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「メシアのしるし」ミカ5：1～3、ルカ2：1～7
2023年12月17日（左近深恵子）
先週の木曜日の「聖書探訪」では、列王記下2章から預言者エリヤが天に挙げられた、ダイナミックな物語を共に聞きました。出来事の不思議さから、エリヤが天に挙げられたことの印象だけが強く残りがちな箇所ですが、聖書探訪に参加した方々と、ゆっくりと聖書の言葉に耳を傾け、気づきや思いを分かち合いながら、私たちの思いは特に、目の前でエリヤが取り去られた弟子のエリシャへと、また、ヨルダン川の対岸からその出来事を見守っていた預言者の仲間たちへと向かいました。
エリヤはエリシャにとっても他の預言者たちにとっても、預言者を代表する存在でありました。北王国イスラエルで活動していたエリヤは、国の中に他国のバアル崇拝を持ち込み、神さまではないものを拝むことに民を巻き込んだアハブ王とその妻イゼベルを批判して、迫害を受けました。しかしエリヤは命がけで王やバアルの預言者たちと対決し、神の民が神の民であり続けるために闘い続けました。神はただお一人であり、バアルは神と並ぶ者ではないことを、相手が王であろうと証しし続けました。エリシャはエリヤに招かれて弟子となり、これまで、常にエリヤと共にあることを願い、そうしてきました。やがてエリヤが自分たちの元を去る時が近づいていることを知らされ、エリシャと預言者たちは、エリヤが去った時の覚悟を少しずつしていたことでしょう。けれどどんなに覚悟をしていても、実際に大切な人が自分の傍に居なくなってしまうことは、耐え難い痛みとなります。目の前でエリヤが天に上げられたエリシャが、自分の衣を掴んで二つに引き裂く姿にその痛みが現れています。川の対岸から見つめていた預言者の仲間達も、同じような痛みの中にあったことでしょう。エリヤとのつながりも、エリヤによって示されてきた神さまとのつながりも、エリヤが取り去られたことで、全て断ち切られてしまったように思われたその時、エリシャは、エリヤの外套が残されていることに気づきます。その外套を拾うとエリシャは、先にエリヤがそうしたように、自分と預言者たちの間に流れるヨルダン川の水の面を外套で打ちました。するとエリヤが打った時のように、川の水は上下に留められ、エリシャは川を渡って預言者達の所へと移動することができました。これもまた、出来事の不思議さだけが印象に残りがちな箇所ですが、この時エリシャが発した言葉が私たちの現実に響きます。「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言いながら、エリヤの外套で水を打ったのです。“この外套を纏っていたエリヤに、共におられ、言葉を託し、大きな力を注いでこられた神さま、あなたはどこにおられますか、あなたは今、私たちと共におられますか“と、神さまに問います。“ここにいてください”と訴えます。祈りとも言えるエリシャのこの求めに応えて、神さまは流れる水を留めてくださいました。エリヤはもう民と共にいませんが、神さまはご自分の民と共におられることを示してくださいました。エリヤに注いでこられた力をエリシャにも注ぎ、エリヤに託してこられた預言者としての使命をエリシャに引き継がせることを、水を留めることによって示されました。その出来事を見つめていた預言者たちも、神さまはエリヤの働きを通して為してこられたみ業を、エリシャにおいて継続されることを知りました。
「主はどこにおられますか」と祈りの声を振り絞りながら、行く手を阻む大きな流れを必死に打つような状況が、私たちの人生にもあります。大切な人が取り去られ、つながりを断ち切られ、身を裂かれるような痛みを負う時があります。前へと進む道まで閉ざされてしまう不安があります。今、敵対する勢力からの攻撃に曝されている地域でも、「主はどこにおられますか、今ここにいてくださっていますか」との悲痛な声が満ちていることでしょう。土地や資源を巡って対立を深める国々の争いを眺めながら、年々悪化する水不足や熱波、あるいは洪水に苦しんでいる地域でも、「主はどこにおられますか」との叫びが日々繰り返されていることでしょう。大きな変化の前に、流れを打つ私たちはまことに無力です。「主はどこにおられますか」と、神さまを求める力は、直ぐに枯渇してしまいます。私たちの手にエリヤの外套はありませんが、私たちの手は空っぽではありません。これまで私たちに神さまを示してくれていたかけがえのない存在が私たちから取り去られても、強大な力が私たちの互いのつながりを分断するように流れ続けていても、信仰の先達者たちの外套を拾うように、神さまは、思わぬ仕方で神さまの救いのみ業を歴史を貫いて推し進めておられることに気づかされます。そのみ業に、既にみもとへと召した人々に代わって私たちを用いてくださり、そうして救いのみ業は紡がれてゆくことを、聖書は伝えています。誰が先に地上の歩みを終えて私たちのもとから取り去られようとも、その人々にも道を示して来た神さまの言葉が、私たちの元に在り続けます。み言葉を握りしめるようにして祈りながら、大きな流れを打ち続ける私たちであります。
