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今から70年前、ヌーシャテルの神学生モーリス・バヴォーはヒトラー暗殺を企てた。パスカル・クシュパン連邦大統領は先日、公式声明を発表し 「今日の視点から見れば、スイス当局は当時、この暗殺計画者を保護する努力を十分に行わなかった」 とバヴォーに対する評価を正した。このコンテンツは 2008/11/16 15:25
「バヴォーは、アドルフ・ヒトラーが全世界にもたらす恐ろしい運命を予感していたのかもしれない。彼は追憶され、感謝されるにふさわしい人だ。スイスは当時、彼の救済に向けてドイツ当局に介入しようとしなかった」と声明文は続く。
教材として
社会民主党 ( SP/PS ) のパウル・レヒシュタイナー連邦議会議員は暗殺未遂から70年目の今年、声明の発表を行うべきだと要求していたが、連邦政府は今回の声明によってこの動議を受け入れた形となった。レヒシュタイナー氏は動議の理由として、1989年と1998年に政府が発表した声明だけでは不十分で、バヴォーの名誉回復は実質的にまだ行われていないことを挙げた。
「 ( 当時の ) ベルリン駐在のスイス公使はこの暗殺を『忌むべき行い』だと決め付け、バヴォーを慰問したり、バヴォーのために尽力したりすることを拒否した」
とレヒシュタイナー氏は憤る。
「バヴォーとドイツのスパイ1人を交換するという提案に対して、国防省は首を横にしか振らなかった」
レヒシュタイナー氏は続ける。
「スイス当局はこれまでバヴォーに対して、彼が受けて当然の敬意を示してこなかった。これはスイスの恥だ。スイスは彼を誇りにすべきだし、彼の一生は学校で教えられてしかるべきだ」
見放されたスイス人
1938年11月9日、バヴォーはミュンヘンにいた。軍司令官会館の前でナチスのパレードが行われたときにヒトラーを拳銃で射殺しようとしたが、失敗。1週間後に逮捕された。1938年12月18日、バヴォーは民族裁判所で死刑を宣告され、ベルリン・プレッツェンゼー ( Berlin-Plötzensee ) にある刑務所でギロチンにかけられた。
スイス当局はバヴォーを見殺しにしただけではなく、ゲシュタポの要請により、神学校の元級友の間でバヴォーに関する捜査を行っていたことも記録に残っている。1956年、ドイツ司法当局はバヴォーに対するこの死刑判決を無効とした。
作家のロルフ・ホッホフートとニクラウス・マイエンベルクの両氏は1980年代、著書『テル38 ( Tell38 ) 』および映画「ブランデンブルクは寒い ( Es ist kalt in Brandenburg ) 」でバヴォーの運命に光を当てた。また、「モーリス・バヴォー委員会 ( Comité Maurice Bavaud ) 」は数年前から連邦政府に対して公式な謝罪を求めている。
1989年、連邦政府はバヴォー家に宛てた書簡で当時の当局の怠りを認め、それに対する遺憾の念を表明した。さらに1998年には、バヴォーは称賛と「われわれの記憶の中にとどめられる」に値する人物であることを強調した。
swissinfo、外電
補足情報
- モーリス・バヴォーは1916年1月15日、ヌーシャテルに生まれた。
- カトリック系の私立校を卒業した後、父親の強い勧めで製図工の資格を習得。
- その後の3年間、フランスのブルターニュで宣教師になるための教育を受けるが、22歳のときに中断してスイスに戻った。
- 1938年10月9日ドイツへ赴き、ベルヒテスガーデン ( Berchtesgaden ) とミュンヘンに滞在。11月9日にアドルフ・ヒトラー暗殺を試みた。
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