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ＩＬＯ駐日事務所メールマガジン・トピック解説
（2009年１月30日付第80号）
1919年に採択されたＩＬＯ憲章の冒頭の一文には次のように掲げられています。
第二次世界大戦後のＩＬＯの目的を再確認するものとして1944年に採択されたフィラデルフィア宣言でも、「永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立できる」というＩＬＯ憲章の宣言の真実性は経験上十分証明されていると信じるとした上で、「すべての人間は、人種、信条又は性にかかわりなく、自由及び尊厳並びに経済的保障及び機会均等の条件において、物質的福祉及び精神的発展を追求する権利をもつ」と断言し、「このことを可能ならしめる状態の実現は、国家の及び国際の政策の中心目的でなければならない」と宣言しています。
社会正義とは社会、すなわち、その構成員たる人々の間の正義を意味します。この言葉は比較的新しく、18世紀末の産業革命の黎明期に西洋で、資本家による労働者の搾取に対する抗議の表現として登場し、19世紀半ばに進歩的な思想家や政治活動家の革命的なスローガンとして広まっていったと言われています。
ＩＬＯが誕生して以来のこの90年間、人は生まれながらにして自由かつ権利と尊厳において平等であるという人権意識が人々の間に広まり、男女平等などのように進展が見られる分野もあるものの、依然として１日１人当たり１ドル未満で暮らす人の数が世界全体で10億人を超えるといったように分配上の不正義である貧困は大きな問題であり、社会保障による保護は世界人口のわずか２割にしか及ばず、教育を受ける機会も与えられずに働いている子どもたちも世界全体で約２億人存在するといったように社会正義が達成されているとは言い難い現状があります。
★ＩＬＯ：社会正義に取り組んで90年
ＩＬＯは、第一次世界大戦が終結した1919年、最初にパリ、次いでベルサイユで開かれた平和会議において誕生しました。
◆ＩＬＯ創設への道
18世紀に始まった産業革命は大量生産の工場体制を生み出し、販売市場を求めると同時に原材料需要を満たすために国際貿易が盛んになり、機械を動かす安価な未熟練単純労働者として女性と子どもの労働力に対する需要が高まりました。工業と貿易の伸展はかつてないほどの富を生み出し、競争の自然の摂理として弱肉強食の世界が登場していたにもかかわらず、政府はこのプロセスに関与すべきでないと考える人々も多数存在していました。中世の職人達がギルドや組合を結成して商売を管理していたやり方は技術の進歩を妨げ、経済成長を抑えていたと考えられ、フランスなど多くの国で労働者に団結権を否定する法が制定されました。
このような中で、先見の明のある一部の人々は、そしてその中には例えば工場における労働時間を制限する1819年の英国法の成立に貢献したスコットランドの綿紡績工場オーナーであったロバート・オーウェンのような産業家も含まれていたのですが、人道的、経済的、政治的な様々な理由から、社会の底辺にある人々の正義を求める声に共鳴し、労働条件の改善に向けた立法を促しました。国際競争的な観点からこの運動はじきに国際労働立法を求める動きへと発展しました。例えば、フランスで製造業を営んでいたダニエル・ルグランは、英国、フランス、ドイツ、スイスの政治家たちに向けて、労働時間、休息日、夜業、危険で不健全な職業、子どもの就労を規制する国際労働法の必要性を繰り返し訴えました。
一方で、産業の発展と共に新しい機械の破壊行動や違法ストライキも続発し、社会正義を求める労働者の声に押され、19世紀後半に英国を始めとした多くの先進工業国で労働組合が正式に認められるようになりました。組合は早くから自分たちの労働条件の改善に向けた国際協定の必要性を理解し、1864年には国際労働者団体がロンドンで結成され、1866年の会議で国際労働法制を求める動議が採択されました。
国際労働法について話し合った最初の会議は、スイス連邦議会の提案により1890年にベルリンで開かれた工場と鉱山に関する国際会議で、12の欧州政府が出席し、産業革命の社会的影響を検討し、児童労働禁止や女性と子どもの鉱山労働禁止、週休や労働安全衛生に関する問題が検討され、各国政府に提案文書が送られました。1897年に14カ国のキリスト教労働者団体がチューリッヒに集まり、国際労働法制に向けた構想を推進するようスイス政府に呼びかけると共にそのような事項を扱う国際労働事務局の創設が提案されました。同じような提案は同年開かれた学識者、政府関係者の会議でも行われ、1900年に国際労働立法協会が設立され、1901年にその常設事務局として国際労働事務局がバーゼルに開設され、国際労働条約の草案作りなどといった調査研究、情報交換の促進に従事しました。国際労働立法協会は第一次世界大戦によって消滅しましたが、工業における女性の夜業の規制やマッチ製造における黄燐使用の禁止といった国際条約を採択し、労働条件改善に向けた国際的な取り組みの歴史に名を残す重要な貢献を果たしました。
同胞同士の戦いを決して許さないとの労働者階級団体間の国際的な誓いにもかかわらず、1914年に勃発した第一次世界大戦は理想の崩壊という苦さと幻滅をもたらすと同時に終戦後の平和会議で労働者が少なくとも有意義な役割を果たすべきとの決意を労組活動家たちに抱かせました。1916年にベルギー、イタリア、英国、フランスの労働組合が英国リーズで会合を持ち、講和条約に社会問題を組み込むことや、労働基準の制定、基準の監視などを行う、労使代表を含む国際委員会の設置、国際労働事務局の常設などを連合国に要求しました。一部中立国と同盟国側の労働者代表も1917年にベルンで会合を持ち、同じような要求を行いました。
