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市川正人「表現の自由とヘイトスピーチ」『立命館法学』３６０号（２０１５年）
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『月報司法書士』のために執筆したのに掲載されなかったので、若干補正して『立命館法学』に掲載したもので、論文ではなく「研究ノート」とされている。日本語の意味でのエッセイである。
日本国憲法の表現の自由の保障に関する従来の解釈を確認し、ヘイト・スピーチの法規制の可否について論じる。特に、特定の個人・団体に向けられていないヘイト・スピーチの規制問題である。思想の自由市場論を前提に、アメリカの「ブランデンバーグ判決の基準を満たすような人種集団に対する暴力行為の煽動や、侮辱を自己目的とするような特定の民族に対する特にひどい侮辱的表現を処罰するような、きわめて限定的なヘイトスピーチの処罰ならば、規定の文言が明確であるかぎり、日本国憲法の下でも許容性があることになる」としつつ、それと政策的適否は別問題とし、さらに慎重さを期す立場である。例外中の例外としての処罰は許容されると言うが、具体的には不明である。憲法学の論文としてはよくあるパターン。
内容的に見るべきところはないが、私を批判しているので、取り上げておく。ヘイト・クライム／ヘイト・スピーチをめぐる議論が２００７年頃から盛んになってきたが、憲法学者の論文は、私の見解に言及するものが少ない。明らかに私を指しているのに、私の名前を出さずに批判する、いやらしい論文がいくつもある。憲法学者の作法なのだろうか。だから憲法学者はダメなのだと言いたいくらいだ。
他方、はっきりと私を名指しして批判してくれたのは、獨協大学の成嶋隆さんだ。そこで成嶋さんからの批判に応答する論文を書いたが、それは内田博文博士古稀記念論文集に掲載予定だ。ほかの執筆者が遅れたとかで、出版が延び延びになっているため、まだ出ていない。出たら、成嶋さんに送ろうと思う。
成嶋さんに次いで、市川正人さんが２人目である（私が見た範囲では）。さて、市川論文には次の一節がある。
「こうした拙稿のような立場については、ヘイトスピーチがマイノリティの人々に対して与えている被害についての理解、想像力を欠いたものである、所詮、マジョリティの立場からの立論に過ぎないといった強い批判がある（２４）。確かに、ヘイトスピーチの問題を考えるにあたりマジョリティに属する者にはマイノリティの人々の被害についての想像力が求められる。しかしまた、ヘイトスピーチを禁止し処罰する法律を制定した場合、それがわが国における表現の自由の保障に対してどのような影響を与える可能性があるかについての想像力も必要ではないだろうか。」
註（２４）には、前田朗「ヘイト・クライム法研究の論点」法の科学４４号と、師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』（岩波新書）が列挙されている。はっきりと明示して批判してくれると気持ちがよい。それに対して、明らかに私を意識しながら、名前を出さず、誰の主張を批判しているかわからないようにしている文章を読まされるのは気持ちが悪いものだ。
市川からの批判については別の機会に論文で応答しようと思う。その骨子は、１）すでに何度か書いたが、思想の自由市場論そのものへの批判（それゆえ、思想の自由市場論を無批判に取り入れている憲法学批判）、２）日本国憲法の基本精神に従って、表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するべきだという解釈。３）憲法２１条と１２条、１３条、１４条の関係。４）レイシズムは民主主義に反するのに、「民主主義だからヘイト・スピーチを処罰できない」という思考の誤り。５）上記引用文の「しかしまた・・・」の前後における二者択一思考の誤り、ということになる。
最も重要なのは、「しかしまた・・・」と言う前に、マジョリティの表現の自由がマイノリティに対する差別を擁護する根拠になりうるのかについて、市川の見解を明示するべきである、ということだ。肝心のことを書かずに、「しかしまた・・・」などと、論点をずらすべきではない。