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ホセア11：1〜11、ヨハネ1：14〜18「神の懐から」
2023年7月2日（左近深恵子）
今年度は、使徒信条の言葉を順に取り上げながら、その言葉の根拠となっている聖書箇所に耳を傾けております。使徒信条は、「我は、信ず」と先ず述べて、続いて私は何を信じるのか、一つ一つ挙げていくと言う語り方をしています。最初に挙げられたのが、神さまのことでした。天地の造り主であり、全能なる方、父なる方である神さまを信じますと、先ず述べています。その次に挙げられるのがキリストです。今日はこのキリストについて述べている部分について、聞いてまいります。
使徒信条はこれまで父なる神への信仰を述べてきましたが、その父なる神の「独り子」であると述べて、次のキリストへと移ってゆきます。キリストは神の子であると使徒信条は述べます。聖書は私たちのことも神の子と呼んでいます。けれど「神の独り子」とは呼ばれません。キリストだけが本来の神の子だからです。キリストだけが、生まれながらに神の子です。とこしえの昔から、歴史の始まりよりも前から、私たちが造られる前から神であられ、神の子と呼ばれる方であった。このキリストによって、私たちも「神の子」と呼ばれるほど神さまと近しい関係に入れられるのです。私たちは生まれながら神の子ではありません。根っこのところで神さまに背く傾向を抱え続け、自分の犯した罪を自分で償うこともできない私たちには、神の子と呼ばれる資格がありません。キリストがこの私たちの身代わりとなって十字架で命を捨ててくださり、私たちに命を与えてくださり、ご自分の「神の子」としての、神さまとの関係を与えてくださいました。そして父なる神が私たちを子として受け入れてくださり、私たちの「父」となってくださいました。神ではない私たちを、父なる神と子なる神が、その関わりの中に導き入れてくださいました。真の神であり、真の神のみ子であるキリストが肉を裂き、血を流してくださることで、私たちの罪を赦し、私たちが神の養子とされる道を切り開いてくださり、父なる神が私たちを養子として受け入れ、子としての身分を授ける道を、独り子の命の値をもって切り開いてくださいました。こうして私たちは、ただお独り、生まれながら神の子であるキリストと同じ、神の家族にされるのです。
このキリストへの信仰を使徒信条は、「我は、その独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」と告白しています。この部分は、多くの聖書の箇所を下敷きにしています。その中で本日はヨハネによる福音書の箇所に聞きました。この福音書の冒頭の部分、他の福音書では見られない、この福音書でもここだけの独特な表現、キリストを「言」と言い表して語る箇所であります。
このヨハネ福音書の1：1～18は、これだけでまとまった信仰告白文と言えるような、キリストについて非常に豊かな内容が述べられているところです。用いられている言葉自体は平易であり、同じ言葉が繰り返し用いられ、短いフレーズでリズミカルに歌い上げていく、魅力に溢れた文章です。平易であるけれど、ここに内包されている福音は非常に豊かで、どこまでも深く広がり行くような奥行きを持っています。
今日の箇所のところでは、「言」なるキリストが私たちの間に宿られたとあります。クリスマスの晩にマリアよりお生まれになり、ただお独り真に神のみ子である方が、同時に真に人間である方となられました。私たちはこの方に、神さまの栄光を見ることができるようになりました。聖書は旧約聖書以来、神さまがおられること、神さまが臨在されること、人の間にあって示されている神さまのお力のことを、栄光と言い表してきました。栄光は本質的に目に見えるものであります。肉体の目によってか、私たちの内なる目によってか、いずれにしても私たちが受け留めることのできるものです。栄光は、本来は重いことを意味する言葉であり、神さまのお力、お働き、威厳の比類なき重みを証しします。神さまが共にいてくださることの重みを証します。私たちにはその目で見ることのできない神さまを、私たちの間に人として来られた神の独り子が示してくださいます。根っこのところで神さまに背を向けてしまい、見るべきものを見ようとしない私たちの間に宿られたキリストが、教えを語られ、み業を為してくださり、十字架にその命まで捧げてくださった、その具体的なご生涯と死を通して、私たちを罪の支配から解放するためにみ子を与えてくださった神さまのご意志を示してくださり、神さまが共にいてくださることを示してくださいました。私たちがキリストにおいて見て来た神さまの栄光を、ヨハネ福音書は、神の独り子としての栄光であり、恵みと真理とに満ちていたと述べます。恵みと真理は、神の子とされていることへの信頼に導くものです。この信頼に生きる時、私たちは皆、キリスト・イエスにあって、この私も神の子であると、私たちもキリストと共に神さまを「父」と呼ぶことができるのだという恵みと真理に、満たされるのです。
