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スイス南西部のヴォー州にある、のどかな山里シャトーデー。ここは第１次世界大戦（１９１４～１８年）末期、重傷を負った大勢の戦争捕虜が過ごした場所だ。スイス連邦政府が、国外の捕虜収容所などに抑留されていた外国人捕虜を受け入れ、１９１６年５月３０日に第一陣の英国人捕虜７００人がシャトーデーに到着した。今年５月末、受け入れから１００年を迎えたのを機に記念行事が開かれ、現地を訪れた捕虜の家族が過去に思いをはせた。（Julie Hunt, swissinfo.ch）
赤十字国際委員会（ICRC）の人道支援活動の一環で、交戦国との合意に基づき英国、フランス、ドイツ、ベルギー、カナダ、インドの傷病兵６万８千人が１９１６～１８年の間にスイス各地の保養所やホテルに収容され、数カ月滞在した。費用は交戦国が負担した。
施設は主にアルプスの観光リゾート地にあり、大戦で停滞していた観光業の支援にもつながった。政策の背景には、スイスが自国の中立性を周辺国に強調する安全保障上のねらいもあった。
英国人捕虜の主な収容先がシャトーデーだった。彼らはどのようにこの場所で暮らし、またどのように地域住民から受け入れられていたのだろうか。捕虜が現地に到着した日から１００年たった今年、彼らの家族が当時を振り返った。
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１９１４年１２月２５日、第１次世界大戦が始まって初めてのクリスマス。国境を守るスイス兵の士気は低かった。兵士たちは平和と、特に家族の愛情を求めていた。
欧州諸国は戦争の真っただ中にあった。スイスは中立を保っていたが、外国軍に侵攻され、他の国へ行くための通路として使われるのではないかと恐れていた。そのため、砦（とりで）や道路の建設、そしてドイツ、オーストリア、フランス、イタリアとの国境の警備が必要だった。
「１９１４年８月に戦争が始まり、数千人の兵士と馬が動員された。あまり組織だった動員ではなかった。政府も少し不意を突かれていたからだ」と、バーゼル民族文化博物館で２０１５年１月１１日まで開催中の「Sad Christmas（悲しいクリスマス）」展のキュレーター、ドミニク・ヴンデルリンさんは話す。これは主にスイスと近隣国の第１次世界大戦に焦点を当てた展覧会だ。
「そのせいでスイスの兵士はすぐに影響を受けた。冬が近づくにつれて、彼らの士気はひどく低下した」
兵士はしばしば劣悪な環境で生活することを余儀なくされた。事実、ドイツ占領下のアルザス地方と国境を接するジュラ山脈の村々に到着した兵士たちは、泥をのけたり害虫を駆除したりしてからでなければ寝泊まりできなかったという。
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