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１９世紀半ば、イタリア語圏のスイス・ティチーノ州に住む約２千人が、より良い暮らしを求めてオーストラリアに移住した。それから約１５０年。この「イタリア系スイス人」の名残はオーストラリアに深く根付いている。移民がたどった歴史を写真で振り返る。このコンテンツは 2018/02/24 09:00
- Español Eles ainda têm fortes ligações com a pátria distante
- Português Eng verbunden mit einem weit entfernten "Zuhause"
- 中文 家乡远在天涯，近在咫尺
- عربي روابط وثيقة مع "مـوطـن" بعيد جدا...
- English Australia's Ticinese have strong ties to a faraway home
- Pусский Следы эмигрантов из Тичино в Австралии
- Italiano Lo stretto legame con una “casa” molto lontana
ベリンツォーナホテル、ロカルノ・スプリング、チネッティという名前のクリケットバット製造者、ラヴァンデュラ農場。いずれもティチーノの人たちがここに根付いたことを示す生き証人だ。メルボルンから北西に離れたデイルスフォードやヘプバーン・スプリングスにある。
１８５０年、オーストラリアを目指した移民２千人のほとんどは、ふるさとの谷の貧しい暮らしにあえいでいた。また、グラウビュンデン州南部のヴァル・ポスキアーヴォ（ポスキアーヴォ谷）の人たちもいた。移民はみな、地球の反対側にある異国の地で、よりよい暮らしが出来ると夢見た。
当時のオーストラリアは、ビクトリア州、さらにニューサウスウェールズ州がゴールドラッシュに沸き、それが移民を引き付けた。しかし、旅路の先に待っていたのは悲惨な運命だった。移民がオーストラリアにたどり着いた頃には、ゴールドラッシュはもう終わっていた。
多くの移民は手ぶらのまま、多額の借金を背負って母国に帰っていった。ゴールドラッシュの真っ只中だった米カリフォルニア州を目指す人もいた。だが、一部はオーストラリアにとどまり、つつましく厳しい暮らしを送った。彼らの一族は今もオーストラリアに残っている。
スイス人写真家フラヴィア・ロイエンベルガーさんは、米国のティチーノ移民の足跡を追いかけ、続いてオーストラリアを訪れた。２０１５年のスイス報道写真賞を受賞した経歴を持つロイエンベルガーさんは、今もなお故郷の文化を大事にしている多くの家族と出会い、その姿をフィルムに収めた。
「オーストラリアでは、その人の出身を知りたいときは『あなたにとってのホームはどこですか（Where is home for you）』と聞く。日常的に使われる「『どこに住んでいるの（Where do you live）』とは全然違う」とロイエンベルガーさんは話す。
「『あなたにとってのホームはどこ』が持つ意味は非常に深い。必ずしも壁で四辺を囲まれていない、ある一つの場所を指すこともある。１９世紀末のティチーノ移民が、それを顕著に体現している」とロイエンベルガーさんは話している。
（英語からの翻訳・宇田薫）
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