者の合意(許諾)を得ていない他人が、その著作物を広く世間に発表(公表)すると、著作者は生活するために必要な収入を失い、「執筆」「作曲」「映画製作」などの仕事(創作事業)も継続できなくなる。この他人による著作者の[[財産]]を盗み取る行為が、著作権の侵害である。 ==== 法的特徴 ==== [[著作者]]が著作権を[[財産]]として扱える範囲を明確に限定するために、[[支分権]]を用いて細目を列挙しており、著作者以外の者にとっては、細目の把握が困難である。これにより「著作者の権利の束」{{Refnest|group="註釈"|[[著作権表示]]|All right'''s''' reserved}}と表示し、細目のすべてを含めた「すべての権利([[財産権]])」を保持していると、包括して記す場合もある{{Sfn|日本写真協会著作権委員会|2012|p=39}}。あるいは、支分権による細目の分類を用いて、著作権(財産権)の一部を、人([[自然人]]や[[法人]])に引き渡すことも可能である{{Sfn|山本桂一|1973|p=13}}。このような販売形態を「譲渡」という{{Sfn|山本桂一|1973|p=13}}。たとえば、小説の(著作者)が、契約により著作権の「出版権」のみを他人(自然人もしくは法人)に譲渡し、それ以外の著作権(財産権)を著作者が自ら保持するといったことも法的には可能である。 一方で、[[著作物]]を収めた記録媒体(CDやDVD、[[Blu-ray Disc|ブルーレイ]]や書籍などの有体物)を第三者に販売した場合でも、著作権が消滅することはない。このような販売形態を(権利の)「貸与」という{{要出典|date=2018年12月}}。ほかにも、「譲渡」や「貸与」以外に、著作者ではない人(自然人や法人)と「許諾の契約」を結び、著作者ではない人(自然人や法人)が自由に利用できるようにする方法もある{{Sfn|山本桂一|1973|p=14}}。このような契約を「利用許諾の締結」といい、殊に音楽制作では「買い取り」という。著作権は'''相対的独占権'''あるいは排他権である{{Sfn|土肥一史|2003|p=244}}。特許権や意匠権のような絶対的独占権ではない{{Sfn|土肥一史|2003|p=244}}。すなわち、既存の著作物Aと同一の著作物Bが作成された場合であっても、著作物Bが既存の著作物Aに依拠することなく独立して創作されたものであれば、両著作物の創作や公表の先後にかかわらず、著作物Aの著作権の効力は著作物Bの利用行為に及ばない。同様の性質は[[回路配置利用権]]にもみられる。 === 著作者人格権 === {{See also|著作者人格権}} 狭義の著作権(著作財産権)は財産権の一種であるが、著作者に認められる権利(著作者の権利)としては、そのほかに著作者の人格的利益を保護するものとして、[[人格権]]の一種である'''著作者人格権'''がある。両者の関係については考え方および立法例が分かれる。 まず、著作権法により著作者に対して保障する権利を純粋に財産権としての著作権として把握する考え方がある。この考え方を徹底しているのが[[著作権法 (アメリカ合衆国)|アメリカ合衆国著作権法]]であり、著作者の人格的権利は[[コモン・ロー]]上の人格権の範疇に含まれる。もっとも、[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]が加盟国に対して著作者人格権の保護を要求していることもあり、1990年の法改正により、[[視覚芸術]]著作物について限定された形で著作者人格権を保護する旨の規定を設けた(合衆国法典第17編[http://uscode.house.gov/view.xhtml?req=granuleid:USC-prelim-title17-section106A&num=0&edition=prelim 第106A条])。 第2に、著作者に対して、財産的権利と人格的権利の双方を著作権法上保障する考え方がある。[[大陸法]]の著作権法は基本的にこのような考え方に立脚している。[[フランス著作権法]]がこの考え方に立脚しており、著作者の権利について、人格的な性質と財産的な性質を包含するものとして規定し(111の1条第2項)、いわゆる著作者人格権は処分できないものとする(121の1条第3項)のに対し、著作権は処分できるものとして(122の7条)区別している点にこのような考え方が現れている。 第3に、著作者に対して、財産的権利と人格的権利の双方を著作権法上保障するが、両者は一体となっており分離できないものとして把握する考え方がある。[[ドイツ]]の1965年9月9日の著作権および著作隣接権に関する法律がこの考え方に立脚しており、著作者の権利の内容を構成するものとして著作者人格権に関する規定を置いているが(11条-14条)、財産権と人格権が一体化しているがゆえに、財産権をも含む著作者の権利について譲渡ができない旨の規定が置かれている(29条)点にこのような考え方が現れている。 日本法の法制は、著作権法上、著作者の権利として財産権たる著作権と人格権たる著作者人格権を保障しつつ、前者は譲渡可能なものとして理解し、後者は譲渡不可能なものとして理解している{{Sfn|土肥一史|2003|p=241}}点でフランス法に近い。 === 著作隣接権 === [[著作者]]によって制作された楽曲([[著作物]])は、著作者である[[作詞家]]・[[作曲家]]が著作権を有している。しかし、楽曲を演奏する[[実演家]]や、それを録音する[[レコード製作者]]、楽曲を放送する[[放送事業者]]・[[有線放送事業者]]も、著作者ではないものの著作物に密接に関わる活動を業としており、1970年の現行[[著作権法]]制定に伴い、これらの利用者による実演、レコード、放送または有線放送にも著作権に準じた一定の権利('''著作隣接権'''、{{lang-en-short|neighboring right}}{{Sfn|山本桂一|1973|p=16}})が認められることになった。著作隣接権は実演家の権利(著作権法90条 - 95条)、[[原盤権|レコード製作者の権利]](同96条 - 97条)、放送事業者の権利(同98条 - 100条)、有線放送事業者の権利(同100条)からなり、人格権と財産権が含まれる。保護期間は実演日(実演)または最初の固定日(レコード)から70年間(放送、有線放送は放送等から50年間)。著作権と異なり楽曲(著作物)そのものの権利ではないため、演奏権や翻案権(編曲権)は認められていない<ref>[http://www.bunka.go.jp/chosakuken/gaiyou/chosaku_rinsetuken.html 著作隣接権] - 文化庁</ref>。また[[映画の著作物]]においては、二次利用の際の著作隣接権の適用が制限される([[映画の著作物#著作隣接権との関係]]も参照)。 == 著作権の歴史 == {{Main|著作権の歴史}} 著作権が本格的に考慮されるようになったのは、15世紀に[[ヨハネス・グーテンベルク|グーテンベルク]]による印刷術が確立するとともに、出版物の大量の模倣品が問題化するようになってからである{{Sfn|安藤和宏|2018|p=169}}<ref name="fukui2">『著作権とは何か』 113頁。</ref>。記録に残る最初の本の著作権は、1486年に、人文主義者のマルカントニオ・サベリーコのヴェネツィア史に与えられ、芸術家の最初の著作権は1567年にヴェネツィアの元老院からティツィアーノに与えられた<ref>『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』ピーターバーグ著 2004年 新曜社 p230</ref>。 18世紀初頭、イギリスでは[[アン法]](クイーン・アン法。1709年制定、1710年施行)で著作者の権利、すなわち著作権を認めた{{Sfn|安藤和宏|2018|p=169}}<ref name="fukui2"/>。この法では、著作権の有効期間(14年、1度更新可能で最大28年)や、その後の[[パブリック・ドメイン]]の概念も制定されている<ref group="註釈">もっとも、この時代は著作権の対象は書籍だけで、音楽などは対象外であり、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]も盛んに[[盗作]]【既存の音楽の再利用、改変】を行っていた。</ref>。 フランスでは[[フランス革命]]時の1791年に、大陸法系の国の中では初めて著作権法が制定された{{Sfn|宮澤溥明|2017|p=10}}。その後、18世紀から19世紀にかけて各国で著作権を保護する法律が成立した{{Sfn|安藤和宏|2018|p=169}}。19世紀に入ると著作権の対象は印刷物以外(音楽、写真など)に拡大されていく。 {{See also|著作権法 (フランス)#著作権法の成立と改正の歴史}} ところが19世紀半ばになっても著作権の保護の法律を持たない国があり、イギリスやフランスなどの作家の書いた作品が複製による被害を受けていた{{Sfn|安藤和宏|2018|p=169}}。そのため、1886年採択・1887年発効の[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]で国際的な著作権の取り決めができ{{Sfn|土肥一史|2003|p=231}}、1952年採択・発効の[[万国著作権条約]]によってベルヌ条約未締結国との橋渡しがなされた{{Sfn|土肥一史|2003|p=234}}。さらには[[世界貿易機関]] (WTO) 主管の[[TRIPS協定]]が1994年に採択・1995年発効し、国際的な著作権侵害の際にはWTOに提訴できる仕組みが導入された。 また、国際条約と国内法の中間的な位置づけとして、[[欧州連合]](EU)の各種[[指令 (EU)|指令]]がある。EU加盟国は指令を遵守して国内法を整備する義務を負うことから、EU加盟国間の著作権法のばらつきを平準化する役割を担っている。 {{See also|著作権法 (欧州連合)}} しかし著作権法および著作権についての考え方は、著作者・著作権者・利用者など利害関係者のさまざまな要請を受け、専門家だけでなく広く世論の間でも議論が起きたり、立法の場で話し合われたり、行政の場で検討されたり、司法の場で争われたりするなど絶えず変更を受け続けている<ref>『著作権とは何か』 111-112頁。</ref>。 21世紀に入り、テクノロジーの著しい進歩および[[権利ビジネス]]の伸張など経済社会の変化を受けた産業保護の観点からの要請と、著作物の自由な利用の要請(時には自由な言論の存続の希望を含む)との衝突が顕著な争点のひとつになっている<ref>『著作権とは何か』 112-118・199-207頁。</ref>。これを受け、デジタル著作物の保護規定を強化した[[WIPO著作権条約]]が1996年に採択され、2002年に発効している。 新しいテクノロジーに関連する個別の判例や法制には、1984年に判決が出た米国の[[ベータマックス]]事件(ソニー勝訴)<ref>『著作権とは何か』 127-129頁。</ref>、1992年に生まれた日本の[[私的録音録画補償金制度]]<ref>『著作権とは何か』 131-132頁。</ref>、1997年に創設されたインタラクティブ送信に係る[[公衆送信権]]・送信可能化権(日本)<ref>『著作権とは何か』 133-134頁。</ref>、1999年に起こされた[[著作権延長法|ソニー・ボノ法]]への違憲訴訟(米国、2003年に合憲判決)<ref>『著作権とは何か』 194-199頁。</ref>、2001年の[[Napster|ナップスター]]敗訴(米国)<ref>『著作権とは何か』 137-138頁。</ref>などがある。 {{Main2|アメリカ合衆国の判例|著作権法の判例一覧 (アメリカ合衆国)|他国の判例|:en: List of copyright case law}} == 著作権の対象と要件 == 本節では著作権のうち、おもに狭義の著作権(著作財産権)の保護の対象と要件について述べる。 === 保護の対象 === ==== 著作権の対象 ==== 著作権は、[[著作者]]の精神的労力によって生まれた製作物{{Sfn|山本桂一|1973|p=32}}を保護し{{Sfn|土肥一史|2003|p=232}}、また、[[自由市場]]における市場価格を著作者に支払うことを保証して、著作者の創作業務を維持し、収入を安定させることで、間接的に著作者本人を保護する効果もある。 日本の現行著作権法では具体的に「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(著作権法第2条第1項第1号)と定めており{{Sfn|土肥一史|2003|p=233}}、ここでいう「創作的」については、既存の[[著作物]]との差異(表現者の個性)が表れていればよく、新規性や独創性は求められず、区別できる程度であればよいとされる。 {{Harvp|中山|2014}}によれば、思想又は感情が現れている箇所がどのような箇所なのか明確に定義することは難しい。そのため思想又は感情でないものがどういったものなのかを定義する方が明確にそれらを区別できる。思想・感情的から漏れ出ているものとしては、第1に著作物を書いた者が事実としているもの。例えば、ガリレオが地動説に関する本を出版した際、彼は地動説を事実として扱っていた。その場合地動説は事実として扱われる。第2に契約書案等。第3に単なる事実の報道や雑報。しかし事実を報道する新聞記事などは記事の配列、評価、分析などで創作性が保たれているためそれらは著作物として成立する。著作物として成立しないものとしては表現の幅の狭い新聞の見出しや死亡報道などである。第4に、スポーツやゲームのルールである。第5に技術や自然科学のアイディアそれ自体である。どんなに苦労して完成させた理論であっても、アイディアそれ自体には著作権はない。しかしそのアイディアを表現した論文での創作性が確保されているものに関しては著作権がある (pp.46-55)。 また、表現されている必要があり{{Sfn|土肥一史|2003|p=233}}、文字・言語・形象・音響などによって表現されることで著作物となる{{Sfn|山本桂一|1973|p=33}}。 著作権の対象として想定されるのは、典型的には美術、音楽、文芸、学術に属する作品である。絵画、彫刻、建築、楽曲、詩、小説、戯曲、エッセイ、研究書などがその代表的な例である。ほかにインターネット掲示板の書き込み<ref>田中一実 (2002年4月17日). “[https://jstor.uniri.hr/nph-proxy.cgi/en/60/https/xtech.nikkei.com/it/free/ITPro/OPINION/20020416/1/ ネット掲示板書き込みにも著作権!)!)東京地裁が初判断]”. ''日経クロステック'' (日経BP) 2021年2月10日閲覧。</ref>、写真、映画、テレビゲームなど、新しい技術によって出現した著作物についても保護の対象として追加されてきた。 美術的分野では、著作権のほか、[[意匠権]]が[[工業デザイン]]の権利を保護するが、著作権は原則として美術鑑賞のための作品などに適用され、実用品には適用されないとする。ただし、この境界線は必ずしも明解ではなく、美術工芸品は双方の権利が及ぶとする説もある。また、国によっては意匠法と著作権法をまとめて扱っている場合もある。 [[入学試験]]の問題は、数学の問題における数式そのもの、社会科の問題における歴史的事実そのものといった場合を除き、問題を作成した学校等に著作権が生じるとされる<ref>[https://www.bengo4.com/c_1015/c_17/n_1020/ 大学入試の「過去問」 自分のサイトに無断で掲載したら「著作権侵害」になる?]弁護士ドットコム 2013年12月5日 2019年2月28日閲覧</ref>。 国によって保護の対象が異なる場合があり、たとえば、フランスの著作権法では著作物本体のほかにそのタイトルも創作性があれば保護する旨を規定している。同じく、一部の衣服のデザインが保護されることが特に定められている。米国の著作権法では船舶の船体デザインを保護するために特に設けられた規定がある。ほかに、明文規定によるものではないが、活字の書体は[[日本法]]では原則として保護されないが、保護する国もある。[[アプリケーションプログラミングインタフェース]](API)についても日本法では明示的に保護対象外としているが、米国では「保護が及ぶ」という最高裁判決が出ている。 ==== 著作権が生じないもの ==== [[ファイル:Square diamond (shape).svg|thumb|極めて正確に描かれた正方形は著作物ではない]] {{Infobox court case |name = ラスト・メッセージin最終号事件 |court = 東京地方裁判所 |image = |imagesize = |imagelink = |imagealt = |caption = |full name = |date decided = 1995年(平成7年)12月18日 |citations = |ECLI = |transcripts = |judges = |number of judges = |decision by = |concurring = |dissenting = |concur/dissent = |prior actions = |appealed from = |appealed to = |subsequent actions = |related actions = |opinions =(前略)休刊又は廃刊となった雑誌の最終号において、休廃刊に際し出版元等の会社やその編集部、編集長等から読者宛に書かれたいわば挨拶文であるから、このような性格からすれば、少なくとも当該雑誌は今号限りで休刊又は廃刊となる旨の告知、読者等に対する感謝の念あるいはお詫びの表明、休刊又は廃刊となるのは残念である旨の感情の表明が本件記事の内容となることは常識上当然であり、また、当該雑誌のこれまでの編集方針の骨子、休廃刊後の再発行や新雑誌発行等の予定の説明をすること、同社の関連雑誌を引き続き愛読してほしい旨要望することも営業上当然のことであるから、これら五つの内容をありふれた表現で記述しているにすぎないものは、創作性を欠くものとして著作物であると認めることはできない |keywords = |italic title = }} 権利が生じず、保護の対象にならない製作物がある。おもなものは以下の通り。 ; 典型的にはまったく創作性のない表現と情報やアイディア・ノウハウ : <!--例えば、五十音順に人名と電話番号を配しただけの電話帳や丁寧に書かれただけの正方形などは著作物ではないので保護されない(電話帳については、その配列によって創作性を有する編集著作物であるとされることもある<ref>{{Cite 判例検索システム|事件名=|裁判所= 東京地方裁判所|法廷=|裁判形式=判決|裁判年=2007|裁判月=03|裁判日=17|事件番号=平成8(ワ)9325|全文URI=https://web.archive.org/web/20091212014410/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/F1F365B8D190EA0149256A7700082DFF.pdf|検索結果詳細画面URI=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail7?id=13286|閲覧日時=2012-03-17 }}</ref>)。--> : 誰が表現しても同じようになるものは創作性があるとは言えない。ただし、最低限どのような創作性が必要になるかについて画一的、定型的な基準は存在しない。具体的判断については事案ごとに周辺の事情をも勘案したものになるため、判例ごとに異なる。 <!----------------------------> ; 自然科学に関する論文 : 大阪地裁判決<ref>{{Cite 判例検索システム|事件名=|裁判所=大阪地方裁判所|法廷=|裁判形式=判決|裁判年=平成16|裁判月=11|裁判日=4|事件番号=平成15(ワ)6252|全文URI=https://web.archive.org/web/20110824055929/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/D944326D949C3DD64925701B000BA367.pdf|検索結果詳細画面URI=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail7?id=9951|閲覧日時=2014-04-21}}</ref><ref>{{Cite 判例検索システム|事件名=|裁判所=大阪高等裁判所|法廷=|裁判形式=判決|裁判年=平成17|裁判月=4|裁判日=28|事件番号=平成16(ネ)3684|全文URI=https://web.archive.org/web/20140718113720/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/7E709DCAB3128CB64925710E0008B860.pdf|検索結果詳細画面URI=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail7?id=9599|閲覧日時=2014-04-21}}</ref>では、「論文に同一の自然科学上の知見が記載されているとしても、自然科学上の知見それ自体は表現ではないから、同じ知見が記載されていることをもって著作権の侵害とすることはできない。また、同じ自然科学上の知見を説明しようとすれば、普通は、説明しようとする内容が同じである以上、その表現も同一であるか、又は似通ったものとなってしまうのであって、内容が同じであるが故に表現が決まってしまうものは、創作性があるということはできない」としている。なお、判例では「もっとも、自然科学上の知見を記載した論文に一切創作性がないというものではなく、例えば、論文全体として、あるいは論文中のある程度まとまった文章で構成される段落について、論文全体として、あるいは論文中のある程度まとまった文章として捉えた上で、個々の文における表現に加え、論述の構成や文章の配列をも合わせて見たときに作成者の個性が現れている場合には、その単位全体の表現として創作的なものということができるから、その限りで[[著作物]]性を認めることはあり得るところである」としている。 : また大阪高裁判決(控訴審)では、原告の請求を棄却した。この判決では、「自然科学論文,ことに本件のように,ある物質の性質を実験により分析し明らかにすることを目的とした研究報告として,その実験方法,実験結果及び明らかにされた物質の性質等の自然科学上の知見を記述する論文は,同じ言語の著作物であっても,ある思想又は感情を多様な表現方法で表現することができる詩歌,小説等と異なり,その内容である自然科学上の知見等を読者に一義的かつ明確に伝達するために,論理的かつ簡潔な表現を用いる必要があり,抽象的であいまいな表現は可能な限り避けられなければならない。その結果,自然科学論文における表現は,おのずと定型化,画一化され,ある自然科学上の知見に関する表現の選択は,極めて限定されたものになる。したがって,自然科学論文における自然科学上の知見に関する表現は,一定の実験結果からある自然科学上の知見を導き出す推論過程の構成等において,特に著作者の個性が表れていると評価できる場合などは格別,単に実験方法,実験結果,明らかにされた物質の性質等の自然科学上の知見を定型的又は一般的な表現方法で記述しただけでは,直ちに表現上の創作性があるということはできず,著作権法による保護を受けることができないと解するのが相当である」としている。 : また、大阪高等裁判所の判決では「表現技法について著作権法による保護を認めると,結果的に,自然科学上の知見の独占を許すことになり,著作権法の趣旨に反することは明らかである」としている。 <!----------------------------> ; 独創的な思想または貴重な情報そのもの : ある数学の問題の解法やニュース報道で取り上げられる事実などは、その発見や取材に非常な努力を要することがあっても、著作権で保護されることはない。ただし、その解法の表現や、ニュース報道における事実の表現などは著作権で保護されることがある<ref>[https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/outline/4.1.html “著作権なるほど質問箱”].pf.bunka.go.jp</ref>。 そのほか、キャラクター設定<ref name=Gov-QA-05>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000083 |title=著作権なるほど質問箱 - Q 著作権なるほど質問箱 人気アニメのキャラクターは著作物ですか。 |accessdate=2019-04-15 |publisher= 文化庁}}</ref>や感情そのもの、創作の加わっていない模倣品<ref name=hajimete>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/pdf/h28_text.pdf |title=著作権テキスト ~初めて学ぶ人のために~ |accessdate=2019-04-15 |publisher= 文化庁}}</ref>、範囲外の工業製品<ref name="hajimete"/>(たとえば自動車のデザイン<ref name=Gov-QA-06>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000060 |title=著作権なるほど質問箱 - Q 自動車メーカーが売り出しているファミリーカーのデザインは著作物ですか。 |accessdate=2019-04-15 |publisher= 文化庁}}</ref>)などは著作物とはならないほか、短い表現・ありふれた表現<ref name="hajimete"/><ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/densi/rwg/dai1/siryou09.pdf 著作権法の基本的な枠組みについて(オープンデータ関連)] 文化庁 2013年1月24日</ref>(たとえば作品のタイトル<ref name=Gov-QA-08>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000089 |title=著作権なるほど質問箱 - Q 小説や音楽などの題名は著作権で保護されますか。 |accessdate=2019-04-15 |publisher= 文化庁}}</ref><ref name=Gov-QA-09>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000507 |title=著作権なるほど質問箱 - Q 著作権なるほど質問箱 図書館で、書籍の題名、著作者名、出版者名、発行年等の書誌情報をデータベース化し、パソコンコーナーで検索できるようにしようと考えていますが、問題がありますか。 |accessdate=2019-04-15 |publisher= 文化庁}}</ref>や流行語<ref name=Gov-QA-10>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000094 |title=著作権なるほど質問箱 - Q 著作権なるほど質問箱 流行語大賞を獲得した言葉や造語は著作物ですか。 |accessdate=2019-04-15 |publisher= 文化庁}}</ref>や商品名<ref name=Gov-QA-11>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000092 |title=著作権なるほど質問箱 - Q 独創的な商品名は著作物ですか。 |accessdate=2019-04-15 |publisher= 文化庁}}</ref>)・選択の幅が狭い表現などは創作性が認められない傾向にある。 === 保護の要件 === ==== 方式主義と無方式主義 ==== {{see also|著作権の形式的手続}} 特許権、意匠権、商標権などは登録が権利発生の要件であるが、著作権の発生要件について登録などを権利発生の要件とするか否かについては立法例が分かれる。 著作権の発生要件について、登録、納入、著作権表示など[[著作権の形式的手続き|一定の方式]]を備えることを要件とする立法例を[[方式主義]]という{{Sfn|安藤和宏|2018|p=171}}。これに対して[[著作物]]が創作された時点で何ら方式を必要とせず著作権の発生を認める立法例を[[無方式主義]]という{{Sfn|安藤和宏|2018|p=170}}。 [[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]は、加盟国に無方式主義の採用を義務づけている(ベルヌ条約5条2項){{Sfn|安藤和宏|2018|p=170}}。なお、日本には[[著作権の登録制度|著作権の登録]]の制度があるものの、ベルヌ条約の加盟国であることもあり発生要件ではなく、あくまでも[[対抗要件|第三者対抗要件]]であるに過ぎない{{Sfn|日本写真協会著作権委員会|2012|p=40}}。これに対して万国著作権条約は方式主義を採用している{{Sfn|安藤和宏|2018|p=171}}(ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には万国著作権条約17条によりベルヌ条約が優先する{{Sfn|安藤和宏|2018|p=173}})。 なお、北朝鮮もベルヌ条約加盟国であるが、日本は北朝鮮を国家として承認していないことを理由に、2011年12月、北朝鮮の著作物に関しては日本国内で保護義務がないとの司法判断が最高裁によってなされた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111208/trl11120819490021-n1.htm 2011年12月8日 MSN産経ニュース 北朝鮮の作品に著作権保護義務なし 最高裁判決]</ref><ref>{{Cite 判例検索システム|事件名=著作権侵害差止等請求事件|裁判所=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]|法廷=第一小法廷|裁判形式=判決|裁判年=2011|裁判月=12|裁判日=08|事件番号=平成21(受)602|全文URI=https://web.archive.org/web/20111211165622/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20111208164938.pdf|検索結果詳細画面URI=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=81813|閲覧日時=2011-12-09 }}</ref>。 ==== 著作権マーク ==== [[File:Copyright.svg|right|frameless|upright=0.5|alt=著作権マーク「©」]] {{Main|著作権マーク|著作権表示}} ベルヌ条約に加盟し無方式主義をとる国においては[[著作物]]を創作した時点で著作権が発生するため、著作物に特定の表示を行う義務は課されていない。一方、ベルヌ条約締結後も同条約に加盟せず方式主義をとる国々があった{{Sfn|安藤和宏|2018|p=171}}。そのため自国が無方式主義を義務づけるベルヌ条約を締結していても、方式主義をとる国々では著作権発生の要件を満たさず、そのままでは著作権保護を得ることができず不都合を生じていた。そこで万国著作権条約は無方式主義をとる国における著作物が、方式主義をとる国でも著作権保護を得ることができるよう、氏名と最初の発行年、©のマークの3つを著作権表示として明示すれば自動的に著作権の保護を受けることができるとした{{Sfn|安藤和宏|2018|p=172}}。著作権マーク「©」は、著作権の発生要件として著作物への一定の表示を求める方式主義国において、要件を満たす[[著作権表示]]を行うために用いられるマークである{{Sfn|土肥一史|2003|p=232}}。 先述のように、ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には、無方式主義を定めるベルヌ条約が優先する{{Sfn|安藤和宏|2018|p=173}}。したがって、このような問題が生じるのはベルヌ条約を締結しておらず万国著作権条約のみを締結している方式主義をとっている国においてである。かつては米国が方式主義国の代表的存在で、長い間、[[万国著作権条約]]のみを締結しベルヌ条約を締結していなかった。しかし、米国は1989年にベルヌ条約を締結して無方式主義を採用した{{Sfn|安藤和宏|2018|p=172}}。ほかの国においても無方式主義の採用が進んだ結果、2017年現在、万国著作権条約のみを締結し方式主義を採用している国は[[カンボジア]]だけとなっている{{Sfn|安藤和宏|2018|p=174}}<ref>[http://www.wipo.int/treaties/en/ShowResults.jsp?country_id=ALL&search_what=B&bo_id=7 WIPO-Administered Treaties WIPO Bodies > Assembly (Berne Union)]</ref><ref>{{Cite 判例検索システム|事件名=著作権に基づく差止請求権不存在確認請求控訴事件,同附帯控訴事件|裁判所= 大阪高等裁判所|法廷=|裁判形式=判決|裁判年=2007|裁判月=10|裁判日=02|事件番号=平成19(ネ)713|全文URI=https://web.archive.org/web/20071028174530/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20071003092524.pdf|検索結果詳細画面URI=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail7?id=35194|閲覧日時=2012-03-17 }}</ref>。そのカンボジアもベルヌ条約自体は締結していないものの、2004年のWTO加盟によりTRIPS協定9条1項の適用を受けることとなり、ベルヌ条約の1条から21条の条項および附属書の遵守義務を負ったため、実質的に無方式主義に転換した{{Sfn|安藤和宏|2018|p=172}}。 なお、著作権表示は条約上の著作権の発生要件とは別に国内法上一定の効果を生じることがあり、たとえばアメリカの著作権法では著作権の存在を知らずパブリックドメインと信じた者を保護する善意の侵害者(innocent infrigers)の法理があるが、©マーク等の著作権表示が著作物に明確に表示されていれば原則として善意の侵害にはあたらないとされている{{Sfn|安藤和宏|2018|p=172}}。 ==== 有形物への固定の要否 ==== [[著作物]]が有形の媒体に固定されている必要があるか否かについても立法例が分かれる。ベルヌ条約では固定を要件とするか否かに関しては加盟国の立法に委ねている(ベルヌ条約2条2項)。アメリカ合衆国著作権法では、著作物が固定されていることが保護の要件となっており(102条(a))、未固定の著作物はもっぱら州法の規律による。日本の場合は固定を要件としていないが、[[映画の著作物]]については物への固定が要件であると一般的には解されている(ただし、この点には議論がある)<ref>『著作権とは何か』 51頁。</ref>。 === 著作権の侵害 === {{See|著作権侵害}} 著作権侵害は、民事では[[差止請求権]]、[[損害賠償]]、名誉回復等の対象となる。また、刑事事件として罰金刑や懲役刑などの刑事罰が科される場合もある。米DMCAに基づいて、自称著作権者およびその代理人による著作権侵害告発で、正規の著作権者や合法な著作権利用が妨げられるケース、果ては言論弾圧に利用するケースすら多発している。 == 著作権の法的保護 == === 条約上の保護 === 著作権の保護については、「[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約]]」(ベルヌ条約)、「[[万国著作権条約]]」、「[[著作権に関する世界知的所有権機関条約]]」(WIPO著作権条約)、「[[知的所有権の貿易関連の側面に関する協定]]」(TRIPS協定)などの条約が保護の最低要件などを定めており、これらの条約の締約国が、条約上の要件を満たす形で、国内の著作権保護法令を定めている。 ==== ベルヌ条約 ==== {{Main|文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約}} 18世紀から19世紀にかけて各国の民間交流は増大したが、それとともに剽窃も国際的な問題となった{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=300}}。多くの国では著作権法が制定されていたが、効力範囲は自国民などに限られていた{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=300}}。そこで各国は、相互主義のもと互いに相手方国民の著作権を保護する二国間条約を締結して解決を図ろうとした{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=300}}。しかし、二国間条約では締約国以外には効力が及ばず、各国は法律で登録などの著作権保護要件を定めていたため現実に著作権を取得することは難しく実効性に乏しいものだった{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=300-301}}。 そこで国際文芸家協会などが国際的な著作権保護の運動を展開し、スイス政府などの主導のもと1886年にベルヌ条約(文学的及び美術的[[著作物]]の保護に関するベルヌ条約)が締結された{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=301}}。ベルヌ条約に関しては1908年のベルリンでの改正条約によって無方式主義が採用された{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=302}}。 ベルヌ条約は内国民待遇、遡及効、無方式主義の採用などを柱とする{{Sfn|安藤和宏|2018|p=170}}。 ==== 万国著作権条約 ==== {{Main|万国著作権条約}} ベルヌ条約は1908年のベルリンでの改正条約によって無方式主義が採用されたが、アメリカ合衆国や中南米諸国など方式主義を採用している諸国との間に制度的な差異を生じ問題化した{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=308}}。そこで、方式主義を採用しているアメリカ合衆国や中南米諸国などと、ベルヌ条約に加盟して無方式主義を採用している国々との間の架橋となる条約として、1952年に万国著作権条約が成立した{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=308}}。 万国著作権条約は内国民待遇、不遡及効、方式主義の採用などを柱とする{{Sfn|安藤和宏|2018|p=170}}。ただし、ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には万国著作権条約17条によりベルヌ条約が優先する{{Sfn|安藤和宏|2018|p=173}}。 1979年にアメリカ合衆国がベルヌ条約に加盟したのち、[[グアテマラ]]などの中南米諸国も次々とベルヌ条約に加盟するなど、各国で無方式主義への転換が進んだ{{Sfn|安藤和宏|2018|p=172}}。先述のように、万国著作権条約のみを締結して方式主義を採用している国は2017年現在[[カンボジア]]だけとなっており{{Sfn|安藤和宏|2018|p=174}}、そのカンボジアもWTO加盟によりTRIPS協定9条1項の適用を受け、ベルヌ条約の1条から21条の条項および附属書の遵守義務を負ったため、実質的に無方式主義に転換している{{Sfn|安藤和宏|2018|p=172}}。 === 日本(著作権法) === {{wikisource|著作権法|日本国の著作権法}} 日本の著作権法は、[[著作物]]によって生じる[[著作者]]の[[財産権]]の範囲を定めている(著作権法第17条第1項)。日本では創作した時点で自動的に帰属される。 日本の著作権法は「著作者の権利」のもとに「著作権」と「著作者人格権」をおく二元的構成をとっており{{Sfn|半田正夫|紋谷暢男|1989|p=14}}、このうち「著作権」を著作者の[[財産]]的[[利益]]を保護する権利とする{{Sfn|半田|2018|p=「著作者の権利」}}。 [[著作権法]]は以下で条数のみ記載する。 ==== 歴史 ==== 日本では、近代以前においては[[版木]]の所有者である[[版元]]が出版物に関する権利者と考えられ、著作権に相当する概念が存在しなかったとされている。明治初期に[[福沢諭吉]]らの紹介と政府への働きかけにより、「'''[[版権]]'''」として著作権の一部が保護を受けることになった。 19世紀末に日本がベルヌ条約への加盟をするにあたり、国内法の整備の一環として初めて著作権法が制定された。この著作権法は「旧著作権法」とも呼ばれるもので、1970年に旧法を全部改正して制定された新著作権法とは通常区別される。 * 1886年 - [[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]締結。 * 1887年 - 版権條令制定{{Sfn|山本桂一|1973|p=22}}。 * 1893年 - 版権法制定{{Sfn|山本桂一|1973|p=22}}。 * 1899年 - 日本がベルヌ条約に加盟{{Sfn|土肥一史|2003|p=228}}。 * 1899年 - 旧著作権法制定{{Sfn|山本桂一|1973|p=22}}(版権法等関連旧法は廃止)。 * 1931年 - プラーゲが音楽著作権の使用料を要求([[プラーゲ旋風]])。 * 1939年 - [[仲介業務法]]施行{{Sfn|土肥一史|2003|p=275}}。 * 1951年 - [[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]第15条C項により[[戦時加算 (著作権法)|戦時加算]]。 * 1970年 - 新著作権法制定{{Sfn|土肥一史|2003|p=229}}。 * 1985年 - 昭和60年6月14日法律第62号により著作権法(昭和45年法律第48号)の一部が改正され、「プログラムの著作物」が著作権法で明示的に保護対象になった。1986年(昭和61年)1月1日から施行された。 * 1999年 - 平成11年6月23日法律第77号により著作権法(昭和45年法律第48号)の一部が改正され、私的使用のための複製の場合は技術的保護手段を回避するような複製ができなくなった。1999年(平成11年)10月1日から施行された。 * 2000年 - [[著作権等管理事業法]]施行にともない、[[仲介業務法]]廃止。 20世紀半ば以降、企業により[[著作物]]が製作されるようになると、便宜的に架空の人物を著作者とした事例が出てくるようになった([[八手三郎]]、[[アラン・スミシー]]など)。 ==== 権利の内容と譲渡可能性 ==== 日本の著作権法の下では、原則として、著作権は創作の時点で自動的に創作者([[著作者]])に帰属する([[無方式主義]] cf.[[方式主義]])。たとえ創作活動を職業としない一般人であっても、創作された時点で自動的に帰属される。つまり、原始的には'''著作者'''たる地位と'''著作権者'''たる地位が同一人に帰属する。 もっとも、著作権は財産権の一種であり、[[譲渡]]することが可能であり、さらには、以下のような支分権ごとにも譲渡可能と理解されている。したがって、創作を行った者と現時点の著作権者とは一致しないことや、支分権ごとに権利者が異なることもありうる。ただし、譲渡を受けた者が第三者に対抗するためには、文化庁に著作権を登録しておく必要がある。また、[[映画の著作物]]については、著作権の原始的帰属について特例が設けられている([[b:著作権法第16条|16条]])。この場合でも人格権としての[[著作者人格権]]は著作者に残されるため([[b:著作権法第59条|59条]])、著作権者であるといえども無断で[[著作物]]を公表・改変したり、氏名表示を書き換えたりすることはできない{{Sfn|半田、松田|2015a|p=798}}。 なお、著作者と著作権者の用語の使い分けが分かりづらいためか、2005年1月に文化審議会著作権分科会から発表された「著作権法に関する今後の検討課題」の中では、用語の整理の検討が必要であると言及されている。 ==== 支分権 ==== 著作権(著作財産権)は個別の権利('''支分権''')の集合である。以下はその一覧である<ref>p.10 of 文化庁著作権課. ''[https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/93726501.html 令和4年度著作権テキスト]''. 文化庁公式HP. 2023-06-19閲覧.</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! 支分権名 ! 対象著作物 ! 対象行為 ! 条項 |- ! 複製権 | 全て | 複製(形ある物への再製)<ref>"複製権は ... 全ての著作物が対象となり ... 著作物を「形のある物に再製する」(コピーする)ことに関する権利" p.14 of 文化庁著作権課. ''[https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/93726501.html 令和4年度著作権テキスト]''. 文化庁公式HP. 2023-06-19閲覧.</ref> | 第21条 <!----------------------------> |- ! style="border-top-width: medium;"|上演権・演奏権 | style="border-top-width: medium;"|全て | style="border-top-width: medium;"|公に上演・演奏(直接見せる) | style="border-top-width: medium;"|第22条 |- ! 上映権 | 全て | 公に上映(表示器に映し出す) | 第22の2条 |- ! [[公衆送信権]] | 全て | 公に送信・送信可能化 | 第23条 |- ! 公の伝達権 | 全て | 公に伝達(受信装置による伝達) | 第23条の2 |- ! 口述権 | 言語 | 公に口述 | 第24条 |- ! 展示権<ref>日本の著作権法に独特の規定。</ref> | 美術・写真の原作品 | 公に展示(写真は未発行に限定) | 第25条 <!----------------------------> |- ! style="border-top-width: medium;"|譲渡権 | style="border-top-width: medium;"|映画以外の原作品又は複製物 | style="border-top-width: medium;"|譲渡により公に提供 | style="border-top-width: medium;"|第26条の2 |- ! 貸与権 | 映画以外の複製物 | 貸与により公に提供 | 第26条の3 |- ! 頒布権 | [[映画の著作物|映画]] | 複製によって頒布 | 第26条 |- <!----------------------------> |- ! style="border-top-width: medium;"|二次的著作物の創作権 | style="border-top-width: medium;"|全て | style="border-top-width: medium;"|二次的著作物の創作(翻訳・[[翻案権|翻案]]) | style="border-top-width: medium;"|第27条 |- ! 二次的著作物の利用権 | 全て | 二次的著作物の利用 | 第28条 |} {{main2|著作物の種類など|著作物}} ==== 権利行使 ==== [[著作者|著作権者]]は、他人に対し、その[[著作物]]の利用を[[許諾]]することができる([[b:著作権法第63条|63条]]1項)。この許諾を得た者は、その許諾に係る利用方法および条件の範囲内において、その許諾に係る著作物を利用することができる(63条2項)。また、この許諾に係る著作物を利用する権利は、著作権者の承諾を得ない限り、[[譲渡]]することができない(63条3項)。 * 著作物の放送又は有線放送についての許諾は、契約に別段の定めがない限り、当該著作物の録音又は録画の許諾を含まないものとする(63条4項)。 * 著作物の送信可能化についての許諾を得た者が、その許諾に係る利用方法及び条件(送信可能化の回数又は送信可能化に用いる自動公衆送信装置に係るものを除く)の範囲内において反復して又は他の自動公衆送信装置を用いて行う当該著作物の送信可能化については、[[s:著作権法#a23|23条]]1項の規定は、適用しない(63条5項)。23条1項の規定とは、「著作者は、その著作物について、公衆送信(自動公衆送信の場合にあつては、送信可能化を含む)を行う権利を専有する」とするものである。 共有著作権('''共同著作物'''の著作権その他共有に係る著作権)は、その共有者全員の合意によらなければ行使することができないが([[b:著作権法第65条|65条]]2項)、各共有者は、正当な理由がない限り合意の成立を妨げることができない(65条3項)し、信義に反して合意の成立を妨げることができない(65条4項、[[b:著作権法第64条|64条]]2項)。また、代表権に加えられた制限は、善意の第三者に対抗することができない(65条4項、64条4項)。 '''共同著作物'''とは、「2人以上の者が共同して創作した著作物であって、その各人の寄与を分離して個別的に利用できないものをいう」(2条1項12号)と定義される。間違いやすいのは、[[著作物#%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E7%9A%84%E8%91%97%E4%BD%9C%E7%89%A9|二次的著作物]]で、「キャンディ・キャンディ事件」(最判平成13年10月25日判例)の事案においては、ストーリー作者により事前に原稿用紙に執筆されたストーリーに基づいて作画者が作画をするという方式がとられており、二次的著作物に該当するものと判断された。 次に間違いやすいのは'''結合著作物'''である。これは、各人の創作的表現を分離して利用可能なものであり、たとえば、「歌詞と楽曲」「小説と挿絵」などがこれに該当する。この場合は、共同著作物ではなく、それぞれが著作物であり著作権を有すると解される。 ==== 著作権の対象とならないもの ==== [[b:著作権法第10条|10条]]2項は「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第1号に掲げる著作物に該当しない」と規定している。 10条3項は、本法律による保護は「[[著作物]]を作成するために用いるプログラム言語、規約及び解法に及ばない」と規定している。これにより[[プログラミング言語]]、[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]、[[アルゴリズム]]は、少なくとも日本法においては保護対象とならない<ref>[http://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000033 著作権なるほど質問箱] - 文化庁</ref>(ただし、日本国外ではAPIが保護対象と認定された例があるため注意が必要である<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/atcl/news/15/063002179/ 米最高裁がGoogleの訴えを却下、OracleとのJava著作権訴訟で] - ITPro・2015年6月30日</ref>)。 [[s:著作権法#a13|13条]]は、次の著作物が「この章の規定による権利の目的となることができない」と規定している。これらの著作物の内容は、国民の権利や義務を形成するものであり、一般国民に対して広く周知されるべきものであるため、著作権による保護対象とすることは妥当でないと考えられるためである{{Sfn|半田、松田|2015a|p=704}}。 # [[日本国憲法|憲法]]その他の[[法令]] #* [[条約]](未批准条約を含む)、外国の法令、廃止された法令も含まれる{{Sfn|半田、松田|2015a|p=705}}。また、政府作成の法律案、法律草案、改正試案なども、本号に含まれるものと解する{{Sfn|半田、松田|2015a|p=705}}。ただし、[[新聞社]]が作成した[[日本国憲法]]改正私案のように、私人が作成した法令案は本号の対象外であって、著作権の対象となりうる{{Sfn|半田、松田|2015a|p=705}}。 # [[政府|国]]若しくは[[地方公共団体]]の機関又は[[独立行政法人]](独立行政法人通則法(平成11年法律第103号)第2条第1項に規定する独立行政法人をいう。以下同じ)が発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの # [[裁判所]]の判決、決定、命令及び審判並びに行政庁の裁決及び決定で裁判に準ずる手続により行われるもの # 前3号に掲げるものの翻訳物及び編集物で、国若しくは地方公共団体の機関又は独立行政法人が作成するもの また、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[著作物]]については、日本は保護する義務を負わないとする[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の判決が2011年12月8日に出ている<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111208/trl11120819490021-n1.htm 北朝鮮の作品に著作権保護義務なし 最高裁判決]MSN産経ニュース、2011年12月8日</ref>。→[[無断放映#日本における北朝鮮著作物放映基準の最高裁判例]]を参照 ==== 著作権の制限 ==== [[著作物]]の利用や使用について、その便宜上必要とされる範囲または著作権者の利権を害しない範囲において著作権が制限されることがある。これは、著作権というものが、公共性の高い財産権であることに由来する{{Sfn|山本桂一|1973|p=13}}。おもなものは以下の通り。 {|class="wikitable" ! style="min-width: 5em;"|法規 ! style="min-width: 6em;"|概要 ! 詳細 |- ! [[b:著作権法第30条|30条]] | [[私的使用]]を目的とした複製 | 個人的に又は家庭内、或いはこれに準ずる限られた範囲内において使用する場合は、権利者の承諾を得なくても複製を行うことが出来る。ただし、複製を行う装置・媒体がデジタル方式の場合は「補償金」を権利者に払わなければならないとされる(一般に「補償金」はそれらの装置や媒体を購入する時の値段に含まれる。詳しくは[[私的録音録画補償金制度]]を参照)<ref name="fukui">『著作権とは何か』 123頁。</ref>。また、技術的保護手段(いわゆる「[[コピーガード]]」)を回避しての複製を意図的に行うことは、私的使用であっても権利者の承諾が必要としている<ref>[http://www.cric.or.jp/qa/hajime/hajime7.html 著作物が自由に使える場合は?] - 著作権情報センター</ref>。<!-- 出典がない : ただ、ユーザーの間では、合法的に代金を支払って正規のソフトウェアを購入した場合においては、私的目的の範囲であれば、たとえ、そのソフトウェアのガードを回避してコピーを作成したとしても、「権利者に対し事前の複製許可を求めなくても、正規のお金を払ったのだから、実質的には問題無い」とも考えられているようである -->30条を強行規定であると考える立場からは「私的複製・バックアップコピーに対し制限を加えるような契約条項は無効である」との見解もあり、2014年現在[[経済産業省]]では、30条の解釈について任意規定・強行規定の両論併記の形を取っている<ref>[http://www.techvisor.jp/blog/archives/5084 「一切の複製を禁じます」という著作権契約は有効か?:「電子商取引及び情報財取引等に関する準則」について] - 栗原潔のIT弁理士日記・2014年9月4日</ref>。<!-- 出典がない : なお前述の「正規のお金」は有体物としてのソフトウェアの「所有権に対する対価」であって「著作権に対する対価」ではなく、所有権と著作権を混同したエンドユーザーの誤解に過ぎない。(#著作権と所有権を参照) --><!-- 法47条の3についての記述は[[私的使用]]に移動した --> |- ! 30条の2 | 付随対象著作物の利用 | 平成24年法改正で新設。写真の撮影、録音又は録画において、主となる[[著作物]]に写り込みまたは入り込んだ付随対象著作物に対する制限を規定した。以下の要件が必要である(1)対象とする事物又は音から分離することが困難であること(2)付随して対象となるものであり、軽微な構成部分であること(3)付随対象著作物の種類や用途、複製や翻案の態様に照らし著作権者の利益を不当に害しないものであること。<ref>[http://www.bunka.go.jp/chosakuken/utsurikomi.html 「いわゆる「写り込み」等に係る規定の整備について(解説資料)」] - 文化庁</ref> |- ! [[b:著作権法第30条の4|30条の4]] | 著作物に表現された思想又は感情の享受を目的としない利用 | <u>著作物に表現された思想又は感情の享受を目的としない場合</u>には当該著作物の著作権は制限され、その目的範囲での一切の利用が認められる。例として技術開発/実用化試験、情報解析、人の知覚を伴わない電子計算機による利用が条文上に挙げられる。 |- ! [[b:著作権法第31条|31条]] | 図書館における複製 | 図書館の果たすべき役割が達成されるようにするため、著作権法施行令第一条の三で定められた図書館(公立図書館、国立国会図書館及び社団法人、財団法人並びに日本赤十字社の設置する図書館、大学図書館など)において、利用者の求めに応じ、その調査研究の用に供するために、公表された[[著作物]]の一部分(判例([[多摩市]]立図書館事件)により当該著作物の半分以下。発行後相当期間を経過した(次の号が発行された)定期刊行物に掲載された個個の著作物にあっては、その全部)の複製物を1人につき1部提供する場合、図書館資料の保存の必要性がある場合、他の図書館等の求めに応じて絶版等の理由により一般に入手することが困難な図書館資料の複製物を提供する場合、権利者の承諾がなくても複製が出来る{{Sfn|土肥一史|2003|p=256}}。ただし、いずれも営利を目的としない場合に限られる<ref name="fukui"/>。 |- ! [[b:著作権法第32条|32条]] | [[引用]] | 公表された[[著作物]]は自由に引用して利用することが出来る。ただし、それは公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道・批評・研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならないとされる<ref>『著作権とは何か』 123・176-177頁。</ref>。 |- ! [[s:著作権法#a38|38条]] | 営利を目的としない上演等 | 私人が所有する家庭用のDVD、ビデオテープ等については頒布権は消尽するとされている<ref>平成14年04月25日最高裁判所第一小法廷判決、民集第56巻4号808頁</ref>。 * 営利を目的とせず(非営利)、聴衆・観衆から料金を受けず(無償)、かつ実演家・口述家が報酬を受けない(無報酬)場合には、公表された[[著作物]]を上演・演奏・上映・口述することができる。実際には、非営利の要件は厳しく、商品の宣伝に著作物を使用する場合は、非営利とは認められない{{Sfn|土肥一史|2003|pp=257-258}}。また、観客等からだけでなく、開催者から実演家に報酬など直接の対価がある場合も認められない。(1項)具体的には、学校の運動会などがこれに該当する{{Sfn|土肥一史|2003|p=257}}。 * 営利を目的とせず(非営利)、聴衆・観衆から料金を受けない(無償)場合には、放送・有線放送される著作物を受信して有線放送し、自動公衆送信し、または受信装置により公に伝達することができる。ここでの自動公衆送信については、それによる受信対象地域が放送対象地域に限定されている必要がある。この規定は放送等と同時に伝達することを要件としており、放送等を録画・録音して事後に再度伝達する事は含まれない。また、「受信装置により公に伝達」とは、受信装置により通常の方法で伝達されることを想定しており、受信装置以外の特殊な方法、装置を用いて伝達範囲を拡大することなどは認められない。なお、通常の家庭用受信装置(テレビ、ラジオなど)により公に伝達する場合は、非営利・無償の要件は適用されない。よって、営利目的の店舗等に置かれている家庭用テレビ・ラジオによる伝達は権利の対象とならない。(2項) * 営利を目的とせず(非営利)、貸与を受ける者から料金を受けない(無償)場合には、映画の著作物以外の著作物の複製物(権限者による複製物であって、私的使用を目的とした複製(30条)により増製されたものではない)を公衆に貸与することができる。図書館等が無償で著作物を貸与できるようにするための規定であるが、主体は限定されていないため、私人間における非営利・無償の貸与も対象となる。なお、DVDなど映画の著作物については適用されないため、図書館で映画を公衆に貸与する場合、図書館から著作権者に著作権料が支払われている。(3項) * 映画の著作物に関しては、権限者による複製物の頒布(譲渡、貸与)も頒布権が及ぶが、図書館ほか政令で定める公的な視聴覚施設間における無償の頒布は、補償金を権利者に支払うことにより認められる。(4項) |- ! [[b:著作権法第42条の2|42条の2]] | [[行政機関の保有する情報の公開に関する法律|行政機関情報公開法]]等による開示のための利用 | 行政機関の長、独立行政法人等又は地方公共団体の機関若しくは地方独立行政法人は、行政機関情報公開法、独立行政法人等情報公開法又は情報公開条例の規定により[[著作物]]を公衆に提供し、又は提示することを目的とする場合には、それぞれの法令で定める方法により開示するために必要と認められる限度で著作物を利用することができる。なお、行政機関以外では、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は「[https://web.archive.org/web/20070324032206/http://www.courts.go.jp/about/siryo/johokokai/johokokai01.html 最高裁判所の保有する司法行政文書の開示等に関する事務の取扱要綱]」に、[[衆議院事務局]]は「[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/osirase/jyouhoukoukaijimutoriatukaikitei.pdf/$File/jyouhoukoukaijimutoriatukaikitei.pdf 衆議院事務局の保有する議院行政文書の開示等に関する事務取扱規程]」に基づき情報公開制度を実施しているが、本条による[[著作物]]の利用を行えないため、国の機関以外の者が作成した[[著作物]]について、著作権を理由に不開示決定することが可能となる。 |- ! 46条 | 公開の[[美術]]の著作物等の利用 | 屋外に恒常的に設置された美術の著作物や[[建築]]の著作物は利用できる。 ただし、制限には例外があり、専ら販売目的での美術の著作物の複製等、利用が認められないものがある。<ref name=Gov-QA-04>{{Cite web|和書|url=https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000327 |title=著作権なるほど質問箱 - Q 公園に設置されている彫刻は、屋外の場所に恒常的に置いてある美術の著作物として、大幅な自由利用が認められていると考えていいのですか。 |accessdate=2019-04-15 |publisher= 文化庁}}</ref> |} ==== 著作権と所有権 ==== 著作権に明るくない一般人においては、しばしば、[[著作物]]を表象した有体物の[[所有権]]を取得したことにより、著作権に類する権限も取得できると誤解する場合がある。しかし、所有権を取得したからといって著作権にかかる諸権利まで取得できるわけではない。このことは美術の著作物についての判例「[[顔真卿自書建中告身帖事件]]」<ref>最高裁昭和59年1月20日第2小法廷・別冊ジュリスト著作権判例百選第3版No.157 4頁</ref>で明らかになっている。 ただし、美術の著作物についての原作品の所有者による著作物の展示や展示に伴う複製などの行為には著作権の効力が及ばないとする規定がある([[b:著作権法第45条|45条]]、[[b:著作権法第47条|47条]])。所有権者による当該行為にまで著作権の効力が及ぶものとすると、美術品の所有権を得た者の利益が著しく損なわれるため、著作権と所有権の調整を図ったものである。 === 著作権の保護期間 === 保護期間を永久と定める国も存在するが、一般に一定の保護期間の下においてのみ、保護される{{Sfn|山本桂一|1973|p=14}}。保護期間の満了を迎えると、著作権は消滅、パブリックドメインとされる{{Sfn|山本桂一|1973|p=14}}。 {{main|著作権の保護期間|世界各国の著作権保護期間の一覧}} == 著作物の利用契約 == 著作権者が他人に対して[[著作物]]の利用を認める契約には著作物利用許諾契約や出版権設定契約がある<ref name="manual98">森公任、森元みのり『著作権・コンテンツビジネスの法律とトラブル解決マニュアル』2018年、98頁</ref>。 === 著作物利用許諾契約 === [[著作物]]利用許諾契約(ライセンス契約)は契約を結んだものに対して著作物の利用を認める契約である<ref name="manual98" />。著作物利用許諾契約の相手方は複数の者でもよい<ref name="manual98" />。 === 出版権設定契約(出版権) === {{節スタブ|date=2018年12月30日 (日) 17:23 (UTC)}}<!-- 現行著作権法では、上述の通り実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者には著作隣接権が付与されているが、出版社には認められていない。 --><!-- 出版権は複製権の一形態であるから、隣接権と対比するのは大きな誤り。隣接権行使は著作権行使に影響を与える事はできないが、出版権は複製権(公衆送信権)の一部を設定するため著作権者(複製権者)にも影響を及ぼすなど法構造上も異なる権利である。 --> 出版権設定契約は特定の者に対し出版権を設定するもので、出版権の設定を受けた出版権者は設定行為に従って[[著作物]]を複製して頒布することができる<ref>森公任、森元みのり『著作権・コンテンツビジネスの法律とトラブル解決マニュアル』2018年、98-99頁</ref>。出版行為には紙媒体やDVD、CD-ROMなどへの複製のほか、インターネットによる公衆送信行為や電子出版なども含まれる<ref name="manual99">森公任、森元みのり『著作権・コンテンツビジネスの法律とトラブル解決マニュアル』2018年、98頁</ref>。出版権は排他的・独占的な権利であり、出版権を侵害する者に対しては差止請求や損害賠償請求が認められる<ref name="manual99" />。 日本では出版権は複製権の一形態として著作権法第三章(出版権)に規定される。著作物を'''文書'''または'''図画'''として出版する行為を目的とする。 <blockquote> (80条)出版権者は、設定行為で定めるところにより、その出版権の目的である著作物について、次に掲げる権利の全部又は一部を専有する。(1項)頒布の目的をもつて、原作のまま印刷その他の機械的又は化学的方法により文書又は図画として複製する権利(原作のまま前条第一項に規定する方式<ref group="註釈">電子計算機を用いてその映像面に文書又は図画として表示されるようにする方式</ref>により記録媒体に記録された電磁的記録として複製する権利を含む) </blockquote> よって出版権者は、著作権者(複製権者)との利用許諾契約の条件下で、著作物の出版行為に関し排他的権利を取得することとなる。出版権者は単なる利用許諾者であるに止まらず、法律上、著作物の公表や権利侵害訴訟の原告資格が付与され(112条)、利用許諾の範囲内では著作権者(複製権者)の複製権・出版権の行使にも影響がある<ref group="註釈">例として、出版社と専属出版契約の締結をした場合、著作権者(複製権者)はその契約に反して自ら出版、または他の出版社から出版させる事はできない。</ref>など、強力な権利を持つ。出版権は次の通り利用許諾の範囲内で存続するが、無期限とした契約の有効性については学説上も争いがあり、有限期間を明示して契約するのが通例である。<ref>https://www.jpaa.or.jp/old/activity/publication/patent/patent-library/patent-lib/200910/jpaapatent200910_075-079.pdf</ref> <blockquote> (83条)出版権の存続期間は、設定行為で定めるところによる。(2項)出版権は、その存続期間につき設定行為に定めがないときは、その設定後最初の出版行為等があつた日から三年を経過した日において消滅する。 </blockquote> 複製権などと同様に、出版権の目的物も法第三節第五款の著作権の制限の対象となる(86条)。また出版権の再譲渡などは原権利者の承諾により可能であり(87条)、著作権と同様の登録対抗要件まで規定がある(88条)。出版権侵害も複製権侵害の場合と同じく、損害賠償請求訴訟や侵害等罪の刑事罰(非親告罪化を含む)の対象となる(第7章、第8章)。2011年に[[自炊 (電子書籍)|自炊]]代行業者を相手どった提訴があり<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011122000858 書籍スキャン代行業者を提訴=著名作家7人が差し止め請求-東京地裁]</ref>、2012年1月20日、衆議院第2議員会館で出版社が[[公明党]]衆院議員[[池坊保子]]文部科学部会長や[[自由民主党 (日本)|自民党]]議員らに出版社が「著作隣接権<ref group="註釈">なお、いわゆる平成26年改正法による電子出版権の新設に関して「出版社の著作隣接権」として取り沙汰されているが、著作権の法構造上、電子出版権を含む出版権は著作権たる複製権の一形態であるため、少なくとも改正法新設の電子出版権に関しては著作隣接権は何ら関係がない(例えば放送事業者の隣接権を例に取れば、訴訟等原告資格を得るのは自らの放送番組に対してだけであるし、いっぽうで出版権には第2章第8節のような裁定利用制度は規定されていない)。</ref>を持てる」よう要望し<ref>[http://www.komei.or.jp/news/detail/20120121_7107 自公、出版業界と懇談 「自炊」代行業者提訴などで]</ref>、これは平成26年改正において電子書籍の出版権(いわゆる電子出版権)として実現された(次掲)。 <blockquote> 80条2項 原作のまま前条第一項に規定する方式<ref group="註釈">電子計算機を用いてその映像面に文書又は図画として表示されるようにする方式</ref>により記録媒体に記録された当該著作物の複製物を用いて公衆送信を行う権利 </blockquote><!-- また著作者に対し著作隣接権の譲渡を求めはじめている<ref>[http://kenakamatsu./rinsetsu 赤松健 なぜ出版社は「著作隣接権」が欲しいのか]</ref>。 --> == 人工知能や動物の著作権 == * [[生成的人工知能]] - 著作権法30条の4により、他者の作品を使った学習は適法とされるが、著作権者の利益を不当に害すると判断される(似たキャラクター、そのままの文章など)場合は違法となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20231016-OYT1T50239/ |title=生成AIの著作物無断学習は「利益侵害」、新聞協会が著作権法の改正訴え…文化審議会小委 |access-date=2023-10-18 |date=2023-10-16 |website=読売新聞オンライン |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00537/061200030/ |title=「機械学習天国ニッポン」と生成AIの著作権リスク 早大・上野教授 |access-date=2023-10-18 |last=日経ビジネス電子版 |website=日経ビジネス電子版 |language=ja}}</ref>。また、作られた作品の傾向を指定して選んだという意味で生成的人工知能で作品を使った使用者には創作性が認められることから著作権が認められる<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/525895f08d58d0ae9db64bdc752573705dd8df1d |title=AIで生成したイラストがパクられて勝手に売られていた! やめさせるにはどうすれば?(弁護士ドットコムニュース) |access-date=2023-10-18 |website=Yahoo!ニュース |language=ja}}</ref>。 * {{ill2|動物が作った作品|en|Animal-made art}} ‐ [[サルの自撮り]]、[[動物の権利]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="註釈"}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author1=半田正夫|author2=紋谷暢男|authorlink1=半田正夫|authorlink2=紋谷暢男|title=著作権のノウハウ|edition=第3版増補版|year=1989|publisher=[[有斐閣]]|series=有斐閣選書}} * {{Cite book|和書|last=半田|first=正夫|authorlink=半田正夫|chapter=著作権|title=日本大百科全書(ニッポニカ)|year=2018|publisher=[[小学館]]・[[朝日新聞社]]・[[VOYAGE GROUP]]|url=https://kotobank.jp/word/%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9-5821#%E8%91%97%E4%BD%9C%E8%80%85%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9|accessdate=2018-08-10|ref=harv}} * {{Cite journal |和書|author=比良友佳理 |title=デジタル時代における著作権と表現の自由の衝突に関する制度論的研究 (5) |date=2017 |journal=知的財産法政策学研究: Intellectual Property Law and Policy Journal |volume=49 |pages=25-76 |ref=harv }} * {{Cite book|和書|author=福井健策|authorlink=福井健策|title=著作権とは何か…文化と創造のゆくえ|origdate=2005-05-22|accessdate=2009-08-10|edition=初版|publisher=[[集英社]]|series=[[集英社新書]]|isbn=4087202941}} * {{Cite book|和書|author=福井健策|authorlink=福井健策|title=改訂版 著作権とは何か 文化と創造のゆくえ|publisher=集英社|series=集英社新書|date=2020|isbn=978-4-08-721116-0|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=山本桂一|title=法律学全集54-II 著作権法|edition=再版|date= 1973-08-30|publisher=[[有斐閣]]|ref= harv}}<!--NDL所蔵なし。但し、初版ならあり--> * {{Cite book|和書|author=土肥一史|authorlink=土肥一史|title=知的財産法入門|edition=第6版|date= 2003-04-10|publisher=[[中央経済社]]|isbn=4-502-90810-X|ref= harv}} * {{Cite book|和書|title= 写真著作権|author= 川瀬真、北村行夫、花井尊、大亀哲郎、志村潔、大家重夫、石新智規、山田健太|editor= 日本写真協会著作権委員会|series= ユニ知的所有権ブックス|publisher= 太田出版|date= 2012-04-29|isbn=978-4-7783-1309-8|id= {{全国書誌番号|22114668}}|ref= {{SfnRef|日本写真協会著作権委員会|2012}}}} * {{Cite book|和書|title= 著作権コンメンタール1 [1条〜25条]|edition= 第2版|editor= 半田正夫、松田政行|publisher= 勁草書房|date= 2015-12-20|isbn= 978-4-326-40305-9|ref= {{SfnRef|半田、松田|2015a}}}} * {{Cite book|和書|title= 著作権コンメンタール2 [26条〜88条]|edition= 第2版|editor= 半田正夫、松田政行|publisher= 勁草書房|date= 2015-12-20|isbn= 978-4-326-40306-6|ref= {{SfnRef|半田、松田|2015b}}}} * {{Cite book|和書|author=安藤和宏|title=よくわかる音楽著作権ビジネス 基礎編|edition=5th Edition|year=2018|publisher=リットーミュージック|isbn= 978-4-845-63141-4}} * {{Cite book|和書|title=著作権の誕生 フランス著作権史 |edition=1998年出版からの改訂版 |series=出版人・知的所有権叢書01 |author=宮澤溥明 |publisher=太田出版 |year=2017 |isbn=978-4-7783-1570-2 |url=http://www.ohtabooks.com/publish/2017/04/21195243.html |ref=harv}} * {{Citation|和書|title=著作権法|year=2014|publisher=有斐閣|ref={{SfnRef|中山|2014}}|author=中山信弘|edition=第2版}} == 関連文献 == * [[岡本薫 (地理学者)|岡本薫]] 『著作権の考え方』 岩波新書:ISBN 4004308690 * 岡本薫 『この1冊で誰でも分かる著作権』 全日本社会教育連合会:ISBN 4793701329 * [[加戸守行]]『著作権法逐条講義』著作権情報センター、2006年:ISBN 4885260523 * 北村行夫、雪丸真吾編『Q&A 引用・転載の実務と著作権法』中央経済社、2005年 ISBN 4-502-92680-9。 * 斉藤博・半田正夫共監修『著作権判例百選』有斐閣、2001年。 * 作田知樹『クリエイターのためのアートマネジメント ―常識と法律』八坂書房、2009年 ISBN 978-4896949346 * 作花文雄『詳解著作権法』ぎょうせい、2004年。 * 千野直邦、尾中普子『著作権法の解説』一橋出版、 ISBN 4834836207。 * [[田村善之]]『著作権法概説』有斐閣、2001年。 * 中村俊介、植村元雄監修『「どこまでOK?」迷ったときのネット著作権ハンドブック』翔泳社 2006年ISBN 4798109428。 * 本橋光一郎『要約 著作権判例212』学陽書房、2005年。 * 松本肇『ホームページ泥棒をやっつける ─弁護士不要・著作権・[[知的財産高等裁判所]]・[[強制執行]]』花伝社 2006年 ISBN 4763404806 == 関連項目 == {{関連項目過剰|date=2023年8月3日 (木) 08:38 (UTC)}} {{Div col}} *[[著作権台帳]] * [[印税]] * [[カラオケ法理]] * [[実名の登録]] * [[著作権侵害]] * [[著作権の準拠法]] * [[中間搾取]] * [[日本の著作権法における非親告罪化]] * [[模倣品・海賊版拡散防止条約]] (ACTA) * [[擬似著作権]] * [[知的財産権]] * [[弁理士]] * 権利と利用 ** [[オープンソース]] ** [[フェアユース]] ** [[コピーレフト]] ** [[クリエイティブ・コモンズ]] ** [[自由利用マーク]] * 関連団体 ** [[コンピュータソフトウェア著作権協会]] (ACCS) ** [[日本音楽著作権協会]] (JASRAC) ** [[著作権情報集中処理機構]] (CDC) ** [[著作権情報センター]] (CRIC) ** [[電子フロンティア財団]] ** [[フリーソフトウェア財団]] (FSF) ** [[権利開放団体]] * 関連資格 * [[ビジネス著作権検定]] - サーティファイ著作権検定委員会が主催し、[[社団法人|一般社団法人]][[知的財産教育協会]]が監修している著作権に関する資格。 * [[世界図書・著作権デー]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{Wikisource|千九百七十一年七月二十四日にパリで改正された万国著作権条約|1971年改正の万国著作権条約(和訳)}} {{Wikisource|portal:知的財産権法|知的財産権法一般}} * [https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/ 著作権] - 文化庁 * [http://tyosaku.hanrei.jp/ 著作権判例データベース] - アスタミューゼ株式会社 * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=345AC0000000048&openerCode=1 著作権法] - [[e-Gov法令検索]] * {{Kotobank}} {{著作権 (法学)}} {{世界の著作権法}} {{知財権}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちよさくけん}} [[Category:著作権法|*]] [[Category:知的財産権]] [[Category:情報社会]] [[Category:独占]] [[Category:日本の著作権法]]
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映画
映画(えいが、英: motion picture あるいは movie あるいは film、仏: cinéma、中: 電影)とは、長いフィルムに高速度で連続撮影した静止画像(写真)を映写機で映写幕(スクリーン)に連続投影することで、形や動きを再現するもの。活動写真、キネマ、シネマとも。 なお、本来の語義からははずれるものの、フィルムではなくビデオテープなどに磁気記録撮影されたものや映画館で上映される動画作品全般についても、慣例的に「映画」と呼ばれている。 映画館が普及して以降、一般的に映画というと専用施設(映画館等)の中でスクリーンに投影して公開する作品を指すことが多い。20世紀に大きな発展を遂げた表現手段であり、映画は今や芸術と呼ぶべき水準に達している。また、古くからの芸術である絵画、彫刻、音楽、文学、舞踊、建築、演劇に比肩する新たな芸術として「第八芸術」ないし、舞踊と演劇を区別せずに「第七芸術」とも呼ばれる。また、映像やストーリー、音楽など様々な芸術の分野を織り交ぜてひとつの作品を創造することから「総合芸術」の一種としても扱われる。 「映画」という語の本来の意味は「画を映すこと」あるいはそうして「映された画」ということである。そのため、近世末期においては写真と同義に用いられていた。そこから転じて、「(スクリーンなどに)画像を映し出すこと」や「映し出される画像」、さらに長いフィルムに撮影された「動きのある画像」に対しても用いられるようになっていった。 なお、『日本国語大辞典第二版』における「映画」の項目には、以下のように記載されている。 「活動写真」は英語「motion picture、モーション・ピクチャー)」の直訳語で、元来は幻灯機のことを指すが、後に意味が変じて、映画を指すようになった。 「シネマ」は、フランス語の「cinéma」のカタカナ表記である。フランス語のcinémaは、「cinématographe(シネマトグラフ」の短縮形であり、1.シネマトグラフのフィルムを制作し、レアリゼ(=上映、上演)する技術、2.スクリーン上にあたかも現実が動いているかのように(フィルムを使って)投影すること(=日本語で言う「映画の上映」)、3.上映を行う場所(=映画館)、4.フィルムの配給を行う産業(映画の配給会社)、を意味する。フランスでは同国の伝統をふまえて、フランスのリュミエール兄弟が開発したシネマトグラフという概念やその技術(の延長上)というとらえかたで「cinemaシネマ」という言葉や概念が使われているわけである。語源はギリシア語の「κινεῖν(「動く」という意味)」。なお、フランス語でも「film フィルム」という用語もあり、シネマトグラフを実現するための、薄くて細長い物体も当然フィルムと呼ぶが、個々の「映画作品」という意味でもフィルムという。アメリカでは、アート作品をフランス風に「シネマ」と呼び、娯楽作品は英語風に「ムービー」と区別して呼ぶ傾向がある。 戦前の日本では、映画は「キネマ」とも呼ばれた。当時から続く映画雑誌(『キネマ旬報』(キネマ旬報社)など)にこの名前が残っている他、懐古的な情緒が好まれる時にも用いられる。 19世紀後半に写真技術が発展すると、やがてそれを利用して動く写真の開発が始まり、1893年にトーマス・エジソンが1人でのぞき込んで楽しむキネトスコープを発明するなど、1890年代にはいくつかの映画の原型が考案されていた。そうした中、1895年にフランスのリュミエール兄弟がスクリーンに動く写真を投影して公開した。これが現代にまでつながる映画の起源とされている。 スクリーンに上映する映画は登場と同時に世界中で反響を呼び、開発の翌年には各国で上映されるようになった。草創期の映画は単に事実を記録した映像に過ぎなかったが、それでも新奇さから各地の見世物で大当たりを取り、映画館が相次いで各地に設立された。20世紀に入るとストーリーを持つ映画の制作が始まり、盛んに映画作品が作られるようになった。 映画表現において大きな画期となったのは、1920年代の「トーキー」の登場、それに続いて行われたいわゆる「総天然色」映画の登場が数えられよう。これらはそれぞれ、それまでの映画の形式を最終的には駆逐するにいたった。例えば、今では「トーキー」以前の形式である「サイレント」が新たに発表されることはほぼない。また、今「モノクローム」で撮影された映画が発表されることは極めてまれである。 20世紀前半に行われたこれらの映画技術の進展とは異なり、20世紀後半の映画技術の発展は映画表現の多様性を増す方向に作用した。 戦後、普及した映画の撮影技法には、例えば「特殊撮影」「アニメーション」「コンピュータ・グラフィクス」が挙げられる。これらの新たな撮影技法は、それ以前の方法を駆逐することによって普及したのではなく、それが登場する以前の撮影技法と共存しつつ独自の分野を成す形でそれぞれの発展を遂げている。 1970年代からはVTRが普及したが、フィルムとビデオとの基本的な表示方式の違いから映画は35mmフィルムによる撮影が一般的であった。21世紀に入った頃から商業作品もデジタルビデオカメラで撮影され、フィルムを使わずコンピュータ上で編集される例が増加している。詳しくはデジタルシネマを参照。 1990年代以降はコンピューターを使って画像を生成したコンピューターグラフィックス通称CGが大々的に使われるようになる。 映画には、技術的な側面に着目した分類、観客に映画作品を届ける経路やビジネスモデルによる分類、コンテンツ(作品内容)による分類などさまざまな分類法がある。 映画は、もともと映画館など専用の上映施設で上映されるものとして発達してきた。ビジネスモデルとしては、映画作品を制作する会社やそれを配給する会社は、映画館に対して映画作品のフィルムを一定期間貸し出し、貸すことに対する料金を得る(収益を得る)、というしくみであり、映画館のほうは、配給会社に料金を支払う形の契約で、限られた日数だけフィルムを借り、多数の観客が入場に必要なチケットを購入してくれることで収入を得る、配給会社に支払うお金と観客から得るお金の差額が「粗利」となり、ひとたびフィルムを借りたら、なるべく多くの観客に見てもらう、多数回上演し多数の観客に入ってもらうことで利益を大きくしようとする、というしくみであった。映画の制作会社で作られた映画作品のフィルムは、映画の配給会社によって、元のフィルムから複製が多数制作され、各コピーの個体ごとの貸し出し計画が立てられた。複製されたフィルムの個体ひとつひとつは、映画館から映画館へと線的に移動してゆくことになっており、最初は都市部の大きな映画館に高額で貸され、そこでの上映期間が終わると、次第に低額で地方都市や小さな町の映画館へと貸し出されてゆくようなスケジュールが、他の映画作品の上映計画との兼ね合いや、各映画館で「穴」があかないようにすることや、各映画館での利益も考慮し緻密に組まれた。こうしたスケジュールの体系は「番線」と呼ばれた。現在でも劇場で公開する映画は映画の基本であり本流であるが、そうではない映画も増えてきたので、劇場で公開する映画をレトロニムで「劇場公開作品」「劇場公開映画」などと呼ぶことも行われている。 その後、各国で1940年代や1950年代になってテレビの放送が始まるようになり、テレビ所有者が増大する中で、すでに劇場公開が行われた映画作品を、後からテレビの電波に乗せるということも行われるようになった。この場合、ビジネスのしくみとしては、当該の映画作品の諸権利を有する映画会社とテレビ局の間で交渉・契約が行われ、テレビ局のほうから映画会社のほうに対して放送にまつわる対価(料金)が支払われることになる。やがて、数としては比較的少ないが、最初からテレビで放送することを目的に映画フィルムで撮影される映画作品が作られるようになった。このような作品は特に「テレビ映画」と分類する方法がある。テレビ会社が映画を制作すると、上述のようなお金の流れ(テレビ局→映画会社)は生じない。テレビ番組を充実させるためにテレビ局が行った策であり、1960年代のアメリカのテレビ番組の中では一種の「主力の番組」として内容としては西部劇や「ホームドラマ」の映画が多く製作された。 1970年代後半~1980年代以降に、ベータマックスやVHSなどといった規格の比較的安価な家庭用のビデオ装置が先進国の家庭から次第に普及してゆくと、やがてビデオ装置を所有している比較的裕福な家庭をターゲットに、数千円~1万円超という価格設定で映画作品がビデオテープの形でも販売されるようになった。これによって映画(制作)会社が収益を得る方法が増えた(映画館にフィルムを貸す、テレビ局から権利料を得る、以外の選択肢が生まれた)。こうしてビデオテープ化される映画作品の数が次第に増えてゆくと、そうしたビデオテープを貸すレンタルビデオ業者が登場したが、映画会社の収益化の方法が確立されていなかったために、映画作品の「著作権」「貸与権」、テープの使用、上映が認められる範囲の線引きに関連する裁判となり、その結果レンタル業者は、映画会社に対して「正当な対価」を支払うべきだ、といった趣旨の判決が下され、数度の裁判や映画会社とレンタル業者の協会との交渉を経て、やがて「レンタル専用」のテープは一般人向けに販売されるテープよりも あらかじめかなりの高額でレンタル業者に販売されることで映画会社の収益とするしくみや、あるいは映画会社は「貸与権」の一部をレンタル業者に分けるかわりに、レンタル業者はテープが実際にレンタルされた回数を映画会社に報告し、その回数と連動する形で増えてゆく料金をしっかりと支払う、という内容の契約を結ぶ、というしくみが定着していった。こうしてビデオレンタル、という業態が確立すると、最初から劇場公開をせず、ビデオテープとして販売されたりレンタルされる形で視聴されることを想定して撮影される映画、というものも登場するようになった。こうした映画は「ビデオ映画」(あるいは「オリジナルビデオ」など)と分類される。その後 映画作品は、DVDやブルーレイでも販売・レンタルされるようになり、さらに近年、ブロードバンドが一般家庭にも普及すると、テレビ放送以外にネット配信からも映画会社が相応の権利料を得るようになった。2010年代以降、Netflixが、最初からNetflixのコンテンツとして提供するために、"オリジナル映画"を多数製作し日本を含む世界各国で配信するようになった。 こうして観客に映画作品が届けられる経路が多様化するにしたがい、境界域が曖昧になり、どこで線引きするか、決定的な線というは一律に定めることは次第に難しくなってきている。たとえばアメリカでは以前から「テレビ映画」のジャンルが活発であるが、映画のアカデミー賞や「ゴールデングローブ賞映画部門」などの映画賞の対象となる作品は、応募資格を「映画館で上映される作品」、あるいは「ペイパービューで配信される作品」と限定し、「テレビ映画」は排除しているのだが、その一方で、アメリカのエミー賞やゴールデングローブ賞テレビ部門などのテレビ番組賞には、「テレビ映画」を対象とする賞が別枠で設けられる、という状況になっている。 2017年2月にはNetflixオリジナル作品『ホワイト・ヘルメット -シリアの民間防衛隊-』(アインシーデル監督)が第89回アカデミー賞において短編ドキュメンタリー賞を受賞。新型コロナウイルス感染症の影響で多くの映画館が閉鎖された第93回アカデミー賞においては受賞資格が緩和されるとともに、初上映が配信形式であった作品のノミネート、受賞が相次いだ。 映画の歴史を踏まえると、もともとは映画というのは写真フィルムで撮影されるものである。 やがて、そうしたフィルムを磁気フィルムにとりこむ、ということも行われるようになったが、もともと劇場で大型スクリーンに投影することを前提としている映画の世界では、基本的に35mmフィルムでの撮影が標準でありつづけた。 1990年代あたりから、国ごとに状況が異なるようになってゆき、資金面で余裕のあるハリウッドメージャーの場合、映画(や大型テレビドラマ)は未だ35mmフィルム撮影の方が圧倒的に主流でありつづけ、日本などではむしろデジタル化が進む、という現象も起きた。一部の国で写真フィルムで撮影した素材を一旦デジタル化し、デジタル技術ならではの加工や編集を行う、という手法も用いられるようになった。 2000年代に入ってからは、最初から写真フィルムを用いず、HD24p等のデジタル機器で撮影・編集され、その後フィルムに変換されたうえで劇場に納品される、という映画も登場し、徐々に増えていった。音声情報も映画館の多チャンネルサラウンド化に伴い、フィルムに焼き付けずにCD-ROMなどで納品される場合が増えてきた。(日本国内の限定的な事情については日本映画のページにて詳述する。) 最近の映画館(シネマコンプレックス)で上映される映画作品のほとんどは、「配給」のしくみも変わってきており、(従来のような、フィルムという物体の形で複製物をつくって、物体として「配達」されるのではなく)最初からデジタルデータの形で各映画館にネットワーク回線で伝送(VPN(や専用回線)で伝送)され、それが、デジタルデータを直接的に映像として投影する装置によって、スクリーン上に投影されるようになっている。技術的にいえば、データセンター内に映画会社側のサーバがあり、各映画館は映画作品のデータをダウンロードし、映画会社のほうは「デジタル的な鍵」のやりとりをすることで、各映画館で各作品を上映を可能にしたり反対に不可能にするような操作・管理を行い、ビジネスを行っている。 以下のデータは、特に明記されていない限りユネスコ統計研究所による、上映された長編映画(フィクション、アニメーション、ドキュメンタリー)の上位15か国のリストである。 ユネスコ統計研究所によると、チケット販売数で上位の国々は以下のようになっている。 映画制作の最高責任者は映画プロデューサーである。プロデューサーが、企画の選択、資金調達、予算規模の決定や配分の大枠の設定、配給先候補(映画館系列)との交渉、宣伝戦略の検討や決定、監督の人選、俳優の人選、ファイナルカットの判断、等々を行う。 プロデューサーの権限は、最大である。監督よりも強く、監督の仕事ぶりの善し悪しを判断し、場合によっては撮影の途中で監督を解雇し、別の監督にすげかえる、ということすら行う。 ある程度以上の規模の映画となると、制作するには巨額な費用がかかるもので、まずは制作のための費用を調達しなければ、ならない。資金調達が最大の、そして根本的な土台として必要で、それができなければ、予算を組むことができず、資金の配分割合も決められず、撮影計画の立案も、映画スタッフの手配も、機材の手配も、何もできない。 映画は、非常に多数・多種類の、専門職的なスタッフたちによって制作される。映画は、たとえば脚本家、プロダクション・マネージャー(撮影スケジュールの管理や撮影道具の現地搬送の管理)、カメラ(撮影監督、カメラ技師 等)、照明、録音技師、「美術」(画面に登場する物品類の構想、調達、デザイン、制作など)、メイクアップ(化粧)、衣装関連職(スタイリスト、衣装デザイナー、衣装制作者 等々)、音楽(作曲家、作詞家、歌手、演奏家、指揮者 等々)、VFX...といったように、ざっくりと分けても数十種類、細分すると数百種類におよぶ専門家たちが各自の役割を果たして成立する。映画というのは、そうしたさまざまな人々の能力を結集させることによって作られる「総合芸術」である。大規模な映画になると、数千人以上もの人々がかかわるため、エンドロール(制作関係者の表示)も膨大なものとなる。 現在、個人ないし少人数のアマチュアグループでの映画撮影は、カメラ一体型VTRで行われるのが普通である。2000年代前半からDVDやメモリー素子に記録することで、磁気テープを使用しないデジタルビデオが普及しているが、DVビデオも現役である。 安価な機材は個人制作の映画の必須条件ではなく、ジョージ・ルーカスの個人制作である『スター・ウォーズ』新三部作などは当時の商業映画と同じ機材を使用している。 アナログ式のビデオテープレコーダが普及する以前は、8ミリフィルムで撮影するのが主流であった。業務用の35ミリフィルムは、個人では機材の調達が困難(カメラに限っても、購入だと数百万円必要であり、「保守に信用がおけない」ため、個人向けのレンタルはほとんど行われていない)であり、またフィルムも高価であった。よって、個人向けに、小さなフィルムを使うことでフィルム代や現像代といった感材費をおさえた。 一方、1980年代にベータカムが普及するまでは、テレビ局での野外撮影や、上述のテレビ映画には16ミリフィルムが用いられることが多かった。16ミリであれば、35ミリに比較すれば安価な制作が可能であり、個人でも「手を伸ばせば、何とかなる」ものであったため、「16ミリでの映画制作」が、「アマチュアにおけるゴール」とみなされてきた時代が長く続いた。 更に安価で手軽になった8ミリフィルムでの映画制作については、8ミリ映画の項も参照のこと。 デジタル式ビデオカメラとPCベースのノンリニア編集機材の低価格化により、アルビン・トフラーの『第三の波』に登場する生産消費者が台頭しつつある。またプロユースでもノンリニア編集システムと連動した映像管理ソフトなどが利用されている。 YouTubeなど動画サイトを用いた、誰でも簡単に表現する場ができて、映像の個人製作をめぐる状況が大きく変化してきている。上映する場所もプロジェクションマッピングなどの発達とともに、「映画」と「映像作品」の距離が縮まっている。 日本では、明治時代から個人撮影の映画が制作され始めた。戦前から一部でカラーフィルムで撮影が行われ、NHKで2003年に『BSプライムタイム 映像記録 昭和の戦争と平和 カラーフィルムでよみがえる時代の表情』前編後編、『NHKスペシャル 映像記録・昭和の戦争と平和~カラーフィルムでよみがえる時代の表情~』、2006年に『BS特集 カラー映像記録 よみがえる昭和初期の日本』 前編後編と計3本で取り上げられた。 2017年には堀貴秀監督が独学で個人製作した『JUNK HEAD』がファンタジア国際映画祭で最優秀長編アニメーション賞を獲得。ファンタスティック映画祭で新人監督賞を受賞した。 「日本映画の父」と言われた牧野省三によると、映画には三要素があるとのことで、『スジ・ヌケ・ドウサ』の順である、とした。スジは脚本、ヌケは映像美、ドウサは役者の演技を指す。 一方、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典の「映画」の項目の解説では、「映画はシナリオ、演出、カメラ・ワーク、編集の四つの基本となる要素を組み合わせて制作される。」と、4つの要素を挙げている。 映画は、もともと映画のためだけにプロット(筋書きのエッセンス)が書かれ、映画のためだけに脚本が書かれることが多いが、あらかじめ小説などがあり、後から「映画化」が行われることもある。また(あまりそうした国は多くないが)日本やアメリカなど、漫画やコミックがさかんな一部の国では、漫画やコミックを原作として映画がつくられることがある。 小説のような文字による芸術と、映画という映像(や音響)による芸術は、それぞれ特性が大きく異なっている。(文字だからできること、反対に文字には不向きなこと、映像だからできること、反対に映像には不向きなことがある。)文字を用いた芸術と映像を用いた芸術は いわば「まったく 別物」なので、古典文学を原作として映画化を行うことは、さまざまな困難がともなう。 たとえばジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『アンナ・カレニナ』では冒頭の「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」(望月哲男訳)に相当する部分は、映像では表現することはあきらめ、結局、文字で示さざるを得なかった。 沼野充義は「単純にスローガン的に、文学を原作にした映画の効用」として3つあげている。 一つは「原作と違うといって文句を言える」こと。二番目に「文学では見てはいけないものを映画にすると見ることができる」ということ。例えば、ワレーリイ・フォーキン監督 『変身』など、カフカが映像化したくなかったかもしれないものを映像化している。三番目は「読み切れない作品を二時間程度で読んだ気になれる」ということ。例えば『戦争と平和』などは3時間あるが、絢爛豪華な歴史世界を映画で見ることができるし、いつか原作を読もうという気持にさせる。 一般的には、原作をできるだけ忠実に映像化しようと試みた映画作品は、映画作品としては評価が低くなりがちで、その反対に『砂の器』やジャン・ルノワール監督の『ピクニック』など、原作とは異なる内容の映画作品や、短編小説を原作とした映画作品(つまり、原作はせいぜい「きっかけ」や「結晶の核」として用いて、原作とは距離を置いて、文学作品の大部分の要素は思い切って切り捨てたり、変えてしまい、映画という独特の技法の側の都合を(最)優先させた映画作品)のほうが「名作」とされることが多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "映画(えいが、英: motion picture あるいは movie あるいは film、仏: cinéma、中: 電影)とは、長いフィルムに高速度で連続撮影した静止画像(写真)を映写機で映写幕(スクリーン)に連続投影することで、形や動きを再現するもの。活動写真、キネマ、シネマとも。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお、本来の語義からははずれるものの、フィルムではなくビデオテープなどに磁気記録撮影されたものや映画館で上映される動画作品全般についても、慣例的に「映画」と呼ばれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "映画館が普及して以降、一般的に映画というと専用施設(映画館等)の中でスクリーンに投影して公開する作品を指すことが多い。20世紀に大きな発展を遂げた表現手段であり、映画は今や芸術と呼ぶべき水準に達している。また、古くからの芸術である絵画、彫刻、音楽、文学、舞踊、建築、演劇に比肩する新たな芸術として「第八芸術」ないし、舞踊と演劇を区別せずに「第七芸術」とも呼ばれる。また、映像やストーリー、音楽など様々な芸術の分野を織り交ぜてひとつの作品を創造することから「総合芸術」の一種としても扱われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「映画」という語の本来の意味は「画を映すこと」あるいはそうして「映された画」ということである。そのため、近世末期においては写真と同義に用いられていた。そこから転じて、「(スクリーンなどに)画像を映し出すこと」や「映し出される画像」、さらに長いフィルムに撮影された「動きのある画像」に対しても用いられるようになっていった。", "title": "さまざまな呼び方" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、『日本国語大辞典第二版』における「映画」の項目には、以下のように記載されている。", "title": "さまざまな呼び方" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「活動写真」は英語「motion picture、モーション・ピクチャー)」の直訳語で、元来は幻灯機のことを指すが、後に意味が変じて、映画を指すようになった。", "title": "さまざまな呼び方" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「シネマ」は、フランス語の「cinéma」のカタカナ表記である。フランス語のcinémaは、「cinématographe(シネマトグラフ」の短縮形であり、1.シネマトグラフのフィルムを制作し、レアリゼ(=上映、上演)する技術、2.スクリーン上にあたかも現実が動いているかのように(フィルムを使って)投影すること(=日本語で言う「映画の上映」)、3.上映を行う場所(=映画館)、4.フィルムの配給を行う産業(映画の配給会社)、を意味する。フランスでは同国の伝統をふまえて、フランスのリュミエール兄弟が開発したシネマトグラフという概念やその技術(の延長上)というとらえかたで「cinemaシネマ」という言葉や概念が使われているわけである。語源はギリシア語の「κινεῖν(「動く」という意味)」。なお、フランス語でも「film フィルム」という用語もあり、シネマトグラフを実現するための、薄くて細長い物体も当然フィルムと呼ぶが、個々の「映画作品」という意味でもフィルムという。アメリカでは、アート作品をフランス風に「シネマ」と呼び、娯楽作品は英語風に「ムービー」と区別して呼ぶ傾向がある。", "title": "さまざまな呼び方" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "戦前の日本では、映画は「キネマ」とも呼ばれた。当時から続く映画雑誌(『キネマ旬報』(キネマ旬報社)など)にこの名前が残っている他、懐古的な情緒が好まれる時にも用いられる。", "title": "さまざまな呼び方" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "", "title": "映画の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "19世紀後半に写真技術が発展すると、やがてそれを利用して動く写真の開発が始まり、1893年にトーマス・エジソンが1人でのぞき込んで楽しむキネトスコープを発明するなど、1890年代にはいくつかの映画の原型が考案されていた。そうした中、1895年にフランスのリュミエール兄弟がスクリーンに動く写真を投影して公開した。これが現代にまでつながる映画の起源とされている。", "title": "映画の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "スクリーンに上映する映画は登場と同時に世界中で反響を呼び、開発の翌年には各国で上映されるようになった。草創期の映画は単に事実を記録した映像に過ぎなかったが、それでも新奇さから各地の見世物で大当たりを取り、映画館が相次いで各地に設立された。20世紀に入るとストーリーを持つ映画の制作が始まり、盛んに映画作品が作られるようになった。", "title": "映画の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "映画表現において大きな画期となったのは、1920年代の「トーキー」の登場、それに続いて行われたいわゆる「総天然色」映画の登場が数えられよう。これらはそれぞれ、それまでの映画の形式を最終的には駆逐するにいたった。例えば、今では「トーキー」以前の形式である「サイレント」が新たに発表されることはほぼない。また、今「モノクローム」で撮影された映画が発表されることは極めてまれである。", "title": "映画の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "20世紀前半に行われたこれらの映画技術の進展とは異なり、20世紀後半の映画技術の発展は映画表現の多様性を増す方向に作用した。", "title": "映画の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": 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"映画は、もともと映画館など専用の上映施設で上映されるものとして発達してきた。ビジネスモデルとしては、映画作品を制作する会社やそれを配給する会社は、映画館に対して映画作品のフィルムを一定期間貸し出し、貸すことに対する料金を得る(収益を得る)、というしくみであり、映画館のほうは、配給会社に料金を支払う形の契約で、限られた日数だけフィルムを借り、多数の観客が入場に必要なチケットを購入してくれることで収入を得る、配給会社に支払うお金と観客から得るお金の差額が「粗利」となり、ひとたびフィルムを借りたら、なるべく多くの観客に見てもらう、多数回上演し多数の観客に入ってもらうことで利益を大きくしようとする、というしくみであった。映画の制作会社で作られた映画作品のフィルムは、映画の配給会社によって、元のフィルムから複製が多数制作され、各コピーの個体ごとの貸し出し計画が立てられた。複製されたフィルムの個体ひとつひとつは、映画館から映画館へと線的に移動してゆくことになっており、最初は都市部の大きな映画館に高額で貸され、そこでの上映期間が終わると、次第に低額で地方都市や小さな町の映画館へと貸し出されてゆくようなスケジュールが、他の映画作品の上映計画との兼ね合いや、各映画館で「穴」があかないようにすることや、各映画館での利益も考慮し緻密に組まれた。こうしたスケジュールの体系は「番線」と呼ばれた。現在でも劇場で公開する映画は映画の基本であり本流であるが、そうではない映画も増えてきたので、劇場で公開する映画をレトロニムで「劇場公開作品」「劇場公開映画」などと呼ぶことも行われている。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、各国で1940年代や1950年代になってテレビの放送が始まるようになり、テレビ所有者が増大する中で、すでに劇場公開が行われた映画作品を、後からテレビの電波に乗せるということも行われるようになった。この場合、ビジネスのしくみとしては、当該の映画作品の諸権利を有する映画会社とテレビ局の間で交渉・契約が行われ、テレビ局のほうから映画会社のほうに対して放送にまつわる対価(料金)が支払われることになる。やがて、数としては比較的少ないが、最初からテレビで放送することを目的に映画フィルムで撮影される映画作品が作られるようになった。このような作品は特に「テレビ映画」と分類する方法がある。テレビ会社が映画を制作すると、上述のようなお金の流れ(テレビ局→映画会社)は生じない。テレビ番組を充実させるためにテレビ局が行った策であり、1960年代のアメリカのテレビ番組の中では一種の「主力の番組」として内容としては西部劇や「ホームドラマ」の映画が多く製作された。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1970年代後半~1980年代以降に、ベータマックスやVHSなどといった規格の比較的安価な家庭用のビデオ装置が先進国の家庭から次第に普及してゆくと、やがてビデオ装置を所有している比較的裕福な家庭をターゲットに、数千円~1万円超という価格設定で映画作品がビデオテープの形でも販売されるようになった。これによって映画(制作)会社が収益を得る方法が増えた(映画館にフィルムを貸す、テレビ局から権利料を得る、以外の選択肢が生まれた)。こうしてビデオテープ化される映画作品の数が次第に増えてゆくと、そうしたビデオテープを貸すレンタルビデオ業者が登場したが、映画会社の収益化の方法が確立されていなかったために、映画作品の「著作権」「貸与権」、テープの使用、上映が認められる範囲の線引きに関連する裁判となり、その結果レンタル業者は、映画会社に対して「正当な対価」を支払うべきだ、といった趣旨の判決が下され、数度の裁判や映画会社とレンタル業者の協会との交渉を経て、やがて「レンタル専用」のテープは一般人向けに販売されるテープよりも あらかじめかなりの高額でレンタル業者に販売されることで映画会社の収益とするしくみや、あるいは映画会社は「貸与権」の一部をレンタル業者に分けるかわりに、レンタル業者はテープが実際にレンタルされた回数を映画会社に報告し、その回数と連動する形で増えてゆく料金をしっかりと支払う、という内容の契約を結ぶ、というしくみが定着していった。こうしてビデオレンタル、という業態が確立すると、最初から劇場公開をせず、ビデオテープとして販売されたりレンタルされる形で視聴されることを想定して撮影される映画、というものも登場するようになった。こうした映画は「ビデオ映画」(あるいは「オリジナルビデオ」など)と分類される。その後 映画作品は、DVDやブルーレイでも販売・レンタルされるようになり、さらに近年、ブロードバンドが一般家庭にも普及すると、テレビ放送以外にネット配信からも映画会社が相応の権利料を得るようになった。2010年代以降、Netflixが、最初からNetflixのコンテンツとして提供するために、\"オリジナル映画\"を多数製作し日本を含む世界各国で配信するようになった。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "こうして観客に映画作品が届けられる経路が多様化するにしたがい、境界域が曖昧になり、どこで線引きするか、決定的な線というは一律に定めることは次第に難しくなってきている。たとえばアメリカでは以前から「テレビ映画」のジャンルが活発であるが、映画のアカデミー賞や「ゴールデングローブ賞映画部門」などの映画賞の対象となる作品は、応募資格を「映画館で上映される作品」、あるいは「ペイパービューで配信される作品」と限定し、「テレビ映画」は排除しているのだが、その一方で、アメリカのエミー賞やゴールデングローブ賞テレビ部門などのテレビ番組賞には、「テレビ映画」を対象とする賞が別枠で設けられる、という状況になっている。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2017年2月にはNetflixオリジナル作品『ホワイト・ヘルメット -シリアの民間防衛隊-』(アインシーデル監督)が第89回アカデミー賞において短編ドキュメンタリー賞を受賞。新型コロナウイルス感染症の影響で多くの映画館が閉鎖された第93回アカデミー賞においては受賞資格が緩和されるとともに、初上映が配信形式であった作品のノミネート、受賞が相次いだ。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "映画の歴史を踏まえると、もともとは映画というのは写真フィルムで撮影されるものである。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "やがて、そうしたフィルムを磁気フィルムにとりこむ、ということも行われるようになったが、もともと劇場で大型スクリーンに投影することを前提としている映画の世界では、基本的に35mmフィルムでの撮影が標準でありつづけた。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1990年代あたりから、国ごとに状況が異なるようになってゆき、資金面で余裕のあるハリウッドメージャーの場合、映画(や大型テレビドラマ)は未だ35mmフィルム撮影の方が圧倒的に主流でありつづけ、日本などではむしろデジタル化が進む、という現象も起きた。一部の国で写真フィルムで撮影した素材を一旦デジタル化し、デジタル技術ならではの加工や編集を行う、という手法も用いられるようになった。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2000年代に入ってからは、最初から写真フィルムを用いず、HD24p等のデジタル機器で撮影・編集され、その後フィルムに変換されたうえで劇場に納品される、という映画も登場し、徐々に増えていった。音声情報も映画館の多チャンネルサラウンド化に伴い、フィルムに焼き付けずにCD-ROMなどで納品される場合が増えてきた。(日本国内の限定的な事情については日本映画のページにて詳述する。)", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "最近の映画館(シネマコンプレックス)で上映される映画作品のほとんどは、「配給」のしくみも変わってきており、(従来のような、フィルムという物体の形で複製物をつくって、物体として「配達」されるのではなく)最初からデジタルデータの形で各映画館にネットワーク回線で伝送(VPN(や専用回線)で伝送)され、それが、デジタルデータを直接的に映像として投影する装置によって、スクリーン上に投影されるようになっている。技術的にいえば、データセンター内に映画会社側のサーバがあり、各映画館は映画作品のデータをダウンロードし、映画会社のほうは「デジタル的な鍵」のやりとりをすることで、各映画館で各作品を上映を可能にしたり反対に不可能にするような操作・管理を行い、ビジネスを行っている。", "title": "分類・種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "以下のデータは、特に明記されていない限りユネスコ統計研究所による、上映された長編映画(フィクション、アニメーション、ドキュメンタリー)の上位15か国のリストである。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ユネスコ統計研究所によると、チケット販売数で上位の国々は以下のようになっている。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "映画制作の最高責任者は映画プロデューサーである。プロデューサーが、企画の選択、資金調達、予算規模の決定や配分の大枠の設定、配給先候補(映画館系列)との交渉、宣伝戦略の検討や決定、監督の人選、俳優の人選、ファイナルカットの判断、等々を行う。", "title": "映画作品の制作にかかわる人々" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "プロデューサーの権限は、最大である。監督よりも強く、監督の仕事ぶりの善し悪しを判断し、場合によっては撮影の途中で監督を解雇し、別の監督にすげかえる、ということすら行う。", "title": "映画作品の制作にかかわる人々" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ある程度以上の規模の映画となると、制作するには巨額な費用がかかるもので、まずは制作のための費用を調達しなければ、ならない。資金調達が最大の、そして根本的な土台として必要で、それができなければ、予算を組むことができず、資金の配分割合も決められず、撮影計画の立案も、映画スタッフの手配も、機材の手配も、何もできない。", "title": "映画作品の制作にかかわる人々" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "映画は、非常に多数・多種類の、専門職的なスタッフたちによって制作される。映画は、たとえば脚本家、プロダクション・マネージャー(撮影スケジュールの管理や撮影道具の現地搬送の管理)、カメラ(撮影監督、カメラ技師 等)、照明、録音技師、「美術」(画面に登場する物品類の構想、調達、デザイン、制作など)、メイクアップ(化粧)、衣装関連職(スタイリスト、衣装デザイナー、衣装制作者 等々)、音楽(作曲家、作詞家、歌手、演奏家、指揮者 等々)、VFX...といったように、ざっくりと分けても数十種類、細分すると数百種類におよぶ専門家たちが各自の役割を果たして成立する。映画というのは、そうしたさまざまな人々の能力を結集させることによって作られる「総合芸術」である。大規模な映画になると、数千人以上もの人々がかかわるため、エンドロール(制作関係者の表示)も膨大なものとなる。", "title": "映画作品の制作にかかわる人々" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "現在、個人ないし少人数のアマチュアグループでの映画撮影は、カメラ一体型VTRで行われるのが普通である。2000年代前半からDVDやメモリー素子に記録することで、磁気テープを使用しないデジタルビデオが普及しているが、DVビデオも現役である。", "title": "個人制作の映画" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "安価な機材は個人制作の映画の必須条件ではなく、ジョージ・ルーカスの個人制作である『スター・ウォーズ』新三部作などは当時の商業映画と同じ機材を使用している。", "title": "個人制作の映画" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "アナログ式のビデオテープレコーダが普及する以前は、8ミリフィルムで撮影するのが主流であった。業務用の35ミリフィルムは、個人では機材の調達が困難(カメラに限っても、購入だと数百万円必要であり、「保守に信用がおけない」ため、個人向けのレンタルはほとんど行われていない)であり、またフィルムも高価であった。よって、個人向けに、小さなフィルムを使うことでフィルム代や現像代といった感材費をおさえた。", "title": "個人制作の映画" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一方、1980年代にベータカムが普及するまでは、テレビ局での野外撮影や、上述のテレビ映画には16ミリフィルムが用いられることが多かった。16ミリであれば、35ミリに比較すれば安価な制作が可能であり、個人でも「手を伸ばせば、何とかなる」ものであったため、「16ミリでの映画制作」が、「アマチュアにおけるゴール」とみなされてきた時代が長く続いた。", "title": "個人制作の映画" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "更に安価で手軽になった8ミリフィルムでの映画制作については、8ミリ映画の項も参照のこと。", "title": "個人制作の映画" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "デジタル式ビデオカメラとPCベースのノンリニア編集機材の低価格化により、アルビン・トフラーの『第三の波』に登場する生産消費者が台頭しつつある。またプロユースでもノンリニア編集システムと連動した映像管理ソフトなどが利用されている。", "title": "個人制作の映画" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "YouTubeなど動画サイトを用いた、誰でも簡単に表現する場ができて、映像の個人製作をめぐる状況が大きく変化してきている。上映する場所もプロジェクションマッピングなどの発達とともに、「映画」と「映像作品」の距離が縮まっている。", "title": "個人制作の映画" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日本では、明治時代から個人撮影の映画が制作され始めた。戦前から一部でカラーフィルムで撮影が行われ、NHKで2003年に『BSプライムタイム 映像記録 昭和の戦争と平和 カラーフィルムでよみがえる時代の表情』前編後編、『NHKスペシャル 映像記録・昭和の戦争と平和~カラーフィルムでよみがえる時代の表情~』、2006年に『BS特集 カラー映像記録 よみがえる昭和初期の日本』 前編後編と計3本で取り上げられた。", "title": "個人制作の映画" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2017年には堀貴秀監督が独学で個人製作した『JUNK HEAD』がファンタジア国際映画祭で最優秀長編アニメーション賞を獲得。ファンタスティック映画祭で新人監督賞を受賞した。", "title": "個人制作の映画" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "「日本映画の父」と言われた牧野省三によると、映画には三要素があるとのことで、『スジ・ヌケ・ドウサ』の順である、とした。スジは脚本、ヌケは映像美、ドウサは役者の演技を指す。", "title": "映画作品の基本要素" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "一方、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典の「映画」の項目の解説では、「映画はシナリオ、演出、カメラ・ワーク、編集の四つの基本となる要素を組み合わせて制作される。」と、4つの要素を挙げている。", "title": "映画作品の基本要素" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "映画は、もともと映画のためだけにプロット(筋書きのエッセンス)が書かれ、映画のためだけに脚本が書かれることが多いが、あらかじめ小説などがあり、後から「映画化」が行われることもある。また(あまりそうした国は多くないが)日本やアメリカなど、漫画やコミックがさかんな一部の国では、漫画やコミックを原作として映画がつくられることがある。", "title": "原作との関係・文字による芸術との関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "小説のような文字による芸術と、映画という映像(や音響)による芸術は、それぞれ特性が大きく異なっている。(文字だからできること、反対に文字には不向きなこと、映像だからできること、反対に映像には不向きなことがある。)文字を用いた芸術と映像を用いた芸術は いわば「まったく 別物」なので、古典文学を原作として映画化を行うことは、さまざまな困難がともなう。", "title": "原作との関係・文字による芸術との関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "たとえばジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『アンナ・カレニナ』では冒頭の「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」(望月哲男訳)に相当する部分は、映像では表現することはあきらめ、結局、文字で示さざるを得なかった。", "title": "原作との関係・文字による芸術との関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "沼野充義は「単純にスローガン的に、文学を原作にした映画の効用」として3つあげている。", "title": "原作との関係・文字による芸術との関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一つは「原作と違うといって文句を言える」こと。二番目に「文学では見てはいけないものを映画にすると見ることができる」ということ。例えば、ワレーリイ・フォーキン監督 『変身』など、カフカが映像化したくなかったかもしれないものを映像化している。三番目は「読み切れない作品を二時間程度で読んだ気になれる」ということ。例えば『戦争と平和』などは3時間あるが、絢爛豪華な歴史世界を映画で見ることができるし、いつか原作を読もうという気持にさせる。", "title": "原作との関係・文字による芸術との関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "一般的には、原作をできるだけ忠実に映像化しようと試みた映画作品は、映画作品としては評価が低くなりがちで、その反対に『砂の器』やジャン・ルノワール監督の『ピクニック』など、原作とは異なる内容の映画作品や、短編小説を原作とした映画作品(つまり、原作はせいぜい「きっかけ」や「結晶の核」として用いて、原作とは距離を置いて、文学作品の大部分の要素は思い切って切り捨てたり、変えてしまい、映画という独特の技法の側の都合を(最)優先させた映画作品)のほうが「名作」とされることが多い。", "title": "原作との関係・文字による芸術との関係" } ]
映画とは、長いフィルムに高速度で連続撮影した静止画像(写真)を映写機で映写幕(スクリーン)に連続投影することで、形や動きを再現するもの。活動写真、キネマ、シネマとも。 なお、本来の語義からははずれるものの、フィルムではなくビデオテープなどに磁気記録撮影されたものや映画館で上映される動画作品全般についても、慣例的に「映画」と呼ばれている。 映画館が普及して以降、一般的に映画というと専用施設(映画館等)の中でスクリーンに投影して公開する作品を指すことが多い。20世紀に大きな発展を遂げた表現手段であり、映画は今や芸術と呼ぶべき水準に達している。また、古くからの芸術である絵画、彫刻、音楽、文学、舞踊、建築、演劇に比肩する新たな芸術として「第八芸術」ないし、舞踊と演劇を区別せずに「第七芸術」とも呼ばれる。また、映像やストーリー、音楽など様々な芸術の分野を織り交ぜてひとつの作品を創造することから「総合芸術」の一種としても扱われる。
{{Redirectlist|海外映画|かつて[[日本]]に存在していた[[企業]]|海外映画 (企業)}} {{特殊文字|説明=cinemaのeは[[アクセント記号]]付き}} [[File:Cinemaaustralia.jpg|thumb|300px|[[オーストラリア]]の[[映画館]]の内部。正面に大きなスクリーンがあり、多数の客席があり、(この写真には写っていないが)客席の後ろには「[[映写室]]」がある。上映時には、まず室内が暗くなり、映写室から強烈な光を放つ装置を用いて[[スクリーン]]上への投影が始まり、室内が暗いこともあり、観客は次第に作品の世界に没入してゆくことになる。]][[File:Metro-Cinema.jpg|thumb|[[インド]]・[[ムンバイ]]の映画館の外観。{{仮リンク|label=メトロ・シネマ|メトロ・シネマ (ムンバイ)|en|Metro INOX Cinemas}} ([[2005年]])]] '''映画'''(えいが、{{Lang-en-short|motion picture あるいは movie あるいは film}}、{{Lang-fr-short|cinéma}}、{{Lang-zh-short|電影}})とは、長い[[写真フィルム|フィルム]]に高速度で連続撮影した静止画像([[写真]])を[[映写|映写機]]で映写幕([[スクリーン]])に連続投影することで、形や動きを再現するもの<ref>『岩波国語辞典第三版』[[岩波書店]]、1983年、『[[広辞苑]]第六版』[[岩波書店]]、2008年他。</ref>。[[活動写真]]、[[キネマ]]、シネマとも。 なお、本来の語義からははずれるものの、フィルムではなく[[ビデオテープ]]などに[[磁気記録]]撮影されたものや[[映画館]]で上映される[[動画]]作品全般についても、慣例的に「映画」と呼ばれている。 映画館が普及して以降、一般的に映画というと専用施設([[映画館]]等)の中で[[スクリーン]]に投影して公開する作品を指すことが多い。[[20世紀]]に大きな発展を遂げた表現手段であり、映画は今や[[芸術]]と呼ぶべき水準に達している。また、古くからの[[芸術]]である[[絵画]]、[[彫刻]]、[[音楽]]、[[文学]]、[[舞踊]]、[[建築]]、[[演劇]]に比肩する新たな芸術として「第八芸術」ないし、舞踊と演劇を区別せずに「[[第七芸術]]」とも呼ばれる<ref>1911年『第七芸術宣言』(リッチョット・カニュード)</ref>。また、映像やストーリー、音楽など様々な芸術の分野を織り交ぜてひとつの作品を創造することから「総合芸術」の一種としても扱われる。 == さまざまな呼び方 == === 「映画」や「活動写真」 === ;映画 「映画」という語の本来の意味は「画を映すこと」あるいはそうして「映された画」ということである。そのため、[[近世]]末期においては[[写真]]と同義に用いられていた<ref>ダグロン原著、柳河楊江訳述、[[柳川春三]]訳『写真鏡図説』1867年</ref>。そこから転じて、「(スクリーンなどに)画像を映し出すこと」や「映し出される画像」、さらに長いフィルムに撮影された「動きのある画像」に対しても用いられるようになっていった。 なお、『[[日本国語大辞典]]第二版』における「映画」の項目には、以下のように記載されている。 #カメラなどで映し撮ること。また、その画像。 #明治時代、幻灯で映写する画像やフィルムのこと。 #フィルムにより高速度(標準一秒間に二四こま)で撮影した画像を映写幕に連続投影し、見る者に連続した動きを見ているような感じを与える仕組み。活動写真。キネマ。シネマ。ムービー。 ;活動写真 {{main|活動写真}} 「活動写真」は英語「motion picture、モーション・ピクチャー)」の直訳語で、元来は[[幻灯機]]のことを指すが、後に意味が変じて、映画を指すようになった。 === シネマ === 「シネマ」は、[[フランス語]]の「cinéma」のカタカナ表記である。フランス語のcinémaは、「cinématographe([[シネマトグラフ]]」の短縮形であり<ref name="larousse">[https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/cin%C3%A9ma/16037 Larousse]</ref>、1.シネマトグラフのフィルムを制作し、レアリゼ(=上映、上演)する技術<ref name="larousse" />、2.スクリーン上にあたかも現実が動いているかのように(フィルムを使って)投影すること<ref name="larousse" />(=日本語で言う「映画の上映」)、3.上映を行う場所<ref name="larousse" />(=[[映画館]])、4.フィルムの[[映画配給|配給]]を行う産業<ref name="larousse" />(映画の配給会社)、を意味する。フランスでは同国の伝統をふまえて、フランスの[[リュミエール兄弟]]が開発したシネマトグラフという概念やその技術(の延長上)というとらえかたで「cinemaシネマ」という言葉や概念が使われているわけである。語源は[[ギリシア語]]の「κινεῖν<ref group="注">{{lang-*-Latn|el|kinein}}。</ref>(「動く」という意味)」。なお、フランス語でも「film フィルム」という用語もあり、シネマトグラフを実現するための、薄くて細長い物体も当然フィルムと呼ぶが、個々の「映画作品」という意味でもフィルムという。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、アート作品をフランス風に「'''シネマ'''」と呼び、娯楽作品は英語風に「'''ムービー'''」と区別して呼ぶ傾向がある。 === キネマ === {{main|キネマ}} 戦前の日本では、映画は「'''キネマ'''」とも呼ばれた。当時から続く映画雑誌(『[[キネマ旬報]]』([[キネマ旬報社]])など)にこの名前が残っている他、懐古的な情緒が好まれる時にも用いられる。 == 映画の歴史 == {{Main|映画史}} 19世紀後半に写真技術が発展すると、やがてそれを利用して動く写真の開発が始まり、[[1893年]]に[[トーマス・エジソン]]が1人でのぞき込んで楽しむ[[キネトスコープ]]を発明するなど、1890年代にはいくつかの映画の原型が考案されていた<ref name="ReferenceA">「学問のしくみ事典」p246-247 VALIS DEUX著 吉村作治監修 1996年1月20日初版発行 日本実業出版社</ref>。そうした中、[[1895年]]にフランスの[[リュミエール兄弟]]が[[スクリーン]]に動く写真を投影して公開した。これが現代にまでつながる映画の起源とされている<ref>「新版 ハリウッド100年史講義 夢の工場から夢の王国へ」p22 北野圭介 平凡社新書 2017年7月15日初版第1刷</ref>。 スクリーンに上映する映画は登場と同時に世界中で反響を呼び、開発の翌年には各国で上映されるようになった<ref name="ReferenceA"/>。[[草創期]]の映画は単に事実を記録した映像に過ぎなかったが、それでも新奇さから各地の[[見世物]]で大当たりを取り、映画館が相次いで各地に設立された<ref>「新版 ハリウッド100年史講義 夢の工場から夢の王国へ」p28-32 北野圭介 平凡社新書 2017年7月15日初版第1刷</ref>。[[20世紀]]に入るとストーリーを持つ映画の制作が始まり、盛んに映画作品が作られるようになった<ref>「学問のしくみ事典」p246 VALIS DEUX著 吉村作治監修 1996年1月20日初版発行 日本実業出版社</ref>。 映画表現において大きな画期となったのは、[[1920年代]]の「[[トーキー]]」の登場、それに続いて行われたいわゆる「[[総天然色]]」映画の登場が数えられよう。これらはそれぞれ、それまでの映画の形式を最終的には駆逐するにいたった。例えば、今では「トーキー」以前の形式である「[[サイレント映画|サイレント]]」が新たに発表されることはほぼない。また、今「[[モノクローム]]」で撮影された映画が発表されることは極めてまれである。 20世紀前半に行われたこれらの映画技術の進展とは異なり、20世紀後半の映画技術の発展は映画表現の多様性を増す方向に作用した。 戦後、普及した映画の撮影技法には、例えば「[[SFX|特殊撮影]]」「[[アニメーション]]」「[[コンピュータグラフィックス|コンピュータ・グラフィクス]]」が挙げられる。これらの新たな撮影技法は、それ以前の方法を駆逐することによって普及したのではなく、それが登場する以前の撮影技法と共存しつつ独自の分野を成す形でそれぞれの発展を遂げている。 1970年代からは[[ビデオテープレコーダ|VTR]]が普及したが、フィルムとビデオとの基本的な表示方式の違いから映画は35mmフィルムによる撮影が一般的であった。21世紀に入った頃から商業作品もデジタルビデオカメラで撮影され、フィルムを使わずコンピュータ上で編集される例が増加している。詳しくは[[デジタルシネマ]]を参照。 1990年代以降はコンピューターを使って画像を生成したコンピューターグラフィックス通称CGが大々的に使われるようになる。 == 分類・種類 == 映画には、技術的な側面に着目した分類、観客に映画作品を届ける経路やビジネスモデルによる分類、コンテンツ(作品内容)による分類などさまざまな分類法がある。 {{Seealso|映画のジャンル}} ;劇場公開用映画 / テレビ映画 / ビデオ映画 映画は、もともと[[映画館]]など専用の上映施設で上映されるものとして発達してきた。[[ビジネスモデル]]としては、映画作品を制作する会社やそれを配給する会社は、映画館に対して映画作品のフィルムを一定期間貸し出し、貸すことに対する料金を得る([[収益]]を得る)、というしくみであり、映画館のほうは、配給会社に料金を支払う形の契約で、限られた日数だけフィルムを借り、多数の観客が入場に必要なチケットを購入してくれることで収入を得る、配給会社に支払うお金と観客から得るお金の差額が「粗利」となり、ひとたびフィルムを借りたら、なるべく多くの観客に見てもらう、多数回上演し多数の観客に入ってもらうことで利益を大きくしようとする、というしくみであった。映画の制作会社で作られた映画作品のフィルムは、映画の配給会社によって、元のフィルムから複製が多数制作され、各コピーの個体ごとの貸し出し計画が立てられた。複製されたフィルムの個体ひとつひとつは、映画館から映画館へと線的に移動してゆくことになっており、最初は都市部の大きな映画館に高額で貸され、そこでの上映期間が終わると、次第に低額で地方都市や小さな町の映画館へと貸し出されてゆくようなスケジュールが、他の映画作品の上映計画との兼ね合いや、各映画館で「穴」があかないようにすることや、各映画館での利益も考慮し緻密に組まれた。こうしたスケジュールの体系は「番線」と呼ばれた。現在でも劇場で公開する映画は映画の基本であり本流であるが、そうではない映画も増えてきたので、劇場で公開する映画を[[レトロニム]]で「'''劇場公開作品'''」「劇場公開映画」などと呼ぶことも行われている。 その後、各国で1940年代や1950年代になって[[テレビ]]の[[放送]]が始まるようになり、テレビ所有者が増大する中で、すでに劇場公開が行われた映画作品を、後からテレビの電波に乗せるということも行われるようになった。この場合、ビジネスのしくみとしては、当該の映画作品の諸権利を有する映画会社とテレビ局の間で交渉・契約が行われ、テレビ局のほうから映画会社のほうに対して放送にまつわる対価(料金)が支払われることになる。やがて、数としては比較的少ないが、最初からテレビで放送することを目的に映画フィルムで撮影される映画作品が作られるようになった。このような作品は特に「'''[[テレビ映画]]'''」と分類する方法がある。テレビ会社が映画を制作すると、上述のようなお金の流れ(テレビ局→映画会社)は生じない。[[テレビ番組]]を充実させるためにテレビ局が行った策であり、[[1960年代]]のアメリカのテレビ番組の中では一種の「主力の番組」として内容としては[[西部劇]]や「[[ホームドラマ]]」の映画が多く製作された。<ref group="注">これらはアメリカにおいて広く鑑賞されたが、日本にも数多く輸入され、特にホームドラマは日本の生活文化に無視できない影響を与えた。ただし、この種のものが今日の日本で新しく撮影・製作されることはまれである。</ref> 1970年代後半~1980年代以降に、[[ベータマックス]]や[[VHS]]などといった規格の比較的安価な家庭用のビデオ装置が先進国の家庭から次第に普及してゆくと、やがてビデオ装置を所有している比較的裕福な家庭をターゲットに、数千円~1万円超という価格設定で映画作品がビデオテープの形でも販売されるようになった。これによって映画(制作)会社が収益を得る方法が増えた(映画館にフィルムを貸す、テレビ局から権利料を得る、以外の選択肢が生まれた)。こうしてビデオテープ化される映画作品の数が次第に増えてゆくと、そうしたビデオテープを貸す[[レンタルビデオ]]業者が登場したが、映画会社の収益化の方法が確立されていなかったために、映画作品の「[[著作権]]」「貸与権」、テープの使用、上映が認められる範囲の線引きに関連する裁判となり、その結果レンタル業者は、映画会社に対して「正当な対価」を支払うべきだ、といった趣旨の判決が下され、数度の裁判や映画会社とレンタル業者の協会との交渉を経て、やがて「レンタル専用」のテープは一般人向けに販売されるテープよりも あらかじめかなりの高額でレンタル業者に販売されることで映画会社の収益とするしくみや、あるいは映画会社は「貸与権」の一部をレンタル業者に分けるかわりに、レンタル業者はテープが実際にレンタルされた回数を映画会社に報告し、その回数と連動する形で増えてゆく料金をしっかりと支払う、という内容の[[契約]]を結ぶ、というしくみが定着していった。こうしてビデオレンタル、という業態が確立すると、最初から劇場公開をせず、ビデオテープとして販売されたりレンタルされる形で視聴されることを想定して撮影される映画、というものも登場するようになった。こうした映画は「'''ビデオ映画'''」(あるいは「[[オリジナルビデオ]]」など)と分類される。その後 映画作品は、DVDやブルーレイでも販売・レンタルされるようになり、さらに近年、[[広帯域インターネット接続|ブロードバンド]]が一般家庭にも普及すると、テレビ放送以外にネット配信からも映画会社が相応の権利料を得るようになった。2010年代以降、[[Netflix]]が、最初からNetflixのコンテンツとして提供するために、"オリジナル映画"を多数製作し日本を含む世界各国で配信するようになった{{Refnest|group="注"|これらの作品は、劇場では公開されずに、直接ネットにより配信される。Netflixでは、ストーリーのある作品のうち、複数エピソードにわたるものを「テレビ番組・ドラマ」(英語ではTV Shows)と呼び、1エピソードだけのものを「映画」(英語ではMovies)と表記しているため、Netflixの"オリジナル映画"のほとんどは、日本では単発ドラマあるいは二時間ドラマのジャンルに属する、[[テレビ映画]]であるとも言える。これらの"オリジナル映画"が映画祭に出品されることが増えて論議を引き起こしている。[[カンヌ映画祭]]では、これらの"オリジナル映画"を審査対象から外すため、2018年度からはフランスの映画館で上映された作品のみを審査対象とすると決定し論争となった<ref>{{cite news|last=ターナー|first=ローレン|title=カンヌ映画祭のネットフリックス作品除外で論争続く|url=https://www.bbc.com/japanese/39958265|newspaper=BBCニュース|accessdate=2017-11-11|date=2017-05-18}}</ref>。}}。 こうして観客に映画作品が届けられる経路が多様化するにしたがい、境界域が曖昧になり、どこで線引きするか、決定的な線というは一律に定めることは次第に難しくなってきている。たとえばアメリカでは以前から「テレビ映画」のジャンルが活発であるが、映画の[[アカデミー賞]]や「[[ゴールデングローブ賞]]映画部門」などの映画賞の対象となる作品は、応募資格を「映画館で上映される作品」、あるいは「[[ペイパービュー]]で配信される作品」と限定し、「テレビ映画」は排除しているのだが、その一方で、アメリカの[[エミー賞]]やゴールデングローブ賞テレビ部門などのテレビ番組賞には、「テレビ映画」を対象とする賞が別枠で設けられる、という状況になっている。 [[2017年]]2月にはNetflixオリジナル作品『[[ホワイト・ヘルメット -シリアの民間防衛隊-]]』(アインシーデル監督)が[[第89回アカデミー賞]]において短編ドキュメンタリー賞を受賞。新型コロナウイルス感染症の影響で多くの映画館が閉鎖された[[第93回アカデミー賞]]においては受賞資格が緩和されるとともに、初上映が配信形式であった作品のノミネート、受賞が相次いだ<ref>{{Cite web|和書|title=Netflixが第93回アカデミー賞で16作品・38部門ノミネート |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1312299.html |website=AV Watch |publisher=株式会社インプレス |date=2021-03-16 |accessdate=2022-03-25 }}</ref>。 ;フィルム式 / 磁気媒体式 / デジタル式 映画の歴史を踏まえると、もともとは映画というのは写真フィルムで撮影されるものである。 やがて、そうしたフィルムを磁気フィルムにとりこむ、ということも行われるようになったが、もともと劇場で大型スクリーンに投影することを前提としている映画の世界では、基本的に35mmフィルムでの撮影が標準でありつづけた。 1990年代あたりから、国ごとに状況が異なるようになってゆき、資金面で余裕のある[[ハリウッド]]メージャーの場合、映画(や大型テレビドラマ)は未だ[[35mmフィルム]]撮影の方が圧倒的に主流でありつづけ、日本などではむしろデジタル化が進む、という現象も起きた。一部の国で写真フィルムで撮影した素材を一旦[[デジタル化]]し、デジタル技術ならではの加工や編集を行う、という手法も用いられるようになった。 2000年代に入ってからは、最初から写真フィルムを用いず、[[HD24p]]等の[[デジタル]]機器で撮影・編集され、その後フィルムに変換されたうえで<!-- この一節、概説ではなく詳細のところのほうがいいと思います。どなたか、いい知恵ないですか?: (この作業は'''[[キネコ]]'''と呼ばれる)、あるいはデジタルデータのまま -->劇場に納品される、という映画も登場し、徐々に増えていった。音声情報も映画館の多チャンネル[[サラウンド]]化に伴い、フィルムに焼き付けずに[[CD-ROM]]などで納品される場合が増えてきた。(日本国内の限定的な事情については[[日本映画]]のページにて詳述する。) 最近の映画館(シネマコンプレックス)で上映される映画作品のほとんどは、「配給」のしくみも変わってきており、(従来のような、フィルムという物体の形で複製物をつくって、物体として「配達」されるのではなく)最初からデジタルデータの形で各映画館に'''ネットワーク回線で伝送'''([[VPN]](や専用回線)で伝送)され、それが、デジタルデータを直接的に映像として投影する装置によって、スクリーン上に投影されるようになっている。技術的にいえば、[[データセンター]]内に映画会社側のサーバがあり、各映画館は映画作品のデータを[[ダウンロード]]し、映画会社のほうは「デジタル的な鍵」のやりとりをすることで、各映画館で各作品を上映を可能にしたり反対に不可能にするような操作・管理を行い、ビジネスを行っている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.ntt.co.jp/journal/0604/files/jn200604051.pdf |title= デジタルシネマを支えるNTTの技術 |website= NTT技術ジャーナル |date= 2006-04 |accessdate= 2022-04-23 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20210906071728/https://www.ntt.co.jp/journal/0604/files/jn200604051.pdf |archivedate= 2021-09-06 }}</ref>。 ;フィクション / ドキュメンタリーあるいはフィクション / ノンフィクション :コンテンツによる映画作品の分類法のひとつとしては、「[[フィクション]]映画」 / 「[[ドキュメンタリー]]映画」 と分類する方法がある。また(文章を用いた芸術などと同様に)フィクション映画 / [[ノンフィクション]]映画 と分類する方法もある。 ;国籍別 : 映画作品については、国籍で分類する、国籍を一種の[[ジャンル]]のように扱う、ということも行われている。たとえば、[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]] / [[フランス映画]] / [[イタリア映画]] / [[イギリスの映画|イギリス映画]] / [[日本映画]] / [[韓国映画]] / [[中国映画]] / [[インド映画]] / [[ブラジル映画]] / [[アルゼンチン映画]] といったようにである。 {{Seealso|各国の映画}} == 統計 == === 映画制作数順 === 以下のデータは、特に明記されていない限りユネスコ統計研究所による、上映された長編映画(フィクション、アニメーション、ドキュメンタリー)の上位15か国のリストである<ref name="unesco">{{cite web |title=UIS Statistics |url=http://data.uis.unesco.org/?ReportId=5538 |website=[[UNESCO Institute for Statistics]] |publisher=[[UNESCO]] |accessdate=3 May 2019}}</ref>。 {| class="wikitable sortable" |- ! 順位 !! 国 !! 制作数 !! 年 |- | 1 || {{flagicon|India}} [[インド映画|インド]]|| 1,813 || 2018.<ref name="filmfed">{{cite web|title=INDIAN FEATURE FILMS CERTIFIED DURING THE YEAR 2018|url=http://www.filmfed.org/IFF2018.html|website=[[Film Federation of India]]|date=31 August 2018|accessdate=3 May 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210303114938/http://www.filmfed.org/IFF2018.html|archivedate=2021-03-03}}</ref> |- | 2 || {{flagicon|Nigeria}} [[ナイジェリア映画|ナイジェリア]]|| 997 || 2011 |- | 3 || {{flagicon|China}} [[中国映画|中国]]|| 874 || 2017 |- | 4 || {{flagicon|Japan}} [[日本映画|日本]] || 689 || 2019<ref name=eiren>{{cite web|title=Statistics Of Film Industry In Japan|url=http://www.eiren.org/statistics_e/index.html|website=Eiren|publisher=Motion Picture Producers Association of Japan|accessdate=11 February 2019}}</ref> |- | 5 || {{flagicon|United States}} [[アメリカ合衆国の映画|アメリカ]]|| 660 || 2017 |- | 6 || {{flagicon|South Korea}} [[韓国映画|韓国]] || 339 || 2016 |- | 7 || {{flagicon|France}} [[フランス映画|フランス]] || 300 || 2017 |- | 8 || {{flagicon|United Kingdom}} [[イギリスの映画|イギリス]] || 285 || 2017 |- | 9 || {{flagicon|Spain}} [[スペイン映画|スペイン]] || 241 || 2017 |- | 10 || {{flagicon|Germany}} [[ドイツ映画|ドイツ]] || 233 || 2017 |- | 11 || {{flagicon|Argentina}} [[アルゼンチン映画|アルゼンチン]] || 220 || 2015 |- | 12 || {{flagicon|Mexico}} [[メキシコ映画|メキシコ]] || 176 || 2017<ref>Mexican Film Institute. (2017). Statistical yearbook of Mexican Cinema. Mexico City: Mexican Film Institute.</ref> |- | 13 || {{flagicon|Italy}} [[イタリア映画|イタリア]] || 173 || 2017 |- | 14 || {{flagicon|Brazil}} [[ブラジル映画|ブラジル]] || 160 || 2017 |- | 15 || {{flagicon|Turkey}} [[トルコ映画|トルコ]] || 148 || 2017 |} === 興行収入順 === {| class="wikitable sortable" |- ! 順位 !! 国 !! 興行収入<br> (10億[[アメリカ合衆国ドル|US$]]) !! 年 !! 興行収入における<br/>自国映画の割合<ref>{{cite web|title=Percentage of GBO of all films feature exhibited that are national|url=http://stats.uis.unesco.org/unesco/TableViewer/tableView.aspx?ReportId=5538|publisher=UNESCO Institute for Statistics|accessdate=7 May 2019}}</ref> |- | {{N/A}} || '''''世界総計''''' || align=right|41.7 || 2018<ref name="worldwide">{{cite news |last1=McNary |first1=Dave |title=2018 Worldwide Box Office Hits Record as Disney Dominates |url=https://variety.com/2019/film/news/box-office-record-disney-dominates-1203098075/ |accessdate=22 January 2019 |work=[[Variety (magazine)|Variety]] |date=3 January 2019 |language=en}}</ref> || {{N/A}} |- | 1 || {{flag|United States}} || align=right|11.08 || 2018<ref name="statista">{{cite web|title=Leading film markets worldwide in 2018, by gross box office revenue (in billions U.S. dollars)|url=https://www.statista.com/statistics/252730/leading-film-markets-worldwide--gross-box-office-revenue/|website=[[Statista]]|accessdate=March 24, 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190502203436/https://www.statista.com/statistics/252730/leading-film-markets-worldwide--gross-box-office-revenue/|archivedate=2019-05-02}}</ref> || {{nts|88.8}}% (2015) |- | 2 || {{flag|China}} || align=right|9.15 || 2018<ref name="statista"/> || {{nts|62}}% (2018)<ref>{{cite news |title=Another Record Year for China's Box Office, But Growth Slows |url=https://www.caixinglobal.com/2019-01-02/another-record-year-for-chinas-box-office-101365697.html |accessdate=6 May 2019 |work=Caixin Global |agency=[[Caixin]] |date=January 2, 2019}}</ref> |- | 3 || {{flag|India}} || align=right|{{To USD|158.9|IND}} || 2018<ref>{{cite web |title=Value of the film industry in India |url=https://www.statista.com/statistics/235837/value-of-the-film-industry-in-india/ |website=[[Statista]] |year=2018 |accessdate=6 May 2019}}</ref> || {{nts|85}}% (2015) |- | 4 || {{flag|Japan}} || align=right|2.39 || 2019<ref name=eiren/> || {{nts|54.4}}% (2019)<ref name=eiren/> |- | 5 || {{flag|United Kingdom}} || align=right|1.72 || 2018<ref name="statista"/> || {{nts|44.3}}% (2017) |- | 6 || {{flag|South Korea}} || align=right|1.6 || 2017<ref name="MPAA">{{cite web |title=2017 THEME Report |url=https://www.motionpictures.org/wp-content/uploads/2018/04/MPAA-THEME-Report-2017_Final.pdf |website=[[MPAA]] |publisher=[[Motion Picture Association of America]] |accessdate=7 May 2019}}</ref> || {{nts|52.2}}% (2015) <!-- <ref name=screendaily>{{cite news |url= http://www.screendaily.com/news/south-korea-box-office-hits-record-high-in-2015/5099746.article|title= South Korea box office hits record high in 2015|first= Jean|last= Noh|date= 3 February 2016|work=[[screendaily.com]]}}</ref> --> |- | 7 || {{flag|France}} || align=right|1.5 || 2018<ref name="statista"/> || {{nts|36.2}}% (2017) |- | 8 || {{flag|Germany}} || align=right|1.11 || 2018<ref name="statista"/> || {{nts|26.3}}% (2017)<ref>{{cite news|title=German Box Office 2017: Revenues Rebound to $1.2 Billion|url=https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-news/german-box-office-2017-revenues-rebound-12-billion-1071532/|work=[[The Hollywood Reporter]]|date=January 4, 2018}}</ref> |- | 9 || {{flag|Russia}} || align=right|1.0 || 2017<ref name="MPAA"/> || {{nts|17.4}}% (2015) <!-- <ref name=rcm>{{cite web|title=Russian Film Market Overview: 2013 Results|url=http://nevafilm.ru/english/reports/04-2014-russian-film-market-overview.-2013-results/@@attachments/russian_film_market_2013.pdf|publisher=Nevafilm Research|accessdate=24 July 2014}}</ref> --> |- | 10 || {{flag|Australia}} || align=right|0.95 || 2018<ref name="statista"/> || {{nts|4.1}}% (2017) |- | 11 || {{flag|Brazil}} || align=right|0.9 || 2017<ref name="MPAA"/> || {{nts|8.9}}% (2017) |- | 12 || {{flag|Mexico}} || align=right|0.87 || 2018<ref name="statista"/> || {{nts|6.6}}% (2017) |- | 13 || {{flag|Canada}} || align=right|0.76 || 2017<ref>{{cite web|title=Culture: Feature films|url=http://stats.uis.unesco.org/unesco/TableViewer/tableView.aspx?ReportId=5538|publisher=UNESCO Institute for Statistics|accessdate=7 May 2019}}</ref> || {{nts|3.2}}% (2017) |- | 14 || {{flag|Spain}} || align=right|0.7 || 2017<ref name="MPAA"/> || {{nts|17.4}}% (2017) |- | 15 || {{flag|Italy}} || align=right|0.7 || 2017<ref name="MPAA"/> || {{nts|17.6}}% (2017) |} === 入場券販売数順 === ユネスコ統計研究所によると、チケット販売数で上位の国々は以下のようになっている<ref name="unesco"/>。 {| class="wikitable sortable" |- ! 順位 !! 国 !! 入場券販売数<br> (100万枚) !! 年 !1人あたり入場券販売枚数 |- | 1 || {{flag|India}} || align=right|2,020 || 2016 |1.55 |- | 2 || {{flag|China}} || align=right|1,620 || 2017 |1.16 |- | 3 || {{flag|United States}} || align=right|1,240 || 2017 |3.78 |- | 4 || {{flag|Mexico}} || align=right|338 || 2017 |2.68 |- | 5 || {{flag|South Korea}} || align=right|217 || 2016 |4.25 |- | 6 || {{flag|Russia}} || align=right|213 || 2017 |1.48 |- | 7 || {{flag|France}} || align=right|206 || 2017 |3.07 |- | 8 || {{flag|Japan}} || align=right|194 || 2019<ref name=eiren/> |1.54 |- | 9 || {{flag|Brazil}} || align=right|181 || 2017 |0.87 |- | 10 || {{flag|United Kingdom}} || align=right|171 || 2017 |2.59 |} == 映画作品の制作にかかわる人々 == 映画制作の最高責任者は[[映画プロデューサー]]である。プロデューサーが、企画の選択、[[資金調達]]、予算規模の決定や配分の大枠の設定、配給先候補(映画館系列)との交渉、[[宣伝]]戦略の検討や決定、[[映画監督|監督]]の人選、[[俳優]]の人選、ファイナルカットの判断、等々を行う。 プロデューサーの権限は、最大である。監督よりも強く、監督の仕事ぶりの善し悪しを判断し、場合によっては撮影の途中で監督を解雇し、別の監督にすげかえる、ということすら行う。 ある程度以上の規模の映画となると、制作するには巨額な費用がかかるもので、まずは制作のための費用を調達しなければ、ならない。[[資金調達]]が最大の、そして根本的な土台として必要で、それができなければ、[[予算]]を組むことができず、資金の配分割合も決められず、撮影計画の立案も、映画スタッフの手配も、機材の手配も、何もできない。 映画は、非常に多数・多種類の、専門職的なスタッフたちによって制作される<ref name=職種>{{Cite web|和書|url= https://www.movie.ac.jp/column/2018/04/23/column13|title=1本の映画を制作するために関わっている主な職種とは?|publisher=東京映画・俳優&映像芸術専門学校|accessdate=2020-8-9}}</ref>。映画は、たとえば[[脚本家]]、プロダクション・マネージャー(撮影スケジュールの管理や撮影道具の現地搬送の管理)、カメラ(撮影監督、カメラ技師 等)、照明、録音技師、「美術」(画面に登場する物品類の構想、調達、デザイン、制作など)、メイクアップ([[化粧]])、衣装関連職(スタイリスト、衣装デザイナー、衣装制作者 等々)、音楽([[作曲家]]、[[作詞家]]、[[歌手]]、[[演奏家]]、[[指揮者]] 等々)、[[VFX]]...といったように、ざっくりと分けても数十種類、細分すると数百種類におよぶ専門家たちが各自の役割を果たして成立する。映画というのは、そうしたさまざまな人々の能力を結集させることによって作られる「総合芸術」である。大規模な映画になると、数千人以上もの人々がかかわるため、[[クレジットタイトル|エンドロール]](制作関係者の表示)も膨大なものとなる。 '''{{Seealso|映画スタッフ}}''' ;監督 <gallery> File:Gary Cooper in Along Came Jones trailer.jpg|西部劇''『[[無宿者 (映画)|無宿者]]''』(1945年)の[[ゲイリー・クーパー]] File:Tsui Hark.jpg|『香港のスピルバーグ』と呼ばれることもある[[ツイ・ハーク]]監督、香港は中国映画と一線を画し、[[カンフー映画]]を中心に独創的な表現を生み出した。 File:Satyajit_Ray_with_Ravi_Sankar_recording_for_Pather_Panchali_cropped_Ray.jpg|映画大国インドの巨匠[[サタジット・レイ]] </gallery> == 個人制作の映画 == {{See also|8ミリ映画|自主映画}} 現在、個人ないし少人数のアマチュアグループでの映画撮影は、[[カムコーダ|カメラ一体型VTR]]で行われるのが普通である。2000年代前半からDVDやメモリー素子に記録することで、[[磁気テープ]]を使用しない[[デジタルビデオ]]が普及しているが、[[DV (ビデオ規格)|DV]]ビデオも現役である。 安価な機材は個人制作の映画の必須条件ではなく、[[ジョージ・ルーカス]]の個人制作である『[[スター・ウォーズシリーズ|スター・ウォーズ]]』新三部作などは当時の商業映画と同じ機材を使用している。 アナログ式の[[ビデオテープレコーダ]]が普及する以前は、8ミリ[[写真フィルム|フィルム]]で撮影するのが主流であった。業務用の35ミリフィルムは、個人では機材の調達が困難(カメラに限っても、購入だと数百万円必要であり、「保守に信用がおけない」ため、個人向けのレンタルはほとんど行われていない)であり、またフィルムも高価であった。よって、個人向けに、小さなフィルムを使うことでフィルム代や現像代といった感材費をおさえた。 一方、1980年代に[[ベータカム]]が普及するまでは、テレビ局での野外撮影や、上述のテレビ映画には[[16ミリ]]フィルムが用いられることが多かった。16ミリであれば、35ミリに比較すれば安価な制作が可能であり、個人でも「手を伸ばせば、何とかなる」ものであったため、「16ミリでの映画制作」が、「アマチュアにおけるゴール」とみなされてきた時代が長く続いた。 更に安価で手軽になった8ミリフィルムでの映画制作については、[[8ミリ映画]]の項も参照のこと。 デジタル式ビデオカメラとPCベースの[[ノンリニア編集]]機材の低価格化により、[[アルビン・トフラー]]の『[[第三の波 (トフラー)|第三の波]]』に登場する[[生産消費者]]が台頭しつつある。またプロユースでもノンリニア編集システムと連動した映像管理ソフトなどが利用されている。 [[YouTube]]など動画サイトを用いた、誰でも簡単に表現する場ができて、映像の個人製作をめぐる状況が大きく変化してきている。上映する場所も[[プロジェクションマッピング]]などの発達とともに、「映画」と「映像作品」の距離が縮まっている。 日本では、[[明治時代]]から個人撮影の映画が制作され始めた。[[戦前]]から一部で[[カラーフィルム]]で撮影が行われ、[[日本放送協会|NHK]]で2003年に『BSプライムタイム 映像記録 昭和の戦争と平和 カラーフィルムでよみがえる時代の表情』前編後編、『[[NHKスペシャル]] 映像記録・昭和の戦争と平和~カラーフィルムでよみがえる時代の表情~』、2006年に『[[BS特集]] カラー映像記録 よみがえる昭和初期の日本』<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010718_00000 ハイビジョン特集 カラー映像記録 よみがえる昭和初期の日本 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref> 前編後編と計3本で取り上げられた。 2017年には[[堀貴秀]]監督が独学で個人製作した『JUNK HEAD』がファンタジア国際映画祭で最優秀長編アニメーション賞を獲得。ファンタスティック映画祭で新人監督賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|title=たったひとりで製作7年! デル・トロ絶賛、日本人監督が独学で完成させたディストピアSFアニメ「JUNK HEAD」3月26日公開 |url=https://eiga.com/news/20210226/4/ |website=映画.com |date=2021-02-26 |accessdate=2022-04-10 }}</ref>。 == 映画作品の基本要素 == 「日本映画の父」と言われた[[牧野省三]]によると、映画には三要素があるとのことで、『スジ・ヌケ・ドウサ』の順である、とした。スジは脚本、ヌケは映像美、ドウサは役者の演技を指す<ref>[https://ja.kyoto.travel/support/film/culture/volume/07.php 京都の映画文化と歴史 第7回 マキノ省三先生像] - 京都市メディア支援センター</ref>。 一方、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典の「映画」の項目の解説では、「映画は'''シナリオ'''、'''演出'''、'''カメラ・ワーク'''、'''編集'''の四つの基本となる要素を組み合わせて制作される。」と、4つの要素を挙げている<ref>『ブリタニカ国際大百科事典小項目事典』、「映画」</ref>。 == 原作との関係・文字による芸術との関係 == 映画は、もともと映画のためだけに[[プロット]](筋書きのエッセンス)が書かれ、映画のためだけに脚本が書かれることが多いが、あらかじめ小説などがあり、後から「映画化」が行われることもある。また(あまりそうした国は多くないが)日本やアメリカなど、[[漫画]]や[[コミック]]がさかんな一部の国では、漫画やコミックを原作として映画がつくられることがある。 ;原作となる文学作品がある場合 {{独自研究|section=1|date=2019年6月}} 小説のような文字による芸術と、映画という映像(や音響)による芸術は、それぞれ特性が大きく異なっている。(文字だからできること、反対に文字には不向きなこと、映像だからできること、反対に映像には不向きなことがある。)文字を用いた芸術と映像を用いた芸術は いわば「まったく 別物」なので、古典文学を原作として映画化を行うことは、さまざまな困難がともなう。 たとえば[[ジュリアン・デュヴィヴィエ]]監督の『[[アンナ・カレニナ (1948年の映画)|アンナ・カレニナ]]』では冒頭の「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」([[望月哲男]]訳)に相当する部分は、映像では表現することはあきらめ、結局、文字で示さざるを得なかった。 [[沼野充義]]は「単純にスローガン的に、文学を原作にした映画の効用」として3つあげている<ref>『やっぱり世界は文学でできている』(沼野充義編著、[[光文社]]、2013年、p.115f)。</ref>。<BLOCKQUOTE>一つは「原作と違うといって文句を言える」こと。<br>二番目に「文学では見てはいけないものを映画にすると見ることができる」ということ。例えば、ワレーリイ・フォーキン監督 『変身』など、[[カフカ]]が映像化したくなかったかもしれないものを映像化している。<br>三番目は「読み切れない作品を二時間程度で読んだ気になれる」ということ。例えば『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』などは3時間あるが、絢爛豪華な歴史世界を映画で見ることができるし、いつか原作を読もうという気持にさせる。</BLOCKQUOTE> 一般的には、原作をできるだけ忠実に映像化しようと試みた映画作品は、映画作品としては評価が低くなりがちで、その反対に『[[砂の器]]』や[[ジャン・ルノワール]]監督の『ピクニック』など、原作とは異なる内容の映画作品や、短編小説を原作とした映画作品(つまり、原作はせいぜい「きっかけ」や「結晶の核」として用いて、原作とは距離を置いて、文学作品の大部分の要素は思い切って切り捨てたり、変えてしまい、映画という独特の技法の側の都合を(最)優先させた映画作品)のほうが「名作」とされることが多い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|映画|[[ファイル:Crystal_128_aktion.png|40px]]}} {{ウィキポータルリンク|映画|[[画像:Pictograms-nps-services-theater-2.svg|40px|Portal:映画]]}} {{Sisterlinks|commons=Cinemas|commonscat=Cinemas|d=Q11424}} *[[映画の配信媒体]] **[[映画館]] **[[オリジナルビデオ]] **[[テレビ映画]] **[[ネット配信]] *[[映画の著作物]] *[[映画の分類]] **[[映画のジャンル]] **[[映画のレイティングシステム]] ***[[映倫]] - [[日本ビデオ倫理協会]] *[[映画学]] *[[映画評論]] *[[映画史]] **{{仮リンク|映画技術史|en|History of film technology}} *[[映画用語]] *[[映画会社]] *[[映画学校]] *[[映画プロデューサー]] - [[映画監督]] - [[脚本家]] - [[映画俳優]] - [[映画スタッフ]] *[[映画祭]] *[[映画療法]] <!--◆ここから五十音順◆--> *[[アニメーション|アニメ]] - [[アニメーション映画]] - [[コンピュータアニメーション]] *[[興行成績]] - [[興行収入]] - [[配給収入]] *[[サイレント映画]] - [[トーキー]] *[[自主映画]] *[[シネショット]] *[[シネフィル]] *[[デジタルシネマ]] *[[ハリウッド]] - アメリカにおける[[映画産業]]の中心地 *[[レンタルビデオ]] - [[個室ビデオ]] *[[予告編]] *{{仮リンク|ワールドシネマ|en|World cinema}} - 映画理論における用語の一つ。アメリカ合衆国の映画産業以外で製作された映画(特に米国の商業映画における美学や価値観と対立する映画)を指す *[[8ミリ映画]](ビデオではなくフィルム) *[[:Category:映画を題材とした映画作品]] === 一覧 === *[[映画の一覧]] *[[各国の映画]] *[[映画の賞]] *[[年度別日本公開映画]] *[[映画作品一覧]] *[[興行収入上位の映画一覧]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * {{CRD|2000026942|映画について調べるには|[[福岡県立図書館]]}} * [https://web.archive.org/web/20010104094600fw_/http://www.nwj.com/neotown/moya/club/eiga/hit.htm ヒットする映画とは?] {{美術}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えいか}} [[Category:映画|*]] [[Category:フランスの発明]]
2003-02-01T13:31:05Z
2023-11-23T15:40:59Z
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メーリングリスト
メーリングリスト(英: mailing list)とは、複数の人に同時に電子メールを配信(同報)する仕組み。MLと略される。用途としては、特定の話題に関心を持つグループなどで情報交換をする場合に利用されることが多い。 メーリングリストの原理は、登録メンバーの電子メールアドレスのリストと、メーリングリスト宛ての代表電子メールアドレスを用意しておき、代表アドレスへ送信されたメールを、リストに登録されたメンバー全員のアドレスへ転送するものである。 元は郵便を利用したものがあったが、今日では専ら電子メールを用いたものを指す場合が多い。 メーリングリスト用のサーバソフトウェアには、fml、LISTSERV、majordomo、Mailmanなどがある。 ネット上の他のサービスとの相互乗り入れも多く、かつてはネットニュースのニュースグループとの相互乗り入れも多く行われた。しかし1990年代よりネットニュース上のEMP/ECP(excessive multipost/excessive crosspost)の増加や、帯域の増強に伴いニュースグループを介さずに個々のメンバーがメールを受け取ることに支障がなくなってきたことより、ニュースグループとの相互乗り入れによるメーリングリスト側のメリットが薄れ、相互乗り入れは減少する傾向にある。代わってワールドワイドウェブ(WWW)の普及に伴い、WWWと相互乗り入れ、ないしウェブページ上にアーカイブを公開するメーリングリストが増加している。 メーリングリストサーバを運営するにはメールサーバについてのある程度の技術的知識が必要だが、近年はWWW上で、無料で使用できるメーリングリストサーバも提供されている。代表的な無料サービスには、freeml(1997年開始 2019年12月2日終了)やYahoo!グループ(2004年2月9日開始 2014年5月28日終了)・allserver(2005年開始)・GroupML(2019年開始)などがある。 このようなことや、ADSLやFTTHといった、いわゆるブロードバンドインターネット接続の普及から、グループなどでの情報交換手段としては新規のメーリングリスト開設は下火になっており、代わりに(登録制の)電子掲示板(BBS)が多用される傾向にある。 メーリングリストの運用方針は管理者の志向、話題の性質や構成メンバーなどによって大きく異なる。ある組織の構成員に限る場合や、専門家対象の場合で有資格者に限る場合、紹介が必要なもの、誰でも自由に入れるものなど様々である。ロムを認めず一定期間投稿がないとリストから削除される場合もある。また、画像を添付するとサーバに負担がかかるため、禁止しているところも多い。アーカイブ(過去ログ)をWEBで公開していることもあるし、会員外への転送を禁止している場合もある。こうした運用方針については、管理者が定めることで、通常は入会時のお知らせなどに記載されている。 Outlook Expressなどのマイクロソフト製電子メールクライアント(メールソフト)では、初期設定でhtml形式で送信したり、添付ファイルが自動的に開くようになっているなど、メーリングリストでの利用に問題が発生することが多い。そのため、メーリングリストを利用する際は適切な設定を行うよう促されたり、運用上問題があるとして利用禁止にしているケースもある。 メーリングリストは古くから存在する仕組みであるが、セキュリティ上の問題点も存在する。参加を検討する際には、セキュリティ問題に関する運営者の知識レベル等を見極め、参加することのリスクを考慮する必要がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "メーリングリスト(英: mailing list)とは、複数の人に同時に電子メールを配信(同報)する仕組み。MLと略される。用途としては、特定の話題に関心を持つグループなどで情報交換をする場合に利用されることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "メーリングリストの原理は、登録メンバーの電子メールアドレスのリストと、メーリングリスト宛ての代表電子メールアドレスを用意しておき、代表アドレスへ送信されたメールを、リストに登録されたメンバー全員のアドレスへ転送するものである。 元は郵便を利用したものがあったが、今日では専ら電子メールを用いたものを指す場合が多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "メーリングリスト用のサーバソフトウェアには、fml、LISTSERV、majordomo、Mailmanなどがある。", "title": "技術的な話" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ネット上の他のサービスとの相互乗り入れも多く、かつてはネットニュースのニュースグループとの相互乗り入れも多く行われた。しかし1990年代よりネットニュース上のEMP/ECP(excessive multipost/excessive crosspost)の増加や、帯域の増強に伴いニュースグループを介さずに個々のメンバーがメールを受け取ることに支障がなくなってきたことより、ニュースグループとの相互乗り入れによるメーリングリスト側のメリットが薄れ、相互乗り入れは減少する傾向にある。代わってワールドワイドウェブ(WWW)の普及に伴い、WWWと相互乗り入れ、ないしウェブページ上にアーカイブを公開するメーリングリストが増加している。", "title": "技術的な話" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "メーリングリストサーバを運営するにはメールサーバについてのある程度の技術的知識が必要だが、近年はWWW上で、無料で使用できるメーリングリストサーバも提供されている。代表的な無料サービスには、freeml(1997年開始 2019年12月2日終了)やYahoo!グループ(2004年2月9日開始 2014年5月28日終了)・allserver(2005年開始)・GroupML(2019年開始)などがある。", "title": "技術的な話" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "このようなことや、ADSLやFTTHといった、いわゆるブロードバンドインターネット接続の普及から、グループなどでの情報交換手段としては新規のメーリングリスト開設は下火になっており、代わりに(登録制の)電子掲示板(BBS)が多用される傾向にある。", "title": "掲示板等との違い" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "メーリングリストの運用方針は管理者の志向、話題の性質や構成メンバーなどによって大きく異なる。ある組織の構成員に限る場合や、専門家対象の場合で有資格者に限る場合、紹介が必要なもの、誰でも自由に入れるものなど様々である。ロムを認めず一定期間投稿がないとリストから削除される場合もある。また、画像を添付するとサーバに負担がかかるため、禁止しているところも多い。アーカイブ(過去ログ)をWEBで公開していることもあるし、会員外への転送を禁止している場合もある。こうした運用方針については、管理者が定めることで、通常は入会時のお知らせなどに記載されている。", "title": "運用方針" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Outlook Expressなどのマイクロソフト製電子メールクライアント(メールソフト)では、初期設定でhtml形式で送信したり、添付ファイルが自動的に開くようになっているなど、メーリングリストでの利用に問題が発生することが多い。そのため、メーリングリストを利用する際は適切な設定を行うよう促されたり、運用上問題があるとして利用禁止にしているケースもある。", "title": "マイクロソフト製電子メールクライアントとの相性" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "メーリングリストは古くから存在する仕組みであるが、セキュリティ上の問題点も存在する。参加を検討する際には、セキュリティ問題に関する運営者の知識レベル等を見極め、参加することのリスクを考慮する必要がある。", "title": "セキュリティ上の問題点" } ]
メーリングリストとは、複数の人に同時に電子メールを配信(同報)する仕組み。MLと略される。用途としては、特定の話題に関心を持つグループなどで情報交換をする場合に利用されることが多い。 メーリングリストの原理は、登録メンバーの電子メールアドレスのリストと、メーリングリスト宛ての代表電子メールアドレスを用意しておき、代表アドレスへ送信されたメールを、リストに登録されたメンバー全員のアドレスへ転送するものである。 元は郵便を利用したものがあったが、今日では専ら電子メールを用いたものを指す場合が多い。
{{WikipediaPage}} {{Selfref|編集者用:メーリングリストの[[アーカイブ]]へのリンクを貼るための[[Wikipedia:テンプレート|テンプレート]]に付いては[[Template:Cite mailing list]]を参照}} {{出典の明記|date=2018年4月}} '''メーリングリスト'''({{Lang-en-short|mailing list}})とは、複数の人に同時に[[電子メール]]を配信(同報)する仕組み。'''ML'''と略される。用途としては、特定の話題に関心を持つグループなどで情報交換をする場合に利用されることが多い。 メーリングリストの原理は、登録メンバーの[[メールアドレス|電子メールアドレス]]のリストと、メーリングリスト宛ての代表電子メールアドレスを用意しておき、代表アドレスへ送信されたメールを、リストに登録されたメンバー全員のアドレスへ転送するものである。 元は[[郵便]]を利用したものがあったが、今日では専ら電子メールを用いたものを指す場合が多い。<!-- https://en.wikipedia.org/wiki/Mailing_list --> == 技術的な話 == メーリングリスト用の[[サーバ]][[ソフトウェア]]には、[[fml]]、[[LISTSERV]]、[[majordomo]]、[[GNU Mailman|Mailman]]などがある。 ネット上の他のサービスとの相互乗り入れも多く、かつては[[ネットニュース]]の[[ニュースグループ]]との相互乗り入れも多く行われた。しかし[[1990年代]]よりネットニュース上のEMP/ECP(excessive multipost/excessive crosspost)の増加や、帯域の増強に伴いニュースグループを介さずに個々のメンバーがメールを受け取ることに支障がなくなってきたことより、ニュースグループとの相互乗り入れによるメーリングリスト側のメリットが薄れ、相互乗り入れは減少する傾向にある。代わって[[World Wide Web|ワールドワイドウェブ]](WWW)の普及に伴い、WWWと相互乗り入れ、ないし[[ウェブページ]]上に[[アーカイブ]]を公開するメーリングリストが増加している。 メーリングリストサーバを運営するには[[メールサーバ]]についてのある程度の技術的知識が必要だが、近年はWWW上で、無料で使用できるメーリングリストサーバも提供されている。代表的な無料サービスには、[[GMOメディア#freeml|freeml]](1997年開始 2019年12月2日終了)や[[Yahoo! JAPAN#Yahoo!グループ|Yahoo!グループ]](2004年2月9日開始 2014年5月28日終了)・[http://ml.allserver.jp/ allserver](2005年開始)・[https://groupml.jp/ GroupML](2019年開始)などがある。 == 掲示板等との違い == * ネットニュースや多くのインターネット掲示板では事前の登録は不要であるが、メーリングリストの場合、リストに登録するための事前手続きが必要になる([[コマンド (コンピュータ)|コマンド]]を記したメールを特定のアドレスに送信するか、管理者に参加申込みをする)。このためハードルが高いと感じられることも多い。 * [[電子掲示板|インターネット掲示板]]等の場合、自分がそのサイトを見にいかなければそれで済んでしまうが、メーリングリストのメールは一般のメールとともに日々送信されてくる。このため、投稿数の多いメーリングリストや複数のメーリングリストに加入すると、毎日膨大なメールが届くことで、メールサーバに割り当てられた容量のパンクや、(パンクしないまでも)内容が読みきれなくなってしまうことがある。(要するにメールの管理振り分けに手間がかかる) * メールを多数に同報するシステム構造に起因する、各種セキュリティ上の問題点がある。([[#セキュリティ上の問題点|後述]]) このようなことや、[[ADSL]]や[[FTTH]]といった、いわゆる[[ブロードバンドインターネット接続]]の普及から、グループなどでの情報交換手段としては新規のメーリングリスト開設は下火になっており、代わりに(登録制の)[[電子掲示板]](BBS)が多用される傾向にある{{要出典|date=2009年11月}}。 == 運用方針 == メーリングリストの運用方針は管理者の志向、話題の性質や構成メンバーなどによって大きく異なる。ある組織の構成員に限る場合や、専門家対象の場合で有資格者に限る場合、紹介が必要なもの、誰でも自由に入れるものなど様々である。[[リードオンリーメンバー|ロム]]を認めず一定期間投稿がないとリストから削除される場合もある。また、画像を添付するとサーバに負担がかかるため、禁止しているところも多い。アーカイブ(過去ログ)をWEBで公開していることもあるし、会員外への転送を禁止している場合もある。こうした運用方針については、管理者が定めることで、通常は入会時のお知らせなどに記載されている。 == マイクロソフト製電子メールクライアントとの相性 == [[Outlook Express]]などの[[マイクロソフト]]製[[電子メールクライアント]](メールソフト)では、初期設定でhtml形式で送信したり、[[添付ファイル]]が自動的に開くようになっているなど、メーリングリストでの利用に問題が発生することが多い。そのため、メーリングリストを利用する際は適切な設定を行うよう促されたり、運用上問題があるとして利用禁止にしているケースもある。 == セキュリティ上の問題点 == {{独自研究|section=1|date=2013年5月}} メーリングリストは古くから存在する仕組みであるが、セキュリティ上の問題点も存在する。参加を検討する際には、セキュリティ問題に関する運営者の知識レベル等を見極め、参加することのリスクを考慮する必要がある。 ; ウイルスメール : メーリングリスト参加者のコンピュータが[[コンピュータウイルス|ウイルス]]に感染していた場合、メーリングリスト参加者全員にウイルス入りメールが届いてしまう場合がある。これを防ぐため、サーバ側でウイルスチェックを行うことが望ましい。システム上可能であれば、一定以上の容量のメールは拒否する、という手段も考えられる。自衛手段として、参加者各人の[[アンチウイルスソフトウェア|アンチウイルスソフト]]の導入、またはメーリングリストや参加者のメールアカウントに対する[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]によるウイルスチェックサービスの適用などが推奨される。 ; 迷惑メール : メーリングリストのメールアドレスに[[スパム (メール)|広告などの迷惑メール]]が送られると、メーリングリスト参加者全員に迷惑メールが届いてしまう。これを防ぐため、通常はメーリングリスト参加者のメールアドレス以外からの投稿は受け付けないようになっているが、送信元のメールアドレスは簡単に詐称できるため、迷惑メールが紛れ込むことがある。 ; 成りすまし : 前述の通り、送信元メールアドレスは簡単に詐称できるため、他人が自分に成りすまして投稿を行うことが簡単にできてしまう。<!---他人を誹謗中傷するメールを送信したとして訴訟を起こされる場合もある。 ←可能性はゼロでないまでも通常は考えにくいが?---> ; 個人情報の漏洩 : 投稿したメールが配信される際、送信元のメールアドレスとして自分のメールアドレスがメーリングリスト内に公開される(投稿内容がWebページ上で公開されている場合は不特定多数の相手に公開される)。実名の公開を義務付けていたり、(ロム状態の参加者を含めて)登録者のメールアドレスをWebページ上で公開しているメーリングリストも一部に存在するため、広告メール送信業者等の格好の標的となっている{{要出典|date=2009年11月}}。 ; 発言内容の撤回不可 : 一度送信したメールは撤回できない。また、発言内容を蓄積しアーカイブをWebで公開しているメーリングリストなどでも削除依頼が受け付けられないことが多い。これは成りすましによる投稿についても同様であるため、トラブルとなる場合がありうる。 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}}--> == 関連項目 == * [[電子メール]] * [[メールマガジン]] * [[メール広告]] == 外部リンク == * [http://www.fml.org/ fmlのページ] * [http://www.kt.rim.or.jp/~atsato/ml/mldb.html ML・メールマガジン紹介ページ一覧] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:めえりんくりすと}} [[Category:電子メール]] [[Category:インターネットの文化]] [[Category:フォーマット別の出版物]]
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画像
画像(がぞう)とは、事象を視覚的に媒体に定着させたもので、そこから発展した文字は含まない(例:文字と画像、書画)。定着される媒体は主に2次元平面の紙であるが、金属、石、木、竹、布、樹脂や、モニター・プロジェクター等の出力装置がある。また、3次元の貼り絵、ホログラフィー等も含まれる。 現存する古い画像は後期旧石器時代の洞窟壁画(スペインの《アルタミラ洞窟壁画》(全文:La Cueva de Altamira(Museo de Altamira)や、フランス《ラスコー洞窟壁画》(書影:三浦定俊(2008))。)等)である。これらの画像すなわち、岩面画から抽象化が行われ、画像に属するピクトグラム(絵文字)、さらに文字に属する象形文字が生まれた。 コンピュータで扱う画像データの最少単位を画素という。物理的な点情報をドットといい、1インチあたりのドット密度をdpiという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "画像(がぞう)とは、事象を視覚的に媒体に定着させたもので、そこから発展した文字は含まない(例:文字と画像、書画)。定着される媒体は主に2次元平面の紙であるが、金属、石、木、竹、布、樹脂や、モニター・プロジェクター等の出力装置がある。また、3次元の貼り絵、ホログラフィー等も含まれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現存する古い画像は後期旧石器時代の洞窟壁画(スペインの《アルタミラ洞窟壁画》(全文:La Cueva de Altamira(Museo de Altamira)や、フランス《ラスコー洞窟壁画》(書影:三浦定俊(2008))。)等)である。これらの画像すなわち、岩面画から抽象化が行われ、画像に属するピクトグラム(絵文字)、さらに文字に属する象形文字が生まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "コンピュータで扱う画像データの最少単位を画素という。物理的な点情報をドットといい、1インチあたりのドット密度をdpiという。", "title": "画像ファイル" } ]
画像(がぞう)とは、事象を視覚的に媒体に定着させたもので、そこから発展した文字は含まない(例:文字と画像、書画)。定着される媒体は主に2次元平面の紙であるが、金属、石、木、竹、布、樹脂や、モニター・プロジェクター等の出力装置がある。また、3次元の貼り絵、ホログラフィー等も含まれる。
{{WikipediaPage|ウィキペディア上の画像については、[[Wikipedia:FAQ 画像などのファイル]]、[[Help:目次 画像などのファイル]]、[[:Category:画像]]をご覧ください。}} {{otheruses||肖像画|肖像}} [[File:Image created with a mobile phone.png|thumb|[[デジタルカメラ]]での[[撮影]]]] [[File:Faust bei der Arbeit.JPG|thumb|[[キャンバス]]に絵を描こうとしている]] '''画像'''(がぞう)とは、事象を視覚的に[[媒体]]に定着させたもので、そこから発展した[[文字]]は含まない(例:文字と画像、[[書画]])。定着される媒体は主に2次元[[平面]]の[[紙]]であるが、[[金属]]、[[石]]、[[木]]、[[竹]]、[[布]]、樹脂や、[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニター]]・[[プロジェクター]]等の[[出力装置]]がある。また、3次元の[[貼り絵]]、[[ホログラフィー]]等も含まれる。 == 歴史 == 現存する古い画像は[[後期旧石器時代]]の[[洞窟壁画]]([[スペイン]]の《[[アルタミラ洞窟]]壁画》(全文:La Cueva de Altamira(Museo de Altamira)<ref name="Museo_de_Altamira">[http://museodealtamira.mcu.es/Prehistoria_y_Arte/la_cueva.html Museo_de_Altamira]</ref>や、[[フランス]]《[[ラスコー洞窟]]壁画》(書影:三浦定俊(2008)<ref name="MiuraSadatosi2008">[http://www.bunka.go.jp/takamatsu_kitora/kentokaito/rekkachosa/05/pdf/shiryo_04.pdf 三浦定俊「ラスコー洞窟壁画の保存状況」](高松塚古墳壁画劣化原因調査検討会(第5回)資料/文化庁 所収)</ref>)。)等)である。これらの画像すなわち、岩面画から抽象化が行われ、画像に属する[[ピクトグラム]]([[絵文字]])、さらに[[文字]]に属する[[象形文字]]が生まれた。 == 語源 == *[[画]]の[[語源]]は「界」(田は四つの境界)や、「形」である(書影:『[[康煕字典網上版]]』p.763<ref name="KoukiZiten763">[http://www.kangxizidian.com/kangxi/0763.gif 『康煕字典網上版』]763頁</ref>)。 *[[像]]の語源は、[[形象]]、[[音像]]である(書影:『康煕字典網上版』p.116<ref name="KoukiZiten116">[http://www.kangxizidian.com/kangxi/0116.gif 『康煕字典網上版』]116頁</ref>)。 == 同義語 == *[[同義語]]に[[図]]、[[絵]](画)、[[図像]]があり、限定表現である[[図形]]、[[影像]]、映像等がある。 == 用語「画像」の分類 == *[[様式]]や精神的な形象には「図」([[英語]]の[[Image]])や「絵(画)」を使用している(例:[[心象図]]、[[物語絵]]、[[肖像画]]、「絵になる」)。 *点・線・面など[[幾何学]]的な表現に[[ダイアグラム|グラフ]]や[[図形]]が使用されている。 *定着する方法による区分:直接描く[[描画]]、一時的定着である[[鏡]]や[[水面]]の反射や[[カメラオブスキュラ]]、版を作り転写する[[版画]]、[[カメラ]]や[[望遠鏡]]、[[顕微鏡]]等の[[光学デバイス]]を利用した[[写真]]、[[印刷]]、モニター入出力等がある。写真で出力した画像は「影像」という。[[映画]]や[[テレビ]]等に映した画像は「映像」という。[[デジタルカメラ]]の普及で[[アナログ画像]]と[[デジタル画像]]の用語も一般化した。 *時間を基準とすると、[[静止画]]、[[動画]]に分類され、静止画動画は[[モーションピクチャー]]という。画像は一般に静止画像をいうことが多い。 *[[色]]数からは[[モノクローム]]、カラーに分類される。 *オリジナル画像を[[原画]]、[[原図]]といい、版として定着した画像を[[図版]]、[[電子媒体]]に定着したものを[[電子画像]]、[[電子影像]](図書の影像は書影)という。 *粗密や[[解像度]]からは、あいまい表現だが、[[精密画像]]、[[高精細画像]]、[[低解像度画像]]等が使用される。 == 画像ファイル == ; [[コンピュータグラフィックス]]のファイル形式 : [[ビットマップ画像]]([[ラスターグラフィックス]])と[[ジャギー]]のない[[ベクターグラフィックス]]に分類され、ベクターグラフィックは用語「図形」を使用する場合が多い。 ; 標準[[画像ファイルフォーマット]] : 多数の画像ファイル形式があるが、[[W3C]]が推奨した[[ラスター形式]]には[[JPEG]]や[[Portable Network Graphics|PNG]]等があり、[[ベクター形式]]には[[Extensible Markup Language|XML]]ベースの[[テキストファイル]]で表現できる[[Scalable Vector Graphics|SVG]]がある。また、[[アドビ]]の[[ベクター形式]]ドキュメントファイル[[Portable Document Format|PDF]]も国際規格ISO 32000-1:2008<ref name="iso3200">[http://www.iso.org/iso/catalogue_detail.htm?csnumber=51502 Document management -- Portable document format / ISO Store]</ref>となった。 === 画像の単位 === コンピュータで扱う[[画像データ]]の最少[[単位]]を[[ピクセル|画素]]という。物理的な点情報をドットといい、1[[インチ]]あたりのドット密度を[[dpi]]という。 ; 画像の要素 : [[明度]]、[[彩度]]、[[輝度 (色)|輝度]]、[[透過度]]等がある。 ; 色の表現 : 異なるデバイスで色表現が異ならないよう、[[カラーマネージメントシステム]]で各デバイスを制御する必要がある。 : 色の合成方法には[[加法混合]](透過光の三原色、例:モニター画面の[[RGB]]値)、[[減法混合]](反射光の三原色、例:カラー印刷などの[[CMYK]])などいくつかがある。 ; 画像圧縮 : [[Web画像]]は[[通信速度]]をあげるため、一般に[[画像圧縮]]したり、[[画像サイズ]]を縮小した[[カタログ]]用の[[サムネイル]]や[[プログレッシブJPEG]]を使用する場合が多い。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * 『映像革命CG―コンピュータ・グラフィックスで社会、芸術、産業が変わる』 ISBN 978-4872463040 == 関連項目 == * [[ラスターグラフィックスエディタ]] * [[ベクターグラフィックスエディタ]] * [[デジタル画像]] * [[2次元コンピュータグラフィックス]] * [[:Category:コンピュータグラフィックス]] * [[ビットマップ画像]] * [[ベクターイメージ]] * [[画像ファイルフォーマット]] * [[画像編集]] * [[画像処理]] * [[データ圧縮]] * [[動画]] * [[カメラ]] * [[イメージ]] * [[フォトグラフィー]] {{Computer-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かそう}} [[Category:映像]]
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ピアノ
