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２０２４．２．２５．主日礼拝
イザヤ10:1-4、マルコ3:1-6
「受難への一歩」浅原一泰
災いあれ、不正な掟を定める者、過酷な判決を書き記す者に。彼らは弱い者の訴えを退け、私の民の苦しむ者から権利を奪う。寡婦を餌食とし、孤児を獲物とする。刑罰の日、遠くから来る嵐に対して、あなたがたはどうするつもりなのか。誰に助けを求めて逃れるのか。どこにあなたがたの栄光を残すのか。捕らわれた者たちの中で身をかがめ、殺された者たちの中に倒れるだけではないか。それでもなお、主の怒りは去らず、その手は伸ばされたままだ。
イエスは会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人を癒されるかどうか、うかがっていた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして、人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、そのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、すぐにヘロデ党の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談を始めた。
マーティン・ルーサー・キングの自伝に「自由への大いなる歩み」という書物がある。お読みになった方もあるかもしれない。公民権運動については皆さんも知っておられると思う。黒人に対する差別、侮蔑が著しかった当時のアメリカにおいて、バスの中で座れるのは白人だけ、どんなに年老いた、身も心も衰えてしまっているような黒人であっても座ることは許されず、白人の若者は無視をし、白人の幼気な子供が席を譲ろうとするとその親がその子を押さえつけて幼子の善良な思いを踏みつぶす、ということが罷り通っていた。黒人を差別するバスに乗ることを止めよう。キングの呼びかけによって始まったボイコット運動は次第に広まり、それによって次第にアメリカの社会が変化していくことになるのだが、その運動が実際に動き始めるまでには、幾重にも乗り越えなければならない壁が立ちはだかった。その壁の一つは、思わぬところから現れた。同じ黒人同士の間の亀裂だったからである。この運動が白人から反対されるのは火を見るよりも明らかだったが黒人の中に、というか同じ神に仕える黒人の牧師仲間の中にこの運動に賛同しない者達、白人にこびを売る者や、白人のご機嫌を損ねないように大人しくしていた方が賢明だと考える現実主義者が多くおり、それがキングの悩み苦しみであったという。
一方、運動に賛同している多くの民衆の中にある老婆がいた。彼女はバスに乗らずに歩道を杖をつきながら歩いていた。たまたま通りがかったタクシーの黒人の運転手が彼女に声をかけた。「おばあちゃん、乗んなよ、無理して歩くことはないよ」と。その時、老婆はこのように答えた。「私は私自身の為に歩いてるんじゃないよ。私の子供や、私の孫の為に歩いているのさ」と。キングに賛同しない牧師達とこの老婆と、一体どちらに人間としての良心があるだろうか。目指すべき理想の実現のために自分を捨てて、身を献げていたのはどちらであろうか。逆に自分の立場を守ることだけを優先させていたのはどちらであろうか。答えは明らかであろう。
今から六十年近く前のアメリカでのこの光景は、場所を変え、登場人物を変えて、今でも繰り返し起こっているように思う。問題が大きくならないように、周囲の気を損ねないように、矛盾に満ちた現状に甘んじようとする多くの人間がいる。より正しい理想や目標を目指して動き出そうとする者はいつも少数であり、それに対して立ちはだかる者らは必ず現れる。一方でそんな面倒なことには関わりたくないと無関心を決め込む多くの人々がいる。
