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今から50年前、人類は初めて月に降り立った。米国のアポロ11号が成し遂げたこの功績は、スイスのベルン大学にとっても大きな一歩だった。月面で使ったベルン大学の「ある機材」のおかげで、ビッグ･バン理論の不一致を解消することができたからだ。
宇宙船アポロ11号を乗せたロケットの打ち上げとともに、テレビにゆっくりとU – S – A の文字が映し出された。1969年7月21日、ニール・アームストロング飛行士とバズ・オルドリン飛行士は人類で初めて月に降り立ち、月面に星条旗を打ち立てた。今から半世紀前のこの偉業は、米国の力を世界中に知らしめるニュースだった。
50周年を迎えた今年、米国がその功績を盛大に祝うのは当然だろう。だが思い出に酔いしれるのはベルン大学も同じだ。アポロ11号のミッションには、ベルン大学の物理研究所が直接関わった実験も含まれていたためだ。重さ3千トンの宇宙船と比べたら「それ」は羽根のように軽い。わずか454グラムながらも、非常に重要な役割があった。
オルドリン飛行士は、星条旗よりも先にスイス製のその機材を月面に設置した。幅30センチ、長さ140センチのシンプルなアルミ箔シートはポールに張られていた。シートは陽子や電子など、太陽風の粒子を採集するためのものだ。
計測開始から77分後、アームストロング飛行士は再びシートを巻き取り、宇宙船に収容した。シートが張られていたポールはそのまま月面に残された。実験は大成功を収め、米航空宇宙局（NASA）はその後4回のミッションでも被爆時間を少しずつ長くして同じ実験を行った。シートを開発したのはベルン大学のヨハネス・ガイス教授（物理学）が率いるチームで、これを機に一躍有名になった。
当時、ベルンの物理学研究所に務めていたユルク・マイスターさん（80）とペーター・ボクスラーさん（76）は、かつての職場に集い、写真を見ながら思い出話に花を咲かせる。写真には、時代遅れの髪型をした2人の若き物理学者が太陽風のシミュレーションをする様子が写っていた。
実験物理学者だったマイスターさんは、このシートの共同開発者だ。一方、ボクスラーさんが開発に携わるようになったのは、後に教授となりガイス教授の後任として研究所の共同所長に就任してからだ。ガイス教授は既に90歳を超え、今は公の場からは身を潜めている。
マイスターさんとボクスラーさんは、研究所の地下にある実験室に案内してくれた。実験室には窓がなく、機材でごった返している。そして部屋の中央には、照明に照らされたアルミ箔シートが光っていた。厳密に言えば、これはアポロで使われた実物ではなく予備のシートだ。2人はまるで古い友人に再会したかのように、懐かしそうな顔でその前にたたずんだ。マイスターさんは、シートをばねで巻き上げて見せてくれた。「窓のブラインドと全く同じ仕組みですよ」
「驚くほどシンプルで見事なアイディア」
月面でアルミ箔を広げて太陽風にさらし、それを地球に持ち帰る。「驚くほどシンプルで、見事なアイディアだった」とマイスターさんは振り返る。太陽風の粒子の速度は光よりはるかに遅く、時速数百キロだ。粒子はシートにぶつかるとくっつく。持ち帰ったシートを実験室で溶かすと、どの粒子がいくつ付着しているかが分かる仕組みだ。
機材は全て扱いが簡単で、なおかつ100％機能する品質にしなければならなかった。特にシートを支えるポールは技術の限界との戦いだった。ポールは非常に細いネジ山がついた伸縮可能なテレスコピック構造で、折り畳み式の小さなタイヤが内蔵されていた。
シートは破れないように最終的にテフロン製のテープで補強された。「最大の難関は、重さが1ポンド（約454グラム）までと制限されていたことだ。許容範囲が1キロまでならずっと楽だったのだが」とマイスターさんは振り返る。
NASAは万全を期すため、ドン・リンド飛行士をベルンに派遣し機材を点検させた。リンド飛行士は物理学者やエンジニアとは違う宇宙飛行士の視点から、分厚い手袋でも操作できるかチェックした。
「リンド飛行士が出したさまざまな要望は、全て指示通りに反映された。その結果、ポールにはグリップが付けられ、重要なコンポーネントは目立つように赤くした。リンド飛行士は、まるでお気に入りのおもちゃのようにこのシートを気に入ってくれた」（マイスターさん）
なぜベルンに白羽の矢が？
しかし、アポロ11号のミッションで唯一、米国以外の実験にベルンが選ばれたのはなぜだろう？「それは偶然ではなかった」とボクスラーさんは言う。当時隕石の分野で優れた業績を挙げていたベルンの物理学者たちは、月の岩石を使った実験に立候補したのだ。
