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マタイ15：21～28「食卓の下の小犬も」
2020年7月19日（左近深恵子）
主イエスはそれまでおられたガリラヤ湖周辺を去って、地中海に面したティルスとシドンの地方に行かれました。マルコによる福音書の同じ出来事を伝えている箇所によると、主イエスは人々から暫く離れて静かに過ごしたいと思われたようです。しかし主イエスが来られたことを聞きつけたカナンの女性が主イエスに会いにやってきました。「カナン」という地域名を敢えてこの女性の説明に加えるのは、イスラエルの民では無いことをはっきりさせるためと思われます。主なる神によって、全ての民に対する祝福の源とされ、ご自分の民とされ、奴隷の地から導き出され、主なる神を礼拝する自由の中に生きる群れとされたイスラエルとは異なり、イスラエルの民から、「異邦人」と呼ばれ、汚れているとみなされ、交流を持てばイスラエルの民も汚れを負うとされるカナンの民の一人が、イスラエルの民の一人である主イエスがおられる所まで出て来たのでした。
この女性にとっても主イエスたち一行は「よそもの」であったでしょう。自分の地元でイスラエルの民に頼ることへの抵抗も全く無いわけではなかったでしょう。しかしそのような抵抗よりも強固で強大な闇とこの人は戦ってきました。娘が悪霊にひどく苦しめられていたのです。自分自身を襲う力のために苦しむこととはまた別の苦しみがあります。娘の苦しみを自分のことのように苦しみ、しかし自分が代わってやれないことに、娘の苦しみの全てを知ることができないことに、苦しんでいたかもしれません。後悔や不安を抱えることに疲弊し、健やかさを奪われてゆくわが子が変わってゆく姿を傍で見つめることに耐えがたくなる先の見えない日々から、この主イエスという方なら救い出してくださる、娘に健やかな笑顔や前を向いて生きる力を取り戻してくださる、よそ者かどうかは自分には大きな問題ではないと、主イエスを求めたのではないでしょうか。
弟子たちがこの時取った対応は、弟子たちらしいものと言えるでしょう。弟子たちは他の場面でも、執拗に主を求める人々を制することがありました。主イエスを待っている人は他にも大勢いるのだから、主のお働きを妨げてはならないと、出過ぎた人々を止めることが自分たちの役割とでも思っているかのような行動が、あちこちで見受けられます。この日も、女性を追い払うようにと主イエスを促しています。この時弟子たちは、ただ追い払うのではなく、 “この人の求めに早く応えて、去らせましょう”と促したのだとする解釈もあります。「追い払う」と訳された言葉には「解放する」「願いを叶えて去らせる」という意味もあるからです。叫び続ける女性にずっと後をついてこられるこの状況を、そろそろ何とかしてくださいと、この人は異邦人だけれど、異邦人の土地に主が来られたのだから、他の人々にこれまでそうしてこられたように、この人の娘も癒し、この母娘を苦しみから解き放って、ここから去らせたら良いのにと弟子たちが考えたとしても、真に弟子たちらしい反応のように思います。弟子たちがどのような意味で言ったのかは定かではありませんが、いずれにしてもこの女性と娘のためにと言うよりも、直面している状況から自分たちが解放されることを求めてしまう、誰もが抱える限界がここにもあります。
弟子たちの対応には驚かなくても、限界無く人を助ける方を主イエスに期待するわたしたちは、この出来事の主イエスの振る舞いには困惑するのではないでしょうか。ご自身に助けを求めて必死に叫び続けている女性に、暫く何も応えないままでおられます。女性は「主よ、ダビデの子よ」と、イスラエルの民が救い主に対して用いる特別な名で主を呼びます。マタイによる福音書でこれまでこの名ではっきりと主イエスを呼んだのは、2人の盲人だけでした。その他のイスラエルの民も、弟子たちでさえもまだ認めるには至っていなかったことを、この女性は既に主に見出しています。主が行かれる町や村で神の民は主イエスが自分たちのために何をしてくれるのかと期待して、主の力を求めてきました。しかし主がどなたであるのかは理解できず、主が最も人々に与えようとしておられる神のご支配を進んで受け入れようとはしてきませんでした。神の民は、真の救い主として、主イエスを認めることができずにいます。それなのに、主イエスこそ神さまが約束してこられた救い主であることを表す「ダビデの子」という名で、イスラエルの民と敵対してきたカナン人の女性が主イエスを呼び続けたのです。
