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エレーヌ・ド・プルタレス（1868～1945年）はニューヨーク生まれ、ジュネーブ育ち。1900年のパリ五輪でセーリング選手として金メダルを獲得し、女性のオリンピック出場への道を開いた。このコンテンツは 2021/08/21 09:00
ヴォー州出身の父ヘンリー・アイザーク・バーベイ（1832～1906年）は米国で成功を収めた。バッファロー、ロチェスター、ピッツバーグ鉄道といった鉄道会社の大株主の1人だったのだ。
英語が堪能だったヘンリーは1865年1月12日、メアリー・ロリラード（1841～1926年）と結婚した。メアリーはニューヨークの上流社会でも特に裕福な家庭の娘だった。先祖が1760年に築いたロリラード・タバコ・カンパニー（LTC）を受け継ぐことになっていた。ケント（Kent）などの銘柄を販売していた会社だ。
2人はまずニューヨークの西38丁目17番地に居を構えた。夏は決まって欧州で過ごした。もちろんバーベイ家が複数の家屋敷を抱えていたスイス西部にも滞在した。1868年4月28日、第1子のエレーヌがニューヨークで生まれた。
有り余るほどの財産を背景に、ヘンリー・バーベイはあらゆる趣味に湯水のようにお金を使った。船旅もその1つだった。ある時ヘンリーはインディアンの姫にちなんで名付けられた小さな蒸気船「ミネハハ」をジュネーブに持ち帰ることになった。
蒸気船がどうやってハドソン川から大西洋を超えられたのかは伝承されていないが、確かにレマン湖南西のほとり、ベルビューで進水した。なんという大事件だろうか！
今や夫婦は上流階級の中でも注目される存在だった。連邦議員のアーサー・シェネヴィエールや、ギヨーム・アンリ・デュフールといった地元の名士たちとも交流があった。
交流の輪にはロスチャイルド家のバロニン・ジュリーの名もある。相当な財産を持った風変りな女性だった。1876年、ベルビューにあるバーベイ家の別荘から数百メートルのところに蒸気船「ラ・ギターナ」を造らせた。ヘンリーと趣味を共有し、当時のスピード記録更新に挑戦した。そのため当時「最速のヨット・レディ」と呼ばれるようになった。
エレーヌ・バーベイの若い頃はドレスや晩餐会、舞踏会、そしてハンサムな男友達で頭がいっぱいだった。石炭ですすけている大都市ニューヨークよりも、レマン湖岸の方が子育てに適しているという父親の考えで、幼少期からベルビューで暮らした。
swissinfo.chは定期的にスイス国立博物館の歴史に関するブログ記事を転載・翻訳しています。原文はドイツ語で、多くが仏・英語にも訳されています。End of insertion
エレーヌは幼いころからバローニン・ロスチャイルドについてウォータースポーツをたしなんだ。そこには「おしとやかで魅力的な」女性も時折同行していた。オーストリアのエリーザベト皇后その人だった。
そんなわけで、エレーヌがボート競技に興味を持ったのも自然な流れだった。夜会でも一番人気の話題だった。ただエレーヌがのめり込んだのは、蒸気船ではなく帆船だった。
将来はヨット乗りを婿に
ボートに熱を入れるあまり、エレーヌは将来結婚する相手も当然セーリングに打ち込んでいる人でなければならないと考えていた。幸運なことに、条件に当てはまる人物はすぐに見つかった。1891年、エレーヌはヘルマン・デ・プルタレスと結婚。後に有名な作家となるギー・デ・プルタレスの継母となった。
エレーヌは夫と共に無数のヨットレースに参加した。レマン湖はもちろん、2人がヴィラを持つ仏カンヌでも参戦した。ヴォー州ミーにあるクレネ城がプレタレス家の住まいだった。
その頃からエレーヌは経験豊富なヨット走者だった。毎夏を湖で過ごし、オフシーズンもニューポートで修練を積んだ。1851年以来続く国際ヨットレースのアメリカズカップにも出場。87年に出場したレースについて、エレーヌは手紙に詳しく書いている。
