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スイス人作家マティアス・アケレット氏は、自殺ほう助で亡くなった女性の本を書いた。そのエピローグで、自殺ほう助に批判的な考察を記した。その一部抜粋した内容を紹介する。
「自殺ほう助」は誰が見ても誤解しようがない、言葉通りの意味だ。ゴールは「終えること」。そう初めから決まっている。
私の視点
これはオピニオン原稿です。スイスインフォが選んだ専門家、政策決定者、オブザーバーの文章を定期的に掲載しています。スイスにまつわるトピックについて独立した見解を読者に提示し、活発な議論に寄与したいーというのが目的です。ここで掲載された論評は、スイスインフォの意見を必ずしも代表するものではありません。インフォボックス終わり
自殺ほう助―または安楽死―スイスにはエグジット他のサイトへ、ディグニタス他のサイトへという2つの主要な自殺ほう助団体がある。それはひとえにスイスの特異性の表れであり、刑法115条のおかげだ。刑法115条は、自殺ほう助の介助者が罰せられるのは「利己的な動機のために」行われた場合のみ、と定める。それが認められなければ、処罰されることはない。例えば倫理的、人道的、特に非営利的な理由が認められる場合は処罰されない。
80年前、スイスの刑法に規定されたこの条項は、当時の思想を反映している。立法府は「良かれと思ってした」人が罰せられる可能性を排除したかったのだ。例えば「一般的な犯罪」で独房に拘留中の士官のために、友人がこっそり銃を届ける場面を想像してほしい。士官がその銃を使って、自死できるようにーという理由で。
スイスのドイツ語圏日刊紙ターゲスアンツァイガーはのちに「死のビジネスモデル」という身震いするような見出しの記事を掲載したが、1937年に法律が施行されたとき、「友の助け」を可能にしたこの規定がまさか世界に名をはせるビジネスになろうとは、誰も予想していなかった。
市場経済に課せられた規制は数を増しているが、自殺ほう助においては自由市場が機能しているー少し皮肉を込めて言えば、それは本当に「生きている」のだ。
スイスではこの間、自殺志願者に「媚びへつらう」組織として5団体が認知されるようになった。最も広く知られているのは、最大組織のエグジットだ。1982年に「人間らしい死のための団体」として創設された。創始者の1人は、ベルン出身の教師ヘドヴィック・ツルヒャー。ツルヒャーは17年後、治る見込みのない病気を理由に、エグジットのサービスで死亡した。
エグジットは最初のステップとして、（死を望む）患者の同意書を導入。1984年に最初の自殺ほう助を行った。またフランス語圏でもジュネーブに1982年、エグジットA.D.M.D他のサイトへが創立されている。2つの団体―ドイツ語圏とフランス語圏―は、それぞれを「独立した姉妹組織」と見なす。
1998年、好戦的でカリスマ性のあるチューリヒの弁護士ルートヴィヒ・A・ミネリは、周りの反対を押し切ってエグジットのメンバーを辞任。その後まもなくジャーナリストとして、またスイス人初のドイツ誌「シュピーゲル」特派員として名をはせた彼は、娘と「ディグニタスー人間らしい生と死をー」を設立した。ディグニタスは外国人の受け入れに主眼を置いた団体だ。
グドールさんの最期の不満は、死ぬまでに非常に時間がかかったことだった。エターナル・スピリットは、元ディグニタス所属の医師エリカ・プライシヒによって設立された。プライシヒは、同じ理念を持つ協会ライフサークルも主宰。団体によると、これまで600人に自殺ほう助のサービスを行った。
注目すべきは、「死の市場」に参入する場合、当局の許可や免許が必要ないということだ。
スイスの「デスツーリズム（安楽死の旅）」は、世界中で話題になっている。 「スイスへ行く」は、イギリスでは（自殺ほう助を受けるという）隠語として使われている。フランスのスター作家ミシェル・ウエルベックが著した小説「地図と領土」でも、ディグニタスが奇妙な、短い登場の仕方をしている。主人公ジェドが父親の死をめぐり、自殺ほう助団体の従業員を殴りつけるのだ。組織のパトロンであるルートヴィヒ・A・ミネリは、これまでやってきたのと同じように、小説の出版元を訴えたが、負けた。ウエルベックは、フランクフルター・ルンドシャウ紙のインタビューで「ディグニタスには反対だ。自殺ほう助は殺人、それ以外にない」と断言している。ドイツ文学の神童ダニエル・ケールマンでさえ、自身の小説「栄光」の中で、主人公の女性が自殺ほう助を受けるため、チューリヒに向かう場面を描いた。しかし、電車の中で、彼女は今がその時ではないことを悟る。
