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難民に「良し悪し」？スイス難民政策を振り返る
スイスに逃れたウクライナ難民は自由に移動でき、就労も認められている。これは他の難民には与えられてこなかった自由と言える。このように対応に差があるのは、難民に対するイメージが大いに関係している。スイスがこれまでに取ってきた難民への対応を振り返る。
- Deutsch Guter Flüchtling, falscher Flüchtling: Schweizer Positionierungen im Wandel (原文)
- Español Refugiado bueno o malo: posición suiza a través de la historia
- Português Como a política de acolho de refugiados mudou na Suíça
- 中文 瑞士人眼中的好难民，坏难民
- عربي اللاجئ الحقيقي واللاجئ المزيف: التعريفات السويسرية وتاريخها
- Français La Suisse joue à l’équilibriste entre bons et mauvais réfugiés
- Pусский «Хороший, плохой, злой»: швейцарская «культура гостеприимства» в зеркале истории
- English How Switzerland’s views on refugees have evolved
- Italiano Buon profugo, profugo fasullo: la percezione mutevole della Svizzera
ウクライナ難民を受け入れているスイスだが、その対応は1956年の状況と似ている。ソ連の戦車がハンガリーに侵入した当時、スイスでは連帯の波が広がった。教会の鐘が鳴り、人々は黙とうを捧げた。当時の報道によれば、人々は「勇猛果敢なハンガリー人による前例のない自由のための戦い」に心を打たれた。ハンガリー難民は無条件で受け入れられた。その理由を当時の連邦内閣は「スイスに来たいという希望だけで十分」と説明した。すべてのハンガリー人は自由を求めて共産主義と戦っていると一様に見なされたうえ、難民申請が認められ、スイスにおける労働と居住が認められた。
歓迎ムードの一方、異文化への不安も
しかし、当時でも誰もがこうした歓迎を受けられたわけではなかった。共産主義との戦いという構図から外れた人が難民として受け入れられる可能性はそう高くはなかった。
アルジェリア難民もハンガリー人同様に国を逃れた立場ではあったが、アルジェリアで起きたのは反植民地闘争だった。そのため、彼らは1950年代に「困窮者」として渋々受け入れられ、難民としては認められなかった。むしろ、外国人取り締まり担当の警察から「過激派」と疑われることがあった。
ハンガリー難民への歓迎ムードで沸いていたスイスだったが、1956年末にスイスへの亡命を決意したユダヤ人たちを同じように歓迎することはなかった。イスラエル、フランス、英国は1956年11月にシナイ半島を占領し、その後にエジプトがエジプト系ユダヤ人を「シオニスト」の反逆者だと宣言した。エジプト在住のユダヤ人は侮辱と暴力にさらされ、事業や店を没収されるなどされ、社会はユダヤ人迫害の一歩手前とも言える雰囲気に包まれていた。
しかし、彼らはスイスですぐに出国するよう求められた上、滞在も移動もユダヤ人団体の管理下に置かなくてはならかった。これは第二次世界大戦中にスイスのユダヤ人社会が受けた対応と同じものだった。連邦閣僚のフリートリヒ・トラウゴット・ヴァーレンは、滞在権を求める家族の件に関する書簡で、「外国人の過剰流入への懸念」を強く抱いていると記した。
「小型救命ボート」方針
難民の認定を受けるか否かは、単にスイス人がどれだけ寛容かどうかにかかっているわけではなく、それ以外の理由によるところも大きかった。19世紀、欧州の小国であるスイスにとって、難民申請を認め、身柄引き渡しを拒否することで国の主権を見せつけることができた。ゲオルク・ビューヒナー、バクーニン、レーニン、アナーキスト、ダダイストなど、迫害を受けた知識人の多くがスイスで保護されてきた。1939年の万国博覧会では、「スイスは祖国を追われた人々にとっての避難所であり、それが我々の崇高な伝統」と書かれた記念牌が掲げられた。
3年後の1942年、連邦司法警察庁長官のエドムント・フォン・シュタイガーは演説の中で、難民を受け入れてきた誇り高き「島」は「小さな救命ボート」へと縮んでしまい、「全員を乗せることができない」と語った。ユダヤ難民に対しては国境が閉ざされ、数万人が虐殺が行われた強制収容所へと直接送られた。
スイス当局の見解では、彼らは政治難民ではなかったため、難民に当たらなかった。難民として認められるのは、個人的に政治的迫害を受けた人だけだった。レジスタンス運動の参加者や急進的な知識人がそれに当たる。だが、ユダヤ人が迫害されたのは、彼らが何かを行ったからではなく、「ユダヤ人」であるという理由からだった。
スイスは第二次世界大戦末、将来の戦勝国からの批判を恐れ、開放的な難民政策を復活させた。一時的だがホロコーストの生存者を受け入れ、メディアの注目を集めた。1947年に初めて「永住難民」の資格が設けられ、51年に国連難民条約に加盟した。
連邦議会は50年代半ば、戦時下における難民政策の初の見直しを行うことにした。委託を受けたバーゼル大学のカール・ルートヴィヒ教授（刑法）は、「難民の受け入れ政策があれほど抑制的でなければ、迫害を受けた無数の人々が虐殺から逃れられたであろうことは、疑いの余地もない」と結論付けた。
