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「父なる神の右に」ローマ8：31～34（使徒信条）
2023年8月6日（左近深恵子）
使徒信条の言葉と、その言葉が下敷きにしている聖書の言葉を、順に礼拝で聞いています。このところは、イエス・キリストについて述べている使徒信条の言葉を辿ってきました。今日は、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」という部分です。口語訳の使徒信条では、「天に昇られ（中略）全能の父である神の右に座しておられます」となっています。使徒信条がこう述べているように、もし誰かから“イエス様は今どこにおられるの”と問われたら、“私たちの主は今、全能の父である神の右におられます”と応える、それが私たちの信仰です。地上のもの、目に見えて、手に触れることのできるものを自分の神としたがる私たちですが、それらは神ではありません。復活された主イエスは地上の弟子たちに現れてくださいました。しかし主イエスが地上でお働きをなさる時は終わり、今は父なる神と共に天におられるからです。このことを、教会の歴史の初めから今に至るまで、世界中のキリスト者は使徒信条によって、「私たちの神、私たちの救い主は、父なる神の右におられる」と、言い表してきたのです。
復活された主イエスが天に昇られたことについて、新約聖書は様々な仕方で述べています。それらの中で特に具体的な情景を伝えているのは、ルカによる福音書と使徒言行録です。ルカによる福音書の終わりと使徒言行録の初めの部分が、十字架で死なれ、三日目に復活された主イエスが、弟子たちに現れてくださったことを伝えます。復活の主にお会いした弟子たちは、再び主イエスの姿を見ることができ、主が語られる教えに耳を傾けることができるようになりました。復活の主は弟子たちと共に食卓も囲んでくださいました。主が祈られ、取って裂いてくださった食べ物を受け取った弟子たちは、どんなに幸せな時を過ごしたのだろうと思います。けれどやがて主が去る時が来ます。共に食卓を囲んでいた時、主は弟子たちに「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受けるからである」と言われました（使徒1：4～5）。弟子たちは困惑したことでしょう。姿を見、声を聞き、食卓を囲む、このような主イエスとの関りを、この先も持ち続けられるのではないか、そんな淡い期待は主イエスの言葉によって砕け散り、主はおられなくなってしまうのだろうか、この先自分たちはどうなってしまうのだろうかと、不安が募ったのではないでしょうか。
その後、弟子たちの目の前で主イエスが天に挙げられ、雲に包まれて見えなくなったと、ルカによる福音書と使徒言行録は記します。主が去られた後の弟子たちの姿は、もはや困惑し、心細さに震えるようなものでは全くありませんでした。ルカによる福音書によると、弟子たちは大喜びでエルサレムに戻り、神殿の境内で神さまをほめたたえました(ルカ24：52)。使徒言行録は、その日から弟子たちが一つ所に集まり、心を合わせて、ひたすら祈りながら、主が告げてくださった父なる神の約束されたもの、聖霊によって洗礼を授けられる時を待つようになったことを伝えます。主イエスが地上の弟子たちに姿を現してくださることはもはやなくなりました。後に、当時まだサウロと呼ばれていたパウロが、復活の主から呼び掛けられますが、パウロもその目で復活の主を見ることはしていません。いつも見える所に主がいてくださった時は過去となり、主が見えない時代を信仰者たちは歩み始めます。その時代を弟子たちは、喜びに満たされ、神さまを賛美し、祈りを合わせることを中心に、始めました。この先が見えない困惑や、心細さが一切消えたわけではないでしょう。それでも、主イエスが生きておられることを知る喜びが勝っていたのでしょう。復活の主が弟子たちに現れてくださり、40日に渡って、数多くの証拠をもって示してくださったのは、ご自分が生きていることであったと、使徒言行録にあります（使徒1：3）。40日という長い期間、主と過ごした積み重ねを通して、主が死からよみがえられ、生きておられることを弟子たちは深く知ったのです。
主が天に挙げられる時に主を包んだと言われている「雲」は、聖書では、神さまの栄光やお力がそこにあること、神さまがそこにおられることを指し示すものとして登場してきました。主イエスの昇天は、父なる神が栄光の光の内にご自分のそばへとみ子を挙げてくださった出来事と言えます。その出来事を見た弟子たちは、主イエスを目で見ることはできなくなっても、主イエスは今、神さまと共におられることを確信したのです。
