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ホロコースト犠牲者の追悼記念碑、スイスでようやく前進へ
スイスにもホロコースト犠牲者の追悼記念碑を設置すべきだという声がある。こうした声が保守右派を含めて政治的に広く支持されるようになったのは最近のことだ。スイスの公式な追悼政策を巡っては政治対立が長い間続いてきた。ようやく前へ進みだしたのは1990年代になってからのことだ。
スイスにホロコースト記念碑の設置を求める声は四半世紀前から上がっていた。社会民主党所属で欧州評議会スイス代表を務めるアンドレアス・グロス氏は国民議会（下院）議員だった当時、スイスが入国を拒否したことでナチスの絶滅政策の犠牲になったユダヤ人のモニュメントの設置を国に求める動議を提出した。
しかし連邦内閣は、このテーマは複雑なためモニュメントに表現するには不適当とし、要求を拒否。このテーマは歴史と公民の授業で扱うのが妥当と主張した。他の国ではモニュメントを通して歴史を回顧し、ベルリンでは大型のホロコースト記念碑の設計コンペが行われているが、スイスとは関係ないとした。連邦内閣はまた、ドイツでは「計り知れない苦しみを、包み隠さずダイレクトに表現すること」が重視されているが、スイスはそうではないと述べた。
スイスでも戦争の記憶が忘れられたわけではない。1989年ではまだ欧州唯一の国として、1939年の総動員と、それに関連して第二次世界大戦の開始を記念する公式行事が行われていた。総動員から50年を記念して行われたこの式典は「ダイヤモンド」と呼ばれ、軍と政府は第二次世界大戦を祖国防衛の英雄的時代として、誇らしく回顧した。
「アウシュビッツはスイスにない」
それからまもなく、この自国のイメージが崩れ始めた。1990年代になると、ナチスに殺されたユダヤ人の子孫がスイスの銀行口座に残っているその祖先の預金を返還するよう要求。フランス語圏出身で急進民主党所属のドラミュラ連邦閣僚は、この要求は身代金の強要に値するとして拒否した。同氏は1996年末のあるインタビューで「特定の人たちの話を聞いていると、アウシュビッツは本来スイスにあったのではないかと思えてしまう」と嘲笑的に語っている。スイスではまた、いわゆる「休眠資産」に加え、難民政策が議論で大きく取り上げられるようになった。きっかけとなったのが、大戦時にスイスへの入国を拒否されたユダヤ人の名前を探していた、エルサレムのホロコースト記念館「ヤド・ヴァシェム」からの問い合わせだった。
こうした圧力を背景に、スイスは次第に国としての責任に向き合うようになった。1995年末に当時のカスパー・ヴィリガー連邦大統領がユダヤ人迫害者への不当行為を初めて正式に謝罪したことは大きな1歩となった。しかし同氏の謝罪は、「ユダヤ人スタンプ（Judenstempel）」（ドイツ系ユダヤ人の旅券にユダヤ人であることを示す「J」のスタンプを押す制度）の導入にスイスが関わっていたことに対してであり、難民政策全般についてではないと、同氏の報道官は強調した。
連邦議会は1996年12月、第二次世界大戦中のスイスの金融、貿易、難民政策を包括的に検証するため、9人の委員から成る独立専門家委員会を設置。委員長には歴史家のジャン・フランソワ・ベルジェ氏を据えた。しかし、同委員会の報告書に誰もが納得したわけではなかった。国民の一部や保守政党は、調査はあまりに一方的で否定的であるとして、これを拒否し、批判的な所見を相対化しようとした。
これまでを振り返ると、スイスがユダヤ人犠牲者を追悼する各国と徐々に歩調を合わせるようになったのは2000年代に入ってからのことだ。スイスは2004年から他国と同様、アウシュヴィッツが解放された1月27日に犠牲者を追悼している。欧州評議会と国連はジェノサイドの発生を防ぐため、この日を「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」に制定した。
スイスはまた、国際ホロコースト記憶同盟（IHRA）など、ホロコースト追悼を目的とする複数の国際組織に加盟。2020年には当時のシモネッタ・ソマルーガ連邦大統領がホロコーストの生存者と会ったほか、アウシュビッツで行われた追悼式典に出席した。
「追悼政策の破綻」
