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アイガー東山稜登攀
ツェルマット中心の登山を終ってグリンデルヴァルトに帰ると、前からのアイガー東山稜登攀の計画を話し合っていたエミールに相談し試みようと決した。ブラヴァンドとも語り、さらにフリッツ・ストイリとアマターとを加えて案を練った。この尾根は、長い間多くの人々によって試みられたが、その日まで未登のままに残って難物といわれていた。アマターは、スイス屈指の山案内人でこの尾根を前に二度も試みたこともあり、その初登攀を生涯の念願としていた。
万端用意を調えて九月九日村を出発、ユングフラウ鉄道のアイスメーヤで下車、フィルンを渡ってアイガー東山稜に取り付いた。この登攀に初めから相談していたエミールは盲腸炎手術後のため参加できなかったので、一行はアマター、フリッツ・ストイリ、ブラヴァンドと私の四人となった。狭い尾根に一夜を明かし、翌早朝から登り出した。この登攀で最も困難な場所は約二〇〇メートルばかりの急峻で幅のない懸崖であった。朝の九時から午後の五時までかかってここを登り切った。この登攀は時問を超越した緊張の場であった。頂上に立ったのは夕方の七時で、下山は西側の崖を下るのであるが、夜の闇のため意外に時問を要し、裾のユングフラウ鉄道のアイガーグレッチャー駅に着いたのは翌朝三時であった。
この初登攀についても前述の拙著に発表しているので詳細の説明は避けたいが、準備の構想の中心となったのはアマターの経験である。頂上近くに現われる約二〇〇メートルの悪場と、その途中にあるオーヴァーハングを越すために、六メートルばかりの丸太棒を用意し、上端にかぎ縄をかけるための鉤を付け、下端に三本の石突を作り、その一本は根元を輸にして自由に回転するようにした。これは岩壁の傾斜面に、何時も三本の石突が立っようにするためであった。またその他に四種類の鉤三十本と、これを岩の隙に打ちこむための金鎚と、鉤と岩との問を埋めて固定するための木製の楔とか、登山用ロープは三〇メートル二本、六〇メートル一本、何れも英国山岳会証明付の丈夫なものである。露営のためのテントは、まだナイロンなどのない時代なので、重量と、山稜が狭くて張れないため使わず、代りに毛布二枚を用意した。また足の凍傷を防ぐために、山靴の上から穿くこどのできるように、カバーを毛布で作った。これは見た形が不格好なので象足と名付けたが、後年わが国の冬山でも、改良されて一般に用いられるようになった。
アルプスの初登頂は十九世紀の後半には、ほとんど終って、その後は残されたより困難なルートを求めるようになった。このアイガー東山稜は、最後まで残ったものであった。そのためでもあろうか、私たち登攀の成功は高く評価され、村人たちからも温く歓迎された。これは私にとって予想もしなかったことであった。というのは、宿の居室から日夜、仰いでいたこの山稜は、私には親しみ深いものとなっていたし、もし機会があれば試みたいとは思った。しかしこれまでの登山を、この山稜の試みへの準備などと考えたことはなかった。しかし結果的には、二ヶ年にわたる登山によって得た経験と鍛練の最後の試練となったのであった。
当時グリンデルヴァルトに登山者として、またアルプスの歴史に関しては、その右に出ずるものなきクーリッジ氏（一八五〇−一九二六）が、孤独な晩年を静かに送っていた。私はこの大先輩の謦咳に接したく思いながら、何か気後れして訪ねかねていた。というのはクーリッジ氏は、嘗てある山稜についてのウィムパーのスケッチ（ウィムパーは画家であって、その頃は写真はなく、すべてスケッチに頼っていた）が誤りであると指摘し、論争の締果、仲違いして絶交した。しかしこの仲違いも、ウィムパーの晩年に互いに仲直りしたのであったが、そんな印象が私の足を鈍らしていたらしい。
ある日、私はアイガー東山稜で撮った写真を持って訪ねた。村の下方の二階建のシャレーに老僕を相手に住んでいた。クーリッジ氏は、私の訪問を待っていてくれたらしく、玄関に迎えた。前屈みの老人は真白な長鬚をたくわえていた。危い足許で私を二階の書斎に導いて互いに座した。私は氏の著書の愛読者であること、今日まで幾度か訪ねようと思って決心しかねたことなどを語った。氏は、自分は鬼ではない。なぜもっと早く訪ねてくれなかったか、と言って私の東山稜登攀を激賞してくれた。そして私の示した写真を一枚ずつ見て、難場にかかったときの一枚だけを取り上げ、これはよいといった。私はそのとき、老大家の真面目を見たと思った。寡言な老人の体は不自由であったが白い睫毛のかかる眼鏡の底に光る眼は鋭かった。
それからは茶菓のもてなしを受けながら、思い出話とか蔵書についての話を聞いた。書斎の入口の戸に小さな犬の首輸が掛けてあったのを取り外しで示した。この頸輪に付いている金具には、幾つかの山の名が刻んであった。この犬の名をチンゲルといい、孤独なクーリッジ氏の登山の伴侶であり、一緒に初登頂した山にチンゲルホルンという名を残している。また書架から部厚いラテン語の本を取って開き、ここに出ている雪崩という語は、最古のものであると語った。また古く薄い小冊子を示して、アルプスの歴史上、この一冊だけが現存する貴重なものだとも話してくれた。学者であり蔵書家であった老人の話題は尽きず、署名をして蔵書目録を与えられ、私も腰を落ち着けて長話をして帰ったが、この対面が最初で、その後再び訪ねる機会もなく過ぎた。
もう一人私の登攀を喜んでくれた人がいた。川北先生という新潟医大の教授であった。マルセーユからスイスのインターラーケンにまっすぐに来て、明け暮れユングフラウの雪峰を眺め、期限が切れるとまたマルセーユから帰国した、物静かで温い無欲の老人であった。有り金の全部を宿の老夫妻に預け、そこから小遣銭を貰っていた。この湖畔の小さな避暑地は夏以外はホテルは閉めて閑散としていた。町の人たちは川北先生をプロフェッサーと称んで尊敬し親しんでいた。なかでも人の好い道路の馬糞掃除人は、道で川北先生を見付けると一丁も先きから道具を捨てて挨拶に寄って来た。その汚れた手で握手されるのが嫌で、その姿を見るといち早く横丁に隠れるのであった。私は登攀の報告に訪ねた。すると川北先生は、遠い日本では君のした仕事は判ってくれまいがそれで好いのだといって、少し高価な葡萄酒で乾杯して下さった。もう一人私の東山稜初登攀を認めてくれた人に、ロンドンのウェストン師があった。