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ルカ1：5～25、ゼファニア3：14～20「愛によって新たにされる」（アドヴェントⅠ）
2023年12月3日（左近深恵子）
主イエスがお生まれになる頃のユダヤの民には、ヘロデという王がいました。ヘロデ大王とも呼ばれます。この王には、神の民の王として真摯に、誠実に神さまに仕えるということが欠けていました。周囲の国や地域のその時々の情勢をすばやく捉え、的確に判断し、状況が変われば間髪入れずに仕える相手を変え、最も力を持っている人物に大胆に近付き、言葉巧みに好意と支援を獲得することで自分の権力を強化し、王の座にまで昇りつめました。自分の支配を貫徹することが第一であり、その支配下にある民のために王の座にいるのではありませんでした。
ヘロデの上に更に支配者がいました。地中海地域を中心としたヨーロッパのあらゆる国々を支配しているローマ帝国が、ヘロデの力など遥かに及ばない圧倒的な軍事力を背景にこのユダヤも支配しています。ユダヤの民の生活は帝国に多くを税金として徴収され、苦しいものとなっています。神殿で神さまを礼拝し、神さまに捧げ物をすることは許されていますが、今許可されていることの範囲は帝国の意向一つで狭められてしまいかねません。ヘロデにしても、ユダヤの王でいられるのは、皇帝に忠誠を誓い、皇帝からユダヤを治める許可を与えられているからにすぎません。
他者の力を利用して自分の支配を強めようとする支配者たちの思惑と力の下に置かれているユダヤの民の状況は、今私たちが見聞きしている戦争や紛争、またニュースで報じられることがほとんど無くなってしまったけれどこの間も暴力や抑圧が続いてしまっている地で起きていることであります。自分たちには太刀打ちできない圧倒的な力の壁に、二重、三重と囲まれている状況は、規模は違えども私たちの身近なところでも起きていることではないでしょうか。
ルカによる福音書は、クリスマスの出来事がこのユダヤの王ヘロデの時代にもたらされたことを語ります。それは、後に洗礼者ヨハネと呼ばれることになる一人の人が、祭司ザカリアとその妻エリサベトのもとに与えられることから始まります。ヨハネは主イエスに先立って人々の前に現れ、主イエスの到来を予告し、自分の後に来られる方はどのような方であるのか語り、悔い改めて主をお迎えするようにと呼びかけることで、救い主をお迎えすることへの備えを導きます。ヘロデ大王の息子、領主ヘロデの保身のために殺されてしまうまで、救い主のために人々に呼び掛けるヨハネの働きは止むことがありませんでした。人々の力では太刀打ちできない世の王やその背後に聳え立つ支配者の、二重、三重の支配が圧し掛かる人々の中に、真の王である方を神さまが与えてくださり、ヨハネは命を懸けてその方のために仕えました。人々の目には世界を動かしているように見える者たちが、どんなにその力を誇ることができても、いつかは終焉が来るそれらの力の只中で、神さまは救いのみ業を推し進めておられます。支配者たちが力によってコントロールしているつもりの世の在り方を、その根底から変えることのできる救いのみ業が、大きく動き始めます。神さまはザカリアとエリサベトという一組の夫婦に、洗礼者ヨハネの親となる新しい道を与えられるのです。
洗礼者ヨハネの父とされたザカリアは、神さまを礼拝する祭儀を司る祭司でありました。祭司であるということは、代々祭司の家系であるアロンの血筋の者であったということでありましょう。ザカリアの妻エリサベトも、アロンの家の出でありました。夫婦共に由緒正しい祭司の家系出身であったのです。二人は、神さまが律法を通して示してくださった生き方を大切にすることを通して神さまのご意志にお応えすることを願いながらこれまでの人生を歩んできて、既に高齢となっていました。血筋とこれまでの生活についてみれば、神さまのみ業を担うのに真にふさわしい夫婦だと言えるでしょう。
ある時、ザカリアが属する祭司の組が、一週間神殿において祭儀を担う当番となったので、ザカリアも神殿にいました。その組の中から聖所に入って香を焚く者を一人選びますが、その担当はくじを引いて決めるのが慣例となっていました。祭司の数からすると一人の人がくじに当たる確率は一生の間に1回あるかどうかという低いものでありました。聖書においてくじは、公平を期すためであるだけでなく、神さまのご意志を問う手段として行われるものでした。そのくじに当たったザカリアは、神さまから委ねられた重大な務めを果たそうと、1人聖所の中へと入ってゆきました。聖所の外では、大勢の民衆が祈りつつ待っています。務めを終えたザカリアから祝福を受けることを願っていたのでしょう。けれど、出てきてよいはずの時間になってもザカリアは出て来ません。その時ザカリアは、神さまから、ザカリアとエリサベトにもたらされる恵みを告げられていたのでした。
