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「あなたがたの天の父は」マタイ6：33～34、イザヤ49：7～9（主の祈り）
2023年4月30日（左近深恵子）
主イエスは十字架で死なれ、三日目に復活され、40日に渡って弟子たちに現れてくださった後、天に挙げられます。マタイによる福音書によると主イエスはその前に弟子たちにこう告げておられます、「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」（マタイ28：19～20）。この主イエスの言葉に従って弟子たちは、主イエスにおいて為された救いのみ業を宣べ伝えます。弟子たちが人々に語ったひと言ひと言、人々の所へと向かう一歩一歩の源にあるのは、このような主の言葉です。主から力をいただきながら彼らの働きは次第に広がってゆき、各地に教会が生まれました。
弟子たちが主イエスから与えられた主の祈りも、一つ一つの教会へと伝えられました。時の経過と共に代々受け継がれ、教会で祈り続けられ、今日に至っています。主イエスからいまに至るまで、教会は主イエスに命じられたように。洗礼を授けてきました。聖書の言葉を説き明かし、聖餐に与ってきました。この教会の歩みと主の祈りはいつも共にありました。祈る度にその信仰者の群れはキリストの教会として整えられ、強められてきました。教会は主の祈りを祈ることを通して、教会であり続けてきました。教会に連なる個々人も、主の祈りを祈ることによって、信仰の歩みが示され、足取りが強められてきました。洗礼や聖餐のような厳かな所作が特に求められるわけではなく、日毎の糧のための祈りなど身近な内容も含み、気軽に祈ることのできる主の祈りでありますが、教会、そして教会に連なる信仰者たちが、この祈りに拠って導かれ、支えられ、力づけられ、自分の視野を越えた壮大な神さまのみ業を、祈ってきたのです。
主イエスがこの祈りを弟子たちに教えてくださいました。主が教えてくださったのは、祈りの言葉だけではなく、祈ることそのものでもあります。主イエスの日々のお働きは祈りに始まり、祈りに終わり、主の毎日の歩みは祈りに支えられ、祈りによって進むべき道を見出している、弟子たちはそのことを感じ取っていたことでしょう。だから、彼らは主から教えられた祈りを大切に祈り続けました。後に弟子たちが中心となって教会が誕生すると、教会は世代から世代へと、主イエスの祈りを大切に継承し続けました。教会の歴史と共に、主の祈りは常にあったのです。
先ほどマタイによる福音書の、主イエスが弟子たちと人々に語られた教えの中から、聖書の言葉を聴きました。この箇所は、神と富とに仕えることはできない教えを語られた流れの中にあります。富と言うと私たちは先ず、お金に換算できる資産を思い浮かべがちですが、それも含め、私たちそれぞれにとっての宝と言えるでしょう。その少し前では、地上にではなく、天に富を積みなさいと教えておられます。主イエスが神と富とに仕えることができないと言われる時の富とは、私たちが地上でえることのできるような地上の宝であります。人は自分の肉体や心を守るためと、必死に地上の宝を蓄えようとします。自分の肉体や心を守ろうとすることは当然のことであり、そのために蓄えをしようとすることも当然のことであります。しかし自分の肉体や心や生命を守るために地上の宝を蓄えることが、自分の人生の最大の目的となれば、これは地上の宝に仕えるということであり、その宝を蓄えることのできる自分や他者の力に仕えるということであります。けれど地上の富や自分の力と言う世の宝と、神さま、この両方に仕えることはできないと、主はここに至るまで教えてこられたのです。
地上の宝に仕えるのか、神さまに仕えるのか、これは言い換えるならば、私たちが本当に求めているのは何であるのか、ということであります。誰もが自分の肉体や心を守りたいと思っています。けれど思うような状態に守れない状況に陥ることもあります。この先肉体や心を守れなくなるのではないかと、不安が沸き起こるような現実もあります。私たちの心を波立たせる材料は尽きることが無いように思います。6：31で「思い悩む」「思い煩う」と訳されている言葉は、日常生活において気を揉んだり心を労したりすることを指して用いられるそうです。非常に深刻な問題に苦悶するのは当然でありますが、この言葉はどちらかと言うともっと身近な、傍から見れば小さなこと、しかし当人の不安を掻き立て、煩わせるようなことと言えます。そのような些細な日常の一つ一つの出来事において、私たちは何を求めるのか、主のみ前で問われています。重大な深刻な問題であれば、神さまのみ前で思いを注ぎ出して、道を求めることを自ら望むかもしれません。