最終的には、ガイス教授の存在が決め手となった。教授はNASAに科学者の友人が数多くいたため、ボクスラーさん曰く「献身的、かつ巧みに」NASAと友好関係を保っていたという。
アルミ箔シートはマイスターさんが自ら手荷物で米国に持参した。その後行われた3回のミッションでは、月ロケットの打ち上げを1.5キロメートルという至近距離から目にする機会に恵まれた。「素晴らしい体験だった。特殊な騒音に包まれ、低周波が私の胃にビリビリと響いた。そして着ていたシャツが振動で震えているのが分かった。まるで巨大なフライパンで目玉焼きを焼いているような音だった」
アームストロング飛行士とオルドリン飛行士が月面に降り立ったとき、スイスは夜中の3時だった。ベルンでは、物理学者らが研究所のテレビの前で固唾をのんで一部始終を見守っていた。マイスターさんは「特に緊張はしていなかった」と言う。「シートがトラブルを起こすことは絶対ないと確信していた。事前に何百回もテストで確かめたのだから」。一方、ボクスラーさんは「ただ飛行船が無事に地球に戻って来るよう」ひたすら祈っていたという。
若き物理学博士だったマイスターさんは、ベルン大学を去った後、テキサス州でアポロが行った別の実験のデータ分析を担当した。スイスに戻るとトゥーンの弾薬工場に就職し、徹甲弾（装甲に穴を開けるために設計された砲弾）を扱った。今でも飛ぶものなら何でも興味があるそうだ。
もっとも、現在トゥーンの近郊で暮らすマイスターさんは、飛行機やロケットではなく、夫人と一緒に蝶の飼育に精を出しているという。そして月を見上げるたびに「あそこには自分が手にしたポールが5本も残されているのだ」と特別な思いに満たされるという。
一方、ボクスラーさんは仕事の関係でイスラエルへ赴いた。米国にあまり興味がなかったボクスラーさんは「米国のベトナム戦争参戦もその理由の一つだった」と言う。ベルンに戻ってからも太陽風の研究を続けた。後の宇宙探査機では別の機器が用いられたが、アポロで使ったシートの実験結果が正しかったことを証明している。
ビッグ･バン理論の不一致を解消
アルミ箔シートがもたらした功績とは何だったのか。ボクスラーさんは、管理された方法で太陽風を採取し、実験室で調べることが初めて可能になった点だと説明する。
地球上では磁界と大気圏が邪魔するため、太陽風を測定できない。それまで太陽風の痕跡は隕石にのみ確認されていたが、地球に落下する前に隕石がどのくらいの時間太陽風にさらされていたのかは闇の中だった。
だがシートを使った測定結果によって、初めて太陽風の構成要素がより正確にわかり、そして驚くべき事実が判明した。太陽風に含まれる水素は、デューテリウムという重水素の割合が、地球上の水素とも隕石に付着している水素とも大きく異なることを研究者らは突き止めたのだ。「そのおかげで突然、ビッグバン理論の不一致を解消することができた。たった1枚のシートが、大きな疑問の解決に役立ったのだ」（ボクスラーさん）
ベルンの物理学研究が大きく躍進
この太陽風研究に使うアルミ箔シートのおかげで、ベルン大学、ひいてはスイスの宇宙研究が大きく前進した。ガイス教授は自身の知名度を追い風に、研究所の拡大に務めた。これがその後の飛躍のベースとなった。
その結果、ベルンの研究者たちは定期的に国際プロジェクトに参加する機会に恵まれた。チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星（「チュリ」とも呼ばれる）の周りを2年間周回した探査機ロゼッタ（Rosetta）はまだ記憶に新しい。
探査機ロゼッタは、この謎の多い彗星の化学組成を「嗅ぎ分けられる」ベルン開発の高性能機器を搭載していた。そして探査の結果、「チュリは馬の糞の匂いがする」ことが判明したという。
太陽系の外にある惑星に注目
ベルン大学は宇宙研究において世界のトップに名を連ねる。NASAで科学ディレクターを務めるトーマス・ツルブーヘンさんが自らそう太鼓判を押す。
「ベルン、そしてスイスの科学者は新たな研究分野を開拓し、自らが開発の中で重要な役割を担うことに成功した」とツルブーヘンさんは雑誌「スイス・レビュー」の電話インタビューに回答。その一例として太陽系の外の惑星に関する研究を挙げた。
一度成功を収めたからといって、それに満足して気を抜くのは間違いだとツルブーヘンさんは言う。「世界的に成功したければ、守りに徹しないで攻めることが大切だ」
ベルナーオーバーランドで育ったツルブーヘンさんは、まるでベルンの宇宙研究のサクセスストーリーを体現するような輝かしいキャリアを誇る。しかしアルミ箔シートを使った伝説的な太陽風実験や、その後ベルンが享受した名声なしには、自身の経歴も全く違うものになっていただろう。
