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「ナルドの香油」マルコ14：3～9
2022年2月20日（左近深恵子）
一人の婦人が香油を主イエスに注ぐ出来事は、新約聖書の他の福音書にも伝えられています。異なる部分もそれぞれありますが、主イエスがご自分に香油を注いだ人の行為を、ご自分の葬りのためだと喜ばれたこの出来事を、教会は初期の頃から大切に語り伝えてきました。今日はこの出来事を、マルコによる福音書から受け止めたいと思います。
このところ礼拝で、主イエスの最後の数日の出来事を聞いています。ガリラヤで福音を宣べ伝えておられた時から徐々に増していった祭司長や律法学者たちの主イエスに対する敵意は、主がエルサレムに入られてから強まる一方です。彼らは主イエスについて神を冒涜しているなどと批判しますが、敵意の根にあるのは、群衆が皆その教えに耳を傾け、心打たれている、そのような力を持つ主イエスを恐れたからだと福音書は伝えています（11：18）。いくら主イエスに議論を仕掛けても、思うように陥れることができなかった祭司長や律法学者たちは、どう主イエスを捕えて殺そうか、計略を練っています。過ぎ越しの祭りと除酵祭をお祝いするために大勢の人がエルサレムに集まってきている今、人々に人気の主イエスを捕らえて「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と、タイミングを探っていたことが今日の箇所の直前で述べられています。
しかし今日の箇所の直後になると、主イエスの弟子ユダが、主イエスを引き渡す話を祭司長たちに持ち掛け、事態は急転します。主イエスに弟子として受け入れられ、主イエスの宣教の旅にここまで従ってきて、その間責任も委ねられてきた弟子が、裏切り、その対価として金銭を受け取る。ユダの裏切りは、剣や棒を構えた者たちのように直接主に手を下すことはありませんが、主イエスへの敬愛を表明する接吻を用いて主を死に引き渡した、罪深いものでした。このユダの行動によって、指導者たちの計画とは異なり主イエスの逮捕が祭りの間に起こります。神さまを自由に礼拝することができない奴隷状態にあったイスラエルの民を救い出してくださった、神さまのみ業を記念する過越し祭と除酵祭、この祝祭を司る祭司長たちと、エジプトから救い出した民に神さまが与えてくださった律法に精通し、そこに示されている神さまのご意志を人々に教える律法学者たちが、その祭りの間に救い主の存在ごとその言葉とお働きを消し去ろうとする。その者たちからｄ主イエスを守るために真っ先に立ちむかうはずの弟子である者が、真っ先に主を引き渡す。こうして彼らは主イエスを、十字架による死へと追い詰めます。
「祭りの間は止めて置こう」と計画していた逮捕は前倒しになってしまいますが、主イエスの逮捕に対して、人々から激しい反発は起こりません。彼らの敵意と裏切りが目的としていたことが実行されますが、彼らの思惑とは異なる道を辿って行きます。そこに父なる神のみ業が働いておられるからです。人の計略も裏切りも呑み込んで働かれる救いのみ業によります。犠牲の羊の血を鴨居と柱に塗ったイスラエルの家を、神さまの力が滅ぼすことなく過ぎ越された出エジプトの出来事を記念する過ぎ越しの祭りの最中に、主イエスが人々を罪から救うため、人々の代わりに犠牲の小羊として十字架の上で血を流されます。人の中にあるものを全てご存知である神さまは、主イエスのお働きも言葉も退け、殺すことだけを求めるような激しい敵意も、主イエスの招きにお応えし、喜んで主イエスに従う者となりながら、主イエスを売り渡したり見捨てたりする裏切りも超えて、み業を成し遂げられる方であることを思わされます。
神さまは人々の敵意も裏切りも超えてみ業を成し遂げられますが、だから主イエスを十字架へと追いやる人々の罪が軽くなるということではありません。主イエスはその罪の重さを全て担いながら十字架へと進まれます。十字架に至るまでの主の道は、「祭りの間はやめておこう」と知恵を注いで殺し方を相談し合う指導者たち者たちの敵意と、主イエスの最も近くでその教えを日々見聞きしてきた者の裏切りの思いで、濃い霧の中にあるようです。その霧が一瞬去って晴れ間がのぞいたかのような出来事、主イエスのみ心に真っすぐにお答えする出来事が、今日の箇所で語られています。
過越しの祭と除酵祭の二日前のことでした。主イエスがエルサレムに来られると、日中は神殿の境内などで教え、夜はそこで過ごしておられたのでしょう。近くのベタニアという村の、シモンという人の家で弟子たちと食事に招かれていました。「重い皮膚病のシモン」「既定の病」という言い方は、この人がかつて、旧約聖書で規定されている病を主イエスによって治されたことを示しているのでしょう。その食事の場に、一人の婦人が石膏の壺を持って入ってきました。そして壺のその細い口を壊し、中の香油を主イエスの頭に注ぎかけました。壺を壊したのですから、中身を全て注ぎかけてしまったのではないでしょうか。
