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もしフリードリヒ・デュレンマットが生きていれば2021年1月5日は彼の100歳の誕生日だ。このスイスの偉大な作家・劇作家兼画家をインタビューするのに、この上なくふさわしい機会だろう。しかし、デュレンマットはもう生きていない。彼の作品や、我々の記憶の中を別として。このコンテンツは 2021/01/05 06:00
編集部注：フリードリヒ・デュレンマットの生誕100周年を記念し、DAS MAGAZIN誌に掲載された同インタビュー・モンタージュ記事を3回に分けて配信します。End of insertion
フリージャーナリストのスヴェン・ミカエルセンは、この節目の誕生日を機にある方法で「デュリ」（デュレンマットの愛称）にもう1度インタビューしようと思い立った。その方法とは、デュレンマットの回答を過去の作品集やインタビューから抜粋してモンタージュし、質問を後付けするというものだ。なお、引用は断りなく省略している場合がある。
1990年12月7日、スヴェン・ミカエルセンはヌーシャテルのデュレンマット邸で実際に5時間のインタビューを行っている。その後、夕食に訪れた田舎のホテルでデュレンマットは、間近に迫った自身の70歳の誕生日や、それを祝うために計画した世界一周旅行、そして晩年に取り組んでいた大作で、未公表の素材に基づく自伝の続きについて語った。深夜の別れ際、彼はこう言った。「本当は旅行好きではない。世界旅行に行くのは誕生日が怖いからだ。祝辞には辟易してしまう」
その7日後、デュレンマットは心臓発作で他界した。
Das Magazin：あなたの作品中、最も親しみを感じる登場人物は誰ですか？
フリードリヒ・デュレンマット：「天使がバビロンにやって来た」のアッキでしょう。彼は生粋の浪費家です。だから物乞いをする。何百万と無心してはそれを捨てることを繰り返す乞食です。そうすることで物乞いの腕が鈍らないようにしています。彼は1つの理想。あんな風になれたらいいと思う。
Das Magazin：あなたは1952年から住んでいるヌーシャテルを「文化的にはスイスで最も死んだ都市の1つ」と呼んでいます。
デュレンマット：私は一匹狼です。ヌーシャテルに住んでいるのは、いわゆる文化的生活というものに加わらずに済むから。私は自分の文化は自分で作る。
Das Magazin：あなたはエメンタール地方のコノルフィンゲンという村で育ちました。牧師の息子という立場はどんなものでしたか。
デュレンマット：私はある意味、社会から孤立して育ちました。人は村の牧師の息子を「シャーデンフロイデ（他人の不幸を喜ぶ感情）」を持って見るからです。牧師の息子たるもの他の子らより優れているべきだと言い、そうでなければ、ほくそ笑む。子供たちはもっと容赦ない。牧師の息子は仲間じゃない、自分たちとは違うのだと、話に加えてもらえないのです。大人たちも言葉を選び、彼が来たら黙ってしまう。私は学校に行く時、農家の少年たちに会わないよう、よく回り道をしました。追いかけられて、思う存分殴られるからです。
Das Magazin：スポーツは得意でしたか？それとも家に閉じこもっている方でしたか？
デュレンマット：12歳の時ポリオ（小児まひ）にかかるまでは体操が得意でした。コノルフィンゲンはポリオの巣窟で、体の不自由な子供を持つ家庭は多かったのです。この病気のために私は一番足の遅い子供の1人になりました。
Das Magazin：あなたの両親は読書家でしたか？
デュレンマット：母は聖書しか知りませんでしたが、父は熱心な文献学者で毎日ギリシャ語を1時間、ラテン語を1時間、ヘブライ語を1時間読んでいました。彼は学識経験者で、報酬の1割は貧しい人々のために残していたのです。
Das Magazin：父親は物語を話してくれましたか？
デュレンマット：父は時々夕方に説教をしたり、夜に死の床へ呼ばれたりすることがあり、そんな時は私も一緒に行くことを許されました。すべて徒歩でした。歩きながら父は、私に色々な話をしてくれました。夜の森を何時間も歩くのは素晴らしかったです。重病の女性を見舞いに行った時のこと、父は寂しい場所にある荒れ果てた農場を指差して、そこに住んでいた老農婦が死の床で両親の毒殺を告白したなどという話をしてくれました。
Das Magazin：彼の説教は聞きましたか？
デュレンマット：時々は。でも、説教は退屈でした。
Das Magazin：家庭のしつけはどのようなものでしたか？
デュレンマット：私の両親はエロティックなものを妙に恐れていました。しかし、子供は雄々しい雄牛がのろまな雌牛に乗りかかる場面も見るし、農場の使用人たちが女中とのいきさつを自慢げにしゃべるのも聞いています。父は盲目的に信仰に従いました。だから宗教の面で私に圧力をかけたことはない。一度だけ牧師になるよう私を説得しようとしましたが、私が断るとそれっきりでした。私は彼が父であるがためにその胸中を察することができませんでした。父親と息子の関係ほど水臭いものはありません。それはお互いが自由でいるためです。
Das Magazin：母親はどうでしたか？
デュレンマット：母との軋轢（あつれき）はもっと深刻でした。母は農家の出身で、私の成功を自分のお祈りのおかげだと言い張りました。ひどい世間知らずで、信仰万能の世界に生きていたのです。一度、私が算数の宿題を一切していなかったのを見つけ、怒りに燃えて畑の棒を持って追いかけてきたことがあります。しかし、普通、母は何日も「悲しむ」ことで罰を与えました。私たちは影に覆われたように暮らさねばなりませんでした。母と私の間には常に壁がありました。自分で築いたその壁を、私は崩すことができませんでした。
