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世界経済フォーラム（WEF）の今年の年次総会（ダボス会議）は、新型コロナウイルスのパンデミック（世界的大流行）により中止となった。例年の開催地は、スイスの山岳地方にうずくまる小さな町ダボスだ。この町では、ダボス会議以前から歴史に残る大きな出来事が起こっていた。1930年代を振り返る。このコンテンツは 2021/11/29 10:30
38年夏、ドイツ人芸術家のエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーがダボスで自殺を図った。人生最後のこの日、建築家、彫刻家、画家であり、フラウエンキルヒ・ヴィルトボーデンの著名芸術家団体「ブリュッケ」のメンバーでもあった彼の頭の中には、いったいどんな思いが宿っていたのか。いずれにしても、遠い未来、自分の新しいふるさととなったダボスの地に、我が名にちなんだ美術館ができるとは予想だにしなかったことだろう。
もしかしたら、キルヒナーの頭をよぎったのは、第一次世界大戦中の経験だったかもしれない。そのせいで、ドイツやスイスの数多くのクリニックや下宿屋の世話になった。あるいは、初めて高山の町ダボスにやって来た時のことや、その時にトーマス・マンの小説「魔の山」の主人公ハンス・カストルプがたどった道のりを列車で走ったことなどを思い出していたのかもしれない。
「外に目を向けた。（中略）右手の深い谷からは、ざわざわと流れる水音。左手のいかつい岩肌の間からは、深緑のドイツ松がやや黄色がかった薄灰色の空に向かって枝を突き出している。真っ暗闇のトンネルを潜ってはまた明るい日の元に出るたびに、眼下深く、小村もまばらに延々と延びる谷底が姿を現す。（中略）ひなびた小さな駅舎に何度かに停車した。頭端（とうたん）式の駅なので、列車がまた来た方向へと走り出すのが妙な感じだ」
今日のダボス一帯は、経済的にかなり発展している。それでもここ100年の間、トーマス・マンが感情豊かに表現した風景はほとんど変わっていない。「ひなびた小さな駅舎」の姿が見当たらなくなったのと、ダボスへ通じる州道が拡張されて広々となったことくらいだ。ダボスはまた、スキーや国際的な保養地としてだけでなく、世界経済フォーラムWEFの拠点としても知られるようになった。
あこがれの地と政治の中心
キルヒナーが生きた両世界大戦のはざまの時期、ダボスの暮らしはベル・エポックのような雰囲気の中でゆったりと流れていた。保養客は抽象概念について議論し、戯れ合い、交霊会に集まった。
それでも当時のダボスには、「遠い異国」でありながら「これほど近い」場所で何が起こっているのか、かの著名芸術家にまさに言葉通り聞き耳を立てさせ、感知させる魅力があった。
そして「魔の山」の主人公もまた、欧州を破壊し尽くし、現代へと著しい飛躍を遂げようとしていた1つの文明の終末を導いた惨劇、第一次世界大戦の勃発を印すあの雷鳴をいたずらに聞いたわけではなかった。
そんな中でも、ダボスはダボスであり続けた。「魔の山」で見事に描写されているように「抽象概念を議論」する伝統が息づく場所であるのみでなく、ホテルや下宿屋、保養所など、それに欠かせないインフラも急成長した。
中立国スイスは早くから快適、安全に滞在できる場所だったが、それは観光客や保養客のみならず、政治家や思想家、哲学者にとっても同じだった。
ダボス討論
29年3月、この地で大哲学者のエルンスト・カッシーラーとマルティン・ハイデガーがかの有名なダボス討論に臨んだ。テーマは、存在、人間、真実、自由、不安、有限、無限など、多岐に及ぶ。
しかし、最大のテーマは近代哲学におけるイマヌエル・カントの重要性についてだった。数々の賞を受賞しているドイツの哲学者ヴォルフラム・エレンベルガー氏は著書「Die Zeit der Zauberer（仮題：魔術師たちの時代）」の中で、哲学の天才2人のダボス滞在の様子を鮮やかな筆致で詳述している。
