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マルコ7：24～30「食卓の下の小犬も」
2021年9月5日（左近深恵子）
主イエスは、ガリラヤ地域に住むユダヤの人々、イスラエルの民に、福音を宣べ伝えました。人々は、主イエスがそれまでの指導者たちのようにではなく、権威あるものとして教えられるので大変驚いたと福音書は伝えています（1：22）。主イエスは神さまのご支配を示すために、人々の病を癒され、悪霊も追い出されたので、更に人々は驚き、主イエスの教えを聞きたい、病を癒やして欲しいと、主イエスを求める人々の数は増える一方でした。
しかし、民の指導者たちの間では、主イエスに対する敵意が増していきました。彼らは主イエスのお働きに危機感を募らせ、殺意まで抱くようになっていました。今日の箇所の少し前では、都エルサレムからも指導者たちがやってきて、主イエスと弟子たちの言動に目を光らせ、非難を強めたことが述べられていました。
では主イエスのお傍でお働きに加えていただいていた弟子たちはどうだったかと言うと、彼らが主のみ言葉やみ業の意味を理解するにはまだまだ不十分であることが、事あるごとに露わになります。成長の途上にある弟子たちに主が「そんなに物分かりが悪いのか」と叱責されたことも、直前に記されていました。
そのような状況で福音を宣べ伝えられ、教え、訓練される主は、しばしば静かな場所へと退かれます。祈り、休息されるためです。本日の箇所も、主がそれまで活動しておられたガリラヤ湖のほとりを去って、地中海沿岸のフェニキア地方にあるティルスという町へと移動されたことを伝えています。
フェニキアは、主イエスが活動された中で最も北の地域であり、ユダヤの民にとっては異国の地、異邦人の地でありました。ここに来られたのは、人々から暫く離れ、静かな環境で過ごしたいと強く願っておられたからであることが、「ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられた」という文から伝わってきます。祈りに集中し、父なる神との交わりを深め、これからのお働きを見つめたいと、そして、弟子たちとゆっくり過ごし、教えを語り、彼らとの交わりを深めたい、と願っておられたのでしょう。
けれど、主イエスの評判は異国のこの地にまで伝わっていました。以前ガリラヤ湖のほとりで主イエスのそばに人々が病人を癒やしてもらおうと集まって来た時、ガリラヤ地方からだけでなく、その他の地域や国からも主イエスのしておられることを聞いた人々がやってきたことが記されていました（3：8）。その中に、ティルスの地名もありました。主イエスの評判は地域や国の境を超えて、既にフェニキア地方にまで広がっていました。その主イエスが自分たちの町に来られたという話は、あっという間に人々の間に伝わり、そして一人の婦人が主イエスのもとにやって来たのです。
この人は、この地方に住むギリシア人でした。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を癒やしてくださいと、主に訴えました。主イエスのことを聞きつけるや否や急ぎ主の所に来て、足元にひれ伏し、訴える行動に、娘を救いたい母親の必死な思いが表れています。この人がこの土地生まれのギリシア人であったことからも、この人の強い思いが伝わってきます。ユダヤの民から見れば異邦人であり異教徒であるこの人が、ユダヤ人の主イエスに助けを求めるのは、決して当たり前のことでは無かったからでした。
イスラエルの民は、神さまによって国々の光とされ、神さまの救いを地の果てまでもたらす者とされたことが、旧約聖書に記されています（イザヤ49：6）。神さまがご自分の民とされたイスラエルは、諸々の国の民に神さまの光を示すという使命、神さまからの祝福をイスラエルを通して他の民にもたらすという使命があります。この使命を忘れ、み心から離れ、神さまでは無い力にすがって生き抜こうとするイスラエルの罪を裁くために、神さまは他の国を用い、イスラエルを圧迫するとも、告げておられます（アモス6：14）。
