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マルコ15：32～41「この方こそ神の子」
2022年4月10日（受難週、左近深恵子）
変化を重ねながら影響力を持ち続ける感染症の拡大に再び警戒しつつ、新しい年度を迎えています。そこに痛ましい出来事と困難な状況が重なり、日々酷い現実が報じられています。様々な思いを抱きながら、レント（受難節）の日々を歩んでいます。主イエスが救い主であるならば、私たちを何から救ってくださるのかと問う声に答えを求めながら、十字架のキリストを仰いできました。神さまがキリストによってもたらしてくださった、私たち人間に必要な救いとはこのようなことなのだと、私たちは他の人に喜びの知らせとして何を伝えられるのか、思い巡らしながら聖書に耳を傾けてきました。
キリストが私たちに救いをもたらしてくださったことを、聖書は福音と呼びます。この言葉をその初めから繰り返し用いて重んじたのが、マルコによる福音書でした。冒頭で「神の子イエス・キリストの福音の初め」と述べています。これから記すこの書物で最も伝えたいのは、主イエスが神のみ子であり、救い主、キリストである、この方によって福音がもたらされた、その福音のをこれから伝えると、力を込めて最初に記したのです。
福音と言う言葉には「良き訪れ」「喜ばしい知らせ」といった意味があります。旧約聖書に幾度も登場する「良い知らせ」という言葉と、その言葉が意味するものを受け継ぎ、新約聖書は「福音」を語ります。旧約聖書の「良い知らせ」が伝えるのは、救い主、メシアがやがて来られるということです。預言者イザヤは、良い知らせは「神である主が力を帯びて来られ、み腕をもって統治される」ということ、「主の勝ち得られたものはみもとに従い、主の働きの実りはみ前を進む」ということだと（イザヤ40：9～10）告げます。また良い知らせを伝えることは、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた」と伝える（イザヤ52：7）ことだと述べ、この報せがもたらされるのは特に「貧しい人に」にであり、「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるため」、「嘆いている人々を慰め」「嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて讃美の衣をまとわせるため」だと語ります（イザヤ61：1～3）。救い主が来られるということは、このような喜ばしいことなのだと預言者を通して告げられてきた。その喜ばしい知らせが主イエスによってもたらされたと、マルコによる福音書は述べます。自分がこれから記すものを福音と呼びます。救い主は神のみ子イエスなのだと述べ、その福音を伝える福音書というものを書き始めたのです。
こうしてマルコは、神さまのご支配が到来したと宣べ伝える主イエスの言葉と、そのお言葉の意味を示すためになさったみ業を語ってきました。主の言葉や業に、喜び、歓迎する人々が多くいました。しかしその多くは主の言葉を浅く聞いているだけでした。主の言葉や業を、初めから受け入れようとしない人々も多くいました。主が説かれる神さまのご支配を自分の人生に受け入れることよりも、これまでの生き方を変えずにいること、今手にしているものを、この先も保つことに重きを置く人々によって、主は拒まれ、退けられました。その結果、十字架で処刑されるにまで至ったのです。この主の死を目撃した百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と言います。この福音書の最初の言葉を思い起こします。福音書の書き手は、その第一声で、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と述べました。同じようにこの人は神の子だったと、ローマ帝国の皇帝に仕えてきた、主イエスを処刑するという任務を命じられ、部下を率いて当たってきた、異邦人であろう百人隊長が述べます。最も悲しい瞬間、苦しみの末に主が命を引き取られる瞬間に、その死にゆく姿をすぐ傍で目撃してきた人が、主イエスがどのような方であるのか、真理に辿り着き、それを口に出して告白せずにはいられなくなったのです。