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2020.5.24．美竹教会主日礼拝（浅原一泰）
マタイ14:22～33
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
コロナウィルスの感染者は世界で500万人、死者も30万人を超えている。感染者の一部の方々は不幸にも、物凄い勢いで症状が悪化し、あっという間に命を落とされていく、というこのウィルスの怖ろしさを私たちはこのウィルスによって亡くなられた著名人などの報道によっていやというほど聞かされてきた。そのような中で、もう二週間ほど前になるだろうか。ノーベル賞学者の山中伸弥さんがNHKのニュース番組の中で、「これからはウィルスとの闘いではなく、ウィルスと共生していくことになると思う」と話しているのを見た。このコロナウィルスが完全になくなることは不可能であり、この状態は何年も続くであろう、また、これまでも我々人類はこのような困難を幾度も乗り越えて来たのだから今回も乗り越えよう、というのが確かその理由であったと思う。決して現状を甘く見ることなく、しかし人々に希望を忘れさせない山中さんならではの言葉だと思ったが、その時ふと、共生していく命というのは何なのだろうと思った。本当の意味での希望というのは何なのだろうと思った。もしかしたらワクチンが開発されるまでの共生ということで、その後はもう安心して良いという意味での命なのだろうか。そのように人類はこのウィルスにも必ず上手に対応できる、という意味での希望なのだろうか。だとするならばその命というのは、聖書が示し続けて来た命の意味とは違うと思ったのである。希望も、最も大いなる三つのものとして聖書が示している信仰、愛とならぶ希望とは違う、と思ったのである。
初めの人間アダムに神は、園の中央にある木からは取って食べてはならない、食べれば死んでしまう、と教えられた。しかしその直後に誘惑者が現われて、食べても死なない、むしろ食べればあなたは神になれると唆されてアダムもその妻エバも食べてはならないと神から言われていた木から取って食べてしまう。その結果は皆さんもよくご存じのとおり、アダムもエバも死なない。むしろ二人は自分が裸であることに気づいていちじくの葉をまとい、神の前から自分を隠すようになった。
「食べても死なない」。この誘惑者の言葉は今、ある意味で、この処理をしておけば死なない、ワクチンさえ開発されれば死なない、と日々至るところから上げられる人間の声のように思えたのである。死なない、という言葉が言わんとしているのは、命の危険はない、ということである。その命は我々の心臓が動いているか否かで決まる肉体の命のことである。ワクチンが開発されるまでは共生しなければならないし、共生できると言われた山中さんのいう命もおそらくその意味の命のことだと思う。しかしそれは神が人間に与えられた命であろうか。「食べれば死んでしまう」という神の言葉の中に込められていた命の意味とは違うのではないだろうか。命の意味が違っていたからこそ、アダムもエバも、神の言う命とは別の意味の命においては、確かに食べても死ななかったのである。ならば誘惑者が正しく、神は偽りを語ったということになるのだろうか。そうではない。アダムもエバも気づいていなかっただけで、また我々も気づいていないだけで、確かにそれを食べたことでアダムもエバも死んだのであった。
今は確かにコロナウィルスは収束に向かっていると言えるのかもしれない。今週には東京都心部の緊急事態宣言も解除されるだろう。しかしそれで済ませてしまって良いのだろうか。ワクチンが開発されれば全てが丸く収まると片づけて良いのだろうか。むしろ我々が気づいていないだけで、独り子なるイエスを世にお遣わしになった神は、そのイエスを通して今この時、この場所にいる我らに何かを語りかけよう、何かに気づかせようと、休むことなく働きかけておられるのではないだろうか。
ひと月前、弟子たちが乗っていた舟が嵐に見舞われ沈みそうになった時にイエスが叫んで嵐が静まった話をした。その時イエスは、弟子たちと共に舟に乗っていた。先ほど読まれたマタイ14:22以下のところは、その話と確かに似てはいるけれどもイエスは舟には乗っていない。この時イエスは、ひとり山に登って祈っていた。イエスが何を祈っていたのかは分からない。けれども、イエスが舟に乗った弟子たちのために、また解散させた群衆のために祈っていたことはおそらく間違いないだろう。歴史は繰り返される、という言葉があるが、この時もまたもや舟は逆風による波によって悩まされていたという。「もしかしたら沈んでしまうのではないか。我々は助からないのではないか。」イエスのいない舟の中で弟子たちは恐怖と不安で心がおしつぶされそうになっていただろう。弟子たちが助からないと思っていた命は言うまでもなく肉体の命のことである。しかし舟は沈まなかった。それは、神の独り子なるイエスが彼らのために、群衆のためにも祈っていたからであると、そう言うことも出来るかもしれない。しかしあのアダムとエバと同じように、実はこの時弟子たちは、勿論群衆も、まだ死にたくない、助かりたいと思っていただけで、自分たちが気づいていないだけで、別の意味の命においては、つまり「食べれば死んでしまう」と神が言われたあの命の意味においては死んでいたのではないだろうか。だからこそイエスは彼らのために、ひとり孤独に、真剣に祈っておられたのではないだろうか。弟子たちの誰もが、自分が死んでいることに気づかないままでいるからこそ、祈り終えた翌朝、夜明けとともにイエスは湖の上を歩いて弟子たちのいる舟に近づいていったと思うのである。祈った上で、祈ることによってイエスは弟子たちに歩み寄らない訳にはいかなかったのではないかと思うのである。弟子たちにとっても、また肉体の命の生き死にしか分からない世の普通の人間とっても、水の上を歩くことなど不可能である。だから弟子たちはそれがイエスだと気づかない。思わず「幽霊だ」と言ってしまう。しかしイエスは諦めない。気づかないでいる彼ら、見えないままでいる彼らにイエスは自分から「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、彼らに気づかせたのである。
