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「あなたの人生に触れる神」ルカ4：38～44
2024年1月14日 柳沼大輝
伝道者という人々に神の言葉を伝える働きをしていますとよく周りから「あなたはどのようにして神様を信じて、神様に従って生きていこうと決心したのですか？」という質問を受けることがあります。「どのようにして神様を信じるに至ったのか」「どのようにして神様に従って生きていこうと決めたのか」このような信仰者として皆が抱える問いに思いを巡らすとき、自らの人生の歩みを振り返ると同時に、いま、ここにいる皆さん一人一人にもきっとそれぞれに固有の神様との出会い、神様を知った経験があったのではないかと思います。
本日は、最初に今日のメッセージの中心ポイントをお伝えします。本日のポイント、それは主イエスの救い、福音といったものは「いきなり」起こるのではないということです。まるで稲妻に打たれたかのようにして「いきなり」神様を信じるのではない。それぞれの人生の歩みのなかで、神様と出会い、神様を知るきっかけがあって、人は、神様を信じて、救いに生きる者とされていく。それがまさに聖書の証しする神の国の福音といったものであります。
本日の箇所を見ますと、主イエスはペトロの家にお入りになったとあります。まだこのときはペトロとは言われていません。シモンと呼ばれています。その後にシモンは主イエスからペトロといういわゆるニックネームを与えられました。実は、本日の箇所のすぐ後にこのシモン・ペトロが召し出され、主イエスの弟子となった物語が記されています。
しかし、マタイやマルコなど、他の福音書を見てますと、流れが逆なのです。他の福音書では、ペトロが弟子となってから主イエスはペトロの家を訪れています。けれども、このルカによる福音書ではその順序が逆転しています。これはいったい何を意味しているのでしょうか。それはペトロが主イエスに「恐れることはない」と言われて、網を捨て、持ち舟を捨て、すべてを捨てて、主イエスに従っていくという自らの人生を左右する一大決心をしたのは、その場で「いきなり」なされた決断ではなかったということです。その前にきっかけとなる出来事があって、その出来事がいわば布石となって、ペトロは大きな決心をし、主イエスに従っていくという行動を起こすことができたのであります。
本日の箇所の最後で、主イエスは「自分は神の国の福音を告げ知らせるために来た」と宣言します。しかし、その福音は「いきなり」すべての人々に受け入れられて、一瞬にして信じられるといったわけではない。いわば、その前段階となる神からのアプローチがある。その先駆けとなる出来事にしっかりと目を留めなさいと、本日の箇所は、私たちに語りかけます。
本日の箇所の内容にじっくりと入っていく前に、この箇所の場面設定を簡単に説明します。カファルナウムというローマ軍が駐留するような大きな町で、主イエスは会堂に入り、人々に向けて、聖書のお話をなされました。その日は安息日でした。その言葉には「権威」があり、悪霊を追い出すほどの力があった。その言葉を聞いた人々はそれぞれに思いを巡らしながら、胸を震わせて、会堂からそれぞれの家路へと帰っていきました。
その後、本日の箇所が続きます。主イエスも身体を休まれるために会堂を後にします。そこで、お入りになられたのが先ほど、申し上げた通り、漁師であるシモン・ペトロの家でした。きっとこのときすでに主イエスとペトロの間には、ある程度の関係性があり、この日もペトロが主イエスに対して「どうか自分の家に来てください」とでも言ったのでしょう。しかし実際にペトロの家に行ってみると、そこにはしゅうとめ、つまり、ペトロのお嫁さんの母親、義理のお母さんがひどい熱を出して苦しんでいました。
