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「僕は聞いております」サムエル上3：1～14、ルカ8：4～8
2022年10月2日（左近深恵子）
士師と呼ばれる指導者たちがイスラエルの諸部族を治めていた時代の出来事を、このところ旧約聖書から聞いてきました。周りの民による侵攻、略奪、圧政に苦しめられていたイスラエルの民のために、神さまはイスラエルの民の中から士師となる者を立てては、イスラエルを治めさせて、危機から救ってくださいました。そもそもイスラエルが危機に陥ったのは、彼らが主の目に悪とされることを行っていたことに起因していました。イスラエルの民の中に、カナンの人々が崇めていた偶像の神々を、彼らと同じように拝む者が出てきたのでした。ただお一人の真の神に背を向け、偶像の神々の力によって自分たちの生活を守り、暮らしを豊かにしようとする人々によってイスラエルの民の内に混乱が起こり、内側から崩れ、結果として周囲の民の支配下に置かれるようになりました。神さまは、真の平安も真の豊かさも見失っている真の危機からご自分の民を救うために、指導者として士師を選び立ててこられました。
イスラエルの民が士師によって治められる時代から、王によって治められる時代へと移り、王国の基盤が整えられていく、その転換期に、サムエルは士師として、また預言者として活躍しました。その誕生の次第が、サムエル記の初めにあります。サムエルの父となるエルカナには、母となるハンナの他に、ペニナという妻がいました。ペニナには複数の子どもがいましたがハンナには子どもが無く、ハンナを敵とみなすペニナはそのことでハンナを苦しめました。夫エルカナはハンナを大切にしていますが、ハンナの苦しみの全てを理解することはできません。毎年家族は神殿に上り、礼拝を捧げていましたが、礼拝に伴う特別な食事の場でもペニナから辛く当たられ、ハンナは一人神殿に行きます。出口が見えない、窒息しそうな家族関係から主のみ前へと逃れてきて、ようやく息をするように、主に自分の思いの全てを注ぎ出し、子どもを与えてくださいと祈ります。その上、もし子どもを与えてくださったら、その子の一生をおささげしますと誓います。与えられたなら、それはハンナにとってたった一人の子どもであるその子の生涯を主に捧げますと誓うハンナが、ペニナを見返すために子を欲しがっているのでも、傍に置いて可愛がる対象が欲しくて願っているのでも無いことは明らかです。子どもはただ主の恵みとして与えられるものであると知っているから、もし主が自分に子どもを与えてくださるなら、その子は主のものであると、その子の生涯も主のものだと、主との関わりの中で子どもを願っています。
この時、やはり根深い問題を抱えていたもう一つの家族のこともサムエル記は語ります。この神殿の祭司であるエリと二人の息子、ホフニとピネハスです。息子二人はいずれもならず者で、神殿での礼拝を、私腹を肥やす場としていました。そのことを知らぬはずのないエリも、二人を止めることができずにいました。父は息子たちを諫めることができず、息子たちは父親に聞き従おうとしない家族でありました。
この家族が抱えている問題は、家庭の中だけのことではありません。息子たちは「主を知ろうとしなかった」と、「心から主に仕えようとはしなかった」と言われています（2：13）。祭司として表面上は礼拝を司りながら、心から主に仕えていません。主のご意志を示す律法に恣意的に背く二人の振る舞いは、礼拝に集う人々の信仰を軽んじ、何よりも主を軽んじるものでした。祭司であるからこそ、二人の行為は、主に対する甚だ大きな罪でありました。
祭司は、主によって立てられた人々です。出エジプトからこれまで、祭司たちが毎日の祭儀を司り、人々を神さまに執り成す働きを絶えず担ってきました。その祭司たちが、自分を祭司として立てておられる主を知ろうとせず、神さまの臨在によって初めて礼拝が礼拝として成り立つことを忘れてしまっては、仲保者としての働きを十分に担えません。そのような祭司たちが執り行う神殿での祭儀に集う人々も、魂の糧であるみ言葉を十分に示されず、み言葉に飢え乾いていたことでしょう。エルカナ一家が礼拝を捧げに来た時も、祭儀を執り行っていたのはエリの二人の息子であったことをサムエル記は伝えています。ハンナは、乗り越えられない敵意に分断された家庭の中で苦しみ、心からの悔い改めと赦しに導かれるはずの礼拝も、祭司たちの堕落によって満たされない場となっています。人の罪に覆われながら、ただ主に信頼して祈るハンナの祈りに神さまが応えられて、新しい命が与えられます。その子は、罪の闇を貫いてもたらされた一筋の光のようであります。
