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村の冬
私も漸く村の人たちの生活の中に入った頃、クリスマスを迎えて村はウインタースポーツの外来客で一杯になって賑わった。人々は日中はスキー、スケート、カーリングなど戸外に活動し、夜は大きなホテルでダンスに興じた。私の宿は精々二十人位で一杯になる位の小さなものなので、夜食後は、若い人たちは大きなホテルへダンスに行って、老人連がストーブを囲んで世間話を楽しんでいた。私はダンスができないので、この仲間であった。
ある夜、イギリスの老人が柔道について話し出した。この老人は退役海軍軍人で、永久にドイツ人をイギリス領に入れないと主張する会の会長だと私に語っていた。この頑固爺は柔道贔屓と見えて大いに吹聴した。すると一座の中のインド帰りのイギリスの青年将校が蔑むようにこれに反対した。その態度には、この時代によくあった東洋ずれのした傲慢さがあった。すると件の老人が私に柔道を知っているかと聞いた。私は少しは知っていると答えた。そのため勝負することになったがこれは私の大冒険であった。というのは慶応時代、道場で柔道を習ったとき、牛のような普通部（中学）の相手に、ひどく投げられて、お前は普通部の何年生かと労わられたのが癇にさわって、それっきりの柔道なのである。しかしこの場合、敵に後を見せる訳にはいかなかった、幸いに彼は柔道を知らなかった。強く私を押す力に乗って見事に背負投げで投げた。コンクリートの床に絨緞を敷いただけなので、彼は息を暫く止めて起きあがれなかった。一座は大笑いに終ったが、翌日から私は柔道の大家だと噂され暫くの間は当惑した。ウィンタースポーツのシーズンは、クリスマス前後から一月半ばまでで、ヨーロッパ各国のみならず、アメリカやジャワ辺からまで来る。テニスコートに水を凍らせて、スケートやカーリングに使い、トボガンのコースはアルピグレンから長いコースを作ってある。
冬の間、私はスキーをしたが、故国では単杖で習ったのであったが、スイスではもはや単杖は見られず、ノールウェー式の両杖の時代となっていた。しかし婦人が男のようなズボンを穿くものは、衆目を惹くほどに稀であった。婦人がズボンを穿くのと断髪は、戦時中ロンドンで始ったと聞いたが、スイスではまだ珍しかった。
私はフリッツと一緒にファウルホルンとか、メンリッヘンなど二、三〇〇〇メートルのアルプの山々をスキーで歩いた。アルプは夏、牛や羊を放牧する地帯の草原で、積雪は一メートル前後ではあるが雪質は湿度少なく、障碍の少ない良いスキー場であった。ウィンタースポーツをしている一般の連中は、別段優秀な技術を身につけようと、激しい練習をするでもなく、至極呑気な雰囲気なのである。これは中年以後の人の割合が多いことにもよるが、平易に戸外のスポーツを楽しむ傾向といえよう。スキー場でもスケート場でも、上手は上手なりに下手は下手なりに銘々が楽しんでいるのである。グリンデルヴァルトのような国際的な土地では、各国の人たちが集るので面白い。それぞれのお国風が現われる。しかしおしなべて言えることは、自分は自分の楽しみ方をして、そのため他人に迷惑をかけることなどはない。威勢のよいところを誇示したり、卑屈になって小さくなったりなどしない。自由で平易な雰囲気なのである。
私の宿にイギリス人の一家が泊まっていた。食堂では、この一家は一つの食卓を占めていたが、私は傍の食卓からこの一家の殊に母規の子供に対する躾の厳しいのを見ていた。あるときそれを訊ねると、イギリスには行儀は人をつくるという諺がある。成長して物事の是非の判断ができるまでは、親が導いて教えなければならないと答えた。私の母も躾は厳しかった。子供の時に教えられた身嗜みは、終生残るもののようである。
村に一軒の床屋があった。お客は村人が主であったが、この店の老主人はいつも私の髪を刈りながら、お前の髪の毛は豚の毛のようだという。西洋人に比べて太いらしい。刈った後で、新聞紙を撚ったのに火を付けて毛の先を焼くのである。怖いので止めてくれといっても、都会の流行だといって止めなかった。三十年後に行ったとき、この床屋の店は、大きな一枚ガラスの窓に金文字なんか書き込んで立派になっていた。件の老人は亡くなって、息子が店を継ぎ、私を訪ねて、親父はよく私の話をしていたと述懐した。私は、豚の毛のようだといっていなかったか、と笑ったのであった。
グリンデルヴァルトの南側は、アイガー、メッテンベルグ、ヴェッターホルンなどの峰々の岩壁が切り立っているため、冬の間は日当りが悪い。このため日光を楽しむ人たちは、北側のアルプまで登る。