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使徒17：22～27節「天地の造り主」
2020年9月13日（左近深恵子）
初代の教会の伝道を中心になって推し進めたパウロは、3回に渡って伝道の旅をしました。その第二回の旅で、パウロの一行は初めてギリシャへと渡りました。今日の地理的な区分では「ヨーロッパ」と呼ばれる地域に、アジアからエーゲ海を渡って入ったのです。
ギリシャの地で、パウロはいくつかの町で福音を宣べ伝えています。最初はローマの植民都市フィリピです。そこでパウロはユダヤの人々が祈りの場としている場所を見つけ、そこにいたユダヤ人たちに対して語り始めました。「異邦人の使徒」として知られるパウロですが、大方の場合その働きはユダヤ人伝道を基にしていました。神さまがご自分の民とされ、全ての民に与えられる祝福の源とされたイスラエルの歴史に連なるユダヤ人は、神さまの救いの歴史を担ってきました。この民を基に、パウロも福音を伝えたのです。
フィリピの次に訪ねたテサロニケはギリシャ北部のマケドニアという州の州都であり、大きな都でした。ここにはフィリピよりも大きなユダヤ人のコミュニティーがあったようで、会堂もあり、パウロはこの会堂に集うユダヤの民に福音を語り伝えました。次のべレアの町でも、ユダヤ人の会堂に入って伝道を開始しました。
このようにパウロはそれぞれの町で、祈りの場や会堂で語ることによって、そこに出入りしていたギリシア人たちにもキリストの福音を語ることができました。その結果多くの者がイエス・キリストを信じ、信仰に入りました。けれどそのことを妬む人々からその度に伝道を妨害され、パウロは次の町へと移ってゆく、このことが繰り返されます。べレアの町でもいられなくなり、パウロ一行はギリシアを南下して、アテネへと向かいました。
これまでの町で福音に耳を傾けたギリシア人たちは、聖書の背景にあるユダヤ人の歴史も文化もほとんど知らず、旧約聖書で述べられている世界とはかけ離れた世界を生きていた人々ですが、旧約聖書において神さまが指し示し、約束しておられたメシヤは、イエスなのだと信じるようになりました。使徒言行録は、これらの町で人々が信じたことを述べる際に、通常の「信じる」という語の他に、「納得する」「確信する」という意味の語を用いています。また「素直にみ言葉を受け入れ」たとも記しています。これは言われたことを端から鵜呑みにしていったということではありません。み言葉がその通りかどうか、毎日熱心に聖書を調べていたとあります。パウロは本当に聖書に記されていることを述べているのか、自ら調べて確かめる熱心さを、「素直」と表現しています。このような探求を通して多くの人が、主イエスが救い主、メシヤであると信じました。人々は、パウロの博識に感服したのでも、スピーチの巧みさに感嘆したのでも、パウロの思想に共鳴を覚えたのでもありません。パウロが語った内容に、自分たちから取り組み、納得し、確信したのです。
アテネは、それまでの町とは大分異なりました。アテネにも会堂があり、パウロはそこを訪れ、ユダヤ人や神さまを崇める人々と語り合いましたが、会堂に加えて広場にも行き、居合わせた人々と論じ合うということをしました。アテネは当時小さな町でありましたが、ギリシャの文化の中心地でした。広場は政治的な事柄を皆で決める場所であり、そして文化的、知的活動の場でありました。自分の思想を人々の前で説いたり、意見を戦わせることができる場でした。パウロにとっても広場は多くの人を前に語ることができる場所でした。だからそこに毎日広場に通って、福音を伝えようとしたのです。
パウロには、そうせずにはいられない理由がありました。アテネの町の至るところに偶像があるのを目の当たりにして、居ても立っても居られない思いに駆られたのでした。あらゆる神というものを求めて理想の姿を形作り、それらの像をあれもこれも拝んでいる人々、自分の力で神を造り出せると思っている人々に、真の神を伝えたい、真の神のもとで憩う平安を伝えたいと、毎日広場に通いました。
こうしてみると、一口に伝道の旅と言っても、それぞれの町の特質に適した伝道の仕方を探り、その町で出来得る最大限の伝道をしていたことが分かります。アテネの人々やアテネに在留している外国人たちは、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたとあります。人々にとって広場が、新しい主張を聞くことができ、議論を戦わせることができる場所です。そこでパウロは広場で、主イエスとその復活について語りました。しかし人々は、パウロが語ったことがよくわからず、もっと聞きたいと、アレオパゴスという名の広場にパウロを連れて行き、そこで話をするように求めました。
