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マルコ12：13～17「神のものは神に」
2022年1月23日（左近深恵子）
主イエスは、ご自分の命を狙うユダヤの民の指導者たちが待ち受けるエルサレムへと入られました。その次の日から、神殿の指導者たちと主イエスの間に対立が起こっていきます。主イエスは、神殿の庭で売り買いをしていた人々を追い出し、かつて神さまが告げられたように、すべての民の祈りの家として礼拝の場を回復するように、礼拝を神さまのみ心に適うものへと回復するように求められました。けれどこの出来事を知った神殿の指導者たちは、主イエスを殺す策を練り始めます。策は練るけれど、実際に手は出せずにいました。主イエスの教えに群衆が皆心打たれていたからです。人々に強い影響力を持つ主イエスを恐れ、群衆の反応を恐れたからでした。
そこで指導者たちは、主イエスの権威に疑問を呈することで、主イエスの信用を失墜させることを狙います。先ず、「何の権威で、このようなことをしているのか。誰が、そうする権威を与えたのか」と、神殿の庭から商売していた人たちを追い出しことについて詰め寄ります。神殿で何をして良いのかしてはならないのか、定める権威を持つのは、主イエスではなく彼らであることを、主イエスに対しても、周りの群衆に対しても、明らかにしようとします。
ところが逆に主イエスから、洗礼者ヨハネの働きは神から来たのか、それとも人から来たのかと問われ、彼らは困り果てます。ヨハネが宣べ伝えていたことを受け入れなかった彼らは、もし神から来たと答えれば、ではなぜヨハネの言葉を受け入れなかったのかと、人々の前で主イエスに矛盾を突かれてしまうでしょう。もしヨハネが人から来たと答えれば、ヨハネを神さまから遣わされた預言者と信頼し、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を進んでヨハネから受けた人々から猛反発を受けるでしょう。どちらで答えても権威ある者として今得ている立場を失ってしまうことになる指導者たちは、「分からない」と言って答えることから逃げました。主イエスに権威が無いことを明らかにしようとしたら、神さまからの権威に聞き従うことを真剣に求めて来なかった、彼らのあやふやな姿勢が明らかになってしまいました。彼らが恐れていたのは、神さまの権威に従う道から離れてしまうことよりも、人々のこころが自分たちから離れてしまうことだったのです。
一旦引き下がった指導者たちは、反撃のために問いを用意します。祭司長、律法学者などから成る指導者たちは、今度は自分たちで行くのではなく、人を送り込むことにします。ファリサイ派とヘロデ派という二つのグループから、数人の人を遣わします。ファリサイ派は、ユダヤの民の中でも特に律法を厳格に守ることを特徴とします。ヘロデ派についてあまり知られていませんが、領主ヘロデの宮廷に属し、世俗の政治に関わっていたと考えられています。ヘロデはユダヤの民からは異邦人でありながら、ユダヤの民を支配するローマ帝国を後ろ盾に領主の地位を得ていました。ファリサイ派とヘロデ派は共に行動するようには思えない間柄ですが、以前にもこの組み合わせは登場していました。ガリラヤで主イエスのお働きに反発するファリサイ派の人々が、ヘロデ派の人々と手を組んで、どのようにして主イエスを殺そうかと相談したと、3章で述べられています。そのことを神殿の指導者たちが知っていて、この組み合わせは送り込むのに打って付けと考えたのかもしれません。信仰生活も主張も、異邦人支配者たちとの関わり方も全く異なるファリサイ派とヘロデ派、そして祭司長、律法学者が、協力して動いています。彼らは、真理の探究において心を通わせ、一致を見出したのではありません。それぞれが今得ている人々からの支持を失いたくない、立場を失いたくない、そのためにイエスという者の存在を取り除きたい、その一点で一致し、手を組んだのです。真理において一つとなりたいと願いながら実現することがなかなかできずにいるのに、罪においては一つとなってしまう人間の現実が、ここにあります。
彼らは、主イエスがどう答えてもその言葉じりを捉えて、追い詰めることができると考えた問いを用意しました。問いと言っても、それは形ばかりで、実際に彼らは答えを求めているわけではありません。信仰についての問いを、彼らは主イエスを攻撃するための道具とします。
主イエスのところに来ると、彼らは先ず誉めそやします。「真実な方」「誰もはばからない方」「人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられる」方と賛辞を並べ立て、この後の問いに答えないわけにはいかないように、逃げ道を塞ごうとします。これらの賛辞から、彼らが真実であること、誰もはばからないこと、人を分け隔てしないこと、真理に基づいて神の道を教えることを、価値あることとしていることは明らかです。その彼らが、真実であることよりも、神の道や誰もはばからないこと、人を分けへだてしないことを重んじることよりも、自分が分け隔てされることを恐れ、人の目をはばかり、保身のために動いている、皮肉な情景がここにあります。
彼らが主イエスに発した納税に関する問いは、当時人々の間でも繰り返し問われていたことでしょう。律法遵守を重んじるファリサイ派の人々にとっては、異邦人である征服者に神の民が税金を納めることは、律法に適うのか、歩むべきとされている神の民の道において許されているものなのかどうか、問題です。ヘロデ派の人々にとっては、ユダヤ人たちがしっかり納税することが重要です。ローマ帝国に依存している彼らの生活も政治的立場も、ユダヤ人たちが納税しなければ揺らぎかねないので、しっかり税を納めるかどうかが問題です。同じ納税について問う質問において、この二つのグループそれぞれが重視する面に焦点を当てた、「律法に適うのか」、「納めるべきなのか」との二つの表現で問われています。この二つのグループの人々は、納税をしています。ローマの国家に依存し、ヘロデに追随するヘロデ派の人々は、自ら考えることを放棄するかのように、支配者に言われた通りに納めていたでしょう。ファリサイ派の人々は、望んでではないけれど、納めるしかないと割り切って納めていたのではないでしょうか。