このようにして、1919年に開かれた平和会議では、まず国際労働法制委員会が設置され、幅広い社会事項を話し合いました。日本、ベルギー、キューバ、チェコスロバキア、フランス、イタリア、ポーランド、イギリス、アメリカの９ヵ国15名で構成されたこの委員会は、政府に加え、労働者と使用者の代表も参加する三者構成を取り、委員長はアメリカのベテラン組合活動家であったアメリカ労働総同盟（ＡＦＬ）のサミュエル・ゴンパース会長が務めました。委員会は、ＩＬＯの創設を提案すると共に、労働は商品ではないことや団結権などの労働憲章と呼ばれる９原則を起草し、平和会議に提案しました。委員会の提案は、後にＩＬＯ憲章となるところのベルサイユ平和条約第13編に組み込まれ、これによって、国際連盟の一部ながら独立した機関としてＩＬＯが創設されました。
◆労働基準の黄金時代
|ＩＬＯの三者構成を象徴する三つの鍵|
42カ国を創設メンバーとするＩＬＯは、初期の40年間、国際労働基準の設定、適用確保の業務に没頭しました。重要な条約のほとんどがこの時期に採択されています。総会は各加盟国より政府２名、労使団体各１名から構成される代表団が出席することになっていますが、1919年10月29日にワシントンで開会した第１回総会では、工業の労働時間、失業、母性保護、女性の夜業、工業の最低年齢と年少者の夜業を扱う６本の条約が採択されました。
総会によって選出される最高執行機関として、理事会は、半数が政府の代表、４分の１が労働者の代表、そして４分の１が使用者の代表で構成されています。当初の理事数は24人でしたが、今では正理事56人、副理事66人となっています。理事会は総会の議題や日程を決め、事業計画・予算を提案し、事務局長を選出し、事務局の活動を指示するといったように幅広い任務を担っています。日本は、1922年の第4回総会で、８大産業国の一員として正式に常任理事国となりました。脱退・再加盟を経て、戦後1954年に再び常任理事国に復帰した後、1975年の第60回総会で行われた理事選挙の結果、日本人労使が共に正理事として選出されて以来、政労使の三方に日本からの理事が加わっています。
ＩＬＯの常設事務局である国際労働事務局の初代事務局長としてフランスのアルベール・トーマが選出されました。戦時政府で軍需を担当したフランスの政治家であったトーマ事務局長は社会問題に強い関心を持っていました。トーマ事務局長のもとで、ＩＬＯは創設当初から活発に活動し、２年も経たないうちに16本の条約と18本の勧告を採択しました。
1920年の夏、ジュネーブにＩＬＯの本部が設置されました。ＩＬＯを推進する熱意は急速に冷め、一部の政府から条約が多過ぎ、出版物は過度に批判的で、予算が高過ぎるとの批判が出たため、すべてを縮小する必要が生じました。そのような中で、国際司法裁判所はフランス政府の圧力にもかかわらず、ＩＬＯの担当領域は農業部門の労働条件に関する国際的な規制にも及ぶと宣告しました。世界全体にわたる業務の円滑化を図るため、世界各地に事務所を設置し、通信員を配置することも始まりました。最初の通信員事務所は1920年にパリに開設されました。日本にも1923年に東京支局が設置されました。
条約採択の勢いは、1923、24年に少し鈍くなり、その後回復しましたが、1930年頃に大恐慌の影響を受けて、再び鈍化しました。1939年までの20年間で、67本の条約、69本の勧告が採択されました。
1926年のＩＬＯ総会では、重要な画期的展開として今日まで存続する基準適用監視機構が設けられました。こうして誕生した専門家委員会は独立した法律家で構成され、毎年、基準の適用状況に関する政府報告を審議し、委員会自体の報告を総会に提出しています。憲章にはこの他に、批准条約の遵守を確保するための、申立及び苦情審議手続きも定められており、これまでに例えば、ミャンマーの強制労働やコロンビアの結社の自由などの問題が取り上げられています。結社の自由に関する実情調査調停委員会が初めて発動したのは1964年の日本の案件に関してでした。
トーマ事務局長は創成期のＩＬＯの事業を形作る上で決定的な役割を果たしました。相当の反対にも負けず、ＩＬＯは労働者の福祉に係わるあらゆる問題を扱う権利と義務があると主張し、結社の権利や災害補償、就業の最低年齢、強制労働、移民など重要な国際基準の採択を導きました。世界各国の労働事情の調査研究や出版も積極的に行い、アメリカ、中国など複数国に対する技術支援も開始しました。こういった幅広い活動も1929年の大恐慌の発生で鈍化していくことになりました。
13年にわたりＩＬＯの存在を世界に強く印象づけた後で、1932年にトーマ事務局長が急死しました。後継者となったイギリスのハロルド・バトラーはＩＬＯ創設以来事務局次長を務めていましたが、着任早々大恐慌とそれがもたらした大量失業の問題に直面することとなりました。この時期、失業問題対策として浮上した労働時間短縮を推進する動きの中で、労使代表はたびたび意見を戦わせましたが、大した成果は達成されませんでした。1934年にルーズベルト政権下のアメリカが、国際連盟非加盟のままでＩＬＯに加盟しました。
1930年代の日本は国際的な孤立化を進め、1933年には国際連盟を脱退しました。国際社会では日本経済発展の背景としてソーシャル･ダンピングの存在が指摘されていましたが、1934年、モーレット事務局次長が来日調査し、日本に好意的な報告書がまとめられました。1938年11月、日本はついにＩＬＯにも脱退を通告し（２年後に発効）、これを受けて、1939年５月には東京支局も閉鎖されました。
