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エジプト人実業家、ユセフ・ナダ氏の受難と、「テロとの戦い」におけるスイスの役割を振り返る。このコンテンツは 2021/11/07 09:00
- Deutsch Jahre des Zorns (原文)
- Español Años de rabia
- Português Anos de ira
- 中文 那些令人愤怒的岁月
- عربي سنوات الغَضَب
- Français Les années de la colère
- Pусский Юcеф Нада, Швейцария и ее роль в «войне с терроризмом»
- English The bizarre case of Youssef Nada and Switzerland’s role in the ‘War on Terror’
- Italiano Youssef Nada e gli anni di collera
スイス南部・ルガーノ湖を眼下に見下ろす高台に、ぽつんと静かに建つヴィラ・ナダ。そこからは息をのむほどの絶景が広がる。ルガーノの町から遠くサンジョルジオ山まで見渡せる中、目の前にはサン・サルヴァトーレ山がそびえ立つ。
館主ユセフ・ナダ氏の書斎に通された。机の上にはすでに、すべてのファイルが並べられている。最近は、これらのファイルのページをめくることがまた増えた。複数の国の捜査書類や官庁関連の書類、新聞記事、銀行書類。ナダ氏はこれらを好んで見せたがる。何度も見せる。9.11が20周年を迎え、多くのジャーナリストが再び彼の話を聞きたがったからだ。ナダ氏も高齢になり、話すことが以前より億劫になったにもかかわらず。
90歳を迎えた1人の男。現代史上最悪のテロ攻撃とどんな関係があるのだろうか。何もない、というのが現在明らかになっていることだ。だが、当時は大いに関係があるとみなされた。
2001年9月11日から1カ月近く経ったころ、アフガニスタンで爆撃が始まった。しかし、米国とその同盟国は中央アジアのテロリストだけでなく、世界中でその協力者も追跡していた。主な標的は金融界の黒幕と見なされていた人々だ。その中にユセフ・ナダ氏、同氏所有の銀行アル・タクワ、そしてその関係者も含まれていた。ウサマ・ビン・ラディンとアルカイダを支援しているというそしりだった。
同年11月7日、ルガーノ市にあるナダ氏の銀行と隣町カンピョーネの自宅で家宅捜索が行われた。家族の在宅中に家の中をくまなく捜査する連邦検察官や警察官とナダ氏が議論を続けている間に、当時のジョージW.ブッシュ米大統領は米国バージニア州で行った演説他のサイトへで次のように述べた。「アル・タクワはオフショア銀行と財務管理会社が併合された企業であり、アルカイダが世界中で資金を動かす手助けを行った」。これに関する「信憑性の高い、揺るぎない証拠」もあるという。
ユセフ・ナダ氏は激憤と不信を胸に入り混じらせながら当時を思い起こす。「あの時起こったことはまったく気違いじみていた」。米国の大統領がテレビカメラに向かって、自分の銀行の名前をウサマ・ビン・ラディンとアルカイダに対する2大投資家の1つとして挙げたのだから。「この公の告発は、そのあと浮上したほかのどの問題より私を苦しめた」
影の外交
ここで重要となるのが、ナダ氏の人物像を特徴づける2つの経歴だ。1つ目に挙げられるのが、同氏の経済活動だ。ナダ氏は1931年、エジプトのアレキサンドリアに生まれ、乳製品の生産販売で財を成した。これを原資に建設業界にも参入。60年代以降、大きな高利益を生んだビジネス分野だ。非植民地化が進む中で、多くの「ペトロダラー」が新しく建国された国々の建設に流れ込み、建築資材の需要が一気に高まった。「私は地中海のセメント王と呼ばれていた」と語るナダ氏の声には、誇りとノスタルジーが入り混じる。最盛期には25カ国でビジネスを展開していたという。
銀行分野に乗り出したのはそのあとだった。アル・タクワ銀行はイスラム教銀行であり、ルガーノやリヒテンシュタイン公国、バハマなどにオフィスを持つ。90年代末に発生した大規模なアジア危機では大損害を被った。