ピアノ(英: piano)は、弦をハンマーで叩くことで発音する鍵盤楽器の一種である。鍵を押すと、鍵に連動したハンマーが対応する弦を叩き、音が出る。内部機構の面からは打楽器と弦楽器の特徴も併せ持った打弦楽器に分類される。 一般に据え付けて用いる大型の楽器で、現代の標準的なピアノは88鍵を備え、音域が非常に広く、オーケストラの全音域よりも広い。 汎用性の高い楽器であることから、演奏目的として使われる以外に、音楽教育、作品研究、作曲などにも広く用いられている。そのためピアニストに限らず、作曲家、指揮者、他楽器奏者、声楽家、音楽教育者、教員などにも演奏技術の習得を求められることが多い。 「ピアノ」の名は、17-18世紀の楽器製作家バルトロメオ・クリストフォリが製作したピアノの原型であるクラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(伊: Clavicembalo col piano e forte、強弱をもつチェンバロ)に由来し、これが短縮されたものとされる。 歴史的には「ピアノフォルテ」(pianoforte)や「フォルテピアノ」(fortepiano)と呼ばれ、現代でも略称としては “pf” という表記が用いられている。 現代では、イタリア語・英語・フランス語では “piano” と呼ばれる(伊・英では “pianoforte” も使用)。ドイツ語では「ハンマークラヴィーア」(“Hammerklavier”)がピアノを意味し、より一般的には “Klavier”(鍵盤の意味)と呼ばれるほか、“Flügel”(もともと鳥の翼の意で、グランド・ピアノを指す)も用いられる。ロシア語の正式名称は “фортепиано” (fortepiano) であるが、一般にはグランドピアノを意味する “рояль”(フランス語の “royal”から)や、アップライトピアノを意味する “пианино” (pianino) が用いられることが多い。その他ハンガリー語では “Zongora” と呼ぶ。 20世紀後半以降、あえて「フォルテピアノ」「ハンマークラヴィーア」「ハンマーフリューゲル」などと呼ぶ場合は古楽器、すなわち現代ピアノの標準的な構造が確立される以前の構造を持つ楽器を指す場合が主で、古い時代に作曲された作品を、当時のスタイルで演奏する際に用いられている。これに対して19世紀半ば以降のピアノを区別する必要がある場合には「モダンピアノ」などと呼ぶ。 日本では、19世紀ごろに洋琴と呼ばれたり、戦前の文献では「ピヤノ」と書かれたものが見受けられる。一例として尋常小学校の国語の教科書に「月光の曲」と題されたベートーヴェンの逸話が読み物として掲載されていたことがあるが、このときの文章は「ピヤノ」表記であった。 モダンピアノは主に2つのタイプに分かれる。すなわち、グランドピアノとアップライトピアノである。モダンピアノはフォルテピアノと同様にアコースティック楽器だが、それ以外にエレクトリックピアノ(電気ピアノ)やエレクトロニックピアノ(アナログ電子ピアノ)、デジタルピアノなども存在する。 グランドピアノは地面と水平にフレームと弦を配し、弦は奏者の正面方向に張られる。そのため、グランド・ピアノは極めて大型の楽器となり、充分に共鳴の得られる、天井の高い広い部屋に設置することが理想的である。グランド・ピアノは大きさによっていくつかに分類される。製造者やモデルによって違いはあるが、大まかに言って、「コンサート・グランド」(全長がおおよそ2.2 mから3 m)、「パーラー・グランド」(おおよそ1.7 mから2.2 m)、これらよりも小さい「ベビー・グランド」(ものによっては幅よりも全長が短い)に分けられる。ベビー・グランドはゾーマー社が1884年に特許を取得している。 他の条件がすべて同じであれば、長い弦を張った長いピアノの方が響きがよく、弦のインハーモニシティ(非調和性)が小さい。インハーモニシティとは、倍音の周波数の、基本周波数の整数倍からの遠さである。短いピアノは、弦が短く、太く、固いため、弦の両端が振動しにくい。この影響は高い倍音に顕著であるため、第2倍音は理論値よりも若干高くなり、第3倍音はもっと高くなる。このようにして、短いピアノではインハーモニシティが大きい。短いピアノではダンパーペダルを踏んだときに共鳴する弦が少ないので、音色が貧弱である。一方、コンサート・グランドでは弦長があるため短いピアノよりも自由に振動でき、倍音が理想に近くなる。 一般的にはフルサイズのコンサート・グランドは大型なだけでなく高価でもあるため、専用ホールなどでの演奏会で用いられ、より小型のグランドピアノは学校の体育館・講堂や教室(音楽室)、ホテルなどのロビー、小規模なホール、設置場所を取れる一部の家庭(ピアノ教室を開いているようなところ)などで用いられる。 アップライトピアノは、フレームや弦、響板を鉛直方向に配し、上下に延びるように作られている。グランドピアノよりも場所を取らないため、グランドピアノを設置するスペースの取れない家庭や、学校の教室、小規模の演奏会場などに広く設置されている。 グランドピアノでは、ハンマーが反動と重力によって自然な動きで下に落ちるのに対し、アップライトで一般的な前後に動くハンマーでは、反応のよいピアノ・アクションを製造することは難しい。これはハンマーの戻りをばねに依存せざるをえず、経年劣化するためである。またレペティションレバーという、ジャックをハンマーの下に引き戻す機構が、ほとんどのアップライトピアノには備わっていないため、連打性能に関しては決定的に劣る。 20世紀の中頃より、音響部分を電気回路に置き換えたエレクトリックピアノ(電気ピアノ)が登場した。 音色が独特であるため、アコースティックピアノの代用品として使用されるケースは稀であり、しばしば同じ楽曲作品内でアコースティックピアノとエレクトリックピアノの両方を使用し共存する楽曲も多い。 発音原理はアコースティックピアノと同じく、ハンマーで音源部を叩くことで音を得ているが、音響増幅をボディ部分の反響から得ているアコースティックピアノと異なり、音源部で鳴らした音を磁気やピエゾピックアップなどで拾い、アンプで電気的に増幅してスピーカーから出力している。アコースティックピアノとエレクトリックピアノは物理的な発音構造が基本的には同じであるので、他の楽器で例えるならアコースティック・ギターとエレクトリック・ギターの関係に近い。合成音ではなく実際に物理的な音源部を振動で鳴らしているため、電源を入れずとも演奏すれば小音量ながら生音は聞こえる。 音源部の素材や反響・共鳴方法はメーカーや機種によってまちまちであり、最もよく知られるエレクトリックピアノの一つであるローズ・ピアノは、各鍵盤ごとの音程を発音する金属片を弦の代わりに叩くことで原音を鳴らし、またその振動を別の金属板で共鳴させている。 ヤマハの製品のように、アコースティックピアノと同じく弦を使用するものもある。当然ながら音源部が同じため、弦以外の音源を使用する機種よりもアコースティックピアノに音は近く、この構造を持つCP-70やCP-80などはエレクトリック・グランドピアノとも呼ばれる。 また、アコースティックピアノにピックアップを搭載したエレクトリックアコースティックピアノとも呼べるハイブリッドモデルも存在するが、後述の電子ピアノにおけるハイブリッド機とは構造が異なり消音機能がある訳ではない。構造としては同じ音を電気的に出力するかしないかだけであるため、仮に消音処理を行なえばエレクトリックピアノとしての音も発音されなくなる。電源を通した場合も当然アコースティックピアノとしての生鳴りは残り、住宅事情や夜間演奏の対策になるものではない。 エレクトリックピアノは発声原理がアコースティックピアノと基本的には同じか、もしくは似通っているため、電子回路で音を生成・合成するエレクトロニックピアノ(アナログ電子ピアノ)や、デジタルピアノといった電子ピアノ類とは明確に区別される。 物理的な音源を用いずに、電子回路によって音を生成及び合成しているものは電子ピアノと呼ばれる。上位モデルではペダルや、実際のピアノの感触を再現した鍵盤、多様な音色、およびMIDI端子を備えている。とりわけ、コンサートなどで用いられることを想定した脚部分のない本体部分だけのものはステージピアノとも呼ばれる。 電子ピアノの音色生成や合成方法はアナログ・デジタルなど様々であるが、古くは1970年代にアナログシンセサイザーの技術を転用してピアノの音色再現を試みたエレクトロニックピアノが、1980年代にはデジタルシンセサイザーの技術を用いたFM音源による合成やサンプリング技術を利用して打鍵にあわせて音を再生するデジタルピアノが登場した。FM音源式はローズピアノなどの音色の再現がしやすく、サンプリング式は本物のエレクトリックピアノの音色をそのまま録音して収録できるため、メンテナンスや搬入に難の多い本物のエレクトリックピアノが駆逐される原因ともなった。特に90年代以降アコースティックピアノやエレクトリックピアノの代用として用いられているものはサンプリングタイプが多く、一般に単にデジタルピアノや電子ピアノと呼ぶ場合はこのタイプを指す。近年では通常のピアノを切り替えによって電子ピアノとしても使用できるサイレントピアノも登場している。サイレントピアノ類は、前述のアコースティックピアノとエレクトリックピアノのハイブリッド機とはまったく異なり、電子ピアノとして使用する場合は生音が消音され、デジタル音源によるサンプリング音が出力される。 電子ピアノは内部構造や発音原理がシンセサイザー類と同じであるため、ピアノの音色や打鍵感覚に重きを置いたシンセサイザーと見ることもできる。エレクトロニックピアノはアナログシンセサイザー、デジタルピアノはデジタルシンセサイザーとそれぞれ相同である。実際のところ、「電子ピアノ」と銘打っていてもデジタルピアノには一般的なシンセサイザーのようにピアノ以外の多彩な音色を備えている機種が多く、そういった機種ではピアノ的な打鍵の重さや細かいコントローラ類が省かれているのを気にしないのであれば、シンセサイザーとしても使用可能である。 多くのデジタルピアノでアップライトやグランドなどのアコースティックピアノ音色の他に、エレクトリックピアノの音色や、古い時代のシンセサイザーに搭載されていたピアノ音色うち、人気の高いものなども搭載されている。しかし、現在の技術水準ではアコースティックピアノの要である打弦されていない弦の共鳴による響きを完全に再現することは困難であり、物理モデル音源技術などを用いた開発が続けられている。 上に分類されないピアノの形態としては、かつて長方形をしたスクエア・ピアノがあったが、19世紀中頃から次第に姿を消し、現在は製造されていない。 トイピアノは19世紀に製造が始まった、元来は玩具用のピアノである。1863年、アンリ・フルノーがピアノ・ロールを用いて自動演奏する自動ピアノを開発した。自動ピアノでは紙製のパンチ・ロールを使って演奏を記録し、気圧装置を使ってこれを再生する。現代の自動ピアノとしてはヤマハのディスクラヴィーアがあり、これはソレノイドとMIDIを使用したものである。 アーヴィング・バーリンは、1801年にエドワード・ライリーが開発した移調ピアノという特殊なピアノを使用した。これは鍵盤の下に備えられたレバーによって、望みの調に移調できるというものであった。バーリン所蔵ピアノのうちの1台はスミソニアン博物館に収められている。 20世紀現代音楽の楽器として、プリペアド・ピアノがある。プリペアド・ピアノは標準的なグランド・ピアノに演奏前にさまざまな物体を取り付けて音色を変えたり、機構を改造したものである。プリペアド・ピアノのための曲の楽譜には、奏者に対してゴム片や金属片(ねじ・ワッシャーなど)を弦の間に挿入する指示が書かれていたりする。 以下では基本的にモダンピアノの構造を解説する。モダンピアノの基本的な構造は、鍵盤、アクション(ハンマーとダンパー(4))、弦(上図-16)、響板(15)、ブリッジ(12)、フレーム(1・14)、ケース、蓋(2・5)、ペダル(11)などからなる。打鍵に連動してダンパーがあがると共にハンマーが弦を叩いて振動させ、この振動は弦振動の端の一つであるブリッジ(駒)から響板に伝わり拡大される。またペダルによって全てのダンパーがあげられていると、打弦されていない他の弦も共鳴し、ピアノ独特の響きを作り出す。鍵から手を離すとダンパーがおり、振動が止められる。 フレームおよびそれを支える木製の胴体、足、弦、アクション機構などによりピアノの重量はパイプオルガンを除くほかの楽器に比べて桁違いに重く、アップライト・ピアノで200 kg〜300 kg、グランド・ピアノでは300 kg以上、コンサート・グランドでは500 kgを超えることも珍しくない。このため、ごく少数のこだわりを持つ演奏家を除いてコンサートに自分のピアノを持参することはなく、会場にある楽器を使う。 標準的モダンピアノは黒鍵36、白鍵52の計88鍵を備える(A0からC8に及ぶ7オクターヴと短3度)。この音域のものは19世紀後半頃から作られ始め、第一次世界大戦後に標準となったものである。88鍵が標準的になったのは、この音域が楽音として人間が認識できる限度であるためだといわれている。鍵そのものは、ほとんどの場合木でできており、表面にかつては白鍵は象牙を、黒鍵は黒檀を貼っていることが多かったが、現在では合成樹脂製付き板を使ったものが多い。また、近年では、象牙や黒檀の質感を人工的に再現した新素材(人工象牙、人工黒檀)などが採用されたものもある。 古いピアノには85鍵(A0からA7の7オクターヴ)のものも多く、また88鍵を越える楽器も存在する。ベーゼンドルファーの一部のモデルは低音部をF0まで拡張しており(92鍵)、C0まで拡大して8オクターヴ(97鍵)の音域を持つ1モデル(モデル290 “インペリアル”)も存在する。このような拡張部分は、不要時には小さな蓋で覆えるようになっているものや、拡張部分は白鍵の上面を黒く塗って、奏者の混乱を防ぐ措置がとられているものがある。これよりも最近に、オーストラリアのメーカースチュアート・アンド・サンズ社でも97鍵 (F0~F8)・102鍵 (C0~F8) ・更には108鍵(C0~B8に及ぶ9オクターヴ)の楽器を作っており、この108鍵のピアノは2018年9月に初めて作られたもので、2022年現在世界一広い音域を持つピアノとなっている。また102鍵 (C0~F8) の楽器はフランスのステファン・ポレロ社でも作られている。これらのスチュアート・アンド・サンズ社やステファン・ポレロ社などのモデルでは、拡張音域の鍵盤の見た目は他と変わらない。拡張音域は、主により豊かな共鳴を得るために追加されたもので、これらの音を使うように作曲されている楽曲は僅かである。 逆に、流しのピアニストたちが使う、65鍵の小さなスタジオ・アップライトもある。「ギグ」ピアノと呼ばれるこのタイプのピアノは、相対的に重量が軽く、2人で持ち運び可能であるが、響板部分はスピネット・ピアノやコンソール・ピアノよりも大きく、力強い低音部の響きを有する。 鍵を押し下げるとハンマーが連動して弦を叩く仕組みをアクションという。アクション機構は伝統的に木材で作られてきたが、近年はごく一部のメーカーで炭素繊維を含ませたABS樹脂なども使われる。 鍵を押し下げた時に、ハンマーが弦の手前 2〜3ミリメートルの位置にくると、ハンマーが鍵の動きから解放される。この動きを「レット・オフ」といい、このような機構をエスケープメントと呼ぶ。打撃による発音では発音体との接触時間を短くすることが重要な要素であるが、これを鍵盤の動きにかかわらず一定の条件で行うための仕組みであり、このエスケープメント・アクションを発明したことが今日のピアノの地位を築く出発点であった。弦とハンマーの間の距離は2〜3 ミリの範囲内のいずれでも良いわけではなく、全鍵において可能な限り揃えられる必要があり、これをレット・オフ調整という。一部のメーカでは最高音部のレット・オフを 1ミリまで近づける方が充分な音色を得られることがある。この機構のため、鍵を押し下げるときに指に感じられる重さは、押し下げきる直前で軽くなる。鍵が軽くなってから鍵が深く沈むと、鍵が重く感じられる。 アクションで次に重要な課題となったのは、エスケープした部品(ジャック)を如何に素早くハンマーの下に戻して次の打弦に備えるかであり、様々な方式のアクションが発明、改良されることになった。歴史的には大きく分けてウィーン式アクションとイギリス式アクションが存在した。モダンピアノのアクションは基本的にイギリス式アクションの系列である。 モダンピアノでは、アップライト・ピアノはジャックのみがエスケープするシングル・エスケープメント・アクションを用いているが、グランド・ピアノはジャックとレペティションレバーがエスケープするダブル・エスケープメント・アクション(原型はエラールが開発)を用いている。 ダブル・エスケープメント・アクションにはレペティションレバーという部品があり、これによって素早い連打を可能としている。これは、打弦後、鍵を押し下げる力をわずかに緩めた瞬間に、レット・オフの時にジャックとともに外れて(エスケープして)いたレペティションレバーがハンマーを持ち上げて維持し、ジャックの戻りをたやすくする機構である。これにより鍵の深さの半分まで戻すことで次の打弦が可能になる。 一方、ハンマーが弦を横から叩くアップライト・ピアノでは、シングル・エスケープメント・アクションのために鍵が完全に戻らなければ次の打鍵はできない。ハンマーが戻るのを助けるバットスプリングと呼ばれるスプリングが付いているために、この力によってハンマーが戻りやすくなっているようにとらえられがちであるが、スプリングを外しても連打の性能には大きな変化はない。正しくアクション調整が行われたグランド・ピアノのアクションでは、毎秒14回程度の、アップライト・ピアノでは7回程度の連打が可能である。レペティションレバーの有無という構造の違いが、グランド・ピアノとアップライト・ピアノのタッチ、表現力の差に大きく影響を及ぼしている。グランド・ピアノのダブル・エスケープメント・アクションは、シュワンダー式アクションが主流だったが、1970年代以降スタインウェイ式アクションを採用するメーカが多くなった。 アクションにおいてハンマーとともに重要なのが、ダンパーと呼ばれる消音装置である。打鍵時以外はこれが弦に密着し、その振動を常に抑えている。鍵を叩くと、ハンマーがハンマーと弦の間(打弦距離)の1/3 ないし 1/2 進んだときにこのダンパーが弦から離れ始めるように調整される。これにより弦の自由な振動を可能とする。鍵を抑えている間中ダンパーは離れているが、鍵を離すと同時にダンパーが弦に戻り、弦の振動を止め、音が消える。ただし、ピアノの最高音部は、弦の鳴る時間が短いため、ダンパーを備えない。 弦に直接触れるハンマーヘッドは、一時樹脂製のものが用いられたこともあったが、今ではほぼ例外なく羊毛のフェルトでできている。ハンマーヘッドは長時間演奏されれば変形するが、音色に大きく影響するものなので、音程の調律ほど頻繁ではないが定期的に調整することが必要となる。具体的には、調律師など専門の技術者が「ファイラー」と呼ばれる表面にサンドペーパー(紙または布製#80〜#800程度を数種類)を貼ったものでハンマーフェルトの表面を削り整形したり(ファイリング)、「ピッカー」と呼ばれる柄に針を数本取り付けた工具でハンマーフェルトを繰り返し刺して音色を整える整音(「ボイシング」または「ピッカーリング」とも呼ばれる)を行う。 技術が進歩した近年では、電気ピアノのように同じような発音原理を持ちながら電気的に増幅するものや、電子的に発音するピアノに類する楽器も登場している。 ピアノは鍵盤と同じ数(前述の通り現在の標準的ピアノでは88)の音高を持つが、1音あたりの弦の数は音高により異なり、最低音域では1本、低音域では2本、中音域以上では3本張られ(その境界は機種によりまちまち)、弦の総数は200本を超える。各音の弦は複数弦でも単一のハンマーで同時に叩かれるが、グランド・ピアノの弱音ペダルを踏むとハンマーを含めた鍵盤の機構すべてが物理的に横方向にずれ、中音域以上では叩かれる弦の数が3本から2本に減り、低音域では2本の場合はそのうち片方の弦のみが、1本の場合もその弦の端の方のみがハンマーで叩かれるので音量が低下する。 弦はミュージックワイヤーと呼ばれる特殊な鋼線(ピアノ線の中でも、特に高品質なもの)で、低音域では質量を増すために銅線を巻きつけてある。音域ごとの弦の仕様に関しては、具体的には次のようなものがある。 弦長は、一般に長いほうが豊かな音色になる(その分張力を増さねばならない)といわれ、限られた寸法の中で最長の弦長を確保するために、弦を2つのグループに分け、各グループ内の弦は同一平面上に張られるが、段差を持った2枚の平面が角度を持って交差するようになっていることが多い(オーバー・ストリンギング)。弦はフレームに植えられたチューニングピンで張られるが、1本あたりの張力は70~80kg重程度で、全弦の張力の合計は20トン重にも及ぶ。ピアノが現在の音量を出せるようになったのは、この張力に耐える鋼製のミュージックワイヤーと鉄製のフレーム(現在は一体の鋳物)が使われるようになってからである。 現在のピアノではオーバー・ストリンギングのために、音が濁るという欠点が存在する。ドイツのDavid Klavinsは、この問題を解決するために1987年にKlavins Piano Model 370を発表した。このピアノは弦を平行に配置するために高さは3.7m(名前の由来となっている)、総重量20トン以上にも上る巨大なもので、共鳴板はグランドピアノの二倍以上あり、階段の上にアップライト型の鍵盤が配置されている。Model 370は2012年現在も世界最大のピアノである。ちなみにこの楽器はオルガン同様据え付けとなっているためコンサートなどには使用できず、ほとんど映画などの音源収録のみに使われている。2012年には、Native InstrumentsからModel 370から収録したKONTAKT 5用のソフト音源"THE GIANT"が発売されている。 響板・響棒は弦の下に位置し、ブリッジを通じて伝えられた弦の振動を空気に効率良く伝える。響板は柾目に木取りされておりその方向はブリッジの長さ方向に一致させるのが一般的である。響棒は響板のブリッジに対して反対面に位置し、やはり柾目に木取りされている。響棒は響板木目方向に対して、つまりブリッジの長さ方向に対しても交差する方向に配置される。響板を支える骨組みの役目を果たすが、響板・響棒材を伝わる音は木目方向と木目横断方向ではおよそ4:1となるために、響板の柾目横断方向への振動の伝播を助け、響板全体に振動が均質に伝わるように工夫されてもいる。 グランドピアノでは弦を覆う上蓋(大屋根)がついており、これを持ち上げることによってより豊かな音量を出すことが出来る。これは支え棒によって斜め約45度に固定される。これにより音が指向性を帯びる。演奏者から見て右側が開くため、演奏会場では客席に向かって音を発するように、客席から向かって左側に鍵盤が置かれる。大屋根を半開にすることもでき、伴奏ではこの状態が好まれる。 アップライトピアノも上部の蓋を開けることができ、これによって若干の音量調節は可能になるものの、グランドピアノほど効果的ではない。むしろほこりが入るので開ける事はあまり好まれない。 21世紀現在の一般モダンピアノは、3本のペダルを備える。20世紀以前は2本のペダルのメーカーも存在した。 第1のペダルは、一番右の長音ペダルであり、ダンパーペダルと呼ばれる。このペダルを踏むと、すべてのダンパーが離れ、打鍵した音が延びる。また演奏した弦だけでなくそれらの部分音成分に近い振動数を持つ弦が共鳴することで、ペダルを踏まずに鍵を押下したまま音を延ばした場合よりも音が豊かに聴こえる。ペダルを放すとダンパーが戻り、延びていた音は止まる。 またペダルの踏み込み具合を半分などに調節することで、音の延び具合を調節することも出来、これをハーフペダルと呼ぶ。さらに熟練した奏者は、このハーフペダルと完全に踏み込んだ状態とを往復する操作によって、延び具合を周期的に変化させ、ヴィブラートに似た演奏効果を得ることも可能である。武満徹の「雨の樹素描」では楽譜上にこれらの踏み込み具合の指定がある。このペダルを踏み込んでいるときの弦は周囲の音にも共鳴し得るので、合唱曲の伴奏などでは歌唱にピアノが共鳴している現象も聞き取れることがある。ピアノで一切発音せず、ペダルの踏み込み具合や鍵を無音で押し込むことによって他の楽器に共鳴させる奏法もある。例えばルチアーノ・ベリオの「セクエンツァX」(トランペットと共鳴ピアノのための)ではトランペット奏者がピアノの内部に向かってトランペットを吹き、その共鳴を聞き取る場面がある。 第2のペダルは、一番左の弱音ペダルであり、ソフトペダル、もしくはシフトペダルと呼ばれる。グランド・ピアノでは、このペダルを踏むと鍵盤全体がフレームに対して少し右にずれ、中高音域ではハンマーが叩く弦の本数、低音域では弦に当たるハンマーの部位が中央から端に変わり、音量が減少する(ウナ・コルダ)。アップライト・ピアノでは、ハンマーの待機位置が弦に近づく(打弦距離が短くなる)ことで打弦速度が下がり、音量が小さくなる。ハンマーは弦の手前2〜3mmで鍵盤からの動きを遮断(レット・オフ)され自由運動で打弦するが、きわめて弱い音を速いテンポで繰り返す場合には、ハンマーが弦を打たないミス・タッチとなる。そこでソフトペダルを使用して打弦距離を幾らか短くすることで、弱く弾いた場合でもミス・タッチを起こしにくくする効果がある。つまりアップライト・ピアノのソフトペダルは、他のペダルのようにペダルを踏むことによって何かしらの効果を得るものではなく、演奏の補助的な役割を果たすペダルといえる。 第3のペダルは、中央のペダルである。かつてはエラールなど多くのメーカーによって省略されていた。グランド・ピアノでは、ソステヌートペダルと呼ばれ、このペダルを踏んだ時点で押していた鍵のダンパーが、鍵から手を放してもペダルを踏んでいる間は弦に降りないようになっている。主に低音の弦を延ばしたまま高音部を両手でスタッカートで弾いたり、あるいは高音部のみダンパーペダルを複数回踏み変える奏法に際して用いられる。前者はシェーンベルクの「3つのピアノ曲」(作曲者自身はこの指定をしていないが、ピアニストによってこの奏法を採るものが多い)、サミュエル・バーバーの『ピアノソナタ』終楽章のフーガなど、後者はドビュッシーのピアノ曲集「映像」第2曲「ラモーを讃えて」や、武満徹の「閉じた眼」「雨の樹素描」などの作品で効果的に使われる。また低音の鍵を無音で押さえたままソステヌートペダルを踏んで「鍵を押しっぱなし」と同じ状態にし、高音部の鍵をダンパーペダルなしで(多くの場合スタッカートで)弾く事により、低音で押された音の部分音の振動数に対応する音が部分音の共鳴によって若干の残響を伴って聞こえる。多くの現代音楽で使われている奏法である。 アップライトピアノの中央のペダルは、マフラーペダルとも呼ばれ、夜間練習などのために、弦とハンマーの間にフェルトを挟んで、音を弱くする。踏み込んだペダルを左右いずれかにずらすことでロックされ、踏みっぱなしにしておくことができる。 もともとのこのペダル効果はハンマークラヴィーアなどでハンマーと弦の間に薄い皮や羊皮紙などを挟み、音色の変化を愉しんだことによる。 歴史的楽器では4つないし5つのペダルを持つものもあり、このうちのいくつかはシンバルや太鼓といった打楽器に連動されていた。シューベルトの一部の作品では、これらの打楽器に連動するペダル構造を用いた曲もある。現代でもファツィオリ社のグランドピアノでは第4のペダルを備えるものがある。このペダルを踏むことにより、鍵盤の前面が下がり、鍵盤の沈む深さが浅くなる。現代のピアノが沈む深さは平均して約1cmであるが、モーツァルトが活躍した時代の鍵盤が沈む深さは約6mmであり、操作は現代よりも遥かに軽やかであった。この時代のような鍵盤の軽やかさを現代のピアノに持たせるために第4のペダルが備えられたものである。現在第5ペダルと呼べる「ハーモニックペダル」は、どのメーカーのグランドピアノにも接続することができる。すでに新製品に組み込んだメーカーも出現している。近年はアップライトピアノであっても、グランドピアノと同等のペダル能力を持つピアノが出現している。 またオルガンと同様に足鍵盤を備えた楽器、ペダルピアノも存在する。シューマン、シャルル=ヴァランタン・アルカンらにペダルピアノのための作品がいくつかある。ロベルト・プロッセダが現代テクノロジーを用いて復刻された楽器を用いているほか、メーカーが市販した例がある。 各弦の張力を調整する調律は、今日のほとんどのピアノが十二平均律で調律される。他の弦楽器に比べて張力が大きく、またピンの保持力も高いため音程の精度はかなり高く誤差は1セント(十二平均律の半音の100分の1)単位まで求められる。例外的に平均律以外に調律されることもあり例えば、テリー・ライリーには、通常のピアノの調律である平均律ではなく、純正律に調律されたピアノを用いる作品がある(「in C」など)。また、ジェラール・グリゼーの後期作品「時の渦」は、ピアノの特定の数音を四分音下げて調律することが要求される。調律の狂ったような音に聴こえるが、これは合成された倍音に基づく調律である。特に激しい跳躍のある第1部のカデンツァにおいて効果的に響く。いずれの場合もコンサートに用いる際はピアノ調律師の特殊な技能が要求され、また日本のコンサートホールではこのような特殊調律を断られる場合があるので、それでもあえて演奏する場合にはピアノのレンタルが必要になる。 19世紀にはヴィルトゥオーゾのピアニストらにより、リストの半音階、3本の手などの技巧が開発された。 クラスター奏法とは、ヘンリー・カウエルらによって提唱されたもので、鍵盤を手・腕・ひじを使って打楽器のように演奏する。トーン・クラスターも参照のこと。 内部奏法とは、ピアノを鍵盤によってではなく、内部の弦をギターのプレクトラム(ピック)などで直接はじいたり、弦の縁や真ん中を指で押さえながら対応する鍵盤を弾いたり、松脂を塗ったガラス繊維あるいは弦楽器の弓の毛を、ピアノ内部の特定の弦に通して擦弦したりすることにより、本来のピアノにはない音色を得るための奏法。ピアノの作音楽器に劣後する特性を何とか克服しようとするものである。 現代音楽では当たり前のように多用されるが、日本の多くのコンサートホールは新しい楽器1台しか用意してないことが多く、楽器が傷むという理由からこの内部奏法を非常に嫌悪し禁止している。それに対して外国とくにヨーロッパでは古い楽器や破壊用の楽器も万遍無く用意してあることが多いのでこのような規制はほとんど見受けられない。とはいえ、楽器に傷をつけやすい金属製器具での演奏は控えたり、指の汗が弦につくことを考慮し演奏後にはサビ防止のためにきちんと布でふき取るなどの配慮は必要である。 ピアノは1人だけでなく、2人以上が一台の楽器を同時に演奏することも可能である。これを連弾という。 19世紀のヨーロッパでは、サロンの愛好家やアマチュアの子女のたしなみとして連弾のための音楽がもてはやされた。ヨハネス・ブラームスはこのような状況を受けて『ハンガリー舞曲』を書いた。さらに後輩であるアントニン・ドヴォルザークに『スラブ舞曲』を書くことを勧めた。どちらも連弾のレパートリーとして欠かせない楽曲であり、またオーケストラ編曲としても親しまれている。 カミーユ・サン=サーンスの「交響曲第3番『オルガン付き』」では、第4楽章においてオーケストラ内のピアノが連弾で用いられる(しかし主役はオルガンであり、そちらの方がずっと目立つ)。また一般的な2人で演奏して高音部と低音部を弾き分ける4手連弾のほかに、3人で演奏する6手連弾もラフマニノフなどの楽曲に作例が見られる。 ピアノを2台並べて演奏する方法。連弾よりも音量において勝り、また奏者が2人とも音域に制限されずに演奏できる利点がある。その反面、音が混ざり易く、雑多に聞こえ易いという短所もある。2台のピアノは1台ずつそれぞれに調律するのだが、インハーモニシティはそれぞれのピアノに固有のものなので、調律は他のピアノとは完全には一致しない。そのため、微妙なずれによって賑やかな音になる。 多くの場合は2台のピアノを向かい合わせに置くため、双方のピアノは反響板が互いに反対方向に開いてしまう。このため大抵の場合は、聴衆とは逆に開くピアノ側の反響板を取り外して演奏する。 2台ピアノのために書かれたオリジナル曲のほか、オーケストラ曲やピアノ協奏曲を試演する際にも用いられる。この試演とは、主に19世紀において限られた音楽関係者の聴衆を前にオーケストラ曲の新作を披露する際、または現在においても音楽学校などでピアノ科の生徒が協奏曲を試験などに際して弾く際に用いられる演奏手段である。2台目のピアノを連弾にし、合計3人の奏者が演奏する場合もある。 ダリウス・ミヨーとスティーヴ・ライヒの作品には、それぞれ6台のピアノを同時演奏するものがある。 また1993年から毎年開催されているヴェルビエ音楽祭で、2003年の10周年記念として行われたガラコンサートでは、著名なピアニスト8名(エフゲニー・キーシン、ラン・ランなど)が、スタインウェイのピアノ8台を「八」の字に並べ同時演奏した。 弦を叩くことで発音する鍵盤楽器を作ろうという試みは早くより存在しており、中でも鍵盤付きのダルシマー系の楽器をピアノの先祖とみる向きもあるが、一般的には、現在のピアノはトスカーナ大公子フェルディナンド・デ・メディチの楽器管理人であったイタリア・パドヴァ出身のバルトロメオ・クリストフォリが発明したとみなされている。クリストフォリがいつ最初にピアノを製作したのかは明らかでないが、メディチ家の目録から、1700年にはピアノがすでに存在していたことが知られる。現存する3台のクリストフォリ製作のピアノは、いずれも1720年代に製作されたものである。 多くの発明がそうであるように、ピアノもそれまでにあった技術の上に成立している。ピアノに先行する弦を張った鍵盤楽器としてはクラヴィコードとチェンバロが特に普及していた。クラヴィコードは弦をタンジェントと呼ばれる金属片で突き上げるもので、鍵盤で音の強弱のニュアンスを細かくコントロールできる当時唯一の鍵盤楽器であったが、音量が得られず、狭い室内での演奏を除き、ある程度以上の広さの空間で演奏するには耐えなかった。一方のチェンバロは弦を羽軸製のプレクトラムで弾くものであり、十分な音量が得られたものの、ストップ(レジスター)の切り替えで何段階かの強弱を出せる他は自由に強弱をつけて演奏することは困難であった。これらの鍵盤楽器は数世紀にわたる歴史を通じて、ケース、響板、ブリッジ、鍵盤のもっとも効果的な設計が追求されていた。クリストフォリ自身、すぐれたチェンバロ製作家であったため、この技術体系に熟練していた。 クリストフォリの重要な功績は、ハンマーが弦を叩くが、その後弦と接触し続けない、というピアノの基本機構を独自に開発した点にある。クラヴィコードでは鍵を押している限りタンジェントが弦に触り続けるが、ハンマーが弦に触れ続ければ響きを止めてしまう。更に、ハンマーは激しく弾むことなく元の位置に戻らなければならず、同音の連打にも堪えなければならない。クリストフォリのピアノアクションは、後代のさまざまな方式のアクションの原型となった。クリストフォリのピアノは細い弦を用いており、モダンピアノより音量はずっと小さいが、クラヴィコードと比較するとその音量は相当に大きく、響きの持続性も高かった。 クリストフォリの新しい楽器は、1711年にイタリアの文筆家フランチェスコ・シピオーネ(イタリア語版、英語版)(シピオーネ・マッフェイ)がピアノを称賛する記事をヴェネツィアの新聞に掲載するまでは、あまり広く知られていなかった。この記事には構造の図解も掲載されており、広く流通して、次世代のピアノ製作家たちにピアノ製作のきっかけを与えることとなった。オルガン製作家としてよく知られるゴットフリート・ジルバーマンもその一人である。ジルバーマンのピアノは、1点の追加を除いては、ほぼクリストフォリ・ピアノの直接のコピーであった。ジルバーマンが開発したのは、全ての弦のダンパーを一度に取り外す、現代のダンパー・ペダルの原型であった。 ジルバーマンは彼の初期製作楽器の1台を1730年代にヨハン・ゼバスティアン・バッハに見せているが、バッハはダイナミックレンジを充分に得るためには高音部が弱すぎると指摘した。その後、ジルバーマンの楽器は改良を加え、1747年5月7日にフリードリヒ大王の宮廷を訪ねた際にジルバーマンの新しい楽器に触れた際にはバッハもこれを評価し、ジルバーマン・ピアノの売り込みにも協力したという。 イギリスでは1760年代にはいってピアノの製造が盛んになった。ジルバーマンの徒弟だったヨハネス・ツンペ(英語版)がロンドンに移り、1760年ごろにクリストフォリの楽器をもとに改良を加えた楽器を製造してイギリス・アクションの基礎を築いた。ツンペの楽器は当時ドイツで好まれていたスクウェア・ピアノだった。1762年に渡英したヨハン・クリスティアン・バッハは1766年の『ピアノフォルテまたはハープシコードのための6つのソナタ』作品5において、ハープシコードと併記する形ではあるがはじめて曲名に「ピアノフォルテ」を使用している。 フランスのセバスチャン・エラールが1777年に制作したピアノもツンペの楽器をもとにしたイギリス・アクションの楽器だった。エラールはフランス革命のはじめにロンドンにわたり、帰国した後もパリとロンドンの両方で楽器を製造した。エラールはイギリスの楽器をもとにしながら多くの改良を加えていった。 同時期のドイツではアウクスブルクのヨハン・アンドレアス・シュタイン、その娘でウィーンのナネッテ・シュトライヒャーとヨハン・アンドレアス・シュトライヒャー、同じくウィーンのアントン・ワルターなどが活躍した。ウィーン式のピアノは、木のフレームに1音2弦の弦を張り、革で覆ったハンマーをもつ。また現代のピアノとは黒鍵と白鍵の色が逆のものもある。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはシュタインやワルターの楽器を使用してそのピアノ協奏曲やピアノソナタを作曲した。これらのウィーンのピアノは、イギリス式のピアノや、現代の一般的なピアノよりも軽快な響きを持ち、減衰が早かった。20世紀後半より当時の楽器の復元がなされ、19世紀初頭以前の初期ピアノはフォルテピアノとしてモダンピアノと区別することも多い。 1790年から1860年頃にかけての時期に、ピアノはモーツァルトの時代の楽器から、いわゆるモダンピアノに至る劇的な変化を遂げる。この革新は、作曲家や演奏家からのより力強く、持続性の高い響きの尽きぬ要求への反応であり、また、高品質の弦を用いることができ、正確な鋳造技術により鉄製フレームを作ることができるようになるといった、同時代の産業革命によって可能となったことであった。時代を追って、ピアノの音域も拡大し、モーツァルトの時代には5オクターヴであったものが、モダンピアノでは71⁄3オクターヴか時にはそれ以上の音域を持っている。 初期の技術革新の多くは、イギリスのブロードウッド社の工房でなされた。ブロードウッド社は、華やかで力強い響きのチェンバロですでに有名であったが、開発を重ねて次第に大型で、音量が大きく、より頑丈な楽器を製作し、初めて5オクターヴを越える音域のピアノを製作した。1790年代には5オクターヴと5度、1810年には6オクターヴの楽器を作っている。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンとルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにも楽器を送っており、ベートーヴェンはその後期の作品で、拡大した音域を利用して作曲している。ウィーンスクールの製作家たちもこの音域拡大の流れを追ったが、イギリスとウィーンではアクションの構造が違っていた。ブロードウッドのものはより頑丈で、ウィーンのものはより打鍵への反応がよかった。 1820年代になると、開発の中心はパリに移り、当地のエラール社の楽器はフレデリック・ショパンやフランツ・リストの愛用するところとなった。1821年、セバスチャン・エラールは、ダブル・エスケープメント・アクションを開発し、鍵が上がり切っていないところから連打できるようになる。この発明によって、素早いパッセージの演奏が容易となった。ダブル・エスケープメント・アクションの機構が公に明らかになると、アンリ・エルツの改良を経て、グランドピアノの標準的なアクションとなり、今日生産されているグランドピアノは基本的にこのアクションを採用している。 日本にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによって初めてピアノがもたらされたのもこの時期である。山口県萩市の熊谷美術館には1823年にシーボルトより贈られた日本最古のピアノ(スクエア・ピアノ)が現存する。 モダンピアノの響きを作り出した大きな技術革新の一つに、頑丈な鉄製フレームの導入があげられる。鉄製フレームは「プレート」とも呼ばれ、響板の上に設置し、弦の張力を支える。フレームが次第に一体化した構造を獲得するのにあわせて、より太く、張力が高い弦を張ることが可能になり、また張る弦の本数を増やすことも可能となった。現代のモダンピアノでは弦の張力の総計は20トンにも上りうる。単一部品の鋳物フレームは、1825年にボストンにてオルフェウス・バブコックによって特許が取得されている。これは、金属製ヒッチピン・プレート(1821年、ブロードウッド社がサミュエル・ハーヴェに代わって特許請求)と、耐張用支柱(1820年、ソムとアレンによって請求、ただしブロードウッドとエラールも請求)を組み合わせたものであった。バブコックは後にチッカリング・アンド・マッカイ社で働き、チッカリング社は1843年にグランドピアノ用のフル・アイロン・フレームを初めて特許取得した。ヨーロッパの工房はその後も組合わせフレームを好むことが多く、アメリカ式の単一フレームが標準となるのは20世紀初頭である。 その他の代表的発明として、革の代わりにフェルトをハンマー・ヘッドに用いることがあげられる。フェルト・ハンマーは、1826年にジャン=アンリ・パップによって初めて導入された。素材がより均質である上に、ハンマーが重くなり、弦の張力が増すとともに、より大きなダイナミックレンジを得ることを可能とした。音色の幅を広げるソステヌート・ペダルは、1844年にジャン・ルイ・ボワスローによって発明され、1874年にスタインウェイ社によって改良された。 この時代の重要な技術的発明としてはほかに、弦の張り方もあげられる。低音部を除いて、1音2弦ではなく3弦が張られ、「オーバー・ストリンギング」や「クロス・ストリンギング」と呼ばれる、2つの高さのブリッジを用い、張る向きの変えて弦の並びを重ねる張り方が導入された。このことにより、ケースを長くすることなく、より大きな弦を張ることが可能になった。オーバー・ストリンギングは1820年代にジャン=アンリ・パップによって発明され、アメリカ合衆国におけるグランドピアノでの使用の特許は1859年にヘンリー・スタインウェイによって取得された。 テオドール・スタインウェイが1872年に特許を取得した、デュープレックス ・スケール(もしくはアリコット・スケール)は、張られた弦の共鳴長に続く部分を、共鳴長とオクターヴの関係に調律することで、弦の各部分の振動を制御する技術である。類似のシステム(アリコート張弦)は、同じく1872年にブリュートナー社で開発されたほか、コラード社は、よりはっきりとした振動を使って響きを調える技術を1821年に開発している。 初期のピアノの中には、一般に見慣れない外形や設計を用いているものもある。スクエア・ピアノは地面と水平に弦を張ったケースが長方形の楽器で、ハンマーの上に対角線状に弦を張り、ケースの長辺側に鍵盤が設置されている。スクエア・ピアノの設計の原型はさまざまにジルバーマンおよびクリスチャン・エルンスト・フレデリチに帰されており、ギュイヨーム=レブレヒト・ペツォルトとオルフェウス・バブコックによって改良された。18世紀後半にはツンペによりイギリスで人気を博し、1890年代には、アメリカ合衆国にてスタインウェイの鋳物フレーム、オーバー・ストリンギング・スクエア・ピアノが大量生産され、人気を博した。スタインウェイのスクエアは、木製フレームのツンペの楽器に較べて2.5倍以上大きかった。スクエア・ピアノは、製作コストが低く、安価なために大人気であったが、簡単な構造のアクションと、弦の間隔が狭いために、演奏のしやすさや響きの点からは難があった。 アップライト・ピアノは弦を垂直方向に張った楽器で、響板とブリッジを鍵盤に対して垂直に設置する。開発初期のアップライト・ピアノでは、響板や弦は鍵盤よりも上に設置し、弦が床に届かないようにしている。この原理を応用し、鍵盤の上方に斜めに弦を張るジラフ・ピアノ(キリン・ピアノ)やピラミッド・ピアノ、リラ・ピアノは、造形的に目を引くケースを用いていた。 非常に背の高いキャビネット・ピアノは、サウスウェルによって1806年に開発され、1840年代まで生産されていた。鍵盤の後にブリッジと連続的なフレームが設置され、弦はその上に垂直に張られ、床近くまで延び、巨大な「スティッカー・アクション」を用いていた。同じく垂直に弦を張る、背の低いコテージ・アップライト(ピアニーノとも)は、ロバート・ワーナムが1815年頃に開発したとされ、20世紀に入っても生産されていた。このタイプの楽器は、すぐれたダンパー機構を持ち、俗に「鳥カゴピアノ」と呼ばれていた。斜めに弦を張るアップライト・ピアノは、ローラー・エ・ブランシェ社によって1820年代後半にフランスで人気を得た。小型のスピネット・アップライトは1930年代半ばより製作されている。このタイプの楽器では、ハンマーの位置が低いために、「ドロップ・アクション」を用いて必要な鍵盤の高さを確保している。 日本では、1900年に日本楽器製造株式会社(後のヤマハ)が製作した「カメンモデル」の第一号が初の国産ピアノとされる。ヤマハは1909年のアラスカ・ユーコン太平洋博覧会(英語版)に蒔絵技法を使った漆塗のアップライトピアノを出品し、名誉大賞金牌を受賞した。20世紀半ばまで日本のピアノには塗装に漆が用いられた。当時世界的には木目のピアノが主流だった(ジャパニングも行われていた)が、木目のピアノはデザインの都合上木目を合わせる必要があり、木材の選定に限界があった。ピアノを漆黒の一色で塗装することは、木材の選定に限界がなくなり最良の木材を利用することが出来るばかりか、製造における労力が減るため、大音量の楽器を大量生産することが可能になる。昭和40年代以降には、耐久性に優れる不飽和ポリエステル樹脂とアニリンブラックを用いた鏡面仕上げ塗装が行われるようになった。 1965年には、日本の住宅事情に合わせて、アップライトピアノにおける音量を大幅に低下させるマフラーペダルがヤマハにより開発された。 その後は細かい部分の改良を除いては大幅な変更もなくなり、 モダンピアノの標準型が形成されることとなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ピアノ(英: piano)は、弦をハンマーで叩くことで発音する鍵盤楽器の一種である。鍵を押すと、鍵に連動したハンマーが対応する弦を叩き、音が出る。内部機構の面からは打楽器と弦楽器の特徴も併せ持った打弦楽器に分類される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一般に据え付けて用いる大型の楽器で、現代の標準的なピアノは88鍵を備え、音域が非常に広く、オーケストラの全音域よりも広い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "汎用性の高い楽器であることから、演奏目的として使われる以外に、音楽教育、作品研究、作曲などにも広く用いられている。そのためピアニストに限らず、作曲家、指揮者、他楽器奏者、声楽家、音楽教育者、教員などにも演奏技術の習得を求められることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「ピアノ」の名は、17-18世紀の楽器製作家バルトロメオ・クリストフォリが製作したピアノの原型であるクラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(伊: Clavicembalo col piano e forte、強弱をもつチェンバロ)に由来し、これが短縮されたものとされる。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "歴史的には「ピアノフォルテ」(pianoforte)や「フォルテピアノ」(fortepiano)と呼ばれ、現代でも略称としては “pf” という表記が用いられている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現代では、イタリア語・英語・フランス語では “piano” と呼ばれる(伊・英では “pianoforte” も使用)。ドイツ語では「ハンマークラヴィーア」(“Hammerklavier”)がピアノを意味し、より一般的には “Klavier”(鍵盤の意味)と呼ばれるほか、“Flügel”(もともと鳥の翼の意で、グランド・ピアノを指す)も用いられる。ロシア語の正式名称は “фортепиано” (fortepiano) であるが、一般にはグランドピアノを意味する “рояль”(フランス語の “royal”から)や、アップライトピアノを意味する “пианино” (pianino) が用いられることが多い。その他ハンガリー語では “Zongora” と呼ぶ。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "20世紀後半以降、あえて「フォルテピアノ」「ハンマークラヴィーア」「ハンマーフリューゲル」などと呼ぶ場合は古楽器、すなわち現代ピアノの標準的な構造が確立される以前の構造を持つ楽器を指す場合が主で、古い時代に作曲された作品を、当時のスタイルで演奏する際に用いられている。これに対して19世紀半ば以降のピアノを区別する必要がある場合には「モダンピアノ」などと呼ぶ。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本では、19世紀ごろに洋琴と呼ばれたり、戦前の文献では「ピヤノ」と書かれたものが見受けられる。一例として尋常小学校の国語の教科書に「月光の曲」と題されたベートーヴェンの逸話が読み物として掲載されていたことがあるが、このときの文章は「ピヤノ」表記であった。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "モダンピアノは主に2つのタイプに分かれる。すなわち、グランドピアノとアップライトピアノである。モダンピアノはフォルテピアノと同様にアコースティック楽器だが、それ以外にエレクトリックピアノ(電気ピアノ)やエレクトロニックピアノ(アナログ電子ピアノ)、デジタルピアノなども存在する。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "グランドピアノは地面と水平にフレームと弦を配し、弦は奏者の正面方向に張られる。そのため、グランド・ピアノは極めて大型の楽器となり、充分に共鳴の得られる、天井の高い広い部屋に設置することが理想的である。グランド・ピアノは大きさによっていくつかに分類される。製造者やモデルによって違いはあるが、大まかに言って、「コンサート・グランド」(全長がおおよそ2.2 mから3 m)、「パーラー・グランド」(おおよそ1.7 mから2.2 m)、これらよりも小さい「ベビー・グランド」(ものによっては幅よりも全長が短い)に分けられる。ベビー・グランドはゾーマー社が1884年に特許を取得している。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "他の条件がすべて同じであれば、長い弦を張った長いピアノの方が響きがよく、弦のインハーモニシティ(非調和性)が小さい。インハーモニシティとは、倍音の周波数の、基本周波数の整数倍からの遠さである。短いピアノは、弦が短く、太く、固いため、弦の両端が振動しにくい。この影響は高い倍音に顕著であるため、第2倍音は理論値よりも若干高くなり、第3倍音はもっと高くなる。このようにして、短いピアノではインハーモニシティが大きい。短いピアノではダンパーペダルを踏んだときに共鳴する弦が少ないので、音色が貧弱である。一方、コンサート・グランドでは弦長があるため短いピアノよりも自由に振動でき、倍音が理想に近くなる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一般的にはフルサイズのコンサート・グランドは大型なだけでなく高価でもあるため、専用ホールなどでの演奏会で用いられ、より小型のグランドピアノは学校の体育館・講堂や教室(音楽室)、ホテルなどのロビー、小規模なホール、設置場所を取れる一部の家庭(ピアノ教室を開いているようなところ)などで用いられる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アップライトピアノは、フレームや弦、響板を鉛直方向に配し、上下に延びるように作られている。グランドピアノよりも場所を取らないため、グランドピアノを設置するスペースの取れない家庭や、学校の教室、小規模の演奏会場などに広く設置されている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "グランドピアノでは、ハンマーが反動と重力によって自然な動きで下に落ちるのに対し、アップライトで一般的な前後に動くハンマーでは、反応のよいピアノ・アクションを製造することは難しい。これはハンマーの戻りをばねに依存せざるをえず、経年劣化するためである。またレペティションレバーという、ジャックをハンマーの下に引き戻す機構が、ほとんどのアップライトピアノには備わっていないため、連打性能に関しては決定的に劣る。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "20世紀の中頃より、音響部分を電気回路に置き換えたエレクトリックピアノ(電気ピアノ)が登場した。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "音色が独特であるため、アコースティックピアノの代用品として使用されるケースは稀であり、しばしば同じ楽曲作品内でアコースティックピアノとエレクトリックピアノの両方を使用し共存する楽曲も多い。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "発音原理はアコースティックピアノと同じく、ハンマーで音源部を叩くことで音を得ているが、音響増幅をボディ部分の反響から得ているアコースティックピアノと異なり、音源部で鳴らした音を磁気やピエゾピックアップなどで拾い、アンプで電気的に増幅してスピーカーから出力している。アコースティックピアノとエレクトリックピアノは物理的な発音構造が基本的には同じであるので、他の楽器で例えるならアコースティック・ギターとエレクトリック・ギターの関係に近い。合成音ではなく実際に物理的な音源部を振動で鳴らしているため、電源を入れずとも演奏すれば小音量ながら生音は聞こえる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "音源部の素材や反響・共鳴方法はメーカーや機種によってまちまちであり、最もよく知られるエレクトリックピアノの一つであるローズ・ピアノは、各鍵盤ごとの音程を発音する金属片を弦の代わりに叩くことで原音を鳴らし、またその振動を別の金属板で共鳴させている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ヤマハの製品のように、アコースティックピアノと同じく弦を使用するものもある。当然ながら音源部が同じため、弦以外の音源を使用する機種よりもアコースティックピアノに音は近く、この構造を持つCP-70やCP-80などはエレクトリック・グランドピアノとも呼ばれる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、アコースティックピアノにピックアップを搭載したエレクトリックアコースティックピアノとも呼べるハイブリッドモデルも存在するが、後述の電子ピアノにおけるハイブリッド機とは構造が異なり消音機能がある訳ではない。構造としては同じ音を電気的に出力するかしないかだけであるため、仮に消音処理を行なえばエレクトリックピアノとしての音も発音されなくなる。電源を通した場合も当然アコースティックピアノとしての生鳴りは残り、住宅事情や夜間演奏の対策になるものではない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "エレクトリックピアノは発声原理がアコースティックピアノと基本的には同じか、もしくは似通っているため、電子回路で音を生成・合成するエレクトロニックピアノ(アナログ電子ピアノ)や、デジタルピアノといった電子ピアノ類とは明確に区別される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "物理的な音源を用いずに、電子回路によって音を生成及び合成しているものは電子ピアノと呼ばれる。上位モデルではペダルや、実際のピアノの感触を再現した鍵盤、多様な音色、およびMIDI端子を備えている。とりわけ、コンサートなどで用いられることを想定した脚部分のない本体部分だけのものはステージピアノとも呼ばれる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "電子ピアノの音色生成や合成方法はアナログ・デジタルなど様々であるが、古くは1970年代にアナログシンセサイザーの技術を転用してピアノの音色再現を試みたエレクトロニックピアノが、1980年代にはデジタルシンセサイザーの技術を用いたFM音源による合成やサンプリング技術を利用して打鍵にあわせて音を再生するデジタルピアノが登場した。FM音源式はローズピアノなどの音色の再現がしやすく、サンプリング式は本物のエレクトリックピアノの音色をそのまま録音して収録できるため、メンテナンスや搬入に難の多い本物のエレクトリックピアノが駆逐される原因ともなった。特に90年代以降アコースティックピアノやエレクトリックピアノの代用として用いられているものはサンプリングタイプが多く、一般に単にデジタルピアノや電子ピアノと呼ぶ場合はこのタイプを指す。近年では通常のピアノを切り替えによって電子ピアノとしても使用できるサイレントピアノも登場している。サイレントピアノ類は、前述のアコースティックピアノとエレクトリックピアノのハイブリッド機とはまったく異なり、電子ピアノとして使用する場合は生音が消音され、デジタル音源によるサンプリング音が出力される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "電子ピアノは内部構造や発音原理がシンセサイザー類と同じであるため、ピアノの音色や打鍵感覚に重きを置いたシンセサイザーと見ることもできる。エレクトロニックピアノはアナログシンセサイザー、デジタルピアノはデジタルシンセサイザーとそれぞれ相同である。実際のところ、「電子ピアノ」と銘打っていてもデジタルピアノには一般的なシンセサイザーのようにピアノ以外の多彩な音色を備えている機種が多く、そういった機種ではピアノ的な打鍵の重さや細かいコントローラ類が省かれているのを気にしないのであれば、シンセサイザーとしても使用可能である。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "多くのデジタルピアノでアップライトやグランドなどのアコースティックピアノ音色の他に、エレクトリックピアノの音色や、古い時代のシンセサイザーに搭載されていたピアノ音色うち、人気の高いものなども搭載されている。しかし、現在の技術水準ではアコースティックピアノの要である打弦されていない弦の共鳴による響きを完全に再現することは困難であり、物理モデル音源技術などを用いた開発が続けられている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "上に分類されないピアノの形態としては、かつて長方形をしたスクエア・ピアノがあったが、19世紀中頃から次第に姿を消し、現在は製造されていない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "トイピアノは19世紀に製造が始まった、元来は玩具用のピアノである。1863年、アンリ・フルノーがピアノ・ロールを用いて自動演奏する自動ピアノを開発した。自動ピアノでは紙製のパンチ・ロールを使って演奏を記録し、気圧装置を使ってこれを再生する。現代の自動ピアノとしてはヤマハのディスクラヴィーアがあり、これはソレノイドとMIDIを使用したものである。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アーヴィング・バーリンは、1801年にエドワード・ライリーが開発した移調ピアノという特殊なピアノを使用した。これは鍵盤の下に備えられたレバーによって、望みの調に移調できるというものであった。バーリン所蔵ピアノのうちの1台はスミソニアン博物館に収められている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "20世紀現代音楽の楽器として、プリペアド・ピアノがある。プリペアド・ピアノは標準的なグランド・ピアノに演奏前にさまざまな物体を取り付けて音色を変えたり、機構を改造したものである。プリペアド・ピアノのための曲の楽譜には、奏者に対してゴム片や金属片(ねじ・ワッシャーなど)を弦の間に挿入する指示が書かれていたりする。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "以下では基本的にモダンピアノの構造を解説する。モダンピアノの基本的な構造は、鍵盤、アクション(ハンマーとダンパー(4))、弦(上図-16)、響板(15)、ブリッジ(12)、フレーム(1・14)、ケース、蓋(2・5)、ペダル(11)などからなる。打鍵に連動してダンパーがあがると共にハンマーが弦を叩いて振動させ、この振動は弦振動の端の一つであるブリッジ(駒)から響板に伝わり拡大される。またペダルによって全てのダンパーがあげられていると、打弦されていない他の弦も共鳴し、ピアノ独特の響きを作り出す。鍵から手を離すとダンパーがおり、振動が止められる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "フレームおよびそれを支える木製の胴体、足、弦、アクション機構などによりピアノの重量はパイプオルガンを除くほかの楽器に比べて桁違いに重く、アップライト・ピアノで200 kg〜300 kg、グランド・ピアノでは300 kg以上、コンサート・グランドでは500 kgを超えることも珍しくない。このため、ごく少数のこだわりを持つ演奏家を除いてコンサートに自分のピアノを持参することはなく、会場にある楽器を使う。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "標準的モダンピアノは黒鍵36、白鍵52の計88鍵を備える(A0からC8に及ぶ7オクターヴと短3度)。この音域のものは19世紀後半頃から作られ始め、第一次世界大戦後に標準となったものである。88鍵が標準的になったのは、この音域が楽音として人間が認識できる限度であるためだといわれている。鍵そのものは、ほとんどの場合木でできており、表面にかつては白鍵は象牙を、黒鍵は黒檀を貼っていることが多かったが、現在では合成樹脂製付き板を使ったものが多い。また、近年では、象牙や黒檀の質感を人工的に再現した新素材(人工象牙、人工黒檀)などが採用されたものもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "古いピアノには85鍵(A0からA7の7オクターヴ)のものも多く、また88鍵を越える楽器も存在する。ベーゼンドルファーの一部のモデルは低音部をF0まで拡張しており(92鍵)、C0まで拡大して8オクターヴ(97鍵)の音域を持つ1モデル(モデル290 “インペリアル”)も存在する。このような拡張部分は、不要時には小さな蓋で覆えるようになっているものや、拡張部分は白鍵の上面を黒く塗って、奏者の混乱を防ぐ措置がとられているものがある。これよりも最近に、オーストラリアのメーカースチュアート・アンド・サンズ社でも97鍵 (F0~F8)・102鍵 (C0~F8) ・更には108鍵(C0~B8に及ぶ9オクターヴ)の楽器を作っており、この108鍵のピアノは2018年9月に初めて作られたもので、2022年現在世界一広い音域を持つピアノとなっている。また102鍵 (C0~F8) の楽器はフランスのステファン・ポレロ社でも作られている。これらのスチュアート・アンド・サンズ社やステファン・ポレロ社などのモデルでは、拡張音域の鍵盤の見た目は他と変わらない。拡張音域は、主により豊かな共鳴を得るために追加されたもので、これらの音を使うように作曲されている楽曲は僅かである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "逆に、流しのピアニストたちが使う、65鍵の小さなスタジオ・アップライトもある。「ギグ」ピアノと呼ばれるこのタイプのピアノは、相対的に重量が軽く、2人で持ち運び可能であるが、響板部分はスピネット・ピアノやコンソール・ピアノよりも大きく、力強い低音部の響きを有する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "鍵を押し下げるとハンマーが連動して弦を叩く仕組みをアクションという。アクション機構は伝統的に木材で作られてきたが、近年はごく一部のメーカーで炭素繊維を含ませたABS樹脂なども使われる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "鍵を押し下げた時に、ハンマーが弦の手前 2〜3ミリメートルの位置にくると、ハンマーが鍵の動きから解放される。この動きを「レット・オフ」といい、このような機構をエスケープメントと呼ぶ。打撃による発音では発音体との接触時間を短くすることが重要な要素であるが、これを鍵盤の動きにかかわらず一定の条件で行うための仕組みであり、このエスケープメント・アクションを発明したことが今日のピアノの地位を築く出発点であった。弦とハンマーの間の距離は2〜3 ミリの範囲内のいずれでも良いわけではなく、全鍵において可能な限り揃えられる必要があり、これをレット・オフ調整という。一部のメーカでは最高音部のレット・オフを 1ミリまで近づける方が充分な音色を得られることがある。この機構のため、鍵を押し下げるときに指に感じられる重さは、押し下げきる直前で軽くなる。鍵が軽くなってから鍵が深く沈むと、鍵が重く感じられる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アクションで次に重要な課題となったのは、エスケープした部品(ジャック)を如何に素早くハンマーの下に戻して次の打弦に備えるかであり、様々な方式のアクションが発明、改良されることになった。歴史的には大きく分けてウィーン式アクションとイギリス式アクションが存在した。モダンピアノのアクションは基本的にイギリス式アクションの系列である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "モダンピアノでは、アップライト・ピアノはジャックのみがエスケープするシングル・エスケープメント・アクションを用いているが、グランド・ピアノはジャックとレペティションレバーがエスケープするダブル・エスケープメント・アクション(原型はエラールが開発)を用いている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ダブル・エスケープメント・アクションにはレペティションレバーという部品があり、これによって素早い連打を可能としている。これは、打弦後、鍵を押し下げる力をわずかに緩めた瞬間に、レット・オフの時にジャックとともに外れて(エスケープして)いたレペティションレバーがハンマーを持ち上げて維持し、ジャックの戻りをたやすくする機構である。これにより鍵の深さの半分まで戻すことで次の打弦が可能になる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一方、ハンマーが弦を横から叩くアップライト・ピアノでは、シングル・エスケープメント・アクションのために鍵が完全に戻らなければ次の打鍵はできない。ハンマーが戻るのを助けるバットスプリングと呼ばれるスプリングが付いているために、この力によってハンマーが戻りやすくなっているようにとらえられがちであるが、スプリングを外しても連打の性能には大きな変化はない。正しくアクション調整が行われたグランド・ピアノのアクションでは、毎秒14回程度の、アップライト・ピアノでは7回程度の連打が可能である。レペティションレバーの有無という構造の違いが、グランド・ピアノとアップライト・ピアノのタッチ、表現力の差に大きく影響を及ぼしている。グランド・ピアノのダブル・エスケープメント・アクションは、シュワンダー式アクションが主流だったが、1970年代以降スタインウェイ式アクションを採用するメーカが多くなった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アクションにおいてハンマーとともに重要なのが、ダンパーと呼ばれる消音装置である。打鍵時以外はこれが弦に密着し、その振動を常に抑えている。鍵を叩くと、ハンマーがハンマーと弦の間(打弦距離)の1/3 ないし 1/2 進んだときにこのダンパーが弦から離れ始めるように調整される。これにより弦の自由な振動を可能とする。鍵を抑えている間中ダンパーは離れているが、鍵を離すと同時にダンパーが弦に戻り、弦の振動を止め、音が消える。ただし、ピアノの最高音部は、弦の鳴る時間が短いため、ダンパーを備えない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "弦に直接触れるハンマーヘッドは、一時樹脂製のものが用いられたこともあったが、今ではほぼ例外なく羊毛のフェルトでできている。ハンマーヘッドは長時間演奏されれば変形するが、音色に大きく影響するものなので、音程の調律ほど頻繁ではないが定期的に調整することが必要となる。具体的には、調律師など専門の技術者が「ファイラー」と呼ばれる表面にサンドペーパー(紙または布製#80〜#800程度を数種類)を貼ったものでハンマーフェルトの表面を削り整形したり(ファイリング)、「ピッカー」と呼ばれる柄に針を数本取り付けた工具でハンマーフェルトを繰り返し刺して音色を整える整音(「ボイシング」または「ピッカーリング」とも呼ばれる)を行う。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "技術が進歩した近年では、電気ピアノのように同じような発音原理を持ちながら電気的に増幅するものや、電子的に発音するピアノに類する楽器も登場している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ピアノは鍵盤と同じ数(前述の通り現在の標準的ピアノでは88)の音高を持つが、1音あたりの弦の数は音高により異なり、最低音域では1本、低音域では2本、中音域以上では3本張られ(その境界は機種によりまちまち)、弦の総数は200本を超える。各音の弦は複数弦でも単一のハンマーで同時に叩かれるが、グランド・ピアノの弱音ペダルを踏むとハンマーを含めた鍵盤の機構すべてが物理的に横方向にずれ、中音域以上では叩かれる弦の数が3本から2本に減り、低音域では2本の場合はそのうち片方の弦のみが、1本の場合もその弦の端の方のみがハンマーで叩かれるので音量が低下する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "弦はミュージックワイヤーと呼ばれる特殊な鋼線(ピアノ線の中でも、特に高品質なもの)で、低音域では質量を増すために銅線を巻きつけてある。音域ごとの弦の仕様に関しては、具体的には次のようなものがある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "弦長は、一般に長いほうが豊かな音色になる(その分張力を増さねばならない)といわれ、限られた寸法の中で最長の弦長を確保するために、弦を2つのグループに分け、各グループ内の弦は同一平面上に張られるが、段差を持った2枚の平面が角度を持って交差するようになっていることが多い(オーバー・ストリンギング)。弦はフレームに植えられたチューニングピンで張られるが、1本あたりの張力は70~80kg重程度で、全弦の張力の合計は20トン重にも及ぶ。ピアノが現在の音量を出せるようになったのは、この張力に耐える鋼製のミュージックワイヤーと鉄製のフレーム(現在は一体の鋳物)が使われるようになってからである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "現在のピアノではオーバー・ストリンギングのために、音が濁るという欠点が存在する。ドイツのDavid Klavinsは、この問題を解決するために1987年にKlavins Piano Model 370を発表した。このピアノは弦を平行に配置するために高さは3.7m(名前の由来となっている)、総重量20トン以上にも上る巨大なもので、共鳴板はグランドピアノの二倍以上あり、階段の上にアップライト型の鍵盤が配置されている。Model 370は2012年現在も世界最大のピアノである。ちなみにこの楽器はオルガン同様据え付けとなっているためコンサートなどには使用できず、ほとんど映画などの音源収録のみに使われている。2012年には、Native InstrumentsからModel 370から収録したKONTAKT 5用のソフト音源\"THE GIANT\"が発売されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "響板・響棒は弦の下に位置し、ブリッジを通じて伝えられた弦の振動を空気に効率良く伝える。響板は柾目に木取りされておりその方向はブリッジの長さ方向に一致させるのが一般的である。響棒は響板のブリッジに対して反対面に位置し、やはり柾目に木取りされている。響棒は響板木目方向に対して、つまりブリッジの長さ方向に対しても交差する方向に配置される。響板を支える骨組みの役目を果たすが、響板・響棒材を伝わる音は木目方向と木目横断方向ではおよそ4:1となるために、響板の柾目横断方向への振動の伝播を助け、響板全体に振動が均質に伝わるように工夫されてもいる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "グランドピアノでは弦を覆う上蓋(大屋根)がついており、これを持ち上げることによってより豊かな音量を出すことが出来る。これは支え棒によって斜め約45度に固定される。これにより音が指向性を帯びる。演奏者から見て右側が開くため、演奏会場では客席に向かって音を発するように、客席から向かって左側に鍵盤が置かれる。大屋根を半開にすることもでき、伴奏ではこの状態が好まれる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アップライトピアノも上部の蓋を開けることができ、これによって若干の音量調節は可能になるものの、グランドピアノほど効果的ではない。むしろほこりが入るので開ける事はあまり好まれない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "21世紀現在の一般モダンピアノは、3本のペダルを備える。20世紀以前は2本のペダルのメーカーも存在した。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "第1のペダルは、一番右の長音ペダルであり、ダンパーペダルと呼ばれる。このペダルを踏むと、すべてのダンパーが離れ、打鍵した音が延びる。また演奏した弦だけでなくそれらの部分音成分に近い振動数を持つ弦が共鳴することで、ペダルを踏まずに鍵を押下したまま音を延ばした場合よりも音が豊かに聴こえる。ペダルを放すとダンパーが戻り、延びていた音は止まる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "またペダルの踏み込み具合を半分などに調節することで、音の延び具合を調節することも出来、これをハーフペダルと呼ぶ。さらに熟練した奏者は、このハーフペダルと完全に踏み込んだ状態とを往復する操作によって、延び具合を周期的に変化させ、ヴィブラートに似た演奏効果を得ることも可能である。武満徹の「雨の樹素描」では楽譜上にこれらの踏み込み具合の指定がある。このペダルを踏み込んでいるときの弦は周囲の音にも共鳴し得るので、合唱曲の伴奏などでは歌唱にピアノが共鳴している現象も聞き取れることがある。ピアノで一切発音せず、ペダルの踏み込み具合や鍵を無音で押し込むことによって他の楽器に共鳴させる奏法もある。例えばルチアーノ・ベリオの「セクエンツァX」(トランペットと共鳴ピアノのための)ではトランペット奏者がピアノの内部に向かってトランペットを吹き、その共鳴を聞き取る場面がある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "第2のペダルは、一番左の弱音ペダルであり、ソフトペダル、もしくはシフトペダルと呼ばれる。グランド・ピアノでは、このペダルを踏むと鍵盤全体がフレームに対して少し右にずれ、中高音域ではハンマーが叩く弦の本数、低音域では弦に当たるハンマーの部位が中央から端に変わり、音量が減少する(ウナ・コルダ)。アップライト・ピアノでは、ハンマーの待機位置が弦に近づく(打弦距離が短くなる)ことで打弦速度が下がり、音量が小さくなる。ハンマーは弦の手前2〜3mmで鍵盤からの動きを遮断(レット・オフ)され自由運動で打弦するが、きわめて弱い音を速いテンポで繰り返す場合には、ハンマーが弦を打たないミス・タッチとなる。そこでソフトペダルを使用して打弦距離を幾らか短くすることで、弱く弾いた場合でもミス・タッチを起こしにくくする効果がある。つまりアップライト・ピアノのソフトペダルは、他のペダルのようにペダルを踏むことによって何かしらの効果を得るものではなく、演奏の補助的な役割を果たすペダルといえる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "第3のペダルは、中央のペダルである。かつてはエラールなど多くのメーカーによって省略されていた。グランド・ピアノでは、ソステヌートペダルと呼ばれ、このペダルを踏んだ時点で押していた鍵のダンパーが、鍵から手を放してもペダルを踏んでいる間は弦に降りないようになっている。主に低音の弦を延ばしたまま高音部を両手でスタッカートで弾いたり、あるいは高音部のみダンパーペダルを複数回踏み変える奏法に際して用いられる。前者はシェーンベルクの「3つのピアノ曲」(作曲者自身はこの指定をしていないが、ピアニストによってこの奏法を採るものが多い)、サミュエル・バーバーの『ピアノソナタ』終楽章のフーガなど、後者はドビュッシーのピアノ曲集「映像」第2曲「ラモーを讃えて」や、武満徹の「閉じた眼」「雨の樹素描」などの作品で効果的に使われる。また低音の鍵を無音で押さえたままソステヌートペダルを踏んで「鍵を押しっぱなし」と同じ状態にし、高音部の鍵をダンパーペダルなしで(多くの場合スタッカートで)弾く事により、低音で押された音の部分音の振動数に対応する音が部分音の共鳴によって若干の残響を伴って聞こえる。多くの現代音楽で使われている奏法である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アップライトピアノの中央のペダルは、マフラーペダルとも呼ばれ、夜間練習などのために、弦とハンマーの間にフェルトを挟んで、音を弱くする。踏み込んだペダルを左右いずれかにずらすことでロックされ、踏みっぱなしにしておくことができる。 もともとのこのペダル効果はハンマークラヴィーアなどでハンマーと弦の間に薄い皮や羊皮紙などを挟み、音色の変化を愉しんだことによる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "歴史的楽器では4つないし5つのペダルを持つものもあり、このうちのいくつかはシンバルや太鼓といった打楽器に連動されていた。シューベルトの一部の作品では、これらの打楽器に連動するペダル構造を用いた曲もある。現代でもファツィオリ社のグランドピアノでは第4のペダルを備えるものがある。このペダルを踏むことにより、鍵盤の前面が下がり、鍵盤の沈む深さが浅くなる。現代のピアノが沈む深さは平均して約1cmであるが、モーツァルトが活躍した時代の鍵盤が沈む深さは約6mmであり、操作は現代よりも遥かに軽やかであった。この時代のような鍵盤の軽やかさを現代のピアノに持たせるために第4のペダルが備えられたものである。現在第5ペダルと呼べる「ハーモニックペダル」は、どのメーカーのグランドピアノにも接続することができる。すでに新製品に組み込んだメーカーも出現している。近年はアップライトピアノであっても、グランドピアノと同等のペダル能力を持つピアノが出現している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "またオルガンと同様に足鍵盤を備えた楽器、ペダルピアノも存在する。シューマン、シャルル=ヴァランタン・アルカンらにペダルピアノのための作品がいくつかある。ロベルト・プロッセダが現代テクノロジーを用いて復刻された楽器を用いているほか、メーカーが市販した例がある。", "title": "ペダルピアノ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "各弦の張力を調整する調律は、今日のほとんどのピアノが十二平均律で調律される。他の弦楽器に比べて張力が大きく、またピンの保持力も高いため音程の精度はかなり高く誤差は1セント(十二平均律の半音の100分の1)単位まで求められる。例外的に平均律以外に調律されることもあり例えば、テリー・ライリーには、通常のピアノの調律である平均律ではなく、純正律に調律されたピアノを用いる作品がある(「in C」など)。また、ジェラール・グリゼーの後期作品「時の渦」は、ピアノの特定の数音を四分音下げて調律することが要求される。調律の狂ったような音に聴こえるが、これは合成された倍音に基づく調律である。特に激しい跳躍のある第1部のカデンツァにおいて効果的に響く。いずれの場合もコンサートに用いる際はピアノ調律師の特殊な技能が要求され、また日本のコンサートホールではこのような特殊調律を断られる場合があるので、それでもあえて演奏する場合にはピアノのレンタルが必要になる。", "title": "調律" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "19世紀にはヴィルトゥオーゾのピアニストらにより、リストの半音階、3本の手などの技巧が開発された。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "クラスター奏法とは、ヘンリー・カウエルらによって提唱されたもので、鍵盤を手・腕・ひじを使って打楽器のように演奏する。トーン・クラスターも参照のこと。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "内部奏法とは、ピアノを鍵盤によってではなく、内部の弦をギターのプレクトラム(ピック)などで直接はじいたり、弦の縁や真ん中を指で押さえながら対応する鍵盤を弾いたり、松脂を塗ったガラス繊維あるいは弦楽器の弓の毛を、ピアノ内部の特定の弦に通して擦弦したりすることにより、本来のピアノにはない音色を得るための奏法。ピアノの作音楽器に劣後する特性を何とか克服しようとするものである。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "現代音楽では当たり前のように多用されるが、日本の多くのコンサートホールは新しい楽器1台しか用意してないことが多く、楽器が傷むという理由からこの内部奏法を非常に嫌悪し禁止している。それに対して外国とくにヨーロッパでは古い楽器や破壊用の楽器も万遍無く用意してあることが多いのでこのような規制はほとんど見受けられない。とはいえ、楽器に傷をつけやすい金属製器具での演奏は控えたり、指の汗が弦につくことを考慮し演奏後にはサビ防止のためにきちんと布でふき取るなどの配慮は必要である。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ピアノは1人だけでなく、2人以上が一台の楽器を同時に演奏することも可能である。これを連弾という。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "19世紀のヨーロッパでは、サロンの愛好家やアマチュアの子女のたしなみとして連弾のための音楽がもてはやされた。ヨハネス・ブラームスはこのような状況を受けて『ハンガリー舞曲』を書いた。さらに後輩であるアントニン・ドヴォルザークに『スラブ舞曲』を書くことを勧めた。どちらも連弾のレパートリーとして欠かせない楽曲であり、またオーケストラ編曲としても親しまれている。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "カミーユ・サン=サーンスの「交響曲第3番『オルガン付き』」では、第4楽章においてオーケストラ内のピアノが連弾で用いられる(しかし主役はオルガンであり、そちらの方がずっと目立つ)。また一般的な2人で演奏して高音部と低音部を弾き分ける4手連弾のほかに、3人で演奏する6手連弾もラフマニノフなどの楽曲に作例が見られる。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ピアノを2台並べて演奏する方法。連弾よりも音量において勝り、また奏者が2人とも音域に制限されずに演奏できる利点がある。その反面、音が混ざり易く、雑多に聞こえ易いという短所もある。2台のピアノは1台ずつそれぞれに調律するのだが、インハーモニシティはそれぞれのピアノに固有のものなので、調律は他のピアノとは完全には一致しない。そのため、微妙なずれによって賑やかな音になる。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "多くの場合は2台のピアノを向かい合わせに置くため、双方のピアノは反響板が互いに反対方向に開いてしまう。このため大抵の場合は、聴衆とは逆に開くピアノ側の反響板を取り外して演奏する。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2台ピアノのために書かれたオリジナル曲のほか、オーケストラ曲やピアノ協奏曲を試演する際にも用いられる。この試演とは、主に19世紀において限られた音楽関係者の聴衆を前にオーケストラ曲の新作を披露する際、または現在においても音楽学校などでピアノ科の生徒が協奏曲を試験などに際して弾く際に用いられる演奏手段である。2台目のピアノを連弾にし、合計3人の奏者が演奏する場合もある。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ダリウス・ミヨーとスティーヴ・ライヒの作品には、それぞれ6台のピアノを同時演奏するものがある。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また1993年から毎年開催されているヴェルビエ音楽祭で、2003年の10周年記念として行われたガラコンサートでは、著名なピアニスト8名(エフゲニー・キーシン、ラン・ランなど)が、スタインウェイのピアノ8台を「八」の字に並べ同時演奏した。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "弦を叩くことで発音する鍵盤楽器を作ろうという試みは早くより存在しており、中でも鍵盤付きのダルシマー系の楽器をピアノの先祖とみる向きもあるが、一般的には、現在のピアノはトスカーナ大公子フェルディナンド・デ・メディチの楽器管理人であったイタリア・パドヴァ出身のバルトロメオ・クリストフォリが発明したとみなされている。クリストフォリがいつ最初にピアノを製作したのかは明らかでないが、メディチ家の目録から、1700年にはピアノがすでに存在していたことが知られる。現存する3台のクリストフォリ製作のピアノは、いずれも1720年代に製作されたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "多くの発明がそうであるように、ピアノもそれまでにあった技術の上に成立している。ピアノに先行する弦を張った鍵盤楽器としてはクラヴィコードとチェンバロが特に普及していた。クラヴィコードは弦をタンジェントと呼ばれる金属片で突き上げるもので、鍵盤で音の強弱のニュアンスを細かくコントロールできる当時唯一の鍵盤楽器であったが、音量が得られず、狭い室内での演奏を除き、ある程度以上の広さの空間で演奏するには耐えなかった。一方のチェンバロは弦を羽軸製のプレクトラムで弾くものであり、十分な音量が得られたものの、ストップ(レジスター)の切り替えで何段階かの強弱を出せる他は自由に強弱をつけて演奏することは困難であった。これらの鍵盤楽器は数世紀にわたる歴史を通じて、ケース、響板、ブリッジ、鍵盤のもっとも効果的な設計が追求されていた。クリストフォリ自身、すぐれたチェンバロ製作家であったため、この技術体系に熟練していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "クリストフォリの重要な功績は、ハンマーが弦を叩くが、その後弦と接触し続けない、というピアノの基本機構を独自に開発した点にある。クラヴィコードでは鍵を押している限りタンジェントが弦に触り続けるが、ハンマーが弦に触れ続ければ響きを止めてしまう。更に、ハンマーは激しく弾むことなく元の位置に戻らなければならず、同音の連打にも堪えなければならない。クリストフォリのピアノアクションは、後代のさまざまな方式のアクションの原型となった。クリストフォリのピアノは細い弦を用いており、モダンピアノより音量はずっと小さいが、クラヴィコードと比較するとその音量は相当に大きく、響きの持続性も高かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "クリストフォリの新しい楽器は、1711年にイタリアの文筆家フランチェスコ・シピオーネ(イタリア語版、英語版)(シピオーネ・マッフェイ)がピアノを称賛する記事をヴェネツィアの新聞に掲載するまでは、あまり広く知られていなかった。この記事には構造の図解も掲載されており、広く流通して、次世代のピアノ製作家たちにピアノ製作のきっかけを与えることとなった。オルガン製作家としてよく知られるゴットフリート・ジルバーマンもその一人である。ジルバーマンのピアノは、1点の追加を除いては、ほぼクリストフォリ・ピアノの直接のコピーであった。ジルバーマンが開発したのは、全ての弦のダンパーを一度に取り外す、現代のダンパー・ペダルの原型であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ジルバーマンは彼の初期製作楽器の1台を1730年代にヨハン・ゼバスティアン・バッハに見せているが、バッハはダイナミックレンジを充分に得るためには高音部が弱すぎると指摘した。その後、ジルバーマンの楽器は改良を加え、1747年5月7日にフリードリヒ大王の宮廷を訪ねた際にジルバーマンの新しい楽器に触れた際にはバッハもこれを評価し、ジルバーマン・ピアノの売り込みにも協力したという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "イギリスでは1760年代にはいってピアノの製造が盛んになった。ジルバーマンの徒弟だったヨハネス・ツンペ(英語版)がロンドンに移り、1760年ごろにクリストフォリの楽器をもとに改良を加えた楽器を製造してイギリス・アクションの基礎を築いた。ツンペの楽器は当時ドイツで好まれていたスクウェア・ピアノだった。1762年に渡英したヨハン・クリスティアン・バッハは1766年の『ピアノフォルテまたはハープシコードのための6つのソナタ』作品5において、ハープシコードと併記する形ではあるがはじめて曲名に「ピアノフォルテ」を使用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "フランスのセバスチャン・エラールが1777年に制作したピアノもツンペの楽器をもとにしたイギリス・アクションの楽器だった。エラールはフランス革命のはじめにロンドンにわたり、帰国した後もパリとロンドンの両方で楽器を製造した。エラールはイギリスの楽器をもとにしながら多くの改良を加えていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "同時期のドイツではアウクスブルクのヨハン・アンドレアス・シュタイン、その娘でウィーンのナネッテ・シュトライヒャーとヨハン・アンドレアス・シュトライヒャー、同じくウィーンのアントン・ワルターなどが活躍した。ウィーン式のピアノは、木のフレームに1音2弦の弦を張り、革で覆ったハンマーをもつ。また現代のピアノとは黒鍵と白鍵の色が逆のものもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはシュタインやワルターの楽器を使用してそのピアノ協奏曲やピアノソナタを作曲した。これらのウィーンのピアノは、イギリス式のピアノや、現代の一般的なピアノよりも軽快な響きを持ち、減衰が早かった。20世紀後半より当時の楽器の復元がなされ、19世紀初頭以前の初期ピアノはフォルテピアノとしてモダンピアノと区別することも多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1790年から1860年頃にかけての時期に、ピアノはモーツァルトの時代の楽器から、いわゆるモダンピアノに至る劇的な変化を遂げる。この革新は、作曲家や演奏家からのより力強く、持続性の高い響きの尽きぬ要求への反応であり、また、高品質の弦を用いることができ、正確な鋳造技術により鉄製フレームを作ることができるようになるといった、同時代の産業革命によって可能となったことであった。時代を追って、ピアノの音域も拡大し、モーツァルトの時代には5オクターヴであったものが、モダンピアノでは71⁄3オクターヴか時にはそれ以上の音域を持っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "初期の技術革新の多くは、イギリスのブロードウッド社の工房でなされた。ブロードウッド社は、華やかで力強い響きのチェンバロですでに有名であったが、開発を重ねて次第に大型で、音量が大きく、より頑丈な楽器を製作し、初めて5オクターヴを越える音域のピアノを製作した。1790年代には5オクターヴと5度、1810年には6オクターヴの楽器を作っている。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンとルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにも楽器を送っており、ベートーヴェンはその後期の作品で、拡大した音域を利用して作曲している。ウィーンスクールの製作家たちもこの音域拡大の流れを追ったが、イギリスとウィーンではアクションの構造が違っていた。ブロードウッドのものはより頑丈で、ウィーンのものはより打鍵への反応がよかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1820年代になると、開発の中心はパリに移り、当地のエラール社の楽器はフレデリック・ショパンやフランツ・リストの愛用するところとなった。1821年、セバスチャン・エラールは、ダブル・エスケープメント・アクションを開発し、鍵が上がり切っていないところから連打できるようになる。この発明によって、素早いパッセージの演奏が容易となった。ダブル・エスケープメント・アクションの機構が公に明らかになると、アンリ・エルツの改良を経て、グランドピアノの標準的なアクションとなり、今日生産されているグランドピアノは基本的にこのアクションを採用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "日本にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによって初めてピアノがもたらされたのもこの時期である。山口県萩市の熊谷美術館には1823年にシーボルトより贈られた日本最古のピアノ(スクエア・ピアノ)が現存する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "モダンピアノの響きを作り出した大きな技術革新の一つに、頑丈な鉄製フレームの導入があげられる。鉄製フレームは「プレート」とも呼ばれ、響板の上に設置し、弦の張力を支える。フレームが次第に一体化した構造を獲得するのにあわせて、より太く、張力が高い弦を張ることが可能になり、また張る弦の本数を増やすことも可能となった。現代のモダンピアノでは弦の張力の総計は20トンにも上りうる。単一部品の鋳物フレームは、1825年にボストンにてオルフェウス・バブコックによって特許が取得されている。これは、金属製ヒッチピン・プレート(1821年、ブロードウッド社がサミュエル・ハーヴェに代わって特許請求)と、耐張用支柱(1820年、ソムとアレンによって請求、ただしブロードウッドとエラールも請求)を組み合わせたものであった。バブコックは後にチッカリング・アンド・マッカイ社で働き、チッカリング社は1843年にグランドピアノ用のフル・アイロン・フレームを初めて特許取得した。ヨーロッパの工房はその後も組合わせフレームを好むことが多く、アメリカ式の単一フレームが標準となるのは20世紀初頭である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "その他の代表的発明として、革の代わりにフェルトをハンマー・ヘッドに用いることがあげられる。フェルト・ハンマーは、1826年にジャン=アンリ・パップによって初めて導入された。素材がより均質である上に、ハンマーが重くなり、弦の張力が増すとともに、より大きなダイナミックレンジを得ることを可能とした。音色の幅を広げるソステヌート・ペダルは、1844年にジャン・ルイ・ボワスローによって発明され、1874年にスタインウェイ社によって改良された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "この時代の重要な技術的発明としてはほかに、弦の張り方もあげられる。低音部を除いて、1音2弦ではなく3弦が張られ、「オーバー・ストリンギング」や「クロス・ストリンギング」と呼ばれる、2つの高さのブリッジを用い、張る向きの変えて弦の並びを重ねる張り方が導入された。このことにより、ケースを長くすることなく、より大きな弦を張ることが可能になった。オーバー・ストリンギングは1820年代にジャン=アンリ・パップによって発明され、アメリカ合衆国におけるグランドピアノでの使用の特許は1859年にヘンリー・スタインウェイによって取得された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "テオドール・スタインウェイが1872年に特許を取得した、デュープレックス ・スケール(もしくはアリコット・スケール)は、張られた弦の共鳴長に続く部分を、共鳴長とオクターヴの関係に調律することで、弦の各部分の振動を制御する技術である。類似のシステム(アリコート張弦)は、同じく1872年にブリュートナー社で開発されたほか、コラード社は、よりはっきりとした振動を使って響きを調える技術を1821年に開発している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "初期のピアノの中には、一般に見慣れない外形や設計を用いているものもある。スクエア・ピアノは地面と水平に弦を張ったケースが長方形の楽器で、ハンマーの上に対角線状に弦を張り、ケースの長辺側に鍵盤が設置されている。スクエア・ピアノの設計の原型はさまざまにジルバーマンおよびクリスチャン・エルンスト・フレデリチに帰されており、ギュイヨーム=レブレヒト・ペツォルトとオルフェウス・バブコックによって改良された。18世紀後半にはツンペによりイギリスで人気を博し、1890年代には、アメリカ合衆国にてスタインウェイの鋳物フレーム、オーバー・ストリンギング・スクエア・ピアノが大量生産され、人気を博した。スタインウェイのスクエアは、木製フレームのツンペの楽器に較べて2.5倍以上大きかった。スクエア・ピアノは、製作コストが低く、安価なために大人気であったが、簡単な構造のアクションと、弦の間隔が狭いために、演奏のしやすさや響きの点からは難があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "アップライト・ピアノは弦を垂直方向に張った楽器で、響板とブリッジを鍵盤に対して垂直に設置する。開発初期のアップライト・ピアノでは、響板や弦は鍵盤よりも上に設置し、弦が床に届かないようにしている。この原理を応用し、鍵盤の上方に斜めに弦を張るジラフ・ピアノ(キリン・ピアノ)やピラミッド・ピアノ、リラ・ピアノは、造形的に目を引くケースを用いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "非常に背の高いキャビネット・ピアノは、サウスウェルによって1806年に開発され、1840年代まで生産されていた。鍵盤の後にブリッジと連続的なフレームが設置され、弦はその上に垂直に張られ、床近くまで延び、巨大な「スティッカー・アクション」を用いていた。同じく垂直に弦を張る、背の低いコテージ・アップライト(ピアニーノとも)は、ロバート・ワーナムが1815年頃に開発したとされ、20世紀に入っても生産されていた。このタイプの楽器は、すぐれたダンパー機構を持ち、俗に「鳥カゴピアノ」と呼ばれていた。斜めに弦を張るアップライト・ピアノは、ローラー・エ・ブランシェ社によって1820年代後半にフランスで人気を得た。小型のスピネット・アップライトは1930年代半ばより製作されている。このタイプの楽器では、ハンマーの位置が低いために、「ドロップ・アクション」を用いて必要な鍵盤の高さを確保している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "日本では、1900年に日本楽器製造株式会社(後のヤマハ)が製作した「カメンモデル」の第一号が初の国産ピアノとされる。ヤマハは1909年のアラスカ・ユーコン太平洋博覧会(英語版)に蒔絵技法を使った漆塗のアップライトピアノを出品し、名誉大賞金牌を受賞した。20世紀半ばまで日本のピアノには塗装に漆が用いられた。当時世界的には木目のピアノが主流だった(ジャパニングも行われていた)が、木目のピアノはデザインの都合上木目を合わせる必要があり、木材の選定に限界があった。ピアノを漆黒の一色で塗装することは、木材の選定に限界がなくなり最良の木材を利用することが出来るばかりか、製造における労力が減るため、大音量の楽器を大量生産することが可能になる。昭和40年代以降には、耐久性に優れる不飽和ポリエステル樹脂とアニリンブラックを用いた鏡面仕上げ塗装が行われるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1965年には、日本の住宅事情に合わせて、アップライトピアノにおける音量を大幅に低下させるマフラーペダルがヤマハにより開発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "その後は細かい部分の改良を除いては大幅な変更もなくなり、 モダンピアノの標準型が形成されることとなった。", "title": "歴史" } ]
ピアノは、弦をハンマーで叩くことで発音する鍵盤楽器の一種である。鍵を押すと、鍵に連動したハンマーが対応する弦を叩き、音が出る。内部機構の面からは打楽器と弦楽器の特徴も併せ持った打弦楽器に分類される。 一般に据え付けて用いる大型の楽器で、現代の標準的なピアノは88鍵を備え、音域が非常に広く、オーケストラの全音域よりも広い。 汎用性の高い楽器であることから、演奏目的として使われる以外に、音楽教育、作品研究、作曲などにも広く用いられている。そのためピアニストに限らず、作曲家、指揮者、他楽器奏者、声楽家、音楽教育者、教員などにも演奏技術の習得を求められることが多い。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses|鍵盤楽器|強弱記号のピアノ([[Image:Music dynamic piano.svg|11px]])|強弱法#一定の強弱を表すもの|その他の用法|ピアノ (曖昧さ回避)}} {{Infobox 楽器 |楽器名 = ピアノ |その他の名称 = 洋琴 |英語名 = piano {{IPA-en|piˈænou|}} ピ'''ア'''ノウ |ドイツ語名 = Klavier {{IPA-de|Klaˈviːɐ}}<ref>{{Cite book|year= 2005 | title =[[Duden]] Das Aussprachewörterbuch | publisher = Dudenverlag | edition = 6 | page = 466 | isbn =978-3-411-04066-7}}</ref> クラ'''ヴィ'''ーア |フランス語名 = piano {{IPA-fr|pjano|}} ピヤノ<ref>[[三省堂]]『クラウン仏和辞典』1134頁。</ref> |イタリア語名 = pianoforte ピアノ'''フォ'''ルテ |中国語名 = 钢琴(簡体字)、鋼琴(繁体字) |画像 = File:Two pianos - grand piano and upright piano.jpg |画像サイズ = 300px |画像の説明 = [[グランドピアノ]](左)と[[アップライトピアノ]](右) |分類 = [[鍵盤楽器]] |製作者=[[バルトロメオ・クリストフォリ]] |音域 = [[File:PianoRange.tif|frameless]]<br />A0 - C8 (A<sub>2</sub>~c<sup>5</sup>,[[MIDI]]#21〜#108) |関連項目 = *[[ピアニスト]] * [[ピアノ曲]] * [[ピアノソナタ]] * [[ピアノ協奏曲]] |}} '''ピアノ'''({{Lang-en-short|piano}})は、[[弦 (楽器)|弦]]を[[槌|ハンマー]]で叩くことで発音する[[鍵盤楽器]]の一種である。鍵を押すと、鍵に連動したハンマーが対応する弦を叩き、音が出る。内部機構の面からは[[打楽器]]と[[弦楽器]]の特徴も併せ持った[[打弦楽器]]に分類される。 一般に据え付けて用いる大型の楽器で、現代の標準的なピアノは88鍵を備え、[[音域]]が非常に広く、[[オーケストラ]]の全音域よりも広い{{Sfn|伊福部昭|2008|p=227}}。 汎用性の高い楽器であることから、演奏目的として使われる以外に、音楽教育、作品研究、作曲などにも広く用いられている。そのため[[ピアニスト]]に限らず、[[作曲家]]、[[指揮者]]、他楽器奏者、[[声楽家]]、音楽教育者、教員{{Efn2|[[保育士]]試験、[[小学校教員]]採用試験などでも必要とされている。}}などにも演奏技術の習得を求められることが多い。 == 名称 == 「ピアノ」の名は、17-18世紀の楽器製作家[[バルトロメオ・クリストフォリ]]が製作したピアノの原型である'''クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ'''({{Lang-it-short|Clavicembalo col piano e forte}}、強弱をもつ[[チェンバロ]])に由来し、これが短縮されたものとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/piano/structure/|title=ピアノの成り立ち: ピアノ誕生ストーリー|work=楽器解体全書|publisher=ヤマハ|accessdate=2020-11-20}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=大木裕子|title=欧米のピアノメーカーの歴史 : ピアノの技術革新を中心に|journal=京都マネジメント・レビュー|issue=17|publisher=京都産業大学マネジメント研究会|pages=1-25|date=2010|id={{Hdl|10965/224}}}}</ref>。 歴史的には「ピアノフォルテ」(pianoforte)や「フォルテピアノ」(fortepiano)と呼ばれ、現代でも略称としては “pf” という表記が用いられている<ref>{{Cite web|url=https://www.oxfordmusiconline.com/page/1553|title=General Abbreviations|work=Oxford Music Online|publisher=Oxford University Press|accessdate=2023-12-6}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://imslp.org/wiki/IMSLP:Abbreviations_for_Instruments|title=Abbreviations for Instruments|publisher=International Music Score Library Project|date=2022-11-21|accessdate=2023-12-6}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://unitproj.library.ucla.edu/cataloging/procedures/Music%20Marking%20Abbrev.pdf|title=ABBREVIATIONS FOR INSTRUMENTS IN MARKING MUSIC LIBRARY SCORES (rev12/2011lah)|publisher=UCLA Library Cataloging & Metadata Center|accessdate=2023-12-6}}</ref>。 現代では、[[イタリア語]]・[[英語]]・[[フランス語]]では “piano” と呼ばれる(伊・英では “pianoforte” も使用)。[[ドイツ語]]では「ハンマークラヴィーア」(“Hammerklavier”)がピアノを意味し、より一般的には “Klavier”([[鍵盤 (楽器)|鍵盤]]の意味)と呼ばれるほか、“Flügel”(もともと鳥の翼の意で、グランド・ピアノを指す)も用いられる。ロシア語の正式名称は “{{lang|ru|фортепиано}}” (fortepiano) であるが、一般にはグランドピアノを意味する “{{lang|ru|рояль}}”(フランス語の “royal”から)や、[[アップライトピアノ]]を意味する “{{lang|ru|пианино}}” (pianino) が用いられることが多い。その他[[ハンガリー語]]では “Zongora” と呼ぶ。 [[20世紀]]後半以降、あえて「'''[[フォルテピアノ]]'''」「ハンマークラヴィーア」「ハンマーフリューゲル」などと呼ぶ場合は[[古楽器]]、すなわち現代ピアノの標準的な構造が確立される以前の構造を持つ楽器を指す場合が主で、古い時代に作曲された作品を、当時のスタイルで演奏する際に用いられている。これに対して19世紀半ば以降のピアノを区別する必要がある場合には「'''モダンピアノ'''」などと呼ぶ。 [[日本]]では、19世紀ごろに洋琴と呼ばれたり、戦前の文献では「ピヤノ」と書かれたものが見受けられる。一例として[[尋常小学校]]の国語の教科書に「[[ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)|月光の曲]]」と題された[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の逸話が読み物として掲載されていたことがあるが、このときの文章は「ピヤノ」表記であった<ref>[https://web.archive.org/web/20080511072412/http://www.geocities.jp/sybrma/199syotoukakokugo7.html 『初等科國語 七』] 十六 月光の曲。原文あり。</ref>。 == 種類 == モダンピアノは主に2つのタイプに分かれる。すなわち、[[グランドピアノ]]と[[アップライトピアノ]]である。モダンピアノはフォルテピアノと同様に[[アコースティック楽器]]だが、それ以外に[[エレクトリックピアノ]](電気ピアノ)や[[エレクトロニックピアノ]](アナログ電子ピアノ)、[[電子ピアノ|デジタルピアノ]]なども存在する。 === グランドピアノ === {{Main|グランドピアノ}} [[File:Boesendorfer 002.jpg|thumb|グランドピアノ [[ベーゼンドルファー]]製]] グランドピアノは地面と水平にフレームと弦を配し、弦は奏者の正面方向に張られる。そのため、グランド・ピアノは極めて大型の楽器となり、充分に[[音響共鳴|共鳴]]の得られる、天井の高い広い部屋に設置することが理想的である。グランド・ピアノは大きさによっていくつかに分類される。製造者やモデルによって違いはあるが、大まかに言って、「コンサート・グランド」(全長がおおよそ2.2 [[メートル|m]]から3 m)、「パーラー・グランド」(おおよそ1.7 mから2.2 m)、これらよりも小さい「ベビー・グランド」(ものによっては幅よりも全長が短い)に分けられる。ベビー・グランドは[[ゾーマー社]]が[[1884年]]に特許を取得している。 他の条件がすべて同じであれば、長い弦を張った長いピアノの方が響きがよく、弦の[[インハーモニシティ]](非調和性)が小さい。インハーモニシティとは、[[倍音]]の周波数の、基本周波数の整数倍からの遠さである。短いピアノは、弦が短く、太く、固いため、弦の両端が振動しにくい。この影響は高い倍音に顕著であるため、第2倍音は理論値よりも若干高くなり、第3倍音はもっと高くなる。このようにして、短いピアノではインハーモニシティが大きい。短いピアノではダンパーペダルを踏んだときに共鳴する弦が少ないので、音色が貧弱である。一方、コンサート・グランドでは弦長があるため短いピアノよりも自由に振動でき、倍音が理想に近くなる。 一般的にはフルサイズのコンサート・グランドは大型なだけでなく高価でもあるため、専用ホールなどでの演奏会で用いられ、より小型のグランドピアノは学校の体育館・講堂や教室(音楽室)、ホテルなどのロビー、小規模なホール、設置場所を取れる一部の家庭(ピアノ教室を開いているようなところ)などで用いられる。 === アップライトピアノ === {{Main|アップライトピアノ}} [[ファイル:Varies 032.jpg|thumb|アップライトピアノ ヤマハ製]] アップライトピアノは、フレームや弦、[[響板]]を[[鉛直]]方向に配し、上下に延びるように作られている。グランドピアノよりも場所を取らないため、グランドピアノを設置するスペースの取れない家庭や、学校の教室、小規模の演奏会場などに広く設置されている。 グランドピアノでは、ハンマーが反動と重力によって自然な動きで下に落ちるのに対し、アップライトで一般的な前後に動くハンマーでは、反応のよいピアノ・アクションを製造することは難しい。これはハンマーの戻りをばねに依存せざるをえず、経年劣化するためである。またレペティションレバーという、ジャックをハンマーの下に引き戻す機構が、ほとんどのアップライトピアノには備わっていないため、連打性能に関しては決定的に劣る。 === エレクトリックピアノ === {{Main|エレクトリックピアノ}} 20世紀の中頃より、音響部分を[[電気回路]]に置き換えたエレクトリックピアノ(電気ピアノ)が登場した。 音色が独特であるため、アコースティックピアノの代用品として使用されるケースは稀であり、しばしば同じ楽曲作品内でアコースティックピアノとエレクトリックピアノの両方を使用し共存する楽曲も多い。 発音原理はアコースティックピアノと同じく、ハンマーで音源部を叩くことで音を得ているが、音響増幅をボディ部分の反響から得ているアコースティックピアノと異なり、音源部で鳴らした音を[[電磁誘導|磁気]]や[[圧電素子|ピエゾ]][[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]などで拾い、[[アンプ (音響機器)|アンプ]]で電気的に増幅して[[スピーカー]]から出力している。アコースティックピアノとエレクトリックピアノは物理的な発音構造が基本的には同じであるので、他の楽器で例えるなら[[アコースティック・ギター]]と[[エレクトリック・ギター]]の関係に近い。合成音ではなく実際に物理的な音源部を振動で鳴らしているため、電源を入れずとも演奏すれば小音量ながら生音は聞こえる。 音源部の素材や反響・共鳴方法はメーカーや機種によってまちまちであり、最もよく知られるエレクトリックピアノの一つである[[ローズ・ピアノ]]は、各鍵盤ごとの音程を発音する金属片を弦の代わりに叩くことで原音を鳴らし、またその振動を別の金属板で共鳴させている。 [[ヤマハ]]の製品のように、アコースティックピアノと同じく弦を使用するものもある。当然ながら音源部が同じため、弦以外の音源を使用する機種よりもアコースティックピアノに音は近く、この構造を持つ[[ヤマハ・CPシリーズ|CP-70やCP-80]]などは[[エレクトリック・グランドピアノ]]とも呼ばれる。 また、アコースティックピアノにピックアップを搭載したエレクトリックアコースティックピアノとも呼べるハイブリッドモデルも存在するが、後述の電子ピアノにおけるハイブリッド機とは構造が異なり消音機能がある訳ではない。構造としては同じ音を電気的に出力するかしないかだけであるため、仮に消音処理を行なえばエレクトリックピアノとしての音も発音されなくなる。電源を通した場合も当然アコースティックピアノとしての生鳴りは残り、住宅事情や夜間演奏の対策になるものではない。 エレクトリックピアノは発声原理がアコースティックピアノと基本的には同じか、もしくは似通っているため、電子回路で音を生成・合成する[[エレクトロニックピアノ]]([[アナログ]]電子ピアノ)や、デジタルピアノといった電子ピアノ類とは明確に区別される。 === 電子ピアノ === {{Main|電子ピアノ}} 物理的な音源を用いずに、電子回路によって音を生成及び合成しているものは電子ピアノと呼ばれる。上位モデルではペダルや、実際のピアノの感触を再現した鍵盤、多様な音色、および[[MIDI]]端子を備えている。とりわけ、コンサートなどで用いられることを想定した脚部分のない本体部分だけのものはステージピアノとも呼ばれる。 電子ピアノの音色生成や合成方法はアナログ・デジタルなど様々であるが、古くは[[1970年代]]に[[アナログシンセサイザー]]の技術を転用してピアノの音色再現を試みたエレクトロニックピアノが、[[1980年代]]には[[デジタルシンセサイザー]]の技術を用いた[[FM音源]]による合成や[[サンプリング]]技術を利用して打鍵にあわせて音を再生するデジタルピアノが登場した。FM音源式はローズピアノなどの音色の再現がしやすく、サンプリング式は本物のエレクトリックピアノの音色をそのまま録音して収録できるため、メンテナンスや搬入に難の多い本物のエレクトリックピアノが駆逐される原因ともなった。特に90年代以降アコースティックピアノやエレクトリックピアノの代用として用いられているものはサンプリングタイプが多く、一般に単にデジタルピアノや電子ピアノと呼ぶ場合はこのタイプを指す。近年では通常のピアノを切り替えによって電子ピアノとしても使用できる[[サイレントピアノ]]も登場している。サイレントピアノ類は、前述のアコースティックピアノとエレクトリックピアノのハイブリッド機とはまったく異なり、電子ピアノとして使用する場合は生音が消音され、デジタル音源によるサンプリング音が出力される。 電子ピアノは内部構造や発音原理が[[シンセサイザー]]類と同じであるため、ピアノの音色や打鍵感覚に重きを置いたシンセサイザーと見ることもできる。エレクトロニックピアノはアナログシンセサイザー、デジタルピアノはデジタルシンセサイザーとそれぞれ相同である。実際のところ、「電子ピアノ」と銘打っていてもデジタルピアノには一般的なシンセサイザーのようにピアノ以外の多彩な音色を備えている機種が多く、そういった機種ではピアノ的な打鍵の重さや細かいコントローラ類が省かれているのを気にしないのであれば、シンセサイザーとしても使用可能である。 多くのデジタルピアノでアップライトやグランドなどのアコースティックピアノ音色の他に、エレクトリックピアノの音色や、古い時代のシンセサイザーに搭載されていたピアノ音色うち、人気の高いものなども搭載されている。しかし、現在の技術水準ではアコースティックピアノの要である打弦されていない弦の共鳴による響きを完全に再現することは困難であり、[[物理モデル音源]]技術などを用いた開発が続けられている。 === その他 === [[ファイル:Steinway piano - Duo-Art.ogv|thumb|デュオ・アート自動ピアノ、アメリカ・エオリアン社製]] 上に分類されないピアノの形態としては、かつて長方形をした[[スクエア・ピアノ]]があったが、[[19世紀]]中頃から次第に姿を消し、現在は製造されていない。 [[トイピアノ]]は19世紀に製造が始まった、元来は玩具用のピアノである。[[1863年]]、[[アンリ・フルノー]]が[[ピアノ・ロール]]を用いて自動演奏する[[自動ピアノ]]を開発した。自動ピアノでは紙製のパンチ・ロールを使って演奏を記録し、気圧装置を使ってこれを再生する。現代の自動ピアノとしては[[ヤマハ]]の[[ディスクラヴィーア]]があり、これは[[ソレノイド]]と[[MIDI]]を使用したものである。 [[アーヴィング・バーリン]]は、[[1801年]]に[[エドワード・ライリーが]]開発した移調ピアノという特殊なピアノを使用した。これは鍵盤の下に備えられたレバーによって、望みの調に移調できるというものであった。バーリン所蔵ピアノのうちの1台は[[スミソニアン博物館]]に収められている。 [[20世紀]][[現代音楽]]の楽器として、[[プリペアド・ピアノ]]がある。プリペアド・ピアノは標準的なグランド・ピアノに演奏前にさまざまな物体を取り付けて音色を変えたり、機構を改造したものである。プリペアド・ピアノのための曲の楽譜には、奏者に対してゴム片や金属片(ねじ・ワッシャーなど)を弦の間に挿入する指示が書かれていたりする。 == 構造 == [[ファイル:Fortepian - schemat.svg|thumb|center|700px|ピアノの構造の概念図]] [[ファイル:Bosendorfer 185.JPG|thumb|グランド・ピアノの内部。ベーゼンドルファー製、2006年。中・高音部と低音部の弦がクロスしている。弦の本数は低音部から1本、2本、3本と増える。]] [[ファイル:Bosendorfer capo d'astro bar.JPG|thumb|ベーゼンドルファー社グランド・ピアノ内部。一列にならぶ黒い部品がダンパー。高音部(画面奥)には設置されていない。]] [[ファイル:SoundboardBracesRibs.jpg|thumb|グランド・ピアノの底、部分写真。響板と響棒が確認できる。]] [[ファイル:Cross-stringed piano Inside.jpg|thumb|アップライトピアノの内部構造。フレームと弦は鍵盤の上下にのびている。中・高音部と低音部の弦はクロスして張られている。]] [[ファイル:Upright piano inside.jpg|thumb|アップライト・ピアノの内部構造。Jaschinsky製、1900年頃。]] [[ファイル:Upright piano hammers & dampers.jpg|thumb|Jaschinsky製アップライト・ピアノ内部(低音部)。ダンパーとハンマーヘッドが見える。手前はチューニングピン]] [[ファイル:Steinway grand piano - pedals.jpg|thumb|ピアノのペダル]] [[ファイル:Steinway Vienna 011.JPG|thumb|]] [[ファイル:Pedal piano 1.JPG|thumb|ペダル・ピアノ]] 以下では基本的にモダンピアノの構造を解説する。モダンピアノの基本的な構造は、鍵盤、アクション(ハンマーとダンパー(4))、弦(上図-16)、[[響板]](15)、ブリッジ(12)、フレーム(1・14)、ケース、蓋(2・5)、ペダル(11)などからなる。打鍵に連動してダンパーがあがると共にハンマーが弦を叩いて振動させ、この振動は弦振動の端の一つであるブリッジ(駒)から響板に伝わり拡大される。またペダルによって全てのダンパーがあげられていると、打弦されていない他の弦も共鳴し、ピアノ独特の響きを作り出す。鍵から手を離すとダンパーがおり、振動が止められる。 フレームおよびそれを支える木製<ref group="注">一部にはアクリル製のものもある。</ref>の胴体、足、弦、アクション機構などによりピアノの重量は[[オルガン|パイプオルガン]]を除くほかの楽器に比べて桁違いに重く、アップライト・ピアノで200 [[キログラム|kg]]〜300 kg、グランド・ピアノでは300 kg以上、コンサート・グランドでは500 kgを超えることも珍しくない。このため、ごく少数のこだわりを持つ演奏家を除いて[[コンサート]]に自分のピアノを持参することはなく、会場にある楽器を使う。 === 鍵盤 === 標準的モダンピアノは黒鍵36、白鍵52の計'''88鍵'''を備える(A0からC8に及ぶ7[[オクターヴ]]と[[短三度|短3度]])。この音域のものは19世紀後半頃から作られ始め、[[第一次世界大戦]]後に標準となったものである。88鍵が標準的になったのは、この音域が楽音として人間が認識できる限度であるためだといわれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/piano/trivia/trivia007.html|title=ピアノのマメ知識: ピアノの鍵盤数が88鍵から増えないわけは?|work=楽器解体全書|publisher=ヤマハ|accessdate=2020-1-1}}</ref>。鍵そのものは、ほとんどの場合木でできており、表面にかつては白鍵は[[象牙]]を、黒鍵は[[コクタン|黒檀]]を貼っていることが多かったが、現在では合成樹脂製付き板を使ったものが多い。また、近年では、象牙や黒檀の質感を人工的に再現した新素材(人工象牙、人工黒檀)などが採用されたものもある。 古いピアノには85鍵(A0からA7の7オクターヴ)のものも多く、また88鍵を越える楽器も存在する。[[ベーゼンドルファー]]の一部のモデルは低音部をF0まで拡張しており(92鍵)、C0まで拡大して8オクターヴ(97鍵)の音域を持つ1モデル([[ベーゼンドルファー・モデル290|モデル290 “インペリアル”]])も存在する。このような拡張部分は、不要時には小さな蓋で覆えるようになっているものや、拡張部分は白鍵の上面を黒く塗って、奏者の混乱を防ぐ措置がとられているものがある。これよりも最近に、オーストラリアのメーカー[[スチュアート・アンド・サンズ]]社でも97鍵 (F0~F8)・102鍵 (C0~F8) ・更には108鍵(C0~B8に及ぶ9オクターヴ)の楽器を作っており、この108鍵のピアノは2018年9月に初めて作られたもので、2022年現在世界一広い音域を持つピアノとなっている。また102鍵 (C0~F8) の楽器はフランスの[[ステファン・ポレロ]]社でも作られている。これらのスチュアート・アンド・サンズ社やステファン・ポレロ社などのモデルでは、拡張音域の鍵盤の見た目は他と変わらない。拡張音域は、主により豊かな共鳴を得るために追加されたもので、これらの音を使うように作曲されている楽曲は僅かである。 逆に、流しのピアニストたちが使う、65鍵の小さなスタジオ・アップライトもある。「ギグ」ピアノと呼ばれるこのタイプのピアノは、相対的に重量が軽く、2人で持ち運び可能であるが、響板部分はスピネット・ピアノやコンソール・ピアノよりも大きく、力強い低音部の響きを有する。 {{See also|[[88鍵のピアノの音域外の音]]}} === アクション === 鍵を押し下げるとハンマーが連動して弦を叩く仕組みを'''アクション'''という。アクション機構は伝統的に木材で作られてきたが、近年はごく一部のメーカーで[[炭素繊維]]を含ませた[[ABS樹脂]]なども使われる。 鍵を押し下げた時に、ハンマーが弦の手前 2〜3[[ミリメートル]]の位置にくると、ハンマーが鍵の動きから解放される。この動きを「レット・オフ」といい、このような機構をエスケープメントと呼ぶ。打撃による発音では発音体との接触時間を短くすることが重要な要素であるが、これを鍵盤の動きにかかわらず一定の条件で行うための仕組みであり、このエスケープメント・アクションを発明したことが今日のピアノの地位を築く出発点であった。弦とハンマーの間の距離は2〜3 ミリの範囲内のいずれでも良いわけではなく、全鍵において可能な限り揃えられる必要があり、これをレット・オフ調整という。一部のメーカでは最高音部のレット・オフを 1ミリまで近づける方が充分な音色を得られることがある。この機構のため、鍵を押し下げるときに指に感じられる重さは、押し下げきる直前で軽くなる。鍵が軽くなってから鍵が深く沈むと、鍵が重く感じられる。 アクションで次に重要な課題となったのは、エスケープした部品(ジャック)を如何に素早くハンマーの下に戻して次の打弦に備えるかであり、様々な方式のアクションが発明、改良されることになった。歴史的には大きく分けてウィーン式アクションとイギリス式アクションが存在した。モダンピアノのアクションは基本的にイギリス式アクションの系列である。 <gallery> Image:Erard_double_pilot_action.svg|[[エラール]]・ダブル・パイロット・アクション、1790年頃 Image:Broadwood grand square action.svg|イギリス式のチェックを備えたダブル・アクション(1830年頃のブロードウッド社のスクエア・ピアノのアクション) Image:American french square action.svg|チッカリング社製スクエア・ピアノ、1870年頃のアクション Image:Fortepian - mechanizm wiedeński.svg|ウィーン式アクション概念図 Image:Fortepian - mechanizm angielski.svg|ダブル・エスケープメントのイギリス式アクション概念図 Image:Pianino - mechanizm wiedeński.svg|ウィーン式アップライト・アクション概念図 Image:Pianino - mechanizm angielski.svg|イギリス式アップライト・アクション概念図 </gallery> モダンピアノでは、アップライト・ピアノはジャックのみがエスケープするシングル・エスケープメント・アクションを用いているが、グランド・ピアノはジャックとレペティションレバーがエスケープするダブル・エスケープメント・アクション(原型は[[エラール]]が開発)を用いている。 ダブル・エスケープメント・アクションにはレペティションレバーという部品があり、これによって素早い連打を可能としている。これは、打弦後、鍵を押し下げる力をわずかに緩めた瞬間に、レット・オフの時にジャックとともに外れて(エスケープして)いたレペティションレバーがハンマーを持ち上げて維持し、ジャックの戻りをたやすくする機構である。これにより鍵の深さの半分まで戻すことで次の打弦が可能になる。 {| class="wikitable" |+ダブル・エスケープメント・アクションの動き |- |[[ファイル:Double escapement1.jpg|250px|A]]||[[ファイル:Double escapement2.jpg|250px|B]]||[[ファイル:Double escapement3.jpg|250px|C]] |- |colspan="3" |1) ハンマー・シャンク, 2) ローラー, 3) レペティションレバー, 4) ジャック, 5) レペティションのばね, 6) ウィペン。<br />左:打鍵前。ジャックはまだローラーの真下にある。<br />中央:打鍵直後。ジャックはエスケープし、ハンマーとローラーは落下中。この状態では連打はまだできない。<br />右:鍵からまだ手を離していない状態。レペティションのばねがウィペンとジャックを下方向へひっぱり、その間、レペティションレバーがローラーより鍵盤側の位置でハンマーを持ち上げている。 |} 一方、ハンマーが弦を横から叩くアップライト・ピアノでは、シングル・エスケープメント・アクションのために鍵が完全に戻らなければ次の打鍵はできない。ハンマーが戻るのを助けるバットスプリングと呼ばれるスプリングが付いているために、この力によってハンマーが戻りやすくなっているようにとらえられがちであるが、スプリングを外しても連打の性能には大きな変化はない。正しくアクション調整が行われたグランド・ピアノのアクションでは、毎秒14回程度の、アップライト・ピアノでは7回程度の連打が可能である。レペティションレバーの有無という構造の違いが、グランド・ピアノとアップライト・ピアノのタッチ、表現力の差に大きく影響を及ぼしている。グランド・ピアノのダブル・エスケープメント・アクションは、シュワンダー式アクションが主流だったが、[[1970年代]]以降スタインウェイ式アクションを採用するメーカが多くなった。 アクションにおいてハンマーとともに重要なのが、ダンパーと呼ばれる消音装置である。打鍵時以外はこれが弦に密着し、その振動を常に抑えている。鍵を叩くと、ハンマーがハンマーと弦の間(打弦距離)の1/3 ないし 1/2 進んだときにこのダンパーが弦から離れ始めるように調整される。これにより弦の自由な振動を可能とする。鍵を抑えている間中ダンパーは離れているが、鍵を離すと同時にダンパーが弦に戻り、弦の振動を止め、音が消える。ただし、ピアノの最高音部は、弦の鳴る時間が短いため、ダンパーを備えない。 弦に直接触れるハンマーヘッドは、一時樹脂製のものが用いられたこともあったが、今ではほぼ例外なく羊毛のフェルトでできている。ハンマーヘッドは長時間演奏されれば変形するが、音色に大きく影響するものなので、音程の調律ほど頻繁ではないが定期的に調整することが必要となる。具体的には、調律師など専門の技術者が「ファイラー」と呼ばれる表面にサンドペーパー(紙または布製#80〜#800程度を数種類)を貼ったものでハンマーフェルトの表面を削り整形したり(ファイリング)、「ピッカー」と呼ばれる柄に針を数本取り付けた工具でハンマーフェルトを繰り返し刺して音色を整える整音(「ボイシング」または「ピッカーリング」とも呼ばれる)を行う。 技術が進歩した近年では、[[電気ピアノ]]のように同じような発音原理を持ちながら電気的に増幅するものや、電子的に発音するピアノに類する楽器も登場している。 === 弦 === ピアノは鍵盤と同じ数(前述の通り現在の標準的ピアノでは88)の音高を持つが、1音あたりの弦の数は音高により異なり、最低音域では1本、低音域では2本、中音域以上では3本張られ(その境界は機種によりまちまち)、弦の総数は200本を超える。各音の弦は複数弦でも単一のハンマーで同時に叩かれるが、グランド・ピアノの弱音ペダルを踏むとハンマーを含めた鍵盤の機構すべてが物理的に横方向にずれ、中音域以上では叩かれる弦の数が3本から2本に減り、低音域では2本の場合はそのうち片方の弦のみが、1本の場合もその弦の端の方のみがハンマーで叩かれるので音量が低下する。 弦は'''ミュージックワイヤー'''と呼ばれる特殊な鋼線([[ピアノ線]]の中でも、特に高品質なもの)で、低音域では質量を増すために銅線を巻きつけてある。音域ごとの弦の仕様に関しては、具体的には次のようなものがある。 * 低音域は低い方から「1音あたり1本、銅巻き線あり」「1音あたり2本、銅巻き線あり」、中音域以上は「1音あたり3本、銅巻き線なし」(多くの機種) * 低音域は低い方から「1音あたり1本、銅巻き線あり」「1音あたり2本、銅巻き線あり」「1音あたり3本、銅巻き線あり」、中音域以上は「1音あたり3本、銅巻き線なし」(一部の機種) 弦長は、一般に長いほうが豊かな音色になる(その分張力を増さねばならない)といわれ、限られた寸法の中で最長の弦長を確保するために、弦を2つのグループに分け、各グループ内の弦は同一平面上に張られるが、段差を持った2枚の平面が角度を持って交差するようになっていることが多い(オーバー・ストリンギング)。弦はフレームに植えられたチューニングピンで張られるが、1本あたりの張力は70~80[[重量キログラム|kg重]]程度で、全弦の張力の合計は20[[重量トン|トン重]]にも及ぶ。ピアノが現在の音量を出せるようになったのは、この張力に耐える鋼製のミュージックワイヤーと鉄製のフレーム(現在は一体の[[鋳物]])が使われるようになってからである。 現在{{いつ|date=2016年6月}}のピアノではオーバー・ストリンギングのために、音が濁るという欠点が存在する。[[ドイツ]]の[[:w:David Klavins|David Klavins]]は、この問題を解決するために[[1987年]]にKlavins Piano Model 370を発表した<ref>[http://www.klavins-pianos.com/details.htm Neue Dimension im Klavierbau - Das Klavins-Piano Modell 370 -]、Klavins Pianos</ref>。このピアノは弦を平行に配置するために高さは3.7m(名前の由来となっている)、総重量20トン以上にも上る巨大なもので、共鳴板はグランドピアノの二倍以上あり、階段の上にアップライト型の鍵盤が配置されている。Model 370は2012年現在も世界最大のピアノである。ちなみにこの楽器は[[オルガン]]同様据え付けとなっているためコンサートなどには使用できず、ほとんど映画などの音源収録のみに使われている。2012年には、[[Native Instruments]]からModel 370から収録した[[KONTAKT 5]]用の[[ソフト音源]]"THE GIANT"が発売されている<ref>[http://www.native-instruments.com/#/jp/products/producer/powered-by-kontakt/the-giant/ THE GIANT]、Native Instruments</ref>。 === 響板・大屋根(反響板) === {{See also|響板}} 響板・響棒は弦の下に位置し、ブリッジを通じて伝えられた弦の振動を空気に効率良く伝える。響板は[[柾目]]に木取りされておりその方向はブリッジの長さ方向に一致させるのが一般的である。響棒は響板のブリッジに対して反対面に位置し、やはり柾目に木取りされている。響棒は響板木目方向に対して、つまりブリッジの長さ方向に対しても交差する方向に配置される。響板を支える骨組みの役目を果たすが、響板・響棒材を伝わる音は木目方向と木目横断方向ではおよそ4:1となるために、響板の柾目横断方向への振動の伝播を助け、響板全体に振動が均質に伝わるように工夫されてもいる。 グランドピアノでは弦を覆う上蓋(大屋根)がついており、これを持ち上げることによってより豊かな音量を出すことが出来る。これは支え棒によって斜め約45度に固定される。これにより音が指向性を帯びる。演奏者から見て右側が開くため、演奏会場では客席に向かって音を発するように、客席から向かって左側に鍵盤が置かれる。大屋根を半開にすることもでき、伴奏ではこの状態が好まれる。 アップライトピアノも上部の蓋を開けることができ、これによって若干の音量調節は可能になるものの、グランドピアノほど効果的ではない。むしろほこりが入るので開ける事はあまり好まれない。 === ペダル === 21世紀現在の一般モダンピアノは、'''3本'''のペダルを備える。20世紀以前は2本のペダルのメーカーも存在した。 第1のペダルは、一番右の長音ペダルであり、'''ダンパーペダル'''と呼ばれる。このペダルを踏むと、すべてのダンパーが離れ、打鍵した音が延びる。また演奏した弦だけでなくそれらの部分音成分に近い振動数を持つ弦が共鳴することで、ペダルを踏まずに鍵を押下したまま音を延ばした場合よりも音が豊かに聴こえる。ペダルを放すとダンパーが戻り、延びていた音は止まる。 またペダルの踏み込み具合を半分などに調節することで、音の延び具合を調節することも出来、これをハーフペダルと呼ぶ。さらに熟練した奏者は、このハーフペダルと完全に踏み込んだ状態とを往復する操作によって、延び具合を周期的に変化させ、ヴィブラートに似た演奏効果を得ることも可能である。[[武満徹]]の「雨の樹素描」では楽譜上にこれらの踏み込み具合の指定がある。このペダルを踏み込んでいるときの弦は周囲の音にも共鳴し得るので、合唱曲の伴奏などでは[[歌唱]]にピアノが共鳴している現象も聞き取れることがある。ピアノで一切発音せず、ペダルの踏み込み具合や鍵を無音で押し込むことによって他の楽器に共鳴させる奏法もある。例えば[[ルチアーノ・ベリオ]]の「[[セクエンツァ (ベリオ)|セクエンツァ]]X」(トランペットと共鳴ピアノのための)ではトランペット奏者がピアノの内部に向かってトランペットを吹き、その共鳴を聞き取る場面がある。 第2のペダルは、一番左の弱音ペダルであり、'''ソフトペダル'''、もしくは'''シフトペダル'''と呼ばれる。グランド・ピアノでは、このペダルを踏むと鍵盤全体がフレームに対して少し右にずれ、中高音域ではハンマーが叩く弦の本数、低音域では弦に当たるハンマーの部位が中央から端に変わり、音量が減少する(ウナ・コルダ)。アップライト・ピアノでは、ハンマーの待機位置が弦に近づく(打弦距離が短くなる)ことで打弦速度が下がり、音量が小さくなる。ハンマーは弦の手前2〜3mmで鍵盤からの動きを遮断(レット・オフ)され自由運動で打弦するが、きわめて弱い音を速い[[テンポ]]で繰り返す場合には、ハンマーが弦を打たないミス・タッチとなる。そこでソフトペダルを使用して打弦距離を幾らか短くすることで、弱く弾いた場合でもミス・タッチを起こしにくくする効果がある。つまりアップライト・ピアノのソフトペダルは、他のペダルのようにペダルを踏むことによって何かしらの効果を得るものではなく、演奏の補助的な役割を果たすペダルといえる。 第3のペダルは、中央のペダルである。かつてはエラールなど多くのメーカーによって省略されていた。グランド・ピアノでは、'''ソステヌートペダル'''と呼ばれ、このペダルを踏んだ時点で押していた鍵のダンパーが、鍵から手を放してもペダルを踏んでいる間は弦に降りないようになっている。主に低音の弦を延ばしたまま高音部を両手でスタッカートで弾いたり、あるいは高音部のみダンパーペダルを複数回踏み変える奏法に際して用いられる。前者は[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]の「3つのピアノ曲」(作曲者自身はこの指定をしていないが、ピアニストによってこの奏法を採るものが多い)、[[サミュエル・バーバー]]の『[[ピアノソナタ (バーバー)|ピアノソナタ]]』終楽章の[[フーガ]]など、後者は[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]のピアノ曲集「映像」第2曲「ラモーを讃えて」や、[[武満徹]]の「閉じた眼」「雨の樹素描」などの作品で効果的に使われる。また低音の鍵を無音で押さえたままソステヌートペダルを踏んで「鍵を押しっぱなし」と同じ状態にし、高音部の鍵をダンパーペダルなしで(多くの場合スタッカートで)弾く事により、低音で押された音の部分音の振動数に対応する音が部分音の[[共鳴]]によって若干の残響を伴って聞こえる。多くの現代音楽で使われている奏法である。 アップライトピアノの中央のペダルは、マフラーペダルとも呼ばれ、夜間練習などのために、弦とハンマーの間にフェルトを挟んで、音を弱くする。踏み込んだペダルを左右いずれかにずらすことでロックされ、踏みっぱなしにしておくことができる。 もともとのこのペダル効果はハンマークラヴィーアなどでハンマーと弦の間に薄い皮や羊皮紙などを挟み、音色の変化を愉しんだことによる。 歴史的楽器では4つないし5つのペダルを持つものもあり、このうちのいくつかはシンバルや太鼓といった打楽器に連動されていた。[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の一部の作品では、これらの打楽器に連動するペダル構造を用いた曲もある。現代でも[[ファツィオリ]]社のグランドピアノでは第4のペダルを備えるものがある。このペダルを踏むことにより、鍵盤の前面が下がり、鍵盤の沈む深さが浅くなる。現代のピアノが沈む深さは平均して約1cmであるが、モーツァルトが活躍した時代の鍵盤が沈む深さは約6mmであり、操作は現代よりも遥かに軽やかであった。この時代のような鍵盤の軽やかさを現代のピアノに持たせるために第4のペダルが備えられたものである{{Sfn|斎藤信哉|2007}}。現在第5ペダルと呼べる「ハーモニックペダル<ref>[http://www.harmonicpianopedal.com/index-en.php Welcome to Harmonic Piano Pedal!] 2018年8月11日閲覧</ref>」は、どのメーカーのグランドピアノにも接続することができる。すでに新製品に組み込んだメーカー<ref>[https://www.feurich.com/en/innovation/pedale-harmonique/ PÉDALE HARMONIQUE] 2018年8月11日閲覧</ref>も出現している。近年はアップライトピアノであっても、グランドピアノと同等のペダル能力を持つピアノが出現している<ref>[http://apollopiano.jp/a133ciresa/ 世界で最もグランドピアノに近いアップライトピアノ] Apolloピアノ 2018年8月11日閲覧</ref>。 ==ペダルピアノ== また[[オルガン]]と同様に足鍵盤を備えた楽器、[[ペダルピアノ]]も存在する。[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[シャルル=ヴァランタン・アルカン]]らにペダルピアノのための作品がいくつかある。[[ロベルト・プロッセダ]]が現代テクノロジーを用いて復刻された楽器を用いている<ref>[https://www.hyperion-records.co.uk/a.asp?a=A2399 Gounod: The complete works for pedal piano & orchestra] 2018年8月11日閲覧</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20170512115310/http://www.pinchi.com:80/pedalpiano.asp Pinchi Pedalpiano System] 2018年8月11日閲覧</ref>ほか、メーカーが市販した<ref>[https://web.archive.org/web/20171209225744/http://www.borgato.it:80/doppioborgato.htm DOPPIO BORGATO CONCERT GRAND PIANO WITH PEDALBOARD] 2018年8月11日閲覧</ref>例がある。 == 調律 == {{Main|ピアノ調律}} 各弦の張力を調整する[[調律]]は、今日のほとんどのピアノが[[平均律#十二平均律|十二平均律]]で調律される。他の弦楽器に比べて張力が大きく、またピンの保持力も高いため音程の精度はかなり高く誤差は1[[セント (音楽)|セント]](十二平均律の[[半音]]の100分の1)単位まで求められる。例外的に平均律以外に調律されることもあり例えば、テリー・ライリーには、通常のピアノの調律である平均律ではなく、[[純正律]]に調律されたピアノを用いる作品がある(「in C」など)。また、[[ジェラール・グリゼー]]の後期作品「時の渦」は、ピアノの特定の数音を[[四分音]]下げて調律することが要求される。調律の狂ったような音に聴こえるが、これは合成された倍音に基づく調律である。特に激しい跳躍のある第1部のカデンツァにおいて効果的に響く。いずれの場合もコンサートに用いる際はピアノ調律師の特殊な技能が要求され、また日本のコンサートホールではこのような特殊調律を断られる場合があるので、それでもあえて演奏する場合にはピアノのレンタルが必要になる。 {{See also|ピアノの音響特性}} == 奏法 == [[19世紀]]には[[ヴィルトゥオーゾ]]の[[ピアニスト]]らにより、[[リストの半音階]]、[[3本の手]]などの技巧が開発された。 === クラスター奏法 === クラスター奏法とは、[[ヘンリー・カウエル]]らによって提唱されたもので、鍵盤を手・腕・ひじを使って打楽器のように演奏する。[[トーン・クラスター]]も参照のこと。 === 内部奏法 === [[内部奏法]]とは、ピアノを鍵盤によってではなく、内部の弦を[[ギター]]の[[プレクトラム]](ピック)などで直接はじいたり、弦の縁や真ん中を指で押さえながら対応する鍵盤を弾いたり、[[松脂]]を塗った[[ガラス繊維]]あるいは[[弦楽器]]の弓の毛を、ピアノ内部の特定の弦に通して[[擦弦]]したりすることにより、本来のピアノにはない音色を得るための奏法。ピアノの[[作音楽器]]に劣後する特性を何とか克服しようとするものである。 [[現代音楽]]では当たり前のように多用されるが、日本の多くの[[コンサートホール]]は新しい楽器1台しか用意してないことが多く、楽器が傷むという理由からこの内部奏法を非常に嫌悪し禁止している。それに対して外国とくにヨーロッパでは古い楽器や破壊用の楽器も万遍無く用意してあることが多いのでこのような規制はほとんど見受けられない。とはいえ、楽器に傷をつけやすい金属製器具での演奏は控えたり、指の汗が弦につくことを考慮し演奏後には[[サビ]]防止のためにきちんと布でふき取るなどの配慮は必要である。 === 連弾 === [[ファイル:Wolfgang01.jpg|thumb|300px|連弾する[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]と姉[[マリア・アンナ・モーツァルト|マリア・アンナ]]。ヴァイオリンを持つのは父[[レオポルト・モーツァルト]]、肖像画は母アンナ・マリア。ヨハン・ネポムク・ デラ・クローチェ、1780年頃。]] ピアノは1人だけでなく、2人以上が一台の楽器を同時に演奏することも可能である。これを[[連弾]]という。 19世紀のヨーロッパでは、サロンの愛好家やアマチュアの子女のたしなみとして連弾のための音楽がもてはやされた。[[ヨハネス・ブラームス]]はこのような状況を受けて『[[ハンガリー舞曲]]』を書いた。さらに後輩である[[アントニン・ドヴォルザーク]]に『[[スラブ舞曲]]』を書くことを勧めた。どちらも連弾のレパートリーとして欠かせない楽曲であり、またオーケストラ編曲としても親しまれている。 [[カミーユ・サン=サーンス]]の「交響曲第3番『オルガン付き』」では、第4楽章においてオーケストラ内のピアノが連弾で用いられる(しかし主役はオルガンであり、そちらの方がずっと目立つ)。また一般的な2人で演奏して高音部と低音部を弾き分ける4手連弾のほかに、3人で演奏する6手連弾も[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]などの楽曲に作例が見られる。 === 2台ピアノ === ピアノを2台並べて演奏する方法。連弾よりも音量において勝り、また奏者が2人とも音域に制限されずに演奏できる利点がある。その反面、音が混ざり易く、雑多に聞こえ易いという短所もある。2台のピアノは1台ずつそれぞれに調律するのだが、インハーモニシティはそれぞれのピアノに固有のものなので、調律は他のピアノとは完全には一致しない。そのため、微妙なずれによって賑やかな音になる。 多くの場合は2台のピアノを向かい合わせに置くため、双方のピアノは反響板が互いに反対方向に開いてしまう。このため大抵の場合は、聴衆とは逆に開くピアノ側の反響板を取り外して演奏する。 2台ピアノのために書かれたオリジナル曲のほか、オーケストラ曲やピアノ協奏曲を試演する際にも用いられる。この試演とは、主に[[19世紀]]において限られた音楽関係者の聴衆を前にオーケストラ曲の新作を披露する際、または現在においても音楽学校などでピアノ科の生徒が協奏曲を試験などに際して弾く際に用いられる演奏手段である。2台目のピアノを連弾にし、合計3人の奏者が演奏する場合もある。 [[ダリウス・ミヨー]]と[[スティーヴ・ライヒ]]の作品には、それぞれ6台のピアノを同時演奏するものがある。 また[[1993年]]から毎年開催されている[[ヴェルビエ音楽祭]]で、[[2003年]]の10周年記念として行われた[[ガラコンサート]]では、著名なピアニスト8名([[エフゲニー・キーシン]]、[[ラン・ラン]]など)が、[[スタインウェイ]]のピアノ8台を「八」の字に並べ同時演奏した。 == 歴史 == [[ファイル:FortepianoByMcNultyAfterWalter1805.jpg|thumb|ワルター社、1805年頃製のレプリカ、ポール・マクナルティー製作]] {{試聴 | header = ピアノの音の比較サンプル | filename=Frederic Chopin - Opus 25 - Twelve Grand Etudes - c minor.ogg | title=19世紀のピアノ | description=[[フレデリック・ショパン]]、[[練習曲 (ショパン)|エチュード Op. 25, No. 12]]、1851年製[[エラール]]・ピアノ | filename2=Frederic Chopin - etude no. 12 in c minor, op. 25.ogg | title2=20世紀のピアノ | description2=同曲、モダンピアノ }} === 初期 === {{see also|バルトロメオ・クリストフォリ|フォルテピアノ}} 弦を叩くことで発音する鍵盤楽器を作ろうという試みは早くより存在しており<ref>{{Harvnb|Pollens|1995}}. chp. 1.</ref>、中でも鍵盤付きの[[ダルシマー]]系の楽器をピアノの先祖とみる向きもあるが<ref>David R. Peterson (1994), "Acoustics of the hammered dulcimer, its history, and recent developments", ''The Journal of the Acoustical Society of America'' '''95''' (5), p. 3002.</ref>、一般的には、現在のピアノはトスカーナ大公子[[フェルディナンド・デ・メディチ (大公子)|フェルディナンド・デ・メディチ]]の楽器管理人であった[[イタリア]]・[[パドヴァ]]出身の[[バルトロメオ・クリストフォリ]]が発明したとみなされている。クリストフォリがいつ最初にピアノを製作したのかは明らかでないが、[[メディチ家]]の目録から、1700年にはピアノがすでに存在していたことが知られる。現存する3台のクリストフォリ製作のピアノは、いずれも1720年代に製作されたものである。 多くの発明がそうであるように、ピアノもそれまでにあった技術の上に成立している。ピアノに先行する弦を張った鍵盤楽器としては[[クラヴィコード]]と[[チェンバロ]]が特に普及していた。クラヴィコードは弦をタンジェントと呼ばれる金属片で突き上げるもので、鍵盤で音の強弱のニュアンスを細かくコントロールできる当時唯一の鍵盤楽器であったが、音量が得られず、狭い室内での演奏を除き、ある程度以上の広さの空間で演奏するには耐えなかった。一方のチェンバロは弦を羽軸製のプレクトラムで弾くものであり、十分な音量が得られたものの、[[チェンバロ#レジスター|ストップ(レジスター)]]の切り替えで何段階かの強弱を出せる他は自由に強弱をつけて演奏することは困難であった<ref group="注">18世紀後半のチェンバロには、響板上に設置された鎧戸を開閉することにより、連続的な強弱変化を得られるものもある。</ref>。これらの鍵盤楽器は数世紀にわたる歴史を通じて、ケース、響板、ブリッジ、鍵盤のもっとも効果的な設計が追求されていた。クリストフォリ自身、すぐれたチェンバロ製作家であったため、この技術体系に熟練していた。 クリストフォリの重要な功績は、ハンマーが弦を叩くが、その後弦と接触し続けない、というピアノの基本機構を独自に開発した点にある。クラヴィコードでは鍵を押している限りタンジェントが弦に触り続けるが、ハンマーが弦に触れ続ければ響きを止めてしまう。更に、ハンマーは激しく弾むことなく元の位置に戻らなければならず、同音の連打にも堪えなければならない。クリストフォリのピアノアクションは、後代のさまざまな方式のアクションの原型となった。クリストフォリのピアノは細い弦を用いており、モダンピアノより音量はずっと小さいが、クラヴィコードと比較するとその音量は相当に大きく、響きの持続性も高かった。 クリストフォリの新しい楽器は、[[1711年]]に[[イタリア]]の文筆家{{仮リンク|フランチェスコ・シピオーネ|it|Scipione Maffei|en|Francesco Scipione, marchese di Maffei}}(シピオーネ・マッフェイ)がピアノを称賛する記事をヴェネツィアの新聞に掲載するまでは、あまり広く知られていなかった。この記事には構造の図解も掲載されており、広く流通して、次世代のピアノ製作家たちにピアノ製作のきっかけを与えることとなった。オルガン製作家としてよく知られる[[ゴットフリート・ジルバーマン]]もその一人である。ジルバーマンのピアノは、1点の追加を除いては、ほぼクリストフォリ・ピアノの直接のコピーであった。ジルバーマンが開発したのは、全ての弦のダンパーを一度に取り外す、現代のダンパー・ペダルの原型であった。 ジルバーマンは彼の初期製作楽器の1台を1730年代に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]に見せているが、バッハはダイナミックレンジを充分に得るためには高音部が弱すぎると指摘した。その後、ジルバーマンの楽器は改良を加え、[[1747年]][[5月7日]]に[[フリードリヒ大王]]の宮廷を訪ねた際にジルバーマンの新しい楽器に触れた際にはバッハもこれを評価し、ジルバーマン・ピアノの売り込みにも協力したという<ref>渡辺順生編「フォルテピアノについての証言」にて関連資料の日本語訳が読める。なお、この時の即興演奏はのちに『[[音楽の捧げもの]]』としてまとめられた</ref>。 イギリスでは1760年代にはいってピアノの製造が盛んになった。ジルバーマンの徒弟だった{{仮リンク|ヨハネス・ツンペ|en|Johannes Zumpe}}が[[ロンドン]]に移り、1760年ごろにクリストフォリの楽器をもとに改良を加えた楽器を製造してイギリス・アクションの基礎を築いた<ref name="tanjo">{{cite book|和書|author=西原稔|title=ピアノの誕生|year=1995|publisher=[[講談社]]|series=講談社選書メチエ|isbn=4062580535}}</ref>{{rp|12-14}}。ツンペの楽器は当時ドイツで好まれていたスクウェア・ピアノだった{{r|tanjo|page=13}}。1762年に渡英した[[ヨハン・クリスティアン・バッハ]]は1766年の『ピアノフォルテまたはハープシコードのための6つのソナタ』作品5において、ハープシコードと併記する形ではあるがはじめて曲名に「ピアノフォルテ」を使用している<ref>{{cite book|chapter=Pianoforte|year=2001|title=Grove Music Online|publisher=Oxford University Press|doi=10.1093/gmo/9781561592630.article.21631}}</ref>。 フランスの[[セバスチャン・エラール]]が1777年に制作したピアノもツンペの楽器をもとにしたイギリス・アクションの楽器だった。エラールは[[フランス革命]]のはじめにロンドンにわたり、帰国した後もパリとロンドンの両方で楽器を製造した。エラールはイギリスの楽器をもとにしながら多くの改良を加えていった{{r|tanjo|page=22-24}}。 同時期のドイツでは[[アウクスブルク]]の[[ヨハン・アンドレアス・シュタイン]]、その娘でウィーンの[[ナネッテ・シュトライヒャー]]と[[ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャー]]、同じくウィーンの[[アントン・ワルター]]などが活躍した。ウィーン式のピアノは、木のフレームに1音2弦の弦を張り、革で覆ったハンマーをもつ。また現代のピアノとは黒鍵と白鍵の色が逆のものもある<ref name="vienna"> {{cite web |url=http://www.ptg.org/resources-historyOfPianos-viennese.php |title=The Viennese Piano |accessdate=2007-10-09}}</ref>。 [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]はシュタインやワルターの楽器を使用してその[[ピアノ協奏曲]]や[[ピアノソナタ]]を作曲した。これらのウィーンのピアノは、イギリス式のピアノや、現代の一般的なピアノよりも軽快な響きを持ち、減衰が早かった。[[20世紀]]後半より当時の楽器の復元がなされ、[[19世紀]]初頭以前の初期ピアノは[[フォルテピアノ]]としてモダンピアノと区別することも多い。 === モダンピアノへ === [[ファイル:Tafelklavier.jpg|thumb|スクエア・ピアノ、[[19世紀]]末。]] [[ファイル:DuplexScaling.jpg|thumb|デュープレックス・スケール。全長182cm のグランドピアノの高音部の弦。左下から順にダンパー、弦の共鳴長、トレブル・ブリッジ、デュープレックスの弦長、デュープレックス・ブリッジ(弦に対して直角の長いバー)、ヒッチピン]] [[1790年]]から[[1860年]]頃にかけての時期に、ピアノはモーツァルトの時代の楽器から、いわゆるモダンピアノに至る劇的な変化を遂げる。この革新は、作曲家や演奏家からのより力強く、持続性の高い響きの尽きぬ要求への反応であり、また、高品質の<!-- 鋼鉄による[[ピアノ線]]を*****産業革命期にピアノ線はまだないと思われます。 -->弦を用いることができ、正確な[[鋳造]]技術により鉄製フレームを作ることができるようになるといった、同時代の[[産業革命]]によって可能となったことであった。時代を追って、ピアノの音域も拡大し、モーツァルトの時代には5オクターヴであったものが、モダンピアノでは7⅓オクターヴか時にはそれ以上の音域を持っている。 初期の技術革新の多くは、イギリスの[[ジョン・ブロードウッド・アンド・サンズ|ブロードウッド社]]の工房でなされた。ブロードウッド社は、華やかで力強い響きの[[チェンバロ]]ですでに有名であったが、開発を重ねて次第に大型で、音量が大きく、より頑丈な楽器を製作し、初めて5オクターヴを越える音域のピアノを製作した。1790年代には5オクターヴと5度、[[1810年]]には6オクターヴの楽器を作っている。[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]と[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]にも楽器を送っており、ベートーヴェンはその後期の作品で、拡大した音域を利用して作曲している。ウィーンスクールの製作家たちもこの音域拡大の流れを追ったが、イギリスとウィーンではアクションの構造が違っていた。ブロードウッドのものはより頑丈で、ウィーンのものはより打鍵への反応がよかった。 1820年代になると、開発の中心は[[パリ]]に移り、当地のエラール社の楽器は[[フレデリック・ショパン]]や[[フランツ・リスト]]の愛用するところとなった。[[1821年]]、[[セバスチャン・エラール]]は、ダブル・エスケープメント・アクションを開発し、鍵が上がり切っていないところから連打できるようになる。この発明によって、素早いパッセージの演奏が容易となった。ダブル・エスケープメント・アクションの機構が公に明らかになると、[[アンリ・エルツ]]の改良を経て、グランドピアノの標準的なアクションとなり、今日生産されているグランドピアノは基本的にこのアクションを採用している。 [[日本]]に[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]によって初めてピアノがもたらされたのもこの時期である。[[山口県]][[萩市]]の[[熊谷美術館]]には[[1823年]]にシーボルトより贈られた日本最古のピアノ(スクエア・ピアノ)が現存する。 モダンピアノの響きを作り出した大きな技術革新の一つに、頑丈な鉄製フレームの導入があげられる。鉄製フレームは「プレート」とも呼ばれ、響板の上に設置し、弦の[[張力]]を支える。フレームが次第に一体化した構造を獲得するのにあわせて、より太く、張力が高い弦を張ることが可能になり、また張る弦の本数を増やすことも可能となった。現代のモダンピアノでは弦の張力の総計は20トンにも上りうる。単一部品の鋳物フレームは、[[1825年]]に[[ボストン]]にて[[オルフェウス・バブコック]]によって[[特許]]が取得されている。これは、金属製ヒッチピン・プレート([[1821年]]、ブロードウッド社がサミュエル・ハーヴェに代わって特許請求)と、耐張用支柱([[1820年]]、ソムとアレンによって請求、ただしブロードウッドとエラールも請求)を組み合わせたものであった。バブコックは後に[[チッカリング|チッカリング・アンド・マッカイ]]社で働き、[[チッカリング]]社は[[1843年]]にグランドピアノ用のフル・アイロン・フレームを初めて特許取得した。ヨーロッパの工房はその後も組合わせフレームを好むことが多く、アメリカ式の単一フレームが標準となるのは[[20世紀]]初頭である。 その他の代表的発明として、革の代わりにフェルトをハンマー・ヘッドに用いることがあげられる。フェルト・ハンマーは、[[1826年]]に[[ジャン=アンリ・パップ]]によって初めて導入された。素材がより均質である上に、ハンマーが重くなり、弦の張力が増すとともに、より大きなダイナミックレンジを得ることを可能とした。音色の幅を広げるソステヌート・ペダルは、[[1844年]]に[[ジャン・ルイ・ボワスロー]]によって発明され、[[1874年]]に[[スタインウェイ]]社によって改良された。 この時代の重要な技術的発明としてはほかに、弦の張り方もあげられる。低音部を除いて、1音2弦ではなく3弦が張られ、「オーバー・ストリンギング」や「[[交差張弦|クロス・ストリンギング]]」と呼ばれる、2つの高さの[[駒 (弦楽器)|ブリッジ]]を用い、張る向きの変えて弦の並びを重ねる張り方が導入された。このことにより、ケースを長くすることなく、より大きな弦を張ることが可能になった。オーバー・ストリンギングは1820年代に[[ジャン=アンリ・パップ]]によって発明され、[[アメリカ合衆国]]におけるグランドピアノでの使用の特許は[[1859年]]に[[ヘンリー・スタインウェイ]]によって取得された。 テオドール・スタインウェイが[[1872年]]に特許を取得した、デュープレックス ・スケール(もしくはアリコット・スケール)は、張られた弦の共鳴長に続く部分を、共鳴長とオクターヴの関係に調律することで、弦の各部分の振動を制御する技術である。類似のシステム([[アリコート張弦]])は、同じく[[1872年]]に[[ブリュートナー]]社で開発されたほか、[[コラード&コラード|コラード]]社は、よりはっきりとした振動を使って響きを調える技術を[[1821年]]に開発している。 初期のピアノの中には、一般に見慣れない外形や設計を用いているものもある。[[スクエア・ピアノ]]は地面と水平に弦を張ったケースが長方形の楽器で、ハンマーの上に対角線状に弦を張り、ケースの長辺側に鍵盤が設置されている。スクエア・ピアノの設計の原型はさまざまにジルバーマンおよび[[クリスチャン・エルンスト・フレデリチ]]に帰されており、[[ギュイヨーム=レブレヒト・ペツォルト]]と[[オルフェウス・バブコック]]によって改良された。[[18世紀]]後半には[[フォルテピアノ#ツンペ|ツンペ]]によりイギリスで人気を博し、1890年代には、[[アメリカ合衆国]]にてスタインウェイの鋳物フレーム、オーバー・ストリンギング・スクエア・ピアノが大量生産され、人気を博した。スタインウェイのスクエアは、木製フレームのツンペの楽器に較べて2.5倍以上大きかった。スクエア・ピアノは、製作コストが低く、安価なために大人気であったが、簡単な構造のアクションと、弦の間隔が狭いために、演奏のしやすさや響きの点からは難があった。 アップライト・ピアノは弦を垂直方向に張った楽器で、響板とブリッジを鍵盤に対して垂直に設置する。開発初期のアップライト・ピアノでは、響板や弦は鍵盤よりも上に設置し、弦が床に届かないようにしている。この原理を応用し、鍵盤の上方に斜めに弦を張るジラフ・ピアノ(キリン・ピアノ)やピラミッド・ピアノ、リラ・ピアノは、造形的に目を引くケースを用いていた。 非常に背の高いキャビネット・ピアノは、[[サウスウェル]]によって[[1806年]]に開発され、1840年代まで生産されていた。鍵盤の後にブリッジと連続的なフレームが設置され、弦はその上に垂直に張られ、床近くまで延び、巨大な「スティッカー・アクション」を用いていた。同じく垂直に弦を張る、背の低いコテージ・アップライト(ピアニーノとも)は、[[ロバート・ワーナム]]が[[1815年]]頃に開発したとされ、[[20世紀]]に入っても生産されていた。このタイプの楽器は、すぐれたダンパー機構を持ち、俗に「鳥カゴピアノ」と呼ばれていた。斜めに弦を張るアップライト・ピアノは、[[ローラー・エ・ブランシェ]]社によって1820年代後半にフランスで人気を得た。小型のスピネット・アップライトは1930年代半ばより製作されている。このタイプの楽器では、ハンマーの位置が低いために、「ドロップ・アクション」を用いて必要な鍵盤の高さを確保している。 日本では、1900年に日本楽器製造株式会社(後の[[ヤマハ]])が製作した「カメンモデル」の第一号が初の国産ピアノとされる<ref>井上さつき『ピアノの近代史』中央公論新社、2020年、p.62。</ref>。ヤマハは1909年の{{仮リンク|アラスカ・ユーコン太平洋博覧会|en|Alaska–Yukon–Pacific Exposition}}に蒔絵技法を使った漆塗の[[アップライトピアノ]]を出品し、名誉大賞金牌を受賞した<ref>井上さつき『ピアノの近代詩』p.69</ref>。20世紀半ばまで日本のピアノには塗装に[[漆]]が用いられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://tosou.nishizaki.co.jp/lib/mirror-finish-1.html|title=木材塗装ライブラリー: 「ピアノ塗装」と呼ぶべからず|publisher=ニシザキ工芸|accessdate=2020-10-16}}</ref>。当時世界的には木目のピアノが主流だった([[ジャパニング]]も行われていた<ref>{{Cite web|url=https://www.mozartpiano.com/articles/steinway.php|title=The Opening of Steinway & Sons New Piano-Forte Manufactory|accessdate=2020-10-14}}</ref>)が、木目のピアノはデザインの都合上木目を合わせる必要があり、木材の選定に限界があった。ピアノを漆黒の一色で塗装することは、木材の選定に限界がなくなり最良の木材を利用することが出来るばかりか、製造における労力が減るため、大音量の楽器を大量生産することが可能になる<ref>[https://www.noahmusic.jp/piano/blog/7160.php ピアノはなぜ黒いのか?]</ref><ref>[https://www.grandg.com/column/01/index.php なぜピアノが黒いのか?]</ref>。[[昭和40年代]]以降には、耐久性に優れる不飽和[[ポリエステル]]樹脂と[[アニリンブラック]]を用いた鏡面仕上げ塗装が行われるようになった<ref>{{Cite journal|和書|author=居谷滋郎|title=塗料の歴史|journal=色材協会誌|volume=56|issue=11|publisher=色材協会|date=1983|doi=10.4011/shikizai1937.56.729|accessdate=2020-10-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kantoko.com/?p=2947|title=世界一黒いもの 黒の物語その3|publisher=関東塗料工業組合|accessdate=2020-10-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chopin.co.jp/media/Encyclopedia_The_PIANO/a3502|title=楽器の事典ピアノ 第7章 ピアノの種類およびその構造と機能 4 ケース: ピアノの形状・サイズとそれらの性能の差異|publisher=ハンナ|accessdate=2020-10-16}}</ref>。 1965年には、日本の住宅事情に合わせて、アップライトピアノにおける音量を大幅に低下させるマフラーペダルがヤマハにより開発された。 {{要出典|date=2019年4月1日 (月) 19:06 (UTC)|その後は細かい部分の改良を除いては大幅な変更もなくなり、 モダンピアノの標準型が形成されることとなった。}} == 代表的なメーカー == <!-- この項はだんだん数が増えてきて、代表的とは言えなくなってきたので、特徴が書いてあるもの、あるいは青リンクの物に絞ります。 --> * [[スタインウェイ・アンド・サンズ]]([[ハンブルク]]と[[ニューヨーク]]に製造拠点があり、音色が微妙に違う) * [[ベーゼンドルファー]](92、97鍵仕様の特許あり) * [[ベヒシュタイン]](かつてはカポ・ダストロ・バーを採用せずピン板もむき出しであった) * [[ブリュートナー]]([[ハーモニック・ペダル]]の特許あり。高音部に[[アリコート張弦|アリコート]]と呼ばれる打弦されない第4の弦が張ってある) * [[プレイエル]]([[20世紀]]初頭にハープシコードの復活に尽力した) * [[ファツィオリ]](第四ペダルの特許あり) * [[シンメル]](生産量ドイツ1位) * [[ペトロフ (ピアノメーカー)|ペトロフ]]([[チェコ]]のピアノメーカー) * [[ヤマハ]](disklavierの特許あり。生産量世界1位) * [[河合楽器製作所|カワイ]](生産量世界2位。[[ディアパソン]]、[[ボストンピアノ|ボストン]]も生産。ドイツの[[シンメル]]社と日本の河合楽器製作所が、本体外枠や脚、蓋など、外から見える大部分が透明なアクリルによってできている[[クリスタル・ピアノ]]を販売している) <!-- == 関連楽器(クラシック音楽で定席を有してきた楽器) ==/「じょうせきをゆうする」なんて言葉遣いはしません。 * [[パイプ・オルガン]] * [[チェンバロ|チェンバロ/ハープシコード/クラブサン]] * [[フォルテピアノ]](初期の様式のピアノ) * [[鍵盤付きグロッケンシュピール|鍵盤付きグロッケンシュピール(鍵盤式鉄琴)]] * [[チェレスタ]] == 関連楽器(その他) == * [[スピネット]] * [[クラヴィコード]] * [[タンジェント・ピアノ]] * [[アルモニカ|鍵盤式グラス・ハーモニカ]] * [[リード・オルガン]]/[[ハーモニウム]] * [[アコーディオン]] * [[鍵盤ハーモニカ]](商標:ピアニカ、[[メロディオン]]) * [[カリヨン]] * [[ハーディ・ガーディ]] * [[バンドネオン]] * [[トイピアノ|トイ・ピアノ]] * [[コンサーティーナ]] * [[大正琴|大正筝]] == 関連楽器(現代・電子) == * [[オンド・マルトノ]] * [[シンセサイザー]] * [[エレクトーン]](商標) * [[電子オルガン]] * [[電子ピアノ]] * [[メロトロン]] * [[エレクトリックピアノ|エレクトリック・ピアノ]] * [[クラヴィネット]] * [[ローズ・ピアノ]] * [[ショルダーキーボード]] == 関連楽器記事(内部リンク) == * [[キーボード (楽器)|キーボード]] --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{refbegin|2}} * {{Cite book |last=Pollens |first=Stewart |date=1995 |title=The Early Pianoforte |location=Cambridge |publisher=Cambridge University Press |isbn=0521417295}} * {{Cite book |和書|author=斎藤信哉|authorlink=斎藤信哉|title=ピアノはなぜ黒いのか |publisher=[[幻冬舎]] |date=2007 |isbn=978-4-344-98037-2 |ref=harv }} * {{Cite book |和書|last=西口|first=磯春 |last2=森|first2=太郎 |title=もっと知りたいピアノのしくみ |publisher=[[音楽之友社]] |isbn=978-4-276-14337-1 }} * {{Cite book |和書|author=伊福部昭|authorlink=伊福部昭|title=[完本] 管絃楽法 |title&音楽之友社 |date=2008 |isbn=978-4-276-10683-3 |ref=harv }} {{refend}} == 関連項目 == * [[クラヴィコード]] * [[チェンバロ]] * [[プリペアド・ピアノ]] * [[ピアノ調律技能士]] * [[ピアノ・リダクション]] - 管弦楽団向け等の曲をピアノ用に編曲した楽譜 * [[ピアノの音響特性]] * [[コロンス島]] - ピアノの島として知られる。中国で唯一のピアノ博物館がかつて存在し、同島は現在世界遺産となっている。 * [[:en:Piano stool]] == 外部リンク == {{Sisterlinks|commons=Category:Pianos}} * {{国立国会図書館のデジタル化資料|854749|オルガン・ピアノ手ほどき}}([[1906年]]文献) * {{サイエンスチャンネル |番組番号= B980601 |動画番号= b980601013 |動画タイトル= ピアノができるまで |中身の概要= [[ヤマハ]]への取材を通してピアノの製造工程を紹介 |時間= 15分 |製作年度= 1998年 }} * {{Kotobank|ピアノ(楽器)}} {{音楽}} {{楽器}} {{オーケストラの楽器}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひあの}} [[Category:鍵盤楽器]] [[Category:ピアノ|*]] [[Category:イタリアの発明]]
2003-02-01T14:50:35Z
2023-12-06T11:33:08Z
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医学
医学(いがく、英: medical science、medicine)または医科学(いかがく、英: medical science)とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である。主流の医学は生物医学または主流医学、西洋医学などと呼ばれる。医学は、病気の予防および治療によって健康を維持、および回復するために発展した様々な医療を包含する。 仏教圏において、「医」の象徴として薬師如来が知られていることからも判るように、「医」は元々は漢方等の「薬」を扱っていた者によって行われていた。古代中国においては、「医」は主に道士や法師等によって営まれ、宗教と密接に繋がっている。伝統中国医学は、単に「医」または「医方」と呼ばれており、勘と経験に頼る部分が非常に大きかったが、明時代になると、鍼灸だけでなく、漢方薬においても、中国の根本的な理論である陰陽五行思想や経絡理論など、理で固めるようになり、理論的・学問的な色彩が強くなった。それを強調するために、あえて「醫學」という言葉が用いられるようになったのである。 また、「医学(醫學)」という言葉は、明治時代に「medicine(英語)」や「Medizin(ドイツ語)」などを翻訳する時に作られた造語(新漢語)のひとつ、とする説もある。 まず世界全体の医学を概観すると、世界各国には様々な医学があり、例えば、中国伝統医学、イスラーム医学、西洋医学 等々がある。 ギリシャ医学、ユナニ医学(イスラム医学)、中国医学、アーユルヴェーダ(インド伝統医学)、チベット医学など、歴史が長い医学を、まとめて伝統医学と呼ぶことがある。なおこれらの伝統医学は各地で現在でも用いられており、現役の医学である。 エジプトのパピルスの中に「現存する最古の医学書」と言われているものがあり、そこには紀元前3世紀のエジプトにおいてすでに「外傷者に対しては、まず質問検査、機能試験、診断、治療」と記述されており、現代と変わらない診療手順を行ったことが明らかになっている。 医学は歴史をふりかえると経験医療(経験的医療)として存在していた。他の各学問が成熟してゆく中で医学も独自性を持った学問として発展し、(西洋では)「人体の研究と疾病の治療・予防を研究する学問」とされた。 (西洋医学は20世紀に医学を「人間の疾病に関することを取り扱う学問」などとしつつ疾病にばかり着目し他の面を見落としたり、人間をただの物体のように扱う傾向があり、それが諸問題を引き起こす結果を招いたが、反省が始まり)、近年では(西洋医学も)「人間を生理的・心理的かつ社会的に能動的ならしめ、できるかぎり快適な状態を保たせる研究」として機能や社会的な面についても見落とさないようにする立場に変わりつつある。 現在日本で「東洋医学」と呼ばれるものは、おおむね伝統中国医学に相当している 西洋医学とは異なる理論・治療体系をもつ医学である。「東洋医学」と言う以上、きちんとした論理の上に成立している。 そしてそれは、日本人が持つ生命観や自然観に近いものである。 中国伝統医学は民間療法とは区別されている。 東洋医学は、民間療法とは異なった考え方に基づいて運用されている。 一例として、生姜の使い方を見ると、どちらも風邪の時に使うことはあるものの、民間療法では風邪の時に何の考えもなしにそれを機械的に与えるのに対し、中国伝統医学では、寒気(さむけ)が強い時のみに使用され、反対に熱感が強い時には使用しないのである。なぜなら、中国伝統医学では、生姜は体を温める作用がある、と考えているからである。 日本でも古代より「医」は巫女、陰陽師、僧侶によって中国から伝えられた呪術、医療が行われていた。室町時代以降は中国大陸との交易も盛んとなり、漢方が積極的に伝わっていった。江戸時代以降は、日本は独自の漢方医学を発展させ、薬学である本草学を中心に診療が行われていった。華岡青洲によって記録上世界最初となる麻酔による乳癌手術が行われたりした。また、幕末には国学の影響を受けて漢方伝来以前の医学を探求する動きも現れた。 現在は中華人民共和国では中医学、朝鮮民主主義人民共和国では東医学、大韓民国では韓医学として実践されている。これらの伝統医学は、長い歴史を通じて各地で培われ、現在でも広く実践されている。 ヨーロッパ世界においては、「医」の起源は古代ギリシアのヒポクラテスとされている。ヒポクラテスは学問としての医学を確立し、その後古代ローマのガレノスがアリストテレスなどの自然学を踏まえ、それまでの医療知識をまとめ、古代医学を大成した。 しかしこうした医学書の多くはギリシア語で書かれていたため、ローマ帝国の崩壊とともにヨーロッパではその知識の多くが失われ、断片的なものが残るに過ぎなくなっていた。一方、医学知識はローマの継承国家でありギリシア語圏である東ローマ帝国において保持され、8世紀以降アッバース朝統治下においてヒポクラテスやガレノスをはじめとする医学文献がアラビア語に翻訳された。イスラム世界においてもガレノスは医学の権威とされ、その理論を基礎とするイスラム医学が発達した。11世紀初頭にはイブン・スィーナーが「医学典範」を著わしたように、この時期イスラム世界では百科全書的医学書が多く編まれ、イスラムおよびヨーロッパ世界に大きな影響を与えた。 これらのアラビア語文献は、12世紀に入るとシチリア王国の首都パレルモやカスティーリャ王国のトレドといった、イスラム文化圏と接するキリスト教都市においてラテン語へと翻訳されるようになった。これによってヒポクラテスや、特にガレノスの著作が西欧に再導入され権威とされたほか、イブン・スィーナーなどの新たな文献も流入した。 ヨーロッパ中世においては、内科学のみが医学とされ、外科学の地位は低かった。外科医療は理容師(理容外科医とも言われた)によって施術され、外科手術や瀉血治療などが行われていた。(内科学、外科学の記事を参照)。16世紀に入ると、それまでの伝統的医学を打ち破る新たな流れが生まれ始めた。解剖学ではアンドレアス・ヴェサリウスが1543年に『ファブリカ(英語版)』(人体の構造)を著わし、ガレノスの誤りを修正した。また、パラケルススは医学への化学の導入を試み医化学を確立した。 18世紀前半には、ヘルマン・ブールハーフェが近代的な臨床の方法論を確立した。またこの時期、ジョバンニ・モルガーニが医学と解剖学を結びつけ、病理解剖の創始者となった。1796年にはエドワード・ジェンナーが種痘を成功させた。 19世紀に入ると、自然科学の発展に伴い医学も急速な発展を遂げた。特に19世紀後半には、ロベルト・コッホとルイ・パスツールによって細菌学が創始され、人工的な弱毒化によるワクチンの生産や多くの病原菌の発見が起き、さらにこれに関連して衛生学も進歩を遂げた。 日本では安土桃山時代にキリスト教の伝来に伴ってわずかに西洋医学の流入があったとされるが、本格的な流入は江戸時代中期の1774年、オランダ語の解剖学書である『ターヘル・アナトミア』が杉田玄白や前野良沢らによって翻訳され、『解体新書』として出版されてからのことである。解体新書の出版は日本の医学界に衝撃を与え、以後医学を中心に蘭学が隆盛するきっかけとなった。 近年、伝統中国医学の本場であった中国では西洋医学の医師が増加中で現代西洋医学の利用される割合が増加しつつある。 反対にアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国では西洋医学の様々な問題点が取り沙汰され、伝統医学などの代替医療のほうが高く評価され利用率が増えており、アメリカ合衆国では代替医療の利用率が西洋医学のそれを超えた。無保険者だけでなく、富裕層の利用も増えている。 日本では、西洋的な思考様式に基づく医学を「西洋医学」、伝統中国医学の思考様式に基づく医学を「東洋医学」と、大きく区分して呼ぶことが一般的である。現在日本で「東洋医学」と呼ばれるものは、おおむね伝統中国医学に相当し、中国大陸で生まれ発達し、日本にも伝えられた。西洋医学が入ってくるまでは日本の主流医学であった。江戸時代の日本に「オランダ医学」が入ってきた時に、それらの医学を呼び分ける必要が生じ、オランダの医学に対して、中国(漢)の医学という意味で「漢方医学」と呼ぶようなことも行われるようになったという。明治政府の方針により西洋医学が主流の医学と位置づけられるようになり、東洋医学を行う医師も西洋医学を学ぶことになった。それ以来、日本では西洋医学の利用者数が多くなったが、現在でももっぱら東洋医学のほうを好み愛用する人々もおり、両者は並存してきた。 研究や教育のための知識体系としての医学は、次のように分類されている。大学医学部の組織においても、研究・教育のための人員の配置がこの分類に沿って行われる場合が多い。最近は、名称が多様化しているが、実質は、下記の分類とさほど変わりがない場合が多い。 人体の構造・機能、疾患とその原因など医学研究の根拠となる知見を得るための学問分野である。これらの科目は医学部、薬学部等医療系学部以外に一部の大学では理学部や理工学部等の生物学科でも開講している。 診断や治療などに直接関連する応用的な研究分野である。 社会医学とは社会的な環境と健康について研究する医学領域。 医学に関連する分野には以下のようなものがある。 歯学 - 薬学 - 看護学 - 心理学 - 健康心理学 - 臨床心理学 - 生体機能代行装置学 - 作業療法学 - 理学療法学 - 性科学 - 抗老化医学 - 熱帯医学 - 医用生体工学 - 医療機器 - 医学教育 - 医学史(医史学)- 生命倫理学 - 医療人類学 - 病跡学 - 医療社会学 - 医療経済学 - 宇宙医学 - 臨床情報工学 - 柔道整復学 ノーベルの遺言で指定された5分野の一つで「生理学及び医学の分野で最も重要な発見を行なった」人に授与される。主な受賞者には、神経構造の研究とニューロン説提唱のS.ラモン・イ・カハール(1904年度)、ペニシリンを発見したA.フレミング(1945年度)、DNAの二重らせん構造を発見したジェームズ・ワトソンとフランシス・クリック(1962年度)、日本人唯一の同賞受賞者利根川進(1987年度)等がいる。 「アルバート・ラスカー医学研究賞」は、医学賞の中でも「ノーベル(生理学・医学)賞に最も近い賞」と言われる賞である。医学で大きな貢献をした人に与えられる米国医学界最高の賞であり、ラスカー夫妻が1946年に創設した。アルバート・ラスカー基礎医学研究賞、ラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞、メアリー・ウッダード・ラスカー公益事業賞、ラスカー・コシュランド医学特別業績賞の4部門から構成される。日本では、1982年に花房秀三郎が初受賞し、利根川進、山中伸弥の2名のノーベル生理学医学賞ほ受賞者もラスカー賞を受賞している。2014年9月には、森和俊(京都大教授)がラスカー基礎医学研究賞を受賞し、7人目の日本人ラスカー賞受賞者となった。
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医学または医科学とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である。主流の医学は生物医学または主流医学、西洋医学などと呼ばれる。医学は、病気の予防および治療によって健康を維持、および回復するために発展した様々な医療を包含する。
{{出典の明記| date = 2023年8月}} {{読み仮名_ruby不使用|'''医学'''|いがく|{{lang-en-short|links=no|medical science}}<ref name="kenkyuusha">[https://ejje.weblio.jp/content/%E5%8C%BB%E5%AD%A6#:~:text=%E3%81%8C%E3%81%8F%20%E5%8C%BB%E5%AD%A6-,medical%20science,medicine 『研究社 新和英中辞典』「医学」]</ref>、{{lang|en|medicine}}<ref name="kenkyuusha" />}}または{{読み仮名_ruby不使用|'''医科学'''|いかがく|{{lang-en-short|links=no|medical science}}<ref>[https://ejje.weblio.jp/content/medical+science#:~:text=Google%2C%20WikiPedia-,%E5%8C%BB%E7%A7%91%E5%AD%A6 『ライフサイエンス辞書』「medical science」]</ref>}}とは、生体([[人体]])の[[メカニズム|構造]]や[[機能]]、[[疾病]]について研究し、疾病を[[診断]]・[[治療]]・[[予防]]する方法を開発する[[学問]]である<ref name="koujien_six">広辞苑「医学」</ref>。主流の医学は'''[[生物医学]]'''または'''主流医学'''、'''[[西洋医学]]'''などと呼ばれる。<!--「{{要出典範囲|自然科学としては生物学等を基礎科学として利用する応用科学分野であり、生命科学研究の重要な一分野である。|date=2014年9月}}」-->医学は、病気の予防および治療によって健康を維持、および回復するために発展した様々な[[医療]]を包含する。{{関連記事|医療}} == 概説 == ; 語源 : 「醫學」という言葉は、中国では[[明]]の政権が安定する15世紀頃から、よく用いられるようになり、「醫學○○」という書物が多数見られるようになった。 仏教圏において、「医」の象徴として[[薬師如来]]が知られていることからも判るように、「医」は元々は漢方等の「薬」を扱っていた者によって行われていた。古代中国においては、「医」は主に[[道士]]や[[法師]]等によって営まれ、宗教と密接に繋がっている。[[伝統中国医学]]は、単に「医」または「医方」と呼ばれており、勘と経験に頼る部分が非常に大きかったが、明時代になると、[[鍼灸]]だけでなく、[[漢方薬]]においても、中国の根本的な理論である[[陰陽五行思想]]や[[経絡]]理論など、[[理]]で固めるようになり、理論的・学問的な色彩が強くなった。それを強調するために、あえて「醫學」という言葉が用いられるようになったのである。 また、「医学(醫學)」という言葉は、明治時代に「{{lang|en|medicine}}(英語)」や「{{lang|de|Medizin}}(ドイツ語)」などを翻訳する時に作られた造語([[新漢語]])のひとつ<ref>「[[哲学]](哲學)」「[[民主主義]]」「[[社会]](社會)」などと同じように</ref>、とする説もある。 === 様々な医学 === まず世界全体の医学を概観すると、世界各国には様々な医学があり<ref>三浦於菟『東洋医学を知っていますか』新潮選書、1996、p.2</ref>、例えば、中国伝統医学、イスラーム医学、西洋医学 等々がある。 ギリシャ医学、[[ユナニ医学]](イスラム医学)、[[中国医学]]、[[アーユルヴェーダ]](インド伝統医学)、[[チベット医学]]など、歴史が長い医学を、まとめて[[伝統医学]]と呼ぶことがある。なおこれらの伝統医学は各地で現在でも用いられており、現役の医学である。 == 歴史 == エジプトの[[パピルス]]の中に「現存する最古の医学書」と言われているものがあり、そこには[[紀元前3世紀]]の[[古代エジプト|エジプト]]においてすでに「外傷者に対しては、まず質問検査、機能試験、診断、治療」と記述されており、現代と変わらない診療手順を行ったことが明らかになっている<ref name="britanica">『ブリタニカ百科事典』「医学」</ref>。 医学は歴史をふりかえると経験医療([[経験]]的[[医療]])として存在していた。他の各学問が成熟してゆく中で医学も独自性を持った学問として発展し、(西洋では)「人体の研究と疾病の治療・予防を研究する学問」とされた<ref name="britanica" />。 (西洋医学は20世紀に医学を「人間の疾病に関することを取り扱う学問」などとしつつ疾病にばかり着目し他の面を見落としたり、人間をただの物体のように扱う傾向があり、それが諸問題を引き起こす結果を招いたが、反省が始まり)、近年では(西洋医学も)「人間を生理的・[[心|心理]]的かつ[[社会]]的に能動的ならしめ、[[QOL|できるかぎり快適な状態]]を保たせる研究」として機能や社会的な面についても見落とさないようにする立場に変わりつつある<ref name="britanica" />。 {{Main|医学史}} === 東洋医学 === [[File:ChineseMedecine.JPG|thumb|right|180px|[[経絡]]図の一例]] {{Main|東洋医学}} 現在日本で「東洋医学」と呼ばれるものは、おおむね[[伝統中国医学]]に相当している<ref name="sitte" /> 西洋医学とは異なる理論・治療体系をもつ医学である。「東洋'''医学'''」と言う以上、きちんとした[[論理]]の上に成立している<ref name="sitte" />。 そしてそれは、日本人が持つ[[生命観]]や[[自然観]]に近いものである<ref name="sitte" />。 中国伝統医学は民間療法とは区別されている<ref name="sitte" />。 東洋医学は、民間療法とは異なった考え方に基づいて運用されている<ref name="sitte" />。 一例として、[[生姜]]の使い方を見ると、どちらも風邪の時に使うことはあるものの、民間療法では風邪の時に何の考えもなしにそれを機械的に与えるのに対し、中国伝統医学では、寒気(さむけ)が強い時のみに使用され、反対に熱感が強い時には使用しないのである。なぜなら、中国伝統医学では、生姜は体を温める作用がある、と考えているからである<ref name="sitte" />。 日本でも古代より「医」は[[巫女]]、[[陰陽師]]、[[僧侶]]によって中国から伝えられた呪術、医療が行われていた。[[室町時代]]以降は[[中国大陸]]との交易も盛んとなり、[[漢方]]が積極的に伝わっていった。[[江戸時代]]以降は、日本は独自の[[漢方医学]]を発展させ、[[薬学]]である[[本草学]]を中心に診療が行われていった。[[華岡青洲]]によって記録上世界最初となる[[麻酔]]による[[乳癌]][[手術]]が行われたりした。また、[[幕末]]には[[国学]]の影響を受けて漢方伝来以前の医学を探求する動きも現れた。 現在は[[中華人民共和国]]では[[中医学]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]]では[[東医学]]、[[大韓民国]]では[[韓医学]]として実践されている。これらの伝統医学は、長い歴史を通じて各地で培われ、現在でも広く実践されている。 === 西洋医学 === [[File:Asklepios.3.jpg|thumb|right|180px|[[ギリシア神話]]にて医の神である[[アスクレーピオス]]の像。左にシンボルの[[蛇]]。]] [[File:Surgeons at Work.jpg|thumb|right|180px|[[手術]]]] {{Main|西洋医学}} [[ヨーロッパ]]世界においては、「医」の起源は[[古代ギリシア]]の[[ヒポクラテス]]とされている。ヒポクラテスは学問としての医学を確立し<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p122-123 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>、その後[[古代ローマ]]の[[ガレノス]]が[[アリストテレス]]などの自然学を踏まえ、それまでの医療知識をまとめ、古代医学を大成した<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p134 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>。 しかしこうした医学書の多くは[[ギリシア語]]で書かれていたため、ローマ帝国の崩壊とともにヨーロッパではその知識の多くが失われ、断片的なものが残るに過ぎなくなっていた。一方、医学知識はローマの継承国家でありギリシア語圏である[[東ローマ帝国]]において保持され、[[8世紀]]以降[[アッバース朝]]統治下においてヒポクラテスやガレノスをはじめとする医学文献が[[アラビア語]]に翻訳された<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p184 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>。イスラム世界においてもガレノスは医学の権威とされ、その理論を基礎とする[[ユナニ医学|イスラム医学]]が発達した<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p197 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>。11世紀初頭には[[イブン・スィーナー]]が「医学典範」を著わしたように、この時期イスラム世界では百科全書的医学書が多く編まれ、イスラムおよびヨーロッパ世界に大きな影響を与えた<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p350-351 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>。 これらのアラビア語文献は、[[12世紀]]に入ると[[シチリア王国]]の首都[[パレルモ]]や[[カスティーリャ王国]]の[[トレド]]といった、イスラム文化圏と接する[[キリスト教]]都市において[[ラテン語]]へと翻訳されるようになった<ref>「医学の歴史」pp150 梶田昭 [[講談社]] 2003年9月10日第1刷</ref>。これによってヒポクラテスや、特にガレノスの著作が西欧に再導入され権威とされたほか、イブン・スィーナーなどの新たな文献も流入した<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p352-353 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>。 ヨーロッパ[[中世]]においては、[[内科学]]のみが医学とされ、[[外科学]]の地位は低かった。外科医療は[[理容師]]([[理容外科医]]とも言われた)によって施術され、外科手術や[[瀉血]]治療などが行われていた。([[内科学]]、[[外科学]]の記事を参照)。16世紀に入ると、それまでの伝統的医学を打ち破る新たな流れが生まれ始めた。[[解剖学]]では[[アンドレアス・ヴェサリウス]]が1543年に『{{仮リンク|ファブリカ (ヴェサリウス)|en|De humani corporis fabrica|label=ファブリカ}}』(人体の構造)を著わし、ガレノスの誤りを修正した<ref>「医学の歴史」pp164-165 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。また、[[パラケルスス]]は医学への[[化学]]の導入を試み[[医化学]]を確立した<ref>「現代化学史 原子・分子の化学の発展」p13-14 廣田襄 京都大学学術出版会 2013年10月5日初版第1刷</ref>。 18世紀前半には、[[ヘルマン・ブールハーフェ]]が近代的な[[臨床]]の方法論を確立した<ref>「医学の歴史」pp201 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。またこの時期、ジョバンニ・モルガーニが医学と解剖学を結びつけ、[[病理解剖]]の創始者となった<ref>「医学の歴史」pp214-216 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。1796年には[[エドワード・ジェンナー]]が[[種痘]]を成功させた<ref>『医学の歴史』pp221 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。 19世紀に入ると、自然科学の発展に伴い医学も急速な発展を遂げた。特に19世紀後半には、[[ロベルト・コッホ]]と[[ルイ・パスツール]]によって[[細菌学]]が創始され、人工的な弱毒化による[[ワクチン]]の生産や多くの病原菌の発見が起き<ref>「医学の歴史」pp261-264 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>、さらにこれに関連して[[衛生学]]も進歩を遂げた<ref>「医学の歴史」pp273-275 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。 [[日本]]では[[安土桃山時代]]にキリスト教の伝来に伴ってわずかに西洋医学の流入があったとされるが<ref>「医学の歴史」pp285 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>、本格的な流入は江戸時代中期の1774年、オランダ語の解剖学書である『[[ターヘル・アナトミア]]』が[[杉田玄白]]や[[前野良沢]]らによって[[翻訳]]され、『[[解体新書]]』として出版されてからのことである<ref>「医学の歴史」pp290-292 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。解体新書の出版は日本の医学界に衝撃を与え、以後医学を中心に[[蘭学]]が隆盛するきっかけとなった<ref>「医学の歴史」pp293 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。 == 通常医療と代替医療の状況 == 近年、伝統中国医学の本場であった中国では西洋医学の医師が増加中で現代西洋医学の利用される割合が増加しつつある。 反対にアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国では[[西洋医学]]の様々な問題点が取り沙汰され、[[伝統医学]]などの[[代替医療]]のほうが高く評価され利用率が増えており、アメリカ合衆国では代替医療の利用率が西洋医学のそれを超えた。無保険者だけでなく、富裕層の利用も増えている<ref>[http://www.daiwa-pharm.com/info/world/2280/ 50歳以上のアメリカ人、7割が代替医療を利用 米国NCCAM(代替医療調査センター)報告]</ref>。 日本では、西洋的な思考様式に基づく医学を「西洋医学」、[[伝統中国医学]]の思考様式に基づく医学を「東洋医学」と、大きく区分して呼ぶことが一般的である。現在日本で「東洋医学」と呼ばれるものは、おおむね伝統中国医学に相当し<ref name="sitte">三浦於菟『東洋医学を知っていますか』第一章</ref>{{refnest|group="注"|ただし、中国において「東洋医学」と言うと、中国からみた東の国の医学、すなわち日本の医学のことを指すという<ref name="sitte"/>。}}、中国大陸で生まれ発達し、日本にも伝えられた<ref name="sitte" />。西洋医学が入ってくるまでは日本の主流医学であった<ref name="sitte" />。江戸時代の日本に「オランダ医学」が入ってきた時に、それらの医学を呼び分ける必要が生じ、オランダの医学に対して、中国(漢)の医学という意味で「漢方医学」と呼ぶようなことも行われるようになった<ref name="sitte" />という。明治政府の方針により西洋医学が主流の医学と位置づけられるようになり、東洋医学を行う医師も西洋医学を学ぶことになった。それ以来、日本では西洋医学の利用者数が多くなったが、現在でももっぱら[[東洋医学]]のほうを好み愛用する人々もおり、両者は並存してきた。 == 分類 == 研究や教育のための知識体系としての医学は、次のように分類されている。大学[[医学部]]の組織においても、研究・教育のための人員の配置がこの分類に沿って行われる場合が多い。最近は、名称が多様化しているが、実質は、下記の分類とさほど変わりがない場合が多い。 === 基礎医学 === 人体の構造・機能、疾患とその原因など医学研究の根拠となる知見を得るための学問分野である。これらの科目は医学部、[[薬学部]]等医療系学部以外に一部の大学では[[理学部]]や[[理工学部]]等の生物学科でも開講している。 *[[解剖学]] - [[発生学]] - [[組織学]]- [[生理学]] - [[病理学]] - [[生化学]]・[[分子生物学]] - [[薬理学]] - [[免疫学]] - [[微生物学]]([[細菌学]]・[[ウイルス学]]) - [[医動物学]]・[[寄生虫学]] - [[神経科学]] === 臨床医学 === 診断や治療などに直接関連する応用的な研究分野である。 * 臓器別分類 ** [[循環器学]] - [[消化器学]] - [[呼吸器学]] - [[腎臓学]] - [[内分泌学]] - [[血液学]] - [[神経学]] - [[婦人科学]] - [[泌尿器科学]] - [[耳鼻咽喉科学]] - [[皮膚科学]] - [[眼科学]] * 解剖学的分類 ** [[胸部外科学]] - [[脳神経外科学]] - [[整形外科学]] * ライフステージによる分類 ** [[産科学]] - [[小児科学]] - [[老年医学]] - [[家庭医療]] * 手法による分類 ** [[診断学]] - [[症候学]] - [[予防医学]] ** [[内科学]] - [[外科学]] - [[形成外科学]] - [[リハビリテーション医学]] - [[麻酔科学]] - [[放射線医学]] - [[再生医学]] - [[救急医学]] * 疾病による分類 ** [[リウマチ学]] - [[精神医学]] - [[心身医学]] - [[腫瘍学]] - [[スポーツ医学]] === 社会医学 === 社会医学とは社会的な環境と健康について研究する医学領域。 *[[衛生|衛生学]] - [[公衆衛生]] - [[疫学]](統計医学)- [[法医学]] - [[犯罪学]]などが含まれる。 === 関連分野 === 医学に関連する分野には以下のようなものがある。 [[歯学]] - [[薬学]] - [[看護学]] - [[心理学]] - [[健康心理学]] - [[臨床心理学]] - [[生体機能代行装置学]] - [[作業療法学]] - [[理学療法学]] - [[性科学]] - [[抗老化医学]] - [[熱帯医学]] - [[医用生体工学]] - [[医療機器]] - [[医学教育]] - [[医学史]](医史学)- [[生命倫理学]] - [[医療人類学]] - [[病跡学]] - [[医療社会学]] - [[医療経済学]] - [[宇宙医学]] - [[臨床情報学|臨床情報工学]] - [[柔道整復師|柔道整復学]] ==栄誉・賞== ===ノーベル生理学・医学賞=== {{See also|ノーベル生理学医学賞}}[[ノーベル]]の遺言で指定された5分野の一つで「生理学及び医学の分野で最も重要な発見を行なった」人に授与される。主な受賞者には、神経構造の研究とニューロン説提唱の[[S.ラモン・イ・カハール]](1904年度)、[[ペニシリン]]を発見した[[A.フレミング]](1945年度)、DNAの[[二重らせん構造]]を発見した[[ジェームズ・ワトソン]]と[[フランシス・クリック]](1962年度)、日本人唯一の同賞受賞者[[利根川進]](1987年度)等がいる<ref>{{Cite web |title=ノーベル生理学・医学賞index |url=https://www.kahaku.go.jp/special/past/nobel/plus/medicine/index.html |website=www.kahaku.go.jp |access-date=2023-10-02}}</ref>。 ===アルバート・ラスカー医学研究賞(ラスカー賞)=== {{See also|アルバート・ラスカー医学研究賞}} 「アルバート・ラスカー医学研究賞」は、[[医学賞]]の中でも「ノーベル(生理学・医学)賞に最も近い賞」と言われる賞である<ref>{{Cite web |title=ノーベル生理学・医学賞にカタリン・カリコ氏とドリュー・ワイスマン教授 新型コロナウイルスワクチンの開発に貢献 |url=https://news.livedoor.com/article/detail/25095160/ |website=ライブドアニュース |access-date=2023-10-02 |language=ja}}</ref><ref name=":0">{{Cite web |title=ラスカー賞(ラスカーショウ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E8%B3%9E-192519 |website=コトバンク |access-date=2023-10-02 |language=ja |last=デジタル大辞泉,日本大百科全書(ニッポニカ),知恵蔵mini}}</ref>。医学で大きな貢献をした人に与えられる米国医学界最高の賞であり、[[ラスカー夫妻]]が1946年に創設した。[[アルバート・ラスカー基礎医学研究賞]]、[[ラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞]]、[[メアリー・ウッダード・ラスカー公益事業賞]]、[[ラスカー・コシュランド医学特別業績賞]]の4部門から構成される<ref name=":0" />。日本では、1982年に[[花房秀三郎]]が初受賞し、[[利根川進]]、[[山中伸弥]]の2名のノーベル生理学医学賞ほ受賞者もラスカー賞を受賞している。2014年9月には、[[森和俊]](京都大教授)がラスカー基礎医学研究賞を受賞し、7人目の日本人ラスカー賞受賞者となった<ref name=":0" />。 == 関連項目 == {{Wikibooks}} {{Wikisource|ポータル: 医学書|医学関連の文献}} {{Commonscat|Medicine}} {{ウィキプロジェクトリンク|医学}} {{ウィキポータルリンク|医学と医療}} * [[医療]] * [[医学と医療の年表]]/[[医学史]] * [[医療]]/[[診療科]]/[[医療行為]]/[[医業]] * [[医療資格一覧]]/[[医師]]/[[歯科医師]] * [[医学部]] * [[看護]]/[[介護]]/[[福祉]]/[[健康]] * [[病気とリダイレクトの一覧]] * [[実在する特定の病気を主題とした映画の一覧]] * [[赤十字]] * [[日本心身医学会]] * [[国際医学団体協議会]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 三浦於菟『東洋医学を知っていますか』[[新潮選書]]、1996 * アンドルー・ワイル『心身自在』[[角川文庫]] * 『ブリタニカ百科事典』 == 外部リンク == * [https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0 MSDマニュアル](医学事典) * [https://igaku-love.hatenadiary.org/ 医学ニュース一覧](医学処) * [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124321 医学文化年表] 藤井尚久(日新書院、1942) * {{Kotobank}} {{医学}} {{医療}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いかく}} [[Category:医学|*]] [[Category:応用科学]] [[Category:健康科学]]
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FAQ
FAQとは、よくある(あるいはあると想定される)質問とその回答とを集めたもののことである。 FAQの語は英語のFrequently Asked Questionsの略語で、「頻繁に尋ねられる質問」の意味である。日本語では「よくある質問」となっていることが多い。 読みは「エフ・エイ・キュー」、「フェイク」、「ファーク」(/fæk/) 。 主に、コンピュータ(ハードウェア、ソフトウェア、オペレーティングシステムなどの使い方やメッセージの意味、原因など)や通信関係、周辺機器の使用方法、セットアップ方法などの分野で多用される。それ以外の分野では、同様の問答集をQ&A(質問と答え)と呼ぶことが多い。 といった状況が発生した結果、同じような質問が度々尋ねられることから、その都度答えを繰り返す代わりに、一連のQ&A集(ファイル、ウェブページなど)を参照するように促すことで、問い合わせに対する時間と手間を省くことを目的としたものである。 通常、ウェブサイトやニュースグループなどで、よくある質問が、それに対する答えと共にひとつのファイルにまとめられ、定期的に配布されたり、自由に参照できるように公開されるという形をとる。 元々はユーズネット・ニュースグループで始まったものだとされる。
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{{WikipediaPage|ウィキペディアにおけるFAQについては「[[Wikipedia:FAQ]]」を、[[H:A|記事]]や[[H:NOTE|ノート]]にFAQを表示するテンプレートについては「[[Template:FAQ]]」をご覧ください。}} {{redirect|Q&A}} {{出典の明記|date=2013年2月}} '''FAQ'''(エフエーキュー<ref>{{Cite web|title=Definition of FAQ|url=https://www.merriam-webster.com/dictionary/FAQ|website=www.merriam-webster.com|accessdate=2021-08-31|language=en}}</ref>)とは、よくある(あるいはあると想定される)[[質問]]とその回答とを集めたもののことである。 FAQの語は[[英語]]の frequently asked questions の略語で、「頻繁に尋ねられる質問」の意味である。日本語では「よくある質問」となっていることが多い。 主に、[[コンピュータ]]([[ハードウェア]]、[[ソフトウェア]]、[[オペレーティングシステム]]などの使い方やメッセージの意味、原因など)や通信関係、[[周辺機器]]の使用方法、[[インストール|セットアップ]]方法などの分野で多用される。 それ以外の分野では、同様の問答集を'''Q&A'''(キューアンドエー)と呼ぶことが多い。Q&Aの語は question and answer の略語で、「質問と答え」の意味である。 == 目的 == *あるジャンルに事情を知らない者(初心者や入門者など)が次々と訪れる **例:[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や[[インターネット]]が専門知識の乏しい層にも普及する、ある商品が急激に注目を浴びるなど *上とは逆に、新商品が登場した結果そのジャンルについて詳しい者が公開情報において大々的に記されていない情報を欲しがる **例:新車がデビューした際、ホイールのオフセットや[[ナット座ピッチ直径|PCD]]、オーディオやバルブのスペックと言った技術情報を欲しがるなど といった状況が発生した結果、同じような質問が度々尋ねられることから、その都度答えを繰り返す代わりに、一連のQ&A集(ファイル、[[ウェブページ]]など)を参照するように促すことで、問い合わせに対する時間と手間を省くことを目的としたものである。 通常、[[ウェブサイト]]や[[ニュースグループ]]などで、よくある質問が、それに対する答えと共にひとつの[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]にまとめられ、定期的に配布されたり、自由に参照できるように公開されるという形をとる。 元々は[[USENET|ユーズネット]]・[[ニュースグループ]]で始まったものだとされる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} * [[ナレッジコミュニティ]] * [[マニュアル]] * [[b:メインページ|ウィキブックス]] * [[記者会見]] * [[まとめサイト]] * [[参考図書]] {{DEFAULTSORT:FAQ}} [[Category:FAQ]] [[Category:コンピュータの文化]] [[Category:テクニカル・コミュニケーション]] [[Category:頭字語]] [[Category:アクロニム]] [[Category:英語の成句]]
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パブリックドメイン
パブリックドメイン(public domain)とは、著作物や発明などの知的創作物について、知的財産権が発生していない状態または消滅した状態のことをいう。日本語訳として公有(こうゆう)という語が使われることがある。 パブリックドメインに帰した知的創作物については、その知的財産権を行使しうる者が存在しないことになるため、知的財産権の侵害を根拠として利用の差止めや損害賠償請求などを求められることはないことになる。その結果、知的創作物を誰でも自由に利用できると説かれることが多い。しかし、知的財産権を侵害しなくても、利用が所有権や人格権などの侵害を伴う場合は、その限りにおいて自由に利用できるわけではない。また、ある種の知的財産権が消滅したとしても、別の知的財産権が消滅しているとは限らない場合もある(著作物を商標として利用している者がいる場合、量産可能な美術工芸品のように著作権と意匠権によって重畳的に保護される場合など)。また、各法域により法の内容が異なるため、一つの法域で権利が消滅しても、別の法域で権利が消滅しているとは限らない。したがって、特定の知的創作物がパブリックドメインであると言われる場合は、どの法域でどのような権利が不発生あるいは消滅したのかを、具体的に検討する必要がある。 そもそも創作性を欠くなどの理由により保護すべき知的創作物にならない場合(例えば、著作権の場合は思想または感情の創作的表現でなければ著作物にならないので、単なるアイデアにとどまる場合や、境界線や海岸線などの記載しかない地図のように想定される表現が限られるようなものは、そもそも創作性を欠くので知的財産権が発生するか否かという問題自体が生じないし、ライセンス付与も本来ありえない)もあるが、著作物や発明の要件を満たしていながら、知的財産権が発生しない場合、または発生した権利が消滅する場合としては、以下のようなものがある。 例えば、特許権の取得において審査主義を採用している国においては、発明を完成させたとしても、その発明の産業上利用可能性、新規性、進歩性といった特許要件について特許庁による審査を経なければ、特許権を取得できない。 また、著作権の取得について方式主義を採用している国(ベルヌ条約加盟前のアメリカ合衆国など)においては、著作物を創作したとしても、必要な方式(著作権の表示、登録など)を履行しなければ、著作権は発生しない。なお、日本の著作権法は無方式主義を採用しているので、何らの方式をも採らず著作権を取得できる。 「著作物」、「発明」など、知的財産権の客体としての要件は満たすが、主に政策的な理由によって、法が権利の付与を否定している場合がある。 例えば、国や地方公共団体が創作した著作物を、著作権の対象としない法制が多数みられる。例えば日本では、憲法その他の法令、国や地方公共団体が発する通達、裁判所の判決などは、著作権や著作者人格権の対象にならない(日本国著作権法13条)。また、イタリアでは、イタリア及び外国または官公庁の公文書には著作権法の規定を適用しない旨の規定がある。その他、アメリカ合衆国の著作権法では、連邦政府の職員が職務上作成した著作物は、著作権の対象とならない(17 U.S.C. §105)。もっとも、連邦政府の職員ではない者の著作権を連邦政府が譲り受けた場合は連邦政府による著作権の保有を否定されないし(17 U.S.C. §105)、州政府の職員が職務上作成した著作物に対しては、法は著作権の付与を否定していない。 また、外国人による権利の享有を認めない法制が存在する場合、当該外国人による創作物は(当該法域内では)、知的財産権による保護を受けないと言える。例えば、日本では外国人の権利の享有を原則として認めているが、特別法によってそれを制限することも容認している(民法3条2項)。実際に、特許法などの知的財産権法は、外国人による権利の享有を制限している(著作権法6条、特許法25条など)。もっとも、パリ条約などにおいて、内国民待遇の原則が採られているため、これらの条約の加盟国間においては、外国人であるというだけの理由により知的財産権の享有が否定されることはない。つまり、これらの条約に加盟していない国との関係で問題になるに過ぎない。 知的創作物を対象とする独占排他権は、法定の存続期間満了により消滅する。例えば、特許権は特許出願の日から20年をもって消滅し、著作権は著作者の死後50年または70年をもって消滅するものと規定する国が多い(著作権の保護期間)。創作活動は先人の成果の上に成り立っていることは否定できないため、創作後一定の期間が経過した場合は恩恵を受けた社会の発展のために公有の状態に置くべきとの価値判断によるものである。 相続人なく知的財産権の権利者が死亡した場合において、相続財産の清算のために相続財産管理人によって著作権が譲渡されなかった場合、あるいは権利者である法人が解散した場合において、その著作権を帰属させるべき者が存在しない場合(一般社団法人及び一般財団法人に関する法律239条3項に該当する場合など)や清算法人の財産の清算のために清算人によって著作権の譲渡がされなかった場合は、知的財産権は法定の保護期間満了を待つことなく消滅する(著作権法62条1項、2項、特許法76条、実用新案法と意匠法では特許法を準用)。 民法などの原則をそのまま適用すれば、知的財産権はいずれの場合も国庫に帰属するはずである(民法959条、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律239条3項)。しかし、著作権法など知的財産に関する法律では、知的所産であり広く国民一般に利用させるのが適切として、特別規定を置き権利を消滅させることとしている。 相続人不存在の場合、特許権などは、相続人の捜索の公告の期間内に権利主張をする者が表れなかった場合に権利が消滅するのに対し(特許法76条)、著作権は、それに加えて特別縁故者に対する相続財産の分与もされなかった場合(民法959条に該当する場合)に初めて権利が消滅する(著作権法62条)という差異がある。 原則として権利(ただし財産権)を放棄することは自由なので、権利者により権利が放棄されれば法による保護を認める必要性は消滅する。 日本においては、産業財産権法では、産業財産権の放棄を認める規定が存在する(特許法97条、実用新案法26条、意匠法36条、商標法35条など)のに対し、著作権法には、著作権を放棄できるとする明文の規定が存在しない。しかし、著作権も財産権の一種であり(著作権法61条、63条等参照)、譲渡も可能であるため、放棄できると解される。放棄の方式については、放棄の効力発生要件としての登録制度が存在しないことから(著作権法77条)、立法担当者からは、著作権放棄の効力を発生させるためには、著作権者による新聞広告その他への明示的な放棄の意思表示が必要であると説明されている。しかし、このような説明に対しては、そのような厳しい要件を課する理由が存在せず、要は証明の問題に過ぎないとの批判もある。仮に、権利者の意図に反して著作権放棄の効果が生じないと評価された場合、その後、著作権が消滅したことを信頼した者に対して著作権を行使することは、権利濫用または信義誠実の原則に反し、認められない場合もある。 もっとも、権利を放棄することにより他者の権利を害することはできないと解されているため、そのような場合には権利放棄は認められない。例えば、著作権者から著作物の独占的利用許諾を得ている者が存在する場合は、著作権の放棄によって誰でも著作物を利用できることになるとすると、被許諾者の財産的利益を損なう結果となるため、放棄はできないと解される。特許権の専用実施権が設定されているような場合も同様である。 なお、ある法域で成立した知的財産権の効力は当該法域でしか及ばないため(属地主義)、知的財産権の処分(譲渡、放棄など)は法域ごとに可能である。したがって、ある法域で知的財産権が放棄され知的財産権が消滅しても、他の法域において消滅しているとは言い切れず、専ら放棄当時の著作権者の意思に基づき判断せざるを得ないし、同じ対象につき法域により権利者が異なる場合は、放棄の効力は当然に他の法域に及ぶわけではない。 以上、財産権としての知的財産権は放棄可能であるのが原則であるが、ドイツ著作権法の下では著作権の放棄はできないものと理解されている。ドイツにおける Urheberrecht という概念(著作権と訳されることが多いが、実際には日本法の著作者の権利に相当する)は、財産的権利と人格的権利が一体をなす概念として理解されており、そのような権利を他人に譲渡することはできないためである(ドイツ著作権法29条1項)。そのため、著作権が放棄された場合は、不特定多数の者に対して著作物の利用権を設定した状態と理解されることになる。 財産権としての著作権のほか、ベルヌ条約や多くの国の著作権法により人格権としての著作者人格権が保護されている。そのため、著作物についてパブリックドメインと言えるためには著作者人格権が消滅していることも必要ではないかとの議論をする者もいる。 アメリカ合衆国の著作権法には、一定の範囲の視覚芸術著作物を除き著作者人格権を保護する旨の規定が存在しない。これに対し、他の国ではベルヌ条約の要請もあり著作権とは別に著作者人格権の制度を著作権法に取り込んでいる。著作者人格権についてはその放棄を認めている国もあるが、日本においては、反対説もあるものの放棄はできないと伝統的に解されている(人格にかかわる権利であるため)。そのため、日本においては著作権を放棄しただけでは著作物は厳密にはパブリックドメインの状態になったとは言えないとの誤解に基づく。 しかし、アメリカにおいても、著作者人格権は、伝統的に著作権法に基づく権利とは理解されていなかっただけであり、同一性保持権や氏名表示権は不正競争防止法 の不正表示禁止に関する規定などにより実質的に保護されているなど、コモン・ローにより人格権が保護されているという説明がされている。つまり、著作者人格権という呼称が与えられている権利が、著作権法制の枠内にあるか否かという問題に過ぎない。したがって、著作者人格権の問題はパブリックドメインという概念を受け入れるか否かとは別問題である。ただし、ドイツでは著作権の放棄ができないがゆえに、ドイツ法では著作権放棄に基づくパブリックドメインの状態は成り立たないのは、前述のとおりである。 しかし、日本においては著作者人格権の相続は否定されるものの(民法896条但書)、法は一定範囲の遺族や遺言で指定された者に対して故人の人格的利益の請求権を有することを認めている(著作権法116条)。さらには、著作権の保護期間が経過しかつ遺族や遺言で指定した者が存在しなくなった場合でも、著作者が存しているとすればその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならず(著作権法60条)、違反者に対する罰則もあるが(著作権法120条)、それをもって著作物がパブリックドメインの状態にはないという議論はされていない。 しかし、日本法では著作者人格権の制度があるから著作権放棄に基づくパブリックドメインはあり得ないとの議論は、後述のパブリックドメインソフトウェアが日本で存在し得るかという問題に関連して、アメリカの法制度を理解していないプログラマーとその周辺で問題になったことがほとんどであり、知的財産権の専門家の間ではそのような問題自体議論されていない。 日本においては、1990年代以前のいわゆるパソコン通信において、ネットワークを通じて配布される(オンラインソフトウェア)無料のソフトウェアをPDS (Public Domain Software) と呼んでいたことなどがあった。しかし、その実態としては、単に著作物の利用に関して著作権を行使しないことのみをもってパブリックドメインであると宣言したり、著作権表示を行いつつもパブリックドメインである旨の宣言をしている場合も多かった。この場合は、厳密には著作権自体は存続しており(パブリックドメインという語の用法を間違えているに過ぎないため)、単に著作権の行使を控える旨の宣言にとどまるので、権利放棄に伴う著作権の消滅があったことにはならない。 また、日本の著作権法の下では、国の機関などが一般に周知させることを目的として作成した広報資料などは刊行物への転載が可能であり(著作権法32条2項本文)、それゆえにパブリックドメインであるという誤解がされることがある。しかし、許諾なしに認められるのは「転載」や転載のための「翻訳」(著作権法43条2号)だけであり、翻訳を除く翻案については許諾が必要なので、著作権の保護の対象である。したがって、パブリックドメイン(=著作権が存在しない)であるとは言えない。 権利者として作品をパブリックドメインに置きたい著作者や、既にパブリックドメインとなっている作品にその旨標記したい場合がある。しかしながら前述のように解釈の問題が数多いため、実行の壁は高い。クリエイティブ・コモンズは万国共通の「CC0」と「PDM」を提供して、この障壁の低減を図っている。 著作権が切れパブリックドメイン化したにもかかわらず、元権利者が権利を主張したり、利用者側が「許諾」を得たり支払う必要のない使用料を支払う例が存在するとして、福井健策弁護士が問題提起している。 著作権が消滅した著作物の活用事例として、電子図書館における著作物の収集活動が挙げられる。近年の情報技術の発達、インターネットの普及を受けて、著作物をデジタル化し、インターネットを介して誰でも閲覧することを可能とするものが多い。しかし、著作権の保護期間を延長する法改正が各国で相次いでいることから、その存続が危ぶまれているものも存在する。また、格安DVDソフトの製造販売のように、著作権が消滅しても依然として経済的価値を有する著作物(映画の著作物など)の流通によって、収益を図ろうとする事業も存在する。 特許が切れた医薬品は複数の会社から後発医薬品として販売されることで価格が低下する。 特許権消滅後に普及した工業技術としてフェネストロンなどがある。