弟子たちの目の前で雲に包まれて見えなくなったと言う、神話のようなこの出来事が、使徒信条で述べられるほど重要なことなのだろうかという思いが私たちの中に湧いてくるかもしれません。耳目を驚かす奇跡的な出来事だから使徒信条が言及するのなら、他にも主イエスが為さったり、主イエスに起こった奇跡は沢山あるではないか、と思うかもしれません。けれど、主イエスが今、天で父なる神と共におられる、その主イエスは、復活された方であることを私たちが受け止めるために、大切なことなのです。「天に昇られ」という言葉で、歴史の中に人としてお生まれになり、地上を歩まれ、神さまのご意志に従い通し、そのために十字架で死なれ、死者の中にまで降られた方なのだと確認することができます。それだけでなく、この先の主イエスと私たちの関わりの在り方を受け止めることへと促されます。復活された主イエスは弟子たちに、「世の終わりまで私はいつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました(マタイ28：20)。その約束は、主イエスとのどのような関わりにおいて実現されるのか、今も生きておられる主と、生きた関わりの中に在って望むことができるのだと、確認することができるからです。
使徒信条は、主イエスの今の在り方を、「父なる神の右に座しておられる」と述べています。右は、場所や位置を示すものではありません。古来多くの国で、権威者の右に座る者がその権威者の代理人であるとみなされて来ました。旧約聖書でも、神さまの右という表現によって、神さまの権威や支配、栄光が言い表されてきました。主イエスが「父なる神の右に座しておられる」ということは、主イエスは、父なる神の権威や支配、栄光を持つ方であることを表します。人々が罪人として十字架に架けたこの方こそ、すべての権威や力の上におられる方であることを表します。言い換えれば、キリストとの関りは、自分と主イエスの間だけのものではありません。私たちが自分の内側だけで完結させることのできるようなものでもありません。すべてのものの上におられるキリストとの関りを、誰もが求めることができます。イエス・キリストの十字架が自分のためであると知る信仰を与えられ、キリストに結び付けられた一人一人は、キリストによって、互いに結び合わされた者であることを知ります。キリストの恵みを他の人々と分かち合う喜びを知ります。あらゆる人をその恵みの中に招いておられ、人々をその恵みで包みたいと願っておられる主を、共に仰ぐ喜びを知るのです。
私たちを包みたいと願っておられる主のみ心を、主が天に昇られる時の姿を通しても受け止めることができます。主イエスは、「手を上げて弟子たちを祝福され、そして、祝福しながら彼らを離れ、天に挙げられた」と、ルカによる福音書は伝えています。祝福をされて、それから天に昇られたのではなく、祝福をされ、そのまま祝福をし続けながら、去って行かれたのです。では今、父なる神の右におられる主の眼差しの中で、私たちはどのような者なのでしょうか。自分が自分の世界を支配する者なのだと、神など要らないと言わんばかりの私たちや、自分の都合や自分の希望に沿うような力を欲する時だけ天を仰ぐ私たち、他者を顧みない罪によって他者を困難な状況に陥いらせている私たち、他者の罪によって悲惨さの中で喘ぎ、神さまに助けを求めることもできなくなるほど弱っている私たちの姿を、主はどう見つめておられるのでしょうか。主イエスは私たちを祝福で満たすために、両手を挙げて祝福をしながら天に挙げられました。主は私たちが復活の恵みで包まれることを願っておられます。生ける主との関りにおいて主からの祝福が私たちの時を包む、そのような関りの中で生きることを、主は願ってくださるのです。
ローマの信徒への手紙を先ほど聞きました。この手紙の書き手であるパウロはこれまでこの手紙で、主イエス・キリストによって与えられた救いとはどのようなものであるのか述べてきました。その救いはひたすら、神さまが与えることを願ってくださり、神さまがそのためにみ業を為してくださり、実現してくださったものであることを述べてきました。私たちは自分自身のことでありながら、罪に支配されている自分の実態を直視できず、自分に救いが必要であると心の底から願うことがなかなかできない者です。救いを願っても、自分や誰かを本当に救うことができないことを思い知ります。そのような私たちに、神さまがひたすら救いを願って、与えてくださったのです。今日の箇所でパウロは、ここまで述べてきたことをまとめるなら、「何と言うべきでしょう」と問いを投げかけます。答えが分からないから問うているのではなく、聴き手も一緒に問いを受け留め、考えることを促します。キリストによって救いが与えられた、そのことを私たちは何と言いかえることができるだろうかと。