魅力に溢れたヨハネ第1章の冒頭の文章の中でとりわけ印象深いのが、「父の懐にいる独り子である神」という表現です。この表現によって先ず思い浮かぶのは、親が幼子を抱いている、そのようなイメージでしょうか。父なる神と子なる神の結びつきを、そして、神さまから遠く離れて生きて来た私たちが、キリストにあって導かれる親子の結びつきを、豊かに示してくれます。
ここで「懐」と訳されている言葉は、人の胸の部分を指す言葉です。心臓がその奥にある、心臓に近いところです。胸の意味から更にこの言葉は、衣類の胸の部分や懐も指します。和服でもそうであるように、そこに物を入れることのできるところです。胸の部分、懐の辺りで人を抱くと言う表現は、聖書において幼子だけに用いられるものではありません。ルカによる福音書が伝える、主イエスが弟子たちに語られたたとえ話の中にもこの言葉は登場します（ルカ16：19～31）。あるところに裕福な者がいますが、この者は「モーセや預言者に耳を傾けない」者であったことが言われます。旧約聖書が証しする律法や預言の言葉に耳を貸さず、悔い改めもしない一方、毎日派手な生活を楽しんでいました。この者の家の門前に、体中できものだらけのラザロと言う人が横たわっています。できることならこの家の食卓からこぼれ落ちる食べ物で腹を満たしたいと願っている、貧しい者です。皮膚の出来物は、律法の規定によって汚れたものとみなされる症状だったかもしれません。その病を治すことも叶わず、人々の交わりの中に入ることも叶わず、手に入れられるかどうか分からない食べ物を待ち続けるこの人に、世話をしてくれる親族や友人がいたのか、譬えは語りません。語っているのは、皮膚の傷を犬に舐められ、食べ物を得ることができない苦しみの日々であります。やがてラザロは死にます。すると天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれ、ラザロはここで慰めを受けます。ラザロは、アブラハムの懐に抱かれたのです。イスラエルの民、神の民の歴史の始まりに神さまによって立てられたアブラハム、具体的なこの先を神さまから何も示されていない中、ただ神さまの言葉に信頼して出発します。時折迷い、神さまの元から離れることもありますが、悔い改めて神さまのもとへと帰り、神さまに従い通したアブラハム、神さまからイスラエルの民全体と諸民族に渡る祝福の約束を与えられ、この神さまの言葉を子孫に伝えたアブラハム、このアブラハムの懐に抱かれ、神さまからの慰めと安らぎで満たされるのです。
「懐」と言う言葉は、これから先、世で活躍するようになる小さな幼子を親が抱く時にも、苦しみ多い生涯の末に慰めと安らぎで包み込まれる時にも、用いられています。この言葉によってヨハネによる福音書は、父なる神と子なる神のつながりを「父の懐にいる独り子である神」と言い表しました。父なる神の懐が、み子が本来おられるところです。そして世に降られ、人となられ、私たちに父なる神を示してくださったみ子の、帰るところです。父なる神の懐におられた方だから、誰よりも神さまを私たちに示すことができます。私たちに神さまを示すために、イエス・キリストは私たちの所にきてくださったとも言えます。神さまを示すということは、神さまの懐、神さまの胸を示すことだとも言えます。心臓の鼓動のように絶えることなく刻みながら私たちに注がれる神さまのご意志、そのご意志を実現しようとされる熱情を、懐におられる、父なる神と一心同体とも言えるみ子を私たちの只中に遣わされることまでされる神さまの熱情を、示されます。神さまのご意志を知りたい、神さまのみ心を知りたい、そう願う私たちは、イエス・キリストによって知ることができます。み子が語られたことに深く耳を傾け、為さったこと、み子を通して成し遂げられたことを見つめるならば、神さまの懐を、神さまのご意志とお力の重みを、神さまの栄光の輝きを知ることができるのです。
私たちに養子としての身分を授けることができるただお一人の方である父なる神の懐は、私たちにとってもまた、立ち返るところであります。先ほどの主イエスのたとえ話は、たとえ話に登場した裕福な人物のように、聖書の言葉に耳を傾けようとしない人々、聖書が証しする神さまではなく、自分の生活を裕福にするものに仕えている人々に、神さまの言葉に聞き、悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るように、呼び掛けるものでありました。聖書を通して語り掛けてこられ、今独り子までも世に与えて呼び掛け続けておられるのに、耳を傾けようとしない一人一人に、胸を痛めておられる神さまのみ心を、示しておられます。
