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８月２７日 特別礼拝
エレミヤ３１：３-６、Ⅰヨハネ４：１８-２１
「愛には恐れがない」（浅原一泰）
遠くから、主は私に現れた。私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。あなたは再びタンバリンで身を飾り、喜ぶ人々の踊りの中に入って行く。あなたは再びサマリアの山々にぶどう畑を作り、栽培する者が植え、その実を味わう。見張りの者がエフライムの山で叫ぶ日が来る。「立て、我らはシオンへ、我らの神、主のもとへ上ろう。」
愛には恐れがありません。完全な愛は、恐れを締め出します。恐れには懲らしめが伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。神を愛する者は、自分のきょうだいも愛すべきです。これが、私たちが神から受けた戒めです。
正直に打ち明けると、中高生時代の私は授業の中で聖書が一番嫌いだった。厳しい現実に対して何の役にも立たないきれいごとや、あり得ない非現実的な話を聞かされていると思ったからだ。そんな私に突然、まず青学の高等部から聖書の授業をして欲しいと言われた時、断ろうと思った。自分が面白く思えない授業をしても、生徒に受け入れてもらえるわけがないと考えたからだ。しかし自分の思いとは裏腹に引き受けることになり、中等部の宗教主任となった今は毎週１６コマの授業をさせてもらっている。けれども毎回毎回、生徒に分かってもらえないのではないか、という不安の連続である。
不安を取り除くために子供から大人まで、多くの人は何とかしようとする。あれこれと考え、悩み、この手が駄目ならあの手ではどうかと繰り返し繰り返し、何度も何度も試みようとする。ある人は、信頼のおける友人や恋人に、自分の不安や悩みを相談したり、意見を求めることで不安を払拭できるかもしれない。ある人は、負けた悔しさを忘れられずに、勝利を掴む為に今まで以上の努力を二倍、三倍も積み重ね、その努力によって勝利を掴めるかもしれない。ただ、それで不安が全くなくなるかと言うと、そうはならない。そこでは一つの不安が取り除かれただけであって、また新しく、別の不安が必ず現れるからである。努力を重ねれば重ねるほど、悩めば悩むほど、それに比例して、更なるプレッシャーや重苦しい不安が襲い掛かって来る。
不安を消し去ることが出来ないと分かると、ある人は自分よりも重い不安を抱えている人を捜そうとする。自分の不安の方が小さいと分かれば、少しは安心できるからであろう。不安が消えないその腹いせに、自分より多くの不安を抱えている人に更にプレッシャーをかけて苦しめようとする人間もいる。そうすれば、自分の不安を忘れる事ができるとでも思うのだろうか。しかしそれで仮に忘れる事ができたとしても、所詮はほんの一瞬のことに過ぎず、むしろ問題は深刻になる。自分がプレッシャーをかけた相手が、自分のせいで辛くなり、多くの不安を背負い込み、生きている意味が分からなくなってしまうことだってあるからだ。
しかしいずれにせよ、今まで申し上げてきたことは何一つ、不安が取り除かれたことにはならない。何の解決にもなっていない。
私の頃の中学の国語の教科書に、太宰治の「走れメロス」と言う短編小説が出ていたが、今もあるだろうか。人を信じる事が出来ない為に、理由もなく多くの人を疑い、苦しめ、殺すことさえ厭わない冷酷な王に対して、単純素朴な正義漢であったメロスは激しい怒りを覚える、と言うあの話である。その為にメロスは捕えられ、王の前に引き出され、磔にすると言われてしまう。しかし妹の結婚式を済ませなければならない為に、一度村へ帰って三日後に必ず王の所へ戻ってくると約束したメロスは、自分の人質としてセリヌンティウスと言う親友を王に預けるのだが、王は彼の言葉を信じない。