diff --git "a/reference_files/paragraph-test.txt" "b/reference_files/paragraph-test.txt" deleted file mode 100644--- "a/reference_files/paragraph-test.txt" +++ /dev/null @@ -1,3939 +0,0 @@ -ペリー率いる黒船襲来をきっかけとし、日本の鎖国は破られ開国することになった。開国後、日本から多くの人々が学問や技術を学ぶために欧米諸国へ向かうことになる。アメリカにも多くの日本人が渡っていったが、明治時代後半になるとかつてアメリカで学んだ人々が、在米旧友親睦会、遊米人会という親睦会を組織するようになった。そして1898年(明治31年)12月には在米旧友親睦会、遊米人会が合同して米友協会が発足し、1900年(明治33年)9月、米友協会は金子堅太郎を会長とし、かつてアメリカで学問や技術等を学んだ日本人同士の親睦を図るとともに、日米友好親善に係わる活動を繰り広げるようになった。 -一方でマリーは、教育において体育を重視すべきだという考えを持ち、娘たちに水泳、自転車、乗馬、登山などを体験させ、当時珍しかったスキーも体験させた。イレーヌは、私はフランスで一番古い女性スキーヤーだったと述べている。旅行などで母親と離れているときは、手紙によって交流した。1907年にイレーヌが出した手紙には、すでに数学の問題に関する記述があり、母と娘の数学への意識の高さがうかがえる。また、祖父ウジェーヌとも手紙をやりとりした。1909年に出した手紙で、イレーヌが「あなたの小さなつまらないイレーヌ」と署名すると、ウジェーヌは、お前はつまらない小さなイレーヌではない、私の大きなイレーヌだ、と返している。ウジェーヌは1910年2月、闘病生活の末に82歳で亡くなった。組合学校を終えたイレーヌは、大学入学資格試験の2年前になって、セヴィーニ学院に入学した。この学校を選んだのは母マリーの意向で、講義が少なく自由が多いことと、近代的な教育がなされていたことが選んだ理由になっている。学校では数学と物理で特に優れた成績を収めていたため、同級生に対して授業することが許されていた。1910年から1911年にかけて、マリーはフランス科学アカデミーの会員選挙にあたって、反対派から中傷記事を書かれるなどの被害を受けた。さらに1911年、マリーとポール・ランジュバンとの男女関係が取りざたされ、週刊誌などでマリーを非難する記事が次々に書かれた。こうした報道は、マリーはもとより、イレーヌの心をも苦しめた。一方、同じ1911年にマリーは2度目のノーベル賞を受賞した。スウェーデンで開かれた受賞講演にはイレーヌも同行した。ここでイレーヌは、他の科学者から敬意と称賛を受けるマリーの姿を見て、母の権威や知名度、科学の価値を知った。 -1984年3月、欧州のエアバスが完全に新設計のA320の開発を決定し、150席級のジェット旅客機市場への参入を決めた。また、1981年3月にはボーイングも737の発展型(737-300)の開発を決定しており、さらなる後継機計画も検討していた。DC-9/MD-80シリーズは一定の市場シェアを獲得していたが、マクドネル・ダグラスはこれらの競合他社の動きに対応する必要に迫られ、MD-80の次世代型となるMD-90を開発した。MD-90でもDC-9由来の胴体断面を用いられ、尾翼やエンジンの配置も引き継がれたが、エンジンは新型のインターナショナル・エアロ・エンジンズ社のV2500に置き換えられたほか、操縦系統や客室内装などが改良された。MD-90は全長が46.5メートル、標準座席数が153席(2クラス)から172席(1クラス)で、1995年4月に初就航した。マクドネル・ダグラスは、MD-80シリーズの胴体短縮型であるMD-87をベースにしたMD-90-10の開発も計画していた。しかし、MD-90のV2500エンジンは胴体短縮型には大きすぎたことから、機体計画が見直され、エンジンを置き換えて各種新技術を導入し、座席数を100席程度としたMD-95の機体構想がまとめられた。MD-95の機体案は1991年6月のパリ航空ショーで発表され、航空会社への説明が開始された。しかし、しばらくの間、航空会社からの受注はなく開発計画は棚上げ状態となった。その後1995年10月19日、米国の格安航空会社のバリュージェット航空から確定50機、オプション50機という大口の注文を獲得したことで、同日付でマクドネル・ダグラスはMD-95の正式開発を決定した。 -他の多くの回遊魚と同様に、ウナギ類の産卵は生涯一度きりで、親魚は生殖後間もなく死亡すると考えられている。降河開始時から継続する飢餓状態と、産卵前後におけるステロイドホルモンの著しい上昇がその原因とされ、代謝的・解剖学的破綻を導く急激な老化現象の一種と理解されている。一方で、西マリアナ海嶺の産卵場付近で採取された親ウナギの生殖腺を解析した結果、複数回にわたり産卵している可能性も指摘されている。 -1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別した。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば満月になけほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。 -Fw190ではダイレクトな操縦感覚を求めて補助翼の操作にはワイヤーではなく伸び縮みしないロッドを用い、速度差による違和感については、リンク機構を工夫することで解消していた(高速時に舵面にかかる風圧が大きくなると、それに応じてリンク機構の支点位置も移動するので、操縦桿と舵面の動きが非直線となり、違和感が解消できる)。操縦に要する力もできるだけ少なく抑え、コックピットの設計にも気を配るなど、パイロットが疲労しないように配慮がなされた。また、燃料タンクや機関砲など、使用することによって重量が変化するものは機の重心付近に集中して設置し、トリム調整も最小限に済むようにされていた。その他、誤操作をなくすため、スイッチの配置に人間工学的な配慮がされていたり、作動状態の確認はランプではなくメカ方式が使われるなど、パイロットが短期間で習熟できるように配慮がなされていた。 -サウスウエスト航空(サウスウエストこうくう、英語:SouthwestAirlines、NYSE:LUV)は、アメリカ合衆国(米国)テキサス州ダラス市を本拠地としている格安航空会��である。1967年、エア・サウスウエストとして、アメリカ合衆国テキサス州で設立され、1971年に3機のボーイング737を使用して運航開始した。その後、航空自由化政策(ディレギュレーション)とともに自力で路線網を少しずつ拡大したことに加えて、いくつかの格安航空会社を買収することでも路線規模を拡張しており、全米に路線網を持つ大手航空会社となった。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -ローリーは、アメリカ合衆国ノースカロライナ州中央部に位置する都市である。同州の州都であり、ウェイク郡の郡庁所在地である。また、北はニュージャージー州から南はアラバマ州まで、ピードモント台地の東縁に連なる滝線都市の1つとしても知られている。人口は403,892人(2010年国勢調査)で、2000年の国勢調査時と比較して約46%増加しており、シャーロットに次ぐ州第2の都市となっている。ローリー市域のほとんどはウェイク郡内に属し、一部が西隣のダーラム郡にかかっている。ローリーの郊外には、西に隣接する発展著しい大型衛星都市ケーリーをはじめ、いくつかの衛星都市化した町村がひしめいている。 -アメリカン航空191便墜落事故(アメリカンこうくう191びんついらくじこ、英語:AmericanAirlinesFlight191)とは、1979年5月25日、アメリカン航空が運航するDC-10型機が墜落した航空事故である。191便はアメリカ合衆国のシカゴ・オヘア国際空港発、ロサンゼルス国際空港行きの定期旅客便であり、オヘア国際空港を離陸した直後に墜落した。搭乗者全員の271人と地上で巻き込まれた2人が死亡し、2018年現在、テロ事件を除く航空事故のなかでアメリカ航空史上最大の犠牲者数��出した。 -岩手県内の避難所は2011年10月に、宮城県内の避難所は2011年12月に、福島県内の避難所は2011年12月にすべて閉鎖された。埼玉県加須市に設置された、福島県双葉町から集団避難した住民の避難所は、2013年12月まで続いた。一方、災害公営住宅や仮設住宅での避難生活は長期化。震災直後の避難者は推計47万人であったが、2019年2月2日時点で5万1778人になった。 -1931年にはアルフォンソ13世が退位してスペイン第二共和政が成立したが、改革の失敗から民衆の不満が噴出し、1933年の総選挙では右派のスペイン独立右翼連合(CEDA)が躍進して左派勢力は敗北し、1936年の総選挙では再び左派が勝利して人民戦線政府が成立するなど、左右両派の力は拮抗しており社会不安が高まっていた。 -ニュルンベルクの成立は明らかでない。ザクセン、バイエルン、東フランケン、ベーメンの境界で、1000年から1400年頃に保護された重要な街道が交わる地点から徐々に成立していったと考えられている。いずれにせよ、この入植地は成立初期に既に市場の開催権を得ていた。この街は1050年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世のSigena-Urkundeに「nuorenberc」として記録されている。現在の地名の元となったこの名前は「岩山」を意味している。その後、ニュルンベルク城は皇帝の拠点として神聖ローマ帝国で重きをなした。1065年にハインリヒ4世は帝国領ニュルンベルク及びその周辺地域に高等裁判所管区及び行政管区を設けた。コンラート3世は裁判権と統治権を持つニュルンベルク城伯の位を新設し、ラープス家にこれを与えた。1190年あるいは1191年以後、この地位はツォレルン家(後のホーエンツォレルン家)に移された。 -華やかにスタートしたエアバス計画だったが1年後には雲行きが怪しくなった。1967年から1968年にかけて風洞試験や構造の設計が進んだが、米国のダグラスやロッキードも「エアバス」機体案を練っており、それに対抗してA300の設計案はさらに大型化した。航空会社側の意見を入れて胴体直径は5.94メートルに縮小されたものの、最大離陸重量は138.5トンまで増加し、RB207エンジンの推力増強が必要になった。開発費の見積もりも機体が2.1億ポンド、エンジンは7000万ポンドまで膨らんだ。航空会社側は大きすぎると難色を示し、1968年7月31日の期限になっても1機の発注もなかった。経済が停滞していたイギリスでは政府が支出を切り詰めようとしており、A300反対論が台頭した。さらに決定的だったのは、A300計画がもたついている間に米国の「エアバス」構想が具体化し、1968年4月にロッキードとダグラスがそれぞれL-1011とDC-10の生産に着手したことだった。これで、A300が見込んでいた市場が奪われてしまうだけでなく、R-RがL-1011向けに新型エンジンRB211の開発を受注したことで、R-Rおよびイギリス政府は販売数が期待されたRB211の開発を優先してA300向けRB207エンジンには積極的でなくなった。このような状況でA300プロジェクトは機体の小型化を検討した。エンジンは747、DC-10、L-1011と同じエンジンを流用することになり、ゼネラル・エレクトリック(以下、GE)製CF6、P&W製JT9D、あるいはRB211のどれでも装備可能な双発機とし、それに適するよう最大離陸重量は125トンに抑えられた。胴体直径は5.54メートルと一段と細くなり、座席数を約50席減らして252席(座席間隔34インチの1クラスの場合)となった。この小型化した機体案はA300Bと呼ばれ、航空会社の要望にも沿ったものであったが、まだ受注獲得には至らなかった。この間、イギリスでは機体担当のホーカー・シドレー社を除いて計画への熱意がますます冷めていき、ついに1969年4月10日、イギリス政府はこれ以上の財政負担はできないとして計画からの脱退を発表した。イギリス政府はR-Rによるエンジン独占がなくなった上、A300Bは事業的成功に懐疑的になったと判断した。 -きさらぎ駅(きさらぎえき)とは、日本のインターネットコミュニティで都市伝説として語られている架空の鉄道駅である。2004年にインターネット掲示板の2ちゃんねるに投稿された実況形式の怪奇体験談の舞台として登場したもので、人里離れた沿線に忽然と現れた謎の無人駅として描写されている。体験談の内容から静岡県浜松市の遠州鉄道沿線、またはそこから繋がった異��にあるものとされているが、以後ネット上では類似の体験談が相次いで、インターネット・ミームとしての広まりを見せている。 -1906年に入り、教授職とともに得た新しいキュヴィエ通りの実験室が動き始めた。手狭で交通に不便な郊外だったが、助手と手伝いが加わった上にマリが実験主任に任命され、給与も支払われた。夫妻は相変わらず多忙だった。マリはセーブル女子学校の教師を続け、ピエールは科学者そして大学教授としてのさまざまな雑務に追われていた。それは4月19日木曜日に起こった。雨模様の日、ピエールはさまざまな予定をこなし、馬車が行き交う狭いドフィーヌ通りを横断していた際に6トンの荷物を積んだ荷馬車に轢かれ、46歳で死亡した。野次馬は被害者が有名な科学者だと気づいた。すぐさま大学に電話で連絡がなされ、学部長と教授のジャン・ペランがキュリー家に向かった。その時マリは不在で、義父が彼らを招き入れて沈痛な時を待った。午後6時、イレーヌを連れて帰宅したマリはその知らせに凍りつき、暫くは誰の問いかけにも何の反応を示さなかった。遺体や遺品を受け入れたマリがとめどなく涙を流したのは、翌日に駆けつけた義兄ジャックの姿を見たときだった。この不慮の事故は世界中に報道された。しかし、21日に生家のソーで行われた葬儀では、代表団の派遣も弔辞も大げさな行列もマリは断り、質素な式となった。義父や義兄ジャックらは、感情がそぎ落ちたような彼女を心配していた。この当時のマリは日記に「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書いている。その後も彼女は沈黙に沈んだまま、時に悲鳴を上げるなど不安定な精神状態にあり、日記には悲痛な言葉が並んだ。 -アシキールーラ家のアブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世と同郷で、さらにナスル家と姻戚関係にあり、建国の功労者であった。また、アシキールーラ家はナスル朝の軍事を取り仕切り、マラガの太守でもあって、アブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世の実質的共同統治者の如き存在であった。 -トンネル工事に伴い、地表では渇水の被害が広がった。特に小野上南工区では、坑口からの自然排水によりどんどん水を抜いていたので、その上部にあたる小野上村・子持村において深刻な被害が発生した。沢が1本干上がり、その他の沢も水量が減少し、水道用の揚水井戸では水位が下がってポンプによる汲み出しができなくなった。こうした問題の対処のために給水車が随時出動した。代掻きをする時期には農業用水の不足が問題となり、トンネル湧水や近くの川の水をポンプアップして対応したが、水量の不足に対処するために各農家での代掻きの時期の調整が必要となった。小野上南工区が柱状節理にぶつかって大量の湧水が発生した際には、小野上村の基幹水源地の水源が枯渇し、トンネル湧水を水源地に送る全長約5kmの配管を村道に沿って急遽建設して断水を防いだ。 -綏芬河方面においては、中国側によると7月20日から砲撃と爆撃によりソ連軍が攻撃を開始し、12月までに数度の攻撃を行ったが中国軍の防御にあって侵攻できなかった。これに対し、ソ連側によると、ハンカ湖(興凱湖)方面の中国軍がイマン(現ダリネレチェンスク)へ侵攻したと称し、自衛名目でソ連軍の作戦は実行された。攻撃は沿海州軍団と第1太平洋狙撃師団によって行われた。11月17日に密山の爆撃が開始され、騎兵と歩兵の混成部隊が密山を占領した。ソ連側の記録によると中国軍は1500名が死傷し、135名が捕虜となったほか、機関銃6丁・迫撃砲6門・馬200頭・大量の機密書類が鹵獲された。ソ連側の名目である「イマン侵攻に対する自衛」は、でっちあげであったとみられる。以上の一連の戦闘での中国軍の損害は大きく、一説によると戦死約1690人・戦傷約2210人・捕虜約6900人・行方不明約1800人に上った。ソ連側資料によると捕虜は9500人に達することになる。ソ連軍は、捕虜にした中国兵のうち数百-数千人を河川へ投げ込んで処分したとする説もある。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーラン���は独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -南極大陸のほぼ全ては氷床に覆われていて、平均の厚さは少なく見積もっても約1.6km、体積はおよそ3000万立方キロメートルである。南極には全世界の氷の90%と、全世界の淡水の70%以上が存在するといわれている。もしも、南極を覆う陸上の氷が全て融解した場合、世界の海面は60m以上上昇すると予想されている。地球温暖化によって氷床が融解し、海面上昇を加速することが懸念されている。 -初期の分析において緑柱石とエメラルドは常に類似した成分が検出されており、この物質はケイ酸アルミニウムであると誤って結論づけられていた。鉱物学者であったルネ=ジュスト・アユイはこの2つの結晶が著しい類似点を示すことを発見し、彼はこれを化学的に分析するために化学者であるルイ=ニコラ・ヴォークランに尋ねた。1797年、ヴォークランは緑柱石をアルカリで処理することによって水酸化アルミニウムを溶解させ、アルミニウムからベリリウム酸化物を分離させることに成功した。1828年にフリードリヒ・ヴェーラーとアントワーヌ・ビュシーがそれぞれ独自に、金属カリウムと塩化ベリリウムを反応させることによるベリリウムの単離に成功した。 -審理が終わってからの説示から評議への流れは前述の刑事陪審と同様である。ただし、連邦裁判所の場合、裁判官は、当事者の申立てに基づき、合理的な陪審であれば相手方に有利な判断をするだけの証拠はないであろうと判断するときは、陪審に評議を求める前に法律問題としての判決(judgmentasamatteroflaw)を下して一審手続を終局させることができる。それ以外の場合、裁判官は、陪審に対して評議の上評決を答申するよう求めるが、その際には、原告勝訴か被告勝訴か、また原告勝訴の場合は救済内容(賠償額等)についての結論だけを答申する一般評決(generalverdict)を求めるのが一般的である。しかし、裁判所は、各争点についての結論をそれぞれ答申する個別評決(specialverdict)を求めることもできる。陪審の評決は全員一致であることが求められるのが普通であるが、連邦裁判所では、当事者が合意した場合は全員一致でなくても評決をすることができる。州裁判所でも、場合によって、全員一致を要求しないところが多い。 -さらにトムソンは、太陽の年齢も計算した。トムソンは太陽と地球は同時期に誕生したと考えていたため、太陽の年齢は地球の年齢を知る上で参考になる。その太陽だが、一体何をエネルギーとして輝き続けているか、当時は明らかではなかった。化学エネルギーが源ならば、太陽は数万年で燃え尽きてしまう。そこで、隕石が太陽に衝突することでエネルギーが発生するという説が出され、トムソンも一時期それを検討したが、これによって得られるエネルギー量も十分ではないことが分かった。次にトムソンが考えたのが、太陽の重力エネルギーである。これは、太陽を構成している物質は太陽のまわりを雲のように覆っていて、それが重力によって太陽の中心に向かって落下してゆく、その運動エネルギーが熱に変わるというものである。つまり太陽は収縮しながら燃焼を続けているということである。この説はもともとヘルムホルツによって出されたものだが、トムソンは実際に熱量を計算し、そこから太陽の年齢を2000万年と見積もった。データの誤差も考慮に入れたうえで、トムソンは1862年の論文で次のように記した。 -グラクテンゴルデル("grachtengordel")として知られる3つの運河、すなわちヘーレン運河、ケイザー運河、プリンセン運河は主として宅地造成のためのもので、一番外側のシンゲル運河は防衛と水利のために建造された。半円状の運河群は相互に繋がっており、ヨルダーン地区(Jordaan)ではビールなどの物資の運送にも使われる運河群が重なっている。また、本来防衛目的だった境界線のシンゲル運河も、住宅や商業発展の目的に転用されて今に至る。さらに、運河群には100以上の橋が架かっている。Nassau/Stadhouderskadeの防衛的機能は、堀、土塁、要衝の門などにその面影を残してはいるものの、それら以外にそれらしい建造物群は見られない。 -しかし5世紀前半までに、コンスタンティノープルはコンスタンティヌスの城壁を越えて発展した。この城壁外の地域はエクソキオニオン(Exokionion)と呼ばれた。この後もコンスタンティヌスの城壁は長きにわたって生きながらえたが、実際のコンスタンティノープルの境界と防衛の役割は5世紀前半にテオドシウスの防壁に取って代わられた。478年9月25日、コンスタンティノープルは大地震に襲われ、「内壁」が大きな被害を受けたという記録がある。これはコンスタンティヌスの城壁を指した記録であると考えられる。また聖テオファネスによれば、この城壁は557年の地震でも被害を受けた。それでもなおコンスタンティヌスの城壁は大部分が残っていたが、ゲオルギオス・ケドレノスによれば、「エクソキオニオンの城壁」(コンスタンティヌスの城壁)が867年の地震で崩壊した。これ以降は、コンスタンティヌスの城壁はわずかに痕跡を残すのみとなった。ただ、19/20世紀のオスマン帝国の学者アレクサンダー・ファン・ミリンゲンによれば、イサカプ地域には19世紀前半までコンスタンティヌスの城壁の一部が残っていたという。現在のイェニカプ運送センターが建設される際、コンスタンティヌスの城壁の基礎が発掘されている。 -1999年(平成11年)の旧静岡市と清水市の外国人登録人口は計6,163人だったが、近年に両地域の外国人人口は急成長しており、2003年(平成15年)には計7,933人となった。御幸町図書館の基本構想における柱はビジネス支援サービスのみだったが、その後多言語サービスも柱の一つに位置づけられた。 -ピョウタンの滝は札内川園地の入口に位置し、札内川を代表する観光名所となった。札内川園地は最盛期には集客数が年間10万人前後にのぼり、十勝管内随一の優良な公園として評価された。「ダムとしては使えなかったけど、観光客を呼ぶ“滝”としては一級品」とも言われた。しかし、その後は集客数が減少に転じ、ピョウタンの滝の上流に札内川ダムが完成した時点で6万5千人、2006年度(平成18年度)には2万2千人となった。この集客数減少の原因には、ライフスタイルの変化や集客施設の多様化が考えられているほか、札内川上流域の活性化の決め手と期待されていた日高横断道路の建設が2003年(平成15年)に凍結・中止されたことも要因の一つに挙げられている。このような状況ではあるが「やまべ放流祭」は毎年続けられており、2011年(平成23年)には40回の節目を迎えている。また、2008年(平成20年)には「北海道遺産」を取りまとめた北海道遺産構想推進協議会により「ムラの宝物」に選定された。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和���ための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -1991年(平成3年)には新館移転に向けた検討が始まった。1995年(平成7年)12月に新館の建設に着工し、1997年(平成9年)3月に竣工した。建設時には戦国時代の遺構が発掘されたため、近江八幡市教育委員会は豊臣秀次の居館や家臣の屋敷などの本格的調査を実施し、石垣や屋敷地が安土城に匹敵する規模であることが確認されている。新館は1997年7月から仮開館し、10月25日に正式に開館した。新館に移転した1997年の人口は67,196人だったが、移転時には人口が同等の自治体と比べて、延床面積でも施設面でも充実した図書館だった。1999年(平成11年)には利用者用の蔵書検索端末を設置した。1999年から2008年(平成20年)には子ども向けの夏休み企画として怪談の読み聞かせ会を行っており、2016年(平成28年)には8年ぶりにこの読み聞かせ会を復活させた。2004年4月には「伴庄右衛門家」が近江八幡市立資料館の一館として再開館した。 -飛騨市図書館では、利用者数の減少に対して少しでも図書館に興味を持ってもらおうとさまざまな取り組みを行っている。取り組みは他の図書館の企画にアレンジを施したものが多く、職員らの発案を採用して実施している。毎日新聞は「企画のアイディアは昼休みなどに落ち着いた環境で話し合えるようにし、あえて企画会議は開かない」と報じているが、中日新聞によると月に1回「イベント会議」を開き自由にアイディアを出し合っているという。図書館の利用者は30代以上の女性がおよそ半数を占めるという偏りがあり、特に中学生相当から20代の利用者が少ないことが課題となっている。飛騨市では「赤ちゃんからお年寄りまで一緒に利用できる図書館」を目指しており、特に子供や子育て中の両親が利用しやすい図書館にするための企画を多く行ってきた。 -発生地に近いほど砂塵の濃度は濃く、大きな粒が多く、飛来する頻度も高い傾向にある。モンゴル、中国、韓国などでは住民の生活や経済活動に多大な支障が出る場合があり、黄砂への対策や黄砂の防止が社会的に重要となっている。近年は東アジア各国で、黄砂による被害が顕著になってきているとされており、一部の観測データもこれを裏付けている。これに加えて、環境問題への関心が高まっていることなどもあり、黄砂に対する社会的な関心も高まっている。一方、黄砂が自然環境の中で重要な役割を果たしていることも指摘されている。飛来する黄砂は、洪水による氾濫堆積物や火砕物と並ぶ堆積物の一種であり、土地を肥やす効果がある。また、黄砂には生物の生育に必要なミネラル分も含まれており、陸域だけではなく海域でもプランクトンの生育などに寄与している。 -ヴォルテール主義者である父アイザックは息子が文学の世界に浸って神秘主義的になっていくのを懸念し、弁護士事務所で働くようディズレーリを説得した。ディズレーリは弁護士を「法文と駄洒落で過ごし、うまくいけば晩年に痛風と准男爵の称号がもらえるという程度の職業」と看做しており、こんな仕事に就いたら偉人にはなれないと拒否したが、父は「慌てて偉人になろうとしてはいけない」「弁護士事務所という、人間を知るうえで最適な観察場所を経ることは、何の道も閉ざすものではない」と説得した。1821年、17歳の時にオールド・ジェリー(英語版)街のフレデリック広場にあった4人の弁護士の共同事務所で勤務したが、すぐに飽きた。1824年7月末にはベルギーとライン地方を旅行し、ライン川下りをしている時に弁護士業を止める決意をした。1824年11月にリンカーン法曹院の入学許可が下りたが、すでに法曹家になる意思を無くしていた。後年ディズレーリは弁護士事務所時代について、弁護士の仕事自体は何の役にも立たなかったが、この仕事を通じて執筆力が高まり、また多くの人間と知り合って人間の様々な本性を知ることができたのは財産になったと評している。 -江戸時代初期には消防組織が制度化されていなかったが、度重なる大火などを契機として火消の制度が設けられていった。火消は、武士によって組織された武家火消と、町人によって組織された町火消に大別される。また、武家火消は大名による大名火消と旗本による定火消に分類される。火消による消火は現代の主な消火方法とは異なっていた。燃えやすく類焼しやすい木造建築が多かった江戸市中では放水による鎮火は難しく、主な手段としては火元の火事場のまだ燃えていない周囲の建物を破壊してそれ以上の延焼を防ぐ破壊消防という方法が用いられた。明和年間ごろからは竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれた木製手押ポンプが配備されたが、人口が急増して飲料水の確保が追いつかないほどだった江戸市中では水を継続的に供給する手段に乏しく、明治維新に至るまでの間、消火の主力は火��人足(中核は鳶職人)による破壊消防であった。燃えやすい安普請の建築が大火の発生を助長したともされるが、反面、壊しやすく再建しやすい構造で大火の類焼を防いでいたとも考えられ、大きな寺社や武家屋敷では類焼が防げずに大火となっている。 -宮内長官に転じた後も閣議に出席して、各党派の融和に努めた。やがて1762年5月にニューカッスル公爵が辞任すると、デヴォンシャー公爵は辞任せず閣議への出席を拒否したが、結局七年戦争の講和条約をめぐり後任の首相である第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートと決裂して1762年11月28日に宮内長官を辞任、国王ジョージ3世は激怒してデヴォンシャー公爵を枢密顧問官から解任した。 -ガブリエレ・ミュンターはおもにドイツで活躍した表現主義の女流芸術家で、ミュンヘン新芸術家協会及び青騎士のメンバーだ。絵画に加えて版画による創作活動もした。また、ヴァシリー・カンディンスキーのパートナーとしても知られる。彼女はカンディンスキーの作品のかなりの部分を第二次世界大戦中から戦後にかけて災難から守り、後には青騎士の芸術家仲間の作品と自分自身の作品とを広く一般に公開した。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -CIE図書館(シーアイイーとしょかん、英語:SCAPCIEInformationCenter,SCAPCI&EInformationCenterLibrary)は、第二次世界大戦後に連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が日本各地に設置した図書館である。戦後日本において連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が、札幌、函館、仙台、秋田、東京(日比谷および新宿)、横浜、新潟、金沢、長野、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、広島、高松、松山、小倉(現北九州)、福岡、長崎、熊本の23か所に設置した米国式の図書館であり、日本国民の民主化や米国への理解、そして日本の公共図書館の近代化を進める役割を果たした。連合国軍による占領の終焉によってうち13館がアメリカ文化センター(ACC)へ移行したが、残りは廃止され、その蔵書は公共図書館に統合・寄贈された(徳島や熊本では市立図書館の前身となった)。 -蓮田善明は1927年3月、広島高等師範学校を卒業すると、そのまま鹿児島歩兵第45連隊に幹部候補生として10か月間入隊した。1928年1月31日に除隊した後、4月に岐阜県立第二中学校に教員として赴任した。同年6月に郷里・植木町の医師・師井淳吾の娘・敏子と結婚した。4歳年下の敏子とは小学生の時から顔見知りで、敏子の父親が開業する医院に、熊蜂に刺された小学校5年生の蓮田少年が来院したこともあった。1929年4月、長野県立諏訪中学校に転任するが、1931年2月から雑誌『国語と国文学』に評論を発表し初めていた蓮田は向学心に燃え、1932年3月に同校を退職し、4月に、27歳で広島文理科大学国語国文学科に入学した。この年に上海事変が始まり、五・一五事件が起こった。翌1933年9月、蓮田は同人研究���要『国文学試論』を春陽堂から発行した。この『国文学試論』の同人は、清水文雄、栗山理一、池田勉を加えた4人で、のちの『文藝文化』の母胎となる。この時、清水は成城高等学校に赴任して2年目で、栗山は大阪府立中学校の教師になったばかりであった。1935年3月に広島文理科大学を卒業し、4月に台中商業学校に赴任し、妻子と共に台湾に渡った。翌1936年8月に大阪堺市の栗山理一宅で、伊東静雄と初めて逢った。この年の2月に二・二六事件が起こり、翌1937年には支那事変が勃発して日中戦争となった。執筆活動は『国文学試論』の他、『国語と国文学』などで続けられた。 -他国については、小規模だが、韓国からの移民においても写真花嫁の習慣があった。韓国からの移民は、1882年にアメリカ合衆国と李氏朝鮮の間で締結された米朝修好通商条約により始まったが、1905年の第二次日韓協約によって大日本帝国が大韓帝国の外交権を接収すると、米国への移民が制限された。1903年から1905年までの間に米国に移住した韓国人の数は7,500人で、そのほとんどがサトウキビ畑で働く男性労働者であったため、1910年から1924年までの間に約1,000人の女性が写真花嫁として渡米した。写真花嫁の側の理由も日本人の場合とほぼ同じだが、1910年に大日本帝国が大韓帝国を併合(韓国併合ニ関スル条約を締結)した後の写真花嫁のなかには、「日本統治下の韓国から逃れるため」という理由を挙げる者もあった。渡米後の(特に写真と実物の違いによる)女性の失望も同様だが、日本人女性と違って離婚する女性が多く、この時期の離婚の90%が女性からの要求によるものであった。この他、特殊な例として、1915年にオスマン帝国で起こったアルメニア人虐殺後、米国に移住したアルメニア人男性がオスマン帝国からアルメニア人女性を写真花嫁として迎え入れたという報告がある。 -干し貝作り自体は今もサルーム・デルタで行われている。干し貝の原料となる貝は以下の4種が代表的である。まずは現地でヨホス(Yoxos/Yokhoss)と呼ばれる貝で、これはマングローブガキ(Crassostreagasar)を指す。その名の通り、ヒルギ科のマングローブの根にへばりつくようにして生息する貝で、貝塚からは根が付着した貝殻も出土する。次は現地でパーニュ(Pagne)と呼ばれる貝で、これはフネガイ科のオヤカタサルボウ(seniliasenilis)のことである。アカガイなどに似た貝で、干潮時の干潟で採集できる。最後が大型巻貝のイェット(Yéét/Yeet)で、ナツメヤシガイ(Cymbiumpepo)などと同一視する文献と、ハッカイボラ(Cymbiumcymbium)と同一視してナツメヤシガイと別に扱う文献とがある。最後がシロオビクロテングニシ(pugilinamorio)のことだというトゥファ(Toufa)と呼ばれる中型の巻貝である。 -スペインはヨーロッパの中でも特に魚介類の消費量が多い国として知られている。スペインにおいては、脂の少ない淡白な魚が好まれ、エビやカニ類の人気が高い。ローマ帝国時代のスペインはガルムと呼ばれる魚醤の特産地として知られていたが、イベリア半島のローマ帝国の勢力が衰退した後はガルムを使う習慣は廃れていった。豚肉を忌避するイスラム教徒とユダヤ教徒は「うろこのある魚」を多く食べ、カトリック教徒はイスラム教とユダヤ教で忌避される「うろこの無い魚」、イカ、タコ、エビ、貝も食べていた。また、かつては大斎、小斎というカトリックの精進日には肉類の代わりに魚が食べられていた。周囲を海に囲まれた立地とも相まって、時代が進むにつれて魚介類は精進食から祝祭に無くてはならない食材となった。魚は白身魚と青身魚に分類され、鮮度が重要視される白身魚は高級品として扱われ、安価な青身魚は加工品にされるものを除いて漁港で消費される向きがある。スペイン料理の素材には、北海で獲れたタラ、メルルーサのほか、マイワシ、クロダイ、カレイ、ヒラメ、アンコウなどの魚がある。魚の中ではメルルーサの人気が高く、貝はムール貝とアサリがよく食べられている。スズキ、クロダイ、マダイといった白身魚がメルルーサに次いで人気が高く、マドリードにはクリスマス・イブにベスーゴ・アル・オルノを食べる習慣が定着している。アンコウは「庶民のイセエビ」と呼ばれ、特にアンダルシア���ムルシアを含むレバンテ地方で好まれている。ムール貝は生息する場所が汚いため、スペインの料理人は貝殻を使うことを嫌がり、殻を外した状態で料理に入れられる。 -ゾフィーは貴族出身ではあったが王族出身ではなく、ハプスブルク家の皇位継承者であるフランツ・フェルディナントとの結婚は貴賤結婚となった。皇帝フランツ・ヨーゼフは、2人の間に生まれた子孫が皇位を継がないことを条件として結婚を承認していた。視察が予定されている6月28日は2人の14回目の結婚記念日であった。 -両生類の減少(りょうせいるいのげんしょう)とは、両生類の生息数減少、個体群消滅、および、地域的絶滅などが発生する現象である。劇的な両生類の減少は、1980年代以降世界各地で注目されている。また両生類生息数の減少は、グローバルな生物多様性に対する最も重大な脅威のひとつとみなされている。生息地の破壊と改変・乱獲・汚染・外来種・気候変動・有害紫外線(UVB)の増加・疾病など、多くの原因があると考えられている。しかし、両生類減少の原因は多くが未だよく理解されておらず、現在進行中の多くの研究のトピックとなっている。 -印刷術・火薬・羅針盤:これら3点は全世界のすべての表層と深層とを変えてしまった。印刷術は文学を、火薬は戦争を、羅針盤は航法を、である。大きな変化が起こってしまうと、それはかつていかなる帝国も、いかなる社会勢力も、いかなる星も発揮したことがない強い影響力を人間社会に及ぼしたことがわかった。14世紀に焦玉が記した『火龍経』は中国の重要な戦術論のひとつである。火薬を使った兵器として記載されたものには、火箭(焼夷矢)、火箭(ロケット)、火鎗、火器、地雷、水雷、射石砲、大砲、および火薬のほか毒ガスや煙幕などの処方も収めてある。11世紀には、畢昇(990年-1051年)が膠泥活字印刷を発明、1298年には王禎が木活字を実用化、1490年には華燧が金属活字を実用化した。 -『クマのプーさん』の物語はまず1925年12月24日、『イヴニング・ニュース』紙のクリスマス特集号に短編作品として掲載された。これは『クマのプーさん』の第一章にあたる作品で、このときだけは挿絵をJ.H.ダウドがつけている。その後作品10話と挿絵が整い、刊行に先駆けて「イーヨーの誕生日」のエピソードが1926年8月に『ロイヤルマガジン』に、同年10月9日に『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』紙に掲載されたあと、同年10月14日にロンドンで(メシュエン社)、21日にニューヨークで(ダットン社)『クマのプーさん』が刊行された。前著『ぼくたちがとてもちいさかったころ』がすでに大きな成功を収めていたこともあり、イギリスでは初版は前著の7倍に当たる3万5000部が刷られた。他方のアメリカでもその年の終わりまでに15万部を売り上げている。ただし依然として人気のあった前著を売り上げで追い越すには数年の時間を要した。 -ホンダはスクーターを有望な武器とみなした。Vベルトを用いた無段変速機を、合成樹脂を多用して軽量化した車体に搭載し、加速や登坂性など機動力を高め、またデザインもベスパよりコンパクトな車体とゆとりのあるステップを確保した形に仕上げた。価格はファミリーバイクより若干高めながら、1台10万8千円と、ベスパの三分の一に抑えた。ヤマハ発動機やスズキも追随する中、先鞭をつけた「タクト」は1981年には年間47万台販売され、ホンダをかろうじて業界首位の座にとどめる役に立った。 -マダガスカル語によるマダガスカルの最も標準的なエンドニム(endonym;自称詞、内名)は、Madagasikara[madaɡasjˈkjarə̥]である。これはエクソニム(exonym;他称詞、外名)のMadagascarに由来する。このエクソニムは、13世紀の旅行者マルコ・ポーロの有名な旅行記に記載されているMadageiscarという地名から転訛したものである。ポーロ自身はMadageiscarに行ったことはなく、紅海の南にモガディシュという場所があると伝え聞いたにすぎないが、このときに耳で聞いた音を転写する際に誤りが生じた。さらにポーロはこの港を島であると勘違いしていた。ポーロの誤伝に基づく名前が普及するまでには、1500年の聖ラウレンティウス殉教の日(8月10日)に、ポルトガルの冒険者ディオゴ・ディアスが海上からこの島を目視し(��上陸した」は誤り)、「サン・ロレンソ」(SãoLourenço)と名付けたこともあった。しかしながら、ルネサンス期の世界図にはポーロの誤伝に基づく名前の方が好まれ、普及した。 -ラムセスの時代に行われた公判を書写したパピルスにより、メディネト・ハブで行われた祝宴中に王室の後宮(ハレム)によるラムセスに対する暗殺事件があったことが知られている。その事件はラムセスの妻の1人であるティイが教唆して、自らの息子のペンタウアーに王権を相続させるというものであった。 -延床面積は3,169.06m2で、旧桑名市立図書館(1,200m2)の約2.6倍である。3階と4階の両方に読書テラス「天空の庭」が設置され、屋外での読書が可能である。館内には桑名発祥とされる連鶴が随所に飾られている。3階にある一般開架は書架の高さを1.5m(5段)と低くし、車いすが通りやすく配置し、両側ガラス張り・吹き抜けの開放的な雰囲気を形成する。ガラス張りの窓は、昼間は外の光を取り込み、夜間は館内照明が行灯のように優しく街を照らし出す。児童開架は書架1.2mで、その奥に桑名市特産のハマグリを模した「おはなし室」がある。児童書架には読書用の図書と調べ学習用の図書の双方が用意され、子ども向けの「地域資料コーナー」も置かれている。おはなし室では、図書の読み聞かせ以外にもかるた大会など各種イベント会場として利用される。目の不自由な人のための「対面朗読室」も設置されている。 -欧州放送連合による最終的な参加国の一覧が発表され、43箇国がユーロビジョン・ソング・コンテスト2009に参加することが確認された。参加国の中には11年ぶりに大会に参加するスロバキアもある。グルジアは、主催国ロシアとの南オセチア紛争に抗議して不参加を発表していたが、ジュニア・ユーロビジョン・ソング・コンテスト2008での優勝や、同大会でロシアからグルジアに12得点が送られたことなどから、一転して大会への参加を決めた。欧州放送連合のユーロビジョンのスーパーバイザー・SvanteStockseliusは、モスクワでの大会に参加する国の数は最多となる、つまり44箇国以上の国が参加する可能性があったが、今はその可能性は低いとた。最終的に、42箇国が大会に参加した。 -江戸時代後期には金毘羅参りを対象とした旅籠が増え、その1階がうどん屋であることが多かった。また参拝客が船で発着する丸亀や多度津にもうどん屋があった。うどん屋の店頭には麺を茹でる釜が据えられ、うどんを入れた砥部焼の鉢、付け汁を入れた猪口、そしてショウガやネギが供され、漬けて食べる形式が一般的だった。 -当時オーストリア皇太子の地位にあったフェルディナントは生来の病弱であり、子孫を儲けることは不可能だと考えられていた。その弟である父フランツ・カール大公は政治に関心がなく、(強制される可能性はあったが)即位しない意志をすでに表明していた。よって、生まれたばかりのフランツ・ヨーゼフ1世が将来的に帝位を継ぐことはほぼ確定しており、皇帝となることを予期して育てられた。 -1980年代に入っても高い評価は変わらず、オレゴン州にワイナリーとブドウ園が次から次へと設立した。オレゴン・ワイン産業は発展を続け、州内で初めてとなるアメリカブドウ栽培地域(AmericanViticultureAreas,AVA)が確立。またオレゴン州はフランスのブルゴーニュ地域との関係を強めていく中で、オレゴン州知事がブルゴーニュへの公式訪問を果たし、フランスの優れたワイン農家がオレゴン州のダンディーに土地を購入するに至った。 -戦争中から連合国では、国際連合など戦後秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きくなった。この両国は戦後世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、その対立は長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。また、欧州の白人諸国家の統治下にあったアジア、アフリカの植民地では民族自決そして独立の機運が高まって多くの国々が独立し、結果として欧州列強の地位は著しく低下した。こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦中の対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。 -1865年に南北戦争が終結すると、アフリカ系の市民に教育の機会が与えられ、男子には参政権も与えられた。解放黒人局の助力により、多くの解放奴隷が田舎からローリーへと移入してきた。1865年には、南部初の黒人大学、ショー大学が開学した。ショー大学は開学当初は男子大学であったが、やがて共学に移行し、全米で初めてとなるアフリカ系女子学生の教育を行う校舎としてエステー・ホールが建てられた。また、ショー大学にはアフリカ系学生のための4年制医学校としては全米初となる、レナード・メディカル・センターも設置された。1867年には聖公会が解放奴隷を受け入れる高等教育機関としてセント・オーガスティンズ大学を開学した。さらに1869年には、州議会は全米初の、アフリカ系盲人・聾人学校をローリーに設置することを可決した。しかし、人種の壁が完全に取り払われたわけではなかった。1900年、州議会は新しい州憲法案を可決させた。この州憲法により、ほとんどの黒人と多くの貧困層の白人から投票権が剥奪された。1908年には黒人票は0になった。アフリカ系の市民の多くが再び投票権を得たり、裁判において陪審員となったり、地方公務員として従事したりすることができるようになったのはそれからだいぶ後、1965年以降のことであった。クラレンス・E・ライトナーは1967年に市議会議員に当選、その後1973年には市長に就任し、ローリー市史上初のアフリカ系市長となった。 -1905年、カーゾンが辞任し、第12代副王として第4代ミントー伯爵ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド(就任期間:1905年11月18日-1910年11月23日)が就任した。ミントー卿は各地で起こっていた反英運動を徹底的に弾圧した。1906年、ジョン・モーリーインド担当国務大臣が尊敬する、国民会議「穏健派」のゴーパール・クリシュナ・ゴーカレーが議長に就任するが、ティラクを中心とする「急進派」が過激活動を展開した。ティラクは1907年逮捕され、6年の懲役を受け、マンダレーへ流されることで、国民会議は穏健派が支配することとなったが、国民会議は分裂により、急速に求心力を失う結果となった。 -1924年(大正13年)1月24日に図書館費補助規定が制定されたことを受けて、同年7月1日に指宿村立図書館と今和泉村立図書館が創立した。指宿村立図書館は独立した建物を持ち、今和泉村立図書館は村役場に併設されていた。1931年(昭和6年)4月1日時点の蔵書数は指宿村立図書館が630冊、今和泉村立図書館が895冊であった。1933年(昭和8年)に指宿村立図書館は指宿町立図書館に改称したことは分かっているものの、第二次世界大戦中の図書館の活動記録は現存せず、混乱の中で自然消滅したものと見られている。 -1540年3月、カール5世は政略結婚を提案した。長女マリア・デ・アブスブルゴとフランソワの三男・オルレアン公シャルル2世を結婚させ、皇帝の死後ネーデルラント、ブルゴーニュ、シャロレーを継承する、という計画である。一方、その条件として、フランソワはミラノ公国とサヴォイア公国への請求を取り下げ、マドリード条約と貴婦人の和約を履行し、カールと同盟を結ぶ。フランソワはミラノを失うというコストがあまりに大きく、また両条約を何としても履行したくないことから、4月24日に「ミラノを諦める代わりにネーデルラントをすぐに得る」と逆提案した。交渉は数週間続いたが全く進まず、6月には打ち切られた。 -ロンドンの語源ははっきりとしていない。古代の名称はその典拠が2世紀からのものに見られる。121年にロンディニウムの記録があり、ロマーノ・ブリティシュ文化が起源である。最初期の説は今日では軽視されているジェフリー・オブ・モンマスのブリタニア列王史である。名称の説の一つにルッドから仮定されるもので、主張によればこの王が街を占領しKaerludと名付けたとしている。 -プリーストリーはEssayonaCourseofLiberalEducationforCivilandActiveLife(1765年、市民の積極的生活のための一般教育コースについて)やLecturesonHistoryandGeneralPolicy(1788年、歴史と政策についての講義)といった著作で、若者の教育が将来の実用的必要性を予期してなされるべきだと主張した。こ���考え方により、ウォリントンの向上心に燃える中流の生徒達に慣習に従わない教科課程の選択をさせるようになった。彼は古典言語よりも現代言語を推奨し、古代史よりも現代史を推奨した。歴史の講義は特に革命的だった。歴史を神の摂理として説く面と自然主義的に説く面を併せ持ち、歴史の研究が神の自然法の理解を促進したと主張した。さらにその千年王国的史観は、科学の発展と人間性の改善についての楽観主義と強く結びついていた。時代の変遷と共に世の中がよくなっていると信じており、歴史を学ぶことでそれを感じ、その進歩を進めることが可能になると考えていた。歴史の勉強は道徳的にも必須だと考えていたため、中流の女性の教育にも熱心だったが、これは当時としては非常に珍しいことだった。教育学者の中には、17世紀のジョン・ロックと19世紀のハーバート・スペンサーの間で最も重要なイギリスの教育作家としてプリーストリーを挙げる者もいる。 -天明期は老中と将軍の側近である側用人を兼任していた田沼意次が政治を主導した、いわゆる田沼時代であった。田沼意次の嫡男である田沼意知は天明期になると奏者番そして若年寄となり、また父と同様に将軍側近も勤め、田沼意次の後継者としての地歩を固めつつあった。天明期は老中と将軍側近である側用人を兼任し、嫡男を後継者とする布石を着々と進めるなど、田沼意次の権勢は絶頂期を迎えていた反面、田沼政治の限界もまた顕著になっていた。まず安永期に小康状態を保っていた幕府財政は天明期に入ると極度に悪化した。これはもちろん天明の大飢饉、浅間山の大噴火などの続発した災害が幕府収入を減少させた半面、支出の増加を招いたことが大きく影響していた。 -青森県内での死者の数は八戸市で1名、三沢市で2名の計3名、行方不明者は八戸市の1名であった。いずれも地震に伴い発生した津波によるものである。負傷者は、重傷者18名、軽傷者77名の計95名であった。私立学校関係の被害は、3市町16校(園)に及び、その被害額は約9,000万円であった。このうち、幼稚園が1市7園、約300万円、中学校が1市1校、8万円、高等学校が1市5校、約8,500万円、専修学校が3市町3校、約200万円となっている。県庁舎等関係の被害額は約100万円であった。このうち、県庁舎が約50万円、合同庁舎が約50万円となっている。県庁舎では、南棟、東棟に廊下のひび割れや床の一部破損などが生じたほか、西棟立体駐車場でも車両の入庫ができない程度の破損が生じた。合同庁舎では、むつ合同庁舎に被害がみられ、壁のひび割れなどが主なものである。廃棄物処理施設関係では、八戸地域広域市町村圏事務組合のし尿処理施設2施設の地下ポンプ室が津波により冠水し、その被害額は約11億8,100万円であった。 -モダニズム建築の影響は、1300年近い伝統を持つイスラーム建築にも大きな影響を与えた。20世紀前半には、西欧の植民地であった北アフリカ、中東、中央アジア、インド、東南アジアは独立を達成していたが、西欧化を標榜していたトルコ、イランにもその影響が広がった。20世紀前半におけるこれらの地域の建築は、駅や市庁舎、銀行、博物館、大学、病院といった近代的システムで運営される建造物がモダン建築の影響を受けて、建設された。しかし、宗教建造物は、伝統的様式に従っていた。 -1978年、宮崎駿は『未来少年コナン』(NHK)で監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はおらず、実質的には監督として現場を仕切っていた。毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした。 -ロボットものもファウンデーション3部作と同じ頃に書き始められた。その多くは後に短編集『われはロボット』(I,Robot,1950年)、『ロボットの時代』(1964年)として出版された。この作品群により、ロボット・人工知能の倫理規則(いわゆるロボット工学3原則)が世に広められた。この規則は、���の作家や思想家がこの種の話題を扱うに際して大きな影響を与えている。また中編『バイセンテニアル・マン』(1976年)は1977年のヒューゴー賞中編小説部門と1977年のネビュラ賞中編小説部門、ローカス賞長篇部門を受賞し、1999年にロビン・ウィリアムズ主演で映画化された(日本では『アンドリューNDR114』のタイトルで公開)。 -1999年10月12日、エアトラン航空によって717の商業運航が開始された。2001年6月までに、7社の航空会社に63機の717が導入された(リース会社が機体を保有するリース機も含む)。717の新造機納入数が多かったのは米国の航空会社で、エアトラン航空で22機、その次がトランス・ワールド航空で20機であった。その他の地域では、スペインのエーバルと、ギリシャのオリンピック航空の子会社オリンピック・アビエーション、オーストラリアのインパルス航空、アジアのバンコク・エアウェイズに引き渡しが行われていた。エアトラン航空では717により旧式のDC-9が置き換えられ、ハワイアン航空は島々を結ぶ短距離路線に717を投入した。インパルス航空やオリンピック・アビエーションは、それまで小型のターボプロップ機しか運航しておらず、717が最初に導入したジェット旅客機となった。717の初期の運航者は、ボーイングが従来取引していた航空会社よりも小さかったため、ボーイングはカスタマーサポートの新しい方針を打ち出し、整備や運航に関する諸問題を運航者間で共有できる体制を整えた。初期に717を導入した航空会社では、補助動力装置やエンジンなどに関するいくつかのトラブルがあり、ボーイングは対処が必要であったが、早期に出発信頼度は99パーセントに達していたほか、上昇性能、燃費性能などが当初計画値を上回り、着陸滑走距離は計画より短く済んだ。また、エンジンの排気や機外騒音は当時の規制値を十分下回った。 -中心市街地まで山地が迫り来る地形に長年悩んでいた鳥羽市当局は、加茂干拓地を多目的に活用しようと考え、農林省に払い下げを申請し、1970年(昭和45年)に鳥羽市開発公社が44.5577haを取得した。この頃より加茂干拓地は緒明菊三郎の名にちなんで大明(おあき)と通称されるようになった。公社は1971年(昭和46年)5月、「加茂干拓地総合開発事業」を開始し、安楽島町細田(現・高丘町)の民有地約88aを買収して切土を行い、そこで発生した土砂を干拓地へ一様に約2.5m盛土した。1974年(昭和49年)5月に盛土を終えると、体育館・公園・図書館などの公共用地開発と公営住宅・分譲住宅の宅地開発に乗り出した。運動公園である鳥羽中央公園は1973年(昭和47年)4月14日の鳥羽市民体育館の開館を皮切りに順次施設整備が進み、1987年(昭和62年)6月28日の水泳プールの竣工により、全施設の建設が終了した。 -植物の体はセルロース、リグニン、タンパク質、樹脂などなどで構成されている。このうち古生代に繁茂したシダ類ではセルロースが40~50%リグニンが20~30%であり、中生代以後に主体となる針葉樹類ではセルロースが50%以上リグニンが30%である(何れも現生種のデータ)。これらの生体物質を元にして石炭が形成された。 -いずれにせよ、すでに「執筆年代」の節で述べたことと重なるが、ヨハネ書簡のうちで最も早くに言及されたのは第一書で、ポリュカルポスによる言及は一連のヨハネ書簡の推定成立年代の下限としても利用されている。それに対し、第三ヨハネ書への言及はそれからも長い間見られない。たとえば、エイレナイオスはその『異端駁論(英語版)』(180年頃)において、第一書と第二書から引用しているが、第一書と第二書を区別していないし、第三書は引用していない。また、いわゆる『ムラトリ正典目録』(2世紀末から3世紀初頭)では、ヨハネ書簡は「2通」とされている。具体的にどの書簡かは明言されておらず、これを第三書への初期の言及とみなすバルバロのような論者もいなかったわけではないが、一般には第一書と第二書を指し、第三書は言及されていないものと受け止められている。 -東大寺は、六宗兼学の場として世に広く知られるようになった。六宗とはすなわち、法相宗(法性宗)、三論宗、倶舎宗(薩婆多宗)、成実宗、華厳宗(花厳宗)、律宗のことであり、すべて中国から起こり、伝来したものであった。���時の宗とは、教団というよりは仏教教理の学派に近い。それゆえ、兼学の場ができたとも言える。この様な兼学の形態は、南都の寺院では広く見られたものである。この六宗兼学の場(後、真言、天台加わって八宗兼学の場)の性格は、現在の東大寺でも見られるが、中でも重んじられたのが、本尊の大仏の性格が華厳経の教えに則ったものであることからも分かるように、華厳宗である。 -フェルメールの作品では、17世紀のオランダの画家、ヨハネス・フェルメールの作品について記述する。フェルメールの作品は、疑問作も含め30数点しか現存しない。現存作品はすべて油彩画で、版画、下絵、素描などは残っていない。以下には若干の疑問作も含め、37点の基本情報を記載し、各作品について略説する。収録順序、推定制作年代は『「フェルメールとその時代展」図録』による。日本語の作品タイトルについては、上掲図録のほか、『「フェルメール展」図録』、『フェルメール生涯と作品』による。便宜上「1650年代の作品」「1660年代の作品」「1670年代の作品」の3つの節を設けたが、フェルメールの作品には制作年代不明のものが多く、推定制作年代については研究者や文献によって若干の差がある。 -居留地の外国人が商売相手で発行所も(治外法権のある)居留地とする一方、ビゴー自身は居留地に住むことはなく、日本人の生活を間近で知るために日本人の住む街並みに身を置いた。仏学塾で教えていた当時は麹町区二番町(現・東京都千代田区)に住み、1887年頃から1890年までは向島(現・墨田区)という、外国人としてはかなり辺鄙な場所に居住した。その背景には『トバエ』に掲載した風刺画による警察からの監視に身の危険を感じたり、壮士に気づかれるのを避けたいという事情もあった。1890年には牛込区市谷仲之町(現・新宿区)に再び転居する。ここは、ビゴーが来日初期から世話になった士族佐野清の居宅のある市谷本村町からは至近の距離にあった。 -油入変圧器は油を用いて絶縁と冷却を行う方式であり、広く用いられている。初期には鉱物油を用いていたが、火災の危険があるためあまり用いられなくなった。またポリ塩化ビフェニル(PCB)も広く用いられていたが、生物に対する毒性の問題から使用禁止となった。現代ではシリコーン油が広く用いられているが、コストが高いという問題がある。油入変圧器では油を循環させることで冷却を行っている。自然対流によるものと強制循環によるものがある。また放熱器にも送風ファンを取り付けることがある。さらに冷却水の配管を油中に通して水冷する方式もある。 -こうした諸状況から、ドールらはクリーブランド在任中の併合は不可能であると判断し、12月23日、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉にあたる」との声明文を発した。さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、「ハワイ共和国」と改称し、1894年7月4日、新憲法の発布と新国家成立を宣言した。共和国大統領にはサンフォード・ドールが就任したが、結果としては、ハワイ共和国の最初で最後の大統領となった。アメリカ独立記念日に公布されたハワイ共和国憲法は多くの点でアメリカ合衆国憲法に似ていた。新憲法は、東洋人に対し選挙権や市民権を与えず、公職勤務を禁じる一方、白人団体が多くの点で権力を保持できるよう配慮されていた。 -1797年に第二次対仏大同盟が結成されたが、1801年には崩壊した。イギリスだけがフランスの統領政府に敵対し続けたが、1802年3月にフランスとイギリスはアミアンの和約によって講和した。 -このため当時経済政策全般を管掌していた経済安定本部は、慢性的な電力不足による停電が及ぼす産業復興阻害や治安悪化を懸念し、当時課題であった水害頻発と食糧不足にも対応するため、戦前物部長穂が提案した河川総合開発事業を軸にした河川開発で治水と電力・食糧供給の改善を図ろうとした。天竜川流域では長野県が林虎雄知事(当時)により支流の三峰(みぶ)川で治水と発電を目的とした三峰川総合開発事業を1949年(昭和24年)より着手し、下流では農林省(のちの農林水産省)により三方原台地や愛知県渥美半島への灌���を目的とした土地改良事業を計画するなど、多方面にわたる開発が企図されていた。第3次吉田内閣はこのような河川を利用した大規模地域開発を推進するため1951年(昭和26年)に国土総合開発法を施行し、全国22地域を対象にした「特定地域総合開発計画」を発足させた。天竜川水系もこの22地域に選ばれ、治水と灌漑、そして水力発電開発を軸とした天竜東三河特定地域総合開発計画が1954年(昭和29年)6月11日に閣議決定された。この計画は天竜川上流部には美和ダム・高遠ダム(三峰川)を建設して治水・発電及び伊那盆地への灌漑を行い、中流部では大規模な発電用ダムを建設して大出力の水力発電を行う一方で、ダムを水源として豊川用水や三方原用水などを通じ静岡県西部と愛知県東部の灌漑を行うことが骨子であった。このため天竜川中流部に大規模なダムを建設する必要が生まれ、白羽の矢が立ったのがダム地点である佐久間地点である。この地点は両岸が険しい断崖でV字谷を形成し、地質も良好であったため大規模ダム建設には理想的な地点であった。既に1921年(大正10年)より当時の名古屋電灯が水利権を獲得し、同社を吸収した東邦電力や日本発送電が継承して調査を行い、戦後は中部電力が東京電力と共同で開発計画を立てていたが何れも陽の目を見なかった。佐久間地点が着手に至らなかったのは、土木技術的な問題とそれを支える資金面の問題が複合したからであり、これを解決しない限り佐久間地点のダム建設は不可能であったことから、何れの事業者も結局構想のままで終わっていた。 -望まれぬ末子として江戸の町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(国家に反抗する姿勢)な態度を貫いたことに対して、津和野藩典医の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられた森鴎外は死ぬまで大日本帝国陸軍をはじめ国家官僚の職を歴任し、官側の人間であり続けた、という対照がある。夏目漱石は「余裕派」、森鴎外は「高踏派」と呼ばれた。しかし、その一方では二人とも「自然主義文学の姿勢」とははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広い知識をもって文学活動を進め、歪んでいく近代化における価値観の主流においても自分たちの認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応の影響を与えた。なお、鴎外が1890年から1年ほど過ごし、『文づかひ』などを執筆した千駄木の邸宅は、後にロンドンより帰国した漱石が1903年から約3年居住して『吾輩は猫である』を著した場所でもあったが、現在、同邸は愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されている。 -1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチスがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏(イギリスとフランス)からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。 -一方ヒトラーも、英仏両国が宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落した。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、���ダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵がカティンの森事件で殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。 -変電所はまず、送電用変電所と配電用変電所に大きく分類される。送電用変電所は、電力系統の途中に配置されて電圧の変換を行っており、大電力が通過する。これに対して配電用変電所は電力系統の末端に近いところに配置されて、送電用変電所から送られてきた高い電圧を消費者に供給する低い電圧に落として地域の配電網に供給する。送電用変電所に比べて1つの変電所を通過する電力は小さく、施設の規模も小さくなるが、その数は送電用変電所よりかなり多い。配電用変電所の受電電圧は154-22kV程度で、配電網へ送り出す電圧は22-6.6kV程度である。送電用変電所の多くは高い電圧を低い電圧に落とすために使われているが、逆に低い電圧を高い電圧に上げるために用いられているものもある。電圧を上げる変電所は昇圧用変電所、下げる変電所は降圧用変電所と大きく分類される。昇圧用変電所は基本的に発電所に付属して設置されており、電力を発電所から送り出す段階での電圧変換を行っている。 -南三陸町では、3階建ての防災対策庁舎の屋上まで水没するなど町職員42人が、5階建ての公立志津川病院も4階天井付近まで水没し、入院患者107人中72人と職員3人が死亡。また、海抜15mの高台にあった特別養護老人ホーム「慈恵園」も1階が水没して49人が亡くなるなど、850人以上が犠牲となった。女川町は震源に最も近いリアス式海岸の町の一つであり、猛烈な津波が町を襲い、中心部は海抜20mの高さまでほぼ水没、強い引き波により鉄筋の建物の倒壊も目立った。指定避難所であった町立女川病院(女川町地域医療センター)は、海抜16mの高台にあったにもかかわらず、1階が完全に水没した。七十七銀行女川支店では屋上に避難していた行員13人が流され12人が亡くなるなど、犠牲者は約900人であり、浸水域人口に対する犠牲者率は当震災において最大の11.97%であった。一方で5階建ての生涯学習センターでは、屋根付近まで水没したにもかかわらず、鉄扉で密閉され窓もなかったボイラー室に避難した30人弱が無事であった。 -エアバスA300(AirbusA300)は、エアバス・インダストリー(後のエアバス)が開発・製造した双発ジェット旅客機である。世界初の双発ワイドボディ旅客機であり、エアバス社設立のきっかけとなった。機種名のA300は、エアバスのAと初期構想の座席数300席にちなむ。A300は2つの世代に分けることができ、第1世代はA300Bとも呼ばれる。新技術の採用でグラスコックピット化された次世代型はA300-600と呼ばれる。本項ではA300第1世代を中心に説明する(A300-600シリーズについては当該ページを参照)。本格的なジェット旅客機の時代を迎えた1960年代、バスのように気軽に乗れる大型旅客機「エアバス」が待望された。当時、欧州の航空機メーカーは単独で「エアバス」を事業化する体力が無かったため、国際共同開発体制によりA300構想が推進された。紆余曲折を経てフランスと西ドイツ(当時)政府が中心となって企業連合エアバス・インダストリーが設立されA300が開発された。 -2004年(平成16年)4月に新館での業務を開始した。高山市側の職員は館長を含む2人だけで施設管理や購入図書の決定、サークル指導などの管理系業務を担当し、カウンター対応や図書館だよりの発行など直接利用者と関わる業務は図書館流通センターに委託された。図書館流通センター側のスタッフは12人であった。同年12月までの実績は、入館者数が2.3倍に、貸出冊数が2.5倍になった。2005年(平成17年)2月に市町村合併によって新・高山市が発足したことに伴い、丹生川村図書館を高山市図書館丹生川分館とし、他の旧8町村の公民館図書室を高山市図書館の分室に位置付けた。2006年(平成18年)4月より指定管理者制度を導入して図書館流通センターを指定管理者とした。この時の職員数は館長を含め28人であった。 -アムンセンが南極点の初到達者とするからには、必然的に、アムンセンが極点の位置を実測により特定した最初の人物と言える。GPS等による位置測定ができない1911年当時において用いられた方法は、太��による天測が主であった。まず、アムンセンが持参した計測機器類は、羅針儀4個、ソリ距離計3個、六分儀2個、人工水平線器3個、沸点高度計1個、アネロイド晴雨計1個、温度計4個、双眼鏡2個、クロノメーター3個であった。なお、アムンセンは船長を務めていたことから、航海術を習得する過程でこれらの機器の操作法には習熟していたものと考えられる。帰国後、極点と断定した測定値を天文学者と数学者に委託。その結果、実際には南緯89度58分05秒、東経60度だったことが判明した。そこから3方向に往復した結果、計算による本当の南極点を200~300メートル以内の近さで通過したと見られている。 -世界で最初の商用電力事業は、アメリカ合衆国のニューヨーク・マンハッタンで、トーマス・エジソンが設立したエジソン電灯会社(EELC:EdisonElectricLightCompany)によって1882年9月4日に始められた。しかしこの時は直流115-120ボルトで発電所から需要家までを直接結んで配電しており、電圧を変換する機構は入っておらず、したがって変電所もまだ存在しなかった。低圧で送配電することに伴う大きな損失を改善するために、様々な工夫が試みられた。その中には、高電圧の直流で送電して電動発電機で低圧直流に変換するものや、高圧直流で直列に接続されている蓄電池を充電し並列につなぎ変えて低圧放電させる仕組みなどがあった。直流での大規模な送電は、1954年にスウェーデンでゴットランド島への2万kW100kV送電で実用化された。水銀整流器を用いたもので、その後1961年には英仏連系にも導入された。日本では北海道・本州間連系設備(上北変換所-函館変換所)や紀伊水道直流連系設備(紀北変換所-阿南変換所)で直流送電が行われている。 -ベルゴリオは1958年3月11日にイエズス会に入会し、ブエノスアイレス特別区ビジャ・デボート区の神学校で司祭になるための勉強を始め、1963年チリで教養課程終了後、ブエノスアイレス州サンミゲル市のサン・ホセ神学院で哲学を学んだ。その後1964年から1965年にかけて、サンタフェ州の無原罪(インマクラーダ)学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えた。1967年、ベルゴリオは本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学。 -26歳でロシア皇帝に即位することとなったニコライ2世は、なるべく早期にアリックスを皇后に迎えたがり、父の遺体が屋根の下にあるうちに彼女と結婚することを希望したが、叔父たちが皇帝の結婚式は盛大に行われるべきであり、服喪と一緒に行うわけにはいかないと反対したため、断念した。とりあえずアリックスはロシア正教への改宗を行い、以降アレクサンドラ・フョードロヴナと名乗るようになった。結婚式は父帝の大葬から一週間後に挙式されたが、アレクサンドラは「私たちの結婚式は、まるで死者のためのミサの連続のように思えました。違ったのは私が黒い喪服から白いドレスに着替えたことだけです」という感想を書いている。 -ゲオルク・ビューヒナーは1813年、ヘッセン大公国のダルムシュタット近郊の小村ゴッデラウに医師の息子として生まれた。父方は代々風呂屋を生業とする家系であったが、ゲオルクの高祖父の代から外科医の仕事を家業とし、ゲオルクの父エルンスト・カール・ビューヒナーもこの仕事についている。エルンストはナポレオン軍に従軍医師として参加した経験を持ち、彼自身ナポレオンの信奉者だった。エルンストは夕刻になると、フランス革命の後に出版された雑誌『現代』を子供たちの前でたびたび朗読し、それに自身の体験を補足して聞かせていたという。一方母カロリーネの家系であるロイス家は代々官僚を務めており、カロリーネの父ももともとはアルザス地方の高級官僚であったが、フランス革命の時にこの地方がフランス共和国に統合されたため、幼い子供たちを連れてヘッセンに逃れてきた。フランスびいきのエルンストとは逆にカロリーネは愛国主義者であり、シラーやドイツ・ロマン派の文学作品を愛好するなど教養ある女性であった。彼女は幼いゲオルクに聖書や民話を語って聞かせ、また初歩的な読み書きを教えた。 -宮崎駿は一貫して子供に向けて作品を作り続けている。これについて、「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている。児童文学を愛読し、「アニメーションは基本的に子供の物」と公言した。宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて、成長するにつれて対象年齢を上げて作品を作り、息子が成長しきると今度は友人などの子供を対象にしており、『千と千尋の神隠し』の公開時にはガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明している。スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた。主人公が少女であることが多いが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからのとのこと。同性だと自身と重ね合わせすぎて悲観的な物語にしかならないとも語っている。最も本人の趣味が反映された『紅の豚』に関しては製作後も「道楽でくだらない物を作ってしまった」と罪悪感に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から解放されたと述べている。制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、脚本なしで絵コンテと同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界のウォルト・ディズニー」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的制作管理能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。また漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」ということである。 -1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されると、シュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年、シュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者になるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった。しかしシュトラッサーは自らの補佐役としてはヒムラーよりヨーゼフ・ゲッベルスの方を高く買っていたという。 -アフリカ(ラテン語:Āfrica、英語:Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。阿州。漢字表記は阿弗利加。 -1916年10月末、山岳兵大隊はルーマニア戦線に転戦した。同大隊は11月11日にレスルイ山の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日にダンツィヒにおいてルーツィエと簡易な結婚式をあげた。ハネムーンなどはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊はガジェシュチ村で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした。1917年1月中旬に山岳兵大隊は、ルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし、7月末には再びルーマニア戦線に送られた。コスナ山に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をしたが、彼は構わず戦闘に参加し続けた。傷口を放置したせいで高熱にうかされたが、ロンメルはベッドの中から命令を発し続けたという。ロンメルを初めとして、山岳兵大隊は奮戦したが、結局コスナ山を占領することはできず、8月25日に山岳兵大隊は第11予備歩兵連隊と交替することとなり、後方に下げられた。負傷した腕の治療のため一月ほど休養に入り、その間は妻ルーツィエと一緒に過ごした。 -ベリリウム原子の電子配置は[He]2s2である。ベリリウムはその原子半径の小ささに対してイオン化エネルギーが大きいため電荷を完全に分離することは難しく、そのためベリリウムの化合物は共有結合性を有している。第2周期元素は原子量が大きくなるにしたがってイオン化エネルギーも増大する法則が見られるが、ベリリウムはその法則から外れており、より原子量の大きなホウ素よりもイオン化エネルギーが大き���。これは、ベリリウムの最外殻電子が2s軌道上にあり、ホウ素の最外殻電子は2p軌道上にあることに起因している。2p軌道の電子は内殻に存在するs軌道の電子によって遮蔽効果(有効核電荷も参照)を受けるため、2p軌道に存在する最外殻電子のイオン化エネルギーが低下する。一方で2s軌道の電子は遮蔽効果を受けないため、相対的に2p軌道の電子よりもイオン化エネルギーが大きくなり、これによってベリリウムとホウ素の間でイオン化エネルギーの大きさの逆転が生じる。 -1996年の緒戦には前年と同じく阪神大賞典が選択された。レースでは前年の年度代表馬マヤノトップガンをマッチレースの末に下し、同レース連覇を果たすとともに1年ぶりの勝利を挙げた。なお、この第44回阪神大賞典はしばしば日本競馬史上の名勝負のひとつに挙げられる一方、そのことを真っ向から否定する意見もある。阪神大賞典を勝利したことによってナリタブライアンの復活が印象づけられ、復帰した南井が騎乗した天皇賞(春)では1番人気に支持されたが、レースではサクラローレルに差されて2着に敗れた。大久保はこのレースにおける南井の騎乗法(折り合いを欠いたナリタブライアンを第3コーナーでスパートさせた)を「武豊が乗ったらあんなふうに掛かっただろうか」と非難した。 -戦国時代には各地で紙漉部落が形成されて地域の紙の需要を賄ったが、江戸時代になると、紙の消費者層として新たに庶民(町人)が加って生活必需品の一つとなり、紙の需要はますます伸びた。江戸時代には浮世絵などにも利用された。一方、旺盛な需要を賄うために紙の生産が農村で奨励されたが、これといった特産品を持たない山村や農村では、コウゾさえあれば漉くことができる紙は貴重な現金収入源となった。コウゾ以外の原料から紙を漉く方法も広がり、増産のために稲わらなども用いられた。藩制のもとで各藩ごとの自給経済が営まれ、紙の専売制をしく藩も少なくなかった。特に需要の多い杉原紙は多くの藩で生産された。 -ストーンウォールの反乱(ストーンウォールのはんらん)は、1969年6月28日、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン(StonewallInn)」が警察による踏み込み捜査を受けた際、居合わせた「同性愛者らが初めて警官に真っ向から立ち向かって暴動となった事件」と、これに端を発する一連の「権力による同性愛者らの迫害に立ち向かう抵抗運動」を指す。この運動は、後に同性愛者らの権利獲得運動の転換点となった。ストーンウォールの暴動ともいう。 -MD-90の販売は順調ではなかった。エアバスはA320のファミリー化を進め、1994年2月には長胴型のA321、1996年4月には短胴型のA319の納入が始まっていた。また、ボーイングは737をさらに発展させることとし、1993年11月に次世代型737シリーズ(737NG)の開発を正式決定していた。マクドネル・ダグラスのシェアは、主にエアバスに奪われる状態になっており、1996年8月の時点の受注残数は、A320ファミリーが270機、ボーイングの737(737NGを含む)が390機であったのに対し、マクドネル・ダグラスはMD-80とMD-90を合わせても120機という状態だった。 -アテーナーはメーティスの娘であるが、その誕生はゼウスの頭部から武装して出現したとされる。また、これに対抗して妃ヘーラーは、独力で息子ヘーパイストスを生んだともされる。ゼウスは更に、ティーターンの女神達と交わり、運命や美や季節、芸術の神々をもうける。法律・掟の女神テミスとのあいだに、ホーライの三女神とモイライの三女神を、オーケアノスとテーテュースの娘エウリュノメーとのあいだにカリテス(優雅=カリス)の三女神を、そして記憶の女神ムネーモシュネーとのあいだに九柱の芸術の女神ムーサイ(ムーサ)をもうけた。 -岩手県の被害は津波によるものが中心であった。被害が特に大きかったことから宮城県、福島県とともに被災3県として総称される。岩手県沿岸は海岸線近くまで山地が迫り、平地が狭いという地形のため、津波による浸水面積は58km2と3県では最も小さかった。しかし、その狭い平地に漁港と市街地が広がっていたため、浸水域の人口は約11万人であり、浸水域の人口密度は1,900人/km2と3県で最も大きかった。県中南部は津波高が増すリアス式海岸のため、津波常襲地域であり、津波への対策(防波堤・防潮堤)の規模は日本随一であった。過去の津波の伝承や石碑(自然災害伝承碑)が至るところに残り、住民の防災意識も高く、多くの人々が避難行動を取ったが、想定を大きく上回る規模の津波が押し寄せたため、甚大な被害を受けた。陸前高田市では、市民会館や市民体育館などの指定避難所の多くがほぼ天井まで水没して避難者の大半が死亡し、市街地全域が壊滅的被害を受けた。高田病院で4階まで浸水し27人が亡くなるなど、1,800人弱の犠牲者を出した。市職員も1⁄3弱に当たる113人が犠牲になり、浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、大槌町と同率の11.72%であった。大槌町では、役場で災害対策本部の準備をしていた職員60人中、当時の町長である加藤宏暉を含め30人以上が亡くなるなど、1,300人弱が犠牲になった。また、火災も発生した。浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、陸前高田市と同率の11.72%であった。 -1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学した。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。その友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁となる中村是公がいる。予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称した。その年、金之助は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活した。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。 -こうして1965年にしゃんしゃん祭が始まった。この第1回しゃんしゃん祭では1000人が踊り子として参加した。参加者は順調に増え、1967年の第3回では2000人、1969年の第5回では3000人が踊り、見物客は10万人に達した。さらに1972年にはついに踊り子が4000人を突破した。この間、1970年には三波春夫による「鳥取しゃんしゃん傘踊り」が新曲として導入された。ところが新曲の導入と踊り子の増加によって「渋滞」問題が顕在化してきた。踊り子が練り歩くコースは1900メートルの長さの周回路になっている。ルートの若桜街道上に祭の本部が設置されていて、そこで踊り子たちの連に対する審査が行なわれるのだが、参加者が多すぎて踊り子の列が渋滞し、3時間の踊りの時間を費やしても本部前に一度もたどり着かない連が続出するようになった。そうかと思えば、前の連に遅れて離されてしまい、案内役の警備員に急かされて踊りの最中に傘を持って走る「見苦しい」姿も目立つようになった。1980年代になると、周回路を2100メートルに延長したり、1連の踊り子の人数を80人に制限したりといった対策が導入されたが、抜本的な解決には至らなかった。問題の原因の一つは増えすぎた参加者と踊り傘にあった。傘踊りは長さ1.2mの傘を振り回して踊る。踊り子自身の体や前後の間隔を考えると、踊り子の隊列はどんなに少なく見積もっても1.8メートル間隔になる。80人を5列に並べるとそれだけで道幅は最低でも7.2メートルになり、実際には観客のいる沿道スペースを必要とするので、ルートに使える道路はかなり限られている。1連80名が5列に並ぶと少なくとも長さは30メートル、それに10メートル間隔で装飾車が連毎につく。1連あたり40メートルとして、4000人(50連)が並ぶとそれだけで長さが2キロメートルにもなってしまい、当初の1900メートルのルートでは物理的に長さが不足しているのである。 -2年間の留学を終えたビューヒナーは、1833年7月にダルムシュタットに戻り、地元のギーセン大学医学部に移った。シュトラースブルクでの開放的な生活や自由な雰囲気に比べ、谷間の田舎町であるギーセンでの生活は彼の気を滅入らせ憂鬱にさせた。当時ギーセン大学には著名な化学者ユストゥス・フォン・リービッヒがいたものの、ビューヒナーが専攻した生理学・解剖学の分野はストラスブールに比べ遅れていた。なかでも解剖学の主任教授ヴィルブラントは旧態依然とした生理���理論を振りかざし、血液の循環を否定するなどして学生たちの間で笑いものになっていた。ビューヒナーは後に彼をモデルにした変人の医師を戯曲『ヴォイツェック』に登場させている。ビューヒナーはこの時期、シュトラースブルクでの生活を懐かしむ手紙を友人やヴィルヘルミーネに送り、自身の境遇を「みじめな生活」と言い表している。旧友ともあまり付き合おうとしなくなり、周囲の人間に対し高慢で冷淡な態度を取るようになっていた。憂鬱な生活を送るうちに、この年の11月に脳膜炎に罹り、実家で翌年の1月まで養生することになった。 -トッドは偽イタリア人の理髪師アドルフォ・ピレリが売る発毛剤がペテンだと見抜いたことで、ピレリと民衆の前で髭剃り競争を行うことになる。競争に勝ったトッドだったが、剃刀と手つきからピレリに正体を見破られてしまう。数日後、ピレリはアシスタントのトビーとトッドの店を訪れ、自分が昔バーカーの見習いとして働いていたデイヴィー・コリンズであることを明かした上で、秘密を隠す代わりに売り上げの半分を寄越すようトッドを脅す。トッドは秘密を守るため衝動的にピレリを殺し、階下ではトビーの身の上に同情したラヴェットが、彼を引き取ろうと心に決める。髭剃り競争の審判をしたバムフォードに勧められ、ジョアンナとの結婚を目論むターピンがトッドの店へ訪れる。トッドは髭剃りがてらターピンののどを掻き切って殺そうとするが、アンソニーがジョアンナとの駆け落ち計画を携えて駆け込んできたことで、ターピンが激怒して店を出て行ってしまう。復讐に失敗したトッドは、いつか仇を討つ日を思いつつ、顧客を次々に殺すことを怒りの捌け口とし、ラヴェットは犠牲者の肉でミートパイを作って売り捌くようになる。一方のアンソニーはジョアンナの行方を追うが、駆け落ち計画を知ったターピンは彼女を精神病院送りにしてしまう。 -開国直後の日本では、生糸、蚕種、茶などの輸出が急速に伸びた。ことに生糸の輸出拡大の背景には、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランス、イタリアで微粒子病という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや、太平天国の乱によって清の生糸輸出が振るわなくなっていたことなどが背景にあった。その結果、1862年(文久2年)には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めるまでになったが、急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価の低落につながった。また、イタリアの製糸業の回復も日本にとっては向かい風になり、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じた。 -7N7では727の胴体設計を継承するものの、新設計の主翼と高バイパス比のエンジンを採用することになった。まず最初にまとめられたデザイン案は、164席の客席を有する「モデル761-161」と呼ばれるもので、これは「工具まで同じものが使用可能」という在来機種との共通性を重視した結果、胴体は707・727・737と同じ構造とされた。ただし、エンジンは双発とされ、胴体尾部に3発のエンジンを装備する727と比較するとスマートなデザインとなった。また、エンジンと主翼以外にも、垂直尾翼や降着装置などに新技術が採用されていた。1978年1月に、ボーイングはイースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズに対して、この「モデル761-161」の構想を説明した。この2社は、かねてから727の発展型となる機体に関心を示していたのである。ところが、この2社の要求はそれぞれ異なる内容であった。具体的には、イースタン航空が2クラスで165席クラスの機体を求めていたのに対し、ブリティッシュ・エアウェイズは単一クラスで190席クラスの機体を希望したのである。ブリティッシュ・エアウェイズはイギリス政府との結びつきが強い航空会社であり、かつヨーロッパの航空会社であることからエアバスの旅客機を購入することが求められていた。ボーイングもその事情を把握していたため、ブリティッシュ・エアウェイズの要望には特別な配慮を行なっていた。ボーイングでは、できるだけこの2社の要求に応えるべく、デザインの見直しを行い、2クラスで165席から175席、単一クラスで190席設置できるようなサイズに改めたのである。さらにこの頃のアメリカの大手航空会社は、航空旅客数の増加に確信を持っており、アメリカ航空業界では「機体は大きければ大きいほどいい」という考え方が一般化していた。 -なお、佐々木禎子の兄の佐々木雅弘と、日本への原爆投下を承認したアメリカ合衆国大統領であるハリー・S・トルーマンの孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルらは、オバマの広島訪問に先立つ5月26日に、カリフォルニア州の博物館に禎子の折り鶴を寄贈する記念式典に出席し、ロサンゼルス郊外の学校で平和を訴える講演をしている。式典には200名ほどが参加し、佐々木雅弘は「この折り鶴は禎子が命をかけて折ったものです。ここにアンネの日記と一緒に置かれ、皆さんに将来に向けて何かを感じてもらえたら禎子も喜ぶと思います」と挨拶をした。広島県・広島市・原爆資料館はそれぞれオバマに広島ゆかりの記念品を贈った。県は竹原市出身の文化功労者の陶芸家今井政之の「象嵌彩窯変鑛鶴花壺」、市は三宅一生デザインの腕時計と紅葉柄の万年筆(呉市発祥のセーラー万年筆製)、原爆資料館は被爆写真集「ヒロシマを世界に」と被爆者が描いた画集「原爆の絵ヒロシマを伝える」を贈った。 -ネコは骨折の治癒が速く、手術後の併発症が少なく、イヌに比して骨・筋肉・靭帯の有病割合が低いと獣医師たちは考えている。周波数が25-30ヘルツの喉鳴らしには骨・腱・靭帯に関する治癒とさらには鎮痛の効果があるという仮説が出されている。ネコ科の動物の多くが、鋭い痛みや腱・筋肉・関節の問題を鎮める効果のある周波数の振動を発するのである。この仮説によるなら、ネコにとって喉鳴らしは体の維持を行い健康を保つ手段ということになる。 -メキシコ外務省は、1994年から2000年までの期間に、国境のメキシコ側での死亡者数のデータを収集した。それらのデータは、1996年に87名、1997年に149名、1998年に329名、1999年に358名、2000年に499名という死亡者数を示している。 -サレカット・イスラム(SI)の前身は、バタヴィア(現ジャカルタ)と西ジャワのバイテンゾルフ(現ボゴール)で、それぞれ1909年と1910年に結成されたサレカット・ダガン・イスラム(イスラム商業同盟、SarekatDagangIslam,以下SDI)である。この団体を結成したのは、ジャワ貴族出身のジャーナリスト、ティルトアディスルヨであり、彼の目的は同じムスリムであるアラブ人商人と「原住民」商人が手を結び、当時の東インドで活発な経済活動をおこなっていた華人系商人に対抗することだった。 -ばら積み貨物船という言葉を定義する方法はいくつかある。1999年時点で、海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS条約)はばら積み貨物船を「単一甲板で、トップサイドタンクとホッパーサイドタンクを貨物船倉内に有し、鉱石輸送船や兼用船を含む主に乾性ばら積み貨物輸送を意図した船」と定義している。しかし、ほとんどの船級協会は、ばら積み貨物船とは梱包されていない乾貨物を運ぶ全ての船であるという、より広い定義を使っている。多目的貨物船はばら積み貨物を運べるが、他の貨物を運ぶこともでき、ばら積み専用に設計されてはいない。ドライバルクキャリアという言葉は、石油タンカー、ケミカルタンカー、LNGタンカーなどの液体のばら積み貨物船と区別するために用いられる。非常に小さいばら積み貨物船は一般貨物船とほとんど区別不可能で、しばしば船の設計よりもその使用法に基づいて分類される。 -オットハインリヒ館(Ottoheinrichsbau)はプファルツ選帝侯オットー・ハインリヒにちなんで名付けられた。初代建設責任者はハンス・エンゲルハルト、少なくとも一部はペーター・フレトナーによる。2代目の建設責任者はカスパー・フィッシャーである。オットー・ハインリヒは1557年にプファルツ選帝侯領にプロテスタントの信仰をもたらし、学問を奨励し、新人医師に死体を解剖することを義務づけた。彼の図書館(BibliothecaPalatina)は、この当時の最も重要なものの一つであるが、浪費のかさむ生活態度により彼は破産の危機に瀕していた。一方、祖母ヘドヴィヒの遺産にも借用書があった。ポーランド王カジミェシュ4世が娘ヘドヴィヒ(ヤドヴィガ)とバイエルン=ランツフート公ゲオルクとの結婚の際に作成した32,000グルデン以上の借用書である。この借金はポーランド王室から返済されていなかった。オットー・ハインリヒは利子に利子を加え、その総額を20万グルデンと算出し、1536年に大叔父にあたるポーランド王ジグムント1世のクラクフへ支払いを要求した。3週間にわたる交渉の末、借金は支払うが、利子の支払いは免除することで決着した。オットー・ハインリヒの統治期間はわずか3年であったが、最も重要なプファルツ選帝侯の一人である。彼にちなんでオットハインリヒ館と名付けられたこの城館建築はドイツのルネサンス建築の最も傑出した作例の一つである。オットハインリヒ館は、1556年にプファルツ選帝侯となったオットー・ハインリヒによって建設された。この新しい宮殿はドイツの土地に初めて建設されたルネサンス建築であり、ドイツ・マニエリスムの重要な建築作品である。古い建物はオットハインリヒ館に一部は取り込まれ(グレゼルナー・ザール棟)、あるいは取り壊された(ルートヴィヒ館の北半分)。東部では古い建物や外側の防壁の基礎構造に基づいて建設されている。5階建てのこの建物のファサードは、選帝侯の統治理念を象徴する16体のアレゴリー像で飾られている。これらの像は、後にハプスブルク家のために仕事をすることになるオランダのアレクサンダー・コリンによって創られたものである。オットー・ハインリヒが1559年に亡くなった時点で建設はまだ完了していなかった。三十年戦争前のオットハインリヒ館には、本質的には初期ルネサンス様式によるイタリア風の外観に不調和な2つの巨大な二重破風があったことが、初期の写生画(マテウス・メーリアンの„KurpfälzischesSkizzenbuch“)に示されている。これは明らかに選帝侯フリードリヒ3世が引き起こした設計変更に由来するものであり、元々の建築プランが意図していたものではない。三十年戦争後にオットハインリヒ館は新たに屋根がふき直され、巨大な二重破風は撤去された。 -宮﨑駿(みやざきはやお、1941年1月5日-)は、日本の映画監督、アニメーター、漫画家である。別名として秋津三朗(あきつさぶろう)、照樹務(てれこむ)がある。映画などのクレジットタイトルでは宮崎駿(みやざきはやお)と表記されることもある。株式会社スタジオジブリ取締役、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事長、三鷹市立アニメーション美術館(三鷹の森ジブリ美術館)館主である。東京府東京市出身。学習院大学政経学部卒業した。東京都小金井市、三鷹市名誉市民。埼玉県所沢市在住。アニメーション制作会社スタジオジブリに映画監督として所属し、2005年4月より取締役となった。また、自身が企画開発した三鷹市立アニメーション美術館(三鷹の森ジブリ美術館)の館主である。個人の事務所に、株式会社二馬力があった。主に宮﨑の著作権関連の管理を行っており、かつては自身が代表取締役社長を務めていたが、2016年スタジオジブリに吸収合併し解散した。愛煙家としても知られている。 -オスマン軍はウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる不利な状況にあったが、マムルーク朝も長期の戦争によって財政が悪化しており、1491年にハフス朝の仲介によって和議が結ばれた。 -ドビュッシーは1903年8月、『海』の作曲に着手した。同年9月12日付のジャック・デュラン及びアンドレ・メサジェに宛てた手紙には、《管弦楽のための交響的素描『海』》の作曲に取り組んでいること、作品は、1.「サンギネール諸島付近の美しい海」、2.「波の戯れ」、3.「風が海を踊らせる」の3つの楽章で構成されることなどが記されており、この段階である程度作品の構想が固まっていたことが伺える。当時ドビュッシーは海から離れたブルゴーニュ地方のビシャン(Bichain)という町で作曲を進めており、先のメサジェ宛の手紙には「ブルゴーニュの丘から海は見えないが、記憶の中の海の方が現実よりも自分の感覚には合っている」と、海が見えない場所で『海』を作曲していることに対する言い訳めいた説明をしている。その後、前述のとおりドビュッシーの私生活が劇的に変化する中で作曲が行われた。オーケストレーションが進められたのはエンマとの逃避行で滞在したジャージ��島やディエップにおいてであり、第1楽章のタイトルの変更や第2楽章終結部の書き直しが行われたのはリリーの自殺未遂事件によって世間からのバッシングを受けている最中のことであった。全曲が仕上がったのは1905年3月5日のことである。着想から完成までに約1年半を要したものの、『夜想曲』が5年、『映像』が7年の年月を必要としたことに比べれば異例の早さとも言える。 -サメ(とくにシュモクザメ)などの生物は電場の変化を知覚し反応する。これを電気受容感覚と呼ぶ。捕食や防御のために自ら電気を発生させる生物もあり、それを生物発電と呼ぶ。例えばデンキウナギ目のデンキウナギは筋肉細胞が変化した「発電板」を持ち、高電圧を発生することで獲物を探し麻痺させる。全ての動物は細胞膜に沿って活動電位と呼ばれる電圧パルスを発生させて情報を伝え、神経細胞による神経系によって筋肉まで情報伝達する。感電はこのシステムを刺激し、筋肉を収縮させる。活動電位は特定の植物や動物においてその活動を調整する役目を果たしている。心電図や筋電図はそういった神経系の電位差を測定して図示するもので、脳波は脳内の電気活動を間接的に測定して図示するものである。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -ヨセミテの地形のほとんどは、シエラネバダ・バソリス(バソリスとは、地中深くで従来の岩石に貫入した火成岩の大きな塊をいう)の花崗岩からできている。その他5%(主に公園の東端、ダナ山近く)は、変成作用を受けた火山岩と堆積岩でできている。これらの岩石は「ルーフ・ペンダント」と呼ばれるが、それは花崗岩の上に乗った屋根のような状態を示すからである。隆起によって形成された岩石の節理(割れ目)に浸食作用が働くことによって、現在の渓谷、ドームなどの地形が生み出された。節理が生じる間隔は、花崗岩及び花崗閃緑岩に含まれる二酸化ケイ素(シリカ)の量による。二酸化ケイ素の含有量が多いほど、岩石の強度は増し、節理の間隔は広くなる。 -1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の開削事業に出資したりするようになる。こうした活動と並行して、翌1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書は大変な評判となり、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手する。1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされている。そのわずか2か月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされるこ��が多いが、暦書の評判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もある。 -ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメット2世がギリシャ正教総主教にゲンナデオス2世を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメット2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった。なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた。 -アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、英:AmericanWarofIndependence)は、1775年4月19日から1783年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命(英:AmericanRevolution)もしくは革命戦争(英:RevolutionaryWar)と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている。なお、日本の歴史教科書では、「アメリカ独立戦争」と表記することもあれば、単に「独立戦争」と表記することもある。 -1929年(昭和4年)、新しいカバ室が完成した。新しいカバ室のプールは広く深く設計され、広い運動場が左右に2部屋設置されてカバの妊娠や分娩の際にはメスとオスが分離できるように配慮されていた。5月19日に一度引っ越しを試みたものの、京子が怖気づいて暴れたため、中止せざるを得ず、しかも5月31日には初めての子を流産していた。7月と8月に改めて行われた京子と大太郎の新カバ室への引っ越しの指揮は、病気がちになっていた黒川に代わって前年に動物園に入ったばかりの古賀忠道が執った。2回目の引っ越しの際も京子は暴れたが、何とか新しいカバ室に移すことができた。ようやくのことで新しいカバ室に着いた京子は暴れすぎた反動でへたり込み、プールに入ったままで2週間もの間新設された運動場に出ることがなかった。それに比べて大太郎の引っ越しは何の苦労もなく、作業にあたった人々が拍子抜けするほどであった。後に高橋は自著『動物たちと五十年』に「やっぱり、オスは度胸がいいんだね、と私たちは語りあった」と記述している。 -1792年5月18日の夜、ロシア軍が国境を越えてウクライナに侵攻した。ロシア軍は、ポーランドの最高司令官であるポニャトフスキとコシチュシコが率いるポーランド軍から想定外の抵抗を受けた。コシチュシュコ軍は、5月29日にヤヌフ付近でポニャトフスキ軍と合流した。しかしロシアの四軍を押しとどめるにはあまりにも非力だったポーランド軍は、南ブーフ川の西岸へ、ルバルからポウォンネへと撤退していった。この時、コシチュシュコが殿としてロシア軍と戦いながら退却した。圧倒的な兵力差を前に、ポニャトフスキはスタニスワフ2世アウグストの援軍を求めるとともに、ウクライナを放棄してヴォルィーニに撤退した。ここのポウォンネはポーランド軍の一大防衛拠点だった。ここでルボミルスキが兵力補給を任された。 -その結果、古代に起源をもつ数種、すなわち、中国犬(チャイニーズ・シャー・ペイ、チャウチャウ)と日本犬(柴犬、秋田犬)、コンゴ共和国のバセンジー、アラスカのシベリアン・ハスキーとアラスカン・マラミュートの3グループが比較的オオカミに近かったのに対して、ヨーロッパに起源をもつその他の多くの品種は相互に近く、比較的新しく分岐したものであることがわかった。この研究は、イヌの家畜化は東アジアのオオカミからなされたとしたSavolainenら(2002年)の結論を支持する結果となった。なお、現在のイヌの品種の大部分を占めるヨーロッパ系のイヌの品種が人為的に作られ始めたのは8世紀ごろとされるが、品種として増加したのは、18世紀以降のことと考えられる。 -1920年5月18日、ボリシェヴィキの赤軍第11軍とカスピ赤色艦隊は、イギリス駐留軍に庇護された白軍艦隊の拿捕を名目として、ギーラーンのアンザリー港へ一斉攻撃を行った。そして赤軍はイギリス軍を敗走させた後、地元民からある程度の支持を受けつつアンザリーへの駐留を開始した。同月23日、クーチェクらジャンギャリー代表団は赤軍のセルゴ・オルジョニキゼ、フョードル・ラスコーリニコフと交渉を持ち、反英・反テヘラン政府の方針で意見の一致を確認した。 -埴輪踊る人々の製作年代は6世紀代とされている。省略的に表現されることが多い埴輪の中でも、この2体はより大胆な省略法に基づき製作されている。いずれも腰から下が表現されない半身立像で、復原高はそれぞれ、大きい方が63.9センチメートル、小さい方が56.5センチメートルである。先を丸めて頭部を表した寸胴な円筒形を基調に、肩の左右に粘土棒を差し込み両腕とし、左腕を上に掲げ、右腕を前方斜め下にすえることで、正面から見ると両腕を逆S字形に構えたように見える仕草をしている。口と目の部分はほぼ同じ大きさの円形にくり貫かれ、目を見開き、口を大きく開けたかのように表現されているが、これも埴輪としては珍しく、剽軽な表情に見受けられる。これは、まるで踊りながら歌っているようにもみえる。首のくびれは表現されておらず、鼻筋は一本の粘土紐を前頭部まで伸ばして貼り付けた、特徴的な人物像となっている。衣服も腰帯を締める以外に詳細な表現はない。小さい方の埴輪は頭部の両側に振り分けた粘土が貼り付けられており、これは「百姓みずら」と称される身分の低い者の髪型で、後腰に鎌とみられる道具を装備しているところから、こちらが男子像とされる。このため小さい方は男の農夫と考えらえるが、大きい方には耳や髪型の表現がない。大小2体あるため、男女を表現したものであるという説と2体ともに男性だという説があるが、この2体が男女を表したものだとすると大きい方が女性となる。 -古典学者ピエール・グリマルはその小著『ギリシア神話』の冒頭で、「ギリシア神話」とは何を指す言葉かを説明している。グリマルは、紀元前9-8世紀より紀元後3-4世紀にあって、ギリシア語話圏で行われていた各種の不思議な物語、伝説等を総称して「ギリシア神話」とする。この広範な神話圏は、紀元前4世紀末または前3世紀初にあって内容的・形式的に大きな変容を経過する。一つのは文献学の発達と、書物の要約作成によってであり、いま一つは、生きた神々への敬神の表現でもあった詩作品などに代わる、娯楽を目的とした作品の登場によってである。 -引き続きバレッツィの支援を受けてミラノに居を移したヴェルディは、つてを頼って書き上げたオペラ作曲『オベルト』をスカラ座支配人メレッリに届け、小規模な慈善興行でも公演できないか打診した。しばらく待たされたが色好い返事を受け、1839年初頭にはソプラノのジュゼッピーナ・ストレッポーニやテノールのナポレオーネ・モリアーニらを交えたリハーサルが行われた。しかし、モリアーニの体調不良を理由に公演は中止され、ヴェルディは落胆した。ところが、今度はメレッリ側から『オベルト』をスカラ座で本公演する働きかけがあった。これはストレッポーニが作品を褒めたことが影響した。台本はテミストークレ・ソレーラの修正を受け、秋ごろにはリハーサルが始まった。この最中、息子イチリオが高熱を発し、わずか1歳余りで命を終えた。動き出した歯車を止める訳にはいかないヴェルディは悲しみを胸に秘めたまま準備を進め、11月17日に『オベルト』はスカラ座で上演された。ヴェルディ初作品は好評を得て、14回上演された。他の町からも公演の打診があり、楽譜はリコルディ社から出版され、売上げの半分はヴェルディの収入となった。メレッリは新作の契約をヴェルディと結び、今後2年間に3本の製作を約束させた。不幸にも遭ったがこれでやっと妻に楽をさせられるとヴェルディは安堵していた。 -この曲には、キャリーと当時の夫トミー・モトラが出演するホームムービー風映像と、白黒映像でザ・ロネッツ風の衣装を着たキャリーを映すミュージック・ビデオが存在する。キャリー自身はテレビの生放送で何回もこの曲を披露しているほか、長年ツアーでも歌唱している。2010年には2作目のホリデー・アルバムである『メリー・クリスマスIIユー』のために再録音したほか、カナダ出身の歌手ジャスティン・ビーバーのアルバム『アンダー・ザ・ミスルトウ』(2011年)では彼とのデュエットを披露した。他にも、キャリー以外の多くのアーティストにカバーされ続けている。 -ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(JorgeMarioBergoglio)は、1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス特別区フローレス区で、イタリア系移民の子として生まれた。父のマリオ・ホセ・ベルゴリオは、ピエモンテ州のポルタコマーロ出身の鉄道職員であり、母のレジーナ・マリア・シヴォリもまたイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身である。夫婦は中流の労働者階層で5子をもうけたが、ホルヘ・マリオは幼少期に感染症により右肺の一部を摘出している。マリオ・ホセはホルヘ・マリオが小学校を卒業すると「教育上の配慮から」会計士事務所に働きに出された。サレジオ会が経営するラモス・メジア・サレジオ学院(現ウィルフリド・バロン学院)を経て、ブエノスアイレス大学で化学を学び学士号を取得した。 -ニコラエフスクにおける漁業を事業として成立させたのは日本人だったが、1901年に日本人の漁業は禁止され、1907年に調印された日露漁業協約においてもニコラエフスク近辺は対象からはずされたため、ロシア人と共同経営をしていた島田商会などをのぞき漁業関係者は撤退した。しかし海産物の交易は続き、第一次世界大戦による食糧不足でロシアの国内需要が急増するまで、ニコラエフスクの主要海産物であった鮭の主な輸出先は日本であり、居留邦人の数が多かったため領事館が設けられていた。 -第一次世界大戦中、ドイツ社会民主党(SPD)の戦争支持の方針に反発した急進左派カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクらが創設した非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。ドイツ革命でスパルタクス団指導者たちが釈放されるとスパルタクス団は十月革命に倣った革命扇動を開始したが、反革命化を強めていた社民党政権と対立を深めた。1918年12月30日から1919年1月1日にかけての創立大会で「ドイツ共産党・スパルタクス団」を結成し、直後の1919年1月にスパルタクス団蜂起を起こすも社民党政権が出動させた義勇軍に殲滅されて失敗。 -ぶん公の活躍は、地元の小樽だけではなく新聞や雑誌を通じて北海道の内外にまで広まった。その「出動」回数は優に1000回を超え、小樽の人々の誇りとなっていた。同時期に東京で忠犬ハチ公が話題となっていたため、「小樽のハチ公」とも呼ばれた。やがて老境にさしかかったぶん公は、足腰が弱った上にホースをくわえて働いていたために前歯がすべて欠け、横臥している時間が長くなっていた。そのような状態に至っても、火災報知器のベルが鳴るとよろけながらも何とか消防車に乗り込もうとして、それを見た人々の涙を誘ったという。ぶん公は隊員たちに見守られながら、1938年(昭和13年)2月3日の正午に24歳(人間年齢では100歳以上)でその生涯を終えた。「小樽新聞」(現:北海道新聞)は、同年2月5日付の紙面で「消防犬文公病死二十四歳の長命勇しかった過去」という見出しでその死を報道した。 -コックピットは、ロックウェル・コリンズ社のシステムを採用して6台のカラーブラウン管を備えたグラスコックピットとなっている。標準搭載されている主要な操縦システムとしては、二重化された自動操縦装置をはじめ、対地接近警報装置、ウインドシア探知装置、デジタル気象レーダー、空中衝突防止装置、フライト・データ・レコーダーなどがあげられる。また、オプションとしてカテゴリーIIIa条件下で着陸が可能な計器着陸装置なども用意されている。CRJはビジネスジェット機チャレンジャーの設計を流用して開発され、胴体断面をそのままに胴体長を延ばすことでラインナップの拡充が進められた。FAAやEASAの型式証明書でもチャレンジャーの派生型と位置付けられており、証明書中のモデル名はチャレンジャーと同じくCL-600-XXXXである(XXXXには機種ごとに数字とアルファベットが割り振られている)。ビジネスジェット機からの設計流用・拡張により、開発費が低減されるとともに、各モデルの共通性が高いという点も評価され、顧客である���空会社に広い選択肢を提供することができた。しかし、チャレンジャーは当時のビジネスジェットとしては太い胴体であったが、客室内の改良による寸法拡大には限界があり、はじめからリージョナル旅客機として設計され、広い胴体断面を持つエンブラエルE-Jetシリーズが登場したことで、市場競争力が低下した。 -大風子油(だいふうしゆ)は、イイギリ科Hydnocarpus属(APG植物分類体系ではアカリア科に移動)に属する何種類かの植物の種子である大風子(HydnocarpusAnthelmintica)の種皮を除いてから圧搾して得た脂肪油である。搾油直後には白色の軟膏様の性状を示し無味無臭であるが、次第に黄色に変化して特有の臭いと焼きつくような味を生じる。大風子油にはヒドノカルプス酸とチョールムーグラ酸という不飽和環状脂肪酸が含まれており、その成分がらい菌の成長阻害作用を生じる。もともとは古代より東南アジアやインドの民間療法として行われていた治療法であった。中国には明の時代に伝わり1578年の「本草綱目」にハンセン病の治療薬として漢方の処方が記載されている。日本でも江戸時代頃から用いられた。19世紀末にはヨーロッパでも使用されるようになった。1920年代にオーストリアの植物学者ヨゼフ・F・ロックにより再発見され、全世界で一般的に使用されるようになった。1917年にはイギリスの医師・ロジャース卿によって大風子油からジノカルピン(Gynocarpin)脂肪酸を製剤化し、内服薬・注射薬が作られた。その後、1920年にヒギロカルプス酸ナトリウム製剤(内服薬・注射薬)が作られた。これらは「アレポール」と呼ばれ、イギリスの植民地であるインド・ビルマを中心に使われた。その後、種々の改良が行われた。アメリカ薬局法には、内服療法では消化器障害の副作用を生じるための注射薬として記載された。大風子油の注射の欠点は注射部位に結節や瘢痕を残すことであった。効果が乏しく無効という意見も多かったが、大風子油で治療をしない場合に比べれば効果はゼロではないとした報告があることと、他に有効な薬剤が存在しなかったために、大風子油による治療は多くの国で行われた。その後、1943年のプロミンが有効であるという報告以降は、大風子油による治療は徐々に行われなくなった。 -専用のばら積み貨物船が登場する以前、荷主にはばら積み貨物を船で輸送する方法として2つの手段があった。1つは港湾労働者が貨物を袋詰めし、その袋をパレットに積み上げ、クレーンでパレットを船倉に積み込むという方法である。もう1つの方法は、荷主が船を全て借り切り、時間と費用をかけて合板製の容器を船倉内にしつらえることであった。そして、小さなハッチを通して貨物を運ぶために、木製の荷送り・荷止め板を設置しなければならなかった。こうした方法は時間が掛かり、労働集約的であった。コンテナ船と同様に、効率的な積み込み・積み降ろしの問題がばら積み貨物船の発展につながった。蒸気船として登場し始めた専用のばら積み貨物船は、より人気を博するようになった。ばら積み貨物船とされる最初の蒸気船は、1852年のイギリスの鉱石輸送船SSジョン・バウズ(SSJohnBowes)である。この船は金属製の船体、蒸気機関、砂ではなく海水を利用したバラストタンクを備えていた。これらの特徴により、船は競争の激しいイギリス石炭輸送市場で打ち勝っていくことができた。ディーゼルエンジン推進の最初のばら積み貨物船は1911年に登場した。 -ローリー市は、19世紀に入ると、やや遅れたもののインフラの整備が進められた。1818年には上下水道が引かれ、1819年には有志による消防団が結成された。1821年には全日勤務の消防局が設置された。1840年にはウィルミントン・アンド・ローリー鉄道、およびローリー・アンド・ガストン鉄道の2本の鉄道が開通した。また、この1840年には、1831年に焼失し、その2年後、1833年に再建が始まった州会議事堂が完成した。現在残っている庁舎はこの年に再建されたものである。1853年には、ローリー近郊で最初のステート・フェアが開かれた。1858年には、ローリーで最初の高等教育機関となるピース女子大学が設立された。 -戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面��動員、投入が行われた。世界の61か国が参戦し、総計で約1億1,000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦であったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦とケーブル切断を主体に展開されたが、第二次世界大戦では無線通信を用いた機動戦の結果、戦線が拡大した。また、無線は電信と違い敵に傍受されたため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果がもたらされた。使用された兵器も、航空機や戦車などの著しい発達に加え、レーダーやジェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾つまり核兵器という大量殺戮兵器まで登場した。 -マツは数十年かけ成長するため、第1世代第2世代と続く交配研究には数十年単位の長期間が必要であり、ウツクシマツも全てがその形状に育つのではなく、その見極めには7年ほどかかるため、滋賀県森林センターは1973年の調査開始から30年弱をかけて解明したことになった。ウツクシマツの遺伝様式が劣性遺伝であったことは、後述する松くい虫に対する抵抗性を高める研究に有用な知見となった。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -ナノテクノロジーは多くの場合、100ナノメートルスケールより小さい構造を持つ材料や素子を研究する分野と定義される。その中でもDNAナノテクノロジーは、分子部品が自発的に組織化して安定構造を作るボトムアップ型自己集合プロセスの一例である。この種の構造では、設計者が選んだ部品の物理的・化学的特性が元になって特定の形状が発現する。DNAナノテクノロジーで部品となるのはDNAなどの核酸鎖である。核酸鎖は多くの場合人工的に合成され、ほとんどのケースで生細胞内の役割とは関係のないところで使用される。DNAがナノスケール構造の作製に適している理由は、核酸鎖間の結合が既知の単純な塩基対合則に従っており、それによって特有の二重らせん型ナノ構造を形成する点である。この性質を利用すれば、核酸鎖の設計を通じて構造のアセンブリを制御することが容易になる。他のナノテクノロジー材料はこのような特性を持たない。たとえばタンパク質は構成要素であるアミノ酸の種類が多く設計が非常に困難であり、ナノ粒子は自ら特定のアセンブリを行う能力がない。 -ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。 -いったん頓挫した江戸近くでの本格的な製鉄所建設計画であるが、元治元年(1864年)に入って動き出した。まず元治元年3月22日(1864年4月27日)、フランスの新しい公使としてレオン・ロッシュが着任した。ロッシュはイギリスが幕府から距離を置く立場を取るようになる中、逆に幕府へ接近する姿勢を見せた。また同年8月には小栗忠順が幕府の勘定奉行に再任され、同じ頃、フランス語が堪能である栗本鋤雲が目付に抜擢された。当時幕府が諸外国から購入した艦船は中古船が多く、幕府はその修復に頭を悩ませていた。そこでフランス語が堪能な栗本に白羽の矢が立てられ、幕府が所有していた蒸気船翔鶴丸の修復についてフランスに依頼するように命じられた。栗本はロッシュと交渉したところ、日本側と接近する好機会と捉えたロッシュは、横浜港に停泊していたフランス艦隊に赴き、艦隊の司令官ジョレスに翔鶴丸修理の了承を取り付け、フランスの手によって修復作業が行われることになった。その結果2か月足らずで完璧な修理が行われ、勘定奉行の小栗らがフランスの技術を導入して製鉄所の建設を進めるきっかけとなった。 -今作の第2章からは、新たなキャラクターとして虎の子供のティガーが登場する。夜中にプーの家の前に迷い込んできたティガーに、プーはなにか食べ物を与えようとするが、自分のハチミツをあげても、森の仲間たちを訪ね歩いていろいろなものを与えてもどれもティガーの気に入らない。しかし最後に幼いルーが食べていた麦芽エキスが好物だったと判明する。第4章では、ティガーは見得をはってルーとともに木の上に登ったところ降りられなくなってしまう。2匹はクリストファー・ロビンの機転によって、みんなで広げた彼の上着の上に着地することで助けられるが、イーヨーはティガーの下敷きになってしまう。第6章では、イーヨーは川を流れてきて、ティガーから跳ね飛ばされて川に落ちたと主張する。言い合いになった彼らに対して、クリストファー・ロビンはプーが発明した「プー棒投げ」という棒流し遊びをみんなですることを提案し、この遊びを通じて事態は丸く収められる。しかしこのようなティガーの「はねっかえり」な態度が目に余ったラビットは第7章において、彼の態度を正すために、プーたちといっしょに森の中に誘い込んでそこにティガーを置き去りにするという計画をたてる。しかしその過程で自分たちが森の中で迷子になってしまい、ラビットは逆にティガーによって助け出されることになる。 -ブクステフーデのアリアには、BuxWV59,74,80,90のように、ヨハン・シェフラー(アンゲルス・ジレージウス)、ヨハン・ヴィルヘルム・ペーターゼン等の神秘主義者、敬虔主義者やその影響を受けた詩人の歌詞が少なからず存在する。また、クレルヴォーのベルナルドゥス等の中世神秘主義の流れを汲む瞑想的な歌詞も、BuxWV56,57,75等の作品で採用されている。直接的な体験を通して神との合一を求める中世神秘主義は、バロック時代の思想の底流として生き続け、日常生活における霊的体験を重視するルター派敬虔主義の成立にも大きな影響を及ぼす。30年戦争の悲惨な経験を通して、この世を涙の谷ととらえ、来世に憧れのまなざしを向ける17世紀ドイツの民衆の心情には、こうした神秘主義的思潮が広く浸透していた。十字架上のイエスの苦しみをわが身のものとして受けとめ、花婿に擬えたイエスとの結婚を通して魂の救済を希求するこれらの作品は、ブクステフーデのシンプルな旋律法とも相まって、ブクステフーデの声楽曲のなかでもとりわけ強いインパクトをもっている。ブクステフーデの管弦楽書法は、17世紀ドイツの伝統に根ざすものであり、18世紀の標準的なオーケストラ編成とは大きく異なっている。声楽曲における特徴は中声部の充実と多様性にあり、ブクステフーデは楽曲ごとにヴィオラ、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオレッタ、ヴィオラ・ダ・ガンバ等、多様な楽器を組み合わせている。とくにヴィオラ・ダ・ガンバは、BuxWV32,64のように高度な技巧を伴った独奏楽器としても使用しており、ヴィオラ・ダ・ガンバに対する愛好と当時の演奏水準の高さを窺わせる。また、管楽器についても、低音リード楽器として、ファゴットではなく、時代遅れの楽器となっていたボンバルド(バス・ショーム)を使用するなど、古風な楽器編成を採用したものがある。 -このような解放運動の成果により、1970年代、合衆国の同性愛者らの境遇は飛躍的に向上する。1971年にコネティカット州がソドミー法を撤廃したのを皮切りに、いくつかの州議会や州裁判所でソドミー法が撤廃または緩和される決定がなされた。1972年にはミシガン州アナーバー市が同性愛者の人権保護を条例化する。著名人たちが同性愛的性的指向を公表し始めたのも、この頃であった。1973年末までに全国で1100の同性愛団体が設立された。 -1284年、ハーメルンの町にはネズミが大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男が現れ、報酬をくれるなら町を荒らし回るネズミを退治してみせると持ちかけた。ハーメルンの人々は男に報酬を約束した。男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。男はそのままヴェーザー川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させた。しかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を破り、報酬を払わなかった。約束を破られ怒った笛吹き男は「お前たちの大切なものを代わりにいただこう」と捨て台詞を吐きいったんハーメルンの街から姿を消したが、6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び現れた。住民が教会にいる間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて男のあとをついていった。130人の少年少女たちは笛吹き男の後に続いて町の外に出てゆき、市外の山腹にある洞穴の中に入っていった。そして穴は内側から岩で塞がれ、笛吹き男も子供たちも、二度と戻ってこなかった。物語によっては、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた1人の子供、あるいは盲目と聾唖の2人の子供だけが残されたと伝える。 -花巻空港(岩手県)は旅客の対応が当面不可能として定期便の運航を停止し、緊急輸送のみを対象に3月11日18時50分から運用を再開した。三沢空港(青森県)も18時50分に運用を再開した。福島空港はタワーのガラスが全壊したものの運用可能であったため、閉鎖された仙台空港の代替として関西や札幌(北海道)と結ぶ臨時便を運航することになった。