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巨匠、フェルディナンド・ホドラーは日本人には馴染みが薄いが、スイスではジャコメッティにならうほど有名だ。クリムトと同時代に生きた幻想的な象徴主義の画家だが、ホドラーの人生はゴッホに比較されるほど苦難に満ちたものだ。
世紀末芸術は「死」や「夜」と言ったテーマが好まれるが、ホドラーはまさに19世紀末の時代を象徴した人といえる。成功を博した晩年も死と苦難に彩られる。生誕１５０年を記念して、ホドラーの風景画を鑑賞できるホドラー・スペシャルをどうぞ。
苦難の初期
ホドラーは「家族の間には、いつも死が支配していた」と語っているが、一家は常に結核という死神に付きまとわれていた。弟妹を次々に失った後、父親も貧困の中、長男のホドラーが７歳の時に肺結核で死去。母親はやもめの家具職人シューバック（５人の子連れ）と再婚するが、やがてシューバックが酒びたりになる。ホドラーが１４歳の時、母親がまたもや結核で息を引き取る。貧困のあまり、兄弟と母親の死体を荷車に載せて貧窮院から運んだと回想している。不幸はさらにつのる。義父シューバックが子供たちを置き去りにして英国へ逃げてしまうのだ。母親の兄弟の靴職人が子供たちを引き取ることになった。
スイスの風景画家に弟子入りした後、１８歳、単独でジュネーブへ飛び出す。義理の妹宅に居候しながら、看板書きや観光客相手に絵を売って生計をたてる。ジュネーブ、ラート美術館で模写をしているところをコローの友人画家、バルトロメ･メインに見出され、初めて美術学校に通うことになる。
「夜」のスキャンダルが成功へ
ホドラーはこうして、２０年間、貧困の中に暮らしたが、１８９１年に脚光を浴びることになる。死の恐怖をテーマにした「夜」（ベルン美術館所蔵）と題するこの巨大な絵は裸で何人もの男女が床に寝そべっているが、真中の男は恐怖の表情で何か、黒い物体を押しのけようとしている。若きホドラーの自画像と言われ、手前左手の女性は後に息子へクトールを設けるオーギュスティーヌがモデルだ。
サロンお断り
この絵は「風紀紊乱」という理由でジュネーブ市長がサロンへの出品を断る。そこで、ホドラーはクールベのように、サロンの真向かいに会場を借り、入場料１フランを取って絵を展示する。スキャンダルに大衆は好奇心を煽られ、1300人もの観客が来る。パリのシャン・ド・マルスのサロンでも大成功を収め、主催者のピュィビ･ド・シャバンヌも賞賛する。ホドラーのキャリアの始まりである。
それでも付きまとう死
５０歳を過ぎてやっと世間に認められ、ホドラーにも幸せがやってきたかにみえる。１９０８年、５５歳のときに２０歳若いヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルと出会い情熱的な恋に落ちる。だが、最愛のヴァランティーヌも癌にかかり、女の子ポーリーヌを生んだ後、４０歳で息を引き取る。オルセー美術館でも窺える、ヴァランティーヌの肖像は出会いから死までの一連の作品の一つである。この時期、ホドラーはヴァランティーヌと自画像しか描かなくなる。まもなく、ホドラーも病気に伏し、1918年ジュネーブで息を引き取る。享年６５歳。
１９世紀のホドラーの景色は今？
死の画家といったイメージの強いホドラーだが、同時に多くのスイスの大自然を描いた。ホドラー生誕１５０年際を記念にゆかりの多いジュネーブのラート美術館で「ホドラーと風景画」と題する回顧展が来年の２月１日まで開催されている。（来年の３月２日から６月６日まではチューリヒ美術館へ）この記念にスイスインフォは写真家クリスチャン・ヘンメレに依頼し、ホドラーが描いた景色の足跡を追ってみた。風景画と現実の景色と比べてみるといかに、ホドラーが単純化、抽象化し、自分独自の象徴的な世界を作り上げたかが分かる。
スイス国際放送、屋山明乃（ややまあけの）
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