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サムエル下7：12～16、マタイ1：18～25「聖霊によって宿り」（使徒信条）
2023年7月9日（左近深恵子）
礼拝で毎週使徒信条を告白しています。その起源は2～3世紀にまで遡ると言われる使徒信条の言葉を、代々の教会が告白してきた歴史を思いながら、その一つ一つの言葉が土台にしている聖書の言葉に、礼拝で耳を傾けています。今日は、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」という部分について取り上げます。
使徒信条が信仰を言い表す仕方は、原文によると、冒頭で先ず「我は、信ず」と、「私は、信じます」と述べて、その後で何を信じるのか、一つ一つ述べていくというものです。すべてを細かく述べることはできないので、聖書で証しされていることの核にあるものを述べています。最初に、神さまについて述べます。そして次に子なる神、キリストについて述べます。前回私たちは、このキリストについて述べている最初のところ、イエスさまが神の独り子であり、私たちの主であり、救い主キリストであることを信じますと告白する箇所について聞き、またその個所が下敷きにしている幾つかの聖書から聴きました。今日はその続きの、主イエスがどうお生まれになったのか述べているところです。気が早いようですが使徒信条の次のところを見ますと、そこで使徒信条が述べるのは、主イエスが死なれたのはどのような死であったのかであります。つまり主イエスのご生涯について使徒信条が述べるのは、誕生と、死ということになります。それは、私たちが誰かのことを述べようとする時の仕方とは、随分違ったものではないでしょうか。
私たちが誰かについて述べようとする時、多くは伝記という形を取ります。伝記には、その人の誕生についての記述が欠かせませんが、聖書はどうでしょうか。新約聖書には主イエスのご生涯を述べる4つの福音書があります。それぞれの福音書は一見伝記のようですが、その中で主イエスの誕生の場面を記しているのはマタイとルカのみです。その２つの福音書も、誕生後のことはほとんど記していません。ルカが、12歳になった主イエスが家族とエルサレムの神殿に過越しの祭りを祝いに出かけた出来事を伝えているくらいです。誕生の場面を記していないマルコとヨハネが、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、荒れ野で試みを受けられ、福音を宣べ伝えるお働きを始められたことから語り始めているように、マタイもルカも、誕生と少年時代の僅かな出来事の後は、一気に主イエスの洗礼へと飛びます。伝記というものが誕生の場面から幼少期の逸話を幾つも記して、その人となりがどのような人間関係や環境の中で育成されたのか、その才能がいかに幼い頃から芽吹いていたのか示そうとするのとは対照的です。4つの福音書が伝えていることのほとんどは、ご生涯の最後の数年間に為されたお働きです、とりわけ最後の7日間の出来事と十字架の死、そして復活と昇天に、多くの紙面を割いています。主イエスがどのような方であるのか、最も明らかになった出来事を語るために言葉を重ねています。福音書の目的は、主イエスがそのご生涯をそのことを表すために歩み通され、命まで捧げられた、福音を証言することにあります。そのことがお生まれになった時に既に示されていたことを、マタイとルカの福音書は伝えます。クリスマスの物語は、クリスマスの時期だけ耳を傾け、後の一年間は脇に置いておいて良いようなものではなく、神さまが私たちに福音をもたらしてくださるみ業の始まりを証しするものです。主イエスが死と復活、昇天によって成し遂げられたみ業がここに始まっていることを告げるものであります。そこで教会は使徒信条によってキリストへの信仰を言い表す時に、み子の誕生と、死、復活、昇天を述べるのです。
福音書によると、主イエスはマリアから聖霊によって誕生されました。人間と人間の営みによって世に誕生されたのではありません。人の力ではなく、ただ神さまのお力によって、主イエスは世に来られたのです。
神さまはそのことを、二人の婚約者の関わりの中にもたらされました。結婚の時が来るまで、マリアとヨセフはそれぞれの所で暮らしていました。ルカによる福音書がマリアを中心にクリスマスの出来事を語るのに対して、マタイによる福音書はヨセフに焦点を当てます。ヨセフは、マリアが子を宿したと知り、マリアがこの直面するであろう状況を思って、案じています。ユダヤの社会では、婚約は法的に婚姻関係にあるに等しいことであり、婚約中であっても他の人と関係をもったことが明らかになれば法に従って裁かれます。ヨセフではない者の子を宿したことが明らかになれば、マリアは石打の刑によって死刑に処せられるかもしれないのです。
