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「恐れるなと主が言われる」マルコ5：21～24a、35～43
2021年8月8日（左近深恵子）
ガリラヤ湖の向こう岸に渡っておられた主イエスが再び舟でガリラヤ地域の側に戻ってこられると、主イエスの帰りを待っていた大勢の群衆が集まってきました。中でも切実な思いで主を待ち侘びていたのが、ヤイロという人でした。湖畔で群衆に囲まれていた主イエスのところに来たヤイロは、足元にひれ伏し、娘が死にそうだから、娘の所に来くださいと願いました。主イエスはヤイロの願いに応えて、弟子たちを伴ってヤイロの家へと向かいました。群衆もその後をついて行きました。
ヤイロはその町の会堂長の一人でした。会堂は、律法を学ぶ場であり、何より安息日に礼拝を捧げる場でありました。ユダヤの民や社会の中心にあり、会堂での礼拝が、人々を互いに結びつけていました。主イエスもガリラヤ地域でのお働きの核に、会堂での礼拝を置いてこられました。人々はその教えに他の人々には無い権威があると非常に驚いたと、主イエスは皆から尊敬を受けたと、聖書に記されています。
会堂の管理や運営を担う責任者が会堂長でした。安息日の会堂で聖書朗読とその聖書の箇所の取り次ぎを誰がするのか割り当てるのも、会堂長の役割でした。人々から信頼された人でなければ担えない務めでした。ヤイロが会堂長をしている会堂で、主が教えを語られたこともあったかもしれません。それまで会堂で教えを語ってきた他の指導者たちには無い特別な権威によって語られる主の教えを聞いたり、主がなさる癒しを見たことが、ヤイロのこの日の行動につながったのかもしれません。
けれどそれはヤイロにとって、勇気の要る行動であったでしょう。その頃には既に、他の指導者たちの、主イエスに対する敵意は非常に強くなっていました。主イエスが教えを語られる会堂や、主が招かれる家などに指導者たちがやってきては、主イエスの言動の中に訴えられる材料はないかと探すようになっていましたが、とうとう、安息日の会堂で片手の萎えた人を主が癒されたことによって、主イエスを殺す相談を始めたことが第3章に記されています。他の指導者たちのこのような思いを知らないはずはないヤイロがこの日、自分の行動がいずれ他の指導者たちに知られてしまうことも構わず、主イエスのもとへと急ぎ、その足元にひれ伏して、娘を助けてくださいと懇願したのでした。
娘を助けたい悲痛なヤイロの思いは、何か加えて述べる余地が無いほど、私たちにもひしひしと伝わってきます。ヤイロの苦しみが、自身の痛みと重なる人もあると思います。私たちがその状況に置かれれば必死に助けてくれそうな専門家を探すように、ヤイロも手を尽くしたのではないでしょうか。この町の重鎮である会堂長ヤイロには、助けを申し出てくれた人も多かったことでしょう。しかし誰も娘を助けることができなかった。ヤイロには、家族のことを案じてくれる隣人がいた、専門家に娘を診てもらうくらいの財産も持っていた。様々な面で恵まれていたと思われるヤイロでしたが、それでも娘に迫る死を退ける力は持っていません。しかしヤイロは主イエスに希望を見出しました。それが他の指導者たちとの関係を損ね、自分の立場を揺るがせることになったとしても、ヤイロは主イエスに助けを求めることを決断し、主のみ前にひれ伏し、苦しみをすべて注ぎ出しました。ヤイロは、主が娘に手を置いてやってくだされば、娘は助かり、生きるでしょうと言います。このところで「助かる」と訳されている言葉は、先週、12年間出血の病に苦しんでいた女性を主が癒された出来事で、癒しや救いを言い表していたのと同じ言葉です。体の癒しを表すよりも広い意味を持つ言葉で、通常「救う」と訳される言葉です。これまで手を尽くしても娘を治すことのできなかったヤイロです。神さまの権威をもって語り、癒してこられた主イエスが娘に関わってくださらなければ娘を救うことはできない、主イエスならば救ってくださるとの、主イエスに対するヤイロの信頼が「助かる」というこの言葉に表れているようです。全てを主イエスに委ねて願うヤイロに応えて、ヤイロの娘の命と存在の重みと死の現実を担うために、主はヤイロの家へと進み始めました。
