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2022.6.26. 主日礼拝
エゼキエル47:8-9、ヨハネ4:7-15
「永遠の命に至る水」浅原一泰
彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れていく所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」といった。ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
カナンの地一帯にはよく知られた湖が二つある。一つはガリラヤ湖、もう一つは死海である。死の海と書く死海の塩分は海水の十倍と言われ、生物が生存することは一切不可能である。文字通りそこは死の世界、光なき世界であり、まさしくそれは、あの創世記冒頭に出て来る天地創造が始まる前、「光あれ」と神が言われる前の、闇と深淵に覆われた混沌たる世界の象徴であったかもしれない。先ほどは旧約聖書からエゼキエル47章の8節と9節を読んでいただいたが、その後に続く10節には地名が出て来る。「漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干すところとする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海（おおうみ）の魚（うお）のように非常に多くなる」と記されている。このエン・ゲディやエン・エグライムというのは、死海のほとりにある地名である。しかし「命の水」が汚れた海(死海)に入って行くと水はきれいになり、すべてのものが生き返る、と言われていた。
このエゼキエルの預言は、目に見える形では実現していない。依然として死海には生物が生存し得ないからである。科学的・合理的には確かにそれが結論であろう。しかし、目に見える形がそうなら目に見えないところでも実現していないのだろうか。「あり得ない」と言い切れるのだろうか。「神に出来ないことは何一つない」(ルカ1:37)。むしろ聖書はそこから始まる何かを証しし続けているのではないだろうか。
ロシアがウクライナ侵攻を開始してから四カ月が過ぎた。現在でも死者の数は増え続けており、奇しくも国民の四人に一人が住む家を失くし、難民となっているという。教えている学校のある男子生徒が、出来るものならプーチンに石を投げてやりたいと本音では思うが、神様はそれを許さないだろう、と話していた。本当に大切なのは復讐でもなければ、犯人捜しでもない。83年前の1939年9月。ナチスドイツがポーランドに侵攻し、その僅か二週間後、後を追うように当時のソ連がポーランドに侵攻したことによって第二次世界大戦の幕が切って落とされた。戦後は犯人捜しの責任追及ごっこへと人間の関心は向けられ、ヒトラーやスターリンだけが悪者のように思い込まされてきたが、未だこの時点でヒトラーは平和的な解決を求めていたらしい。その彼がポーランド侵攻に踏み切ったのは、一部の人間たち（ユダヤ人の銀行家たち）の謀略によって誤った情報が流されたからだ、と聞いたことがある。まんまとその偽情報に操られてヨーロッパの国同士は対話ではなく敵意を抱き続け、遂には泥沼の第二次世界大戦が始まっていった、というわけである。アダムは確かに神に背いたが、アダムとエバを騙した狡猾な蛇がいた、ということと似ているかもしれない。今の欧米各国が一方的にロシアを非難するだけでは、更にはロシアを敵視して復讐の狼煙を挙げることにでもなれば第三次世界大戦につながりかねないだろう。
それは想像がつくシナリオである。目に浮かぶ光景である。見えるからこそ説得力がある。しかし目に見えないところにこそ神の業がある。聖書はそのことを証しし続けて来た。創世記４章に兄カインが妬みゆえに罪なき弟アベルを殺した出来事が記されているが、その直後に神はカインが誰からも復讐されることのないよう、彼が殺されることのないようしるしを付けていた。そうすることで神は、カインが自らが犯した罪の重みを自覚し、受け止め、真の悔い改めへと導かれて弟アベルの分まで神と向き合って生きるよう、カインに求めた。「やられたらやり返す」という本能がある人間には、カインを依怙贔屓しすぎだ、死んだアベルが報われない、と思えてしまう。「けじめ」という耳障りの良い言葉を振りかざして実はそうして多数の人間が少数の者を追い詰めている。しかしふと思うことがある。実は人間がそう考えるよう仕向けているのはサタンなのではないか。神はむしろ、復讐されることのないよう命ある者すべてにしるしをつけて一人一人を守り、悔い改めさせて真の命へ、永遠の命へと生まれ変わらせようとしているのではないだろうか。
「ユダヤ人のあなたがどうしてサマリア人の私に、水を飲ませて欲しいと頼むのですか。」サマリアの女性はイエスに問うていた。ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである、とも聖書は伝えていた。イエスの時代、確かにユダヤ人はサマリア人のことを蔑視し、人として認めてはいなかった。エルサレムの神殿にサマリア人が入ることを決して許さなかった。アブラハム以来の血の純潔を守っている我々ユダヤ人と違って、異邦人の血が混ざりこんだサマリア人は汚れている、というのが理由である。ましてこの時代の女性は社会の片隅に置かれ、やもめなどは虐げられるなどの著しい差別を受けていた。だから「水を飲ませて下さい」と頼んできたイエスにサマリアの女性は驚き、「なぜユダヤ人男性のあなたがサマリア人の女の私に頼みごとなどするのか」、と訊ねたわけである。今のウクライナの女性にロシア兵の一人が同じように「水を飲ませて下さい」と頼んだら、その女性は怒りと恨みから、そのロシア兵に発砲する可能性だってないとは言えない。それが分かっているからこそロシア兵は、むしろ銃を突き付けて「水を飲ませろ」と威嚇するに決まっている。そうならざるを得ないと人間たちに思わせていくのはサタンに操られているからだ、と聖書は気づかせたいのではないだろうか。気づかせたいからこそ、そういう人間一人一人に神はしるしを付けて守っている。誰からも復讐されることのないよう命を守ってその人間を立ち止まらせ、悔い改めさせ、生まれ変わらせようとしている。気づかせたいからこそ神はイエスという人間の姿形を取って、自分の方から「水を飲ませて下さい」と、闇の中に住む人間に語りかけていた。