イエスの時代にもそれと同じような光景が広がっていたようだ。ある安息日に、ユダヤ人達が神にささげものをするべく集まっていた会堂にイエスが入っていった時の話が先ほど読まれた。そこには片手の萎えた人がいた。しかし誰もその人の為に動こうとはしなかった。理由は、その日が安息日であったからである。安息日に何もしてはならない、という律法の決まりがあり、その決まりが会堂にいた人達を身動きできなくさせていた。でも律法が彼らを縛っていたというのは表向きの理由で、本当はそれよりも、律法を破らないことによって自分が救われたい、という自分本位の思いがその人達を縛っていたと私は思う。そのような者達にとっては、目の前に苦しんでいる人がいる、その人が困っている、ということよりも、自分の安全を守ることの方が大切なことだったのだ。目の前でどんなに人が苦しんでいても、自分が救われることしか頭になかったわけだ。
しかもその中に、イエスがどのように振る舞うかをチェックしていた連中もいた。彼らは安息日に手の萎えた人にイエスが何かしようものなら、直ちに祭司に密告してイエスをつるし上げようと考えていたようだ。それも、そうすることによって何かポイントを稼ごうという魂胆からであっただろう。そうする方が自分にとってメリットがあると思っていたからであろう。そんな連中に人間としての良心があるのだろうか。理想の実現の為に自分を捨てて、身を献げることなどそんな連中にできるわけがない。
ではこの会堂が、もし今現在の教会であったとしたらどうであろうか。誰もが自分本位の思いに縛られて教会に集まっているとしたらどうであろうか。神の国の完成を待ち望む、という理想も目標もない。その為に自分を捨てて身を献げる、という考えもない。誰もが自分のメリットしか頭にない。礼拝を守るのも献金をするのも奉仕をするのも自分が救われる為にするのであって、メリットにならないのであればしない、という人間しか教会に集まっていなかったとしたら。そんな教会のただ中にイエスが入って来られたら何を思うであろうか。どんな言葉を発するであろうか。
先々週1４日の灰の水曜日からレント、受難節に入った。レントをどんな思いで過ごしていくのか。神を知らない多くの人達には関係がない。アドヴェントやクリスマスを世の中がどう浮かれ騒ごうともその人達の責任ではないのと同じように、世の人々がレントを知らなくても彼らの責任ではない。しかし我々クリスチャンは違うと思う。レントの意味を噛み締めて歩む責任が我々にはあると思う。神がそのことを我々クリスチャンに求めておられると思うし、我々がその神の求めを受け止めて証しする者とならない限り、世の人々は変わらないだろう。
先ほどの聖書でイエスは、会堂の真ん中にあの片手の萎えた人を立たせてこう叫んでいた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」その直後にイエスは怒りだした。そしてひどく悲しんだ。理由は、周りの人間達が、先ほどのイエスの叫び、イエスの問いかけに対して黙り込んだからである。無関心を決め込んでいたからである。それは人々の関心が、律法の文字の奥にある神の御心が何かということよりも、自分が間違いを犯さないこと、自分が救いから漏れないでいることにしかなかったからである。しかしなぜそこまでイエスは怒るのか。なぜ悲しむのか。苦しんでいる人がいても、自分のメリットにならないなら見て見ぬ振りをする。不正が行われていようと、自分が損をするならそれを黙認する。それほど人間の心が麻痺してしまっていたからではないだろうか。世の人々ではなく、神を礼拝する為に会堂に集まってきていた信者達の心がそこまで、鈍感になってしまっていたからなのではないだろうか。神を信じるのもあくまで自分のメリットになるから、と考える人間ばかり、滅ぶべき筈のわが身を神が憐れみ、振り向かせて下さったからこそ生かされている、という神の恵みを踏みにじっている人間ばかりだったと思う。そこに、キングのいう自由への大いなる歩みならぬ、神の国への大いなる歩みがあるだろうか。待ち望むべき大いなる希望があると言えるであろうか。実に空しくはないであろうか。もしそこに預言者イザヤがいたら、あの言葉を叫んでいたに違いない。「災いだ、偽りの判決を下す者、労苦を負わせる宣告文を記す者は。彼らは弱い者の訴えを退け、わたしの民の貧しい者から権利を奪い、やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。刑罰の日に向かって、襲ってくる嵐に対して、お前達はどうするつもりか。誰に助けを求めて逃れるつもりか。どこにお前達は栄光を託そうとするのか。」そこにいた者達は神の言葉をねじ曲げ、神になり代わって自分で自分に都合の良い判決を下し、神に栄光を帰するのではなく自分の栄光を誰もが求めていた。
