Document ID: /fineweb-2-swissfilter-quality_10-filterrobots/filtered/00589.jsonl.gz/18

「立て、行こう」イザヤ51：17、マタイ26：36～46
2024年3月17日（レントⅤ、左近深恵子）
主イエスが十字架にお架かりになる前の晩、弟子たちと最後に囲まれた食卓は、通常の夕食ではありませんでした。過越しの祭りの期間、親しい人々で囲む過ぎ越しの食事でした。年に一度、多くの人々がエルサレムに集まって来て祝う過ぎ越しの祭りは、かつてファラオの力の下、奴隷とされていたイスラエルの民の叫びを受け止めた神さまが奴隷の地から民を救い出した出来事を思い起こす特別な時でした。初子を撃つ神さまのお力が、小羊の犠牲の血が塗られたイスラエルの家族の家は過ぎ越された、過越しの出来事を思い起こす一連の祭儀を通して、人々は、自分たちがどのような民であるのか、受け止め直したことでしょう。自分たちは神の民であるのだと、神さまが自分たちの神となられ、自分たちをご自分の民としてくださり、神さまとの契約に生きる道を与えてくださった民であることを新たに胸に刻み、今も共におられ、救いへと導いておられる神さまに感謝を捧げたのです。
過越しの食事も、奴隷とされていた日々の苦しみと救いのみ業を思い起こす特別な料理を囲み、神さまの言葉に耳を傾け、神さまとの契約に生きる者とされていることを共に受け止める、特別な食事でした。この食事を、ご自分の死が迫っているこの時、主イエスは誰よりも弟子たちと共に取ることを願われました。もうすぐこれまでのようにご自分を見、ご自分の言葉を聞くことができなくなる弟子たちに、これからご自分が向かって行かれるところ、ご自分が担おうとしておられるもの、それによって人々にもたらそうとしておられるものを示されました。パンを取り、祝福して割いて、「これは私の体である」と言われ、ぶどう酒の盃を取り上げて、感謝を捧げて弟子たちに与え、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」と言われ、そうして、ご自身の十字架の死の意味を説き明かされました。主イエスが流される血は、人々の罪が赦されるための契約の血でありました。新しい契約のために犠牲の小羊として死に向かわれるのでした。
十字架の死へと向かってゆかれる主イエスの歩みを、福音書は、十字架へと意図的に追い立てる人々、あるいは無自覚に後押しする人々の姿と共に語ってゆきます。弟子たちは、主イエスの言葉を受け止められず、様々な裏切りを重ねます。人々、とりわけ民の指導者たちや、過越しの祭りを祝うために神の都エルサレムに集っている人々は、敵意を募らせ、主イエスを十字架につけるために周到に計画を練り、その流れに乗じてゆきます。神であられ、神の独り子であられる主イエスが、十字架に向かって一足、一足、進んで行かれる道中、人々の歪んだ思いから生じる妬みや嘲りや暴力、主の言葉を受け止めることも周りの人々に起きていることを見据えることも放棄して大きな力に見える流れに呑み込まれる弱さが合わさって、一層主イエスを死に引き渡そうとするうねりとなってゆく様が、入れ替わり立ち代わり現れます。弟子たちにとっても、聖餐の恵みに与かる私たちにとっても、特別な最後の晩餐も、その直前において、弟子の一人のユダの裏切りが語られ、その直後では、「今夜、あなたがたは皆、私につまずく」と主が弟子たちに告げられています。ペトロは、そのように主イエスに見られるのは心外だ、他の者がどうだろうと自分だけは違うことを分かってもらわなければと、強く否定します。「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と。その言葉通り、自分は躓かないということに自信があったのでしょう。けれどそのペトロに対し主は、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは３度私を知らないと言うだろう」と、ペトロの裏切りを予告する言葉を告げられます。それでもペトロは、そのような自分の可能性を受け入れられず、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても」という強い言葉で覚悟を示し、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と食い下がります。ペトロだけでなく、「弟子たちも皆、同じように言った」とあります。少し前に、食卓で主からパンと盃を受け取り、主の死の意味を説いて聞かされたばかりの彼らです。主が言われたことの意味がほとんど分からなかったとしても、主イエスがご自身の死を真剣に見つめておられることは分かっていたでしょう。その主イエスと共に自分も死ぬことになっても、裏切ることは自分にはあり得ないと、皆が強い決意を持っていたのです。
