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「主に遣わされて」マルコ6：6b～13
2021年8月15日（左近深恵子）
教会は、主イエスが救い主なのだという福音を受け止め信仰に導かれた人々の群れです。礼拝でメッセージを語る牧師たちの言葉を聞き続けながら、信仰が固まっていった人が多いでしょう。教会学校の礼拝で取り次がれるメッセージに、信仰への道を示された人もいるでしょう。家族や知人の言葉を通して、キリストを知った人もいるでしょう。キリスト教主義学校の教育や教師の言葉を通して、信仰へと背中を押された人もいるでしょう。誰かが書いた信仰の言葉がすとんと胸に落ちた経験を持つ人もいるでしょう。誰かが、他の誰かの語る言葉を聞いて信仰を得るに至るというのは、考えてみれば驚くべきことです。主イエスのように語れる人はいないからです。誰もがその時々で最善を尽くしてみ言葉を伝えようと語り、それでもどうしても言い尽くせないところがあります。もっとふさわしい言葉があるはず、もっと言えることが何かあるはずと思いながら、語ったり、記したりする言葉が誰かにキリストを指し示す。その驚くべき出来事が起きて、洗礼へと導かれ、神の民の一人に加えられる、キリスト者それぞれにこの奇跡のような出来事が起きました。2,000年余りに渡って人々の間でこのような出来事が起きてきたのが教会の歴史です。数多の人がなんとかキリストを伝えようと言葉を紡いできました。その人々の始まりに立つのが、今日の箇所で述べられている12人であります。
主イエスが福音を宣べ伝え始められたとき最初になさったのは、弟子を呼び寄せることでした。湖で漁師をしていたシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを呼び寄せ、収税所に座っていた徴税人のレビを呼び寄せました。そして3章でそれらの弟子たちの中から12人を選んで任命され、使徒と名付けられました。12人を選ばれたとき主は、弟子たちの中から「これと思う人を呼び寄せ」たとあります（3：13）。12人の何について主イエスがこれと思われたのかは、記されていません。大勢の中から特別な働きのために幾人かを選ぶとなれば、私たちが思い浮かべるようなふさわしさが、12人についてこの時点で明らかになっているわけではありません。他の弟子たちよりも弁が立つとも、特に信仰深かったとも、主イエスの教えを他の人々よりも深く理解していたとも、主イエスに従うことをとりわけ貫いてきたとも、弟子になる前の職業が弟子として特にふさわしかったとも言われていません。12人の中には、その後も聖書で特に名前や行動について触れられることがなく、影が薄く感じる人たちもいます。寧ろこの12人とは別の人々の名前を私たちは、主イエスに従うことを貫いた人として、また主イエスを証しした生き方をした人として思い浮かべるかもしれません。12人は、功労者だから取り立てられたのではありません。後の教会への貢献の大きさから、重要視されるようになったのでもありません。主が「これと思う」12人を、選ばれたのです。12人は教会の中核となっていきますが、そこにあるのは、12人が必死にそれぞれの内側で磨いてきたふさわしさではなく、主が「これと思う」者たちを選ばれたということです。いつの時代も教会の中核を据えるのは、他者と比較して見えてくる人間のふさわしさではなく、イエス・キリストのご意志と、召しであるのです。
主イエスは12人を大きく二つの目的で召し出されました。ご自分のそばに置くため、そして派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためでした（3：14～15）。ご自分のそばに置くことと、派遣すること、この二つには順序があることを主は示してこられました。主イエスはすぐには弟子たちを派遣されず、ご自分のそばに置くことをこれまでなさってきました。弟子たちは主イエスのそばに留まり、町や村を巡って福音を宣べ伝える主の後ろをついて歩き、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさいと告げる主の言葉を一つ一つ聞き、み言葉の説き明かしを聞く恵みをいただいてきました。主イエスは神の国について人々にはたとえを用いて語られましたが、ご自分の弟子たちにはすべてを説明されたとあります（4：34）。そうしていよいよ今日の箇所で、弟子たちを遣わされます。留まってきたから、彼らは送り出されることができます。ここから弟子たちは、留まることと、主イエスのもとから送り出されることを、繰り返してゆくことになります。
