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創世記27：18～29、ルカ5：27～32「祝福の道筋」
2022年7月3日（左近深恵子）
創世記は創造物語を通して、造られたものを一つ一つ喜ばれて、祝福される神さまを伝えます。この世界とそこに生きる私たちは、神さまによって命を願われ、存在することへと招かれた者であることを語ります。自分や周りの人々のことで日々一喜一憂する私たちの目は、自分と自分が関わる人々のことしか見えなくなりやすく、それが世界の全てであるかのように思いがちです。しかし私たちはその初めから神さまとの関わりの中にあるのだと、私たちが存在することへと招き出されたところは、神さまの祝福の中なのだと、聖書は語ります。
創世記はそれだけでなく、そのように造られながら、神さまの祝福の中を歩んでゆけない人々の姿も語ります。エデンの園やバベルの塔、ノアの箱舟と言った物語は、人々が、神さまに祝福された命に生きる本来の生き方から離れ、神さま抜きの道を突き進み、自ら滅びへと向かって行く出来事です。神さまが私たちに与えてくださっている神さまとの関わりを失い、隣人との関わりにおいても、世界との関わりにおいても、神さまの祝福を映し出すことができない人間の姿が次々と浮かび上がります。そのような人間たちの中で、神さまは救いの歴史を起こされました。その起点に神さまが選び立てられたのは、既に若くも無く、自分たちでは子孫を望むことのできない状況にあったアブラハムでした。神さまはアブラハムに子孫と土地の約束を与えられました。それは多くの子孫が与えられ、その子孫に神さまが約束された土地が与えられるということだけでなく、アブラハムの血筋によって神さまの祝福が受け継がれ、全ての民へと祝福がもたらされてゆくというものでした。神さまの祝福に生きることができずにいる人々に、世代を超えて祝福をもたらすため、アブラハムを祝福の基とされ、アブラハムに続く人々に約束と言う祝福の根拠を与えてくださったのです。
高齢になったアブラハムは、自分の死に備えて、息子イサクが神さまの祝福を担ってゆくことができるよう、僕に指示を出し、他の神々を礼拝している周りのカナンの民の中からではなく、自分の故郷の民の中からイサクの結婚相手を見つけるようにと告げました。アブラハムは、イサクにおいても、その先の世代においても、神さまの祝福が実現されていくことに信頼し、生涯の終わりまでそのために力を尽くしました。そうして僕はリベカと出会い、リベカはイサクとの結婚を神さまのみ心と受け止め、かつてのアブラハムのように、故郷も親族も後にしてカナンに来て、イサクの妻となりました。
やがて高齢となったイサクも、自分の死の前に祝福を次の世代に渡そうと行動を起こします。しかし妻サラとの間にイサクしかいなかったアブラハムの場合と異なり、イサクとリベカの間には二人の子がいます。エサウとヤコブと言う双子の兄弟でした。長男が財産の大方を相続することが当然とされていた当時の慣習に従うように、イサクはエサウに祝福を与えようとし、祝福を与える儀式に必要な食事の獲物を狩ってくるようにと、エサウを野に行かせました。
イサクはリベカに相談することも、リベカやヤコブをその場に呼ぶことも無く、エサウと二人だけでことを進めようとしています。この家族の中にあった溝が、イサクのこのような行動の根にあるのかもしれません。家族の間にある緊張は、双子がまだ母リベカの胎の中に居た時から始まっていました。胎児があまりに互いに押し合うので、神さまのみ心を尋ねたリベカに主はこう告げられました、「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で別れ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」（25：23）。リベカがそれをどのように受け止めたのかは記されていません。しかし、既に自分の胎の中で争っている双子の間にこれから先も争いが起こると、そして神さまが祝福を受け継ぐ者とされたのは弟の方であるとの言葉を、忘れ去ることなど無かったのではないでしょうか。二人は成長し、兄エサウは狩りが巧みな野の人となり、弟ヤコブは穏やかな人柄で天幕の周りで働くのを常とする人となりました。性格は穏やかであっても、ヤコブの中には兄の上に立つことを強く求める思いがあったのでしょう。そこに両親の偏った愛情が絡みます。ある時、狩りから戻り空腹でいたエサウが、ヤコブが料理していたレンズ豆の煮物を欲しがると、ヤコブは煮物と長子の権利の交換を持ちかけます。長子の権利とは、主に相続に関する事柄ではないかと言われています。エサウは煮物欲しさに応じ、エサウが長子の権利を軽んじたという言葉でこの出来事は締めくくられます。自分が、神さまの約束の担い手と言う特別な家庭の長子であることを軽んじるエサウと、チャンスを逃さないヤコブの強い思いによって、かつてリベカに主が告げられた言葉が実現に向けて一歩進んだのでした。
