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女性として初めて赤十字国際委員会（ICRC）委員に就いたマルグリット・フリック・クラマー（1887～1963）は、終戦直後の最も重要な時期にあっさりと要職を退いた。その背景には、人道支援の理想と現実の矛盾があった。このコンテンツは 2021/10/03 09:00
赤十字国際委員会（ICRC）に30年近く勤めたマルグリット・フリック・クラマーが要職から降りたのは、1946年。戦争で破壊されたヨーロッパに、人道援助を早急に必要とする難民が何十万とあふれ返る最中だった。
当時、ICRCはただならぬ難題に直面していた。それは世界大戦中に行った活動、あるいは行わなかった活動のせいだけでなく、強力な競合組織が世界中で次々と誕生していたからでもある。
「偉大な小婦人」と多くの人々から親しまれたマルグリット・フリック・クラマーは、このような状況をよく把握していた。退職届には、まさにこの問題の指摘ばかりか、その先の予測まで記されていた。
ICRCの保管文書の中には、彼女が退職を決心した動機は見つからない。献身的に働いてきた才能豊かな女性が、なぜよりによってこれほど大事な時期に委員会を去ったのか。それはおそらく永遠の謎として残ることだろう。残されているのは推測を立てることだけだ。
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考えられる理由の1つは、燃え尽き疲れ果てた彼女が、そろそろ退職して、なじみの深い土地で、これまで一生懸命働いた分ゆったりと隠居生活を送りたいと思ったのではないか、ということだ。60歳も近くなり、相続した屋敷でひっそりと静かに暮らしたい。そう願っていたのではないか。彼女の家族はジュネーブの（非常に）高い市民階級に属していた。父親は代々市参事会会員を務めてきた著名な一族の出で、母親は「（ICRCの初期メンバーを父に持つ）ミケリ家の一員」だった。
つまりマルグリットは、共和国のころから数百年にわたってこの土地の運命を左右してきた数少ない特権階級の家庭に生まれたのだった。司法と歴史を学び、何よりICRCの職を得ることができたのは、このような社会的背景に寄る。ICRCは長い間、国際舞台に浸透していたこの町の名声を維持してくれる地元の貴族にしか門戸を開いていなかった。
マルグリットは一方で、声望あるポストを明け渡すことに未練を感じるタイプの人間ではなかった。大学を好成績で卒業した後、女性で初めてスイス史の教授代行という職を得たが、第一次世界大戦が勃発するや否や、迷うことなくその職を手放してICRCで働くことにした。
そこでは、数百万人に及ぶ連合国側の捕虜の情報を索引カードを使って収集・整理する部門を立ち上げた。この時、米国赤十字が同様の組織を立ち上げようとしたが、自国民の捕虜しか対象にしない案だったため、マルグリットは断固として反対した。初めて退職をほのめかしたのは、仕事場の雰囲気がこのように張り詰めているときだった。
この貴重極まりない職員をどうしても手元に残しておきたかったギュスターヴ・アドール総裁は、そんな彼女にICRCの委員の椅子を用意した。こうして1918年11月、彼女は再び同組織初の女性委員に就くことになった。だが、4年後にはそこからもあっさりと退いた。その後、名誉委員に任命されたため、マルグリットは引き続き赤十字の代表として思考し行動した。
とは言え、彼女の努力は常に報いられたわけではなく、それが1946年の突然の退職につながったことは確かだろう。彼女は1929年の「捕虜の待遇に関する条約」にも共同起草者として大きく貢献した。この条約の原則は1870年～71年の普仏戦争でも一部適用されたが、戦争当事者に悪意がないことが前提となっていたため、不完全な状態だった。
1934年に東京で開かれた第15回赤十字国際会議でマルグリット・クラマーが紹介したいわゆる「東京草案」は、さらに残念な結果に終わった。この草案は、対戦国内もしくは対戦国が占領した地域にいる、対戦国の国籍を持つ一般市民を守るためのものだった。
しかし、この条約が批准されることはなかった。実施に移し、合法的な方法で多くの命を救う前に、第二次世界大戦が勃発したからだ。
だが、最大の敗北は何と言っても1942年秋に起こった出来事だった。彼女は他の委員とともに、ナチスドイツが一般市民を相手に戦争犯罪を犯したことに対し、ICRCが公に抗議するよう求めた。このような声明は象徴的な役割を果たし、未来を背負う世代に組織の勇気を示すことができると確信したからだ。
ところが、この提案には委員会の過半数が反対した。ヒトラーに対する不安が大き過ぎたのだ。成果の見込めないキャンペーンは行えない。ICRCは静観を貫き、その姿勢は今日に至るまで批判の的になっている。
戦争犯罪が発生した後、ICRCは責任を免れるために、ユダヤ人殺害に対する傍観者的な態度の釈明に向けた戦略を立てなければならなくなった。そのときに委員会が頼りにしたのがマルグリット・クラマーだったことは、まさに歴史の皮肉だった。
信義に厚い彼女はそれを引き受けた。そして、一般市民の犠牲を回避し、保護することに熱心に取り組んできたにもかかわらず、このような活動は組織の委任内容に属さないという法的な論拠を持ち出した。
このときの屈辱が決定打となったのだろうか。少なくともこれら一連の出来事はそのことを示唆しており、マルグリット・クラマーの辞職が単なる退職ではないことを表している。もうのんびりと暮らしたいという思いがその理由の1つであったことは間違いない。
彼女はそれまでにも役職から退く経験を何度もしてきたが、この辞任には度重なる落胆も背景にあった。特に、個人的なスタンスを徹底的に否定されたことが大きく響いた。
総括すると、このまれに見る女性パイオニアの例は、人道援助の核心にある矛盾を暴露していることが分かる。人道援助に携わる者は高い理想に駆り立てられずにはいられないものだが、実際の仕事場は矛盾だらけだ。仁愛のために働くということは、あまりにも人間臭い了見の狭さに囲まれながら、その真っただ中で非人道的な出来事と闘うことを意味しているのだ。
（独語からの翻訳・小山千早 ）
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