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2022.5.22.主日礼拝
イザヤ2:4-5、ローマ12:17-21
「平和をもたらすために」浅原一泰
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「復讐は私のすること、私が報復する」と主は言われる(申32:25)、と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。（箴言25:21-22）」
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
「地は混沌として、闇が深淵を覆っていた」この世に「光あれ」と神が第一声を放ったのが旧約聖書の始まりである。それに対して新約聖書は、神がイエスという人間となってこの世に来られたという、あのクリスマスの出来事が始まりなのだろうか。果たしてそうであろうか。この世はイエスを拒み、十字架につけて殺してしまう。この世の価値観では、人間の歴史はその人物の死で終わってしまう。生きている間にその人物がどれほどのことを成し遂げたのか、或いは成し遂げられなかったのか、それでその人間の評価が下される。それがこの世のものの見方であるのに対して新約聖書は、また福音という真理は、イエスがこの世にお生まれになったところからではなく、死を遂げたところから始まった、と言って良いと思う。神はイエスを、十字架の死から三日後に復活させたからであり、イエスが死ぬ前、つまり復活のイエスに出会う前はわが身可愛さにイエスを見捨てて逃げ出した多くの弟子たちにおいても、イエスの仲間だと追及されると「そんな人間は知らない」と三度も否定してしまうペトロにおいても、或いは教会を迫害しまくっていたサウロと呼ばれていた頃のパウロにおいても、彼らの中に真の信仰は芽生えていなかった、もしくは彼らの中において福音という真の光はまだ輝いていなかったからである。だからこそマタイやルカの福音書がクリスマスの出来事で始まるのに対して、ヨハネ福音書は冒頭で告げていた。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇はこれを理解しなかった」と。ご自分の思いである福音という真理を、神がそこで終わらせるはずがなかった。「闇から光が輝き出よ」との神の言葉(Ⅱコリ4:6)もあるように、墓にやって来たペトロの前に死から復活したイエスが現れ、更には逃げ出した弟子たちの前に現れ、そのしばらく後には教会の迫害者であったパウロの前にも現れて彼らを立ち止まらせ、振り向かせ、彼らを裁くのではなく愛と恵みによって赦し、真の悔い改めへと導くことによって初めて彼ら一人一人の中に福音という主の光が輝き始めた。暴君ネロに代表されるように、ローマ帝国はキリスト教徒を迫害の対象としていくが、以前なら死ぬのが怖くてイエスを見捨てて逃げ出したくせに、福音の為ならば迫害も、死をも恐れずに命をささげる者へとイエスの弟子たちも、パウロも変えられていった。その彼ら、特にパウロによってこの地上に、主の教会が次々と建てられていき、キリスト教が始まったからである。
しかし残念ながら、この世の歴史は、人間によって神の愛も人間の愛も踏みにじられる歩みの繰り返しである。その後のヨーロッパにおいて、ユダヤ人こそが救い主なるキリストを十字架にかけた張本人である、とするキリスト教徒たちによるユダヤ人への憎しみが広がって行く。20世紀に入る直前の19世紀の末、ローマ・カトリック教会、中でも日本にキリスト教を伝来させたフランシスコ・ザビエルが属していたことで知られるあのイエズス会において特にそれが見受けられたという記録がある。更にそこに、当時の工業化の発展による貧富の格差の拡大に伴って富裕なユダヤ人たちに対する新たな不満感が重ねられていった。そのクライマックスが、ヒトラー率いるナチスによるユダヤ人迫害・撲滅運動（ホロコースト）である。先ほど読まれた旧約聖書のイザヤ書には、「主に戒められた多くの民は剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」、「もはや戦うことを学ばない」と謳われていたが、ヒトラーは彼の著書である「わが闘争」の一頁目にこう書いている。「すべてのナチス党員は、鋤を剣に、鎌を槍に打ち直すべし」。戦うことを学ばないどころか、むしろ逆に平和を壊し、世界を恐怖と破滅のどん底へと引きずりおろしていく。あのプーチンも同じ路線を辿ったと後の世代からは言われるだろう。ただ、驚くべきことにヒトラーの頃のドイツの多くの教会がそれを支持した。