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「今日も与えたまえ」出エジプト16：13～21、マタイ6：25～33
2023年5月14日（左近深恵子）
私たちが「主の祈り」と呼び習わしている祈りを中心に、このところ聖書から聴いています。これまで、神さまのお名前が崇められること、神さまの国、つまり神さまのご支配が到来すること、そして神さまのご意志が地で為されてゆくことを求める祈りに心を傾けてきました。ここまでを主の祈りの前半と言うことができます。後半では、私たち自身のことを直接祈ります。先ほどご一緒に祈ったように、日用の糧のこと、罪の赦しのこと、試みのことを祈ります。だからと言って前半で私たちのことを祈っていなかったわけではありません。神さまのみ名が崇められることも、神さまのみ国の到来も、み心が為されることも、私たちが住まう地においてです。前半の祈りは、神さまのお名前、ご支配、ご意志が地上の歴史に、人と人との関係に、人と他の被造物との関係に行き渡ることを求めています。壮大で大胆な夢のようなこの祈りは、あての無い願望ではなく、主イエスがそう求めるように教えてくださった祈りです。そしてその主ご自身が、主の祈りで祈られていることのために地上を歩んでこられました。主イエスと共に地上にみ国が到来し、神さまのお名前が地で崇められるために人々に福音を宣べ伝え、その言葉とお働きを通して神さまのご意志を示し、十字架の死と復活によって成し遂げてくださいました。前半の祈りは、主イエスによって既に地にもたらされている神さまの恵みに向かって、自分の内なる窓を大きく開くことへと私たちの背中を押します。私たちの内側には、喜びや楽しさ、希望や憧れと言った柔らかな思いだけでなく、不安や心配、痛みや悲しみ、憤りや不満といった、強張った思いがあります。“在る”どころではなく、そのようなごつごつ、とげとげした思いの方が、自分の内側で大きな場所を占めているのが実態なのかもしれません。その私たちの内側に神さまの恵みが染み渡ってゆくことを求めることへと促されます。
私たちが祈り求めるこの神さまの恵みは、親の子に対する慈しみであることを、主イエスは主の祈りに先立って教えておられます。人々に、「あなた方の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」と言われました。神さまが私たちの父となってくださり、私たちが神さまの子どもとされていることからして、私たちの方から願ったのではありません。たとえ願うことができたとしても、私たちが自分の力で神の子となれるわけでもありません。本来神さまの子は、イエス・キリスト唯お一人です。そのイエス・キリストによって、神の子となる道が与えられました。私たちは、神さまによって命と存在を与えられているのに、神さまに背を向け、神さまの元から彷徨い出てしまう者です。彷徨っているのに、私たち自身では神さまの元に戻ることが自分に必要であることに、なかなか気づけません。その私たちを、独り子の命の値によって神さまはご自分の支配の中へと取り戻してくださり、その上ご自分の子どもとしてくださいました。自力で生きていかなければならない、判断を間違えてはならない、失敗してはならないという、消えることの無い孤独と不安に捕らわれていたところから解き放たれ、神の子としてくださった神さまのみ心に私たちの居場所を見つけ、真の安らぎを知ります。主の祈りの前半は私たちを、天の父に向って心を開き、親に抱かれた幼子のように、神さまの慈しみに自分の全てを委ねる安らぎへと導きます。こうして神さまへと心を高く上げた後、後半に移ると、子どもとして父なる神に糧を求めるように、教えます。いきなり具体的に糧を求める祈りの言葉にホッとしつつも、この祈りで本当に良いのだろうかと、戸惑います。それでも、私たちには糧が必要です。子どもたちに必要なものをすべて知っておられる父なる神に、先ず物質的なものを願うのは控えるべきだろうかとか、もっと精神的な高尚な願いをすべきではないかと思う必要はありません。本音を呑み込んで、やせ我慢をする必要はありません。私たちは子どもたちに、子どもは子どもらしく過ごして欲しいと願う者ではないでしょうか。神さまの子どもである私たちも、神さまの子どもらしく祈るのです。私たちより私たちに必要なものをご存知で、私たちの偽りもやせ我慢も全て見て取られる父なる神に、本音で祈るのです。
「日用の糧」の「糧」と訳されている言葉は、「パン」を意味します。穀物から作られるパンそのものです。そして同時に、食べ物全般を指します。それは私たちの命を支えるもの全般とも言えるでしょう。
