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列王上18：30～40、Ⅰコリント8：4～6「主こそ神」
2022年11月6日（左近深恵子）
イスラエルの民は、周囲の民がそうであるように、自分たちも人間の王を持ちたいと願いました。神さまは、人間の王によって統治されることがどのような苦しみを民にもたらすのか警告をし、人間の王も民も、神さまのご支配の下にあることを告げられてから、サウルを王として選び立て、民に与えられました。次のダビデ王は12部族全体を統一しまし、三代目の王、ダビデの息子ソロモンの時に、王国は経済的にも文化的にも繁栄を極めました。ソロモンは周囲の国々との同盟関係を強化し、交易を活発に行ったのです。しかしソロモンが実現した外交上の安定は、周囲の国々から王女やその他の女性たちを妻として迎え入れることで強化されたものでした。ソロモンは次第に、妻たちが崇めている異教の神々に自分も跪くようになります。ソロモンの心は「自分の神、主と一つではな」くなり、「主の目に悪とされることを行い、主に従い通さなかった」（列王上11：4～6）と聖書は伝えています。ソロモンの死後、イスラエル王国は南王国ユダと北王国イスラエルに分裂しました。南王国はソロモンの子が王位に着きます。北王国の王として神さまはソロモンの家臣であったヤロブアムを立てられ、ダビデ、ソロモンに告げられたように、ご自分の言葉に従い、ご自分の道を歩むなら、北王国の王とも共におられ、国を堅固にすると告げられます。しかしヤロブアムも、その後に続く王たちの多くも、南王国の王たちの多くも、主の道から離れ、偶像を造らせたり、カナンの偶像を持ち込んだり、主の言葉に従わなかったりと、「主の目に悪とされることを行」ったのです。
本日の列王記の箇所は、イスラエルが南北に分裂して暫く経った頃のこと、北イスラエルがオムリ王朝によって統治されていた時代のことです。オムリという王は周囲のカナンの国々と積極的に同盟を結ぶことで、経済的にも政治的にも成功を得ます。シェメル人から山を購入し、そこをサマリアと呼び、国の都をサマリアに移したのもオムリです。北の隣国シドンとも同盟を結び、シドンの王女イゼベルを息子アハブの妻に迎え入れ、戦略的平和を築き、地中海に面しているシドンの港を利用することで、経済的発展も得たオムリは、この結婚によって大きな外交的成果を上げました。しかしオムリは、息子の妻が自国の様々な文化や慣習と共に、異教の偶像と祭儀を持ち込むこと、王子の妻として、後には王の妻としての特別な影響力の下、異教の神崇拝が首都サマリアから民の間へと広がっていくことを想定しなかったわけではないでしょう。列王記はオムリについて、「彼以前の誰よりも悪いことを行」い、「イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返して、空しい偶像によってイスラエルの神、主の怒りを招いた」（列王上16：25～26）と述べています。
次の王となった息子アハブは、あらゆる点で父王の路線を継承し、イスラエルの民がカナンの民に迎合する政策を推し進めました。アハブについても列王記は「彼以前の誰よりも主の目に悪とされることを行った」（16：30）と述べています。その悪についてこう述べます、「シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造」った（16：31～33）。アハブの罪は、バアルという男性神やアシェラという女性神など、カナンの異教の偶像を礼拝する祭儀が民の間に蔓延することを放置し、後押しし、そのことによって創造主であり救い主である神さまではない、異教の偶像を崇拝する罪に、民を陥らせたことでありました。
バアルと呼ばれる神は、季節を循環させ、恵みの雨を降らせ、人々に豊穣をもたらす特別な神とされていました。しかしイスラエルの主なる神は、天と地の、そしてそこに存在を与えられたあらゆるものの創造主です。お造りになった世界に巡り行く時や季節を与え、み心を示す秩序を与え、最後に世界をご覧になって祝福された方であります。その祝福された命を生きることができなくなっていたイスラエルの民を、ファラオの支配から救い出され、約束の地、カナンに導き入れてくださいました。そうであるのに、イゼベルがサマリアに持ち込んだバアル崇拝が、イスラエルの民の間に浸透してゆきます。人々が偶像の神々に期待するのは、安定した降雨と豊かな収穫です。偶像の神々の力によってそれらを手に入れられる、という思いには、偶像の神々を礼拝すれば飢饉による死を退けることができるという思いが入り混じっているのでしょう。豊穣の偶像を崇拝することで自分は死に勝利し、自分の命や人生、大切な人の命や人生を自分で守ることができるという期待があるのでしょう。生命を支える十分な収穫を得られるかどうかという、具体的で切実な事柄について、目で見ることのできる、触れようと思えば触れられる存在に助けを求めたい、見えるものから生活や生命の保証を得たいという思いは、誰の中にも起こり得ます。ソロモンの時代から、異教の偶像礼拝は人々を惹きつけてきました。無垢な心で神さまのみ前を歩むようにと、神さまは王と民に求められましたが、その歩みを脅かしてきたのは偶像崇拝でした。そうして主のみ前から離れ出てしまった人々をご自分の元へと立ち返らせるために、神さまはイスラエルの民に預言者たちを遣わされました。エリヤは、その一人でありました。
