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出エジプト12：21～28、ヘブライ9：11～14「過ぎ越しの犠牲」
2022年8月7日（左近深恵子）
ユダヤの数ある祭りの中でも、最も重んじられ、親しまれているのが過ぎ越しの祭りです。主イエスも過ぎ越し祭の度にエルサレムへと上られました。少年時代の主イエスについて聖書が唯一伝えているのも、12歳の時の過ぎ越しの祭りでの出来事でした。その後、ガリラヤの地域で福音を宣べ伝え始められた主イエスが、いよいよご自分を殺す人々が待ち構えているエルサレムへと向かわれたのも、過ぎ越しの祭りが近づいた時でありました。祭りのために大勢の人で賑わう都エルサレムに、子ろばの背に乗って入られた主は、その週の金曜日に十字架にお架かりになったのでした。
過越し祭りは今でも多くのユダヤ人の家庭で祝われています。祭りの当日は離れて暮らしている家族も集まり、屠られた小羊の肉や酵母の入っていないパン、苦菜など、過ぎ越しの晩の出来事を再現するような特別な料理が並ぶ食卓を囲みます。祭りは決まった順序に従って進められます。その家の子どもが「この儀式は、どういう意味があるの」と尋ねることから始まり、それに対して親が説明し、祈りと詩編による賛美、パンの祝福、盃の祝福と続きます。このような過越祭の祝い方は聖書のいくつかの箇所を基にして定められています。その一つの箇所が、出エジプト記の第12章です。
創世記は、神さまが全ての民に祝福をもたらすためにアブラハムを選び立てられ、アブラハムとその子孫を祝福の基とされたことを述べていました。イサク、ヤコブと世代が進み、ヤコブの時代には深刻な飢饉が襲いましたが、ヤコブの息子ヨセフがエジプトでファラオに取り立てられて飢饉に備える政策を指揮するまでになっていたことにより、ヤコブの家族は飢饉の中で守られ、イスラエルの人々はエジプトに移り住みました。
時が移り、ヤコブもヨセフも、ヨセフに全幅の信頼を寄せていたファラオも死にました。長い年月が経ち、ヨセフのことも、ヨセフがエジプトとその周囲の民のために為した大きな働きのことも知らない者が新しいファラオとなり、その間エジプトで数が増していたイスラエルの民に警戒心を募らせたファラオは、エジプトの国民にイスラエルの民は増えてはならない民であるから、これ以上数が増えて力を持つことがないようぬかりなく扱えと命じます。それを受けて国はイスラエルの民を奴隷化し、国の監督下で強制的に重労働を課し、虐待します。それでも数が減らないイスラエルの民に人々はますます嫌悪感を抱くようになり、ファラオもイスラエルの家庭に生まれた男児の殺害まで命じるようになりました。
このファラオも死んだ時、ファラオの代替わりの間隙を突くように、イスラエルの民はようやく助けを求める叫び声をあげることができました。苛酷な労働で押し潰そうとする力の下から必死に発した嘆きの声を神さまは受け留められ、イスラエルの民の苦しみ、痛みをつぶさにご覧になりました。イスラエルの民を圧迫するエジプト人の有り様もご覧になりました。イスラエルの民から人間として生きる自由を奪い、存在が全く祝福されていない奴隷として、ぎりぎりの状態で労働力としてのみ生かしておこうとするファラオと、そのファラオの政策に加担する者、是認する者、黙認する者、それら現状を変えるつもりのない一人一人の姿をご覧になりました。神さまはイスラエルの父祖たちに告げてこられた契約を守り続けるために、大きなみ業を起こすことを決断されました。それはご自分の民のところに降られ、彼らを救い出し、カナンの地に導き上ることであり、そのためにモーセを選び立てられました。