そこで、床で寝ているしゅうとめの枕元に立って、主イエスは何をなされたか。熱を叱りつけたとあります。熱を叱りつけた、実に面白い表現です。まるで熱を擬人化するように描いています。いわば、ここではしゅうとめを縛り付ける悪しき力が高熱として現れ、彼女のことをひしひしと苦しめている。その悪しき力は、どうも人間の力でコントロールすることができるようなものではない。熱よ、下がってくれと言っても下がってくれない。悪しき力は熱という目に見える症状として現れ、体感できるようなものによって、しゅうとめを捕らえて、離れようとしない。そんな悪しき力としての熱に向かって、主イエスは叱りつけます。
皆さんも子どもの頃、何か悪戯をして、親から叱られたという経験をなさったことがあるかと思います。そのように叱るとは、誰かが悪さをしたり、へましたりしたりしたとき、その者の罪を指摘し、咎めることであります。ここで主イエスも悪しき力としての熱に向かって、その悪行を咎めました。「何をやっているのだ。いつまでこの婦人を苦しめているのだ。早く彼女を解放しないか」と言ったところでしょうか。
すると熱は、何の抵抗を示すこともなく、この婦人から去っていきました。ここでも主イエスの権威の大きさが明らかにされています。主イエスの言葉が悪しき力を追い出したのです。そして、熱が下がった婦人は、たちまち、起き上がって一同に仕えたとあります。この婦人は悪しき力が去って、元気になったら、みんなのために奉仕した。仕えたというのです。元気の源は、悪しき力からの解放でありました。
このように主イエスが病気を癒してくださるという噂は、たちまちカファルナウム中に広まっていきました。そこで、日が暮れると、町中から多くの人々が主イエスのもとに押し寄せてきました。ここでどうして日が暮れてからかというと、そのときがちょうど安息日が明ける時だからです。聖書の世界では一日は、日没で始まり、日没で終わります。ということは、金曜の日没から土曜の日没までが安息日です。その間は、一切、働いてはならない。動いてはならない。律法によって行動が制限されているわけです。しかし、日が暮れることにより、日付が変わり、安息日が終わります。そこで人々は一気に主イエスのもとへと押し寄せてきました。けれども、それは野次馬としてではなく、悪しき力としての病気によって痛んでいる、苦しんでいる大切な家族や、あるいは、友を抱えて、彼らの病いを主イエスにどうにかして癒してもらおうと、人々はまるで藁にもすがる思いで、主イエスのもとへとその人々を連れてやってきたのです。どうかこの人を助けてほしい、救ってほしいと願いながら。
そこで、主イエスは、その人々を拒むのではなく、彼らを招き入れ、その一人一人に手を置かれて癒されました。一人一人に手を置かれた。ここで重要なことは、癒しというものは、皆一様にではなく、いわば、十把一絡げではなく、一人一人に対してなされるということです。主イエスのもとへと連れてこられた人々は、皆、それぞれに悪しき力に捕らわれて、苦しんで、辛い思いをして、痛みを負ってきた人々です。たとえ、同じ病気であったとしても、誰一人として同じ痛みを負っている人などおられません。
だから、主イエスは、皆を一遍にその場で「いきなり」癒されるというようなことはなさいませんでした。そうではなく、主イエスは、その一人一人に手を置き、一人一人と向き合い、その人が歩んできた人生という歴史に目を向けながら、その人が、いままで苦しんできた痛み、味わってきた辛い過去、目を背けたくなるような弱さと向き合い、まるでその人の人生をすべて抱え込むかのようにして、その傷に触れて、その人を悪しき力から解放し、癒してくださった。ここに主イエスの深い憐れみが示されています。
そのとき、悪霊が叫び出し「お前は神の子だ」と言って、人々から出て行ったとあります。ここで叫びながら、と訳されている言葉は、原典から直訳すると「大きな声で言い続ける」という意味の言葉です。「お前は神の子だ」と悪霊は大声で言い続けた。何故、こんなことをするのか。それは何も自分の力を周りの人々に見せつけたいというわけではありません。悪霊と主イエスとでは、その権威の大きさがまるで違う。そんなことは人間よりも、悪霊の方がよくわかっていました。その証拠に悪霊は主イエスをメシア、つまり、救い主であると知っていたとあります。自分たちの力では到底、救い主である主イエスに太刀打ちできるはずがない。抵抗してもまるで無駄である。もうこの人から出て行くしかない。