戻ってこなかったら私の親友を代わりに殺しても構わない、とメロスは必死に訴えるが、お前は逃げるに違いない、命が惜しくなってもうここには来ないだろう、としか王は思わない。馬鹿な。親友を裏切ることが出来るか。友情さえも分からない王に目にもの見せてくれよう。メロスは親友に誓ってその場を後にする。その時のメロスには、不安も迷いも一切なかっただろう。妹の結婚式を無事に終わらせ、約束の時刻までに王のもとへ戻ろうとするメロスに、洪水で川が渡れなくなっていたり、山賊に襲われたりと、予期せぬ事態が次々と押し寄せる。何とかそのトラブルを乗り越えはするが、次第に迫ってくる約束の時刻と、積み重なった激しい疲労の為にメロスは倒れてしまう。もう走れない、絶対に無理だ、間に合わない、友には悪いことをした、とメロスは諦めそうになる。予期せぬ事態に見舞われたのだから仕方なかったのだ。許してくれ、悪気はなかったのだ、と、心の中にセリヌンティウスへの言い訳が浮かんで来る。やむを得なかったんだ。我々人間は、何度このように妥協してきたことだろう。若い人も大人になればなるほど、現実に妥協してしまう嫌な自分、惨めな自分を思い知らされる経験を何度も味わうだろう。
しかし、である。その時、メロスは傍を流れていた水の音をふと耳にする。その水を飲むと、彼は気を取り直して再び立ち上がる。水を飲んだ後のメロスは考え方が一変していた。絶対に無理だ、ではない。間に合おうが間に合うまいが、とにかく親友を助ける為に走る。間に合わないかもしれない、そんな不安が心の中を過っても、結果を考えずにひたすら走る。その後はどうなったか。ぎりぎりのところでメロスは約束の時間に間に合い、磔にされる寸前で親友を助けることが出来る。しかしメロスはセリヌンティウスに打ち明ける。一度諦めそうになった自分を殴ってくれと友に許しを乞うわけだ。すると友もまた、メロスは来てくれないのではないか、と疑った自分を殴ってくれとメロスに願い求める。そのような二人の友情、そして人を信じることの素晴らしさに王も感激して心を入れかえるところで確か小説は終わっていた。
この話は、人間の汚さや疑い深さよりも友情や信じる心が勝り、信じる思いや真摯な愛情によって不安は乗り越えられる話のように読める。皆さんの多くもそう思うだろう。昔は私もそう思った。けれどもしばらくして、実はその奥深くにこそ本当の真実が潜んでいることに気づかされた。それは、人間の汚さや不安に友情や信じる心が勝つ、とメロスが思っていたのは、彼が疲れて倒れるまでのことだ、と言うことである。それは、困ったことがあっても何とかなると、安易につい甘く考えてしまう我々の姿だと思う。ただ、多少の試練を乗り越えても、極度の疲労の為にへたり込んだ時のメロスは、仕方ないと諦めた。友情を失くしてはいなくても、友よ、許してくれ、と言い訳を思い浮かべた。あいつは自分の身代わりに死ぬが、自分は生き残れて良かったではないか、と言う思いまで過ったのである。それもまた、窮地に追い込まれると、人に配慮出来ず自分のことしか考えられなくなる我々自身の姿だと思う。誰だって何とかして不安を拭いたいと思う。しかし人間、特に多くの大人は、ある所まで来ると走ることを止めてしまう。そんな大人を見て、若い人は躓いてしまう。自分はああはなりたくない。そんな思いでメロスのように駆け出す若者はいる。しかしそうすることで却って益々深い悩みにはまってゆく。それが現実である。
しかし思い出して欲しい。メロスは不安を自分で消そうとしただろうか。不安を消そうとすることと、不安に打ち勝つことは同じではない。もう走れない、仕方なかった、と諦めたメロスと、そこからもう一度立ち上がり、再び走り始めたメロスは実は同じではない。ではメロスを何が走らせたのか。何が不安を乗り越えさせたのか。友情ではなかった。愛情でもなかった。その時の彼の傍に水が流れ、その音を聞いたからである。その水を飲んだからである。その水がメロスを立ち上がらせ、走らせた。その水が、友情を真の友情へと強め、深めさせた。その水が友セリヌンティウスの前で、メロスに素直に自分の過ちを打ち明けさせた。メロスに向かって友をも素直に謝らせ、冷たい王の心をも生まれ変わらせた。初めて読んだ時からかなり後になってそう気づいたのである。この水とは果たして、何を指しているのか。
