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2020.8.23. 美竹教会主日礼拝 イザヤ30:15-18、ローマ3:19-24「律法によらない神の義」
浅原一泰
７５年前の被爆直後に降った黒い雨によって身体を蝕まれた原告８４人に対して「その方々にも被爆者手帳を配布し、国が保護するように」と言った主旨の判決が先月、広島地裁から下された。被爆者の平均年齢が80代を超えた今、まさにそれは、罪なき原告たちが国の犠牲となったことを認める、極めて人道的な判決であったと思う。しかし原爆の日も終わって暫くした頃、厚労大臣が何の苦渋の色も感じさせない表情でその判決に控訴する声明を発表した。政府の言う控訴の理由は、これまでの最高裁判決と齟齬が生じるし、広島地裁の判決には科学的な解明が不十分であるということらしい。政府の控訴を予想はしていた。ただ、その声明には被爆者を思う誠意が感じられず、所詮は「他人事」と片づけるかのような、失望感というか空しさを感じたのは私だけではなかったのではないかと思う。
世界唯一の被爆国でありながら、この国は核兵器禁止条約に署名していない。広島で15万人、長崎で7万人もの貴い命が奪われたにも拘わらず、またその後の原爆症で更なる多くの被爆者が犠牲となったにも拘わらず、そして生き残った被爆者たちの切なる願いが核禁止条約への署名であるにも拘わらず、今年も為政者は署名には一切触れることなく従来通り、核保有国と非保有国の橋渡しが我々の使命だと問題をすり替えたままで挨拶を終えていた。為政者にも言い分はあるだろう。核の傘の下でこそ日本の平和と安全が保障されて来たのが現実だという支持者の声も理解できないわけではない。しかし被爆者たちの訴えはおそらくこうだろう。核爆弾によって人類が壊滅すると分かっていても、それでもあなたは核の脅威によってこの国の安全が守られれば良いのですか。一人の被爆者の女性は語っている。「我々はただ、平和な世界を実現して欲しい、世界が平和であって欲しいだけなのだ、その為には核兵器はあってはならない絶対悪なのだ」。これは３年前、ノーベル平和賞を受賞した国際NGO〝ICAN“を代表して被爆者のサーロー節子さんが授賞式で語った言葉である。75年前の8月6日、彼女は同じ高校に通う300人以上もの同級生の命を一瞬にして失った。親しい身内の命を失った。その日、最早人とは思えない身なりへと変わり果てながら町を彷徨い歩く多くの被爆者たちの姿を彼女は直視せざるを得なかった。傷み苦しみを身をもって経験した彼女が、被爆の苦しみを背負った多くの方々を代弁して核兵器廃絶を訴えている。それでも世界は変わらない。世界から核兵器はなくならない。むしろ今までは、あの戦争を終わらせる為には原爆投下は必要であったのだと戦勝国は正当化して来た。ICANがノーベル賞を受賞した会場に戦勝国の代表者たちは列席していなかった。戦勝国から安全保障的にも経済的にも恩恵を受けて来たこの国の政府も、被爆国でありながら条約に署名しない。彼らはそれが正しい判断だと思っている。しかしそれでは被爆者たちにとって、未だに本当の平和は訪れたことにはならないのではないだろうか。
ロマ書の中でパウロは記していた。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。人間は自分を正当化するために神の言葉を利用する。神の存在さえも利用する。エデンの園で神の言葉に背いて禁断の木の実を食べたアダムはそのことを神から指摘された時、こう言い放った。神様、あなたが結び合わせてくれたあの女が私に勧めたから食べたのですよ、と。神様、あなたにも責任があるのですよと言わんばかりである。神から与えられた言葉を自分にとって都合の良いように解釈していくこと、そうして神の言葉を、神からの賜物を、わが所有物であるかのように私物化していくこと、それが罪である。イザヤが告げた「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」という神の声を受け止めず、自分で自分の身を守ろうとして人間は好き勝手に動き始める。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。或いはまた、「速い馬に乗ろう」と。あたかもそれは、戦争を終わらせる為にあれは必要不可欠だったのだと原爆投下を正当化してきた人間のようである。自国の安全と繁栄のことしか考えず、核の脅威から守ってもらうことばかりに現を抜かして、保有国と非保有国との橋渡しなどというありもしない役割を持ち出すことで、被爆国でありながら核兵器廃絶に踏み出せない弱さを誤魔化しきた政治家たちのようでもある。しかしそれは、実は我々自身の姿でもあることを認めなければならないのではないだろうか。神に祈りをささげるのも、教会の礼拝に参加するのも、献金をささげ奉仕をするのも、人から批判されない為、神に対して自己正当化する為にそれをしてしまっているかもしれない我々自身の偽らざる姿でもあるのではないだろうか。それら全てをひっくるめて聖書は、それが「律法による義」なのだと明言している。しかもそれでは誰も、例外なく誰一人として神の前では義とされないのだとも断言している。預言者ハバククが既に告げていた。「義人はいない。一人もいない」と。被爆者たちに思いを寄せつつも、しかし筆舌に尽くしがたい彼らの痛み苦しみのひとかけらもわが身に感じることの出来ない戦後生まれの私はそのことにこそ立ち止まらされたいと思う。人間は誰もが、自分で自分を義とすることなど出来ない。そもそも義人など一人もいない。それなのに誰もがそれを認めず、何らかの動きをして義を手に入れようとしている。では諦めるしかないのか。ため息をつくしかないのか。しかし聖書は続けてこう語っていた。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」
