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プロテスタント教派にとって２０１７年は、宗教改革から５００年の節目を記念する年だ。贖宥状（免罪符）を販売するなどしていた当時のカトリック教会に抗議して、マルティン・ルターがかの有名な「９５カ条の論題」をドイツのザクセン州ヴィッテンベルクの教会の門扉に貼り出したのは、５００年前の今日、１５１７年１０月３１日のことだった。
この抗議が引き金となってドイツで宗教改革が始まり、その波は急速にヨーロッパ中に浸透し、のちには北米にまで広まった。
発祥の地はドイツかもしれないが、実はスイスもまた、宗教改革の重要な舞台の一つだった。事実、カトリック教会とルターの断絶からわずか数年後には、チューリヒやジュネーブの宗教改革家によって改革運動に新たな勢いが加わり、今日のプロテスタンティズムはスイスで１６世紀に起こった出来事に強く影響を受けて形成されていった。
スイスの宗教改革と
プロテスタンティズムの歴史
宗教改革の中心地となったスイス
宗教改革は１５１７年１０月３１日、ドイツのヴィッテンベルクで始まったと言われる。宗教改革運動はヨーロッパに急速に浸透し、中でもスイスは改革運動の中心地の一つになる。
宗教改革のすべてが始まった独ヴィッテンベルクにて。町を見守るようにマルティン・ルターの像が立つ
ルネサンスと活版印刷技術の発明が新しい思想の普及に大きく貢献し、さらに「地理上の発見（大航海時代）」が人々の世界観を変えつつあったヨーロッパでは、ルターが贖宥状の販売に抗議して「９５カ条の論題」を掲示する前から既に、再生と復興が強く求められていた。カトリック教会の改革を求める声も多かった。
成長した社会
また農村や都市部では農民や新たな社会階層が、社会問題を前に市民の自治権拡大を切望していた。欧州他国の例にもれずスイスでも、宗教改革はそのような要求に応えることになった。
スイスで宗教改革の中心となったチューリヒとジュネーブでは、改革派の新しい教義は司教の権力に縛られた政治から自由になろうと努めていた都市当局を大いに力づけた。
チューリヒで翻訳、印刷された旧約聖書の創世記
チューリヒの宗教改革の中心人物は、１５１９年に宗教改革運動を始めたツヴィングリだ。数年のうちに市内全ての教会は改革派に改宗し、チューリヒ市は１５２５年、正式にカトリックのミサ聖祭を廃止した。ちなみにツヴィングリは、ルターよりも前に聖書をドイツ語に訳している。
ルターとツヴィングリの決裂
だがドイツで宗教改革運動を進めるルターとの関係は複雑だった。ツヴィングリの思想はより人文主義に基づいており、その改革運動はルターよりも徹底したものだった。１５２９年、マールブルク会談において両者の間で教義の一致が試みられるが、聖餐論で相容れることができず、決裂に終わった。
ドイツの画家グスタフ・ケーニヒの解釈による、聖餐論をめぐるルターとツヴィングリの決裂（１８４７年）（akg-images）
ルターとツヴィングリの決裂は、スイスの宗教改革に重大な影響をもたらした。ルターとの関係を断った後、ツヴィングリが作った教会はジャン・カルヴァンが改革運動を進めていたジュネーブとのつながりを深めていった。そして１５６６年、チューリヒとジュネーブの両教会は教義の一致をみてスイス信条を成立させ、ルター派に取って代わる宗教改革の重要な拠点として、スイスの役割を決定的に裏付けた。
プロテスタントのローマ
フランス人弁護士のジャン・カルヴァンは、１５３６年にジュネーブに移ってきた。その前年には、宗教改革における重要な神学書の一つと言われる「キリスト教綱要（Institutio christianae religionis）をバーゼルで執筆していた。カルヴァンは数年のうちに厳格な教会改革を実行し、ジュネーブの町を世界でも有数な宗教改革の模範へと変えていった。ジュネーブ市が「プロテスタントのローマ」と呼ばれるのはそのためだ。
