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スイスの英雄、ウィリアム・テルは一体誰だったのか。歴史を紐解いてみても、テルについて多くの史料は見つからないが、言い伝えによるテルをここでおさらいしてみよう。
中世にタイムトリップし、テルの評判を探る
言い伝えによるとウィリアム・テルは、現在のウーリ州にある村、ビュルグレンに住む猟師で弓矢の達人。家族を持ち、良い父でありよき夫だった。しかし、これ以上のことは分からない。
物語はテルがウーリ州の村、アルトドルフに行ったことから始まる。アルトドルフの広場に柱の上に帽子が掲げられていたが、テルはこれを素通りしてしまう。 ハプスブルク家から同地方に派遣されていたゲスラー代官は、アルトドルフの広場に神聖ローマ帝国皇帝の象徴として帽子を広場に掲げた。ここを通る者達には、必ず帽子にお辞儀などして敬意を示すよう強制した。守らなければ皇帝に反逆するものとして、死刑または全財産没収の刑に処せられるという。
テルとりんごがきっかけになった独立運動
テルは帽子に敬礼しなかったため翌日、ゲスラー代官に広場への出頭を命じられ、人々の前で弁明を強いられることになる。ゲスラー代官はテルの子供のヴァルターの頭上に乗せたりんごをテルが撃ち抜けば命は保証するという条件を出した。矢はりんごに見事命中するのだが、テルが上着の中に隠していたもう1本の矢が見つかってしまう。万が一、失敗したらテルはゲスラーを殺すつもりだったのだ。テルは逮捕され、舟で牢屋へ運ばれてゆく。
しかし、湖が荒れ、テルを縛っていた縄が緩んでしまう。舟が岸に着くとテルは、舟を沖に押しやるようにして舟から飛び降り、逃亡を図った。
ゴッタルドからチューリヒへ行く道にあるホーレガッセの木の陰に隠れていたテルは、そこを通ったゲスラーを殺し、物語は終わる。
以後、テルはスイス建国の物語から姿を消す。ハプスブルク家からの独立に当たっては、テルの助けなしで、同盟を誓い合った者達が主役となってゆく。神聖ローマ帝国からの独立のきっかけとなったテルがこの運動に加わらないのは、やはりテルが神話の中の人物だからだろうか。
歴史の事実
神聖ローマ帝国皇帝の栄華を誇ったウィーンからその僻地にあたるウーリ州まで、専門家はテルが実存した人物なのかを証明する史料を捜し続けた。ウィリアム・テルという名前を手がかりに、中世の史料を調べ上げたが、いまだにテルの存在は証明されていない。
テルはテルと呼ばれていなかったのではないか。当時の庶民の多くは字が書けなかったことを考えれば、スペルが間違っていたことも大いに考えられると見られている。たとえば、ウーリ州の貴族で、フォン・タールという家系がある。タールとテルでは似ている。しかし、1300年のタール家の家長はコンラードで、家族にウィリアムという名は今のところ見つかっていない。
物語のポイント
ウィリアム・テルは実存するのではなく、物語上の人物で、スイスの建国の象徴としての人物と見るのが妥当のようである。
りんごのエピソードはヨーロッパの他の地域でも物語として存在するので、テルの物語にも脚色として使われたのではないかと見られている。しかも、息子の頭上に乗せられたりんごに命中したことは、スイス人の緻密な性格や情熱そして人間性を見事に映し出すには最適なエピソードと言えよう。
ウィリアム・テルは、自国を支配する人を認めるものの、独裁的支配者に対しては徹底的に対立する市民として、よき農民でありながら状況によっては英雄に変身するスイス人の象徴として、今でもスイス人に認められているといえよう。
普通の生活をしていた英雄であり、ミステリアスな人物ともいえず、このような人物が実存した可能性は高い。そもそも、実存したのか、しなかったのかというアプローチは間違っているのかもしれない。スイス人なら誰でもテルになれる可能性を持っているのだから。
スイス国際放送 ダニエレ・パパチェラ （佐藤夕美 （さとうゆうみ）意訳）
補足情報
歴史家はこれまでウィリアム・テルの実存性について研究してきたが、いまだ真実は判明していない。
歴史上の人物であるという意見と、想像上の人物であるとの意見は常に対立し続けた。
スカンジナビアに原点があるという専門家もいる。また、複数の人物が象徴されたものという人もいる。