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2022.4.24.主日礼拝
Ⅱコリント4:7-15
「命が現れるために」浅原一泰
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死（見えるもの）を体にまとっています。イエスの命（見えないもの）がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」
ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのが2月24日。今日で丁度二カ月になる。初めは誰だってロシアのしたことは許しがたい暴挙であると断じて、即刻軍を撤退させることを望んだ筈だ。専門家たちは連日のように事態の分析に追われ、連日様々な予測憶測が繰り広げられてきたが、おそらくどれ一つとして事実とは重ならず、未だにロシアは攻撃の手を緩めず、犠牲者は着実に増え続けている。国連は機能せず、NATO諸国も、その中心にいるアメリカ、ドイツ、イギリス、フランスも非難声明を出し、ウクライナに武器を供与して支援するとはしてきたが、現実にロシアを止められてはいない。遠い日本という国で連日このニュースを聞かされる我々は二カ月前よりも次第に、このように考え始めてはいないだろうか。これが自分の国でなくて良かったと。ウクライナの人々は気の毒だが、どうすることもできないのではないかと。加害者であるロシア自身が考えを改めない限りは、どうすることもできないのではないかと。残念だが、ウクライナの人たちには死が働き、我々の内には命が働いている。それは仕方のないことなのだ、と。それは先ほど読んでいただいた聖書の言葉とはまったくもって正反対である。Ⅱコリントを書いたのは主イエスの僕パウロである。パウロはコリントの教会の兄弟姉妹に向かってはっきりとこう記していた。「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」と。今現在のウクライナの人々に、或いは軍のクーデターによって軍事政権に牛耳られ自由を奪われているミャンマーの人々に、世界広しと言えどもどこの誰がパウロと同じことを言えるだろう。気の毒だがあなたがたの内には死が働いている、としか誰もが言えないと思う。口では平和を願い、戦争が終わることを祈りながらも、心の奥底では誰もが、我々も含めクリスチャンでさえもが、「私たちは守られているが、気の毒にあの人たちは死に曝されている」と思っている筈だ。しかし聖書であれば、パウロであったら、ウクライナやミャンマーの人々に向かっても「わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」と記したに違いないと思った。
神は万物を創造され、ご自分の似姿である人間には息を吹きかけられて命を与えられた。神は決して死を創造されてはいなかった。死は、聖書によれば人間が神に背いたことによって、具体的には初めの人間アダムとエバが神に背いて禁断の木の実を食べてしまったからこそ初めて持ち込まれたものである。神は命を創造されはしたが、決して死を創造されたわけではなかったわけである。ヨハネ福音書は冒頭でこのように伝えている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光を理解しなかった。」もしくは「闇は光に勝たなかった」と。言の中にある命。人間を照らす光である命。闇をもってしても、死の恐怖をもってしても終わらせることの出来ない命。その命を神は万物に、特に人間一人一人に分け与えられたと言うのである。ところがそこに後から死が入り込む。すると人間は、命を生かすことよりも、死を恐れる生き方しかできなくなってしまった。何とかして死を免れようと、死なないで済む道を探し求めようとする生き物になってしまった。死んだら命は終わりだとしか考えられなくなってしまった。アダムとエバが神の言葉に背いて食べてはならないと神から言われた木の実を食べたのも、蛇に化けたサタンに、食べても死なないと囁かれたからであった。「死んでしまう」という神からの切なる訴えにいつまでも緊張させられ続けるよりも、「決して死なない」というサタンの言葉にすがりつき、手っ取り早く見せかけの安心感を手に入れたいと思ってしまったからであった。命を生かすことよりも、死にたくないとしか考えられなくなったアダムが、神から「なぜおまえは食べてはいけないと命じた木から食べたのか」と問われた時、咄嗟に妻エバが悪いのだと責任を彼女一人に押し付けたのも偏に、自分だけは死にたくない、と思ったからであった。
「戦争状態にあっては、祖国愛は狂乱状態にまで至っている。そこから立ち直ることは不可能だ。」フランスの哲学者アランの言葉である。その頃のヨーロッパは狂った祖国愛に翻弄され、悲惨な戦争体験を繰り返していた。ナチスのヒトラーが600万人ものユダヤ人を殺戮したことも狂った祖国愛、狂った民族主義に端を発している。中世ヨーロッパに吹き荒れた新教旧教のいがみ合いからなる宗教戦争も、十字軍の如き狂乱状態も、自分達にこそ正義がある、という気違いじみた自負心に端を発している。「戦争は狂乱状態である。そこから人間の手で立ち直ることは不可能だ」というこの言葉は、ものの見事に今のこの二カ月のロシアを、ウクライナを、そして国際社会の現実を言い当てていたと思う。無意味な殺し合いの終わりは依然として見えないからだ。更にアランはあの言葉の後で、続けてこう記していた。「祖国から人類に至ることはない」。祖国愛から人類愛に至ることはない、と言うことだろう。その言葉を更にこうは言い換えられないだろうか。「自己愛から隣人愛に至ることはない」。自分だけは死にたくない、というアダムから隣人愛のために十字架にかかったキリストに至ることは決してないのだと。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