１６世紀後半には、宗教を理由に弾圧されてフランス、イタリア、その他の国から逃れてきた人たちがジュネーブに流れてきた。カルヴァン派はまもなくジュネーブの近隣都市にも広がっていった。カルヴァン派にインスピレーションを受けた改革派は、オランダやスコットランドで多数派になり、プファルツ選帝侯領では国教に採用された。
ジュネーブでは毎年、サヴォワ公率いるカトリック軍から町を守り抜いたことを記念するエスカラード祭りが開催される
イタリアでは１５３６年に、中世の異端運動を引き継ぐ人たちがヴォー地方からカルヴァン派プロテスタントに合流した。１７世紀後半にフランスを追われスイスや英国、プロセインなどの欧州数カ国に逃れた自営業者や商人たちなどのユグノーもまた、カルヴァン派だ。
１７世紀に起こった英国のピューリタン革命の内戦では、カルヴァン派が主導的な役割を果たした。その数年後には、ジュネーブ生まれのこの新しい思想は英国人入植者の船に乗って「新世界」に到達し、アメリカのアイデンティティー構築に決定的な影響を与えたのだった。
対立と仲裁
再びスイスに戻ろう。スイスで宗教改革を受け入れたのは、チューリヒとジュネーブだけではなかった。改革派の思想はスイス国内のあらゆる地域、そして同盟国や属国にも浸透していった。だがスイス全土が新しい教義を受け入れたわけではない。カトリックのままの地域も多く、またグラウビュンデン州のように両派が混在する地域もあった。宗教的な対立が起こるのに時間はかからなかった。
カッペル戦争でツヴィングリが戦死した時に身につけていたと言われるかぶとと剣
カッペル戦争と呼ばれる、ツヴィングリ率いるプロテスタント諸州同盟とスイス中央部のカトリック諸州の戦いは、欧州で最初の宗教戦争となった。武器で有利だったカトリック州を前に、ツヴィングリは第２次カッペル戦争（１５３１年）で命を落とす。その結果、スイス連邦領土におけるカトリック、プロテスタントの境界が定まり、ベルン州が征服したサヴォワ領以外には、戦いによってプロテスタンティズムがそれ以上拡大することはなかった。
それでも両派の緊張と確執はその後数世紀に渡り続いた。だが比較的穏やかに対立が解決した場合もある。流血に至ることなく１５９７年に決別した、カトリックのアッペンツェル・インナーローデン準州とプロテスタントのアッペンツェル・アウサーローデン準州がその例だ。
宗教改革とスイスのアイデンティティー
異宗派間の対立を生んだことは確かだが、結果的に見れば、改革派信仰の広がりが今日のスイスを作る領土・州間の関係を強めたことは事実だ。ドイツ語圏はルターとの決裂によってドイツから離れ、フランス語圏はその大半の地域が改革派を受け入れたことによりフランスと距離を置くことになったからだ。
スイスのドイツ語圏とフランス語圏のプロテスタント教会が密接に関わりあったこともまた、のちにフランス語圏の州の連邦加盟を促した。
それに、宗教的な対立が諸州の共通利益に勝ることもほぼなかった。宗派の境界と言語や政治的な境界と同じではなかったからだ。例えば１８４７年の分離同盟戦争では、宗派の違いから自由主義派と保守派に分かれて戦ったわけではなく、また地域的な言語の違いにも全く関係なかった。
１５２８年からプロテスタントの礼拝の場となっているベルン大聖堂。今日では、プロテスタント信者が州人口の過半数を上回る州はベルン州のみとなった
それでも、プロテスタンティズムの倫理がスイスのアイデンティティー形成に影響を与えたことは明白だ。２０世紀に入ってからは、教会からの脱会やカトリックの南欧諸国出身の移民増加に伴い、従来改宗していた州の多くでも、プロテスタントは信者数で首位ではなくなった。今日、プロテスタント信者が州人口の過半数を上回るのはベルン州だけで、アッペンツェル・アウサーローデン準州とトゥールガウ州では他宗教に比べてプロテスタント信者が最も多い。
ジュネーブの宗教改革記念碑
