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2021.8.22. 主日礼拝
創世記3:4-6、ローマ7:4-6
「新しい生き方」浅原一泰
中村哲さんをご存じだろうか。今から40年程前、パキスタン北西部のペシャワールに赴任され、そこを拠点としておもにハンセン病を患う貧しい人々の治療に尽力されたクリスチャンの医師である。当時はソ連がアフガニスタンから撤退した直後の混迷の時期であり、ペシャワールにも多くの難民が押しかけたことでアフガニスタンとの関わりが深まり、その後はアフガニスタンの無医村地域に病院、診療所を建てて一人でも多くの患者を救う治療に努められ、その一方、医療のために働く人々を指導・訓練する教育にも力を傾けられた。残念ながら３年程前に銃撃を受け、天に召されたことは記憶に新しい。中村さんによればアフガニスタンの人々の命にとって最大の危機はらい病（ハンセン病）でもなければタリバンでもテロでもない。それは旱魃による水不足であったという。20年前のWHOの報告によればアフガニスタンで旱魃ゆえに400万人が飢餓に直面し、餓死寸前の状態に置かれていたのが100万人であったと中村さんがある本に書いておられた。井戸を掘り、そこから水を引く水路を掘るためにトラクターを操縦している中村さんの姿を映像でご覧になった方もいるだろう。きれいな水があれば作物は育ち、病原菌の発生を防いで多くの命が救える。それは現地に骨をうずめて土地の人々との信頼関係を築いた中村さんだからこそ気づくことができた真実であった。アフガニスタン国民の大半は地方の農民であり、首都カブールの住民は氷山の一角に過ぎない。それなのに日本では国連による難民救助活動が華々しく報じられ、欧米よりの報道ばかりが流されてタリバンが諸悪の根源のように描かれるばかりで、旱魃によって夥しい人々が死を遂げたことなどは一切報じられない、と同じ本の中で中村さんは嘆いておられた。むしろタリバンはアフガニスタン古来の伝統を重んじようと呼びかけ村々に水を引く為に実際に動いていたので、彼らは多くの農民たちから信頼され、欧米勢力などよりもはるかにありがたがられていた、とも書かれていた。
先週、そのタリバンによってカブールが制圧されたことが報じられ、それ以来、窃盗は腕を切断され、強姦を働く者は処刑され、女性の尊厳は否定されるなど、タリバンを非難する報道ばかりが流され続けている。私はタリバンの人を知らないので良いとも悪いとも言えない。ただ、偏った報道を鵜呑みにして良いのか、タリバンの兵士たちの中にも農民に慕われるだけの人としての良心があるのでは、とは思っている。民主主義を根づかせようと20年間駐留していたアメリカ軍がアフガンからの撤退を決めたことによって確かにタリバンは勢力を盛り返し、大統領ガニは逃亡、空港ではタリバンを恐れる民衆がわれ先にとアメリカの軍用機にしがみついたり、アメリカ寄りの現地人でごった返している機内の様子が報じられた。大統領バイデンの言葉が空しく響く。「自分で戦う意志のない他国の軍隊のために、アメリカ軍が犠牲になる必要性はない」と。そうして自らの判断を正当化するバイデンとその声明に踊らされる人々に、創世記のあの言葉がぴたりと当てはまるような気がする。
「食べても死なない。むしろ食べれば目が開け、お前は神のようになれる」。
確かにアメリカはこれ以上多くの人を死なせないために撤退を決めたのかもしれない。しかしそれで本当に生きたことになるのだろうか。現実には命を奪われてしまったが、誰にも知られずに患者一人一人を治療し、現地スタッフと協力し合い、水のないところに井戸を掘り続けられた中村さんこそが本当に人間が生きた証しであったのではないだろうか。
先ほどのロマ書の言葉を振り返りたい。
「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」
「園の中央の木からだけは食べてはいけない。食べると死んでしまう。」
初めの人間アダムに与えたこの神の戒めこそがすべての律法の原点である。神からそう言われたら皆さんも従うだろう。アダムもそうだった。しかし神ならぬ蛇によってある解釈というか情報が付け加えられる。「食べても死なない。むしろ食べれば神になれるぞ」というのがそれだ。神への信頼、神への畏れよりも自分の安心や成功、活躍に目移りしてしまう。それを「見るといかにも美味しそうだった」と聖書も伝えている。その情報がアダムを始め、我ら人類すべてに自分の利益を第一に考える自己愛を目覚めさせてしまった。聖書の言う「肉に従って生きる」というのはそのことだと思う。肉に従って自己愛に生きる者には神も隣人も二の次でしかない。律法など守れなくて当然だし守る必要もない。そうして人は神から離れた。それを「仕方がないではないか」と自分に言い聞かせる思いの全てを聖書は「罪」と呼んでいるが、そうして「損得勘定」でしか人は物事を判断しなくなった。メリットのないことはしなくなった。非合理的な人間、無駄をする者を蔑むようになってしまった。クリスチャンもそうである。教会で喜んで座っている我々こそがそうなのかもしれない。