しかし時が過ぎると神の民はまた何度でもみ心から離れます。国々の光として、神さまの祝福の源としての使命を忘れます。新約聖書の時代も、ユダヤの民は異邦人のことを、真の光を示す相手、神さまの祝福を証しする相手としてよりも、神さまの啓示と律法の外にある者たちだと、神さまを知らずに生きている者たちだと退け、異邦人との交際や食事を禁じていました。互いの間には基本的に深い隔たりがあり、その隔たりが敵意を生んでいました。
フェニキアの婦人にも当然、主イエスの一行と自分たちフェニキアの住民との間の溝や敵意を無視しきれない思いがあったでしょう。主イエスに助けを求めることへの抵抗が無かったわけではないでしょう。それでも娘を助けてもらいたい思いが勝り、境を超えて主イエスを訪ねたのでしょう。
主イエスは、先ず子どもたちに十分食べさせなければならないから、子どもたちのパンを取って小犬にやってはならないとお答えになります。子どもたちとはイスラエル、ユダヤの民であり、小犬は異邦人を指していると考えられています。ユダヤの人々を神さまの元に立ち帰らせるために来られた主イエスは、先ずユダヤの民に福音を与えなければならないと、母親の願いを拒まれたのだと。
助けを求める者には直ぐに助けを与える“優しさ”を主イエスに期待する私たちは、この主イエスのお答えに期待外れな思いを抱くのではないでしょうか。ユダヤの民でなくても、求めているのだから与えてくださっても良いではないか、と。しかし自由の内に働かれる主イエスのみ業を、私たちの期待という物差しで測ることはできません。また主イエスは、ユダヤの民という境界線の中にいるかいないかだけで、手を差し伸べるかどうかを決めておられるのでもありません。ユダヤの民であっても、神さまのみ心から離れている者は、救われる者の群れの中に居ないと、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父のみ心を行う者だけが入るのである」（マタイ7：21）とも、言われています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」（マルコ1：15）とガリラヤで宣べ伝えられた主イエスは、今まさに出来事となりつつある神さまのご支配の中へと、先ずユダヤの人々を呼び集めることをなさってきました。ご自分の言葉と業の意味を受け留め、神さまのみ心を体現して生き、行動することへと、ユダヤの民を導くことに、ひたすら力を注いでこられたのです。
それでも私たちは、主イエスが小犬と言う言葉を異邦人のこの人に用いられたことに、納得のいかない思いを抱くのではないでしょうか。ここはどう受け止めたら良いのか難しい箇所です。ただ、ここで犬ではなく小犬と言われていることを大切に受け止めたいと思います。小犬と訳された言葉は、一般的な犬を指すのではなく、小さな愛玩用の犬を指しています。外にいる野良犬のような犬ではなく、家の中で飼われている犬です。小犬は主イエスがパンで養われるその家の子どもではありませんが、家族同然の存在です。家族ではないけれど、家族同然に大切にされる存在は、家の中で飼い犬の他ほとんどありません。異邦人を軽蔑した表現ではなく、ユダヤの民が異邦人より先に福音で養われる順番を言われていると取ることができます。国々の光、祝福の源として先ず自分たちが福音を必要としていることを、イスラエルの民はまだ受け止めきれていません。主イエスの言葉と業が、ユダヤの民が待ち望んで来た福音であることに真っ先に気づくべき指導者たちも、主イエスに殺意まで抱いています。弟子たちの理解も不十分です。だから主は、「先ず、子どもたちに十分食べさせなければならない」と言われておられるのでしょう。
ここで「十分食べさせなければならない」と訳されている言葉は、第6章の5つのパンと2匹の魚の出来事にも登場していました。出来事の終わりで、「すべての人が食べて満腹した」と言われている箇所の「満腹した」と訳されている言葉と同じです。主は5つのパンと2匹の魚をもって、ご自分が天の恵みで人々を満たされる方であることを示されました。しかし主がパンと魚で満たしてくださっても、大勢の病人を癒され、悪霊から解き放ってくださって、人々はなおも福音を受け止めきれていません。先ず神の子らを満腹させなければならないと、主はお答えになったのです。