ここから先、ヤイロの言葉は記されていません。12年間も出血の止まらない女性が主の衣に触れ、主が立ち止まり、その人を探しておられる間、ヤイロはどんな思いでいたことでしょうか。自分の願いを全て主に注ぎ出したヤイロには、主イエスは自分の思いを分かってくださっているとの信頼があったかもしれません。娘が今にも死に奪われてしまうかもしれないという不安を、これ以上口にしたくなかったのかもしれません。しかし不安は現実のものとなりました。家から人が来て、娘の死を告げ、主イエスに来ていただいて煩わすには及ばないとも言います。それに対してもヤイロは言葉を発しません。娘が死んでしまったという現実を、そして主イエスでさえも娘を救うことはできないという現実を、受け入れられなかったのかもしれません。
ヤイロではなく主が、ヤイロのこころにあるものを言葉にされます。それは恐れであると。そして「恐れることはない」と言われます。
ヤイロが恐れていたのは、死の力でした。次第に弱ってゆく娘を案じる日々の中、既に死が娘の命を支配してしまっていることを恐れ、これまで築いてきた親子のつながりも、娘に命を与えてくださった神さまとのつながりも、死が奪い去ろうとしていることを恐れてきた、そのヤイロの思いを、主はご存知であったのでしょう。
湖を向こう岸へと渡る主イエスの一行を嵐が襲った出来事において、弟子たちもおそれを抱いたことが記されています。主イエスの衣に触れた人が癒された出来事においても、衣に触れた人がおそれを抱いたことが記されています。三つの出来事のそれぞれのおそれは、同じ言葉で言い表されています。しかし弟子たちと、主の衣に触れた人が抱いたおそれは、主イエスに対してです「おそれ」を抱きました。それは自分たちの無力さ、不十分さを知った者たちが、その自分たちに圧倒的な力で救いをもたらしてくださる方であると、主を知った時に持つことのできた主に対するおそれでありました。けれどヤイロが抱いてきたのは、死の力に対してのおそれでした。娘の病によって、ヤイロのこころのエネルギーの大半は、これまで死を恐れることに費やされてきたのではないでしょうか。主イエスという方を知り、希望を見出したヤイロは、主と共に死に立ち向かう道を進み始めました。それなのに、主が共に居てくださっても圧倒的な死の力は娘を呑み込んでしまったと、死が進もうとしているこの道を閉ざしてしまったと、そう打ちのめされるヤイロに主は「恐れることはない」と、恐れてはならないと、命じられるのです。
人にとって死ほど確実なものはなく、死ほど絶対的なものはありません。しかし神さまにとってはそうではありません。「恐れてはならない」という言葉は旧約聖書以来、神さまの現臨と共に告げられてきました。わたしがあなたと共にいる、わたしの力があなたと共にある、私があなたを祝福する、恐れるなと、アブラハムに、イサクに、ヤコブに、神さまは告げてこられました。神であり神のみ子である主イエスも、死を最期のもの、究極のものとはされません。死の力は圧倒的であり、人は死の力に対して無力です。死を恐れながら、自分の欠けを神さまのお力ではないもので満たそうとし、神さまのみ心に背き、神さまの聖さから離れ、神さまとの関係を壊してきた人間を、神さまはみ子によってご自分に結び付け、関わりを回復してくださり、ご自分の民とされます。この神さまと一人一人の結びつきは、死であっても断ち切ることはできないのです。これは主イエスの十字架と復活によって明らかにされることです。ヤイロも周りにいた他の人々も、まだ主イエスの死も、死者の中から神さまが甦らせてくださった復活も知りません。しかし主イエスはこれまで、神さまの国の到来を宣べ伝え、癒しなどのみ業を通して、ご自分の死と復活によって実現される神さまのご支配を示してこられました。特に湖上で嵐を鎮められた出来事、向こう岸の悪霊に取りつかれた人を癒された出来事、12年もの間悪化するばかりの病に苦しんできた人を癒された出来事において、死の力に苦しむ人々にお力を示してこられました。湖上で溺れるのではないかと死の恐怖の中にあった弟子たちを嵐から救われ、悪霊に取りつかれて、墓場に住むしかなく、死者のようにかろうじて生きていたゲラサの人を救われ、孤独の内に健康も財産も失ってしまった人を救われてきました。
