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競馬界の最重要名馬〜メジロラモーヌとは〜
メジロラモーヌは、日本競馬史上初となる牝馬三冠を達成した競走馬です。
同馬は、馬主でもある日本の有数のオーナーブリーダーの経歴を持つメジロ牧場で誕生します。しかし、両後脚に不安があるなどして周囲の評価は決して高くありませんでした。その後、メジロ牧場で育成され3歳（旧年齢表記、以下同じ）になる頃には脚部の不安が解消され、秋の東京競馬場でデビューします。
競馬界の最重要名馬〜メジロラモーヌの活躍〜
そのデビュー戦を20馬身、3秒以上の大差をつけて圧勝しますが、その後の成績は人気となるものの勝ったり負けたりを繰り返します。4歳となり桜花賞トライアルの4歳牝馬特別で重賞2勝目を飾ると、桜花賞ではクイーンカップに続き単枠指定を受け、その期待に応え快勝します。
陣営はオークスに向かうにあたり、敗れた2戦がオークスが行われる東京競馬場であったことからオークストライアルの4歳牝馬特別に出走を決断します。そのレースを快勝したことで不安は杞憂に終わり、本番のオークスでは他馬を圧倒し牝馬2冠を達成しました。
夏の休養、調整中にアクシデントがあったものの、3冠の最終戦であるエリザベス女王杯のトライアルレース、ローズSに出走し優勝し、牝馬3冠をかけて本番に挑みます。調教師の奥平真治は万全の状態ではないと思ったが、河内騎手の3コーナー下りからスパートを掛ける奇策により、辛勝ながらも牝馬3冠を達成しました。全てのトライアルレースも優勝するパーフェクトな戦歴は、現在においても唯一の記録です。
そしてラストランとなる有馬記念では直線の不利もあり9着と破れ、通算成績12戦9勝で引退しました。引退後の繁殖生活では、予想外に競走成績同様の結果は得られませんでしたが、ラモーヌの戦歴は高く評価され顕彰馬に選出されており、歴史に残る名馬の一頭に数えられています。
競馬界の最重要名馬〜シンボリルドルフとは〜
数々の伝説的な名馬を生み出した競馬の世界でも、この馬の名前は別格と申しても過言ではないでしょう。戦歴は史上初のG1七冠馬、史上四頭目の皐月賞、日本ダービー、菊花賞のクラシック三冠馬、しかも関東所属で無敗というのは史上初でした。担当調教師野平祐二師、シンボリ牧場生産、馬主で、三歳時（現在では二歳）にはオーナーの意向でG1の舞台を敢えて回避し、ジャパンカップ同日に行われた三歳オープン戦に出走。その理由が「日本にもこれほどすごい馬がいることを世界中に知らしめたかった」から、とされている、馬名は勿論ですが、畏怖を持ってファンから、皇帝、と呼ばれたシンボリルドルフこそその馬です。
競馬界の最重要名馬〜シンボリルドルフの活躍〜
日本での通算競走成績は15戦13勝、二着一回、三着一回という恐るべき戦績を誇る名馬中の名馬で、しかも敗戦のうち一回は四歳時に三冠を獲った後に体調不良の中挑んだジャパンカップともう一回は五歳時に予定されながら実現できなかった海外遠征の影響でぶっつけ本番で挑んだ天皇賞秋です。この通算成績が物語るようにその華麗な経歴は今でも競馬ファンの語りぐさになっています。
断然の強さを誇っていたシンボリルドルフですが、怪我には悩まされ、五歳時には原因不明の筋肉痛に悩まされましたが、復活を遂げ、周囲の予想に反して敗れた天皇賞秋に続くジャパンカップ、有馬記念を制し、ついに六歳時にはアメリカ遠征をかなえます。しかし、その遠征では六着と大敗し、同時に故障を起こしたためにその年の暮れに惜しまれつつ引退しました。その強さは産駒にも引き継がれ、名馬として名高いトウカイテイオーは皐月賞、日本ダービー、ジャパンカップ、有馬記念という名だたるレースを制しました。
競馬界の最重要名馬〜ミスターシービーとは〜
ミスターシービーは競馬界の中でも人気の高い名馬となっていて、それまでの常識を覆すレースっぷりで多くの人を魅了しました。
通算成績は15戦8勝となっていて戦歴は三冠レースに加え距離が短縮され2000mとなった天皇賞を勝利しGIレース4勝をマークしています。
馬主は丸沼温泉ホテルとなっていて、馬を生産するのが本業の馬主となっています。
調教師は松山康久であり、騎手の吉永正人とミスターシービーの追い込み戦法を育て上げました。
ミスターシービーの経歴や競走成績というのは他の三冠馬と比較をして極めて目立ったものはありませんが、それでも現在でも多くのファンに語り継がれているのはそのレーススタイルにあります。
後方待機をしていてレースの中盤から徐々にポジションをあげていき、束をごぼう抜きするその追い込み戦法はそれまでの競馬の常識をくつがえすものであり多くのファンに衝撃を与えました。
競馬界の最重要名馬〜ミスターシービーの活躍〜
特に当時のダービーは出走頭数が20頭を超える時代であったため、第一コーナーを10番手以内で回らなければ勝てない、ダービーポジションというジンクスがありましたが、ミスターシービーはそのジンクスを物ともせずに道中は後方17番手を進んでいたものの最後には一着でゴールを駆け抜けたのです。
その後も追い込み戦法で競馬をしてきましたが、翌年には日本の競馬界でも最強の呼び声が高いシンボリルドルフが登場したことによってその注目を一歳年下のシンボリルドルフに奪われることになってしまいまましたが、それでも人気に関してはミスターシービーの方が高く予想もつかない後方待機策に魅了されたファンは多かったのです。
歴代の名馬の中で最強にはなれませんでしたが、そのインパクトに関してはトップクラスであることは間違いのない名馬でした。