けれど日常生活の中で心を波立たせることにおいて、神さまのみ前で道を求めることはせず、神さまから離れたままで地上の宝に助けを求めるだけとなるかもしれません。小さな事柄であっても、その出来事において本当に求めているのは何であるのか、何に助けを求めているのかに、その人が何に仕えているのか明らかになります。私たちが食べているものが私たちの肉体に現れてくるように、私たちが聞いたり読んだりするものが私たちの言動に現れてくるように、私たちが本当に求めているもの、私たちが心の底で本当に信頼しているものが、私たちの日常の振る舞いにも現れてきます。自分自身や他人など、被造物が生み出したに過ぎない世の富にすがり、どこまで行っても不安が消えない人間の実態を主イエスはご存知です。この人々に、主は6：24で二度も、人間にできないことを明らかにしておられます。「誰も、二人の主人に仕えることはできない」「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と。二人の主人に同時に仕えたくなる思い、同時に仕えられるはずだという思いは私たちにとって非常に魅力的で、そこからなかなか自由になれず、二人の主人に仕えようとして、結果、神さまではなく世の宝を求め、思い悩み、思い煩う者であります。私たちをその思い煩いの沼から引き上げて、私たちを真に支え、養い、導いてくださる神さまを求めることへと導くために、二度もあなたがたにはできないのだと、真理を告げてくださっているのです。
二人の主人に仕えることができないのにできると思ってしまう私たちを、その道は救いに至らないのだと引き止め、できないという真理に引き戻してくださる主イエスは、あなたがたの求めるべきものはこれだと、「何よりも神の国と神の義を求めなさい」と、導かれます。主の祈りで教えてくださったように、神さまの国、み国を求めなさいと言われます。神さまの国とは、神さまのご支配があるところです。神さまのご支配が、この私の日常に出来事となりますようにと、祈り求めることを教えられます。それは神さまの義を求めることでもあります。神さまが、独り子イエス・キリストの苦しみと死によって、私たちを罪の支配から救ってくださったこと、私たちの罪を裁くお方が、私たちの正しさによってではなく、ご自分の独り子を犠牲にし、独り子の命を犠牲にすることによって、私たちの罪を赦してくださったこと、この神さまの義が、私たちを本当に支え、養い、守るものであります。私たちの命と日々の根幹にあるものを救ってくださる、私たちにとってな無くてはならないものです。たとえ世の宝を得たとしても、たとえそれらによって肉体や心を養うことができたとしても、それは私たちを根幹から守り生かすことはできません。み子を世に与えてまで私たちを根幹から救い出してくださる神さまは、私たちの肉体や心や生命も慈しんでくださらないはずがないではないかと、主イエスは語られます。神さまは、私たちに何が必要であるのかご存知であり、私たちに必要なものを備えてくださる方であります。けれど、私たちの側が、その神さまからの恵みを分かち合うことに問題を抱え続けてきて、今も欠けや貧しさを覚える人々が多くいます。私たちが必要なものを得るために労苦することが、この先無くなることは残念ながら無いでしょう。それでも、神さまのご支配を何よりも求め、自分の今日一日が、神さまのご支配に沿うものとなるように、自分の今日一日が、神さまのご支配がより現れる一日となるように、ひたすら求める者が負う労苦には、平安も伴います。思い悩み、思い煩いに覆われながら労苦するのではありません。神さまのご支配を反映しようとする今日の歩みを遡れば、主イエス・キリストによって神さまが世にもたらしてくださった神さまのご支配があります。今日の歩みの先にはいつの時か訪れる、み国の完成があります。終わりの時に救いの歴史を完成してくださる神さまに信頼しつつ、この神さまの壮大な救いの歴史の一筋として歩む者は、この労苦を負いつつも、この労苦は決して徒労に終わらないのだと、主がご支配を成し遂げてくださるのだと、平安の内に歩むのです。
かつてイスラエルの民は、世の富や力と、神さまの両方に仕えることができるという逃れがたい思いに引きずられ、結果、大国の力に依り頼み、神さまの元から離れ出て、捕囚とされました。捕囚の地でイスラエルは、自分たちの背きを深く受け止めるようになり、神殿も神さまの都もダビデ王朝も失った危機の中、捕囚を神さまの裁きと受け止めるようになりました。神さまに背き、他の国の人々から侮られ、忌むべき者とされ、大国の支配者たちの僕とされたイスラエルであるのに、神さまはこのイスラエルを贖われ、イスラエルをなおもご自分の民として選び、恵みを与え、捕囚の状況を終わらせてくださいました。この神さまの義によって、イスラエルを救われます。囚われたところ、闇に覆われたところから、神さまの光の中へと出てくるようにと呼びかけ、再び神さまの契約の相手とされ、国を再興し、嗣業の地を継がせるみ業に、周囲の国々もその王たちも立ち上がり、ひれ伏すと預言者は伝えます。大国の力、人々の想定を超えた神さまの贖いのみ業は、周りの人々にも驚きを引き起こし、礼拝する者を生みだしてゆきます。