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パブリックドメインとは、著作物や発明などの知的創作物について、知的財産権が発生していない状態または消滅した状態のことをいう。日本語訳として公有(こうゆう)という語が使われることがある。 パブリックドメインに帰した知的創作物については、その知的財産権を行使しうる者が存在しないことになるため、知的財産権の侵害を根拠として利用の差止めや損害賠償請求などを求められることはないことになる。その結果、知的創作物を誰でも自由に利用できると説かれることが多い。しかし、知的財産権を侵害しなくても、利用が所有権や人格権などの侵害を伴う場合は、その限りにおいて自由に利用できるわけではない。また、ある種の知的財産権が消滅したとしても、別の知的財産権が消滅しているとは限らない場合もある(著作物を商標として利用している者がいる場合、量産可能な美術工芸品のように著作権と意匠権によって重畳的に保護される場合など)。また、各法域により法の内容が異なるため、一つの法域で権利が消滅しても、別の法域で権利が消滅しているとは限らない。したがって、特定の知的創作物がパブリックドメインであると言われる場合は、どの法域でどのような権利が不発生あるいは消滅したのかを、具体的に検討する必要がある。
'''パブリックドメイン'''(public domain)とは、[[著作物]]や[[発明]]などの[[知的創作物]]について、[[知的財産権]]が発生していない状態または消滅した状態のことをいう。[[日本語]]訳として'''公有'''(こうゆう)という語が使われることがある<ref group="注">日本の法令上、地方公共団体が所有する財産のことを[[公有財産]]ということもあり、訳語として適切ではないという意見がある。</ref><ref>{{Cite web|和書|author=文化審議会著作権分科会 |url=https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000043626#page=59 |title=過去の著作物などの保護と利用に関する小委員会 中間整理 |format=PDF |website=e-Gov |publisher=[[デジタル庁]] |page=55 |date=2008-10-01 |accessdate=2023-02-25}}</ref>。 パブリックドメインに帰した知的創作物については、その[[知的財産権]]を行使しうる者が存在しないことになるため、知的財産権の侵害を根拠として利用の差止めや損害賠償請求などを求められることはないことになる。その結果、知的創作物を誰でも自由に利用できると説かれることが多い。しかし、知的財産権を侵害しなくても、利用が[[所有権]]や[[人格権]]などの侵害を伴う場合は、その限りにおいて自由に利用できるわけではない。また、ある種の知的財産権が消滅したとしても、別の知的財産権が消滅しているとは限らない場合もある([[著作物]]を[[商標]]として利用している者がいる場合、量産可能な美術工芸品のように著作権と[[意匠権]]によって重畳的に保護される場合など)。また、各[[法域]]により[[法 (法学)|法]]の内容が異なるため、一つの法域で権利が消滅しても、別の法域で権利が消滅しているとは限らない。したがって、特定の知的創作物がパブリックドメインであると言われる場合は、どの法域でどのような[[権利]]が不発生あるいは消滅したのかを、具体的に検討する必要がある。 == 知的財産権の不発生または消滅の原因 == そもそも創作性を欠くなどの理由により保護すべき知的創作物にならない場合(例えば、著作権の場合は思想または感情の創作的表現でなければ[[著作物]]にならないので、単なるアイデアにとどまる場合や、境界線や海岸線などの記載しかない[[地図]]のように想定される表現が限られるようなものは、そもそも創作性を欠くので知的財産権が発生するか否かという問題自体が生じないし、ライセンス付与も本来ありえない)もあるが、著作物や発明の要件を満たしていながら、知的財産権が発生しない場合、または発生した権利が消滅する場合としては、以下のようなものがある。 === 権利が発生しない場合 === ==== 権利取得に必要な手続・方式の不履行 ==== 例えば、特許権の取得において審査主義を採用している国においては、発明を完成させたとしても、その発明の[[産業上の利用可能性|産業上利用可能性]]、[[新規性]]、[[進歩性]]といった特許要件について[[特許庁]]による審査を経なければ、特許権を取得できない。 また、著作権の取得について方式主義を採用している国([[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]加盟前の[[アメリカ合衆国]]など)においては、著作物を創作したとしても、必要な方式(著作権の表示、登録など)を履行しなければ、著作権は発生しない。なお、日本の[[著作権法]]は無方式主義を採用しているので、何らの方式をも採らず著作権を取得できる。 ==== その他、法が権利付与を否定する場合 ==== [[ファイル:Macaca nigra self-portrait large.jpg|thumb|right|200px|人間以外は著作権を有しないと判断され、[[サルの自撮り]]はパブリックドメインにあるとされている。]] 「著作物」、「発明」など、知的財産権の客体としての要件は満たすが、主に政策的な理由によって、法が権利の付与を否定している場合がある。 例えば、国や地方公共団体が創作した[[著作物]]を、著作権の対象としない法制が多数みられる。例えば日本では、[[憲法]]その他の[[法令]]、[[国家|国]]や[[地方公共団体]]が発する[[通達]]、[[裁判所]]の[[判決 (日本法)|判決]]などは、[[著作権]]や[[著作者人格権]]の対象にならない(日本国著作権法13条)。また、[[イタリア]]では、イタリア及び外国または官公庁の公文書には著作権法の規定を適用しない旨の規定がある。その他、[[著作権法 (アメリカ合衆国)|アメリカ合衆国の著作権法]]では、[[アメリカ合衆国政府の著作物|連邦政府の職員が職務上作成した著作物]]は、著作権の対象とならない(17 U.S.C. §105)。もっとも、連邦政府の職員ではない者の著作権を連邦政府が譲り受けた場合は連邦政府による著作権の保有を否定されないし(17 U.S.C. §105)、州政府の職員が職務上作成した著作物に対しては、法は著作権の付与を否定していない。 また、外国人による権利の享有を認めない法制が存在する場合、当該外国人による創作物は(当該法域内では)、知的財産権による保護を受けないと言える。例えば、日本では外国人の権利の享有を原則として認めているが、特別法によってそれを制限することも容認している([[b:民法第3条|民法3条]]2項)。実際に、特許法などの知的財産権法は、外国人による権利の享有を制限している(著作権法6条、特許法25条など)。<!-- 立法にもよるが、著作権の場合は、本国概念について著作者の国籍ではなく最初の発行地を基準とすることが多いので、とりあえず触れないことにする。 -->もっとも、[[工業所有権の保護に関するパリ条約|パリ条約]]などにおいて、[[内国民待遇]]の原則が採られているため、これらの条約の加盟国間においては、外国人であるというだけの理由により知的財産権の享有が否定されることはない。つまり、これらの条約に加盟していない国との関係で問題になるに過ぎない。 === 権利の消滅 === ==== 保護期間の満了 ==== [[File:Le Voyage dans la lune.jpg|thumb|right|250px|1902年の映画『[[月世界旅行 (映画)|月世界旅行]]』は、既に著作権の保護期間が終了している。]] 知的創作物を対象とする独占排他権は、法定の存続期間満了により消滅する。例えば、特許権は特許出願の日から20年をもって消滅し、著作権は著作者の死後50年または70年をもって消滅するものと規定する国が多い([[著作権の保護期間]])。創作活動は先人の成果の上に成り立っていることは否定できないため、創作後一定の期間が経過した場合は恩恵を受けた社会の発展のために公有の状態に置くべきとの価値判断によるものである。 ==== 承継人の不存在 ==== [[相続人]]なく知的財産権の権利者が死亡した場合において、相続財産の清算のために相続財産管理人によって著作権が譲渡されなかった場合、あるいは権利者である法人が解散した場合において、その著作権を帰属させるべき者が存在しない場合([[一般社団法人及び一般財団法人に関する法律]]239条3項に該当する場合など)や清算法人の財産の清算のために清算人によって著作権の譲渡がされなかった場合は、知的財産権は法定の保護期間満了を待つことなく消滅する(著作権法62条1項、2項、特許法76条、実用新案法と意匠法では特許法を準用)。 [[民法 (日本)|民法]]などの原則をそのまま適用すれば、知的財産権はいずれの場合も[[国庫]]に帰属するはずである(民法959条、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律239条3項)。しかし、著作権法など知的財産に関する法律では、知的所産であり広く国民一般に利用させるのが適切として、特別規定を置き権利を消滅させることとしている。 相続人不存在の場合、特許権などは、相続人の捜索の公告の期間内に権利主張をする者が表れなかった場合に権利が消滅するのに対し(特許法76条)、著作権は、それに加えて特別縁故者に対する相続財産の分与もされなかった場合(民法959条に該当する場合)に初めて権利が消滅する(著作権法62条)という差異がある。 ==== 権利放棄 ==== 原則として[[権利]](ただし財産権)を放棄することは自由なので、権利者により権利が放棄されれば法による保護を認める必要性は消滅する。 日本においては、[[産業財産権法]]では、[[産業財産権]]の放棄を認める規定が存在する(特許法97条、実用新案法26条、意匠法36条、商標法35条など)のに対し、著作権法には、著作権を放棄できるとする明文の規定が存在しない。しかし、著作権も[[財産権]]の一種であり(著作権法61条、63条等参照)、譲渡も可能であるため、放棄できると解される。放棄の方式については、放棄の[[効力発生要件]]としての登録制度が存在しないことから(著作権法77条)、立法担当者からは、著作権放棄の効力を発生させるためには、著作権者による[[新聞広告]]その他への明示的な放棄の意思表示が必要であると説明されている<ref>[[加戸守行]]『著作権法逐条講義(五訂新版)』([[著作権情報センター]]、2006年)、377頁</ref>。しかし、このような説明に対しては、そのような厳しい要件を課する理由が存在せず、要は証明の問題に過ぎないとの批判もある<ref>[[中山信弘]]『著作権法』(有斐閣、2007年)、349頁</ref>。仮に、権利者の意図に反して著作権放棄の効果が生じないと評価された場合、その後、著作権が消滅したことを信頼した者に対して著作権を行使することは、[[濫用#民法|権利濫用]]または[[信義誠実の原則]]に反し、認められない場合もある。 <!-- 一方で、財産権であるにもかかわらず著作権は放棄できないとする見解もある。仮に著作権は放棄できないとすると、著作権者が「著作権を放棄する」旨の意思表示をした場合の法的効果が問題となる。この場合、著作権者の意思を合理的に解釈して、著作権者は「著作権は保有しているが、それを行使しない(他人が著作物を利用することを禁止しない)」旨の意思表示をしたと解すべきことになる。したがって、そのような意思表示をした著作権者が、当該著作物の利用者に対して差止請求権や損害賠償請求権を行使することは、もはや[[信義誠実の原則]]から認められないことになる<ref>関堂幸輔『電脳空間における知的所有権法講義』第11講 (<nowiki>http://www.sekidou.com/law/cyber/intlprop/intpro11.shtml</nowiki>, 2007年6月8日リンク先消滅確認)</ref>。--><!-- 半田正夫のみが主張している財産権と人格権の一元論を採用するのであればともかく、日本法の解釈に整合性がある二元論を採用した場合に放棄できないとする見解の根拠が不明。どの程度支持を得ている見解なのか疑問。 --><!-- 出典リンクが切れていることもあり、消去しました。 --> もっとも、権利を放棄することにより他者の権利を害することはできないと解されているため、そのような場合には権利放棄は認められない。例えば、著作権者から著作物の独占的利用許諾を得ている者が存在する場合は、著作権の放棄によって誰でも著作物を利用できることになるとすると、被許諾者の財産的利益を損なう結果となるため、放棄はできないと解される。特許権の[[実施権#概要|専用実施権]]が設定されているような場合も同様である。 なお、ある法域で成立した知的財産権の効力は当該[[法域]]でしか及ばないため([[属地主義]])、知的財産権の処分(譲渡、放棄など)は法域ごとに可能である。したがって、ある法域で知的財産権が放棄され知的財産権が消滅しても、他の法域において消滅しているとは言い切れず、専ら放棄当時の著作権者の意思に基づき判断せざるを得ないし、同じ対象につき法域により権利者が異なる場合は、放棄の効力は当然に他の法域に及ぶわけではない。 以上、財産権としての知的財産権は放棄可能であるのが原則であるが、ドイツ著作権法の下では著作権の放棄はできないものと理解されている。ドイツにおける [[:de:Urheberrecht|Urheberrecht]] という概念(著作権と訳されることが多いが、実際には[[日本法]]の[[著作者の権利]]に相当する)は、財産的権利と人格的権利が一体をなす概念として理解されており、そのような権利を他人に譲渡することはできないためである(ドイツ著作権法29条1項)。そのため、著作権が放棄された場合は、不特定多数の者に対して著作物の利用権を設定した状態と理解されることになる。 == 著作権法に特有の問題 == {{出典の明記|date=2018年2月|section=1}} [[画像:PD-icon.svg|right|thumb|200px|パブリックドメインに帰した[[著作物]]であることを表示するためにしばしば使用されるマークである。[[万国著作権条約]]3条に基づく[[著作権マーク]](&copy;)に[[斜線]]を引いたものであるが、国際条約や法律に基づく効力はない。]] === 著作者人格権との関係 === [[財産権]]としての[[著作権]]のほか、[[ベルヌ条約]]や多くの国の著作権法により[[人格権]]としての[[著作者人格権]]が保護されている。そのため、著作物についてパブリックドメインと言えるためには著作者人格権が消滅していることも必要ではないかとの議論をする者もいる{{誰|date=2018年2月}}。 [[著作権法 (アメリカ合衆国)|アメリカ合衆国の著作権法]]には、一定の範囲の[[視覚芸術]]著作物を除き著作者人格権を保護する旨の規定が存在しない。これに対し、他の国では[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]の要請もあり著作権とは別に著作者人格権の制度を著作権法に取り込んでいる。著作者人格権についてはその放棄を認めている国もあるが、[[日本]]においては、反対説もあるものの放棄はできないと伝統的に解されている(人格にかかわる権利であるため)。そのため、日本においては著作権を放棄しただけでは著作物は厳密にはパブリックドメインの状態になったとは言えないとの誤解に基づく。 しかし、アメリカにおいても、著作者人格権は、伝統的に著作権法に基づく権利とは理解されていなかっただけであり、[[同一性保持権]]や[[著作者人格権#氏名表示権|氏名表示権]]は[[不正競争防止法]] {{要曖昧さ回避|date=2022年2月|title=アメリカでは「不正競争防止法」という名称ではない}}<!-- ([[反トラスト法]]) -->の不正表示禁止に関する規定などにより実質的に保護されているなど、[[コモン・ロー]]により人格権が保護されているという説明がされている<ref>[[山本隆司 (行政法学者)|山本隆司]]『アメリカ著作権法の基礎知識』(2004 [[太田出版]] ISBN 4872338316)120頁以下</ref>。つまり、著作者人格権という呼称が与えられている権利が、著作権法制の枠内にあるか否かという問題に過ぎない。したがって、著作者人格権の問題はパブリックドメインという概念を受け入れるか否かとは別問題である。ただし、ドイツでは著作権の放棄ができないがゆえに、ドイツ法では著作権放棄に基づくパブリックドメインの状態は成り立たないのは、前述のとおりである。 しかし、[[日本]]においては著作者人格権の[[相続]]は否定されるものの([[民法]]896条但書)、法は一定範囲の遺族や遺言で指定された者に対して故人の人格的利益の請求権を有することを認めている(著作権法116条)。さらには、[[著作権の保護期間]]が経過しかつ遺族や遺言で指定した者が存在しなくなった場合でも、著作者が存しているとすればその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならず(著作権法60条)、違反者に対する罰則もあるが(著作権法120条)、それをもって著作物がパブリックドメインの状態にはないという議論はされていない{{要出典|date=2018年2月}}。 しかし、日本法では著作者人格権の制度があるから著作権放棄に基づくパブリックドメインはあり得ないとの議論は、後述の[[パブリックドメインソフトウェア]]が日本で存在し得るかという問題に関連して、アメリカの法制度を理解していないプログラマーとその周辺で問題になったことがほとんどであり、知的財産権の専門家の間ではそのような問題自体議論されていない{{要出典|date=2018年2月}}。 === パブリックドメインと区別されるべきもの === [[日本]]においては、[[1990年代]]以前のいわゆる[[パソコン通信]]において、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]を通じて配布される([[オンラインソフトウェア]])無料のソフトウェアをPDS ([[パブリックドメインソフトウェア|Public Domain Software]]) と呼んでいたことなどがあった。しかし、その実態としては、単に著作物の利用に関して著作権を行使しないことのみをもってパブリックドメインであると宣言したり、著作権表示を行いつつもパブリックドメインである旨の宣言をしている場合も多かった{{要出典|date=2018年2月}}。この場合は、厳密には著作権自体は存続しており(パブリックドメインという語の用法を間違えているに過ぎないため)、単に著作権の行使を控える旨の宣言にとどまるので、権利放棄に伴う著作権の消滅があったことにはならない。 また、日本の著作権法の下では、国の機関などが一般に周知させることを目的として作成した広報資料などは刊行物への転載が可能であり(著作権法32条2項本文)、それゆえにパブリックドメインであるという誤解がされることがある{{要出典|date=2018年2月}}。しかし、許諾なしに認められるのは「転載」や転載のための「翻訳」(著作権法43条2号)だけであり、翻訳を除く翻案については許諾が必要なので、著作権の保護の対象である。したがって、パブリックドメイン(=著作権が存在しない)であるとは言えない。 === 標示 === 権利者として作品をパブリックドメインに置きたい著作者や、既にパブリックドメインとなっている作品にその旨標記したい場合がある。しかしながら前述のように解釈の問題が数多いため、実行の壁は高い。[[クリエイティブ・コモンズ]]は万国共通の「CC0」と「PDM」を提供して、この障壁の低減を図っている。{{main|クリエイティブ・コモンズ・ライセンス#パブリック・ドメイン・ツール}} == 問題 == 著作権が切れパブリックドメイン化したにもかかわらず、元権利者が権利を主張したり、利用者側が「許諾」を得たり支払う必要のない使用料を支払う例が存在するとして、[[福井健策]]弁護士が問題提起している<ref>[https://www.kottolaw.com/column/000042.html]擬似著作権: ピーターラビット、お前に永遠の命をあげよう 福井健策|コラム | 骨董通り法律事務所 For the Arts</ref>。 == 活用事例 == === 著作物 === 著作権が消滅した著作物の活用事例として、[[電子図書館]]における著作物の収集活動が挙げられる。近年の情報技術の発達、[[インターネット]]の普及を受けて、著作物をデジタル化し、[[インターネット]]を介して誰でも閲覧することを可能とするものが多い。しかし、著作権の保護期間を延長する法改正が各国で相次いでいることから、その存続が危ぶまれているものも存在する。また、格安DVDソフトの製造販売のように、著作権が消滅しても依然として経済的価値を有する著作物(映画の著作物など)の流通によって、収益を図ろうとする事業も存在する。 ;[[青空文庫]] :著作権が消滅した[[文学作品]]を収集・公開しているインターネット上の[[電子図書館]]である。[[1997年]]、[[著述家]]の[[富田倫生]]が開設した。 ;[[プロジェクト・グーテンベルク]] :青空文庫と同様に、著作権が消滅した文書を電子化し、インターネット上で公開しようとする計画である。1971年、[[マイケル・S・ハート]]が開設した。最近では著作権の保護期間を延長する法改正が各国で相次ぎ、[[オーストラリア]]を始め事実上の活動停止や大幅な活動規模の縮小を強いられる事例も相次いでいる。 ;[[国立国会図書館]]デジタルコレクション :戦前の書籍を中心に蔵書をデジタル化、公開している。 ;[[ウィキソース]] :著作権が消滅した著作物およびフリーライセンスのもとにある著作物を集積し、公開するためのプロジェクトである。アメリカの[[ウィキメディア財団]]が運営している。2003年に開設された。[[ウィキクォート]]も参照。 ;[[パブリックドメインDVD|格安DVD]]ソフト :『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』(1940年)、『[[ローマの休日]]』(1953年)など、著作権が消滅した映画を格安DVDソフトとして販売する事例がある。権利者にライセンス料を支払う必要がないため、著作権が存続している映画のDVDソフトと比較して、販売価格は1〜2割程度に抑えられている。 === 意匠 === ;[[ジェネリックプロダクト]] :意匠権が消滅した家具などを複製したレプリカ品。 === 技術 === 特許が切れた医薬品は複数の会社から[[後発医薬品]]として販売されることで価格が低下する。 特許権消滅後に普及した工業技術として[[フェネストロン]]などがある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[パブリックドメインソフトウェア]] * [[パブリックドメインDVD]] * [[パブリックドメインの日]] * [[著作権フリー]] * [[コピーレフト]] * [[WTFPL]] * [[著作権法 (アメリカ合衆国)#著作権保護の例外と制約]] * [[アメリカ合衆国政府の著作物]] * [[権利の所在が不明な著作物]] * [[後発医薬品]] * [[顔真卿自書建中告身帖事件]] {{著作権 (法学)}} {{DEFAULTSORT:はふりつくとめいん}} [[Category:知的財産法]] [[Category:パブリックドメイン|*]] [[Category:日本の知的財産法]]
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記録
記録(きろく)は、安定した形で定着・保存された状態にある情報である。会議の議事録が、会議の終わった後にも残るように会議中の発言を文書などの形にして保存するのがこの例である。 人類が意図的に残し、現存する、最古の記録と思われるのは、洞窟に残された壁画と推察されている。 もっとも、これらの壁画は何かの情報を保存する目的のものであったのかどうかは疑わしい。呪術などに用いられたものではないかとする説などもある。 文字に近い記録に限った場合には、古代メソポタミア文明における楔形文字が最初の例とされる。 紀元前8000年頃から、シュメール人は小さな粘土の板に記号化された絵のようなものを記し、物財の管理や分配をする際の助けにしていたとされる。表現の対象となったのは例えば、羊、一定量の油や穀物などである。 ただし、この粘土板を用いた記録の初期形態は、文字として今日、我々が考えるものとはやや異なっている。この小さな板は、ちょうどコインのようなもので、容器に入れて持ち運ばれ、羊の量と羊を描いた板の数が比例する、という形で用いられていた。 時と共に、平らな粘土板に複数の文字を並べる習慣が広まり、またそれらの文字とは独立して頭数や量を表す数字が発明された。さらに、表意文字としての性格を帯びるようにもなった。 ちなみに、メソポタミアの文字文化は、シュメール人の後に現れたアッカド人、バビロニア人にも受け継がれ、成文法の最初の例として知られるハンムラビ法典を生み出した。 このバビロニアはエジプト文明に影響を与え、ヒエログリフの使用のきっかけとなった。そしてエジプト文明は古代ギリシア文明に影響を与えたとされる。 文字による記録を行う社会と、口承によって物事を伝達する社会とでは人々の人間関係、物事の考え方、時間や世界に対する構えなどが異なる、という研究がある。正確な保存のために記録をとるという発想が文字の文化だ、という説も、そこからは導き出せる。 また、記録の仕方によっても人や社会が影響を受けるとする考察もある。例えばハロルド・イニスは、エジプトのパピルスが粘土板に代わって記録に用いられるようになったことで人々の思考も軽くなった、と論じている。
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記録(きろく)は、安定した形で定着・保存された状態にある情報である。会議の議事録が、会議の終わった後にも残るように会議中の発言を文書などの形にして保存するのがこの例である。
{{WikipediaPage||特別:記録}} {{otheruses|情報の記録|「記録」と呼ばれる映像制作スタッフ|スクリプター}} '''記録'''(きろく)は、[[安定]]した形で定着・保存された状態にある[[情報]]である。[[会議]]の[[議事録]]が、会議の終わった後にも残るように会議中の[[発言]]を[[文書]]などの形にして保存するのがこの例である。 == 記録と歴史 == {{Seealso|記録技術の年表}} 人類が意図的に残し、現存する、最古の記録と思われるのは、[[洞窟]]に残された[[壁画]]と推察されている。 *[[ショーヴェ洞窟]]壁画([[フランス]]・[[アルデシュ県]])約3万年前 *[[ラスコー洞窟|ラスコー]]の壁画([[フランス]])約2万年前 *[[アルタミラ洞窟|アルタミラ]]の壁画([[スペイン]])約1万8000-1万4000年前 *[[カカドゥ]]の壁画([[オーストラリア]])約2万年前 もっとも、これらの壁画は何かの情報を保存する目的のものであったのかどうかは疑わしい。呪術などに用いられたものではないかとする説などもある。 [[文字]]に近い記録に限った場合には、古代[[メソポタミア文明]]における[[楔形文字]]が最初の例とされる。 [[紀元前8000年]]頃から、[[シュメール人]]は小さな粘土の板に記号化された絵のようなものを記し、物財の管理や分配をする際の助けにしていたとされる。表現の対象となったのは例えば、[[ヒツジ|羊]]、一定量の油や穀物などである。 ただし、この[[粘土板]]を用いた記録の初期形態は、文字として今日、我々が考えるものとはやや異なっている。この小さな板は、ちょうど[[硬貨|コイン]]のようなもので、容器に入れて持ち運ばれ、羊の量と羊を描いた板の数が比例する、という形で用いられていた。 時と共に、平らな[[粘土板]]に複数の文字を並べる習慣が広まり、またそれらの文字とは独立して頭数や量を表す数字が発明された。さらに、[[表意文字]]としての性格を帯びるようにもなった。 ちなみに、[[メソポタミア]]の文字文化は、[[シュメール人]]の後に現れた[[アッカド]]人、[[バビロニア]]人にも受け継がれ、[[成文法]]の最初の例として知られる[[ハンムラビ法典]]を生み出した。 このバビロニアは[[エジプト文明]]に影響を与え、[[ヒエログリフ]]の使用のきっかけとなった。そしてエジプト文明は[[古代ギリシア]]文明に影響を与えたとされる。 == 記録と社会 == [[文字]]による記録を行う社会と、[[口承]]によって物事を伝達する社会とでは人々の[[人間関係]]、物事の考え方、[[時間]]や[[世界]]に対する構えなどが異なる、という研究がある<ref>[[ウォルター・オング]] (1991) 「声の文化と文字の文化」[[桜井直文]]訳 [[藤原書店]]</ref><ref>[[宮本常一]] (1984) 「忘れられた日本人」[[岩波文庫]]</ref>。正確な保存のために記録をとるという発想が文字の[[文化_(代表的なトピック)|文化]]だ、という説も、そこからは導き出せる。 また、記録の仕方によっても人や[[社会]]が影響を受けるとする考察もある。例えば[[ハロルド・イニス]]は、エジプトの[[パピルス]]が粘土板に代わって記録に用いられるようになったことで人々の思考も軽くなった、と論じている<ref>Innis, Harold A. (1951). The Bias of Communication. Tronto: University of Tronto Press. (邦訳 [[ハロルド・イニス]] (1987) 「メディアの文明史」[[久保秀幹]]訳 [[新曜社]])</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * Fang, Irving (1997). A History of Mass Communication: Six information revolutions. Newton, MA: Focal Press == 関連項目 == {{wiktionary|記録|レコード|log}} * [[記録技術の年表]] * [[記録密度]] * [[測定]] - [[観察]] * [[日記]] - [[日誌]] - [[ログ]] - [[ログブック]]([[:en:logbook]]) - [[航海日誌]] - [[日報]] * [[世界記録]] - [[スポーツ記録]] - [[オリンピック記録]] - [[大会記録]] * [[世界一の一覧]] * [[日本一の一覧]] * [[データ]] * [[レコード (曖昧さ回避)]] - [[録音]] - [[録画]] {{DEFAULTSORT:きろく}} [[Category:記録|*]] [[he:הקלטה]] [[it:Registrazione]] [[sv:Inspelning]]
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合理主義哲学
合理主義哲学(ごうりしゅぎてつがく、英: Rationalism)は、17-18世紀の近代哲学・認識論における一派。大陸合理主義(英: Continental Rationalism)、大陸合理論とも呼ばれる。 大陸合理主義の思想的内容は、通常、当時のイギリスにおいてロック、ヒュームらによって担われていたいわゆるイギリス経験論との対比で、ヨーロッパ大陸側の傾向として理解される。イギリス経験論において人間は経験を通じて様々な観念・概念を獲得すると考えるのに対し、大陸合理主義においては、人間は生得的に理性を与えられ、基本的な観念・概念の一部をもつ、もしくはそれを獲得する能力をもつと考える。 また、理性の能力を用いた内省・反省を通じて原理を捉え、そこからあらゆる法則を演繹しようとする演繹法が真理の探求の方法とされた。 17世紀、フランスのデカルトに始まり、オランダのスピノザ、ドイツのライプニッツやヴォルフ、フランスのマールブランシュなどによって継承・展開された。 今日広く普及している西洋哲学史観では、18世紀にカントによって合理主義と経験論の総合が行われたという見方がなされている。 大陸合理主義のルーツは、スコラ学、ひいてはアリストテレス(の『オルガノン』(論理学))や『ユークリッド原論』(数学・幾何学)にある。アリストテレスは、「蓋然的」な要素を排除した、「真にして第一の前提」(第一原理)から演繹的に構築される、厳密に形式化され、自己完結した体系(恒真(apodictic)的な「論証」(demonstration))しか、「学知」(エピステーメー)としては認めなかった。そうであればこそ、「学知」は他の経験的な思い込みとは区別され、信頼に足る普遍的・汎通的な知の体系としての地位を保証されることになる、という発想である。数学(幾何学)の基礎を築いた『ユークリッド原論』もまた、絶対的な「公理」「公準」をまず設定し、自己完結的に形式化された体系を導く構成になっている。これが西洋の「学知観」に決定的な影響を与えており、大陸合理主義(やカント)もその延長線上にある。また、もちろんこのような営みを可能たらしめるためには、経験によらずに先天的(アプリオリ)にそれを進めていける能力、すなわち「理性」が人間に付与されているはずだという、ある種の「信念」「信仰」を必要とする。したがって、ここで言う「合理主義」は、「形式主義」とか「(自己)完結主義」、あるいは「理性主義」などとも言い換えることができる類のものである。逆に、フランシス・ベーコン、イギリス経験論、自然科学(実証主義)などは、このような拙速な「形式主義」「自己完結主義」「理性主義」から離れ、着実にこの物理世界の「内実」「真相」に近づき、解き明かしていける道を求めて、踏み出して行った流れであると言える。 等々、我々が少し考えてもわかるように、この大陸合理主義には多分に怪しさが孕まれているし、自然科学が発達した現代においては、経験主義・実証主義の方が信頼に足るということは自明だと言える。とりわけこういった問題は、形而上学分野において、深刻かつ顕著に現れる。実際当時も独断論が乱立し、収拾がつかない状態になっていた。そこでイマヌエル・カントは、大陸合理主義から「理性」に対する「信仰」を継承し、「理性」が実在することを前提としつつ、その性質の批判(吟味)から出発する一方、あらゆる認識は経験から始まることを認め、しかしながら「理性」の働き自体は感性界(物理世界・因果律)のみに留まらず、そこを超えた叡智界の自己完結的「道徳法則」を生み出すにまで及ぶ、といった具合に、合理主義と経験主義のある種の「折衷案」を考え、大陸合理主義的な「形式性」「自己完結性」、そして「理性への信頼・信仰」を、保全しようとした。そういった現実度外視の規範的・自己完結的な社会思想家・哲学者、あるいは神学者などを除けば、大陸合理主義の継承と言えるものは、元々それと相性がいい分野、すなわち「論理学」「数学」分野にしか事実上ない。とりわけ19世紀から20世紀にかけて、ジョージ・ブール、ゴットロープ・フレーゲ、バートランド・ラッセル、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、ダフィット・ヒルベルト等々の人々による成果として、「論理と数学の統合」(数理論理学、数学の論理主義)や、その「形式化」(形式主義)が進むと、もはや論理や数学は、現実の物理世界との一致性や、実用性、意味、直観などを一切度外視した、形式的な「公理と推論規則」のみから成り、ブツ切れのまま情報空間に漂う自己完結的な「系」「ゲーム」群としての容貌を整えていくことになり、ある面で大陸合理主義、ひいてはアリストテレスやユークリッドの「正統な後継者」としての様相を呈するようになっている。(とはいえ、その「ゲーム」の遂行者たる人間なりコンピュータなりが、「経験」や「実装」を通じて、そのルールを身に付けなくてはならない、そして、同じようにそれを身に付けたプレイヤー達との「共通前提」「共通プロトコル」を通じてのみ、「言語ゲーム」としてそれをやりとりできるようになるという点では、相も変わらず経験主義的批判の範疇内にいることに変わりは無い。)
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合理主義哲学は、17-18世紀の近代哲学・認識論における一派。大陸合理主義、大陸合理論とも呼ばれる。
{{Otheruses|[[17世紀]]から[[18世紀]]の西欧[[近代哲学]][[認識論]]における分類|[[西洋哲学]]全般における理性主義|理性主義}} {{出典の明記|date=2017年1月13日 (金) 04:23 (UTC)}} '''合理主義哲学'''(ごうりしゅぎてつがく、{{lang-en-short|Rationalism}})は、[[17世紀|17]]-[[18世紀]]の近代[[哲学]]・[[認識論]]における一派。'''大陸合理主義'''({{lang-en-short|Continental Rationalism}})、'''大陸合理論'''とも呼ばれる。 == 解説 == 大陸合理主義の思想的内容は、通常、当時の[[イギリス]]において[[ジョン・ロック|ロック]]、[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]らによって担われていたいわゆる[[イギリス経験論]]との対比で、ヨーロッパ大陸側の傾向として理解される。イギリス経験論において人間は[[経験]]を通じて様々な[[観念]]・[[概念]]を獲得すると考えるのに対し、大陸合理主義においては、人間は生得的に[[理性]]を与えられ、基本的な観念・概念の一部をもつ、もしくはそれを獲得する能力をもつと考える<ref>後掲の[[#坂井|坂井の記事]]を参照。</ref>。 また、[[理性]]の能力を用いた[[内省]]・[[反省]]を通じて[[原理]]を捉え、そこからあらゆる法則を演繹しようとする[[演繹]]法が[[真理]]の探求の方法とされた。 [[17世紀]]、[[フランス]]の[[ルネ・デカルト|デカルト]]に始まり、[[オランダ]]の[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]、[[ドイツ]]の[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]や[[クリスチャン・ヴォルフ|ヴォルフ]]、フランスの[[ニコラス・マールブランシュ|マールブランシュ]]などによって継承・展開された。 今日広く普及している[[西洋哲学史]]観では、[[18世紀]]に[[イマヌエル・カント|カント]]によって合理主義と経験論の総合が行われたという見方がなされている。 == ルーツ == 大陸合理主義のルーツは、[[スコラ学]]、ひいては[[アリストテレス]](の『[[オルガノン]]』([[論理学]]))や『[[ユークリッド原論]]』([[数学]]・[[幾何学]])にある。アリストテレスは、「蓋然的」な要素を排除した、「真にして第一の前提」([[第一原理]])から演繹的に構築される、厳密に形式化され、自己完結した体系(恒真(apodictic)的な「論証」(demonstration))しか、「学知」([[エピステーメー]])としては認めなかった。そうであればこそ、「学知」は他の経験的な思い込みとは区別され、信頼に足る普遍的・汎通的な知の体系としての地位を保証されることになる、という発想である。[[数学]]([[幾何学]])の基礎を築いた『ユークリッド原論』もまた、絶対的な「[[公理]]」「[[公準]]」をまず設定し、自己完結的に形式化された体系を導く構成になっている。これが西洋の「学知観」に決定的な影響を与えており、大陸合理主義(や[[カント]])もその延長線上にある。また、もちろんこのような営みを可能たらしめるためには、経験によらずに先天的([[アプリオリ]])にそれを進めていける能力、すなわち「[[理性]]」が人間に付与されているはずだという、ある種の「信念」「信仰」を必要とする。したがって、ここで言う「合理主義」は、「'''形式主義'''」とか「(自己)'''完結主義'''」、あるいは「'''理性主義'''」などとも言い換えることができる類のものである。逆に、[[フランシス・ベーコン_(哲学者)|フランシス・ベーコン]]、[[イギリス経験論]]、[[自然科学]]([[実証主義]])などは、このような拙速な「形式主義」「自己完結主義」「理性主義」から離れ、着実にこの物理世界の「内実」「真相」に近づき、解き明かしていける道を求めて、踏み出して行った流れであると言える。 == 批判と継承 == *「前提や形式自体が誤っていたら?」 *「前提や形式もまた経験的に形成・獲得されたものではないのか?」 *「経験や物理世界の検証を受けないならば、好き勝手に前提や論を作成・設定できてしまう([[独断論]]に陥ってしまう)のでは?」 等々、我々が少し考えてもわかるように、この大陸合理主義には多分に怪しさが孕まれているし、自然科学が発達した現代においては、[[経験主義]]・[[実証主義]]の方が信頼に足るということは自明だと言える。とりわけこういった問題は、[[形而上学]]分野において、深刻かつ顕著に現れる。実際当時も独断論が乱立し、収拾がつかない状態になっていた。そこでイマヌエル・カントは、大陸合理主義から「理性」に対する「信仰」を継承し、「理性」が実在することを前提としつつ、その性質の批判(吟味)から出発する一方、あらゆる認識は経験から始まることを認め、しかしながら「理性」の働き自体は感性界(物理世界・因果律)のみに留まらず、そこを超えた叡智界の自己完結的「道徳法則」を生み出すにまで及ぶ、といった具合に、合理主義と経験主義のある種の「折衷案」を考え、大陸合理主義的な「形式性」「自己完結性」、そして「理性への信頼・信仰」を、保全しようとした。そういった現実度外視の規範的・自己完結的な社会思想家・哲学者、あるいは神学者などを除けば、大陸合理主義の継承と言えるものは、元々それと相性がいい分野、すなわち「[[論理学]]」「[[数学]]」分野にしか事実上ない。とりわけ19世紀から20世紀にかけて、[[ジョージ・ブール]]、[[ゴットロープ・フレーゲ]]、[[バートランド・ラッセル]]、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]、[[ダフィット・ヒルベルト]]等々の人々による成果として、「論理と数学の統合」([[数理論理学]]、数学の[[論理主義 (数学)|論理主義]])や、その「形式化」([[形式主義 (数学)|形式主義]])が進むと、もはや論理や数学は、現実の物理世界との一致性や、実用性、意味、直観などを一切度外視した、形式的な「公理と推論規則」のみから成り、ブツ切れのまま情報空間に漂う自己完結的な「系」「ゲーム」群としての容貌を整えていくことになり、ある面で大陸合理主義、ひいてはアリストテレスやユークリッドの「正統な後継者」としての様相を呈するようになっている。(とはいえ、その「ゲーム」の遂行者たる人間なり[[コンピュータ]]なりが、「経験」や「実装」を通じて、そのルールを身に付けなくてはならない、そして、同じようにそれを身に付けたプレイヤー達との「共通前提」「共通[[プロトコル]]」を通じてのみ、「[[言語ゲーム]]」としてそれをやりとりできるようになるという点では、相も変わらず経験主義的批判の範疇内にいることに変わりは無い。) == 主な論者 == * [[ルネ・デカルト]] * [[バールーフ・デ・スピノザ]] * [[ゴットフリート・ライプニッツ]] * [[ニコラ・ド・マルブランシュ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=サイモン・クリッチリー|authorlink=サイモン・クリッチリー|others=[[佐藤透]]訳、[[野家啓一]]解説|date=2004-06|title=ヨーロッパ大陸の哲学|series=1冊でわかる|publisher=岩波書店|isbn=4-00-026872-4|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/4/0268720.html|ref=クリッチリー2004}} == 関連項目 == * [[イギリス経験論]] * [[大陸哲学]] == 外部リンク == * {{Kotobank|合理主義}} * {{Kotobank|大陸合理論}} {{哲学}} {{Philos-stub}} {{DEFAULTSORT:こうりしゆきてつかく}} [[Category:合理主義|*]] [[Category:認識論的理論]] [[Category:内在主義と外在主義]]
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ミュージシャン一覧 (グループ)
ミュージシャン一覧(グループ) (ミュージシャンいちらん(グループ))は、ミュージシャン、音楽家のグループ名の50音順の一覧。 なお、「The」のつくアーティストは「The」を省いて紹介している。 参照:音楽家、音楽家の一覧(クラシック音楽をもっぱら専門とする音楽家は除く) 「日本の男性アイドルグループの一覧」、「日本の女性アイドルグループの一覧」については、各々同項目を参照。 (ポピュラー) (フォルクローレ) 日本 (タンゴの楽団) (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) (フォルクローレ) 日本 (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (ポピュラー) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (2020年代) (ポピュラー) (タンゴの楽団) (フォルクローレ) (ロマ音楽) 日本 (タンゴの楽団) (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) (パゴーヂ) (フォルクローレ) (ロマ音楽) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (ポピュラー) (タンゴの楽団) (フォルクローレ) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (ポピュラー) (パゴーヂ) (フォルクローレ) 日本 (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (ポピュラー) (フォルクローレ) 日本 (2010年代) (ポピュラー) (ロマ音楽) 日本 (2010年代) (ポピュラー) 日本 (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (2020年代) (ポピュラー) (フォルクローレ) (ロマ音楽) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (その他) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (2010年代) (ポピュラー) (パゴーヂ) 日本 (ヒップホップ) (アイドル) (その他) (2010年代) (ポピュラー) (ロマ音楽) 日本 (アイドル) (その他) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (その他) (2010年代) 日本 (2010年代) (ポピュラー) 日本 (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (タンゴの楽団) (アイドル) (その他) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (2010年代) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (ポピュラー) (パゴーヂ) 日本 (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (2020年代) (ポピュラー) (フォルクローレ) 日本 (タンゴの楽団) (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (その他) (2010年代) (ポピュラー) (タンゴの楽団) (ロマ音楽) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (ポピュラー) (ロマ音楽) 日本 (アイドル) (その他) (2010年代) (ポピュラー) (ロマ音楽) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) (フォルクローレ) 日本 (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (アイドル) (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (ヒップホップ) (その他) (2000年代) (2010年代) (ポピュラー) 日本 (2000年代) (2010年代) (2010年代)
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ミュージシャン一覧(グループ) (ミュージシャンいちらん)は、ミュージシャン、音楽家のグループ名の50音順の一覧。 なお、「The」のつくアーティストは「The」を省いて紹介している。 参照:音楽家、音楽家の一覧(クラシック音楽をもっぱら専門とする音楽家は除く) 「日本の男性アイドルグループの一覧」、「日本の女性アイドルグループの一覧」については、各々同項目を参照。
{{複数の問題 |特筆性 = 2022年1月 | 分野 = 音楽 |Wikify = 2022年1月 |雑多な内容の箇条書き = 2022年1月}} '''ミュージシャン一覧(グループ) '''(ミュージシャンいちらん(グループ))は、[[ミュージシャン]]、[[音楽家]]のグループ名の50音順の一覧。 なお、「The」のつくアーティストは「The」を省いて紹介している。 参照:[[音楽家]]、[[音楽家の一覧]]([[クラシック音楽]]をもっぱら専門とする音楽家は除く) {{also|ポピュラー音楽の音楽家一覧|ポピュラー音楽の音楽家一覧 (グループ)|ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・グループ)}} {{also|ロックミュージシャンの一覧|作曲家一覧}} 「[[日本の男性アイドルグループの一覧]]」、「[[日本の女性アイドルグループの一覧]]」については、各々同項目を参照。 == 目次 == __NOTOC__ {{KTOC}} == あ行 == === あ === * [[アーバン・サックス]] *[[アスコ・シェーンベルク・アンサンブル]] *[[アルディッティ弦楽四重奏団]] *[[アンサンブル・アンテルコンタンポラン]] *[[アンサンブル・ジェネシス]] *[[アンサンブル・ディ・ライエ]] *[[アンサンブル・モデルン]] *[[アレクサンドロフ・アンサンブル]] *[[アルタン]] (ポピュラー) {{main|ポピュラー音楽の音楽家一覧 (グループ)#あ|ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・グループ)#あ}} *[[アーチ・エネミー]] (ARCH ENEMY) *[[アーケイディア]] *[[アージェント (バンド)|アージェント]] *[[アース・ウィンド・アンド・ファイアー]] *[[アート・アンサンブル・オブ・シカゴ]] *[[a-ha]] (a~ha) *[[REOスピードワゴン]] (REO Speedwagon) *[[R.E.M.]](アール・イー・エム) *[[アイアン・メイデン]] *[[アヴェレイジ・ホワイト・バンド]] *[[Athlete]](アスリート) *[[アッシュ (バンド)|アッシュ]] *[[アディエマス]] *[[アトミック・キトゥン]] *[[アバ]] (ABBA) *[[A Hundred Birds]](ア・ハンドレッド・バーズ) *[[abingdon boys school]](アビングドン・ボーイズ・スクール) *[[アフター・フォーエヴァー]] (After Forever) *[[アメリカ (バンド)|アメリカ]] (AMERICA) *[[アルカトラス]] (Alcatrazz) *[[アンスラックス]] (ANTHRAX) *[[アンダーワールド (バンド)|アンダーワールド]] (Underworld) *アリアナグランデ (フォルクローレ) * [[アナタ・ボリビア]] 日本 (タンゴの楽団) * [[アストロリコ]] (アイドル) *[[嵐 (グループ)|嵐]] * [[AH(嗚呼)]] * [[あぁ!]] * [[EARTH (歌手グループ)]] * [[アースピ-auspice-]] * [[アーマーガールズ]] * [[Are 湯 Lady]] * [[Ai-Girls]] * [[あぃ♡かちゅ]] * [[IQプロジェクト研究生]] * [[アイくるガールズ]] * [[AI-SACHI]] * [[Icmworks.]] * [[AIS (アイドルグループ)]] * [[AIS (ユニット)]] * [[I'S wing]] * [[アイスクリーム夢少女]] * [[IZ*ONE]] * [[あいぜっちゅー]] * [[I.D.And Fly LooM]] * [[アイドリング!!! (アイドルグループ)]] * [[アイドルカレッジ]] * [[アイドル教室]] * [[IDOL Street]] * [[アイドル諜報機関LEVEL7]] * [[アイドルネッサンス]] * [[アイドル夢工場]] * [[アイドル妖怪カワユシ]] * [[AIBECK]] * [[I☆Ris]] * [[アイリス (by MORADOLL)]] * [[Avandoned]] * [[Awww!]] * [[Ael-アエル-]] * [[青山Rabness]] * [[あかぎ団]] * [[あかなぎ]] * [[赤の流星]] * [[赤マルダッシュ☆]] * [[アキシブproject]] * [[Aqours]] * [[AXELL]] * [[Act♡eve]] * [[あけ☆たま]] * [[朝ぼらけの紅色は未だ君のうちに壊れずにいる]] * [[AZURE♯]] * [[あすきょう]] * [[ASTROMATE]] * [[Asfi]] * [[あっとせぶんてぃーん]] * [[天晴れ!原宿]] * [[アップアップガールズ(仮)]] * [[アップアップガールズ(2)]] * [[あっぷる学園応援部]] * [[AppleTale]] * [[Advance Arc Harmony]] * [[あにまどーる]] * [[アパッチ (アイドルグループ)]] * [[Aphrodite (アイドルグループ)]] * [[安倍なつみ&矢島舞美(℃-ute)]] * [[APOKALIPPPS]] * [[あまくらぶ]] * [[Ami〜gas]] * [[AmiinA]] * [[アメフラっシ]] * [[あゆみくりかまき]] * [[アリスインプロジェクト]] * [[アリス十番]] * [[アルザ]] * [[アルバイドル]] * [[アルプスおとめ]] * [[Angelic]] * [[アンジュルム]] * [[Ange☆Reve]] * [[アンダービースティー]] * [[アンドクレイジー]] * [[ANNA☆S]] (ヒップホップ) *[[アルファ (音楽グループ)|アルファ]] (その他) *[[あんみ通]] *[[AINU REBELS]] *[[EARTHSHAKER]](アースシェイカー) *[[RCサクセション]] *[[I 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イエスタデイ (ビートルズの曲)
「イエスタデイ」(Yesterday)は、ビートルズの楽曲である。1965年8月6日に発売された5作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバム『ヘルプ!』に収録された。アメリカでは1965年9月13日にシングルで発売されたのち、1966年6月20日に発売されたキャピトル編集盤『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』に収録された。レノン=マッカートニー名義となっているが、ポール・マッカートニーが単独で書いた楽曲で、弦楽四重奏をバックにしたアコースティック・バラードをビートルズ名義で初めて発売した楽曲となっている。 世界中のミュージシャンに数多くカバーされており、ビートルズ活動時点で既に1,000を超えるカバー音源が存在し、「世界で最も多くカバーされた曲」としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている。BMI調べによる「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」のランキングでは、700万回以上のオンエアで3位にランクインされた。BBC4が2012年に放送したドキュメンタリー番組『ザ・リッチエスト・ソングス・イン・ザ・ワールド』にて音楽史上最も稼いだ10曲を選出し、本作は第4位にランクインした。 1999年のBBCラジオ2の世論調査において「20世紀最高のベストソング」にランクインし、翌2000年にローリングストーンとMTV共同のグレイテスト・ポップソング100において第1位を獲得。 また、ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では13位にランクインした。ロックバンドがスリーコードやロックンロールのメロディにとらわれない作曲を行なったロックバンドがストリングスを使用したと評価される。ビートルズは、この試みの走りとなり、次第にアーティスト集団として見られるようになっていった。この曲は、現在では「ヘイ・ジュード」と共に主に日本の中学校・高等学校の音楽の教科書に採用され教材になっている。 本作についてジョン・レノンはそうね。『イエスタデイ』のことは誰でも知ってるんじゃない。『イエスタデイ』ではぼくもさんざん誉められたな。もちろん、あれはポールの歌で、ポールの秘蔵っ子さ。よくできてるよ。ビューティフルだよ。でもぼくが作っときゃよかったとは、1度も思ったことはないねと語った。 マッカートニーおよびビートルズの伝記によれば、当時のガールフレンドであるジェーン・アッシャーと家族が暮らすウェンポール・ストリートにあるマッカートニーの部屋で、家で睡眠中に夢の中で流れたメロディを基に作曲したという。マッカートニーは起床後、メロディを忘れないようにするために急いでコードを探してスタジオで完成させた。この時のことをマッカートニーは、あまりに自然に浮かんできたものだから、誰かの曲のメロディなんじゃないかと思って皆に聞かせて回ったけど、誰もこのメロディを知らないみたいだったから、僕のオリジナル曲だと認識したと述べている。 曲が書かれた時期はいくつか説があり、マッカートニーの友人や伝記作家のバリー・マイルズ(英語版)らはレコーディングの数週間前に書かれたものと主張し、ジョージ・マーティンは初めてこの曲を聴いたのは1964年1月のパリのジョルジュサンク・ホテルで、当時は“Scrambled Egg”と呼ばれていたと記憶しており、レノンは何ヶ月も前と記憶していた。レノンによるとポールは曲のほとんどを書き上げていたんだけど、僕らはどうしても曲名が決められなかった。曲作りやレコーディング・セッションで集まるたびにこの話題が持ち上がって、とりあえずで“Scrambled Egg”というタイトルがついて、内輪のジョークになったよ。そしてある朝ポールが目覚めたら、曲もタイトルも仕上がっていたんだ。お伽話みたいだけど、これが事実なんだと語っている。 歌詞の内容から「自分の元を黙って離れて行った恋人を歌った曲」と解釈されていたが、マッカートニーは僕が14歳の時に乳癌で死去した母への想いを歌った曲と2001年に述べている。 2010年に『レイト・ナイト・ウィズ・ジミー・ファロン』にゲスト出演した際、司会のジミー・ファロンと原曲の「Scrambled Egg」をデュエットで披露した。歌詞はマッカートニーがベジタリアンであることを反映したものに変更されている。その音源は2012年に発売されたファロンのアルバム『Blow Your Pants Off(英語版)』に収録された。 「イエスタデイ」のレコーディングは、マッカートニーの23歳の誕生日の4日前である1965年6月14日にEMIレコーディング・スタジオで開始された。マッカートニーは、ギターのチューニングを全弦1音下げでレコーディング。アコースティック・ギターとボーカルを担当したマッカートニー以外、他のビートルズのメンバー3人はレコーディングに参加していないが、スタジオには同席している。本作に対し、リンゴ・スターはこの曲にドラムを合せるのは難しいと発言し、レノンとジョージ・ハリスンはもう一本ギターを追加するのも無意味だと思うと発言した。ここでジョージ・マーティンは仮でマッカートニーに弾き語りをさせることを提案。プレイバックを聴いたあとにマッカートニーが僕のソロ曲になるの?と訊いて、メンバーが僕らが何かを足す必要はなさそうだと答えた。その後、もう一度録音されたのちテイク2が採用された。 6月17日に弦楽四重奏がオーバー・ダビングされた。弦楽四重奏のアレンジは、プロデューサーのジョージ・マーティンによるものである。マッカートニーは当初、ストリングスのアレンジをマントヴァーニみたいなことはお断りだと述べていたが、それじゃあカルテットでどう?というマーティンの提案を受容して完成させた。2度目のサビで第1フレーズと第2フレーズの間にチェロが「ドーミ♭ードシ♭ラー」と奏するアレンジと、第3コーラスでヴァイオリンが高音域でラの持続音を奏するアレンジはマッカートニーのアイデアである。 6月14日にレコーディングされたテイク1が、1996年に発売された『ザ・ビートルズ・アンソロジー2』に収録された。このテイク1では、リリース版におけるI’m not half the man I used to be / There’s a shadow hanging over me(僕は今までの半分にも足りない男になった / 影が全身を覆っている)というフレーズが、There’s a shadow hanging over me / I’m not half the man I used to beと入れ替わっていた。 2006年に上演されたシルク・ドゥ・ソレイユのショー『ザ・ビートルズ LOVE』では、冒頭に同じくマッカートニー作の「ブラックバード」のギターのフレーズが加えられた音源が使用され、同年11月に発売されたサウンドトラック盤に収録された。マーティンは『ザ・ビートルズ LOVE』での使用について『イエスタデイ』をショーで使用するべきかどうかについては非常に悩んだ。一つの時代の象徴も言える有名な曲だが、いい加減聴き尽くされてしまったのではないかという心配もあったからだ。オリジナルに弦楽四重奏が付けられた経緯はよく知られているものの、当時のレコーディング技術がいかに限られたものであったかについては、あまり知られていない。だからこの曲を入れない可能性も強かったが、これほど素晴らしい楽曲を誰が無視できるだろうか?『ブラックバード』のポールのギター・ワークの一部をイントロに加えたが、今聴くとこれで正解だったと思える。そのシンプルさは非常にダイレクトに胸に響くと語っている。 「イエスタデイ」は、イギリスで1965年8月6日に発売されたオリジナル・アルバム『ヘルプ!』のB面6曲目に収録された。発売当時、ビートルズは「バンドのイメージに合わない」という観点から、本作のシングル・カットを拒否していた。一方アメリカでは、9月13日に新曲扱いのシングル盤として発売され、B面は「アクト・ナチュラリー」が収録された。10月9日付のBillboard Hot 100より4週連続で1位を獲得し、11週にわたってチャートインし、5週間以内で100万枚以上の売り上げを記録。『キャッシュボックス』誌では、3週連続第1位を獲得。 その後、1966年6月にアメリカで発売されたキャピトル編集盤『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』や、同年12月にイギリスで発売されたコンピレーション・アルバム『オールディーズ』に収録され、解散後に発売された『ザ・ビートルズ1962年〜1966年』、『ラヴ・ソングス』、『ビートルズ バラード・ベスト20』、『リヴァプールより愛を込めて ザ・ビートルズ・ボックス』、『20グレイテスト・ヒッツ』、『ザ・ビートルズ1』にも収録された。 日本では、カップリングはアメリカ盤と同じながら、A面に「アクト・ナチュラリー」、B面に「イエスタデイ」が収録されたシングル盤として発売された。 イギリスでは、シングル・カットされなかった代わりに、1966年3月4日に4曲入りのEP盤『イエスタデイ』の表題曲として発売され、他国への輸出専用盤として『ディジー・ミス・リジー/イエスタデイ』のシングル盤が製造されている。ビートルズ解散後の1976年3月8日に「恋する二人」をB面にして、イギリス内販売用にもシングル・カットされた。このシングル盤は全英シングルチャートで最高8位を獲得した。なお日本ではこちらのシングル盤も1976年3月5日より販売されている。 この曲がビートルズのライブで演奏に際して、2種類のアレンジが存在している。 ウイングス時代は一人でエレクトリックアコースティックギターを演奏し、ストリングス部分はサポートのホーン隊が演奏した。ウイングス解散後のコンサートでもギターを一人で演奏しているがストリングスはキーボードで演奏されている。 マッカートニーのソロ・コンサートでは主にアンコールで演奏されており、1990年代のツアーではアルバレズ・ヤイリやタカミネのエレアコを使用していたが、2002年のツアーからは、この曲のレコーディングで実際に使用したエピフォン・テキサンを使って演奏している。2013年の日本公演では福島の被災者に捧げたいと前置きし歌っている。ライブ音源は『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』、『ポール・マッカートニー・ライブ!!』、『ポール・マッカートニー・ライブ・ハイライツ!!』、『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』、『バック・イン・ザ・ワールド』、『グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ〜ベスト・ヒッツ・ライヴ』などの作品に収録された。 「イエスタデイ」は、ポップ・ミュージック史上最も多くカバーされた楽曲の1つで、1986年1月時点で1600以上のカバー・バージョンが発表されていた。 「イエスタデイ」は、1965年度のアイヴァー・ノヴェロ賞で最優秀ソング・コレクション部門を受賞し、最優秀ソング部門では「ミッシェル」に次ぐ第2位に入った。2004年に『ローリング・ストーン』誌が発表した「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」では第13位、2010年に同誌が発表した「100 Greatest Beatles Songs of All Time」で第4位にランクインした。BMI調べによる「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」のランキングでは、700万回以上のオンエアで3位にランクインされた。 1988年10月20日には、「イエスタデイ」の500万枚達成を記念した昼食会がハイドパークホテルで開催され、オノ・ヨーコに記念賞が贈られた。 本作は、1997年にグラミー殿堂賞(英語版)を受賞した。 チャック・ベリーは、本作についてあの曲を自分で書けたらどんなによかったかと思う。これまでの人生において大きな影響を受けた1曲と称賛している。一方、ボブ・ディランはアメリカ議会図書館に行けば、ティン・パン・アレーで書かれた『イエスタデイ』や『ミッシェル』よりも遥かに優れた曲がたくさん見つかると語っている。なお、ディランはハリスンと共に「イエスタデイ」をカバーしたことがあるが、未発表のままとなっている。 レノンは、1980年の『プレイボーイ』誌のインタビューで詩としては決して完成したものじゃないけど、悪くはない。堅実な作品だね。良い歌詞なんだけど、通して読むと何も訴えていないと語っている。レノンは、1971年に発表した楽曲「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」で、本作とマッカートニーのソロ曲「アナザー・デイ」を引き合いにThe only thing you done was yesterday, but since you’ve gone you’re just another day(お前の傑作なんざ、『イエスタデイ』だけだ。それも消えちまった今となっては『アナザー・デイ』ってわけだ)と歌っている。 2012年にBBCが発表した「著作権で史上最も稼いだ曲」のランキングで、「イエスタデイ」は4位にランクインした。 ※出典 「イエスタデイ」は、ポピュラー音楽史上最もカバーされている楽曲の1つで、1986年1月までに約1600のカバー・バージョンが確認され、同月1日付でギネス世界記録に「世界で最もカバーされた曲」として登録された。 イギリスでは、マット・モンロー(英語版)によるカバー・バージョンが全英シングルチャートで最高位8位、マリアンヌ・フェイスフルによるカバー・バージョンが同チャートで最高位36位をそれぞれ獲得している。1967年には、レイ・チャールズのカバー・バージョンもシングル盤として発売され、Billboard Hot 100で最高位25位、全英シングルチャートで最高位44位をそれぞれ獲得している。 作者であるマッカートニーも、ビートルズ解散後にセルフカバーしている。1984年に公開された主演映画『ヤァ!ブロード・ストリート(英語版)』で歌唱し、その時の音源が同名のサウンドトラック盤に収録された。 その他、エルヴィス・プレスリーやフランク・シナトラ、スプリームス、マーヴィン・ゲイ、マイケル・ボルトン、トム・ジョーンズ、ヒメーシュ・パテルなど、音楽ジャンルを問わず今でもカバーされ続けている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "「イエスタデイ」(Yesterday)は、ビートルズの楽曲である。1965年8月6日に発売された5作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバム『ヘルプ!』に収録された。アメリカでは1965年9月13日にシングルで発売されたのち、1966年6月20日に発売されたキャピトル編集盤『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』に収録された。レノン=マッカートニー名義となっているが、ポール・マッカートニーが単独で書いた楽曲で、弦楽四重奏をバックにしたアコースティック・バラードをビートルズ名義で初めて発売した楽曲となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "世界中のミュージシャンに数多くカバーされており、ビートルズ活動時点で既に1,000を超えるカバー音源が存在し、「世界で最も多くカバーされた曲」としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている。BMI調べによる「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」のランキングでは、700万回以上のオンエアで3位にランクインされた。BBC4が2012年に放送したドキュメンタリー番組『ザ・リッチエスト・ソングス・イン・ザ・ワールド』にて音楽史上最も稼いだ10曲を選出し、本作は第4位にランクインした。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1999年のBBCラジオ2の世論調査において「20世紀最高のベストソング」にランクインし、翌2000年にローリングストーンとMTV共同のグレイテスト・ポップソング100において第1位を獲得。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では13位にランクインした。ロックバンドがスリーコードやロックンロールのメロディにとらわれない作曲を行なったロックバンドがストリングスを使用したと評価される。ビートルズは、この試みの走りとなり、次第にアーティスト集団として見られるようになっていった。この曲は、現在では「ヘイ・ジュード」と共に主に日本の中学校・高等学校の音楽の教科書に採用され教材になっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本作についてジョン・レノンはそうね。『イエスタデイ』のことは誰でも知ってるんじゃない。『イエスタデイ』ではぼくもさんざん誉められたな。もちろん、あれはポールの歌で、ポールの秘蔵っ子さ。よくできてるよ。ビューティフルだよ。でもぼくが作っときゃよかったとは、1度も思ったことはないねと語った。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "マッカートニーおよびビートルズの伝記によれば、当時のガールフレンドであるジェーン・アッシャーと家族が暮らすウェンポール・ストリートにあるマッカートニーの部屋で、家で睡眠中に夢の中で流れたメロディを基に作曲したという。マッカートニーは起床後、メロディを忘れないようにするために急いでコードを探してスタジオで完成させた。この時のことをマッカートニーは、あまりに自然に浮かんできたものだから、誰かの曲のメロディなんじゃないかと思って皆に聞かせて回ったけど、誰もこのメロディを知らないみたいだったから、僕のオリジナル曲だと認識したと述べている。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "曲が書かれた時期はいくつか説があり、マッカートニーの友人や伝記作家のバリー・マイルズ(英語版)らはレコーディングの数週間前に書かれたものと主張し、ジョージ・マーティンは初めてこの曲を聴いたのは1964年1月のパリのジョルジュサンク・ホテルで、当時は“Scrambled Egg”と呼ばれていたと記憶しており、レノンは何ヶ月も前と記憶していた。レノンによるとポールは曲のほとんどを書き上げていたんだけど、僕らはどうしても曲名が決められなかった。曲作りやレコーディング・セッションで集まるたびにこの話題が持ち上がって、とりあえずで“Scrambled Egg”というタイトルがついて、内輪のジョークになったよ。そしてある朝ポールが目覚めたら、曲もタイトルも仕上がっていたんだ。お伽話みたいだけど、これが事実なんだと語っている。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "歌詞の内容から「自分の元を黙って離れて行った恋人を歌った曲」と解釈されていたが、マッカートニーは僕が14歳の時に乳癌で死去した母への想いを歌った曲と2001年に述べている。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2010年に『レイト・ナイト・ウィズ・ジミー・ファロン』にゲスト出演した際、司会のジミー・ファロンと原曲の「Scrambled Egg」をデュエットで披露した。歌詞はマッカートニーがベジタリアンであることを反映したものに変更されている。その音源は2012年に発売されたファロンのアルバム『Blow Your Pants Off(英語版)』に収録された。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「イエスタデイ」のレコーディングは、マッカートニーの23歳の誕生日の4日前である1965年6月14日にEMIレコーディング・スタジオで開始された。マッカートニーは、ギターのチューニングを全弦1音下げでレコーディング。アコースティック・ギターとボーカルを担当したマッカートニー以外、他のビートルズのメンバー3人はレコーディングに参加していないが、スタジオには同席している。本作に対し、リンゴ・スターはこの曲にドラムを合せるのは難しいと発言し、レノンとジョージ・ハリスンはもう一本ギターを追加するのも無意味だと思うと発言した。ここでジョージ・マーティンは仮でマッカートニーに弾き語りをさせることを提案。プレイバックを聴いたあとにマッカートニーが僕のソロ曲になるの?と訊いて、メンバーが僕らが何かを足す必要はなさそうだと答えた。その後、もう一度録音されたのちテイク2が採用された。", "title": "レコーディング" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "6月17日に弦楽四重奏がオーバー・ダビングされた。弦楽四重奏のアレンジは、プロデューサーのジョージ・マーティンによるものである。マッカートニーは当初、ストリングスのアレンジをマントヴァーニみたいなことはお断りだと述べていたが、それじゃあカルテットでどう?というマーティンの提案を受容して完成させた。2度目のサビで第1フレーズと第2フレーズの間にチェロが「ドーミ♭ードシ♭ラー」と奏するアレンジと、第3コーラスでヴァイオリンが高音域でラの持続音を奏するアレンジはマッカートニーのアイデアである。", "title": "レコーディング" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "6月14日にレコーディングされたテイク1が、1996年に発売された『ザ・ビートルズ・アンソロジー2』に収録された。このテイク1では、リリース版におけるI’m not half the man I used to be / There’s a shadow hanging over me(僕は今までの半分にも足りない男になった / 影が全身を覆っている)というフレーズが、There’s a shadow hanging over me / I’m not half the man I used to beと入れ替わっていた。", "title": "レコーディング" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2006年に上演されたシルク・ドゥ・ソレイユのショー『ザ・ビートルズ LOVE』では、冒頭に同じくマッカートニー作の「ブラックバード」のギターのフレーズが加えられた音源が使用され、同年11月に発売されたサウンドトラック盤に収録された。マーティンは『ザ・ビートルズ LOVE』での使用について『イエスタデイ』をショーで使用するべきかどうかについては非常に悩んだ。一つの時代の象徴も言える有名な曲だが、いい加減聴き尽くされてしまったのではないかという心配もあったからだ。オリジナルに弦楽四重奏が付けられた経緯はよく知られているものの、当時のレコーディング技術がいかに限られたものであったかについては、あまり知られていない。だからこの曲を入れない可能性も強かったが、これほど素晴らしい楽曲を誰が無視できるだろうか?『ブラックバード』のポールのギター・ワークの一部をイントロに加えたが、今聴くとこれで正解だったと思える。そのシンプルさは非常にダイレクトに胸に響くと語っている。", "title": "レコーディング" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「イエスタデイ」は、イギリスで1965年8月6日に発売されたオリジナル・アルバム『ヘルプ!』のB面6曲目に収録された。発売当時、ビートルズは「バンドのイメージに合わない」という観点から、本作のシングル・カットを拒否していた。一方アメリカでは、9月13日に新曲扱いのシングル盤として発売され、B面は「アクト・ナチュラリー」が収録された。10月9日付のBillboard Hot 100より4週連続で1位を獲得し、11週にわたってチャートインし、5週間以内で100万枚以上の売り上げを記録。『キャッシュボックス』誌では、3週連続第1位を獲得。", "title": "リリース" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後、1966年6月にアメリカで発売されたキャピトル編集盤『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』や、同年12月にイギリスで発売されたコンピレーション・アルバム『オールディーズ』に収録され、解散後に発売された『ザ・ビートルズ1962年〜1966年』、『ラヴ・ソングス』、『ビートルズ バラード・ベスト20』、『リヴァプールより愛を込めて ザ・ビートルズ・ボックス』、『20グレイテスト・ヒッツ』、『ザ・ビートルズ1』にも収録された。", "title": "リリース" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本では、カップリングはアメリカ盤と同じながら、A面に「アクト・ナチュラリー」、B面に「イエスタデイ」が収録されたシングル盤として発売された。", "title": "リリース" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イギリスでは、シングル・カットされなかった代わりに、1966年3月4日に4曲入りのEP盤『イエスタデイ』の表題曲として発売され、他国への輸出専用盤として『ディジー・ミス・リジー/イエスタデイ』のシングル盤が製造されている。ビートルズ解散後の1976年3月8日に「恋する二人」をB面にして、イギリス内販売用にもシングル・カットされた。このシングル盤は全英シングルチャートで最高8位を獲得した。なお日本ではこちらのシングル盤も1976年3月5日より販売されている。", "title": "リリース" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この曲がビートルズのライブで演奏に際して、2種類のアレンジが存在している。", "title": "ライブでの披露" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ウイングス時代は一人でエレクトリックアコースティックギターを演奏し、ストリングス部分はサポートのホーン隊が演奏した。ウイングス解散後のコンサートでもギターを一人で演奏しているがストリングスはキーボードで演奏されている。", "title": "ライブでの披露" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "マッカートニーのソロ・コンサートでは主にアンコールで演奏されており、1990年代のツアーではアルバレズ・ヤイリやタカミネのエレアコを使用していたが、2002年のツアーからは、この曲のレコーディングで実際に使用したエピフォン・テキサンを使って演奏している。2013年の日本公演では福島の被災者に捧げたいと前置きし歌っている。ライブ音源は『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』、『ポール・マッカートニー・ライブ!!』、『ポール・マッカートニー・ライブ・ハイライツ!!』、『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』、『バック・イン・ザ・ワールド』、『グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ〜ベスト・ヒッツ・ライヴ』などの作品に収録された。", "title": "ライブでの披露" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「イエスタデイ」は、ポップ・ミュージック史上最も多くカバーされた楽曲の1つで、1986年1月時点で1600以上のカバー・バージョンが発表されていた。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「イエスタデイ」は、1965年度のアイヴァー・ノヴェロ賞で最優秀ソング・コレクション部門を受賞し、最優秀ソング部門では「ミッシェル」に次ぐ第2位に入った。2004年に『ローリング・ストーン』誌が発表した「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」では第13位、2010年に同誌が発表した「100 Greatest Beatles Songs of All Time」で第4位にランクインした。BMI調べによる「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」のランキングでは、700万回以上のオンエアで3位にランクインされた。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1988年10月20日には、「イエスタデイ」の500万枚達成を記念した昼食会がハイドパークホテルで開催され、オノ・ヨーコに記念賞が贈られた。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "本作は、1997年にグラミー殿堂賞(英語版)を受賞した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "チャック・ベリーは、本作についてあの曲を自分で書けたらどんなによかったかと思う。これまでの人生において大きな影響を受けた1曲と称賛している。一方、ボブ・ディランはアメリカ議会図書館に行けば、ティン・パン・アレーで書かれた『イエスタデイ』や『ミッシェル』よりも遥かに優れた曲がたくさん見つかると語っている。なお、ディランはハリスンと共に「イエスタデイ」をカバーしたことがあるが、未発表のままとなっている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "レノンは、1980年の『プレイボーイ』誌のインタビューで詩としては決して完成したものじゃないけど、悪くはない。堅実な作品だね。良い歌詞なんだけど、通して読むと何も訴えていないと語っている。レノンは、1971年に発表した楽曲「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」で、本作とマッカートニーのソロ曲「アナザー・デイ」を引き合いにThe only thing you done was yesterday, but since you’ve gone you’re just another day(お前の傑作なんざ、『イエスタデイ』だけだ。それも消えちまった今となっては『アナザー・デイ』ってわけだ)と歌っている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2012年にBBCが発表した「著作権で史上最も稼いだ曲」のランキングで、「イエスタデイ」は4位にランクインした。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "※出典", "title": "クレジット" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": 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「イエスタデイ」(Yesterday)は、ビートルズの楽曲である。1965年8月6日に発売された5作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバム『ヘルプ!』に収録された。アメリカでは1965年9月13日にシングルで発売されたのち、1966年6月20日に発売されたキャピトル編集盤『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』に収録された。レノン=マッカートニー名義となっているが、ポール・マッカートニーが単独で書いた楽曲で、弦楽四重奏をバックにしたアコースティック・バラードをビートルズ名義で初めて発売した楽曲となっている。 世界中のミュージシャンに数多くカバーされており、ビートルズ活動時点で既に1,000を超えるカバー音源が存在し、「世界で最も多くカバーされた曲」としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている。BMI調べによる「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」のランキングでは、700万回以上のオンエアで3位にランクインされた。BBC4が2012年に放送したドキュメンタリー番組『ザ・リッチエスト・ソングス・イン・ザ・ワールド』にて音楽史上最も稼いだ10曲を選出し、本作は第4位にランクインした。 1999年のBBCラジオ2の世論調査において「20世紀最高のベストソング」にランクインし、翌2000年にローリングストーンとMTV共同のグレイテスト・ポップソング100において第1位を獲得。 また、ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では13位にランクインした。ロックバンドがスリーコードやロックンロールのメロディにとらわれない作曲を行なったロックバンドがストリングスを使用したと評価される。ビートルズは、この試みの走りとなり、次第にアーティスト集団として見られるようになっていった。この曲は、現在では「ヘイ・ジュード」と共に主に日本の中学校・高等学校の音楽の教科書に採用され教材になっている。 本作についてジョン・レノンはそうね。『イエスタデイ』のことは誰でも知ってるんじゃない。『イエスタデイ』ではぼくもさんざん誉められたな。もちろん、あれはポールの歌で、ポールの秘蔵っ子さ。よくできてるよ。ビューティフルだよ。でもぼくが作っときゃよかったとは、1度も思ったことはないねと語った。
{{Pathnavbox| {{Pathnav|ビートルズ|[[ビートルズの作品|作品リスト]]}} {{Pathnav|ビートルズ|[[ビートルズの曲名一覧|曲名リスト]]}} }} {{Infobox Single | Name = イエスタデイ | Artist = [[ビートルズ]] | Album = [[ヘルプ! 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(ビートルズの曲)|ヘルプ!]]|(1965年)}} | This single = {{Unbulleted list|'''イエスタデイ'''|(1965年)}} | Next single = {{Unbulleted list|[[恋を抱きしめよう]] / [[デイ・トリッパー]]|(1965年)}} }} {{Extra chronology 2 | Artist = ビートルズ シングル 日本 | Type = single | Last single = {{Unbulleted list|[[ザ・ナイト・ビフォア]]|(1965年)}} | This single = {{Unbulleted list|[[アクト・ナチュラリー]] b/w '''イエスタデイ'''|(1965年)}} | Next single = {{Unbulleted list|[[恋を抱きしめよう]]|(1966年)}} }} {{Extra chronology 2 | Artist = ビートルズ シングル [[イギリス|U.K.]] | Type = single | Last single = {{Unbulleted list|[[レット・イット・ビー (曲)|レット・イット・ビー]]|(1970年)}} | This single = {{Unbulleted list|'''イエスタデイ'''|(1976年)}} | Next single = {{Unbulleted list|[[バック・イン・ザ・U.S.S.R.]]|(1976年)}} }} {{Extra chronology 2 | Artist = ビートルズ シングル 日本 | Type = single | Last single = {{Unbulleted list|[[ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード]]|(1970年)}} | This single = {{Unbulleted list|'''イエスタデイ'''|(1976年)}} | Next single = {{Unbulleted list|[[ヘルター・スケルター (ビートルズの曲)|ヘルター・スケルター]]|(1976年)}} }} {{Extra track listing | Album = [[ヘルプ! 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(ビートルズのアルバム)|ヘルプ!]]』に収録された。アメリカでは1965年9月13日にシングルで発売されたのち、1966年6月20日に発売された[[キャピトル・レコード|キャピトル]]編集盤『[[イエスタデイ・アンド・トゥデイ]]』に収録された。[[レノン=マッカートニー]]名義となっているが、[[ポール・マッカートニー]]が単独で書いた楽曲で、[[弦楽四重奏]]をバックにしたアコースティック・バラードをビートルズ名義で初めて発売した楽曲となっている。 世界中のミュージシャンに数多くカバーされており、ビートルズ活動時点で既に1,000を超えるカバー音源が存在し、「世界で最も多くカバーされた曲」として[[ギネス・ワールド・レコーズ]]に認定されている。[[Broadcast Music, Inc.|BMI]]調べによる「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」のランキングでは、700万回以上のオンエアで3位にランクインされた<ref name="BMI">{{Cite web |title=BMI Announces Top 100 Songs of the Century |url=https://www.bmi.com/news/entry/19991214_bmi_announces_top_100_songs_of_the_century |website=BMI.com |publisher=[[Broadcast Music, Inc.]] |date=1999-12-13 |accessdate=2020-04-16 }}</ref>。BBC4が2012年に放送したドキュメンタリー番組『ザ・リッチエスト・ソングス・イン・ザ・ワールド』にて音楽史上最も稼いだ10曲を選出し、本作は第4位にランクインした<ref>{{Cite web|和書|title=ザ・ビートルズ「イエスタデイ」、著作権で史上最も稼いだ曲のトップ10入り |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000086165 |website=[[BARKS]] |publisher=ジャパンミュージックネットワーク |date=2013-01-04 |accessdate=2020-04-16 }}</ref>。 1999年の[[英国放送協会|BBC]]ラジオ2の世論調査において「20世紀最高のベストソング」にランクインし、翌2000年にローリングストーンと[[MTV]]共同のグレイテスト・ポップソング100において第1位を獲得<ref>{{Cite web |title=Rolling Stone & MTV: &lsquo;100 Greatest Pop Songs&rsquo;: 1-50 |url=http://www.rockonthenet.com/archive/2000/rsmtv100.htm |website=RockOnTheNet.com |accessdate=2020-04-16 }}</ref>。 また、[[ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500]]では13位にランクインした{{Sfn|Rolling Stone|2007}}。{{ilq|ロックバンドがスリーコードや[[ロックンロール]]のメロディにとらわれない作曲を行なった}}{{ilq|ロックバンドが[[弦楽器|ストリングス]]を使用した}}と評価される。ビートルズは、この試みの走りとなり、次第にアーティスト集団として見られるようになっていった。この曲は、現在では「[[ヘイ・ジュード]]」と共に主に日本の中学校・高等学校の音楽の教科書に採用され教材になっている。 本作について[[ジョン・レノン]]は{{ilq|そうね。『イエスタデイ』のことは誰でも知ってるんじゃない。『イエスタデイ』ではぼくもさんざん誉められたな。もちろん、あれはポールの歌で、ポールの秘蔵っ子さ。よくできてるよ。ビューティフルだよ。でもぼくが作っときゃよかったとは、1度も思ったことはないね}}と語った<ref>{{Cite book |和書 |title=ジョン・レノンPlayboyインタビュー |year=1981 |publisher=[[集英社]] |asin=B000J80BKM |page=94 }}</ref>。 == 背景 == マッカートニーおよびビートルズの伝記によれば、当時のガールフレンドである[[ジェーン・アッシャー]]と家族が暮らすウェンポール・ストリートにあるマッカートニーの部屋で、家で睡眠中に夢の中で流れたメロディを基に作曲したという{{Sfn|Turner|2005|p=83}}。マッカートニーは起床後、メロディを忘れないようにするために急いで[[和音|コード]]を探してスタジオで完成させた。この時のことをマッカートニーは、{{ilq|あまりに自然に浮かんできたものだから、誰かの曲のメロディなんじゃないかと思って皆に聞かせて回ったけど、誰もこのメロディを知らないみたいだったから、僕のオリジナル曲だと認識した}}と述べている{{Sfn|Cross|2005|pp=464-465}}{{Sfn|uDiscover|2019}}。 曲が書かれた時期はいくつか説があり、マッカートニーの友人や伝記作家の{{仮リンク|バリー・マイルズ|en|Barry Miles}}らはレコーディングの数週間前に書かれたものと主張し、[[ジョージ・マーティン]]は{{ilq|初めてこの曲を聴いたのは1964年1月のパリのジョルジュサンク・ホテルで、当時は&ldquo;Scrambled Egg&rdquo;と呼ばれていた}}と記憶しており、レノンは{{ilq|何ヶ月も前}}と記憶していた{{Sfn|uDiscover|2019}}。レノンによると{{ilq|ポールは曲のほとんどを書き上げていたんだけど、僕らはどうしても曲名が決められなかった。曲作りやレコーディング・セッションで集まるたびにこの話題が持ち上がって、とりあえずで&ldquo;Scrambled Egg&rdquo;というタイトルがついて、内輪のジョークになったよ。そしてある朝ポールが目覚めたら、曲もタイトルも仕上がっていたんだ。お伽話みたいだけど、これが事実なんだ}}と語っている{{Sfn|uDiscover|2019}}。 歌詞の内容から「自分の元を黙って離れて行った恋人を歌った曲」と解釈されていたが、マッカートニーは{{ilq|僕が14歳の時に乳癌で死去した母への想いを歌った曲}}と2001年に述べている<ref>{{Cite web|和書|title=ポール・マッカートニー、&ldquo;イエスタデイ&rdquo;は母親について歌っていたと語る |url=https://rockinon.com/news/detail/89504 |website=rockin&#8217;on.com |publisher=[[ロッキング・オン]] |date=2013-09-27 |accessdate=2019-07-15 }}</ref>。 2010年に『[[レイト・ナイト・ウィズ・ジミー・ファロン]]』にゲスト出演した際、司会の[[ジミー・ファロン]]と原曲の「Scrambled Egg」をデュエットで披露した。歌詞はマッカートニーがベジタリアンであることを反映したものに変更されている<ref>{{Cite web |first=Raphael |last=Brion |title=Paul McCartney and Jimmy Fallon Perform &lsquo;Scrambled Eggs&rsquo; (aka &lsquo;Yesterday&rsquo;) |url=https://www.eater.com/2010/12/10/6706647/paul-mccartney-and-jimmy-fallon-perform-scrambled-eggs-aka-yesterday |website=EATER |publisher=Vox Media |date=2010-12-10 |accessdate=2020-03-04 }}</ref>。その音源は2012年に発売されたファロンのアルバム『{{仮リンク|Blow Your Pants Off|en|Blow Your Pants Off}}』に収録された。 == レコーディング == [[File:Epiphone Texan (Paul McCartney Used).jpg|thumb|left|マッカートニーが「イエスタデイ」で使用したアコースティック・ギター({{仮リンク|エピフォン・テキサン|en|Epiphone Texan}})のレプリカ]] 「イエスタデイ」のレコーディングは、マッカートニーの23歳の誕生日の4日前である1965年6月14日に[[EMIレコーディング・スタジオ]]で開始された{{Sfn|Lewisohn|1988|p=59}}{{Sfn|Lewisohn|1996|p=10}}<ref group="注釈">同日には、同じくマッカートニー作の「[[夢の人]]」や「[[アイム・ダウン]]」のレコーディングも行なわれた。</ref>。マッカートニーは、ギターのチューニングを全弦1音下げでレコーディング。[[アコースティック・ギター]]と[[ボーカル]]を担当したマッカートニー以外、他のビートルズのメンバー3人はレコーディングに参加していないが、スタジオには同席している。本作に対し、[[リンゴ・スター]]は{{ilq|この曲に[[ドラムセット|ドラム]]を合せるのは難しい}}と発言し、レノンと[[ジョージ・ハリスン]]は{{ilq|もう一本ギターを追加するのも無意味だと思う}}と発言した。ここでジョージ・マーティンは仮でマッカートニーに弾き語りをさせることを提案。プレイバックを聴いたあとにマッカートニーが{{ilq|僕のソロ曲になるの?}}と訊いて、メンバーが{{ilq|僕らが何かを足す必要はなさそうだ}}と答えた{{Sfn|uDiscover|2019}}。その後、もう一度録音されたのちテイク2が採用された。 6月17日に[[弦楽四重奏]]がオーバー・ダビングされた{{Sfn|Lewisohn|1988|p=59}}{{Sfn|uDiscover|2019}}。弦楽四重奏のアレンジは、プロデューサーの[[ジョージ・マーティン]]によるものである。マッカートニーは当初、ストリングスのアレンジを{{ilq|[[マントヴァーニ]]みたいなことはお断りだ}}と述べていたが、{{ilq|それじゃあカルテットでどう?}}というマーティンの提案を受容して完成させた。2度目のサビで第1フレーズと第2フレーズの間にチェロが「ドーミ♭ードシ♭ラー」と奏するアレンジと、第3コーラスでヴァイオリンが高音域でラの持続音を奏するアレンジはマッカートニーのアイデアである。 6月14日にレコーディングされたテイク1が、1996年に発売された『[[ザ・ビートルズ・アンソロジー2]]』に収録された。このテイク1では、リリース版における{{ilq|lang=en|I&#8217;m not half the man I used to be / There&#8217;s a shadow hanging over me{{lang|ja|(僕は今までの半分にも足りない男になった / 影が全身を覆っている)}}}}というフレーズが、{{ilq|lang=en|There&#8217;s a shadow hanging over me / I&#8217;m not half the man I used to be}}と入れ替わっていた{{Sfn|The Beatles|2000|pp=2-10}}。 2006年に上演された[[シルク・ドゥ・ソレイユ]]のショー『ザ・ビートルズ LOVE』では、冒頭に同じくマッカートニー作の「[[ブラックバード (ビートルズの曲)|ブラックバード]]」のギターのフレーズが加えられた音源が使用され、同年11月に発売された[[LOVE (ビートルズのアルバム)|サウンドトラック盤]]に収録された。マーティンは『ザ・ビートルズ LOVE』での使用について{{ilq|『イエスタデイ』をショーで使用するべきかどうかについては非常に悩んだ。一つの時代の象徴も言える有名な曲だが、いい加減聴き尽くされてしまったのではないかという心配もあったからだ。オリジナルに弦楽四重奏が付けられた経緯はよく知られているものの、当時のレコーディング技術がいかに限られたものであったかについては、あまり知られていない。だからこの曲を入れない可能性も強かったが、これほど素晴らしい楽曲を誰が無視できるだろうか?『ブラックバード』のポールのギター・ワークの一部をイントロに加えたが、今聴くとこれで正解だったと思える。そのシンプルさは非常にダイレクトに胸に響く}}と語っている<ref name="loveemi">{{Cite web|和書|title=マーティン親子による楽曲解説 |url=http://www.toshiba-emi.co.jp/beatles/special/love_comment.htm |website=Sound Town :: ザ・ビートルズ 日本オフィシャルサイト |publisher=[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] |accessdate=2020-10-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070222131110/http://www.toshiba-emi.co.jp/beatles/special/love_comment.htm |archivedate=2007-02-22 |deadlinkdate=2020年10月 }}</ref>。 == リリース == [[ファイル:Yesterdayjulian.jpg|right|thumb|ビートルズ「イエスタデイ」のシングル盤に対して、[[アメリカレコード協会]]が授与した[[ゴールドディスク]]のレコード]] 「イエスタデイ」は、イギリスで1965年8月6日に発売されたオリジナル・アルバム『[[ヘルプ! (ビートルズのアルバム)|ヘルプ!]]』のB面6曲目に収録された。発売当時、ビートルズは「バンドのイメージに合わない」という観点から、本作のシングル・カットを拒否していた。一方アメリカでは、9月13日に新曲扱いのシングル盤<ref group="注釈">1965年8月13日に発売されたキャピトル編集盤 『[[ヘルプ! (ビートルズのアルバム)#米国キャピトル編集盤 『ヘルプ(四人はアイドル)』|ヘルプ(四人はアイドル)]]』には未収録。</ref>として発売され、B面は「[[アクト・ナチュラリー]]」{{Refnest|group="注釈"|ドイツ・カナダ・ノルウェー・デンマーク・カナダ・チリ・ペルー・オーストラリア・ニュージーランド・インドではアメリカと同じ「アクト・ナチュラリー」をB面として、オランダ・ベルギー・スウェーデン・フィンランド・メキシコでは「[[ディジー・ミス・リジー]]」のB面として、イタリアでは「[[ザ・ナイト・ビフォア]]」をB面として、フランス・フィリピンでは「[[悲しみはぶっとばせ]]」のB面として収録したシングル盤が発売された。}}が収録された。10月9日付の[[Billboard Hot 100]]より4週連続で1位を獲得し<ref name="Hot100">{{Cite web |title=The Hot 100 Chart |url=https://www.billboard.com/charts/hot-100/1965-10-30 |publisher=Billboard |date=1965-10-30 |accessdate=2020-10-02 }}</ref>、11週にわたってチャートインし、5週間以内で100万枚以上の売り上げを記録<ref>{{Cite web |last=Cross |first=Craig |title=American singles |url= http://www.beatles-discography.com/record-by-record/?us-single=yesterday |year=2004 |accessdate=2020-10-02 |deadlinkdate=2020-10 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140322003355/http://www.beatles-discography.com/record-by-record/?us-single=yesterday |archivedate=2014-03-22 }}</ref>。『[[キャッシュボックス]]』誌では、3週連続第1位を獲得。 その後、1966年6月にアメリカで発売されたキャピトル編集盤『[[イエスタデイ・アンド・トゥデイ]]』や、同年12月にイギリスで発売されたコンピレーション・アルバム『[[オールディーズ (アルバム)|オールディーズ]]』に収録され、解散後に発売された『[[ザ・ビートルズ1962年〜1966年]]』、『[[ラヴ・ソングス (ビートルズのアルバム)|ラヴ・ソングス]]』、『[[ビートルズ バラード・ベスト20]]』、『[[リヴァプールより愛を込めて ザ・ビートルズ・ボックス]]』、『[[20グレイテスト・ヒッツ]]』、『[[ザ・ビートルズ1]]』にも収録された。 日本では、カップリングはアメリカ盤と同じながら、A面に「アクト・ナチュラリー」、B面に「イエスタデイ」が収録されたシングル盤として発売された。 イギリスでは、シングル・カットされなかった代わりに、1966年3月4日に4曲入りのEP盤『イエスタデイ』の表題曲として発売され、他国への輸出専用盤として『ディジー・ミス・リジー/イエスタデイ』のシングル盤が製造されている。ビートルズ解散後の1976年3月8日に「[[恋する二人]]」をB面にして、イギリス内販売用にもシングル・カットされた。このシングル盤は[[全英シングルチャート]]で最高8位を獲得した<ref name="UKchart" />。なお日本ではこちらのシングル盤も1976年3月5日より販売されている。 == ライブでの披露 == この曲がビートルズのライブで演奏に際して、2種類のアレンジが存在している。 * レコードに倣ってストリングスの演奏に合わせて、マッカートニーがひとりでアコースティック・ギターでの弾き語り形式。ストリングスは、テープ再生か生演奏の場合で分かれ、稀にマッカートニーが[[オルガン]]で伴奏することもあった。 * メンバー全員でのバンド形式。バンド形式の演奏では、マッカートニーは通常通りヴォーカルと[[エレクトリックベース|ベース]]を担当し、スタジオ音源でマッカートニーが弾いたギター部分はレノンが演奏し、ハリスンはストリングスの部分をギターで演奏した。なお、スタジオ音源がギターが一音下げのチューニングになっているので、ライブでは逆に一音上げでの演奏になっている<ref group="注釈">日本公演では6月30日のみ半音下げのチューニングだったため、半音上げでの演奏になっている。</ref>。 ウイングス時代は一人で[[エレクトリックアコースティックギター]]を演奏し、ストリングス部分はサポートのホーン隊が演奏した。ウイングス解散後のコンサートでもギターを一人で演奏しているがストリングスはキーボードで演奏されている。 マッカートニーのソロ・コンサートでは主にアンコールで演奏されており、1990年代のツアーでは[[ヤイリギター|アルバレズ・ヤイリ]]や[[タカミネ]]のエレアコを使用していたが、2002年のツアーからは、この曲のレコーディングで実際に使用した[[エピフォン]]・テキサンを使って演奏している。2013年の日本公演では{{ilq|[[福島第一原子力発電所事故|福島]]の[[東日本大震災|被災者]]に捧げたい}}と前置きし歌っている<ref>{{Cite web|和書|title=ポール・マッカートニー @ 東京ドーム2013.11.19 洋楽ライブレポート|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2013111902000155.html|work=rockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)|publisher=ロッキング・オン|date=2013-11-19|accessdate=2019-07-15}}</ref>。ライブ音源は『[[ウイングス・オーヴァー・アメリカ]]』、『[[ポール・マッカートニー・ライブ!!]]』、『[[ポール・マッカートニー・ライブ・ハイライツ!!]]』、『[[バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002]]』、『[[バック・イン・ザ・ワールド]]』、『[[グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ〜ベスト・ヒッツ・ライヴ]]』などの作品に収録された。 == 評価 == 「イエスタデイ」は、ポップ・ミュージック史上最も多くカバーされた楽曲の1つで、1986年1月時点で1600以上のカバー・バージョンが発表されていた{{Sfn|Guinness World Records|2009}}。 「イエスタデイ」は、1965年度の[[アイヴァー・ノヴェロ賞]]で最優秀ソング・コレクション部門を受賞し{{Sfn|Miles|2001|p=236}}、最優秀ソング部門では「[[ミッシェル (曲)|ミッシェル]]」に次ぐ第2位に入った。2004年に『[[ローリング・ストーン]]』誌が発表した「[[ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500]]」では第13位{{Sfn|Rolling Stone|2007}}、2010年に同誌が発表した「100 Greatest Beatles Songs of All Time」で第4位にランクインした{{Sfn|Rolling Stone|2011}}。[[Broadcast Music, Inc.|BMI]]調べによる「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」のランキングでは、700万回以上のオンエアで3位にランクインされた<ref name="BMI">{{Cite web |title=BMI Announces Top 100 Songs of the Century |url=https://www.bmi.com/news/entry/19991214_bmi_announces_top_100_songs_of_the_century |website=BMI.com |publisher=[[Broadcast Music, Inc.]] |date=1999-12-13 |accessdate=2020-04-16 }}</ref>。 1988年10月20日には、「イエスタデイ」の500万枚達成を記念した昼食会が[[マンダリン・オリエンタル・ハイドパーク・ロンドン|ハイドパークホテル]]で開催され、[[オノ・ヨーコ]]に記念賞が贈られた<ref>「『イエスタデイ』が500万枚に」『[[朝日新聞]]』1988年10月1日付東京夕刊、8頁。</ref>。 本作は、1997年に{{仮リンク|グラミー殿堂賞|en|Grammy Hall of Fame}}を受賞した。 [[チャック・ベリー]]は、本作について{{ilq|あの曲を自分で書けたらどんなによかったかと思う。これまでの人生において大きな影響を受けた1曲}}と称賛している{{Sfn|uDiscover|2019}}。一方、[[ボブ・ディラン]]は{{ilq|[[アメリカ議会図書館]]に行けば、[[ティン・パン・アレー]]で書かれた『イエスタデイ』や『ミッシェル』よりも遥かに優れた曲がたくさん見つかる}}と語っている。なお、ディランはハリスンと共に「イエスタデイ」をカバーしたことがあるが、未発表のままとなっている{{Sfn|Mallick|2000}}。 レノンは、1980年の『[[プレイボーイ (雑誌)|プレイボーイ]]』誌のインタビューで{{ilq|詩としては決して完成したものじゃないけど、悪くはない。堅実な作品だね。良い歌詞なんだけど、通して読むと何も訴えていない}}と語っている<ref>{{Cite book |last=Sheff |first=David |authorlink=:en:David Sheff |year=1981 |title=The Playboy Interviews with John Lennon and Yoko Ono |publisher=Putnam Pub Group |isbn=0-8722-3705-2 |page=118 }}</ref>。レノンは、1971年に発表した楽曲「[[ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?]]」で、本作とマッカートニーのソロ曲「[[アナザー・デイ]]」を引き合いに{{ilq|lang=en|The only thing you done was yesterday, but since you&#8217;ve gone you&#8217;re just another day{{lang|ja|(お前の傑作なんざ、『イエスタデイ』だけだ。それも消えちまった今となっては『アナザー・デイ』ってわけだ)}}}}と歌っている。 2012年に[[イギリス放送協会|BBC]]が発表した「著作権で史上最も稼いだ曲」のランキングで、「イエスタデイ」は4位にランクインした<ref>{{Cite web |title=BBC4….The World&#8217;s Richest Songs |publisher=Did You Watch It? |url=http://www.didyouwatchit.com/bbc4/bbc4-the-worlds-richest-songs/ | accessdate=2020-10-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160101163252/http://www.didyouwatchit.com/bbc4/bbc4-the-worlds-richest-songs/ |archivedate=2016-01-01 }}</ref>。 == クレジット == ※出典{{Sfn|Lewisohn|1996|p=10}}{{Sfn|MacDonald|2008|p=157}} * [[ポール・マッカートニー]] - [[ボーカル]]、[[アコースティック・ギター]] * トニー・ギルバート - [[ヴァイオリン]] * {{仮リンク|シドニー・セックス|label=シドニー・サックス|en|Sidney Sax}} - ヴァイオリン * ケネス・エセックス - [[ヴィオラ]] * ピーター・ホーリング、フランシスコ・ガバロー - [[チェロ]] * [[ジョージ・マーティン]] - [[音楽プロデューサー|プロデュース]]、ストリングス編曲 * [[ノーマン・スミス]] - [[レコーディング・エンジニア|エンジニア]] == チャート成績 == === 週間チャート === {{flexbox start|gap=0 2em}} {|class="wikitable sortable" style="margin-right: 2em;<!--IE用--> margin-inline: 0;<!--モダン・ブラウザ用-->" ! チャート (1965年)<!-- 括弧は、{{Single chart}}テンプレートを使用した際の表記に準じて、半角括弧を使用しています。 --> !! 最高位 |- | オーストラリア ([[ケント・ミュージック・レポート|Kent Music Report]])<ref name="AUSchart">{{cite book | title=Australian Chart Book (1940-1969) | author=Kent, David | publisher=Australian Chart Book | location=Turramurra | year=2005 | isbn=0-646-44439-5}}</ref> | style="text-align:center;"|2 |- |{{Single chart|Austria|10|artist=The Beatles|song=Yesterday|accessdate=2020-03-15}} |- |{{Single chart|Wallonia|5|artist=The Beatles|song=Yesterday|accessdate=2020-10-02}} |- |{{Single chart|Flanders|1|artist=The Beatles|song=Yesterday|accessdate=2020-03-15}} |- |{{Single chart|Dutch100|1|artist=The Beatles|song=Yesterday|accessdate=2020-03-15}} |- | ニュージーランド (''Lever Hit Parade'')<ref>{{cite web|url=http://www.flavourofnz.co.nz/index.php?qpageID=search%20lever&qartistid=8#n_view_location |title=Flavour of New Zealand, 11 November 1965 |publisher=Flavourofnz.co.nz |date= |accessdate=2020-03-15}}</ref> | style="text-align:center;"|2 |- |{{Single chart|Norway|1|artist=The Beatles|song=Yesterday|accessdate=2020-03-15}} |- | スウェーデン [[スヴァリイェトプリストン|Kvällstoppen Chart]]<ref>{{cite web|title=Swedish Charts 1962–March 1966/Kvällstoppen – Listresultaten vecka för vecka > November 1965|url=http://www.hitsallertijden.nl/charts/swedish%20charts/SwedishCharts1962-march66.pdf|publisher=hitsallertijden.nl|language=Swedish|accessdate=2020-03-15}}</ref> | style="text-align:center;"|1 |- | US [[ビルボード|''Billboard'']] [[Billboard Hot 100|Hot 100]]<ref name="Hot100" /> | style="text-align:center;"|1 |- | US [[キャッシュボックス|''Cash Box'' Top 100]]<ref>{{cite book| first=Frank| last=Hoffmann| year=1983| title=The Cash Box Singles Charts, 1950-1981| publisher=The Scarecrow Press, Inc| location=Metuchen, NJ & London| pages= 32-34}}</ref> | style="text-align:center;"|1 |- | 西ドイツ [[メディア・コントロール|Media Control]] Singles Chart<ref>{{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/charts|title=Offizielle Deutsche Charts|format=Enter &ldquo;Beatles&rdquo; in the search box|publisher=[[GfK Entertainment Charts]]|language=German|accessdate=2020-03-15}}</ref> | style="text-align:center;"|6 |- |} {{flex-item start|margin-right-ie=0|max-width=fit-content}} {|class="wikitable sortable" ! チャート (1976年) !! 最高位 |- | オーストラリア (Kent Music Report)<ref name="AUSchart"/> | style="text-align:center;"|86 |- |{{Single chart|Dutch100|26|artist=The Beatles|song=Yesterday|accessdate=2020-03-15}} |- | アイルランド ([[:en:Irish Singles Chart|IRMA]])<ref>{{Cite web |title=The Irish Charts - Search Results - Yesterday |url=http://irishcharts.ie/search/placement?page=1&search_type=title&placement=Yesterday |publisher=[[:en:Irish Singles Chart|Irish Singles Chart]] |accessdate=2022-03-27 }}</ref> | {{center|4}} |- |{{Single chart|UK|8|date=1976-04-03|refname="UKchart"|accessdate=2020-03-15}} |- |} {|class="wikitable sortable" ! チャート (2010年) !! 最高位 |- |{{Single chart|Spain|44|artist=The Beatles|song=Yesterday|accessdate=2020-03-15}} |- |{{Single chart|Poland|5|year=2010|chartid=35|accessdate=2020-03-15}} |- |{{Single chart|UK|8|date=20101127|refname="UKchart2010"|accessdate=2020-03-15}} |- |} {|class="wikitable sortable" ! チャート (2016年) !! 最高位 |- |{{Single chart|Sweden|95|artist=The 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Beatles|title=Yesterday|award=Gold|relyear=1965|certyear=1965|type=single|accessdate=2020-03-15}} {{Certification Table Bottom|nosales=true|streaming=true}} == カバー・バージョン == 「イエスタデイ」は、ポピュラー音楽史上最もカバーされている楽曲の1つで、1986年1月までに約1600のカバー・バージョンが確認され、同月1日付で[[ギネス世界記録]]に「世界で最もカバーされた曲」として登録された{{sfn|Guinness World Records|2009}}。 イギリスでは、{{仮リンク|マット・モンロー|en|Matt Monro}}によるカバー・バージョンが[[全英シングルチャート]]で最高位8位<ref name="UKchart/19651111">{{Cite web |title=Official Singles Chart Top 50 |url=https://www.officialcharts.com/charts/singles-chart/19651111/7501/ |publisher=Official Charts Company |date=1965-11-11 |accessdate=2020-10-02 }}</ref>、[[マリアンヌ・フェイスフル]]によるカバー・バージョンが同チャートで最高位36位をそれぞれ獲得している<ref name="UKchart/19651111" />。1967年には、[[レイ・チャールズ]]のカバー・バージョンもシングル盤として発売され、[[Billboard Hot 100]]で最高位25位<ref>{{Cite web |title=The Hot 100 Chart |url=https://www.billboard.com/charts/hot-100/1967-12-02 |publisher=Billboard |date=1967-12-02 |accessdate=2020-10-02 }}</ref>、全英シングルチャートで最高位44位<ref>{{Cite web |title=Official Singles Chart Top 50 |url=https://www.officialcharts.com/charts/singles-chart/19680103/7501/ |publisher=Official Charts Company |date=1968-01-03 |accessdate=2020-10-02 }}</ref>をそれぞれ獲得している。 作者であるマッカートニーも、ビートルズ解散後にセルフカバーしている。1984年に公開された主演映画『{{仮リンク|ヤァ!ブロード・ストリート|en|Give My Regards to Broad Street}}』で歌唱し、その時の音源が[[ヤァ!ブロード・ストリート (アルバム)|同名のサウンドトラック盤]]に収録された<ref>{{Cite web |first=Stephen Thomas |last=Erlewine |authorlink=スティーヴン・トマス・アールワイン |title=Give My Regards to Broad Street - Paul McCartney {{!}} Songs, Reviews, Credits |url={{AllMusic|album|give-my-regards-to-broad-street-mw0000650478|pure_url=yes}} |website=[[オールミュージック]] |accessdate=2021-01-05 }}</ref>。 その他、[[エルヴィス・プレスリー]]<ref>{{AllMusic |first=Bruce |last=Eder |title=Elvis Aron Presley - Elvis Presley {{!}} Songs, Reviews, Credits |class=artist |id=elvis-aron-presley-mw0000020666 |accessdate=2021-01-05 }}</ref>や[[フランク・シナトラ]]<ref>{{AllMusic |first=Stephen Thomas |last=Eder |title=My Way - Frank Sinatra {{!}} Songs, Reviews, Credits |class=artist |id=my-way-mw0000191852 |accessdate=2021-01-05 }}</ref>、[[スプリームス]]<ref>{{AllMusic |first=Stephen Thomas |last=Eder |title=Where Did Our Love Go/I Hear a Symphony - The Supremes {{!}} Songs, Reviews, Credits |class=artist |id=where-did-our-love-go-i-hear-a-symphony-mw0000650717 |accessdate=2021-01-05 }}</ref>、[[マーヴィン・ゲイ]]<ref>{{AllMusic |first=Ron |last=Wynn |title=That&#8217;s the Way Love Is - Marvin Gaye {{!}} Songs, Reviews, Credits |class=artist |id=thats-the-way-love-is-mw0000313058 |accessdate=2021-01-05 }}</ref>、[[マイケル・ボルトン]]<ref>{{AllMusic |first=William |last=Ruhlmann |title=Timeless: The Classics - Michael Bolton {{!}} Songs, Reviews, Credits |class=artist |id=timeless-the-classics-mw0000086401 |accessdate=2021-01-05 }}</ref>、[[トム・ジョーンズ (歌手)|トム・ジョーンズ]]<ref>{{AllMusic |title=13 Smash Hits - Tom Jones {{!}} Songs, Reviews, Credits |class=artist |id=13-smash-hits-mw0001666993 |accessdate=2021-01-05 }}</ref>、[[ヒメーシュ・パテル]]<ref>{{Cite web |title=Yesterday (2019) - Soundtracks |url=https://www.imdb.com/title/tt8079248/soundtrack |website=IMDb |publisher=Amazon.com |accessdate=2021-01-05 }}</ref>など、音楽ジャンルを問わず今でもカバーされ続けている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|35em}} == 参考文献 == * {{Cite book| author=The Beatles| year=2000| authorlink=ビートルズ| title=[[ザ・ビートルズ・アンソロジー|The Beatles Anthology]]| publisher=Chronicle Books| location=San Francisco| isbn=0-8118-2684-8| url-access=registration| url=https://archive.org/details/beatlesanthology0000unse}} * {{Cite book| last=Cross| first=Craig| year=2005| title=The Beatles: Day-by-Day, Song-by-Song, Record-by-Record| publisher=iUniverse, Inc.| location=Lincoln, NE| isbn=0-595-34663-4| ref={{SfnRef|Cross|2005}}}} * {{Cite book| last=Gorlinski| first=Gini (ed.)| year=2010| title=The 100 Most Influential Musicians of All Time| publisher=Britannica Educational Publishing| location=New York, NY| isbn=978-1-61530-006-8 | ref={{SfnRef|Gorlinski|2010}}}} * {{Cite web| title=Most Recorded Song| url=http://www.guinnessworldrecords.com/content_pages/record.asp?recordid=50867 | work=[[ギネス世界記録|Guinness World Records]]| year=2009 | accessdate=2020-10-02| ref={{SfnRef|Guinness World Records|2009}}| archiveurl=https://web.archive.org/web/20060910071729/http://www.guinnessworldrecords.com/content_pages/record.asp?recordid=50867| archivedate=2006-09-10| deadlinkdate=2020-09}} * {{Cite book| last=Lewisohn| first=Mark| year=1988| authorlink=:en:Mark Lewisohn| title=The Beatles Recording Sessions| publisher=Harmony Books| location=New York| isbn=0-517-57066-1| ref={{SfnRef|Lewisohn|1988}}}} * {{Cite album-notes| last=Lewisohn| first=Mark| year=1996| title=Anthology 2| publisher=[[アップル・レコード|Apple Records]]| location=London| title-link=ザ・ビートルズ・アンソロジー2| others=[[ビートルズ|The Beatles]]| type=booklet| id=31796| ref={{SfnRef|Lewisohn|1996}}}} * {{Cite book| last=MacDonald| first=Ian| year=2008| title=Revolution in the Head, 2nd revised edition| publisher=Vintage Books| 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(日本)|UNIVERSAL MUSIC JAPAN]] |date=2019-11-05 |accessdate=2020-10-02 |ref={{SfnRef|uDiscover|2019}} }} == 外部リンク == * {{URL|1=https://www.thebeatles.com/yesterday|2=Yesterday}} - The Beatles {{ビートルズのシングル}} {{選抜高等学校野球大会入場行進曲}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いえすたてい}} [[Category:1965年の楽曲]] [[Category:1965年のシングル]] [[Category:1976年のシングル]] [[Category:ビートルズの楽曲]] [[Category:レノン=マッカートニーが制作した楽曲]] [[Category:ジョージ・マーティンがプロデュースした楽曲]] [[Category:キャピトル・レコードのシングル]] [[Category:パーロフォンのシングル]] [[Category:選抜高等学校野球大会入場行進曲]] [[Category:第17回NHK紅白歌合戦歌唱楽曲]] [[Category:Billboard Hot 100 1位獲得作品]] [[Category:イギリスのギネス世界記録]] [[Category:ニュー・サウンズ・イン・ブラス]] [[Category:失恋を題材とした楽曲]] [[Category:ポップ・バラード]] [[Category:楽曲 い|えすたてい]]
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Peer to Peer
Peer to Peer(ピア・トゥ・ピア または ピア・ツー・ピア)とは、複数のコンピューター間で通信を行う際のアーキテクチャのひとつで、対等の者(Peer、ピア)同士が通信をすることを特徴とする通信方式、通信モデル、あるいは通信技術の一分野を指す。略記は、P2P。 P2Pに対置される用語としてクライアント・サーバー方式がある。クライアント・サーバー方式ではネットワークに接続されたコンピューターに対しクライアントとサーバーに立場・機能を分離しており、一般的には多数のクライアントに対してサーバーが一つである。クライアントはサーバーとだけ通信でき、あるクライアントが他のクライアントと通信するにはサーバーを介する必要がある。 P2Pではネットワークに接続されたコンピューター同士が対等の立場、機能で直接通信するものである。クライアント・サーバー方式ではクライアント数が非常に多くなると、サーバーおよびその回線に負荷が集中するのに対して、Peer to Peer方式はその構造上、コンピューター機器(以下機器)数が膨大になっても特定機器へのアクセス集中が発生しにくいという特徴がある。 P2P通信の一例としては、インターネットに接続した一般ユーザーの複数パソコン (PC) 同士が互いのIPアドレスを呼び合う直接通信が挙げられる。P2Pによるネットワークはオーバーレイ・ネットワークの一つに数えられる。 実用化されたシステムとしてはP2Pデータ配信、P2P電話、P2P掲示板、P2P放送(テレビ、ラジオ)、P2Pグループウェア、P2P分散ファイルシステム、P2P-SIP、P2P-DNS、P2P-仮想ネットワーク、P2P地震情報などがある。またここ数年、商用的にも注目を集めており、特にIP電話(Skype、LINEなど)や動画配信サービス(Veohなど)といった応用例が増えてきている。 しかしこれらの応用技術は2000年代初頭から実用化され始めた技術であり、歴史的にはまだ日が浅く、成熟技術となるまでには解決しなければならない様々な問題がある(後述)。そのため現在でも学術的な研究が盛んな分野である。また無線通信で使われるモバイルアドホックネットワークもP2Pの一種であるが、無線での通信可能距離を稼ぐという特殊な使い方であるので詳細な解説は別項に譲る。 P2Pにおける通信端末はピア (peer) と呼ばれるが、トポロジー理論、グラフ理論などで用いる「ノード」(node: 節点)という呼称を用いることも多い。またクライアントの機能とサーバーの機能を併せ持つという意味でサーバントという呼び方をすることもある。 端末装置の種類としてはPCやスマートフォンが使われることが多いが、セットトップボックス (STB) やHDDレコーダー、HDD内蔵ルーターといったものもピアになりうる。 インターネットの基盤であるIPネットワークはIPアドレスさえ分かっていればどのコンピューター機器(以下機器)にも到達できる。つまり機器同士が相手のIPアドレスを知っていればP2P通信が可能である。したがってインターネット上のP2P応用技術はIPネットワークのオーバーレイ・ネットワーク(Overlay Network:以下、OLNと略記する)と見ることができる。 例えば放送型サービスにP2Pを応用する場合はマルチキャスト型の通信形態となる。そのためこれをオーバーレイマルチキャスト(英語版) (Overlay Multicast: OLM) あるいはアプリケーション層マルチキャスト (Application Layer Multicast: ALM) と呼ぶことがある。 後者の呼び方はIPマルチキャストがTCP/IPのレイヤーでのパケットの複製によりマルチキャストを行うのに対して、アプリケーション層でデータのコピーをしてマルチキャストを行う、という意味合いから来ている。 ピア間で何を行うか、という観点で、大きく以下の4つのタイプのアプリケーションに分けられる。 複数の機能を併せ持ったアプリケーションも存在する。 IP電話、LINE電話やSkypeに代表されるような、コンピューター間で一対一のコミュニケーションを行う使い方である。相手のIPアドレスを、電話番号やニックネームなどから見つけ出し(=IPアドレス解決と呼ぶ)、その後、ピアとピアが対等の立場で通信を行う。音声データであれば電話となり、映像データであればテレビ電話となる。インスタントメッセージやオンラインチャットもある。通常、アプリケーションの背後に特定の利用者が居ることが想定されており、その人物に対して接続を行うような使い方が多い。この種のアプリケーションのほとんどには、相手がオンラインかどうかを認識する仕掛け(プレゼンス機能)が設けられている。 このタイプのアプリケーションでは、データは通常、リアルタイムでのストリーミングでやりとりされる。 P2P-SIPでは、SIP-URIからIPアドレスを知るためにP2P技術を利用しており、従来からあるSIPサーバーを不要にできる。アドレス解決以外の、接続・切断のシグナリング、音声データのストリーミングに関しては、従来からのSIPやRTP/RTCPの技術をそのまま利用している。 応用例:IP電話、Skype、LINE、MSN メッセンジャー、P2P-SIP、P2Pグループウェア。 ノード間接続を、カスケード状に多段階層化して、配信ツリーを形成することで、放送型のサービスが実現できる。ツリーの根元のノードが、放送局となり、上流ノードから下流ノードへ、データをバケツリレーさせることで、全参加ノードに、ほぼ同時に同じデータを配信することが出来る。これにより、リアルタイムのストリーミング中継が可能となる。 多くのP2P型放送システムでは、アドレス解決にハイブリッドP2P方式(後述)を採用しており、通常、チャンネル名でインデックスサーバーに問い合わせると、「あのノードの下流につながってストリームをもらいなさい」というようにノードを紹介してくれる。インデックスサーバーの役割を各ノードに分散させる(=ピュアP2P型OLM)ことも可能ではあるが、そのような実装例はまだ発表されていない。 上流ノードが脱退したときに、ストリームが途切れるが、内部にバッファを持つことで、一定時間は再生が途絶えないようにして、その間に、別の上流ノードを探し出して、再接続を行う。再接続の処理には時間がかかるため、通常、予備の上流ノードを用意しておく。再接続先候補のノードを、効率的に準備しておくために、様々な創意工夫が考案されている(詳細は、オーバーレイマルチキャストまたはアプリケーション層マルチキャストを参照)。 応用例:P2P放送(映像+音声、音声のみ); (PeerCast他) 動画コンテンツの配信などでは、コンテンツを欲するノードが、当該コンテンツを持っているノードを探し出して、そこへデータを要求することで、保持ノードがそれに応じてデータを送信する(オンデマンド)、という一方向型の通信が行われる。言い換えると、持っている者から欲する者へ、という通信である。送信元は、使用しているコンピューターが複数ある場合、どれからでも良くて、不特定多数の中からアプリケーションまかせで選ばれる。送信元のIPアドレスは、コンテンツのタイトルなどを手がかりに、インデックスを検索して見つけ出し、コンテンツ保持ノードにデータ送信を要求することで、データ転送が開始される。 オンデマンド型のP2Pアプリケーションでは、配信効率を上げるために、コンテンツのコピー(レプリカ)を作ることが良く行われる。一度取得したコンテンツのコピーを保持して、他のノードに対して提供可能な状態にすることで、他の誰かが再度同じコンテンツをリクエストしたときに、負荷分散の効果が期待できるからである。これは特に、人気のあるコンテンツに対してのアクセス集中の緩和に効果的である。レプリカを作るアプリケーションでは、通常、レプリカをキャッシュフォルダー内に作り、古いレプリカから追い出すような実装になっていることが多い。 オンデマンド型のP2Pアプリケーションでは、データ全体を、一旦リクエストした端末までは持ってきてから利用する「ダウンロード方式」の実装がほとんどである。 応用例:P2Pコンテンツ配信、P2P掲示板、P2Pグループウェア、P2P分散ファイルシステム、無線のアドホックネットワーク、ゲームソフトのアップデート ビットコイン、Rippleなどでは、通貨の取引履歴情報を、各ノードで分散して持つことによって、通常はサーバーで管理する台帳データの不正な改竄を防ぐことができるので、P2Pを利用している。これにより自分のノードの台帳データを改ざんしたとしても、他の多数のノードが正しいデータを保持していることにより、比較した際に改竄を検知することができる。 「こういうデータを持っているのは誰ですかね?」という問いに答えるためには、データを検索するための属性キーとデータのありかの対応表(インデックス)を持っている必要があるが、これをサーバーに集中して持たせる場合と、各ノードに分散して持たせる場合と、特定の選ばれたノードに分散して持たせる場合、の3種類が存在する。 ハイブリッドP2Pにおいては、インデックス情報を、中央のインデックスサーバーで一括して管理する。新しいデータを保持したノードは、自分が持っていることを、インデックスサーバーに申告しておく。データを欲するノードが、「このキーに対応する相手を教えて下さいな」とインデックスサーバーに問い合わせると、対応する相手のIPアドレスを教えてくれる。インデックスが膨大になると、スケーラビリティが無くなる点が、後述のピュアP2Pと比べて劣るが、通常規模のシステムであれば、この方式で事足りるケースが多い。インデックスサーバーがダウンすると、システム全体が停止するため、耐障害性の面では、ピュアP2Pに劣る。 BitTorrent、Napster、WinMX、放送型P2P (オーバーレイマルチキャスト(英語版)) の多くは、この方式を採用している。 インデックス情報は、各ノードが少しずつ分散して持ち合う。 自分の知っているノードに、「データを持っているのは誰ですかね?」というメッセージを投げると、そのノードが知っていれば回答が返り、知らなければ又聞きをしてくれる(メッセージを転送する)仕組みになっている。インデックスが膨大になっても破綻しないため、スケーラビリティが高い。メッセージ転送の方式により、非構造化タイプと構造化タイプの2つに分類できる(後述)。 Gnutella、Freenet、OceanStore、Winny、Share は、この方式を採用している。 ピュアP2Pに参加する際には、既に参加しているノードのIP情報を何らかの形で知っている必要がある。このためには、常に活きているノード(コンタクトノード)を用意しておいて、参加時はいつもそこに接続するようにするか、あるいは、参加しているいくつかのノードの情報をサーバーに集めて、ここから知るように構成する。 インデックス情報は、特定の選ばれたノード(スーパーノード)が分担して持つ。スーパーノードには、できるだけ安定な端末(ずっと電源が入っていて、通信回線も安定していて、帯域幅も太いようなノード)が選ばれる。スーパーノードは、一般のエンドユーザーの端末から能力に応じて選ばれるが、サービス提供者側が用意した端末であることも多い。 KaZaA、Skypeは、この方式を採用している。 ピュアP2Pにおいては、インデックス情報も分散されて持たれるため、相手先IPアドレスの発見の仕組みは、検索メッセージを転送することで行われる。転送方式で、2種類に分類ができる。
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Peer to Peerとは、複数のコンピューター間で通信を行う際のアーキテクチャのひとつで、対等の者(Peer、ピア)同士が通信をすることを特徴とする通信方式、通信モデル、あるいは通信技術の一分野を指す。略記は、P2P。
{{Redirect|P2P}} {{複数の問題 |出典の明記=2021-11 |独自研究=2021-11 }} [[ファイル:P2P-network.svg|thumb|200px|P2P型ネットワーク(図はピュアP2P型)。コンピューター同士が対等に通信を行うのが特徴である。]] '''Peer to Peer'''(ピア・トゥ・ピア または ピア・ツー・ピア)とは、複数のコンピューター間で通信を行う際の[[アーキテクチャ]]のひとつで、対等の者(Peer、ピア)同士が通信をすることを特徴とする通信方式、通信モデル、あるいは通信技術の一分野を指す。[[Leet|略記]]は、'''P2P'''。 == 概要 == [[ファイル:Server-based-network.svg|thumb|200px|'''クライアント・サーバー'''型ネットワーク。サーバー(図中央)とクライアントは一対一の通信を行うのが特徴である。]] P2Pに対置される用語として[[クライアントサーバモデル|クライアント・サーバー方式]]がある。クライアント・サーバー方式ではネットワークに接続されたコンピューターに対しクライアントとサーバーに立場・機能を分離しており、一般的には多数のクライアントに対してサーバーが一つである。クライアントはサーバーとだけ通信でき、あるクライアントが他のクライアントと通信するにはサーバーを介する必要がある。 P2Pではネットワークに接続されたコンピューター同士が対等の立場、機能で直接通信するものである。クライアント・サーバー方式ではクライアント数が非常に多くなると、サーバーおよびその回線に負荷が集中するのに対して、Peer to Peer方式はその構造上、コンピューター機器(以下機器)数が膨大になっても特定機器へのアクセス集中が発生しにくいという特徴がある。 P2P通信の一例としては、インターネットに接続した一般ユーザーの複数[[パーソナルコンピュータ|パソコン]] (PC) 同士が互いのIPアドレスを呼び合う直接通信が挙げられる。P2Pによるネットワークは[[オーバーレイ・ネットワーク]]の一つに数えられる。 実用化されたシステムとしてはP2Pデータ配信、P2P電話、P2P掲示板、P2P放送(テレビ、ラジオ)、P2P[[グループウェア]]、P2P[[分散ファイルシステム]]、P2P-[[Session Initiation Protocol|SIP]]<ref>[http://www.p2psip.org/ P2PSIP]</ref>、P2P-[[Domain Name System|DNS]]、P2P-仮想ネットワーク<ref>[http://www30.atwiki.jp/p2pati/ P2P@i]</ref>、[[P2P地震情報]]などがある。また{{いつ範囲| date=2020年5月|ここ数年}}、商用的にも注目を集めており、特に[[IP電話]]([[Skype]]、[[LINE (アプリケーション)|LINE]]など)や[[動画共有サービス|動画配信サービス]]([[Veoh]]など)といった応用例が増えてきている。 しかしこれらの応用技術は[[2000年代]]初頭から実用化され始めた技術であり、歴史的にはまだ日が浅く、成熟技術となるまでには解決しなければならない様々な問題がある(後述)。そのため現在でも学術的な研究が盛んな分野である。また無線通信で使われる[[モバイルアドホックネットワーク]]もP2Pの一種であるが、無線での通信可能距離を稼ぐという特殊な使い方であるので詳細な解説は別項に譲る。 == P2Pの端末装置 == P2Pにおける通信端末はピア (peer) と呼ばれるが、[[位相幾何学|トポロジー理論]]、[[グラフ理論]]などで用いる「[[ノード (ネットワーク)|ノード]]」(node: 節点)という呼称を用いることも多い。またクライアントの機能とサーバーの機能を併せ持つという意味で[[サーバント]]という呼び方をすることもある。 端末装置の種類としてはPCやスマートフォンが使われることが多いが、[[セットトップボックス]] (STB) やHDDレコーダー、HDD内蔵[[ルーター]]といったものもピアになりうる。 == インターネットにおけるP2P == インターネットの基盤である[[IPネットワーク]]は[[IPアドレス]]さえ分かっていればどのコンピューター機器(以下機器)にも到達できる。つまり機器同士が相手のIPアドレスを知っていればP2P通信が可能である。したがってインターネット上のP2P応用技術はIPネットワークの[[オーバーレイ・ネットワーク]](Overlay Network:以下、OLNと略記する)と見ることができる。 例えば放送型サービスにP2Pを応用する場合は[[マルチキャスト]]型の通信形態となる。そのためこれを{{仮リンク|オーバーレイマルチキャスト|en|Overlay network#Multicast}} (Overlay Multicast: OLM) あるいは[[アプリケーション層マルチキャスト]] (Application Layer Multicast: ALM) と呼ぶことがある<ref>[http://www.shudo.net/article/200610-UNIX-magazine-P2P/alm.html アプリケーション層マルチキャスト]</ref>。 後者の呼び方は[[IPマルチキャスト]]がTCP/IPのレイヤーでのパケットの複製によりマルチキャストを行うのに対して、アプリケーション層でデータのコピーをしてマルチキャストを行う、という意味合いから来ている。 == P2Pアプリケーションの分類 == ピア間で何を行うか、という観点で、大きく以下の4つのタイプのアプリケーションに分けられる。 #一対一通信型 #放送型 #オンデマンド型 #分散型データ管理 複数の機能を併せ持ったアプリケーションも存在する。 === 一対一通信型 === [[IP電話]]、[[LINE電話]]や[[Skype]]に代表されるような、コンピューター間で一対一のコミュニケーションを行う使い方である。相手のIPアドレスを、電話番号やニックネームなどから見つけ出し(=IPアドレス解決と呼ぶ)、その後、ピアとピアが対等の立場で通信を行う。音声データであれば電話となり、映像データであればテレビ電話となる。インスタントメッセージやオンラインチャットもある。通常、アプリケーションの背後に特定の利用者がいることが想定されており、その人物に対して接続を行うような使い方が多い。この種のアプリケーションのほとんどには、相手がオンラインかどうかを認識する仕掛け(プレゼンス機能)が設けられている。 このタイプのアプリケーションでは、データは通常、リアルタイムでの[[ストリーミング]]でやりとりされる。 [[P2P-SIP]]では、SIP-URIからIPアドレスを知るためにP2P技術を利用しており、従来あったSIPサーバーを不要にできる。アドレス解決以外の、接続・切断のシグナリング、音声データのストリーミングに関しては、従来の[[Session Initiation Protocol|SIP]]やRTP/RTCPの技術をそのまま利用している。 応用例:[[IP電話]]、[[Skype]]、[[LINE (アプリケーション)|LINE]]、[[MSN メッセンジャー]]、[[P2P-SIP]]、P2P[[グループウェア]]。 === 放送型 === ノード間接続を、カスケード状に多段階層化して、配信ツリーを形成することで、放送型のサービスが実現できる。ツリーの根元のノードが、放送局となり、上流ノードから下流ノードへ、データをバケツリレーさせることで、全参加ノードに、ほぼ同時に同じデータを配信することが出来る。これにより、リアルタイムのストリーミング中継が可能となる。 [[ファイル:Overlay_Multicast.png|thumb|center|560px|オーバーレイマルチキャストの配信ツリーの概念図]] 多くのP2P型放送システムでは、アドレス解決にハイブリッドP2P方式(後述)を採用しており、通常、チャンネル名でインデックスサーバーに問い合わせると、「あのノードの下流につながってストリームをもらいなさい」というようにノードを紹介してくれる。インデックスサーバーの役割を各ノードに分散させる(=ピュアP2P型OLM)ことも可能ではあるが、そのような実装例はまだ発表されていない。 上流ノードが脱退したときに、ストリームが途切れるが、内部にバッファを持つことで、一定時間は再生が途絶えないようにして、その間に、別の上流ノードを探し出して、再接続を行う。再接続の処理には時間がかかるため、通常、予備の上流ノードを用意しておく。再接続先候補のノードを、効率的に準備しておくために、様々な創意工夫が考案されている(詳細は、[[オーバーレイマルチキャスト]]または[[アプリケーション層マルチキャスト]]を参照)。 応用例:P2P放送(映像+音声、音声のみ); ([[PeerCast]]<ref>[http://www.pecastation.org/ PeerCastStation]</ref>他<ref>[http://www.bitmedia.co.jp/sharecast シェアキャスト]</ref><ref>[http://bbbroadcast.tv-bank.com/jp/download2.html 「BBブロードキャスト]</ref><ref>[http://www.utagoe.com/ogdemo/ UG live視聴ページ]</ref>) === オンデマンド型 === 動画コンテンツの配信などでは、コンテンツを欲するノードが、当該コンテンツを持っているノードを探し出して、そこへデータを要求することで、保持ノードがそれに応じてデータを送信する(オンデマンド)、という一方向型の通信が行われる。言い換えると、持っている者から欲する者へ、という通信である。送信元は、使用しているコンピューターが複数ある場合、どれからでも良くて、不特定多数の中からアプリケーションまかせで選ばれる。送信元のIPアドレスは、コンテンツのタイトルなどを手がかりに、インデックスを検索して見つけ出し、コンテンツ保持ノードにデータ送信を要求することで、データ転送が開始される。 オンデマンド型のP2Pアプリケーションでは、配信効率を上げるために、コンテンツのコピー(レプリカ)を作ることが良く行われる。一度取得したコンテンツのコピーを保持して、他のノードに対して提供可能な状態にすることで、他の誰かが再度同じコンテンツをリクエストしたときに、負荷分散の効果が期待できるからである。これは特に、人気のあるコンテンツに対してのアクセス集中の緩和に効果的である。レプリカを作るアプリケーションでは、通常、レプリカをキャッシュフォルダー内に作り、古いレプリカから追い出すような実装になっていることが多い。 オンデマンド型のP2Pアプリケーションでは、データ全体を、一旦リクエストした端末までは持ってきてから利用する「ダウンロード方式」の実装がほとんどである。 応用例:P2Pコンテンツ配信、P2P掲示板、P2Pグループウェア、P2P分散ファイルシステム、無線の[[アドホックネットワーク]]、ゲームソフトのアップデート<ref>[http://muziyoshiz.jp/20071007.html コナミのゲームソフト、METAL GEAR ONLINE 2のパッチ配布には[[BitTorrent]]の技術を用いて行っている]</ref> === 分散型データ管理 === [[ビットコイン]]、[[Ripple (支払いシステム)|Ripple]]などでは、通貨の取引履歴情報を、各ノードで分散して持つことによって、通常はサーバーで管理する台帳データの不正な改竄を防ぐことができるので、P2Pを利用している。これにより自分のノードの台帳データを改ざんしたとしても、他の多数のノードが正しいデータを保持していることにより、比較した際に改竄を検知することができる。 == 技術的な分類 == === インデックス情報の持ち方での分類 === 「こういうデータを持っているのは誰ですかね?」という問いに答えるためには、データを検索するための属性キーとデータのありかの対応表(インデックス)を持っている必要があるが、これをサーバーに集中して持たせる場合と、各ノードに分散して持たせる場合と、特定の選ばれたノードに分散して持たせる場合、の3種類が存在する。 <span id="hybridP2P"></span> ==== ハイブリッドP2P ==== [[ファイル:BitTorrent DNAの動作説明2.PNG|thumb|200px|ハイブリッドP2Pの仕組み(図はBitTorrentのもの)。<br />欲しい情報となるキーファイルをサーバーに伝え、実際のデータはノード同士でやりとりを行う仕組み]] ハイブリッドP2Pにおいては、インデックス情報を、中央のインデックスサーバーで一括して管理する。新しいデータを保持したノードは、自分が持っていることを、インデックスサーバーに申告しておく。データを欲するノードが、「このキーに対応する相手を教えて下さいな」とインデックスサーバーに問い合わせると、対応する相手のIPアドレスを教えてくれる。インデックスが膨大になると、スケーラビリティが無くなる点が、後述のピュアP2Pと比べて劣るが、通常規模のシステムであれば、この方式で事足りるケースが多い。インデックスサーバーがダウンすると、システム全体が停止するため、耐障害性の面では、ピュアP2Pに劣る。 [[BitTorrent]]、[[Napster]]、[[WinMX]]、放送型P2P ({{仮リンク|オーバーレイマルチキャスト|en|Overlay network#Multicast}}) の多くは、この方式を採用している。 <span id="pureP2P"></span> ==== ピュアP2P ==== [[ファイル:P2P-network.svg|thumb|200px|ピュアP2Pの仕組み。一切の処理をコンピューター同士が対等に通信を行うのが特徴である。]] インデックス情報は、各ノードが少しずつ分散して持ち合う。 自分の知っているノードに、「データを持っているのは誰ですかね?」というメッセージを投げると、そのノードが知っていれば回答が返り、知らなければ又聞きをしてくれる(メッセージを転送する)仕組みになっている。インデックスが膨大になっても破綻しないため、スケーラビリティが高い。メッセージ転送の方式により、非構造化タイプと構造化タイプの2つに分類できる(後述)。 [[Gnutella]]、[[Freenet]]、[[OceanStore]]、[[Winny]]、[[Share]] は、この方式を採用している。 ピュアP2Pに参加する際には、既に参加しているノードのIP情報を何らかの形で知っている必要がある。このためには、常に活きているノード(コンタクトノード)を用意しておいて、参加時はいつもそこに接続するようにするか、あるいは、参加しているいくつかのノードの情報をサーバーに集めて、ここから知るように構成する。 <span id="supernodeP2P"></span> ==== スーパーノード型P2P ==== インデックス情報は、特定の選ばれたノード(スーパーノード)が分担して持つ。スーパーノードには、できるだけ安定な端末(ずっと電源が入っていて、通信回線も安定していて、帯域幅も太いようなノード)が選ばれる。スーパーノードは、一般のエンドユーザーの端末から能力に応じて選ばれるが、サービス提供者側が用意した端末であることも多い。 [[kazaa|KaZaA]]、[[Skype]]は、この方式を採用している。 === ピュアP2Pの構造による分類 === ピュアP2Pにおいては、インデックス情報も分散されて持たれるため、相手先IPアドレスの発見の仕組みは、検索メッセージを転送することで行われる。転送方式で、2種類に分類ができる。 ;非構造化オーバーレイ :問い合わせ元のノードは、キーに対応する相手を発見するために、手当たり次第に、自分が知っているノード(かつて通信をしたことがあるノードなど)に対して、「データを持っているのは誰ですかね?」というメッセージを投げつけ、受け取ったノードは、持っていれば返答し、持っていなければ検索メッセージをコピーして、他のノードに転送する方式。メッセージがネズミ算式に増えるので、フラッディング方式(洪水という意味)という別名が付いているが、メッセージが増えすぎないように、転送回数やメッセージの生存時間などで制限をかける必要がある。そのため、OLN上のどこかに相手が存在するにも関わらず、発見できない場合がある。 :[[Gnutella]]、[[Freenet]]、[[Winny]]、[[Share]] などで実装されている。 ;構造化オーバーレイ :「データを持っているのは誰ですかね?」というメッセージを転送する際の、転送先を選ぶ方法をあらかじめ構造的に決めておいて、「キーに対応する相手」が確実に分かるようにした方式である。よく知られている方式として、[[DHT]](Distributed Hash Table)、[[SkipGraph]]などがある。検索メッセージの転送先の範囲が、キーに応じてだんだんと絞られていくように設計されている。概略イメージは、A県の中のB市の中のC町の中の田中さん、というように範囲を絞る形で、メッセージが転送される、と考えると理解がしやすい。 :DHTの実装例としては、[[Chord]]、[[:en:Content_addressable_network|CAN]]、[[Pastry]]、[[Tapestry]]、[[Kademlia]]、[[OpenDHT]]、[[Overlay Weaver]]などがよく知られている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * {{仮リンク|Wi-Fi Direct|en|Wi-Fi Direct}} - Wi-Fiを利用したP2P通信の規格。 ** [[Miracast]] * [[P2P共有]] **[[ファイル共有ソフトウェア]] ***[[Gnutella]] ****[[LimeWire]] *****[[Cabos]] ***[[WinMX]] ****[[Winny]]/[[Freenet]] *****[[Antinny]] ****[[Perfect Dark]] ****[[Profes]] ****[[StealthNet]] * [[分散コンピューティング]] **[[Tor]] **[[Ripple (支払いシステム)|Ripple]] **[[新月_(掲示板)]] **[[Real Time Media Flow Protocol]] * [[ポイント・ツー・ポイント]] * [[エンドツーエンド]] == 外部リンク == === 研究資料 === * [http://research.microsoft.com/~padmanab/projects/coopnet/ CoopNet cooperative content distribution system]{{en icon}} * [http://www-2.cs.cmu.edu/~kunwadee/research/p2p/links.html More peer-to-peer research resources]{{en icon}} * [http://overlayweaver.sourceforge.net/index-j.html オーバレイ構築ツールキット] === P2P関連情報サイト === *[http://www.fmmc.or.jp/P2P/20110216.html ネットワーク高度利用推進協議会シンポジウム「商用P2P、クラウド、キャッシュを活用したネットワーク効率化最新動向」の開催について] *{{PDFlink|[http://www.npo-ba.org/public/20080918p.pdf P2P関連問題研究会 P2P基本提言]}} *[https://ci.nii.ac.jp/naid/110009496251 P2Pのこれまでとこれから : ネットワーク高度利用推進協議会活動の歴史とともに] {{暗号ソフトウェア}} {{Normdaten}} [[Category:P2P|*]] [[Category:コンピュータネットワーク|ひあつうひあ]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Peer_to_Peer
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日本の漫画家
日本の漫画家(にほんのまんがか)では、日本における漫画家について解説する。 「漫画家」は、漫画作品を作る。脚本のみを作る者は「漫画原作者」。脚本と作画の両方を作る者も作画のみを作る者も「漫画家」である。ただしアマチュアが増加している事を考慮すると、漫画の作家全般と捉える事もできる。漫画風のイラストの需要が高いため、イラストレーターを兼ねている場合があり、明確な区別は難しい。 画家でも脚本家でも小説家でも書道家でも、創作活動に対して対価を受け取る者は「先生」と呼ばれるのが一般的である。漫画家も例外ではなく、商業誌(大小や種類を問わず)でデビューした漫画家は、「先生」の敬称を付けられる。 メディアへの露出に関しては、様々である。いしいひさいちのようにメディア露出を避ける漫画家がいる一方、江川達也、蛭子能収、やくみつるのように積極的にテレビ出演する漫画家もいる。さくらももこ、尾田栄一郎のようにメディアにしばしば登場し私生活を明らかにしながらも、素顔を出すことを拒む者もいる。また、雑誌や単行本での顔写真の公開・非公開についても、人により様々である。 また、CLAMPを始めとした共有筆名(ペンネーム)で活動する漫画家の集団もいる。この場合、作画を行わない者(単独であれば「漫画原作者」とされる者)が含まれていても「漫画家」の集団と見做される。 漫画家の中にはアシスタントを雇う者も存在する。アシスタントが担う作業の内容や量は、雇用主となる漫画家によって大きく異なる。一般には、ストーリー構成・下書き・主要人物のペン入れまでは漫画家自身が担当し、群衆や背景の描写・ベタ塗り・消しゴムかけ・スクリーントーンを貼る、集中線などの画面効果を入れるといった、高度な作画技術を要しない作業や絵柄の個性が重視されない手間のかかる作業はアシスタントに任せる場合が多い。また雇用主となる漫画家によっては、アシスタントにストーリー構成やスケジュール管理、食事の用意など作画以外の作業に従事させる事例もある。 漫画家がアシスタントを雇う背景には、漫画の主な発表媒体が貸本から月刊雑誌そして週刊雑誌と幅広くなるに従い、主に週刊誌などで漫画を一人で完成させることが時間的に難しくなったことがある。漫画家とアシスタントは雇用関係にあるため、また絵柄を安定させるため、専属化している事例が多いが、専属のアシスタントを雇わず知人や駆け出しの漫画家にアシスタントを依頼する者も少なくない。アシスタントの給料は雇っている漫画家が支払うため、人件費を捻出できない漫画家は自然と全てを一人で製作せざるを得ず、収入に乏しい漫画家の中にはアシスタントへの給料を支払うために原稿料の前借や借金、個人資産の売却などを行う者もいる。なお最近では、パソコンを使用した漫画制作のデジタル化の影響から全ての作画を一人でこなす漫画家の比率が増えてきている。これは、アシスタントに任せる手間のかかる作業がデジタル化により短時間で容易にできるようになったためである。また、アシスタントを雇う費用の削減にもなる。アシスタントの中にはデジタル作業を主体(あるいは専門)とする者もおり、彼らは特に「デジアシ」と呼ばれる。 漫画家の多くはプロデビュー前に専属アシスタントを経験しており、アシスタントからプロデビューした際にも、作風・技法について従事していた作家の影響を受けていることが多く、基本的には師弟関係が成り立っている(小畑健→和月伸宏→尾田栄一郎・武井宏之など)。ただし全てのプロ漫画家がアシスタントを経験しているわけではなく、アシスタントを経験せず投稿などから直接プロデビューした者もいる(北条司、吾峠呼世晴など)。 アメリカや香港などでは、漫画の制作は全てを分担して作業していて役職名も細かく表示される。日本でも、単行本になった際に「スタッフ」などといった表記で紹介されることがある(専用のクレジット表示欄などはなく、あくまで漫画家の任意によるもの)。日本ではアシスタントの地位が低く、漫画家として独立しない限りはメジャーにはなれない存在である(もちろん、アメリカンコミックで作画の補助を行うアシスタント達がメジャーな存在かは疑問ではあるが、日本の場合ストーリー制作やプロダクションのマネジメントにまで関わるチーフアシスタントですら基本的に日陰の存在である)。 スタジオとして漫画を制作していることを公にしている漫画家にさいとう・たかを、本宮ひろ志などがいる。売れっ子となった際に所得税対策(節税)により漫画家活動を法人化する作家も多い(一部は作者クレジットや著作権利表記にスタジオ名が併記されている)。又、話作りだけを担当する漫画専門の原作者(漫画原作者)も少なくない。 なお少数ながら、主体となる漫画家に公認された二次作品が、スタジオや(元)アシスタント名義で発表される事例も見られる(『名探偵コナン』『金田一少年の事件簿』、直接の師弟関係ではないが『半妖の夜叉姫』、作者没後にも関連作品が発表されている『ドラえもん』『新ナニワ金融道』など)。稀な例ではあるが、作者没後に生前の構想に基づいてスタジオや(元)アシスタントによって完結まで作品が描かれた『サイボーグ009』『ベルセルク』と言った例もある。 共同筆名とスタジオは明確に区別されるが、両者を区別する基準は特に存在しない。ただし多くの場合、共同筆名は「漫画製作の主体者」として互いが対等な関係であり、プロデビュー前から共同で漫画製作を行っている、スタジオは「漫画製作を補助する集団」として主体者と主従関係にあり、プロデビュー後に漫画製作に加わる、と言った傾向が見られる。 また作品の内容によっては、共同筆名でもアシスタントでもスタジオでもない、作画や設定、考証等の「協力者」が外部から付く場合もある(軍事考証が付いた『ヨルムンガンド』、医療監修が付いた『はたらく細胞』、ネーム担当者が付いたコミカライズ版『ロード・エルメロイII世の事件簿』など)。これは主体者となる漫画家が、作品に必要な全ての知識を網羅・検証できず、それを補完する必要があるためであり、漫画製作の主体者に準ずる存在として位置づけられる。連載作品の場合、連載途中から協力者が付く事例も見られる。 売れなければ収入にならないと思われがちだが、出版物は基本的に刷られた時点で印税(価格の5% - 15%)が発生する。逆に言えば、在庫が少しずつ売れていても増刷がかからなければ全く作家の収入にはならない。 収入の差が極めて大きい。稼ぎの少ない漫画家ではアシスタント代を払うことすら困難な場合もあり、借金生活を余儀なくされている者もいる。その一方で、作品が大ヒットした漫画家は、作品のアニメ化やキャラクターグッズ化などのメディアミックス化も相俟って、年収十億円を超える事すらある。収入の多い漫画家のアシスタントが数千万円を超える年収を得ていることもあるが、こういった例はごく僅かである。 売れない作家の収入が低いのはあらゆる表現媒体に共通しているが、漫画家においては、売れっ子の収入が極めて高くメディア等で取り上げられる機会も多いため、売れない者の収入の低さがより際立つようである。人気の浮き沈みが激しくかつてヒットを飛ばした漫画家が廃業し別の業界に転職したり、アシスタント専業として生計を立てていたりと安定した職業とは言いがたい現状にある。 ただし、日本の「漫画産業」は、作家の資質・関心が現在の時流にミスマッチである場合を除き、一定水準の才能を持つものが地道に努力すれば充分に生活が成り立つだけの裾野を持っていることも事実である。コンピュータゲーム・広告・一般書籍・情報誌などにおいて、漫画や漫画調のイラストレーションなどのコンテンツの需要は大きくなっており、こうした媒体がヒット作のない漫画家や漫画家志望者の収入源となっている側面が無視できない。近年は商業漫画誌に執筆しつつ同人作家を兼業している者も多く、作家によっては同人誌からの収入の方が商業誌からの収入より多い場合もある。 以前から一部の漫画家は慈善活動等を行ってきたが、東日本大震災の発生を受けて大勢の被災者を支援するために出版社の枠を超えて共同で東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」に多くの志ある漫画家が執筆した。赤い羽根共同募金に協力する漫画家もいる。 ここでは、過去と現在の別なく、日本の漫画家と特筆性の高い関係が見られる地域について記載した。 まずは、施設および地域と、イベント開催地に大別し、前者は「その件に関する最初の由来が生じた時期」を基準に時系列で記載した。
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日本の漫画家(にほんのまんがか)では、日本における漫画家について解説する。
'''日本の漫画家'''(にほんのまんがか)では、[[日本]]における[[漫画家]]について解説する。 == 概要 == 「漫画家」は、漫画作品を作る。脚本のみを作る者は「[[漫画原作者]]」。脚本と作画の両方を作る者も作画のみを作る者も「漫画家」である。ただし[[アマチュア]]が増加している事を考慮すると、漫画の作家全般と捉える事もできる。漫画風の[[イラストレーション|イラスト]]の需要が高いため、[[イラストレーター]]を兼ねている場合があり、明確な区別は難しい。 画家でも脚本家でも小説家でも[[書家|書道家]]でも、創作活動に対して対価を受け取る者は「先生」と呼ばれるのが一般的である。漫画家も例外ではなく、商業誌(大小や種類を問わず)でデビューした漫画家は、「先生」の[[敬称]]を付けられる。 [[メディア (媒体)|メディア]]への露出に関しては、様々である。[[いしいひさいち]]のようにメディア露出を避ける漫画家がいる一方、[[江川達也]]、[[蛭子能収]]、[[やくみつる]]<!--例は3つで充分。切りがない。-->のように積極的にテレビ出演する漫画家もいる。[[さくらももこ]]、[[尾田栄一郎]]のようにメディアにしばしば登場し私生活を明らかにしながらも、素顔を出すことを拒む者もいる。また、雑誌や単行本での顔写真の公開・非公開についても、人により様々である。 また、[[CLAMP]]を始めとした共有筆名([[ペンネーム]])で活動する漫画家の集団もいる。この場合、作画を行わない者(単独であれば「漫画原作者」とされる者)が含まれていても「漫画家」の集団と見做される。 == アシスタントとスタジオ == 漫画家の中には[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を雇う者も存在する。アシスタントが担う作業の内容や量は、雇用主となる漫画家によって大きく異なる。一般には、ストーリー構成・下書き・主要人物の[[ペン入れ]]までは漫画家自身が担当し、群衆や背景の描写・[[ベタ]]塗り・消しゴムかけ・[[スクリーントーン]]を貼る、集中線などの画面効果を入れるといった、高度な作画技術を要しない作業や絵柄の個性が重視されない手間のかかる作業はアシスタントに任せる場合が多い。また雇用主となる漫画家によっては、アシスタントにストーリー構成やスケジュール管理、食事の用意{{Refnest|group="注"|食事=飯を作るアシスタントであることから「メシスタント」と称される。}}など作画以外の作業に従事させる事例もある。 漫画家がアシスタントを雇う背景には、漫画の主な発表媒体が[[貸本]]から月刊雑誌そして週刊雑誌と幅広くなるに従い、主に週刊誌などで漫画を一人で完成させることが時間的に難しくなったことがある。漫画家とアシスタントは雇用関係にあるため、また絵柄を安定させるため、専属化している事例が多いが、専属のアシスタントを雇わず知人や駆け出しの漫画家にアシスタントを依頼する者も少なくない。アシスタントの給料は雇っている漫画家が支払うため、人件費を捻出できない漫画家は自然と全てを一人で製作せざるを得ず、収入に乏しい漫画家の中にはアシスタントへの給料を支払うために原稿料の前借や借金、個人資産の売却などを行う者もいる。なお最近では、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を使用した漫画制作の[[デジタル化]]の影響から全ての作画を一人でこなす漫画家の比率が増えてきている。これは、アシスタントに任せる手間のかかる作業がデジタル化により短時間で容易にできるようになったためである。また、アシスタントを雇う費用の削減にもなる。アシスタントの中にはデジタル作業を主体(あるいは専門)とする者もおり、彼らは特に「デジアシ」と呼ばれる。 漫画家の多くはプロデビュー前に専属アシスタントを経験しており、アシスタントからプロデビューした際にも、作風・技法について従事していた作家の影響を受けていることが多く、基本的には師弟関係が成り立っている([[小畑健]]→[[和月伸宏]]→[[尾田栄一郎]]・[[武井宏之]]など)。ただし全てのプロ漫画家がアシスタントを経験しているわけではなく、アシスタントを経験せず投稿などから直接プロデビューした者もいる([[北条司]]、[[吾峠呼世晴]]など)。 アメリカや香港などでは、漫画の制作は全てを分担して作業していて役職名も細かく表示される。日本でも、単行本になった際に「スタッフ」などといった表記で紹介されることがある(専用のクレジット表示欄などはなく、あくまで漫画家の任意によるもの)。日本ではアシスタントの地位が低く、漫画家として独立しない限りはメジャーにはなれない存在である(もちろん、アメリカンコミックで作画の補助を行うアシスタント達がメジャーな存在かは疑問ではあるが、日本の場合ストーリー制作やプロダクションのマネジメントにまで関わるチーフアシスタントですら基本的に日陰の存在である)。 スタジオとして漫画を制作していることを公にしている漫画家に[[さいとう・たかを]]、[[本宮ひろ志]]などがいる。<!-- 一般的な知名度や時期的な早さから赤松健よりさいとうのほうが例として相応しい。ただ、アシスタントの存在はそもそも秘密でもなんでもないようにも思います。←しかし、赤松健はTV番組で紹介された事もあり、現在の“一般的な”知名度ではさいとう・たかを、本宮ひろ志を上回っている事実を考慮すべきではないだろうか。-->売れっ子となった際に[[所得税]]対策([[節税]])により漫画家活動を法人化する作家も多い(一部は作者クレジットや著作権利表記にスタジオ名が併記されている)。又、話作りだけを担当する漫画専門の原作者([[漫画原作者]])も少なくない。 なお少数ながら、主体となる漫画家に公認された二次作品が、スタジオや(元)アシスタント名義で発表される事例も見られる(『[[名探偵コナン]]』『[[金田一少年の事件簿]]』、直接の師弟関係ではないが『[[半妖の夜叉姫]]』、作者没後にも関連作品が発表されている『[[ドラえもん]]』『[[新ナニワ金融道]]』など)。稀な例ではあるが、作者没後に生前の構想に基づいてスタジオや(元)アシスタントによって完結まで作品が描かれた『[[サイボーグ009]]』『[[ベルセルク]]』と言った例もある。 共同筆名とスタジオは明確に区別されるが、両者を区別する基準は特に存在しない。ただし多くの場合、共同筆名は「漫画製作の主体者」として互いが対等な関係であり、プロデビュー前から共同で漫画製作を行っている、スタジオは「漫画製作を補助する集団」として主体者と主従関係にあり、プロデビュー後に漫画製作に加わる、と言った傾向が見られる。 また作品の内容によっては、共同筆名でもアシスタントでもスタジオでもない、作画や設定、考証等の「協力者」が外部から付く場合もある(軍事考証が付いた『[[ヨルムンガンド (漫画)|ヨルムンガンド]]』、医療監修が付いた『[[はたらく細胞]]』、ネーム担当者が付いたコミカライズ版『[[ロード・エルメロイII世の事件簿]]』など)。これは主体者となる漫画家が、作品に必要な全ての知識を網羅・検証できず、それを補完する必要があるためであり、漫画製作の主体者に準ずる存在として位置づけられる。連載作品の場合、連載途中から協力者が付く事例も見られる。 {{seealso|アシスタント (漫画)}} == 収入 == 売れなければ収入にならないと思われがちだが、出版物は基本的に刷られた時点で印税(価格の5% - 15%)が発生する。逆に言えば、在庫が少しずつ売れていても増刷がかからなければ全く作家の収入にはならない。 収入の差が極めて大きい。稼ぎの少ない漫画家ではアシスタント代を払うことすら困難な場合もあり、借金生活を余儀なくされている者もいる。その一方で、作品が大ヒットした漫画家は、作品の[[アニメ化]]やキャラクターグッズ化などの[[メディアミックス]]化も相俟って、年収十億円を超える事すらある。収入の多い漫画家のアシスタントが数千万円を超える年収を得ていることもあるが、こういった例はごく僅かである。 売れない作家の収入が低いのはあらゆる表現媒体に共通しているが、漫画家においては、売れっ子の収入が極めて高くメディア等で取り上げられる機会も多いため、売れない者の収入の低さがより際立つようである。人気の浮き沈みが激しくかつてヒットを飛ばした漫画家が廃業し別の業界に転職したり、アシスタント専業として生計を立てていたりと安定した職業とは言いがたい現状にある。 ただし、日本の「漫画産業」は、作家の資質・関心が現在の[[時流]]にミスマッチである場合を除き、一定水準の才能を持つものが地道に努力すれば充分に生活が成り立つだけの裾野を持っていることも事実である。[[コンピュータゲーム]]・広告・一般書籍・情報誌などにおいて、漫画や漫画調の[[イラストレーション]]などのコンテンツの需要は大きくなっており、こうした媒体がヒット作のない漫画家や漫画家志望者の収入源となっている側面が無視できない。近年は商業漫画誌に執筆しつつ[[同人誌|同人作家]]を兼業している者も多く、作家によっては同人誌からの収入の方が商業誌からの収入より多い場合もある。 == 社会との関係 == === 社会貢献活動 === 以前から一部の漫画家は慈善活動等を行ってきたが、[[東日本大震災]]の発生を受けて大勢の被災者を支援するために出版社の枠を超えて共同で[[東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」]]に多くの志ある漫画家が執筆した<ref>[http://koge.kokage.cc/earthquake/ 東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」]{{リンク切れ|date=2022年8月17日}}{{出典無効|date=2022年8月17日|title=基本情報の不備}}</ref>。[[共同募金|赤い羽根共同募金]]に協力する漫画家もいる<ref name="北海道共同募金会_2019">{{Cite web|和書|date=2019 |title=漫画家のみなさん < 赤い羽根サポーター宣言 |url=http://www.akaihane-hokkaido.jp/do3ko/manga.html |publisher=社会福祉法人 北海道共同募金会 |accessdate=2022-08-17 }}</ref>。 == ゆかりの深い地域 == ここでは、過去と現在の別なく、日本の漫画家と特筆性の高い関係が見られる地域について記載した。 まずは、施設および地域と、イベント開催地に大別し、前者は「その件に関する最初の由来が生じた時期」を基準に[[時系列]]で記載した。 === 施設と地域 === ==== 1950年代 ==== * {{Anchors|水木荘}}水木荘<ref>{{Cite web|和書|title=水木しげるヒストリー |url=https://www.mizukipro.com/100th/history/history01/ |publisher=水木プロダクション |website=げげげ通信 |accessdate=2022-09-15 }}</ref> :: [[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]]水木通2-2-22に所在した借家([[木構造 (建築)|木造]]2階建[[アパート]])であり、[[1949年]](昭和24年)に武良茂([[水木しげる]])が格安で購入して[[不動産賃貸業|大家]]をしていたが{{R|zakzak_20220906|"新潮_20220701"}}、ここを揺籃の地として{{R|"新潮_20220701"}}、[[作家]]「水木しげる」が、まずは[[紙芝居]]作家として[[1950年]](昭和25年)に誕生した。[[1953年]](昭和28年)、経営に行き詰まって大家業から手を引き、水木荘を売却。紆余曲折ののち、[[貸本漫画]]家を経て、漫画家・水木しげるに繋がった。その後は、『[[鬼太郎夜話]]』を代表作に、高学歴[[インテリ]]集団であったトキワ荘の面々とは一線を画す、[[ガロ系]]の漫画家集団における2本柱の1本になっていった。もう1本の柱は『[[カムイ伝]]』の[[白土三平]]である。''cf.'' 「[[水木しげる#紙芝居時代]]」 * {{Anchors|トキワ荘|トキワ荘マンガミュージアム}}[[トキワ荘]] :: [[東京都]][[豊島区]]に所在した[[借家]](木造2階建アパート)。巨匠・[[手塚治虫]]が1953年(昭和28年)初頭に住み始めたのを機に、出版社「学童社」が、[[藤子不二雄]]、[[石ノ森章太郎]]、[[赤塚不二夫]]等々、自社の雑誌に連載を持つ新進気鋭の漫画家の多くを同所の住人にしていったことで、トキワ荘は日本を代表する漫画家たちの一大拠点になった。[[1982年]](昭和57年)に解体されている。 :* [[トキワ荘マンガミュージアム]] :: 東京都豊島区に所在する。トキワ荘と同所にゆかりある漫画家をテーマとした博物館。[[2020年]](令和2年)開館。 ==== 1960年代 ==== * [[さいたま市立漫画会館]] :: [[埼玉県]][[さいたま市]]に所在。「日本の近代漫画の先駆者」「日本初の職業漫画家」とされる漫画家・[[北澤楽天]]の晩年の居宅跡にて、[[1966年]](昭和41年)に開館した。 ==== 1970年代 ==== * {{Anchors|大泉サロン}}[[大泉サロン]] :: 東京都[[練馬区]][[南大泉]]に所在した借家にて、[[竹宮惠子]]が[[萩尾望都]]を誘い、[[1970年]](昭和45年)から[[1972年]](昭和47年)にかけて同居した。それにより、日本の[[少女漫画]]界における「[[24年組|花の24年組]]」を呼ばれる気鋭の漫画家たちが二人を慕って集う場所になった。「大泉サロン」という名は竹宮たちによる愛称である。トキワ荘が手塚治虫という不世出の天才を“[[引力]]”の中心として成立していたのと同じように、大泉サロンは、「女手塚」と呼ばれた鬼才で、やがては「少女漫画の神様」と呼ばれることになる、萩尾望都が中核を為していた{{Sfn|山田玲司のヤングサンデー #161}}。 ==== 1980年代 ==== * [[長谷川町子美術館]] :: [[東京都]][[世田谷区]]に所在。[[1985年]](昭和60年)開館。漫画家・[[長谷川町子]]と姉の[[画家]]・[[長谷川毬子]]をテーマとした[[個人美術館]]。 ==== 1990年代 ==== * [[水木しげるロード]] :: [[鳥取県]][[境港市]]に所在する観光対応型[[商店街]]。[[1993年]](平成5年)オープン。境港出身の[[水木しげる]]とその漫画キャラクターをテーマにしている。 :* [[水木しげるロード#水木しげる記念館|水木しげる記念館]] - 鳥取県境港市に所在。[[2003年]](平成15年)開館。 * [[宝塚市立手塚治虫記念館]] - [[兵庫県]][[宝塚市]]に所在。[[1994年]](平成6年)開館。[[手塚治虫]]の[[マンガ・アニメミュージアム]]。 * [[横手市増田まんが美術館]] :: [[秋田県]][[横手市]]増田町(旧・[[増田町 (秋田県)|増田町]])に所在。[[1995年]](平成7年)開館。旧増田町出身の漫画家・[[矢口高雄]]のマンガ・アニメミュージアム。 * [[香美市立やなせたかし記念館]] :: [[高知県]][[香美市]](旧・[[香北町]])に所在。[[1996年]](平成8年)開館。[[やなせたかし]]のマンガ・アニメミュージアム。 * [[広島市まんが図書館]] - 広島県[[広島市]]に所在。[[1997年]](平成9年)開館。 * [[田河水泡・のらくろ館]] - 東京都[[江東区]]に所在。[[1999年]](平成11年)開館。[[田河水泡]]のマンガ・アニメミュージアム。 ==== 2000年代 ==== * [[石ノ森萬画館]] :: [[宮城県]][[石巻市]]に所在。[[2001年]](平成13年)開館。石巻市と縁の深い[[石ノ森章太郎]](出身は現・[[登米市]])のマンガ・アニメミュージアム。なお、同市に属する[[田代島]]にはアウトドア施設「マンガアイランド」もある。 * [[青梅赤塚不二夫会館]] :: 東京都[[青梅市]]に所在した。[[2003年]](平成15年)開館、[[2020年]](令和2年)閉館。[[赤塚不二夫]]のマンガ・アニメミュージアム。 ==== 2010年代 ==== * [[藤子・F・不二雄ミュージアム]] :: [[神奈川県]][[川崎市]]に所在。[[2011年]](平成23年)開館。[[藤子・F・不二雄]]のマンガ・アニメミュージアム。 === イベント開催地 === * [[高知市]] - [[1992年]](平成4年)より毎年8月に[[まんが甲子園]]が開催されている。 * [[東京都]]および[[いわき市]] :: [[1996年]](平成8年)に[[マンガサミット]](現・国際マンガサミット)の第1回大会が開催された。その後の開催地は、日本国内と世界各国の都市の持ち回りになっていった。開催地域が拡大していくに連れ、大会名の冠称も、無印から「東アジア」へ、さらに「アジア」へ、そして「世界」へと範囲を拡大していき、最終的には「国際」に落ち着いた。<!--** [[横浜市]] - [[2004年]](平成16年)に第5回アジアマンガサミットが開催された。** [[京都市]] - [[2008年]](平成20年)に第9回[[マンガサミット|世界マンガサミット]]の開催が決定。--> * [[新潟市]] - [[にいがたマンガ大賞]]が[[1998年]](平成10年)から毎年開催されている。 * [[川崎市]] - [[大韓民国|韓国]]でマンガ特区に指定されている[[富川市]]と姉妹都市関係。漫画家を招待しての交流を行う。まんが寺という寺がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name=zakzak_20220906>{{Cite news |和書 |author=[[楠木新]] |date=2022-09-06 |title=先生は私の師匠ではないが、私は先生の弟子…「勝手弟子」になってみる 水木しげる生誕100周年記念ウイーク |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20220906-VY6CCLI2MFMJVL4X5A462LYKM4/ |publisher=株式会社[[産業経済新聞社#産経デジタル|産経デジタル]] |newspaper=zakzak |accessdate=2022-09-15 }}</ref> <ref name="新潮_20220701">{{Cite news |和書 |date=2022-07-01 |title=桂あやめ「新開地を水木しげるの聖地に」 ゲゲゲの鬼太郎の作者・生誕100周年イベント |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/07/01/0015432756.shtml |publisher=[[新潮社]] |newspaper=デイリー新潮 |accessdate=2022-09-15 }}</ref> }} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2022-08-17}} {{ページ番号|section=1|date=2022-08-17}}<!--※推奨されている出典の表示の例:{{Sfn|||p=ページ番号}}--> * <!--ながたに-->{{Cite book |和書 |author=[[長谷邦夫]] |date=1994-03 |title=ニッポン漫画家名鑑―漫画家500人のデータブック |publisher=[[データハウス]] |ref={{SfnRef|長谷|1994}} }}{{Small|{{ISBN2|4-88718-196-5}}、{{ISBN2|978-4-88718-196-0}}、{{OCLC|33876158}}}}。 <!--※以下は法人など。--> * <!--にちがい...-->{{Cite book |和書 |others=まんがseek、日外アソシエ−ツ編集部 共編 |date=2003-02 |title=漫画家人名事典 |publisher=[[日外アソシエーツ]]、[[紀伊國屋書店]] |ref={{SfnRef|『漫画家人名事典』|2003}} }}{{Small|{{ISBN2|4-8169-1760-8}}、{{ISBN2|978-4-8169-1760-8}}、{{OCLC|674855721}}}}。 == 関連項目 == * [[日本の漫画]] * [[公益社団法人]] [[日本漫画家協会]]、[[日本漫画家協会賞]] * [[漫画家学会 (企業)]]、[[渋谷画劇団]] * [[漫画原作者]] * [[漫画作品一覧]] * [[漫画雑誌]] * [[同人]] === 漫画家のリスト === <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[漫画家一覧]] * [[日本の漫画家一覧]] * [[生年別日本の漫画家一覧 1920 - 1930年代|生年別日本の漫画家一覧]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[4コマ漫画家の一覧]] * [[日本の成人向け漫画家の一覧]] * [[少年漫画#主な少年漫画雑誌]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[少女漫画#少女漫画家]] * [[青年漫画#概要]] * [[ギャグ漫画#歴史]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[ホラー漫画#ホラー漫画家]] * [[SF漫画#SF漫画家]] * [[劇画#主な劇画作家]] </div>{{clear|left}} == 外部リンク == * {{Citation |title=漫画家公式サイトリンク集 |url=https://web.archive.org/web/20221221105928/http://www.manga-ka.net/ |publisher= |ref={{SfnRef|manga-ka.net}} }} * [https://web.archive.org/web/20001021093140/http://www.anime.ne.jp/~honmono/entrance.shtml 本物指向のリンク集] * [https://web.archive.org/web/20050729101751/http://www.nerimadors.or.jp/~jiro/link.html 漫画家関連リンク集] * [https://web.archive.org/web/19991011192448/http://www.ask.ne.jp/~comicbox/links/l-index.html コミックボックスリンク集] * {{Cite web|和書|date=2021年頃 |title=プロ漫画家は日本に何人いるのか? < マンガ業界コラム |url=https://www.clipstudio.net/oekaki/archives/151844 |publisher=株式会社セルシス |website=CLIP STUDIO |work=イラスト・マンガ描き方ナビ |accessdate=2022-09-15 |ref={{SfnRef|ClipStudio 2021}} }} {{DEFAULTSORT:につほんのまんかか}} [[Category:日本の漫画家|*]] {{Manga-stub}} [[fi:Manga#Mangaka]]
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LimeWire
LimeWire (ライムワイア、ライムワイヤ)は、かつてGNU General Public License下で公開されていたフリーソフトウェア及びオープンソースのGnutella P2Pクライアント・ソフトウェアである。米連邦地方裁判所の命令を受けて2010年10月にソフトウェアの配布を停止。 LimeWireはGnutella P2Pプロトコルを利用したファイル共有をユーザー同士で行うことができる。これは2004年12月に公開された。バージョン4.2の特徴として、ファイアウォール設置同士のファイル交換をサポートした最初のファイル共有ソフトである。開発元はLime Wire LLCである。 LimeWireはJavaで書かれているため、Java仮想マシンがインストールされたコンピュータで利用できる。普通のユーザー向けにインストールを簡単にするため、デベロッパーは Windows、Mac OS X、及び deb/RPM 形式でLinux向けにインストール・パッケージを公開していた。 ソースコードを入手して使用する場合には Javaランタイムルーチンを別途用意する必要があった。 オープンソースであったため、LimeWireはペンシルベニア州立大学での実験的上のソフトウェア開発プロジェクトLionShare、独特なインタフェースと共に人気のあるApple製Mac向けグヌーテラ・クライアントAcquisition、Cabos 、FrostWireを含む、いくつかの派生型が作成された。 LimeWireの有償版としてLimeWire PROが販売されており、価格は21.95ドルであった。PRO版の特典期間を1年間延長するLimeWire PRO延長版も販売されており、価格は34.95ドルであった。 PROではBASICよりファイルのダウンロードが高速で行えることと、より多くのソースにアクセス可能となることが特徴であった。PROにすると電子メールサポートも可能になった。また、BASICでは起動時にPROにアップグレードを勧めるメッセージが出てくるが、PROでは出なかった。LimeWire PRO 5.5より、オランダのAVG Technologiesのウイルス対策SDKエンジンが組み込まれた。PROでダウンロードされた全ファイルは、ユーザーのPCで再生または実行される前にスキャンされ、ウイルスの感染拡大を防いでいた。 米国時間2006年8月4日、Sony BMG、Virgin Records、Warner Bros. Recordsなどが参加するレコード著作団体が著作権侵害の疑いがあるとしてLimeWireと経営陣を提訴した。内容としては1曲あたり約15万ドルの賠償金、および今後楽曲を共有する際、事業モデルをレコード会社と契約する形への変更を求めた。 しかし約2ヵ月後、LimeWireはレコード会社がLimeWireから利用者を減らそうと不当な商行為を行ったと反訴。また、オンライン楽曲配信市場の取引抑制を共謀し、シャーマン独占禁止法、クレイトン独占禁止法の条項に反しているとも主張した。 2010年5月11日、ニューヨーク州南部地区連邦地裁は、LimeWireの親会社Lime Groupとその設立者マーク・ゴートンがLimeWireによって著作権侵害およびその幇助、さらに不正競争に関与したことを認める略式判決を下した。 2010年10月26日、米連邦地裁がLimeWireに恒久的なサービス停止を命じたことを受けて、ソフトウェアの配布とサポートを停止した。
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LimeWire (ライムワイア、ライムワイヤ)は、かつてGNU General Public License下で公開されていたフリーソフトウェア及びオープンソースのGnutella P2Pクライアント・ソフトウェアである。米連邦地方裁判所の命令を受けて2010年10月にソフトウェアの配布を停止。
{{Infobox Software |名称 = LimeWire |ロゴ = [[ファイル:LimeWire.png|80px]] |スクリーンショット = [[ファイル:Limewire2008.PNG|300px]] |説明文 = [[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]で動作しているLimeWire[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]<br />(バージョン4.18.3) |開発元 = [[Lime Wire LLC]]<br />([[アメリカ合衆国|米]][[ニューヨーク]]市) |最新版 =5.5.16 |最新版発表日 = [[2010年]]9月30日 |最新評価版 = 5.6.1 |最新評価版発表日 = 2010年5月7日 |サポート状況 = 終了 |対応OS = [[クロスプラットフォーム]] |種別 = [[ファイル共有ソフト]] |ライセンス = [[GNU General Public License|GNU GPL]] |公式サイト = {{Wayback |url=http://www.kazaa.com |title=http://www.limewire.com/ |date=20150304092708}}<br />(2010年10月26日公開停止) }} '''LimeWire''' (ライムワイア、ライムワイヤ)は、かつて[[GNU General Public License]]下で公開されていた[[フリーソフトウェア]]及び[[オープンソース]]の[[Gnutella]] [[Peer to Peer|P2P]]クライアント・ソフトウェアである。米連邦地方裁判所の命令を受けて2010年10月にソフトウェアの配布を停止。 == 概要 == LimeWireは[[Gnutella]] P2Pプロトコルを利用したファイル共有をユーザー同士で行うことができる。これは[[2004年]]12月に公開された。バージョン4.2の特徴として、[[ファイアウォール]]設置同士のファイル交換をサポートした最初の[[ファイル共有ソフト]]である。開発元は[[Lime Wire LLC]]である。 LimeWireは[[Java]]で書かれているため、[[Java仮想マシン]]がインストールされたコンピュータで利用できる。普通のユーザー向けにインストールを簡単にするため、デベロッパーは [[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS|Mac OS X]]、及び [[Debian|deb]]/[[RPM Package Manager|RPM]] 形式で[[Linux]]向けにインストール・パッケージを公開していた。 [[ソースコード]]を入手して使用する場合には Javaランタイムルーチンを別途用意する必要があった。 オープンソースであったため、LimeWireは[[ペンシルベニア州立大学]]での実験的上のソフトウェア開発プロジェクト[[LionShare]]、独特な[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]と共に人気のある[[Apple]]製[[Mac (コンピュータ)|Mac]]向けグヌーテラ・クライアント[[Acquisition]]、[[Cabos]] 、[[FrostWire]]を含む、いくつかの派生型が作成された。 == 特徴 == * 初期ノード設定等が不要。 * ファイル共有色が強いため、多くの場合[[インスタントメッセージ]]等事前の予告を送らなくてもダウンロードできた。 * Javaで開発されているため、複数の[[オペレーティングシステム|OS]]に対応していた。 * [[ベータ版]]の4.13.1からMojito[[DHT]]を実装していた。 * 4.13.9から[[Transport_Layer_Security|TLS]]により接続を暗号化できるようになった。 == LimeWire PRO == LimeWireの有償版としてLimeWire PROが販売されており、価格は21.95ドルであった。PRO版の特典期間を1年間延長するLimeWire PRO延長版も販売されており、価格は34.95ドルであった。 PROではBASICよりファイルのダウンロードが高速で行えることと、より多くのソースにアクセス可能となることが特徴であった。PROにすると電子メールサポートも可能になった。また、BASICでは起動時にPROにアップグレードを勧めるメッセージが出てくるが、PROでは出なかった。LimeWire PRO 5.5より、オランダの[[AVG Technologies]]の[[ウイルス]]対策SDKエンジンが組み込まれた<ref>ファイル共有ソフトウェア会社がアンチウィルスソフトウェア会社と提携した初めてのケースである。</ref>。PROでダウンロードされた全ファイルは、ユーザーのPCで再生または実行される前にスキャンされ、ウイルスの感染拡大を防いでいた。 == 訴訟問題 == 米国時間2006年8月4日、Sony BMG、Virgin Records、Warner Bros. Recordsなどが参加するレコード著作団体が著作権侵害の疑いがあるとしてLimeWireと経営陣を提訴した。内容としては1曲あたり約15万ドルの賠償金、および今後楽曲を共有する際、事業モデルをレコード会社と契約する形への変更を求めた<ref>[https://japan.cnet.com/article/20194087/ CNET Japan 米レコード業界、PtoPソフトのライムワイヤーを提訴]</ref>。 しかし約2ヵ月後、LimeWireはレコード会社がLimeWireから利用者を減らそうと不当な商行為を行ったと反訴。また、オンライン楽曲配信市場の取引抑制を共謀し、[[シャーマン独占禁止法]]、[[クレイトン法|クレイトン独占禁止法]]の条項に反しているとも主張した<ref>[http://peer2peer.blog79.fc2.com/blog-entry-2.html P2Pとかその辺のお話 LimeWire、RIAAを逆提訴]</ref>。 2010年5月11日、ニューヨーク州南部地区連邦地裁は、LimeWireの親会社Lime Groupとその設立者マーク・ゴートンがLimeWireによって著作権侵害およびその幇助、さらに不正競争に関与したことを認める略式判決を下した。 2010年10月26日、米連邦地裁がLimeWireに恒久的なサービス停止を命じたことを受けて、ソフトウェアの配布とサポートを停止した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1010/27/news048.html ITmedia P2PサービスのLimeWireが停止 裁判所命令で]</ref>。 == 関連項目 == *{{仮リンク|WireShare|en|WireShare}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Portal|FLOSS|}} {{commons|LimeWire}} {{BitTorrent}} {{DEFAULTSORT:らいむわいあ}} [[Category:P2P]] [[Category:オープンソースソフトウェア]] [[Category:BitTorrent]] [[Category:Javaプラットフォームソフトウェア]] [[Category:ライム]] [[Category:トロイの木馬]]
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日本の漫画作品一覧
