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エフェソ1：15～23「力強く働く神の力」
2023年11月5日（左近深恵子）
エフェソの信徒への手紙は、エフェソという街の教会に宛てた手紙です。エフェソは海岸沿いにある商業が盛んな都市で、パウロが数年に渡って滞在し、この街や周囲の地域に福音を宣べ伝えた、初代の教会の歩みにとって重要な拠点の一つでありました。この手紙はエフェソだけでなく、周囲の教会に回覧して読まれることを想定して書かれたとも考えられています。前回まで聞いてきたコリントの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙が語り掛けていたような、特定の問題を抱えている教会というよりも、様々な状況にある、様々な教会に向けて、誰にとっても大切なことを述べる手紙です。私たちにとっても大切なことが、語られています。
この手紙の今日の箇所には二度、「聖なる者たち」という呼び方が登場します。元の言葉を直訳すれば、「すべての聖なるものたち」です。1：1も、この言葉によって呼び掛けていました。「聖なる者たち」というこの言葉は、日本語で「聖徒」とも訳されてきました。使徒信条で「聖徒の交わり」と言う時の「聖徒です」。英語ではSaintsとなります。そこから所謂“聖人”を思い浮かべがちですが、崇めたり、礼拝を捧げたり、祈りを捧げる対象では無く、それぞれの教会の普通のキリスト者たちを表します。今この地上の歩みを重ねている私たちだけでなく、既に地上の生を終えた信仰者たちも「聖なる者たち」です。聖なる者であることは、死によっても断ち切られません。教会の暦は伝統的に、既に地上の生涯を終えた信仰者たちの生涯とその中で為された証しを特に覚える日として、11月1日を「聖徒の日」としてきました。永眠者記念礼拝や召天者記念礼拝を11月上旬に行う教会が多いのは、このことも一つの理由でしょう。美竹教会でも毎年11月第2週に永眠者記念礼拝を守っており、来週がその礼拝となります。
聖書で用いられる「聖なる者たち」と言う言葉はこのように、キリスト者を指します。そのことを前提に、今日の箇所の1：15では、エフェソの教会の、他の人々に対する愛について語る際に、他の信仰者たちを指して「すべての聖なる者たち」と述べます。18節では、エフェソの信徒たちも含めた全てのキリスト者たちを指すものとして、この言葉を用いています。
どのような人であっても、キリスト者であれば聖なる者と呼ばれる、このことに私たちは戸惑いを覚えるのではないでしょうか。人は、その人がすることに基づいて評価されるのが、世の常識です。神さまもそのように自分を評価するはずだと、それが公平な評価だと思っています。だから聖なる者と呼ばれることにも、誰かを聖なる者と呼ぶことにも、抵抗を覚えます。私たちは聖なる者と呼ばれる相応しさに欠けているからです。
素晴らしい行いをしていると、私たちがそれぞれに尊敬している人もいるでしょう。しかし全てのキリスト者が特別に清らかなわけではありません。罪を犯さない人、完ぺきな人はいません。それどころか、私たちの言動によって、他の人々の心身に苦しみを与えてしまうことも、癒えない傷を負わせてしまうことも起こり得ます。キリスト者となって、聖なる者とされても、聖なる者と呼ばれるに相応しい行動など、なかなかできない私たちです。私たちの行いの量や質では、自分を聖なる者とするには全く不十分です。
私たちがキリスト者であるかどうかは、私たちがすることに依るのではありません。神さまが私たちのためにしてくださったことに依っています。神さまが私たちのためにみ子を世に与えてくださり、私たちの代わりにみ子が私たちの罪を負ってくださった、このことを自分のためのみ業であると、受け止めるかどうか、イエス・キリストによって自分は救われているのだと、信頼するかどうかです。私たちがキリスト者になるということは、自分は聖なる者と呼ばれるのにふさわしくない者であることを知り、そのことを受け入れ、キリストの救いに生きるということです。キリスト者となった後も、キリストにおける罪の赦しを絶えず必要とする罪人であり、そして罪赦されている喜びを味わい続けるのです。
