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２００万立方メートルの氷と土砂が１９６５年８月３０日、スイス・ヴァレー州のアラリン氷河からマットマークのダム建設現場になだれ込んだ。これは、戦後のスイスで最大の惨事となり、死者８８人を出した。この中に５６人のイタリア人労働者が含まれており、マットマーク事故は移民労働者問題に光を当てる出来事にもなった。そして、５０年後の今、事故に対する社会・歴史的な研究が再開されている。事故はまだ終わっていない。
「この悲劇はわれわれの過去の一つの歴史だ。しかし、決して忘れることはないだろう」。こう話すのは、マットマークダムがあるヴァレー州サース・アルマゲルの市長、マルティン・アンタマッテンさんだ。われわれは、ダムのそばにあるレストランのテーブルを囲んでいる。そこからは、湖と谷を見下ろす素晴らしいパノラマが広がっている。
この地域で、事故を忘れることができないのは犠牲者の家族だけではない。ほとんどの人が何らかの形で事故と関わり、事故の「証人」として今を生きている。
アンタマッテンさんは当時６歳だった。だが、５０年後の今も「頭の中で救急車のサイレンが鳴り響いていて、忘れることができない」と話す。サース・アルマゲルの市議員、ステファン・アンデンマッテンさんは当時１７歳。高校生で夏のアルバイトとしてヒツジを山に連れて行く仕事をしていた。そして、事故の１時間前に建設現場の食堂で休憩した。そのとき知り合いが町まで車で送ってやると半ば強制的に言わなければ、今生きてはいないと語る。
現場の証言
１９６３年からダム現場で仕事を始めたイタリア人のイラニオ・バグナリオルさんは、事故当時２３歳だった。働いていた現場が目の前でわずか数十秒の間に、５０メートルもの厚さの氷や土砂の下敷きになるのを見た。巨大な土砂の塊が立っている場所から数メートルのところにまで来た。大きなトラックが下方に落ちていくのを見たとき、この氷を含む土砂崩れの恐ろしさを実感した。
５０年後の今でもバグナリオルさんは細部の出来事をすべて覚えていて、その話しを聞いていると、まるで映画を見ているようだ。
しかし、彼にとって最もつらかったのは、土砂崩れのすぐ後だった。若いこのイタリア人は、氷の下敷きになって亡くなった仲間を捜索するグループに入れられた。「現場では、われわれは皆一緒で大きな家族のようだった。イタリア人、スイス人、トルコ人、その他の国の労働者も、皆何の区別もない仲間だった」。こう語るバグナリオルさんにとって、犠牲になった仲間を見つける作業は、本当につらいものになった。「一人一人と死んだ仲間を見つけたときの光景は、僕が生きている限り決して脳裏から離れることはない」
事故後の出来事
当時、事故のニュースは世界中を駆け巡り、多くの人の心を揺さぶった。スイスとイタリアは、国を挙げ喪に服した。悲劇の現場となったスイスは、２３人の労働者を亡くした。イタリアにとって事態はさらに深刻で、計８８人の犠牲者のうち５６人がイタリア人労働者だった。それに４人のスペイン人、２人のオーストリア人、２人のドイツ人などが命を落としている。
事故後の数日間は、一体となっていたスイスとイタリアだが、次のようなことが問題になり始めると分裂する。それは、本当にこの事故は予測できなかったのか？実は避けることができたのではないか？悲劇を起こした責任者がいるとすれば、そうした人たちに対する調査はいつ開始するのか？といったことだ。
実は現場では、作業所、事務所、食堂、宿泊施設は、下方に流れ出ていた氷河の上に建設されていた。危険度は調査されていたのか？誰が建設許可を出したのか？企業側は約束どおり、氷河の状態を調査していたのか？土砂崩れは気候変動が原因なのか？それとも、氷河が運んだ堆積に穴ができたのか？それとも他の原因か？
次々に疑問が浮かび上がり、７年間の事故調査の結果、１９７２年に裁判が開始された。しかし、被告となった１７人は全員が無罪判決を受けた。同じ年、控訴されたが、ヴァレー州の裁判所はやはり無罪判決を言い渡した。
ところが、控訴した犠牲者の家族などは、裁判費用の半額を負担させられることになった。その結果、「スイスは世界において、特にイタリアにおいて、非常に非人間的な国に映った」とイタリアの歴史家トニ・リチアルディさんは、２０１０年に発表した博士論文の中で書いている。
イタリアのメディアがこうしたスイス側の態度に対し憤慨した記事を載せたのに対し「スイスのメディアはもっと控えめで、外電でこうした裁判のことなどを書くだけに留めた」と、ヴァレー州の歴史家カルロ・カポッチさんは２０１４年、その修士論文に書いた。
結局、裁判の費用はこうしたイタリアのメディアの反応のお陰で、イタリア政府が負担している。
科学的な調査
カポッチさんにとって、マットマークの事故は、スイスの移民労働者政策や移民労働者が置かれていた環境、６０年代のイタリア人移民に対する差別意識などに光を当てた一つの出来事だ。そして、こう付け加える。「ダムで生産される電力は、時に非常に高い代償を払って作られているということをスイス国民に知らせたのがこの事故だ」
一方５０年後の現在、マットマークの事故についての社会・歴史的な分析を始めたサンドロ・カタチン教授は、「スイスの発展と成功の歴史は、過酷なリズムでのみ生産できるエネルギーの競争に勝ったことに由来する。この過酷なリズムでの生産には、スイスには存在しない外国からの労働力に頼るしかなかった」と言う。
「発展を一番優先させる空気の中では、すべてが優先され重要だった。ただし、人間を除いて。労働者の安全や労働環境は、二の次だったのだ」と、このジュネーブ大学の教授は言う。「マットマークの事故は結局、豊かな国スイスという夢をさらに膨らませていくために必要とされた、こうした労働者たちの労働条件や生活環境のあり方をすべて映し出している」
５０年が経過した今、スイス人は一般に、自国の歴史に対し批判的な形で振り返ろうとしている。「なぜなら、輝かしい栄光や成功を成し遂げた、または大失敗を犯したといえる主人公たちが亡くなったからだ。当時は、あまりに事故の記憶が生々しく、触れることができなかった」とカタチン教授は続ける。
教授がもう一人と共同で始める研究プロジェクトは、５０年前のスイスの歴史に科学的で体系的なメスを入れる最初のものになる。また、マットマークの事故の裁判に関するデータが一般公開されるのは、２０２２年だという。恐らくこの公開によって、研究者たちは他の重要な点を発見することになるのではないだろうか。
マットマークダム
マットマークダムは、ヨーロッパ最大の石と土の土手からなるダム。それらは、アララン氷河から運ばれ堆積した土砂によって形成されている。標高２２００キロメートルに位置する。人工の湖は、１億立方メートルの水量を蓄えている。
「マットマーク発電所」は、毎時６億４９００ワットの電力を生産。それによって１５万世帯の電力が賄われる。
ダム建設は１９６０年に開始し、６６年に終了の予定だった。しかし、６５年８月３０日に起きた大事故により、６７年に終了した。
（仏語からの翻訳・編集 里信邦子）, swissinfo.ch