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「恵みを無駄にしない」申命記30：15～20、ガラテヤ2：15～21
2023年10月29日（左近深恵子）
自分のこれまでの生き方は正しいものであった、自分が今目指している方向も間違っていない、そう私たちが思っているとしたら、その根拠は何でしょうか。自分に自信のある人、あまり無い人、その度合いはそれぞれだと思います。「自信」という言葉は、自分の正しさを信じるということ、自分の能力や価値を確信することを意味します。自分が正しいと信じられるとしたら、自分に価値があることを確信できるとしたら、その根拠は何でしょうか。
自分の正しさ、自分の能力、自分の価値を、他者と自分を比較することで確認しようとする傾向が、誰の中にもあります。周りを見渡して、他の人並みであると、あるいはそれ以上であると思えれば、自分の行動はこれで正しい、自分の努力の量はこれで大丈夫だと、自分で自分にお墨付きを与えられるように思います。それはパウロが属してきたユダヤの人々も同じでありました。パウロがガラテヤの教会に宛てた手紙の今日の箇所の冒頭で、「私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません」と述べているのは、そのようなユダヤ人の中にある傾向を言葉にしています。「ユダヤ人」とは、ユダヤの地域に暮らしていた古代イスラエルの民のことであります。「異邦人」とは、神さまが与えてくださっている契約の外で生きて来た、律法を持たない人々のことであります。異邦人はユダヤ人から、律法が戒めている偶像礼拝などを行い律法が示す生活をしていないからと、罪人とみなされていました。
ユダヤ人は異邦人を罪人とみなしていましたが、自分たちは罪から遠いと思っていたわけではありません。詩編の詩人は神さまの嘆きをこのように記しています、「主は天から人の子らを見下ろし／神を求める悟りある者はいないかと探られる。／すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。／善を行う者はいない、1人もいない」（詩13：2～3）。コヘレトの言葉にもこうあります、「地上には／罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない」（コヘレト7：20）。ユダヤ人であろうとなかろうと、地上の者は皆神さまから離れ出てしまって、魂の健やかさを失い、神さまのご意志に適わないことを行ってしまう者であることを、ユダヤの人々は知っていました。
またユダヤ人は律法を持っていますが、律法を守る自分たちの行動が、神さまが願っておられる状態に到達しているわけではないことを、彼らが知っていたことも、聖書を通して示されます。「人はどうして神に正しくありえようか」とヨブ記でヨブは嘆いています（ヨブ9：2）。預言者イザヤは神の民の現状をこう述べています。「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのでもない。ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て／あなたがたの罪が御顔を隠し／聞こえないようにしている。あなたがたの手は血で、指は過ちで汚れている。その唇は偽りを語り、舌は不平を呟く。義によって訴える者はな」い（イザヤ59：1～4）。神さまはご自分の民に、神さまが与えてくださった命を、神さまの祝福の中生きていくために、律法を生き方の指針として与えてくださいました。申命記30章が告げていますように、それは、人として生きることができなかった奴隷の地から救い出してくださり、神さまに従う道を選び取ることのできる自由を回復し、約束の地へと導いてくださる神さまこそ、自分たちの神であり主であると知り、この主なる神を愛するため、主に従う道を歩むため、真に生きるためのものでした。けれど人々は律法が示す行いを、自分の正しさに自分で到達するために行うようになってしまう傾向を抱え続けてきました。パウロも今日の箇所で「人が義とされるのは、律法の行いによるのではな」い、「律法の行いによっては、誰一人として義とされない」と繰り返し、この人間の傾向を明らかにしています。
