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創世記3:2-5 マルコ8:31-35
「イエスとペトロ」浅原一泰
女は蛇に答えた。「わたしたちは園のどの木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」。蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
先週、ロシアがウクライナ侵攻を開始した。対話ではなく暴力によって、他国の主権を侵害する行為である。「戦ってもウクライナに勝ち目はない」、「武器・兵器など、戦力的には圧倒的な差がある」というのは火を見るより明らかだと専門家たちは解説する。しかもロシアは、自らが取った行動を自己正当化している。大統領プーチンは当初、これは侵略ではない、征服は考えていない、８年間にも及ぶウクライナ政府による大量虐殺の恐怖から市民の命を守るためだ、との声明を出した。その言葉とは裏腹に、ウクライナ市民の貴い人命が失われ続けている。日に日にロシアは侵攻を加速させ、ウクライナの軍隊には寝返るよう巧みに呼びかけつつウクライナ政府を丸裸の状態にしつつある。アメリカ、ドイツ、フランス、イギリスなどの西側の国家元首たちは口頭でロシアを激しく非難はするものの、それ以上の動きをする気配はない。ロシアが最大の核保有国であり、核の使用もあり得るかのような発言をしたことが圧力をかけている。「あなたは今世紀最悪の可能性のある戦争を始めてはならない」。国連事務総長グティエレスによるプーチンへの、あの涙ながらの悲痛な訴えも空虚なものに聞こえてしまう。
その一連の光景を目の当たりにして、こんな思いが心に過った。結局最後にものをいうのは力なのか。正直、平和を求めて祈っても、プーチンやウクライナに侵攻したロシア兵士たちに神の言葉を説いて彼らの良心に訴えても、戦争を止めさせることは出来ないだろう。かといってウクライナがＮＡＴＯ加盟国に救いを求めても彼らは動かない。自分の身を守るためには、現実的には力には、それに勝る力で対抗するより他に何の手立てもない。そんな打算的な考えに縛られそうな気配を感じている。ウクライナのようにならないためには日本も軍備するしかない、と真顔である政治家は唱え、それに拍手する声も耳に入って来る。しかしそのように考えてしまうのは、私を含めて多くの人間がサタンに操られているからかもしれない。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている！」先ほどの聖書の中で、ペトロに向けられたあのイエスの言葉が今の自分に向けられているのに、一向にそれに気づかないからなのかもしれない。
話は変わるが先月、この講壇から御言葉を取り次がせていただく機会を与えられていながら、濃厚接触者となったことでその責任を果たせなかったことを悔やんでいる。教会のかしらなるイエス・キリストの父なる神に、また、その主の召しに忠実に従われ、代わりに御言葉を解き明かして礼拝を導いて下さった深恵子先生に、そして我々の家族を祈りに覚えて下さった豊先生と皆さんに心からお詫び申し上げたい。しかしそれでも、礼拝の穴をあけてしまい、世の常識なら信用ならないとの判断を下されかねない私のような者に再び今朝、御言葉を取り次ぐ機会を与えて下さったことを心から感謝申し上げたい。
自宅待機せざるを得なかったその頃、私はあることを痛感させられていた。あることというのは、一昨年7月に原因不明の失神で倒れて以来、自分のような信仰乏しく、神から与えられた賜物を踏みにじっている人間はキリストから見捨てられているのではないか、そんな自分に神に祈る資格もない、「説教をすることなどお前には出来ないのではないか」、無意識のうちに、気が付けば四六時中そんなことを自問自答し続けてばかりいた、その記憶がフラッシュバックしたのである。「お前はそれでも牧師か」とお叱りを受けることは承知しているが、本当のことなのでお許し願いたい。神学生がいるのでその人たちは思い当たると思うが、神学生時代というのは、必死になって目指すべき牧師像を探し求めつつ、ああでもない、こうでもない、と迷い悩むものである。恥を承知で申し上げれば、その頃、「ああいう伝道者だけにはなりたくない」と自分がイメージしていたような姿に今のお前はなっているぞ、そう神から言われているように感じていた。そんな時ふと、あの言葉が胸に刺さったのである。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている！」
