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【町会の特徴】
宮本町は、明治2年（1869）に神田明神門前町となった後、明治5年（1872）には境内などの社地を編入して、神田宮本町となりました。
江戸総鎮守のお膝元で生活することを誇りとする住民の心意気が形になった名前です。
宮本町には、明治10年（1877）創業、開花三十六席にも選ばれた「開花楼」がありました。
ここは海抜40メートルの高台に建っており、見晴らしの良さと江戸前の料理が好まれ、通人、粋人が集う場所として知られ、東京名所図会など、多くの書物に残されています。
また、単に料理屋として著明であるばかりではなく、書画店や古書市、見本市等、当時としては貴重な文化事業が再三開催されました。
明治の国学者、福羽 美静が開花楼の全盛を詠んだ詩を紹介します。
「にぎわしき 花の都のその花を 見れば心も また開けつつ」
町会の該当区域は、外神田二丁目16〜19番地、7番1号・4号の一部となっています。
【神輿の特徴】
宮本町会の神輿は、子供神輿として出します。
本年は神田明神の中神輿を担いで宮入いたします。
昭和35年、宮惣の製作によるものです。迫力があり、熱気あふれる、力強い担ぎっぷりにご注目下さい。
【町会の特徴】
外神田一丁目の一帯は、神田川に架かる橋の名に因んで万世橋と呼ばれています。
万世橋の名前は、明治6年（1873）、昌平橋よりもやや下流に架けられた「萬世橋 」に由来します。
完成時は「よろずよばし」と命名されていましたが、いつしか「まんせいばし」という音読みが一般化しました。
また、万世橋は日本初の石橋でもあり、眼鏡橋と呼ばれたりもしています。
当時、武家地だった神田仲町と神田花房町は、享保年間（1716〜1736）に町屋となり、商人や職人が移り住むようになりました。
また、神田花田町は、明治2年（1869）、武家地だった花房町代地と須田町代地を合わせ、両町から一字ずつ取ってできた町です。
地元の万世橋町会は、戦後、その3つの町にまたがって成立した町です。
昭和39年（1964）、これら3つの町は外神田一丁目に変わり、現在に至っています。
電気街として有名な秋葉原もこの万世橋地区内にあり、戦前からすでに電気部品やラジオなどを扱う問屋や小売店がありました。
町会の該当地域は、JR秋葉原電気街口周辺の、外神田一丁目1番地8〜14号、2番地、4番地9〜17号、10〜17番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田一丁目万世橋町会の御輿は、昭和35年、宮本重義の手によるものです。
神田祭においても、比較的大きな神輿となっています。ぜひご堪能ください。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。
【町会の特徴】
外神田五丁目栄町はかつて、神田栄町と呼ばれ、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域で、この一帯が豊前小倉藩小笠原家の中屋敷だった記録が残っています。
この界隈が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。
明治2年（1869）12月、神田相生町から出た火事によって、現在の外神田周辺は焼け野原となってしまいました。
そこで明治新政府は、神田竹町 、神田平河町 、神田松永町などに、防火のための火除地を設置し、鎮火神社（秋葉神社）を建立しました。
それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町となりました。
「栄」という名前は、新たに繁栄するように、との願いから付けられたと言います。
明治44年（1911）、町名は神田を取り、栄町と改称しますが、昭和22年に、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町となりました。
そして昭和39年、住居表示の実施で神田亀住町や神田元佐久間町とともに、現在の外神田五丁目となりました。
町会の該当区域は、外神田五丁目1・6番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田五丁目栄町会の神輿は昭和54年製作のものです。
皆さまの心に強く迫る宮入りをします。
【町会の特徴】
元佐久町も栄町と同じように小笠原藩邸でした。
明治3年に秋葉原の火除け地となる際に、神田佐久間町一丁目及び神田柳屋敷の代地として小笠原家屋敷跡に移転してきました。
この時に、神田元佐久間町の町名が生まれました。
「元」という名前は、新たに生まれたこの町を神田佐久間町と区別するために付けられました。
明治44年（1911）に、元佐久間町と改称されましたが、昭和22年、千代田区ができたときに、町名は再び神田元佐久間町となりました。
町会の該当区域は、外神田五丁目2・5番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田五丁目元佐久町会の神輿は昭和5年に宮惣の手により生まれたものです。歴史ある神輿とともに、宮入れします。
【町会の特徴】
「五軒町」の名前の由来は、江戸時代、この界隈に、上総久留里藩黒田家上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、信濃上田藩松平家下屋敷と、5つの大名屋敷が並んでいたことから名付けられました。
明治維新の時に政府によってこれらの屋敷は召し上げられ、明治5年（1872）に、この地は神田五軒町と名付けられました。
その後、人家が立ち並ぶようになり、てんぷらの店や寄席などができ、町は賑わいました。
明治44年（1911）には、町名から神田が外され「五軒町」となりましたが、昭和22年に神田区と麹町区が合併して千代田区になると、ふたたび神田五軒町に戻りました。
そして、昭和39年、住居表示の実施に伴って外神田六丁目となりました。
町会の該当区域は、外神田六丁目3番地5・6号、4〜16番地となっています。
【神輿の特徴】
神田五軒町々会の神輿は、昭和52年に作られました。
屋根唐破風型白木造り総彫刻です。
重さ約300キロ、台座2尺3寸（約70cm）、高さ6尺8寸（約200cm・鳳凰を含む）、幅4尺7寸（約150cm）、親棒の長さ16尺（約500cm）という大神輿です。