エフェソの信徒への手紙はこのことを、手紙の序の部分である第1章の前半で語ってきました。今日の箇所で本論に入ると手紙の書き手は先ず祈ります。主イエスに対するエフェソの人々の信仰と、他の教会や地域の信仰者たちに対するエフェソの人々の愛を耳にした書き手は、その源にある神さまの恵みの豊かさを思っては、感謝の祈りを捧げずにはいられません。エフェソの人々にいつも祈っていることを伝え、いつも祈っているのはどのようなことなのか、伝えます。エフェソのキリスト者たちと、手紙の書き手は祈りによっていつもつながっています。エフェソの人々のことを聞いて、そこに神さまの恵みを見出しては、自分のことのように喜び、感謝せずにはいられないのです。
感謝の祈りを捧げてから、書き手はエフェソの人々のために主に様々なことを願います。その一つが、「心の目が照らされ」ますように、という祈りです。新共同訳聖書では「心の目を開いてくださるように」と訳されていました。直訳すると、「心の目が光に照らされて」となります。神さま、人の内なる目を神さまの光で照らしてください、私たちには見えていなかったことも見えるようにしてくださいとの願いが、この祈りの中心にあります。
私たちは誰も、自分の視力だけで物を見ることはできません。太陽の光、ライトの光、メガネの力など、助けを必要とします。信仰の事柄を見るためには、神さまの助けが必要です。自分の知識や知性や勘や経験をかき集めたからと言って、信仰の事柄が良く見えるようになるわけではありません。神さまの光が、言い換えるならば聖霊の導きが必要です。神さまから与えられている命を、神さまがそう願って命を与えてくださったように、生き生きと生きていくために、あなたがたの内なる目が神さまの光に照らされますようにと、エフェソの教会の人々のために祈っています。
神さまの光に照らされて知ることができる三つのことが、ここで述べられます。一つ目は、希望です。様々なものが輝いて見える世にあって定まらない足取りになってしまう私たちが、自分の歩む道を見出し、信頼と安らぎをもって歩んでゆくために、揺るぎない希望が必要です。神さまは私たち一人一人をご自分の元へと招いてくださいます。私たちのすることが招くのに相応しいものだと認められ、招かれたのではなく、招くと決められた御心が招きの源です。相応しくない私たちを神さまが招いてくださったから、神さまが私たちを救いのみ業の完成へと導いてくださることに、希望を与えられます。私たちの思いの不安定さも、人々の罪深い性質が悪化させている世の状況も貫いて、神さまが救いのみ業を完成してくださることに望みを与えられているから、私たちは絶望することがないのです。
神さまの光に照らされて知ることができる二つ目は、聖なる者たちが受け継ぐものの豊かさです。受け継ぐものを言い表す言葉は、様々にあります。永遠の命、全き平和、全き愛、真実、尽きぬ喜びなど。それらは、天に蓄えられ、朽ちることも、汚れることも、しぼむこともない宝です。世の宝しか知らず、満たされることが無いところから、神さまの栄光の光に輝く宝の豊かさを見つめながら生き生きと歩む主の道へと、導かれることを願うのです。
三つ目は神さまの力です。様々な力が競い合う世にあって、主の力が全ての力に勝ると知ることは私たちを力づけます。主の力こそが、私たちの力の裏付けであるのです。手紙は、神さまの力の大きさを何とか表そうと、「力強く働く神の力が、どれほど大きなものか」と述べます。新共同訳聖書では「絶大な働きをなさる神さまの力が、どれほど大きなものか」と訳されていました。この一文の中に、力を意味する言葉が幾つも用いられています。何とか神さまの力の大きさを伝えようとする、書き手の思いが伝わってきます。救いのみ業を推し進めておられる神さまの力の大きさは、見えてくるものだけを漫然と見ていてはなかなか知ることができないものであります。神さまの光に照らされて、内なる目を凝らして初めて、神さまがどれほど大きなことを、私たちを救うために為してこられたのか、見えてきます。世には、相手の命も尊厳も踏みにじりながら前進する勢力があります。