Document ID: /fineweb-2-swissfilter-quality_10-filterrobots/filtered/00310.jsonl.gz/13

アーティスト、オノ・ヨーコの「回復」
日本人アーティスト、オノ・ヨーコはかつて、ビートルズ解散の原因としてバッシングの対象になったこともあった。しかし今では、当時とても強い影響力を持っていた前衛芸術家の1人として徐々に認められてきている。チューリヒ美術館で現在開催中の展覧会では、オノの芸術が進化する様が、幅広い作品例で示される。
- Deutsch Yoko Ono – Meisterin vieler Medien
- Italiano Yoko e l’arte, una questione di Ono-re
- Français Yoko Ono, une artiste à part entière
- English Yoko, an artist in her own-o right (原文)
オノ・ヨーコは今年2月、89歳になった。ポップカルチャーの主流の語り口において、オノはジョン・レノンに魔法をかけ、1969年のビートルズ解散の原因となった、まさに「魔女」だとされた。
英タブロイド紙は、有名ロックアーティストのコンサートの舞台裏で金切り声を上げる、謎めいたアジア人女性としてオノを描写した。60〜70年代のコンセプチュアルアートとポップアート界の外では、オノの作品、そして芸術運動フルクサス（後述）に与えた影響について、ほとんど語られることはなかった。
チューリヒ美術館のヨーコ・オノ展は、オノに対する評価の「回復」に続く形で開かれた。最近公開されたピーター・ジャクソン監督による8時間のドキュメンタリー映画「ザ・ビートルズ：Get Back」も、この回復に一役買っている。同ドキュメンタリーは、ビートルズの最後のパフォーマンスとなった、あの神話的なルーフトップ・コンサートのリハーサル中に撮影された膨大な映像を新たに編集したものだ。
オノはビートルズの日々の仕事に、静かに辛抱強く立ち会った。バンドの創作意欲に水を差すことはなく、ただレノンに付き添っているだけだった。だが、この短いビートルズ時代は、オノの長いキャリアにおける、1つの幕あいに過ぎない。オノは、アーティスト・詩人・パフォーマー・作詞家・歌手・政治活動家という複数のペルソナを兼ね備え、様々な芸術表現形式を横断して活動してきた。
絶えず変化し流れる——フルクサス運動
アメリカ人アーティストでオノの友人でもあるジョン・ヘンドリックスは、swissinfo.chの取材に「ヨーコにはアプリオリ（先験的）に好む表現形式は特になかった」と語った。「ヨーコは常に、その時に必要だった手段を選択した」
今回のヨーコ・オノ展のキュレーションは、フルクサス運動の包括的なアーカイブ構築に取り組み続けてきたヘンドリックスと、チューリヒ美術館学芸員のミリアム・ヴァラディニスが担当した。そのコレクションはギルバート＆ライラ・シルバーマン・フルクサス・コレクションの名でも知られ、2008年にニューヨーク近代美術館（MoMA）に寄贈されている。
フルクサスは、1960年代の現代アートの曖昧な全体図におけるオノの位置付けを正確に評価するための、最初の重要な手がかりとなる。リトアニア系アメリカ人アーティストのジョージ・マチューナスを中心に形成されたフルクサスは、単なる「運動」以上のもの——すなわち、アーティスト、建築家、作曲家、デザイナーなど、多様な表現形式にわたるクリエーターたちの国際的共同体だった。
インターネットが生まれるずっと前に、フルクサスは、韓国、日本からドイツ、英国、米国へと人々をつなぎ、そしてメール・アートを通じて、例えば南米のような、国際的な芸術ネットワークの「周辺」部の人々へとつなげた。メール・アートとは、60〜70年代に郵便を介して行われたアートの交換手段で、特に独裁政権下にある国からの発信、またそうした国々の間でのやり取りに用いられた。
フルクサスの中でも特にオノに関して言えば、観客に「到達する」だけでなく、触り、触られようとする、オノに独自の態度が印象的だ。
「Touch（触る）」はオノの作品では非常に重要な概念だ。「タッチ・ピース（Touch Piece）」、「Touch Poem」といった作品、また「タッチ・ミー（Touch Me）」（プラスティック・オノ・バンド、70年）から「touch touch touch touch me love」というリフレインを含む「Kiss Kiss Kiss」（80年）までの楽曲など、多くの作品タイトルでもその行為が言及されている。
