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2023.11.26. 主日礼拝
詩編５０：７-１５ ルカ１８：９-１４
「憐れみ給う神」 浅原一泰
「聞け、私の民よ。私は語ろう。イスラエルよ、あなたに証ししよう。私こそ神、あなたの神。いけにえのことでは、あなたを責めない。焼き尽くすいけにえは絶えず私の前にある。私はあなたの家から雄牛を、囲いの中から雄山羊を取り上げはしない。森の生き物はすべて私のもの、千もの山々にいる獣も、私のものだから。私は山々のすべての鳥を知っている。野にうごめく虫も私のもとにいる。たとえ飢えても、あなたには言わない。世界とそこに満ちるものはすべて私のものだからだ。私が雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むことがあろうか。感謝を神へのいけにえとせよ。いと高き方に誓いを果たせ。苦難の日には、私に呼びかけよ。私はあなたを助け出し、あなたは私を崇めるであろう。」
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
自宅の書斎の机の上に置いてある本棚の中に、丁度6年前の12月12日の新聞が残っている。その紙面には、その前日にその年のノーベル平和賞の授賞式典が行われ、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(通称ICAN)が平和賞を受賞し、代表としてあのサーロー節子さんによってなされた講演が載っていた。彼女の住む広島の街に原爆が落とされたのは、彼女が13歳の時である。従って彼女は克明にその日の朝８時15分に起こったことを覚えておられた。講演の中で彼女はこのように語っている。「一発の爆弾で広島の街は完全に破壊され、一般市民の殆どが燃えて灰と化し、煙となって蒸発し、黒焦げの炭となりました。その中には私の家族や、351人の同級生もいました」と。「その後、数週間、数カ月、数年に亘って何千人もの人たちが放射能の影響によって次々と不可解な死を遂げ、今もなお、放射線は被爆者たちの命を奪い続けています」と。
彼女が広島を思い起こすときに真っ先に頭に浮かぶのは当時４歳だった英治君という甥っ子だそうである。英治君の小さな体は、誰なのかが分からない程溶けた肉の塊と化し、それでも彼はかすれた声で水を求め続け、遂に息を引き取って苦しみから解放された。彼女にとって英治君は、世界で今まさに核兵器によって脅かされているすべての罪のない子供たちを代表している、と彼女は言いきった。毎日毎秒、核兵器は愛する全ての人をこの危機に曝しているのだと。だからこそ、核が現存するこの異常事態を許すことはできないのだ、と。
この記事を久しぶりに読み返しながら、今現在、ガザ地区の病院で悲鳴を上げながら傷の手当てを受けている幼子たちの映像が頭に浮かんでいた。昨年２月以来のウクライナのキーウ近郊にあるブチャの街で起こった虐殺、或いはその他の地域でも、罪もない幼子たちがどれほど犠牲になっていることだろうか。
核を人間に対する武器兵器として使うということ。たとえ憎き敵に対してであっても、紛れもなくそれは、人間が決して越えてはならない一線を越える事態であった。では戦争はどうであろう。相手が一方的に攻撃してきたなら、しかも敗北を認められないのなら、昨年以来のウクライナのように勇敢に立ち向かうことは致し方ない選択かもしれない。そうしなければ自分の命が奪われる可能性が極めて高くなる。ただ、戦争が始まれば勝つか負けるかしかなく、それが決まるまで泥沼の状態が続くしかないように思われる。しかしながら、出来ることならばその選択をするよりも前に立ち止まることは出来なかったのだろうか。なぜ同じ人間が争い合わなければならないのか、なぜ相手はそのように暴力に物を言わせて攻め寄せて来るのかを真剣に悩み、考えることはできなかったのだろうか。負けないこと、殺されないこと、その為に武器をもって立ち上がるのではなく、勇気ある決断をもって立ち止まり、或いは勇気ある撤退をもって冷静さを取り戻し、考えることは人間には無理なことなのだろうか。（太平洋戦争直前の日本を御存じの方はどう思うか。）
聖書ははっきりと、アダムとエバの子孫である限りは我々人類には「無理だ」と告げているように思う。人類最初の夫婦である二人は、園の中央にある善悪の知識の木からは食べてはならない、食べると死んでしまう、と命を与えて下さった神から告げられていた。しかしそこに蛇が現れ、エバの想像力を掻き立てた。「食べたって死ぬわけないだろう。むしろ食べればお前たちは神になれる。それが神には面白くないのだ」と。「食べても死ぬわけがない」とはエバ自身も思っていたはずだ。しかし自分だけが神に背くのは都合が悪い。そこで彼女はアダムにも食べさせた。
