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Thursday, November 14, 2013
＜おんな＞の思想の源泉
上野千鶴子『＜おんな＞の思想――私たちは、あなたを忘れない』（集英社インターナショナル）――なるほど、よくわかった。著者が「論争」に次ぐ「論争」に突入し、連戦連勝を遂げた理由の一端が。帯の言葉は「わたしの血となり肉となったことばたち。フェミニズムの賞味期限はすぎたのだろうか？」。本書第１部「＜おんなの本＞を読みなおす」では、森崎和江、石牟礼道子、田中美津、富岡多恵子、水田宗子の５人の女性の著作が取り上げられる。＜おんなの思想＞がどのように生み出され、形をなして行ったのか。その苦しい、そして激しい思想の闘いを著者はどのように読み、学び、著者自身の思想として取り入れ、鍛え直して行ったのか。私が森崎や石牟礼を読むとき、いかに敬意を持って読もうとも、知識を得る読み方を超えない。著者が森崎や石牟礼を読むとき、著者の学問だけでなく、人生が賭けられている。そんな読み方に勝てるはずがない。本書第２部「ジェンダーで世界を読み換える」では、ミシェル・フーコー、エドワード・サイード、イヴ・セジウィック、ジョーン・スコット、ガヤトリ・スピヴァク、ジュディス・バトラーの６人の思想家の著作が取り上げられる。フーコーとサイードは男だが、著者は『性の歴史』や『オリエンタリズム』の画期的意義を受け止め、自らの方法論に活かしていった。「セックスは自然でも本能でもない」「オリエントとは西洋人の妄想である」「同性愛恐怖と女性嫌悪」「世界を読み換えたジェンダー」「服従が抵抗に、抵抗が服従に」「境界を攪乱する」――大胆に簡略化したスローガンだが、元の著作の粋を抽き出して、わかりやすく表現するだけでなく、これらに学んで著者のフェミニズムを紡ぎ直し続けたということだ。こうして理論武装した著者は、「論争」に次ぐ「論争」から決して撤退することなく、つねに最前線で闘い続けた。著者は一人ではなかった、からだ。尊敬する先人の言葉と思想と人生を引き受けて、負けられない闘いに挑み続けたからだ。１１人の著作が取り上げられているが、最終章の「境界を攪乱する」は、竹村和子の遺著に著者がつけたタイトルなので、竹村も含めると１２人の思想家を取り上げている。本書はフェミニズム入門ではないが、「上野フェミニズム」の源泉となった著作の読み解き方を教示してくれる。著者はあとがきで「わたしがいかにつくられたか、ということの証言でもある。／だから、この本はわたしにとって、とくべつなものとなった」と述べている。上野フェミニズムに関心のある読者はもちろんとして、それ以外の、現代思想に関心を持つすべての読者にも有益な１冊である。最後に１点、とても気になることを書き留めておこう。著者は「バトラーの言説実践論は、ことば狩りのようなヘイトスピーチの取り締まりに『ノー』と答える。それぞれに歴史的負荷を負った言語や概念を『使わない／使えないようにする』よりは、むしろそれを誤用、流用することで新しい意味を与えていくほうがよい、と。」（２８７頁）。これはバトラーの『触発する言葉』のことだという。同書を読んでいないので、本格的なコメントはできないが、上野の記述が正しいとすれば、バトラーはヘイト・スピーチとは何かをおよそ理解していない。第１に、ヘイト・スピーチは単なる「表現」ではない。ヘイトは憎悪と訳されるが、単なる「憎悪」でもない。ヘイト・スピーチは「憎悪表現、言論」と訳されるが、単なる表現ではない。差別、差別の煽動、暴力の煽動、そして排除と迫害であり、放置しておくと人道に対する罪としての迫害やジェノサイドにつながる行為である。これが常識というものである。だから、国際自由権規約も人種差別撤廃条約も人種主義の流布や人種差別の煽動を規制するように要求しているのだ。だから、ＥＵ加盟国すべてがヘイト・スピーチ規制法を持っているのだ。そして、京都朝鮮学校事件に関する京都地裁判決も、（不十分な認識ではあるが、）在特会の行為を「排除」だと認定したのだ。単なる「表現」ではなく、「憎悪をぶつけて排除する行為」が問題となっているのだ。この認識をもたないと、ヘイト・スピーチを「表現」に圧縮し、ヘイト・スピーチ規制を「ことば狩り」だなどとトンデモ発言をすることになる。「我々は叫んでいるだけだ。表現の自由だ」と開き直る在特会に、ジュディス・バトラーはお墨付きを与える。第２に、被害を無視している。ヘイト・スピーチが直接の被害者及び間接の被害者（被害者と属性を同じくする集団構成員等）に深刻な重大被害をもたらしている現実を考えれば、まともな人間なら、まず被害を止めることを考えなくてはならない。ところが、バトラーは「歴史的負荷を負った言語や概念を『使わない／使えないようにする』よりは、むしろそれを誤用、流用する」と言うのだ。まさかとは思うが、「被害など関心はない。私の言説実践こそ重要なのだ」とでも考えているのだろうか。