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２０２３．１２．２４．イブ礼拝
ミカ５：１-５、イザヤ９：１-６、ルカ２：８-１４、１５-２１
１１５、１１４、９８、１０２、１０３、１１２、１１１
「天に栄光、地に平和」浅原一泰
さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのための救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。
「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の告げたとおりだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行った。八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である。
１０月７日から始まったイスラエルとハマスとの戦闘によって、ガザ地区の犠牲者が遂に二万人を超えた。その内の四割を占める約八千人が罪なき子供の犠牲者だという。先日のネットニュースで、ユニセフの報道官の一人が「子供たち100万人が人道上の悪夢に直面しているのに、権力者たちが手をこまねいていることに私は激怒する」と語ったと報じられた。その報道官は、イスラエル側の爆撃によって負傷し手足を切断せざるを得なかった子供たちが病院で殺害された事実にも触れ、こみあげる怒りを抑えきれず、今もなお身を隠そうとしている子供たちが攻撃を受けて更に手足を切断されることになるだろう、と嘆いていた。そして、クリスマスには世界は自分の身の回りの愛や善意ばかりに気を取られて偽善が横行する一方で、ガザの子どもたち８千人の死が単なる数字としか扱われない現実を悔やみながら彼は、すべきことがある筈なのにそれが出来ていない自分自身にも激怒していた。
昨年二月から始まったロシアによるウクライナ侵攻を国際社会も権力者たちも国連も止めることができていないのだから、おめでたくもプーチンは大統領選の立候補を決め、ウクライナ侵攻を正義の戦争と謳って多くのロシア国民も支持しているというのだから、ガザの悲劇を止められる者など存在するはずがない、激怒したってしょうがないではないか、という冷めた見方もあるだろう。だから戦闘に巻き込まれていないこの地にいる我々はせめて、クリスマスを迎えられる喜びをつつましく感謝している人間も、いやクリスチャンや教会も世界には少なくないのかもしれない。しかし果たしてそれで良いのだろうか。
クリスマスを起こされるのは神である。二千年前のイエスの時代、更にはもっと昔の時代から、敵対する国や集団の間で争いと殺戮が繰り返されていたことを旧約聖書は伝えている。生き残るためには自ら力を付けるか、それとも、アメリカの核の傘に入って守られて来たこの国のように、力ある者にすり寄って守ってもらうしかない、というのがこの世の現実である。違う角度から見ればそれは、誰もが「生き残るためには勝たなければならない、負けたら終わりだ、死んだら何もかもおしまいだ」という理屈に縛られてしまっている世界である。聖書によれば、そもそもそれは、神に造られた初めの人間アダムとエバが、エデンの園の中央にある木の実だけは食べてはいけないという神の言葉を信じきれずに、「食べれば神になれる」と蛇に唆され、自分で自分を守れると過信したことがすべての事の発端である。ここにいる皆さんも今年のこれまでを振り返って、「失敗しないように、ボロを出さないように」、もし失敗したら損失が最小限で済むようにと思い悩み、画策し、あれこれ手を打ち続けたことはなかっただろうか。それは勝利とか成功とか満足といったものを何としても手に入れなければ、という考え方に縛られてしまっているからではないだろうか。果たしてそこに自由があるだろうか。
そんな人間たちの姿を目の当たりにした神は二千年前、独り子を世に遣わされた。神が神としての立場や権威にしがみつくことなく敢えて人間の姿形を取り、もっとも弱い乳飲み子となられた。その子を産んだ母マリアとその許婚の夫ヨセフには泊まる宿もなく、幼子は産着にくるまった姿であてがわれた馬小屋の飼い葉桶の中に置かれたという。もしそこに敵対する者や権力者がやって来て攻撃しようものなら、幼子もその両親も、いともたやすく打ち倒されて命を奪われただろう。そうならないためには色々と策を凝らさなければならない、前もって手を打っておかなければならないと人間は考える。しかし神は、そんな、「生き残るためには勝たなければならない」とか、「負けたら終わりだ、失敗したら何もかもおしまいだ」とかいう価値観に縛られている人間たちの只中に、神自らが敢えてそのように小さく貧しくか弱い乳飲み子の姿でこの世に生まれた。これがクリスマスの出来事である。それが神が起こしたクリスマスである。
そのことを初めに知らされたのは、夜通し羊の群れの番をしていた荒れ野の羊飼いたちであったという。この頃、力もなく知恵もなく家もない羊飼いたちは不潔な汚らわしい者と見なされ、町中に入ることさえ出来なかった。羊たちからは頼られても、人間社会の中では勝利者、成功者とは正反対の人生の敗北者、あぶれ者として排除されていた。そんな彼らに突然、「恐れるな」と天使は語りかけ、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げる。さらに続けて、「あなたがたは産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」と天使は伝えた。人に住む家にさえ入れず、仕方なく馬小屋の飼い葉桶に布にくるまれて置かれている嬰児。自分で自分を守ることも救うこともできず、ただ産声を上げながら誰かに手を差し伸べてもらわなければ生き抜くことなどできるはずもない乳飲み子。この方こそ主メシアなのである。この方こそ人となられた神なのである。神が、神としての身分に固執することなく敢えてこのような弱く脆く貧しい姿へと謙られた。それが、聖書が伝える本当のクリスマスの出来事なのである。
