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「虹の契約」創世記9：9～17、Ⅰペトロ3：18～22
2022年5月29日（左近深恵子）
創世記の創造物語からこのところ聞いています。混沌とした深淵の面を闇が覆っていたところに光をお造りになり、水を分けて留め、渇いた地を造られ、植物、天体、時間、生き物たちをお造りになって、人が生きていくことができる状態まで一つ一つ秩序立ててくださったところに、人をお造りになった。そしてそれらをご覧になって、とても良いと喜ばれたと言われます。人は、神さまにかたどられて造られました。陶工が額に汗しながら力を込めて土を捏ね、思いを込めて作品を形作っていくように、神さまが土の塵から形作られ、命の息を吹き込んで生きる者としてくださったのだとも語られます。人を造られると神さまは「産めよ、増えよ」と言われます。神さまの祝福の内に、与えられた命を輝かせて生きることを望んでおられます。「地に満ちて、これを従わせよ」とも言われます。神さまがお造りになった大地に仕え、この世界が神さまの創造のみ心を表すものであり続けるように、管理する使命を与えられています。人は互いに、神さまからの救いを差し出し合うことが出来る存在となることも望まれています。人の根源にはこのような神さまのみ心とみ業があるのだと、人はそもそもこのような者として神さまに造られているのだと、創世記は語ります。
創世記の第6章では、最初の人から10代目にあたるノアの時代のことが語られます。この間、人を創造された時に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われた神さまの祝福が人々に及び、大地に人が増えています。では、人の増加と共に大地は、人の神さまへの感謝や、神さまから与えられた使命に生きることのできる喜びで満ちていたかと言うと、全くそうではありません。悪が地上にはびこっています。人は常に悪いことばかり心に思い計り、すべて肉なる者はその道を腐敗させています。地は神のみ前に堕落し、不法と暴虐に満ちています。天地創造の前の、混沌と闇に覆われた状態へと逆戻りしているような状態です。
ここで言われている「堕落」や「腐敗」は、神さまのみ心に生きることに踏ん張り切れないこと、み心に背を向けること、そうして神さまが自分の根源に与えてくださっているものを腐らせ、壊してしまうことを表します。自分に与えられているものを腐らせてしまうだけでなく、隣人や他の造られたものたちも巻き込み、創造の秩序を崩すことに加担していきます。堕落し、腐敗した世をご覧になった神さまはみ心を痛め、人間をお造りになったことを悔いて、洪水を起こされたと、創世記は洪水が起きた意味を述べます。この洪水は、自然災害の一つではなく、人間の悪に対してもたらされたことを述べるのです。
ノアの箱舟の物語は、大きく分けて二つの時代の伝承がその基に在り、それが組み合わされ、書き加えられ、今の形になっていると考えられています。二つの時代はそれぞれに、人々にとってそれまで当たり前に続くと思われていたものが崩れて行った時代でした。特に今日の箇所の基になっていると考えられる捕囚の時代には、人々にとって自分たちが神の民であることの根拠となってきた都エルサレムも神殿も、ダビデ王の血筋も滅ぼされました。大国の攻撃と破壊行為、同胞の人々や故郷との別れ、支配国への強制移住という悲惨な体験を通し、自分たちの根拠が根こそぎ奪われた状態で、変わってしまった時代を生き続けたイスラエルの民は、この悲惨な出来事は、自分たちの罪がもたらした結果であると受け止めるようになります。神さまではないものに拠り所を求めた、周囲の国々の民が礼拝する偶像の神々を崇め、神さまが預言者たちを通して告げてくださった神さまのみ言葉よりも自分たちの判断力に重きを置き、権力や軍事力に頼って来たと、自分たちの罪を振り返ります。神さまのみ言葉、神さまが告げる正しさ、救いは、現実に力を持たないと退けてきた自分たちの罪に対する裁きだと、捕囚を受け止めました。その一方でこの捕囚に終わりがもたらされるときは果たして来るのだろうか、神は永遠に裁きを下され続けるのだろうか、神はもはや自分たちのことを見ておられないのではないだろうか、自分たちの存在は神にとって無きに等しい者となってしまっているのではないだろうか、そのような不安が消えなかったのではないでしょうか。神さまの祝福の内に輝いて生きることからかけ離れてしまっている、魂の危機にあったのです。
自分の罪、人々の罪が源となっている状況の中で、自分が自分であることを支えていたものを失うということが、いつの時代にもあります。自分たちが積み上げてきた文化が、互いの交わりが、この先もこれまでのように続くと思っていた日常が、大切な人そのものが、拭い去られてしまう、混沌とした暗い深淵に戻っていくような不安、神さまにとって自分たちの存在は大したものではないのではないかと思う魂の危機を、私たちも知っているのです。
人の悪や悪の及ぼす影響を、過少に評価したがる私たちのこころは、洪水ですべて押し流されたものを思い、神さまの為さりようをあまりに残酷ではないかと非難がましく見てしまうところがあります。けれどそのように悪を大したことはないものとみなし、人の思いや行動を変えることはできないと諦め、放置してきたことで、大地は不法と暴虐で覆われています。既に人々は世界を巻き込んで滅びの道を突き進んでいます。このまま堕落の坂を下り続けてゆけば、いずれ一人残らず、一つ残らず滅ぼしてしまいます。神さまは、この人間の悪を放置することも、諦めることもされず、洪水を起こすことを決断されました。人の罪は、神さまが心を痛め、人をお造りになったことを悔やまれるほどに、一つ一つ大切にお造りになり、とても良いと喜ばれた世界を滅ぼさなければならないと決断されるほどに、深いものであるのです。そして、神さまは義にして聖なる方であります。私たちの思う正しさや聖さでは測りきれない仕方で、裁きと救いの道を与えられます。お造りになったことを悔やまれるほど大きな人の罪に対して、すべてを滅ぼすのでは無く、ノアと生き物たちが生き延びる道を備えてくださいます。新たに生きていくための契約を立ててくださいます。箱舟に入る前の6：18で神さまはノアに「私はあなたと契約を立てる」と言われています。その上でノアたち家族が箱舟に入るように、あらゆる生き物も二つずつ入れるように言われます。ノアとその家族を通して救いの道を備えつつ、人間の悪と取り組むことを決断されたのでした。