ジュネーブは１６世紀以降、偉大な宗教改革者ジャン・カルヴァンの存在、弾圧を受けたユグノー（フランスの改革派）の庇護、そして神学校「ジュネーブアカデミー」の輝かしい名声によって、プロテスタントの世界で名をはせてきた。「プロテスタントのローマ」とも呼ばれたジュネーブは、２０世紀初頭に巨大なモニュメントの宗教改革記念碑を完成させ、宗教改革の歴史を刻んだ。
記念碑の建設は１９０８年に始まったが、第１次世界大戦の影響もあり完成したのは１９１７年。スイスやプロテスタント諸国の私的・公的財団から集まった資金で建てられた。
今日、宗教改革記念碑は、有名な大噴水と並んでジュネーブのシンボルとして知られている。
ジュネーブの
宗教改革国際博物館
宗教改革に尽力した人物を記念する壁像に加え、ジュネーブにはプロテスタンティズムの歴史を語る博物館がある。宗教改革国際博物館だ。そこでは、オブジェや書物、古文書、絵画、彫版などを介して宗教改革の歴史をたどることができる。
同館は２００７年に欧州評議会の博物館賞を受賞。この賞は１９７７年から、欧州の文化遺産に関する理解を深めることに貢献したと評価された博物館に与えられている。
多彩なスイスの
宗教的風景
「信仰とは目に見えないものを見ることである」
プロテスタントの神学者カルヴァン
１６世紀前半、中世の間ほぼ独占的な支配をしていたカトリックは宗教改革によって打撃を受け、スイスの宗教分布図は分断される。以後、スイスはカトリック地域とプロテスタント地域に分かれ、カトリックとプロテスタントが混在している地域はほとんどなかった。
何世紀もの間、この状況は変わらない。信仰属地主義のもと、州の宗教が変わることはなかった。また、スイスは依然として広く農村社会だったため、人の移動も少なかった。
ところが、１９世紀半ばになると状況は変わる。１８４８年に連邦制が導入されると、市民は国内の好きな場所に住むことができるようになった。さらに、工業の発展によって、カトリックの多い農村部の州から、プロテスタントが普及している工業化のより進んだ都市部の州に労働者が引き寄せられた。
しかし、この変化がさらに加速するのは２０世紀後半だ。ヨーロッパ各地に見られた社会の世俗化の動きと、特にカトリックの南欧諸国から来た大量の移民によって、スイスの宗教分布図は変わる。
今日、スイスはもはやプロテスタントが多数派の国ではない。カトリックが最も多く、非ヨーロッパ系宗教の増加もますます顕著になっている。また、無宗教を告白するということはかつてほとんど考えられなかったが、その数は増加の一途をたどっている。宗教の多様性が際立つ時代となった。
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グラフィック
あらゆる宗教が
共存するスイス
最も厳格なカトリックから熱狂的な福音主義まで、イスラム教、ヒンドゥー教、数多くの新興宗教、さまざまな信仰が実践されているが、ほぼ平和的に共存してきた。
富の源泉としての
プロテスタンティズム
宗教改革は経済発展の原動力？
プロテスタント地域は、カトリックが多数派の地域よりも経済活動が盛んだということは、ヨーロッパでは既に１７世紀から知られていた。近年では２００８年の金融危機を契機として、プロテスタントの北ヨーロッパとカトリックの南ヨーロッパとでは経済システムが根本的に異なるという考えが復活した。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーと２０世紀初頭に出版された名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思い出した人も多かった。しかし、問題はそう単純ではない。