エリヤ、エリシャの時代から100年ほど後、ミカという預言者が南王国ユダで活動しました。ミカ書によると、ミカは神の民の堕落や、指導的立場にある人々の横暴を厳しく批判し、エルサレムに神さまが徹底的に裁きを下されると告げました。しかし4～5章では、回復を預言します。4章でエルサレムの回復を預言し、5章でベツレヘムからメシアが生まれることを告げます。自分たちは敵対する者たちの壁に取り囲まれており、彼らは神の民を治める者の頬を杖で打つ。しかしユダの氏族の中では最も小さな者であるベツレヘムから、神の民を治める者が出ると。「最も小さな」と訳された言葉には、「つまらない、年下、末の子」といった意味もあります。神の民の王としてサウルの次に神さまに立てられたダビデは、ベツレヘムのエッサイの8番目の子どもでした。最年少者が群れの後ろから取られ、王とされた。長子が家を継ぐことが秩序となっている時代に、後に来るべき小さなもの、年少の者を、神さまは先に立つ者、大いなる者とし、救いの歴史を継ぐ者とされました。このダビデの血筋から、救い主、メシアが生まれると、神さまは預言者たちを通して告げてこられました。このメシアの誕生の「出自は古く、とこしえの昔に遡る」と、ミカは述べます。ダビデの町ベツレヘムからメシアがお生まれになるのは、古の日からの神さまのご計画であったと述べています。
こうして預言者たちを通して神さまの言葉を与えられてきた多くの神の民が、メシア到来を約束される神さまの言葉を握りしめながら、時に自分の人生をあらぬ方向へと押し流そうとする流れや、自分を包囲する壁を打つような人生を送ってきました。そしてとうとう神さまは世に、救い主を与えてくださいました。ベツレヘムの町で、ダビデの血筋に、ヨセフの婚約者マリアを通して、救い主がお生まれになりました。
「その頃」とルカは述べます。そうして、救い主の誕生は、それまで語って来た洗礼者ヨハネの誕生の出来事に続くことを告げます。ルカはここまで、ヨハネの誕生物語とマリアに起きた出来事を絡めながら語ってきました。ザカリアに、妻エリサベトが子を宿すと告げる天使とザカリアのやり取り、その間エルサレムの神殿の外でザカリアが出てくるのを待ち侘びる人びと、妻エリサベトの喜び、マリアに神さまの力によって子が与えられると告げる天使とマリアのやり取り、共に喜びを分かち合うマリアとエリサベト。クリスマスの出来事の中で人々が発する言葉と、人々の交差する人生が、代わる代わる語られてきました。全ては神さまのお力に拠りました。神さまによって、子に恵まれないまま年を重ねた老夫婦に洗礼者ヨハネが与えられ、神さまによって、ヨセフと婚約はしているもののまだ一緒に暮らしていないマリアに主イエスが宿られました。その身に子を宿した二人の女性も、子の父親となることができた二人の男性も、人の力も常識も計画も想定も超えたこの出来事に、驚きや戸惑いを重ねながら、やがて神さまに信頼することへと導かれました。主なる神のお力に信頼する幸いを味わうことへと導かれました。エリサベトはマリアに、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」と感嘆の言葉を発し、マリアは神さまを讃える歌を紡ぎ出し、ザカリアは神さまが我が子ヨハネと後から来られる方において為さろうとしているみ業を預言しました。我が子はいと高き方の預言者と呼ばれる、主に先立ってゆく務めを担い、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるとザカリアは述べました。メシアの到来の前に再び世に到来すると人々によって信じられてきた預言者エリヤのように、我が子の生涯を神さまは救い主の道備えのために用いられると、力強く語りました。こうして1章の終わりには、ザカリア、エリサベト、マリアの3人が、次から次へと歌いあげる賛美の声が溢れました。
けれど主イエスの誕生の出来事においては、誰の言葉も記されていません。唯一発せられたことが述べられているのは、ローマ皇帝の勅令です。ベツレヘムも含めあらゆる地域を支配していたローマ帝国の皇帝が、全領土の住民に向けて出した、登録の命令だけです。当時の世界の中心であり、まさにこの世の王たちの頂点に立っていたローマ皇帝の命令に、ヨセフもマリアも被支配国の民の一員として従わなければならない者でした。神さまが古から定めてこられた救い主の到来は、このような時代の、このような世界情勢の中、小さな町にもたらされました。神の民にとってはダビデ王の町ですが、ローマ皇帝の圧倒的な支配の前では取るに足らない町であったでしょう。全領土にローマ皇帝の勅令が轟いているこの時代に、神さまが定めておられた時が満ちたことをルカは静かに語ります。