外国人の場合、自殺ほう助には約1万フラン（約110万円）がかかる。ディグニタスは営利目的だという非難（つまり利己的な動機とみなされること）を避けるため、ある自殺フォーラムに投資している。その団体は生きることに疲れた人たちがネット上で思いをぶつけあうことを目的にしたものだが、抑止力はない。いわば（自殺予防ホットラインの）「提示された手他のサイトへ」のようなものだ。マルティン・ウァルザーの小説「死にゆく男（仮訳）」のおかげで、文学的な奉献も受けた。これらすべての「努力」のために、自称「戦う機械」のルートヴィヒ・A・ミネリは、年間平均16万フランの給料を自身に支払っている。
2017年、エグジットは734人、「ライバル団体」ディグニタスは222人、エターナル・スピリットは73人の自殺ほう助を行った。スイスでは1日におよそ3人が自殺ほう助により死亡した。その数は増加傾向にある。
月並みな質問だが、これは普通なのか。地球上で最も裕福な国なのに、死にたいと願う人がそんなに多いのか？貧しい国よりもずっと？
他の文化圏や国々の人々は、ぎりぎりの生活の中で生きようともがき、あらゆる方法を使って欧州に来ようとしているのに、我が国の自殺ほう助団体といえば、もはや自殺ほう助の需要をさばくことが出来ず、彼らの言葉を借りていえば（死を望む人たちが）「ウェイティングリスト」入りしているというのだ。
それにもかかわらず、スイス国内の批判は驚くほど穏やかだ。自殺ほう助は現在、（チョコレートの）トブラローネ、あるいはマッターホルンのように、スイスのDNAに根付いているように見える。 ディグニタスとエターナル・スピリットだけが行っている海外からの「デスツーリズム」でさえも、この国では大きな反発が起きない。もしかしたら一定の「慣れ」効果が起こり、批判を引き起こすきっかけを失ったのかもしれない。自殺ほう助は以前にように、住宅街の一角で行われなくなったから。
チューリヒ州では以前、自殺ほう助とデスツーリズムの禁止を求めるイニシアチブ（住民発議）が出され、2011年に住民投票が行われたが、78.4％と84.5％の反対でいずれも否決された。自殺ほう助支持派には、このビジネスモデルが合法だというお墨付きを得たようなものだった。エグジットのベルンハルト・ズッター代表にとっては、反対する人は結局のところ「宗教原理主義者」なのだ。ズッター氏は住民投票後、スイス通信の取材に対し、州も教会も、死ぬことについて口をはさむことはしないだろうと述べた。
だがその一方で、グロテスクな気分にさせるものがある。それは、いかなる駐車違反もスピード違反も厳しく罰する国が、賛否の分かれる「（自殺ほう助という）行為」と「死の天使」に関する問題については、野放しにしているという点だ。ディグニタスの創設者ルートヴィヒ・A・ミネリは、若者にも自殺の権利を認める。エグジットの元代表で「死の思想家」のヴェルナー・クリシー牧師は、医師の診断の付いていない高齢者―長期的には処方箋がなくてもー、死に至ることができるペントバルビタールナトリウムを容易に入手できるようにするという過激な要求を出した。これは「個人の自己決定の権利」の一環だと。そのような要求に反しー少し皮肉を込めて形作られたー米国の武器法は非常に厳しい。
非常に皮肉ともいえるのは、スイスの自殺ほう助のパイオニアたちが高齢で、しかもうらやましいほどの活力を持っている点だ。エグジットの共同創設者ロルフ・シグは100歳、ルートヴィヒ・A・ミネリとヴェルナー・クリシーは80歳をとうに超えている。それが意味するのは何か。自殺ほう助団体関係者の死にたい気持ちは驚くほど低いのだ。自分の身に遠い話だから、死の権利を哲学的に思想するのが容易なのかもしれない。
80年以上前に刑法115条ができた当時、その動機は間違いなく正当だとみなされた。だが、現在稼働する「死の産業」全体が依然、この基本的な考え方に沿っているといえるのだろうか。
本当に全てが許可されるべきなのだろうか？他人から自分を守ることは、時には必要ではないのだろうか？
自殺を選択する決定をしたら、もうその後はない。自殺ほう助―法律で規定されているーは、行為にかかわったすべての人が、崇高な動機のみに基づいて行動するという前提があって成立する。しかし、これが常に当てはまると誰が保証するのか？自殺ほう助を禁止した外国の立法者たちにも、それぞれ理由があるのだ。
スイスの自殺ほう助団体は、医師の診断と「顧客」の判断力を証明する文書があって初めて、ターミナルケアを実施する。エグジットのホームページには「健康な若者」も理論的には自殺ほう助が可能だと記してある。しかし、それには本人が「責任の重さ」を認識し、スイスの法律と管轄法、エグジットの規則が定める独自の基準、内部ガイドライン、エグジットが拠点を置くチューリヒ州との合意に違反していないことが条件になる。本人が「治る見込みがない」、「耐え難い痛み」、あるいは「深刻な障害」に冒され、自殺ほう助が「唯一」の方法であると判断されなければ適用されない。これを読むと、自殺ほう助のハードルは非常に高いことが分かる。