山形空港は停電で運用を停止していたが、3月12日4時から運用を再開し、臨時的に24時間運用を開始した。茨城県小美玉市の茨城空港はターミナルビルの天井の一部が落下。3月12日には空港を閉鎖し、全ての便が欠航になった。茨城空港は14日から定期便の発着を再開し、花巻空港も17日にターミナルビルの営業を再開した。空港内の震度計が震度5強を記録し、多数の長距離を飛行し燃料残量が少ない国際線の航空機が向かっていた成田国際空港(千葉県)や、震度5強を記録した東京国際空港(羽田空港)は安全確認のために地震発生直後にすべての離着陸を中止、空港を閉鎖したため、両空港に向かっていた航空機86機が降りられなくなり、中部国際空港(愛知県)や関西国際空港(大阪府)、新千歳空港(北海道)や横田基地(東京都)へ代替着陸した。茨城空港も滑走路には異常がなかったことと、自衛隊共用であるため有事の際には航空自衛隊の援助が受けられるとして2機を受け入れている。なお、このうちの14機は燃料不足で「緊急事態宣言」を出した。羽田空港は一部の施設に損傷が確認されたものの当日中に安全が確認され再開されたが、旅客タ��ミナルや施設の一部に損傷が起きた成田空港の再開は12日朝に持ち越された。しかし、京成電鉄とJR東日本が12日午後まで運休となったうえ、東京の都心部との間のリムジンバスの運行も12日夜まで運休するなど成田空港への公共交通機関によるアクセスが一時的に断絶した。なお、福島第一原子力発電所事故発生後に国際民間航空機関(ICAO)、国際航空運送協会(IATA)、および世界保健機関(WHO)から、日本への渡航について「健康上のリスクは認められない」とする声明が出されたにもかかわらず、ルフトハンザドイツ航空やアリタリア-イタリア航空などの一部の外国航空会社が、放射能の影響や余震を恐れて成田空港への発着便を中部国際空港や関西国際空港への発着に切り替えた。 -ソ連はフィンランドにも同様の協定への調印を要求したがフィンランドは拒否し、1939年11月30日、ソ連はフィンランドに侵攻し、冬戦争が勃発した。この侵攻は国際連盟によって違法なものと判断され、12月14日にソ連を国際連盟から除名する。この戦争は1940年3月13日に終り、フィンランドとソ連はモスクワ平和条約に調印した。フィンランドは首都ヘルシンキに次ぐ第2の都市ヴィープリを含む産業の中心部も併せてカレリアのほとんど全て(全部で領土の10%近く)を譲渡することを強制された。軍隊と残っていた住民は、新しい国境の内側に急いで避難している。フィンランドの全人口の12%に相当した42万2千人のカレリア住民が家を失った。フィンランドはバレンツ海のリバチー半島(英語:RybachyPeninsula、フィンランド語:Kalastajasaarento)のフィンランドの領域であったサッラ(Salla)の一部に加えてフィンランド湾のスールサーリなど4つの島[24]も譲渡しなくてはならなかった。最終的にハンコ半島は30年間海軍基地としてソ連に貸与された。1941年6月、フィンランドとソ連は継続戦争で交戦を再開する。 -1709年、いくらかの財政的、実務的な支援をイギリス本土のアン女王から得たフランシス・ニコルソンおよびサミュエル・ヴェッチは、ヌーベルフランスに対する大がかりな攻撃隊を組織した。その計画は、シャンプレーン湖を経由したモントリオールへの陸路による攻撃と、ケベックに対する海軍による海上からの砲撃を含んでいた。陸路による遠征隊はシャンプレーン湖の南部に到達したが、海軍によるケベックへの攻撃が予定通りに行われなかったため、海軍による支援が得られず撤退した。海軍は当初の予定を変更してポルトガルへの支援に回されていた。イロコイ連邦はイギリス軍のこの奮闘に対するあいまいな支援の約束を行ったが、明らかに遠征が失敗しそうになるまで支援を送るのをうまく引き伸ばし続けた。この失敗の後、ニコルソンとスカイラーはイギリス本国の北アメリカでの戦争に対する関心を喚起するため、ヘンドリック王と他の酋長たちを連れてロンドンへと旅立った。インディアンの代表団はロンドンでセンセーションを巻き起こし、アン女王は彼らに謁見の機会を与えた。ニコルソンとスカイラーの努力が実り、1710年、アン女王の支援を得たニコルソンはポートロイヤルの占領に成功した。ニコルソンはこの成功を引っ提げて再びイギリスに戻り、1711年、ケベックへの再攻撃計画に対する支援を取り付けた。 -鉄道開通後の沿線で特に甚大であった地すべり被害としては、1963年(昭和38年)3月16日16時20分頃、能生町小泊(現:糸魚川市能生小泊、能生駅-百川信号場間、白山トンネル北側坑口付近)において発生した、大規模な連続地すべり(以下「小泊地すべり」)が挙げられる。この地すべりはこの地域の地すべりとしては崩壊速度が2-3m/secと異例の遅さであったが、規模は延長370m、幅100-170m、面積4.5haにおよび、北陸本線と国道8号沿いの民家を幅約110mに渡って直撃・破壊し、約40m日本海に押し出し、集落では家屋全壊25戸、半壊家屋3戸、死者4名(負傷者を含めると25名)の被害を受け、国道8号も約110mが大量の泥土に埋もれ大型車両の通行再開に12日間を要した北陸本線では現場を通りかかった敦賀発直江津行き普通225列車(機関車C5790、客車7両編成)が白山トンネルを出た直後に地すべりに乗り上げた後、20分後に大きく滑動した泥土と共に機関車と客車1両が埋もれた集落の上を流された。特に機関車は約170m押し流され、湾内に到達し埋没した。列車側は乗客が比較的少なかったことなどから、乗客・乗務員に死者は無く数名の軽傷者にとどまったが、線路170mを流失、泥土による約110cmの埋没により復旧・開通に20日間を要した。このほか、水害・浪害等も含めると、開通翌年の1914年(大正3年)から1963年(昭和38年)の小泊地すべりまでの間、同区間は主要なものだけでも36回もの運行停止を招く災害が発生し、うち脱線あるいは転覆事故は15回を数えた。 -1999年のシリーズ第23作『ゴジラ2000ミレニアム』でゴジラ映画が再開された。この作品で2度目の世界観のリセットが行われる。第1作以外の過去のエピソードは一切語られず、ゴジラは地震や台風などの自然災害と同じように文明への脅威の存在として設定された。本シリーズの一部は第1作とその他の東宝特撮作品の世界観を反映した。しかし200万人から400万人と比較的高い観客動員数を維持した平成ゴジラシリーズと比べ、本シリーズは100万人から200万人ほどと大幅に減少した。そのため平成ゴジラシリーズと同じく、モスラ、キングギドラ、メカゴジラなどの人気怪獣の再登場路線となった。2001年から2003年までは『とっとこハム太郎』と併映されることになり、その影響で第26作『ゴジラ×メカゴジラ』、第27作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS』の2作は例年より15分ほど、上映時間が短縮化されている。2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS』は110万人と当時のワースト3位を記録(現在はワースト4位)した。制作サイドの目指す本当に新しい「ゴジラ映画」を制作することが当時の技術では困難として、ゴジラ50周年の節目である2004年にシリーズ集大成となる最高の「ゴジラ映画」を作り上げて締めくくろうということになり、同年公開の第28作『ゴジラFINALWARS』にてゴジラシリーズは再度終了となり、東宝が製作するゴジラシリーズは10年以上途絶えることとなる。ゴジラシリーズに数多く出演した水野久美や佐原健二らは『FINALWARS』のパンフレットで「まだゴジラシリーズに出演したい」というような趣旨のコメントを寄せた。 -奈良時代には『万葉集』にも「伊香保の沼」(※「伊香保」は、現在の高崎から榛名山一帯をさす広域地名)として詠まれるようになり、上野国を代表する景物として都の歌人たちにも知られていた。中世から信仰の対象となり、江戸時代以降は雨乞いに霊験あらたかな地として関東一円の農民を集めるようになった。これを「榛名講」といい、榛名湖の南にある榛名神社に詣でて泉水を竹筒にいれて持ち帰り、田畑にまくと雨が降るとされていた。この信仰の濫觴として、戦国時代の関東の武将の妻が、敗死した夫の後を追って榛名湖に入水し、龍神となって農民の願いをきくようになったと伝えられている。 -神岡水電の設立に先立つ1920年(大正9年)4月21日、三井鉱山は神岡鉱業所内に「神岡水電建設事務所」を開設し、高原川支流の「跡津川第一水力」の開発に着手、同じく支流の「ソンボ谷川水力」と高原川本流の「高原川第四水力」の建設準備を始めた。跡津川第一水力、すなわち跡津発電所の工事は1920年下期より開始された。そして同発電所は1924年(大正13年)12月に落成して運転を開始した。跡津発電所の建設工事はすべて三井鉱山の名義で行われ、運転開始後の1925年(大正14年)7月になって三井鉱山から神岡水電に譲渡されている。三井鉱山が発電所を建設し、それを神岡水電が譲り受けて運転する、というこの特殊な事業構造はその後の発電所にも適用された。跡津発電所の発生出力は、三井鉱山神岡鉱業所への供給分を除いて発電所渡しにて大同電力へと売電された。この時点ではまだ関西方面への送電線は建設されておらず、この電力は大同電力の手によって同社傍系の立山水力電気へと供給された。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -当時、水戸藩の徳川斉昭は強硬な攘夷思想を持っており、攘夷を果たすことを目的として反射炉を建設して鉄製の大砲を鋳造することにした。しかし斉昭の強硬な攘夷思想の影響もあって、水戸藩内には蘭学など西洋の技術を学んだ人材がいなかったため、南部藩士の大島高任など、藩外部から人材の派遣を受けて反射炉の建造を進めることになった。大島高任は鉄製大砲の鋳造には鉄鉱石の鉄を用いる必要があると判断していた。安政3年(1856年)、大島は中小坂鉄山の鉄鉱石を鑑定し、大砲鋳造用の鉄の原料として極めて優秀な鉱石であるとした。そこで中小坂鉄山の鉄、約1800貫目が数回に分けて那珂湊に建設された水戸藩の反射炉で用いるために運ばれることになった。 -ボストンは、1630年9月17日にイングランドから来た清教徒たちの手によって、ショーマット半島に築かれた。マサチューセッツ湾植民地の清教徒は、1620年にプリマス植民地を建設した入植者と混同されることがある。しかし、両者は異なる宗教的実践を有しており、歴史的に見て別々のグループである。ボストンはオリバー・クロムウェルの台頭から当分、ロイヤリストであるアンソニー・アービー一族の地盤だった。1652年造幣局が設立されたが、まだ鉱山開発の余裕も技術もない時代であったのでずっと銀貨を悪鋳しており、1684年に本国が植民地の特許状を取り消し閉鎖してしまった。1691年10月7日、プリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属するという公式宣言がなされ、マサチューセッツ湾岸県が設立された。この宣言は翌年5月14日に有効になった。 -ヴィルヘルム2世は、1859年3月5日に洗礼を受けてフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトール・アルベルトと名付けられた。フリードリヒやヴィルヘルムはホーエンツォレルン家の伝統的名前であり、ヴィクトールとアルベルトは祖父母にあたる英女王ヴィクトリアとその王配アルバートからもらった名前である(ヴィクトールはヴィクトリアの男性名、アルベルトはアルバートのドイツ語読み)。ポツダムの宮殿で育てられることとなった。 -内務省は胆沢川にダムを建設するに当たり、まずは建設可能な地点の選定を試みた。胆沢川は前川合流点までは峡谷を形成するが、尿前(しとまえ)川合流点を通過すると次第に胆沢扇状地が形成される。尿前川合流点より下流の山間部にダムを建設することについては扇状地の構造上、谷が次第に広くなることから当時の土木技術ではダムの長さ(堤頂長)が長くなるた���当初設定していたダム本体の規模では貯水量が十分確保できなかったため断念した。一方前川合流点より上流については貯水池を形成できる適地が存在せず、結果前川合流点にある猿岩(後述)地点と現在のダムサイト地点が十分な貯水容量を確保できる好適地として最終候補に挙げられた。続く基礎地盤の調査で猿岩地点ではダム建設に耐えられるだけの地盤の強度が足りなかったが、現在のダムサイト地点では十分な強度を有することが判明したことから、当時の土木技術でダム建設が可能な唯一の建設地点として現地点が決定された。 -また、ビラ・スタンモーア夜戦に勝利し多少進歩したとはいえ、アメリカ艦隊が日本艦隊に、特に夜戦分野で対抗するにはもう少し努力が必要であると考えられた。また、レーダー射撃の重要性も再認識させられたが、「装置はなお原始的だった」とモリソンは言う。海戦後も、メリル少将とエインスワース少将の任務部隊はコロンバンガラ島周辺海域で交替して戦闘を続けた。不思議な事に、メリル少将が日本艦隊と再び戦うのは11月2日のブーゲンビル島沖海戦までなく、コロンバンガラ島周辺海域で日本艦隊と戦ったのはエインスワース少将であった。しかし、エインスワース少将はクラ湾夜戦(7月5日、6日)とコロンバンガラ島沖海戦(7月12日)で日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出し、戦法面で進歩の様子があまり見られなかった。夜戦分野において、ようやく日本海軍を上回る戦法が確立できたと判断されるには、「31ノット・バーク」ことアーレイ・バーク中佐の登場と、バーク中佐の理論を実践したベラ湾夜戦(8月6日)での完勝劇を待たなければならなかった。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -ポターはニア・ソーリーでの農村生活を楽しむ一方、創作活動への情熱は失われつつあった。理由のひとつには目が悪くなったこともあった。ニア・ソーリーに電気が通ったのは1933年のことで、それまでポターは目に負担のかかるロウソクやランプの明かりで制作を行っていた。また、農場経営にやりがいを見出したのも理由の一つであったかもしれない。そのような中、ニューヨーク公共図書館の児童図書責任者であり、児童文学評論家でもあるアン・キャロル・ムーアの来訪はポターを喜ばせた。ポターの作品は売り上げこそ良かったものの、その文学的評価はイギリスではまだ高くなく、権威ある立場のムーアが評価してくれたことはポターにとって大きな喜びと創作活動への刺激となった。新しいアメリカの友人ムーアとの出会いは『セシリ・パセリのわらべうた』の制作再開へとつながり、この本は1922年に出版された。1929年には、ポターはアメリカの出版社デイヴィッド・マケイの要請に応えて『妖精のキャラバン』を出版した。蚊帳の外に置かれたウォーン社は不満を募らせ、次回作の『こぶたのロビンソン』はアメリカ・イギリス両方で発売されることになった。1932年には『妹アン』がまたアメリカのみで出版されたが、挿画はキャサリン・スタージスが担当した。この作品はポター自身も子ども向きとは思っておらず、友人のアン・キャロル・ムーアも手厳しく批評している。この年の冬に母親のヘレンが93歳で亡くなっている。 -1955年(昭和30年)8月4日、熊野村の開業医の萩野昇が執筆した「イタイイタイ病」を紹介する記事が『富山新聞』に掲載された。命名者も萩野である。この記事で萩野は「この病気は婦負郡中部および対岸の富山市南郊から上新川郡にかけての神通川本流水系に発生。患者はこの地域に長年住んでいる35歳から更年期にかけての女性が多い。症状は腰・肩・膝などの鈍痛に始まり、やがて大腿や上膊部の神経痛のような痛みとなり、進行すると少しの動作でも骨折するようになり、引き裂かれるような痛みを感じる。」と書いた。この記事が発表された当初は、過労説や栄養失調説なども出された。しかし、1957年(昭和32年)12月に萩野は富山県医学会で「鉱毒説」を発表。さらに岡山大学の小林純らが患者の骨や内臓および神岡鉱業所の廃水や川水からカドミウムを検出したことを基に1961年(昭和36年)1月、萩野昇と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表した。一方、1961年(昭和36年)12月に富山県、1963年(昭和38年)6月に厚生省及び文部省が独自に原因究明に乗り出す。1966年(昭和41年)9月に合同会議を開き、原因物質としてカドミウムの疑いが濃厚であるが、栄養上の障害も考えられる「カドミウムプラスアルファ説」を発表した。その後、富山県が住民に健康診断を行い、その診断結果に基づき富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、1967年(昭和42年)3月に患者73人、要観察者150人を認定した。厚生省も日本公衆衛生協会に研究委託するなど原因究明に努めた。1968年(昭和43年)5月、厚生省は「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動によって排出されたものである。」と断定した。これによってイタイイタイ病は政府によって認定された公害病の第1号になった。1970年(昭和45年)2月1日、健康被害救済法(公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法)が施行され、公害病患者96名が認定される。 -『戦争レクイエム』作品66は、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンが1962年に発表した管弦楽付き合唱作品である。テクストにはラテン語によるカトリックの典礼文と、第一次世界大戦に従軍し25歳の若さで戦死したイギリスの詩人ウィルフレッド・オーウェンによる英語の詩が使われており、第二次世界大戦における全ての国の犠牲者を追悼するとともに、戦争の不合理さを告発し世界の平和を願う作品となっている。3人の独唱者と混声合唱および児童合唱、大小2つのオーケストラにより演奏され、所要時間は約1時間25分。「第1章レクイエム・エテルナム(���遠の安息)」、「第2章ディエス・イレ(怒りの日)」、「第3章オッフェルトリウム(奉献唱)」、「第4章サンクトゥス(聖なるかな)」、「第5章アニュス・デイ(神の子羊)」、「第6章リベラ・メ(我を解き放ちたまえ)」の6つの楽章で構成されている。なお、第6章「リベラ・メ」で使われているラテン語のテクスト「リベラ・メ」と「イン・パラディスム(楽園にて)」は、それぞれ「死者のためのミサ」が終わった後の「赦祷式」と、柩を墓地へ運ぶ時のためのものであり、本来は「レクイエム」の典礼文には含まれない。 -2008年アメリカ合衆国大統領選挙でバラク・オバマが当選し、2009年1月20日に大統領に就任した。オバマは2009年4月5日、欧州連合との初の首脳会議のためにチェコの首都であるプラハを訪れ、その際に演説を行い、アメリカは世界で唯一核兵器を使用したことのある核保有国として、行動を起こす責任があるとし、核兵器のない世界の実現に向け牽引すると明言した(プラハ演説)。この演説はオバマが同年のノーベル平和賞を受賞する要因の一つともなった。 -大型な戦船をマカオに残し、クックは1798年1月5日にシビルとフォックスだけ連れて出発した。フォックス号はバーナードと名乗る言語学者を載せていた。ルソンを通過した後、クックたちは小さなスペイン商船に遭遇した。クックたちのフリゲートにフランスの国旗がはためているのを見ると、スペイン商船はクックたちに接近した。スペイン船を拿捕したのち、クックはその船長を細かく尋問して「マニラのスペイン艦隊は大規模な修理中で、航行に適しない」という情報を引き出した。スペイン艦隊は1797年4月に台風で大破して、クックがマニラに到着したときにはまだ修理が終わっていなかった。クックは情報提供の代償として、銀コイン3,900個を除いて貨物を略奪せず、スペイン船をそのまま釈放した。クックはこのとき、シビル号をフランスのフリゲートのフォルテ号に、フォックス号を同じくフランスのフリゲートのプルデンテ号に偽装していた。 -15世紀後半以降、本願所は造営・修造を担う組織として機能していたが、熊野三山では本来衆徒が独占していた社寺の縁起や仏事・神事といった社役にも深く関与する様になり、三山の運営に大きな役割を担うようになっていった。しかしながら、他の寺社と同じく本願と社家の間には緊張関係があった。17世紀以降には、造営・修造と社役との聖俗両面における本願の役割を否定し、社内における主導権を奪い返そうとする社家と、一山に於ける地位を守ろうとする本願との間で相論が繰り返された。18世紀半ばには、近世以降の社家の経済的再建と江戸幕府・紀州藩の宗教統制を背景にした社家の反撃により、本願の退勢は決定付けられるに至った。しかしながら、単なる造営役を越えて年中行事や祈祷に関する役目を担っていた本願を、社家は完全に排除することは出来ず、明治の神仏分離まで存続した。 -しかしながら、このル・マーチャントが1870年秋にもうすぐ引退する予定であると明らかになった。メイがその後任になるのはもはや疑いようもなく、首相ウィリアム・グラッドストン(当時のピール派、後にホイッグ党と合流して自由党を形成)が庶民院議長ジョン・エヴリン・デニソンに対し「わずかなためらいですら不当であろう」と述べるほどであった。 -マーシャル・プラン(MarshallPlan)は、第二次世界大戦で被災したヨーロッパ諸国の為に、アメリカ合衆国が推進した復興援助計画である。通常は提唱者のジョージ・マーシャル国務長官の名を冠してこのように呼ぶが、正式名称は欧州復興計画(おうしゅうふっこうけいかく、EuropeanRecoveryProgram,ERP)・西ヨーロッパ経済復興援助計画ともいう。 -檜洞丸(ひのきぼらまる)は、丹沢山地西部、神奈川県相模原市と同県足柄上郡山北町の境にある標高1,601mの山である。別名、青ヶ岳(あおがたけ)だ。新字体で桧洞丸と表記されることもある。丹沢山地最高峰の蛭ヶ岳から西へ伸びる丹沢主稜にある山であり、丹沢山地で4番目に高い山である。周辺の山々とともに丹沢大山国定公園に指定されている。頂稜を深々としたブナ林に覆われたどっしりとした山容を持つことから西丹沢の盟主と呼ばれる。5月下旬���ら6月上旬にかけて山を彩るツツジで近年人気の山となっており、多くの登山者が訪れる。 -ユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々カルフォルニア州で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスやフロリダ州に移り、後に仕事の関係でイリノイ州シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むミズーリ州マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。しかし、父親のイライアスはこの地においても農業に失敗して、数年後に家族を連れて同地を去った。イライアスとフローラは息子4人と娘1人を儲けたが、父親のイライアスは子供達に対して愛情に欠けた厳格な態度で接しており、ウォルトとロイが1920年代に成功をおさめても、彼らに対して冷やかな態度は変わらなかった為、ディズニー親子は長年距離を置いて交流はしなかった。イライアスはリタイアするまで転職を重ねたが、結局結婚する前に金鉱で働いて小金を得た以外は、どの仕事に就いても成功出来ず、妻のフローラに苦労を掛け、1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。ディズニー一家の畑の近くにはサンタ・フェ・パシフィック鉄道が走っており、その鉄道の走る音が好きだった。アルバイトで、鉄道構内で新聞やポップコーンを売る仕事をしていたこともある。後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていたが、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった。少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。 -スズキの全長は最大で1mを超える。体は細長くて平たい(側扁する)。口は大きく、下あごが上あごより前に出る。体色は背中側が緑黒色-灰緑色、体側から腹部にかけて銀白色をしている。尾びれはハート型に切れこむ。若い個体の中には背側や背びれに小黒点が散在する個体もあり、成長とともに消えるが、背びれの黒点は大きくなっても残ることがある。北海道南部から九州までの日本列島沿岸と、朝鮮半島東・南部、沿海州に分布する。冬は湾口部や河口など外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行ない、春から秋には内湾や河川内で暮らすという比較的規則的な回遊を行なう。昼間はあまり動かないが夜になると動きだす。食性は肉食性で、小魚や甲殻類などを大きな口で捕食する。産卵期は大体10月から3月で、盛期は日本の多くの場所で12月から1月である。上記の海域において直径約1.3mmの卵を生む。卵は単独で海中を漂い(分離浮性卵)、仔魚は成長に伴い湾奥や河口近くに集合する。冬から春に湾奥(干潟、アマモ場、ガラモ場、砂浜海岸)や河口付近、河川内の各浅所で仔稚魚が見られる。一部は体長2cmほどの仔稚魚期から純淡水域まで遡上する。この際、遡上前の成長がより悪い個体ほど河川に遡上する傾向がある。仔稚魚は遊泳力が非常に弱いため、潮汐の大きな有明海では上げ潮を利用して、潮汐の非常に小さい日本海では塩水遡上を利用して河川を遡上する。若狭湾で、耳石の微量元素を指標にして調べた結果によれば純淡水域を利用する個体の割合は3割強に上る。仔稚魚はカイアシ類や枝角類などの小型の生物から、アミ類、端脚類などの比較的大型の生物へとを主食を変化させながら成長する。夏になると河川に遡上した個体の一部が5cmほどになり海に下る。春〜秋にかけての水温の高い時期は浸透圧調整機能も高いため、成魚期以降も少なからぬ個体が河川の純淡水域のかなり上流まで遡上する。かつて堰やダムのなかったころは琵琶湖まで遡上する個体もいたと言われる。現在でも利根川(100km以上)をはじめ多くの河川で遡上が見られる。���いたま水族館(公益財団法人埼玉県公園緑地協会)は飼育水温を常時23度以上に維持することで、多数のスズキを淡水魚として周年、終生、生体展示することに成功している。一方で、内湾にも多くの個体が存在するが、それらの数と河川の個体の数との比や、相互の移動などについてはよくわかっていない。 -戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた“第2回平和賞”の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まったが、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞」として施行された。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている。表彰式で優勝馬主が楯を受け取る際は、白手袋を着用することが慣例となっている。 -1939年9月、第二次世界大戦が開始された時にはバルト三国の運命は1939年8月の独ソ不可侵条約とその秘密議定書によって既に定まっていた。バルト三国の第二次世界大戦時の被害はヨーロッパにおける最大のものの1つである。人口の損失はエストニアの25%、ラトビアの30%、リトアニアの15%と見積もられている。戦争と占領において死亡した犠牲者数はエストニアで9万人、ラトビアで18万人およびリトアニアの25万人と推定される。これには1941年のソビエトによる追放、ドイツによる追放、およびホロコーストの犠牲者を含んでいる。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -ラーンナーが大きな繁栄を見せたのは、クーナー王(1355-1385年)の代からで、ラーマン派(旧ランカーウォン��)と呼ばれる仏教を保護し、スコータイからスマナー長老を招き、ワット・スワンドークを建設して仏教の一大中心地を作り上げた。その後サームファンケーン王(1402-1441年)の代には、長きにわたり滞っていたラーンナーの朝貢に対して侵攻してきたチン・ホー族(雲南のムスリムを呼ぶ言葉)を追い返し、明の支配下から独立した。 -1980年代前半まで、双発機の飛行は安全上の理由から60分以内に着陸可能な飛行場があるルートに限られており、大陸間路線などの長距離路線には3発機や4発機が用いられていた。しかし、エンジンの信頼性や性能の向上にともない、1980年代に入ると、双発機の飛行経路に関する制限を緩和する検討が本格化した。規制当局や機体メーカー、航空会社らによって双発機の長距離運航を認める要件がまとめられ、1985年にETOPSと呼ばれる規格が策定された。A300-600のETOPS認証取得が進められ、まず1986年10月22日GE製CF6エンジン仕様において90分まで認められ、翌年4月10日にはP&W製JT9Dエンジン仕様が120分まで認められた。 -受精は卵管で起こり、妊娠期間は21–28日で、その間メスは育児のための巣穴を掘る。この中の気温は15°C前後に保たれるが、これは他の哺乳類の育児のための巣穴よりも低い。妊娠期間の後、腹部に発達させた育児嚢に、直径14–16mmの卵を1個だけ産む。卵はメスの腹部にある孵卵嚢の中に産みつけ。産卵時には仰向けの体勢になる。卵は約10日で孵化する。孵化前の幼獣は、卵歯や角質の小さな突起を使って卵殻を割る。生まれたばかりの幼獣は約1.5cm、体重0.3-0.4gである。 -尿素とpH指示薬が混入された検査試薬内に、内視鏡的に採取した胃粘膜生検組織を入れる。胃生検組織中にヘリコバクター・ピロリが存在する場合には、本菌が有するウレアーゼにより尿素が分解されてアンモニアが生じる。これに伴う検査薬のpHの上昇の有無を、pH指示薬の色調変化で確認する。この検査によって本菌の存在が間接的に診断できる。組織切片をHE(ヘマトキシリン-エオジン)染色あるいはギムザ染色により染色し、顕微鏡で観察する。直接観察することによりヘリコバクター・ピロリの存在を診断できる。また、培養不能でウレアーゼ活性ももたないcoccoidformの状態でも診断できるという長所がある。胃生検切片からの菌の分離培養によって、ヘリコバクター・ピロリの存在を確認する。この検査法の長所は菌株を純培養し入手できる点であり、この菌株を薬剤感受性(MIC)測定や遺伝子診断など他の検査に利用することができる。欠点は、本菌は増殖速度が遅いために培養には3日から7日を要するため、この検査法をとると時間が掛かる点である。 -18世紀後半にフランス革命が起こると、伝統や権威に反発し自由で神秘的なものを重んじるロマン主義がヨーロッパを席巻し、ロマンティック・バレエが誕生した。「ラ・シルフィード」「ジゼル」に代表され、妖精や悪魔が登場する幻想的なもの、エキゾチックな異国趣味のものが多い。くるぶし丈のふんわりとしたチュチュを着た女性ダンサーの、ポワントの技法による軽やかな動きが特徴だ。ロマンティック・バレエで用いられるチュチュは、特にロマンティック・チュチュと呼ばれる。ロマンティック・バレエは現在踊られているバレエの中で最も古い形式のものであり、ロマンティック・バレエによりバレエは現在のものとほぼ同じものに完成した。バレエ・ダクシオンの提唱もあり、後に誕生するクラシック・バレエよりも、踊りによってストーリーを表現する演劇としての要素は強い。 -以前はロシア帝国の領土であったバルト海のフィンランド、エストニア、ラトビアおよびリトアニアの4カ国は第一次世界大戦後、エストニア、ラトビアおよびリトアニアの独立戦争を経て1920年までに各国の国境を確定した。1924年、リトアニア、ラトビアおよびエストニアは、最終的な侵略者に対する相互防衛協定に調印した。10年後には、スターリン指導下のソ連は、1944年までこれらのバルト三国を攻撃しないことを誓約した。 -火付盗賊改は、幕府が重罪である放火(火付け)や盗賊・賭博などを取り締まるために設けた役職である。はじめは火付改・盗賊改・博打改に分かれていたが、放火の取り締まりを行なった��付改は天和3年(1683年)に先手組頭の中山勘解由(中山直守)が、加役(兼任)として任命された記録が残る。後に一時廃止となるがやがて元禄16年(1703年)に再び設けられ、享保3年(1718年)に一本化して火付盗賊改となった。役方(文官)であった町奉行に対し、火付盗賊改は番方(武官)であったため、取調べの方法は乱暴になる傾向があった。「放火の疑い」の段階で捕らえる権限を持ち、仮に誤認逮捕であったとしても咎められなかった。そのため、怪しいものを捕らえては拷問にかけ、無理やり自白させるという手法がとられていた。結果として、冤罪も多かったとされる。町人たちからも好意的には見られず、町奉行や勘定奉行が「大芝居」と呼ばれたのに対し、火付盗賊改は「乞食芝居」と呼ばれていた。 -詳細設計において、胴体の短縮は5フレームから4.5フレームに改められた。短縮幅は主翼の前側で1.5フレーム(0.8メートル)、後ろ側で3フレーム(1.59メートル)となった。胴体短縮に伴い、翼胴フェアリング(主翼と胴体の表面を滑らかに繋ぐ覆い)が修正された。胴体を短縮することで機体重心から垂直尾翼までの距離が短くなりモーメントアームが減少することから、方向安定性を維持するためのドーサル・フィン(垂直安定板の付け根を前方に三角形に延長すること)の追加が検討された。しかし、ドーサル・フィンでは効果が不十分であることが風洞実験で判明し、結局尾翼の上端部が79センチメートル延長された。胴体短縮にともない床下前方の貨物扉が再設計された。エンジンの空気取り入れ口からの距離を確保するため、扉は小型化され若干前方に移動された。扉が小型化されたことに伴い、他のA320ファミリー機で収容可能な航空貨物コンテナは、A318では非対応とされた。エンジンはPW6000に加えて、1999年7月にCFMインターナショナル社のCFM56エンジンも選択できることになった。CFM56エンジンは、既存のA320ファミリーで採用実績があり、A318用に出力を抑えた派生型が用意された。 -こうしたイスラーム勢力の抗争のもとでサーマーン家は次第に勢力を高め、ターヒル朝が滅亡した873年を契機にナスル1世が自立する。875年にアッバース朝第15代カリフ・ムウタミドからマー・ワラー・アンナフル全域の支配権を与えられてサーマーン朝を開いた。ナスル1世は8世紀末に建国されたサッファール朝に対抗するため、ホラズム地方に勢力を広げ、サーマーン朝の基盤を築いた。 -アトランタの業務・商業はダウンタウン、ミッドタウン、バックヘッドの3か所に集中している。ダウンタウンはアトランタで最も古くから発展した地域で、3か所の業務・商業集積地のうちで最大のものである。ダウンタウンにはCNNなどの企業の本社をはじめ、州政府・市政府の各種機関の施設、さらには市の名所も集中している。ダウンタウンの北約2kmに位置するミッドタウンは1987年にワン・アトランティック・センターが完成してから急速に発展した地域で、アトランタ連邦準備銀行が立地する金融センターである。ダウンタウンの北約15km、市域の北部約1/5を占めるバックヘッドは、もともとは高級住宅地であったが、1980年代から中高層のオフィスビルが建つようになり、職住近接型のオフィス街へと変貌を遂げた。また、バックヘッドは大型のショッピングモールが立地するアトランタきってのショッピング・エリアでもあり、バーやナイトクラブが立ち並ぶ歓楽街でもある。アトランタで最も高い超高層ビルはバンク・オブ・アメリカ・プラザである。ミッドタウンに建つ高さ311.8m、55階建てのこのビルはアトランタのみならず、ニューヨークとシカゴ以外のアメリカ合衆国の都市に建つビルとしては最も高い。このビルは1991-92年にかけて建設され、わずか14か月の短期間で完成した。完成当初はネイションズバンクの所有で、ネイションズバンク・ビルと呼ばれていたが、1998年にネイションズ・バンクとバンクアメリカが合併し、バンク・オブ・アメリカとなったのち、現称のバンク・オブ・アメリカ・プラザに改名された。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1868年(明治元年)、宇都宮は重病で病床に伏していた。幕藩体制の瓦解を目の当たりにし、かつての仲間たちが活躍するのを見て前途を悲観した彼は、「篤志解剖願」を書き上げて東京府に提出した。この願に対して東京府は、「願の通り御免仰付けられ候」と許可を与えた。しかし、宇都宮の病はすっかり回復したため、解剖も行われなかった。宇都宮は1869年(明治2年)3月に明治新政府の開成学校の教官として出仕を命ぜられ、7月には大学中助教に任じられた。同年には結婚もしている。小川は、宇都宮(による篤志解剖願)と美幾の間に何らかのつながりがあるかもしれないと推測している。結局宇都宮は1902年(明治35年)に死去し、故郷の幸福寺(愛知県豊田市)に埋葬された。そのため、「篤志解剖」第1号は美幾となった。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -雌雄で通常1-2週間かけて営巣し、4-5個の卵を産むが、時に2-6個の場合もある。卵の大きさは平均30.8×21.99mm(26.5-35.0×19.2-24.2mm)で、色は光沢のある淡青色ないし淡青緑色であり斑はない。抱卵期間は17-18日で、巣立ちは22-24日であり、その後、数週間は親鳥の給餌を受ける。時にオニカッコウ(Eudynamysscolopaceus)が本種に托卵する。巣材には、小枝、草、葉、根、藁(わら)のほか、動物の毛や、麻くず、ゴミくずなどが使われる。また、プラスチック、ティッシュペーパー、スズ箔、および脱皮したヘビの皮も使用することが知られている。 -第二次世界大戦が終結し、1948年ロンドンでオリンピックが再開されたが、敗戦国の日本とドイツは招待されなかった。また1948年のロンドン大会から芸術部門が廃止され、スポーツ部門のみとなった。これによりオリンピックは「古代ギリシャの権威を身にまとった世界屈指の国際的なスポーツ競技大会」としての性格を確立することになった。1952年のヘルシンキ大会よりソビエト連邦(以下ソ連)が初参加し、オリンピックは名実と共に「世界の大会」とよばれ、同時に東西冷戦を象徴する場となりアメリカとソ連のメダル争いは話題となった。だが、2つの中国問題(中国と台湾)、ドイツ問題(東西ドイツ)など新たな問題点も浮かび上がってきた。そして航空機の発達により欧米のみに限られていたオリンピック開催地を世界に広める結果となり、初めての南半球での開催となる1956年メルボルン大会(オーストラリア)、初めてのアジアでの開催となる1964年東京大会(日本)とヨーロッパと北米以外の新たな地域からの開催地が仲間入りした。 -1966年、ムッソリーニの脳組織の標本が、1945年以来保管してきたワシントンD.C.の聖エリザベス病院から、ムッソリーニの未亡人に返還された。未亡人は返還された脳組織を、ムッソリーニの墓廟に置かれた箱に納めた。歴史家のジョン・フットはこの出来事を評して、「ついに、処刑執行から19年後、休まることのなかったベニート・ムッソリーニの遺骸が再び1ヶ所に集められ、ほぼ1体の状態に戻った」と述べた。2009年、検死の際に盗まれた可能性のあるムッソリーニの脳および血液の標本が、eBayにて1万5000ユーロの値段で売りに出されたと報告された。eBay側はこの出品をただちに取り下げたため、誰も入札することはできなかった。ムッソリーニの検死が行われた病院筋によれば、検死の際に採取された標本は全て、1947年に廃棄されたという。ムッソリーニの孫娘であるアレッサンドラ・ムッソリーニは、この件に関して警察が調査を行うことを要請した。 -ローテンブルク・オプ・デア・タウバー(ドイツ語:RothenburgobderTauberDe-RothenburgobderTauber-pronunciation.ogg)は、ドイツ南部のバイエルン州ミッテルフランケンのアンスバッハ郡にある大規模郡都市。ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、タウバー川沿いのフランケンヘーエ自然公園周縁部に位置している。 -ウォルトは優秀なアニメーターには厚遇する事もあったが、アシスタントに対しては「誰にでも出来る仕事をしている人間に何故、高い報酬を支払わないといけない」と下に見て薄給でこき使い、アシスタント達を中心としてストライキを起こされた事もある。ウォルトはウォルト・ディズニー・カンパニーの創業者で、ミッキーマウスの生みの親であるが、ウォルトが自分で原画を書いて映画を作っていたのは初期の頃であり、後世に名を遺すディズニー映画の大作のほぼ全ては脚本家とアニメーターが制作しており、ウォルトは金と口を出すのが仕事だった。映画を製作する際は何度も意見が分かれ、ウォルトと制作陣が衝突・喧嘩にも似た侃々諤々の議論をする事は日常茶飯事だったという。アニメ界、映画界の大成功者であり、世界的企業の創業者であるにも関わらず借入が多かった事と倹約家だった為、人々が想像する程裕福でも無く、娘達曰く「家も車も人より少し良い程度」の質素な暮らしを送っていたという。 -日本の歴史の江戸時代における江戸の火事(えどのかじ)は、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が残り、現代では「火災都市」と呼称されるほど、江戸(現在の東京都区部にほぼ相当)では頻繁に発生した。大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる。江戸の火事は祝融や回禄とも呼ばれ、大火の様相を紅葉に見立てることもあった。 -ナポリタンは、茹でたスパゲッティをタマネギ、ピーマン、ハムなどと共にトマトケチャップで炒めた洋食である。日本で創作された日本風パスタ料理であり、類似の名を持つイタリア料理のスパゲッティ・アッラ・ナポレターナとは異なる。ナポリタンに類似した名で呼ばれるパスタ料理は幅広く存在するが、本稿では、第二次世界大戦後に日本の喫茶店や洋食屋で広く提供されていた、軟質小麦を原料としたコシのない麺をケチャップで炒めたものを中心に解説する。その周辺の類似したパスタ料理についても適宜解説する。 -しかし、かつては年間20万人あった入館者数が、1997年度(平成9年度)には15万人まで落ち込んだ。当然貸出数も減少し、それにともない資料費も減額される。当時の静岡県立図書館は、職員数、資料費、所蔵冊数等が全国的に最下位に近く、県内の市町立図書館の格差もあり、貧しい図書館事情にあった。1998年(平成10年)4月に鈴木善彦が館長として着任すると、利用率の低下と予算の減額の悪循環を断ち切るべく、「開かれた図書館」「信頼される図書館」「成長し続ける図書館」を3つの基本理念に据えて、3年間にわたり計画的・持続的な改革が行われた。具体的には、貸出冊数の増加や、貸出可能図書の範囲拡大、県外在住者への規制緩和、開館時間延長など、「調査研究活動の支援」から「県民の学習活動の支援」へサービスの重点を見直し、利用者に見える形での実践を行った。 -1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されると、シュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年、シュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者になるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった。しかしシュトラッサーは自らの補佐役としてはヒムラーよりヨーゼフ・ゲッベルスの方を高く買っていたという。 -2012年6月中には全壊した図書館の解体作業が開始され、2013年3月までに解体作業が終了した。図書館振興財団からの支援を得た札幌市のボランティア団体「北海道ブックシェアリング」は、仮設市立図書館の建設資金550万円を寄付した。札幌大学の学生らがボランティアとして仮設館の建設にあたり、2012年8月末にはログハウス2階建の仮設館の建設を開始した。この仮設館は竹駒町の高台にあり、子ども図書館「ちいさいおうち」に隣接している。約2週間後の9月にはログハウスが完成し、12月1日にはログハウス内で仮設図書館一般閲覧室(50m2)が開館した。仮設館は旧図書館から5km離れており、公共交通機関によるアクセス手段がないため、どの程度の利用者がいるのか未知数の状態での開館だった。 -その過程の中で、7月5日夜にクラ湾夜戦、7月12日夜にはコロンバンガラ島沖海戦と二つの海戦が生起した。 -こうして橋台が完成し、兵庫の川崎造船所から淀川を遡航して現場まで運ばれた部材により、橋桁本体の組み立てと架設が本格的に開始された。設計・製造の双方の努力が実り、現場に到着した各部材の加工精度はほとんど修正を要しない水準に達しており、むしろ高精度ゆえに弦材支承面の密着が良すぎて組み立て作業に手間取るほどであった。また、橋桁本体を組み上げる工程においては、効率化を図って大林組が設計したゴライアスクレーン(門型自走式クレーン)が導入され、威力を発揮した。このゴライアスクレーンは、橋桁本体の組み立てに用いる鋼製で大型のものと、船で運ばれてきた部材を仮設足場上へ揚陸するための木造で小型のものの2種が用意された。いずれも上部に電動巻き上げ機を、下部に台車をそれぞれ備え、橋桁の組み立て工程の進捗に合わせて仮設足場上に敷設された4列のレール上を移動する設計であった。大型のものは、工事完了後に柱部を分解し他の工事現場で工事用エレベーターに転用可能な寸法として設計され、高さ100フィート(30.48m)、長さ54フィート8インチ(16.66m)、と本橋梁の規模に見合った極めて巨大な構造物であった。 -1885年にはフリオ・アルヘンティーノ・ロカ大統領がブエノスアイレスとメンドーサを結ぶアルゼンチン鉄道を開通させ、ブドウ産地からブエノスアイレスに向けた輸送ルートが築かれた。メンドーサ州知事でエル・トラピチェ・ワイン・エステートの所有者であるティブルシオ・ベネガスは、アルゼンチンのワイン産業が生き残るためには市場が必要であると確信し、この鉄道の建設に資金を提供して完成を後押ししている。アルゼンチンワインの近代化はメンドーサ州とサン・フアン州で起こった。 -総観スケールの気象は地域により差異があるため一概には言えないが、いくつかの例を挙げる。日本においては主に2つの様式が多い。1つは海に面した平野部で、下層に北寄りの風による寒気の移流、中層に南寄りの風による暖気の移流があって、そこに逆転層が生じる様式である。もう1つは内陸の盆地で、弱風下で下層の盆地内に寒気が滞留していて(「冷気湖」という)、中層に南寄りの風による暖気の移流があって、そこに逆転層ができる様式である。天気図で見ると、大局的には日本海と本州南岸の2つの低気圧が並んで東進する「二つ玉低気圧」の時に起こる場合が多い。また着氷性の雨の分布は、低気圧の東側にある温暖前線の寒気側から低気圧の周囲付近にかけての細長い地域となる場合が多い。アメリカではいくつかの様式がある。前線を伴った低気圧の北側(温暖前線や停滞前線の寒気側)で発生する様式、大陸に張り出す高気圧の辺縁部(寒冷前線の寒気側)で発生する様式、大陸を東進する低気圧と東海岸の高気圧との間で発生する様式、アパラチア山脈による寒気のせき止めにより発生する様式である。 -ドビュッシーは、1899年に結婚したロザリー・テクシエという11歳年下の妻がいたが、『海』を作曲中の1904年に銀行家夫人で同い年のエンマ・バルダックとの仲を深め、ついには不倫の間柄となった。ドビュッシーは7月にリリーを実家に送り返すとエンマと逃避行に旅立ち、イギリス海峡にあるジャージー島、ドーヴァー海峡に面したノルマンディー地方のディエップを順に巡り、9月下旬にパリに戻った。その後、ドビュッシーとリリーの別れ話はリリーのピストルによる自殺未遂(10月13日)にまで発展し、このことは11月4日付けの『フィガロ紙』によって報じられた。「ドビュッシーは銀行家夫人の財産目当てに妻を捨てようとしている」という噂が広まり、ドビュッシーは世間の批判の矢面に立たされ、これまで親交のあった友人の多くも彼から離れていった。当初リリーにはドビュッシーと別れる意思がなく、離婚に向けた調停は、『海』を書き上げた1905年3月の末になってようやく始まることになった。話がまとまるまでにはさらに数ヶ月を要したが、結局、ドビュッシーは1905年7月17日に正式にリリーと離婚し、エンマを以降の生涯における伴侶とした。エンマはこの時すでにドビュッシーの子供を身ごもっており、同年10月30日にはドビュッシーとエンマの娘、クロード=エンマ(愛称シュシュ)を出産した。それは『海』の初演が行われた約2週間後のことである。 -ブライが暮らしていたころのピッツバーグは新聞産業も盛んで、複数の日刊紙が発行されていた。そのうちの1紙であるピッツバーグ・ディスパッチ紙には、エラスムス・ウィルソンによって書かれた社説に相当するコラム「静かに観察(QuietObservation)」が掲載されていた。1885年1月の同コラムでは、一部の女性の間で職業に就く動きがあることは嘆かわしい、これによって女性が家庭から離れることは女性の使命を忘れさせて社会組織を破壊することだ、女性の本分は家庭である、と書かれていた。ディスパッチ紙の読者であったブライはこの記事を読んで、記者は何も分かっていないと思った。そこで編集長あてに反論の手紙を書いて投函した。手紙では、女性も男性と同じだけの知性も能力もあること、アメリカでは市民の持つ才能を求めていること、女性もこの世界において進出し正しい地位を獲得すべきであることを主張した。差出人の名前は「LonelyOrphanGirl(内気な孤児の少女)」とした。 -1959年のキューバ革命の成功により中米地域は冷戦下の東西対立構造の中に組み込まれていくことになり、この地域においては親ソ勢力を排除することがアメリカの政策上の柱となった。特に反米的な勢力が政権の座についたり、そのような可能性がある場合にはアメリカはこの地域に対して軍事力を行使することすらためらわなかった。 -チンドン屋を指して、披露目屋・広目屋という表現が用いられることがある。披露目屋は、開店披露の仕事をすることが多かったため、あるいは芝居の口上に由来するとされる。広目屋は、広告宣伝、装飾、興行などを手掛けた秋田柳吉が起こした会社の名で、依頼に応じて楽隊を派遣したことで楽隊広告の代名詞として用いられるようになった。関西では東西屋という表現が用いられることがある。東西屋は、大阪の勇亀(いさみかめ)が芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を流用して寄席の宣伝請負を行ったことから広まった。現代(21世紀)、これらの語を使い分ける場合は、広目屋は楽隊の存在を重視し、東西屋は口上を主体とする意味合いを含む。この呼称は明治期から用いられ、昭和初期にチンドン屋へと変化したと思われるが、歴史的経緯については、次節を参照のこと。 -1926年3月24日、文部省は日本女子体育専門学校(体専)を認可した。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった。体専の目的は「女子ニ高等ノ体育理論及実際ヲ教授シ、以テ体操科教員ヲ養成スルコト」と定めた。昇格に伴い、修業年限は3年に延長されたが、2年制の専修科も並置された。トクヨの個人経営とはいかなくなり、財団法人日本女子体育専門学校(以下「財団」)を設立し、学校は財団の経営に切り替わり、理事長にトクヨが就任した。専門学校昇格と前後して、1927年にトクヨは「選手育成の試み」を開始した。1928年アムステルダムオリンピックで人見絹枝が800mにて銀メダルを獲得すると、日本各地の女学校に現れた「人見二世」は人見に憧れて続々と体専に入学した。1932年ロサンゼルスオリンピックには卒業生1人、在校生2人が出場、続く1936年ベルリンオリンピックにも卒業生1人、在校生2人が選ばれ、卒業生の松澤初穂がコーチ兼トレーナーとして派遣された。こうしてアスリートが次々と入学してくるようになった体専は明治神宮競技大会でも活躍が目立ち、「女子スポーツのメッカ」と呼ばれるほどになった。 -コンスタンティノープル征服後、メフメトは「征服の父」「2つの海と2つの大陸の支配者」という称号を用いた。オスマンの勢力拡大はヨーロッパ諸国にとっての脅威であり、メフメトは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」と恐れられた。その征服活動よりしばしばアレクサンドロス大王と比較され、彼自身もアレクサンドロスの伝記を好んで読んでいた。 -ヴェルサイユ体制は敗戦国のみならず戦勝国にも禍根を残すものであった。戦勝国イタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気によって政情が不安定化した。この状況下でイギリスの支援を受けて勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。同じく戦勝国の日本では、1918年9月に「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣が組織された。1921年にはその原が暗殺されたものの、1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入され、議会制民主主義化が根付き「大正デモクラシー」の興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。この前後の1922年に日本はワシントン��軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、1923年には日英同盟が解消された。 -ブランタス運河(Brantasgracht)、ラモング運河(Lamonggracht)、マジャング運河(Majanggracht)、セラング運河(Seranggracht)の4つの運河はアムステルダムで最も新しい運河である。それらは市中心部の北東、アイ湾に浮かぶ人工島のヤファ島(Java)に1995年に建造された。運河には、アムステルダムの伝統的な運河沿いに並ぶ邸宅を近代的にアレンジした住宅群が並んでいる。それらはオランダの若手建築家19人の作品である。どの建物も幅4.5mの4ないし5階建てで統一されている。多くの観光客が訪れる場所から外れてはいるが、アムステルダムの観光案内を題材としたデザインも見られる。運河には歩行者やサイクリストのために、装飾された9つの金属橋が架けられている。 -群馬県にある赤城山(標高1827メートル)・榛名山(標高1449メートル)・妙義山(標高1103メートル)はいずれも火山で、上毛三山と呼ばれて県のシンボルになっている。なかでも高崎市、前橋市、渋川市や利根川をはさんで東西に対称的に位置する赤城山と榛名山は、同時期に活発な火山活動を行って成層火山へと成長し、後代の噴火でその頂部を失いカルデラを形成した。それぞれ山頂部のカルデラ内に湖沼を有し、赤城山に大沼や覚満淵、榛名山には榛名湖がある。湖水は北側の火口瀬から沼尾川として流れ出て吾妻川に注ぎ、さらに利根川へと合流する。湖水は一部で農業用水として利用されている。湖は標高1084メートルにあり、厳冬期には湖面全体が氷結する。 -537年12月、ニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂(現アヤソフィア博物館)の再建が完了した。ビザンティン建築の最高峰として、現代まで伝えられることになる。完成時の奉献式で、祭壇に立って手をさしのべ、古代イスラエル王国のソロモン王の大神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ!ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられる。 -マクシミリアン1世が1519年に亡くなったことで、皇帝選挙がヨーロッパ政治の表舞台に出た。教皇レオ10世はカール5世の権力が強すぎることを恐れてフランソワ1世を支持したが、カール5世の選出を阻止し得ないことがわかると、フランソワ1世を見捨ててカール5世支持にのりかえた。選帝侯たちはザクセン選帝侯フリードリヒ3世を除いて全員がハプスブルク家とヴァロワ家の候補の両方への支持を表明した。というのも、マクシミリアン1世は生前、選帝侯たちに「カールに投票する代わりに50万フローリンを払う」という約束をし、フランソワは300万フローリンの支払いを確約、さらにカールは支持を得るためにフッガー家から大金を借入、支払い金額を釣り上げたためである。この賄賂には教皇も参加しており、レオ10世はマインツ大司教に教皇使節の位を約束している。しかし、選挙の行方を決めたのは賄賂ではなかった。民衆たちのフランス人皇帝への反感は強く、選帝侯は決められずにいたが、カールが兵隊を選挙地フランクフルトの近くへ向かわせると、選帝侯たちは意を決してカールに投票した。彼は1520年10月23日に戴冠したが、その時点ではすでにスペイン王位とネーデルラントでのブルゴーニュ公国領地を影響下に収めていた。 -そしてこの西欧の衝撃に感化された人々はオスマン帝国支配層の人々だけではなかった。バルカン半島のキリスト教系諸民族もその影響を受け、その中にはナショナリズムに目覚める人々も生まれ、18世紀においてギリシャ系正教徒の中には「オスマンの平和」の枠組みを内側から突き崩し、内的な西欧の衝撃に感化される人々が生まれていた。そして、バルカン半島において綿花、トウモロコシの栽培が17世紀以降、盛んになって輸出されたが、これにロシア、オーストリアがバルカン半島に進出し始めたことと絡みあい、商人や水夫らの活動範囲がさらに広がりを見せていく。 -ギリシアの都市国家であるポリスは、エジプトやメソポタミアのように大規模な穀倉地帯がなく、地中海や黒海で穀物の輸入と植民をすすめた。紀元前5世紀から4世紀にはアテナイがギリシアの商業の中心地となり、小麦、木材、鉄、銅、奴隷などを輸入して、陶���、オリーブ油、ワインなどを輸出した。貿易のための港はエンポリウムと呼ばれ、アテナイではペイライエウスにエンポリウムが建設され、その他にミレトス、ナウクラティス、アイノス、ビュザンティオン、テオドシア、パンティカパイオンなど各地に存在した。ルートの安全を保障するための軍事力も整備され、デロス同盟で海上支配を強めた。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -『三国名勝図会』によると焼酎の製法は中国から琉球王国経由で薩摩国に伝わり、1546年にジョルジ・アルヴァレスが記した『日本の諸事に関する報告』では薩摩の山川付近で米焼酎が飲まれていると記されている。宝永2年(1705年)に琉球から薩摩の山川にサツマイモが伝わると、水はけが良くて稲作には適さないシラス台地での栽培が急速に広まり、18世紀前半までには薩摩藩内で芋焼酎が作られるようになった。さらに18世紀中盤には薩摩藩内の都城や佐土原藩などにも芋焼酎の製法が伝えられ、さらに飫肥藩や高鍋藩にも伝播して、日向国中南部に普及していった。また、19世紀半ばに八丈島に流罪となった丹宗庄右衛門によって三宅島や八丈島に芋焼酎の製法が伝わっている。 -明治維新後の日本では、風土病と考えられる地域特有の疾患が日本各地で多数確認され始めており、新しい西洋医学を学んだ多くの研究者や医師らにより調査や研究が行われ始めていた時期であった。八丈小島の「バク」も、それらのひとつとして一部の医療関係者の間で知られ始めていた。しかし「八丈島に隣接する小島に古くより「バク」と呼ばれる奇病があり、島民の多くが発症する」という話が人づてに伝わるだけであった。八丈小島は「鳥も通わぬ」と言われた絶海の孤島八丈島の、さらに属島という地理的条件もあり、日本国内各所に散在する他の風土病流行地のように現地調査に赴くことが、交通事情の悪い当時は困難であった。「バク」と呼ばれたこの風土病について、近代医学的観点による現地調査が初めて行われたのは1896年(明治29年)2月のことで、調査を行ったのは当時の内務省衛生局の中浜東一郎である。中浜東一郎の実父は、幕末の1841年(天保12年)に土佐(現、高知県)から漁に出かけて遭難し、漂流中にアメリカの捕鯨船に救出されて渡米して近代科学を学び、日本へ帰国した後に日米和親条約の締結に関わったジョン万次郎(中浜万次郎)である。中浜東一郎はジョン万次郎の長男として1857年(安政4年)に江戸で生まれ、1881年(明治14年)に(旧)東京大学���学部を卒業すると、福島、岡山、金沢の各医学校の教授を務めた。当時の日本では公衆衛生に関する知識の必要性が求められており、中浜は1885年(明治18年)、内務省の命令により衛生学研究のためドイツへ留学し、日本帰国後は内務省衛生局の技師を務めた。1896年(明治29年)4月に内務省を退官後、東京衛生試験所所長、初代東京市医師会長などを歴任した。中浜が「バク」の調査のため八丈小島を訪れたのは、内務省技師を退官する2か月前の1896年(明治29年)2月で、中浜とともに調査に同行したのは、内務省技手の上村行彰、東京府庁より派遣された塩田虎尾の計3名であった。一行は同年2月5日に横浜港を出航し、丸3日をかけて八丈島の港へ到着したものの、目的地である八丈小島に着岸可能な小型船は風や波に影響を受けやすく、折しも2月は冬季の季節風の吹き荒れる時期であり、強風が何日も続き出航できずに八丈島で足止めを余儀なくされた。天候がやや安定して八丈小島へ渡れたのは、八丈島到着から10日も経過した2月18日であった。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -地球の年齢(ちきゅうのねんれい)は、地球誕生から現在までの経過年数である。45.4±0.5億年(4.54×109年±1%)であると推定されている。この年齢は、隕石の放射年代測定から得られたデータに基づいている。現在、地球の年齢は放射年代測定によって求めるのが一般的である。これは、岩石の中に含まれる放射性同位体の量を調べる方法で、地球の年齢を調べるにはその中でもウラン-鉛法(U-Pb法)、カリウム-アルゴン法(K-Ar法)、ルビジウム-ストロンチウム法(Rb-Sr法)などが用いられる。 -大陸移動があるため、地球の歴史において常にそうであった訳ではないが、南極点は南極大陸上にある。2011年現在それは、最も近い海岸線となるマクマード湾(en)から内陸におよそ1,300キロメートル(800マイル)の位置にある。そこには厚さおよそ2,700メートル(9,000フィート)の氷が大地を覆い、南極点はその氷床の上、標高にしておよそ2,835メートル(9,306フィート)の位置にある。しかし、地震などの地殻変動によってジオイドに変化が起こると、自転のモーメントに影響を与え地球の自転軸はぐらつく。これを極運動という。そのため、この定義では厳格には南極点および北極点を固定できない。さらに、南極点の氷床は1年あたり約10メートルの速度でグリッド北37度から40度の方向に移動し、ウェッデル海へ向かっている。よって南極点に何らかの標識を置いても、時間が経つにつれて位置がずれて行くことになる。 -1980年、猪谷は、当時国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めていた竹田恆徳より、自らの後任としてIOC委員を務めてほしいという打診を受ける。アメリカンホーム保険会社社長として多忙を極めていた猪谷はこの打診を辞退するが、竹田からの熱心な説得に折れ、委員就任を承諾、1982年にIOC委員に就任した。IOC委員業務の負荷を理由に、猪谷がアメリカンホーム保険会社を退職したいと申し出たところ、AIUグループは猪谷の事情に配慮し、猪谷を退職させるのではなく、グループの別会社に異動させた。 -6月9日当日、東京の天候は前日より雨であった。この日は日本において「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」によるこの年限りの臨時の休日であり、皇太子の結婚の儀・朝見の儀・宮中饗宴の儀は国事行為として行われた。