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「地にもなさせたまえ」イザヤ55：1～3、ロマ8：26～30（主の祈り）
2023年5月7日（左近深恵子）
教会が大切に受け継いで、今も祈り続けている、「主の祈り」と呼ばれる祈りは、主イエスが弟子たちに与えてくださったものです。主イエスはこの祈りを「我らの父よ」との呼びかけで始めました。本来、神さまを「父」とお呼びすることができるのは、神の独り子なる主イエスのみです。その独り子が私たちを、ご自分と共に神さまを父と呼ぶことへと招いてくださいました。私たちの罪の値を代わりに負って十字架で死んでくださり、私たちに、神の子として新しい命に生きる道を切り開いてくださる主イエスが、私たちと共に「我らの父よ」と神さまに呼び掛ける祈りを教えてくださいました。私たちが用いている主の祈りによると、「天にまします我らの父よ」と始まりますが、元の言葉の順序で訳すと、「我らの父よ」という短い呼びかけが先ずあって、「天にまします」という言葉が続きます。「我らの父よ」「私たちの父よ」という呼びかけが、これから捧げられる祈りがどのような方へと向けられるのか、最初に明らかにします。続く祈り言葉はどれも、主イエスによって導き入れられたこの親子の関係において、祈られるのです。
今日は主の祈りの中の、「み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という言葉に耳を傾けてまいります。ここも元の言葉の順に祈るならば「み心が行われますように、天におけるように地の上にも」（マタイ6：10）となります。文としてはこなれていないかもしれませんが、「み心をなさせたまえ」「み心が行われますように」という願いが、よりはっきりと前面に出てきます。み心、つまり神さまのご意志が行われて欲しいと切に願っている私たちの思いを、真っすぐに訴えることができます。神さまのご支配が全てである天においては、当然、神さまのご意志が為されていることでしょう。でも地上では決してそうとは言い切れない現実があります。勿論、地上においても、神さまのご意志が行われてきたことを、旧約聖書が証ししています。そしてみ子が世に降られ、み子において神さまのご支配は決定的に世にもたされました。今も、神さまは私たちの間でみ業を推し進めておられます。例えば、主イエスの十字架の死は、この私のためでもあったのだと気づかされるのは、神さまのご意志が行われているからです。主イエスが共に祈ることへと招いてくださる主の祈りを、主イエスと声を合わせるような思いで神さまに「我らの父よ」と祈ることができるのも、神さまのご意志が働かれているからであります。主イエスは天に挙げられ、神の右に座しておられますが、主が弟子たちに約束されたように聖霊が降られ、主イエスにおいて為されてきた神さまの救いのみ業を引き継いでおられるので、今は聖霊において神さまのご意志が為されています。ロマ書も今日の箇所の少し前でこのように述べています、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」（ロマ8：14～15）。「アッバ」とは、幼子の時から子どもが父親を呼ぶ呼び方です。神さまの霊、聖霊のお働きとはどのようなものなのだろうかと、見えない聖霊をどう理解したらよいのかしばしば戸惑いを覚える私たちですが、聖霊のお働きがあるからこそ、主の祈りを、主イエスの求めにおいて祈ることができます。聖霊に導かれて神の子とされ、神さまを親しく、近しく、父よと呼ぶことができます。聖霊が私たちに、私たちは神の子とされていることを証ししてくださり、キリストと、数多の神の家族と共に、私たちが感謝と喜びの内に声を合わせて神さまを「私たちの父よ」と呼ぶことを得させてくださるのです。
自分が祈れなくなるような状況に直面することへの恐れがあります。「み心が行われますように」との祈りの言葉を口にすることが辛くなるような時があります。み心からかけ離れているようにしか見えない悲惨な現実を前にする時、また、み心に逆らう行為や言葉が、み心に生きようとする人々の行為や言葉に勝る力を持っているように思えて仕方ない時、自分の無力さに打ちひしがれる時、そのような時、私たちの心の底にある祈りたいと言う思いは、私たちの苦しみ悲しみ怒りの思いに覆われ、神さまを仰ごうとする力、神さまに祈ろうとする力が、苦しみ、悲しみ、怒りに奪われてしまうようであります。