しかし、最後に彼らは、まるで悪あがきでもするかのように「お前は神の子だ」と言って、大声を上げて叫び続ける。そこで主イエスは、そんな喚き立てる悪霊を叱りつけたのです。このときも主イエスはペトロのしゅうとめの熱を叱りつけたときと同じように「そんなに大声で叫んでいないで、早くこの人たちから出ていかないか！」と悪霊を叱りつけたのであります。悪霊は、もうこの主イエスの命令に従って、その人々から出ていくしかありません。
この一連の癒しの出来事は、日が沈んでから夜の間に行われました。まるで夜間緊急診療のように主イエスは休む間もなく次から次へと癒しの業をなされたのであります。やがて。朝が来て、主イエスはさぞかし、疲れを感じられたのでしょう。それもそのはずです。悪霊を追い出す、癒すということは、先ほども申し上げたように、その人に触れ、その人と向き合い、その人の人生という歴史にコミットし、関わっていくということであります。私たちで言えば、それはちょうど一晩中、誰かの人生の話にじっと耳を傾ける。傾聴するということに近いかと思います。そうやって私たちは、誰かの人生に触れることができる。しかし、これは、非常に多くのエネルギーを要します。
主イエスは神の子としての全能の力を用いて、病人たちを一度に癒したのではありません。一人一人に手を置き、その一人一人と向き合うなかで激しい疲労感を抱かれたのであります。そこで、主イエスは人里離れた淋しいところに一人退く必要があると感じました。おそらく、そこで一人、祈るためでありましょう。主イエスは、群衆から離れ、静かに一人、父なる神に相対して、祈るなかで力を回復しようとしたのです。
一方、群衆は主イエスがいなくなってしまったということでひどく動揺しています。そこで彼らは、懸命に主イエスのことを捜し回ったとあります。彼らは、不安でたまらなかったのです。そして、やっと主イエスを見つけ出したら、彼らはこう言いました。「どうか自分たちから離れ去っていかないでください」。彼らは、しきりに主イエスを自分たちのもとに引き止めようとしました。しかし主イエスは、彼らの願いをきっぱりと断わります。「自分はこの町だけでなく、すべての町の人々に神の国の福音を告げ知らさなければならなのだ」。主イエスはそう言って、ご自分がこの世に来た目的、使命をはっきりと人々に宣言なされる。神の国の福音は、限定的ではない。全世界に広がっていくものなのだと。
この後、主イエスは、ユダヤの諸会堂を回って宣教なされました。しかし、考えてみれば、このことも実に限定的であります。いくら主イエスがユダヤ地方を巡って、そこで福音を宣べ伝えたとしても、そこで癒しの業をなされたしても、それが一気に世界中に広がっていくわけではありません。主イエスがユダヤの諸会堂を回ったところで、そんなのたかが知れている。けれども、ここで私たちは主イエスがお教えになった種まきの譬え話を思い出したいのです。たとえ、わずかな言葉、わずかな時間、わずかな出来事であったとしても、そこで蒔かれた種は60倍、100倍にまで広がっていく。神の国の福音とは、まさにそのようなものである。
本日、ペトロの弟子としての召命物語に先立ち、示された主イエスの癒し、解放は、何度も申し上げてきたように、十把一絡げに起こるものではなく、神様とその人との人格的な出会いのなかで、起きていくものでありました。つまり一人一人が、自らの人生のなかでいままでに味わってきた痛み、辛さ、後悔、怒り、弱さ、恥、その一つ一つに主イエスが触れて、タッチしてくださるなかで、時間をかけて、人は悪しき力から解放されていく。
しかし、それは、ただ神様があなたに一方的に触れてくださるということに留まるのではありません、そこには、たしかなわたしと神様との交流が生まれます。神様との対話が生まれていく。主イエスに触れていただくとき、私たちは、神に訴え、祈っているのです。「悔しい」「悲しい」「寂しい」「情けない」そんな自己受容できない気持ちを主イエスにぶつけている。しかし、神様に手を置いて、触れていただいていくなかで、必死にその祈りを聞いていただくなかで、神様から私たちへの言葉が聞こえてくる。そうやって、神との対話が生まれる。その交流のなかで、少しずつ悪しき力からの解放が起きていく。