ヨセフは、マリアが聖霊によって子を宿したと聞いています。けれどその報せを受け入れきれずにいます。ヨセフを支配しているのは恐れです。もしヨセフが予定通りマリアと結婚し、その子も我が子とすれば、マリアは罰せられることはないでしょう。しかし聖霊のお力によることを受け入れきれないヨセフには、婚約者マリアの妊娠はあまりに恐ろしい現実です。その子を自分の子として受け入れたとして、この先の人生に起こるかもしれない事態への恐れがあります。もしもその子が自分の子でないことが知られたら、周囲の人々はどのような目でマリアを、その子を、そして自分を見るのでしょう。
ヨセフは密かにマリアと離縁することを選択しようとしています。マリアが法的にヨセフと婚姻関係に無い状態で子を宿したことにして、マリアと胎の子を石打の刑から救おうとしています。そのようにして自分の人生も守ろうとしています。マリアとも胎の子とも別れて別の道を生きていくことが、それぞれの命と人生を守る道ことだと考えています。この選択をしようとしているヨセフを聖書は「正しい人であったので」と述べています。律法を重んじ、律法に従うことを大切にし、この出来事に関わる全ての人のこの先を守ろうとするヨセフなりの決断を、高く評価しています。
けれど神さまは天使を介して、ヨセフに告げます。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである」と。自分なりの正しさを押し通そうとするヨセフ、そうしなければマリアも胎の子も自分も、滅びへと落ちていくしかないと、聖霊のお働きであることに信頼を置ききれず、自分の判断力を頼りに未来を切り開こうとするヨセフに、神さまは、真に聖霊のお働きであることを告げられます。ヨセフなりの正しさを砕き、神さまがもたらしておられる道を示されます。マリアに起きていることは、ヨセフが恐れていたようなマリアの裏切りの行為によるのではなく、他の人間の暴力によって起きてしまったのでもありません。神が望まれ、神のお力によって為されているのだと、人の想定も想像も超えた、神さまの救いのご計画によって為されているのだと、教えられます。マリアの妊娠を知ってからこれまでヨセフを捉えていた思いは、どうしてこのようなことが起きたのか経緯が知りたい、この先どうしたら良いのか自分の取るべき道を知りたい、ということでありましょう。他の者に相談することがためらわれる状況で、のたうち回るような苦しみの中、ヨセフは独りで道を見いだすしかないと思っていた、自分たちの生きていく道、身を守る道はこれしか無いと、これがまだましな道であると、たった一人で道を選び取ろうとしていたのでしょう。そのヨセフの思い悩みの只中に、神さまは語り掛けてくださいました。聖書には神さまに道を祈り求めたとは記されていないヨセフに、神さまが天使を通して来てくださり、この出来事に神さまがずっと共にいてくださったこと、この出来事をもたらされたのは神さまであることを告げられました。神さまが語られたのは、どのような経緯でこのようなことが起こったのか、ではなく、何故このことが起こったのか、であるのです。
私たちにとっても大切なのは、主イエスがどのような経緯でお生まれになったのか、どうしたらこのようなことが起こり得るのか、ではなく、主イエスが何故私たちの間に宿られたのか、であります。たとえその経緯を知ることができたとしても、たとえこれは不可能なことは無い神のみ業によるのだという知識を得ることができても、主イエスを世に与えてくださった神さまのご意志を受け留めることが無ければ、クリスマスの出来事は1年のある時期だけに聞く、本質的に自分と関わりの無い物語で終わってしまいます。主イエスの誕生は、私たちを罪の支配から救う神さまのみ業であり、それは預言者を通して神さまが旧約の時代から約束してこられたことであるのです。
先ほどサムエル記から、ダビデ王に、預言者ナタンを通して神さまが与えてくださった約束を聞きました。神の民イスラエルの王とされたダビデに告げられたこの恵みの約束は、ダビデの死と同時に絶えてしまうのではないと、ダビデが生涯を終える時、ダビデから出る子孫をダビデの後に立たせ、その王国を揺ぎ無いものとすると告げられます。ダビデのみならず、ダビデの子孫に、それぞれの時代の神の民に、この約束が与えられます。イスラエルの王権が、ダビデの子孫に代々継承されていくと告げられます。それは、ただダビデ王朝という血筋に王権が継承されるということではありません。ここまでサムエル記が述べて来たことを振り返ると、神の民の王は人間の王では無く、主なる神こそ真の王であるということ、ダビデが願ったような、人間が神のために家を建ててそこに神を住まわせるのではないということ、それどころか神がご自分の民と共に居てくださると約束しておられること、この神さまへの信頼が神の民の土台です。神さまへのこの信仰を受け継ぎ、民をご自分の民とされ、民の神となってくださった神さまとの契約に生きることを受け継ぐことによって、神の民イスラエルの王国は堅固な土台に立つものとなります。このような神の民にダビデの時代に与えられた恵みの約束が、キリストの誕生において成し遂げられたのです。