この報告書は、スイスが数千人のハンガリー人を受け入れているタイミングで発表された。スイスはハンガリー難民を受け入れることで、これまでの対応を変えたことを証明した。連邦内閣は1957年に「寛大な難民政策」を約束し、難民認定を「憲法原則」とした。
地政学的に価値があれば難民認定
社会主義国出身の難民はこうした寛大な対応を受けることができた。第二次世界大戦で過ちを犯したスイスは西側諸国との連携強化を模索し、自国の立場を可能な限り明確に位置づけようとした。1960年代初めには、遠く離れた中華人民共和国から逃れたチベット難民を受け入れ、「民族性的に我々スイス人との共生に適した人々」と評価した。
同様に、スイスは1968年にチェコスロバキアからの難民も受け入れたが、難民1人1人に対する個別審査は行わなかった。共産主義国の人々は「政権を理由とした精神的苦境」にさらされていると想定された。
当時の連邦難民局外国人支援課長だったハンス・ムメンターラーは、1967年にこの方針を次のように正当化している。「難民希望者に迫害や生命の危険を証明するよう求めるのは、預言者のひげを1本提出するよう求めるようなものだ。そのような証拠は難民希望者が迫害者に捕まってからでなければ提出できないため、合理性に欠くとみなされた」
しかし、すべての政権がそう簡単に危機的状況を認定したわけではなかった。スイスは冷戦時代、自国の立場を示すうえで地政学的に有利な地域の難民を明らかに優遇していた。この選別が顕著だったのが、チリでアウグスト・ピノチェト将軍率いる右派の軍事政府が樹立された1973年だった。連邦内閣は当時、チリ難民を受け入れようとはしなかった。だが、難民保護団体から抗議を受け、チリ難民を受け入れざるを得なくなった。
難民の流入への恐れ
庇護権は70年代までは連邦内閣の自由裁量による一種の「恩赦権」だった。地政学的な理由から難民を恣意的に受け入れることがないよう、スイスは79年に難民要件に関する法律を定めた。
しかし、法律が制定されてからも難民申請件数は80年以降に増加した。世界情勢が変わり、他国と共に共産主義に対抗する国々から難民が来るようになった。80年にトルコで軍事クーデターが起き、迫害されてきた少数民族クルド人を中心に何千人もの人々がひどい扱いを受けた結果、スイスに逃れた。「政権を理由とした精神的苦境」について語る人は誰もいなくなった。
例えば、1980年代初頭、あるクルド人の難民申請に対して次のような審査結果が出された。「申請者の説明によれば、軍は強制捜査の一環で申請者を含む多数の村民を逮捕した。（中略）したがって、これは申請者を対象とした国家措置に当たらない。そのため、我々の慣行に照らし合わせると、これは難民法において特に重要なケースだとは言えない」
それまでの数十年間、共産主義国出身の難民は一律に難民法が適用される境遇にあると見なされていたが、集団への迫害はもはや難民認定の理由とされなくなった。「新しい」難民には激しい不信感が向けられるようになり、「政権を理由とした精神的苦境」は注目されなくなった。
その理由は難民の外見にあったのかもしれない。83年に内紛が勃発したスリランカからスイスに難民が逃れてきたが、褐色の肌の人たちが大規模な集団として押し寄せたのは、スイスで初のことだった（西スイスを除く）。一部の政治家は、スリランカ難民を過去の難民よりも異色な存在として考えた。例えば急進民主党のハンス・ゲオルク・リュヒンガー下院議員は84年、出身国に応じた特定集団の国外退去を求めた。「現行の難民手続きを通して、今後もタミル人にスイスへの入国を優遇することが妥当かは疑問だ。アジア出身の彼らがスイスに馴染むことはないだろう」
また、80年代初めに難民が増加したことを受け、移民が絶え間なく押し寄せてくるというイメージが定着した。そして、この流れから自分たちを守らなければならないという考えが広まっていった。当時の連邦閣僚だったエリザベート・コップ氏は85年、「難民希望以外の理由でスイスに来るすべての人たち無制限に門戸を開くことはできない」と述べた。スイスが外国人に認める権利を難民が悪用しようとしているとの考えは80年代に主流となり、初の難民法改正が行われた84年と88年には難民認定の基準が厳格化した。
恐怖の存在となった「難民希望者」
移民に詳しい専門家たちはこの時代の難民を「新しい」難民と中立的に呼んだ一方で、政治家たちはすぐに「偽の難民」と「本物の難民」に分けるようになった。「経済難民」という言葉には、難民が西欧にやってくる理由はもはや抑圧から逃れるためではなく、貧困や窮状から逃れるためだという不安が凝縮されていた。一方で、例えば内戦から逃げる人々も貧困や窮状にさらされていたのは言うまでもない。
1990年代に入ると、保守右派の国民党がこの区別を巧みに取り上げ、難民の新しいイメージを普及させた。国民党は難民を第一に庇護を必要とする人たちとして捉えるのではなく、不正にスイスに滞在しようとする人々としてキャンペーンを展開した。冷戦時代の典型的な難民とは暴力的な共産政権から迫害された人々を指したが、89年以降は「難民希望者」が共産主義者に代わって「恐怖の存在」となった。難民に関するステレオタイプは麻薬の売人、ごろつき、犯罪者だった。
2001年9月11日の米同時多発テロ以降、アフガニスタンやシリアからの難民を国際的な「テロとの戦い」における協力者として見なすことはできたはずだった。彼らはタリバンやイスラム国からの避難民だからだ。しかし、スイスではシリア難民に対して同様に連帯の波が起こることはなかった。
（独語からの翻訳・鹿島田芙美）
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