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◆ヨハネの福音書１６章３２節～３３節
16：32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
◎十字架への歩み
キリストに課せられた十字架の死による救済の計画は、人類の歴史の中で最も過酷なミッション（使命）でした。主イエスが十字架に向かって進んで行かれたのは、確かに父なる神に対する従順からでしたが、大きな試みの中にあって主イエスを支えたのは、御父との親密な交わりでした。「父がわたしといっしょにおられるからです。」と語られた主イエスは御父に完全な信頼を置いていたのです。この時だけでなく、生涯を通して御父の愛の中を歩まれたのです。主イエスは、御父との交わりの中で愛を受け、喜びをともにし、平和を見いだされました。それが主イエスの力の源であったのです。キリストは、その同じ交わりの中に私たちを招き入れてくださるのです。
Ⅰ．ともにおられる父
十字架を目前にした孤独な戦いの中にあって、主イエスを支えていたのは、ご自分といっしょにおられる御父との親しい交わりでした。ヨルダン川で「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と呼びかけられた御父の愛が神のひとり子である主イエスに注がれていました。十字架に至るまで、地上での生涯を通して、主イエスは御父を完全に信頼して歩まれたのです。ご自分に注がれている父の愛と喜びが神の働きを続けていく上での、主イエスの原動力だったと思うのです。御父との豊かな交わりが、主イエスの隠れた「食物」（ヨハネ４：３２）だったのです。
間もなく十字架にかかろうとされている主イエスは弟子たちが自分を見捨てて逃げ去ってしまうことを知っておられましたが、そんな弟子たちに対して、あくまでも憐れみを示し、励まされたのです。それは、弱さを持った弟子たちを、その弱さを知った上で愛しておられたからです。
キリストは十字架の贖いを通して、弱さを持った私たちをご自身と御父との愛の関係の中に招きいれてくださるのです。それは「父が（どんな時にも）わたしといっしょにいてくださる。」という関係であり、御父が「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜んでいるよ。」と私たちに語り掛けてくださる関係です。私たちはどうでしょう。毎日の生活の中で、「わが子よ！」と呼びかけてくださる良き方に「お父さん！」と呼びかけているでしょうか。
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。 （ガラテヤ４：６～７）
Ⅱ．キリストにある平安
主イエスは残される弟子たちがこの世にあって患難（口語訳では「なやみ」、新共同訳では「苦難」）に遭遇することを見越しておられました。同時に、ご自身がこの世を去った後に、彼らが一番必要とするものが平安であることもご存じだったのです。１４章では「わたしの平安」（１４：２７）を与えると語って弟子たちを励ましておられます。「わたしの平安」とは主イエスが御父との交わりの中に見出していた「平安」です。
◇嵐の中の平安
何年も前に、大きな画廊がスポンサーとなって「PEACE」（平安）を題材とした絵画の大会が催されました。最優秀作品には、多額の賞金が与えられることになっていましたので、多くの画家たちがこれに応募しました。のどかな田園風景、静かな森の小道や、小川を題材としたもの、会場となった画廊には様々な作品が展示されました。ところが、最優秀賞を勝ち取った作品は、参加者にとって、大きな驚きとなるものでした。暗雲立ち込めた暗い空、天を切り裂く稲妻、海岸の岸壁に打ち付ける荒波、どこに「平安」があるのでしょう。
その絵が何を描いているか理解するためには、じっと観察しなければなりませんでした。よく見ると、岸壁の中ほどに、小さなくぼみがあり、そこに雛を抱えた母鳥がいるのが気付くのです。雛たちは母鳥の翼の下で、安心しきって眠っています。確かに、そこに「平安」があるのです。この絵には「Peace in the Midst of the Storm」（嵐のただ中にある平安）という題がつけられていました。
チャレンジで満ちた人生の中で、悪いものが支配するこの世界で、私たちはキリストにある平安の中に生きるようにと召されています。その平安とはどんな状況の中にあっても、私たちの良き父である神がともにいてくださるという平安です。主イエスが弟子たちに語られたように、キリストの愛、キリストのことばにとどまることがその平安の中に生きる秘訣なのです。私たちの心がキリストの平和によって支配されるようにしなさいと、聖書は命じています。私たちの心が支配されるならば、私たちの一つひとつの関係も、私たちの生活のすべての領域も、キリストの平和が支配するようになるのです。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。 （コロサイ３：１５）
Ⅲ．キリストにある勝利
主イエスは「わたしはすでに世に勝ったのです。」と言われました。「勝敗は決した。敵である悪魔に決定的な敗北を与えた。」ということです。しかし、こう語られた弟子たちは、間もなく立ち直れないほどの大きな挫折感を味わうことになります。頼りにしていた自分たちの主が残虐な方法で処刑されてしまうのです。また、窮地置かれた主を簡単に見捨てしまう自分たちがいかに情けない者であるかを思い知ることになります。そんな弟子たちでしたが主イエスは決して見捨てませんでした。聖霊の力によって造り変えられ、やがて復活の証人として立ち上がることを知っていたのです。
あなたは自分に失望しているでしょうか。挫折感を味わっているでしょうか。そんなあなたや私を主イエスは決してあきらめないのです。キリストは弟子たちのうちにある可能性に目をとめておられました。それは彼らの能力ではなく、神の一方的な選びと召しであり、「もうひとりの助け主を与える」（ヨハネ１５：１６、１４：１６）と言われたキリストの約束です。神の約束にこそ、すべてを変革する力が宿っているのです。幸いなことに、私たちにとってその約束はすでに実現しています。すでに実現した神の約束の中に生きることが、キリストに連なる勝利者として生きていく秘訣なのです。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。（Ⅰヨハネ５：４～５）