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近代国家スイスの建設に誰よりも貢献した男は、これまでその業績にふさわしい評価を受けたことがなかった。この人物について本を書いた著者がその理由をスイスインフォに語った。このコンテンツは 2006/07/11 15:25
歴史家のヨーゼフ・ユング氏は、この度、アルフレート・エッシャーに関する研究結果を発表した。全4巻のこの作品は、産業資本家のエッシャーが創立したクレディ・スイス・グループ（Credit Suisse Group）の創立150周年の記念ともなった。
ユング氏によると、エッシャーは政治、鉄道、大学、メジャー銀行や保険会社などに大きく貢献したにもかかわらず、アカデミックな世界では「実に粗末な」扱いを受けてきた。ユング氏は大手銀行であるクレディ・スイスの基金および社史編纂部の責任者だ。『アルフレート・エッシャー—近代スイスの出現』と題する彼の研究結果は、19世紀の実力者にふさわしい贈り物となった。
swissinfo ： この作品は1000ページ以上の大作ですが、これも好きだからこそ続けてこられたのでしょうか。
ヨーゼフ・ユング ： 19世紀の著名スイス人の中で、エッシャーほど多くの史料を残している人はめったにいません。彼は4000通以上の手紙、数百に及ぶスピーチ、そして数千枚もの覚え書きを残しているのです。
私は、20年間に渡って断続的にアルフレート・エッシャーについて調べてきました。彼については、スイスとの関わりや彼がこなした膨大な仕事量、そして悲劇的な家族の運命と、印象的なことばかりです。エッシャーのような人物を輩出したことは、
その人物が持つ暗い裏面を取り繕うまでもなく、スイスにとって非常に幸運なことでした。エッシャーなしには、現代的な今のスイスは存在しなかったでしょう。この国は依然として農民国家のままだったと思います。
swissinfo ： エッシャーはどうしてこれほどさまざまな分野に手を出したのでしょうか。
ユング ： 政界やビジネス界での他に類を見ない飛躍、経済界におけるパワフルな役割と政治的任務の絡み合いやその集積、そして何よりもどんな討論でも優位に立つという寡頭政治的なふるまいが彼を上流階級の1人にのし上がらせました。
スイスの「上流市民階級」の終幕は同時におそらくその最盛時でもあったのですが、
彼はちょうどこの時期に公的生活に入りました。これはまた国会の方針が明白に決定された時期でもあり、政府は今のように合意を基礎としているわけではありませんでした。国民投票や国民発議など、今日のスイスの特徴となっている市民の権利にはまだ程遠い状態だったのです。
swissinfo ： 彼のもっとも偉大な業績は何だと思いますか。
ユング： エッシャーの名は、北東鉄道（Nordostbahn Railway、1853年創立）、ゴッタルド鉄道（Gotthardbahn Railway、1872年）、連邦工業専門学校（1854年、現チューリヒ連邦工科大学）、クレディ・スイス（1856年）、スイスライフ（Swss Life、1857年）など、一連の商業および文化関連団体の創立と強く結びついています。これらの出来事からは、1848年以後のスイス史で彼が演じた異例の役割がうかがえます。
また、商工業における進取の精神も見られ、そこではエッシャーのクレディ・スイスが資金援助を行っていますが、中には大企業に成長したケースもあります。たとえば保険会社のヘルヴェティア（Helvetia、1861年創立）、スイス・リー（Swiss Re、1863年）、シュヴァイツ（Schweiz、1869年）、チューリヒ（Zurich、1872年）などがそうです。エッシャーのおかげで、インフラという点でほかの西欧諸国に後れを取っていたスイスも、近隣諸国にすばやく追いつくことができたのです。
swissinfo ： エッシャーは鉄道王であり、銀行家、そしてまた政治家でもありました。途方もなく精力的ですが、彼をここまで駆り立てたものは何だったのでしょうか。
ユング： エッシャーは有力な政治家を何人も輩出しているチューリヒの名家に生まれました。しかし、祖父のハンス・カスパー・エッシャーが当時チューリヒ最大の金融スキャンダルに巻き込まれ、その後、国外へ移り住むことになりました。
