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マルコ9：2～13「山上の主」
2021年10月10日（左近深恵子）
主イエスはある時弟子たちに、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われました。主イエスから「わたしについて来なさい」と、主の弟子として生きることへと招かれ、ガリラヤ地域を巡って福音を宣べ伝える主イエスの旅に同行してきて、他の人々よりも間近で主イエスが語ること、為さることに日々触れてきた彼らです。その彼らにご自分を何者だと言うのかと問われたのは、ガリラヤの町や村を巡る日々から、エルサレムへと向かう転換点においてでした。弟子たちに、彼らが自分自身で、自分のこととして、主イエスはどのような方なのか考えることを求められました。そうしてペトロから、「あなたはメシアです」という答えを引き出されたのです。
弟子たちを代表して答えたペトロの「メシア」、救い主と言う答えは正しいものでした。しかし言葉は正しくても、その言葉によってペトロたちが思い描く救い主は、主イエスご自身からかけ離れています。だから主は、ご自分がどのような救い主であるのか、この先どのような道を辿られるのか、教えられます。多くの苦しみを受け、民の指導者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていると、神さまがそのように定めておられると、告げられます。救い主とは、敵対する者たちを都エルサレムから退けることによって勝利し、栄光を手に入れる方だと期待してきた弟子たちは、主イエスの言葉を受け入れることができません。弟子の代表ペトロは主を脇へと引っ張って行って諫め始めます。自分たちのシナリオの方へと、自分たちが先頭を行く道の方へと主を引き寄せようとする彼らに主は、「わたしに従いなさい」と、ご自分の後ろへと立ち戻り、ご自分の後を歩みなさいと教えてくださいます。主の後を歩む道こそ、神さまに与えられた命を、神さまの祝福に満たされて生きる道であると教えられます。ご自分は何者であるのか、どのような救い主であるのか、そのご自分と弟子たちはどのような関わりの中に入れられ、神さまからどのような恵みを約束されているのか、言葉によって教えてくださいます。それから六日後、主はそれらを不思議な出来事を通して示してくださった、それが今日の箇所が伝えていることです。
その日主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちを伴って高い山に登られました。そこで三人は、主イエスの服が真っ白に輝くのを見ます。この世のどんなさらし職人の腕をもってしても出すことのできない、地上の人間には造り出すことのできない白さは、主が弟子たちや私たちとは違う、天に属する方であることを思わせます。人が手を伸ばしても掴むことのできない天の輝きを、その本質において纏っておられる方です。その方が人となって降られ、弟子たちの側へと来てくださり、弟子となることへと招いてくださり、ここまで彼らを導いてこられ、そしてこの日、これまでこのような仕方で露わにされることのなかった天の栄光に照らされるご自分の姿を、弟子たちに示してくださいました。
弟子たちは、エリヤとモーセと語り合う主の姿も見ます。モーセは神がご自分の民のために選び立ててくださった人物で、神さまの言葉を民やファラオに語り、出エジプトの出来事の先頭に立ち、シナイ山で主なる神から十戒を授かりました。エリヤはモーセに次ぐ重要な預言者として伝えられてきました。神の民の信仰の根幹を為している律法と預言を代表するこの二人を、弟子たちは山上で見ました。弟子たちは、モーセやエリヤがそれぞれ山の上で神さまにお会いしたことも、聖書から思い出していたかもしれません。モーセやエリヤと語り合う主イエスは、旧約聖書を通して証されてきた神さまの救いの歴史を彼らから受け継ぎます。主イエスは受け継ぐだけでなく、先へと推し進める方です。天に属する方でありながら人となられ、地上を歩み、都エルサレムへと向かわれるイエス・キリストによって、救いが成し遂げられてゆくのです。
主イエスを包む栄光の光に彼らも照らされながら、3人の弟子たちは主イエスの本質を垣間見ることができました。それは彼らが想定していた救い主の姿をはるかに超えた情景でした。彼らが見たかったお姿以上のお姿でした。それは、救いが完成される終わりの時に明らかにされる情景が先取りされて、示されたお姿でした。時代を超えて、重なるはずの無いものが親しく交わっている情景、天に属するものと地上のものが共に有る情景に非常に恐れ、何をどう言えば良いのか分からない弟子たちですが、分からないながらもとにかく何かを言うのがペトロという人です。主イエスとモーセとエリヤ、それぞれのために急ぎ仮小屋を建てましょうと言います。
ペトロは、この素晴らしさの中に主を留めておきたい一心であったのでしょう。まるで小屋に主イエスもモーセやエリヤも安置できるかのように、自分たちが願うところに、神さまの栄光をキープしておけるかのように、策を講じるペトロと弟子たちに語り掛けてくださったのは、神さまでした。雲が現れ、主イエスも、モーセやエリヤの姿も覆います。雲は聖書において、神さまが臨在されるしるしです。この素晴らしい出来事の中に弟子たちを置いてくださっていたのは神さまであるのだと、弟子たちは気づかされます。それは2節の表現にも表れていました。主イエスの姿が弟子たちの目の前で変わり、とありますが、「変わり」と訳されている言葉を直訳すると、「変えられた」となります。主イエスを栄光に輝くお姿に変えて、彼らに見せてくださったのは神さまであることが、この表現にも示されていました。山上の出来事に圧倒されて、出来事のことでいっぱい、いっぱいになっていた彼らは、それを彼らに与えてくださった方へとこころを向けるように、導かれます。この素晴らしい情景の見えることだけでなく、その情景が示す意味をも受け留めるように、語り掛けられるのです。
