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イザヤ60：1～6、マタイ2：1～11「憧れの旅」
2023年1月1日（左近深恵子）
新しい年の最初の日に、今年最初の主の日の礼拝を捧げています。コロナによる影響も、戦争や紛争が引き起こす困難も、私たちの思いと行動に影を落とし続けています。2023年がどのような日々となるのか、この先、私たちが進んで行く先に、どのような世の流れの影響があるのか、分かりません。教会の暦では一年はアドヴェントから始まりますので、私たちはアドヴェント第一週が始まった11月27日から新しい思いで、既に一年を神さまからいただいている恵みと共に歩み始めていると言えます。そして年始めの様々な行事で街がいつもとは違う雰囲気に包まれているこの日に、み言葉と聖餐の恵みによって、2023年の私たちの足取りを強められたいと願います。
先週のクリスマス礼拝では、ヨハネによる福音書を中心に、闇の中を歩む全ての人にもたらされている恵みを受け止めました。その前日のクリスマスイヴ礼拝では、ルカによる福音書からキリストのご降誕の出来事を聞きました。クリスマスの出来事は、このヨハネとルカ、二つの福音書と、今日お聞きしましたマタイによる福音書、三つの福音書において伝えられています。ルカによる福音書とマタイによる福音書には、ご降誕そのものと、ご降誕の出来事の中に導き入れられた人々のことが伝えられています。ヨハネによる福音書には、クリスマスにもたらされた恵みがどのようなものであるのか、言い表されています。ヨハネによる福音書はこのように語ります。「言の内に命があった」、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」。「言」という表現を用いながら、キリストが光であることが語られます。どのような光であるのか。命の光であり、人間を照らす光であり、暗闇の中で輝く光、しかし闇は理解しない光です。「暗闇は光を理解しなかった」と記されている箇所は、聖書協会共同訳では「闇は光に勝たなかった」となっています。人を照らすということは、闇を照らすことであると、けれど闇は光を理解しようとしない、それでも闇は光に勝つことはできない、そのような光であります。預言者イザヤは神さまの救いを、人々が暮らす大地が闇に覆われていても、人々が属している国々が暗黒に包まれていても、人々の上に主が輝き出て、主の栄光が現われると語りました。そのような預言者の言葉と響き合うように、キリストは全ての人を照らす光として世に来られました。
私たちはクリスマスを光によって祝います。アドヴェントからクリスマスまで、クランツの灯を一本ずつ増やしてクリスマスに備えました。呼吸しているかのように揺らぎ、瞬くキャンドルの火は、決して強くは無いのに存在感があり、クリスマスの恵みを表すのにふさわしい光です。ツリーが纏うイルミネーションの光も、優しい輝きでクリスマスの喜びを表しています。クリスマスは、光に溢れたお祝いです。私たちはなぜ光によってクリスマスを祝うのでしょう。一年で最も輝かしいこの祝いの時をキラキラさせたいからではなく、クリスマスに神さまが与えてくださった救いを、聖書が光として伝えているからです。私たちも光によってこの時を祝いたいと、キリストが世の光であることを、証したいと願うからです。
他の二つの福音書も、闇に輝く光を語っています。ルカによる福音書は、ベツレヘムの郊外で、夜の闇の中で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたことを伝えます。主の天使は、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と、「この方こそ主メシアである」と告げ、この方は布にくるまって飼い葉桶に寝ているとしるしを与えて、この方を見つけるように促します。羊飼いたちは、主が光り輝いているから見つけられるのではありません。ベツレヘムの町のほの暗いどこか片隅で、飼い葉桶の中に主はおられます。人間が自分たちの救い主はこうであって欲しいと期待するもの、自分たちの王はこのように存在して欲しいと期待するものからかけ離れた状況で、人々を取り囲んでいる闇、人々の内側まで覆っているその同じ闇の中に身を横たえてくださり、その闇の中にあっても安らいで眠っておられることがしるしです。この救い主と最初に見える光栄を神さまからいただいたのは、救い主をいつか神さまが遣わしてくださるとの約束を知るユダヤの民の者ではあるものの、羊の安全と命を守るために日々危険に身を曝していた羊飼いたちでした。神さまはこの羊飼いたちを栄光の光で照らし、キリストを見出すために立ち上がるその足元を照らしてくださったのです。
