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Sunday, September 07, 2008
２００７年にはじめた「在日朝鮮人歴史・人権週間」、２００８年は８月３０日・３１日にさいたまの大宮ソニックホールで開催しました。テーマは関東大震災時の朝鮮人虐殺８５周年。
最初に朝鮮人虐殺をテーマにした演劇が行われました。大阪を拠点とする劇団タルオルムです。 シンポジウムは、関東大震災朝鮮人虐殺を調査・研究してきた石田貞（埼玉県朝鮮人強制連行真相調査団）、歴史学者の山田昭次（立教大学名誉教授）、日弁連勧告を担当した梓澤和幸（弁護士）、そして私。その後、各地の歴史研究や在日朝鮮人の人権に関する報告が行われました。 私だけ素人ですが、関東大震災朝鮮人虐殺を国際基準で評価し、ジェノサイドとして把握するべきだという報告をしました。１９１５年のアルメニア・ジェノサイドが最初のジェノサイドです。普通はその次にナチス・ドイツのユダヤ人虐殺が続きます。しかし、関東大震災朝鮮人ジェノサイドが２番目のジェノサイドです。
最初に朝鮮人虐殺をテーマにした演劇が行われました。大阪を拠点とする劇団タルオルムです。
シンポジウムは、関東大震災朝鮮人虐殺を調査・研究してきた石田貞（埼玉県朝鮮人強制連行真相調査団）、歴史学者の山田昭次（立教大学名誉教授）、日弁連勧告を担当した梓澤和幸（弁護士）、そして私。その後、各地の歴史研究や在日朝鮮人の人権に関する報告が行われました。
私だけ素人ですが、関東大震災朝鮮人虐殺を国際基準で評価し、ジェノサイドとして把握するべきだという報告をしました。１９１５年のアルメニア・ジェノサイドが最初のジェノサイドです。普通はその次にナチス・ドイツのユダヤ人虐殺が続きます。しかし、関東大震災朝鮮人ジェノサイドが２番目のジェノサイドです。
Friday, September 05, 2008
ジュネーヴの国連欧州本部で開かれた人権理事会・諮問委員会第１会期を少しだけ傍聴してきました。わからないことが多いのですが、ごくごく大雑把に紹介しておきます。詳しいことを知りたい方は、国連人権高等弁務官事務所のサイトをご覧ください。
国連人権理事会・諮問委員会
１）諮問委員会とは
２００６年の国連総会で人権理事会Human Rights Councilが設置されることになりました。 それまでの人権委員会を廃止して、新たに人権理事会としました。安保理事会や経済社会理事会と同じレベルに、つまり形式上は格上げです（実態がどうかは評価が分かれているようです）。
２００７年６月の人権理事会で、人権理事会に諮問委員会Advisory Committeeを設置することに決まりました。
諮問委員会の仕事とは、人権理事会の要請にこたえて専門的に研究・調査することです。人権理事会の要請だけに基づき、限定されたテーマについて、すなわち「人権の促進と保護」のための調査・研究を行ないます。
諮問委員会は、決議や決定を行なうことはありません。人権理事会の諮問の範囲内で提案ができます。
（人権委員会が人権理事会に移行し、人権小委員会が諮問委員会に移行したと考えるとわかりやすいのですが、諮問委員会の活動内容にはかなり厳しい枠が設定されています。人権小委員会はやりすぎだったという評価がなされたのかもしれません）。
２）諮問委員の構成
次の１８名です。
ベンゴア△（チリ）、バーネイ（パキスタン）、シク・チェン△（中国）、鄭鎮星△♥（韓国、ソウル大学教授）、デコー△（フランス）、フィクス・フィエロ（メキシコ）、ハインツ（ドイツ）、フセイノフ（アゼルバイジャン）、カイガマ（ナイジェリア）、カルタシュキン△（ロシア）、マルティネス△（キューバ）、ムドー（ケニア）、キスンビン♥（フィリピン）、坂元茂樹（神戸大学教授）、セーツルシン（モーリシャス）、ワルザジ△♥（モロッコ）、ジーグラー（スイス）、ズルフィカー♥（エジプト）
△ 人権小委員会の委員または副委員経験者
♥ 女性
諮問委員会は人権小委員会とは違うということが強調されていたようですし、第１会期の議論でも大きな論点になっていましたが、実際は３分の１以上が継続です。女性は４名です。
議長選出の際、ベンゴアやワルザジがマルティネスを推薦して、その通り決まりましたが、推薦理由は、マルティネスはベテランで経験豊富で人権小委員の経験も長いから、ということが繰り返されていました。その後の議論も、ベンゴア、デコー、ワルザジ、カルタシュキンがリードしていました。はじめてきた委員はやはり発言しにくいようでした。 やむを得ませんが。
３）日程
８月４日から１５日まで、土日を除く１０日間。
かつて人権小委員会は４週間でし た。２００１年頃から３週間に短縮。そして諮問委員会は２週間。開会当初の発言は、２週間で何ができるか、どう進めるかに費やされていました。
４）暫定議題
１．議長団選出
２．議題の採択
３．人権理事会決議「諮問委員会」付録の履行
４．人権理事会からの要請