しかしロマ書の中でパウロは言っていた。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」これをすれば救いという手柄を手に入れられる。そう思っている者はすべて「死んでいる」のだと。神が与える命に「生きてはいない」のだと。自分が救われたいから、良い思いがしたいから教会に来るのだとしたら、その人は律法に縛られている。自己愛に縛られている。死に至る実を結んでいる。それで何が悪い、と開き直る声もあるかもしれない。では聞きたい。神の独り子として生まれながら、何の罪も犯さず悔い改める必要も一切ないのにヨハネから悔い改めの洗礼を受け、病人を癒し、友なき者の友となり、悲しみ苦しむ者たちを慰め続けたイエスはなぜ十字架につけられたのか。なぜゴルゴタで殺されなければならなかったのか。イエスがゲッセマネで必死に祈っても、十字架の上で「エロイ、エロイ」と神に向かって叫んでも救われなかったのは何故なのか。それは、「こうすれば救われる」、「報いが得られる」という人間の自己愛によっては、もしくは欲望によっては生きたことにはならず死んでいるのだと。「神によって生かされる」ことには決してならないのだと。そのことを示すためだったのではないか。これさえすればあなたは救われると囁きかけ、そうして罪ある者すべてを縛っていた律法に対して、律法に何一つ背いておられないこの方が全ての者の身代わりとなって死んで下さったからこそ、神を忘れ隣人を踏みにじる自己愛の温床となっていた律法の束縛から今や、全ての者が解き放たれることになったのだと。聖書はそう告げているのではないだろうか。
正しく良い教えばかりを説いていたからイエスは神と一つであったのではないと思う。祈ったからでも、病人を癒したからでも、悲しむ者を慰めたからでもないと思う。ゲッセマネでは「この杯を取り除け給え」と自らの無力に絶望して打ちひしがれた時、ゴルゴタでは今わの際で「なぜ我を見捨て給うや」と嘆きの叫びをあげた時、まさにその時こそイエスは神と一つであったと、最も強く固くイエスは神と結ばれていたと聖書は言っているのではないだろうか。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」とパウロは言っていた。自己愛のすべてが神によって引きはがされ、神に棄てられたという絶望的な思いを抱かせられるまさにその時こそ、恵みによって人は神の前に立つのであると。神の導きのみによってそこへと引き出されるのであると。キリストと固く結ばれているのだと。ゲッセマネとゴルゴタのイエスの姿はそのことを示している。その時、この方の犠牲の死によって、また死から神によってよみがえらされる恵みによって、「新しい命」が信じる者において産声を上げるのであると。「新しい生き方」の火ぶたが切って落とされるのであると。そして、律法に縛られ文字に従い自分の成功や手柄を追求する古い生き方ではなく、イエスを死からよみがえらせた霊によって、その霊に従って生かされる新しい生き方こそが、神が我々に切に求めておられるものなのだと。その生き方で互いに仕え合うようになって欲しいのだと。聖書を通して、神は、目に見えない復活のキリストは今、我々にそう語りかけているのではないだろうか。
利益のないことのために命も金も犠牲にするのは愚かだと判断するのは確かに賢明かもしれない。どこかの大統領もあるいはそれに賛同する人々も合理的にそう判断したのかもしれない。しかしそのように判断する世の多くの人々と、利益がなくても、たとえ命が危険にさらされても、目の前の苦しむ命に手を差し伸べ続けた中村哲さんと、古い生き方に縛られているのはどちらだろうか。新しい生き方を生きたのはどちらだろうか。私たちの生き方はどうであろうか。最後に彼の言葉をいくつか紹介して結びとしたい。
「私たちは安易に平和や国際協力を語らない。それは生身の人間の現実に肉迫することでしか得られないからだ。」「与えられた場所で真心を尽くし、人々の立場で悩みも喜びも分かち合ってこそ、本当の協力ができるのではないか。」「口先や理念ではなく、私たちが自らをも反省し、相互理解と宥和への道を忍耐強く探る努力を怠らぬこと、これこそが唯一の道だろう。」
利益や満足に走る古い自分をかなぐり捨てて、滅ぶべきこの身を憐れみ救いへと振り向かせて下さった神の愛に応える生き方を忍耐強く求め続けたい。