神さまが古代イスラエルの民に特に、ご自分こそ神であり主であることを示され、この民をご自分の民とされたのは、この民を神さまの祝福の源とするためでした。神の民の歩みの始まりに神さまが立てられたアブラハムに神さまは、アブラハムを通して、地上の全ての氏族を祝福するとの契約を与えてくださいました。この契約を、ユダヤの人々は大切にしてきたはずです。そうであるのに、神さまの契約の中で生きてこなかった異邦人たちを自分達より下に見る思いにひきずられてきました。パウロは15節で、「私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません」と述べています。パウロ自身がこのように思っていたということではなく、このような考え方があることを示したのでしょう。パウロがそこから送り出されてきたアンティオキアの教会にも、この手紙の送り先であるガラテヤの教会にも、異邦人は自分たちのように律法を重んじる生活をしていないが自分たちは律法に生きていると、自分たちの正しさに自信を持ち、異邦人と一つとなって教会を築いていくことを、避けようとする動きがありました。15節で述べたように考えることは、神の民を全ての氏族の祝福の源とする契約を与えてくださり、神さまを愛する生き方を示す律法を与えてくださった神さまのご意志から、自分たち自身を離れてゆかせます。自分自身もユダヤ人であるパウロは、自分たちの問題をよく分かっています。異邦人にも福音を宣べ伝え、主に従う歩みを異邦人とも共にしようとするパウロたちに反対する動きの根幹にあるこの歪んだ思いと、パウロは対峙しています。神さまの祝福が全ての人にもたらされるため神さまから使命を与えられている民として、自分たちが抱えて来た歪みに真摯に向き合うパウロの姿があります。この姿に私たちは、他の誰でもなく私たち自身が、私たちが抱えている歪みと向き合うのだと、背中を押されます。そして、ここでパウロが向き合っている歪みは私たちも抱えるものであり、私たちも向き合わなければならないものであることに、気づかされるのです。
異邦人であろうとユダヤ人であろうと何人であろうと、私たちは誰も「罪を犯さず善のみを行う正しき者」ではありません。正しくいられない私たちが他者を下に見ることで自分に正しさを得ようとしても確かな正しさは得られません。自分は正しいのだと主張しても、それは説得力の無い独り言になってしまい、他者との間に健やかな関係を築くことも保つこともできません。詩編の言葉のように私たちは内側から腐り果ててゆくばかりです。そうではなく、「人が義とされるのはただイエス・キリストの真実によるのだということを私たちは知っ」たのだとパウロは言います。パウロ自身も、他のユダヤ人キリスト者たちも知ったのだと。「イエス・キリストの真実」という言葉は「イエス・キリストへの信仰」とも訳されてきました。どちらにも訳せる言葉によってパウロは、私たちに与えられている恵みの深みを示しているのかもしれません。イエス・キリストの真実とは、神のみ子イエスが、この私も愛し、私のために十字架の死に至るまでご自身を捧げてくださったことによって私たちの罪の値を代わりに払ってくださり、赦しをもたらしてくださったことです。このイエス・キリストの真実によって、人はただ義とされるのだと知ります。私たちの赦しは、私たちの状態によって増減する私たちの内側の熱量や能力、行動量といったあやふやなものに依るのではなく、キリストの真実に依ります。私たちが約束されている罪の赦しは、揺るぎないものです。このイエス・キリストの真実を信じ、私たちもこのイエス・キリストの真実に対して、真実であろうとするのが、イエス・キリストへの信仰に生きる在り方です。キリストの十字架と復活によって、私たちは神さまとの関わりの中に入れられました。ぶどうの幹につながる枝のようにキリストにつながることへと導かれました。ぶどうの枝のように命を与えられ、命を養う糧をいただいているのですから、私たちも葉を茂らせ実をつけたいと願います。主が祝福をもたらしたいと願っておられるすべての人と、主の祝福の内に生きていきたいという願いを与えられます。
パウロも、同胞のユダヤ人キリスト者だけでなく、キリストによって互いに一つとされた異邦人とも、主の恵みを分かち合いたいと願い、異邦人キリスト者たちとも食事を共にしてきました。しかし異邦人を罪人と考える人びとからその会食は、清めの規定に違反しているとみなされました。その出来事が、今日の箇所の背後にあります。パウロはキリストも、罪人とみなされていた人々と食卓を囲んでいたことを述べて、「キリストにあって義とされることを求めながら、私たち自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者となるでしょうか。決してそうではない」（17節）と述べます。“キリストは罪人とみなされていた人々と食事をすることで、罪人を造り出す行為に仕えていたのか、そうではないだろう”と説くのです。私たちはキリストの十字架の死によって正しい者とされ、キリストにつながって生きる者とされたのだから、他者との関わりにおいてキリストに倣う者となることを求める者ではないかと、律法の行いによって正しさを得ようとする自分たちのこれまでのあり方を打ち壊したのに、それを撤回して、打ち壊したものを再び建てるような、自分を律法の違反者とみなした人々に同意するようなことを自分はしないと、説くのです。