ローマ皇帝は、自分を神格化させ、神として崇めることを求めていました。そのローマ皇帝に納税することは、神さまだけを神とすることを求める律法にも反するのではないかという思いが、ユダヤの民にありました。時には、納税を拒否し、武器をもって反乱を起こす動きも民の中に起こりました。納税に不満を募らせているユダヤの民が、ローマに対して抵抗運動を起こすのではないかと、常にヘロデとローマ帝国は神経を尖らせていました。この日、主イエスとファリサイ派・ヘロデ派のやり取りを見つめていた群集の中にも、そのような勇ましい主張や行動に惹かれる人が多くいたことでしょう。納税の問いに対して、もし主イエスが神さまの道に適うことだと、税は納めるべきだと答えれば、群衆は主イエスに失望し、大部分は主イエスを見捨てるだろうと、逆に納税をしなくて良いと答えれば、この者はローマ帝国に対する反乱を企てていると、帝国に引き渡すことができると、ファリサイ派やヘロデ派の者たちは考えていたことでしょう。どう答えても自分たちはその答えを利用してこの者を滅ぼすことができるというのが、彼らと、彼らを操っていた人々の目論見でした。
人の心に何があるのか全てご存知である主は、真理を求める振りをして、質問という罠で主イエスを陥れようとする彼らの偽善を見抜いておられました。主はデナリオン銀貨を持ってきなさいと言われます。当時の労働者のほぼ一日の賃金分に当たるこのローマ帝国の銀貨の表面には、神の威厳を表す月桂冠をかぶったローマ皇帝の肖像と、この皇帝が神の子であることを表す文字が刻まれていました。その肖像と銘は誰のものかと、主は彼らに問います。彼らが「皇帝のもの」と答えると、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われます。彼らは主イエスに「納める」という言葉で質問しました。「納める」と訳された言葉は本来、「与える」という意味の言葉です。「与える」ということは、自分に属するものを皇帝に渡すということです。しかし主は「与える」ではなく「返す」という言葉で答えられます。自分にではなく皇帝に属するものを、皇帝に返すのです。誰かに属するものはその人に返すのが基本であるように、皇帝に属するものは皇帝に返すのだと、ローマへの納税は、皇帝を神と崇めることではなく、その力と仕組みの中でユダヤの民の生活が営まれている、ローマの皇帝に属するものを、皇帝に戻すことなのだと、教えられます。
主イエスの教えは聞く者の考え方を大きく転換させます。けれどもしここで終わったら、皇帝を神とすることは無いけれど、神さまを神とする道も示されないままとなってしまいます。主は、その後に「神のものは神に返しなさい」と続けてくださいます。元の文では、「あなたがたは皇帝のものは皇帝に返しなさい。そして、神のものは神に」となります。「そして、神のものは神に」、この言葉が全体を締めくくります。皇帝のものと神のものが世に混在しているから、その線引きをしっかりしなさい、それぞれ返すべき相手を間違えないようにしなさい、ということではありません。ここで「そして」と訳されている言葉は、前のものと後ろのものを並置するのではなく、決定的なものを導入する「そして」なのだと考えられています。「そして」で導入されるものが、その前に語られてきたものを上回ります。主イエスを殺そうとしている人々は、ここまで繰り返し主イエスの権威に疑問を呈し、攻撃してきました。それによって、自分たちの権威が及ぶ範囲を必死に守ろうとしてきた人々に主は、世のものは世に返しなさいと、そして彼らが守ろうとしているものも含めて全ての権威に勝る方である神さまに、神さまのものを返しなさいと、告げられたのです。
私たちの日常は、世のさまざまな力に属する、様々なものに囲まれています。私たち自身も、家庭や社会の中で、幾つかの場所に属しています。主イエスは、何をどこに返しなさいと、すべきことを具体的に命令するような教えではなく、どのように決断するのか、その姿勢を教えてくださいます。すべてを支配する方がおられます。その方のみ前で、私たちは何がどこに属しているのか、どこに返すことができるのか、私たちが属しているところに対してどのように責任を担うことができるのか、その責任を負うことを通してどのように神さまのご意志を世において証しすることができるのか、繰り返しみ心を尋ね求めます。皇帝のものはただ機械的に皇帝に返すのではなく、決断が必要となる度に、キリスト者は新たにみ心を問います。私たちは単に今この時の国や社会の民では無いからです。「わたしの国はこの世には属していない」（ヨハネ18：36）と言われた主が王である神の国の民です。この主に仕える者です。私たちは、国や社会において力を委ねられた者たちが、その力を誠実に用いるように、主なる神に祈り続ける者であるのです。
更にキリスト者は、自分を苦しませているもの、弱らせるものが最終的なもの、決定的なものではないことを知っています。最終的な救いは、イエス・キリストによる決定的な救いのみ業によって与えられていることを、知っています。パウロもこう述べている通りです、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」（ローマ8：38～39）。
そして私たちは、私たち自身のことも、神さまのみ前で考える姿勢を教えられています。私たちがどこに属していようと、属していまいと、私たちは神さまのものです。神さまによって、神さまのかたちに創造され、命と存在を与えられた者という出発点を与えられています。神さまに属する者として生きる道が、キリストの十字架と復活によって開かれています。全てに勝る権威を持つ方が、世の力の中で歩んで行く私たちの力の源です。世のものを世に返し、神さまのものを神さまに返すことにもがく私たちが、帰りつくところです。キリストによって神さまに贖われて、主のものとされている私たちだからこそ、神さまのものを神さまにお返しすることを共に求め、神さまと人に仕える道を歩んでゆきたいと願います。