「ドイツ・キリスト者」と呼ばれた彼らはユダヤ人を亡き者にすることに賛同したわけである。それらの教会には、今日与えられた「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という聖書の御言葉が聞こえてはいなかったのだろうか。ロシア正教のキリルという総主教もプーチンの主導によるウクライナ侵攻を支持して、しゃあしゃあとイースター礼拝を守ったと報じられたが、彼らにもこの聖書の言葉は届いてはいないのだろうか。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」先ほどのロマ書で、そう言われていた。聖書の言う「悪」は、罪人である我々すべての人間の心に刻み込まれ、我々を束縛する目に見えない焼き印のようなものだと思う。先ほど申し上げた「この世の歴史」が物語っていたように、人間は放っておけば神の愛も人間の愛も踏みにじって、容易く悪へと傾く本性を持っている。福音書の中に、富める若者がイエスを訪ねて来る話がある。「永遠の命を得るためにはどんな善いことをすればよいか」という若者の問いに対してイエスは答えた。「なぜ、善いことについて私に尋ねるのか。善い方はお一人しかいない」(マタイ19:16-17)。つまり神しかいないのだ、とイエスは答えたわけである。そのように、善とは悪を打ち砕くものではあるが、人間には実現不可能である。神によって悪の束縛から解放されない限りは、人間はそれが出来ないのである。「目には目を、歯には歯を」と言う言葉があるように、人間だれしもが「やられたらやり返す」ようになってしまっている。それは言い換えれば、悪をもって悪に報復する、ということである。また先ほどの聖書に、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」とも言われていたが、それも人間には実現不可能である。意見の合わない相手、自分を憎む相手を「敵」と見なすこと、敵の不幸を喜ぶことは誰にだってできるが、そのような憎き敵を助けること、ましてや敵を愛することなどはおそらく誰にも出来ない。黙っていたって誰もが自分よりも神から褒められ認められたアベルを妬んで殺すカインにはなれる。しかし罪なくして一方的に殺され亡き者とされてしまうアベルになりたいなどとは決して誰も思わない。痛い所をつかれるとつい、それを隠そうとしてしまう。その責任を他人に擦り付けてしまう。そのように悪へと傾くことが人間の本性だと先ほどは申し上げたが、突き詰めるならばそれは人間が神を選ばず、偽りの情報を流してでもその人間をぬか悦びさせようとする蛇の誘惑を選んだからだ、と聖書は説明する。であるから神から過ちを指摘されたアダムは、「私は悪くない、この女がやれと言ったのだ」と、その責任をエバに擦り付け、アベルはどこにいるのか、と神から追及されたカインは、「知らない、いつから私は弟の番人になったのか」と問題をすり替えてでも自分を正当化しようとする。それこそが私たち自身の偽らざる本性の姿であろう。「お前もあの男の仲間だ」と追及されると、周囲から白い目で見られることの怖さに耐えきれず「そんな男は知らない」と言ってしまうペトロの姿は、紛れもなくこの私自身の姿でもあることを隠すわけにはいかない。
ただ、それが人間の、人間社会において、人間によって繰り返される歴史であっても、神は黙ってはいなかった。今のこのコロナの時代においても、ロシアが誤った侵略に踏み切り、それによって多くの命が奪われ、プーチンがそれを正当化し続けても、それでも神は人間を見捨てない。人間を諦めない。だからこそ神はかつて、ご自分に背いたアダムとエバがエデンの園を去る前、彼らに皮の衣を着せて彼らの命を守ろうとした。アベルを殺したカインには神はしるしをつけて、カインが誰からも襲われることのないよう彼の命を守った。イエスに背いて逃げ去った弟子たちにも、教会の迫害者であったパウロにも、神は彼らに復活のイエスとの出会いを与え、聖霊を注いで彼らを新しい命へと生まれ変わらせた。そうして、闇の中に埋もれていた彼らの中にある光を輝かせ始めた。
