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世界で最も古い永世中立国。国民皆兵にして永世中立国。朝鮮戦争後、南北の国境に監視兵を派遣し、ユーゴスラビア戦争後に国際治安部隊（ＫＦＯＲ）をコソボ自治州に派遣するスイス。
スイスが永世中立であるとする根拠はなにか？他国からはどのように認められてきたのか？永世中立国としての歴史を専門家の説明などを通して探る。
swissinfoは「スイス 武装した永世中立国」シリーズを配信する。永世中立国の歴史、国民皆兵の軍隊、海外で活躍するスイスの平和維持軍、武器産業および貿易などを通して、永世中立国としてのスイスを探る。配信は不定期。
永世中立とは、スイスが国を守るために取った外交政策である。その歴史は普遍的で、すべての国に平等であり、しかも人道的な活動を行ってきたかのように思われがちである。しかし、時代の情勢に応じその姿は変容した。さらに冷戦後各地で勃発する紛争が絶えない現代、永世中立国としての立場を保ちながらスイスは、社会的貢献や平和維持活動を積極的に進めようと急速にその姿を変えている。歴史の中で時には、その中立性を疑わざるを得ない行動もあったが、永世中立を掲げるスイスに対し、他国からの信頼は今も続いている。
マリヤーノからハーグまで 世界一古い永世中立国
スイスが永世中立国となったのはいつかということについては、専門家でも意見が分かれるところだ。永世中立に関連する以下の３つの年代がその始まりといわれる。
16世紀初頭、スイス人の傭兵はフランスと教皇庁と二つの相対する国家に雇われていたため、傭兵の間で分裂が起こっていた。こうした国内の不安定の虚を突かれ1515年9月、ミラノの南東マリヤーノでスイスはフランスに敗北する。しかし１年後、両国は「永久平和」を締結。その中でスイスは、これ以上、領土の拡大はしないと宣言し1516年、外国に対してはじめて、永世中立と侵略戦争放棄を宣言した。
以後、独立国であり続けたスイスだが、19世紀初頭にはナポレオンに支配され、フランスの傀儡政府ヘルベティア共和国ができあがる。フランスからの独立を望むいくつかの州が「同盟規約」を結び、スイスの独立と中立について、国際的な承認をとりつける動きが起こった。スイスの州の努力が実り、ウィーン会議で欧州諸国が「スイス問題」を討議するまでに至った。
この討議の結果、スイスの国境が新しく定められ同時に、スイスの永世中立が承認された。欧州諸国がスイスの中立を認めたのが、この際に交わされた第二パリ条約（1815年）である。
1907年にオランダで開催された第二回ハーグ国際平和会議で、永世中立としてのスイスの権利と義務が明文化された。第一、第二ハーグ会議は戦争法規などが取り決められた会議で、条約の内容はいまでも生きている。中立国の義務と権利は以下のとおり。
１．戦争放棄
２．自衛
３．紛争地への武器の輸出は公平にすること
４．傭兵は派遣しない
５．戦争中の国に領土を提供しない。
スイスの永世中立がウィーン会議で認められた1815年を、正式な永世中立の始まりとする意見が大勢であり、スイスが世界一古い永世中立国であるといわれる。現在永世中立国と認められている国として、オーストリア（1955年）、リヒテンシュタイン（1867年）などが挙げられる。
利用し利用される中立国
スイスは中立の立場を利用しながら独立国家であり続けてきた。一方、これが外国に利用される面もあった。クライス教授は「ウィーン会議の条約にも、スイスの永世中立はヨーロッパのためになると明言されている」とスイスの中立が外国に利用されたことを指摘する。
その典型例として教授は、第二次世界大戦でスイスが、枢軸国と連合国のスパイの温床となっていたことを挙げる。米国は欧州の情報が欲しかったことから、ドイツより多くのスパイを送った。しかし、これによりスイスも情報面で有利になったり、自国のスパイが活動するスイスには誰も攻撃してこないだろう、という安心も得られることになる。「利用し、利用された」外交というわけである。
しかし、敵対する両者に「仕える」ことは、時として危ない綱渡りを強いられる。これまでは手腕を振るってこれを乗り切ってきたスイスだが、スイスに対するイメージが大きく損なわれる事件が起こった。大戦中のスイスの政策が、戦後人道面で問題があると厳しく非難されたのはいまから１０年前のこと。特に米国やユダヤ人団体からの非難が激しく湧き上がったのである。スイスは徹底的に戦中の自国の歴史を調べ上げ、自らの非を認め謝罪するに至った。
戦後６０年 スイスの大戦中の姿
今年は戦後６０年にあたる。スイスの戦中の歴史についての最近の報道は、より冷静な内容に落ち着いている。以下、テレビや新聞の報道の中から、スイス人でもあまり知らない、大戦中のスイスの歴史を紹介する。いずれも永世中立国だからこそ経験した歴史だ。
1941年10月から43年３月まで、国際赤十字連盟が４回にわたりスイスが中立国であることを理由に、スイス人からなる医師・看護婦団を、ポーランドやリトアニアなど東方の戦地に送った。彼らは、永世中立の旗を掲げ、実際はドイツ軍の負傷兵の治療に当たらせられたという。
今になってもあまり多くを語らない彼らだが、ワルシャワのユダヤ人ゲットーを横目に見ながら治療に当たっていた。スイスに帰ってから、ナチスドイツによるホロコーストのことは、一言も語れなかったという。
当事者の医師や看護婦は現在も、人道援助とナチス加担の狭間に立たされ罪悪感を背負う。かれらは永世中立国の医師という立場を「利用された」と感じ、詳細についてはいまでも固く口を閉ざしている。（戦後６０年を記念するスイス・ドイツ語放送のニュース特集より）
また、スイスの秘密工作員マックス・ヴァイベル少佐は自らの判断で、連合国とイタリア間の休戦交渉を進めた。1945年５月２日にイタリアは降伏したが、ヴァイベル少佐の交渉がなかったなら、トスカーナ地方の戦争は長引き、多くの人命と文化遺産が失われたといわれる。
ヴァイベル少佐はしかし、中立国スイスの将校としてふさわしくない行動だったと、当時のスイス内閣から厳重に戒告を受けた。今年5月6日になってやっとヴァイベル少佐の行動が正当化された。ルツェルンの兵学校に、ヴァイベル少佐の記念碑が建てられ、サムエル・シュミット大統領兼国防相の出席のもと記念式典が執り行われた。「中立に不誠実だった人を遅ればせながら承認」とドイツ語圏日刊紙ターゲスアンツァイガーは４月３０日付けの紙面で大きく取り上げた。
次回は、平和維持軍派遣や国連加盟とスイスの中立に焦点を当て報道します。
swissinfo 佐藤夕美（さとうゆうみ）
キーワード
1515年 マリヤーノ戦争でフランスにスイスが敗北
1798年 フランス軍進入
1815年 ウィーン会議で永世中立が認められる
1907年 第二回ハーグ国際平和会議で永世中立国の権利と義務が明文化