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「霊を御手にゆだねます」ルカ23：44～56（使徒信条）
2020年10月11日（左近深恵子）
主イエスが十字架にお架かりになった時に近くにいた人物として、聖書は二人の犯罪人のことを伝えます。この二人も十字架につけられていました。その内の一人は主イエスに対して、メシア（救い主）ならば自分のことも、我々のことも救ってみせろと罵ります。救いとは、苦しみや痛みや屈辱から助け出されることだろう、苦しみや痛みや屈辱が無くなることだろう、命を救われることだろう、なのにお前は自分自身も我々のことも救えないでいるではないか、というこの者の罵りは、多くの人がこの時だけでなくいつの時代も、主イエスに向けてきたものでありましょう。「我々を救ってみろ」と罵るこの人は、自分は処刑されるほど罪深くないと、ローマ皇帝の判決よりも、神の裁きよりも、自分の判断が正しいと言い張っているようです。自分の正しさも運命も決めるのは、最後は自分だと、神の救いとは、自分の決定を助けるためのものだと思っていたのでしょう。
しかしこの時、もう一人の犯罪人は自分が罪あるものであること、その罪は神さまのみ前では死に値するものであることを認めています。ローマ帝国の裁判官の判決によって今、十字架に掛けられていますが、世の裁き人よりも、神さまの裁きを畏れています。死刑を、ローマ帝国の決定としてよりも、自分の罪に対する神さまの裁きとして受けています。なのに、傍らで同じように死の苦しみの中にあるイエスという方は、罪なき方でありながら、罪人としての報いを受けておられる。神さまの裁きとしてこの苦しみと死を引き受けておられる。この方は神さまが遣わされた真の王だ、と理解するようになっていました。十字架刑の耐えがたい苦痛の中でこの人は、主イエスによって望みを抱くようになります。それは、この真の王によって十字架から逃れられるかもしれないという望みではありません。主イエスが再び世に来られ、神の国を完成されるときに、自分のことを思い出していただきたいという望みです。自分に思い出していただくに十分なふさわしさや資格があると思って言っているのではなく、ただ主イエスの御心に依り頼んでいます。死で断ち切られない神さまとの交わりの中に自分を置いてください、苦しみと死を超えるあなたのご支配の中に自分を置いてくださいと、主イエスの憐れみに自分自身を委ねました。この願いに主ははっきりと、あなたは私と共にいると応えてくださいました。今日、この時からあなたは私と共にいる、神の支配の下にいると、告げてくださいました。ルカによる福音書は、このやりとりを主イエスのご生涯で人と交わす最後のものとしています。
それから数時間後、主は息を引き取られました。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」との叫びを、主イエスの最後の言葉としてルカによる福音書は伝えています。この瞬間だけを切り取って聞いてしまうと、主イエスお一人の最期として聞き、最期もやはり立派であったと、そのように受け止めて終わるかもしれません。しかしここで先ほどの一人の犯罪人とのやり取りが思い起こされます。犯罪人は、生涯、自分では解決することのできなかった自分の罪深さと、罪深さに対する裁きとしての死と、悔い改めと望み、それらを抱えた自分を丸ごと主に委ねました。主はこの人の悔い改めを受け留められ、救いを宣言されました。主は、死を超える救いに与る望みに支えられて自分自身を委ねる全ての人の悔い改めと望みを受け留められる方です。委ねられた一人一人の望みと悔い改めを担ったまま、その一人一人の罪と無力さを引き受けたまま、み子は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、全てを神さまに委ねられたのです。
主イエスの死は、一人の人間の死に留まらないものであることが、全地が闇で覆われたことによって示されます。白昼に大地を覆う闇は旧約聖書において神さまの裁きを示してきました。太陽の光も失わせ、何時間も世界を覆う闇は、世界を埋め尽くす人間の罪深さと、その罪に下される神さまの裁きの重さを思わせます。天地創造において太陽は、大地を照らす光として、人や大地の生き物たちの暮らしのリズムのしるしとして、神さまがお造りになったものです。太陽の光は、造られた者たちを日々照らし、温め、命を育むことを望んでおられる神さまのみ心を思わせます。そのみ心を退けるかのような世界中を覆う濃い闇は、主イエスが負ってくださった罪の深さと大きさであり、主イエスが人の代わりに受けてくださった神さまの怒りの深さと大きさと言えるでしょう。