また結婚関連儀式は4月9日の「神宮神武天皇山陵及び昭和天皇山陵に勅使発遣の儀」から納采の儀をはじめ6月29日の「昭和天皇山陵に謁するの儀」まで合計で15件ほどが行われたが、3つの国事行為以外は皇室の私的行事として扱われた。6時30分、東宮侍従長と女官長が雅子を迎えに上がり、雅子は水色に水玉模様の地紋が入ったシルクのツーピースで目黒区の実家を後にした。同居の家族たちとお手伝いの女性、ショコラという名の飼い犬に挨拶し、宮内庁からの迎えの車に乗り込んだ。雅子の母・優美子は「お体に気をつけて、お国のために一生懸命お務めしてほしい」と伝えた。皇居到着後は御潔斎所に入り、伝統に基づいた平安装束の正装への着替えを行った。 -「麟」とは中国の伝説上の生物「麒麟」のうち雌を意味する字であるが、中世日本においても、「麒麟」は理想的な政治が行われている社会のみに出現するものだと信じられていた。そのため、信長が「麟」の花押を使用したことは、「至治の世、平和の代への願望」の表明であったと佐藤は解釈する。そして、断言はできないとしつつも、信長が平和社会の実現を自分自身の力で達成しようという理想が込められている可能性を指摘している。このような願望を伴った花押は信長一人だけが用いたものではなく、竹中半兵衛重治の晩年の花押「千年おゝとり」(鳳凰)も、同様に平和社会への願望が込められている。この花押使用の契機は、少し前に起きた永禄の政変であると考えられる。室町幕府将軍の足利義輝が謀反によって殺害されたこの事件の影響によって、信長は「麟」の字の花押を用い、またしばらくして「天下布武」の印章を用いるようになるのである。 -再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていたマウスに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたフィリックス・ザ・キャットに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警��されていた。これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる「ミッキーマウス」は完成した。後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。因みに当初名前は「モーティマーマウス」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーが「悔しがる・恥をかく」の動詞である「モーティファイ」に言い方が近いため猛反対し「ミッキーマウス」と変更された。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『プレーン・クレイジー』(『飛行機狂』)および第二作『ギャロッピン・ガウチョ』はサイレント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。 -コレステロールは哺乳類の細胞膜において正常な細胞機能を発現するために必要であり、コレステロールはいくつかの細胞や組織でアセチルCoAを出発原料として細胞内の小胞体で合成されるか、食事から取り込まれ、コレステロールのアシルエステルはLDLにより血流を介して輸送される。そして、受容体関与エンドサイトーシスによりクラスリン被覆ピットから細胞内に取り込まれ、リソゾームで加水分解される。まず、コレステロールの供給については胆汁酸と複合体を形成して腸管より吸収される外因性コレステロールと、主に肝臓において、アセチルCoAからメバロン酸、スクアレンを経由して生合成される内因性コレステロールとに大別される。その生合成量は外因性コレステロール量の変動を吸収するように調節されている。外因性コレステロールは1,200–1,300mgが吸収されるが、食事由来のものは200–300mgほどであり、他は肝臓から胆汁に分泌されたものの再吸収である。したがって、体内で循環しているコレステロールの50%ほどが血流中に存在していることになる。ヒトで体内の全コレステロール量はおよそ100-150gほどである。殆どが細胞膜に取り込まれたものであるが一部が代謝循環している。すなわち内因性コレステロールの生産量は低コレステロール食摂取時にはおよそ800mg/日程度であることがしられており、体内を循環するコレステロールのおよそ20%–25%が肝臓で合成される。皮膚においても肝臓に次ぐ量のコレステロールが産生されており、皮膚で7-デヒドロコレステロールからビタミンD3が光化学的に生成される。7-デヒドロコレステロールは、ヒトを含むほとんどの脊椎動物の皮膚中で大量に生成される。ビタミンD3は、肝臓でC25の位置でヒドロキシ化の代謝を受け25-ヒドロキシコレカルシフェロール(別名25(OH)D3、カルシジオール)へと変化し肝細胞に貯えられ、必要なときにα-グロブリンと結合しリンパ液中に放出される。 -5月14日、慶喜は四侯を引見して国事を議するが、長州問題と兵庫開港問題のどちらを優先するかが、まず対立点となった。久光は長州寛典論(藩主毛利敬親が世子広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)を唱え、兵庫問題よりも先にこれを決定すべきであると主張し、伊達宗城が同調した。しかし慶喜は、長州寛典は幕府の非を認めることになる上、会議が薩摩主導の流れになってしまうことを恐れ、これに反対。兵庫開港の期日が迫ってきていることを理由に、あくまでこちらを優先すべきと立場を崩さず、3年半前の参預会議と同様、慶喜と久光の対立で会議は頓挫してしまう(ただし参預会議の際には、久光が長州即時懲罰を主張し、慶喜が横浜鎖港を主張するという全く逆の展開であった)。結局妥協が見られぬままこの日は、慶喜の提案により諸侯との記念写真を撮影しただけで散会となり、四侯側が慶喜から上手くあしらわれた恰好となった。 -ムンクは父を説得し、同年12月16日、ノルウェー王立絵画学校の夜間コースに入学した。1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃にモデル・クラスに編入した。ムンクはこの学校で健康を取り戻し、教官の彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーンの指導を受けた。また、同年初め頃、友人6名とともにカール・ヨハン通りの国会広場に面して建つ「プルトステン」ビルの屋根裏にアトリエを借り、そこで画家クリスチャン・クローグの指導を受けた。ムンクは後に「私を彼の弟子の一人とみなすのはどうしても無理がある。......とはいえ、私たちはみなクローグを非常に好ましく思い、また立派な画家と考えていた。」と書いている。同年(1882年)夏、ヘードマルク県に滞在し、同年秋にはクリスチャニア西郊をスケッチして回った。1883年秋、親類の画家フリッツ・タウロウが主催するモードゥム野外アカデミーに参加して制作や討論を行った。これがきっかけで、クリスチャニア・ボヘミアンという当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる。この年、彼は産業及び芸術展覧会に油絵『習作・若い女の頭部』、第2回秋季展に『ストーブに火をつける少女』を出品した。さらに、1884年の秋季展に『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』を出品したが、ノルウェー国内では酷評された。 -同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、フィンセントの要望は膨らんだ。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、フィンセントとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。フィンセントは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。......また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。 -作家の吉川良によると、吉田善哉がサンデーサイレンスの購入を思い立ったのは、同馬が勝ったプリークネスステークスのビデオを観たときのことである。吉田善哉は吉川の前で「欲が出るね。これは忙しくなる。わたしか照哉がしばらくアメリカに下宿しなくちゃならなくなるかもしれんな」と述べたという。実際に購入に踏み切った動機について作家の木村幸治は、「社台ファームで繋養されていた種牡馬ディクタスが1989年9月20日に死亡したため、その後釜を探していたのだ」と推測している。木村によると当時社台ファームにはノーザンテースト、リアルシャダイ、ディクタスに続く種牡馬を導入し、生産馬について「同じ系統の馬だけが増加し、近親の度合いが濃くなり過ぎる」ことを解消しようとする動きがあった。吉田善哉は、サンデーサイレンスが勝ったブリー���ーズカップクラシックを現地で観戦して帰国後、「サンデーサイレンスを早来に持ってくるぞ」と宣言した。ハンコックによると、購入交渉における吉田善哉の「サンデーサイレンスに対する執着心は度外れたものだった」。吉田善哉は、サンデーサイレンス産駒のデビューを見ることなく、1993年8月にこの世を去っている。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設を具体化させていく。ディズニーがいつからテーマパーク建設の意図を持っていたかははっきりせず、娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て、「大人も楽しめるテーマパークの建設」を思い立ったとも、趣味である鉄道模型の製作が高じて大規模なテーマパークの制作を思い立ったとも言われている。いずれにせよ、このころからディズニーはアニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。1951年3月にはスタジオのあるバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したが、これは遊園地建設による騒音などの住環境悪化を懸念した市当局によって拒否された。また、このころには計画は当初のものを大きく超えた大規模なものとなっていたため、ディズニーは広大な土地の確保できる代替地の確保に乗り出し、1953年9月にはカリフォルニア州アナハイムに160エーカー(730,000m2)の土地を購入し用地を確保した。しかしこれほどの大規模な建設計画を行う資金はディズニーにはなかったため、彼はこの時期に登場した新たなメディアであるテレビとの連携を考え付いた。こうして、新たなテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、1954年には「ディズニーランド」というTV番組をABCで放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。この番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も変遷を経ながら2008年まで54年間にわたって放映され続ける長寿番組となった。ABCはこの成功によって業績を大幅に向上させ、またこの成功を見た大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに1950年に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」や、デンマークに1843年に作られた遊園地チボリ公園など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った。 -江戸の火事の原因としては、放火(火付け)が多く記録されている。当事の放火犯は、「火付」「火附」「火を付候者」「火賊」などと記された。捕らえられた放火犯には、江戸の物価の高さや保証人がなく奉公に出られないことなどにより、困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かった。火事で焼け出されたとしても、失うものが少ないことが背景にある。享保8年(1723年)から翌9年(1724年)の2年間では放火犯が102人捕らえられているが、そのうち非人が41人・無宿者が22人と、下層民が多く含まれていた。 -「北部諸島」という言葉は、通常オークニー諸島とシェトランド諸島の主要な島々を言い表す。ストローマ���は、スコットランド本土とオークニー諸島の間にあり、ケイスネス郡に属し、地方行政区分としてはハイランド・カウンシル・エリアに含まれ、オークニーの管轄ではない。しかし、明らかにスコットランドの「北部諸島」の一員である。フェア島とフーラ島はシェトランド諸島から離れているが、通常はシェトランド諸島の一部と見なされており、したがって北部諸島に属する。同様に、スール・スカリー島とスール・スタック島も大きく離れてはいるがオークニー諸島の一部であり、よって北部諸島に含まれる。しかし、その他のスコットランド北海岸沖合の小島はハイランドに属し、北部諸島の一部とは見なされていない。オークニー諸島はスコットランド本土から北に16キロメートル沖合にあり、ペントランド海峡で隔てられている。最大の島はメインランド島で、その面積は523.25平方キロメートルあり、スコットランドの島としては6番目の広さである2001年における島の総人口は19,245人で、最大の街はカークウォールである。 -仁治2年(1241年)11月29日条と翌30日条にはこう書かれている。有力御家人の三浦氏と小山氏との間で、ささいなことからあわや一戦にという事件が起った。北条経時は、この事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと、配下の者を武装させて差し向けた。それに対して経時の弟の北条時頼は、酒の場での喧嘩だからと静観していた。二人の祖父である北条泰時は「各々将来御後見の器なり」、つまり二人とも将来執権になろうという者であるのに、兄の経時は「諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。所為太だ軽骨(軽率)なり、暫く前に来るべからず」と怒った。一方、弟の時頼には「斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべし」と褒めて領地を与えたというのである。時頼が15歳のときである。兄の北条経時は、祖父泰時の後を継いで19歳で第4代執権となるが、4年後に弟北条時頼に執権を譲り出家、その直後に死亡する。そして『吾妻鏡』は、そもそも時頼の方が優れていて、泰時の眼鏡にも適っていたのだと言っている。 -実際に就く官職においても貴族とそうでない者とでは差別された。これを清濁の別という。例えば郷品二品の者が起家として就く職と郷品六品の者が最終的に到達する職とでは同じ六品官であっても対等ではない。門地二品の者たちが起家として就任する秘書郎・著作佐郎など実際に行う仕事は少なく意見を述べることができる官は清官と呼ばれて好まれ、一方で細々とした雑務が多い職・軍職・郷品六品が最後に到達する官職は濁官とされ嫌われた。また同じ官品でも要職か、閑職かによっても差異が生じた。このような「俗世間の雑事にはとらわれず、高見を世間に問う」というスタイルは清談と通ずるものであり、そのような人物を理想とする貴族の好みが強く反映されたものである。地方官は清濁の別の外に置かれ、その地方の重要性如何によって価値が決まったが、概して中央で出世が見込める人物は地方官への就任を好まなかった。 -イブン・スィーナーはホラズム地方のウルゲンチの統治者マームーン2世に仕官し、法律顧問として活躍する傍らで『医学典範』の執筆を開始する。ウルゲンチ滞在中、ホラズム出身の学者ビールーニーと交流を持ち、書簡を通して宇宙論と物理学についての討論を行った。ビールーニーとのやり取りは『問答集』という書物に記録されており、その中では若年期のイブン・スィーナーの知見を垣間見ることができる。 -アーサーは1859年5月22日、スコットランド労務局測量士補チャールズ・ドイルとその妻メアリーの長男として、スコットランド・エディンバラのピカーディ・プレイス11番地に生まれる。チャールズ、メアリー夫妻の子供は全部で9人で、うちアーサーと姉アネットは、大伯父にあたる美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」という複合姓になった。父方のドイル家は14世紀にフランスからアイルランドへ移民したノルマン人の家系だった。敬虔なカトリックの一族だったため迫害を受けることが多かったという。 -しかし15世紀に入ると、1410年には重要な都市アンテケーラがアラゴン王フェルナンド1世の攻撃により陥落し、ま��この頃にはカスティーリャへの貢納金が復活するなど、再びナスル朝は危機を迎えた。キリスト教勢力のカスティーリャ王国とアラゴン王国が接近し始めたことで、両国の対立を外交上利用することが困難になる一方、近隣の地中海沿岸などに強力なイスラーム国家は存在せず、友好的なイスラーム勢力との外交を通じた安全保障も困難になっていた。 -1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチスがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏(イギリスとフランス)からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。 -関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方、四国、九州など、日本各地で天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶ。怪火と同様、地方によっては様々な呼び名があり、青森県南部地方では「狐の嫁取り」、神奈川県茅ヶ崎市芹沢や徳島県麻植郡山類では「狐雨(きつねあめ)」、千葉県東夷隅郡では同様に「狐の祝言」という。千葉県東葛飾郡でも青森同様に「狐の嫁取り雨(きつねのよめどりあめ)」というが、これは、かつてこの地域の農家では嫁は労働力と見なされ、一家の繁栄のために子孫を生む存在として嫁を「取る」ものと考えられていたことに由来する。 -北米や欧州でCRJを運用している航空会社は、主に地域航空会社(コミューター航空会社またはリージョナル航空会社)と呼ばれ、幹線路線を補完する小需要路線の運航を主に行っている。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件後には航空旅客需要が落ち込み、大手航空会社が経営不振や破綻に陥ったため、中大型ジェット機よりも経済的でターボプロップ機よりも高速で航続距離が長いというリージョナルジェットの特性を活かした地域航空会社の路線拡大が進んだ。2019年3月31日時点で、CRJファミリーで累計1,899機が納入されている。2018年末時点の統計によると、1,265機のCRJファミリーが運用されている。モデルごとの運用数は、CRJ100/200が504機、CRJ700が274機、CRJ900が425機、CRJ1000が62機である。全体の約7割にあたる928機が北米の航空会社で運用されている。2018年7月時点の統計によると、運用数首位はスカイウェスト航空でその数は300機を超える。続くエンデバー航空とPSA航空の各社でも100機以上が運用されている。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線���拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -山頂展望台からは石狩平野、そして石狩湾までを一望することができ、夜には札幌市街の夜景を楽しめる。夜景は、函館市の函館山、小樽市の天狗山とともに「北海道三大夜景」の1つとされ、日本の「夜景100選」にも認定されている。また、札幌市は2015年(平成27年)より「日本新三大夜景都市」に認定されている。札幌市南区北部に位置し、中心部から近いという立地もあって、多くの市民や外国人を含む観光客でにぎわう。2017年(平成29年)度の来訪者は約90万6000人。山頂の南東方向に札幌藻岩山スキー場がある。 -ファン・ゴッホは多くの自画像を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる。アルルでは、ロティの『お菊さん』に触発されて、自分を日本人の坊主(仏僧)の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、「モデルがいないから」、「自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから」と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある。アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳(鏡像を見ながら描いたため絵では右耳)に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには『星月夜』にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。 -南部のエブロ川流域はリオハ・アラベサと呼ばれ、ラ・リオハ州やアラゴン州などと地中海沿岸的特性を共有している。ブドウの生産が盛んなリオハ地方はラ・リオハ州だけでなくアラバ県にもまたがっており、この地域で収穫されたブドウからリオハ・ワインとして知られる赤ワインが製造されている。中間部と南部を隔てる山地は標高1,000m程度であり、この山地の南側にはカスティーリャ・イ・レオン州の飛地であるトレビニョがある。 -関東大震災などもあって酒価の低迷が続いたことを受け、翌1924年には鹿児島県で焼酎の製造期間を10-4月に限定する自主規制が設けられ、これは後に蒸留期間の制限となった。また、同年には黒瀬と阿多の杜氏が合同で加世田酒造杜氏組合を結成している。1930年には鹿児島・宮崎の両県で芋焼酎の最低価格を1升あたり2.15銭/度としたが、この協定が必ずしも順守されなかったため、1932年には直近3年間の生産量をもとに生産量の制限を行っている。1942年には食糧管理法が制定され、米およびサツマイモの供給が同法により統制されるようになった。 -1945年、太平洋戦争が終結した。日本が無条件降伏し、アメリカ軍に占領されたことで、日本では多くの人々が失望の顔を見せていた。葉子は、こんな時代こそ皆に明るい光を投げかけ、元気をつけさせるべく、女優としての自分が演劇で活動するべきと考えた。同1945年、葉子らの疎開先である長野県更級郡篠ノ井町で、葉子らにより劇団「信濃芸術座」が結成された。後に舞台監督となる水品春樹も、当時の団員の1人であった。同1945年秋には、信濃芸術座の第1回公演が開催された。敗戦からわずか1か月後であり、まだ演劇を楽しみたいと思うほど心に余裕のある人々は少なかった。葉子は失望せず、「活動を続ければ観劇に来てくれる人は増えるはず」と皆を励ました。その甲斐あり、翌1946年2月2日の第2回公演は大成功を収めた。この公演直前に葉子の母が死去したが、葉子は滅入ることなく、劇団の活動を続けた。葉子は第2回の成功を糧とし、信濃芸術座の長野県の巡業を開始させた。敗戦から立ち直り、芸術や演劇などの美しいものに目を向けようという当時の風潮にあって、信濃芸術座はどこでも拍手喝采を受けた。 -小樽あんかけ焼そばの発祥については諸説ある。当初は1957年に小樽市稲穂に移転オープンした中華料理店「梅月」の「五目あんかけ焼そば」を元祖とする説が有力であった。当時の同店は比較的敷居が低く観光客にも親しまれ、当時急増していたカニ族にも好評を博し、小樽市民も市内中心部での買物後に同店であんかけ焼そばを食べることが流行するほどの人気ぶりであった。「梅月」は2代目店主・近藤祐司の代に最盛期を極めており、ほかの料理人たちにレシピを伝えることに積極的だった近藤の姿勢が、小樽市内にあんかけ焼そばを普及させることに一役買ったと見られている。ただし後の研究によれば、小樽市内のほかの中華料理店「レストラン・ロール」や「来来軒」では1950年頃にすでにあんかけ焼そばを提供していたとの報告もあり、日本全国の中華料理店であんかけ焼そばが賄い料理として出されていたことを考慮すると、小樽あんかけ焼そばの起源は「梅月」よりもさらに遡ることができるとの見方もある。また戦前には、小樽市内の多くのホテルや料亭が東京都や京都府から調理師を雇い入れていたため、こうした人々があんかけ焼そばを小樽に伝え、港湾での労働者に愛好されて普及したとの説もある。いずれにせよ、あんかけ焼そばが小樽市内に広く普及したのは昭和30年代と考えられており、腹持ちが良い上、冬は体が暖まることから多くの店にも普及したものと見られており、昭和30年代当時は「ハイカラなランチ」とブームになっていたという。 -1763年にグラスゴー大学を辞職すると、スコットランド貴族ヘンリー・スコットの家庭教師としておよそ3年間フランスやスイスを旅行した。この間スミスは、ヴォルテール(1715-1771)、ケネー(1694-177])、テュルゴー(1727-1781)などのフランス啓蒙思想の重鎮とも交流を持った。イギリス帰国後は執筆活動に専念し、1776年に主著『国富論』を出版した。その後1778年にはスコットランド関税委員に任命され、1787年にはグラスゴー大学名誉総長に就任した。1790年にエディンバラで67歳で病死した。スミスは生前「法と統治の一般原理と歴史」に関する書物を出す計画があったが、死の数日前に友人に命じてほぼ全ての草稿を焼却させてしまった。焼却されずに残った草稿はスミスの死後、『哲学論文集』(1795)として出版された。また、1895年にはグラスゴー大学時代の学生がとった講義ノートが見つかっており、『法学講義』として後に公刊された。 -ニュルンベルク(標準ドイツ語:Nürnberg[ˈnʏrnbɛrk]、バイエルン語:Niamberg、上部フランケン語(東フランケン語):Nämberch)は、ドイツ連邦共和国南部に位置し、バイエルン州のミッテルフランケン行政管区に属する郡独立市である。人口50万人を超えるバイエルン州第2の都市(ドイツ全体では14番目)である。隣接するフュルト、エアランゲン、シュヴァーバッハとともにフランケン地方の経済的・文化的中心をなしている。中世からの伝統ある都市であり、ドイツ統一を主導したホーエンツォレルン家がニュルンベルク城伯を世襲した都市である。また、ナチス政権が最初の大会を開催した都市であり、それゆえナチス政権要人を裁く「ニュルンベルク裁判」が行われたことでも知られる。リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台としても知られる。現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている。 -夏目金之助(後の漱石)は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、金之助は望まれない子として生まれたといえる。名の「金之助」は、生���れた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。 -1806年に最初の積荷が出航した。チューダーはおそらくロックウッドにある一族の地所から収穫した氷を、試験的な意味も込めてカリブ海のマルティニーク島に出荷した。しかし現地に貯蔵施設が不足していたために売り上げはふるわなかった。チューダーの在庫分もこの地の客が購入した分も貯蔵することができず、結果として氷はすぐに溶けてなくなってしまったのである。この経験に学んだチューダーは、ハバナに氷の倉庫を建造して運用した。1807年、英仏を含む諸外国との通商を禁止する法律がアメリカで制定されたが、1810年には再び貿易が可能になった。チューダーはキューバに氷を輸出する排他的権利こそ得られなかったが、現地に貯氷庫を押さえていたため独占状態を維持した。1812年には短期間だけ貿易が中断したが、しばらくして再開し、ハバナから本土への帰路に果物を輸入する事業も始めた。この果物は、売れ残りの氷を利用して新鮮な状態を維持することができた。その後、出荷先はチャールストンやジョージア州のサバンナにも広がったが、チューダーの商売敵も現れ、ニューヨークからの船便やケンタッキー州から流れを下る荷船を使ってサウスカロライナ州やジョージア州へも氷の供給が行われるようになった。 -SIスラマン支部に属する17歳のスマウンが、このISDVのオランダ人活動家ヘンドリクス・ヨセフ・フランシス・スネーフリートを慕い、彼の勧めによってISDVに加入したのは1915年のことである。SI会員がISDVにも加入する「二重党籍」となったわけだが、当時、複数の政治組織に加入する例は珍しくはなかった。スネーフリートの戦略は、既存の他組織に党員を参加させ、その組織内で共産主義者の影響力を高め、組織全体をISDVの影響下に置くことであったが、ムスリムでないスネーフリートはSIに加入できないため、スマウンを通して、SIスマラン支部を「赤化」することに成功したのである。 -1953年には第二次大戦開戦後初めて絵画がヨーロッパに戻され、ミラノで開催されたピカソの回顧展に出展され、反戦平和のシンボルとして『朝鮮戦争の虐殺』(1951年)とともに並べられた。1954年にはブラジルのサンパウロ近代美術館の回顧展に、1955年夏には18年ぶりにパリに戻って回顧展に出展された。1937年の初公開時とは異なり、回顧展の最重要作品としてパリ市民に称えられた。ピカソ自身は1955年の夏中ずっとニースに滞在しており、このパリでの回顧展の際も、また死去するまでにも再び絵画を間近で見ることはなかった。1955年秋から1956年にはブリュッセルとストックホルムに加え、ドイツのミュンヘン、ケルン、ハンブルクで展示された。ドイツ国民は主題の奥に潜むドイツ空軍を意識することなく、現代アートの傑作として鑑賞した。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -他方、1948年設立の国際自然保護連合(IUCN)でも、アメリカ合衆国が主導する形で、主として自然遺産保護のための条約作りが進められていた。アメリカではホワイトハウス国際協力協議会自然資源委員会が1965年に「世界遺産トラスト」を提唱し、優れた自然を護る国際的な枠組みが模索されており、その具体化作業がIUCNを通じて行われていたのである。アメリカはイエローストーン国立公園設立(1872年)によって世界で最初に国立公園制度を確立した国であり、大統領リチャード・ニクソンは「環境に関する教書」(1971年)において、国立公園誕生100周年(1972年)を期して、世界遺産トラストを具体化することの意義を説いた。そうしてできたのが、「普遍的価値を有する自然地域と文化的場所の保存と保護のための世界遺産トラスト条約」と称された案で、こちらの案にもりこまれた「世界遺産登録簿」案が現在の世界遺産リストに繋がった。 -軌間(きかん)は、鉄道の線路を構成する左右の軌条(レール)の間隔である。ゲージともいう。軌条には幅があるため、軌条頭部の内側の最短距離と規定される。軌間は鉄道の機能・能力に関わる重要な要素であり、また軌間の異なる鉄道の間では通常は直通運転は不可能である。世界で最も普及している軌間は1435mmで、標準軌と呼ばれる。標準軌より広い軌間を広軌、狭いものを狭軌と呼ぶ。日本で多い狭軌は、在来線でよく使われる1067mmである。軌間を変更することは改軌と呼ばれる。しかし、改軌は周辺のものに大きく影響があり費用も莫大なため、余程の理由がない限り行われない。曲線部では、車輪のすべてが、曲線の中心を向くことができないのと、車輪のフランジが軌条に接触することなく走行できるようにするため、内側の軌条を曲心側に若干広げて、軌条の間隔を所定の軌間より広げて車輪を円滑に走行できるようにしており、この拡幅をスラック(拡度)と呼んでいる。曲線半径が600m以下の場合において設けられるが、その設定幅は曲線半径、台車の固定軸距、軌間などの数値や実験値等から計算され、曲線半径のランクにより5mm刻みに設定されており、大きな値をとってしまうと脱線の危険が生まれてしまうため、最大値で30mmとしている。また、曲線半径が600m以上においても2mm以下のスラックが設けられる場合がある。 -1894年の日清戦争で清に勝利した日本は巨額の賠償金と重要な海軍拠点の旅順を含む遼東半島を獲得した。これに対してロシア政府は蔵相ヴィッテの主導で「日本の南満州支配は認められない」という声明を出し、開戦も辞さない態度で日本を脅迫した。さらに外相アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーの主導でフランスやドイツの支持も得て、日本に三国干渉をかけ、遼東半島を清に返還させた。これにより日露関係は急速に悪化した。 -1761年11月12日、ウィリアム・キャヴェンディッシュは王立協会フェローに選出された。1762年12月9日、ロンドン考古協会フェローに選出された。また、1761年7月4日にアイルランド枢密院の枢密顧問官への任命が公表されたが、就任宣誓を行わなかった。 -ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは金星の太陽面通過の詳細に予測した最初の人物と考えられている。1629年、ケプラーは、彼のルドルフ表をもとにして、金星の太陽面通過が1631年12月6日に起こると予測した。ケプラーは1630年に死去���、自身の予測を確かめることはなかった。ケプラーの予測にもとづいて、フランスのピエール・ガッサンディはパリから観測を行おうとした。しかしケプラーの予測は十分に正確ではなく、ガッサンディは結局観測することはできなかった。現在の計算によれば、パリでは1631年12月7日の日の出の約50分前、太陽が観測できる前に太陽面通過は終了していた。金星の太陽面通過の最初の観測は、イギリスのエレミア・ホロックスによって1639年12月4日(当時イギリスで使われていたユリウス暦では11月24日)に行われた。ホロックスは、当時のフィリッペ・ファン・ランスベルゲの金星の軌道表に誤りがあることを発見し、1639年に金星の太陽面通過が起こることを独自に見出した。ケプラーも次の太陽面通過は1761年に起こると考えており、1639年の太陽面通過は予測できていなかった。ホロックスの観測は、彼の居住地であったマッチフール(MuchHoole)というイングランドのプレストンの近くにある村で行われた。彼の友人であったウィリアム・クラブトリーも、マンチェスターの近くのサルフォードから観測を行った。15時までは太陽面通過は起きないとホロックスは予測していたが、万全を期すためにその日は夜明けから一日中、断続的に観測を続けた。13時から15時までのどうしても外せない用事を済ませて観測に戻ると、太陽面通過が始まっていた。日の入り前、ホロックスは15時15分、15時35分、15時45分の太陽面上の金星位置を記録することに成功した。クラブトリーも同じく日の入りの直前に観測に成功する。観測記録をもとにしてホロックスは、地球・太陽間距離を地球の半径の約15,000倍、太陽視差で14秒と算出した。この距離は現在受け入れられている値のおよそ2/3倍程度だったが、それまで考えられていた値よりも現在の値に近いものであった。ホロックスは1641年に、クラブトリーは1644年に死去する。ホロックスは自身とクラブトリーの観測記録を論文にまとめたが存命中に出版されることはなかった。この原稿は1662年にヨハネス・ヘヴェリウスによって出版され、彼の業績が日の目を見ることになる。 -前述までのように嫁入りを思わせる自然現象だけではなく、江戸時代の古書や、地方によっては伝説上にも、実際に嫁入りが見られたという話がある。寛永時代の随筆『今昔妖談集』には江戸の本所竹町、文政時代の草紙『江戸塵拾』には同じく江戸の八丁堀、寛政時代の怪談集『怪談老の杖』には上州(現・群馬県)神田村で、それぞれ奇妙な嫁入り行列が目撃され、それが実はキツネだったという話がある。このようにキツネ同士の婚礼をそれとなく人間たちに見せる話は、全国的に分布している。一例として民間の伝承においては、埼玉県草加市の伝承で、戦国時代、ある女性が恋人と結婚を約束したにもかかわらず病死してしまい、その無念さがキツネに乗り移り、女性の葬られた場所の付近で狐の嫁入り行列が見られるようになったという伝説がある。また信濃国(現・長野県)の民話では、ある老人が子ギツネを助けたところ、やがて成長したキツネが婚礼を迎え、老人に礼として引出物を持参したという話がある。こうした嫁入りの話では、前述までのような自然現象および超自然の「狐の嫁入り」が舞台装置のように機能しており、日中の嫁入りは天気雨の中、夜間の嫁入りは怪火の中で行なわれることが多い。 -1182年9月にジャズィーラ(北イラク)に到着したサラディンは現地の領主に帰順を進める手紙を送り、モースルのザンギー朝の支配下にあった領主は次々にサラディンに降伏した。しかし、モースルを支配するザンギー朝の王族マスウードにアイユーブ朝の主権と対十字軍戦への参加を認めさせることはできなかった。1183年6月にアレッポがアイユーブ朝の支配下に入ったことでシリア内陸部が統一され、1186年にマスウードがアイユーブ朝への臣従を受け入れたことでモースルの併合が達成された。 -オレゴン州の経済におけるワイン産業のインパクトは大きい。同州のワイン産業総額は14億米ドルに達する。その中の8億米ドル以上はワイナリーやブドウ園の売上である。オレゴン州のワイン産業により、8,479の雇用に貢献したと推計される。2004年の州外への輸��は、6410万米ドルであった。 -1939年、3年に渡る工事ののち、ヒッカム飛行場が開設した。陸軍はすべての運用をこちらへ移し、ルーク・フィールドは海軍に引き渡された。引き渡し後はフォード島海軍航空基地と改名され、第2哨戒航空団の司令部となった。その後、旧名はアリゾナに設立された新たな基地、ルーク空軍基地に引き継がれることになる。1939年9月8日、大統領による緊急声明により、島はさらなる軍事行動に備えるために新たな施設建設に拍車がかかった。これにより兵舎、組立補修用格納庫、本部棟、管制塔が整備され、さらに洗濯場や劇場まで建てられた。第二次世界大戦の絶頂期には、4万人の人員が島内で生活し働いていた。 -関西への送電線建設に至る前に日本水力は福澤桃介率いる木曽電気興業・大阪送電との合併して1921年(大正10年)2月に大同電力株式会社となったが、日本水力の権利義務は大同電力に引き継がれたので、三井鉱山の高原川開発の提携先は大同電力に変わった。そして翌1922年(大正11年)8月1日、三井鉱山が許可を取得ないし出願中の高原川本流・同支流の水利権を基礎として電気事業ならびに附帯事業を共同経営する目的で、三井鉱山と大同電力の共同出資により神岡水電株式会社が設立された。資本金は500万円。代表取締役会長には三井鉱山の牧田環が就任し、取締役には大同電力の増田次郎など三井・大同から2名ずつ、監査役には両社から1名ずつが送られた。一方で新会社の職員はすべて三井鉱山からの出向であった。本社は東京市日本橋区室町2丁目に置いた。なお、資本金は1929年(昭和4年)7月の増資により1000万円となった。 -『天色*アイルノーツ』のタイトルは2012年の夏頃に決まった。始めに煎路が「天色」という名称を考えだし、もう少し長い名称にしようということになり、むりりんが「アイルノーツ」という名称を考案した。「アイルノーツ」は、「島(Isle)」+「乗組員(Nauts)」を組み合わせ、「天色の空に浮かぶ島に住んでいる人たち」を意味している。また、タイトルにあるアスタリスク(*)は、6人のヒロインたちを指しており、「小さな星」という意味が込められている。 -『ディアナとニンフたち』は現存するフェルメール作品のうち、神話の登場人物を題材にした唯一のものである。多くの研究者がフェルメールの真作とするが、小林頼子のように疑問を呈する研究者もある。一番手前の人物がディアナだ。ニンフの一人がディアナの足を洗っているのは、キリストが弟子の足を洗ったエピソードを思わせる。他にも前景の水盤(純潔の象徴)、アザミ(受難の象徴)などのキリスト教的シンボルが目につく。ディアナの隣のニンフが自分の足をつかんでいるのも、十字架に足を釘付けされたキリストの受難を暗示する。画面左端の犬(スプリンガー・スパニエル)は、現存するフェルメール作品に登場する唯一の犬である。修復前には画面の右上方に青空が描かれていたが、これは後世に描き足されたものと判明し、修復時に除去されている。また、画面の右端が切り縮められており、制作当初の画面は現状より12センチほど幅が広かったと推定されている。 -遺跡船の平穏な日々が続く中、謎の魔物を生み出す黒い霧を目撃したセネルたちは遺跡船に何かが起きていると感じる。そんな中、セネルの仲間たちの回りで様々な事件が起こる。ウィルは娘ハリエットとの親子関係に悩んでいたが、亡き妻アメリアとの思い出を語り合い少しずつだが和解していく。ノーマは師匠スヴェンが追い求めていた秘宝「エバーライト」を見つけ出す。クロエは両親の仇との決着を付ける。モーゼスは魔獣の避けられぬ運命「野生化」で魔物へと還っていくパートナーのギートとの絆を確かめ合う。ジェイは自身を苦しめてきた育ての親ソロンと決別する。 -西条駅は1894年(明治27年)山陽鉄道(山陽本線)が三原駅-広島駅間の開通に伴い開業した。駅周辺で現在創業している酒造メーカーのうち白牡丹・亀齢・賀茂鶴はそれより前に酒蔵通り沿いで創業している。つまり鉄道が通り駅ができてそこに蔵が造られたのではなく、蔵が多くある場所に駅を持ってきて発展していったことになる。駅の地には元々この地の氏神であった祇園社が祀られていたが駅���業に伴い北側に移転した。これが現在の御建神社になる。 -単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある『収穫』などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却とバロック的・ロマン主義的な感情表出に向かっている。ファン・ゴッホは、「結局、無意識のうちにモンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である。ファン・ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、補色に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ファン・ゴッホは、既にオランダ時代にシャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していた。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること」を目指したと書いたり、『夜のカフェ』において、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう」と考えたりしている。同じアルル時代の『夜のカフェテラス』では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる。 -約50万年前からは箱根火山の北東部に狩川溶岩グループ、北西部では大唐沢溶岩グループ、そして南部では湯河原火山の活動が始まった。ともに玄武岩や玄武岩に近いタイプの安山岩からなる成層火山であったと考えられている。先に紹介した久野久の研究では、湯河原火山は箱根火山の活動が開始される前に活動した、箱根火山と異なる火山と考えたが、噴出物の内容的に区別がつけ難い点と、初期の箱根火山の活動時期と重なることから、現在では湯河原火山は箱根火山の一部であると見なされるようになった。成層火山の火山活動であった狩川溶岩グループ、大唐沢溶岩グループ、湯河原火山の活動と同時期、箱根火山ではタイプの異なる噴火活動が始まった。単成火山の活動である。この時期の単成火山は主に箱根火山の南東部から南部に分布し、流紋岩質やデイサイト質の溶岩やスコリアを噴出した。 -ベラ湾夜戦(ベラわんやせん)は、太平洋戦争中の1943年8月6日、ソロモン諸島ベラ湾で生起した海戦である。 -江戸時代には武蔵野の荒地が開墾されて田畑となった。東久留米市域の村々は江戸時代初期またはそれ以前から存在していたが、旧柳窪村は江戸時代に入ってから開発され、寛文10年(1670年)に幕府領(天領)となった。安政5年(1858年)に一時期熊本藩領となったのを除き、幕末まで天領であった。村が成立して間もない元禄11年(1698年)、その石高は僅かに7石でしかなかったが、宝永6年(1709年)、隣接する田無村の飛地から74石が分けられ、合わせて82石2斗の村高となった。享保18年(1733年)には102石に、幕末ごろには柳窪新田分を含め233石となっている。 -蜂蜜には、低温中で粒状の結晶ができ白く固まる性質があるが、これはグルコースの性質によるものである。ただし低温であればあるほど結晶化しやすいというわけではなく、結晶化しやすいのは摂氏5度ないし14度弱であり、摂氏マイナス18度弱以下になるとほとんど結晶化しなくなるといわれている。グルコースを多く含む蜂蜜ほど早く結晶化し、グルコースの含有量が少なくフルクトースを多く含む蜂蜜は結晶化しにくい。また、結晶化が早いと結晶のきめが細かくなる傾向がある。 -宮沢賢治は1896年8月27日、父・宮澤政次郎と母・イチの長男として生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も履歴書に1日と書いているが、27日と推定されている。母・イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生した。イチは賢治を収容したエジコ(乳幼児を入れ守る籠)を両手で抱えながら上体を覆って念仏を唱えていたという。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が「賢治」と名付けた。3歳の頃���婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが「正信偈」「白骨の御文章」を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという。1902年、赤痢で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、大腸カタルを起こして胃腸が生涯弱くなった。1903年、花巻川口尋常小学校に入学した。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を担任した八木英三は生徒たちに『未だ見ぬ親』(五来素川の翻案によるマロ作『家なき子』)や『海に塩のあるわけ』(民話『海の水はなぜ辛い』)などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた。後に賢治は八木と再会した折に「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と語っている。鉱物採集、昆虫の標本づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる。父の主催する花巻仏教会の夏季講習会にも参加、招いた講師の暁烏敏の世話係もした。 -ジェット旅客機を開発・製造するエアバス・インダストリー(以下、エアバス社)は、欧州各国の航空機メーカーによるコンソーシアム(企業連合)として発足した。エアバス社はその成り立ちから、参加企業が一定の業務量を確保できるように、各社で分担して胴体や翼を生産する国際分業体制を採用した。この枠組みにおいては、欧州各地に点在する工場で生産された機体各部(コンポーネント)を最終組み立て工場のあるトゥールーズに輸送する必要があった。航空機のコンポーネントは、巨大で重量がありながら高品質で繊細、そして高価という特徴があり、相応の扱いが必要だった。そこでエアバス社は、大型貨物用の輸送機としてボーイング377「ストラトクルーザー」を改修した「スーパーグッピー」を採用した。スーパーグッピーは、アメリカ航空宇宙局(NASA)のロケットや宇宙機の巨大な部品を運ぶために開発された輸送機である。エアバス社はスーパーグッピーの運用を1971年から開始し、段階的に増備を重ねて1983年には4機体制となった。競合相手であるボーイング社の輸送機を使用したことで、「全てのエアバス機はボーイングの翼によって届けられる(EveryAirbusisdeliveredonthewingsofaBoeing)」、あるいは「全てのエアバス機はボーイングの翼で初飛行する(EveryAirbustookitsfirstflightonaBoeing)」といった冗談も生まれた。 -推理小説の元祖とされるエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』以降、多くの作家の手によってヴァリエーションを増やし、部屋や閉鎖とは無縁な状況が次々考案されるに至り、「不可能犯罪」の概念が見出されることになった。サブジャンルとしての隆盛にはジョン・ディクスン・カーの貢献が大きい。日本でも江戸川乱歩から現代に至るまで消長はあっても一定の人気を得てきた。横溝正史は「一人二役」「顔のない死体」とともに推理小説の三大トリックとしている。カーが長編小説『三つの棺』の一章をレクチャーに割いて以降、トリックの分類自体が読み物として幾分の人気を得て、小説内の講義や独立の文章として何種類かが発表されている。またロバート・エイディーの"LockedRoomMurdersandOtherImpossibleCrimes"では、小説中の不可能犯罪の状況と解決の要約が2000篇以上まとめられている。 -ほとんどの藍藻は、クロロフィルaをもつ。また一部の藍藻は、クロロフィルaに加えて、クロロフィルb、d、またはfをもつ。クロロフィルdやfは生物の中で一部の藍藻のみがもつ色素であり、人間の目には見えない近赤外光を光合成に利用できる。クロロフィルb(または類似色素)をもつ藍藻は、原核緑藻ともよばれる。原核緑藻のプロクロロコックス属(Prochlorococcus)はクロロフィルaの代わりにジビニルクロロフィルaをもつ点で特異な存在であり、光合成の反応中心でジビニルクロロフィルaを用いる唯一の生物である。またアカリオクロリス属(Acaryochloris)はクロロフィルa量が少なく、反応中心でクロロフィルdを用いている。 -核分裂物質から発生した中性子が外部に逃げてしまって連鎖反応が止まらないようにするため、中性子反射体が必要である。ファットマンでは天然ウランを用いており、中性子反射体としては厚さ3センチメートルで十分であるが、1ナノ秒の間に80回の連鎖反応を繰り返すまでは核分裂物質を一か所に留めておく必要がある。この押さえがタンパーである。核分裂物質を1ナノ秒間押さえ込むためにタンパーにはある程度の慣性質量が必要で、これを兼ねるために7センチメートルの厚さになった。後年の研究では、熱量の20パーセントは天然ウランによる副臨界系から発生したと言われている。 -不法入国を試みる者の死亡原因は様々である。国境のフェンスを避けて、不法移民はアリゾナ州のソノラ砂漠の横断に失敗する者の死因には、熱射病、脱水症状、低体温症がよく認められる。また、リオ・グランデ川を渡ろうとして溺死する者もいる。その他、かなりの数の不法移民が、自動車事故や他の事故で死んでいる。たびたび起こる国境警備隊による殺害、自警団ミニットマンによる殺害は、しばしばヘイトクライムとして報道される。人権団体、連邦捜査局、国際連合がこれらの事件の調査に乗り出したケースもある。「コヨーテ」という悪名高い不法移民の密輸業者の集団が起こす、過度の暴力による死亡もこっそりと報告されている。本国メキシコに残された家族に危害が加えられる恐れがあるため、コヨーテによる被害についての証言は少なく、容疑者を識別することは難しい。 -エーヤワディー川流域ではタイェーキッタヤー(シュリークシェートラ)、テーゴウン、ベイッタノー(ベイタノウ)、ワディー、マインモー、ハリン(ハリンジー)、ダガウンといった、10世紀以前に建設された7つのピューの城郭都市が発見されている。城郭都市と周辺の地域に共通する出土品から、かつてエーヤワディー川流域では一大文化圏が形成されていたと考えられており、その文化圏はピュー文化圏と呼ばれている。城郭都市の遺跡はエーヤワディー中流域にほぼ一直線に並んでおり、最南端のタイェーキッタヤーが最も新しい。1-2世紀から3-4世紀にかけて存続していたベイッタノーが最古の城郭都市であるが、一部にはベイッタノーをピューの城郭都市と見なすことに疑問を投げかける意見もある。また、エーヤワディー流域以外に下ビルマの海岸地帯でもピューの城郭都市と同じ特徴を持つ遺跡が多く発見されている。 -オウムは全般にずんぐりした体付きをした、オウム目のなかでは中型から大型の鳥で、その大きさは体長30–60cm(12–24in)、体重300–1,200g(0.66–2.6lb)に及ぶ。ただし一種類、オカメインコはほかの種よりもかなり小型で細身であり、体長は32cm(13in)あるが、これにはその先細の長い尾羽根がふくまれる。また体重は80-100g(2.8-3.5oz)である。頭頂部の動く冠羽はすべてのオウムに存在するが、多くの種でそれは華々しいものである。飛んでいた鳥が着地するとき、あるいは興奮しているとき、この冠羽は起立する。オウムは数多くの特徴をインコと共有しており、このなかには特徴的なカーブした形状の嘴や、対趾足の脚(趾(あしゆび)の内側2本が前方を、残りの2本が後方を向いている)などがある。また一方ではオウムに固有の特徴も数多くあり、たとえば胆嚢が存在することや、そのほかのいくつかの解剖学的な細部、またインコに見られる明るい青や緑を出現させる、羽根のダイクテクスチャー組織が欠如していることなどが挙げられる。 -1938年(昭和13年)、愛媛県師範学校教諭であった八木繁一によって、愛媛県温泉郡川上村吉久のお吉泉で最初に発見され、1940年(昭和15年)にチスジノリ科の新種として発表・命名された。その後、チスジノリと思われていた長崎県南高来郡国見町(現:雲仙市)の土黒川の紅藻が本種であることが確認され、さらに、熊本県阿蘇郡南小国町の志津川でも確認された。これら3か所は、世界的に希少で学術上も貴重な種として、それぞれ「オキチモズク発生地」「土黒川のオキチモズク発生地」「志津川のオキチモズク発生地」として国の天然記念物に指定されている。このうち土黒川は1924年(大正13年)に「チスジノリ発生地」としてすでに天然記念物に指定されていたため、いったん指定が解除された後に改めて指定された。 -1914年10月末から1915年6月末にかけてゲーリングは第5軍隷下の第25野戦飛行隊(FeldfliegerAbteilung25(FFA25))所属のレールツァーの操縦する偵察機の観測員を務めた。1915年春ごろからレールツァーとゲーリングの航空機は戦場に出��して偵察活動を行った。目標地点に着くとゲーリングはレールツァーに高度を下げるよう合図して機体の外に乗り出し、足の先だけでコクピットの中から自分の体を支えてカメラを構えた。 -同時期にテヘランでレザー・ハーンによるクーデターが発生すると、このすれ違いは先鋭化することとなる。このクーデターを反英ブルジョワ革命の成功と見なすモスクワにとって、もはやギーラーン革命はイランの内戦でしかなくなった。6月に赤軍はイランから撤退し、チチェーリンと駐イラン・ロシア大使のフョードル・ロトシュテインも、ギーラーン政権に対し自主的解散を迫った。 -ケンジントン宮殿でそのような生活を送りながらもダイアナは二人の王子を出産した。1981年10月に最初の妊娠が判明した。王室はこれまでバッキンガム宮殿内で出産するのが伝統だったが、ダイアナは最新医療設備のある病院での出産を希望し、西ロンドンのセント・メアリー病院での出産を決めた。出産に際しては皇太子も付きっきりになり、ダイアナの手を握りながら励ましの言葉をかけ続けたという。ダイアナは1982年6月21日午後9時3分に第2王位継承権者となる長男を出産した。この長男には「ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス」という名前が与えられた(現在のケンブリッジ公ウィリアム王子)。ちょうどフォークランド紛争の戦勝と重なり、イギリス国民の祝賀気分は高揚した。ウィリアム王子の出産後、皇太子は秘書官たちの反対を押し切って公務への出席を減らし、ダイアナと一緒に王子を育てることに専念した。この時期がダイアナにとって最も幸せな家族団らんの日々であったという。 -蜂起には、テーンドル停泊地にてポチョムキンの射撃試験の補助をしていた第267号水雷艇の乗員も合流した。両艦艇は、革命の象徴として赤旗を掲揚した。6月14日の14時00分、ポチョムキンの乗員は革命を宣言した。同日の夕刻には両艦艇はオデッサに到着した。オデッサでは、折しもゼネストが行われていた。ポチョムキンの水兵らとオデッサの労働者たちは大規模なデモ行進と、ポチョムキンの蜂起の最初の指導者で銃殺されたヴァクレンチュークの葬儀を行った。その後、ポチョムキンは皇帝の軍と警察に対して若干の射撃を行った。このような不徹底な、いわばたんなるデモに過ぎない行動も、短期的には驚くべき効果を発揮した。しかし、6月17日になると反乱鎮圧のため政府軍艦隊が派遣されることになった。艦隊は、黒海艦隊所属の艦隊装甲艦ドヴィエナザット・アポストロフ、ゲオルギー・ポベドノーセツ、トリー・スヴャチーチェリャ、水雷巡洋艦カザールスキイ、第255号、第258号、第272号、第273号水雷艇から編成されていた。皇帝ニコライ2世はポチョムキンの叛乱を危険なものであるとみなしており、この艦が赤旗を掲げたまま黒海を遊弋するのを許容することはできないと考えていた。そして、黒海艦隊司令官であるチュフニーン海軍中将に対して速やかに叛乱を鎮圧し、最悪の場合には叛乱艦を全乗員ごと撃沈すべしとする指令を与えた。サンクトペテルブルクにいたチュフニーンは、クリーゲル海軍中将に司令官代理として事態に対処するよう任じた。 -天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国で全く勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった。1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された。帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有���記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した。第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった。 -化石の年代測定は1990年から1992年に、ルーシーの周囲にあった火山灰を放射年代測定の一種であるアルゴン-アルゴン法(Argon-argondating)にかけることで行なわれた。アワッシュ盆地で発見された人骨を年代測定しようとする試みは、ルーシーが発見されるよりも前に、1973年から1974年にかけてカリウム-アルゴン法(K-Ardating)を適用して、ジェイムズ・アロンソン(JamesAronson)の研究所(当時はCWRUにあり、のちにダートマスに移った)でも行なわれたことがあった。タイーブやアロンソンによるそうした初期の試みは、年代を測定できる試料の不足や、この地域の火山岩が化学的に変性していたりで、うまくは行かなかった。ルーシーの人骨はハダール地方でも堆積物が特に早く積み重なっていく場所で、そのことが彼女の人骨や火山灰の良好な保存につながった。ハダールでのフィールドワークは1976年から1977年の冬に中断され、その後、エチオピアのメンギスツ政権の方針で完全に途絶させられてしまい、1990年になって再開された。その間にアルゴン-アルゴン法はデレク・ヨーク(DerekYork)のおかげで正確さが向上していた。1990年から1992年に、アロンソンとロバート・ウォルター(RobertWalter)によって測定に適した火山灰の標本2件が発見され、人類起源研究所での年代測定の結果、322万年から318万年前と測定された。 -青森県内での死者の数は八戸市で1名、三沢市で2名の計3名、行方不明者は八戸市の1名であった。いずれも地震に伴い発生した津波によるものである。負傷者は、重傷者18名、軽傷者77名の計95名であった。私立学校関係の被害は、3市町16校(園)に及び、その被害額は約9,000万円であった。このうち、幼稚園が1市7園、約300万円、中学校が1市1校、8万円、高等学校が1市5校、約8,500万円、専修学校が3市町3校、約200万円となっている。県庁舎等関係の被害額は約100万円であった。このうち、県庁舎が約50万円、合同庁舎が約50万円となっている。県庁舎では、南棟、東棟に廊下のひび割れや床の一部破損などが生じたほか、西棟立体駐車場でも車両の入庫ができない程度の破損が生じた。合同庁舎では、むつ合同庁舎に被害がみられ、壁のひび割れなどが主なものである。廃棄物処理施設関係では、八戸地域広域市町村圏事務組合のし尿処理施設2施設の地下ポンプ室が津波により冠水し、その被害額は約11億8,100万円であった。 -12歳の時、ハルは大叔父から大人用の三味線を買い与えられ、13歳のときには二丁三味線で演奏することが許された。これはハルが一人前の瞽女として認められたことを意味した。しかしフジからの評価は芳しくなかった。フジはハルをしばしば「ぼっこれ薬缶」と呼び、「お前みたいな唄の下手なのはいらない」と罵った。実家のことを持ち出され、「おまえんとこは鉄砲打って鳥とるから、たたりで声が出ないんだろう」と当てつけられることもあった。フジはハルの下に2人弟子をとると、「唄が下手だから、お前はいらない」という理由でハルを巡業から外すようになった。フジはハルの低く男性的なところのある声が気に入らないようであったが、ハルにも「親方と同じになんか唄わんねェ」という思いがあった。巡業から外され、やむなく家に戻ったハルは大叔父に連れられて巫女に占ってもらった。結果は「そこでは因縁がないし、そこに置いても苦労するばっかりだから引きとった方がいい」というものであった。同じ頃、たまたま姉弟子の一人が瞽女から足を洗うことを決めており、ハルの将来を案じた姉弟子の計らいでフジのほうから暇を出す形で、縁切り金を払うことなく師弟関係を解消することができた。1915年のことである。この時、ハルの脛にはフジに杖で打ち据えられてできた傷が残っており、調べてみると骨に無数のヒビが入っていた。 -長狭な���ラッカ海峡の中でもワン・ファザム堆からシンガポール海峡までの約400キロメートルは特に狭い上に浅瀬が多く、大型船は特に航行に困難をともなう。海賊多発地域としても知られ、気象の変化が著しいことから突然襲うスコールが視界を妨げることも多い。また、くびれた地勢を示すマラッカ海峡では、潮汐により強い潮流が発生し、さらに、この強い潮流が「サンドウェーブ」と呼ばれる波紋状の砂州を形成するため、水深が頻繁に変化する危険がある。南シナ海域で多くみられる北東季節風が発達する季節には、東方向からの強い海流も加わり、この海峡で航行の安全を保持し続けることは必ずしも容易なことではない。 -ギムナジウムを卒業したビューヒナーは、半年ほど父の元で医学研究の準備をした後、1831年にフランス領ストラスブールに留学、父の意向に従ってストラスブール大学の医学部に籍を置いた。ドイツとの境に位置する地理的特徴から、当時のストラスブールはドイツとフランスの革命運動・思想の合流点となっており、ビューヒナーは前年に起こった7月革命の余波のなかで先進的な政治思想を吸収した。大学でも神学部生のサークル「オイゲニア」に準会員として参加し政治に関する意見を戦わせるなどしている。