日本の漫画作品一覧(にほんのまんがさくひんいちらん)は、日本語版ウィキペディアに記事の存在する日本の漫画作品の五十音順の一覧である。 日本以外の漫画作品については漫画作品一覧を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本の漫画作品一覧(にほんのまんがさくひんいちらん)は、日本語版ウィキペディアに記事の存在する日本の漫画作品の五十音順の一覧である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本以外の漫画作品については漫画作品一覧を参照。", "title": null } ]
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うる星やつら
『うる星やつら』(うるせいやつら、ラテン文字表記: Urusei Yatsura)は、高橋留美子による日本の漫画作品。週刊少年サンデー(小学館)にて、1978年39号から1987年8号まで連載された。第26回(1980年度)小学館漫画賞少年少女部門受賞作。略称は、「うる星」。2020年11月時点で累計発行部数は3500万部を突破している。 浮気者の高校生・諸星あたると、彼を愛する一途な宇宙人美少女・ラムを中心に架空の町、友引町や宇宙や異次元などを舞台にしたドタバタラブコメディ。 その内容の斬新さと魅力的なキャラクターは1980年代のみならず以降の漫画界とアニメ界に衝撃を与え、当時の若者たちの圧倒的支持を受けて一大ブームを引き起こし、若者文化にも影響を与えた。 高橋留美子の初期代表作であり、後年、本作と『めぞん一刻』について、(作者自身の)「20代の漫画で自分の青春」と語っている。 1978年に短期集中連載作品として『週刊少年サンデー』(以下、『少年サンデー』)に初掲載され、好評であったため1979年に月刊連載化・不定期連載化された。当時高橋はまだ大学生であったため、約20 - 30Pの作品を数カ月おきに連載していたが、大学を卒業すると同時に週刊連載に移行。そして、1980年に『少年サンデー』にて本格的週刊連載となり(第1回の本格連載は面堂終太郎登場話である原作第23話「トラブルは舞い降りた!!」)、一週およそ16ページの連載が続けられた。定期連載以降、最終話まで作者都合による休載はない。 あだち充の『タッチ』と共に、当時の『少年サンデー』を支える二本柱となるほどの人気作品となったことからテレビアニメ化・アニメ映画化もされ、単行本34巻(全366話)に及ぶ長期連載作品となった。最終回時点では『がんばれ元気』を上回り、『名探偵コナン』に塗り替えられるまでは『少年サンデー』史上最長巻数だった。 不定期連載時は恋愛要素が皆無で、ドタバタやSFをメインにしたギャグ要素が非常に強かったが、週刊連載になり話が進むにつれて恋愛をメインに、ギャグをサブにした雰囲気、いわゆるラブコメの作風に変化させてゆく。後半にゆくに従って、笑いの要素を抑えた、非常にシリアスなストーリーも盛り込まれていく。そこに高橋留美子の持ち味の奇想天外なキャラクターなどを絡ませつつ、恋愛、学園モノからSF、妖怪、幽霊、伝奇、スポーツ、冒険、格闘、歴史など、ある意味「なんでもあり」の世界観を打ち出し、長期連載作品となっていった。定期連載時や、読み切り作品(たとえば『ザ・超女』)のようなギャグ要素の強い作風は、一部がのちの『らんま1/2』に引き継がれていった。 当初は諸星あたるを中心として話が展開することが多かった。高橋は当初、いろんな災いを呼び寄せる受身のキャラクターであるあたるでは、毎回の話を作るのに行き詰まってきたため、短期連載の後半から週連載への移行を境に、あたるをもっと楽観的で積極的な浮気性のキャラクターに変化させていく。すると、今度はラムがあたるを追いかけるストーリーばかりになり、後半はラムの扱いに苦労したという。したがって、藤波親子の登場前後の週連載の前期までは、様々なキャラクターが登場してはあたるとラムの関係に絡みつつ話を展開していくパターンが多かった。藤波親子の登場あたりの中期 - 後期にかけては、次第にそれまで登場したキャラクターたちの再登場や、竜之介と弁天、レイとクラマ姫等のサブキャラ同士を絡めたり、それまで登場したキャラの近親者や関係者などを登場させて話を展開させるなど、群像劇に近いものとなる。回によってはあたるやラム以外のキャラクターを中心となって話が進み、そこにあたるやラムが登場はするものの傍観者に留まり重要な役割を果たさないエピソードも多くなる。 物語のほとんどが一話完結型。登場人物は基本的に進学、卒業などがなく、週刊連載開始後は、あたるやラムたちは友引高校2年生(開始当初・短期連載時は1年生)のままである。ただし正月、節分、七夕、クリスマスなどのいわゆる年中行事は、連載の掲載時期にあわせて毎年行われ、最終回までこの設定は貫かれた。ただし、あたるの浮気性の改善や面堂の暗所恐怖症の原因究明のため過去に行く話や、「系図」や因幡くんのシリーズ連作などで未来に行くエピソードでは、登場人物は相応に若かったり大人になったりしている。 『うる星やつら』というタイトルは、高橋のデビュー作のタイトル『勝手なやつら』の名残を残し、かつ作品の宇宙的なイメージから当時の編集長田中が名付けた。連載開始当初のタイトルロゴはおどろおどろしい感じのデザインであった。 また、サブタイトルには「思い過ごしも恋のうち」(サザンオールスターズ)「酒と泪と男と女」(河島英五)「かけめぐる青春」(ビューティ・ペア)、「ないものねだりのI Want You」(C-C-B)、「絶体絶命」等のヒットソング名を度々用いているほか、本作と同時期に『少年サンデー』で連載されていた作品のタイトルから語句を拾ってサブタイトルにしたこともある(宮本武蔵編)。 単行本は少年サンデーコミックス版が全34巻、1989年から1990年にワイド版が全15巻、文庫版が1998年から1999年にかけて全18巻で刊行された。単行本の新装版が2006年11月から2008年3月にかけ毎月2巻ずつ刊行、2016年1月には『少年サンデー』連載時のカラーページを全集成した『うる星やつらパーフェクト★カラーエディション』(上下)が刊行された。他にコンビニコミック版が度々出されている。 高橋は「『うる星』はやろうと思えば、いつまでも連載を続けられる安全パイなんだけど(いわばこれは20代の漫画であり)、勢いがあるうちに終わらせたかった」と、少年サンデーグラフィック誌でのインタビューで語っている。また、自身がお気に入りの作品は原作第3話の「石油が町に降る話」(原題「悲しき雨音」)と、水乃小路飛麿が最初に出てきた話(原題「白球に賭けた青春」)と、あたるが幽霊少女・望の願いに応える「最後のデート」。一番気に入っているコマは、「最後のデート」で、あたると幽霊の望がデート中に花火を見上げているシーンだという。 中盤あたりで、マンネリになってきたため「もう終わらせよう」という意識もあったらしいが、「藤波竜之介と父」というキャラが登場して、女らしくなりたい竜之介とそれを邪魔する父親という両者の行動原理が明確だった彼らが、かなり動かしやすかったため、その後藤波親子が絡んだエピソードが数多く作られた。高橋本人も「竜之介親子にはかなり助けられた。あの二人がいなかったら『うる星』はもっと早く終わっていたかもしれない」と語っている(詳細は藤波竜之介のリンクを参照)。従って、二人は高橋がもっとも気に入っている部類のキャラクターであり(なお、一番好きなキャラクターは「サクラ」)、次作主役の「らんま1/2」の乱馬と父のモチーフにもなった。 この物話の主役については、「私はあたるが主役であると思っています」と語っている。 宇宙人である鬼族が、地球侵略を仕掛ける。鬼族は圧倒的な技術力と軍事力を保有しており、武力で容易に地球を手に入れるのでは簡単過ぎて面白くない。そこで、鬼族代表と地球代表とが一騎討ちで戦い、地球代表が勝った場合、おとなしく帰り、地球代表が敗れた場合、地球を占領すると宣言した。その一騎討ちは、鬼族の伝統に従い『鬼ごっこ』で行われ、期限内に地球代表が鬼族代表の角を掴むと地球の勝ち、鬼族代表が逃げ切ると鬼族の勝ちというものである。 地球の命運を賭けた「鬼ごっこ」の地球代表に選ばれてしまった高校生の諸星あたるは、当初やる気がなかったものの、恋人で幼なじみである三宅しのぶの色恋仕掛け(勝ったら、結婚してあげる)により、彼女と結ばれたいがために鬼族代表のラムを追いかけ始める。あたるがラムを追いかけつつ発した「勝って結婚じゃぁ〜」の一言は、あたるが恋人で幼なじみのしのぶを想っての発言であったが、ラムは自分に求婚しているのだと勘違いし、それを受け入れてしまう。そのため、鬼ごっこには勝利、地球は侵略を免れるが、ラムは諸星家に住み着いてしまう。 こうして、恋多き男・あたると宇宙から来た押しかけ女房・ラムの果てしなき鬼ごっこが始まる。そして、友引町はさまざまな災いや奇妙な出来事に巻き込まれていく。 連載終了以降一度も再現されなかったカラー原稿を初めて収録。両巻とも、再アニメ化に合わせて2022年2月20日に第2刷が発行された。 初代単行本全34巻を完全再現し、特製BOXとして発売された。 本作は1981年にアニメ化されて以降、1980年代を代表する人気作となり、2022年には再びアニメ化された(なお、ここでは前者を「1981年版アニメ」、後者を「2022年版アニメ」とする)。 4年半(1981年10月 - 1986年3月)に渡る初代テレビアニメシリーズ(フジテレビほかにて放送)、6作の劇場版、12作のOVAが製作され、商品化においても100億円以上売り上げる大きな成功を収めた。LPは7作がオリコンLPチャートで10位以内にランクインしている。 劇場用アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は押井守監督作品の原点であり出世作でもある。 原作の人気に加えて、スタッフの暴走と揶揄される押井守や伊藤和典の先鋭的な演出や、当時若手の実力派アニメーターによる作画からアニメファンからも注目されるようになった。それによってアニメ界の異才をあまた輩出した伝説的な存在となっている。 また、1980年代の国産アニメで盛んに行われていたアニメーターの「お遊び」的な作画により、騒動や人ごみ(モブシーン)の中に『めぞん一刻』を始めとするさまざまな高橋キャラがしばしば「隠れキャラクター」的に登場しているほか、本作と全く関係のない他の漫画・映画・アニメのキャラクターもしばしば登場している。 フジテレビ系の深夜アニメ枠『ノイタミナ』にて、第1期は2022年10月から2023年3月まで、2クール連続で放送された。第2期は2024年に放送予定。1981年版アニメからスタッフ・キャストを一新し、完全新作として全4クールにわたって製作される。 3作共にツクダホビーより発売。
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『うる星やつら』は、高橋留美子による日本の漫画作品。週刊少年サンデー(小学館)にて、1978年39号から1987年8号まで連載された。第26回(1980年度)小学館漫画賞少年少女部門受賞作。略称は、「うる星」。2020年11月時点で累計発行部数は3500万部を突破している。 浮気者の高校生・諸星あたると、彼を愛する一途な宇宙人美少女・ラムを中心に架空の町、友引町や宇宙や異次元などを舞台にしたドタバタラブコメディ。 その内容の斬新さと魅力的なキャラクターは1980年代のみならず以降の漫画界とアニメ界に衝撃を与え、当時の若者たちの圧倒的支持を受けて一大ブームを引き起こし、若者文化にも影響を与えた。 高橋留美子の初期代表作であり、後年、本作と『めぞん一刻』について、(作者自身の)「20代の漫画で自分の青春」と語っている。
{{Otheruses|漫画作品|アニメ化作品|うる星やつら (アニメ)}} {{半保護}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = うる星やつら | ジャンル = [[サイエンス・フィクション|SF]]・[[ギャグ漫画|ギャグ]]・[[恋愛漫画|恋愛]]・[[少年漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga | 作者 = [[高橋留美子]] | 出版社 = [[小学館]] | 掲載誌 = [[週刊少年サンデー]] | レーベル = 少年サンデーコミックス(SSC)<br />少年サンデーコミックスワイド版(SSCW)<br />小学館文庫(SB) | 開始 = 1978年39号 | 終了 = 1987年8号 | 巻数 = 全34巻(SSC)<br />全15巻(SSCW)<br />全18巻(SB) | 話数 = 全366話 }} {{Infobox animanga/Other |タイトル= [[うる星やつら (アニメ)|アニメ]] |コンテンツ= * テレビアニメ ** 1981年版(1981 - 1986) ** 2022年版(2022 - ) * 劇場版 ** [[うる星やつら オンリー・ユー]] ** [[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]] ** [[うる星やつら3 リメンバー・マイ・ラヴ]] ** [[うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー]] ** [[うる星やつら 完結篇]] ** [[うる星やつら いつだって・マイ・ダーリン]] * OVA ** 了子の9月のお茶会 ** アイム・THE・終ちゃん ** [[うる星やつら 夢の仕掛人 因幡くん登場! ラムの未来はどうなるっちゃ!?|夢の仕掛人、因幡くん登場!<br />ラムの未来はどうなるっちゃ!?]] ** 怒れ!! シャーベット ** 渚のフィアンセ ** 電気仕掛けの御庭番 ** 月に吠える ** ヤギさんとチーズ ** ハートをつかめ ** 乙女ばしかの恐怖 ** 霊魂とデート ** [[うる星やつら ザ・障害物水泳大会|ザ・障害物水泳大会]] }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]] | ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''うる星やつら'''』(うるせいやつら、ラテン文字表記:'' Urusei Yatsura''<ref>{{cite web | url=https://www.viz.com/urusei-yatsura| title=URUSEI YATSURA | work=[[VIZ Media]] | accessdate=2020-7-17}}</ref>)は、[[高橋留美子]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。[[週刊少年サンデー]]([[小学館]])にて、1978年39号から1987年8号まで連載された。第26回(1980年度)[[小学館漫画賞]]少年少女部門受賞作。略称は、「うる星」<ref>めぞん一刻文庫版第1巻巻末あとがき</ref>。2020年11月時点で累計発行部数は3500万部を突破している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iza.ne.jp/article/20201106-Y27RWLZBUZNLLM4G3AODER3R74/|title=倖田來未とうる星やつらがコラボMV ネット民から「普通に泣いた」「ハマり過ぎ」「今バスのなかで泣いている」など感動の声|work=iza|date=2020-11-06|accessdate=2022-03-26}}</ref>。 浮気者の高校生・[[諸星あたる]]と、彼を愛する一途な宇宙人美少女・[[ラム (うる星やつら)|ラム]]を中心に架空の町、友引町や宇宙や異次元などを舞台にしたドタバタ[[ラブコメディ]]。 その内容の斬新さと魅力的なキャラクターは[[1980年代]]のみならず以降の漫画界と[[日本のアニメーション|アニメ]]界に衝撃を与え、当時の若者たちの圧倒的支持を受けて一大ブームを引き起こし、若者文化にも影響を与えた。 高橋留美子の初期代表作であり、後年、本作と『[[めぞん一刻]]』について、(作者自身の)「20代の漫画で自分の青春」と語っている{{要出典|date=2023-04-15}}。 == 作品解説 == {{出典の明記|section=1|date=2023-04-15}} === 短期集中連載から週刊連載へ === 1978年に短期集中連載作品として『[[週刊少年サンデー]]』(以下、『少年サンデー』)に初掲載され、好評であったため1979年に月刊連載化・不定期連載化された。当時高橋はまだ大学生であったため、約20 - 30Pの作品を数カ月おきに連載していたが、大学を卒業すると同時に週刊連載に移行。そして、1980年に『少年サンデー』にて本格的週刊連載となり(第1回の本格連載は[[面堂終太郎]]登場話である原作第23話「トラブルは舞い降りた!!」)、一週およそ16ページの連載が続けられた。定期連載以降、最終話まで作者都合による休載はない。 [[あだち充]]の『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』と共に、当時の『少年サンデー』を支える二本柱となるほどの人気作品となったことから[[テレビアニメ]]化・アニメ映画化もされ、単行本34巻(全366話)に及ぶ長期連載作品となった。最終回時点では『[[がんばれ元気]]』を上回り、『[[名探偵コナン]]』に塗り替えられるまでは『少年サンデー』史上最長巻数だった。 === 作品の特徴 === 不定期連載時は恋愛要素が皆無で、ドタバタやSFをメインにしたギャグ要素が非常に強かったが、週刊連載になり話が進むにつれて恋愛をメインに、ギャグをサブにした雰囲気、いわゆる[[ラブコメ]]の作風に変化させてゆく。後半にゆくに従って、笑いの要素を抑えた、非常にシリアスなストーリーも盛り込まれていく。そこに高橋留美子の持ち味の奇想天外なキャラクターなどを絡ませつつ、恋愛、学園モノからSF、妖怪、幽霊、伝奇、スポーツ、冒険、格闘、歴史など、ある意味「なんでもあり」の世界観を打ち出し、長期連載作品となっていった。定期連載時や、読み切り作品(たとえば『[[ザ・超女]]』)のようなギャグ要素の強い作風は、一部がのちの『[[らんま1/2]]』に引き継がれていった。 当初は諸星あたるを中心として話が展開することが多かった。高橋は当初、いろんな災いを呼び寄せる受身のキャラクターであるあたるでは、毎回の話を作るのに行き詰まってきたため、短期連載の後半から週連載への移行を境に、あたるをもっと楽観的で積極的な浮気性のキャラクターに変化させていく。すると、今度はラムがあたるを追いかけるストーリーばかりになり、後半はラムの扱いに苦労したという。したがって、藤波親子の登場前後の週連載の前期までは、様々なキャラクターが登場してはあたるとラムの関係に絡みつつ話を展開していくパターンが多かった。藤波親子の登場あたりの中期 - 後期にかけては、次第にそれまで登場したキャラクターたちの再登場や、竜之介と弁天、レイとクラマ姫等のサブキャラ同士を絡めたり、それまで登場したキャラの近親者や関係者などを登場させて話を展開させるなど、群像劇に近いものとなる。回によってはあたるやラム以外のキャラクターを中心となって話が進み、そこにあたるやラムが登場はするものの傍観者に留まり重要な役割を果たさないエピソードも多くなる。 物語のほとんどが一話完結型。登場人物は基本的に進学、卒業などがなく、週刊連載開始後は、あたるやラムたちは友引高校2年生(開始当初・短期連載時は1年生)のままである。ただし[[正月]]、[[節分]]、[[七夕]]、[[クリスマス]]などのいわゆる[[年中行事]]は、連載の掲載時期にあわせて毎年行われ、最終回までこの設定は貫かれた。ただし、あたるの浮気性の改善や面堂の暗所恐怖症の原因究明のため過去に行く話や、「系図」や因幡くんのシリーズ連作などで未来に行くエピソードでは、登場人物は相応に若かったり大人になったりしている。 === タイトル === 『うる星やつら』というタイトルは、高橋のデビュー作のタイトル『[[勝手なやつら]]』の名残を残し、かつ作品の宇宙的なイメージから当時の編集長田中が名付けた。連載開始当初のタイトルロゴはおどろおどろしい感じのデザインであった。 また、サブタイトルには「[[思い過ごしも恋のうち]]」([[サザンオールスターズ]])「酒と泪と男と女」([[河島英五]])「かけめぐる青春」([[ビューティ・ペア]])、「[[ないものねだりのI Want You]]」([[C-C-B]])、「[[絶体絶命 (山口百恵の曲)|絶体絶命]]」等のヒットソング名を度々用いているほか、本作と同時期に『少年サンデー』で連載されていた作品のタイトルから語句を拾ってサブタイトルにしたこともある(宮本武蔵編)。 === 刊行形式 === 単行本は少年サンデーコミックス版が全34巻、1989年から1990年にワイド版が全15巻、文庫版が1998年から1999年にかけて全18巻で刊行された。単行本の新装版が2006年11月から2008年3月にかけ毎月2巻ずつ刊行、2016年1月には『少年サンデー』連載時のカラーページを全集成した『うる星やつらパーフェクト★カラーエディション』(上下)が刊行された。他に[[コンビニコミック]]版が度々出されている。 === 原作者が語る『うる星やつら』 === 高橋は「『うる星』はやろうと思えば、いつまでも連載を続けられる安全パイなんだけど(いわばこれは20代の漫画であり)、勢いがあるうちに終わらせたかった」と、少年サンデーグラフィック誌<ref>『劇場版 うる星やつら完結篇 ボーイミーツガール』(大判で刊、1988年)に収録</ref>でのインタビューで語っている。また、自身がお気に入りの作品は原作第3話の「石油が町に降る話」(原題「悲しき雨音」)と、水乃小路飛麿が最初に出てきた話(原題「白球に賭けた青春」)と、あたるが幽霊少女・望の願いに応える「最後のデート」。一番気に入っているコマは、「最後のデート」で、あたると幽霊の望がデート中に花火を見上げているシーンだという。 中盤あたりで、マンネリになってきたため「もう終わらせよう」という意識もあったらしいが、「[[藤波竜之介]]と父」というキャラが登場して、女らしくなりたい竜之介とそれを邪魔する父親という両者の行動原理が明確だった彼らが、かなり動かしやすかったため、その後藤波親子が絡んだエピソードが数多く作られた。高橋本人も「竜之介親子にはかなり助けられた。あの二人がいなかったら『うる星』はもっと早く終わっていたかもしれない」と語っている(詳細は[[藤波竜之介]]のリンクを参照)。従って、二人は高橋がもっとも気に入っている部類のキャラクターであり(なお、一番好きなキャラクターは「サクラ」)、次作主役の「[[らんま1/2]]」の乱馬と父のモチーフにもなった。 この物話の主役については、「私はあたるが主役であると思っています」と語っている。 == 登場人物 == {{see|うる星やつらの登場人物}} == あらすじ == 宇宙人である鬼族が、地球侵略を仕掛ける。鬼族は圧倒的な技術力と軍事力を保有しており、武力で容易に地球を手に入れるのでは簡単過ぎて面白くない。そこで、鬼族代表と地球代表とが[[一騎討ち]]で戦い、地球代表が勝った場合、おとなしく帰り、地球代表が敗れた場合、地球を占領すると宣言した。その一騎討ちは、鬼族の伝統に従い『[[鬼ごっこ]]』で行われ、期限内に地球代表が鬼族代表の角を掴むと地球の勝ち、鬼族代表が逃げ切ると鬼族の勝ちというものである。 [[地球]]の命運を賭けた「[[鬼ごっこ]]」の地球代表に選ばれてしまった高校生の'''[[諸星あたる]]'''は、当初やる気がなかったものの、恋人で幼なじみである[[三宅しのぶ]]の色恋仕掛け(勝ったら、結婚してあげる)により、彼女と結ばれたいがために鬼族代表の'''[[ラム (うる星やつら)|ラム]]'''を追いかけ始める。あたるがラムを追いかけつつ発した「勝って結婚じゃぁ〜」の一言は、あたるが恋人で幼なじみのしのぶを想っての発言であったが、ラムは自分に求婚しているのだと勘違いし、それを受け入れてしまう。そのため、鬼ごっこには勝利、地球は侵略を免れるが、ラムは諸星家に住み着いてしまう{{Efn|なお、原作第1話では勝利後にあたるがラムの母星に連れて帰られそうなところで終わり、第2話ではラムは一切登場しない。原作での同居は3話以降からとなる。}}。 こうして、恋多き男・あたると宇宙から来た押しかけ女房・ラムの果てしなき鬼ごっこが始まる。そして、友引町はさまざまな災いや奇妙な出来事に巻き込まれていく。 == 舞台 == ; 友引高校  : 正式名称は「区立友引高校」。主人公のあたるやしのぶが通い、ラムや面堂、ランが転校してきた高校である。高校名はあたるの「類希なる凶相の持ち主」という設定から派生したものである。この校名の初出は原作では第13話「系図」。あたるらのせいで騒動が起こり最悪校舎が破壊されたり、宇宙人などが来訪したりする。 : 少なくとも2年は7クラスあり、あたるのクラスである2年4組は生徒数は面堂の転校時点で46人である。なお、2年4組は生徒指導部にとっては要注意クラスである。その中でも特にあたるとその友人の白井コースケは危険人物とされている。 : なお直接劇中の舞台になっていないが、となりに別の女子高がある。あたるらがしばしば問題を起こし、時には校舎が半壊する事態になっても退学させることはなかったが、友引高校の6組の生徒がとなりの女子高の生徒を妊娠させた時にはその生徒を退学処分としている{{Efn|第29話「この子はだあれ」序盤}}。[[浜茶屋]]「海が好き」の崩壊以降、購買部には竜之介の父が勤務している。 ; 友引町  : 舞台となる友引町は原作では[[東京]]の[[練馬区]]にある設定となっている。これは原作第5話の「絶体絶命」において、ラムによるあたるとしのぶの逢引電話妨害を起因とした2度に渡る[[自衛隊]]機消滅事件のニュースにおいて判明する。また、[[うる星やつら (アニメ)#テレビアニメ(1981年版)|1981年版アニメ]]では[[小金井市|武蔵小金井]]にあるとされ、劇中{{Efn|第110回・133話。}}でメガネが叫んだセリフから判明している。これは当時、アニメを製作していた[[ぴえろ|スタジオぴえろ]]が小金井市にあったことによる。なお、友引町の名は友引高校より後になって登場する。一方、[[うる星やつら (アニメ)#テレビアニメ(2022年版)|2022年版アニメ]]では東京にあるとされているが、具体的な場所については一切触れられていない。 == 書誌情報 == {{節スタブ}} === 単行本 === * 高橋留美子 『うる星やつら』 小学館〈少年サンデーコミックス〉、全34巻<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C258780 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2022-09-17}}</ref> *# 1980年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120441-4}} *# 1980年7月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120442-2}} *# 1980年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120443-0}} *# 1981年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120444-9}} *# 1981年3月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120445-7}} *# 1981年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120446-5}} *# 1981年9月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120447-3}} *# 1981年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120448-1}} *# 1982年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120449-X}} *# 1982年3月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120450-3}} *# 1982年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120741-3}} *# 1982年9月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120742-1}} *# 1982年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120743-X}} *# 1982年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120744-8}} *# 1983年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120745-6}} *# 1983年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120746-4}} *# 1983年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120747-2}} *# 1984年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120748-0}} *# 1984年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120749-9}} *# 1984年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-120750-2}} *# 1984年9月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121171-2}} *# 1984年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121172-0}} *# 1985年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121173-9}} *# 1985年2月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121174-7}} *# 1985年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121175-5}} *# 1985年7月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121176-3}} *# 1985年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121177-1}} *# 1986年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121178-X}} *# 1986年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121179-8}} *# 1986年7月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121180-1}} *# 1986年9月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121501-7}} *# 1986年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121502-5}} *# 1987年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121503-3}} *# 1987年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-121504-1}} === ワイド版 === * 高橋留美子 『うる星やつら』 小学館〈少年サンデーコミックス ワイド版〉、全15巻<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C258777 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2022-09-18}}</ref> *# 1989年8月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122801-1}} *# 1989年8月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122802-X}} *# 1989年9月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122803-8}} *# 1989年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122804-6}} *# 1989年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122805-4}} *# 1989年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122806-2}} *# 1990年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122807-0}} *# 1990年2月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122808-9}} *# 1990年3月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122809-7}} *# 1990年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122810-0}} *# 1990年5月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122811-9}} *# 1990年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122812-7}} *# 1990年7月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122813-5}} *# 1990年8月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122814-3}} *# 1990年9月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122815-1}} === コンビニコミック版(My First BIG) === * 高橋留美子 『うる星やつら』 小学館〈My First BIG〉、全13巻<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C258730 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2022-09-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C258732 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2022-09-17}}</ref> *# 「トラブルは舞い降りた」 2000年8月発行、{{ISBN2|4-09-109374-4}} *# 「酔っぱらいブギ」 2001年4月発行、{{ISBN2|4-09-109523-2}} *# 「愛・ダーリンの危機!!」2001年7月発行、{{ISBN2|4-09-109584-4}} *# 「夜を二人で!!」 2001年9月発行、{{ISBN2|4-09-109617-4}} *# 「失われたモノを求めて」 2001年11月発行 、{{ISBN2|4-09-109672-7}} *# 「水乃小路家の娘」 2002年1月発行、{{ISBN2|4-09-109702-2}} *# 「飛鳥ふたたび」 2002年2月発行 、{{ISBN2|4-09-109730-8}} *# 「スケ番グループ色気大作戦」 2002年3月発行、{{ISBN2|4-09-109747-2}} *# 「嵐を呼ぶデート」 2002年4月発行、{{ISBN2|4-09-109769-3}} *# 「宇宙からの侵略者」 2002年6月発行、{{ISBN2|4-09-109810-X}} *# 「決闘!女VS女」 2002年6月発行、{{ISBN2|4-09-109794-4}} *# 「兄妹☆愛の闘い」 2002年7月発行、{{ISBN2|4-09-109829-0}} *# 「電飾の魔境」 2002年9月発行、{{ISBN2|4-09-109853-3}} === コンビニコミック版(My First BIG SPECIAL) === * 高橋留美子 『うる星やつら』 小学館〈My First BIG SPECIAL〉 *# 「あたる&ラムセレクション」 2022年10月14日発売<ref>{{Cite web|和書|title=小学館コミック {{!}} 【マイファースト】 |url=https://myfirstbig.jp/ |website=myfirstbig.jp |accessdate=2022-09-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220920171412/https://myfirstbig.jp/ |archivedate=2022-09-20}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-803584-7}}<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら : あたる&ラムセレクション - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M875621 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-01-29}}</ref> *# 「ラム&幼なじみセレクション」 2022年11月11日発売<ref>{{Cite web|和書|title=小学館コミック {{!}} 【マイファースト】 |url=https://myfirstbig.jp/ |website=myfirstbig.jp |accessdate=2023-01-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221121131156/https://myfirstbig.jp/ |archivedate=2022-11-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-803612-7}}<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら : ラム&幼なじみセレクション - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M876709 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-01-29}}</ref> *# 「面堂終太郎&了子セレクション」 2022年12月9日発売<ref>{{Cite web|和書|title=小学館コミック {{!}} 【マイファースト】 |url=https://myfirstbig.jp/ |website=myfirstbig.jp |accessdate=2023-01-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221202082834/https://myfirstbig.jp/ |archivedate=2022-12-02}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-803640-0}}<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら : 面堂終太郎&了子セレクション - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M878943 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-01-29}}</ref> *# 「三宅しのぶセレクション」 2023年1月13日発売<ref>{{Cite web|和書|title=小学館コミック {{!}} 【マイファースト】 |url=https://myfirstbig.jp/ |accessdate=2023-01-29}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-803670-7}} === 『パーフェクト★カラーエディション』 === 連載終了以降一度も再現されなかったカラー原稿を初めて収録。両巻とも、再アニメ化に合わせて2022年2月20日に第2刷が発行された。 * 高橋留美子 『うる星やつら パーフェクト★カラーエディション』 小学館〈少年サンデーコミックススペシャル〉、全2巻 *# 上巻 2016年1月23日初版第1刷発行<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら パーフェクト★カラーエディション上 - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M460116 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2022-09-17}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-126687-3}} *# 下巻 2016年1月23日初版第1刷発行<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつらパーフェクト★カラーエディション下 - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M460113 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2022-09-17}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-126688-0}} === 『令和版ラブセレクション』 === * 高橋留美子 『うる星やつら 令和版ラブセレクション』 小学館〈少年サンデーコミックススペシャル〉、全2巻 *# 上巻 2023年1月18日発売<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら 令和版ラブセレクション 上巻 {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09851500 |website=小学館 |access-date=2023-01-29}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-851500-4}} *# 下巻 2023年1月18日発売<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら 令和版ラブセレクション 下巻 {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09851517 |website=小学館 |access-date=2023-01-29}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-851517-2}} === 復刻版(BOXセット) === 初代単行本全34巻を完全再現し、特製BOXとして発売された。 * 高橋留美子 『うる星やつら 復刻BOX』 小学館〈少年サンデーコミックス〉、全4セット *# 2022年10月12日発売<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら復刻BOX Vol.1 {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09179383 |website=小学館 |access-date=2022-10-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-179383-6}} *# 2022年11月18日発売<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら復刻BOX Vol.2 {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09179385 |website=小学館 |access-date=2022-11-18}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-179385-0}} *# 2022年12月16日発売<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら復刻BOX Vol.3 {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09179387 |website=小学館 |access-date=2022-12-16}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-179387-4}} *# 2023年1月18日発売<ref>{{Cite web|和書|title=うる星やつら復刻BOX Vol.4 {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09179396 |website=小学館 |access-date=2023-01-29}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-179396-6}} == アニメ == {{Main|うる星やつら (アニメ)}} 本作は1981年にアニメ化されて以降、1980年代を代表する人気作となり、2022年には再びアニメ化された<ref>{{Cite web|和書|url= https://uy-allstars.com/news/22/ |title= TVアニメ化決定! |publisher=[[高橋留美子]]・[[小学館]]/アニメ「うる星やつら」製作委員会 |date=2022-01-01|accessdate=2022-06-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2219893/full/|title=『うる星やつら』36年ぶりに再びTVアニメ化 フジ“ノイタミナ”枠「だっちゃ」|publisher=ORICON NEWS|date=2022-01-01|accessdate=2022-01-01}}</ref>(なお、ここでは前者を「1981年版アニメ」、後者を「2022年版アニメ」とする)。 === 1981年版アニメ === 4年半(1981年10月 - 1986年3月)に渡る初代テレビアニメシリーズ([[フジテレビジョン|フジテレビ]]ほかにて放送)、6作の劇場版、12作の[[OVA]]が製作され、商品化においても100億円以上売り上げる大きな成功を収めた。[[レコード|LP]]は7作が[[オリコンチャート|オリコン]]LPチャートで10位以内にランクインしている。 劇場用アニメ『[[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]]』は[[押井守]]監督作品の原点であり出世作でもある。 原作の人気に加えて、スタッフの暴走と揶揄される押井守や[[伊藤和典]]の先鋭的な演出や、当時若手の実力派アニメーターによる作画からアニメファンからも注目されるようになった。それによってアニメ界の異才をあまた輩出した伝説的な存在となっている。 また、[[1980年代]]の国産アニメで盛んに行われていたアニメーターの「お遊び」的な作画により、騒動や人ごみ(モブシーン)の中に『[[めぞん一刻]]』を始めとするさまざまな高橋キャラがしばしば「[[隠れキャラクター]]」的に登場しているほか、本作と全く関係のない他の漫画・映画・アニメのキャラクターもしばしば登場している。 === 2022年版アニメ === フジテレビ系の深夜アニメ枠『[[ノイタミナ]]』にて、第1期は2022年10月から2023年3月まで、2クール連続で放送された<ref>{{Cite web|和書|title=『うる星やつら』第1期は10月より2クール連続放送 追加キャスト発表でラン役を花澤香菜 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2242288/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2022-09-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=第2弾KV公開&初回放送日は10月13日(木)に! {{!}} 最新情報|TVアニメ「うる星やつら」 |url=https://uy-allstars.com/news/147/ |website=uy-allstars.com |access-date=2022-09-17 }}</ref>。第2期は2024年に放送予定<ref>{{Cite web|和書|title=TVアニメ「うる星やつら」第2期は2024年放送、友引高校の制服を着たラムのビジュアル|url=https://natalie.mu/comic/news/517858|work=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-03-24|accessdate=2023-03-24}}</ref>。1981年版アニメからスタッフ・キャストを一新し、完全新作として全4クールにわたって製作される。 == ゲーム == === コンピュータゲーム === ==== パソコンゲーム ==== ; うる星やつら ラブリーチェイサー : 1985年、[[ポプコム|ポプコムソフト]](小学館)より発売。[[PC-8800シリーズ|PC-8801シリーズ]]、[[FM-7]]シリーズ他。[[パズルゲーム]]。 : 第2回ポプコムコンテスト最優秀賞受賞作。ポプコムというパソコン雑誌の読者投稿によるゲームで、うる星キャラが駒に使われているという代物。内容はラムの駒を動かし、他の女性キャラの駒にくっつくあたるの駒を電撃で引き離し、最終的にラムとくっつけるのが目的。 ; 試験に出るうる星やつら : 1986年、キティエンタープライズより発売。PC-8801シリーズ。[[クイズゲーム]]。 : 問題はうる星に関するものを1,200問収録。クイズ内容はかなりマニアックであり、難易度は高い。問題を進めるたびにグラフィックやBGMが変わって行く。 ; うる星やつら 〜恋のサバイバル・バースディ〜 : 1987年、[[マイクロキャビン]]より発売。PC-8801シリーズ、[[X1 (コンピュータ)|X1]]シリーズ、[[MSX|MSX2]]<メガROMカートリッジ>他。[[アドベンチャーゲーム]]。 : ゲームオリジナルストーリー。面堂了子から誕生会の招待状を受け取ったあたる。了子の許へ早く着いた優勝者には、了子から(女性参加者には終太郎から)のキスがもらえるというので、早速あたるは奮起する。しかし、面堂家の敷地内は迷路のようになっており、さまざまな罠が待ち受けていた。グラフィックが当時の原作のタッチに良く似せてある。 ==== テレビゲーム ==== ; [[うる星やつら ラムのウエディングベル]] : 1986年10月23日、[[ジャレコ]]より発売。[[ファミリーコンピュータ]]用ソフト。[[アクションゲーム]]。 : 同社の[[アーケードゲーム]]『[[モモコ120%]]』のキャラクターをラムに置き換えた作品。BGMに『[[ラムのラブソング]]』が使われている。 ; [[うる星やつら STAY WITH YOU]] : 1990年6月29日、[[ハドソン]]より発売。[[PCエンジン]]用ソフト。[[アドベンチャーゲーム]]。 : オリジナルストーリーのコマンド形式のアドベンチャーゲーム。プレイヤーはあたるに扮し、失踪したしのぶやその他女性キャラを巡る。メディア供給が[[CD-ROM]]のためグラフィックが豊富で、メインキャラクターがアニメ同様の声優陣でしゃべるのが特徴。 ; [[うる星やつら 〜ディア マイ フレンズ〜]] : 1994年4月15日、[[ゲームアーツ]]より発売。[[メガCD]]用ソフト。アドベンチャーゲーム。 : 諸星家に突然降り立った謎の少女。少女はラムを気に入り自分の世界へ引きずり込んでしまい、あたるはラムを探しに行く。「STAY〜」同様、CD-ROMによるメディア供給のため、グラフィックはほぼ全編アニメーションで、かつフルボイスでしゃべる。作画はアニメ版に関わっていた[[中嶋敦子]]、[[遠藤麻未]]によるものだが、顔付きが「[[らんま1/2]]」のタッチに近い。内容は「STAY〜」同様オリジナルだが、原作の最終話以降の成り行きを引き継いでいるようなエピソードになっている。 ==== 携帯ゲーム ==== ; うる星やつら : 1982年、[[バンダイ]]より発売。[[電子ゲーム]]。 : あたるを左右に操作しガールハントをするという内容。ラムにやられるとミス。 ; うる星やつら ─ミス友引を捜せ!─ : 1992年7月3日、[[やのまん]]より発売。[[ゲームボーイ]]用ソフト。[[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]]。 : あたるが校内ダンジョンの中を巡り、ライバルを蹴散らしながら、校内の美女(しのぶ、サクラ、ラムなど)の写真を収め、その写真の中から学校一の美女を決める。[[Wizardry]]に類似した3Dマップを採用しており、[[3DダンジョンRPG]]としての完成度は決して低くない。また、アイテム「こたつ」を使うと強敵「こたつねこ」の動きを止められるなど、原作ファンの興味を引く仕掛けも多い<ref>M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』({{ISBN2|978-4-86640-025-9}})、21ページ</ref>。 ; うる星やつら エンドレスサマー : 2005年10月20日、[[マーベラスインタラクティブ]]より発売。[[ニンテンドーDS]]用ソフト。アドベンチャーゲーム。 : ラムが通販で「大恋愛シミュレーションマシン」を購入し、あたるを自分になびかせようとする。しかし、あたるはそんな事も知らず、相変わらずガールハントに勤しむ。プレイヤーはあたるを操作して街中を練り歩き、夏休みの1ヶ月の間にさまざまなキャラクター達と出会い、時に臨海学校などのイベントが進められてゆく。 === ボードゲーム === 3作共に[[ツクダホビー]]より発売。 ; うる星やつら 恋は移り気 : [[男性]]キャラのうち1人を受け持ちガールハントをくりひろげるカードゲーム。[[女性]]キャラクターも多数登場する。簡単なミニゲームもある。 ; うる星やつら スクランブル ラムを奪回せよ!〜あたるVS面堂軍団〜 ; うる星やつら 友引町買い食いウォーズ : 買い食い取締り週間の攻防をゲーム化したものである。キャラクターの特性を出すため、キャラクターカード化し、格闘力や体力などがデータ化されている。生徒側はいかに買い食いし、教師、生活指導部はいかに阻止するかを競うものである。 === パチンコ・パチスロ === ; パチンコ * [[CRうる星やつら]]シリーズ([[奥村遊機]]) ** CRうる星やつら(2001年12月) ** CRうる星やつら2(2005年1月) ** CRうる星やつら3(2007年5月) ** CRうる星やつら Forever Love(2011年3月) ** CRうる星やつら 電撃LOVE ATTACK(2014年5月) * Pうる星やつら ラムのLoveSong([[ニューギン]]、2019年6月) ; パチスロ  * [[パチスロうる星やつら]]([[銀座 (企業)|銀座]]、2007年5月) * [[パチスロうる星やつら2]](銀座、2009年7月) * パチスロうる星やつら3(銀座、2013年12月) == 小説 == * 『小説 うる星やつら』全5巻([[金春智子]] 著、高橋留美子 原作、小学館)<ref>{{Cite web|和書|title=詳細検索結果|「小説うる星やつら」に一致する資料: 4件中1から1件目|国立国会図書館サーチ |url=https://iss.ndl.go.jp/books?ar=4e1f&rft.title=%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E3%81%86%E3%82%8B%E6%98%9F%E3%82%84%E3%81%A4%E3%82%89&search_mode=advanced |website=iss.ndl.go.jp |access-date=2022-11-11 |language=ja}}</ref> ** 第1巻 ** 第2巻 1984年3月発行、ISBN:4091217028<ref>{{Cite book|title=小説 うる星やつら|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000004-I001100222-00|publisher=小学館|date=1984|first=金春/智子 著,高橋/留美子|last=原作}}</ref> ** 第3巻 1984年6月発行、ISBN:4091217036<ref>{{Cite book|title=小説 うる星やつら|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000004-I001060392-00|publisher=小学館|date=1984|first=金春/智子 著,高橋/留美子|last=原作}}</ref> ** 第4巻 1984年11月発行、ISBN:4091217044<ref>{{Cite book|title=小説 うる星やつら|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000004-I001060393-00|publisher=小学館|date=1984|first=金春/智子 著,高橋/留美子|last=原作}}</ref> ** 第5巻 == 英訳 == * 『英訳・うる星やつら』全4巻(高橋留美子 原作、斎藤宏, ブルース・M.ウィルカースン 訳、小学館)<ref>{{Cite web|和書|title=簡易検索結果|「英訳 うる星やつら」に一致する資料: 10件中1から1件目|国立国会図書館サーチ |url=https://iss.ndl.go.jp/books?any=%E8%8B%B1%E8%A8%B3+%E3%81%86%E3%82%8B%E6%98%9F%E3%82%84%E3%81%A4%E3%82%89&op_id=1 |website=iss.ndl.go.jp |access-date=2022-11-11 |language=ja}}</ref> ** 第1巻 1983年4月発行、ISBN:4091208851<ref>{{Cite book|title=英訳・うる星やつら|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001620594-00|publisher=小学館|date=1983|location=東京|first=高橋|last=留美子, 1957-}}</ref> ** 第2巻 1983年9月発行、ISBN:4091218067<ref>{{Cite book|title=英訳・うる星やつら|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001659314-00|publisher=小学館|date=1983|location=東京|first=高橋|last=留美子, 1957-}}</ref> ** 第3巻 1984年4月発行、ISBN:4091218180<ref>{{Cite book|title=英訳・うる星やつら|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001694693-00|publisher=小学館|date=1984|location=東京|first=高橋|last=留美子, 1957-}}</ref> ** 第4巻 1985年1月発行、ISBN:409121830X<ref>{{Cite book|title=英訳・うる星やつら|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001723410-00|publisher=小学館|date=1985|location=東京|first=高橋|last=留美子, 1957-}}</ref> == 国内外の著名なファン == * 芸能人では[[西村知美]]が熱狂的なファンの一人として知られている。西村は芸能界デビュー前、アニメ版のシナリオ公募に応募したこともあり、選考では残り20作品程度までの中に残っていたという。西村が芸能界デビュー後の1990年に出版した『夢幻童子』にはそのシナリオが収録され、SF翻訳家の[[大森望]]は、「意外に面白い」との感想を述べている<ref>大森望『現代SF1500冊 乱闘編 1975-1995』[[太田出版]]、2005年、p.198</ref>。西村は高橋の短編集など他の作品も全て鑑賞している。 * 1987年にテレビシリーズ全話を収録した[[レーザーディスク]]の50枚組のセットが33万円という高額で発売された際、作家の[[平井和正]]、[[友成純一]]、漫画家の[[野部利雄]]が購入した<ref>『[[アニメージュ]]』1987年8月号。</ref>。 * 単行本の新装版には巻末に「うる星やつら☆完全データファイル」と「My Lum×34」として、著名な漫画家によるラムのイラストと本作に対する思い入れを語るページが掲載されており、「My Lum×34」に『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』の[[あだち充]]、『[[ケロロ軍曹]]』の[[吉崎観音]]、『[[名探偵コナン]]』の[[青山剛昌]]、『[[働きマン]]』の[[安野モヨコ]]などが寄稿している。 * 国外では、本作の作品名を自分たちのバンド名にしたロックバンドもいる。それが[[スコットランド]]で1993年に結成され、1995年にメジャーデビューしたロックバンド[[ウルセイ・ヤツラ]]である。メンバーが日本好きで、本作にちなんで命名したものだが、高橋から「うる星やつら(Urusei Yatsura)」という名称の使用許可が下りなかったため、日本やアメリカでは「Yatsura(奴ら)」と名乗っていた。なお、Urusei Yatsura は2001年に[[解散]]、メンバーの一部は新たにProjekt A-ko(元ネタは同じく日本のアニメ『[[プロジェクトA子]]』)を結成している。アメリカ合衆国のミュージシャン[[マシュー・スウィート]]が[[プロモーションビデオ]]にアニメうる星やつらの映像を使用し、肩にラムのタトゥーを彫ったことも知られている。 == エピソード == * 1978年にまだ本作が不定期連載だった頃に[[円谷プロダクション]]と[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]が本作を実写化させる企画もあったが、製作には至らなかった。 * [[新谷かおる]]が自身の漫画作品『[[エリア88]]』の[[最終回]]で最後の1ページ丸々使ってのスタッフロールを行った際、当時『うる星-』を連載していた高橋は「私が『うる星-』の最終回でやりたいと思っていたのに、先を越された」と言い、悔しがったという(ガイナックスのCD-ROM『新谷かおる Art Collection』での新谷へのインタビューより)。結局「うる星やつら」でも、最終ページで半ページの大コマにスタッフが書き込まれる形になっている。 * [[柏葉幸子]]の児童文学『たぬき親父』に「うる星やつらのまんがを読んで涙する父親」が登場する。なお、『たぬき親父』は[[教育出版]]の教科書『中学国語I』にも取り上げられている。 *『[[GS美神 極楽大作戦!!]]』では、作中で、この漫画の1エピソード(「GS美神'78!!」)のときの事件を基に高橋が『うる星やつら』を書いたことになっている。このネタは、[[椎名高志]]が高橋から特別に許可をもらって作られた。椎名高志が結婚した女性は元・[[漫画家]]で高橋留美子の下でアシスタントをした経験がある。 * [[小学館]]で[[金春智子]]著『小説うる星やつら』全5巻、ワイドカラー版で『英訳うる星やつら』全4巻(斎藤宏とブルース・M.ウィルカースン共訳)、『うる星やつらソングbook』が1983年 - 1985年に刊行された。 * 2014年に[[サントリー食品インターナショナル|サントリー食品]][[炭酸飲料]]『[[リゲイン|リゲイン エナジードリンク]]』のテレビCM「3、4時間」篇で、女優の[[すみれ (モデル)|すみれ]]がラムの[[コスプレ]]で実写出演。「[[勇気のしるし]]」をアレンジした曲を[[川本真琴]]が歌い、「3、4時間戦えますか?」をキャッチコピーにした<ref>[http://woman.mynavi.jp/outline/140701-166/ リゲインの新TV-CMに「うる星やつら」のラムちゃんが実写版で登場だっちゃ!]マイナビウーマン 2014年7月1日</ref>。 * 2015年4月4日、[[大泉学園駅]]北口に直結する歩行者道路「[[大泉アニメゲート]]」に練馬区にゆかりのある漫画作品のブロンズ像を設置。高橋作品からは『うる星やつら」が選ばれ、トラ柄ビキニを身に着けてキュートに微笑むラムのブロンズ像が展示されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://animation-nerima.jp/topics/feature/vol08/|title=練馬のアニメの新名所『大泉アニメゲート』オープン!アニメのまちの玄関口で等身大モニュメントたちがお出迎え!|publisher=練馬アニメーションサイト|date=2015-04-04|accessdate=2015-07-07}}</ref>。 * 2019年に[[東京ガス]]のテレビCM「電気代にうる星やつら/ 登場」篇で、[[深田恭子]]がラムの、[[寺田心]]がテンのコスプレで実写出演。CMソングとして「[[ラムのラブソング]]」の替え歌が使われた<ref>[https://natalie.mu/comic/news/338864 東京ガスにしないと損だっちゃ!深田恭子&寺田心が「電気代にうる星やつら」に]、コミックナタリー、2019年7月8日 21:45。</ref><ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1907/08/news098.html 深田恭子、東京ガス新CMで『うる星やつら』ラムちゃんに変身 肩出しワンピースで「だっちゃ」連発 (1/2)]、ねとらぼエンタ、2019年07月08日 14時56分 公開</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[勝手なやつら]] * [[ウルセイ・ヤツラ]]([[スコットランド]]のオルタナティブロックバンド) == 外部リンク == * [https://websunday.net/4207/ うる星やつら] - [[少年サンデー]] {{うる星やつら}} {{高橋留美子}} {{小学館漫画賞少年少女部門}} {{星雲賞コミック部門|第18回}} {{DEFAULTSORT:うるせいやつら}} [[Category:うる星やつら|*]] [[Category:漫画作品 う|るせいやつら]] [[Category:高橋留美子の漫画作品]] [[Category:1978年の漫画]] [[Category:週刊少年サンデーの漫画作品]] [[Category:小学館漫画賞少年少女部門の受賞作品]] [[Category:SF漫画作品]] [[Category:ギャグ漫画]] [[Category:恋愛漫画]] [[Category:ボーイ・ミーツ・ガール作品]] [[Category:鬼を題材とした漫画作品]] [[Category:地球外生命体を題材とした漫画作品]] [[Category:高等学校を舞台とした漫画作品]] [[Category:漫画のキャラクターゲーム]] [[Category:星雲賞受賞作品]]
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士郎正宗
士郎 正宗(しろう まさむね、1961年11月23日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。 兵庫県神戸市葺合区(現:中央区)出身。大阪芸術大学芸術学部美術学科(油画科)卒。大学では美術の教員免許を取得。 代表作に『アップルシード』、『攻殻機動隊』など。 大学時代に漫画研究団体「アトラス」に一般メンバーとして所属、メンバーにぴゅあ(漫画家)、伊藤浩二(アニメーター)などがいた(名誉会員に星野之宣)。この頃から漫画を描き始め、1980年代初頭の在学中に同人誌『ブラックマジック』を(アトラスのメンバーに手伝ってもらいつつ)製作、アトラスから出版し、仲間と出版社などに売り込みを始めて『アップルシード』で青心社からデビューする。学生時代の面識・交流の有無は不明だが、島本和彦、庵野秀明らも同期である。卒業後は六甲山の夜間高校に美術教師として勤める傍ら、『アップルシード』の執筆を行っていたが、のち退職して専業作家となっている。 ヒット作『攻殻機動隊』で広く知られているが、デビュー当時から人気があり、『BSマンガ夜話』によれば、出版社と言えば東京に本社をおく所が牛耳っていた1980年代、地方の出版社がマンガの単行本を出版することはあり得ないことだったにもかかわらず、大阪に本拠を置く青心社発行の『アップルシード』がマニアックかつカルト的な人気に支えられ、全国に流通するという快挙を成し遂げたという。カッティングやタッチなどは田中久仁彦、山下いくとなど多くの作家に影響を与えた。 『Pieces Gem 01、攻殻機動隊データ+α』において、1995年の阪神大震災被災後から倉庫の整理もままならないまま4回に渡る引っ越しを重ね、2013年まで父親の介護などで創作活動がままならなかった事実(その間でも『攻殻1.5』は出している)について触れている。 「電脳世界へのジャックイン」というサイバーパンク的世界観と、宇宙論から量子力学など幅広いハードSF的アイデアを融合し、一部にニューエイジ的意匠を取り込んだ独特の世界観を持つ作品を発表している。 子供の頃に、ジャン・アンリ・ファーブルやチャールズ・ダーウィンの著書を読んでいて、そういった様々な記憶からストーリーを考えており、特にSF作品が好きなわけでもなく、他のマンガ家の作品にも関心がないと語っている。 作品の大半は完結しておらず、非常に遅筆であることをしばしば自虐している。その一方で、〆切自体を破ったことは無い。これを「〆(締め切り)」の形をしたモニュメントを背負う自画像で表現したこともある。絵柄については大友克洋の影響が指摘される。 漫画の欄外に必ずといっていいほど註釈を入れる。その方針に対して1987年に対談した押井守から、「とてもよくわかる。僕もできれば、自分の映画に註釈を入れたいぐらいだから」と親近感を持たれている。 商業誌での連載終了以降では漫画作品をほとんど発表せず、イラストレーターとしての活動が目に付く。傾向としてはMacintoshによるデジタルペイントや3DCGを構成要素に用い、女性キャラクターやメカニックを描くことが多い。 『攻殻機動隊』のカラーページ以来、成人向けの題材を取り上げることも増えたが、基本的に男性が登場しないレズ行為が多い。男性を介在させないのは「読者も見たいと思わないだろう」というのが理由。2009年以降、過去に『ヤングマガジンアッパーズ』(講談社)などで連載していたアダルト描写を含む作品群を収めた画集シリーズ『PIECES』をリリース中。本人は未完結の漫画作品もいつかは完成させたいと話している。 代表作と言える『攻殻機動隊』は、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(監督:押井守)として1995年にアニメ化された。 この作品は、漫画家かつ映画監督として活躍している 大友克洋氏が制作した 『AKIRA』(1988年)が発表された時代に作られた。作風として【作品に非常に細かな世界設定を描きこむ】という傾向に、時代は動き始めていた。このような傾向はのちに正宗氏ら 多くの制作者に徹底的に追究されていくことになる。 その後、自身の代表作となる『攻殻機動隊』が 押井守氏により、劇場アニメーションを発表。この作品発表後 「世界的な日本アニメの原作者 『士郎正宗』」という グローバルな評価を押し上げた大作となった。国内・国外で、しばしば「ジャパニメーション」という宣伝文句が付されている。 本人は映像化作品についての感想は控えているが、「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」は優れた演出だったとコメントしており、アニメマニアではないが、押井作品では「ビューティフルドリーマー」と「天使のたまご」が好きだと語っている。 2004年の『イノセンス』はその続編でありながら、原作のエピソードを独自の解釈によって演出したオリジナリティの強い内容となっている。TVアニメ作品『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』シリーズは、漫画を原案として再構成されたオリジナル作品。 1987年のOVA作品『ブラックマジックM-66』では自身が監督を務めているが、「原作を忠実に再現した映像作品は駄作にしかなりえない」という考えを持っている為、他のアニメ化作品には基本的にノータッチである。しかし最近はそうでも無く、「S.A.C.」シリーズや『EX MACHINA -エクスマキナ-』では詳細なプロット等を提示し、本人とは関係の無いアニメ作品にもキャラ原案・設定を持ちかける時もある。 一方で、制作側の混乱で未完成のまま公開された『ガンドレス』(1999年)の例もあり、本人も『イントロンデポ4』で「自分とアニメ業界との相性が悪いのは承知の通り」と記している。 コンピュータゲームのキャラクターデザイン、メカニックデザイン等も数多く手掛けている。また市販の光学式マウス「M-MAPP1SMシリーズ」のデザインも手がけた。 コミックス その他
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士郎 正宗は、日本の漫画家・イラストレーター。 兵庫県神戸市葺合区出身。大阪芸術大学芸術学部美術学科(油画科)卒。大学では美術の教員免許を取得。 代表作に『アップルシード』、『攻殻機動隊』など。
{{未検証|date=2010年1月}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 士郎 正宗 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1961|11|23}} |生地 = {{JPN}}・[[兵庫県]][[神戸市]][[葺合区]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]]・[[イラストレーター]] |活動期間 = 1980年 - |ジャンル = [[SF漫画]] |代表作 = 『[[アップルシード]]』<br />『[[攻殻機動隊]]』 |受賞 = 第17回[[星雲賞]]コミック部門<br />(『アップルシード』)<br />第23回星雲賞アート部門 |サイン = |公式サイト = }} '''士郎 正宗'''(しろう まさむね、[[1961年]][[11月23日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[イラストレーター]]。 [[兵庫県]][[神戸市]][[葺合区]](現:[[中央区 (神戸市)|中央区]])出身。[[大阪芸術大学]][[芸術学部]]美術学科(油画科)卒<ref name="pieces7">PIECES7、[[青心社]]</ref>。大学では美術の[[教員免許]]を取得。 代表作に『[[アップルシード]]』、『[[攻殻機動隊]]』など。 == 概要 == 大学時代に漫画研究団体「アトラス」に一般メンバーとして所属<ref name="pieces7" />、メンバーにぴゅあ(漫画家)、伊藤浩二(アニメーター)などがいた(名誉会員に[[星野之宣]])。この頃から漫画を描き始め、[[1980年代]]初頭の在学中に同人誌『[[ブラックマジック]]』を(アトラスのメンバーに手伝ってもらいつつ)製作、アトラスから出版し<ref name="pieces7" />、仲間と出版社などに売り込みを始めて『アップルシード』で[[青心社]]からデビューする。学生時代の面識・交流の有無は不明だが、[[島本和彦]]、[[庵野秀明]]らも同期である。卒業後は六甲山の夜間高校に美術教師として勤める傍ら、『アップルシード』の執筆を行っていたが、のち退職して専業作家となっている。 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漫画の欄外に必ずといっていいほど註釈を入れる。その方針に対して1987年に対談した[[押井守]]から、「とてもよくわかる。僕もできれば、自分の映画に註釈を入れたいぐらいだから」と親近感を持たれている<ref>[[雑草社]]刊「[[ぱふ]]」1995年12月号「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊 劇場公開直前SPECIAL」p.7より。</ref>。 商業誌での連載終了以降では漫画作品をほとんど発表せず、イラストレーターとしての活動が目に付く。傾向としては[[Macintosh]]によるデジタルペイントや3DCGを構成要素に用い、女性キャラクターやメカニックを描くことが多い。 『[[攻殻機動隊]]』のカラーページ以来、[[成人向け漫画|成人向け]]の題材を取り上げることも増えたが、基本的に男性が登場しない[[レズビアン|レズ行為]]が多い。男性を介在させないのは「読者も見たいと思わないだろう」というのが理由。[[2009年]]以降、過去に『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』([[講談社]])などで連載していたアダルト描写を含む作品群を収めた画集シリーズ『PIECES』をリリース中。本人は未完結の漫画作品もいつかは完成させたいと話している。 == アニメーション == 代表作と言える『攻殻機動隊』は、『[[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]]』(監督:[[押井守]])として[[1995年]]に[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化された。 この作品は、漫画家かつ映画監督として活躍している [[大友克洋]]氏が制作した 『[[AKIRA (アニメ映画)|AKIRA]]』([[1988年]])が発表された時代に作られた。作風として【作品に非常に細かな世界設定を描きこむ】という傾向に、時代は動き始めていた。このような傾向はのちに正宗氏ら 多くの制作者に徹底的に追究されていくことになる。 その後、自身の代表作となる『攻殻機動隊』が [[押井守]]氏により、劇場アニメーションを発表。この作品発表後 「世界的な日本アニメの原作者 『士郎正宗』」という グローバルな評価を押し上げた大作となった。国内・国外で、しばしば「[[アニメ (日本のアニメーション作品)|'''ジャパニメーション''']]」という宣伝文句が付されている。 本人は映像化作品についての感想は控えているが、「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」は優れた演出だったとコメントしており、アニメマニアではないが、押井作品では「[[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー|ビューティフルドリーマー]]」と「[[天使のたまご]]」が好きだと語っている<ref>押井守全仕事リミックス(キネマ旬報社、士郎へのアンケート、p.116)</ref>。 [[2004年]]の『[[イノセンス]]』はその続編でありながら、原作のエピソードを独自の解釈によって演出したオリジナリティの強い内容となっている。[[テレビアニメ|TVアニメ]]作品『[[攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX]]』シリーズは、漫画を原案として再構成されたオリジナル作品。 <!--映画化について、押井守は『攻殻機動隊』以外の作品には物語に骨格がないとも語る。--><!--先の文章は唐突過ぎて意図が不明瞭--> [[1987年]]の[[OVA]]作品『ブラックマジックM-66』では自身が監督を務めているが、「原作を忠実に再現した映像作品は駄作にしかなりえない」という考えを持っている為、他のアニメ化作品には基本的にノータッチである。しかし最近はそうでも無く、「S.A.C.」シリーズや『[[アップルシード#EX MACHINA|EX MACHINA -エクスマキナ-]]』では詳細なプロット等を提示し、本人とは関係の無いアニメ作品にもキャラ原案・設定を持ちかける時もある。 一方で、制作側の混乱で未完成のまま公開された『[[ガンドレス]]』([[1999年]])の例もあり、本人も『イントロンデポ4』で「自分とアニメ業界との相性が悪いのは承知の通り」と記している。 == その他の活動 == [[コンピュータゲーム]]の[[キャラクターデザイン]]、[[メカニックデザイン]]等も数多く手掛けている。また市販の光学式[[マウス (コンピュータ)|マウス]]「M-MAPP1SMシリーズ」のデザインも手がけた。 == 作品リスト == '''コミックス''' * [[ブラックマジック M-66|ブラックマジック]] * [[アップルシード]]<!--(未完)--> * [[ドミニオン (漫画)|ドミニオン]] ** ドミニオン コンフリクト編<!--(未完)--> * EXON DEPOT<!--「PIECES 1」に収録--> * NEURO HARD 蜂の惑星(未完) * GUN DANCING * PILE UP * [[仙術超攻殻 ORION]] * [[攻殻機動隊]]シリーズ <!--** 攻殻機動隊(週刊ヤングマガジン 全2巻)--> ** 攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL ** [[攻殻機動隊1.5 HUMAN-ERROR PROCESSER]] ** [[攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE]] <!--** 攻殻機動隊 バイリンガル版--> * [[紅殻のパンドラ]](原案のみ。漫画は[[六道神士]]が担当) '''その他''' * 伽姫草子小判(画集) * [[大合作]](合作漫画:参加) * [[イントロンデポ]] シリーズ(画集) ** イントロンデポ ** イントロンデポ2 BLADES ** イントロンデポ3 BALLISTICS ** イントロンデポ4 BULLETS ** イントロンデポ5 BATTALION * PIECES シリーズ(画集) ** PIECES 1 ** PIECES 2 PhantomCats ** PIECES 3 WILD WET QUEST ** PIECES 4 HELLHOUND-01 ** PIECES 5 HELLHOUND-02 ** PIECES 6 HELLCAT ** PIECES 7 HELLHOUND-01&02作業雑記+α ** PIECES 8 WILD WET WEST ** PIECES 9 古今伽姫草子集 秘伝 * PIECES Gem シリーズ(画集、再掲、その他) ** PIECES Gem 01 攻殻機動隊データ+α(画集、雑記) ** PIECES Gem 02 NEURO HARD 蜂の惑星(再掲) ** PIECES Gem 03 アップルシード下描き集 * W・TAILS CAT シリーズ(画集) ** W・TAILS CAT 1 ** W・TAILS CAT 2 ** W・TAILS CAT 3 * スペシャル グラフィックス ドミニオン([[ムック (出版)|ムック]])<!--種別は雑誌コードから判断--> * ドミニオン・クラブ 士郎正宗イラストワールド(画集) * ヴァレリア・ファイル(小説:挿絵) * ランドロック(小説:挿絵) * 幻妖剣姫伝 沙霧(小説:挿絵) * 真・退魔戦記 退魔官 赤神恭也(小説:挿絵) * 邪神ハンター(小説:挿絵) * [[攻殻機動隊#作品一覧|攻殻機動隊 灼熱の都市]](小説:挿絵) * 攻殻機動隊 STAR SEED(小説:挿絵) * [[Classical Fantasy Within]](小説:挿絵) * [[ASURAシステム|阿修羅fantasy]]シリーズ([[テーブルトークRPG]]:表紙) * 真退魔戦記TRPGシリーズ(テーブルトークRPG:表紙) * [[ザ・サード]]完全版(小説:表紙、挿絵) <!--小説に関してはカバーイラスト・口絵・本編挿絵の区別はしていない--> == 関連作品 == <!--現状は発表年順?--> * [[ブラックマジック M-66]](原作、監督、脚本、絵コンテ、デザイン) * ドミニオン(原作) * [[アップルシード]](原作) * [[蒼きウル]](メカニックデザイン<!--・'''凍結'''-->) * [[ドミニオン (漫画)|特捜戦車隊ドミニオン]](原作) * [[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊|GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊]](原作) * ホーンドアウル(キャラクター&メカニックデザイン) * [[サンパギータ]](キャラクターデザイン・イラストレーション) * [[ガンドレス]](キャラクター、メカニック設定&デザイン) * [[攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX]](原案・協力) * [[攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG]](原案・協力) * [[イノセンス]](原案・協力) * [[アップルシード|APPLESEED 2004]](原作) * [[ドミニオン (漫画)|警察戦車隊 TANK S.W.A.T.]](原作) * [[攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society]](原作・協力) * [[RF online]](デザイン協力) * [[BOUNTY DOG/月面のイブ]](メカニックデザイン協力) * [[アップルシード#EX MACHINA|EX MACHINA -エクスマキナ-]](原作・設定協力) * [[神霊狩/GHOST HOUND]](共同原作) * [[RD 潜脳調査室]](原作)<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/100011/|title=RD 潜脳調査室 :作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-06-26}}</ref> * [[ウィンズ オブ サンダー]](キャラクターイメージイラスト) * [[ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣]](キャラクターイメージイラスト) * [[ASURAシステム|アシュラファンタジーオンライン]](キャラクターデザイン) * [[アップルシード|APPLESEED XIII]](原作・キャラクターデザイン原案) == 出典・脚注 == {{reflist|2}} == 外部リンク == * [https://www.seishinsha-online.co.jp/srw_j/shirow.html 青心社 士郎正宗information ] * {{Mediaarts-db|C55526|士郎正宗}} * [http://www.shirowledge.com/ 士郎正宗の温故知新] - ファンサイト * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/shiromasa_collections/index.html |title=しろまさコレクション |date=20190314215317}} - ファンサイト {{攻殻機動隊}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しろうまさむね}} [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:尼崎市立尼崎高等学校出身の人物]] [[Category:神戸市出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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アップルシード
『アップルシード』(APPLESEED)は、士郎正宗のメジャーデビュー作となる日本のSF漫画。1985年から1989年にかけて発表された。コミックスは4巻まで刊行され、物語が中断した状態で作者による凍結宣言が出されている。 タイトルはアメリカの開拓時代のリンゴ農園民話『ジョニー・アップルシード物語』より。キャラクターや設定の各所にギリシア神話由来の名前が使われている。 サイバーパンクSF『攻殻機動隊』で知られる士郎正宗のもうひとつの代表作で、近未来を舞台に展開するSFアクション作品。1985年2月に青心社という関西の新興出版社から、雑誌連載を経ずに単行本描き下ろしという形で発表された。 考え抜かれた設定、緻密に描き込まれたメカニックや背景、しっかりしたデッサンのカワイイ女の子たちが作品の魅力となっている。 OVA『APPLESEED』(1988年)、アニメ映画『APPLESEED』(2004年)と続編『EX MACHINA』(2007年)、テレビアニメ『APPLESEED XIII』(2011年)、リブート映画『Appleseed Alpha』(2014年)と複数回アニメ化されており、映像の需要の高い作品。特に海外から高い評価を得ており、海外展開を視野に日本より先に公開されることが多い。 2015年1月、コミックスの第1巻初版刊行から30周年を記念して電子書籍化され、各電子書店で配信が開始された。電子化に際し、士郎本人が監修し、インターネットや携帯端末の普及により不要になった一部の欄外脚注は削除され、言い回しが古くなったセリフや誤解を招く部分は修正されている。しかし、絵と基本的な内容や時代設定等に関しては当時のまま一切変更を加えていない。 物語の舞台は、地球規模の世界大戦が繰り返された22世紀の荒廃した世界に存在する理想郷こと巨大都市・オリュンポス。全世界で化学兵器・生物兵器が使用された大戦を生き抜いた特殊部隊の女性隊員・デュナン・ナッツと、その恋人で全身をサイボーグ化したブリアレオスの活躍を描いた近未来サイエンスフィクション作品。 本作品は後に執筆された『攻殻機動隊』から約100年後の世界にあたり、両作品とも作中に日本の近海に存在する人工島を本社とした企業国家ポセイドンが登場する。 世界は、中東戦争を契機に勃発したEC・米対ソ連による核戦争(第三次世界大戦)後、戦後に勃興したECと被害が少なかったアジア諸国(後に大東合衆国を結成)との間で摩擦が生じ、日本への核攻撃を契機としてEC・米と第四次非核大戦が勃発、2026年にアジア側が勝利して「地球統一ブロック」が樹立される。 この期間に電脳技術やバイオテクノロジー、核汚染除去の為のナノテクノロジー、マイクロマシン技術が飛躍的に発展、宇宙開発も月に都市を建設出来るまで発展し、終戦後には火星のテラフォーミングが行われる。 2100年頃まで地球全土で戦災からの復興活動が進められるが、2125年に勃発した世界規模の武力紛争「大戦」により再度荒廃し、第四次世界大戦の頃から北大西洋のアゾレス諸島とカナリア諸島の間に密かに建設が進められていた人工島オリュンポスに設置された総合管理局が台頭、世界をその影響下に置いている。 2127年、逃亡生活を続けていたデュナンと戦闘サイボーグであるブリアレオスは、ヒトミと名乗る少女から総合管理局の調停による停戦の知らせと“オリュンポス”への招待を受け、総合管理局の内務省部隊、ESWAT(ESpecially Weapon And Tactics)に所属して対テロ作戦などに加わる。その中で巨大な計画、旧大国の策謀が明らかになっていく。 第五次大戦後、国家や情報網は破壊され尽くし、デュナンとブリアレオスは廃墟となった無人都市を転々としながら流浪の日々を送っていた。他にどれぐらいの人間が生き残っているのかも分からない状況の中、突然来訪した若い女性・ヒトミによってオリュンポスへの移住を持ちかけられ、デュナンとブリアレオスは疑うが、警察官 (SWAT) として復職できる望みから受諾する。やがてオリュンポスに着いたデュナンとブリアレオスを待っていたのは、戦後世界とは信じられないほど、清潔かつ高度で豊かな都市だった。 オリュンポスは人類がついに建設した理想郷とされているうえ、人口の半分を占める人為的にコントロールされて生まれた人間・バイオロイドが人間同士の無用な衝突を避ける緩衝剤として機能しており、人間とバイオロイドの関係性が精妙に描かれている。デュナンとブリアレオスは「ゲスト」としてオリュンポスで暮らし始め、やがて特殊部隊の隊員として「復職」する。 しかし、当初は理想郷に見えたオリュンポスも人の業を脱することはまだできておらず、さまざまな問題を抱えていた。戦争の後遺症とも言えるテロリズム、オリュンポス行政院と立法院の対立、他国との駆け引き、ライフサイエンス解禁によって科学技術が人間や社会の在り様にまで干渉する。デュナンとブリアレオスは、オリュンポスを巡るさまざまな思惑や陰謀に巻き込まれていく。 独特の生物的なフォルムや動作原理や素材、内部構造などの詳細な描写が本作の特徴の一つでもある。 青心社より単行本4巻が発売されているが、他に同社より原稿原寸版(1-3巻)、講談社よりB5判の大型版(1・2巻合本)、メディアファクトリーより文庫版が刊行されている。なお第5巻は「アルテミスの遠矢」というタイトルが発表され、画集『イントロンデポ』にはカバーイラストも掲載されている。1991年にコミックガイアで『仙術超攻殻ORION』に続いて連載されたが、「やはり連載という形態はアップルには合わない」として中断された。連載分は『士郎正宗ハイパーノーツ』に収録された。現状ではソ連崩壊に伴う作品中の世界観と現実における世界情勢の乖離、および自身のスタンスの変化により続きを描くのは困難と士郎は語っている。 雑誌連載を経ずに直接単行本として刊行された経緯から、一部の巻において雑誌原稿では用いることの出来ない薄墨を用いて、単色ではなくグレースケールで印刷する試みがなされている。 また第4巻刊行後、青心社から設定解説資料や短編を収録した『アップルシード データブック』が刊行され、後に本編新装版に合わせて内容を一部変更した『アップルシードid』として再版された。 1988年4月21日に発売されたOVAで、初のアニメ化作品。監督と脚本は片山一良が手がけている。当初は「ガイナックス制作の劇場用アニメ」と報じられたが、後に60分ほどのOVAと訂正された。またガイナックスは直接制作には携わらず、実制作はAICとセンテスタジオが担当することも明らかになった。 原作の多脚砲台が暴走するエピソードをベースに、作品を理解しやすいようにストーリーが手直しされている。やや密度の薄い出来となっているが、その分、一読しただけでは何がどうなっているのかわからない難解な原作漫画の骨格がわかりやすくなっている。キャラクターデザインをスタジオぴえろ制作の魔女っ子シリーズを手掛けていた洞沢由美子が担当しているため、絵の雰囲気が原作とはまったく異なるが、主人公ふたりは少し茶目っ気のある言動もあり、アニメ化作品の中で原作の雰囲気にいちばん近い。また偏執的に描き込まれた原作に比べて全体的にこだわりの少ない描写の中で、銃器描写は実在する銃(デュナンのコルト・ガバメントや当時の最新鋭モデルであったオーストリア製のグロック17など)を登場させたりとリアルに描いてある。 OVAのプロモーション用に、バンダイが発行していた月刊模型誌「B-CLUB」の企画で製作したブリアレオスとデュナンのコスチュームを使用した実写ショートフィルムが制作された。デュナン・ナッツ役には白人女性を起用している。ショートフィルムは「プレリュードフィルム」というタイトルで、後に発売されたDVDに特典映像として収録された。 第3次世界大戦後の地球。荒廃した世界を統合管理局が立て直し、亜人類バイオロイドによって運営される実験理想都市「オリュンポス」が作られた。生き残った人間はその中でバイオロイドと共存しながら平和に暮らしていた。しかし、いまだ廃墟のままの外の世界から侵入した「自由人間解放同盟」を名乗るテロリストが暗躍しており、オリンポスは彼らに対抗するために特殊部隊を結成した。その隊員であるデュナンとブリアレオスは、バイオロイドと人間に関する機密情報の奪い合いに巻き込まれてしまう。 DVD特典のプロモーション用実写映像。 世界で初めてフル3Dライブアニメという表現手法によって映像化された作品。3Dライブアニメとは3DCGをセルアニメのような画風に変換するトゥーンシェーダーと、登場人物のリアルな動きを可能とするモーションキャプチャ技術を融合させた手法を示す造語である。セルアニメに近い画風でありながら、従来のアニメーションと比べ、自由なカメラワークやよりリアルな動きが表現できる。2004年4月17日の劇場公開を待つことなく、続編の制作が発表された。 原作者の士郎はノータッチである。監督の荒牧伸志は士郎の世界観を壊さずに一般の客層へのアピールを行うことを留意したという。 主人公デュナンは、声優が顔のモーションキャプチャー(フェイシャルキャプチャー)を行い、それ以外のシーンでは2名がアクションシーンと演技シーンを分担してモーションキャプチャーを行っている。声と顔の演技を務めるのは小林愛、全身の演技を三輪明日美が担当。アクションシーンをアクション女優の秋本つばさが担当している。 多脚砲台の登場シーンでは怪獣映画の要素を取り入れている。荒牧は「夜の街で多脚砲台が送電線を横切る」というカットについて、スタッフからの「未来都市に送電線があるのか」「夜景で黒い多脚砲台は見えづらい」という指摘を押しのけて強引に入れ込んだと述べている。 DVDは続編公開時点までに、全世界で42万枚以上を売り上げるなど、好調なセールスを記録した。 2007年10月20日に続編『EX MACHINA -エクスマキナ-』が公開された。プロデューサーは『フェイス/オフ』や『M:i:2』等を監督したジョン・ウーが担当。 衣装デザインはファッションブランド、PRADAのミウッチャ・プラダ。 音楽監修を細野晴臣が担当。元YMOの三人(細野、坂本龍一、高橋幸宏)がHASYMO名義でメインテーマ『RESCUE』を書き下ろしている。その他、テイ・トウワ、コーネリアス、m-flo、rei harakamiなどが名を連ねている。 キャストについてはデュナン役は前作から引き続いて小林愛が担当するが、それ以外のキャラクターについては大幅なキャストの変更が加えられている。映像も前作よりリアル調のシェーディング・テクスチャが施されている。 副題の「EX MACHINA」はラテン語のデウス・エクス・マキナという言葉から来ている。意味は「機械じかけの神」、転じてご都合主義的な話の展開などを表すネガティブな言葉である。 『アップルシード α(Appleseed Alpha)』は、3作目となる長編アニメ。2014年7月に欧米を中心にビデオスルー公開、日本では2015年1月に劇場公開された。原作第一巻をベースとしたリブート作。荒牧伸志による長編アニメ三作目で、過去の二作品よりも更に実写的なCGスタイルで制作された。 2008年3月30日、東京国際アニメフェアにて『APPLESEED GENESIS』(アップルシード・ジェネシス)のタイトルで、全編3DCGのテレビアニメを製作することが発表された。オリュンポスが完成する以前、理想郷の完成を阻止しようとするテロリストたちとデュナン・ナッツらESWATとの戦いが描かれるオリジナルストーリーで、各話30分全26話で2009年春より放送予定であった。製作は3Dアニメーションで定評のあるミコット・エンド・バサラ、監督は3DCGのインディーズ作家として同じく士郎正宗原作の『警察戦車隊 TANK S.W.A.T. 01』のアニメーションを監督し、メジャーのテレビシリーズ監督はこれが初となるロマのフ比嘉、キャラクターデザインは美樹本晴彦。海外販売を前提にしていたため、通常のテレビアニメと異なり、放送開始までに全話数の制作を完了することを目指し、放映1年前のこの時点で既に制作に入っていた。 しかし、2008年9月にアニメ制作会社ラディクスモバニメーションが、制作元のミコット・エンド・バサラを制作代金の未支払いを理由に提訴。その後、2011年にミコット・エンド・バサラが倒産したため、製作は中止となった。 アップルシード XIII(サーティーン)」は、「アップルシード」の映像作品としては初の、全13話(=サーティーン)からなる完全新作アニメシリーズ。2011年6月より、劇場での期間限定上映、ネット配信、Blu-ray Disc・DVD発売を同時展開。 2011年6月13日より劇場リミックス版「アップルシード XIII 〜遺言〜」、同年10月24日より「アップルシード XIII 〜預言〜」が公開。 宮川輝により漫画化され、『月刊アフタヌーン』(講談社)2011年12月号より2013年6月号まで連載された。 ストーリーはアニメ本編のシナリオをほぼなぞる形になっているが、ラストシーンなど一部はオリジナルの展開で再構築されている。また、原作や過去のアニメ化作品のオマージュと思われるシーンが多く、アニメ本編には登場しない立法院の七賢老、大佐、アルゲス、吉野、A-10(ボルト、ジャンク)が登場したり、デュナンとブリアレオスの恋愛関係が強く押し出されたラブコメ的な場面もたびたび登場する。細密なメカニック描写やアクションシーンが高く評価される一方で、独特の画風やキャラクターのデフォルメ、関西弁を多用したセリフ回しは賛否両論となっている。 余談であるが、作者の宮川輝は今回のコミカライズの依頼があるまで漫画のアップルシードを読んだことがなく、担当者を驚かせたという。 大武完による『アップルシード』のスピンオフ小説。同じ世界を舞台にした外伝。 非核大戦の動乱はハワイにも及んだ。味方の裏切りによる殺戮をかろうじて生き延びたルシア、ゲンゾー、シフォンの三人は、ヒトミに救助されてオリュンポスに入植する。 1988年5月5日にキングレコードから発売されたイメージアルバム。OVA版の事実上のサウンドトラック的な内容のドラマCDだが、ドラマパートのキャストはOVA版とは異なる。 スーパーファミコンおよびPlayStation 2用として『アップルシード EX』が発売されている。また、オンラインゲーム『アップルシード タクティクス』としても展開されている。 『アップルシード EX』(アップルシード エクス)は、2007年2月15日にセガが発売した ガン&ファイティングアクションゲーム。製作はドリームファクトリー。 漫画を題材に2004年に劇場公開された映画『APPLESEED』を元にしている。ゲーム中に流れるムービーなどは監督である荒牧伸志と同映画でCGを担当したデジタル・フロンティアが製作するなど、映画との連動を強く打ち出しているものの、ゲームの内容についてはファミ通レビューにおいて過去の最低点より一つだけ上(40点満点中13点)という評価がなされている。 アップルシード XIII(サーティーン)のマルチプラットフォーム対応ブラウザ型ソーシャルゲーム。
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"主人公デュナンは、声優が顔のモーションキャプチャー(フェイシャルキャプチャー)を行い、それ以外のシーンでは2名がアクションシーンと演技シーンを分担してモーションキャプチャーを行っている。声と顔の演技を務めるのは小林愛、全身の演技を三輪明日美が担当。アクションシーンをアクション女優の秋本つばさが担当している。", "title": "アニメ映画" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "多脚砲台の登場シーンでは怪獣映画の要素を取り入れている。荒牧は「夜の街で多脚砲台が送電線を横切る」というカットについて、スタッフからの「未来都市に送電線があるのか」「夜景で黒い多脚砲台は見えづらい」という指摘を押しのけて強引に入れ込んだと述べている。", "title": "アニメ映画" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "DVDは続編公開時点までに、全世界で42万枚以上を売り上げるなど、好調なセールスを記録した。", "title": "アニメ映画" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2007年10月20日に続編『EX MACHINA -エクスマキナ-』が公開された。プロデューサーは『フェイス/オフ』や『M:i:2』等を監督したジョン・ウーが担当。", "title": "アニメ映画" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "衣装デザインはファッションブランド、PRADAのミウッチャ・プラダ。", "title": "アニメ映画" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "音楽監修を細野晴臣が担当。元YMOの三人(細野、坂本龍一、高橋幸宏)がHASYMO名義でメインテーマ『RESCUE』を書き下ろしている。その他、テイ・トウワ、コーネリアス、m-flo、rei harakamiなどが名を連ねている。", "title": "アニメ映画" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "キャストについてはデュナン役は前作から引き続いて小林愛が担当するが、それ以外のキャラクターについては大幅なキャストの変更が加えられている。映像も前作よりリアル調のシェーディング・テクスチャが施されている。", "title": "アニメ映画" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "副題の「EX MACHINA」はラテン語のデウス・エクス・マキナという言葉から来ている。意味は「機械じかけの神」、転じてご都合主義的な話の展開などを表すネガティブな言葉である。", "title": "アニメ映画" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『アップルシード α(Appleseed Alpha)』は、3作目となる長編アニメ。2014年7月に欧米を中心にビデオスルー公開、日本では2015年1月に劇場公開された。原作第一巻をベースとしたリブート作。荒牧伸志による長編アニメ三作目で、過去の二作品よりも更に実写的なCGスタイルで制作された。", "title": "アニメ映画" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2008年3月30日、東京国際アニメフェアにて『APPLESEED GENESIS』(アップルシード・ジェネシス)のタイトルで、全編3DCGのテレビアニメを製作することが発表された。オリュンポスが完成する以前、理想郷の完成を阻止しようとするテロリストたちとデュナン・ナッツらESWATとの戦いが描かれるオリジナルストーリーで、各話30分全26話で2009年春より放送予定であった。製作は3Dアニメーションで定評のあるミコット・エンド・バサラ、監督は3DCGのインディーズ作家として同じく士郎正宗原作の『警察戦車隊 TANK S.W.A.T. 01』のアニメーションを監督し、メジャーのテレビシリーズ監督はこれが初となるロマのフ比嘉、キャラクターデザインは美樹本晴彦。海外販売を前提にしていたため、通常のテレビアニメと異なり、放送開始までに全話数の制作を完了することを目指し、放映1年前のこの時点で既に制作に入っていた。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし、2008年9月にアニメ制作会社ラディクスモバニメーションが、制作元のミコット・エンド・バサラを制作代金の未支払いを理由に提訴。その後、2011年にミコット・エンド・バサラが倒産したため、製作は中止となった。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アップルシード XIII(サーティーン)」は、「アップルシード」の映像作品としては初の、全13話(=サーティーン)からなる完全新作アニメシリーズ。2011年6月より、劇場での期間限定上映、ネット配信、Blu-ray Disc・DVD発売を同時展開。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2011年6月13日より劇場リミックス版「アップルシード XIII 〜遺言〜」、同年10月24日より「アップルシード XIII 〜預言〜」が公開。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "宮川輝により漫画化され、『月刊アフタヌーン』(講談社)2011年12月号より2013年6月号まで連載された。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ストーリーはアニメ本編のシナリオをほぼなぞる形になっているが、ラストシーンなど一部はオリジナルの展開で再構築されている。また、原作や過去のアニメ化作品のオマージュと思われるシーンが多く、アニメ本編には登場しない立法院の七賢老、大佐、アルゲス、吉野、A-10(ボルト、ジャンク)が登場したり、デュナンとブリアレオスの恋愛関係が強く押し出されたラブコメ的な場面もたびたび登場する。細密なメカニック描写やアクションシーンが高く評価される一方で、独特の画風やキャラクターのデフォルメ、関西弁を多用したセリフ回しは賛否両論となっている。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "余談であるが、作者の宮川輝は今回のコミカライズの依頼があるまで漫画のアップルシードを読んだことがなく、担当者を驚かせたという。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "大武完による『アップルシード』のスピンオフ小説。同じ世界を舞台にした外伝。", "title": "小説" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "非核大戦の動乱はハワイにも及んだ。味方の裏切りによる殺戮をかろうじて生き延びたルシア、ゲンゾー、シフォンの三人は、ヒトミに救助されてオリュンポスに入植する。", "title": "小説" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1988年5月5日にキングレコードから発売されたイメージアルバム。OVA版の事実上のサウンドトラック的な内容のドラマCDだが、ドラマパートのキャストはOVA版とは異なる。", "title": "ドラマCD" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "スーパーファミコンおよびPlayStation 2用として『アップルシード EX』が発売されている。また、オンラインゲーム『アップルシード タクティクス』としても展開されている。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "『アップルシード EX』(アップルシード エクス)は、2007年2月15日にセガが発売した ガン&ファイティングアクションゲーム。製作はドリームファクトリー。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "漫画を題材に2004年に劇場公開された映画『APPLESEED』を元にしている。ゲーム中に流れるムービーなどは監督である荒牧伸志と同映画でCGを担当したデジタル・フロンティアが製作するなど、映画との連動を強く打ち出しているものの、ゲームの内容についてはファミ通レビューにおいて過去の最低点より一つだけ上(40点満点中13点)という評価がなされている。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アップルシード XIII(サーティーン)のマルチプラットフォーム対応ブラウザ型ソーシャルゲーム。", "title": "ゲーム" } ]
『アップルシード』(APPLESEED)は、士郎正宗のメジャーデビュー作となる日本のSF漫画。1985年から1989年にかけて発表された。コミックスは4巻まで刊行され、物語が中断した状態で作者による凍結宣言が出されている。 タイトルはアメリカの開拓時代のリンゴ農園民話『ジョニー・アップルシード物語』より。キャラクターや設定の各所にギリシア神話由来の名前が使われている。
{{Otheruses|漫画作品|米国の開拓者|ジョニー・アップルシード}} {{Infobox animanga/Header |タイトル= アップルシード |ジャンル= [[サイエンス・フィクション|SF]]、[[サイバーパンク]] }} {{Infobox animanga/Manga |作者= [[士郎正宗]] |出版社= [[青心社]] |掲載誌= コミックガイア |開始= [[1985年]]2月 |終了= [[1989年]]4月 |巻数= 全4巻+データブック1巻<br />+ハイパーノーツ(総集編) |話数= |その他= 連載は中断し、<br />作者が凍結を宣言。 }} {{Infobox animanga/OVA |原作= 士郎正宗 |監督= [[片山一良 (アニメ監督)|片山一良]] |キャラクターデザイン= [[洞沢由美子]] |メカニックデザイン= [[岸田隆宏]] |アニメーション制作= [[ガイナックス]] |製作= [[バンダイビジュアル]] |発売日= [[1988年]][[4月21日]] |話数= 全1話 }} {{Infobox animanga/Cast |役名= デュナン<br />ブリアレオス |出演者= [[勝生真沙子]]<br />[[坂口芳貞]] }} {{Infobox animanga/RadioDrama |メディア= ドラマCD |タイトル= アップルシード 近未来的音楽学習専科 |原作= 士郎正宗 |制作= スターチャイルドレーベル |脚本= |演出= |放送局= |番組= |書籍= |発売元= キングレコード |販売元= |レーベル= |発売日= 1988年[[5月5日]] |開始= |終了= |売上本数= |レイティング= |収録時間= |話数= |枚数= |その他= }} {{Infobox animanga/Cast |役名= デュナン<br />ブリアレオス |出演者= [[鶴ひろみ]]<br />[[屋良有作]] }} {{Infobox animanga/Movie |タイトル= APPLESEED |監督= [[荒牧伸志]] |制作= [[デジタル・フロンティア]] |封切日= [[2004年]][[4月17日]] |上映時間= 1時間43分 |その他= 全編フル3Dライブアニメ }} {{Infobox animanga/Cast |役名= デュナン<br />ブリアレオス |出演者= [[小林愛]]<br />[[小杉十郎太]] }} {{Infobox animanga/Game |タイトル= アップルシード EX |ゲームジャンル= [[銃|ガン]]&ファイティング[[アクションゲーム|アクション]] |対応機種= [[PlayStation 2]] |開発元= [[ドリームファクトリー (企業)|ドリームファクトリー]] |発売元= [[セガ]] |プロデューサー= |監督= |キャラクターデザイン= |メディア= [[DVD-ROM]] |プレイ人数= 1人 |発売日= [[2007年]][[2月15日]] |売上本数= |レイティング= [[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CERO]]:[[CEROレーティング12才以上対象ソフトの一覧|B 12才以上対象]] |インタフェース= |コンテンツアイコン= 暴力 |キャラクター名設定= |エンディング数= |セーブファイル数= |セーブファイル容量= |クイックセーブ= |クイックロード= |コンテニュー= |音楽フォーマット= |キャラクターボイス= |バックログ= |CGモード= |音楽モード= |回想モード= |メッセージスキップ= |オートモード= |その他= 限定版:オリジナルフィギュアと<br />アニメコミックの復刻版が付属 }} {{Infobox animanga/Cast |役名= デュナン<br />ブリアレオス |出演者= [[小林愛]]<br />[[小杉十郎太]] }} {{Infobox animanga/Movie |タイトル= EX MACHINA |監督= 荒牧伸志 |制作= デジタル・フロンティア |封切日= 2007年[[10月20日]] |上映時間= 1時間45分 |その他= 全編フル3Dライブアニメ }} {{Infobox animanga/Cast |役名= デュナン<br />ブリアレオス |出演者= [[小林愛]]<br />[[山寺宏一]] }} {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル= APPLESEED XIII |原作= 士郎正宗 |監督= [[浜名孝行]] |シリーズ構成= [[藤咲淳一]] |キャラクターデザイン= [[後藤隆幸]] |メカニックデザイン= [[竹内敦志]] |音楽= [[コーニッシュ]] |アニメーション制作= [[ジーニーズアニメーションスタジオ]]<br />[[プロダクション・アイジー|Production I.G]] |製作= 「アップルシード XIII」製作委員会 |放送局= [[バンダイチャンネル]]<br />マイシアター<br />[[ニコニコ動画]] |放送開始= [[2011年]][[6月3日]] |放送終了= |話数= 全13話 |その他= }} {{Infobox animanga/Cast |役名= デュナン<br />ブリアレオス |出演者= [[坂本真綾]]<br />[[山寺宏一]] }} {{Infobox animanga/Movie |タイトル= 劇場リミックス版<br />アップルシード XIII 〜遺言〜<br />アップルシード XIII 〜預言〜 |監督= 浜名孝行 |制作= ジーニーズアニメーションスタジオ<br />Production I.G |封切日= 2011年6月13日(遺言篇)<br />2011年10月24日(預言篇) |上映時間= 75分(遺言篇)<br />85分(預言篇) |その他= }} {{Infobox animanga/Manga |タイトル= APPLESEED XIII |作者= 士郎正宗/青心社・<br />「アップルシード XIII」製作委員会 |作画= [[宮川輝]] |出版社= [[講談社]] |掲載誌= [[月刊アフタヌーン]] |開始= [[2011年]]10月 |終了= [[2013年]]4月 |巻数= |話数= |その他= }} {{Infobox animanga/Other |タイトル= 関連項目 |コンテンツ= [[アップルシード タクティクス]](オンラインゲーム) }} {{Infobox animanga/Footer}} 『'''アップルシード'''』(''APPLESEED'')は、[[士郎正宗]]のメジャーデビュー作となる[[日本]]の[[SF漫画]]<ref name="gigazine20140525">{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20140525-appleseed-alpha-trailer/ |title=士郎正宗のアップルシードが新作映画「Appleseed Alpha」として再始動、オフィシャルトレイラーも公開中 |website= [[GIGAZINE]]|publisher=株式会社OSA|date= 2014-05-25|accessdate= 2023-03-31}}</ref>。1985年から1989年にかけて発表された<ref name="gigazine20110602">{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20110602_apple_seed_xiii_ep01/ |title=APPLE SEEDの新作アニメシリーズ「アップルシード XIII(サーティーン)」、24時からニコニコ生放送で配信開始 |website= [[GIGAZINE]]|publisher=株式会社OSA|date= 2011-06-02|accessdate= 2023-03-31}}</ref>。コミックスは4巻まで刊行され、物語が中断した状態で作者による凍結宣言が出されている{{R|gigazine20110602}}。 タイトルはアメリカの開拓時代のリンゴ農園民話『[[ジョニー・アップルシード]]物語』より。キャラクターや設定の各所に[[ギリシア神話]]由来の名前が使われている。 == 概要 == [[サイバーパンク]]SF『[[攻殻機動隊]]』で知られる士郎正宗のもうひとつの代表作で、近未来を舞台に展開するSFアクション作品<ref name="animeanime2856">{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2008/03/05/2856.html |author= |title=TV版「APPLESEED」監督にロマのフ比嘉さん 朴璐美さんが出演 |date=2008-03-05 |accessdate= 2023-03-31|website=アニメ!アニメ!|publisher= [[イード (企業)|イード]]}}</ref><ref name="mikiki5144">{{Cite web|和書|url=https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/5144 |author= ばるぼら|title= 映画「アップルシード アルファ」 Part.1 兵士たちはまだ見ぬ理想郷を求め、戦いへと身を投じる——士郎正宗の傑作SFが、CGアニメ界をリードする荒牧伸志の手によって3度目の映画化!|date= 2015-01-28|accessdate= 2023-03-31 |website=Mikiki |publisher= [[タワーレコード|TOWER RECORDS ONLINE]] }}</ref>。1985年2月に[[青心社]]という関西の新興出版社から、[[雑誌]]連載を経ずに単行本描き下ろしという形で発表された{{R|mikiki5144}}。 考え抜かれた設定、緻密に描き込まれたメカニックや背景、しっかりした[[デッサン]]のカワイイ女の子たちが作品の魅力となっている<ref name="akiba22888">{{Cite web|和書|url=https://akiba-souken.com/article/22888/|author=廣田恵介 |title=【懐かしアニメ回顧録第3回】セルアニメ版「アップルシード」。唯一の実写映像付きOVA!!|date=2015-02-27 |accessdate= 2023-03-31|website=アキバ総研 |publisher=[[カカクコム]]}}</ref><ref name="oricon2046661">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2046661/ |author= |title= 『アップルシード』30周年、原作漫画を電子書籍化|date=2014-12-31|accessdate= 2023-03-31|website= ORICON NEWS|publisher= [[オリコン]] }}</ref>。 [[OVA]]『APPLESEED』(1988年)、[[アニメ映画]]『APPLESEED』(2004年)と続編『EX MACHINA』(2007年)、[[テレビアニメ]]『APPLESEED XIII』(2011年)、[[リブート]]映画『Appleseed Alpha』(2014年)と複数回[[アニメ化]]されており、映像の需要の高い作品{{R|gigazine20140525}}。特に海外から高い評価を得ており、海外展開を視野に日本より先に公開されることが多い<ref name="animeanime19567">{{Cite web|和書|url= https://animeanime.jp/article/2014/07/25/19567.html|author= |title=「アップルシード・アルファ」ティザーサイトを開設 国内でもプロジェクトスタート |date=2014-07-25 |accessdate= 2023-03-31|website=アニメ!アニメ!|publisher= [[イード (企業)|イード]]}}</ref><ref name="animeanime17445">{{Cite web|和書|url= https://animeanime.jp/article/2014/02/13/17445.html|author= |title= 「Appleseed Alpha」荒牧伸志監督で今夏米国リリース 製作にソニー・ピクチャーズとルーセント|date= 2014-02-13|accessdate= 2023-03-31|website=アニメ!アニメ!|publisher= [[イード (企業)|イード]]}}</ref>。 2015年1月、コミックスの第1巻初版刊行から30周年を記念して[[電子書籍]]化され、各電子書店で配信が開始された{{R|oricon2046661}}。電子化に際し、士郎本人が監修し、[[インターネット]]や[[携帯端末]]の普及により不要になった一部の欄外脚注は削除され{{Efn2|士郎が削除した箇所のうち、「欄外脚注も個性」という編集者の判断により復活している部分も3箇所ある。}}、言い回しが古くなったセリフや誤解を招く部分は修正されている<ref name="natalie136195">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/136195 |author= |title=士郎正宗が作品の電子化にコメント、第1弾「アップルシード」の配信開始 |date=2015-01-15 |accessdate= 2023-03-31|website= [[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher= 株式会社ナターシャ}}</ref>。しかし、絵と基本的な内容や時代設定等に関しては当時のまま一切変更を加えていない{{R|natalie136195}}。 == 世界観 == 物語の舞台は、地球規模の世界大戦が繰り返された[[22世紀]]の荒廃した世界に存在する理想郷こと巨大都市・オリュンポス{{R|oricon2046661}}<ref name="natalie110025">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/110025 |author= |title=士郎正宗「アップルシード」が再び映画化、海外で今夏公開 |date= 2014-02-17|accessdate= 2023-03-31|website= [[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher= 株式会社ナターシャ}}</ref>。全世界で[[化学兵器]]・[[生物兵器]]が使用された'''大戦'''{{Efn2|作中では第五次世界大戦とも呼ばれる。[[1996年]]に勃発した第三次世界大戦により、続いて[[1999年]]に勃発した第四次世界大戦では核兵器はほぼ存在しなくなっていた。}}を生き抜いた特殊部隊の女性隊員・デュナン・ナッツと、その恋人で全身を[[サイボーグ]]化したブリアレオスの活躍を描いた近未来[[サイエンスフィクション]]作品{{R|oricon2046661|natalie110025}}。 本作品は後に執筆された『攻殻機動隊』から約100年後の世界にあたり、両作品とも作中に日本の近海に存在する人工島を本社とした企業国家'''ポセイドン'''が登場する{{Efn2|元の名称は「大日本技研」。建設開始は[[2002年]]、『攻殻機動隊』世界での設立は[[2029年]]<ref>{{Cite book |和書 |author =士郎正宗|title= アップルシード DATABOOK|publisher= 青心社|isbn=4-915333-69-8|date=1990-05-30|page=4, 9-10}}</ref>。}}。 世界は、[[中東戦争]]を契機に勃発した[[ヨーロッパ|EC]]・米対ソ連による[[核戦争]]([[第三次世界大戦]])後、戦後に勃興したECと被害が少なかったアジア諸国(後に大東合衆国を結成)との間で摩擦が生じ、日本への[[核攻撃]]を契機としてEC・米と第四次非核大戦が勃発、[[2026年]]にアジア側が勝利して「地球統一ブロック」が樹立される。 この期間に[[電脳]]技術や[[バイオテクノロジー]]、核汚染除去の為の[[ナノテクノロジー]]、[[マイクロマシン]]技術が飛躍的に発展、宇宙開発も月に都市を建設出来るまで発展し、終戦後には[[火星]]の[[テラフォーミング]]が行われる。 [[2100年]]頃まで地球全土で戦災からの復興活動が進められるが、[[2125年]]に勃発した世界規模の武力紛争「大戦」により再度荒廃し、第四次世界大戦の頃から北[[大西洋]]の[[アゾレス諸島]]と[[カナリア諸島]]の間に密かに建設が進められていた人工島'''オリュンポス'''に設置された総合管理局が台頭、世界をその影響下に置いている。 [[2127年]]、逃亡生活を続けていたデュナンと戦闘[[サイボーグ]]であるブリアレオスは、ヒトミと名乗る少女から総合管理局の調停による停戦の知らせと“オリュンポス”への招待を受け、総合管理局の[[内務省]]部隊、ESWAT(ESpecially Weapon And Tactics)に所属して対テロ作戦などに加わる。その中で巨大な計画、旧大国の策謀が明らかになっていく。 == あらすじ == 第五次大戦後、国家や情報網は破壊され尽くし、デュナンとブリアレオスは廃墟となった無人都市を転々としながら流浪の日々を送っていた。他にどれぐらいの人間が生き残っているのかも分からない状況の中、突然来訪した若い女性・ヒトミによってオリュンポスへの移住を持ちかけられ、デュナンとブリアレオスは疑うが、警察官 (SWAT) として復職できる望みから受諾する。やがてオリュンポスに着いたデュナンとブリアレオスを待っていたのは、戦後世界とは信じられないほど、清潔かつ高度で豊かな都市だった。 オリュンポスは人類がついに建設した理想郷とされているうえ、人口の半分を占める人為的にコントロールされて生まれた人間・バイオロイドが人間同士の無用な衝突を避ける緩衝剤として機能しており、人間とバイオロイドの関係性が精妙に描かれている。デュナンとブリアレオスは「ゲスト」としてオリュンポスで暮らし始め、やがて[[特殊部隊]]の隊員として「復職」する。 しかし、当初は理想郷に見えたオリュンポスも人の業を脱することはまだできておらず、さまざまな問題を抱えていた。戦争の後遺症とも言えるテロリズム、オリュンポス行政院と立法院の対立、他国との駆け引き、ライフサイエンス解禁によって科学技術が人間や社会の在り様にまで干渉する。デュナンとブリアレオスは、オリュンポスを巡るさまざまな思惑や陰謀に巻き込まれていく。 == 登場人物 == === 主要人物 === ; デュナン・ナッツ : [[2105年]]誕生。[[女性]]。父はカール・ナッツ。かなり複雑な混血。 : 幼少時より、父である[[SWAT]]の指揮官・カールの指導により、年齢に似合わぬ戦闘能力と状況判断能力を持つ。利き腕は右腕だが左腕でも銃等が扱えるように訓練されている。目も同様。 : 体内にESWATの標準装備である数種のプラントが埋め込んである。これは大抵の薬物やウイルスはろ過でき、特に[[クロロホルム]]B、[[リシン (毒物)|リシン]]は十分防ぐことが出来る。なお、この設定は後に血液中に投与される[[マイクロマシン]]に改められた。 : 大戦後はブリアレオスと共に廃墟生活を送っていたが、2127年オリュンポスに移住、市警SWATを経て行政院ESWATに入隊する。 : 性格は、戦いを楽しむところが無いではないが、戦闘狂というほどでもなく、仕事の達成を第一とするプロ意識の持ち主。恋愛に頬を染めるなど情緒が無いわけでもなく、むしろ晩生。ブリアレオスに父の部下時代から思いを寄せているが、作品中途まで子ども扱いされたりしている。 : 作った料理は「料理名以外では区別がつかない」らしい。 ; ブリアレオス・ヘカトンケイレス : [[2096年]]誕生。[[男性]]。ほぼ全身を機械化し、戦闘用の装甲とセンサーを備えた、戦闘[[サイボーグ]]。「データブック」ではデュナンと出会った頃とサイボーグ化直前の素顔が描かれている。映画版では漫画と設定(黒人)が異なり白人であり、彼の遺伝子を持つクローンもエクスマキナに登場する。またヘカトンケイル・システム(後述)に適応できたただ一人の人物とされているが後にカイニスもヘカトンケイルシステムへ移行したと思われる描写がある。 : 幼いころに[[ソ連国家保安委員会|ソ連KGB]]にスカウトされるが作戦将校を殺害したため逃亡、フリーになる。[[2116年]]にデュナンと出会い、カール・ナッツのチームに入隊する。その6年後爆発事故によりサイボーグ化を始めた。外見的にはロボットのようだが、高度な技術による人工筋肉・人工皮膚を使用している有機質サイボーグ。また人間として残っている[[臓器]]もある。この時代では脳機能がかなり解明されており、人工脳組織による脳の増量も行っている。これは彼の装備している高性能センサー類の情報処理の為らしい。センサー情報などは意識への概念伝達である。 : 表皮の体温はコントロール可能だが、彼は普通の人間に近い温度を保っている。これは恋人(デュナン)のためである。オリュンポス移住後に巻き込まれたテロで重傷を負い、それ以降に同都市の先進的な医療・サイボーグ技術による柔軟な素材を多用したボディへと段階的に変化していくが、ガイア事件までは腕に機械式の内装火器を組み込むなど、無機的な装備も多かった。ベゼクリク事件の頃までには皮膚は柔らかくはないが弾力がある体と成った。彼は[[ヘカトンケイル]]システムによって全身を制御するという、珍しいタイプのサイボーグであり、ヘカトンケイルシステムの能力でブリアレオスが損傷した場合も部品交換が早く、また追加装備により4本の腕を同時に操作したり、[[空母]]を丸ごと制御することも可能と言われている。そのため、目が8個(顔面に4個、うなじに2個、兎耳のようなセンサーユニット先端に2個)あるなど装備品が多い。 : 大戦後はデュナンと共に廃墟生活を送っていたが、[[2127年]]オリュンポスに移住、ESWATに入隊する。 : オリュンポス移住後はボディの改造・改良をたびたび行っている。 ; ヒトミ(人美) : [[2074年]]誕生の[[デザイナーベビー|バイオロイド]]で総合管理局・立法院に所属し秘書のような役職にある。[[女性]]。バイオロイドにとっては一般的なことだが外見と実年齢は伴っていない。物語登場時にすでに50歳を超えているが、これはバイオロイドは長寿命が可能なように設計されており、生後、延命処理という処置を行い続けることで年齢を重ねても肉体的には若さを保っているため。彼女の場合は加えて性格も子供っぽい。彼女のDNA情報にはオリュンポスメインコンピュータ・ガイアの停止のキー情報が含まれているのでオリュンポス全体にとって彼女は重要人物でもある。現在はアルテミスの子供たちに振り回されている。 ; 宮本 義経 : 年齢不詳のバイオロイドで人美のボーイフレンド。明智モータースに勤めていてギュゲスやランドメイトの整備等を行っているが基本的な社会的地位は一般市民である。日系の血が流れている。技術の腕は並程度。重度のメカマニアで、オリュンポスの人間が現代人のオートバイの感覚で利用する民生用ランドメイトやスーツを多数所有、休日などは心行くまで弄り回している模様。ガイア事件の折に立法院の手駒として隠密活動する羽目になった人美に所有するパワードスーツを貸し、自身も同行したりもしている。 ; ドクトル・マシュー : [[2062年]]誕生の老[[医師|医者]]、サイボーグ医師。この世界ではサイボーグ化手術やケアは特別な医師が行っており、ドクトルマシューはその一人である。腕は確かだが[[マッドサイエンティスト]]的性格で、患者をやたらサイボーグ化したがる性向がある。第一巻では負傷したブリアレオスを手術した。またベナンダンティ作戦にも同行するなどESWATとの関わりもあるらしい。士郎作品では例外的な[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スターシステム]]的キャラで、アップルシード以外の作品にも度々登場している。 ; アテナ・アレイアス : バイオロイドでオリュンポス総合管理局行政総監の行政院の最高責任者。立法院とは対立関係にあった。 : [[内務省]]・内務大臣ニケ参長とは深い信頼関係がある。優れた能力を有し、真剣に人類の未来を考えている。実質ESWATのトップである。 ; ニケ : バイオロイドでオリュンポス総合管理局行政院内務省の内務大臣。ESWATとポリスを管轄している。行政総監アテナの右腕として能力を発揮している。ESWAT指揮官ランス班長に、直に命令を出すときもある。 ; アレス : エアポリス指揮官。実力は不明だが如何せん劇中のエアポリスがやられ役なので見せ場が無く、索敵・追跡などの地味な作業ばかりで犯人制圧などの華をESWATに持っていかれ、悔しがっている。 ; 局長 : オリュンポス総合管理局司法省の長でオリュンポスの最高責任者の一人。冷静沈着な人物。管轄組織のFBIの指揮権を有する。 ; アルゲス(ヴェルンド) : ブリアレオスとはオリュンポス以前からの旧友。表向きは局長直属の部下でFBIの現場指揮官バイオロイドのアルゲスを名乗っているが、実はオリュンポスを建設した「都市企画班」が、人間側のオリュンポスの安全弁として送り込んでいる一人らしい。 ; アルテミス : 都市企画班から重要情報を携えて送り込まれたバイオロイド。猫科の特長を取り入れたハイブリッド体。戦闘用サイボーグではないものの、それに匹敵する戦闘能力を持つことと、小柄な割に体重があるため、天然の生物とは違う素材で身体が構成されているフラクチュエイター・タイプの可能性がある。オリュンポスに回収後、単為生殖により一度に3人の子供(クローン)を出産している。その行動には不可解な点が多く、彼女にはまだ謎があるようだ。高い戦闘能力を持つが、常識はなく、加えて良心も無いため廃墟隠遁生活の折には食人すら厭わず生き延びていた。知能は高く短時間のうちにコンピュータを使いこなすなどしているが、言葉はしゃべれない。 ; ドリス(吉野) : 企業集合体国家ポセイドン<!-- 本社は日本近海の人工島であり、未来の日本と同一の国家であるかは明示されていない(未来の日本)-->のスパイ。と思わせるが二重スパイなようだ。アルゲスやランスと繋がりがある。 ; 双角 : ベナンダンティ作戦時にESWATに投降したサイボーグ[[傭兵]]の一人。[[SAS (イギリス陸軍)|SAS]]のサイボーグ部隊出身で爆発物のスペシャリストだが、曰く「爆発物は趣味」とするなどプロ意識は低く、自身の趣味性で行動している。4巻ではA-10やデュナンを翻弄して礼金をせしめるもデュナンに報復されて車ごと爆破されボロボロに。5巻に登場する女サイボーグ達とは過去に因縁があるらしい。 ; カール・ナッツ : デュナンの父親で[[SWAT]]の指揮官。デュナンに幼少時からSWATの枠を超えた戦闘・サバイバル訓練を施していたことから、大戦勃発を予想・察知していたと見られる。オリュンポス計画にも関わっていたらしく、バイオロイドにも彼の遺伝情報を持つ者が多い。消息不明。本編では回想シーンで遠景で登場したのみだが、「データブック」で顔が描かれている。 === ESWATメンバー === ; 大佐 : ESWATの指揮官でランスの上司にあたる。ニケが敬語を使っていたことから彼女より上の立場と見られる。 ; ランス班長 : ESWATの現場指揮官。ニケ参長と直接的繋がりを持ち、信頼関係が厚い。作戦の立案、人選、配置を手がけ任務の完璧な遂行を目指すが、慎重派で大胆な采配を振らない任務運びがデュナンの行動と相反し、4巻では謎の男を見失った。 ; スドオ : 日系人で古武道に通じている。ESWATの教官だったが現場復帰し、古参隊員として豊富な経験、知識、判断力によってESWATの現場で若手を引っ張るような立場。劇中でもデュナンを案じて先走ろうとするブリアレオスを諫めている。 ; マグス : 過去に豊富な経験を持つことが伺える、ベテラン的隊員。実力は高いが女癖が悪い。窮地にあっても軽薄なセリフ回しを楽しむなど、独特の価値観の持ち主。 ; モートン : マグスの相棒でバディを組むことが多い。戦闘バイオロイドは“いわゆる道具”という偏見が強く、任務で年下のデュナンやA-10達よりも扱いが低いことに焦りを感じランスに意見具申している。 ; パニ : 黒人女性でマグスの恋人。デュナンがグリーンベレー出身のパニを“[[ガールスカウト]]”と揶揄し、パニもデュナンを“サイボーグのオモチャ”と揶揄するなど、ウマが合わず犬猿の仲。 ; ファング(A-10) : オリュンポスのバイオロイド史に残る傑作戦闘用バイオロイドのひとつ。Aはアサルトの略。ネコ科動物とヒトのハイブリッドで、その五感や戦闘能力は人間の比ではない。同じ姿をした3体のうちボルト、ジャンクという2体が登場している。知能も優秀で、普段は単独捜査など実直な仕事をこなしている。アルテミス捕獲作戦では別モデルのA-9も登場していたが、アルテミスの毒矢により死亡。 == メカニック == 独特の生物的なフォルムや動作原理や素材、内部構造などの詳細な描写が本作の特徴の一つでもある。 ; [[サイボーグ]] : 人間の身体を機械によって置き換え、人間と同等かそれ以上の能力を持った存在。元来は、事故などで大怪我を負って通常の医療では助けられない人を救う技術だったが、人間以上の筋力やセンシング能力、装甲を得られるため、戦争が多い当世界には戦闘に向いた能力を備えた「戦闘サイボーグ」も多数存在している。中にはブリアレオスのように頭脳をも人工的に増量したり、複数の機体やシステムを並列制御する「ヘカトンケイル」システムを備えた者も存在する。 : ただし、身体能力のバランスを取ることが難しく、ブリアレオスのようにトータルでバランスがとれた戦闘用サイボーグは数少ない。また、人工的な機械としての制約を受け、定期的なメンテナンスは欠かせない。 : 初期には明らかに生身の人間と異なる容姿・サイズの個体しか登場していなかったが、「アルテミスの遠矢」では、人間同様の外観を持つ女性型サイボーグが登場している。 ; ランドメイト : 略称は「LM」。全高2 - 3mで乗り込むタイプの[[パワードスーツ]]。体の動きをトレースすることでかなり繊細な動作が可能。土木工事用や災害復旧用から、警察用、軍用など用途は多岐にわたる。大きなパワーと、小火器程度は楽に防ぐ装甲、センサーと情報処理・通信能力が得られるが、対LM用の火器も存在しているので、無敵の存在ではない。外見は士郎作品のパワードスーツに特徴である、搭乗している人間の腕部(マスターアーム)がLM自身の腕(スレイブアーム)とは別にそのまま露出し、4本腕のように見えるタイプで、動作の自由度が高くなる反面、アシストのかかっていないマスターアームを抑えられるだけで動きを封じられてしまう難点がある。対策としてマスターアームを胴体内に納めたタイプも存在する。さらに4巻でデュナンが装備したギュゲスはフロントハッチが2重構造で、その外側ハッチにサブアームで発砲できるハンドガンを格納していた。膝関節は構造上の都合でマスターの2倍角で動作するため、操作には多少の慣れを要する。 : ギュゲス、ギュゲスMM、ギュゲスD、グレーハウンドなどが登場。 ; オーク : ESWATの装備。ランドメイトより小型で、鎧のように着るように装備するパワーアシストスーツ。内蔵された人工筋肉で生身より筋力がアップする他、カメラアイや通信機器を内装している。ベナンダンティ作戦で使用された。装甲部は高い防御能力を備える一方、股関節の真下からトラップの攻撃を受けた隊員は負傷した。 ; ガーシム : オークよりもさらに軽量、薄型を実現したパワードアーマー。4巻以降でのESWAT標準装備。装甲は簡略化されているが、プロが格闘戦を行うには必要十分なもの。おそらくバイオ系素材の人工筋肉によって、パワーアシストと衝撃緩衝機能が備わっており、隊員はギュゲスDに搭乗するときにもガーシムを着込んでいる。これはギュゲスDの飛行時に身体にかかる負担やGを軽減するため。大気圧潜水モードも備えている。作者によると「データフイルム」という、熱や薬品に強く鋭利な刃物を通さない薄い素材を全身タイツの様に着込むという着想が装備の軽量化に繋がったと画集の中で語っている。 ; ガイア : オリュンポス全域をコントロールするコンピュータとそのネットワーク。コントロール分野は都市運営など政治に関する領域から末端の信号機にまで至っており、文字通りオリュンポスの機能を維持している。都市内には公共端末が設置され、役所的な市民サービスや各種情報サービスのほか、直接市民からの要望を受け付ける通称「ガイアの耳」という機能も備わっている。「彼」が直接的に言葉を使って他者と対話する描写は無いが、他の管理システムを担うコンピュータと通信することを指してオペレーターらが「対話」と表現することもあるなど、ある程度の自意識が存在していることに言及される描写が多々ある。「彼」もまた、オリュンポスの運営を通して人間の幸福な繁栄を目指しているのだが、それはことの功罪を計量的に推し量った結果を重視することから、ガイア事件においてはその直前に議会で議論されていた「人類適正化計画(エルビス計画とのルビつき)」(バイオロイド技術を人間に転用し、思考や感情を制御してより統制された社会を構築しようというもの)を「人間としての立場を奪うもの」と判断、全てのバイオロイドを人類の敵とみなして強行的に排除しようとした。同事件では阻止に動いた人間の集団もテロリスト(オリュンポス市内ではテロリストに人権は認めていない)とみなして攻撃、最終的にバイオロイドのヒトミのDNA情報を入力され、さらに攻撃阻止に動いたデュナンらによって事件は終息するも都市機能は相当のダメージを負った。その後ガイアがどのようになったかは余り明言されていないが、議会側の発言力増大に伴い法案の可決が描かれているが、その一方でデュナンらは純粋な人間として「原種保護法」の指定を受けるなど、法案可決と平行して人類そのものを種として保護しようとする動きもあった模様である。 ; ダミュソス : 劇中に登場する一種の[[反重力]]システム。ギュゲスDに搭載され飛行能力を付与している(Dはダミュソスの略)。またヒトミが一般道で運転する車両にも搭載されているなど民生にも開放が進んでいる様である。超振動と呼ばれる技術が用いられている。 ; 超振動 : 反重力などの特性を持つとされる架空の技術。ダミュソスシステムでは超振動コイルと呼ばれる機構が用いられる一方、ポセイドン編では鞭型の近接戦用武器にも使用され、ギュゲスの装甲を軽々と切断する切れ味を見せた。 ; 多脚砲台 : オリュンポスを外敵から守ること、各国が秘かに保有しつづけている軍備に対抗する意図で開発された超大型自律戦闘ロボット。アシナガグモのような外見に、多数の砲身が飛び出した形である。ダミュソスを使って飛行も可能だが、普段は自重軽減に利用されている。オリュンポスの主要コンピュータシステムネットワークであるガイアにより、他の機体と連携して、圧倒的な火力でオリュンポスを守護するはずだった。しかしバイオロイドを人間の敵とみなしたガイアにより引き起こされたガイア事件の際には、あろうことか守護対象であるはずのオリュンポス市民らにその銃口が向けられ、甚大な被害を及ぼした。同事件終結後には幾分の改修もあったようだが結局は多脚銃座とともに配備され、必要に応じてオリュンポス外での作戦行動時の火力支援にも利用されている模様。 ; 多脚銃座(オートインセクター) : オリュンポス内部で多脚砲台を運用すると、その図体や圧倒的火力が仇となって無制限に破壊を撒き散らすため、都市内での運用を目的として導入された小型の自律戦闘ロボット。概ね乗用車程度の大きさだが無人で稼動し、[[バルカン砲]]で並みのランドメイト程度なら撃破する威力を持つ。警察組織の管轄で、ESWATとは指揮系統も異なるらしい。ベゼクリク事件では規格外の巨体と装甲に守られた巨人装備に苦戦、跳弾で被害を拡散させるなどした挙句、敵に乗っ取られてESWATを追い詰めた。 ; コットス : オリュンポス内に多数配備されているロボットポリス。言語も解するが融通が利かない。 : オリジナルは素性不明の戦闘ロボットで、オリュンポスSWATでデュナンと同じ部隊に所属していたが、元老院に引き抜かれて量産化された。オリジナルはその後デュナン達のガイア制圧作戦に参加するが、ガイアに操られてデュナンを襲ったためブリアレオスに粉砕された。なお内蔵装備として報告書作成用の記録装置も備えており、ガイア事件の報告書作成でデュナンとブリアレオスはこの記録装置を破壊してしまったために余計な苦労を強いられたらしい。後に警察ロボットとして正式配備され、ベゼクリク事件の頃までには一般道の検問などで礼儀正しく一般市民に応対している姿なども登場している。しかし融通の利かなさは相変わらずで、デュナンの勘違いではあったが緊急の作戦行為で行われたカーアクションに対して、道路交通法を盾にドライバーに注意をするなどもしている。 :ジャイロ機能になっている内耳が弱点で両耳付近を叩かれると前後不覚に陥る ; エアポリス・ヘリ : オリュンポス・エアポリスが使用する一人乗り小型ヘリ。二重反転ローターを採用し、機動性に優れる。パイロットはバイクにまたがるような格好で搭乗する。基本装備は機体下のバルカン砲などだが、このほかに偵察装備としてローター上部にカメラアイを備える。 ; ランドクルーザー : 整地不整地を問わず移動できる乗物の総称だが、作中では加えてホバークラフト的な乗物であり、また装甲を施された戦闘車両でもある。原作ではデュナンやブリアレオスと死闘を演じたが、高機動のブリアレオスに注意を奪われていた隙にヒトミに手榴弾を放り込まれて内部から破壊され、爆散した。 == 書籍情報 == 青心社より単行本4巻が発売されているが、他に同社より原稿原寸版(1-3巻)、[[講談社]]より[[B5判]]の大型版(1・2巻合本)、[[メディアファクトリー]]より文庫版が刊行されている。なお第5巻は「アルテミスの遠矢」というタイトルが発表され、画集『[[イントロンデポ]]』にはカバーイラストも掲載されている。[[1991年]]にコミックガイアで『[[仙術超攻殻ORION]]』に続いて連載されたが、「やはり連載という形態はアップルには合わない」として中断された。連載分は『士郎正宗ハイパーノーツ』に収録された。現状ではソ連崩壊に伴う作品中の世界観と現実における世界情勢の乖離、および自身のスタンスの変化により続きを描くのは困難と士郎は語っている。 [[雑誌]]連載を経ずに直接単行本として刊行された経緯から、一部の巻において雑誌原稿では用いることの出来ない薄墨を用いて、単色ではなく[[グレースケール]]で[[印刷]]する試みがなされている{{Efn2|文庫版では通常の単色印刷となっている。}}。 また第4巻刊行後、青心社から設定解説資料や短編を収録した『アップルシード データブック』が刊行され、後に本編新装版に合わせて内容を一部変更した『アップルシードid』として再版された。 ; 単行本(青心社) # プロメテウスの挑戦([[1985年]][[2月15日]]、[[青心社]]、ISBN 4-915333-19-1) # プロメテウスの解放(1985年[[11月10日]]、青心社、ISBN 4-915333-23-X) # プロメテウスの小天秤([[1987年]][[7月31日]]、青心社、ISBN 4-915333-33-7) # プロメテウスの大天秤([[1989年]][[4月15日]]、青心社、ISBN 4-915333-57-4) ; 文庫版(メディアファクトリー) # プロメテウスの挑戦([[2001年]][[6月19日]]、ISBN 4-8401-0302-X) # プロメテウスの解放(2001年[[7月19日]]、ISBN 4-8401-0317-8) # プロメテウスの小天秤(2001年[[8月19日]]、ISBN 4-8401-0342-9) # プロメテウスの大天秤(2001年[[9月19日]]、ISBN 4-8401-0353-4) ; 合本(講談社) :* APPLESEED 01&02([[2004年]][[3月23日]]、ISBN 4-06-334856-3) ; 設定資料集 :* アップルシード読本 士郎正宗の映像世界([[1988年]][[11月10日]]、[[バンダイ]]、ISBN 4-89189-361-3) :* アップルシード DATA BOOK([[1990年]][[5月30日]]、[[青心社]]、ISBN 4-915333-69-8) :* コミックガイア版 アップルシード総集編 士朗正宗ハイパーノーツ([[1996年]][[1月25日]]、青心社、ISBN 4-87892-085-8) :* アップルシード id ILLUST&DATA([[2001年]][[7月15日]]、青心社、ISBN 4-87892-219-2) == OVA == === アップルシード === [[1988年]][[4月21日]]に発売されたOVAで、初のアニメ化作品<ref name="mikiki5160">{{Cite web|和書|url=https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/5160 |author= 北野創|title= 映画「アップルシード アルファ」 Part.2 アニメ版「アップルシード」と荒牧伸志監督の過去作をプレイバック!|date= 2015-01-29|accessdate= 2023-03-31 |website=Mikiki |publisher= [[タワーレコード|TOWER RECORDS ONLINE]] }}</ref>。監督と脚本は[[片山一良 (アニメ監督)|片山一良]]が手がけている{{R|akiba22888}}。当初は「[[ガイナックス]]制作の劇場用アニメ」と報じられたが、後に60分ほどのOVAと訂正された{{R|akiba22888}}。またガイナックスは直接制作には携わらず、実制作は[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]]と[[センテスタジオ]]が担当することも明らかになった{{R|akiba22888}}。 原作の多脚砲台が暴走するエピソードをベースに、作品を理解しやすいようにストーリーが手直しされている。やや密度の薄い出来となっているが、その分、一読しただけでは何がどうなっているのかわからない難解な原作漫画の骨格がわかりやすくなっている{{R|akiba22888}}。キャラクターデザインを[[スタジオぴえろ]]制作の[[魔女っ子]]シリーズを手掛けていた[[洞沢由美子]]が担当しているため、絵の雰囲気が原作とはまったく異なるが、主人公ふたりは少し茶目っ気のある言動もあり、アニメ化作品の中で原作の雰囲気にいちばん近い{{R|akiba22888|mikiki5160}}。また偏執的に描き込まれた原作に比べて全体的にこだわりの少ない描写の中で、銃器描写は実在する銃(デュナンの[[コルト・ガバメント]]や当時の最新鋭モデルであったオーストリア製の[[グロック17]]など)を登場させたりとリアルに描いてある。 OVAのプロモーション用に、バンダイが発行していた月刊模型誌「[[B-CLUB (模型雑誌)|B-CLUB]]」の企画で製作したブリアレオスとデュナンのコスチュームを使用した[[実写]][[ショートフィルム]]が制作された{{R|akiba22888}}。デュナン・ナッツ役には白人女性を起用している{{R|akiba22888}}。ショートフィルムは「プレリュードフィルム」というタイトルで、後に発売されたDVDに特典映像として収録された{{R|akiba22888}}。 ; あらすじ 第3次世界大戦後の地球。荒廃した世界を統合管理局が立て直し、亜人類バイオロイドによって運営される実験理想都市「オリュンポス」が作られた。生き残った人間はその中でバイオロイドと共存しながら平和に暮らしていた。しかし、いまだ廃墟のままの外の世界から侵入した「自由人間解放同盟」を名乗るテロリストが暗躍しており、オリンポスは彼らに対抗するために特殊部隊を結成した。その隊員であるデュナンとブリアレオスは、バイオロイドと人間に関する機密情報の奪い合いに巻き込まれてしまう。 ; 声の出演 :* デュナン - [[勝生真沙子]] :* ブリアレオス - [[坂口芳貞]] :* アテナ - [[沢田敏子]] :* カロン - [[古川登志夫]] :* フレイア - [[土井美加]] :* セバスチャン - [[若本規夫]] :* ヒトミ - [[荘真由美]] :* ヨシツネ - [[三ツ矢雄二]] :* ニケ - [[滝沢久美子]] :* ネレウス - [[大木民夫]] :* 警察部長 - [[藤本譲]] :* 立法院の女 - [[横尾まり]] :* TV電話の警官 - [[小野健一 (声優)|小野健一]] :* SWAT隊員X - [[大山高男]] :* ガイアの係員 - [[古田信幸]] :* TVアナウンサー - [[小室正幸]] :* 警官A - [[松本保典]] :* テロリストリーダー - [[戸谷公次]] :* ニュースセンター局員 - [[秋元羊介]] ; スタッフ :* 監督・脚本 - [[片山一良 (アニメ監督)|片山一良]] :* 原作 - 士郎正宗(青心社刊) :* 製作 - 中川真二、末吉博彦、高橋豊 :* 企画 - 早瀬公郎 :* キャラクターデザイン・作画監督 - [[洞沢由美子]] :* メカニック作画監督 - [[岸田隆宏]] :* 美術監督 - [[小倉宏昌]] :* 撮影監督 - 藤田正明 :* 音響監督 - [[伊達康将]] :* メカニックスーパーバイザー - [[庵野秀明]] :* 音楽 - 山中紀昌 :** テーマソング - 「Crystal Celebration」[[結城梨沙]] :** サントラ盤 - [[キングレコード]] :* 選曲 - [[鈴木清司]] :* 効果 - [[倉橋静男]]([[東洋音響効果グループ|東洋音響]]) :* 調整 - 山田均 :* 録音スタジオ - [[アオイスタジオ]] :* 編集 - [[掛須秀一]] :* 現像 - [[東京現像所]] :* 制作協力 - [[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]]、センテスタジオ :* 制作 - [[ガイナックス]] :* 製作 - [[東北新社]]、[[バンダイ]]、[[ムービック]] ==== プレリュードフィルム ==== DVD特典のプロモーション用実写映像。 ; キャスト :* デュナン - カトリーナ・ケイシー :* ブリアレオス - 佐野孝広 :* ナレーター - [[若本規夫]] ; スタッフ :* 演出・構成 - [[赤井孝美]] :* 音楽 - 山中紀昌 :* 撮影 - 岩根真一 :* 照明 - 江口和人 :* 特殊効果 - 納富貴久男([[ビッグショット (特殊効果)|BIG SHOT]]) :* キャラクター造型 - [[品田冬樹]] :* ミニチュア造型 - 平田篤史 :* 造型アドバイザー - [[安井尚志]] :* メイク - Seeds Visiora"KATSU" :* スチール - 高瀬ゆうじ :* 車輛 - 飯田史雄 :* 選曲 - 鈴木清司 :* 音響効果 - 倉橋静男(東洋音響) :* 現像 - 東京現像所 :* 協力 - スタジオシティ、AIC、[[虫プロダクション]]、[[ゼネラルプロダクツ]]、[[DAICON FILM]] :* 制作協力 - [[B-CLUB (模型雑誌)|月刊B-CLUB]]、ガイナックス、ソニービデオソフトウエアインターナショナル :* 制作 - 東北新社 == アニメ映画 == {{Anchors|映画}} === APPLESEED === 世界で初めてフル3Dライブアニメという表現手法によって映像化された作品。3Dライブアニメとは[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]をセルアニメのような画風に変換する[[トゥーンレンダリング|トゥーンシェーダー]]と、登場人物のリアルな動きを可能とする[[モーションキャプチャ]]技術を融合させた手法を示す造語である。セルアニメに近い画風でありながら、従来のアニメーションと比べ、自由なカメラワークやよりリアルな動きが表現できる。[[2004年]][[4月17日]]の劇場公開を待つことなく、続編の制作が発表された。 原作者の士郎はノータッチである。監督の[[荒牧伸志]]は士郎の世界観を壊さずに一般の客層へのアピールを行うことを留意したという<ref name = "宇宙船112">{{Cite journal |和書|date=2004-05-01 |author=古城陽太 |title=トクサツ遺伝子研究所 荒牧伸志インタビュー |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.112 |issue=(2004年5月号) |page=111 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |id=雑誌コード:01843-05}}</ref>。 主人公デュナンは、声優が顔のモーションキャプチャー(フェイシャルキャプチャー)を行い、それ以外のシーンでは2名がアクションシーンと演技シーンを分担してモーションキャプチャーを行っている。声と顔の演技を務めるのは[[小林愛]]、全身の演技を[[三輪明日美]]が担当。アクションシーンをアクション女優の[[秋本つばさ]]が担当している。 多脚砲台の登場シーンでは[[怪獣映画]]の要素を取り入れている{{R|宇宙船112}}。荒牧は「夜の街で多脚砲台が送電線を横切る」というカットについて、スタッフからの「未来都市に送電線があるのか」「夜景で黒い多脚砲台は見えづらい」という指摘を押しのけて強引に入れ込んだと述べている{{R|宇宙船112}}。 DVDは続編公開時点までに、全世界で42万枚以上を売り上げるなど、好調なセールスを記録した<ref name="ex_machina">EX MACHINA映画パンフレットより。</ref>。 ; あらすじ : 世界大戦後の廃墟で生き延びていた女性兵士デュナンは、人類への奉仕者として肉体・感情を制御されたクローン人間バイオロイドの管理する理想都市オリュンポスに連行され、そこで全身サイボーグ化していた恋人ブリアレオスと再会する。彼の所属する元老院ESWATの一員となったデュナンは、やがてバイオロイドの開発とオリュンポス計画に自分の両親が関わっていた事実を知り、自身もバイオロイドの軛を解き放つ鍵「アップルシード」をめぐる陰謀に巻き込まれていく。 ; 声の出演 :* デュナン - [[小林愛]] :* ブリアレオス - [[小杉十郎太]] :* ヒトミ - [[松岡由貴]] :* ウラノス将軍 - [[藤本譲]] :* ハデス - [[子安武人]] :* アテナ - [[小山茉美]] :* ニケ - [[山田みほ|山田美穂]] :* 義経 - [[森川智之]] :* 七賢老 - [[仲木隆司]]、[[松岡文雄]]、[[永田博丈]]、桑垣紀彦、[[金子由之]]、[[西川幾雄]]、[[小山武宏]] ; スタッフ :* プロデュース - [[曽利文彦]] :* 監督 - [[荒牧伸志]] :* 脚本 - 半田はるか、[[上代務]] :* 絵コンテ - [[秋山勝仁]]、九市、吉田英俊、荒巻伸志 :* 製作 - アップルシード・パートナーズ(ミコット・エンド・バサラ、[[TBSテレビ|TBS]]、[[ジェネオン・エンタテインメント]]、やまと、[[東宝]]、[[ティー・ワイ・オー|TYO]]、[[デジタル・フロンティア]]、[[毎日放送|MBS]]) :* 配給 - [[東宝]] ; 音楽 :* [[BOOM BOOM SATELLITES]]:DIVE FOR YOU、BUMP OVER HILL、ANTHEM、UNDERDOG :* [[w:Paul_Oakenfold|Paul Oakenfold]]:BURNS ATTACK :* [[坂本龍一]]:coro :* [[w:T.Raumschmiere|T.Raumschmiere]]:ONE MAN ARMY :* [[カール・クレイグ]] vs. Adult.:HAND TO PHONE :* [[ベースメント・ジャックス|Basement Jaxx]]:GOOD LUCK :* [[アクフェン|Akufen]]:THE DRAGONFLY WHO THOUGHT HE WAS A MOCKINGBIRD :* [[w:Uwe_Schmidt|Atom TM]]:WHITE CAR === EX MACHINA === [[2007年]][[10月20日]]に続編『'''EX MACHINA -エクスマキナ-'''』が公開された。プロデューサーは『[[フェイス/オフ]]』や『[[ミッション:インポッシブル2|M:i:2]]』等を監督した[[ジョン・ウー]]が担当。 衣装デザインはファッションブランド、[[PRADA]]の[[ミウッチャ・プラダ]]。 音楽監修を[[細野晴臣]]が担当。元[[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]]の三人(細野、[[坂本龍一]]、[[高橋幸宏]])が[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|HASYMO]]名義でメインテーマ『[[RESCUE (HASYMOの曲)|RESCUE]]』を書き下ろしている。その他、[[テイ・トウワ]]、[[小山田圭吾|コーネリアス]]、[[m-flo]]、[[レイ・ハラカミ|rei harakami]]などが名を連ねている。 キャストについてはデュナン役は前作から引き続いて[[小林愛]]が担当するが、それ以外のキャラクターについては大幅なキャストの変更が加えられている。映像も前作よりリアル調のシェーディング・テクスチャが施されている。 副題の「EX MACHINA」はラテン語の[[デウス・エクス・マキナ]]という言葉から来ている。意味は「機械じかけの神」、転じてご都合主義的な話の展開などを表すネガティブな言葉である。 ; あらすじ : 各国の軍事衛星をオリュンポスの管理下に置くことを議題とした国際会議の開催を控え、デュナン達ESWATはテロリストの鎮圧に従事していたが、任務の最中に彼女を庇ったブリアレオスが負傷、傷心のデュナンの前に、新たなパートナーとしてブリアレオスの遺伝子から創られた生身の彼と同じ顔の戦闘用バイオロイド・テレウスが現れる。やがて国際会議の開催中に、ウェアラブル・インターフェイスの着用者が突然正気を失い破壊活動を行う事件が頻発する。しかしそれは、さらなる大規模なサイバーテロの予兆に過ぎなかった。 ; 声の出演 : 役名 - 日本版[[声優]]/英語吹き替え :* デュナン・ナッツ - [[小林愛]]/[[:en:Luci Christian|Luci Christian]] :* ブリアレオス・ヘカトンケイレス - [[山寺宏一]]/[[:en:David Matranga|David Matranga]] :* テレウス - [[岸祐二]]/[[:en:Illich Guardiola|Illich Guardiola]] :* ヒトミ - [[沢城みゆき]]/[[:en:Hilary Haag|Hilary Haag]] :* ニケ - [[五十嵐麗]]/[[:en:Shelley Calene-Black|Shelley Calene-Black]] :* アテナ - [[高島雅羅]]/[[:en:Allison Sumrall|Allison Sumrall]] :* ランス・ロット - [[辻親八]]/[[:en:Chris Hutchison|Chris Hutchison]] :* 義経 - [[加瀬康之]]/[[:en:Chris Patton|Chris Patton]] :* マヌエル・アイアコス - [[コング桑田]]/[[:en:Mike MacRae|Mike MacRae]] :* リヒャルト・ケスナー博士 - [[土師孝也]]/[[ジョン・グレミリオン|John Gremillion]] :* 吉野ハジメ - [[深見梨加]]/[[:en:Melissa Davis|Melissa Davis]] :* アルゲス - [[黒田崇矢]]/[[:en:Quentin Haag|Quentin Haag]] :* エリザベス・ザンダー博士 - [[幸田直子]]/[[:en:Alice Fulks|Alice Fulks]] ; スタッフ :* 原作 - [[士郎正宗]] :* 監督 - [[荒牧伸志]] :* 脚本 - たけうちきよと :* 製作 - 三宅澄二、遠藤茂行、[[佐藤慶太]]、[[梅村宗宏]]、吉田博昭、植木英則、石井徹 :* プロデューサー - テレンス・チャン、植木英則、渡邉直子、ジョセフ・チョウ :* プロデュース - [[ジョン・ウー]] :* エグゼクティブプロデューサー - 三宅澄二、木下泰彦 :* キャラクターデザイン - 山田正樹 :* メカニックデザイン - [[高倉武史]] :* CGディレクター - 大塚康弘、川村泰 :* CGプロデューサー - [[豊嶋勇作]] :* 音楽 - [[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|HASYMO]]、[[細野晴臣]]、[[テイ・トウワ]]、[[小山田圭吾|コーネリアス]]、[[レイ・ハラカミ|rei harakami]]、[[m-flo]]、[[WAGDUG FUTURISTIC UNITY]]、[[青木孝允|AOKI takamasa]]、[[TECHNOBOYS PULCRAFT GREEN-FUND]]、[[太田莉菜|LINA OHTA]]、[[半野喜弘|RADIQ aka Yoshihiro HANNO]] :* 音楽プロデューサー - 安井輝 :* 音楽監修 - [[細野晴臣]] :* テーマ曲 - [[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|HASYMO]] 『RESCUE』 :* オリジナル・スコア - [[高橋哲也 (作曲家)|高橋哲也]] :* 音響監督 - [[鶴岡陽太]] :* 音響制作 - [[楽音舎]] :* サウンドデザイン - [[笠松広司]] :* デザイン協力 - 士郎正宗 :* デュナン私服・ドレスデザイン - [[ミウッチャ・プラダ]] :* 企画 - [[ミコット・エンド・バサラ]] :* 制作 - EX MACHINAフィルムパートナーズ(ミコット・エンド・バサラ、[[東映]]、[[タカラトミー]]、セガ、TYO、[[デジタル・フロンティア]]、[[東映ビデオ]]) :* 配給 - 東映 === Appleseed Alpha === {{main|Appleseed Alpha}} 『アップルシード α(Appleseed Alpha)』は、3作目となる長編アニメ。[[2014年]][[7月]]に欧米を中心に[[ビデオスルー]]公開、[[日本]]では[[2015年]][[1月]]に劇場公開された。原作第一巻をベースとした[[リブート (作品展開)|リブート]]作。荒牧伸志による長編アニメ三作目で、過去の二作品よりも更に実写的なCGスタイルで制作された。 == テレビアニメ == {{Wikinews|漫画『アップルシード』が3DCGでTVアニメ化 - 2009年春に放送予定}} === APPLESEED GENESIS === 2008年3月30日、東京国際アニメフェアにて『'''APPLESEED GENESIS'''』(アップルシード・ジェネシス)のタイトルで、全編[[3DCG]]の[[テレビアニメ]]を製作することが発表された<ref name="animeanime2955">{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2008/03/31/2955.html |author= |title=TV「アップルシード」 キャラデザに美樹本晴彦 TAFで発表 |date=2008-03-31 |accessdate= 2023-03-31|website=アニメ!アニメ!|publisher= [[イード (企業)|イード]]}}</ref>。オリュンポスが完成する以前、理想郷の完成を阻止しようとするテロリストたちとデュナン・ナッツらESWATとの戦いが描かれるオリジナルストーリーで、各話30分全26話で2009年春より放送予定であった。製作は3Dアニメーションで定評のあるミコット・エンド・バサラ、監督は3DCGのインディーズ作家として同じく士郎正宗原作の『警察戦車隊 TANK S.W.A.T. 01』のアニメーションを監督し、メジャーのテレビシリーズ監督はこれが初となる[[ロマのフ比嘉]]、キャラクターデザインは[[美樹本晴彦]]{{R|animeanime2856}}。海外販売を前提にしていたため、通常のテレビアニメと異なり、放送開始までに全話数の制作を完了することを目指し、放映1年前のこの時点で既に制作に入っていた<ref name="animeanime450">{{Cite web|和書|url= https://animeanime.jp/biz/archives/2008/09/post_450.html|author= |title= 「アップルシード ジェネシス」制作中断? 制作会社が発注元を提訴|date=2008-09-26 |accessdate= 2023-03-31|website=アニメ!アニメ!|publisher= [[イード (企業)|イード]]|archiveurl= https://web.archive.org/web/20090530190429/https://animeanime.jp/biz/archives/2008/09/post_450.html |archivedate=2009-05-30 }}</ref>{{Efn2|全26話分のシナリオが既に仕上がっており、絵コンテも8話まで完成していた{{R|animeanime2955}}。}}。 しかし、2008年9月にアニメ制作会社[[ラディクスエースエンタテインメント|ラディクスモバニメーション]]が、制作元のミコット・エンド・バサラを制作代金の未支払いを理由に提訴{{R|animeanime450}}<ref name="animeanime4946">{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2009/07/16/4946.html |author= |title=TV「アップルシード」ミコットがラディクスを反訴 賠償金1億6千万円 |date=2009-07-16 |accessdate= 2023-03-31|website=アニメ!アニメ!|publisher= [[イード (企業)|イード]]}}</ref>。その後、[[2011年]]にミコット・エンド・バサラが倒産したため、製作は中止となった。 ; キャスト :* デュナン・ナッツ - [[朴璐美]] ; スタッフ :* 原作 - [[士郎正宗]] :* 監督 - [[ロマのフ比嘉]] :* 脚本 - [[野崎透]]、ロマのフ比嘉、烏丸涼 :* キャラクターデザイン - [[美樹本晴彦]] :* 制作・音響制作 - [[ラディクスエースエンタテインメント|ラディクスモバニメーション]] :* 3D制作協力 - 有限会社[[スタジオアールエフ]] :* 企画・製作 - ミコット・エンド・バサラ === APPLESEED XIII === アップルシード XIII(サーティーン)」は、「アップルシード」の映像作品としては初の、全13話(=サーティーン)からなる完全新作アニメシリーズ。[[2011年]][[6月]]より、劇場での期間限定上映、ネット配信、[[Blu-ray Disc]]・[[DVD]]発売を同時展開。 2011年6月13日より劇場リミックス版「アップルシード XIII 〜遺言〜」、同年10月24日より「アップルシード XIII 〜預言〜」が公開。 ; キャスト :* デュナン - [[坂本真綾]] :* ブリアレオス - [[山寺宏一]] :* ランス - [[内田直哉]] :* マグス - [[中田譲治]] :* バクスタ - [[菅原正志]] :* リエス - [[鈴森勘司]] :* ジーナ - [[小清水亜美]] :* グリッグ - [[津田健次郎]] :* アテナ - [[玉川砂記子]] :* ニケ - [[柳沢真由美]] :* ヒトミ - [[高橋美佳子]] :* 義経 - [[下野紘]] :* ディア - [[進藤尚美]] :* アルケイデス - [[置鮎龍太郎]] :* レオン - [[藤原啓治]] :* カール - [[楠大典]] :* エウリス - [[土屋トシヒデ]] :* ラーク - 置鮎龍太郎 ; スタッフ :* 原作・キャラクターデザイン原案 - 士郎正宗(青心社刊) :* 監督 - [[浜名孝行]] :* シリーズ構成 - [[藤咲淳一]] :* 脚本 - 藤咲淳一・[[櫻井圭記]]・谷村大四郎・岡本航征・梅原英司 :* 助監督 - 布施木一喜 :* CG監督 - 渡辺昭仁 :* キャラクターデザイン - [[後藤隆幸]] :* メカニックデザイン - [[竹内敦志]] :* 美術監督 - 野村正信 :* 美術設定 - 平澤晃弘 :* テクニカルディレクター - 岩井文吾 :* 編集 - 植松淳一 :* 美術背景 - [[美峰]] :* プロップデザイン - ヒラタリョウ :* 主題歌・音楽 - Conisch([[コーニッシュ (日本のミュージシャン)|コーニッシュ]]) :* 音楽制作 - [[スターチャイルド|スターチャイルドレコード]] :* 音響監督 - [[鶴岡陽太]] :* 音響制作 - [[楽音舎]] :* 企画 - ミコット・エンド・バサラ :* プロデューサー - 池田慎一・森下勝司 :* 制作 - ジーニーズアニメーションスタジオ :* 制作協力 - [[プロダクション・アイジー|Production I.G]] :* 製作 - 「アップルシード XIII」製作委員会 ==== 各話リスト ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!アニメーション制作 |- |第1話||楽園の終わり||[[藤咲淳一]]||[[浜名孝行]]||難波克毅||ダイナモピクチャーズ |- |第2話||囚われのゆりかご||[[櫻井圭記]]||新留俊哉||佐藤明登||ウェルツアニメーションスタジオ |- |第3話||偽りの面影||谷村大四郎||布施木一喜||本岡宏紀||プレミアムエージェンシー |- |第4話||タンポポと少女||櫻井圭記||西久保利彦||由水桂||モズー&ケイカ |- |第5話||潜血の亡霊||岡本航征||布施木一喜||山崎拓哉||ダンデライオンアニメーションスタジオ |- |第6話||錆色の楽園||rowspan="2"|藤咲淳一||新留俊哉||竹清仁||空気 |- |第7話||青銅の鳥||浜名孝行||岡本晃||フレームワークス・エンターテインメント |- |第8話||ディープダイブ||谷村大四郎||河野利幸||堤義幸||ガレージフィルム |- |第9話||女王の宝||[[梅原英司]]||浜名孝行||古賀祐次||D1FX |- |第10話||石像の陰で||櫻井圭記||布施木一喜||森英夫||Kantana Animation Studios |- |第11話||最後の一人||rowspan="2"|藤咲淳一||新留俊哉||岩崎朋之||エヌ・デザイン |- |第12話||復讐の彼方に||浜名孝行||小笠原俊介||ジーニーズアニメーションスタジオ |- |第13話||楽園||櫻井圭記||原口浩||古川彰吾||ピクス |} ==== 劇場リミックス版 ==== * アップルシード XIII 〜遺言〜([[2011年]][[6月13日]]公開) * アップルシード XIII 〜預言〜(2011年[[10月24日]]公開) ==== 漫画版 ==== [[宮川輝]]により[[漫画化]]され、『[[月刊アフタヌーン]]』([[講談社]])[[2011年]][[12月]]号より[[2013年]][[6月]]号まで連載された。 ストーリーはアニメ本編のシナリオをほぼなぞる形になっているが、ラストシーンなど一部はオリジナルの展開で再構築されている。また、原作や過去のアニメ化作品のオマージュと思われるシーンが多く、アニメ本編には登場しない立法院の七賢老、大佐、アルゲス、吉野、A-10(ボルト、ジャンク)が登場したり、デュナンとブリアレオスの恋愛関係が強く押し出された[[ラブコメ]]的な場面もたびたび登場する。細密なメカニック描写やアクションシーンが高く評価される一方で、独特の画風やキャラクターのデフォルメ、[[関西弁]]を多用したセリフ回しは賛否両論となっている。 余談であるが、作者の宮川輝は今回のコミカライズの依頼があるまで漫画のアップルシードを読んだことがなく、担当者を驚かせたという。 # アップルシード・サーティーン(1)([[2012年]][[4月23日]]、[[講談社]]、ISBN 978-4-06-387820-2) # アップルシード・サーティーン(2)(2012年[[12月21日]]、講談社、ISBN 978-4-06-387857-8) # アップルシード・サーティーン(3)([[2013年]][[5月23日]]、講談社、ISBN 978-4-06-387888-2) == 小説 == === オリュンポス・アイ === 大武完による『アップルシード』の[[スピンオフ]]小説。同じ世界を舞台にした外伝。 *『アップルシード外伝1 オリュンポス・アイ』(大武完 著・士郎正宗 原作、青心社、ISBN 978-4-87892-343-2、発売日 [[2007年]][[10月]]) ; あらすじ 非核大戦の動乱はハワイにも及んだ。味方の裏切りによる殺戮をかろうじて生き延びたルシア、ゲンゾー、シフォンの三人は、ヒトミに救助されてオリュンポスに入植する。 == ドラマCD == === 近未来的音楽学習専科 アップルシード === [[1988年]][[5月5日]]に[[キングレコード]]から発売されたイメージアルバム。OVA版の事実上の[[サウンドトラック]]的な内容の[[ドラマCD]]だが、ドラマパートのキャストはOVA版とは異なる。 * 『近未来的音楽学習専科 アップルシード』([[1988年]][[5月5日]]、キングレコード、K32X-7122) ; 声の出演 :* デュナン/ナレーション - [[鶴ひろみ]] :* ブリアレオス - [[屋良有作]] :* ヒトミ - [[芳野日向子|金丸日向子]] :* 義経 - [[草尾毅]] :* コットス - [[掛川裕彦]] ; スタッフ :* 音楽 - 山中紀昌 :* 制作 - [[スターチャイルド|スターチャイルドレーベル]] ; トラックリスト :# プロローグ :# MY STORM(歌:結城梨沙) :# CURIOUS GAME :# オリュンポス :# Crystal Celebration(アップルシードOVA版ED/歌:結城梨沙) :# アルテミス・アルパイア :# CIVVY STREET :# LIFE POINT :# DEAD OR ALIVE :# APPLESEED(ドラマ) :# Ambivalence(歌:増田直美) == ゲーム == [[スーパーファミコン]]および[[PlayStation 2]]用として『アップルシード EX』が発売されている。また、[[オンラインゲーム]]『[[アップルシード タクティクス]]』としても展開されている。 * アップルシード([[1988年]][[10月]]、発売元 [[ツクダホビー]]、ボックス) - [[テーブルトークRPG]] * アップルシード プロメテウスの神託([[1994年]][[8月26日]]、発売元 ヴィジット、スーパーファミコン) - 家庭用ゲーム機 * APPLESEED THE ONLINE([[2005年]][[9月9日]]、エムツー、ネット) - オンラインゲーム * APPLESEED EX([[2007年]][[2月15日]]、セガ、PlayStation 2) - 家庭用ゲーム機 * APPLESEED TACTICS([[2008年]][[10月17日]]、エムツー、ネット) - オンラインゲーム * APPLESEED XIII([[2011年]][[6月13日]]、[[ハンゲーム]]、ネット) - オンラインゲーム === アップルシード EX === 『アップルシード EX』(アップルシード エクス)は、[[2007年]][[2月15日]]に[[セガ]]が発売した ガン&ファイティング[[アクションゲーム]]。製作は[[ドリームファクトリー (企業)|ドリームファクトリー]]。 漫画を題材に[[2004年]]に劇場公開された[[映画]]『APPLESEED』を元にしている。ゲーム中に流れるムービーなどは監督である[[荒牧伸志]]と同映画でCGを担当したデジタル・フロンティアが製作するなど、映画との連動を強く打ち出しているものの、ゲームの内容については[[クロスレビュー|ファミ通レビュー]]において過去の最低点より一つだけ上(40点満点中13点)という評価がなされている。 ==== キャラクター ==== * デュナン・ナッツ - 小林愛 * ブリアレオス・ヘカトンケイレス - 小杉十郎太 * ヒトミ - 松岡由貴 * 宮本 義経 - 森川智之 * ハデス - 子安武人 * ランス - [[小山武宏]] * レイトン - [[稲田徹]] === アップルシード タクティクス === {{Main|アップルシード タクティクス}} === アップルシード XIII(ゲーム) === アップルシード XIII(サーティーン)のマルチプラットフォーム対応ブラウザ型ソーシャルゲーム。 == 関連商品 == ; [[DVD]] & [[Blu-ray Disc]] :* アップルシード・スペシャルプロローグ([[VHS]] & Beta、[[1988年]][[3月5日]]、ソニービデオソフトウェア インターナショナル) :* アップルシード(VHS & Beta & LD、[[1988年]][[4月21日]]、ソニービデオソフトウェア インターナショナル) :* アップルシード(DVD、[[2002年]][[7月25日]]、バンダイビジュアル、映像特典:アップルシード〜Prelude film(実写版)) :* アップルシード プレミアム・エディション(フィギュア付限定版)(DVD、2002年[[7月26日]]、パイオニアLDC) :* APPLESEED(DVD、[[2004年]][[11月25日]]、ジェネオン エンタテインメント) :* APPLESEED COLLECTOR'S EDITION (初回限定生産)(DVD、2004年[[11月25日]]) :* APPLESEED([[Blu-ray Disc]]、[[2009年]][[7月24日]]、ジェネオン・ユニバーサル) :* エクスマキナ Evolution of Appleseed(DVD、[[2007年]][[10月3日]]、[[ポニーキャニオン]]) :* エクスマキナ APPLESEED SAGA スタンダード・エディション(DVD、[[2008年]][[3月14日]]、ポニーキャニオン) :* エクスマキナ APPLESEED SAGA プレミアム・エディション(DVD、2008年[[3月14日]]、ポニーキャニオン) :* APPLESEED SAGA EX MACHINA(Blu-ray Disc、[[2009年]][[7月24日]]、ポニーキャニオン) :* アップルシード XIII(DVD、Blu-ray Disc、[[キングレコード]]) :** Vol.1 [[2011年]][[7月6日]] :** Vol.2 2011年[[8月10日]] :** Vol.3 2011年[[9月7日]] :** Vol.4 2011年[[11月23日]] :** Vol.5 2011年[[12月21日]] :** Vol.6 [[2012年]][[1月25日]] ; サウンドトラック :* アップルシード オリジナル・サウンドトラック([[2004年]][[3月24日]]、[[ソニーレコード]]) :* アップルシード オリジナル・サウンドトラック〜コンプリートバージョン(2004年[[3月24日]]、ソニーレコード) :* EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK([[2007年]][[10月17日]]、commmons) :* EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK COMPLETE EDITION(2007年10月17日、commmons) :* アップルシードXIII サウンドトラック([[2011年]][[10月26日]]、[[キングレコード]]) ; 書籍 :* APPLESEED アップルシード コンプリートBOX 限定フィギュア付([[2004年]][[4月9日]]、[[宝島社]]、ISBN 4-7966-4041-X) :* APPLESEED SAGA EX MACHINA エクスマキナ パーフェクトガイドブック ([[2007年]][[10月19日]]、宝島社、ISBN 978-4-7966-6072-3) :* アニメコミックス 『アップルシード sideA』(2004年[[4月17日]]、[[講談社]]、ISBN 4-06-310188-6) :* アニメコミックス 『アップルシード sideB』(2004年[[5月7日]]、講談社、ISBN 4-06-310189-4) :* 小説 『EX MACHINA -エクスマキナ-』(著:竹内清人、幻冬舎文庫、ISBN 978-4-344-41013-8、発売日 2007年[[9月19日]]) == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://appleseed.sega.jp |title=APPLESEED EX -Official Site- |date=20140419191821}} * [http://www.appleseed13.jp/ アップルシードXIII 公式ウェブサイト] {{星雲賞コミック部門|第17回}} {{片山一良監督作品}} {{Video-game-stub|あつふるしいとえくす}} {{Anime-stub|あつふるしいとしえねしす}} {{DEFAULTSORT:あつふるしいと}} [[Category:漫画作品 あ|つふるしいと]] [[Category:士郎正宗の漫画作品]] [[Category:書き下ろし漫画作品]] [[Category:SF漫画作品]] [[Category:1985年の漫画]] [[Category:アクション漫画]] [[Category:警察官を主人公とした漫画作品]] [[Category:サイボーグを題材とした漫画作品]] [[Category:人工知能を題材とした漫画作品]] [[Category:パワードスーツ・プロテクターを題材とした漫画作品]] [[Category:2011年の漫画]] [[Category:漫画雑誌掲載漫画作品]]<!-- コミックガイア連載 --> [[Category:アニメを原作とする漫画作品]] [[Category:月刊アフタヌーン]] [[Category:アフタヌーンKCのアニメ作品]] [[Category:アニメ作品 あ|つふるしいと]] [[Category:1988年のOVA]] [[Category:2004年のアニメ映画]] [[Category:2007年のアニメ映画]] [[Category:2011年のテレビアニメ]] [[Category:日本のテレビアニメ]] [[Category:アクションアニメ]] [[Category:SFアニメ]] [[Category:3DCGアニメ]] [[Category:日本のアニメ映画]] [[Category:漫画を原作とするアニメ映画]] [[Category:漫画を原作とするアニメ作品]] [[Category:警察官を主人公としたアニメ作品]] [[Category:パワードスーツ・プロテクターを題材としたアニメ作品]] [[Category:サイボーグを題材としたアニメ作品]] [[Category:人工知能を題材としたアニメ作品]] [[Category:サイボーグを題材としたアニメ映画]] [[Category:人工知能を題材としたアニメ映画]] [[Category:コンピュータアニメーション映画]] [[Category:日本のSFアクション映画]] [[Category:サイバーパンク映画]] [[Category:モーションキャプチャを使用した映画作品]] [[Category:東北新社のアニメ作品]] [[Category:バンダイビジュアルのアニメ作品]] [[Category:セガグループのアニメ作品]] [[Category:スターチャイルドのアニメ作品]] [[Category:Production I.Gのアニメ作品]] [[Category:NBCユニバーサル・ジャパンのアニメ映画]] [[Category:TBS製作のアニメ映画]] [[Category:東宝製作のアニメ映画]] [[Category:漫画のノベライズ]] [[Category:人工知能を題材とした小説]] [[Category:サイボーグを題材とした小説]] [[Category:人工知能を題材としたコンピュータゲーム]] [[Category:イメージ・アルバム]] [[Category:星雲賞受賞作品]]
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高橋留美子
高橋 留美子(たかはし るみこ、1957年〈昭和32年〉10月10日 - )は、日本の女性漫画家。有限会社るーみっくプロダクション代表取締役。新潟県新潟市出身。血液型A型。 1978年『勝手なやつら』でデビュー。代表作に『うる星やつら』『めぞん一刻』『らんま1/2』『犬夜叉』『境界のRINNE』など。特にラブコメディを得意としており、そのキャラクター造形は「萌え」の原型の一つとも言われている。 少年漫画の分野における女性漫画家の草分け的存在で、代表作はいずれもTVアニメ化されヒットを記録、長期シリーズ化され、単行本の世界累計発行部数は1995年に1億部、2017年には2億部を突破した。その独特の世界観はしばしば「るーみっくわーるど」と称され、作品集のタイトルにも用いられている。 新潟市中央区古町で産婦人科医院を開業していた高橋家の末っ子(2男1女の長女)として生まれる。 父・高橋光雄(1920年 - )は新潟県の医学者で俳人の中田瑞穂(俳号「中田みづほ」)、高野素十に俳句を学んだ「高橋卯木」の俳号を持つ俳人であり、河童を題材にした水墨画を好んで描く画家でもあった。医院の創設者である曽祖父・高橋辰五郎は明治時代に大阪の産婦人科医、緒方正清(緒方洪庵の義理の孫)の下で研修し、帰郷後は新潟県の近代産婆(助産師)教育に貢献している。 幼少期から兄の持ち物であった少年漫画を愛読し、中学の頃から漫画を描くようになり、『週刊少年サンデー』・『月刊漫画ガロ』などに作品の投稿を始める。 高校在学中、同級生であった近藤ようこと共に漫画研究会を設立、同級生にはアニメーターの後藤真砂子もいた。またこの頃から筒井康隆を愛読するようになり、影響を受けてスラップスティックなSF作品を描いていた。2年生の時に40枚ほどの作品を『週刊少年マガジン』に投稿するも落選、一時は漫画家になるのを諦めたという。 高校卒業後は「ダメな子供だから、親元にいたらダメになる一方だ」という父の考え で独立し上京。大学(日本女子大学)では同人作家としても活動し、目白花子と漫画研究会「(没)」を設立。会誌『びびっと』上などで作品を発表していた。その一方で大学1年生の終わり頃から劇画村塾に入学し小池一夫に師事、小池に「お前はプロになれる」と声をかけられすぐに特別研修生となる。 在学中の1978年、投稿作「勝手なやつら」で第2回小学館新人コミック大賞少年部門佳作を受賞(同期の漫画家に早見純がいる)。少年誌でSF的な作品を描こうとして編集者に何度も制止された経験を持つ吾妻ひでおは、当時この作品を読み「マンガが帰ってきた」と感動し、『週刊少年サンデー』の掲載号を3冊も買ったという。 1978年サンデー39号よりSFコメディ『うる星やつら』の連載を開始。約1年半の不定期連載の後、大学卒業を機に同人作家から本格的に漫画家に転身することとなり、1980年春から同作品の週刊連載を開始。 さらに1980年秋から並行して、青年誌『ビッグコミックスピリッツ』にて『めぞん一刻』を、連載開始(当初は月刊、のち月2回、1986年4月より週刊)。デビュー直後は画力が低かったものの、この頃から画力が安定し現在の絵柄を確立した。1987年まで2つの人気作品の連載をこなし、少年誌&青年誌という作風の広さから知名度を高めた。 1987年冬に『うる星やつら』、春に『めぞん一刻』の両作品が相次いで終了し、同年夏から格闘技を題材にしたコメディ『らんま1/2』の連載を開始、この作品は「子供が読んでも楽しい漫画を」 と、より低年齢層を意識して描かれ、ギャグ要素が初期の『うる星やつら』並みに強い作品となった。同年春に『1ポンドの福音』の連載を開始し、不定期連載となる。 1996年冬に『らんま1/2』を終了し、同年秋から『犬夜叉』の連載を開始。かねてから興味のあった伝奇ものの本格連載で、この作品ではギャグ要素を減らしたシリアスな路線を取った。 2008年夏に『犬夜叉』を連載終了。翌2009年春から連載を開始した『境界のRINNE』では、バトル要素を残しつつ、原点であるギャグ要素やコメディ色を強めに戻しよりハートフルな作風が描かれている。2017年冬に同作品の連載を終了し2019年春からは再びシリアスな怪奇ロマン長編『MAO』の連載を開始している。 高橋の作品の多くは英語や他のヨーロッパ言語に翻訳されている。高橋は、なぜ自分の作品が英語話者に人気があるのかはわからないと語った。 高橋とその作品に影響を受けたと述べているアーティストには、『スコット・ピルグリム』を著したカナダのブライアン・リー・オマリー、アメリカ合衆国のコリーン・クーヴァー(英語版)、中国系オーストラリア人のクイニー・チャン(英語版)、タイのウィスット・ポンニミットがいる。スコットランドのロックバンド、ウルセイ・ヤツラは、高橋のヒット作『うる星やつら』に因んで名付けられた。『シャンティ』シリーズのクリエイターであるマット・ボゾンは、彼の作品に大きな影響を与えたものとして『らんま1/2』を挙げた。2015年、「犬夜叉」に一部インスピレーションを得たインド映画「プリ」。ヴィジャイ(俳優)が半虎鬼、高橋留美子「犬夜叉」に似た強力な虎鬼を父に演じる。 2016年、コミックスアライアンスは、高橋を生涯の功労を認めるに値する12人の女性漫画家の内の1人として挙げた。 自身を「未だに中二病」というほどオタク症で、中学・高校とずっと漫画を描き続けてきた。友達や同級生にもプロの漫画家がたくさんいる。そうした環境で、少女漫画よりは少年漫画をずっと読んできた。サンデーの当時の編集長は高橋のことを「すごいのが来た、天才だ」と評し、デビュー。大学の漫画研究会出身で、初の連載でヒットという極めて稀な例であった。 影響を受けた漫画家として「赤塚先生や藤子先生に影響を受けてマンガを始めた」と述べ、憧れとしてちばてつやや永井豪、池上遼一を挙げた。本人曰く「実は池上遼一先生に会うためにマンガ家になったといっても過言ではないんです(笑)」と語っている。 2018年現在は小学館新人コミック大賞の審査員も務めている。 作詞家の岩里祐穂は高校時代の同級生。 「るーみっくわーるど」は、もともとは『うる星やつら』に付けられたキャッチコピーであり、『めぞん一刻』を共に立ち上げた2人目の担当編集者が考えたことがきっかけで生み出された。そのため、それ以前は「爆笑モンスターギャグ」というキャッチコピーだった。これをきっかけに、作品集のタイトルおよび世界観を総括した言葉としても用いられるようになった。 ギャグやコメディ作品で、両手の中指と薬指を曲げ、親指と人差し指と小指を伸ばしたポーズが良く出てくる。「ちゅどーんポーズ」、「るーみっくポーズ」、「るーみっくサイン」などと呼ばれる。これは、キャラクターがぶん殴られて吹っ飛ばされるドタバタシーンなどで、痛そうに見えないように「余裕」を見せるということで用いている。"I love you"を意味するハンドサイン(en:ILY signを参照)と同じ手の形であるが、それは偶然の一致で、"I love you"の意味は後から知ったと高橋は語っている。 ※は単行本未収録作品。 週刊少年サンデー創刊50周年記念として、「高橋留美子展 It's a Rumic World」が2008年7月から2010年3月まで全国各地で開催された。 会場では主に『うる星やつら』、『めぞん一刻』、『らんま1/2』、『犬夜叉』を中心としたカラーイラスト原画や、あだち充、青山剛昌など有名作家34人が『うる星やつら』のラムを描いた「My Lum」等が展示された。また、これに伴い『うる星やつら』・『らんま1/2』・『犬夜叉』3作品のオリジナル短編アニメーションが新規製作され、会場内で上映された。この3作品のアニメはDVD『It's a Rumic World スペシャルアニメBOX』(2010年1月29日発売、完全予約限定商品)に収録されている。さらに、同年10月20日にこれら3作品が単巻Blu-ray、DVDで発売された。 アシスタントは山本貴嗣を除いて全て女性である(ただし上条はデビュー後性別を公表していない)。
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高橋 留美子は、日本の女性漫画家。有限会社るーみっくプロダクション代表取締役。新潟県新潟市出身。血液型A型。
