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スイス国防省はアパルトヘイト時代のスイス諜報機関と南アの生物・科学兵器開発の関係について調査を依頼していたが、このほど、開発プログラムには一切関係していなかったことが判明した。
しかし、報告書は諜報機関のトップと南アフリカ政府（当時）との密接な関係がスイスの永世中立の立場に反するものであったと指摘している。
同報告書はスイス諜報部と南ア政府の間に秘密協定は存在していなかったものの、当時の諜報機関の南アの資料、特に当時トップであったレグリ氏に関するものが多く破壊されていたため、レグリ氏の真の役割が何であったか、判明するのは難しいと結んでいる。
背景
2001年に国防省がシュワイツァー法学教授にこの調査報告書を依頼した背景には、南アフリカ共和国で「死の博士」という仇名のバッソン氏（南ア国籍）の裁判が発端となった。バッソン氏はアパルトヘイト（人種隔離）政策を行っていた南アフリカ政府の “プロジェクト・コースト”と呼ばれる生物・科学兵器開発の責任者で、（1981年から1993年まで）群衆をコントロールする薬物や反政府軍兵士を殺害する兵器などを研究していた。バッソン氏は南アの首都プレトリアで1999年に殺人罪、殺人共謀罪や詐欺など６７件もの容疑で裁判にかけられたが、2001年7月に無罪で釈放された。この博士が裁判の時、群衆コントロール薬を製造するためにメタクアロン（毒薬）をロシアから購入した際、レグリ氏の手助けを受けたと証言した。この証言がスイス政界を震撼させ、2001年から調査が始まった。
レグリ氏と「死の博士」バッソンの関係
レグリ氏は「バッソン氏には一度しか会ったことがない」と証言している。だが、報告書によると二人の接触は1987年から1994年まで何度も行われ、レグリ氏は真実を言っていないばかりかバッソン氏の怪しい取引の仲介者となるチューリッヒの武器商、ジャコメ氏との接触についても言及し「危険で問題がある」と指摘している。
報告書のハイライト
報告書はさらに、諜報機関が当時の南ア政府に対して全く無批判だったともいっている。当時、ネルソン・マンデラ氏の率いるアフリカ民族会議（ＡＮＣ/現与党）について政府への報告には「ＡＮＣは共産主義傾向にある違法政党であり、大変組織だったテロリスト集団。その目的は政府を覆し、共産主義政府樹立を目的とする」と記している。また、1977年からアパルトヘイト政策の終わる94年まで諜報機関と南ア政府との接触は年に8回にも及んだ。シュワイツァー教授は「冷戦時代の国際情勢を考えれば戦略的に必要な情報収集であった」というが、冷戦崩壊後も関係は続いた。スイスは１９８５年頃から始まった米国とＥＣの対南ア経済制裁には参加していなかったものの政治的永世中立、平和、人権尊重を重視するスイスの政治的立場と諜報部の行動は相反した。また、報告書は諜報機関で当時の南アとの関連資料紛失、消却が１９９8年まで続いたことは深刻な問題であると強調している。
反応
国防・国民保護・スポーツ省のシュミット氏は「我々の諜報機関やレグリ氏が人権侵害を犯していなかったことが分かってホッとしている」と記者会見で発表。当事者のレグリ氏は資料破壊について聞かれて、「報告書を書いたシュワイツァー法学教授は諜報機関というものを全く理解していない」と批判し「資料の破壊はルールでありそれに従った」と弁明した。スイスの地元新聞の多くは「アパルトヘイト政権と親しすぎた情報部」という見出しでこの報告書を取り上げた。
アパルトヘイト時代の南アとスイスの関係を明らかにする調査委員会がこれまでにも4つ設けられている。2004年にはスイス国立基金がさらに総合的な調査を発表する予定。