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マルコ1：21～28「権威ある言葉」
2021年5月9日（左近深恵子）
美竹教会は今年、90周年を迎えています。大勢で集まることが難しい状況が続きますが、この節目の年、美竹教会の歩みを振り返り、この年月に渡って注がれてきた主の導きと恵みを見つめ、畏れと感謝を新たにし、悔い改める時としていきたいと、先日の教会総会でも祈りを合わせました。この美竹教会が、バラバラな個々人が一か所に一時集まっては散ってゆくだけの建物ではなく、主を牧者とした信仰者の群れとして、主を頭とした主のからだとして、ここまで歴史を重ねてくることができたのは何に依るのか、困難な中にある時も礼拝の灯を絶やさずに来ることができたのは何に依っていたのか、それは、私たちが今日この場に集っていること、ここに集うことが叶わない方たちがこの礼拝に連なってそれぞれの場で礼拝を捧げていることと、つながっています。私たちは、同じ場に居ることが出来なくても、同じ時代に生きていなくても、先に地上の生涯を終えても、先に逝く誰かを送ることになっても、互いの間にあるキリストによるつながりは消えません。イエス・キリストが、私たちがいつの時も礼拝を捧げ続ける理由であり、私たちをご自分において結び付けてくださっている方です。その私たち一人一人には、イエス・キリストと出会った時があります。今日の聖書の箇所でも、人々はイエス・キリストと出会っています。それは、お働きを始めたばかりの頃のことでした。
お一人でガリラヤの地域でお働きを始めた主は、ガリラヤ湖の漁師であった4人に呼び掛けられ、弟子とされました。それからはお一人では無く弟子たちを伴ってのお働きとなりました。一行はガリラヤ湖北部の町、カファルナウムに着きました。この町に、4人の弟子たちの内の二人、漁をしていた時に主に呼びかけられ、網をすぐにそこに残して主に従い、最初の弟子となったシモンとアンデレの兄弟の家があり、一行はその家に滞在しました。漁業が盛んで、人々が行き交う街道のそばにあるこの町は、その後、主イエスのガリラヤでの活動の拠点となってゆきます。
ガリラヤの地域での主イエスのお働きと言うと、湖のほとりなどや誰かの家で教えを語られている姿を思い浮かべることも多いと思いますが、初めの頃は町や村の会堂で安息日に捧げられる礼拝を中心に福音を語っておられたことを聖書は伝えています。やがてそのようなお働きが民の指導者たちから疎まれるようになり、会堂で語ることが難しくなってくると、湖岸や山や招かれた家など、様々な場で語られるようになります。それまでは、神の民のお一人として、安息日の礼拝を守られ、礼拝で語ることによって人々を導かれました。会堂で語られたのは、そこが大勢の人に語り掛けられる効率的な場だと思われたからではありません。会堂や神殿での礼拝を生活の中心にして日々を歩む神の民の一人として生きて来られた主イエスが、神の言葉は、神の民の礼拝においてこそ語られるべきとされたのです。神さまのみ前に進み出て、神さまの言葉に耳を傾ける礼拝の場を、お働きの核とされたのです。
活気のあるこの町の安息日の会堂には、多くの人が集まっていたことでしょう。主イエスはカファルナウムに入られて直ぐの安息日、礼拝で語られました。いつものような礼拝を期待して、いつものように会堂にやってきた人々は、強く打たれるような衝撃を受けました。律法学者のようにではなく、権威ある者として主が語られたから、「人々はその教えに非常に驚いた」と伝えられています。主イエスの立派な外見や、立ち居振る舞いや、醸し出す雰囲気にではなく、その口から出る言葉に、驚いたのです。
人々が普段聞いていたのは、聖書の律法と呼ばれる部分についての専門家である律法学者による、律法についての説明と解釈でした。律法学者たちが語る時に拠り所とするのは、それまで他の学者たちによってなされてきた研究であり、それらを基にして自分が積んできた研鑽です。博識と自分の資質が拠り所です。他の人々と自分の学者としての権威を土台に律法の教えを語り、律法の教えに即して生活することを説きました。
しかし主イエスは律法の説明をするため、あるいは律法の解釈を人々の生活に適用させるために、礼拝で語られたのではありません。聖書の意味するところを語ります。マルコによる福音書において、主が「教える」と記される時、それは「宣べ伝える」と同じ意味で用いられます。主は、聖書の意味するところを、福音を、宣べ伝えるために教えられます。ご自身以外の学者たちからの指示や賛同が無ければ聖書を語れない方ではありません。ご自身の内に聖書の意味するところを語る権威がある方として語り、その言葉には確証があります。そしてこの時主が宣べ伝えられたのは、時は満ち、神の国が近づいたということであったと思われます。なぜなら、主がガリラヤでお働きを始められた時、「時は満ち、神の国は近づいた」と、だから「悔い改めて福音を信じなさい」（1：15）と告げられたからです。
神さまの救いの時は熟し始めている、今機は熟している、神さまのご支配が近づいていると告げられました。救いの時は熟しています。だから主イエスには弟子がまだ4人しかいなくても、彼らの弟子としての訓練はまだまだ不十分であっても、安息日が来れば直ぐに会堂に行って、時は満ち、神の国は近づいていることを語られます。ご自分によって神さまのご支配が人々の所にもたらされているのだから、人々が悔い改め、神さまのご支配を受け入れるようにと願い、語られます。「時は満ち、神の国は近づい」ている現実を、礼拝から人々の中へと、人々の間へと、もたらそうとされています。
