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第２次世界大戦中の１９３９～４５年に、２５０機を超える爆撃機がスイスに墜落、または不時着した。今、その爆撃機や、搭乗していた若き操縦士たちの物語が一冊の写真集にまとめられようとしている。写真集の著者たちは、その内容をさらに充実させるために情報提供を呼びかけている。
「ほとんどの場合、墜落現場に真っ先に駆けつけたのは子どもたちだった」とダニ・エゲーさんは語る。「男の子も女の子もみな、機体に駆け寄った。誰もこれほど大きな飛行機を見たことがなかったから」
戦後生まれのエゲーさんは５１歳だ。当然当時の爆撃機落下事故を見てはいない。エゲーさんが、初めて出会ったプロペラ付き爆撃機は「ボーイングB-１７」。「フライングフォートレス（空飛ぶ要塞）」の名を持つ翼幅３２メートルのこの爆撃機は、１９６０年代にザンクト・ガレン駅に展示されていた。
「母に連れられて弟と電車でザンクト・ガレンへ行くたびに、その大きな機体を眺めていた。それから２５年近く経ってこの爆撃機を思い出し、いろいろ調べるうちに、この爆撃機の物語に出会った」
マーケティング会社で働くエゲーさんは、８年ほど前に軍事史の熱心な愛好家ヴェルネー・シュミッターさんとともに、インターネットサイト「warbird.ch」を立ち上げた。これは第２次世界大戦中にスイスに墜落、または不時着した爆撃機に関するサイトで、当時の写真や資料、個人の体験談などを交えた爆撃機のデータベースを検索できる。
そして今、軍事愛好家ロルフ・ゾウグさんを加えた３人で、１９３９～４５年の間にスイス北東部の五つの州（ザンクト・ガレン、トゥールガウ、シャフハウゼン、アッペンツェル両州）に墜落・不時着した３８機の爆撃機の写真を中心に、一冊の写真集を作成中だ。
この写真集は２０１４年５月にドイツ語と英語で出版される予定で、著者のエゲーさんたちは戦時中の爆撃機に関する写真や体験談など、新たな情報を提供してくれる人を探している。
空の激戦地帯
warbird.chは、特に終戦までの２年間に焦点を当てている。その時期、ドイツ上空は日常的に１００機近くの爆撃機が飛び交う激戦地帯だった。
その「地獄」を舞台に爆撃機を操縦するパイロットたちの生き残れる可能性は少なかった。王室空軍博物館のサイトによれば、平均２１回もの任務を遂行した英国の爆撃機「アブロ・ランカスター」の搭乗員の平均年齢は２２歳だった。
「スイスで最初に命を落としたパイロットは、コンスタンツ湖で溺死（できし）した。湖に着水し、機体から脱出することが出来なかった」と語る。
それでも、スイスに不時着した爆撃機の搭乗員の多くは、一命を取り留めたという。時にはそれが非常に困難な着陸であったとしても、だ。
１９４５年２月２２日、当時２０歳のロバート・ロードスは、「ノースアメリカンP-５１マスタング」を操縦しイタリアを出発した。目的はドイツ南部のリンダウとウルムを結ぶ鉄道網の破壊。だが、対空射撃を受け、帰還を目指すもエンジンがライン川上空で停止し、河岸に墜落した。
浅瀬にたどり着いたロードスは、ドイツ領内に墜落したと思っていた。だが駆けつけた地元の人たちに、そこは（スイスの隣国）リヒテンシュタイン公国で、身の危険はないと知らされる。
「スイスでは、落下してきた爆撃機の犠牲になった民間人は１人もいない」とエゲーさんは説明する。「パイロットは（墜落の危機に陥った場合）常に住宅地を避けようと試みた。だが、自動操縦による爆撃機もあった中で、民間人に死傷者が出なかったのは幸運だ」
一方で、動物に行く手を阻まれた爆撃機もあった。１９４４年１０月、スイスへの脱走を試みた１人のドイツ兵パイロットは、ザンクト・ガレン州のヴァルトキルヒ近郊の農地に降り立つためには、２度も着陸を試みなければならなかった。１度目は放牧中の牛に阻まれたのだった。
ホテル暮らし
墜落や不時着でスイスに降り立った搭乗員たちは、終戦までの時間を捕虜収容所で過ごすことになる。
「取り調べと検疫検査を受けた後、将校たちは戦時中に全く予約の入らなかったダヴォスのホテルへ、その他の兵士はアデルボーデンやヴェンゲンに送られた」とエゲーさんは語る。
ダヴォスで終戦を迎えたアメリカ兵チャールズ・キャシディ氏（リンク先を参照）によると、「食べ物は豊富にあった。だが、何もすることがなく退屈しきっていたために、まるでいつも空腹だったように感じていた」と言う。
また、中にはそこから脱走しようと試みた兵士もいると言う。「本当に退屈してうんざりした者は、スイスやフランスのレジスタンスの力を借りてスイスから出国しようとした」
だが、warbird.chは生き延びた搭乗員のその後の運命だけを追跡するのではなく、むしろ爆撃機そのものに焦点を当てている。
「墜落した爆撃機のうちおよそ１２０機が、スイス人操縦士によってチューリヒ近郊のデューベンドルフ軍用飛行場に誘導され、終戦まで保管された。その後、英国から米陸軍航空軍の整備士が来て修理・点検し、操縦士と航空士によって英国に戻され解体された」とエゲーさんは語った。
「残念なことに、スイスに墜落したそれらの爆撃機は、もう１機も保存されていない」
ツーク湖に墜落した爆撃機「ボーイングB-１７」
１９４４年３月１６日、連合国軍はドイツ南部のアウスブルグ、ウルムの両市に対する爆撃を遂行。投入された７４０機の爆撃機のうち帰還しなかったのは２３機。スイスには３機が墜落、４機が不時着した。
その中の１機である「フライング・フォートレス（空飛ぶ要塞）ボーイングB-１７」は、アウスブルグ上空でドイツ軍に撃墜された後、スイスのツーク湖に墜落。搭乗員１人が死亡、残り９人はパラシュートで脱出し、スイスの収容所で終戦を迎える。
損傷の少なかった機体はツーク湖に沈んだが、１９５２年に引き揚げ、修復された後、全国で一般公開される。
１９６６年にはザンクト・ガレンで公開。ある実業家が爆撃機のテーマパーク建設を計画するが実現しなかった。１９７０年以降はサン・モリッツで展示される。その歴史的価値にもかかわらず買い手のつかなかった「B-１７」は、ビル建設計画の障害となり、解体される。
この「フライング・フォートレス」が、第２次世界大戦中スイスに着陸した爆撃機の中で最後まで残った１機だった。
情報提供はこちらまで
第２次世界大戦中スイスに墜落・不時着した爆撃機に関する情報（体験談、写真など）をお持ちの方、もしくは実際に爆撃機に搭乗していたという方のご連絡をお待ちしています。連絡先：<email-pii>
スイス上空の爆撃機
第２次世界大戦中、連合国軍によるスイスへの爆撃は７０回前後に上り、８４人の死亡者が出た。
１９４４年４月１日、ライン川北岸のシャフハウゼンの爆撃では４０人が死亡、１００人以上が負傷した。バーゼル、ジュネーブ、ルノン（ヴォー州）、チューリヒなども最も被害を受けた街。
これらの爆撃は航法ミスによるものだとされているが、ナチスドイツに協力したスイスに対する連合国軍からの警告だと指摘する歴史家もいる。
戦後、連合国側は爆撃による被害の補償金を支払っている。
（出典：スイス歴史辞典）
（仏語からの翻訳 由比かおり）, swissinfo.ch