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ジュネーブ欧州国連本部を訪れた人々で「ゴーン」という聞き慣れた日本の寺に特有の鐘の音を耳にして驚いた人もいるのでは？この音の出所は隣接するアリアナ美術館の公園内に安置された梵鐘であると知っている人は少ない。そのうえ、この鐘がどのような不思議な運命を辿ったかを想像するのは難しい。
京浜急行の青物横丁駅を降りて“ジュネーブ平和通り”を歩いて右に曲がると品川寺（ほんせんじ）に着く。姉妹都市である品川とジュネーブの友情は品川寺の大梵鐘に始まった。
真言宗醍醐派の鐘法要
27日、アリアナ美術展リニューアル10周年記念式典で庭に設置された鐘の法要が行われた。この鐘は品川市とジュネーブ市をを結ぶことになった曰くがあるの鐘で真言宗、総本山が京都にある醍醐寺派の住職さんが日本各地から当地に訪れて法要を行った。法要は天気に恵まれ、文化交流で日本を訪れたジュネーブの若者などで賑わった。
世にも稀なる名鐘の起源
梵鐘を近くで見ると、徳川三代将軍の号、「東照宮」（とうしょうぐう）、「台徳院殿」（だいとくいんでん）、「大獣院殿」（だいゆういんでん）と彫られ、浮き彫りされた観音像が目に飛び込む。素人目にもただの鐘ではないと判る。品川寺の資料によるとこの鐘は徳川四代将軍、家綱の命を受け、弘尊上人の要請により1657年（明暦３年）に京都で鋳造され、品川寺に設置された。寄贈者が将軍、家綱であったことと京都七条の大仏師、康斎（こうさい）による六体の観音像が彫られたことで“世にも稀なる名鐘”と歌われていたという。
日本から消えた理由
そんな名鐘がどのような経緯で行方不明になったかは未だに謎である。お寺の言い伝えによれば、梵鐘は1867年のパリ万国博か1873年のウィーン万博に出展の際になくなったという。現、品川寺、副住職の仲田氏の調べによると梵鐘はパリの万国博行きの積荷リストに載っていたが、万国博覧会にはなかったのでこの間に横流しされたという説が考えられる。一方、古文家のディディエ・グランジュ氏は万博説では年代的に一致しないと主張する。むしろ、天皇制が復活した明治維新直後の「神仏分離」政策による仏教に対する弾圧が由来と見ている。日本政府が多くの寺の鐘を送り、大砲の鋳造をスイスの鋳造所に頼んでいた文書が見つかっている。こちらの説が正しいとするとジュネーブ市が梵鐘を守ったということになる。
スイスで発見された鐘
いずれにせよ、溶かされて大砲にされる運命だった名鐘を危機一髪で救ったのがアリアナ美術館創立者のグスタブ・ルビリオ氏である。芸術品蒐集家の同氏はアーラウの鋳造所を訪れた際、鐘の美しさに魅せられ価値も知らずに即座に買い取ったという。蒐集家は当初からアリアナ美術館の創設を考えており、庭に飾って美術館の閉館を告げるのにちょうどいいと思った。
30年間探し続けた品川寺
アリアナ美術館の庭園に保存されていることを発見したのは鐘の音を聞いた日本人学生だったとか、国際連盟の最初の会議に出席した外務省事務官だとか言われている。とにかく、この発見が当時、品川寺の僧侶、仲田順海和上に伝えられ、1928年頃から日本政府を通して正式に返還要請が行われた。その間、アリアナ美術館の所有者となったジュネーブ市当局は道徳的、宗教的理由から返還を承諾し、1930年に無事、大梵鐘は60年のさすらいの旅から帰郷した。
縁を取り持つ鐘
今回、法要を行った仲田副住職はかつて返還要請を行った順海和上の孫にあたる。現、仲田順和住職は父の意志を継ぎ、ジュネーブ市への感謝を示すため品川市民からの寄付を受け梵鐘の副製品を鋳造し、返還から60年後にアリアナ美術館に寄贈した。これに感激したジュネーブ市は1991年、品川市と友好憲章を結び、以来、若者の文化交流など鐘を通した友情が現在も続くことになった。法要に出席し、3代に渡ってアリアナ美術館と家族のような交流のある副住職はこの法要式典について「胸が一杯で言葉にできない。縁が広がって感謝しています。このような深い友情が世界中で広がっていけばとお祈りしました」と語った。
スイス国際放送、 屋山明乃（ややまあけの）
補足情報
略歴：
徳川時代（1657年）鐘が鋳造される。
明治初期；品川寺から梵鐘が忽然と姿を消す。寺の言い伝えではパリの万国博覧会に出品されたという。
1873年：アーラウの鋳造所でアリアナ美術館の創立者、ルビリオ氏に買い取られる。
1930年：スイスが品川寺に梵鐘を返還する。日本では開眼式が行われる。
1941年：大梵鐘が国宝に指定される。
1991年：品川寺はお礼に複製の梵鐘を寄贈する。安置式典が行われ、友好憲章が結ばれる。