そしてパウロは「神が味方」という一つの答えを述べます。これまでのことを要約すると、神さまが私たちの味方だと言うことなのだと。私たちの造り主である神さま、私たちの全てをご存知である神さま、全能の神さま、この方が私たちの味方だと。「味方なら」という表現は、“もしもそうなら”ということではなく、“そうなのだから、では”という表現です、“この方が私たちの味方なのだから、では、私たちに誰が敵対できますか、勿論、誰も敵対できないのです”と、パウロは続けるのです。
「神が味方」と訳されている文は、直訳すると「神が私たちのためにおられる」となります。誰かが誰かのためにそこに共に居る、誰かの方へと全身を向け、心を注いでいる、それは、その人が心を向けられている者にとって味方であるということです。神さまが私たちのために共にいてくださり、私たちへとみ心を向けておられる、神さまが私たちにとって味方となってくださっている、他のどのような力も並ぶことができない、抗うこともできない味方となってくださっている、だから誰も私たちを完全な恐怖に陥れることはできない、神さまから私たちを引き離すことはできないのです。
神さまが私たちのためにいてくださる、そのことをパウロは「私たちすべてのために」「そのみ子をさえ惜しまず死に渡された」とも述べます。ここで「私たちすべてのために」という文の「私たち・・・のために」と訳されている文は、実は「味方」と訳されている文と全く同じです。「私たちのためにおられる」という意味の文が繰り返され、二度目には「そのみ子をさえ惜しまず死に渡された」と、キリストの十字架が述べられています。神さまが私たちのためにおられ、味方であるということは、神さまが独り子を死に渡すことまでされた、そのことに何よりも明らかであるのです。
私たちの傍らに居て、私たちの味方となるために、神さまは御子を死に渡されました。そうしなければその値を払うことができないほど、私たちの罪が重かったからです。パウロは私たちの救いについて、神さまが審判者である裁きとして述べています。罪人である私たちは裁きにかけられて当然であります。けれど神さまがこの罪人たちに救いを与えると定められました。では罪人たちを訴えることが出来る者がいるか、とパウロは問いかけます。誰もできません。神さまが罪人たちの罪の値を、ご自分の独り子の命によって代わりに払ってくださり、赦すと決められた者たちを、誰が罪に定めることができるか、とパウロは問いかけます。誰もできません。この罪人たちのために命を捨ててくださり、神さまが復活させられたイエス・キリストが、神さまの右におられ、ご自分の命によって罪赦された者たちの執り成しを、全能の父なる神に願い続けてくださっているのだと、パウロは語ります。罪を赦していただきながら、なおも罪にひきずられる私たちでありますが、私たちのために執り成してくださる方を、そのようにして私たちに祝福をもたらしてくださる方を、私たちは天に持っているのです。
「私たちすべてのために、そのみ子をさえ惜しまず死に渡された」神、それほどまでに私たちのことを心にかけてくださる神が、「み子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか」ともパウロは問いかけます。勿論、ありません。み子と共にすべてのものを与えてくださいます。では、全てのものとは何でしょう。み子によって神さまは私たちに、罪赦された命、神さまが共におられないことの無い、死で終わらない新しい命に生きる道を与えてくださいました。この新しい命に生きる私たちが、その歩みの中で出会う様々な局面に必要なものを、神さまは与えてくださいます。この先の35節でパウロは、信仰者たち、特にパウロの時代の信仰者たちがその日々の中で出会うであろう具体的な困難を、「苦難、行き詰まり、迫害、飢え、裸、危険、剣」という言葉で表現しています。36節では、死の危険さえも述べています。このような危機的な困難も含め、あらゆる局面で信仰者に必要な全てを神さまが与えてくださらないことは無いと言います。神さまが与えてくださるそれらすべてのものの源にあるのは、主イエスが両手を挙げて与えてくださる祝福であり、祝福に包まれた神さまの力であり、神さまの栄光の光です。私たち自身が願うことというのは、危機の中で私たちが何とか持ちこたえられることかもしれません。もちこたえられればこれが救いだと思い、願った道を断たれれば救ってくださらなかったと、神さまを裁こうとします。けれど私たちの思いを超えて、私たちが認識する危機を超えて、私たちが思う「すべて」を超えて、神さまは私たちに必要な全てのものを与えてくださいます。危機の中にある時も、平穏な時も、私たちは何よりも生けるキリストとの交わりの中に自分自身の在り方と道を見出すことができます。キリストが与えてくださる祝福に包まれ、キリストが父なる神に祈ってくださる執り成しに支えられ、私たちは主との生きた交わりの中で日々を歩んでいきます。誰もこのキリストとの結びつきから、私たちを引き離すことはできないのです。