エリヤは神さまから遣わされ、アハブ王の前に立ち、「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」（17：1）と告げました。イスラエルの王でありながら、進んでバアルの偶像に仕えるアハブに、主はこのような審きを告げられました。その後エリヤは、神さまが示してくださった所に身を隠していました。主なる神の預言者たちを大勢捕えては殺していたイゼベルとアハブの手から、エリヤを守ってくださったのです。そうして主の言葉通り干ばつが続きます。その間、アハブ王が国のためにしたこととして聖書が伝えるのは、馬やらばを生かしておく草を見つけようとしたことだけです。馬やらばは軍事に用いることができる動物です。危機的な状況の中でアハブが守ろうとしていたのは、民ではなく軍事力であったのでしょう。三年が経ち、神さまはエリヤに、「さあ行って、アハブの前に姿を現しなさい。私はこの地に雨を降らせる」と言われました（列王上18：1）。
アハブの前に再び現れたエリヤを、アハブは「イスラエルを煩わす者」と呼びます。聖書協会共同訳では「イスラエルをかき乱す者」と訳されています。干ばつの危機の中、悔い改めて主に立ち帰るのではなく、干ばつを告げたエリヤが愚かしい言葉でイスラエルを煩わし、かき乱していると非難します。自分の罪を露わにする神さまの言葉を恐れ、その言葉を伝える者に罪を転嫁し、その者を消し去って口を封じようとする人間の罪深さは、アハブに留まらず、聖書に繰り返し現れ、やがて主イエスの十字架において決定的となります。エリヤはアハブに対して、神さまがイスラエルの民と結んでくださった契約を捨て、自分をイスラエルの王としてくださった神さまの言葉に耳を傾けず、バアルなどに従っているアハブこそが、イスラエルを煩わし、かき乱している者であることを告げます。そしてイスラエルの全ての人々を、バアルの預言者とアシェラの預言者と共に、カルメル山に集めるよう、要請します。
カルメル山での対決の最大の目的は、バアルやアシェラの預言者たちを打ちのめすことではなく、イスラエルの人々に、どちらに従うのか、決断を求めることにあります。エリヤは民に、「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか」と、神はどなたなのか、主なのか、バアルなのか、神であると信じる方に従えと問います。民の中には、“イスラエルの神を退けていたわけではなかった。バアルとアシェラに仕えていくと決断したわけでもなかった。偶像を拝んで得られるものがあるなら得たいと思って礼拝していた”と考えていた者も多かったかもしれません。イスラエルの神だけでなく、どちらにも頼り、どちらにも適度に仕え、どちらも神と崇めるという妥協の道があると思っていた、そうして聞きたい慰めや祝福の言葉を語ってくれる方に重きを置き、厳しい裁きの言葉を語る方とは距離を置き、自分の感覚や判断で行ったり来たりしながら、生活と命を守っていこうとしていた人々に、エリヤは信仰の決断を促します。民は、「主が神であるなら、主に従え」と言われてもなお、「主に従います」と答えることができません。沈黙によって、答えることを拒むのです。
エリヤは民の前に雄牛を2頭用意させ、バアルの預言者たちと自分がそれぞれ、焼き尽くすささげものとして雄牛をそれぞれの神に捧げることを提案します。バアルの預言者たちに先に雄牛を1頭選ばせます。それぞれが雄牛を裂いて薪の上に載せ、通常であれば人が火をつけるところを火を付けずにおき、それぞれが自分の神の名を呼び、その呼びかけに応えて天から火を送ってそのいけにえを焼き尽くし、自ら捧げものを受け取る神こそ、真の神であるとの提案を、民は皆、受け容れます。
最初にバアルの預言者たちが始めます。朝からバアルの預言者たちはバアルの名を呼び続け、祭壇の周りを跳び回り、大声を張り上げ、彼らの習わしに従って剣や槍で身を傷つけ、血を流すことまでします。預言者の人数の多さと、行動の大きさと、彼らの犠牲の大きさで、バアルの反応を引き出そうとします。しかし真昼を過ぎ、捧げものをささげる午後3時頃になっても、何も起こりません。
