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「平和の主」マルコ11：1～11
2022年1月9日（左近深恵子）
新約聖書の4つの福音書はそれぞれ、主イエスがエルサレムに入られてから復活されるまでの1週間の出来事を語ることに、多くの紙面を割いています。マルコによる福音書では1／3を超える紙面が、この1週間のために割かれています。そこで語られる十字架と復活は最後の一週間に急に現れたことではなく、エルサレムに来られる前の主のお働きの一つ一つが既に指し示していたもの、そこへとつながっていくものでした。特にフィリポ・カイサリアで最初の受難予告をされて以来、主はご自分が向かう先とそこで起きることを明確にされてきました。最後の一週間に何が起きたのか、主イエスは何を為さり、何を語られたのか伝えることが、すべての福音書の最大の目的です。その最後の1週間が、今日の箇所から始まります。「一行がエルサレムに近づいて」と、文字通り訳すならば「そして彼らがエルサレムに近づいた時に」と始まります。ガリラヤで福音を宣べ伝えておられた時も、ガリラヤからここまでの旅路でも主が見つめてこられた、十字架と復活の時へと、いよいよ入ってゆこうとされます。
時期は早春の頃、過ぎ越しの祭りの時です。イスラエルの民にとって、自分たちの信仰のルーツと呼ぶべき出来事である出エジプトを記念するこの大切な祭りを、神の都エルサレムの神殿で祝おうと、普段は地元の町や村の会堂で礼拝を捧げている人々も大勢集まってきました。久しぶりにエルサレムに来る者、毎年来ている者、皆それぞれに喜びを抱いて集まってきたことでしょう。
主イエスもガリラヤから旅をしてこられました。ご自分がユダヤの指導者たちの手に引き渡され、殺され、三日の後に復活されることを三度に渡って弟子たちに告げながら、ご自分を捕らえる機会をうかがっているその指導者たちが待ち受けるエルサレムに向かって進んでこられました。
エルサレム神殿が建つ丘と谷を挟んで隣り合うオリーブ山の麓まで来られた主イエスは、2人の弟子を近くの村に使いに出され、子ろばを用意させます。2人がその村に行ってみると、すべては主が言われた通りでした。それまで町や村を訪れる時にはいつでも、ご自分の足で歩いて入って来られた主イエスが、この時は歩いて入るのではなく子ろばを用意された、このことをこの福音書は力を込めて記しているのです。更に弟子たちが、借りてきた子ろばの裸の背に自分たちの服を掛け、その上に主イエスに座っていただくようにしたこと、多くの人が、進んで行かれる主イエスのために、自分たちの服や葉のついた枝を道に敷いたことを述べます。いつもと異なる人目を引くようなこの都への入り方の根底に、ゼカリヤ書の預言があると思われます。
ゼカリヤ書には、神の民を救うために来られるメシアの到来が告げられ、神の国がどのように統治されるのか明らかにされています。メシアは、神さまのみ心に従い、神さまの義を実現する王です。メシアは勝利します。その勝利は、神さまから与えられるものであることが重要です。神ご自身が、戦車も軍馬も戦いの弓も絶たれます。だから、天地のすべてに及ぶ神の国がもたらされるのであり、メシアはそのすべてを統治することができます。通常の王は、軍馬にまたがって、あるいは馬に引かせた戦車や奴隷たちが担ぐ輿に乗って現れるものですが、ゼカリヤの預言は真の王メシアはろばに乗ってこられると、それも子ろばに乗って、へりくだって子ロバに乗ってこられると、それが高ぶることの無い王のしるしだと述べます。力によって敵に勝利する王では無く、その正しさによって勝利を得る王である。それがあなたがたの王だと、あなたがたの王があなたがたのところに来る、その王の支配のもとで神さまが戦車や軍馬や闘いの弓を絶ち、神の民だけでなく諸国の民にもその平和がもたらされる。その支配はエルサレムだけでなく海から海へと、大河から地の果てにまで及ぶ。だから神の民よ、大いに踊れ、歓呼の声を挙げよとゼカリヤ書は記します（ゼカリヤ9：9～10）。オリーブ山で主が子ロバを用意させたことも、ゼカリヤ書の、主の日に主がオリーブ山に現れると述べられていることを思わせます（ゼカリヤ14：4）。これらの預言のように、オリーブ山から来られ、子ろばに乗って都に入られた主イエスを、人々の歓呼の声で迎えます。子ろばに服をかけたり、道に服を敷いたのも、即位した王に対する習わしを思い来させる（列王下9：13）、王にふさわしい歓迎です。葉の付いた枝を道に敷くことも、この方に従うことを表す行為だと言われています。