主イエスのこの拒絶にもかかわらず、フェニキアの婦人は諦めません。断られて、それでは仕方が無いと直ぐに帰る程度の思いでここに来たのではありません。先が見えない闇の中で主イエスに光を見出し、境を超えて、やって来たのです。
娘のことで苦しむ母親に、主イエスはご自分がユダヤの民の所に来られたことを告げました。異邦人である母親に、真の神から遠く離れて生きてきたことを突きつけました。主イエスのお答えは、娘のことで既に十分苦しんでいる母親の苦しみに追い打ちをかける、酷なことなのでしょうか。しかし聖書の言葉はしばしば、苦しんでいる私たちの現実を顕わにするものであることを、思います。認めたくない現実までも明らかにするものであります。だからこそ私たちは、この婦人が、自分が直面している苦しい現実を掘り下げる主の言葉に耳を傾ける、その聞き方に驚きを覚えます。この人は、主がご覧になっている自分の現実の本当の闇を、自分でも見ようとします。自分たちが真の神から遠く生きてきた者であることを、認めます。主イエスが、神の民であるユダヤの人々を天からのパンで養うために来られた方であることを、認めます。神さまと自分の間に横たわる隔たりは、自分には縮めることができないものであることを、認めます。
主の言葉に深く聞くこの人は、自分の闇に対する裁きだけでなく、その裁きを超える希望も主の言葉に見出します。主イエスは完全に拒絶をされていません。異邦人にはパンは与えないと言われているのではなく、「先ず」、神の子たちを満腹にしなければならないと言われたのです。神さまの恵みに値しない者であるあることは、ユダヤの民も異邦人も同じです。神さまとの間に横たわる隔たりを、自分では縮めることが出来ないのも、ユダヤの民も異邦人も同じです。それでもユダヤの民と主イエスの距離が異邦人よりも近いのは、神さまが彼らをご自分の民としてくださり、ご自分を彼らの神としてくださったからです。その神さまのご意志から離れてしまっているユダヤの人々が、神さまの恵みで満たされるのは、ただ神さまの憐れみと赦しに依ります。その神さまの恵みがいつかユダヤの人々から溢れ出し、異邦人にまでもたらされるという希望を、この人は主イエスの言葉に見出したのでしょう。神さまのご支配が自分たちの間に大きな出来事となるのはまだ先のことかもしれないけれど、神さまの恵みのかけらでも今いただきたいという自分の願いを、主は全く退けることはされないはずだと。この人は主に、「しかし主よ」と、「食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」と訴えます。卑屈な思いを堪えながらではなく、朗らかに、大胆に求めます。ユーモアさえも感じられます。主の言葉と眼差しを通して自分の現実を認めることができ、全ての民にまで向けられたみ心を主イエスの言葉の奥底に聞き取ることができたから、この人は主のみ心に深く信頼し、大胆に、真っすぐに、辛抱強く訴えることができたのです。
主イエスは「それほどいうなら、よろしい。家に帰りなさい」と言われ、娘が癒されたことを告げられます。母親は家に帰り、主の言葉通りであったことを知ります。
「それほどいうなら、よろしい。家に帰りなさい」と訳された文は、新しい翻訳では口語訳聖書と同様に「その言葉で十分である。行きなさい」となっています。直訳すると「その言葉によって、その言葉に基づいて、行きなさい」となります。あなたが私の言葉の内に聞き取り、それへの信頼を表明したあなたの言葉に示されている信仰を土台にして、行きなさいと、主はこの人の信仰の言葉を喜ばれ、この人のこの先の道を示されたのです。
これから聖餐に与ります。恵みに値しない私たちを憐れみ、み子イエス・キリストの命の値をもって赦してくださった主の、恵みの食卓からこぼれ落ちるパン屑をいただきます。娘のことで心を痛め、思い煩いを抱えながら主の足元に跪き、主の厳しい言葉によって心を低くされ、ただ主の言葉に確かさを与えられて、諦めることの無かった婦人のように、私たちも自分の現実を抱えながら主の食卓のもとに跪き、み言葉によって心を低くし、ひたすらに恵みを求める者でありたいと願います。