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2023.1.8.主日礼拝
創世記28:10-14、ヨハネ1:47-51
「まことのイスラエル人」浅原一泰
ヤコブはべエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」
イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。イスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
正直に申し上げたい。毎年クリスマスが終わるとふと思ってしまうことがある。それは、あの時の喜び、胸の高鳴りが冷めてしまった、ということである。自分には信仰がないのか、それではいけない、と自分を責めたこともある。周りがそうであっても自分だけはそうはならないぞと虚勢を張ったこともある。牧師になってからは、以前仕えていた教会で、神が終わらせているわけでもないのに、我々人間が勝手にクリスマスを終わらせてはならないと説教し続けたこともある。そう言いつつも、そう思ってしまっているのはお前自身ではないのか、と神から指摘されているような後ろめたさを感じていた。そのジレンマをどうすることも出来ないまま、今に至っている。
話は変わるが、福音書の中に、イエスが「ホサナ、ホサナ」と叫びながら棕櫚の葉を振る大勢の民衆によってエルサレムへと迎えられる場面がある。その直後にイエスがエルサレムで見たもの。それは、葉の茂ったいちじくの木であった。空腹であったイエスは、実がなってはいないか確かめようといちじくに近寄るが、一粒もなってはいなかったのでイエスは憤り、「今より後、いつまでもお前から実を食べる者がないように」とその木を呪った、しかしそれはいちじくの季節ではなかったからだ、とマタイとマルコの福音書は伝えている。実に不思議な話である。なぜそこまでイエスは憤るのか。恥ずかしいことに私はしばらくその意味が分からなかった。
しかし今、思うことがある。イエスはいちじくそのものが悪いと言っているのではなく、いちじくをそのようなものへと変えてしまうこの世に向かってイエスは憤っておられるのではないか。すぐ後で、そのいちじくは枯れてしまったと弟子が報告する。しかしまことのいちじくの木であれば、確かな実を、一粒でも多く、また一粒も無駄にすることなくそのすべてを実らせられる、とイエスは言いたかったのではないのか、と。
先ほどのクリスマスの話で言えば、喜びが冷めてしまった私のような人間は枯れたいちじくなのかもしれない。でもそれは私だけだろうか。皆さんはどうだろう。世の牧師たちやクリスチャンはどうだろう。「実は私もそうだ」と内心では思っている人の方が正直、多いのではないだろうか。それは、我々がこの世にいる以上避けられない現実なのかもしれない。この世は人間から神を忘れさせる力を持っている。理性を犠牲にして盲目的に神を信じさせる宗教は危険だ、弱い者、貧しい者、病で苦しんでいる者たちに辛く悲しい現実をしばし忘れさせるだけの非現実的なまやかしだ、とこの世は人間に思わせる。二週間前にクリスマスの喜びを与えられながらも、新型コロナによる死者も、ウクライナで命を落とす犠牲者も増え続ける一方で、それらが解決され平和で安全な世界へと戻る見込みは一向に見えてこない。我々の中に呼び起こされたクリスマスの喜びは、「しかしこれが現実だ。だから仕方ないではないか」と思わせる諦めへと瞬く間に変わってしまう。そう思わせる力をこの世は確かに持っている。ではそれに押し流されている私たちを見てイエスは憤るのだろうか。呪うのだろうか。どこかの新興宗教のように、それでも救われたいなら、呪われたくないのならああしろ、こうしろとイエスは何かを命じて重荷を負わせるのだろうか。そうではなくてむしろ、クリスマスの喜びを忘れかかっている一人一人に向かってイエスはこう言っておられるのではないだろうか。クリスマスを味わったから信じたのか。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」のだ、と。
先ほど読まれたヨハネ福音書の中で、イエスからそのように告げられたのはナタナエルという弟子である。と言ってもナタナエルは、この福音書にしか出てこない。当然、イエスの十二人の弟子の中にも彼の名前はない。この福音書でも、この箇所以外に彼が登場するのはあと一回だけ、イエスが十字架の死からよみがえった後の最後の２１章にしか出てこない。イエスが世にお生まれになってから十字架の死を遂げるまで、彼が何を考え、何をしていたのかは全く分からない。果たして本当にそのような名前の弟子が実在したのだろうか。ナタナエルという名前にはヘブライ語で「神の賜物」という意味がある。もしかしたらこの福音書は、ナタナエルという名の存在を通して、イエスの弟子とは何であるのか、またイエスに出会い、イエスを受け入れ、イエスを信じるように変えられた者、我らを含め世にあるキリスト者一人一人の姿を、考えさせようとしているのではないだろうか。
ナタナエルは自分から進んでイエスに会いに行ったのではなかった。イエスを信じてもいなかった。少し前の1：43以下を見ると、あのアンデレとペトロの兄弟を弟子にした翌日にイエスはフィリポに歩み寄り、声をかけて彼を弟子にする。その直後にフィリポがナタナエルに出会って、「私はモーセや預言者たちが伝えていた方に出会った、それはヨセフの子でナザレ出身のイエスだ」と伝える。
そう言われても、ナタナエルは即座に信用などしなかった。むしろ、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と疑ってかかっている。あたかも、聖書の話をされて教会へ誘われても取り合おうとはしない人のようである。或いは礼拝に参加して見たものの、何の話かが分からず困っている人のようでもある。それでもフィリポが彼を連れて来るとイエスはなんといきなりこう言ったのである。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