この闇の中、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたことも聖書は伝えます。この垂れ幕は、神殿の一番奥の至聖所と呼ばれる、契約の箱が置かれ、神さまが臨在される部屋と、その手前の聖所と呼ばれる部屋を分ける幕です。垂れ幕で他から隔てられた至聖所には、定められた人が、定められた時にのみ、定められた罪の贖いの儀式を経た上で入ることができます。神さまのみ前に進み出る備えが無いままみ前に近づいてしまい、自分の罪深さによってその身に裁きの死を招かないようにと、この至聖所についての決まりが細かにレビ記に記されています。神の民にとって、神さまがおられるとされる神殿、神さまに礼拝を捧げる神殿は、生活の中心です。その神殿の最も聖なる場所を他から隔てる垂れ幕は、人の罪が人を神さまから隔ててしまっている現実を、人に思い起こさせるものと言えるでしょう。ルカによる福音書はマタイやマルコ福音書と異なり、主イエスの死の前に垂れ幕が裂かれたことを伝え、大地を覆う闇と並べるようにして語っています。このことによって、神さまが与えてくださったご自分との関係までも、み子を十字架に掛けてしまう人の罪は滅ぼしてしまったのだと、示しているように思えます。礼拝と言う神さまとの祝福された関わりも真っ二つに裂いてしまう人の罪深さのために、このような一人一人を神さまにつなげる道を切り開き、ご自分を通して人々を神さまにつなげるために、み子はご自身の肉を十字架上で裂いてくださり、血を流してくださったのです。
主イエスはご自分を遣わされた神さまの御心も御業も退ける人間の闇のただ中で、その闇の底から、父なる神に向かって最後の言葉を大声で叫ばれました。人の罪も死も全てを神さまにゆだねて、息を引き取られました。この出来事を見つめていたのが、主の傍にいたもう一人の人物、ローマ軍の百人隊長です。この人は死刑の判決を受けた者たちを刑場に引いてきて、その処刑を実行する役割を担っていました。処刑の実際を担ってきた責任者であるこの人が、不当な判決によって殺されるのに誰かを呪うことなく、「父よ」と呼びかけている神が十字架から自分を救い出すことをしないのに、神を呪うこともなく、死に瀕しても「父よ」と呼んで信頼し通し、自分と、自分に託された全ての者を神に委ねて命を手放す主イエスの死に接し、「本当に、この人は正しい人だった」と言います。無実の人間を処刑してしまったことを悟っただけであれば、自分のしたことに打ちのめされたり、このようなことを自分に実行させた上のものを恨んだりしたことでしょう。しかしこの百人隊長は神さまを賛美します。無実の人間が処刑されたこと以上のことが起きたことを、内なる目で見出だしたのです。このイエスという方において正しいことが成し遂げられたと、この人は正しかったのだと、その正しさはこの人が「父よ」と呼ぶ神からもたらされた正しさなのだと、知りました。犯罪人の一人が十字架の上で変わって行ったように、この異邦人の百人隊長の中で見えるものが大きく変わり、神さまを賛美することへと、つまり神さまを礼拝する者へと、変えられていったのです。
変化は、周りで見ていた群衆の間にも起こりました。この群衆の内の多くの者は、主イエスを「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた人々でありましょう。死刑を実現させた者の最期を見物しようと集まっていた人々は皆、主イエスの死の出来事を見て、胸を打ち叩きました。死に値する罪人の死を見届けるつもりだったのに、自分がしたことは正しい方を死へと追いやることだったのだと、この方は本当に神が遣わされた方だったのだと知るようになっています。人々は胸を打ちながら帰って行きます。ある人は、この「「帰って行った」と訳された言葉は聖書において「神を賛美する方向へと変える」というニュアンスを持つ場合が多いように思われる」と述べています。主イエスの死によって群衆の一人一人の中で悔い改めが起こり、主イエスを仰ぐことへと方向転換が起こり始めていたのです。