マタイによる福音書も、闇に輝く光を伝えます。それは、東方の学者たちを導く星です。この学者たちは「占星術の学者たち」とも「博士たち」とも訳されています。元の言葉は、祭司や天文学者や占星術師を指します。東の国とは、バビロンなど、メソポタミアの国だと考えられています。学者たちが携えてきた贈り物が三種類だったことから、伝統的に「三人の博士」と捉えられてきました。彼らが占星術の学者であったなら、星の運行を見て未来を予測することを仕事としていたのでしょう。古代のメソポタミアでは、そのようなことがよく行われていました。聖書によると、星も太陽も神さまの被造物ですので、イスラエルの民は周りの民のように星を拝んだり、未来の予測のために星を用いるということはしません。そのイスラエルの民の王としてお生まれになった方を求めてやって来たのが、それまで自分の国で、天体観測を重ね、星を用いて先のことを予測してきたであろう学者たち、もしかしたら王や重臣たちが国のために重要な決定をする時に、星を用いて助言をしてきたかもしれない博士たちであることに、神さまのみ業の不思議さを思います。その学者たちが、古来イスラエルの民を支配し、都を滅ぼし、民を捕囚にしたバビロンやその他大国が存在してきた地域である東から、小さなユダヤの国へとやって来たことも、計り知れない主のみ業を思います。学者たちは、具体的にユダヤの国のどこに行けばよいのか行く先が良くわらないまま、ただ星だけを頼りに出発しました。東方の国の民である彼らにとって、他国で起きている出来事に過ぎないとも言える、そのユダヤの王誕生のために、贈り物を用意し、旅支度をし、国を後にしてきたのです。
そうまでする学者たちの目的は何でしょう。研究のためでも無ければ、好奇心を満たすためでもなく、お生まれになった王にひれ伏し、礼拝をするためでした。彼らの国にも王がいます。彼らの国の民が信じる神々もいるでしょう。しかしユダヤの民の王としてお生まれになった方に見え、その方を礼拝することを願いました。国同士の外交やビジネスのためではなく、学者である彼らのキャリアに有利となることを期待しているのでもないからこそ、彼らは、まだ生まれたばかりの赤ちゃん王を捜します。既に即位式が行われ、王として公式に内外に認められ、王としての力を存分に行使できる年齢の王では無く、赤ちゃん王を取り囲んでいる実権を握っている重臣たちでもなく、お生まれになったばかりの王その方にひれ伏したいと願いました。彼らの人生に、その方との出会いがもたらされること、その方と礼拝によってつながりが与えられることを憧れる、そのような思いが彼らの原動力でありました。ルカによる福音書では、闇夜の中でも輝く神さまの光は、日々闇に身を曝してきた羊飼いたちを照らしました。マタイによる福音書では、闇の中でも輝く神さまの光は、日々夜空を見つめ、闇の奥にあるものに目を凝らしてきた学者たちを照らし、その旅路を導いたのです。
今日の箇所の冒頭でマタイによる福音書は、それがヘロデ王の時代であったことを記しています。ユダヤの民からすれば純粋なユダヤの血筋ではないヘロデが徴税官から王にまで昇りつめ、強権を振るってユダヤの民を統治できているのは、この地域の宗主国、ローマ帝国の皇帝から任命されているからでありました。ヘロデの背後に、ヘロデが後ろ盾としているローマ皇帝と言う更に強大な力を持つ王の支配がそびえている時代に、支配されている民の一人として、キリストはお生まれになりました。この箇所の少し前で、マタイによる福音書は系図を伝えています。神さまが信仰の民の基として選び立てられたアブラハムから始まり、主イエスに至るまでの系図です。世代を超えて、歴史を貫いて神さまは救いのみ業を為さってこられ、それにもかかわらず王たちやその民はみ心から離れ出てしまうことを繰り返し、そのような時も神さまは人々を導かれてきたことが示されます。その血筋の最後に、神さまがいつかダビデの血筋に与えると約束された救い主が、ダビデ王の血筋のヨセフの子としてお生まれになったことを系図は伝え、その上で、主イエスのご降誕の出来事が語られています。
学者たちが属する国も、旅の間通って来た地域も、ユダヤの地域も、現在の世界と同様に誰かが王として支配しています。常に王座を狙う者たちがしのぎを削り、国と国が覇権を巡って駆け引きや争いを繰り返しています。その力の流れの変化に巻き込まれる民もいれば、おもねることで身を守ろうとする民もいる、そのような薄暗さが付きまとい、しばしば闇が濃くなる人間の歴史の中にキリストはお生まれになりました。福音書は、系図とその時代の支配者の存在を伝えることで、神がみ子を与えて救おうとしておられる現実とはどのようなものなのか、浮かび上がらせています。