記念碑の設置が要求されたのは1995年だが、国家的記念碑は今も存在しない。過去の検証は進んだが、国の追悼政策が進展することはなかった。97年には現在提出されている動議と同様、国民議会で記念碑の設置を求める動議が出されたが、当時の連邦内閣はそれに応じなかった。歴史家のトーマス・マイセン氏はこれを後に「拒絶された追悼」、独立専門家委員会のヤコブ・タンナー委員は「追悼政策の破綻」と表現している。
タンナー氏は国によるホロコースト記念碑の設置に賛成してきたが、スイスには他国のように「記念碑を明らかに重視する文化」は存在しないと強調する。連邦制を敷くスイスでは、記念碑や記念の印はどちらかと言えば国民や協会、イニシアチブグループ、基礎自治体、都市、州に委ねられているという。
実際、第二次世界大戦におけるスイスの役割に関する議論が活発になったことを受け、1990年代には記念碑の設置に向けた取り組みがいくつかの地域で行われれた。それまではモニュメントと言えばユダヤ人墓地にある記念碑や石碑が主だったが、個々の政治家や基礎自治体、市民団体が、ホロコーストの犠牲者やパウル・グリュニンガーなど難民支援に従事したスイス人の追悼に取り組むようになった。グリュニンガーは94年に連邦内閣が名誉を回復させた人物だ。
しかし、こうしたモニュメントの大半はあまり周知されなかった。大きな注目を集めたのは、ソロトゥルン州出身芸術家シャング・フッター氏の彫刻作品「ショア」だ。これは98年のヘルヴェティア革命200周年記念行事に際して、ベルンにある連邦議事堂の扉のすぐ前に設置されたもの。国内外の批評家は、そのさびた鉄の立方体を「素朴でありふれた彫刻」と評し、このテーマにそぐわないと批判。さらにフッター氏を「自称預言者」と呼び、迫害された民族のために記念碑を建てる資格はないと断じた。
この騒動に終止符を打ったのが、この作品を「くず鉄のブロック（Schrottklotz）」と呼んだ右翼の自由党（Freiheitspartei、現・自動車党）だった。作品が設置されて数日後、同党の自警団は作品を不法に撤去し、フッター氏に送り返した。その後、この彫刻はスイスのいくつかの都市を巡り、チューリヒのパラデ広場でも数週間展示された。多くの左派と同様、社会民主党所属のパウル・レヒシュタイナー下院議員は、フッター氏の作品は「スイスの歴史で最も複雑な時代を、当局の意向に沿って輝かしいものにする試み」と対照をなしているとして高く評価した。
スイスには現在、ホロコースト関連の記念碑や顕彰碑が54カ所ある。しかし、こうしたモニュメントや遺物は大規模なものではなく、地方にひっそりと存在しているだけだ。ほかには、国家社会主義の犠牲者を追悼したつまづき石が10個存在する。同様のものは他国にもあり、欧州全体では追悼の形として定着している。スイスには2013年に初めて設置され、最近ではある協会がつまづき石の普及を図っている。
記憶と忘却の狭間で
国家社会主義の犠牲者追悼記念碑の設置を求める動議が昨年2つ提出されたことで、国によるホロコースト記念碑設置への道が開かれる可能性が高まった。記念碑の設置に幅広い支持があることから分かるように、スイス国内ではこの15年間で、第二次世界大戦中の自国の役割に対する見方が和らいできた。はたして保守右派の国民党を代表する有力政治家が、アルフレッド・ヘール下院議員と共に、記念碑設置を支持するかは気になるところだ。ヘール氏は前出の動議の一方を提出した人物。所属先の国民党は、独立専門家委員会を激しく批判し、同委員会が発表した難民に関する報告書を拒否してきた。
ただ、幅広い政党が記念碑設置を支持することについては、ホロコースト記念碑を専門とする米国人ユダヤ研究者のジェームズ・E・ヤング氏の警告が思い出される。同氏は、大規模な国家的記念碑は通常、長い議論の末に作られるものであり、ある種の終止符を打つものと語る。そのため、こうした記念碑は結果的に記憶を促すよりも、忘却を助長する可能性があるという。国家社会主義者の残虐行為を自らの体験から語ることのできる生存者がじきにいなくなれば、忘却が一段と進むことは明らかだ。
この点で、あるグループが昨年、連邦内閣に提出したホロコースト記念碑の構想は歓迎すべきものだろう。同グループは、人種差別や反ユダヤ主義の影響に今どう対応し、そして将来的にどう対応すべきかが学べるよう、記念碑に資料館と教育施設を併設することを提案している。
独語からの翻訳：鹿島田芙美
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