福音書は更にもう一人、主イエスの傍らに居た者のことを記します。主イエスの死において、傍らに居ることへと変えられた者とも言えるでしょう。ユダヤの議会の議員であり、神の国を待ち望んでいた、アリマタヤ出身のヨセフです。主イエスを殺そうとする議会の決定の中に議員としていたこの人は、仲間の議員たちの、イエスを死に当たる者として総督ピラトに訴える決議に同意しませんでした。同意しなかったのはおそらくヨセフ一人だったのではないでしょうか。それはこの人が「善良な正しい人」であり、「神の国を待ち望んでいたから」だと、つまり神さまのご支配が主イエスによってもたらされると信じていたからとされています。同意しなかったということの他、議会の決定の過程でヨセフがどのように行動したのかは、記されていません。ヨセフは議会の決議を覆すことはできず、主イエスはピラトの所に送られ、議会が終始求め続けた通り殺されてしまいました。
ヨセフは、主の死の直後から思い切った行動をとり始めます。ピラトの所に行き、遺体を渡してくれるようにと交渉し、遺体を十字架から降ろし、亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことの無い岩に掘った自分の墓に埋葬しました。そのような行動を取れば、議員としての立場に今後大きな影響があるかもしれません。それでもヨセフは勇気を出して行動を起こします。主の死によって、それまで信じていたことが、確信へと変わったのではないでしょうか。主イエスによって神さまが成し遂げようとされていたみ業への思いを、主イエスの死への深い嘆きを、行動で表しました。恐れながら主イエスを死の出来事を見つめていたヨセフの中で、変化が起きたのです。
ルカによる福音書は、その他の人々のことも伝えます。早い段階から主イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちが、主の死とそこで起きた出来事を遠くから見ていたと、またヨセフが遺体を墓に埋葬する様子を婦人たちが見ていたことを記しています。十字架上の犯罪人や百人隊長、群衆、ヨセフが、悔い改め、望みを抱き、信仰を言葉で言い表し、神さまを賛美し、胸を打ち叩き、大胆にも遺体の引き取りを願い出たのとは対照的に、以前から主イエスを知り、主に従ってきた人々については、「見ていた」としか述べられていません。主イエスにより近く従っていたはずの弟子たちは、既に主イエスの逮捕の際に主イエスを見捨てており、十字架の場面では登場もしていないのです。
十字架に近いところにいた人々、つまり主イエスの死の出来事を傍で見つめていた人々において先ず、主の死が神さまの出来事となりました。この後、イースターの朝、婦人の弟子たちが、そして他の弟子たちが、み子の死を神さまの出来事として受け留めることへと変わっていきます。死が罪の裁きであり絶望でしかなかった一人一人に、主の死によって望みがもたらされていきます。
古来教会は、使徒信条を告白することにおいて、主イエスの死を見つめてきました。極力言葉をそぎ落とした使徒信条の文ですが、主イエスの死を述べるために、「十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり」と述べ、また復活についても「死人のうちから」と更に主の死を言い表します。主イエスが受けられた苦しみと死の事実を明らかな言葉で何度も繰り返し、確認しています。「陰府」と言う言葉は、死んだ人すべてがゆくところ、神さまから遠く離れたところ、更には神がおられず、賛美も感謝も無いところといった理解が、聖書でなされています。み子は十字架の死に至るまでも、死そのものにおいても、徹底的に苦しみと死に対峙されました。そのキリストの苦しみと死とによって、私たちを、罪の裁きによる死の苦しみから解き放ってくださったと、古より教会は声を合わせて告白し、共にアーメンと唱えてきました。私たちが言い難い不安と苦しみに押しつぶされそうな思いでいる時に、主イエスが既に徹底的に苦しみと神さまから遠くされる恐れを受けてくださったことを思い起こし確信するために、この信条によって今日も私たちの信仰を、大切に告白したいと思います。