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スイスは過去に多くの宣教師を極東や中国に派遣した。スイスフランス語圏出身のルドルフ・ボスハルト・ピアジェはその中の1人で、彼は紅軍の長征について執筆した初めての西洋人でもある。このコンテンツは 2010/02/15 15:58
ボスハルトは、紅軍の大行軍に加わり、中国国内の5つの省を18カ月間遠征したスイス人宣教師。北京の国立博物館に勤める歴史学者に、この類まれなる西洋人の話を伺った。
ボスハルトの軌跡
ボスハルトに関する個人データはあまり残っておらず、彼の人生や活動については厳密に調査されていなかったため、彼の存在は、中国ではあまり知られていない。また、彼と紅軍の大行軍との関係についてはほとんど外部の人々には伝わっていない。
およそ9年前、初めて複数の歴史学者がイニシアチブを取り、過去の歴史が徹底的に論究された。その際、革命にボスハルトが果たした役割についても研究が及んだ。
ボスハルトには、彼独特の視点で書いた自叙伝がある。これはその当時唯一の西洋人としての目で見た紅軍の長征の様子が書かれていることで、改めて評価されるようになったという。エドガー・スノーの著書「中国の赤い星 ( Red Star Over China )」は有名だが、ボスハルトの自叙伝が書かれてから1年後に刊行されたものだ。
偶然の出逢い
1922年、キリスト教の理論を説く教育を受けた、当時24歳だったボスハルトは、単身宣教師として中国で最も貧しい地、貴州 ( Guizhou ) 省へ派遣された。
そこで彼は宣教師のローズ・ピアジェと知り合う。偶然にも彼女は、フランス語圏スイスの出身だった。一目惚れで始まった恋は実を結び、1931年に2人は結婚した。当時、ボスハルトは牧師として貴州省の鎮遠 ( Zhenyuan ) 県にある教会で宣教していた。
3年後に彼の人生にさらなる転機が訪れる。
「1934年の8月1日は貴州に住んで12年目の記念日でした。この日は忘れもしません。その日、わたしたち家族は、世界各国から来た宣教師の同僚と一緒に会合を行いました。同僚のヘアマン・ケヴェル氏とわたしは、わたしの家族と一緒にくねくねと曲がった山の道を、近道をして帰路に着くことに決めたのです」
と彼は思い出を記している。
彼はさらにこう続ける。
「わたしたちは、黄平県 ( Huangping ) の九洲 ( Jiuzhou ) という古い町の少し手前にいました。小さい丘の上からは全風景を見渡すことができ、わたしたちはとても良い気分でした。その時、わたしたちは、まだ坂を下っていませんでした。そこへ突然、紅軍の武装した一団が木の茂みから現れ、わたしたちの行く手を阻みました。紅軍との偶然の遭遇によって、わたしの宣教師としてのすべての運命が大きく変えられてしまうと一体誰が考えたでしょうか。それから紅軍と共に行動する18カ月間の辛い日々が始まりました」
と、ボスハルトは彼の著書の中で綴っている。
地図の解明に一晩要して
荒涼とした貴州で紅軍は、複雑な地形を読み取れず、困難に直面していたようだった。また、子供が学校で使う小さな地図帳を頼りにしていたので、ほとんど無計画に道を進み挙句の果ては道に迷っていたのだ。
ある日、紅軍は九洲の外国人居住地区で長征に役立ちそうな、貴州省の地図を発見した。それは、1平方メートルの大きさで、この地に疎い紅軍には非常に有益なものだった。
地図の地名は中国語で記されていなかったので、少しばかりの英語を理解できる紅軍の指揮官、シャオカーと将校たちは、この地図は英語でも中国語でもなく、ほかの外国語で表記されているということは理解できた。
彼らは隣接した土地の名前や川の名前を読めず、ましてや理解することもできなかった。ボスハルトが中国語を話すことができるという情報がシャオカーの耳に入った時、彼は部下に「年長のボー」( とボスハルトのことを呼んでいた ) の所に連れて行くよう命じた。