1990年代初頭、ツルブーヘンさんは博士課程の学生として、ボクスラーさんの元で米国の太陽探査機で使う器具の開発に携わっていた。「この研究はアポロで使ったアルミシートの流れを汲むものだった」とツルブーヘンさんは振り返る。
ツルブーヘンさんは現在、NASAの頂点に立つ研究者として約70億ドル（約7513憶円）の予算を管理する。彼の決断は、約1万人の科学者とエンジニアに影響を与えるのだ。
次は火星？
では、人類の次の目標は？アポロ11号から50年経った今、月への回帰と火星への旅が注目されている。もちろんNASAはその最前線にいる。
しかしこれについては意見が分かれる。ボクスラーさんと、かつての弟子のツルブーヘンさんも、それぞれ異なる意見を持つ。
反対派の主張は聞かなくても分かるとツルブーヘンさんは言う。地球上には火星旅行よりも先に解決しなければならない緊急の問題が山積みで、有人探査は高リスクと膨大なコストが伴うということだ。
しかし、可能な限り限界に近づきたいと思うのが人の性。「なぜ火星に行きたいのか？」との問いにツルブーヘンさんはこう答える。「それが可能だからだ」
また、こういったプロジェクトが後にもたらすメリットは予測できない。20世紀半ばに最初の探査機が打ち上げられたとき、衛星の存在が天気予報や地球の気候データの記録に欠かせなくなると誰が予測しただろうか。「世界中で最も正確な二酸化炭素（CO2）の値はNASAが集計している」とツルブーヘンさんは言う。さらに、研究は人々をつなぐ役割がある。「それが、私がこういったプロジェクトを推進する大きな理由の一つだ」
一方、ツルブーヘンさんと異なる意見を持つボクスラーさんは、有人宇宙飛行に賛成する人たちの意見は想像がつくと言う。確かに、50年前に宇宙飛行士が月から持ち帰った岩石が科学的に貴重だったことは認める。「私自身も、かなりの量の岩石を分析に使わせてもらった」
そして寛大にも世界中の研究所にサンプルを提供したNASAを称賛しつつ、無人探査機でも同様の量の岩石を持ち帰れたに違いないとボクスラーさんは見る。彼に言わせれば、莫大なコストがかかる有人プロジェクトは「大半が名声のためだけに行われ」、そのせいで科学の進歩によっぽど貢献するだろうプロジェクトが犠牲になる。ボクスラーさんは火星植民地の合成写真を見ると、もし無人ミッションに同じ資金があれば、どれだけ「素晴らしい実験」ができるだろうと疑問に感じるという。
マイスターさんも、火星への飛行には否定的だ。「火星はあまりにも遠い。空のどこにあるかさえ知らない人がほとんどだ」。だが誰もが親しむ特別な星である月は違う。人間がそこに一度行ってみたいと思うのは自然な成り行きで、月への旅は「全く妥当だった」と考える。しかし同じことを繰り返す必要はないと言う。「月の上がどんな様子か、もう50年前から分かっているのだから」
スイスにおける歴代の天文学者（抜粋）
ルツェルンに生まれたイエズス会の数学者、天文学者であるヨハン・バプティスト・シサット（1586～1657年）は新たな連星系を発見した。
ジャン・フィリップ・ロワ・ド・シェゾー（1718～1751年）はローザンヌ出身の天文学者。星群とガス星雲に関する記録を数多く残した。
チューリヒ近郊で生まれたルドルフ・ウォルフ（1816～1893年）は、太陽の黒点の活動の周期性が地球磁場の周期と一致していることを観測した。
ブルガリアに生まれたスイス国籍のフリッツ・ツビッキー（1898～1974年）は米国で活躍し、独自の銀河の理論で天文物理学を変えた。
パウル・ヴィルト（1925～2014年）はベルン大学の天文学研究所の所長を務め、90個を超える小惑星と7個の彗星を発見した。
ハンス・バルジガーとエルネスト・コップは、主に電離層の研究に使われる小型ロケット「ゼニット」を開発。ロケットは1967年、宇宙に飛び立った。
ヨハネス・ガイスが（1926年～）ベルン大学で開発したアルミ箔シートは、アポロ11号が月で行った太陽風の実験に使われた（本文参照）
1995年、ジュネーブ天文台のミッシェル・マイヨールとディディエ・ケロズが初めて太陽系外惑星「ペガスス座51番星」を発見した。
1992年、クロード・ニコリエール（1944年～）がNASAでスイス人初の宇宙飛行士として宇宙に飛び立った。
スイスのアマチュア天文家、マルクス・グリーサー（1949年～）は小惑星帯を10個発見し、2002年に発見した小遊星は「スイス」を意味する「ヘルヴェチア」と名付けられた。
カトリン・アルトヴェッグ（1951年～）は探索機ジオット（Giotto）と探索機ロゼッタ（Rosetta）のミッションにおいてスイスの宇宙研究の立役者として活躍した。
この本文は雑誌「スイス・レビュー他のサイトへ」に掲載された記事を翻訳したものです。
（独語からの翻訳・シュミット一恵）