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南アフリカで反アパルトヘイト（人種隔離）運動を主導したネルソン・マンデラ氏が５日夜、９５歳で死去した。南アのジェイコブ・ズマ大統領はテレビの全国放送で「わが国で最も偉大な息子を失った」と語った。
マンデラ氏は人種差別的なアパルトヘイト政権と闘い、２７年間獄中生活を強いられた。１９９０年に釈放され、１９９３年にノーベル平和賞を受賞。自由と人道を象徴する人物として知られる。
釈放後は、黒人と白人の和解への道を模索。１９９４年に民主国家としての南アの初代大統領に就任、１９９９年に退任した。
今年の夏に重い肺炎を患って以来、体調が完全に戻ることはなく、９月以降、自宅で療養していた。
闘いと和解の人生
スイスのウエリ・マウラー連邦大統領は６日朝、「マンデラ氏の死をたいへん悼む」との声明を発表し、スイスの国民と政府を代表して、南アの国民と政府に弔意を表した。声明にはまた、次のように記されている。「マンデラ氏の死により、南ア、アフリカ大陸、そして全世界が卓越した人物を失い、現代の重要人物の１人を失った。（中略）マンデラ氏は、公正、平和、人間に対する敬意、寛容、人間らしさといった価値を体現した人であり、いつまでも記憶に残ることだろう」
スイスの各紙も、締め切り間際に発表されたマンデラ氏の死を今朝のトップ記事として扱っている。
ドイツ語圏の日刊紙ターゲス・アンツァイガーは「彼は、より人間らしい世界の顔だった」と見出しを打ち、「ネルソン・マンデラの死で、世界はずっと寒くなるだろう」と、特に今後の南アの行方を懸念する。マンデラ氏はこの数年間、表舞台に立つことこそなくなっていたが、新生南アの建国者である彼の存在自体が方向を見失いそうになる政治家の警告信号となっていたからだ。
同じくドイツ語圏の有力紙NZZも、２面を割いて彼の「国民のために犠牲を負った」一生を追う。ウェブ版には、こぶしを突き上げる力強いマンデラ氏の写真がトップに掲げられた。「解放者」と名付けた解説では、感嘆すべきなのは、マンデラ氏が１９９０年に２７年間の監禁生活から釈放された際、反撃にかかるのではなく、社会の融合に向けて無類の努力を行う中で、白人だけでなく黒人の敵対勢力からも彼が描いた『虹の国』への支援を勝ち取ったことだと述べる。
マンデラ氏は１９９０年の釈放後まもなくスイスを訪問し、連邦大臣などと会談。ダボスで開かれている世界経済フォーラム（WEF）にも何度か出席した。１９９９年の会議で国際舞台から身を引くと発表した際には、多くの出席者が長い拍手を贈ってその労をねぎらった。
スイスとネルソン・マンデラ氏
１９８９年、スイスのルツェルンで、南ア政府とアフリカ民族会議（ANC）の代表者の間で秘密会談が行われた。議題はネルソン・マンデラ氏の釈放だった。
マンデラ氏はスイスを何度も訪れている。初訪問は１９９０年の釈放の４カ月後で、当時のルネ・フェルバー外相と会見。
１９９７年にはダボスの世界経済フォーラム（WEF）で、エイズに対する国際社会の援助を呼びかけた。同年マンデラ氏はスイスを再訪問し４日間滞在、両国の関係強化を望んだ。
２００８年にはスイスの首都ベルンで、南ア大使館、スイス連邦政府、ネルソン・マンデラ財団がマンデラ氏をテーマに展覧会を開催。
黒人自治区トランスカイ地方での屈託のない青年時代から、激烈な反アパルトヘイト運動、そして大半をロベン島で送った２７年間の獄中生活まで、マンデラ氏のたどった道が紹介された。インフォボックス終わり
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