この女性は主イエスを救い主として呼びますが、神の民の方はまだ恵みを受け留めようとしていない、だから主は沈黙の中に留まり続けておられたのではないでしょうか。だから弟子たちにこの状況を解決することを求められると、「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われたのではないでしょうか。魂が飢え渇いているのに、自分たちが飢え渇いていることすら気づかずにいる、そのイスラエルの家の失われた羊たちを満たすために、主はイスラエルの家の一人としてお生まれになったのです。けれど主にこう言われても、この女性は諦めません。主イエスに近づき、主の前に来てひれ伏し、「主よ、どうかお助け下さい」と懇願します。主は、先に告げられたことを更にはっきり突き付けるように、「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われます。あなたはイスラエルの家の羊ではない、イスラエルの子どもではない。家のパンをその家の子どもよりも先に小犬に与えることはしないだろうと。
旧約聖書においてしばしば、イスラエルの民を指して、羊や子どもという表現が用いられてきました。他方、異邦人に対して犬という表現が用いられてきました。主がここで「小犬」と言われるのには、そのような背景があるのでしょう。ただ主イエスは、ここで犬ではなく「小犬」という言葉を用いておられます。野犬や野良犬ではなく、飼われている愛玩用の犬です。家族から大切にされ、養われ、家族と共に生活をする家族の仲間です。それでも、子どもと小犬は同じではありません。家族の一員のように扱われても実際の家族とは異なります。日々の食卓も、礼拝の祭儀の食卓も共に囲み、神さまの祝福を受け継ぐイスラエルの子どもたちと、異邦人の間には、決定的な距離があります。家から迷い出て、帰れなくなってしまっている子どもたち一人一人を助け出し、真の命に生きることへと導き、一人一人の命と存在を喜んでおられる神さまの恵みで満たすために、キリストはご生涯と命を捧げてくださいました。そのキリストの血と肉で私たちは救い出されたのだと証しする神の民一人一人の伝道によって、私たちは今ここに居ます。失われたご自分の民のために来られたと告げ、ご自分を受け入れない民のために命までも捧げてくださったキリストによって、私たちは今ここに居るのです。
多くの人がこの出来事で打たれてきたのは、この女性の求め続ける姿です。異邦人であり女性であるこの人は、主イエスとの間に距離を保ちながら、主の一行について行ったことでしょう。沈黙し続けられる主イエスに向かって叫び続け、自分を苦しみの中に置き去りにしているようにも見える主イエスの後を追い続け、退ける言葉を主イエスから突き付けられても食い下がります。この女性がたった一人で助けを求めているのはどのような状況によるのか、何も知らされていませんが、娘のために孤独に奮闘しながら、諦めません。娘のために、自分のために、諦めたくないという思いだけでなく、主イエスならば憐れんでくださるとの確信があったのでしょう。イスラエルの民の救い主である主と、自分の間にある距離がどれほど遠いものであるのか、知っています。それぞれ別々の民であり、人間の頑張りや願いだけでこの距離を埋めることができないことを知っています。それでもこの隔たりは、断絶されたものではないと、主イエスはこの間をつなぐことができる方であるのだと、確信していたのでしょう。
主イエスがそのために来られたイスラエルの民の現実は、羊飼いを見失った羊たちのような状態でした。ガリラヤで主は「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」（9：36）とあります。主は、羊を一匹一匹捜しだし、羊の囲いへと導き帰るために来られました。しかし羊たちは、自分が神さまに属していることも、神さまのもとから離れてしまっていることも、神さまのもとこそ帰るべきところであることも受け入れられず、彷徨っています。肉体の糧や病の癒しに主イエスの力を求めても、根源的な救いは必要ないのだと思っている人も多くいます。しかしこの女性は、主イエスがイスラエルの家の失われた羊のために来られたことも、自分がイスラエルの家の者ではないことも、知っています。