５．第１会期の報告書
＊ 実際には３と４が逆になりました。
実際の３の「人権理事会からの要請」は、次の内容を含んでいます。
ａ 人権教育・訓練
ｂ 食料の権利
ｃ 女性の人権
ｄ 民主的公平な国際秩序の促進
ｅ 失踪者
ｆ 障害者の人権
ｇ ハンセン病者とその家族に対する差別の撤廃
Thursday, September 04, 2008
悲惨な戦争が起きて、ジョニーは戦いに行かなければならない。朝から晩までジョニーといたいのに。私の心は悲しみに沈む。あなたと離れたくないのに――。
愛する者を戦争に行かせたくない思いを歌い上げたピーター・ポール＆マリー（ＰＰ＆Ｍ）の「悲惨な戦争（Cruel War）」を、初めて聞いたのはいつのことだったろう。正確には記憶していない。
初めて歌ったのは中学２年の夏だった。ギター習いたての友人を囲んで譜面を追いかけながら。仲間内では文字通り「狂える戦争」と呼んでいた。各地で同じように呼んでいたのではないだろうか。
「悲しみのジェットプレーン」「パフ」「花はどこへ行った」「風に吹かれて」「天使のハンマー」・・・。ＰＰ＆Ｍの爽やかな歌声はどれも心に残るが、「悲惨な戦争」は格別だった。ヴェトナム戦争について明確な認識を持っていたわけではない。なんとなく戦争に反対していただけだが。
「悲惨な戦争」を歌わなくなったのはいつだろうか。のんきに遊んでいた大学時代にすでに歌わなくなっていたが、意識的に歌わなくなったのは大学院時代だ。理由は簡単だ。愛する者を戦争に送りたくない気持ちは大切だが、アメリカはいつも殺す側にあるのに、被害者のことが視野の中にないからだ。「悲惨な戦争」の被害者は誰なのか。
カブールに初めて行ったのは２００３年９月初旬だった。ＮＧＯの「グローバル・エクスチェンジ」の協力を得て、戦争被害者から聞き取り調査を行った。アフガニスタン戦争で集中的に空爆されたのはカンダハル周辺であり、首都カブールはそれほど多かったわけではない。それでも市内各所に空爆跡地があり、被害者遺族がひっそりと暮らしていた。タリバン政権が打倒され北部同盟軍が町を占拠し、実際には米軍が支配していたから、米軍の空爆による被害を声高に訴えることはできない。それはカルザイ政権になって以後も同じだ。
最初の調査で取材したのは、ベマル丘の麓で爆撃被害にあった２家族であった。ベマル丘の上にタリバンの対空砲があったためにＢ５２が爆撃したが、麓の住宅地への「誤爆」となったようだ。
マイダン出身のハザラ人のサヒーブ・ダード（３８歳、取材当時）は市場で販売員をしながら、結婚してベマルに住んでいた。カブール郊外のベマル丘の反対側で、貧しい住宅地である。誤爆によって家は崩壊し、９歳の娘と１歳の息子が亡くなった。娘はすでに家事や弟の世話をする明るい子だった。
隣家も完全崩壊した。ハザラ人のアリファ（３３歳）は、絨毯職人の夫と暮らしていた。爆弾の直撃で家の中にいた８人が全員死亡した。夫、アリファの子どもが1人、もう一人の妻とその子ども５人である。家の外にいたアリファと６人の子どもが生き残った。
近くの墓地にお墓がつくられていた。地面に石が１０個並んでいて、周囲に緑の旗が立てられていた。アフガニスタンでは殉教者や戦争犠牲者のお墓に緑の旗を立てる。
住宅地の中心に小さなモスクと井戸がある。礼拝の時間になると人々はモスクに集まってくる。水道設備のないベマルの人々はこの井戸を利用する。しかし、井戸は放射能に汚染されている疑いがある。カナダのウラニウム医療センターの調査では、サヒーブ・ダードの長男の尿から自然界の２００倍の放射能が検出されている。
ベマル丘に登ってみる。小さな丘で頂上は少し平坦になっている。何もない。タリバンが使っていたという対空砲が３台放置されている。対空砲などというが、古くて小さい。Ｂ５２に届くはずもない。むしろ、人間や戦車相手の小型射撃砲だ。
ベマル丘からはカブールの町並みがよく見渡せる。すぐ麓はアクバル・カン町、その向こうが町の中心部のシャリナウ町、カブール川をはさんで旧市街、アサマイ山の裏側にカブール大学や三番町、四番町などの住宅街が続く。
明日は日曜で、月曜が出征の日だ。召集がかかっているので、あなたは応じなければならない。私の心は悲しみに沈む。あなたと離れたくないのに――。
カブールの人々は、どれだけ「悲惨な戦争」を歌ってきただろうか。ソ連による侵略、その後の内戦、タリバンの恐怖政治、そしてアメリカによる侵略。３０年に及ぶ悲惨な戦争に倒れた若者たち、巻き込まれて亡くなった住民たち、生き延びても自由も食料もなく苦しんできた人々。
現地調査に協力してくれたグローバル・エクスチェンジは、アメリカ市民とアフガニスタン市民の出会いと共感の場を設ける努力をしていた。殺す側に立たされるアメリカの若者と、殺される側のアフガニスタン市民。愛する者を戦争に行かせたくない気持ちは、どの家族にとっても同じだろう。
どこまでも青い空の下、気分は晴れないまま、４半世紀ぶりに「悲惨な戦争」を呟くように歌った。