Das Magazin：その壁はなぜできたのですか？
デュレンマット：母は不必要に質素な人間を演じました。私の収入を知りたがったが、教えたことはありません。その代わり私に金を無心しました。だが、常に他人のためで自分のためではなかった。自分が彼女に対してもっと甘い息子でなかったことが今も心苦しいです。
Das Magazin：父親は厳格な禁酒主義者だったそうですね。
デュレンマット：酒を絶つと誓った人間が神聖な儀式のせいで誘惑されたりしないよう、父は聖餐にもノンアルコールのブドウジュースを取り入れました。父のアルコール嫌いは次第にエスカレートし、しまいには食べ物も拒否するようになりました。食べ物も消化の過程でアルコールになるからです。
Das Magazin：あなたの作品のライトモチーフは反抗です。
デュレンマット：それは学校で培われました。自分にとって学校はとんでもない場所でした。従順を強いられることは自分にとっては絶え間ない抑圧でした。そこから復讐のモチーフが生まれたのです。
まず反射的に思いつく反抗の形といえば復讐です。人は子供時代にやられたことに対し復讐したいと思うのです。
Das Magazin：あなたが14歳の時、一家はベルン市に引っ越し、私立校に送られました。
デュレンマット：ギムナジウム（大学進学のための公立校）からの落ちこぼれの吹き溜まりでした。私は学校をサボり始めました。私が学校にいると親が信じている時、私はニーチェを読んだり映画館で過ごしたりしていました。はしかのようにブルジョア的思春期を通過しました。変えることのできない状態に幾度となく逆らいながら。
Das Magazin：その「状態」とは？
デュレンマット：私自身がその状態でした。理不尽な恥辱や屈辱、未克服の思春期、あらゆる意味での自慰行為。ガールフレンドもいない、友達さえ一人もいない。私にあるのは混沌としたファンタジーばかりで、そのため私は現実との接点を失くし、不器用でぎこちなく、マナーの無い人間になりました。今もそうです。あの頃を振り返る時は理不尽さと憎しみがつきまとう。癒えることのない傷を初めて負った時期でした。
Das Magazin：これはあまり知られていませんが、あなたは20歳の頃に数カ月間、国家社会主義に傾倒していました。
デュレンマット：私の思春期の反抗は父の世界に向けられていました。合理的世界観で彼の信仰に対抗できなかったため、非合理的な道を選びました。ヒトラーを支持したのです。
Das Magazin：1941年5月、あなたは親ナチの小政党「Eidgenössische Sammlung（スイス連邦団）」に加入し、9月に脱退しました。この組織はどんな活動をしていましたか？
デュレンマット：アマチュアレベルの活動でした。やる気のない自称探偵の20歳の女が私たちのリーダーでした。ある日曜日、私たちは町の近くの丘を「占拠」することになったが、自分の運動神経が世界観に追いつかず、諦めることにしたのです。
Das Magazin：1942年夏、あなたは新兵として入営しました…
デュレンマット：…と同時に、同じ大陸を東に４千キロ離れた場所ではスターリングラードの戦いが始まりました。ナチスのラジオ放送が、街は征服されたと勝利を伝えました。ある大佐は私に向かって、彼にとって最上の美的快楽とはゲッベルスの演説だと言ったのです。
Das Magazin：軍隊にいた3年間を振り返って真っ先に思い浮かぶことは？
デュレンマット：教練、怒鳴り声、果てしない靴磨き。潜在的に逃亡を意識していたのか、靴はスイス軍にとって一番大事だったようです。私は不器用な新兵で、登り棒を2メートルしか登れずヘルメットを脱ぐことすら苦労しました。その罰に体操パンツとヘルメットだけという格好で体操させられました。その命令で恥ずかしい思いをしたのは私よりもむしろ中尉でした。しかし、私が猿人に先祖返りしてしまう前に私の目が抵抗を始めました。自分が近眼だと印象づけるために、私は兵舎の庭で将校ではなく郵便配達人に挨拶したりしたのです。
Das Magazin：その結果、医師らの審議によりあなたは補助的任務に回されました。
デュレンマット：私が正式に兵舎を出るというので、将校部屋から司令官が引っ張り出されました。千鳥足の司令官からは愛国者が好むキルシュ酒の匂いがし、ました。彼は、ヒトラーが来たらお前のせいだ、と私に怒鳴りました。顔には汗が流れていました。彼が仕えるこの国と同じく、英雄的行為とは一切無縁の1人の老人でした。
Das Magazin：作家になろうと思ったのはいつですか？
デュレンマット：1945年1月5日です。私は国境大隊の補助兵だった。アルプスの向こう側からは爆撃の轟音が聞こえてきました。ところが我々は安全なスイスに突っ立っているだけでした。私は「世界情勢にどう立ち向かえばいいのか」と自問しました。その日はたまたま私の誕生日で、私は初めてチーズフォンデュを食べ白ワインとシュナップスを飲みました。すると寝ている時に突然それらが噴水のように噴き出したのです。私は嘔吐物に満ちた部屋に座っていました。世界は死人で溢れていたのに、それに対し私は自分の嘔吐物しか武器がありませんでした。それがあまりにもばかばかしく感じられてしまい、その時、これからは書くことでこの世界を把握しようと決意したのです。
（続く）
（独語からの翻訳・フュレマン直美）