時の王ヘロデは、エルサレムを訪れた東方の学者たちの話を聞き、「不安を抱いた」とあります。権力を手にしているヘロデが王座を守りたいとこのような反応を示すのは、ある程度予測できるものといえますが、その後に「エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられていることに、驚きを覚えるのではないでしょうか。王が変わることを、王自身だけでなく、その王の支配を喜んでいないはずの民も受け入れられません。神さまがみ子を与えて救おうとしてられるのは、このような王と民であり、それは私たちの現実でもあります。今世を支配している王たちの支配に決して納得がいっているわけではない、巻き込まれ、苦しめられ、時に怒りを覚えている。それでも、神さまが王であるよりは、人間の王に支配されている方がましと思ってしまう人間の現実があります。人間の王たちは、私たちの全てを支配することができません。王たちが支配しきれないところで、私たちは自分が自分の王でいられる、その自分の王国の中に、神さまと言う真の王の支配が入ってくることに、動揺を覚えてしまいます。自分が自分の王でいられなくなる事態を拒もうとします。それは、クリスマスの恵みを拒むことであるのに、です。神が真の王を私たちに与えてくださるということが、クリスマスの恵みです。マタイによる福音書のこの箇所は私たちに、あなたは本当に真の王の到来を喜んでいるのかと、問いかけているようです。世に来られた真の王が、自分の世界の中、自分の人生の中、自分の領域の中に到来すること喜ぶよりも、扉を閉ざそうとしていないか、と。ヨハネによる福音書は、「暗闇は光を理解しなかった」、「世は言を認めなかった」と記していました。まさに人間には、神さまの光よりも暗闇に親和性を覚え、神さまからの光を理解せず、神さまからの光を認めないところがあることを思わされます。自分の命と存在が神さまから与えられていることを退け、自分は自分のものであると、自分の王は自分なのだと、頑なに言い張りたくなるところがあることを思わされます。このような王や民とは対照的に、東方の学者は真の王の誕生を喜びました。自分の人生の中に神からの光が到来することに憧れ、一つの国の中に留まらない、国境を越えてそのご支配が及ぶ神さまに仕える人生に憧れ、そのような真の王を礼拝することを願って、遠くからやって来ました。
ベツレヘムの民の不安は、私たちにもよく分かる思いです。人の内側もすべて隅々まで光で照らすことのできる真の王の前にひれ伏すよりも、今自分を支配する者に不満があっても現状を維持する方が賢いことのように思ってしまいます。そもそも、本当に神さまが遣わされた方なのだろうか、本当に王としてこの世を支配することなどできるのだろうか、結局力を持つのは、ヘロデのように、大国の力にうまく取り入る賢さがあり、それによって王位を手に入れ、ヘロデのように身内であっても自分の地位を脅かす者は容赦なく殺してしまう残忍さを持つこの世の王ではないのかと、神さまは本当に世において力を持っておられるのだろうか、そのようにこころの中の闇が濃さを増してゆき、闇にひれ伏してしまうようなことが、いとも簡単に起きてしまう私たちであります。
東方の学者たちの行動は、世の目からは愚かに見えるかもしれません。けれど、ただひたすら、真の王の支配を願い、闇を照らす光のように、その方が世を支配されることに憧れ、旅を続けた彼らが居たから、クリスマスの出来事はユダヤから外へと、伝えられたのです。ひれ伏して拝むべきではない者たちにひれ伏してしまう人生から、ひれ伏して拝むべき方にひれ伏すことのできる、主と共に歩める人生へと導かれた喜び、自分にできる最高の捧げものを捧げることのできる喜びを、この学者たちは私たちに先立って味わいました。そうして彼らは、真の王がお生まれになったという喜びの知らせと、神さまの言葉による知恵と、神さまに従う道を与えられ、自分の国へと帰っていきました。本当の賢さ、本当の力、本当の喜びが与えられる、これまでとは別の道を、辿り始めました。このキリストという、闇の中でも輝く神さまの光への憧れを原動力とした彼らの旅によって、クリスマスの恵みはユダヤの民と他の民との間にある距離も、違いも超えるものであることが、証しされました。人間を覆う闇を突き破って、憧れの旅を続ける者を、神さまは主の星の輝きと、聖書の言葉で、救い主のもとまで導いてくださるのです。