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2021.11.28. アドヴェント第一主日礼拝説教
ゼカリヤ14:6-8、ヨハネ4:7-15 217（1，2）
「水が湧き出るように」浅原一泰
その日には、光がなく冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
善きサマリア人のたとえを学校の授業で説明した時に、ある具体例を引き合いに出した。今から２０年前に起こったコソボ紛争の時の話である。元々文化も宗教も価値観も違うのに、セルビア人とアルバニア人はその時までユーゴスラビアという一国の支配下に置かれていた。両者の間でコソボ地区の自治を巡って激しい敵意が湧き起こり、紛争へとエスカレートしていく。軍事力にまさるセルビアは最新の兵器を使ってアルバニア人居住地域への攻撃を繰り返し、多くの命が犠牲になる一方、アルバニア側からは有志たちによるコソボ解放軍が反撃し、約一年半の間泥沼の状態が続く。やがて国連軍が介入し紛争は鎮まることになるが、その時のコソボにアルバニア人のアシェと、セルビア人のミリツァという少女がいた。紛争が始まる前、二人は大の仲良しでいつも一緒に学校に通っていたが、アルバニアとセルビアの関係が険悪になり、やがて紛争が始まると二人は会えなくなってしまう。それからしばらくの間、例えばセルビア人に親を殺されたアルバニア人の少年たちは復讐を心に誓うなど、福音とは程遠く人々の心は寒々しく渇き切ってしまうのだが、紛争が終わってからしばらくしたある日、アシェは勇気を出してミリツァに会う為に彼女の家を訪ねる。そのアシェの行動は、同じアルバニア人たちからは敵に媚を売る裏切り者のように思われても仕方のない行動であったし、セルビア人居住区に彼女が入っていけば、敵の娘が我々の住む空気を汚しに来たと思われて銃を向けられかねなかった。それでもアシェは純粋にミリツァに会いたい一心で彼女の家を訪ねると、ミリツァはアシェの顔を見た途端、余りの驚きで信じられないような唖然とした表情を見せるのだが、次第に込み上げてくる喜びと嬉しさをこらえきれなくなって思わずアシェを抱きしめたという、そんな小さな出来事が20年前のコソボで起こっていた。人間が知らぬ間に生み出し、積み上げて行ってしまう「敵意」という壁を、勇気ある小さな少女の友情が上回ったというほんの小さな出来事である。
それが「善いサマリア人のたとえ」と何のかかわりがあるかというと、先ほどの聖書の中に「ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである」という言葉が出てきた。詳しい説明は省かせていただくが、この両者も敵対関係にあった。過去の歴史的因縁からイエスの時代、ユダヤ人はサマリア人を見下し、差別していた。それなのにあのたとえでは同じユダヤ人の旅人が追剥に襲われて倒れていても祭司とレビ人は見て見ぬふりをして通り過ぎてしまうのに、最後に通ったサマリア人が駆け寄って懸命に介抱する。もし同じサマリア人仲間がそれを見れば、にっくき敵を助ける裏切り行為と思われかねないことを彼はやったわけだ。そこに、敵意が冷めやらないセルビア人のミリツァの家を訪ねたアシェの勇気に通じるものがある、と思うからである。
先ほどのヨハネ４章に戻りたい。サマリアの女性が水を汲みに井戸にやって来るとそこにイエスがいたという。彼女は咄嗟にイエスがユダヤ人であると気づいたに違いない。なぜなら、イエスが「水を飲ませてください」と頼むと即座に彼女はこう答えたからである。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。この彼女の疑問は、イエスの要求が信じられないほどの驚きをもたらすものであったことを物語っている。敵であるユダヤ人が、普段容赦なく見下しているサマリア人にどうして頭を下げてものを頼むのか。まして当時は激しい男尊女卑の社会であったからその驚きは倍増し、敢えて彼女は「どうしてユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに」、と自分が女性であることを強調せずにはいられなかったようである。ただ、それに対するイエスの答えを見ると、どうやらこの時、イエスは本当に水が飲みたかったわけではないようだ。喉が渇ききって耐えられないほど追い詰められていたわけでもないようだ。なぜならイエスは彼女にこう答えたからである。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