この弱い私たちも、聖霊は助けてくださいます。26節で「弱い私たち」と言われています。直訳すれば「私たちの弱さ」となります。「弱さ」は複数形で記されています。様々な弱さを抱えている私たちです。弱さは、祈りに現れます。心の底から祈ることができない言葉があることに、自分が口に出した祈りの言葉と自分自身の間に乖離があることに、祈ること自体ができないことに、その時の私たちの弱さが露わになります。この弱い私たちを聖霊が「助けてくださ」ると言われている、この「助ける」と訳されている元の言葉は、三つの言葉から成っています。「共に」と言う言葉と、「代わって」と言う言葉、そして「心にかける」という意味の言葉です。「心にかける」という意味の言葉は更に、「重荷を担う、軽くする」という意味も含みます。聖霊が弱い私たちを助けてくださるとは、苦しみ、悲しみ、怒りが重石のように私たちの心に圧し掛かり、心の底の思いを塞ぎ、心を弱らせている、その圧し掛かっているものの下へと入り込むようにして神さまの霊は私たちと共にいてくださり、私たちに代わって圧し掛かるものを担い、軽くしてくださる、そのような助けであると言うことができます。私たちが抱えているものも含めて聖霊は私たちを丸ごと根底から担ってくださるのです。
この助けが、「執り成し」とも言い表されています。「執り成し」という日本語には、二つのものの中間にあって取り次いでいるようなイメージがあるかもしれません。どこか他人事の立場にある者の行いとして捉えると、それは聖霊のお働きからはかけ離れたものとなってしまいます。私たちに圧し掛かるものの下に入り込むようにして私たちと共にいてくださる聖霊が、祈る力を失い、祈る言葉を失っている私たちに代わって祈ってくださるのです。み心が地上で為されていない現実の中で、私たちは呻いています。その私たちを執り成すために、神さまの霊もまた呻いてくださいます。けれどそれは、私たちが自分の無力さ故に、あるいは神さまのご意志が分からない故に呻くのとは異なり、祈ることができない、時に呻くことすらできない、圧し掛かるものに潰されかかっている私たちに代わって祈るために呻いてくださる呻きです。呻きをもって為してくださる聖霊の執り成しを、神さまが受け留めてくださいます。それが言葉に表せない呻きであっても、神さまは知ってくださいます。私たちを知ってくださることにおいて、聖霊のお働きと神さまは一つとなってくださっています。私たちの様々な弱さや無力さによって、神の子としての私たちの歩みが滞り、止まってしまうこともあるでしょう。それでも、私たちの弱さや無力さは、私たちの歩みを終わらせる最終的な決定打にはなりません。執り成しは、私たちをキリストの十字架の犠牲によって神の子ら、聖なる者たちとしてくださった神さまが、私たちのために願っておられるものです。その神さまのご意志に聖霊が従って、執り成してくださいます。だから私たちはどう祈れば良いのか分からなくなる自分も、祈れないほど弱ってしまう自分も、安心して神さまのみ心と聖霊の執り成しに委ねることができるのです。
神さまのみ心と聖霊の執り成しに委ねることができるなら、その先を望み見ることができます。神さまのみ心と聖霊の執り成しに支えられることが私たちの力となり、沈み込んでいた弱さの深みから、天を仰ぐことへと向きを変え、立ち上がる力となります。主イエス・キリストと聖霊を通していただいてきた神さまの愛を、自分から求める力を与えられます。神さまを「我らの父よ」と呼び、「み心が地にも為されますように」と祈るこころを再び取り戻すことができます。神の子としてくださった神さまのみ心に立ち帰り、神の子として再び歩み出すことができます。こうして神さまを求め、祈りの言葉を、神さまと隣人を愛する行為を、神さまの愛にお応えする仕方で生み出そうとしていく者の歩みにおいて、その者を弱さの深みへと沈み込ませたあらゆるものが、苦境も困難、障壁、危機さえも、共に働いて益となると言われています。これは、根拠は無いけれど苦難も私たちにとって益となるのだと、無理やり自分で自分を納得させるための言葉でも、浅い慰めの言葉でもありません。人を悲しみや無力さの淵へと突き落とすような苦境や困難がそのまま「益」であるわけではありません。困難な現実において、悲しんだり苦しんだりすることを否定しているのでもありません。神の子どもとして生きようとする者は、神の子どもとして生きるからこそ、み心が為されていない現実に立ち上がることができないと思う程打ちのめされる、そのようにして主イエスの苦しみに連なる苦しみを味わうことがあることを見つめています。神さまはこの神の子らの打ちのめされたこころも、苦しみも、呻きも、全て受け止めてくださると、神の子らが喜びの内に捧げる祈りや言葉は持ち、神の子らを苦しめ、悲しませるものも全て、救いのみ業の内に置き、全てを共にみ業に参与するものとしてくださると、述べているのです。