1936年には、地域の加盟国政労使が集い、当該地域におけるＩＬＯの事業活動の実行と計画について意見を表明する場として地域会議が、まず米州で設置されました。地域会議は現在、アジア太平洋、米州、アフリカ、欧州の４地域について設けられています。
|ホワイトハウスでフィラデルフィア宣言に署名するフィーラン事務局長（1944年）|
1939年に、辞任したバトラー事務局長の後任として、ニュー・ハンプシャー州知事、米国社会保障庁初代長官を務め、当時ＩＬＯの事務局次長であったジョン・ワイナントが第３代事務局長に着任しました。ワイナント事務局長の主な任務は迫り来る戦争に向けて必要な備えを行うことでした。1940年５月、戦火が広がる欧州の中心にあって孤立し、脅威にさらされていたスイスの現状を見た事務局長は、ＩＬＯの本部を一時的にカナダのモントリオールに移転する決定を下しました。1941年、ワイナント事務局長はアメリカの駐英大使に任命され、ジョゼフ・ケネディーの後任としてロンドンに赴任しました。
1941年に第４代事務局長に任命されたアイルランドのエドワード・フィーランは、憲章起草に関わったこともあり、ＩＬＯに関する知識が豊富でした。第二次世界大戦のただ中の1944年に、41カ国の政労使代表が出席してフィラデルフィアで開かれた第26回総会において、フィーラン事務局長は再び重要な役割を演じました。総会で全員一致で採択されたフィラデルフィア宣言は、ＩＬＯ創設の諸原則を再確認し、憲章の付属文書となっています。フィーラン事務局長時代の1948年の総会では、結社の自由と団結権に関する第87号条約が採択されています。
ＩＬＯの条約・勧告は労働者の物質的、精神的利益の保護を目的とします。当初の重点は労働条件に置かれていましたが、第二次世界大戦後の条約は主として重要な人権問題に焦点を当ててきています。
◆技術協力から積極的パートナーシップへ
第一次世界大戦によって国際連盟が消滅したため、ＩＬＯは早くも1946年に、その前年に創設された国際連合と協定を結び、最初の国連専門機関となりました。
フィラデルフィア宣言を採択した1944年の総会ではまた、各産業特有の問題に取り組む手法として産業別委員会の設置が決定されました。委員会形式はその後、1995年に行われた見直しで廃止され、今は産業の要請に応じて非定期的に開催される部門別会合が随時開かれています。
戦後、ＩＬＯでは1946年の繊維労働委員会や1947年のアジア地域会議で日本に関する決議が採択され、日本の再加盟を求める動きが活発化してきました。1947年12月、再加盟促進のため、ＩＬＯ本部の職員であった荻島亨氏がジュネーブより帰国し、1948年３月、同氏を中心にＩＬＯ委員会が設置され、ＩＬＯ精神の普及と再加盟促進の活動が開始されました。荻島氏は1949年にＩＬＯ日本駐在員に任命され、同年、同氏を事務局長とし、駐在員事務所と一体的に業務を行う三者構成の民間団体の日本ＩＬＯ協会が設立されました。1951年の第34回ＩＬＯ総会で日本の再加盟が承認され、国会の承認を得て同年11月に再加盟が発効しました。1954年に日本は再び常任理事国に復帰し、同年の総会では駐在員事務所を支局に昇格する決定が下されました。
|日本による第87号条約批准書寄託（1965年）|
日本では、1958年４月に総評が行った結社の自由侵害の申立を皮切りに、官公労組からＩＬＯへの申立が相次ぎました。これを契機に、結社の自由と団結権に関する第87号条約の批准問題が注目を浴びるようになり、ＩＬＯの結社の自由に関する実情調査調停委員会が初めて発動することとなりました。1965年１月に来日した同委員会（ドライヤー委員長）の報告を受け、同年６月、国内関係法を改正した日本は第87号条約を批准しました。
1948年にトルーマン政権で重要な役割を演じていたアメリカ人デイビッド・モースが第５代事務局長に就任しました。モース事務局長は1970年まで在任しましたが、この22年間で、加盟国数は倍増し、ＩＬＯは全世界的な性格を帯びるようになりました。新規加盟国の大半が独立した旧植民地であったため、先進国は途上国に埋没した少数派となり、予算は５倍に増え、職員数は４倍になりました。ＩＬＯは1960年にジュネーブの本部内に国際労働問題研究所を、1965年にはトリノに国際研修センターを設置しました。1969年、創立50周年を迎えたＩＬＯは国家間における平和と社会正義の促進に向けた活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞しました。
既に30年代初期から各地に諮問・支援ミッションを派遣するなど、基準と技術協力を結びつける活動は早くから見られましたが、モース事務局長時代に、ＩＬＯは本格的な技術協力に乗り出しました。60年代初頭の多数の新興アフリカ諸国の誕生、国連拡大技術援助計画と特別基金の統合による1965年の国連開発計画（ＵＮＤＰ）の誕生によって、ＩＬＯの技術協力活動は今日の姿を呈するようになりました。例えば、国連や世界保健機関（ＷＨＯ）などと協力し、1954年にボリビアで開始され、その後南米諸国に拡大したアンデス・インディアン計画は経済の多角化や協同組合の育成などの事業を通じて先住民の生活改善を図りました。
雇用は常にＩＬＯの主要関心事項であり続けていますが、1960年以降、国連諸機関で推進されている開発戦略の中心的な目標でもあります。1969年にモース事務局長が開始した世界雇用計画は雇用目標を現実にするＩＬＯの取り組みの中心となり、70年代を通じて雇用促進に向けた相当量の調査研究と実際活動を行いました。
|ＩＬＯを代表して1969年にノーベル平和賞を受け取るモース事務局長（右）|