報復に向かわずにはいられない怒りがあります。自分が今得ているものをキープすることしか眼中にない他者への無関心があります。互いを理解しよう、互いを受け容れよう、共に生きて行こうとする願いと努力の蓄積よりも遥かに、これらの力の勢力の方が大きいように見える世にあって、それでも、神さまの力が勝ることを見て取ることができるようにと、手紙は具体的に語ります。神さまの力の大きさは、神さまがキリストの内に働かせてくださった力に現れていると、つまりキリストに起こった出来事を見れば、神の力の偉大さが分かると述べます。キリストに起こった出来事を聖書は沢山伝えています。それらの中でこの手紙の書き手が神さまの力の大きさを伝えるために挙げるのは、キリストを死者の中から復活させられ、天に挙げられ、神さまの右の座に着かせたことです。死に打ち勝つ力を私たちは誰も持たないのに、神さまはキリストをよみがえらせることのできる方でありました。キリストを神の右の座に着かせたとは、王座に着かせたということです。神のみ子は、天にあるものも地にあるものも、今あるものも、これから来るものも、目に見える者も見えないものも、全ての力を足元に従わせ、支配する方であります。ここに神のお力が現れています。これらのことを内なる目で見つめては、これらのことを為さった神さまのお力がどれほど大きなものであるのか、新たな驚きをもって気づかされるのです。
このキリストを、神さまは頭として教会に与えられました。ただ、「頭として与えた」と述べるのではなく、「すべてのものを足元に従わせ、すべてのものの上に立つ」頭として与えてくださったと述べています。このことを私たちはどれだけ受け止め、胸に刻み付けてきたのか、危機に直面する時に切実に問われます。神の力が大きなものだと悟っているか、キリストを頭としているか、それとも、その時々で権勢を振るっている力、自分の生活や自分の心を支配してしまっている力を、教会の頭としてキリストの代わりに挿げ替えるようなことをしていないか、キリストを崇めているようで、キリストの上に更なる頭を据えるような、二心ある生き方をしていないか、振り返るならば言葉を失うか、言い訳を並べ始めたくなる私たちです。「心の目が照らされ、神の力がどれほど大きなものかを悟ることができますように」とのこの手紙の願いは、私たちにとっても本当に必要な祈りです。すべてのキリスト者たちと、心の底から、この祈りを共にするのです。
キリストを神さまは教会の頭としてくださいました。キリストの死と復活によって聖なる者とされた私たちは皆、キリストだけを頭に仰ぎます。他の様々な力を頭とするのではなく、自分自身を信じ、自分を頭とするのでもなく、キリストを信じ、信頼するということです。このキリストにつながることで、私たちは互いにつながり合うキリストの体とされました。私たちはキリストの手や足です。それは、自ら考え、判断する力も、心も失って、命じられるままに動くロボットのようなものではありません。教会は、全てにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。天の希望と豊かさと力が注がれ、満ちているところです。手足である私たちは、天の希望と豊かさと力を自分の末端にまで行き巡らせるように受け止め、自分のエネルギーの源とし、頭であるキリストに仕え、教会を通してこの世に仕える者となります。キリストの体であるということは、私たちの命は私たちだけのものではなく、頭であるキリストのものであるということです。一人一人がバラバラに孤独に生きているのではなく、キリストの手や足として生きるということです。一人一人のキリスト者としての生活はここで築き上げられます。一人一人が、それぞれ教会の交わりに加えられることで、世界中のキリスト者たち全てが加えられている「聖徒の交わり」の中に加えられます。これこそ、私たちと神さまとの関わりの現実です。私たちは、世の現実を嘆き、悲惨さを増大させている様々な力に神の力が太刀打ちできないのが現実ではないかと思う時もあるかもしれません。それでも教会というキリストと私たちの関わりこそ、世の現実の中で歩む信仰者が、最も現実的でいられるところなのです。