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「なぜラルジャン（Le Largin）を語るのか？」
今回の記事を書くにあたって参考文献とした「ボンフォル、1914－1918年西部戦線0キロメートル地点に於けるラルジャン（BONFOL Le Largin au « kilomètre 0 » du front ouest 1914-1918）」の本章は、疑問形で始まる。
「西部戦線異状あり」前編でご紹介した「学びの散歩道」は、この本の著書の1人であるエルヴェ・ド・ヴェック（Hervé de Weck）氏が属する「キロメートルゼロ友好協会（L’Association des Amis du « Km 0 »）」）が中心となって計画が練られた。
この散歩道が開通した2014年は、第一次世界大戦勃発から100年、第二次世界大戦勃発から75年、そしてベルリンの壁崩壊から25年という、記念すべき年であった。
現在のところ、スイスは軍事大国の脅威を直接は受けていない。そればかりかスイス史上初めて、友好関係国に取り囲まれている。しかし、はたして真の意味で平和であると言い切れるだろうか？
飛行機で何時間か飛んだ距離に内戦中の国がある。世界の国々が一致団結しての大量殺人兵器の全面廃止など、夢のまた夢の話である。さらに、テロ事件、移民流入や麻薬の密輸など、スイスは1914年当時とは異なった形での危険にさらされていると本書内で述べられている。
2つの世界大戦を通して交戦国に隣接していたラルジャンは、歴史の証人であると同時に、今、身近にある平和をただ夢見心地で享受するだけで良いのかという、警鐘そのものなのである。
前編に挙げた当時の地図が示す通り、第一次世界大戦中のラルジャンは、中立を掲げているとはいえ、地形的に複雑かつ危険な位置にあった。
実際、戦闘が激しくなれば、流れ弾がスイス側に飛び込んでくることがあり、スイスの監視哨も何度か被弾した。また、頻度は交戦国とは比べ物にならないぐらいに少ないが、国境沿いにあるスイスの市町村も誤爆され、大破した建物さえある。
さらにラルジャン警備のスイス兵は、国境侵犯してスイス側に入り込んできたフランス・ドイツ両国の兵士達に何度か発砲されたことがある。そのような状況にもかかわらず、4年間でスイス兵に1人の死者も出なかったことは、奇跡と言える。
これらの事件は、「国境を見誤り、かつ（軍装が似ていて）敵国兵だと勘違いしたための発砲だった」と、その後のドイツ軍やフランス軍の謝罪で一件落着している。
スイス内での戦闘はなくとも、戦争が間接的に関わる様々な事件があった。その中でも、疫病の流行は、多数の死者を出した。
ジフテリア、猩紅熱の他、1917年夏にはチフスが蔓延した。翌年の夏は世界中で猛威を振るったインフルエンザ、俗に言う「スペイン風邪」がこの地方を襲った。駐屯中の兵士のうち約100名がこの病に侵され、死亡率は40％に及んだ。
地元住民の貧窮ぶりは著しかった。ラルジャンのあるボンフォル（Bonfol）村では、燃料となる石油の配給停止で長い間ロウソクの生活を余儀なくされた。当時数少なかった電話は軍専用にされ、納屋を軍に提供しなければならなかった農民は、農作業の効率低下と収入の激減に不満を漏らした。一家の働き手がいつ終わるとも分からない兵役に取られたため、子供を養っていけなくなったある女性は、知事に手紙を書いて経済的救済を求めた。
国境に近いラルジャンは大戦以前から食品密輸の中継地点となっており、既に問題視されていた。戦時中は、塩やコーヒーの価格高騰に乗じ、国境近くの住民によるアルザスへの密輸が頻発した。これらの品々に加え、砂糖やチョコレートなどを大量買いして持ち運ぼうとしたスイス人が国境付近で逮捕され、品々は没収された。
ここでスイス軍に話を戻そう。
70万人以上もの戦死者を出したヴェルダン（Verdun, フランス）や、人類史上最初の毒ガス兵器が投入された上、度重なる砲撃で廃墟と化したイーペル（Ypres, ベルギー）など、同じ西部戦線上にあった激戦地と比較すれば、スイス軍には「贅沢な悩み」があった。士気の低下との戦いである。
中立国といえど、最前線で国防の役目を果たしていると誇りを持って警備をしている者もいれば、そうでない者もいた。陣地をこっそり抜け出して国境を越え、自ら志願してフランスの外国人部隊に入る兵士が続出したのである。
その動機は様々だった。ラルジャンでの任務に飽き飽きした者、フランスを愛するゆえ行動を起こしたい者、過去を精算し、無になって出直したい者…など。
後に作家となったシャルル・ゴス（Charles Gos）大尉は日記中で苦悩を吐露している。
「（脱走者が）今日は3人、おとといは2人で、合わせて5人。まるで伝染病だ！」
