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前回は神の国のアイデンティティを受け入れ、神の国のストーリーの中に生きることをテーマにお話ししました。今日は、私たちの信仰についていっしょに考えてみたいと思います。クリスチャンにとっての信仰とは良き方である神様を信頼することです。私たちがどのような信仰を持っているかよりも、私たちの信仰がだれに向けられているのかの方が大切です。
１．神様に対する信頼
お父さんと子どもが手をつないでいる写真を見て、皆さんはどのような印象を受け、どのようにこの場面を説明されるでしょうか。子どもがお父さんの手を握っているということもできますし、お父さんが子どもの手を握っているということもできます。私たちクリスチャンと神様との関係を考えた時に、どちらの説明が当てはまるでしょうか。信仰とは私たちが神様の手を一生懸命に握って離れないようにするというよりは、良き方である神様、私たちの天のお父さんが私たちの手をしっかり握ってくださっていることを認め信頼することではないかと思います。
良い方は、ひとりだけです。（マタイ１９：１７）
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。（ローマ８：１５）
◇神様はよい方です！
ジェームスという牧師が若い時に経験した出来事をお分かちしたいと思います。彼が初めて他の教会にメッセージの奉仕で招かれた時のことです。礼拝の最中に、そこの教会の主任牧師が、会衆と信仰告白の掛け合いをやっていました。「神様はよい方です！」と牧師が叫ぶと、会衆が「いつもそうです！」と大きな声で応答します。その牧師は、メッセージの時間になって講壇に上がったジェームス牧師にも同じことをするように求めてきました。最初は戸惑ったジェームス牧師も元気を出して、「神様はよい方です！」と大きな声で宣言すると、会衆が「いつもそうです！」と叫び返します。当時の彼は、仕事も家庭も健康も全てが祝福されて順風満帆でしたので、「神様はよい方です！」と叫ぶのはたやすいことでした。
しかし、順調な人生を送っていたジェームス牧師の生活はある日急変します。妊娠８カ月を迎えた奥さんのおなかにいる赤ちゃんに染色体異常が見つかり、生まれても長く生きられないだろうと医師に宣告されたのでした。その時から、ジェームス夫婦にとってそれまでの人生の中で最もつらい日々が始まりました。未熟児で生まれた女の子は心臓に重い欠陥があり耳も聞こえず、食物を飲み込むこともできない体でした。二人は、女の子にマデリンと言う名をつけます。鉛を飲んだような気持で毎日をやっとの思いで過ごしている彼らに、さらに追い打ちをかけるようなことが起きました。ある時、交流のあった知人の牧師から食事に呼ばれた時のこと、その牧師は二人に対して、こう問いかけてきました。「きみたち夫婦のうちどちらか、あるいは両方が、罪を犯したことが原因で、こうしたことが起こっているに違いない」この言葉は、真面目な牧師夫婦に罪責感と疑いをもたらし、ふたりはさらに深く苦しむようになりました。
結局、マデリンは２才のお誕生日を迎えるころ天に帰っていきました。それまでのつらい２年の間、またその後も、ジェームスと奥さんに対しひどく無神経で配慮に欠けた言葉を投げかけてくる人々がいました。中には葬儀の時に「大丈夫よ、また子どもが与えられるから」と言ってきた夫人もいました。
マデリンが亡くなってから数年が過ぎたある日、ひとり静まっている時、つらい日々を思い出したジェームス牧師はいまだに失望と喪失感を引きずっている自分に気づかされます。深く考えもせず、彼は神様にこうつぶやいたそうです。「たぶん、娘は生まれてこない方が良かったかもしれません。」その瞬間、彼の心に小さな声がささやいてきました。即座にマデリンの声だとわかったそうです。「お父さん、そのようにいわないで。私が生まれなかったら、今、ここにいることなどできなかったのよ。この天国にいて私はとても幸せなの。そしていつの日が、お父さんやお母さん、ジェイコブもここにきて、私と会うの。それからずっと一緒にいることができるのよ。ここでは、素晴らしいことがたくさんあるの。お父さん、今はわからなくても、いつの日がわかるから。」ジェームス牧師はそのことばを聞くと床に泣き崩れました。それは彼にとっての癒しの時であったと思います。ジェームス牧師は、この時から、なぜ主イエスがゲツセマネの園での苦しみの中で「アバ、父よ」と呼びかけることができたのか、たとえ人間に理解できない悲劇的なことがあったとしても、「神様がいつも良い方である」ことを理解しはじめたと、彼の証しの中で語っています。
２．試練の意味
現実の生活の中で、私たちは自分自身の過ちや間違った選択の結果、苦しむこともあると思います。一方で、神様の前に誠実に歩んでいても試練の中を通過させられることがあります。あるいは、時に目に見えない敵からの攻撃に晒されることもあるかもしれません。罪があるならば真摯に悔い改め、誠実に歩んでいるならば試練の中にあっても賛美し、暗闇の力に対しては立ち向かうべきです。しかし、原因を追究することが一番大切なことではありません。天国に行くまでは分からないことがたくさんあるからです。一番大切なのは、私たちと神様との関係です。いつでもどんな場面であったとしても、神様は私たちにとって良き方です。それだけははっきりしています。天の父は、私たちを豊かに赦し、試練の中で守り、敵に打ち勝つ力を与え、いつも恵みをもって養い、導いてくださる・・・そのような良き方なのです。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。（ヤコブ１：２～４）