「愛には恐れがない」。先ほどの新約聖書、ヨハネの手紙にそう書かれていた。愛には不安がない、と読むことも出来る。何だ。愛さえあれば不安も恐れも克服できると言うきれいごとか、と思うかもしれない。しかしメロスの話は人間の愛情や友情では越えられないものがあることを伝えていた。聖書はその後で、「完全な愛は恐れを締め出す」と言っていた。完全なる愛。それは、人間の愛ではない。諦める弱さを抱える我々に、完全なる愛などある筈がない。聖書は続いて「私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです」と言っていた。
もう一つの旧約のエレミヤ書もこう言っていた。「遠くから、主は私に現れた。私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」。イスラエルを建て直し、メロスを立ち上がらせ、再び走らせた水、決してメロスを諦めさせることなかったあの水とは、この神の愛のことだ、しかも、私達が人を愛せるのは先ず、神が私達を愛したからだ、と聖書は言う。「完全な愛」とは、この神の愛のことであり、我々がどう足掻いても乗り越えられない不安や恐れを締め出し、乗り越えさせるのは、皆さん一人一人を愛する神の完全なる愛である、と聖書は語りかけているのである。あのメロスを立ち上がらせ、真の友情へと目覚めさせ、また王を生まれ変わらせ、そうして登場人物全てを建て直したあの水とは、人類の全てを、皆さん一人一人を愛する、神の完全なる愛のことだったのである。
そうは言っても、ロシアによるウクライナ侵攻が始まってから一年半の歳月が流れた。世界の国々が核廃絶を求め核兵器禁止条約に署名しているのに、一部の先進国や被爆国である日本はそれに賛同しない。憎しみや疑い、争いの絶えないこの世界のどこに神の愛があるのか。私たちはついそう思ってしまう。けれども、神は愛することを決して止めない。諦めない。むしろ世界が、また人類がそうであるからこそ神は独り子であるイエス･キリストをこの世に遣わし、我々人間の弱さ、汚さ、おぞましさのすべて、不安も恐れも嘆きも悲しみも苦しみもすべてを十字架のイエスに背負わせた。それは、そうすることで我々を何とか立ち上がらせ、建て直すあの水である。憎み争うのではなく許し愛する者へと生まれ変わらせ、本当の人間らしさを取り戻させる神の愛である。ただ人類は、その愛に気づくことが出来ない。だから皆が不安を抱えながら生きている。しかし神からすればそれは、我々が偽りの愛、不完全な愛しか知らないからだ。それを愛と呼んで満足し、また不安に逆戻りするローテーションを繰り返しているだけのようだ。完全なる神の愛を誰も知らないし、自分で掴むことなど出来ない。メロスも倒れるしかなかった。しかしその時の彼にこそ、あの水の音が聞こえた。あの水が彼を生まれ変わらせた。私にも皆さんにも、ウクライナを始め平和を求める人々にも、どんなに苦しく、打ちひしがれる時が訪れても、むしろそのような時こそ神は手を差し伸べる。あの水の音に気づかせ、振り向かせ、立ち上がらせてくれる。神の愛によって不安も恐れも取り除かれたその時、そこからのあなたに、それまでとは全く違う生き方が始まる。それが聖書のメッセージである。その時がいつ来るかは分からない。でもメロスに訪れたように、必ずあなたにその時は訪れる。その為に神は、神を知らなかったあなたを振り向かせ、今日、この礼拝へと招いている。これからも、いつまでも皆さん一人一人を神は諦めずに、恐れを取り除く完全なる愛をもって招き続けていることを覚えておいて欲しい。