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◆ヨハネの福音書１章２３節
彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」（ヨハネ１：２３）
◎バプテスマのヨハネ
福音書の中でバプテスマのヨハネに関して、決して多くは書かれていませんが、イエス様はこのヨハネを指して女から生まれた者の中で最もすぐれたな人 （旧約時代最後の最も偉大な預言者）であると言いました。（マタイ１１：１１）ヨハネにはイエス様の先備えとしての特別な使命が与えられていたのです。バ プテスマのヨハネからいっしょに学んでいきましょう。
Ⅰ．光の証人
バプテスマのヨハネは光をあかしするために来たとあります。イエス・キリストが真の光であるのに対して、ヨハネはそれを証しする人でした。ちょうど 光を反射する鏡のような存在と考えることができると思います。ヨハネの証しとはキリストがどのような方であるかを証言することでした。教会で証しとい言う 時に、「救いの体験」や「神さまの恵みの体験」を分かち合う時に使われますが、私たちもまた「キリストの証人」として生きていくことが求められています。 あなたにとってのイエス様はどのような方でしょうか？私たちはキリストの光を鏡のように反射しているでしょうか？
Ⅱ．荒野で叫ぶ声
聖書は、ことばが神であり、イエス・キリストが神のことばであると宣言しています。イエス・キリストが創造の初めから存在された神ご自身であって、 永遠に存在される方であると教えています。それに対して、ヨハネは「自分は声にすぎない」と語っているのです。「声」とは「神のことば」を伝える道具で あって、その役目を果たした後には消えてしまいます。キリストの到来を告げる道備えとしてのヨハネの働きはイザヤ書４０節に預言されています。
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。（イザヤ４０：３～５）
キリストがまもなく来られようとしている時に、ヨハネは悔い改めのメッセージをもって、人々の心を整えたのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づ いたから。」（マタイ３：２）悔い改めることと、後悔とは違います。ギリシャ語で後悔は「後で心配する」という意味だそうです。一方、悔い改めとは、「思 いを変え、心を神に向けること」です。傲慢な心が低くされ、すさんだ心が平らにされる時にはじめて、恵みの福音が人々の心に届くのです。恵みが届くときに はじめて、私たちの心と生活、関係が変えられていくのです。
Ⅲ．キリストを指し示す指
バプテスマのヨハネは、キリストを指差して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と叫びました。イエス様が登場されるまでに人々の心を整え、道備え をすること、行くべき方向を示すことがヨハネの使命でした。ヨハネの指はイエス・キリストを指し示し、その眼は神の国の到来に注がれていました。イエス様 が登場された時に、ヨハネの役目は自分の役目が終わったことを知り舞台から退いたのです。
毎日をどう生きるか、将来の選択をどうするか、夫婦関係をどう築くか、子どもたちをどう育てるか、人生をどう生きるか、その結果は、私たちがキリス トに結び合わされているのかどうかによって大きく変わってきます。この地上に神の国はすでに到来し、私たちはその中に生かされているのです。ヨハネのよう に神の国を見て生きているでしょうか。人々にキリストを指し示して生きているでしょうか。
Ⅳ．キリストにつながれた生活
聖書の中で教会を表す時に、エクレシアという言葉が使われています。エクレシアとは「召し出された者たちの群れ」です。建物でも、人間が作った組織 でもありません。神が召し出された人々がすなわちエクレシア（教会）なのです。私たち一人ひとりが、クリスチャン夫婦が、ファミリーが直接キリストにつな がれることなしには、教会が建てあげられていくことはできません。神のことばであり、いのちであり、真の光であるキリストに一人ひとりが直結されて（結び 合わされて）生きることを神さまは願っておられます。