1832年にフランクフルト蜂起がドイツで起こった際には、暴動の経緯ドイツにおける市民革命の可能性の低さを嘆じる手紙を家族に送っており、翌年には当時勢力のあったサン=シモン派の思想への批判を書き付けている。下宿先は母方の親戚から紹介されたプロテスタントの牧師の家であったが、ビューヒナーはここで牧師の一人娘ヴィルヘルミーネ・イェーグレ(愛称ミンナー)と恋仲になり、後に密かに婚約、故郷に戻った後に両親に打ち明け正式に婚約者となっている。勉学の傍らで、ビューヒナーは近くのヴォゲーゼンの山々を歩き自然を満喫した。このときの体験が、後に『レンツ』などにも描かれるビューヒナーの自然観にも影響を与えている。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -1964年(昭和39年)から秋の催し物に加え、春の催し物も始まり人気を集めた。秋の催し物も長年「菊人形展」がよく行われていたが、マンネリ打破のため、前年の1963年(昭和38年)には「菊の忍者展」として、忍者を菊人形で作成した。伊賀の忍者館より歴史的資料を借りて展示し、「菊の忍者展」は大盛況だった。来場者数も増加し、年間60万人を突破した年もあった。1964年(昭和39年)、埋め立ての進行により海水浴場は閉鎖。その代替施設として、同年に閉園後もしばらく営業する「パラダイスプール」が開園した。新しいプールは、鬼ヶ島一帯を整備。総水面面積が約1,000坪(約3,306m2)の、大小3つのプールを整備した。プール内にはクジラの形をした滑り台が設置された。同年より開始した「臨海土地造成」で、元々海水浴場があった場所が埋め立て、造成された。 -また隕石となった小惑星の太陽周回軌道は、近日点を地球と金星軌道の間、遠日点を火星軌道の外側と推定されている。この小惑星はもともと小惑星帯を起源としており、木星の重力による摂動で軌道が変化したか、小惑星帯にある小惑星同士の衝突で飛び出した破片が地球横断小惑星となって衝突直前までの太陽周回軌道に変化したと考えられている。後の分析の結果、小惑星自体は太陽系の年齢と一致する約46億年前に生成されたものであるが、もっと新しい年代に融解し形成された鉱脈が存在し、3000万年前から5000万年前に小惑星が何らかの衝突を起こした痕跡であると考えられている。また、隕石は比較的大きな小惑星の中心部で生成されたことを示す5型である。したがって、隕石の元となった小惑星は、母天体から飛び出した破片である可能性がある。 -しかし、この頃、第2次石油危機と景気後退により民間航空機市場は縮小していた。エアバスは、1984年3月にSA計画をA320と名付けて正式開発を開始した一方で、TA計画の開発決定を先送りした。双発機の開発案はTA9とTA12の2種類になっていたが、1980年代の中頃にはTA12案が取り下げられた。TA9案はTA11案とともに改良が加えられ、A320と共通のフライ・バイ・ワイヤシステムを導入し、A320同様にサイドスティック方式の操縦席を搭載する計画となった。エアバス内部では、双発機のTA9と4発機のTA11のどちらを先に開発するか議論が重ねられた。離陸重量などの条件が同等だと仮定した場合、双発機には4発機よりも強力なエンジンを装備する必要がある。また、エンジンの信頼性が低かった時代に作られた規制により、双発機はエンジン1基が停止した場合に60分以内に着陸可能な飛行場があるルートしか飛行できず、代替飛行場の少ない中長距離の洋上路線では3発機や4発機が用いられていた。しかし、双発機には、4発機より機体のシステムが簡素で整備の手間が少なく、運用コストが低く済むというメリットがある。エンジンの信頼性や性能が向上が進んだことで、低コストの双発機を洋上路線で運航したいというニーズが高まっており、1985年には、ETOPSと呼ばれる双発機の長距離運航を認める要件が策定されていた。ただし、当時のETOPSでは航路設定や運航の自由度がまだ限られていたほか、認証を得るために時間も要した。北米の航空会社はコスト面で有利な双発機を好んだ一方、長距離洋上路線を抱えるアジアの航空会社は双発機のような制約の無い4発機を必要とし、欧州の航空会社の意見は両者に二分されていた。 -漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。酒は飲めなかったが、胃弱であるにもかかわらずビーフステーキや中華料理などの脂っこい食事を好んだ。大の甘党で、療養中には当時貴重品だったアイスクリームを欲しがり、ついには家族に無断で業務用アイスクリーム製造機を取り寄せ、妻と大喧嘩になったこともある。当時出回り始めたジャムもお気に入りで、毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという。胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れ障子に風が吹きつける音にそっくりだったことから、「破障子」なる落款を作り、使用していたことがある。また、漱石は天然痘(疱瘡)にかかっており、自分の容姿に劣等感を抱いていた。しかし当時は写真家が修正を加えることがよく行われており、今残っている写真には漱石が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。 -トンネル入口から約50メートルの間は八幡神社境内を通り、続いて約300メートルの間を星美学園敷地内を通過して、赤羽台四丁目住宅地区の地下を通り抜けて出口へ至る。沿線には星美学園の教育施設・社会福祉施設に加えて国立王子病院(現在の東京北医療セ��ター)もあって厳しい振動対策が求められた。防振対策として通常より壁厚を大きくし、上面および側面は1.2メートル、床板は1.5メートルとした。トンネル内面の高さは7.3メートル、新幹線トンネルの内面幅は10.8メートル、埼京線トンネルの内面幅は場所により9.35メートルから14.43メートルである。地質は地面の表面から約7メートルが関東ローム層に覆われており、その下は本郷層および東京層という礫混じりの砂層があり、30メートル以上の深さに東京礫層がある。地下水位はトンネル掘削面より下であったため掘削中の出水はほとんどなかった。 -1918年には、ニコラエフスクにも赤軍が進駐し、ソビエト政権が成立していた。しかし赤軍は、サハリン州(当時、ニコラエフスクはサハリン州に含まれていた)全体で300人ほどの少数にすぎず、日本軍の上陸によって追われ、やがてロシア海軍提督アレクサンドル・コルチャークによる臨時全ロシア政府に代わった。「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を呼んだ」という資料も、ソ連側にはあり、日本側も「尼港市民と内外居留民(イギリス人などもいた)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願した」と記している。 -選挙の結果、ルイ・ナポレオンは553万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝した。かくして二年前には脱獄囚だった男がいまやフランス大統領となったのであった。大統領になったルイ・ナポレオンは「皇子大統領」(Prince-président、プランス・プレジダン)と呼ばれ、また彼の行く先々で兵士や民衆は「皇帝万歳」「ナポレオン万歳」などと叫んで歓迎した。 -溶融発泡成形法は、PEやPPの発泡成形や押出PS・PVCなど、またシートPPやPS(PSペーパー)などの製造にて採用される。エンジニアリングプラスチックでも変性ポリフェニレンエーテルやポリアミドの発泡品がある。発泡剤には熱分解性(アゾジカルボンアミド、ジニトロソペンタメチレンテトラミンなど)や揮発性(ブタン・ペンタンなどの低級アルカン、ハロゲン化炭化水素、炭酸ガス、窒素ガスなど)が用いられる。その他の材料では、金属酸化物や尿素系などの発泡助剤(核剤)、架橋促進剤や気泡調整剤、改質のための充填剤や難燃剤などが使われる。一段法では、一般に2台の押出機を直列に繋いだ設備が用いられる。1台目の押出機では原材料を溶融させ、シリンダーの中間部分から物理的発泡剤を投入し混合する。ここでは高混練を行うため押出機の運転条件は高温で樹脂を押し出すよう設定される。それに対して2台目は、圧力を上げながら温度を下げつつ均一化し、実際に押し出す。そのため、この2台目は大口径の機械と狭いスクリュー山幅の設備を使い、低速で運転される。 -なんちゃっておじさんのブームの始まりはラジオ番組への投書である。発端は作家のかぜ耕士がラジオパーソナリティを担当する深夜番組『たむたむたいむ』であり、1977年5月27日、当時女子高生であった東京都文京区のリスナーから最初の目撃談が投書された。山手線での目撃談であり、前述のパターンのうちヤクザにまつわるもので、なんちゃっておじさんは40歳代の男性とのことであった。この投書内容は同番組の機関誌にも収録されており、なんちゃっておじさんに関する文献資料としては最古のものと見られている。これが大きな反響を呼んで同様の目撃談の投書が相次いだことで、同番組ではこれを2週にわたって放送した。しかし投書の中にはほかの投書を真似て書いたと見られるものも多くなり、信憑性を欠いたことから、その2週間をもって紹介は取りやめられた。 -通信手段も用意され、1897年(明治30年)10月には八王子-黒野田-初鹿野-勝沼を結んで電信が開通して、以後資材の輸送計画などに用いられた。また1899年(明治32年)になり電力が得られるようになると、発電所・工事事務所・坑内の大マンホールを結んで電話が設置され、それまで工事計画や材料の輸送などの伝達に往復2時間もかけていたところを一瞬に短縮して大幅に効率を改善した。坑内では当初カンテラが照明に用いられており、また作業員の人数が増加するとその呼吸もあって坑内の空気が汚染されて作業効率を非常に害するようになってきた。そのため削岩機の運転により換気を行うようになりやや改善されたが、さらなる改善のためにカンテラを廃して電灯を点灯することになった。日本でトンネル工事に電灯を利用したのも初めてである。東口では1899年(明治32年)6月に電灯設備を起工し11月から使用を開始した。坑口の200間(約364m)上流の笹子川に堰堤と水門を設置して取水し、173間(約315m)の水路を流れて鉄管に入り水車を駆動する水力発電所を設置した。水車はジョンスバートン製の横軸ダブルディスチャージヴォルテックスタービンで20馬力、落差32フィート(約9.8m)、毎分235回転のもので、発電機は三吉商会製125V・120A・15kWの直流発電機であった。これでさらに不足してくると小仏トンネルで使用していた発電機が増設され1901年(明治34年)6月14日に運転開始した。これも水車はジョンスバートン製横軸ダブルディスチャージヴォルテックスタービンで15馬力、落差32フィート、毎分185回転で、発電機は石川島造船所製125V・60Aの直流発電機であった。最終的に坑内と坑外を合わせて276個の電灯を点灯した。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -1892年(明治25年)に来日したアメリカの植物学者サージェントは、札幌農学校出身で藻岩・円山を研究フィールドとした植物学者の宮部金吾の案内で藻岩山を訪れ、その狭い地域における植生の多様性を『日本森林植物誌』(英:“ForestfloraofJapan”、1894年)で世界的にも珍しいと紹介した。その後、明治時代末から大正時代初頭になると北海道の主な原始林の保存が検討され、北東斜面にあるシナノキ、ミズナラ、ダケカンバなどの広葉樹が生い茂る「藻岩原始林」が、1915年(大正4年)に北海道庁より原生天然保護林に指定された。その後、1921年(大正10年)3月3日、「円山原始林」とともに北海道で最初の天然記念物(史蹟名勝天然紀念物)に指定された。指定区域は284.7ヘクタール(284.68ha)の国有林であり、天然記念物になる以前、開拓使時代から伐採などの利用が禁止されてから今日まで、一度も人の手が入ったことのないという厳密な意味での原始林ではなく、原生林に近い天然林にあたる。1969年(昭和44年)11月、文部省と北海道教育委員会により「天然記念物藻岩山原始林」碑が、藻岩山山頂、ロープウェイ終点広場、慈恵会病院登山口に建立されている。南(南西)斜面の原生林は明治時代の数度の山火事により焼失し、天然記念物区域に指定されておらず、太平洋戦争後はスキー場などに利用された。 -アラーウッディーンはデリーに向かう道中でデカン遠征で得た戦利品で兵士を徴募し、沿道の住民には金銀貨をばらまいて人気取りを図るとともにデリーのマリカイ・ジャハーンの支持者を買収して彼らの寝返りを待った。デリーの貴族と軍人のほとんどがアラーウッディーンの支持に回るとデリーに入城し、ルクン・ウッディーンを盲目に、マリカイ・ジャハーンを居住に軟禁した上で、スルターンに即位した。 -二股ソケット(ふたまたソケット)は、松下電気器具製作所創業当初のヒット製品の一つで、松下幸之助の代名詞である。家庭内に電気の供給口が電灯用ソケット一つしかなかった時代に、電灯と電化製品を同時に使用できるようにしたもの。亀の子束子、地下足袋(貼付式ゴム底足袋)とならび大正期の三大ヒット商品の一つである。二股ソケットという用語は、松下電器から発売された製品の二灯用クラスター(にとう��うクラスター)のことを主に指すが、松下電器創業第二号製品である二灯用差込みプラグ(にとうようさしこみプラグ)のことを指すこともある。本項ではそれらの松下電器から発売された二股ソケット群および松下電器創業期のもう一つのヒット製品、アタッチメント・プラグについても解説する。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -1869年秋、ブルノ市のドイツ人中学校を卒業したヤナーチェクは王立師範学校の教員養成科に入学し、音楽のほか歴史、地理、心理学で優れた成績を収めた。イーアン・ホースブルグは、ヤナーチェクのオペラ作品に登場人物に対する深い理解がうかがえることと心理学でよい成績を収めたこととの関連性を指摘している。1872年、3年間の教科課程を修了したヤナーチェクは無給での教育実習を2年間課せられた。同じく1872年にアウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に就任した。留守がちであったクシーシュコフスキーにかわって活動を取り仕切った。指導を受けた生徒の一人によると、ヤナーチェクは「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」という。1873年には、スヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任した。イーアン・ホースブルグによるとスヴァトプルク合唱協会は主に織工によって構成されており、「居酒屋に集まる労働者の歌唱クラブの域をあまり出なかったが、ヤナーチェクの熱意のおかげでその水準はかなり高まった」。ヤナーチェクは合唱協会のために四声部の世俗歌を作曲しており、イーアン・ホースブルグは、合唱協会の指揮者を務めたことと『耕作』や『はかない愛』といった初期作品のいくつかが無伴奏男声合唱のための作品であることとの関連性を指摘している。1874年、2年間の教育実習を終え最終試験に合格したヤナーチェクは王立師範学校を卒業。この時ヤナーチェクが取得したのは「チェック語が話される学校で地理と歴史を教える資格」であり、音楽を教える資格ではなかった(ヤナーチェクが音楽の正教員としての資格を得たのは1890年5月のことである)。また、当時多くの中等学校ではチェック語ではなくドイツ語が話されていた。 -リュウグウノツカイの体は左右から押しつぶされたように平たく側扁し、タチウオのように薄く細長い。体高が最も高いのは頭部で、尾端に向かって先細りとなる。下顎がやや前方に突出し、口は斜め上に向かって開く。鱗・歯・鰾を持たない。鰓耙は40-58本と多く、近縁のAgrostichthys属(8-10本)との鑑別点となっている。椎骨は143-170個である。背びれの基底は長く、吻の後端から始まり尾端まで連続する。全て軟条であり、鰭条数は260-412本と多く、先頭の6-10軟条はたてがみのように細長く伸びる。腹びれの鰭条は左右1本ずつしかなく、糸のように長く発達する。腹びれの先端はオール状に膨らみ、本種の英名の一つである「Oarfish」の由来となっている。この膨らんだ部分には多数の化学受容器が存在することが分かっており、餌生物の存在を探知する機能を持つと考えられている。尾びれは非常に小さく、臀びれは持たない。 -1836年(天保7年)生まれ。駒込追分(現在の東京都文京区向丘、中山道と日光御成街道の分岐点にあたる)の住人彦四郎の娘といい、名については「美幾女(みきじょ)」、または「ミキ」、「みき」などとも表記される。10歳のころから本郷の旧家へ奉公に出ていたが、父が負傷して働けなくなったため遊女になったと伝えられる。 -宮城県教育委員会は、3月14日から18日までを休校とし、15日に予定していた高等学校一般入学試験の合格者発表を22日以降に延期することを決めた。地震発生直後の2011年3月12日、13日には国公立大学の入学試験後期日程が予定されていたが、12日は被災地にある32校の大学(私立大学含む)で試験が中止されることになった。国立36大学・公立15大学・私立7大学が12日の試験の開始時間繰り下げや、地震の影響を受けた受験生の個別対応を行い、追試の対応をした大学もある。文部科学省は、3月12日における国公立大学後期日程の受験者は6万5667人(昨年から2万604人減少)であり、この減少は地震の影響によるものであるとしている。東北地方で同日に試験が実施された国公立大学は、全12校のうち秋田大学・秋田県立大学のみであった。翌13日においても6校で試験を中止し、5校で繰り下げ実施または個別対応を行った。また、家屋の損壊した状況に応じて入学金や授業料の免除を行う大学や、震災や計画停電の影響を考慮して授業開始を5月以降とする大学も増えている。 -アムステルダムから戻ったレンブラントは実家にアトリエを構え、さっそく製作に乗り出した。1625年には、時期が判明している初の作品『聖ステバノの殉教』を製作した。また、この頃に同じラストマンに弟子入りし12歳で画家として活動を始めていた神童の呼び声が高いヤン・リーフェンスと知り合い、競い合う関係が始まった。リーフェンスとは一時期共同で工房を持った。1628年にはレンブラントも弟子を指導するようになり、ヘラルト・ドウやイサーク・ジューデルヴィルらが門下に入った。弟子の一人ホーホストラーテンは1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記した。このようにレンブラントは常に新たな領域へ踏み込むことに熱心であり、この頃にはエッチングに手を染め始めた。先が二股の彫刻刀を自作したり、貧者や老人の姿をテーマとした版画を数多く製作した。 -このあたりは19世紀初頭から徐々にロシア帝国に併合されていき、19世紀の終わりには完全にロシアの支配下に入った。そのロシアが1917年に滅びたのを受け、グルジアは1918年に一時的にロシアからの独立を果たすものの、1922年にはロシア帝国の後を継いだソビエト連邦に再び併合された。その際に南オセチアはグルジア社会主義共和国内の自治州となり、北オセチアはロシア・ソビエト社会主義連邦共和国内の自治州となった。 -一部のメディアにより、任天堂が公式に発表したわけではない情報を公式のように報じられたり、関係者の発言を歪めた形で伝えられたりすることがある。こうした状況について任天堂は、全てに反応してしまうとデマの拡散に繋がりかねないため、会社や株主に迷惑がかかると判断した場合に機動的に対応するとしている。また対策として、イ���ターネットプレゼンテーション「NintendoDirect」やTwitterなどで情報を直接発信する取り組みを行っている。日本経済新聞が報じた2012年2月20日付の記事について、当時の社長・岩田聡はTwitterで「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。このようなことが何度か続いていますが、文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり、事実と憶測を混ぜて書いたり、まるでゴシップ誌のような手法を採られていることに驚いています」と言及している。さらに、日本経済新聞は2012年6月5日にも「『WiiU』にカーナビゲーションや電子書籍などの機能を搭載」という憶測記事を掲載し、任天堂が同日に否定した。朝日新聞は、2012年6月8日付の記事の中で、社長の岩田がインタビューを受けていないにもかかわらず、任天堂ホームページ上の動画から岩田の発言部分を抜き出しインタビューのように仕立てて掲載、これに対し任天堂は直ちに抗議した。朝日新聞は抗議に対して謝罪したとしているがその時点では記事を訂正せず、2年後の2014年9月14日付の紙面に任天堂と新聞読者に対する謝罪文を掲載した。任天堂が2016年10月20日に公開したNintendoSwitchの紹介動画の中でベセスダ・ソフトワークス社のソフト『TheElderScrollsV:Skyrim』(スカイリム)の映像を用いた際、既にベセスダ社が公式に歓迎のコメントを出していたにもかかわらず、まとめサイトの一つ「はちま起稿」は、「スカイリム映像、無断使用だった」と報じた。この問題を取り上げたメディア「BuzzFeedJapan」の取材に対し任天堂広報は、「今回の映像で使用されているゲームはすべて許可をとっております」と、はちま起稿の記事を否定している。翌21日に、はちま起稿は捏造を認め記事を訂正した。 -碑文では、ヒムヤルの国王は「マリク」を王号として使用していたことが確認されている。クルアーン(コーラン)、イスラーム世界の歴史学者が記した伝承にはヒムヤルの国王は「トゥッバァ」という称号を用いていたと記されているが、ヒムヤル王国の碑文に「トゥッバウ」という称号は確認されていない。トゥッバァが示す人物の定義は伝承によって異なり、語源もアラビア語、ゲエズ語(古エチオピア語)、古代南アラビアの族名など諸説分かれている。伝承に現れるトゥッバァを碑文で確認される王と同定する試みがされてきたが、不成功に終わっている。古代南アラビア史の研究者である蔀勇造は伝承に現れる王名をエチオピア語がアラビア語に訳されたものと推定し、彼らをヒムヤルに強い影響力を行使していたアクスムの王、あるいは王子と見なしている。 -1957年11月、世界初のステレオ盤レコードの大量生産を弱小レーベルAudioFidelityRecordsが始めた。創業者で社長のシドニー・フレイはウェスタン・エレクトリックのWestrexブランドのステレオレコード製造装置を使い、大手レーベルに対抗しようとした。A面はDukesofDixieland、B面は鉄道の音だった。12月16日フレイはビルボード誌に広告を掲載し、その中で業界関係者が会社のレターヘッド入り用箋で申し込んできたら、試聴用レコードを無料で進呈すると書いた。この動きは大いにメディアに取り上げられた。フレイはさらに4タイトルのステレオ盤レコードをリリースした。ステレオ蓄音機の販売店は他に選択肢がないのでAudioFidelityRecordsのレコードを店頭で流した。ステレオ盤レコードの普及は、1958年にステレオ用カートリッジが250ドルから29.95ドルに値下げしたことで拍車がかかった。1958年夏、AudioFidelityのMarchingAlongwiththePhenomenalDukesofDixieland,Volume3を筆頭としてステレオ盤レコードが一般の店頭に大量に並ぶようになった。完全ステレオ化以前、英米ではポピュラー音楽中心にステレオ盤LPレコードの多くには同タイトルのモノラル盤が存在した(ステレオ盤の方が1ドルほど高かった)。 -デチャニ修道院中央聖堂はロマネスクの影響の強い建築物であるが、実際には、当時のセルビア王国は、皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの娘シモニスを娶ったステファン・ウロシュ2世ミルティンによってかなりビザンツ化しつつあった。これがセルビアのビザンティン建築の第2段階で、セルビア・ビザンティン建築が確立された時期であると言ってよい。ミルティン王から��皇帝を称したステファン・ウロシュ4世ドゥシャンまでの間に、セルビア王国はバルカン半島の東ローマ帝国領を軍事制圧し、占領地から東ローマ帝国の建築家や技師を雇って、多くの修道院を建立した。ミルティン王は、ステファン・ネマニャによって開かれたアトス山のヒランダル修道院に、中央聖堂を建立した。1303年に建設されたこの聖堂は、まだ充分に研究された建築物ではないが、純粋なビザンティン建築で、テッサロニキ、あるいはコンスタンティノポリスの建築家が施工したものと考えられる。身廊の四隅に円柱を備える伝統的な四葉形であるが、独創的な点として2つのドームを持つ奥行きの深いナルテクスが付属する。アトス山でも重要な役割を担う修道院の中央聖堂として、この構成はセルビアの教会堂建築にかなり大きな影響を与えた。 -紀元前20世紀にはクレタ島にミノア文明が興り、ミノアはエジプトや地中海東岸の都市と取り引きを行った。やがてミノアはペロポネソス半島のミケーネ文明と競合して、ミケーネはミノアによって東への進出をはばまれるが、紀元前15世紀にクレタ島を占領した。金属貿易としてタウロス山の銀、エジプトの金、キプロスの銅を扱うウガリトが紀元前14世紀を頂点に繁栄した。ウガリトの商人は東岸やメソポタミアで取り引きをしつつ、王の使節に同行して管理貿易をする者のほかに私的な商人もいた。ウラの商人は、ヒッタイトから貿易を委託されてウガリトに滞在したが、次第にその経済力が警戒されて、土地の購入を禁じられるようになった。海上では当時から海賊の被害が深刻であり、ウガリトとキプロスが海賊対策で協定を結んだこともあった。 -2008年度の豊田市は当初予算で442億円の法人税収入があったが、リーマン・ショックの影響で2009年度には16億円に激減(96%減)し、図書購入費は2008年度の2億1000万円が2009年度には1億円に半減した。2008年度までは複本の購入基準を「予約5件につき1冊程度」としており、ベストセラーの人口1人あたり購入冊数は名古屋市図書館や岡崎市立図書館と比べて突出して多かったが、2009年度には購入基準を「予約10件につき1冊程度」に改め、市外在住者の購入リクエストを受け付けない方針に切り替えた。2012年(平成24年)4月1日には館内整理日の第4金曜日を開館とし、さらに6階の窓口業務を外部委託した。2016年度までの開館時間は、平日が10時から19時、休日が10時から18時だった。 -ブレーメン州の議会は「ブレーマー・ビュルガーシャフト」(BremerBürgerschaft)と呼ばれ、4年ごとに選挙が行われる。選挙は州を2つの選挙区(ブレーメンとブレーマーハーフェン)に分け、比例代表制で行われ、ブレーメンから68人、ブレーマーハーフェンから15人の代議士が選出される。ブレーメン選挙区から選出された州議会議員は同時にブレーメン市の市議会議員「シュタットビュルガーシャフト」(Stadtbürgerschaft)をも兼任することになる。ブレーマーハーフェンは州議会議員と市議会議員を分けている。市行政と州行政の中枢を占めるのが、「ゼナート」(Senat)と呼ばれるブレーメン州政府(内閣)である。2019年8月15日からゼナートの長で市長を務めているのはアンドレアス・ボーフェンシュルテ(SPD)である。ゼナートの長の代行も市長と呼ばれる。ゼナートは7名の人物(SPD5人、同盟90/緑の党2人)で構成される。ゼナートのメンバー(ゼナートレン)は都市州でない一般の州では州の大臣と大都市の行政部局長とを併せた役職である。彼らは州の官庁とブレーメン市の担当専門部局の領邦を管轄する。 -開発にあたっては、最適な接着剤を見つけ出すのが最大の課題で、ホームセンターなどで数十種類の接着剤を入手して、それらを組み合わせて試験を繰り返した。そして2年にわたる開発期間の末、水平に開き、強度にも優れたノートを作り出すことに成功した。2014年11月には特許も出願し、早期審査請求制度を利用して、2015年5月に登録となった。2015年8月には東京都の「トライアル発注認定制度」にも選ばれた。販売は2014年10月から始め、2015年にこのノートはナカムラ・プリンティング・バインダーの略称で「ナカプリバイン」と名付けられた。自らのつてや中小企業振興公社からの紹介を頼りに、50-60社を回ったが、取扱先は思うように増えなかった。展示会にも出品し、そこで商品の良さが理解され購入されることもあった。しかしそこから販路が拡大することはなかった。大量の発注依頼もあったが、その後に大幅な商品価格の値下げを要求されたこともあって契約には至らず、結局2015年の年末には8,000冊の在庫が積みあがった。社長の中村は土地を売って田舎に引っ越すことも考えていた。 -1月15日、クックとその小艦隊はコレヒドール島を通過、南へ向かった。4日後、嵐により砲艦1隻が船員12名とともに失踪し、2度とみつからなかった。艦隊はミンダナオ島を偵察した後、1月22日にサンボアンガに到着した。クックはスペイン国旗を揚げて補給を受け取ろうとしたが、シビルが入港中に一時座礁したことでサンボアンガ総督ライムンド・エスパニョールが派遣した防衛艦は疑念を持ちはじめた。スペイン艦の艦長はイギリス船に艦長の名前を聞いたが、ライフル銃撃で返答されたことにより、サンボアンガ市は警戒態勢に入った。スペインに勘付かれたことでクックはその策略をあきらめ、翌朝にシビルを進水させると要塞への砲撃を命令したが砲撃の効果はほとんどなく、スペインに450枚以上の砲弾を提供する結果になってしまった。一方のマルコムは水陸両用作戦として上陸作戦を敢行、要塞を陸上から攻撃しようとした。上陸船は激しい砲火に晒され、そのうちの1隻に砲弾が命中して2名が死亡、4名が負傷する結果となった。もう1隻は座礁して動けなくなった。混乱に陥りながらも上陸したイギリス軍にランスを装備した250名の民兵が攻撃、イギリス軍を砂浜から追い払った。マルコムは作戦中止を決定した。砲撃はそのまま1時間続き、その間にイギリスのフリゲート2隻は錨を切って撤退した。結局イギリス軍は上陸船で失った兵に加えて9名が負傷した。スペインは1名が死亡、4名が負傷した。 -世相が太平洋戦争開戦へと急速に傾斜していた1940年(昭和15年)頃から白菜は「ぜいたく品」とみなされたため、少しずつ栽培面積を減らさざるを得なくなった。戦争が激しくなった1942年(昭和17年)頃には、農薬が入手できなくなった上に化学肥料も単品でしか買えない状態となった。1943年(昭和18年)頃には野菜は市場に出さずに買い出し人が来て「闇」で販売するようになり、白菜の栽培面積は3-4反と少なくなったが、下山は耐病性に優れた株の交配と栽培、及び採種を続けた。下山は1944年(昭和19年)5月に召集され、ビルマ戦線に従軍した。1946年(昭和21年)5月に復員し、体調が回復した後に再び農業に戻った。 -五式戦闘機に搭載されたハ112-IIは元もとは海軍で採用されていた三菱製の航空用発動機であり、海軍名称を「金星62型」と言う。空冷二重星型14気筒(7気筒複列)で燃料噴射式、ボア140mm×ストローク150mm、シリンダー当たりの排気量2.31リットル、総排気量32.34リットル。圧縮比7.0、回転数は2,600rpm(最大許容回転数2,680rpm)で、直径320mmの遠心式2速過給器を備えている。なお増速比は一速が7.0、二速が9.2。離昇出力は+500mmHgで1,500馬力であるが、公称出力は+300mmHgで1速1,350馬力(2,000m)、2速1,250馬力(5,800m)。重量は675kg+補機19kg、寸法はおおよそ全長1,660mm、全幅1,280mm、水メタノール噴射機構付きである(強度の過給を行うと吸気温度が上昇しノッキング・異常燃焼の原因となる;このためこのような装置で冷却するか高オクタン燃料の利用が必用となる)。この装置は吸気圧を自動的に感知し、必要な時に必要なだけの冷却を行い、さらにガソリンの量を制限して代わりに水で出力を得るといった機構を持つ。高度・空気温度・吸気圧・加速レバーと連動して自動的に適切な量が噴射されるが、手動での調整も可能であった。噴射はシリンダーに直接行われるものではなくその直前の吸気管(ポート)内で行われる。 -1996年の台風で主幹の上部が裂けてしまったが、樹勢は今なお旺盛である。秋に白い花をつけ、翌年には緑色の果実になり、五月には黒紫色に熟す。この樹の周辺の岩場にも幹周40センチメートルほどのバクチノキの若木があり、またこの樹の根本付近や下の畑にもバクチノキの苗木が芽を伸ばしている。本樹の南側根本にはベッコウタケが生えている。なお、本樹の生育している場所の小字名は「飛乱地(びらんち)」と呼ばれているが、この名は、本樹木に由来するとされる。後北条氏の時代にすでにこの地名が生じていたという話もある。 -北海道の電気事業は、1889年(明治22年)設立の札幌電灯舎によって始まり、同社は1891年(明治24年)に25キロワットの汽力発電(高温高圧の蒸気でタービン発電機を回す火力発電)を開始した。その後、小樽、函館、旭川など都市部で電気事業者が設立されたほか、炭鉱、製紙工場、製鉄工場などの企業が大規模な自家発電施設の建設を始めた。1935年(昭和10年)代までに北海道の電気事業者は80社を超え、道内各地に電気が通るようになった。しかし、広大な北海道では都市部から離れた農村や漁村において電力供給を受けるには多額の負担金が必要となり、依然として照明を石油ランプに頼る生活を余儀なくされていた。 -建国の時期は1402年と推定されることが多いが、14世紀末にすでに王国が成立していた可能性を指摘する声もある。1405年に明への朝貢を開始、東西貿易の中継港としての道を歩み始める。パラメスワラの子イスカンダル・シャーはマレー半島におけるマラッカ王国の支配領域を拡大し、マラッカ海峡の交易路を確保するために北スマトラの東海岸に存在するサムドラ・パサイ王国に目を付けるが、当時のマラッカの軍事力はパサイに比べて劣っていた。ピレスによると、イスカンダル・シャーは戦争という手段に訴えず婚姻関係を作る道を選択し、72歳という高齢にもかかわらずパサイの王女を娶った。パサイの仲介によって敵対していたマジャパヒトとの関係が良化し、またパサイに住むイスラム教徒のマラッカへの移住も始まった。イスカンダル・シャーは周辺地域の海賊、漁師にマラッカへの移住を積極的に勧め、彼の治世の3年目(1416年-1417年ごろ)には人口は2000から6000人に到達した。 -アフター編は涼介と美砂の出会いから8年が経過した時点から始まる。涼介は我妻建築事務所に勤務し、美砂は大学でジュニア・フェローを務めていた。美砂は大学での研究の傍ら、月に一回は子供向けに「海のいきもの教室」を開催していた。美砂のこの教室は人気があり、地方紙に掲載されたり、市議会で取り上げられたりしていた。こうした啓蒙活動が実を結び、マリンピアしおなぎの再開が決まる。同水族館は指定管理者制度により運営されることになる。再開にあたって、我妻建築事務所が改装を担当する。美砂は大学の職を辞し、マリンピアしおなぎの学芸員となる。美砂は新しい企画として涼介と共にクラゲの展示を考え、見事に企画が採用される。開館準備が一段落した頃、涼介は美砂へプロポーズし、美砂はそれを受け入れる。後日、マリンピアしおなぎで二人が結婚式を挙げる場面でアフター編は幕を閉じる。 -図書館周辺は桑名市の中心市街地であり、JR・近鉄・養老鉄道桑名駅および三岐鉄道西桑名駅から徒歩6分である。路線バス利用の場合、K-バス東部ルート乗車、桑名メディアライヴ前バス停からすぐ、または三重交通バス及び八風バス市役所前バス停から徒歩約3分である三重県道504号桑名港線沿い。駐車場は当初50台だったが、利用者の安全のために38台に減らされ、駐車場不足が指摘されている。駐輪場は120台。 -貸出方式は図書館によって千差万別であり、全く同じ方式を採用している図書館は一つとして存在しないと言われているが、各種文献によれば概ね次のように貸出・返却・督促・予約業務がされていたようである。予め、1冊の貸出図書につき一枚の請求番号・書名・著者名・図書の受入番号などのうちいくらかが書き込まれたカード状のブックカード、ブックカードを本に保持させるための上部が開かれた袋状のブックポケット、貸出図書の返却期限を貸出図書と関連付けて記入するためのデートスリップ、貸出券の4つを用意する。ブックポケットを図書の表紙裏(または裏表紙裏)に貼り付け、ブックポケットの中にブックカードを挿入する。デートスリップはブックポケットと向かい合うように見開きに貼り付け、貸出券は利用者の貸出申込に応じてあらかじめ発行する。 -11世紀ごろになると衰運に見舞われる。『上宮太子拾遺記』には保元3年(1158年)の記として飢饉に窮して百済伝来の���勒菩薩石像を多武峰山妙楽寺(現在の談山神社)に売り払ったと記録されている。また、建久7年(1196年)には雷火で塔と金堂を焼失した。以後寺勢は衰えて室町時代以降は廃寺同然となってしまった。法隆寺僧・訓海の『太子伝玉林抄』によれば、文安4年(1447年)の時点で飛鳥寺の本尊は露坐であったことが分かっている。 -小笠原諸島の島々では、外来種としてクマネズミなどのネズミ類が進入し、生態系に悪影響を与えている。例えば北硫黄島で戦前繁殖が確認されていたオーストンウミツバメ、クロウミツバメ、セグロミズナギドリは、クマネズミの影響で北硫黄島では繁殖が行われなくなったものと推定されており、父島列島、母島列島、聟島列島にはほとんどの島にクマネズミが侵入し、植生や鳥類、陸産貝類などに被害を与えていることが明らかになっている。南硫黄島はこれまで人間が生態系に与えた影響が極めて小さかったと考えられているが、船の難破や開墾の試みなど人間との関わりが皆無であったわけではない。また、ネズミ類は短距離ならば海を泳いで分布を広げるとの報告もある。そのため、1982年、2007年の学術調査の際にネズミ類の生息の有無の調査が行われた。1982年の調査時は、島内に設置したワナに全く捕獲されず、また島の南岸にあった難破船の生米が全くネズミ類の食害に遭っていなかったことが確認されたため、ネズミ類は生息していないものと判断された。2007年の調査時もワナの設置や食痕の調査を通じてネズミ類の存在について確認されたが、やはり生息していないものと考えられた。この結果は南硫黄島が人間からの影響がこれまで極めて小さかったことを物語っている。 -バヤズィト2世(トルコ語:II.BayezidもしくはII.Beyazıt、1447年12月3日-1512年5月26日)は、オスマン帝国の第8代皇帝(スルタン)である。第7代皇帝メフメト2世の子(在位:1481年-1512年)。 -フランス世界環境基金(FFEM)の研究機関ComitéScientifiqueetTechnique(CST)は、イミダクロプリド(フランスでの商品名GAUCHO(ガウチョ))のフランスにおける部分的禁止を提言し、2003年にフランス農業省の委託を受けた毒性調査委員会はイミダクロプリドの種子処理によるミツバチへの危険性を警告する政府報告書が発表された。同2003年にはスクロースに溶けた致死量に近いイミダクロプリドは、ミツバチの帰巣本能と摂食活動に影響を与えると指摘され、また働き蜂と農地に与えられた致死量に近いイミダクロプリドは飛翔活動と嗅覚機能を減少させ、嗅覚機能による学習能力の減少が生じたと研究発表された。 -2013年11月には、オリガ・ポポーヴァら世界中の59名の研究者の共著でサイエンス誌に落下を詳細に分析した論文が掲載された。それによると、突入した隕石の元の質量は1.3万トン(不確かさは2倍程度)で直径は15~25mあったとされる。高度97kmにあったときの火球の速度はおよそ秒速19kmで、地表面と約18°の角度をなしていた。撮影された映像などを詳細に分析したところでは、隕石が高度90kmに達したとき大気中に最初の衝撃波が生成され、83kmで隕石が分解し始めチリが形成された。この過程は高度54kmで加速し、高さおよそ30kmまで降下したとき火球は最も輝いた。このときの火球は、火球から100km以内で太陽よりも明るくなり、火球からの紫外線により屋外にいた人のいくらかは日焼けを負った。最後の爆発は高度27kmで起きた。経路全体では元の運動エネルギーのうちの4~10%が放射に変わったとみられる。経路に沿って熱を帯びたチリの雲が形成され、火球の通過後、チリの雲が徐々に平行な2つの雲に分裂した。これは、熱の浮力によって2つの円柱状の渦が形成されたことによる。 -サルゴン2世は恐らく2,000年近く前にアッカド帝国を建設しメソポタミアの大部分を支配した伝説的君主サルゴンから名前を取り、世界を征服することを目指した軍事遠征によって古代の同名の王の足跡を辿ることを切望した。サルゴン2世は敬虔さ、正義、活動力、治世、そして強さのイメージを自分に持たせようとした。そして数多くの軍事的業績によって偉大な征服者、戦術家として認められている。 -帯広叢書とはアイヌの研究者であった吉田巖が整理・収集した資料を伝えるために刊行されている叢書である。吉田は教員としてアイヌ児童を教えるかたわら、赴任地域のアイヌ文化や郷土史を調べ膨大な記録や資料を残した。調査成果は吉田自身によって学術雑誌などで発表されるとともに、その草稿や資料が帯広市教育委員会によって編纂され、1955年から「帯広市社会教育叢書」として発刊された。吉田が高齢になったことから、1960年12月の第6巻発行をもって刊行が中断されたが、1963年の吉田の没後、遺された資料(以下、「遺稿資料」)の多くは遺族らの厚意によって帯広市に寄贈された。「遺稿資料」は帯広市図書館が保管することとなり、1964年から叢書の発行が再開された。1972年の第16巻からは「帯広叢書」に改題された。年1回程度の発行を続け、2013年3月には第65巻が発行されている。アイヌの文化・歴史の分野において、個人が遺した記録・関係資料を継続的に整理・刊行している数少ない取り組みの一つである。 -18世紀初頭でもナバラは、なお「王国」と呼ばれていた。1722年にスペイン・フランス間の税関がエブロ川に移されたおかげでフランスとの貿易が盛んとなり、18世紀のナバラでは商業が発達した。農民はスペインの他地方よりも豊かな暮らしをし、人口の5-10%を占める貴族の割合はスペインでもっとも高かった。18世紀半ばには道路網の整備が着手され、現在のパンプローナ市庁舎を含む壮大なバロック様式の建物が至るところに建てられた。18世紀末時点で、スペイン王国内で独自の司法機関、副王、議員団、会計院を持っていた地域はナバラのみだった。 -イルジンSは黄色・不定形の物質で、100°C・15分の加熱では15パーセント程度しか分解されず、また、水にもある程度の溶解性を有するため、調理されたツキヨタケについて、子実体そのものを摂食せずとも汁を口にするだけで中毒する危険がある。その一方で、塩蔵した後、塩抜きを兼ねて流水にさらすことで、ある程度の毒抜きがなされるとも考えられる。ある程度の脂溶性をも示すため、誤って炒め物などにした場合、混合して調理されたツキヨタケ以外の食材を食べたことで発症する場合がある。いっぽう、イルジン類は、ツキヨタケのもう一つの主要な中毒症状たる下痢の原因となる平滑筋弛緩作用を持たない。平滑筋の弛緩作用は、ムスカリン類似の未同定物質によるものではないかと推定されている。なお、野生のツキヨタケ子実体に含有されるイルジンSの含有量は、採集した場所や時期によって大きく変動(山形県産のサンプルでは、1.2-318.2μg/子実体1g、あるいは8.3-776.2μg/子実体1g)し、場合によってはこれをまったく含まないことすらあるという。さらに、菌糸体の人工培養に際して液体培地を用いた場合には、イルジンSが培地中に分泌されるのに対し、木粉培地を使用した場合には、子実体形成後に培地内に残った菌糸体あるいは廃培地中にイルジンSが検出されなかったことから、子実体に含まれるイルジンSはまず菌糸体内で生成され、子実体形成に際して移送されるのではないかと推定されている。 -1994年と1995年の干ばつでブドウの収穫量が激減した後、1995年にはすべてのワイン生産地域で灌漑を使用することが合法化され、多くの生産地域で灌漑が急速に浸透した。蒸発量を最小限に抑えるために、トレド県ではオーストラリアの企業が地下点滴灌漑方式の普及を支援した。灌漑の普及は植樹の高密度化を進展させ、いくつかの地域での収量の向上に貢献した。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の��い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -1907年4月、6歳の基次郎は西区の江戸堀尋常小学校に入学した。式の時は袴を着け、平素は紺絣の着流し姿で草履袋と風呂敷包みを持って登校した。同月、母・ヒサは東江幼稚園の保母を辞めて家庭に入った。しつけに厳しく教育熱心なヒサはオルガンを弾きながら歌い、子供らに和歌の『百人一首』『万葉集』や古典の『源氏物語』『平家物語』『南総里見八犬伝』を読み聞かせ、与謝野晶子や岡本かの子の文学の話をした。基次郎は成人してからも、久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを母から勧められたこともあった。宗太郎は家を顧みず、金も入れないこともあったため、ヒサは子供を道連れに堀川に身を投げ自殺しようと思いつめたこともあった。基次郎は元気な子供で、夏は兄と中之島の水泳道場に通い、川に飛び込んで遊ぶのが好きであったが、1908年1月に急性腎炎に罹り、危うく死にかけた。同月21日には次弟・勇が生まれた。 -歴史上では「レプラ」、「らい病」などとよばれてきたハンセン病は、らい菌によって引き起こされる感染症である。感染力は弱く、進行も遅い病気で、皮膚と末梢神経が冒される。白い斑点が皮膚上に現れるほか、患部が変形する。顔面が変形したり、指が欠損するといった症状を引き起こすために、世界史上では、感染力が弱く致死性に乏しいという病気の実態以上に、人びとに恐怖感をもってとらえられてきた。イエス・キリストがハンセン病患者に触れて治癒させた奇跡の記述が『新約聖書』にあり、イエスの絶対愛のあり方を物語っている。日本では、光明皇后が医療施設である「施薬院」を設置して、毎年諸国に命じて薬草を買い取り、らい病の予防と救護に力をそそいだといわれる。ヨーロッパでは13世紀をピークとして流行し、各地に隔離施設ができた。西暦300年ころ、ローマ教会が患者救済のため、ラザロの寓意よりなる「ラザレット」を設け、患者の救済・保護がはじまった。民族大移動などによってヨーロッパ中に広がったためヨーロッパ各地にラザレットが設けられた。中世ヨーロッパでは、ハンセン病は「ミゼル・ズフト」(貧しき不幸な病)と称された。教会によって「らい院」が多くの場所に設置されたが、フランク王国のカール大帝の勅令などによって、強制隔離政策もしばしば行われた。また、当時のローマ教会は旧約聖書にもとづく「ツアーラハト」の措置として「死のミサ」や「仮装葬儀」など祭儀的な厳しい措置が行われることも多かった。 -ボーイングは757の最終組み立てラインを707、727、737を生産していたワシントンのレントン工場に設けた。開発プログラムの初期にボーイングとブリティッシュ・エアウェイズ、ロールス・ロイスの3社は英国の航空機メーカーにも757の主翼の生産に参加するよう働きかけたが、話はまとまらなかった。結局、主翼、機首部、尾翼を含む機体の約半分がボーイングの自社設備で生産され、残りの部分は主に米国を拠点とする下請け企業によって生産された。フェアチャイルド社は前縁スラット、グラマン社はフラップ、ロックウェル・インターナショナル社は主胴体を生産・供給した。この新しいナローボディ機の生産立ち上げは、在来機種である727の生産縮小と歩調を合わせて行われ、1981年1月に初号機の最終組み立てが開始された。757のプロトタイプは1982年1月13日にレントン工場にてロールアウトした。この機体はRB211-535Cエンジンを装備し、計画よりも1週間前倒しされ1982年2月19日に初飛行が行われた。この初飛行では油圧低下の表示に続いてエンジンストールが発生した。ボーイングのテストパイロットはシステムによる診断内容を確認してからエンジンの再始動に成功し、以降は正常に飛行した。その後、この初号機は週7日のスケジュールで試験飛行を行った。この時までに、エア・フロリダ、アメリ��ン航空、ブリティッシュ・エアウェイズ、デルタ航空、イースタン航空、モナーク航空、トランス・ブラジル航空の7社から計136機の受注を獲得していた。 -フランチャイズ型のビジネスであるKFCの成功は、初期の加盟者(フランチャイジー)の業績に依存していた。したがって、ハーマンはサンダースの伝記作家によってKFCの「事実上の共同創業者」として描写されている。ハーマンは「指まで舐めちゃうおいしさ」("It'sfingerlickin'good")というキャッチフレーズの下でフライドチキンを販売したが、最終的にこのフレーズはKFCチェーン全体で使用されるようになった。1957年、ハーマンは14個のフライドチキンと5ロールのパン、1パイントのグレイビーソースをボール紙のバスケットに入れて1セットにした上で、これを「コンプリートミール」として3.50ドル(2014年の貨幣価値で約30米ドル)で家族向けに発売した。このセットは当初、あるデンバーのKFC加盟者(セールスマンから購入したボール紙のバスケット500個をもて余していた)のかわりに電話をかけてきたサンダースを手助けするつもりでハーマンが試験販売したものだった。 -戸倉ハルは1896年11月9日に、香川県仲多度郡南村田村にて父・戸倉宇吉、母・戸倉エイの長女として生まれた。戸倉家は代々、村長を務めてきた家系で、戸倉は父母・祖父母の愛を一身に受けてのびのびと育った。毎日のようにお伽話を聞いて育ち、特に浦島太郎や桃太郎が思い出に残ったと後年に語っている。5歳の時に妹のナツが生まれ、以後生涯仲の良い姉妹関係が続いた。学齢期になると、近くの小学校に進学し、遠方に丸亀城や飯野山を望む豊かな自然の中で少女時代を過ごした。後の戸倉の作品に登場する「故郷」のイメージは、この頃に胸に刻まれた風景であった。小学校卒業後、香川県丸亀高等女学校補習科に進学した。勉強熱心で教師から可愛がられ、帰宅が遅くなると父が提灯を持って迎えに来るほど大事にされていた。当の戸倉は何度も父が迎えに来ることに嫌気が差し、帰路で迎えの父と出会っても知らんぷりして早足で帰宅したという。 -フン族(フンぞく、Hun)は、4世紀から6世紀にかけて中央アジア、コーカサス、東ヨーロッパに住んでいた遊牧民である。ヨーロッパの伝承によれば、彼らはヴォルガ川の東に住んでおり、当時スキタイの一部だった地域で初めて報告された。フン族の到来は、イランの人々、アラン人の西方への移住に関連している。 -サラエボ事件(サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者(推定相続人)であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件である。プリンツィプは、大セルビア主義テロ組織「黒手組」の一員ダニロ・イリッチによって組織された6人の暗殺者(5人のボスニア系セルビア人と1人のボシュニャク人)のうちの1人だった。暗殺者らが語った動機は、のちに「青年ボスニア」として知られるようになった反オーストリア的革命運動と一致していた。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった。 -1376年4月、分裂状態にあった北方のジョチ・ウルスの王族トクタミシュがティムールの元に亡命する。ティムールはジョチ・ウルスのハンであるオロスの伸張を警戒しており、トクタミシュを利用してオロスを抑えようと考えた。ティムールはトクタミシュに兵士と財貨を与えてキプチャク草原に送り返し、さらに抵抗の拠点としてオトラル、サブラン、スグナクの三都市を与えた。1377年にはティムールもオロスを討つために遠征し、スグナク・オトラル間の戦闘で勝利した。1378年にトクタミシュはオロスとトクタキヤの跡を継いだティムール・メリク・ハンを討ってハンに即位した。 -1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集���七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別した。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば満月になけほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。 -全長約23cm(22-25cm)で、同じ科のムクドリぐらいの大きさである。インドハッカは、褐色の体に黒色の頭頂、それに目尻の裸出した黄色の斑により、容易に識別される。頭部から胸は黒色で、背および体下面は濃褐色。くちばしと足は鮮やかな黄色。翼は黒褐色で、外側初列風切の基部に白斑があり、下側の下雨覆は白色。下腹、下尾筒および黒い尾の先端も白色である。飛翔時には翼の白斑が目立つ。雌雄同色で、よくつがいで見られる。雄の前頭(額)には短い冠羽が認められる。虹彩は赤みのある黄色である。幼鳥は、頭頂が淡色で灰褐色みを帯びる。インドハッカは、グロージャーの法則のとおり、インド北西部のほうが、インド南部の暗色の個体群に比べてより淡色となる傾向がある。 -ヴェルサイユ体制は敗戦国のみならず戦勝国にも禍根を残すものであった。戦勝国イタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気によって政情が不安定化した。この状況下でイギリスの支援を受けて勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。同じく戦勝国の日本では、1918年9月に「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣が組織された。1921年にはその原が暗殺されたものの、1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入され、議会制民主主義化が根付き「大正デモクラシー」の興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。この前後の1922年に日本はワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、1923年には���英同盟が解消された。 -鳥取しゃんしゃん祭は、毎年8月中旬に鳥取市で開催される夏祭りである。1961年に始まった地元の神社の例祭の行列に、1965年から鳥取市に伝わる伝統的な「因幡の傘踊り」を組み合わせて始まったもので、祭りの中心となる「一斉踊り」では、数千人の踊り手が傘を持って市内中心部を舞い歩く。傘に取り付けられた鈴が「しゃんしゃん」と鳴ることや鳥取駅前の鳥取温泉の湯が「しゃんしゃん」と湧くことからその名がある。見物客の人出は20万人以上に達し、鳥取市最大の祭りになっている。「一斉踊り」の参加者は100連・4000人あまりに及び、2014年に「世界最大の傘踊り」としてギネス世界記録に認定された。 -なお、シオダマリミジンコはカリフォルニアシオダマリミジンコにとてもよく似ている。両者は雌では付属肢の構造などで区別出来るが、雄では形態の面では事実上は判別不能である。このことから両者が同一種ではないかとの疑問が出されたこともあるが、実験的に両者の交雑は出来ないことが確認されている。つまりこの2つは生殖的に隔離されており、別種と判断されている。イガシオダマリミジンコに関しては形態的差異もはっきりしているとのこと。 -マンスフィールドは1808年6月、北西部領土測量隊長ジャレッド・マンスフィールドの指揮の下、ジェームズ・ヘッジズ、ジョス・ラーウェル、およびジェイコブ・ニューマンによって創設された。入植地の名であるマンスフィールドはこの指揮官、ジャレッド・マンスフィールドにちなんでつけられた。もともとは、パブリック・スクエアと呼ばれる広場を中心として、入植地は正方形に区画されていた。やがて、最初の入植者となったサミュエル・マーティンが、この入植地で最初の、そして1808年中に建てられた唯一の建物となった丸太小屋を区画97に建てた。マーティンはこの小屋で冬を越し、先住民にウイスキーを売っていた。しかし、この行為は違法とされ、マーティンは郡外への逃亡を余儀なくされた。翌1809年、マーティンが去った後のこの小屋にジェームズ・カニンハムが入居した。やがて1812年、米英戦争の最中、先住民の攻撃から入植地を防衛するため、2棟の方形小要塞がパブリック・スクエアに建てられた。これらの小要塞は一晩にして建てられたものであった。終戦と前後して、これらの小要塞のうちの1棟が初代の郡地方裁判所庁舎、および監獄に転用された。マンスフィールドは1828年2月24日、オハイオ州議会の議決により、正式に村として法人化された。その後、1857年には、マンスフィールドは人口5,121人を数え、市制を施行した。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -子持山の火山活動は20万年前頃に収束した。これは、数万年前から1万年前頃までに激しい噴火を繰り返した榛名山・赤城山・浅間山などの周囲の大火山���くらべ、かなり古い部類にはいる。子持山の南北の山麓にできた山体崩壊にともなう扇状地の上には、榛名山や浅間山の噴火にともなうテフラ(火山噴出物)が10メートルもの厚さで堆積している。また、東方にある赤城山の噴火では、噴出物によって利根川が堰き止められ、川筋が大きく西へ移動した。これにより、子持山の東麓は利根川によって大きく浸食され綾戸渓谷となった。山体やカルデラそのものも、20万年の間に風雨や河川による浸食・開析により大きく姿を変えた。火山活動にともなって噴出された火山灰を主成分とする凝灰岩や凝灰角礫岩は、比較的やわらかいために削られ流されてしまい、火山の内部構造ともいうべき火道の岩脈が「骨組み」のように露出する形となった。こうした開析が最も進んでいるのが、南斜面を大きく削って谷をつくっている唐沢周辺で、この扇状地の根元部分に子持神社が鎮座する。 -近代品種は単一の品種を指すのではなく、長期間にわたって開発され続けてきた品種群である。イネに関しては、IRRIの理事長(2004-2007年)を務めた農業経済学者の大塚啓二郎らによると、近代品種は第一世代、第二世代、第三世代に大別される。1960年代後半に開発されたのが、第一世代の近代品種Iである。このタイプの品種は病害虫が無く、灌漑設備が整っているような生産環境では驚異的な収量を発揮する。そのため、第一世代の代表的な品種であるIR8は、MiracleRiceと呼ばれた。潜在的な収量性に関しては、第一世代とそれ以後の世代の品種間で大きな差はない。しかし、第一世代の近代品種は病虫害に弱く、環境不良地帯ではとりわけ収量性が低いという欠陥がある。 -上野動物園でのハチは、園内でも有数の人気者になっていった。人懐こくおとなしい性格で、時折寂しげに彼方を見つめるハチには、飼育員を始め動物園の関係者も一様に好意を寄せていた。ハチの人懐こさは、意外な反響を呼んだ。太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦してまもなく1年が経とうとしていた1942年(昭和17年)12月6日、皇太子明仁親王(当時8歳、平成期の天皇)が上野動物園を行啓(訪問)することになった。朝8時半に上野動物園に行啓した皇太子には、岸本綾夫東京市長(現在の東京都知事に相当)や宮内省(現在の宮内庁)の傅育官2名が随行し、取材にあたる報道関係者・新聞記者も同行していた。園長代理の福田が一行を出迎え、皇太子は福田の説明を聞きながら園内の動物を見学して回った。やがて、ハチのいる檻の前に一行が来た。するとハチは急に檻の柵まで走り寄って、のどを鳴らしつつ体を柵に擦り付けて甘えるようなしぐさを見せた。一行を取材していた新聞記者たちは(こいつ、皇太子殿下であることがわかるのか?)と驚愕した。福田には、ハチの行動の理由がすぐにわかった。ハチは皇太子ではなく、随行の岸本が陸軍の軍服を着用していたためそちらに反応したのだった。翌年の春、福田は成岡に宛てて1通の手紙を書いた。その文面には、ハチの幸福を伝えて成岡を安心させたいという思いがこもっていた。 -1683年、王妃マリー・テレーズが死去した。それから程なくしてルイ14世は最も愛した寵姫マントノン侯爵夫人と秘密結婚をする。ルイ14世とマントノン侯爵夫人との結婚は公的な記録を残さない、あくまでも私人としての結婚であり、彼女は王妃ではなかったが、ルイ14世はしばしば顧問会議を彼女の部屋で催し、慎重な助言者として国王の意思決定に影響を与えた。ハプスブルク家との戦争を繰り返すうちにルイ14世はこれまでのガリカニスム(フランス教会自立主義)擁護から「カトリック教会の守護者」へとスタンスを移し、ローマ教皇との結びつきを強めるようになった。王は国内のカトリック信仰の強化を目指し、ローマ教皇と連携してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)を弾圧した。そして、ユグノー(フランス・プロテスタント)の弾圧に着手する。ユグノー戦争の結果、アンリ4世のナント勅令によって政治的・軍事的特権を与えられたユグノーも、ルイ13世の時代にリシュリュー枢機卿に敗れ政治勢力としては没落して少数派となり、信仰の自由だけが僅かながら保証されていた。ルイ14世は官職からユグノーを締め出し、職業を制限し、亡命まで禁じ���勅令を次々と出した。兵士をユグノーの家々に送り込んで改宗を強要することまでした(竜騎兵の迫害)。 -ウツクシマツはアカマツの変種で、葉型や樹皮は通常のアカマツとほぼ同じであるが、根元に近い位置から複数本に分かれた幹が上方へ高く伸び、上部の樹冠全体が傘を広げたように見える珍しい樹形をしている。高さは約7-10メートル、幹囲は2.5-2.8メートルほどのものが大半を占めており、中には樹高15メートルに達する個体もある。なお、樹形が類似するものに多行松(タギョウショウ)があるが、これは接ぎ木による園芸品種であり、新宿御苑や兼六園などの公園や庭園に植樹されているが、樹高が高く成長するウツクシマツと異なり、高さは5メートル未満の低木がほとんどである。 -ストーリーは、「目的地への移動」・「敵との戦闘」・「辿り着いた場所で起こるイベント」の3つを繰り返しながら進行する。戦闘シーンやフィールドなどのグラフィックは3Dで描かれており、移動中・戦闘中のキャラクターのグラフィックは4頭身ほどにデフォルメされている。メインシナリオをクリアするとキャラクタークエストに移行し、各地の宝箱の中身が一新され、街では既存のアイテムを組み合わせ新たなアイテムを作り出す「合成屋」や、敵と戦い勝利することで賞金・賞品が得られる「闘技場」がオープンする。ストーリーの進行具合は登場人物たちが付けている日記という設定の「あらすじ」で確認できる。イベントは通常、上記のデフォルメされたグラフィックで進行するが、専用の画面上にて通常の頭身のイラストで表現される「イベントスキット」が挿入されることがある(従来のように自発的に発生させ、キャラクター同士の雑談を楽しむためのスキットは本作では「フリースキット」と呼ばれ、発生の条件が限定されている。こちらが本作での「スキット」とされ、イベントスキットを考慮しない場合もある)。 -ロイヒで記録された最大規模の活動は、1996年の7月16日から同年8月9日にかけての群発地震、その数4070回を数えたものであった。この一連の地震は、現在までにハワイにある火山で取られた地震記録の中で揺れの強烈さと回数の双方において最強クラスのものだった。ほとんどの地震はモーメント・マグニチュードにしてM3.0未満の規模であった。マグニチュード3.0以上のものは数百回、その中でも40回以上がM4.0以上であり、M5.0を記録した微動もあった。 -同年9月、パパンドレウ政権の副大臣を務めていたステファノス・ステファノプロスが、ツィリモコスやノヴァスなどの中央同盟離脱派、カラマンリスの出国後パナギオテイス・カネロプロス元国防相が率いていた国民急進党の支援を受けた上で組閣した。