2つ目はエジプトのムスリム同胞団の団員であること。イスラム圏全域に広がったこの政治宗教運動に加わったのは、まだ17歳のときだった。同胞団は、国によって政権に組み込まれているところもあれば、地下活動に甘んじているところもある。影響力は大きいが、100年近い歴史の中では多くの弾圧も受けてきた。若き学生だったナダ氏も団員であることを理由に投獄され、この弾圧を身をもって体験している。拘禁は2年に及んだ。
釈放後まもなく母国エジプトを後にするが、同胞との密なやり取りはその後もずっと続く。「ムスリム同胞であることを誇りに思っているし、それを隠したことも一度もない。当時も今も」
そんな風に語るナダ氏は、愛嬌たっぷりの話し相手だ。礼儀正しく、にこやかで、その姿は気品に満ち溢れている。同胞団からたびたび政治的な仲立ちに登用されるのも無理はない。大実業家であるナダ氏は早い時期から政界との接触があり、政治家や王室メンバー、高位の幹部と知り合っている。複数のイスラム国家の国籍のほか、のちにはイタリア国籍も取得した。ムスリム同胞団がメッセージを伝えたいときの頼りの綱であるナダ氏は、イラクでサダム・フセインと話し、イランで反乱者と話し、アフガニスタンで軍のトップと話し合ってきた。
そして、自宅にもまた人を迎える。ヴィラ・ナダは今や、ムスリム同胞団の非公式の外務省だと書き立てる新聞もある。確かなことは、ナダ氏はカンピョーネに有力者を数知れず迎え入れているということだ。その多くは、マグレブからマレーシアにいたるイスラム国家出身の人々だ。自宅に飾られている写真がその外交スケールを物語る。このような会談の多くについては、同氏公認の伝記の中にも綴られている。ルガーノ湖をバックにソファに座るナダ氏がボソッとつぶやく。「なんとも劇的な人生だった」
「経済的な破滅」
しかし、2001年秋からナダ氏のヴィラは監獄と化していく。贅沢な監獄ではあったが、強制されたものには違いなかった。、手入れから2日後の同年11月9日、ナダ氏の名前はいわゆる国連制裁対象者リストに載せられていた。「ウサマ・ビン・ラディン、アルカイダ集団、あるいはタリバン」と関連のある人物および組織に関する国連安全保障理事会決議により、ナダ氏は国際社会から追放された身となった。
スイスを含む他のサイトへ各国は、この決議を遵守する義務を負う。被指定者に対して、所有の金融資産の全面凍結や入国禁止を実施しなくてはならない。ナダ氏の自宅はスイス領に囲まれたイタリアの飛び地カンピョーネにあるため、その後数年間は事実上、広さ1キロ平方メートル弱の自宅に軟禁状態となった。
それより辛かったのは経済的な制約だった。「一晩のうちに自分のお金に手が出せなくなった」。経営する銀行は解散となり、突如として日々の暮らしにさえ困る状況に陥った。大学で学んでいる子供たちの学費も支払えない。ナダ氏は家族のトラウマとなったこの時期の話をこれ以上したがらなかった。だが、結末は明らかだ。「私は経済的に破滅させられた」。しかし精神的には破滅していない、と続くことばに力が入る。
それに比べれば、エジプトで受けた有罪判決は、ほんのメモ書き程度の出来事のようだ。ナダ氏は「ホスニー・ムバラクから1億もの金でテロ組織を支援したという濡れ衣を着せられた」と言うと、「冗談みたいでしょう！」と声をあげて笑った。この時もまだ、自分の口座に手を付けることはできなかったが、それももはや意味のないことになった。08年、本人不在のまま、軍事裁判で10年の禁固刑を言い渡されたのだから。
この一件は、公式には09年9月23日に幕引きとなる。国連制裁対象者リストに載せられてから8年後、ナダ氏の名前は削除他のサイトへされた。それについての聴聞も、根拠の説明も行われることはなかった。そして、陳謝も。
情報機関や司法による捜査が数年にわたって5カ国で行われたにもかかわらず、ナダ氏の運命を変えた国連リストに関連する告訴はなかった。償いを受けたのは12年になってからだ。欧州人権裁判所の判事らが、国連決議を厳密に実行したスイスは欧州人権条約に違反したと、全員一致の判断を下したのだ。9.11から10年以上が過ぎていたが、ナダ事件では欧州人権裁判所でのこの訴訟が唯一のものとなった。
「まるで囚人のような生活だ」―これは08年、swissinfo.chがユセフ・ナダ氏をカンピョーネの自宅に訪ねたときの同氏のことばだ。
飛びつくメディア
