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「国際都市ジュネーブ」は、第1次世界大戦の混乱期に誕生した。スイスは1870年代からドイツ帝国に傾いていたが、1917年にフランス、米国に目を向けた外交へと素早く転換した。20世紀の国際舞台で重要な役割を担うため、スイス政府はジュネーブの将来性をアピールし、そこに国際連盟を迎え入れた。今から100年前のことだ。このコンテンツは 2020/04/02 08:30
全ては1917年春のスキャンダルから始まった。アルトゥール・ホフマン外相（当時）は、著名な社会主義者、ロバート・グリム議員の協力で、ドイツとロシアの和平協定を進めようとしていた。西部戦線に集中できるようになることで、ドイツに有利な戦いへと流れを変えかねない取引だった。だが5月末、この水面下の交渉がフランスの知るところとなり公になり、国際的な非難を浴びた。グリム・ホフマン・スキャンダルと呼ばれる出来事だ。
国際連盟の発足から100年を機に、swissinfo.chはスイスと世界の歴史上の転機に焦点を当てたシリーズ記事を配信している。「国際都市ジュネーブ」は、国際連盟発足とともに誕生した。End of insertion
同年6月18日の閣議で辞職を余儀なくされたホフマンの後任には、赤十字国際委員会（ICRC）の会長を務めていたギュスターヴ・アドール国民議会（下院）議員が就任した。
歴史家のセドリック・コッテール氏は著書「(S')Aider pour Survivre（仮題：生き残るための共助）」の中で、グリム・ホフマン・スキャンダルは「スイス国内の緊張がピークに達したことを表面化させた」と記す。「国の中立性は国外のみならず国内からも疑問視された。このドイツびいきの行為に対しフランス語圏は怒りを噴出させかねなかった。（中略）。そのような中にあり、アドールは理想的な後任候補だった。連合国（協商国）の共鳴者であったことは疑いの余地がなく、またICRCトップとしての献身的な働きもスイス国内外から高い評価を得ていた」
米国との関係構築
歴史家のマーク・ペルヌー氏は、この政策路線の変更は列強国に対するスイスの適応能力を示していると指摘する。「自国の強みを際立たせながら、国際情勢の変化に合わせて外交政策を再検討するのは、19世紀から常にスイスの特性だった。第1次世界大戦の終わりに起こったことがまさにそれだ。その時にジュネーブが担った役割は、スイス、そして世界に大戦が与えた影響を大きく受けている」
大戦の長期化と破壊力は誰も予想していなかった。高度に機甲化されたこの大戦を免れたスイスは、20世紀に力を増していた米国との関係を構築するようになる。
「1917年、内閣は在米ワシントン・スイス大使にチューリヒの実業家ハンス・スルザーを任命し、当時のウッドロウ・ウィルソン大統領から歓迎された。それまでドイツ、中欧に目を向けていたスイスのドイツ語圏が、大西洋の向こう側に注目するようになった」とペルヌー氏は記す。
1922年にはスイス・米国友好団体がチューリヒのホテル・エリートで結成された。「だがジュネーブは、もっと有利で、もっと前から大西洋諸国とつながりを持っていた」
「プロテスタントのローマ」と呼ばれたジュネーブの持つ存在感もまた、決して無視できるものではなかった。16世紀に宗教改革者ジャン・カルヴァンがこの地を拠点として活動したことで、ジュネーブは国際的に名が知られるようになった。中でもこの事実は、長老派の牧師を父に持つウィルソン大統領から、ジュネーブに国際連盟本部を設置することへの支持を勝ち取ることに一役買った。
ジュネーブに住んだアメリカ人
ジュネーブのアメリカ人といえば、南北戦争（1861～1865年）で北軍の陸軍中佐だったジェームズ・ベイツがいる。1875年に妻アメリー・シュヌヴィエールの故郷ジュネーブに移り住んだ。米国はその時からジュネーブで存在感があった。ベイツは翌76年に新聞社「The Continental Herald and Swiss Times」を印刷所とともに買収し、現トリビューン・ド・ジュネーブ紙の前身である「Geneva Times」に改名した。ベイツはまたユニオン・バンク（Union Bank）を創設し、同行は1919年にUBS銀行に吸収されている。
ジュネーブで活躍したもう一人の米国人には、第1次大戦末期に重要な役割を果たしたウィリアム・ラッパルトがいる。米ハーバード大学出身の経済学教授は、ウィルソン大統領との関係を円滑にし、国際連盟本部をジュネーブに呼ぶためにアドールの傍らで積極的に働いた。
米ロックフェラー財団の強力な支援を得て、1927年にジュネーブ国際開発高等研究所を設立したのもラッパルトだった。米国上院がヴェルサイユ条約批准に反対し、米国は国際連盟に加盟しなかったものの、ロックフェラー財団は国際連盟が解散するまで連盟内で積極的に活動した。
ジュネーブ国際開発高等研究所は、何世代ものスイスの外交官を養成してきた。そうしてジュネーブは、スイスの外交政策における「控えの間」となっていったのだった。
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