救い主のご生涯はこうして、神のみ子という告白に囲まれています。人々がどんなに浅くしかその言葉を聞かなくても、そのお力を誤解しようとも、神さまではなく自分が自分の主であり続けるために救い主を拒み、死にまで追いやろうとも、主イエスが神のみ子であることを退けることはできなかったのだと、最初と死において神の子の告白でくくられる福音書の根底には、そのような主イエスを十字架に追いやった人間ひとりひとりのために、救い主が十字架で息を引き取られたのだと言う告白が貫かれているのです。
マルコによる福音書は、その紙面の多くを主イエスの受難と死を述べることに用いています。特に福音書の中ほど、第８章において、主がご自分の死と復活の最初の予告をされてからは、明確に十字架に焦点が当てられています。二度目、三度目と、死と復活の予告が繰り返される度、私たちの視線は十字架へと向けさせられました。そしてとうとう、十字架の出来事が起こります。裏切り、見捨てる弟子たち。他者に責任を転嫁しながら主イエスを死に追いやることに加わり、嘲りや暴行の数々で侮辱する人々。その只中で、二人の死刑囚と共に、罪びとの一人として十字架にかけられました。
今日の箇所の直前まで主イエスに浴びせられていた人々の暴言や嘲笑は、今日の箇所になると一転、主の周りから消えます。傍にいる人々は、主が何を言うのか、様子はどうなのか、見つめているようです。マルコによる福音書では、主イエスが十字架につけられたのは朝の９時で、昼の１２時に全地は暗くなったとあります。この長い時間、耐えがたい苦しみが止むことは無く、処刑が延々と続いているようです。嵐の中の静けさのように、闇に覆われた十字架の上で、孤独に闘い続けられた主が大声で叫ばれたのが3時、そして息を引き取られます。普段であれば太陽の光が最も強く照っている真昼に、嘲り、侮辱してきた者たちの姿も言葉も呑み込むような闇の中、主が叫ばれた言葉は、詩編22編の一部でした。22編の冒頭、敵から攻撃を仕掛けられ、追いつめられ、体も病み、生きているのに死んだ者のように、虫けらのように見なされている者が絞り出すこの詩編の嘆きの叫びを、主はご自分の叫びとされました。更に、酸いぶどう酒を飲ませようとする兵士の行為には、詩編69編の言葉を思い起こす人も多くいます。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」（詩69：22）と綴られた詩です。濁流のような苦難に襲われ、激流に押し流され、足がかりも無い状況で泥水の底に沈みかけている、そこに追い打ちをかけるように更なる濁流が押し寄せる、大水が喉元に達し、神を待ち望んで叫び疲れた喉が涸れてしまった詩人に対して、いわれもなく敵意を抱き、滅ぼそうとする者たちの力は増して行く一方であり、苦しむ自分に苦いものを食べさせようとし、渇く喉に酢を飲ませようとすると嘆きます。
詩編22編も詩編69編も、後半になると神さまの賛美へと移っていきます。当時の習わしにおいて、文の最初の言葉を引用することは、その文の全体を引用することを意味したと言われています。22編の冒頭の言葉を叫ばれた主のみ心には、この詩の後半の賛美の言葉もあったことでしょう。差し出された酸いぶどう酒を拒まれた時、詩編69編後半の賛美の言葉を思っておられたかもしれません。主イエスご自身が死だけでなく復活を予告してこられたことを知り、この後の復活の出来事も知る私たちは、十字架の上で叫ばれた主の深い嘆きは、いずれは神さまの賛美へと行き着くのだと、十字架の上の主イエス嘆きは、どこにも辿り着かず、虚しくゴルゴタの地に落ちて、消えゆくものではないと、安心したがる思いがあります。
けれど、主イエスがこの時、後半の賛美ではなく、冒頭の嘆きを叫ばれた、ここに十字架の恵みがあるのではないでしょうか。この主の叫びが、主が担い通された罪がどんなに大きなものであったのか、思うことへと私たちを導きます。主が私たちをそこから救い出してくださった罪の力がどんなに強大であるのか、罪に囚われた私たちがどれだけ神さまから離れてしまっているのか、神さまのみ心を悲しませ、苦しませてきたのか、十字架によって私たちに与えられている救いが、どんなに途方もないものであるのか、思うことへと導かれます。マルコによる福音書がその初めから目指し、焦点を当て続けてきた福音が、ここにあるのです。
