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「独り子、主イエス・キリスト」ヨハネ1：14～18
2020年9月20日（左近深恵子）
ヨハネによる福音書は、イエス・キリストとはどのような方であるのか伝えることに、最も力を注いでいると言われています。勿論新約聖書のどの文書もイエス・キリストを証しするものですが、この福音書はそのことにひたすら集中しています。
この福音書が記されたのは、キリスト者たちの信仰を否定する勢力が強まり、キリスト者たちがそれまでの会堂での礼拝生活をすることが困難になりつつある時代、あるいは既に非常に困難になった時代であったと言われています。不安と迷いと恐怖に揺さぶられている会堂内外の人々に対して、またその時代に限らず、主イエスを神と信じることに未来はないのではないかかと追い詰められている人々に対して、ヨハネによる福音書は、イエス・キリストはこのような方なのだと、教会が受け継いできた信仰を明らかに示してきました。それは、大きな力によって大勢の人々の日常が揺さぶられ、感染症の力によって先が見えない困難さが増し、一人一人の存在がかき消されそうな不安定な状況にあるこの世界に生きる私たちに対しても、救い主はどなたであるのか、明らかに示してくれる書であります。そのヨハネによる福音書は、イエス・キリストを「言」と言い表す独特の仕方で、福音書を書き始めています。
この福音書は、先が見えない不安の中にある人々に対して、私たちの「はじめ」は何であるのかを、先ず語ります。「初めに言葉があった」（1：1）と、私たちは自分で自分の「はじめ」を造り出したのではなく、また私たちを取り巻いている大きな勢力が世界の「はじめ」を造ったのでもなく、私たちも世界も、神さまがお造りになったのだと告げます。創造主は私たちではなく神さまである。私たちを圧倒するような様々なものも、神さまのみ前では被造物なのだと思い起こさせます。
創造主なる神さまは、言葉によって、天と地と、そこに満つるものをお造りになりました。私たちが生かされているこの世界にも、私たちにも、言葉によって告げられた神さまのご意志がその初めからあるということ、神さまのご意志によって私たちは命を与えられているということを、天地創造を語る創世記も、このヨハネによる福音書も、冒頭で証ししているのです。
言葉は単なる文字の羅列ではなく、その言葉によって表したい思いや、実現を求める願いの現れです。息と共に思いを言葉に載せて発します。神さまのご意志は、神さまの息と共に言葉になって発せられ、天と地を造り、私たちに命を吹き込みました。聖書の言葉は、神さまの息、言い換えれば神さまの霊によって記された神さまのご意志です。ある古代の教父は「聖書全体が神の恵みを息吹いている」と表現しました。預言者や詩人によって伝えられ、聖書に記されている神さまの言葉を通して、神さまの恵みが息吹いているとは、味わい深い表現です。造られたものは全ていつか形を失っていきます。命と存在を与えてくださった神さまのご意志にお応えできている日々ばかりではなく、気づけば神さまの言葉に背を向け、神さまが与えてくださっているものを尊ばず、損ねている時も多々あります。けれど、私たちをお造りくださった方の言葉は、一人一人の肉体の命の時を超えて、一人一人の不完全さを超えて、真実であり続けます。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」（イザヤ40：8）。だから私たちは神さまの恵みが息吹いている神さまの言葉を、私たちの「道の光」、私たちの「歩みを照らす灯」（詩編119:105）とすることができるのです。
神さまが言葉によってご意志を示し、恵みによって生かしてくださることを、ヨハネによる福音書の序文は独特の仕方で伝えます。リズミカルに言葉を重ねていくこの序文は、キリストを賛美する歌とも言われます。その中で語られる「ことば」という語に、日本語の聖書は葉っぱの「葉」がつかない「言う」という漢字一文字をあてて、その独特な意味を表現します。「言」と訳されている元のギリシア語は、それほど珍しい字ではなく、新約聖書全体で用いられています。一般的な「言葉」を指すものから、「話」や「質問」、「説教」など、実に多様な意味を表すものとして、登場します。しかし今日の箇所とヨハネの手紙Ⅰの序文（1：1）では、この語は御子キリストを指します。御子イエス・キリストこそ、神さまのご意志そのものであり、神さまのご計画を完成される方であり、神さまの命であり、私たちに命をもたらす方であります。いまだかつて、神さまを見た人はいません。父なる神のふところにおられる方が、唯一、神さまを見た方です（ヨハネ1：18）。神さまとはどのような方であり、神さまのご支配とはどのようなものであるのかを知っておられるただお一人の方です。私たちがその方を知り、その方のご意志にお応えすることが本来の生き方でありながら、そうしきれない、だから私たちにとって最も知らなければならない神さまを、ただお独り、そのみ心を共にするように知ってこられた方です。この方以上に、私たちに神さまを示すことのできるものはいません。主イエスが述べられたこと、み業を通して示されたこと、それらほど私たちが信頼できるものはありません。み子は、天から私たちを眺めながら、神さまについて私たちにレクチャーされたのではなく、言として私たちの間に宿られ、肉となられました。人の不完全さ、自己中心さ、何が正しいのか分からず迷う不確かさ、自分を正当化するためには自分が追わねばならない責任も誰かに擦り付けてしまう暗いエネルギー、それらが最も力を発揮しているところは、人々の内側であり、人々の間です。そこに神さまは独り子を、同じ肉体を持つ者として送られました。人々を現実に救い出すために、徹底的に、完全に救いを実現するために、御子は人となられました。このキリストが私たちの言です。草は枯れ、花はしぼみますが、キリストはとこしえに立ち、私たちの道の光、私たちの歩みを照らす灯であるのです。