福音といったものは、群衆が切望したように、主イエスが、物理的に一緒にいてくださるといったことではありません。わたしの人生に手を置いて、触れていただいて、そこで私たちのうちなる、あらゆる思いを全部聞いていただいて、そういったなかで、私たちには、神からの言葉が与えられる。「そうか辛かったね」「ずっと苦しんできたのだね」「悔しかったね」「それは、自己嫌悪にもなるよね」「それは怒りたくなるね」。
私たちは、そうやって主イエスに触れていただいて、思いを全部、聞いていただいて、その歩みは導かれ導かれ、やがて、十字架の主の御前へと招かれていく。やはり一足飛びとはいかないのです。稲妻に撃たれたかのようにして「いきなり」とはいかない。それぞれにプロセスがあって、布石となるきっかけがあって、それぞれが主イエスの十字架の御前に立たされる。そこで十字架を仰ぎ見て、見上げていくなかで、釘打たれ、血を流し、死んでいく主イエスの御姿を心の目で見、その言葉に耳を傾けていく。「恐れることはない。血の代価が払われたその事実を持って、あなたの罪は赦され、悪しき力から解放されるのだ。いま、それを約束としてあなたに与えよう」。
その神からの約束こそがまさに「洗礼」であります。洗礼とは、何かがわかったから、何かのレベルに達したから受けられるといったものではありません。けっしてそうではない。主イエスに触れていただいて、祈りと御言葉の交流を通して、それぞれのプロセスを経て、十字架の御前に立たされ、罪の赦しを与えられる。「あなたの罪は赦された。だから何も恐れる必要はない」という救いの約束に生きる者とされていく、その罪の赦しを受け取り、差し伸べられた主イエスの御手を握り返すとき、私たちは、神に救い出され「洗礼」へと招かれる、悪しき力から解放されて、本当の自由を得ることがゆるされる。
そうやって、悪しき力から解き放たれ、救われた者は、信仰者として自分だけがよかったというようにはいかず、そこに留まるのではありません。今度は、いまなお、悪しき力に捕らわれ、苦しめられている、悩んでいる、あの人のために自分なりに何かできることをしようとする。それがまさに「仕える」ということです。本日の箇所で、元気になって、起き上がった、ペトロのしゅうとめがした「一同に仕えた。と言われていることです。
いまのわたしには、ペトロのようにすべてを捨てて「いきなり」主イエスに従っていくことはできないかもしれない。しかし、あなたにしかできない神様への仕え方があります。いま、悩み喘いでいるあの人に主イエスの言葉を届けてみたり、やはり黙ってその人の傍らにそっと寄り添ってみたり、手紙を書いてみたり、その人のために一人静かに祈ってみたり、そこからきっと、神の国の福音は、蒔かれた種として少しずつ、しかし、何倍にも、何百倍にも大きく広がっていきます。
祈り
贖いの主であり、宣教の主であられるイエス・キリストの父なる御神、
あなたが私たち一人一人の人生に触れて、
あなたとの出会いを与え、御言葉と祈りを与え、
この日まで、私たちの歩みを一歩一歩、守り導いてくださったことを感謝いたします。
ときに痛み、涙する日がありました。
怒り、他者を、自己を傷つけた日がありました。
しかし、そのような日々も、あなたが私たちを生かし、
たしかにその御手のうちにおいてくださっていたことを思います。
今日も、あなたの御手にわたしのすべてを委ねます。
あなたに見出され、救われた者として、
今度は、わたしがあの友のもとにあなたの言葉を届けることができますように。
どうか、あなたの名によって、私たちをこの世へと御遣わしください。
この願いと感謝、
主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。
アーメン