神さまからファラオのもとに遣わされたモーセは、イスラエルの人々を苦役から解き放つように要求します。神さまを礼拝するために、去らせよと訴えます。ファラオではなく真の神さまを神と崇める自由、神さまを礼拝するための場所で礼拝を捧げる、このことが妨げられない自由を求めます。神の民にとって主を礼拝することが、真の主に仕えて生きる歩みの第一歩となります。神さまは様々な災いをもって、真の支配者はどなたであるのか、ファラオとファラオに追従する人々に示します。ナイル川の水が血に代わる災い、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災いが起きると、ファラオはモーセを呼び出してこの国の中で礼拝をする自由を与えると言います。しかしモーセは、自分たちはこの国で命を危険にさらさなければ礼拝できないのだと、自分たちが置かれている現実を答えます。更に疫病の災い、腫物の災い、雹の災いが起こると、ファラオはまたモーセを呼び出して、あなたたちを去らせると述べます。しかし危機が去ると直ぐに前言を撤回します。いなごの災いが告げられると、ファラオは去ることを許可するがそれは男性だけだと限定し、暗闇の災いが告げられると、女性や子どもも共に去ることを許可するが家畜は置いて行けと、イスラエルの民が生きていくことが不可能な条件を付けます。ファラオにとって、イスラエルの民の自由を認めることは、ファラオである自分や自分の国にとっての損失にしか見えないのでしょう。災いによって国が被る損害とイスラエルの民を失う損失を天秤にかけ、損害と損失を最小限に留められるよう、交渉を有利に進めようとします。イスラエルの人々が崇める方こそが神であることを退け、自分たちが支配する側に居続けるために、他者のこころも身体も命も存在も蔑ろにし続ける頑なさは、エジプトの全ての家庭の初子が死ぬという最後の災いが起こり、我が子が死に奪われる現実に自分自身が直面するまで、砕かれることはありませんでした。
初子の災いの前に、主なる神はモーセを召し、主がこれからなさることと、イスラエルの人々がそのために為すべきことを告げられました。そして、この先イスラエルの民が守ってゆく祭りについて、つまり主の過ぎ越しを思い起こす礼拝について、語られます。それを受けてモーセはイスラエルの長老を集め、これから神さまがなさるみ業と、そのためにそれぞれの家で何をすべきなのか説き、そしてまた、この先どのようにしてこのみ業を思い起こし、伝えていくのか語ります。こうして12章は、過ぎ越しの出来事と、過越祭りの祝い方を、混在させながら語り進めます。
もしも12章で祭の祝い方については述べられず、11章までのように、出エジプトの出来事を物語ることだけが語られていたら、“とうとう神さまの圧倒的な力が振り下ろされ、悪は打ち破られた、ファラオたちにとっては悲惨な結末ではあるが、善は勝利するのだ”と沸き立つ思いで聞くかもしれません。しかしその晩の出来事を語る29節以下は、最小限の言葉で静かに語ります。聞く者に、心鎮めて受け止めることを求めます。このような悲惨な災いによってしか砕かれない、他者を蔑ろにする人間の頑なさと、そのような悲惨さの中からご自分の民を救い出されるみ業の重みを静かに味わうことへと促します。主の過ぎ越しのみ業だけでなく、祭の祝い方も述べることで、この奴隷の地最後の晩の出来事が、神の民が覚え続けるべきみ業であることが示されるのです。
その晩、屠られた羊の血が、救いのしるしとされました。聖書において血は、命の担い手、命と等しい重要なものと考えられています。出エジプトの出来事において家の入口に塗られた血は、単に色が目立つ目印ではなく、自動的に災いを遠ざける効力を持つものでもなく、神さまがその家を、ご自分が創造された被造物の命をもって過ぎ越すと約束されたしるしです。神さまはただイスラエルの民を災いから守られたのではなく、命を与えられました。神さまの贖いの御業に信頼し、家の入口に血を塗って、旅支度をしているその家の一人一人に、命をもたらしてくださったのです。
神さまの民とは、他の被造物の命の値をもって贖われた民であります。人種や国籍や世代や時代が異なっても、神さまの民に共通しているのは、神さまの贖いのみ業の受け取り手とされた者である、ということです。そのことを主が年の初めと定められた過越祭毎に祝い、その出来事が今も力を持っていることを新たに受け止めることが求められました。
