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イザヤ40：9～11、ルカ2：8～20「闇を照らす喜び」
2023年12月24日（クリスマス礼拝、左近深恵子）
今から2,000年ほど前のこの日、ユダヤのベツレヘムの町には、いつになく多くの人が滞在していました。他の多くの地域と共にこの地も支配していたローマ帝国の皇帝が発した住民登録の命令に従うため、この町にルーツを持つ人々が戻って来ていました。ベツレヘムは、ダビデの町と呼ばれていました。ダビデ王の故郷であり、王となった後も拠点とした町でした。ヨセフは、このダビデの血筋に連なる者でしたので、ヨセフもベツレヘムにやって来ました。共にここまで旅をしてきた妻のマリアは臨月を迎えていました。けれど、この日ヨセフとマリアのために部屋を提供してくれる人は居ませんでした。二人は家一つ無い荒れ野の只中で宿を求めたわけではありません。この町に宿屋はさほど多くなかったとしても、人々が、それぞれの家族と共にそれぞれの家で暮らし、旅人に部屋を提供することも珍しくない人々の暮らしです。ヨセフにとっては故郷の町です。その大勢の人の中にありながら、求めても誰からも手を差し伸べられない孤独を夫婦は味わっていました。何百年も前に預言者たちが、いつか救い主がお生まれになると、救い主はダビデの町ベツレヘムから出ると預言していた、その預言に人々は希望を与えられてきたはずであるのに、誰もが自分の場所の確保に忙しいこの日、一組の夫婦に特別な配慮をしている余裕は無いと、それどころではないと、二人を拒みます。まさか自分たちが待ち望んできた救い主が、自分が断った夫婦に宿っておられるとは、この小さな家族において神の救いのみ業がこの日この町で大きく動き始めているとは誰も思わなかったその日に、神さまはその時をもたらされました。マリアは月が満ち、初めての子である主イエスを出産しました。二人は産着でお生まれになったその方を大切にくるみました。生まれて来る神さまからの子どものために準備していたのでしょう。そして飼い葉桶に寝かせました。自分たちが泊まれる場所も無い二人には、他に赤ちゃんを横たえることのできる場所がなかったのでしょう。
この出来事を最初に知らせる者として神さまが選ばれたのは、その地方の羊飼いたちでした。町の人々が毎日、家の屋根や壁の内側で雨風や夜間の寒さから、また荒れ野の獣から守られながら安心して眠っている間、羊飼いは夜通し羊の群れの番をしていました。獣や盗人から羊を守っていました。
羊飼いには、土地を持っていないか、僅かしか持っておらず、労働者として雇われなければ生活していくことができない者が少なくなかったとも言われます。神の民として生きて来たユダヤの民には、神の民として守るべきと定められた細かな規定と祭儀がありました。けれど生き物の命を預かっている羊飼いたちが、規定や祭儀を守るために仕事を離れるのは難しいことでした。草や水場を求めて常に移動し、他者の土地に入ることも多々ある羊飼いたちは、神の民として不十分な者たちと人々からみなされがちであったそうです。生活の大半を町の外で過ごす羊飼いたちは、共同体の一員としても決して共同体の中心にいたわけではなかった、寧ろ端の方に居たと言える人々でした。神さまが預言者たちを通して約束され、人々がこの町にいつかお生まれになると待ち望んできたはずの救い主の誕生を、この町の人々の中でも一番初めに神さまがお伝えになったのは、このような羊飼いたちでした。マリアが神さまをほめたたえた歌がルカによる福音書の1章にあります。その中でマリアは、「主は・・・低いものを高く上げ／飢えた人を良い物で満た」すと歌いました。マリアの歌のように、人々の目に、神さまの前で低い者だと、神さまからの恵みで満たされていない者だと見なされていた羊飼いたちが、最初に神さまのみ前で引き上げられ、神さまから良い知らせで満たされる者となったのです。
彼らはけれど、ただ低い者、ただ飢えた者ではありません。預言者たちは、救い主がダビデの町ベツレヘムから出ると、ダビデの血筋から出ると、告げてきました。イザヤ書の11章には「エッサイの株から一つの芽が萌え出で／その根から若枝が育ち／その上に主の霊が留まる」との言葉があります。新しい王の到来を一つの新芽のイメージで語っています。エッサイはダビデの父親の名前です。「ダビデの株から」とは言わず「エッサイの株から」と言っています。エッサイはベツレヘムの羊飼いでした。その末息子であるダビデも羊飼いをしていました。兄弟の中で最も小さな者を神さまは選ばれ、牧場の羊の群れの後ろにいたダビデを取って、ご自分の民の指導者としてお立てになりました。一つの芽が萌え出でる場所をイザヤ書は、木ではなく株と言っています。順調に成長した大木からではなく、切り倒された株から新たに出てくるひこばえのイメージで救い主を語ります。