神の民は、主に従ってきた弟子たちでさえ、主の御業の意味を理解することができません。しかしこの女性は、主イエスの悪霊からの解放や病からの癒しに表れている根源的な救いが、自分の娘にも、自分たち家族にも必要であることを、知っています。主イエスによって神さまがもたらしてくださる救いは、イスラエルの民の命を根底から生かし、更に周りの民の命も生かして余りある、大きな救いであることを確信しています。
神の民は、主イエスに信頼しきれずにいます。この出来事の少し前に、ガリラヤ湖での嵐の出来事が記されています。主イエスのように湖の上を歩きたいと願いながら恐怖と不信に囚われて沈みかけたペトロに、主は「信仰の薄い者よ」と言われます。しかしカナンの女性には信仰を見出し、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と褒められます。「立派だ」と訳された言葉は「大きい」という意味の言葉です。イスラエルの民にもなかなか与えない賞賛の言葉を、この異邦人の女性に与えられます。そしてこの時娘が癒されたことを、聖書は伝えます。母親の信仰を喜ばれる主のみ心が、娘に癒しをもたらしました。娘に会うことも、直接触れることも無く、悪霊の支配をこの娘とこの家庭から退けてくださったのです。
主イエスに深く信頼するこの人は、主が明らかにされる現実を「主よ、ごもっともです」と受け入れることのできる人です。その上で「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と返します。この女性の言葉には、朗らかさが混じります。神さまの恵みは非常に豊かだから、子どものパンを取り上げなくても、食卓からこぼれ落ちるほどだと。子どもたちが手にする量から見れば僅かな恵みでも、娘や私には十分であると、信頼しています。この出来事の少し前、湖での嵐の出来事の直前に記されている、主イエスがガリラヤで、大勢の群衆を、5つのパンと2匹の魚を用いて養ってくださった出来事が思い起こされます。全ての人が皆満腹になるまで食べたその糧は、残ったパン屑を集めたら12の籠いっぱいになるほど、豊かな糧でした。主イエスによって神さまが与えてくださる恵みは、それほど豊かであるのです。
この時弟子たちは主イエスの御業の意味を理解していません。しかし女性は、主イエスによって神さまがもたらしてくださる恵みは、イスラエルの子どもたちを養って更に余りある豊かなものであることを、既に受け止めています。その恵みは、先に神の民とされた人々も、これまで神さまの救いを知らずにきた人々も、全ての民を真に満たして生かすものであると信頼するからこそ、救い主は、自分の娘も、その救いのみ力で包んでくださると、希望を持っています。冷淡に思える沈黙にも、冷酷に聞こえる譬えにも、女性は絶望しません。希望があるから、どのようにして自分たちがその救いの内に含んでいただけるのか、道筋は見えていないけれど、最後のところで絶望しきらず、朗らかに、大胆に、救いを求め続けます。神の民として歩んでこなかった自分のこれまでも、自分の今の現実も受け止める力を持ち続けることができています。主の言葉に内包される神さまのご意志に深く聞いているから、主がこれまでなさってきたみ業が示すものを深く見ているから、深みにおいて主イエスを信頼し、食い下がり、主のみ前にひれ伏し、み旨に適う言葉で訴えることができるのでしょう。
主は、女性が主に癒しを願った時に、直ぐに癒すことはされませんでした。繰り返し癒しを訴えても、その繰り返しの数の多さや、娘への愛情の強さゆえに、癒すことはされませんでした。女性に大きな信仰を見出し、その信仰を褒められた時に、癒されました。自分も娘も主のご支配のもとにあることを受け入れ、主イエスこそ自分たち母娘の主であると、異邦人もその救いの恵みの中においてくださると信頼する信仰を喜ばれ、その娘を癒やされました。要求に一つ一つ応えられるのが救い主であると私たちは思いがちです。あるいはひときわ強い愛情を持つ者に応えられるのが神であると、思いがちです。しかしキリストが何よりも見ておられ、聴いておられるのは、信仰における私たちの応答です。私たちがみ言葉を御業を深く見て、深く聞いて、主にお応えしていくならば、私たちの主に対する願いも、他者に対する愛情も、必ず虚しく地に落ちることはないのです。