「日用」という言葉は、音だけ聞いても意味を掴みづらいのですが、「日用品」の「日用」です。「来る日のために必要なもの」という意味があるそうです。目の前の一日に必要なもの。それが欠けると必要が充たされず、辛くなってしまい、弱ってしまう、そのようなものであります。それを「今日も与えたまえ」と祈ります。「今日も」と訳された言葉は、「当日のため」という意味だけでなく、「次の日のため」という意味もあり、今日のためとも明日のためとも取れる言葉です。朝に祈るならば今日一日のために祈る祈りとなり、夕べに祈るならばこれから深まっていく夜の間のために、そして次の一日のために祈る祈りとなります。またこの「今日も」という言葉には、「存在のため、生活に必要なだけの」という意味もあります。この一日存在が支えられるため、この一日を生きるため、与えたまえ、という祈りとなります。
こうして言葉の意味を一つ一つ見ていくと、「日用の」、「糧」、「今日」という言葉それぞれが響き合って、私たちの一日を支えるために無くてはならないものを、その日必要な分与えてくださいと願っています。主イエスはこの祈りを、毎日祈るものとして与えてくださったように思われます。毎日糧を必要とする私たちです。３食の内１食欠いただけでも、その後の行動に響いてしまう私たちです。こまめに食事を取るだけでなく、気温の変化に応じて身に纏うものを求め、働き場を求め、その日、その日を生きることに奮闘します。自分の命を支えるために自分であくせくして、そうやって一日が終わることの繰り返しだとしても、その一日に先立って、私たちの必要が満たされることを願っておられる神さまの慈しみがいつもあります。この神さまを仰ぎ、神さまに糧を祈り求めながら、日々、この祈りと共に歩むことを主は求めておられるのでしょう。
けれども私たちは、神さまを仰ぐよりも、生きていくためにしている自分の苦労を思うことに心を費やすことの多いものです。自分の力で糧を得て、自分の力で生きているように思いがちです。糧を得るための自分の労苦と神さまの恵みは、実際は重なるところのないもの、関係の無いものだと、捉えてしまっているかもしれません。だからこの祈りによって、父なる神を再び仰ぐことへと導かれます。私たちに主の祈りを教えてくださり、私たちと共に「我らに」とこの祈りを祈ってくださる主イエスのもとに、立ち返ることができます。そもそも、私たちに命と存在を与え、地上で生きる者としてくださったのは、私たちではなく神さまです。神さまはお造りになった人間に、大地と言う住まいも、「種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木」（創世記1：29）という糧も備えてくださったことも記されています。神さまは命を与えるだけでなく、初めから命を養う糧も備えてくださる方でありました。最初の夫婦が神さまの言葉に従わず、神さまがおられない所で、自分の力で食べ物も命も得ようとしてしまった出来事の後も、糧を得るためには労苦が伴うけれど、この先も食べ物を与えると約束してくださる方でありました。
イスラエルの民が、荒れ野で不平を並べ立てた時も、神さまはこの民のために糧を与えてくださいました。奴隷の地から神さまによって導き出され、自由を与えられた民であるのに、民は、どうしてエジプトから連れ出したのかと、水も食べ物も得ることが困難な荒れ野に連れてくるのだったら、エジプトにあのままいた方がましだったと言って、エジプトの食べ物を恋しがる民に、主は水をほとばしらせ、天からマナを降らせて、養ってくださったのでした（出エジプト16章）。
私たちが食べて幸いを得ることを望んでくださる、いのちの創造主なる神のみ心は、主イエスにおいて豊かにあらわれています。主イエスは、弟子たちは勿論、様々な人と食卓を囲み、共に糧と交わりを楽しむことを大切にされました。そして聖書は、主イエスは、独り子が「肉となって、私たちの間に宿って」くださった方であると述べています（ヨハネ1：14）。主ご自身も、「私は、天から降って来た生けるパンである」と言われています（ヨハネ6：51）。キリストは死を越えて人を養い、生かす命のパンです。父なる神が私たちに、このパンを食べなさいと、天から与えてくださった、生けるパンです。肉体の生命を維持する穀物のパンや糧も、私たちを存在の底から養い、生かしてくださる命のパンも、どちらも私たちに必要です。主イエスが、荒れ野で空腹に苦しみながら、誘惑するものと対峙され、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」（マタイ4：4）と告げられた通りです。私たちに必要なものを全てご存知である神さまは、穀物のパンだけでなく、生ける神のみ言であり、命のパンである主イエスを、私たちに与えてくださったのです。