香油を客の頭に注ぐこと自体は、必ずしも特別な行為ではなかったようです。ルカによる福音書の同様の出来事を伝えている箇所では、主イエスがシモンに「あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」と言われています（ルカ7：46）。詩編23編にも「あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、私の盃を溢れさせてくださる」とあります。けれどナルドの香油を、数滴ではなく全て注ぐこの人のやり方は、通常のもてなしを超えていました。
この人が注いだナルドの香油は、インド北部の山地に生える高山植物から抽出されていました。頭や髪の毛に香りをつけるために用いられたり、客人を迎える時に用いられました。また死者に塗ることにも用いられていました。このオイルは人々にとって、人の命を彩る香りであり、大切な人の葬りの傍らにあるものでした。輸入しなければ入手できない、貴重なオイルで、その上「純粋で非常に高価」であったとあります。純度が高ければ高いほど高価であるのは当然のことでしょう。私たちが部屋で香油の香りを楽しむのに、純度の高いオイルなら一回につきほんの数滴で十分です。この日注ぎ出されたオイルによって、食事をしていた部屋のみならず、シモンの家中に刺その香りが立ち込めたことでしょう。香りは外へと広がり出て、近隣の人々にまで届いたことでしょう。
この出来事に腹を立てた人々がいました。他の福音書と異なり、マルコによる福音書では香油を注いだ女の人も、憤慨した者たちも、特定されていません。そこにいた何人かの者が、この人の行為は香油の無駄遣いだと互いに言い合います。この香油は300デナリオン以上で売れる。つまり労働者のほぼ1年分もの賃金に相当する。それを売ったお金で貧しい人々に施した方がずっと良い使い方ではないかと、この女性の非常識さに呆れます。不満は互いの内で収まらなくなり、彼らはこの人を厳しく咎めます。その彼らを主は叱責し、この人のしたことは「良いこと」なのだと言われるのです。
この人が自分の香油を自分のために使わずに主イエスのために注いでいるの、そのことを評価もせず、どうせするならもっと良い使い道があっただろうと他者の財産の用い方に勝手に腹を立てていることに、私たちは違和感を覚えるのではないでしょうか。しかしまたこの憤慨した者たちのように、誰かの善い行いに、横からあれこれ批判したくなるところが自分の中にもあることを思わされます。
そして、この人々の批判には尤もなところもあると、釈然としない思いが残るのではないでしょうか。貧しい人々を支えることは、律法において重んじられてきたことです。申命記にも「同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(15：11)と命じられています。そして主イエスも、助け合うこと、特に欠けを覚えている人に施しをすることを求めてこられたからです。ある裕福な人が主イエスに、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問い、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟は「みな、子どもの時から守ってきました」と断言した時、主はこの人を見つめ、慈しんで、主は「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい」と言われました（マルコ10：17～22）。外側をきよくすることばかりに捕らわれて、内側は強欲と悪意に満ちてしまっている民の指導者たちに、「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にあるものを人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」と言われたこともあります（ルカ11：40～41）。思い悩むなと弟子たちに語られ、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を造り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある」と教えられたこともあります(ルカ12：33～34)。