けれどその同じ夜の内に、彼らの舌の根の乾かぬ内と言っても良いほど時を置かずに、弟子たちは、「わたしと共に目を覚ましていなさい」という主イエスの求めに応えることもできない者であることが露呈します。「たとえ死なねばならなくなっても」とまで言い切った彼らの堅いはずの覚悟は、主イエスという者を知っているかと、喉元に剣を突き付けられるような時だけ示せば良いと思うものだったのでしょうか。誰も居ない、世の評価が及ばない、主イエスと自分たちだけのその場所で、主イエスと共に目を覚ましていなさいと言われています。彼ら自身が主との関係においてどうあろうとしているのか、問われています。主イエスに敵対する勢力の多さとか、その者たちが行使できる権力や武力の大きさとか、そのような世の力に対する不安を言い訳にすることのできない、主イエスとの結びつきだけが問われている場です。かつて主イエスに、「私に従いなさい」と呼び掛けられ、それまでの生活を全て後にして、主イエスに従う道へと踏み出し、ここまで来た彼らです。「私と共に目を覚ましていなさい」との主イエスの言葉は、主イエスの存在と活動を否定する勢力が迫りつつあるこの時にあっても、主との結びつきの中に自分を据えて、信仰の目を開き、主が祈る姿を見つめ、主が祈る言葉を聞いていることを求める言葉だと言えるでしょう。しかし弟子たちは、その求めに応えることができませんでした。この後、剣や棒を持って捕らえに来た群集に向かって、主イエスの弟子の一人が剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかったことが述べられます。殺そうとする者に向かって行く力を内に持つ者はいたのです。しかし、敵意と暴力と死がどのような姿で、いつ何時現れるか分からない夜の闇の中で、主との結びつきの中に踏み留まっている力を持ち続ける者はいません。うずくまり、瞼を閉じ、考えたくないことを考えなくて良いところへと、見つめたくないものを見つめなくて良いところへと、主との結びつきから眠りの中へと、逃げ込んだのではないでしょうか。主イエスは一人祈り続けます。弟子たちの所に戻っては、目を覚ますようにと告げられ、また祈り、また弟子の所に戻ってみると彼らは眠っている、それが三度繰り返される度、主の孤独は深まっていったことでしょう。
主イエスが弟子たちにその祈りの中に共にあることを願われた祈りは、悩み苦しみに満ちていました。主が弟子たちに、祈る姿を見、祈りの言葉を聞くことを求められた祈りは、「私は死ぬほど苦しい」と言われたほどの苦しみに満ちた祈りであったのです。
主イエスはこれまでも、祈るご自身の姿を弟子たちに見せてこられました。主イエスのその祈る姿や祈る言葉に触れてきたから、弟子たちは主イエスに祈ることを教えてくださいと願い、「主の祈り」と私たちが今呼んでいる祈りを教えていただいたのでしょう。その主の祈りで教えられた祈りの言葉と、ゲッセマネの祈りの言葉には、重なるところが多くあります。主の祈りが世に成し遂げられるために、ご自身がその祈りの通りに歩んで来られ、歩み通そうとしておられます。その祈りに弟子たちも共に居ることを願い、苦悶する様も、隠すことなく示して、後に残る弟子たちに、そして私たちに、祈るということを示そうとされました。
祈るということに私たちが期待するのは、静かな柔らかな光に包まれて捧げるような、平穏な祈りかもしれません。しかし深い闇の中で死ぬほどの辛さに苦悶する祈りもあることを、その祈りをキリストが人々のために祈ってくださっていることを、弟子たちの代表である三人に示そうとされました。しかし彼らは眠ってしまいます。それを主は、彼らが誘惑に陥っているのだと、言われます。主との結びつきに踏み留まり、主の祈りの中にいることから離れようとさせる誘惑です。主との結びつきに誠実であり続けることにおいて、悩み苦しみ多い祈りを祈り続けることにおいて、この三人と同じように弱い私たちです。けれど、どう祈ったら良いのかも分からない混沌の闇の中、誰も本当には自分のこの苦しみを共にできないと思ってしまう孤独に苛まれながら、ぼろぼろの、切れ切れの言葉で祈る祈りにも、主イエスは共におられることを、このゲッセマネの園の主を見つめる私たちは、知るのです。