19節以降では、イエス・キリストの真実の核にあるキリストの十字架の死を語り、「律法によって律法に死にました」と述べます。パウロを批判する人々の律法理解では、パウロの行動は神さまに背くものであり、死に値するものであるので、そのような理解で捉えられている律法に裁かれれば、パウロは死んでいます。主イエスも、同じような律法理解によって、神を冒涜する者として訴えられ、死に値する罪を犯したとして十字架に引き渡されました。このキリストと共に、自分も「十字架につけられました」と述べるその表現は、十字架につけられることが今に至っていることを示します。律法の行いによって正しさに到達しようとする律法理解によって、今も死に値する者と裁かれ続けている、その自分のためにキリストの十字架が今日も恵みとなり続けているパウロの日々を表します。
けれどパウロが律法に対して死ぬのは、神さまに対して生きるためであります。パウロはキリストと共に生きています。自分の内側にあるものや自分が生み出すもので正しさに到達し続けようとしていたかつての自分は、もはや生きていません。自分が自分の主であることを譲れず、自分の全てを神さまに対して明け渡すことができなかった自分は、もはや生きていません。今生きているのは、キリストを主とする自分です。十字架でご自分を捧げてくださったキリストによって生かされています。このキリストに自分の内側を明け渡し、キリストが自分の内に生きておられます。神さまがキリスト者の内に遣わされる聖霊において、キリストは一人一人の内に共におられます。肉体を持つからこその弱さをパウロも抱えており、罪の力が権勢を誇る世にあって苦難の歩みをしています。しかしキリストが自分の内に生きておられるから、このことに信頼しているから、キリストによって与えられた新しい命を生きることができるのだと述べます。
かつて神の教会を徹底的に迫害し、破壊しようとしていたパウロを、神さまは恵みによって召し出してくださり、み心のままにみ子を示して、異邦人にも御子を告げ知らせる働きを委ねられました（1：13～16）。アブラハムの時代から神の民に与えてくださった契約を守り続け、その契約をキリストによって実現してくださった神さまが、自分にみ子を示してくださり、自分の内に聖霊によってみ子を送ってくださり、契約の実現を推し進めておられる神さまに対して、自分はキリストに倣う生き方を撤回することなどしない、撤回して、キリストの死を必要なかったかのようにふるまうことなどしない、神さまの恵みを無駄にすることなどしないと、パウロは最後に宣言します。
賜物を与えられ、善を行う力を与えられていながら、善のみを行う正しさに到達できない私たちを愛し、罪人である私たちを赦すために、神さまは独り子を十字架におかけになり、キリストはご自身を捧げてくださいました。この手紙の冒頭1：4でも、パウロはこう述べています、「キリストは私たちの父なる神のみ心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を捧げてくださったのです」。私たちを赦す根拠を、私たちではなくご自身の犠牲によって据えてくださいました。今も、この先も、キリストの十字架の死と復活を私たちの赦しの根拠とすると、神さまご自身が保証してくださり、終わりの時に救いを完成する約束も与えてくださいました。私たちが正しい者とされるのは、そうであったら良いという根拠の無い願望に依るのでも、あやふやな自分の頑張りを根拠にそうであるはずと言い張ることに依るのでもなく、イエス・キリストの真実に依ります。主は既に救いを世にもたらしてくださり、赦す根拠がその内側に無い私たち一人一人に手を差し伸べてくださっています。この主の真実に信頼するならば、私たち自身も手を伸ばして、主の手を握り返し、主と共に主の道を歩むことができます。けれどなかなか手を伸ばし続けられない私たちです。ユダヤ人キリスト者たちがそうであったように、キリストの真実よりも自分の行いにばかり根拠を求めることに引きずられ、いつまでも心安らぐことがなく、人の目ばかり気にして見せかけの行動に捉われてしまう歪みを抱えています。目に見えている行いだけで人を判断し、目に見えているものだけで神さまのお力を判断し、神など居ないのではないかと言う思いに捉われる時もあります。そのような時もキリストの真実は微塵も揺るぐことなく、確かなものであり続けます。キリストは私たちもキリストに対して真実であることへと、立ち帰ることを、待ち続けておられます。