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第６９回ロカルノ国際映画祭で日本映画は今年、国際コンペティション部門に塩田明彦監督の「風に濡れた女」と富田克也監督の「バンコクナイツ」の２作が、新鋭監督コンペティション部門に真利子哲也監督の「ディストラクション・ベイビーズ」が招待されるという快挙を果たした。同映画祭の芸術監督を務めるカルロ・シャトリアンさんに、これら三つの日本映画に対する評価と選考理由を聞いた。
「選考理由を端的に言えば、この三つの作品がとても気に入ったからだ」とシャトリアンさんは開口一番こう話した。さらに、「ロカルノのコンペティションの選考基準で一番重要なのは、映画そのものの芸術性だ」と言い切る。国や主題、ジャンルなどとはまったく関係のない、純粋にその映画が持つ芸術性の高さが問われると続ける。
その次に重要なのは、「それぞれの映画がまったく異なり、選考された映画が最終的に多様性に富んでいることだ」。言い換えれば、たとえ主題において似ることがあるとしてもスタイルや表現・主張に類似性があってはならないという。「そういう意味で、今回選ばれた日本映画の３本は、『映画言語』がまったく違っていて、我々の選考基準に合っていた」
以下、塩田監督の「風に濡れた女」、富田克也監督の「バンコクナイツ」、最後に真利子哲也監督の「ディストラクション・ベイビーズ」の順で、シャトリアンさんの評価を聞いた。
swissinfo.ch： 塩田監督の「風に濡れた女」は、７０年～８０年代の日活ロマンポルノからインスピレーションを得て制作されました。話は、過去を忘れようと山で隠遁生活を送る高介が、ある日出会った野性的魅力に溢れる女性、汐里（しおり）のとりこになっていくといったものです。どう評価されますか？
カルロ・シャトリアン： まず日活ロマンポルノという、日本の特別なジャンルに敬意を表したい。「風に濡れた女」は、物語性がしっかりとある映画だ。そして次の二つのことがとても新鮮だった。
一つ目は、作品にユーモアとアイロニーがあることだ。これらは人生に必要不可欠な要素だから、それらが映画に組み込まれているのは、とてもよいことだと思う。
二つ目は塩田監督が、（元劇作家だった高介を訪ねてきた劇団員が即興劇を演じるという形で）劇を映画の中に挿入したことだ。
物語を展開するために使ったものだと思うが、演劇とセックスはいわば対極にあるものだ。なぜなら、演劇は型にはまっていて非現実的。ところがセックスは現実の世界のものだ。この現実の世界（セックス）へと女性の主人公・汐里は、高介を引っ張っていく。このコントラストがとても気に入っている。
それに、カメラの動きとトーンに軽さがある。それも驚きだった。
swissinfo.ch： 富田監督の「バンコクナイツ」はどうでしょう？元自衛隊員だった小沢がタイの女性と恋に落ち、その後ラオスに行くといったさまざまな展開を見せる作品ですが。
シャトリアン： 富田監督は若く、５年前に作品「サウダージ」でロカルノ映画祭の国際コンペティション部門に招待されている。ロカルノ映画祭には、一つの特徴として、ここが発見した若き才能の「その後」を追いかけるというところがある。
今回の彼の作品は「偉大なフレスコ画」だ。つまり、出発点はほとんどメロドラマ的な「愛の物語」から始まる。ところがこの「愛」の周りに、タイという国のさまざまな姿や、それらを通して浮かび上がる日本の姿などをちりばめて描いていく。それは、まるでフレスコ画のような連続性を持って描かれている。
外国を描きながら自国をも描こうとしたのだから、彼が作り出したものは大きな挑戦だった。
僕は、この作品が大好きだ。元自衛隊員の小沢が５年前に出会ったタイの女性と再会し恋に落ちるが、彼女が小沢をラオスとの国境付近にある自分の故郷に連れて行くことで、まったく違う世界が広がる。つまり、小沢はその後ラオスに行き、そこで戦争や混沌とした状況に遭遇する。このように、この映画はまったく自由に展開していき、そのことで我々の精神を自由にしてくれる。
前に若い監督の「その後」を見たいと言ったが、「サウダージ」と「バンコクナイツ」は、扱う主題は異なるが、同じ「映画言語」が使われ、同じ方向性の中で継続している。例えば、歌や詩などが突然挿入されて話が切断され、それが新鮮な驚きをもたらすが、そういう「映像言語」が共通している。
swissinfo.ch： では、真利子哲也監督の「ディストラクション・ベイビーズ」をどう思いますか？四国・松山を舞台に、主人公の泰良（たいら）の暴力を描いた作品ですが。
シャトリアン： 主題は、日本映画がよく取り扱う「若者の暴力」だ。しかし今回この映画で驚いたのは、暴力そのものの表現だけではなく、社会が暴力をどう取り扱うかも表現していることだ。例えば、けんかの現場はスマホで撮影され、ソーシャルメディアで流されたりする。
泰良の暴力性だが、彼は育った町を離れ、その後もけんかを続けていく。そしてけんかに喜びを感じている。しかし同時に、その暴力は苦しみの表現でもある。
暴力は世界のどこにでも存在するものだ。だが、日本においては特に社会に多くの緊張・摩擦があり、それによって引き起こされる内面の苦しみを暴力でしか表せないことは問題だと思う。
技術的には、この映画は「継続性」のある作り方になっている。例えば、富田監督がモンタージュをたくさん使い、いろんなアングルの映像でつないでいくのとは対照的に、カメラは人物を追うように継続して動いていく。だから、見る人はその場にいるような気分になる。
swissinfo.ch： 最後に、もしこの３本を少し離れて眺めた場合、扱う主題もスタイルもまったく違うにもかかわらず、なにか共通して作品からにじみ出るような「日本的なもの」があると思いますか？
シャトリアン： 映画は監督の作り上げる特別な世界なのだから、日本的なものという観点で大きく括ることは難しいのではないかと思う…。さらに、僕は日本の社会をまったく知らないので、そういう判断はできないと思う。
ただ、（日本に対し持っている知識からすれば）、恐らくそれぞれがそれぞれのあり方で、とても日本的なのだとも思う。例えば塩田監督の作品は、まるで歌舞伎のようだ。富田監督の作品は、外国にさらに展開していく今の日本の姿を見せ、真利子監督の作品は、日本社会に昔からある「暴力性」を、違う形で再び問いかけているのだと思う。
カルロ・シャトリアンさん（Carlo Chatrian）略歴
ジャーナリスト、作家、映画上映のプログラム制作者であるシャトリアン氏は、２０１３年からロカルノ国際映画祭のアーティスティック・ディレクター（芸術監督）を務める。
１９７１年、イタリアのトリノ生まれ。トリノ大学で、文学、哲学、ジャーナリズム、コミュニケーションを学ぶ。
１９９０年から映画雑誌に映画批評などを書き始める。
エロール・モリス、ウォン・カーウァイ、ヨハン・ファン・デル・クーケン、フレデリック・ワイズマンなど、数多くの監督の伝記や研究論文を刊行した。
２００１年～０７年までアルバ国際映画祭（Alba Film Festivals）の副ディレクターやフィレンツェの映画祭（Festival dei Popoli）とスイス・ニヨンの映画祭（Visions du Réel）の選考委員会メンバーを務めた。
ロカルノ国際映画祭に関わり始めたのは２００２年。２００６年～０９年まで選考委員会メンバーを務めている。インフォボックス終わり
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