神さまは、本来は神の子でない私たちを、キリストの十字架のみ業によって神の子としてくださいました。複数兄弟姉妹がいる家族では、一番上の者のことを下の者たちはよく見ているものです。一番年長である長子の親との関係、弟や妹との接し方、周りの人々との交わりを見つめ、そこから何かを学び、真似をしようとします。神の子らとされた私たちは、長子であるキリストを見つめます。神さまとどのような交わりの中にあるのか、自分とどのように関わりを持ってくださっているのか、他の人々とどのように交わりを持っておられるのか、見つめ、知ろうとします。そうしてキリストに倣う者となります。キリストに倣う者は、僅かずつではあっても、み子のかたちに似た者とされてゆきます。そのように私たちがみ子に似た者となってゆくことを神さまは願って、私たちを神の子らとしてくださるのです。
私たちがキリストに似た神の子らとなるために、神さまが私たちに為してくださったことが29節から次々と述べられてゆきます。神さまは私たちを前もって知ってくださり、予め定めてくださり、召し出し、召し出した者を義とし、栄光を与えてくださいました。終わりの時に完成される神さまの栄光の光を既に浴びて、神さまの栄光の光を反映させて、生きることが出来る者としてくださっているのです。
「前もって知る」「予め定める」「召し出す」「義とする」「栄光を与える」、これらは全て神さまが主語であり、神さまのみ業です。「前もって」「予め」とあるように、神さまのみ心とみ業はいつも私たちに先立っています。私たち自身では願うことすらできない大きな幸いを私たちに願ってくださり、そのために神さまが地上でみ心を為してこられました。これらのみ業は、神さまの恵みがどのように私たちにおいて現れ、実現されてゆくのか、示します。その始まりにあるのは、神さまが私たちを「前もって知って」くださっていたということです。情報として知っていたということではありません。この「知る」という言葉は「交わりを持ち、愛する」ことを意味します。神さまが人をご自分との交わりの中に招き入れてくださり、愛してくださった、この神さまの愛と招きが、私たちの歩みの始まりにあります。この歩みを通して、私たちがみ子に似た者となってゆくことを、神さまは願ってくださっています。
預言者イザヤを通して神さまは、イスラエルの民に、新しい道へと踏み出すように呼び掛けられました。それまでバビロンと言う大国で捕囚とされてきた民に、バビロンの支配下で生きる古い生き方から、真の主である神さまと共に歩む新しい道を歩むように、招きます。イザヤ書55章では、その呼びかけは、神さまが与えてくださる新しい道においてこそ、必要な水と糧を得られることを告げます。空気が乾燥し、日中は非常に高温になる地域です。一度町を離れれば旅人は水や食べ物を簡単には手に入れられません。水や糧を欠くことは、死の危険に直結します。神さまは、水や糧を与えてくださる方です。その上、ぶどう酒やミルクと言った魂もその豊かさで楽しませる良いものも与え、人の予想や期待を越える豊かな賜物で人を満たす方であります。民が生きて来たこれまでの世界では、水も穀物も、まして特別な糧は、高い値を払わなければ得られないものでありました。けれど神さまは、銀を払うことなく与えてくださいます。これまでの世界で値を払って得るものは、一時的に渇きや空腹を満たすだけで、魂を満たすことはできません、しかし神さまがご自分でその値を負担して人に与えてくださる糧は、魂に命を与え、その糧に養われる人が豊かな命を生きる、福音という糧であるのです。
み心が世に為るようにと願うことのできる根拠が私たち自身に見出せず、私たちが世から得られるものは一時の間飢えや欠けを凌ぐものでしかありません。けれど私たちはキリストにおいて満ち溢れる豊かさの中から恵みをいただき、聖霊の執り成しに支えられています。キリストに導かれ、新しい道を歩み出しています。み子イエス・キリストにおいて特に示されている神さまの赦しと愛に満たされ、神さまの福音の糧に養われつつ、神の子として生きることを願うならば、様々な弱さを抱えていても、力無き者であっても、み子に似た者となることを願ってくださる神さまの恵みの道を歩みつつ、み心が行われますようにと祈ることができる者とされます。これから与る主の食卓の糧も、キリストにおいて満ち溢れる豊かさの中から分け与えられる神さまの愛であります。福音によって、主の食卓の糧によって、神さまの恵みの豊かさに満たされることを感謝します。