第６代事務局長となったイギリスのウィルフレッド・ジェンクスは1970年に就任し、在任中の1973年に死去しましたが、この間、東西問題から生じる労働問題の政治化に直面することとなりました。フィーラン第４代事務局長共々フィラデルフィア宣言の起草に当たったジェンクス事務局長はＩＬＯについて有する豊富な知識を駆使してこの課題に取り組みました。著名な法律家であったジェンクス事務局長は人権、法の秩序、三者構成主義、そして国際問題に関するＩＬＯの道徳的権限を強く擁護しました。ジェンクス事務局長は基準及びその適用監視機構の開発、とりわけ、結社の自由と団結権の推進に多大に貢献しました。
第二次世界大戦後、多国籍企業の活動が一層拡大し、60年代には多国籍企業が進出先で引き起こす問題が幅広く議論され、その行動を規制し、進出国との関係を規定する国際文書の必要性が唱えられるようになりました。これに取り組む一連の活動を経て、理事会は1977年には「多国籍企業及び社会政策に関する原則の三者宣言」を採択しました。これは多国籍企業が経済と社会の進歩について行うことができるプラスの貢献及びその様々な活動が引き起こす可能性のある困難を最小化し解決することを奨励する多国籍企業向けの行動ガイドラインです。
ジェンクス事務局長の後任となったのは、フランスの上級政府職員であったフランシス・ブランシャールでした。ブランシャール第７代事務局長はキャリアの最盛期をＩＬＯで過ごし、技術協力の大規模な展開に積極的な役割を演じました。外交官であり、信念の人であったブランシャール事務局長は1974年から1989年の15年間、事務局長を務めましたが、予算の25％削減をもたらしたアメリカの脱退（1977〜80年）という危機的状況にもＩＬＯに多大なダメージが及ぶのを回避しました。アメリカはレーガン政権初期にＩＬＯに復帰しました。この間、ＩＬＯは決然として人権擁護の活動に邁進しました。ポーランドが1957年に批准した結社の自由に関する第87号条約の尊重を唱え、労組「連帯」の正統性を100％サポートすることによって、ＩＬＯはポーランドの独裁政権からの解放において大きな役割を演じました。
女性労働者の保護、男女平等の促進は創立以来のＩＬＯの主要な活動の一つであり、早くも1919年の第１回総会で採択された母性保護条約（第３号）と夜業（婦人）条約（第４号）を始め、1951年の同一報酬条約（第100号）、1958年の差別待遇（雇用及び職業）条約（第111号）といった数々の基準を通じてその理念の達成を図ってきましたが、国際婦人年であった1975年の総会では女性労働者の機会均等・平等待遇に関する宣言とその推進を目指した行動計画が採択され、女性の地位向上並びに機会及び待遇における男女平等を目指した活動に一層拍車がかかりました。1985年の総会でも、75年の宣言と行動計画の有効性を再確認すると共に、各国の行動やＩＬＯの行動についての提案を盛り込んだ決議を採択しました。男女平等は後述のディーセント・ワーク課題の中心に位置し、1999年には、仕事の世界における男女平等達成に向けた戦略として「ジェンダーの主流化」を用いることが決定され、現在、すべての活動はこれを軸にして展開されています。2004年の総会で採択された男女平等、公平賃金、母性保護の促進に関する決議は、雇用と職業における非差別と機会平等は社会正義の基本原則であることを再確認しています。2009年の総会ではこのような歩みを振り返り、仕事の世界における男女平等の問題を包括的に議論する一般討議が行われます。
人種、宗教、国民的・民族的出自に基づく差別に対する戦いにも力を入れています。例えば、人種隔離（アパルトヘイト）政策を取っていた南アフリカに対しては、1961年の総会でその政策を非難し、政策の廃止かＩＬＯからの脱退の二者択一を求める決議を採択するなどして、差別政策に対する闘争を長い間支援しました。南アフリカは決議を受けて1964年にＩＬＯを脱退する意思を示し、２年後に発効しました。総会は1964年を最初に、人種差別的な雇用政策の終結を呼びかけるアパルトヘイト宣言を３本採択し、1994年まで特別委員会を設けて毎年、進展状況を報告しました。アパルトヘイト政策は90年代前半に廃止され、多民族・民主化社会となった南アフリカは1994年にＩＬＯに再加盟しました。
児童労働の撤廃は創立時からのＩＬＯの目的の一つです。ＩＬＯ憲章前文には、児童の保護が、社会正義の追求と永続する平和の不可欠な一要素と記されています。既に1919年の第１回総会で工業における14歳未満の子どもの労働を禁じる条約（第５号）を採択した後、1973年には全産業を対象とする総合的な最低年齢条約（第138号）が、1999年には18歳未満の子どもによる最悪の形態の児童労働の禁止及び撤廃を確保するための即時の効果的な措置を求める最悪の形態の児童労働条約（第182号）が採択され、これらの基準を通じた取り組みが進められてきました。1992年に開始された児童労働撤廃国際計画（ＩＰＥＣ）は100カ国以上が事業の実施国または資金協力国として関与するというＩＬＯ最大の技術協力計画に成長しています。パキスタンのシアルコートでサッカーボールを作っていた子どもたちを見つけ出して学校に通わせるようにするなど、およそ500万人の子どもがＩＰＥＣの恩恵を受けており、児童労働に従事する子どもの数は世界全体で2004年に2000年比11％減を記録しています。ＩＰＥＣの活動は世界的な児童労働撤廃に向けた気運の盛り上がりにも大きく貢献しています。
1989年、冷戦後の初の事務局長としてベルギーの雇用労働相、公務相を務めたミシェル・アンセンヌが第８代事務局長に就任しました。1993年に２期再選を果たしたアンセンヌ事務局長は、自らの主たる責任はＩＬＯが75年間にわたり持ち続けた道徳的権限、専門能力、運営効率をすべて伴ったままで21世紀を迎えるよう導いていくことであると表明しました。新しい課題のもとで、アンセンヌ事務局長は、経済開発と社会開発に関する主要な国際的な話し合いの場で社会正義を議論の中心に据えるため、ＩＬＯに十分な役割を演じる手段を備えることを目指しました。