救い主ならば、十字架から降りて自分を救えと主を嘲った通りかかった人々や祭司長、律法学者たちの言葉、自分たちも十字架につけられていながら、死が迫っても悔い改めるどころか罵るばかりの死刑囚たちの言葉を、聞くに堪えない惨い暴言だと一蹴しきれない迷いが、自分の中にもあることに、私たちは気づくことがあります。パウロが、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えることは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であると述べているように（Ⅰコリント1：23）、主イエスが十字架で死んで行かれた出来事は、受け入れがたく、理解しがたいものです。それは人の思いや人生経験の積み重ねだけで掴めるものではありません。福音は、神さまの力、神さまの知恵による、神さまのみ業であるからです。
救い主と言うのは、預言者が告げた良い知らせを、そのまま実現することで、人々に救いをもたらすものだと、私たちは期待したくなります。神である主が力を帯びて来られ、み腕をもって統治されると預言者は告げた。平和を告げ、恵みを、救いを知らせ、神が私たちの王となられると預言者は告げた。ならば主イエスは十字架から降りるべきではないか、十字架から降りて、その上で、そのような超人的なお力を今度は人々に対して駆使すべきではないか、それによって特に貧しい人、心打ち砕かれた人に平和、恵み、救いを実現し、捕らわれている人に自由を、つながれている人には解放をもたらすべきではないか、と。
けれど福音の頂点は、十字架上の死でありました。主イエスは、罪に捕らわれ、神さまから遠く離れてしまう罪びとの一人として、十字架に打ち付けられ、そこから降りることなく、罪の値を払い抜かれました。神であり、神のみ子でありながら、高みに居続けるのではなく、十字架を降りて高みに戻ろうとするのではなく、貧しい人、心打ち砕かれた人、捕らわれている人、つながれている人とご自分をどこまでも等しくされました。主イエスの十字架上の死を、神に見捨ててしまわれたようでいて、そうではなかった、神から離れてしまったようでいて、そうではなかった、そのような程度の苦難に私たちが取りたがっても、神さまから見捨てられ、神さまから離れてしまう苦しみの中に主は身を投じられたのでした。主が苦しまれたのは、主が負われ、主に圧し掛かった、人の罪の重さ、深さのすべてです。それなのに、主イエスは神に見捨てられてしまったようでいて、そうではなかったのだと、主が担われたのは、見捨てられたようでいて、本当はそうではなかった程度のものだったのだと、言えるでしょうか。私たちの外側に既に現れてしまっている罪、未だ形にはなっていないけれど内側で私たちを捉えている罪、それら私たちの罪の値を、その程度だと、神さまに見捨てられることはない程度だと、言えるでしょうか。人間として本当に生きていくために必要な何かを欠いてしまっている貧しさ、人々と喜びや悲しみを分かち合い、神さまとの交わりに生きようとする心を打ち砕かれ、自分が壊れかけている恐ろしさ、何かに支配され、逃れられず、自由を失い、濁流に流され、引きずり込まれつつあるような危機の中にあるすべての人に、自分がそのような悲惨さにあることを正面から見据えることもできずにいる一人一人に、人の思いや経験の積み重ねの中からは生み出すことのできない、人が造りだすことのできない、神さまからの救いを人々にもたらすために、主は私たちの代わりに罪の重さ、深さを担ってくださったのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、主の嘆きに私たちは完全な答えを持っていません。ただ、このことは言えます。「なぜ」、それは私たちのためだからと。神さまから見捨てられ、神さまから離れ去られる苦しみを主イエスは、私たちのために苦しみ通され、私たちの罪の値を贖うために、命を捧げられたのだと。だから私たちは、私たちの罪にもかかわらず、神さまから見捨てられていないのだと。