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シュールレアリスムの代表的女性アーチスト、メレット・オッペンハイムは３０年間住んだ第二の故郷ベルンの美術館に、死後、全作品を寄贈。それに敬意を表し、この度ベルン美術館は「メレット・オッペンハイム回顧展」を開催した。
若くして、一躍シュールレアリスムの代表的女性アーチストになったメレット・オッペンハイム。だが、その後の創作の道のりは安易なものではなかった。
シュールレアリスムの伝説的作品『毛皮の昼食』で若くして有名になったメレット・オッペンハイム。が、その後の創作の道のりは、容易なものではなかった。18年間の沈黙の後、再出発し、「見えないも」をいかに視覚化するかという探求を続けた。その探求は様々なテーマ（夢の世界、仮装、多様な雲、霧、神話、惑星、等々）のもとに作品になっていった。
『毛皮の昼食』/ 出発
マン・レイの写真にきれいな横顔を見せ、裸で美しいポーズをとる女性を覚えている人は多いであろう。このモデルが若き日のメレット・オッペンハイムである。
ドイツ人を父にスイス人を母に、少女時代を主にスイスで過ごしたメレット・オッペンハイムはアーチストを志し、19歳でパリに行き、シュールレアリスム運動の渦の中に飛び込む。モンパルナスの三大美女とまでいわれた彼女は詩人、画家たちのミューズであった。
1936年、「オブジェから作品を作ること」を自分の手法とし、コーヒーカップを毛皮で覆う。毛皮と陶器の組み合わせはシュールレアリスムの旗手アンドレ・ブルトンを喜ばせ、彼がこれを『毛皮の昼食』と命名するのである。この作品はシュールレアリスムの代表的作品になるのだが、メレット・オッペンハイム、イコール『毛皮の昼食』という神話を作り、その陰で他の作品は長い間、日の目を見なかった。
『石の女性』/ 沈黙
皮肉にも『毛皮の昼食』の成功のせいでパリのけんそうに巻き込まれ、自分の道を見失ってしまったメレット・オッペンハイムはバーゼルに戻り（1938年）、工芸学校に通うようになる。以後18年間、創作を中止するのだが、この時代学んだユングの精神分析はその後の創作の礎をなす。1938年の『石の女性』と題された、浜辺に横たわる、石の組み合わせでできた女性の体を描く作品はこの時代の心の麻痺状態を象徴するといわれている。
『春の宴会』/ 再出発
「癒し」の時を経て、再出発をめざし、1957年ベルンにアトリエを構えたメレット・オッペンハイム。1958年には『春の宴会』と題したパーフォーマンスをベルンで企画。これは女体盛りならぬ、裸の女性の体の上に招待客の食事を並べたものだった。
しかし、彼女はスキャンダルをねらったのではない。毛皮と陶器が組み合わされたように、女性の体と食事が組み合わされ、我々の中に、思いもよらない感覚や想像力を呼び起こすのである。彼女程、「無意識」「目にみえないもの」を生涯、探求、実験し続けたアーチストはいないだろう。
今回の回顧展はその探求の姿勢を尊重しようと、年代別ではなく、次のようなテーマ別に作品を分け展示する。「夢の世界、色々な考えの結びつき、仮装、多様な雲、霧、惑星、へび、神話、等々」。これらのテーマは絵、彫刻、デッサン、オブジェ、詩、夢記述、デザイン画 と多様な表現手段を通して「形」になる。例えばブロンズの彫刻『橋の上の6つの雲』（1975）は本来、「軽い」素材の雲がブロンズという「硬い」素材に姿を変え、まるで6人の人がダンスするようにユーモラスに並ぶ。
200点近い作品はこうして一点一点我々を驚かせ、初期の『毛皮の昼食』にすでに萌芽としてあったもの、彼女の探求、彼女の人生を総体的に見せてくれる。
swissinfo、里信邦子（さとのぶくにこ）、ローランス・ショービ
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「メレット・オッペンハイム回顧展」は6月2日〜10月8日までベルン美術館で開催。インフォボックス終わり
補足情報
- メレット・オッペンハイムは1913年、ハンブルク出身の父とスイス人の母の間に生まれる。
- バーゼル、ティチーノなどで少女時代を過ごす。1932年パリに行き、アンドレ・ブルトン、マックス・エルンスト、マルセル・デュシャン、ハンス・アルプ、アルベルト・ジャコメッティ等と交流。
- 1936年『毛皮の昼食』製作。シュールレアリスムの代表的作品の一つとなる。
- 18年間、創作を中止した後、1954年再開。
- 1958年、ベルンで『春の宴会』企画。数カ月後、パリでも行われる。
- 1985年、バーゼルで死去。