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留美子'''(たかはし るみこ、[[1957年]]〈[[昭和]]32年〉[[10月10日]]<ref name="inuyasha book">{{Cite book|和書|year=2001|title=少年サンデーグラフィック 犬夜叉 高橋留美子原画全集 アニメ犬夜叉の世界|volume=|page=132|publisher=小学館|id=ISBN 4-09-101189-6}}</ref> - )は、[[日本]]の[[女性]][[漫画家]]。[[有限会社]]るーみっくプロダクション[[代表取締役]]。[[新潟県]][[新潟市]]出身<ref name="inuyasha book" />。血液型[[ABO式血液型|A型]]<ref name="inuyasha book" />。 == 概要 == [[1978年]]『[[勝手なやつら]]』でデビュー。代表作に『[[うる星やつら]]』『[[めぞん一刻]]』『[[らんま1/2]]』『[[犬夜叉]]』『[[境界のRINNE]]』など。特に[[ラブコメディ]]を得意としており、そのキャラクター造形は「[[萌え]]」の原型の一つとも言われている<ref>磯部涼「岡田斗司夫×中川翔子 徹底対談」『QuickJapan Vol.71』、90頁-93頁</ref>。 [[少年漫画]]の分野における女性漫画家の草分け的存在で、代表作はいずれも[[テレビアニメ|TVアニメ]]化されヒットを記録、長期シリーズ化され、単行本の世界累計発行部数は[[1995年]]に1億部、[[2017年]]には2億部を突破した<ref>{{Cite news|url= https://mantan-web.jp/article/20170314dog00m200047000c.html |title= 高橋留美子:コミックスが累計2億部突破 あだち充に続く大記録 |newspaper= まんたんウェブ |publisher= 株式会社MANTAN |date= 2017-03-15 |accessdate= 2021-10-14 }}</ref>。その独特の世界観はしばしば「'''[[高橋留美子#るーみっくわーるど|るーみっくわーるど]]'''」と称され、作品集のタイトルにも用いられている。 == 来歴 == === 生い立ち === [[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]][[古町 (新潟市)|古町]]で[[産婦人科]]医院を開業していた高橋家の末っ子(2男1女の長女)として生まれる。 父・高橋光雄(1920年 - )は新潟県の医学者で俳人の[[中田瑞穂]](俳号「中田みづほ」)、[[高野素十]]に俳句を学んだ「高橋卯木」の[[俳号]]を持つ俳人であり、河童を題材にした[[水墨画]]を好んで描く画家でもあった<ref>高橋卯木、るーみっくプロダクション『卯木河童図』、1989年、新潟日報社、奥付、</ref><ref>{{Cite web|和書|url= http://www.n-teramachi.com/tera.01.html.f/tera.dangi.2004.06.12.html |title= 寺町談義2004<第一回> |website= にいがた寺町からの会 |date= 2004-06-12 |accessdate= 2021-10-14 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20040810081202/http://www.n-teramachi.com/tera.01.html.f/tera.dangi.2004.06.12.html |archivedate= 2004-08-10 }}</ref>。医院の創設者である曽祖父・[[高橋辰五郎]]は[[明治|明治時代]]に大阪の産婦人科医、緒方正清([[緒方洪庵]]の義理の孫)の下で研修し、帰郷後は新潟県の近代産婆([[助産師]])教育に貢献している<ref>{{Cite journal |和書|author=大出春江 |title=産婆の近代から助産婦の現代へ |journal=助産婦雑誌 |volume=54 |issue=12 |publisher=[[医学書院]] |date=2000 |url=http://www.tokyobunka.ac.jp/dataroom/archives/shakai/text/text01.html}}</ref>。 幼少期から兄の持ち物であった少年漫画を愛読し、中学の頃から漫画を描くようになり、『[[週刊少年サンデー]]』・『[[ガロ (雑誌)|月刊漫画ガロ]]』などに作品の投稿を始める。 高校在学中、同級生であった[[近藤ようこ]]と共に漫画研究会を設立、同級生には[[アニメーター]]の[[後藤真砂子]]もいた。またこの頃から[[筒井康隆]]を愛読するようになり、影響を受けてスラップスティックなSF作品を描いていた。2年生の時に40枚ほどの作品を『[[週刊少年マガジン]]』に投稿するも落選、一時は漫画家になるのを諦めたという。 === 大学時代 === 高校卒業後は「ダメな子供だから、親元にいたらダメになる一方だ」という父の考え<ref name=QJI>渋谷直角「高橋留美子15,000字インタビュー」、『QuickJapan Vol.71』、76頁-83頁。</ref> で独立し上京。大学([[日本女子大学]])では[[同人作家]]としても活動し、[[目白花子]]と漫画研究会「(没)」を設立<ref>{{Cite web|和書|url=https://marubotsu.1net.jp/outline.html |title=日本女子大学漫画研究会まるぼつ |access-date=2022-07-14}}</ref>。会誌『びびっと』上などで作品を発表していた。その一方で大学1年生の終わり頃から[[劇画村塾]]に入学し[[小池一夫]]に師事、小池に「お前はプロになれる」と声をかけられすぐに特別研修生となる<ref>「のさかけも」「けもみとめ」などの[[ペンネーム]]で作品を数点描いている。「けもこびる」名義では、1978年当初、商業誌である漫画情報誌『[[ぱふ]]』に作品を発表、掲載されている。</ref>。 在学中の1978年、投稿作「勝手なやつら」で第2回[[小学館新人コミック大賞]]少年部門佳作を受賞(同期の漫画家に[[早見純]]がいる)。少年誌で[[サイエンスフィクション|SF]]的な作品を描こうとして編集者に何度も制止された経験を持つ[[吾妻ひでお]]は、当時この作品を読み「マンガが帰ってきた」と感動し、『週刊少年サンデー』の掲載号を3冊も買ったという<ref name=QJW>飛鳥杏華ほか「高橋留美子大辞典」、『QuickJapan Vol.71』、98頁-111頁。</ref>。 === プロデビュー後 === 1978年サンデー39号よりSFコメディ『うる星やつら』の連載を開始。約1年半の不定期連載の後、大学卒業を機に同人作家から本格的に漫画家に転身することとなり、[[1980年]]春から同作品の週刊連載を開始。 さらに1980年秋から並行して、[[青年漫画|青年誌]]『[[ビッグコミックスピリッツ]]』にて『めぞん一刻』を、連載開始(当初は月刊、のち月2回、[[1986年]]4月より週刊)。デビュー直後は画力が低かったものの、この頃から画力が安定し現在の絵柄を確立した。[[1987年]]まで2つの人気作品の連載をこなし、少年誌&青年誌という作風の広さから知名度を高めた。 1987年冬に『うる星やつら』、春に『めぞん一刻』の両作品が相次いで終了し、同年夏から格闘技を題材にしたコメディ『らんま1/2』の連載を開始、この作品は「子供が読んでも楽しい漫画を」<ref name=DMI>さくらい伸「ロングインタビュー 高橋留美子」前掲『大学漫画』Vol.5、6頁-22頁</ref> と、より低年齢層を意識して描かれ、ギャグ要素が初期の『うる星やつら』並みに強い作品となった。同年春に『[[1ポンドの福音]]』の連載を開始し、不定期連載となる。 [[1996年]]冬に『らんま1/2』を終了し、同年秋から『犬夜叉』の連載を開始。かねてから興味のあった[[伝奇小説#日本の近現代の伝奇風小説|伝奇もの]]の本格連載で、この作品では[[ギャグ漫画|ギャグ]]要素を減らしたシリアスな路線を取った。 === 近年の活躍 === [[2008年]]夏に『犬夜叉』を連載終了。翌[[2009年]]春から連載を開始した『境界のRINNE』では、バトル要素を残しつつ、原点であるギャグ要素やコメディ色を強めに戻しよりハートフルな作風が描かれている。2017年冬に同作品の連載を終了し[[2019年]]春からは再びシリアスな怪奇ロマン長編『[[MAO (漫画)|MAO]]』の連載を開始している。 == 年譜 == * 1957年 - [[新潟県]][[新潟市]][[古町 (新潟市)|古町]](現・新潟市[[中央区 (新潟市)|中央区]]古町)生まれ。 * [[1964年]] - [[新潟大学附属新潟小学校|新潟大学教育学部附属新潟小学校]]入学。 * [[1970年]] - [[新潟大学教育人間科学部附属新潟中学校|新潟大学教育学部附属新潟中学校]]入学。 * [[1973年]] - [[新潟県立新潟中央高等学校]]入学。 * [[1976年]] - [[日本女子大学]][[文学部]][[史学科]]入学(1980年卒業、卒論のテーマは「[[江戸幕府]]の[[無宿]]人対策」<ref>「[[宝島 (雑誌)|月刊宝島]]」[[1982年]][[2月]]号インタビュー、のち『マンガ家は語る』(マンガ批評大系第4巻:[[平凡社]]、[[1988年]])に所収</ref>)。 * 1978年 - 『週刊少年サンデー』にて「勝手なやつら」でデビュー、同誌にて「うる星やつら」の連載を開始(1987年まで)。 * 1980年 - 『[[ビッグコミックスピリッツ]]』にて「めぞん一刻」の連載を開始(1987年まで)。 * 1987年 - 『週刊少年サンデー』にて「らんま1/2」の連載を開始(1996年まで)。 * 1995年 - 単行本世界累計1億部突破。 * 1996年 - 『週刊少年サンデー』にて「犬夜叉」の連載を開始(2008年まで)。 * 2009年 - 『週刊少年サンデー』にて「境界のRINNE」の連載を開始(2017年まで)。 * 2017年 - 単行本世界累計2億部突破。 * 2019年 - 『週刊少年サンデー』にて「[[MAO (漫画)|MAO]]」の連載を開始。 * 2021年 - [[Twitter]]に公式アカウントを開設。 == 受賞歴 == * 1978年 - 第2回[[小学館新人コミック大賞]]佳作(『[[勝手なやつら]]』) * [[1981年]] - 第26回[[小学館漫画賞]]少年部門(『うる星やつら』) * 1987年 - 第18回[[星雲賞]]コミック部門(『うる星やつら』) * [[1989年]] - 第20回星雲賞コミック部門(『[[人魚シリーズ|人魚の森]]』) * [[1994年]] - 米国[[コミコン・インターナショナル]]「[[インクポット賞]]」 * [[2002年]] - 第47回小学館漫画賞少年部門(『犬夜叉』) * [[2016年]] - 米国[[ミュージアム・オブ・ポップカルチャー|MoPoP]]「SF&ファンタジーの殿堂」<ref>{{Cite web |url=https://www.mopop.org/rumiko |title=Science Fiction and Fantasy Hall of Fame Members Rumiko Takahashi |publisher=mopop |date=2018 |accessdate=2021-06-07 }}</ref> * [[2018年]] - 米国[[アイズナー賞]]「コミックの殿堂(The Comic Industry's Hall of Fame)」<ref>{{Cite web|和書|url=http://animationbusiness.info/archives/5913|title=高橋留美子がアイズナー賞”コミックの殿堂“に、日本から5人目 「AKIRA」2部門受賞も|publisher=アニメーションビジネス・ジャーナル|date=2018-07-22|accessdate=2018-07-24}}</ref> * 2019年 - 第46回仏国[[アングレーム国際漫画祭 グランプリ|アングレーム国際漫画祭グランプリ]]<ref>{{Cite news|url= https://www.sankei.com/west/amp/190124/wst1901240025-a.html |title= 高橋留美子さんグランプリ 仏アングレーム漫画祭 |newspaper= 産経ニュース |publisher= 産経デジタル |date= 2019-01-24 |accessdate= 2021-10-14 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.ambafrance.org/article15311 |title=漫画家の亜樹直、鳥山明両氏が芸術文化勲章を受章|publisher=[[駐日フランス大使館]]|date=2019-12-30|accessdate=2021-05-31}}</ref> * 2019年 - [[文化庁長官表彰]]<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2019/11/26/a1422878_02.pdf 令和元年度文化庁長官表彰名簿]</ref> * 2020年 - [[紫綬褒章]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/geino/amp/20201102/geo20110205000008-a.html|title=秋の褒章、漫画家・高橋留美子さんに紫綬褒章「しみじみと喜びを感じております」|work=SANSPO.COM(サンスポ)|date=2020-11-02|accessdate=2020-11-02}} {{Wayback|url=https://www.sanspo.com/geino/amp/20201102/geo20110205000008-a.html|date=20201102003047}}</ref><ref>「秋の褒章 775人27団体」『読売新聞』2020年11月2日朝刊</ref><ref>『官報』号外第230号、令和2年11月4日</ref> * 2021年 - 米国[[ハーベイ賞]] 殿堂入り<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202110140000376.html |title= 「うる星やつら」高橋留美子氏、手塚治虫さんに続き米ハーベイ賞殿堂入り |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2021-10-14 |accessdate= 2021-10-14 }}</ref> * [[2023年]] - フランス[[芸術文化勲章]]「シュヴァリエ」<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230406-OYT1T50189/|title=高橋留美子さんにフランスの勲章シュヴァリエ…「今後も頑張って描き続けます」|newspaper=読売新聞|date= 2023-04-06 | accessdate= 2023-04-06}}</ref> == 業績と他国における影響 == 高橋の作品の多くは[[英語]]や他の[[ヨーロッパ]]言語に翻訳されている。高橋は、なぜ自分の作品が英語話者に人気があるのかはわからないと語った。 高橋とその作品に影響を受けたと述べているアーティストには、『{{仮リンク|スコット・ピルグリム|en|Scott Pilgrim|label=スコット・ピルグリム}}』を著した[[カナダ]]の[[ブライアン・リー・オマリー]]<ref>{{Cite news |url=http://www.crunchyroll.com/anime-news/2017/12/02/tokyo-comicon-2017-bryan-lee-omalley-scott-pilgrim-talks-about-the-influence-from-ranma-12|title=Tokyo ComiCon 2017: Bryan Lee O'Malley (Scott Pilgrim) Talks about The Influence from "Ranma 1/2"|publisher=[[Crunchyroll]]|date=2017-12-02 |access-date=2018-05-26}}</ref>、[[アメリカ合衆国]]の{{仮リンク|コリーン・クーヴァー|en|Colleen Coover|label=コリーン・クーヴァー}}<ref>{{Cite news |url=http://comicsalliance.com/colleen-coover-small-favors-interview/|title=Everyone Has Fun: Colleen Coover Talks 'Small Favors'|work=[[コミックスアライアンス|ComicsAlliance]]|date=2017-02-16 |access-date=2018-05-26}}</ref>、中国系オーストラリア人の{{仮リンク|クイニー・チャン|en|Queenie Chan|label=クイニー・チャン}}<ref>{{Cite news |url=https://www.queeniechan.com/2014/03/19/famous-women-rumiko-takahashi/?v=7516fd43adaa|title=Famous Women: Rumiko Takahashi|publisher=queeniechan.com|date=2014-03-19 |access-date=2019-01-26}}</ref>、タイの[[ウィスット・ポンニミット]]がいる<ref>{{Cite news|url=http://www.otakuusamagazine.com/wisut-ponnimits-him-her-that-first-look/ |title=Wisut Ponnimit's Him Her That: First Look |date=2013-09-17 |work=Otaku USA |access-date=2019-01-26}}</ref>。[[スコットランド]]のロックバンド、[[ウルセイ・ヤツラ]]は、高橋のヒット作『うる星やつら』に因んで名付けられた<ref>{{Cite web|url=http://www.urusei-yatsura.co.uk/Biography.htm |title=Urusei Yatsuru Biography |work=urusei-yatsura.co.uk |access-date=2019-01-26}}</ref>。『[[シャンティ (ゲーム)|シャンティ]]』シリーズのクリエイターであるマット・ボゾンは、彼の作品に大きな影響を与えたものとして『らんま1/2』を挙げた<ref>{{Cite web|url=http://www.girlgamer.com/zine/article/2985/ |title=The Kickstart – Shantae Is Back In 1/2 Genie Hero |date=2013-09-09 |publisher=girlgamer.com |access-date=2019-01-26 }}</ref>。2015年、「犬夜叉」に一部インスピレーションを得たインド映画「プリ」。[[ヴィジャイ]](俳優)が半虎鬼、高橋留美子「犬夜叉」に似た強力な虎鬼を父に演じる。<ref>{{cite web |title=Puli Vijay film half inspired from Inuyasha series |website=hungama news |date=March 2, 2022 |url=https://archive.ph/90M1B |access-date=March 2, 2022}}</ref> 2016年、[[コミックスアライアンス]]は、高橋を生涯の功労を認めるに値する12人の女性漫画家の内の1人として挙げた<ref>{{Cite web|url=http://comicsalliance.com/women-lifetime-achievement-awards/ |title=12 Women in Comic Who Deserve Lifetime Achievement Recognition |work=[[コミックスアライアンス|ComicsAlliance]]|access-date=2016-08-07 }}</ref>。 == 人物 == <!--注意:ファンサイトやデータベースではないので、「好きなもの」を羅列するような加筆はしないで下さい--> 自身を「未だに[[中二病]]」というほど[[オタク]]症で、中学・高校とずっと漫画を描き続けてきた。友達や同級生にもプロの漫画家がたくさんいる。そうした環境で、[[少女漫画]]よりは少年漫画をずっと読んできた<ref>{{Cite news|url=http://www.manga-news.jp/news/body/1781|title=漫画賞審査員長に聞いてみた!時代を代表する漫画家への道のりは「賞への応募?」「持ち込み?」「ネット投稿?」(第一部)|newspaper=マンガ新聞|date=2018-08-22|accessdate=2021-10-14|archiveurl= https://web.archive.org/web/20181120180232/http://www.manga-news.jp/news/body/1781 |archivedate= 2018-11-20 }}</ref>。サンデーの当時の編集長は高橋のことを「すごいのが来た、天才だ」と評し、デビュー。大学の漫画研究会出身で、初の連載でヒットという極めて稀な例であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/pp/heros03/page/3|title=月刊ヒーローズ創刊5周年特集 高橋留美子×白井勝也対談 (3/5) |website=コミックナタリー|publisher=株式会社ナターシャ|date=2016-12-01|accessdate=2018-11-20}}</ref>。 影響を受けた漫画家として「[[赤塚不二夫|赤塚]]先生や[[藤子不二雄|藤子]]先生に影響を受けてマンガを始めた」と述べ、憧れとして[[ちばてつや]]や[[永井豪]]、[[池上遼一]]を挙げた。本人曰く「実は池上遼一先生に会うためにマンガ家になったといっても過言ではないんです(笑)」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www6.nhk.or.jp/anime/special/special.html?i=4562|title=境界のRINNE 原作者の高橋留美子先生に聞いてみた! 後編 |work= アニトク! |website=NHKアニメワールド|publisher=日本放送協会|date=2017-08-26|accessdate=2018-11-20}}</ref>。 2018年現在は小学館新人コミック大賞の審査員も務めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://shincomi.shogakukan.co.jp/#ctgr|title=小学館 新人コミック大賞公式サイト|accessdate=2018-11-20|website=小学館 新人コミック大賞公式サイト}}</ref>。 作詞家の[[岩里祐穂]]は高校時代の同級生。 ; X(旧Twitter) : [[インターネット]]などに疎いと自負しており、長らく[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]も活用していなかったが、2021年6月<!--1日-->に担当編集者の手を借りて[[Twitter|X(旧Twitter)]]に公式アカウントを開設した。 : 自身のX(旧Twitter)で向けられた質問への回答をしている。その中の一つに「漫画家に向いている人の特徴」の質問を受けた際に「1つは身体が強い人です。まあまあで大丈夫ですよ。2つ目はひとつのアイディアに固執しない人です」と語った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202106060000449.html|title=高橋留美子氏の「漫画家に向いている人」持論に反響|publisher=日刊スポーツ|date=2021-06-06|accessdate=2021-06-06}}</ref>。 ; 速筆 : 「'''仕事の鬼'''」と呼ばれる程にプロ意識が高い。自他共に筆の速いことを認めており、目白花子は高橋が『うる星やつら』の原稿を27時間で完成させたことがあると述べている。『らんま1/2』の頃は毎回16ページを2日で完成させ、『犬夜叉』連載時にも下描きとペン入れを合わせて2日、1ページにつき1時間で完成させている<ref name=QJW/>。 ; 好きな漫画家 : 池上遼一([[高橋留美子#関連人物|後述]])、ちばてつや、[[諸星大二郎]]、[[花輪和一]]、[[吉田戦車]]、[[中川いさみ]]、[[伊藤潤二]]、[[手塚治虫]]、[[藤子不二雄]]や、同郷の[[水島新司]]などを挙げている。好きな作品は『[[あしたのジョー]]』(ちばてつや)『[[ケロロ軍曹]]』([[吉崎観音]])など<ref name=QJI/>。上記の作家の多くは『うる星やつら』新装版で[[ラム (うる星やつら)|ラム]]のイラストを寄稿している。特に一番影響を受けた漫画家は永井豪で、『[[ハレンチ学園]]』は自身の作品の血肉となったという。[[下ネタ]]について描くのは苦手だが、見る分には面白いと理解は示している。また、[[スルメ]]が好物で、漫画を描く時にスルメを食べている事が多い<ref>『うる星やつら』のラムも、作中でスルメをよく食べていた。</ref>。 ; 阪神ファン : 中学の頃からの熱心な[[阪神ファン]]。1973年に[[読売ジャイアンツ]]とのリーグ優勝をかけた最終戦で優勝を逃した時には大きなショックを受け、一時期はファンであることをやめていたが、その後再びファンとなった<ref name=QJI/>。[[2003年]]に[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]制覇した時には、『[[デイリースポーツ]]』にタイガースを応援するラムのイラストを掲載している。高校時代には「虚塵の星」(『[[巨人の星]]』のもじり)というパロディ漫画を同人誌で描いている。 ; お笑い : [[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]の『[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!|ガキの使いやあらへんで!!]]』を欠かさず観るなどお笑い好きで、バラエティ番組を仕事中に流していることも多い。好きなお笑いグループとして[[オール阪神・巨人]]、ダウンタウン、[[ナインティナイン]]、[[タカアンドトシ]]、[[次長課長]]などを挙げている<ref name=QJI/>。 == 作風 == === ラブコメとシリアス === * 基本的にラブコメディを主軸とした作品が多い。また、登場人物のほとんどは変態の域に近いほど、自分の欲望に忠実である。 * 短編作品にはシリアスな[[ホラー漫画|ホラー]]作品も見られ、それらの多くは主要人物に[[超能力|超能者]]や[[妖怪]]といった異能者が登場し、作品の核となっている。 === 主人公とヒロイン === * 高橋の描くヒロインに多く見られる特徴は、主に以下の三つである。なお、高橋自身の性格に一番近いキャラクターは『めぞん一刻』のヒロイン・[[めぞん一刻#音無響子|音無響子]]とのこと。 ** 清楚な風貌だが、主人公が自分以外の女性にアプローチをかけられたりすると、[[平手打ち]]などの暴力をふるったりする嫉妬深い一面を持っているタイプが多い。ただし、『境界のRINNE』のヒロイン・[[境界のRINNE#真宮桜|真宮桜]]のような例外もいる。また、他の男性キャラにも好意を抱かれて言い寄られても、主人公以外の男になびくことはない。 ** [[料理]]に関して奇抜な感性を持っている・苦手なタイプと、まともな料理を作れるタイプに大きく分かれる。前者はラム・[[天道あかね]]、後者はラン・音無響子・早乙女らんま・[[日暮かごめ]]・真宮桜が挙げられる。 ** [[プロポーション]]が良い。高橋によると'''女性のプロポーションのモデルは「自分自身」'''とのこと。 * 主人公とヒロインの関係は、時折心がすれ違いつつも付かず離れずの距離感を保っていることが多い。 * 主人公または恋敵となるキャラクターは、大抵相手が自分になびかなくてもお構いなしにアプローチをする強引な性格である。しかし、恋敵キャラクターも決して蔑ろな扱いをされているわけではなく、主人公やヒロインにふられても新たな恋の相手を見つけるなど、最後は皆が笑って幕を下ろせるような大団円のエンディングが多い。 === るーみっくわーるど === ==== 誕生 ==== 「るーみっくわーるど」は、もともとは『うる星やつら』に付けられたキャッチコピーであり、『めぞん一刻』を共に立ち上げた2人目の担当編集者が考えたことがきっかけで生み出された。そのため、それ以前は「爆笑モンスターギャグ」というキャッチコピーだった<ref name="natalie20130520-4">{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/comic/pp/rumic35/page/4 |title= 「るーみっくわーるど35~SHOW TIME&ALL STAR~」高橋留美子画業35周年インタビュー (4/5) |website= コミックナタリー |publisher= ナターシャ |date= 2013-05-20 |accessdate= 2021-10-14 }}</ref>。これをきっかけに、作品集のタイトルおよび世界観を総括した言葉としても用いられるようになった。 ==== 技法 ==== ギャグやコメディ作品で、両手の中指と薬指を曲げ、親指と人差し指と小指を伸ばしたポーズが良く出てくる{{R|natalie20130520-4}}。「'''ちゅどーんポーズ'''」<ref>{{Cite web|和書|url=https://togetter.com/kiji/2023/01/11/113577 |author=しのむ |title=ペンネーム「けも・こびる」でピンと来た人が騒然!有名漫画家のデビュー前作品が載った同人誌を実家で発掘してしまう |website=[[Togetter]] |work=Togetterオリジナル記事 |date=2023-1-11 |accessdate=2023-4-24}}</ref>、{{要出典範囲|「'''るーみっくポーズ'''」|date=2023年4月}}、{{要出典範囲|「'''るーみっくサイン'''」|date=2023年4月}}などと呼ばれる。これは、キャラクターがぶん殴られて吹っ飛ばされるドタバタシーンなどで、痛そうに見えないように「余裕」を見せるということで用いている{{R|natalie20130520-4}}。"I love you"を意味するハンドサイン([[:en:ILY sign]]を参照)と同じ手の形であるが{{R|natalie20130520-4}}、それは偶然の一致で、"I love you"の意味は後から知ったと高橋は語っている{{R|natalie20130520-4}}。 ; 真剣白刃取り : 真剣や[[日本刀]]を両掌で挟んで攻撃を防ぐ姿勢。主に主人公がライバルの攻撃から身を守る時に用いられ、『うる星やつら』の[[諸星あたる]]からの伝統となっている。 ; どんどろどろどろ : 妖怪化した時の効果音。主に怒りが頂点に達した時に使われ、『らんま1/2』の[[天道早雲]]からの伝統となっている。 ; ちゅどーん : 吹っ飛ぶ時の効果音。爆発の効果音としても使われる。これは同じく『週刊少年サンデー』で連載していた『できんボーイ』の作者・[[田村信]]が生み出したものとのこと{{R|natalie20130520-4}}。 ; ぶぎゅる : 踏み潰された時の効果音。 ; ぐわら : [[襖]]や戸が開いた時の効果音。 ; みし(っ) : 叩かれたもしくはド突かれた時の効果音。 ; ぽん : 何かをひらめいた時に右手の拳で左手を叩く効果音。 ; どか ばき ぐしゃ : 鈍器のようなもので殴る時の効果音。 == エピソード == * これまで『うる星やつら』、『めぞん一刻』、『らんま1/2』、『犬夜叉』、『境界のRINNE』と、高橋の定期連載作品は連載中の『[[MAO (漫画)|MAO]]』以外全てTVアニメ化されている。また、不定期連載中の『[[人魚シリーズ]]』と『[[高橋留美子劇場]]』のシリーズ作品も深夜枠でアニメ化、同じく不定期連載を経て完結した『[[1ポンドの福音]]』もOVA化された。 * 過去に高橋作品に出演した声優([[山口勝平]]、[[平野文]]など)は、後作で出演することも多い。 * 週刊少年サンデーでデビュー前、[[週刊少年ジャンプ]]に自分の作品を持ち込んだがボツにされ、ジャンプからのデビューはかなわなかったということがあった。その時の担当編集者は、後に[[鳥山明]]らを発掘したことで知られる[[鳥嶋和彦]]だった<ref>{{Cite web|和書|url=https://magmix.jp/post/65713|title=「ジャンプ」が取り逃がした大ヒット漫画家4人…「つまらない」と切られて今がある?|publisher=マグミクス|date=2021-10-29|accessdate=2021-10-30}}</ref>。 * 少年向け漫画雑誌に連載を持つ著名作家ながら、自身の作品の[[パチンコ]]・[[パチスロ]]機への[[タイアップされたパチンコ・パチスロ一覧|タイアップ]]には寛容で、『うる星やつら』、『めぞん一刻』、『らんま1/2』、『犬夜叉』をモチーフとしたパチンコ機ないしパチスロ機が登場している(作品の内容が少年向けの場合、パチンコとのタイアップは許可しない著名作家も多い<ref>{{cite news |title = パチンコ産業の憂鬱、過熱する版権争奪戦--あの名作がパチンコに登場する舞台裏 |url = http://toyokeizai.net/articles/-/3758|newspaper=東洋経済オンライン |publisher=[[東洋経済新報社]] |date = 2010-02-10 |accessdate = 2017-08-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkansports.com/amusement/pachinko/news/1509589.html?mode=all|title=パチンコ「キャプテン翼」イベントでお披露目|publisher=ニッカンアミューズメント|date=2015-07-19|accessdate=2015-08-29}}</ref>)。 == 作品リスト == === 連載作品 === * [[うる星やつら]] - 『[[週刊少年サンデー]]』(1978年39号 - 1987年8号) ** 初連載作品。女たらしの主人公・[[諸星あたる]]と、押しかけ女房で異星人・[[ラム (うる星やつら)|ラム]]を中心に多彩なキャラクターの登場するSFコメディー。1981年 - 1986年、2022年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2219893/full/|title=『うる星やつら』36年ぶりに再びTVアニメ化 フジ“ノイタミナ”枠「だっちゃ」|publisher=ORICON NEWS|date=2022-01-01|accessdate=2022-01-01}}</ref> にTVアニメ化、[[うる星やつら (アニメ)#劇場版アニメ|劇場版アニメ]]も6本、[[うる星やつら (アニメ)#OVA|OVAシリーズ]]も製作された。 * [[めぞん一刻]] - 『[[ビッグコミックスピリッツ]]』(1980年11月創刊号 - 1987年19号) ** オンボロアパート「一刻館」に下宿する浪人生・[[めぞん一刻#五代裕作|五代裕作]]と、若き未亡人「管理人さん」[[めぞん一刻#音無響子|音無響子]]を中心としたラブコメディー。1986年 - 1988年に[[めぞん一刻 (アニメ)#テレビアニメ|TVアニメ]]化、1986年秋に[[めぞん一刻#映画|実写映画]]化、2007年に[[伊東美咲]]主演で[[めぞん一刻#テレビドラマ|TVドラマ]]化された。 * [[らんま1/2]] - 『週刊少年サンデー』(1987年36号<!--8月5日発売--> - 1996年12号) ** 水を被ると少女になってしまう格闘家の少年・[[早乙女乱馬]]と、親同士が決めた許婚・[[天道あかね]]を中心とした格闘コメディー。1989年 - 1992年に[[らんま1/2#テレビアニメ|TVアニメ]]化、[[らんま1/2#劇場版アニメ|劇場版アニメ]]も3本、[[らんま1/2#OVA|OVAシリーズ]]も製作され、2011年に[[新垣結衣]]主演で[[らんま1/2#テレビドラマ|SPドラマ]]化された。 * [[1ポンドの福音]] - 『[[週刊ヤングサンデー]]』(1987年9号<!--7月24日発売--> - 2007年3・4合併号、不定期) ** 減量の苦手なボクサー・畑中耕作と敬虔な修道女・シスターアンジェラとの恋愛を描いたスポーツ・ラブコメディー。『週刊ヤングサンデー』に不定期連載され20年かけて完結、[[1ポンドの福音#OVA|OVA]]も製作された。2008年に[[亀梨和也]]主演で[[1ポンドの福音#テレビドラマ|TVドラマ]]化された。 * [[犬夜叉]] - 『週刊少年サンデー』(1996年50号 - 2008年29号) ** 戦国時代にタイムスリップしてしまった中学生の少女・[[日暮かごめ]]と、半妖の少年・[[犬夜叉 (架空の人物)|犬夜叉]]を主人公とした伝奇作品。2000年 - 2004年に[[犬夜叉 (アニメ)|TVアニメ]]化、2009年秋 - 2010年春に[[犬夜叉 (アニメ)#完結編|完結編]]を放送。[[犬夜叉 (アニメ)#劇場版|劇場版アニメ]]も4本製作された。また、2度[[犬夜叉#演劇|舞台]]化された。 * [[境界のRINNE]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/104389/|title=境界のRINNE 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-09-01}}</ref> - 『週刊少年サンデー』(2009年21・22合併号 - 2018年3・4合併号) ** 幼い頃の神隠しにより幽霊が見えるようになった高校生の少女・[[境界のRINNE#真宮桜|真宮桜]]と、人間と死神による混血の少年・[[境界のRINNE#六道りんね|六道りんね]]を主人公とした学園&霊界ラブコメディー。2015年春 - 2017年秋に[[境界のRINNE#テレビアニメ|TVアニメ]]化されており、第3シリーズまで放送された<ref name=TVA2>[[境界のRINNE#外部リンク]]を参照。</ref>。 * [[MAO (漫画)|MAO]] - 『週刊少年サンデー』(2019年23号 - 連載中) ** [[陰陽師]]の少年・摩緒と現代の少女・黄葉菜花の[[大正]]怪奇ロマン。 === シリーズ作品 === * [[人魚シリーズ]] - 『[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]』『週刊少年サンデー』(1984年8月増刊号 - 、不定期) ** 『人魚の森』を初めとする連作の総称で、人魚の肉を食べたことにより永遠の生を生きることになった青年・湧太と少女・真魚の運命を描いた伝奇シリーズ。[[人魚シリーズ#OVA|OVA]]化ののち下記『高橋留美子劇場』と共に[[人魚シリーズ#テレビアニメ|TVアニメ]]化されている(未放送分は15禁)。 * 高橋留美子傑作集/高橋留美子劇場 - 『[[ビッグコミックオリジナル]]』(1987年7月20日号<!--7月5日発売--> - 、不定期){{Main|高橋留美子劇場}} ** 『ビッグコミックオリジナル』に年1回のペースで掲載されている、サラリーマンや家族などをテーマにした読み切りシリーズ。2019年時点で5冊が刊行されている。2003年に[[高橋留美子劇場#テレビアニメ|TVアニメ]]化、2012年に[[高橋留美子劇場#テレビドラマ|TVドラマ]]化された。 *** 『Pの悲劇』 **** {{Cite book|和書|title=Pの悲劇|year=1994|publisher=小学館|series=高橋留美子傑作集}} **** {{Cite book|和書|title=Pの悲劇|year=2003|publisher=小学館|series=高橋留美子劇場 1}} *** 『専務の犬』 **** {{Cite book|和書|title=専務の犬|year=1999|publisher=小学館|series=高橋留美子傑作集}} **** {{Cite book|和書|title=専務の犬|year=2003|publisher=小学館|series=高橋留美子劇場 2}} *** 『赤い花束』 **** {{Cite book|和書|title=赤い花束|year=2005|publisher=小学館|series=高橋留美子傑作集}} **** {{Cite book|和書|title=赤い花束|year=2009|publisher=小学館|series=高橋留美子劇場 3}} *** 『運命の鳥』 **** {{Cite book|和書|title=運命の鳥|year=2011|publisher=小学館|series=高橋留美子傑作集}} **** {{Cite book|和書|title=運命の鳥|year=2015|publisher=小学館|series=高橋留美子劇場 4}} *** 『魔女とディナー』 **** {{Cite book|和書|title=魔女とディナー|year=2019|publisher=小学館|series=高橋留美子傑作集}} === 短編集 === * 『るーみっく・わーるど』全3巻、小学館、1984-1985年。初期短編集 ** 新装版『高橋留美子傑作短編集』全2巻、小学館、1995年3月 * 『1 or W 高橋留美子短編集』全1巻、小学館、1995年9月 * 『鏡が来た 高橋留美子短編集』全1巻、小学館、2015年7月 === 読み切り・短期連載作品 === ※は単行本未収録作品。 * [[勝手なやつら]] - 『週刊少年サンデー』(1978年28号)『るーみっく・わーるど』第2巻収録。 * 腹はらホール - 小学館『別冊BIG GORO』シリーズ6(1978年8月号)『るーみっく・わーるど』第2巻収録。 * がんばり末世 - 『週刊少年サンデー増刊号』(1978年8月号)『ダストスパート!!』および『1 or W 高橋留美子短編集』収録。 * 黄金の貧乏神(ゴールド・ヒンガー) - 『週刊少年サンデー増刊号』(1978年9月号)『るーみっく・わーるど』第2巻収録。 * けもの24時間 - 『小池一夫劇画村塾』(1978年2号) ** 「少年サンデーグラフィックうる星やつら5」に収録。 * [[ダストスパート!!]] - 『週刊少年サンデー増刊号』(1979年5月号 - 9月号)『ダストスパート!!』および『るーみっく・わーるど』第3巻収録。 * ?の疾病 - 『小池一夫劇画村塾』(1980年3号) ** 「少年サンデーグラフィックうる星やつら4」に収録。 * 増殖女房-フェアリーテール-※ - [[東京三世社]]『少年少女SFマンガ競作大全集』(PART 7) * ふうふ - 『ビッグコミックオリジナル増刊』(1980年10月15日号)『るーみっく・わーるど』第3巻収録。 * [[ザ・超女]](ザ・スーパーギャル) - 『週刊少年サンデー増刊号』(1980年10月号)『るーみっく・わーるど』第2巻収録。[[ザ・超女#OVA|OVA]]化。 * 暴食のフォルム※ - 『少年少女SFマンガ競作大全集』(PART 8) * スパークリングカレンダァー※ - 初出商業誌不明(1980年11月) ** 「けも・こびる」名義。 * 商魂 - 『[[平凡パンチ]]』臨時増刊"That's Comic"(1980年12月5日号)『るーみっく・わーるど』第3巻収録。 * 笑え! ヘルプマン - 『週刊少年サンデー増刊号』(1981年9月号)『るーみっく・わーるど』第2巻収録。 * 怪猫・明 - 『小池一夫劇画村塾』(1981年4号)『るーみっく・わーるど』第2巻収録。 * エルフィーリ/妖精人※ - 『少年少女SFマンガ競作大全集』(PART 13) * 戦国生徒会 - 『週刊少年サンデー増刊号』(1982年2月号)『るーみっく・わーるど』第2巻収録。 * けも・こびるの日記※ - 『少年サンデーグラフィックうる星やつら』(1982年1号 - 1984年11号) ** タイトルの「けも・こびる」は高橋の旧筆名。全11話。 * 闇をかけるまなざし - 『週刊少年サンデー増刊号』(1982年8月号)『るーみっく・わーるど』第1巻収録。 * [[笑う標的]] - 『週刊少年サンデー増刊号』(1983年2月号)『るーみっく・わーるど』第1巻収録。[[笑う標的#OVA|OVA]]化。 * [[炎トリッパー]] - 『週刊少年サンデー増刊号』(1983年8月号)『るーみっく・わーるど』第1巻収録。[[炎トリッパー#OVA|OVA]]化。 * 忘れて眠れ - 『週刊少年サンデー増刊号』(1984年1月号)『るーみっく・わーるど』第1巻収録。 * われら顔面仲間(フェイシャルパック) - 『週刊少年サンデー』25周年記念増刊号(1984年)『るーみっく・わーるど』第2巻収録。 * ハッピートーク - 『ビッグコミックスピリッツ』(1984年8月20日増刊号)『1 or W 高橋留美子短編集』収録。 * お婆さんといっしょ - 『ビッグコミックスピリッツ』(1985年8月20日増刊号)『1 or W 高橋留美子短編集』収録。 * 犬で悪いか!! - 『週刊少年サンデー』(1985年47号)『1 or W 高橋留美子短編集』収録。 * YS創刊祝4コマ劇場※ - 『週刊ヤングサンデー』(1987年創刊号) * うちが女神じゃ!! - 『週刊少年サンデー』30周年記念増刊号(1989年)『1 or W 高橋留美子短編集』収録。 * わたしのスキャンダル※ - [[角川書店]]『月刊ASUKA』(1991年1月号) * グランド・ファザー - 『ビッグコミックスピリッツ』(1991年1・2合併号)『1 or W 高橋留美子短編集』収録。 * 勝手に伝染るんです。※ - 『ビッグコミックスピリッツ』(1991年1月10日増刊号) * スリム観音 - 小学館『プチコミック』(1991年9月号)『1 or W 高橋留美子短編集』収録。 * MOON大ペット王※ - 『[[小学館の学年別学習雑誌|小学三年生]]』(1992年10月号 - 11月号・1993年12月号 - 1994年1月号) ** 巨大ウサギが主人公だが作品の中でも数少ない掲載紙どおり小学校を舞台にした物語。 * 宝塚への招待 - 『ビッグコミックスピリッツ』(1993年34号)『1 or W 高橋留美子短編集』収録。 * 1 or W - 『週刊少年サンデー』(1994年36号)『1 or W 高橋留美子短編集』収録。 * 不良-ワル-※ - 『ビッグコミックスピリッツ』(1997年6月増刊号) * withCAT - 『週刊少年サンデー』(1999年46号)『鏡が来た 高橋留美子短編集』収録。 * 今年は優勝だっ!※ - 『ビッグコミックスピリッツ』(2003年25号) * 可愛い花 - 『ビッグコミック』(2003年21号)『鏡が来た 高橋留美子短編集』収録。 * MY SWEET SUNDAY - 『週刊少年サンデー』(2009年16号、あだち充との合作)『鏡が来た 高橋留美子短編集』収録。 * 星は千の顔 - 『ビッグコミックスピリッツ』(2010年44号)『鏡が来た 高橋留美子短編集』収録。 * 仕事場と本と私※ - 小学館『るーみっくわーるど35 ALL STAR』(2013年) * リベンジドール-復讐人形- - 『ビッグコミック』(2013年20号)『鏡が来た 高橋留美子短編集』収録。 * 本が捨てられない※ - [[KADOKAWA]]・[[メディアファクトリー]]『ダ・ヴィンチ 特集 オトナの高橋留美子』(2013年12月号) * いつかやられる※ - 『ビッグコミックオリジナル』(2014年8月10日増刊号) * 鏡が来た - 『ビッグコミックスペリオール』(2014年15号)『鏡が来た 高橋留美子短編集』収録。 * 屏風の中 - [[新潮社]]『小説新潮』(2014年9月号)『しゃばけ漫画 仁吉の巻』収録。 * 悩めるお年ごろ※ - 『増刊週刊少年サンデーS(スーパー)』(2015年4月号) ** 付録の「るーみっく新聞」に掲載された「境界のRINNE」の4コマ漫画。 * トラ※ - 『ビッグコミックオリジナル』(2015年6月30日増刊号) * 今夜 彼女がやってくる※ - 『ビッグコミックスピリッツ』(2016年28号) * アオイホノオ被害者の会~島本和彦への暴言~※ - 『ゲッサン』(2017年2月号) ** 高橋担当分は2ページ。 * 千年の無心※ - 『週刊少年サンデー』(2017年17号 - 18号) * なにもない部屋※ - 『ビッグコミック』(2018年5号) === 同人作品 === * 虚塵の星(1975年 ざ・だいありぃあ)『巨人の星』のパロディ作品。原作 火事原逸機・画 のさかけも 名義。 * 風塵 第2回(1976年 フキダシvol.6)連作漫画の第2回目担当分。けも・みとめ名義。 * そして半分いなくなった(1976年 びびっとvol.1)けも・みとめ名義。 * バイバイロード(1977年 びびっとvol.2)「少年サンデーグラフィックうる星やつら3」に収録。けも・こびる名義。 * SFケモノゾーン背中の戦争(1978年 サブマリンNo.4)けも・こびる名義。 * エースをめざせ!第3回(1978年 フキダシvol.14)連作漫画の第3回目担当分。けも・こびる名義。 * 不良青年団(1978年 びびっとvol.3)「少年サンデーグラフィックうる星やつら2」に収録。けも・こびる名義。 * 涅槃の方程式(1979年 びびっとvol.4)目白花子との合作。けも・こびる名義。同人作品としては最後の作品。 === デザイン === * TVアニメ『[[十五少年漂流記]]』(1982年) - キャラクター原案 * 劇場アニメ『[[クラッシャージョウ]]』(1983年) - スペシャルデザイン(※ゲストキャラデザイン) * 1990年の[[東日本旅客鉄道|JR]][[京葉線]]全線開業時、イメージキャラクター「マリン」をデザイン(※「マリン」の名前は公募にて決定)。 * OVA『[[ウルフガイ]]』(1992年) - キャラクター原案(※あくまでもファンとしてのデザイン提供であるという高橋の意向によりクレジットはされていない)。 * TVゲーム『[[機動新撰組 萌えよ剣]]』(2002年) - キャラクターデザイン * [[劇団☆新感線]]秋公演 劇団☆新感線ゴージャス『花の紅天狗』(1996年) - ポスターデザイン * 劇団☆新感線 新感線G.T.B.W『花の紅天狗』(2003年) - ポスターデザイン * [[キャラメルコーン]]・ミックスベリー味(期間限定商品)(2012年) - パッケージデザイン * [[エースコック]] ふるさとの味わい・あっさり醤油ラーメン/濃厚味噌ラーメン(期間限定商品)(2015年) - パッケージデザイン(ラムと乱馬) * TVアニメ『[[半妖の夜叉姫]]』(2020年) - 原作、メインキャラクターデザイン === その他 === <!--できれば書式の統一と年代順の並べ替えをしたいところですが、現時点では保留しておきます--> * [[岩井寛]]・[[秋山さと子]]『愛の病気』工作舎、1983年 - 表紙・挿絵 * [[古田新太]]のエッセイ『柳に風』[[ぴあ]]、2004年 - 表紙・イラスト・挿絵 * [[金春智子]]の小説『[[お嬢さま作家・春菜の事件簿]]』(全4冊、光文社文庫、1989年 - 1992年) - 表紙イラスト * TVアニメ『[[さよなら絶望先生 (アニメ)|さよなら絶望先生]]』([[久米田康治]]原作、[[新房昭之]]監督、さよなら絶望先生製作委員会、2007年) - 第7話エンドカード * 小高宏子『ぼくと桜のアブナイ関係』(全3冊、小学館パレット文庫、1993年 - 1994年) - 表紙イラスト・挿絵 * [[安部譲二]]『記憶に残る拳豪たち』小学館、2001年 - 挿絵 * [[宮沢賢治]]『オツベルと象 宮沢賢治童話絵本』小学館、1993年 - 表紙イラスト・挿絵 * [[平井和正]]『高橋留美子の優しい世界』徳間書店、1985年/新書版、1988年 - 表紙イラスト * 平井和正『語り尽せ熱愛時代』徳間書店、1984年(対談本) - 表紙イラスト * 平井和正作/エドワード・リプセット訳『[[ウルフガイ|Wolfcrest(狼の紋章)]]』講談社英語文庫(上下)、1985年 - 表紙イラスト * 平井和正『女神變生』徳間書店、1988年 - 表紙イラスト・挿絵 * [[仙波龍英]]『わたしは可愛い三月兎』紫陽社、1985年 - 表紙イラスト * ライオンカップ第7回[[全日本バレーボール小学生大会]](1987年) - イラスト * [[朝日新聞]]北海道支社『まい・うえい』(1988年) - イラスト * スーパーアニメ大賞89(1989年) - イラスト * 追悼[[赤塚不二夫]]展内企画「シェーッ!オンパレード」(2009年8月26日 - 9月7日) - パンダ・イラストを寄稿 * [[北条司]]デビュー30周年企画の「トリビュート・イラスト」、『[[週刊コミックバンチ]]』2010年24号 - [[キャッツ・アイ]]の来生三姉妹<!--三姉妹の衣装を取り違えて描いている--> * [[三国志大戦]] - Ver3.5でSR祝融(2009年)、Ver3.59でEX大喬(2010年)のイラストを担当。 * [[菊池直恵]]・[[横見浩彦]]『[[鉄子の旅]]』 第43旅「天竜浜名湖鉄道超グルメ旅!?」(2006年) - 高橋の担当編集者が作中にゲスト出演した縁で、横見が駅のホームで『めぞん一刻』の音無響子とデートをする妄想を1ページ分描き下ろしで提供。 * [[小池一夫]]『[[夢源氏剣祭文|夢源氏剣祭文【全】]]』μNOVEL、2016年 - 表紙イラスト・挿絵 * [[信田朋嗣]]『熊耳夫人』「主婦の友ヒットシリーズ シアター小説」はちどり、2018年 - 表紙イラスト・挿絵<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/293444|title=高橋留美子が歴史ロマン小説「熊耳夫人」のイラスト担当、ポストカード全サも|work=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=株式会社ナターシャ|date=2018-07-31|accessdate=2018-10-08}}</ref> * 『[[諸星大二郎]] デビュー50周年記念 トリビュート』河出書房新社、2021年 - エッセイ漫画寄稿<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/444103|title=浦沢直樹、萩尾望都、星野之宣、山岸凉子らが描き下ろし「諸星大二郎トリビュート」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-07|accessdate=2021-09-07}}</ref> == 関連人物 == ; [[池上遼一]] : 小学生のときに耳鼻科の待合室で読んだ『月刊漫画ガロ』1967年8月号に掲載された池上の漫画「夏」に衝撃を受けるが、作者の池上の名前を確認しておらず、強烈なイメージだけが残る。中学生の時、捨てられてあった『[[月刊少年マガジン|月刊別冊少年マガジン]]』に載っていた池上遼一版『[[スパイダーマン (池上遼一の漫画)|スパイダーマン]]』に魅せられ、そこから池上の熱狂的なファンになる。当時は単行本が出ておらず、どうにか掲載誌を入手しようと古本屋を探し回ったが見つからず、更にはゴミ屋でも探し回ったが結局見つからなかったという。高校の頃は、池上風の絵でドタバタギャグを描いていたという<ref>根岸康雄『まんが家インタビュー オレのまんが道』小学館、1989年、9頁-20頁</ref>。池上版『スパイダーマン』が単行本化されたのは大学入学前後になる。この探索エピソードを平井和正との対談『語り尽せ熱愛時代』で語った後、1986年に『スパイダーマン』は復刻され、高橋は第1巻に池上作品への思いを綴った文章を寄稿している<ref name=QJW/>。 ; [[平井和正]] : 高橋が学生時代より筒井康隆と共に愛読していた伝奇・SF作家。上述のように中学時代は平井原作、池上遼一作画による『スパイダーマン』に傾倒していた。後年、平井との対談を果たした際には「30を過ぎたら平井先生の作品に影響を受けた漫画を描きます」と述べている<ref>高橋留美子 平井和正『語り尽くせ熱愛時代』徳間書店、1984年</ref>。一方の平井も高橋の作品に魅せられ、高橋の作家論である『高橋留美子の優しい世界』(徳間書店、1985年)を執筆している。 ; [[あだち充]] : 1980年代より、高橋と共に『週刊少年サンデー』の看板作家を務める戦友。あだちは、自身が少年誌にこだわる理由として「高橋先生の存在が大きい」と述べている<ref>磯部涼「あだち充 ロングインタビュー」『QuickJapan Vol.62』、96頁-107頁</ref>。一方高橋も、あだちについて「戦友というとおこがましいんですが、同じ時代をともに頑張ってきたという思いがあります」と述べている<ref name=DMI/>。『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』作中では高橋のサイン色紙が登場するが、あだちはこれを描くために実際に高橋からサインをもらっている<ref>中村孝司ほか「あだち充大事典」『QuickJapan Vol.62』、117頁</ref>。 ; [[斉藤由貴]] :『永遠のアトム 手塚治虫物語 天才は何故アトムを憎んだのか? 嫁姑戦争から介護まで知られざる家族の愛…21世紀へ生命の遺言』([[テレビ東京]]+カズモ製作ドラマ。 [[奥田瑛二]]主演、1999年4月15日放送。[[冨田勲]]音楽、[[井沢満]]脚本、[[大山勝美]]演出)に於いて高橋を演じた<ref>[http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-33477 永遠のアトム 手塚治虫物語] - テレビドラマデータベース</ref>。また『めぞん一刻』の初代オープニングテーマ『[[悲しみよこんにちは (斉藤由貴の曲)|悲しみよこんにちは]]』を歌唱した。 ; [[椎名高志]] : 椎名の妻は、高橋の元[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]である。その妻がもらった[[シャンプー (らんま1/2)|シャンプー]]のサインを家宝としている。『[[GS美神 極楽大作戦!!]]』では、デビュー直後の高橋を作中に登場させている(「GS美神'78!!」その6)。『うる星やつら』新装版にラムのイラストを寄稿した際には「人生を変えてくださってありがとうございます」とコメントした。2021年には『半妖の夜叉姫』のコミカライズ版を執筆する事になった。 ; [[藤田和日郎]] : 高橋に影響を受け、漫画家を志した漫画家。王道的な熱血漫画を得意としており、高橋自身も藤田の実力を認めている。 ; [[島津冴子]] : 『うる星やつら』でヒロインの一人である[[三宅しのぶ]]を演じてからというもの、『めぞん一刻』、『らんま1/2』、『犬夜叉』など高橋の作品がアニメ化された際、ほぼ全ての作品にレギュラー、脇役問わず出演している高橋作品と縁の深い声優。 ; [[山口勝平]] : 『らんま1/2』の主人公・早乙女乱馬役。高橋は同作での山口の演技力を高く評価しており、『犬夜叉』がテレビアニメ化された際には高橋の推薦もあり、犬夜叉役が山口に決まった。『境界のRINNE』では、主人公・六道りんねの父である六道鯖人役で出演。『うる星やつら』のOVA作品「[[うる星やつら ザ・障害物水泳大会]]」にも白井コースケ役で出演するなど、前述の島津と並んで高橋作品と縁の深い声優である。娘には『らんま1/2』のヒロイン・あかねと同じ名前を付けている([[山口茜 (1996年生の女優・声優)|山口茜]])。 == 高橋留美子展 == 週刊少年サンデー創刊50周年記念として、「'''高橋留美子展 It's a Rumic World'''」が[[2008年]]7月から[[2010年]]3月まで全国各地で開催された。 会場では主に『うる星やつら』、『めぞん一刻』、『らんま1/2』、『犬夜叉』を中心としたカラーイラスト原画や、あだち充、[[青山剛昌]]など有名作家34人が『うる星やつら』のラムを描いた「My Lum」等が展示された。また、これに伴い『うる星やつら』・『らんま1/2』・『犬夜叉』3作品のオリジナル短編アニメーションが新規製作され、会場内で上映された。この3作品のアニメはDVD『It's a Rumic World スペシャルアニメBOX』(2010年1月29日発売、完全予約限定商品)に収録されている。さらに、同年10月20日にこれら3作品が単巻[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]、DVDで発売された。 ; 開催会場・開催期間 * [[東京都区部|東京]]:[[松屋 (百貨店)|松屋]]銀座8階大催事場(2008年7月30日 - 8月11日) * [[仙台市|仙台]]:[[仙台三越]]・[[141ビル|定禅寺通り館]]4階(2008年12月23日 - 2009年1月5日) * [[新潟市|新潟]]:[[新潟市美術館]]企画展示室(2009年3月7日 - 4月12日) * [[京都市|京都]]:[[ジェイアール西日本伊勢丹|ジェイアール京都伊勢丹]]7F美術館「えき」KYOTO (2009年4月25日 - 5月17日) * [[名古屋市|名古屋]]:名古屋[[松坂屋|マツザカヤ]]本店本館7階大催事場(2009年7月22日 - 8月3日) * [[北九州市|北九州]]:[[リバーウォーク北九州]]5F[[北九州市立美術館]]分館(2009年8月22日 - 9月20日) * [[高松市|高松]]:[[高松市美術館]](2009年9月25日 - 11月1日) * [[函館市|函館]]:北海道立函館美術館(2009年12月5日 - 2010年1月17日) * [[旭川市|旭川]]:[[北海道立旭川美術館]](2010年1月23日 - 3月14日) * [[神戸市|神戸]]:[[大丸]]ミュージアムKOBE(大丸神戸店9階)(2010年3月17日 - 3月31日) == アシスタント == * [[山本貴嗣]] *中野まき子<ref name="comic38p180">{{Cite book|和書|author=高橋留美子|authorlink=高橋留美子|publisher=小学館|id=ISBN 978-4091234681|page=180|date=1996-06|edition=第1刷|title=らんま1/2 38|chapter=作画協力}}</ref> * さいとう邦子<ref name="comic38p180" /> *清水彩 * [[ちばこなみ]] * [[上条明峰]] * [[藤沢もやし]] アシスタントは山本貴嗣を除いて全て女性である(ただし上条はデビュー後性別を公表していない)。 == 参考文献 == * 『QuickJapan Vol.71 永久保存版 高橋留美子』 [[太田出版]]、[[2007年]] * 『るーみっくわーるど35 〜SHOW TIME & ALL STAR〜』 [[小学館]]、[[2013年]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[コジコジ]] - 登場キャラクター「[[コジコジ#登場人物|ゲラン]]」が高橋の大ファンであるという設定になっている。 * [[発表!全るーみっくアニメ大投票 高橋留美子だっちゃ]] * [[今野杏南]] - アオイホノオのドラマ版で高橋を演じる。 == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|漫画|[[画像:Logo serie manga.png|50px|Portal:漫画]]}} * [https://websunday.net/author/659/ まんが家バックステージ 高橋留美子] * {{Kotobank|2=デジタル版 日本人名大辞典+Plus}} * [https://www.weblio.jp/content/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%95%99%E7%BE%8E%E5%AD%90 高橋留美子] - [[Weblio]] * [https://natalie.mu/comic/pp/rumic35/page/2#contents2 高橋留美子 画業35周年インタビュー] - [[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]、2013年5月20日 * [https://natalie.mu/comic/artist/1954 高橋留美子の最新ニュース] * [https://natalie.mu/comic/pp/heros03 高橋留美子先生×白井勝也(月刊ヒーローズ社長) - 月刊ヒーローズ創刊5周年ゲスト対談] * {{Archive.today|url=http://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20180808411250.html |title=「高橋留美子さん、米漫画殿堂入り アイズナー賞 日本の女性作家で初」(新潟日報2018年8月8日記事)}} * [https://www.youtube.com/watch?v=Nk35KMHPfws 漫画家 高橋留美子 インタビュー~アングレーム国際漫画祭最優秀賞記念~] * {{Twitter|rumicworld1010|高橋留美子情報}} {{高橋留美子}}{{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たかはし るみこ}} [[Category:高橋留美子|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:アングレーム国際漫画祭グランプリ受賞者]] [[Category:アイズナー賞殿堂入りの人物]] [[Category:日本女子大学出身の人物]] [[Category:新潟県立新潟中央高等学校出身の人物]] [[Category:新潟市出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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ゲーム
ゲーム(英: game)は、勝負、または勝敗を決めること。守るべきルールがあり、環境または他人との相互作用を元に行われる行為または活動である。競技性を高めることで「スポーツ」になる。 日本語へ取り入れられた際にプレイ(英: play)と混同され、国内では和製英語として、「遊び」や「遊戯」、近年では「競技」の意を包含して使用されることもある。そのため本項では「ゲーム(勝負)で遊ぶ」にも重点を置いた解説をするが、当然ながら日本以外では遊戯の意を含まないことには留意する必要がある。 英語のゲーム自体には遊びという意味は無いが、スポーツやアクティビティと同じく、それを楽しみ遊ぶことは当然ある(Play the game.という言い回しなど)。この場合でも、playという言葉は単に参加して楽しむという意味として使われ、gameにも勝負という意味しかなく決して娯楽やレジャーという意味は含意されていない。 以下はよく使われるゲームの定義である。 哲学者のウィトゲンシュタインは、探究のなかで、カテゴリ化に関する議論のなかでゲームの定義を議論した。おそらくゲームを定義づけようとした最初の議論と考えられている。ゲームと呼ばれているものは、ルールや競争を共通の要素として持っている。しかし、彼は、どのようにゲームを定義づけようとしても、必ずその定義から外れてしまうような「ゲーム(とみなされる活動)」があると述べ、しかしそれでもなお、ゲームと呼ばれるものには一定の類似点(家族的類似性)によってゆるやかにまとまっていると主張した。 フランス人社会学者のロジェ・カイヨワは、著書『遊びと人間』("Les jeux et les hommes")のなかで、以下のようにゲームを定義した。すなわち、楽しみのために行なわれること、時間と場所が区切られていること、勝敗が不確定であること、何かを生産するものではないこと、法律やルールに支配されること、現実の活動から意識的に切り離されていることをゲームの参加者が知っていることである。また彼は、playに対応するパイディアPaidea(娯楽)の類型に対するものとして、ルール的制約をもちgameに対応するルドゥスLudus(闘技)を提案した。 ゲームデザイナーのグレッグ・コスティキャンは雑誌Interactive Fantasyの記事 'I Have No Words & I Must Design' において、例えば『シムシティ』の作者ウィル・ライトが自分の作品を(「ゲーム」ではなく)「toy(おもちゃ)」であるとしている言葉などを引きつつ、ゲームとは「充分な情報の下に行われた意思決定 (decision making)をもって、プレイヤーが与えられた資源を管理 (managing resources)しつつ自ら参加し、立ちはだかる障害物を乗り越えて目標 (goals)達成を目指す」ものであるとした。 ゲームデザイナーのクリス・クロフォードは二分法の一連を使ってゲームという用語を定義することを試みた。: したがって、クロフォードの定義は次のようにされるかもしれない:遊ぶアクティブなエージェントとの、互いに干渉できるインタラクティブでゴール指向の活動。 エニックス元社員のJUNZOは著書「人生ドラクエ化マニュアル」(ワニブックス、2015年、ISBN 978-4847093395)の中で「ゲームとは目的を達成する為のルールに基づいた敵との楽しい闘い」と定義した。さらに、この定義に基づき「目的」「ルール」「敵」をゲームの三大要素だとした。そして、あるものに、このゲームの三大要素(「目的」「ルール」「敵」)を導入することにより、そのあるものをゲーム化できる、というゲーム化理論を考案した。 ゲームのルールあるいはゲームのプレイに必要な情報は、プレイヤーの間でよく知られたものと仮定される(完備情報の仮定)。 ゲーム理論そのものは、(そのような名前ではあるが)ここで扱っている「ゲーム」を研究することは主な目的ではないが(ちなみに、そちらはゲーム研究という)ゲーム理論において状況の分析などに使う分類はゲーム研究でも有用なため、しばしば流用される。まず前述のように、一般にここで扱っているようなゲームでは、完備情報ゲーム or 不完備情報ゲーム という分類では、完備である。 一般によく使われる表現に「人数 / (非)ゼロ和 / (無|有)限 / (不)確定 / (不)完全情報」という5要素を並べたものがある。例えばチェスなど多くの伝統的ボードゲームの分類である「二人零和有限確定完全情報ゲーム」などである。以下の節のうちのいくつかは、この分類法中に含まれるような話題を扱っている。 ゲームはしばしば、必要とされるコンポーネントによって分類される(ミニチュアゲーム、球技、カードゲーム、ボードゲーム、コンピュータゲームなど)。よく皮革が使用される場所で、ボールは歴史を通じてポピュラーな試合の部品であり、結果としてラグビーフットボール、バスケットボール、フットボール、クリケット、テニス、バレーボールなどの球技は世界的に人気になった。他のツールは一定の地域に特有である。たとえば、ヨーロッパの多くの国ではユニークなトランプの標準的なデッキを持っている。チェスなどのほかのゲームは主にそのゲームのピースの開発と発展を通じて追跡されるかもしれない。 多くのゲームのツールはトークンであり、他のものを表すことを意図される。トークンはボード、プレイマネー、または得点などの無形のアイテムの質入であることがある。 かくれんぼまたは鬼ごっこなどのゲームはどのような明白なツールも使用しない。むしろ、それらのインタラクティブ性は環境によって定義される。環境が変更されるならば、同じ、または同様な規則を持つゲームは違うゲームプレイを持つかもしれない。たとえば学校の建物でのかくれんぼは公園の同じゲームと異なる。オートレーシングは同じ車によってもレーストラックまたはストリートレースのコースに依存して根本的に違うことがある。 ランダム性(乱数的な要素)の有無という視点である。確定ゲーム (deterministic game) と不確定ゲーム(確率的ゲーム、probabilistic game) といった用語がある。 probabilistic gameの例として、各種トランプゲーム、まわり双六、バックギャモンなどがある。トランプゲームにおいてはカードをシャフルする(かき混ぜる)事がランダムさの源で、まわり双六やバックギャモンにおいてはサイコロの目に従うことがランダムさの源である。 deterministic gameの例としては囲碁、将棋、チェス、チェッカー、ダイヤモンドゲームなどがある。これらのゲームでは偶然の要素はないが、将棋などの「振り駒」で先手、後手を不確定ゲームで決めることは行われる。 ゲームがもし「塗りあい勝ち負けを決めるスプラトゥーン」だとしても、競う相手は一人からでも楽しむ事のできるゲームも数多く存在する。 一人で楽しむ事のできるゲームはソリテール(ソリティア)、もしくはペーシェンスと呼ばれる。ソリテールの多くは、事前目標に到達できたことを「勝ち」、そうでないことを「負け」とも考えられる。 ソリテールにはボード、カードなどを使うものも昔から多様な種類が存在することも知られている。一人で遊ぶ事を主眼としたコンピュータゲームなどはソリテールに分類する事もできる。 ソリテール以外のゲームに、参加する人数が固定しているもの=例えばの話だが囲碁、将棋、コントラクトブリッジなどと、そうでないもの=例えばの話だがポーカー、7並べ、ババ抜きなどがある。固定しなくても、上下限があるものも数多く存在している。 販売戦略上、コンピュータゲームやボードゲームなど利用者が一人で遊ぶゲームを「シングルプレイヤーゲーム」と呼ぶことがあるが、実際はコンピュータやサイコロを使ったランダムな自然現象と対戦しているので、本稿のシングルプレーヤーゲームとは意味合いが異なる。 ほとんどのゲームは複数のプレイヤーを必要とする。しかし、シングルプレイヤーゲームは、プレイヤーが直面している挑戦のタイプとしてユニークである。ゲームのゴールに到着するために互いに張り合っているマルチプレイヤーゲームと違って、シングルプレイヤーゲームは環境(人工的な相手)の要素に対する、自分のスキルに対する、時間に対する、またはチャンスに対するのみの戦いである。ヨーヨーで遊び、壁を背景としてテニスをすることは、一般的に、手ごわい相手の欠如のため試合と認められない。 コンピュータが記録や対戦相手が意識できる単純な計算をするのみであるならば、ゲームは正当にシングルプレイヤーとされることがある。また高度な思考と間主観性を必要とするが、一人の人間が、あらかじめ各アクターの目標や制約を定めたうえで複数のアクターに「分裂」してゲームをすることが可能である。 「シングルプレイヤー」と評された多くのゲームは実際にはパズルまたはレクリエーションと名づけられるかもしれない。 囲碁、将棋、オセロなどは、現在の相手の手がすべて分かるという意味で、隠された情報がないゲームである(完全情報ゲーム)。 これに対し、ポーカー、麻雀などは、相手の手など、プレイヤーから隠された情報を推測するという要素の加わるゲームといえる(不完全情報ゲーム)。 電子ゲームではなくおもちゃである。 ゲームの必勝法探索問題それ自身の困難性は、今のところ定義されておらず、ゲームのクラスに対する必勝法探索問題の困難性が定義されている。 ハミルトンゲームはNP完全問題である。(先手後手あわせて)n手で終了するゲームの必勝法を探索する問題は に属する。 (一般化された)しりとりはPSPACE完全問題である。 尚、二人零和有限確定完全情報ゲームには必勝法があることが知られている。 ゲームがしばしばそれらのツールによって特徴付けられ、また規則によって定義される。規則がハウスルールに左右され、規則の十分な変化は結果として通常「新しい」ゲームを生じさせる。たとえば、野球は"本当の"野球によって、またはウィッフルボールによって行われる。しかし、プレーヤーが、3つだけのベースによって遊ぶと決めるならば、彼らは間違いなく違うゲームをしている。いくつかのゲームが意図的に自身の規則の変更に関係していることを例外として、そのときでさえしばしば不変のメタ規則が存在する。 ルールは一般にターンオーバーと、プレイヤーおよび各プレイヤーのゴールの権利と責任を決定する。プレイヤーの権利は、資源を使用することやトークンを動かすことを含む。よくある勝利条件は、最初にポイントまたはトークンの一定の割合を貯蔵すること(カタンの開拓者たちなど)、ゲームの終わりにより多くのトークンを持つこと(モノポリーなど)、ゲームのトークンを特定の条件に置くこと(チェスの詰みなど)である。 ゲームのツールと規則は結果としてスキル、戦略、運またはそれらの組み合わせの必要性を生み出すであろうし、それに応じて分類される。 スキルのゲームはレスリング、綱引き、石蹴り、ライフル射撃、スケートなどの物質的なスキルのゲームとイングリッシュドラフトとチェスなどのメンタルスキルのゲームを含む。戦略ゲームはイングリッシュドラフト、チェス、囲碁、アリマア、三目並べを含み、しばしば特別な道具を必要とする。運のゲームはギャンブルゲーム(ブラックジャック、麻雀、ルーレットなど)、および蛇と梯子やじゃんけんを含む。多くはカードやサイコロなどの機器を必要とする。しかし、ほとんどのゲームはこれらのうち2つまたは3つの要素を含む。たとえば、アメリカンフットボールや野球は物質的なスキルと戦略の両方に関係し、ティドリーウィンク、ポーカー、モノポリーは戦略と運を結合する。多くのカードゲームとボードゲームは3つすべてを結合する。ほとんどのトリックテイキングゲームやリスク、カタンの開拓者たち、カルカソンヌなどの多くの戦略的なボードゲームは、メンタルスキル、戦略、および運の要素に関係している。 ローンゲームは、一般に「フィールド」またはピッチより小さい、刈り取られた草(または等級付けられた交互の土)のエリアにある芝の上で行えるアウトドアのゲームである。ピッチの上で伝統的に行われる多くのゲームのバリエーションは家庭の前庭や後庭での使用のために「ローンゲーム」としてマーケティングされる。メジャーなローンゲームはホースシュー、ショルフ、クロッケー、ボッチェ、ローンボウルズ、およびスケートを含む。 卓上ゲームは一般に、遊びの要素が小さい領域に制限され、通常ゲームのピースを置き、回復し、動かすことのみで構成され、激しい運動を必要としないゲームを指す。したがって、これらのゲームんほとんどは、プレイヤーが座り、ゲームの要素が存在するテーブルで行われる。さまざまな主要なゲームの型は一般に卓上ゲームのうちに入る。このカテゴリー、特にパーティーゲームに分類される多くのゲームが、遊びにおいてもっと自由な形式で、たとえ、基本的な前提が、ゲームが広い領域、大量の力やスタミナ、箱に入らない専門的な機器を必要としていないことであっても、パントマイムなどの身体活動に関係することを行うことが可能であることには注目する価値がある(時々、鉛筆と紙のようなものが必要になる)。 ゲームのこの分類は、関係しているスキルの要素が手先の器用さまたは手と目の統合と関連しており、コンピュータゲームを除くあらゆるゲームを含む。ジャックス、ペーパーフットボール、ジェンガなどのゲームは、非常にポータブルな、または即席で作られた機器のみを必要とし、あらゆる平面で行われる一方、ピンボール、ビリヤード、エアホッケー、テーブル・フットボール、テーブルホッケーは専門的なテーブルまたは試合用のその他の内蔵モジュールを必要とする。テーブルホッケー、ビリヤード、ピンボール、テーブル・フットボールは私的および公的なゲームルームで人気のある備え付け品であり続けるが、ホームビデオゲームシステムの出現は主としてテーブルホッケーなどのこれらのいくつかを取り替えた。これらのゲームは、反射とコーディネーションを必要としているので、一般に酔った人によってより不十分に実行されるが、結果として怪我を受けることがありそうにない。このようなゲームはドリンキングゲームとして人気がある。さらに、クォーターズなどの専門のドリンキングゲームもまた身体的な調整力に関係し、同様な理由のために人気がある。 ボードゲームは、プレイヤーのステータス、資源、進歩が、物質的なトークンを使用して追跡されるボードを中心的なツールとして使用する。多くはサイコロやカードを使用する。(戦略的な戦闘をシミュレーションするために多くのコンピュータゲームが作成されたが)戦争のシミュレーションをするほとんどのゲームはボードゲームであり、ボードはプレイヤーのトークンが移動するマップであることである。事実上全てのボードゲームは「ターンベースの」遊びに属する。1人のプレイヤーが考え、移動し、そして次のプレイヤーが同じことをし、プレイヤーは順番に作用できるのみである。いくつかのカードゲーム、ほとんどのスポーツ、ほとんどのコンピュータゲームのような「リアルタイムの」遊びに反する。 チェス、囲碁、将棋、オセロなどのいくつかのゲームは完全な決定論であり、興味は戦略要素のみである。一方では子どものゲームは非常に幸運ベースである傾向がある。たとえばキャンディランドは作成される決定の要素を事実上全く持っていない。他のボードゲームは戦略と幸運の要素を結合する。バックギャモンは2つのサイコロのロールに基づいた最もよい戦略的な動きを決定することをプレイヤーに要求する。トリビアゲームは、人が得る問題に基づいたたくさんの無作為性を持っている。ユーロゲームは、多くのボードゲームより幸運のファクターがやや少ないことがしばしば存在することについて有名である。 ボードゲームのグループは、上で述べられているトリヴィアゲーム、ユーロスタイルボードゲームのほかにレースゲーム、ロール・アンド・ムーブ・ボードゲーム、アブストラクトゲーム、言葉遊び、ウォー・シミュレーションゲームを含む。いくつかのボードゲームは複数のグループに属し、他のジャンルの要素を含んでいる。たとえば、クラニアムはひとつの人気のある例であり、プレイヤーは4つの主要なスキルのそれぞれに成功しなければならない:芸術性、ライブパフォーマンス、トリヴィア、語学力。 子供は楽しがって遊ぶだろう。 カードゲームは中心的なツールとしてカード一組を使用する。これらのカードは、標準的な52枚の英米式トランプデッキ(コントラクトブリッジ、ポーカー、ジン・ラミーなどを行う)、違うスート記号による32、36、40枚の地域的なデッキ(ドイツのスカートなど)、78枚のタロットカードのゲームのデッキ(ヨーロッパでトリックテイキングゲームを行うために使用される)、あるいは個々のゲームに特有のデッキ(セットや1000ブランクホワイトカードなど)であることがある。UNOとロークは元来標準のデッキとされたが、その後カスタマイズされたデッキが商品化された例である。マジック:ザ・ギャザリングなどのいくつかのトレーディングカードゲームは大きな入手可能なセットから個々に収集されるか購入されるカードの小さなセットによって行われる。 いくつかのボードゲームはゲームプレイの要素として、通常ランダム化のために、またはゲームへの注意を継続させるためにカード一組を含む。逆に、スコアを維持するために、クリベッジなどのいくつかのカードゲームはムーバーとボードを使用する。そのような場合の2つのジャンルの間の区別は、ゲームのどの要素が真っ先に作動しているかに依存する。ランダムな行動のためにカードを使用しているボードゲームは通常ランダム化のほかの方法を使用でき、一方クリヘッジはちょうど同じぐらい容易に紙に得点を記述することができる。使用されるこれらの要素は、単に目的を達成する伝統的でもっとも容易な方法である。 ダイスゲームは中心的な要素として多くのサイコロを用いる。ボードゲームはしばしばランダム化要素のためにサイコロを用い、サイコロの各ロールはゲームの結果への深い影響を持っているが、サイコロがゲームのほかの要素の成功か失敗かを判断しないので区別される。代わりにこれらがゲームをする人の中心的な指示者である。有名なものにはヤッツィー、ファルクレ、ブンコ、ブラフ、デュド、ポーカーダイスなど。サイコロが、ごく自然に、見たところ乱数の生成を行うようにデザインされるので、これらのゲームは通常運の占める程度が高い。プレイの戦略的な要素を通じて、そして確率論の教義を通じてある程度プレイヤーが指示することができる。このゲームはギャンブルゲームとして人気がある。ブラフやポーカーダイスは本来ギャンブルゲームとして考えられたが、現在おそらくもっとも有名な例はクラップスである。 ドミノゲームは多くの点でカードゲームと同様であるが、代わりの一般的な機器は、2つの終わりを持ち、それぞれにいくつかの数のドット(あるいは「目」)が置かれ、上で現れる2つの可能な終端の値がセットの中にユニークであるような、ドミノと呼ばれるタイルのセットである。ドミノゲームは、主にマッチしている他のドミノの終端にプレイヤーの「手」からドミノをプレイしている中心に置くことによってプレイされる。このとき全体のオブジェクトは、すべてのオープンな終端を与えられた数に達せさせるため、あるいは単にボードの上に人の手からすべてのドミノをプレイするために、常にプレイを作ることができるかもしれない。セットは一つの終端の可能なドットの数の中で、およびピースの組み合わせの数によってさまざまである。歴史的に最も一般的なセットはダブル・シックスであるが、最近はダブル・ナインのようなより「拡張」されたセットが導入されている。これはゲームにおいてより大きな手と多くのプレイヤーの参加を許す。マギンズ、メキシカントレイン、チキンフットは非常に人気のあるドミノゲームである。42は"トリックテイキング"カードゲームに非常に類似しているドミノゲームである。 伝統的なドミノのバリエーションは以下の通りである:トリオミノは理論において同様であるが、三角であり、1つのタイルあたり3つの値を持っている。同様に、クアッドオミノスとして知られているゲームは4角形のタイルを使用する。 いくつかの他のゲームはカードの代わりにタイルを使用する。ラミーキューブはアングロ・アメリカン式トランプに非常に類似している、4色の間でランクを上げていくことを数えるタイルを使用する、カードゲームラミーの同種である。麻雀はカード風の値と絵によるタイルのセットを使うラミーに非常に類似している別のゲームである。 最初に、プレイするゲームのほかの要素の上で、ボードのレイアウトを形成するために、いくつかのゲームはグラフィカルなタイルを使用する。カタンの開拓者たちとカルカソンヌがその例である。それぞれの中で、「ボード」は一連のタイルからなる。カタンの開拓者たちの中で、最初のレイアウトはランダムであるが静的であり、カルカソンヌではゲームはタイルごとのボードである「建物」によってプレイされる。ボードを全く持っていないが、ピースを動かすためにタイルを使用する抽象的な戦略ゲームハイブはチェスに類似しているメカニカルで戦略的な要素を持っている。ピース自身がレイアウトを形成し、また動くことができる。 この種類のゲームは文房具以外の専門的な機器をほとんどまたは全く必要としない。ただし、ボードゲームとして商品化される(たとえば、スクラブルはクロスワードパズルのアイディアに基づき、ボックス型のグリッドとピースによる三目ならべセットは商業的に入手可能である)。これらのゲームは多様であり、ピクショナリーのような描かれたデザインに注目しているゲームや、スプロウツのような"点と点を結ぶ"ゲーム、ボッグルやスカッテルゴリエスなどの文字と言葉のゲーム、数独やクロスワードパズルなどのソリテールとロジックのパズルゲームがある。 推理ゲームは、1人のプレイヤーが知っている情報をコアとして所持し、オブジェクトは、テキストまたは話された言葉の中で事実上それを漏らさない情報の断片を推理することを他人に強いることである。ジェスチャーはおそらくこのタイプのもっとも有名なゲームであり、キャッチフェイズ、タブー、ピクショナリーなどの、通信のタイプの異なる規則に関係しているたくさんの商業用のバリエーションを生み出した。このジャンルはまたウィン、ルーズ・オア・ドロー、パスワード、および25000ドルのピラミッドなどの多くのゲームショーを含む。 球技などのスポーツの試合というゲームがあるが、そういうゲームとのかかわりかたは、試合に参加する方法と、見て楽しむという方法がある。 スタンリー・フィッシュは、社会的なとりきめによる規則の操作の明白な例として、野球のボールとストライクを挙げた。ストライクゾーンというのは人々がそれがあるとみなすことに互いに合意した場合だけ存在している。物理的な実体はまったく無い。人々の心の中の決めごとによって生み出されているのである。そして、どの投球も、権限を与えられた審判員の判定によって「ストライク」とか「ボール」などと声でラベルを付けて分類されるまで、ボールでもストライクでもない。 なお、すべてのスポーツがゲームというわけではない。たとえば競走や体操などは、近代オリンピックにおいてどう扱われていようが、クロフォードなどの定義によるゲームにはあたらない。彼らは間接的な方法で互いに挑むのみである。直接的に相手に干渉したりはしない。 1950年代や1960年代から大型計算機ではしるゲームソフトを書いて遊ぶ人たちがいた。 1970年代後半にパーソナルコンピュータが登場してからは、パーソナルコンピュータを買える年齢の大学生や大人たちの間でゲームソフトがさかんに制作された。 また1983年に任天堂からファミリーコンピュータというゲーム専用コンピュータが発売されてからは価格の安さと専用機の扱いやすさのおかげで爆発的に普及し子供たちがコンピュータゲームをするようになった。 それぞれの属する世代や、各人の経済力により、コンピュータ関連の「ゲーム」が指す意味は異なっている。たとえば1980年代にマイクロコンピュータを買えた世代にとって「ゲーム」と言えばマイコンゲームであったし、1980年代にまだ子供でパソコンが買えずファミコンしか買ってもらえなかった子供にとっては「ゲーム」と言えばファミリーコンピュータのゲームだったし、その後たとえばPlayStationで遊んで育った世代にとっては「ゲーム」と言えばPlayStation + ソフトを意味した。現代の幼い、まだ母親から借りたスマホしか触っていない幼稚園児・保育園児は「ゲーム」と言えば、スマホのゲームアプリのことだと思っている。 コンピュータゲームはコンピュータをゲームルールの情報処理に深く利用している。コンピュータは、カードまたはサイコロなどの、人あるいは人工知能との間でのゲームで使用されるバーチャルなツールを作成することができるか、ゲームプレーをとおじて処理できる現世の、もしくはファンタスティックなものよりずっと精巧な世界をシミュレーションすることができる。 ビデオゲームでは1つ以上の入力デバイスを使用する。アーケードゲームでは一般的に押しボタンとジョイスティックの組み合わせである。パーソナルコンピュータ用ゲームではキーボード、マウス、トラックボールである。ゲーム機ではゲームコントローラまたはモーションセンシティブツールである。パドルコントローラなどのより難解な機器も入力のために用いられる。コンピュータゲームにおいて、単純なキーボードからマウス、ジョイスティック、ジョイパッドにいたるまでのユーザーインタフェイスの発展はゲームの開発の性質を大きく変更した。 多くのジャンルのビデオゲームが存在する。最初の商業用ビデオゲームポンは卓球の簡単なシミュレーションであった。処理パワーの増大に伴い、アドベンチャーやアクションゲームなどの新しいジャンルが開発された。これが障害の一連を通じて第三者の眺望からキャラクターを誘導しているプレイヤーに関係した。この「リアルタイム」要素は、一般に「ターンベースの」戦略に制限されるボードゲームによって容易に再現されない。この有利さは、ビデオゲームがより現実的に戦闘などの状況をシミュレーションすることを可能にする。さらに、コンピュータゲームの遊びは実世界の表現と同じ物質的なスキル、力、危険を必要とせず、空想的な自然、物質的な暴力を伴っているゲーム、またはスポーツのシミュレーションの要素を許し、非常にリアルだが、誇張されるか不可能な物理学を提供できる。最後に、シングルプレイヤーのよってプレイすることができるシミュレーションを引き起こし、コンピュータは成功のさまざまな程度によって、チェスなどの伝統的なテーブルゲームにおいて1人以上の人の相手をシミュレーションすることができる。 サンドボックススタイルゲームとして知られるより無制限のコンピュータシミュレーションにおいて、ゲームは、プレイヤーが自由にこの宇宙の限界の中で好きな何かをすることができるかもしれないバーチャルな環境を提供する。時々、ゴールの不足または欠如があり、これは、これらが「ゲーム」または「おもちゃ」のどちらと考えられるべきであるかについてのいくらの討論を起こした(クロフォードは特におもちゃの例としてウィル・ライトのシムシティに言及する。) タイムシェアリング方式の電話回線でつないだコンピュータの時代から、オンラインゲームは一応行われていた。PLATOなどの初期の商用システムは厳密に教育的な分野と少なくとも同じくらいゲームによって有名であった。1958年、Tennis for Twoは訪問者の日を支配し、ブルックヘブン国立研究所のオシロスコープに注意を引きつけた。1980年代、パロアルト研究所は主にメイズウォーによって知られていた。それは訪問者に実地のデモとして提供された。パソコンで遊べるゲームはフラッシュゲームなどもある。とはいえ、これはアメリカの研究所の研究員の話であり、世界中の一般人はこんなことはできなかった。 一般の人々にとっては、1980年代後半のパソコン通信の時代でもオンラインゲームはあまり一般的ではなかった。1990年からすこしづつインターネットが普及したが、最初は従量制で時間あたりの料金が高すぎて、おまけに回線速度もとても遅かったので、オンラインゲームは普及しなかった。普及したのは、プロバイダー同士の競合が激化して、安い定額料金が設定され安心して遊べるようになり、回線の高速化つまりブロードバンドや光回線が一般的になってからである。 現在のオンラインゲームはインターネット接続を使用して行われる。いくつかがクライアントプログラムを献呈した一方、ブラウザゲームはウェブブラウザのみを必要とする。いくつかのより簡単なブラウザゲームは、ビデオゲームをほとんどしない人口統計のグループ(特に女性と中年)にアピールする。 コンピュータゲームは出現したニューメディアのランドスケープの全てのセクタでよく設立される。メディアは、1つだけの方法を循環する伝統的な方法からインタラクティブな方法へ変換する。これはビデオゲームの世界中で広がっている現象である。これは、オンラインとオフラインの空間が別れずに「合併される」と考えられることができる方法の明白な例である。) 社会的変化と開発の結果としてメディアの客の特徴が変化する。彼らはアクティブになり、これまでよりもっと対話する。この現象において、ゲームのプレイヤーは私たちの社会の中での構成に似ている。彼らは両方とも自動調節であり、彼ら自身の社会規範を作成していて、ゲームのコードを通して、そして時々、それを実行する人々によるゲームの取締りを通じて、規則と強制に縛られる。取り締まられる価値はゲームによって変わる。ゲーム文化の中にエンコードされた価値の多くはオフラインで文化的な価値を反映するが、ゲームはまたチャンスを強調の選択肢に提供したり、ファンタジーと遊びの名において価値を鎮圧する。新しい世紀のゲームのプレイヤーは現在見たところゲームを通じて深い自身を表現している。彼らが匿名のステータスによって遊ぶことができるときに、急ぎ、また一度も外出したことがないポジションから外に進むことを発見できる。それらはコンピュータ技術のインタラクティブで浸水の可能性に基づいた新しい体験と楽しみを提供する。 コンピュータゲームで対戦を行うことは、1983年発売のファミリーコンピュータでも、1994年発売の初代PlayStationでも行われていた。コントローラーが2つ付属しており、2人が同時にプレイでき、2人で対戦するためのゲームソフトも販売されていたからである。ネットワークにつながなくても対戦を楽しむことができた。PS2のグランツーリスモ3 A-specでのプレーヤ2人での対戦は、ただコンピュータゲームというだけでなく、プレーヤたちは互いの車をぶつけあって干渉しあうので、クロフォードの定義の「ゲーム」にも該当する。 近年、PCゲームで対戦を行うことがさかんになり、対決試合の大会まで行われるようになり、最初はスポーツ系・肉体系の動作を表現したゲームから始まり、その直接的な競い合いぶり、そのぶつかりあいの激しさに、これはもうスポーツだ、ということでeスポーツと呼ばれるようになった。たとえば『ストリートファイター』の対戦など、自分のキャラは相手のキャラに激しく干渉しており相互作用が起きており、クロフォードの定義の「ゲーム」にも該当する。 RPGとしばしば省略されて呼ばれるロールプレイングゲームは、通常、参加者が虚構の設定上で活動するキャラクターの役割を受け持つタイプのゲームである。本来のロールプレイングゲームという用語が指す、テーブルトークロールプレイングゲーム(TRPG)とも呼ばれるこれらのゲームは通常、テーブルに向かい合った複数人の参加者によってプレイされ、筆記具と紙を用いたフィクションの展開に終始傾注する。 プレイヤーたちは協力して、彼らのキャラクターに関連した設定を作り、その設定を発展させ、探求し、また他人になりきって日常生活の枠を飛び越えた冒険を経験することになる。今日のテーブルトークロールプレイングゲームは、伝統的なジャンルの境界を越えて、様々な作品が作られており、戦闘重視なものから、よりストーリー重視なものまで、数百種類のゲームが存在している。 ロールプレイングゲームという用語は、今日ではコンピュータRPGを指すためにも使われる(日本ではより一般的でもある)。あらかじめプログラムされた状況とストーリーを単独のプレイヤーが遊ぶゲームであることが多いが、インターネットの発達により、MORPG、MMORPGと呼称される小規模・大規模の複数プレイヤーが参加するコンピュータRPGも存在する。 また、一人で、コンピュータを用いずにプレイできるテーブルトークロールプレイングゲームとして、ゲームブックなども存在する。 なおコンピュータを用いず、ロールプレイング形式で行われるシミュレーションについては、「シミュレーション」を参照。 ビジネスゲームはインタラクティブなボードゲームから、違う支柱(ボール、ロープ、輪など)と活動のさまざまな種類に関係しているインタラクティブゲームまでのさまざまな形式を取ることができる。これらのゲームの目的は組織的な性能のいくつかの面にリンクし、ビジネスの発展についての議論を生成することである。多くのビジネスゲームは組織的な行動に注目する。これらのいくつかがコンピュータシミュレーションである一方、他方はプレイと情報の聞き出しによるシンプルなデザインである。チームビルディングはそのような活動の共通のフォーカスである。 用語「ゲーム」はさまざまな活動のシミュレーションまたは再現を含み、訓練、分析、予測などのさまざまな目的のために「実生活」で使うことができる。有名な例は軍事演習と役割演技である。この意味の根は、先史時代に端を発するかもしれないことが、原始文明を観察することから人類学によって推論された。それにおいて、子どものゲームは重要なほどに狩猟、戦争、看護、などの大人の活動を真似する。これらの種類のゲームは現代に保存される。 シミュレーションのうち、未来予想・未来予測を目的とし、ロールプレイング方式で行うものはゲーミング・シミュレーションと呼ばれる。コンピュータに依拠した科学的なシミュレーションとはやや異なり、交渉で生まれる間主観性の有無を重視するため、国際政治の研究や1.5トラックで用いられることが多い。とりわけ危機対応を想定した危機管理シミュレーションは、コンピュータシミュレーションに必要な変数の抽出が不足するため、ロールプレイング方式で行われることが多い。また大学教育では、アクティブ・ラーニングの一環として環境、教育学、まちづくり、国際関係、防災など多分野で導入されている。 (⇒詳細はシミュレーション を参照) デザインゲーム(design game)とは、まちづくりにおけるシミュレーションの一種で、具体的な空間計画等を行う際に、空間イメージをシミュレーションし、目標のイメージを関係者で共有するための手法。ワークショップのような集会において、参加者が意見やアイデアをだし合い、実際に設計やデザインに参加する。ワークショップ形式での新しい公園やまちを計画する際など住民参加型の計画に用いられる。種類として、将来の町の姿をシミュレーションする「ライフデザインゲーム」や 町の更新をシミュレートする「建替えデザインゲーム」など各種ある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ゲーム(英: game)は、勝負、または勝敗を決めること。守るべきルールがあり、環境または他人との相互作用を元に行われる行為または活動である。競技性を高めることで「スポーツ」になる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本語へ取り入れられた際にプレイ(英: play)と混同され、国内では和製英語として、「遊び」や「遊戯」、近年では「競技」の意を包含して使用されることもある。そのため本項では「ゲーム(勝負)で遊ぶ」にも重点を置いた解説をするが、当然ながら日本以外では遊戯の意を含まないことには留意する必要がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "英語のゲーム自体には遊びという意味は無いが、スポーツやアクティビティと同じく、それを楽しみ遊ぶことは当然ある(Play the game.という言い回しなど)。この場合でも、playという言葉は単に参加して楽しむという意味として使われ、gameにも勝負という意味しかなく決して娯楽やレジャーという意味は含意されていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "以下はよく使われるゲームの定義である。", "title": "ゲームの定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "哲学者のウィトゲンシュタインは、探究のなかで、カテゴリ化に関する議論のなかでゲームの定義を議論した。おそらくゲームを定義づけようとした最初の議論と考えられている。ゲームと呼ばれているものは、ルールや競争を共通の要素として持っている。しかし、彼は、どのようにゲームを定義づけようとしても、必ずその定義から外れてしまうような「ゲーム(とみなされる活動)」があると述べ、しかしそれでもなお、ゲームと呼ばれるものには一定の類似点(家族的類似性)によってゆるやかにまとまっていると主張した。", "title": "ゲームの定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "フランス人社会学者のロジェ・カイヨワは、著書『遊びと人間』(\"Les jeux et les hommes\")のなかで、以下のようにゲームを定義した。すなわち、楽しみのために行なわれること、時間と場所が区切られていること、勝敗が不確定であること、何かを生産するものではないこと、法律やルールに支配されること、現実の活動から意識的に切り離されていることをゲームの参加者が知っていることである。また彼は、playに対応するパイディアPaidea(娯楽)の類型に対するものとして、ルール的制約をもちgameに対応するルドゥスLudus(闘技)を提案した。", "title": "ゲームの定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ゲームデザイナーのグレッグ・コスティキャンは雑誌Interactive Fantasyの記事 'I Have No Words & I Must Design' において、例えば『シムシティ』の作者ウィル・ライトが自分の作品を(「ゲーム」ではなく)「toy(おもちゃ)」であるとしている言葉などを引きつつ、ゲームとは「充分な情報の下に行われた意思決定 (decision making)をもって、プレイヤーが与えられた資源を管理 (managing resources)しつつ自ら参加し、立ちはだかる障害物を乗り越えて目標 (goals)達成を目指す」ものであるとした。", "title": "ゲームの定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ゲームデザイナーのクリス・クロフォードは二分法の一連を使ってゲームという用語を定義することを試みた。:", "title": "ゲームの定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "したがって、クロフォードの定義は次のようにされるかもしれない:遊ぶアクティブなエージェントとの、互いに干渉できるインタラクティブでゴール指向の活動。", "title": "ゲームの定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "エニックス元社員のJUNZOは著書「人生ドラクエ化マニュアル」(ワニブックス、2015年、ISBN 978-4847093395)の中で「ゲームとは目的を達成する為のルールに基づいた敵との楽しい闘い」と定義した。さらに、この定義に基づき「目的」「ルール」「敵」をゲームの三大要素だとした。そして、あるものに、このゲームの三大要素(「目的」「ルール」「敵」)を導入することにより、そのあるものをゲーム化できる、というゲーム化理論を考案した。", "title": "ゲームの定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ゲームのルールあるいはゲームのプレイに必要な情報は、プレイヤーの間でよく知られたものと仮定される(完備情報の仮定)。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ゲーム理論そのものは、(そのような名前ではあるが)ここで扱っている「ゲーム」を研究することは主な目的ではないが(ちなみに、そちらはゲーム研究という)ゲーム理論において状況の分析などに使う分類はゲーム研究でも有用なため、しばしば流用される。まず前述のように、一般にここで扱っているようなゲームでは、完備情報ゲーム or 不完備情報ゲーム という分類では、完備である。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一般によく使われる表現に「人数 / (非)ゼロ和 / (無|有)限 / (不)確定 / (不)完全情報」という5要素を並べたものがある。例えばチェスなど多くの伝統的ボードゲームの分類である「二人零和有限確定完全情報ゲーム」などである。以下の節のうちのいくつかは、この分類法中に含まれるような話題を扱っている。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ゲームはしばしば、必要とされるコンポーネントによって分類される(ミニチュアゲーム、球技、カードゲーム、ボードゲーム、コンピュータゲームなど)。よく皮革が使用される場所で、ボールは歴史を通じてポピュラーな試合の部品であり、結果としてラグビーフットボール、バスケットボール、フットボール、クリケット、テニス、バレーボールなどの球技は世界的に人気になった。他のツールは一定の地域に特有である。たとえば、ヨーロッパの多くの国ではユニークなトランプの標準的なデッキを持っている。チェスなどのほかのゲームは主にそのゲームのピースの開発と発展を通じて追跡されるかもしれない。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "多くのゲームのツールはトークンであり、他のものを表すことを意図される。トークンはボード、プレイマネー、または得点などの無形のアイテムの質入であることがある。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "かくれんぼまたは鬼ごっこなどのゲームはどのような明白なツールも使用しない。むしろ、それらのインタラクティブ性は環境によって定義される。環境が変更されるならば、同じ、または同様な規則を持つゲームは違うゲームプレイを持つかもしれない。たとえば学校の建物でのかくれんぼは公園の同じゲームと異なる。オートレーシングは同じ車によってもレーストラックまたはストリートレースのコースに依存して根本的に違うことがある。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ランダム性(乱数的な要素)の有無という視点である。確定ゲーム (deterministic game) と不確定ゲーム(確率的ゲーム、probabilistic game) といった用語がある。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "probabilistic gameの例として、各種トランプゲーム、まわり双六、バックギャモンなどがある。トランプゲームにおいてはカードをシャフルする(かき混ぜる)事がランダムさの源で、まわり双六やバックギャモンにおいてはサイコロの目に従うことがランダムさの源である。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "deterministic gameの例としては囲碁、将棋、チェス、チェッカー、ダイヤモンドゲームなどがある。これらのゲームでは偶然の要素はないが、将棋などの「振り駒」で先手、後手を不確定ゲームで決めることは行われる。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ゲームがもし「塗りあい勝ち負けを決めるスプラトゥーン」だとしても、競う相手は一人からでも楽しむ事のできるゲームも数多く存在する。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一人で楽しむ事のできるゲームはソリテール(ソリティア)、もしくはペーシェンスと呼ばれる。ソリテールの多くは、事前目標に到達できたことを「勝ち」、そうでないことを「負け」とも考えられる。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ソリテールにはボード、カードなどを使うものも昔から多様な種類が存在することも知られている。一人で遊ぶ事を主眼としたコンピュータゲームなどはソリテールに分類する事もできる。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ソリテール以外のゲームに、参加する人数が固定しているもの=例えばの話だが囲碁、将棋、コントラクトブリッジなどと、そうでないもの=例えばの話だがポーカー、7並べ、ババ抜きなどがある。固定しなくても、上下限があるものも数多く存在している。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "販売戦略上、コンピュータゲームやボードゲームなど利用者が一人で遊ぶゲームを「シングルプレイヤーゲーム」と呼ぶことがあるが、実際はコンピュータやサイコロを使ったランダムな自然現象と対戦しているので、本稿のシングルプレーヤーゲームとは意味合いが異なる。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ほとんどのゲームは複数のプレイヤーを必要とする。しかし、シングルプレイヤーゲームは、プレイヤーが直面している挑戦のタイプとしてユニークである。ゲームのゴールに到着するために互いに張り合っているマルチプレイヤーゲームと違って、シングルプレイヤーゲームは環境(人工的な相手)の要素に対する、自分のスキルに対する、時間に対する、またはチャンスに対するのみの戦いである。ヨーヨーで遊び、壁を背景としてテニスをすることは、一般的に、手ごわい相手の欠如のため試合と認められない。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "コンピュータが記録や対戦相手が意識できる単純な計算をするのみであるならば、ゲームは正当にシングルプレイヤーとされることがある。また高度な思考と間主観性を必要とするが、一人の人間が、あらかじめ各アクターの目標や制約を定めたうえで複数のアクターに「分裂」してゲームをすることが可能である。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「シングルプレイヤー」と評された多くのゲームは実際にはパズルまたはレクリエーションと名づけられるかもしれない。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "囲碁、将棋、オセロなどは、現在の相手の手がすべて分かるという意味で、隠された情報がないゲームである(完全情報ゲーム)。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "これに対し、ポーカー、麻雀などは、相手の手など、プレイヤーから隠された情報を推測するという要素の加わるゲームといえる(不完全情報ゲーム)。 電子ゲームではなくおもちゃである。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ゲームの必勝法探索問題それ自身の困難性は、今のところ定義されておらず、ゲームのクラスに対する必勝法探索問題の困難性が定義されている。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ハミルトンゲームはNP完全問題である。(先手後手あわせて)n手で終了するゲームの必勝法を探索する問題は", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "に属する。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "(一般化された)しりとりはPSPACE完全問題である。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "尚、二人零和有限確定完全情報ゲームには必勝法があることが知られている。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ゲームがしばしばそれらのツールによって特徴付けられ、また規則によって定義される。規則がハウスルールに左右され、規則の十分な変化は結果として通常「新しい」ゲームを生じさせる。たとえば、野球は\"本当の\"野球によって、またはウィッフルボールによって行われる。しかし、プレーヤーが、3つだけのベースによって遊ぶと決めるならば、彼らは間違いなく違うゲームをしている。いくつかのゲームが意図的に自身の規則の変更に関係していることを例外として、そのときでさえしばしば不変のメタ規則が存在する。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ルールは一般にターンオーバーと、プレイヤーおよび各プレイヤーのゴールの権利と責任を決定する。プレイヤーの権利は、資源を使用することやトークンを動かすことを含む。よくある勝利条件は、最初にポイントまたはトークンの一定の割合を貯蔵すること(カタンの開拓者たちなど)、ゲームの終わりにより多くのトークンを持つこと(モノポリーなど)、ゲームのトークンを特定の条件に置くこと(チェスの詰みなど)である。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ゲームのツールと規則は結果としてスキル、戦略、運またはそれらの組み合わせの必要性を生み出すであろうし、それに応じて分類される。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "スキルのゲームはレスリング、綱引き、石蹴り、ライフル射撃、スケートなどの物質的なスキルのゲームとイングリッシュドラフトとチェスなどのメンタルスキルのゲームを含む。戦略ゲームはイングリッシュドラフト、チェス、囲碁、アリマア、三目並べを含み、しばしば特別な道具を必要とする。運のゲームはギャンブルゲーム(ブラックジャック、麻雀、ルーレットなど)、および蛇と梯子やじゃんけんを含む。多くはカードやサイコロなどの機器を必要とする。しかし、ほとんどのゲームはこれらのうち2つまたは3つの要素を含む。たとえば、アメリカンフットボールや野球は物質的なスキルと戦略の両方に関係し、ティドリーウィンク、ポーカー、モノポリーは戦略と運を結合する。多くのカードゲームとボードゲームは3つすべてを結合する。ほとんどのトリックテイキングゲームやリスク、カタンの開拓者たち、カルカソンヌなどの多くの戦略的なボードゲームは、メンタルスキル、戦略、および運の要素に関係している。", "title": "ゲームの要素と分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ローンゲームは、一般に「フィールド」またはピッチより小さい、刈り取られた草(または等級付けられた交互の土)のエリアにある芝の上で行えるアウトドアのゲームである。ピッチの上で伝統的に行われる多くのゲームのバリエーションは家庭の前庭や後庭での使用のために「ローンゲーム」としてマーケティングされる。メジャーなローンゲームはホースシュー、ショルフ、クロッケー、ボッチェ、ローンボウルズ、およびスケートを含む。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "卓上ゲームは一般に、遊びの要素が小さい領域に制限され、通常ゲームのピースを置き、回復し、動かすことのみで構成され、激しい運動を必要としないゲームを指す。したがって、これらのゲームんほとんどは、プレイヤーが座り、ゲームの要素が存在するテーブルで行われる。さまざまな主要なゲームの型は一般に卓上ゲームのうちに入る。このカテゴリー、特にパーティーゲームに分類される多くのゲームが、遊びにおいてもっと自由な形式で、たとえ、基本的な前提が、ゲームが広い領域、大量の力やスタミナ、箱に入らない専門的な機器を必要としていないことであっても、パントマイムなどの身体活動に関係することを行うことが可能であることには注目する価値がある(時々、鉛筆と紙のようなものが必要になる)。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ゲームのこの分類は、関係しているスキルの要素が手先の器用さまたは手と目の統合と関連しており、コンピュータゲームを除くあらゆるゲームを含む。ジャックス、ペーパーフットボール、ジェンガなどのゲームは、非常にポータブルな、または即席で作られた機器のみを必要とし、あらゆる平面で行われる一方、ピンボール、ビリヤード、エアホッケー、テーブル・フットボール、テーブルホッケーは専門的なテーブルまたは試合用のその他の内蔵モジュールを必要とする。テーブルホッケー、ビリヤード、ピンボール、テーブル・フットボールは私的および公的なゲームルームで人気のある備え付け品であり続けるが、ホームビデオゲームシステムの出現は主としてテーブルホッケーなどのこれらのいくつかを取り替えた。これらのゲームは、反射とコーディネーションを必要としているので、一般に酔った人によってより不十分に実行されるが、結果として怪我を受けることがありそうにない。このようなゲームはドリンキングゲームとして人気がある。さらに、クォーターズなどの専門のドリンキングゲームもまた身体的な調整力に関係し、同様な理由のために人気がある。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ボードゲームは、プレイヤーのステータス、資源、進歩が、物質的なトークンを使用して追跡されるボードを中心的なツールとして使用する。多くはサイコロやカードを使用する。(戦略的な戦闘をシミュレーションするために多くのコンピュータゲームが作成されたが)戦争のシミュレーションをするほとんどのゲームはボードゲームであり、ボードはプレイヤーのトークンが移動するマップであることである。事実上全てのボードゲームは「ターンベースの」遊びに属する。1人のプレイヤーが考え、移動し、そして次のプレイヤーが同じことをし、プレイヤーは順番に作用できるのみである。いくつかのカードゲーム、ほとんどのスポーツ、ほとんどのコンピュータゲームのような「リアルタイムの」遊びに反する。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "チェス、囲碁、将棋、オセロなどのいくつかのゲームは完全な決定論であり、興味は戦略要素のみである。一方では子どものゲームは非常に幸運ベースである傾向がある。たとえばキャンディランドは作成される決定の要素を事実上全く持っていない。他のボードゲームは戦略と幸運の要素を結合する。バックギャモンは2つのサイコロのロールに基づいた最もよい戦略的な動きを決定することをプレイヤーに要求する。トリビアゲームは、人が得る問題に基づいたたくさんの無作為性を持っている。ユーロゲームは、多くのボードゲームより幸運のファクターがやや少ないことがしばしば存在することについて有名である。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ボードゲームのグループは、上で述べられているトリヴィアゲーム、ユーロスタイルボードゲームのほかにレースゲーム、ロール・アンド・ムーブ・ボードゲーム、アブストラクトゲーム、言葉遊び、ウォー・シミュレーションゲームを含む。いくつかのボードゲームは複数のグループに属し、他のジャンルの要素を含んでいる。たとえば、クラニアムはひとつの人気のある例であり、プレイヤーは4つの主要なスキルのそれぞれに成功しなければならない:芸術性、ライブパフォーマンス、トリヴィア、語学力。 子供は楽しがって遊ぶだろう。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "カードゲームは中心的なツールとしてカード一組を使用する。これらのカードは、標準的な52枚の英米式トランプデッキ(コントラクトブリッジ、ポーカー、ジン・ラミーなどを行う)、違うスート記号による32、36、40枚の地域的なデッキ(ドイツのスカートなど)、78枚のタロットカードのゲームのデッキ(ヨーロッパでトリックテイキングゲームを行うために使用される)、あるいは個々のゲームに特有のデッキ(セットや1000ブランクホワイトカードなど)であることがある。UNOとロークは元来標準のデッキとされたが、その後カスタマイズされたデッキが商品化された例である。マジック:ザ・ギャザリングなどのいくつかのトレーディングカードゲームは大きな入手可能なセットから個々に収集されるか購入されるカードの小さなセットによって行われる。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "いくつかのボードゲームはゲームプレイの要素として、通常ランダム化のために、またはゲームへの注意を継続させるためにカード一組を含む。逆に、スコアを維持するために、クリベッジなどのいくつかのカードゲームはムーバーとボードを使用する。そのような場合の2つのジャンルの間の区別は、ゲームのどの要素が真っ先に作動しているかに依存する。ランダムな行動のためにカードを使用しているボードゲームは通常ランダム化のほかの方法を使用でき、一方クリヘッジはちょうど同じぐらい容易に紙に得点を記述することができる。使用されるこれらの要素は、単に目的を達成する伝統的でもっとも容易な方法である。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ダイスゲームは中心的な要素として多くのサイコロを用いる。ボードゲームはしばしばランダム化要素のためにサイコロを用い、サイコロの各ロールはゲームの結果への深い影響を持っているが、サイコロがゲームのほかの要素の成功か失敗かを判断しないので区別される。代わりにこれらがゲームをする人の中心的な指示者である。有名なものにはヤッツィー、ファルクレ、ブンコ、ブラフ、デュド、ポーカーダイスなど。サイコロが、ごく自然に、見たところ乱数の生成を行うようにデザインされるので、これらのゲームは通常運の占める程度が高い。プレイの戦略的な要素を通じて、そして確率論の教義を通じてある程度プレイヤーが指示することができる。このゲームはギャンブルゲームとして人気がある。ブラフやポーカーダイスは本来ギャンブルゲームとして考えられたが、現在おそらくもっとも有名な例はクラップスである。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ドミノゲームは多くの点でカードゲームと同様であるが、代わりの一般的な機器は、2つの終わりを持ち、それぞれにいくつかの数のドット(あるいは「目」)が置かれ、上で現れる2つの可能な終端の値がセットの中にユニークであるような、ドミノと呼ばれるタイルのセットである。ドミノゲームは、主にマッチしている他のドミノの終端にプレイヤーの「手」からドミノをプレイしている中心に置くことによってプレイされる。このとき全体のオブジェクトは、すべてのオープンな終端を与えられた数に達せさせるため、あるいは単にボードの上に人の手からすべてのドミノをプレイするために、常にプレイを作ることができるかもしれない。セットは一つの終端の可能なドットの数の中で、およびピースの組み合わせの数によってさまざまである。歴史的に最も一般的なセットはダブル・シックスであるが、最近はダブル・ナインのようなより「拡張」されたセットが導入されている。これはゲームにおいてより大きな手と多くのプレイヤーの参加を許す。マギンズ、メキシカントレイン、チキンフットは非常に人気のあるドミノゲームである。42は\"トリックテイキング\"カードゲームに非常に類似しているドミノゲームである。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "伝統的なドミノのバリエーションは以下の通りである:トリオミノは理論において同様であるが、三角であり、1つのタイルあたり3つの値を持っている。同様に、クアッドオミノスとして知られているゲームは4角形のタイルを使用する。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "いくつかの他のゲームはカードの代わりにタイルを使用する。ラミーキューブはアングロ・アメリカン式トランプに非常に類似している、4色の間でランクを上げていくことを数えるタイルを使用する、カードゲームラミーの同種である。麻雀はカード風の値と絵によるタイルのセットを使うラミーに非常に類似している別のゲームである。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "最初に、プレイするゲームのほかの要素の上で、ボードのレイアウトを形成するために、いくつかのゲームはグラフィカルなタイルを使用する。カタンの開拓者たちとカルカソンヌがその例である。それぞれの中で、「ボード」は一連のタイルからなる。カタンの開拓者たちの中で、最初のレイアウトはランダムであるが静的であり、カルカソンヌではゲームはタイルごとのボードである「建物」によってプレイされる。ボードを全く持っていないが、ピースを動かすためにタイルを使用する抽象的な戦略ゲームハイブはチェスに類似しているメカニカルで戦略的な要素を持っている。ピース自身がレイアウトを形成し、また動くことができる。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "この種類のゲームは文房具以外の専門的な機器をほとんどまたは全く必要としない。ただし、ボードゲームとして商品化される(たとえば、スクラブルはクロスワードパズルのアイディアに基づき、ボックス型のグリッドとピースによる三目ならべセットは商業的に入手可能である)。これらのゲームは多様であり、ピクショナリーのような描かれたデザインに注目しているゲームや、スプロウツのような\"点と点を結ぶ\"ゲーム、ボッグルやスカッテルゴリエスなどの文字と言葉のゲーム、数独やクロスワードパズルなどのソリテールとロジックのパズルゲームがある。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "推理ゲームは、1人のプレイヤーが知っている情報をコアとして所持し、オブジェクトは、テキストまたは話された言葉の中で事実上それを漏らさない情報の断片を推理することを他人に強いることである。ジェスチャーはおそらくこのタイプのもっとも有名なゲームであり、キャッチフェイズ、タブー、ピクショナリーなどの、通信のタイプの異なる規則に関係しているたくさんの商業用のバリエーションを生み出した。このジャンルはまたウィン、ルーズ・オア・ドロー、パスワード、および25000ドルのピラミッドなどの多くのゲームショーを含む。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "球技などのスポーツの試合というゲームがあるが、そういうゲームとのかかわりかたは、試合に参加する方法と、見て楽しむという方法がある。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "スタンリー・フィッシュは、社会的なとりきめによる規則の操作の明白な例として、野球のボールとストライクを挙げた。ストライクゾーンというのは人々がそれがあるとみなすことに互いに合意した場合だけ存在している。物理的な実体はまったく無い。人々の心の中の決めごとによって生み出されているのである。そして、どの投球も、権限を与えられた審判員の判定によって「ストライク」とか「ボール」などと声でラベルを付けて分類されるまで、ボールでもストライクでもない。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なお、すべてのスポーツがゲームというわけではない。たとえば競走や体操などは、近代オリンピックにおいてどう扱われていようが、クロフォードなどの定義によるゲームにはあたらない。彼らは間接的な方法で互いに挑むのみである。直接的に相手に干渉したりはしない。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1950年代や1960年代から大型計算機ではしるゲームソフトを書いて遊ぶ人たちがいた。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1970年代後半にパーソナルコンピュータが登場してからは、パーソナルコンピュータを買える年齢の大学生や大人たちの間でゲームソフトがさかんに制作された。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また1983年に任天堂からファミリーコンピュータというゲーム専用コンピュータが発売されてからは価格の安さと専用機の扱いやすさのおかげで爆発的に普及し子供たちがコンピュータゲームをするようになった。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "それぞれの属する世代や、各人の経済力により、コンピュータ関連の「ゲーム」が指す意味は異なっている。たとえば1980年代にマイクロコンピュータを買えた世代にとって「ゲーム」と言えばマイコンゲームであったし、1980年代にまだ子供でパソコンが買えずファミコンしか買ってもらえなかった子供にとっては「ゲーム」と言えばファミリーコンピュータのゲームだったし、その後たとえばPlayStationで遊んで育った世代にとっては「ゲーム」と言えばPlayStation + ソフトを意味した。現代の幼い、まだ母親から借りたスマホしか触っていない幼稚園児・保育園児は「ゲーム」と言えば、スマホのゲームアプリのことだと思っている。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームはコンピュータをゲームルールの情報処理に深く利用している。コンピュータは、カードまたはサイコロなどの、人あるいは人工知能との間でのゲームで使用されるバーチャルなツールを作成することができるか、ゲームプレーをとおじて処理できる現世の、もしくはファンタスティックなものよりずっと精巧な世界をシミュレーションすることができる。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ビデオゲームでは1つ以上の入力デバイスを使用する。アーケードゲームでは一般的に押しボタンとジョイスティックの組み合わせである。パーソナルコンピュータ用ゲームではキーボード、マウス、トラックボールである。ゲーム機ではゲームコントローラまたはモーションセンシティブツールである。パドルコントローラなどのより難解な機器も入力のために用いられる。コンピュータゲームにおいて、単純なキーボードからマウス、ジョイスティック、ジョイパッドにいたるまでのユーザーインタフェイスの発展はゲームの開発の性質を大きく変更した。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "多くのジャンルのビデオゲームが存在する。最初の商業用ビデオゲームポンは卓球の簡単なシミュレーションであった。処理パワーの増大に伴い、アドベンチャーやアクションゲームなどの新しいジャンルが開発された。これが障害の一連を通じて第三者の眺望からキャラクターを誘導しているプレイヤーに関係した。この「リアルタイム」要素は、一般に「ターンベースの」戦略に制限されるボードゲームによって容易に再現されない。この有利さは、ビデオゲームがより現実的に戦闘などの状況をシミュレーションすることを可能にする。さらに、コンピュータゲームの遊びは実世界の表現と同じ物質的なスキル、力、危険を必要とせず、空想的な自然、物質的な暴力を伴っているゲーム、またはスポーツのシミュレーションの要素を許し、非常にリアルだが、誇張されるか不可能な物理学を提供できる。最後に、シングルプレイヤーのよってプレイすることができるシミュレーションを引き起こし、コンピュータは成功のさまざまな程度によって、チェスなどの伝統的なテーブルゲームにおいて1人以上の人の相手をシミュレーションすることができる。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "サンドボックススタイルゲームとして知られるより無制限のコンピュータシミュレーションにおいて、ゲームは、プレイヤーが自由にこの宇宙の限界の中で好きな何かをすることができるかもしれないバーチャルな環境を提供する。時々、ゴールの不足または欠如があり、これは、これらが「ゲーム」または「おもちゃ」のどちらと考えられるべきであるかについてのいくらの討論を起こした(クロフォードは特におもちゃの例としてウィル・ライトのシムシティに言及する。)", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "タイムシェアリング方式の電話回線でつないだコンピュータの時代から、オンラインゲームは一応行われていた。PLATOなどの初期の商用システムは厳密に教育的な分野と少なくとも同じくらいゲームによって有名であった。1958年、Tennis for Twoは訪問者の日を支配し、ブルックヘブン国立研究所のオシロスコープに注意を引きつけた。1980年代、パロアルト研究所は主にメイズウォーによって知られていた。それは訪問者に実地のデモとして提供された。パソコンで遊べるゲームはフラッシュゲームなどもある。とはいえ、これはアメリカの研究所の研究員の話であり、世界中の一般人はこんなことはできなかった。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "一般の人々にとっては、1980年代後半のパソコン通信の時代でもオンラインゲームはあまり一般的ではなかった。1990年からすこしづつインターネットが普及したが、最初は従量制で時間あたりの料金が高すぎて、おまけに回線速度もとても遅かったので、オンラインゲームは普及しなかった。普及したのは、プロバイダー同士の競合が激化して、安い定額料金が設定され安心して遊べるようになり、回線の高速化つまりブロードバンドや光回線が一般的になってからである。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "現在のオンラインゲームはインターネット接続を使用して行われる。いくつかがクライアントプログラムを献呈した一方、ブラウザゲームはウェブブラウザのみを必要とする。いくつかのより簡単なブラウザゲームは、ビデオゲームをほとんどしない人口統計のグループ(特に女性と中年)にアピールする。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームは出現したニューメディアのランドスケープの全てのセクタでよく設立される。メディアは、1つだけの方法を循環する伝統的な方法からインタラクティブな方法へ変換する。これはビデオゲームの世界中で広がっている現象である。これは、オンラインとオフラインの空間が別れずに「合併される」と考えられることができる方法の明白な例である。)", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "社会的変化と開発の結果としてメディアの客の特徴が変化する。彼らはアクティブになり、これまでよりもっと対話する。この現象において、ゲームのプレイヤーは私たちの社会の中での構成に似ている。彼らは両方とも自動調節であり、彼ら自身の社会規範を作成していて、ゲームのコードを通して、そして時々、それを実行する人々によるゲームの取締りを通じて、規則と強制に縛られる。取り締まられる価値はゲームによって変わる。ゲーム文化の中にエンコードされた価値の多くはオフラインで文化的な価値を反映するが、ゲームはまたチャンスを強調の選択肢に提供したり、ファンタジーと遊びの名において価値を鎮圧する。新しい世紀のゲームのプレイヤーは現在見たところゲームを通じて深い自身を表現している。彼らが匿名のステータスによって遊ぶことができるときに、急ぎ、また一度も外出したことがないポジションから外に進むことを発見できる。それらはコンピュータ技術のインタラクティブで浸水の可能性に基づいた新しい体験と楽しみを提供する。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームで対戦を行うことは、1983年発売のファミリーコンピュータでも、1994年発売の初代PlayStationでも行われていた。コントローラーが2つ付属しており、2人が同時にプレイでき、2人で対戦するためのゲームソフトも販売されていたからである。ネットワークにつながなくても対戦を楽しむことができた。PS2のグランツーリスモ3 A-specでのプレーヤ2人での対戦は、ただコンピュータゲームというだけでなく、プレーヤたちは互いの車をぶつけあって干渉しあうので、クロフォードの定義の「ゲーム」にも該当する。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "近年、PCゲームで対戦を行うことがさかんになり、対決試合の大会まで行われるようになり、最初はスポーツ系・肉体系の動作を表現したゲームから始まり、その直接的な競い合いぶり、そのぶつかりあいの激しさに、これはもうスポーツだ、ということでeスポーツと呼ばれるようになった。たとえば『ストリートファイター』の対戦など、自分のキャラは相手のキャラに激しく干渉しており相互作用が起きており、クロフォードの定義の「ゲーム」にも該当する。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "RPGとしばしば省略されて呼ばれるロールプレイングゲームは、通常、参加者が虚構の設定上で活動するキャラクターの役割を受け持つタイプのゲームである。本来のロールプレイングゲームという用語が指す、テーブルトークロールプレイングゲーム(TRPG)とも呼ばれるこれらのゲームは通常、テーブルに向かい合った複数人の参加者によってプレイされ、筆記具と紙を用いたフィクションの展開に終始傾注する。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "プレイヤーたちは協力して、彼らのキャラクターに関連した設定を作り、その設定を発展させ、探求し、また他人になりきって日常生活の枠を飛び越えた冒険を経験することになる。今日のテーブルトークロールプレイングゲームは、伝統的なジャンルの境界を越えて、様々な作品が作られており、戦闘重視なものから、よりストーリー重視なものまで、数百種類のゲームが存在している。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ロールプレイングゲームという用語は、今日ではコンピュータRPGを指すためにも使われる(日本ではより一般的でもある)。あらかじめプログラムされた状況とストーリーを単独のプレイヤーが遊ぶゲームであることが多いが、インターネットの発達により、MORPG、MMORPGと呼称される小規模・大規模の複数プレイヤーが参加するコンピュータRPGも存在する。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "また、一人で、コンピュータを用いずにプレイできるテーブルトークロールプレイングゲームとして、ゲームブックなども存在する。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "なおコンピュータを用いず、ロールプレイング形式で行われるシミュレーションについては、「シミュレーション」を参照。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ビジネスゲームはインタラクティブなボードゲームから、違う支柱(ボール、ロープ、輪など)と活動のさまざまな種類に関係しているインタラクティブゲームまでのさまざまな形式を取ることができる。これらのゲームの目的は組織的な性能のいくつかの面にリンクし、ビジネスの発展についての議論を生成することである。多くのビジネスゲームは組織的な行動に注目する。これらのいくつかがコンピュータシミュレーションである一方、他方はプレイと情報の聞き出しによるシンプルなデザインである。チームビルディングはそのような活動の共通のフォーカスである。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "用語「ゲーム」はさまざまな活動のシミュレーションまたは再現を含み、訓練、分析、予測などのさまざまな目的のために「実生活」で使うことができる。有名な例は軍事演習と役割演技である。この意味の根は、先史時代に端を発するかもしれないことが、原始文明を観察することから人類学によって推論された。それにおいて、子どものゲームは重要なほどに狩猟、戦争、看護、などの大人の活動を真似する。これらの種類のゲームは現代に保存される。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "シミュレーションのうち、未来予想・未来予測を目的とし、ロールプレイング方式で行うものはゲーミング・シミュレーションと呼ばれる。コンピュータに依拠した科学的なシミュレーションとはやや異なり、交渉で生まれる間主観性の有無を重視するため、国際政治の研究や1.5トラックで用いられることが多い。とりわけ危機対応を想定した危機管理シミュレーションは、コンピュータシミュレーションに必要な変数の抽出が不足するため、ロールプレイング方式で行われることが多い。また大学教育では、アクティブ・ラーニングの一環として環境、教育学、まちづくり、国際関係、防災など多分野で導入されている。", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "(⇒詳細はシミュレーション を参照)", "title": "さまざまなゲーム" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "デザインゲーム(design game)とは、まちづくりにおけるシミュレーションの一種で、具体的な空間計画等を行う際に、空間イメージをシミュレーションし、目標のイメージを関係者で共有するための手法。ワークショップのような集会において、参加者が意見やアイデアをだし合い、実際に設計やデザインに参加する。ワークショップ形式での新しい公園やまちを計画する際など住民参加型の計画に用いられる。種類として、将来の町の姿をシミュレーションする「ライフデザインゲーム」や 町の更新をシミュレートする「建替えデザインゲーム」など各種ある。", "title": "さまざまなゲーム" } ]
ゲームは、勝負、または勝敗を決めること。守るべきルールがあり、環境または他人との相互作用を元に行われる行為または活動である。競技性を高めることで「スポーツ」になる。 日本語へ取り入れられた際にプレイと混同され、国内では和製英語として、「遊び」や「遊戯」、近年では「競技」の意を包含して使用されることもある。そのため本項では「ゲーム(勝負)で遊ぶ」にも重点を置いた解説をするが、当然ながら日本以外では遊戯の意を含まないことには留意する必要がある。 英語のゲーム自体には遊びという意味は無いが、スポーツやアクティビティと同じく、それを楽しみ遊ぶことは当然ある(Play the game.という言い回しなど)。この場合でも、playという言葉は単に参加して楽しむという意味として使われ、gameにも勝負という意味しかなく決して娯楽やレジャーという意味は含意されていない。
{{Otheruses||コンピュータプログラムを利用するゲーム|コンピュータゲーム|その他の意味|ゲーム (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2018年1月}} '''ゲーム'''({{Lang-en-short|[[w:Game|game]]}})は、[[勝負]]、または勝敗を決めること。守るべき[[規則|ルール]]があり、[[環境]]または他人との[[相互作用]]を元に行われる行為または活動である。競技性を高めることで「[[スポーツ]]」になる。 日本語へ取り入れられた際に'''プレイ'''({{Lang-en-short|[[w:Play|play]]}})と混同され、国内では[[和製英語]]として、「[[遊び]]」や「遊戯」、近年では「[[スポーツ|競技]]」の意を包含して使用されることもある。そのため本項では「ゲーム(勝負)で遊ぶ」にも重点を置いた解説をするが、当然ながら日本以外では遊戯の意を含まないことには留意する必要がある。 英語のゲーム自体には遊びという意味は無いが、スポーツやアクティビティと同じく、それを楽しみ遊ぶことは当然ある(Play the game.という言い回しなど)。この場合でも、playという言葉は単に参加して楽しむという意味として使われ、gameにも勝負という意味しかなく決して娯楽やレジャーという意味は含意されていない。 ==ゲームの定義== 以下はよく使われるゲームの[[定義]]である<ref>{{YouTube|mGvfbo5hHfw|馬場章氏×遠藤雅伸氏 『ゲーム・テクノロジーから教育を変える』 Edu×Tech Fes2013}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20140219131/|title=ドロッセルマイヤーズが考える,ゲームシステムと世界観の理想の関係とは? [[ボードゲーム]]制作の視点からメカニクス構築を紐解く講演会レポート|accessdate=2014-2-22}}</ref>。 === ウィトゲンシュタイン === [[哲学者]]の[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]は、探究のなかで、カテゴリ化に関する議論のなかでゲームの定義を議論した。おそらくゲームを定義づけようとした最初の議論と考えられている。ゲームと呼ばれているものは、ルールや競争を共通の要素として持っている。しかし、彼は、どのようにゲームを定義づけようとしても、必ずその定義から外れてしまうような「ゲーム(とみなされる活動)」があると述べ、しかしそれでもなお、ゲームと呼ばれるものには一定の類似点([[家族的類似性]])によってゆるやかにまとまっていると主張した。 === カイヨワ === フランス人社会学者の[[ロジェ・カイヨワ]]は、著書『遊びと人間』("Les jeux et les hommes")のなかで、以下のようにゲームを定義した。すなわち、楽しみのために行なわれること、時間と場所が区切られていること、勝敗が不確定であること、何かを生産するものではないこと、法律やルールに支配されること、現実の活動から意識的に切り離されていることをゲームの参加者が知っていることである。また彼は、playに対応するパイディアPaidea(娯楽)の類型に対するものとして、ルール的制約をもちgameに対応するルドゥスLudus(闘技)を提案した。 === コスティキャン === [[ゲームデザイナー]]の[[グレッグ・コスティキャン]]は雑誌Interactive Fantasyの記事 'I Have No Words & I Must Design' において、例えば『[[シムシティ]]』の作者[[ウィル・ライト]]が自分の作品を(「ゲーム」ではなく)「toy([[おもちゃ]])」であるとしている言葉などを引きつつ、ゲームとは「充分な情報の下に行われた意思決定 (decision making)をもって、プレイヤーが与えられた資源を管理 (managing resources)しつつ自ら参加し、立ちはだかる障害物を乗り越えて目標 (goals)達成を目指す」ものであるとした<ref>{{Cite web|和書|url=http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html|title=I Have No Words & I Must Design|accessdate=2010-2-10|language=日本語}}</ref>。 === クロフォード === [[ゲームデザイナー]]の[[クリス・クロフォード]]は[[二分法]]の一連を使ってゲームという用語を定義することを試みた<ref name="craw"> {{cite book|title=Chris Crawford on Game Design|isbn=0-88134-117-7|last=Crawford|first=Chris|authorlink=クリス・クロフォード|year=2003|publisher=New Riders }}</ref>。: #自身の美のために作られるのは[[芸術]]であり、[[貨幣]]のために作られるのは[[エンターテインメント]]である。(これは彼の定義の中でもっとも硬くない。クロフォードは、しばしば従来のビジネスの知恵より創造的な道を選ぶと認める。これは彼の13のゲームのうち[[続編]]が1つだけである理由である) #それがインタラクティブならばエンターテインメントは[[遊び]]である。[[映画]]と[[本]]はインタラクティブでないエンターテインメントの例として挙げられる。 #遊びにゴールが存在しないなら、それは[[玩具]]である。(クロフォードの定義によると、(a)プレイヤーが規則を作ることによっておもちゃがゲームの要素になることができる、(b)[[シムピープル]]や[[シムシティ]]はゲームではなく玩具である。)ゴールを持っているならば遊びは挑戦。 #挑戦が「競合するアクティブなエージェント」を持っていないならば、それは[[パズル]]である。一人ならばそれは[[衝突]]である。(クロフォードは、これが主観的なテストであると認める。目立って[[アルゴリズム]]的な[[人工知能]]を持つコンピュータゲームはパズルとしてプレイすることができる。これは[[パックマン]]においてゴーストを回避するために使用されたパターンを含む。) #最終的に、[[プレイヤー (ゲーム)|プレイヤー]]が相手よりアウトパフォームすることができるのみであり、彼らのパフォーマンスを妨げるために攻撃することができないのならば、衝突は競技会である。(競技会は[[競走]]と[[フィギュアスケート]]を含む。)しかし、攻撃が許されるならば、衝突はゲームとされる資格を得る。 したがって、クロフォードの定義は次のようにされるかもしれない:遊ぶアクティブなエージェントとの、互いに干渉できるインタラクティブでゴール指向の活動。 === JUNZO === [[エニックス]]元社員のJUNZOは著書「人生ドラクエ化マニュアル」([[ワニブックス]]、2015年、ISBN 978-4847093395)の中で「ゲームとは目的を達成する為のルールに基づいた敵との楽しい闘い」と定義した。さらに、この定義に基づき「目的」「ルール」「敵」をゲームの三大要素だとした。そして、あるものに、このゲームの三大要素(「目的」「ルール」「敵」)を導入することにより、そのあるものをゲーム化できる、というゲーム化理論を考案した。 === 他 === *ゲームとは、少なくとも二人以上のプレイヤー同士が対立構造を持ち、ルールに従って定量化可能な結果にいたる[[システム]]である<ref> {{citation | title=Rules of Play: Game Design Fundamentals | isbn=0-262-24045-9 | last=Salen | first=Katie | last2=Zimmerman | first2=Eric | page=80 | year=2003 | publisher=MIT Press }}</ref>。 *ゲームとは、少なくとも二人以上のプレイヤーが、目的の達成のためにそれぞれ使用可能な[[資源]]の[[マネージメント]]を行うことである<ref>{{citation|title=I Have No Words & I Must Design|year=1994|last=Costikyan|first=Greg|url=http://www.costik.com/nowords.html|accessdate=2008-08-17}}</ref><ref> {{citation | title=The Study of Games | isbn=0471038393 | last=Avedon | first=Elliot | last2=Sutton-Smith | first2=Brian | page=405 | year=1971 | publisher=J. Wiley }}</ref>。 <!-- * [[松田道弘]]はその著書『トランプの楽しみ』で、「遊戯としてのゲーム」の定義として「勝敗を争う事で楽しむ遊戯」という定義を採用している{{要検証|date=2010年2月}}。--> *[[ゲームデザイナー]]の[[陳星漢]]によると「人間の欲望を満たすもの(インタラクティブ・エンターテインメント)」という<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201303/31031192.html|title=『風ノ旅ビト』誕生秘話――人の感情を動かすゲームが生まれるまで【GDC2013】|accessdate=2013-3-31}}</ref>。 *特に[[テレビゲーム]]は「褒める装置」ともいわれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.0600design.com/archives/2005/11/post_136.html|title=六百デザインの「嘘六百」: 時折綴る「子供にゲームをさせよ論」のコト|accessdate=2013-12-26}}</ref>。 *[[遠藤雅伸]]は「道」と答えている<ref>{{Cite web|和書|url=https://entertainmentstation.jp/164259 |title=ゲームの神様・遠藤雅伸氏(下)日本のゲームの素晴らしさを世界に伝えるために |accessdate=2018-01-23}}</ref>。 == 歴史 == {{Main|ゲームの歴史}} ==ゲームの要素と分類== ゲームのルールあるいはゲームのプレイに必要な情報は、プレイヤーの間でよく知られたものと仮定される([[完備情報]]の仮定)。 === ゲーム理論の援用 === [[ゲーム理論]]そのものは、(そのような名前ではあるが)ここで扱っている「ゲーム」を研究することは主な目的ではないが(ちなみに、そちらは[[ゲーム研究]]という)ゲーム理論において状況の分析などに使う分類はゲーム研究でも有用なため、しばしば流用される。まず前述のように、一般にここで扱っているようなゲームでは、[[完備情報|完備情報ゲーム]] or [[不完備情報ゲーム]] という分類では、完備である。 一般によく使われる表現に「人数 / (非)ゼロ和 / (無|有)限 / (不)確定 / (不)完全情報」という5要素を並べたものがある。例えば[[チェス]]など多くの伝統的ボードゲームの分類である「[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]」などである。以下の節のうちのいくつかは、この分類法中に含まれるような話題を扱っている。 === ツール === ゲームはしばしば、必要とされるコンポーネントによって分類される([[ミニチュアゲーム]]、[[球技]]、[[カードゲーム]]、[[ボードゲーム]]、[[コンピュータゲーム]]など)。よく[[皮革]]が使用される場所で、ボールは歴史を通じてポピュラーな試合の部品であり、結果として[[ラグビーフットボール]]、[[バスケットボール]]、[[フットボール]]、[[クリケット]]、[[テニス]]、[[バレーボール]]などの球技は世界的に人気になった。他のツールは一定の地域に特有である。たとえば、ヨーロッパの多くの国ではユニークな[[トランプ]]の標準的なデッキを持っている。[[チェス]]などのほかのゲームは主にそのゲームのピースの開発と発展を通じて追跡されるかもしれない。 多くのゲームのツールはトークンであり、他のものを表すことを意図される。トークンはボード、プレイマネー、または得点などの無形のアイテムの質入であることがある。 [[かくれんぼ]]または[[鬼ごっこ]]などのゲームはどのような明白なツールも使用しない。むしろ、それらのインタラクティブ性は環境によって定義される。環境が変更されるならば、同じ、または同様な規則を持つゲームは違うゲームプレイを持つかもしれない。たとえば[[学校]]の建物でのかくれんぼは[[公園]]の同じゲームと異なる。オートレーシングは同じ車によってもレーストラックまたは[[ストリートレース]]のコースに依存して根本的に違うことがある。 ==== ランダム性の有無による分類 ==== ランダム性(乱数的な要素)の有無という視点である。確定ゲーム (deterministic game) と不確定ゲーム(確率的ゲーム、probabilistic game) といった用語がある。 probabilistic gameの例として、各種[[トランプ]]ゲーム、まわり[[双六]]、[[バックギャモン]]などがある。トランプゲームにおいてはカードをシャフルする(かき混ぜる)事がランダムさの源で、まわり双六やバックギャモンにおいてはサイコロの目に従うことがランダムさの源である。 deterministic gameの例としては[[囲碁]]、[[将棋]]、[[チェス]]、[[チェッカー]]、[[ダイヤモンドゲーム]]などがある。これらのゲームでは偶然の要素はないが、将棋などの「振り駒」で先手、後手を不確定ゲームで決めることは行われる。 <!-- deterministic gameの特徴として、理論的にはゲームを始める前からどのプレイヤーが勝利するのかが決まっている事があげられる(先手必勝、後手必勝など)。誰一人として最善手を知らない為ゲームとして成り立つが、簡単に最善手が分かるゲーム(例えばチック・タック・トゥー([[三目並べ]]))の場合ゲームを楽しむ事ができない。対するprobablistic gameの場合、ゲームの進行は確率的なものである為、たとえ(最尤法で定まる)最善手を打っていても運が悪ければ負ける事もある。--> === 参加する人数による分類 === ゲームがもし「塗りあい勝ち負けを決めるスプラトゥーン」だとしても、競う相手は一人からでも楽しむ事のできるゲームも数多く存在する。 一人で楽しむ事のできるゲームはソリテール([[ソリティア]])、もしくはペーシェンスと呼ばれる。ソリテールの多くは、事前目標に到達できたことを「勝ち」、そうでないことを「負け」とも考えられる。 ソリテールにはボード、カードなどを使うものも昔から多様な種類が存在することも知られている。一人で遊ぶ事を主眼としたコンピュータゲームなどはソリテールに分類する事もできる。 ソリテール以外のゲームに、参加する人数が固定しているもの=例えばの話だが[[囲碁]]、[[将棋]]、[[コントラクトブリッジ]]などと、そうでないもの=例えばの話だが[[ポーカー]]、[[7並べ]]、[[ババ抜き]]などがある。固定しなくても、上下限があるものも数多く存在している。 ==== シングルプレイヤーゲーム ==== 販売戦略上、[[コンピュータゲーム]]やボードゲームなど利用者が一人で遊ぶゲームを「シングルプレイヤーゲーム」と呼ぶことがあるが、実際はコンピュータやサイコロを使ったランダムな自然現象と対戦しているので、本稿のシングルプレーヤーゲームとは意味合いが異なる。 ほとんどのゲームは複数のプレイヤーを必要とする。しかし、シングルプレイヤーゲームは、プレイヤーが直面している挑戦のタイプとしてユニークである。ゲームのゴールに到着するために互いに張り合っているマルチプレイヤーゲームと違って、シングルプレイヤーゲームは環境(人工的な相手)の要素に対する、自分のスキルに対する、時間に対する、またはチャンスに対するのみの戦いである。[[ヨーヨー]]で遊び、壁を背景として[[テニス]]をすることは、一般的に、手ごわい相手の欠如のため試合と認められない。 コンピュータが記録や対戦相手が意識できる単純な計算をするのみであるならば、ゲームは正当にシングルプレイヤーとされることがある。また高度な思考と間主観性を必要とするが、一人の人間が、あらかじめ各アクターの目標や制約を定めたうえで複数のアクターに「分裂」してゲームをすることが可能である。 「シングルプレイヤー」と評された多くのゲームは実際にはパズルまたはレクリエーションと名づけられるかもしれない。 === 隠された情報の有無による分類 === 囲碁、将棋、[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]などは、現在の相手の手がすべて分かるという意味で、隠された情報がないゲームである([[完全情報ゲーム]])。 これに対し、[[ポーカー]]、[[麻雀]]などは、相手の手など、プレイヤーから隠された情報を推測するという要素の加わるゲームといえる(不完全情報ゲーム)。 電子ゲームではなくおもちゃである。 ===必勝法を探索する問題の困難性による分類=== ゲームの必勝法探索問題それ自身の困難性は、今のところ定義されておらず、ゲームのクラスに対する必勝法探索問題の困難性が定義されている。 ハミルトンゲームは[[NP完全問題]]である。(先手後手あわせて)n手で終了するゲームの必勝法を探索する問題は :<math>\sum_n P \cup \prod_n P</math> に属する。 (一般化された)[[しりとり]]はPSPACE完全問題である。 尚、[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]には必勝法があることが知られている。 ===ルール=== ゲームがしばしばそれらのツールによって特徴付けられ、また規則によって定義される。規則が[[ハウスルール]]に左右され、規則の十分な変化は結果として通常「新しい」ゲームを生じさせる。たとえば、[[野球]]は"本当の"野球によって、または[[ウィッフルボール]]によって行われる。しかし、プレーヤーが、3つだけのベースによって遊ぶと決めるならば、彼らは間違いなく違うゲームをしている。いくつかのゲームが意図的に自身の規則の変更に関係していることを例外として、そのときでさえしばしば不変の[[メタ]]規則が存在する。 ルールは一般にターンオーバーと、プレイヤーおよび各プレイヤーのゴールの権利と責任を決定する。プレイヤーの権利は、資源を使用することやトークンを動かすことを含む。よくある勝利条件は、最初にポイントまたはトークンの一定の割合を貯蔵すること([[カタンの開拓者たち]]など)、ゲームの終わりにより多くのトークンを持つこと([[モノポリー]]など)、ゲームのトークンを特定の条件に置くこと(チェスの[[詰み]]など)である。 ===スキル、戦略、運、味方=== ゲームのツールと規則は結果として[[スキル]]、[[戦略]]、[[運]]またはそれらの組み合わせの必要性を生み出すであろうし、それに応じて分類される。 スキルのゲームは[[レスリング]]、[[綱引き]]、[[石蹴り]]、[[ライフル射撃]]、スケートなどの物質的なスキルのゲームと[[チェッカー|イングリッシュドラフト]]と[[チェス]]などのメンタルスキルのゲームを含む。戦略ゲームはイングリッシュドラフト、チェス、[[囲碁]]、[[アリマア]]、[[三目並べ]]を含み、しばしば特別な道具を必要とする。運のゲームはギャンブルゲーム([[ブラックジャック]]、[[麻雀]]、[[ルーレット]]など)、および[[蛇と梯子]]や[[じゃんけん]]を含む。多くはカードや[[サイコロ]]などの機器を必要とする。しかし、ほとんどのゲームはこれらのうち2つまたは3つの要素を含む。たとえば、[[アメリカンフットボール]]や[[野球]]は物質的なスキルと戦略の両方に関係し、[[ティドリーウィンク]]、[[ポーカー]]、[[モノポリー]]は戦略と運を結合する。多くのカードゲームとボードゲームは3つすべてを結合する。ほとんどの[[トリックテイキングゲーム]]や[[リスク (ボードゲーム)|リスク]]、[[カタンの開拓者たち]]、[[カルカソンヌ (ゲーム)|カルカソンヌ]]などの多くの戦略的なボードゲームは、メンタルスキル、戦略、および運の要素に関係している。 == さまざまなゲーム == ===ローンゲーム=== [[ローンゲーム]]は、一般に「フィールド」または[[ピッチ (スポーツのフィールド)|ピッチ]]より小さい、刈り取られた草(または等級付けられた交互の土)のエリアにある[[芝]]の上で行えるアウトドアのゲームである。[[ピッチ (スポーツのフィールド)|ピッチ]]の上で伝統的に行われる多くのゲームのバリエーションは家庭の前庭や後庭での使用のために「ローンゲーム」として[[マーケティング]]される。メジャーなローンゲームは[[ホースシュー]]、[[ショルフ]]、[[クロッケー]]、[[ボッチェ]]、[[ローンボウルズ]]、および[[スケート (ローンゲーム)|スケート]]を含む。 ===卓上ゲーム=== 卓上ゲームは一般に、遊びの要素が小さい領域に制限され、通常ゲームのピースを置き、回復し、動かすことのみで構成され、激しい運動を必要としないゲームを指す。したがって、これらのゲームんほとんどは、プレイヤーが座り、ゲームの要素が存在するテーブルで行われる。さまざまな主要なゲームの型は一般に卓上ゲームのうちに入る。このカテゴリー、特に[[パーティーゲーム]]に分類される多くのゲームが、遊びにおいてもっと自由な形式で、たとえ、基本的な前提が、ゲームが広い領域、大量の力やスタミナ、箱に入らない専門的な機器を必要としていないことであっても、パントマイムなどの身体活動に関係することを行うことが可能であることには注目する価値がある(時々、鉛筆と紙のようなものが必要になる)。 ====器用さとコーディネーションのゲーム==== ゲームのこの分類は、関係しているスキルの要素が手先の器用さまたは手と目の統合と関連しており、コンピュータゲームを除くあらゆるゲームを含む。[[ジャックス (遊び道具)|ジャックス]]、[[ペーパーフットボール]]、[[ジェンガ]]などのゲームは、非常にポータブルな、または即席で作られた機器のみを必要とし、あらゆる平面で行われる一方、[[ピンボール]]、[[ビリヤード]]、[[エアホッケー]]、[[テーブル・フットボール]]、[[テーブルホッケー]]は専門的なテーブルまたは試合用のその他の内蔵モジュールを必要とする。テーブルホッケー、ビリヤード、ピンボール、テーブル・フットボールは私的および公的なゲームルームで人気のある備え付け品であり続けるが、ホームビデオゲームシステムの出現は主としてテーブルホッケーなどのこれらのいくつかを取り替えた。これらのゲームは、反射とコーディネーションを必要としているので、一般に酔った人によってより不十分に実行されるが、結果として怪我を受けることがありそうにない。このようなゲームは[[ドリンキングゲーム]]として人気がある。さらに、[[クォーターズ (ドリンキングゲーム)|クォーターズ]]などの専門のドリンキングゲームもまた身体的な調整力に関係し、同様な理由のために人気がある。 ====ボードゲーム==== [[Image:PetitsChevaux1.svg|thumb|right|[[パーチージ]]は[[インド]]起源のボードゲームのアメリカの順応化である。]] ボードゲームは、プレイヤーのステータス、資源、進歩が、物質的なトークンを使用して追跡されるボードを中心的なツールとして使用する。多くは[[サイコロ]]やカードを使用する。(戦略的な戦闘をシミュレーションするために多くのコンピュータゲームが作成されたが)戦争のシミュレーションをするほとんどのゲームはボードゲームであり、ボードはプレイヤーのトークンが移動するマップであることである。事実上全てのボードゲームは「ターンベースの」遊びに属する。1人のプレイヤーが考え、移動し、そして次のプレイヤーが同じことをし、プレイヤーは順番に作用できるのみである。いくつかのカードゲーム、ほとんどのスポーツ、ほとんどのコンピュータゲームのような「リアルタイムの」遊びに反する。 [[チェス]]、[[囲碁]]、[[将棋]]、[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]などのいくつかのゲームは完全な決定論であり、興味は戦略要素のみである。一方では子どものゲームは非常に幸運ベースである傾向がある。たとえば[[キャンディランド]]は作成される決定の要素を事実上全く持っていない。他のボードゲームは戦略と幸運の要素を結合する。[[バックギャモン]]は2つの[[サイコロ]]のロールに基づいた最もよい戦略的な動きを決定することをプレイヤーに要求する。トリビアゲームは、人が得る問題に基づいたたくさんの無作為性を持っている。[[ユーロゲーム]]は、多くのボードゲームより幸運のファクターがやや少ないことがしばしば存在することについて有名である。 ボードゲームのグループは、上で述べられている[[トリヴィア]]ゲーム、ユーロスタイルボードゲームのほかに[[レースゲーム]]、ロール・アンド・ムーブ・ボードゲーム、[[アブストラクトゲーム]]、[[言葉遊び]]、[[ウォー・シミュレーションゲーム]]を含む。いくつかのボードゲームは複数のグループに属し、他のジャンルの要素を含んでいる。たとえば、[[クラニアム (ボードゲーム)|クラニアム]]はひとつの人気のある例であり、プレイヤーは4つの主要なスキルのそれぞれに成功しなければならない:芸術性、ライブパフォーマンス、トリヴィア、語学力。 子供は楽しがって遊ぶだろう。 ====カードゲーム==== カードゲームは中心的なツールとしてカード一組を使用する。これらのカードは、標準的な52枚の英米式[[トランプ]]デッキ([[コントラクトブリッジ]]、[[ポーカー]]、[[ジン・ラミー]]などを行う)、違うスート記号による32、36、40枚の地域的なデッキ(ドイツの[[スカート (トランプゲーム)|スカート]]など)、78枚のタロットカードのゲームのデッキ(ヨーロッパで[[トリックテイキングゲーム]]を行うために使用される)、あるいは個々のゲームに特有のデッキ([[セット (カードゲーム)|セット]]や[[1000ブランクホワイトカード]]など)であることがある。[[UNO (ゲーム)|UNO]]と[[ローク (カードゲーム)|ローク]]は元来標準のデッキとされたが、その後カスタマイズされたデッキが商品化された例である。[[マジック:ザ・ギャザリング]]などのいくつかの[[トレーディングカードゲーム]]は大きな入手可能なセットから個々に収集されるか購入されるカードの小さなセットによって行われる。 いくつかのボードゲームはゲームプレイの要素として、通常ランダム化のために、またはゲームへの注意を継続させるためにカード一組を含む。逆に、スコアを維持するために、[[クリベッジ]]などのいくつかのカードゲームはムーバーとボードを使用する。そのような場合の2つのジャンルの間の区別は、ゲームのどの要素が真っ先に作動しているかに依存する。ランダムな行動のためにカードを使用しているボードゲームは通常ランダム化のほかの方法を使用でき、一方クリヘッジはちょうど同じぐらい容易に紙に得点を記述することができる。使用されるこれらの要素は、単に目的を達成する伝統的でもっとも容易な方法である。 ====ダイスゲーム==== ダイスゲームは中心的な要素として多くの[[サイコロ]]を用いる。ボードゲームはしばしばランダム化要素のためにサイコロを用い、サイコロの各ロールはゲームの結果への深い影響を持っているが、サイコロがゲームのほかの要素の成功か失敗かを判断しないので区別される。代わりにこれらがゲームをする人の中心的な指示者である。有名なものには[[ヤッツィー]]、[[ファルクレ]]、[[ブンコ]]、[[ブラフ (ゲーム)|ブラフ]]、[[デュド]]、[[ポーカーダイス]]など。サイコロが、ごく自然に、見たところ乱数の生成を行うようにデザインされるので、これらのゲームは通常運の占める程度が高い。プレイの戦略的な要素を通じて、そして[[確率論]]の教義を通じてある程度プレイヤーが指示することができる。このゲームはギャンブルゲームとして人気がある。ブラフやポーカーダイスは本来ギャンブルゲームとして考えられたが、現在おそらくもっとも有名な例は[[クラップス]]である。 ====ドミノとタイルのゲーム==== ドミノゲームは多くの点でカードゲームと同様であるが、代わりの一般的な機器は、2つの終わりを持ち、それぞれにいくつかの数のドット(あるいは「目」)が置かれ、上で現れる2つの可能な終端の値がセットの中にユニークであるような、[[ドミノ]]と呼ばれるタイルのセットである。ドミノゲームは、主にマッチしている他のドミノの終端にプレイヤーの「手」からドミノをプレイしている中心に置くことによってプレイされる。このとき全体のオブジェクトは、すべてのオープンな終端を与えられた数に達せさせるため、あるいは単にボードの上に人の手からすべてのドミノをプレイするために、常にプレイを作ることができるかもしれない。セットは一つの終端の可能なドットの数の中で、およびピースの組み合わせの数によってさまざまである。歴史的に最も一般的なセットはダブル・シックスであるが、最近はダブル・ナインのようなより「拡張」されたセットが導入されている。これはゲームにおいてより大きな手と多くのプレイヤーの参加を許す。[[ドミノ#ファイブアップ|マギンズ]]、[[ドミノ#メキシカン・トレイン|メキシカントレイン]]、[[チキンフット (ドミノゲーム)|チキンフット]]は非常に人気のあるドミノゲームである。[[ドミノ#42|42]]は"トリックテイキング"[[カードゲーム]]に非常に類似しているドミノゲームである。 伝統的なドミノのバリエーションは以下の通りである:[[トリオミノ]]は理論において同様であるが、三角であり、1つのタイルあたり3つの値を持っている。同様に、[[クアッドオミノス]]として知られているゲームは4角形のタイルを使用する。 いくつかの他のゲームはカードの代わりにタイルを使用する。[[ラミーキューブ]]はアングロ・アメリカン式[[トランプ]]に非常に類似している、4色の間でランクを上げていくことを数えるタイルを使用する、カードゲーム[[ラミー]]の同種である。[[麻雀]]はカード風の値と絵によるタイルのセットを使う[[ラミー]]に非常に類似している別のゲームである。 最初に、プレイするゲームのほかの要素の上で、ボードのレイアウトを形成するために、いくつかのゲームはグラフィカルなタイルを使用する。[[カタンの開拓者たち]]と[[カルカソンヌ (ゲーム)|カルカソンヌ]]がその例である。それぞれの中で、「ボード」は一連のタイルからなる。カタンの開拓者たちの中で、最初のレイアウトはランダムであるが静的であり、カルカソンヌではゲームはタイルごとのボードである「建物」によってプレイされる。ボードを全く持っていないが、ピースを動かすためにタイルを使用する抽象的な戦略ゲーム[[ハイブ (ゲーム)|ハイブ]]は[[チェス]]に類似しているメカニカルで戦略的な要素を持っている。ピース自身がレイアウトを形成し、また動くことができる。 ====鉛筆と紙によるゲーム==== この種類のゲームは文房具以外の専門的な機器をほとんどまたは全く必要としない。ただし、ボードゲームとして商品化される(たとえば、[[スクラブル]]は[[クロスワードパズル]]のアイディアに基づき、ボックス型のグリッドとピースによる[[三目ならべ]]セットは商業的に入手可能である)。これらのゲームは多様であり、[[ピクショナリー]]のような描かれたデザインに注目しているゲームや、[[スプロウツ (ゲーム)|スプロウツ]]のような"点と点を結ぶ"ゲーム、[[ボッグル]]や[[スカッテルゴリエス]]などの文字と言葉のゲーム、[[数独]]や[[クロスワードパズル]]などのソリテールとロジックのパズルゲームがある。 ====推理ゲーム==== 推理ゲームは、1人のプレイヤーが知っている情報をコアとして所持し、オブジェクトは、テキストまたは話された言葉の中で事実上それを漏らさない情報の断片を推理することを他人に強いることである。[[ジェスチャー]]はおそらくこのタイプのもっとも有名なゲームであり、[[キャッチフェイズ (ゲーム)|キャッチフェイズ]]、[[タブー (ゲーム)|タブー]]、[[ピクショナリー]]などの、通信のタイプの異なる規則に関係しているたくさんの商業用のバリエーションを生み出した。このジャンルはまた[[ウィン、ルーズ・オア・ドロー]]、[[パスワード (ゲームショー)|パスワード]]、および[[25000ドルのピラミッド]]などの多くの[[ゲームショー]]を含む。 ===スポーツ対戦=== [[Image:UEFA-Women's Cup Final 2005 at Potsdam 1.jpg|thumb|right|スポーツがすべてゲームというわけではないが、スポーツのなかでも《[[サッカー]]の[[試合]]》は、クロフォードの定義のゲームにあたる。]] [[球技]]などの[[スポーツ]]の[[試合]]というゲームがあるが、そういうゲームとのかかわりかたは、試合に参加する方法と、見て楽しむという方法がある。 [[スタンリー・フィッシュ]]は、社会的なとりきめによる規則の操作の明白な例として、野球の[[ボール]]と[[ストライク (野球)|ストライク]]を挙げた。[[ストライクゾーン]]というのは人々がそれがあるとみなすことに互いに合意した場合だけ存在している。物理的な実体はまったく無い。人々の心の中の決めごとによって生み出されているのである。そして、どの投球も、権限を与えられた[[審判員 (野球)|審判員]]の判定によって「ストライク」とか「ボール」などと声でラベルを付けて分類されるまで、[[ボール (野球)|ボール]]でも[[ストライク (野球)|ストライク]]でもない。 なお、すべてのスポーツがゲームというわけではない。たとえば[[競走]]や[[体操]]などは、[[近代オリンピック]]においてどう扱われていようが、クロフォードなどの定義によるゲームにはあたらない。彼らは間接的な方法で互いに挑むのみである。直接的に相手に干渉したりはしない。 :[[エレクトロニック・スポーツ|eスポーツ]]については次節 [[#対戦ゲーム、eスポーツ]] を参照のこと。 ===コンピュータゲーム=== ;歴史 1950年代や1960年代から大型計算機ではしる[[ゲームソフト]]を書いて遊ぶ人たちがいた。 1970年代後半に[[パーソナルコンピュータ]]が登場してからは、パーソナルコンピュータを買える年齢の大学生や大人たちの間でゲームソフトがさかんに制作された。 また1983年に任天堂から[[ファミリーコンピュータ]]というゲーム専用コンピュータが発売されてからは価格の安さと専用機の扱いやすさのおかげで爆発的に普及し子供たちがコンピュータゲームをするようになった。 それぞれの属する[[世代]]や、各人の経済力により、コンピュータ関連の「ゲーム」が指す意味は異なっている。たとえば1980年代に[[マイクロコンピュータ]]を買えた世代にとって「ゲーム」と言えば[[PCゲーム|マイコンゲーム]]であったし、1980年代にまだ子供でパソコンが買えず[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]しか買ってもらえなかった子供にとっては「ゲーム」と言えば[[ファミリーコンピュータ]]のゲームだったし、その後たとえば[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]で遊んで育った世代にとっては「ゲーム」と言えばPlayStation + ソフトを意味した。現代の幼い、まだ母親から借りたスマホしか触っていない幼稚園児・保育園児は「ゲーム」と言えば、スマホのゲームアプリのことだと思っている。 ;コンピュータゲームのルールや質 [[コンピュータゲーム]]は[[コンピュータ]]をゲームルールの[[情報処理]]に深く利用している。コンピュータは、カードまたはサイコロなどの、人あるいは[[人工知能]]との間でのゲームで使用されるバーチャルなツールを作成することができるか、ゲームプレーをとおじて処理できる現世の、もしくはファンタスティックなものよりずっと精巧な世界をシミュレーションすることができる。 ビデオゲームでは1つ以上の入力デバイスを使用する。[[アーケードゲーム]]では一般的に[[押しボタン]]と[[ジョイスティック]]の組み合わせである。[[パーソナルコンピュータ]]用ゲームでは[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]、[[トラックボール]]である。[[ゲーム機]]では[[ゲームコントローラ]]またはモーションセンシティブツールである。[[パドルコントローラ]]などのより難解な機器も入力のために用いられる。コンピュータゲームにおいて、単純なキーボードからマウス、ジョイスティック、ジョイパッドにいたるまでのユーザーインタフェイスの発展はゲームの開発の性質を大きく変更した。 多くのジャンルのビデオゲームが存在する。最初の商業用ビデオゲーム[[ポン (ゲーム)|ポン]]は[[卓球]]の簡単なシミュレーションであった。処理パワーの増大に伴い、アドベンチャーやアクションゲームなどの新しいジャンルが開発された。これが障害の一連を通じて第三者の眺望からキャラクターを誘導しているプレイヤーに関係した。この「リアルタイム」要素は、一般に「ターンベースの」戦略に制限されるボードゲームによって容易に再現されない。この有利さは、ビデオゲームがより現実的に戦闘などの状況をシミュレーションすることを可能にする。さらに、コンピュータゲームの遊びは実世界の表現と同じ物質的なスキル、力、危険を必要とせず、空想的な自然、物質的な暴力を伴っているゲーム、またはスポーツのシミュレーションの要素を許し、非常にリアルだが、誇張されるか不可能な物理学を提供できる。最後に、シングルプレイヤーのよってプレイすることができるシミュレーションを引き起こし、コンピュータは成功のさまざまな程度によって、[[チェス]]などの伝統的なテーブルゲームにおいて1人以上の人の相手をシミュレーションすることができる。 サンドボックススタイルゲームとして知られるより無制限のコンピュータシミュレーションにおいて、ゲームは、プレイヤーが自由にこの宇宙の限界の中で好きな何かをすることができるかもしれないバーチャルな環境を提供する。時々、ゴールの不足または欠如があり、これは、これらが「ゲーム」または「おもちゃ」のどちらと考えられるべきであるかについてのいくらの討論を起こした(クロフォードは特におもちゃの例として[[ウィル・ライト]]の[[シムシティ]]に言及する<ref name="craw"/>。) ===オンラインゲーム=== [[タイムシェアリング]]方式の電話回線でつないだコンピュータの時代から、[[オンラインゲーム]]は一応行われていた。[[PLATO]]などの初期の商用システムは厳密に教育的な分野と少なくとも同じくらいゲームによって有名であった。1958年、[[Tennis for Two]]は訪問者の日を支配し、[[ブルックヘブン国立研究所]]の[[オシロスコープ]]に注意を引きつけた。1980年代、[[パロアルト研究所]]は主にメイズウォーによって知られていた。それは訪問者に実地のデモとして提供された。パソコンで遊べるゲームはフラッシュゲームなどもある。とはいえ、これはアメリカの研究所の研究員の話であり、世界中の一般人はこんなことはできなかった。 一般の人々にとっては、1980年代後半の[[パソコン通信]]の時代でもオンラインゲームはあまり一般的ではなかった。1990年からすこしづつインターネットが普及したが、最初は従量制で時間あたりの料金が高すぎて、おまけに回線速度もとても遅かったので、オンラインゲームは普及しなかった。普及したのは、プロバイダー同士の競合が激化して、安い定額料金が設定され安心して遊べるようになり、回線の高速化つまり[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]や[[光回線]]が一般的になってからである。 現在のオンラインゲームはインターネット接続を使用して行われる。いくつかが[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]プログラムを献呈した一方、[[ブラウザゲーム]]は[[ウェブブラウザ]]のみを必要とする。いくつかのより簡単なブラウザゲームは、ビデオゲームをほとんどしない人口統計のグループ(特に[[女性]]と[[中年]])にアピールする。 コンピュータゲームは出現したニューメディアの[[ランドスケープ]]の全てのセクタでよく設立される。メディアは、1つだけの方法を循環する伝統的な方法からインタラクティブな方法へ変換する。これはビデオゲームの世界中で広がっている現象である。これは、オンラインとオフラインの空間が別れずに「合併される」と考えられることができる方法の明白な例である<ref>Flew, Terry and Humpphreys, Sal (2005) "Games: Technology, Industry, Culture" in Terry Flew, New Media: an Introduction (second edition), Oxford University Press, South Melbourne 101?144</ref>。) 社会的変化と開発の結果としてメディアの客の特徴が変化する。彼らはアクティブになり、これまでよりもっと対話する。この現象において、ゲームのプレイヤーは私たちの社会の中での構成に似ている。彼らは両方とも自動調節であり、彼ら自身の社会規範を作成していて、ゲームのコードを通して、そして時々、それを実行する人々によるゲームの取締りを通じて、規則と強制に縛られる。取り締まられる価値はゲームによって変わる。ゲーム文化の中にエンコードされた価値の多くはオフラインで文化的な価値を反映するが、ゲームはまたチャンスを強調の選択肢に提供したり、ファンタジーと遊びの名において価値を鎮圧する。新しい世紀のゲームのプレイヤーは現在見たところゲームを通じて深い自身を表現している。彼らが匿名のステータスによって遊ぶことができるときに、急ぎ、また一度も外出したことがないポジションから外に進むことを発見できる。それらはコンピュータ技術のインタラクティブで浸水の可能性に基づいた新しい体験と楽しみを提供する。 ===対戦ゲーム、eスポーツ=== コンピュータゲームで対戦を行うことは、1983年発売の[[ファミリーコンピュータ]]でも、1994年発売の初代[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]でも行われていた。コントローラーが2つ付属しており、2人が同時にプレイでき、2人で対戦するためのゲームソフトも販売されていたからである。ネットワークにつながなくても対戦を楽しむことができた。PS2の[[グランツーリスモ3]] A-specでのプレーヤ2人での対戦は、ただコンピュータゲームというだけでなく、プレーヤたちは互いの車をぶつけあって干渉しあうので、クロフォードの定義の「ゲーム」にも該当する。 近年、[[PCゲーム]]で対戦を行うことがさかんになり、対決試合の大会まで行われるようになり、最初はスポーツ系・肉体系の動作を表現したゲームから始まり、その直接的な競い合いぶり、そのぶつかりあいの激しさに、これはもうスポーツだ、ということで[[eスポーツ]]と呼ばれるようになった。たとえば『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』の対戦など、自分のキャラは相手のキャラに激しく干渉しており相互作用が起きており、クロフォードの定義の「ゲーム」にも該当する。 ===ロールプレイングゲーム=== RPGとしばしば省略されて呼ばれるロールプレイングゲームは、通常、参加者が虚構の設定上で活動するキャラクターの役割を受け持つタイプのゲームである。本来のロールプレイングゲームという用語が指す、[[テーブルトークロールプレイングゲーム]](TRPG)とも呼ばれるこれらのゲームは通常、テーブルに向かい合った複数人の参加者によってプレイされ、筆記具と紙を用いたフィクションの展開に終始傾注する。 プレイヤーたちは協力して、彼らのキャラクターに関連した設定を作り、その設定を発展させ、探求し、また他人になりきって日常生活の枠を飛び越えた冒険を経験することになる。今日のテーブルトークロールプレイングゲームは、伝統的なジャンルの境界を越えて、様々な作品が作られており、戦闘重視なものから、よりストーリー重視なものまで、数百種類のゲームが存在している。 ロールプレイングゲームという用語は、今日では[[コンピュータRPG]]を指すためにも使われる(日本ではより一般的でもある)。あらかじめプログラムされた状況とストーリーを単独のプレイヤーが遊ぶゲームであることが多いが、インターネットの発達により、[[MORPG]]、[[MMORPG]]と呼称される小規模・大規模の複数プレイヤーが参加するコンピュータRPGも存在する。 また、一人で、コンピュータを用いずにプレイできるテーブルトークロールプレイングゲームとして、[[ゲームブック]]なども存在する。 なおコンピュータを用いず、ロールプレイング形式で行われるシミュレーションについては、「[[シミュレーション]]」を参照。 ===ビジネスゲーム=== ビジネスゲームはインタラクティブなボードゲームから、違う支柱(ボール、ロープ、輪など)と活動のさまざまな種類に関係しているインタラクティブゲームまでのさまざまな形式を取ることができる。これらのゲームの目的は組織的な性能のいくつかの面にリンクし、ビジネスの発展についての議論を生成することである。多くのビジネスゲームは組織的な行動に注目する。これらのいくつかがコンピュータシミュレーションである一方、他方はプレイと情報の聞き出しによるシンプルなデザインである。チームビルディングはそのような活動の共通のフォーカスである。 ===シミュレーション=== 用語「ゲーム」はさまざまな活動のシミュレーション<ref>{{cite web|url=http://www.roleplaysim.org/papers/|title=Roleplay Simulation for Teaching and Learning|accessdate=2010-12-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080205122144/http://www.roleplaysim.org/papers/|archivedate=2008-02-05}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.playburg.com|title=Roleplay Simulation Gamer Site|accessdate=2009-07-29|date=|publisher=Playburg.com}}</ref>または再現を含み、[[訓練]]、分析、予測などのさまざまな目的のために「実生活」で使うことができる。有名な例は[[軍事演習]]と[[役割演技]]である。この意味の根は、先史時代に端を発するかもしれないことが、原始文明を観察することから[[人類学]]によって推論された。それにおいて、子どものゲームは重要なほどに[[狩猟]]、[[戦争]]、[[看護]]、などの大人の活動を真似する。これらの種類のゲームは現代に保存される。 シミュレーションのうち、未来予想・[[未来予測]]を目的とし、[[ロールプレイングゲーム|ロールプレイング]]方式で行うものはゲーミング・シミュレーションと呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://jasag.org/npo-jasag/mission-statement |title=設立趣旨 |access-date=2022年8月1日 |publisher=JASAG}}</ref>。コンピュータに依拠した科学的なシミュレーションとはやや異なり、交渉で生まれる間主観性の有無を重視するため、国際政治の研究や1.5トラックで用いられることが多い<ref>{{Cite book|和書|title=グローバル・シミュレーション・ゲーミング 複雑系地球政治学へ|url=https://www.worldcat.org/oclc/676391331|publisher=科学技術融合振興財団|date=1997 ;|isbn=4-87719-499-1|oclc=676391331|others=Hiroharu Seki, 関寬治}}</ref>。とりわけ[[危機]]対応を想定した[[危機管理]]シミュレーションは、コンピュータシミュレーションに必要な変数の抽出が不足するため、ロールプレイング方式で行われることが多い。また[[大学教育]]では、[[アクティブ・ラーニング]]の一環として環境、[[教育学]]、まちづくり、国際関係、[[防災]]など多分野で導入されている<ref>{{Cite book|和書|title=大学の学びを変えるゲーミング|url=https://www.worldcat.org/oclc/1241120707|publisher=晃洋書房|date=2020|isbn=978-4-7710-3245-3|oclc=1241120707|others=Atsushi Kondo, Yusuke Toyoda, Jun Yoshinaga, Noboru Miyawaki}}</ref>。 (⇒詳細は[[シミュレーション]] を参照) === デザインゲーム === デザインゲーム(design game)とは、まちづくりにおけるシミュレーションの一種で、具体的な空間計画等を行う際に、空間イメージをシミュレーションし、目標のイメージを関係者で共有するための手法。[[ワークショップ]]のような集会において、参加者が意見やアイデアをだし合い、実際に設計やデザインに参加する。ワークショップ形式での新しい公園やまちを計画する際など住民参加型の計画に用いられる。種類として、将来の町の姿をシミュレーションする「ライフデザインゲーム」や 町の更新をシミュレートする「建替えデザインゲーム」など各種ある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * ホモ・ルーデンス ISBN 4122000254 * 遊びと人間 ISBN 4061589202 * ルールズ・オブ・プレイ(上)ゲームデザインの基礎 ISBN 4797334053 * ルールズ・オブ・プレイ(下) ISBN 4797334061 * 中山幹夫「はじめてのゲーム理論」有斐閣ブックス == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|ゲーム|[[画像:10_sided_die.svg|none|34px]]}} {{Sisterlinks|commons=Category:Games}} * [[遊び]] - [[競技]] - [[賭博]] - [[試合]] * [[テーブルゲーム]] * [[マインドスポーツ]] * [[ゲームデザイン]] * [[ゲーム理論]] * [[ゲーム研究]] * [[スイス・ゲーム博物館]] * [[グローバルゲームジャム]] - 全世界同時に同テーマでゲームを開発するイベント。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けえむ}} [[Category:ゲーム|*]] [[Category:レジャー活動]]
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コンピュータゲーム
コンピュータゲーム(表記揺れ多数あり〈後述〉)とは、コンピュータの機能を使って動作するゲームの日本語における総称。あるいは、コンピュータ上で動作し、コンピュータと人間の間で行うゲームのこと。もしくは、コンピュータを利用したゲーム、および、そのプログラム。 「ビデオゲーム(英: video game)」は、語としては成り立ちが異なるが、多くの点で結果的に同義である(区別なく用いられたり区別されたりする)。 名称については「名称」節で詳説する。 日本語「コンピュータゲーム(表記揺れ:コンピュータ・ゲーム、コンピューターゲーム、コンピューター・ゲーム)」は、使用する機器とディスプレイ装置およびゲームソフトの供給媒体の違いから、以下のように分類される。 なお「電子ゲーム」という語は、狭義ではLSIゲーム(大規模集積回路を利用したゲーム)のことだが、広義ではLSIゲームとコンピュータゲームとを合わせた総称である。 日本語では、コンピュータ化したものという意味合いでコンピュータゲームを「デジタルゲーム」とも呼び、そう呼ぶ場合は、コンピュータゲーム以外のゲーム(非電源ゲーム)をこれと対比して「アナログゲーム」と呼ぶ人も一部にいる。だが、この「デジタル」および「アナログ」という用法は、本来の意味とは異なる、日本語独自の俗用にすぎない。 デジタル(ディジタル)ゲームという言葉は1975年頃には使用され、テレビを介する場合のテレビゲームの語も使われたが、1980年代初頭の段階ではテレビを使わない小規模な電子回路のゲーム機をデジタルゲームと呼び、両者は部品に一部共通点があるが別の意味の言葉だった。1980年代末には既存のボードゲームなどを意味する「アナログゲーム」なる言葉が使われ始め、同時期には『ドラゴンクエストIII そして伝説へ...』発売の騒ぎやサウンドトラック『交響組曲「ドラゴンクエストIII」そして伝説へ...』の発売でコンピュータゲームの音楽が、それまで「ファミコン音楽」と呼ばれていたのが「ゲームミュージック/ゲーム音楽」と呼ばれるようになり、ゲームという単語でコンピュータゲームを意味するようになっていた。1996年頃には新聞でもデジタルゲームとの見出しの記事があるが流行の1つともいえたため時が立つにつれて使用頻度が減っていったが、日本デジタルゲーム学会の設立もあり、学術用語やマニア向けに語が広まっていった。 英語では、コンピュータの信号をビデオモニターに出力して表示していた時代が長かったことから、"video game"という語を用いるのが通例。英語と日本語の対応については、英語の"video game"と日本語の「コンピュータゲーム」の語義が近く、"computer game"や"PC game"に語義が近いのは「パソコンゲーム」や「PCゲーム」である。また英語の"electronic game"は、日本語の、広義の「電子ゲーム」と同義である。 史上初のコンピュータゲームとされるものは、1947年にコーネル大学卒業生のアメリカ人トーマス・T・ゴールドスミス(英語版)およびエストル・レイ・マン(Estle Ray Mann)によって開発された陰極線管娯楽装置(cathode ray tube amusement device)である。次いで、1952年にEDSAC上でプログラムされた『OXO』が開発された。1961年に開発された『スペースウォー!』はミニコンピュータで開発され遊ばれた、初の汎用コンピュータ用のゲームである。ここまではコンピュータゲームは好事家による趣味の域を脱していなかったが、1971年にノーラン・ブッシュネルがスペースウォーを改良した『コンピュータースペース』を開発し、これが世界初のコンピュータ式アーケードゲームとなったことで、産業化が始まった。翌1972年に最初に商業ゲームとして成功したのはアタリのアーケードゲームの『ポン』だった。 同年にはラルフ・ベアによって世界初の家庭用ゲーム機である「オデッセイ」が開発された。また1977年発売のAtari 2600ではカートリッジでプログラムを供給するカートリッジ交換式のシステムが採用され、このAtari 2600によってテレビゲームのイメージがほぼ確立されたが、1982年にいわゆるアタリショックが起きた。 日本においては1970年代末より広まったアーケードゲームにおけるLSIゲーム(電子ゲーム)が、コンピュータゲームの産業化のはしりと言え、1978年に『スペースインベーダー』が登場することで一大ブームを巻き起こした。家庭用ゲーム機も1980年代に入るといくつか登場したが、なかでも1983年に発売されたファミリーコンピュータは社会現象となるほどの爆発的な売れ行きを記録し、ほかのハードを圧倒して家庭用ゲーム機の代名詞となった。その後もコンシューマーゲームの成長は続き、PlayStationやセガサターン、NINTENDO64といった新ハードの発売も進んで、1996年に日本国内の家庭用ゲーム市場規模は最大となった。しかしその後は家庭用ゲーム販売は減少傾向となり、2006年には携帯用ゲームソフトの販売が据え置き用のそれを上回った。しかしこのころにはすでにモバイルゲームの急速な躍進が始まっており、2009年から2011年にかけてはフィーチャーフォン向けのソーシャルゲームが急成長を遂げ、その後2011年以降はスマートフォン向けのゲームに切り替わった。 日本においては国立国会図書館法の一部を改正する法律が2000年10月1日に施行され、コンピュータゲームソフトを含むパッケージ系の電子出版物に納本義務が課せられた。日本標準産業分類においては、コンピュータゲームのソフトウェア産業は情報通信業に分類され、なかでも情報サービス業に区分される。ゲーム産業は、テクノロジー/ビジネスモデル/コンテンツデザインによって「変質しながら成長していく巨大な森」といわれる。 コンピュータゲームの市場は成立以降急速に拡大を続け、一大産業へと成長した。2018年のコンピュータゲームの総売上は13兆1774億円と推定されており、そのうち90%以上がデジタル配信ゲームであり、パッケージゲームの売り上げは1割以下となっている。また、売り上げはアジア、北アメリカ、ヨーロッパの順に多く、この3地域の売り上げは95%近くにのぼる。日本国内のコンピュータゲーム売上は2018年に1兆6704億円となっており、このうちスマホゲームが1兆1660億円、家庭用ゲームが4343億円を占めた。ゲーム企業の売上は年ごとの変動が激しいが、2017年のゲーム事業売り上げデータでは、テンセント、ソニー、Apple、マイクロソフト、アクティビジョン・ブリザードの順となっていて、また、この年任天堂は9位、バンダイナムコは10位となっていた。また、コンピュータゲームを「人対人」や「チーム対チーム」の競技として行い競技大会を開催するエレクトロニック・スポーツ(eスポーツ)も盛んとなってきている。 一般のゲームと全く同様に、コンピュータゲームに関しても、理論的な「人数 / (非)ゼロ和 / (無|有)限 / (不)確定 / (不)完全情報」というような分類が応用できる。コンピュータゲームの特殊性としては、(プログラム等の提供者を信じる限りにおいて)第三者として対戦ゲームなどの信用できる判定者としてコンピュータを利用できる、(「ゲーム性」の点で疑問はあるかもしれないが)プレイヤーは眺めるだけといった「0人ゲーム」といったものが(非電源ゲームなどと比較して)割とありえる、といった点がある。 以下は、よりコンピュータゲーム固有の事情や観点からの分類である。 ここではビデオゲームやデジタルゲームの特徴として、非電源ゲームであるボードゲーム、テーブルゲーム、カードゲームなどとの対比を述べる。 コンピュータゲームは、そのプラットフォームによっていくつかに分類される。 ゲーム専用機によってプレイされるゲームは、アーケードゲームとコンシューマーゲームの2つの区分がある。アーケードゲームは業務用ゲーム機によって提供されるゲームで、個人向けでなく企業向けのプラットフォームであり、ゲームセンターや遊園地などに設置されることが多く、大型の専用筐体を用いた大型筐体ゲームも存在する。コンシューマーゲームは家庭用ゲーム専用機によって提供されるものを指し、据え置き型ゲーム機によるテレビゲームと、小型で持ち運びしやすい携帯型ゲームの2種類が存在する。またコンシューマーゲームは、任天堂やソニーのようなゲーム機(ハード)を製造する企業と、ゲームソフトのみを製造しハードをプラットフォームとしてのみ使用する企業の2種類が存在し、こうしたソフト専業企業をゲーム業界ではサードパーティーと呼ぶ。 ゲーム専用機以外のハードウェアによってプレイされるゲームは、パーソナルコンピュータを利用してプレイするパソコンゲームと、携帯電話やスマートフォン、スマートデバイスなどを使用するモバイルゲームとに分かれる。また、DVDなどの再生機能つきゲーム機でプレイすることのできるDVDプレイヤーズゲーム/UMDプレイヤーズゲーム/BDプレイヤーズゲームといったものも存在する。古くはVHDゲームやLDゲームといったものがあり、特に後者はLD-ROMやMEGA-LDといったハードもあった。 「大型筐体ゲーム」という用語もプラットフォームによる分類の一種である。 アーケードゲームビジネスはコンピュータゲーム以前から存在しており、それらのゲーム機、特にビデオゲームのコンピュータ化が、1970年代のコンピュータゲームビジネスのルーツの一つである(『Pong』はビデオゲームであるが、最初の製品の時代にはコンピュータは使っていない)。 1970年代のコンピュータゲームとしては、メインフレームやミニコンピュータ上で作られ遊ばれたものもあるが、前者はデモンストレーション用といった位置付けが強い。後者は『スペースウォー!』のようにアーケードゲームに発展したものもある。しかし最も多いのは『スタートレック』のように、次に述べるマイコンゲームになったパターンであろう。1970年代後半から急速に発展したパソコン(当時の呼称はマイコン)では、当初は自作や、公開されたプログラムリストによって自由に流通するプログラムの中の1ジャンルとしてゲームは人気のある分野であったが、ビル・ゲイツの努力(en:Open Letter to Hobbyistsを参照(1976))などもありパソコン向けプログラム製品を商品とした市場ができると、パソコンゲームも商品となるようになった。 続いて、家庭用のテレビゲームがあらわれた。前述のアーケードやこれらのゲーム専用機は、1970年代のものは1機種につき1種類のゲーム、ないし多くても十数種類程度の最初から内蔵されたゲームが遊べるというものであった。1980年代にあらわれたアタリや任天堂のテレビゲーム機は、プログラム(ソフトウェア)をカートリッジに搭載のROMで供給するという形態により、ゲーム機本体をプラットフォーム化し、ゲームソフト市場を作った。後にはより小型化されディスプレイを内蔵した携帯型ゲーム機も発売された。以上の類型をまとめて「コンシューマーゲーム」(コンシューマー=民生市場向け→「家庭用」)とも呼ぶこともある。家庭用ゲーム機はその生産台数の多さから、任天堂ファミコンの場合ではリコーの各IC、セガサターンのSH2、セガドリームキャストのSH4など、集積回路産業に影響を与える存在にもなった。 アーケードのビデオゲームも高度化によりコストが高騰したこともあり、基本的な設計の流用から始まり、1990年代以降は多くの製品が何らかのプラットフォームをベースに設計されることがほとんどとなっており、カートリッジでソフトが供給されるようなプラットフォームもある。 LSIの高性能化などにより1980年代から1990年代にあらわれた電子手帳や携帯情報端末でも、ゲームを遊べるものがあった。近年は携帯電話やスマートフォン/スマートデバイスで遊べるゲームという形態となっている。 コンピュータの処理能力の進歩により映像表現や演出が高機能かつ多彩となっている。CGやシェーダ、アニメーション、バーチャルリアリティなど、機械学習/深層学習は特に話題を集めた。 コンピュータゲームが、特にゲームソフトがどのような経路でプレーヤーに届けられているかで分類する方法である。パッケージソフトウェア / ダウンロードゲーム(配信ゲーム)などと分類する。 なお、同人ゲームという同好の士たちが交換したり小規模に販売するゲームというものもある(インディーズゲームとも)。 以下に示すのは、既存のゲームジャンルを便宜的に区分して列挙したものである。既存のゲームジャンル幾つかに跨るものも存在し、それが新しいジャンルに発展したものもあるため、ジャンル分けも絶対的なものではない。テイルズ オブ シリーズのように独特のジャンル名が付けられる場合がある。 操作技能要求系はいわゆる反射神経や動体視力がものを言うゲームであるが、その幾つかでは要素の出現パターンが決まっており、それらの暗記が求められるものもある。またコントローラーの性質で、遊び易かったり遊びにくかったりするという要素も強い傾向がある。 操作技能不要系は即決的な判断よりも、熟考して判断することが重視されるゲームである。より複雑なゲームルールである傾向が強く、また、遊ぶ時間も他のジャンルに比べ、長くなる傾向がある。セーブで中断に対応するものも多い。ゲームのジャンルとしては、ロールプレイングゲームやウォー・シミュレーションゲームのように、コンピュータゲームが生まれる以前から遊ばれていたものや、ボードゲーム/カードゲームといった卓上ゲームをコンピュータで遊べるようにしたものも多い。 統合系は幾つかのゲームジャンルの要素を組み合わせたり、またはゲーム以外の概念を既存ゲームに組んだものである。登場当初は確定したジャンルが存在しなかったものも多い。RPGにアクションゲームの要素が加えられたアクションロールプレイングゲーム(ARPG)やパズルゲームにリアルタイム性を持たせたアクションパズルがある。 リアルタイムストラテジー(RTS)は、シミュレーションゲームにリアルタイム性を持たせたものである。一時停止を使用しないことでプレイに緊張感を与え、ほとんどが戦闘を扱う。少人数のオンラインゲームに分類される。シミュレーションゲームにおける分類はウォー・シミュレーションゲームや歴史シミュレーションゲームとなる。マルチプレイヤーオンラインバトルアリーナ(MOBA)もある。 他には、脳トレ・学習ゲームという分類もある。 オンラインゲームはコンピュータネットワークを利用して機能するゲームのジャンルである。古くはパソコン通信などであったが、2000年代に於いてその多くではインターネットへの対応を見せる。スタンドアローンなゲームに対して用い、狭義では常にネットワークに接続した状態で行うものを表す。インターネットの普及に伴って遠隔地にいるユーザ同士がプレイを共有するゲームソフトが登場している。ネットの多人数参加型コンピュータRPGとしてMORPG/MMORPGがある。 プレイ人数による分類よりも他のプレイヤーとの関係による分類が有意と言える。2人対戦を基本とするゲームでも、アルゴリズム(人工知能)を対戦相手とした1人プレイのモードが存在する。これはコンピュータが対戦相手役を兼ねるものであり、プレイヤーが1人であってもゲーム内容は2人プレイと同質のものとなる。 複数人が同時にプレイするコンシューマーゲームにおいては家庭内でゲーム機を介して他人とコミュニケーションするという意味合いもあって、協力関係であるものと競争関係にあるものが主流となっている。複数のプレイヤーが相互に一人プレイを行う形態もレトロゲームや、ボードゲームや『モノポリー』といったパーティーゲームをコンピュータゲーム化したものに見られる。携帯型ゲーム機ではセーブデータを複数保持することで、同じロムカートリッジで(厳密には各々のプレイヤーが個別に遊べるだけではあるが)複数プレイヤーに対応するものもある。 2000年代より急速に進歩を見せたオンラインゲームのように、コンピュータネットワーク(インターネット)経由で他のプレイヤーと協力ないし競争するタイプのゲームも増え、こちらでは特定人数による対戦形態からMMORPGのように、ほぼ無制限なプレイヤー人数と同じ仮想世界を共有する形態も、一般化の傾向が見られる。 おもに極端な特性を持つという理由から、プレイヤー層が限定されたり条件が示されたりする分類である。販売店で購入者の適格チェックが行われる場合もある。このような作品はいわゆる全年齢対象のような万人受けは最初から切り捨てて特定のプレイヤー層に特化しているため、老若男女に受け入れられるように配慮されていない。そのため対象プレイヤー層以外(成人向けゲームなら未成年者)には与えるべきではなく、また、場合によっては内容に関する注意・免責事項が必要であると考えられる。 ゲームの分類というのは、メーカーの意図どおりに行われるとは限らない。ゲームを販売する販売店側、通販側でも分類名を用意して行われることもあるし、プレーヤー側でも独特の分類が行われることがある。プレーヤーの特定の趣味嗜好に合うか合わないかで分類する場合もある。
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"デジタル(ディジタル)ゲームという言葉は1975年頃には使用され、テレビを介する場合のテレビゲームの語も使われたが、1980年代初頭の段階ではテレビを使わない小規模な電子回路のゲーム機をデジタルゲームと呼び、両者は部品に一部共通点があるが別の意味の言葉だった。1980年代末には既存のボードゲームなどを意味する「アナログゲーム」なる言葉が使われ始め、同時期には『ドラゴンクエストIII そして伝説へ...』発売の騒ぎやサウンドトラック『交響組曲「ドラゴンクエストIII」そして伝説へ...』の発売でコンピュータゲームの音楽が、それまで「ファミコン音楽」と呼ばれていたのが「ゲームミュージック/ゲーム音楽」と呼ばれるようになり、ゲームという単語でコンピュータゲームを意味するようになっていた。1996年頃には新聞でもデジタルゲームとの見出しの記事があるが流行の1つともいえたため時が立つにつれて使用頻度が減っていったが、日本デジタルゲーム学会の設立もあり、学術用語やマニア向けに語が広まっていった。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "英語では、コンピュータの信号をビデオモニターに出力して表示していた時代が長かったことから、\"video game\"という語を用いるのが通例。英語と日本語の対応については、英語の\"video game\"と日本語の「コンピュータゲーム」の語義が近く、\"computer game\"や\"PC game\"に語義が近いのは「パソコンゲーム」や「PCゲーム」である。また英語の\"electronic game\"は、日本語の、広義の「電子ゲーム」と同義である。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "史上初のコンピュータゲームとされるものは、1947年にコーネル大学卒業生のアメリカ人トーマス・T・ゴールドスミス(英語版)およびエストル・レイ・マン(Estle Ray Mann)によって開発された陰極線管娯楽装置(cathode ray tube amusement device)である。次いで、1952年にEDSAC上でプログラムされた『OXO』が開発された。1961年に開発された『スペースウォー!』はミニコンピュータで開発され遊ばれた、初の汎用コンピュータ用のゲームである。ここまではコンピュータゲームは好事家による趣味の域を脱していなかったが、1971年にノーラン・ブッシュネルがスペースウォーを改良した『コンピュータースペース』を開発し、これが世界初のコンピュータ式アーケードゲームとなったことで、産業化が始まった。翌1972年に最初に商業ゲームとして成功したのはアタリのアーケードゲームの『ポン』だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "同年にはラルフ・ベアによって世界初の家庭用ゲーム機である「オデッセイ」が開発された。また1977年発売のAtari 2600ではカートリッジでプログラムを供給するカートリッジ交換式のシステムが採用され、このAtari 2600によってテレビゲームのイメージがほぼ確立されたが、1982年にいわゆるアタリショックが起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本においては1970年代末より広まったアーケードゲームにおけるLSIゲーム(電子ゲーム)が、コンピュータゲームの産業化のはしりと言え、1978年に『スペースインベーダー』が登場することで一大ブームを巻き起こした。家庭用ゲーム機も1980年代に入るといくつか登場したが、なかでも1983年に発売されたファミリーコンピュータは社会現象となるほどの爆発的な売れ行きを記録し、ほかのハードを圧倒して家庭用ゲーム機の代名詞となった。その後もコンシューマーゲームの成長は続き、PlayStationやセガサターン、NINTENDO64といった新ハードの発売も進んで、1996年に日本国内の家庭用ゲーム市場規模は最大となった。しかしその後は家庭用ゲーム販売は減少傾向となり、2006年には携帯用ゲームソフトの販売が据え置き用のそれを上回った。しかしこのころにはすでにモバイルゲームの急速な躍進が始まっており、2009年から2011年にかけてはフィーチャーフォン向けのソーシャルゲームが急成長を遂げ、その後2011年以降はスマートフォン向けのゲームに切り替わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本においては国立国会図書館法の一部を改正する法律が2000年10月1日に施行され、コンピュータゲームソフトを含むパッケージ系の電子出版物に納本義務が課せられた。日本標準産業分類においては、コンピュータゲームのソフトウェア産業は情報通信業に分類され、なかでも情報サービス業に区分される。ゲーム産業は、テクノロジー/ビジネスモデル/コンテンツデザインによって「変質しながら成長していく巨大な森」といわれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームの市場は成立以降急速に拡大を続け、一大産業へと成長した。2018年のコンピュータゲームの総売上は13兆1774億円と推定されており、そのうち90%以上がデジタル配信ゲームであり、パッケージゲームの売り上げは1割以下となっている。また、売り上げはアジア、北アメリカ、ヨーロッパの順に多く、この3地域の売り上げは95%近くにのぼる。日本国内のコンピュータゲーム売上は2018年に1兆6704億円となっており、このうちスマホゲームが1兆1660億円、家庭用ゲームが4343億円を占めた。ゲーム企業の売上は年ごとの変動が激しいが、2017年のゲーム事業売り上げデータでは、テンセント、ソニー、Apple、マイクロソフト、アクティビジョン・ブリザードの順となっていて、また、この年任天堂は9位、バンダイナムコは10位となっていた。また、コンピュータゲームを「人対人」や「チーム対チーム」の競技として行い競技大会を開催するエレクトロニック・スポーツ(eスポーツ)も盛んとなってきている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一般のゲームと全く同様に、コンピュータゲームに関しても、理論的な「人数 / (非)ゼロ和 / (無|有)限 / (不)確定 / (不)完全情報」というような分類が応用できる。コンピュータゲームの特殊性としては、(プログラム等の提供者を信じる限りにおいて)第三者として対戦ゲームなどの信用できる判定者としてコンピュータを利用できる、(「ゲーム性」の点で疑問はあるかもしれないが)プレイヤーは眺めるだけといった「0人ゲーム」といったものが(非電源ゲームなどと比較して)割とありえる、といった点がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "以下は、よりコンピュータゲーム固有の事情や観点からの分類である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ここではビデオゲームやデジタルゲームの特徴として、非電源ゲームであるボードゲーム、テーブルゲーム、カードゲームなどとの対比を述べる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームは、そのプラットフォームによっていくつかに分類される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ゲーム専用機によってプレイされるゲームは、アーケードゲームとコンシューマーゲームの2つの区分がある。アーケードゲームは業務用ゲーム機によって提供されるゲームで、個人向けでなく企業向けのプラットフォームであり、ゲームセンターや遊園地などに設置されることが多く、大型の専用筐体を用いた大型筐体ゲームも存在する。コンシューマーゲームは家庭用ゲーム専用機によって提供されるものを指し、据え置き型ゲーム機によるテレビゲームと、小型で持ち運びしやすい携帯型ゲームの2種類が存在する。またコンシューマーゲームは、任天堂やソニーのようなゲーム機(ハード)を製造する企業と、ゲームソフトのみを製造しハードをプラットフォームとしてのみ使用する企業の2種類が存在し、こうしたソフト専業企業をゲーム業界ではサードパーティーと呼ぶ。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ゲーム専用機以外のハードウェアによってプレイされるゲームは、パーソナルコンピュータを利用してプレイするパソコンゲームと、携帯電話やスマートフォン、スマートデバイスなどを使用するモバイルゲームとに分かれる。また、DVDなどの再生機能つきゲーム機でプレイすることのできるDVDプレイヤーズゲーム/UMDプレイヤーズゲーム/BDプレイヤーズゲームといったものも存在する。古くはVHDゲームやLDゲームといったものがあり、特に後者はLD-ROMやMEGA-LDといったハードもあった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「大型筐体ゲーム」という用語もプラットフォームによる分類の一種である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アーケードゲームビジネスはコンピュータゲーム以前から存在しており、それらのゲーム機、特にビデオゲームのコンピュータ化が、1970年代のコンピュータゲームビジネスのルーツの一つである(『Pong』はビデオゲームであるが、最初の製品の時代にはコンピュータは使っていない)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1970年代のコンピュータゲームとしては、メインフレームやミニコンピュータ上で作られ遊ばれたものもあるが、前者はデモンストレーション用といった位置付けが強い。後者は『スペースウォー!』のようにアーケードゲームに発展したものもある。しかし最も多いのは『スタートレック』のように、次に述べるマイコンゲームになったパターンであろう。1970年代後半から急速に発展したパソコン(当時の呼称はマイコン)では、当初は自作や、公開されたプログラムリストによって自由に流通するプログラムの中の1ジャンルとしてゲームは人気のある分野であったが、ビル・ゲイツの努力(en:Open Letter to Hobbyistsを参照(1976))などもありパソコン向けプログラム製品を商品とした市場ができると、パソコンゲームも商品となるようになった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "続いて、家庭用のテレビゲームがあらわれた。前述のアーケードやこれらのゲーム専用機は、1970年代のものは1機種につき1種類のゲーム、ないし多くても十数種類程度の最初から内蔵されたゲームが遊べるというものであった。1980年代にあらわれたアタリや任天堂のテレビゲーム機は、プログラム(ソフトウェア)をカートリッジに搭載のROMで供給するという形態により、ゲーム機本体をプラットフォーム化し、ゲームソフト市場を作った。後にはより小型化されディスプレイを内蔵した携帯型ゲーム機も発売された。以上の類型をまとめて「コンシューマーゲーム」(コンシューマー=民生市場向け→「家庭用」)とも呼ぶこともある。家庭用ゲーム機はその生産台数の多さから、任天堂ファミコンの場合ではリコーの各IC、セガサターンのSH2、セガドリームキャストのSH4など、集積回路産業に影響を与える存在にもなった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "アーケードのビデオゲームも高度化によりコストが高騰したこともあり、基本的な設計の流用から始まり、1990年代以降は多くの製品が何らかのプラットフォームをベースに設計されることがほとんどとなっており、カートリッジでソフトが供給されるようなプラットフォームもある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "LSIの高性能化などにより1980年代から1990年代にあらわれた電子手帳や携帯情報端末でも、ゲームを遊べるものがあった。近年は携帯電話やスマートフォン/スマートデバイスで遊べるゲームという形態となっている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "コンピュータの処理能力の進歩により映像表現や演出が高機能かつ多彩となっている。CGやシェーダ、アニメーション、バーチャルリアリティなど、機械学習/深層学習は特に話題を集めた。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームが、特にゲームソフトがどのような経路でプレーヤーに届けられているかで分類する方法である。パッケージソフトウェア / ダウンロードゲーム(配信ゲーム)などと分類する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお、同人ゲームという同好の士たちが交換したり小規模に販売するゲームというものもある(インディーズゲームとも)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下に示すのは、既存のゲームジャンルを便宜的に区分して列挙したものである。既存のゲームジャンル幾つかに跨るものも存在し、それが新しいジャンルに発展したものもあるため、ジャンル分けも絶対的なものではない。テイルズ オブ シリーズのように独特のジャンル名が付けられる場合がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "操作技能要求系はいわゆる反射神経や動体視力がものを言うゲームであるが、その幾つかでは要素の出現パターンが決まっており、それらの暗記が求められるものもある。またコントローラーの性質で、遊び易かったり遊びにくかったりするという要素も強い傾向がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "操作技能不要系は即決的な判断よりも、熟考して判断することが重視されるゲームである。より複雑なゲームルールである傾向が強く、また、遊ぶ時間も他のジャンルに比べ、長くなる傾向がある。セーブで中断に対応するものも多い。ゲームのジャンルとしては、ロールプレイングゲームやウォー・シミュレーションゲームのように、コンピュータゲームが生まれる以前から遊ばれていたものや、ボードゲーム/カードゲームといった卓上ゲームをコンピュータで遊べるようにしたものも多い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "統合系は幾つかのゲームジャンルの要素を組み合わせたり、またはゲーム以外の概念を既存ゲームに組んだものである。登場当初は確定したジャンルが存在しなかったものも多い。RPGにアクションゲームの要素が加えられたアクションロールプレイングゲーム(ARPG)やパズルゲームにリアルタイム性を持たせたアクションパズルがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "リアルタイムストラテジー(RTS)は、シミュレーションゲームにリアルタイム性を持たせたものである。一時停止を使用しないことでプレイに緊張感を与え、ほとんどが戦闘を扱う。少人数のオンラインゲームに分類される。シミュレーションゲームにおける分類はウォー・シミュレーションゲームや歴史シミュレーションゲームとなる。マルチプレイヤーオンラインバトルアリーナ(MOBA)もある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "他には、脳トレ・学習ゲームという分類もある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "オンラインゲームはコンピュータネットワークを利用して機能するゲームのジャンルである。古くはパソコン通信などであったが、2000年代に於いてその多くではインターネットへの対応を見せる。スタンドアローンなゲームに対して用い、狭義では常にネットワークに接続した状態で行うものを表す。インターネットの普及に伴って遠隔地にいるユーザ同士がプレイを共有するゲームソフトが登場している。ネットの多人数参加型コンピュータRPGとしてMORPG/MMORPGがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "プレイ人数による分類よりも他のプレイヤーとの関係による分類が有意と言える。2人対戦を基本とするゲームでも、アルゴリズム(人工知能)を対戦相手とした1人プレイのモードが存在する。これはコンピュータが対戦相手役を兼ねるものであり、プレイヤーが1人であってもゲーム内容は2人プレイと同質のものとなる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "複数人が同時にプレイするコンシューマーゲームにおいては家庭内でゲーム機を介して他人とコミュニケーションするという意味合いもあって、協力関係であるものと競争関係にあるものが主流となっている。複数のプレイヤーが相互に一人プレイを行う形態もレトロゲームや、ボードゲームや『モノポリー』といったパーティーゲームをコンピュータゲーム化したものに見られる。携帯型ゲーム機ではセーブデータを複数保持することで、同じロムカートリッジで(厳密には各々のプレイヤーが個別に遊べるだけではあるが)複数プレイヤーに対応するものもある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2000年代より急速に進歩を見せたオンラインゲームのように、コンピュータネットワーク(インターネット)経由で他のプレイヤーと協力ないし競争するタイプのゲームも増え、こちらでは特定人数による対戦形態からMMORPGのように、ほぼ無制限なプレイヤー人数と同じ仮想世界を共有する形態も、一般化の傾向が見られる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "おもに極端な特性を持つという理由から、プレイヤー層が限定されたり条件が示されたりする分類である。販売店で購入者の適格チェックが行われる場合もある。このような作品はいわゆる全年齢対象のような万人受けは最初から切り捨てて特定のプレイヤー層に特化しているため、老若男女に受け入れられるように配慮されていない。そのため対象プレイヤー層以外(成人向けゲームなら未成年者)には与えるべきではなく、また、場合によっては内容に関する注意・免責事項が必要であると考えられる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ゲームの分類というのは、メーカーの意図どおりに行われるとは限らない。ゲームを販売する販売店側、通販側でも分類名を用意して行われることもあるし、プレーヤー側でも独特の分類が行われることがある。プレーヤーの特定の趣味嗜好に合うか合わないかで分類する場合もある。", "title": "分類" } ]
コンピュータゲーム(表記揺れ多数あり〈後述〉)とは、コンピュータの機能を使って動作するゲームの日本語における総称。あるいは、コンピュータ上で動作し、コンピュータと人間の間で行うゲームのこと。もしくは、コンピュータを利用したゲーム、および、そのプログラム。 「ビデオゲーム」は、語としては成り立ちが異なるが、多くの点で結果的に同義である(区別なく用いられたり区別されたりする)。 名称については「名称」節で詳説する。