レントの頃になると教会では必ず、イエスは私達の為に十字架にかかって下さった、と唱えられる。ただ、もしかしたら私達は、そう言って自分で自分を安心させようとしてはいないだろうか。神以外の誰も、人の心に安らぎを与えることなど出来ないのに、何時しかイエスの十字架を、自分の心を落ち着かせる特効薬へと貶めてしまってはいないだろうか。そんな風にしか考えていないのなら、我々にとってレントは何の意味もない。我々クリスチャンが、また世の教会がそうであるなら、世の中の人々はなおいっそう、何がレントかも知らないまま死を迎えるであろう。しかし、である。もしそうであるなら、今このときも、この教会のただ中で、イエスは怒っておられる。悲しんでおられるのではないだろうか。そして、自分の身を守ることしか考えず、人の痛み苦しみを他人事としか思わない我々の腐りきった心を奮い立たせる為に、イエス自ら、たとえ安息日であろうと手の萎えた人を癒される。弱い人に寄り添い、助けを必要としている人に歩み寄るのである。神の御前においては、一人一人がかけがえのない命であること、見捨てられるべき人間など一人としていないことを神の子であるイエス自らが身をもって証しされるのである。それで罰せられることになっても、イエスに殺意を抱く者達が動き始めることになっても、誰もが自分のメリットになる限りにおいてしか苦しんでいる人に手を差し伸べない現実社会のただ中で、イエスはそのような者達を怒りつつ、悲しみつつ、自分を捨てて弱い者、苦しんでいる者に手を差し伸べられるのである。そうしてイエスは人間としての良心を、世に流され腐りきってしまっていた彼らに覚醒させようとした。あの黒人の老婆の如く、自分の為の自由を求めて歩くのではない。子や孫の為に歩く。そのことを私達に置き換えて考えるならば、誰もが自分の救いしか考えない連中の中でも、神の国への大いなる歩みを自分の為ではなく子や孫の為に、明日を受け継ぐ世代の為に歩く。まだ神を知らない人々や敵の為にも歩く。たとえ我が命尽きるとも。それほどの大いなる理想、大いなる希望をイエスは我々クリスチャンに抱かせようと、求めているのではないか。それほどの希望を与えて下さった神の御前で、自分の栄光を追い求めることを止めてひたすら神の栄光を慕い求める者へと整えられつつ互いに愛し合い、助け合う。苦しむ者と共に苦しみ、泣く者と共に泣く。それが神に造られた者としての人間の尊厳であり責任であろう。人が安息日の為にあるのではない。律法を守って、間違いを犯さない為に人が生きているのではない。安息日は人のためにある。そうイエスは言われた。人が人らしく良心をもって生きる為に神は主の日ごとに我々を礼拝へと召し出されている。イエスの十字架も、その人がただ赦される為にあるわけではない。神に似せて造られた命としての責任を貫いて神を愛し、隣人を自分のように愛する生き方、それこそが真の神の民としての生き方であり、神の恵みの証し人たる生き方であることを示すため、そのような生き方へと我らを生まれ変わらせるためにイエスは、殺意を抱く者がいるのを百も承知の上で、あの萎えた人を安息日に癒し、十字架へと進まれたのだと思う。
レントは罪の赦しの為、自分が救われるという自己満足の為になくてはならない時なのか。それとも、神の国に命ある者全てを迎え入れて生かす、という神の御心の為に、その実現という大きな目標の為に苦しみを背負われたイエスに倣って、苦しみから逃げずに、神の愛と恵みに応えていく誠実な生き方を貫くか。私達は問われている。自分のためではなく子や孫のために杖を突きながら歩いたあの老婆のように、自己満足の為ではなく、大いなる目標の為に自分を捨て、身を献げるならばその人には、十字架に向かうイエスを神が支え続けたように、必ずや神とイエスがその人を固く支え、困難を乗り越えさせてくれるであろう。神がその人を、そのように神の恵みに応える生き方へと、必ずや生まれ変わらせて下さるであろう。そのように、目先の困難から逃げることをせず、神の国で互いに愛し合って生きる喜びの日を目指して、その為に今、被らねばならない苦しみに耐えつつ、受難の主イエスに従っていく。その第一歩を、ご一緒に踏み出したいと願う。