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士師記7：1～7、Ⅰコリント1：26～31「勇者、ギデオン」
2022年9月11日（左近深恵子）
イスラエルの民は、ファラオによって奴隷とされていたエジプトの地から、神さまによって救い出されました。荒れ野の旅の間も神さまは民を守り導かれ、シナイの山で、モーセを通して民と契約を結んでくださいました。それは、ただ神さまの恵みによってもたらされた出エジプトの救いを前提に、神さまが民の神となってくださると、民をご自分の民としてくださるとの契約でした。そして、神の民が守り行うべき律法の中心として十戒を与えてくださいました。その後も神さまに導かれながら民は荒れ野を進みました。神さまがご自分の民に与えてくださったカナンの地を目前にモーセは死に、モーセの後継者であるヨシュアが民を率いてその地に入りました。ヨシュアは、カナンの地にあっても、神さまが契約によって結んでくださった神さまとの関係を、民が見失うことが無いように、これまでの神の民の歴史を民と共に振り返り、主が導いてこられたことを再確認します。そしてこの神さまにお応えしていくことを民に求めます。民は、これからの日々も神さまに仕えていきますと、私たちは神さまを礼拝しますと、新たに宣言しました。
しかしヨシュアの死後、ヨシュアに率いられてカナンの地に入った世代も死に、カナンの地生まれの新しい世代が興ると、彼らは主の契約に生きることから外れてしまいます。上の世代から、自分たちがカナンの地で暮らすようになるまでに主がどのようなことを為さってきたのか、聞いていなかったわけではないでしょう。しかし、自分たちが主から受けた恵みの中にあることを忘れ、主から特別な契約が与えられている神の民であることの意味を見失います。彼らは、主の目に悪とされることを行うようになったと言われます。周囲の民が崇拝している、豊作という豊かさをもたらすと言われる偶像の神々に、ひれ伏すようになったのです。目に見えない神さまよりも、姿形を持つ偶像に魅かれ、真の豊かさや力を見失います。やがてイスラエルは、近隣の民の攻撃に苦しむようになります。それは、主を忘れ、主から離れ出た人々を、主がそれらの民の手に渡された、主の裁きだと士師記は語ります。そして神さまは、周囲の民の脅威に曝されているイスラエルの民を憐れみ、周囲の民からイスラエルを救うために、士師と呼ばれる人々を立てられます。この士師たちの物語が士師記です。裁かれるのも、周囲の民の脅威から救われるのも、イスラエルの民を、神さまを神とし、神さまの民として生きる、神さまとの交わりの中へと立ち帰らせるためであるのです。
士師と呼ばれる人々は、どのような人たちなのでしょう。「士師」という言葉は「裁く」という意味の言葉が元になっており、「裁き人」と訳すことができます。この名の通り、士師たちの中には争いごとを調停する働きを特に担った人々がいました。そしてまた、敵が攻めてきたときに軍事的な指導をする人々もいました。聖書に女性も含め12人の士師の名前とその働きが記されています。士師の務めはその血筋に受け継がれるものではなく、必要が生じるとその都度、神さまが一人の人を士師として立てられたのでした。
ギデオンも士師の一人です。ギデオンの時代も、イスラエルの民は危機の中にありました。イスラエルの民は再び主の目に悪とされることを行い、主は彼らを、南方のミディアンという遊牧の民の手に渡されました。ミディアン人は、アマレク人などと共に攻め上ってきて、バッタの大群が作物を食べ尽くしていくように、イスラエルの民が育てた作物の実りや家畜を荒らし、後には何も残されず、人々は非常に衰えました。この略奪者たちを避けるため、イスラエルの人々は山の隠れ場や洞窟、要害に身を隠しました。人々が主に助けを叫び求めると、主は先ず一人の預言者を通して、主の救いによってこれまで紡がれてきたイスラエルの歴史と、そのみ心に背いてきた民の罪を告げられました。そして、ギデオンを立てられたのです。
ギデオンはその時、酒ぶねとも訳される、ぶどうの実を絞る大きな桶のような絞り場の中で、小麦の脱穀をしていました。小麦を略奪しに来るミディアン人の目を避けるためでした。いつ襲撃されるかとびくびくしながら、慎重に脱穀作業をしていたこの青年に、神さまは「勇者よ」「力ある勇士よ」と呼び掛けます。イスラエルをミディアンの手から救うために、あなたを遣わすと告げられます。するとギデオンは、自分は部族の中で最も弱い氏族の、その中でも最も年若い者だからと、しり込みします。主は、「私があなたと共にいる」と、ギデオンを招き続けます。