「村の中心では、美しく快適な住まいに目を奪われるが、そのすぐそばの通りには、貧困を通り越して極貧のみすぼらしい家々がある」。１８６２年、グラウビュンデン州のポスキアボ渓谷について書かれた最初の旅行ガイドのひとつに、ジュネーブの公証人で登山家のジャン・ルイ・ビネ・アンチュはこう記した。さらに、「プロテスタントとカトリックとが混在する地域では、そのコントラストがよく際立ち、頻繁に描かれるが、ここほどそれがはっきりと感じられる場所はない」と続けている。
カトリック圏とプロテスタント圏との経済格差
１６世紀半ばから多数派のカトリックと少数派のプロテスタントに分断されていた、この人里離れた山奥の渓谷についてビネ・アンチュが行った観察は、１７世紀以降、ヨーロッパのほかの地域で編年史家や研究者が指摘した内容と一致した。宗教改革がおこなわれた地域で、宗教改革は経済発展を促進した、もしくは促進したとは言えないまでも、その地域で経済は発展したようだ。
フランスのユグノーがスイスやオランダ、プロイセンへ、ルガーノの改革派がチューリヒへ、メノナイトが北アメリカへと向かったように、ある地方からほかの地方へと流出したプロテスタント人口もまた、移住先に商業的ノウハウと生産力を移転し、経済発展を促した。
ジュネーブにある宗教改革記念碑のこの部分は、ユグノーがプロイセンに迎えられる様子を表している
スイスを例にとると、アッペンツェル州のプロテスタント地域とカトリック地域とでは、経済的な活力の違いが明らかだ。アッペンツェル州は、１５９７年にカトリック圏のアッペンツェル・インナーローデンとプロテスタント圏のアッペンツェル・アウサーローデンに分かれた。歴史家で元下院議員のヨー・ラング氏が最近、ドイツ語圏の日刊紙ターゲス・アンツァイガーで指摘したとおり、１５３０年から１７３０年の間に、カトリック圏の人口は３割しか増加しなかったのに対し、プロテスタント圏では人口が５倍にもなった。繊維工業の発展によって、アッペンツェル・アウサーローデンはヨーロッパで最も人口密度の高い地域のひとつとなった。
マックス・ウェーバーの論文
プロテスタント地域の競争上の明らかな優位性に関する議論は、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーも知っていた。１９０４年から０５年にかけて発表したかの有名な論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のの最初のページで明らかにしたように、ウェーバーは、ヨーロッパ以外にも、その歴史の中で知識も技術も少なくとも同じくらい発展していた大陸があったにもかかわらず、なぜ近代資本主義経済はヨーロッパで生まれたのかを理解しようとしていた。
ウェーバーは、プロテスタンティズムによって練り上げられた概念のいくつかに、資本主義経済の発展を促したと考えられる基本倫理を発見した。ひとつは、ルターによって発明され、プロテスタントのほかの宗派にも受け継がれた「職業」という概念だ。この概念によれば、人々は仕事に神に与えられた使命を見出す（ドイツ語の「Beruf（ベルーフ）」という言葉には職業という意味ともに使命という意味がある）。もうひとつは、カルヴァンの主張する富に対する「禁欲的」関係だ。俗世の贅沢や快楽に富を費やすのではなく、事業に再投資する限り蓄財は許容されると考えられていた。
今日でも、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、ドイツの社会学者マックス・ウェーバー（１８６４～１９２０年）の最も有名な著作だ
この論文は広く知られるようになった。誤解されることもあったのだが、ウェーバーは、宗教改革と資本主義との間に明確な因果関係を打ち立てようとしたのではない。宗教的思想と「資本主義の精神」との間に類似点を見つけようとしたに過ぎない。ウェーバー自身、経済システムの歴史的進化は様々な要因が複雑に相互作用した結果であると認めている。
先ず資本主義ありき
