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ジュネーブ市民にとって１２月１２日は、１６０２年のサヴォワのエスカラド（奇襲）撃破を記念するお祭り、エスカラード祭りの日だ。（写真：１６０２ソサエティーによる歴史仮装行列のジュネーブ防衛隊）
ジュネーブ市民にとって１２月１２日は、１６０２年のサヴォワのエスカラド（奇襲）撃破を記念するお祭り、エスカラード祭りの日だ。（写真：１６０２ソサエティーによる歴史仮装行列のジュネーブ防衛隊）
ジュネーブにとって、１２月１２日はアメリカ合衆国独立記念日やフランス革命記念日にも等しい戦勝記念日だ。１２月の最初の２週間は、世界の平和と人権の都として知られるジュネーブは大砲、銃、刀剣が煌めく町に変貌する。ジュネーブの人々は、この日サヴォワに負けていたらジュネーブはフランスになっていただろうと、毎年旧市街で戦勝を祝うことを続けている。が、歴史仮装行列は分かるとしても、１１月の半ばから店頭を飾るチョコレートの大なべは、何の謂れがあるのだろうか。
エスカラ−ド祭りには、次のような伝説がある。宗教改革前のジュネーブは、州の紋章の鷲の半身（神聖ローマ帝国）と黄金の鍵（司教）が表すとおり、カトリックの町で、しばしば西からサヴォワ家の侵略を受けていた。が、１５３０年代以来、清教徒カルヴァンが居を構え、宗教改革の中心地となった。１６０２年１２月１１日の夜半、旧教徒であるサヴォワ家のシャルル＝エマニュエル公は、ジュネーブに奇襲攻撃をかけた。サヴォワ軍が城壁に梯子をかけ乗り越えようとしているのを、ジュネーブ防衛軍のためにスープを煮ながら不寝番をしていたMere Royaume（本名Catherine Cheynel）という女性が発見、煮えたぎる野菜スープをサヴォワ軍の頭上にぶち撒け、味方に敵襲を知らせた。
実際には、敵襲を知らせたのはMere Royaumeではない。が、彼女はサヴォワ軍を撃破した何千人ものジュネーブ一般市民の象徴で、スープ鍋はエスカラードのシンボルとなった。今日では、伝統にのっとりマジパンの野菜を詰めたチョコレートのスープ鍋を子供と老人が割り「共和国の敵は死んだ。」という戦勝宣言を朗吟する。
本格的なエスカラード祭りは、１２月１２日に最も近い週末に１６０２ソサエティーのメンバーによって行われる。宗教戦争当時の衣装に身をかため、旧市街の道沿いで時々止まってはシャルル＝エマニュエル公を撃破した時の宣言書を読み上げ、マスケット銃と大砲で号砲を鳴らし、ジュネーブ市歌「Ce que lain」を歌う。
１６０２ソサエティーの会員は約２、６００人。うち７００人が衣装を着ることが許されている。少数だが、ジュネーブ在住の外国人会員もいる。彼等は、エスカラード祭りを商品化する意思はまったくないという。エスカラード祭りは、ジュネーブ市民にとって、愛国心、伝統、自由を讃える記念日だ。
宗教戦争の最中、３０年戦争の前年に起きたエスカラード事件は、歴史の上では小さなエピソードの１つにすぎないが、翌１６０３年にジュネーブとサヴォワで結ばれた平和条約によってこの地域に平和がもたらされ、フランスと北イタリアのカトリック勢力を撃破したことにより、ジュネーブは新教徒の、そして亡命者や迫害された少数派の人々にとっての天国としての地位を確立したことを思えば、その歴史的意義は大きい。もし、あの夜サヴォワ公が勝ちジュネーブを併合していたら、ジュネーブは今日あるような国連本部のある世界平和の町にはなっていなかっただろう。