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これらの町は昭和40年7月の住居表示の実施により、合併して現在の「岩本町一丁目」になりました。かつて町内を流れていた「竜閑川」は終戦後に三度埋められ、現在に至りますが、江戸の頃より変わらないのは、この川筋を神田と日本橋の境界としていたことです。
現在は千代田区と中央区の区境となっています。
町の北側を通る「金物通り」の名前が示すように、かつては金物問屋が軒を並べて、竜閑川を利用した木材の運搬とともに物流の中核地でした。
町会の該当区域は、岩本町一丁目全域となっています。
日本橋魚河岸、呉服屋、両替店が栄え、現在にまで至り、老舗となっている店も多く、商業・金融の中心地となっています。
室町一丁目内にある「三越」は、延宝元年（1673）に越後屋号で旧本町一丁目に店を出し、「店前現銀無掛値」の看板を掲げ、現金による正札販売商法と、切り売り商法の新商法によって今日になすまでとなりました。
明治37年「三井の越後屋」を二字につめて「三越」と改めたと言われています。
遠方のため神社への宮入は行っていなせんでしたが、平成17年より、町会長を中心とした日本橋会の皆様の協力によって宮入ができるようになりました。
町会の該当区域は、日本橋室町一丁目全域となっています。
宮入の後、境内右側にある水神の山車の前で、魚河岸会の皆様へあいさつのみこし振りを行うのでそちらもご注目ください。
宮本町には、明治10年（1877）創業、開花三十六席にも選ばれた「開花楼」がありました。
ここは海抜40メートルの高台に建っており、見晴らしの良さと江戸前の料理が好まれ、通人、粋人が集う場所として知られ、東京名所図会など、多くの書物に残されています。
また、単に料理屋として著明であるばかりではなく、書画店や古書市、見本市等、当時としては貴重な文化事業が再三開催されました。
明治の国学者、福羽 美静が開花楼の全盛を詠んだ詩を紹介します。
「にぎわしき 花の都のその花を 見れば心も また開けつつ」
町会の該当区域は、外神田二丁目16〜19番地、7番1号・4号の一部となっています。
昭和35年、宮惣の製作によるものです。迫力があり、熱気あふれる、力強い担ぎっぷりにご注目下さい。
末広町と五軒町（現在の末広町交差点付近）にあった堀家の辻番所は、
御府内随一との評判でした。
辻番と言えば、川柳に『辻番は生きた親父の捨て所』とあるように、大概、老人と決まっていました。
しかし、この辻番所では番人を雇う際に、武芸の心得のあるものを厳選して選考し、
日々稽古を怠る事がなかったと言われています。
事件があれば六尺棒で応戦し、逃亡者がいればその棒を投げて足に絡ませて倒していたそうです。
また、明治元年（1868）5月の新政府軍と彰義隊との戦い（上野戦争）の始まりは、
この辻番所前で開かれたものである、と言われています。
町会の該当区域は、外神田三丁目5〜10番地、及び14〜16番地となっています。
明治維新の時に政府によってこれらの屋敷は召し上げられ、明治5年（1872）に、この地は神田五軒町と名付けられました。
その後、人家が立ち並ぶようになり、てんぷらの店や寄席などができ、町は賑わいました。
明治44年（1911）には、町名から神田が外され「五軒町」となりましたが、昭和22年に神田区と麹町区が合併して千代田区になると、ふたたび神田五軒町に戻りました。
そして、昭和39年、住居表示の実施に伴って外神田六丁目となりました。
町会の該当区域は、外神田六丁目3番地5・6号、4〜16番地となっています。
子供神輿
また、この土地には有名な寺子屋の、「芳林堂」がありました。
芳林堂は、有馬藩士 金子政成が安政4年（1857）に開業しました。
その後、火災にあって旅籠町に移ってきました。
芳林小学校（現在の昌平小学校）の名前も、この芳林堂に由来していると言われています。
現在この地は、日本の最先端を行くIT産業のメッカとなっています。
町会の該当区域は、外神田一丁目1番地5〜7号、3番地、4番地1〜8号、18〜23号、5〜9番地及び外神田三丁目1・12・13番地となっています。
前田家の上屋敷は、天和2年（1682）の火事で類焼し、幕府に没収されます。
その翌年になると、湯島一丁目の職人や商人たちがそこに代地を与えられて移転してきましたが、金沢という町名はそのまま受け継がれていきました。
商人や職人の町として発展を続けた金澤町には、多種多様な店があったようで、文政7年（1824）に書かれた「江戸買物独案内」には、「やけど妙薬」で知られた田村万兵衛、「鼻紙袋」や「煙草入れ」を扱う津久田屋、瀬戸物問屋である玉川卯兵衛といった商人たちの名前が記載されています。
町会の該当区域は、外神田三丁目2・3・4・11番地となっています。
町の真ん中を走る現在の中央通りにあたる道は、江戸時代、将軍が上野の寛永寺へ参詣するときに通る道でもありました。
特に毎年正月十日に行われた「正月御成」では、将軍は必ずここを通ったので、道の名前まで御成と呼ばれるようになりました。
因みに、将軍御成の当日は、沿道の家は火を使うことも許されないほど、厳重な警備体制が敷かれていたようです。
昭和40年頃までは町内には稲倉魂命を祀る三社稲荷がありました。
御利益が多い神社で、講武所の芸者の参詣は頻繁にあったと言われています。
町会の該当区域は外神田四丁目6〜13番地となっています。
「同朋」というのは、室町時代に始まり、幕府の雑務、茶事を務めた僧体の小史のことを言います。
江戸幕府では、城中における大名の案内・更衣・刀剣の上げ下げ・茶弁当の世話をし、将軍外出の際には、長刀を持って従っていました。
平成8年3月に新調した浅草の宮本卯之助商店作の御神輿で同年5月の神田明神例大祭に参加しました。
町会の該当区域は、外神田二丁目10〜15番地、6丁目1・2番地及び3番地3・4・7・8号となっています。
子供神輿
この時に、神田元佐久間町の町名が生まれました。
「元」という名前は、新たに生まれたこの町を神田佐久間町と区別するために付けられました。
明治44年（1911）に、元佐久間町と改称されましたが、昭和22年、千代田区ができたときに、町名は再び神田元佐久間町となりました。
町会の該当区域は、外神田五丁目2・5番地となっています。