人は神になることはできないのに、神になりたがります。神であるかのように自分自身を支配したり、他者を支配したがります。神さまはこの私たちを、神さまの祝福の中、神さまの恵みを呼吸するように生きることへと立ち帰らせるために、み子を人として世にお与えになりました。神の子と呼ばれる資格を本来のご性質において持っておられるただお一人の神のみ子を人とされ、私たちの身代わりとなって死んでくださったことで、私たちも神の子と呼ばれるものとされました。独り子が持っておられた神の子としての神さまとの関わりを私たちに与えてくださいました。父なる神も、御子を愛するように私たちを愛してくださり、私たちの「天の父」となってくださいました。この神さまの救いの恵みによって、私たちは幼子のように心から神さまを「アッバ、父よ」と呼ぶことのできる者とされました。エフェソの信徒への手紙にこうあります、「（神は）イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」（1：5～6）。愛する御子を人としてくださったことによって神の子とされた私たちは、同じように神の子とされた多くの兄弟姉妹と共に、天の恵みの栄光を心を合わせて讃美することができるのです。
人は、神さまを見ることはできませんが、イエス・キリストを通して、天の栄光を見てきました。ヨハネによる福音書も今日の箇所で、「わたしたちはその栄光を見た」と述べています。地上の私たちを引き付ける輝きとは異なる、天からの輝きです。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」（ヨハネ1：5）とこの福音書が語るように、暗闇に塞がれた目で見ることができるのは、宿屋に泊まる場所もない状況で誕生の時を迎え、ベッドではなく飼い葉桶に横たえられた貧しい家庭の赤ちゃん、キツネには穴があり、空の鳥には巣があるのに、枕するところも無い（ルカ9：58）旅を続け、捕らえられ、嘲りと鞭を浴びせられ、町の外にひいていかれ、重罪人として死刑を執行され、薄い亜麻布で巻かれて墓に横たえられた遺体です。輝かしさとは真逆にあるような姿です。私たちが期待するような見るべき面影や、輝かしい風格や、好ましい姿はありません。軽蔑の対象となり、弟子たちからも見捨てられ、多くの痛みと傷を負った死者の姿です。苦境に置かれた時の私たちと重なるところもあれば、それ以上に悲惨な人間の姿です。けれど自分の期待という物差しで見るのではなく、内なる目で、聖霊の灯りに照らされて見るならば、人々の闇のような敵意や拒絶に私たち以上に苦しみを追われたこの方は、父なる神の独り子であり、神さまの輝きに輝いておられる方であります。特に復活の出来事から主イエスを見るならば、既に地上にお生まれになり、人として歩まれ、十字架で命を捧げてくださったその姿に、恵みと真理が満ちていることに気づかされます。それは世の物差しや自分の期待値では測りようの無い豊かさです。測るどころか、満ち溢れ、溢れ出し、私たちをも満たす豊かさです。世の物差しや、自分の期待に応えることに救いを求め、満たされずにいるところから私たちを救い出すため、神さまはキリストによって恵みをもたらしてくださいました。祝福された命を生きることを渇望し、自分や他者や世界について、神について知りたいと真理を求めながら彷徨い、それらに向かって必死に手を伸ばしながら獲得することができないでいる私たちのために、神さまはキリストによって真理を示してくださいました。世の栄光ではなく、父なる神の独り子としての栄光のうちに満ちている恵みと真理によって、私たちを照らすためであります。
16節に、「この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。「満ち溢れる豊かさ」と訳された語は、ギリシア語ではたった一つの言葉です。その言葉には「満たす」という意味と共に、「完成させる」「成し遂げる」という意味もあります。私たちが受ける絶えざる恵みの源は、キリストの溢れ出すほどの豊かさであり、その恵みは、ただ一時の幸いをもたらして終わるものではなく、神さまが成し遂げてくださる完成へと至る恵みです。この恵みをキリストは、教会を通してお与えになります。教会の頭なるキリストが、ご自分のうちに満ち満ちている恵みを、からだの手や足であるわたしたちに伝え、分け与えてくださいます。一人一人とキリストとの間の特別な結びつきを流れるのは、神の独り子の全ての富、すなわち恵みや真理、聖霊の息吹き、いのちです。またこの結びつきを通してキリストは、父なる神とご自身との関わりを、父なる神がどのような方であるのかを、示してくださいます。ヨハネによる福音書の14章で、フィリポが主イエスに「私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と要求する場面があります。このフィリポに主はこう言われます、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。私が父のうちにおり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである」（14：8～10）。神さまの言なるみ子の言葉を聞くことは、神さまに聞くことであり、神さまを見ることであり、それは既に神さまから与えられている恵みと真理にも目を向け、耳を傾けることであります。
独り子、主イエス・キリストの前でこそ、私たちは自分の貧しさ、欠けを知ります。そして自分の貧しさや欠けに落胆するのではなく、主によって溢れる豊かに日毎に支えられていることに気づかされます。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」との主イエスの言葉に、深く頷く者とされます。この主への信仰を、教会は使徒信条において「その独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白してきました。世々の聖徒と共に、世界中の神の家族と共に、この信条を用いて、神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みをたたえることのできる幸いを感謝いたします。