一晩中シャオカーはボスハルトと肩を並べ、灯油のランプのかすかな光の下で、すべての土地、山、川、沼の名前を中国語に訳した。将校はフランス語の横に中国語を書き入れた。
大いなる助け
シャオカーはボスハルトの傍らで時間を忘れているようだった。2人は陽気にユーモアを交えて雑談し、すべてが楽しいことづくめだった。2人が地図に記された名前を訳し終えた時には、朝になっていた。
ボスハルトは後に回想録の中で、これが紅軍が長征する上で大きな助けとなった初めての出来事だったと記している。紅軍がゲリラ戦術を使い、中国国民党の軍隊に対抗し進撃することに成功したのは、特にこの地図のお蔭だった。紅軍部隊が戦う上で、地図は決定的な重要性を持っていたという。
ボスハルトは彼の回想録の中で、東貴州から隣接する湘西まで大行軍した全行程でこの地図が使用されたことを何度も指摘している。
固く結びついた仲間
地図を翻訳している間、ボスハルトはシャオカーと雑談をし、これまで貴州で宣教師として働いた怒涛のような12年間を語り、また、何を見て、何を経験したかを語った。そうすることで紅軍の軍人たちもボスハルトの人生観をより良く理解できた。
「ボスハルトと話したことで、わたしは貴州における習慣と地方の現状について重要な洞察を得ることができました。わたしは紅軍にとって沢山の有益な情報を得ました。その地方の少数民族の集落で、予想もつかないような困難を経験しましたが、ボスハルトの助言は、不必要な回り道をしなくても済むように助けとなりました。わたし自身、紅軍の大行軍のために必要な情報が得られました」
とシャオカーは、ほぼ半世紀後に思い出を綴っている。
紅軍がさらに長征した過程で、シャオカーとボスハルトはさらに何度もプライベートな話をし、互いに理解を深め合い、親交を深めていった。
道中18カ月を共にして
総計18カ月間、ボスハルトは紅軍と共に5つの省 ( 貴州/四川/湖北/湖南/雲南省 ) を旅した。1936年4月12日、復活祭の日に彼らは雲南 ( Yunnan ) 省の福民 ( Fumin ) に到着した。そこでボスハルトは紅軍から離れ、彼自身の宣教活動を続ける決心をした。この機会にシャオカーは、長征を共に行動した特別な闘士のためにパーティを開き、旅の際に要した費用の埋め合わせもした。
ボスハルトは紅軍を幾度にもわたって助けたので、指揮官シャオカーにとって、半世紀後も特別な人物として記憶に残っている。シャオカーの回想録の中で、ボスハルトとの出逢いが神話めいて語られているのが感じられる。
1984年、アメリカの名高い作家、ハリソン・サリスバリーが紅軍の長征について報道するために中国へ旅した際、中国政府は彼に、ルドルフ・ボスハルトを探す手助けをしてほしいと願い出た。司令官シャオカーは以前からフランス大使館にも個人的に、ボスハルトを探してほしいと頼んでいた。
長い時間がかかったものの、最終的にフランス大使館の助けを借りて、スイスにいるボスハルトの親類、ビゲー夫人を見つけ出すことができた。こうしてやっと半世紀後、指揮官シャオカーとかつての宣教師ボスハルトは再びコンタクトを取ることができた。
幾度かの便りを交わす間に、2人の間に昔の時間と過去の経験が再び蘇ってきた。シャオカーは外国の代表団を通じて紅軍の長征時の思い出の写真を「年長のボー」に託し、ボスハルトは何度も便りを送った。
思い出を文献に
ボスハルトは紅軍を去った後、雲南省で宣教活動をした。その後、彼は紅軍とともに長征したことについて記憶に残る経験を4カ月で書き上げ、最初の本を出版した。
初版の本は英語で執筆され、1936年12月、ロンドンの出版社「ホダー＆スロートン ( Hodder & Sloughton )」から「拘束の手 ( The Restraining Hand )」の題で刊行された。1978年、ボスハルトはさらに「案内の手 ( The Guiding Hand )」を出版した。フランス語翻訳版「Conduit par sa main」も「グープミシオネール出版 ( Goupes Missionaires-Verlag )」から刊行された。