ヨーコ・オノ展では「touch me III」（2008年）という作品で、オノに触ることも可能だ。同作品は、オノの身体のパーツ（口、胸、腹部、下腹部、ふくらはぎ、足）が大理石で複製されており、手を水の入ったボウルに浸した後、望むままにオノに触れるように鑑賞者を誘う。
過激な貴族
オノは1930〜40年代の日本の上流階級の家庭で育ったが、戦後は飢餓と困難を体験した。50年代初めに家族は米国に移り、オノは米国で芸術的訓練を終え、初期パフォーマンスを展開することになる。
オノは、作曲家ラ・モンテ・ヤングとニューヨークのアパートの自室で実験的な音楽イベントを開催し、61年にはカーネギー・リサイタル・ホールで自身初の公開パフォーマンスを行っている。64年には、オノの活動はニューヨークの前衛芸術家らの小さなサークルの外でも話題になり始めていた。
チューリヒ美術館の展覧会で最初に観客を出迎えるビデオ映像、コンセブチュアル・パフォーマンスの「Cut Piece」（64年）では、オノと2本のはさみが主役だ。オノは静かに座り、自分の服を切り取るように観客に促す。このショーは階級、アイデンティティー、ジェンダーの問題に向き合おうとするもので、69年のジョン・ヘンドリックスらによるゲリラ・アート・アクション・グループを含む、異なるアーティストによって、様々な他のコンテクストの中で繰り返された。
「Cut Piece」と同年、オノはアートに対する姿勢の「インストラクション（指示）」を提示する作品集「グレープフルーツ」を出版。ドローイングや絵画における優れた芸術的技術ではなく、アートへの姿勢こそがコンセプチュアルアートの核心だと主張した。
次のステップへ
アジア系女性移民という背景を持つオノの作品が評価され始めたのは、ローレンス・ウェイナーやソル・ルウィットといった白人男性アーティストが同様の作品に取り組み始めた後だと言われている。60年代後半には、オノは新たな芸術表現形式に挑戦したいという欲求が主な動機となり、コンセプチュアルアートの世界から一時離れていた。
ヘンドリックスは「ヨーコはレノンと会ってアート制作を辞めたわけではない」と指摘する。「社会の中で優勢で支配的な文化に挑戦し続けるための、異なる手段と媒体を見つけたにすぎない」
コンセチュプアルアートとミニマルアート（抽象性を高めたシンプルな形態を用い、本質の表現を目指す運動）が世界的に注目され始めた、まさにその頃、オノは次の方向に進んだ。67年にロンドンのギャラリーで出会ったレノンとの関係を通して、オノのアートは音楽と政治的活動を組み合わせたものへと移行する。70年代、オノは夫レノンと共にプラスティック・オノ・バンドの舵を取り、フェミニズムと平和主義のメッセージを広げるために、レノンの人気と音楽産業のからくりの波に乗った。
その頃には、オノは既にポップカルチャーのアイコン（あるいはアンチアイコン）になっていた。レノンの創造的マインドとオノの芸術的ラディカリズムから生まれる彼らの作品は、その挑発性を全く失うことなしに、次第にメインストリームに加わっていく。彼らは常にメッセージ、すなわち女性の権利のため、また戦争一般、特にベトナム戦争に反対するためのメッセージを発した。アムステルダムとモントリオールのホテルを舞台とし、メディアによって有名になった、最初の芸術・政治的ハプニングパフォーマンス「平和のためのベッド・イン」は、その後2人の公の場での活動を方向づけることになる。
オノは創造活動のキャリアにおいて、論争を避けることなく、西洋男性からのまなざしに反抗してきた。そして、長生きしたことで正当に評価される機会を得て、最後に勝利することになる。
最近まで、オノは依然、様々な役割でアクティブに活動していた——レノンの遺産の管理、自身の過去の楽曲の再レコーディング、チャリティーや救済キャンペーンへの参加、そして新たなアート作品の制作——インスタレーション作品「SKY」（青い空と雲の上に、ささやかな「夢」が記される）は、ニューヨークの自宅に近い、地下鉄72丁目駅構内の壁に設置された。
2021年11月、雑誌ニューヨーカーが、オノが「公的生活から引退した」と発表した。ビートルズ・ビジネスについては、現在はオノの息子ショーンがレノン家の代表を務める。
展覧会「YOKO ONO」
展覧会「YOKO ONO. THIS ROOM MOVES AT THE SAME SPEED AS THE CLOUDS（仮訳：ヨーコ・オノ この部屋は雲と同じスピードで動く）」はチューリヒ美術館で5月29日まで開催。オノ・ヨーコの代表作を再現する、多岐にわたるパフォーマンスのプログラムも企画される。End of insertion
（英語からの翻訳・アイヒャー農頭美穂）
JTI基準に準拠
この記事にコメントする