どんなに深い専門的な知識を持つ学者も持ち得ない、神さまご自身の権威によって語られるこのような教えを、人々は聞いたことがありませんでした。それまで聞いてきた教えは、自分の生活の仕方、自分の歩み方を確かめることができるもの、このように生活することが正解なのだ、このような道を選び取ることが正解なのだと安心できるものであったでしょう。自分の迷いや疑問に具体的な答えを与えてくれればくれるほど、よく分かる話だったと納得できたでしょう。その安心感や納得感は、専門家としての権威によって裏付けされていました。しかし主イエスが語られたのは、そのような、聞く者の側に引き寄せられるような、聞く者の生活や思いの中に落とし込めるようなものではありませんでした。神さまがもたらしてくださっている救いの内へと、あなたたちが入りなさいと、罪に支配されているそのところから、神さまの元へと戻って来なさいと告げるものでした。
この主イエスの呼びかけが自分たちにとってどれほど大きな意味を持つのか、この日カファルナウムの会堂で誰よりも分かっていたのは、神の民であることを自負する人々や弟子ではなく、汚れた霊であったことに、人が神さまのみ言葉を受け留めることの難しさが表れているようです。「汚れた霊」は、「汚れた」と言われていますが、肉体が汚れているのでも、道徳的、倫理的に堕落しているのでもありません。聖書で悪霊やサタンといった表現で表されるものと同じように、神に敵対する力を指します。人を神さまから遠ざかろうとさせる、神さまに背を向けさせる力です。神さまによって命と存在を与えられた自分や他者を、傷つける方向へと、命と存在を否定する方向へと、追いやる力です。そのようにして追いやられることによって病に至る、そのように古代の人々は病を理解していたのでしょう。
カファルナウムの会堂で一人の人を支配していた汚れた霊は、この人自身の言葉も奪い、汚れた霊の代弁者としてしまいます。この人を通して叫ぶ言葉が「我々」と複数形であるのは、この人の存在も、日常の生活も思いも丸ごと呑み込むように支配している状態を思わせます。人々とは違って自分たちが神からどれほど遠いものであるのか知っている汚れた霊は、主イエスがどのような方であるのか気づき、「神の聖者だ」と叫びます。主イエスの言葉に驚きを覚えても、その言葉を恐れるまでには至っていない人々とは異なり、主イエスに満ちている神ご自身の権威とお力が決定的なものであることを知り、神さまのご支配が主イエスにおいてもたらされていることを理解し、主イエスに滅ぼされることを恐れ、逃れようとします。自分が神さまに対してどのようなところにいるのか知らない人々は、汚れた霊と主イエスの闘いを、他人事のように驚いて眺めるだけでありました。
主イエスはこの汚れた霊に「黙れ、この人から出ていけ」と命じ、この人を汚れた霊の支配から解き放ちました。この人を汚れた霊の支配の下から、神さまとの交わりの中へと連れ戻してくださいました。人々はこの出来事に再び驚きます。「権威ある新しい教えだ」と驚く人々の言葉には、この出来事が主イエスの不思議なお力によってではなく、「権威ある新しい教え」によって為されたのだと人々が正しく受け止めていたことが表れています。主イエスの言葉において神さまのお力がこの人において働いたのだと、理解しています。時が満ち、神さまのご支配がもたらされたと福音の言葉を告げてこられた主イエスが、一人の人を、神さまのご支配の中で新たに生きることへと、権威ある言葉によって連れ戻されました。この先も、主イエスが宣べ伝える福音は、癒しやその他驚くようなみ業によって、一人一人に新しい出来事となってゆきます。主は、十字架に至るまで、人を神さまから遠ざける力と戦い通してくださいます。自分の言葉を失い、自ら主イエスに助けを求めることもできずにいた私たちのために、私たちの罪を背負ってくださり、その死によって、私たちを支配する力を滅ぼしてくださいました。
キリストは、私たちがまだキリストを知らなかった時に、私たちのために人となられました。私たちがまだキリストに救いを求めていなかった時に、私たちのために死に至るまで戦われました。私たちが自分の罪に気づく前に、自分の罪深さを認める前に、自分の罪深さゆえに自分を深く嫌悪する前に、私たちを飲み込もうとする罪の闇を見つめ、闘い、私たちの罪の値を代わりに担って十字架についてくださいました。私たちが悔い改め、神を自分の方に引き寄せようとしてきたところから立ち上がり、神さまの元へと帰る、その前から、キリストは聖餐の食卓で、私たちがその席に着くことを待って来られました。ここに、キリストの権威の大きさがあります。世の王や罪の力に比較して大きいか大きくないかではない、決定的な権威です。他のどんな力の支持も賛同も必要としない、私たちの悔い改めも愛も従う歩みもない時から私たちを愛されるほどに、徹底的な、絶対的な、限りなき権威によって、私たちをご自分の支配の中へと招いておられます。私たちは福音の言葉を通してこの救い知り、キリストの権威ある言葉によって神さまと出会うことができるのです。