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エゼキエル37：1～10、使徒2：1～13「主の霊に生かされて」（ペンテコステ）
2023年5月28日（左近深恵子）
約2,000年前に、都エルサレムの片隅で最初の教会が生まれました。聖霊が主イエスの弟子たちの上に降られ、弟子たちがあらゆる地域の言葉で主イエスの福音を語り始めたのでした。この出来事はペンテコステと呼ばれるお祭りの日に起きたので、後に教会はこの出来事をペンテコステと呼んで、毎年記念する礼拝を捧げるようになりました。あらゆるキリスト教会にとって、教会は同じ一つの出来事にルーツを持つのだということを共に確認できる日、そこから今を見つめ直し、新たに歩み出すことのできる日が、ペンテコステです。今日も世界中の教会がそれぞれの地で、約2,000年の教会の歴史の始まりを思い起こしながら、礼拝を捧げています。
この壮大な教会の歴史の始まりとされた主イエスの弟子たちは、どのような人々であったのでしょうか。彼らは主イエスから約束を告げられていました。過ぎ越しを祝うために大勢の人が集まっていたエルサレムで、十字架にお架かりになった主イエスは、三日目に復活され、40日に渡って弟子たちに現れてくださり、「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と、「あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受ける」と言われました。その時はいつなのかと、それはどのようにして為されるのかと、弟子たちは知りたがります。神さまの約束について、時期や実現の仕方が示されなければ安心できないと、示されるのなら約束に信頼しようとなるのが人間です。しかし主は、「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」と、それは神さまに委ねるべきことであると、教えられます。そして「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受け」、「地の果てまでご自分の証人となる」と宣言されました。復活の主にお会いしても、他国に支配されている自分たちの国を再興する役割を、主イエスになおも期待していた弟子たちは、主の言葉によって、父なる神が与えてくださる約束は、地上の勢力の力関係に変化が起きることに留まらないことを知ります。神さまのご意志が地上でなされていくこと、神さまのご支配が地上で出来事となっていくこと、そのために弟子たちが聖霊によって天からの力を受けることを知ります。その後主イエスは天に挙げられ、弟子たちはもはやその姿を見ることができなくなりました。
弟子たちは、男性も女性も、その日以来、エルサレムのある家の上の階に集まって、いつ訪れるのか分からない約束の時を、心を合わせてひたすら祈りながら待つようになりました。このような弟子たちの姿を使徒言行録はしばしば伝えています。教会とはこのような人々から始まったのだと。神さまに委ねるべきことは神さまにお委ねして、ただ聖霊が降ることを待ち続ける、それは何もしないということではなく、一つ所で、心を合わせて祈ることで一つとなることです。祈りは、今できることを見出すことにも人々を導きます。
この弟子たちには、振り返らなければならない過去がありました。12弟子の一人、ユダの裏切りです。主イエスが祈りをもって選び、大勢の弟子たちの中心とされた12人の一人であり、弟子たちにとって、自分たちと共に主の招きにお応えし、共に主イエスの後に従ってガリラヤの町や村を巡り、寝食を共にし、主イエスを殺そうと狙う人々が待ち構えているこのエルサレムに、どこまでも主に従おうと共にやってきた仲間の一人であるユダが、主イエスを殺そうと機会をうかがっていた者たちに主を引き渡すという、主に十字架刑をもたらす決定的な裏切りを行い、その報酬としてお金を受け取り、結局自ら悲惨な死を死んでいきました。信じ難い裏切りが仲間の中から起こりました。けれど他の弟子たちも、主イエスを見捨て、離れたり、主のご生涯と死を矮小化してきました。誰も、主イエスが語って来られた言葉を深く受け止め、主に従い通すこと、主の言葉に信頼して主の復活を待ち望むことができませんでした。集まり、祈っている者たちは皆、主に背く者であることにおいて、ユダと自分たちとの間に決定的な違いが無いことを知っていました。ユダの裏切りを振り返れば、自分自身や今共に居る他の者の裏切りを思うことにもなってしまう、だからユダの出来事には触れずにいよう、互いの傷を再確認するようなことはせずにいよう、そう思いたいのが人間でしょう。