主イエスは今も私たちに糧を与えてくださいます。聖餐の食卓は、現臨されるキリストが私たちを招き、養ってくださる主の食卓です。神さまの子とされるにふさわしいものが自分の中に何も無い私たちを神の子とするために、十字架でご自身の体を裂かれ、ご自身の血を流してくださったイエス・キリストが、私たちを食卓へと招き、永遠の命を生かす糧を差し出してくださいます。この聖餐のテーブルにおいて恵みを受ける度、キリストに結ばれ、天の父の慈しみに結ばれている確信を強められます。体の中へと染み渡るパンと葡萄液を味わいながら、この聖餐が先取りする、神の国での祝いの祝宴へと、心を高く上げることへと促されます。
三度の食事の度に祈る祈りも、聖餐の食卓で祈る祈りも、私たちに必要なものをご存知である父なる神に祈る「日用の糧を与えたまえ」というこの祈りにつながっています。日々の生活を、み子を生けるパンとして与えてくださった父なる神に、必要が満たされることを率直に祈り求めながら営むことができます。この日々の生活の先には、いつか死が訪れます。今のような日常を営むことがやがてできなくなる、死に至る日々の一日であるけれど、この日を生きるために祈ることができるのは、私たちが仰ぐ神さまが、み子によって、死を超えて、永遠の命に生かしてくださる方だからです。主の祈りは、キリスト者の葬りの業の中でも祈られます。もう肉体の生命を維持するために糧を得ることは無い方の棺を囲み、死の現実に圧倒される悲しみの中にあっても、「日用の糧を与えたまえ」と祈ることができます。神の国での祝宴に至るまで、神さまがこの人の旅路を養い続けてくださることに信頼し、先に神さまに召されたこの人と、なおも地上の歩みを続ける私たちの旅路を思い、私たち一人一人を神の子としてくださった神さまとの結びつきも、神の子らとされた者どうしの結びつきも、死で終わることがないことを思いながら、「私たちの日用の糧を今日も与えたまえ」と声を合わせて父なる神に祈ることができるのです。
もし主イエスが教えてくださった、「今日も与えたまえ」というこの祈りを知らなかったら、私たちはきっと、「今日も」と願うのではなく、「この先ずっと与えたまえ」と願うことでしょう。今日一日、あるいは明日一日、糧を得るだけでは不安になり、できるだけ先の分まで、できるなら一生分の糧を、願うことでしょう。神さまを仰いで心を高く上げることも、自分の思いだけでは難しい私たちです。目の前にあるものばかり見つめ、それらを自力で、できるだけ先の分まで確保しようとする者です。出エジプト記16章で述べられている、マナを明日の分まで、明後日の分までと、かき集め、貯め込んでおこうとして、腐らせてしまった者たちに、神さまから離れてしまう人の実態があります。今、私たちの命を養ってくださる方に、今、信頼する。それを朝に夕に、そして一日一日、積み重ねていく。簡単なことのようでいて、日々の生活を神さまへの信頼において刻んでいくのは決して簡単なことではないことを、改めて思わされる出来事です。
人のこのような実態を、主イエスもよくご存知でありました。人々が糧を産出し、獲得するために多大な労力を費やすことで、肉体と日々の生活を維持している姿を知っておられ、ご自分もそうやって糧を得て来られました。主は、糧を算出する力、獲得する力によって、人が互いの価値を判断したがる者であることも、ご存知です。ご自分の話を聞こうと集まって来た大勢の人に、主は、空の鳥は、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」と言われ、その鳥も天の父は養っておられることを語られます。人々は、空の鳥を見上げたことでしょう。主はまた、働きもせず、紡ぎもしない野の花を、神さまが美しく装ってくださっているとも言われます。人々は、辺りに生えている草花へと、視線を移したことでしょう。神さまに養われ、命に輝いている鳥や草花を見つめる人々に主は、「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と言われます。人は鳥や草花よりも生産性や獲得する能力を持っているから優れていると、だから糧を与えてくださると言われているのではありません。神さまが人々を、神の子とされているから、優れているのです。人の価値は、真の独り子が肉を裂き、血を流して命を捨ててくださり、父なる神がそのみ子を復活させてくださったみ業によって、与えられています。私たちの日々を守るものは、神さまから与えられているものであるのに、自分の力で獲得することばかりに心を注ぎ、自分や自分にとって価値ある者のためだけ掻き集める、他者の分まで奪い、他者の命と生活を奪ってまでもかき集め、必要を越えて所有することで安心を得ようとする罪の支配から救い出し、ご自分の子の一人としてくださった神さまが、私たちを優れた者と呼んでくださり、養ってくださるのです。
「天にまします私たちの父よ」と、イエス・キリストと共に神さまを呼び掛けることのできる幸い、全ての神の子らと呼び掛けることのできる幸いを覚えながら、「私たちの日用の糧を、今日も私たちに与えてください」と、今日も心から祈り求めたいと思います。