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マルコ12：28～34「神を愛し、人を愛する」
2022年1月30日（左近深恵子）
主イエス・キリストがそのご生涯の最後の1週間を過ごされたエルサレムでの出来事をこのところ共に聞いています。これまで、主イエスのお働きに警戒心と敵意を募らせ、殺意まで抱くようになっていた祭司長たちや律法学者、民の長老たちといった指導者たちと主イエスの間に、論争が繰り返されてきました。指導者たちは主イエスに詰め寄って言い負かそうとしますが、逆に天からの権威に対する彼らのあやふやさが露わにされそうになります。それではと、人を遣わして言葉尻を捉えて陥れようとしますが、寧ろ主イエスの言葉に彼らが驚き入ることになります。今度は揚げ足を取って追い詰めようとしますが、彼らの思い違いが指摘されてしまいます。群衆の反応を恐れてなかなか手を出せずにはいるものの、主イエスの権威とお働きを否定する姿勢はますます強まります。入れ替わり立ち代わり主に挑む彼らは、真理を求めてではなく、主イエスをやり込めるためだけに、問いを発します。しかし、十字架の死へと一歩一歩主を追いやろうとするかのように主に向かっていく彼らと主との間のこれらの議論は、意外な仕方で区切りを迎えます。
それまでなされてきた議論にずっと耳を傾けてきた人々の中に、一人の律法学者がいました。主イエスの言葉一つ一つに打たれ、ただ聞いているだけではいられなくなり、主に自分も問うてみたいと、主の方へと踏み出します。主の言葉が、この人を主との対話の中に招き、主の招きに心の底から動かされ、身体全体で前へと進み出たのです。
この人は主イエスのことを、「立派にお答えになった」と見ていたと言われています。「立派」と訳された言葉は「目的に適っている、適切である、すぐれている」と言った意味や、「正しい」といった意味があります。“このイエスという者はなかなかよく言い返しているではないか”と上から評価しているのではなく、“この方は優れて適切な、正しい答えをされている”と、深い敬意を覚えたのです。
律法学者であるこの人は、これまで主イエスに敵意をもって質問してきた指導者グループの一つに属します。これまでの人々は、常に連れ立ってやって来ました。彼らが複数であったのは、主イエスという人が迂闊に向き合えない、手ごわい相手だと恐れてであったのかもしれませんし、主イエスの言葉が律法の教えに適っていない、神の民ユダヤの教師としてふさわしくないことを立証するため、あるいはローマ帝国の統治に公然と抗う者であることを立証するため、証人は複数である必要があると考えたのかもしれません。けれどこの人を動かすものは違います。主の言葉をもっと聞きたいと心から促されて前に進み出るこの人は、主の逆襲に怯える必要も、有罪を立証する必要もありません。敬意を抱く方に近付ける喜びに背中を押され、一人で主の前へと進み出ます。
主の言葉にお応えしたこの人の行動に、主イエスがかつて群衆にされた「種を蒔く人のたとえ」を思い起こします。神の言葉を宣べ伝える人を種蒔く人に譬えられ、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまう。他の種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのでせっかく芽が出てきても、日が昇ると根がないために枯れてしまう。他の種は茨の中に落ち、伸びた茨に覆われて実を結ばない。良い土地に落ちた種は、芽生え、育って実を結び、30倍、60倍、100倍にもなると言われ、そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と、み言葉を聞いて受け入れなさいと語られました(マルコ4：1～20)。
主イエスの答えを利用するために問う人々のこころは道端であったり、茨に覆われているようなものです。聞く耳をもって問うているのではありません。しかしこの一人の人には聞く耳がありました。身を乗り出すように聞いていたこの人のこころは、よい土地のように、蒔かれた言葉を受け止めてきたのでしょう。