この時、神殿で祈るハンナの姿を見てエリは、酒に酔っているのだと誤解をします。息子たちの罪がどれだけ自分たち家族とイスラエルの民の礼拝に危機をもたらしているのか見つめきれていないエリの内なる目は、ここでも真実を見つめることができずにいます。それでも誤解であったことに気づくと直ぐに、祈りは神さまに聞かれていると保証し、ハンナを力づけます。このエリの言葉によってハンナは希望を与えられ、元気を取り戻し、家族のところへ戻っていったのでした。
サムエル記は引き続き二つの家族を交互に語ってゆきます。エルカナとハンナの間に男の子が生まれ、主に願って得た子どもなので、“その名は神”、という意味の「サムエル」と名付けます。サムエルが乳離れするとハンナは主に約束した通り、サムエルの生涯を主に捧げるために、エルカナと共に神殿にサムエルを連れて行き、祭司エリに託します。不和といさかいに揺れつつも、この家庭の真の主は神さまであることを、夫婦はこうして示します。幼子は祭司エリの元に留まって、一生主に仕える生活を始めます。両親は年々背丈が伸びるサムエルのためにハンナが手作りした上着を携えて、毎年神殿に来て、礼拝をささげ、サムエルに上着を渡します。サムエルは上着を纏う度に、離れて暮らす両親の思いと、両親の神さまへの信頼を身近に感じたことでしょう。サムエルは祭司としての働きを学びながら、主のもとで成長していきます。
その一方で、エリの家族が抱える問題は、一層深刻さを増していきます。二人の息子の堕落、父の言葉に耳を貸さない頑なさ、民の間に二人の悪評が広まっていく様子をサムエル記は語ります。サムエルについての記述では、一区切りつける度に「幼子は・・・主に仕えた」「サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった」といった言葉で結ばれる一方、エリの二人の息子やエリについての記述は、「主を知ろうとしなかった」、主が命じたいけにえと捧げものを、主が現臨されるこの場所で蔑ろにするといった言葉で始まります。同じ神殿で同じ祭司の務めに携わりながら、主のもとで成長していくサムエルと、主から離れていくエリの家族が対照的に語られていきます。神さまの使いがエリの元に来たことも語られます。息子たちの罪と、それを止められない、息子たちを神さまよりも重んじて、神さまを蔑ろにしているエリの罪が明らかにされ、息子たちやエリの罪は、主の裁きによる滅びへと至ることが、厳しい言葉で告げられます。主からの言葉に対するエリの応答は何も記されないまま、今日の箇所、サムエルへの主の呼びかけの場面へと移っていきます。祭司として神さまに立てられながら、み心に立ち返ることができない者たちの罪によって、混沌とした闇が深まっていくある日の晩、サムエルは呼びかける声を聞いたのです。
エリの目は霞み、老いが進んでいる様子が描かれます。見えないエリでは、神の箱が置かれた場所を他から隔てる垂れ幕の前に置かれた灯を一晩中絶やさないようにする、大切な灯の番は難しくなっていたのでしょう。エリは自分の部屋で床に就くようになっており、その重要な務めは、サムエルが神殿に寝泊まりして担っていました。少年でありながら、エリから厚く信頼され、既に大切な責任を委ねられていることが伝わってきます。それはまた、サムエルの他、エリがこの務めを託せる祭司がいないほど、祭司たちの間に、神さまよりも自分の欲望や利益を求める自己中心的な生き方が蔓延していたことの表れなのかもしれません。
エリの視力の衰えは、霊的に見つめる目の衰えも示しているのではないでしょうか。そのころ、主の言葉が望むことは少なかったと、3章の冒頭にあります。そのような中でも、祭司であるエリと二人の息子たちは、日々聖書の言葉を朗読し、神さまの言葉に触れていたはずです。それなのに、三人が神さまの言葉に促されて、生き方を変えるということは起きていません。エリは更に、神さまの使いを通して、罪からの悔い改めと裁きの言葉を告げられています。それにも応答せず、罪の現実に目を塞ぎ、混沌の中に沈み込んでいるようなエリであります。
それでもエリは、見えないほど霞んでしまった内なる目をこらしてサムエルの報告に耳を傾け、サムエルに呼びかけておられるのは主であることに気づき、サムエルに必要な言葉を与えます。祭司として、また養父として、相応しい言葉を語ることができたエリによって、サムエルは主との関わりの中へと踏み出すことができました。