主イエスは、ダビデの血筋のヨセフの婚約者であるマリアから、お生まれになりました。神の民イスラエルに属する1人の人間として、お生まれになりました。神さまが紡いで来られた救いの歴史の中に、お生まれになりました。不確かさと歪みを常にはらむ人の願いによってではなく、限界を抱える人の力によってでもなく、神さまの熱情によって、神さまのお力によって、真の王である救い主がお生まれになりました。この出来事が自分の人生に起こり、苦しみ、苦闘の末にみ言葉に従うことを選び取ったヨセフの決断、そしてマリアとお生まれになった主イエスを守るヨセフの行動を、神さまはこのみ業に用いてくださいました。神さま無きところでもがいていたヨセフの名を呼んで語り掛け、導いてくださいました。自分が自分に為せること、大切なマリアとその胎の子に自分が為せることはここまでだと、自分なりの枠の中で自分とマリアたちの未来を見ていたヨセフに、神さまは恐れるなと、神さまがなさる救いのみ業の中で、ヨセフが大きな役割を果たすことができることを教えてくださいます。ヨセフは、救い主の父親とされます。父親としての最初の役割は、お生まれになる救い主に神さまが示された名前とその意味を知ることであります。神さまが命じられたイエスという名前は、「神は救い」を意味します。また救い主には、「神はわたしたちと共におられる」という意味のインマヌエルという名もあります。どちらの名前も、この方の本質を表わします。ヨセフは、この生涯にわたってご自身の本質を表す名前と、この方がどのような方であるのかを生まれる前から知り、この恵みをマリアと共に分かち合い、この名前を人々に知らしめるため、名付けることができました。このヨセフの働きによって、私たちも救い主のお名前と意味を知ることができるのです。
ヨセフが辿った道のりは、私たちが救い主へと導かれる歩みと重なります。自分の想定する人生を、自分が願うように辿りたいと、その歩みの主は自分であり続けるのだと、私たちはどこかで思っています。神さまを求め、神さまが自分を守ってくださり、力を与えてくださることを願いながら、それは自分の想定したルートの中であることが、いつの間にか譲れない前提となってしまっている私たちの誰にとっても、自分の人生の中に救い主が来られることは、自分のこれまでの生き方が続けられなくなる脅威であります。自分で自分に限界を設け、他者との関係に限界を設けることでしか自分を守ることができないと、自ら自分の道を狭め、人生を通してもたらされる実りを狭める私たちの、私たちなりの孤独な正しさは、クリスマスの出来事によって砕かれます。私たちの名前を呼び、恐れるなと語り掛け、共にいてくださることをそのご生涯と死と復活を通して示してくださったキリストが、私の救い主であることを受け容れ、キリストと共に生きることへと招かれます。自分なりの枠を超え、キリストと共に生きる自分の想定を超えた道へと踏み出せば、神さまのみ業に携わるからこそ知る恵みを味わうのです。
救い主が自分の人生に到来することを、自ら求めることができない私たちの只中に神さまが与えてくださった救い主は、神の独り子です。永遠に神であり、永遠にみ子である方が、罪を他にして、全てのことにおいて、私たちと同じ人間となってくださいました(フィリピ2：6～8)。聖霊によって人となられた主イエスは、今も、後も、永遠に神であり続けます。神さまは、救い主を受け入れることに抗う私たちの抗いの頑なさを超える方を、与えてくださいました。そうまでして神さまは、私たちを罪の支配から救い出すことを願ってくださいました。自分の罪深さを認めようとせず、そこから自分では抜け出すことができず、罪に支配されるだけの私たちを救い出すためには、独り子の命まで必要であることをご存知でありながら、独り子を世に与えてくださったのです。
私たちが他者のため、自分のために必死に求めるものは、その時々の私たちにとって、精一杯の正しさです。その正しさに固執する満足感よりも大きな喜びが、神さまの救いのみ業によって自分の頑なさが打ち砕かれ、共にいてくださるキリストに従う歩みにあります。私たちと共にいてくださるのは、「神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられた」（フィリピ2：6～7）、キリストです。キリストと共に、歩んでまいりましょう。