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1978年、ローザンヌ国際バレエコンクールの存在を偶然知った先生の勧めに乗って、札幌からスイスに向かった吉田尚美さん。フリーバリエーションで日本らしい表現をして同コンクールで日本人として初入賞し、ニューヨーク留学への切符を手にした。このコンテンツは 2022/02/04 14:00
「たまたま新聞の広告でローザンヌ国際バレエコンクールのことを知り、個性的で能力があり、ダンサーとして良い条件を備えた尚美を誘って、行ってみた」と吉田さんが師事していた札幌舞踏会の代表、千田雅子さん（７７）は振り返る。プロを目指す若手ダンサーのための登竜門で留学奨学支援をするローザンヌ国際バレエコンクールのことが、日本でまだあまり知られていなかった1978年。海外のバレエ留学事情がどのようなものかもよく分からない中、新境地を求めて試行錯誤していた当時18歳の吉田さんと一緒に、北海道から飛行機を乗り継ぎ30時間以上かけてローザンヌに向かった。
10歳で始めた吉田さんの踊りを「ダイナミックな表現力があった」と千田さんは回想する。第6回ローザンヌ国際バレエコンクールのフリーバリエーションで、吉田さんは巫女（みこ）をイメージし、三木稔さん作曲の日本の伝統楽器に合わせ、日本的な表現をアピール。ポニーテールにゴールドの全身タイツ姿で、「自分の持っているものをすべて出したい」という一心で踊りを披露した。ファイナルでは特に3回転ピルエットが審査員に高く評価され、スカラシップ賞を獲得。日本人初の受賞を果たした。
コンクールでは「言葉が通じず不安を感じたが、がむしゃらに突き進んだ」と、吉田さんは話す。だが、本人も先生も受賞するとは考えてもいなかったという。英語や現地の言葉のフランス語が分からないため授賞式の存在を知らず、コンクールが終わったと思って楽屋で吉田さんがメイクを落とし衣装を脱ごうとしているところ、自分のナンバー12、フランス語で『ドゥーズ』と叫ぶスタッフの声が耳に入った。指示されるがままに舞台に戻ってみると、そこは授賞式の真っ最中。何が起きているかも分からずに受け取ったのは、スカラシップ賞の賞状だった。
受け取ったのは賞状だけでなく、バレエ留学の費用と受け入れ先もだ。入賞を機に、プロのバレエ界に続く道につながるベース、ニューヨークのスクール・オブ・アメリカン・バレエに留学する道が開かれた。そして、日本全国のマスコミで、初の日本人受賞が話題となり、ローザンヌ国際バレエコンクールの名が世に知られるようになった。その後、日本人参加者が増え、現在までに、83人の日本人がコンクールで入賞している。
吉田さんは、ニューヨークに留学後、スイスのバーゼル・バレエ団やドイツのシュツットガルト・バレエ団でソリストとして活躍。現在はバレエを引退し、ウェルネスのジャイロトニックのトレーナーとして、ダンサーなどをサポートしている。
ローザンヌ国際バレエコンクール
正式名称はPrix de Lausanne（プリ・ド・ローザンヌ）で、才能豊かな若いバレエダンサーがプロの道に踏み出すことへのサポートを目的とし、スイス西部のヴォー州ローザンヌで1973年から開催されている。15～18歳の若いダンサーを対象にした世界最高の国際コンクールの1つで、若手ダンサーの登竜門とも言われる。現在カンパニーとプロとして契約中、または過去にプロ契約を結んだことのあるダンサーは参加できない。入賞者は、奨学金を受け取り希望するバレエ学校かバレエ団で１年間研修できる。
本選の第50回ローザンヌ国際バレエコンクールは、モントルー・ミュージック＆コンベンションセンター「2m2c」で2022年1月31日～2月6日に開催。参加者はコンクール中5日間コーチの指導を受け、2月4日にファイナリスト20人を選抜する。受賞者は2月5日に発表される。End of insertion
シリーズ「ローザンヌから広がったバレエ半世紀」
1973年からスイス西部ローザンヌで開催されている若手ダンサーのための登竜門と言われるバレエコンクール「プリ・ド・ローザンヌ」。どのようにローザンヌのコンクールは変遷したのだろうか。審査員、振付家、出場者へのインタビューやアーカイブ映像から、過去50年間の移り変わりを追う。
パート１はこちら他のサイトへEnd of insertion
（編集・ムートゥ朋子）