弟子たちはこの日遣わされますが、彼らが本格的に、全世界へと遣わされるのはまだ先のことになります。復活された主が弟子たちに現れてくださり、「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」（16：14）と命じられる時です。今日の箇所では、主イエスがその時教えを宣べ伝えておられた故郷ナザレ付近の村々へと遣わされます。いずれ全世界へと送り出す時のために、ご自分が天へと挙げられ、弟子たちを直接教え導くことができなくなった時に備えるように、ご自分が今為さっているお働きの中に彼らを加え、伝道の訓練の時を与えておられます。
12人はまだ理解が不十分な者たちです。しかし主のおそばでみ言葉の恵みを浴びてきた彼らを、主は送り出されます。遣わされた先で弟子たちは、主から受けてきたものの豊かさだけが自分の伝道の源であることを知るでしょう。主のそばに留まることが、遣わされることへとつながっていく教会の姿が既にここにあります。信仰者は誰かに福音を語るとき、主のおそばで主から自分が受けてきたものが、自分の言葉の源であることを知ります。伝道のために力を注げば注ぐほど、主イエスが聖霊において共にいてくださることが、力の源であることを知ります。語る自分を聖霊によって導いてくださり、相手との交わりに働いてくださることを祈り願いながら福音を伝え、そして主のもとに戻っていきます。主のおそばと送り出されることの往復が、信仰者を信仰に生かします。弟子たちはこの先も神の国を完全に理解するには至らず、主に従おうと意気込んでは失敗し、まだ分からないのかと主に道を正されることを繰り返します。主が捕らえられると見捨てて逃げ去ってしまいます。この弟子たちも私たちも、いつも信仰の成長の途上にあります。そのような者たちを主は送り出されます。完全に理解することを待ってから送り出されるのでも、どのような時でも主に従う生き方を貫けるようになったのを見届けてから遣わされるのでもありません。理解が十分でないけれど、ご自分のお働きの中に加えられます。教会は主イエスのおそばで主を礼拝する弟子たちの群れであり、主から受けた恵みを携えた弟子たちが主から送り出され、そこへと戻ってくる、主の共同体であるのです。
主イエスは12人の弟子たちを使徒として任命されたことを第3章で聞きました。遣わされた者という意味の使徒という名は、彼らが自分で勝手に歩き回っているのではなく、送り出された者であることを示します。使徒たちはそれぞれの信仰者としての完成度や立派さによって伝道するのではなく、彼らを送り出される主から与えられる権威と力によって呼びかけ、神さまの約束を告げ知らせるのです。
主イエスは彼らを二人ずつの組にされました。自分は主から権威と力を委ねられているから一人で大丈夫と、それぞれが一人で突き進んでいくわけではありません。伝道は同じように主から権威と力を委ねられている人々が共同で担っていくものです。複数の人が同じ福音を伝えるからこそ、彼らが自分の理念や思想を宣伝するためにしているのではなく、彼らを送り出した主の福音を伝えていることが相手に示されます。このことの背景には、旧約聖書の律法で、裁判での立証には二人ないし三人の証言が必要であると定められていることもあるのでしょう（申命記19：15など）。二人組で、主イエスの代理として福音を届ける彼らの姿が、その元にある、主イエスに呼び集められた群れの姿を映し出すのです。
主イエスはまた彼らに、杖と履物以外は何も持たずに行くことを命じられます。主イエスのように弟子たちも町や村を旅しながら伝道するのであり、訪れた先で自分たちを迎え入れてくれる人の家に滞在させてもらい、その地で福音を語ることになります。蛇や野獣が潜み、日中の厳しい日差しに地面は焼けつくような熱さになるこの地域を旅してこられた主イエスは、弟子たちに杖と履物が必要であることをよく知っておられます。しかしそれ以外の道中の食糧や、人から提供されたものを貯めておく袋、幅広い帯に結び付けたお金や、余分な衣服を持たずに旅をするようにと言われます。軽装であれば彼らは直ぐに伝道の旅へと出発できるでしょう。旅の間の移動も楽でしょう。そしてこれは何よりも、装備にではなく、神さまに全く信頼するようにとの呼びかけであるのでしょう。福音を携えゆく使徒たちは、主から賜る権威と力が何よりの装備であることを知る者であるのです。
