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2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
◎聖なる祭司
聖書の中で、クリスチャンは聖なる祭司と呼ばれています。一年のはじめにあたって、新約の祭司である私たちはどのような存在なのか、その役割、聖書の求めている生き方をいっしょに考えたいと思います。
Ⅰ．主のもとに来なさい
日本語の聖書では「主のもとに来なさい。」と訳されていますが、原語では「主のもとに来つつ・・・」となっています。ここでは使われている「来る」は旧約聖書（七十人訳）の中では、神のことばを聞くために神に「近づく」、あるいは、幕屋の中で神の前に出ていけにえをささげるために「近づく」、のように礼拝の中で神に「近づく」時に使われる動詞です。旧約の時代は選ばれた祭司が、定められた方法で、定められた時にしか神様に近づくことは許されていませんでした。しかし、今はキリストの犠牲の血によってあがなわれた者はだれでも自由に神様の前に進み出ることができるのです。
クリスチャンとして成長するためには、日々、神様に近づき、神の霊である聖霊とともに歩むことが求められます。神様は「聖霊の宮」である私たちクリスチャンの内に住み、ともに歩んでくださる方です。私たちクリスチャンは言わば「歩く神殿」です。私たちは、私たちが望むのであればどこででも聖霊を通して、神様と親密な交わりを持つことができるのです。忙しさの中にあっても、神様に耳をかたむけて聞き、心を向けて祈り、み言葉に親しみ、賛美し、そして礼拝する人となっていきましょう。
聖霊とともに歩む
Ⅱ．生ける石として、霊の家に築き上げられなさい
これも命令形になっていますが、原語では「あなたがたは築かれつつある」という表現で語られています。ここでは「霊の家」は教会を指しています。他の個所では「神の家」とも表現されています。目に見えないという意味ではなく、聖霊がご支配されている、あるいはお住まいになっているという意味です。一人ひとりのクリスチャンに対しては「聖霊の宮／神の神殿」という言葉が使われています。この部分も命令形でなく、「あなたがたは霊の家に築き上げられつつある」と訳すことができます。キリストの内にとどまっているならば、キリストの体である教会につながれているならば、私たちは築き上げられつつあるのです。地域教会はたくさんありますが、キリストのからだと呼ばれる教会は一つしかありません。私たちがクリスチャンとして成長し建て上げられるためには、目に見えるかたちで地域教会につながれている必要があります。
私が、結婚前にアメリカに留学していた時は、いろいろ教会見学はしましたが、1年半ほどの間は日系人やアジア系の人たちが集っている小さな教会で礼拝を守っていました。また、留学生の中にもクリスチャンが大勢いて、彼らとの交わりにもずいぶん励まされました。帰国してからは、日本に来ている宣教師たちとの関りや、いろいろな栗ちゃんのグループ、海外の教会との関りも増えていきました。イエス様を信じている人々とは文化が違っても、神の家族として心が通いますし、お互いに励まし合うことができます。そのような地域教会の枠を超えた交流で、自分のクリスチャンとして人生は豊かにされてきたように思います。クリスチャンにとって、神の家族の一員であること、地域教会が他の地域教会やクリスチャンのグループと交流を持つことは本当に大切です。私たちは一人では成長できないからです。
なぜキリストのからだである教会につながれていなければならないか、二つの理由があります。一つはつながれている私たちが教会を通して養われる霊的必要を持っているから。もう一つは、私たち一人ひとりにキリストのからだにある必要を満たす役割が与えられているからです。神様はあなたを通して他の人々の必要を満たそうと願っておられるのです。それはキリストご自身の必要に答えることでもあります。
私たちが霊の家、神の家、神殿です。
Ⅲ．聖なる祭司として、霊のいけにえをささげなさい
旧約時代の祭司は、礼拝のために選ばれた人、神のことばを聞くために神殿に入ることを許された人、いけにえを捧げ、神の民のために取り成する勤めを負った人でした。聖書は、キリストによってあがなわれた者である私たちクリスチャンには皆、霊的な意味で聖なる祭司としての立場が与えられていると教えています。祭司は、神の働きのためにささげられた人です。
祭司は神様にささげられた人 神様と近づくことが許されている人 いけにえをささげる人
聖書は私たちクリスチャンが聖なる祭司であることを教え、「霊のいけにえ」をささげるように命じています。私たちがささげなければならない「霊のいけにえ」とは何でしょうか。いけにえ（供え物）に関して、新約聖書を読むと、ローマ人への手紙１２章１節では、私たちのからだを「生きた供え物（いけにえ）」としてささげ、へブル人への手紙１３章１５節では「賛美のいけにえ」をささげるように教えています。また、私たちに与えられている物質的な祝福を神様にささげることもいけにえであると言えるでしょう。いけにえには犠牲が伴っています。しかし、私たちの払う犠牲は、私たちが救われるための犠牲でも、神様の前に正しいものとされるための犠牲でも、神様に受け入れてもらうための犠牲でもありません。それはもう、神の小羊であるキリストがご自身のいのちを犠牲にすることによって十字架の上で成し遂げておられるからです。
イエス・キリストを通して、丸ごと自分自身をささげる
神様が私たちに求めておられる「霊のいけにえ」とは、私たち自身です。私たちが私たち自身をささげる時に、キリストの体の欠けたところが満たされます。私たち一人ひとりが満たさなければならない場所がキリストの体の中にあるのです。私たちはもうすでに買い取られ、私たちの所有権はキリストのものとされています。救いも、平和も、勝利も、他のすべての祝福も私たちのためにご自身をささげてくさったキリストの内に隠されています。私たちがその祝福を共有したいと願うのであるなら、私たちを丸ごと買い取ってくださったイエス・キリストに自分自身を丸ごとささげていくことです。