人々は更に自分たちの王を迎えることができた喜びを、9節で聖書の言葉に乗せて叫びます。先ほど交読しました詩編118編の言葉です。詩編には巡礼の祭りの時に用いられた歌がいくつも収められています。神の民なら誰でも親しんできた歌です。詩編118編はそれらの歌の中の最後にあたります。「ホサナ」とは「今、救ってください」という意味、あるいは「私は祈ります、救ってください」という意味の言葉です。真の王である主に、救いを求める祈りの言葉です。これは巡礼の祭りの歌であり、王のための歌でもあります。「どうか主よ、わたしたちに救いを」「どうか主よ、救ってください」と詩編にあるように、人々は主イエスによって救いがもたらされることを、主なる神に「ホサナ」と祈り求めたのです。
この時人々が求めていた救いとは、どのようなものであったのか、おそらくローマ帝国やその権威を後ろ盾に彼らを支配している者たちから、解き放たれることであったでしょう。「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」と人々は詩編の歌に続いて願います。「我らの父ダビデの来るべき国」とは、ユダヤの民が待ち望んでいた、神さまがメシアによって立ててくださる地上の王国です。その国がこのイエスという人によって実現されるとの期待によって、人々は喜びに沸き立ち、「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」との叫びとなったのでしょう。
けれど主は、ローマ帝国の総督ピラトを戦車や軍馬や弓によって追い出し、エルサレムをユダヤの民の手に取り戻すために来られたのではありません。ユダヤの民を導く大切な務めを委ねられていながら、主イエスが救い主であることを退ける指導者たちを追い出すために来られたのでもありません。主イエスがこれまで宣べ伝えてこられたのは「神の国」です。ダビデ的な王が、ダビデ王的な支配によって再現する地上の国、その支配が及ぶ範囲は地理的にも時間的にも限られてしまうそのような地上の一つの国を立てるためではなく、神さまのご支配をご自分において、人々の内にもたらすために来られました。「高ぶる王」ではなく、その苦しみと死において、すべての人の罪を背負われることで、すべての人に平和をもたらす王です。自分の罪によって息苦しいような、喘ぐような日々を送っていながら、自分の罪を背負われることがなぜ自分を救うことになるのか、なぜ他者を救うことになるのかしばしば分からなくなってしまう私たちに、自分の正しさという測りで自分や他者の力を測ることにとらわれてしまう私たちに、私たちの代わりに罪を背負うという神さまの正しさによる救いをもたらしてくださいます。だからこの方の救いによる平和は、ユダヤの民かそうでないか、エルサレムに住む民かそうでないか、これまでイスラエルの神を知って来た民かそうでないか、そのような溝を超えて、海を越え、地の果てまで及ぶのです。
イエス・キリストという王は、どのような大国の王よりも高みから来られました。人々がそれぞれ、自分が得た力を振りかざして、あるいは力を巧みに利用して、限られた範囲で良いからその範囲の中で王であろうとしている、そのような世の只中に神さまの元から降られた主イエスは、ご自身の勝利をただ神さまから受けます。救い主ご自分の命も勝利もただ神のみ手の中にのみあり、その統治の成功も王としての威光も、ただ神さまから与えられます。主イエスは預言者が告げるような平和の主、柔和な王ですが、それは上に立ったままで、下の者にも優しいといったことを指しているのではありません。