「健康な若者」が自殺ほう助をすることは、理論的には可能だが、一般的ではない。しかし、過激な思想家にとって、それはもはやタブーではない。ザンクト・ガレン州ゴッサウの団体「自決における生の真実の権利他のサイトへ」（ERAS）がチューリヒ州を相手に起こした裁判は、連邦最高裁判所にまで至った。これは州医が2015年、健康な人に致死量のペントバルビタールナトリウムの処方をしてほしいという申し出をきっぱりと拒否したというものだった。連邦最高裁判所は、この要求が持ち得る爆発的な影響を鑑み、チューリヒ州の決定を支持する判断をした。
この事例が指し示すのは、市民の命を守る国家が以前に増して、過激さを帯びる死の思想家たちの要求にさらされるようになったということだ。
スイスの自殺ほう助に対する批判は、通常はタブーだ。海外では違う。フランスでは、74歳のジャクリーン・ジョンケルさんが全く健康であるにもかかわらず、2020年1月にベルン州ザーネンでライフサークルの助けを借り、自殺ほう助することを決めたと公表。これに対し不協和音が生じている。それだけでなくジョンケルさんは、自分の死に報道陣を立ち会わせ、ドキュメンタリーを作りたいという。
おそらく、この国ではそれがスイスの特異性なのだろうー山岳民族に向けられた（外からの）一般的なイメージを払しょくしたいがため、特に自由に、そして過激に振る舞うということが。
あらゆる懸念を押しのけ、年間1千件以上に上る自殺ほう助は、熟練の手順を整えたビジネスモデルに成長した。これは、個々の団体が企業的な圧力下に置かれていないかという疑問を生じさせる。平たく言うと、「顧客」に譲歩するため、あるいは組織の「運営目標」を達成するために、死にたいという候補者の医学的診断に、少し目をつぶったりすることはないのだろうか？
実際、「通常でない死」が起こるたび、警察・検察が連絡を受けて現地に赴き、死亡した状況が自殺ほう助団体の申告と合致するかどうか、また死亡者の判断力を証明する文書など、正式な手続きを踏んでいるかなどを厳しくチェックする。
しかし、それは理論に過ぎない。
声明によると、チューリヒ検察庁は、自殺ほう助の場合、つまり彼らの知る自殺ほう助団体によって行われた自殺の場合、規則上、実況見分には行かない。このため「行為」が発生した後、警察官１~2人と自治体所属の医師が現場に向かう。見分は単なる形式的なものだ。検察によると、それは「はっきりしない点」を見つけることではなく、第三者による違法行為がない、殺人の可能性はないことを確認するのが目的だという。ただこれは比較的まれなケースで、チューリヒ検察庁は目撃者がいないことを理由に、実際に立件に至るのは非常に困難だと話す。
しかし、死に至る前の段階でキャッシュフロー、つまり遺贈（レガテ）につながっているのかという重要な疑問は、いまだはっきりしない。ハインリヒ・コラー元司法省事務次官もかつて時評に（解明は）無理だと記している。コラーは「少数の優秀な検察官を動員し」、自殺ほう助で「利益」が生まれているのかどうかを解明することが必要だと述べた。
2017年に実施された約1千件の自殺ほう助のうち、わずか約20件でもその正当性を証明できないのであれば、現在行われている自殺ほう助は倫理的な理由だけでなく、法的理由からも排除されなければならない。
単に禁止する―または少なくともさまざまな組織を通じて寄付・遺贈を得ることへの許可を義務付けるーは、この高貴な「遺贈」という言葉を再び使うために、そして「倫理的」な理由からも、歓迎されるだろう。
「今からエグジット（出口）に行く」は、スイスでは名文句になった。ただし誤解される可能性もある。高齢者、そして病に冒された人は、罪を犯したくないと思っている。しかし、自殺ほう助を望むのは、高齢者や病人だけではない。自殺ほう助に年齢は関係ない。チューリヒ検察庁は、「高齢者」の自殺ほう助は確かに「ごく普通のケース」だと回答した。どれだけの若い人たちが自殺ほう助でこの世を去ったのか、実際の数字はないとした。
しかし、チューリヒ検察庁は、自殺ほう助団体が思春期の若者に自殺ほう助の権利を認めたとしても、「抑制効果にしかならない」とみる。ただ、国内にそれに関連する統計が存在しないというのは、奇妙だとしか言いようがない。
さらに、自殺ほう助団体はほかの業界よりも政府の信頼を得ているのではないかという疑問も生じてくる。例えば一部の飲食店は、法定閉店時刻を守らない、または禁煙規制を破ったというだけで罰せられるからだ。 おそらくそれは、死という不快なテーマに対する無知のあらわれであり、あるいはこの国で行われている自殺ほう助が、ずっと前から制御不能に陥っていることを示すサインなのかもしれない。
（独語からの翻訳・宇田薫）