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ルカ23：39～47「私を思い出してください」
2023年4月2日（左近深恵子）
主イエスは「されこうべ」と呼ばれる場所で、十字架にお架かりになりました。その日二人の犯罪人も、主イエスと同じ時に同じ場所で十字架に架けられました。他の福音書ではこの二人のことが強盗と述べられています。暴力による卑劣な行いで隣人のものを奪った者たち、その者たちと並べられて、それも主イエスがまるでその者たちの頭であるかのように真ん中で、十字架に架けられました。“ユダヤ人の王と歓迎されてエルサレムの都に入ったけれど、結局両脇に従えることができたのは犯罪人だけではないか”、そう嘲るかのように、主イエスの頭上には「これはユダヤ人の王」という罪状書きの札がかけられました。
両脇の犯罪人の内の一人が、罵る言葉を主イエスに浴びせました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。犯罪人はこのように思ったのかもしれません。“お前など無力な者だ。私はお前の手下でもなんでもない。神からのメシアであるかのように思わせておいて、自分自身を十字架に架けられないようにすることも、十字架から降りることもできないではないか。私はお前を必要としない。私をこの十字架から救い出すことができるならば話は別だが、私をこの死から救い出せない無力なお前など要らない、と”。
「自分自身と我々を救ってみろ」、犯罪人のこの言葉は、これまで他の人々が主イエスに向かって発してきた言葉の繰り返しとも言えます。逮捕されてから十字架に架けられるまで、嘲笑や暴力と共に多くの言葉が主イエスにぶつけられてきました。その中でも多く発せられたのが、「自分を救ってみろ」との言葉でした。ユダヤの議員たちは十字架上の主イエスを眺めながら、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑いました。主イエスと同じユダヤの民であり、その民の指導者である者たちがこのような言葉をぶつけるのです。刑の執行や警備の任務にあたっていたローマ兵たちも同調するように、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救って見ろ」と叫びました。支配者であるローマ帝国の兵という、圧倒的に強い立場に属している彼らは、“小国ユダヤの一員でありながら、自分たちローマ帝国の支配を覆すユダヤの王になろうなどとできもしないことを夢見て、同胞たちから退けられた愚かな者”として、主イエスを嘲ったのではないでしょうか。
彼らにとって「自分を救ってみろ」との言葉は、勝利宣言とも言えるでしょう。“我々はお前を十字架につけることができた。お前はそこから降りることができない。私たちが勝者であり、お前は無力な者なのだ。私たちが正しいことがこうして証明されたのだ”と。それは、主イエスに従って来た人々、主イエスの語る言葉に惹かれて、もっと聞きたいと願っていた人々に対する、自分たちの正当性の宣言でもあったことでしょう。
彼らの目には、自分自身に死をもたらすほどの危険が降りかかってもそれを回避できないのだから、主イエスが語って来た言葉も、為して来た業も、主イエスの存在そのものも無力なものに見えました。主イエスがもたらしてくださる救いを理解できないままに、彼らは主イエスを自分たちの人生から取り除くことに、力を合わせてきました。立ち止まり、引き返す道もありました。総督ピラトは「この男には死刑にあたる犯罪は何も見つからない」と言って、主イエスの釈放を提案しました。それでも人々は主イエスではなく、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバの釈放の方を要求し、主イエスを「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けました。そうしてとうとう十字架に架けられた主イエスに向かって「自分を救ってみろ」と、お前はこんなに無力だと、ユダヤの議員たちが、次にローマの兵士たちが、主イエスを嘲笑いました。この「自分を救ってみろ」との大合唱に最後に加わったのが十字架上の犯罪人でありました。自分が自分の人生の主だと歩んできた人間は、自分の人生に主イエスの言葉や業が入ってこないように、自分の生き方を変えられないように頑なになったままであれば、人生の終わりにおいても主イエスを拒みます。死の淵で主イエスを罵るこの犯罪人に、主イエスの救いは厳しい現実の中では無力だと主を裁いてきた人々、自分の深いところで主イエスとの関りを持つことを恐れ、拒んできた人々の姿が集約されているようです。今自分が呑み込まれつつある死の現実から自分自身すら救えない主イエスが語って来た言葉や業は、何の助けにもならないと罵るこの人の姿に、全ての人の中にある思いが現われているようです。