{{コンピュータゲームのサイドバー}} {{コンピュータゲーム産業}} {{ウィキポータルリンク|コンピュータゲーム|[[ファイル:Gamepad.svg|36px]]|break=yes}} '''コンピュータゲーム'''({{Small|[[wikt:表記揺れ|表記揺れ]]多数あり〈[[#名称|後述]]〉}}<ref group="注">カタカナで「コンピュータゲーム」と書くのはかまわないが、アルファベットで「{{Lang-en-short|[[wikt::en:computer game|computer game]]}}」と書くと、英語の現在の意味的には主にPCゲームであり、つまりcomputer gameをカタカナの「コンピュータゲーム」の意味、つまり家庭用のゲーム専用機のゲームも含めて用いると(ほぼ)[[和製英語]]になってしまう。したがって基本的にはあまり強調して表示しないか、それをはっきりと説明するのが無難。</ref>)とは、[[コンピュータ]]の[[機能]]を使って動作する[[ゲーム]]の[[日本語]]における[[総称]]{{R|"kb_泉"|"kb_林"}}。あるいは、コンピュータ上で動作し、コンピュータと人間の間で行うゲームのこと{{R|kb_Brit}}。もしくは、コンピュータを利用したゲーム、および、その[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]{{R|"kb-Nipp_鈴木"}}。 「'''ビデオゲーム'''({{Lang-en-short|'''[[wikt:en:video game|video game]]'''}})」は、語としては成り立ちが異なるが、多くの点で結果的に[[同義語|同義]]である(区別なく用いられたり区別されたりする)。 名称については「[[#名称|名称]]」節で詳説する。 == 名称 == === 日本語 === 日本語「'''コンピュータゲーム'''({{Small|[[wikt:表記揺れ|表記揺れ]]}}:'''コンピュータ・ゲーム'''{{R|kb_Brit|"kb-Nipp_鈴木"}}、'''コンピューターゲーム'''{{R|"kb_泉"|"kb_林"}}、'''コンピューター・ゲーム''')」は、使用する機器と[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ装置]]および[[ゲームソフト]]の供給媒体の違いから、以下のように分類される{{R|"kb-Nipp_鈴木"}}。 * [[アーケードゲーム]] - [[ゲームセンター]]などに設置されている業務用ゲーム専用機を使用するもの{{R|"kb-Nipp_鈴木"}}。 * [[パソコンゲーム]](PCゲーム) - 汎用の[[パーソナルコンピュータ]](パソコン)とそのディスプレイ装置を利用するもの{{R|"kb-Nipp_鈴木"}}。 * [[コンシューマーゲーム]] - 個人や一般家庭向けのゲーム。 ** [[テレビゲーム]] - 専用のゲームマシンを使用し、家庭用[[テレビ受像機]]をディスプレー装置に利用するもの{{R|"kb-Nipp_鈴木"}}。 ** [[携帯型ゲーム]](携帯用ゲーム) - [[液晶ディスプレイ]]を組み込んだ小型の専用ゲームマシンを使用するもの{{R|"kb-Nipp_鈴木"}}。 * [[携帯電話ゲーム]] -携帯電話を使って行うゲーム。 * [[オンラインゲーム]] - [[インターネット]]などによって(家庭用ゲーム機や)パソコンや携帯電話などの端末をゲーム運営者の[[サーバ|サーバー]]とつなぎ、ゲームソフトやデータなどを[[ダウンロード]]してプレイするもの{{R|"kb-Nipp_鈴木"}}。「ネットゲーム」ともいう{{R|"kb-Nipp_鈴木"}}。 {{Also|ゲーム機}} なお「[[電子ゲーム]]」という語は、狭義では[[LSI]]ゲーム(大規模集積回路を利用したゲーム)のことだが、広義ではLSIゲームとコンピュータゲームとを合わせた総称である。 日本語では、コンピュータ化したものという意味合いでコンピュータゲームを「デジタルゲーム」とも呼び、そう呼ぶ場合は、コンピュータゲーム以外のゲーム(非電源ゲーム)をこれと対比して「[[アナログゲーム]]」と呼ぶ人も一部にいる<ref name="NTTコム_20180730">{{Cite web|和書|author=NTTコム オンライン・マーケティング・ソリューション株式会社、[[京都大学]] [[松井啓之]]研究室、[[慶應義塾大学]] [[杉浦淳吉]]研究室、慶應義塾大学 吉川肇子研究室 |date=2018-07-30 |title=アナログゲーム(非電源系ゲーム)に関する調査結果 - プレス・リリース |url=https://research.nttcoms.com/database/data/002111/ |publisher=[[NTTコム オンライン・マーケティング・ソリューション]]株式会社 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-02-29 }}</ref>。だが、この「[[デジタル]]」および「[[アナログ]]」という用法は、本来の意味とは異なる、日本語独自の俗用にすぎない<ref name="denfami">{{Cite news|date=2020-10-08|title=「ゲーム」はいつから当たり前に「テレビゲーム」などを指すようになった? 「デジタルゲーム」という言葉の歴史から調べてみた |newspaper=電ファミニコゲーマー |publisher=マレ |url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/201008a |accessdate=2020-10-30 }}</ref>。 デジタル(ディジタル)ゲームという言葉は1975年頃には使用され、テレビを介する場合のテレビゲームの語も使われたが、1980年代初頭の段階ではテレビを使わない小規模な電子回路のゲーム機をデジタルゲームと呼び、両者は部品に一部共通点があるが別の意味の言葉だった<ref name="denfami" />。1980年代末には既存のボードゲームなどを意味する「アナログゲーム」なる言葉が使われ始め、同時期には『[[ドラゴンクエストIII そして伝説へ…]]』発売の騒ぎやサウンドトラック『[[交響組曲「ドラゴンクエストIII」そして伝説へ…]]』の発売でコンピュータゲームの音楽が、それまで「ファミコン音楽」と呼ばれていたのが「[[ゲームミュージック|ゲームミュージック/ゲーム音楽]]」と呼ばれるようになり、ゲームという単語でコンピュータゲームを意味するようになっていた<ref name="denfami" />。1996年頃には新聞でもデジタルゲームとの見出しの記事があるが流行の1つともいえたため時が立つにつれて使用頻度が減っていったが、[[日本デジタルゲーム学会]]の設立もあり、学術用語やマニア向けに語が広まっていった<ref name="denfami" />。 {{Gallery|width=120px ||[[アーケードゲーム]]の一例 |ファイル:Trisquel GNU Linux 4.0 screenshot - Games.jpg|[[パソコンゲーム]]の一例。いろんなゲームを実行中の[[Trisquel GNU/Linux|Trisquel GNU/Linux 4.0 LTS Taranis]] |File:Playzone4.jpg|[[テレビゲーム]]の一例。[[PlayStation 4]]で遊ぶ子供たち。 |File:Nintendo 3DS Target Shooting demo at E3 2010.jpg|[[携帯型ゲーム]]の一例。 |File:Online Community.jpg|[[オンラインゲーム]]の一例 }} === 英語 === [[英語]]では、コンピュータの信号を[[ビデオモニター]]に出力して表示していた時代が長かったことから、"'''video game'''"という語を用いるのが通例。英語と日本語の対応については、英語の"video game"と日本語の「コンピュータゲーム」の語義が近く、"'''computer game'''"や"'''PC game'''"に語義が近いのは「パソコンゲーム」や「PCゲーム」である。また英語の"[[wikt:en:electronic game|'''electronic game''']]"は、日本語の、広義の「電子ゲーム」と同義である。 <!-- 英語の説明だけでよい。コンピュータゲームのルーツはアメリカにあるし、今の日本では英語は小学校でも教えられており、日本とアメリカは同盟国なので、英語表現は説明しておくとよい。英語は、いわば世界の"共通語"のような役割も果たしているし。 一方、他の言語に関してはコンピューターゲームに関しては必要ない。特に、中国語については、コンピューターゲームは中国起源では全然ないので、中国語の説明はまったく不要。こんなことを始めたら、スペイン語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などの説明までしなければならなくなる。 === 中国語 === 日本語では[[漢字]]表記しないが、日本語と同じ[[漢字文化圏]]の[[中国語]]では、「{{Zh|[[wikt:en:電子遊戲|電子遊戲]]}}({{Small|[[簡体字]]〈以下同様〉:}}{{Zh|电子游戏}})<ref>{{Cite web |title=電子遊戲 |url=https://cjjc.weblio.jp/content/電子遊戲 |publisher=[[weblio|ウェブリオ]]株式会社 |website=Weblio中日辞典 |accessdate=2020-04-26 }}</ref>」、「{{Zh|[[wikt:zh:電玩遊戲|電玩遊戲]]}}({{Zh|电玩游戏}})」とその[[略語]]「{{Zh|電玩}}({{Zh|电玩}})」、および、英語"video game"を[[漢訳]]した「{{Zh|影像遊戲}}({{Zh|影像游戏}})」「{{Zh|視頻遊戲}}({{Zh|视频游戏}})」「{{Zh|電動遊戲}}({{Zh|電動游戏}})」が、英語の"video game"に相当し、したがってこれらはいずれも日本語「コンピュータゲーム」とほぼ同義と言える。現代日本語の用字([[新字体]])に変換すると、前者から順に「電子遊戯」「電玩遊戯」「電玩」「影像遊戯」「視頻遊戯」「電動遊戯」。「[[ゲーム機]]」は「{{Zh|電子遊戲機}}({{Zh|电子游戏机}})」<ref>{{Cite web |title=電子遊戲機 |url=https://cjjc.weblio.jp/content/電子遊戲機 |publisher=ウェブリオ株式会社 |website=Weblio中日辞典 |accessdate=2020-04-26 }}</ref>。 --> == 歴史 == {{Main|コンピュータゲームの歴史}} 史上初のコンピュータゲームとされるものは、[[1947年]]に[[コーネル大学]]卒業生の[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]{{仮リンク|トーマス・ゴールドスミス|label=トーマス・T・ゴールドスミス|en|Thomas T. Goldsmith Jr.}}およびエストル・レイ・マン(Estle Ray Mann)によって開発された[[陰極線管娯楽装置]](cathode ray tube amusement device)である{{Sfn|小山|2016|p=25}}。次いで、1952年に[[EDSAC]]上でプログラムされた『[[OXO]]』が開発された{{Sfn|小山|2016|p=26}}。1961年に開発された『[[スペースウォー!]]』は[[ミニコンピュータ]]で開発され遊ばれた、初の汎用コンピュータ用のゲームである<ref>{{Citation|title=The Origin of Spacewar|author=J. M. Graetz|magazine=Creative Computing|issue=August, 1981|year=1981|url=http://www.wheels.org/spacewar/creative/SpacewarOrigin.html}}</ref>。ここまではコンピュータゲームは好事家による趣味の域を脱していなかったが、1971年に[[ノーラン・ブッシュネル]]がスペースウォーを改良した『[[コンピュータースペース]]』を開発し、これが世界初のコンピュータ式[[アーケードゲーム]]となったことで、[[産業]]化が始まった{{Sfn|小山|2016|pp=26-28}}。翌[[1972年]]に最初に商業ゲームとして成功したのはアタリのアーケードゲームの『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』だった<ref>{{Citation|和書|contribution-url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110002929678|contribution=アーケードゲームのテクノロジー(その1) 増補改訂版|last1=宮沢 |first1=篤|last2=駒野目 |first2=裕久|title=<小特集>遊び・エンタテインメントとメディア|journal=情報処理学会研究報告.IM, [情報メディア]|volume=96|issue=29|pages=9〜16|year=1999}}</ref>。 同年には[[ラルフ・ベア]]によって世界初の[[家庭用ゲーム機]]である「[[オデッセイ (ゲーム機)|オデッセイ]]」が開発された{{Sfn|小山|2016|p=29}}。また[[1977年]]発売の[[Atari 2600]]では[[ロムカセット|カートリッジ]]でプログラムを供給するカートリッジ交換式のシステムが採用され、このAtari 2600によってテレビゲームのイメージがほぼ確立されたが、[[1982年]]にいわゆる[[アタリショック]]が起きた<ref name="樺島">{{Citation|和書|last=樺島 |first=榮一郎 |title=コンテンツ産業の段階発展理論からみる一九七二〜八三年の北米ビデオ・ゲーム産業─いわゆる「アタリ・ショック」をどう解釈するか |journal=コンテンツ文化史研究 |publisher=コンテンツ文化史学会 |year=2010 |issue=4 |pages=24〜42}}</ref>。 日本においては[[1970年]]代末より広まった[[アーケードゲーム]]におけるLSIゲーム([[電子ゲーム]])が、コンピュータゲームの産業化のはしりと言え{{Sfn|小山|2016|pp=56-57}}、[[1978年]]に『[[スペースインベーダー]]』が登場することで一大ブームを巻き起こした{{Sfn|小山|2016|p=61}}。[[コンシューマーゲーム|家庭用ゲーム機]]も1980年代に入るといくつか登場したが、なかでも[[1983年]]に発売された[[ファミリーコンピュータ]]は[[社会現象]]となるほどの爆発的な売れ行きを記録し、ほかのハードを圧倒して家庭用ゲーム機の[[代名詞]]となった。その後もコンシューマーゲームの成長は続き、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]や[[セガサターン]]、[[NINTENDO64]]といった新ハードの発売も進んで、1996年に日本国内の家庭用ゲーム市場規模は最大となった{{Sfn|小山|2016|p=195}}。しかしその後は家庭用ゲーム販売は減少傾向となり、2006年には携帯用ゲームソフトの販売が据え置き用のそれを上回った{{Sfn|小山|2016|p=314}}。しかしこのころにはすでにモバイルゲームの急速な躍進が始まっており、2009年から2011年にかけては[[フィーチャーフォン]]向けの[[ソーシャルゲーム]]が急成長を遂げ{{Sfn|小山|2016|p=322}}、その後2011年以降はスマートフォン向けのゲームに切り替わった{{Sfn|小山|2016|pp=330-332}}。 日本においては[[国立国会図書館法]]の一部を改正する法律が2000年10月1日に施行され、コンピュータゲームソフトを含む[[パッケージソフトウェア|パッケージ系]]の電子出版物に[[納本制度|納本]]義務が課せられた。[[日本標準産業分類]]においては、コンピュータゲームのソフトウェア産業は[[情報通信業]]に分類され、なかでも情報サービス業に区分される<ref>{{Cite web|和書|date=2014 |title=日本標準産業分類(平成25年10月改定)(平成26年4月1日施行)-分類項目名 |url=https://www.soumu.go.jp/toukei_toukatsu/index/seido/sangyo/02toukatsu01_03000044.html#g |publisher=[[総務省]] |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-02-29 }}</ref>。ゲーム産業は、[[テクノロジー]]/[[ビジネスモデル]]/[[コンテンツ]][[デザイン]]によって「変質しながら成長していく巨大な森」といわれる<ref>{{Cite web |date=2013-11-05 |title=Project FLARE |url=http://www.jp.square-enix.com/flare/ |publisher=[[スクウェア・エニックス]] |accessdate=2013-11-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131112032315/http://www.jp.square-enix.com/flare/jp/ |archivedate=2013-11-12 |deadlinkdate= }}</ref>。 コンピュータゲームの市場は成立以降急速に拡大を続け、一大産業へと成長した。2018年のコンピュータゲームの総売上は13兆1774億円と推定されており<ref name="日経_20190610">{{Cite news |和書 |date=2019-06-10 |title=国内ゲーム市場1兆6千億円、18年 民間調べ |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45887000Q9A610C1X30000/ |publisher=[[日本経済新聞社]] |newspaper=[[日本経済新聞]] |accessdate=2020-02-29 }}</ref>、そのうち90%以上がデジタル配信ゲームであり、パッケージゲームの売り上げは1割以下となっている。また、売り上げは[[アジア]]、[[北アメリカ]]、[[ヨーロッパ]]の順に多く、この3地域の売り上げは95%近くにのぼる<ref name="ファミ通_20190607">{{Cite web|和書|date=2019-06-07 |title=2018年の世界ゲームコンテンツ市場は前年比約2割増、国内クラウドゲーム市場は2022年に100億円突破。『ファミ通ゲーム白書2019』が6月27日に発刊 |url=https://www.famitsu.com/news/201906/07177561.html |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage]] |work=[[ファミ通]].com |accessdate=2020-02-28 }}</ref>。日本国内のコンピュータゲーム売上は2018年に1兆6704億円となっており、このうちスマホゲームが1兆1660億円、家庭用ゲームが4343億円を占めた{{R|"日経_20190610"}}。ゲーム企業の[[売上]]は年ごとの変動が激しいが、2017年のゲーム事業売り上げデータでは、[[テンセント]]、[[ソニー]]、[[Apple]]、[[マイクロソフト]]、[[アクティビジョン・ブリザード]]の順となっていて、また、この年[[任天堂]]は9位、[[バンダイナムコエンターテインメント|バンダイナムコ]]は10位となっていた<ref>リンク切れ。{{Cite web|和書|author=Niall McCarthy |date=2018-05-29 |title=ゲーム事業の売上高トップはテンセント 日本の3社も上位入り |url=https://forbesjapan.com/articles/detail/33636?n=1&e=21322 |publisher=[[フォーブス (雑誌)|Forbes]] |work=Forbes JAPAN |accessdate=2020-02-29 }}</ref>。また、コンピュータゲームを「人対人」や「チーム対チーム」の[[競技]]として行い競技大会を開催する[[エレクトロニック・スポーツ]](eスポーツ)も盛んとなってきている。 == 分類 == === ゲーム一般としての分類 === {{Seealso|ゲーム#ゲーム理論の援用}} 一般のゲームと全く同様に、コンピュータゲームに関しても、理論的な「人数 / (非)ゼロ和 / (無|有)限 / (不)確定 / (不)完全情報」というような分類が応用できる。コンピュータゲームの特殊性としては、(プログラム等の提供者を信じる限りにおいて)第三者として対戦ゲームなどの信用できる判定者としてコンピュータを利用できる、(「ゲーム性」の点で疑問はあるかもしれないが)プレイヤーは眺めるだけといった「0人ゲーム」といったものが(非電源ゲームなどと比較して)割とありえる、といった点がある。 以下は、よりコンピュータゲーム固有の事情や観点からの分類である。 ここでは'''ビデオゲーム'''や'''デジタルゲーム'''の特徴として、非電源ゲームである[[ボードゲーム]]、[[テーブルゲーム]]、[[カードゲーム]]などとの対比を述べる。 ;ルールとプレイ人数 :一般にゲームというものは、何らかのルールを定める、あるいは何らかのルールが自然発生するところから始まる、と言ってよいであろう。コンピュータゲームもルールが存在するが、コンピュータがゲームを決定してルールの適用も任せることとなる。必要な要素をコンピュータが[[シミュレーション|シミュレート]]しつつ進められるため、実在の[[遊具]]や[[人間]]を必要とするとは限らない(メタ化される<ref>{{Cite web|和書|author=大陸新秩序 |date=2017-05-09 |title=[Unite]AIの進化はゲームデザインとプレイヤーにどんな影響をもたらすのか。セッション「ゲームAI・ゲームデザインから考えるゲームの過去・現在・未来」をレポート |url=https://www.4gamer.net/games/210/G021014/20170509059/ |publisher=Aetas株式会社 |work=4Gamer.net |accessdate=2017-06-04 }}</ref>)。特にAI([[人工知能]])に挑む側面が強い<ref name=Aetas_20170519>{{Cite web|和書|author=箭本進一 |date=2017/05/19 |title=変化していく遊び,しかしその面白さは本能に根ざしている。遠藤雅伸氏の「ゲームデザインセミナー 〜ゲームの面白さ〜」聴講レポート |url=https://jp.gamesindustry.biz/article/1705/17051803/ |publisher=Aetas株式会社 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2017-06-04 }}</ref>。 :ゲームの進行は、プレイヤーの[[入力]]に対する結果を[[コンピューティング|コンピュータが演算し]]、その処理結果に対してさらにプレイヤーが次の入力を行うという繰り返しによってなされる。単純な形態としては数当てゲームが挙げられるが、これはコンピュータが定めた1つの数字に対してプレイヤーが値を入力し、コンピュータがその値と自らの定めた数字を比較した結果、どちらが大きいかのみを答える。このヒントに従ってプレイヤーは新たに値を入力し、再びコンピュータが判定を行った結果、ヒントを出すという過程を繰り返す。そして、正解に至るかプレイヤーが飽きてコンピュータの電源を切るまで、ゲームは続く。コンピュータゲームはいずれも多かれ少なかれ、こういった人間とのやり取りを繰り返すことで、遊びを提供する性質を持つ。 :プレイヤーの[[行動]]である入力以外が、コンピュータによって処理される。主なハードウェア構成は、演算処理を行うハードウェア本体、プレイヤーの[[入力機器]]である[[ゲームコントローラ|コントローラー]]、処理結果の出力機器であるモニタ画面や[[スピーカー]]から構成され、原則的にはこれ以外の補助機器の類を必要としない。また、入力機器は簡便なものが用いられ、大抵は両手のみで全ての操作が行えるようになっているが、中には体全体を使ってコントロールする入力機器も存在する。いずれもコントローラーを介して入力された操作を、ゲーム機内部のコンピュータが処理した結果として出力を行う。 ;乱数 :『[[テトリス]]』のように偶然性を用いるために[[乱数]]を利用する場合がある。コンピュータには本当の意味での乱数は生成できず、代わりに[[擬似乱数]]が使用されている。擬似乱数を使用すること自体には、実用上は何の問題もない。[[RC回路|CR]][[時定数]]回路とカウンタ等といったごく単純な方法でも、擬似乱数列の初期化のための「真の乱数」によるシードを得るには普通のゲーム用途なら十分である。これは、1970年代のマイコンでも最悪、コストにして数百円程度のハードウェアを付加する等の工夫をすればさほど困難ではない。一般に最低要求水準とされる、いわゆる「Park-Miller "minimal standard"」なら、8ビットプロセッサ程度の能力があれば数十バイトで実装可能である。 :アーケード『テトリス』の場合、バッテリバックアップによって状態を保持することで、パターン化を可能にされることを防いでいた。しかし、バッテリ切れにより「[[電源パターン]]」が可能になってしまった。また、本来であれば事実上不可能なはずの[[永久パターン]]が、電源パターンによって可能になる、といった場合もある。 :過去には[[カルドセプト サーガ#バグ問題]]のように、低質な乱数によるゲームの崩壊といった現象がしばしば発生していた<ref group="注">これは実際のところ、わざとやっているか手抜きか、そもそもまともな擬似乱数列生成器を使っていないか、擬似乱数列生成器のまともな使い方を理解していなかった、といったパターンがほとんどである。</ref>。 :[[シューティングゲーム]]等には、1980年代前半頃は乱数を利用するものも多かったが、その後はランダム要素を排除したいわゆる「覚えゲー」にデザインされる傾向が強い。シューティングゲームの場合、乱数は弾のバラマキかた等、わずかに利用される他は排除される傾向もある。 ;グレーゾーンな遊び :[[隠しコマンド]]や[[裏技]]や[[チート]]などと呼ばれるもののうち、デバッガ等を利用して直接メモリを書き換えるような行為は別としても、[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータ・プログラム]]の常として取りきれなかった[[バグ]]がゲームルールの抜け穴を作ってしまったりすることもある。これは単なる設計上の不具合である広義の[[不良品]]であったり、あるいは制作側が予期しなかった行為であったり、設計上で組み込まれたジョークであったり、と、本来の楽しみ方ではない機能である。これらはありきたりの遊び方に価値を見出さず、「ともかくゲームのエンディングを見る」、「無敵戦闘機を得る」、「最強主人公をつくる」など、特定のことに価値を見出した場合に積極的に利用される。 :ゲーム設計者(ゲームデザイナ)とプレイヤ間に暗黙のうちにあるルール(メタルール)として、ゲームのセーブ・ロード等のゲームルール外の操作は、ゲーム中の状態を任意に保存し、また復元することだけを行うもので、セーブ不能区間がある、強力な敵とのエンカウントの直後に強制セーブされる、といった制限などはあっても、ゲームルールには関与しない、などといった基本的なルールがある。しかし敢えてそれを破るような、セーブデータを削除するとゲームが進行する<ref>{{Cite web|和書|author=荒井陽介 |date=2014-03-21 |title=[GDC 2014]ゲームにできることはもっとたくさんあるはず。ヨコオタロウ氏がストーリーライティングの手法やゲームの可能性を語る |url=https://www.4gamer.net/games/207/G020792/20140321005/ |publisher=Aetas株式会社 |work=4Gamer.net |accessdate=2014-03-28 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2014-03-21 |title=ゲームの可能性を閉じ込める“見えない壁”の向こう側へ――ヨコオタロウ氏の講演をリポート【GDC 2014】 |url=https://www.famitsu.com/news/201403/21050331.html |publisher=Aetas株式会社 |work=4Gamer.net |accessdate=2014-03-28 }}</ref>といったものや、ゲーム中のキャラクタ(NPC)によりセーブデータが削除されるというイベントによって実際にセーブデータが削除される、1周目には「真のエンディング」に到達するルートが存在せず、2周目以降で初めてそのような分岐が現れる、といったものもある。もっと極端な例では、『[[Prismaticallization]]』のように、何周も繰り返しながら、別の周回での出来事がパズルのように複雑に絡んでいるフラグを揃えてゆくというものもある。 === プラットフォームによる分類 === コンピュータゲームは、そのプラットフォームによっていくつかに分類される。 ゲーム専用機によってプレイされるゲームは、[[アーケードゲーム]]と[[コンシューマーゲーム]]の2つの区分がある。アーケードゲームは業務用ゲーム機によって提供されるゲームで、個人向けでなく企業向けのプラットフォームであり、[[ゲームセンター]]や[[遊園地]]などに設置されることが多く、大型の専用筐体を用いた[[大型筐体ゲーム]]も存在する。コンシューマーゲームは家庭用ゲーム専用機によって提供されるものを指し、据え置き型ゲーム機による[[テレビゲーム]]と、小型で持ち運びしやすい[[携帯型ゲーム]]の2種類が存在する<ref name="みずほ_48">{{Cite web|和書|date=2014 |title=みずほ産業調査 Vol.48 06 第2部 各論:各コンテンツ産業の現状分析 第5章 ゲーム産業 |url=https://www.mizuhobank.co.jp/corporate/bizinfo/industry/sangyou/pdf/1048_03_05.pdf |publisher=[[みずほ銀行]] |website=公式ウェブサイト |format=PDF |pages=112 |accessdate=2020-02-29 }}</ref>。またコンシューマーゲームは、任天堂やソニーのようなゲーム機(ハード)を製造する企業と、ゲームソフトのみを製造しハードをプラットフォームとしてのみ使用する企業の2種類が存在し、こうしたソフト専業企業をゲーム業界では[[サードパーティー]]と呼ぶ{{R|"みずほ_48"}}。 ゲーム専用機以外のハードウェアによってプレイされるゲームは、[[パーソナルコンピュータ]]を利用してプレイする[[パソコンゲーム]]と、[[携帯電話]]や[[スマートフォン]]、[[スマートデバイス]]などを使用する[[モバイルゲーム]]とに分かれる{{R|"みずほ_48"}}。また、[[DVD]]などの再生機能つきゲーム機でプレイすることのできる[[DVDプレイヤーズゲーム]]/UMDプレイヤーズゲーム/BDプレイヤーズゲームといったものも存在する。古くは[[VHD]]ゲームや[[レーザーディスク|LD]]ゲームといったものがあり、特に後者はLD-ROM<sup>2</sup>やMEGA-LDといったハードもあった。 「[[大型筐体ゲーム]]」という用語もプラットフォームによる分類の一種である。 ==== プラットフォーム発展史 ==== [[アーケードゲーム]]ビジネスはコンピュータゲーム以前から存在しており、それらの[[ゲーム機]]、特にビデオゲームのコンピュータ化が、1970年代のコンピュータゲームビジネスのルーツの一つである(『[[ポン (ゲーム)|Pong]]』はビデオゲームであるが、最初の製品の時代にはコンピュータは使っていない)。 1970年代のコンピュータゲームとしては、[[メインフレーム]]や[[ミニコンピュータ]]上で作られ遊ばれたものもあるが、前者はデモンストレーション用といった位置付けが強い。後者は『[[スペースウォー!]]』のようにアーケードゲームに発展したものもある{{Sfn|小山|2016|pp=26-28}}。しかし最も多いのは『[[スタートレック (マイコンゲーム)|スタートレック]]』のように、次に述べるマイコンゲームになったパターンであろう。1970年代後半から急速に発展したパソコン(当時の呼称は[[マイクロコンピュータ|マイコン]])では、当初は自作や、公開されたプログラムリストによって自由に流通するプログラムの中の1ジャンルとしてゲームは人気のある分野であったが、ビル・ゲイツの努力([[:en:Open Letter to Hobbyists]]を参照(1976))などもありパソコン向けプログラム製品を商品とした市場ができると、[[パソコンゲーム]]も商品となるようになった。 続いて、家庭用の[[テレビゲーム]]があらわれた。前述のアーケードやこれらの[[ゲーム機|ゲーム専用機]]は、1970年代のものは1機種につき1種類のゲーム、ないし多くても十数種類程度の最初から内蔵されたゲームが遊べるというものであった。1980年代にあらわれた[[アタリ (企業)|アタリ]]や[[任天堂]]のテレビゲーム機は、プログラム(ソフトウェア)をカートリッジに搭載のROMで供給するという形態により、ゲーム機本体を[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]化し、[[ゲームソフト]]市場を作った。後にはより小型化されディスプレイを内蔵した携帯型ゲーム機も発売された。以上の類型をまとめて「[[コンシューマーゲーム]]」(コンシューマー=民生市場向け→「家庭用」)とも呼ぶこともある。家庭用ゲーム機はその生産台数の多さから、任天堂ファミコンの場合では[[リコー]]の各IC、セガサターンのSH2、セガドリームキャストのSH4など、[[集積回路]]産業に影響を与える存在にもなった。 アーケードのビデオゲームも高度化によりコストが高騰したこともあり、基本的な設計の流用から始まり、1990年代以降は多くの製品が何らかのプラットフォームをベースに設計されることがほとんどとなっており、カートリッジでソフトが供給されるようなプラットフォームもある。 LSIの高性能化などにより1980年代から1990年代にあらわれた[[電子手帳]]や[[携帯情報端末]]でも、ゲームを遊べるものがあった。近年は[[携帯電話]]や[[スマートフォン]]/[[スマートデバイス]]で遊べるゲームという形態となっている。 コンピュータの処理能力の進歩により映像表現や演出が高機能かつ多彩となっている<ref name="マイナビ_20080125">{{Cite news |和書 |date=2008-01-25 |title=GPUとシェーダ技術の基礎知識(1) - 3Dグラフィックス・マニアックス |url=http://news.mynavi.jp/column/graphics/001/ |publisher=株式会社[[マイナビ]] |newspaper=マイナビニュース |accessdate=2017-06-04}}</ref>。[[コンピュータグラフィックス|CG]]や[[シェーダ]]、[[コンピュータアニメーション|アニメーション]]、[[バーチャルリアリティ]]<ref name="ファミ通_20140327">{{Cite web|和書|date=2014-03-27 |title=Project Morpheus発表に、Facebookによる巨額買収――なぜ今VRがアツいのか、そしてなぜ体験すべきなのか【GDC 2014】 |url=https://www.famitsu.com/news/201403/27050582.html |publisher=K0ADOKAWA Game Linkage |work=ファミ通.com |accessdate=2014-03-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=後藤弘茂 |date=2014-03-21 |title=SCEのPS4向けVRシステム「Project Morpheus」- 後藤弘茂のWeekly海外ニュース |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/640706.html |publisher=株式会社[[インプレス]] |work=PC Watch |accessdate=2014-03-28}}</ref>など、[[機械学習]]<ref>{{Cite web|和書|author=西川善司 |date=2014-03-27 |title=[GTC 2014]賢い人工知能はGPUで作る。NVIDIAが取り組むGPGPUの新たな活用分野「機械学習」とは何か? |url=https://www.4gamer.net/games/076/G007660/20140327039/ |publisher=Aetas株式会社 |work=4Gamer.net |accessdate=2014-03-28 }}</ref>/[[深層学習]]は特に話題を集めた<ref name="日経_20140304">{{Cite news |和書 |date=2014-03-04 |title=データ分析も人手不要に 「知性持つ機械」の破壊力 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_R20C14A2000000/ |publisher=[[日本経済新聞社]] |newspaper=[[日本経済新聞]] |accessdate=2014-03-28 }}</ref><ref>{{Cite news |和書 |date=2014-03-10 |title=本当に人間に残る仕事は何だろう/アルゴリズムが全て呑み込む未来 |url=http://blogos.com/article/81983/ |publisher=[[Z中間グローバル|LINE]] |newspaper=BLOGOS |accessdate=2014-03-28 }}</ref>。 === 流通経路による分類 === コンピュータゲームが、特にゲームソフトがどのような経路でプレーヤーに届けられているかで分類する方法である。[[パッケージソフトウェア]] / [[ダウンロードゲーム]](配信ゲーム)などと分類する。 なお、[[同人ゲーム]]という同好の士たちが交換したり小規模に販売するゲームというものもある(インディーズゲームとも)。 === ゲームシステムによる分類 === {{Main|コンピュータゲームのジャンル}} 以下に示すのは、既存のゲームジャンルを便宜的に区分して列挙したものである。既存のゲームジャンル幾つかに跨るものも存在し、それが新しいジャンルに発展したものもあるため、ジャンル分けも絶対的なものではない。[[テイルズ オブ シリーズ]]のように独特のジャンル名が付けられる場合がある。 操作技能要求系はいわゆる反射神経や動体視力がものを言うゲームであるが、その幾つかでは要素の出現パターンが決まっており、それらの[[暗記]]が求められるものもある。また[[ゲームコントローラ|コントローラー]]の性質で、遊び易かったり遊びにくかったりするという要素も強い傾向がある。 * [[アクションゲーム]] - 操作技能を要求しつつ、他のいずれの条件にも当てはまらないゲーム。 ** [[対戦アクションゲーム]] - プレイヤー同士で対戦可能であるアクションゲーム。 *** [[対戦型格闘ゲーム]](格ゲー) - 1対1で格闘するゲーム。人間のプレイヤー同士でも対戦できる。 * [[落ち物パズル]] - [[落下]]するという特性でリアルタイム性を持たせたパズルゲーム。パズルゲーム『[[テトリス]]』を原型とする。 * [[シューティングゲーム]](STG) - 弾丸を発射し、敵を撃破しながら進むゲーム。 ** [[ファーストパーソン・シューティングゲーム]](FPS) - 主観視点で操作する3Dシューティング。 ** [[ガンシューティングゲーム]](ガンシュー) - 銃型コントローラーを使うシューティングゲーム。 * [[スポーツゲーム]] - [[スポーツ]]を主題とするもの。擬似的にスポーツするものとスポーツをテーマとしたアクションゲームの2種類がある。 ** [[レースゲーム]] - [[自動車]]([[自動車競技]])など、様々な[[乗物]]などの走りを競わせる[[競走]]を主題とするもの。 * [[音楽ゲーム|音楽ゲーム(リズム・ゲーム)]] - プレーヤーが、楽曲や、一種の楽譜に合わせて動作を行うゲーム。 * [[体感ゲーム]] - 身体を動かし操作する[[入力機器]]を用いたもの。 操作技能不要系は即決的な判断よりも、熟考して判断することが重視されるゲームである。より複雑なゲームルールである傾向が強く、また、遊ぶ時間も他のジャンルに比べ、長くなる傾向がある。[[セーブ (コンピュータ)|セーブ]]で中断に対応するものも多い。ゲームのジャンルとしては、[[ロールプレイングゲーム]]や[[ウォー・シミュレーションゲーム]]のように、コンピュータゲームが生まれる以前から遊ばれていたものや、[[ボードゲーム]]/[[カードゲーム]]といった卓上ゲームをコンピュータで遊べるようにしたものも多い。 * [[コンピュータRPG]](RPG) - 役割を演じるゲーム。 ** [[シミュレーションロールプレイングゲーム]](SRPG) - ストラテジー要素が加えられたRPG。 * [[シミュレーションゲーム]](SLG) - コンピュータ上で再現された仮想空間で様々な体験をできるもの。 ** [[ウォー・シミュレーションゲーム]] - 軍隊の指揮官になるなどして戦争を行うシミュレーション。 ** [[歴史シミュレーションゲーム]] - 実史上の出来事を題材にしたシミュレーション。 ** [[経営シミュレーションゲーム]] - 経営者となって企業を運営して行くゲーム。 ** [[育成シミュレーションゲーム]] - 仮想的にキャラクターや自分自身を成長させ仮想環境との関係を築くゲーム。 * [[アドベンチャーゲーム]](ADV) - 様々な謎を解き明かし先へ進むゲーム。[[サウンドノベル]]や[[ビジュアルノベル]]。 * [[パズルゲーム]] - [[パズル]]を解くゲーム。 * [[ホラーゲーム]] - 恐怖心を楽しむもの、[[ホラー映画]]のゲームへの応用。 * [[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛ゲーム]] - ゲーム内のキャラクターと擬似恋愛行為を楽しむもの。恋愛シミュレーションゲームは様々なパラメーター操作を組み合わせたものでスケジュールに沿ってゲームが進行する。恋愛アドベンチャーゲームはストーリーに沿って進行するもので選んだ選択肢で結果が変化する。 統合系は幾つかのゲームジャンルの要素を組み合わせたり、またはゲーム以外の概念を既存ゲームに組んだものである。登場当初は確定したジャンルが存在しなかったものも多い。RPGにアクションゲームの要素が加えられた[[アクションロールプレイングゲーム]](ARPG)やパズルゲームにリアルタイム性を持たせた[[アクションパズル]]がある。 [[リアルタイムストラテジー]](RTS)は、シミュレーションゲームにリアルタイム性を持たせたものである。一時停止を使用しないことでプレイに緊張感を与え、ほとんどが戦闘を扱う。少人数の[[オンラインゲーム]]に分類される。シミュレーションゲームにおける分類は[[ウォー・シミュレーションゲーム]]や[[歴史シミュレーションゲーム]]となる。[[マルチプレイヤーオンラインバトルアリーナ]](MOBA)もある。 他には、脳トレ・学習ゲーム<ref>[https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%83%88%E3%83%AC-%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0/]</ref>という分類もある<ref group="注">脳トレゲームとは、川島隆太教授が提唱した[[能力トレーニング|脳トレ]]を行うためのゲーム。中高年が適度に知力を使うことができ、特に高齢者などは[[老人性認知症]]の予防のためにやりたくなるゲーム。学習ゲームには、小学生〜中学生〜高校生などが学校の教科で学ぶ内容などでゲームを行うものなどもある。なお大人が子供に与えて[[知育玩具]]のように使う目的のゲームもあり、[[キッズコンピュータ・ピコ]]のような教育用や教材用ソフトウェアもある。</ref>。 === オンライン機能の有無による分類 === {{Main|オンラインゲーム}} [[オンラインゲーム]]は[[コンピュータネットワーク]]を利用して機能するゲームのジャンルである。古くは[[パソコン通信]]などであったが、2000年代に於いてその多くでは[[インターネット]]への対応を見せる。[[スタンドアローン]]なゲームに対して用い、狭義では常にネットワークに接続した状態で行うものを表す。インターネットの普及に伴って遠隔地にいるユーザ同士がプレイを共有する[[ゲームソフト]]が登場している。ネットの多人数参加型コンピュータRPGとして[[MORPG]]/[[MMORPG]]がある。 === 他のプレイヤーとの関係による分類 === プレイ人数による分類よりも他のプレイヤーとの関係による分類が有意と言える。2人対戦を基本とするゲームでも、[[アルゴリズム]]([[人工知能]])を対戦相手とした1人プレイのモードが存在する。これはコンピュータが対戦相手役を兼ねるものであり、プレイヤーが1人であってもゲーム内容は2人プレイと同質のものとなる。 複数人が同時にプレイするコンシューマーゲームにおいては家庭内でゲーム機を介して他人とコミュニケーションするという意味合いもあって、協力関係であるものと競争関係にあるものが主流となっている。複数のプレイヤーが相互に一人プレイを行う形態も[[レトロゲーム]]や、[[ボードゲーム]]や『[[モノポリー]]』といった[[パーティーゲーム]]をコンピュータゲーム化したものに見られる。携帯型ゲーム機ではセーブデータを複数保持することで、同じ[[ロムカートリッジ]]で(厳密には各々のプレイヤーが個別に遊べるだけではあるが)複数プレイヤーに対応するものもある。 2000年代より急速に進歩を見せた[[オンラインゲーム]]のように、[[コンピュータネットワーク]]([[インターネット]])経由で他のプレイヤーと協力ないし競争するタイプのゲームも増え、こちらでは特定人数による対戦形態から[[MMORPG]]のように、ほぼ無制限なプレイヤー人数と同じ仮想世界を共有する形態も、一般化の傾向が見られる。 === プレイヤー条件による分類 === おもに極端な特性を持つという理由から、プレイヤー層が限定されたり条件が示されたりする分類である。販売店で購入者の適格チェックが行われる場合もある。このような作品はいわゆる[[全年齢対象]]のような万人受けは最初から切り捨てて[[ニッチ市場|特定のプレイヤー層に特化]]しているため、老若男女に受け入れられるように配慮されていない。そのため対象プレイヤー層以外([[成人向けゲーム]]なら未成年者)には与えるべきではなく、また、場合によっては内容に関する注意・免責事項が必要であると考えられる。 * [[アダルトゲーム]](エロゲー) - 主に性的表現が極端なもの。[[脱衣麻雀]]や[[泣きゲー]]/[[鬱ゲー]]。 * [[残酷ゲーム]](グロゲー/暴力ゲーム) - 主に暴力表現や出血表現が極端なもの。 === その他の分類 === ゲームの分類というのは、メーカーの意図どおりに行われるとは限らない。ゲームを販売する販売店側、通販側でも分類名を用意して行われることもあるし、プレーヤー側でも独特の分類が行われることがある。プレーヤーの特定の趣味嗜好に合うか合わないかで分類する場合もある。 * [[カジュアルゲーム]] - 気軽に短時間で遊べるもの。 * [[シリアスゲーム]] - [[内視鏡|腹腔鏡]]を使った[[手術#手術の種類|低侵襲手術]]を目的としたものなど。「[[ゲーミフィケーション]]」もある。 * ナラティブ・ゲーム - 2013年からは英語圏ではnarrative gameという分類が行われれルようになってきた。(ストーリーではなくて)「語り(narrative)」が重要な要素となるゲームのこと<ref name="ファミ通_20140328">{{Cite web|和書|author= |date=2014-03-28 |title=【ひらブラ vol.11】長く遊べるゲームを低コストでつくるには(ナラティブなゲームってなんだろう?) |url=http://app.famitsu.com/20140328_342198/ |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage]] |work=ファミ通App |accessdate=2014-03-28 }}</ref>。 * [[レトロゲーム]](レゲー) - 懐古趣味のゲーム。既に販売されなくなった古いもの、古いまま復刻したもの、古い雰囲気で作られた最新ゲームなど。 * [[洋ゲー]] - 日本人視点による分類で、西洋(欧米)のゲーム会社が制作した、いかにも洋風テイストのもの(海外のものを全て呼ぶわけではなく、韓国の会社が開発したものを「洋ゲー」とは呼ばない)。 * [[ギャルゲー]] - 女性キャラクターの魅力を主体とするもの。 * [[女性向けゲーム]]([[乙女ゲーム]]、[[ボーイズラブゲーム]]) - 男性キャラクターの魅力を主体とするもの。 * [[キャラクターゲーム]](キャラゲー) - 漫画やアニメのキャラクターを採用しているもの。 * [[アドバゲーム]] - 広告を目的として提供されるもの。 <!--上のほうの節ですでに登場している用語→ * [[対戦型格闘ゲーム]](格ゲー) - 選択したキャラクターを用いて主に1対1の格闘技で戦う対戦ゲーム。--> ; 蔑称 * [[クソゲー]] - プレイヤーが否定的に評したもの。 * [[バカゲー]] - プレイヤーが馬鹿馬鹿しいと感じる内容のもの。 : この「クソゲー」や「バカゲー」は、かなり感情的な表現ではあるが、世の中のプレーヤーたちが頻繁に口にする用語である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|25em|refs= <!--※以下は辞事典の出典。--> <ref name="kb_泉">{{Cite web|和書|title=コンピューターゲーム |url=https://kotobank.jp/word/コンピューターゲーム-506610 |author=[[小学館]]『デジタル[[大辞泉]]』|publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2020-04-25 }}</ref> <ref name="kb_林">{{Cite web|和書|title=コンピューターゲーム |url=https://kotobank.jp/word/コンピューターゲーム-506610 |author=[[三省堂]]『[[大辞林]]』第3版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-04-25 }}</ref> <ref name=kb_Brit>{{Cite web|和書|title=コンピュータ・ゲーム |url=https://kotobank.jp/word/コンピュータ・ゲーム-67539 |author=『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-04-26 }}</ref> <ref name="kb-Nipp_鈴木">{{Cite web|和書|title=コンピュータ・ゲーム |url=https://kotobank.jp/word/コンピュータ・ゲーム-67539 |author=[[鈴木銀一郎]]、小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-04-26 }}</ref><!-- <ref name="kb-Nipp_宮沢">{{Cite web |title=コンピュータ・ゲーム |url=https://kotobank.jp/word/コンピュータ・ゲーム-67539 |author=宮沢篤(''cf.'' researchmap[https://researchmap.jp/read0155783])、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-04-26 }}</ref>{{R|"kb-Nipp_宮沢"}}|※未使用の出典と出典表示。--> }} == 参考文献 == *<!--こやま-->{{Cite book |和書 |author=小山友介(''cf.'' KAKEN[https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000080345371/])|date=2016-06-27 |title=日本デジタルゲーム産業史─ファミコン以前からスマホゲームまで |edition=初版第1刷 |publisher=[[人文書院]] |oclc=957079514 |ref={{SfnRef|小山|2016}} }}ISBN 4-409-24107-9、ISBN 978-4-409-24107-3。 == 関連項目 == {{Wiktionary|:en:video game|:en:computer game}} * [[コンピュータゲームのタイトル一覧]] - [[ゲーム機一覧]] - [[ゲーム会社一覧]] - [[ゲームクリエイター一覧]] - [[ゲーム音楽の作曲家一覧]] - [[ゲーム雑誌]] * [[東京ゲームショウ]] - [[Electronic Entertainment Expo]] - [[ゲームズコム]] - [[ゲームズ・コンベンション]] - [[CEDEC]] - [[Game Developers Conference]] * [[コンピュータゲームにおける人工知能]] - [[Mod (コンピュータゲーム)]] - [[ゲームセンターCX]] * [[芸術としてのゲーム]] * [[ゲームのアクセシビリティ]](年齢・障碍者対応) * {{ill2|ビデオゲームの保存|en|Video game preservation}} ** {{ill2|ビデオゲーム歴史保存協会|en|Video Game History Foundation}} - コンピューターゲームを保存、発掘などを行う非営利団体。 ** {{ill2|ナショナル・ビデオゲーム・ミュージアム (アメリカ)|en|National Videogame Museum (United States)}} - アメリカ合衆国立博物館。 ** {{ill2|ナショナル・ビデオゲーム・ミュージアム (イギリス)|en|National Videogame Museum (United Kingdom)}} - イギリスの国立博物館。 ** {{ill2|ナショナル・ビデオゲーム・ミュージアム (オランダ)|en|National Videogame Museum (The Netherlands)}} - オランダの国立博物館。 ** [[駄菓子屋ゲーム博物館]] ** [[日本ゲーム博物館]] == 外部リンク == * {{Kotobank|コンピューター・ゲーム}} * [https://web.archive.org/web/19980113191439/http://www.infoseek.co.jp/20000/20380?&col=JT&st=0 コンピューター・ゲーム] - [[infoseek]] リンク集 {{コンピュータゲームのジャンル}} {{典拠管理}} {{デフォルトソート:こんひゆうたけえむ}} [[Category:コンピュータゲーム|*]] [[Category:和製英語]]
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ゲームのタイトル一覧
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'''ゲームのタイトル一覧'''(ゲームのタイトルいちらん)では、[[ゲーム]]のタイトルに関する一覧を列記する。 == いわゆる非電源系ゲーム == * [[テーブルトークRPGのタイトル一覧]] * ボードゲームのタイトル一覧 → [[シミュレーションゲーム]]、[[ボードゲーム]] ** [[ボード・ウォー・シミュレーションゲーム のタイトル一覧]] * カードゲームの一覧 → [[カードゲーム]]、[[トランプ]] ** [[トレーディングカードゲームのタイトル一覧]] * 野外で遊ぶゲーム([[鬼ごっこ]]など) → [[こどもの文化]] * 囲碁のタイトル戦 → [[棋戦 (囲碁)]] * 将棋のタイトル戦 → [[棋戦 (将棋)]] == コンピュータゲームソフト == {{コンピュータゲームのサイドバー}} {{Main2|50音順のタイトル一覧|コンピュータゲームのタイトル一覧|ゲームソフトの歴史や媒体|ゲームソフト}} === プラットフォーム別一覧 === * [[任天堂]] ** [[ファミリーコンピュータのゲームタイトル一覧]] ** [[ディスクシステムのゲームタイトル一覧]] ** [[スーパーファミコンのゲームタイトル一覧]] ** [[バーチャルボーイ|バーチャルボーイのゲームタイトル一覧]] ** [[NINTENDO64のゲームタイトル一覧]] ** [[ニンテンドーゲームキューブのゲームタイトル一覧]] ** [[Wiiのゲームタイトル一覧]] *** [[Wiiウェアのゲームタイトル一覧]] ** [[Wii Uのゲームタイトル一覧]] ** [[Nintendo Switchのゲームタイトル一覧]] ** [[ゲームボーイのゲームタイトル一覧]] ** [[ゲームボーイカラーのゲームタイトル一覧]] ** [[ゲームボーイアドバンスのゲームタイトル一覧]] ** [[ニンテンドーDSのゲームタイトル一覧]] *** [[ニンテンドーDSiウェアのタイトル一覧]] ** [[ニンテンドー3DSのゲームタイトル一覧]] ** [[ニンテンドウパワーのゲームタイトル一覧]] ** [[バーチャルコンソールのゲームタイトル一覧]] * [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] ** [[PlayStationのゲームタイトル一覧]] ** [[PlayStation 2のゲームタイトル一覧]] ** [[PlayStation 3のゲームタイトル一覧]] ** [[PlayStation 4のゲームタイトル一覧]] ** [[PlayStation 5のゲームタイトル一覧]] ** [[PlayStation Portableのゲームタイトル一覧]] ** [[PlayStation Vitaのゲームタイトル一覧]] ** [[ゲームアーカイブス]] * [[マイクロソフト]] ** [[Xboxのゲームタイトル一覧]] ** [[Xbox 360のゲームタイトル一覧]] ** [[Xbox Oneのゲームタイトル一覧]] ** [[Xbox Series X/Sのゲームタイトル一覧]] ** [[Xbox Live Arcadeのゲームタイトル一覧]] * [[セガ]] ** [[SG-1000のゲームタイトル一覧]] ** [[セガ・マークIIIのゲームタイトル一覧]] ** [[メガドライブのゲームタイトル一覧]] *** [[メガCDのゲームタイトル一覧]] *** [[スーパー32Xのゲームタイトル一覧]] ** [[セガサターンのゲームタイトル一覧]] ** [[ドリームキャストのゲームタイトル一覧]] *** [[ドリームライブラリ#配信ソフト|ドリームライブラリのゲームタイトル一覧]] ** [[ゲームギアのゲームタイトル一覧]] * [[バンダイ]] ** [[プレイディアのゲームタイトル一覧]] ** [[ワンダースワンのゲームタイトル一覧]] * [[日本電気ホームエレクトロニクス|NEC]] ** [[PCエンジンのゲームタイトル一覧]] ** [[PC-FXのゲームタイトル一覧]] * [[パナソニック|松下電器産業]] ** [[3DOのゲームタイトル一覧]] * [[SNK (1978年設立の企業)|SNK]] ** [[ネオジオのゲームタイトル一覧]]([[ネオジオCD]]も含む) ** [[ネオジオポケットのゲームタイトル一覧]] * [[アーケードゲーム]] ** [[アーケードゲームのタイトル一覧]] ** (※システム基板の一覧については[[アーケードゲーム基板]]を参照) * [[パソコンゲーム]] ** [[MSXのゲームタイトル一覧]] ** [[PC-8800シリーズのゲームタイトル一覧]] ** [[PC-9800シリーズのゲームタイトル一覧]] * [[IPodのゲームタイトル一覧]] === シリーズ別一覧 === * [[ウィザードリィのシリーズ一覧]] * [[ガンダムシリーズゲーム作品一覧]] * [[クターシリーズのゲーム一覧]] * [[ゼルダの伝説シリーズの作品・関連作品の一覧]] * [[ディズニーのコンピュータゲーム作品]] * [[ファイナルファンタジーシリーズの作品一覧]] * [[ポケットモンスターのスピンオフゲーム]] === メーカー別一覧 === * [[アトラス発売のゲームタイトル一覧]] * [[コーエーテクモゲームスのゲーム一覧]] * [[コナミデジタルエンタテインメント発売の製品一覧]] * [[スクウェア・エニックスのゲームタイトル一覧]] * [[ソニー・インタラクティブエンタテインメントのゲームタイトル一覧]] * [[日本コロムビア発売のゲームタイトル一覧]] * [[日本ファルコムのコンピュータゲーム作品一覧]] * [[任天堂発売のゲームタイトル一覧]] * [[バンダイナムコゲームス発売のゲームタイトル一覧]] * [[マーベラス発売のゲームタイトル一覧]] === ジャンル別一覧 === * [[対戦アクションゲーム一覧]] * [[対戦型格闘ゲーム一覧]] ** [[SNKの対戦型格闘ゲーム一覧]] * [[パズルコンピュータゲームの一覧]] * [[バトルロイヤルゲーム一覧]] * [[フライトシミュレーションソフトの一覧]] * [[麻雀ゲームソフト一覧]] * [[迷路コンピュータゲームの一覧]] === レーティング別一覧 === * [[CEROレーティング教育・データベースソフトの一覧]] * [[CEROレーティング全年齢対象ソフトの一覧]] * [[CEROレーティング12才以上対象ソフトの一覧]] * [[CEROレーティング15才以上対象ソフトの一覧]] * [[CEROレーティング17才以上対象ソフトの一覧]] * [[CEROレーティング18才以上対象ソフトの一覧]] * [[CEROレーティング18才以上のみ対象ソフトの一覧]] * [[ESRBレイティング別対象ソフト一覧・E (6歳以上)]] * [[ESRBレイティング別対象ソフト一覧・E10+ (10歳以上)]] * [[ESRBレイティング別対象ソフト一覧・T (13歳以上)]] * [[ESRBレイティング別対象ソフト一覧・M (17歳以上)]] * [[ESRBレイティング別対象ソフト一覧・AO (18歳未満提供禁止)]] * [[アダルトゲームのタイトル一覧]] === ゲームレーベル === * [[SIMPLEシリーズ]] * [[SuperLiteシリーズ]] * [[セガエイジス2500シリーズ]] * [[PS one Books]] * [[Major Wave シリーズ]] {{DEFAULTSORT:けえむのたいとるいちらん}} [[Category:ゲーム関連の一覧]] [[Category:コンピュータゲーム関連一覧|*けえむのたいとるいちらん]]<!-- 一覧の一覧 -->
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ゲーム会社一覧
ゲーム会社一覧(ゲームがいしゃいちらん)では、主に 「家庭用コンピュータゲームソフトウェアの開発(ゲームデベロッパー)または販売(ゲームパブリッシャー)を行う日本国内の企業」 を一覧にまとめる。 十分な記事を作成してから追加してください。
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ゲーム会社一覧(ゲームがいしゃいちらん)では、主に 「家庭用コンピュータゲームソフトウェアの開発(ゲームデベロッパー)または販売(ゲームパブリッシャー)を行う日本国内の企業」 を一覧にまとめる。 このページは、コンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)の審査対象ゲーム機向けにゲームソフトウェアを開発・販売している会社の一覧である。 数が膨大になるため、携帯電話ゲーム、パソコンゲーム(オンラインゲーム含む)専門の会社は別途対応のこと。 アダルトゲームの開発・販売会社は「アダルトゲームメーカー一覧」を参照のこと。 十分な記事を作成してから一覧に追加する。 パッケージソフトのパブリッシング(出版/販売)を行っている会社は●印で示す。 Webサイトや制作実績から近年の事業活動が不明な会社に関しては、適宜調整を行う。 純粋持株会社、ブランド・レーベル名のみの項目は含まない。 登記上の商号に英数を用いるものは英数の項目に記述。 読みを優先し、系列企業を字下がりにしない。
'''ゲーム会社一覧'''(ゲームがいしゃいちらん)では、主に '''「[[コンシューマーゲーム|家庭用コンピュータゲーム]][[ソフトウェア]]の[[ゲーム開発|開発]](ゲームデベロッパー)または[[販売]](ゲームパブリッシャー)を行う[[日本]]国内の[[企業]]」''' を[[一覧の一覧|一覧]]にまとめる。 * このページは、[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構]](CERO)の審査対象[[ゲーム機]]向けに[[ゲーム]]ソフトウェアを開発・販売している会社の一覧である。 * 数が膨大になるため、[[携帯電話ゲーム]]、[[パソコンゲーム]]([[オンラインゲーム]]含む)専門の会社は別途対応のこと。 * [[アダルトゲーム]]の開発・販売会社は「[[アダルトゲームメーカー一覧]]」を参照のこと。 * 十分な記事を作成してから一覧に追加する。 * [[パッケージソフト]]の[[パブリッシング]](出版/販売)を行っている会社は●印で示す。 * [[Webサイト]]や制作実績から近年の事業活動が不明な会社に関しては、適宜調整を行う。 * 純粋[[持株会社]]、[[ブランド]]・レーベル名のみの項目は含まない。 * [[登記]]上の[[商号]]に[[英数]]を用いるものは英数の項目に記述。 * 読みを優先し、系列企業を字下がりにしない。 == 存続している会社 == === 英数字 === {{Div col}} * [[1-UPスタジオ]] * [[B.B.スタジオ]] * [[comcept]] * [[Cygames]]● * [[D4エンタープライズ]] * [[Dragami Games]] * [[epics]] * [[EXNOA]]● * [[FELISTELLA]] * [[HIKE]]● * [[MAGES.]]● * [[Megg]] * [[Phoenixx]]● * [[qureate]] * [[Rejet]] * [[SNK (2001年設立の企業)|SNK]]● * [[SRD (ゲーム会社)|SRD]] {{Div col end}} === あ行 === {{Div col}} * [[アークシステムワークス]]● * [[アーゼスト]] * [[アートディンク]]● * [[アール (ゲーム会社)|アール]] * [[アイディアファクトリー]]● * [[アクアプラス]]● * [[アクセスゲームズ]] * [[アクティブゲーミングメディア]]([[PLAYISM]])● * [[アクリア]] * [[アクワイア (ゲーム会社)|アクワイア]]● * [[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]● * [[アニプレックス]]● * [[アプシィ]] * [[アポロソフト]] * [[アリカ]] * [[アルカディア・プロジェクト]] * [[アルテピアッツァ]] * [[アルヴィオン]]● * [[アルティ (企業)|アルティ]]● * [[アルファ・システム]] * [[イザナギゲームズ]]● * [[イマジニア]]● * [[イリンクス]] * [[ILCA|イルカ]] * [[インディーズゼロ]] * [[インティ・クリエイツ]]● * [[インテリジェントシステムズ]] * [[インテンス]] * [[インフィニティー]] * [[ヴァニラウェア]] * [[ウィッチクラフト (ゲーム会社)|ウィッチクラフト]] * [[ヴィテイ]] * [[ウィル (埼玉県)|ウィル]] * [[エーアイ (ゲーム会社)|エーアイ]] * [[エイティング]] * [[エインシャント]] * [[エクスペリエンス]]● * [[エコールソフトウェア]] * [[エディア]]● * [[エヌディーキューブ]] * [[エムツー (ゲーム会社)|エムツー]]● * [[エンターグラム]]● * [[オーイズミ・アミュージオ]]● * [[オーツー (ゲーム会社) |オーツー]] * [[オインクゲームズ]] * [[大宮ソフト]] * [[オフィスクリエイト (ゲーム会社)|オフィスクリエイト]]● * [[オルジェスタ]] * [[音楽館]] {{Div col end}} === か行 === {{Div col}} * [[カイロソフト]] * [[カプコン]]● * [[カヤックアキバスタジオ]] * [[河本産業]](nn.system) * [[ガンバリオン]] * [[ガンホー・オンライン・エンターテイメント]]● * [[キャトルコール]] * [[キャメロット (ゲーム会社)|キャメロット]] * [[キューエンタテインメント]] * [[キュー・ゲームス]] * [[キュート (ゲームブランド)|キュート]] * [[グッド・フィール]] * [[グラスホッパー・マニファクチュア]] * [[クラップハンズ]] * [[クラフト&マイスター]] * [[グランゼーラ]]● * [[グランディング]] * [[クリーチャーズ]] * [[グルーブボックスジャパン]] * [[グレッゾ]] * [[グレフ]]● * [[K2 (ゲーム会社)|ケーツー]] * [[ゲームアーツ]] * [[ゲームスタジオ]]● * [[ゲームフリーク]] * [[元気 (ゲーム会社)|元気]] * [[工画堂スタジオ]] * [[甲南電機製作所]] * [[コーエーテクモゲームス]]● * [[コジマプロダクション]] * [[娯匠]] * [[コスモマキアー]]● * [[ゴッチテクノロジー]] * [[コトブキソリューション]](ケムコ)●<!-- 社名を優先 --> * [[コナミデジタルエンタテインメント]]● * [[コロプラ]]● * [[コンテライド]]● * [[コンパイルハート]]● * [[コンパイル丸]]<!-- 社名の読みを優先 --> {{Div col end}} === さ行 === {{Div col}} * [[サイバーコネクトツー]] * [[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]]● * [[さざなみ (ゲームソフトメーカー)|さざなみ]] * [[サン電子]] * [[サンドロット]] * [[シーエイプロダクション]] * [[ジー・モード]] * [[ジェンデザイン]] * [[シティコネクション (企業)|シティコネクション]]● * [[ジニアス・ソノリティ]] * [[シフト (ゲーム会社)|シフト]] * [[シムス (企業)|シムス]] * [[ジュピター (ゲーム会社)|ジュピター]] * [[シルバースタージャパン]]● * [[シンク・アンド・フィール]] * [[シンソフィア]] * [[ズー (会社)|ズー]] * [[ズーム (ゲーム会社)|ズーム]] * [[スカラベスタジオ]] * [[スキップ (ゲーム会社)|スキップ]] * [[スクウェア・エニックス]]● * [[スタジオ斬]] * [[スターフィッシュ・エスディ]]● * [[スタジオアートディンク]] * [[スティング (ゲーム会社)|スティング]] * [[スパイク・チュンソフト]]● * [[スマイルブーム]] * [[スリーリングス]] * [[セガ]]● * [[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]]● * [[ソニックパワード]]● * [[ソラ (ゲーム会社)|ソラ]] * [[ソレイユ (ゲーム会社)|ソレイユ]] {{Div col end}} === た行 === {{Div col}} * [[タイトー]]● * [[タカラトミー]]● * [[タカラトミーアーツ]]● * [[拓洋興業]](TAKUYO)● * [[タムソフト]] * [[ツェナワークス]] * [[ディースリー・パブリッシャー]]● * [[ディンプス]] * [[テンキー (ゲーム会社)|テンキー]] * [[トイロジック]] * [[トゥーキョーゲームス]] * [[トーセ]] * [[トムクリエイト]] * [[トライアングル・サービス]] * [[トライエース]] * [[トライクレッシェンド]] * [[ドラス]]● * [[ドリームファクトリー (企業)|ドリームファクトリー]] {{Div col end}} === な行 === {{Div col}} * [[ナウプロダクション]] * [[ナツメアタリ]]● * [[七音社]] * <!-- 読み:にっぽん -->[[日本一ソフトウェア]]● * [[コロムビアハウス|日本コロムビア]]● * <!-- 読み:にほん -->[[日本ファルコム]]● * [[マイクロソフト|日本マイクロソフト]]● * [[任天堂]]● * [[ヌードメーカー]] * [[ノイズ (ゲーム会社)|ノイズ]] {{Div col end}} === は行 === {{Div col}} * [[ハイド (ゲーム会社)|ハイド]] * [[パオン・ディーピー]] * [[ハチノヨン]] * [[ハピネット]]● * [[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]]● * [[パリティビット (ゲーム会社)|パリティビット]] * [[ハル研究所]] * [[バンダイナムコエンターテインメント]]● * [[バンダイナムコスタジオ]] * [[ハ・ン・ド]] * [[ビサイド 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;「[[セガ]]」の開発子会社(本社から分社された後再統合) :2000年に自社の開発チームを10の子会社に分社。2003年に7社に再編。2004年のセガと[[サミー]]の経営統合の際に、ゲーム音楽部門であるウェーブマスターを除いて、全て本社に再統合した。 :*[[アミューズメントヴィジョン]] :*[[ウェーブマスター]](一時期ゲームソフト開発も行う。ゲーム音楽の会社として現存) :*[[SEGA-AM2]] :*[[セガワウ]] :**ワウ エンターテイメントとオーバーワークスの合併した会社 :*[[ソニックチーム]] :**[[ユナイテッド・ゲーム・アーティスツ]](ソニックチームに営業譲渡) :*[[スマイルビット]] :*[[デジタルレックス (セガ)|デジタルレックス]](2003年の再編時に新設) :*[[ヒットメーカー (セガ)|ヒットメーカー]] :**[[セガ・ロッソ]](ヒットメーカーに吸収合併) ;「[[タカラトミー]]」へ移行 :* [[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]](ゲームソフト事業は、当時子会社の[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]が引継ぎ) :* [[トミー (企業)|トミー]] ;「[[ディースリー・パブリッシャー]]」へ移行 :* ディースリー(当時の親会社) :* [[ESP (ゲーム会社)|エンターテイメント・ソフトウェア・パブリッシング]] ;「バンダイナムコゲームス」を経て「[[バンダイナムコスタジオ]]」へ移行 :* [[ナムコ]](ゲームソフト事業) :* [[ナムコ・テイルズスタジオ]] :* [[バンプレスト]](ゲームソフト事業) :* [[バンダイネットワークス]] ;「[[B.B.スタジオ]]」へ移行 :* [[B.B.スタジオ|バンプレソフト]] :* [[ベック (ゲーム会社)|ベック]] ;「[[マーベラス (企業)|マーベラスAQL(後のマーベラス)]]」へ移行 :* [[AQインタラクティブ]] ::* [[アートゥーン]] ::* [[キャビア (企業)|キャビア]] ::* [[フィールプラス]] :* [[マーベラス (企業)|マーベラスエンターテイメント]] ;「[[KADOKAWA]]」に統合し、ブランドカンパニーへ移行。発売元を「[[角川ゲームス]]」に統合 :* 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民族音楽
民族音楽(みんぞくおんがく)とは、英語のethnic musicの訳語で、「民族(=共通の言語・文化を持つ人の集団)が固有に伝承してきた音楽」の意味。国語辞典には昭和50年代から載るようになった比較的新しい言葉だが、この語はさまざまな用いられ方をしており、注意を要する。 この節の出典は、学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「民族音楽」の項 もともとethnicには「異民族・異教徒」という意味があり、ethnic musicは「異民族・異教徒のエキゾチックで野蛮な音楽」というニュアンスがあった。歴史的にこの語は欧米で内外の異民族、特に異教徒や少数民族の音楽の特異な響きを指して用いられることが多く、ヨーロッパ人が自民族の音楽を指す言葉としては使わなかった。 日本に移入されたこの語は、(1)の意味から自国である日本を除外して「日本以外の非欧米の伝統的な音楽」の意味でつかわれた。近年は当たり前になったが、以前は例えば「フランスの民族音楽」などのような言い方はしなかった。伝統的な音楽への志向はまだ残っており、例えば「中国の民族音楽」と言った場合、京劇や民謡がすぐ思い浮かぶが、女子十二楽坊やラン・ランは通常含まない。 (1)(2)に含まれる西欧中心主義や自民族中心主義、および伝統的な音楽とそれ以外のジャンルを峻別する考え方への批判から、例えば「日本の民族音楽」といった場合、古典音楽・民謡・民俗芸能・歌謡曲やポピュラー音楽、日本人が作曲・演奏する西洋クラシック音楽に至るまでのあらゆる音楽を指すような用法が近年見られる。この立場を推し進めると「民族音楽」という語が不要になり、単に「○○の音楽」と言えばよいことになる。 基本的には(3)の立場に立つが、「○○の音楽」と言った場合に想起されにくい音楽を示すためにあえて「○○の民族音楽」という語を使う用法。近年はこうした用法が主流になって来ている。例えば「ドイツの音楽」と言った場合、どうしてもクラシックが思い浮かびがちだが、「ドイツの民族音楽」と言われれば民謡や民族舞踊の存在を意識する。 ロシア・中国・朝鮮などでは民族音楽という語をそのような意味で使っている。中国の用法では女子十二楽坊は立派に民族音楽である。中国・朝鮮では「民族楽器」「民族舞踊」と言う際の「民族」もほぼこれに準じる。 「民族音楽」というより「エスニック・ミュージック」と呼ぶ場合が多い。民族衣装や民族料理を楽しむような気軽さで異民族の音楽のエキゾチックさを楽しむ際にこの用法が使われる場合があるが、エキゾチックさを強調することは(1)の用法に近い部分があり、注意を要する。 ここでは世界で行われている音楽全て(広義のワールド・ミュージック)から、近代的な商業音楽(ポピュラー音楽)と、ポピュラー音楽の影響で生まれた融合音楽(狭義のワールド・ミュージック)と、西洋芸術音楽(クラシック音楽)を除いた音楽、つまり(4)の意味での民族音楽について、世界各地域の概観を示す。 地域の区分は平凡社『音と映像による世界民族音楽体系』に準拠するが、旧ソ連地域はヨーロッパ、西アジア、中央アジア、チベット・モンゴル、極東シベリアに分割し、さらに極東シベリアをエスキモーと統合した。また地域名称は適宜現代的なものとし、それぞれに例を示した。 当然ながら、地域の分割は様々な文明論・文化論で示されている区分(例えばハンチントンの『文明の衝突』など)とかなり似てくる。 古代中国では三分損益法・十二律・五声(五音音階)という音楽理論と、さまざまな打楽器と琴、横笛とオカリナの仲間からなる儒教の儀式用の合奏が確立した。そこに西域からさまざまな楽器(琵琶など)や音楽が伝わり、6~8世紀には代表的なものが整理されて宮廷で公式に演奏された。これは七部伎(後に拡大され、九部伎や十部伎となる)と呼ばれ、奈良・平安時代の日本や朝鮮半島に伝えられた。その後はそれぞれ独自の発展を遂げ、中国では劇音楽が発達し、民間の音楽の中心的な存在となり、現在では京劇という名で伝わっている。日本では大陸から伝わった雅楽や声明(仏教音楽)の影響の下、能楽や歌舞伎などの新しいジャンルが生まれた。朝鮮半島では仮面劇が発達し、パンソリ(唱劇ともいう。一種の歌劇)が生まれている。なお、14世紀ころには胡弓や三弦が中央アジアから中国に伝わり、そこから朝鮮や日本にも伝わった。日本では三弦は三味線のもととなった。 こうした歴史から、楽器は共通のものが多い。また、五音音階をどの国でも好んで使っているが、含まれている音は若干違いがある。朝鮮の音楽には三拍子系統のものが見られる。 京劇、民楽(伝統的な楽器を用いたアンサンブル)(中国) 仮面劇、パンソリ(朝鮮半島) 雅楽、声明、能楽、歌舞伎(日本) 島唄、エイサー(琉球)など モンゴルは、五音音階を使うことは中国・朝鮮・日本と共通している。音楽の主流は声によるもので、モリン・ホール(馬頭琴)やリンベ(竹製の横笛)で伴奏され、強烈な声量と細かい節回しを特徴とする。五音音階に含まれる音はド・レ・ミ・ソ・ラであり、中国とも共通する明るいもので親しみやすい。ホーミーと呼ばれる1人の演奏者が同時に2種類の声を発声する倍音唱法も見られる。(1) 喉の奥で発せられる一定した持続低音、(2) その低音に含まれる倍音を口腔の形を調整して発する高音の共鳴音で旋律をつくるというもの。どちらも広大な草原で声を届かせるためのものである。 チベットは、ラマ教音楽の誕生した地であり、同じくラマ教を信奉したモンゴルの音楽に影響を与えた。ただチベット文化は弾圧されており、充分に調査されているとは言い難い。 オルティン・ドー、ホーミー(モンゴル) 声明、ナンマ(チベット)など 非常に多様な地域であるが、大まかには北部と南部に分けることができる。パキスタンとバングラデシュは北部、スリランカは南部の音楽と共通性が高い。 インドの音楽は基本的には単旋律の音楽で、旋律楽器(声の場合もある。シタール(北)・ビーナー(南)のような弦楽器や、バーンスリー(北)やヴェーヌ(南)といった横笛、ダブルリード楽器などが使われる)と伴奏楽器(タンブーラ(弦楽器)とムリダンガム、カンジーラ、ガタム(南)・タブラ(北)のような打楽器)によって演奏される。伴奏のうち、タンブーラはドローン(旋律をささえるための1音、またはそれ以上の持続音)を担当する。 旋律は22律による7音音階とラーガに基づく。1オクターブを22の音に不均等分割する音律から7音を選び出して音階にするが、現実にはこれは4分音を含むと言うことである。ラーガは旋律を演奏するルールのようなもので、使う音や音の順番、強調すべき音、終わりの音などを決めており、北インドでは72種類、南インドでは10種類あるとされる。リズムはターラに基づく。ターラは基本的なリズムパターンで、2拍や3拍の組み合わせでパターン化されており、一つの曲の中では一つのターラが使われ続ける。どちらもインドの音楽の基本であり、蛇使いの吹く笛もこの理論にきちんと当てはまる。 カタック、バラタナーティヤム(インド)など インドと中国両方の影響を受けた地域だが、インドの文化の方が基層にあり、ヴェトナム・フィリピンを除いてはインド文化圏の辺境と言えそうである。始めインドからヒンドゥー教と仏教が、13世紀以後はイスラム教が流入し、半島部では仏教が、島嶼部ではイスラム教とヒンドゥー教がそれぞれ優勢である。このような歴史からか、インドで3~4世紀に成立した「ラーマーヤナ」(ラーマ王子の物語。インドの叙事詩)を題材とする舞踊劇や影絵芝居が方々で見られ、音楽とともに上演されて人気を博している。 東南アジア独自の要素としては、青銅のゴング(銅鑼)やチャイム、青銅や竹や木製の鍵盤打楽器による野外の合奏が挙げられる。この地域では紀元前3~2世紀ころから儀式用のゴングが広く分布しており、これらは超自然的な力を持つと信じられてきた(ちなみにこれは日本にも伝わり、銅鐸となった)。そのような伝統に基づくものと考えられる。 音楽は基本的に5音音階の地域が多いが、調律は1オクターブをほぼ5等分や7等分するなど、中国ともヨーロッパとも大幅に違い、わざと濁った響きになるように作られている。調律が合わない時に発生する「うなり」が超自然的な力を持つと考えられたため。リズムは2拍子系だが、複数の声や楽器がからみ合い、非常に複雑なリズムを作り出す。 ガムラン、ケチャ(インドネシア) ワヤン(インドネシア・マレーシア) ピーパート合奏(タイ) ティンクリン(フィリピン)など サハラ砂漠以北のアフリカをマグリブ(日が沈む地=西方の意)と言い、文化的には西アジアと連続体とされる。この地域の国々はほぼ全てイスラム教を信仰しており文化的にも近い部分が多い。アラビア語が広く話されているが、長い歴史を持つイランのペルシャ語(および近縁な言語、タジキスタンやアフガニスタン)、強勢を誇ったオスマン・トルコのトルコ語(および近縁な言語、アゼルバイジャン)も有力な言語である。 イスラム教の中では音楽を認める考えと邪悪なものとして退ける考えの対立が長く、キリスト教のように宗教儀式で公式に音楽を使うことはないが、聖典コーランの朗唱キラーアや1日5回の祈りを呼びかけるアザーンなどは大変音楽的に聞こえる。とくにコーラン朗唱には地域などにより何種類かあり,優秀者をたたえるコンクールもおこなわれる。 伝統音楽では、単旋律、即興的、メリスマ的(音が長く伸びながら上下に動く)、微分音(半音の半分の音程)の使用、非常に複雑な拍子(48拍子まである)、ウード、サントゥール(カーヌーン)、ネイ(尺八のような笛)、ダラブッカ(太鼓の一種)、ラバーブ、スルナーイ(チャルメラのようなダブルリード楽器)の使用など、共通する特徴が見られる。 なお、ウードは琵琶・リュート・ギターの、サントゥールはダルシマーやピアノの、カーヌーンはプサルテリウムやツィターやハープシコードの、ラバーブはバイオリン・二胡の、スルナーイはオーボエの祖先であり、長く先進地帯だったこの地域は楽器の宝庫である。また、オスマントルコ以来トルコはアラブ世界の音楽的中心地となったほか、古くから軍楽が見られ、その中で使われているシンバルやトライアングル、ナッカーラ(ティンパニの先祖)とともに、ヨーロッパの音楽に多大な影響を与えた。 サントゥールによる古典音楽(イラン) ベリー・ダンス(全域) メフテル(トルコ) レズギンカ(アゼルバイジャン・ダゲスタン)など カザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・タジキスタン・キルギスと中国の新疆ウイグル自治区を指す。北のステップ地帯(シャーマニズムの影響が残る)と南のオアシス地帯(トルキスタン=トルコ族の地とも呼ばれる。西アジアの影響をいち早く取り入れた)に分かれる。どちらもトルコ系言語が主流であり、アナトリア半島に進出したセルジューク・トルコも中央アジアからイランを経てである。遊牧民の末裔が多く住み、イスラム教信仰やトルコ語・ペルシャ語(に近い言語)使用など、西アジア地域との歴史的・文化的な関係が深く、楽器は西アジアと共通するものが多く、明らかに西アジアの音楽用語が使われていたりする(シャシマコームとは「6つのマカーム」の意味で、マカームとはアラブ音楽の音階・旋法・旋律の意味である)。ただしカルナイ(長いトランペットのような楽器)はウズベキスタン・タジキスタンの楽器である。西アジアの音楽を主導したトルコの音楽の土台は中央アジア共通の民俗音楽であり、太鼓による軍楽の要素はトルコの軍楽のルーツである。 キュイ(カザフスタン) シャシュマコーム(ウズベキスタン・タジキスタン)など サハラ砂漠より南の地域は黒人の数が圧倒的に多い社会である。言語はスワヒリ語やズールー語などで、声調を持つことを特徴としている。2000を超すといわれる多数の部族の中で伝承されている音楽は、きわめて多様であるが、いくつかの共通する特色をもっている。(1)さまざまな宗教儀礼や祭りなどと深く結びつき、部族社会の生活との深い関係があること(2)音楽や歌の旋律が声調に対応していること。話し太鼓として知られるトーキング・ドラムは、その典型の一つ。(3)きわめて複雑で高度なリズム。同時にいくつかのリズム型を奏するポリリズム、複数のリズムが交錯するクロスリズムなど(4)即興性。踊りと太鼓、あるいは歌詩と旋律、楽器と楽器などの場合、伝統的な旋律やリズムの型をもちながら、状況や場所、演奏者の感情によって自由に組み替えられる。 楽器でアフリカにおいて最も注目されるのは、マリンバ、バランキ、ティンピラ、バラフォンなど多くの呼称をもつ旋律楽器の木琴類である。ヒョウタンの共鳴器をつける場合が多い。この木琴類と同じく広範に分布するのが指ピアノとして知られるサンザである。使用される楽器は打楽器系が圧倒的に多いが、ナイジェリアなどイスラム文化の影響下にある地域では弦楽器を多く使用する。 バラフォンの演奏、トーキングドラムの演奏、グリオ(世襲の演奏者)の演奏(西アフリカ) 指ピアノの演奏(全域)など ほとんどの国がキリスト教を信仰している。教会で聖歌を歌う習慣がどの国にもあり、それぞれの民族音楽に影響を与えている。上流階級的な音楽はどの国も舞踏会だったり、オーケストラの演奏会だったり、オペラやバレエだったりであまり差はないが、お祭りや結婚式や酒場での歌・楽器の演奏・踊りなどの中に特徴的な民族音楽が見られる。 ヨーロッパの民族音楽に共通する特徴は以下の通り。 ただ、イスラム勢力に支配されていたことのあるイベリア半島諸国やバルカン半島諸国は、ドイツ・イタリアを中心とするヨーロッパ中央部の音楽とは音階やリズムにかなり違った特徴も見られる。特にバルカン半島諸国では奇数拍子や変拍子が良く見られる。また、東欧諸国では明らかに西欧諸国と違う地声による発声、輪舞を主とする舞踊など、共通性が見られる。ピレネー山脈、鉄のカーテン(概ねゲルマン民族とスラブ民族の境界線)、オスマントルコの最大時の国境線(バルカン半島諸国を示す境界線)、カトリックと正教の境界線など、よくヨーロッパの潜在的な境界線とされるものは、民俗音楽の特徴の違いにも表れている。 さらに、東欧諸国やイベリア半島にはジプシー(ロマ)がかなりの数いる。ジプシーはさまざまな町を移動しながら、音楽を演奏したり、金属を加工した馬具を販売したりして生活していた人たちで、インド北西部が発祥の地と言われている。ジプシーは職業音楽家としてこれらの国で人気を博し、これらの国の民族音楽に影響を与えたとされている。 フラメンコ(スペイン) ヨーデル(スイス) カンツォーネ(イタリア) チャールダーシュ(ハンガリー) コサック・ダンス(ウクライナ) チャストゥーシカ(ロシア) バグパイプ演奏(スコットランド)など 極東シベリアにはロシア人が進出する前から遊牧民・狩猟民・漁労民が生活しており、それぞれ固有の文化を今でも残している。極東シベリアでは口琴や団扇太鼓が広く使われているが、衣装がモンゴル・中国・アイヌ・日本のはっぴに少しずつ似ていたり、祭りの雰囲気が日本の東北地方を思わせたりするのが興味深い。エスキモーの文化はロシア・アメリカ・カナダからグリーンランドまで広がっているが、死霊を慰め狩猟(クジラ,クマ,アザラシなど)の成功を祈願する儀礼、歓迎や娯楽のために、踊りや太鼓をともなう歌をうたう。歌は個人の所有財産で、贈答も可能である。喉を緊張させ声門と横隔膜を震わせる発声法が用いられ、舌打ちや叫び声などが装飾的に使われる。やはり団扇太鼓の使用が見られる。 ジャンル名は明確なものはないが、歌・民族楽器アンサンブル・民族舞踊(極東シベリア)や歌・ドラムダンス(エスキモー)など ネイティブ・アメリカンについて書く。宗教や儀礼に関する踊りを伴い、太鼓やラットルで伴奏する歌が多い。歌は、夢や幻覚を通して超自然的存在から授けられるとし、演奏には呪術師が関わった。喉を緊張させた発声や裏声に特徴があり、エスキモーやシベリア原住民、南米のインディオとの共通性が感じられる。 ジャンル名は明確なものはないが、それぞれの部族に儀式の歌・祭りの歌・戦いの歌や踊りが見られる。 白人と黒人が長く反目を続けた北アメリカと違って人種間の混血が多かったのが南アメリカの特徴であり、音楽もそのような歴史を反映している。 どちらにせよ、踊りを伴う活発な音楽が特徴で、ラテンなどと呼ばれ世界的に人気がある。ルンバ、ハバネラ、マンボ(キューバ)、レゲエ(ジャマイカ)、サンバ(ブラジル)、マリネラ(ペルー)、タンゴ(アルゼンチン)など、この地域はリズムの宝庫である。 カンシオン・ランチェーラ、メキシカン・ハット・ダンス(メキシコ) グアヒーラ(キューバ) カポエイラ(ブラジル) フォルクローレ(ペルー)など ニューギニア島、オーストラリア、ニュージーランド、及び太平洋の島々(ハワイを含む)。東南アジアから船に乗って人類が広がっていったと考えられており、人が住み始めたのが最も遅い地域である。アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、日本などに占領され、影響を受け続けた歴史があり、西洋音楽の影響が見られる部分も多いが、近年独立し、自分たちの古来の文化を見直そうという動きが盛んである。全体的には、楽器の使用は控えめで、身体打奏(体をたたいて音を出したり、リズムをとったり)が広い地域で見られる。 フラ(ハワイ)、ヒメネ・ターラバ、オテア(タヒチ)、ティティトレア(ニュージーランド・マオリ族)など 音楽は、(マンダ教徒などを除けば)、およそあらゆる民族が持っているものであり、人間の文化には不可欠かどうかはともかく、あらゆる文化圏に於いて、それなりの音楽が存在すると広く信じられている。こうした主張は音楽人類学者のジョン・ブラッキングやアラン・メリアムらによって広められたものである。ただし、近年ではアメリカや日本のろう者の間で、自らを少数民族と位置づける論調もあり、彼らが(一切音響を用いない手話歌はともかく)一般的な意味においての音楽を排除する傾向にあることから、「あらゆる民族が音楽を持っている」という信念に反対する者もいる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "民族音楽(みんぞくおんがく)とは、英語のethnic musicの訳語で、「民族(=共通の言語・文化を持つ人の集団)が固有に伝承してきた音楽」の意味。国語辞典には昭和50年代から載るようになった比較的新しい言葉だが、この語はさまざまな用いられ方をしており、注意を要する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この節の出典は、学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「民族音楽」の項", "title": "「民族音楽」の意味" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "もともとethnicには「異民族・異教徒」という意味があり、ethnic musicは「異民族・異教徒のエキゾチックで野蛮な音楽」というニュアンスがあった。歴史的にこの語は欧米で内外の異民族、特に異教徒や少数民族の音楽の特異な響きを指して用いられることが多く、ヨーロッパ人が自民族の音楽を指す言葉としては使わなかった。", "title": "「民族音楽」の意味" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本に移入されたこの語は、(1)の意味から自国である日本を除外して「日本以外の非欧米の伝統的な音楽」の意味でつかわれた。近年は当たり前になったが、以前は例えば「フランスの民族音楽」などのような言い方はしなかった。伝統的な音楽への志向はまだ残っており、例えば「中国の民族音楽」と言った場合、京劇や民謡がすぐ思い浮かぶが、女子十二楽坊やラン・ランは通常含まない。", "title": "「民族音楽」の意味" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "(1)(2)に含まれる西欧中心主義や自民族中心主義、および伝統的な音楽とそれ以外のジャンルを峻別する考え方への批判から、例えば「日本の民族音楽」といった場合、古典音楽・民謡・民俗芸能・歌謡曲やポピュラー音楽、日本人が作曲・演奏する西洋クラシック音楽に至るまでのあらゆる音楽を指すような用法が近年見られる。この立場を推し進めると「民族音楽」という語が不要になり、単に「○○の音楽」と言えばよいことになる。", "title": "「民族音楽」の意味" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "基本的には(3)の立場に立つが、「○○の音楽」と言った場合に想起されにくい音楽を示すためにあえて「○○の民族音楽」という語を使う用法。近年はこうした用法が主流になって来ている。例えば「ドイツの音楽」と言った場合、どうしてもクラシックが思い浮かびがちだが、「ドイツの民族音楽」と言われれば民謡や民族舞踊の存在を意識する。", "title": "「民族音楽」の意味" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ロシア・中国・朝鮮などでは民族音楽という語をそのような意味で使っている。中国の用法では女子十二楽坊は立派に民族音楽である。中国・朝鮮では「民族楽器」「民族舞踊」と言う際の「民族」もほぼこれに準じる。", "title": "「民族音楽」の意味" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「民族音楽」というより「エスニック・ミュージック」と呼ぶ場合が多い。民族衣装や民族料理を楽しむような気軽さで異民族の音楽のエキゾチックさを楽しむ際にこの用法が使われる場合があるが、エキゾチックさを強調することは(1)の用法に近い部分があり、注意を要する。", "title": "「民族音楽」の意味" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ここでは世界で行われている音楽全て(広義のワールド・ミュージック)から、近代的な商業音楽(ポピュラー音楽)と、ポピュラー音楽の影響で生まれた融合音楽(狭義のワールド・ミュージック)と、西洋芸術音楽(クラシック音楽)を除いた音楽、つまり(4)の意味での民族音楽について、世界各地域の概観を示す。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "地域の区分は平凡社『音と映像による世界民族音楽体系』に準拠するが、旧ソ連地域はヨーロッパ、西アジア、中央アジア、チベット・モンゴル、極東シベリアに分割し、さらに極東シベリアをエスキモーと統合した。また地域名称は適宜現代的なものとし、それぞれに例を示した。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "当然ながら、地域の分割は様々な文明論・文化論で示されている区分(例えばハンチントンの『文明の衝突』など)とかなり似てくる。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "古代中国では三分損益法・十二律・五声(五音音階)という音楽理論と、さまざまな打楽器と琴、横笛とオカリナの仲間からなる儒教の儀式用の合奏が確立した。そこに西域からさまざまな楽器(琵琶など)や音楽が伝わり、6~8世紀には代表的なものが整理されて宮廷で公式に演奏された。これは七部伎(後に拡大され、九部伎や十部伎となる)と呼ばれ、奈良・平安時代の日本や朝鮮半島に伝えられた。その後はそれぞれ独自の発展を遂げ、中国では劇音楽が発達し、民間の音楽の中心的な存在となり、現在では京劇という名で伝わっている。日本では大陸から伝わった雅楽や声明(仏教音楽)の影響の下、能楽や歌舞伎などの新しいジャンルが生まれた。朝鮮半島では仮面劇が発達し、パンソリ(唱劇ともいう。一種の歌劇)が生まれている。なお、14世紀ころには胡弓や三弦が中央アジアから中国に伝わり、そこから朝鮮や日本にも伝わった。日本では三弦は三味線のもととなった。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "こうした歴史から、楽器は共通のものが多い。また、五音音階をどの国でも好んで使っているが、含まれている音は若干違いがある。朝鮮の音楽には三拍子系統のものが見られる。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "京劇、民楽(伝統的な楽器を用いたアンサンブル)(中国) 仮面劇、パンソリ(朝鮮半島) 雅楽、声明、能楽、歌舞伎(日本) 島唄、エイサー(琉球)など", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "モンゴルは、五音音階を使うことは中国・朝鮮・日本と共通している。音楽の主流は声によるもので、モリン・ホール(馬頭琴)やリンベ(竹製の横笛)で伴奏され、強烈な声量と細かい節回しを特徴とする。五音音階に含まれる音はド・レ・ミ・ソ・ラであり、中国とも共通する明るいもので親しみやすい。ホーミーと呼ばれる1人の演奏者が同時に2種類の声を発声する倍音唱法も見られる。(1) 喉の奥で発せられる一定した持続低音、(2) その低音に含まれる倍音を口腔の形を調整して発する高音の共鳴音で旋律をつくるというもの。どちらも広大な草原で声を届かせるためのものである。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "チベットは、ラマ教音楽の誕生した地であり、同じくラマ教を信奉したモンゴルの音楽に影響を与えた。ただチベット文化は弾圧されており、充分に調査されているとは言い難い。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "オルティン・ドー、ホーミー(モンゴル) 声明、ナンマ(チベット)など", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "非常に多様な地域であるが、大まかには北部と南部に分けることができる。パキスタンとバングラデシュは北部、スリランカは南部の音楽と共通性が高い。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "インドの音楽は基本的には単旋律の音楽で、旋律楽器(声の場合もある。シタール(北)・ビーナー(南)のような弦楽器や、バーンスリー(北)やヴェーヌ(南)といった横笛、ダブルリード楽器などが使われる)と伴奏楽器(タンブーラ(弦楽器)とムリダンガム、カンジーラ、ガタム(南)・タブラ(北)のような打楽器)によって演奏される。伴奏のうち、タンブーラはドローン(旋律をささえるための1音、またはそれ以上の持続音)を担当する。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "旋律は22律による7音音階とラーガに基づく。1オクターブを22の音に不均等分割する音律から7音を選び出して音階にするが、現実にはこれは4分音を含むと言うことである。ラーガは旋律を演奏するルールのようなもので、使う音や音の順番、強調すべき音、終わりの音などを決めており、北インドでは72種類、南インドでは10種類あるとされる。リズムはターラに基づく。ターラは基本的なリズムパターンで、2拍や3拍の組み合わせでパターン化されており、一つの曲の中では一つのターラが使われ続ける。どちらもインドの音楽の基本であり、蛇使いの吹く笛もこの理論にきちんと当てはまる。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "カタック、バラタナーティヤム(インド)など", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "インドと中国両方の影響を受けた地域だが、インドの文化の方が基層にあり、ヴェトナム・フィリピンを除いてはインド文化圏の辺境と言えそうである。始めインドからヒンドゥー教と仏教が、13世紀以後はイスラム教が流入し、半島部では仏教が、島嶼部ではイスラム教とヒンドゥー教がそれぞれ優勢である。このような歴史からか、インドで3~4世紀に成立した「ラーマーヤナ」(ラーマ王子の物語。インドの叙事詩)を題材とする舞踊劇や影絵芝居が方々で見られ、音楽とともに上演されて人気を博している。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東南アジア独自の要素としては、青銅のゴング(銅鑼)やチャイム、青銅や竹や木製の鍵盤打楽器による野外の合奏が挙げられる。この地域では紀元前3~2世紀ころから儀式用のゴングが広く分布しており、これらは超自然的な力を持つと信じられてきた(ちなみにこれは日本にも伝わり、銅鐸となった)。そのような伝統に基づくものと考えられる。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "音楽は基本的に5音音階の地域が多いが、調律は1オクターブをほぼ5等分や7等分するなど、中国ともヨーロッパとも大幅に違い、わざと濁った響きになるように作られている。調律が合わない時に発生する「うなり」が超自然的な力を持つと考えられたため。リズムは2拍子系だが、複数の声や楽器がからみ合い、非常に複雑なリズムを作り出す。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ガムラン、ケチャ(インドネシア) ワヤン(インドネシア・マレーシア) ピーパート合奏(タイ) ティンクリン(フィリピン)など", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "サハラ砂漠以北のアフリカをマグリブ(日が沈む地=西方の意)と言い、文化的には西アジアと連続体とされる。この地域の国々はほぼ全てイスラム教を信仰しており文化的にも近い部分が多い。アラビア語が広く話されているが、長い歴史を持つイランのペルシャ語(および近縁な言語、タジキスタンやアフガニスタン)、強勢を誇ったオスマン・トルコのトルコ語(および近縁な言語、アゼルバイジャン)も有力な言語である。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": 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"極東シベリアにはロシア人が進出する前から遊牧民・狩猟民・漁労民が生活しており、それぞれ固有の文化を今でも残している。極東シベリアでは口琴や団扇太鼓が広く使われているが、衣装がモンゴル・中国・アイヌ・日本のはっぴに少しずつ似ていたり、祭りの雰囲気が日本の東北地方を思わせたりするのが興味深い。エスキモーの文化はロシア・アメリカ・カナダからグリーンランドまで広がっているが、死霊を慰め狩猟(クジラ,クマ,アザラシなど)の成功を祈願する儀礼、歓迎や娯楽のために、踊りや太鼓をともなう歌をうたう。歌は個人の所有財産で、贈答も可能である。喉を緊張させ声門と横隔膜を震わせる発声法が用いられ、舌打ちや叫び声などが装飾的に使われる。やはり団扇太鼓の使用が見られる。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ジャンル名は明確なものはないが、歌・民族楽器アンサンブル・民族舞踊(極東シベリア)や歌・ドラムダンス(エスキモー)など", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ネイティブ・アメリカンについて書く。宗教や儀礼に関する踊りを伴い、太鼓やラットルで伴奏する歌が多い。歌は、夢や幻覚を通して超自然的存在から授けられるとし、演奏には呪術師が関わった。喉を緊張させた発声や裏声に特徴があり、エスキモーやシベリア原住民、南米のインディオとの共通性が感じられる。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ジャンル名は明確なものはないが、それぞれの部族に儀式の歌・祭りの歌・戦いの歌や踊りが見られる。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "白人と黒人が長く反目を続けた北アメリカと違って人種間の混血が多かったのが南アメリカの特徴であり、音楽もそのような歴史を反映している。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "どちらにせよ、踊りを伴う活発な音楽が特徴で、ラテンなどと呼ばれ世界的に人気がある。ルンバ、ハバネラ、マンボ(キューバ)、レゲエ(ジャマイカ)、サンバ(ブラジル)、マリネラ(ペルー)、タンゴ(アルゼンチン)など、この地域はリズムの宝庫である。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "カンシオン・ランチェーラ、メキシカン・ハット・ダンス(メキシコ) グアヒーラ(キューバ) カポエイラ(ブラジル) フォルクローレ(ペルー)など", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ニューギニア島、オーストラリア、ニュージーランド、及び太平洋の島々(ハワイを含む)。東南アジアから船に乗って人類が広がっていったと考えられており、人が住み始めたのが最も遅い地域である。アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、日本などに占領され、影響を受け続けた歴史があり、西洋音楽の影響が見られる部分も多いが、近年独立し、自分たちの古来の文化を見直そうという動きが盛んである。全体的には、楽器の使用は控えめで、身体打奏(体をたたいて音を出したり、リズムをとったり)が広い地域で見られる。", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "フラ(ハワイ)、ヒメネ・ターラバ、オテア(タヒチ)、ティティトレア(ニュージーランド・マオリ族)など", "title": "世界各地域の概観" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "音楽は、(マンダ教徒などを除けば)、およそあらゆる民族が持っているものであり、人間の文化には不可欠かどうかはともかく、あらゆる文化圏に於いて、それなりの音楽が存在すると広く信じられている。こうした主張は音楽人類学者のジョン・ブラッキングやアラン・メリアムらによって広められたものである。ただし、近年ではアメリカや日本のろう者の間で、自らを少数民族と位置づける論調もあり、彼らが(一切音響を用いない手話歌はともかく)一般的な意味においての音楽を排除する傾向にあることから、「あらゆる民族が音楽を持っている」という信念に反対する者もいる。", "title": "「全ての民族は音楽を持っている」のか?" } ]
民族音楽(みんぞくおんがく)とは、英語のethnic musicの訳語で、「民族(=共通の言語・文化を持つ人の集団)が固有に伝承してきた音楽」の意味。国語辞典には昭和50年代から載るようになった比較的新しい言葉だが、この語はさまざまな用いられ方をしており、注意を要する。
{{混同|民俗音楽}} '''民族音楽'''(みんぞくおんがく)とは、英語のethnic musicの訳語で、「[[民族]](=共通の言語・文化を持つ人の集団)が固有に伝承してきた[[音楽]]」の意味<ref name=":0">平凡社『世界大百科事典』の「民族音楽」の項。</ref>。国語辞典には昭和50年代から載るようになった比較的新しい言葉<ref name=":0" />だが、この語はさまざまな用いられ方をしており、注意を要する。 ==「民族音楽」の意味 == この節の出典は、学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「民族音楽」の項<ref>小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「民族音楽」の項。</ref> === (1)西洋の古典音楽と大衆音楽以外の伝統的な音楽 === もともとethnicには「異民族・異教徒」という意味があり、ethnic musicは「異民族・異教徒のエキゾチックで野蛮な音楽」というニュアンスがあった。歴史的にこの語は欧米で内外の異民族、特に異教徒や少数民族の音楽の特異な響きを指して用いられることが多く、ヨーロッパ人が自民族の音楽を指す言葉としては使わなかった。 === (2)西洋と日本の古典音楽と大衆音楽以外の伝統的な音楽 === 日本に移入されたこの語は、(1)の意味から自国である日本を除外して「日本以外の非欧米の伝統的な音楽」の意味でつかわれた。近年は当たり前になったが、以前は例えば「フランスの民族音楽」などのような言い方はしなかった。伝統的な音楽への志向はまだ残っており、例えば「中国の民族音楽」と言った場合、[[京劇]]や民謡がすぐ思い浮かぶが、[[女子十二楽坊]]や[[ラン・ラン]]は通常含まない。 === (3)特定の民族・地域・国で行われている音楽全て === (1)(2)に含まれる西欧中心主義や自民族中心主義、および伝統的な音楽とそれ以外のジャンルを峻別する考え方への批判から、例えば「日本の民族音楽」といった場合、古典音楽・民謡・民俗芸能・歌謡曲やポピュラー音楽、日本人が作曲・演奏する西洋クラシック音楽に至るまでのあらゆる音楽を指すような用法が近年見られる。この立場を推し進めると「民族音楽」という語が不要になり、単に「○○の音楽」と言えばよいことになる。 === (4)「○○の音楽」と言った場合に見落とされやすい音楽を特に示す === 基本的には(3)の立場に立つが、「○○の音楽」と言った場合に想起されにくい音楽を示すためにあえて「○○の民族音楽」という語を使う用法。近年はこうした用法が主流になって来ている<ref group="注">平凡社の『音と映像による世界民族音楽体系』では、アジア・アフリカ地域については伝統的な芸術音楽と民俗音楽や民俗芸能を取り上げ、ヨーロッパ地域(ヨーロッパロシアを含む)については芸術音楽は全く取り上げずに民俗音楽や民俗芸能だけを取り上げ、シベリアと北米地域については先住民の音楽だけを取り上げ、中南米地域についてはいわゆるラテン音楽のうち著しい商業化がされていないものを取り上げ、オセアニアについてはヨーロッパの影響を指摘しつつ現存する芸能を取り上げている。そして日本が含まれていない。「自国以外の各国の見えにくい音楽を示す」という、民族音楽と言う語の(4)の意味に忠実な例である。</ref>。例えば「ドイツの音楽」と言った場合、どうしてもクラシックが思い浮かびがちだが、「ドイツの民族音楽」と言われれば民謡や民族舞踊の存在を意識する。 === (5)自民族の伝統的な音楽およびそれに基づいて新たに創作された音楽 === ロシア・中国・朝鮮などでは民族音楽という語をそのような意味で使っている。中国の用法では女子十二楽坊は立派に民族音楽である。中国・朝鮮では「民族楽器」「民族舞踊」と言う際の「民族」もほぼこれに準じる<ref name=":0" />。 === (6)エキゾチックな感じを与える音楽 === 「民族音楽」というより「エスニック・ミュージック」と呼ぶ場合が多い。民族衣装や民族料理を楽しむような気軽さで異民族の音楽のエキゾチックさを楽しむ際にこの用法が使われる場合があるが、エキゾチックさを強調することは(1)の用法に近い部分があり、注意を要する。 == 類義語との違い == *[[民俗音楽]]/[[フォークミュージック]]([[:en:Folk music|Folk music]])その民族の伝統的な音楽のうち、上層階級の芸術音楽を除いた、基層社会が口頭で伝承している音楽<ref name=":1">平凡社『世界大百科事典』の「民俗音楽」の項。</ref>。「民謡Folk song」に意味が近いが、楽器による音楽や民俗舞踊まで確実に含めるためにこの言葉を使う<ref name=":1" />。「民族音楽」と言った場合、多くは芸術音楽を含むので、意味は一致しない。またその民族の社会が階級を持たない場合や、階級があってもそれぞれの音楽のジャンルが分かれていない場合はこの語自体を使わない<ref>平凡社『世界大百科事典』の「民謡」の項。</ref>。 *[[伝統音楽]]/[[トラディショナルミュージック]]/[[トラッド]]([[:en:Traditional music|Traditional music]]) 伝統的な音楽を指す語だが、学術用語ではないため明快な定義はない。日本語の伝統音楽は芸術音楽を含むが、英語版ウィキペディアではFolk musicにリダイレクトされており、民俗音楽に意味が近いようである。 *[[世界音楽]]/[[ワールドミュージック]]([[:en:World music|World music]]) 世界中の音楽を総称する意味と、非西欧諸国のポピュラー音楽という意味と二通りの意味が存在する<ref>音楽之友社『新編 音楽中辞典』およびMicrosoft『Encarta2005』の「ワールド・ミュージック」の項。</ref>。前者は「民族音楽」という語に含まれる西洋中心主義を避けるために民族音楽学の研究対象を「世界音楽」と呼んだのが始まりであり、後者は民族音楽学が非伝統的という理由で対象外とした新しい融合音楽を示すために使われ始めた用法であり<ref>音楽之友社『新編 音楽中辞典』の「民族音楽学」の項。</ref>、どちらにしても民族音楽という語と差別化して使われた経緯があり、意味は一致しない。 *[[ルーツミュージック]]([[:en:Roots music|Roots music]]) {{main|ワールド・ミュージック}} == 世界各地域の概観 == ここでは世界で行われている音楽全て(広義のワールド・ミュージック)から、近代的な商業音楽(ポピュラー音楽)と、ポピュラー音楽の影響で生まれた融合音楽(狭義のワールド・ミュージック)と、西洋芸術音楽(クラシック音楽)を除いた音楽、つまり(4)の意味での民族音楽について、世界各地域の概観を示す。 地域の区分は平凡社『音と映像による世界民族音楽体系』に準拠するが、旧ソ連地域はヨーロッパ、西アジア、中央アジア、チベット・モンゴル、極東シベリアに分割し、さらに極東シベリアをエスキモーと統合した。また地域名称は適宜現代的なものとし、それぞれに例を示した。 当然ながら、地域の分割は様々な文明論・文化論で示されている区分(例えばハンチントンの『文明の衝突』など)とかなり似てくる。 === 東アジア === 古代中国では[[三分損益法]]・[[十二律]]・[[五声]](五音音階)という音楽理論と、さまざまな打楽器と琴、横笛とオカリナの仲間からなる[[儒教]]の儀式用の合奏が確立した。そこに[[西域]]からさまざまな楽器([[琵琶]]など)や音楽が伝わり、6~8世紀には代表的なものが整理されて宮廷で公式に演奏された。これは七部伎(後に拡大され、九部伎や十部伎となる)と呼ばれ、奈良・平安時代の日本や朝鮮半島に伝えられた。その後はそれぞれ独自の発展を遂げ、中国では劇音楽が発達し、民間の音楽の中心的な存在となり、現在では[[京劇]]という名で伝わっている。日本では大陸から伝わった[[雅楽]]や[[声明]](仏教音楽)の影響の下、[[能楽]]や[[歌舞伎]]などの新しいジャンルが生まれた。朝鮮半島では[[タルチュム|仮面劇]]が発達し、[[パンソリ]](唱劇ともいう。一種の歌劇)が生まれている。なお、14世紀ころには[[胡弓]]や[[三弦]]が中央アジアから中国に伝わり、そこから朝鮮や日本にも伝わった。日本では三弦は[[三味線]]のもととなった。 こうした歴史から、楽器は共通のものが多い。また、五音音階をどの国でも好んで使っているが、含まれている音は若干違いがある。朝鮮の音楽には三拍子系統のものが見られる。 ==== 東アジアの民族音楽の例 ==== 京劇、民楽(伝統的な楽器を用いたアンサンブル)(中国) 仮面劇、パンソリ(朝鮮半島) 雅楽、声明、能楽、歌舞伎(日本) 島唄、エイサー(琉球)など === チベット・モンゴル === モンゴルは、五音音階を使うことは中国・朝鮮・日本と共通している。音楽の主流は声によるもので、[[モリンホール|モリン・ホール]](馬頭琴)や[[リンベ]](竹製の横笛)で伴奏され、強烈な声量と細かい節回しを特徴とする。五音音階に含まれる音はド・レ・ミ・ソ・ラであり、中国とも共通する明るいもので親しみやすい。[[ホーミー]]と呼ばれる1人の演奏者が同時に2種類の声を発声する倍音唱法も見られる。(1) 喉の奥で発せられる一定した持続低音、(2) その低音に含まれる倍音を口腔の形を調整して発する高音の共鳴音で旋律をつくるというもの。どちらも広大な草原で声を届かせるためのものである。 チベットは、[[チベット仏教|ラマ教]]音楽の誕生した地であり、同じくラマ教を信奉したモンゴルの音楽に影響を与えた。ただチベット文化は弾圧されており、充分に調査されているとは言い難い。 ==== チベット・モンゴルの民族音楽の例 ==== [[オルティンドー|オルティン・ドー]]、ホーミー(モンゴル) 声明、[[ナンマ]](チベット)など === 南アジア === 非常に多様な地域であるが、大まかには北部と南部に分けることができる。パキスタンとバングラデシュは北部、スリランカは南部の音楽と共通性が高い。 インドの音楽は基本的には単旋律の音楽で、旋律楽器(声の場合もある。[[シタール]](北)・[[ビーナー]](南)のような弦楽器や、[[バーンスリー]](北)や[[ヴェーヌ]](南)といった横笛、ダブルリード楽器などが使われる)と伴奏楽器([[タンブーラ]](弦楽器)と[[ムリダンガム]]、[[カンジーラ]]、[[ガタム]](南)・[[タブラ]](北)のような打楽器)によって演奏される。伴奏のうち、タンブーラはドローン(旋律をささえるための1音、またはそれ以上の持続音)を担当する。 旋律は22律による7音音階と[[ラーガ]]に基づく。1オクターブを22の音に不均等分割する音律から7音を選び出して音階にするが、現実にはこれは4分音を含むと言うことである。ラーガは旋律を演奏するルールのようなもので、使う音や音の順番、強調すべき音、終わりの音などを決めており、北インドでは72種類、南インドでは10種類あるとされる。リズムは[[ターラ]]に基づく。ターラは基本的なリズムパターンで、2拍や3拍の組み合わせでパターン化されており、一つの曲の中では一つのターラが使われ続ける。どちらもインドの音楽の基本であり、蛇使いの吹く笛もこの理論にきちんと当てはまる。 ==== 南アジアの民族音楽の例 ==== カタック、[[バラタナーティヤム]](インド)など === 東南アジア === インドと中国両方の影響を受けた地域だが、インドの文化の方が基層にあり、ヴェトナム・フィリピンを除いてはインド文化圏の辺境と言えそうである。始めインドからヒンドゥー教と仏教が、13世紀以後はイスラム教が流入し、半島部では仏教が、島嶼部ではイスラム教とヒンドゥー教がそれぞれ優勢である。このような歴史からか、インドで3~4世紀に成立した「[[ラーマーヤナ]]」(ラーマ王子の物語。インドの叙事詩)を題材とする舞踊劇や影絵芝居が方々で見られ、音楽とともに上演されて人気を博している。 東南アジア独自の要素としては、青銅の[[ゴング]](銅鑼)や[[チャイム]]、青銅や竹や木製の鍵盤打楽器による野外の合奏が挙げられる。この地域では紀元前3~2世紀ころから儀式用のゴングが広く分布しており、これらは超自然的な力を持つと信じられてきた(ちなみにこれは日本にも伝わり、銅鐸となった)。そのような伝統に基づくものと考えられる。 音楽は基本的に5音音階の地域が多いが、調律は1オクターブをほぼ5等分や7等分するなど、中国ともヨーロッパとも大幅に違い、わざと濁った響きになるように作られている。調律が合わない時に発生する「うなり」が超自然的な力を持つと考えられたため。リズムは2拍子系だが、複数の声や楽器がからみ合い、非常に複雑なリズムを作り出す。 ==== 東南アジアの民族音楽の例 ==== [[ガムラン]]、[[ケチャ]](インドネシア) [[ワヤン・クリ|ワヤン]](インドネシア・マレーシア) [[ピーパート]]合奏(タイ) [[バンブーダンス|ティンクリン]](フィリピン)など === 西アジア・マグリブ === サハラ砂漠以北のアフリカを[[マグリブ]](日が沈む地=西方の意)と言い、文化的には西アジアと連続体とされる。この地域の国々はほぼ全てイスラム教を信仰しており文化的にも近い部分が多い。アラビア語が広く話されているが、長い歴史を持つイランのペルシャ語(および近縁な言語、タジキスタンやアフガニスタン)、強勢を誇ったオスマン・トルコのトルコ語(および近縁な言語、アゼルバイジャン)も有力な言語である。 イスラム教の中では音楽を認める考えと邪悪なものとして退ける考えの対立が長く、キリスト教のように宗教儀式で公式に音楽を使うことはないが、聖典[[コーラン]]の朗唱キラーアや1日5回の祈りを呼びかける[[アザーン]]などは大変音楽的に聞こえる。とくにコーラン朗唱には地域などにより何種類かあり,優秀者をたたえるコンクールもおこなわれる。 伝統音楽では、単旋律、即興的、メリスマ的(音が長く伸びながら上下に動く)、微分音(半音の半分の音程)の使用、非常に複雑な拍子(48拍子まである)、[[ウード]]、[[サントゥール]]([[カーヌーン]])、[[ナーイ|ネイ]](尺八のような笛)、[[ダラブッカ]](太鼓の一種)、[[ラバーブ]]、[[スルナーイ]](チャルメラのようなダブルリード楽器)の使用など、共通する特徴が見られる。 なお、ウードは琵琶・リュート・ギターの、サントゥールは[[ダルシマー]]やピアノの、カーヌーンは[[プサルテリウム]]や[[ツィター]]や[[ハープシコード]]の、ラバーブはバイオリン・[[二胡]]の、スルナーイはオーボエの祖先であり、長く先進地帯だったこの地域は楽器の宝庫である。また、オスマントルコ以来トルコはアラブ世界の音楽的中心地となったほか、古くから軍楽が見られ、その中で使われているシンバルやトライアングル、[[ナッカーラ]](ティンパニの先祖)とともに、ヨーロッパの音楽に多大な影響を与えた。 ==== 西アジア・マグリブの民族音楽の例 ==== サントゥールによる古典音楽(イラン) [[ベリーダンス|ベリー・ダンス]](全域) [[メフテル]](トルコ) [[レズギンカ]](アゼルバイジャン・ダゲスタン)など === 中央アジア === カザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・タジキスタン・キルギスと中国の新疆ウイグル自治区を指す。北のステップ地帯(シャーマニズムの影響が残る)と南のオアシス地帯([[トルキスタン]]=トルコ族の地とも呼ばれる。西アジアの影響をいち早く取り入れた)に分かれる。どちらもトルコ系言語が主流であり、アナトリア半島に進出したセルジューク・トルコも中央アジアからイランを経てである。遊牧民の末裔が多く住み、イスラム教信仰やトルコ語・ペルシャ語(に近い言語)使用など、西アジア地域との歴史的・文化的な関係が深く、楽器は西アジアと共通するものが多く、明らかに西アジアの音楽用語が使われていたりする([[シャシュマカーム|シャシマコーム]]とは「6つの[[マカーム]]」の意味で、マカームとはアラブ音楽の音階・旋法・旋律の意味である)。ただし[[タジキスタンの音楽|カルナイ]](長いトランペットのような楽器)はウズベキスタン・タジキスタンの楽器である。西アジアの音楽を主導したトルコの音楽の土台は中央アジア共通の民俗音楽であり、太鼓による軍楽の要素はトルコの軍楽のルーツである。 ==== 中央アジアの民族音楽の例 ==== [[キュイ]](カザフスタン) [[シャシュマカーム|シャシュマコーム]](ウズベキスタン・タジキスタン)など === [[サブサハラアフリカ]] === サハラ砂漠より南の地域は黒人の数が圧倒的に多い社会である。言語はスワヒリ語やズールー語などで、声調を持つことを特徴としている。2000を超すといわれる多数の部族の中で伝承されている音楽は、きわめて多様であるが、いくつかの共通する特色をもっている。(1)さまざまな宗教儀礼や祭りなどと深く結びつき、部族社会の生活との深い関係があること(2)音楽や歌の旋律が声調に対応していること。話し太鼓として知られるトーキング・ドラムは、その典型の一つ。(3)きわめて複雑で高度なリズム。同時にいくつかのリズム型を奏する[[ポリリズム]]、複数のリズムが交錯する[[クロスリズム]]など(4)即興性。踊りと太鼓、あるいは歌詩と旋律、楽器と楽器などの場合、伝統的な旋律やリズムの型をもちながら、状況や場所、演奏者の感情によって自由に組み替えられる。 楽器でアフリカにおいて最も注目されるのは、マリンバ、[[バランキ]]、[[ティンピラ]]、[[バラフォン]]など多くの呼称をもつ旋律楽器の木琴類である。ヒョウタンの共鳴器をつける場合が多い。この木琴類と同じく広範に分布するのが[[指ピアノ]]として知られる[[サンザ]]である。使用される楽器は打楽器系が圧倒的に多いが、ナイジェリアなどイスラム文化の影響下にある地域では弦楽器を多く使用する。 ==== サブサハラアフリカの民族音楽の例 ==== バラフォンの演奏、[[トーキングドラム]]の演奏、[[グリオ]](世襲の演奏者)の演奏(西アフリカ) 指ピアノの演奏(全域)など === [[ヨーロッパ]] === ほとんどの国がキリスト教を信仰している。教会で聖歌を歌う習慣がどの国にもあり、それぞれの民族音楽に影響を与えている。上流階級的な音楽はどの国も舞踏会だったり、オーケストラの演奏会だったり、オペラやバレエだったりであまり差はないが、お祭りや結婚式や酒場での歌・楽器の演奏・踊りなどの中に特徴的な民族音楽が見られる。 ヨーロッパの民族音楽に共通する特徴は以下の通り。 # 音階は通常のドレミで書ける音階。5音音階が最も多いが、7音音階も広く見られる。 # 基本的には単旋律だが、和声的につくられた音楽も広い範囲で見られる。(特にヨーロッパ中央部)ただし、クラシック作品に比べればずいぶん単純な和声である。 # 楽器はヴァイオリン・クラリネット・トランペットなど、クラシックと共通するものが広く使われるが、[[バグパイプ]]・[[ツィンバロム]]など昔の楽器も(特に辺境で)使われる。 ただ、イスラム勢力に支配されていたことのあるイベリア半島諸国やバルカン半島諸国は、ドイツ・イタリアを中心とするヨーロッパ中央部の音楽とは音階やリズムにかなり違った特徴も見られる。特にバルカン半島諸国では奇数拍子や変拍子が良く見られる。また、東欧諸国では明らかに西欧諸国と違う地声による発声、輪舞を主とする舞踊など、共通性が見られる。ピレネー山脈、鉄のカーテン(概ねゲルマン民族とスラブ民族の境界線)、オスマントルコの最大時の国境線(バルカン半島諸国を示す境界線)、カトリックと正教の境界線など、よくヨーロッパの潜在的な境界線とされるものは、民俗音楽の特徴の違いにも表れている。 さらに、東欧諸国やイベリア半島には[[ジプシー]](ロマ)がかなりの数いる。ジプシーはさまざまな町を移動しながら、音楽を演奏したり、金属を加工した馬具を販売したりして生活していた人たちで、インド北西部が発祥の地と言われている。ジプシーは職業音楽家としてこれらの国で人気を博し、これらの国の民族音楽に影響を与えたとされている。 ==== ヨーロッパの民族音楽の例 ==== [[フラメンコ]](スペイン) [[ヨーデル]](スイス) [[カンツォーネ]](イタリア) [[チャールダーシュ]](ハンガリー) [[コサック・ダンス]](ウクライナ) [[ロシア民謡#チャストゥーシカ|チャストゥーシカ]](ロシア) バグパイプ演奏(スコットランド)など === 極東シベリア・エスキモー === [[極東ロシア|極東シベリア]]にはロシア人が進出する前から遊牧民・狩猟民・漁労民が生活しており、それぞれ固有の文化を今でも残している。極東シベリアでは[[口琴]]や[[団扇太鼓]]が広く使われているが、衣装がモンゴル・中国・アイヌ・日本のはっぴに少しずつ似ていたり、祭りの雰囲気が日本の東北地方を思わせたりするのが興味深い。[[エスキモー]]の文化はロシア・アメリカ・カナダからグリーンランドまで広がっているが、死霊を慰め狩猟(クジラ,クマ,アザラシなど)の成功を祈願する儀礼、歓迎や娯楽のために、踊りや太鼓をともなう歌をうたう。歌は個人の所有財産で、贈答も可能である。喉を緊張させ声門と横隔膜を震わせる発声法が用いられ、舌打ちや叫び声などが装飾的に使われる。やはり団扇太鼓の使用が見られる。 ==== 極東シベリア・エスキモーの民族音楽の例 ==== ジャンル名は明確なものはないが、歌・民族楽器アンサンブル・民族舞踊(極東シベリア)や歌・ドラムダンス(エスキモー)など === 北アメリカ === [[ネイティブ・アメリカン]]について書く。宗教や儀礼に関する踊りを伴い、太鼓や[[ラットル]]で伴奏する歌が多い。歌は、夢や幻覚を通して超自然的存在から授けられるとし、演奏には呪術師が関わった。喉を緊張させた発声や裏声に特徴があり、エスキモーやシベリア原住民、南米のインディオとの共通性が感じられる。 ==== 北アメリカの民族音楽の例 ==== ジャンル名は明確なものはないが、それぞれの部族に儀式の歌・祭りの歌・戦いの歌や踊りが見られる。 === 南アメリカ === 白人と黒人が長く反目を続けた北アメリカと違って人種間の混血が多かったのが南アメリカの特徴であり、音楽もそのような歴史を反映している。 # [[メスティーソ|メスティソ]]系(先住民+白人、メキシコ・アルゼンチン・ボリビア・ペルーなど)ギターを好んで使用する。白人要素が強いと踊りを伴うリズムのはっきりした音楽が多くなり、バイオリンやトランペット、ピアノなどの西洋楽器を使用することが多くなる(メキシコ、アルゼンチンなど)。先住民の要素が強いと[[ケーナ]](尺八のような楽器)、[[サンポーニャ|シーク]]、[[チャランゴ]]([[アルマジロ]]の甲羅を使った小型ギター)などを使用し、哀愁を帯びた感じの曲調になる。 # [[ムラート]]系(黒人+白人、キューバ、ハイチなど)先住民がほとんど全滅してしまった地域では、代わりに労働力として黒人が輸入されてきた。打楽器([[マラカス]]、[[ギロ|グイロ]]、[[クラベス]]、[[ボンゴ]]等)を多用し、単純なパターンを繰り返すリズムの音楽が多い。 どちらにせよ、踊りを伴う活発な音楽が特徴で、ラテンなどと呼ばれ世界的に人気がある。[[ルンバ]]、[[ハバネラ]]、[[マンボ]](キューバ)、[[レゲエ]](ジャマイカ)、[[サンバ (ブラジル)|サンバ]](ブラジル)、[[マリネラ (舞踊)|マリネラ]](ペルー)、[[タンゴ]](アルゼンチン)など、この地域はリズムの宝庫である。 ==== 南アメリカの民族音楽の例 ==== [[ランチェーラ|カンシオン・ランチェーラ]]、[[ハラベ・タパティオ|メキシカン・ハット・ダンス]](メキシコ) [[グアヒーラ]](キューバ) [[カポエイラ]](ブラジル) [[フォルクローレ]](ペルー)など === オセアニア === ニューギニア島、オーストラリア、ニュージーランド、及び太平洋の島々(ハワイを含む)。東南アジアから船に乗って人類が広がっていったと考えられており、人が住み始めたのが最も遅い地域である。アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、日本などに占領され、影響を受け続けた歴史があり、西洋音楽の影響が見られる部分も多いが、近年独立し、自分たちの古来の文化を見直そうという動きが盛んである。全体的には、楽器の使用は控えめで、身体打奏(体をたたいて音を出したり、リズムをとったり)が広い地域で見られる。 ==== オセアニアの民族音楽の例 ==== [[フラ]](ハワイ)、[[ヒメネ・ターラバ]]、[[オテア]](タヒチ)、[[ティティトレア]](ニュージーランド・マオリ族)など == 「全ての民族は音楽を持っている」のか? == 音楽は、([[マンダ教|マンダ教徒]]などを除けば)、およそあらゆる[[民族]]が持っているものであり、人間の文化には不可欠かどうかはともかく、あらゆる文化圏に於いて、それなりの音楽が存在すると広く信じられている。こうした主張は音楽人類学者のジョン・ブラッキングやアラン・メリアムらによって広められたものである<ref>ジョン・ブラッキング『人間の音楽性』岩波書店、1978年</ref>。ただし、近年ではアメリカや日本の[[ろう者]]の間で、自らを少数民族と位置づける論調もあり<ref>[[木村晴美]]・市田泰弘「ろう文化宣言」、現代思想編集部編『ろう文化』青土社、1999年</ref>、彼らが(一切音響を用いない手話歌はともかく)一般的な意味においての音楽を排除する傾向にあることから<ref>Darrow, Alice-Ann. "The Role of Music in Deaf Culture: Implications for Music Educators." Journal of Research in Music Education, Volume41, No2, 1993.</ref>、「あらゆる民族が音楽を持っている」という信念に反対する者もいる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == ブックガイド == {{参照方法|date=2018年6月|section=1}} === 単著 === *A.J.エリス著、門馬直美訳 『諸民族の音階 : 比較音楽論』 [[音楽之友社]]〈音楽文庫〉、1951年9月 *[[クルト・ザックス]]著、野村良雄訳 『比較音楽学』 [[全音楽譜出版社]]〈全音文庫〉、1953年 *クルト・ザックス著、野村良雄、[[岸辺成雄]]訳 『比較音楽学』 全音楽譜出版社、1966年5月 *[[戸田邦雄]]著 『音楽と民族性』 音楽之友社、1967年12月 *クルト・ザックス著、ヤープ・クンスト編、福田昌作訳 『音楽の源泉 : 民族音楽学的考察』 音楽之友社、1970年8月 *アラン・P・メリアム著、藤井知昭、鈴木道子訳 『音楽人類学』 音楽之友社、1980年6月 *秋山竜英編 『民族音楽学リーディングス』 音楽之友社、1980年11月 *[[柴田南雄]]、[[徳丸吉彦]]編著 『民族音楽』 [[放送大学教育振興会]]、1987年3月 *柿木吾郎著 『エスニック音楽入門 : 民族音楽から見た音楽と教育』 国土社、1989年2月 *[[ブルーノ・ネトル]]著、[[細川周平]]訳 『世界音楽の時代』 [[勁草書房]]、1989年10月 *松村洋著 『ワールド・ミュージック宣言』 [[草思社]]、1990年10月 *徳丸吉彦著 『民族音楽学』 放送大学教育振興会、1991年3月 *柘植元一著 『世界音楽への招待 : 民族音楽学入門』 音楽之友社、1991年6月 *[[藤井知昭]]ほか編 『民族音楽概論』 [[東京書籍]]、1992年3月 *徳丸吉彦著 『民族音楽学理論』 放送大学教育振興会、1996年3月 *ロバート・P.モーガン編、[[長木誠司]]監訳 『西洋の音楽と社会 11 現代 2 世界音楽の時代』 音楽之友社、1997年3月 *河野保雄著 『音楽史物語』 芸術現代社、1997年5月 *柘植元一、塚田健一編 『はじめての世界音楽 : 諸民族の伝統音楽からポップスまで』 音楽之友社、1999年6月 *水野信男編 『民族音楽学の課題と方法 : 音楽研究の未来をさぐる』 [[世界思想社]]、2002年2月 *[[若林忠宏]]編著 『世界の民族音楽辞典』 [[東京堂出版]]、2005年9月 *[[櫻井哲男]]、水野信男編 『諸民族の音楽を学ぶ人のために』 世界思想社、2005年12月 *フィリップ・V・ボールマン著、柘植元一訳 『ワールドミュージック/世界音楽入門』 音楽之友社、2006年3月 *徳丸吉彦ほか編 『事典 世界音楽の本』 [[岩波書店]]、2007年12月 *徳丸吉彦著 『音楽とはなにか : 理論と現場の間から』 岩波書店、2008年12月 === 論文 === * 桜井哲男 「[https://doi.org/10.15021/00004617 民俗音楽の概念についてのひとつの試み]」『国立民族学博物館研究報告』 第2巻第1号 p.p63-83、1977年3月 * 秋山竜英 「[http://id.nii.ac.jp/1300/00000626/ 民族音楽学の諸問題]」『研究紀要』 第3集 p.1-50、[[東京音楽大学]]、1978年12月, {{naid|110007148016}} * 輪島裕介 「日本のワールド・ミュージック言説における文化ナショナリズム傾向」『美学』第52巻第4号、美学会、2002年3月 * 金城厚 「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110006424725 民族音楽学と実証的音楽学]」『沖縄県立芸術大学紀要』第15号、2007年3月, {{naid|110006424725}} === 辞典 === *[[岸辺成雄]]ほか編 『音楽大事典』 [[平凡社]]、1981年10月~1983年12月 *[[遠山一行]]、[[海老沢敏]]編 『ラルース世界音楽事典』 [[福武書店]]、1989年11月 *柴田南雄、遠山一行総監修 『ニューグローヴ世界音楽大事典』 [[講談社]]、1993年1月~1995年4月 *大角欣矢ほか監修 『メッツラー音楽大事典 日本語デジタル版』 [[教育芸術社]]、2006年4月 *堀内久美雄編 『標準音楽辞典 新訂第2版』 音楽之友社、2008年3月 == 関連項目 == * [[民俗音楽]] * [[民謡]]/[[フォークソング]]([[:en:Folk song|Folk song]])、[[世界の民謡一覧]] * [[民族楽器]]、[[民俗楽器]]([[:en:Folk instrument|Folk instrument]]) * [[民族舞踊]]、[[民俗舞踊]] {{music-stub}} {{音楽}} {{フォーク・ミュージック}} {{DEFAULTSORT:みんそくおんかく}} [[Category:民族音楽|*]] [[Category:音楽のジャンル]] [[Category:音楽理論]] [[Category:伝統]] [[Category:民族]] [[en:Ethnic music]]
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村上もとか
村上 もとか(むらかみ もとか、本名:村上 紀香、1951年6月3日 - )は、日本の漫画家。東京都世田谷区出身、練馬区在住。男性。 父親が映画会社の美術部に勤務していたこともあり、幼い頃から絵に親しみ、少年時代にはプラモデルの箱絵の戦車や飛行機を描く日々を送った。また近所の女の子の家にあった少女漫画雑誌で「フイチンさん」を読み、満州への憧れを持つなど後の作風に繋がる影響を受ける。当初は小説の挿絵画家を目指すも、1960年代の漫画の隆盛を機に漫画に興味が移り、高校時代に手塚治虫が創刊した漫画雑誌『COM』の影響を受け、本格的に漫画家を目指すようになった。 神奈川県立大和高等学校卒業後は建築製図の職業訓練校に進むも中退し、近くに住んでいた漫画家の望月あきらのもとに押しかけ無理やりアシスタントにしてもらったが、半年後事情があってアシスタントチームが解散になり、そこから雑誌に漫画を投稿する日々を過ごした。 その後は中島徳博の下でアシスタントを務める。1972年、投稿した作品が編集者の目に留まり、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に掲載の「燃えて走れ」でデビュー。以降、同誌を中心に活躍するも、文芸的な志向や劇画的なタッチの自身の作風から限界を感じ、青年誌的な内容を含んだ作品を多く掲載していた小学館の少年漫画誌に活躍の場を移し、『赤いペガサス』(週刊少年サンデー)や『岳人列伝』(少年ビッグコミック)などスポーツを題材にした作品を発表、繊細な描写を含んだ力強い作風で注目を浴びた。 1981年には、『週刊少年サンデー』に連載を開始した『六三四の剣』が大ヒットを記録した。テレビアニメ(テレビ東京系)、ゲーム化に加えて、読者層である小学生の間で、剣道が部活動の人気になるほどの剣道ブームが起きたほか、迫力のある試合シーンや個性豊かな登場人物とその成長の過程を丹念に描き出したドラマ性は、子供ならず大人層からも注目を浴びた。 12年間の『週刊少年サンデー』での活躍を経て、1991年からは、『ビッグコミックオリジナル』に『龍-RON-』を連載開始する。昭和初期の日本を舞台に、財閥の一人息子として生まれた青年を軸に、彼の周囲の様々な人々が織り成す群像劇を中心に、サスペンスやSF的な要素を交え、高い人気を確立した。15年にわたる長期連載となり、小学館漫画賞青年一般部門受賞などの栄誉に輝いたこの作品は、村上の代表作となっただけでなく、漫画家としての活動にも大きな転機をもたらすこととなった。 『龍-RON-』と並行して、人の心を読むことのできる少女を通して現代社会に生きる人々の心を描いた『ミコ・ヒミコ』や戦前のフランス美術界をテーマにした『メロドラマ』など幅広い作品を発表し、1996年には古巣である集英社に復帰し、法曹界を舞台にした『検事犬神』を『スーパージャンプ』に連載する。2000年から同誌に連載された『JIN-仁-』では、幕末にタイムスリップした医師の目を通して人間の尊厳を描くなど、熟練したドラマ性から高い評判を呼び、テレビドラマ化(TBS系、大沢たかお主演)されると高視聴率を記録するなど、話題を集めている。
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村上 もとかは、日本の漫画家。東京都世田谷区出身、練馬区在住。男性。
{{Infobox 漫画家 |名前=村上 もとか |画像= |画像サイズ= |脚注= |本名=村上 紀香<ref name="mangaseek" /> |生年={{生年月日と年齢|1951|6|3}}<ref name="mangaseek" /> |生地=[[東京都]][[世田谷区]]<ref name="mangaseek" /> |没年= |没地= |国籍={{JPN}} |職業=[[漫画家]] |活動期間=[[1972年]] - |ジャンル=[[少年漫画]]、[[スポーツ漫画]]、[[青年漫画]] |代表作=『[[赤いペガサス]]』<br />『[[六三四の剣]]』<br />『[[龍-RON-]]』<br />『[[JIN-仁-]]』 他 |受賞=第6回[[講談社漫画賞]]少年部門([[1982年]]、[[岳人列伝]])<br />第29回[[小学館漫画賞]]少年部門([[1984年]]、六三四の剣)<br />第41回小学館漫画賞青年一般部門([[1996年]]、龍-RON-)<br />第2回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞([[1998年]]、龍-RON-)<br />第15回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞([[2011年]]、JIN-仁-)<br />第43回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞([[2014年]]、[[フイチン再見!]]) |サイン= |公式サイト=[https://web.archive.org/web/20080316005056/http://www.roy.hi-ho.ne.jp/motoka/ 村上もとかホームページ] }} '''村上 もとか'''(むらかみ もとか、本名:村上 紀香<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|4-8169-1760-8}}、372頁</ref>、[[1951年]][[6月3日]]<ref name="mangaseek" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]][[世田谷区]]出身<ref name="mangaseek" />、[[練馬区]]<ref>[http://nerima.keizai.biz/headline/779/ 練馬経済新聞「練馬のフリー誌「ネリクリ」が好評-2号は「仁」の村上もとかさんなど」]</ref>在住。男性。 == 略歴 == 父親が映画会社の美術部に勤務していたこともあり、幼い頃から絵に親しみ、少年時代にはプラモデルの箱絵の戦車や飛行機を描く日々を送った。また近所の女の子の家にあった少女漫画雑誌で「[[フイチンさん]]」を読み、満州への憧れを持つなど後の作風に繋がる影響を受ける。当初は小説の挿絵画家を目指すも、[[1960年代]]の漫画の隆盛を機に漫画に興味が移り、高校時代に[[手塚治虫]]が創刊した漫画雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』の影響を受け、本格的に漫画家を目指すようになった。 [[神奈川県立大和高等学校]]卒業後は建築製図の職業訓練校に進むも中退し、近くに住んでいた漫画家の[[望月あきら]]のもとに押しかけ無理やりアシスタントにしてもらったが、半年後事情があってアシスタントチームが解散になり、そこから雑誌に漫画を投稿する日々を過ごした<ref>[http://next.rikunabi.com/proron/0823/proron_0823.html 村上もとかさん-プロ論。-/リクナビNEXT{{Nowiki|[転職サイト]}}]</ref>。 その後は[[中島徳博]]の下でアシスタントを務める。[[1972年]]、投稿した作品が編集者の目に留まり、『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])に掲載の「燃えて走れ」でデビュー。以降、同誌を中心に活躍するも、文芸的な志向や劇画的なタッチの自身の作風から限界を感じ、青年誌的な内容を含んだ作品を多く掲載していた[[小学館]]の少年漫画誌に活躍の場を移し、『[[赤いペガサス]]』([[週刊少年サンデー]])や『[[岳人列伝]]』([[少年ビッグコミック]])などスポーツを題材にした作品を発表、繊細な描写を含んだ力強い作風で注目を浴びた。 [[1981年]]には、『週刊少年サンデー』に連載を開始した『[[六三四の剣]]』が大ヒットを記録した。[[テレビアニメ]]([[テレビ東京]]系)、ゲーム化に加えて、読者層である小学生の間で、剣道が部活動の人気になるほどの剣道ブームが起きたほか、迫力のある試合シーンや個性豊かな登場人物とその成長の過程を丹念に描き出したドラマ性は、子供ならず大人層からも注目を浴びた。 12年間の『週刊少年サンデー』での活躍を経て、[[1991年]]からは、『[[ビッグコミックオリジナル]]』に『[[龍-RON-]]』を連載開始する。昭和初期の日本を舞台に、財閥の一人息子として生まれた青年を軸に、彼の周囲の様々な人々が織り成す群像劇を中心に、サスペンスやSF的な要素を交え、高い人気を確立した。15年にわたる長期連載となり、[[小学館漫画賞]]青年一般部門受賞などの栄誉に輝いたこの作品は、村上の代表作となっただけでなく、漫画家としての活動にも大きな転機をもたらすこととなった。 『龍-RON-』と並行して、人の心を読むことのできる少女を通して現代社会に生きる人々の心を描いた『ミコ・ヒミコ』や戦前のフランス美術界をテーマにした『メロドラマ』など幅広い作品を発表し、[[1996年]]には古巣である集英社に復帰し、法曹界を舞台にした『検事犬神』を『[[スーパージャンプ]]』に連載する。[[2000年]]から同誌に連載された『[[JIN-仁-]]』では、幕末にタイムスリップした医師の目を通して人間の尊厳を描くなど、熟練したドラマ性から高い評判を呼び、テレビドラマ化([[TBSテレビ|TBS]]系、[[大沢たかお]]主演)されると高視聴率を記録するなど、話題を集めている。 == 受賞作品 == * 1982年 - 第6回[[講談社漫画賞]]少年部門 受賞(『[[岳人列伝]]』) * 1984年 - 第29回[[小学館漫画賞]]少年部門 受賞(『[[六三四の剣]]』) * 1996年 - 第41回小学館漫画賞青年一般部門 受賞(『[[龍-RON-]]』) * 1998年 - 第2回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞 受賞(『龍-RON-』) * 2011年 - 第15回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞 受賞(『[[JIN-仁-]]』) * 2014年 - 第43回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞 受賞(『[[フイチン再見!]]』) == 作品リスト == === 漫画 === * [[燃えて走れ!]](原作:[[岩崎呉夫]]、1972年、[[週刊少年ジャンプ]]、[[集英社]]) * [[空の城 (漫画)|空の城]](1973年、週刊少年ジャンプ、集英社) * [[虎のレーサー]](1975年、週刊少年ジャンプ、集英社) ** 単行本:後述の『熱風の虎』に「第一部 虎のレーサー」として収録。 * [[熱風の虎]](1976年 - 1977年、週刊少年ジャンプ、集英社) ** 単行本:1977年 - 1978年、ジャンプスーパーコミックス、集英社 ** 愛蔵版:1989年、ジャンプスーパーエース、集英社 * [[クレイジー・ロード]](1980年、ECコミックス、こだま出版) * [[赤いペガサス]](1977年 - 1979年、[[週刊少年サンデー]]、[[小学館]]) ** 単行本:1978年 - 1980年、少年サンデーコミックス、小学館 ** ワイド版:1991年、少年サンデーコミックスワイド版、小学館 ** 文庫版:1997年 - 1998年、小学館文庫、小学館 * [[ドロファイター]](1979年 - 1981年、週刊少年サンデー、小学館) ** 単行本:1980年 - 1981年、少年サンデーコミックス、小学館 * [[エーイ!剣道]](1978年 - 1980年、少年サンデー増刊号、小学館) ** 単行本:1980年、少年サンデーコミックス、小学館 ** 単行本:1992年、スーパービジュアルコミックス、小学館 * [[岳人列伝]]([[少年ビッグコミック]]、小学館) ** 単行本:1980年、少年ビッグコミックス、小学館 ** 単行本:1993年、小学館叢書、小学館 ** 文庫版:1996年、文春文庫、[[文藝春秋]] * [[六三四の剣]](1981年 - 1985年、週刊少年サンデー、小学館) ** 単行本:1981年 - 1985年、少年サンデーコミックス、小学館 ** ワイド版:1992年 - 1994年、少年サンデーコミックスワイド版、小学館 ** 文庫版:2000年 - 2001年、小学館文庫 * [[風を抜け!]](1986年 - 1988年、週刊少年サンデー、小学館) ** 単行本:1986年 - 1988年、少年サンデーコミックス、小学館 * [[赤いペガサス#赤いペガサスII 翔|赤いペガサスII-翔-]](原作担当、作画:[[千葉きよかず|千葉潔和]]、週刊少年サンデー、小学館) ** 単行本:1989年 - 1990年、少年サンデーコミックス、小学館 * [[ヘヴィ]](1989年 - 1990年、週刊少年サンデー、小学館) ** 単行本:1989年 - 1990年、少年サンデーコミックス、小学館 * [[獣剣伝説]]([[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]、小学館) ** 単行本:1988年、ヤングサンデーコミックス、小学館 - 「神の娘」を併録。 ** 文庫版:1999年、中公文庫コミック版、[[中央公論新社]] - 「SIREN」を併録。 * [[NAGISA (漫画)|NAGISA]](ヤングサンデー、小学館) - 後に映画化された([[NAGISA (映画)]]を参照)。 ** 単行本:1990年、ヤングサンデーコミックス、小学館 ** 文庫版:1999年、中公文庫コミック版、中央公論新社 * [[SIREN (漫画)|SIREN]](ヤングサンデー、小学館) ** 単行本:1991年、ヤングサンデーコミックス、小学館 * [[龍-RON-]](1991年 - 2006年、[[ビッグコミックオリジナル]]、小学館) ** 単行本:1991年 - 2006年、[[ビッグコミックス]]、小学館 ** 文庫版:2008年 - 2009年、小学館文庫、小学館 * [[ミコ・ヒミコ]]([[小学館の学年別学習雑誌|小学六年生]]、小学館) ** 単行本:1992年 - 1994年、ヤングサンデーコミックス、小学館 ** 文庫版:1999年、中公文庫コミック版、中央公論新社 * [[水に犬]]([[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]、[[講談社]]) ** 単行本:1995年、モーニングKC、講談社 * [[私説昭和文学]](ヤングサンデー、小学館) ** 単行本:1996年、ヤングサンデーコミックス特製本、小学館 * [[検事犬神]](ウルフ)([[スーパージャンプ]]、集英社) ** 単行本:1996年、ジャンプコミックスデラックス、集英社 * [[メロドラマ (漫画)|メロドラマ]](モーニング、講談社) ** 単行本:1998年、モーニングKC、講談社 * [[JIN-仁-]](2000年 - 2010年、スーパージャンプ、集英社) ** 単行本:2001年 - 2011年、ジャンプコミックスデラックス、集英社 ** 文庫版:2010年 - 2011年、集英社文庫、集英社 * SNOW 村上もとか叙情傑作選(2006年、マンサンコミックス、[[実業之日本社]]) - 以下5作品を収録 ** SNOW([[ビッグコミックオリジナル増刊]]) ** あなたを忘れない ** ピエタ(原作:[[浅田次郎]]) ※電子書籍版では収録されていない ** 虹の町 ** 紅蓮の剣(週刊少年サンデー1999年43号・44号) ※[[20世紀最大の読み切りシリーズ]] * [[蠢太郎]](2008年 - 2011年、ビッグコミックオリジナル、小学館) * [[週刊マンガ日本史]]第25号『[[シャクシャイン]]』(2010年、[[朝日新聞出版]]) * [[フイチン再見!]](2013年 - 2017年、ビッグコミックオリジナル、小学館)<!-- 2013年4月5日号(2013年3月20日発売)より --> * 眠らぬ虎(2014年 - 2015年、[[グランドジャンプPREMIUM]]、集英社、原作担当。漫画・千葉きよかず)<!-- 2015年1月号(2014年12月24日発売)より --> * 鉄血のブサー、前後編(2017年、[[グランドジャンプ]]、集英社)<!-- 2017年14号-15号(2017年6月21日、7月5日発売)より --> * ソラモリ(2018年 - 2019年、グランドジャンプPREMIUM、集英社、原作担当。漫画・千葉きよかず)<!-- 2018年3月号(2018年2月27日発売)より --> * 侠医冬馬(2018年 - 連載中、グランドジャンプ、集英社、共同作画・かわのいちろう)<!-- 2018年15号(2018年7月4日発売)より --> === 紀行書 === * 村上もとかが夫婦で歩く欧州・アジア260日の旅(2016年、集英社) == 関連人物 == === 師匠 === * [[望月あきら]]<ref>日本漫画学院『漫画家リレー訪問記』[http://www.manga-g.co.jp/interview/2002/int02-10.html 2002年10月号/村上もとか先生]</ref> * [[中島徳博]] === アシスタント === * [[はしもとみつお]]<ref>日本漫画学院『漫画家リレー訪問記』[http://www.manga-g.co.jp/interview/2002/int02-11.html 2002年11月号/はしもとみつお先生]</ref> * [[魚戸おさむ]] *: 魚戸が19歳の頃([[1976年]])に[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]として村上の元に入るが、その7ヶ月後に脱走する様な形で辞める。その2年後に再びアシスタントとして村上に師事。魚戸は11歳の時に父を亡くしていることもあり、「先生というよりも父さんみたいな感じがする」として慕っている<ref>この段落は「1983年のぼくらより 村上もとか先生へ 魚戸おさむ」『少年サンデー1983』(『[[週刊少年サンデー]]』8月15日増刊号、第51巻第38号) [[小学館]]、2009年8月15日発行、70頁 を参照。</ref>。 * [[笠原俊夫]]<ref>TOM'S DINERホームページ(笠原俊夫公式ウェブサイト)[http://movie.geocities.jp/tom_kasa55/Prof.html 「僕のプロフィール」]</ref> * [[千葉きよかず]]<ref>日本漫画学院『漫画家リレー訪問記』[http://www.manga-g.co.jp/interview/2006/int06-09.html 2006年9月号/千葉きよかず先生] {{webarchive|url=https://archive.is/20120908021920/http://www.manga-g.co.jp/interview/2006/int06-09.html |date=2012年9月8日 }}</ref> *: 村上が原作を担当した『赤いペガサスII-翔-』『眠らぬ虎』『ソラモリ』の作画を担当。 * [[本山一城]]<ref>『漫画家人名事典』377頁</ref> * [[早坂未紀]]<ref>『漫画家人名事典』303頁</ref> * [[高田ミレイ]]<ref>『漫画家人名事典』219頁</ref> == 展示 == * 漫画家村上もとかの世界-村上作品の魅力を探る *: 2010年11月27日~2011年1月23日にかけて村上が青年期を過ごした大和市の[[つる舞の里歴史資料館]]及び[[大和市下鶴間ふるさと館]]の合同展示企画展示において村上もとか氏とその作品を紹介。<ref>大和市公式ウェブサイト[http://www.city.yamato.lg.jp/web/shakai/tsurumai.kikakuten.kanendi.html 「過年度の企画展一覧」]</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20080316005056/http://www.roy.hi-ho.ne.jp/motoka/ 村上もとか オフィシャル・サイト] * {{Twitter|motoka_murakami}} * {{Mediaarts-db|C51805|村上もとか}} {{村上もとか}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:むらかみ もとか}} [[Category:20世紀日本の教育者]] [[Category:21世紀日本の教育者]] [[Category:日本のマンガ・アニメ教育者]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:京都精華大学の教員]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1951年生]] [[Category:存命人物]]
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青木光恵
青木 光恵(あおき みつえ、1969年2月24日 - )は、日本の漫画家。兵庫県尼崎市出身。夙川学院短期大学デザイン科卒。一児(娘)の母。夫は小形克宏。 1988年頃に、写真誌『Pink House』(KIYO出版)から『中華』にてデビュー。以降、一般情報誌・女性誌・4コマ誌・青年誌などに作品を発表する。1993年、当時雑誌編集者として活動していた小形克宏と結婚。 2000年代前半から慢性的な腱鞘炎などの持病などにより、時折連載を休載するなど仕事をセーブしていたが、近年は主に太田出版の『マンガ・エロティクス・エフ』や若い女性向けの雑誌である祥伝社の『フィールヤング』などに作品を発表していた。 2009年、竹書房の4コマ漫画雑誌『まんがくらぶオリジナル』3月号から10月号に永森裕二原作の『幼獣マメシバ』を連載していたほか、一迅社『コミック百合姫』7月発売号にて『プリンセス♥プリンセス』のゲスト掲載を経て10月号より新連載化された。また芳文社『まんがタイムラブリー』にて10月号から12月号にかけて『青木くんの彼女』がゲスト掲載されていた。また『まんがくらぶオリジナル』にて『はなむら酒店』が2回のゲスト掲載を経て2010年5月発売分の7月号より新連載化された。 短編のギャグ漫画や4コマ作品、エッセイを多く執筆。近年はストーリー性のある軽妙なコメディ作品も多く執筆している。デビュー当時から「可愛い女の子」を描くのが得意な漫画家として知られ、特に『女の子が好き♥』の主人公などに代表されるようなグラマーな女性を多く描く。 太く柔らかい線で描かれたシンプルな絵柄が特徴。「可愛い女の子が大好き」「巨乳好き」「できるものなら女の子とセックスしてみたい。私バイかもしれん」ということをたびたび言明しており、ガールズラブを題材にした作品も多数発表している。本人曰く「あまり萌えないので男の子を描くのは比較的苦手」とのこと。そのため、百合を苦手とする者からの抗議もあり、対応に困っている、と自身のHPの日記などで漏らしている。 デビュー当時の短編集「青木光恵のSelfish Comics」において既に現在の画風をほぼ完成させていた。代表作に『小梅ちゃんが行く!!』があるが、ここでは主人公が大阪人であることが強調されている。続編『小梅ちゃんが行く!!R』(この「R」は、Returnからきていて当時のアニメ『セーラームーンR』を意識したという説もある)で主人公が上京してからも、常に大阪人としてのアイデンティティが強調される。 西原理恵子と親しかったことがあり、西原の無頼派エッセイ漫画に登場したことがある。他に内田春菊や寺島令子とも交友があったことが複数の単行本への帯部分へのコメントやゲスト寄稿などがあることから見て取れる。また自身同人活動用ブログでは金澤尚子とも仲が良い旨が公表されている。
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青木 光恵は、日本の漫画家。兵庫県尼崎市出身。夙川学院短期大学デザイン科卒。一児(娘)の母。夫は小形克宏。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 青木 光恵(あおき みつえ) |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1969|2|24}}<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、6頁</ref> |生地 = {{JPN}}[[兵庫県]]<ref name="mangaseek" /> |没年 = |没地 = |国籍 = [[日本]] |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1988年]] - |ジャンル = [[ストーリー漫画]]、[[4コマ漫画]] |代表作 = 小梅ちゃんが行く!! シリーズ<br />女の子が好き&#9829; シリーズ<br />スウィート・デリシャス |受賞 = |サイン = |公式サイト = [http://www.usaparazu.net/ うさぱらーず] }} '''青木 光恵'''(あおき みつえ、[[1969年]][[2月24日]]<ref name="mangaseek" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[兵庫県]][[尼崎市]]出身<ref name="mangaseek" />。[[夙川学院短期大学]]デザイン科卒<ref name="mangaseek" />。一児(娘)の母。夫は[[小形克宏]]<ref name="mangaseek" />。 == 来歴 == [[1988年]]頃に、写真誌『Pink House』(KIYO出版)から『中華』にてデビュー。以降、一般情報誌・女性誌・4コマ誌・青年誌などに作品を発表する。[[1993年]]、当時雑誌編集者として活動していた小形克宏と結婚<ref name="aoki">『[[まんがライフオリジナル]]』2010年8月号 「私のおのぼり物語」青木光恵の項など参考。</ref>。 2000年代前半から慢性的な[[腱鞘炎]]などの持病などにより、時折連載を休載するなど仕事をセーブしていたが、近年は主に[[太田出版]]の『[[マンガ・エロティクス・エフ]]』や若い女性向けの雑誌である[[祥伝社]]の『[[FEEL YOUNG|フィールヤング]]』などに作品を発表していた。 [[2009年]]、[[竹書房]]の4コマ漫画雑誌『[[まんがくらぶオリジナル]]』3月号から10月号に[[永森裕二]]原作の『[[幼獣マメシバ]]』を連載していたほか、[[一迅社]]『[[コミック百合姫]]』7月発売号にて『プリンセス&#9829;プリンセス』のゲスト掲載を経て10月号より新連載化された。また[[芳文社]]『[[まんがタイムラブリー]]』にて10月号から12月号にかけて『青木くんの彼女』がゲスト掲載されていた。また『まんがくらぶオリジナル』にて『はなむら酒店』が2回のゲスト掲載を経て[[2010年]]5月発売分の7月号より新連載化された。 == 概要 == 短編の[[ギャグ漫画]]や4コマ作品、エッセイを多く執筆。近年はストーリー性のある軽妙なコメディ作品も多く執筆している。デビュー当時から「可愛い女の子」を描くのが得意な漫画家として知られ、特に『女の子が好き&#9829;』の主人公などに代表されるような[[グラマー]]な女性を多く描く。 太く柔らかい線で描かれたシンプルな絵柄が特徴。「可愛い女の子が大好き」「巨乳好き」「できるものなら女の子とセックスしてみたい。私[[両性愛|バイ]]かもしれん」ということをたびたび言明<ref>[[三和出版]]発行の『PHRYNE』2号に掲載された「Sweets」(女の子が好き&#9829;1巻に改稿し収録)などの作品をはじめ多数の単行本のあとがきや穴埋め漫画などで言明している。</ref>しており、[[ガールズラブ]]を題材にした作品も多数発表している。本人曰く「あまり萌えないので男の子を描くのは比較的苦手」とのこと。そのため、[[百合 (ジャンル)|百合]]を苦手とする者からの抗議もあり、対応に困っている、と自身のHPの日記などで漏らしている。 デビュー当時の短編集「青木光恵のSelfish Comics」において既に現在の画風をほぼ完成させていた。代表作に『小梅ちゃんが行く!!』があるが、ここでは主人公が大阪人であることが強調されている。続編『小梅ちゃんが行く!!R』(この「R」は、Returnからきていて当時のアニメ『[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|セーラームーンR]]』を意識したという説もある)で主人公が上京してからも、常に大阪人としてのアイデンティティが強調される。 [[西原理恵子]]と親しかったことがあり<ref>『[[恨ミシュラン]]』では一時西原宅に居候していたこともあった、と描かれている。また、西原の創作ネタとしての青木の設定を真に受け、信じてしまった雑誌記者が、父親が[[暴力団]]関係者なのは事実かと取材を依頼したことがあった。</ref>、西原の無頼派エッセイ漫画に登場したことがある。他に[[内田春菊]]<ref name="aoki" />や[[寺島令子]]<ref>単行本『安田君とその妻君』P126 - 127 他</ref>とも交友があったことが複数の単行本への帯部分へのコメントやゲスト寄稿などがあることから見て取れる。また自身同人活動用ブログでは[[金澤尚子]]とも仲が良い旨が公表されている。 == 作品 == ; 連載中 *プリンセス&#9829;プリンセス(コミック百合姫(一迅社)) *生きてりゃいいさ!([[すくすくパラダイス]](竹書房)) *もてハピ!!ちょこる編(コミミニ(カラクリズム))※モテかわ☆ハピネスの1キャラであるちょこるを主人公としたスピンオフ作品。月1回携帯配信。 *すまほのみつえちゃん(グリー運営サイト「[http://free.gree.jp/android/ アプリ☆プラザ Android]」「[http://free.gree.jp/ios/ アプリ☆プラザ iPhone]」内で週2回配信) ; 過去 *青木通信(ジャックポット([[リイド社]]))全2巻 ※本人初単行本化作品でエッセイ形式の作品 *# ISBN 9784845813247(1992年12月) *# ISBN 9784845813254(1993年4月) *ささみストリート(まんがハイム([[徳間書店]]))全2巻 *# ISBN 4197530803(1993年8月) *# ISBN 9784197500017(1994年5月) *小梅ちゃんが行く!!([[まんがくらぶ]]([[竹書房]]))全3巻 ※祥伝社から新装版全2巻 *# ISBN 9784884756642(1993年8月) 新装版ISBN 9784396380656(2008年10月) *# ISBN 9784884757625(1994年10月) 新装版ISBN 9784396380663(2008年10月) *# ISBN 9784812450635(1996年6月) *挑発MUGENDAI (竹書房) ※初期作品を集めた短編集 *# ISBN 9784884757120 (1994年5月) *若草学園高等部(竹書房<!--初出は1990年同社からと明記されているが誌名不明-->)全1巻 *# ISBN 9784884757670 (1994/11) *えっちもの ([[ぶんか社]])全1巻 ※エッチ系4コマ誌などを中心に作品を集めた短編集 *# ISBN 9784821194346(1995年5月) *ぱそこんのみつえちゃん(<!--掲載誌不明-->[[アスキー (企業)|アスキー]])全1巻 *# ISBN 9784756111883(1995年10月) *女の子が好き&#9829;(まんがシャレダ!!(ぶんか社))全1巻 *# ISBN 9784821194568(1995年12月) *安田君とその妻君(まんがライフバラエティ→[[まんがライフ]](竹書房))全1巻 *# ISBN 9784812450208(1996年8月) *きせかえごっこ([[YOUNG YOU]]([[集英社]]))全1巻 *# ISBN 9784088642826(1997年1月) *みつえちゃんが行く!![[SPA!|週刊SPA!]]([[扶桑社]]))※単行本は双葉社より発行。連載時のタイトルは「ローリング光恵スペシャル」。 *# ISBN 9784575935011(1997年6月) *となりの芝生は(Undo(アスキー))- 単行本は集英社より発行 *# ISBN 9784087825381(1997年7月) *急戦法まことスペシャル([[ヤングジャンプ]](集英社))- 原作[[小杉あや]] *# ISBN 9784088756585(1998年5月) *はたらくお嬢ちゃん(みこすり半劇場新人ちゃん他(ぶんか社))全1巻 *# ISBN 9784821198030(2000年2月) *女の子が好き&#9829; 育児編([[みこすり半劇場]](ぶんか社))全2巻 *# ISBN 9784821198092(2000年3月) *# ISBN 9784821198764(2001年5月) *小梅ちゃんが行く!!R(まんがくらぶ・まんがくらぶオリジナル<!--持病により休載中だが、後にくらオリ誌上で別の連載を持っている為事実上の連載終了と考えられる-->(竹書房))1~2巻 - 祥伝社から新装版全2巻 *# ISBN 9784812453964(2000年5月) 新装版ISBN 9784396380618(2008年7月) *# ISBN 9784812455197(2001年7月) 新装版ISBN 9784396380618(2008年7月) *続となりの芝生は(<!--掲載誌不明-->集英社)全1巻 *# ISBN 9784420170208(2000年6月) *ピンクの林檎(メンズアクション([[双葉社]]))全1巻 - 単行本未収録分においては個人誌として自己出版している *# ISBN 9784575937114(2000年10月) *[[Sweet Delicious]](フィールヤング(祥伝社))全4巻 *# ISBN 9784396762513(2001年7月) *# ISBN 9784396762704(2002年5月) *# ISBN 9784396763091(2003年9月) *# ISBN 9784396763411(2004年8月) *フラワー少年([[まんがタイムラブリー]]([[芳文社]]))※単行本は[[飛鳥新社]]より発行 *# ISBN 9784870314177(2002年4月) *ねこねこ隊が行く!!([[コミックガンマ]](竹書房)→[[ウルトラジャンプ]](集英社))全3巻 *# ISBN 9784088763385(2002年8月) *# ISBN 9784088764726(2003年6月) *# ISBN 9784088766522(2004年7月) *秘密のみつえちゃん(本当にあった笑っちゃう話[[朝日ソノラマ]])全1巻 - 表題作他エッセイ漫画など2作収録 *# ISBN 9784257904953(2004年3月) *みつえ日記~みつえちゃんの女子(秘)パソコン事情~(<!--掲載誌不明-->朝日ソノラマ)全2巻 *# ISBN 9784257905417(2005年12月) *# ISBN 9784257905509(2006年4月) *パパイヤ軍団☆(マンガ・エロティクス・エフ(太田出版))全2巻 *# ISBN 9784778320409(2007年5月) *# ISBN 9784778320645(2008年8月) *みつえ雑記([[週刊アスキー]](アスキー))- 単行本は宙出版より全1巻 *# ISBN 9784776793717(2007年8月) *モテかわ☆ハピネス(フィールヤング(祥伝社))全3巻 *# ISBN 9784396764234(2007年11月) *# ISBN 9784396764449(2008年11月) *# ISBN 9784396764579(2009年5月) *みつえ雑記サーティーズ(週刊アスキー(アスキー))※単行本は宙出版より全1巻 *# ISBN 9784776795438(2009年7月) *[[幼獣マメシバ]](まんがくらぶオリジナル)(原作:[[永森裕二]])※単行本は[[関由香]]によるフォトブックと合本になった「オフィシャルコミック&フォトブック」という形態 *# ISBN 9784812440070(2009年10月) <!--*女の道 週刊アスキーに連載されていたと思われるが詳細不明--> === 読み切り === *シュガーコンプレックス - [[百合姫Wildrose]]第4巻に収録。 *ハルヒのPV大作戦☆ - [[涼宮ハルヒシリーズ#アンソロジーコミック|ハルヒコミックアンソロジー 涼宮ハルヒの絢爛]]に収録。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[フィールヤング]] *[[コミック百合姫]] *[[森島明子]] - 元アシスタント == 外部リンク == * [http://www.usaparazu.net/ うさぱらーず] - 公式サイト{{リンク切れ|date=2023年1月}} * [http://www.gainax.co.jp/hills/aoki/ みつえ天国] - 旧公式サイト * {{Wayback|url=http://amusapara.blog45.fc2.com/ |title=青木光恵うさぱらーず |date=20110424150053}} - 同人活動用ブログ * {{Twitter|mitsueaoki|青木光恵}} * {{Mediaarts-db|C58232|青木光恵}} * {{マンガ図書館Z作家|4429}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:あおき みつえ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:夙川学院短期大学出身の人物]] [[Category:1969年生]] [[Category:存命人物]]
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赤塚不二夫
赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄(読み同じ)、1935年〈昭和10年〉9月14日 - 2008年〈平成20年〉8月2日)は、日本の漫画家、タレント、俳優。満洲国熱河省出身。フジオ・プロダクション創設者。 小学生の時に読んだ手塚治虫の『ロスト・ワールド』に影響を受け、漫画家を志す。上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、つげ義春の推薦で曙出版から上梓した貸本漫画『嵐をこえて』で1956年(昭和31年)にデビュー。 その後、赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年(昭和42年)に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様」 と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。 1935年(昭和10年)9月14日、満洲国熱河省灤平県古北口古城裡に赤塚藤七と妻リヨの長男として生まれる。 古北口は中国内地である河北省と満洲・熱河省との境界であった万里の長城において山海関と居庸関の中間地点に設けられた要害関門の町で、古来より北京(北平)と熱河とを結ぶ要地であり、当時は満洲国と中華民国(冀東防共自治政府をまたぐ)との国境地帯であった。 父親である赤塚藤七(1908年4月22日 - 1979年5月17日・満71歳没)は新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)の農家出身で地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し、1931年(昭和6年)4月より関東軍憲兵となり同年9月の満洲事変に際して奉天で巡察警邏、郵便検閲、鉄道警察、国際連盟リットン調査団護衛などの任務を務めた。しかし1933年(昭和8年)、上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、満洲国警察古北口国境警備隊の保安局特務警察官として当時華北分離工作による政情不安に揺れていた中満国境地帯での匪賊討伐治安維持任務や現地人への定着宣撫工作、現地で抗日活動を行っていた東北抗日聯軍・八路軍等の抗日ゲリラや宋哲元・冀察政務委員会率いる国民革命軍第29軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員をしていた。 父・藤七は非常に厳格でなおかつ権威的であり、田河水泡の『のらくろ』や中島菊夫の『日の丸旗之助』 といった漫画を読むことを禁じられたり、箸の持ち方等で厳しくしつけられ、幼い頃の赤塚は恐怖感から父親が大の苦手であり畏怖を感じさせる存在だったという。しかし父は宣撫官という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円(現在の400〜500万円に相当)もの懸賞金がかけられていたにもかかわらず現地の村人から密告されることもなく、また終戦直後の奉天で赤塚家の隣に住む日本人一家が報復として中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている。 母親であるリヨ(1911年 - 1970年8月20日・満59歳没、旧姓:寺東)は奈良県生駒郡矢田村(現・大和郡山市矢田口)出身で藤七との結婚前には満洲で芸妓をしており、藤七とは宴席で出会った後に鉄道で運命的に再会。芸妓としての経験から彼女の左腕には、父とは違う別の男の名前で「○○命」と刺青が彫られていたが、藤七はこのことも含めたリヨの過去を先刻承知のうえですべて受け入れて共通の知人の仲介を経て結婚したという。赤塚はこのことを父の回想を通して知り、「これは芸妓という悲しい過去を持つ母に対して父が見せた『いたわり』なのだ」と断言している。また1968年(昭和43年)に藤七が結核に罹患した際にリヨは「とうちゃんのために」と自らの意思で刺青を除去したという。なお、リヨは子供の頃に目を傘で突かれたことが原因で右目を失明しており、少年時代の赤塚はタンスの引き出しから見つけた母の義眼であるガラス製の目玉をそうとは知らずに妹たちに見せて驚かせていたところ、母からこっぴどく怒られたと回想している。 現地での掃討作戦及び華北分離工作の進展により古北口地域の治安情勢が安定したとして、1937年(昭和12年)3月に古北口国境警察隊が解散。その後、日中戦争(北支事変・支那事変)の勃発により日本軍が華北(北支)へと侵攻するのに合わせて(日本勢力圏と対峙していた国民革命軍・八路軍との前線が移動したことで)父・藤七は更なる危険な辺境任務を任されることとなり時には四海冶、二道河へ父親・藤七だけで単身赴任、あるいは母親・リヨと赤塚ら子供達ごと大連の親類へと預けられるか、一家で灤平、小白旗、興隆、東陵、馬蘭関と中国大陸・華北の辺境を転々とすることとなった。この時期に赤塚の弟妹として妹・寿満子(長女・1938年生)が承徳県、弟・義大(次男・1940年生)が古北口、弟・宣洋(三男・1942年生)が青龍県にて生まれている。 1944年(昭和19年)、父・藤七は特務警察官の職を辞し奉天で鉄西消防分署長となった。 1945年(昭和20年)8月15日、小学4年生の赤塚は奉天で終戦を迎えた。しかし翌16日、中国人の群衆が鉄西の工場内にある軍需物資を狙って大挙して押し寄せ暴徒化、凄惨な殺戮に発展した。 この時、馬小屋に潜んでいた一家は父の部下だった中国人の手助けもあり、全員中国服を着せられて消防車に乗り、鉄西から無事脱出して事なきを得た。後に赤塚は「いつも部下の中国人を可愛がっていた親父が、僕たち一家を救ったと思わないわけにはいかなかった」と語っている。しかし父親は侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判にかけられて4年間シベリアに抑留されることになる。 奉天に残された家族は赤塚が11歳だった1946年(昭和21年)に奉天を後にして海岸(渤海沿岸)の引揚船を目指して徒歩で引き揚げを始め、途中でソ連兵からの襲撃を受けてソ連軍憲兵(内務人民委員部政治将校)に助けられながらも葫芦島在留日本人大送還によって葫芦島から大発動艇に乗船し4日間かけて6月15日、(赤塚にとって初めて見る日本・内地である)佐世保港に到着、厚生省佐世保引揚援護局(現在の浦頭引揚記念平和公園)から国鉄大村線南風崎駅を経由し汽車で母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移った。 引き揚げまでに妹(次女)の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され(後に赤塚は茨城県の常磐炭田炭鉱で働いていた彼と一度だけ再会している)、更には死んだ次女である綾子の名を授けられた生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折し、日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という。 父を除いた一家が奈良へと引き揚げてから母親は大日本紡績郡山工場の工員寄宿舎で寮母として働くようになり、赤塚は地元の郡山町立郡山小学校に編入して小学5年生となった。一家が満洲帰りとして差別を受け学校でもいじめの対象となる中、2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する。この漫画がきっかけで、学校で番長を張っていた奥村という同級生と仲良くなり学校生活が一転、柿畑から柿を盗んで売り警察の厄介になるなど、数々の悪行に手を染めることになったが、赤塚のみならずかつて父が現地の中国人に対して親切に接したように、周囲から差別される立場の人間に対して優しい態度をとる一面もあったという。 その後も赤塚は漫画を描き続け、小学6年生になった12歳の時には『ダイヤモンド島』という128ページのSF長編漫画を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗した。 中学生となった13歳の時の1949年(昭和24年)秋、母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であったため、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになり、中学1年生になっていた赤塚は新潟県に住む父親の姉一家である大連帰りの母子家庭に預けられて母親からのわずかな仕送りで暮らした。 赤塚が14歳になったその年の暮れに、父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。母親を除いた父親と3人兄弟の4人一家は父の出身地であり赤塚の本籍地であった新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)に移り、赤塚は四ツ合中学校(現・新潟市立潟東中学校)へ転入し、父親は農業協同組合職員の職を得て彼の実家近くにあった 法讃寺に月100円で納屋を間借りをして生活を始めたが、やはり赤塚一家は「外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村では心底とけこむことは出来なかった」という。 1952年(昭和27年)に赤塚は中学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋小熊塗装店に就職した。ドラム缶を塗る仕事のほか、映画看板の制作に携わっていた由縁から花月劇場という映画館の管理人と仲良くなったおかげで映画を無料で鑑賞できることとなった。映画では、初めてみた洋画の『駅馬車』に衝撃を受け、バスター・キートンやチャーリー・チャップリンのドタバタ喜劇に感動したという。また、この看板屋の経験は赤塚に大きな影響を与えており、「看板屋では、配色とか技術的な面でマンガに役立った。明朝体でもゴシック体でも、作品タイトルは全部自分で書けるようになったし..。デザイン学校に通っていたようなもんだね」と語っている。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。初採用は新潟の看板屋時代をテーマにした作品であり、1954年5月号に掲載された。 18歳だった1954年(昭和29年)頃に父親の頼みもあって上京し、父親の友人の紹介で就職した東京都江戸川区小松川のエビス科学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。この同人の東京支部に長谷邦夫やよこたとくおがいた。また既にプロの漫画家だったつげ義春が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった。 『漫画少年』の突然の休刊後、つげからプロへの転向を勧められ、一人では心細いとよこたを誘い、よこたと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動することとなる。つげの仲介で曙出版と契約を交わし、1956年(昭和31年)6月、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。以後、1998年4月発行の文庫版『ひみつのアッコちゃん』まで、曙出版とは40年以上に亘る付き合いとなる。この長期間に亘る契約は曙出版の社長が同郷の新潟であったことが大きく関係しており、赤塚は「実はそのときあんまり色よい返事をもらえそうになかったけれど、最後に出身地の話になってオレと同じ新潟出身だったので、なんとかうまく話がまとまった」と語っている。 同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入り、ことあるごとに結婚を勧めたという。当時、赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた。後年のイメージとは異なる、シャイで穏やかな赤塚青年の姿は、トキワ荘を描いた様々な作品で一致している。 当時の赤塚は少女漫画の単行本を3、4ヶ月に一冊描く貸本漫画家であり、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のジャズ喫茶「ラ・セーヌ」の住み込み店員になろうと思った時期もあったが、安孫子素雄に「一応テラさんに相談してみたら」と勧められ、父と同郷でもあるトキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。 1958年(昭和33年)、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」 名義で作品を発表した。 合作の楽しさから、続いて石森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア」 で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。 同年、ちばてつやの代原にトキワ荘の石森は赤塚を推薦し、秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三は赤塚に読切漫画を依頼。『まんが王』(秋田書店)1958年11月号にギャグ漫画「ナマちゃんのにちよう日」を発表し、同年12月号より「ナマちゃん」のタイトルで赤塚に無断で連載が決定する。1961年(昭和36年)、当時21歳だったアシスタントの稲生登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去。 その間に、横山光輝の出張アシスタントをつとめたこともある。 1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。1965年(昭和40年)、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等と東京都新宿区十二社(現在の西新宿)にフジオ・プロダクションを設立。1969年に株式会社化している。この年に長女のりえ子が誕生。また1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化され、赤塚が監修として関わっているほか、主題歌2本の作詞も手掛けている。 1967年(昭和42年)には『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年(昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。 1970年(昭和45年)3月、母親が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め一時退院するものの、ショックからクモ膜下出血を発症して再入院となる。その後容態が急変するも赤塚の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死状態となり8月20日に59歳で死去した。この年に妻と別居状態となり、12月にはスタジオ・ゼロが事実上の解散となった。 1970年11月22日-23日にかけて10年余振りに新潟へ帰郷。サイン会では約300枚の色紙1枚1枚に丁寧にイラストを描き、クラス会にも参加した。「サイン会の時ももっと手を抜いてと言われたけど、それができない。故郷の子供たちにそれができないんです」と語り、以後、晩年に至るまで、新潟には幾度となく訪れ、同級生との交流、ファンサービスを行っている。 1971年(昭和46年)5月、既に『少年サンデー』での新連載が決まっていたものの赤塚は既にアメリカに在住していた森田拳次との約束と『MAD』編集部への取材との口実で、長谷、滝沢解、そして当時交際していた愛人の女性とともに渡米。2か月間滞在し、入稿締め切りが迫る中でサンデーの担当編集者である武居俊樹宛てに新連載のタイトルが入った旨を記した手紙と自由の女神との記念写真を送り付ける。そのタイトルが『レッツラゴン』で、写真はそのまま扉絵として使用されその後3年にわたり連載される。当初の設定は次第に有形無実となり、劇画や文芸作品までも茶化し武居が「タケイ記者」として作品に登場して赤塚を苛め抜く描写など、ナンセンスを越えたシュールでアナーキーなストーリー展開が連載当時はなかなか理解されなかったという。この年、元・スタジオ・ゼロのアニメーター、吉良敬三らとアニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立(1981年、フジオプロより独立)。 1971年(昭和46年)9月25日、『天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。 1972年(昭和47年)に『天才バカボン』ほかの作品で文藝春秋漫画賞を受賞。この受賞がきっかけとなり、週刊文春で『赤塚不二夫のギャグゲリラ』の連載がスタートし10年を超えるロングランとなる。 また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊。多忙を極める赤塚が編集作業に携わることが不可能だったため、実質的な編集長は長谷が務め、赤塚の荒唐無稽なイメージを伝えることに腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年(昭和48年)に6号で休刊。 1973年(昭和48年)11月5日に3年の別居生活を経て妻・登茂子と正式離婚。 1974年(昭和49年)、「週刊少年マガジン」(1974年1月6日第1号)掲載の特別企画「ギャグ界の独裁者 赤塚不二夫の秘密大百科」において、ギャグの一環として実験的に「山田 一郎」(やまだ いちろう)とペンネームを改名することを宣言。「週刊文春」(1974年1月7日号)掲載の『ギャグゲリラ』を皮切りに、『天才バカボン』『レッツラゴン』を含む連載中の作品、新連載作品、読み切り作品等の全てのタイトルを「山田一郎」名義で執筆するも、広告サイドから苦情があり3か月で元に戻した。 一方でこの年の税務署の調査で税金の支払いが長期に亘り滞納していることが発覚。延滞金だけで6,000万円ともされた。原因はフジオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円ともいわれ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった。しかし、横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した。その後、赤塚は古谷、芳谷らの被害額を返済している。 なお、この年(1974年)にはこれまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立された。 1975年(昭和50年)10月6日、『元祖天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。 この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌5本、月刊誌7本の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中、1977年(昭和52年)を境に、ステージパフォーマンスに強い関心を示し、傾倒していく。後述の面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画・出演するようになったが、その10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり、長いスランプに陥っていることを公言。 1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」での連載が全て終了する。また、同年の「月刊少年マガジン」12月号でも、『天才バカボン』が終了し、以降、執筆活動は縮小傾向をむかえる。 1979年(昭和54年)、3月31日、にっかつ配給による赤塚原案、面白グループ脚本によるロマンポルノ『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』が公開となる。6月23日には赤塚の原案・製作総指揮・脚本、面白グループが製作に関わったコメディー映画『下落合焼とりムービー』が公開。どちらも監督は山本晋也が務め、一部ファンからカルト的な人気を博する。そうした陰で5月17日にフジオプロで赤塚のマネージャーとなっていた父親の赤塚藤七がすい臓ガンの転移により71歳で死去している。 1982年(昭和57年)、『ギャグゲリラ』の連載が終了。この頃より、酒量が激増する。 1985年(昭和61年)4月から12月にかけて、当時連載中だった「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)の『TOKIOとカケル』、「オール読物」(文藝春秋)の『赤塚不二夫の文学散歩』、「2001」(祥伝社)の『にっぽん笑来ばなし』、「サンデー毎日」(毎日新聞社)の『赤塚不二夫のどうしてくれる!?』などが立て続けに終了し、ついにマンガ連載は「サンケイ新聞 日曜版」(産経新聞社)の7コマ作品『いじわる時事』1本だけになってしまう。以後しばらく低迷期が続くが、1986年秋から「ビッグコミックオリジナル」(小学館)で『「大先生」を読む。』、「話のチャンネル」(日本文芸社)で『花ちゃん寝る』、「週刊大衆」(双葉社)で『ヤラセテおじさん』の連載が開始。いずれも大ヒットとまではいかなかったものの、これらが赤塚の漫画家“復帰作”となった。 1987年(昭和62年)、アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントで、スタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した。 この年の夏、テレビ東京の『マンガのひろば』枠で『元祖天才バカボン』が再放送され、小中学生を中心に「バカボン」人気が再熱した流れから、秋から子ども向け月刊誌「コミックボンボン」(講談社)で『天才バカボン』と『おそ松くん』の新作連載がスタートし、赤塚は漫画家として見事に復活を遂げた。 翌1988年よりアニメ『おそ松くん』が21年ぶりにリメイクされ、高視聴率をマークする。その後も『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』(タイトルは『平成天才バカボン』)『もーれつア太郎』が続々とリメイク放映されるとともに、赤塚の手による新作漫画が『コミックボンボン』を中心とする講談社系児童雑誌に連載されるなど健在さを印象付けたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年(平成3年)頃より更に酒量が増え始める。 以後も治療のため入退院を繰り返すものの回復の兆しはなく、1992年(平成4年)には長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷がフジオプロを退社。 1993年(平成5年)にNHK出版から、亡き父母への愛情と賛歌を綴った自叙伝『これでいいのだ』を刊行。翌1994年(平成6年)、NHKのドラマ新銀河枠で連続ドラマ化される。 1997年(平成9年)、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章。 1997年(平成9年)6月1日より、静岡県伊東市の池田20世紀美術館で、「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」が開催され、好評を博す。デビュー前の貴重な習作から1990年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、およそ200枚に及ぶ美麗な生原稿が展観できるだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンク、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エドガール・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディ・アートも展示。フロアには、バカボンのパパやイヤミの銅像が所狭しとディスプレイされるなど、美術館本来のイメージをぶち破る赤塚ならではの遊び心とウィットが沸き立った大回顧展となった。その後、この原画展は2002年まで、「これでいいのだ!赤塚不二夫展」とタイトルを変え、上野の森美術館や新潟市美術館、横浜ランドマークプラザ、箱根彫刻の森美術館、京都美術館えき、増田町まんが美術館など、全国を巡業し、いずれも大入りを記録。特に、上野の森美術館では、期間中65,000人を集客し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。 また、赤塚の故郷である新潟市美術館では「郷土作家シリーズ」と題し、新潟の各施設に寄贈した直筆画のほか、四ツ合中学校(現・潟東中学校)の同級生・小林利明氏が保管していた処女作『ダイヤモンド島』の原画20枚が初公開された。初日には赤塚本人も出席し、サイン会やトークイベントに参加。「若い頃、漫画家を目指していたこの新潟で、漫画家となって作品を見てもらえることがものすごく嬉しい。」「新潟時代は漫画家になりたくて一生懸命勉強していたところ。本屋で漫画雑誌を探したり、パーマ屋や映画館の看板を描いたり、思い出深い。きょうは感無量です」「新潟で個展を開けることは、とても嬉しい。なんとも幸せです」と喜んだ。当時、赤塚の側にいたスポーツニッポン記者の山口孝によれば「赤塚は珍しくスーツ姿で登場した。何度となく会っているが、スーツを着た赤塚を見たのは初めてだった。いつもなら襟の付いたシャツなら良いほうで、ほとんどTシャツで通すのだが......」、赤塚本人は「ここは特別だからね」と語っていたという。 同年12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんと診断され、22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せて24日には退院を強行。民間療法での治療を選択する。その後は放射線治療を併行し、一時は腫瘍が消失するが、翌年11月に悪化し再入院。12月に10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ、体重は13キロ減少した。しかし酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受ける型破りなパフォーマンスを見せた。その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返した。 1998年(平成10年)、三作目の「ひみつのアッコちゃん」、1999年(平成11年)、四作目に当たる「レレレの天才バカボン」が、それぞれフジテレビ系、テレビ東京系で放映開始されるが、1980年代後期 - 1990年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり、放送期間に合わせる形で赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。 1999年(平成11年)1月、共同通信社配信により「新潟日報」(新潟日報社)ほか全国各紙に新作読み切り『お正月ざんす』が掲載される。『おそ松くん』の後日談を描いた作品で、絵本やイラストなどを除く完成した漫画作品としては、本作が最後となった。なお、本遺作は赤塚の手による下書きや没アイデアも残されており、2021年7月刊行の『夜の赤塚不二夫』(なりなれ社)に収録された。 2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒し頭を打つ。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、急性硬膜下血腫と診断される。当初、手術は必要なしと判断されたが、その後右手に麻痺が出たため緊急手術、その後は順調に回復し、11月1日には退院を果たす。同年、点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料(印税)を辞退している。 2001年(平成13年)2月8日、快気祝いを兼ねた新年会「赤塚大センセイを囲む会」が都内ホテルで催された。当初身内だけの予定が、漫画家仲間を含め約100名が駆け付ける「騒ぎ」に発展。相変わらず水割りを手離さずに新作の構想を語る様子が報道された。 2002年(平成14年)4月10日、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなる。脳内出血と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止する。この年、点字絵本の第2弾『赤塚不二夫のさわる絵本“ニャロメをさがせ!”』を発表。また、小学館からデビュー以降の作品を集めたDVD全集『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-ROM』が発売された。2005年(平成17年)からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されているほか、2008年(平成20年)からは『天才バカボン』を皮切りに、各タイトルの収録エピソード数を更に充実させた電子書籍がebookjapanより配信されている(ただし、2021年現在、未配信のタイトルもある)。 2003年(平成15年)、妻の尽力により青梅市に青梅赤塚不二夫会館を設立。しかし当時、赤塚の妻を取材していたスポーツニッポン記者の山口孝によれば「念願の記念館ではあったが、喜びも半分というところだった」という。妻の本音は「新宿か、せめて新潟に建てたかった」からだったためである。その後、新宿や新潟に移転されることはなく、2020年(令和2年)3月27日をもって閉館された。 2006年(平成18年)7月12日、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急死。 2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。満72歳だった(享年74)。赤塚は2004年から意識不明のまま植物状態にあったという。2008年2月24日にはちばてつやが赤塚を見舞い、写真をブログで公開していた(後に似顔絵に差し替えられた)。また赤塚の死去の3日前の7月30日、前妻でりえ子の母である登茂子が死去していたことが後に報じられた。 赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げたほか、一般紙も一面で大きく掲載した。また民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるなど、その一連の報道は赤塚その人が昭和・平成を通して日本の漫画史に一時代を築いた大漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付けることとなった。 また赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせたタモリは「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉を寄せた。なお「タモリが赤塚の入院費用を全部出していた」という話がインターネットで流布したが、「これは誤りで入院費用は全部パパのお金で賄った。」と娘のりえ子が著書に記している。とはいえ「肉親以上」の関係であることに変わりはなく、りえ子に対しても励ましやアドバイスがあったとのこと。 赤塚の葬儀では藤子不二雄A(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日に通夜、翌7日に告別式が東京都中野区内にある宝仙寺で営まれた。喪主は長女・りえ子が務め、告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄A、赤塚門下の古谷三敏、高井研一郎、北見けんいちらが弔辞を読み上げた。タモリは本名の“森田一義”として弔辞を読んだが、この時手にしていた巻紙が白紙であったことが報じられ話題となった(項目タモリも参照)。弔辞は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」と結ばれている。弔辞を報じる記事の中で「重苦しい陰の世界」と表現されている箇所が各社に出てくるが、これは「重苦しい意味の世界」の間違い。アイドル・フォーが歌う「天才バカボン」のアニメ(第1作)のテーマソングが葬送曲として流れる中で出棺、遺体は赤塚の自宅にほど近い新宿区の落合斎場で荼毘に付された。法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」。 生前の最後の言葉は、倒れた時に偶然、女性の胸に手が触れて放った「オッパイだ、オッパイ」。最後に残した漫画原稿のネームは、未完成となった『メチャクチャ ヤジキタバカ道中』の65ページ目「思い出をつみ重ねていくのが人生なのよ、イヤーン!H」。最後の仕事は、倒れる前日(2002年4月9日)、18年間欠かさず続けてきた東京アニメーター学院の入学式スピーチとなった。 2009年(平成21年)、ヒットアニメの原作提供という観点から、東京国際アニメフェア2009で第5回功労賞を受賞。 同年8月より東京銀座の松屋百貨店で「追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」を開催、これを皮切りに全国巡業で開催される。 2011年(平成23年)、浅野忠信、堀北真希主演による『これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫』(監督・佐藤英明)が全国東映系で、2012年、綾瀬はるか主演の実写版「ひみつのアッコちゃん」(監督・川村泰祐)が全国松竹系で、それぞれ劇場公開される。 2013年(平成25年)、新潟市にゆかりのある漫画家の作品などを展示する「新潟市マンガの家」「新潟市マンガ・アニメ情報館」がオープン。赤塚作品や赤塚キャラを用いたアトラクションが常設展示される。 2015年(平成27年)、赤塚不二夫生誕80周年を迎え、その一環として、『天才バカボン』と『フランダースの犬』のコラボレート企画『天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜』(監督・FROGMAN)が全国東映系で劇場公開される。 同年9月にはBSプレミアムにおいて過去の赤塚不二夫特集番組の再放送が行われたほか、新作ドキュメンタリー番組の『赤塚不二夫 最後のこれでいいのだ』が制作、放映され、これまで日の目を見なかった未完成の遺作『ヤジキタ バカ道中』の一部分が初めて一般に公開された。ちなみに、番組中によると、この原稿は何故か自宅のキッチンに無造作に保管されていたという。 また、大人になった『おそ松くん』の6つ子兄弟のその後を描いたアニメ『おそ松さん』も10月からテレビ東京系列にて放映開始し、以後全国で順次放映。イベント開催、記念切手、関連書籍の多数発売など単なる人気作品に留まらず、社会現象を引き起こすほどの人気を博す。赤塚人気としては、二次媒体との連動も含め、近年にない盛り上がりと発展を見せ、2017年(平成29年)に第2期、2020年(令和2年)に第3期が放映される。 2016年(平成28年)4月30日より、赤塚の生涯を追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(企画プロデュース:坂本雅司/監督:冨永昌敬/特別協力:フジオ・プロダクション)が、ポレポレ東中野、下北沢トリウッド、新潟・市民映画館シネ・ウインドほか、全国にてロードショー公開される。 2021年(令和3年)、それまで単行本未収録だった幻の18作品をまとめた『夜の赤塚不二夫』(なりなれ社)が刊行。1986年の連載作品『花ちゃん寝る』全13話をメインに、『モトムくん』『イレズミ作戦』『ナンカナイト物語』『トラベ郎』『赤塚不二夫のギャグ漫字』『愛情レストラン』『ウナギイヌ』『仲良きことは美しき哉』『愛しのモンローちゃん』『たまごっちなのだ!!』『用心棒』など、それまで存在を知られていなかった作品の数々が、赤塚の事務所であるフジオ・プロダクションによって多数発掘された。また、赤塚の生涯最後の読み切り短編『お正月ざんす』が単行本に初収録されたほか、同作の別アイデア(未発表原稿)『おめでたいのだ』の存在が明らかになった。 晩年はアルコール依存症に苦しめられるが、酒に溺れた原因は極度の恥ずかしがり屋であるため、酒なくして人と向き合うことができなかったことと自己分析している。また自分よりお酒を飲む人として、たこ八郎、壁村耐三、滝田ゆうを挙げている。なおアシスタントだった古谷三敏によると、若い頃は一滴も飲めなかったという。 愛猫家。1979年(昭和54年)から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫でCMに出演、一躍人気者になった。『菊千代』の名前は、黒澤明監督の映画『七人の侍』で三船敏郎演じた主人公の名前から採った。赤塚自身も『花の菊千代』(『月刊コロコロコミック』連載)といった漫画を描いた。しかし1997年(平成9年)に菊千代は他界、赤塚自身のみならず周辺のファンをも悲しませた。 映画好きで、自宅のライブラリーには大スクリーンと3000本以上の映画コレクションがあった。また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。但し、後年には「ストーリーがしっかりしてて最後には泣かせたりするチャップリンより、ナンセンスなバスター・キートンの方が好み。意味もなくデカい岩に追いかけられたり、なぜか突然インディアンが攻めてきたり、キートンの奇想天外さがいい。自分の漫画も影響を受けている」とコメントしている 。 バカボンのパパが一番気に入っているキャラクターで、その理由は「どんなに酔っ払っていてもバカボンのパパの顔だけは、ちゃんと描けるから」とのこと。またバカボンのパパが赤塚の実父・赤塚藤七をモデルにしていることもあり、晩年は赤塚本人がパパのコスプレをすることが多かった。同じく『おそ松くん』の母親・松野松代のモデルは赤塚の実母・リヨとされ、自身の少年時代を回顧する作品での実母が松代の顔で描かれる。 ディズニーランドによく通い、年間パスポートを持っていたことがある。好きな理由のひとつは館内で酒が飲めること。 ニンジンと締切日にきびしい編集者、ホタルイカ。 関西人。雑誌連載『赤塚不二夫の人生相談』第25回(『週刊プレイボーイ』1994年51号)では「オレ、新潟から上京してきて、一生懸命、標準語しゃべろうって苦労した方じゃない。だから、あいつらが我が物顔で関西弁しゃべってるの聞くの大っ嫌い」「ただ、困ったことに、オレがこの世で一番好きだったオレのおふくろが奈良の大和郡山出身の生粋の関西人なんだ」「弱っちゃうよ。オレの体には確実に、このセコくてウルさい関西人の血が流れてんだから」「オレはあくまで父親の故郷・新潟の人間として生きてやる。そして、関西の人間なんてサイテーだ!って言い続けてやるぞ!」と語っている。 『ひみつのアッコちゃん』の主人公・加賀美あつ子と『おそ松くん』のトト子が似ていることについて、1989年に発行されたコミック本のあとがきで指摘された際、赤塚自身は「そんなわけないだろ」などと逆ギレ気味に反論している。ただし、一方で赤塚が生前「トト子イコールアッコ」という趣旨の発言を残していたらしい、とも伝えられている。 1968年(昭和43年)、NHKの漫才コンクールで、志賀あきら、榎本晴夫コンビに「求む!秘書」という台本を書き下ろし、準優勝という好成績を収めた。また、この時の様子は『お笑い招待席』(1969年6月7日放送)で放映されている。 2010年(平成22年)、誕生日である9月14日、Googleのロゴマークに赤塚作品のキャラクターが描かれた。 名和広著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』によると、一個人による漫画家の単行本の発行部数が初めて1000万部を突破したのは赤塚だといわれており、曙出版・講談社より刊行された『天才バカボン』の単行本だけで1000万部を売り上げたとされている。 またデビュー以来付き合いがあった曙出版の社長は赤塚と同じく新潟県出身で、のちに売れっ子になった赤塚は貸本時代にお世話になった恩から曙出版で単行本を出すことを了承。曙出版はその後『おそ松くん全集』の初版だけで文京区に4階建てのビルを建てるまでに成長し、ほかに出た赤塚単行本も含めると1500万部以上を売り上げる大ヒットを記録する。しかし、連載元の出版社がこれを問題視し、今後赤塚の新刊を出す場合は著作権使用料を支払うよう曙出版に命じたため、1977年の『天才バカボン』31巻を最後に新刊を出せなくなり、以降は再版のみになる。その後、曙出版の社長が死去した際、赤塚は真っ先に葬儀に駆けつけ、荼毘にふされた社長に泣きながら何度もお礼を言っていたという。しかし、その帰り際、赤塚は靴を履き間違えて帰っていき、弔問客の笑いを誘った。これは湿っぽい雰囲気を変えようとした赤塚流の粋な計らいだったという。 成田闘争の支持者だった。1980年には「日本の軍事大国化を許すな!! 三里塚80年決戦の勝利をかちとるのだ!!」という絵を書いている。 自宅兼事務所(フジオ・プロダクション)のある下落合・中井周辺を愛し、地元住人たちと積極的に交流していた。マンガには「下落合」というワードが頻繁に登場するほか、居酒屋の「権八」、電気屋の「ツツイサウンド」、蕎麦屋の「長寿庵」、寿司屋の「白雪寿司」など、実在の店舗名が多数登場している。また、中井駅から下落合駅の一帯を描いた『わが街』という作品も発表している。 1967年、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当。これを機に、赤塚の交流は各界に広がった。 1973年(昭和48年)にはロック・ミュージシャンの内田裕也との交友から、日本ロックンロール振興会会長なる役職に就き、その流れで、矢沢永吉率いる人気ロック・バンドキャロルの私設応援団団長を、赤塚自ら名乗り上げ、務めた。 