それは神にしか出来ないことである。「善い方はただお一人しかいない」とイエス自身も語っていた通りである。アダムからカインへと受け継がれた悪はすべての人間の心を蝕んでいる。私もそうであるし、皆さんもそうである。教会を迫害していた頃のパウロだけではない。イエスを裏切ったイスカリオテのユダだけではない。イエスを三度も否定したペトロも含めて、アダム以来、すべての人間が神に、またイエスに敵対しようとしてきた。人間は敵に対しては憎しみや敵意を募らせ、悪には悪で報いることしか出来ない。しかしながら神は、神だけは、敵であった人間に対して、人間と同じ姿形を取ってまでして、そこまで身を低くしてまで人間の敵意を全て自分に向けさせ、十字架にかけられた。神はご自分が犠牲の死を引き受けることで、我々人間の罪を赦す道を選んだ。悪に対して善意で、憎しみに対しては愛でもって応えたのである。神が人となったイエスは裏切りたい者には裏切らせ、どんなに嘲笑われ、唾吐きかけられても自分で復讐することなく、すべてを神に委ねられた。正しい人間ではなく、世の憎しみを買っていた徴税人や病人や罪人にこそ歩み寄り、自分を憎む者たちに対しても一切抵抗せず、ただひたすら平和を求められた。教会の主であるイエスがそうであったからこそ、この手紙は世に残された教会に、また我々キリスト者に求めて来る。
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」。悪に染まっているこの世の只中で、まずはあなたがたからそれを始めるようにと。敵に対して、憎しみも敵意も抱くことを主から止められたのだとしたら、そのように私たちも主によって立ち止まらされ、振り向かされ、悔い改めへと導かれているのならば、私たちはどのような態度をとればよいのであろうか。その飢え渇いて苦しんでいる敵の姿を「ざまあみろ」と思うことなら誰だってできる。我々人間が、自ら悪を打ち砕くことなど決して出来ないからだ。しかし神は諦めない。我々を見捨てない。そこであのサマリア人のたとえがフラッシュバックする。ユダヤ人の旅人が同じユダヤ人の追いはぎに襲われ、半殺しにされ、道端で倒れている。同じユダヤ人の祭司とレビ人は無視して通り過ぎるが、最後に通った、普段はユダヤ人から見下され、敵意を向けられ、容赦ない差別を受けていたサマリア人はその怪我人を自分のことのように必死になって介抱する。実はそれは神が起こした奇跡だった。サマリア人だけが神によってはらわたを揺り動かされたからだ。「あなたも行って同じようにしなさい」とイエスはユダヤ人の律法学者に促した。敵であろうともまずその前に彼の隣人であること、敵であるその相手の中にもキリストが生きて働いておられることにあなただって気づくことが出来る。なぜなら神は、奇跡を起こしてあなたをそのように生まれ変わらせることができるからだ。福音という真の光が、どんなに消えかかりそうになっていたとしても神は決して諦めず、その人を見捨てることなく、必ずやその人から光を輝かせる。だから、あなたも、悪に悪を返さず、善を行うように心がけてくれと。イエスはそう言って、サマリア人を見下していたこの律法学者からもいつしか福音という光が輝き始めるよう、彼の頭に炭火を積んでいた。神が彼の剣を鋤に、彼の槍を鎌に、打ち直しつつあったのである。
そして聖書は最後に、畳みかけるようにこう告げる。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
もう皆さんはお気づきだろう。悪に対して人間は悪で報いることしか出来ない。善い方は神お一人しかいないからである。ならばその「悪に負けることなく、善をもって悪に勝て」というのは、悪に走る人間を決して見捨てることができず、諦めることができずにどこまでも振り向かせようとすることを止めない神の力に委ねなさい、ということなのである。神の愛、神の恵みによってこそあなたの中にある悪を乗り越えられる、その時初めて、あなたの中に宿っていた福音の光は輝き始めるのだ、というメッセージなのである。「神に出来ないことは何一つない」。ヨセフと結婚する前のおとめマリアに天使ガブリエルはそう語りかけることによって、マリアの胎内に救い主なるイエスが宿ることを告げ、いかなる闇の力をもってしても消すことの出来ない光を輝かせ始めたのであった。
「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
二千年前のパウロの手紙を通して当時のローマの教会に向けて語りかけられた神は、同じこの手紙を通して今この美竹教会の皆さん一人一人にも語りかけておられる。訴えておられる。切に求めておられる。この世の歴史が、悪に対して悪でもってしか応えられない人間による戦争の歴史の連続であるのならば、できれば、せめて、あなたがたは、すべての人と平和に暮らすように、と求めておられる。世界の平和が脅かされる今のこのような時こそ、平和をもたらすために、「善をもって悪に勝つ」ために人となって降りて来られたこの世における神の歴史、世に平和をもたらすために人間の悪という剣を鋤に、槍を鎌に打ち直し続ける神の働きかけを信じて、その証し人とされたい、され続けたい、そう心から祈り求めたい。