Document ID: /fineweb-2-swissfilter-quality_10-filterrobots/filtered/00635.jsonl.gz/3

「歓喜の歌を歌われる主」ゼファニア3：16～20、ヨハネ16：33
2022年3月20日夕礼拝 左近 豊
この時期、全世界の教会が、神の前に深い悔い改めを祈る時を与えられています。毎年イースター前の日曜日を除く４０日間を、「レント（＝受難節）」として、祈りと断食をする期間に定めて守る伝統が教会の中にはあります。カトリック教会もプロテスタント教会も、そしてロシア正教会やウクライナ正教会も、（若干、期間にずれはありますが）共通してイースター前のこの時期をレントとして信仰的に最も大事な期間としています。しているはずなのです。キリストの十字架への道行を思い起こしながら、自分が、そして私たちが、世界がどれほどに的を外した歩みを刻んでいるか、立ち止まって正気を取り戻して、神に目を上げて立ち返る時として。
今年のレント、あまりに多くの血が流され、家を追われた子どもたちの涙と命を手繰り寄せる親たちの切なさと苦しみが毎日数を増しています。崩れ落ちた街のがれきの下に埋もれた数知れない取り返しのつかない終わりを目の当たりにし、チェチェンでもアフガニスタンでもイラクでもベトナムでもドレスデンでも、ゲルニカでも、圧倒的な力で押しつぶされてきた都や街を二重写しに見ざるをえません。聖書の「哀歌」にある嘆きの声が今の世界に響くのを聞きます。
「わが目は涙がつき、わがはらわたは痛み、娘であるわが民の破滅のゆえに
わが肝臓は地に流れる。
幼子や乳飲み子は、町の広場で弱り果てている。彼らは母親に言う。
『どこにあるの、穀物や葡萄酒は』と。傷ついた者のように町の広場で弱り果て、母の懐で息絶えてゆく。
娘エルサレムよ、あなたを何の証とし、何にたとえよう。
おとめである娘シオンよ、あなたを何になぞらえて慰めればよいのか。
あなたの破滅は海のように大きい。だれがあなたを癒せるだろう」（2：11－13）
教会の歴史では「哀歌」はレントの時期に読まれることの多い書です。そしてこれは、わたしたちにとっての旧約聖書の部分を共有しているユダヤ教の歴史でも、ユダヤの暦でアヴの月の9日という日に、年に一度徹底して読まれる書物です。このアヴの月の9日というのは、悲しみをしっかと胸に刻む日。それも聖書の言葉で、聖書の悲しみ方で悲しむ日と言えます。そのような日の書なのです。何を悲しむか？祖国を失い、魂のよりどころであった神殿を失い、故郷を喪失した嘆きに深く沈む日と言えます。そしてそれが自分たち自身が経験していないことだとしても、経験した世代や、味わっている隣人の悲しみを追体験し、想像し、泣くものとともに泣く魂を形作るための日なのです。
旧約聖書を命がけで語り継いできた旧約聖書の民は、その歴史のほとんどを、その時々の帝国や大国に命運を握られ、幾度も滅びの淵をさまよってきました。紀元前8世紀には新アッシリア（イザヤ、アモス、ホセアの時代）、紀元前6世紀には新バビロニア（エレミヤ、エゼキエル）、その後もペルシャ、ギリシャの支配を受けてついに紀元70年、イエス＝キリストの時代のちょっと後には、ローマ帝国によって徹底的に滅ぼし尽くされて、ついに国土を失います。エジプト、スペイン、ロシアそしてヨーロッパ全域に散らされて行き、たどり着いた先にコミュニティーを形成し、異邦人、異教徒に囲まれながら自分たちの生活様式、とくにユダヤ教の信仰を堅く守り、継承していった。ユダヤ人に寛容な土地も無かったわけでありませんが、ヨーロッパ史を紐解くと、いたるところでユダヤ人を大量に虐殺したり追放したりしている。帝政ロシア期にも何百万人単位でユダヤ人は殺された（「ポグロム」と呼ばれます）。今ニュースで出てくるウクライナ南部も20世紀初頭の凄惨な迫害の舞台でもありました。『屋根の上のバイオリン弾き』というミュージカルの背景となっている地域でもあります。「哀歌」という書物はそのような聖書の民、共同体によって毎年、語り継がれ、祈り継がれ、追体験を通して歴史に刻まれた嘆きを自分の悲しみとし、誰かの叫びに共感して、祈れぬ者たちの傍らで、代わりに祈る言葉をはぐくんできた書なのです。
今日の「ゼファニヤ書」の言葉は、この「哀歌」の嘆きに寄り添う言葉と言えます。ちょっと説明が必要かもしれません。「ゼファニヤ書」第１章の冒頭の書き出しからいえば、ゼファニヤは紀元前7世紀に活躍をした預言者です。イザヤとエレミヤの間の時代、メソポタミア地方では新アッシリア帝国が世界史の表舞台から退き、新バビロニア帝国が取って代わる、大きなパワーシフトが不安定化を増す、そのような時代の変わり目にたっていた預言者です。つまり「哀歌」よりも前の時代の書物なのです。「哀歌」は、バビロニア軍によるエルサレム包囲と殲滅作戦の後の崩れ落ちた都で歌われた紀元前6世紀の書ですから、ゼファニヤは、それよりも数十年前の預言者なのです。そのゼファニヤが後の時代の「哀歌」に応答する言葉を語るというのは、歴史学的にも時系列でも、あり得ないことです。