その言葉をイエスから言われていたペトロ。漁師であった彼はこの世で最初にイエスに招かれ、網を捨てて従ったイエスの一番弟子である。そのことをペトロ自身もよく分かっていた。だからこそ、イエスが問いかけると、弟子たちを代表して真っ先に答えるのはいつもペトロであった。神の独り子として、救い主メシアとしてこの世に来られたイエスを彼は信じていた。イエスを信頼していた。そのペトロの思いに嘘はなかったと思う。けれどもペトロは人間に囁きかけて神に背かせようとする罪の働きに抵抗できず、敗北するしかなかった。それもまた、聖書が伝えている偽りなき真実である。
先ほど読まれた創世記３章の有名なエデンの園の場面で、蛇がエバを誘惑していた。そもそも神はご自分の似姿として形作られ、命の息を吹き込んで生きる者とした初めの人間アダムとその妻エバを信頼し、彼らにエデンの園を任せていた。その時、神が彼らと交わしたたった一つの約束、それが園の中央にある善悪の知識の木からは食べるな、食べると必ず死ぬ、というものである。蛇、それは罪の力を自在に操るサタンの化身であったが、その蛇はここで巧みにエバを神から引き離していく。善悪の知識の木からは食べないでくれ、という、人間に対する神の切実なる思いよりも、「食べると必ず死ぬ」という、自分の命の「生き死に」の問題へとエバの心を向けさせる。「食べても死なない。むしろ食べればお前の目が開け、神のようになれるのだ」、そう言ってエバの目を、死なないで済む道、しかも自分が得をする道を選ばせるよう仕向けて彼女を、そして夫アダムを神から遠ざけた。こうして人は、生きるか死ぬかという切実なる問題を、また何が善で何が悪かという簡単には答えが出せない問題を、自分の賢さ次第で適切に選べるかのように思い上がってしまう。簡単に答えなど出ないし、また出してはならない問題を、委ねるべき方である神に委ねようとしなくなる。そうしてすべての人間が神を遠ざけて生きる罪人となった、と聖書は教えている。言い換えれば初めの人間アダムもエバも、そしてその後から生まれて来た私も皆さんも含めて人類すべてが、最初から「神のことを思わず人間のことを」、まず自分のことを思うようになった、そういって間違いではないと思う。
ペトロもその罪の力に敗北していた。イエスの弟子となる前はもちろんのこと、弟子となった後も罪によってボロボロに打ちのめされていた。それが先ほどのマルコ８章の場面である。イエスが、間もなく自分は長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される、と弟子たちに伝えた。しかしそれは、命の生き死にをイエスが神に委ねていたからこその言葉であった。蛇の言葉に操られるがままに神に背き、生き死にを神に委ねられず、自分で意のままにできると思い上がっていた全ての人間のために、彼らに代わってイエスが命を神に委ねる決意の言葉であった。神は、罪人全ての身代わりの犠牲となって自らの命を死に引き渡すことをイエスの使命としたのである。それは人間全てを欺き脅かす罪と死の力を、神自らが人となって受け止め、その力を打ち砕くためであった。
イエスは神によって造られた人間ではない。神がこの世に遣わされた独り子、人となった神ご自身である。ならばそのイエスが語る言葉は神の言葉である。そしてそれは人間一人一人に、ペトロにも向けられている神の切実な思いであった。けれどもペトロはイエスをいさめ、その言葉を撤回させようとする。イエスを信頼していた彼は、イエスが殺されることを否定したかったのかもしれない。しかしそれ以上に、イエスが殺されては困る、そうでなければ自分の命も危うくなるではないか、という思いが強かったに違いない。自分が死なないように、自分で自分を守ろうとしてペトロはイエスの言葉を、いや神の言葉を否定したのである。その瞬間、イエスはペトロに「退け、サタン！」と叫んだ。その場は凍り付いただろう。しかしこの言葉こそ実は、かつて荒れ野でサタンから誘惑を受けた時、イエス自身が語ったものだった。