主イエスは彼らを迎え入れてくれる家で提供されるもてなしを何でも受け入れることを命じられます。また、次の土地に移るまでその家に留まることを命じられます。こうして宣教の働きは弟子たちの一方的な業ではないことを教えてくださいます。弟子たちを受け入れる人々は、弟子たちが携え行く福音の言葉、弟子たちが働きを通して示す神さまのご支配がその地にもたらされることを願っている人々です。そのような人々と弟子たちは、どちらが上でも下でもない協力し合う関係であり、そのような関係によって伝道の業は進められていきます。伝道のためにと言いながらもっと良いものを提供してくれるところはないかと探すことに心や時間や労力を費やすことは、もてなしを提供してくれる人々を軽んじるだけでなく、心と思いを何よりもそこに注ぐべき福音の伝道を軽んじてしまうことになります。どこかで福音の到来を待っている人々のことを思いながら、必要なものはその地で与えられることに信頼し、伝道へと踏み出すのです。
だからこそ、この使徒たちを自分の家へと迎え入れるかどうか、その語り掛けに耳を傾けるかどうかが、その人の人生にとって、その人の家にとって、その土地にとって、大切な決断の時となります。主イエスは、その土地の人が弟子たちを、また弟子たちの言葉を受け入れない時には、足の塵を払い落としなさいと命じられます。これは身に着いた汚れから離れることを象徴するしぐさとみなされています。自分たちを受け入れるようにと、福音のメッセージに耳を傾けるようにと更に説得しようとしてそこに留まることは無いとされます。この時彼らが訪れる近くの村々の民は、イスラエルの神を知る神の民、主ご自身の民がほとんどでしょう。その人々の中に、ご自身が遣わす使徒たちを拒み、旧約聖書の時代から彼らが待ち望んできたはずの福音を退けてしまいかねないかたくなさがあることを、主は既にご存じです。弟子たちは、彼らを遣わされる主に対して福音を宣べ伝えることで仕え、福音を宣べ伝えることに責任があります。しかしそこから先は、弟子たちにはどうすることもできません。受け入れない人々が彼らに対して返す態度についても、宣べ伝えたことがどのような結果に至るのかについても、弟子たちがコントロールできることではありません。伝えたい相手が受け入れてくれるようにと祈り願いながら最善を尽くして福音を伝えたら、そこから先はその人々、一人一人が福音に対して為す決断であります。結果はただ主に委ねるしかないのです。
使徒たちが伝えた福音に耳を傾けた人々は、神さまから引き離す悪霊の力から解き放たれ、癒されて、新しい人生を歩み始めました。使徒たちの存在、彼らが伝えた福音は一人一人に、キリストの赦しに与かる新しい人生を始めるのかそうでないのか、決断を求めたのです。教会はこの使徒たちが伝えた言葉を受け止め、その福音に喜んで生き、受け継いできた信仰者の群れです。この福音を一人でも多くの人に伝えるという、主から命じられた使命を担うために、主のもとに留まり、主を礼拝することと、主から送り出されることの往復を、週ごとに繰り返しているのです。
主は理解がまだまだ不十分な私たちも、福音を伝え運ぶ者とされます。それは伝道の旅に出る人だけのことではありません。イエス・キリストの体なる教会に連なり、信仰の旅路を歩むように日々を生きる私たちも、福音を伝え運ぶ者です。不完全で、欠け多い私たちです。不完全であること、欠けていることにこだわり、前へと進めない思いに駆られます。その一方で僅かでも自分が手にしている力や知恵にしがみつきたくなってしまう者です。罪の力は私たちの生活の中で未だに大きく、神様に背を向ける思いや言動へと私たちに影響を及ぼします。だから礼拝において、キリストによってもたらされている罪の赦しの賜物を知り、感謝して、新しく造り変えられた者として、新しい週へと踏み出したいと思います。神さまのご支配が自分の人生にもたらされることを願う人々がどこかで待っていることを思い、ただ主に信頼して、福音の言葉に生き、証しする歩みへと、主によって遣わされてまいりましょう。