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◆ヨハネの福音書４章１０節～１４節
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。 その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼 の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
◎わたしの天のお父様は良き方です God is Good!
「私の天のお父様は本当に良き方です。」信仰を分かりやすく説明するならば、心からこう言えることだと思うのです。その単純な信仰から「私は天のお 父様に愛されている尊い子どもです。」というアイデンティティが生まれてきます。罪の中に失われていた私たちを捜して救うためにイエス様は来てくださいま した。そしてご自身のいのち（血の代価）をもって私たちを買い取ってくださったのです。イエス様に出会って神の国に入った人々はこの真理を知った人たちで もあるのです。
Ⅰ．イエス様はあなたがどこにおられるか知っておられる
当時、ユダヤ人たちはユダヤからガリラヤへ行く時にはサマリヤを避けて遠回りをして移動しました。混血のサマリヤ人を汚れた者として蔑視していたか らです。イエス様はあえてそのサマリヤを通って行かれました。そこに住む一人の女と会うことを決めておられたからです。福音書を読むと、いくつか似たよう な場面に遭遇します。ベテスダの池の病人、取税人ザアカイ、ゲラサの狂人、十二人の弟子たち・・・・。それぞれ置かれている境遇は違いますが、イエス様は その一人ひとりを捜しだして神の国に招き入れたのです。彼らがどこにいるのかを知っておられたのです。
創造主である神様との関係を失った人間は自分がどこにいるかを見出すことができません。イエス様は「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」（ルカ１９：１０）と 語られました。創造主である父なる神のご支配される所、そこが神の国です。私たちは旅行をする時に、たいてい目的地がどこにあるか地図を見て確認すると思 います。そして、必ず自分の家を起点として考えると思うのです。カーナビをセットする時にも同じです。創造主との関係を持たない人生は、出発点もない帰る ところもない旅に似ています。どこから来て、どこに行くか分からない、帰る場所のない旅は放浪あるいは流浪と言った方が良いでしょう。創造主から離れた人 間の心が不安なのは自分がどこにいるのか分からないからなのです。イエス様はあなたを捜して見つけてくださったのです。
Ⅱ．イエス様はあなたの渇きを満たすために来られた
イエス様が語られた「生ける水」とは何でしょう。サマリヤの女には理解できませんでした。イエス様は「この水を飲む者は、また渇く」言われました が、「この水」とは「イエス様が与える水」以外の水です。「生ける水」とは「わたし（イエス）が与える水」であり、またそれは「永遠のいのちへの水」で す。どのような気持ちで女が「その水を私にください」と言ったのかは分かりませんが、彼女は相変わらず肉体の渇きをいやす「水」のことを考えていました。 ここに書かれている６時とは正午のことです。他の女性たちは日が傾いてから夕食の支度の前に井戸に集まって井戸端会議に花を咲かせるのですが、いつも人目 を忍んで真昼に水を汲みに来ていたのです。イエス様は唐突に「あなたの夫を呼んで来なさい」と語られますが、それは彼女の抱えていた「霊的な渇き」に目を 向けさせるためでした。５回、離婚を繰り返し今は別な男性と同棲している彼女の過去と現在、彼女の渇いた心をイエス様は知っておられたのです。
私たちはだれでも心に渇きを持っています。でも、どうしたらその渇きを満たせるかが分からないのです。それも問題ですが、自分の心の奥深くにある渇 きに気づいていないならば、それは人間にとってもっと深刻な問題です。私たちはあまりにも忙しくて自分の魂に目を向けたり考えたりすることがなかなかでき ません。そのような私たちの心の核心部分にイエス様は単刀直入に、しかし愛をもって語りかけてくださるお方なのです。自分の「魂の渇き」に気づき目を向 け、「満たしてください」と求めるならば、イエス様は「生ける水」をもって私たちの心の奥深くにある渇きを満たしてくださるのです
Ⅲ．イエス様は神の子とされた私たちを通して人々の渇きを満たされる
イエス様のことばに耳を傾けている間に、女の心は次第に開かれていきました。彼女は町の鼻つまみ者でしたが、彼女に向けられたイエス様の眼差しは愛 に満ちていました。イエス様は彼女を神の国に招いておられたのです。彼女はっきりと理解していたわけではありませんが、この不思議な人が語る「神の賜物」 「生ける水」を受け取りたいと願うようになっていました。
イエス様が与える「生ける水」とは聖霊を指しています。（ヨハネ７：３７～３９）聖霊を通して私たちは神のいのちにつながれ、聖霊を通して私たちに神の愛と力が注がれます。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
聖書は「生ける水」は外から注がれるのではなく私たちの中から湧き出すのだと教えています。不思議な表現ですね。そしてその水は私たちの渇きを満た すばかりでなく、外に向かってわき出していくほどに豊かな流れとなるのです。それが神の国に生きる神の子どもたちに約束されている本来の姿です。