スイス全体では、フランス傭兵部隊への志願兵は4年間で14000人（うち35％はスイスドイツ語圏出身者）にも及んだが、半数以上になる8000人が戦死したという悲劇は、今後も語り継ぐべきであろう。
一方、ラルジャンでの駐屯を嬉々として引き受けるスイス兵もいた。西部戦線上にあり、交戦国に挟まれて戦況を監視しながらも、戦闘がない時は国境上でフランス・ドイツ兵達と親交を結ぶことができたからである。
両国の兵達との関係はおおむね良好だった。話題に気を使いつつも会話に興じることができた。そんな時、フランス兵はタバコを、ドイツ兵は食料をねだってきたという。これには、ドイツ兵は慢性的な食料不足に悩まされていたという苦しい台所事情が影響していた。
最後に、逸話を幾つか記しておく。
スイス人の越境は、国境の向こう側に農地がある場合など、特別な理由がある者に限られ、期限内の通過証を必ず見せなければならなかった。にもかかわらず、向こう見ず、もしくは好奇心旺盛なスイス人が、老若男女問わず、国境侵犯して交戦国側に入ったという記録が数多く残っている。
彼らの大部分は警備兵に捕まり、最悪の場合は何ヶ月も拘置所住まいを科せられ、残された家族を悲しませていた。
1915年にはボンフォル村の10～13歳の少年7人が連続して2度もフランス側に入り込んで捕まったが、その理由は嘘か誠か、無謀でもあり、微笑ましくもある。
1度目は「フランス軍に入隊したかったから」。そして2度目は「モロッコ人がいるらしいと聞いたので、見てみたかったから」（正確にはフランス統治下にあったセネガル出身の兵士である）と白状したという。
無事に村に帰された少年達は、地元の学校委員会の計らいで、日曜の半日のみ、自宅謹慎を命じられただけで済んだ。
1916年12月22日、スイス兵によってラルジャン北東の端にクリスマスツリーが飾られた。
軍楽隊による演奏に合わせ、一部の兵士が合唱を始めた。ツリーのろうそくに火が灯された時、フランス・ドイツ間の撃ち合いがピタリと止んだ。曲が終わる度に双方の兵士達は立ち上がり、盛んに拍手した。
その2日後、クリスマスイヴの夜、フランス語とドイツ語のバイリンガルであるスイス兵ジャック・ヴァイベル（Jacques Weibel）が音頭を取り、三国の国境警備兵が一同に介してスイスの監視小屋内にてささやかなパーティが催された。
この夜、武器を置いた20～30人の兵士達は敵も味方もなく談笑し、酒を酌み交わし、スイス側が用意した食事に舌鼓を打った。そして彼らはある誓いを立てた。
「もう互いに引き金を引くのは止めよう」
その話を後に伝え聞いた、ヴァイベルの孫の言葉を借りれば、
「祖父は決して多くを語りませんでした（中略）しかし、関係国の政治家達が数年後にしか成し遂げられなかったことを、彼らは行えたのです」
ところが、この夜の出来事はすぐ明るみになってしまった。この会に出席したスイス兵達は上官から厳しく叱責された上、任務を首になった。そして数日後、ヴァイベルは、参加した両軍の兵士全員が、それぞれの軍司令部によって配置転換されたと知った。
ある意味、「聖夜の誓い」は守られたのか。
平和な世であればごく自然で心温まるクリスマス親睦会は、戦時下では由々しき行為と見なされ、「西部戦線異状あり」と告発されたのである。
ラルジャン訪問ツアーを企画下さったポラントリュイ観光ガイド協会、当日のガイドを務めて下さったジャン－クロード・アダットさんに、厚く御礼申し上げます。
Je remercie chaleureusement l’Association des guides touristiques de Porrentruy et environs, qui a organisé cette visite, ainsi que Monsieur Jean-Claude Adatte pour la qualité excellente de sa visite.
マルキ明子
参考文献
「BONFOL Le Largin au « kilomètre 0 » du front ouest 1914-1918」
Claude-Henri Schaller, Hervé de Weck共著End of insertion
プロフィール：マルキ明子
大阪生まれ。イギリス語学留学を経て1993年よりスイス・ジュラ州ポラントリュイ市に在住。スイス人の夫と二人の娘の、四人家族。ポラントリュイガイド協会所属。2003年以降、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」など、ジュラを舞台にした小説三作を発表し、執筆活動を始める。趣味は読書、音楽鑑賞。End of insertion
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