1970年代半ばには山下洋輔等を介して素人芸人時代のタモリと出会う。タモリの芸を認めた赤塚は大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎、滝大作らと「面白グループ」を結成した。高平からは由利徹を紹介され、赤塚は終生、由利徹を敬愛し、由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となっている。 1982年(昭和57年)、写真家・荒木経惟との交友から、『写真時代』(白夜書房)9月号の巻頭グラビアで、漫画家としては初となるハードコア男優を務め、ファックシーンを披露した(荒木撮り下ろしの写真集『別冊噂の真相 荒木経惟の真相』所載)。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っている。 テレビアニメやドラマ、映画などの音響効果や選曲を手掛けていた音響技師の“赤塚不二夫”は赤塚のペンネーム、および本名(赤塚藤雄)とも同姓同名の別人だが、2人の間には親交があった。 1976年から、『週刊読売』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷)と名乗り、「バカなことを真面目にやる」連載を行った。1978年には、赤塚不二夫と全日本満足問題研究会と名称を変え、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表。 伊東市のホテル、ハトヤのステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作られた。 赤塚も「駅前ブルース」「想い出のベニス」という二曲の歌唱を務めた。 タモリや高平、滝らと結成したグループ。 上記のもの以外に、赤塚がプロデュースしたイベント、また赤塚をフィーチャーしたイベントには次のようなものがある。 共に強い立場にありながら弱い者を守り、決して差別しない態度をとった父親と奈良での小学生時代の同級生の奥村の二人と接した少年時代の経験がきっかけとなって後の赤塚作品では「弱い者いじめはしない」という姿勢が貫かれることとなったとされ、小説家の井上ひさしは「ある意味で、赤塚の作品は道徳的だ。例えば、暴力シーンはいっぱい出てくるが、弱虫でチビのハタ坊がいじめられるシーンは決して出てこない。喧嘩も、対等か、強い者に逆らう時に起きている。チビ太が一人で六つ子に挑んでいくような時だ。」と評している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄(読み同じ)、1935年〈昭和10年〉9月14日 - 2008年〈平成20年〉8月2日)は、日本の漫画家、タレント、俳優。満洲国熱河省出身。フジオ・プロダクション創設者。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "小学生の時に読んだ手塚治虫の『ロスト・ワールド』に影響を受け、漫画家を志す。上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、つげ義春の推薦で曙出版から上梓した貸本漫画『嵐をこえて』で1956年(昭和31年)にデビュー。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その後、赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年(昭和42年)に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様」 と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1935年(昭和10年)9月14日、満洲国熱河省灤平県古北口古城裡に赤塚藤七と妻リヨの長男として生まれる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "古北口は中国内地である河北省と満洲・熱河省との境界であった万里の長城において山海関と居庸関の中間地点に設けられた要害関門の町で、古来より北京(北平)と熱河とを結ぶ要地であり、当時は満洲国と中華民国(冀東防共自治政府をまたぐ)との国境地帯であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "父親である赤塚藤七(1908年4月22日 - 1979年5月17日・満71歳没)は新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)の農家出身で地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し、1931年(昭和6年)4月より関東軍憲兵となり同年9月の満洲事変に際して奉天で巡察警邏、郵便検閲、鉄道警察、国際連盟リットン調査団護衛などの任務を務めた。しかし1933年(昭和8年)、上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、満洲国警察古北口国境警備隊の保安局特務警察官として当時華北分離工作による政情不安に揺れていた中満国境地帯での匪賊討伐治安維持任務や現地人への定着宣撫工作、現地で抗日活動を行っていた東北抗日聯軍・八路軍等の抗日ゲリラや宋哲元・冀察政務委員会率いる国民革命軍第29軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員をしていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "父・藤七は非常に厳格でなおかつ権威的であり、田河水泡の『のらくろ』や中島菊夫の『日の丸旗之助』 といった漫画を読むことを禁じられたり、箸の持ち方等で厳しくしつけられ、幼い頃の赤塚は恐怖感から父親が大の苦手であり畏怖を感じさせる存在だったという。しかし父は宣撫官という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円(現在の400〜500万円に相当)もの懸賞金がかけられていたにもかかわらず現地の村人から密告されることもなく、また終戦直後の奉天で赤塚家の隣に住む日本人一家が報復として中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "母親であるリヨ(1911年 - 1970年8月20日・満59歳没、旧姓:寺東)は奈良県生駒郡矢田村(現・大和郡山市矢田口)出身で藤七との結婚前には満洲で芸妓をしており、藤七とは宴席で出会った後に鉄道で運命的に再会。芸妓としての経験から彼女の左腕には、父とは違う別の男の名前で「○○命」と刺青が彫られていたが、藤七はこのことも含めたリヨの過去を先刻承知のうえですべて受け入れて共通の知人の仲介を経て結婚したという。赤塚はこのことを父の回想を通して知り、「これは芸妓という悲しい過去を持つ母に対して父が見せた『いたわり』なのだ」と断言している。また1968年(昭和43年)に藤七が結核に罹患した際にリヨは「とうちゃんのために」と自らの意思で刺青を除去したという。なお、リヨは子供の頃に目を傘で突かれたことが原因で右目を失明しており、少年時代の赤塚はタンスの引き出しから見つけた母の義眼であるガラス製の目玉をそうとは知らずに妹たちに見せて驚かせていたところ、母からこっぴどく怒られたと回想している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "現地での掃討作戦及び華北分離工作の進展により古北口地域の治安情勢が安定したとして、1937年(昭和12年)3月に古北口国境警察隊が解散。その後、日中戦争(北支事変・支那事変)の勃発により日本軍が華北(北支)へと侵攻するのに合わせて(日本勢力圏と対峙していた国民革命軍・八路軍との前線が移動したことで)父・藤七は更なる危険な辺境任務を任されることとなり時には四海冶、二道河へ父親・藤七だけで単身赴任、あるいは母親・リヨと赤塚ら子供達ごと大連の親類へと預けられるか、一家で灤平、小白旗、興隆、東陵、馬蘭関と中国大陸・華北の辺境を転々とすることとなった。この時期に赤塚の弟妹として妹・寿満子(長女・1938年生)が承徳県、弟・義大(次男・1940年生)が古北口、弟・宣洋(三男・1942年生)が青龍県にて生まれている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1944年(昭和19年)、父・藤七は特務警察官の職を辞し奉天で鉄西消防分署長となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)8月15日、小学4年生の赤塚は奉天で終戦を迎えた。しかし翌16日、中国人の群衆が鉄西の工場内にある軍需物資を狙って大挙して押し寄せ暴徒化、凄惨な殺戮に発展した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この時、馬小屋に潜んでいた一家は父の部下だった中国人の手助けもあり、全員中国服を着せられて消防車に乗り、鉄西から無事脱出して事なきを得た。後に赤塚は「いつも部下の中国人を可愛がっていた親父が、僕たち一家を救ったと思わないわけにはいかなかった」と語っている。しかし父親は侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判にかけられて4年間シベリアに抑留されることになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "奉天に残された家族は赤塚が11歳だった1946年(昭和21年)に奉天を後にして海岸(渤海沿岸)の引揚船を目指して徒歩で引き揚げを始め、途中でソ連兵からの襲撃を受けてソ連軍憲兵(内務人民委員部政治将校)に助けられながらも葫芦島在留日本人大送還によって葫芦島から大発動艇に乗船し4日間かけて6月15日、(赤塚にとって初めて見る日本・内地である)佐世保港に到着、厚生省佐世保引揚援護局(現在の浦頭引揚記念平和公園)から国鉄大村線南風崎駅を経由し汽車で母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "引き揚げまでに妹(次女)の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され(後に赤塚は茨城県の常磐炭田炭鉱で働いていた彼と一度だけ再会している)、更には死んだ次女である綾子の名を授けられた生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折し、日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "父を除いた一家が奈良へと引き揚げてから母親は大日本紡績郡山工場の工員寄宿舎で寮母として働くようになり、赤塚は地元の郡山町立郡山小学校に編入して小学5年生となった。一家が満洲帰りとして差別を受け学校でもいじめの対象となる中、2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する。この漫画がきっかけで、学校で番長を張っていた奥村という同級生と仲良くなり学校生活が一転、柿畑から柿を盗んで売り警察の厄介になるなど、数々の悪行に手を染めることになったが、赤塚のみならずかつて父が現地の中国人に対して親切に接したように、周囲から差別される立場の人間に対して優しい態度をとる一面もあったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "その後も赤塚は漫画を描き続け、小学6年生になった12歳の時には『ダイヤモンド島』という128ページのSF長編漫画を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "中学生となった13歳の時の1949年(昭和24年)秋、母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であったため、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになり、中学1年生になっていた赤塚は新潟県に住む父親の姉一家である大連帰りの母子家庭に預けられて母親からのわずかな仕送りで暮らした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "赤塚が14歳になったその年の暮れに、父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。母親を除いた父親と3人兄弟の4人一家は父の出身地であり赤塚の本籍地であった新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)に移り、赤塚は四ツ合中学校(現・新潟市立潟東中学校)へ転入し、父親は農業協同組合職員の職を得て彼の実家近くにあった 法讃寺に月100円で納屋を間借りをして生活を始めたが、やはり赤塚一家は「外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村では心底とけこむことは出来なかった」という。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1952年(昭和27年)に赤塚は中学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋小熊塗装店に就職した。ドラム缶を塗る仕事のほか、映画看板の制作に携わっていた由縁から花月劇場という映画館の管理人と仲良くなったおかげで映画を無料で鑑賞できることとなった。映画では、初めてみた洋画の『駅馬車』に衝撃を受け、バスター・キートンやチャーリー・チャップリンのドタバタ喜劇に感動したという。また、この看板屋の経験は赤塚に大きな影響を与えており、「看板屋では、配色とか技術的な面でマンガに役立った。明朝体でもゴシック体でも、作品タイトルは全部自分で書けるようになったし..。デザイン学校に通っていたようなもんだね」と語っている。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。初採用は新潟の看板屋時代をテーマにした作品であり、1954年5月号に掲載された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "18歳だった1954年(昭和29年)頃に父親の頼みもあって上京し、父親の友人の紹介で就職した東京都江戸川区小松川のエビス科学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。この同人の東京支部に長谷邦夫やよこたとくおがいた。また既にプロの漫画家だったつげ義春が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『漫画少年』の突然の休刊後、つげからプロへの転向を勧められ、一人では心細いとよこたを誘い、よこたと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動することとなる。つげの仲介で曙出版と契約を交わし、1956年(昭和31年)6月、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。以後、1998年4月発行の文庫版『ひみつのアッコちゃん』まで、曙出版とは40年以上に亘る付き合いとなる。この長期間に亘る契約は曙出版の社長が同郷の新潟であったことが大きく関係しており、赤塚は「実はそのときあんまり色よい返事をもらえそうになかったけれど、最後に出身地の話になってオレと同じ新潟出身だったので、なんとかうまく話がまとまった」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入り、ことあるごとに結婚を勧めたという。当時、赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた。後年のイメージとは異なる、シャイで穏やかな赤塚青年の姿は、トキワ荘を描いた様々な作品で一致している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "当時の赤塚は少女漫画の単行本を3、4ヶ月に一冊描く貸本漫画家であり、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のジャズ喫茶「ラ・セーヌ」の住み込み店員になろうと思った時期もあったが、安孫子素雄に「一応テラさんに相談してみたら」と勧められ、父と同郷でもあるトキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1958年(昭和33年)、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」 名義で作品を発表した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "合作の楽しさから、続いて石森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア」 で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "同年、ちばてつやの代原にトキワ荘の石森は赤塚を推薦し、秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三は赤塚に読切漫画を依頼。『まんが王』(秋田書店)1958年11月号にギャグ漫画「ナマちゃんのにちよう日」を発表し、同年12月号より「ナマちゃん」のタイトルで赤塚に無断で連載が決定する。1961年(昭和36年)、当時21歳だったアシスタントの稲生登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その間に、横山光輝の出張アシスタントをつとめたこともある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。1965年(昭和40年)、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等と東京都新宿区十二社(現在の西新宿)にフジオ・プロダクションを設立。1969年に株式会社化している。この年に長女のりえ子が誕生。また1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化され、赤塚が監修として関わっているほか、主題歌2本の作詞も手掛けている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)には『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年(昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)3月、母親が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め一時退院するものの、ショックからクモ膜下出血を発症して再入院となる。その後容態が急変するも赤塚の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死状態となり8月20日に59歳で死去した。この年に妻と別居状態となり、12月にはスタジオ・ゼロが事実上の解散となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1970年11月22日-23日にかけて10年余振りに新潟へ帰郷。サイン会では約300枚の色紙1枚1枚に丁寧にイラストを描き、クラス会にも参加した。「サイン会の時ももっと手を抜いてと言われたけど、それができない。故郷の子供たちにそれができないんです」と語り、以後、晩年に至るまで、新潟には幾度となく訪れ、同級生との交流、ファンサービスを行っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)5月、既に『少年サンデー』での新連載が決まっていたものの赤塚は既にアメリカに在住していた森田拳次との約束と『MAD』編集部への取材との口実で、長谷、滝沢解、そして当時交際していた愛人の女性とともに渡米。2か月間滞在し、入稿締め切りが迫る中でサンデーの担当編集者である武居俊樹宛てに新連載のタイトルが入った旨を記した手紙と自由の女神との記念写真を送り付ける。そのタイトルが『レッツラゴン』で、写真はそのまま扉絵として使用されその後3年にわたり連載される。当初の設定は次第に有形無実となり、劇画や文芸作品までも茶化し武居が「タケイ記者」として作品に登場して赤塚を苛め抜く描写など、ナンセンスを越えたシュールでアナーキーなストーリー展開が連載当時はなかなか理解されなかったという。この年、元・スタジオ・ゼロのアニメーター、吉良敬三らとアニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立(1981年、フジオプロより独立)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)9月25日、『天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)に『天才バカボン』ほかの作品で文藝春秋漫画賞を受賞。この受賞がきっかけとなり、週刊文春で『赤塚不二夫のギャグゲリラ』の連載がスタートし10年を超えるロングランとなる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊。多忙を極める赤塚が編集作業に携わることが不可能だったため、実質的な編集長は長谷が務め、赤塚の荒唐無稽なイメージを伝えることに腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年(昭和48年)に6号で休刊。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1973年(昭和48年)11月5日に3年の別居生活を経て妻・登茂子と正式離婚。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1974年(昭和49年)、「週刊少年マガジン」(1974年1月6日第1号)掲載の特別企画「ギャグ界の独裁者 赤塚不二夫の秘密大百科」において、ギャグの一環として実験的に「山田 一郎」(やまだ いちろう)とペンネームを改名することを宣言。「週刊文春」(1974年1月7日号)掲載の『ギャグゲリラ』を皮切りに、『天才バカボン』『レッツラゴン』を含む連載中の作品、新連載作品、読み切り作品等の全てのタイトルを「山田一郎」名義で執筆するも、広告サイドから苦情があり3か月で元に戻した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一方でこの年の税務署の調査で税金の支払いが長期に亘り滞納していることが発覚。延滞金だけで6,000万円ともされた。原因はフジオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円ともいわれ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった。しかし、横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した。その後、赤塚は古谷、芳谷らの被害額を返済している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお、この年(1974年)にはこれまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1975年(昭和50年)10月6日、『元祖天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌5本、月刊誌7本の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中、1977年(昭和52年)を境に、ステージパフォーマンスに強い関心を示し、傾倒していく。後述の面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画・出演するようになったが、その10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり、長いスランプに陥っていることを公言。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」での連載が全て終了する。また、同年の「月刊少年マガジン」12月号でも、『天才バカボン』が終了し、以降、執筆活動は縮小傾向をむかえる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)、3月31日、にっかつ配給による赤塚原案、面白グループ脚本によるロマンポルノ『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』が公開となる。6月23日には赤塚の原案・製作総指揮・脚本、面白グループが製作に関わったコメディー映画『下落合焼とりムービー』が公開。どちらも監督は山本晋也が務め、一部ファンからカルト的な人気を博する。そうした陰で5月17日にフジオプロで赤塚のマネージャーとなっていた父親の赤塚藤七がすい臓ガンの転移により71歳で死去している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1982年(昭和57年)、『ギャグゲリラ』の連載が終了。この頃より、酒量が激増する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1985年(昭和61年)4月から12月にかけて、当時連載中だった「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)の『TOKIOとカケル』、「オール読物」(文藝春秋)の『赤塚不二夫の文学散歩』、「2001」(祥伝社)の『にっぽん笑来ばなし』、「サンデー毎日」(毎日新聞社)の『赤塚不二夫のどうしてくれる!?』などが立て続けに終了し、ついにマンガ連載は「サンケイ新聞 日曜版」(産経新聞社)の7コマ作品『いじわる時事』1本だけになってしまう。以後しばらく低迷期が続くが、1986年秋から「ビッグコミックオリジナル」(小学館)で『「大先生」を読む。』、「話のチャンネル」(日本文芸社)で『花ちゃん寝る』、「週刊大衆」(双葉社)で『ヤラセテおじさん』の連載が開始。いずれも大ヒットとまではいかなかったものの、これらが赤塚の漫画家“復帰作”となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)、アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントで、スタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この年の夏、テレビ東京の『マンガのひろば』枠で『元祖天才バカボン』が再放送され、小中学生を中心に「バカボン」人気が再熱した流れから、秋から子ども向け月刊誌「コミックボンボン」(講談社)で『天才バカボン』と『おそ松くん』の新作連載がスタートし、赤塚は漫画家として見事に復活を遂げた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "翌1988年よりアニメ『おそ松くん』が21年ぶりにリメイクされ、高視聴率をマークする。その後も『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』(タイトルは『平成天才バカボン』)『もーれつア太郎』が続々とリメイク放映されるとともに、赤塚の手による新作漫画が『コミックボンボン』を中心とする講談社系児童雑誌に連載されるなど健在さを印象付けたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年(平成3年)頃より更に酒量が増え始める。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "以後も治療のため入退院を繰り返すものの回復の兆しはなく、1992年(平成4年)には長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷がフジオプロを退社。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1993年(平成5年)にNHK出版から、亡き父母への愛情と賛歌を綴った自叙伝『これでいいのだ』を刊行。翌1994年(平成6年)、NHKのドラマ新銀河枠で連続ドラマ化される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)6月1日より、静岡県伊東市の池田20世紀美術館で、「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」が開催され、好評を博す。デビュー前の貴重な習作から1990年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、およそ200枚に及ぶ美麗な生原稿が展観できるだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンク、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エドガール・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディ・アートも展示。フロアには、バカボンのパパやイヤミの銅像が所狭しとディスプレイされるなど、美術館本来のイメージをぶち破る赤塚ならではの遊び心とウィットが沸き立った大回顧展となった。その後、この原画展は2002年まで、「これでいいのだ!赤塚不二夫展」とタイトルを変え、上野の森美術館や新潟市美術館、横浜ランドマークプラザ、箱根彫刻の森美術館、京都美術館えき、増田町まんが美術館など、全国を巡業し、いずれも大入りを記録。特に、上野の森美術館では、期間中65,000人を集客し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、赤塚の故郷である新潟市美術館では「郷土作家シリーズ」と題し、新潟の各施設に寄贈した直筆画のほか、四ツ合中学校(現・潟東中学校)の同級生・小林利明氏が保管していた処女作『ダイヤモンド島』の原画20枚が初公開された。初日には赤塚本人も出席し、サイン会やトークイベントに参加。「若い頃、漫画家を目指していたこの新潟で、漫画家となって作品を見てもらえることがものすごく嬉しい。」「新潟時代は漫画家になりたくて一生懸命勉強していたところ。本屋で漫画雑誌を探したり、パーマ屋や映画館の看板を描いたり、思い出深い。きょうは感無量です」「新潟で個展を開けることは、とても嬉しい。なんとも幸せです」と喜んだ。当時、赤塚の側にいたスポーツニッポン記者の山口孝によれば「赤塚は珍しくスーツ姿で登場した。何度となく会っているが、スーツを着た赤塚を見たのは初めてだった。いつもなら襟の付いたシャツなら良いほうで、ほとんどTシャツで通すのだが......」、赤塚本人は「ここは特別だからね」と語っていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "同年12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんと診断され、22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せて24日には退院を強行。民間療法での治療を選択する。その後は放射線治療を併行し、一時は腫瘍が消失するが、翌年11月に悪化し再入院。12月に10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ、体重は13キロ減少した。しかし酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受ける型破りなパフォーマンスを見せた。その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1998年(平成10年)、三作目の「ひみつのアッコちゃん」、1999年(平成11年)、四作目に当たる「レレレの天才バカボン」が、それぞれフジテレビ系、テレビ東京系で放映開始されるが、1980年代後期 - 1990年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり、放送期間に合わせる形で赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)1月、共同通信社配信により「新潟日報」(新潟日報社)ほか全国各紙に新作読み切り『お正月ざんす』が掲載される。『おそ松くん』の後日談を描いた作品で、絵本やイラストなどを除く完成した漫画作品としては、本作が最後となった。なお、本遺作は赤塚の手による下書きや没アイデアも残されており、2021年7月刊行の『夜の赤塚不二夫』(なりなれ社)に収録された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒し頭を打つ。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、急性硬膜下血腫と診断される。当初、手術は必要なしと判断されたが、その後右手に麻痺が出たため緊急手術、その後は順調に回復し、11月1日には退院を果たす。同年、点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料(印税)を辞退している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)2月8日、快気祝いを兼ねた新年会「赤塚大センセイを囲む会」が都内ホテルで催された。当初身内だけの予定が、漫画家仲間を含め約100名が駆け付ける「騒ぎ」に発展。相変わらず水割りを手離さずに新作の構想を語る様子が報道された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)4月10日、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなる。脳内出血と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止する。この年、点字絵本の第2弾『赤塚不二夫のさわる絵本“ニャロメをさがせ!”』を発表。また、小学館からデビュー以降の作品を集めたDVD全集『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-ROM』が発売された。2005年(平成17年)からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されているほか、2008年(平成20年)からは『天才バカボン』を皮切りに、各タイトルの収録エピソード数を更に充実させた電子書籍がebookjapanより配信されている(ただし、2021年現在、未配信のタイトルもある)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)、妻の尽力により青梅市に青梅赤塚不二夫会館を設立。しかし当時、赤塚の妻を取材していたスポーツニッポン記者の山口孝によれば「念願の記念館ではあったが、喜びも半分というところだった」という。妻の本音は「新宿か、せめて新潟に建てたかった」からだったためである。その後、新宿や新潟に移転されることはなく、2020年(令和2年)3月27日をもって閉館された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)7月12日、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急死。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。満72歳だった(享年74)。赤塚は2004年から意識不明のまま植物状態にあったという。2008年2月24日にはちばてつやが赤塚を見舞い、写真をブログで公開していた(後に似顔絵に差し替えられた)。また赤塚の死去の3日前の7月30日、前妻でりえ子の母である登茂子が死去していたことが後に報じられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げたほか、一般紙も一面で大きく掲載した。また民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるなど、その一連の報道は赤塚その人が昭和・平成を通して日本の漫画史に一時代を築いた大漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付けることとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "また赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせたタモリは「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉を寄せた。なお「タモリが赤塚の入院費用を全部出していた」という話がインターネットで流布したが、「これは誤りで入院費用は全部パパのお金で賄った。」と娘のりえ子が著書に記している。とはいえ「肉親以上」の関係であることに変わりはなく、りえ子に対しても励ましやアドバイスがあったとのこと。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "赤塚の葬儀では藤子不二雄A(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日に通夜、翌7日に告別式が東京都中野区内にある宝仙寺で営まれた。喪主は長女・りえ子が務め、告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄A、赤塚門下の古谷三敏、高井研一郎、北見けんいちらが弔辞を読み上げた。タモリは本名の“森田一義”として弔辞を読んだが、この時手にしていた巻紙が白紙であったことが報じられ話題となった(項目タモリも参照)。弔辞は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」と結ばれている。弔辞を報じる記事の中で「重苦しい陰の世界」と表現されている箇所が各社に出てくるが、これは「重苦しい意味の世界」の間違い。アイドル・フォーが歌う「天才バカボン」のアニメ(第1作)のテーマソングが葬送曲として流れる中で出棺、遺体は赤塚の自宅にほど近い新宿区の落合斎場で荼毘に付された。法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "生前の最後の言葉は、倒れた時に偶然、女性の胸に手が触れて放った「オッパイだ、オッパイ」。最後に残した漫画原稿のネームは、未完成となった『メチャクチャ ヤジキタバカ道中』の65ページ目「思い出をつみ重ねていくのが人生なのよ、イヤーン!H」。最後の仕事は、倒れる前日(2002年4月9日)、18年間欠かさず続けてきた東京アニメーター学院の入学式スピーチとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)、ヒットアニメの原作提供という観点から、東京国際アニメフェア2009で第5回功労賞を受賞。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "同年8月より東京銀座の松屋百貨店で「追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」を開催、これを皮切りに全国巡業で開催される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)、浅野忠信、堀北真希主演による『これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫』(監督・佐藤英明)が全国東映系で、2012年、綾瀬はるか主演の実写版「ひみつのアッコちゃん」(監督・川村泰祐)が全国松竹系で、それぞれ劇場公開される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2013年(平成25年)、新潟市にゆかりのある漫画家の作品などを展示する「新潟市マンガの家」「新潟市マンガ・アニメ情報館」がオープン。赤塚作品や赤塚キャラを用いたアトラクションが常設展示される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)、赤塚不二夫生誕80周年を迎え、その一環として、『天才バカボン』と『フランダースの犬』のコラボレート企画『天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜』(監督・FROGMAN)が全国東映系で劇場公開される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "同年9月にはBSプレミアムにおいて過去の赤塚不二夫特集番組の再放送が行われたほか、新作ドキュメンタリー番組の『赤塚不二夫 最後のこれでいいのだ』が制作、放映され、これまで日の目を見なかった未完成の遺作『ヤジキタ バカ道中』の一部分が初めて一般に公開された。ちなみに、番組中によると、この原稿は何故か自宅のキッチンに無造作に保管されていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "また、大人になった『おそ松くん』の6つ子兄弟のその後を描いたアニメ『おそ松さん』も10月からテレビ東京系列にて放映開始し、以後全国で順次放映。イベント開催、記念切手、関連書籍の多数発売など単なる人気作品に留まらず、社会現象を引き起こすほどの人気を博す。赤塚人気としては、二次媒体との連動も含め、近年にない盛り上がりと発展を見せ、2017年(平成29年)に第2期、2020年(令和2年)に第3期が放映される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2016年(平成28年)4月30日より、赤塚の生涯を追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(企画プロデュース:坂本雅司/監督:冨永昌敬/特別協力:フジオ・プロダクション)が、ポレポレ東中野、下北沢トリウッド、新潟・市民映画館シネ・ウインドほか、全国にてロードショー公開される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)、それまで単行本未収録だった幻の18作品をまとめた『夜の赤塚不二夫』(なりなれ社)が刊行。1986年の連載作品『花ちゃん寝る』全13話をメインに、『モトムくん』『イレズミ作戦』『ナンカナイト物語』『トラベ郎』『赤塚不二夫のギャグ漫字』『愛情レストラン』『ウナギイヌ』『仲良きことは美しき哉』『愛しのモンローちゃん』『たまごっちなのだ!!』『用心棒』など、それまで存在を知られていなかった作品の数々が、赤塚の事務所であるフジオ・プロダクションによって多数発掘された。また、赤塚の生涯最後の読み切り短編『お正月ざんす』が単行本に初収録されたほか、同作の別アイデア(未発表原稿)『おめでたいのだ』の存在が明らかになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "晩年はアルコール依存症に苦しめられるが、酒に溺れた原因は極度の恥ずかしがり屋であるため、酒なくして人と向き合うことができなかったことと自己分析している。また自分よりお酒を飲む人として、たこ八郎、壁村耐三、滝田ゆうを挙げている。なおアシスタントだった古谷三敏によると、若い頃は一滴も飲めなかったという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "愛猫家。1979年(昭和54年)から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫でCMに出演、一躍人気者になった。『菊千代』の名前は、黒澤明監督の映画『七人の侍』で三船敏郎演じた主人公の名前から採った。赤塚自身も『花の菊千代』(『月刊コロコロコミック』連載)といった漫画を描いた。しかし1997年(平成9年)に菊千代は他界、赤塚自身のみならず周辺のファンをも悲しませた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "映画好きで、自宅のライブラリーには大スクリーンと3000本以上の映画コレクションがあった。また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。但し、後年には「ストーリーがしっかりしてて最後には泣かせたりするチャップリンより、ナンセンスなバスター・キートンの方が好み。意味もなくデカい岩に追いかけられたり、なぜか突然インディアンが攻めてきたり、キートンの奇想天外さがいい。自分の漫画も影響を受けている」とコメントしている 。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "バカボンのパパが一番気に入っているキャラクターで、その理由は「どんなに酔っ払っていてもバカボンのパパの顔だけは、ちゃんと描けるから」とのこと。またバカボンのパパが赤塚の実父・赤塚藤七をモデルにしていることもあり、晩年は赤塚本人がパパのコスプレをすることが多かった。同じく『おそ松くん』の母親・松野松代のモデルは赤塚の実母・リヨとされ、自身の少年時代を回顧する作品での実母が松代の顔で描かれる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ディズニーランドによく通い、年間パスポートを持っていたことがある。好きな理由のひとつは館内で酒が飲めること。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ニンジンと締切日にきびしい編集者、ホタルイカ。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "関西人。雑誌連載『赤塚不二夫の人生相談』第25回(『週刊プレイボーイ』1994年51号)では「オレ、新潟から上京してきて、一生懸命、標準語しゃべろうって苦労した方じゃない。だから、あいつらが我が物顔で関西弁しゃべってるの聞くの大っ嫌い」「ただ、困ったことに、オレがこの世で一番好きだったオレのおふくろが奈良の大和郡山出身の生粋の関西人なんだ」「弱っちゃうよ。オレの体には確実に、このセコくてウルさい関西人の血が流れてんだから」「オレはあくまで父親の故郷・新潟の人間として生きてやる。そして、関西の人間なんてサイテーだ!って言い続けてやるぞ!」と語っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "『ひみつのアッコちゃん』の主人公・加賀美あつ子と『おそ松くん』のトト子が似ていることについて、1989年に発行されたコミック本のあとがきで指摘された際、赤塚自身は「そんなわけないだろ」などと逆ギレ気味に反論している。ただし、一方で赤塚が生前「トト子イコールアッコ」という趣旨の発言を残していたらしい、とも伝えられている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)、NHKの漫才コンクールで、志賀あきら、榎本晴夫コンビに「求む!秘書」という台本を書き下ろし、準優勝という好成績を収めた。また、この時の様子は『お笑い招待席』(1969年6月7日放送)で放映されている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)、誕生日である9月14日、Googleのロゴマークに赤塚作品のキャラクターが描かれた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "名和広著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』によると、一個人による漫画家の単行本の発行部数が初めて1000万部を突破したのは赤塚だといわれており、曙出版・講談社より刊行された『天才バカボン』の単行本だけで1000万部を売り上げたとされている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "またデビュー以来付き合いがあった曙出版の社長は赤塚と同じく新潟県出身で、のちに売れっ子になった赤塚は貸本時代にお世話になった恩から曙出版で単行本を出すことを了承。曙出版はその後『おそ松くん全集』の初版だけで文京区に4階建てのビルを建てるまでに成長し、ほかに出た赤塚単行本も含めると1500万部以上を売り上げる大ヒットを記録する。しかし、連載元の出版社がこれを問題視し、今後赤塚の新刊を出す場合は著作権使用料を支払うよう曙出版に命じたため、1977年の『天才バカボン』31巻を最後に新刊を出せなくなり、以降は再版のみになる。その後、曙出版の社長が死去した際、赤塚は真っ先に葬儀に駆けつけ、荼毘にふされた社長に泣きながら何度もお礼を言っていたという。しかし、その帰り際、赤塚は靴を履き間違えて帰っていき、弔問客の笑いを誘った。これは湿っぽい雰囲気を変えようとした赤塚流の粋な計らいだったという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "成田闘争の支持者だった。1980年には「日本の軍事大国化を許すな!! 三里塚80年決戦の勝利をかちとるのだ!!」という絵を書いている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "自宅兼事務所(フジオ・プロダクション)のある下落合・中井周辺を愛し、地元住人たちと積極的に交流していた。マンガには「下落合」というワードが頻繁に登場するほか、居酒屋の「権八」、電気屋の「ツツイサウンド」、蕎麦屋の「長寿庵」、寿司屋の「白雪寿司」など、実在の店舗名が多数登場している。また、中井駅から下落合駅の一帯を描いた『わが街』という作品も発表している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1967年、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当。これを機に、赤塚の交流は各界に広がった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1973年(昭和48年)にはロック・ミュージシャンの内田裕也との交友から、日本ロックンロール振興会会長なる役職に就き、その流れで、矢沢永吉率いる人気ロック・バンドキャロルの私設応援団団長を、赤塚自ら名乗り上げ、務めた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1970年代半ばには山下洋輔等を介して素人芸人時代のタモリと出会う。タモリの芸を認めた赤塚は大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎、滝大作らと「面白グループ」を結成した。高平からは由利徹を紹介され、赤塚は終生、由利徹を敬愛し、由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となっている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1982年(昭和57年)、写真家・荒木経惟との交友から、『写真時代』(白夜書房)9月号の巻頭グラビアで、漫画家としては初となるハードコア男優を務め、ファックシーンを披露した(荒木撮り下ろしの写真集『別冊噂の真相 荒木経惟の真相』所載)。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "テレビアニメやドラマ、映画などの音響効果や選曲を手掛けていた音響技師の“赤塚不二夫”は赤塚のペンネーム、および本名(赤塚藤雄)とも同姓同名の別人だが、2人の間には親交があった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1976年から、『週刊読売』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷)と名乗り、「バカなことを真面目にやる」連載を行った。1978年には、赤塚不二夫と全日本満足問題研究会と名称を変え、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "伊東市のホテル、ハトヤのステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作られた。 赤塚も「駅前ブルース」「想い出のベニス」という二曲の歌唱を務めた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "タモリや高平、滝らと結成したグループ。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "上記のもの以外に、赤塚がプロデュースしたイベント、また赤塚をフィーチャーしたイベントには次のようなものがある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "共に強い立場にありながら弱い者を守り、決して差別しない態度をとった父親と奈良での小学生時代の同級生の奥村の二人と接した少年時代の経験がきっかけとなって後の赤塚作品では「弱い者いじめはしない」という姿勢が貫かれることとなったとされ、小説家の井上ひさしは「ある意味で、赤塚の作品は道徳的だ。例えば、暴力シーンはいっぱい出てくるが、弱虫でチビのハタ坊がいじめられるシーンは決して出てこない。喧嘩も、対等か、強い者に逆らう時に起きている。チビ太が一人で六つ子に挑んでいくような時だ。」と評している。", "title": "評価" } ]
赤塚 不二夫は、日本の漫画家、タレント、俳優。満洲国熱河省出身。フジオ・プロダクション創設者。
{{otheruses|漫画家|音響技術者|赤塚不二夫 (音響技術者)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 赤塚 不二夫 | ふりがな = あかつか ふじお | 脚注 = | 本名 = 赤塚 藤雄(読み同じ)<ref name="profile">[http://www.koredeiinoda.net/category/profile 赤塚不二夫略歴]. 2021年9月6日閲覧</ref> | 別名 = あかつかふじお、東大作、山田一郎、立川不二身 | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1935|9|14|no}}<ref name="profile" /> | 生地 = {{MCK}}・[[熱河省 (満洲国)|熱河省]][[灤平県]]古北口古城裡22号 | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1935|9|14|2008|8|2}} | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[文京区]] | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = [[紫綬褒章]] | 活動期間 = [[1956年]] - [[2002年]] | ジャンル = [[ギャグ漫画]]・[[少女漫画]] | 代表作 =『[[おそ松くん]]』<br />『[[ひみつのアッコちゃん]]』<br />『[[天才バカボン]]』<br />『[[もーれつア太郎]]』<br />『[[レッツラゴン]]』<br />『[[ギャグゲリラ]]』 | 受賞 = 第10回[[小学館漫画賞]]<br />(『おそ松くん』)<br />第18回[[文藝春秋漫画賞]]<br />(『天才バカボン』他)<br />第26回[[日本漫画家協会賞]]文部大臣賞<br />第5回[[東京国際アニメフェア]]功労賞 | 公式サイト = {{URL |https://www.koredeiinoda.net/ |赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ! }} }} '''赤塚 不二夫'''(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄(読み同じ)、[[1935年]]〈昭和10年〉[[9月14日]] - [[2008年]]〈平成20年〉[[8月2日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[タレント]]、[[俳優]]。[[満洲国]][[熱河省 (満洲国)|熱河省]]出身。[[フジオ・プロダクション]]創設者。 == 概要 == 小学生の時に読んだ[[手塚治虫]]の『[[ロストワールド_(漫画)|ロスト・ワールド]]』に影響を受け、漫画家を志す<ref name="gakuin">{{Cite web|和書|url=http://www.manga-g.co.jp/akatsuka.html |title=赤塚不二夫インタビュー アーカイブ |publisher=日本漫画学院 |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080916194413/http://www.manga-g.co.jp/akatsuka.html |archivedate=2008-09-16 |accessdate=2014-06-12 }}</ref>{{Sfn|笑わずに生きるなんて|1984|p=19}}。上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、[[つげ義春]]の推薦で[[曙出版]]から上梓した[[貸本漫画]]『[[嵐をこえて]]』で[[1956年]](昭和31年)にデビュー<ref>{{Cite web|和書|title=【マンガ探偵局がゆく】赤塚不二夫は少女マンガを描いていた? デビュー作はシリアスな少女向け貸本『嵐をこえて』(1/2ページ) |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20180316-GKOUFVOH5BM23EOHIEDBE2DAOA/ |website=zakzak:夕刊フジ公式サイト |date=2018-03-16 |access-date=2023-11-21 |language=ja |last=中野晴行}}</ref>。 その後、赤塚よりも3歳年下の[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]を慕い、[[トキワ荘]]に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『[[おそ松くん]]』『[[ひみつのアッコちゃん]]』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年(昭和42年)に代表作である『[[天才バカボン]]』の爆発的ヒットと、その後の『[[もーれつア太郎]]』『[[レッツラゴン]]』『[[ギャグゲリラ]]』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「'''[[ギャグ漫画]]の王様'''」<ref>{{Cite news |title=ギャグマンガの王様「これでいいのだ!! 映画☆赤塚不二夫」 |url=https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110404/enn1104041541016-n1.htm |newspaper=[[夕刊フジ|zakzak]] |date=2011-04-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140616124730/http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110404/enn1104041541016-n1.htm |archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }}</ref> と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。 == 生涯 == === 生い立ち === [[ファイル:Akatsuka family.jpg|thumb|200px|right|4~5歳の頃の赤塚不二夫<br />(父の藤七・母のリヨと)]] [[ファイル:Marco Polo Bridge Incident 1.jpg|thumb|200px|right|当時の中満国境地帯]] [[ファイル:明末清兴.jpg|thumb|200px|right|父の藤七は北京(北平)より東北に位置する当時中満国境であった万里の長城上の要害関門町・古北口で任務についており藤雄もそこで出生した]] [[1935年]](昭和10年)[[9月14日]]、[[満洲国]][[熱河省 (満洲国)|熱河省]][[灤平県]]古北口古城裡{{Efn|現在の[[中華人民共和国]][[河北省]][[承徳市]]灤平県と[[北京市]][[密雲県]]{{仮リンク|古北口|zh|古北口镇}}との境界線。}}に[[赤塚藤七]]と妻リヨの長男として生まれる{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=9-10}}。 古北口は[[中国本土|中国内地]]である[[河北省 (中華民国)|河北省]]と[[満洲]]・[[熱河省 (満洲国)|熱河省]]との境界であった[[万里の長城]]において[[山海関]]と[[居庸関]]の中間地点に設けられた要害関門の町で、古来より[[北京]](北平)と熱河とを結ぶ要地であり<ref>{{Cite Kotobank|word=古北口|author=|encyclopedia=世界大百科事典 第2版|access-date=2023-11-25}}</ref>、当時は満洲国と[[中華民国]]([[冀東防共自治政府]]をまたぐ)との国境地帯であった。 父親である[[赤塚藤七]]([[1908年]][[4月22日]] - [[1979年]]5月17日・満71歳没)は[[新潟県]][[西蒲原郡]][[四ツ合村]]井随([[潟東村]]を経て現在は[[新潟市]][[西蒲区]]潟東地区[[井随 (新潟市)|井随]])の農家出身で地元の小学校を経て苦学の末、[[陸軍憲兵学校]]の卒業試験を2番目の成績で卒業し、1931年(昭和6年)4月より[[関東軍]][[憲兵 (日本軍)|憲兵]]となり同年9月の[[満洲事変]]に際して[[奉天]]で巡察警邏、郵便検閲、[[鉄道警察]]、[[国際連盟]][[リットン調査団]]護衛などの任務を務めた。しかし1933年(昭和8年)、上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、[[満洲国の警察|満洲国警察]]古北口国境警備隊の[[保安局 (満洲国)|保安局]]特務警察官として当時[[華北分離工作]]による政情不安に揺れていた中満国境地帯での匪賊討伐治安維持任務や現地人への[[宣撫官|定着宣撫工作]]、現地で[[抗日]]活動を行っていた[[東北抗日聯軍]]・[[八路軍]]等の[[抗日パルチザン|抗日ゲリラ]]や[[宋哲元]]・[[冀察政務委員会]]率いる[[国民革命軍]]第29軍と対峙して掃討・謀略([[防諜]])活動を行う[[特務機関]]員をしていた<ref name="gakuin" /><ref>[http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/08/post_c1b4.html 赤塚不二夫の満州]</ref><ref>[http://www.bansei.co.jp/index/mokuroku/m06/%82%DA%82%AD%82%CC%96%9E%8FB.html マンガ ぼくの満洲]</ref>。 父・藤七は非常に厳格でなおかつ権威的であり、[[田河水泡]]の『[[のらくろ]]』や[[中島菊夫]]の『日の丸旗之助』<ref>{{マンガ図書館Z作品|77951|日の丸旗之助}}(外部リンク)</ref> といった漫画を読むことを禁じられたり、箸の持ち方等で厳しくしつけられ、幼い頃の赤塚は恐怖感から父親が大の苦手であり畏怖を感じさせる存在だったという。しかし父は[[宣撫官]]という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には[[抗日]]ゲリラ側から当時の金額で2000円(現在の400〜500万円に相当)もの懸賞金がかけられていたにもかかわらず現地の村人から密告されることもなく、また終戦直後の[[瀋陽市|奉天]]で赤塚家の隣に住む日本人一家が報復として中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=10-92}}。 母親であるリヨ([[1911年]] - [[1970年]]8月20日・満59歳没、旧姓:寺東)は[[奈良県]][[生駒郡]][[矢田村 (奈良県)|矢田村]](現・[[大和郡山市]]矢田口)出身で藤七との結婚前には満洲で[[芸妓]]をしており、藤七とは宴席で出会った後に鉄道で運命的に再会。芸妓としての経験から彼女の左腕には、父とは違う別の男の名前で「○○命」と刺青が彫られていたが、藤七はこのことも含めたリヨの過去を先刻承知のうえですべて受け入れて共通の知人の仲介を経て結婚したという<ref>{{Cite book |和書 |author=赤塚藤七|authorlink=赤塚藤七 |year=1972 |title=星霜の記憶 |publisher=[[フジオ・プロダクション|フジオプロ]] |page= |isbn= }}</ref>。赤塚はこのことを父の回想を通して知り、「これは芸妓という悲しい過去を持つ母に対して父が見せた『いたわり』なのだ」と断言している。また[[1968年]](昭和43年)に藤七が[[結核]]に罹患した際にリヨは「とうちゃんのために」と自らの意思で刺青を除去したという<ref name="マンガをはみだした男">『[[マンガをはみだした男 赤塚不二夫]]』</ref>。なお、リヨは子供の頃に目を傘で突かれたことが原因で右目を失明しており、少年時代の赤塚はタンスの引き出しから見つけた母の義眼であるガラス製の目玉をそうとは知らずに妹たちに見せて驚かせていたところ、母からこっぴどく怒られたと回想している{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=110}}{{Efn|両親が奉天で寿司割烹店を営んでおり冀東防共自治政府地区で少年時代を過ごした弟子に[[古谷三敏]]、祖父が[[満鉄連京線]]熊岳城駅駅長を勤めていたなど一族の所縁があることから満洲を精神的故郷“偽郷”と位置付けており、また子供の頃の事故により右目の視力を失っている人物としては後に赤塚の盟友となった[[タモリ]]がおり、自身や母親との共通点から親近感を抱いたこともあって彼を居候として手厚く迎え入れたとも言われている。}}。 現地での掃討作戦及び華北分離工作の進展により古北口地域の治安情勢が安定したとして、1937年(昭和12年)3月に古北口国境警察隊が解散<ref>[https://web.archive.org/web/20180310201037/http://k-amur.boy.jp/cn9/pg184.html 満州生活写真集「宮岸家族」⑦]、[https://web.archive.org/web/20180310200936/http://k-amur.boy.jp/cn9/pg185.html 満州生活写真集「宮岸家族」⑧]</ref>。その後、[[日中戦争]](北支事変・[[支那事変]])の勃発により日本軍が[[華北]](北支)へと侵攻するのに合わせて(日本勢力圏と対峙していた国民革命軍・八路軍との前線が移動したことで)父・藤七は更なる危険な辺境任務を任されることとなり時には四海冶、二道河へ父親・藤七だけで単身赴任、あるいは母親・リヨと赤塚ら子供達ごと大連の親類へと預けられるか、一家で灤平、小白旗、興隆、東陵、馬蘭関と中国大陸・華北の辺境を転々とすることとなった<ref>[[名和広 (作家)|名和広]]『赤塚不二夫大先生を読む「本気ふざけ」的解釈 Book 1』社会評論社、20頁、2011年</ref>。この時期に赤塚の弟妹として妹・寿満子(長女・1938年生)が承徳県、弟・義大(次男・1940年生)が古北口、弟・宣洋(三男・1942年生)が[[青龍県]]にて生まれている{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=11}}。 1944年(昭和19年)、父・藤七は特務警察官の職を辞し[[瀋陽市|奉天]]で[[鉄西新区 (瀋陽市)|鉄西]]消防分署長となった{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=38}}。 === 終戦 === [[終戦の日#日本における終戦の日|1945年(昭和20年)8月15日]]、小学4年生の赤塚は[[瀋陽市|奉天]]で[[終戦]]を迎えた{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=43}}。しかし翌16日、中国人の群衆が[[鉄西新区 (瀋陽市)|鉄西]]の工場内にある軍需物資を狙って大挙して押し寄せ暴徒化、凄惨な殺戮に発展した{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=44}}。 この時、馬小屋に潜んでいた一家は父の部下だった中国人の手助けもあり、全員中国服を着せられて消防車に乗り、鉄西から無事脱出して事なきを得た<ref>{{Cite book |和書 |author1=赤塚不二夫|author2=北見けんいち|authorlink2=北見けんいち|author3=ちばてつや 他|authorlink3=ちばてつや |year=1995 |title=ボクの満州―漫画家たちの敗戦体験 |publisher=[[亜紀書房]] |page= |isbn=978-4750595245 }}</ref>{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=43-46}}。後に赤塚は「いつも部下の中国人を可愛がっていた親父が、僕たち一家を救ったと思わないわけにはいかなかった」と語っている{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=47}}。しかし父親は[[ソ連対日参戦|侵攻してきた]][[赤軍]]によって[[ソビエト連邦]]へ連行され、[[軍事裁判]]にかけられて4年間[[シベリア抑留|シベリアに抑留]]されることになる。 奉天に残された家族は赤塚が11歳だった1946年(昭和21年)に奉天を後にして海岸([[渤海 (海域)|渤海]]沿岸)の引揚船を目指して徒歩で[[引き揚げ]]を始め、途中でソ連兵からの襲撃を受けてソ連軍[[憲兵]]([[内務人民委員部]][[政治将校]])に助けられながらも[[葫芦島在留日本人大送還]]によって[[葫芦島市|葫芦島]]から[[大発動艇]]に乗船し4日間かけて6月15日、(赤塚にとって初めて見る日本・[[内地]]である)[[佐世保港]]に到着<ref>[http://www.tanken.com/hikiage.html 引き揚げ、そして祖国へ]</ref>、厚生省佐世保引揚援護局(現在の[[浦頭引揚記念平和公園]])から[[国鉄]][[大村線]][[南風崎駅]]を経由し汽車で母の実家がある[[奈良県]][[大和郡山市]]矢田口に移った。 引き揚げまでに妹(次女)の綾子は[[ジフテリア]]により死去し、弟は他家へ[[養子]]に出され(後に赤塚は茨城県の[[常磐炭田]]炭鉱で働いていた彼と一度だけ再会している)、更には死んだ次女である綾子の名を授けられた生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折し、日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という{{Sfn|武居|2007|p=69-74}}<ref>2008年8月13日付『[[しんぶん赤旗]]』掲載・[[石子順]]「赤塚不二夫さんを送る」より。</ref>。 === 引き揚げ後 === 父を除いた一家が奈良へと引き揚げてから母親は[[大日本紡績]]郡山工場の工員寄宿舎で寮母として働くようになり、赤塚は地元の郡山町立郡山小学校に編入<ref name="マンガをはみだした男" />して小学5年生となった。一家が満洲帰りとして差別を受け学校でもいじめの対象となる中、2学期の頃から[[貸本]]屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき[[手塚治虫]]の『[[ロストワールド (漫画)|ロストワールド]]』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する<ref name="gakuin"/>。この漫画がきっかけで、学校で番長を張っていた奥村という同級生と仲良くなり学校生活が一転、柿畑から柿を盗んで売り警察の厄介になるなど、数々の悪行に手を染めることになったが、赤塚のみならずかつて父が現地の中国人に対して親切に接したように、周囲から差別される立場の人間に対して優しい態度をとる一面もあったという。 その後も赤塚は漫画を描き続け、小学6年生になった12歳の時には『ダイヤモンド島』という128ページの[[サイエンス・フィクション|SF]]長編漫画<ref name="マンガをはみだした男" />を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という[[出版社]]へ最初の持ち込みを行ったが失敗した<ref name="village">{{Cite web|和書|url=http://villagecenter.co.jp/soft/akatuka_prof.html |title=赤塚不二夫プロフィール |publisher=Village center |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20001213183800/http://www.villagecenter.co.jp/soft/akatuka_prof.html |archivedate=2000-12-13 |accessdate=2014-06-12 }}</ref>。 中学生となった13歳の時の1949年(昭和24年)秋、母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であったため、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになり、中学1年生になっていた赤塚は[[新潟県]]に住む父親の姉一家{{Efn|以前満洲で父が危険な辺境勤務をしている間に1年間預けられていたことがある。}}である[[大連]]帰りの母子家庭に預けられて母親からのわずかな仕送りで暮らした。 赤塚が14歳になったその年の暮れに、父親が[[舞鶴港]]に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による[[水疱]]でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。母親を除いた父親と3人兄弟の4人一家は父の出身地であり赤塚の本籍地であった新潟県[[西蒲原郡]][[四ツ合村]]井随([[潟東村]]を経て現在は[[新潟市]][[西蒲区]]潟東地区[[井随 (新潟市)|井随]])に移り、赤塚は四ツ合中学校(現・新潟市立潟東中学校)へ転入し、父親は[[農業協同組合]]職員の職を得て彼の実家近くにあった 法讃寺{{Efn|父の実家である赤塚家はこの寺の檀家であったらしく、後に赤塚の両親が死去した際この寺で葬式が行われた。}}に月100円で納屋を間借りをして生活を始めたが、やはり赤塚一家は「外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村では心底とけこむことは出来なかった」という<ref name="青春紀行">[https://archive.is/Pczzu 「青春紀行」『異国の丘新潟』(昭和57年読売新聞大阪本社版掲載)]</ref>{{Efn|しかし、漫画家として成功した後も新潟との関係は大切にしており、法讃寺や潟東歴史民俗資料館、東公園などに多くの直筆画を寄贈しているほか、母校での講演や地元のイベント、同窓会にも積極的に参加していた。没後の2015年には、それら新潟の各施設に寄贈した作品群を集結した展覧会「潟東にゆかりのある 赤塚不二夫 生誕80年記念展」も開催されている<ref>{{Cite web|和書|title=【生誕80周年】ゆかりの地・新潟で「赤塚不二夫 生誕80年記念展」が開催! {{!}} トピックス|url=https://www.koredeiinoda.net/fujiopro-topic/?p=3155|accessdate=2021-06-27|language=ja}}</ref>。また、地元紙「[[新潟日報]]」には『ネコの目ニュース』(1970-71年)や『わたしの生家』(1974年)、『四畳半の西日』(1975年)、『ふるさと人物伝 人生はギャグなのだ』(1996年)、『ほっとする新潟の空気』(2000年)など、全盛期から晩年まで多くの漫画・エッセイ作品を発表している<ref>{{Cite book|和書|title=ユリイカ 総特集・赤塚不二夫|year=2016|publisher=青土社|page=146}}</ref>。}}。 1952年(昭和27年)に赤塚は中学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋小熊塗装店<ref name="マンガをはみだした男" />に就職した。ドラム缶を塗る仕事のほか、映画看板の制作に携わっていた由縁から花月劇場という映画館の管理人と仲良くなったおかげで映画を無料で鑑賞できることとなった<ref name="マンガをはみだした男" />。映画では、初めてみた洋画の『[[駅馬車 (1939年の映画)|駅馬車]]』に衝撃を受け{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=155}}、[[バスター・キートン]]や[[チャーリー・チャップリン]]の[[ドタバタ喜劇]]に感動したという<ref name="gakuin"/>。また、この看板屋の経験は赤塚に大きな影響を与えており、「看板屋では、配色とか技術的な面でマンガに役立った。明朝体でもゴシック体でも、作品タイトルは全部自分で書けるようになったし‥。デザイン学校に通っていたようなもんだね」と語っている{{Sfn|少女漫画家 赤塚不二夫|2020|p=66}}。この時期に『[[漫画少年]]』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。初採用は新潟の看板屋時代をテーマにした作品であり、1954年5月号に掲載された<ref>{{Cite web|和書|title=漫画少年 S29年5月号1954(S29)05.20|url=https://ekizo.mandarake.co.jp/auction/item/itemInfoJa.html?index=583997|website=ekizo.mandarake.co.jp|accessdate=2021-07-03}}</ref>。 18歳だった1954年(昭和29年)頃{{Efn|『[[マンガをはみだした男 赤塚不二夫]]』では1953年〈昭和28年〉としている。}}に父親の頼みもあって上京し、父親の友人の紹介で就職した東京都江戸川区[[小松川 (江戸川区)|小松川]]のエビス科学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『[[漫画少年]]』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の[[石ノ森章太郎]])の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「[[墨汁一滴]]」の[[同人]]に参加。この同人の東京支部に[[長谷邦夫]]や[[よこたとくお]]がいた。また既にプロの漫画家だった[[つげ義春]]が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった{{Efn|投稿欄に住所も載せる緩やかな時代だった。}}<ref>[[松本孝幸]] [http://matumoto-t.blue.coocan.jp/tezuka18.html 手塚治虫とその周辺「つげ義春」]. 2021年9月6日閲覧</ref>。 『漫画少年』の突然の休刊後、つげからプロへの転向を勧められ、一人では心細いとよこたを誘い、よこたと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動することとなる。つげの仲介で[[曙出版]]と契約を交わし{{Efn|最初、よこたと共に[[若木書房]]に持ち込みにいったが、よこたの漫画のみ採用され二件目に行ったのが曙出版である。}}、[[1956年]](昭和31年)6月、描き下ろし単行本『[[嵐をこえて]]』でデビュー<ref name="village"/>。以後、1998年4月発行の文庫版『ひみつのアッコちゃん』まで、曙出版とは40年以上に亘る付き合いとなる。この長期間に亘る契約は曙出版の社長が同郷の新潟であったことが大きく関係しており、赤塚は「実はそのときあんまり色よい返事をもらえそうになかったけれど、最後に出身地の話になってオレと同じ新潟出身だったので、なんとかうまく話がまとまった」<ref>{{Cite book|和書|title=赤塚不二夫漫画大全集DVD-ROM|year=2002|publisher=小学館}}</ref>と語っている。 === トキワ荘時代 === 同年、上京した石森を手伝う形で[[トキワ荘]]に移り、第二次[[新漫画党]]の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した<ref name="fuji">{{Cite web|和書|url=https://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2008/08-292.html |title=これでいいのだ!! 赤塚不二夫 伝説 |publisher=[[フジテレビジョン]] |date=2010-08-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100819050249/http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2008/08-292.html |archivedate=2010-08-19 |accessdate=2014-06-12 }}</ref>。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた[[水野英子]]を非常に気に入り、ことあるごとに結婚を勧めたという。当時、赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた{{Efn|[[2005年]]・[[二見書房]]刊「赤塚不二夫のおコトバ」P.60に「(トキワ荘仲間の中で)オレだけ彼女がいたんだよ。ハンサムだったから」という赤塚の発言が、[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]によって紹介されている。}}。後年のイメージとは異なる、シャイで穏やかな赤塚青年の姿は、トキワ荘を描いた様々な作品で一致している。 当時の赤塚は少女漫画の単行本を3、4ヶ月に一冊描く[[貸本漫画]]家であり、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のジャズ喫茶「ラ・セーヌ」の住み込み店員になろうと思った時期もあったが、安孫子素雄に「一応テラさんに相談してみたら」と勧められ、父と同郷でもあるトキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた[[寺田ヒロオ]]に相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)<ref>{{Cite book |和書 |author=藤子不二雄Ⓐ |title=78歳いまだまんが道を… |page=68 |year=2012 |isbn=978-4120043918}}</ref>。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。 [[1958年]](昭和33年)、作家不足に陥った『[[少女クラブ]]』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「'''いずみあすか'''」{{Efn|原稿提出日を「今日か明日か」と言うことから「[[泉鏡花]]」を連想し、そこをもじって「いずみあすか」となった<ref name="ishinomori pro" />。}}<ref name="ishinomori pro">{{Cite web|和書|url=http://www.ishinomori.com/interview/13_02.html |title=石ノ森章太郎 萬画大全集 動画インタビュー 水野英子・丸山昭(元『少女クラブ』編集長)対談(第2回) |publisher=石森章太郎プロ |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080229005025/http://www.ishinomori.com/interview/13_02.html |archivedate=2008-02-29 |accessdate=2014-06-13 }}</ref> 名義で作品を発表した。 合作の楽しさから、続いて石森と[[水野英子]]との合作ペンネーム「'''U・マイア'''」{{Efn|3人ともワーグナーが好きだったためドイツ名の「マイヤー」が候補となり、そこにU(ドイツ読みでウー)を付け「うまいやー」となり3人の頭文字(水野のM、石ノ森のI、赤塚のA)になるようにもじって「U・MIA」、表記をカタカナとし「U・マイア」となった}}<ref name="ishinomori pro"/> で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。 同年、[[ちばてつや]]の代原にトキワ荘の石森は赤塚を推薦し<ref name="fuji"/>、[[秋田書店]]の名物編集者として知られる[[壁村耐三]]は赤塚に[[読み切り|読切]]漫画を依頼。『[[まんが王]]』(秋田書店)1958年11月号に[[ギャグ漫画]]「ナマちゃんのにちよう日」を発表し、同年12月号より「ナマちゃん」のタイトルで赤塚に無断で連載が決定する。1961年(昭和36年)、当時21歳だったアシスタントの稲生登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.joqr.co.jp/meister/kunimaru/070702.html |title=INAX サウンド オブ マイスター:くにまる東京歴史探訪 |publisher=[[文化放送]] |date=2007-07-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080414032951/http://www.joqr.co.jp/meister/kunimaru/070702.html |archivedate=2008-04-14 |accessdate=2014-06-13 }}</ref>。 その間に、[[横山光輝]]の出張アシスタントをつとめたこともある<ref>{{Cite book |和書 |title=中国の群雄 諸葛孔明(赤塚不二夫 眩しき男たち) |date=1985年1月25日 |year=1985 |publisher=[[旺文社]] |pages=128-129}}</ref>。 === フジオプロ設立 === 1962年(昭和37年)、『[[週刊少年サンデー]]』で「[[おそ松くん]]」、『[[りぼん]]』で「[[ひみつのアッコちゃん]]」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)[[小学館漫画賞]]受賞。1965年(昭和40年)、[[長谷邦夫]]、[[古谷三敏]]、[[横山孝雄]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://blogs.yahoo.co.jp/kaze2010_case_case/9126881.html |title=トキワ荘・青春物語&#x301C;横山孝雄の巻 |publisher=風こぞうのブログ |date=2012-04-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222131438/http://blogs.yahoo.co.jp/kaze2010_case_case/9126881.html |archivedate=2014-02-22 |accessdate=2014-06-13 }}</ref>、[[高井研一郎]]等と東京都新宿区十二社(現在の[[西新宿]])に[[フジオ・プロダクション]]を設立。1969年に株式会社化している{{Sfn|少女漫画家 赤塚不二夫|2020|p=67}}{{Efn|赤塚不二夫は、[[アシスタント (漫画)|アシスタント制度]]は自分が最初に導入したと述べている<ref name="マンガをはみだした男" />。}}。この年に長女の[[赤塚りえ子|りえ子]]が誕生<ref name="zak1">{{Cite news |title=赤塚不二夫さん頑張るのだ!幻の名作を初単行本化 |url=https://www.zakzak.co.jp/gei/2004_09/g2004090609.html |newspaper=[[夕刊フジ|ZAKZAK]] |date=2004-09-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040906235340/http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_09/g2004090609.html |archivedate=2004-09-06 |accessdate=2014-06-13 }}</ref>。また1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立した[[アニメーション]]製作会社の[[スタジオ・ゼロ]]に参加{{Efn|ただし、赤塚は同社の出版部門のみに属し、アニメーション部門にはノータッチであった<ref>文藝別冊 KAWADE夢ムック「総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ」(2008年、[[河出書房新社]])P.249</ref>。}}。1966年(昭和41年)には『[[おそ松くん]]』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化され、赤塚が監修として関わっているほか、主題歌2本の作詞も手掛けている。 1967年(昭和42年)には『[[週刊少年マガジン]]』(講談社)にて「[[天才バカボン]]」、『週刊少年サンデー』にて「[[もーれつア太郎]]」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年(昭和44年)に『[[ひみつのアッコちゃん]]』『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された{{Efn|以後2010年現在までに『天才バカボン』は4度、『ひみつのアッコちゃん』は3度、『おそ松くん』『もーれつア太郎』が2度にわたりテレビアニメ化されている。}}{{Efn|『バカボン』の第1作のアニメ化の際に「パパが無職なのは子供番組として良くない」というテレビ局の要請で植木屋と無断で設定された際には「パパは無職(バガボンド=放浪者)でないといけない」としている赤塚を失望させたと言う。そのために2回目のアニメの際に赤塚は拒否するはずだったと言い、原作に忠実=パパが無職と言うことで「元祖」と言うタイトルを付けており、ED「元祖天才バカボンの春」の作詞も手がけている。}}。 1970年(昭和45年)3月、母親が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め一時退院するものの、ショックから[[クモ膜下出血]]を発症して再入院となる。その後容態が急変するも赤塚の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死状態となり8月20日に59歳で死去した{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=193-198}}。この年に妻と別居状態となり、12月にはスタジオ・ゼロが事実上の解散となった。 1970年11月22日-23日にかけて10年余振りに新潟へ帰郷。サイン会では約300枚の色紙1枚1枚に丁寧にイラストを描き、クラス会にも参加した。「サイン会の時ももっと手を抜いてと言われたけど、それができない。故郷の子供たちにそれができないんです」と語り<ref>{{Cite news|title=ニャロメ故郷に帰る|date=「新潟日報」1970年11月28日}}</ref>、以後、晩年に至るまで、新潟には幾度となく訪れ、同級生との交流、ファンサービスを行っている。 1971年(昭和46年)5月、既に『少年サンデー』での新連載が決まっていたものの赤塚は既にアメリカに在住していた[[森田拳次]]との約束と『[[MAD (雑誌)|MAD]]』編集部への取材との口実で、長谷、[[滝沢解]]、そして当時交際していた愛人の女性とともに渡米。2か月間滞在し、入稿締め切りが迫る中でサンデーの担当編集者である[[武居俊樹]]宛てに新連載のタイトルが入った旨を記した手紙と自由の女神との記念写真を送り付ける。そのタイトルが『[[レッツラゴン]]』で、写真はそのまま扉絵として使用されその後3年にわたり連載される。当初の設定は次第に有形無実となり、劇画や文芸作品までも茶化し武居が「タケイ記者」として作品に登場して赤塚を苛め抜く描写など、ナンセンスを越えたシュールでアナーキーなストーリー展開が連載当時はなかなか理解されなかったという{{Sfn|武居|2007|p=}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koredeiinoda.net/manga/letslagon.html |title=『レッツラゴン』作品紹介 |publisher=赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ |accessdate=2014-06-26 }}</ref>。この年、元・スタジオ・ゼロのアニメーター、[[吉良敬三]]らとアニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立(1981年、フジオプロより独立)。 1971年(昭和46年)9月25日、『[[天才バカボン (アニメ)|天才バカボン]]』が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列で放映開始。 1972年(昭和47年)に『天才バカボン』ほかの作品で[[文藝春秋漫画賞]]を受賞。この受賞がきっかけとなり、[[週刊文春]]で『赤塚不二夫のギャグゲリラ』の連載がスタートし10年を超えるロングランとなる。 また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『[[まんがNo.1]]』を創刊{{Efn|元々、まんがNo.1という名前はフジオプロのファンクラブ会報のタイトルだった}}。多忙を極める赤塚が編集作業に携わることが不可能だったため、実質的な編集長は長谷が務め、赤塚の荒唐無稽なイメージを伝えることに腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年(昭和48年)に6号で休刊<ref name="北島町HOMEPAGE">{{Cite web|和書|url=https://www.town.kitajima.lg.jp/hole/bunka/200709.html |title=文化ジャーナル9月号『まんがNo.1』の時代(14)長谷邦夫さん◎インタビュー |publisher=北島町HOMEPAGE |date=2007-09-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071027015843/http://www.town.kitajima.lg.jp/hole/bunka/200709.html |archivedate=2007-10-27 |accessdate=2014-06-13 }}</ref>。 1973年(昭和48年)11月5日に3年の別居生活を経て妻・登茂子と正式離婚{{Sfn|武居|2007|p=279}}。 1974年(昭和49年)、「週刊少年マガジン」(1974年1月6日第1号)掲載の特別企画「ギャグ界の独裁者 赤塚不二夫の秘密大百科」において、ギャグの一環として実験的に「'''山田 一郎'''」(やまだ いちろう)と[[ペンネーム]]を改名することを宣言。「週刊文春」(1974年1月7日号)掲載の『ギャグゲリラ』を皮切りに、『天才バカボン』『レッツラゴン』を含む連載中の作品、新連載作品、読み切り作品等の全てのタイトルを「山田一郎」名義で執筆するも、広告サイドから苦情があり3か月で元に戻した<ref name="ラディカル・ギャク・セッション">ラディカル・ギャグ・セッション(1988年、河出書房新社)</ref>。 一方でこの年の税務署の調査で税金の支払いが長期に亘り滞納していることが発覚。延滞金だけで6,000万円ともされた。原因はフジオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円ともいわれ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった<ref>{{Cite book |和書 |author=名和広 |authorlink=名和広 |year=2014 |title=赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説 |publisher=[[社会評論社]] |page=190-192 |isbn=978-4784519118}}</ref>。しかし、横領された二億円の中には古谷三敏や[[芳谷圭児]]といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した。その後、赤塚は古谷、芳谷らの被害額を返済している。 なお、この年(1974年)にはこれまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画の登竜門「[[赤塚賞]]」が設立された。 === ステージへの傾倒と長いスランプ === 1975年(昭和50年)10月6日、『[[元祖天才バカボン]]』が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列で放映開始。 この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌5本{{Efn|『天才バカボン』「週刊少年マガジン」、『のらガキ』「週刊少年サンデー」、『ギャグゲリラ』「週刊文春」、『オッチャン』「週刊少年キング」、『ワルワルワールド』「週刊少年チャンピオン」。}}、月刊誌7本{{Efn|『天才バカボン』「月刊少年マガジン」、『赤塚不二夫の歌謡ギャグ劇場』「月刊明星」、『つまんない子ちゃん』「プリンセス」、『らくガキ』「読売新聞 日曜日版」、『ニャンニャンニャンダ』「冒険王」(途中より[[斉藤あきら (漫画家)|斉藤あきら]]による代筆)、『元祖天才バカボン』「月刊テレビマガジン」([[長谷邦夫]]による代筆)、『おまわりさん』「全電通文化」(途中より[[北見けんいち]]による代筆)。}}の同時連載をこなす一方で[[長谷邦夫]]の紹介により[[タモリ]]と出会う。タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中、1977年(昭和52年)を境に、ステージパフォーマンスに強い関心を示し、傾倒していく。後述の[[高平哲郎#面白グループ|面白グループ]]での活動を筆頭に数多くのイベントを企画・出演するようになったが、その10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり<ref name="ラディカル・ギャク・セッション"/>、長いスランプに陥っていることを公言。 1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」での連載が全て終了する。また、同年の「月刊少年マガジン」12月号でも、『天才バカボン』が終了し、以降、執筆活動は縮小傾向をむかえる。 1979年(昭和54年)、3月31日、[[日活#にっかつ時代、ロマンポルノ路線|にっかつ]]配給による赤塚原案、面白グループ脚本による[[ロマンポルノ]]『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』が公開となる。6月23日には赤塚の原案・製作総指揮・脚本、面白グループが製作に関わったコメディー映画『[[下落合焼とりムービー]]』が公開。どちらも監督は[[山本晋也]]が務め、一部ファンからカルト的な人気を博する。そうした陰で5月17日にフジオプロで赤塚のマネージャーとなっていた父親の[[赤塚藤七]]が[[膵癌|すい臓ガン]]の転移により71歳で死去している{{Sfn|これでいいのだ|2008|p=204-208}}。 1982年(昭和57年)、『ギャグゲリラ』の連載が終了。この頃より、酒量が激増する。 1985年(昭和61年)4月から12月にかけて、当時連載中だった「[[週刊少年チャンピオン]]」(秋田書店)の『TOKIOとカケル』、「[[オール讀物|オール読物]]」(文藝春秋)の『赤塚不二夫の文学散歩』、「2001」([[祥伝社]])の『にっぽん笑来ばなし』、「[[サンデー毎日]]」(毎日新聞社)の『赤塚不二夫のどうしてくれる!?』などが立て続けに終了し、ついにマンガ連載は「[[サンケイ新聞]] 日曜版」(産経新聞社)の7コマ作品『いじわる時事』1本だけになってしまう{{Sfn|夜の赤塚不二夫|2021|p=2}}。以後しばらく低迷期が続くが、1986年秋から「[[ビッグコミックオリジナル]]」(小学館)で『「大先生」を読む。』、「話のチャンネル」([[日本文芸社]])で『花ちゃん寝る』、「[[週刊大衆]]」(双葉社)で『ヤラセテおじさん』の連載が開始。いずれも大ヒットとまではいかなかったものの、これらが赤塚の漫画家“復帰作”となった{{Sfn|夜の赤塚不二夫|2021|p=4}}。 1987年(昭和62年)、[[アルコール依存症]]に陥った赤塚のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントで、スタイリストの[[赤塚眞知子|鈴木眞知子]]と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://hon.bunshun.jp/articles/-/489 |title=赤塚不二夫と二人の妻 |publisher=本の話WEB - 文春写真館(文藝春秋) |date=2009-03-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130226125420/http://hon.bunshun.jp/articles/-/489 |archivedate=2013-02-26 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した<ref name="fuji"/>。 この年の夏、テレビ東京の『[[マンガのくに (東京12チャンネル)|マンガのひろば]]』枠で『[[元祖天才バカボン]]』が再放送され、小中学生を中心に「バカボン」人気が再熱した流れから、秋から子ども向け月刊誌「コミックボンボン」(講談社)で『天才バカボン』と『おそ松くん』の新作連載がスタートし、赤塚は漫画家として見事に復活を遂げた{{Sfn|夜の赤塚不二夫|2021|p=5}}。 翌1988年よりアニメ『おそ松くん』が21年ぶりにリメイクされ、高視聴率をマークする。その後も『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』(タイトルは『[[平成天才バカボン]]』)『もーれつア太郎』が続々とリメイク放映されるとともに、赤塚の手による新作漫画が『[[コミックボンボン]]』を中心とする講談社系児童雑誌に連載されるなど健在さを印象付けたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年(平成3年)頃より更に酒量が増え始める。 以後も治療のため入退院を繰り返すものの回復の兆しはなく、[[1992年]](平成4年)には長年赤塚のアイデア[[ブレーン]]として支えてきた長谷がフジオプロを退社<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.kitajima.lg.jp/hole/bunka/200409.html |title=文化ジャーナル9月号 『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版) 著者・長谷邦夫先生に聞く |publisher=北島町HOMEPAGE |date=2004-09-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050421215638/http://www.town.kitajima.lg.jp/hole/bunka/200409.html |archivedate=2005-04-21 |accessdate=2014-06-13 }}</ref>。 1993年(平成5年)にNHK出版から、亡き父母への愛情と賛歌を綴った自叙伝『[[これでいいのだ]]』を刊行。翌1994年(平成6年)、NHKの[[ドラマ新銀河]]枠で連続ドラマ化される。 1997年(平成9年)、第26回[[日本漫画家協会賞]][[文部大臣]]賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://nihonmangakakyokai.or.jp/?tbl=award&startIndex=10 |title=歴代受賞者(日本漫画家協会賞および文部科学大臣賞) 第23回(1994年度) - 第32回(2003年度) |publisher=社団法人 日本漫画家協会 |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131215140842/http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/index.php?tbl=award&startIndex=10 |archivedate=2013-12-15 |accessdate=2014-06-16 }}</ref>。1998年(平成10年)、[[紫綬褒章]]を受章<ref>{{Cite news |title=98年秋の紫綬褒章 赤塚不二夫氏が受賞「俺にくれるの?」 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19981102000.html |newspaper=Sponichi Annex |date=1998-11-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614051531/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19981102000.html |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。 1997年(平成9年)6月1日より、静岡県伊東市の[[池田20世紀美術館]]で、「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」が開催され、好評を博す。デビュー前の貴重な習作から[[1990年代]]初頭までの間に描かれた名作、怪作、およそ200枚に及ぶ美麗な生原稿が展観できるだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦した[[エドヴァルト・ムンク]]、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[エドガール・ドガ]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]といった歴史上の画家の[[パロディ]]・アートも展示。フロアには、バカボンのパパやイヤミの銅像が所狭しとディスプレイされるなど、美術館本来のイメージをぶち破る赤塚ならではの遊び心とウィットが沸き立った大回顧展となった。その後、この原画展は2002年まで、「これでいいのだ!赤塚不二夫展」とタイトルを変え、[[上野の森美術館]]や[[新潟市美術館]]、[[横浜ランドマークタワー|横浜ランドマークプラザ]]、[[箱根彫刻の森美術館]]、京都美術館えき、増田町まんが美術館など、全国を巡業し、いずれも大入りを記録。特に、上野の森美術館では、期間中65,000人を集客し、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。 また、赤塚の故郷である新潟市美術館では「郷土作家シリーズ」と題し、新潟の各施設に寄贈した直筆画のほか、四ツ合中学校(現・潟東中学校)の同級生・小林利明氏が保管していた処女作『ダイヤモンド島』の原画20枚が初公開された<ref>{{Cite book|和書|title=郷土作家シリーズ-赤塚不二夫展-リーフレット|year=1998|publisher=新潟市美術館}}</ref>。初日には赤塚本人も出席し、サイン会やトークイベントに参加。「若い頃、漫画家を目指していたこの新潟で、漫画家となって作品を見てもらえることがものすごく嬉しい。」<ref>{{Cite news|title=新潟日報「赤塚不二夫さんが帰郷 念願個展に喜び」|date=1998年4月10日}}</ref>「新潟時代は漫画家になりたくて一生懸命勉強していたところ。本屋で漫画雑誌を探したり、パーマ屋や映画館の看板を描いたり、思い出深い。きょうは感無量です」「新潟で個展を開けることは、とても嬉しい。なんとも幸せです」<ref>{{Cite news|title=読売新聞「故郷であいさつ なんとも幸せです」|date=1998年4月11日}}</ref>と喜んだ。当時、赤塚の側にいた[[スポーツニッポン]]記者の山口孝によれば「赤塚は珍しくスーツ姿で登場した。何度となく会っているが、スーツを着た赤塚を見たのは初めてだった。いつもなら襟の付いたシャツなら良いほうで、ほとんどTシャツで通すのだが……」、赤塚本人は「ここは特別だからね」と語っていたという<ref>{{Cite book|和書|title=赤塚不二夫伝-天才バカボンと三人の母-|year=2019|publisher=内外出版社|pages=225-226}}</ref>。 同年12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、[[食道癌|食道がん]]と診断され、22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せて24日には退院を強行。民間療法での治療を選択する<ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫氏「食道がん」なのだ 手術拒否、スポニチに告白 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/akatuka/KFullNormal19980327000.html |newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi annex]] |date=1998-03-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614034456/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/akatuka/KFullNormal19980327000.html |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。その後は[[放射線療法|放射線治療]]を併行し、一時は腫瘍が消失するが<ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫さん がん入院を告白 |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19980704000.html |newspaper=Sponichi Annex |date=1999-07-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614050344/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19980704000.html |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>、翌年11月に悪化し再入院。12月に10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ、体重は13キロ減少した<ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫さん がん手術していた 入院5カ月「死んでる暇ない」 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19990409000.html |newspaper=Sponichi Annex |date=1999-04-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614051013/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19990409000.html |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。しかし酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受ける型破りなパフォーマンスを見せた<ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫さん 水割りグビグビ 食道がんから復活 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19990430000.html |newspaper=Sponichi Annex |date=1999-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614045931/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19990430000.html |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref><ref>{{Cite news |title=お別れなのだ 赤塚不二夫さん死去 |url=http://www.asahi.com/special/08-09/news2/TKY200812050244.html |newspaper=[[asahi.com|朝日新聞]] |date=2008-08-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614040012/http://www.asahi.com/special/08-09/news2/TKY200812050244.html |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返した<ref>{{Cite news |title=赤塚さん がん闘病中も酒を手放さず… |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/akatuka/KFullNormal20080803135.html |newspaper=Sponichi Annex |date=2008-08-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081019131328/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/akatuka/KFullNormal20080803135.html |archivedate=2008-10-19 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。 1998年(平成10年)、三作目の「ひみつのアッコちゃん」、1999年(平成11年)、四作目に当たる「レレレの天才バカボン」が、それぞれフジテレビ系、テレビ東京系で放映開始されるが、1980年代後期 - 1990年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり、放送期間に合わせる形で赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。 1999年(平成11年)1月、[[共同通信社]]配信により「[[新潟日報]]」(新潟日報社)ほか全国各紙に新作読み切り『[[お正月ざんす]]』が掲載される。『おそ松くん』の後日談を描いた作品で、絵本やイラストなどを除く完成した漫画作品としては、本作が最後となった{{Sfn|夜の赤塚不二夫|2021|p=7-9}}。なお、本[[遺作]]は赤塚の手による下書きや没アイデアも残されており、2021年7月刊行の『夜の赤塚不二夫』(なりなれ社)に収録された。 2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒し頭を打つ。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、[[急性硬膜下血腫]]と診断される。当初、手術は必要なしと判断されたが、その後右手に[[麻痺]]が出たため緊急手術<ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫さん 開頭手術・さすがに断酒なのダ |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20000912000.html |newspaper=Sponichi Annex |date=2000-09-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614053003/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20000912000.html |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koredeiinoda.net/nikki/2000-8 |title=2000年8月|日記2000 〜 2002 |publisher=赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140616114207/http://www.koredeiinoda.net/nikki/2000-8 |archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }}</ref>、その後は順調に回復し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koredeiinoda.net/nikki/2000-9 |title=2000年9月|日記2000 〜 2002 |publisher=赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140616114947/http://www.koredeiinoda.net/nikki/2000-9 |archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koredeiinoda.net/nikki/2000-10 |title=2000年10月|日記2000 〜 2002 |publisher=赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140616115313/http://www.koredeiinoda.net/nikki/2000-10 |archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }}</ref>、11月1日には退院を果たす<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koredeiinoda.net/nikki/2000-11 |title=2000年11月|日記2000 〜 2002 |publisher=赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140616115503/http://www.koredeiinoda.net/nikki/2000-11 |archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }}</ref>。同年、[[点字]]の漫画[[絵本]]『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た[[視覚障害]]を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の[[盲学校]]に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料([[印税]])を辞退している<ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫氏 目の見えない子にもギャグを… 点字絵本なのだ |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20000812000.html |newspaper=Sponichi Annex |date=2000-08-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140615043726/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20000812000.html |archivedate=2014-06-15 |accessdate=2014-06-15 }}</ref>{{Sfn|武居|2007|p=350-351}}<ref>2001年5月5日放送「美と出会う」漫画家 赤塚不二夫〜ギャグのココロは愛なのだ〜([[NHK教育テレビジョン|NHK教育]])より。</ref>。 2001年(平成13年)2月8日、快気祝いを兼ねた新年会「赤塚大センセイを囲む会」が都内ホテルで催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koredeiinoda.net/nikki/2001-2 |title=2001年2月|2000〜2002 |publisher=赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!! |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614072402/http://www.koredeiinoda.net/nikki/2001-2 |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。当初身内だけの予定が、漫画家仲間を含め約100名が駆け付ける「騒ぎ」に発展。相変わらず水割りを手離さずに新作の構想を語る様子が報道された<ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫氏 元気に新年会なのだ! |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20010209000.html |newspaper=Sponichi Annex |date=2001-02-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614054139/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20010209000.html |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。 === 晩年 === 2002年(平成14年)4月10日、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなる。[[脳内出血]]と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koredeiinoda.net/nikki/2002-4 |title=2002年4月|日記2000 〜 2002 |publisher=赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140616115931/http://www.koredeiinoda.net/nikki/2002-4 |archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }} - 公認サイト内の日記は倒れる前日の記事で終了しており、東京アニメーター学院の入学式で講演を行った事が記載されている。</ref><ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫さん 脳内出血で手術していた |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20020421000.html |newspaper=Sponichi Annex |date=2002-04-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614054540/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20020421000.html |archivedate=2014-06-14 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。この年、[[点字]]絵本の第2弾『赤塚不二夫のさわる絵本“ニャロメをさがせ!”』を発表。また、[[小学館]]からデビュー以降の作品を集めたDVD全集『[[赤塚不二夫漫画大全集 DVD-ROM]]』が発売された。2005年(平成17年)からは[[オンデマンド印刷|オンデマンド出版]]形式で全271巻が販売されているほか<ref>{{Cite web|和書|title=赤塚不二夫漫画大全集 全271巻セット・赤塚 不二夫|コミックパークで立ち読み!|url=https://www.comicpark.net/cm/comc/detail-bnew.asp?detail=1&flag=-1&searchtype=all&keyword=COMC_ASG00143|website=www.comicpark.net|accessdate=2021-10-22}}</ref>、2008年(平成20年)からは『天才バカボン』を皮切りに、各タイトルの収録エピソード数を更に充実させた電子書籍が[[イーブックイニシアティブジャパン|ebookjapan]]より配信されている<ref>{{Cite web|和書|title=電子書籍で『天才バカボン』38巻新発売! {{!}} トピックス|url=https://www.koredeiinoda.net/fujiopro-topic/?p=168|accessdate=2021-10-22|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【まんが界の巨匠】「ギャグ漫画の王様」赤塚不二夫に注目! - 無料まんが・試し読みが豊富!ebookjapan|まんが(漫画)・電子書籍をお得に買うなら、無料で読むならebookjapan|url=https://ebookjapan.yahoo.co.jp/content/author/legend/akatsukafujio.html|website=ebookjapan.yahoo.co.jp|accessdate=2021-10-22}}</ref>(ただし、2021年現在、未配信のタイトルもある)。 2003年(平成15年)、妻の尽力により青梅市に[[青梅赤塚不二夫会館]]を設立。しかし当時、赤塚の妻を取材していたスポーツニッポン記者の山口孝によれば「念願の記念館ではあったが、喜びも半分というところだった」という。妻の本音は「新宿か、せめて新潟に建てたかった」からだったためである<ref>{{Cite book|和書|title=赤塚不二夫伝 天才バカボンと三人の母|year=2019|publisher=内外出版社|page=258|author=山口孝}}</ref>。その後、新宿や新潟に移転されることはなく、2020年(令和2年)3月27日をもって閉館された<ref>{{Cite web|和書|title=<新型コロナ>赤塚不二夫会館が閉館 青梅 外出自粛要請受け4日早く:東京新聞 TOKYO Web|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/24332|website=東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2021-10-22|language=ja}}</ref>。 2006年(平成18年)7月12日、赤塚を看病してきた妻の眞知子が[[クモ膜下出血]]のため56歳で急死<ref name="machiko">{{Cite news |title=赤塚不二夫さんの妻、眞知子さんがまさかの死 |url=https://www.zakzak.co.jp/gei/2006_07/g2006072501.html |newspaper=ZAKZAK |date=2006-07-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070227205635/http://www.zakzak.co.jp/gei/2006_07/g2006072501.html |archivedate=2007-02-27 |accessdate=2014-06-13 }}</ref>。 2年後の[[2008年]](平成20年)[[8月2日]]午後4時55分、[[肺炎]]のため東京都文京区の[[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]で死去した。満72歳だった<ref>{{Cite news |title=漫画家 赤塚不二夫さん死去 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20080802-OHT1T00270.htm |newspaper=[[スポーツ報知]] |date=2008-08-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080805080148/http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20080802-OHT1T00270.htm |archivedate=2008-08-05 |accessdate=2014-06-13 }}</ref>(享年74)。赤塚は2004年から意識不明のまま[[遷延性意識障害|植物状態]]にあったという<ref>[[なぎら健壱]]FC会報</ref>。2008年2月24日には[[ちばてつや]]が赤塚を見舞い、写真をブログで公開していた(後に似顔絵に差し替えられた)<ref>{{Cite web|和書|title=お見舞いで |url=https://ameblo.jp/chibatetsu/entry-10075003955.html |publisher=ちばてつや『ぐずてつ日記』 |date=2008-02-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080420213216/http://ameblo.jp/chibatetsu/entry-10075003955.html |archivedate=2008-04-20 |accessdate=2014-02-05 }}</ref>。また赤塚の死去の3日前の7月30日、前妻でりえ子の母である登茂子が死去していたことが後に報じられた<ref name="日刊スポーツ20080807">{{Cite news |title=赤塚不二夫さん通夜にタモリら1200人参列 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080807-392711.html |newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |date=2008-08-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120127045208/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080807-392711.html |archivedate=2012-01-27 |accessdate=2014-02-04 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://ameblo.jp/chibatetsu/entry-10122964919.html |title=赤塚不二夫 |publisher=ちばてつや『ぐずてつ日記』 |date=2008-08-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090208203444/http://ameblo.jp/chibatetsu/entry-10122964919.html |archivedate=2009-02-08 |accessdate=2014-02-05 }}</ref><ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫さん死去の3日前に前妻が病死 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080803-391174.html |newspaper=nikkansports.com |date=2008-08-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080806025222/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080803-391174.html |archivedate=2008-08-06 |accessdate=2014-06-14 }}</ref>。 赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げたほか、一般紙も一面で大きく掲載した。また[[民間放送|民放]]各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるなど、その一連の報道は赤塚その人が昭和・平成を通して日本の漫画史に一時代を築いた大漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付けることとなった。 また赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせた[[タモリ]]は「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉を寄せた<ref>{{Cite news |title=タモリ、赤塚不二夫さんへコメント「先生、ありがとうございました」 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20080805-OHT1T00034.htm |newspaper=[[スポーツ報知]] |date=2008-08-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090831152907/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20080805-OHT1T00034.htm |archivedate=2009-08-31 |accessdate=2014-02-04 }}</ref>。なお「タモリが赤塚の入院費用を全部出していた」という話がインターネットで流布したが、「これは誤りで入院費用は全部パパのお金で賄った。」と娘のりえ子が著書に記している<ref>[[赤塚りえ子]](著) 『[[バカボンのパパよりバカなパパ|バカボンのパパよりバカなパパ 赤塚不二夫とレレレな家族]]』</ref>。とはいえ「肉親以上」の関係であることに変わりはなく、りえ子に対しても励ましやアドバイスがあったとのこと。 赤塚の葬儀では[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]](安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日に通夜、翌7日に告別式が東京都中野区内にある[[宝仙寺]]で営まれた。喪主は長女・りえ子が務め、告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}、赤塚門下の[[古谷三敏]]、[[高井研一郎]]、[[北見けんいち]]らが弔辞を読み上げた。タモリは本名の“森田一義”として弔辞を読んだが、この時手にしていた巻紙が白紙であったことが報じられ話題となった<ref>{{Cite news |title=ギャグで約8分赤塚弔辞 タモリが明かす真相 |url=https://www.j-cast.com/2008/08/19025350.html |newspaper=[[J-CASTニュース]] |date=2008-08-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110226070238/http://www.j-cast.com/2008/08/19025350.html |archivedate=2011-02-26 |accessdate=2014-02-04 }}</ref>(項目[[タモリ]]も参照)。弔辞は「'''私もあなたの数多くの作品の一つです。'''」と結ばれている<ref>{{Cite news |title=タモリさんの弔辞(全文) 赤塚不二夫さん告別式 |url=https://www.47news.jp/CN/200808/CN2008080701000680.html |newspaper=[[47NEWS]] |date=2008-08-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130604225924/http://www.47news.jp/CN/200808/CN2008080701000680.html |archivedate=2013-06-04 |accessdate=2014-02-04 }}</ref>。弔辞を報じる記事の中で「重苦しい陰の世界」と表現されている箇所が各社に出てくるが、これは「重苦しい意味の世界」の間違い<ref>赤塚不二夫(KAWADE夢ムック 文藝別冊)</ref>。[[アイドル・フォー]]が歌う[[天才バカボン (曲)|「天才バカボン」のアニメ(第1作)のテーマソング]]が[[レクイエム|葬送曲]]として流れる中で出棺、遺体は赤塚の自宅にほど近い[[新宿区]]の[[落合斎場]]で荼毘に付された。[[戒名|法名]]は「'''不二院釋漫雄'''(ふにいんしゃくまんゆう)」{{Efn|漫画好きで知られる[[麻生太郎]]自由民主党幹事長(当時)も「あの種のギャグ漫画の草分け的存在で、(イヤミの)『シェー』はじめ、よく笑った。ちょっと残念だ」とコメントした。{{Cite web|和書|url=http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50687487.html |title=天才といわれ、その天才さえギャグにした「赤塚不二夫」さん死去 |publisher=オフイス・マツナガのブログ!(現役雑誌記者によるブログ日記!) |date=2008-08-03 |accessdate=2014-02-05}}}}。 生前の最後の言葉は、倒れた時に偶然、女性の胸に手が触れて放った「オッパイだ、オッパイ」。最後に残した漫画原稿のネームは、未完成となった『メチャクチャ ヤジキタバカ道中』の65ページ目「思い出をつみ重ねていくのが人生なのよ、イヤーン!H」{{Sfn|コアでいいのだ!さくいんブック|2019|p=149-150}}。最後の仕事は、倒れる前日(2002年4月9日)、18年間欠かさず続けてきた東京アニメーター学院の入学式スピーチとなった{{Sfn|コアでいいのだ!さくいんブック|2019|p=148-149}}。 === 没後 === 2009年(平成21年)、ヒットアニメの原作提供という観点から、[[東京国際アニメフェア]]2009で第5回功労賞を受賞<ref>[https://animeanime.jp/article/2008/12/09/4000.html アニメフェア第5回功労賞 赤塚不二夫氏、小松原一男氏ら9名]. アニメ!アニメ!. 2008年12月9日記事. 2021年9月14日閲覧</ref>。 同年8月より東京銀座の[[松屋 (百貨店)|松屋百貨店]]で「追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」を開催<ref>[https://natalie.mu/music/news/20426 misono「赤塚不二夫展」で大御所マンガ家と生シェーッ!コラボ]. 音楽ナタリー. 2009年8月26日. 2021年9月14日閲覧</ref>、これを皮切りに全国巡業で開催される。 2011年(平成23年)、[[浅野忠信]]、[[堀北真希]]主演による『[[これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫]]』(監督・佐藤英明)が全国東映系で、2012年、[[綾瀬はるか]]主演の実写版「ひみつのアッコちゃん」(監督・[[川村泰祐]])が全国松竹系で、それぞれ劇場公開される。 2013年(平成25年)、新潟市にゆかりのある漫画家の作品などを展示する「[[新潟市マンガの家]]」「[[新潟市マンガ・アニメ情報館]]」がオープン。赤塚作品や赤塚キャラを用いたアトラクションが常設展示される{{Sfn|コアでいいのだ!さくいんブック|2019|p=150}}。 2015年(平成27年)、赤塚不二夫生誕80周年を迎え、その一環として、『天才バカボン』と『[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]』のコラボレート企画『[[天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜]]』(監督・FROGMAN)が全国東映系で劇場公開される。 同年9月には[[BSプレミアム]]において過去の赤塚不二夫特集番組の再放送が行われたほか、新作ドキュメンタリー番組の『赤塚不二夫 最後のこれでいいのだ』が制作、放映され、これまで日の目を見なかった未完成の遺作『ヤジキタ バカ道中』の一部分が初めて一般に公開された。ちなみに、番組中によると、この原稿は何故か自宅のキッチンに無造作に保管されていたという。 また、大人になった『おそ松くん』の6つ子兄弟のその後を描いたアニメ『[[おそ松さん]]』も10月からテレビ東京系列にて放映開始し、以後全国で順次放映。イベント開催、記念切手、関連書籍の多数発売など単なる人気作品に留まらず、社会現象を引き起こすほどの人気を博す。赤塚人気としては、二次媒体との連動も含め、近年にない盛り上がりと発展を見せ、2017年(平成29年)に第2期、2020年(令和2年)に第3期が放映される。 2016年(平成28年)4月30日より、赤塚の生涯を追ったドキュメンタリー映画『[[マンガをはみだした男 赤塚不二夫]]』(企画プロデュース:坂本雅司/監督:[[冨永昌敬]]/特別協力:[[フジオ・プロダクション]])が、[[ポレポレ東中野]]、[[下北沢トリウッド]]、[[新潟・市民映画館シネ・ウインド]]ほか、全国にてロードショー公開される。 2021年(令和3年)、それまで単行本未収録だった幻の18作品をまとめた『[[夜の赤塚不二夫]]』(なりなれ社)が刊行<ref>{{Cite web|和書|title=すべて初蔵出しの“お宝”マンガ集『夜の赤塚不二夫』が7月28日(水)発売! {{!}} トピックス|url=https://www.koredeiinoda.net/fujiopro-topic/?p=5944|accessdate=2021-10-08|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=単行本未収録 “幻の赤塚マンガ” をまとめた究極の1冊が7/28発売! {{!}} アニメージュプラス - アニメ・声優・特撮・漫画のニュース発信!|url=https://animageplus.jp/articles/detail/38369/1/1/1|website=animageplus.jp|accessdate=2021-10-13|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=両極端なレア作品集 赤塚不二夫86歳の誕生日に“良い赤塚”と“悪い赤塚”を読もう! {{!}} アニメージュプラス - アニメ・声優・特撮・漫画のニュース発信!|url=https://animageplus.jp/articles/detail/39327/2/1/1|website=animageplus.jp|accessdate=2021-10-13|language=ja}}</ref>。1986年の連載作品『花ちゃん寝る』全13話をメインに、『モトムくん』『イレズミ作戦』『ナンカナイト物語』『トラベ郎』『赤塚不二夫のギャグ漫字』『愛情レストラン』『[[ウナギイヌ]]』『仲良きことは美しき哉』『愛しのモンローちゃん』『たまごっちなのだ!!』『用心棒』など、それまで存在を知られていなかった作品の数々が、赤塚の事務所である[[フジオ・プロダクション]]によって多数発掘された。また、赤塚の生涯最後の読み切り短編『[[お正月ざんす]]』が単行本に初収録されたほか、同作の別アイデア(未発表原稿)『おめでたいのだ』の存在が明らかになった。 == 人物 == {{出典の明記|section=1|date=2019年12月|ソートキー=人2008年没}} === アルコール依存症 === {{external media|align=right|image1=[[:en:File:Fujio Akatsuka.jpg|赤塚の肖像写真|英語版Wikipedia]]}} 晩年は[[アルコール依存症]]に苦しめられるが、酒に溺れた原因は極度の恥ずかしがり屋であるため、酒なくして人と向き合うことができなかったことと自己分析している。また自分よりお酒を飲む人として、[[たこ八郎]]、[[壁村耐三]]、[[滝田ゆう]]を挙げている<ref>赤塚不二夫の「これでいいのだ!!」人生相談</ref>。なおアシスタントだった[[古谷三敏]]によると、若い頃は一滴も飲めなかったという<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/160398/3 漫画家・古谷三敏が語る 手塚治虫と赤塚不二夫の酒の思い出]</ref>。 === 好きなもの === 愛[[ネコ|猫]]家。1979年(昭和54年)から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫でCMに出演、一躍人気者になった。『菊千代』の名前は、黒澤明監督の映画『[[七人の侍]]』で三船敏郎演じた主人公の名前から採った。赤塚自身も『花の菊千代』(『[[月刊コロコロコミック]]』連載)といった漫画を描いた。しかし[[1997年]](平成9年)に菊千代は他界、赤塚自身のみならず周辺のファンをも悲しませた<ref>{{Cite news |title=赤塚不二夫氏の“長男”菊千代 大往生 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19971011000.html |newspaper=Sponichi Annex |date=1997-10-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140623023229/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19971011000.html |archivedate=2014-06-23 |accessdate=2014-06-23 }}</ref>。 映画好きで、自宅のライブラリーには大スクリーンと3000本以上の映画コレクションがあった<ref>[https://www.koredeiinoda.net/nikki/2001-1 2001年 1月 | 日記 2000~2002]</ref>。また、少年時代の夢は喜劇王[[チャーリー・チャップリン]]の弟子になることだったという{{要出典|date=2022年7月|}}。但し、後年には「ストーリーがしっかりしてて最後には泣かせたりするチャップリンより、ナンセンスな[[バスター・キートン]]の方が好み。意味もなくデカい岩に追いかけられたり、なぜか突然[[ネイティブ・アメリカン|インディアン]]が攻めてきたり、キートンの奇想天外さがいい。自分の漫画も影響を受けている」とコメントしている <ref>『人生これでいいのだ!!』「第七章・映画が教えてくれたのだ!」赤塚不二夫、集英社文庫、[[集英社]]。1999年2月25日。pp.218-224。</ref>。 [[バカボンのパパ]]が一番気に入っているキャラクターで、その理由は「どんなに酔っ払っていてもバカボンのパパの顔だけは、ちゃんと描けるから」とのこと。またバカボンのパパが赤塚の実父・[[赤塚藤七]]をモデルにしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koredeiinoda.net/situmon04.html |title=パパの質問コーナー |publisher=赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!! |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070225111706/http://www.koredeiinoda.net/situmon04.html |archivedate=2007-02-25 |accessdate=2014-06-14 }} - 「片眼のジャックさん」からの質問</ref>こともあり、晩年は赤塚本人がパパのコスプレをすることが多かった。同じく『[[おそ松くん]]』の母親・[[おそ松くん#登場人物|松野松代]]のモデルは赤塚の実母・リヨとされ、自身の少年時代を回顧する作品での実母が松代の顔で描かれる。 [[ディズニーランド]]によく通い、年間パスポートを持っていたことがある。好きな理由のひとつは館内で酒が飲めること<ref>[https://www.koredeiinoda.net/nikki/2001-9 2001年 9月 | 日記 2000~2002]</ref>。 === 嫌いなもの === ニンジンと締切日にきびしい編集者<ref>{{Cite book|和書|title=ニャロメのおもしろ数学教室|year=1995|publisher=新講社}}</ref>、[[ホタルイカ]]<ref>[https://www.koredeiinoda.net/nikki/2002-4 2002年 4月 | 日記 2000~2002]</ref>。 関西人。雑誌連載『赤塚不二夫の人生相談』第25回(『[[週刊プレイボーイ]]』1994年51号){{要ページ番号|date=2023年3月}}では「オレ、新潟から上京してきて、一生懸命、標準語しゃべろうって苦労した方じゃない。だから、あいつらが我が物顔で関西弁しゃべってるの聞くの大っ嫌い」「ただ、困ったことに、オレがこの世で一番好きだったオレのおふくろが奈良の大和郡山出身の生粋の関西人なんだ」「弱っちゃうよ。オレの体には確実に、このセコくてウルさい関西人の血が流れてんだから」「オレはあくまで父親の故郷・新潟の人間として生きてやる。そして、関西の人間なんてサイテーだ!って言い続けてやるぞ!」と語っている。 === エピソード === 『[[ひみつのアッコちゃん]]』の主人公・[[ひみつのアッコちゃん#登場人物|加賀美あつ子]]と『[[おそ松くん]]』の[[おそ松くん#登場人物|トト子]]が似ていることについて、1989年に発行されたコミック本のあとがきで指摘された際、赤塚自身は「そんなわけないだろ」などと逆ギレ気味に反論している。ただし、一方で赤塚が生前「トト子イコールアッコ」という趣旨の発言を残していたらしい、とも伝えられている{{誰2|date=2022年7月}}。 1968年(昭和43年)、[[NHK新人演芸大賞|NHKの漫才コンクール]]で、志賀あきら、榎本晴夫コンビに「求む!秘書」という台本を書き下ろし、準優勝という好成績を収めた。また、この時の様子は『お笑い招待席』(1969年6月7日放送)で放映されている<ref>赤塚不二夫編集*ギャグ漫画ファン誌*「まんがNo.1」第7号(1968年3月発行)p.32</ref>。 2010年(平成22年)、誕生日である[[9月14日]]、[[Google Doodle|Googleのロゴマーク]]に赤塚作品のキャラクターが描かれた<ref>{{Cite news |title=祝・赤塚生誕75周年。Googleロゴがバカボンバージョン |url=https://natalie.mu/comic/news/37626 |newspaper=コミックナタリー |date=2010-09-14 |archiveurl=https://archive.is/sGht |archivedate=2012-07-15 |accessdate=2014-06-13 }}</ref><ref>{{Cite news |title=祝・赤塚生誕75周年。Googleロゴがバカボンバージョン / 2010年9月14日現在のGoogleトップページ。 |url=https://natalie.mu/comic/gallery/news/37626/57233 |newspaper= |date= |archiveurl=https://archive.is/1OjML |archivedate=2014-02-05 |accessdate=2014-06-13 }}</ref><ref>[https://www.google.com/doodles/akatsuka-fujios-75th-birthday Google Doble アーカイブ]</ref>。 [[名和広 (作家)|名和広]]著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』によると、一個人による漫画家の単行本の発行部数が初めて1000万部を突破したのは赤塚だといわれており<ref>『赤塚不二夫大先生を読む「本気ふざけ」的解釈 Book1』p.30</ref>、[[曙出版]]・[[講談社]]より刊行された『[[天才バカボン]]』の単行本だけで1000万部を売り上げたとされている<ref>[https://twitter.com/douteimugaku/status/540849158702104577 名和広のツイート] 2014年12月5日</ref>。 またデビュー以来付き合いがあった[[曙出版]]の社長は赤塚と同じく[[新潟県]]出身で、のちに売れっ子になった赤塚は[[貸本漫画|貸本]]時代にお世話になった恩から曙出版で単行本を出すことを了承<ref>[https://twitter.com/douteimugaku/status/923789908958887936 名和広のツイート] 2017年10月26日</ref>。曙出版はその後『[[おそ松くん|おそ松くん全集]]』の初版だけで[[文京区]]に4階建てのビルを建てるまでに成長し<ref>[https://twitter.com/douteimugaku/status/540852194363195392 名和広のツイート] 2014年12月5日</ref>、ほかに出た赤塚単行本も含めると1500万部以上を売り上げる大ヒットを記録する<ref>[https://twitter.com/douteimugaku/status/540855825586069506 名和広のツイート] 2014年12月5日</ref>。しかし、連載元の出版社がこれを問題視し、今後赤塚の新刊を出す場合は[[印税|著作権使用料]]を支払うよう曙出版に命じたため、1977年の『天才バカボン』31巻を最後に新刊を出せなくなり、以降は再版のみになる<ref>[https://twitter.com/douteimugaku/status/540859119033253888 名和広のツイート] 2014年12月5日</ref>。その後、曙出版の社長が死去した際、赤塚は真っ先に葬儀に駆けつけ、[[火葬|荼毘]]にふされた社長に泣きながら何度もお礼を言っていたという。しかし、その帰り際、赤塚は靴を履き間違えて帰っていき、弔問客の笑いを誘った<ref>[https://twitter.com/douteimugaku/status/540856793539166209 名和広のツイート] 2014年12月5日</ref>。これは湿っぽい雰囲気を変えようとした赤塚流の粋な計らいだったという<ref>[https://twitter.com/douteimugaku/status/540860283875373056 名和広のツイート] 2014年12月5日</ref>。 [[成田闘争]]の支持者だった。1980年には「日本の軍事大国化を許すな!! 三里塚80年決戦の勝利をかちとるのだ!!」という絵を書いている<ref>[https://doro-chiba.org/nikkan_dc/n1980_07_12/n0556.pdf 日刊動労千葉]</ref>。 === 地元での交流 === 自宅兼事務所([[フジオ・プロダクション]])のある[[下落合 (新宿区)|下落合]]・[[中井 (新宿区)|中井]]周辺を愛し、地元住人たちと積極的に交流していた。マンガには「下落合」というワードが頻繁に登場するほか、居酒屋の「権八」{{Sfn|夜の赤塚不二夫|2021|p=231}}、電気屋の「ツツイサウンド」{{Sfn|夜の赤塚不二夫|2021|p=62-63}}、蕎麦屋の「長寿庵」{{Sfn|夜の赤塚不二夫|2021|p=208}}、寿司屋の「白雪寿司」{{Sfn|夜の赤塚不二夫|2021|p=166}}など、実在の店舗名が多数登場している。また、中井駅から下落合駅の一帯を描いた『わが街』という作品も発表している{{Sfn|夜の赤塚不二夫|2021|p=268-269}}。 === 芸能界での交流 === 1967年、テレビ番組『[[まんが海賊クイズ]]』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、[[黒柳徹子]]と共に担当<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.comicpark.net/new/topic/akatsukainterview/akatsuka01.html |title=コミックパーク特別企画〜赤塚ギャグの合奏者たち 第1回 五十嵐隆夫さん |publisher=コミックパーク |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060116080940/http://www.comicpark.net/new/topic/akatsukainterview/akatsuka01.html |archivedate=2006-01-16 |accessdate=2014-06-13 }}</ref>。これを機に、赤塚の交流は各界に広がった。 1973年(昭和48年)にはロック・ミュージシャンの[[内田裕也]]との交友から、日本ロックンロール振興会会長なる役職に就き、その流れで、[[矢沢永吉]]率いる人気ロック・バンド[[キャロル (バンド)|キャロル]]の[[私設応援団]]団長を、赤塚自ら名乗り上げ、務めた<ref>[[名和広 (作家)|名和広]]『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』p.290</ref>。 1970年代半ばには[[山下洋輔]]等を介して素人芸人時代の[[タモリ]]と出会う。タモリの芸を認めた赤塚は大分県日田市の[[ボウリング]]場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや[[高平哲郎]]、[[滝大作]]らと「面白グループ」を結成した{{Efn|[[ビートたけし]]も一時的に参加した事があったが([[ビートたけし#来歴|本人の項]]参照)、グループの雰囲気が肌に合わず離れている。ただし、その後も赤塚の対談集『これでいいのだ。』へ参加したり、バカボンのパパを思わせる扮装を好んで披露したりしている。共演頻度こそ少ないがタモリとも交流を保っており、また[[所ジョージ]]とは公私に亘っての盟友関係にある。}}。高平からは[[由利徹]]を紹介され、赤塚は終生、由利徹を敬愛し{{Efn|武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」に「オレ、由利徹、尊敬しているの。あの人、ずうっと、くだらないことやり続けてるじゃない」「オレは由利徹で行く。死ぬまでくだらない漫画描き続ける」という、赤塚の発言がある{{Sfn|武居|2007|p=244-245}}。}}、由利の弟子だった[[たこ八郎]]が赤塚家の居候となっている。 1982年(昭和57年)、写真家・[[荒木経惟]]との交友から、『[[写真時代]]』(白夜書房)9月号の巻頭グラビアで、漫画家としては初となる[[AV男優|ハードコア男優]]を務め、ファックシーンを披露した(荒木撮り下ろしの写真集『別冊[[噂の真相]] 荒木経惟の真相』所載)。後に受章する[[紫綬褒章]]は荒木経惟に贈っている。 テレビアニメやドラマ、映画などの音響効果や選曲を手掛けていた音響技師の'''“赤塚不二夫”'''は赤塚のペンネーム、および本名(赤塚藤雄)とも同姓同名の別人だが、2人の間には親交があった。{{main|赤塚不二夫 (音響技術者)}} === 全日本満足問題研究会 === 1976年から、『[[週刊読売]]』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚、[[赤瀬川原平]]、[[奥成達]]、[[高信太郎]]、長谷)と名乗り、「バカなことを真面目にやる」連載を行った。1978年には、赤塚不二夫と全日本満足問題研究会と名称を変え、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表。 ==== ライヴ・イン・ハトヤ ==== [[伊東市]]のホテル、[[ハトヤ]]のステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作られた。 赤塚も「駅前ブルース」「想い出のベニス」という二曲の歌唱を務めた。 * 出演:赤塚不二夫/赤瀬川原平/長谷邦夫/奥成達/高信太郎/タモリ/山下洋輔/坂田明/小山彰太/[[林美雄]]/常木健男/伊東鳩子/ハトヤ混声合唱団/下落合テンタクルス/ハトヤ男子従業員一同/ビクター女子従業員一同/ハトヤ・ダンシングチーム/ハトヤ・オールスターズ * 指揮:佐香裕之 * スタッフ:構成・演出:高平哲郎/音楽:[[小林亜星]]、佐香裕之/舞台監督:新井龍夫、星野ジロウ/美術:赤塚不二夫/音響効果:赤塚不二夫(同姓同名のスタッフ)/セットデザイン:茂木のぶお/写真:国玉照男/録音:寺尾寿章、佐藤晋/振付:滝大作/制作:全日本満足問題研究会/協力:伊東ハトヤ、面白グループ、協和広告(株) === 面白グループ === タモリや高平、滝らと結成したグループ。 * 1977年3月、タモリの初LPの完成記念キャンペーンとして、タモリと東京ヴォードビル・ショーの共演によるショー「タモリ・ヴォードビル・ウィーク」を企画・制作。 * 1977年10月29日、渋谷公会堂で『輝け!第一回いたいけ祭り』というタモリや赤塚の“宴会芸”を見せるイベントを行うが赤字。[[奥成達]]編集で書籍『空とぶかくし芸』が刊行され(赤塚は表紙イラストや本文イラストを担当)、赤字を埋めた。 * 1979年3月、[[日活ロマンポルノ]]にて監督:[[山本晋也]]、脚本:面白グループ、主演:[[柄本明]]、主題歌:[[所ジョージ]]、音楽:[[THE ALFEE|アルフィー]]で“赤塚不二夫のギャグ・ポルノ”として『気分を出してもう一度』を製作・公開。また同年6月、[[東映]]系でアメリカのコメディー映画『ケンタッキー・フライド・ムービー』に倣った『[[下落合焼とりムービー]]』を監督:山本晋也、脚本・出演:面白グループで製作・公開。 * 1981年、当時、下森真澄と[[宮村優子 (脚本家)|宮村優子]]の共著で女子大生の赤裸々な本音を綴り、女子大生ブームの先駆けとなった告白本『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本で、女子大生の本音にオジサンが返答するという内容の『SONO・SONO(ソノソノ)』を、面白グループ名義で刊行し、ベストセラーに。1986年には『ソノソノ』をミュージカル・ショーにして、銀座博品館劇場で『Oh! SONO・SONO(オー・ソノソノ)』を上演した。 上記のもの以外に、赤塚がプロデュースしたイベント、また赤塚をフィーチャーしたイベントには次のようなものがある。 :'''赤塚不二夫がプロデュース・フィーチャーしたイベント''' :* マンガ劇画展 赤塚ギャグはここで生まれる!(1970年11月4日 - 、池袋・[[東武百貨店|IKEBUKURO東武]]) マンガ劇画展の一環としてのイベント 原画展のほか、赤塚とフジオ・プロスタッフによる漫画製作の実演も披露 :* 赤塚不二夫1000ページ展(1976年4月2日 - 、池袋・西武デパート) 原画展のほか、赤塚とフジオ・プロスタッフによる漫画製作の実演も披露 :* 赤塚不二夫の大忘年会 花の応援団を応援しよう(1976年12月27日、目黒名人会) :* 赤塚不二夫のステージ・ギャグゲリラ(1977年3月8日、渋谷公会堂) :* 新宿オペラ・カルメン(1977年9月3日 - 9月6日、[[紀伊国屋ホール]]) :* ギャグゲリラ バカ田大学ギャグ祭(1977年9月10日 - 9月18日、東横ホール 現・東横劇場) :* とんでるカントリー王国(1983年8月6日 北海道士幌町) 熱気球による町おこしイベント 赤塚は大統領、たこ八郎は副大統領にそれぞれ就任 :* [[カムイトラノ屈斜路湖ジャズフェスティバル|カムイ・トラノ83 屈斜路湖JAZZフェスティバル]](1983年7月、屈斜路湖畔国立公園内) :* ザ・赤塚不二夫 おそ松くん わんぱくランド(1988年8月10日 - 22日、横浜そごう) おそ松キャラをフィーチャーしたアトラクションのほか、原画も多数展示 8月14日は赤塚不二夫まんが教室を開講 :* 追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年(2009年 - 、銀座松屋百貨店) 後に全国を巡業 :* 赤塚不二夫生誕80周年 赤塚キャラ誕生のひみつ展(2015年6月19日 - 10月4日、明治大学米澤嘉博記念図書館) == 作品 == {{Main|赤塚不二夫の作品一覧}} == 評価 == 共に強い立場にありながら弱い者を守り、決して差別しない態度をとった父親と奈良での小学生時代の同級生の奥村の二人と接した少年時代の経験がきっかけとなって後の赤塚作品では「弱い者いじめはしない」という姿勢が貫かれることとなったとされ、小説家の[[井上ひさし]]は「ある意味で、赤塚の作品は道徳的だ。例えば、暴力シーンはいっぱい出てくるが、弱虫でチビのハタ坊がいじめられるシーンは決して出てこない。喧嘩も、対等か、強い者に逆らう時に起きている。チビ太が一人で六つ子に挑んでいくような時だ。」と評している<ref>[https://lite-ra.com/2016/06/post-2314.html 赤塚不二夫が語っていた戦争と差別…終戦時の満州で助けてくれた中国人、日本に帰って受けたイジメと差別] - [[LITERA]](2016年6月)</ref>。 == 「赤塚不二夫」を演じた俳優 == * [[堤大二郎]] - NHK[[ドラマ新銀河]]『[[これでいいのだ]]』 * [[松田洋治]] - NHK[[銀河テレビ小説]]『[[まんが道]]青春篇』 * [[阿部サダヲ]] - 日本テレビ『[[いつみても波瀾万丈]] 赤塚不二夫』(再現ドラマ内) * [[大森嘉之]] - 映画『[[トキワ荘の青春]]』 * [[水橋研二]] - フジテレビ[[土曜プレミアム]]『これでいいのだ!!赤塚不二夫伝説』 * [[浅野忠信]] - 映画『[[これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫]]』 * [[池田鉄洋]] - NHK[[プレミアムドラマ]]『これでいいのだ!!赤塚不二夫と二人の妻』 * [[又吉直樹]] - 関西テレビ『[[神様のベレー帽〜手塚治虫のブラック・ジャック創作秘話〜]]』 * [[玉山鉄二]] - NHK[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]『[[バカボンのパパよりバカなパパ#テレビドラマ|バカボンのパパよりバカなパパ]]』<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010480 番組エピソード 父と子の絆を描く【父の日ドラマ特集】 -NHKアーカイブス]</ref> * [[林遣都]] - 日本テレビ [[24時間テレビ 「愛は地球を救う」#ドラマスペシャル|24時間テレビドラマスペシャル]] 『[[ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語]]』 * [[音尾琢真]] - 映画『[[止められるか、俺たちを]]』 * [[森功至]] - TVアニメ『[[ぼくらマンガ家 トキワ荘物語]]』(1981年 フジテレビ) == 参考文献 == * [[赤塚藤七]]:『星霜の記憶』(1972年12月、[[フジオ・プロダクション|フジオ・プロ]]) - 赤塚不二夫の父の自伝。不二夫の幼少期に詳しい。 * {{Citation|和書|author=赤塚不二夫|date=1984-03-10|title=笑わずに生きるなんて ぼくの自叙伝|publisher=中央公論社|series=中公文庫|isbn=4122011078|ref={{SfnRef|笑わずに生きるなんて|1984}} }} * 赤塚不二夫:『ラディカル・ギャグ・セッション 挑発する笑いの構造』(1988年、[[河出書房新社]]) - 作品の創作秘話が中心の自伝。2018年に『ギャグ・マンガのヒミツなのだ!』と改題して文庫化されている({{ISBN2|978-4309415888}})。 * 赤塚不二夫:『これでいいのだ』(1993年、[[NHK出版]]) - 家族に関するエピソード中心の自伝。2002年に[[日本図書センター]]より新装版(「人間の記録」シリーズ147)、2008年に[[文藝春秋]]より文庫版(副題「赤塚不二夫自叙伝」)が発売されている。 * {{Citation|和書|author=赤塚不二夫|date=2008-10-10|title=これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|isbn=978-4167753276|ref={{SfnRef|これでいいのだ|2008}} }} * {{Citation|和書|author=赤塚不二夫|date=2019|title=コアでいいのだ!赤塚不二夫|publisher=出版ワークス|isbn=978-4907108311}} - ほぼ全作品の初出データ・ストーリー解説、詳細な年表、原画・下描きなど創作資料を収録<ref>{{Cite web|和書|title=赤塚不二夫作品を310作以上解説、「バカボン」「おそ松」も原画で読めるBOXセット|url=https://natalie.mu/comic/news/312530|website=コミックナタリー|accessdate=2021-11-01|language=ja|publisher=ナターシャ}}</ref>。 ** {{Citation|和書|author=赤塚不二夫|date=2019|title=コアでいいのだ!赤塚不二夫 さくいんブック|publisher=出版ワークス|ref={{SfnRef|コアでいいのだ!さくいんブック|2019}} }} ** {{Citation|和書|author=赤塚不二夫|date=2019|title=コアでいいのだ!赤塚不二夫 レアリティーズブック|publisher=出版ワークス }} * {{Citation|和書|author=赤塚不二夫|date=2020|title=少女漫画家 赤塚不二夫|publisher=[[ギャンビット (企業)|ギャンビット]]|isbn=978-4907462475|ref={{SfnRef|少女漫画家 赤塚不二夫|2020}} }} - 初期少女マンガ作品に関する各種データと名作エピソード、元妻・登茂子の貢献を考察したコラム・創作資料を収録<ref>{{Cite web|和書|title=少女マンガ家としての赤塚不二夫の作品を選りすぐったアンソロジー|url=https://natalie.mu/comic/news/374473|website=コミックナタリー|accessdate=2021-11-01|language=ja|publisher=ナターシャ}}</ref>。ISBN 978-4907462475。 * 赤塚りえ子:『[[バカボンのパパよりバカなパパ|バカボンのパパよりバカなパパ 赤塚不二夫とレレレな家族]]』(2010年、[[徳間書店]]) - 赤塚家にまつわるさまざまなエピソードをひとり娘の視点から秘蔵写真とともに赤裸々に綴った家族録。2015年に[[幻冬舎]]より文庫化されている。文庫版の<nowiki/>ISBN 978-4344423886。 * [[長谷邦夫]]:『ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫とのマンガ格闘記』(1997年、冒険社) ISBN 4938913151。 * 長谷邦夫:『漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語』(2004年、[[清流出版]]) ISBN 4860290755。 * {{Citation|和書|author=武居俊樹|author-link=武居俊樹|date=2007|title=赤塚不二夫のことを書いたのだ!!|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|isbn=978-4167717315|ref={{SfnRef|武居|2007}} }} * [[文藝]]別冊 KAWADE夢ムック『総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ』(2008年、河出書房新社) ISBN 978-4-309-97714-0。 * 名和広:『赤塚不二夫大先生を読む「本気ふざけ」的解釈 Book 1』(2011年、社会評論社) ISBN 978-4784519040。 * 名和広:『赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説「本気ふざけ」的解釈 Book 2』(2014年、社会評論社) ISBN 978-4784519118。 * まんがseek・日外アソシエーツ共著:『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、(2003年2月25日初版発行)、ISBN 4-8169-1760-8。 * 山口孝:「赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母」(2019年、内外出版社) - 1992年から赤塚を取材していた元[[スポーツニッポン]]記者による評論・回顧録。ISBN 978-4862574763。 * {{Citation|和書|author=赤塚不二夫|date=2021|title=[[夜の赤塚不二夫]]|publisher=なりなれ社|isbn=978-4434293030|ref={{SfnRef|夜の赤塚不二夫|2021}} }} - リスト漏れ作品を中心とした"幻の赤塚マンガ"18タイトル、1985年頃の低迷期から復活期・晩年期に関する資料・考察コラムを収録。 * [https://web.archive.org/web/19990910015444/http://www.so-net.ne.jp/tokyotrash/_media/akatsuka/akatsuka_top.html 赤塚不二夫インタビュー プロフィール] * TBSラジオ番組 サンスター文化の泉 ラジオで語る昭和のはなし「ギャグマンガはこうして生まれたのだ!」、2022年9月11日PM23-24放送、出演者:宮崎美子、石澤典夫、ゲスト:赤塚りえ子。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Wikinews|訃報 赤塚不二夫氏 - ギャグ漫画で一世風靡}} * [[赤塚不二夫の作品一覧]] * [[赤塚賞]] - 集英社が新人ギャグ漫画家発掘のために創設した漫画賞。赤塚不二夫自身が審査委員長を担っていた。 * [[アニメ週刊DX!みいファぷー]] - 要所でニャロメなど赤塚キャラが進行役を務め、平成生まれの子供たちに赤塚キャラを知らしめる役割を担っていた。 * [[RIP SLYME]] - [[GROOVISIONS]]が赤塚に触発されたイラストでジャケットデザインを手がける。 * [[エポック社]] - 1977年から1979年まで発売されたボードゲームシリーズ「まんがゲーム」の第9弾として、「赤塚不二夫の駅前タクシーゲーム」を発売。赤塚自らゲームを作成、ボードやカードにはバカボン一家を始めとした赤塚キャラクターが描かれている。 == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|漫画|[[ファイル:Logo serie manga.png|50px|Portal:漫画]]}} * {{URL|http://www.fujio-pro.co.jp/fujio/index.html |フジオ・プロダクション - 赤塚不二夫略歴}} * {{URL |https://www.koredeiinoda.net/ |赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!!}} * {{Mediaarts-db|C47369|赤塚不二夫}} * {{URL |https://www.1101.com/bakabon/ |天才バカボンいまの赤塚さんに会う }}・・・(祖父江慎による紹介)-ほぼ日刊イトイ新聞 * {{URL |http://hana.wwonekorea.com/history/hist/10th94/newManga/man_int-akatukaFujio.html |漫画家たちの熱烈オーエン宣言 赤塚不二夫氏}} * {{NHK人物録|D0009072042_00000}} * {{NHK放送史|D0009050686_00000|プレミアムドラマ これでいいのだ!!赤塚不二夫と二人の妻}} * [https://web.archive.org/web/20070828155252/http://ch-k.kyodo.co.jp/17kyodo/backnumber/backnumber2001/job/job01.html 現代のお仕事 様々な大人たち] * [https://www.yomiuri.co.jp/culture/subcul/20221219-OYT1T50154/ 赤塚不二夫が愛した「実写版バカ田大学」と妥協なき漫画家スピリット…[おそ松くん60周年]娘が語る破天荒人生(読売新聞2022年12月23日掲載記事)] {{赤塚不二夫}} {{藤子不二雄}} {{石ノ森章太郎}} {{手塚治虫}} {{お笑いスター誕生!!}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あかつか ふしお}} [[Category:赤塚不二夫|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:日本の司会者]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:日本の男優]] [[Category:落語立川流]] [[Category:20世紀日本の俳優]] [[Category:21世紀日本の俳優]] [[Category:トキワ荘]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:フジオ・プロダクションの人物|*]] [[Category:タモリ]] [[Category:日本の引揚者]] [[Category:満洲国出身の人物]] [[Category:承徳出身の人物]] [[Category:1935年生]] [[Category:2008年没]]
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一条ゆかり
一条 ゆかり(いちじょう ゆかり、本名:藤本 典子(ふじもと のりこ)、1949年9月19日 - )は、日本の漫画家。岡山県玉野市出身。玉野市立玉野商業高等学校卒業。 少女漫画の技法に貢献した。代表作に『デザイナー』『砂の城』『有閑倶楽部』『プライド』等。 1960年代終わりから70年代の半ばごろ、少女漫画の華麗な画風の進展をリードした作家。平面的・装飾的とも言えるイラスト的な線によるドラマチックな表現を進めた。当時の発表の場である『りぼん』『りぼんコミック』は当時の少女漫画の前衛的な場の一つともなっていた。 その後も総じて安定した長期の作家活動をしている。コメディ「有閑倶楽部」は長くシリーズ化されたヒット作となっている。 ※ りぼんマスコットコミックスから発行される「全2巻」の作品は通常「前編・後編」であるが、ここでは便宜上「全2巻」の表記を用いる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "一条 ゆかり(いちじょう ゆかり、本名:藤本 典子(ふじもと のりこ)、1949年9月19日 - )は、日本の漫画家。岡山県玉野市出身。玉野市立玉野商業高等学校卒業。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "少女漫画の技法に貢献した。代表作に『デザイナー』『砂の城』『有閑倶楽部』『プライド』等。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1960年代終わりから70年代の半ばごろ、少女漫画の華麗な画風の進展をリードした作家。平面的・装飾的とも言えるイラスト的な線によるドラマチックな表現を進めた。当時の発表の場である『りぼん』『りぼんコミック』は当時の少女漫画の前衛的な場の一つともなっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その後も総じて安定した長期の作家活動をしている。コメディ「有閑倶楽部」は長くシリーズ化されたヒット作となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "※ りぼんマスコットコミックスから発行される「全2巻」の作品は通常「前編・後編」であるが、ここでは便宜上「全2巻」の表記を用いる。", "title": "作品リスト" } ]
一条 ゆかりは、日本の漫画家。岡山県玉野市出身。玉野市立玉野商業高等学校卒業。 少女漫画の技法に貢献した。代表作に『デザイナー』『砂の城』『有閑倶楽部』『プライド』等。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 一条 ゆかり | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 藤本 典子(ふじもと のりこ) | 生地 = {{JPN}} [[岡山県]][[玉野市]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1949|9|19}} | 没年 = | ジャンル = [[少女漫画]] | 活動期間 = [[1968年]] - <br/>(1968年以前に単行本デビュー) | 代表作 = 『[[砂の城]]』<br/>『[[有閑倶楽部]]』 | 受賞 = 第10回[[講談社漫画賞]]少女部門<br/>(『有閑倶楽部』)<br/>第11回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞<br/>(『[[プライド (一条ゆかりの漫画)|プライド]]』) | 公式サイト = }} '''一条 ゆかり'''(いちじょう ゆかり、本名:藤本 典子(ふじもと のりこ)、[[1949年]][[9月19日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[岡山県]][[玉野市]]出身。[[玉野市立玉野商工高等学校|玉野市立玉野商業高等学校]]卒業。 少女漫画の技法に貢献した。代表作に『[[デザイナー (漫画)|デザイナー]]』『[[砂の城]]』『[[有閑倶楽部]]』『[[プライド (一条ゆかりの漫画)|プライド]]』等<ref name="tougenochaya2022"/>。 == 概要 == 1960年代終わりから70年代の半ばごろ、少女漫画の華麗な画風の進展をリードした作家。平面的・装飾的とも言えるイラスト的な線によるドラマチックな表現を進めた。当時の発表の場である『[[りぼん]]』『りぼんコミック』は当時の少女漫画の前衛的な場の一つともなっていた。 その後も総じて安定した長期の作家活動をしている。コメディ「有閑倶楽部」は長くシリーズ化されたヒット作となっている。 == 略歴 == * 6人きょうだい(姉2人兄3人)の末っ子として生まれる<ref name="room">[http://chorus.shueisha.co.jp/yukan/room/interview.html 一条ゆかりのプライベートルーム 有閑倶楽部インタビュー]「好きな作家」の項参考。</ref>。中学時代より精力的に漫画を描き始める。 * 高校1年生時の作品「雨の子ノンちゃん」([[若木書房]])で単行本デビュー。 * [[1967年]]([[昭和]]42年) - 第1回[[りぼん]]新人漫画賞に「雪のセレナーデ」で準入選。 * [[1968年]](昭和43年) - 同作で再デビュー。同年春に高校を卒業。 * [[1969年]](昭和44年) - 少女誌での連載を続ける気持ちを固め、上京。 * [[1970年]](昭和45年) - 『りぼん』にて最初の連載「恋はお手やわらかに」を開始<ref>[https://web.archive.org/web/*/http://www.s-woman.net/bebunko/031/ be文庫 一条ゆかりプロフィール]参考。</ref>。同年8月号より始めた「風の中のクレオ」がヒット。 * [[1972年]](昭和47年) - 『りぼん』の別冊付録として『一条ゆかり全集』(全6作)を刊行。その後は「[[デザイナー (漫画)|デザイナー]]」「[[砂の城]]」などの作品でヒットを飛ばした。シリアスな作品を執筆する傍らで「[[こいきな奴ら]]」「[[有閑倶楽部]]」などのコメディ色が強い作品も執筆している。 * [[1986年]](昭和61年) - 「有閑倶楽部」で第10回[[講談社漫画賞]][[少女]]部門受賞。長年に渡って[[集英社]]『[[りぼん]]』にて執筆していたが、『[[Cocohana|コーラス]]』に移籍して活動している。 * [[2007年]]([[平成]]19年) - 「[[プライド (一条ゆかりの漫画)|プライド]]」で第11回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞を受賞。 * [[2008年]](平成20年) - 漫画家デビュー40周年を迎えた。 * [[2014年]](平成26年) - 公益社団法人 [[土木学会]] 市民普請倶楽部 のプロデュースを行う<ref>[http://jsce100.com/node/268 市民普請大賞 漫画家の一条ゆかりさんが応援に来てくださいました! 2014年6月24日付]</ref>。 * 2018年(平成30年) - 画業50周年を記念して東京都の[[弥生美術館]]にて展覧会「一条ゆかり展」を開催<ref name="natalie20210903">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/443514|title=画業50年を振り返る展覧会「一条ゆかり展」が北九州市漫画ミュージアムで開催|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-03|accessdate=2021-09-03}}</ref>。2019年に愛知県、2021年に福岡県でも同展を開催{{R|natalie20210903}}。 == 人物 == * [[1987年]]9月19日から[[1994年]]頃、当時、[[集英社]]の担当編集者だった男性と結婚していたが{{Efn2|一部抜粋:p.62に『三十八歳で結婚した七つ下の夫と、色々葛藤があった末に四十五歳で別れ』/『担当編集者は元夫から代えずに進めた。婚姻関係が終了しても、仕事上の信頼は損なわれないと双方が望んだ』と記載{{Sfn|ジェーン・スー|2023|p=54-62}}。}}、その後離婚して独身となる。<br />なお大の酒好きである元夫の理想の妻は、大酒飲みの気持ちを理解できる同じ[[酒豪]]の女性だったので2人は結婚に至り、「何が取り柄になるかわかったもんじゃない」、「私にとって実に都合の良い男」等と一条本人は結婚当時の[[随筆|エッセイ]]にて分析している<!--典拠としたエッセイ書籍内では、他の頁にも夫の本名「龍一郎」「龍ちゃん」等と多数記載があるが、一般人なので省略した。-->{{Efn2|p.128-129より:『{{fontsize|small|ゆかりの体験エッセイ}} 正しい結婚の勧め』と題し、2頁に渡り一条自身の結婚観や結婚式の模様等を赤裸々に文章で綴っている。一部抜粋引用「1987年9月19日に私一条ゆかりは結婚式をしたのだ!相手はれっきとした人間の男である。」と記載〈初出:[[ぶ〜け#ぶ〜けせれくしょん|ぶ〜けせれくしょん]] 1987年11月20日号〉{{Sfn|一条ゆかり|1990|p=128-129}}。蛇足:本書のp.138-139「あとがき」が担当編集者である夫のボヤキ2頁となっている。}}{{Efn2|巻末「著者あとがき:なんて先の読めない私の人生(書き下ろし)」p.256より一部抜粋:「いつも一緒に有閑のストーリーを考えていた担当と結婚」と記載{{Sfn|一条ゆかり|2011|p=254-259}}。}}。 * 「有閑倶楽部」の公式ページに設置されている作品クイズに苦戦。初級レベルで一度間違え、最上級で断念した<ref>[http://chorus.shueisha.co.jp/yukan/room/column.html 一条ゆかりのプライベートルーム 気まぐれコラム]参考。</ref>。 * かなりの食通・愛酒家だが小食である。旅行の行先も食事のおいしいところを選んでおり、メルヘン嫌いも相まってイギリスに行きたくないと語っていた。 好物は牡蠣だが、生牡蠣アレルギーであり、食べると[[蕁麻疹]]が出るとのこと<ref name="名前なし-1">「一条ゆかりの食生活」</ref>。 幼少期は野菜全般が嫌いであり、今もネギや漬物の類は嫌っており、野菜のキムチは嫌悪している(タコキムチなどは好きとのこと)<ref name="名前なし-1"/>。 * 好きな作家について尋ねられた際、[[筒井康隆]]・[[平井和正]]・[[星新一]]らを挙げている<ref name="room"/>。 * 交流がある著名人は[[藤沢とおる]]や[[吉住渉]]、[[俵万智]]<ref>[http://www.gtpweb.net/twr/mguest35.html 俵万智のチョコレートBOX Machi's Guest]参考。</ref>など。 * 弓月光とは同期であり、山下和美、[[松苗あけみ]]とは旅行を共にするなどの交流がある。 * 『スラムダンク』の三井推しであり、同人誌までチェックするなど「少女漫画の女王」と称される程の人物なのに探究心はとどまることを知らず、漫画家のよしながふみ等はその姿勢に感服している。 * 愛煙家であり、作業場には喫煙ルームがあり、分煙されている<ref name="solomon"/>。 * 若手の時、先輩少年漫画家から「少女漫画は背景とか適当でいいから楽だな」と言われて悔しい思いをしてから、背景の車等を[[弓月光]]、[[新谷かおる]]及び[[聖悠紀]]に書かせるようにした。一条は彼らをメカ3兄弟とよんでいる<ref>"同期生「りぼん」が生んだ漫画家三人が語る45年" 集英社文庫</ref> * 2004年の6月に雑誌の締め切り中に[[緑内障]]を患う<ref name="ryoku">2009年11月10日朝日新聞・朝刊「患者を生きる」1116「目 一条ゆかりの欲望(1)」より</ref>。作業中は時々目が見えなくなることもあるほど悪化しているという<ref name="solomon" />。又、この事について新聞のインタビューでも語っていた<ref name="ryoku" />。 * 作業の前に必ず、花を生ける。生けた花を見ながらアイディアを考えるという。また作業の時は必ず[[作務衣]]を着る<ref name="solomon" />。 * [[左利き]]。左手に重い[[腱鞘炎]]を患っており、ペンを持つ時に左手の人差し指を曲げることが出来ない。痛みを軽減させるため、ネームや下描きの時は右手を使って描くこともある。ただしペン入れだけは利き手である左手で描いている<ref name="solomon">「[[ソロモン流]]」出演時より。</ref>。また、2018年の[[弥生美術館]]個展のトークショーでは、10年にわたる休業の結果、[[腱鞘炎]]はめきめき良くなっていると発言している。<ref>[https://natalie.mu/comic/news/311407 コミックナタリー2018/12/10 一条ゆかりにファンが人生相談!トークショーで結婚観、今後の活動を赤裸々に語る]参考</ref>。 * [[2022年]]近況と漫画制作について ** 6月エッセイ集より:『現在、私は漫画家としては第一線を退いていて、たまにイラストを描いたりしてる程度(P.82)』『2.0あった視力は今や0.3くらいで、おまけに乱視で白内障(これは年だから)。両眼が緑内障で片方はほとんど見えない! 腱鞘炎もあるし…ほぼ廃人コース一直線(悲)。 良いも悪いも漫画家人生は満喫したので何の悔いもありません。(P.184)』『今でこそ健康のために断酒しています(P.194)』『世間的常識を考慮して、70代なら「おばあさん」で仕方ないと自主的に書いたけど…本人にはその自覚はまったくない(P.223)』等と、記述がある<ref name="tougenochaya2022">上述4件いずれも、最新の一条著作「不倫、それは峠の茶屋に似ている」集英社,2022年6月29日第1刷発行より抜粋/代表作や受賞歴も参照</ref>。 ** 9月[[阿川佐和子]]との対談より:『休筆宣言をしたことはないんですが、そういうことになってて。(P.122-123)』『もう連載のような大きな仕事はしないとは言いました。(P.123)』『(阿川Q:もう一度、漫画を描こうというお気持ちは?に対し)全くない。元々たくさん描こうと思っていなかったんです。だからもうずっと過剰労働で……。(P.123)』等と、本人発言がある<ref>上述3件いずれも、「[[週刊文春]] 2022年9月8日号」9月1日(木)発売,連載対談「阿川佐和子のこの人に会いたい」第1408回P.118-123のゲスト・一条ゆかり本人発言より抜粋</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://bunshun.jp/denshiban/articles/b3865 |title= 阿川佐和子のこの人に会いたい ゲスト・一条ゆかり | 週刊文春 電子版 |publisher= [[株式会社文藝春秋]] |date= 2022-09-02 |accessdate= 2022-09-05 }} ☆注:有料会員記事</ref>。 == 作品リスト == === りぼんマスコットコミックス === ※ [[りぼんマスコットコミックス]]から発行される「全2巻」の作品は通常「前編・後編」であるが、ここでは便宜上「全2巻」の表記を用いる。 * 恋の1・2作戦(1970年、全1巻) ** 恋の1・2作戦(『りぼん』1970年1月号別冊付録) ** クロディーヌ・愛を!!(『りぼんコミック』1970年1月号) ** 雪のセレナーデ(『りぼん』1968年3月号) * [[恋はお手やわらかに]](1972年、全1巻) ** 恋はお手やわらかに(『りぼん』1970年1月号 - 6月号、全6回、初連載作品) * [[風の中のクレオ]](1971年、全2巻) ** 風の中のクレオ(『りぼん』1970年8月号 - 1971年2月号、全7回) ** 二十日間の恋(『りぼんコミック』1970年6月号、1巻収録) ** 風の詩(『りぼんコミック』1970年10月号、1巻収録) ** 100個めの風船(『りぼんコミック』1970年11月号、2巻収録) ** 夏の終りに(『りぼんコミック』1970年8月号、2巻収録) * [[はだしのマドモアゼル]](1972年、全1巻) ** はだしのマドモアゼル(『りぼん』1971年8月号別冊付録) ** ヘイ! メリアン(『りぼんコミック』1969年6月号) ** スラックスお嬢さん(『りぼんコミック』1969年9月号) * [[さらばジャニス]](1972年、全1巻) ** さらばジャニス(『りぼん』1971年10月号) ** あいつの夏(『りぼん』1971年5月号・6月号、全2回) * [[恋するお年頃]](1973年、全1巻) ** 恋するお年頃(『りぼんコミック』1971年1月号・2月号) ** 恋はおまかせ(『りぼんコミック』1970年7月号) ** プラトニックぶるーす第一番(『りぼん』1971年7月号) * [[わらってクイーンベル]](1974年、全2巻) ** わらってクイーンベル(『りぼん』1973年4月号 - 9月号) ** プレイボーイをやっつけろ(『りぼんコミック』1970年3月号) ** ラブ♥ゲーム(『りぼん』1973年11月号) * [[雨あがり]](1974年、全1巻) ** 雨あがり(『りぼん』1971年4月号) ** 女性志願(『りぼん』1973年1月号) ** セント・マリーの牧師さま(『りぼん』1972年3月号) * [[ハートに火をつけて (漫画)|ハートに火をつけて]](1975年、全1巻) ** ハート火をつけて(『りぼん』1973年2月号別冊付録) ** シェルフィールドの冬(『りぼん』1971年12月号) ** [[アミ…男ともだち]](『りぼん』1973年3月号) * [[こいきな奴ら]](1975年・1978年、全2巻) ** こいきな奴らI ジュディス♥ジュデェス(『りぼん』1974年1月号) ** こいきな奴らII エスパー狩り(『りぼん』1975年1月号・2月号) ** こいきな奴らIII 危険がいっぱい(『りぼん』1976年2月号別冊付録) ** こいきな奴らIV ドーミエ三世の遺産(『りぼん』1977年2月号・3月号) * [[ジェミニ (漫画)|ジェミニ]](1976年、全1巻) ** ジェミニ(『りぼん』1975年4月号) ** ふたりだけの星(『りぼんコミック』1970年5月号) ** かもめの城(『りぼん』1969年夏休み大増刊号) ** マドモアゼル由美(『りぼんコミック』1969年5月号) * [[ママン・レーヌに首ったけ]](1976年、全1巻) ** ママン♥レーヌに首ったけ(『[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]』1975年33号) ** ラブラブ・ハイスクール(『りぼんコミック』1969年10月号) ** ミス・キューピット(『りぼんコミック』1969年2月号) * [[デザイナー (漫画)|デザイナー]](1976年、全2巻) ** デザイナー(『りぼん』1974年2月号 - 12月号、全11回) * [[ティー・タイム|ティー♥タイム]](1977年、全2巻) ** ティー♥タイム(『りぼん』1976年5月号 - 11月号、全7回) ** 彼…(『りぼんコミック』1971年3月号、1巻収録) ** ジルにご用心(『りぼんコミック』1970年9月号、1巻収録) ** 花嫁はいかが!?(『りぼんコミック』1969年4月号、2巻収録) ** 夜のフェアリー(『りぼんコミック』1969年7月号、2巻収録) * [[砂の城]](1979年 - 1982年、全7巻) ** 砂の城 第一部(『りぼん』1977年7月号 - 1979年7月号、全25回) ** 砂の城 第二部(『りぼん』1980年11月号 - 1981年12月号、全13回) ** くうちゅう・しばい(『りぼん』1980年9月大増刊号、7巻収録) * [[星降る夜にきかせてよ]](1980年、全1巻) ** 星降る夜にきかせてよ(『りぼん』1977年1月号別冊付録) ** ハスキーボイスでささやいて(『りぼん』1979年9月号) * [[ときめきのシルバー・スター]](1981年、全2巻) ** ときめきのシルバー・スター(『りぼん』1979年11月号 - 1980年8月号、全10回) ** 果樹園(『りぼん』1980年9月号、2巻収録) * [[有閑倶楽部]](1982年 - 2002年、既刊19巻<!--続刊中?--><small>(2010年4月時点)</small>) ** 有閑倶楽部(『りぼんオリジナル』『りぼん』『コーラス』1981年 - 2002年) ** 失せしわが愛(『りぼん』1972年10月号、2巻収録) ** 恋唄姫(『りぼんオリジナル』1984年夏の号、5巻収録) ** 淋しい大人たち(『[[ぶ〜け]]』1989年12月号、12巻収録) ** だからぼくはため息をつく(『[[Cocohana|コーラス]]』1993年No.2、14巻収録) ** 愛でなんか死ねない(『[[YOUNG YOU]]』1994年4月号、15巻収録) ** ピザもガキもデリバリー(『YOUNG YOU』1994年3月号、18巻収録) ** ドイツ・フランス食物語(『YOUNG YOU』1994年11月号、18巻収録) * [[すくらんぶる★えっぐ]](1983年、全1巻) ** すくらんぶる★えっぐ(『りぼん』1982年5月号 - 8月号、全4回) ** 空のむこう(『りぼん』1982年11月号) * [[それすらも日々の果て]](1985年、全1巻) ** それすらも日々の果て(『りぼんオリジナル』1983年秋・冬の号、1984年春・夏の号、全2回) * [[シンデレラの階段]](1986年、全1巻) ** シンデレラの階段(『りぼんオリジナル』1985年秋の号) ** 今宵あなたと踊りたい(『りぼん』1984年11月号) ** 私が愛した天使(『りぼんオリジナル』1984年冬の号) * [[夢のあとさき]](1988年、全1巻) ** 夢のあとさき(『りぼん』1987年5月号 - 7月号、全3回) ** 混線レースは2対2(『りぼん』1972年11月号) * [[ロマンチックください]](1990年、全1巻) ** ロマンチックください(『りぼん』1988年10月号 - 12月号、全3回) ** ロマンチックあ・げ・る(『りぼん』1989年8月号・9月号、全2回) * [[女ともだち (一条ゆかり)|女ともだち]](1991年・1992年、全3巻) ** 女ともだち(『りぼん』1990年6月号 - 12月号、1991年6月号 - 1992年1月号、全14回) ** 氷雨(『りぼん』1972年12月号) === りぼんデラックスコミックス === * [[一条ゆかり長編集]](1973年、全3巻) ** 春は弥生(『りぼん』1972年4月号別冊付録、1巻収録) ** おとうと(『りぼん』1972年6月号別冊付録、1巻収録) ** 雨のにおいがする街(『りぼん』1972年8月号別冊付録、2巻収録) ** [[摩耶の葬列]](『りぼん』1972年7月号別冊付録、2巻収録) ** クリスティーナの青い空(『りぼん』1972年5月号別冊付録、3巻収録) ** 9月のポピィ(『りぼん』1972年9月号別冊付録、3巻収録) === マーガレットコミックス === * [[こいきな奴ら|こいきな奴ら PART2]](1987年、全1巻) ** こいきな奴ら PART2 パラノイア・パーティ(『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』1986年37号 - 41号) ** こいきな奴ら PART2 デッド・ゾーン(『週刊マーガレット』1986年44号 - 48号) * [[日曜日は一緒に]](1988年、全1巻) ** 日曜日は一緒に(『週刊マーガレット』1987年38 - 42号) ** 先生はお年ごろ(『りぼん』1968年秋の大増刊号) ** 兄貴の初恋(『ジュニアコミック』1969年3月号) * [[おいしい男の作り方]](1989年、全2巻) ** おいしい男の作り方 PART1(『[[ザ マーガレット|マーガレット]]』1988年7号 - 9号) ** おいしい男の作り方 PART2(『マーガレット』1989年9号 - 13号) === ぶ〜けコミックス === * 猫でもできる海外旅行(1993年、全1巻) ** 東方見分録(『ぶ〜け』1990年11月号) ** 日本に一番ちかい島(『ぶ〜け』1991年2月号) ** 我々の深き野望(『ぶ〜け』1991年10月号) ** 猫でもできる海外旅行(『ぶ〜け』1992年4月号) ** 犬でもできる語学留学(『ぶ〜け』1992年11月号 - 1993年1月号) ** 外人はあなどれない(『コーラス』1993年No.3) * [[うそつきな唇]](1994年、全1巻) ** うそつきな唇(『ぶ〜け』1993年10月号 - 12月号、全3回) ** 犬を飼いましょう(『ぶ〜け』1993年5月号) === ヤングユーコミックス === * [[恋のめまい愛の傷]](1995年、全2巻) ** 恋のめまい 愛の傷(『コーラス』1994年7月号 - 1995年3月号、全8回) ** マダムゆかりのダマールな日々(『YOUNG YOU』1994年2月号、1巻収録) ** 今年の夏は寒かった!!(『コーラス』1994年2月号、2巻収録) * [[正しい恋愛のススメ]](1996年 - 1998年、全5巻) ** 正しい恋愛のススメ(『コーラス』1995年10月号 - 1998年11月号、全25回) ** 正しい恋愛のススメ -特別番外編-(『コーラス』1996年4月号、1巻収録) ** メイキング・オブ「正しい恋愛のススメ」(『コーラス』1997年1月号、3巻収録) ** 隣の幸福(『YOUNG YOU』1995年10月号、5巻収録) * [[天使のツラノカワ]](2000年 - 2002年、全5巻) ** 天使のツラノカワ(『コーラス』1999年10月号 - 2002年3月号、全27回) ** メイキング・オブ「天使のツラノカワ」(『コーラス』2000年11月号、3巻収録) === クイーンズコミックス === * 一条ゆかり THE BEST(2001年、全1巻) ** 収録作品:「淋しい大人たち」「だからぼくはため息をつく」「犬を飼いましょう」「愛でなんか死ねない」 * [[プライド (一条ゆかりの漫画)|プライド]](2003年 - 2010年、全12巻) ** プライド(『コーラス』2003年2月号 - 2010年2月号、全72回) ** あいじんなんにんできるかな♪(『コーラス』1996年9月号、1巻収録) ** 無閑倶楽部 有閑倶楽部×プライドコラボスペシャル(『コーラス』2007年12月号、11巻収録) === その他 === * 一条さんちのお献立て(1990年、全1巻) ** 1980年代に『マーガレット』に掲載された旅行記、エッセイ、書き下ろしの対談などを収録 * 5愛のルール(2003年、集英社漫画文庫、全1巻) ** 1975年に『りぼん』に連載されたが第一部終わりのまま単行本未収録だった作品。未完。1980年のエッセイ風コミック「くうちゅう・しばい」併録。 * 不倫、それは峠の茶屋に似ている たるんだ心に一喝!! 一条ゆかりの金言集(2022年6月 集英社) - エッセイ集,全223頁。漫画『その後の有閑倶楽部』3作(4頁+4頁+8頁)も収録。ISBN 978-4-08-333168-8(紙書籍発行より約1ヶ月後に電子版も配信)。 == イラスト提供 == * [[ライオン (企業)|アクロン]](2009年) - CM中イラストとして、オリジナルキャラクターの「洗濯ヨシ子」を描いている。<ref>[https://www.lion.co.jp/ja/company/press/2009/2009092.htm ライオン・ プレスリリース 2009年10月29日付]</ref> == 出演番組等 == * [[趣味百科]] 少女コミックを描く(1991年4月2日 NHK教育) - 「アトリエ訪問」コーナーに登場。 * [[BSマンガ夜話]](NHK BS2)- 以下の回にゲスト出演 ** 『[[SLAM DUNK]]』1997年1月7日 ** 『[[動物のお医者さん]]』1997年5月27日 ** 『[[エースをねらえ!]]』1999年7月17日 ** 『正しい恋愛のススメ』2000年10月31日(本人出演なし、ゲストは[[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]と[[わかぎゑふ|わかぎえふ]]) ** 『[[おいしい関係]]』2002年2月28日 ** 『[[エリート狂走曲]]』2003年2月25日 * [[ソロモン流]](2006年[[4月9日]]、[[テレビ東京]]) - 「少女漫画の女王の華麗なる私生活と苦悩」と題し、作業場を公開するなど密着取材に応えた。 * [[ほびーワールド計画]] #33(2008年4月、[[関西テレビ☆京都チャンネル]]) - [[川久保拓司]]が京都取材に同行し、漫画家一条ゆかり・『有閑倶楽部』の誕生秘話、『プライド』の魅力についてインタビューした。 * [[ノージーのひらめき工房]] (2013年7月6日、[[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]) *[[グレーテルのかまど]](2020年2月3日、Eテレ) * 阿川佐和子のこの人に会いたい 第1408回「漫画家 一条ゆかり」、週刊文春、2022年9月8日号、頁118-123。# 対談 == 関連人物 == === 編集者 === * [[佐治輝久]] - デビューさせてくれた『りぼん』の編集者 === 漫画家 === * [[弓月光]] - 第1回りぼん新人賞の同期受賞者で友人。 === アシスタント === * [[内田善美]] * [[おおやちき]] * [[松苗あけみ]] * [[風間宏子]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=一条ゆかり|date=1990-07-18 |title=一条さんちのお献立て:ゆに〜く生活エッセイ|series=集英社ガールズコミックススペシャル/[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]特別編集|pages=141 |publisher=[[集英社]] |isbn=4088550471 |ref={{SfnRef|一条ゆかり|1990}} }}※7月13日発売。 * {{Citation|和書|author=一条ゆかり|date=2011-06-22 |title=[[有閑倶楽部]]:有閑伝説|volume=11 |series=[[集英社文庫]]コミック版:い34-41 |pages=261 |publisher=集英社|isbn=978-4086191401 |ref={{SfnRef|一条ゆかり|2011}} }}※6月17日発売。 * {{Citation|和書|author=[[ジェーン・スー]] |date=2023-04-12 |title=連載:「彼女がそこにいる理由」13人目 最終回 ジェーン・スー×一条ゆかり|journal=[[文藝春秋#刊行物|週刊文春WOMAN]] 2023春号〈文春ムック〉|volume=17 |pages=54-62 |publisher=[[文藝春秋]] |isbn=978-4160070615 |url=https://bunshun.jp/articles/-/61376 |ref={{SfnRef|ジェーン・スー|2023}} }}※3月22日発売。 == 外部リンク == * {{Mediaarts-db|C47519|一条ゆかり}} * [http://chorus.shueisha.co.jp/yukan/index.html 有閑倶楽部ホームページ] - 集英社による有閑倶楽部の公式ホームページ。 * [http://hanasyoubu.blog.drecom.jp/archive/44077 医療・福祉・介護・環境の得々かわら版] - NPO法人花しょうぶ運営の新聞掲載記事を幅広く利用できるよう転載しているページでの「一条ゆかり-目(緑内障)」の1回目。{{リンク切れ|date=2019年10月}} ; [[日経ウーマン|日経クロスウーマン]]全4回インタビュー ** なお第2回目途中から第4回目までは有料会員登録記事。 # {{Cite web|和書|url=https://woman.nikkei.com/atcl/aria/column/19/041400254/072100004/ |title=一条ゆかり 『その後の有閑倶楽部』は最後の新作漫画|website=[[日経ウーマン]] |work=大人になった漫画少女へ |author=加藤京子 |publisher=[[日経BP]]|date=2022-07-25 |accessdate=2023-11-07 }} # {{Cite web|和書|url=https://woman.nikkei.com/atcl/aria/column/19/041400254/072900005/ |title=『その後の有閑倶楽部』 社会人になった6人を描く苦労|website=日経ウーマン|work=大人になった漫画少女へ |author=加藤京子 |publisher=日経BP |date=2022-08-08 |accessdate=2023-11-15 }} # {{Cite web|和書|url=https://woman.nikkei.com/atcl/aria/column/19/041400254/083100007/ |title=一条ゆかり 女はどう生きればいいか、漫画で描いてきた|website=日経ウーマン |work=大人になった漫画少女へ |author=加藤京子 |publisher=日経BP |date=2022-09-05 |accessdate=2023-11-15 }} # {{Cite web|和書|url=https://woman.nikkei.com/atcl/aria/column/19/041400254/100600008/ |title=離婚、緑内障…でもご機嫌でいられる仕組み 一条ゆかり|website=日経ウーマン |work=大人になった漫画少女へ |author=加藤京子 |publisher=日経BP |date=2022-10-13 |accessdate=2023-11-15 }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いちしよう ゆかり}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:岡山県出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]]
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うすた京介
