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スイス東部ザンクト・ガレン出身のマルグレート・フスバーンは、1920年代にパイロット免許を取得した、スイス人女性パイロットの草分けだ。22歳で最高飛行高度記録を樹立したのに続き、小型飛行機でアフリカにまで飛んだ。このコンテンツは 2021/09/26 06:00
マルグレートの人生を変える出来事が起こったのは、1928年春のある晴れた日のこと。当時20歳だった彼女は、田舎道をハイデルベルクの自宅に向かい、時速60キロメートルで車を走らせていた。すると後ろで「ブーン」と小さな音がして、それはみるみるうちに轟音（ごうおん）に変わった。
マルグレートが空を仰ぐと1機の飛行機が飛んでいる。飛行機は彼女の車を追い越し地平線の向こうに消えて行った。逸話によると、マルグレートはその場でとっさに進路を変更し、シュツットガルト近郊のベブリンゲンに向かったことになっている。ベブリンゲンには、当時としては珍しく女性を受け入れる飛行学校があった。
訓練官の後ろで生徒用の操縦かんを握ったマルグレートが初飛行に臨んだのは、それからわずか数日後だった。そしてその数週間後の1928年8月にはもう、優れた成績で免許を手にしていた。ただし、そのパイロット人生を通じて彼女が飛行のテクニカルな面にのめり込むことはなかった。
自著「Frauen Fliegen（仮訳：空飛ぶ女性たち）」の中でマルグレートは、「私は根っからのパイロットだ。ただし、自分のあらゆる弱点をひっくるめて、女性であるという制約はある」と述べている。華奢な体格でブロンドのマルグレートがパイロットだということ信じる人はほとんどいなかった。
しかし、20世紀初めは、マルグレートを始め冒険心に満ちた女性たちがジェンダーの固定観念を覆すように次々と空に飛び立った時代だった。マルグレートに先んじたスイス人女性は、1914年にハンブルクで飛行免許を取得したエリーゼ・ハウク1人だけだ。
しかし、そんな風穴を開けるようなムードも長くは続かなかった。1933年にナチスが政権を握ると、ドイツの当局は女性の飛行免許を取り消した。第2次世界大戦が勃発すると、スイスでも同様の措置が取られた。
1907年7月14日、マルグレート・ビルヴィラーとして裕福な家庭に生まれた彼女には、パイロットになるための条件が揃っていた。
子供の頃から活発だったマルグレートは、弟と一緒に市北部の丘陵ローゼンベルクをローラースケートで滑り下りたり、愛犬エアデールテリアのローバーに小さな手押し車を引かせて家の周りを走り回ったりした。大きくなると乗馬やテニス、スキーなどが趣味に加わり、早くも18歳で車の運転を始めた。
彼女がパイロットになれたのは、好奇心や野心の他に一族の富のおかげでもあった。16歳の時に繊維会社経営の父親を亡くしたマルグレートは、遺産相続により経済的に独立していた。それは男女の伝統的役割から脱するのに好都合だった。
1928年1月、マルグレートはドイツ人エンジニアのハインツ・ヴェルナー・フスバーンと結婚し、南独ハイデルベルクで新婚生活を始める。妻に続きハインツもパイロット免許を取得し、2人は一緒に飛び始めた。メディアは彼らを「空飛ぶ夫婦」と呼んだ。コックピット内では軍隊でのパイロットとナビゲーターの呼び方を真似て、お互いを「エミール」「フランツ」と呼び合った。
マルグレートがその名を歴史に刻んだのは免許取得から間もなくのことだ。1930年4月、クレム社製の軽飛行機で高度4900メートルに到達した彼女は、このクラスの飛行機が持つ高度世界記録を更新した。
当時は様々な課題をクリアして飛行技能を競うことが盛んで、ここでもマルグレートはめざましい活躍を見せた。高度記録樹立からわずか1カ月後にボンで開催された競技会に参加すると、「高精度着陸」種目で1位、「郵便袋投下」で2位という成績を収めた。高難度な技術を競ったラインラント解放記念アクロバティック飛行競技会では、多くの名だたる男性パイロットを尻目に65人中4位に入った。
広い世界に魅かれて
しかし、次第に高度記録や技能競技だけでは物足りなさを感じるようになった「空飛ぶ夫婦」は、今度は遠方に目を向けた。そして1932年10月、2人はバーゼルのシュテルネンフェルト飛行場をアビシニア（現在のエチオピア）に向け飛び立った。アルプスと地中海を越える総距離1万1千キロメートルをいくつかの区間に分け、交代で操縦しながら飛行した。アディスアベバに着陸すると、2人は飛行の成功を打電した。
1937年、マルグレートは女友達と2人で6カ月のアフリカ自動車旅行に出かけた。アルジェリアからサハラ砂漠を横断してカメルーンを目指すルートだった。しかし、彼女の帰国後、夫婦は離婚する。2人の間に子供はいなかった。スイスを離れアンゴラに渡ったマルグレートは、アフリカ帰りの船上で出会った16歳年上のポルトガル人男性と結婚した。
2人はポルトガルのシントラに移り住んだ。1942年には娘のベリザンダが、1年後には妹のホルテンシアが生まれた。母親になったことはマルグレートにとってパイロット人生の終わりを意味した。しかし、ベリザンダは2017年、ドイツ語圏の地域紙ザンクトガラー・タークブラットの記事中で、マルグレートは空に戻りたがっていたと述懐している。「父が、子供のために止めるべきだと意見したのだ」。01年、マルグレート・フスバーンはシントラで他界した。享年93歳だった。
パイロットとして活動した期間は約10年と短かったものの、マルグレートは飛ぶことを何よりも愛していた。その気持ちは先述の著作中、人生で最も美しかったというアルプス越えのフライトについて語る部分からもありありと感じられる。「全ての人に人生で1度はアルプス越えの飛行を体験してほしい」。そのための切符を出生と同時に皆が受け取るべき。このパイオニアはそんな思いを抱いていた。「そうすれば、誰しも自分が生きている理由を知るだろう」
本記事は2020年2月6日にスイス初の独立機関情報誌「Higgs.ch他のサイトへ」に掲載されたものです。
（独語からの翻訳・フュレマン直美）
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