それを知った神はアダムを問いただす。「なぜ食べてはいけないと命じていた木からあなたは食べたのか」と。するとアダムはこう切り返した。「あなたが私に与えてくれたあの女エバが食べろ、と言ったから私は食べたのです」と。エバ一人が悪いのであって私は悪くありません、と言うわけだ。まんまと自分に食べさせたエバにアダムは仕返しをしたのかもしれない。しかしそこに「思い上がり」がなかっただろうか。正しくない自分を良く見せようとする己惚れがなかっただろうか。アダムは一歩立ち止まって「悪いのは私です」、「私が彼女を諫めるべきでした」とは言わなかった。後ろめたさを隠すために彼は自分を正当化しようとした。因みにその後神がエバを問いただすと彼女は答えた。「蛇がだましたから私は食べた」と。私は悪くない、悪いのは相手だ、そう責任を擦り付けることしか出来ない。敵同士がそれを言い張ることで戦争になる。自分を守るためには相手を、核の力を借りてでも威嚇し、いざとなれば使うこともやむを得ないことだと正当化する。聖書の神を引き合いに出し、宗教の指導者に祈りまでさせて正当化に追い打ちをかけ、自国の民を納得させる。先進国を治める立場にいる権力者は大抵そう思っている。そこに彼らの、核保有国首脳の思い上がりがあるのではないだろうか。政治家が悪い、と我々庶民も責任を擦り付ける。しかしその傍らの世の片隅で、罪もない人々、特に幼子たちが犠牲となり続けて来た。その責任は政治にあると擦り付けている我々にも、子供たちを助けられない後ろめたさを隠す思い上がりがあるのではないだろうか。そういう者たちを、先ほどのルカ１８章は見事に、「自分は正しい人間だと己惚れて、他人を見下している人々」と言い当てている。それはアダムの子孫すべてのことである。他人事ではない。自分は違う、などと誰も言うことは出来ない。私も皆さんも、聖書からすれば紛れもなくそのような人間なのである。
詩編１４：３以下にこういう言葉がある。「主は天から人の子らを見下ろし、神を求める悟りある者はいないかと探られる。すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない。悪事を働く者たちは誰もこのことを知らないのか。パンを食らうように私の民を食い尽くし、主を呼び求めようとはしない」と。
その現実を、天地万物をお造りになり、中でも御自分の姿形に似せ、あらん限りの思いを込めて人間をお造りになった神は見放しておくことが出来なかった。人間どもが悪い、と責任を擦り付けることもなかった。むしろ神は、我々人類を造った責任を自ら背負う。だからこそ、戦争で愛する者たちを失った被害者たちに寄り添い、彼らの苦しみ、悲しみ、涙に誰よりも心を痛め、憐れみ続けて来られた。だからこそ神は動かれた。そのことを聖書は、(ロマ書３章で)、罪人たちによってこの世が闇のままであるからこそ神は、遂に神の義を示された、と告げている。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより値なしに義とされるのです。神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした」と。先ほどの詩編５０：１４には「苦難の日には、私に呼びかけよ。私はあなたを助け出し、あなたは私を崇めるであろう」とあったように、神は命ある者全てを助け出すために、遂に動かれたのである。
そのような世界にいる二人の人間についてイエスは語っていた。一人は「神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈っている。旧約聖書の中で最も重要な神の掟である十戒には確かに、「盗んではならない、姦淫してはならない、隣人について偽証してはならない」とある。彼はそれをやっている、というわけだ。必要以上に神に捧げものもしていた。そうやって他の人たちや徴税人とは違って、自分が神の前で非の打ちどころのない人間であることをアピールし、ポイントを稼ごうとしていた。学生にとっての勉強、社会人にとっての仕事、教会員にとっての奉仕に、そういう一面はないだろうか。紛れもなくそこにも思い上がりがある。しかしそこには、力がなく出来ない隣人を赦して共に立ち上がろうとする愛がない。この世が間違っている責任のすべては自分ではなく他者や徴税人にあると擦り付け、そのような者にはまるで存在価値がないかのように見下す。このような人間こそが、対立する人間や価値がないように見える人間を排除するために平気で核を持ち出すのかもしれない。そこにあるのは、悪いのは神様、あなたが私に与えた女が食べろと言ったからであって、私ではないですよ、と自分の罪を認めず、曝け出せずにエバに責任を擦り付けるアダムの姿である。ということは私にも皆さんにも、アダムの子孫であるすべての人間に同じものが受け継がれている。「善を行う者はいない。一人もいない」というあの言葉は今もこれからも、何時の世にもあてはまる。