主から三度呼ばれても、自分が主から語り掛けられているとは思っていなかったサムエルです。それまでエリや先輩の祭司たちを通して見に付けてきた知識や習慣だけでは、主を知ることになりません。主からの語り掛けに耳を傾け、主にお応えする、主との生きた交わりを通して、徐々に主を知ってゆきます。それは聞くことから始まります。エリはサムエルに「主よ、お話しください。僕は聞いております」と応える言葉を教え、聞くための備えをさせます。神さまと人は、主と僕の関係にあります。聞きたい言葉を語ってくれそうな相手から、聞きたいことだけを聞くならば、それは主と僕の関係ではありません。僕は主が語ることを、語られるままに聞き、受け入れ、従う者です。それが厳しい言葉であっても聞き従います。自分が否定されることの無い、耳に心地よい言葉、自分にとって都合が良いように思う言葉だけが、喜びや慰めをもたらすのではありません。厳しい言葉が、自分の本質的な問題を見据えさせます。ならば聞くために備えが必要です。「主よ、お話しください」とあるように、主が先ず語られるのです。自分の思いをぶつけるだけで、聞こうとしないのは、神さまとの関係をひっくり返し、僕ではなく、自分が主であろうとする在り方です。神さまとの関係をひっくり返そうとするものです。私たちを救う道を示される主の言葉に聞くことから、救いの道は始まるのです。
「聞いております」と訳された言葉は、「聞く用意があります」「聞く備えをしています」とも言い換えられます。自分の奥底まで、神さまの言葉に照らし出される備えをします。「聞いております」とは、いつか聞くということではなく、今備えをし、今聞くということです。こうして聞く備えが整ったサムエルに、主は語り掛けてくださいました。
サムエルが主から告げられたのは、エリの家に対する裁きでした。サムエルは知りませんが、それはエリが既に天の使いを通して告げられたことでありました。サムエルが次の日に、養父であり、祭司であるエリに告げることをひどくためらうほど、厳しい言葉でした。それほどにエリの家族の陥っている闇は深いものであり、祭司たちの堕落によって、イスラエルの民が陥っているみ言葉の飢饉は、それほどに深刻なものであったのです。
神さまの言葉は、時に非常に厳しく、人が自ら聞こうとは思わない、耳を塞ぎたくなるような言葉です。私たちの本質にある問題を刺し通す言葉にも耳を傾けるために、備えが必要です。神さまの言葉に聞くための備えは、礼拝への備えと重なります。そしてそれは、信仰者の日々の歩みであるとも言えます。主の言葉に聞き、聞いたことに基づいて踏み出し、そこでまた新たに聞き、聞いて受け止めたことが次の一歩となる、私たちの歩みは、私たちがどう聞いているかを証しします。
神さまは、サムエルという一人の少年によって、閉塞した状況に道を切り開き、イスラエルの民の中に神さまとの生きた交わりを回復し、神さまのもとへと導き、魂を養うみ言葉を与えてくださいました。そして神さまは、独り子を真実の執り成し手として、真の大祭司として、真の預言者として私たちに与えられ、全ての人と神さまとの間を隔てる罪を打ち破り、罪にも、肉体の死にも閉ざされない、神さまに至る道を通してくださいました。神さまの道を行く者たちを、絶えずみ言葉によって、また聖餐の食卓によって、新鮮な糧と命の水で養ってくださる、生きた交わりの中へと招いてくださっています。この主との交わりに生きること無くして、主を知ることは為し得ません。三度もサムエルに呼びかけ、なおもサムエルが応えることを待ってくださる主は、私たちが主の言葉に聞き、お応えし、主と共に生きることを待ってくださる方です。
信仰は、聞くことに始まり、聞くことに尽きます。それは、主イエスも信仰の中心にあるものとして大切にされた、申命記の「聞け、イスラエルよ」で始まる言葉にも表れています（「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」（申命記6：4～5））。パウロも聞くことが信仰の要であると、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」（ローマ10：17）と、述べています。聞くことに、主イエス自ら招いておられます。種を蒔く人の譬えを語られた時、「聞く耳のある者は聞きなさいと」大声で呼び掛けられました。聞いてはいるけれど、本当に聞き従う思いでは聞いていない、その言葉によって新たにされようとまでは思っていない、そのような心でではなく、良い土地のような立派な善い心で聞き、蒔かれた神の言葉に耳を傾け続け、しっかり守り続け、忍耐して実を結ぶ人になりなさいと語られました。窒息しそうな出口の無いような世にあって、何も妨げることのできない命の道を切り開いてくださったキリストに、聞き続ける姿勢を礼拝の度に与えられたいと願います。