これに猛反発したパパンドレウは集会で即時の議会解散と総選挙を要求、左翼の中には君主制の廃止や革命を訴える者までも出始めた。このため1965年9月、国会で内閣信任投票が行なわれたが、辛くもステファノプロスは勝利を収める事ができた。しかしステファノプロス政権下のギリシャはストライキが相次いだりして海外の投資家が資本を引き揚げるなど、1年半続いたといえどもこれ以上の長期政権はもはや期待できない状態であった。1966年4月には外相として入閣していたツィリモコスが辞任。1966年末には国民急進党も内閣への支持を取り下げた。そのため、左翼、右翼両方からの支持を失ったステファノプロス政権は総辞職に追い込まれた。 -桑名市立中央図書館(くわなしりつちゅうおうとしょかん)は、三重県の桑名市にある公立図書館である。1947年(昭和22年)に開館し、2004年(平成16年)に現在地に新築された。日本で初めてPFI方式によって建設・運営されている図書館であり、日本中の自治体や図書館関係者から注目された。開館時間は9時から21時までと、日本全国の図書館と比較しても大変長くなっている。桑名市立中央図書館の略称はkcl(KCL)、基本理念は「いつでも・どこでも・誰でも」。 -御幸町図書館は静岡市街地中心部にある複合ビル「ペガサートビル」の4階と5階の2フロアを使用しており、それぞれのフロアにカウンターが設置されている。地域図書館としての機能(児童・ヤングアダルト・生活・健康・文芸)は4階、ビジネス支援、法律・経済・産業・静岡関連資料、外国語資料は5階に振り分けている。同一ビルの6階と7階には静岡市が運営する静岡市産学交流センターが入居しており、図書館と産学交流センターは連携してビジネス支援サービスを行っている。御幸町図書館と産学交流センターの二つの施設には「B-nest」(ビネスト)という愛称が付けられている。産学交流センターには指定管理者が導入されているが、御幸町図書館は静岡市の直営である。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -ただし、1840年代半ば以降になると、車体の製造技術の向上などにより外側シリンダーの蒸気機関車が製造可能になり、シリンダーの大きさが軌間に制約されることはなくなった。むしろ外側シリンダーでは車両限界や特にボイラーの太さが同一ならば広軌の方がシリンダーをより外側につけるため、シリンダーの大きさを妨げる原因になり、イギリスの軌間問題に関する王立調査委員会は、1845年の報告で7フィート軌間のほうが4フィート8.5インチ軌間より機関車の性能が優れていることは認めつつ、その差は僅かであると指摘している。一方で、軌間の広いほうが高い重心が許容されるため、火室やボイラーを大型化し、出力を向上させることができる。19世紀半ばまでは低い蒸気圧しか使えなかったため、この点は大きな差にはならなかった。しかし使用蒸気圧の増した19世紀末から20世紀であれば、軌間と蒸気機関車の性能にはより強い関係があった。20世紀初頭の段階では、狭軌の蒸気機関車は標準軌の半分程度の性能しか出せないとされていた。1912年に日本で行われた実験では、国鉄の2120形と呼ばれたタンク機関車のグループのうち2323号機を広軌化(1067mm→1435mm)して、左右車輪の間に空間ができたのを利用して火室の幅を広げた所、牽引能力が上昇して1067mm時には10‰勾配上で250tの列車を引けたものが1435mm時には350tまで牽引可能になった。1920年代のアメリカ合衆国では、標準軌でも不十分であり、6フィート(1829mm)などの広軌に改軌したほうがより高性能の機関車を設計できるという主張があった。 -コントーアハウス地区(Kontorhausviertel)は、シュパイヒャーシュタットに隣接するオフィスビル街である。19世紀後半から20世紀初頭に形成された一連のオフィスビルはコントーアハウス(Kontorhaus)と呼ばれ、日本では「商館(建築)」などと訳出される。それらは倉庫街の形成と急速な経済発展に対応して求められるようになったものだが、19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツ��見られた故郷保護運動およびそれに基づく故郷保護建築・故郷様式の影響を受けた。それらの運動や様式は工業化や合理主義化への反動という側面を持ち、アイデンティティを伝統の中に求めることを志向していたので、ハンブルクにおいても北ドイツの伝統的様式が再評価された。そして、ハンブルクにおいてどのような商館が望ましいかという議論になった際には、シカゴ流の合理性最優先の高層建築は拒絶され、歴史的価値や建築的価値を尊重する観点から、7階建てから11階建てまでとすることが決められた。 -富山県立神通中学校内の仮書庫の蔵書は、1949年(昭和24年)7月25日に移転されたが、早月加積等に疎開された蔵書のすべてを回収する作業にはこれより4年を要することとなった。また、旧富山市立図書館の蔵書と富山県立図書館の蔵書では図書分類の方式が異なっており、全蔵書の整理作業にも2年3箇月を費やすこととなった。その蔵書整理作業の完了と同時に富山県立図書館においては郷土資料の目録製作作業に着手し、1953年(昭和28年)11月4日に『志田文庫目録』を刊行したのを皮切りに、1955年(昭和30年)4月29日には『富山県郷土資料分類表』、1957年(昭和32年)6月6日には『立山黒部文献目録』、1962年(昭和37年)6月4日には『富山県郷土資料総合目録』を刊行している。また、郷土資料目録の制作作業が一段落してからは、各種重要資料のマイクロフィルム作成作業に着手し、1967年(昭和42年)5月11日に加越能文庫のマイクロフィルムを完成させ、同年6月21日からは明治以降の郷土新聞の撮影に着手した。 -1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区等で過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、それらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定した。後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわず、再度数年の充電期間に入る。その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。 -1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。9月10日に日本を出発した。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(WilliamJamesCraig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ......」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという。当時の漱石最後の下宿の反対側には、1984年(昭和59年)に恒松郁生によって「ロンドン漱石記念館」が設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの欧州連合(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館した。漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開された。 -1920年1月、ウォルトとアイワークスはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。だが、設立早々にウォルトはアイワークスを置いてカンザスフィルム社にアニメーターとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中でアニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。社員としての仕事の傍らで、映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭、それまでの切り抜き手法からセルアニメに高い可能性がある事を確信した。1920年、独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく、アブ・アイワークスを初め、ヒュー・ハーマンや、ルドルフ・アイジング、カーマン・マックスウェルなどの数人のアニメーター仲間を呼び寄せた。弱冠20歳のウォルトにとってこのLaughO'GramStudio社は最初の成功となったが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。 -学期中はしばしばドイツ語、チェコ語の演劇を見に出かけた。また、学期が始まってすぐに学生組織「プラハ・ドイツ学生の読書・談話ホール」(以下「談話ホール」)に入会しており、この組織の主催する朗読会、講演会にもよく参加した。「談話ホール」は450人の会員ほぼ全てがユダヤ人で、この時、学生委員会の委員長をカフカの又従兄弟にあたるブルーノ・カフカが務めていたが、カフカは彼との交流の跡は残していない。1902年10月、「談話ホール」を通じて、後にカフカの文学活動に対し、大きな役割を担う事になるマックス・ブロートと知り合う。ブロートはカフカより1歳年下であったが、当時すでに新進作家として名を成していた。ブロートは談話ホールの主催で「ショーペンハウアー哲学の運命と未来」と題する講演を行い、この際にニーチェを詐欺師と呼んだ事に対し、カフカが反駁した事が最初の出会いであった。また、この時期ポラックを介してフランツ・ブレンターノの哲学を信奉するサークルに加わった。サークルにはベルクマンやブロートも加わっていたが、カフカはその会合にはそれほど熱心ではなかった。1904年秋にはブロートから盲目の作家オスカー・バウム、哲学生フェーリクス・ヴェルチュを紹介され、週末に4人で集まって自作の原稿を読み合う様になった。この頃カフカはフローベール、トーマス・マン、ホーフマンスタール等に愛着を抱く様になっており、特にフローベールは、その後、長い間カフカの愛読する作家となった。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -餌になる小動物が触れた場合には、触手がそれに触れて餌が毒で麻痺してから、口に運んで丸のみにする。微小な餌を捕らえるものは、口盤の表面の繊毛によって餌が口に運ばれる。餌は胃腔に取り込まれ、消化液で分解され、吸収される。未消化物(糞など)は再び口から吐き出される。ただし、予想されるほどの餌を取ってはいないとの報告もあり、海水中の有機物を直接取り入れる仕組みがあるのではとの説もある。ただ、実際に捕食しているのは書籍などで紹介されているような大型の魚類などよりも小型のプランクトン性の甲殻類などであることが多いようである。また、近縁のイシサンゴ類と同様に体内に褐虫藻と呼ばれる渦鞭毛藻類に属する藻類を共生させており、ここから多くのエネルギーを得ている種も多く知られている。本州や九州など日本列島中央部の岩礁潮間帯で普通に見られるヨロイイソギンチャクが褐色をしているのがこの共生藻類の色によるものであるし、サンゴイソギンチャクなど珊瑚礁域などでクマノミと共生しているような大型のイソギンチャクもこうした共生藻類による栄養摂取に多くを依存しているものが多い。 -2013年、宮崎駿が戦国時代を舞台にした漫画を執筆中であると『月刊モデルグラフィックス』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『アーマーモデリング』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。2014年、『思い出のマーニー』を最後の作品として、スタジオジブリの制作部門が解体される。三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた。同年11月、第87回アカデミー名誉賞を受賞。日本人としては黒澤明以来2人目の快挙となる。同時受賞となった女優のモーリン・オハラは長年のファンで、会えたことに感動した。同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。京都府八幡市の石清水八幡宮の本殿で奉納された。2015年、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『毛虫のボロ』を制作中であることを明らかにした。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作はスティーブンスティーブンが担当している。2015年5月8日、沖縄・在日米軍基地再編における普天間飛行場の辺野古移転計画に反対する辺野古基金の共同代表に就任した。同年7月13日、日本外国特派員協会の要請に応じて東京都小金井市にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく沖縄に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて鳩山由紀夫内閣が提案した県外移設の実現を強く求めた。 -391年に即位した広開土王(好太王、在位:391年-412年)はいわゆる広開土王碑を残したことで名高い。この碑文は彼の死後にその功績を称揚する目的で建立されたものであり、4世紀末から5世紀初頭における東アジア史の重要史料となっている。彼の諡号である広開土王(広く領土を開いた王)の名は彼が各方面で大きな戦果を挙げ領土を拡大した事に因んでいる。彼は395年には北西の稗麗(契丹の部族)を撃破し、翌396年には朝鮮半島中部の百済へ親征してその王都漢城に迫った。これによって百済王を臣従させ58城邑の700村を奪取した。398年には東北の粛慎を攻撃して朝貢させ、また誓約を破って倭と和通した百済を再度攻撃するため平壌まで進軍した。そこで倭の攻撃を受けていた新羅が救援を求めてきたため、400年に新羅領へ出兵しその王都を制圧していた倭軍を駆逐した。更に敗走する倭軍を追って朝鮮半島南端部にあたる任那加羅まで進み、倭人と共にいた安羅兵も討ったという。404年には倭が海路で帯方地方に侵入したがこれも撃退した。407年にも百済へ侵攻して6城を奪い、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った。このような征服活動についての記録は前述の通り主に広開土王碑文の情報に基づいている。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、重要性の高い同時代史料として現代では高く評価される傾向にある。 -村雨と峯雲は3月5日8時30分にブイン沖に到着した。村雨では第二駆逐隊司令橘正雄大佐、駆逐艦長種子島洋二少佐ら艦の幹部が第一根拠地隊司令部を訪問したり、村雨に乗り組んだ海軍兵学校71期の候補生がショートランドの水路見学に出かけたりした。また村雨はここでさらに米を積むよう命じられていたが、米は艦底に積んでいてすぐには出せず、乾麺麭を100箱積むこととなった。16時、村雨と峯雲はブイン沖を出撃し、コロンバンガラ島へ向かった。村雨と峯雲は、ベララベラ島東方からベラ湾とブラケット水道を通過し、予定より30分遅れの21時30分にデビル島泊地に到着した。直ちに6隻から7隻ほどの大発が陸上から出てきて揚陸作業を行う。大発群を指揮した第八連合特別陸戦隊の副官は、食糧や弾薬を大発に直接積み込んでほしいと要望したが、出港時間を遅らせれば空襲を受けやすくなることもあり、常套手段だったドラム缶を海中に放り込んで陸上側がこれを回収する方法で物資を揚陸させた。1時間後には全ての作業が終了した。村雨と峯雲はコロンバンガラ島の東岸沿いを北上してブインへの帰途に就く。この出港の際、村雨と峯雲の艦首が潮と風の流れで西側に向いていたので、そのまま往路と同じコースを引き返す事も考えられたが、ニュージョージア海峡に出たら、ブイン、ショートランドまでは一直線であるという事もあって、東向きに回頭した上でコロンバンガラ島の東岸沿いを北上するルートが採られたのである。峯雲は一旦北向きに後進してから東向きに回頭し、村雨の後に続いた。 -イエローストーン国立公園では、再導入によって生物多様性が増えたことが報告されている。それはワピチの個体数の減少によって植生が増えたためであると考えられ、アカギツネや公園内では絶滅状態であったビーバーの個体数の増加が観察された。この動物相の変化は、オオカミがコヨーテの個体数を制御しているためであろうと考えられる。なお再導入後に、オオカミが家畜を襲う事件と、人がオオカミを殺傷する事件が起きるようになった。家畜被害のうちオオカミによることが確認されたものについては、政府および前述の「オオカミ補償基金」によって補償されている。 -只見川流域の開発では野沢発電所計画がそのまま継続していたが、着工までには至らなかった。それは当時世界恐慌のあおりを受けて日本の経済界も深刻な不況に陥り、それに伴って電力需要が低下した反面、電力開発は年々増強の一途をたどり電力過剰状態になったためである。東京電燈は野沢発電所計画の他に沼沢沼を利用した揚水発電計画を申請していたが、電力過剰に対応するため二事業の一時休止を1929年(昭和4年)に申請、内諾を受け保留した。だが1929年を境に電力需要がにわかに増加に転じたことから1933年(昭和8年)に再開した。だが野沢発電所計画は長大なトンネル掘削は不経済であることから計画の変更を余儀なくされており、捗らないままであった。だがその他の只見川流域における開発は計画が進捗し、1925年(大正15年)から1927年に掛けて沼沢沼揚水発電計画を始め只見川第一から第五発電所、白戸川第一・第二発電所、袖沢発電所、叶津川発電所の10地点の水力発電所計画を申請し、福島県の許可を得た。これにより野沢発電所を含めた11発電所の総出力は34万2000キロワットにも及んだ。 -日本語の敬語体系は、一般に、大きく尊敬語・謙譲語・丁寧語に分類さ��る。文化審議会国語分科会は、2007年2月に「敬語の指針」を答申し、これに丁重語および美化語を含めた5分類を示している。尊敬語は、動作の主体を高めることで、主体への敬意を表す言い方である。動詞に「お(ご)〜になる」を付けた形、また、助動詞「(ら)れる」を付けた形などが用いられる。たとえば、動詞「取る」の尊敬形として、「(先生が)お取りになる」「(先生が)取られる」などが用いられる。語によっては、特定の尊敬語が対応するものもある。たとえば、「言う」の尊敬語は「おっしゃる」、「食べる」の尊敬語は「召し上がる」、「行く・来る・いる」の尊敬語は「いらっしゃる」である。謙譲語は、古代から基本的に動作の客体への敬意を表す言い方であり、現代では「動作の主体を低める」と解釈するほうがよい場合がある。動詞に「お〜する」「お〜いたします」(謙譲語+丁寧語)をつけた形などが用いられる。たとえば、「取る」の謙譲形として、「お取りする」などが用いられる。語によっては、特定の謙譲語が対応するものもある。たとえば、「言う」の謙譲語は「申し上げる」、「食べる」の謙譲語は「いただく」、「(相手の所に)行く」の謙譲語は「伺う」「参上する」「まいる」である。なお、「夜も更けてまいりました」の「まいり」など、謙譲表現のようでありながら、誰かを低めているわけではない表現がある。これは、「夜も更けてきた」という話題を丁重に表現することによって、聞き手への敬意を表すものである。宮地裕は、この表現に使われる語を、特に「丁重語」と称している。丁重語にはほかに「いたし(マス)」「申し(マス)」「存じ(マス)」「小生」「小社」「弊社」などがある。文化審議会の「敬語の指針」でも、「明日から海外へまいります」の「まいり」のように、相手とは関りのない自分側の動作を表現する言い方を丁重語としている。 -サンフランシスコ動物園ではタチアナを殺処分しないことを決め、当時の園長マヌエル・モリネドも「このトラは通常のトラと同様にふるまっていた」との見解を述べた。コメヤンは数回の手術と皮膚移植を受けたが、右腕に深い傷跡と障害が残ることになった。コメヤンはトラの飼育場が危険な状態で放置されていたままだったために受傷したと主張し、2008年12月12日にサンフランシスコ市当局と動物園側を相手取って裁判を起こした。なお、トラの飼育場は2007年9月に改築されて再開していた。この裁判は和解が成立したが、その内容は非公表とされた。コメヤン側の弁護士、マイケル・マンデルは「円満に解決した」と述べたが、サンフランシスコ市当局はコメントを発表しなかった。和解金はサンフランシスコ市当局ではなく保険会社から支払われたが、その金額は明らかにされていない。 -1845年2月よりポーは『ブロードウェイ・ジャーナル』に職場を移し、自作を寄稿したほか文芸時評を担当した。同誌でポーはヘンリー・ワーズワース・ロングフェローを剽窃者として論難しており、ロングフェローの擁護者との間での論争に発展したが、この論争はポーの分が悪いままに終わっている。6月には作品集『物語集』を出版して予想外の売り上げを収めた。文名が高まるとともに雑誌経営への希望を依然として持ち続けていたポーは、12月に『ブロードウェイ・ジャーナル』の経営権を譲り受けたが、しかし資金繰りに苦しんだ結果わずか1ヶ月で手放さなければならなくなった(翌年に廃刊)。生活は窮乏し、1846年には妻を連れてブロンクス区にある木造家屋に転居した。1847年1月、ヴァージニアは貧苦の最中この小屋で息を引き取った。この年よりポーは「散文詩」と銘うった壮大な宇宙論『ユリイカ』の完成に精力を傾けた。しかし翌年この論文をもとに行なった講演は明らかな失敗に終り、7月に刊行された書籍も売れ行きは伸びなかった。この頃、ポーは夜会で出合ったサラ・ヘレン・ホイットマン夫人や、講演で出合ったアニー・リッチモンド夫人と恋愛関係を持った。特にホイットマン夫人に対しては再三の求婚を行い、ポーが酒を絶つことを条件に9月に婚約が成立したものの、その後文学愛好家とバーで酒を飲んだことが夫人の耳に入り、このために婚約は破談となってしまった。1849年、ポーは仕事のために戻ったリッチモンドで青年時代の恋人で未亡人となっていたエルマイラ・ロイスターと再会し、再三の求婚の後に彼女と婚約した。 -戦後には図書館事業が軌道に乗った。キリスト教関係書、英語系文書、新聞雑誌の収集に重点を置き、1948年には「基督教文庫」を設置したが、仏教書もキリスト教関係書と同様に収集する配慮を行っていた。1946年(昭和21年)7月頃の八幡町の人口は約14,000人だったが、図書館の蔵書数は15,788冊、会費制の読書会員は361人であり、来館者数は1人あたり約80人だった。図書の貸出のほかに、巡回文庫、英語短期講習会、詩歌同好会、講演会、座談会などの事業を行っている。1947年(昭和22年)には貸出図書の紛失が相次いだため、1か月10円の会費を納めた会員にだけ貸出を行う制度に切り替えた。 -ミネアポリスの歴史や経済成長とは切っても切り離せない、湖沼や小川、滝など水の多い地形は最終氷期に形成された。1万年ほど前にミネソタを覆っていた氷河が後退した際、地表は侵食されてミシシッピ河床やミネハハ河床ができ、近代のミネアポリスにとって重要な滝が形成された。ミネアポリスとその周辺はほぼ平坦な地形で、その地下にはアーテシアン帯水層が広がっている。ミネアポリスは北緯44度58分48秒西経93度15分51秒に位置している。アメリカ合衆国統計局によると、ミネアポリス市は総面積151.3km2である。そのうち142.2km2が陸地で9.1km2が水域である。総面積の6.01%が水域となっている。水域のうちミシシッピ川と3本の小川の水はミネアポリスの水道水源となっている。また、市内には12の湖、3つの大きな沼、および5ヶ所の湿地がある。市の標高は264mである。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -尾翼を含む尾部はA310と共通である。垂直尾翼は垂直安定板と方向舵で構成され、高さが8.3メートルである。水平尾翼は水平安定板と昇降舵で構成され、翼幅が16.26メートルである。航続距離延長型のA300-600Rでは、水平安定板の内部には燃料タンクが設けられ、主翼タンクとの間で燃料を移動させ、機体の重心位置を制御するシステムが搭載されている。このシステムはA310で実用化されたものと同様のもので、機体姿勢を維持する際に発生するトリム抗力を抑制することができる。A300-600で使用されている複合材料は、CFRPとGFRPのほか、アラミド繊維(ケブラー)強化複合プラスチック(AFRP)がある。CFRPの使用部位は、垂直安定板の一次構造部材のほか、方向舵や昇降舵、降着装置の格納扉などである。GFRPとAFRPの使用部位はいずれも二次構造部材で、GFRPが垂直安定板の前縁と後縁、水平安定板の翼端部、AFRPが機首のレドーム、主翼のトラック・フェアリングやパイロンカバーの一部などである。その��か、主翼のアクセスパネルなどにはチタン合金が用いられている。 -同じトゲウオ亜目に所属する近縁のシワイカナゴ科・クダヤガラ科にも、類似の行動が知られているが、トゲウオ科の繁殖行動はより複雑に特化している。トゲウオ亜目の中で最も原始的なグループとして位置付けられるシワイカナゴ科では、卵は海藻にそのまま産み付けられ、むき出しのままである。雄は卵をつついて固める動作をするが、その後は特に保護することもなく、巣から離れてしまう。クダヤガラ科のチューブスナウトでは海藻を束ねた簡素な巣を作るようになるが、やはり孵化まで卵を見守ることはない。 -事故のきっかけは、離陸のための機首上げ操作中に左主翼下の第1エンジンとパイロンが機体から脱落したことであった。これにより油圧系統が損傷して左翼のスラットが意図せず格納されてしまい、左翼だけが低速で失速しやすい状態となった。さらに、第1エンジンからの給電も無くなったことで警報装置の一部が機能しなくなり、機体が意図しない空気力学特性となったことをパイロットは認識できなかった。パイロットはエンジン停止時の緊急時の手順通りに離陸・上昇を継続したが、その手順では飛行速度を落とすことになっていた。これにより左翼のみ失速域に入ってしまい、機体が急激に左に傾き始めた。さらに左旋回と機首下げも発生して制御不能に陥り、離陸からわずか30秒で空港近郊に墜落した。当初は事故原因として設計不良が疑われ、アメリカ連邦航空局(FederalAviationAdministration)はDC-10型機の型式証明の効力を停止した。この措置はアメリカ国外にも波及し、世間からDC-10型機の安全性に厳しい目が向けられた。詳細な調査の結果、エンジンとパイロンが機体から分離した原因は、航空会社の不適切な整備手順であることが判明した。事故調査報告書の発行後、連邦航空局による整備手順の監督体制が強化されたほか、機体の安全性を向上するための設計変更命令が発行され、エンジン停止時の飛行速度も見直された。2011年に遺族らの活動により墜落地点の近くに追悼施設が建設された。 -反ストラトフォード派は、戯曲を書くのに必要とされる教育をシェイクスピアが受けていた証拠がないという点をしばしば指摘する。一方、シェイクスピアは14歳までストラトフォードのキングス・スクール(エドワード6世校、KingEdwardVISchoolStratford-upon-Avon)に出席する権利を与えられており、そこでラテン詩人やプラウトゥス(Plautus)のような劇作家について学んだであろうというのがストラトフォード派の立場である。ただし、当時の学籍簿は紛失しているので、シェイクスピアがこの学校に出席していたかどうかは明らかではない。シェイクスピアが大学に通ったという証拠もないが、これはルネサンス期の劇作家としては珍しいことではない。伝統的に学者達は、シェイクスピアはある程度独学で学んだのだろうと推測している。仲間の詩人であり劇作家のベン・ジョンソンが、シェイクスピアよりも低い身分の出身でありながら桂冠詩人にまでなったことがよく似た例として挙げられる。シェイクスピアと同様、ベン・ジョンソンは大学を卒業していないばかりか恐らく入学さえしておらず、それにもかかわらず後年オックスフォードとケンブリッジの両大学から名誉学位を授与される程の碩学になっている。 -太陽系外惑星または系外惑星とは、太陽系の外にある、太陽以外の恒星を公転する惑星である。その存在を示すとされた初めての証拠は1917年に記録されたが、その証拠は認められなかった。科学的観測に基づいて初めて太陽系外惑星が発見されたのは1988年であったが、後にそうであると確認されるまでは太陽系外惑星としては受け入れられなかった。初めて太陽系外惑星が正式に確認されたのは1992年で、太陽系外惑星エンサイクロペディアの統計によると2020年10月1日時点で4,354個の太陽系外惑星が確認されており、惑星系を持つことが確認されている恒星は3,218個で、そのうち712個が複数の惑星を持っている。惑星「候補」も含めると総数は同時点で6,908個であり、惑星系を持つ恒星は5,541個、そのうち884個が複数の惑星を持っている。 -1904年まで近衛騎兵を勤めたが、1897年から1903年にかけては王室厩舎に出向していた。王室厩舎は馬に関する帝国全体の管理を行う部門であり、マンネルヘイムはより専門的な馬の知識を習得し、他国から優れた種馬や特別な軍馬を調達した。 -夜行性で、日中は海底で休み、夜に岩の割れ目に潜む魚、貝、甲殻類、軟体動物、ウミヘビなどを食べる。単独で生活するが、季節的に大きな群れを作ることもある。卵生で、雌は数十個の卵鞘を、粘着糸で岩などに固定する。人に無害で飼育もしやすいため、ダイビングや水族館で好まれる。肉、鰭、肝油などを目的とした漁業の対象となっており、生息数が減少している可能性が高いため、IUCNは絶滅危惧種としている。 -エドワード7世は、1841年11月9日、ヴィクトリア女王とその王配アルバート公子の第2子として生まれる。同年12月4日にプリンス・オブ・ウェールズの称号を得る。1842年1月25日に洗礼を受け、「アルバート・エドワード」と名付けられた。「バーティ」と愛称された。幼少期・少年期は母と父の厳格な教育方針のもと家庭教育で育てられた。1852年にはベルギー、1855年にはフランスを訪問した。1859年1月から5月にかけてはイタリアに留学した。同年10月にオックスフォード大学に入学した。在学中の1860年7月から11月まで英領カナダ(英語版)やアメリカ合衆国各地を歴訪した。1861年夏に陸軍に入隊。同年10月にはケンブリッジ大学へ転校した。不良行為が多く、11月には父アルバートが体調が悪いのを押してケンブリッジを訪問し、説教された。これが原因でアルバートは体調を悪化させ、12月に崩じた。以降女王はバーティを疎むようになり、公務から遠ざけるようになった(→大学時代)。 -深海魚が獲得した低水温・高圧力環境への適応能力を解析するためには、できるだけサンプルを生きたまま捕獲し、地上の研究施設で長期間飼育できることが望ましい。捕食や産卵のために浅海に移動する種類は、通常のアクアリウム設備でもある程度の飼育が可能であるが、実際の生育環境における振る舞いが再現される保証はない。しかし、深海魚を生体のまま捕獲することには実際上の多くの困難がある。最も重要な問題は浮上に伴う急激な減圧と海水温の上昇であり、多くの場合深海魚に対して致死的なダメージを与えることになる。また、強すぎる環境光や捕獲そのものによるストレスが、視覚や生理調節機能に影響を及ぼす可能性もある。深海探査技術の発展とともに捕獲機器の開発・改良も進み、1970年代には低水温維持機能が備えられるようになった。1979年に報告された高圧維持水槽は1980年代にかけて改良が重ねられ、ソコダラなど浮き袋が発達した底生性深海魚の生体捕獲を可能としたが、長期的な飼育維持は依然として困難な状況が続いていた。2000年代初頭に日本の海洋研究開発機構(JAMSTEC)によって開発された「ディープアクアリウム」は、深海魚の捕獲と高圧下での飼育を単独で行うための装置である。中心部分となる水槽は高圧に耐えるため球形をしており、200気圧の水槽内圧を維持できる。深海探査艇に搭載したディープアクアリウムで深海魚を捕獲した後は、水槽内部の高圧環境を維持したまま地上に運搬、飼育を行うことが可能である。水交換や給餌も減圧を起こすことなく可能で、深海生物研究の新たな手段として期待されている。 -ビザンツの統治に不満を持っていたブルガリアの人々は蜂起に参加し、ペタルとアセンは国家の継承性を強調するために第一次ブルガリア帝国時代の首都だったプレスラフを制圧した。1187年の夏にイサキオス2世が北ブルガリアに親征を行うと、ペタル兄弟はドナウ川北方の遊牧民のクマン人の元に逃れた。イサキオス2世の軍はブルガリアを破壊し刈り取った穀物を焼き払った後、解放運動は終息したと判断してコンスタンティノープルに帰還した。同年の秋にクマン人を同盟者としたペタル兄弟はブルガリアに帰国、ドナウ川沿岸部を奪回し、蜂起はトラキア、ロドピ、マケドニアにも波及した。 -1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが、1970年から妻子と別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医のジャネット・ジェプスン(後にSF作家)と再婚した。アシモフとジャネットはノービー(Norby)シリーズなどの共著を残している。 -従来、食中毒の原因となったきのこの同定方法としては、食物の残りや患者の吐瀉物を顕微鏡で観察するのが主流であったが、有毒成分を直接検出する方法も研究されている。ツキヨタケに関しては、中毒患者が食べ残した料理の中に含まれるイルジンSをガスクロマトグラフ質量分析装置(GC/MS)で定量する方法(試料の処理方法や分析条件にもよるが、イルジンSの回収率は、ツキヨタケ以外の食用きのこにこれを混入した場合で84-94パーセント、ツキヨタケを加えた豚汁を分析試料に用いた場合で74.8パーセント)がある。また、リアルタイムPCR法による同定も試みられている。ドクツルタケ・クサウラベニタケ・テングタケなど、毒成分を異にする他の有毒キノコ、あるいは食用キノコが試料中に混合していても、個々の有毒成分を迅速に定量可能な方法が確立されつつある。このほか、子実体には、細胞毒として働くジヒドロイルジンM(dihydroilludinM)や、ネオイルジン(Neoilludin)AおよびBなども含まれている。 -13歳のときにホラーサーン地方の一部とカスピ海南岸のマーザンダラーンの総督に任じられる。1409年に王位継承戦を制したシャー・ルフがサマルカンドを制圧すると、ウルグ・ベクはサマルカンド知事に命じられる。これによりウルグ・ベクを統治者とする地方政権がサマルカンドに成立し、支配期間は40年近くに及んだ。 -山麓にある新善光寺の初代住職が、1885年(明治18年)に北海道新西国三十三番観音安置の許可を受けたことより、山道が開かれ、1886年(明治19年)、参道が整備されると、同年6月1日に山開き大祭がとり行なわれた。1901年(明治34年)には2代住職により、各所に西国三十三所観音霊場を模した33体の観音像が置かれ、山頂に石堂が造られた。以来、6月1日には「藻岩山山開き」として、信者が山頂に参拝する行事が毎年行われ、明治時代末頃には、山開きは札幌の年中行事として親しまれた。参道の幅は1932年(昭和7年)に拡張された。その後、石堂は観光施設建設のために山頂の別の場所に移設され、1973年(昭和48年)に六角堂として再建された後、山開き大祭108回となった1992年(平成4年)に本格的建築として落成し、今日の藻岩観音奥の院(正式名称「浄土宗観音寺藻岩観音奥之院」)になった。堂内には竜頭観音が安置されており、堂の傍らにある水かけ観音は、かつての石堂に安置された石像である。山頂に至る藻岩観音の参道は、今日の主要な藻岩山登山道(慈啓会病院前コース)となっている。 -1998年(平成10年)4月には、一宮市・尾西市・稲沢市・平和町・木曽川町・佐織町・八開村に対する広域貸出を試行開始した。2002年(平成14年)には尾張西部図書館運営協議会を構成する3市3町の広域貸出を正式に開始している。2000年9月には延べ貸出冊数が100万冊を突破し、2001年9月には延べ入館者数が100万人を突破した。2001年4月には閉館時間を延ばして19時までとし、2001年度からはゴールデンウィーク期間中の休館日が廃止された。2002年版『日本の図書館』(日本図書館協会)によると、人口2万人以上で図書館を有する231町村の中で、祖父江町の延床面積(2,287m2)は38位、年間貸出冊数(10.17冊/人)は39位、年間購入冊数(10,540冊)は28位、年間資料費(22,297,000円)は33位の高水準だった。 -1836年8月、ニューヨークの不動産起業家、オーガストゥス・チャップマン・アレンとジョン・カービー・アレンの兄弟はバッファロー・バイユー周辺のこの地に都市を創設すべく、6,642エーカー(約27km2)の土地を購入した。サンジャシントの戦いで名を馳せた将軍で、その年の9月にテキサス共和国の大統領に選出されたサミュエル・ヒューストンの名を取って、アレン兄弟はこの都市をヒューストンと名付けることを決定した。ヒューストンは翌1837年6月5日に市制を施行し、ジェームズ・サンダース・ホルマンが初代市長に就任した。またその年、ヒューストンはテキサス共和国の暫定首都、およびハリスバーグ郡の郡庁所在地となった。1840年、バッファロー・バイユーに建設された新しい海港における貨物の積降や水上交通のビジネスを活性化させるため、ヒューストンには商業局が設置された。 -1994年にシングルとして発売された時、作られたリミックスはインストゥルメンタル版だけだったが、これもシングルには収録されなかった。キャリーは2000年に日本でこの曲を再発売し、「ソー・ソー・デフ・リミックス」(英:theSoSoDefremix)と銘打った新リミックス版を収録した。リミックス版ではボーカルが新収録されたほか、アフリカ・バンバータ&ソウルソニック・フォースの『プラネット・ロック』のサンプルを含む、より激しくアーバンなビートに編曲され、ゲスト・ボーカルとしてジャーメイン・デュプリとバウ・ワウが参加した。このリミックスは、2001年のコンピレーション・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』に特典トラックとして収録された。 -ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。 -地震が発生した当日、菅直人首相は自身を本部長とする緊急災害対策本部を設置した。これは大規模な災害が発生した場合に内閣府に設置することと法律で定められている臨時の機関であるが、これまでに設置された例はなく、東日本大震災の発生によって初めて設置されることとなった。菅第2次改造内閣は、平成23年度本予算案を衆議院本会議で賛成多数で可決させたものの予算関連法案は成立させるめどが立たず、与野党間の対立も激しさを増していたが、震災発生後は一転し、震災発生から間もなく菅直人首相が首相官邸に集めて与野党党首会談を行い、「救国」のための協力を要請した。野党側も対立姿勢を修正した。14日には震災対応特措法の早期成立が与野党内で合意された。2011年(平成23年)4月11日の閣議決定により、東日本大震災復興構想会議が設置された。同年6月24日に東日本大震災復興基本法が公布・施行され、東日本大震災復興対策本部が内閣に設置された。7月25日、東日本大震災の復旧・復興関連経費を盛り込んだ平成23年度第二次補正予算(1兆9,988億円)が成立した。11月20日、東日本大震災関係経費11兆7,335億円などを柱とする平成23年度第三次補正予算(12兆1,025億円)が成立した。12月7日、東日本大震災復興特別区域法が成立した。12月9日、復興庁設置法が成立し、震災からの復興を目的として期間を定めて設置される復興庁の所掌事務、組織が具体化された。2012年(平成24年)2月10日、復興庁が発足した。2012年(平成24年)1月27日、東日本大震災に関する15組織のうち、「原子力災害対策本部」「政府・東京電力統合対策室」「原発事故経済被害対応チーム」「緊急災害対策本部」「被災者生活支援チーム」「官邸緊急参集チーム」「各府省連絡会議」「経済情勢に関する検討会合」「電力需要に関する検討会合」「電力改革及び東京電力に関する閣僚会合」の10組織が公文書管理法が主旨とする議事録を未作成、そのうち5組織では議事概要も未作成または一部作成であったとする調査結果を発表した。野田佳彦首相は午前の参議院本会議で「文書��随時記録されなかったのは遺憾。会議の意志決定過程を把握できる文書作成は国民への説明責任を果たすため極めて重要」と答弁した。 -Eolophus属、Lophocroa属およびCacatua属は明確で議論の余地の無いグループないし単系統群を形成する。この単系統群に属する種は白変種であり、また性的二型性を示すことはない。Eolophus属(モモイロインコ)をこのほかの属のBasal(初期の分岐)とすることで、さらにまた、Lophochroa属とCacatua属を互いに直近の関係(姉妹クレード)とすることで、この単系統群内での関係は確立したものとなっている。Cacatua属はさらにLicmetis亜属(一般にcorellaとして知られている、アカビタイムジオウムなど)とCacatua亜属(いわゆる白色オウム、"whitecockatoo")へと分割される。紛らわしいことに、この"whitecockatoo"という語は属全体(Cacatua属)のみならず、この単系統群全体を指す名称としても使われている。残りの6種は羽毛の大部分が黒である。これらのうち、ヤシオウムはそれ自身で単独のProbosciger属を構成しており、オウム科の最も初期の分岐の系統を引いている。Calyptorhynchus属の5種のオウムは一般にクロオウムとして知られておりこれらは二つの亜属-Calyptorhynchus亜属とZanda亜属-に分割される。前者のグループは性的二色性であり、雌は特徴的な縞模様の羽毛をもつ。さらに、2種は、ひな鳥が餌をせがむときの鳴き声の違いによっても特徴づけられる。 -今中慎二は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手・コーチ等の野球指導者、野球解説者だ。愛称は「チュー」または「イマチュー」である。現役時代は中日ドラゴンズに所属し、最多勝利や沢村栄治賞を獲得するなど、1990年代のNPBを代表する左腕として活躍した。今中慎二は大阪府門真市の古川橋駅周辺で生まれ、3歳年上の兄の影響で浜町小学校2年生の時に野球を始めた。本来は右利きだが、この時に近所の中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった。3年生になると兄と同じ軟式野球チームに入り、4年生からは投手になった。門真第一中学に進むと同年設立されたリトルシニアチームである門真シニアに入団し、1年目からエースとなっている。当時から球速があったが、チームの守備力が高くない事などから大会ではなかなか勝てず、野球を辞めようかとも考えたという。 -1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発し、アメリカ大使館を訪れて背広服姿でダグラス・マッカーサーと並ぶ写真が新聞に報道された。公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣(ふんまん)を漏らしたという。また、三谷と焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には、天皇制を攻撃し始めたジャーナリズムへの怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している。なお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。 -1870年代から80年代には、それまで駅舎ファサードによって隠されていたトレイン・シェッドが、直接市街地と向き合うようなデザインが現れてくる。この傾向はドイツにおいて顕著であり、1882年に開業したベルリン市街鉄道の主要駅では、駅舎の機能が高架下に収められたこともあり、アーチ型のトレイン・シェッドそのものがほぼ駅の外観となった。もっともこうした動きには抵抗もあり、ブダペストでは1877年に開業した西駅はトレイン・シェッドの前面が市街に向かって露出していたのに対し、奇異感を覚える市民が多く、1884年開業の東駅ではトレイン・シェッドはファサードで隠されている。一方でイギリスでは駅舎とトレイン・シェッドを別のものとする考え方が続いた。またこの時期には、コンコースの建築にもトレイン・シェッドの影響が現れている。コンコースの屋根は線路やホームを覆っているわけではない。しかし隣接するトレイン・シェッドと連結した空間として、トレイン・シェッド同様の高い屋根を持つ広い空間が造られた。このような変化はまずアメリカで現れ、ヨーロッパにも波及した。 -1980年代、高潮による北海からの海水の流入をせき止め、洪水を防止するテムズバリアが完成した。1986年、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。2000年、グレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立された。ミレニアム記念事業の一環として、ミレニアム・ドーム、ロンドン・アイ、ミレニアム・ブリッジが建設された。2005年、ロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄車両とバスが爆破された。2012年、第30回オリンピックが開催された。1908年や1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界1位の都市と評価された。2020年、フランスのエマニュエル・マクロン大統領より、レジオンドヌール勲章を授与される。 -まず佐久間村、豊根村、富山村、天龍村の各町村にそれぞれ対策委員会を設置して団体交渉を行い、個人交渉による不透明な補償を排して透明性の高い交渉を基本とした。その上で家屋補償では建築技師に1軒ごとの測量と製図、家屋の材料を吟味させて補償価格を決定。農地と山林については作柄に応じて坪単価・用材別単価で価格を算定した。また流筏業者を始め、ダム建設によって転業や廃業を余儀なくされる住民には推進本部に所属する社員が木目細やかな対応を行い、就職先斡旋や生活設計相談に応じた。さらに公共補償については学校、道路、橋梁などの公共物の新築・移築・増築を全て電源開発が請負い、当時の額で17億円を投じてインフラストラクチャー整備を行った。この佐久間ダムにおける電源開発の補償姿勢は同時期の田子倉ダム補償事件と同様に高額な補償額での妥結を主としており、河川行政を担当し多目的ダム建設を各地で進めていた建設省(のちの国土交通省)は、補償額高騰による事業費の圧迫を嫌う立場から特に異議を唱えた。当時の建設省による水没補償に対する姿勢は、例えば1953年に建設された石淵ダム(胆沢川)における水没住民への態度が1963年(昭和38年)に科学技術庁(現在の文部科学省)発行の『石淵貯水池の水没補償における実態調査報告』において、「国益を強調し自らの立場を高める権威主義と強制収用をちらつかせる強圧的態度を貫き、水没住民を思い遣る態度は全く見られない」と厳しく批判されており、同時期施工中だった藤原ダム(利根川)や鎧畑ダム(玉川)などでも住民との軋轢が生じた。だが電源開発は建設省の異議に対し「補償交渉は一片のペーパープラン通りには進まない」として住民本位の補償交渉を進めた。電源開発の補償に対する姿勢は当時総裁であった高碕達之助の強い意志によるもので、御母衣ダムにおける「幸福の覚書」や荘川桜の移植などダム・発電所建設における基本方針となり、1968年(昭和43年)に施工された九頭竜ダム(九頭竜川)において「補償交渉が完了するまではダム工事には着手しない」という「九頭竜補償方式」が確立された。一方国による水没住民への明確な補償指針が示されるのは、蜂の巣城紛争を経た1973年(昭和48年)の水源地域対策特別措置法を待たなければならなかった。 -コックピットは、ロックウェル・コリンズ社のシステムを採用して6台のカラーブラウン管を備えたグラスコックピットとなっている。標準搭載されている主要な操縦システムとしては、二重化された自動操縦装置をはじめ、対地接近警報装置、ウインドシア探知装置、デジタル気象レーダー、空中衝突防止装置、フライト・データ・レコーダーなどがあげられる。また、オプションとしてカテゴリーIIIa条件下で着陸が可能な計器着陸装置なども用意されている。CRJはビジネスジェット機チャレンジャーの設計を流用して開発され、胴体断面をそのままに胴体長を延ばすことでラインナップの拡充が進められた。FAAやEASAの型式証明書でもチャレンジャーの派生型と位置付けられており、証明書中のモデル名はチャレンジャーと同じくCL-600-XXXXである(XXXXには機種ごとに数字とアルファベットが割り振られている)。ビジネスジェット機からの設計流用・拡張により、開発費が低減されるとともに、各モデルの共通性が高いという点も評価され、顧客である航空会社に広い選択肢を提供することができた。しかし、チャレンジャーは当時のビジネスジェットとしては太い胴体であったが、客室内の改良による寸法拡大には限界があり、はじめからリージョナル旅客機として設計され、広い胴体断面を持つエンブラエルE-Jetシリーズが登場したことで、市場競争力が低下した。 -1962年、南米のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスに出場し決勝に進出した。ウルグアイのペニャロールとの対戦となったが、1勝1分で迎えた最終戦でペレの2得点などで勝利し、ブラジル勢として初のタイトルを獲得した。この勝利によりインターコンチネンタルカップへの出場権を得てエウゼビオを擁するポルトガルのSLベンフィカと対戦。ホームでの第1戦は自身の2得点などで3-2と勝利。敵地リスボンでの第2戦も好調なプレーを維持。ベンフィカの守備陣を翻弄し3得点1アシストという活躍で5-2と勝利を収め、クラブ世界一となった。なおリスボンで行われた試合を「私のキャリアにおいて最高の試合」「素晴らしい内容で、生涯忘れることの出来ない芸術的な試合」と語っている。翌1963年にもコパ・リベルタドーレスに出場してアルゼンチンのボカ・ジュニアーズを下して大会2連覇、インターコンチネンタルカップにおいてもイタリアのACミランを下して2年連続クラブ世界一となった。 -1968年(昭和43年)3月9日、患者や遺族の計28人が原告となって婦中町(現:富山市婦中町)、富山市、大沢野町(現:富山市大沢野地区)の各被害地域を代表して14件(患者1人につき1件)の裁判を起こす。被告の三井金属鉱業の加害責任を明らかにする提訴の趣旨から患者1人につき400万円、死者1人につき500万円の慰謝料を請求だけにとどめた。審理では神岡鉱山や被害地域などの現場検証を実施し、原告は莫大な資料や萩野昇らの専門家の証言などによってカドミウムの毒性やイタイイタイ病との因果関係の立証に努めた。36回の口頭弁論の末、1971年(昭和46年)6月30日に富山地方裁判所が1審判決を下した。裁判所の趣旨は「(1)水田土壌・河川などのカドミウムなどの重金属類による汚染は被告の神岡鉱業所からの廃水が神通川上流の高原川に長期間、放流されたことによって起きた。(2)イタイイタイ病の主因はカドミウムである。(3)被告側は鉱業法109条により損害賠償責任を有する。慰謝料については被害者が被った肉体的および精神的苦痛の甚大さ、被告の損害賠償に対する不誠実さを考慮し、近年の死者には500万円、それ以前の死者および生存患者には400万円が相当である。」で原告側の勝訴となった。三井金属鉱業は1審判決を不服として即日、控訴した。1972年(昭和47年)8月9日に名古屋高等裁判所金沢支部は被告側の控訴を棄却するとともに、原告側の附帯控訴を認め、慰謝料額を倍増させる、原告側ほぼ全面勝訴の判決を下した。控訴審判決の内容は次のとおりである。「(1)土壌などのカドミウムなどの重金属類による汚染原因は第1審と同じ。(2)イタイイタイ病の主因は第1審と同じくカドミウムである。(3)財産上の損害については被害者の救済が遅れるのを防ぐため、慰謝料の額に含んで請求することは許される。ただし、損害額については具体的状況によって算出するべきであり、個人事情を考慮せずに一律に算定請求するのは許されない。(4)被告側は慰謝料として死亡患者全員に1000万円、生存患者には800万円を支払う。」 -ヒトに発症するリンパ系フィラリア症の経過は、無症候期、急性期、慢性期があり、感染初期の罹患者は自覚症状がなく感染していることに気付かないことが多い(無症候期)。ただし、無症状であってもすでに罹患者はリンパ系組織各所や腎臓に障害を起こしており、人体の免疫機能への影響が始まっている。また、体内にミクロフィラリアがいても無症状のまま一生自覚症状が出ない場合もある。無症候期から急性期に進行する���合、感染から1年程度経過した頃、突然何の前触れもなく悪寒や高熱などの熱発作と戦慄を起こす。この最初の熱発作は数日間で治まるが、その後も悪寒や発熱を伴う熱発作を長期間にわたり何度も繰り返すことが多い。このようにフィラリア症と一口に言っても、その症状は一様ではない。適切な治療を行わないまま長期間放置すると、体内のフィラリア虫が成長・増殖して慢性期に入る。こうなってしまうと成虫になったフィラリア虫がリンパ管やリンパ節に居座り、リンパ液の流れを塞いでしまう。このようなリンパ液の閉塞による循環障害が引き金となり、リンパ系フィラリア症特有のさまざまな病状が現れる。リンパ系フィラリア症の慢性期には、象皮病や陰嚢水腫・乳房肥大、乳糜尿のような特有の症状が知られている。 -岡部はアメリカ遠征時に、現地の競馬関係者が馬を中心に行動し、馬と対等の立場に立って行動することに感銘を受けた。岡部はその経験をもとに、競馬の主役をあくまで馬とみなし、馬と同じ目線に立って馬の気持ちをくみ取る馬優先主義の理念を提唱した。具体的には人間の抱く無理な夢ほど馬にとって迷惑なことはない、無理を強いると馬の一生が変わってしまうという考えに立ち、馬の将来を見据えた育成、調教、レース、ローテーション管理を行うことを提唱した。その対象は岡部自身も「年の一度の最高のレース」と認める東京優駿(日本ダービー)にも向けられ、ダービー出走が目的化してしまい、発育が十分でない競走馬に無理なトレーニングを課した結果能力が削がれてしまう例も数多くあるとし、ダービーだけをもてはやすことには疑問を呈した。岡部は未完成な競走馬のダービー出走にこだわったことで馬の能力を削いだ実例として、しばしばマティリアルの名を挙げる。また、1990年に八大競走のうち桜花賞を除く7つの優勝を達成してからは桜花賞を勝つことができるかどうかに競馬ファンおよびマスコミの注目が集まったが、岡部は「成長途上にある3歳牝馬の将来のことを考えると勝利至上主義にはなれない」という理由から優勝にこだわりはないと発言していた。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -ベルゴリオは1958年3月11日にイエズス会に入会し、ブエノスアイレス特別区ビジャ・デボート区の神学校で司祭になるための勉強を始め、1963年チリで教養課程終了後、ブエノスアイレス州サンミゲル市のサン・ホセ神学院で哲学を学んだ。その後1964年から1965年にかけて、サンタフェ州の無原罪(インマクラーダ)学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えた。1967年、ベルゴリオは本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学。 -海王星の内部構造は天王星と似ている。海王星の大気は全質量の5~10%を占め、大気圏の厚さは核に向かって全体の半径の10~20%にまで広がっていると考えられる。大気圏の最下層での大気圧は約10GPa、すなわち地球上の大気圧の約10万倍に達する。大気圏の下層に近づくに従い、メタン・アンモニア・水の濃度が上昇する。マントルの質量は地球の10~15倍に相当し、水やアンモニア、メタンが豊富に含まれている。惑星科学分野の習慣では、このような状態は高温で高密度な液体であるにもかかわらず「氷」と呼ばれる。この高い電気伝導率を持つ液体は、しばしば「水とアンモニアの海(water-ammoniaocean)」と呼ばれる。マントルは水分子が水素および酸素のイオンに分解されてできた「イオン水」(ionicwater)の層によって構成され、さらに深部では酸素が結晶化し、水素イオンがその結晶格子の中を漂う「超イオン水(superionicwater)」の状態にある層から成っているとされる。深さ7,000kmの深度では、マントル中のメタンがダイヤモンドの結晶へと分解され、雹のような形で中心核に向かって降り注いでいる状態になっているかもしれない。ローレンス・リバモア国立研究所での超高圧実験では、マントルの最上部は浮遊固体の「ダイヤモンド」を含む液体炭素の海になっている可能性が示唆されている。海王星の核は、鉄やニッケル、ケイ酸塩で構成され、内部モデルでは地球の核の1.2倍の質量を持つことが示されている。中心部の圧力は7Mbar(700GPa)で、これは地球の中心部の約2倍に相当し、温度は約5,400Kとされている。 -1990年代初頭、オレゴン州のワイン産業はブドウネアブラムシ(Phylloxera)の大発生に苦しんだが、ワインメーカーはすぐさま耐久性に優れた台木(rootstock)を使用し、深刻な被害の回避に尽力した。州議会はワイン生産と流通を高めるように作られた新法を制定した。州は「グリーンなワイン生産」と呼ばれる環境に優しいワイン産業を目指した生産形態に着目した。新しいAVAも設立され、2005年までに314のワイナリー、519のブドウ園が州内で稼働している。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -敗戦後の日本において最も懸念された問題は極端な食糧不足であった。闇市などで糊口を凌いでいた国民は次第に不満を蓄積させ、それは1946年(昭和21年)5月19日に「食糧メーデー」という形で爆発した。東京都世田谷区民約25万人が皇居へ押し寄せいわば革命前夜を思わせる光景であった。背後にある日本共産党の政治運動化に危惧を感じた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はいわゆる「赤化」を阻止するため運動の弾圧や食糧の放出を行うと同時に、全国各地で農地の新規開墾を行うことで食糧増産を図り、国民の不満を逸らそうとした。こうした政治的背景もあり1947年(昭和22年)より農林省(現・農林水産省)は大井川(静岡県)・九頭竜川(福井県)・野洲川(滋賀県)・加古川(兵庫県)の四河川で「国営農業水利事業」を展開した。農地開墾の水源を開発することでかんがい用水を供給し、食糧増産を軌道に乗せるというのが目的である。北上川水系においては内務省が「北上川五大ダム計画」を一部変更して田瀬ダムを放置したまま、胆沢川の石淵ダム(いしぶちダム)を優先的に建設させる方針を採り、1945年(昭和20年)秋より建設に着手した。これは石淵ダムの建設が、田瀬ダムに比べかんがい効果が大きいという理由による。一方農林省は紫波郡で北上川に合流する滝名川に農林省直轄ダムを建設する計画を立てた。山王海ダム(さんのうかいダム)である。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -バンベルク市と司教本部は、リュネヴィルの和約によって、バイエルン選帝侯がフランスの領土を失う代償として与えられることとなる土地に含まれた。この条件が帝国代表者会議で最終的に確定する前、1802年9月2日からバイエルン選帝侯は司教本部領に軍隊を送り、11月29日にはこの領域を最終的にバイエルン領としたことを表明した。司教領主のクリストフ・フランツ・フォン・ブゼックは辞任し、これによりバンベルクの独立性は失われた。 -2003年(平成15年)、読み聞かせ活動を再編し「ふれあいおはなし会」に変更、読書週間に「読書まつり」を開催した。同年度の蔵書数は101,176冊、貸出冊数は77,019冊で、利用者数は23,752人(うち移動図書館が4,346人)であった。1985年から開始された移動図書館車つまべに号は2005年(平成17年)3月、20年間の役目を終えた。同年、図書館ボランティアグループ、本と人とをつなぐ「そらまめの会」が発足した。そらまめの会はまず、熱意のある当時の司書とともに10年間も貼ったままであった恐竜のイラストを剥がし、館内装飾の制作を始めた。そらまめの会の活動以降、減少傾向にあった利用者が徐々に戻り始めた。 -2月初旬、日本軍はケ号作戦によりガダルカナル島から撤収し、南東方面においては引きつづき東部ニューギニアと中部ソロモン諸島の、両方面で連合軍と対峙していた。日本軍は新たな橋頭堡を強固なものにすべくニュージョージア島の防備強化を企図し、ムンダに新飛行場の建設を開始、中部ソロモン諸島行きの「東京急行」をガ島撤収以前から送り込んでいた。この時期、北部ソロモン諸島の防備は日本陸軍、中部ソロモン諸島の防備は日本海軍の担当である。日本海軍において南東方面全般を担任するのは南東方面艦隊(前年12月24日新編、第十一航空艦隊〈南東方面艦隊司令長官兼任〉と第八艦隊)であり、中部ソロモンに配置されていた海軍部隊は、第八艦隊隷下の第八聯合特別陸戦隊(司令官大田実海軍少将)であった。第八聯合特別陸戦隊は、もともとガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を重砲で制圧するため前年11月15日に新編された部隊で、人���は軍艦や輸送船で、重機材は水上機母艦日進や特設巡洋艦盤谷丸等により、12月下旬までにラバウルに集結した。問題はニューブリテン島のラバウルからニュージョージア諸島(ニュージョージア島、コロンバンガラ島)までの輸送であった。基地航空部隊の零戦掩護下でショートランド泊地からコロンバンガラ泊地まで移動し夜間に揚陸、そこからムンダ(ニュージョージア島)までは大発動艇で物資をはこぶ。だが2月27日に重砲を運搬中の桐川丸(3,836トン)が空襲で撃沈され、これ以降の船団輸送は断念された。結局、中部ソロモンでも駆逐艦輸送(鼠輸送)に頼らざるを得なくなった。 -ヒンドゥー教寺院と仏教寺院からなるプランバナン寺院群は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されており、これらの寺院遺跡はジャワ語およびインドネシア語でチャンディ(ジャワ語:Candhi、尼:Candi)として知られる。その中心となるプランバナン寺院はインドネシア最大のヒンドゥー教寺院である。プランバナン寺院は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの三大神を三神一体とするトリムルティ(Trimurti〈トリムールティ、梵:Trimūrti〉)に捧げられ、ヒンドゥー教建築における高いピラミッド状の尖塔と各祠堂による一大複合体のなかにそびえ立つ、高さ47メートル(154ft)の中央の祠堂建築により特徴づけられる。 -1920年5月18日、ボリシェヴィキの赤軍第11軍とカスピ赤色艦隊は、イギリス駐留軍に庇護された白軍艦隊の拿捕を名目として、ギーラーンのアンザリー港へ一斉攻撃を行った。そして赤軍はイギリス軍を敗走させた後、地元民からある程度の支持を受けつつアンザリーへの駐留を開始した。同月23日、クーチェクらジャンギャリー代表団は赤軍のセルゴ・オルジョニキゼ、フョードル・ラスコーリニコフと交渉を持ち、反英・反テヘラン政府の方針で意見の一致を確認した。 -アフリカ系アメリカ人は解放奴隷も奴隷のままの者も米英両軍ともに従軍した。イギリス軍は積極的に愛国者を主人に持つ奴隷を徴募した。