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2022.8.28. 主日礼拝説教
イザヤ57：14‐15、マタイ11：25‐30
「わたしのもとに来なさい」浅原一泰
主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人とともにあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
私事であるが手首を骨折して入院したその翌週の礼拝に出席した時、皆様からかけていただいた温かい励ましの言葉に本当に胸打たれた。心配していただけるような人間ではないと思っていた私の偏見を打ち破る神の恵み。それが実現される場が教会なのだと、目からうろこが落ちるように皆さんによって気づかされた。曇り切っていた私の目をそのように開いてくださった神と教会の皆さんに、この場を借りて心から感謝を申し上げたい。
外傷性のクモ膜下出血を患ったのは二年前である。あの時も家族に心配をかけ、教会に大変ご迷惑をおかけしたのに、またしても繰り返してしまった、という思い。入院していた病院が房総半島の海辺にあったので、寄せては返す波を眺めながら、そんな自己嫌悪に襲われていた。
話は変わるが、今から110年ほど前、人類史上初めて南極点に到達したのはノルウェーのアムンゼンである。同じ頃、イギリスのスコットも大英帝国の威信を背負って競うように南極点を目指していた。しかし猛吹雪の中、スコット隊の多くは凍傷を患い、南極点へと向かう往路の段階で隊から離脱する者がいた。食料も次第に少なくなり不安が募る中、足に凍傷を患った為に隊全体の歩みが遅れていたその隊員がある日、「ちょっとそこまで」とだけ言ってテントから吹雪の中へ出て行ったまま、二度と隊に戻ることはなかった。隊全体の為に、自ら死を選んだのだろう。不幸にはさらに不幸が重なることがある。その後、スコット隊がようやく南極点に辿り着くとそこにアムンゼンの旗がすでに立っていた。失意の中で帰路についたスコット隊に悪魔のように猛吹雪が襲い掛かり、結局彼らは誰一人、生きて帰ることは出来なかった。
このことは悲劇として語り伝えられ、スコット隊の志と勇気を称えるために南極点基地にはアムンゼンとスコットの両者の名前が付けられている。スコットは後世の人間に覚えられているだけ幸運なのかもしれない。しかし心のどこかで人間は、「アムンゼンは成功者だがスコット達は無駄死にだ」と思っていないだろうか。戦闘が始まって半年が過ぎたウクライナでも多くの市民や兵士たちが犠牲となっている。心ならずも命令に従わざるを得ず命を落としたロシア兵も少なくないかもしれない。指導者たちの多くは「ロシアの振る舞いは断固として許されない。武器を供与しウクライナを助けるべきだ」と非難して来た。世界の多くがウクライナ市民や兵士たちのことを「気の毒に」と思っている。良心的なロシア兵やロシア国民のことを「憐れだ」とも思っている。そして一日も早く平和が戻ってほしいと誰もが願っている。しかし心のどこかで、「犠牲者たちは無駄死にだ」と思ってはいないだろうか。そこにエデンの園の蛇は囁きかけてはいなかっただろうか。「犠牲者を気の毒にと思っていればあなたは非難されないよ」。「あの人々のために祈りをささげ、ロシアを非難しておけば、周りはあなたに理解を示すし、あなたは守られるし、死なずに済むよ」。一国の指導者やその側近たちも、我々庶民も、無意識のうちにこの蛇の囁きに操られている可能性はないだろうか。私も皆さんも、そして世界中の良心的な人々も実は知らず知らずのうちに蛇に、この世に、罪に操られているという可能性はないのだろうか。入院した私が教会の皆さんと家族に迷惑をかけてしまった、と思うのも、そう思っておけばお前は許してもらえると蛇が囁きかけ、お前はまんまとそれに乗っかっているだけではないのか。海を見ながら、ふとそんなことを思って苦しくなった。