神さまが天使を遣わされ、祭司や民の代表としてそれまで聖所にいたザカリアは突然、自分自身で神さまに向き合う者とされ、うろたえ、恐怖に襲われます。それまで神さまのご意志にお応えする人生を歩み続けてきたザカリアであったのに、そして、祭司として神さまが現臨される神殿で、神さまのみ前に進み出て、民を代表し、民と自分の赦しのために犠牲を捧げ、感謝をささげる祭儀をそれまで執り行ってきたザカリアであったのに、なぜ今さらうろたえ、恐怖におののくのかと、動揺するザカリアの姿を意外に感じるところがあるかもしれませんが、神さまのご意志にお応えする歩みを真摯に求めてきたザカリアであったからこそ、自分の歩みは決して完璧なものでは無かったことを知っていたことでしょう。神さまのみ前に堂々と立てる者ではない自分が、たった一人で神さまの眼差しの中に身を置いていることに、おののかずにはいられなかったのでしょう。この先のクリスマスの出来事の中で、幾人もの人が天使を通して神さまから語り掛けられ、その度に「恐れるな」と言われます。中でもザカリアの動揺は大きなものです。ザカリアが高齢であったことが、ザカリアをおののかせているのかもしれません。ヨハネによる福音書の中に、主イエスが、罪を犯し捕えられた女性を巡って、律法学者やファリサイ派の人々と対立した出来事が記されています。“罪を犯したこの女は律法によれば石打の刑で殺されるべきではないか”と判断を迫る彼らに主イエスは、「あなたがたの中で罪を犯したことの無い者が、先ずこの女に石を投げなさい」と告げられます。すると、年長者から始まって、1人、また1人と立ち去って行きます（ヨハネ8：3～11）。年齢を重ねてきた者ほど、自分の中にある罪深い性質がこれまで生み出してきてしまったものに、直ぐに思いを至らせたのです。年老いていたザカリアも、全てをご存知であり、全てを裁くことのできるお方である神さまのみ前にたった一人で身を置くことに、耐え難かったのではないでしょうか。
このザカリアに神さまは天使を通して、「恐れることはない」と、安心するようにと呼びかけます。ザカリアの名前を呼び、ご自身に向き合うようにと改めて招いて、「あなたの祈りは聞き入れられた」と告げます。ザカリアの祈りとは何でしょうか。自分とエリサベトの間に子が与えられることを願う祈りではないでしょうか。しかしそのことをこの頃ザカリアはもはや願ってはいなかったのではないでしょうか。神さまはそれでも、ザカリアの願いが聞き入れられたと言われます。その上、それはザカリアとエリサベトに喜びをもたらすだけでなく、多くの人の喜びとなるのだと告げます。預言者を通して告げて来られた主の到来が実現されるのだと、そして、やはり預言者を通して告げて来られた、主の到来に先立って主のために道備えをする大預言者エリヤのような預言者の到来が実現されるのだと、この喜ばしい知らせを伝えるために、神さまは天使をザカリアに遣わされのだと言われます。けれどザカリアは信じることができません。若い時にこの喜びの知らせを聞いていたら、ザカリアは違う言葉で天使に応えられたかもしれません。しかし子どもを願っても叶えられない辛さと失望を幾度も繰り返しながら年月を重ね、肉体は確実に変化し、もはや願うこともできない年齢となっています。不妊という現実も、高齢という事実も覆すことはできないという常識が、ザカリアの中で岩のように硬く不動のものとなっています。確かにかつては子を祈り願っていたが、ある時から願いに蓋をしてきた。願いはもう自分の祈りの中には無い、ザカリアはそう思っていたのではないでしょうか。しかし、神さまはザカリアの祈りを聞いておられた、そして聞き入れてくださったのです。ザカリアが望んでいた時ではなく、ザカリアが望んでいたようにでは無いことが、ザカリアに信じる力を失わせていますが、神さまはザカリアの願いを聞き入れ、ザカリアの願いも計画も超える救いの御業の内に、出来事としてくださるのです。
ザカリアの信じられない思いは、私たちも良く分かります。けれど神さまは、ご自分の言葉は時が来れば実現することに信頼することを求めておられます。神さまの言葉が、今はその実現が何も形となっておらず、どう形になるのか常識では全く糸口がつかめないけれど、それでも時が来れば実現すると、信頼することを願っておられます。信じることのできる根拠がザカリアやエリサベトに有るから信じるのではなく、神さまが告げられた言葉だから信頼することを求めておられます。ザカリアが、自分たちに子どもが与えられるという神さまの言葉を退けるのは、この子の誕生と併せて神さまが告げられた主の到来も退けることになります。預言者を通して神さまが告げられたメシアの到来は、祭司であるザカリアならば他の人々以上に耳にしてきたはずの主の言葉です。このメシアの到来も、退けることになってしまうのです。