大陸軍側においても、1776年1月、人員不足解消のためジョージ・ワシントンは奴隷徴募の禁止令を撤廃した。ロードアイランドとマサチューセッツでは小さいながらも全て黒人の部隊が作られた。またフランス軍と共にハイチから全て黒人の部隊が参戦した。少なくとも5,000名の黒人が革命軍側で、2万人以上がイギリス軍に従軍した。 -ノストラダムスは国王親子とサロンのランペリ城で会見をした。カトリーヌがモンモランシー公に宛てた書簡で言及しているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっている。それによればノストラダムスは、モンモランシー公が90歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生きすることを予言したという(前者は3年後に公が75歳で没したことで外れ、後者はシャルルが10年後に23歳で没したことで外れた)。他方、ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行していた少年に関心を示し、国王親子のいないところで、その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲を当惑させたというエピソードもある。この少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ4世としてフランス王位に就くことになった。このエピソードが史実かどうかは定かでないが、パリ市民ピエール・ド・レトワルの日記(1589年)にも見出すことができる。 -ドイルは患者を待つ時間を利用して短編小説を執筆し、雑誌社に投稿するようになった。1882年には『我が友、殺人者(MyFriendtheMurderer)』が『ロンドン・ソサエティ』誌から10ポンドで買ってもらえた。ついで同年末には捕鯨船での体験を基にした『北極星号の船長(TheCaptainofthePole-Star)』が『テンプル・バー』誌に10ギニーで買ってもらえた。さらに1883年にはメアリー・セレストの事件に触発されて書いた『J・ハバクック・ジェフソンの遺書』が『コーンヒル・マガジン』誌に29ギニーで買ってもらえ、これはドイルの初期の執筆活動最大の成功となった。ただし買い取ってもらえるのは稀なケースで大半の作品は返却されていた。短編小説は小金稼ぎになったが、作者名が掲載されないため、その場限りなのが難点だった。ドイルの自伝によれば、1885年の結婚後にこ���まま短編を書き続けても進歩がないと思うようになり、単行本になるぐらいの長編小説を書こうと思い立ったという。はじめに『ガードルストーン会社』という長編小説を書いたが、出版してくれる出版社がなかなか見つからず、刊行は1890年になった。この後の1886年3月から4月にかけて執筆した長編小説がシャーロック・ホームズシリーズの第一作『緋色の研究』だった。これも出版社がなかなか見つからなかったが、1886年10月末にウォード・ロック社に25ポンドという短編並みの安値で買い取ってもらった。同作品は1887年11月出版の『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載された。その翌年には単行本化もされた。反響はほどほどというレベルだった。 -スペイン北部の祭礼には巨人人形が登場することがあり、約3-4mの人形の中に人間が入ってパレードに参加する。バルセロナのマルセーの祭礼では、巨人人形に加えて、ドラゴンやタラスク(亀と蛇が合体した怪物)などの人形もそろって行進し、夜間にはドラゴンやタラスクが爆竹を鳴らし火を噴きながら歩くコラフォックが行われる。ベルガでは聖体祭にパトゥムという祭礼が行われ、巨人人形やドラゴンに似た怪物や巨人人形がパレードや寸劇を繰り広げる。2005年にはカタルーニャ地方で初めて「ベルガのパトゥム」がユネスコの無形文化遺産に登録された。 -1921年6月28日、ヴィトスの日に、憲法は可決され、統一的な王国が成立した(ヴィドヴダン憲法)。第一次世界大戦前の伝統的な地域区分は廃止され、中央政府の統治の下に置かれる33の行政州が設置された。この間、8月16日にペータル1世は死去し、アレクサンダル1世が国王となった。 -何千年にもわたって時計は時間を計り、その経過を追うために用いられてきた。現在使われている六十進法の時間単位は紀元前約2000年にシュメールで考えられたものである。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源である。彼らはルクソール近郊にあるアメン=ラーの地(PrecinctofAmun-Re)でおそらく最初に使われたとされる水時計も作っている。水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれをクレプシドラの名で呼んでいた。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が発明された。この水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものと考えられている。その他、中国、日本、イギリス、イラクではロウソク時計(candleclock)も使われており、インド、チベット、一部ヨーロッパでは日時計が広く使われていた。砂時計も使われていた。初期の時計は日時計が多く、曇りや夜には使うことができなかった。よく使われたのはグノモン(gnomon)と呼ばれる形のものであったが、あくまで日時計なので、緯度で値が変化した。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はし���かった。 -初代荒川橋は、旧中川村を流れる荒川の、現在の荒川橋の下流側の川幅が最も狭くなっている地点に、「県道秩父甲府線」の橋梁として架けられていた。大滝村、白川村、中川村の三村協議により「大宮大滝間道路組合」を発足して新道建設の企画を立て、埼玉県の援助のもと1890年6月に荒川に木橋を架設する工事に着手した。荒川を越える大橋の完成なくては新道建設の意味がなく、その完成は新道の開通において大きな課題であった。工事は当時はまだ架橋技術が未発達で、荒川の川幅が狭隘な場所であるがゆえの急峻な地形も相まって失敗苦難の連続であった。1892年9月、完成半ばまで工事が進捗した橋が、暴風雨に見舞われて足場と共に流失してしまった。工事は振り出しに戻ってしまったが、道路組合関係者は屈することなく再び架設工事に着手した。しかし1896年1月、二度目の工事が竣工目前までこぎつけた橋が突然、今度は突風に見舞われて橋が谷底に墜落し、架橋工事に従事していた作業員が多数死傷する惨事となるなど架橋工事は難航を極めることとなり、道路組合関係者による架橋工事は挫折した。そこで県はその完成を急ぐため、1897年に新道開通を待たずにこの計画道路を「大宮大滝道」として仮定県道に編入し、当時としては新式である構橋(トラス橋)を導入して県主導のもと工事を再開し、1898年、現在の荒川橋の約100m下流側の位置に橋長78m、幅員3.6m、高さ33.3mの初代秩父橋や親鼻橋に似た上路式の木鉄混合プラットトラス橋で架橋が実現し、新道は開通した。これにより渡船に依存していた奥秩父の交通は近代化を遂げ、面目を一新した。また、この橋の開通の影響で交通の流れが変わり、贄川を始めとした新道の沿線は日を追って活況を呈するようになり、其れとは対照的に従来の街道筋である白久の衰退が目立つようになり、宿屋や店が次々と廃業に追い込まれるなど、困窮な事態に陥ってしまった。この橋は十数回の補修を行いながら新しい橋が架けられるまでの約30年間使い続け、2代目である旧荒川橋の開通後に役目を終えて廃止となり撤去された。橋の遺構や痕跡は残されていない。 -エジプトはギリシア人であるナウクラティスのクレオメネスの管理下に置かれていたが領土の分配と管理について話し合われたバビロン会議の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保したの対し、プトレマイオスはアンティゴノス、ヘレスポントスを支配するリュシマコス、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共にメンフィスに作った仮墓に埋葬した。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「セマ」に安置され、水晶の棺に納められたという。また、西方のギリシア人植民市キュレネも征服してリビュア方面を確保した。ペルディッカスは前321年にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したがナイル川の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された。 -工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された。群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された。しかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかった。そのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、その入れ替わりの頻繁さから不熟練工を多く抱え、赤字経営を生む一因となった。また、様々な身分の若い女性が同じ場所で生活していたことから、上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も少なくなく、出入りしていた呉服商・小間物商から月賦払いで服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見られた。 -こうして1965年にしゃんしゃん祭が始まった。この第1回しゃんしゃん祭では1000人が踊り子として参加した。参加者は順調に増え、1967年の第3回では2000人、1969年の第5回では3000人が踊り、見物客は10万人に達した。さらに1972年にはついに踊り子が4000人を突破した。この間、1970年には三波春夫による「鳥取しゃんしゃん傘踊り」が新曲として導入された。ところが新曲の導入と踊り子の増加によって「渋滞」問題が顕在化してきた。踊り子が練り歩くコースは1900メートルの長さの周回路になっている。ルートの若桜街道上に祭の本部が設置されていて、そこで踊り子たちの連に対する審査が行なわれるのだが、参加者が多すぎて踊り子の列が渋滞し、3時間の踊りの時間を費やしても本部前に一度もたどり着かない連が続出するようになった。そうかと思えば、前の連に遅れて離されてしまい、案内役の警備員に急かされて踊りの最中に傘を持って走る「見苦しい」姿も目立つようになった。1980年代になると、周回路を2100メートルに延長したり、1連の踊り子の人数を80人に制限したりといった対策が導入されたが、抜本的な解決には至らなかった。問題の原因の一つは増えすぎた参加者と踊り傘にあった。傘踊りは長さ1.2mの傘を振り回して踊る。踊り子自身の体や前後の間隔を考えると、踊り子の隊列はどんなに少なく見積もっても1.8メートル間隔になる。80人を5列に並べるとそれだけで道幅は最低でも7.2メートルになり、実際には観客のいる沿道スペースを必要とするので、ルートに使える道路はかなり限られている。1連80名が5列に並ぶと少なくとも長さは30メートル、それに10メートル間隔で装飾車が連毎につく。1連あたり40メートルとして、4000人(50連)が並ぶとそれだけで長さが2キロメートルにもなってしまい、当初の1900メートルのルートでは物理的に長さが不足しているのである。 -シュレージエン戦争(シュレージエンせんそう、ドイツ語:SchlesischeKriege)は、18世紀中ごろにマリア・テレジアを君主に戴くハプスブルク帝国(オーストリア)とフリードリヒ2世を君主に戴くプロイセン王国が中央ヨーロッパのシュレージエン地方(現ポーランド南西部)の帰属を巡って戦った3度の戦争の総称である。うち、第一次戦争(1740年–1742年)と第二次戦争(1744年–1745年)はオーストリア継承戦争の局地戦であり、プロイセンはオーストリアの分割を目指す同盟の一員として参戦した。第三次戦争(1756年–1763年)は七年戦争の局地戦であり、オーストリア率いる同盟がプロイセン領の奪取を目指した。英語読みでシレジア戦争(シレジアせんそう、SilesianWars)とも呼ぶ。 -1266年、アシキールーラ家はマラガとグアディクスで反乱を起こした。この反乱の原因は、1257年ムハンマド1世が後継者にムハンマド2世を指名したことに対し共同統治者という意識のあったアシキールーラ家は不満を抱き、さらにムデハル反乱においてマリーン朝の援軍を求めたことから、軍事を統括していた地位を脅かされたと感じたこと、あるいはムハンマド1世及び2世がマーリク派法学を支持していたのに対し、神秘主義(スーフィズム)を奉じていたアシキールーラ家が対立したことが考えられている。この反乱に際し、アシキールーラ家はカスティーリャ王アルフォンソ10世に救援を求め、ムハンマド1世と対立した。これに対し、ムハンマド1世はマリーン朝に援軍を求めたものの、マリーン朝からの支援ははかばかしくなく、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に和約を結ぶこととなった。この反乱は後継者のムハンマド2世によってようやく鎮圧され、アシキールーラ家はモロッコへ逃れた。 -技師の話を聞いても、成岡たちは半信半疑であった。そこへ鉱山事務所に雇用されている地元の男性が戻ってきた。男性は牛頭山には4頭のヒョウがいて、しかも大きさが2.7メートルもあると証言した。そのヒョウが毎晩集落に出没して家畜のみならずときには人間さえ襲うため、ヒ���ウの害を防ぐため野火を焚いていると説明した。男性は成岡に「どうかあなたの手で、是非ヒョウを退治してほしい」と頼み込んだ。住民や鉱山事務所が受けた被害について話を聞き、成岡はヒョウ退治を決意した。成岡が宿舎に戻って「ヒョウ狩りに行く者はおらぬか」と呼びかけると、隊の全員が志願した。そこで成岡は射撃に優れた部下を3名選び、自らが指揮を執って牛頭山の登山口に向かった。牛頭山は標高こそ100メートル程度であったが、山の全体が岩に覆われている上に山バラが密生して移動がしにくい状態であった。山中にはヒョウの足跡が点々と残り、真新しいキジの羽毛やシカの白骨などが散乱していた。一行が頂上に近づくにつれてヒョウが食い荒らした鳥獣の残骸が多くなり、その中には人間の衣類とおぼしき切れ端すら混じっていた。頂上の大岩にたどり着いて周囲を確認したものの、ヒョウの気配すら感じられないほどに静まり返っていた。 -ジャン=フランソワ・ミレーは、1814年、フランス・ノルマンディー地域圏マンシュ県のグレヴィル村グリュシー地区に生まれた。コタンタン半島の突端にある村である。ミレーの家は、農家だが、母エーメ=アンリエット=アデライド・アンリは、フランス革命後に没落したアーグ地方の領主の家系である。父ジャン=ルイ=ニコラ・ミラーは、神父、科学者、農学者を輩出した家系である。父は、農作業の傍ら、グレヴィルの教会の合唱指揮者を務めたり、絵を描いたりすることもあった。ミレーが幼い頃は、祖母ルイーズ・ジュムランが面倒をみてくれた。ミレーは、9人兄弟の長男であり、農家の後継ぎとして期待されていた。7歳になる前に学校に入り、12歳頃からラテン語を学んだが、やがて家の農作業を手伝うようになった。アルフレッド・サンシエの伝記によれば、ミレーは、農作業の傍ら、写生をし、1832年、ミレーが18歳の頃、腰の曲がった老人の歩くポーズを描いた木炭の素描に両親が感激し、シェルブールの画家ムシェルの画塾に連れて行ったという。1835年11月、父が死去したため、ミレーは家業を継ぐため実家に戻ったが、祖母の強い勧めで再びシェルブールに出て、アントワーヌ=ジャン・グロの弟子テオフィル・ラングロワ・ド・シェヴルヴィル(フランス語版)という画家の下で修業を続けた。この頃、シェルブールでは、地元の美術愛好家トマ・アンリがコレクションを基にトマ=アンリ美術館を開館したばかりであり、ミレーはこの美術館に通った。ミレーは、アントニス・モルの『キリストの埋葬』、イタリア・バロックの画家バルトロメオ・スケドーニの『聖バルトロメオの殉教』、18世紀フランスのアカデミー派シャルル=アンドレ・ヴァン・ローの『憂鬱質』などの作品を模写している。 -ヤングスタウン州立大学はダウンタウンの北にキャンパスを構えている。同学は、もともとは地元のYMCAであったが、1908年に大学レベルの講義を開講したのが始まりとなった。その後、同学は1921年にヤングスタウン工科大学に、1928年にヤングスタウン・カレッジに、1955年にヤングスタウン大学に改名し、1967年にオハイオ州の高等教育システムに組み入れられて現在の校名になった。ヤングスタウン州立大学は、かつては地域密着型の大学と考えられていたが、現在では約13,000人の学生を抱え、ヤングスタウン地域以外の出身の学生も数多く在学している。ヤングスタウン州立大学の数ある学部・プログラムの中でも、特に著名なのはダナ音楽学校である。同校は1869年にウォーレンに音楽の専門学校として設立され、1941年にヤングスタウン・カレッジに統合されたもので、ヤングスタウン州立大学よりも長い歴史を持っており、全米でも最も長い歴史を持つ音楽学校の1つである。2004年以降、ダナ音楽学校で用いられているピアノは全てスタインウェイ・アンド・サンズ社製のものである。また、ヤングスタウンにはモンテッソーリ教育校も置かれている。1976年に設立されたマホニング・バレー・モンテッソーリ学校は、就学前から8年生までの児童・生徒に、その独特な教育法による教育の機会を与えている。 -1962年にこれらの情報を基に琉球大学の高良鉄夫が幼獣を捕獲したが、成獣の標本は入手でき��かった。1964年には早稲田大学探検部の高野凱夫がヤマネコが生息しているという噂を今泉らに伝えた。沖縄の本土復帰に先立つ1965年2月、八重山を訪れることになった動物文学作家の戸川幸夫が、那覇市で琉球新報の記者から「西表島ではヤマネコがいるという噂がある」ことを聞いた。戸川はこれをよくあるヤマイヌ(ニホンオオカミ)発見談のようなものであり、飼い猫が野生化したものであると考えたが、知人であった高良に相談したところ、彼はその噂を知っており、しかも一定の信頼性が感じられることを説明した上で、戸川に証拠集めを依頼した。戸川は当時担当していた記事の取材を兼ね西表島に渡り、ヤマネコの情報の入手や標本の収集に奔走した。しかし西表島では食糧不足のため捕獲されたヤマネコは焼いて汁にして食べるか、捨てていたためにヤマネコの標本の入手は容易ではなかった。その後、島の西部にある網取部落を訪れた際に、高良に師事していた中学校の教師が、イノシシ用の罠で捕獲されたヤマネコの死体を入手し、皮を高良に送り、その他は埋めたことを聞きつけ、戸川らはこれを掘り起こし、頭骨を入手した。また網取部落付近で手に入れた2個の糞を発見している。同時に、浦内川沿いにあるイナバ部落の漁師が皮を保管しており、これも手に入れた。この3つの標本を手に再び琉球大学の高良のもとを訪れ、網取部落の中学校教師が高良に送ったヤマネコの皮を入手し、これらの標本を国立科学博物館の今泉のもとに送り、日本哺乳動物学会に鑑定を依頼した。1965年3月14日に日本哺乳動物学会において、これらの標本の鑑定がなされた。鑑定の結果、新種もしくは新亜種らしいということにはなったが、標本が足りなく、完全な標本もしくは生体の入手が求められた。この発表の後も、哺乳動物学会員の中には、単なる奇形であるか、もしくは過去に船乗りが海外産のヤマネコを西表島に放したものであると考えるものもいた。 -「コロンブス交換」は、アメリカ合衆国の歴史学者アルフレッド・クロスビーによって唱えられた用語である。上述のように、それは、ヨーロッパとアメリカ大陸との相互の疫学的条件の均質化をうちに含んでいるが、これを、フランスのアナール学派に属する歴史家エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリは「細菌による世界の統一」という表現を用いて説明した。ヨーロッパの疫病が新大陸で猛威をふるった顕著な例として、1545年から1548年にかけてのメキシコでの大流行があり、このときメキシコ中央部では先住民の約8割が死亡したといわれる。征服から1世紀経ったのち、メキシコの先住民の人口は征服直前のわずか3パーセントにすぎなかったという試算もある。梅毒の治療薬としては、化学療法を唱えたドイツのパウル・エールリヒとエールリヒの研究所で薬学実験を担当していた日本の医学者秦佐八郎が1910年に発見したサルバルサンという有機ヒ素化合物が有名であり、これは合成物質による世界最初の化学療法剤であった。また、サルバルサンの発見は、のちのペニシリン等抗生物質や、サルファ剤等の化学療法剤の発見をうながしたのである。 -惑星に対して大きな衛星が存在する事は、地球の自転軸を安定させる。潮汐力で結びついた地球と月は一つの角運動系である。すると、地球は月軌道までを含めた大きな独楽と扱え、回転軸は非常に安定したものになる。自転軸の変動は、地球では3度程のゆれに収まるが、金星や火星では数十度の変動が起こると考えられる。自転軸変動の大きさにつれて惑星気候への影響も大きくなるため、地球のように大きな衛星を持つ事が惑星環境を穏やかにする働きを持ち、生命進化を可能とする必要条件の一つとする意見もある。地球の恒常的な自然衛星は月のみである。しかし、地球は近くに接近した地球近傍小惑星を捕獲し、一時的な衛星とする場合があり、そのような小惑星は常時50個ほどあるとするシミュレーションもある。実際の観測例は、2006年9月から2007年6月までの間に地球を3回周回した、直径3mから6mの2006RH120がある。 -1705年5月、マサチューセッツ知事のジョセフ・ダドリーはポート・ロワイヤルを奪取するための遠征を計画した。ジョン・マーチに率いられた1600人の兵は砦を包囲したが奪取することができず、引き続き行われた8月の遠征も撃退された(ポートロワイヤルの戦い)。これに対応してフランス人はピスカタクォー川にあるニューハンプシャー植民地の大部分を襲撃する野心的な計画を立てた。しかし、インディアンたちの支持を得らなかったため計画の多くは実現せず、代わりにマサチューセッツのヘイブリルの町が襲撃された(ヘイヴァーヒル奇襲)。1709年、ヌーベルフランスの知事フィリップ・ド・リゴー・ド・ヴォードルイユは、ボストンの北の領域の3分の2はフランスとインディアンの襲撃によって放棄されていると報告した。ニューイングランドの入植者たちが彼らの砦に留まって出てこなかったため、フランス人およびインディアンたちは捕虜を取らずに引き返した。 -10世紀前半の928-929年頃に、都はイーシャーナ王朝(クディリ朝)を創設したムプ・シンドク(929-948年頃)により東ジャワに移された。その遷都の理由には諸説あるが、中部ジャワのプランバナンの北に位置するムラピ山の噴火や宗教的対立などにより東遷におよんだものと考えられている。それによりプランバナン寺院群の衰退がもたらされ、寺院はやがて見捨てられ荒廃していった。 -核酸分子はヌクレオチドの配列からなり、ヌクレオチドはそれに含まれる核酸塩基によって区別される。DNAのヌクレオチドにはアデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)の四種の塩基が含まれる。核酸分子どうしが結合して二重らせんを構成するのは、それらの塩基配列が相補的である場合のみである。すなわち、出来上がった二重らせんはA-TおよびC-Gという二種類の塩基対の配列にならなければならない。塩基が正しく対合するとエネルギー的に有利であるため、ほとんどのケースでは核酸鎖どうしが正しい塩基対の数が最大になるような立体配座で結合すると予想される。このように核酸鎖系で結合パターンと全体構造を決定するのは塩基配列であり、それを利用すれば容易に制御が行える。DNAナノテクノロジーの研究者は、塩基対形成作用によって望ましい立体配座がアセンブルされるように、核酸鎖の塩基配列を合理的に設計する。用いられる分子はDNAが主流だが、RNAやペプチド核酸(PNA)など他の核酸分子を組み込んだ構造も作製されている。 -低沸点溶剤活用法では、低級アルカンや塩フッ化アルカンなどを含有させ、成形時の加熱や反応熱または圧力開放を利用して溶剤を気化させることで発泡させる。硬質PURや押出成形PSなどで用いられる。また化学反応ガス活用法と併用する場合も多く、発泡倍率の選択幅も広い。塩フッ化アルカンには過去クロロフルオロカーボンが多用されていたが、環境への配慮からオゾン層破壊係数が低い原料への転換が行われている。 -18世紀末、ロシアの女帝エカチェリーナ2世は黒海、バルカン半島への勢力拡大を図るだけではなく、オスマン帝国を廃した上でコンスタンティノープルを首都としてビザンツ帝国を再興、孫にコンスタンティンと名付けた上で皇帝に即位させて「バルカン帝国」を築くことを考えていた。1763年以降、ロシアの使者はバルカン半島を駆け巡り、ギリシャ人有力者、高位聖職者、クレフテスやアルマトリらと関係を結んで彼らを蜂起させようとした。1789年、フランス革命が発生するとナショナリズムがヨーロッパを覆い、さらにドイツ・ロマン主義の台頭で各民族の母語の重要性が叫ばれた。これは西欧に移住していたバルカン諸民族の商人らによってバルカン半島へ持ち込まれたが、その結果、発生したのがセルビア蜂起である。 -1763年にグラスゴー大学を辞職すると、スコットランド貴族ヘンリー・スコットの家庭教師としておよそ3年間フランスやスイスを旅行した。この間スミスは、ヴォルテール(1715-1771)、ケネー(1694-177])、テュルゴー(1727-1781)などのフランス啓蒙思想の重鎮とも交流を持った。イギリス帰国後は執筆活動に専念し、1776年に主著『国富論』を出版した。その後1778年にはスコットランド関税委員に任命され、1787年にはグラスゴー大学名誉総長に就任した。1790年にエディンバラで67歳で病死した。スミスは生前「法と統治の一般原理と歴史」に関する書物を出す計画があったが、死の数日前に友人に命じてほぼ全ての草稿を焼却させてしまった。焼却されずに残った草稿はスミスの死後、『哲学論文集』(1795)として出版された。また、1895年にはグラスゴー大学時代の学生がとった講義ノートが見つかっており、『法学講義』として後に公刊された。 -フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは、ヴァイマル共和政末期の1932年にクルト・フォン・シュライヒャーに擁立されてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣の首相を務めたが、パーペン内閣は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した。 -7N7では727の胴体設計を継承するものの、新設計の主翼と高バイパス比のエンジンを採用することになった。まず最初にまとめられたデザイン案は、164席の客席を有する「モデル761-161」と呼ばれるもので、これは「工具まで同じものが使用可能」という在来機種との共通性を重視した結果、胴体は707・727・737と同じ構造とされた。ただし、エンジンは双発とされ、胴体尾部に3発のエンジンを装備する727と比較するとスマートなデザインとなった。また、エンジンと主翼以外にも、垂直尾翼や降着装置などに新技術が採用されていた。1978年1月に、ボーイングはイースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズに対して、この「モデル761-161」の構想を説明した。この2社は、かねてから727の発展型となる機体に関心を示していたのである。ところが、この2社の要求はそれぞれ異なる内容であった。具体的には、イースタン航空が2クラスで165席クラスの機体を求めていたのに対し、ブリティッシュ・エアウェイズは単一クラスで190席クラスの機体を希望したのである。ブリティッシュ・エアウェイズはイギリス政府との結びつきが強い航空会社であり、かつヨーロッパの航空会社であることからエアバスの旅客機を購入することが求められていた。ボーイングもその事情を把握していたため、ブリティッシュ・エアウェイズの要望には特別な配慮を行なっていた。ボーイングでは、できるだけこの2社の要求に応えるべく、デザインの見直しを行い、2クラスで165席から175席、単一クラスで190席設置できるようなサイズに改めたのである。さらにこの頃のアメリカの大手航空会社は、航空旅客数の増加に確信を持っており、アメリカ航空業界では「機体は大きければ大きいほどいい」という考え方が一般化していた。 -1989年、手塚治虫が亡くなった時、宮崎駿は漫画では自分も影響を強く受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーション作家としての手塚治虫を、店子(たなこ)を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じであると、痛烈に批判した。同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの、手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても、否定的評価を下した。それ以降は、手塚について語る事はほとんど無かったが、2009年に行われたインタビューでは、7歳の時に手塚の「新宝島」を読み「いわく言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かした。その一方で、アニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた。宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮﨑との合作アニメ映画「ロルフ」も企画されていた。この合作は作られなかったがロルフの企画は名前を変え「風の谷のナウシカ」の原案になった。前述の手塚治虫に対する批判の1年程前にディズニーに対しても批判をおこなっている。「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。ぼくには観客蔑視としか思えないのである」。その一方で配給やスタジオジブリの社長をディズニー日本法人の社長が務めるなどディズニーとジブリは密接な提携を結んでおり、近年では賞賛の発言が見られる。スタジオジブリが協力したディズニー・アート展の特集番組では「芸の力」、「本当に驚きましたね」、「尊敬の念は消えません」など賛辞を述べている。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -ペーパードリップの方法は、1908年にドイツ人のメリタ・ベンツが考案した。彼女はペーパードリップシステムの特許を取得し、メリタを創業した。メリタ式とカリタ式が存在し、最適なメッシュが異なるとされているが、どの挽き方が最適かは様々な意見がある。抽出法の違いは、メリタ式が杯数分の湯を全量フィルターに投入し滴下するのを待つのに対し、カリタ式は湯を数回に分けて投入し続ける。フィルタの下のデカンタに杯数分滴下した段階でフィルタをはずし、フィルタ内の抽出中の湯(コーヒー)は廃棄する。従って、カリタの方が経験を要し、味のぶれる要素は大きいとも言える。ドリッパーの形状はメリタが開発した台形が主流であるが、近年では円錐形も登場している。台形は腕に左右されず安定した味と香りが出せ、円錐形は粉の層が縦に厚くなりよりネルドリップに近くなるとされる。台形と円錐形ではフィルタの互換性が無く、HARIOは両方のドリッパーとフィルタを販売しているが円錐形の方が若干高価である。メリタとカリタは台形のみ、珈琲サイフォン株式会社は円錐形のみ販売している。 -ドイツ軍の基本的な防寒具はオーバーコートである。将校と下士官・兵士でデザイン上の大きな違いはない。素材や細部に個人差が見られる程度である。オーバーコートの前ボタンは6個のボタンがダブルになっている。背中の腰部分には2個のボタンで止めるハーフベルトが付いており、そこからプリーツ(のちセンターベント)が下に伸びていた。コートには襟章は付けず、肩章と袖章のみを付けた。素材はウールであることが多かった。1934年制定の支給オーバーコートは襟の部分だけダークグリーンだったが、野戦服と同様に1940年からコート全体がフィールドグレー色で統一された。1942年に新しい支給オーバーコートが採用されたが、これは1941年から1942年にかけてのロシアでの厳寒の経験を踏まえて襟を大きくし、顔の下半分を隠せるようにしていた。また両脇にスリット・ポケットが加えられていた。また動きやすいように背中のプリーツがセンターベント(切り込み)になり、必要ならボタンで留める仕様となった。大佐以下は襟を閉じてコートを着用するが、将官は開襟でコートを着用した。陸軍将官のオーバーコートの下襟の内側はカーマインレッド色であり、それを外部に見せつけるように開���した。 -1274年にローテンブルクはハプスブルク家のルドルフ1世から帝国都市の特権を与えられた。市内には3つの有名な市場が出来、その後の数世紀にわたり街は発展した。市内の住民と郊外の騎士らはフランシスコ会の修道院と聖霊病院を設置した(1376年-1378年に市の防壁に組み込まれた)。ドイツ騎士団は1311年に聖ヤコブ教会の建設をはじめ、1336年から市民が使えるようになった(完成は1485年)。聖ヤコブ教会には、十字軍遠征に伴いローテンブルクにもたらされた聖遺物とされる聖血が置かれた。これが多くの巡礼者を引き寄せ、中世のローテンブルクは第一級の巡礼地であった。その当時は神聖ローマ帝国内の上位20都市の中に入っていた。市壁の内側の人口は約5500人で、これに加えて周辺の390平方キロメートルの領地の中に14,000人が居住していた。1350年には皇帝から徴税権と関税権を認められ、この頃からローテンブルクは帝国自由都市とみなされるようになる。1356年のバーゼル地震で古い城塞が崩壊した。今もなお聖バルシウス教会が残っている所である。その廃墟の切石は当時としては貴重な資材であり、市壁の建造に用いられた。 -ここ数十年で、西アラスカアリューシャン諸島のラッコ頭数は急落している。1980年代、この地域に住むラッコは55,000-100,000頭いたが、2000年には6,000頭にまで減った。この理由として、反論も多いが、シャチによる捕食によるものとする説がある。この説を裏付ける証拠としては周囲の状況がある。まず、頭数が減少するような病気や飢えが発生していた形跡がない。そして、減少が大きかったのはシャチがたびたび観察される地域であり、潟のようにシャチがいないところでは減少が少なかった。 -日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能し続けた。 -ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。 -小川鼎三は、その著『医学の歴史』で「篤志解剖」希望者の第1号は、幕末から明治期にかけて活躍した洋学者・軍学者の宇都宮三郎であると記述している。宇都宮は旧名を「宇都宮鉱之進」といい、尾張藩士の子として名古屋に生まれた。若いころから武芸と兵法を���め、砲術を学んだ後に化学の分野に進み、明治維新前後の日本の化学界に大きな功績を遺した人物である。宇都宮は蘭学も学んでいたため、桂川甫周の家によく出入りしていた。 -1962年(昭和37年)福井に生まれ、小学生の時に千葉県千葉市村田町へ引っ越し、さらに中学になる頃に同県市原市八幡へ移り20歳頃までを過ごす。子供の頃から絵は得意で受賞などもしていたが、アニメや漫画にはさほど惹かれておらず、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズといった特撮ヒーロー物に夢中になっていた。中学時にV55(Technics)という50万円のコンポーネントステレオが欲しくて、当時50万円だった賞金目当てに手塚賞への応募を始める。最初の道具は手塚治虫の入門書を読んで小遣いで揃えた物だった。それまでは漫画家を目指していたわけでもない上に漫画もほとんど読んでおらず、当初は賞金だけが目的であった。目的のコンポは賞金を手に入れる前に買ってもらったが、漫画を描き続ける中で描く面白さを覚え、高校時には授業中にペン入れをするなどして漫画に没頭する。そして1980年(昭和55年)の高校卒業間際にフレッシュジャンプ賞に投稿した作品が選外ながらも編集者・鳥嶋和彦の目に止まり、また同時期に手塚賞に応募していた「ツバサ」が佳作に入選する。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -9月上旬、東ローマ艦隊は抵抗を受けることなくアフリカ沿岸へ進み、9月9日にヴァダ岬(現代のカブジア岬)に上陸した。ここからベリサリウスは軍を北へ向け、艦隊と並行して、海岸に沿って首都カルタゴへと兵を進めた。この進軍中、ベリサリウスは住民を敵に回さぬよう兵の規律を厳格にしている。ゲリメルは東ローマ軍を迎え撃つべく準備した。彼は前王ヒルデリックを殺害した上で兵を召集してカルタゴの南方10マイルの位置にあるアド・デキムムで敵を待ち伏せた。 -1966年12月15日、肺癌による肺炎で、ディズニー・ワールドの完成を見ないまま亡くなった。その後ロイによってディズニー・ワールドはウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートへと改名された。ウォルトは満65歳で没した(享年66)。生前は大変なヘビースモーカーで、禁煙を勧められても「ヘビースモーカーでも長生きした人はいくらでもいる」と言ってとりあわなかった。翌年、遺作となる『ジャングル・ブック』が公開された。晩年は酒に溺れ、朝食はドーナッツをスコッチ・ウィスキーに浸けて食すのが一番のお気に入りだった。直後に発行されたフランスの週刊誌パリマッチでは表紙にミッキーマウスを用いた。ミッキーマウスは誕生からこれまでの38年間滅多に見せなかった涙を流した。LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。 -この著しい浸食の結果、カルデラの内側では、成層火山の内部構造が露出している。凝灰岩や凝灰��礫岩などは浸食を受けやすいため既に消失し、火山の内部にあったマグマが固まってできた安山岩質の岩脈が地表にあらわれている。子持山では噴火のときに火口がほとんど移動しなかったため、地底から火口へと火道を垂直に昇ってきたマグマが、そのままの形で硬化して岩となった。これを火山岩頸という。子持山の火山岩頸は底部の直径150メートル、高さ100メートルの大岩塔となっており、「大黒岩」または「獅子岩」と呼ばれている。 -スミスが生きた18世紀のイギリス社会は政治の民主化、近代西欧科学の普及と技術革新、経済の発展といった「啓蒙の世紀」であった一方で、格差と貧困、財政難と戦争といった深刻な社会問題を抱えた世紀でもあった。光と闇の両側面を持つ18世紀イギリス社会はアダム・スミスの思想に大きく影響したとされる。アダム・スミスは1723年にスコットランドの海沿いの町カコーディに生まれた。スミスはグラスゴー大学でスコットランド啓蒙の中心人物であった哲学者フランシス・ハッチソン(1694-1746)の下で道徳哲学を学んでいる。ハチソンはフーゴー・グロティウス(1683-1645)やサミュエル・プーフェンドルフ(1632]-1694)らの自然法思想を継承する道徳哲学者であり、スミスもこれらの思想的潮流から大きな影響を受けている。グラスゴー大学卒業後、オックスフォード大学に進んだが中退し、1748年にエディンバラ大学で文学と法学の講義を始めた。1751年にはグラスゴー大学の論理学教授に就任し、翌年道徳哲学教授に転任した。スミスは1750年頃に哲学者ヒュームと出会い、ヒュームが他界する1776年まで親交を続け、『人間本性論』に代表されるヒュームの啓蒙思想からも大きな影響を受けている。1759年には主著『道徳感情論』を出版している。 -マーシア王国は没落への道を一直線かつ急速にたどったわけでは必ずしもないが、南西の強国ウェセックス王国はヴァイキングによる被害がほとんどなく、9世紀に入るとウェセックス王国の力に対抗しえなくなってきていた。幾度か独立を回復したこともあったが、基本的にはウェセックスの上位支配権をあおぐ形となった。825年のエランダンの戦いでマーシアはエグバートの率いるウェセックス王国に敗北し、イングランドは統一された。 -12世紀のカタルーニャ詩人はカタルーニャ語ではなく主にオック語で詩作を行っていた。13世紀に活動したラモン・リュイは「カタルーニャ語の父」と呼ばれており、その内容の豊かさや言語的創造性の高さから普遍的な価値が認められている。14世紀のカタルーニャ地方では散文が優勢となり、フランセスク・アシメニスやビセン・ファレーなどが登場した。15世紀は「カタルーニャ文学の黄金時代」とされ。詩人のアウジアス・マルクや騎士道小説『ティラン・ロ・ブラン』を書いたジュアノット・マルトゥレイなどがバレンシアで活躍した。1479年にスペイン王国が成立した影響で、民衆以外の宮廷や知識人の間ではスペイン語化が進んだ。カタルーニャ地方が政治的・経済的に低迷した16世紀以後にはカタルーニャ文学も停滞し、16世紀から18世紀は「カタルーニャ文学の衰退期」と呼ばれている。 -ラブカ(羅鱶、学名Chlamydoselachusanguineus)は、カグラザメ目ラブカ科に属するサメの1種である。現在確認されているラブカ科の現生種は2種のみ。外見からウナギザメ(鰻鮫)と呼ばれることもある。大西洋・太平洋の大陸斜面、水深500–1,000メートルの海底で生活するが、日本では駿河湾、相模湾などで浅海に上がってくる。原始的なサメの特徴が見られることから生きている化石と呼ばれる。全長2メートルに達し、鰭は体後部に集中する。鰓弁は大きくヒダ状になり、英名frilledsharkの由来ともなっている。 -温度制御装置を備えたステンレス鋼発酵タンクの出現は、アンダルシア州、カスティーリャ=ラ・マンチャ州、レバンテ地方などの温暖な地域のワイン産業を急速に変革し、よりフレッシュで果実味の強いワイン、特に白ワインの生産につながった。1990年代初頭には爽やかでフレッシュなワインが注目されたが、その一方で、19世紀のような伝統的な樽による発酵方式も復活している。スペインのワイン生産ではオーク樽を使用する長い伝統があり、オーク樽���使用開始はフランス人が225リットルの樽を取り入れる前にまで遡る。19世紀末から20世紀初頭、スペインのワイン生産者は安い上に香りの強いアメリカン・オークの樽に移行し始めた。リオハなどの地域のワイン生産者は、特にテンプラニーリョ種が新しいアメリカン・オークの樽によく共鳴することに気づいた。一方で、1980年代にはフレンチ・オークへの回帰も行われるようになり、いくつかのワイナリーはブレンド用に二種類のオーク樽を組み合わせて使用している。新世代のワイン生産者は短期間の熟成で飲むことができる「若いワイン」の生産を開始している。 -アメリカ合衆国のカリフォルニア州クレセントシティでは5人が太平洋を渡った津波にさらわれ、うち1人が犠牲になった。インドネシアのパプア州でも、津波により1人が犠牲になり、5人が行方不明となった。太平洋の広い範囲に津波が到達したため、日本国外でも建造物の被害が発生した。ハワイ諸島ではハワイ島西岸に津波が押し寄せ、浸水などにより3軒のホテルが営業不能となるなど、数千万ドルに上る被害が発生した。カリフォルニア州のクレセントシティやサンタクルーズでは港湾が損壊し、停泊していた船舶の損害と合わせて1,400万ドルの被害が出た。チリでは数十の住宅が損壊し、200人近くが住家を失った。インドネシアでは、パプア州にあるヨテーファ湾沿岸の複数の村で、住宅が損壊する被害が出た。アメリカのオレゴン州などに流れ着いた漂流物への付着により、それまで現地では確認されていなかったワカメ、マコンブ、海苔などの海藻が漂着し、成長していることが確認されている。これらは漁業や環境に危害を与える心配がある。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -「まぼろし博覧会」のコンセプトは「キモ可愛い」であり、公式ウェブサイトの各ページにも「キモ可愛いパラダイス」「キモ可愛いの楽園」「アホとボケの楽園」など、怪しげな文句が並んでいる。他にも「アンポンタン共和国」「怪しい秘密基地」など、多くの異名を持つ。館長の鵜野義嗣によれば、世間には面白いものが多数あるが、いずれはすべてが無くなると考え、昭和の家具や食器、新聞の折り込み広告に至るまで、日常で目にする普遍的なものから、あまり見かけない極端な物まで、現実の社会にあったものは全部集めたいと思って始めたという。全体のコンセプトは、先述の「怪しい少年少女博物館」と同じだが、おたくや懐古趣味を持つ客向けでコレクターの世界とされる同館に対し、本館は子供から老人まで、1人残らず笑顔にしようとの狙いがある。つまり仲間内だけに褒めてもらうのではなく、知らない人、興味のない人への挑戦であり、多くの人を楽しませることが狙いとされる。 -HTVは当初から補給キャリアの組み替えにより様々な輸送需要に対応したり、将来は有人宇宙船や軌道間���送機に発展させることを容易にしたりするため、モジュール設計が行われている。当初は、与圧短型、与圧長型、与圧・非与圧混載型の3形態が考えられたが、その全てに対応したものを開発すると開発費が高騰してしまい、日本が独自の新輸送機開発を行う根拠としてスペースシャトルより費用対効果があることを示す必要があったため、与圧物資と非与圧物資を搭載する「混載型」のみが開発された。そのため、組み替え形態の開発は将来構想となったが、モジュール単位で開発して後で組み合わせることが可能になり、開発の効率化にも役立った。大きく分けると、前側2/3程度が補給キャリア、後側1/3程度が電気・推進モジュールである。HTVの総部品点数は約120万点に上り、H-IIBロケットの約100万点よりも多く、打ち上げ時にかかる3.2Gの加速圧と振動に耐えられる強度を持っている。 -志摩町片田(しまちょうかただ)は、三重県志摩市の地名だ。2004年現在の面積は2.36km2だ。明治時代に伊東里きがアメリカ合衆国に渡り、里きに続いて多くの片田地区の住民がアメリカに移民したことから、「アメリカ村」の異名を持つ。 -港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクを、パルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -東久留米市の西端に位置し、西は東村山市、南は小平市と接する。南部を東西方向に新青梅街道が通過する地域であり、大部分は住宅地として利用されている。二丁目に山崎製パン武蔵野工場、四丁目に黒目川の水源、五丁目に東久留米市立第十小学校がある。北は下里三丁目・四丁目、東は滝山五丁目・六丁目、南は小平市大沼町二丁目・四丁目、小平市美園町三丁目、西は東村山市萩山町五丁目、東村山市恩多町一丁目・二丁目、青葉町一丁目と接する。公立の小・中学校に通学する場合、学区は次のように指定されている。このうち、第十小学校は柳窪五丁目にある。 -北東側の山麓に近い標高178メートルの位置に、白い仏舎利塔(通称「平和の塔」、正式名称���札幌平和塔」)が建っている。太平洋戦争の犠牲者の冥福と世界・日本の平和を祈る目的で、日本山妙法寺の藤井日達の発願により、1959年(昭和34年)に建立され、その後、改装されている。高さ33メートル、基底幅28メートルである。インドのネール首相から贈られた仏舎利が安置されている。 -1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出を開始していた。しかし、当時のイギリスの航海の性格は、略奪、探検、冒険航海の色が強かった。また、すでに、レヴァント会社という会社組織が結成されており、地中海やモスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。だが、1595年、オランダがジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣し、この派遣の成功がヨーロッパ中に衝撃を与えた。 -ウォルト・ディズニー(WaltDisney,1901年12月5日-1966年12月15日)は、アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴに生まれたアニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナーである。世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキーマウス」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『ディズニーリゾート』の創立者であり、兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。本名はウォルター・イライアス・ディズニー(WalterEliasDisney)である。一族はアイルランドからの移民であり、姓の「ディズニー」(Disney)は元々「d'Isigny」と綴られ、フランスのノルマンディー地方のカルヴァドス県のイシニー=シュル=メールから11世紀にイギリスやアイルランドに渡来したノルマン人の末裔であることに由来し、後に英語風に直され「ディズニー」となった。「イライアス」は父名である。共和党を支持し右派として知られていた。 -当初構想どおり、A319の胴体はA320のものから7フレーム短縮された。短縮量は主翼の前で3フレーム(1.60m)、後ろで4フレーム(2.13m)であった。胴体短縮に合わせて、A320では最後部にあったバルク貨物扉が除去され、ばら積み貨物はコンテナ用貨物扉から積み下ろしすることになった。座席数の減少に合わせて、主翼上の非常口が1つに減らされた。原型となるA320が設計されてから10年余りが経過しており、エアバスはA319に新たな改良を加えるべきか検討した。顧客となる航空会社に意見を求めたところ、「何もしないことが最善」という結論に至った。したがってA319は可能な限りA320と共通化された。主翼もコックピットもA320と同一であり、尾翼を含めた尾部構造や降着装置も何も変更されなかった。エンジンについてもA320やA321と同じくCFMインターナショナル社のCFM56と、インターナショナル・エアロ・エンジンズ社のV2500が設定された。小型化されたA319に合わせて両エンジンとも推力抑制型が用意された。それぞれのエンジンは基本的な構成などは標準推力型と同じであり、専用の部品や工具なども不要とされた。 -白血病における慢性と急性の意味は、他の疾患で言う急性・慢性の意味合いとは違う。急性白血病が慢性化したものが慢性白血病という訳ではなく、白血病細胞が幼若な形態のまま増加していく白血病を「急性白血病」、白血病細胞が成熟傾向を持ち一見正常な血液細胞になる白血病を「慢性白血病」という。白血病の歴史の中で一般に無治療の場合には白血病細胞が幼若な形態のまま増加していく白血病の方が死に至るまでの時間が短かったので「急性」と名付けられた。急性白血病が慢性化して慢性白血病になることはないが、逆に慢性白血病が変異を起こして急性白血病様の病態になることはある。一般的に用いられる形容で、白血病を「血液の癌」と呼ぶが、この形容は誤りである。漢字で「癌」というのは「上皮組織の悪性腫瘍」を指し、上皮組織でなく結合組織である血液や血球には使えない。ただし、「血液のがん」という平仮名の表記は正解である。平仮名の「がん」は、「癌」や「肉腫」、血液悪性腫瘍も含めた広義的な意味で使われているからであ���。悪性リンパ腫や骨髄異形成症候群といった類縁疾患は通常、白血病には含まれないが、悪性リンパ腫とリンパ性白血病の細胞は本質的には同一であるとされ、骨髄異形成症候群にも前白血病状態と位置付けられ進行して白血病化するものもあり、これら類縁疾患と白血病の境目は曖昧な面もある。 -しかし1970年代に二度の石油危機で石油がバレルあたり12ドルになると、産業燃料や発電燃料は再び石炭に戻ったが、日本国内で炭鉱が復活することは無かった。豪州の露天掘りなど、採掘条件の良い海外鉱山で機械化採炭された、安価な海外炭に切り替わっていたからである。海上荷動きも原油に次いで石炭と鉄鉱石が多く、30万トンの大型石炭船も就役している。他の化石燃料である石油や天然ガス等と比べても、燃焼した際の二酸化炭素(CO2)や硫黄酸化物(SOx)などの有害物質の排出量が多く、地球温暖化、大気汚染の主な原因の一つとなっている。日本では、一般的に石炭(せきたん)と呼ばれるようになったのは、明治初年に西欧の採炭技術が入って、特にドイツ語Steinkolenを和訳したものとされる。それ以前は地方によって、五平太(ごへいだ)、石炭(いしずみ)、岩木(いわき)、燃石(もえいし)、烏丹(うに)、烏朱(うし)などと様々に呼称されていた。 -1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業した。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京した。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。 -フランソワは資金集めにさまざまな方法を試したが、ブルボン公シャルル3世との争いを一番効果的と狙った。シャルル3世はブルボン女公シュザンヌとの結婚によりブルボン公位を得たが、シュザンヌは1521年に死去した。シュザンヌの従姉でフランソワ1世の母であるルイーズ・ド・サヴォワは血統上の優位により相続権を主張した。フランソワはブルボン公領を得られれば財政立て直しが一気に進むので母の主張を支持、ブルボン公の所領を没収した。シャルルは憤激し、王を見限ってカール5世に接近した。 -再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていたマウスに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたフィリックス・ザ・キャットに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる「ミッキーマウス」は完成した。後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。因みに当初名前は「モーティマーマウス」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーが「悔しがる・恥をかく」の動詞である「モーティファイ」に言い方が近いため猛反対し「ミッキーマウス」と変更された。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『プレーン・クレイジー』(『飛行機狂』)および第二作『ギャロッピン・ガウチョ』はサ���レント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。 -2005年11月18日にセネガルの世界遺産の暫定リストに登録された。登録名は「サルーム川の三角州」(LeDeltaduFleuveSaloum)で、複合遺産としての登録を目指していた。申請されていた面積は145,811haで、サルーム・デルタの中でもマングローブ林と海域の部分がかなりの面積を占める構成になっている。 -于闐を滅ぼした後、アフマド1世は天山ウイグル王国に改宗のための聖戦を数度にわたって実施する。1017年にカラハン軍はベラサグンから天山ウイグル王国に攻め込むが反撃に遭い、天山ウイグル王国の軍隊はベラサグン近郊に接近した。病床についていたアフマド1世は陣頭で指揮を執って天山ウイグル王国を破り、トルファンに進軍するが、帰国後に病没した。アフマド1世の死後にカラハン朝内部の抗争は激化し、ホータンを支配するユースフ・カディル・ハンがカシュガルのハン位を継いだ時代には中央アジアの支配権を巡ってガズナ朝と争った。 -野口は「白黎生」をペンネームとした。これはアントワープオリンピック出場者で結成した白黎会に由来する。白黎会とは、ベルギーの漢字表記「白耳義」から「白」、「黎明」という言葉から「黎」の字を取ったものであり、スポーツも社交界に出て交歓すべしという、野口の考えから生まれた会であった。白黎会のメンバーはオリンピックから帰国後、Hの字が入った揃いのトレーニングシャツを着てスポーツを楽しんだ。戒名「白黎院転輪法浩日源居士」にも白黎の文字が入っているのは、野口の生前の希望によるものである。私生活では1917年に生駒豊子と結婚し、2男2女を授かっている。晩年の野口は、妻への恩返しとしてよく夫婦で旅行に出かけていた。子供に対しては「理解のあるパパ」であり、トランプで一緒に遊ぶ時にはねじり鉢巻きをして勝負に挑み、負けた時には罰ゲームでコーヒーを淹れたり、菓子を買いに行ったりしていた。渋谷・神泉町の自宅では家庭菜園を楽しみ、イチゴ・ブドウ・イチジク・モモなどを栽培していた。仕事も家庭もうまくいっていたため、やっかみ的な批判を浴びせる人もいたという。幸福な生活が周囲に知られた一方で、死の数日前には母の愛を知らないさみしさを付き添いの人々に語ったといい、人知れず苦悩を抱えていた一面もある。 -一方で、第1国会開催を目前にして、同年4月21日から25日にかけて第3回党大会が開かれた。大会では、帝政政府の発表した憲法草案はまったく不十分であると非難する決議がなされ、また、国会に提出するための土地問題法案「四十二人法案」(後述)が計画された。さらに地方党員はより急進的な活動方針を取るべきだと訴え、ミリュコーフら中央委員会を激しく批判したが、これについては、あくまで合法的な議会闘争を行うという方針が採用された。第1国会が開かれると、各種の自由権や法の下の平等などを求める法案を提出したが、かなり穏健な内容であったにもかかわらず、これは廃案となった。また、穏健な農民派政党トルドヴィキ(英語版)らとともに土地問題の審議を望み、私有地を一部、有償ながらも強制収用すべきとする四十二人法案を提出した(#土地問題)。一方で、トルドヴィキは全土地の収用を求めた。 -1954年1月10日、BOACのシンガポール発ロンドン行781便(初就航を担ったMk.I1号機、G-ALYP、フォネティックコード:"ヨーク・ピーター"(YokePeter))は、経由地のローマ・チャンピーノ空港を協定世界時(UTC)9時34分(現地時間10時34分)に離陸した。当時の気象は穏やかで、地中海のエルバ島上空26,500ft(8,077m)を巡航中の781便は、先にチャンピーノを離陸した同僚機の"アーゴノート"(カナディア製DC-4、G-ALHJ、フォネティックコード:"ハウ・ジグ")であるロンドン行531便に上空の状況を伝えるため、無線交信を開始した。離陸から20分程しか経っていない9時52分(UTC)頃、781便の機長が"GeorgeHowJig,didyougetmy..."「531便、そちらにこちらの...」と言い掛けたところで途切れ、破裂音が通信記録として録音された。事故現場から北西20km先の地点でこの瞬間を目撃した漁民は、爆発音の後バラバラになった残骸が炎や煙に包まれて海上に落下していったと証言した。乗員6名と乗客29名全員が死亡したものと推測された。海上から15名の遺体と衣服、郵便袋などの浮遊していた遺留品が回収された(余談だがこの時の搭載郵便物がクラッシュカバーとして何通か現存している)。 -渡米した若者たちは玄米1俵が3円の時代に平均して年間300円を故郷に送金したため、片田村では里きを頼ってアメリカに渡る人が急増し、明治末期から大正初期にかけて移民が片田郵便局に送金した金額は、片田村の予算の3倍にも達した。片田村からの移民の中に平賀亀祐の父もおり、亀祐は父を追って渡米し、現地で絵画を学んだ。この移民ブームは第二次世界大戦前まで続いた。 -鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。 -昔は熊本県や長崎県で食用に利用されていたと思われるが、現在ではそれらの産地が天然記念物に指定されていることや生育量が少ないことから、少なくとも漁業の対象とはなっていない。オキチモズク属には、本種の他にNemalionopsisshawiiとその種内変異による別品種としてN.shawiif.calorinianaが知られている。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -表面相だけを焼入れして内部は軟らかいままにしておく焼入れが表面焼入れで、使用する熱源別に、高周波焼入れ、炎焼入れ、レーザー焼入れ、電子ビーム焼入れなどがある。鋼表面の化学成分を変化させる方法を合わせたものとしては、浸炭焼入れ、浸炭窒化焼入れなどもある。加工品全体ではなく表面の硬化を狙った熱処理を表面硬化処理(surfacehardeningtreatment)と呼ぶ。表面硬化処理には、鋼表面の化学成分を変化させ��化学的表面硬化法と、化学成分を特に変化させずに行う物理的表面硬化法がある。浸炭焼入れ、浸炭窒化焼入れが化学的表面硬化法に相当し、表面焼入れは物理的表面硬化法に相当する。 -カール4世は1316年5月14日、ボヘミア王国の都プラハで生まれた。母はプシェミスル家最後のボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカである。1306年、ヴァーツラフ3世が暗殺されるとプシュミスル家の男系男子は絶え、その後様々な経緯があったものの、国内で王位継承に同意権を有していたボヘミアの有力貴族たちは、最終的にボヘミア王として、ローマ皇帝ハインリヒ7世の子であるルクセンブルク家のヨハンを選んだ。1310年、ヨハンはエリシュカと結婚してボヘミア王となったが、この2人の間に生まれた長男がカールである。カールは最初、伯父や外祖父と同じくヴァーツラフと名付けられた。ルクセンブルク家とプシェミスル家の血を引くチェコ人として生まれたカールであったが、政治にかかわる父と母の確執のため、3歳の時に母の手元から引き離され、ロケト城に幽閉され、その後7歳から14歳までの間はパリの宮廷に送られてそこで養育された。これは、カペー朝最後の王となるフランス王シャルル4世の王妃マリー・ド・リュクサンブールが父ヨハンの妹だった縁による。 -中日の先発投手は、上記の巨人側、さらに上記引用10月8日付日経などの新聞の多くが「今中先発」を前提に分析・予想していたが、それが的中する形となった。巨人は槙原が先発した。1回裏に中日は先頭打者の清水雅治が右中間に二塁打を放つが、続く小森哲也が送りバントを試みるも空振りし、その際に二塁走者の清水が飛び出して巨人の捕手・村田真一の送球でタッチアウトした(記録は盗塁死)。その後小森が右前安打、3番の立浪和義が死球で一死一・二塁とチャンスを作るが、4番の大豊が二塁ゴロ併殺で無得点となった。大豊の打球はマウンドの槙原の横を速い球足で抜けるいわゆる「ピッチャー返し」の打球だったが、二塁ベース寄りに守っていた巨人の二塁手・元木大介がこれを正面で捕球し併殺とした。プルヒッターである大豊の打席時に一・二塁間を詰めて守るチームが多い中で敢えて二塁ベース寄りの位置で守った元木を当日のテレビ中継の解説をしていた達川光男と鈴木孝政は激賞した。この日実況を担当した吉村功(東海テレビアナウンサー)は後に著書の中で「中日の1回裏の攻撃がすべてのような気がする」と語っている。 -開会式では、オリンピック賛歌を演奏することやオリンピック旗掲揚、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた。しかし、聖火台で鳩を焼いてしまったソウル大会での一件や、外来生物への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。