神さまが自分を用いられることをなかなか受け入れられないギデオンは、執拗とも言えるほど繰り返し、神さまにしるしを求めます。「勇者」と呼ばれる者たちに私たちが思い描くイメージとギデオンは、どうも重なりません。豪放磊落で逞しいわけでもない、好戦的で荒々しいわけでもない、沈着冷静で動じない人でもない、自分の人生に神さまが思いもよらない道を示されたことに戸惑い、恐れる、どこにでもいるような人です。そのようなギデオンが求める度に、神さまはしるしをもって、ご自分が共におられることを示されます。そうしてようやく、生ける神が自分においてみ業を起こされるのだと、受け止めることができるようになったギデオンに、神さまが最初に命じられた戦いは、家族とその町の礼拝を回復することでありました。ギデオンは神さまの言葉通り、父のものである異教の神の祭壇を壊し、神々の偶像を切り倒し、神さまを礼拝するために祭壇を新たに築き、捧げものをささげます。家族や町の人々の中に入り込んでいた偶像崇拝を取り除き、真の神さまとの正しい関係へと立ち返るために、礼拝の場を整えました。こうしてイスラエルの内なる破れのために戦い、礼拝を捧げ、それからギデオンはイスラエルの外なる敵との戦いへと向かうのです。
神さまに導かれ、ギデオンは同胞に呼びかけて、戦いのために人を集めます。その数は3万2千人に上りました。ギデオンはこの民を率いてエン・ハロドのそばに来ました。谷の向こう側にはミディアン人と東方の諸民族が陣を敷いていました。ミディアン人たちの軍勢について7章の先では、バッタのように数多く、ラクダも海辺の砂のように数多く、数えきれなかったとあります（7：12）。更に8章まで読み進めると、その数は13万5千人であったことが分かります（8：10）。ギデオンはこの強大な軍勢と対峙するのです。
ギデオンやイスラエルの人々には、谷の向こうの相手の数が実際のところどれくらいなのか、分からなかったかもしれませんが、イスラエルの数は相手の四分の一にもなりません。それでも3万2千人から成る自分たちの軍勢を見回し、戦いの備えはできたと、いよいよ戦いに向かおうとしたその時、神さまはギデオンに「あなたの率いる民は多すぎる」と言われます。神さまには、二つの軍勢の数の差は明らかでありました。圧倒的にミディアンの方が多いのです。しかし神さまは、二つの軍勢の数の差を問題にしておられません。イスラエルの民そのものを問題にしておられます。ギデオンの率いる民は多過ぎるから、ミディアン人をイスラエルの手に渡さないと言われます。もし渡せば、イスラエルは「自分の手で自分を救った」と、神さまに対して驕り高ぶることになる、そうなってはいけないと言われます。
ミディアンに苦しめられてきたイスラエルの民にとって、敵はミディアンの民でありました。その敵を退ける戦いが必要であり、その戦いに勝利するのに必要なのは兵士の数と力であったでしょう。けれど神さまがイスラエルの民に求められた闘いの相手は、自分の手で自分を救おうとする在り方でした。神さまは、ミディアン人をギデオンの手に渡さないと言われますが、それはイスラエルの数が少な過ぎるからではなく、多過ぎるからです。イスラエルの数が少なくても、神さまはミディアン人をギデオンに渡すことができる方です。しかしそうされないのです。そうしてミディアンを退けて、ミディアンの脅威から解放されても、民は真の救いを知ることができないからです。寧ろ自分たちの力で勝ったのだと思い、神さまの恵みを心の中に受けいれなくなり、神さまの恵みの中に生きることから離れ出てしまいます。そうなってはいけないと、神さまはイスラエルの人数を減らさせるのです。
神さまは二段階に分けて、兵士の数を減らさせます。最初に、恐れおののいている者たちを帰らせるように、ギデオンに言われます。なぜ恐れおののいている者たちなのでしょうか。互いの数の差に掻き立てられる恐れやひるむ思いは、主がこの戦いに共におられることに信頼しきれないところから来るからでしょうか。恐怖で覆われている心は、神さまのご意志に対して開かれなくなってしまうからでしょうか。「恐れおののく者は皆帰るがよい」と告げられて、陣を後にして帰った人々は2万2千人、残ったのは1万人でした。残った人々よりも帰った人々の方が、ずっと多かったのです。