パウロの前に居るのは、これまで聞いたことが無いような何か新しいことを聞きたい、知らなかったことを知りたいという、旺盛な知識欲を持つ、探求心に溢れた人々です。知り得た神を自分たちの表現力や技術を駆使して次々に像に表し、町の中に置いて、自分たちの神々に加えていくので、町には偶像が溢れています。常に最新の教えや新しい神についての知識を取り込んでいますが、それでもまだ未知の神がいるかもしれないと、取りこぼしの無いように「知られざる神に」と刻んだ祭壇まで作って町に据えています。あらゆる神々を近くに引き寄せて置こうとします。神々は像に表すことで存在するものとなり、あらゆる神々が存在することで、自分たちの「今」が隙間なく守られ、祝福される、そう考えていた人々でした。
パウロがアレオパゴスの議場でこの人々のことを「信仰があつい方」と呼んで語り始めているのは、神々の像のコレクションに更に加えたいと、新しい神を求める探求心を指しているのでしょう。文化の中心地であるアテネの人々は、他の地域の人々よりも素晴らしいものを創造することができたでしょう。その力を駆使して作った町に溢れている数々の偶像は、神々の真理に近づきたいと言う熱心さを指しているのでしょう。彼らの熱心な探求心を肯定的に言い表すことで、これから語ることに彼らが積極的に耳を傾けてくれることを期待したのでしょう。
それからパウロは、真の神さまのことを語ります。真の神は、天と地をお造りになり、その中に満ちているすべてのものをお造りになられた万物の主であると。天と地の造り主であり、すべてを支配される神さまを、造られた人間が、やはり造られた材料を用いて造った神殿に住まわせ、そこに留め置くことはできません。神さまは、人間が金銀や石を刻んで像にしなければ、礼拝できない方ではありません。神さまに何か足りないからと、人の手を必要とされる方ではありません。人の力が無くても、神さまは完全であり、無限に富み、神であり続けられます。ご自身で存在され、ご自身で満ち足りておられます。ご自身の内に命を持っておられる神さまから、人は命の息を与えられます。ご自身の満ち溢れる豊かさの中から、恵みに次ぐ恵みを与えられます。人がその手によって、木や石で神さまに形を与えたり、命を吹き込むのではなく、神さまが全ての人に、命と息と、必要なすべてを与えてくださいます。ユダヤの民も、アテネの人々も、全ての民が神さまによって造られ、命を与えられています。全ての人が、神さまを求める心を与えられて創造されています。神さまは私たち一人一人から遠く離れている方ではなく、近くにおられ、求めさえすれば見出すことのできる方であるとパウロは語ります。
神さまは、遠く離れている方ではない、求めさえすれば見出すことができる、だから求めようと、パウロはアテネの人々に呼びかけます。アテネの人々は、パウロをアレオパゴスの議場まで導いて、話を促すほど聞きたがっています。しかしそれは好奇心から興味を持っているだけであって、求めているのは新しい神についての説明です。神さまを求めているのではありません。パウロが語る神について哲学的に論じることを求めているのであって、神さまとの人格的な関わりに生きることを求めているのではありません。生ける神のお力に、今、自分の全てを捧げて彼らに語るパウロからも、神さまからも距離を置いて、そこからパウロの言葉やパウロが語る神について論じようとする人々に、パウロの呼びかけはなかなか受け止められないのです。
神さまを信じる者は、神さまと共に生きる人生を歩むという、自分の力では造り出すことのできない幸いを与えられます。先週、宮野さんが地上の生涯を終えられました。昨日葬儀が行われました。もう共に礼拝を守ることができない寂しさが募ります。それでも、姉妹はいつも主と共にあったことを、葬りの備えをしながら改めて思わされました。洗礼においてキリストと共に死に、キリストと共に生きる者となって以来、多くの方に囲まれている時も、一人の時も、礼拝に集うことが叶わなくなってからも、どのような時も独りではなく、キリストと共に生きてこられたのだと、死の力もキリストから引き離すことはできないのだと、姉妹が与えられてきた幸いを思いました。そして、洗礼を受けた全ての者がこの望みを与えられて生きていることの幸いを、思わされました。
詩編145編の詩人はこう歌います、「主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいま」す（詩145：18）。天と地の造り主である主は、遠く離れたところから眺めておられる方ではなく、近くにおられ、ご自身の永遠の目的に沿うように、全てのものを導いておられる方です。まことをもって呼ぶ者に、応えてくださいます。イエス・キリストにおいて、その十字架と復活において、人の理想も想定も超えた仕方で既に応えてくださっている神さまに信頼し、主と共に歩んでまいります。