けれど弟子たちは、ユダの出来事を振り返ります。ユダはきっとこう思ってあんなことをしたのだろうといった同情によって、ユダの裏切りについての判断を避けることをしません。ユダに対する怒りや憎しみによって、判断を誤らせることもありません。ユダを支配し、滅びへと至らせた罪を見つめ、その出来事の一切を通して神さまの必然が為されたことを見つめます。主イエスを裏切ったことにおいてユダに続く者である自分たちに、復活の主が現れてくださったことに、主の憐れみを見出だします。主イエスの十字架と復活によって照らし出された自分たちの闇、今も自分たちのこころに確かにあり、他者との関係に浸透してしまう闇を、無かったことにして、ただ前を向いて主の約束を待つ、そのような在り方は、主イエスから離れたところで、闇に覆われた自分のままで、自分の願いの実現のためだけに、機会を待っているだけとなってしまいます。復活の主に祈るということは、現実から祈りの世界に逃げ込むことではありません。これまでの自分のままでこの先も行こう、自分の裏切りも、その根っこにある自分の罪も無かったことにしていよう、そのような人間的な思いを乗り越え、自分たちの罪も願いも復活の主の光の中に注ぎ出すのが祈りです。姿を見ることはできなくても、共にいてくださる復活の主に、共に祈る者たちに、新しい歩みが示されます。
祈りを通して弟子たちは、ユダの裏切りによって1人欠けてしまった12使徒の補充をするために、選挙を行うことへと押し出されます。ユダも自分たちと同じように、主の復活の証人として務めを主イエスから割り当てられていたのだ。だからユダに代わって、この務めを担う者を立てようとします。祈りをもって、最後は主イエスに選び立てていただくためにくじを引いて、マティアと言う人を選出しました。こうして弟子たちは、約束の聖霊が降られ、自分たちが地の果てまで証人として遣わされる時のために備えます。その後も、一つ所に集まり、ひたすら祈る日々を重ねます。この為し得ることを為して備え、祈る人々の上に、聖霊が降られ、彼らは大胆に、力強く、主の復活を証しする言葉を語り出したのです。
先ほどエゼキエル書から、預言者エゼキエルが神さまから幻を示された出来事を聞きました。谷間の平野に、戦いに敗れた戦死者たちの骨があります。長い年月の末に骨だけとなった人間たちの夥しい遺骸が広がる谷には、命の力、命の活動の兆候は何もなく、絶望と空しさが支配しているようです。
エゼキエルがこの幻を示されたのは、捕囚の民がエルサレム陥落の報せを聞いた時であったと言われます。バビロニア帝国に攻め込まれ、祖国からバビロンへと強制的に連行され、捕囚とされてきたイスラエルの民は、イスラエルが力を取り戻し、故郷に戻れる日が来ることを待ち望んでいました。しかし最後の希望であった都エルサレムが陥落してしまいました。国を失い、希望を失い、肉体は生きていても既に死の力に既に呑み込まれつつある彼らは、枯れ果てて谷間に横たわる骨のようでありました。
彼らは、ただバビロニア帝国との戦争に敗れたのではありません。神さまの言葉に信頼することによってではなく、大国の力を用いることで存続しようとしたイスラエルの民の罪に対して、神さまが大国の力をもって裁きを下されたのだと、人々は受け止めました。けれど人々が神さまに赦され、故郷に戻ることのできる希望の砦であったエルサレムまで滅びてしまいました。エルサレム陥落の報せは、神さまに背を向けた彼らの罪の重さ突き付けるようなものであったのではないでしょうか。彼らには、国が息を吹き返し、イスラエル民族が存続できると望める根拠は、何もなくなってしまいました。幻において、神さまがエゼキエルに「人の子よ、この骨は生き返ることができるか」と問われます。生きながら既に死に呑み込まれているイスラエルの民は、生き返ることができるのか、命に溢れて生きる神の民へと回復することができるのかと問われているようです。望みが潰え、自分たちの罪の故に滅びるしかない死が支配しているように見える平野で、“生き返ることなどできない”というのが、人間の常識であり、イスラエルの民の思いでしょう。しかしエゼキエルは人間の常識を自分の答えとしません。「あなたのみがご存知です」と答えます。神さまには、死者のようなイスラエルの民を生き返らせるお力があると、人間の常識も思いも超えるお力があると、信頼しています。けれど神さまがそれを為さるのか、為さらないのか、エゼキエルが決めることはできないと、エゼキエルは生き返らせて欲しいと願っているが、願いを神さまに訴えるが、罪の死の淵から民を救い出すことをお決めになるのは、神さまであることを、エゼキエルは表明します。そのエゼキエルに、神さまは骨に向かって預言をせよと、神さまが霊を吹き込むとあなた方は生き返ると、神さまの言葉を骨に語りなさいと、命じられます。