主イエスが神のみ子であり、父なる神と一つなる方であり、この主イエスが私たちを救うために引き渡され、死なれ、復活されることを、主は十字架にお架かりになる前から語ってこられました。特に弟子たちには何度も繰り返して語られました。けれど弟子たちはその言葉を深く受け止めようとせず、主がゲッセマネの園で逮捕されると見捨てて逃げてしまいます。主が復活されたことを仲間の弟子たちから聞いても、なかなか受け入れることができません。中でもトマスは、弟子たちの中で最後まで受け入れることができなかったことをヨハネによる福音書は伝えています。「自分のこの目で、復活された主イエスの体を見、自分のこの指を主の体に残る十字架の釘の跡に入れてみなければ信じない、この手を槍で突かれたわき腹に入れなければ、私は決して信じない」、そう抵抗します。そのトマスのところに、そのトマスを目指して、復活の主の方から来てくださいました。そしてこう告げられます、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく信じる者になりなさい」。この主に対してトマスは「私の主、私の神よ」と言います（ヨハネ20：28）。あなたこそ、私の主です、あなたこそ私の神ですと、述べることができたのです。このような言葉は、自分と同じように罪に引きずられる人間に向かって言うことはできません。主イエスこそ、神さまが約束してこられた救い主であり、私の救い主であると、主イエスこそ人でありながら神である方だと、私の神であると、主イエスこそ、神さまのご意志と熱情を私たちに示してくださる方、父なる神の懐から来られた神であると、そう主イエスと神さまへの信頼を告白することができたのです。
私の真の主、私の真の神、こう述べたトマスの告白も、使徒信条の、「我は、その独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」という告白の土台の一つと言えるでしょう。今日はもう一か所、旧約聖書のホセア書から聞きました。ここにも使徒信条の言葉がその土台の一つとしている神さまのみ心が示されていると思われます。
神さまはまだ幼かったイスラエルを愛されました。そしてイスラエルを「私の子」と呼ばれました。イスラエルを愛して、我が子、養子としてくださったのです。生まれながらの神の子でない者が、神さまによって我が子とされた民であるのに、イスラエルは互いに誘い合って神さまのもとから離れ去り、他の異教の偶像を崇拝し、偶像を礼拝します。エフライムとは、イスラエルのことだと理解して良いでしょう。よちよち歩きの幼子であるイスラエルの腕を支えて歩くことを教えてくださったのは神さまであるのに、当のイスラエルの民は自分たちが導かれてきたこと、癒されてきたことを知ろうとしません。神さまのみ業の源にあり、絶えず自分たちに注がれてきた神さまの愛も、知ろうとしません。牛の顎から軛を取り去って、草を食めるようにするように、神さまは身をかがめるように民と同じ高さにまで降られ、民の軛を外し、愛の絆で民をご自分のもとへと導き、養ってこられました。けれど、民は悔い改めて神さまに立ち返ることを拒み、エジプトとの同盟と言う政治的駆け引きによって身を守ろうとします。そうしてイスラエルの王制は滅び、アッシリアが彼らの王となります。自分たちこそ神の言葉を取り次いでいる者だと、人々が望むようなことを語る、偽りを言う者たちは、剣の犠牲となります。耳に心地よい望むことばかりを聞き、頑なに神さまに背いてきた民は、滅びに瀕しています。
このような民であるのに、8節以下で神さまは、「エフライムよ、どうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを明け渡すことができようか。私の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなる。」と嘆きます。民が知ろうともしないその胸の内で、民を滅ぼすことなどどうしてできよかうかと、民のために神さまが闘っておられます。そして言われます、「私はもはや怒りを燃やさず、再びエフライムを滅ぼすことはない」と。裁きを撤回されます。撤回される相応しさの無い者のために、憐れみで胸を焼かれるのは、神さまが人間ではないからだと、神であるからだと、神さまの聖さに生き通すことのできない民の内にあって、神さまは聖なる方であり続けるからだと言われます。ご自分の愛を知ろうとせず、自ら滅びへと向かって行く民を、捨て置かれず、愛によってご自分のもとへと引き戻してくださる方であるのです。
この神さまの満ち溢れる豊かさの中から、私たちは皆、恵みの上に更に恵みを与えられました。律法を通して、預言者を通して、アブラハムを通して、ホセアを通して示されてきた恵みと真理が、イエス・キリストを通して現れたからです。私たちを父なる神の懐へと迎え入れるために命をささげてくださった復活の主が、今も共にいてくださり、父なる神のみ心を示してくださっています、あなたをどうして引き渡すことができようか、どうしてあなたを明け渡すことができようかと。