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「グラウビュンデン州のシルスに住んでいる」と言うと、スイスに詳しい人から「ニーチェが住んでいた有名な村ですね」と言われる事が多い。残念ながら、その有名なエンガディン谷のシルス（Sils im Engadin）ではなくて、マイナーなドムレシュク谷のシルス（Sils im Domleschg）の方だ。人口は１０００人余り、スーパーマーケットもない小さな村だが、スイス先史にとって重要なものがひとつこの村にある。謎に満ちたカルシェンナ（Carschenna）の岩絵だ。
私事で恐縮だが、古代の巨石文明にロマンを感じる私は、学生の頃からイギリスのストーンヘンジからジンバブエのグレートジンバブエ遺跡に至るまで世界の様々な巨石遺構を観にいった。今でも旅行の最中に「ドルメン」「メンヒル」という表示を見かけると、旅程を変更して観にいってしまう。だから、住むことになった村に古代の岩絵があると聞いてすぐに観にいったのだ。
カルシェンナとはロマンシュ語で「月の出」を意味している。と言っても、ここが著名な月見スポットというわけではなく、少し離れたところに牧畜農家のアルプがあるだけだ。
この貴重な先史時代のペトログリフ（岩絵）は、１９６６年に高架線を敷設する電力会社の作業員によって発見された。それまでこのような岩絵がある事は全く知られていなかった。この場所はシルス村の住居の密集する地域よりも標高が１０００m高く、人里離れていたからだ。この岩絵が刻まれた時代のことはよくわかっておらず、この発見は考古学者たちにセンセーションを巻き起こした。
カルシェンナへ行く時は、村よりも標高２５０mほど高いところにあるホーエンレーティエン城（Burg Hohenrätien）を通る。１５世紀に各村に教会が建てられるまでは、ここに洗礼や葬儀をする事を許された地域唯一の教会はがあった。この廃墟を訪ねる度に、この高さに重い棺や赤ん坊を抱えて登るのはさぞ大変だったろうと思う。だが、カルシェンナはそれよりもさらに７５０mも上方にあるのだ。
きつい勾配の山道を息を切らしながら登った私は考えた。どうしてこんな誰も来ない山の中に、岩絵を残したのだろう。登るだけでも大変なのに、さらに大変な時間をかけて岩絵を彫るなんて、と。
しばらくして、その謎は解けた。なんのことはない、当時はライン河の谷底から１０００mの標高差を登る必要はなく、この高さが谷底だったのだ。谷は現在私たちが見ているほどは深くなかったらしい。
カルシェンナに到着して、少し驚いた。グラウビュンデン州だけでなくスイスやヨーロッパ先史にとっても貴重な岩絵と聞いていたのに、屋根もなく野ざらしの状態だったからだ。およそ４００㎡の広さに散らばる１０の岩に様々な文様が刻まれている。これらは、最近の研究では、紀元前３０００年から１０００年の間に刻まれたと考えられている。
もっとも目につくモチーフは、一般に「カップとリングのマーク」と呼ばれている同心円状のもので、ヨーロッパだけでなくハワイやブラジルでも見られる様式だ。だが、これらの絵が何を意味しているかはわかっていない。カレンダーではないかという説が長く信じられていたが、最近の学説では、これは当時のドムレシュク谷の地図である可能性も論じられている。描かれている絵とドムレシュクの地形が似ているというのだ。
カルシェンナは、ヴィア・マーラ渓谷の入口に当たる位置にある。この道はシュプリューゲン（Splügen）とサン・ベルナルディーノ（San Bernardino）という当時からとても重要だった２つの峠道につながっている。地理上の要所であることを考えると、この地図説も決して荒唐無稽ではないと思う。
この時代の人びとは自動車やドリルといった便利な道具も現在の私たちと同じ科学知識も持っていなかった。だから、私たちは、彼らにできた事は限定的だと考え、こういう岩絵も単なる「おまじない」の域を出ないのだろうと考えてしまいがちだ。だが、色眼鏡をかけた想像で彼らの行動を決めつけるべきではない。
昨年の秋に、イギリスのストーンヘンジを訪れた時に知ったのだが、その近くで２００２年に大規模な墓が発見されたそうだ。そこに豪華な副葬品とともに埋葬されていた男性は、歯の分析によって紀元前２４００年頃にスイスなどのアルプス周辺で生まれ育った人物だという事が証明されたそうだ。まさにこのカルシェンナの岩絵が刻まれ続けていた時代である。この時代のアルプスの人びとが遠いブリテン島の巨大ストーンサークルの存在を知っており、わざわざ訪ねて行くこともあった。その事実は、私には新鮮な驚きだった。
ストーンヘンジのような巨大で労力のかかるサークルの建設にせよ、カルシェンナのような何世代にも渡る岩絵の彫刻にせよ、これらは家を建てたり道具を制作したりするのと違い、生活に直結することではない。生活環境が今よりもずっと厳しかった時代の人たちにとっては娯楽や気まぐれで行うには労力がかかりすぎる行為だが、彼らは困難にも関わらず継続した。
何を意味するかは謎だが、現在の私たちには思いもよらない切実な動機があり、それをする事によって得られるなんらかの恩恵があったからこそ続けたのではないかと想像している。
真実の解明は考古学者にまかせるとして、それがはっきりするまでは、私はハイキングついでに「わが村の貴重な先史遺跡」を何度も訪れて古代の人びとを想うロマンに浸ろうと思う。
ソリーヴァ江口葵
プロフィール：ソリーヴァ江口葵
東京都出身。2001年よりグラウビュンデン州ドムレシュク谷のシルス村に在住。夫と二人暮らしで、職業はプログラマー。趣味は旅行と音楽鑑賞。自然が好きで、静かな田舎の村暮らしを楽しんでいます。