主イエスの、十字架の死へと至るご生涯の歩み、とりわけ最後にエルサレムで過ごされた日々の出来事は、民の指導者たちの主イエスに対する敵意や殺意が際立ちます。彼らが互いに手を組み、主を十字架へと追いつめようとする中にあって、仲間たちの勢いに押し流されず、仲間たちの攻撃の言葉ではなく主の言葉に、この人は神さまのご意志を聞き続けました。この人と仲間たちの間を分けるのは、神の国を求めているかどうかです。神の国とは、国境で分けられた国家のことではなく、神さまの救いの支配を受け入れるところです。この人は神さまの救いが完成されることを待ち望み、自分の人生においてそれが出来事となることを求め、自分ではなく神が王である神の国を求めていたのでしょう。
この人は主の前に進み出ると、あらゆる掟の中でどれが第一でしょうかと尋ねました。「掟」と訳された言葉は、「戒め、律法、命令」などとも訳される言葉です。神さまがご自分の民にみ心に生きる生き方の道標として与えてくださった律法には、こうしてはならないという戒めも、こうすべきという戒めも含め、非常に多くの戒めがあります。それらの戒めを貫いている、核となるものはどれなのかという問いは、律法学者たちの間で常に問われていたことでしょう。これまで指導者たちに律法に込められた神さまのみ心を適切に教えてこられた主イエスに、是非このことを問いたいと思ったのでしょう。
真っ直ぐに最も知りたいことを問うこの人に、主イエスも真っ直ぐにお答えになります。申命記6：4～5に記されている、「イスラエルよ、聞け」と始まる戒めを引用して答えられます。「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた主の言葉とも重なるようです。この戒めは、人々が普段から日に何度も唱えていた、良く知られていた教えです。神の民が信仰生活の核としてきた、この戒めの大切さはよく知っていると多くの人がそう思っていたであろう戒めを、主イエスは第一だと掲げられ、「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われました。私たちの日々は誰を自分の主とするのか、何を第一とするのか、選択の連続です。日常生活のささやかな一つ一つの営みにおいても、大きな帰路に立たされる時にも、私たちの営みや決断がただお一人の神さまを神とし続けることが、信仰生活の根源にあるのだと、戒めは教えます。心、精神あるいは魂、思い、力と、私たちを成り立たせる様々なものが挙げられ、ある面だけではなく私たちの存在全体でもって、全人格をもって、神さまを愛することが求められています。私たちの一部だけで神さまを重んじ、他の部分では、神さまでは無いものを神さまに匹敵する重みで、あるいはそれ以上の重みで大切にしていたら、それは唯一の神さまをではなく、多くの神々を愛していることになります。寝食も忘れて、色々な関りも絶って、常に神さまだけを向いていなさい、ということではありません。神さまを愛することが、日常の営みや大きな決断の根源にあるのだということです。神さまを愛するということは、神さまを礼拝することから始まります。私たちに注がれてきた神さまの愛に対する感謝の応答が、礼拝です。ただお一人の神さまを礼拝し、礼拝を通して新たにみ言葉を聞き、神さまへの信頼に生きる道を祈り求め、与えられた時へとまた踏み出してゆく、この礼拝を土台に、自分が関わる他の人、他のものを愛し、大切にし、重んじる、それが主なる神を愛するということです。
こうして主の次の教えへとつながってきます。主は続けてレビ記19：18を引用して、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われ、これが第二の掟だと言われます。「どれが第一でしょうか」と一つの答えを求められたのに、二つも答えておられるように見えます。しかし二つは不可分な一つのことです。神さまを愛することが、人を愛することにつながらないはずはないからです。神さまからの愛に感謝すること無しに、隣人を愛し続けることはできないからです。律法もそのように、神さまへの愛と人への愛を結びついたものとして教えています。その教えを受け止め直すことへと、主イエスは導いてくださいます。