八日目にイエスと名付けられ、やがて成長したこの方は、「心の貧しい人々は幸いだ」と教えられた。「悲しむ人々は幸いだ」と、「義のために迫害される人々は幸いだ」とも言われた。それは、「その人たちは慰められるからであり、天の国はその人たちのものであるからだ」とその方は解き明かされた。この方の弟子とされたパウロという人物が手紙の中でこう記している。「神は知恵ある者をはずかしめるためにこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち無きに等しい者を選ばれた。それは、どんな人間でも、神の御前に誇ることがないためである」(コリントⅠ１：２８‐２９)と。口先ではそう言っても、人々に重荷を負わせるだけで自分では何一つ苦しみを背負おうとしない世の権力者とは対照的に、イエスと名付けられたこの方は率先してご自分を最も低いところに置き、社会から爪はじきにされていた罪人や病人、徴税人に歩み寄り、彼らの仲間となって親しく言葉を交わし、悪人に手向かうことなく右の頬を打たれたら左の頬を差し出し、下着を奪われたら上着をも与え、そうするうちに次第に世の人間たちから罵られ、嘲笑われ、唾吐きかけられ、迫害された上に最後は十字架にかけられてしまう。しかしこの方は、自分を十字架につけた者たち、いわば敵たちを赦した上で息を引き取る間際にひと言、「成し遂げられた」(ヨハネ１９：３０)と言われた、と聖書は伝えている。何が成し遂げられたのか。思い悩むことなく、悪人を警戒することなく、自分で自分を守ろうとか、失敗や敗北を恐れるあまりに人を欺き取り繕ってでも勝利を手に入れようとか、そんな思いに縛られるのではなく、ひたすら神を信頼し、その神に見守られ導かれながら自分を低くして人々と手を取り合い、愛し合い助け合い信じ合って生きる生き方。自分で自分の身を守ることばかりを思い煩い縛られている我らに代わって、最後は十字架の死で終わろうとも、神が見守り支え、神に導かれる生き方を、この世の現実のただ中で初めてこの方が、人となられた神が、成し遂げて下さったのである。しかも神は、十字架の上で息を引き取られたイエスを三日後によみがえらせることで、敵をも愛することのできる生き方にこそ死で終わることのない命があることをはっきりと、鮮やかに示して下さったのである。
生前イエスは言われていた。「自分の命を救おうとする者はそれを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者はそれを救うのである」(マルコ８：３５)と。ガザで犠牲となった子供たちは、たとえ死んでもその命は終わっていない。ウクライナで犠牲となった人々の命も終ってはいない。神はその命を輝かせるために一人一人を世に誕生させた。彼らの命を救うためにも神は御子を世に遣わしクリスマスを起こされた。神ご自身が布にくるまれた乳飲み子となられた。ガザやウクライナ悲惨な死を遂げる者が続いても、権力者がそれを止められなくても神は激怒しない。我関せずと平和な地にある教会が涼しい顔でクリスマスを祝っても神は怒らない。むしろ、人類すべてのために、ガザやウクライナの犠牲者たちのためにこそ、人となった神イエスはありとあらゆる人間の憎しみをすべて自分に向けさせ、すべての悲しみを身代わりに背負い、自らが犠牲となって十字架の死を遂げられる。神は犠牲者たちを一人死なせることなく、彼らと共に、いや彼らに代わって死の苦しみを背負われる。そこまでして神は我々人類を立ち止まらせ、赦して振り向かせる愛を成し遂げて下さる。ガザやウクライナの犠牲者たちの命はたとえ死んでも終っていないことを、その命を信じて生きる新しい生き方へと生まれ変わらせる奇跡を成し遂げて下さる。まさにその時、あの歌声は鳴り響くに違いない。「天に栄光、地に平和」というあの天使たちの歌声はかすかにではなく強く、重く、力をもって戦場で命の危機に置かれている罪なき人々に響き渡り、闇のこの世は光で包まれるであろう。憎しみと争いの絶えないこの世は、悲しみも嘆きも労苦もない神の国へと変えられるであろう。その神の奇跡は、まさしく二千年前のクリスマスから始まった。罪が支配する闇の世界はその光を消そう、天使たちの歌声を遮ろうと、人間たちに敵意を抱かせ、命を奪い合わせることで必死に抵抗している。しかし神の決意は変わらない。ガザやウクライナの犠牲者たちをこそ愛して止まない神の愛を、犠牲者たちの命に意味を与え、輝かせるためにこそ産声を上げる救い主の誕生を止めることは誰にも出来ない。今年もまた新たに、まだそれを知らない所でも、悲しみの涙しかない地域においても、そこで生きるしかない罪なき人々のために人となられた神は、主メシアは布にくるまれた姿で産声を上げて下さっている。そしてここに集う私たちのためにも。
そのことを預言者イザヤは既に２５００年前にこう予言した。
「高みにおられ、崇められ、永遠におられる、その名が聖である方がこう言われる。私は高く、聖なる所に住み、打ち砕かれた人、低められた人と共にいて、低められた人の霊を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせる。」（57：15）
二千年前に始まったクリスマスという神の奇跡。それは今宵この時、ガザにおいてもウクライナにおいても、そして我々にも新たに繰り返されている。「天に栄光、地に平和」。その歌声がかすかにではなく強く、重く、高らかに響き渡る神の国に向かって、新しくされた命が目指す真のゴールに向かって、「さあベツレヘムへ」と叫んで立ち上がったあの羊飼いたちのように、平和を願う罪なき全ての仲間と共に我らも今、立ち上がって歩き始めようではないか。