ナダ氏への疑惑は大々的に報じられた。ほかのどの事件にも勝るストーリーだった。スイスでイスラム教銀行を経営し、怪しげなイタリアの飛び地にある人里離れたヴィラから世界政治の動きに影響を及ぼす裕福なエジプト人実業家。周知のムスリム同胞。オサマ・ビン・ラディンやそのテロ集団への秘密の資金供与。メディアが食いつかないはずはなかった。
ナダ氏は何にせよ、米政界を動かしている人々からテロ資金供与のかどで咎められたのだ。9.11の攻撃の背後には資金力のある支援者ネットワークがあるはずだという米当局の論理を多くのメディアが取り上げた。そして、アルカイダとオサマ・ビン・ラディンは活動資金を得るために、全世界に広がる複雑極まりない金融システムを構築したと書き立てた。「Bankiers des heiligen Krieges （聖戦中の銀行マンたち）」（雑誌「キャッシュ」01年11月16日付掲載記事）というストーリー性がまさにぴったりだ。そして、そこには、ナダ氏の名前も挙げられていた。
しかし、おそらく史上最悪の影響をもたらしたテロ攻撃に実際に必要とした金額は、今思うとばかばかしいほど少額だった。04年に米国が発表した9.11に関する調査報告書によると、アルカイダがこの攻撃に費やした費用は約50万ドル（約5700万円）他のサイトへだった。あのテロの影響からすれば微々たる金額だ。
テロ攻撃とネガティブな報道に世間が煽られている中、ナダ氏はマスコミの取材を受け、多くのインタビューに応じた。「マスコミに騒がれたかったわけではなく、自分の名前を守りたかったから」。ナダ氏の事件に乗じて一旗揚げようとした記者たちには、今でも怒りを感じる。
その典型が、捜査の際にナダ氏の自宅で見つかった文書にまつわる一件だ。一部のメディアはこの文書に「ザ・プロジェクト」というコードネームをつけてはやし立てた。それによると、同文書は西側諸国潜入を目的としたムスリム同胞団の秘密戦略計画だった。ナダ氏にとっては荒唐無稽であるばかりか、意図的な誹謗でもあった。「これまで何千もの手紙をもらっている。捜査の際、紙束の中にそれらが見つかった。それが同胞団を責める理由になるのか？」
ナダ氏は連邦警察の公式翻訳を探し出した。そこには、同文書は1982年に記され、署名はなく、執筆者の名前も挙げられていないと書かれていた。「それでも、もちろんムスリム同胞団が関係しているとされた。いつものことだ」。これは、最大野党である同胞団をテロ組織に仕立て上げるエジプトの歴代軍政府のうたい文句をそのまま使っているだけだ、と批判する。
この文書をめぐるエピソードについては、公式伝記でも多くのページを割いている。ナダ氏にとって、このことがなぜそれほどまでに大事なのか。「こんなふうにして、欧州をイスラム化するマスタープランが存在するかのような印象が培われてしまうからだ」。そして、特定の記者―ナダ氏は彼らを名指しした―がこのテーマを異様なほどまでに躍起になって発展させようとしたと続ける。「そのおかげで、この言いがかりはいたるところにバラまかれ、欧州の数多くの情報機関がこれを用いた」
もっとシビアな非難も受けた。イタリアの日刊紙コリエーレ・デラ・セラのある記者がすでに90年代末、ナダ氏がパレスチナのハマスに資金を提供したと書いているのだ。本人曰く、同記者はFBIと接触があり、ユセフ・ナダという名前とその銀行がテロ資金供与に関係していることを米当局ではっきりと宣誓口述した。この証言をメディアが蒸し返し、その後それに多くのメディアが続いて米諜報機関まで波及した挙句、アルカイダとナダ氏がつながっているという憶測の元になった、というのがナダ氏の推論だ。
真偽の確認はできない。米諜報機関がどの情報をもとに判断したかは、今日もなお機密事項となっている。イタリアではナダ氏に対する捜査が行われたが、9.11の前もその後も、テロ資金供与を理由とする告訴は行われていない。ナダ氏が名誉棄損で訴えたコリエーラ・デラ・セラ紙に対する公判は数年に及んだ。ナダ氏の主張は11年に認められ、損害賠償金を受け取った。
同胞団の非難という一連の中傷の中で、何度も個人攻撃を受けたとナダ氏は言う。「これは、私を抹殺し、ムスリム同胞団を物笑いにするための政治的な決定だった」。その黒幕も知っているとほのめかす。しかし、名前を明かそうとはしない。
真相追究