エリヤは民に近くに来させ、これから起こることに注目させます。主の祭壇は、偶像崇拝が民の間に広がったことで荒らされ、荒れたままとなっていたのでしょう。エリヤはイスラエルの12部族の数と同じ12個の石で祭壇を築き直します。主を礼拝することにおいて崩れてしまっている神の民全ての礼拝者としての在り方を、整え直すかのようです。いけにえの上から4つの瓶で三回、水を注がせます。水はいけにえと薪を濡らし、流れ落ち、祭壇の周りに掘られた溝を満たします。干ばつで水が不足しているにもかかわらず、これから焼き尽くしていただくいけにえを敢えて大量の水で水浸しにする行為は、神さまは人の力が全く及ばないみ業によって必ず応えてくださる、火をもっていけにえを焼き尽くしてくださるとの信頼によるものでありましょう。祭壇に注がれた瓶12杯分の水はまた、主のみ前にイスラエルの民全体の罪を注ぎ出そうとするかのようでもあります。こうしてエリヤは、順序立てられ、吟味された行為によって、焼き尽くすささげものの準備をします。捧げものを捧げる時間が来ると、エリヤは神さまに祈ります。“これまでイスラエルの民を導き、救い出して来られた神さま、このカナンの地にあってもあなたが神であることを示してください、私がこれらのことを行ったのは、あなたのみ言葉が実現されるためであることを明らかにして、崩れてしまった民の心を新たにしてください、そうすれば民はあなたこそ神であると、自分たちの心を回復したのはあなたなのだと、知ることができます”と祈ります。この対決は、自分の預言者としての立場や名誉を回復するためではなく、民が神さまに立ち返るためです。だから神さまの憐れみを求め、み言葉を必ず実現してくださる神さまにひたすら信頼し、「答えてくだい、答えてください」と、静かに、しかし諦めることなく、願い続けます。
主はエリヤの祈りに応えられ、主の火を降らせます。主の火は、捧げもののみならず、薪も石も塵も、溝の水までなめ尽くします。神さまのみ前に注ぎ出された神の民の罪も焼き尽くすような、神さまのみ業です。民は皆ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と口々に言います。それまでどなたが神であるのか口にしようとしなかった、口にすることができなかった民が、繰り返し神さまへの信仰を告白します。民の心を回復してくださり、ただお一人の神に捧げる礼拝を回復してくださったのは、神さまです。こうしてエリヤはバアルの預言者たちとの対決において主こそ神であることを示し、イスラエルに雨がもたらされたのです。
後に主イエスが、二人の主人に同時に仕えることはできないと語られたように、人は、複数の道を同時に進むことはできません。私たちは時に、曖昧な、混沌とした現実の中に置かれます。この先も形を明確につかめず、見通すことができません。不確かさに囲まれているからこそ、具体的な、全容を掴めるようなものにすがりたいという思いに惹かれ、そのような力にすがり、神とする道に惹かれます。けれど、それらを神とすることは、魂を本当に救うことはできないものに、自分や大切な誰かを譲り渡すことにつながっていきます。パウロは「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています」と記します。（Ⅰコリ8：4）。ゴルゴタの丘の十字架上で、私たちの罪の赦しのためにご自身を父なる神にささげられ、肉を裂かれ、血を流され、午後3時に息を引き取られたイエス・キリストと、そのキリストの犠牲を受けてくださった父なる神によって、私たちは赦しと祝福に満たされながら、存在しています。人となられたキリストの十字架の死は曖昧なものではなく、具体的で確かな、神さまからの恵みです。その確かさは、神さまとの出会いと交わりの中で知りゆくものです。神さまが世に与えてくださった独り子を十字架で消し去ろうとする人間の罪が、十字架へとキリストを追いやり、キリストの犠牲を覆い尽くすほどのものであるのに、独り子の死を、人々の罪の値を贖う犠牲として受け止めてくださり、罪人たちをお赦しくださる、生ける真の神さまによって、私たちはその確かさを少しずつ知ってゆきます。天や地に神々と呼ばれるものが溢れていますが、私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、私たちはこの神さまから出て、この神さまへ帰って行きます。聖書協会共同訳によるなら、神さまへと「向かってい」くのです。
パウロはまた、唯一の主をイエス・キリストと言い換え、私たちにはイエス・キリストがおられ、この主によって私たちは存在していると述べます。「私たちは」と、この信仰を共に言い表すことへと聞き手を招きます。この6節は、教会の礼拝で告白されていた信仰告白の文だったのではないかとも言われています。礼拝の度に神さまの元へと帰り、神さまのみ前へと進み出て、神さまに全身で向かい、キリストによって存在し、キリストによって神さまのものとされている喜びを私たちは知り、分かち合います。とりわけ語られるみ言葉を通して知り、主が招いてくださる聖餐の食卓で、味わい知ります。それは、神さまを知り、神さまに愛されていることを知ることと言えます。だから礼拝から始まる日々の生活の中にあっても、神々と呼ばれていても神ではないものに捉われることなく、それらの力に支配されることなく、ただお一人の主こそ神であると、神さまに命と死を委ねることができます。曖昧で先が見えない中にあっても、神さまの赦しに満たされて新たに踏み出す歩みを、生ける真の神が導いてくださいます。