ボスハルトはその著書の中で紅軍の長征時の困難な状況とともに、彼自身の経験も描写している。
「険しい道を行き、わたしの靴が壊れてしまった時、ある軍人が自分の靴を脱ぎ、私にくれたことがありました。わたしたちが夜にキャンプをした時は、寝床に藁の下敷きを用意してくれたり、寺の中にわたしを寝させてくれたりしました。ほかの仲間たちは湿った地面の上で我慢していましたけれど。また、特に困難な状況の中で、彼らはわたしに馬を用意してくれました。可能な限り砂糖とミルクが入った粥ももらいました。その上、彼らは当時手に入れるのがとても困難だった肉や、コンデンスミルクや、ほかの貴重な食品を調達するために色々と思案してくれました」
ボスハルトは著書の中で、人生の苦楽を共にして生き抜き、互いに助けあった紅軍との緊密な関係を説明するために多くの章を費やしている。
仲間のためにセーターを編んで
ボスハルトは、彼が受けた恩を返すために毛糸を買い、軍人たちに靴下やセーターを編んだ。編み方は母親から習って知っていた。
かの有名な陸軍大将、賀竜の当時生まれたばかりの娘は、ボスハルトが編んだセーターを着ていた。度々外国の新聞を訳す傍ら、ボスハルトは軍人たちと宗教や世俗的なことについて深く討論した。
大量の歴史資料を詳細に調査した後、最近になって中国国立軍事博物館は、ボスハルトの著書を紅軍の長征を記録したヨーロッパで最初の研究論文と承認した。
ユー・ダー 、swissinfo.ch
( 翻訳、白崎泰子 )
ルドルフ・ボスハルト ( Rudolf Bosshardt ) 略歴
本名はルドルフ・アルフレード・ボスハルト・ピアジェ。
1897年、マンチェスターでスイス人の両親の元で生まれる。
1922年、中国の鎮遠県 ( Zhenyuan ) (当時の？ 黄平県九洲/ Huangping Jiuzhou、 貴州/Guizhou ) 省へ宣教師として派遣され、そこで後に妻となるローズと知り合い、12年間の時を過ごす。
1934年、紅軍との出逢いの後、雲南 ( Yunnan )省 に向けて5つの省を旅する。その間ローズは上海に居を移す。
1936年4月、雲南省の福民 ( Fumin ) でさらに宣教活動を続けるために紅軍を離れる。妻、ローズは夫、ボスハルトの仕事を手伝うため上海を離れる。
紅軍を離れて4カ月後、回想録が完成する。
1939年、ボスハルト夫妻は「国際大使命教会」の代表として、中国での布教活動において宣教師を援助する目的で再び貴州へ向けて旅をする。
布教活動のほかに無償の医療手当てや地域の学校で授業をすることも仕事のうちだった。
1951年、ボスハルト夫妻はヨーロッパに戻る。1966年、ボスハルトは退職し、マンチェスターにいる家族の元へ帰る。
1993年96歳で生涯を終える。
エドガー・スノー ( Edgar Snow ) 略歴
1905年生まれ。アメリカのジャーナリスト。
1928年、当時の燕京 ( Yanjing ) 大学 ( 今日の北京大学 ) からジャーナリズムの専門家として招聘され、初めて中国を訪れる。
1936年の夏、共産党の本拠地、延安 ( Yan’an ) で西洋人ジャーナリストとして始めて、毛沢東にインタビューをする。
1937年、毛沢東との出会いについて執筆された彼の著書「中国の赤い星 ( Red Star Over China )」( 1970年にドイツ語版Roter Stern ubre Chinaのタイトルで出版 ) が出版される。中国共産党は中国語で「西部の旅物語 ( Geschichte einer Reise in den Westen )」を刊行。
1949年以降、スノーは何度も中国へ招待される。
1972年、スイスにて癌の治療中に死亡。
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