この時のイエスとは、果たして何者であったのだろう。弟子たちにとっていかなる存在であっただろうか。単に嵐を静めてくれる助っ人だろうか。そうではない。ワクチンを開発してコロナから人類を守ってくれるヒーローだろうか。そうではない。それではただ肉の命を一時助けるだけの存在に過ぎない。その命も所詮は時が流れれば朽ち果てるのである。そうではなくてイエスは、あのアダム以来、全ての人間が死んでしまっていた命を、神が一人一人に与えられていた命を生き返らせる為に神がお遣わしになった独り子なのではないだろうか。アダム以来、人間は肉においては生きていても、神に対しては死んでしまっていた。罪に操られて生きてはいても、神の愛に生かされる命においては死んでしまっていた。神との交わりを、神へと至る一筋の道を、人間は自ら閉ざし、鍵をかけてしまっていた。自分ひとりで、自分本位に、自分の力だけで生きられる、生きて良いのだと思い込んでしまっていた。そうして見せかけの命に生きてはいても、真の命においては死んでいたのである。神は独裁者ではない。権力を駆使して、威嚇し怯えさせて無理やり人間を服従させるような方ではない。人間を愛し、人間の自由を重んじる神である。だからこそ神は、敢えて自分を低くされた。自らイエスという名の人間の姿形を取り給うて、我らと同じ罪の中に来られ、しかしただ一人罪に操られることなく、神へと続く道を人間が内側から閉めていたあの鍵を開けて下さるのである。それが神がイエスに託した使命であった。たとえその為に、罪の奴隷たちから、悪魔の手下どもから罵られ、忌み嫌われ、迫害され、十字架にかけられても、イエスは徹底的に神に対しての従順を貫かれた。イエスは涼しい顔で罪を克服していたわけではない。神への従順を徹底的に貫くイエスは、罪に支配されている人間に徹底的に寄り添うのである。彼らと同じ罪の猛威の中に自らも立たれて、どこまでも罪人らと共におられるのである。彼らを罪から救いたい神に向かって、「わが神、わが神、なぜ我を見捨てたまうや」と、イエスは自分のためではなく彼ら罪人たちのために、彼らに代わってただ一人、十字架の上で祈り給う。前もって、愛弟子ペトロが三度も自分を裏切ることを知りながらイエスは、「しかしわたしはあなたの信仰がなくならないようにと祈った」(ルカ22:32)とペトロに語りかけ給う。ご自分を十字架にかけて嘲笑う者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないだけなのです」(ルカ23:34)とイエスは祈り給う。我々罪人の罪の赦しを祈るだけではない。「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成して下さるのです」(ローマ8:34)とパウロは語った。「だからこそ、誰がわたしたちを罪に定めることができよう」とパウロは確信した。「罪の報酬は死である」との御言葉が示しているように、罪こそ神が言われた命に死んでいる状態である。その罪から人間を贖い出す為に神の独り子なるイエスは世に来られた。神との交わりという真の命を生き返らせる為にイエスは罪人たち一人一人のために切に祈り給う。その上で嵐に怯えるこの時の弟子たちにもイエスは歩み寄り給う。自分の手柄で一人だけいち早くそれを手に入れようと無謀にも舟から降りて歩き出そうとした愚かで傲慢なペトロをも、その罪に気づかせた上でイエスは彼に手を差し伸べて助け給う。ある意味で他の弟子を裏切ったペトロを連れて舟に乗り、彼らを仲直りさせた上で嵐を静め給う。その時初めて、弟子たちの目は開かれるのである。そのためにこそイエスは祈っておられた。祈り続けておられた。このイエスの祈りによって彼らは「本当にあなたは神の子です」と告白し、礼拝する者へと変えられていったことを今朝の聖書は我々に教えていると思うのである。
一日も早くこのコロナ騒ぎが収束することを願わない者はいないだろう。日本では確かに収束する傾向にあるのかもしれないが、それで安心して良いのだろうか。今、アフリカでは感染が広がりつつあると聞く。世界のどこかでこのウィルスによって倒れる者たちは後を絶たない。ではワクチンが開発されれば万事丸く収まるのだろうか。世の多くの人々はそう思うだろうが、我々キリスト者はそれで立ち止まってしまって良いとは思えない。我々の心が神から離れてしまうからである。そうはさせじと、神が与えた命へと立ち返らせるために今までも、今も、これからも、私たちの罪が赦され、私たちだけでなく、全ての者の罪が赦され、一人も欠けることなく誰もが神の国に迎え入れられるまで、イエスは執り成しの祈りを祈り続けておられるからである。そのイエスに本当に目が開かれるまで、イエスに何度も何度も呼びかけられ、招かれ、イエスによって「あなたは神の子です」と告白する信仰へと、まことに礼拝する者へと導かれるまで、私たちは決して立ち止まってはならない、立ち止まることは出来ない、と思うのである。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」(マタイ10:28)と福音書で告げられているように、しかし我らの身代わりに独り子に血を流させてまでして、独り子を陰府に降らせてまでして我々を滅ぼすことを望まず、永遠の命へと招き続けておられる方をこそ「わが主、わが神」と信じる信仰を共に与えられたい、と心から願う。