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「医者を必要とするのは」マルコ2：13～17
2021年6月6日（左近深恵子）
主イエスの弟子に、新たにレビという人が加えられました。そしてレビの家で、多くの徴税人や罪人と共に主は食事をされました。その食事に向けられた疑問に返された主の言葉を聞きました。一人の人を弟子に加えられ、その後食事をされ、非難する者たちに語り掛けられた、それだけと言えばただそれだけの、際立つところのあまり無い、言葉少なに語られている個所ではありますが、ここで主が言われた言葉に支えられてきた言葉に私自、これまで幾度も導かれてきました。
聖書は四つの福音書によってイエス・キリストの歩みを伝えています。主が言われたこと、主がなさったことの全てが福音書に記されているわけではないでしょう。それでも主が何のために世に降られたのかは福音書に明らかにされています。記されている様々な言葉と多くのみ業の核にあるのは、神の国の福音を宣べ伝えることです。お働きの冒頭から、「時は満ちた。神の国は近づいた」と言われています。神さまのご支配が新しく始まっていることを、神であるみ子が告げるために、世に降られました。それまでのどんな偉大な人間も持つことのできなかった権威が、神の国の福音を宣べ伝える主イエスの言葉にはありました。主イエスはまた、この新しいご支配の下で生きるために悔い改めて神さまの元へと立ち戻りなさいと、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。そして、神さまのご支配が始まっていることを証しするために、病を癒やされたり、悪霊を追い出されたりしました。それは、病の重さに足掻き、病によって信仰の群れの中で生きることができずにきた一人一人をそこから救い出し、神さまのもとへと立ち戻ることへの招きでした。今日の個所の出来事も、そのようなお働きの一つであります。
ガリラヤの町、カファルナウムに滞在しておられた主イエスがこの日湖畔へと向かわれると、人々が集まって来ました。そこで群衆に教えを語られました。それから主は通りがかりに、収税所に座っているレビを見かけました。街道沿いの町であるカファルナウムの、通りに面したところにあるこの収税所は、おそらく人々から通行税を取っていたのでしょう。主イエスは、人々からお金を取り立てているレビの姿を、おそらくレビの生活、生き方をも含めて、見つめられました。
収税所で取り立てていたのは、ユダヤを支配していたローマ帝国に納めるためのお金であり、またローマからこの地域の支配を委ねられている支配者たちのためのお金でした。その取り立てに当たる徴税人を、ローマ帝国はユダヤ人の中から立てました。同胞から税を取り立てるという、誰も引き受けたがらないような仕事を請け負う者がいたのは、徴税人になれば、税金に上乗せした金額を取り立て、上乗せ分を自分の懐に入れることができたからでした。ユダヤの人々にとって収税所は、自分たちのために使われるお金ではなく、自分たちを征服している者たちのための税金と、ローマの権力を後ろ盾に私腹を肥やす徴税人たち自身のためのお金が取り立てられる場所でした。同じユダヤの民でありながら、異教の王の権力を笠に着て、不当に自分たちから巻き上げたお金で財を成している徴税人たちを、人々は、神の民にふさわしくない者、神の民として正しくない生活をしている罪人とみなしていました。今日の箇所の後半で、「徴税人や罪人」と、徴税人と罪人が同じくくりで述べられているのには、このような背景がありました。徴税人は、神の民ユダヤの民の一員でありながら、ユダヤの民の礼拝を軸に繋がっている交わりの中には居ない人たちでありました。主イエスはこの日、収税所というローマ帝国の支配を象徴するような場所に座り、ローマ帝国の権力と言う見えない壁で守られたテリトリーの中に座り込んでいたレビを、見つめられたのです。
レビの姿は、この日主イエスを取り囲んでいた群衆とは対照的です。群衆は、主イエスが町に来たと聞いて、主イエスを探して、集まってきましたが、レビは徴税人という自分の生活の中に留まり続けます。レビが、主イエスを求めて大勢の人が集まって来た騒ぎをどのように思っていたのか、分かりません。その主イエスから語り掛けられた時、どのように感じたのかも、聖書は記していません。聖書が告げるのは、主イエスが町に来られていても、他の人々が主イエスを探し求めようとせずに、自分のこれまでの生活の中に座ったままのレビの姿と、そのレビの所へと主イエスの方から近づかれ、レビのテリトリーの中へと呼びかけられたということ、そしてレビがその召しに従って立ち上がり、そこから出て、弟子となったということです。「私に従いなさい」と、つまり「私についてきなさい」と主は言われました。先に弟子にされたシモンとアンデレにも「私についてきなさい」と言われていました。「私についてきなさい」とは、「私の後からついてきなさい」ということです。主の弟子になるということは、自分のこれまでのテリトリーから出て、主の後に付いていく人生を歩むということです。主の言葉に従って立ち上がったレビには、様々な思いがあったでしょう。しかしそのことを聖書は記しません。富を手に入れられる徴税人としての人生を後にして主に従ったレビの決断に、私たちが納得しやすいような説明、例えばレビがそれまでの徴税人として生き方に、同胞を踏み台にして私腹を肥やす生き方に、実は満足していなかったとか、心の底で本当は神さまに喜ばれる生き方を求めていたとか、そのようなストーリーを聖書は語りません。そのような思いももしかしたらあったかもしれません。けれど弟子となるということの芯は、私たちの思いの強さや私たちの条件にあるのではなく、罪の中に座り込んでいる一人一人を呼び出してくださる主イエスの言葉と、呼び掛けられた者の、それまでの所から立ち上がり、主の後について行く応答にあります。その応答は、主イエスとその言葉に自らを委ねる信頼から起こるのです。