友は誰か？敵は誰か？01年9月11日のテロの後、当時のジョージW.ブッシュ米大統領は「我々の側につくのか、それともテロリストの側につくのか」と発言した。のちに慣用句のごとく用いられたこのセリフは、各国政府に対して立場の表明を強制していた。そして事実上、選択の余地はなかった。「テロとの戦い」の中でテロリストやその従犯者への追跡が始まったとき、多くの国が手元にある限りの砲弾を投入した。CIAの元幹部の言葉他のサイトへを借りると、「9.11後は手袋を外し（戦いの準備は万端になっ）た」のだった。
問題は、どこから真相追究を始めるかということだった。スイスの捜査員がナダ事件で抱えていた問題は、02年1月の連邦刑事警察の中間報告ですでに明白になっている。「認識されている事柄の多くが推測をもとにしており、今日の捜査状況では立証できないことがはっきりと言及されている」。そして、「テロ資金供与あるいはテロ支援を示唆する事実はこれまでまったく見つかっていない」ことも明確となった。
それでも当局は何か手を打たずにはいられない状況にあった。現在ジュネーブ安全保障政策センター（GCSP）のテロリズム・ジョイント・アナライシス・グループ他のサイトへを率いるジャン・ポール・ルイエール氏は、事件当時、連邦刑事警察に籍を置き、ナダ事件にもかかわっていた。スイスが誠実に対処したことは間違いなく、それはこの事件だけに限ったことではないと語る。「動き出した動機はもちろん、アメリカをできる限り支援するためだった」。米当局は常に信頼のおけるパートナーと見なされていたという。
振り返れば、テロ攻撃後の米国の反応は明らかに過剰だったとルイエール氏は思う。しかし、諜報機関の情報がもとになっていたことを否定する見方には同意できない。ナダ事件についての詳細は語ろうとせず、米国とスイスでは諜報機関の情報の利用の仕方が大きく異なる点を指摘する。スイスでは政治的なアプローチは少なく、法治国家としての考慮が大半を占めている。
ルイエール氏にとってはまた、9.11の発生時は今と比べるとイスラム過激主義に関する専門知識が非常に少なかったことも確かな事実だ。そのため「明らかな誤解があった」と言う。ナダ氏が携わっていたイスラム教銀行の業務もその一つだ。イスラム法に基づく金融商品は、今でこそ西洋諸国の銀行も提供しているが、今世紀の変わり目にはまだあまり知られていなかった。それは捜査当局にとっても同様で、ナダ氏はその分、余計怪しく見えたに違いない。
「比類なきスキャンダル」
ディック・マルティ元全州（上院）議員は「これは比類のないスキャンダルだ」と言い切る。国連制裁対象者リストに載せられるというのに、訴訟もなく、尋問もなく、罪状の詳細も分からず、また苦情を述べる機会もない。「初めて聞いたときはまったく信じられなかった」
マルティ氏はイタリア語圏のティチーノ州出身だ。ナダ氏の一件は共通の知人から聞いた。「弁護士としてではなく、政治家、そして人権活動家として、彼に会った」。ナダ氏にまつわる疑惑に何の根拠もないことは、マルティ氏にもすぐに分かった。ティチーノ州検察官を務めた経験も持つ同氏は、当時すでに30年もルガーノで営業していたナダ氏の銀行に不審を感じたことは一度もなかったと語る。
連邦検察の起訴に対して異議を申し立てるようナダ氏を説得したのはマルティ氏だった。「ナダ氏には当初、その気がなかった。自分を迎え入れてくれたスイスに逆らう権利はないと思っていたのだ」。しかし、マルティ氏はナダ氏を説き伏せた。「我が法治国家にとって、この異議は非常に大切だったからだ」
法律上の不確実性が多かったにもかかわらず、ナダ氏の主張は連邦刑事裁判所で認められた。連邦検察局は05年、訴訟の停止を余儀なくされた。その後、国連の制裁対象者リストから名前が消されるまでに、さらに4年かかった。前述の、ストラスブールにある欧州人権裁判所への控訴も、マルティ氏の進言によるものだった。しかし、これにより国連決議にまつわる最大の問題も明らかになった。国連決議は上位の法であり、各国は自国の法律に触れても、決議内容を適用しなくてはならなかったのだ。