けれど、主イエスの横で十字架に架けられているもう一人の犯罪人は、主イエスの救いを必要とします。この犯罪人は、自分たち二人が十字架に架けられていることを、自分たち自身が犯したことの報いとして受け入れ、この死を神さまの裁きと受けとめています。第一の犯罪人は主イエスのことを、自分自身も救えず死にゆく愚かな人間と見ていますが、第二の犯罪人は、自分たちとは全く異なり、犯したことの報いとしてではないのに、神さまの裁きを受けておられることを見て取っています。この方に神さまの裁きと死で終わらない神さまの救いを見て取っているのです。
主イエスの死が救い主としての死であることをこの人は理解しました。主イエスは十字架から降りたいのに降りられないのではなく、ご自分を救いたいのに救えないのではなく、罪人たちの赦しを得るために十字架に留まっておられるのだと。それは、この自分の罪の赦しのためでもあり、主イエスはこの自分のためにも死んでゆかれるのだと、受け止めることができました。聖書に精通した専門家たちを初め、神の民であることを自負する大勢の人々がそこに居ました。しかし最初に主イエスを正しく認識したのは、死刑に処せられる犯罪人であったのです。
この人は主イエスの名を呼んで、「あなたのみ国においでになるときは、私を思い出してください」と、願いました。「思い出してください」というと、記憶の中に留められることを願うようでありますが、この言葉は旧約聖書以来、神さまとの契約の中に留めてください、神さまとの結びつきの中に留めてくださいと願う、神さまへの祈りとも言える言葉です。第二の犯罪人は、天において神さまの契約の中に私をつないでくださいと、神さまとの結びつきの中にどうか自分も置いてくださいと願ったのです。第一の犯罪人のような人々は、主イエスが十字架で死につつあることは、主イエスがメシアであることと矛盾すると取りました。しかしこの人は、十字架で死につつある主イエスを、救い主だと理解しています。死に瀕しているこの方は決して無力なのではないと。この方が死んでくださることでもたらそうとしておられる救いこそ、罪故に自分で自分の人生を破壊してしまい、神さまから与えられた命の時を死刑によって終えることになってしまったこの自分に必要なものなのだと、主イエスがもたらされる救いは、死の先も自分に必要なものなのだと、受け止めることができています。主イエスにおいて死で断ち切られない希望を与えられ、死の淵で主のみ前に願いを注ぎ出します。その願いに自分は全く相応しくない者であることは明らかです。ただ主イエスの救いのみ業と、自分を思い起こしてくださる主のみ心によって、この人は希望を抱くのです。
主イエス答えられます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。神さまの契約による結びつきの中に自分を置いてくださいと願ったこの人の願いを越える、恵みに満ちた主の言葉です。この人がご自分によってもたらされる救いを理解し、その救いに与かりたいと求めていることを喜ばれている主のみ心が表れているようです。
「楽園にいる」と主は言われました。楽園とは、神さまの祝福で満たされているところです。この人の罪が赦され、神さまの祝福が回復され、祝福に満たされることを約束しておられるのでしょう。更に主イエスは、ご自分もこの人と共に居てくださると、約束しておられます。死の淵で救い主と出会ったこの人は、衰弱する肉体と意識の中で、死を超えて、救い主との結びつきの中に置かれることを教えられました。朧げに主イエスに抱いた罪の赦しの希望が、主の言葉によって確かな希望とされました。二人の犯罪人は、同じように罪による死に瀕していますが、二人は全く異なる死を迎えようとしています。その間に、主がおられます。その間で、主の言葉が告げられます。第二の犯罪人は、主に真に出会い、主の言葉に救いの確信を与えられました。第一の犯罪人は、主の言葉をどのように聞いたでしょうか。周りにいた人々、罪人の真ん中で苦しみを受けておられる主イエスを正しくない者、無力な者と裁いたユダヤの議員たち、ローマ兵たちは、主のこの言葉をどのように聞いたでしょうか。