ギデオンと共に残った人々は、当初の三分の一以下になりました。ここで更に神さまは数を減らさせます。今度は神さまご自身が、水辺でどのように水を飲んだのか、その飲み方によって、残る人々と帰る人々を分けられます。しかし、飲み方の違いは、聖書の元の言葉において曖昧です。飲み方の違いで帰る人、残る人を分けるのはなぜなのかも、明確にされていません。様々な解釈が可能です。ただ私たちは、神さまが数を減らすのは、民が自分の手で自分を救ったと神さまに対して驕り高ぶることがないためであることを知っています。帰る人、残る人を分ける違いや理由が私たちに分かりづらくても、このことははっきりしています。ギデオンと共に戦うために残る人も、帰る人も、家や畑で日常を守りながら彼らの帰りを待っている人も、神さまから特別な契約を与えられている民であることの意味を見失い、目に見える異教の祭壇や偶像にすがり、神さまの恵みに背を向けてきた自分たちのために、神ご自身が自分たちを救う戦いを戦われるのだと、受け止めることが求められています。兵士や武器の数の多さ、それらを用いる腕力や謀略があれば、戦場における勝利は手に入れることができるかもしれませんが、救いはそれらによって手に入れることができません。救いは神さまが与えてくださるものです。この救いを与えてくださる神さまの恵みにひたすら依り頼み、神さまへの信頼と言う土台に立ち帰り、その土台に立ち続けるために、ギデオンと共に残る者もそうでない者も闘うのです。水の飲み方の違いによって神さまは1万人の中から、9,700人を帰され、残ったのは僅か300人でありました。この軍勢に、神さまはミディアン人を渡されたのです。
ギデオンは士師として召し出された時、自分には出来ないと、自分の家系は小さく弱いのです、自分はまだ若過ぎますと言い張りました。しかし神さまはギデオンを「勇者」と呼ばれました。世がそのような小さな氏族から勇者が出るとは思っていないところから神さまは選ばれ、世が勇者としては不十分だと思う年齢のギデオンを「勇者」と呼ばれました。ギデオン自身の資質がギデオンを勇者にするのではなく、神さまのみ心が、そしてそのみ心を受け入れ、お応えするギデオンの信頼が、ギデオンを勇者にしていきます。神さまが共にいてくださることが、み心に従い、神さまが示された働きを担うギデオンの拠り所であり、力でありました。ギデオンは、神さまによって勇者とされ、士師として活躍することへと導かれました。
コリントの信徒への手紙Ⅰで述べられていますように、神さまは世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者、軽んじられている者、無に等しい者を選ばれ、召される方であります。それは誰一人、神の前で誇ることがないようにするためだと言われています。人が知恵あること、力あること、地位のあることを、神のみ前で誇ることが無いようにするため、神さまは世が選ぶようには選ばれないのです。人が自分の知恵や力や地位を誇ることがあってはならないということは、人は自分の愚かさ、弱さ、取るに足りない者であること、軽んじられていること、無に等しい者であることを誇ることがあってはならないということも言えると思います。人には他者より優れていることを誇ろうとするところがあるだけでなく、他者より足りないと思うことに固執して、寧ろそこを拠り所にし、その中に留まっていようとするところもあるのではないでしょうか。強さだろうと弱さだろうと、自分の手を誇り、自分の手で自分を救えると思い違いをし、救いに神さまを要らないとしてしまいたがる私たちです。しかし神さまは、誰一人神さまのみ前で誇ることが無いようにするために、その人の資質によってではなく、ただ神さまの恵みに拠って救ってくださいました。人の力に拠ってではなくキリストの十字架と復活によって、私たちをキリスト・イエスに結び付けてくださいました。このキリストが私たちの知恵となり、義となり、聖となり、贖いとなられたのですから、私たちには何も欠けることがありません。ただ主を誇るのです。
数の少なさがイスラエルの民を弱くしたのではなく、兵士の多さがイスラエルの軍勢を強くしたのでもありません。有能で強力な資質を持つ人々だけが、神さまの救いのみ業のための働き手に選ばれたのでもありません。ただ恵みによって特別な契約をイスラエルに与えてくださり、共にいてくださることを幾度も告げてくださった神さまに依り頼む、その信頼が、神の民を強くします。ただ恵みによってイエス・キリストを与えてくださった神さまへの信仰が、私たちを強くします。何よりも礼拝において、私たちは強められます。生ける神さまとの交わりである礼拝において、私たちの信仰は満たされ、強められ、養われ、礼拝からそれぞれが取り組むところへとキリストと共に歩み出すことができます。神さまの知恵となり、義と聖と贖いとなられたキリストと共に出で行くことのできる平安を、主に感謝いたします。