そのようなことが兄弟間であったことなど知らないまま、高齢になった父イサクは愛するエサウに祝福を与えようとします。イサクは目がかすんで見えなくなっていたとあります。視力が衰えただけでなく、神さまのみ心に従う道を見つめる「内なる目」もかすんでいたのかもしれません。誰にも相談せず、神さまにみ心を問うことも無く、急くように、偏愛するエサウに祝福を与えるために事を進めます。後にヤコブは臨終の床で息子たちの全てを呼んで祝福を与えます。ヤコブの息子ヨセフは兄弟と息子たちの全てを呼んで祝福を与えます。そうやって息子や孫は公に次の世代を祝福するのとは対照的なイサクの姿です。イサクはエサウだけを呼び、「わたし自身の祝福をお前に与えたい」と、「私自ら、お前を祝福したい」と告げています（4節）。祝福は神さまから与えられるものであり、その祝福を、自分を通して他の人々に渡していくのが祝福の基とされた者であるのに、神さまの祝福を自分の祝福と言い、神さま抜きに自分の思いだけで与えられるものであるかのように告げているのです。
夫イサクのこれらの言葉を耳にしたリベカは、エサウでは無く、ヤコブが祝福を受けられるように行動を起こします。リベカが取った策は、ヤコブにエサウの振りをさせるということ、つまり、視力の衰えた夫を欺くものであり、息子に父親を欺かせるものでした。僅かな時間で決断し、ヤコブに、イサクがエサウに語ったことを要約して伝えます。しかし一部を変えて伝えています。イサクの「わたし自身の祝福を」と言う言葉を、ただ「祝福を」と替え、イサクは語らなかった「主のみ前に」という言葉を付けくわえます。祝福は神さまからのものであり、神さまのみ前で与えるものであるとのリベカの思いが表れているのではないでしょうか。リベカは計画をヤコブに提案するのではなく、「その通りにしなさい」と命令します。ヤコブが実現を危ぶむと説得し、ヤコブをエサウの服と毛皮で変装させ、祝福のための料理を作り、それをヤコブに持たせて父親の天幕に送り込む、これらを次々となすリベカの決断力と行動力は、ヤコブこそ祝福を受け継ぐべき者であるとの強い思いから出ているのでしょう。
ヤコブは初めの内、母親の言葉にためらいます。父親を欺き、兄を出し抜くことへの躊躇では無く、父を欺ききれず、気づかれ、呪いを受けるかもしれないことへの恐怖です。だから、「もし呪いを受けることになればその呪いは私が受ける」と断言する母の言葉を聞くと、ためらわなくなります。それからのヤコブの行動は迅速です。母の指示通り家畜の群れの所に行って子ヤギを取り、それを母の所に持ってきます。母の手でエサウのようにカモフラージュされると、母が調理した料理を持って父の天幕に入って行きます。
父イサクと二人っきりになると、ヤコブは変装や料理に加え自ら発する言葉によって父を欺くことに徹します。そのやり取りには終始緊張感が漂います。イサクは「誰だ、お前は」、「本当にエサウなのか、ヤコブではないのか」と、幾度も尋ねます。なぜこんなに早く獲物をしとめられたのかとの父の問いにヤコブは、「あなたの神、主が私のためにはからってくださったからです」と、神さままで欺きの中に引きずり込みます。「声はヤコブだ」と疑われると、その後は最低限の返事以外、ほとんど言葉を発しなくなります。イサクは最後まで相手を「エサウ」と呼ばず、「お前」「私の子」と呼び続けます。何度確認しても、イサクの中の違和感は完全に消えなかったのかもしれません。それでもイサクは食事、口づけ、祝福の宣言と、儀式を進め、祝福を与え終わります。その後エサウが狩りから戻り、イサクは自分が祝福を与えた相手がヤコブであったことに気付きます。激しい震えに襲われた様子から、イサクの動揺の大きさが伝わってきます。弟に欺かれたのはこれで二度目であるとエサウから聞かされ、既に長子の権利もヤコブが奪っていたことを知ります。祝福を求めるエサウにイサクは、ヤコブに与えた祝福を取り消し、エサウに与え直すことはできないことを告げつつ、厳しい道行ではあるものの、エサウにも生きる場所と、子孫が増えることが想定される小さな祝福を告げます。アブラハムから受け継いできた神さまの祝福を、イサクは自分の願いに反してヤコブに与えてしまいましたが、祝福を与えるということは、与えた者以外の人を祝福から切り離すものでは決してないことを示しています。
けれど自分から祝福を奪ったヤコブを憎むエサウは、イサクが死んだら弟を必ず殺そうと決意します。エサウの殺意を知ったリベカは、エサウの怒りが収まるまで、ヤコブを自分の故郷の兄の家に避難させようと考えます。「一日のうちにお前たち二人を同時に失うことなど、どうしてできましょうか」（27：45）とヤコブに語るリベカの言葉から、愛し方は異なっていても、エサウもリベカにとって失うことは耐え難いかけがえの無い子であることが伝わってきます。他の神々を礼拝するカナンの民からではなく、故郷の親族からヤコブに結婚相手を見つけるためというリベカの説明にイサクも同意し、自分を欺いたヤコブを叱ることもなく、ヤコブを祝福して、送り出したのです。
