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「一人ひとりの人間の意識が変われば、世界を苦境から救うことができる」。そんな理念の下に立ち上げられた国際団体「道徳再武装運動（MRA）」が、レマン湖を見下ろすスイスの村コーに拠点を構えてから今年で創立７０周年を迎える。第２次世界大戦後から冷戦期にわたって、スイスの保守派に大きな影響を与え続けた同団体は、今も世界を少しずつ前進させようとしている。
MRA運動の始まりは、２０世紀前半、西側世界が大戦と危機の真っただ中にあった時期に、スイス系米国人のフランク・ブックマン牧師が「軍備の武装ではなく道徳と精神の再武装を」と提唱したことから始まった。
ブックマンは、世界を難局と苦悩から救い出すことができると確信していた。１９３０年代に入り、彼の信奉者とともに宗教運動「オックスフォード・グループ」を発足させ、アルコール依存症者たちが相互に助け合う「アルコホーリクス・アノニマス」という活動を始めた。
だがブックマンの活動はそこで終わりではなかった。資本主義や、無神論者の共産主義者を悪とみなしたブックマンは、「道徳と精神の再武装」が必要だと確信した。こうして１９３８年、オックスフォード・グループは公式にMRA運動と名を変え、１９４６年にスイス南西部の村、コーに本部を設置。本部創設から今年で７０周年を迎えた。
米国の歴史学者ダニエル・サック氏は著書他のサイトへで、「MRA運動は、一人ひとりの人間が変わることよって、政治や経済の面においても世界を変えていこうとしていた。しかも、合理的な説得や論理的な議論をするのではなく、一人ひとりの経験を通してそれを実現させようとした」と書いている。
専制主義への誘惑
ブックマンの呼びかけにはヨーロッパおよび世界中で反応があった。スイスではリベラル右派や保守派の名士約３０人がこの運動に賛同した。
スイスのMRA運動会員の関心事は、当時の右派政党でも中心課題として扱われた。右派の歴史学者オリヴィエ・ムーリー氏は当時の複雑な背景を次のように述べる。「３０年代、経済界、政界、学界全体に動揺と危機が広がっていた。またファシズムや共産主義の台頭に多くの人が不安を持っていた。そのような中で、（当時最も重要な右派政党で、スイスの合議制内閣の多数派だった）急進党の議員の一部は、議会制民主主義に疑問を持ち、資本主義の改革が必要なのではと思い始めていた。その中には、スイスに専制主義の導入を望む者すらいた」
３０年代後半には、カトリックの教義を重んじ貴族政治主義者だったゴンザーグ・ドゥ・レイノルドが中心となり、スイスで専制主義を肯定する動きが芽生えた。レイノルドは、１９３３年にナショナリズムとカトリックの価値観を強要する専制的・保守的な独裁政権「エスタド・ノヴォ」を誕生させた、ポルトガルのアントニオ・サラザールを崇拝していた（エスタド・ノヴォは１９７４年に崩壊）。
左派の歴史学者ハンス・ウルリッヒ・ヨースト氏は、「スイスに緩やかなファシズムを導入するうえで、サラザールはそのモデルになった。保守プロテスタントの間でもそうした考えがあった」と指摘している。
右派の一部は、スイスをナチスドイツから守るには専制主義が必要と考えていた。その背景には、当時、専制主義的な政権が多く誕生し、ヨーロッパ全土に新たな秩序が敷かれていたことがある。
専制主義を肯定的に捉える考え方は、シンクタンクを初めとする右派団体にも広がっていた。しかし、「４０～５０年代にそれぞれの右派団体が互いにつながっていたかどうかは、歴史調査が欠けているため明らかでない」と、ヨースト氏は言う。
そのため、極左の歴史学者は「MRA運動や、特にモンペルラン・ソサイエティー他のサイトへが、お金で世界を統治しようとたくらんでいるのではないか」（ムーリー氏）と想像を膨らませているという。ちなみにモンペルラン・ソサイエティーは、新自由主義を広めるうえで重要な役割を果たしたシンクタンクだ。
このシンクタンクは、MRA運動がコーに本部を構えた１年後に創立された。両者は地理的にはとても近いが、ヨースト氏はその他にも類似点があると指摘する。「モンペルラン・ソサイエティーが守ろうとした価値は、MRA運動と同じものだったが、そこに宗教的な要素はなかった。同団体は、（新自由主義のコンセプトを生み出した）経済学者フリードリヒ・ハイエクと同僚のウィルヘルム・レプケが創立した。ちなみにレプケは１９４２年にスイスの主要紙NZZで、『個人と自由経済を基礎とし、社会政策を行わない小さな政府を構える国へとスイスを刷新すべき』との道徳的な呼びかけをしている」
コミュニズムに抵抗する
ヨースト氏によれば、戦後は、比較的裕福なスイスの右派たちが再びMRA運動に集まった。MRA運動が政治や軍隊にある程度の影響力を持っていたためだ。
スイスMRA運動で会長を務めていたジャンピエール・メアン氏もそう指摘する。２０１０年のプロテスタント系ニュースサイトのインタビュー他のサイトへでは、「私は１９６０年代の初め、まだ１８か２０歳だったころに初めてコーのMRA運動の本部を訪れた。当時の彼らのメッセージで私が理解したのは、共産主義に対抗するにはキリスト教の価値をぶつけていかなければならないというものだった。第三世界の国々が独立後に共産主義に陥らないよう、こうした国々のエリート層に向けて働きかけがなされていた。だが、私はこのアプローチに興味がなかった」と語っている。
コーネリオ・ソマルガ氏との新たな出発
そのメアン氏が２０００年に入ってからコーのMRA運動に入会したのは、１９７０年代以降輝きを失っていた同団体がコーネリオ・ソマルガ氏の指揮で再出発してからだった。
ソマルガ氏は、国内はもちろん、ジュネーブに本部を置く国際機関からも信用を集めている。同氏は１９８７～９９年まで赤十字国際委員会の委員長を務めた。
ソマルガ氏の指揮で、MRA運動は名称を「イニシアティブス・オブ・チェンジ（IC）」へと変更。創始者ブックマンの精神は残したま、イデオロギーに満ちた重苦しい名前を捨てた。
仲介役
ICの評議会委員で、スイスインフォの外部顧問でもあるウルス・ツィスヴィラー氏は次のように述べる。
「ソマルガ氏が会長に就任してすぐに、方向性が明確に変わった。だが、過去と変わらず、（紛争当事者間の）調整や仲裁など（ヨーロッパ統合におけるフランスとドイツの仲裁などの）重要な働きをしてきた。また、コーではアルジェリアの例のように、非植民地化に関する会合などがいくつももたれてきた」
かつて外交官を務めたツィスヴィラー氏は、スイスが中国とチベットの仲介役になっていたときには、コーでダライ・ラマの極秘の会合が行われたことも打ち明けた。現在でもコーの本部は、国際都市ジュネーブとスイスの外交にとって、出会いの場であり仲裁の場であるとも述べた。
このように時代とともに変化してきたICだが、「人は個人的な経験を共有することで変わることができ、またそこから社会を変えていくことができる」という原則は変わらない。バーバラ・ヒンターマン書記長は、「私たちは、世界を変えようとは思っていない。少しずつ前進させようと模索しているだけだ」と話した。
「人の意識を変えれば、世界をも変えることができる」とするMRA運動ないしはICについてどうお考えですか？ご意見をお寄せください。
（仏語からの翻訳＆編集・由比かおり）