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2020.6.28. 美竹教会主日礼拝
ホセア11:8、マタイ3:7-17 「イエスの洗礼」（浅原一泰）
ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
先週、Hさんが久しぶりに教会の礼拝にお見えになって、笑顔を見せて下さった。自動車との接触事故に見舞われたとお聞きして以来、我が家でも心配させていただきご回復を祈ってきたが、まだおそらくご不安なところもあると思うがそれでも礼拝を何よりも喜びとしておられるご様子を拝見し、怪我も病気もしていない私の方がむしろ大いに励まされた。
礼拝後にHさんから少しお話を伺っていた時、普段だったら思い出さないようなことが突然頭の中によみがえって来た。実は私も30年以上前に交通事故に遭い、一カ月もの間意識不明の状態が続き、その内一週間は緊急治療室に入れられ生死をさまよったことがあったからである。幸いに何の障害もなく回復して今に至っているが、意識不明の状態からひと月後に目が覚めて病室の窓ガラス越しに空を見上げた時の光景がまるで昨日のように思い出された。あの頃、浅薄な若造であったに過ぎなかったが、それでも生き返らされた、と実感したのを覚えている。
昔を思い出したことと言えば同じく先週の礼拝において、Tさんの洗礼式が執り行われた。この世から、Tさんを通して神がまた新たなる命の産声を上げさせてくださったことに深く感銘を受けた。確か最近出た信徒の友にもデータのようなものが掲載されていたと思うが、受洗者が減っている今のこの時代、教会では洗礼式自体が滅多に行われるものではなくなってしまっている、と言えるのかもしれない。であればこそなおさらのこと、洗礼式の時に必ず歌われる讃美歌21の67番を歌った時の感動はひとしおであった。元々の54年版の讃美歌199番の歌詞ではこうなっていた。「罪のこの身はいま死にて、きみのいさおによみがえり、かみのしもべのかずにいる、きよきしるしのバプテスマ」。この讃美歌を歌った時、自分自身が洗礼を受けた時のことを思い出さずにはいられなかったのは、私だけではなかったのではないだろうか。
Tさんのクリスチャンとしての新しい命の歩みが、これからも、いつまでも神の祝福によって守られることを祈らずにはいられない。しかしその一方で、先に洗礼の恵みに与ってから今に至るまでの私自身の歩みを振り返らされた時、何とも言えない複雑な思いが過ったことも事実であった。洗礼を受けてからの自分は正しく歩んできたと言えるのであろうか。むしろ主の御心に常に背いてしまったことの方が遥かに多い歩みだったのではないだろうか。そんな自分がそれでも今、生かされ、教会につながっていることが赦され、しかも牧師として召されているのは偏にただ、主の憐れみと慈しみの為せる御業以外の何ものでもない。しかし、そうだとするならば、洗礼を授かったということに果たして何の意味があったのだろうか。正直に胸に手を当てて自分を見つめ直すならば、同じようなことを思われている方が必ずこの中にもおられると思う。そこで改めて「洗礼」ということの意味をご一緒に御言葉から聞いて参りたい。
実は聖書の中で、イエスご自身が誰かに洗礼を授けた、という箇所は一箇所もない。イエスの弟子たちが、復活したイエスと再会したことで新しく造りかえられ、使徒として新たに立てられて、「行ってすべての民をわたしの弟子にし、洗礼を授けよ」とイエスから命令を与えられ、彼らはそれを実行に移していくが、イエス自らが弟子たちに洗礼を授けた、という場面は聖書のどこにも書かれていない。むしろ新約聖書のどの福音書も紛れもなくあからさまに伝えているのは「イエスがヨハネから洗礼を受けた」というこの出来事である。ペトロによって洗礼を施されようが、パウロによって洗礼を施されようが、今、世にある教会でいつ洗礼を施されようとも、我々キリスト者が受けた洗礼のもとをたどるならば、この時の、イエスがヨハネから受けた洗礼ということになる、と言わざるを得ないのではないだろうか。そのことを見落としてはならないのではないだろうか。
しかし、先ほど読んでいただいたマタイによれば、ヨハネのもとには最初、イエスが来るよりも前に、サドカイ派とファリサイ派の人々がこぞって洗礼を受けに集まって来たという。ヨハネは喜んで洗礼を施したかと言うと決してそうではない。ヨハネは彼らに向かってこう言い放ったからである。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」蝮とは、親の腹を食いちぎり、引き裂いてでも自分が生き残ろうとする生き物にたとえられるとも聞いたことがあるが、この時、洗礼を受けたいと願い出る者たちに向かってヨハネがこう言わざるを得なかったのは確かに理由があった。ユダヤ人の中でサドカイ派とファリサイ派というのは当時、生活に喘ぎ苦しむ民衆とは一線を画す社会の富裕層であった。