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ゼカリヤ13：7～9、マルコ14：27～31「主が待っておられる」
2021年3月14日（左近深恵子）
先週の礼拝において今月も聖餐に与ることができました。聖餐の度に、主イエスが十字架にお架かりになる前の夕べに、弟子たちと共に最後の晩餐を囲まれたことを聖書から聞きます。その食卓で主イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂き、弟子たちに与えて「取りなさい。これはわたしの体である」と言われ、また杯を取り、感謝の祈りを唱えて「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と語られて、ご自身の十字架の死の意味を告げられたことに思いを馳せます。主イエスが食卓の主として弟子たちを招かれたこの晩餐は、普段の夕食とは異なる特別な食事でした。過ぎ越しの祭りのために特別に用意されたお祝いの食卓でした。そして主イエスが人々の罪を背負って、ご自分の体を裂き、血を流して、ご自分を捧げてくださることで確立してくださる新しい契約のために、主が定めてくださった食事でした。弟子たちは、新しい契約を主の言葉とパンとぶどう酒によって最初に示された人々です。今、不安に絡めとられそうな日々の中から主によって礼拝の場へと招かれ、聖餐の食卓に与らせていただき、その度に新たに恵みで満たされている私たちと全てのキリスト者に先立って、キリストのご受難の意味を示された人々であるのです。
この日、主イエスの十字架の死の意味を私たちに先立って主の食卓で教えられた弟子は、どのような者たちであったのでしょう。聖書は最後の晩餐の前と後で彼らのことを語ります。マタイ、マルコ、ルカの福音書がどれも、最後の晩餐を囲むようにして弟子たちのことを語ります。そこで語られるのは、ユダの裏切りと、ペトロの否認です。ルカによる福音書では、ペトロの否認の直前に、弟子たちが自分たちのうちで誰が一番偉いだろうかという議論までしていたことが述べられています。福音書はそれぞれ、主イエスに最も近いところでその言葉を聞き、その福音を驚くようなみ業を通して示される主イエスを見てきた弟子たちが、主イエスを裏切り、主イエスを否認する者たちであったことを伝えます。罪も含めて彼らの全てをご存知である主イエスは、彼らの罪のただ中で、最後の晩餐へと招いてくださったのです。
過ぎ越しの食事の後、主イエスと弟子たちは谷の向こうにあるオリーブ山へと向かいました。そこは主イエスがいつも弟子たちと過ごし、祈りを捧げてこられた場所でした。谷へと降り、オリーブ山を登ってゆくその道すがら、主イエスは弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われたのです。
「つまずく」という言葉は私たちに、足先が何かに引っかかってよろけてしまうことをイメージさせがちですが、ここで言われている「つまずく」とは、道の途中で大きな障害が起こって予定通りに行かなくなってしまうこと、中途で失敗してしまう、挫折してしまうことを表しています。足先が何かに引っかかってよろけても、必ずしも転びません。転んでしまっても、かすり傷で済むこともあります。そのような「つまずき」ではなく、主が弟子たちに言われたのは、弟子たちの人生そのものに関わる重い危機でありました。
主イエスは信仰の歩みについて言われています。主イエスが言おうとしておられることは、弟子たちにも朧気ながらも分かったことでしょう。主イエスに対するエルサレムの指導者たちの警戒心は、日に日に強まっていました。主イエスはこのエルサレムに来られる前から、ご自分に敵意を燃やす人々がエルサレムに多く居ることをよくご存じであって、ご自分の死と復活を弟子たちに幾度も予告されました。その上で都に来られ、敵意を募らせる人々を恐れることなく、毎日神殿で人々に教えてこられました。そしてつい先ほども食事の席でご自分の死を告げられました。主イエスの身にいよいよ危険が迫っていることに、弟子たちも気づいています。自分たちも一層覚悟を固めなければならないと思っていたでしょう。その弟子たちに主イエスは、「あなたがたは皆、わたしにつまずく」と言われます。主イエスの弟子である彼らの進路にこの先大きな障害が生じ、彼らが障害に阻まれて歩み続けられなくなってしまい、信仰から離れてしまうことを示されました。暗い夜道で、実際、足元も良く見えない中、主が行かれる道を進んでいた彼らにとって、主の言葉は非常にリアルに響き、不安を掻き立てられたことでしょう。
新約聖書において「つまずく」と訳された言葉は、このように信仰からの離反を意味するものとしてしばしば登場しますが、その中の1つを今日の個所と併せて取り上げたいと思います。主イエスはこの福音書の第4章で「種を蒔く人」の譬えを語られ、その譬えを説明されています。そこで、「石だらけの所に蒔かれ」た種に譬えられた人々について、同じ言葉が用いられています。この人々は、「み言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根が無いので、しばらくは続いても、後でみ言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」（4：16～17）と言われます。この説明と、「わたしにつまずく」と主イエスに言われた弟子たちの姿が重なります。弟子たちは、ガリラヤの地域で宣べ伝えておられた主イエスの言葉を、直ぐに喜んで受け入れ、自分たちの仕事も生活も後に残して主イエスの後に従うことができた人々です。しかしこれから先、主の弟子である彼らに艱難や迫害が起こると、直ぐにつまずいてしまいます。根を張っていない植物が日差しに長く耐えられないように、み言葉を自分の土台として、み言葉深く根を張ることができてこなかった不安定な弟子たちは、直ぐに枯れてしまうのです。