雲の中から「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえます。主イエスは神のみ子であると、告げられます。同じ言葉がかつて主イエスの洗礼において、やはり天から語られました。マルコによる福音書では、洗礼の場面でそれは主イエスに向かって語られていましたが、今日の出来事では弟子たちに語られます。主イエスのことを「メシア」、救い主とお呼びしながら、主がどのような救い主であるのか受け止められずにいる弟子たちに、神さまが、救い主は神のみ子であると語られます。人がどのような期待や理想を主イエスに重ね見ようとも、イエス・キリストはその期待や理想という小屋に納まらない、神さまが救いのみ業を成し遂げるために遣わされた救い主、神のみ子であると、宣言してくださったのです。
ヨルダン川での洗礼において、そして山上の出来事において天から告げられたこの言葉は、この後もう一度告げられます。それは十字架上の主イエスに捧げられます。主イエスの処刑に携わり、息を引き取られるまでそのお姿を見つめていた百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と告白します。十字架において、弟子たちの期待や理想はすべて潰えました。しかし、輝く光に包まれたお姿ではなく、衣服をはぎ取られ、嘲りと暴力に晒され、惨い死を死んでゆかれたお姿を見上げたこの人は、主イエスの真の姿を見つめています。神さまがなさった宣言にお応えするかのように、一人の異邦人が主イエスとはどのような方であるのか宣言するのです。
山上で神さまは弟子たちに、主イエスがどのような方であるのか示され、宣言された上で、弟子たちになすべきことを命じられました。それは、聞くことです。主イエスの言葉に聞き、その言葉に生きることです。自分の小屋の中に主イエスを押し込めることではなく、耳を傾けることです。耳に心地よい言葉だけでなく、受け入れ難いものであっても聞き続けることです。私たちが主ではなく、キリストが私たちの主であるのですから、み言葉は私たちに無くてはならないものです。詩編の詩人が語るように、主のみ言葉はたちわたしたちの道の光であり、私たちの歩みを照らす灯であるのです（詩119：105）。
今日の場面で主イエスは三人の弟子たちを山上に伴われました。この同じ三人を、最後の晩餐の後、ゲッセマネで祈られるとき、最も近くまで伴われました。山上で栄光に輝くお姿を見た彼らは、彼らが願う神の子の姿の対極にあるような、ひどく恐れて、もだえ苦しみ、祈られる主を見ることになります。主イエスから「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われながら、目を覚ましていることができません。それまでに幾度も受難と死と復活を予告され、神のみ子の栄光は、十字架の苦しみを経なければならないことを教えられてきたのに、主の言葉を受け留めることができず、苦しみ悲しむお姿を、目を覚まして直視していることができなかった、祈りを共にすることもできなかった三人です。「ここを離れず」に、と言われながら、彼らのこころはもはや主と共に居られなかった、その弟子たちの傍で、主は彼らも含めた人の罪を担われ、苦しみ、祈り続けてくださいました。彼らが山上で垣間見た栄光は、この時の苦しみと十字架の死にその本質が明らかになっていたのだと、主が復活された後に彼らはようやく理解することができます。これまでしばしば、驚くようなみ業を為さった後に、誰にも話してはいけないと言われてきた主が、今日の箇所では、「死者の中から復活するまでは」誰にも話さないようにと、ご自分の復活の後に彼らが話せる時が来ることを告げておられます。主イエスがどのような方であるのか本当に知ることができるのは、その死と復活を受け留めることによるのです。
この時はまだ主の死と復活をまだ受け止めていなかった弟子たちは、山を下りながら今見聞きしたことよりも、律法学者たちの主張に心が占められてゆきます。救い主メシアが現れる前には預言者エリヤが再来するとのマラキ書の言葉を根拠に、そのエリヤはまだ来ていないのだからイエスはメシアであるはずはないと言う指導者たちの言葉をどう考えたらよいのですかと、主イエスに問います。山上の素晴らしい光景はもう見えなくなっています。天からの声も聞こえなくなっています。いつもの姿に戻られた主イエスと現実の日々に戻っていきながら、彼らは、主イエスをメシアとも神のみ子とも認めない人々の言葉に再び揺さぶられています。
主イエスは弟子たちに、エリヤは既に来たと、洗礼者ヨハネをエリヤの再来として語られます。人々の心を神さまへと向けさせ、救い主のために道備えをした洗礼者ヨハネの働きと、自分たちの罪を明らかにするヨハネを恐れて殺してしまった人々の罪を思い起こさせます。そして、「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか」と、彼らが聞くべきは救い主について記されている聖書の言葉であることを教えられます。罪を明らかにされたくない者たちの逆恨みによってヨハネが殺されたように、自分たちの罪が露わにされることを憎む者たちによって、主イエスは苦しみを受けることになります。直接主イエスを死に追いやった指導者たちだけでありません。誰もが罪人として神さまのみ前に立ちたくない、実態を見つめられたくないと思います。み言葉に聞くこと、み言葉に留まることに難しい現実を抱えています。
礼拝の度に主の復活の栄光を受け留める私たちは、弟子たちが主と共に山を下って行ったように、日々の現実へと戻っていきます。み言葉に聞き、み言葉に留まることにもがく私たちのこころを、礼拝において神さまが示してくださった栄光の光が照らし続けます。様々な言葉に揺さぶられる私たちですが、時代を貫いて流れてきた救いの歴史の中に私たちを招き入れてくださり、今も救いのみ業を推し進めてくださっている主のもとへ、み言葉と聖霊のお働きに導かれて立ち返ることへと招かれています。曇天のような現実に射し込んでいるキリストの復活の光をこころに大切に留め、キリストによって明らかに示されている神さまのご支配を告げるみ言葉に道を照らされて歩んでゆきたいと願います。