この時、井戸に水を汲みに来たサマリアの女性にイエスが話しかけたのは、本当に水が飲みたかったからではなく、イエス自身が持っていた「生きた水」という水を彼女に飲ませたかったから、であったようなのだ。しかしそのイエスの本心はすぐには彼女に伝わらない。戦争や差別などの苦しみに否応なく巻き込まれてしまう時、彼女に限らず、人間の心は例外なく常に頑なで疑い深く傲慢になっている。昨年からコロナウイルスの猛威に脅され続けてきた我々もそうかもしれない。彼女も思った。「この人は何を言っているんだ。水を汲む物を持ってもいないくせに、どうやってその水を私に飲ませることができるというのか。そもそもこの井戸で喉を潤し、子孫たちや家畜にも水を飲ませたと伝えられる先祖ヤコブよりもこの人は偉いのか」。そう思うのも無理はない。それは、イエスが本当は誰であるのか、彼女は分かっていないからだった。
話が反れてしまうかもしれないが、ここでイエスが言った「生きた水」から取って我々夫婦は三人目の子に「生水」という名前を付けた。James S. Dunnという新約聖書学者の短い論文の中に、この「生きた水」こそが神の見えざる力である聖霊を意味する、と書かれていたのを読んだからでもある。しかし正直言って私には、聖霊とは何であるのか、本当の意味を分かってはいない。言葉で説明しようとしても、嘘をつくとは言わないまでも無理が生じてしまう気がしてならない。そういう意味では、「生きた水」と井戸からのただの「飲み水」との違いが分からないこのサマリアの女性と私も同じなのかもしれない。イエス・キリストのことでさえ、正直本当に分かり切っているとは言い切れない。牧師である以上は聖書を読み、祈り、様々な書物を読むことでイエスを追い求めて来た。しかし昨年、原因不明の失神で倒れ外傷性のクモ膜下出血を起こして以来、イエス・キリストが前よりも分からなくなってしまっている。イエスが遠くに去って行ってしまわれたような気がしている。前回の礼拝説教でも申し上げたが、こんな私に御言葉を取り次ぐ資格などないのではないか、と悩み続けている。ただ、皆さんはどう思うだろう。聖霊とはこういうものだと以前に教えられたままで止まってはいないだろうか。昨年よりは今年の方が、イルミネーションやデコレーションに彩られて街中はクリスマスの雰囲気になっているこの世も、イエスが誰であるのか、生きた水が何であるのかが分かってそうしているわけではないだろう。この世は当然だが、もしかしたら世にある教会もクリスチャンも、大切だと代々言い伝えられて来た飼い葉おけに眠る御子という名のヤコブの井戸水を汲もうとしていただけなのかもしれない。それで、本当のクリスマスを知っている気分になっていただけなのかもしれない。だからこそその時が過ぎればまた渇いてしまい、また教会という名の、或いは礼拝という名の井戸に水を汲みに来ようと、その営みを満遍なく繰り返して来たのかもしれない。それは神の眼差しから見ればゼカリヤの言う、「光がなく冷えて、凍てつくばかりの日」の連続を繰り返しているだけなのかもしれない。だがしかし、人となられた神は、肉となられた言、神の独り子にして救い主なるイエスは今、再びその井戸にまで降りて来て下さっている。だからこそイエスは今年も、「水を飲ませて下さい」と声をかけるまでして、井戸に水を汲みに来た我々に歩み寄って来て下さっている。そのイエスに気づくことこそが、「夕べになっても光がある」というその日が実現することであり、まさしくそれが、今日から始まるアドヴェントの出来事に他ならないのではないか、と思うのである。