罪の支配の下、罪に囚われていた人々を、神さまはとうとう独り子の命の値によって贖われました。旧約聖書を通して告げられてきたメシアの救いは、主イエスにおいて成就されました。イエス・キリストは、罪と死に勝利され、神さまのご支配を世に決定的なものとしてくださいました。だから、まるで主の十字架も復活も無かったかのように、まるで罪の闇から救い出す道は与えられていないかのように、まるで終わりの時に神さまのご支配が完成されるとの約束は与えられていないかのように、今日のことを思い悩み、明日のことまで思い煩うことはないのです。それよりも、み国を来たらせたまえと祈るのです。
主イエスが主の祈りを教えてくださらなかったら、私たちは「み国を来たらせたまえ」「神さまのご支配が来てくださいますように」と祈るよりも、「私の支配を来たらせたまえ」、「私の要望が実現させたまえ」と、祈るばかりであったでしょう。主イエスが「み国を来たらせたまえ」と教えてくださらなかったら、私たちの罪を贖ってくださった神さまのみ前に罪人として進み出て、罪を赦しを祈ることよりも、自分に対して自分の願いを並べるような、祈りとは言えない独り言のような祈りを求めたことでしょう。主イエスが「ただ神の義を求めなさい」と教えてくださらなければ、自分が主イエス・キリストによる義を必要とする罪人であることを受け入れられず、自分を自分で義としてしまったことでしょう。主イエスが弟子たちの群れに主の祈りを教えてくださらなかったら、他者のことを自分と同様にキリストによって赦された者として受け入れようとはせず、他者を自分の義によって裁こうとするばかりであったでしょう。
主イエスは私たちに、どなたのみ前に進み出て、何を祈ったら良いのか、教えてくださいました。私たちが祈りを捧げる神さまを、「我らの父」と呼び掛けることを、教えてくださいました。神さまを父と呼ぶことのできる唯お一人の方、独り子なる神が、ご自分と共に「私たちの父」と呼ぶことへと招いてくださいました。だから私たちは、主イエスの声に重ねるように、「天にまします我らの父よ」と祈ることができる者であります。私たちの肉体と心と生命を養い、守り、支えてくださる神さま恵みは、天の父としての慈しみであることを、主の祈りを口にする度に思い起こす者であります。そしてまた「我らの父よ」という呼びかける度、自分と同様、神さまを「父」と呼ぶことを赦されている信仰の兄弟姉妹たちと共に、声を合わせて「私らの父よ」と呼ぶことへと招かれていることに気づかされます。数えきれないほど多くの信仰の家族と共に、「父よ」と神さまをお呼びする喜びを味わう者とされています。
神さまの元から繰り返し離れ出てしまう地にある私たちでありながら、天におられる神さまを、幼子のように、心からの親しみと信頼をもって「私たちの父よ」とお呼びすることができるだけでなく、子としてくださった私たちに、神さまはすべてを与えてくださいます。既に、独り子の命までも与えてくださっています。キリストと共に、神さまのご支配なる神さまの国も、地に与えてくださっています。神さまのご支配がこの先どのような形をとってゆくのか、私たちには見通すことができません。私たちの経験や知見が神さまのご支配を生み出すことはできません。しかし、神さまのご支配は、私たちに、神さまのご支配が自分においてより大きくなることを願うこころや、「み国を来たらせたまえ」と祈るこころを力づけます。主イエスはマタイによる福音書のこの先で、で神さまの国をからし種に譬えられます。人の目には見えないような小さな種から、小さな芽が出て、やがて成長するとどんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になると（13：31～32）。続いてもう一つの譬え話で、神さまの国をパン種に譬えられます。パン種は、沢山の粉全体を膨らませるようになると（13：33）。だから私たちはそのからし種のように、この私の日々において、この私の所において、神さまのご支配が大きくなり、私だけでなく他の人々にとっても神さまのご支配が安らぎと憩いの住まいとなるように、祈ることができます。この私の生活隅々にまで神さまのご支配の力が及び、私のところにおいて神さまのご支配の出来事が大きく膨らみ、私と周りの人々の魂を養うものとなりますようにと、祈ることができます。この主の祈りを「私たちの父」と神さまに呼び掛けるイエス・キリストと、全ての教会に連なる人々と共に、祈ってまいりましょう。