「つまずく」と訳された言葉にはもともと、罠にしかける餌をそこに付ける棒の意味があり、この意味から、罠やその餌を意味するようになったそうです。動物は好みの餌につられて罠にかかります。そしてその後、多くが殺されてしまいます。このように動物に深い痛手や死をもたらす罠やその餌を表す言葉を、聖書は信仰からの離反を表すものとして用いています。信仰から離れることを、死に至るような深刻なことと言い表しています。人は自分好みの、けれど主から出たのではない言葉や考えにつられて、信仰から離れてしまう者であると、それはその人が滅んでしまうような危機であることを、「つまずく」という言葉は示しています。そのような危機に陥ってしまうと、主は弟子たちに言われます。
それは夜が明けるまでに三度主を否認すると告げられたペトロだけでなく、「あなたがたは皆」そうなのだと主は言われます。一部の弱い者やある傾向を持つ人たちだけに言われるのではなく、弟子全てに言われます。ペトロは抵抗します。自分はつまずいたりしない、あなたから離れたりしない、あなたに従うことがあなたと共に死ぬことであってもあなたのことを知らないなどとは決して申しませんと言います。ペトロだけではありません。「皆の者も同じように言った」と続きます。自分はつまずいたりしないと誰もが思い、そう主に言えるほど、誰もが覚悟を持っています。最後まで主の弟子として歩み通すことを願っています。主との関係が主を知らないと言って終わってしまうことなど、自分の主の弟子としての日々が、主に背を向けることで終わってしまうことなど、誰も望まないのです。
弟子たちの思いは、全ての信仰者の思いです。主から離れて滅んでゆくことなど、決して望んでいません。ペトロのように「つまずいたりしません」と言い張りたくなります。つまずいたりしないように自分を奮い立たせようとします。つまずくなどと言わずに私たちをしっかり導いてくださいと、あなたがしっかり支えてくださっていれば、そんなことにはなりませんと、主に「しっかりさ」を求めたくなります。自分たちの強さ、主の支える強さが、私たちの願う人生を全うできる最期の砦であるように思ってしまいます。
けれど主イエスは、主の弟子たちは皆つまずくと言われます。「つまずかないようにもっと強くありなさい」ではなく、「つまずく」と言われます。ゼカリヤ書を引用して、羊の群れである弟子たちがつまずくのは、羊飼いである主イエスが打たれるからであることを教えられます。羊が弱いから散ってしまうと言われるのではなく、羊飼いが打たれ、殺されるからだと言われるのです。
更に主はこのゼカリヤ書の引用によって、羊飼いを打つのは神さまであることを示されます。ゼカリヤ書で預言者が伝えているのは、民の罪に対する神さまの怒りです。イスラエルの民が羊の群れに譬えられ、神さまはその羊飼いを打ち、民は導き手を失って散らされると、民の三分の二は死に絶え、三分の一が残り、この三分の一を、羊飼いを失う試練を通して、神さまとの関わりに生きる真の神の民とされると、神さまは言われます。神さまは怒りに任せて羊飼いをただ打つのではありません。罪に囚われてしまっている民を、彼らこそ私の民と神さまが言うことができるように、彼らが「主こそ私の神」と信仰を告白することができるように、ご自分との交わりの中に回復させるために、羊飼いを打ち、羊の群れは散るのです。
羊飼いが打たれてしまうのは、羊飼いを守る神さまの力が足りないからではありません。主イエスとその言葉を受け入れられない人々は、自分たちの手にしている力をかき集め、策略を練って、主イエスを殺そうとしています。彼らも、弟子たちも、周りの人々も、力と知恵が勝る側が、相手を捕え、滅ぼせると考えています。しかし主イエスは、ゼカリヤ書で主が羊飼いを打つと言われているように、ご自分は神さまのご意志によって打たれることを示されます。神さまは、敵対する者たちの画策までも呑み込んで、ご意志を実現されることを告げられます。
弟子たちがつまずくことを告げられる主は、彼らのつまずきも、神さまのみ旨の中にあることを預言者の言葉を通して教えられます。主イエスを否認し、主の死に間接的にでも関わってしまう彼らは、火で焼かれるような苦しみを味わうことになります。けれどその試練において、彼らの名を呼び続けてこられた主を呼び、主こそ私の神との信仰に立ち帰るようにと、主は願っておられることを示されます。
そして主は、弟子たちのこれから露わになる弱さと背きの上に、約束の言葉を与えてくださいます。未だ自分の弱さも背きも受け入れられないでいる彼らが、つまずきぼろぼろになる先の姿を既に見つめながら、「しかし」と言われます。彼らが挫折の中で聞き直すことができるように、彼らの滅びを覆す「しかし」という言葉をもって、このように約束をされます。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と。弟子としての歩みを一度は止めてしまっても、主イエスの死に打ちのめされてしまっても、それらを突き抜ける約束が彼らを支え続けると。これまで主がそうであったように、復活の主も、彼らの先を歩み、彼らを待っていてくださると。弟子たちは復活の主に呼び集められて真に主の弟子の群れとなり、他の全ての弟子たちと主によって新たな結びつきを与えられます。一人では、あるいは彼らだけでは望むことすらできない恵みの賜物が、一人一人がご自分の元へと集まってくることを待っておられる主から与えられます。復活の主がおられるから、この弟子たちは、この私たちは、真の神の民となれるのです。
主が新しい契約に最初に招いてくださった人々は、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と主に告げられる人々でした。十字架刑を止めることも妨げることもできず、それどころか、その罪によって主の十字架に関わった人々、主との関係から逃げた人々、主が十字架で殺される前に、主を自分に必要無い者とし、亡き者としてしまった人々です。救いは、このような弟子たちに先ず必要でした。主イエスの体と血による贖いは、この者たちに先ず必要でした。そして「あなたがたは皆」と言われる、私たちに必要であったのです。