７５年前の８月６日に繰り広げられた光景は、自分で自分の命を守る為には「神に背いてでも木の実を食べて良い」、自分で自分を正当化する為には「原爆を落としても良い」というエデンの園におけるアダムの犯した罪の再現であったのではないか。しかも、地獄とも思える光景が目の前に繰り広げられたのにもかかわらず後の世の者たちがそれを直視せず、今の自分の安全と平和が守られていればいいと、その為に歴史をも、神の言葉をも利用して来たのも、「立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」という神の言葉に耳を塞ぎ、人間の中に潜むおぞましさを見て見ぬふりをして「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」、「速い馬に乗ろう」と日々あくせくする、罪に蝕まれた我々自身の営みが繰り返されてきた紛れもない証拠なのではないか。それはまさに律法によって自分を正当化しようとする人間の業ではないのか。しかもその営みは依然として今、コロナの猛威を受けている今この時もなお鮮やかに繰り返され続けているのではないか。
しかし、だからこそ今、聖書は叫んでいる。75年前の広島に向かっても今この時に向かっても、パウロを通して神のあの言葉が叫ばれている。そう思えてならない。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」この世が未だに罪に蝕まれているからこそあのイザヤの言葉も今なお叫ばれているように思えてならない。お前たちが速い馬に乗ろうとするからこそ、「それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。」「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」のだ。「なぜそれが分からないのか」と。
今や、自分の正当化の為に利用され、最後は勝者と敗者とに人間を差別して終わるだけの「律法による義」ではなく、律法によらない、真の神の義が示されたのだと。全ての人間の苦しみを背負い、最も惨めな死に方で息を引き取られた神の御子を通してそれはもたらされたのだと聖書は言う。その義はすべての人間から、自分を正当化しようとする欲望を奪う。出来ない者や弱い者を見下す傲慢さを奪う。むしろその義は75年前の広島にこそ、欲の深い人間たちの思惑によって貶められても神の似姿である弱く小さな人間にこそ、貧しさ、惨めさ、痛み、苦しみという最も底辺に沈んでいる人々においてこそもたらされる。絶望的な状態にある人々にこそ必ずやそれは届けられる。人を見下していた側の者たちもパリサイ人であることを止めて己が罪と弱さを認めるならばそのことに気づけるはずだ。だからこそ「そこには何の差別もない」のだ、と聖書は宣言していたのである。
私事であるが、先月初めに通勤途中の最寄り駅で突然、気を失って倒れ、出血したために救急車で運ばれた。顔を数か所骨折したうえに外傷性のくも膜下出血も起こした為、対処が遅ければ昏睡状態になっていたかもしれない。目の前が真っ暗になるようであったが、幸い命に別状はなく、ただ脳を打った為に判断力とか処理能力の回復までに時間を要すると医者から言われ、自宅でリハビリを続けながら今日を迎えた。お聞き苦しかったり、話の辻褄が合っていないようなことがあればお許しいただくしかない。しかしそれでも、今ここに立てたこと、御言葉を取り次ぐ務めを与えられたことで気づかされたことがある。これが「律法によらない神の義」であるのだと。このような私をも用いて下さる、それが真の神の義であるのだと。「そこには何の差別もない」。神の義は信じる者すべてに与えられているのだと。
我々が信じて待ち望まなければならないのは、律法によって自分を正当化しようとする義ではなく、律法によらない神の義なのではないだろうか。３年前の5月、現職のアメリカ大統領として初めて広島の地に立ったバラク・オバマはこう語っていた。「かくて一発の爆弾によって壊滅したこの町で今、子供たちは平和の中に生きている。それがどれほど貴いことか。世界中の子供たちがそのように平和に過ごせるようになるべきだ。それこそが我々人類が選び取るべき未来であり、その中で広島と長崎は核戦争の夜明けとしてではなく、我々人類のモラルの覚醒が始まりを遂げた街として記憶されるべきだ」。（2017.5.27. バラク・オバマ）
私も今回の痛みを自分のモラルが覚醒する小さな始まりであると信じて待ち望みたい。そして皆さんと共に、神に対して罪を犯していたわが身、そのわが身をキリストの身代わりの死によって赦して生まれ変わらせて下さる神の恵みにも未だに背を向け、自分を正当化し続けて来た己の罪を、言い訳することなく、誤魔化すことなく、そのことに赤裸々に気づかせて下さった今日の御言葉をこそ、我らのモラルの覚醒を告げる始まりの言葉としてご一緒に心に刻みたい、そう願って止まない。