人間という生き物は、神の御心がどこにあるかよりも、まず自分の命の無事を求めてしまうことは否定できない。だから「食べたら死んでしまう」という神の誡めよりも、「食べても死なない」と太鼓判を押してくれる蛇の言葉を誰もが選んで神に背いてしまう。自分の命さえ守られるならいい、自分で自分の身を守れることが賢さであり知恵である、とある者は思い込み、ある者はそう教え込まれ、それができない者は負け犬であるかのように、生きるに値しないかのようにレッテルを張る世界。神の創造した世界をそういう世界へと「人間が」挿げ替えている。だからこそ神は、「光あれ」という第一声を叫ばれていたのかもしれない。そのような世界に人間がどっぷり浸かって突き進んでしまう状態こそが闇であり、罪の思うつぼであると気づかせるために神は「光あれ」と叫んだ。旧約聖書はそこから始まっていたのかもしれない。ただ、間違いなく私こそそうであるが、人は光に気づきたくても気づけない。神へと振り向きたくても振り向けない。皆さんもそうではないか。誰もが罪に煽られ、蛇の囁きに操られ続けている。だからこそ神は、「光あれ」というあの言葉を何としても現実のものとするために黙ってはいなかった。人間を諦めることが出来なかった。むしろ、いや、だからこそ神は敢えて人間そのものとなる。新約聖書はそこから始まっていたのではなかっただろうか。
神が本物ならスコット隊を救えば良かったではないか。戦争を一刻も早く終わらせウクライナに平和を回復させるべきではないか。世の人々はそう反論してくる。既にそこにも、あの蛇の息はかかっていた。「食べても死なない。むしろ食べればお前は神になれる。神にはそれが面白くないのだ」。あの蛇の誘惑はすべての人間に、「神を意識しなくても、命は自分の手で守れる。守るべきなのだ」と思い込ませるのに成功した。神の御心なんて二の次だ。傷つけ合い、殺し合う現実世界の中で最も大切なのは「自分が死なないこと、安全であること」だと思い込ませた。そう思い込んだ人間にとって神はワクチンと同じ、命を救う手段でしかなくなる。ならば命を救えない神など本物ではなく偽物だ、と人間が言い出すのも自然の成り行きであった。ただ、イエスはそれも分かっていた。先ほどのマタイ11章でこう語っていたからである。
「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」
子なるキリストをこの世に遣わされた神。この方が天地万物を造り、すべてを統べ治め、罪に操られている我々人類を御子の十字架の血をもって贖い給う救い主であること。それは二千年前も今も、誰もが分かる具体的な形で、はっきりと示されることなどあり得なかった。むしろ知恵ある者や賢い者には隠され、だからこそこの世には伝わらずに拒絶され、反対され、伝道は失敗する。イエスははっきりそう言っていた。この世の人間には、そんな神は神とは認められない。神という名に全くふさわしくない、神にあるまじき存在としか思われない。我々を含め、「神とはこういう方だ」と思い込んでいる人間に、神が分かるはずもない。人間が思い描く神は偶像であって、真の神ではないからである。だから親の言うことを疑わずに聞く幼子のような者にしか、子なる神キリストが示そうと思う者にしか父なる神を知ることは出来ない。イエスはそう告げていた。
神は御子キリストによってご自分を現された。その神は世の力ある者や群衆からは顔を背けられるが、徴税人や罪人や病人とは共に肩を並べ腹を割って言葉を交わす、つまり富める者ではなく貧しい者として、強い者ではなく弱い人間として、勝利をもたらす勇者ではなく敗北者としてご自分を現された。自ら比べるものもないくらいの重荷を負うて苦労している者、最終的には十字架の上で非業な死を遂げる者となられた。知恵ある者、賢い者からすれば、こんな惨めな死に方をする者のどこが神だ、と吐き捨てられる。「自分で自分の身を守らねば」と思い煩う彼らにとって、イエスなど無意味でしかないからである。
けれども、彼らにとって無意味なそれがイエスにとっての「くびき」であった。弱く貧しく敗北者であること、痛み苦しみも十字架の死も、神がこの方イエスに負わせたくびきであった。イエスはこのくびきにすすんで繋がれ、迫害、屈辱、侮蔑といった苦しみの全てを、耐え難い死の苦しみをも心から担った。神の独り子でありながらその立場に縛られず、柔和に、へりくだって、このくびきにすすんで繋がれる子羊となった。なぜか。それは闇しか知らず闇の中で生きることしかできずに苦しんでいる人間すべてのためであった。土を盛り上げよ、と主は言われる、と預言者イザヤは伝えていた。ありのままで、弱さ貧しさを抱えた土の器のままで、金や銀のメッキで取り繕わないでくれ、そういうつまずきの元を取り除いてくれ、という神の声だと思う。しかし蛇に操られた人間は死なないため、勝利のために自分を偽りの衣で飾り立てる。次第に傲慢になり、自分で自分を守れない者は生きる資格がないと吐き捨てる。それが罪が操る闇の世界である。