父ハインリヒは米国で身代を立て直しましたが、借金を返済せずにいたため、やはりチューリヒの社会行動規範からはみ出しました。こうして、エッシャー家は依然として保守的な上流社会からアウトサイダーだと見なされて孤立していったのです。
アルフレート・エッシャーが驚異的な業績をあげた理由の一つには、チューリヒ社会で自分自身を試したいという野望も確かにあったでしょう。しかし、彼は自分の経済利益のためではなく公益のために弛みない努力を続けたのです。エッシャーは、常にチューリヒ州とスイス全体の繁栄のために心を砕いていたのです。
swissinfo ： 19世紀半ばからスイスの民主主義に彼の居場所はなくなったといわれていますが、それはどこまで本当なのでしょうか。
ユング ： 1868年、民主党による憲法改正のための国民発議にチューリヒ市民が圧倒的多数で賛成したとき、エッシャーの自由党は州の立法府および行政府で占めていた過半数の議席を失いました。失業生活に苦しみ不満が募る民衆やインフレ、コレラの流行（1867年）などにより、チューリヒ州の自由党勢力は縮小していきました。
しかし、チューリヒにおける彼の政治システムの崩壊はエッシャーに新たな好機を与え、彼はビジネス活動へとステップアップすることになりました。そしてエッシャーは、チューリヒでの政治的敗北をあるプロジェクトで相殺したのです。そのプロジェクトとは、これまでにもすでに印象的だった彼のライフワークにまた1つ素晴らしい足跡を残したゴッタルドトンネルの建設です。この画期的な偉業は、歴史的に見てスエズ運河に勝るとも劣らないほど重要です。
swissinfo ： 彼の死の理由は正確には何だったのですか。原因は過労だけですか。
ユング ： エッシャーは疲れ果てるまで一日中働き続け、休みもほとんど取りませんでした。これは確かに彼がよく体調を崩した理由の一つで、命が脅かされたことも2度ありました。
彼の妻が早くに亡くなると、彼は自分の健康も顧みずにひたすら仕事に没頭しました。亡くなる2年前ですら、まだ政界や商業界で自分の役割を果たそうとしたのは、彼が自分の本分を守り通す姿勢と揺るがぬ固い意志を持ち合わせていたからでしょう。
swissinfo ： 彼のような人物は以前にもスイス史に存在しましたか。また、その後はどうですか。
ユング ： スイス史の中で唯一、本当に経済的にリベラルだったといってよい時代は1848年から1860年代までです。当時は、エッシャーのような人物も何の束縛も受けずに行動することができました。反対の声もほとんど上がらず、エッシャーは自分のプロジェクトを押し通すことができました。もっともそれはチューリヒ州やスイスの利益となったのですが。彼は今日の商業が直面している拘束や地方政策について心配する必要はありませんでした。
アルフレート・エッシャーほどの権力集中を得ることは、今日ではもうまったく不可能です。それは今日の直接民主主義という組織によって防げられるでしょうし、それでよいはずです。
聞き手 swissinfo、ロバート・ブルックス 小山千早（こやま ちはや）意訳
補足情報
- 1856年から1877年までと1880年から1882年までの間、エッシャーはクレディ・スイスの取締役会会長を務める。さらに1853年から1882年まで、ほとんどの間、北東鉄道およびゴッタルド鉄道の社長並びに取締役会会長を務める。
- 連邦国家の発展を決定づける初期段階で、エッシャーはスイスを近代化の道に乗せるプロジェクトを推し進め、チューリヒをビジネスの中心地として確立させる。
- これらを可能にしたのは「エッシャー・システム」であり、今日では想像不可能な商業的、政治的権力の集中だった。
キーワード
1844年から1882年の死去にいたるまで、エッシャーはチューリヒ州議会議員を務め、議長も6度務める。
国家レベルでも同じく、スイス下院議員を34年間、議長を4度務める（1849年、1855年、1856年、1862年）。
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