主イエスの後について行く人生を歩み始めたレビが最初にしたのは、主イエスを自分の家に招き、そして他の徴税人や罪人と呼ばれる者たちもそこに招くことでした。傍目には自分の家に帰っただけ、それまでも付き合いがあったであろう仲間たちをも食事に招いただけに見えるかもしれません。しかしその仲間たちにレビは、自分が主イエスの弟子となったことをこのような形で公にしています。彼らにも主イエスに本当に出会って欲しいと願ったのでしょう。このレビの行動に、レビの人生がどれほど新しいものとなったのか、現れています。ご自分の後についてくるようにとの主イエスの招きを、レビは自分一人への招きに終わらせなかったのです。罪びとである徴税人の自分を弟子にすれば、いずれ周囲から不満や非難が主イエスに向けられることは明らかです。敢えて徴税人を招かなくても、弟子にできる者は他にいくらでもいると誰もが考えるでしょう。その反発や疑問を押し退けるように、自分を自分が居たところから呼び出し、ご自分につながって生きることへと招いてくださった主イエスをレビは、自分だけでなく、自分のような者たち全てを招いておられる方だと知ったのです。
レビは、主イエスの招きを深みから受け止め、他の徴税人や罪人たちも食事の場に招きました。しかしやはりこの展開を受け入れられない人々が声を挙げます。汚れを負った者は、清くなったと認められるまでは、祭儀に加わることも、食事を共にすることも許されていなかった社会です。異教徒の王の権力にすり寄って汚れた徴税人たち、同胞の尊厳と財産を不正な仕方で異教徒の国と私利私欲のために奪ってきた者たち、そのような罪人であることが誰の目にも明らかな者たちと親しく食卓を囲む行動を咎める声が、ファリサイ派の律法学者たちから上がりました。民の信仰の指導者であり、律法を厳格に守ることにおいて神さまの前で特別に正しい生活をしていると自他ともに認める彼らには、人々に神の教えを説いていながらなぜこのようなことをするのかと、主イエスの真意が分からなかったのです。
主イエスはその意味を語られます。病人という言葉で罪びとを表され、ご自身のことは医者と言い表されます。人々が皆丈夫で、健康であれば、医者は必要ありません。人々が神さまから与えられた命と存在の健やかさを罪によって失っているから、それによって神さまとの交わりの中で健やかに生きることも、他者との関係の中で健やかに生きることもできなくなり、病み、弱り、滅びへと向かっているから、医者である主イエスが人々の所へと来られのだと語られます。病人には医者が必要であるから、医者であるご自分の元に病人たちを招くために来られたのだと。この食卓を囲んでいる人々は、主イエスの招きを、自分たち自身に向けられた招きであると受け留めた人々であると、自分たちが病人であることを知り、罪からの癒しを願っている人々であると、示されました。主イエスがこれまで宣べ伝えてこられたように、神さまのご支配が新しく始まっており、この食事の場は、神さまの憐れみが全ての人に開かれているしるしです。罪深さの中に座り込んでいた、自らはそこから出ることができずにいた一人の人を、神の国のお働きのために主が招かれた、するとその招きにお応えしてレビが多くの人をここに招き、人々は主イエスとの親しい交わりの中へと迎え入れられている、神さまのご支配が人々の中で出来事となって広がっている、この食事はまさに祝宴でありました。
病人は、一人では自分の病を正しく知ることができません。自分が病人であることを知ることが治療の第一歩であるとしばしば耳にするように、自分が病人であることを受け入れることも、自分の病がどれほど自分を蝕んでいるのか知ることも、難しいのです。
しかし徴税人たちは、主イエスの招きの声を深く聞くことができ、自分が罪深い病人であることを受け入れることができました。主イエスに神さまの憐れみを見、主イエスこそ自分に必要な医者であることを知りました。だから主イエスの招きを受け入れて、人生を神さまに向かって方向転換させることができました。
主の招きの言葉に深く聞くことを、罪にとらわれている全ての人に主は求めておられます。「医者を必要とするのは」と主が言われたのはこの自分のことなのだと、主の招きが自分にも向けられているのだと気づくことによって、自分が罪の病の中にあるという受け入れ難い事実を、受け入れることができます。他者の罪深さをあげつらいながら、自分のテリトリーの中で、他者よりもまだ正しそうなところを必死に言い張るのではなく、「医者を必要とする」自分であることを認め、受け入れることができます。神さまの憐れみへと目を向けることができます。私たちすべての者を罪の病から癒し、神さまがお造りになったように、神さまの祝福の中を健やかに生きることができるように、キリストは、十字架につけられて殺される生涯を歩み通されました。キリストの苦しみと死と復活によって、私たちは罪を赦され、正しい者とされています。罪によって蝕まれ、深く病んでいる世にあって、ただ神さまのみ言葉に養われる健やかさを喜ぶことへと、神さまのご支配を誰かと見出す喜びを得ることへと、招かれています。