一人一人の罪の裁きをご自分がその身に負うために、主イエスは十字架の死を死んでくださいました。それは神さまから罪びととして裁かれる苦しみ、神さまから捨てられる苦しみの中、死んでゆかれることでありました。マルコによる福音書によれば主イエスが十字架につけられたのは、午前9時頃でした。そして昼の12時頃、全地は暗くなり、太陽は光を失い、闇が3時間も世を覆います。旧約聖書で度々述べられているように、主の裁きが下される時、昼間であっても光は消え、大地は闇に覆われます。この日、一日の中で最も日差しが強く、大気と大地が熱を帯びる昼間、長時間に渡って太陽の光まで奪った闇の濃さに、人の罪に怒り嘆かれる神さまの裁きの重さを思わされます。
神さまは神殿の垂れ幕も裂かれました。神殿は、臨在される神さまのみ前に人々が進み出て、礼拝をするところ、人々の信仰と生活の中心となるところです。その神殿での礼拝を歪め、神さまとの関係を歪め、必然的に隣人との関係も歪めてきた人間の罪を怒り、人間を罪から救うために独り子イエス・キリストの命と身体が裂かれることを嘆き悲しまれるように、神殿の垂れ幕を裂かれました。
そして死の時が来ると、主イエスは大声で「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と叫ばれました。交読詩編として本日読み交わした詩編31編の6節の言葉が、この主の言葉に響いていると受け止められてきました。詩編31編は、敵に追われる苦しみの中で、神さまに信頼し続け、主のもとへと逃れて行く義人の詩です。それまで祈りにおいてそうしてきたように、死を前に再び「父よ」と主イエスは呼び掛け、「私の霊をみ手に委ねます」というイスラエルの義人の言葉を最後に叫びます。「霊」は「生命のいき」「生命の力」を意味すると言われます。私の霊を委ね、息を委ね、力を委ね、全てを委ねますと。委ねるのは「父」の「み手」です。父なる神に信頼し、神さまが成し遂げられる義を信じて、全てを御父に渡されました。
この出来事を見ていた百人隊長は、主イエスが正しい方であることを知り、神を賛美します。第二の犯罪者に続くように、十字架上の主の姿と言葉に、真の正しさを見出しました。「神を賛美した」「神を崇めた」と訳されている言葉は、「神に栄光を帰す」という意味の言葉です。大地を覆う闇の中で百人隊長はこの出来事に栄光の光を見出しました。それが神さまからの光であることを受け止めたのです。
処刑を見物するために集まってきていた群集も、主イエスは正しい方であり、神さまの正しさのために死んでくださったことを受け止めました。この方の死は、この自分の罪のためでもあることに気づかされたからでしょう、胸を打ち、嘆きながら帰っていきました。十字架の近くにまで来ることができずに遠くから主の姿を見つめていた、主イエスを知っていた全ての人たちと、ガリラヤから主イエスに従って来た婦人たちも、これらの出来事を見つめていました。
十字架の下にいた百人隊長、処刑場から家へと帰っていく群集、遠くから見つめていた弟子たち、順に語られるこの人々の姿に、主イエスを知る驚きが広がっていったことが示されています。主イエスこそ正しい方だった、主イエスは救い主だった、自分はこの方が代わりに死んでくださらなければならないほど罪深い者だった、この方は罪と死によっても断ち切られない交わりの中にこの自分も招いてくださっているのだと、それぞれが内なる目を開かれ、変えられていきました。イエス・キリストを無力だと裁き、憤り罵り嘲る思いが、ユダヤ人と異邦人の境を越え、立場も属性も超えて人々の間に広がっていく勢いに、今の現実と重なるものを見出さずにはいられない私たちですが、しかしまた、神さまの裁きの闇の奥に輝く神さまの栄光の光を見出す驚きも、ユダヤ人と異邦人の違いを越えて、主イエスに従って来た年月の長さの違いも超えて広がり行くことに、今もなお生きて働いておられる主のみ業を重ね見るのではないでしょか。広がりゆく驚きは、「自分を救って見せろ」との大合唱に立ち向かうように三本の十字架の真ん中で死んでくださった主イエスから始まっているのです。
この後、聖餐に与かります。ご自分の全てを父のみ手に委ねて死んでくださることで、私たちを父なる神の契約と交わりに結び付けてくださった主の恵みに与かります。恵みをいただいて、それぞれの歩みへと踏み出していきます。時に、第一の犯罪人と一緒になって、主イエスの言葉も業も無力だと不平をつぶやきたくなるような、死の力や苦しみに晒されることがあります。けれど私たちは、私たちの命を、私たちの霊を、父なる神のみ手にお委ねしつつ、歩むことができるのです。