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◆ヨハネの福音書１５章２６節～２７節、１６章７節～１４節
15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
15:27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。
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16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。 16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
◎約束の聖霊
主イエスは、天の父のもとから「もうひとりの助け主」である聖霊を送られると約束されました。そして、ここではこの聖霊を「真理の御霊」と呼んでいます。地上におられる間、主イエスは弟子たちにとって「助け主」であり、「真理なる方」でした。弟子たちを残して天に帰られようとしている主イエスは、地上での残された時間を使って、聖霊ついて語られました。その中で、真理の御霊である聖霊が、罪と義とさばきについて、世の誤りを認めさせると語っています。すなわち神の目にとって、何が罪であり、何が義であり、何がさばきであるのか教えるということです。今日は、この三つのポイントからいっしょに「真理の御霊」について学んで行きましょう。
Ⅰ．罪について
聖書が罪について語るときに、人間が神から離れてしまった結果犯す“罪”よりも、人間が神との関係を壊してしまった「罪」の方に重きを置いて語っています。罪と訳されている聖書のもともとの言葉はギリシャ語のハマルティアで、「的外れ」という意味です。人間が創造主である神の良きご計画と目的から離れたところに生きている状態を表しています。「この人は聖人のように立派な人だ。」「あの人はどうしようもない悪人だ。」「私は犯罪を犯したこともないし善良な市民だ。」と言うように、人間はお互いを基準として善悪の程度を計ろうとしますが、聖書は「創造主である神といのちの通う関係を持っているかいないか」だけを問題としています。関係をもっていなければハマルティア（的外れ）な状態であり、それが罪なのです。
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。（Ⅰヨハネ１：６～９）
真理の御霊は、私たちが罪ある状態であることを教えてくださる方です。クリスチャンであるならば、確かに救われてはいるのですが、罪を示される聖霊との親しい関係を持っているかどうかが問われています。自分を正当化して、あるいは他の人に責任転嫁して、聖霊が触れられることを拒んでいないでしょうか。私たちが第一にしなければならないことは、真理の御霊である聖霊に自分の心を探っていただくことです。
Ⅱ．義について
主イエスは、ご自身が十字架の死と復活の後に父のもとに帰ることが「義」であると語っています。聖書の語る「義」は、もともとは法廷で使われる言葉で、裁判において法律に照らして「無罪」を宣告することを意味しています。主イエスは「父のもとに行く」と語られましたが、それは、父が御子を完全に義なる者として受け入れたことを意味しています。それだけでなく、キリストの十字架の贖いを通して、キリストに従う者たちにも「無罪」とされ父のもとに行く道が開かれているのです。それが聖書の教える義です。
◇スピード違反
２０世紀最大の伝道者と認められているビリー・グラハムの名前を知らないアメリカ人はほとんどいないと思います。彼は歴代大統領の就任式では、３０年に渡って祈祷を務めていました。
何十年も前のことですが、グラハム師が南部の小さな町をドライブしていたときのことです。いつの間にかスピードを出しすぎていて、警察官に停止させられました。
グラハム師は素直に違反を認めたのですが、町の裁判所にそのまま出廷しなければなりませんでした。裁判所で、違反を認めるかどうかを問われたグラハム師は素直に「罪」を認めました。裁判官は「では、制限時速１０マイルオーバーですので、１０ドルの罰金をお支払いください。」と求めたのですが、突然、彼の目の前に立っているのがかの有名な伝道者であることに気付いたのです。裁判官はこう続けました。「あなたは法律を犯したのですから罰金を払わなければなりません。でも、今回は私があなたの罰金を代わりに払いましょう。」そう言うなり、彼は自分のポケットから１０ドル札を取り出して、グラハム師の違反切符に上に重ねたのです。
「裁判はこれで終わりです。グラハム先生、近くにステーキのおいしいレストランがあるので、よかったら夕食をご馳走させてください。」裁判官は微笑んでそう言うと、驚くグラハム師を誘って夕食に連れて行ったそうです。これは、「神の恵み」を語るときにグラハム師が好んで用いる体験談です。
キリストを信じる者は、キリストが支払われた代価（いのち）によって義とされている（無罪が宣告されている）のです。
Ⅲ．さばきについて
ここで語られている「さばき」もまた法廷用語です。しかし、さばきの対象となっているのは私たち人間ではなく、この世の支配者である悪魔です。キリストの十字架の死は、この世の目から見れば、死刑判決を受けたナザレ人イエスの処刑に他なりません。しかし、神の目の目から見るなら、キリストの十字架はこの世の支配者である悪魔に対して死刑判決が下された場所なのです。とても不思議なことですが、それが聖書の教えている真理なのです。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。（ヘブル２：１４～１５）
十字架の死と復活を通してキリストは救いの道を開き、勝利を収め、一方で敵である悪魔は有罪判決を受け、決定的な敗北を喫しているのです。私たちには無罪が言い渡され、今まで私たちを訴えてきた悪魔には有罪がくだされているのです。すでに判決は下されているのです。