見ること、聞くこと、考えることを放棄して、苦しみを自分の中から締め出してしまっている弟子たちが向き合いきれなかったように、私たちの誰も向き合い通すことのできない苦しみと、主イエスは祈りにおいて、四つに組むように向き合ってくださいました。弟子たちに「心ははやっても肉体は弱い」と言われているように、肉体の抱える弱さや限界をご自身も一人の人間として味わわれながら、苦しみと一人対峙してくださいました。しかし主が苦しまれたのは、迫る危機によって肉体の命が終わる死を恐れる人間が味わう苦しみではなく、私たちの罪に対する神さまの裁きの死を身に負う救い主としての苦しみでした。主イエスは、過ぎ越しの小羊として十字架にお架かりになり、人々に罪の赦しをもたらし、新しい神さまとの契約に生きる道を人々に与えるために、ここまで歩んでこられました。人が自分で見据えることのできない罪の実態を全てご存知である神さまが、これまで下すことを耐え続けてこられた怒りと裁きを、人々自身にではなくみ子に下そうとしておられます。その裁きとして下される死の重さを正面から見据えることのできるただお一人の方であるみ子が、私たちの代わりに裁きを担うため、一人祈っておられます。自分の罪を見つめることを避け、考えなければならないことを内側から締め出さずにはいられない私たちです。罪に対する神さまの怒りと裁きの重さを見つめておられるみ子の悲しみ苦しみを、私たちがくまなく理解できるはずはありません。主イエスが「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られた言葉に、ようやく主が向き合っておられるものがどんなに重いものであるのか、気づかされます。死が迫る時も恐れや苦しみをなど一切口にしない所謂“立派な死”を、まるで他人事のように主イエスに期待してしまう私たちの理解を超えた、真に厳しい裁きの杯を、主は私たちの罪の重さを代わりに担うために、受けることが求められています。救い主が心の底から恐れ、苦しみ、悲しんでおられる杯は、イザヤやエレミヤと言った預言者たちが、「憤りの杯」という言葉で主なる神の憤りを表現したように、神さまの憤りの裁きとして下される死であります。過ぎ越しの出来事において、死をもたらす神の力が古代イスラエルの民の家を過ぎ去ったように、この死の杯を私から過ぎ去らせてくださいと祈られるのです。
ただお一人この杯の意味を深く知り、だからこそこの杯を受けることを深く恐れる救い主は、しかしまた、何よりもみ心に適うことが行われるようにと願います。盃を過ぎ去らせてくださいと訴え、しかしみ心が為されることを求める、この祈りを積み重ねながら、十字架の死と、そのみ業をご自分によって為そうとされる神さまのみ心を深く、更に深く見つめ続けます。主イエスは神さまの救いのご計画に、プログラムされた通りに従うロボットではなく、神さまに問い、嘆き、訴え、進むべき道を見定めて、歩んでこられました。いよいよ死が迫るこの時にも祈りの苦闘を通して、主の祈りでご自身が弟子たちにそう教えられたように、み心が地に為ることを求める祈りに到達され、神さまのご意志に従うみ心を固いものとされます。そしてまだ眠り続ける弟子たちを起こし、「時が近づいた」と言われます。弟子たちには、なおも眠りの中に逃げ込んでいたい時、そうしていて良いのだと思っている歴史の只中に、神さまのご計画の時は到来しました。ご自分を捕らえるために武装した大勢の者たちの方へと、それを手引きする弟子ユダの方へと、罪人たちの手にご自身が引き渡されるために、弟子たちに「立て、行こう」と言われます。眠っている彼らを放置して、一人歩み出すことはされず、誘惑に呑まれ続けた彼らを諦めることをされず、ご自分に従うことへとなおも彼らを招かれるのです。
ユダや人々は、群集が居ない夜の内に、祈りの場で油断をしている主イエスを捕らえられる好機を逃すまいとやって来たのかもしれません。しかし救い主自ら、罪人たちの方へと歩み出されました。人々の計画が主を捕らえたのではなく、救い主が、杯を父なる神から受け取られ、世の人々の目には信仰の指導者、敬虔な人々、律法を重んじる正しい人々、そのように評価されている者たちと、その企みに加担し、手引きをする者の悪の中へと、自らを引き渡されました。ユダの裏切りも、神の民であるはずの人々の敵意と暴力も、人の罪の値をみ子の命をもって贖うみ業を前へと進めるものとされた主は、誘惑に揺さぶられ続ける私たちをも、「立て、行こう」と、その後に従うことへと招いてくださる方であります。