ベツレヘムの町には、登録のためにあちこちから人々が戻ってきたことでしょう。小さなこの町に、旅人が宿泊できる場所はさほど多くなかったのかもしれません。ヨセフたちは泊まれる所をどこにも見つけられず、安心して出産できる空間も手に入れられない危機にあります。ダビデの血筋の出身であっても、この町で泊まる場所も、出産に適した空間も、出産をサポートしてくれる人も見つけられない、誰にも関心を示されない、誰からも手を差し伸べられない小さな存在のこの家族に、神さまはその時をもたらされました。救い主はこの日、この家族のもとにお生まれになりました。
マリアは主イエスを産着で包み、飼い葉桶に寝かせます。家畜の餌を入れる飼い葉桶の中に赤ちゃんを寝かせることは、当時無いことでは無かったとも聞きます。しかし赤ちゃんを寝かせられる衛生的で安全な場所が他にあるならば、わざわざ飼い葉桶には寝かせないでしょう。この後、その地方で野宿をしていた羊飼いたちに主の使いは、「あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」（2：12）と告げます。親が生まれて来る子のために用意していた産着に、大切に包まれた幼子は、飼い葉桶の中に寝かされている、このことがメシアのしるしとされています。お生まれになったその瞬間から、その方にとってご自分の民であるはずの人々は、その方を身ごもったマリアに出産の場所も提供しなければ、その方が横たわる僅かな空間すら自分たちの間に空けることもしません。そのような人々を罪から救うために、神さまは救い主を、その人々の真の王を、与えてくださいました。
メシアのしるしは、皇帝の命令に従うためにやって来た人々でひしめくベツレヘムの町の中で、真に小さいものであります。メシアの誕生は、誕生の場面だけを見れば、特別な要素が見当たらない、どこにでもいつでも起こっているような、小さな出来事であり、人々の無関心と拒絶が露わなつまらない出来事です。羊飼いたちがメシアを探そうとしても、しるしを教えてもらっていなければ脇を通り過ぎてしまいそうな、細やかな出来事です。この小さな出来事の奥に、驚きに満ちた神さまのみ業があることを、1章によって私たちは知ります。小さな、つまらない出来事の背後に、救いの御業のために自分の命と身体と人生が用いられることを苦闘の末に受け入れ、幸いに満たされ、賛美を歌う人々がいることを、聖書によって私たちは知ります。この人々の人生の救いのみ業を出来事としてくださった神さまのご古からのご計画とお力があることを、聖書に拠って知るのです。
ルカによる福音書は、これらのことが起きたのは「ユダヤの王ヘロデの時代」であり、「皇帝アウグストゥス」が勅令を出した時代であると、敢えて領主や皇帝の名前を明記します。歴史の特定の時代に、特定の地域で起こったことをこうして述べ、メシアが真に世にお生まれになったことを証しします。主イエスの誕生はおとぎ話の一つではないのだと。この世界の歴史の中で、ローマ帝国がその栄華を誇っていた時代に、ローマ皇帝の支配下にあるベツレヘムの町で、メシアは確かにお生まれになったのだと。ローマ皇帝の力を全領土に知らしめる住民登録さえも、救いのご計画を実現するために神さまは用いられたのだと。預言者たちを通して告げておられたように、ダビデの町ベツレヘムで、ダビデの血筋の家に、救い主を与えてくださったのだと、語るのです。当時、他に世に並び立つ者の無い最強の王であることを誇ったローマ皇帝もその国も、その支配は今は過去のものです。しかし主イエスは今も真の王です。今も私たちと共におられます。「主はどこにおられますか」と呻きながら水面を打つような、取り囲む壁を打つような、虚しさに呑み込まれそうな時が、私たちの日々にあります。私たちを罪から救う神さまのみ業が私たちと共にあることが見えてこないではないかと、救いのみ業はもう過去のものなのではないかと、救いの歴史は断ち切られ、救い主は去ってしまわれたのではないかと、揺らぐ時があります。けれど、私たちの常識も想定も超えた仕方でもたらされている神さまの救いは、静かな細やかな、どこにでもあるような出来事において推し進められているかもしれないと、クリスマスの出来事によって気づかされるのです。見える小さなことの奥に溢れる神さまのみ心を、私たちを罪から救おうと、そのために独り子を与えてくださったみ業を受け止め、私たちも主のみ業に用いられることを心から願うアドヴェントでありたいと願います。