これらの主イエスの言葉には、貧しい人々に「手を大きく広げる」ことを主がどれほど重要なこととしておられるのか、現れています。人がする施しを、行為だけ見ておられるのではないことに気づかされます。強欲と悪意を内側から全て取り除くことができず、その淀んだ思いに内側全体を濁らせてしまっている私たちに、神さまのきよさに生きること、神さまの眼差しの中を歩み、神さまのお傍に自分のこころを置きながら日々を営むこと、同じように神さまの眼差しの中、神さまの慈しみの中にある隣人と恵みを分かち合うことを強く願っておられることが、これらの言葉から伝わってきます。パウロは、欠けを覚えている人を支える原動力を、Ⅰコリント13：3でこう示しています、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を引き渡そうとも、愛が無ければ、わたしには何の益もない」。「全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない」という異なる読みもあります。自分で自分を誇りたい、あるいは他者に対して自分のことを誇りたい、そのような動機が行動のエネルギーとなってしまっている私たちの思いが見透かされているような言葉です。そこに愛が無ければ、結局私たちの行いは私たちの益とならないとまで記すパウロの言葉に、打たれる思いです。
主イエスは、貧しい人に施さずに自分にだけ油を注げと言われているのではありません。この人の行いは、ご自分の葬りの用意だと言われるのです。この人が主イエスのことをどのように見ていたのか、何のためにこのようなことをしたのか、記されていません。この人は主イエスのことを、待ち望んできたメシアかもしれないと思っていたのでしょうか。主に危機が迫っていると感じ取っていたのでしょうか。あるいはただ主イエスと言う特別な方に感謝を表したかったのでしょうか。この人自身には、主イエスの葬りの備えと言う認識はなかったのではないでしょうか。香油を注いだその頭に、数日後には茨の棘によってできた傷から血が流れ出るなど、思いもよらなかったのではないでしょうか。確かなことは、この人が普通なされるもてなしを遥かに超えたことを主イエスにしたいと願い、実行に移したということです。おそらくとてつもなく高価なこの香油は、この人にとって、そしてこの人に家族がいれば家全体にとって、宝のようなものであったでしょう。自分の大切なものを主イエスに捧げたいと、この時を逃したくないと行動したこの人の行為を、主が葬りの備えとしてくださいました。主イエスにお会いできた今この時でなければこの先できないかもしれないと、この一時をこれほど大切に受け止め、主イエスから受けた恵みをこれほど感謝し、その恵みにお応えしようとしたこの行為は、この人の全存在をもって為したもの、つまり献身のしるしでありました。少し前の12章で、生活費の全てであるレプトン銅貨2枚を神殿で捧げたやもめのように、この人も自分自身を注ぎ出しました。主はこの行為を「できる限りのことをした」と喜んでおられます。喜んでこの献身を受け入れておられます。これからご自分の命も体も苦しみへと投じられ、存在の全てを捧げようとしておられる、それほどに人を愛しておられる主イエスは、全てを捧げるご自分に、全てを捧げて応えるこの人の行為を「良いこと」だと言われました。主イエスがどのような方であるのか証しする行為、何よりも罪から人を救い出す十字架の死を指し示す行為となるからです。この人が思っていた以上に、献身の行為を主は喜んでおられます。この人が思っている以上に、このことはこの人にとって益となり、他の人々に益となります。神殿でレプトン銅貨2枚をささげた人のように、この人の名は知られることがなくても、その行為は世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、記念として語り伝えられるようになるからです。
この人の行為、そしてこの行為に主が与えてくださった言葉が、十字架と復活の主に自分を捧げるとはどのようなものであるのか、献身を主がどんなに喜んでくださるのか示しています。主イエスにできる限りのものを捧げようとする私たちの原動力も、私たちのためにすべてを捧げてくださった主の恵みにお応えしたいという願いです。私たちの世界からなくなることのない貧しさのために、私たちが大きく手を広げようとする、その原動力も、主の恵みにお応えしたいという願いです。私たちが為す良いことの源に、全てを捧げ、死者の中にまで降られた主の十字架の死があります。その主が、この人の後に続くことを求めておられます。できる限りのことを、時を逃さず主に捧げることへと、招いておられます。