いずれにせよウェーバーの論文は多くの議論とともに多くの批判も巻き起こした（そして今もそれは続いている）。例えば、宗教改革が起こるずっと前から、特にイタリアやフランドル地方の商人階級で、資本主義経済は発展し始めていたことが指摘された。１６世紀の銀行家で豪商の名家であるドイツのフッガー家もイタリアのメディチ家もカトリックを信仰していた。
これ見よがしに富を見せびらかすことは、プロテスタンティズムの倫理に照らすとあまりよくはみられない
また、現在のヨーロッパ地図を見ると、経済的に最も活発で最も発展している地域は伝統的にカトリック圏であることに気づく。ドイツのバイエルン州、バーデン・ヴュルテンベルク州、イタリアのロンバルディア州、アイルランドがそうであるし、スイスだけを見ても、ツーク州やシュヴィーツ州がそうだ。
他方、プロテスタント地域に競争上の優位性をある程度認めながらも、その優位性を、プロテスタンティズムの倫理とではなく、教育レベルが優れていることと結び付ける論者もいる。キリスト教徒各々が聖職者を介さず直接神の前に立つという万人祭司主義では、女性を含むすべての信者が聖書をよく知り、聖書を読める必要があった。そのため、宗教改革が行われた地域では識字教育が急速に進み、知識の伝達が容易になった。
スイスの歴史学者ヘルベルト・リュトュ （１９１８～２００２年）は、ウェーバーの論文の卓越した批評家のひとりだ。１６８５～１７９４年のフランスにおけるプロテスタント系銀行に関して優れた研究を行った。リュトュは、ウェーバーの論文の重要性を認めながらも、必ずしもその典拠が明らかではないとしてウェーバーの論文を一般化することに懐疑的だった。また、中世末期やルネッサンスには資本主義経済の前提条件はすでに確立されていたことを指摘した。
対抗宗教改革が経済発展にかけたブレーキ
リュトュによれば、プロテスタント圏の特殊性は中世末期に始まった経済発展を継続をさせたのかもしれないが、絶対王政と結びついた（カトリック側の改革運動である）対抗宗教改革はカトリック圏の経済発展にブレーキをかけた。そういう意味では、宗教改革が経済発展の原動力になったというよりは、むしろ大した弊害にはならなかったと言うべきだ。
ヴェルサイユ宮殿には絶対主義の理念が具現化されている。絶対王政のもと、フランスでプロテスタントの信仰を許可したナントの勅令は廃止された
再びスイスに目を転じれば、産業化はまずプロテスタント地域で始まったのだとしても、ツーク州やソロトゥルン州のような伝統的にカトリックの州も、１９世紀半ばから急速な産業発展を遂げた。産業化を推進し、資金を提供したのも、もっぱらプロテスタントの事業家だったが、産業化を定着させたのは自由主義の影響を受けたカトリックの新たな支配階級だった。
「プロテスタントによる産業化は、自由主義的なカトリックの支持がなければ、産業を嫌う聖職者によって妨げられていたかもしれない」とツーク州の産業化について前出の歴史家ヨー・ラング氏は書いている。
啓蒙主義やフランス革命の時代に起きた文化的・政治的変化によって、宗教改革が世界経済の近代化のために切り開いたのよりもずっと広い地平が切り開かれた。
アメリカ、福音派の
理想郷
スイス兄弟団
シュラーテという村の名前はもはや地図上にはないが、約５００年前の冬のある日、その村で行われたプロテスタントの一宗派である再洗礼派の集会は、ヨーロッパだけではなく、アメリカの宗教生活にも重大な影響を及ぼした。
シュラーテという言葉は、シャフハウゼン州のシュライトハイム村を指す方言として使われ続けている。村にある木骨組みの家々を見れば、その中の一軒で、１５２７年２月２４日、スイス兄弟団がミヒャエル・ザトラーの周りに集り、「シュライトハイムの信仰告白」を採択したことを思い起こさずにはいられない。
しかし、手入れの行き届いた庭に囲まれ、保存状態のよいこれらの木骨組みの家は、最も古いものでも２～３世紀後の時代に建てられたものだ。１６世紀の記念すべき集会を偲ばせるものは、村の博物館に展示されている１５５０年頃に印刷された「シュライトハイムの信仰告白」の古い本だけだ。