ダビデ王が治めた国は後に南北に分裂し、それぞれが神さまに従い続けることに揺らぎ、神さまに背を向ける歩みの末、他国に呑み込まれ、ダビデ王朝も滅ぼされました。クリスマスの出来事がもたらされた時代も、神の民はローマ帝国という大国に支配されています。ダビデの王座に着く新しい王の到来を人々が願っても、ダビデ王朝という木は切り倒されてしまっていて、どのように神さまの言葉が実現されるのか全く見えない時代です。けれど神さまはそのお力によって実現されました。イザヤ書40章で、預言者イザヤがイスラエルの民に、「見よ、主なる神は力を帯びて来られ、み腕によって統治される」と告げたように、神さまのお力によってこの日ダビデの血筋のヨセフの子として、主イエスがお生まれになりました。このことを神さまは、エッサイやダビデのようにベツレヘムで羊の群れを飼っていた者たちに、真っ先に知らせてくださいました。イザヤは40章で神さまの救いのみ業を「主は羊飼いのようにその群れを飼い、その腕に小羊を集めて、懐に抱き、乳を飲ませる羊を導く」と語ります。神さまに背を向け、神さまから離れ、他の力の支配下に置かれていた民に向かって、神さまを羊飼いのイメージで語ります。神さまがあなたがたを緑の草と清い水で養ってくださる。襲い掛かるもの、神さまから引き離そうとする者から守ってくださる、十分な力の無い小羊は懐に抱き、幼子を育てる親たちに特に細やかに目を注ぎながら、神さまが群れの先頭に立って導き、連れ帰ってくださると言います。この真の羊飼いなる主は、救い主の時代のベツレヘムの羊飼いたちに真っ先に救い主の誕生を知らせるため、真っ先に救い主にお会いする恵みを与えるため、天使を遣わしてくださったのです。
町の外で、羊を狙う獣や盗人と対峙しなければならない羊飼いたちにとって、恐怖は身近なものであったでしょう。恐怖心を堪えながら何かに立ち向かう経験を町の中の人々よりも多く重ねてきて、恐怖を覚えることに町の中の人々よりも強くなっていたかもしれません。それでも羊飼いたちはこの日、非常に恐れたとあります。羊や自分の体や生命を脅かすものへの恐怖ではありません。そのような獣や人間には抱くことの無い恐れを彼らは抱きました。主なる神の栄光に照らされた時、彼らは恐れたのです。神さまはまだ彼らに何も告げておられません。彼らの身に変化が起こるようなことを何か為さったわけでもありません。神さまの栄光に自分が照らされることが、羊飼いたちにとって非常な恐れであったのです。
人が主の栄光に照らされることを恐れるのは、人が罪深い性質を抱えているからです。神さまが人に本来与えてくださっている人の在り方において生き続けられていない、神さまに背を向ける歩みを重ねてしまっている者であるからです。自分や他者の罪深さの中にいれば自分の罪と向き合わずにいられる、楽にいられると、人は誰でも罪深さの闇の中に安住したがる傾向を抱えています。聖なる神さまの聖さという光に照らされては、自分がそのような者であることが露わになってしまいます。自分の罪深さに私たち自身、耐えられるものではありません。そして神さまは、私たちの罪深さを本当に裁くことのできるただお一人の方です。
羊飼いたちは人々から、神の民として、信仰者として、不十分な者たちと見なされがちでした。人は他者からそのように見なされることに、悲しんだり苦しんだり憤ったり、諦めを抱いたりします。似たような思いを抱いている者同士で互いに慰め、励まし合ったり、自分で自分を正当化することで自分を守ろうとします。他者が自分をどのように見ようとも、仕方がないではないかと思ってやり過ごせるかもしれません。人は互いに相手の全てを見られるわけではありません。表に出していない内側は尚更、分からないことだらけです。そのような不完全な者が自分を本当に裁くことはできないからと、自分を守ろうとします。しかし、自分の内側の隅々までもご存知である神さまは、私たちの罪深さを裁くことができます。その神さまのみ前では、神さまを恐れずにはいられません。この日羊飼いたちが非常に恐れたということは、この羊飼いたちは、神さまが聖なる方であることをよく知っていたということであり、自分たちの罪深さを知っていたと言うことであるのです。
恐れる羊飼いたちに天使は、恐れるなと告げます。あなたがたのために救い主がお生まれになったからと。あなたがたを罪から救う方が世に到来したから、恐れることはもう無いのだと告げます。この救いは、羊飼いたちだけのものではありません。「すべての民に与えられる大きな喜び」だと言います。たとえその人が、他者から信仰者として尊敬を受けているような人であっても、逆に信仰者として不十分だと見なされている人であっても、これまでの人生、神の民として生きて来た人であっても、神さまのことを知ったばかりの人であっても、そしてまだ神さまを知らずにいる人であっても、イエス・キリストの誕生はその全ての人に与えられる喜びです。喜びについて「大きな」喜びと言われます。この「大きな」と訳されている言葉と、羊飼いたちの恐れを表す「非常に」と訳された言葉は、同じ言葉です。闇に紛れていた罪を照らし出す神さまの聖さを大いに恐れる羊飼いのことを述べ、その直ぐ後で、恐れを超えて喜びへと導く、恐れに勝る喜びがもたらされたことを、同じ言葉によって述べているのです。