だからこそ神は動かれた。神は憐れまれた。思い上がる人間のいかなる善い行いも、いかなる捧げものも、いかなる祈りも神は喜ばなかった。先ほどの詩編でも、「私こそ神、あなたの神。いけにえのことでは、あなたを責めない。（後ろめたさを隠すためにあなたが捧げなくても）焼き尽くすいけにえは絶えず私の前にある」と神は語っていた。同じ詩編の次の５１編では、神は祈り手にこう祈らせていた。「あなたはいけにえを好まれません。焼き尽くすいけにえを献げても、あなたは喜ばれません。神の求めるいけにえは砕かれた霊。神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません」と。思い上がったアダムの子孫である全ての人間がそのように生まれ変わることを神は求めている。罪に塗れた我々の古い人間が死んで打ち砕かれ、新しい命へとよみがえることを神は求めておられる。偽りなく、真っ正直に、裸のままの自分を神に曝け出すことを神は求めておられる。しかしつい思い上がってしまう我々にはそれが出来ない。しかしその責任を神は我々に擦り付けない。だからこそ神は自らを独り子キリストの姿で、我々の前に曝け出された。キリストはすべての罪ある者の憎しみを背負い、罵り、嘲り、侮辱のすべてを受け止め、罪ある者と同じ姿形を取って十字架の死を受け入れた。自分を守るためなら偽りを続け、責任を他者に擦り付けて平気で生き延びようとする我々の悪しき思いをすべてご自分に向けられ、我々からありとあらゆる責任を擦り付けられた上で十字架にかかり、息を引き取る直前のいまわの際でキリストは一言、「成し遂げられた」(ヨハネ19：30)と言われた。思い上がっている我々人間に代わって、神自らが人間イエス・キリストとなってあらゆる痛み苦しみをも、死の裁きをも背負われたのである。我々に決して責任を擦り付けない神が自らを、惜しみなく十字架の死へと引き渡され、生け贄の供え物とされたのである。後ろめたさを隠し、思い上がって人間が神を喜ばせようとする供え物などもはや必要ないのだと。キリストの死によってそれは成し遂げられたのだと。むしろ神はこのキリストの死において、罪ある人間の悪しき命を、罪に操られ、人を見下していた古い命を共に死なせようとしておられる。このキリストを死からよみがえらせることで神は、古い命に縛られていた我々を神への愛と隣人愛に生きる新しい命へと生まれ変わらせようとしておられる。神自らが人間イエスの姿形となって十字架の死を背負うことで、我々の古き命を断ち切り、我々を新しい命へとよみがえらせようとされているのである。すべてが神の恵みである。一方的なる神の憐れみである。人間の捧げものなど必要ない。思い上がった人間がいかに善い行いや働きを積み上げても、その者を新しい命へと生まれ変わらせることなど出来ない。神自らが人間の姿形を取って、イエスとなって十字架にかかることによってこそ、このイエスを死からよみがえらせることによってこそ初めて、それが実現する。それが神の義である、と聖書は告げているのである。
先ほどのルカ１８章に出て来たもう一人の人間、徴税人は遠くに引き下がったまま、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈っていた。「神様、罪人の私を憐れんでください。」神の憐れみに寄り縋らなければ生きる資格がないことをひしひしと感じていた罪人の姿がここにある。捧げものや善い行いによって自分を装わず、偽らず、罪あるままの自分を神に正直に、真摯に曝け出す人間の姿がここにある。こんな生きる資格もない私の汚れも罪も全て身代わりに背負って十字架にかかって下さったキリスト、人間キリストの姿形をとってまでして私の代わりに全てを曝け出し、全ての憎しみ苦しみ痛みを背負い、死の裁きをも担って下さった神の憐れみの深さ、重さ、大きさに圧倒され、頼らずにはいられない者の姿がここにある。罪に操られた古い人間に死に、神の赦しの恵みと愛に生かされようと産声を上げ始めた新しい命がここに生まれようとしていた。
我々クリスチャンは、罪と闇のひしめくこの世にあって、この徴税人のように産声を上げ始めたばかりの幼子なのではないだろうか。しかし素直に、一歩ずつ成長したいと望みながらも自己愛の渦巻くこの世にあって、捻じ曲げられ、世に流されてしまう。そんな成長ままならない我々をあるべき姿へと立ち帰らせるために、神は再び人間イエスとなって、飼い葉桶に眠る嬰児の姿かたちをとって、我々の只中に来て、あるべき本来の産声を上げようとして下さっている。来週からアドベントが始まる。道を踏み外しつつあった我々を命の道へと連れ戻すために、再び神自らが我々のただ中へと、最も弱く小さく貧しい姿で、馬小屋の飼い葉桶に眠る嬰児として来て下さる。我々のために産声を上げて下さる。その声を聞かせて下さる。肉の耳ではなく心の耳で、肉の目ではなく霊に導かれた眼によって、その神の愛をしかと受け止めるアドベントを皆さんとご一緒に迎えたい。