1995年に世界貿易機関（ＷＴＯ）が創設された際、社会条項をＷＴＯの経済協定に挿入して労働基準を推進することの是非が議論されましたが、1996年のＷＴＯ閣僚会議で採択されたシンガポール宣言で、中核的労働基準を設定し、扱う権限のある機関はＩＬＯであることが明記されました。これを受けて、ＩＬＯは1998年の総会で「労働における基本的原則及び権利に関するＩＬＯ宣言」を採択しました。宣言は、ＩＬＯ加盟国が、１）結社の自由及び団体交渉権の効果的な承認、２）あらゆる形態の強制労働の禁止、３）児童労働の実効的な廃止、４）雇用及び職業における差別の排除の４原則を尊重し、促進し、かつ実現する義務を負うことを宣言したものです。これによってグローバル社会における最低線が設定されました。アンセンヌ事務局長のもとで、ＩＬＯは積極的パートナーシップ政策を採用し、活動や資源のジュネーブからの分散を図りました。
◆ディーセント・ワークの実現に向けて
1999年３月に、第９代事務局長として就任したチリ出身のフアン・ソマビアは、社会と経済の開放が「普通の人々とその家族にもたらす真の利益が均衡する限り」、開かれた社会と開放経済を推進する国際的な合意を支持すると唱えました。初の南半球出身の事務局長として、ソマビア事務局長は、「世界の新たな現実の中で、ＩＬＯの価値を普及させるため、政労使の三者体制を刷新し、その舵取りを支援」していく意向を表明し、就任後最初の1999年の総会で21世紀のＩＬＯの目標を「すべての人へのディーセント・ワーク（働きがいのある人間らしい仕事）の実現」とすることを提案し、支持を受けました。この目標は、基準、雇用、保護、対話の四つの戦略目標を通じて、取り組みが進められています。
このディーセント・ワーク課題は2005年の国連世界サミットなど国際社会でも支持を受け、2006年の国連経済社会理事会ハイレベル会合で採択された閣僚宣言は、「男女が共に自由、平等、安全保障、尊厳が確保された条件下で生産的な雇用を得る機会は、飢餓と貧困の根絶、すべての人々の経済的・社会的満足度の向上、すべての国家の持続可能な経済成長及び発展の達成、そして完全に包摂的で公平なグローバル化を確保する上で不可欠」であることを再確認し、「ＩＬＯのディーセント・ワーク課題」を「完全雇用、生産的な雇用、すべての人へのディーセント・ワークの目的を達成するための貴重な手段」と認めています。閣僚宣言を直接フォローアップするものとして、ＩＬＯは2007年２月に、ＵＮＤＰとパートナーシップ及び協力関係強化に向けた合意を達成しました。
1980年代初頭にＨＩＶ（エイズウイルス）／エイズが登場して以来、世界各地で職場に新たな課題がもたらされました。1999年にナミビアで開かれた政労使の会議はアフリカにおけるエイズ対策行動綱領の策定につながり、これは次に2000年の総会における職場のＨＩＶ／エイズに関する決議の採択に結びつきました。2001年には非差別、予防、秘密保持などの原則を定めた「ＨＩＶ／エイズと働く世界ＩＬＯ行動規範」が刊行されましたが、2009年の総会では勧告の採択に向けた話し合いが開始されます。
|2008年の第97回総会における公正なグローバル化のための社会正義宣言の採択|
2002年にグローバル化の社会的側面について独立した外部委員会の立場で話し合い、グローバル化のより良い方向性について提言を行ってもらうため、学識者、政財界、労働界、市民社会の代表者、社会・経済問題専門家など26名からなるグローバル化の社会的側面世界委員会を設置しました。2004年に発表された委員会の報告書は、公正なグローバル化の促進に向けた57の方策を示し、ディーセント・ワークを各国の行動と国際的な行動の両方に組み込んだグローバルな目標とすることを提案しました。報告書は各国の政策策定に影響を与えたほか、国際的な場でも広く議論され、国連総会は2004年に報告書の結論を支持する決議を採択しました。
2006年に開かれた海事総会では、過去に採択された海事分野の68の条約・勧告を統合し、更新する海事労働条約が採択されました。船員の権利章典とも呼ばれるこの条約は、海事労働証明書と海事労働遵守宣言の船内常備などを含む画期的な手法を通じ、船員の労働条件の改善を目指しています。
2007年には、環境に優しい「グリーン・ジョブ」とすべての人へのディーセント・ワークを伴う、環境に優しい「グリーン経済」を導くような、一貫性のある政策と実効的な事業計画に関する対話に従事するよう政労使を動員し、グリーン経済における機会、公平性、公正な移行を促進するためにグリーン・ジョブ構想を立ち上げ、国連環境計画（ＵＮＥＰ）、国際労働組合総連合（ＩＴＵＣ）、国際使用者連盟（ＩＯＥ）とパートナーシップを構築しました。
ＨＩＶ／エイズを始めとした職場の安全と健康の分野に関してはＷＨＯ、児童労働など子どもに係わる分野では国連児童基金（ユニセフ）、船員に係わる分野は国際海事機関（ＩＭＯ）、農業分野では国連食糧農業機関（ＦＡＯ）など、ＩＬＯは他の機関とも密接に協力して活動を展開しています。国連教育科学文化機関（ユネスコ）との間には、1967年からＩＬＯ／ユネスコ教員の地位勧告などのモニタリングと促進を担当するＩＬＯ／ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会（ＣＥＡＲＴ）が設けられていますが、教員の評価制度などに関する日本の教員団体の申立を受けて2008年にこの実情調査団が世界で初めて日本に派遣され、必要なフォローアップ活動を提案する中間報告が同年後半に出されました。