神さまは、時が来れば実現するご自分の言葉に信頼することができなかったからと、このことの起こる日までザカリアは口が効けなくなると言われます。それはザカリアの不信に対する裁きとも言えるでしょう。しかしそれは裁きのための裁きではなかった、ザカリアを導くためであったと言えるでしょう。神さまの言葉を告げる天使に、その言葉が実現するはずが無いと思う理由を並べてザカリアは抗います。ザカリアが発した理由や疑問は当然のもの、常識的なものです。その問いが問題と言うよりも、自分が言いたいことで自分の口をいっぱいにし、神さまの言葉に耳を傾ける余裕を失ってしまっていたことがザカリアの問題であったのではないでしょうか。もしこのまま口が効けていたら、更に質問や疑問や反論を述べ続けたかもしれません。発することを一旦止め、心を鎮め、神さまが今語られたこと、これまで預言者を通して語られてきたことに、耳を傾ける時を神さまは与えられました。ザカリアにとって本当に恐ろしいのは、子どもがいない自分たちに死の時が刻々と迫っていることでも、自分たちの血筋が自分たちで途絶えてしまうことでもなく、神さまのご意志にお応えして生きていくために必要な、命のパンである神さまの言葉を、受け入れられないことであります。神さまによって造られ、神さまの祝福の内に生きていく人間は、神さまから与えられる言葉を糧とします。しゃべりながら人の話を聞くことはできません。自分が話し続けていては、神さまの言葉を聞くことができません。自分の思いも計画も常識も超える神さまの言葉に耳を傾けるため、その言葉が自分に向けられていることを受け入れるためには、時に長い時間が必要となります。母親の胎に宿った子が成長し、生まれ出て来るまでに必要なほど長い沈黙の間、ただ一人神さまに向き合う長い苦闘を経て、受け止めることへと導かれることもあります。ザカリアに与えられた沈黙は、神さまの憐れみと慈しみによるものであったのでしょう。信じることができなかった者が、神さまの言葉を咀嚼し、味わい、神さまの言葉によって命を養われる経験のための時間を与えられる出来事から、ルカによる福音書はクリスマスの恵みを語り始めるのです。
神さまが私たちを愛し、独り子を世に与えてくださったこと、独り子なる神がご自分の身を十字架において捧げて、その命の値をもって私たちの罪を赦してくださったことを知る私たちにとって、沈黙は、しゃべることを止めることだけに留まりません。命のパンである神さまの言葉を聞き、魂において養われます。そして主の晩餐に与ります。「私は天から降って来たパンである」「私は命のパンである」と言われたキリストと、洗礼において一つとされた私たちは、聖餐においてキリストの肉を食べ、血を飲み、魂においてだけでなく肉体においても、命のパンであるキリストに養われ、力づけられ、生かされてゆきます。食べながらしゃべることはできません。主の食卓で、沈黙して、大切に味わいます。自分で自分を養おう、力づけよう、自分で自分を生かそうとする頑なさを砕かれ、主に養われる恵みに満たされます。
真の王である神の独り子が人となられてお生まれになる、その常識を超えた救いのみ業への備えを、ザカリアは沈黙の内に導かれました。人々に備えを為させたヨハネの父親であるザカリアも、み言葉による備えが必要でありました。私たちも聖書の民と共に、備えを為してゆきます。預言者ゼファニアはイスラエルの罪を明らかにし、罪の行き着く先は神さまの裁きであることを告げます。けれどこの民に向かって、「喜び歌え」「喜びの声を上げよ」「心の底から喜び祝え」と呼び掛けます。なぜなら「イスラエルの王なる主はあなたのただ中におられる」からだと。「あなたの神である主はあなたの只中におられ、救いをもたらす勇者である。主は喜びをもってあなたを祝い／愛をもってあなたを新たにし／喜びの歌をもってあなたに歓喜の声を上げ」られるからだと。世の様々な力が重層的に圧し掛かり、自分たちの罪深さは自分たちを滅びへと向かわせる他ない現実の中で、神さまは救いをもたらす勇者として私たちの只中にいてくださり、愛をもって新たにしてくださいます。クリスマスの出来事において、子なる神は私たちの只中に降られ、今も聖霊において私たちと共におられます。この神さまの愛と救いのみ業を、喜びの声を上げて賛美することへと、このアドヴェントの期間、備えてまいりたいと思います。