命が通っていないような者たち、絶望と死の力に呑み込まれ、傾ける耳も持たない者たち、語り掛けても言葉が虚しく地に落ちてしまうような者たちに、神さまの言葉を語る務めを与えられます。エゼキエルが虚しさに耐えて命をもたらすみ言葉を語ると、地響きがし、バラバラだった骨はつながって、人の姿を取り戻します。しかしエゼキエルの働きだけではそれらは生きた者とはなりません。主に命じられてエゼキエルが再び預言をすると、神さまの霊が四方から吹いて来て、人の形に過ぎない者たちの上に吹きつけ、それらの中に入り、彼等は生き返って自分の足で立ちます。創世記の天地創造が伝える人の創造のように、神さまから与えられた人の形の中に、神さまの清冽な命の霊が注ぎ込まれて、人は初めて真に生きる者とされます。
幻の中の戦死者たちは、長い年月、強い日差しと熱風に曝されて、肉を失い、皮膚を失い、生きるための機能を失い、声も言葉も失いました。イスラエルの民は、真の主である神さまへの背きの故に、故郷を失い、同胞を失い、民族存続の希望を失い、神さまとのつながりも失いそうになっていました。この者たちに神さまの霊が吹き付け、新しい命で満たし、神の民として新たに生きる者としてくださいました。
主イエスの弟子たちに降られた霊を、使徒言行録は様々なイメージを用いて語ります。激しい風、家中に響き渡る音など。そこで繰り返されるのは「ような」という言葉です。この地上の被造物の一つでは無い聖霊を直接言い表すことはできないので、何かに譬えて、イメージを重ねるようにして表現します。その中に、炎のような舌があります。炎の赤は、ペンテコステを表わす色ともなっています。聖霊はこれまでも炎と結び付けて語られてきました。洗礼者ヨハネは主イエスのことを人々に、「その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」（ルカ3：16）と語りました。ルカはこのことがペンテコステの出来事において実現したと語っているのです。
聖霊は風のようにやって来ますが、風のように直ぐにどこかに去ってしまうのではありません。一つの聖霊が、別れ別れに現れ、一人一人の上に留まってくださいます。一人一人の上に留まって燃え続ける炎を見た人々は、燃える柴の炎の中からモーセに呼び掛けられた神さま、モーセに十戒を与えるために火の中をシナイ山に降られた神さまが、その神さまの霊が弟子たちと共におられることを知ったことでしょう。洗礼者ヨハネは先ほどの言葉に続けて、主イエス・キリストをこう述べています「その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる」（ルカ3：17）。人の罪を、また罪が生み出したものを、消えない火で焼き尽くされるように、聖霊の炎は悔い改めへと導き、神さまのみ前に注ぎ出す彼らの罪を焼き尽くされます。金が炎によって精錬されるように、聖霊の炎が私たちを精錬し、古く頑なな罪の殻を焼き尽くし、神さまの息が内側に吹き渡るような新たな者としてくださいます。イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架に架かって死んでくださったからです。そして復活されました。イエス・キリストは生きておられるから、聖霊において私たちと共におられるから、私たちは生きておられるキリストを他の人々に証しすることへと押し出されます。一人一人に留まってくださる聖霊が、私たちのエネルギーを燃やし続ける原動力となってくださいます。
主イエスの姿を見ることができなくなっても、ひたすら集まって、心を合わせて祈っていたのは、「地の果てまで復活の主の証人となる」との主の約束を、そのようなことは無理だと、逃げ出し、ガリラヤに帰ってしまうのではなく、祈りつつ、無し得ることは為して備えていたのは、彼らの意思の意志の固さや、熱心さに拠るものではありません。復活の主に出会った彼らは、キリストは生きておられると、知っていたからです。一人一人がそれぞれの名を持ち、異なる人生を歩んできた、バラバラな、ただ主イエスによってつながり、集っている人々。人の目から見れば知恵ある者が多いわけではなく、能力のあるものや家柄の良いものが多いわけではない、地方ガリラヤから都に出て来た人々。弟子でありながら主イエスに背いた人々が、姿を見ることはできなくてもキリストは生きておられる、その確信によって、一つとなり、祈り備えていた、その人々に神さまは霊を注がれて、最初の教会とされました。同じ聖霊のお働きによって、私たちもここに呼び集められ、教会とされています。聖霊のお働きが、一層この美竹教会を通して、教会に連なる私たちにおいて、為されますようにと願います。