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2021.7.25.主日礼拝
創世記1:2-5、ヨハネ11:1-4「まことの光」浅原一泰
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
旧約と新約から一か所ずつ聖書の御言葉が読まれたが、最初に読まれた創世記では、混沌として闇に覆われていたこの世に向かって神が「光あれ」と叫ばれる。それが聖書における神の第一声であった。続いて新約聖書からはヨハネ福音書１１章が読まれたが、この福音書の始まりは、実は創世記のこの言葉をもとにして書かれたと言われている。ヨハネ福音書はこういう言葉で始まっている。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
「地は混沌として」とも「闇が深淵の面にあり」とも言われることなく、ましてや「光あれ」という神の第一声もなく、この福音書は最初から「言があった」と切り出し始める。「初めから神と共にあった言」とは、神の独り子であり人類の救い主であるイエス・キリストを指している。神であるこの言が人となってこの世にあらわれた、それがイエス・キリストだと聖書は宣言する。その言の内に命があり、その命は人間を照らす光であったのだとこの福音書は強調する。それが神が天地を創造されるよりも前の世界であるのだと。創世記の言葉を念頭に置きながらこの福音書は、神が「光あれ」と第一声を叫ばれるよりも前の状態を描こうとしていた。ただ、創世記においてはイエスはまだこの世に生まれていなかった。だからと言って神が人間を愛しておられなかったわけではない。旧約の時代においても神の愛に守られて多くの人間が生きていた。神を信じて助け合い、支え合う人々もいた。しかしその一方で同じ人間が裏切り、憎み合い、争いを繰り返してもいた。そんな遠い昔話は今の時代には何の役にも立たないのだろうか。教会の中でだけ、もしくはキリスト教に関わりのある学校や施設の中でしか通用しないのであろうか。現実は過酷である。二千年前に救い主キリストがこの世に来られても世界から争いはなくならない。その現実の中で学校で聖書の話をしていても本気で聞こうとしている生徒はごく一部のように思う。教会に集まってくるクリスチャンたちは確かに聖書の話を知っているが、現実に今、この御言葉から命を与えられた、勇気と希望を与えられたと神の前で偽りなく証言できる方はどれくらいいるのだろう。教会がそうなら、この世はもっとそうである。平和の式典とうたわれるオリンピックが開幕したが、緊急事態宣言の真っ最中において、しかも開会式直前になって次から次へと様々な問題が露呈する中、このオリンピックが本当に平和をもたらしてくれると心から思える人はどれくらいいるのだろう。
きれいごとが嫌いな私はどうしても後ろ向きな話ばかりに目がいってしまうのだが、聖書はまさにその後ろ向きな現実をも見据えていた。そのように人類の夢も希望も、崇高な理想さえも打ち砕く影の力、聖書の言葉など無意味だ、神などいないと決めつけさせる力を創世記は「混沌」と言い表していたからである。その力に対して我々はあまりにも無力である。誰もが吞まれてしまう。私はその最たる者だが、皆さんも間違いなくそうである。しかしだからこそ神は、神だけは「光あれ」と叫ぶ。聖書は初めから、その神の戦いを宣言している。
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。これは先ほどのヨハネ11章で、既にイエスを知っていたある女性が人を介してイエスに伝えた言葉である。それを聞いたイエスの第一声はこうであった。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
混沌の力に呑み込まれて夢も希望もなく、愛もない世界で自分だけは生き残ろうとあくせくするしかなかった現実の人間社会に向かって「光あれ」と叫ばれた神はこの時、人間イエスとなって「この病気は死で終わるものではない」と叫ばれていた。実はこの場面は、混沌の中でも最も残酷な力、つまりありとあらゆる希望を容赦なく奪い去り絶望させる「死」の力に対してのイエスの戦いの始まりでもあった。
この時、イエスだけは分かっていたが、病気であったラザロという若者は既に死んでいた。であるからこそイエスはこの後に様々な非難を浴びせられる。「あなたがもっと早く来てくれれば弟は死ななかったのに」。ラザロの姉のマルタとマリアという姉妹はイエスにそう訴えた。周りにいた野次馬たちも、「他の人間の病を癒せても、結局ラザロを助けることはできなかったじゃないか」と陰で囁いた。誰もかれもが混沌の力に吞まれていたからである。死んだ人間がどうして生き返れよう。復活することなどあり得ない。混沌の力だけではない。科学的にも確かにそうであろう。しかし初めから神と共にあった言であるイエスの中に命があった、とヨハネ福音書は伝えていた。その命は、死んだら終わる肉体の命とは違って神から与えられる命であり、死んでも終わらない永遠の命だと聖書は言う。初めから神と共にあった言であるイエスはその命を携えてこの世に来られた。その命を分け与えるためである。分け隔てなくすべての者に与えるためである。だからイエスは、数々の非難を浴びせられてもラザロのもとに向かう。死んでから四日も経って墓穴の中に埋められていた彼の名をイエスは呼んで、ラザロを墓の中から出て来させる。そんな話が信じられるか。混沌に包まれた世界では誰もがそう思う。しかし聖書は言う。既にイエス自らが死から復活されているのだと。死をもってしても終わらせることのできない命を示しているのだと。その命を知らず、暗闇しか見えずに混沌に操られたままの一人一人に向かって、あるいは信じきれないまま頭の中で知っているだけに過ぎない我々クリスチャンに向かって、つまり混沌に太刀打ちできないすべての人間に向かって神は「光あれ」と叫んでいる。「この病は死で終わるものではない」とイエスは叫んでいる。更にイエスはこう言葉を続けていた。混沌の力によるこの病も「神の栄光のためである」と。「神の子が」、神の子とは我々も含めて神から命を与えられるべきすべての人間のことを指しているのだが、その「神の子がそれによって栄光を受けるのである」と。栄光とは命を輝かせる神の力のことである。すべての者を愛し、慈しみ、憐み給う神の愛のことである。まさしく神がすべての者に死で終わらない永遠の命を分け与えるために世に遣わされた言なるイエス、このイエス・キリストこそが神の栄光に他ならなかった。死んで墓に葬られていたラザロにこのキリストが歩み寄り、眼差しを注ぎ、その名を呼んで下さる。死んでいたラザロの中に宿って、つまり入り込んでキリストが生きて下さる。それによってラザロを生かして下さる。それが、神の子が栄光を受ける瞬間だと聖書は宣言する。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
ヨハネ福音書１：９はそう宣言する。コロナであれ死の恐怖であれ我々を諦めと絶望に追いやろうとする混沌の力から皆さんを解き放つために言なるイエスは今、ここにもおられる。まことの光として皆さんを、コロナに苦しむ患者や医療従事者たちを、そしてオリンピック選手たちを照らしている。死んでも終わることのない永遠の命を分け与えるために。皆さんの命も、この病も、「死で終わるものではない」と叫んでいるイエスの声に、我々を見つめ我々の中に宿って我々を生かそうとするイエスの眼差しに、共に気づかされたい。