しかも彼らは聖書の教えを説いて聞かせるとか、その教えを厳格に実践して見せる、ということで富を得ていた者たちである。しかし彼らが聖書の教えを紐解くのも、或いはそれを実践して見せるのも、彼ら自身が神に救われていることの保障を得たいが為であった。自分はこれでまた一歩、救われていることの確信が強まった、ということを実感したいが為であった。そして、それと全く同じような思いで彼らはこの時もヨハネのもとに洗礼を受けに集まって来たのである。彼らの心にあった思いは、「荒れ野でヨハネとかいう男が何か良い運動を始めたらしい。ならば我々もそこに出向いてまた救いのポイントを稼ごうではないか」と言ったようなものである。まさしく彼らは、神を自分が満足する為の道具としか考えていなかった。「食べても死なないのなら、むしろ食べれば神になれるのなら、食べた方が得ではないか」というあのアダムの心理は紛れもなく彼らをも蝕んでいた。それを見抜いていたからこそヨハネは彼らに「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と叫んだのである。そのような者たちにヨハネはこう言わずにはいられなかったのである。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と。自分のために洗礼を受け、自分のために神を信じているかのように振る舞っているあなたがたは、もし神の国がこの世に来たならば、忽ちの内に火に投げ入れられることになるのだ。なぜならばあなたがたは、救われているという自分の満足を求めている。自分の満足を追い求めている限り、その人間に悔い改めが起こる筈はないからだ。それが分からないのか、と。そう言いながらも、ヨハネはおそらく感じていただろう。所詮、自分が洗礼を授けたところでこの者たちを悔い改めさせることは出来ない。その空しさをヨハネは身に染みて味わっていたのではないかと思う。そして、ともすればそれは、そっくりそのまま洗礼を受けたまま安心しきっている世のクリスチャンにも当てはまることなのではないだろうか。洗礼を受けはしたものの、神に背くことしか出来ない自分をまざまざと見せつけられてきたこの私にこそ言われていることではないだろうか。それは皆さんにも同じ思いがあるのではないか。ヨハネの言葉は、あたかも「『自分がクリスチャンである』などと思ってもみるな、悔い改めにふさわしい実を結べ」と叫んでいるかのように、まさにこの私に、世のキリスト者に向けられているのではないのか、と思わされるのである。しかしそこにイエスがやって来た。イエスが洗礼を受けたいとヨハネに願い出たのである。このイエスこそは、世に来た真の光にして、地上に訪れた神の支配そのものであるのだと。この方の御前において悔い改めない者は火の中に投げ込まれざるを得ない神の国そのものであると聖書は証ししていたのである。ヨハネは気づいていた。この方こそ後から来られる私より優れた方だと。私などにその靴紐を解く値打もないのはこの方だと。しかしそのイエスが、人となった神であり、地上にもたらされた神の国であり、悔い改める必要などないこのイエスが「悔い改めの洗礼」を受けたい、とヨハネに迫ったのである。
なぜイエスはヨハネから洗礼を受けたいと願ったのだろうか。そう言われて躊躇し、イエスを思いとどまらせようとしたヨハネになぜイエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」だと言って洗礼を施させたのだろうか。しかしこの出来事は、神に背く世の人間全てを目の当たりにした上での、そのような人間に対するまさしく神の業であった。誰もが自己満足を求め、その為なら神の力さえも利用して悔い改めようともしない闇の力に支配された人間全てに対する神の決定的な働きかけであった。この時の神には忸怩たる思いがあったかもしれない。このままでは人間全てが切り捨てられ、火の中に投げ入れられることは目に見えている。罪の支配の中では彼らは生きられてはいても、神の支配、神の正義が世を埋め尽くす時に彼らはそうならざるを得ない。しかし神がご自分に似せて造り、息を吹きかけて命を与えた人間一人一人を滅ぼすことは、人間を愛する神の本意ではない。そんなことは神に耐えられない。そんな忸怩たる思いがあったかもしれない。先ほどのホセアの預言を思い起こしていただきたい。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。」アドマとは、悪に満ち溢れて堕落したあのソドムとゴモラの町の友好都市である。ツェボイムも同じである。十人でも正しい者がいればソドムを滅ぼさないとアブラハムに約束しながら、正しい者が一人もいなかった以上その町を神は滅ぼさざるを得なかった。しかしイスラエルよ、わたしが選んだあなたに同じことが出来ようか。わたしが捜し求めて振り向かせたあなたがたを見捨てることが出来ようか。