そして1900年がやってきた。近代五輪の第2回パリ大会は、パリ万博の付属大会として5月14日～10月28日に開催されることが1894年から決まっていた。
この大会で初めて女性アスリートが参加できるようになった。近代オリンピックの提唱者ピエール・ド・クーベルタンにはこれが気に食わず、後にこう記している。「私は女性の五輪参加をこれからも拒否する。私の意思に反して、競技への出場を認められる女性がどんどん増えている」
フランス人作家のエミール・ゾラは反対に、「やりすぎでない限り、女性の進化に貢献しうる身体活動を支持」した。
門戸開放のシンボルとして女性がオリンピックの広告ポスターに描かれたのは、ゴルフ、テニス、セーリング、クロッケー、乗馬の5種目だけだった。フェンシングの試合の予告ポスターにも女性が描かれたが、実際には出場が許されなかった。
スイスで何度も勝利していたエレーヌとヘルマン・デ・プルタレスは、レマン湖で典型的な長さ20フィートの「レリーナ」号で五輪に応募した。こうしてエレーヌは初の女性五輪選手20人の1人となった。
レースは5月20日、ムーランにあるパリ・セーリングサークルの水域で始まった。10トン未満の船は全てこれをクリアしないと、各カテゴリの本選に出場できなかった。
65人の出場者が11キロメートルのコースを走った。この日は穏やかな微風しか吹いていなかったため、特に優れた技術を持った者しか制覇できなかった。レマン湖の気まぐれな天候に慣れていたデ・プレタレス夫妻は簡単にクリア。走者番号22番が割り振られた。
20フィート級のレースはその2日後だった。出場者の多さからすると、19キロのコースは技術的に難度が高かった。エレーヌとヘルマンは再び勝利し、5月22日、エレーヌは艇長として金メダルを獲得した。
女性が出場できた五輪はこれが初めてだったため、テニスで金メダルを取った英国のシャーロット・クーパーや銅メダルのマリオン・ジョーンズ、ヘドヴィガ・ローゼンバウモワと並び、32歳のエレーヌは五輪初の女性メダリストとなった。
エレーヌ・ド・プルタレスはスポーツ界とジュネーブの貴族階級で瞬く間に評判となった。その頃セーリングは富裕層の間で大ブームになっていたからだ。継子のギー・デ・プルタレスは、父と継母の両方からウォータースポーツを勧められた。
ただその他の世界はそれほどエレーヌに注目しなかった。メディアはピエール・ド・クーベルタンの言葉を大々的に取り上げていたからだ。夫婦は1904年までクレネ城で暮らした。同年7月9日、600万ドルを超える資産を遺してヘルマンがこの世を去った。
エレーヌはそれ以降、ミーとパリのラルマ通り45番地にある住まいを行き来した。そして1945年、ジュネーブで77年の生涯を閉じた。完全に名前を伏せられていた。
エレーヌの義理の姉であるマルグリート・イザベル・デ・プルタレス・ナヴィル（1852～1930年）が夫のエドゥアール・ナヴィルと共にエジプト学で名声を博したのに比べ、エレーヌ・デ・プルタレスの名前が後々まで刻まれることはなかった。
当時、学問の世界では女性にどんどん門戸を開いていたが、反対にスポーツ界はほぼ男性が牛耳っていた。加えて、エレーヌが国際スポーツの舞台で活躍したのは1900年の五輪だけだった。
ごく一部のジャーナリストやコメンテーターが、エレーヌは女性に五輪への道を切り開いた人間の1人だと評したが、金メダルを取ったことには一切触れなかった。ジュネーブやヌーシャテルの貴族たちが熱心なプロテスタント信仰者だったことも、エレーヌの名声を高めることにならなかったようだ。
米国・スイスの二重国籍者だったエレーヌは、人生の大半をレマン湖畔で過ごした。だがエレーヌ・ド・プルタレスは、金メダルをラッキーで掴んだだけの「淡水の帆走者」だったわけでは全くない。エレーヌはパイオニアであり、五輪の金メダリストだったことは間違いない。
（独語からの翻訳・ムートゥ朋子）