ただ、発想を変えてみると気づかされることがあります。歴史的時系列に順番に読むだけでなく、聖書という書物を読み続けてきた聖書の民が、何度も何度も「ゼファニヤ書」も「哀歌」も同時に、大事に読み継ぎながら、のちの時代に、「哀歌」の嘆きを追体験しながら、「ゼファニヤ書」の言葉を聞いて、深い死の淵に差し込む光の言葉を聞くことはありえます。
世界を覆う厚く垂れこめた雲の重みの下で「哀歌」の言葉を通してレントの時を過ごす私たちが、「ゼファニヤ書」の言葉を聞きながら、まだ明けやらぬ東の空に曙の光をはるかに望み見るかのように希望のかけらを見出すことがありうるのです。受難節が日曜日を除いた40日間なのは、受難節から外されている日曜日が主の復活を祝う日だからです。闇の中にあって4月17日の今年のイースターを先取りしながら復活されたキリストを礼拝する今日の日曜日に、旧約聖書中でも最も神の愛が際立つゼファニヤ書の3章17節が読まれることは意義深いことです。
あなたの神である主があなたのただ中におられる（ゼファニヤ3：13，17）、海のように深い悲しみに慰めるものは誰もいない者たち（哀歌2：13）のただ中に、崩れ落ちた都に人通りも絶え、祭りに来る人の流れも途絶えた屍の街（哀歌1：4）のただ中に、おられる。散らされ、追いやられ、恥とそしりを負わされて苦しめられ、存在の耐え難い軽さにむかっ腹かき割きたくも虚しさに押しつぶされている者たちのただなかにこそ、共にいる「救いをもたらす勇者」である、と。これはクリスマスに読まれるイザヤ書9：5節の「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた、一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君、と呼ばれる」の「力ある神」と訳されている言葉と響きあうものです。救いをもたらすために人となりたる神を仰ぎ見る言葉と言えるでしょう。
この主は、喜びをもってあなたを祝い、愛をもってあなたを新たにし、喜びの歌をもってあなたに歓喜の声を上げる！あたかも、率先して歌いだすワーシップリーダーのように、歓喜する神の歌声の波紋が意気消沈した魂にビートを刻んで、震わし、打ち捨てられた娘シオンに喜びの歌を、崩れ落ちたイスラエルに喜びの声を、娘エルサレムに心の底からの祝いの喜び湧き出させる（14節）。14節と17節の間で、讃美の競演が交わされる、と。喜びの歌の掛け合いがはじけているかのようです。
この17節の要ともいえる「愛をもってあなたを新たにし」という一文について最後に触れたいと思います。この文は、元のヘブライ語では「（あなたへの）愛において神は沈黙され」と訳せる言葉になっているのです（『聖書協会共同訳』の、この節に関する脚注に「 「沈黙する」」、とあるのはヘブライ語の原文では「沈黙する」と訳せる言葉が使われている、という意味です）。これだと、その前後の、喜び祝い、喜びの歌をもって歓喜の声を上げる、と、どうも合わない。ギリシャ語の旧約聖書の伝承（いわゆる『70人訳聖書』）では、ヘブライ語では、よく似た間違えやすい一文字を読み替えて「新たにし」と読んでいるので、日本語の翻訳もこちらをとったといえます。
ただ、「あなたへの愛に、神は沈黙された」という読みが呼び起こす大事なメッセージもあるのです。歌声の狭間に一瞬の音の真空が生まれる時、思わず吸い込まれそうに胸締め付けられるような高ぶりに襲われる、ということもあるかもしれませんが、ここでは、神の愛の本質に沈黙があったということが言えます。レントのクライマックスは十字架です。神の愛の極みがキリストの十字架による贖いの死です。私たちが罪びとであった時に主が死んでくださったことによって私たちの罪は赦された。その出来事です。裁判にかけられ十字架につけられるまで、イエスキリストは何もおっしゃらなかったことをマルコ福音書は伝えています。そしてその姿をイザヤ書の言葉と重ね合わせながら教会はイエスキリストを救い主と告白してきました。イザヤ書53章ですが、
「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された。私たちはみな、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが、口を開かなかった。屠り場にひかれていく小羊のように、毛を刈るものの前で黙っている雌羊のように、口を開かなかった。不当な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思っただろうか。私の民の背きのために彼が打たれ、生けるものの地から断たれたのだと。・・多くの人の罪を担い、背くもののために執り成しをしたのは、この人であった」
イースターのはじける讃美と、死に打ち勝たれた主ご自身の歓喜の歌のただなかに、主の沈黙の愛があったことを知るのです。世界が裂けるような痛みの中を歩みゆく今年のレント。私たちも主を見上げて、我に返り、沈黙して主の御業に目を注ぐ時とされています。
レントの主イエスキリストの父なる神、憎しみに引き裂かれる世界のただ中に御子を遣わし、憎しみあるところに愛を、争いあるところに平和をもたらすために沈黙のうちに十字架を背負われる主のみ姿を示してくださいました。私たちを作り変えてください。赦しと忍耐の器として整えてください。