この時、悪に対する神の怒りよりも、欠けある人間に対する神の憐れみが勝るのである。神の御子イエスが、悔い改める必要などない救い主がヨハネから悔い改めの洗礼を受ける、というのはこの神の憐れみが神の怒りに勝ったことの証しに他ならなかった。即ち、この時洗礼を受けることで神の御子イエスは、すべての人間に代わって自らが神の怒りを一身に背負う人生の歩みを歩み始めたのである。悔い改められない人間全てに代わって、悔い改められない人間全ての為に、悔い改められない人間全てに先立って、イエスは自己満足を求めることなく、ひたすら神の御名をほめたたえ、神の御栄のみを追い求める新しい命の歩みを歩みだして下さったのである。神は高いところから人間を見降ろしているだけの神ではない。神は悔い改められない者を裁き罰するだけの方ではない。弱く貧しく欠けばかりの者、過ちを繰り返してばかりいる者をはねのける方ではない。むしろ神は最も弱い者のところまで歩み寄られるのである。世間から白い目で見られ、貧しさ故に疎んじられ、或いは身の汚れ故に犯罪人のように扱われている者のところにまで、最も罪深き者のところにまで神は降りて来られるのである。悔い改められない者たちには、悔い改める必要などないご自分が敢えて悔い改めの姿勢をとって見せることで、彼らを立ち止まらせようとするのである。死を間際に横たわっているしかない者にさえ、神は十字架のイエスを示しながらその傍らに寄り添って下さるのである。悔い改める必要などない世にたった一人の人間であったイエスが「悔い改めの洗礼」を受けたということは、どんなに貶められようと、どんなに追い詰められようと、耐えられないほどの苦しみと絶望感に打ちひしがれようとも、その人間を神は決して見捨てない、諦めない、むしろ神でありながら僕の身分となり、身を低くして彼の傍らに寄り添って共に苦しみ、立ち上がらせようとする、我々罪人に対する神の慈しみ、憐れみのみがなせる御業であった。そしてその時、天が開いて、上から神がこう語ったと聖書は伝えている。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
崇め奉られて、人間を下に見ることは神の御心ではない。悔い改められない人間の為にこそ自らを犠牲にしてでも彼らに寄り添い、身を低くされることをこそ神はよしとされた。御心とされたのである。そしてこのイエスの洗礼によって、私たちが父と子と聖霊の御名によって授けられる洗礼の歴史は火ぶたを切った、と言えるのではないだろうか。本来我らが受けるべき神の怒りの裁きを御子イエスが既に代わりに受けて下さっている。十字架の上で血を流して下さっている。自分の満足を求めることによってしか生きられなかった私たちのために命を投げ捨てて、イエスは神の怒りではなく神の赦しを勝ち取って下さっている。それなのに、まだあなたは自分のために神を利用しようと言うのか。自分が満足する為に教会に通い、礼拝に与ろうとするのか。救われている保障が欲しくて聖餐に与ろうとするのか。あなたのためにイエスはあそこまで身を低くされたのに、まだあなたは神に気に入られようとして、自分を高く見せようとするのか。それでは悔い改めてはいないではないか。罪なきイエスがあなたのために「悔い改めの洗礼」を受けて下さった意味を踏みにじることではないか。むしろあなたのために血を流し、身を低くして神の怒りを背負って下さったイエスに倣って、我々も謙って隣人のために身を献げ、苦しむ者と共に苦しみ、泣く者と共に泣き、それでもどんなことがあろうと私たちを諦めずに追い求めて下さる神を信じて全てを委ねる。自己満足を求めることなく神の御栄のみを追い求める。そのような新しい命へと私たちをも生まれ変わらされるその時に、神は私たちにもあの声を寄せて下さると信じるのである。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
「先の者は後になり、後の者が先になる」。これがイエスによって闇の世にもたらされた洗礼の道であると私は思っている。いつ洗礼を受けたかが問題ではない。神にどれだけ気に入られているか、が問題でもない。何年何十年先に受けていようとこれから受ける者であろうと、神の前でいい格好をしていようがいまいが、先に神の怒りを身代わりに背負って下さっているイエスによって常に新たに生まれ変わらされなければ、新しい命の道、悔い改めの道を歩み出したことにはならない。しかし我々は自分の意志でそうしようとしても出来ない。自分からはその道を歩みだすことが出来ない。だからこそイエスは我々に先立って、我々の為に敢えて洗礼を受けることで悔い改めの道を歩みだして下さった。更に十字架の死からよみがえってイエスは我々がその道からそれることのないようにと御手を差し伸べ、導いて下さっている。Tさんと共に、思いを新たにして、イエスが招いて下さる命の道を今ここから歩み出したい、と心から願う。