この救いの出来事を、子どもたちに伝えてゆく役割が大人にあることも告げられています。大人たちは子どもたちに、自分たちは、神さまによって救われ、命を与えられている者なのだと、大切な被造物の血が自分たちの贖いのために流されたことで、命が与えられている存在なのだと。苦しみから救われた、ただそう伝えるのではなく、神さまがエジプト人の初子を撃たれたこと、家畜の血がイスラエルの贖いのために流されたことも含めて伝えることを、命じておられます。奴隷の地を発つ前の夜に起きた、語りにくい出来事を覆い隠したまま、神さまの深い恵みを伝えることはできません。その夜の出来事にこそ、神の民が神の民であることの根源があるからです。それが、子どもたちが疑問を抱くような分かりづらいことであることを神さまはよくご存じです。寧ろその疑問が起こることを前提にし、その疑問に対してみ業を伝えていく交わりこそが、神の民の家族の在り方だと言われます。このみ業は、大人だけでなく子どもも受け止めることができるものだと、世代に関わらず共に祝うことができるものだとされています。ユダヤ教の人々は、この神さまの言葉を真摯に受け止め、家庭において子どもと主の過越しのみ業について問答をすることを通して信仰を継承してきたのであります。
他者を支配する側に居たいという思いを捨てきれずに、他者の尊厳を踏みにじる頑なさや、支配的な者が支配する現状をやむ無しとし、そのような現状に安住しようとする頑なさを砕くには、このような犠牲を払わなければならなかったことを思わされます。み心に背を向けてしまう頑なさを抱える私たちが、神の民、神の子とされ、自由の内に主を礼拝し、主に従う道を歩むことができる者とされている、この祝福は、何かの犠牲と代償なしに与えられないものであることも思わされます。何よりも、私たちの代わりに罪を負って十字架にお架かりになった、神の独り子イエス・キリストの血の代償なしにあり得なかったことを思わされます。神さまは、家畜の血に依らず、み子の血によって、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。ヘブライ書はこう述べます、「もし、雄ヤギと雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によってご自身を傷のないものとして神に捧げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」（9：13～14）。自分が支配者になりたがり、世の様々な力を神々としたがる私たちを、神さまは、み子を過越しの子羊とし、その血を贖いとすることで、救い出し、新しい命を与えてくださいました。私たちにも、肉体の死によって断ち切られない、復活と永遠の命を約束してくださいました。
主イエスは弟子たちと囲まれた最後の過ぎ越しの食卓において、盃を取り、感謝の祈りを唱えて弟子たちにお渡しになって、「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」（マルコ14：24）と言われました。パンを裂くことと併せて、私の記念としてこのように行いなさいと言われました。私たちは聖餐の度に、今も共におられる主の食卓に招かれ、参与する恵みを与えられています。
神の民イスラエルにとって、エジプト最後の晩の出来事が、生きていく土台となりました。その出来事を記念し、神さまの恵みに応えていく生活を、家庭において整えていきました。私たちにとって、最後の晩餐、十字架、復活が、生きていく土台であります。私たちのための過ぎ越しの子羊となってくださった主イエスが定められ、そのお言葉通り、私たちのために闇に覆われた十字架上で肉を裂かれ血を流されたキリストの復活を、主の日毎に覚え、祝い、聖餐の食卓において養われることによって、私どもの土台を、歩みの礎を、新たにされます。神さまではない様々な力が勢力を誇っている世にあって、み心の実現を渇望し、祈り求める私たちの日々の歩みの出発点は、いつでも礼拝にあり、主の食卓にあるのです。この神さまのみ業を共に問い、証しし合う交わりを通して、感謝と喜びを共にし、信仰を次の世代へと伝えていくことこそが、私たちの歩みなのです。