スイス兄弟団は新興の再洗礼派の一派だった。再洗礼派が現れたのは、宗教改革を信奉する急進的な若者たちが、ツヴィングリを権力におもねっていると厳しく非難し、ミサと幼児洗礼の廃止を要求して、ツヴィングリと決別する２年前のことだ。関係の断絶は決定的だった。地元当局はツヴィングリの支持を得て、この「再洗礼派」たちを黙らせ、信仰の実践をやめさせるための措置をとり、信仰の放棄を拒否した指導者のひとりを躊躇なく処刑した。
弾圧は再洗礼派の活動を抑圧するどころか、むしろその熱意を煽ったのだろう。スイス歴史事典によれば、「シュライトハイムの信仰告白」の７カ条によって、スイスの再洗礼派は「別の急進的な流れや公認の教会」とは一線を画し、「最初の自由な教会」を作った。信仰告白には、幼児洗礼の拒否、神への誓願の禁止、武力行使の拒否が含まれている。
アメリカのアーミッシュによる農場建設（DiscoverLancaster.com / Terry Ross）
何世紀にもわたって、ヨーロッパやスイスの一部の地方では再洗礼派に対する迫害やそれに伴う亡命が続いた。再洗礼派は分派してもなお世界中に影響を及ぼした。オランダに広まり、ロシア東部に至り、フッター派が生まれ、モラヴィア（現在のチェコ共和国）で開花した。１７世紀のイギリスで、再洗礼派はクエーカーへの教訓となったことだろう。
宗教的アメリカ個人主義
北アメリカの入植地のなかでも、現在はメノナイト派やアーミッシュの名で知られる再洗礼派のグループが、クエーカーと出会ったのはペンシルバニアだった。その出会いはアメリカ社会全体に影響を及ぼしたに違いない。クエーカーは１８世紀半ばまでこの地方の指導者だった。ということは、自警団も政府公認の教会もなかったということだと、ペンシルバニア州エリザベスタウン・カレッジで再洗礼派の歴史を研究するスティーブン・ノルト氏は指摘する。また、クエーカー政府が権力を維持できるようメノナイト派が支持し、協力していたことも明らかにした。
ヨーロッパで起きたこととは反対に、ペンシルバニアの住民は宣誓することなしに帰化することができた。国によって迫害されることがなかったので、武器を取ることもなかった。
また別の専門家によれば、再洗礼派が北アメリカに残した最も重要な遺産は、教会に加わることは独立した個人の自発的な行動であるという成人洗礼の理念とその前提だ。「成人洗礼の理念はアメリカの個人主義と合致し、個人が諸権利を有するということを強調する。つまり、宗教的帰属も宗教的誓約も市民としての誓約も決めるのは個人ということだ。これは非常に重要な理念だ」とペンシルバニア州エリザベスタウン・カレッジのドナルド・クレイビル氏は説明する。
しかし、どちらの歴史学者も、アメリカに行き着いた再洗礼派の影響をことさら大きく捉える気はない。再洗礼派は、アメリカという国を定義づける移民社会というカクテルの一部である。
アメリカの再洗礼派社会では、標準ドイツ語あるいはドイツ語方言の習得は、もっぱら聖書の講読を通じて行われる
１８世紀初頭のペンシルバニアでは、全人口の約３分の１にあたるおよそ８万人がドイツ語を話した。ドイツ語話者の大部分はルター派や改革派教会のメンバーで、メノナイトやアーミッシュは５％にも満たなかった。
クエーカーがペンシルバニアを指導していた時代に認められていた権利のいくつかは１７７６年からのアメリカ独立戦争中廃止されたが、１７９０年には復権された。この間、国に対する忠誠の誓いを拒否したすべての人が参政権を失った。
オールド・オーダー・アーミッシュ
再洗礼派はペンシルバニアに入植を続け、１９世紀にはオランダやロシア出身のメノナイトが加わった。他の宗教と同様に、再洗礼派はそこで自分たちの信仰を実践することも、そこで自分たちが望むように暮らすこともできた。しかし、技術の進歩と公教育制度の導入によって、麦わら帽子をかぶり、馬にひかせたバギーに乗るアーミッシュの典型的なイメージが表す社会に亀裂が生まれた。