神さまから与えられた祝福を次世代へと渡してゆく、祝福の基として選び立てられた家族にとって最も大切な出来事において、この家族の溝の深さが露わになりました。この出来事の中で、家族四人が一つの場面に同時に揃うことが無いと言うのも、嘘偽りの無い言葉が交わされるのは、イサクとエサウ、リベカとヤコブ、それぞれの間だけであると言うのも、溝を浮かび上がらせます。イサクがヤコブとしてのヤコブに語り掛けるのは、ヤコブをリベカの故郷に送り出す時が初めてです。この出来事を通して、家族の溝の深さ、兄の上を行こうとするヤコブの強い思い、ヤコブとリベカの狡猾さと夫や父親を欺いてまで祝福を手に入れようとする姿、イサクとリベカの偏った愛情が浮かびあがってきます。なぜヤコブのような人に神さまは祝福を受け継がせるのか、なぜ、まっすぐで素朴な人柄の長男エサウではいけないのかと、私たちはどちらかというとエサウに心を寄せ、また、息子と妻に欺かれるイサクに同情するのではないでしょうか。私たちが思う、神さまの祝福を受け継ぐ者としてのふさわしさ、という物差しをヤコブやエサウに当てながら、疑問に思うのではないでしょうか。
祝福を担う者のふさわしさは何でしょうか。相応しさにおいてまだヤコブよりも優っていそうなエサウも、神さまの祝福を担うことを軽んじる者であることが、煮物食べたさに長子の権利を譲ってしまった出来事に現れていました。そして聖書は今日の出来事全体を、エサウが他の神々を崇めるカナンの民の娘たちと結婚したことについての厳しい言葉で囲い込んでいます。自分の結婚が、イサクもリベカも苦しめてきたことに、今日の出来事の後になってエサウはようやく気付きます。他の神々を崇める人々が暮らすこの地で、神さまの祝福を担っていく家族の一人であること、祝福の約束を自分たち家族に与えてくださった神さまへの信頼に生きることを軽んじてきたエサウでありました。
この出来事において、完全に正しい者はいません。不完全な愛情と、不十分な理解と、それぞれの願望によって4人は動き、結果として互いの間の溝は一層深まり、結局誰一人願ったものを手に入れられていないように見えます。イサクはエサウに祝福を引き継がせることができず、エサウは願った祝福を得られず、エサウのほとぼりが覚めるまでとヤコブを送り出したリベカは二度とヤコブに会えません。ヤコブは祝福を父から受け継いだものの、祝福が告げる豊かな大地の実りや諸国に対する支配は、今のヤコブの手の中に何もなく、寧ろ家を追われ、逃れた先の叔父のもとでこれから欺かれ続ける年月を送ることになります。誰も何も得られなかったような出来事ですが、かつて神さまがリベカに告げられた、兄が弟に仕えるようになるという約束は、ヤコブが祝福を得たことによって更に前進しています。ヤコブすら当初望まなかった祝福をヤコブに得させるために、強硬にことを進めたリベカが、この主の言葉を聞いた者であることは、リベカの強さと無関係だとは思えないのです。
祝福を担う者のふさわしさは、神さまの選びにあります。私たちには分からない選びによって、神さまはヤコブを祝福の受け手とし、イサクやヤコブを通してエサウに祝福を与えられました。その後、エサウの赦しによってカナンの地に戻ることができるヤコブは、家族一人一人によって支えられ、押し出され、赦されて、特別な役割を担った人でした。何よりもヤコブを支え、導き、赦しておられるのは神さまであり、この神さまがこの先ヤコブと共にいてくださること、この神さまがヤコブの神さまであることが、ヤコブが祝福を担うことの根拠であるのです。
「私が来たのは、罪びとを招いて悔い改めさせるためである」と言われ、私たちの罪を代わりに担って十字架にお架かりになったイエス・キリストによって、私たちは神さまの祝福の中へと招かれています。全ての罪人の罪を赦し、神さまの祝福の中を新しい命に生きる者とされるために、キリストはご自分の命を捧げてくださいました。神さまが自分を選んでおられること、祝福を与えておられることに揺らいだり、祝福は自分の力で手に入れるもの、自分の力で創り出すものと、神さまを見失ったり、祝福を担い誰かに伝えることを軽んじてしまっている人々に、聖書は神さまの選びと赦しに信頼することへと呼び掛けます。私たちは自分の道徳的、倫理的な正しさや、神学的理解の深さによって、選ばれているのではなく、世の基準からは納得できないような神さまの選びによってキリストに結び付けられているのだと、正しさを根拠に選ばれるなら、誰も自信をもって自分が選ばれるべきだと言えないことに、気づかせてくれます。神さまが与えてくださっている祝福の重みと確かさに信頼し、祝福を隣人に、伝える歩みを新たに踏み出したいと思います。