Document ID: /fineweb-2-swissfilter-quality_10-filterrobots/filtered/00587.jsonl.gz/0

◆ヨハネの福音書１３章１節～７節
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。（ヨハネ１３：１）
Ⅰ．愛し通されたキリスト
１３章からヨハネの福音書は後半部分に入ります。１章から１２章のキーワードは「いのち」（５０回）と「光」（３２回）です。１３章から１７章にかけて「愛」ということばが３１回も使われています。「その愛を残るところなく示された。」とありますが、口語訳では「彼らを最後まで愛し通された。」、共同約では、「この上なく愛し抜かれた。」と訳されています。弟子たちと過ごした最後の最後まで、愛を示したということです。
１３章は過越の祭りの前に、イエス様が弟子たちとともに最後の夕食を取られた場面が語られています。その食事の席でイエス様は弟子たちが驚くような（とまどうような）方法でご自身の愛を示されました。「わたしは、愛するあなたたちのために、自分のいのちを捨てることをいとわない。」それが弟子たちに対するイエス様の愛のメッセージなでした。
Ⅱ．仕える者として来られたキリスト
イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。 （ヨハネ１３：３～５）
Ⅲ．足を洗ってくださるキリスト
主が足を洗おうとされた時に、ペテロは強く拒みました。しかし、それに対してイエス様は、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と応じられます。それに対してペテロはあわてて「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と答えるのですが、主が何を伝えようとされているのか理解していませんでした。とまどうペテロに主は、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」とお答えになります。
人間が自分で自分を救うこと、自分の罪をあがなうこと、神の前に自分で清くなることはできないと聖書は教えています。神様の助けが必要なのです。弟子たちの足を洗う救い主の姿に、父なる神に対する従順と私たちに対する深い愛を見ることができます。ご自身のいのちを犠牲することをいとわない愛です。救い主は、罪の中にいる私たちのところまで下りてこられ、ひざまずき、汚れた足を洗ってくださる方なのです。
神の御子である方が弟子たちの汚れた足を洗う光景はとても不思議です。人間は自分の汚れた部分を隠そうとしますし、そこに触れられることを拒みます。しかし、愛に満ちた救い主は、私たちが罪に汚れた足をご自身に差し出すことを願っておられるのです。十字架でキリストだけが私たちを罪から聖めてくださるただ一人のお方です。
Ⅳ．十字架の死と復活
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」（ヨハネ１３：７）
弟子たちは、主がひざまずいて自分たちの足を洗われたことの本当の意味も、主がどこに向かおうとしておられるかもまだ理解していませんでした。イエス様はその弟子たちに、ご自身がこれから受けようとしている苦難（十字架の犠牲の死）が、弟子たちそして信じる全ての人々に対する神の愛の現れであることを示されたのです。イエス様は、上着を脱ぎ、ひざまずいて弟子たちの足を洗われ、そしてまた上着を着けられました。これは救い主がこれから受けられる十字架の犠牲の死と復活を象徴しています。
わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。（ヨハネ１０：１７）
上着を脱ぎ、の「脱ぐ」、上着を着けるの「着ける」と訳されている二つのことばは、１０章１７節の中で、それぞれ、「いのちを捨てる」の「捨てる」、「いのちを再び得る」の「得る」と訳されています。救い主は、私たちの罪を清めるために、いのちを捨て、神の力によってよみがえられた（再びいのちを得た）のです。
Ⅴ．イエスは主
私たちは自分たちがクリスチャンであると名乗りますが、このクリスチャン（使徒１１：２６）という言葉は、周囲の人々がキリストの弟子たちを、クリスチアノス（例えて言うならキリストマニアのような）軽蔑を込めて呼んだ蔑称です。その他、初期のクリスチャンたちは「イエス派」とか「その道の者」とか呼ばれていました。いずれも、イエスを主と告白し、回りには愚かに見えてもいのちをかけて主の道に従って歩んでいる人々を指した呼び名でした。私たちは、自分がクリスチャンであると名乗っていますが、はたして、「主の道」に歩んでいるでしょうか？十字架に至るまで、私たちを愛し通し、ご自身のいのちを捨ててくださった方。イエス様は、私たちのために救いの道を開いてくださいました。この道をいっしょに歩いていきませんか？
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 （ピリピ２：６～１１）