この手紙を書いた時のパウロには、否と言う程思い知らされている現実があったと思う。かつて自分の手で種を蒔いて芽が出たコリント教会の中で仲間割れが生じ、意見の異なる相手を非難し冒涜し、パウロにその責任を擦り付けて彼を蔑む信徒たちが増え続けていた。もしパウロがキリストの僕でなかったら、キリストに結ばれていなかったら、彼はアダムに倣ってその責任をコリントの信徒たちに擦り付けていただろう。「私はやるべきことをやって来た。悪いのはあなたがただ」と言っていただろう。サウロと呼ばれていた頃の彼ならば迷わずにコリント教会を迫害しまくったかもしれない。しかし既に彼はキリストに捕えられていた。キリストのものとされていた。先ほどヨハネ福音書の言葉を紹介したが、神である言、その内に命がある言、その命が人間を照らす光であり、闇も死の力もその光には勝てないという言、その言が肉となって、私たちの内に宿られた方こそキリストである。アダムの路線を取ることなく、従って責任を相手に押し付けるのでも、憎しみに憎しみを返すのでもなく、キリストに導かれるままにパウロはこの時、自分を敵視するコリントの兄弟姉妹に向かって、「しかし私たちはこのような宝を土の器に納めています」と。だからこそ「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と。そういって言なるキリストを証しするのである。
パウロは強がっているわけでもなければ、自分を誇っているわけでもない。自分は脆く儚い土の器でしかない。そのような自分に、思いもよらない所から、かつての自分の思いに反して、その自分をねじ伏せてでも自分を捕らえて下さった方、全ての人間を照らし、闇も打ち勝つことの出来ない光を灯して下さっている方、即ちキリストが自分の中にいて下さるからこそ苦しめられても行き詰まらず、打ち倒されても滅ぼされないで今、生かされている。そのキリストは、自分を敵視するコリント教会の兄弟姉妹の中にも生きておられる。パウロはそう信じていた。と言っても、コリント教会の為に悔しさと悲しさの余り涙さえ流して手紙を書いたと伝えられているパウロの人間的な本心からすれば、その思いは揺らいでいたかもしれない。その時のパウロはアダムに戻りつつあった。しかしキリストはパウロを引き戻した。自分から自己愛から隣人愛に至ることは不可能である。しかし「主イエスを復活させた神が、イエスと共に」パウロをも復活させていた。
あなたがたは皆、自分こそが正しいと思い込んでいる。パウロよ、お前が悪い。お前こそ死ぬべきだと思っている。そんなあなたがたから私が責められ、蔑まれ、敵視されるのは、私の主であるキリスト自身がかつて味わわれたことだ。イエス自身、二千年前のユダヤで、自分たちこそが聖書に従って民衆を指導しているのだと自分で自分を正当化しつつ、実際には貧しい者たちを虐げ、罪人や病人を見下して胡坐を書いていた祭司長や律法学者などの特権階級によって十字架につけられ、殺された。それは彼らの誰もが死にたくなかったからだ。自分の立場を守る為にイエス一人に責任を擦り付けたからだ。イエスは一切抵抗しなかった。なぜか。言の内にある命は、すべての人を照らす光なる真の命は、闇をもってしても、死をもってしても消すことができない。そのことを身をもって、世にあまねく証しするためだった。イエスに捕えられていたからこそパウロもこの時、サタンの誘惑を跳ねのけ、命を生かすことだけを望んで、死を恐れずに言い切った。「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」そしてこう続けたのである。「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」と。
イエスの命とは、神がすべての人間に与えたいと願って止まない真の命である。罪によって歪められることなく、世の全ての者を照らす光を持つ永遠の命である。だからこそ、パウロが苦しめられ、死に晒されることになっても、その時こそ初めて、決して消えることのないイエスの命の光があなたがたコリントの教会を包んでいたことがあなたがたにも分かるのだと。私が苦しむことによって益々あなたがたに向かってイエスの命が現れることになるのだと。イエスの命は目には見えない。見えるのは、死んだら終わると人間が思い込んでいるまやかしの命だけである。しかしパウロはこの手紙の少し後でこう言い切っている。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(4:18)と。
ウクライナの人々に向かって、「わたしたちの内には命が働き、あなたがたの内には死が働いている」と我々も含めて世界中の人間がそう思ってしまうのは、我々がまやかしの命しか見えなくなっているからであろう。イエスは今、死に直面しているウクライナの一人一人にも寄り添っておられない筈があるだろうか。闇の世が死を恐れさせる中で、イエスの命が現れるために、闇をもってしても、死をもってしても消すことの出来ない命の光が今こそ彼ら一人一人の中にも確かに宿っていることをイエス自ら告げ知らせようとしておられない筈があるだろうか。そのためにもイエスはかつてのコリントを救うためにパウロを選んだように、ウクライナのために名もなき僕たちを選び、奮い立たせ、イエスの命を証しさせようとしておられると信じたいのである。
遠くにいる私たちは目に見える形としてはせいぜい祈ることしか出来ないのかもしれない。せいぜい募金をすることくらいしかできないのかもしれない。しかし主イエスを死から復活させた神は、そんな無力なわたしたちをも復活させ、ウクライナの人々と一緒に、やがてはロシアの兄弟姉妹とも一緒に、御前に立たせて下さる終わりの日が来ることを信じて祈りたい。闇が全世界を覆うとも、決して闇が打ち勝つことの出来ない光に包まれる日、世界のすべての者が恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すその日が、神の国の勝利の日が訪れることを信じて、共に祈りを捧げたい。