20世紀を代表する哲学的討論の1つとなったこの議論は、「魔の山」の人道主義者セテムブリーニと反人道主義者ナフタがダボスの高原で戦わせた論争を思わせる。
2人の意見は、1人ひとりの自由の開花は個々の自己解放に等しいという点では一致したが、このような開花プロセスについての理解は異なっていた。
ドイツの哲学者であり社会学者でもあるユルゲン・ハーバーマス氏はダボス討論に関する文章の中で、この論議全体の中で認識されるのは、少なく見ても1つの時代の終幕だった、と述べている。それはつまり、「魔の山」の作者にはとって、それよりずっと以前に耳をつんざくような轟きとともに明白になっていた終幕だった。
第一次世界大戦はまるで欧州が自殺を図っているかのようだった。その要にあったのは、合理的な技術があれば世界を無理からぬ方法で変えられると心から信じる真の超人を創作することだった。
しかし、最後に勝利したのはハイデガーの経験主義だった。人類はまず一番に世界を変えようとするのではなく、必死になって殺人技術を発展させようとした。それは欧州の近代というプロジェクトの終幕であり、このむごたらしい帰結は知らぬ間に外界からダボスに持ち込まれた。
小説、人生、死の中でとどろく雷鳴
その間、キルヒナーはドイツで好ましからざる人物と見なされるようになった。36年、「退廃作品」という烙印を押されたキルヒナーの作品が美術館から撤去された。この嫌がらせは病んでいたキルヒナーの精神をさらに衰えさせた。
36年2月、トーマス・マンが小説の中でおぼろげに捉えた銃声が、突然すぐそこで大きく鳴り響いた。ダボスでユーゴスラビア出身の学生ダーヴィト・フランクフルターが国家社会主義ドイツ労働者党（ナチス）外国組織部スイス支部長のヴィルヘルム・グストロフを射殺したのだ。
犯人は犯行後すぐに警察に出頭し、この銃弾はアドルフ・ヒトラー個人に向けたものだったと自供した。ドイツはこのグストロフ殺害事件をハイレベルの外交問題として扱った。
グストロフの遺体を収めた棺は特別列車に載せられ、ダボスからチューリヒを経てグストロフの故郷である北ドイツのシュヴェリンへと運ばれた。列車が通る線路の脇や比較的大きい駅は、グストロフの遺体を乗せた列車が通り過ぎ、停車するたびに、盛大な告別セレモニーに沸いた。シュヴェリンで行われた葬儀は国家儀式の様相を呈した。
ジレンマの中のスイス政府
36年12月、グラウビュンデン州の州都クールでこの殺人事件の裁判が始まった。ドイツ人をはじめとする大勢のジャーナリストが裁判を傍聴し、ダーヴィト・フランクフルターには最終的に禁固刑18年の判決が下された。
このグストロフ事件はスイスを分断した。メディアはドイツから押し寄せる攻撃を毅然と退け続けたが、スイス政府は明らかにナチスドイツとの関係を気にかけており、控えめな態度に傾きがちだった。
しかし、政府はそれでもやはり説得力のある対策を取り、ナチスの影響力を食い止めるために全力を尽くしていることを証明せざるを得なくなった。
こうしてこの殺人事件の2週間後、政府はナチス外国組織部スイス支部幹部の活動を公式に全面禁止とし、さらにスイスの独立性への攻撃に関する連邦法を可決した。
この法律は主に、国家としての外国勢力への従属やそれを目的とした州の遊離を図る人物に重罪を科すことを定めるものだった。
ベルリンの外務省は即座にこれに反応し、ナチス外国組織部の各支部長に外交特権を与えた。スイス政府は40年にこの禁止令を暗黙のうちに廃止する。
ダボスでは、小説「魔の山」の遠雷がエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーに追いついた。38年6月、キルヒナーは自殺した。キルヒナーの墓は現在、ダボス・プラッツとダボス・フラウエンキルヒの間に広がるヴィルトボーデン森林墓地にある。
（独語からの翻訳・小山千早 ）
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