民主主義と法治国家という価値観のために世界中で尽力している国連のような組織がこのような行動を取るなど、マルティ氏にとってはまさにスキャンダルだった。しかし、今ではこのような状況にも慣れた。その一方で、「テロとの戦い」の中の非常に疑わしい流れも別の角度から覗き見た。1998年から2011年まで欧州評議会の議員を務めたマルティ氏は、欧州におけるCIAの秘密収容所や収容者の移送について調査する任に当たった。06年に発表されたその内容は、それ以降、評議会を大きく揺さぶった。こうして悪名高き「ブラック・サイト（米国外にある秘密の軍事施設）」がメディアで取り扱われるようになった。「これはユセフ・ナダ氏をめぐる出来事と並行して進んだ」
マルティ氏の当時の怒りは今でも言葉の端々に浮かび上がる。そんな同氏は、「アメリカ人に反抗する勇気ある官庁は皆無だった。そればかりか、どこも米国の思うがままに操られていた」と、スイスも辛らつに批判する。このことは、スイス公共放送が暴露した記録文書を見ると明らかだ。初動捜査の後、担当の連邦検察官は送られてきた情報に落胆したと米政府に書いている。それらの情報は「表面的」でしかなく、「使い物にならない」代物だったという。
連邦検察の文書を引用するドイツ語圏のスイス公共放送（SRF）番組（該当部分は30:00以降）
マルティ氏の糾弾はさらに続く。ナダ氏の名前は米国のテロ支援国家リストからも外された。「これは明白なサインだ。少しでも疑惑がある限り、このリストには名前が残るのだから」
ともあれスイスは、追加措置として、資産凍結と入国禁止を定めた国連制裁措置に多少の変更を加えた。ハードシップ条項が盛り込まれ、被指定者は自分の口座から生活費を下ろせるようになった。また、リストからの除名手続きも導入された。これによって初めて、被指定者は自分の資産常態を検証してもらえることになった。これは当初、考慮されていなかった。他の国家とともになし遂げた最大の成果は、独立したオンブズパーソン窓口を設置したことだ。影響力はそれほどではないにしろ、重要な決定を下す制裁委員会を相手に最小限の矯正策を取ることができた。だが、マルティ氏にとっては、これでもまだ十分とは言えない。「スイスは明らかにもっと何かできたはず」と残念がる。
ナダ氏がほのめかすように陰謀が図られたのかどうかについては、マルティ氏は言及しない。だが、このストーリーはまだ語り尽くされていないという思いは同じだ。
現状は？
いずれにせよ、国連リストが告訴につながったケースはスイスにはない。管轄の連邦経済省経済管轄局（SECO）は問い合わせに対し、書面で次のように返答した。「アルカイダおよびタリバンに対する国連安保理の制裁措置については、スイスではこれまで10件の個人と組織が該当していた。これらの個人及び組織に対しては、制裁リストから消去されたなどの理由で、すでに数年前から制裁措置は取られていない」。凍結資産などの詳細については回答がなかった。
国連制裁対象者リストをめぐるこの一件は、9.11から20年が過ぎた今もまだ完結していない。それを監視する前述のオンブズパーソン窓口も存続している。18年以降はスイス人のダニエル・キプファー・ファスキアティ氏がその任を負っているが、それも今年末までだ。元連邦刑事裁判所裁判官の同氏は辞表他のサイトへを提出し、その際、機関としての窓口の独立性やオンブズパーソンに対する契約上の保護の不足を挙げるなど、明確な批判を行った。つまり、外交官としてのステータス―この世界政治レベルでは外交官としてのステータスがないと実行できないことが多い―から健康保険まで、基本的なものが欠けているのだ。
米著名雑誌フォーリンポリシーの記事他のサイトへによると、これは単なる偶然ではない。キプファー・ファスキアティ氏の前任者にも複数のインタビューを行ったこの長編ルポルタージュを読むと、これらの障害が意図的に作られたことは歴然としている。安保理の理事国が変更を決めない限り、オンブズパーソンは限られた影響力しか持たない。だが、変化は起こりそうにない。事実上、司法の監視機構を通さずに作成される制裁対象者リストという政治手段は、今後も「テロとの戦い」の中で好んで用いられそうだ。
では、ナダ氏は？同胞団のための尽力は今後も続く。取材の間もアラブのメディアの電話に答え、エジプトで抑留されているムスリム同胞のために働きかけ、公共的論議の中で意見する。それに、カンピョーネでの余生も楽しみたい。恨みは、もうない。「ともあれ、世界列強を相手にここまで頑張り通したのだから」
（独語からの翻訳・小山千早 ）
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