数年前、約30年振りに総仕上げ直しをし、美しく輝いた神輿へと生まれ変わりました。
担ぎ手総数は350名余りです。
【町会の特徴】
同朋町会は、明暦の大火以前までは寺地でしたが、明暦の大火（1657）後に寺地を外に移し、幕府同朋衆の屋敷としました。
「同朋」というのは、室町時代に始まり、幕府の雑務、茶事を務めた僧体の小史のことを言います。
江戸幕府では、城中における大名の案内・更衣・刀剣の上げ下げ・茶弁当の世話をし、将軍外出の際には、長刀を持って従っていました。
平成8年3月に新調した浅草の宮本卯之助商店作の御神輿で同年5月の神田明神例大祭に参加しました。
町会の該当区域は、外神田二丁目10〜15番地、6丁目1・2番地及び3番地3・4・7・8号となっています。
【神輿の特徴】
神田同朋町会の神輿は平成8年に新しく作り直しました。
宮本 卯之助の作品です。
美しい仕上がりの中にも下町の落着きを調和した風情になっています。
【町会の特徴】
神田旅籠町は、昌平橋の北側にあたり、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになりました。
「日光御成街道」は、江戸幕府の徳川将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で現在の国道122号にほぼ相当します。
こうした重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
そして「旅籠」とは、江戸時代、旅人を宿泊させ食事を提供させることを生業とする家のことであり、旅籠屋の略でした。
旅籠という言葉自体はもともとは、旅の時に馬の飼料を入れる籠の意味が、旅人の食物雑品を入れる籠の意味になり、さらに転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋というようになりました。
また、この土地には有名な寺子屋の、「芳林堂」がありました。
芳林堂は、有馬藩士 金子政成が安政4年（1857）に開業しました。
その後、火災にあって旅籠町に移ってきました。
芳林小学校（現在の昌平小学校）の名前も、この芳林堂に由来していると言われています。
現在この地は、日本の最先端を行くIT産業のメッカとなっています。
町会の該当区域は、外神田一丁目1番地5〜7号、3番地、4番地1〜8号、18〜23号、5〜9番地及び外神田三丁目1・12・13番地となっています。
【神輿の特徴】
神田旅籠町会の神輿は昭和33年に南部屋 五郎右衛門によって作られました。
平成17年3月13日に神輿を、2尺5寸から2尺7寸へと大きくし、ますます迫力を増しました。
総勢300名の担ぎ手により、宮入りします。
【町会の特徴】
かつて金澤町と呼ばれていたこの地域は、神田明神下にあり、御成街道に沿った町屋でした。
1657年の明暦の大火以前は東本願寺の境内地でした。
その後は加賀金澤藩前田家の中屋敷となりました。
加賀藩は、藩主の居城が現在の金沢（石川県）にあったことから「金澤藩」ともいわれていました。
つまり、外神田三丁目に「金澤」という町名が伝わるのは、かつて加賀藩の藩邸があったからであると言われています。
前田家の上屋敷は、天和2年（1682）の火事で類焼し、幕府に没収されます。
その翌年になると、湯島一丁目の職人や商人たちがそこに代地を与えられて移転してきましたが、金沢という町名はそのまま受け継がれていきました。
商人や職人の町として発展を続けた金澤町には、多種多様な店があったようで、文政7年（1824）に書かれた「江戸買物独案内」には、「やけど妙薬」で知られた田村万兵衛、「鼻紙袋」や「煙草入れ」を扱う津久田屋、瀬戸物問屋である玉川卯兵衛といった商人たちの名前が記載されています。
町会の該当区域は、外神田三丁目2・3・4・11番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田三丁目金澤会の神輿は昭和36年に宮本 重義により作られました。美しい神輿、迫力の担ぎぶりをご堪能下さい。
【町会の特徴】
田代町は、江戸時代中頃までは武家屋敷でしたが、寛政5年（1793）の大火で神田川周辺にあった町が燃え、町の一部が火除地となりました。
翌年、その町に住んでいた人々が、御成道の旗本永井 伊織の屋敷跡を代地として与えられて移転してきました。
当初は「神代町」としましたが、あまりにも名前が立派すぎるので「神田代地」を省略して、「田代町」と改めました。
町内には花房稲荷が祀られています。
現在の社は戦火により消失してしまい、戦後に地元住民が再建したものですが、神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれています。
現在も4月にお祭りをしており、田代町の人々が大切に守っています。
町会の該当区域は外神田四丁目2〜6番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田四丁目田代会の神輿は、昭和35年に生まれました。
他の神輿に比べ、引き締まっている作りです。
是非ご注目下さい。
【町会の特徴】
末広町は、明治2年（1869）に「神田平永町・神田山本町・柳原岩井町・麹町平川町の各代地」七カ所を合併し、設立しました。
さらに十数件の武家地を吸収してその町域を大きくしました。
末広町と五軒町（現在の末広町交差点付近）にあった堀家の辻番所は、御府内随一との評判でした。
辻番と言えば、川柳に『辻番は生きた親父の捨て所』とあるように、大概、老人と決まっていました。
しかし、この辻番所では番人を雇う際に、武芸の心得のあるものを厳選して選考し、日々稽古を怠る事がなかったと言われています。
事件があれば六尺棒で応戦し、逃亡者がいればその棒を投げて足に絡ませて倒していたそうです。
また、明治元年（1868）5月の新政府軍と彰義隊との戦い（上野戦争）の始まりは、この辻番所前で開かれたものである、と言われています。
町会の該当区域は、外神田三丁目5〜10番地、及び14〜16番地となっています。
【神輿の特徴】
大正15年、神田名匠、「だし鉄」作の神輿です。
大きさは2尺3寸です。
屋根金梨造りで、神田神社氏子町会で現存する神輿の中では一番古い神輿です。