その日、エルサレムから命の水が湧き出るとゼカリヤは語っていた。しかしイエスは、エルサレムならぬサマリアの井戸に水を汲みに来たサマリアの女性に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と語っていた。アドヴェントが始まった今、この世に歩み寄って来られた主は、この礼拝にいる私たちにも、このように語りかけておられるのではないだろうか。「この世のクリスマスを求める者はだれでもまた渇く。しかし、私が与えるクリスマスを飲む者は決して渇かない。私が与えるクリスマスは、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」のだと。そして、イエスが与える生きた水を、かつてあのたとえの怪我人を助けたサマリア人だけは受け止めていたと思うのである。初めに通りかかった祭司とレビ人は怪我人に対して何も心は動かなかった。最後に通ったサマリア人だけが「憐れに思った」と聖書は伝えている。「憐れに思う」というのは、スプランクニゾマイという知る人ぞ知る聖書ならではのギリシャ語が訳されたもので、本当は「はらわたをつき動かされる」という意味がある。あのサマリア人だって本音でいえば敵であるユダヤ人を助けたいとは思えなかった筈だ。ただあの時、神によってはらわたがつき動かされ、敵味方であろうと関わりなく命の危機にある者を助けずにはいられない気持ちへと促された。コソボの少女アシェも同じだったと思う。本音ではセルビア人のミリツァの家を訪ねるのは恐い。殺されるかもしれない。でも彼女の小さなはらわたを神が揺り動かし、目先の安全よりも友との交わり・信頼を優先させる行動を取らせたのではなかったか。たとえに出て来るサマリア人にもその時のアシェとミリツァにも、生きた命の水が湧き出るように溢れ始めていたのではなかったか。そして紛れもなくその人たちにおいて、本当のアドヴェントが始まっていたのではなかったか。夕べになっても光があるその日の夜明けが始まっていたのではないか。そう思うのである。
今週火曜日、H兄弟が天に召された。寡黙な兄弟とは話をするというより目で挨拶を交わすことが多かったが、しかし兄弟が誠実かつ正直に子供たちに向けて礼拝のお話をされていたことを覚えている。兄弟にとって、井戸水で補うしかない肉の命は確かに終止符が打たれた。しかし兄弟にはこの教会を通し、礼拝を通して決して渇くことのないあの水、永遠の命に至る生きた水が注がれていた、と思うのである。アドヴェントとは、救い主イエスの誕生を待ち望むだけではない。死から復活したキリストがもう一度この世に来て、神の国を完成させて下さるその日、まさに昼もなければ夜もなく、夕べになっても光に照らされ続けるその日を待ち望む時でもある。黙示録によれば、涙はすべて拭い去られ、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、とうたわれる神の国を待ち望む時でもある。兄弟はその日が来ることを信じ、神の国を切に待ち望みつつ旅立たれたのではなかったか。であるのなら、目で見ることは出来なくても永遠の命に結ばれている兄弟の信仰から今こそ、生きた水が湧き出るように溢れ始めているのかもしれない。この世にある我々に今はまだその実感がわかなくても、生きた水と井戸水の区別がつかなかったサマリアの女性にこの後もイエスが向き合い続けて下さるように、ご自分こそがメシアであると伝えて下さる、そうして彼女の目を開かせて主イエスが彼女にも真のクリスマスを迎えさせて下さるように、今日から始まったこのアドヴェントにおいて、主は我々一人一人と向き合い、目を開かせ渇きを潤そうとして下さる。H兄弟や信仰の先達たちは永遠の命に結ばれている。クリスマスに向かって、主によってはらわたをつき動かされながら私たちも確信させられたい。目には見えなくても、たとえこの世の生涯は幕を閉じようとも、一人一人から生きた水が湧き出るように溢れる神の国を信じて待ち望む新しい命へと生まれ変わらされたい。