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スイス生まれの画家、パウル・クレーは主夫だった？クレーの「芋の袋の絵」「新聞紙の絵」って何？スイスの美術館の新館が増えているのはなぜ―？スイス首都ベルンのパウル・クレー・センターに勤める日本人研究員とスイスインフォ記者がフェイスブックライブで館内をまわり、実際の作品を前にしながら、文字だけでは味わえないクレーを体験した。
フェイスブックライブでは、配信中に視聴者から送られてくる質問にもその場で回答。クレーは上流家庭の生まれだった？生前は画家として成功していた？などの素朴な疑問から、クレーに影響を与えた重要人物や、作風の変化、使っていた画材などの専門的な話、パウル・クレー・センター（PKZ）他のサイトへの建設をめぐる裏話など、クレー（と美術）ファンの「ちょっと訊いてみたい」に、PKZの研究員、柿沼万里江さんが答える。
スイス人画家パウル・クレーは1879年、スイスの首都ベルン郊外に生まれた。ドイツ人で音楽教師の父と、スイス人声楽家の母を持つ。幼少期から習っていたバイオリンの腕前は若干11歳にしてベルン市管弦楽団の非常勤団員に選ばれるほどで、当初はプロのバイオリン奏者を目指していたが、18歳で画家になると決心。1898年、高校卒業と同時に独ミュンヘンに移り住んだ。
1906年にピアノ教師のリリーと結婚し、翌年、息子のフェリックスが誕生。その後、ロシア人画家ワシリー・カンディンスキーの主宰する「青騎士」グループに参加し、バウハウスで教鞭を執るなど、ようやく画家としての地位を確立し、順風満帆な暮らしを送り始めた矢先の1933年、ドイツ・ナチスの台頭により教職を解雇。退廃芸術の烙印を押され迫害を受けたため、家財道具も作品も置いたままスイスへ亡命。再びベルンで暮らし始める。
1935年になると皮膚硬化症を発病し、1940年、スイスへの帰化手続きが終わらぬまま60歳で逝去した。
20世紀を代表する画家の一人として、クレーは今日でも世界中で広く愛される。日本では特に詩人谷川俊太郎氏による詩画集や「天使シリーズ」などを通して名が知られるようになった。
パウル・クレー・センター（PKZ）：2005年6月オープン。スイス人画家パウル・クレーが制作した全作品の4割にあたる、約4000点を所有する。データベースライブラリー、子供ミュージアム、音楽ホールなどの機能を備えた総合的な文化センターとして、さまざまなイベントやセミナーも開催されている。建物は関西国際空港旅客ターミナルビルや仏パリのポンピドゥー・センターを造った建築家レンゾ・ピアノ氏が手掛けた。