神さまは羊飼いたちがお生まれになった救い主を見つけると言われ、町の中の人が誰も気づかずにいるその方を見つけ出せるように、「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている」と、しるしも与えます。ダビデの王座に着く方の誕生として人々が思い描くイメージの対極にあるような、小さなしるしです。飼い葉桶の中に寝かさなければならなかった、人々の無理解と無関心があり、しかしまた、乳を飲ませる羊にとりわけ慈しみを注ぎながら羊の群れを導かれる羊飼いのような神さまの守りに信頼し、生まれてくるその方のために産着を用意し、その産着で大切に包んだマリアとヨセフの細やかな愛情が現れたしるしです。天使に天の大群が加わって神さまを賛美する歌は、いと高きところには栄光が神にあると、そして地の、み心に適う人、救い主がお生まれになったことに信頼する人には、平和があると歌います。自分の罪故に神さまを恐れるしかなかった人々に、その罪を裁くことのできる神さまが恐れを超える喜びを与えてくださったのですから、そのことに信頼する人には神さまとの平和がもたらされ、内なる平安が与えられます。自分で自分の身を守ろうと闇の中に紛れるよりも、この喜びを誰かと分かち合うことを望む者とされます。羊飼いたちも、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、喜んで出発します。彼らには、主の言葉が実現していることに何の迷いも見受けられません。寧ろ早くこの目でその出来事を見たいと、とにかく自分たち自身でお会いしたいと、居ても立っても居られない様子です。そうして天使の言葉通りに救い主にお会いすることができた羊飼いたちは、そのまま帰るのではなく、天使が告げた言葉を人々に知らせて回ります。神さまが彼らに告げられたのは、救い主を見つけるということだけです。行って人々に知らせなさい、とまでは命じておられません。救い主にお会いして、一層大きな喜びに満たされた羊飼いたちは、自分たち自身で知らせずにはいられないと、行動することができました。神の民として、信仰者として、不十分な者だと見なされてきた自分たちの言葉に、町の人々が耳を傾けないかもしれない、信じてくれないかもしれない、そのような結果を案じることなど眼中にないかのように、伝えて歩きます。この日の結果は、このように案じる者の予想にある程度近かったのかもしれません。聞いた人々は「不思議に思った」とあるだけで、「信じた」とも「共に喜んだ」とも記されていません。それでも人々の反応は羊飼いたちの喜びに水を差すものにならなかったのです。恐れが恐れでなくなるのだと、神さまがそのために預言者や天使の言葉通り、救い主を与えてくださったのだと、伝え続けます。伝えたい相手に伝えることができたなら、後は神さまにお委ねするしかないのです。預言者イザヤが、神さまの支配が到来するという良い知らせを、高い山に登って神の民に告げよと語り掛けたように、力の限り声を挙げよ、声を挙げよ、恐れるなと告げたように、羊飼いたちは大胆に、恐れることなく救い主の誕生を伝え、伝え終わってもまだ溢れ出てくる喜びの内に神さまを崇め、賛美しながら、ようやく家へと帰って行ったのです。
クリスマスが近づくと「クリスマスどころではない」という言葉を耳にすることがあります。その時意味されているクリスマスとは、クリスマスの時期に行われる行事やそのための準備を指しているのでしょう。浮かれたお祭り騒ぎを意味していることもあるでしょう。そのような意味で言えば、人々から不十分な者と見なされ、町の外で夜通し危険な労働に従事していた羊飼いたちが置かれていた状況は、クリスマスどころではないものと言えるのではないでしょうか。けれど神さまは、クリスマスの喜びをこの羊飼いたちに真っ先にもたらしてくださいました。羊飼いたちは全ての民に与えられるこの大きな喜びを、全ての民に先立って、知りました。キリストが世に降られ、お生まれになったことをお祝いしました。全ての人にとって良い知らせであることを確信し、力の限り伝え続けました。キリストのご降誕をお祝いして礼拝を捧げるということが、クリスマスと言う言葉の本当の意味です。神さまがキリストによってもたらしてくださった恵みを必要としていない人などいません。恐怖と罪の闇の中にいる人にこそ、クリスマスの恵みが必要であることを、大きな喜びを大いに喜ぶ人こそ、その喜びを他者に伝えることができることを、羊飼いたちから教えられます。飼い葉桶の乳飲み子こそが、神さまからの大いなる喜びです。