「ユダヤ人のあなたがどうしてサマリア人の私に、水を飲ませて欲しいと頼むのですか。」この時の彼女は、ユダヤ人に対する敵意と警戒心と猜疑心に満ちていた。サタンに操られている人間にそれは理解できるし、目に浮かぶ光景である。しかしイエスは、目に見える世界に縛り付けられていた彼女を、目には見えない世界へと誘い始めた。それがこのイエスの言葉である。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
見えないものしか信じない彼女は、あなたはくむ物をもっていないのに水を汲めるのか、この井戸を子孫に与えたあの族長ヤコブよりもあなたは偉いのか、とイエスに食って掛かる。それだけのことのように見えるこの場面にも、実は目に見えないところで働く神の業が隠されていた。女性が差別されていたこの時代、多くの女性は男から何か言われたらうつむき、立ち去るしかない場面が多かった筈だ。元はと言えばそれもあのアダムとエバの信頼関係を破壊させたサタンの思惑通りだった。しかしサタンは、荒れ野の誘惑から十字架の死に至るまで。決してイエスには立ち打ちできない。これはもっと教会が信じるべきことだと思う。だからこそマグダラのマリアであれ、長血の女であれ、このサマリアの女であれ、そのような彼女たちの顔を上げさせ、思っていることを率直にぶつけさせるだけの、彼女たちに心を開かせる神の業が、イエスを通して実現していた。そうして、言いたいことを言いたいだけ彼女に言わせた上でイエスは答えた。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
「渇く」というのも誰もが想定できる、目に浮かぶ光景である。彼女の言うヤコブの井戸の水も、飲み水という目に見える水である。その水は確かに渇きを潤せるだろうが、それは一時だけのことである。所詮は死で終わる命を一瞬和ませる働きしかない。だからこそ、「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とイエスは言われた。それは目に見える飲み水とはまったくもって非なるものだったからである。それこそが「生きた水」であり、しかもそれは「目に見えない水」であった。
説教の初めに紹介した、命なく、光なく、闇しかない死海の水をきれいにし、そこにいるものすべてを生き返らせる水。その水も目には見えない。エゼキエルは、それは未だ地上には完成していない神の真の神殿の聖域から流れてくる水だと伝えているが、エゼキエルから約500年余り後、闇の中に生きるしかなく、死の陰の地に住むことしか知らなかった人類に対して、その命の水を自ら一人一人に持ち寄り、惜しみなく降り注ぐ方、そのために人の姿形を取ってこの世に来られた方がこの時、サマリア人の彼女の目の前に立ち、語りかけていた。その方は闇の中で栄華を極めている者・極めようとしている者のもとには来なかった。むしろ闇の中で虐げられ、はじかれ、生きる希望を見出せない罪人、徴税人、病人、そしてやもめなどにこそ歩み寄り、語りかけられた。その徴税人や病人、またこの時のサマリアの彼女の姿は、今礼拝へと召し集められている我々自身だと思うのである。そしてイエスの「与える生きた水」、「決して渇くことがない永遠の命に至る水」というのは飲み水ではなく、目には見えなくても永遠の命へと生まれ変わらせるあの聖霊のことだったのだと。そのことに今、ご一緒に気づかされたいのである。
既にキリスト者とされている我々は皆、目に見える形としては水のバプテスマを受けている。しかしそれだけでは渇きを覚えるからこそ我々は教会に来ようとするところがある。教会と言えども罪なき平安な場所ではなく、汚れた海のような部分があることに幻滅して教会から離れて行ったキリスト者も少なくない。それは水のバプテスマがもたらす結果かもしれない。目に見えない神を忘れ、人間しか見えなくなれば誰もがまた渇くのである。彼女も「渇くことがないようにその水を下さい」とせがんでいた。けれどもイエスは、サマリアの女性にそもそもイエスの方から語りかけることで神との出会いを実現させていた。イエスの言葉を勘違いして道を踏み外しそうになっても、イエスは気づかぬうちに彼女を引き戻し、生き返らせていく。死で終わる肉の命よりも、死で終わることのない、神の国で終わることなく神をほめたたえる永遠の命をこそ慕い求める者へと生まれ変わらせていく。そのプロセスは目には見えない。しかしイエスは彼女を、我々一人一人をも水のバプテスマだけではなく、聖霊のバプテスマを受けさせる。それ以来、イエスが与える聖霊と言う名の、永遠の命に至る水が一人一人の内に泉となってわき溢れ始めている。彼女の話を聞いたサマリアの人々も皆イエスを信じたとヨハネ４章の最後に伝えられているように、その水は闇の中にいる隣人にも流れている。目に見える形がどうであれ、教会は、またそこへとつながれている我々はその神の働きの中で生かされている。ペンテコステが過ぎた今も、聖霊が注がれていることの恵みの深さを忘れることのないよう、我々の心に思い起こさせてくださる神の御名をご一緒にほめたたえたい。