「個人的な宗教的体験により重きを置くよう求め、あまり伝統や通俗的な慣習に縛られることのない精神生活を要求する人々がいる一方で、伝統に従って暮らすオールド・オーダー・アーミッシュに属す人々もいた。オールド・オーダー・アーミッシュの特徴は、消費社会に対して懐疑的で、教会を組織としてみなすことは絶対にしないことだ」とノルト氏は説明する。
オールド・オーダー・アーミッシュは、特に、彼らによれば日曜学校や宣教協会、高等教育に具現化されている教会の計画的なものの見方を拒絶した、とノルト氏は指摘する。２０世紀初頭には、電気の普及、電話と自動車の登場によって、生活様式の違いはますます顕著になった。
それでも、アーミッシュやメノナイトは、キリスト教の他宗派とともに、平和主義の深い信念を守るため、一致団結して国家に対抗した。しかし、第一次世界大戦中、アメリカ政府は兵役に代わるいかなる業務に従事する機会を与えず、これらの宗教グループの男子はトレーニング・キャンプに送られた。そこでは、非戦闘業務に就いていたとしても軍服を着ることが義務付けられた、とクレイビル氏は指摘する。軍服を拒否した者は罰せられた。
アメリカ軍の徴募にならぶ志願者の列。１９１７年撮影
１９３５年、アーミッシュやメノナイト、キリスト教の他宗派は連合して、（自己の信条に従って兵役あるいは兵役に服しても戦闘業務につくことを拒否する）良心的兵役拒否者のための代替業務案を練る。この点では連邦政府を説得することにも成功し、一歩前進させることができた。「二つの大戦を通じて再洗礼派が行った徴兵に対する抵抗運動は、２０世紀のアメリカ社会において、彼らの平和主義者としてのアイデンティティーを奮い立たせた」とクレイビル氏は結論付ける。
馬とバギー
第二次世界大戦以降の最も際立った変化は、アメリカやカナダでオールド・オーダー・アーミッシュの人口が急激に増加したことだ。この人口増加は、彼らの慣習や伝統的な装いゆえに非常に目立った。
オールド・オーダー・アーミッシュの人口は、過去２５年間で３倍近くまで増え、アメリカだけで３０万人以上に達した。アーミッシュのなかには、最初に入植したペンシルバニア州やオハイオ州、インディアナ州を離れ、別の州に移住したものもいた。
村の教会に向かうアーミッシュの家族（<email-pii>）
平均的な家族には６人以上の子どもがおり、子どもの８５％以上が成人年齢に達したとき共同体に残ることを選択する、とクレイビル氏は説明する。「アーミッシュは宣教活動も勧誘もしないが、この二つの要素が彼らの人口増加を加速させた」
クレイビル氏は、アーミッシュが成功したのは、近代化が彼らのニーズに合致するとき、例えば情報通信技術や農業技術、商業技術をある程度利用しながら「近代化と折り合う」受容力があるからだと考えている。近代化によって、この伝統的集団はオールド・オーダー・アーミッシュとしての典型的なアイデンティティーを維持しながら繁栄することができた」
クレイビル氏はアーミッシュの製造業者の数は１万２千あると見積もる。アーミッシュが作る様々な製品はその品質と価値、「開拓時代アメリカのノスタルジックな魅力」で評判だ。しかし、アーミッシュとメノナイトを彼らの過去に結びつける絆はノスタルジーなどではない。それは、スイス北部で５００年前に再洗礼派から託された教えなのだ。
文・グラフ
Andrea Tognina (chapter 1&3) / Dale Bechtel (chapter 4) / Olivier Pauchard / Duc-Quang Nguyen (graphic)
写真
Keystone (特に記述のないもの)
翻訳
由比かおり、江藤真理
制作
Luca Schüpbach, © 2017 swissinfo.ch