神さまからの愛の中に、私たちの人に対する関り、人への愛を置くことを教えられます。人への愛には、自分に対する愛も含まれています。神さまから受ける愛が、神さま、自分、他者を愛する源泉です。他者を正しく愛すること、自分を正しく愛することに迷い続ける私たちに主は、神さまから愛されている者として自分を見、受け止め、自分を大切にする。それと同じように、神さまから愛されている者として隣人を見、受け止め、隣人を愛するのだと教えられます。私たちの直ぐにふらついてしまう、何が正しいのか迷い続け、どうしても自己中心的になってしまう、しばしば弱ってしまう思いや理解から生み出されるものではなく、神さまからいただいている愛が私たちの中から溢れ出し、神さまへ、自分へ、隣人へと流れてゆきます。「隣人を自分のように愛しなさい」と言われている「ように」という表現は、程度を表すのではなく、その仕方を表します。自分を大事にするのと同じほどに、ということではなく、自分が愛されているそのように、ということです。神さまからの愛を受け止めることから始まります。私たちの心や精神や思いや力において神さまの愛を味わい、それらを尽くし、私たちの誠実な言葉と真実な行いをもって神さまの愛にお応えすることにまさる戒めは無いと、主は告げられるのです。
主イエスのお答えに、この人の喜びは更に高まります。高揚した姿が目に浮かぶような勢いで、主が告げられた戒めを繰り返し、それらの戒めはどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れていると応えます。犠牲をささげる祭儀が行われている神殿において人々を指導する立場にあるこの人が、この言葉を発している、その重みを思わされます。これはこの人が思いついた言葉ではなく、サムエルやホセア、イザヤなど、預言者たちが伝えてきた主なる神の言葉です。サムエルはこう述べています、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」（サムエル上15：22）。預言者たちと同様、この人も犠牲を捧げることを否定しているのではなく、み言葉に聞き従い、神さまの愛にお応えすることが根源に無ければ犠牲は御心にお応えすることにならないと、愛から犠牲の祭儀が生まれてくるのだと、お応えしたのでした。
主イエスはこの人の応答をとても喜ばれ、「あなたは神の国から遠くない」と告げられました。お働きの初めから神の国の到来を告げて来られた主が、この人を神の国へと招かれ、神さまのご支配に従うことへと招かれました。数日後にはこの人の仲間たちと群集によって死へと引き渡されることをご存知である主が、残された僅かなこの時間に、あと一歩、神の国へと踏み出すように、招かれました。この人がその後どのように主の招きにお応えしたか、記されていません。ただ、「もはや、あえて質問をする者はなかった」とのまとめの言葉によって、指導者たちと主イエスの間に続いてきた論争に、この人の適切な答えと主の喜びにという区切りがもたらされたことが分かります。聞く耳を持たない、敵意と殺意で動く大勢の人々に対して語り続けられた主の言葉が、たった一人であっても、この人の中にこのような神の民として適切な応答を生み出したのだと、この人が応答し始めたのだと、気づかされるのです。
けれどこの人も主イエスを十字架につける人々の流れを止めることはできませんでした。既にユダヤの民が律法の中で重んじてきたはずの戒めに本当に聞く耳を持とうとしない人の罪、戒めを知ってはいてもそのみ言葉に生きることができない人の罪を、誰も阻むことはできませんでした。ただお一人、主イエスはこの戒めに生きてくださいました。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、命と存在の全てを捧げてくださいました。そのことによって私たちを愛してくださり、神さまがどれほど私たちを愛しておられるのか、どのように愛しておられるのか、私たちの源泉である神さまの愛は、どのような愛であるのか、明らかにしてくださいました。私たちの心や精神や思いや力だけでは把握しきれない神さまの愛を、み子は唯一の神を愛し、私たちを愛する犠牲のみ業によって、成し遂げてくださいました。私たちには達成することのできない神さまの愛の行いによって、神さまにつながり、神さまの愛にお応えし、神さまの愛に生きることができる道を、切り開いてくださいました。私たちの罪を償ういけにえとして、神さまがみ子をお遣わしになった、ここに神さまの愛があります（Ⅰヨハネ4：10）。私たちに無くてはならないものと神さまが為してくださった十字架と復活を、私たちに無くてはならないものと受け止めることができるように、聖霊のお働きを祈り求めます。