死に対して無力な人間が死の力を恐れるのは当然のことです。しかし主イエスは「恐れるな」と言われ、「ただ信じなさい」と、神さまのお力が死に勝ることを信じなさいと言われます。ヤイロが主イエスに見出した希望を、死への恐れによって取り下げてはならないと、信仰を放棄してはならないと、言われます。
こうして主イエスは、死に閉ざされたかに思えた道をヤイロと弟子たちを伴って進み続けられます。ヤイロの家で泣き騒ぐ人々に、「子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。ご自分の復活によって死が眠りとされることを示しておられるのですが、主の言葉の意味が分からない人々は主イエスをあざ笑います。その主イエスに従って進むヤイロを支えているのは、主が「恐れるな」と言われたからです。
「恐れるな」と言われても、どこにどのような希望を見出せるのか分からない死の現実があります。主イエスに来ていただくことを取り下げた方が良いと言う家の者たちの言葉も、人々の嘲笑も、死の現実の中では当然です。しかしつい先ほども、病によって共同体からも神さまからも遠ざかったまま死に向かうしかなかった一人の女性を新たな命に生かされた主イエスが「ただ信じなさい」と言われるから、この方が共におられ、命と死の重みを担ってくださっているから、ヤイロは信じて従ったのです。
主イエスは、死の床にある娘に「タリタ、クム」と言われます。主イエスが話されていたアラム語の言葉が、翻訳されないでそのまま記され、「少女よ、起きなさい」という意味が添えられています。そして手を差し出して、起き上がらせます。「起き上がる」と訳された言葉は、「起き上がる」「立ち上がる」という意味もありますが、死からの甦りを意味する言葉でもあります。やがて神さまがご自分の復活によって死の現実を変えてくださり、闇としか呼べない死の現実を、眠りと呼べるようにしてくださる、その復活のみ業が、死の床から少女が起き上がる出来事に示されているようです。主イエス・キリストに対する信仰を与えられた者の死の眠りは永遠のものではなく、眠りから覚める時が来きます。このことを人が受け留められるのは、主イエスの十字架と復活によってです。だから主はこの時、部屋に居た人々にこのことを誰にも知らせないようにと命じました。甦りの出来事に喜んでも、自分や大切な人が癒されることには期待しても、古い自分に死に新しい命に生きることも、復活の命に生きることも望まないでいる人々には、まだこの出来事を受け留めることができないからでありましょう。
命と死の重みに潰されそうな時、「タリタ、クム」と呼びかけられた主の言葉が、深い死の眠りについている魂に届く時が来ることを、教会は死の力に直面した時にこそ、主の十字架と復活によって受け止めてきました。それがどのように起こるのか分かりません。そのさまを具体的に思い描きながら信じるということはできません。しかし、「タリタ、クム」という優しく呼びかけてくださる主が、少女の空腹を慮ってくださり、親のもとに死の闇から娘を返してくださった主が、自ら死者の中から復活され、聖霊において今も共におられることを私たちは知っています。その主が、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われるのですから、私たちの生涯の終わりである死が、全ての終わりではないことを、受け止め、主と共に進んでゆくことができます。テサロニケの信徒の手紙は、死を「眠り」と言い表しながら、キリストが再び来られる再臨の時をこのように記しています、「主は、私たちのために死なれましたが、それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」（Ⅰテサロニケ5：10）。私たちの歩みは時に、死によって道が閉ざされたように、闇に覆い尽くされているように、生きている時間の中にも死の力が侵食してきているように思え、打ちのめされます。しかし、主と私たちの結びつきを断ち切ることのできない死ではなく、死を超えて私たちが主と共に生きるようになるために世に降られ、人の無理解も嘲りも超えて私たちの日々の中へと降られ、死者の中にまで降ってくださった主をおそれる歩みを、主と共に進み続けたいと願います。