アダムとエバ以来、ペトロも我々も、世にある人間すべてが神から遠ざかり、自分の命の生き死にに心を奪われている。神と向き合う神との交わりが本来の命であるのなら、誰もがその命に死んでいた。全ての人間を死に追いやることに成功していたサタンの前に神が人間イエスとなって現れる。あの荒れ野での誘惑は、神と人間との交わりを絶滅させようとするサタンの最終攻撃であった。しかし教会の皆さんはお分かりのように、わたしを拝むならこの世界すべてを与えよう、というサタンの最後の殺し文句に対してイエスは、「退け、サタン、ただ主を拝み、主にのみ仕えよ、と聖書に書いてある」、そう言ってその場からサタンを退場させていた。
しばらくして再びこの時、サタンは蛇ではなくペトロとなってイエスにもう一度、神との交わりよりも、自分で自分の生き死にを操れる方が良いではないか、というあの誘惑を試みていた。それに対して人となった神イエスは、罪の力に敗北するしかないペトロや我々全ての人間のために、命を滅びへと至らせる死の道ではなく、命を救いへと導く光の道へと招くため、導くために、「退け、サタン」、そう言ってペトロからサタンの罪の力を遠ざけさせ、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言ってペトロを振り向かせ、更に周りにいた群衆全てをも集めてこう言われたのである。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、つまり自分の生き死にに心奪われる者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者、つまり神とわたしに命を委ねる者は、それを救うのである」と。その時、ペトロの心には、イエスのあの言葉が再びフラッシュバックしていたと思う。私は排斥されて殺される。しかしそれは、罪に敗北するしかないあなたのためにも、弱く貧しくみっともないあなたのような者のためにこそ私は命を差し出し、死の苦しみをも背負って、生き死にも含めて全てを神に委ねることだ。そして、人間を罪と死から振り向かせるために神は、その私を三日後に復活させるのだ、と。罪に敗北するしかなかったペトロはこのイエスの言葉によってかろうじて立ち止まらされ、神との交わりに踏みとどまらせられた。そうではないだろうか。
先週から始まったウクライナの悲劇について、既にあらゆる角度からこの世の人間は善悪を裁き、自分の身を守るための答えを並べてしまう。委ねるべき方に委ねられない。しかしながら、滅びの危機にあるウクライナ市民のため、また次々に侵攻してウクライナを追い詰め、勝利を手に入れようとしているロシア人のためにも、またこの日本を含め、言葉でロシアを非難はするものの自分の身を守る為に実際に動けないでいる他国の人間全てのためにも、神は人間イエスとなって、すべての人間の為に命を死に引き渡された。生き死にに心奪われ、自分で自分の身を守ろうと思い煩う全ての人間に神は、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」、そう教え諭して委ねるべき神を信じてすべてを、命をも委ねて歩むよう、ウクライナ市民にも、説教する資格が自分にあるのかと苦しみもがいていた私にも、そしてここにいる皆さん一人一人にも、語りかけておられるように思うのである。
今週の水曜日からレント、受難節に入る。命の危機にある者の為にも、一時の幸いの中にたまたま置かれている者のためにも、命ある全ての者のために、今年もまたイエスは十字架への道を歩み出される。それは罪に敗北することしか出来ない我々すべてに代わって、イエスが最後の最後まで、死に至るまでサタンの誘惑を退け、神に全てを委ねる道である。この方を信じて従う者に、死に打ち勝つ永遠の命への扉を主が切り開いて下さる道である。それで自分の罪が赦されるからありがたい、と思うならその時我々はまた、神の真剣な思いではなく、自分の命の生き死に、メリットがあるかないかの問題に心奪われ、サタンに操られ始めている。そのことを心に留めながら、ウクライナの人々やコロナや病の為に命の危機にある方々の為、また罪に敗北するしかない我々のためにも、絶望へと追い詰められているような人々のためにも、神は人間となって苦しみの全てを、死の苦しみをも真っ向から受け止められる。そうして一人一人を立ち止まらせ、そこから振り向かせ、神に全てを委ねてこそ初めて本当の命が輝き始めることを、十字架の死からの復活でもって身をもって示して下さる。イエスを通して語られたこの神の言葉をこそ信じて、自分のすべてをこの方に委ねられるよう、共に祈りつつ歩んで参りたい。