洪水を起こす前に告げられた契約を、神さまは水が引いた後、9：9以下で改めて告げられます。ここでノアはようやく、契約の内容を知ります。長い期間、強大な大水の力に揉まれ、取り囲まれ続けた末に、契約の言葉を聞くことができました。9：9以下で「契約を立てる」と言われている表現は、既にその契約の締結が為されていることを含んでいます。6章で「契約を立てる」と言われた時から、ノアたちが大水の中を彷徨っている間も、神さまはこの契約を立てるためにみ業を進めておられたのです。契約は、二度とこのような洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはないという約束です。この契約をノアだけでなく、ノアの家族、ノアの子孫、そして生き物たちすべてに対して立てられます。人の罪は他の者たちを巻き込んでしまいます。神さまは人の罪を越えて、契約を全てのものに及ぼされます。なぜ滅ぼされることはないと約束されるのでしょうか。人が全く罪を犯さない者へと変わったわけではありません。ノアは神さまのみ前に生きてきた人であり、神さまのみ言葉に従う人でありましたが、それはノアや家族が、全く罪なき者であるということではありません。この先生まれてくる人が皆、裁きを下さなくて良い正しい者ばかりとなると神さまが思われているわけでもありません。洪水の後で神さまは「人が心に思うことは幼い時から悪いのだ」と言われています。人の罪に捉われている現実を見つめておられます。そして、そのような人の現実を囲い込むように、「人が心に思うことは幼い時から悪いのだ」という文の前で一度、文の後でまた一度、「このようなことは二度とすまい」と繰り返されます。人の罪深さに対する裁きを、この洪水のような仕方で下すことはしないと言う神さまの決断で、人を罪ごとくるんでしまったかのようです。そして人をお造りになった時に告げられた祝福の言葉と全く同じ言葉、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という言葉をノアの家族に与えられます。新しく創造された世界へと踏み出す一家の第一歩を、神さまが祝福してくださいます。新しい世界を管理する使命も、引き続き人間に委ねてくださいます。人の内側に何があるのか全てご存知である神さまのご意志を告げるみ言葉と契約が、人の再出発を照らします。罪を抱えた人間と契約を結んでくださるその根拠は、ただ神さまの憐れみにあるのです。
この契約のしるしとして、神さまは虹に特別な意味を与えます。雨の後に現れる虹は、雨雲で遮られていた太陽の光を、その美しい輝きを、映し出します。契約のしるしとして定められた虹も、危機の中で揉まれている間はその目に隠されている神さまの光を映し出し、天と大地を結ぶように、神さまのみ心を示します。虹は、私たちが契約を思い出すためのものではありません。神さまが契約を思い起こしてくださっていることのしるしです。「虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉成る者との間に立てた契約に心を留める」と言われています。人が思い起こさなければ消えていくような契約ではありません。人が契約を求める思いの強さや頻度やタイミングによって履行されるような契約でもありません。「契約を立てる」と告げられた神さまのみ心に根差した契約です。ノアの子孫である私たちは、神さまが今も契約をみ心に留めておられることを、虹を通して示されます。そして、神さまが見つめておられ、心を痛めておられる私たちの罪を思い、神さまから委ねられた私たちの使命を思うことへと導かれるのです。
虹を見るたび私たちは、神さまが人の罪に心を痛めては、全てを水で押し流すのではなく、預言者たちを遣わされたこと、み子イエスまでも私たちに与えられたことを思います。今も罪から私たちを救い出すために、私たちをキリストに結びつけるために、現代の箱舟である教会を用いて、み業を推し進めておられることを思います。私たちの罪の裁きを、本来受けるべきはずの私たちではなく、イエス・キリストが十字架において受けてくださいました。ペトロの手紙が述べるように、正しい方が、正しくない私たちのために苦しんでくださいました。私たちを神さまのもとへと導くため、復活され、天に昇られ、神の右におられるキリストに洗礼によって結び付けるためです。ノアの時代、悪で満ちた古い世界が水で一掃されたように、主イエスの名による洗礼において古い私たちは主イエスと共に死に、新しい命を与えられ、主と共に生きる者とされます。混沌とした大水を箱舟によって潜り抜け、新しい世界での新たな出発へと導いてくださった神さまは、水と霊による洗礼を通って、救い主であるみ子イエスにつながることを願っておられます。罪と暴虐の波が洪水のように力を持っている現代が、ノアの時代と驚くほど重なって見えます。私たち自身も、混沌とした流れにもみくちゃになるような時があります。滅ぼされるべき私たちの歩みが、神さまの憐れみとキリストの贖いに支えられていることを内なる目で見つめ、神さまのみ前に歩み、神さまのみ心にお応えする者でありたいと願います。