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◆ヨハネの福音書４章１節～３０節
4:1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、
4:2 ――イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、――
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
4:27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言わなかった。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
◎「生ける水」前回のメッセージから
主イエスは渇いた私たちの霊を「生ける水」によって満たしてくださる方です。「生ける水」とは神のいのち、また聖霊を指しています。この世が与える水である「この水」に捕らわれていたサマリヤの女のこころは、主イエスとの不思議な会話の中でしだいに開かれていきます。彼女が関心を示したその時に、 主イエスは唐突に彼女の人生の核心部分、一番触れられたくない部分に踏み込んできます。この後の展開からいっしょに学んで行きましょう。メッセージの前に みなさんに二つ質問したいと思います。一つ目は「あなたは正直に生きていますか？」、二つ目は「あなたのこころは自由ですか？」という質問です。
Ⅰ．魂に目を向ける
１．サマリヤの女は自分の問題の解決を求めた
「生ける水を与えよう。」という主イエスのことばに、女は 「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」（４：１５）と答えます。まじめな願いから言ったのか、皮 肉を込めて挑戦的に言ったのか分かりませんが、いずれにせよ彼女は主イエスに向かって「私の問題を解決してください」と訴えていたのです。それに対して主イエスは、「あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と応じられます。すべて見通されていたことを知って女は驚いたに違いありません。５人の男と離婚し今は 別の男と同棲している自分の人生、深く傷つき痛んだ姿を主イエスはご存じだったのです。しかしここを読むと主イエスがこの女の罪を責めるためにこのように 言われたのではないことが分かります。女が彼女の抱えている問題や境遇ではなく、自分自身の魂に目を向けさせようと踏み込まれたのです。
２．主イエスは女を救うために来られた
あなたがどんなに難しい境遇の中で傷ついていたとしても主イエスは、あなたのいるその所まで下りてきてくださる方です。痛んだあなたの姿を見て愛と恵みをもってまっすぐに語りかけてくださる方なのです。そしてあなたが 求めるのであれば、人生の問題の中をあなたと「くびき」を共にして歩んでくださるのです。
主イエスはこの女の問題を解決するために来られたのではなく、問題の中にいる彼女を救うために来られたのです。
最初の質問は「あなたは正直に生きていますか？」でしたね。この女性は、愛情に飢え渇いた自分のこころに対してある意味正直に生きていたのだと思い ます。しかし、そのような生き方、自分のこころの欲求のままに生きる生き方は、私たちを破たんへと導きます。結局は、自分の魂を欺くことになってしまいます。この水（この世が与える水）は決して私たちの魂の渇きを満たすことができないからです。
主イエスは私たちにもう一つ別な生き方を提示しておられるのです。それは救い主の前に、罪に傷ついた自分の姿を正直に認める生き方です。そこにこそ本当の癒しと回復が約束されています。
Ⅱ．真の礼拝者として生きる
１．サマリヤの女は宗教的な質問をした
突然、自分の一番触れられたくないところに触れられた女は驚くと 同時に自分を守ろうとしたのだと思います。彼女はとっさに話題を変えたのですが、彼女が持ち出したのは実に難しい宗教的な（神学的な）疑問でした。サマリ ヤ人とユダヤ人の宗教観の違いについて話し始めたのです。
２．主イエスは関心はのこの女の「魂の渇き」に向けられていた
これに対してイ主イエスはとてもシンプルな 答えをされます。噛み砕いて言うならば「神様が望まれているのは、礼拝の場所や方法ではなく、人がいつでもどこにいても真心からご自身を愛することで す。」と答えられたのです。そしてこの主イエスのことばには「それが、神様があなたにも求めておられることなのですよ。」というメッセージが込められてい ます。
神様が人に求めておられることであるならば、私たちはそのような者になることができるのです。罪の奴隷ではなく、神の国の礼拝者として生きることが できるのです。主イエスは、だれからも尊敬される立場にある宗教指導者ニコデモに対しては「新しく生まれなければならない」と語り、異邦人のみなから軽蔑 されている自堕落な女に対しては「真の礼拝者になるように」と語られるのです。主イエスはほんとうに不思議な方ですね。女性のその後については多く語られ ていませんが、町に帰って「キリストに会った」と証しする彼女に、古い生き方や人の視線から解放され真の礼拝者としての一歩を踏み出した姿を垣間見ること できると思うのです。「霊とまことによって礼拝する真の礼拝者」と聞くと私たちは怖気づくかもしれませんが、主イエスはサマリヤの女に求めたことと同じこ とを私たちにも求めておられるのです。
３．真に自由な人として生きるために
二つ目の質問を覚えています？「あなたの心は自由ですか？」でした ね。主イエスに会うまで、サマリヤの女は自由に生きていたのかもしれません。しかし彼女の選んだ自由は、創造主から遠くに離れて生きるという自由でした。 彼女が選んだ道の行き着いたところは砂漠のような所だったと思うのです。カラカラに渇いた彼女の魂を主イエスはご存知でした。この一人の孤独な魂の元に主イエスは来てくださったのです。その渇きを満たすために・・・。
私たちがサマリヤの女のように、神の国にあって真の礼拝者として歩み始めるならば、私たちは古い生き方から罪の束縛から解放され本当の意味で自由にされるのです。真の礼拝者とは、真に自由な人でもあるのです。
礼拝を一言で説明するならば「何かを一番大切にすること」です。あなたとって一番大切なものがあなたの礼拝の対象です。あなたにとって一番大切な ものはなんでしょうか？真の礼拝者とは「創造主である父なる神様との関係を、いつでもどこにいても何よりも大切にする人」のことです。神様はあなたにそのような人になってほしいと願っておられるのです。