競馬界の最重要名馬〜マルゼンスキーとは〜
マルゼンスキーは時代の悲劇に飲まれてしまった、日本を代表する名馬でありスーパーカーと名付けられたそのままに2着につけた合計着差は61馬身にも及び、完璧な競走成績を残しました。
通算成績は8戦8勝と申し分のない戦歴となっているのですが、これだけの経歴を持っている馬ではありますが目立ったタイトルはありません。
それは当時の競馬のルールに理由があり、外国からの持ち込み馬はクラシックに参戦をすることができないというルールによって、これだけの強さを誇っていたにも関わらずビッグタイトルを獲得することができなかったのです。
マルゼンスキーは母であるシルの馬体を見た調教師の本郷重彦が馬主となる橋本善吉に強くすすめ、ニジンスキーの子を宿していたシルを競り落とすことになりました。
そして、その時に生まれた子がマルゼンスキーとなり競馬界に名を残すことになったのです。
競馬界の最重要名馬〜マルゼンスキーの活躍〜
マルゼンスキーの当初の評価というのは高いものではなく、足が外向していることから競走馬としては使いものにならないと考えられていました。
ところが、マルゼンスキーはその欠点を克服して見事に完璧な成績を収めることになったのです。
活躍をするに連れてクラシックに参戦できないことが、大きな問題となってきました
。
それでもルールは改正されることなく、結局マルゼンスキーは大一番を勝つことなく引退を余儀なくされてしまったのです。
もしも、競合場相手に戦っていたらマルゼンスキーの成績というのはどのようになっていたのか全く予想のつかないものでしたが、それだからこそ多くのファンはそのようなレースを観戦したいと考えていました。その夢は叶いませんでしたが、種牡馬となったマルゼンスキーは現役時代に成し遂げられなかったビッグタイトルをいくつも獲得することになったのです。
競馬界の最重要名馬〜テンポイントとは〜
テンポイントは流星の貴公子と呼ばれ同世代のトウショウボーイのライバルとされ、最後は不慮の事故によって死亡した悲運の名馬となっています。
その実力は申し分がなく、常に安定した競走成績をあげ通算成績では18戦11勝という記録を残しました。
デビュー前からその評判は高く血統的なドラマを持っている馬でもあったため、ファンのみならず馬主や調教師からも評価の高い馬だったのです。
競馬界の最重要名馬〜テンポイントの活躍〜
デビューをしてからはその前評判の高さを遺憾なく発揮することになり、クラシック第一線の皐月賞まで無傷の五連勝を果たしました。
しかし、皐月賞では一番人気に支持されるものの調整の失敗もあり、同じく無敗であった終生のライバルとなるトウショウボーイに五馬身差をつけられそれまでの戦歴の中で初めて黒星を喫することになったのです。
続く最大目標の東京優駿では体調不良もあって、7着に破れ故障をして競走中止をした日本経済新春杯をのぞいて掲示板をも外す惨敗を喫してしまったのです。
その後も惜しいレースが続くものの京都大賞典では3着に敗れ、菊花賞では三番人気に支持されるもののここでも時代の一角を担うグリーングラスに敗れ2着となりました。
有馬記念でも再度トウショウボーイに負けることになり、なかなかビッグタイトルに恵まれませんでしたが、明けた1977年から輝かしい経歴を残すことになり重賞を連勝した後の天皇賞ではついにビッグタイトルを手にすることになり、次の宝塚記念では再度トウショウボーイに敗れるものの年末の大一番である有馬記念ではついにトウショウボーイを下すことになったのです。
そして翌年の日本経済新春杯では遠征を前の国内でのお披露目ということでしたが、これが悲劇を呼び誰もが予想していなかった競走中止という結末を迎えました。このような競馬界の中でもドラマ性に飛んだ、馬生を送ったことから今なお語り継がれ名馬となっています。
競馬界の最重要名馬〜トウショウボーイとは〜
1970年代を代表する名馬として、日本競馬に一時代を気づいたトウショウボーイは1973年に北海道の牧場で誕生しました。父馬はテスコボーイ、母馬はソシアルバターフライで、母馬はアメリカ産の牝馬でした。同じ牧場で産まれた馬たちの中でもトウショウボーイの体格はしっかりとしたもので、周囲の予想や期待通りに後年活躍することになります。馬主は産地でもある牧場を運営していたトウショウ産業（株）となっています。
競馬界の最重要名馬〜トウショウボーイの活躍〜
3歳で調教師である保田隆芳の厩舎に入ったトウショウボーイは、4歳になった1976年にデビューを果たします。デビュー戦で勝利を飾ると、つくし賞やれんげ賞に出走し、どのレースも1着を獲得しました。なお、4歳新馬でのデビュー戦ではシービークインやグリーングラスといった有力馬も出馬していたことから、長く語り継がれるレースとなりました。
同年の皐月賞ではトウショウボーイ同様に人気のあったテンポイントと競い、1着を獲得します。圧倒的な速さでのゴールから愛称である天馬が定着するとともに、東京優駿ではシード指定を受けました。しかしこの東京優駿ではクライムカイザーとの競り合いに敗れ、惜しくも2着に終わっています。
その後も札幌記念、菊花賞、有馬記念と経歴を重ね、5歳となった1977年には宝塚記念や高松宮杯に出走します。引退レースとなった有馬記念では、ともに時代を飾ったテンポイントと僅差の争いを繰り広げ、名勝負として人々の記憶に残りました。
トウショウボーイの通算成績は15戦10勝で、競走成績としても見事な戦歴を成し遂げています。また、テンポイントやグリーングラスと併せてTTG時代を築いた名馬としても知られています。