Document ID: /fineweb-2-swissfilter-quality_10-filterrobots/filtered/00722.jsonl.gz/33

18世紀、啓蒙の世紀を代表する思想家ジャン・ジャック・ルソー。彼の生まれた1712年はジュネーブ共和国がスイス連邦に加盟していなかったためここでは「外国人」として扱う。しかし、『社会契約論』に見られる民主主義の土台は共和制を強いたジュネーブだからこそ培われた考え方だった。このコンテンツは 2005/02/10 10:09
「ジュネーブ市民」と著書にサインしたルソーだが、ルソーとジュネーブの間には深い愛憎があった。逃亡中に市民権放棄を宣言するが、それでも彼は一生ジュネーブに郷愁を抱き、華やかなパリの宮廷生活よりスイス風なシンプルな生き方を好んだ。
ジュネーブを歩くと到る所にあるルソー縁の地。旧市街の生家、グラン・リュ（大通り）40番地だけではない。コルナバン駅に続くルソー通り。レマン湖に浮かぶルソーの銅像のあるルソー島。社会契約通り、サボワ助司祭通り（エミールに登場）。ジュネーブ市が彼を誇りにしているのは明らかだ。しかし、当時のルソーとジュネーブの関係は彼の人生と同様に波乱に満ちたものだった。
ジュネーブ市民の誇り
1712年、ルソーは時計職人の息子としてジュネーブに生まれる。母親は間もなく死亡、11歳で父親が失踪したため牧師に預けられる。それでも、祖国愛の強かった父親の想い出を回想している。『タランベールへの手紙』（1758年）で「この立派なジュネーブ人達が見えるか。彼らは皆友達であり、兄弟なのだよ.…私のように旅におもむくこともあろうが、ジュネーブ人と似た人々には決して出会うことはないだろうよ」（ルソーの生家資料から）という父の言葉を記述している。その後、ジュネーブの版画師のところへ見習いに入るが、厳しさに耐えられず16歳で出奔。彼のフランスでの放浪と活躍が始まる。
共和制のジュネーブ
旧市街にある、ルソー生家エスパス・ルソー（Espace Rousseau）の責任者、イザベル・フェラーリ氏は「ジュネーブはサボワ王家やフランスなどの王制に囲まれながらも16世紀以来、民主政治の土台のようなものがあった」と語る。市民が市政に参加する大評議会と貴族が牛耳る小評議会が両立する政治制度があった。18世紀には貴族の寡頭政治が台頭しつつあり、それをルソーは強く批判していたという。「主権は人民にあり、政府は権力を委任された機関に過ぎない」−から始まる『社会契約論』はそういったジュネーブの共和制の環境から培われたのである。しかし、その『社会契約論』（1762年）がジュネーブの貴族の気に触ったのは言うまでもない。パリでもパリ高等法院が『エミール』（1762年）とともにこれを焚書とし、逮捕状が出る。以後、各地を転々とするルソーの逃亡生活が始まる。
束の間の安息の地モティエ
ルソーは友人をつてに現スイス西部ヌシャテルのモティエに1762年から1765年の3年間落ち着く。ヌシャテルは当時プロイセンの庇護下にあったため、フリードリッヒ2世へ宛てた手紙が残っている。手紙には「今まであなたについて、多くの悪い事を言ってきました。これからも、言うかもしれません。しかしながら、フランスから、ジュネーブから、ベルンから追い出され、あなたのところに避難に来ました…」とある。モティエのルソー博物館のフランソワ・マテイ氏は「この手紙はルソーとプロイセン王の契約であり、王に庇護を求めているわけではない」と語る。なお、ここで、ルソーは内縁の妻テレーズと供にモティエで親切な人々に囲まれて初めて家庭的雰囲気を味わうことができたという。博物館には当時のままの部屋に版画や彫像などが展示されている。ここで一生を終えるつもりだったルソーだが、反対派の追求から逃れられず、ついにモティエからも逃げ出さざるを得なくなる。
スイスブームの発端
ルソー著の18世紀の大ベストセラー恋愛小説『新エロイーズ』（1761年）はヴォー州のクラランスが舞台だ。この影響で19世紀にはスイスブームが起こり、英国詩人バイロン卿などがレマン湖畔を訪れる。美しい叙述的な自然描写が後のロマン主義文学の先駆けになったと言われる。「ルソーは簡素なものを食べる素朴で戦争が嫌いなスイス人といった１9世紀のスイスのイメージを創った」と前出のフェラーリ氏がいう。また、ヌシャテルの博物館のマテイ氏は「ルソーは偉大なフランス人作家であり、イタリアの音楽家であり、心はスイス人だった」と評する。
ルソーとジュネーブの愛憎
政府とカトリック教会の弾圧を受けていた亡命生活中、ルソーはヌシャテルからヌシャテル市民権を授かる。そこで思い余ってかジュネーブの市民権を放棄することにした。その思いが書かれた書簡（1763年）が昨年末、パリのサザビーズでオークションにかけられた。「聞いてもらえなかったが私の思いはもう語った。そのため、ジュネーブの市民権を放棄することを声高く宣言する…もう、決してジュネーブに足を運ばないだろうし、生きているうちに市民権を取り戻すことはないだろう」との内容の手書き書簡だ。これを16,800ユーロ（約228万円）で買ったのは他でもない、ジュネーブ市（市立図書館）だった。どうやら、両者の愛憎の関係は今日まで続いているようだ。
swissinfo 屋山明乃（ややまあけの）
補足情報
ジャン・ジャック・ルソー（Jean-Jacques Rousseau, 1712〜1776年）
‐ 時計職人の息子としてジュネーブに生まれる。母は出産時に死亡。様々な職を経て16歳で放浪の旅に出てからはフランスへ。アヌシーでヴァラン男爵夫人のもとで、音楽・文学・哲学・歴史などの読書を通じて独学する。パリではディドロなど百科全書家と交友し、音楽の項目を書く。音楽家としてパリのサロンでも活躍し、作曲したオペラ『村の占い師』はルイ15世に気に入られ好評を得る。『学問・芸術論』（1750年）で名をあげ、『人間不平等起源論』（1755年）で社会を批判。数々の著書に「ジュネーブ市民」とサインする。ルソーが活躍したのはフランスだが、生まれたスイスには逃亡生活の為、戻ってくる。専制政治を批判する『社会契約論』で王制の、自然宗教論の『エミール』でカソリック教会の逆鱗に触れる。ジュネーブ評議会も両書を焚書としたため、彼はジュネーブ市民権を放棄した。1778年、パリ郊外のエルムノンビルで息を引取る。フランス革命の思想的父としてその16年後、1794年に遺骨はパリのパンテオンに移される。皮肉なことに、最大の論敵だった啓蒙思想家ヴォルテールの向かいにルソーの墓がある。民主主義の土台となる政治論ばかりでなく、音楽や小説、教育論など様々な分野で後世に影響を与え続けている。
キーワード
ジュネーブのルソーの生家(Espace Rousseau)：火曜〜日曜、11時〜17時30。日本語のオーディオガイドあり。
ヌシャテルのルソー博物館：電話予約で火曜〜日曜。032-861-1318
この記事は、旧サイトから新サイトに自動的に転送されました。表示にエラーが生じた場合は、<email-pii>に連絡してください。何卒ご理解とご協力のほどよろしくお願いします