2008年の総会では、ディーセント・ワーク課題を推進するＩＬＯの能力を強化し、ますます大きくなるグローバル化の課題に対する効果的な対応策を構築するための検討が行われ、この活動の基盤となるものとして、「公正なグローバル化のための社会正義宣言」が採択されました。宣言は、グローバル化の中で進歩と社会正義の達成を支援するＩＬＯの重要な役割を強調し、ディーセント・ワーク課題を通じてこの目標を進めるＩＬＯの能力を強化することを加盟国政労使が約したものとなっています。
2007年に国連は、2009年から２月20日を社会正義世界デーとすることを定めました。
★公正なグローバル化のための社会正義宣言
2007年及び2008年の総会で、金融市場の混乱や景気下降から、失業問題、インフォーマル化、不十分な社会的保護の拡大に至る不確実性が労働の世界に広がる中で、「ディーセント・ワークをすべての人へ」というディーセント・ワーク課題を推進するＩＬＯの能力を強化し、ますます大きくなるグローバル化の課題に対する効果的な対応策を構築するための検討が行われた結果、この活動の基盤となるものとして、「公正なグローバル化のための社会正義宣言」と宣言の実施方法に関する付随する決議が口頭表決によって採択されました。
2008年の総会で採択されたこの宣言は、ＩＬＯの価値を力強く再言しています。進歩と社会正義の達成を支援するというＩＬＯ憲章に体現された価値と原則の上に立ち、ディーセント・ワーク課題を通じてこの目標を進めることへの支持を宣言することによって、この文書は21世紀におけるグローバル化の課題に取り組むＩＬＯの能力の強化を図っています。
◆宣言
宣言は、１）対象範囲と原則、２）実施方法、３）最終規定、の三節で構成されています。
−前文
宣言の採択に至る動機を記す前文はまず、今日のグローバル化の特徴として、新技術の普及、アイデアの流れ、商品やサービスの交換、資本と金融の流れの増大、そして事業そのものや事業プロセス、事業に係わる対話、働く男女を中心とした人の動きの国際化を挙げ、これらが一方では、経済協力や統合を通じて、多くの国に高い経済成長及び雇用創出の恩恵、農村部における多くの貧困層の近代的都市経済への吸収、開発目標の進展、革新的製品開発及びアイデア流通基盤の育成といった支援を提供しながらも、他方では、世界的な経済統合によって多くの国や産業部門に所得不平等、高い失業率・貧困水準の継続、外部ショックに脆弱な経済、雇用関係やそれが提供する保護に影響を与えるような保護されていない働き方やインフォーマル経済の拡大といった課題をもたらしたことを指摘した上で、このような環境において、普遍的な社会正義への希望、完全雇用の達成、開かれた社会と世界経済の持続可能性の確保、社会の結束の達成、貧困と拡大する不平等に対する取り組みといった活動におけるすべての人にとってのより良い公正な結果の達成がますます必要になってきたことを確認しています。
そして、労働は商品ではないこと、完全雇用及び生活水準の向上などの諸目的を達成するための計画を世界の諸国間において促進するＩＬＯの厳粛な義務、社会正義の根本目的に照らして経済及び金融面のすべての国際政策を検討し審議するＩＬＯの責任などを規定するフィラデルフィア宣言を含むＩＬＯ憲章、そして、ＩＬＯがその任務を履行するに当たっての、結社の自由及び団体交渉権の効果的な承認、あらゆる形態の強制労働の禁止、児童労働の実効的な廃止、雇用及び職業における差別の排除といった基本的な権利の重要性を認めた1998年の「労働における基本的原則及び権利に関するＩＬＯ宣言とそのフォローアップ」を基礎に、ＩＬＯは絶えず変化する環境の中で、進歩と社会正義の促進及び達成を支援する上で果たすべき重要な役割があることを確信するとしています。さらに、国際社会がディーセント・ワークをグローバル化の課題に対する効果的な対応策であると認めてきた事実に奨励されるとして、1995年にコペンハーゲンで開かれた世界社会開発サミット、ＩＬＯが開発したディーセント・ワークの概念に対し、世界的・地域的レベルで繰り返し表明された幅広い支持、2005年の国連世界サミットで公正なグローバル化並びに生産的な完全雇用及びすべての人へのディーセント・ワークの諸目標が関連する国際及び国内の政策の中心的な目的であると認められたことを挙げています。
その上で、相互依存と複雑さ、そして生産の国際化が進む世界においては、１）経済と社会の持続可能な発展と効率性にとって、自由、人間の尊厳、社会正義、安全保障、非差別の基本的価値が不可欠であること、２）とりわけ国際労働基準を通じた法の統治と社会の結束を構築し、解決策を達成する上で、国内及び国境を越えた労使の代表的な団体と政府の間の三者構成の活動や社会対話がますます適切になること、３）労働者に法律上の保護を提供する手段として雇用関係の重要性が認識されるべきこと、４）力強い社会経済と存続可能な公共部門と共に、生産的で利潤を生む、持続可能な企業が、持続可能な経済発展と雇用機会にとって決定的に重要であること、５）1977年に採択され、その後改訂された多国籍企業及び社会政策に関する原則の三者宣言は、ＩＬＯの目的実現におけるこれらの活動主体の増大する役割を取り上げ、特に関連性を有すること、といった諸原則を確信し、現下の課題はＩＬＯの取り組みの強化、あらゆる活動手段を動員しての憲章目的の促進を求めるとしています。そして、これらの取り組みを効果的なものとし、グローバル化の中でのＩＬＯの目的達成に向けた加盟国の取り組みを支援するＩＬＯの能力を強化するために必要なこととして、ＩＬＯには次の事項が求められています。