罪の息苦しさに喘ぎ、弱る私たちのところまで、最も深いところまで、何の栄光も権威も無い無力なところまで降られ、勝利を全面的に神に拠り頼んでくださる、そのような方です。「ホサナ」と叫びながら歓迎している人々は、主イエスがどのような救いをもたらされるのか理解しきれていません。この日主イエスの前を行き、また主の後ろを行きながら、自分たちの王の都への入城を喜んだ人々の内、弟子たちは、数日後には主イエスを裏切り、見捨てて逃げ、主イエスなど知らない、自分は関りが無いと言い張ります。この日主イエスの前を行き、後ろを行った他の人々は、数日後には「十字架につけろ」と叫んだかもしれません。自分たちに救いをもたらす方を拒んでしまう、真の王ではないものの力の方に流されてしまう私たちの罪によって、一層深いところまで、死者の中まで降らねばならなかった救い主です。それでも主イエスは、この日エルサレムへと入って行かれました。
弟子たちも人々も主イエスに大きな期待を抱いていました。だからここまで従ってきました。主イエスに、神さまが約束されたメシアを見出し、歓呼しました。彼らは理解できていなかった、それでも、全く何も見いだせていなかったわけではありません。彼らは理解しきれていなかった、それでも確かに主イエスは救い主であり、真の王です。彼らの喜びには見当違いの期待が大いに入り込んでいた、それでも主イエスのエルサレム入城を、彼らは喜ぶことができました。だから主は、彼らの歓呼の声を遮ることも、服や枝を敷くことを止めさせることも、なさらなかったのではないでしょうか。
しかしまた主は、それらをただ肯定することもなさいません。彼らの見当違いの熱狂を、ご自分のお働きに利用することもされません。歓呼の叫びの中心を進まれる主イエスの言葉を、マルコは何も記していません。人々とは対照的な静けさが主と共にあります。小さなろばの背に揺られながら、子ろばの小さな歩みによって、黙したまま静かに、十字架と復活に向かう道を進んで行かれます。
イエス・キリストのご生涯は、子ろばの背に乗って進まれたこの時のように、常に高ぶることの無い、へりくだった歩みでありました。人々よりも低い所を歩み通された生涯でした。最も深いところから私たちを救い上げ、神さまのところまで引き上げなければ、私たちに本当の救いはありません。本当の平和に与ることができません。この方が私たちの王です。
わたしたちは、自分が王でいたい、自分だけが自分に関する全てを定める存在でいたいという思いからなかなか自由になれません。目に見える王に憧れを持ちながら、王が実際に自分に関わることを退けようとする思いがあります。自分を高みに引き上げてくれる存在を欲する思いを持ちながら、その存在が自分の心の底の思いにまで関わることは望んでいないところがあります。心の底には、自分で見て見ぬふりをしている闇や歪みや澱みもあります。そこは放っておいて欲しい、そこは触れずに引き上げて欲しいと願います。都合が良いようでいて中途半端な関わりに安住したまま、真の平和を得られずにいる私たちのために、キリストは神さまの御心に従い通し、十字架に至る道を歩み通してくださったのです。
私たちには今この時、神さまがどのような救いのみ業を推し進めておられるのか、すべてを見て取ることも、神さまのみ業の全てを理解することもできません。それでも、預言者たちが伝えたみ言葉によって見出した御業を喜び、賛美し、祈る人々の喜び、歌、祈りを主は退けるのではなく、その声を聞きながら進んで行かれました。だから弟子たちも人々も、主イエスと同じ道を、主に従いながら、進んでゆくことができました。十字架へ、そして復活へと至る道へと導かれてゆきました。私たちの理解や思いが足りなくても、主が進まれた道が私たちの進むべき道です。自分では無くキリストが王であることがどれほどの祝福であるのか、最も低いところから救われていることの恵みがどれほど慰めであるのか、主に従って、歩んで、初めて味わうものであります。歩みの中で真の平和を実感することができます。この道を私たちの前に既に多くの世界中の信仰者が歩んできました。私たちも主に従って、共に進みながら、理解が深められ、神さまのご意志に対する目と耳が開かれることを、心から祈り求めたいと願います。