うすた 京介(うすた きょうすけ、1974年5月25日 - )は、日本の漫画家。愛知県生まれ、熊本県合志市育ち。熊本県立大津高等学校美術コース卒。妻は漫画家の榊健滋。 主に『週刊少年ジャンプ』でギャグ漫画を発表。代表作に『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』、『ピューと吹く!ジャガー』、『フードファイタータベル』。 1990年、「ザ★手ぬきくん対物酢御くん」で第2回GAGキング特別賞を受賞。同作品の「パート2」が『週刊少年ジャンプ』(集英社)1991年5号に掲載されてデビュー(なお、パート1はジャンプ・コミックスより刊行の短編集『チクサクコール』に掲載)。本人曰く、「白黒で描いたものが2色カラーになって掲載され、驚いた」という。1991年、「それゆけ!未確認飛行物体男」で第34回赤塚賞佳作を受賞し、『週刊少年ジャンプ増刊 サマースペシャル』(集英社)掲載。 1995年から1997年まで、『週刊少年ジャンプ』で「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」を連載。同作は人気を博し、1998年にはアニメ化された。連載終盤には「若さゆえ疲れ切り、原稿を放り出し逃げた」という噂があったが、後にうすた本人はこれを否定し、実際は意図して落としたのではなく最後までやったが落ちた、と述べている。 1999年、『週刊少年ジャンプ』18号より同年40号まで「武士沢レシーブ」を連載する。 2000年、「ピューと吹く!ジャガー」を『週刊少年ジャンプ』で連載開始。2010年第38号まで10年の長期に渡って連載した。 2015年、『少年ジャンプ+』(集英社)で『フードファイタータベル』を連載。すでに妻の榊健滋も同サイトで『ラブデスター』を連載していたので、夫婦そろっての連載となった。 2016年、『少年ジャンプルーキー』にて自身の名前を冠した新人賞「うすた京介漫画賞」が創設される。 2021年、アイドルグループ「きのホ。」の漫画・キャラクターデザイン担当として運営陣に参加する。 台所にあったウスターソースから名前をとって「うすた宗介」として賞に応募、ところが誌面での受賞発表では誤植で「うすた京介」になっていた。「誤植でも受賞した名前だからといいか」ということで現在のペンネームになったという。 独特のセンスと描写で描くシュールギャグを得意とする。 叶恭弘によると「紳士」。かた焼きそばが大好物。喫煙者。学生時代は剣道部と美術部に入っていた。 『すごいよ!!マサルさん』のコミックス巻末では、声優椎名へきると対談をしているが、同作品のキャラクターである「田中・スーザン・ふ美子(さかきばらのぶゆき)」のシンボルの赤いマスクを被っていた。当時、本人は顔出しを控えていたが、後の『ピューと吹く!ジャガー』には節々で顔出しをしている。またジャンプリミックス版では、お笑いコンビさまぁ〜ずの三村マサカズと対談している。 アニメ監督の大地丙太郎は、「すごいよマサルさん」のアニメ化の際、原作の作者のセリフの適当さに親近感を抱いていたが、実際に会ったら非常に真面目な性格で、演出内容の細かい訂正を要求され、困惑したと後述している。 パチンコが嫌いである。 2016年12月29日、第一子となる男児が誕生。2018年7月3日、第二子となる女児が誕生。2018年12月より北海道札幌市に在住。
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うすた 京介は、日本の漫画家。愛知県生まれ、熊本県合志市育ち。熊本県立大津高等学校美術コース卒。妻は漫画家の榊健滋。 主に『週刊少年ジャンプ』でギャグ漫画を発表。代表作に『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』、『ピューと吹く!ジャガー』、『フードファイタータベル』。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = うすた 京介 | ふりがな = うすた きょうすけ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[愛知県]] | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1974|5|25}} | 没年 = | ジャンル = [[ギャグ漫画]] | 活動期間 = [[1990年]] - | 代表作 = 『[[セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん]]』{{R|gashapon}}<br />『[[ピューと吹く!ジャガー]]』{{R|gashapon}}<br />『[[フードファイタータベル]]』{{R|gashapon}} | 受賞 = 1990年:第2回[[GAGキング]]特別賞<br />[[1991年]]:第34回[[赤塚賞]]佳作<br />[[2008年]]:第1回ギャグ漫画家大喜利バトル優勝 | 公式サイト = [https://archive.md/loBWV めくるめけ日々]<!-- http://homepage2.nifty.com/usuta --><br />{{Twitter|k_usuta}} }} '''うすた 京介'''(うすた きょうすけ、[[1974年]]<ref name="offcialweb">「[https://archive.md/ks2gb プロフィール]<!-- http://homepage2.nifty.com/usuta/syoukai.html -->」『[https://archive.md/loBWV めくるめけ日々]<!-- http://homepage2.nifty.com/usuta/ -->』(公式個人サイト)</ref>[[5月25日]]<ref name="公式訂正">「[https://archive.md/wAYEG ウィキペディア]<!-- http://homepage2.nifty.com/usuta/note/2006-10/10-13.html -->」 [https://archive.md/fOou 前の日記]<!-- http://homepage2.nifty.com/usuta/note/noteset.html -->、2006年10月13日。</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]<ref>[https://twitter.com/k_usuta twitterでの自己紹介欄]</ref>。[[愛知県]]生まれ<ref name="offcialweb" /><ref name="jinmei">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、61頁</ref>、[[熊本県]][[合志市]]育ち<ref>[https://natalie.mu/comic/news/13941 うすた京介、熊本の野外ステージでフリートークライブ] - コミックナタリー 2009年3月3日 2014年5月10日閲覧</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20140513011806/http://kumamoto-kenjinkai.com/big_name/index.php?bunyakey=7 熊本出身有名人] - 東京熊本県人会 2014年5月10日閲覧</ref>。[[熊本県立大津高等学校]]美術コース卒<ref name="jinmei" />。妻は漫画家の[[榊健滋]]<ref name=tw150905>[https://twitter.com/k_usuta/status/640211545687851008 公式Twitter 2015年9月5日]</ref>。 主に『[[週刊少年ジャンプ]]』で[[ギャグ漫画]]を発表。代表作に『[[セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん]]』、『[[ピューと吹く!ジャガー]]』、『[[フードファイタータベル]]』<ref name="gashapon">{{Cite web|和書|url=https://gashapon.jp/news/hushigi/|title=うすた京介先生原案!!不思議生物がガシャポンに登場!|website=ガシャポン|publisher=バンダイ|accessdate=2023-02-04}}</ref>。 == 略歴 == [[1990年]]、「ザ★手ぬきくん対物酢御くん」で第2回[[GAGキング]]特別賞を受賞。同作品の「パート2」が『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])1991年5号に掲載されてデビュー(なお、パート1は[[ジャンプ・コミックス]]より刊行の短編集『チクサクコール』に掲載)。本人曰く、「白黒で描いたものが2色カラーになって掲載され、驚いた」という<ref name="公式訂正"/>。[[1991年]]、「それゆけ!未確認飛行物体男」で第34回[[赤塚賞]]佳作を受賞し、『[[少年ジャンプNEXT!!|週刊少年ジャンプ増刊 サマースペシャル]]』(集英社)掲載。 [[1995年]]から[[1997年]]まで、『週刊少年ジャンプ』で「[[セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん]]」を連載。同作は人気を博し、[[1998年]]にはアニメ化された。連載終盤には「若さゆえ疲れ切り、原稿を放り出し逃げた」という噂があったが、後にうすた本人はこれを否定し、実際は意図して落としたのではなく最後までやったが落ちた、と述べている。 [[1999年]]、『週刊少年ジャンプ』18号より同年40号まで「[[武士沢レシーブ]]」を連載する。 [[2000年]]、「[[ピューと吹く!ジャガー]]」を『週刊少年ジャンプ』で連載開始。2010年第38号まで10年の長期に渡って連載した。 [[2015年]]、『[[少年ジャンプ+]]』(集英社)で『[[フードファイタータベル]]』を連載。すでに妻の榊健滋も同サイトで『[[ラブデスター]]』を連載していたので、夫婦そろっての連載となった<ref name=tw150905/>。 [[2016年]]、『少年ジャンプルーキー』にて自身の名前を冠した新人賞「'''うすた京介漫画賞'''」が創設される<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2075909/full/|title=『うすた京介漫画賞』創設、次世代の才能を発掘へ 10・31まで作品募集|newspaper=ORICON STYLE|date=2016-07-29|accessdate=2016-07-29}}</ref>。 2021年、アイドルグループ「[[きのホ。]]」の漫画・キャラクターデザイン担当として運営陣に参加する。 == 人物 == 台所にあった[[ウスターソース]]から名前をとって「うすた宗介」として賞に応募、ところが誌面での受賞発表では誤植で「うすた京介」になっていた<ref>[https://twitter.com/k_usuta/status/8331200607 Twitter/うすた京介:ペンネーム適当に台所にあるやつから付けちゃえってこと ...]</ref>。「誤植でも受賞した名前だからといいか」ということで現在のペンネームになったという<ref>[https://twitter.com/k_usuta/status/8331404681 Twitter/うすた京介:もともとそれ以前の投稿作もペンネーム適当につけてて、 ...]</ref>。 独特のセンスと描写で描く[[シュール]]ギャグを得意とする。 [[叶恭弘]]によると「[[紳士]]」。かた焼きそばが大好物<ref>「[https://archive.is/TU0j かた焼きそば]<!-- http://homepage2.nifty.com/usuta/note/2006-09/9-24.html -->」 [https://archive.li/fOou 前の日記]<!-- http://homepage2.nifty.com/usuta/note/noteset.html -->、2006年9月24日。</ref>。喫煙者。学生時代は[[剣道|剣道部]]と[[美術|美術部]]に入っていた。 『すごいよ!!マサルさん』のコミックス巻末では、声優[[椎名へきる]]と対談をしているが、同作品のキャラクターである「田中・スーザン・ふ美子(さかきばらのぶゆき)」のシンボルの赤いマスクを被っていた。当時、本人は顔出しを控えていたが、後の『ピューと吹く!ジャガー』には節々で顔出しをしている。またジャンプリミックス版では、お笑いコンビ[[さまぁ〜ず]]の[[三村マサカズ]]と対談している。 アニメ監督の[[大地丙太郎]]は、「すごいよマサルさん」のアニメ化の際、原作の作者のセリフの適当さに親近感を抱いていたが、実際に会ったら非常に真面目な性格で、演出内容の細かい訂正を要求され、困惑したと後述している<ref>『これが「演出」なのだっ 天才アニメ監督のノウハウ』大地丙太郎</ref><ref name="dai">[[佐野亨]]編「インタビュー 大地丙太郎 とにかくたくさん、死ぬまでつくり続けたい 原作ものとギャグ」『アニメのかたろぐ 1990-1999』[[河出書房新社]]、2014年5月30日、ISBN 978-4-309-27493-5、222頁。</ref>。 パチンコが嫌いである<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/6317274/ 漫画家うすた京介さんのパチンコ業界へのTwitter発言がネット掲示板で話題に ライブドアnews 2012年2月27日]</ref>。 2016年12月29日<!--17時21分-->、第一子となる男児が誕生<ref>[https://twitter.com/k_usuta/status/814475249181827073 うすた京介公式Twitter 2016年12月29日]</ref>。2018年7月3日<!--13時28分-->、第二子となる女児が誕生<ref>{{cite news|url=https://hochi.news/articles/20180703-OHT1T50286.html|title=「すごいよ!!マサルさん」の漫画家うすた京介氏、第2子長女誕生を報告「母子共に健康です」|newspaper=スポーツ報知|date=2018-07-03|accessdate=2018-07-04}}</ref>。2018年12月より[[北海道]][[札幌市]]に在住。 === 趣味 === * 故郷のJリーグチーム・[[ロアッソ熊本]]のファンである。『ジャンプ』の巻末コメントに「にわか[[サッカー]]ファンとしては自分の育った熊本のアルエット熊本([[ロアッソ熊本]]の前身)を応援したい」、「[[ロアッソ熊本]]のJ2デビュー戦をテレビで見る事ができた。がんばれ熊本!」<ref>週刊少年ジャンプ2008年17号巻末コメント</ref>等と書いており、時間があればテレビ観戦している。 * [[セガ]]の[[マニア]]であることを公言しており、作中によくセガの商品が登場する(ロボピッチャという昔のおもちゃのピッチングマシーンや、[[セガサターン]]で発売された『[[バーチャコップ]]』等)。作品上以外でも、『ジャンプ』誌上の巻末コメントや単行本等で『[[パンツァードラグーン|パンツァードラグーンツヴァイ]]』を誉め、『[[赤い光弾ジリオン]]』の思い出を語り、「『[[プロサッカークラブをつくろう!|Jリーグ プロサッカークラブをつくろう!]]』に熱中している」とコメントするなど、並々ならぬ熱意を見せている。 ; 音楽 * 音楽好き(主に邦楽)であり、漫画家になってなかったらミュージシャンになっていたという。『ジャンプ』の巻末コメントでは音楽関係の話題が多い。 * コミックスでもギターメーカーのパロディ(ギバサン)や[[SUPER BUTTER DOG]](イーアルファンキー烏龍茶)、[[くるり]](ずるり)、[[中村一義]](中村かずよし・ひろしの新世界紀行)など音楽アーティストのパロディが登場する。また『マサルさん』では、[[野村義男]]や[[Wink]]などが実名で登場し、扉絵に[[BLANKEY JET CITY]]のアルバムの名前がさりげなく刻まれていたりする。『マサルさん』などのコミックスにおいては音楽・芸術関係の個人的な知人の作品やコメントなどを載せていたこともある。 * [[RIZE]]の[[KenKen]]と交流がある。[[Perfume]]のファンである<ref>「[http://usuta.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_849f.html パフューム]」 [http://usuta.cocolog-nifty.com/blog/ うすた日記]、2008年6月30日。</ref>。 === 影響 === * 最も影響を受けた漫画家に[[島本和彦]]を挙げている。島本の漫画家20周年記念時にはコメントを寄せた。そして「影響を受けたもの全体を包み込むような別次元の存在」として、[[長新太]]を挙げた。その他、[[原哲夫]]、[[新沢基栄]]、[[徳弘正也]]、[[井上雄彦]]、[[吉田戦車]]、[[上野顕太郎]]、[[新井理恵]]の影響を受けている<ref name="公式訂正" />。作中の直接的なパロディとしては、[[川崎のぼる]]、[[つのだじろう]]、[[楳図かずお]]、[[車田正美]]、[[高橋陽一]]などの影響も窺える。 * 『[[週刊少年ジャンプ]]』2007年39号で[[増田こうすけ]]とのコラボレーションで、増田が『ピューと吹く!ジャガー』を、うすたが『[[ギャグマンガ日和]]』を描いている。なお『[[QuickJapan]]』に掲載された[[しりあがり寿]]とのギャグ対談において、好きな漫画家3人の中の一人に増田を挙げている。理由は「面白い」「投稿作品を見た時から『すごい』と感じた」などである。 == メディア出演など == * 『ピューと吹く!ジャガー THE MOVIE』に[[カメオ出演]]、同じく『ピューと吹く!ジャガー いま、吹きにゆきます』では声優として出演している。 * 2008年7月30日、[[おおひなたごう]]主催の『第1回ギャグ漫画家大喜利バトル』に出演し優勝した<ref>「[http://yj.shueisha.co.jp/special/gagogiri/ おおひなたごうPresents:ギャグ漫画家大喜利バトル - Web YOUNG JUMP]」 [http://yj.shueisha.co.jp/ 週刊ヤングジャンプ公式サイト]。</ref>。 * [[HINTO]]のミニアルバム「チェーンサマー」の収録曲「バブルなラブ」の[[ビデオクリップ]]に『漫画家』として本人が顔出し出演している[http://www.youtube.com/watch?v=67s0XgtaLlY]。 * 2013年3月公開の映画『鎌倉物語・黒い桜』([[葉山陽一郎]]監督作品)では、主人公の夢に登場する不思議なキャラクターの“竹男”を演じている(なお、本作品は20年前に葉山監督が自主製作映画として撮影したもの。出演の経緯は、デビュー前に俳優志望の友人のツテでエキストラとしてワンシーン出演したものである<!--なお、著名になった現在のうすたの名前を全面に押し出した映画の宣伝方法などについて、快く感じていない。-->)<ref>[https://twitter.com/k_usuta/status/314716728691142656 2013年3月22日 twitter公式アカウントの発言より]</ref>。 * 2016年12月25日、フジテレビ放送のドラマ『[[俺のセンセイ]]』の寿司屋の大将役でテレビドラマ初出演。うすたが主演を務める宮本浩次のファンだったことから実現した<ref>{{cite news|url=http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2016/161224-i347.html|title=第28回フジテレビヤングシナリオ大賞『俺のセンセイ』|newspaper=とれたてフジテレビ|date=2016.12.24|accessdate=2016-12-25}}</ref>。 * 2017年1月の『[[少年ジャンプ+]]』の30秒CMで顔出し出演。本人の音声コメントが流れ、パソコンと液晶タブレットを使ったデジタル作画で漫画を描く姿や、気晴らしに公園で中国拳法の演武を練習する姿が放映された。 * 2021年10月12日、『[[猫舌SHOWROOM]] 豪の部屋』([[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]])に自身が運営に参加しているアイドルグループ「[[きのホ。]]」と共にリモート出演<ref>{{YouTube|4MR3aKkMLzA|『豪の部屋』うすた京介、漫画家兼アイドル運営についてや、きのホ。の共同生活の実態など。}}</ref>。2022年5月20日、きのホ。のライブに対バン(トークライブ)相手として参加。<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/kinopo_idol/status/1527267012422299649 |url=https://twitter.com/kinopo_idol/status/1527267012422299649 |website=Twitter |access-date=2022-05-20 |language=ja}}</ref> == 作品リスト == === 連載作品 === * [[セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん]](1995年 - 1997年、『週刊少年ジャンプ』、コミックス全7巻) ** 2008年、完全版ならぬウ元ハ王版が全5巻で刊行された。 * [[武士沢レシーブ]](1999年、『週刊少年ジャンプ』、コミックス全2巻/2007年、集英社文庫、全1巻) * [[ピューと吹く!ジャガー]](2000年 - 2010年、『週刊少年ジャンプ』、コミックス全20巻/2015年、集英社文庫、傑作選全3巻) * [[フードファイタータベル]](2015年 - 2018年、『[[少年ジャンプ+]]』、コミックス全7巻)<ref>{{cite news|url=http://nihombashi.keizai.biz/headline/214/|title=うすた京介さん5年ぶりの新刊「フードファイタータベル」1巻発売! 特別企画で「マサルさん」がジャンプに18年ぶりの登場|publisher=ねとらぼ|date=2016-01-04|accessdate=2016-04-08}}</ref> === 作品集 === * [[チクサクコール うすた京介短編集]](集英社、2001年) === 単行本未収録作品 === * ザ★手ぬきくん対物酢御くん(パート2)(1991年、『週刊少年ジャンプ』) * 口うるさげなアンチクショウ(1992年、『週刊少年ジャンプ[[週刊少年ジャンプの増刊号|特別編集増刊]]』Winter Special) * [[ピューと吹く!ジャガー#ショルダータックルヤスザキマン|ショルダータックルヤスザキマン]](2007年、『週刊少年ジャンプ』2007年20号) * ダブルマメダイチ(2009年、『週刊少年ジャンプ』) * ポー(2010年、『週刊少年ジャンプ』、トップ・オブ・ザ・スーパー・レジェンド) * Aボーイ〜溜め込んだ想い〜(2013年、『少年ジャンプNEXT!』2013 SPRING) * [[ゆるキャラ]]伝説 [[くまモン]]じゃないヤツ物語(2014年、『週刊少年ジャンプ』2014年22・23合併号) * パラレルワールドくん(2020年、『[[ジャンプSQ]]』2020年11月号) * きのうまでのポノガタリ(2021年<ref>{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/438773|title=うすた京介、現実の新人アイドルグループ・きのホ。と連動するギャグ新連載|date=2021-07-29|accessdate=2021-07-30}}</ref> - 、[[きのホ。]]公式サイト、公式Twitter) === その他 === * うすた京介の実際にみた人はいないが実在しないとも言い切れない不思議生物図鑑<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-02-03|title=うすた京介の実際にみた人はいないが実在しないとも言い切れない不思議生物図鑑 ついに発売!!|journal =最強ジャンプ|volume=2023年3月号|publisher = 集英社|page=153|asin = B0BSNY8R1C}}</ref>(原案{{R|gashapon}}、2023年) == アシスタント == * [[平野正臣]]<ref>「[http://masaru.j-jaguar.com/ すごいよ!!マサルさん ウ元ハ王版]」</ref> * [[藤野耕平]]<ref name="公式訂正" /> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|3}} == 外部リンク == * {{Twitter|k_usuta}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:うすた きようすけ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:熊本県出身の人物]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:本名非公開の人物]] [[Category:熊本県立大津高等学校出身の人物]] [[Category:1974年生]] [[Category:存命人物]]
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浦沢直樹
浦沢 直樹(うらさわ なおき、1960年1月2日 - )は、日本の漫画家。東京都府中市出身。1983年デビュー。漫画賞の受賞が多く、手塚治虫文化賞大賞を2度受賞している唯一の漫画家である。2021年12月時点で紙のコミックスの世界累計発行部数は1億4000万部を突破している。府中市立府中第四中学校、明星高等学校、明星大学人文学部経済学科卒業。 1960 - 1970年代のロックのファンで、『20世紀少年』にはその影響が色濃く反映されている。特にボブ・ディランの大ファンであり、2007年にはロッカー和久井光司との共著『ディランを語ろう』を発行したほか、2016年には個展の特別イベントとして『ボブ・ディラン 聴いて歌って描きまくる』を開催するなどしている。 1960年、東京都府中市に次男として生まれる。幼稚園には通わず、昼間は祖父母と3人きりの幽閉状態であった。このころ、手塚治虫の『鉄腕アトム』と『ジャングル大帝』を買い与えられ、自分でも漫画を描くようになる。 地元の小学校に入学、3年生から学級委員を務め、学級新聞に4コマ漫画を連載した。一時期いじめられかけたこともあったが、クラスのガキ大将に漫画を描いたことがきっかけでいじめはピタリと止まったという。このころ、初めて長編漫画『太古の山脈』を描き上げる。当時テレビでも放映していたフィルム・ノワールの影響を受けた暗い内容のもので、当時は4つ上の兄がもっぱらの読者であった。 手塚治虫の『火の鳥』を読み衝撃を受ける。中学では当初陸上部に入るも、先輩の偉そうな態度が嫌になり、軽音楽部へ転入。吉田拓郎にのめり込み、拓郎が影響を受けたと公言するボブ・ディランの研究を始める。中学生時代の経験は後に『20世紀少年』に活かされ、浦沢は「ケンヂが校内放送で曲をかけたが変化無しと言うのは自分自身の実体験だが、こういうことをした人は結構多かった」「10分の1くらいは自叙伝」と語っている。また、中学の1年先輩に小室哲哉がおり、浦沢がリクエストした『20th Century Boy』を流した放送部には小室が部長として所属していた。 高校、大学も軽音楽部に所属していた。大友克洋作品に衝撃を受ける。一方で漫画の制作も続けており、高校では国語の教科書に載っていた芥川龍之介の『羅生門』を漫画化している。もっとも当時の梶原一騎ブームに乗れず、一時期漫画に興味を失いかけていたこともあった。しかし大学の時に登場した大友克洋をはじめとするニューウェーブの作品群に感化され、漫画に対する情熱を取り戻した。 「マンガ君」と思われるのが嫌で、大学では漫研には近寄らなかったが、漫研の人よりもたくさん漫画を描いていたという。なお大学の軽音部では1年上にTHE STREET SLIDERSのHARRYが所属しており、プロの演奏を目の当たりにして、自身のバンドをきっぱりと断念。下手にバンドで食べていこうと思わなかったのは、彼のパフォーマンスを見たからかもしれないと語っている。 もともと漫画家になるつもりはなかったが、就職活動時に小学館に編集者としての面接を受けた際、ついでに持って行った原稿「Return」が新人コミック大賞に入選、これを機に1年で芽が出なければやめるつもりで漫画家を志す。アシスタント等を経て、1983年3月に「BETA!!」(8ページ、『別冊ゴルゴ13』No.56に掲載)でプロデビューし、1984年開始の「踊る警官」で初連載する。 長崎尚志担当のもと、『ビッグコミックオリジナル』で外国を舞台にした『パイナップルARMY』『MASTERキートン』を連載する一方、『ビッグコミックスピリッツ』で『YAWARA!』『Happy!』と女子スポーツを題材にした作品を発表し人気を得る。1986年開始の『YAWARA!』以降は2誌掛け持ちで、毎月100枚を越える連載を10年以上続けた。 スリラー作品『MONSTER』、手塚治虫の『鉄腕アトム』をリメイクした『PLUTO』により2度の手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。2004年には『20世紀少年』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で最優秀長編賞を受賞している。 『週刊モーニング』にて2008年から『BILLY BAT』を隔週で連載開始。何度か長期休載を挟みつつ2016年に完結。2012年から2014年まで、『MASTERキートン』の正式な続編である『MASTERキートン Reマスター』を『ビッグコミックオリジナル』に不定期掲載した。 2008年より長崎尚志とともに名古屋造形大学(2007年まで名古屋造形芸術大学)の客員教授も務めている。2014年からは「浦沢直樹の漫勉」がNHK Eテレにおいてスタートした。 2018年、『連続漫画小説 あさドラ!』の連載開始にあわせ、浦沢作品の雑誌での電子書籍の配信が解禁となる。 2020年に開催される東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の公式アートポスター、「あなたの出番です。」を手掛ける。 2021年12月28日、浦沢作品の電子書籍の配信を開始。浦沢は「やはり紙の本が好き」だが「そうも言ってられない」ため、読者に漫画を楽しんでもらえるよう、最善の形を追求していくという。初の電子書籍の配信は、浦沢のファンの間で大きな反響を得た。 浦沢の作品は登場人物の表情が印象的で、その微妙さが浦沢漫画の特徴の一つとも言われている。浦沢は原稿にペン入れをする時に、最も気を付けているのは人物の表情であると語っている。浦沢はわかりやすく単純な表情を嫌っており、「絵文字のようにシンプルにニコッと笑っている人などいません」と述べている。 元アシスタントも含む。
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浦沢 直樹は、日本の漫画家。東京都府中市出身。1983年デビュー。漫画賞の受賞が多く、手塚治虫文化賞大賞を2度受賞している唯一の漫画家である。2021年12月時点で紙のコミックスの世界累計発行部数は1億4000万部を突破している。府中市立府中第四中学校、明星高等学校、明星大学人文学部経済学科卒業。 1960 - 1970年代のロックのファンで、『20世紀少年』にはその影響が色濃く反映されている。特にボブ・ディランの大ファンであり、2007年にはロッカー和久井光司との共著『ディランを語ろう』を発行したほか、2016年には個展の特別イベントとして『ボブ・ディラン 聴いて歌って描きまくる』を開催するなどしている。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 浦沢 直樹 | ふりがな = うらさわ なおき | 画像 =Naoki Urasawa at Japan Expo 2012, Paris (2).jpg | 画像サイズ = 275px | 脚注 =[[Japan Expo]]2012にて | 本名 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|1|2}} | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]] | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1983年]] - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = 『[[YAWARA!]]』<br />『[[MASTERキートン]]』<br />『[[Happy! (漫画)|Happy!]]』<br />『[[MONSTER (漫画)|MONSTER]]』<br />『[[20世紀少年]]』(続編:21世紀少年)<br />『[[PLUTO]]』 | 受賞 = [[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞(2回)<br />[[日本漫画家協会賞]]大賞<br />[[文化庁メディア芸術祭]]優秀賞(3回)<br />[[小学館漫画賞]](2回)<br />[[講談社漫画賞]]<br />[[アングレーム国際漫画祭]]最優秀長編賞<br />[[星雲賞]]コミック部門<br />※詳細は[[浦沢直樹#受賞歴|受賞歴]] | 公式サイト = }} '''浦沢 直樹'''(うらさわ なおき、[[1960年]][[1月2日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]出身。[[1983年]]デビュー。漫画賞の受賞が多く、[[手塚治虫文化賞]]大賞を2度受賞している唯一の漫画家である。2021年12月時点で紙のコミックスの世界累計発行部数は1億4000万部を突破している{{R|natalie20211228}}。[[府中市立府中第四中学校]]、[[明星中学校・高等学校 (東京都)|明星高等学校]]、[[明星大学]][[人文学部]][[経済学科]]卒業。 1960 - 1970年代のロックのファンで、『[[20世紀少年]]』にはその影響が色濃く反映されている。特に[[ボブ・ディラン]]の大ファンであり、2007年にはロッカー[[和久井光司]]との共著『ディランを語ろう』を発行したほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09359202|title=ディランを語ろう|publisher=小学館|accessdate=2018-03-06}}</ref>、2016年には個展の特別イベントとして『ボブ・ディラン 聴いて歌って描きまくる』を開催するなどしている<ref>{{Cite web|和書|date=2015-12-11|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/BobDylan/info/462561|title=浦沢直樹展開催記念イベント、浦沢作品のルーツ“ボブ・ディラン”との関係性に迫る「ボブ・ディラン 聴いて歌って描きまくる」開催決定!|work=ソニーミュージック|publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント|accessdate=2018-03-06}}</ref>。 == 来歴 == === 幼少期(1960年 - 1973年) === [[1960年]]、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]に次男として生まれる。幼稚園には通わず、昼間は祖父母と3人きりの幽閉状態であった。このころ、[[手塚治虫]]の『[[鉄腕アトム]]』と『[[ジャングル大帝]]』を買い与えられ、自分でも漫画を描くようになる。 地元の小学校に入学、3年生から[[学級委員]]を務め、[[学級新聞]]に[[4コマ漫画]]を連載した。一時期いじめられかけたこともあったが、クラスの[[ガキ大将]]に漫画を描いたことがきっかけでいじめはピタリと止まったという。このころ、初めて長編漫画『太古の山脈』を描き上げる<ref name=nenpyou>ビッグコミックオリジナル2023年12号201ページ「浦沢直樹 描いて描いて描きまくった【新人時代の年表!】</ref>。当時テレビでも放映していた[[フィルム・ノワール]]の影響を受けた暗い内容のもので、当時は4つ上の兄がもっぱらの読者であった。 === 青年期(1973年 - 1984年) === [[手塚治虫]]の『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』を読み衝撃を受ける<ref name=nenpyou></ref>。[[府中市立府中第四中学校|中学]]では当初[[陸上部]]に入るも、先輩の偉そうな態度が嫌になり、[[軽音楽]]部へ転入。[[吉田拓郎]]にのめり込み、拓郎が影響を受けたと公言する[[ボブ・ディラン]]の研究を始める<ref>{{Cite book |和書 |author1=浦沢直樹|author2=和久井光司共|authorlink2=和久井光司|title = ディランを語ろう |publisher = [[小学館]] |year = 2007 |isbn = 9784093592024 |page=38}}</ref><ref>{{Cite news |title=浦沢直樹が見たディラン 「飽きる大切さ教えてくれる」 |url=http://www.asahi.com/articles/ASJ493CLXJ49UCVL001.html |date=2016-04-12 |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2016-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160412032734/http://www.asahi.com/articles/ASJ493CLXJ49UCVL001.html |archivedate=2016-04-12}}{{Cite news |title=ボブ・ディランを「聴いて歌って描きまくる」!浦沢直樹展記念イベントで語られた、マンガと音楽の熱い関係 |url=https://entertainmentstation.jp/23843 |date=2016-03-14 |work=エンタメステーション |publisher=[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]] |accessdate=2016-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160316173528/http://entertainmentstation.jp/23843/ |archivedate=2016-03-16}}</ref>。中学生時代の経験は後に『[[20世紀少年]]』に活かされ、浦沢は「ケンヂが校内放送で曲をかけたが変化無しと言うのは自分自身の実体験だが、こういうことをした人は結構多かった」「10分の1くらいは[[自叙伝]]」と語っている。また、中学の1年先輩に[[小室哲哉]]がおり、浦沢がリクエストした『[[20センチュリー・ボーイ|20th Century Boy]]』を流した放送部には小室が部長として所属していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20150212-a163/ |title=小室哲哉と『20世紀少年』の驚きの関係が明らかに -「すげぇ!!」と反響 |publisher=[[マイナビニュース]]|date=2015-02-12 |accessdate=2015-02-12}}</ref>。 高校、大学も軽音楽部に所属していた。大友克洋作品に衝撃を受ける<ref name=nenpyou></ref>。一方で漫画の制作も続けており、高校では国語の教科書に載っていた[[芥川龍之介]]の『[[羅生門 (小説)|羅生門]]』を漫画化している。もっとも当時の[[梶原一騎]]ブームに乗れず、一時期漫画に興味を失いかけていたこともあった。しかし大学の時に登場した[[大友克洋]]をはじめとする[[ニューウェーブ (漫画)|ニューウェーブ]]の作品群に感化され、漫画に対する情熱を取り戻した。 「マンガ君」と思われるのが嫌で、大学では漫研には近寄らなかったが、漫研の人よりもたくさん漫画を描いていたという。なお大学の軽音部では1年上に[[THE STREET SLIDERS]]のHARRYが所属しており、プロの演奏を目の当たりにして、自身のバンドをきっぱりと断念。下手にバンドで食べていこうと思わなかったのは、彼のパフォーマンスを見たからかもしれないと語っている。 === デビュー以後(1984年 - )=== もともと漫画家になるつもりはなかったが、就職活動時に[[小学館]]に編集者としての面接を受けた際、ついでに持って行った原稿「Return」が新人コミック大賞に入選、これを機に1年で芽が出なければやめるつもりで漫画家を志す。[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]等を経て、[[1983年]]3月に「BETA!!」(8ページ、『別冊[[ゴルゴ13]]』No.56に掲載)でプロデビューし、1984年開始の「踊る警官」で初連載する<ref name=nenpyou></ref>。 [[長崎尚志]]担当のもと、『ビッグコミックオリジナル』で外国を舞台にした『[[パイナップルARMY]]』『[[MASTERキートン]]』を連載する一方、『ビッグコミックスピリッツ』で『[[YAWARA!]]』『[[Happy! (漫画)|Happy!]]』と女子スポーツを題材にした作品を発表し人気を得る。1986年開始の『YAWARA!』以降は2誌掛け持ちで、毎月100枚を越える連載を10年以上続けた。 スリラー作品『[[MONSTER (漫画)|MONSTER]]』、手塚治虫の『鉄腕アトム』をリメイクした『PLUTO』により2度の[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞を受賞。2004年には『[[20世紀少年]]』によりフランス・[[アングレーム国際漫画祭]]で最優秀長編賞を受賞している。 『[[週刊モーニング]]』にて2008年から『[[BILLY BAT]]』を隔週で連載開始。何度か長期休載を挟みつつ2016年に完結。2012年から2014年まで、『[[MASTERキートン]]』の正式な続編である『MASTERキートン Reマスター』を『ビッグコミックオリジナル』に不定期掲載した。 2008年より長崎尚志とともに[[名古屋造形大学]](2007年まで[[名古屋造形芸術大学]])の客員教授も務めている[http://www.nzu.ac.jp/topics_2007/topics_016/index.html]。2014年からは「[[浦沢直樹の漫勉]]」が[[NHK Eテレ]]においてスタートした。 2018年、『[[連続漫画小説 あさドラ!]]』の連載開始にあわせ、浦沢作品の雑誌での電子書籍の配信が解禁となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://hon-hikidashi.jp/enjoy/64128/|title=浦沢直樹による“連続漫画小説”『あさドラ!』10月6日発売のスピリッツで連載開始|website=ほんのひきだし|publisher=日本出版販売|date=2018-10-06|accessdate=2021-12-28}}</ref>。 2020年に開催される東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の公式アートポスター、「あなたの出番です。」を手掛ける<ref>{{Cite web|和書|title=東京2020公式アートポスター|url=https://tokyo2020.org/ja/|website=東京2020|accessdate=2020-02-27|language=ja-JP}}</ref>。 2021年12月28日、浦沢作品の[[電子書籍]]の配信を開始<ref name="natalie20211228">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/459724|title=浦沢直樹、電子版解禁!「YAWARA!」「20世紀少年」配信、「あさドラ!」新刊も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-12-28|accessdate=2021-12-28}}</ref>。浦沢は「やはり紙の本が好き」だが「そうも言ってられない」ため、読者に漫画を楽しんでもらえるよう、最善の形を追求していくという{{R|natalie20211228}}。初の電子書籍の配信は、浦沢のファンの間で大きな反響を得た<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/464429|title=浦沢直樹が読者の好きなキャラ描くサイン色紙の当選者数が2倍に増量、感謝が倍増|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-04|accessdate=2022-02-04}}</ref>。 == 作風 == === 表情 === 浦沢の作品は登場人物の表情が印象的で、その微妙さが浦沢漫画の特徴の一つとも言われている<ref>{{Cite web|和書|title=知覚の扉を開き微妙な感情までも紙の上に描きたい 漫画家・浦沢直樹氏に聞いた創作への思い|url=https://president.jp/articles/-/34537|website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2020-04-24|accessdate=2021-06-27|language=ja}}</ref>。浦沢は原稿にペン入れをする時に、最も気を付けているのは人物の表情であると語っている<ref name=":0">[[浦沢直樹#NHK 2007|NHK 2007]]、70-71頁</ref>。浦沢はわかりやすく単純な表情を嫌っており<ref name=":0" />、「絵文字のようにシンプルにニコッと笑っている人などいません」と述べている<ref>{{Cite web|和書|title=漫画家・浦沢直樹「先週の自分を超える」 もう一段レベルアップする方法 (2ページ目)|url=https://president.jp/articles/-/22491|website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2017-07-19|accessdate=2021-06-27|language=ja}}</ref>。 == 受賞歴 == * [[1982年]] - 第9回 [[小学館新人コミック大賞]]一般部門入選(『Return』) * [[1989年]] - 第35回 [[小学館漫画賞]](『[[YAWARA!]]』) * [[1997年]] - 第1回 [[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞(『[[MONSTER (漫画)|MONSTER]]』) * [[1999年]] - 第3回 [[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞(『MONSTER』) * [[2000年]] - 第46回 小学館漫画賞(『MONSTER』) * [[2001年]] - 第25回 [[講談社漫画賞]](『[[20世紀少年]]』) * [[2002年]] - 第6回 文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(『20世紀少年』) * 2002年 - 第48回 小学館漫画賞(『20世紀少年』) * [[2004年]] - [[アングレーム国際漫画祭]](フランス)最優秀長編賞(『20世紀少年』) * [[2005年]] - 第9回 手塚治虫文化賞マンガ大賞(『[[PLUTO]]』) * 2005年 - 第7回 文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(『PLUTO』) * [[2008年]] - 第37回 [[日本漫画家協会賞]]大賞(『20世紀少年』『[[20世紀少年|21世紀少年]]』) * 2008年 - 第39回 [[星雲賞]]コミック部門(『20世紀少年』『21世紀少年』) * [[2011年]] - [[アイズナー賞]](アメリカ)最優秀アジア作品賞(『20世紀少年』) * 2011年 - アングレーム国際漫画祭(フランス)インタージェネレーション賞(『PLUTO』) * [[2012年]] - ACBDアジア賞(フランス)(『PLUTO』) * [[2013年]] - アイズナー賞(アメリカ)最優秀アジア作品賞(『20世紀少年』) * [[2014年]] - {{仮リンク|マックス&モーリッツ賞|de|Max-und-Moritz-Preis}}(ドイツ)ベストインターナショナルコミック賞(『[[BILLY BAT]]』)<ref name="natalie20220509">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/476945|title=浦沢直樹、マックス&モーリッツ賞の生涯功労賞を受賞「大変誇りに思います」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-05-09|accessdate=2023-01-22}}</ref>。 * [[2018年]] - アングレーム国際漫画祭(フランス)特別栄誉賞 SNCFミステリー作品特別栄誉賞<ref group="注">フランスではアングレーム国際漫画祭での受賞・作品展示に続いて、首都[[パリ]]の市庁舎でも個展(2018年2月13日 - 3月31日)を開催した。[https://mainichi.jp/articles/20180202/dyo/00m/200/043000c 浦沢直樹/パリ市庁舎で個展開催 仏国際マンガ祭でダブル受賞]『毎日新聞』ニュースサイト(2018年2月2日)2018年2月15日閲覧。</ref> * [[2022年]] - マックス&モーリッツ賞(ドイツ)生涯功労賞<ref name="natalie20220509" /> * 2022年 - 第25回 文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門大賞受賞『浦沢直樹の漫勉neo 〜[[安彦良和]]〜』 == 作品リスト == === 連載作品 === * [[パイナップルARMY]](1985年 - 1988年、『[[ビッグコミックオリジナル]]』、原作:[[工藤かずや]]) * [[YAWARA!]](1986年 - 1993年、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』) * [[MASTERキートン]](1988年 - 1994年、『ビッグコミックオリジナル』、原作:[[勝鹿北星]]) * [[Happy! (漫画)|Happy!]](1993年 - 1999年、『ビッグコミックスピリッツ』) * [[MONSTER (漫画)|MONSTER]](1994年 - 2001年、『ビッグコミックオリジナル』) * [[20世紀少年]](1999年 - 2006年、『ビッグコミックスピリッツ』) ** 21世紀少年(2007年、『ビッグコミックスピリッツ』) * [[PLUTO]](2003年 - 2009年、『ビッグコミックオリジナル』) * [[BILLY BAT]](2008年 - 2016年、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』) * [[MASTERキートン|MASTERキートン Reマスター]](2012年 - 2014年、『ビッグコミックオリジナル』) * 夢印-MUJIRUSHI-(2017年 - 2018年、『ビッグコミックオリジナル』) * [[連続漫画小説 あさドラ!]](2018年 - 連載中、『ビッグコミックスピリッツ』) === 短編集 === ; 踊る警官 : バンド活動を行うかたわら、警官として働く男・山下の物語。表題の浦沢初連載作と他に短編4本を収録。 ; JIGORO! : 『YAWARA!』に登場する猪熊柔の祖父、猪熊滋悟郎を主人公にした短編集。猪熊滋悟郎のホラとも真実ともつかぬ若き日の逸話が中心。 ; N・A・S・A : 表題作を含めた初期作品を集めた短編集。 ; キートン動物記 :『MASTERキートン』番外編。ハードカバー、全ページカラーで出版されている。 ; 初期のURASAWA : デビュー作『BETA!!』をはじめ、初期の作品を集めた短編集である。他の短編集との重複も多い。 ; くしゃみ 浦沢直樹短編集 : 『初期のURASAWA』以来19年ぶりとなる短編集である。単行本未収録の読み切りを多数収録している。全8作品収録。2019年4月26日発売。 === 活字本 === ; ANOTHER MONSTER : 記者のヴェルナー・ヴェーバーがヨハン事件の関係者を追い真相に迫っていく実録風小説。 ; ディランを語ろう : ボブ・ディランについて語り下ろした対談集で、浦沢によるイラストストーリー「ボブ・ディランの大冒険」も収録。著者名義は浦沢直樹×[[和久井光司]]。 === 読み切り === ; Swimmers : プロデビュー前の未発表作品。先輩猫が金槌な弟子の犬に泳ぎを教える話。『イブニング』月2回刊化特別付録収録(2003年5月13日号) ; まんがノート : 『PLUTO』豪華版3巻・4巻付録。浦沢が少年時代に描いた自作の漫画をまとめたもの。3巻は[[芥川龍之介]]、4巻は[[星新一]]の作品を漫画化している。 ; 月に向かって投げろ! : [[手塚治虫文化賞]]10周年記念で出版された「AERA COMIC ニッポンのマンガ」に掲載された描き下ろし短編作品。プロット共同制作は[[長崎尚志]]。『PLUTO』豪華版6巻付録。 ; DAMiYAN! : 『ビッグコミックスピリッツ』2016年10月31日号に掲載。 ; いっつあびゅうてぃふるでい : 『[[月刊!スピリッツ]]』2018年11月号に掲載<ref>{{Cite news|newspaper=MANTANWEB|url=https://mantan-web.jp/article/20180926dog00m200042000c.html|title=浦沢直樹:「月刊!スピリッツ」で故・遠藤賢司さんのエピソードをマンガ化|date=2018-09-27|accessdate=2018-09-27}}</ref>。 ; Dr.トグロドクロの最期 : 『[[グランドジャンプ]]』2021年23号に「グランドジャンプ創刊10周年 読切連弾祭!!」の第16弾として掲載<ref>{{Cite web|和書|url=http://grandjump.shueisha.co.jp/news/211102gj.html|title=グランドジャンプNo.23 大好評発売中!!浦沢直樹特別読切『Dr.トグロドクロの最期』巻中カラー!移籍新連載 仙道ますみ『純愛契約』巻頭カラー!|website=エキサイトニュース|publisher=集英社|date=2021-11-02|accessdate=2021-11-02}}</ref><ref name="natalie20211102">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/451863|title=浦沢直樹が初めて集英社で読切執筆、特撮に出続けた伝説の悪役の最期を描く|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-11-02|accessdate=2021-11-02}}</ref>。浦沢が初めて[[集英社]]で執筆した読み切り{{R|natalie20211102}}。 ; ザ・ロックンロールバンド : 『[[ビッグコミックオリジナル]]』2023年22号に「創刊50周年超BIG読み切り第3弾」として掲載<ref>{{Cite web|和書|url=https://bigcomicbros.net/magazines/81088/|title=ビッグコミック第22号|website=ビッグコミックBROS.NET|publisher=小学館|accessdate=2023-11-04}}</ref>。 === その他 === ; ビーパル小僧のアウトドア教本 3、4 : 小学館発行[[BE-PAL]]のBE-PAL MANUAL COMICをまとめた教本。3巻、4巻を担当。 ; 源氏物語 : NHKで放送された教育番組『[[まんがで読む古典]]』の1作品、源氏物語のキャラクターデザインを担当(1990年)。 ; シロは死なない : [[北方謙三]]による創作童話、挿絵を担当(1990年)。 ; ヘンリーとチャールズ : 棚の上のケーキを目指す師弟ネズミのドタバタ劇。小学生向け月刊誌『[[おおきなポケット]]』に掲載(1995年4月号) ; 僕らの「[[ヤング・ミュージック・ショー]]」 : NHK番組を綴った本。表紙を担当(2005年)。 ; 映画『[[アイム・ノット・ゼア]]』劇場用パンフレット : [[トッド・ヘインズ]]監督によるボブ・ディランの半生を映画化した作品のパンフレットにイラストを描き下ろした。 ; 漫勉 : <!--漫画活動25周年及び『20世紀少年』実写化記念に発刊された-->画集(2008年)。 ; 追跡者 〜幻の漫画家・韮沢早を追え!第9集「万博とメビウス」長編アニメ映画「メランコリック戦争」のコンテ : [[竹熊健太郎]]著の韮沢早という架空のマンガ家を追ったフェイク・ドキュメンタリーの幻のコンテを担当(『[[月刊IKKI]]』2002年第9号掲載)。 ; 映画『[[チベット犬物語 〜金色のドージェ〜]]』 : キャラクター原案を担当。 ; 浦沢直樹 描いて描いて描きまくる : 初の本格個展を記念した公式ガイドブック(2016年)。 ; [[大阪国際女子マラソン]] : イメージキャラクターとそのポスターを担当(2019年<ref>{{Cite news|title=大阪国際女子マラソン、浦沢直樹さんがイメージキャラクター描く|newspaper=産経ニュース|date=2018-12-10|url=https://www.sankei.com/article/20181210-RW3CSKTSLNOAJCKJXTDNTX2CC4/|accessdate=2019-1-27}}</ref>・2020年<ref>{{Cite news|title=大阪国際女子マラソン、浦沢直樹さんがイメージキャラクター手がける|newspaper=SANSPO.COM|date=2019-11-26|url=https://www.sanspo.com/article/20191126-BB663CYHUBK57D4WEALPI6MX3E/|accessdate=2020-1-7}}</ref>)。テレビCMでは、『YAWARA!』の主人公・猪熊柔の声を担当した[[皆口裕子]]が務めた。 ; 『オトビヨリ』2022年4・5月号表紙 : TBSラジオのフリーマガジンにて、「新緑を感じさせるような爽やかな」表紙のイラストを描きおろしている<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/472304|title=浦沢直樹がTBSラジオのフリーマガジンの表紙担当、新緑を感じさせる爽やかなイラスト|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-04-01|accessdate=2022-04-01}}</ref>。 === CDジャケット等 === * [[DOMINO88]] アルバム『Pleasure!』 * [[和久井光司]] アルバム『ディランを唄う』 * [[風男塾]] シングル『[[BE HERO]]』 * [[泉谷しげる]] アルバム 『ALL TIME BEST 天才か人災か』 === 映画脚本 === * [[20世紀少年 (映画)|20世紀少年]] ** 第1章 終わりの始まり(2008年)[[福田靖]]・長崎尚志・[[渡辺雄介]]と共同 ** 第2章 最後の希望(2009年)※脚本監修 ** 最終章 ぼくらの旗(2009年)長崎尚志と共同 == 主な出演 == === テレビ番組 === * [[クイズダービー]](1991年10月19日、「人気漫画家大会」でアシスタントと共に出場) ** 最終問題で持ち点1万点を、倍率20倍の[[植草克秀]]に全額賭けて植草が正解し(他に8倍の[[竹下景子]]も正解)、21万点を獲得した。 * [[たけしの誰でもピカソ]](1999年ごろ、[[テレビ東京]]) * 孝太郎ラボ(2005年2月1日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * [[プロフェッショナル 仕事の流儀]](2007年1月18日、[[NHK総合テレビジョン]]) ** 番組内の本人のコメントによれば、原稿1枚にかかる時間は長くても2時間程度であるという。また、漫画を描くのに困難な肩の持病を抱えていることが同番組内で明らかになった(そのため『[[20世紀少年]]』は半年間の休載に追い込まれた)。 * 竹中直人 P.S.45(2007年5月18日、[[BSフジ]]) * 『20世紀少年第1章』すべてのはじまりスペシャル(2008年7月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * 手塚治虫アニメシアター(2008年7月21日 - 、[[日本映画専門チャンネル]]) * 「20世紀少年第2章」全て見せますスペシャル(2009年1月、日本テレビ) * [[堂本剛の正直しんどい]](2009年1月28日、[[テレビ朝日]]) * [[宇宙でイチバン逢いたい人]](2009年1月29日、日本テレビ) * [[爆笑問題のニッポンの教養]](2009年9月8日、NHK総合テレビジョン) * [[泉谷しげると翼なき野郎ども]](2009年12月8日・12月22日、[[テレ朝チャンネル]]) * [[2009年]][[M-1グランプリ]](2009年12月21日、テレビ朝日) * [[ゴロウ・デラックス]](2013年5月17日、[[TBSテレビ|TBS]]) * [[ボクらの時代]](2013年8月25日、フジテレビ) [[田村淳]]×浦沢直樹×[[倉本美津留]] * [[SWITCHインタビュー 達人達]](2014年4月5日、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]) [[佐野元春]]と対談 * 佐野元春×浦沢直樹 〜僕らの“ボブ・ディラン”を探して〜(2014年5月24日、NHK Eテレ) * [[浦沢直樹の漫勉]](2014年11月9日、2015年9月4日 - 9月25日、2016年3月3日 - 3月24日、9月15日 - 10月6日、2017年3月2日 - 3月24日、NHK Eテレ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2058052/full/|title=『浦沢直樹の漫勉』今年も 浅野いにお、東村アキコら登場|publisher=[[オリコン|ORICON]]|date=2015-08-24|accessdate=2015-08-25}}</ref> * [[心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU]](2015年3月14日、日本テレビ) * [[ボクらの時代]](2015年8月9日、フジテレビ) [[秋元康]]×[[小室哲哉]]×浦沢直樹 * [[ミュージック・ポートレイト]]「小室哲哉×浦沢直樹」(2015年11月26日・12月3日、NHK Eテレ) * [[Crossroad (テレビ番組)|クロスロード]]SP 浦沢直樹(2016年2月20日、テレビ東京) * [[タモリ倶楽部]](2017年8月25日・9月1日、テレビ朝日)空耳アワード2017 審査員、(2022年5月20日、[[スクリーントーン]]を使用している漫画家として出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/urasawa_naoki/status/1527468404025982976?|title=「タモリ倶楽部」、本日深夜0:20より!スクリーントーン愛を語り合います。|author=浦沢直樹|publisher=Twitter(@urasawa_naoki)|date=2022-05-20|accessdate=2022-05-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://amp.natalie.mu/comic/news/478199|title=「タモリ倶楽部」でスクリーントーンの奥深さを追求、浦沢直樹と水瀬藍がゲストに |newspaper=コミックナタリー|date=2022-05-19|accessdate=2022-05-21}}</ref>) * 浦沢直樹の漫勉neo(2020年10月17日 - 12月17日、2021年6月9日 - 6月23日、NHK Eテレ) * [[X年後の関係者たち|X年後の関係者たち〜あのムーブメントの舞台裏〜]](2022年7月5日、[[BS-TBS]]) === ラジオ番組 === * [[純次と直樹]]([[文化放送]]、2017年4月9日 - ) - [[高田純次]]と共演<ref>[https://twitter.com/junji_naoki 純次と直樹] - 番組公式Twitter</ref> *[[monaka]]([[エフエムナックファイブ|NACK5]]、2018年8月21日)12時過ぎにゲスト出演。 *金曜[[JUNK]] [[バナナマンのバナナムーンGOLD]]([[TBSラジオ]]、2019年4月26日)ゲスト出演<ref group="注">浦沢は『月曜JUNK 2 バナナマンのバナナムーン』時代からの番組リスナー。</ref>。 === ウェブ番組 === * [[7.2 新しい別の窓]](AbemaSPECIAL2チャンネル、2022年7月3日<ref name="natalie20220702">{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/483943|title=浦沢直樹が「新しい別の窓」に出演、稲垣吾郎と「あさドラ!」制作エピソードなどトーク|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-07-02|accessdate=2022-07-02}}</ref>) - 「インテリゴロウ」コーナーにゲスト出演{{R|natalie20220702}}。 === コンサート === * [[手塚治虫]]生誕90周年記念イベント MANGA SYMPHONY「〇(まる)」(2018年3月31日開催、[[東京芸術劇場]]) - [[岩代太郎]]と共演<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S13314681.html <お知らせ>岩代太郎×浦沢直樹のコラボコンサート]『朝日新聞』2018年1月16日(2018年2月27日閲覧)</ref> === 映画 === * [[天上の花#映画|天上の花]](2022年冬公開、太秦)- [[佐藤春夫]] 役<ref>{{Cite web2|url=https://www.oricon.co.jp/news/2230301/full/|title=萩原朔太郎の娘・葉子原作の映画に孫・朔美が出演 『天上の花』主演は東出昌大|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|date=2022-04-04|accessdate=2022-04-04}}</ref> == 音楽活動 == * 2003年に発売された単行本『[[20世紀少年]]』11巻の初版に付けられたCDに収録されている<ケンヂの歌>こと「[[ボブレノン|Bob Lennon]]」は、浦沢自身が作詞・作曲・歌・ギター・ブルースハープ・録音を行ったオリジナル曲であり、実写化の際にケンヂ役の[[唐沢寿明]]がリメイク、エンディングテーマに用いられた。 * 2006年10月9日に行われたボブ・ディラン・サミット(ボブ・ディランのトリビュート・コンサート)に出演し、アコースティック・セットで「Bob Lennon」を演奏。その模様は一部『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』(2007年1月18日、[[NHK総合テレビジョン]])で放送された(同タイトルDVDにも収録されている)。 * 2007年、[[高見沢俊彦]]のソロアルバム『[[Kaleidoscope (高見沢俊彦のアルバム)|kaleidoscope]]』に、自身のオリジナル曲「洪水の前」の歌詞のみを提供した。 * 2008年6月4日、デビュー・シングル「月がとっても…」発売。 * 2008年6月27日、28日に【[[和久井光司]]×浦沢直樹 2 days Live at 東京キネマ倶楽部】が行われた。 * 2008年、映画『20世紀少年〈第1章〉 終わりの始まり』オリジナル・サウンドトラックに「Brothers」を提供。 * 2008年11月29日にファースト・アルバム「半世紀の男」発売。 * 2009年、映画『20世紀少年〈第2章〉 最後の希望』オリジナル・サウンドトラックに「Suspense」を提供。 == アシスタント == 元[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]も含む。 * 佐藤誠司 * [[星野泰視]] * [[伊藤剛 (評論家)|伊藤剛]] == 参考文献 == <!--執筆の参考にしたものを挙げています--> * 「解体全書 第7回 浦沢直樹」『ダ・ヴィンチ』1999年11月号、メディアファクトリー、194頁-197頁 * 「浦沢直樹の世界」『コミックファン』1999年5号、雑草社 * 「浦沢直樹の売れる理由 浦沢直樹VS長崎尚志」『KINO』Vol.1、河出書房新社、2006年 * [https://www.cinra.net/article/interview-2012-02-15-000000-php 浦沢直樹×石川俊樹(フラットライナーズ)対談](2012年2月15日 CINRA.NET掲載) *{{Cite book|和書|title=[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]13|date=2007年7月30日|publisher=[[NHK出版]]|pages=63-114|ref=NHK 2007|editor=NHK「プロフェッショナル」政作班|author=茂木健一郎|authorlink=茂木健一郎|isbn=978-4-14-081198-6}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> == 外部リンク == * {{Twitter|urasawa_naoki|浦沢直樹_Naoki Urasawa公式情報}} * {{YouTube|channel = UCkIFOAoFm47XOAlJwTa6Ieg|浦沢チャンネル -URASAWA CHANNEL}} * [http://spi-net.jp/spi/inspi_diary/urasawa_sakka.htm スピネット内「浦沢直樹日記」] * [http://www.flying-dc.com/nu/nu_index.html 音楽活動のオフィシャル・サイト「浦沢直樹 music web」] * {{Mediaarts-db|C55628|浦沢直樹}} * [http://www.shinjukuloft.com/galaxy/archive/e/2008/post_143.php 浦沢直樹インタビュー(ルーフトップ★ギャラクシー)] * [https://www.1101.com/urasawanaoki/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 浦沢直樹☓糸井重里 マンガがぼくにくれたもの](2016年) * [https://www.1101.com/junjiandnaoki/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 高田純次×浦沢直樹×糸井重里 純次と直樹と重里と。](2018年) * [https://www.cinra.net/article/interview-202007-bobdylan_ymmts 浦沢直樹がボブ・ディランに学んだ作家精神。理想の描線を求めて(CINRA.NET 2020年7月31日)] {{浦沢直樹}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うらさわ なおき}} [[Category:浦沢直樹|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:名古屋造形大学の教員]] [[Category:アイズナー賞の受賞対象]] [[Category:経済学士取得者]] [[Category:明星大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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車田正美
車田 正美(くるまだ まさみ、1953年12月6日 - )は、日本の漫画家・作詞家。男性。東京都中央区月島出身。血液型はA型。 東京都中央区月島のとび職の家に生まれる。若い頃は下町の不良少年で喧嘩に明け暮れ、本宮ひろ志の漫画『男一匹ガキ大将』に感銘を受けて漫画家を志す。漫画を本格的に描き始めた当初は画材を知らず、青インクでペン入れをしたという。高校3年生の時、初作品を『週刊少年ジャンプ』の「ヤングジャンプ賞」に投稿したが落選。週刊少年ジャンプ編集部に落選理由を尋ねに行ったのがきっかけで、当時『侍ジャイアンツ』を連載していた井上コオのアシスタントとなる(一時的に本宮ひろ志のアシスタントも兼ねた)。 20歳の時、『週刊少年ジャンプ』にて『スケ番あらし』でデビュー。『リングにかけろ』『風魔の小次郎』『男坂』『聖闘士星矢』『SILENT KNIGHT翔』を同誌で連載し、荒唐無稽ながらも独特の作風で黄金期ジャンプの看板漫画家の一人として活躍する。 『SILENT KNIGHT翔』終了後、『週刊少年ジャンプ』を離れ、『スーパージャンプ』で新選組を題材とした『あかね色の風』を連載するが連載は途中中断。その後、創刊まもなかった『月刊少年エース』(角川書店)に移籍して連載した『B'T-X』は、人気作品となりアニメ化された。 現在は秋田書店の雑誌を中心に活動中。『週刊少年チャンピオン』にてフルカラーで『聖闘士星矢』の続編である『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』を不定期連載。2014年、デビューから40年を迎えたのを機に「車田正美 熱血画道40周年」と題した各種記念企画を展開。『男坂』の連載を『週刊プレイボーイ』公式サイトの『週プレNEWS』内で29年ぶりに再開し、北の大地編を収録した4巻が10月に発売され12月から新章を開始。またWEBコミック誌『チャンピオンクロス』で『雷鳴のZAJI』の特別編を26年ぶりに掲載し、さらにデビュー40周年の集大成として自伝的作品『藍の時代 一期一会』を『週刊少年チャンピオン』誌上で連載した。 根性や友情、兄弟愛、仁義をキャラクターに語らせる熱血漫画を得意とする。本宮ひろ志に影響されたと語る大ゴマや大胆な見開きなどを多用し、ダイナミックな必殺技の応酬を描くのが特徴。その一方で、作中に古人の名言を引用したり、物理学の知識を応用した展開を見せる。 『リングにかけろ』の中盤あたりから「リングを切り裂く、窓をぶち破る、建造物を破壊する」などの荒唐無稽なパワーを宿すボクサー、また神々の力を宿す奇跡のボクサーなどが登場し始め、「SFボクシング」とでもいうべき新しいジャンルを開拓。同作のトーナメント式団体戦は後の『週刊少年ジャンプ』の格闘漫画の先駆けとなった。島本和彦は『アオイホノオ』において『リングにかけろ』の一場面を引用し「これは車田正美が長い年月をかけて作り上げた様式美。本人だけが許されるオリジナリティー」と評価している。 描線は一見太く力強いが、かぶらペンで引いた細い線を重ねて太く見せている。「SHWOK」「ZZRAK」「BAKCOOON(あるいはBAKOOOM)」などのアルファベットの擬音や、墨を飛び散らせたような黒い吹き出しなどは車田独特の様式として頻繁に使われる。 『週刊少年ジャンプ』連載中は激しい生存競争の中、「面白いと思ったアイディアはすぐ使う」という考えからの怒涛のストーリー展開が多く、突然突飛な設定を持ち出すこともある。謎の人物として登場したシルエットが正体を現すと全く違うデザインになっている場合もあるほか、作中で死亡したように描かれたキャラクターをのちに何の説明も描写もなく再登場させることもある。車田は「自分の漫画に必要なのは起承転結ではなく、いかに読者を驚かせるかだ」と語っている。 打ち切りとなり終了した作品もあり、その際『男坂』ではコミックス最終巻の最終ページに「未完」、『SILENT KNIGHT翔』では「NEVER END」という言葉を載せた。車田自身も、「自分にこの職業を与えてくれたことは感謝するが、自分は本当に漫画家に向いているかどうかはわからない」とコメントしている。 太字の作品はメディアミックスされた作品 車田正美自身の手に拠らない、車田正美を原作者とするスピンオフ作品など。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "車田 正美(くるまだ まさみ、1953年12月6日 - )は、日本の漫画家・作詞家。男性。東京都中央区月島出身。血液型はA型。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京都中央区月島のとび職の家に生まれる。若い頃は下町の不良少年で喧嘩に明け暮れ、本宮ひろ志の漫画『男一匹ガキ大将』に感銘を受けて漫画家を志す。漫画を本格的に描き始めた当初は画材を知らず、青インクでペン入れをしたという。高校3年生の時、初作品を『週刊少年ジャンプ』の「ヤングジャンプ賞」に投稿したが落選。週刊少年ジャンプ編集部に落選理由を尋ねに行ったのがきっかけで、当時『侍ジャイアンツ』を連載していた井上コオのアシスタントとなる(一時的に本宮ひろ志のアシスタントも兼ねた)。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "20歳の時、『週刊少年ジャンプ』にて『スケ番あらし』でデビュー。『リングにかけろ』『風魔の小次郎』『男坂』『聖闘士星矢』『SILENT KNIGHT翔』を同誌で連載し、荒唐無稽ながらも独特の作風で黄金期ジャンプの看板漫画家の一人として活躍する。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『SILENT KNIGHT翔』終了後、『週刊少年ジャンプ』を離れ、『スーパージャンプ』で新選組を題材とした『あかね色の風』を連載するが連載は途中中断。その後、創刊まもなかった『月刊少年エース』(角川書店)に移籍して連載した『B'T-X』は、人気作品となりアニメ化された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在は秋田書店の雑誌を中心に活動中。『週刊少年チャンピオン』にてフルカラーで『聖闘士星矢』の続編である『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』を不定期連載。2014年、デビューから40年を迎えたのを機に「車田正美 熱血画道40周年」と題した各種記念企画を展開。『男坂』の連載を『週刊プレイボーイ』公式サイトの『週プレNEWS』内で29年ぶりに再開し、北の大地編を収録した4巻が10月に発売され12月から新章を開始。またWEBコミック誌『チャンピオンクロス』で『雷鳴のZAJI』の特別編を26年ぶりに掲載し、さらにデビュー40周年の集大成として自伝的作品『藍の時代 一期一会』を『週刊少年チャンピオン』誌上で連載した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "根性や友情、兄弟愛、仁義をキャラクターに語らせる熱血漫画を得意とする。本宮ひろ志に影響されたと語る大ゴマや大胆な見開きなどを多用し、ダイナミックな必殺技の応酬を描くのが特徴。その一方で、作中に古人の名言を引用したり、物理学の知識を応用した展開を見せる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『リングにかけろ』の中盤あたりから「リングを切り裂く、窓をぶち破る、建造物を破壊する」などの荒唐無稽なパワーを宿すボクサー、また神々の力を宿す奇跡のボクサーなどが登場し始め、「SFボクシング」とでもいうべき新しいジャンルを開拓。同作のトーナメント式団体戦は後の『週刊少年ジャンプ』の格闘漫画の先駆けとなった。島本和彦は『アオイホノオ』において『リングにかけろ』の一場面を引用し「これは車田正美が長い年月をかけて作り上げた様式美。本人だけが許されるオリジナリティー」と評価している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "描線は一見太く力強いが、かぶらペンで引いた細い線を重ねて太く見せている。「SHWOK」「ZZRAK」「BAKCOOON(あるいはBAKOOOM)」などのアルファベットの擬音や、墨を飛び散らせたような黒い吹き出しなどは車田独特の様式として頻繁に使われる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『週刊少年ジャンプ』連載中は激しい生存競争の中、「面白いと思ったアイディアはすぐ使う」という考えからの怒涛のストーリー展開が多く、突然突飛な設定を持ち出すこともある。謎の人物として登場したシルエットが正体を現すと全く違うデザインになっている場合もあるほか、作中で死亡したように描かれたキャラクターをのちに何の説明も描写もなく再登場させることもある。車田は「自分の漫画に必要なのは起承転結ではなく、いかに読者を驚かせるかだ」と語っている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "打ち切りとなり終了した作品もあり、その際『男坂』ではコミックス最終巻の最終ページに「未完」、『SILENT KNIGHT翔』では「NEVER END」という言葉を載せた。車田自身も、「自分にこの職業を与えてくれたことは感謝するが、自分は本当に漫画家に向いているかどうかはわからない」とコメントしている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "太字の作品はメディアミックスされた作品", "title": "作品リスト" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "車田正美自身の手に拠らない、車田正美を原作者とするスピンオフ作品など。", "title": "作品リスト" } ]
車田 正美は、日本の漫画家・作詞家。男性。東京都中央区月島出身。血液型はA型。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 車田 正美 |ふりがな = くるまだ まさみ |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1953|12|6}} |生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[月島]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = |活動期間 = [[1973年]] - |ジャンル = [[少年漫画]] |代表作 = 『[[リングにかけろ]]』<br />『[[風魔の小次郎]]』<br />『[[聖闘士星矢]]』<br />『[[B'T-X]]』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = [http://kurumadapro.com/ 車田正美オフィシャルサイト 生々流転] }} '''車田 正美'''(くるまだ まさみ、[[1953年]][[12月6日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[作詞家]]。[[男性]]。[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[月島]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。 == 略歴 == [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[月島]]のとび職の家に生まれる。若い頃は下町の不良少年で喧嘩に明け暮れ、[[本宮ひろ志]]の漫画『[[男一匹ガキ大将]]』に感銘を受けて漫画家を志す。漫画を本格的に描き始めた当初は画材を知らず、青インクでペン入れをしたという。高校3年生の時、初作品を『[[週刊少年ジャンプ]]』の「ヤングジャンプ賞」に投稿したが落選。[[週刊少年ジャンプ編集部]]に落選理由を尋ねに行ったのがきっかけで、当時『[[侍ジャイアンツ]]』を連載していた[[井上コオ]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]となる(一時的に本宮ひろ志のアシスタントも兼ねた)。 20歳の時、『週刊少年ジャンプ』にて『スケ番あらし』でデビュー。『[[リングにかけろ]]』『[[風魔の小次郎]]』『[[男坂]]』『[[聖闘士星矢]]』『[[SILENT KNIGHT翔]]』を同誌で連載し、荒唐無稽ながらも独特の作風で黄金期ジャンプの看板漫画家の一人として活躍する。 『SILENT KNIGHT翔』終了後、『週刊少年ジャンプ』を離れ、『[[スーパージャンプ]]』で[[新選組]]を題材とした『[[あかね色の風]]』を連載するが連載は途中中断。その後、創刊まもなかった『[[月刊少年エース]]』([[KADOKAWA|角川書店]])に移籍して連載した『[[B'T-X]]』は、人気作品となりアニメ化された。 現在は[[秋田書店]]の雑誌を中心に活動中。『[[週刊少年チャンピオン]]』にてフルカラーで『聖闘士星矢』の続編である『[[聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話]]』を不定期連載。2014年、デビューから40年を迎えたのを機に「車田正美 熱血画道40周年」と題した各種記念企画を展開。『男坂』の連載を『[[週刊プレイボーイ]]』公式サイトの『週プレNEWS』内で29年ぶりに再開し、北の大地編を収録した4巻が10月に発売され12月から新章を開始。またWEBコミック誌『チャンピオンクロス』で『[[雷鳴のZAJI]]』の特別編を26年ぶりに掲載し、さらにデビュー40周年の集大成として自伝的作品『藍の時代 一期一会』を『週刊少年チャンピオン』誌上で連載した。 == 作風 == 根性や友情、兄弟愛、仁義をキャラクターに語らせる熱血漫画を得意とする。本宮ひろ志に影響されたと語る大ゴマや大胆な見開きなどを多用し、ダイナミックな必殺技の応酬を描くのが特徴。その一方で、作中に古人の名言を引用したり、[[物理学]]の知識を応用した展開を見せる。 『[[リングにかけろ]]』の中盤あたりから「リングを切り裂く、窓をぶち破る、建造物を破壊する」などの荒唐無稽なパワーを宿すボクサー、また神々の力を宿す奇跡のボクサーなどが登場し始め、「SFボクシング」とでもいうべき新しいジャンルを開拓。同作のトーナメント式団体戦は後の『週刊少年ジャンプ』の格闘漫画の先駆けとなった。[[島本和彦]]は『[[アオイホノオ]]』において『リングにかけろ』の一場面を引用し「これは車田正美が長い年月をかけて作り上げた様式美。本人だけが許されるオリジナリティー」と評価している。 描線は一見太く力強いが、かぶらペンで引いた細い線を重ねて太く見せている{{要出典|date=2017年9月}}。「SHWOK」「ZZRAK」「BAKCOOON(あるいはBAKOOOM)」などのアルファベットの擬音や、墨を飛び散らせたような黒い吹き出しなどは車田独特の様式として頻繁に使われる。 『週刊少年ジャンプ』連載中は激しい生存競争の中、「面白いと思ったアイディアはすぐ使う」という考えからの怒涛のストーリー展開が多く、突然突飛な設定を持ち出すこともある。謎の人物として登場したシルエットが正体を現すと全く違うデザインになっている場合もあるほか、作中で死亡したように描かれたキャラクターをのちに何の説明も描写もなく再登場させることもある<ref>キャラクターによっては復活するシーンが描写されて復活することもある。</ref>。車田は「自分の漫画に必要なのは起承転結ではなく、いかに読者を驚かせるかだ」と語っている<ref>『聖闘士聖衣大全』122-125頁。</ref>。 打ち切りとなり終了した作品もあり、その際『男坂』ではコミックス最終巻の最終ページに「未完」、『SILENT KNIGHT翔』では「NEVER END」という言葉を載せた<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1489548979632/?p=3 90s ジャンプの伝説打ち切り漫画『サイレントナイト翔』とは?] - バーグマン田形、エキサイトニュース、2017年3月18日</ref>。車田自身も、「自分にこの職業を与えてくれたことは感謝するが、自分は本当に漫画家に向いているかどうかはわからない」とコメントしている{{要出典|date=2017年9月}}。 == その他 == {{出典の明記|section=1|date=2017年9月}} * 車田自身は自らを「漫画家」ではなく「漫画屋」と称していた。理由は「漫画家などと呼ぶべきなのは[[手塚治虫]]のような巨匠であり、自分はその呼称には値しない」と述べていた。 * 車田がジャンプ時代に描いた漫画のうち、特に代表作となる『リングにかけろ』、『聖闘士星矢』の人気は絶大なものであり、当時集英社ビルの改装を行った際に「新社屋は『車田ビル』、入り口階段を『リンかけ階段』と呼ばれている」「ジャンプが300万部突破できたのは私の漫画のおかげ」と車田は冗談半分のネタにしていた<ref>『実録!神輪会』第2話「リングにこけろ」</ref>。 * 『聖闘士星矢』はグッズの売上も良く、聖闘士のフィギュア[[聖闘士聖衣大系]]は1987年度男子玩具最大のヒット作となった<ref>[[ワールドフォトプレス]]『[[フィギュア王]]』No.95 34ページ。</ref>。また、日本国外で問題視されがちな残酷描写という点でも、『聖闘士星矢』は他の日本のアニメ作品と比較して描写がマイルドであるため、欧州でも受け入れられ世界中で人気を博すことになった。フランス出身の映画監督[[ルイ・レテリエ]]はアニメの大ファンだったと明かし、『[[タイタンの戦い (2010年の映画)|タイタンの戦い]]』は『聖闘士星矢』のオマージュであると述べている<ref>[http://eiga.com/news/20100324/6/ 「タイタンの戦い」は「聖闘士星矢」へのオマージュ]</ref>。 * 熱心な車田ファンは「マサミスト」と呼ばれ(命名者は島村春奈)、公式サイトでも閲覧者をそう呼称している。 * 正装は白のスーツを愛用しており、誌面やOVA『聖闘士星矢 冥王ハーデス十二宮編』試写会<ref>SuperJUMP特別編集読者全員プレゼント『リングにかけろ!』スペシャルDVDでも同じ服装をしている場面がある。</ref>で着用していた。 * 『聖闘士星矢』連載時、車田は文化人納税者番付第一位になり、所有する車も外車数台と豪華絢爛の豪遊生活を送っていた(現在は国産車と二本の足と本人は語る)。 * 多くの格闘家との親交を持つ。これが影響して、車田当人の希望で格闘家が自身のアニメ作品にゲスト声優として参加したり、本人がキャラクターとして登場している。単行本コメント、雑誌対談企画など、その他格闘家関連の話題には事欠かない。 * かつては一日に五箱も煙草を吸うヘビースモーカーだったが、『風魔の小次郎』連載の頃に病に倒れた父親の回復に願掛けしてスパッと禁煙したとのこと<ref>『風魔の小次郎』ジャンプコミックス第10巻あとがき</ref>。 * 『聖闘士星矢』に登場するオブジェ状のプロテクター、聖衣(クロス)、鱗衣(スケイル)、冥衣(サープリス)は、複数のアシスタントがデザインと作画(描写に形状の知悉が要求されるため)を兼任している。 * 近年は[[秋田書店]]との交流が深く、HP上でも多くの親睦が示されている。 * 『週刊少年チャンピオン』で『聖闘士星矢THE LOST CANVAS 冥王神話』を執筆している[[手代木史織]]は『聖闘士星矢』など車田漫画の影響で漫画家を志した。 * 『[[コミックゲーメスト]]』でゲーム『[[真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変|真・サムライスピリッツ]]』のイラストを描き下ろした。読者からの要望があれば連載をする、とのことだったが連載には至らなかった。なお、描き下ろしイラストは公式サイトのギャラリーに掲載されている。 * アニメ版『[[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]]』の続編として、2003年より冥界編がOVAとして作成されていたが、2005年、制作続行中でありながら[[古谷徹]]をはじめとした主役声優陣を降板させた。ただ車田は古谷を降板させる気はなく、古谷以外の声優陣の変更を希望したが、他のベテラン声優陣と長年育てたチームワークを重視した古谷は自ら降板したという。[[聖闘士星矢 冥王ハーデス編#声優交代の波紋]]を参照。 * アイドル好きであり[[石野真子]]、[[酒井法子]]のファンだった。『リングにかけろ』では世界大会イタリア戦の前夜、石松がTVの石野の歌唱に併せ「[[プリティー・プリティー]]」を歌う描写があり、ジャンプ愛読者賞の読み切り作品『リングにこけろ』では自らがギリシャ戦の剣崎のセルフパロディを演じ、「どうやら、この世では好きとも言えそうもないぜ… あばよマコ(石野真子)」と呟く描写がある。また『聖闘士星矢』にて[[黄金聖闘士|蟹座のデスマスク]]と[[黄金聖闘士|天秤座の童虎]]にのりピー語を喋らせたこともある他、[[アンドロメダ星座の瞬]]の城戸邸の自室にはのりピーマンが描かれた紙が散らばっていた。 * 『神輪会』の名前は当時の公式ファンクラブ「神話会Jr」の名前の基にもなった。 * 『実録!神輪会』に収録されている短編「愛読者賞には手を出すな!!」では師の[[本宮ひろ志]]をスーパーヒーローとして描いている。なお本宮も『[[俺の空]]』カジノ編にて車田および神輪会メンバーをゲストキャラクターとして登場させている。 * 1980年代後半頃に[[いて座|射手座]]の近くで星が発見された際、車田から名前を取って「車田正美星」として登録されたことがある<ref>{{Cite book|和書|author=週刊少年ジャンプ編集部・編|year=1989-04-25|title=ファミコンジャンプ 英雄列伝 夢の大決戦!!|page=66|publisher=集英社〈ジャンプ コミックス セレクション〉|isbn=4-8342-1080-4}}</ref>。 == 作品リスト == 太字の作品はメディアミックスされた作品 {| style="font-size:smaller" | style="background-color: #fee; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | 長期連載漫画{{spaces|3}} | style="background-color: #efe; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | 短期連載漫画{{spaces|3}} | style="background-color: #eef; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | 読切漫画{{spaces|3}} |} {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center;" ! 作品名 || 形式 || 掲載誌 || 連載・掲載期間 || 単行本(発売日) |- style="background-color:#efe" | rowspan="3" | スケ番あらし | rowspan="2"| 短期連載 | rowspan="2"| [[週刊少年ジャンプ]]([[集英社]]) || 1974年32号 - 1975年12号 || 『真友仁義 車田正美初期短編集』 |- style="background-color:#efe" || 1975年22号 - 42号 || 全2巻(1977年9月5日、10月30日) |- style="background-color:#efe" | colspan="4" style="text-align:left" | デビュー作だが[[オイルショック]]の影響から2回読み切り、5回連載と変則的な掲載が続き、1975年から本格的連載が開始される。 |- style="background-color:#eef" || みけ猫ロック || 読切 || [[月刊少年ジャンプ]](集英社) || 1976年12月号 || 『スケ番あらし』第2巻 |- style="background-color:#fee" | rowspan="2" | '''[[リングにかけろ]]''' || 長期連載 || 週刊少年ジャンプ(集英社) || 1977年2号 - 1981年44号 || 全25巻 |- style="background-color:#fee" | colspan="4" style="text-align:left" | 最終回直前には『週刊少年ジャンプ』史上初の三週連続巻頭カラーを飾り、最終回も巻頭カラーで終わる。2001年続編『[[リングにかけろ2]]』連載開始。2004年アニメ化。 |- style="background-color:#eef" || <ruby><rb>真友</rb><rp>(</rp><rt>マブダチ</rt><rp>)</rp></ruby>仁義 || 読切 || 週刊少年ジャンプ(集英社) || 1978年10号 || 全1巻(1983年4月15日) |- style="background-color:#eef" || 白帯大将 || 読切 || 月刊少年ジャンプ(集英社) || 1979年2月号 || 『真友仁義 車田正美初期短編集』 |- style="background-color:#eef" | rowspan="2" | 実録!神輪会 || 連作読切 || 週刊少年ジャンプ(集英社) || 1979年13号 / 1980年18号 / 1981年11号 / 1983年19号 || 全1巻(1983年8月15日) |- style="background-color:#eef" | colspan="4" style="text-align:left" |[[週刊少年ジャンプ#愛読者賞|愛読者賞]]の読み切り作品として発表。1980年18号掲載の「リングにこけろ」は読者投票第1位となった。 |- style="background-color:#fee" | rowspan="2" | '''[[風魔の小次郎]]''' || 長期連載 || 週刊少年ジャンプ(集英社) || 1982年3・4号 - 1983年49号 || 全10巻 |- style="background-color:#fee" | colspan="4" style="text-align:left" | 1989年OVA化。2003年由利聡による続編『[[風魔の小次郎 柳生暗殺帖]]』連載が開始されるも2006年を最後に休載中。2007年実写ドラマ化、同キャストにより2008年ミュージカル化。 |- style="background-color:#eef" | rowspan="3" | [[雷鳴のZAJI]] | rowspan="3"| 連作読切 || [[フレッシュジャンプ]](集英社) || 1983年2月号 | rowspan="2" | 全1巻 |- style="background-color:#eef" || [[週刊少年ジャンプ]](集英社) || 1984年13号 / 1988年6号 |- style="background-color:#eef" || [[チャンピオンクロス]]([[秋田書店]]) || 2015年配信予定 || 未収録 |- style="background-color:#fee" | rowspan="4" | '''[[男坂]]'''<br />'''連載中''' | rowspan="3" | 長期連載 || 週刊少年ジャンプ(集英社) || 1984年32号 - 1985年12号 || 1 - 3巻 |- style="background-color:#fee" | [[週プレNEWS]](集英社) || 2014年6月9日 - 8月11日 / 2014年12月8日 - 2015年2月2日 / 2016年2月28日 - 4月24日 配信 || 4 - 6巻 |- style="background-color:#fee" | [[少年ジャンプ+]](集英社) || 2017年7月14日配信開始 || 7巻 - |- style="background-color:#fee" | colspan="4" style="text-align:left" | 半年で打ち切りとなった作品だが、30年振りに連載再開となる。 |- style="background-color:#fee" | rowspan="3" | '''[[聖闘士星矢]]''' | rowspan="2" | 長期連載 || 週刊少年ジャンプ(集英社) || 1986年1・2号 - 1990年49号 | rowspan="2" | 全28巻 |- style="background-color:#fee" || [[週刊少年ジャンプの増刊号#後に独立した増刊号|ブイジャンプ]](集英社) || 1990年12月12日号 |- style="background-color:#fee" | colspan="4" style="text-align:left" | 代表作。1986年アニメ化、当時としては異例のスピードでアニメ化を果たす。連載終了号に最終回が入りきらないことが判明したため、車田による読切作品が掲載される予定だった同年創刊の『ブイジャンプ』誌にて掲載される。2006年より続編『[[聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話]]』連載中。 |- style="background-color:#eef" || 青い鳥の神話 || 読切 || 週刊少年ジャンプ増刊号(集英社) || 1991年Spring Special<br />1992年Winter Special || 全1巻(1998年9月1日) |- style="background-color:#efe" | rowspan="2" | [[SILENT KNIGHT翔]] || 短期連載 || 週刊少年ジャンプ(集英社) || 1992年35号 - 1992年48号 || 全2巻 |- style="background-color:#efe" | colspan="4" style="text-align:left" | 多くの伏線や敵対勢力の幹部が登場したものの、人気が振るわず13週間で打ち切られる。本作連載終了後に『週刊少年ジャンプ』との専属契約を解消する。 |- style="background-color:#efe" || [[あかね色の風 -新撰組血風記録-]] || 短期連載 || [[スーパージャンプ]](集英社) || 1993年13号 - 1994年22号 || ワイド版全1巻 |- style="background-color:#fee" | rowspan="2" | '''[[B'T-X]]''' || 長期連載 || [[月刊少年エース]]([[角川書店]]) || 1994年12月号 - 2000年2月号 || 全16巻 |- style="background-color:#fee" | colspan="4" style="text-align:left" | 集英社を離れてから初めての作品。1996年アニメ化、1997年OVA化。 |- style="background-color:#eef" || [[EVIL CRUSHER 魔矢]] || 読切 || [[月刊少年ガンガン]]([[スクウェア・エニックス]]) || 1996年2月号 / 1996年3月号 || 全1巻 |- style="background-color:#fee" || [[リングにかけろ2]] || 長期連載 || スーパージャンプ(集英社) || 2001年4号 - 2008年24号 || 全26巻 |- style="background-color:#eef" || [[聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜|聖闘士星矢 天界編序奏 〜overture〜 introduction]] || 読切 || スーパージャンプ(集英社) || 2004年4号 || 画集『宙(SORA)―聖闘士星矢車田正美ILLUSTRATIONS』 |- style="background-color:#fee" || [[聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話]]<br />'''不定期連載中''' || 長期連載 || [[週刊少年チャンピオン]](秋田書店) || 2006年36・37合併号 - || 既刊13巻 |- style="background-color:#efe" || 藍の時代 一期一会 || 短期連載 || 週刊少年チャンピオン(秋田書店) || 2015年33号 - 2015年41号 || 全1巻 |- style="background-color:#efe" || 聖闘士星矢 EPISODE ZERO || 短期連載 || チャンピオンRED(秋田書店) || 2018年2月号 - 4月号 || |- style="background-color:#efe" || 聖闘士星矢 ORIGIN || 短期連載 || チャンピオンRED(秋田書店) || 2019年2月号 - 3月号 || |- style="background-color:#efe" || 風魔の小次郎 序の巻 || 長期連載 || チャンピオンRED(秋田書店) || 2019年10月号 - 12月号 || |- style="background-color:#eef" || 聖闘士星矢 DESTINY || 読切 || チャンピオンRED(秋田書店) || 2020年2月号 || |- style="background-color:#eef" || 聖夜に鐘は鳴る || 読切 || チャンピオンRED(秋田書店) || 2022年2月号 || |- style="background-color:#eef" || 風魔の小次郎 外伝 飛鳥無明帖 || 連載 || チャンピオンRED(秋田書店) || 2022年10月号 - || |} === 他作家によるスピンオフ作品リスト === 車田正美自身の手に拠らない、車田正美を原作者とする[[スピンオフ]]作品など。 {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center;" ! 作品名 || 作者 || 掲載誌・出版社 || 連載・掲載期間 || 単行本 |- style="background-color:#fee" || [[聖闘士星矢EPISODE.G]] || [[岡田芽武]] || [[チャンピオンRED]](秋田書店) || 2003年2月号 - 2013年8月号 || 全21巻 |- style="background-color:#fee" || [[風魔の小次郎 柳生暗殺帖]] || 由利聡 || チャンピオンRED(秋田書店) || 2003年11月号 - 2006年7月号<br />隔月連載・休載中 || 既刊3巻 |- style="background-color:#fee" || [[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]] || [[手代木史織]] || 週刊少年チャンピオン(秋田書店) || 2006年39号 - 2011年19号 || 全25巻 |- style="background-color:#eef" || 聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話 ユズリハ外伝 血墨の紋 || 手代木史織 || [[プリンセスGOLD]](秋田書店) || 2009年11+12月号 || 『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話 外伝』14巻収録 |- style="background-color:#fee" | rowspan="2" | 聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話 外伝 | rowspan="2" | 手代木史織 || 週刊少年チャンピオン(秋田書店) || 2011年25号 - 2012年22+23号 | rowspan="2" | 全16巻 |- style="background-color:#fee" || [[別冊少年チャンピオン]](秋田書店) || 2012年7月号 - 2016年4月号 |- style="background-color:#efe" || [[聖闘士星矢Ω]] || [[ばう]] || [[ケロケロエース]](角川書店) || 2013年5月号 - 2013年9月号 || 全1巻 |- style="background-color:#fee" || [[聖闘士星矢 セインティア翔]] || [[久織ちまき]] || チャンピオンRED(秋田書店) || 2013年10月号 - 2021年9月号 || 全16巻 |- style="background-color:#fee" || [[車田水滸伝 HERO OF HEROES]] || [[高河ゆん]] || チャンピオンRED(秋田書店) || 2014年2月号(プレストーリー)<br />2014年5月号 - 連載中 || 既刊1巻 |- style="background-color:#fee" | rowspan="3" | [[聖闘士星矢EPISODE.G アサシン]] | rowspan="3" | 岡田芽武 || [[チャンピオンREDいちご]](秋田書店) || 2014年Vol.43 - 2014年Vol.45 | rowspan="3" | 全16巻 |- style="background-color:#fee" || チャンピオンクロス(秋田書店) || 2014年10月21日 - 2018年6月26日 |- style="background-color:#fee" || マンガクロス(秋田書店) || 2018年7月10日 - 2019年8月27日 |- style="background-color:#efe" || 聖闘士星矢30周年記念スペシャル企画<br />聖闘士星矢 ゴールデンエイジ || 岡田芽武(小説・挿絵)<br />高河ゆん・久織ちまき(挿絵)<br />手代木史織(漫画) || チャンピオンRED(秋田書店) || 2016年8月号 別冊付録 || 未収録 |- style="background-color:#fee" | 聖闘士星矢EPISODE.Gレクイエム | 岡田芽武 || マンガクロス(秋田書店) || 2020年1月28日 - 連載中 || 既刊5巻 |} == 漫画以外の活動 == === 画集 === ; BURNING BLOOD MASAMI KURUMADA 23th ANNIVERSARY : 角川書店 1996年12月1日発売 {{ISBN2|4-04-852749-5}} ; 宙(SORA)―聖闘士星矢車田正美ILLUSTRATIONS : 集英社 2004年3月31日発売 {{ISBN2|4-08-782072-6}} ; 聖闘士星矢30周年記念画集 聖域 ―SANCTUARY― : 宝島社 2016年10月21日発売 {{ISBN2|978-4-8002-6227-1}} === 音楽作品 === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:center;" data-expandtext="表示" data-collapsetext="隠す" | colspan="5" style="text-align:left" | '''生々流転 KURUMADA ISM〜車田正美作詞全集〜'''<br />ポニーキャニオン 2005年12月14日発売 |- ! 曲名 || 作詞 || 作曲 || 編曲 || 歌 |- ! colspan="5" | 聖闘士星矢 |- || いかなる星の下に<br />〜We’re Fearless Warriors〜 || 車田正美 || [[つのごうじ]] || [[MAKE-UP|MAKE UP PROJECT]] || MAKE UP PROJECT |- || 星よ流れるな<br />〜Stop The Fate〜 || 車田正美 || [[松澤浩明]] || MAKE UP PROJECT || MAKE UP PROJECT |- || 少年記I<br />〜BURNING BLOOD〜 || 車田正美 || 松澤浩明 || 松澤浩明 || [[影山ヒロノブ]] |- || 少年記II<br />〜I Leave My Heart〜 || 車田正美 || [[須藤賢一]] || 須藤賢一 || [[遠藤正明]] |- ! colspan="5" | 風魔の小次郎 |- || 風の<ruby><rb>戦士</rb><rp>(</rp><rt>ソルジャー</rt><rp>)</rp></ruby> || 車田正美 || [[今泉敏郎]] || 今泉敏郎 || 三浦秀美 |- || あの日風の中で… || 車田正美 || [[今泉敏郎]] || 今泉敏郎 || 三浦秀美 |- ! colspan="5" | B'T-X |- || 君を守りたい || 車田正美 || [[千住明]] || 千住明 || [[檜山修之]]<br />高宮鉄平 役 |- || 信じる心 || 車田正美 || 千住明 || 千住明 || [[佐々木望]]<br />高宮鋼太郎 役 |- || 光を探して || 車田正美 || 千住明 || 千住明 || [[緒方恵美]]<br />華蓮 役 |- || いつか聞いた風の歌 || 車田正美 || 千住明 || 千住明 || [[湯屋敦子]]<br />アラミス 役 |- ! colspan="5" | リングにかけろ |- || 風に向かって走れ<br />〜stand & fight〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 荒木健 || [[森田成一]]<br />高嶺竜児 役 |- || 名も無き野の花<br />〜fulfill your dream〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 桑田衛 || [[田中理恵 (声優)|田中理恵]]<br />高嶺菊 役 |- || 純情ケンカ チャンピオン<br />〜oneway boy〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || [[草野よしひろ]] || [[草尾毅]]<br />香取石松 役 |- || いばらの旋律<br />〜Melody〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || [[大石憲一郎]] || [[神谷浩史]]<br />河井武士 役 |- || 覇道のディスタンス<br />〜Distance〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 草野よしひろ || [[置鮎龍太郎]]<br />剣崎順 役 |- || 明日への闘志 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || Kacky || Marina del ray |- ! colspan="5" | 男坂 |- || 男坂<br />(ボーナストラック) || 車田正美・松尾康治 || 車田正美 || 荒木健 || 瀬戸口さゆり |} {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:center;" data-expandtext="表示" data-collapsetext="隠す" | colspan="5" style="text-align:left" | '''KURUMADA The Complete Works 動如雷電 〜車田正美作詞全集〜 vol.2'''<br />ポニーキャニオン 2013年1月16日発売 |- ! 曲名 || 作詞 || 作曲 || 編曲 || 歌 |- ! colspan="5" | リングにかけろ |- || 明日への闘志 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || Kacky || Marina del ray |- || Shining like gold<br />〜思い出の欠片〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 大石憲一郎 || Marina del ray |- || Strike Anywhere<br />〜誓いの時〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 大石憲一郎 || Marina del ray |- || 明日への飛翔<br />〜flap your wings〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 大石憲一郎 || Marina del ray |- || rough and ready<br />〜拳よ 空翔けろ〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 大石憲一郎 || Marina del ray |- || 虹の彼方 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 大石憲一郎 || Marina del ray |- ! colspan="5" | 聖闘士星矢 |- || 女神の戦士<br />〜Pegasus Forever〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || Kacky・大石憲一郎 || Marina del ray |- || 託す者へ<br />〜My Dear〜 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 大石憲一郎 || [[まつざわゆみ]] |- || 神の園<br />〜Del Regno〜 || 車田正美・松尾康治 || 車田正美・Kacky || 大石憲一郎 || [[石橋優子]] |- || 花の鎖 || 車田正美・松尾康治 || Kacky || 大石憲一郎 || 生乃麻紀・Marina del ray |} {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:center;" data-expandtext="表示" data-collapsetext="隠す" | colspan="5" style="text-align:left" | '''車田 正美 熱血画道40周年記念CD'''<br />日本コロムビア 2014年11月26日発売 |- ! 曲名 || 作詞 || 作曲 || 編曲 || 歌 |- ! colspan="5" | 男坂 |- || 人生岬 || 車田正美 || Kacky || [[山本健司]] || [[五條真由美]] |- || 男坂(新録音 ニューver.) || 車田正美 || Kacky || 山本健司 || 五條真由美 |- || 人生岬(カラオケ) || 車田正美 || Kacky || 山本健司 || 五條真由美 |- || 男坂(カラオケ) || 車田正美 || Kacky || 山本健司 || 五條真由美 |} * '''誓いの明日''' : 作詞 車田正美・松尾康治 / 作曲 Kacky / 編曲 Kacky & 藤井理央 / 歌 Marina del ray : [[高尾 (パチンコメーカー)|高尾社]]CR B't Xの挿入歌、Marina del ray属するサウンドクリエーターMDR Sound Productionのホームページ<ref>[http://www.nowpro.co.jp/mdr/index.html MDR Sound Productionのホームページ]</ref>にて視聴可能。 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:center;" data-expandtext="表示" data-collapsetext="隠す" | colspan="5" style="text-align:left" | '''CR「風魔の小次郎」サウンドトラック'''<br />[[iTunes Store]] 2016年4月1日配信 |- ! 曲名 || 作詞 || 作曲 || 編曲 || 歌 |- ! colspan="5" | 風魔の小次郎 |- || 風と共に || 車田正美 / 小池由朗 || Kacky || Kacky / 大石憲一郎 || Marina del ray |- || 聖戦 || 車田正美 / 小池由朗 || Kacky || Kacky / 大石憲一郎 || Marina del ray |- || 風の如く || 車田正美 / 小池由朗 || Kacky || Kacky / 大石憲一郎 || Marina del ray |- || じゃんじゃん☆にんじゃ (feat. [[YUKA]]) || 車田正美 / 小池由朗 || Kacky || Kacky / 大石憲一郎 || Marina del ray |- || 風と共に(instrumental) || 車田正美 / 小池由朗 || Kacky || Kacky / 大石憲一郎 || Marina del ray |- || 聖戦(instrumental) || 車田正美 / 小池由朗 || Kacky || Kacky / 大石憲一郎 || Marina del ray |- || 風の如く(instrumental) || 車田正美 / 小池由朗 || Kacky || Kacky / 大石憲一郎 || Marina del ray |- || じゃんじゃん☆にんじゃ (instrumental) || 車田正美 / 小池由朗 || Kacky || Kacky / 大石憲一郎 || Marina del ray |} : [[三洋物産|SANYO]]のCR 風魔の小次郎のメインテーマ、挿入歌、エンディングテーマ、そしてメインボーカルにYUKAを迎えたプロデュース曲。 === イラスト提供 === * '''[[テレ遊びパフォー!|パフォー!]]''' : [[NHK総合テレビジョン]]、[[NHK衛星第2テレビジョン]]で放送されていたバラエティー番組のオープニングイラスト。 === 書籍作品 === * '''人生を語らず''' : 秋田書店 2004年7月29日発売 {{ISBN2|978-4-253-10491-3}} * '''車田正美熱血対談伝説 リングにかけろREAL''' : 集英社 2005年12月2日発売 {{ISBN2|978-4-087-82109-3}} * '''人生を語らず2 動如雷電''' : 秋田書店 2009年2月6日発売 {{ISBN2|978-4-253-10492-0}} === メディア出演 === * '''[[週刊少年「」]]''' : [[フジテレビTWO|フジテレビ721]] 第2回 2003年2003年4月29日放送。 * '''[[マンガノゲンバ]]''' : NHK衛星第2テレビジョン 第76回 2008年8月26日放送。 == 師匠 == * [[井上コオ]] * [[本宮ひろ志]] * [[高橋よしひろ]] == アシスタント == * [[富沢順]] * [[石山東吉]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[秋本治]] - 同じ[[下町]]出身で、親友のひとり * [[ゆでたまご]] - 親友 * [[アストロ球団]] - 表現方法や「惹き」の使い方などに多大な影響を受けたと語っている([[太田出版]]版『アストロ球団』第2巻の解説より) == 外部リンク == * [http://kurumadapro.com/ 車田正美オフィシャルサイト 生々流転] **[https://web.archive.org/web/20211023100240/http://40th.kurumadapro.com/top/ 車田正美 熱血画道40周年](40周年記念サイト) * {{Mediaarts-db|C57186|車田正美}} {{Manga-artist-stub}} {{車田正美}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くるまた まさみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の作詞家]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:東京都立日本橋高等学校出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
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高橋しん
高橋 しん(たかはし しん、本名:高橋 真(たかはし しん)、男性、1967年(昭和42年)9月8日 - )は、日本の漫画家。北海道士別市出身。北海道士別高等学校、山梨学院大学法学部法学科卒業。 大学1年生の時に第63回箱根駅伝(1987年(昭和62年))で最終10区を走った経験がある(チームはこの時に箱根初出場。総合15位、個人成績は区間11位)。在学中からチームのTシャツのデザインを担当し、その洒落たデザインは他大学は元より高校生にとっても羨望の的であったという。 1990年(平成2年)、「好きになるひと」で第11回スピリッツ賞奨励賞を受賞し、「コーチの馬的指導学」(『ビッグコミックスピリッツ冬の増刊号』)でデビュー。 その後、新人漫画家に5話程度の短期連載を競わせる企画が『ビッグコミックスピリッツ』であり、高橋も1話を執筆したが、原因不明の疾病で執筆が行えなくなる。1年ほど療養して原因不明のまま治った高橋に連載の話が持ち上がり、編集から短期連載の企画の流用を勧められ、1993年(平成5年)『ビッグコミックスピリッツ』18号から「いいひと。」の連載を始める。 高橋にとっての、各エピソード毎に主人公が変わるという実験的作品(読者はあまり認識していなかったようであった)「いいひと。」は『ビッグコミックスピリッツ』で長期連載された。1997年にテレビドラマ化され平均視聴率20%以上を超える大ヒットとなった。ただし、ドラマ化にあたって「主人公のゆーじと、妙子のキャラだけは改変しないでください」と条件を出していたにもかかわらず、実際には両者とも著しく改変されていたことに激怒し、「原作」のテロップを認めず(「原案」となる)、翌1998年には原作の連載をも取りやめてしまったことで知られている。のちに高橋は『さよなら、パパ。』という『いいひと。』登場人物の後日談集を発表している。 2000年(平成12年)連載開始の『最終兵器彼女』はそれまでの一般庶民の生活に密着した作風から、一変したSF色の強い作品である。この作品は大ヒットしアニメ化もされ、2006年(平成18年)2月には前田亜季主演の実写映画も公開された。 『好きになるひと』では、画に対するこだわりを見せ、古い作品を全て描き直すという作業をしている。『きみのカケラ』では、少年誌にSFファンタジーで初挑戦している。白泉社の『月刊メロディ』2005年(平成17年)1月号(11月28日発売)より、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』を原作とした「トムソーヤ」を連載、2007年(平成19年)に完結した。 2016年(平成28年)から2018年(平成30年)にかけては『ビッグコミックスピリッツ』で駅伝を主題にした「かなたかける」を連載。 これらの作品は2006年7月発売の外伝『最終兵器彼女外伝集 世界の果てには君と二人で』に収録された。 高橋しんの個人事務所。及び、高橋しん作品におけるアシスタントスタッフの総称。通称「しんプレ」。 『いいひと』を新連載するにあたって、高橋しんの読切時代のアシスタントさかもとたけしと新人漫画家同士の仲間いけだたかしと共に結成し、事務所を設立。後ちに両者は、退所し独立する。 他多数。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "高橋 しん(たかはし しん、本名:高橋 真(たかはし しん)、男性、1967年(昭和42年)9月8日 - )は、日本の漫画家。北海道士別市出身。北海道士別高等学校、山梨学院大学法学部法学科卒業。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大学1年生の時に第63回箱根駅伝(1987年(昭和62年))で最終10区を走った経験がある(チームはこの時に箱根初出場。総合15位、個人成績は区間11位)。在学中からチームのTシャツのデザインを担当し、その洒落たデザインは他大学は元より高校生にとっても羨望の的であったという。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)、「好きになるひと」で第11回スピリッツ賞奨励賞を受賞し、「コーチの馬的指導学」(『ビッグコミックスピリッツ冬の増刊号』)でデビュー。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その後、新人漫画家に5話程度の短期連載を競わせる企画が『ビッグコミックスピリッツ』であり、高橋も1話を執筆したが、原因不明の疾病で執筆が行えなくなる。1年ほど療養して原因不明のまま治った高橋に連載の話が持ち上がり、編集から短期連載の企画の流用を勧められ、1993年(平成5年)『ビッグコミックスピリッツ』18号から「いいひと。」の連載を始める。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "高橋にとっての、各エピソード毎に主人公が変わるという実験的作品(読者はあまり認識していなかったようであった)「いいひと。」は『ビッグコミックスピリッツ』で長期連載された。1997年にテレビドラマ化され平均視聴率20%以上を超える大ヒットとなった。ただし、ドラマ化にあたって「主人公のゆーじと、妙子のキャラだけは改変しないでください」と条件を出していたにもかかわらず、実際には両者とも著しく改変されていたことに激怒し、「原作」のテロップを認めず(「原案」となる)、翌1998年には原作の連載をも取りやめてしまったことで知られている。のちに高橋は『さよなら、パパ。』という『いいひと。』登場人物の後日談集を発表している。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)連載開始の『最終兵器彼女』はそれまでの一般庶民の生活に密着した作風から、一変したSF色の強い作品である。この作品は大ヒットしアニメ化もされ、2006年(平成18年)2月には前田亜季主演の実写映画も公開された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『好きになるひと』では、画に対するこだわりを見せ、古い作品を全て描き直すという作業をしている。『きみのカケラ』では、少年誌にSFファンタジーで初挑戦している。白泉社の『月刊メロディ』2005年(平成17年)1月号(11月28日発売)より、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』を原作とした「トムソーヤ」を連載、2007年(平成19年)に完結した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2016年(平成28年)から2018年(平成30年)にかけては『ビッグコミックスピリッツ』で駅伝を主題にした「かなたかける」を連載。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これらの作品は2006年7月発売の外伝『最終兵器彼女外伝集 世界の果てには君と二人で』に収録された。", "title": "作品リスト" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "高橋しんの個人事務所。及び、高橋しん作品におけるアシスタントスタッフの総称。通称「しんプレ」。", "title": "SHIN Presents!" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『いいひと』を新連載するにあたって、高橋しんの読切時代のアシスタントさかもとたけしと新人漫画家同士の仲間いけだたかしと共に結成し、事務所を設立。後ちに両者は、退所し独立する。", "title": "SHIN Presents!" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "他多数。", "title": "SHIN Presents!" } ]
高橋 しんは、日本の漫画家。北海道士別市出身。北海道士別高等学校、山梨学院大学法学部法学科卒業。
{{特殊文字}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 高橋 しん | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 高橋 真<ref>{{Cite web|和書|title=大学別選手一覧 山梨学院大学 第63回大会 1987年(昭和62年)|url=https://web.archive.org/web/20160313025628/https://www.hakone-ekiden.jp/data/data_univ.php?race=63&univ=45|publisher=箱根駅伝公式Webサイト|accessdate=2008-10-27}}</ref><ref name="sportsnavi" /> | 生年 = {{生年月日と年齢|1967|09|08}}<ref name="official site">「[http://www.sinpre.com/sinpre/archives/2005/01/post_127.html しん先生プロフィール]」『[http://www.sinpre.com/ SHIN Presents! on the web.[しんプレ]]』</ref> | 生地 = {{JPN}}・[[北海道]][[士別市]]<ref name="official site" /> | 没年 = | 没地 = | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1990年]] - | ジャンル = [[青年漫画]]・[[少年漫画]] | 代表作 = * [[いいひと。]]<ref name="official site" /> * [[最終兵器彼女]]<ref name="official site" /> * [[きみのカケラ]]<ref name="official site" /> | 受賞 = 第11回スピリッツ賞奨励賞(「好きになるひと」) | サイン = | 公式サイト = }} '''高橋 しん'''(たかはし しん、[[諱|本名]]:高橋 真(たかはし しん)、[[男性]]、[[1967年]]([[昭和]]42年)[[9月8日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[士別市]]出身<ref name="official site" />。[[北海道士別高等学校]]<ref name="sportsnavi" /><ref>{{Cite web|和書|title=選手詳細情報 山梨学院大学 第63回大会 1987年(昭和62年)|url=http://www.hakone-ekiden.jp/data/data_player.php?id=3947&flag=univ|publisher=箱根駅伝公式Webサイト|accessdate=2008-10-27}}</ref>、[[山梨学院大学]][[法学部]]法学科卒業<ref name="official site" /><ref>「学びやは山梨」山梨学院大卒・高橋しんさん『[[山梨日日新聞]]』 2011年4月13日付朝刊、第2版、第12面。記事内プロフィールに同大学法学部法学科卒と明示。</ref>。 == 略歴 == {{出典の明記|section=1|date= 2021年1月11日 (月) 20:05 (UTC)|ソートキー=人}} === 駅伝選手として === 大学1年生の時に[[第63回東京箱根間往復大学駅伝競走|第63回箱根駅伝]]([[1987年]](昭和62年))で最終10区を走った経験がある(チームはこの時に箱根初出場。総合15位、個人成績は区間11位)<ref name="sportsnavi">{{Cite web|和書|title=箱根路を駆けた漫画家・高橋しん氏(山梨学院大OB)がエール|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/athletic/ekiden/hakone/84th/topics/200712/at00015820.html|publisher=スポーツナビ|date=2007-12-27|accessdate=2008-10-27}}</ref>。在学中からチームのTシャツのデザインを担当し、その洒落たデザインは他大学は元より高校生にとっても羨望の的であったという。 === 漫画家として === [[1990年]]([[平成]]2年)、「好きになるひと」で第11回スピリッツ賞奨励賞を受賞し、「コーチの馬的指導学」(『[[ビッグコミックスピリッツ]]冬の増刊号』)で[[デビュー]]。 その後、新人漫画家に5話程度の短期連載を競わせる企画が『ビッグコミックスピリッツ』であり、高橋も1話を執筆したが、原因不明の疾病で執筆が行えなくなる。1年ほど療養して原因不明のまま治った高橋に連載の話が持ち上がり、編集から短期連載の企画の流用を勧められ、[[1993年]](平成5年)『ビッグコミックスピリッツ』18号から「[[いいひと。]]」の連載を始める<ref>コミックス『いいひと。』26巻 著者後書きより</ref>。 高橋にとっての、各エピソード毎に主人公が変わるという実験的作品(読者はあまり認識していなかったようであった)「いいひと。」は『[[ビッグコミックスピリッツ]]』で長期連載された。[[1997年]]にテレビドラマ化され平均視聴率20%以上を超える大ヒットとなった。ただし、ドラマ化にあたって「主人公のゆーじと、妙子のキャラだけは改変しないでください」と条件を出していたにもかかわらず、実際には両者とも著しく改変されていたことに激怒し、「原作」のテロップを認めず(「原案」となる)、翌[[1998年]]には原作の連載をも取りやめてしまったことで知られている。のちに高橋は『さよなら、パパ。』という『[[いいひと。]]』登場人物の後日談集を発表している。 [[2000年]](平成12年)連載開始の『[[最終兵器彼女]]』はそれまでの一般庶民の生活に密着した作風から、一変したSF色の強い作品である。この作品は大ヒットし[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化もされ、[[2006年]](平成18年)2月には[[前田亜季]]主演の実写映画も公開された。 『好きになるひと』では、画に対するこだわりを見せ、古い作品を全て描き直すという作業をしている。『[[きみのカケラ]]』では、[[少年雑誌|少年誌]]に[[サイエンス・フィクション|SF]][[ファンタジー]]で初挑戦している。[[白泉社]]の『[[MELODY (雑誌)|月刊メロディ]]』2005年(平成17年)1月号(11月28日発売)より、[[マーク・トウェイン]]の『[[トム・ソーヤーの冒険]]』を原作とした「[[トムソーヤ]]」を連載、[[2007年]](平成19年)に完結した。 [[2016年]](平成28年)から[[2018年]](平成30年)にかけては『ビッグコミックスピリッツ』で駅伝を主題にした「[[かなたかける]]」を連載。 == 作品リスト == * [[いいひと。]](『[[ビッグコミックスピリッツ]]』連載) ** さよなら、パパ。(短編集)2002年5月初版発行 {{ISBN2|4-09-186852-5}} * [[最終兵器彼女]](『ビッグコミックスピリッツ』連載) **「最終兵器彼女外伝集 世界の果てには君と二人で」(短編集)2006年7月発行 {{ISBN2|4-09-180746-1}} * [[きみのカケラ]](『[[週刊少年サンデー]]』連載) ** スピカ - The twin STARS of "きみのカケラ" 2013年8月初版発行 {{ISBN2|978-4-09-124402-4}} * 好きになるひと(短編集)1999年12月初版発行 {{ISBN2|4-09-186851-7}} * [[トムソーヤ]](『[[MELODY (雑誌)|MELODY]]』連載)2007年8月<!--奥付上は9月5日-->初版発行 {{ISBN2|978-4-592-14281-2}} * [[花と奥たん]](『ビッグコミックスピリッツ』連載) * SEASONS―なつのひかりの―(短編集) {{ISBN2|978-4-09-157286-8}} * [[雪にツバサ]](『[[週刊ヤングマガジン]]』連載) * あの商店街の、本屋の、小さな奥さんのお話。(『MELODY』連載 2013年)2013年12月初版発行 {{ISBN2|978-4-592-21714-5}} * [[かなたかける]](『ビッグコミックスピリッツ』連載) * [[髪を切りに来ました。]](『MELODY』連載) * 駅伝男子プロジェクト(『ビッグコミックスピリッツ』連載) ; 以下未単行本化 :* たしかに、君がいる。([[白泉社]] 『月刊メロディ』 2002年12月号) :* 白ネコのこと(白泉社 『月刊メロディ』 1999年11月) :* 百の星(作者故郷の士別神社会報「つくも山」 1999年) :* 有森裕子物語(前編:『週刊少年サンデー』 1996年7月24日号/後編:7月31日号) :* 黒い翼(『[[週刊ヤングサンデー]]』 1995年12月14日号) :* 抱きしめたい(『ビッグコミックスピリッツ』 1994年11月10日増刊号) :* START-EIGHTEEN-(前編:『ビッグコミックスピリッツ』 1992年No1・2合併号/後編:No3・4合併号) :* わたしたちは散歩する([[竹書房]] 『[[まんがくらぶ]]』 隔月刊連載 全11話) :*: ※4話(2002年2月号)のみ『最終兵器彼女外伝集 世界の果てには君と二人で』に収録。 === 最終兵器彼女に関連した作品 === これらの作品は2006年7月発売の外伝『最終兵器彼女外伝集 世界の果てには君と二人で』に収録された。 * LOVE STORY, KILLED.(『ビッグコミックスピリッツ』 2002年7月15日号) * 世界の果てには君と二人で。あの光が消えるまでに願いを。せめて僕らが生き延びるために。この星で。(『月刊サンデージェネックス』 2001年8月号) * 最終兵器彼女 〜Sametime, another place〜(『月刊サンデージェネックス』 2002年12月号別冊付録「LOVE STORY, KILLED.」と「世界の果てには君と二人で・・・」を再録) * スター★チャイルド(『ビッグコミックスピリッツ』 2006年9号) ===きみのカケラに関連した作品=== *スピカ-The twin ST☆Rs of "KIMI NO KAKERA"-(『週刊少年サンデー』 2010年34号) *:※「きみのカケラ」完結巻発売記念として掲載された作品。作者曰く、「きみのカケラ」の双子作品。 *スピカ-放課後のちいさな星-(『週刊少年サンデー』 2013年31号) *:※「きみのカケラ」「スピカ」に続く、もう一つの「きみと僕」のストーリー。 === 挿絵・イラスト === *「LOVESONG 2002」(画集) * [[赤×ピンク]] (著:[[桜庭一樹]]、[[ファミ通文庫]]) * [[公益財団法人JKA]]のテレビコマーシャル(2022年5月<ref name="natalie20220512">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/477282|title=高橋しん、競輪・オートレースを運営するJKAの補助事業CMにイラスト描き下ろし|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-05-12|accessdate=2022-05-12}}</ref>) - イラスト描きおろし{{R|natalie20220512}} == SHIN Presents! == 高橋しんの個人事務所。及び、高橋しん作品におけるアシスタントスタッフの総称。通称「しんプレ」。 『いいひと』を新連載するにあたって、高橋しんの読切時代のアシスタント[[さかもとたけし]]と新人漫画家同士の仲間[[いけだたかし]]と共に結成し、事務所を設立。後ちに両者は、退所し独立する。 === アシスタント === * [[いけだたかし]] - 『いいひと』『最終兵器彼女』読切作品など作画アシスタントとして従事。しんプレの初代メンバーのひとり。 * [[さかもとたけし]] - 『いいひと』『最終兵器彼女』『きみのカケラ』読切作品などの作画チーフアシスタントとして従事。しんプレ初代メンバー。 * [[浅野いにお]]<ref name="assistant">{{Cite web|title=helpstaff|url=http://www.sinpre.com/staff/help_staff.html|publisher=[http://www.sinpre.com/ SHIN Presents! on the web.[しんプレ]]|accessdate=2008-10-27}}</ref>(『最終兵器彼女』連載時<ref>{{Cite web|和書|title=2001年のニュース|url=http://www.sinpre.com/news/news2001.html|publisher=[http://www.sinpre.com/ SHIN Presents! on the web.[しんプレ]]|accessdate=2008-10-27}}</ref>) * 守屋直樹<ref name="assistant" /> * 中山雅也<ref name="assistant" /> * [[菊池直恵]]<ref name="assistant" /> * [[稲光伸二]]<ref name="assistant" /> * [[関口太郎 (漫画家)|関口太郎]]<ref name="assistant" /> * [[伊藤静 (漫画家)|伊藤静]] 他多数。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[第63回東京箱根間往復大学駅伝競走]] == 外部リンク == * [http://www.sinpre.com/ SHIN Presents! on the web.[しんプレ] 公式サイト] {{ja icon}} * {{Twitter|sinpre|しんプレ}} {{ja icon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たかはし しん}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:箱根駅伝の人物]] [[Category:山梨学院大学出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]] {{Manga-artist-stub}}
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高屋奈月
高屋 奈月(たかや なつき、1973年7月7日 - )は、日本の漫画家。女性。東京都出身。血液型はA型。 1992年、『花とゆめプラネット増刊』(白泉社)に掲載の「Born Free」でデビュー。以来、主に白泉社の『花とゆめ』『別冊花とゆめ』で活動。代表作『フルーツバスケット』は、2001年に同作で第25回講談社漫画賞少女部門を受賞。ほかの代表作に『翼を持つ者』、『星は歌う』、『リーゼロッテと魔女の森』など。 1991年に「SICKLY BOYは陽に弱い」が第178回花とゆめまんが家コース佳作を受賞。『別冊花とゆめ』(白泉社)に掲載される。翌1992年『花とゆめプラネット増刊』(白泉社)9月1日号に掲載された「Born Free」でプロデビューし、以降白泉社を中心に活動する。 1998年から2006年まで『花とゆめ』に「フルーツバスケット」を連載、2001年に第25回講談社漫画賞少女部門を受賞し、同年テレビアニメ化される。後に国外でも発売され、最も売れた少女漫画としてギネス・ワールド・レコーズにも記録される大ヒット作となる。同作連載中に脳神経の病気にかかり、療養のため休載し、約1年後に復帰した。広く腱鞘炎と噂されていたが、自身のTwitterにて「職業性ジストニア」により頭蓋骨に穴をあけた手術を行ったことをツイートしており、その部分だけ未だにハゲがあるとのこと。 「フルーツバスケット」の連載終了後も白泉社で作品を発表するかたわら、2008年にはNHK「みんなのうた」8月・9月の曲「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」(作曲:アンジェラ・アキ)のキャラクター原案を手がけている。 2013年11月、病気療養のため、「リーゼロッテと魔女の森」の長期休載を発表。12月にはブログを更新し以前患った職業性ジストニアの再発ではないことを明かした。 2015年9月、花とゆめONLINE(花LaLa onlineを経て現マンガPark)で「フルーツバスケット another」を連載を開始。 2021年11月、東京都の西武池袋本店別館2階の西武ギャラリーにて、画業30周年に向けた展示イベント「フルーツバスケットの世界展〜高屋奈月画業30周年へ〜」を開催。『フルーツバスケット』を軸とした高屋の作品が展示された。
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高屋 奈月は、日本の漫画家。女性。東京都出身。血液型はA型。 1992年、『花とゆめプラネット増刊』(白泉社)に掲載の「Born Free」でデビュー。以来、主に白泉社の『花とゆめ』『別冊花とゆめ』で活動。代表作『フルーツバスケット』は、2001年に同作で第25回講談社漫画賞少女部門を受賞。ほかの代表作に『翼を持つ者』、『星は歌う』、『リーゼロッテと魔女の森』など。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 高屋 奈月 | ふりがな = たかや なつき | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{Birth date and age|1973|7|7}} | 生地 = [[日本]]・[[東京都]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- [[日本]] --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1992年]] - | ジャンル = [[少女漫画]] | 代表作 = 『[[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]』{{R|natalie20220220}}<br />『[[翼を持つ者]]』{{R|natalie1943}}<br />『[[星は歌う]]』{{R|natalie1943}}<br />『[[リーゼロッテと魔女の森]]』{{R|natalie1943}} | 受賞 = * 第25回[[講談社漫画賞]]少女部門(『フルーツバスケット』) | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official|http://www.example.org}}や[http://www.example.org 公式ページ名] など --> }} '''高屋 奈月'''(たかや なつき、[[1973年]][[7月7日]]<ref name="natalie1943">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/artist/1943|title=高屋奈月|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2022-02-20}}</ref><ref name="booklive">{{Cite web|和書|url=https://booklive.jp/focus/author/a_id/18588|title=高屋奈月の一覧 プロフィール|website=BookLive!|publisher=凸版印刷グループ|accessdate=2022-02-20}}</ref> - )は、日本の[[漫画家]]{{R|booklive}}。女性{{R|booklive}}。[[東京都]]出身{{R|natalie1943}}。[[ABO式血液型|血液型]]はA型{{R|booklive}}。 [[1992年]]、『[[花とゆめ]]プラネット増刊』(白泉社)に掲載の「Born Free」でデビュー{{R|natalie1943}}。以来、主に[[白泉社]]の『[[花とゆめ]]』『[[別冊花とゆめ]]』で活動。代表作『[[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]』は<ref name="natalie20220220">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/466452|title=高屋奈月デビュー30周年記念のオンラインくじ、「フルバ」や歴代作品のイラスト使用|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-20|accessdate=2022-02-20}}</ref>、[[2001年]]に同作で第25回[[講談社漫画賞]]少女部門を受賞{{R|natalie1943}}。ほかの代表作に『[[翼を持つ者]]』{{R|natalie1943}}、『[[星は歌う]]』{{R|natalie1943}}、『[[リーゼロッテと魔女の森]]』など{{R|natalie1943}}。 == 来歴 == [[1991年]]に「SICKLY BOYは陽に弱い」が第178回花とゆめまんが家コース佳作を受賞。『別冊花とゆめ』(白泉社)に掲載される。翌[[1992年]]『[[花とゆめ]]プラネット増刊』(白泉社)9月1日号に掲載された「Born Free」でプロデビューし、以降白泉社を中心に活動する<ref name="natalie">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/pp/fruitsbasket|title=「フルーツバスケット」愛蔵版発売記念、高屋奈月インタビュー&名ゼリフ満載の「今日のおことば」 (1-3)|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2017-12-25}}</ref>。 [[1998年]]から[[2006年]]まで『花とゆめ』に「[[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]」を連載、2001年に第25回[[講談社漫画賞]]少女部門を受賞し、同年テレビアニメ化される<ref name="natalie" />。後に国外でも発売され、最も売れた少女漫画として[[ギネス・ワールド・レコーズ]]にも記録される大ヒット作となる<ref name="natalie" />。同作連載中に脳神経の病気にかかり、療養のため休載し、約1年後に復帰した。広く[[腱鞘炎]]と噂されていたが、自身の[[Twitter]]にて「職業性[[ジストニア]]」により頭蓋骨に穴をあけた手術を行ったことをツイートしており、その部分だけ未だにハゲがあるとのこと。 「フルーツバスケット」の連載終了後も白泉社で作品を発表するかたわら、2008年には[[日本放送協会|NHK]]「[[みんなのうた]]」8月・9月の曲「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」(作曲:[[アンジェラ・アキ]])のキャラクター原案を手がけている。 [[2013年]]11月、病気療養のため、「[[リーゼロッテと魔女の森]]」の長期休載を発表。12月にはブログを更新し以前患った職業性ジストニアの再発ではないことを明かした<ref>{{Cite web|和書|url=http://nnht-natsuki.blog.so-net.ne.jp/2013-12-03|title=長期療養しております|work=猫とネズミと星と月|date=2013-12-03|accessdate=2019-10-19}}{{リンク切れ|date=2019年10月}}</ref>。 [[2015年]]9月、花とゆめONLINE(花LaLa onlineを経て現[[マンガPark]])で「フルーツバスケット another」を連載を開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://nnht-natsuki.blog.so-net.ne.jp/2015-07-09|title=フルバ愛蔵版発売&アナザー連載のお知らせ|work=猫とネズミと星と月|date=2015-07-17|accessdate=2019-10-19}}{{リンク切れ|date=2019年10月}}</ref>。 2021年11月、東京都の[[西武池袋本店]]別館2階の西武ギャラリーにて、画業30周年に向けた展示イベント「フルーツバスケットの世界展〜高屋奈月画業30周年へ〜」を開催<ref name="natalie20210903">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/443716|title=高屋奈月画業30周年へ!フルーツバスケットの世界展開催、幻影夢想や翼を持つ者も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-03|accessdate=2021-09-03}}</ref>。『フルーツバスケット』を軸とした高屋の作品が展示された{{r|natalie20210903}}。 == 作品リスト == === 漫画 === ; [[幻影夢想]] : 1994年 - 1997年、『花とゆめプラネット増刊』及び『花とゆめステップ増刊』に掲載。(全5巻、文庫版全3巻) ; [[翼を持つ者]] : 1995年 - 1998年、『花とゆめ』に連載。近未来[[サイエンス・フィクション|SF]]。(全6巻、文庫版全3巻) ; [[僕が唄うと君は笑うから]] : 1998年、『花とゆめ』に掲載。短編。同名の短編集が1999年に刊行された。 ; [[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/101777/|title=フルーツバスケット(2001) : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-05-24}}</ref> : 1998年 - 2006年、『花とゆめ』に連載。2004年に日本語解説付きの英語版が[[TOKYOPOP]]から刊行された。(全23巻) ; [[星は歌う]] : 2007年 - 2011年、『花とゆめ』に連載。(全11巻) ; [[リーゼロッテと魔女の森]] : 2011年 - 、『花とゆめ』に連載(2015年9月現在、休載)。 ; フルーツバスケット another : 2015年 - 、『花とゆめONLINE』に連載(2019年3月現在、既刊3巻)。 ; かくも小さき世界にて : 2023年 - 、『[[マンガPark]]』に連載中<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/539478|title=「フルーツバスケット」高屋奈月の新作はアパートの隣人同士描くラブストーリー|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-09-03|accessdate=2023-09-05}}</ref>。 === 画集 === * 高屋奈月画集『フルーツバスケット』(2004年、白泉社) === ファンブック === * 『フルーツバスケット キャラクターブック』(2001年、白泉社) * 『フルーツバスケット ファンブック〔猫〕』(2005年、白泉社) * 『フルーツバスケット ファンブック〔宴〕』(2007年、白泉社) == その他 == * 『[[手紙 〜拝啓 十五の君へ〜]]』(歌:[[アンジェラ・アキ]]、[[日本放送協会|NHK]][[みんなのうた]]、[[2008年]]8〜9月新曲)アニメーション原画<ref>{{Cite web|和書|title=手紙 〜拝啓 十五の君へ〜|url=https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN200808_01|website=NHK みんなのうた|accessdate=2021-04-09|language=ja|last=日本放送協会}}</ref>。 == 関連書籍 == * 『フルーツバスケット恋愛心理分析書』([[青木幸子]]、2001年、[[フットワーク出版]]) * 『フルーツバスケット恋愛チェックBOOK』([[渡辺水央]]、2003年、フットワーク出版) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|n_takaya77|高屋奈月}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:たかや なつき}} [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:21世紀日本の女性著作家]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:みんなのうたの映像制作者]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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竹本泉
竹本 泉(たけもと いずみ、本名・竹本 謙(たけもと けん)、1959年(昭和34年)1月19日 - )は、日本の漫画家。埼玉県出身。男性。血液型はB型。日本大学経済学部卒業。配偶者はマンガ家の矢野礼子。 少女漫画は妹の影響で読み始めた。和田慎二『銀色の髪の亜里沙』の影響を受けて少女漫画を描き始め、「なかよしまんがスクール」に2年間投稿。 大学4年次の教育実習時に第21回なかよし・少女フレンド新人漫画賞佳作となった『夢みる7月猫(ジュライキャット)』にて『なかよし』1981年8月号でデビュー。『なかよし』本誌での初連載作品は「パイナップルみたい♥」。 短編または短編連作型のシチュエーション・コメディを得意としており、ほのぼのとしているがどこか変な話というのが基本的な作風で、これはデビュー当初から掲載誌のジャンルの変遷を経ても一貫している。その作風を端的に表現したものとして「エロとグロのない吾妻ひでお」という評もある。 エドガー・ライス・バローズをはじめとしたSFファンで、作品中に著名SF作品を下敷きにしたネタが散見される。またいくつかのSF作品は、宇宙人、コピーされた地球など設定が同じである。各作品世界が同一のものであるかは不明。また、無類の猫好きとして知られ、猫をテーマとした漫画をしばしば描く。猫以外にも犬、イルカ、宇宙人、恐竜なども、よく作品に登場する。2003年まで飼っていた飼い猫のエピソードを漫画化した作品として『ある日のツヴァイ』などもある。飼い猫や作中に登場する猫にツヴァイ、どら菜、ふゅあ菜、ふゅん菜、じーく菜などが頻出する。 『なかよし』の専属契約を離れフリーランスの漫画家となって以降は、ゲーム誌やマニアックな雑誌での作品が増え、現在はほぼその方面で活動する作家である。しかし本人は少女誌の仕事がほとんどなくなった後も、少女漫画家を自称し続けている。趣味は海外SFを中心とした読書と、チェス、アニメ鑑賞、テレビゲーム。ポリシーとして原稿はいつも締め切り前に仕上げる。ただ、毎年11月は休載が慣例となっている。 独特のポップな背景、かわいらしい画風を持つ。この作風とペンネームゆえ、かつては女性と誤解されることが多かった。登場人物の台詞と名前、作品タイトルも掛詞や言葉遊びを凝らした独特のものが多い。ヤシの木などの慣れている物であれば、当たりをつけただけの下書きでペン入れしたりするなど、作画のスピードは速く、『エマ ヴィクトリアンガイド』で『エマ』の作者である森薫と対談した際、原稿を描くスピードについて「ネームが決まれば1日半から2日で仕上げまで」と発言して森を絶句させている。月刊で連載をしていた森は2週間程度使っていたが、竹本は更に続けて、森の作品の背景なら密度があるので「もう2日くれって言います」と発言し森を驚愕させた。長年、作画にはGペンを使用していたが、2011年末に遂にモノクロ原稿のみデジタルを導入した。カラー原稿は、少女誌で活動していた頃はカラーインクやエアスプレーを使用していたが、後にコピックやアクリルガッシュに移行。2015年末ごろよりカラー原稿もデジタル化している。 デビュー間もない頃からアニメに向いた絵柄という評価があり、フリーランスになってからの掲載誌についてはメディアミックスに注力している雑誌・出版社も少なくないため、作品のメディアミックス展開、とりわけテレビアニメ化については各方面で度々噂が上がった作家である。また、『アニメディア』などのアニメ雑誌が行うアニメ化希望作品についての読者アンケート調査でも、1980年代後半の一時期、『あおいちゃんパニック!』などが上位ランクインの常連作品の一つになっていた事がある。 しかし、竹本の原作作品はもとより、竹本が関連する作品についても、テレビアニメ方面で作品展開されたケースは実質的に存在しない。わずかにメディアミックス絡みのものとして、1986年から1987年に掛けて倉金章介の『あんみつ姫』をリメイクしたテレビアニメ作品が放映された際に、これに先行する形で『なかよし』では竹本が同作のリメイク漫画作品(以下、竹本版)を連載したことが挙げられるが、このテレビアニメは竹本版とはキャラクターデザイン もストーリーもまるで別物で、特徴的なことと言えば本来アニメ企画用に用意されたオリジナルキャラクターである隣国の若殿様・さくらもち太郎が竹本版に登場していたという点くらいであった。 1980年代には当時の講談社・東映動画の日曜朝の放映枠で『魔法使いさんおしずかに!』がアニメ化候補となったこともあるものの、この時に実際にアニメ化された作品は『はーいステップジュン』であり 制作には至らなかった。1992年にはとあるアニメ制作プロダクションから海洋少女冒険もののアニメ企画のキャラクターデザインの依頼が持ち込まれたものの、竹本曰く「その企画は流れた」という。その後も『MAGI×ES』で、同作に至ってはアニメ化を前提に立ち上げられた企画であったはずにもかかわらず、第2巻のあとがきで登場キャラクターに「全ての企画をなしにしてしまうすばらしくマイナスな魔法力」と言わせており、やはりアニメ化企画が頓挫していることを暗に示している。 テレビゲームソフトについては、コンシューマ機用のものを中心に過去に数作発売されている。しかし、企画段階で頓挫した作品、制作中止になった作品も多い。また発売された作品もゲーム性の低いマルチメディア作品が大半である。上述の『あんみつ姫』ではセガ・マークIII用のテレビゲームソフトも制作されているが、こちらのキャラクターもアニメ版に拠るものである。 ※巻数の記載の無い物は1巻完結。各単行本の出版社は刊行順。「絶版」には品切重版未定を含む。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "竹本 泉(たけもと いずみ、本名・竹本 謙(たけもと けん)、1959年(昭和34年)1月19日 - )は、日本の漫画家。埼玉県出身。男性。血液型はB型。日本大学経済学部卒業。配偶者はマンガ家の矢野礼子。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "少女漫画は妹の影響で読み始めた。和田慎二『銀色の髪の亜里沙』の影響を受けて少女漫画を描き始め、「なかよしまんがスクール」に2年間投稿。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大学4年次の教育実習時に第21回なかよし・少女フレンド新人漫画賞佳作となった『夢みる7月猫(ジュライキャット)』にて『なかよし』1981年8月号でデビュー。『なかよし』本誌での初連載作品は「パイナップルみたい♥」。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "短編または短編連作型のシチュエーション・コメディを得意としており、ほのぼのとしているがどこか変な話というのが基本的な作風で、これはデビュー当初から掲載誌のジャンルの変遷を経ても一貫している。その作風を端的に表現したものとして「エロとグロのない吾妻ひでお」という評もある。", "title": "人物と作風について" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "エドガー・ライス・バローズをはじめとしたSFファンで、作品中に著名SF作品を下敷きにしたネタが散見される。またいくつかのSF作品は、宇宙人、コピーされた地球など設定が同じである。各作品世界が同一のものであるかは不明。また、無類の猫好きとして知られ、猫をテーマとした漫画をしばしば描く。猫以外にも犬、イルカ、宇宙人、恐竜なども、よく作品に登場する。2003年まで飼っていた飼い猫のエピソードを漫画化した作品として『ある日のツヴァイ』などもある。飼い猫や作中に登場する猫にツヴァイ、どら菜、ふゅあ菜、ふゅん菜、じーく菜などが頻出する。", "title": "人物と作風について" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『なかよし』の専属契約を離れフリーランスの漫画家となって以降は、ゲーム誌やマニアックな雑誌での作品が増え、現在はほぼその方面で活動する作家である。しかし本人は少女誌の仕事がほとんどなくなった後も、少女漫画家を自称し続けている。趣味は海外SFを中心とした読書と、チェス、アニメ鑑賞、テレビゲーム。ポリシーとして原稿はいつも締め切り前に仕上げる。ただ、毎年11月は休載が慣例となっている。", "title": "人物と作風について" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "独特のポップな背景、かわいらしい画風を持つ。この作風とペンネームゆえ、かつては女性と誤解されることが多かった。登場人物の台詞と名前、作品タイトルも掛詞や言葉遊びを凝らした独特のものが多い。ヤシの木などの慣れている物であれば、当たりをつけただけの下書きでペン入れしたりするなど、作画のスピードは速く、『エマ ヴィクトリアンガイド』で『エマ』の作者である森薫と対談した際、原稿を描くスピードについて「ネームが決まれば1日半から2日で仕上げまで」と発言して森を絶句させている。月刊で連載をしていた森は2週間程度使っていたが、竹本は更に続けて、森の作品の背景なら密度があるので「もう2日くれって言います」と発言し森を驚愕させた。長年、作画にはGペンを使用していたが、2011年末に遂にモノクロ原稿のみデジタルを導入した。カラー原稿は、少女誌で活動していた頃はカラーインクやエアスプレーを使用していたが、後にコピックやアクリルガッシュに移行。2015年末ごろよりカラー原稿もデジタル化している。", "title": "人物と作風について" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "デビュー間もない頃からアニメに向いた絵柄という評価があり、フリーランスになってからの掲載誌についてはメディアミックスに注力している雑誌・出版社も少なくないため、作品のメディアミックス展開、とりわけテレビアニメ化については各方面で度々噂が上がった作家である。また、『アニメディア』などのアニメ雑誌が行うアニメ化希望作品についての読者アンケート調査でも、1980年代後半の一時期、『あおいちゃんパニック!』などが上位ランクインの常連作品の一つになっていた事がある。", "title": "メディアミックス展開について" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、竹本の原作作品はもとより、竹本が関連する作品についても、テレビアニメ方面で作品展開されたケースは実質的に存在しない。わずかにメディアミックス絡みのものとして、1986年から1987年に掛けて倉金章介の『あんみつ姫』をリメイクしたテレビアニメ作品が放映された際に、これに先行する形で『なかよし』では竹本が同作のリメイク漫画作品(以下、竹本版)を連載したことが挙げられるが、このテレビアニメは竹本版とはキャラクターデザイン もストーリーもまるで別物で、特徴的なことと言えば本来アニメ企画用に用意されたオリジナルキャラクターである隣国の若殿様・さくらもち太郎が竹本版に登場していたという点くらいであった。", "title": "メディアミックス展開について" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1980年代には当時の講談社・東映動画の日曜朝の放映枠で『魔法使いさんおしずかに!』がアニメ化候補となったこともあるものの、この時に実際にアニメ化された作品は『はーいステップジュン』であり 制作には至らなかった。1992年にはとあるアニメ制作プロダクションから海洋少女冒険もののアニメ企画のキャラクターデザインの依頼が持ち込まれたものの、竹本曰く「その企画は流れた」という。その後も『MAGI×ES』で、同作に至ってはアニメ化を前提に立ち上げられた企画であったはずにもかかわらず、第2巻のあとがきで登場キャラクターに「全ての企画をなしにしてしまうすばらしくマイナスな魔法力」と言わせており、やはりアニメ化企画が頓挫していることを暗に示している。", "title": "メディアミックス展開について" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "テレビゲームソフトについては、コンシューマ機用のものを中心に過去に数作発売されている。しかし、企画段階で頓挫した作品、制作中止になった作品も多い。また発売された作品もゲーム性の低いマルチメディア作品が大半である。上述の『あんみつ姫』ではセガ・マークIII用のテレビゲームソフトも制作されているが、こちらのキャラクターもアニメ版に拠るものである。", "title": "メディアミックス展開について" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "※巻数の記載の無い物は1巻完結。各単行本の出版社は刊行順。「絶版」には品切重版未定を含む。", "title": "作品リスト" } ]
竹本 泉は、日本の漫画家。埼玉県出身。男性。血液型はB型。日本大学経済学部卒業。配偶者はマンガ家の矢野礼子。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 竹本 泉 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 竹本 謙 | 生地 = {{JPN}} [[埼玉県]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1959|1|19}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | ジャンル = [[少女漫画]]、[[青年漫画]] | 活動期間 = [[1981年]] - | 代表作 = 『[[あおいちゃんパニック!]]』<br />『[[アップルパラダイス]]』 | 受賞 = | 公式サイト = [http://www.himawarihouse.com/ ひまわりはうす] }} {{特殊文字}} '''竹本 泉'''(たけもと いずみ、本名・'''竹本 謙'''(たけもと けん)、[[1959年]]([[昭和]]34年)[[1月19日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[埼玉県]]出身。[[男性]]。血液型はB型。[[日本大学経済学部]]卒業。配偶者はマンガ家の矢野礼子。 == 経歴 == [[少女漫画]]は妹の影響で読み始めた。[[和田慎二]]『[[銀色の髪の亜里沙]]』の影響を受けて少女漫画を描き始め、「なかよしまんがスクール」に2年間投稿。 大学4年次の[[教育実習]]時に第21回[[なかよし新人まんが賞|なかよし・少女フレンド新人漫画賞]]佳作となった『[[夢みる7月猫|夢みる7月猫(ジュライキャット)]]』にて『[[なかよし]]』1981年8月号でデビュー。『なかよし』本誌での初連載作品は「[[パイナップルみたい|パイナップルみたい&#x2665;]]」<ref name="natalie20090228">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/13859 |title=竹本泉の処女単行本が26年ぶりに復刊 |website=コミックナタリー |publisher=ナターシャ |date=2009-02-28 |accessdate=2023-06-21}}</ref>。 <!-- 著者の初連載作品はハジメルド物語 --> == 人物と作風について == {{複数の問題|section=1 |出典の明記=2018年4月20日 (金) 01:02 (UTC) |独自研究=2018年4月20日 (金) 01:02 (UTC) }} 短編または短編連作型の[[シチュエーション・コメディ]]を得意としており、ほのぼのとしているがどこか変な話というのが基本的な作風で、これはデビュー当初から掲載誌のジャンルの変遷を経ても一貫している。その作風を端的に表現したものとして「[[エログロ|エロとグロ]]のない[[吾妻ひでお]]」という評もある<ref>吾妻ひでお『[[ななこSOS]]』第2巻解説、ハヤカワコミック文庫</ref>。 [[エドガー・ライス・バローズ]]をはじめとした[[サイエンス・フィクション|SF]]ファンで、作品中に著名SF作品を下敷きにしたネタが散見される。またいくつかのSF作品は、宇宙人、コピーされた地球など設定が同じである。各作品世界が同一のものであるかは不明。また、無類の[[ネコ|猫]]好きとして知られ、猫をテーマとした[[漫画]]をしばしば描く。猫以外にも[[イヌ|犬]]、[[イルカ]]、[[宇宙人]]、[[恐竜]]なども、よく作品に登場する。[[2003年]]まで飼っていた飼い猫のエピソードを漫画化した作品として『ある日のツヴァイ』などもある。飼い猫や作中に登場する猫にツヴァイ、どら菜、ふゅあ菜、ふゅん菜、じーく菜などが頻出する。 『なかよし』の専属契約を離れ[[フリーランス]]の漫画家となって以降は、ゲーム誌やマニアックな雑誌での作品が増え、現在はほぼその方面で活動する作家である。しかし本人は少女誌の仕事がほとんどなくなった後も、[[少女漫画|少女漫画家]]を自称し続けている。趣味は海外SFを中心とした読書と、[[チェス]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]鑑賞、[[テレビゲーム]]。ポリシーとして原稿はいつも締め切り前に仕上げる。ただ、毎年11月は休載が慣例となっている。 独特のポップな背景、かわいらしい画風を持つ。この作風と[[ペンネーム]]ゆえ、かつては女性と誤解されることが多かった。登場人物の台詞と名前、作品タイトルも[[掛詞]]や[[言葉遊び]]を凝らした独特のものが多い。ヤシの木などの慣れている物であれば、当たりをつけただけの下書きでペン入れしたりするなど、作画のスピードは速く、『[[エマ (漫画)|エマ]] ヴィクトリアンガイド』で『エマ』の作者である[[森薫]]と対談した際、原稿を描くスピードについて「ネームが決まれば1日半から2日で仕上げまで」と発言して森を絶句させている。月刊で連載をしていた森は2週間程度使っていたが、竹本は更に続けて、森の作品の背景なら密度があるので「もう2日くれって言います」と発言し森を驚愕させた。長年、作画には[[つけペン#Gペン|Gペン]]を使用していたが、2011年末に遂にモノクロ原稿のみデジタルを導入した<ref>「いろいろめもー2C」『[[竹本泉のいろいろぶっく]]』。</ref>。カラー原稿は、少女誌で活動していた頃は[[カラーインク]]やエアスプレーを使用していたが、後に[[コピック]]や[[アクリルガッシュ]]に移行。2015年末ごろよりカラー原稿もデジタル化している。 == メディアミックス展開について == デビュー間もない頃から[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]に向いた絵柄という評価があり、フリーランスになってからの掲載誌については[[メディアミックス]]に注力している雑誌・出版社も少なくないため、作品のメディアミックス展開、とりわけ[[テレビアニメ]]化については各方面で度々噂が上がった作家である。また、『[[アニメディア]]』などの[[アニメ雑誌]]が行うアニメ化希望作品についての読者アンケート調査でも、1980年代後半の一時期、『[[あおいちゃんパニック!]]』などが上位ランクインの常連作品の一つになっていた事がある。 しかし、竹本の原作作品はもとより、竹本が関連する作品についても、テレビアニメ方面で作品展開されたケースは実質的に存在しない。わずかにメディアミックス絡みのものとして、1986年から1987年に掛けて[[倉金章介]]の『[[あんみつ姫#|あんみつ姫]]』を[[リメイク]]した[[テレビアニメ]]作品が放映された際に、これに先行する形で『なかよし』では竹本が同作のリメイク漫画作品(以下、竹本版)を連載したことが挙げられるが、このテレビアニメは竹本版とは[[キャラクターデザイン]]{{efn2|テレビアニメ版のキャラクターデザインは[[南家こうじ]]。}} もストーリーもまるで別物で、特徴的なことと言えば本来アニメ企画用に用意されたオリジナルキャラクターである隣国の若殿様・さくらもち太郎が竹本版に登場していたという点くらいであった{{efn2|しかも、さくらもち太郎はアニメ版では放映開始までに没になってしまったため、実質的に竹本版のオリジナルキャラクターになっている。ただし、業界内部に出回ったテレビアニメ版の初期のキャラクター対比表などにはさくらもち太郎が含まれており、アニメ仕様の同キャラクターが描かれている関連商品が僅かであるが発売された。}}。 1980年代には当時の[[講談社]]・[[東映動画]]の日曜朝の放映枠で『魔法使いさんおしずかに!』がアニメ化候補となったこともあるものの、この時に実際にアニメ化された作品は『[[はーいステップジュン]]』であり<ref>「GENPの部屋」Win&Mac『色数向上委員会アグライア』Vol.2、アーカムプロダクツ</ref> 制作には至らなかった<ref>エンターブレイン版『魔法使いさんおしずかに!(1)』のなかがきより。</ref>。[[1992年]]にはとあるアニメ制作プロダクションから海洋少女冒険もののアニメ企画のキャラクターデザインの依頼が持ち込まれたものの、竹本曰く「その企画は流れた」という<ref>主婦と生活社(ミッシィコミックス)『ばばろあえほん』、p. 108「メイキング・オブ・アイ・アイ・アイランド」</ref>。その後も『[[MAGI×ES]]』で、同作に至ってはアニメ化を前提に立ち上げられた企画であったはずにもかかわらず、第2巻のあとがきで登場キャラクターに「全ての企画をなしにしてしまうすばらしくマイナスな魔法力」と言わせており、やはりアニメ化企画が頓挫していることを暗に示している。 テレビゲームソフトについては、コンシューマ機用のものを中心に過去に数作発売されている。しかし、企画段階で頓挫した作品、制作中止になった作品も多い。また発売された作品もゲーム性の低い[[マルチメディア]]作品が大半である。上述の『あんみつ姫』では[[セガ・マークIII]]用の[[テレビゲームソフト]]も制作されているが、こちらのキャラクターもアニメ版に拠るものである。 == 作品リスト == === 連載中の作品 === * [[ねこめ〜わく|ねこめ(〜わく)]](『[[ハーレクインオリジナル]]』) * [[トゥインクルスターのんのんじー]](『楽園 WEB増刊』) === 単行本 === ※巻数の記載の無い物は1巻完結。各単行本の出版社は刊行順。「絶版」には[[品切重版未定]]を含む。 * [[あおいちゃんパニック!]] ** [[講談社]]([[講談社コミックスなかよし|KCなかよし]]、全3巻)〈絶版〉 ** [[主婦と生活社]](ミッシィコミックスDX、全3巻)〈絶版〉 - [[和田慎二]]によるゲスト寄稿あり ** [[メディアファクトリー]](MF文庫、全2巻)〈絶版〉 * [[あかねこの悪魔]] ** [[エンターブレイン]]([[ビームコミックス]]、全6巻) * [[アップルパラダイス]](全3巻) ** [[ホビージャパン]](ホビージャパンコミックス)〈絶版〉 ** ノアール出版〈絶版〉 * ある日のツヴァイ - [[徳間書店]](トクマコミックス)〈絶版〉 *ある日とある日の猫たち[[大都社]](ダイトコミックス) * [[あんみつ姫]] ** 講談社(ワイドKCなかよし、全4巻)〈絶版〉 ** [[宙出版]](ミッシィコミックスMSL、全2巻)〈絶版〉 ** [[幻冬舎]](バーズコミックススペシャル、全2巻) * [[竹本泉のいろいろぶっく|苺タイムス]]〈絶版〉 - 講談社(覇王KCデラックス)※短編集 * いろいろとかゲームとか - [[竹書房]](バンブーコミックス)※短編集 **『[[竹本泉のいろいろぶっく|いろいろめもー]]』シリーズ、『ひよどりタイムス』、『ひよどりにっき』、キャラクターデザインしたゲームの宣伝漫画・取説漫画、等を収録 * [[うさぎパラダイス]] ** ホビージャパン(ホビージャパンコミックス)〈絶版〉 ** ノアール出版〈絶版〉 * 乙女アトラス(全2巻)〈絶版〉 - [[学研パブリッシング|学習研究社]](ノーラコミックスDX) * [[がーでん姉妹]](全7巻) - 竹書房(バンブーコミックス) * かわいいや - [[芳文社]]([[まんがタイムKRコミックス]]) * ここめ不定点 - 芳文社(まんがタイムKRコミックス) ** 『[[まんがタイムきららキャラット]]』2010年11月号付録・独立創刊5周年記念小冊子「キャラットちゃん」/『[[まんがタイムきらら]]』2011年7月号・創刊10周年企画記事/『まんがタイムきらら』2012年3月号付録・100号記念小冊子「まんがタイムきらら いちまるまる」/『まんがタイムきらら』2013年12月号付録・[[三者三葉]]プチ[[アンソロジー]]小冊子「十者三葉」の各号への寄稿を収録 * [[さくらの境]](全4巻) - メディアファクトリー([[MFコミックス]])『MAGI×ES』連載開始に伴いページ数を減らして並行連載、TVドラマ化の企画もあったが立ち消えとなっている。(2004年11月号 - 2008年10月号) * [[さよりなパラレル]](全4巻) ** 竹書房(バンブーコミックス)〈絶版〉 ** [[角川書店]]([[カドカワコミックス・ドラゴンJr.]])〈絶版〉 * しましま曜日(全2巻) ** [[アスキー (企業)|アスキー]](アスキーコミックス)〈絶版〉 ** エンターブレイン(ビームコミックス) * シンリャクモノデ(全3巻) - エンターブレイン(ビームコミックス) * [[せ〜ふくもの]]〈絶版〉 - 主婦と生活社(ミッシィコミックスDX)→宙出版(同) * [[竹本泉のいろいろぶっく]] - [[ソフトバンククリエイティブ]] * ちまりまわるつ ** 主婦と生活社(ミッシィコミックスDX)→宙出版(同)〈絶版〉 ** [[朝日ソノラマ]] (Izumi Takemoto dashinaoshi)〈絶版〉 * [[ちょっとコマーシャル]] ※短編集 ** 講談社(KCなかよし)〈絶版〉 ** エンターブレイン(ビームコミックス) *** 併録作品:にっちもさっちもひとみちゃん/すすみ時計は大きらい/屋根裏のセレナーデ/1+1=3ドイッチ * [[はたらく☆少女 てきぱきワーキン・ラブ|てきぱきワーキン&#x2665;ラブ]](全6巻) - アスキー(アスキーコミックス、1巻)→[[アスペクト (企業)|アスペクト]](アスペクトコミックス、2-4巻)→エンターブレイン(ビームコミックス、1、5、6巻) * [[てけてけマイハート]](全10巻) - 竹書房(バンブーコミックス)『まんがライフ』にて2000年2月号から2012年2月号まで連載された。 * とある日のクル - 学習研究社(ピチコミックス)〈絶版〉 ** ととある日のクル(全4巻) - [[秋水社]]&[[大都社]](ダイトコミックス)『ねことも』にてVol.1(2009年)から連載。単行本のタイトルは第3巻が『ととある日のクル〜ねこまわりクルまわり〜』、第4巻が『ある日とある日ととある日のクル』。 * [[トゥインクルスターのんのんじー]](既刊3巻) - [[白泉社]](ジェッツコミックス) ** トゥインクルスターのんのんじー(2004年3月、10年ぶりに重版) ** トゥインクルスターのんのんじーEX(ゲスト寄稿: [[あさりよしとお]]、[[伊藤明弘]]、[[久米田康治]]、[[倉田英之]]、[[志村貴子]]、[[田丸浩史]]、[[鶴田謙二]]、[[中村博文 (イラストレーター)|中村博文]]、[[二宮ひかる]]、[[平野耕太]]、[[舛成孝二]]、[[陽気婢]]) ** トゥインクルスターのんのんじーSUN(ゲスト寄稿: [[蒼樹うめ]]、[[幾花にいろ]]、[[位置原光Z]]、[[迂闊]]、[[kashmir]]、[[シギサワカヤ]]) * [[トランジスタにヴィーナス]](全7巻) - メディアファクトリー(MFコミックス) * ながるるるるるこ - 芳文社(まんがタイムKRコミックス) * 夏に積乱雲まで - KADOKAWA/エンターブレイン(ビームコミックス) * 虹色♪爆発娘♥ ** 主婦と生活社(ミッシィコミックスEX)→宙出版(同)〈絶版〉 ** 朝日ソノラマ (Izumi Takemoto dashinaoshi)〈絶版〉 * [[日々にパノラマ|日々(にちにち)にパノラマ]](全3巻) - メディアファクトリー(MFコミックス) * [[ねこめ〜わく]] ** 主婦と生活社(ミッシィコミックスDX、1、2巻まで)→宙出版(同、1-3巻まで)〈絶版〉 ** 朝日ソノラマ(眠れぬ夜の奇妙な話コミックス、1-4巻まで)→[[朝日新聞出版]](同、全8巻) ** ねこめ(〜わく)(全7巻) - [[ハーレクイン (出版社)#日本のハーレクイン|ハーパーコリンズ・ジャパン]](夢幻燈コミックス) * [[パイナップルみたい|パイナップルみたい&#x2665;]] ** 講談社(KCなかよし)〈絶版〉 - 初単行本<ref name="natalie20090228" /> ** エンターブレイン(ビームコミックス) * ハジメルド物語(初の連載作品) ** 講談社(KCなかよし)〈絶版〉 ** エンターブレイン(ビームコミックス) * はたらきもの ** 主婦と生活社(ミッシィコミックスDX)→宙出版(同)〈絶版〉 ** 朝日ソノラマ (Izumi Takemoto dashinaoshi)〈絶版〉 * ばばろあえほん ** 主婦と生活社(ミッシィコミックスDX)→宙出版(同)〈絶版〉 ** 朝日ソノラマ (Izumi Takemoto dashinaoshi)〈絶版〉 * バラエティも〜にん(全3巻) - 芳文社(まんがタイムKRコミックス) * [[ぴこぴこのきらきら]]〈絶版〉 - 宙出版(ミッシィコミックス) * [[ひまわりえのぐ]]※短編集 併録作品は作品記事を参照 ** 講談社(KCなかよし)〈絶版〉 ** エンターブレイン(ビームコミックス)※ルププ・パウの代わりにスノウ・レポートの週末を収録。 * 魔法使いさんおしずかに!(全2巻) ** 講談社(KCなかよし)〈絶版〉 ** エンターブレイン(ビームコミックス) * MAGI×ES 魔法小路の少年少女(全3巻) - メディアファクトリー(MFコミックス) * むきもの67%〈絶版〉 - 宙出版(ミッシィコミックスDX) * [[夢みる7月猫]] - エンターブレイン(ビームコミックス)※短編集 併録作品は作品記事を参照 * 世の中なまほう〈絶版〉 - 宙出版(ミッシィコミックスDX) * [[よみきり♥もの]](全10巻) - エンターブレイン(ビームコミックス)※短編集 * [[よみきりものの…]](全7巻) - エンターブレイン(ビームコミックス)※短編集 * [[ルプ★さらだ]] ** 主婦と生活社(ミッシィコミックスMSL)→宙出版(同)〈絶版〉 ** 幻冬舎(バーズコミックスデラックス) * 部屋裏のバイテン (全4巻) - 双葉社(webアクションコミックス) === 主な単行本未収録作品 === * 熱い風に抱かれて(『[[BE・LOVE]]』1990年19号、1990年) * ぺっとたいむ(『コミックプッチィ』創刊号・1998年2月号 - 3月号、1997年 - 1998年) * FLYING ZAUCER(コミックアンソロジー『やさしい気持ちになれる本』、2003年) * ある日の猫を飼って思うこと(『ねこメロ!』Vol.1 - 5、2007年 - 2008年) * だって神様が好きだから(『[[まんがくらぶ]]』2013年4月号、2013年) === イラスト集・ムック === * 竹本泉☆WORLD〈絶版〉(竹書房、1994年) * 竹本泉ポストカードブック ねこめ〜る(宙出版、1997年) - 書籍扱い * てきぱきワーキン♥ラブ設定資料集〈絶版〉(ムービック、1998年) * ねこめ〜わく…とか いろいろ(宙出版、1999年) - 雑誌 * いろ<sup>2</sup>もの(アスペクト、2000年) * いろ<sup>3</sup>もの(エンターブレイン、2002年) * イーナス コレクション(メディアファクトリー、2003年) * カラフルビーム 竹本泉イラスト集(エンターブレイン、2015年) === ゲーム === * クリックまんが クリックのひ([[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]・Windows) * [[だいなあいらん|だいな&#x2665;あいらん]]([[セガサターン]]・[[Microsoft Windows|Windows]]) * だいな♥あいらん 予告編(セガサターン) * [[QIX|ついんくいっくす]]([[アーケードゲーム]]) [[ロケテスト]]のみの稼働 * [[はたらく☆少女 てきぱきワーキン・ラブ|はたらく☆少女 てきぱきワーキン&#x2665;ラブ]]([[PCエンジン]]) * はたらく☆少女 てきぱきワーキン♥ラブFX([[PC-FX]]) ** てきぱきワーキン♥ラブ スクリーンセーバー&グラフィックデータ集(Windows) * ぱらPAR∀パラダイス([[FM TOWNS]]、Windows) * [[ゆみみみっくす]]([[メガCD]]・FM TOWNS) * ゆみみみっくす・だいな♥あいらん 予告編(Windows) * ゆみみみっくすREMIX(セガサターン・Windows) * るぷぷキューブ ルプ★さらだ(プレイステーション)<ref>{{Cite interview|和書|date=2012-09-02 |subject=藤島聡 |interviewer=酒缶 |title=ゲームコレクター・酒缶のリコレクションアーカイブス第1回:見た目はほのぼのだけど遊ぶと硬派なパズルゲーム「ルプ★さらだ」藤島聡氏(前編) |url=https://www.gamer.ne.jp/news/201209020001/ |work=Gamer |publisher=ixll |accessdate=2023-06-21}}</ref><ref>{{Cite interview|和書|date=2012-09-09 |subject=藤島聡 |interviewer=酒缶 |title=ゲームコレクター・酒缶のリコレクションアーカイブス第2回:あのインパクトのあるBGMが誕生したワケ「ルプ★さらだ」藤島聡氏(後編) |url=https://www.gamer.ne.jp/news/201209090001/ |work=Gamer |publisher=ixll |accessdate=2023-06-21}}</ref> * るぷぷキューブ ルプ★さらだDS([[ニンテンドーDS]]) * るぷぷキューブ ルプ★さらだ ぽ〜たぶる…またたび([[PlayStation Portable|PSP]]) * セーラー服をあなたに([[やのまん]]) ** 東京都内に実在する高校の女子制服をモデルにした[[カードゲーム]]。[[ブッキング]]より復刻。 * キャッチアウト([[グランペール]]) - カードゲーム * 人魚Days([[iPhone]]、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]) === 音楽CD・ドラマCD === * うじゃうじゃパラダイス * 音盤ねこめ〜わく(廉価版あり) * 音盤はたらきもの(廉価版あり) * 音盤 ルプ★さらだ(ジャケットイラストの表記は「音盤るぷぷキューブ ルプ★さらだ」で正式名称と異なる) * だいな♥あいらん音径 * てけてけマイハート * [[データム・ポリスター]] 歌のアルバム はたらきもの・ねこめ〜わく・ルプ★さらだ 竹本泉♥うたこれ === その他 === * 小説『さよりなパラレル外伝 マヤヤイリリぱにっく』上・下(原作・イラスト) * 小説『小説 てきぱきワーキン♥ラブ』(原作・イラスト) * 小説『Dr.みまん―高校生ドクターのトラブル・バスター』(イラスト) * 小説『パニック初恋城!』シリーズ(イラスト) * 小説『ファイナル・セーラー・クエスト ひと夏の経験値』(イラスト) * 小説『ファイナル・セーラー・クエスト 補完計画』(イラスト・漫画『ファイナル・セーラー・クエスト プールでクエストの巻』収録)<ref>『火浦功伝説』(1994年)掲載。</ref> * CD『[[秋桜の空に#ドラマCD|ドラマCD 秋桜の空に 〜虹空の初子〜]]』([[ブックレット]]イラスト) * CD『場外乱闘 漫画家超歌唱大全集』(1曲作詞/ブックレットイラスト) * NHKテレビ番組『[[あの歌がきこえる]]』 ([[2006年]][[11月8日]]放送分「[[乾杯 (長渕剛の曲)|乾杯]]」イラスト) * TVアニメ『[[ドージンワーク]]』 第5話[[クレジットタイトル|エンドカード]] * TVアニメ『[[さよなら絶望先生 (アニメ)|俗・さよなら絶望先生]]』 第8話エンドカード * ガイドブック『モンスター・コレクションTCGをはじめて遊ぶ本』(説明漫画) * カードゲーム『モンスター・コレクションTCG』(一部カードのイラスト) * ガイドブック『大学生図鑑2012』(日本大学の項目のイラスト) * 小説『昭和な街角 [[火浦功]]作品集 』(イラスト) == エピソード == * かつて親戚の誘いで[[ベネズエラ]]に引っ越す計画があったが、アニメ『[[未来少年コナン]]』に感動し、これが見られなくなると困るため日本に残ったという<ref>『[[コミックボックス]]』にての本人の談。</ref>。 * 朝日ソノラマは竹本作品の復刊のために「Izumi Takemoto dashinaoshi」レーベルを立ち上げ、計4巻の復刊を行っている。 * 『あおいちゃんパニック!』がロリコン総合誌の『[[ロリコンハウス]]』([[三和出版]])で「女の子がかわいい」と紹介されたことがある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連人物 == * [[吾妻ひでお]] - 竹本が影響を受けた人物 * [[和田慎二]] * [[さいとうちほ]] * [[片岡みちる]] * [[悟東あすか]] - [[アシスタント (漫画)|アシスタント]] * [[ZUN (ゲームクリエイター)|ZUN]] - 竹本から影響を受けた人物 == 外部リンク == * [http://www.himawarihouse.com/ ひまわりはうす] - 公式サイト * {{Twitter|izumi_uja}} - 2023年5月 - {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たけもと いすみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本大学出身の人物]] [[Category:埼玉県出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
2003-02-02T04:21:18Z
2023-11-30T03:51:34Z
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寺沢武一
寺沢 武一(てらさわ ぶいち、男性、1955年〈昭和30年〉3月30日 - 2023年〈令和5年〉9月8日)は、日本の漫画家。北海道旭川市出身。代表作である『コブラ』は全世界での発行部数が5,000万部を超えるヒットを記録している。 1955年3月30日、北海道旭川市に出生。本名は「武一(たけいち)」。 1974年、北海道旭川東高等学校卒業。浪人時代、他に仕事が無かったことから、漫画家を志す。本来は医学部志望だった。 1976年、手塚プロダクションのアシスタント募集のために投稿したマンガが手塚治虫の目に止まり、手塚治虫に師事。上京し、手塚プロダクション・漫画部スタッフとして働いた。 1977年、マンガ「大地よ、蒼くなれ」が第13回手塚賞佳作に入選。同年、『週刊少年ジャンプ増刊号』にて一話読み切りの『コブラ』でデビュー。 1978年、『週刊少年ジャンプ』本誌において『コブラ』連載開始(1985年まで)。 1982年には初のアニメ化された。 1985年、『週刊少年ジャンプ』にて『BLACK KNIGHT バット』連載開始。執筆(彩色)にPC-9801を導入。パソコンを取り入れた漫画家の先駆けとなった。 1987年、寺沢プロダクションを設立し、代表取締役に就任。『コミックバーガー』誌で『ゴクウ』連載開始。『フレッシュジャンプ』誌で『NINJAカブト』連載開始。 1990年、ジャニーズ事務所所属のアイドルグループ「忍者」のデビューシングル用のコスチュームをデザインした。 1992年、『コミックバーガー』誌で『武 TAKERU』連載開始。世界初のフルCGマンガと言われた。 1995年、ベルギー・デュルブイ市名誉市民章を受けた。 1996年、インターネットホームページ「Manga Magic Museum」開設。 1998年、人間ドックにより悪性脳腫瘍を発見。以後、3回の手術による治療・リハビリを繰り返すが、その後遺症で左半身が麻痺。 要介護4となり車椅子生活を余儀なくされ、排泄や入浴の介助も必要な状態になった。 1999年、『スーパージャンプ』誌で『GUN DRAGON Σ』連載開始。 2003年4月、著作権管理及びエージェント業務全般を行う会社「エイガアルライツ」を設立。 2003年12月、病気について公表。 2008年1月に、26年ぶりとなるTV版およびOVA版『コブラ』のアニメ製作が決定。OVA版では脚本・絵コンテ・監督を自ら担当。 2019年8月、『ARTWORKS OF COBRA』(玄光社)刊行。 2019年11月19日、新創刊のWEBコミック誌「COMIC Hu」でコブラの新作『COBRA OVER THE RAINBOW』の連載を開始。 2023年9月8日、心筋梗塞のため東京都内で死去。68歳没。 2023年9月11日、訃報が寺沢プロダクションにより公表された。
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寺沢 武一は、日本の漫画家。北海道旭川市出身。代表作である『コブラ』は全世界での発行部数が5,000万部を超えるヒットを記録している。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 寺沢 武一 | ふりがな = てらさわ ぶいち | 画像 = Buichi Terasawa - Magic 2016 - Monaco - P1290078.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = [[2016年]][[2月27日]]、モナコ国際アニメ・ゲーム会議(MAGIC)にて | 本名 = {{ruby|寺沢|てらさわ}} {{ruby|武一|たけいち}} | 生地 = {{JPN}}・[[北海道]][[旭川市]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1955|3|30|no}} | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1955|3|30|2023|9|8}} | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]]<ref name="東京230912">{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/276719|title=漫画家、寺沢武一さん死去 「コブラ」連載|date=2023-09-12|accessdate=2023-09-12|newspaper=[[東京新聞]] TOKYO Web|publisher=[[中日新聞東京本社]]}}</ref> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1977年]] - [[2023年]] | ジャンル = [[SF漫画]] | 代表作 = 『[[コブラ (漫画)|コブラ]]』<br />『[[ゴクウ]]』<br />『[[鴉天狗カブト]]』 | 公式サイト = [https://www.buichi.com/index.html buichi.com] }} '''寺沢 武一'''(てらさわ ぶいち<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buichi.com/profile/index.html|title=BUICHI.T &gt;&gt;寺沢武一プロフィール - buichi.com|accessdate=2023-09-12|publisher=寺沢武一オフィシャルサイト}}</ref>、男性、<!--B型、-->[[1955年]]〈昭和30年〉[[3月30日]] - [[2023年]]〈令和5年〉[[9月8日]]<ref name="sponichi20230911"/><ref name="BuichiGuild20230911"/>)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[旭川市]]出身<ref name="buichicom">[https://www.buichi.com/profile/index.html BUICHI T.] - 公式サイト「buichi.com」寺沢武一プロフィール 参照</ref>。代表作である『[[コブラ (漫画)|コブラ]]』は全世界での発行部数が5,000万部を超えるヒットを記録している。 == 来歴 == 1955年3月30日、北海道旭川市に出生。本名は「武一(たけいち)」。 [[1974年]]、[[北海道旭川東高等学校]]卒業。浪人時代、他に仕事が無かったことから、漫画家を志す。本来は医学部志望だった。 [[1976年]]、[[手塚プロダクション]]のアシスタント募集<ref>『[[週刊少年チャンピオン]]』誌上の「[[ブラック・ジャック]]」内広告でアシスタントを公募していた。</ref>のために投稿したマンガが[[手塚治虫]]の目に止まり、手塚治虫に師事。上京し、手塚プロダクション・漫画部スタッフとして働いた。 [[1977年]]、マンガ「大地よ、蒼くなれ」が第13回[[手塚賞]]佳作に入選。同年、『[[週刊少年ジャンプ]]増刊号』にて一話読み切りの『[[コブラ (漫画)|コブラ]]』でデビュー。 [[1978年]]、『週刊少年ジャンプ』本誌において『コブラ』連載開始(1985年まで)。 1982年には初の[[コブラ (アニメ)|アニメ化]]された。 [[1985年]]、『週刊少年ジャンプ』にて『[[BLACK KNIGHT バット]]』連載開始。執筆(彩色)に[[PC-9801]]を導入。[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を取り入れた漫画家の先駆けとなった。 [[1987年]]、寺沢プロダクションを設立し、代表取締役に就任。『[[コミックバーガー]]』誌で『[[ゴクウ]]』連載開始。『[[フレッシュジャンプ]]』誌で『[[鴉天狗カブト|NINJAカブト]]』連載開始。 [[1990年]]、[[ジャニーズ事務所]]所属のアイドルグループ「[[忍者 (グループ)|忍者]]」のデビューシングル用のコスチュームをデザインした。 [[1992年]]、『コミックバーガー』誌で『武 TAKERU』連載開始。世界初のフルCGマンガと言われた。<!--この頃「デジタルマンガ」という造語を--> [[1995年]]、[[ベルギー]]・[[デュルビュイ|デュルブイ]]市名誉市民章を受けた。 [[1996年]]、インターネットホームページ「Manga Magic Museum」開設。 [[1998年]]、人間ドックにより悪性[[脳腫瘍]]を発見。以後、3回の手術による治療・リハビリを繰り返すが、その後遺症で左半身が麻痺。 要介護4となり車椅子生活を余儀なくされ、排泄や入浴の介助も必要な状態になった。 [[1999年]]、『[[スーパージャンプ]]』誌で『GUN DRAGON Σ』連載開始。 [[2003年]]4月、著作権管理及びエージェント業務全般を行う会社「エイガアルライツ」を設立。 2003年12月、病気について公表<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.buichi.com/profile/bt_mes_01.html |title= ファンの皆さんへ、寺沢武一より。 |website= buichi.com |date= 2003-12-12 |accessdate= 2023-09-11 }}</ref>。 <!--2006年9月現在、自身監督による映画を製作中。--><!--詳細不明のため一時割愛--> [[2008年]]1月に、26年ぶりとなるTV版およびOVA版『コブラ』のアニメ製作が決定。OVA版では脚本・絵コンテ・監督を自ら担当。 [[2019年]]8月、『ARTWORKS OF COBRA』([[玄光社]])刊行。 2019年11月19日、新創刊のWEBコミック誌「COMIC Hu」でコブラの新作『COBRA OVER THE RAINBOW』の連載を開始。 2023年9月8日、[[心筋梗塞]]のため東京都内で死去<ref name="東京230912" /><ref name="sponichi20230911">{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/09/11/kiji/20230911s000413H4581000c.html |title= 「コブラ」の漫画家・寺沢武一さん死去、68歳 「デジタル漫画」先駆け、98年に脳腫瘍判明も創作続ける |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2023-09-11 |accessdate= 2023-09-11 }}</ref><ref name="BuichiGuild20230911">{{Cite tweet|author=ブイチギルド 【寺沢武一作品公式】 |user=BuichiGuild |number=1701226587021037596 |title=寺沢武一ファンのみなさまへ(訃報) 漫画家・寺沢武一は2023年9月8日に永眠しました。… |date=2023-09-11 |accessdate=2023-09-11 }}</ref><ref>[https://www.yomiuri.co.jp/culture/subcul/20230911-OYT1T50182/ 宇宙海賊漫画「コブラ」の寺沢武一さん死去、68歳…手塚治虫アシスタント経てデビュー(読売新聞、2023年9月11日)]</ref>。{{没年齢|1955|3|30|2023|9|8}}。 2023年9月11日、訃報が寺沢プロダクションにより公表された。 == 特徴・逸話 == * 作風には[[アメリカンコミック|アメコミ]]の影響が強く見られる。また『コブラ』や『カブト』等における東洋・日本文化描写もむしろ欧米作品風である。ただし日本人から見ての話であり、欧米人から見れば日本的な作風との事。 * 作画技法に凝ることで知られ、[[エアブラシ]]や[[コンピュータグラフィックス]]効果を用いる。[[2次元コンピュータグラフィックス]]を初めて連載漫画の原稿作成に導入したパイオニア的存在としても知られている。カラー原稿は、背景の隅々にまで手が入れられており、漫画原稿にかかわらず単品のポップアートとしても通用する領域に達しており、海外における評価も高い。 * 反面、それゆえに遅筆であり、『コブラ』の週刊連載の際は、休載を挟んで、原稿を描き溜めて連載した。異例の扱いであるが、当時の週刊少年ジャンプの編集長の[[西村繁男]]がSF好きという事で気に入られていたため、特例として許された(なお西村は、同時期において、同じく遅筆の[[江口寿史]]に対しては冷淡で、連載を打ち切っている)。 * デビューした当時の[[1970年代]]においては、女性キャラクターの露出度が非常に高いという作風の特徴から、[[少年漫画]]誌への掲載には物議を醸された。しかし絵のクオリティの高さにより女性ファンも増加することで次第に沈静化した。また主人公がクールな性格にもかかわらずルックスは三枚目、というキャラクター像も異色であった。 * [[手塚治虫]]を師と仰いでいる。アシスタントに応募した当初は(応募者の選考で絵柄が手塚治虫とは大いに異なるという理由で)一度落とされたものの、手塚自身が寺沢の絵を気に入り採用を決めたと言う<ref>『[[週刊少年チャンピオン]]』2009年49号、「[[ブラック・ジャック創作秘話]]」参照</ref>。詳細は[[手塚治虫]]のリンクを参照。 * ジャンプコミックス版『コブラ』第1巻の後書きは師である手塚治虫。曰く「彼の絵は緻密で丹念である」との事。 * [[荒木飛呂彦]]の漫画『[[魔少年ビーティー]]』の「ビー・ティー」は寺沢のイニシャルが元となっているという<ref>{{Cite news|url= https://game.watch.impress.co.jp/docs/20060913/jojo.htm |title= 「ジョジョの奇妙な冒険 ファントムブラッド」共同プロジェクト発表会を開催 |newspaper= GAME Watch |publisher= インプレス |date= 2006-09-13 |accessdate= 2023-09-11 }}<br />なお上記の発表以前に、『[[ファンロード]]』の『[[バオー来訪者]]』特集で作者が「特定の人とか名前から取ったというわけではありません。T(ティー)で終わるイニシャルが格好いいなと、以前から思っていたんです。で、そこにアルファベットを順番に付けていくと、エーティー…ではいまいち。ビーティー…なんか良い感じだな。で決めました。」とも語っている。</ref>。 * 作中では「そうか」という台詞を「そお〜か」と発音する独特の台詞回しを使う場面が多い。 *『スペースコブラ』の主人公コブラについて寺沢は「もともとコブラの声というのは[[クリント・イーストウッド]]の[[山田康雄|山田]]さんのイメージなんです。だから、常に山田さんだったらこんな風にしゃべるだろうな、というのを意識して書きました」と語っている。<ref>『[[PC Engine FAN]]』([[徳間書店]])1991年5月号 7ページ</ref>。 == 作品リスト == * [[シグマ45]](1976 - 1977年頃) * コブラ(読み切り版)(1977年) * [[コブラ (漫画)|コブラ]](1978 - 1984年、1986 - 2002年、2005 - 2006年) - アニメ化(劇場版・TV版・OVA )・ゲーム化 * [[BLACK KNIGHT バット]](1985年) * [[鴉天狗カブト]](1987年、1988 - 1989年) - アニメ化(TV版) * [[ゴクウ]](1987年 - ?) - アニメ化(OVA) * 武 TAKERU(1992年 - ?) * 新撰組GUNDRAGONシリーズ ** GUNDRAGON Σ(1998年 - ?) ** GUNDRAGON II(2004年 - ?) == 師匠 == * [[手塚治虫]] == アシスタント経験者 == * [[今泉伸二]] * [[正子公也]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 外部リンク == {{commonscat}} * [https://www.buichi.com/index.html buichi.com] - 公式サイト * {{Wayback|url=http://gree.jp/terasawa_buichi/ |title=寺沢武一 |date=20210618093450}} - 公式ブログ * {{twitter|terasawa_buichi}} * {{Twitter|BuichiGuild|ブイチギルド 【寺沢武一作品公式】}} {{コブラ (漫画)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てらさわ ふいち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:北海道旭川東高等学校出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1955年生]] [[Category:2023年没]] [[Category:手塚治虫]]
2003-02-02T04:23:26Z
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