１．対象範囲と原則
以上の前提に立って、宣言は、ＩＬＯの憲章上の付託事項を実施し、生産的な完全雇用とディーセント・ワークを経済・社会政策の中心に据える加盟国とＩＬＯの取り組みと公約は、以下のようにまとめることができるディーセント・ワーク課題を表現する四つの等しく重要な戦略目的を基礎とすべきとしています。
以上の四つの戦略目的は相互に関連し、支え合っており、不可分であるとして、このうちのどれかを促進できなかったとすれば、残りの進歩も損なわれるであろうとしています。また、男女平等と差別禁止をこの四つを横断する事項とすべきと記しています。
戦略目的の達成方法は、各加盟国がそれぞれに有する国際的な義務と就労上の基本的な原則及び権利に従い、決定すべき問題としつつ、配慮すべき事項として、とりわけ以下が挙げられています。
２．実施方法
第２部には、ＩＬＯと加盟国による第１部の実施方法が記されています。
ＩＬＯについては、第１部の実施には、ＩＬＯが加盟国の取り組みを効果的に支援する必要があるとして、その人的資源と資金並びに三者構成の構造及び基準の仕組みというその独特の利点の最善の活用を図るため、能力構築とガバナンスを高めるよう制度慣行を見直し適応させるべきとし、その方向として、具体的に以下のような事項が掲げられています。
加盟国もまた、その社会・経済政策を通じて、戦略目的の実施に貢献する重要な責任があるとされています。国内レベルにおけるディーセント・ワーク課題の実施は各国のニーズと優先事項に左右されるとした上で、宣言は、労使の代表的な団体と協議の上、その責任を果たす方法を決定するのは加盟国であると記していますが、その際に検討すべき方策を以下のように例示しています。
最後に、その任務が密接に関連した分野にある他の国際機関や地域機関が果たしうる貢献を認めた上で、ディーセント・ワークの促進をこれらの機関に呼びかけることを規定しています。また、貿易と金融市場政策のどちらも雇用に影響を与える以上、経済政策の中心に雇用を据える目的の達成に向けて雇用に対するその影響を評価するのはＩＬＯの役割であるとしています。
３．最終規定
最終規定では、事務局長が宣言を加盟国に伝えること、そして各国政府と労使団体がその周知に努めること、理事会と事務局長は第２部の実施に向けた適切な態様を定める責任があること、総会による宣言の影響に関する見直しを適宜行うことなどが規定されています。
◆フォローアップ
宣言には付属文書として、ＩＬＯが加盟国のディーセント・ワーク課題推進努力を支援する手段を確実にするフォローアップの仕組みが添付されています。付属文書は、１）全体目的と対象範囲、２）加盟国を支援するＩＬＯの活動、３）総会による評価の３節で構成されています。
加盟国を支援するＩＬＯの活動は、１）総務、資源、渉外、２）加盟国の現実及びニーズの理解とそれへの対応、３）技術支援と助言サービス、４）調査研究、情報収集、情報共有の４項目からなり、加盟国によるこの宣言に基づく取り組みを支援する手段を確保するため事務局長は必要なあらゆる手立てを講じること、総会における反復的な討議、ディーセント・ワーク国別計画や国連の国別計画の枠内における技術協力活動の強化及び合理化などを通じたあらゆる適切な支援の提供、経験や好事例の政労使三者による共有などを通じた、戦略目的がいかに相互に作用し合い、グローバル経済の中での社会進歩、持続可能な企業、持続可能な開発、貧困撤廃に寄与しているかに関する調査研究能力、実証的知識、理解の強化に向けて適切な措置を講じることなどが挙げられています。
総会は宣言の影響力を評価することとされ、事務局は討議資料として、宣言の結果として取られた行動や措置、理事会と事務局が講じたフォローアップ措置、宣言が他の国際機関に与えたかもしれない影響に関する情報をまとめた報告書を作成することとなっています。討議には、関心ある多国間機関、そして理事会の招聘を受けた場合、他の関心ある活動主体も参加できるとされています。総会は評価に照らし合わせ、さらなる評価または何らかの適切な活動の方向性に関する結論を導くことになります。
◆決議
宣言と同時に採択された決議は、宣言の規定とその実施がＩＬＯの既存の監視メカニズムと重複すべきでないことなどに留意した上で、能力及びガバナンス事項、総会の反復的議題、パートナーシップなど、宣言の実施に向けた計画を2008年11月の理事会に最優先事項として提出することを事務局長に求めています。
理事会は2008年６月から運営グループを設置し、具体的なフォローアップの仕組みの整備に向けた話し合いを続けています。
◆国連総会決議
2008年の第63回国連総会で、フィンランド、ドイツなど28カ国が提案した、公正なグローバル化のための社会正義宣言に関する決議が全会一致で採択されました。決議は、宣言と付随する決議の採択に関心をもって留意し、その実施を求めると共に、四つの戦略目的を基礎としたディーセント・ワーク課題に向けた統合的なアプローチの実施を促進し、それに貢献することへの宣言の呼びかけを支持しています。そして、国連諸機関に向けて、「雇用とディーセント・ワークの主流化のためのツールキット」の適用を含む統合的なアプローチの促進を通じて、生産的な完全雇用とすべての人へのディーセント・ワークの諸目標をそれぞれの政策、事業計画、活動の主流に据え続けることを求めています。加盟国に対してもツールキットに定められた原則を国家レベルで適用することの検討を奨励しています。国連事務総長に対しては、経済・社会分野の関連する報告書を検討する際に宣言を考慮に入れることを求めています。
★社会正義世界デー（２月20日）