イザヤは続けて語った。神は高くにおられ、あがめられるが、それだけではないと。むしろ打ち砕かれて、へりくだる霊の人の苦しみを神は共に担われる。苦しんでいる者と肩を並べ、腹を割って言葉を交わし、その者の為にすべてをささげ、命をも捨ててまでして、打ち砕かれた心の人に命を得させる。だからこそ神は人間となられた。徹底的に無防備なまま、十字架の上で悲惨極まりない死を遂げる敗北者となられた。その神が言われたのである。「疲れている者、重荷を負うて苦しんでいる者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。人間の姿となって神自らが弱く貧しい者、敗北者となり、最後は十字架の死に至るくびきに繋がれた子羊となること。それこそが神の安息だったのである。イエス・キリストを通してそのようにご自分を現された神は、世の人間には隠されているが、凍傷ゆえに一人スコット隊から離脱する決意を固めたあの隊員や結局遭難して帰らぬ人となる隊員すべてに対しても、また表向きはそうでなくても、心の中では無駄死にと見なされてきた戦争や災害の犠牲者たちやウクライナの犠牲者一人一人にも、子なるキリストを通して神はそのようにご自分を現されていたのではなかったか。そうして死で終わる罪の命ではなく、真の命を与えておられたのではなかったか。
あの者たちは無駄死にだ、というのは罪に縛られた人間が思うことであって、神にとって、また子なる神キリストにとって、生きるに値しない無駄な命も無駄な死も一つとしてない、絶対にありえないのだと。礼拝においてキリストを通して神はそうご自分を現してこられた。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招き続けてこられた。「だから何だ。何も変わらないではないか」。そんな蛇の囁きが反響する中で我々は礼拝を、信仰生活を守り続けているのかもしれない。惰性的に教会に繋がっていたかもしれない。「それでも死なない」という蛇の声に引きずられていたかもしれない。神を信じるそぶりをしながらも実は、自分は自分で守るものだと思い込まされていたかもしれない。
神はそれも分かっている。分かっているからこそ神は、何度も何度も我らをキリストの前に立たせるのである。来る主の日ごとに礼拝へと招くのである。礼拝とはまさに、「子と、子が示そうと思う者には父を分からせる」ための神とキリストの御業であり恵みだと思う。その礼拝においてキリストによって神と出会い、神との交わりに入れられたらどうなるのか。正直、私には分からない。だからそれを語る資格はない。それは子が示そうと思う者にしか分からない神の奥義である。しかし聖書は、聖書の中でイエスは、神との交わりに入れられた者の生き方をこう伝えている。敵を憎まず疑わず、奪い取る者には与え、右の頬を打つものには左の頬を差し向け、敵を愛し、迫害する者のために祈る者へ、新たなる命へと変えられる。それは隠されているが、その命の初穂として神はイエスを死からよみがえらせた。「自分の命を救う者はそれを失うが、この方のため、福音のために命のすべてをささげる者はそれを救う」というイエスの言葉、心の貧しい者、悲しんでいる者、義のために迫害される者は幸いであるというあの言葉がそこに実現する。それが神の安息であると。神は命ある者すべてを、善人をも悪人をも、そこへと迎え入れようとしている。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、キリストを通して招き続けておられるのである。
キリストによって新たなる命へと変えられるなら、その命は闇の中で輝く光となり、死をもってしても終わらせることのできない命となる。それが隠されているこの世には伝わらない。肉の命は死を避けられない。それでも、だからこそあなたがたは信じてくれ、と神は叫んでおられる。「わたしのもとに来なさい」、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と求めておられる。
既に皆さんはその道を歩んでいる。土のままであり続けながら、イエスに導かれつつ隣人と肩を並べ、傷み苦しむ者の為に祈り、腹を割って言葉を交わし、共に神の御名をほめたたえる。その生き方を、退院後の私に皆さんが気づかせてくださった。改めてわが身もその軛を心から進んで背負い、共に神の御名をほめたたえつつ、悲しむ人苦しむ人のため、闇の世で犠牲となった方々も必ずや光と命で包まれることを信じて、皆さんと共に祈り続けて参りたい。