ナタナエルは驚く。「なぜ私を知っているのですか」と尋ねる。するとイエスは答える。「わたしはあなたを知っていたよ。フィリポから声をかけられる前から、あなたはいちじくの木の下にいるのを私は見たのだ」と。イエスのこの言葉が彼を激しく動揺させる。この言葉を言われる前と言われた後では彼は別人のように変えられる。この言葉を言われた直後にナタナエルはこう叫んだのである。「ラビ、あなたは神の子です。イスラエルの王です」と。
繰り返させてもらうと、ナタナエルはこの時までイエスを信じていなかった。むしろ疑っている。そのような者をこそ招き、振り向かせようとしたのはイエスの方である。そのような者をこそ敢えて「見よ、まことのイスラエル人だ、この人には偽りがない」と語りかけるのが神の愛であり、イエスの恵みなのだと、この福音書は初めの１章の結びにおいて宣言しているのかもしれない。相応しい者を招くのではない。評価に値する者を救うのではない。それはもう一か所の聖書、旧約の創世記に出ていたヤコブも同じであった。母リベカに言われるがまま、父イサクを騙して兄エサウがもらうべき祝福を奪い取ったヤコブは、激怒するエサウを恐れて卑怯にも逃げ出してしまう。しかしながらそれも神の招きであった。人間には想像することも出来ない神の招きであった。旅の途中、疲れ果てて眠りに就いたヤコブに神は夢を見せるからである。「天にまで達する階段を天使たちが上り下りするという夢」を見せた上で神は、「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」とヤコブに語りかけるからである。そうして神は、まだ神を信じてもいなかったヤコブをイスラエルの先祖へと生まれ変わらせる。ヤコブが神を知らなくても、神はヤコブを選んでいたからである。
「あなたがいちじくの木の下にいるのを私は見た」というイエスの言葉も、フィリポが彼に声をかける前から、もしかしたら生まれる前から、イエスはナタナエルを選んでいたことを物語ってはいないだろうか。そもそもいちじくは、あのエデンの園に生えていた。蛇に唆されて禁断の木の実を食べたアダムとエバが裸であると気づいて自分の体を覆い隠したのは「いちじくの葉」によってであったからである。いちじくは、聖書ではブドウと並んで神の国の光景に描かれる。「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと万軍の主の口が語られた」という預言者の言葉もある。ぶどうであれいちじくであれ、その木につながって実を結ぶということは、神の国の民として永遠の命に生かされた者のことを指していたかもしれない。実がなく、神から自分を覆い隠す葉っぱしかないイチジクを見てイエスが憤ったのはそのことと関わりがあったのかもしれない。だからこそ私が実を結ばせるいちじく、ぶどうになる、というあれはイエスの宣言だったのかもしれない。世に流されてイエスを疑おうと、それでもナタナエルを「見よ、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」とイエスは言い表した。「まことのイスラエル人」とは、あなたは紛れもなく選ばれた神の民の一人だ、ということである。ぶどうの木であるイエスにつながっているだけでなく、豊かに実を結ぶ枝とされる、ということである。信じる前のナタナエルに語りかけられたこのイエスの言葉は、初めは闇の中から抜け出せず、疑い迷いの中にいた者を神がイエスによって、恵みによって、必ずやそのように作り変え、練り清めていく、イエスがあなたをそのように生まれ変わらせていく、という宣言ではなかっただろうか。
ナタナエルはイエスを「ラビ、神の子、イスラエルの王」と告白する者へと変えられた。かつて洗礼へと導かれた我々も計り知れない神の選びとイエスの恵みによって、イエスを我が主と告白する者へと変えられている。まだそこに至っていない人をもイエスは、神を受け入れ信じる者となるよう招いている。先のクリスマスでは、神の国で実を結ぶよう、永遠の命に生かされるよう、キリストがあなたを罪から守る甲冑となっておられるのであり、まだ信じておられない一人一人には礼拝を通し聖餐の恵みを通して、いつの日かその方々がキリストを受け入れ、身にまとうように招いておられることに気づかされた。そこで信仰のあるなしに関わりなく、敵味方に関わりなく、たとえ死の眠りに就いていたとしても、すべての者を照らす光として世に来られたこの方を褒めたたえる思いを与えられた。しかしながら、人間を神から遠ざける世の嵐の猛威の中でその喜びは薄れてしまっている。だからこそイエスはこう言っておられるのではないだろうか。
「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
それは、クリスマスを味わったから信じたのか。もっと偉大なことをあなたがたは見るのだ、ということではないだろうか。もっと偉大なこととは、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」ことだとイエスは言った。ヤコブ以上のものをあなたは見る、ということである。それは、いかに世の闇が覆い隠そうとも、罪の誘惑の嵐が吹き荒れようとも、あなたには、神の国への一筋の道、光の道がこのイエスによって示され続ける、ということである。人となった神である私があなたを「まことのイスラエル人」として選んだ、だからこそあなたは今、礼拝へと召し集められているのだ、ということである。それは世に惑わされる日々の中でも、主の日の礼拝へと私があなたを招き、振り向かせ、目を開かせ、神の国へ、永遠の命へと導くのだ、というイエスの宣言である。目には見えなくてもイエスは皆さんを「まことのイスラエル人」として選び、皆さんを信じて、そのように私が皆さんを育むという断固たる決意をもって語りかけておられる。世界がどんなに不安に覆われようと、尽きることのない不安に悩まされようと、その声に振り向かされ、その度ごとに「あなたは神の子、イスラエルの王です」と告白を合わせる礼拝の歩みを、この年もご一緒に歩んで参りたい。