貧困、排除、失業といった問題に取り組む努力を促進する必要を認識し、2007年の第62回国連総会は、2009年から２月20日を社会正義世界デー（World Day of Social Justice）とする決議を全会一致で採択しました。
オーストリア、中国など70カ国以上が発議人となったこの決議は、1995年にコペンハーゲンで開かれた世界社会開発サミットと2000年に開かれた社会開発国連特別総会を想起し、社会開発に関するコペンハーゲン宣言と行動計画、そして特別総会で採択された社会開発に向けたさらなるイニシアティブが国内及び国際レベルですべての人のための社会開発の促進に向けた基本的枠組みを構成することや2005年の世界サミット成果文書でなされた、ミレニアム開発目標を達成する取り組みの一部として、女性と若者を含むすべての人へのディーセント・ワークと生産的な完全雇用を国内及び国際の関連する政策並びに貧困削減戦略を含む国家開発戦略の中心的な目的とするとの公約を再確認した上で、国家間のそして国内における平和と安全保障の達成及び維持にとって社会開発と社会正義が不可欠であること、さらに翻って平和と安全保障が欠如した状態またはあらゆる人権と基本的自由が尊重されない状態では社会開発と社会正義は達成できないことを確認しています。また、社会開発と社会正義の維持には持続可能な開発の中での幅広い持続的な経済成長が必要であること、そしてグローバル化と相互依存が新たな機会を開きつつある一方で深刻な課題が残っていることも認めています。そして、貧困撤廃並びに完全雇用及びディーセント・ワーク、男女平等、すべてにとっての正義と社会の安寧を得る機会の促進に向けた国際社会の取り組みをさらに強化する必要性を認識し、社会正義世界デーの設定を提案するとして、各国は世界社会開発サミット及び社会開発国連特別総会の目的及び目標に従った具体的な活動の促進でこの日を祝することを加盟国に呼びかけています。
また、2008年の第63回国連総会で採択された、ＩＬＯの公正なグローバル化のための社会正義宣言に関する決議は、社会正義世界デーに照らし合わせ、宣言は特別な関連性を有するとして、国連諸機関のみならず、市民社会や非政府組織を含む各国レベルでの積極的な対話と協力を奨励しています。
★ＩＬＯの使命−社会正義
国際労働基準の設定及び適用監視、基準の実施に困難がある場合の技術協力、そして仕事の世界に関わる問題の調査研究と情報普及による啓発活動を通じて、ＩＬＯは社会正義に向けた人類の長い戦いの歴史の中で独特の役割を演じてきました。この活動は、政府、使用者、労働者が共に取り組むというユニークな三者構成の構造を通じて展開されています。
グローバル化が進む中、世界的な貧困、インフォーマル性の拡大、不安定就労の増大などの問題が依然山積する中で発生した現下の経済金融危機は、社会正義に向けた取り組みがなおも必要なことを示しています。昨年採択された公正なグローバル化のための社会正義宣言がその手段としてディーセント・ワーク課題を認めたことは、ＩＬＯの取るべき方向性を明示したものと言えます。創立90周年は、ＩＬＯにとって過去を評価すると同時に未来に向けた使命を新たにする機会となっています。
ＩＬＯ小史----->
http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/about/ilohistory.htm
ＩＬＯと日本小史----->
http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/japan.htm
ＩＬＯと日本略年表−ＩＬＯ広報誌「ワールド・オブ・ワーク」日本語版2005年第２号（通巻４号）----->
http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/downloads/wow/4.pdf#Page=8
日本ＩＬＯ協会----->
http://www.jilo.or.jp
ＩＬＯ90周年（英語）----->
http://www.ilo.org/public/english/anniversary/90th/index.htm
ＩＬＯ広報誌「World of Work」2008年12月号（通巻64号）：90周年記念号（英語）----->
http://www.ilo.org/wow/PrintEditions/lang--en/docName--WCMS_101192/index.htm
ＩＬＯ憲章・フィラデルフィア宣言----->
http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/constitution.htm
労働における基本的原則及び権利に関するＩＬＯ宣言とそのフォローアップ----->
http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/declaration.htm
公正なグローバル化のための社会正義宣言（英語）----->
http://www.ilo.org/global/What_we_do/Publications/Officialdocuments/lang--en/docName--WCMS_099766/index.htm
公正なグローバル化のための社会正義宣言日本語訳----->
http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/downloads/2008declaration.pdf
社会正義世界デー−国連サイト（英語）----->
http://www.un.org/esa/socdev/social/intldays/IntlJustice/