ロンドン大会では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人がワイヤーアクションで空中へ上昇した。開会式の入場行進はオリンピックの発祥地であるギリシャの選手団が先導し、その後参加国は開催国の言語順に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。2002年のソルトレークシティオリンピックではジョージ・W・ブッシュ大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(Onbehalfofaproud,determinedandgratefulnation...)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である。また、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとのファンファーレが演奏されることが通例となってい��。1984年のロサンゼルス大会のファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ作曲)は世界的に有名となった。なお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。なお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。 -糸魚川駅-直江津駅間の鉄道は1911年(明治44年)に直江津駅-名立駅間が信越本線支線として開通したのを皮切りに、翌1912年(大正元年)に糸魚川まで延伸され、1913年(大正2年)には富山駅から延伸を重ねた北陸本線と接続、編入された。当初この区間は、大部分が現在の国道8号に並行し、日本海の海食崖・山裾を縫うように敷設された。しかし、次のような問題があった。この区間は最急勾配が10パーミルと、木ノ本駅-敦賀駅間など25パーミル勾配の区間を有した北陸本線の中では比較的緩やかであったものの、本線としては最急となる半径300mの曲線が29か所存在するなど、曲線が連続するため、速度向上が困難であり、当時運行されていたキハ80系気動車(最高速度100km/h)による特急列車「白鳥」もこの区間の表定速度は約60km/hに過ぎなかった。全通後から戦前にかけての北陸本線は輸送量こそ漸増していたものの行き詰まるほどではなく、複線区間も支線直通列車や操車場に関連して列車が錯綜する福井操車場(現:南福井駅)-福井駅間、金沢駅-津幡駅間でわずかに設けられていたのみであった。しかし第二次大戦後は、東北・北海道地域と関西地方を結ぶ最短経路(いわゆる日本海縦貫線〔裏縦貫線〕)として脚光を浴び、朝鮮戦争後の青海・糸魚川・富山・高岡・金沢・福井地区での重工業開発により貨物輸送量が増大した。また旅客面では観光資源に恵まれたことにより観光客が増加した。結果、北陸本線は1963年(昭和37年)時点で貨物発送トン数が10年前の1.86倍となる全国一の伸びを記録し、その後も旅客貨物ともに輸送量は増加の一途を辿り、北陸本線の輸送力は急速に不足した。これは、糸魚川駅-直江津駅間も例外ではなく、1963年(昭和37年)の時点で糸魚川・直江津地区では貨物列車の比率が全体の約60〜65パーセントに達し、糸魚川駅-直江津駅間は限界一杯の84回列車を運行するに至り、1965年(昭和40年)ごろには104回に達する見込みであった。しかしこの区間は線路容量が小さく、最も低い筒石駅-名立駅間では列車運行回数は83回が限界となっていた。 -渡辺は美幾の生涯を題材に、小説『白き旅立ち』を書き上げて小説新潮の1974年3月号から5月号にかけて連載した。この作品中では、宇都宮鉱之進は美幾の馴染み客として描かれた。美幾は宇都宮から解剖についての知識を得て、後に労咳が悪化した後に彼の縁で小石川養生所へ入院し、篤志解剖の申請手続きは円滑に行われたこととされた。作中で美幾は養生所で出会った滝川長安という若き医師に密かに想いを寄せ、彼が解剖こそ日本医学の発展に不可欠だと説いているのを聞き、死後に自らの体を提供する約束をした後に生涯を終えている。 -1869年に運河が開通するまで、トーマス・フレッチャー・ワグホーンの陸送郵便やロバート・スチーブンソンの鉄道路など、地中海と紅海の間は船から荷降ろしされ陸上を運搬する方法がしばしば用いられていた。スエズ運河を通過しなければ、アフリカ大陸南端のアガラス岬を回航しなければならない。現在でもこの航路を取る必要があるスエズマックスを超過する船は、ケープサイズと呼ばれる。ロンドン‐横浜間を例に取ると、アフリカ回航では14,500海里(26,900キロメートル)かかるところを、スエズ運河を通れば距離は11,000海里(20,400キロメートル)となり、24%の短縮となる。ただし、21世紀初頭にはソマリア沖の海賊や高い保険料を避けるために、この航路を取る船が増えた。 -プリーストリーは結局、神学の道に戻ることを決め、1752年にダヴェントリーの非国教徒向けアカデミーに入学した。既にかなりの書物を読破していたため、2学年を飛び越して進級することになる。猛勉強を続け、学校の寛大な雰囲気もあって、左翼よりの神学者となっていき、合理的非国教徒となっていった。教義や宗教的神秘主義を嫌い、自然界と聖書の合理的分析を信条とするのが合理的非国教徒��ある。後にこの点に関して最も影響を受けた著書としてデイヴィッド・ハートリーのObservationsonManを挙げている。これは心理学的、哲学的、神学的な論文であり、心の哲学を扱っている。ハートレーは宗教的「事実」や道徳的「事実」を科学的に証明することを目標としており、プリーストリーも同じことを生涯の目標とした。ダヴェントリーでの3年目、「あらゆる職業の中で最も高貴だ」とする聖職者になることを決意した。 -以上が日本の文献で紹介される貸出処理だが、アメリカの文献では、図書館員が貸出手続きを行う“staff-charge”の他に、利用者自身が貸出手続きを行う“self-charge”の2種類が確認できる。staff-chargeは利用者情報の記入に人員を割かねばならないため、self-chargeよりも人件費がかかる。self-chargeでの貸出手順は、利用者は図書のブックポケットからブックカードを取り出し、自身の氏名、もしくは登録番号、その他必要な情報を記入する。ブックカードへの記入が済んだら、図書とブックカードを図書館員へ提出し、返却期限日を図書、ブックカードの両方に押印してもらう。図書館員は必要に応じて身分証明を求め、問題なければ、ブックカードを返却期限日、もしくは利用者の電話番号順や図書の著者順に並べて保管する。 -ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることができず、そして攻撃を続けるとゴローニン達の身が危うくなる懸念があることから、彼らの私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退した。オホーツクに着いたリコルドは、この事件を海軍大臣に報告しゴローニン救出の遠征隊派遣を要請するため、9月にサンクトペテルブルクへ出発した。途中、イルクーツク県知事トレスキンを訪問したところ、既に遠征隊派遣を願い出ているとの説明を受けたことからイルクーツクに滞在したが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のため日本への遠征隊派遣は却下となり、リコルドは文化露寇の際に捕虜となりロシアに連行されていた良左衛門を連れてオホーツクへ戻った。 -明治天皇は馬に関心が深く、また1904年(明治37年)の馬政勅諚が池上競馬や馬券発売黙許のきっかけとなったが、池上競馬場にも明治天皇は関心を持っている。加納は天皇の来場を期待して馬見所には玉座を設けた。明治天皇自身の池上競馬観覧こそはなかったものの名代を派遣されて池上競馬の様子を聞き、また毎回皇族を派遣している。明治天皇は競馬の目的は馬の見た目の美しさを求めるものではなく、馬の速力など馬の能力の優劣を競うべしとの考えで、池上競馬の成績表(タイム・斤量などの比較データ)を取り寄せた。1906年(明治39年)11月、加納は宮内大臣に「御賞典」の下賜を要望した。天皇は池上競馬場の初開催から御賞典を下賜している。天皇の御賞典は池上競馬場と横浜競馬場では各開催シーズンごとに下賜され、帝室御賞典競走と名付けられたこの競走は後の天皇賞へとつながっていった。 -一方、慶応2年(1866年)に薩長同盟を締結した薩摩藩は、長州藩の名誉回復に尽力するとともに、幕府主導の政局を牽制し、列侯会議路線を進め、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革したいと考えていた。そこで薩摩藩在京首脳の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らは雄藩諸侯らを上京させて、長州問題・兵庫開港問題などの国事を議する会議を画策する。2月1日には島津久光(藩主島津茂久の父)に上京を促すため、西郷が鹿児島へ帰国。久光の賛同を得た西郷は、そのまま久光の命で伊達宗城(前宇和島藩主)・山内豊信(容堂)(前土佐藩主)の誘い出しに赴く。一方、京都では小松が在京中の松平慶永(春嶽)(前越前藩主)を説得。3月25日には久光が7000人と号する藩兵(実際は700程度か)を引き連れて鹿児島を出発(4月12日に入京)。続いて4月15日に伊達宗城も入京。5月1日には山内容堂も入洛し、四賢侯が揃った。なお、慶喜の再三にわたる兵庫開港の上奏を受けた朝廷は3月24日に全国25藩に対し、慶喜上表文に対する意見具申と藩主上京を求めていたため、これら諸侯の上京も結果的に朝命となった。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万��でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にも関わらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年にカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がアッシリア人を駆逐し、新バビロニア王国(カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年にアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王キュロス2世(クル2世、在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入城し、また征服の後はバビロンで死去した。 -庵野秀明は上京し、劇場アニメ『風の谷のナウシカ』、『超時空要塞マクロス愛・おぼえていますか』やOVA『メガゾーン23』等の商業作品に参加し、メカや爆発シーン等のエフェクトアニメーションを手がける。『風の谷のナウシカ』では、採用時に持参した大量の原画が宮崎駿に評価され、難しいとされるクライマックスの巨神兵登場のシーン担当に抜擢された。この時、人物も描くよう監督から指示されるも、出来が悪かったため監督本人に頼んだというエピソードがある。この頃から原画・動画一筋でやっていくのは無理だと考え、監督・演出の仕事をメインに切り替える。ちなみに、パンフレットに記載されている「巨神兵の呪いを受けて腹を壊したA氏」は庵野の事である。なお、師匠として、宮崎及び『超時空要塞マクロス』の板野一郎の名前を挙げており、特に宮崎からは監督としての仕事の進め方等を学んだという。また、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季らも含め、アニメーション界を代表する作家の仕事に参加できたことをとてもラッキーだったと語っている。その後、DAICONFILMを母体とするガイナックスの初作品『王立宇宙軍オネアミスの翼』には「スペシャルエフェクトアーティスト」という肩書きで参加した。クライマックスシーンでは、戦闘・ロケット発射シーンは絵コンテから作画までほとんどを1人でこなした。セルを1コマに9枚重ね、3秒間でセル枚数が250枚にも上るカットもあるという。当時、戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、手当たり次第に軍事関係の資料に目を通し、自衛隊にも体験入隊している。 -安永7年(1778年)には、妻・ミチと奥州旅行へ出かけた。これは忠敬にとって、妻と一緒に行った唯一の旅行となった。同じ年、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となった。忠敬は名主や村の有力者と、江戸にある津田氏の屋敷にあいさつに出向いた。そのとき、名主5人と永沢治郎右衛門は麻の裃を着用していたのに対し、忠敬は裃の着用を許されず、屋敷内で座る場所も差をつけられた。これは永沢が名字帯刀を許された身分だったためであるが、商いが順調なのに相変わらず永沢家と身分に差をつけられていることに悔しさを感じた忠敬は、永沢に対抗心を燃やすようになった。しかし、そのうちに忠敬の待遇も上がり、天明元年(1781年)、名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった。 -司馬遷から1世紀ほど後の文人揚雄は、『法言』君子篇にて「子長(司馬遷の字)は奇を愛す」と記した。司馬貞も『史記索隠』後序にて、「(司馬遷は)奇を好む」と書いた。ここで言う「奇」とは珍しいものや希なものを指すが、司馬遷は特に人物の中にある「奇」、すなわち類希な才能に重きを置いた。この傾向は、思想的に好まない人物、敗者や悪評を受けた人物の評価にも当てはめられた。例えば司馬遷の思想とは相容れない法家の韓非にも賞賛を加えている。それどころか、非情な役人であり彼自身にも刑を施した獄吏の中にさえ人物を見出し「酷吏列伝」を記した。ここには、司馬遷が持っていた『史記』に向かう私情を排した一貫する態度を表す。司馬遷が最も「奇」を見出した人物が項羽と李広であり、特に前者は歴史上において敗者でありながら、本来皇帝の伝記である「本紀」のひとつとして記されている。才気漲り、英雄的な生涯を送りながら最後は劉邦に敗れ自ら首を刎ねた項羽を高く取り上げた点は、司馬遷が持つ浪漫的性質が現れた一面とも評されている。 -1444年9月、ハンガリーのフニャディ・ヤーノシュとポーランド王ヴワディスワフ3世が率いるヨーロッパ連合軍がトランシルヴァニア、ブルガリアに侵入したとき、ハリル・パシャはメフメトには対処が困難だと考え、ムラトに復位を求めた。 -コロンビア・ゴージAVAはコロンビア峡谷に広がるAVAで、オレゴン州とワシントン州の両郡に属し、中央をコロンビア川が流れている。オレゴン州フッドリバー郡及びワスコ郡、ワシントン州スカマニア郡及びクリッキタト郡から構成される。近くにあるフッド山とアダムズ山の山頂付近までを範囲とし、山の雨蔭に位置することから、ウィラメット渓谷に比べて著しく乾燥した気候を持つ。また、峡谷からなる地形のために標高が場所により大きく異なり、強風が日常的に吹いていることもこの地域の特徴的な気候の一因になっている。このような事情もあり、コロンビア・ゴージAVAではさまざまな品種のブドウが幅広く栽培されるに至った。ブドウ園の数は約40で、シラー、ピノ・ノワール、シャルドネ、ゲヴュルツトラミネール、ジンファンデル、カベルネ、ピノ・グリ(Pinotgris)、リースリング、サンジョヴェージェなどを始めとするさまざまな品種が栽培されている。 -ラムセスの時代に行われた公判を書写したパピルスにより、メディネト・ハブで行われた祝宴中に王室の後宮(ハレム)によるラムセスに対する暗殺事件があったことが知られている。その事件はラムセスの妻の1人であるティイが教唆して、自らの息子のペンタウアーに王権を相続させるというものであった。 -デングウイルスに感染しても8割は無症状であり、それ以外も軽度の症状、例えば合併症を伴わない発熱症状が現れるだけがほとんどである。しかし、5%の感染者では重症にまで発展し、さらにごく一部では生命を脅かすこともある。潜伏期間(感染してから症状が出るまでの期間)は3日から14日であるが、ほとんどの場合は4日から7日である。このため、デング熱の流行地域から戻ってきた旅行者が、帰宅してから14日以上経った後で、発熱やその他の症状が出始めた場合、デング熱である可能性は極めて低い。子供の場合、風邪や胃腸炎(嘔吐や下痢)とよく似た症状がたびたび現れ、症状は一般的に大人よりも軽いが、その一方で重度の合併症に陥りやすい。 -富田川流域の紀南地方と呼ばれる紀伊半島南部一帯は、富田川以外にもオオウナギが生息する河川があることが昔から知られており、中でも和歌山県南東部を流れる古座川に生息するオオウナギには多くの記録や文献が残されている。 -西部・中央部の河川の多くはウーズ川(RiverOuse)の支流で、ウーズ川はハンバー川(HumberEstuary)を経て北海に注ぐ。ウーズ川の北部はユア川(RiverUre)と呼ばれている。ユア川はウーズ��の各支流のなかで最も水量が多い川で、アエガスの滝(AysgarthFalls)などでも知られている。上流はウェンズレー谷(ウェンズレーデイル)(Wensleydale)と呼ばれており、特産のウェンズリーデールチーズ(Wensleydalecheese)でよく知られている。ユア川はバラブリッジの町(Boroughbridge)で北から流れてきたスウェイル川を合わせ、グレートウーズバーン村(GreatOuseburn)の近くでウーズ沢(OuseGillBeck)が合流する。ここから下流側をウーズ川と名前が変わる。 -CTBTOは2月28日に、同機関が核実験の監視のために設置しているセンサーが、隕石の落下によって発生した音波を捉えたことを発表した。捉えたのは人間の聴覚で探知できる領域よりはるかに低周波の音波である超低周音波で、落下地点からほぼ反対側に相当する南極でもこの音波を捉えた。音波は約32秒間継続した。CTBTOのセンサーは年間約20個の隕石の落下で発生する音波を捉えているが、今回の隕石の落下による音波は観測史上最大規模である。なお、当初ロシア政府は上空で飛行機が爆発した可能性も検討していたが、付近で事故の情報が無いことがまもなく分かり可能性が排除された。また原因が隕石と分かった後も、隕石の地上落下があったかそれとも途中で燃え尽きたかについて一時混乱があった。 -1974年(昭和49年)4月、旧指宿市役所別館に移転し、指宿市視聴覚ライブラリーも設置された。1975年(昭和50年)から保育園への配本を開始した。指宿市視聴覚ライブラリーは1976年(昭和51年)に山川町、開聞町、喜入町、頴娃町から委託を受けて揖宿地区視聴覚ライブラリーに改称し、映画やビデオ、映写機などの視聴覚教材・機材の充実を図った。1977年(昭和52年)、指宿市親子読書連絡協議会が発足し、機関誌『ふうりん』も創刊した。この頃の指宿市の読書グループの活動は活発で、18団体1,188人が活動し、たびたび鹿児島県大会で活動について発表している。1983年(昭和58年)度の蔵書数は34,855冊、貸出冊数は18,888冊(うち児童への貸し出しが14,201冊)で、利用者数は7,769人(うち幼児・児童が5,081人)であった。 -フランシスコは史上初のアメリカ大陸出身のローマ教皇であり、史上初のイエズス会出身の教皇である。長らく日本で教鞭を執っていて、就任当時はイエズス会総長を務めていたアドルフォ・ニコラスは「我々がいま知ることになった教皇の『フランシスコ』という名前は、貧しい人々への近さという福音的精神、素朴な人々との一体感、そして教会刷新への献身を想起させるものである」とし、その「質素、謙虚さ、豊富な司牧経験と霊的深さ」を称賛して、イエズス会初の教皇選出を歓迎した。なおイエズス会ということで修道司祭出身者が教皇に就いたわけだが、これはグレゴリウス16世以来167年ぶりであった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ���軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -イタリア、特にヴェネツィア派の画家たちによる裸婦画やヴィーナス像はベラスケスの『鏡のヴィーナス』に影響を与えている。しかしながらプラーターによればベラスケスのこの絵は「独自の美術様式を確立している。多くの絵画の影響を受けてはいるが、直接に模範にしたような作品は存在しない。学者がそんな作品を探そうとしても無駄なことだ」としている。この絵が影響を受けている絵画とはティツィアーノの『ヴィーナスとキューピッドとライチョウ』、『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』、特に『ウルビーノのヴィーナス』、ヴェッキオの『横たわる裸婦』、ジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』などである。すべて豪奢な織物にもたれかかったヴィーナスの構図で、屋外を描いたヴェッキオとジョルジョーネの絵でもこの構図は変わらない。 -飛騨市には本項で扱っている飛騨市図書館のほか、飛騨市神岡図書館もある。市図書館と神岡図書館の館長は兼任である。館内の図書はICタグによる管理が行われており、自動貸出機による貸し出しができる。所在地は岐阜県飛騨市古川町本町2番22号。JR高山本線飛騨古川駅より徒歩5分。貸出制限は飛騨市に居住・通勤・通学している者。貸出可能点数は図書が7冊、AV資料が2点。貸出可能期間は2週間。予約、リクエスト、複写、レファレンスサービス可能。返却場所はサービスカウンター、ブックポスト(閉館時のみ)。開館時間は9時から20時まで(ただし日曜日は17時まで)。休館日は月曜日(祝日の場合は翌日)、月末、年末年始。 -1638年9月5日にルイ14世がサン=ジェルマン=アン=レーで生まれた時、ブルボン王家の男子はルイ13世の弟オルレアン公ジャン・バティスト・ガストンのみであり、ブルボン家はルイ14世の誕生で辛うじて命脈をつないだ。両親であるルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュは不仲で23年間子が生まれることがなかったため、国王も国民も待望の王位継承者の誕生を大いに祝福した。一方で、この子の本当の父親はルイ13世ではないと一部で様々な噂も広まった。ルイ14世は多彩な文化的背景の生まれで、父方の祖父母はアンリ4世とフィレンツェ出身のマリー・ド・メディシス、母方の祖父母はスペイン王のフェリペ3世とオーストリア出身のマルガレーテ・フォン・エスターライヒである。彼は「ルイ・デュードネ」の洗礼名を授かった。そして、「フランスの長男」及び、より伝統的なドーファンの称号を受けた。 -夏目金之助(後の漱石)は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、金之助は望まれない子として生まれたといえる。名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。 -1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。9月10日に日本を出発した。最初の文部省への申報書(報告書)には��物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(WilliamJamesCraig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ......」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという。当時の漱石最後の下宿の反対側には、1984年(昭和59年)に恒松郁生によって「ロンドン漱石記念館」が設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの欧州連合(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館した。漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開された。 -サンデーサイレンスは1985年に繁殖牝馬ウィッシングウェルと種牡馬ヘイローが交配された結果、翌1986年3月25日にアメリカ合衆国ケンタッキー州にあるストーンファームで誕生した。両者が交配された要因は、ニックスとされるマームードのインブリード(4×5)が成立することにあった。サンデーサイレンスの毛色は、生国のアメリカでは「黒鹿毛ないし青鹿毛(DarkBayorBrown)」となっているが、のちに輸入した日本では「青鹿毛」と登録されている。 -1999年のシリーズ第23作『ゴジラ2000ミレニアム』でゴジラ映画が再開された。この作品で2度目の世界観のリセットが行われる。第1作以外の過去のエピソードは一切語られず、ゴジラは地震や台風などの自然災害と同じように文明への脅威の存在として設定された。本シリーズの一部は第1作とその他の東宝特撮作品の世界観を反映した。しかし200万人から400万人と比較的高い観客動員数を維持した平成ゴジラシリーズと比べ、本シリーズは100万人から200万人ほどと大幅に減少した。そのため平成ゴジラシリーズと同じく、モスラ、キングギドラ、メカゴジラなどの人気怪獣の再登場路線となった。2001年から2003年までは『とっとこハム太郎』と併映されることになり、その影響で第26作『ゴジラ×メカゴジラ』、第27作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS』の2作は例年より15分ほど、上映時間が短縮化されている。2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS』は110万人と当時のワースト3位を記録(現在はワースト4位)した。制作サイドの目指す本当に新しい「ゴジラ映画」を制作することが当時の技術では困難として、ゴジラ50周年の節目である2004年にシリーズ集大成となる最高の「ゴジラ映画」を作り上げて締めくくろうということになり、同年公開の第28作『ゴジラFINALWARS』にてゴジラシリーズは再度終了となり、東宝が製作するゴジラシリーズは10年以上途絶えることとなる。ゴジラシリーズに数多く出演した水野久美や佐原健二らは『FINALWARS』のパンフレットで「まだゴジラシリーズに出演したい」というような趣旨のコメントを寄せた。 -オルガン製造に関する交渉のために出かけた1718年から1719年冬のズヴォレへの旅行が、シュニットガーの健康をひどく消耗させた。シュニットガーが亡くなった日付は定かでない。亡くなったのはおそらくノイエンフェルデではなく、イツェホーであったと推測されている。彼は1715年からこの地で、3段鍵盤と43のストップとを有するオルガンの建造に携わっていた。アルプ・シュニットガーの葬儀は、ノイエンフェルデの教会の葬儀録に1719年7月28日と記録されている。ノイエンフェルデの教会墓地は1971年に掘り出され、その近くに簡素な石のプレートが造られた。 -時代が太平洋戦争に突入すると、若い女性たちが女子挺身隊として動員され、みよかの店からも若い客や若い店員が姿を消し始めた。さらに奢侈品等製造販売制限規則により、パーマネントウエーブが禁止された。みよかはこれに対して、牛山喜久子、マヤ片岡、山本鈴子ら、当時の各地で活躍していた同年代の美容家たちと共に、美容クラブ「火曜会」を結成した。さらに他の美容家たちと共に、日本パーマネント協会などの団体に呼びかけ「大日本淑髪連盟」を結成し、国民精神総動員や警視庁に嘆願を続けた結果、営業禁止ではなく「華美自粛」を条件として営業を続けることができた。 -チンドン屋(チンドンや)は、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を『チンチン・ドンドン・チンドンドン』と鳴らすなどして人目を集め、その地域の商品や店舗などの宣伝を行う日本の請負広告業の一類型である。披露目屋・広目屋(ひろめや)・東西屋(とうざいや)と呼ぶ地域もある。 -アニメーション作家・映画監督の高畑勲は東映動画(現・東映アニメーション)時代の先輩であり宮﨑に多大な影響を与えた。東映動画の労働組合に書記長として従事した際、高畑は副委員長として宮﨑を支え交流を深めていった。高畑の初監督作品・映画『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが次々とイメージボードを描きアニメーター(兼場面設定)として大抜擢された。人間の深層心理を描いた初のアニメーション映画でありアニメ作品としての構成、作画クオリティは当時として最高峰であり、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人ギルド・コミューンの形成と善悪の彼岸を描いた思想背景、労働者コミュニティの連帯感、ベトナム戦争が影を落とした社会情勢も加味して作品作りに反映させ、強烈な“作家性”に宮崎が傾倒。含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆なレイアウトで魅せる高畑の演出も宮﨑にとっては憧れの的だった。ルパン三世第一シリーズ(共同演出)、パンダコパンダ(高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、アルプスの少女ハイジ、母をたずねて三千里(高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した。『風の谷のナウシカ』・『天空の城ラピュタ』では高畑はプロデューサーを務める。宮崎は音楽には疎いため、音楽的知識が豊富でピアノが弾けて自ら作曲も行う高畑は献身的にサポートした。 -「古池や蛙飛びこむ水の音」(ふるいけやかわずとびこむみずのおと)は、松尾芭蕉の発句。芭蕉が蕉風俳諧を確立した句とされており、芭蕉の作品中でもっとも知られているだけでなく、すでに江戸時代から俳句の代名詞として広く知られていた句である。 -1954年4月8日、BOACから南アフリカ航空にリースされていたMk.I9号機(G-ALYY、"ヨーク・ヨーク"(YokeYoke))は、ロンドン発ローマ・カイロ経由ヨハネスブルグ行き南アフリカ航空201便として運用されていた。201便は前日にローマから出発する予定であったが、出発前点検で"G-ALYY"翼上パネルのボルト30本に緩みが見つかり、更に燃料系統にもトラブルを生じたため、修繕作業で出発を見合わせていたのである。定刻から25時間遅れの18時32分(UTC)、201便はローマのチャンピーノ空港を離陸しカイロに向かった。19時05分にカイロの航空管制塔に「カイロへの到着時間は21時02分」と報告したのが、201便の最後の通信になった。G-ALYYはその直後の19時07分頃、ナポリ南東のストロンボリ島付近50km沖合のティレニア海上空高度35,000ft(10,700m)を巡航中に空中爆発し、乗員(全て南アフリカ国籍)7名と乗客14名の21名全員が行方不明になった。通信途絶直後より航空管制官���201便に何度も連絡を試みたが、無応答が続いたため遭難したと見做された。この時の無線通信を傍受していたドイツのラジオ局によって、事故の速報が世界中に伝えられた。 -1930年代に入ると、金輸出再禁止に伴う急速な円安により、1920年代に発行していた外債の支払利子負担が跳ね上がるという電力外債問題が発生する。この処理のため2年間にわたり無配に転落するが、1930年代半ばより業績は持ち直した。しかしその一方で、そのころより政府主導の業界再編を目指す「電力国家管理」政策の検討が本格化する。同政策は1938年(昭和13年)の電力管理法公布、そして翌1939年(昭和14年)4月の国策会社日本発送電設立という形で実行に移された。同社設立の過程で大同電力は電力設備の出資を命ぜられ、他の設備も強制買収の対象とされた上に、政府当局から残余の資産・負債についても日本発送電へ移管することを慫慂された。このことから大同電力は全社を挙げて日本発送電へと合流する道を選び、資産・負債を同社へと継承させて1939年4月に解散した。最後の社長(2代目社長)であった増田次郎は、解散により日本発送電の初代総裁に転じている。 -ゲオルクは6人兄弟の長男であった。早世したゲオルクを除けば兄弟はみな長寿を全うしており、それぞれの分野で優れた業績を残している。次男のヴィルヘルム・ビューヒナーは成功した化学工場の所有者であり、ヘッセン州議会の議員にもなっている。三男ルートヴィヒ・ビューヒナーは医業を継ぎつつ、生物学的唯物論の著書『力と質量』によって国際的な評価を得た哲学者であり、当時は兄ゲオルクをしのぐ名声を得ていた。ゲオルクの最初の著作集を出版したのもルートヴィヒである。次女ルイーゼは、兄ゲオルクをモデルとした小説『ある詩人』などの著書のある作家であり、また初期の女性解放運動にも関わっている。末子アレクサンダーは1848年の革命運動の際にフランスに移り、この地で文学史の教授の職を得ている。しかし彼は、自分のもっとも身近にあった才能には気付かなかった。 -ほとんどの藍藻は、クロロフィルaをもつ。また一部の藍藻は、クロロフィルaに加えて、クロロフィルb、d、またはfをもつ。クロロフィルdやfは生物の中で一部の藍藻のみがもつ色素であり、人間の目には見えない近赤外光を光合成に利用できる。クロロフィルb(または類似色素)をもつ藍藻は、原核緑藻ともよばれる。原核緑藻のプロクロロコックス属(Prochlorococcus)はクロロフィルaの代わりにジビニルクロロフィルaをもつ点で特異な存在であり、光合成の反応中心でジビニルクロロフィルaを用いる唯一の生物である。またアカリオクロリス属(Acaryochloris)はクロロフィルa量が少なく、反応中心でクロロフィルdを用いている。 -坑内における作業員の避難所として、マンホールを2チェーン(約40m)おきに合計115か所、下り列車に対して本線左側に設置した。また両側坑口から3100フィート(約945m)、5600フィート(約1,707m)、および中央点の合計5か所は大マンホールとした。工事中は監督員の仮詰所を設置したり、工事資材の倉庫として利用したりした。また将来的に複線化を行う際には、これらのマンホールのうち12か所から横坑を掘削して同時に着手することで、工期を2年程度に短縮することも考えられていた。工事中、1897年(明治30年)7月から8月にかけて山梨県内において赤痢の流行が発生し、特に笹子側にあたる北都留郡の流行は激しかった。人夫の感染予防に努めて工事を中止することは無かったが、それでも一時的に作業員の数が減少して工事の進捗に影響が出た。また1898年(明治31年)には不況の影響で予算が減額され、導坑から第3切り広げまでの工事のみを行って第4切り広げおよび覆工の工事は中断することになった。翌1899年(明治32年)には状況が回復して第4切り広げ以降の作業の進行改善に努めたが、この遅れにより多少の重複作業が発生するなど効率に影響を及ぼした。 -ファン・ゴッホはアントウェルペンないしパリ時代からアブサンを多飲していたが、アブサンには原料のニガヨモギに含まれるツジョンという有毒成分があり、振戦せん妄、てんかん性痙攣、幻聴を主症状とするアルコール中毒を引き起こす。サン=レミの精神病院に入院中、ファン・ゴッホが絵具のチューブの中身を飲み込んだことがあるが、これは絵具の溶剤であるテレビン油がツジョンと性質が似ているためであるという意見も発表されている。しかしこれを「耳切り事件」のような行動と結びつけるには難点もある。ゴッホの手紙の中にアブサンを飲んだという記録はないし、アルルではアブサンはほとんど売られていなかったという指摘もある。 -100年活動指数と1万年活動指数がともに低い火山であることから、「活火山ランクC」の指定を受けている。2009年(平成21年)6月に火山噴火予知連絡会により、山体浅い部に地震活動が認められていることから、過去100年以内に火山活動の高まりが認められている火山として、火山防災のために監視・観測体制等の必要がある火山の一つの指定を受けている。火山性の地震群発は現在でも観測されている。活火山としての活動力を失っていて山頂部に噴気地帯はないが、湯川(梓川の支流)の最上流部では火山ガスが発生している。周辺では気象庁、国土地理院、防災科学技術研究所、名古屋大学により地震計、傾斜計、空振計、GPS、遠望カメラが設置され火山活動の監視と観測が行われている。気象庁は2007年(平成19年)12月1日に噴火予報で「平常」を発表しており、「噴火警戒レベル対象外火山」であり、2013年7月度の気象庁火山部火山監視・情報センターの月例報告で、「火山活動に特段の変化はなく、静穏に経過し噴火の兆候は認められない」と発表している。しかし、1000年以上噴火しておらず、そろそろ噴火をしても良い時期と考える火山学者もいる。2014年の木曽御嶽山噴火災害をうけて、ハザードマップが作成されていない状態の解消を目指し、乗鞍防災協議会設置のための火山対策検討会議が行われた。 -1956年のモロッコ王国の独立後、フェズの外周にシテ・ポピュレールと呼ばれる新たな住宅地が拡大する。シテ・ポピュレールには集合住宅が建てられ、病院、学校、道路などの施設や工場が整備された。1976年以降、フェズ知事と市議会、市域外の地方議会による行政システムが導入される。1990年12月14日、労働組合のストライキに端を発する暴動が起きる。暴動の後、旧市街、新市街、フェズから約25km南にある町セフルーの3つの地域に行政を担う知事が任命された。 -女性Cは1908年7月4日生まれだ。男性Aの実母かつB・E姉妹の祖母で、事件当時は現場マンションにて息子夫婦・孫2人と同居していたが、高齢のため散歩に出るとき以外は玄関北側の自室で過ごしていたことが多かった。事件当日16時30分ごろに自宅でSに首を絞められて窒息死し、市川一家4人殺人事件で最初の犠牲者となった。女性Dは1955年6月19日生まれ、熊本県八代市出身だ。事件当日19時ごろ、長女Bとともに帰宅した直後に室内に隠れていたSから襲撃され、Bの目の前で包丁で刺されて出血多量で死亡した。 -被害者側は判決確定を受け、三井金属鉱業に対して賠償や土壌汚染問題に関する誓約書や公害防止協定を結び、交渉をスタートさせた。医療救済については県や政府の補助に加え、1973年7月に三井金属鉱業と医療補償協定が締結されて、患者・要観察者への救済が始まった。また、1974年9月1日には「公害健康被害保障法」が施行され、国からの救済も始まった。土壌汚染については、1974年(昭和49年)8月に神通川左岸の67.4haが「農用地汚染防止法」に基づく汚染地域に指定されたのを皮切りに、最終的に1630haが汚染地域になった。1979年(昭和54年)から土壌復元事業が始まったものの、工法や費用の問題、農家の農業離れ、農地転用の問題などの難問が山積みになっているため、工事が遅れていたが、2012年3月17日に完了した。発生源対策として、公害防止協定に基づく立ち入り調査が1972年(昭和47年)から毎年1回行われている。1972年(昭和47年)には9ppbだったが、1975年(昭和50年)以後には1ppb台にまで減少している。しかし、2013年(平成25年)8月に神岡鉱業に近い岐阜県高山市などで豪雨被害があったことなどから、豪雨で土砂崩れが発生した場合に汚染した土砂が大量に流出して下流の富山県などで大きな被害が出る恐れがあるとして、豪雨でも土砂流出が生じないような対策も求められている。 -レンブラントは1613年にラテン語学校に入学した。1620年、14歳のレンブラントはラテン語学校から飛び級でライデン大学への入学許可を受けた。進学したのは兄弟の中でレンブラントのみであり、兄たちは家業の製粉業に就いていた。両親はレンブラントに法律家への道を期待していたが、実際にそこに籍を置いたのはわずか数箇月にすぎず、同年末もしくは翌年には画家を志向した。当時は美術学校などなく、イタリア留学経験をもつ歴史画家ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフに弟子入りして絵画を学んだ。この顛末について、1641年にライデン元市長のヨハネス・オルレルスは同市の案内書の中で「(レンブラントの両親は)息子が絵画やデッサンにしか興味を持たないため、大学を退学させ、画家の下で美術を学ばせた」と記している。ただしレンブラントがスヴァーネンブルフから学んだものは絵画の基礎的な部分にとどまったと見られ、スヴァーネンブルフが得意とした都市絵画や地獄図などには手を出していない。 -1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求め、映画産業に対しても協力を要請するが当初は成功しなかった。これは検閲や行政指導ができないことに加え、高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させる体制となっていたためである。しかし、ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反ナチス」の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作した。大衆文化史の研究者にはディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘するものもいる。政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。しかし大衆自身が願う形へミッキーを作り変える作業を続けることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。当時のウォルトディズニー社は白雪姫の大ヒットで得た莫大な収益を注ぎ込んで製作したピノキオやファンタジアがヒットしなかったせいで、あっという間に膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパも戦争中で映画の輸出も出来なくなり、株価も1株が25ドルから4ドルまで大暴落し倒産の危機に陥ったが、プロパガンダ映画の制作により、ある程度の収益を得て経営を建て直すことが出来た為、戦後も引き続きディズニーは経営の安定させる理由で政府の核実験、原子力開発キャンペーンのためにOurFriendtheAtom(我が友原子力)という映画を作成するなどプロパガンダに参加している。大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメ映画に、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーンがあったり、ドナルドダックのアニメ映画「総統の顔」に東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたものでもなく、ウォルトが積極的に自ら制作したものである。このほかにもFP-45のために文字を使用せず、漫画のコマ割り風に絵を配置して説明するマニュアルや、ボーイズ対戦車ライフルの兵士向けの映像教材など細かな依頼も引き受けている。 -生前に「日本の土になる」「北海道の土になる」と語った遺志の通り、クサヴェラの墓碑は札幌市中央区円山のカトリック墓地に建立された。クサヴェラに次いで牧野キクも1996年に死去し、その5年後の2001年、藤女子大学に学生食堂「クサヴェラホール」と「ヘレナホール」が築造された。同大学生たちの学生生活を援助するための施設であり、食事の他にも自習や談話など、多目的に用いられている。2019年、藤女子中学校・高等学校の創立100周年記念事業として、成績優秀な受験生に返済義務の無い奨学金を給付する「クサベラ・レーメ記念奨学生特別選考」を実施することが発表された。 -元号のある国では、目を見張る瑞相や治世を危うくするほど禍々しい出来事があった場合、瑞相ならあやからんがため、凶事ならやり過ごす意図などをもって、しばしば改元が行われた。地震は、ときに瑞相(※厳密には仏教圏に限る概念)、ときに凶事の最たるものと捉えられ、改元の理由になった。一つの例として、安政伊賀地震(伊賀上野地震)・安政東海地震・安政南海地震は嘉永7年に発生したが、世を安んじるべく「安政」へ改元されたことで、現在では改元後の元号を冠しているが、地震発生当時の記録者にとっては当然ながら「嘉永」の世であり、「嘉永七年」の出来事として記録されている。嘉永年間の出来事に「安政」を冠する整合性については、明治改元の際にその年(慶応4年)の正月(旧暦1月1日)まで遡ったうえでの改元として処理された例に倣い、正しいと解釈されている。 -オックスフォード派は、作者は遅くとも1609年までに死んでいたはずであると主張しているが、この1609年とはShake-Speareの『ソネット集』出版の年であり、冒頭に置かれた献辞がその証拠である。この献辞は著者によってではなく「T.T.」というイニシャルの人物によって書かれており、これが出版人トマス・ソープであるということにはほとんどの研究者が同意しているが、問題は"'ourever-livingPoet'"なる言葉である。刊行者から著者である「我らが不滅の詩人」に奉げるという意味であるが、この「不滅の」なる語が存命の人物に対して冠せられることはめったになく、通常は死者に対してしか用いられない言葉であり、1616年まで生きたストラトフォードのシェイクスピアには当てはまらないのである。ストラトフォード派の研究者は、それよりももっと早い時期、作者が(その正体が誰であれ)まだ生きていたとオックスフォード派も認めざるをえない1598年に、明らかにシェイクスピアに言及した詩の一節、"Liveeveryou,atleastinFameliveever:WellmaytheBodydie,butFamediesnever"(永遠に生きよ。少なくとも名誉のもとで永遠に。肉体が死んでも、名誉は決して死にはしない)を引用することをもって答えている。しかしこれはあくまで類似の表現であり、ストラトフォード派の人々は「不滅の」という語が存命の人物に対して用いられた例を発見するには至っていない。 -1903年1月ベルリンで個展を開き、同年4月にはパリのアンデパンダン展に何点かの新作を出品し好評を得た。ムンクはこの年、イギリスの女流ヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチを知り、彼女を愛するようになった。彼女をモデルに『ブローチをつけた婦人』といった優れたリトグラフ作品を残している。他方でこの頃、酒に酔って人とけんか騒ぎをすることが度々あり、ムンク自身も自分の精神状態に不安を覚えるようになっていた。ムンクはリンデの依頼に応じた制作を再開し、1903年にエッチング集『リンデ博士の家庭から』を完成させ、同じ年に次いで油絵『リンデ博士の4人の息子』を制作した。これらの一連の作品は「リンデ・フリーズ」と呼ばれ1904年末に全作品が完成した。もっともリンデは子供部屋にはふさわしくないと考えたためか、その引取りを拒否したが、2人の交友関係はその後も続いた。 -市域は川沿いに長さ約38km,幅約16kmである。市境の全長は136.5kmである。ブレーメンは広さでドイツ10位、人口で11位の都市であるが、北ドイツではハンブルクに次いで2番目、北西ドイツでは最大の都市である。これはヨーロッパで74番目、EU加盟国中では44番目にあたる。ブレーメンはオルデンブルクの東約50km,ハンブルクの南西110km,ハノーファーの北西120km,ミンデンの北100km,オスナブリュックの北東105kmにあたる。 -広島タクシー運転手連続殺人事件の加害者である男Hは1962年4月に宮崎県宮崎市で生まれ、事件当時は34歳・広島市安佐南区沼田町吉山在住のタクシー運転手だった。本事件の刑事裁判で死刑が確定し、2006年12月25日に法務省の死刑執行命令により収監先・広島拘置所にて死刑を執行された。Hは多くの山林を持つ地元有数の資産家で3人兄弟の末っ子として生まれ、小中学校時代はソフトボール部・野球部で活躍し、中学時代には野球部の主将を務めた。また特に日本史が得意で、1978年4月に入学した県立高校では「クラスの上位15番以内に入る成績」を維持しており、高校時代まで地元では「スポーツ万能の優等生」として名を知られていた。一方で両親は子供に甘く、Hは末っ子だったため「小遣いを欲しがるだけもらえるような家庭環境」で育っ���。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -こうして、同年(1878年)10月の試験の日を待たずに、同年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度は同年8月からベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごした。同年11月15日に試行期間が終わる時、学校から、フランドル生まれの生徒と同じ条件での在学はできない、ただし無料で授業を受けてもよい、という提案を受けた。しかし、彼は、引き続き勉強するためには資金が必要だから、自分は伝道のためボリナージュに行くことにするとテオに書いている。同年(1878年)12月、彼はベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方(モンス近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。1879年1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットで労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、『キリストに倣いて』が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった。教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ファン・ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた。伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された。1880年3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親がヘールの精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った。クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ファン・ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている。ジャン=フランソワ・ミレーの複製を手本に素描を練習したり、シャルル・バルグのデッサン教本を模写したりした。同年(1880年)10月、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに出て行った。そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けた。また、この時、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと交友を持つようになった。ファン・ゴッホ自身も、ハーグ派の画家ヴィレム・ルーロフスから、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められた。同年11月第1週から、同アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間出席したものと見られている。また、名前は不明だが、ある画家から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていた。 -リオグランデ川の流れ自体が変化したことによる境界の論争(リオ・リコなど)は、ごく少数の地域で20世紀に入ってもあった。とは言え、現在の国境は1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約と1853年のガズデン購入で決着がついた。メキシコと1836年に建国されたテキサス共和国の両国が主張した国境周辺には当時誰も居住していなかったが、その不確かさは1846年から1848年の米墨戦争の契機となった。その前の合意には、メキシコ独立戦争の間にアメリカ合衆国とスペイン(ヌエバ・エスパーニャ)で結ばれた1819年のアダムズ=オニス条約があり、1803年のルイジアナ購入後の境界を定義した。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -明治維新後の日本では、風土病と考えられる地域特有の疾患が日本各地で多数確認され始めており、新しい西洋医学を学んだ多くの研究者や医師らにより調査や研究が行われ始めていた時期であった。八丈小島の「バク」も、それらのひとつとして一部の医療関係者の間で知られ始めていた。しかし「八丈島に隣接する小島に古くより「バク」と呼ばれる奇病があり、島民の多くが発症する」という話が人づてに伝わるだけであった。八丈小島は「鳥も通わぬ」と言われた絶海の孤島八丈島の、さらに属島という地理的条件もあり、日本国内��所に散在する他の風土病流行地のように現地調査に赴くことが、交通事情の悪い当時は困難であった。「バク」と呼ばれたこの風土病について、近代医学的観点による現地調査が初めて行われたのは1896年(明治29年)2月のことで、調査を行ったのは当時の内務省衛生局の中浜東一郎である。中浜東一郎の実父は、幕末の1841年(天保12年)に土佐(現、高知県)から漁に出かけて遭難し、漂流中にアメリカの捕鯨船に救出されて渡米して近代科学を学び、日本へ帰国した後に日米和親条約の締結に関わったジョン万次郎(中浜万次郎)である。中浜東一郎はジョン万次郎の長男として1857年(安政4年)に江戸で生まれ、1881年(明治14年)に(旧)東京大学医学部を卒業すると、福島、岡山、金沢の各医学校の教授を務めた。当時の日本では公衆衛生に関する知識の必要性が求められており、中浜は1885年(明治18年)、内務省の命令により衛生学研究のためドイツへ留学し、日本帰国後は内務省衛生局の技師を務めた。1896年(明治29年)4月に内務省を退官後、東京衛生試験所所長、初代東京市医師会長などを歴任した。中浜が「バク」の調査のため八丈小島を訪れたのは、内務省技師を退官する2か月前の1896年(明治29年)2月で、中浜とともに調査に同行したのは、内務省技手の上村行彰、東京府庁より派遣された塩田虎尾の計3名であった。一行は同年2月5日に横浜港を出航し、丸3日をかけて八丈島の港へ到着したものの、目的地である八丈小島に着岸可能な小型船は風や波に影響を受けやすく、折しも2月は冬季の季節風の吹き荒れる時期であり、強風が何日も続き出航できずに八丈島で足止めを余儀なくされた。天候がやや安定して八丈小島へ渡れたのは、八丈島到着から10日も経過した2月18日であった。 -取り決めに従ってアブドゥッラティーフは解放されたが他の条件は履行されず、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラの戦争は再開される。1448年にウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに勝利してマシュハドを占領し、アブドゥッラティーフはヘラートの制圧に成功した。しかし、ウルグ・ベクの遠征中にサマルカンドがウズベクの襲撃を受け、町は破壊と略奪の被害を受ける。ウルグ・ベクはシャー・ルフが本拠地としていたヘラートからサマルカンドに首都機能を移転しようと考え、シャー・ルフの遺体をサマルカンドのグーリ・アミール廟に移して帰国する。 -水没予定地の住民に対する補償交渉は1950年(昭和25年)10月に妥結された。しかし当時の日本の経済状況は急激なインフレーションの中にあり物価上昇が著しく、最初は高額であった補償金はインフレーションによる物価変動で貨幣価値が激減し住民が満足できる妥結内容ではなくなった。さらに移転後の住民に対する生活再建対策も放置され、結果的にわずかな補償金しか受け取れなかった移転住民は失業の上困窮した生活を強いられ、全財産を喪失した住民も現れた。加えて工事中の住民安全対策も十分ではなく、岩石発破の度に小学校では発破の爆音や振動を恐れた児童たちが机の下へ隠れ、遂には発破によって飛来した岩石が地元女性に直撃して死亡するという事故も発生した。こうした移転住民・地元住民の苦難に対する建設省の報恩意識は欠如しており、1950年秋に行われた定礎式には地元住民が全く招かれず、完成を記念して製作された記録映画にも移転住民への感謝の言葉が一言も挿入されなかった。わずかな補償金では生活が困窮する住民たちは再補償を国に求めたが、最終的に再補償は認められなかった。 -弘治2年(1556年)4月、信長の岳父であり支援者でもあった美濃国の戦国大名・斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去した。義龍は、もう一つの守護代家・岩倉織田家などの信長の敵対勢力の支援に動き、信長は苦境に立たされた。同じ頃、未遂に終わったものの、信行派の林美作守らが信長を殺害しようとした事件もあった。同年8月、信行は林秀貞・林美作守・柴田勝家らとともに、信長と敵対する旗幟を鮮明にした。信行らは、信長の直轄領である篠木三郷を押領しようとした。この動きに対し、信長は名塚砦を築いて自派の佐久間大学を入れ、牽制を図った。信行方の柴田勝家らは名塚砦への攻撃に打って出て、信長が���れを迎え撃った。8月24日、両者は稲生で激突する。結果、柴田勝家は敗走し、林美作守は討ち取られて、信行方が敗北を喫した。敗れた信行は末森城に籠城する。信長は末森城に攻め寄せたが、このときは母・土田御前の取りなしにより、林秀貞、柴田勝家共々、信行は赦免された。 -この伝説は後に芝居化され、嘉永時代には中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演された。題名の「嵯峨野(さがの)」は京都府の地名だが、実際には「佐賀」をもじったものである。この作品は全国的な大人気を博したものの、鍋島藩から苦情が出たために間もなく上演中止に至った。しかし上演中止申請に携わった町奉行が鍋島氏の鍋島直孝だったため、却って化け猫騒動の巷説が有名になる結果となった。後年には講談『佐賀の夜桜』、実録本『佐賀怪猫伝』として世間に広く流布された。講談では龍造寺の後室から怨みを伝えられたネコが小森半左衛門の母や妻を食い殺し、彼女らに化けて家を祟る。実録では龍造寺の一件は関係しておらず、鍋島藩士の小森半太夫に虐待された異国種のネコが怨みを抱き、殿の愛妾を食い殺してその姿に成り変わり、御家に仇をなすが、伊藤惣太らに退治されるという筋である。昭和初期にはこの伝説を原案とした『佐賀怪猫伝』『怪談佐賀屋敷』『秘録怪猫伝』などの怪談映画が大人気となり、化け猫役を多く演じる入江たか子、鈴木澄子といった女優が「化け猫女優」として知られることとなった。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -第一次世界大戦前の全世界のタンカーは200万トンを少し超える程度であったのに対して、1916年から1921年までの間に316隻320万トンのタンカーが建造された。1923年の時点で80万ロングトン分の船が休航状態になり、ダニエル・ケイト・ルードヴィヒのような投機家に大きなチャンスをもたらした。1925年に彼は貨物船「フェニックス」(Phoenix)を買い、船倉にタンクをしつらえた。こうしたリベット接合されたタンクは内容物が漏れ、可燃性の混合物ができてしまった。結果として発生した爆発により船員2人が死亡し、ルードヴィヒも酷く負傷した。この後、彼は溶接技術の強い信奉者となった。 -カナはきらめき☆プロジェクトの主人公だ。ジュネス王国女王の次女である。14歳だ。リンクルとジュネりんの製作者。天才科学者だが、人付き合いを苦手とする。自分の作ったロボットが傷を負わされると怒り出す。大矢とロボットに関する話に花を咲かせ、意気投合する。クローネはジュネス王国女王の長女でジュネス軍の司令官だ。18歳。妹たちを気にかけており、特にカナに対しては母親のような役割も果たしている。ネネは12歳ながら100センチメートル以上のバストを誇る、ジュネス王国女王の三女だ。何かあると最初に首を突っ込むが、危なくなると姉2人に泣きつく。リンクルはカナが作り上げた少女型���ボットだ。戦闘機・地底戦車・車などに科学的根拠を無視して変形する。 -2011年4月1日、震災発生翌日の12日に駐屯地を出発し、15日から作業に従事していた50歳代の曹長(陸上自衛隊・旭川駐屯地所属)が死亡した。死因は過労死の可能性があるとされている。曹長が所属していた第2特科連隊の連隊長は曹長の死亡について、「誠に残念で、ご冥福をお祈りする。災害派遣活動との因果関係を調査し、原因を究明したい」と述べた。4月2日、防衛省は同曹長を1日付で准尉に特別昇任させることを決めた。15日には遠野市の指揮所で運用調整に当たっていた第9施設大隊所属の1等陸曹が脳幹出血で死亡、防衛省は同日付で1曹を曹長に特別昇任させた。1曹が所属していた第9施設大隊の大隊長は、「大変残念。倒れた隊員の復興に懸ける気持ちを受け継ぎ、全力で活動するとともに、隊員の健康管理に万全を期す」と述べた。5月27日未明には第18普通科連隊所属の3等陸曹が死亡。本震災における自衛隊員の災害関連死は3人目となった。 -1914年7月末から8月初めにかけて第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は1914年8月3日に開戦した。ゲーリングの所属する第112歩兵連隊はフランス国境地域エルザス=ロートリンゲンに駐留していたため、対仏開戦後、すぐに戦場に動員された。ゲーリングの率いる部隊はミュルーズ(ドイツ語名:ミュールハウゼン)の攻防戦の中でフランス軍の前哨拠点の一つを攻撃して4人のフランス兵を捕虜にする戦功をたてた。この功績で二級鉄十字章を受章している。しかしまもなくリューマチ熱を罹患したため、フライブルク・イム・ブライスガウの病院へ送られた。 -明暦の大火翌年の万治元年(1658年)、定火消が制度化された。これは幕府の直轄であり、旗本に消防を命じたものである。火の見櫓を備えた火消屋敷(現在の消防署の原型)を与え、臥煙(がえん)と呼ばれる専門の火消人足を雇わせ、消防活動を担当させた。はじまりは4組であったが、一時期15組まで増加し、幕末には逆に1組まで減少するなど、幕府の財政や兵制、町火消の整備などによって増減している。10組で構成された期間が長く、十人屋敷・十人火消とも呼ばれた。 -慶長元年(1596年)には徳川家康が悪天候のために篠島で足止めされたが、板谷金兵衛が吉田(現豊橋市)まで無事に送り届け、その報償として駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・紀伊の計7ヶ国における漁業権、渥美半島の外浜と西浜の営業権(総称して「金べさのお墨付き」)を得たという伝承が残っている。江戸時代には尾張藩の流刑地であり、数十人が篠島に流された。江戸時代には漁業とともに海運業を営む島民が多かった。 -イエローストーン国立公園とアイダホ州で再導入が開始されたのは1995年である。イエローストーン国立公園で野生のオオカミが殺された最後の公式記録は1926年であった。その後、オオカミの獲物となっていたワピチ(アメリカアカシカCervuscanadensis)や他の動物が増加し、その結果、植生に被害が出た。オオカミが果たしていた捕食者としての役割の一部はコヨーテが果たすことになったが、成獣のワピチはコヨーテの捕食対象にはならない。 -『恋文』では、手紙を受け取って当惑顔の女主人と、訳知り顔の女中が描かれ、物語の細部は鑑賞者の想像にゆだねられている。女主人が手にしている楽器(ここではシターン)は恋愛と関係の深いモチーフである。また、背後の壁に掛かる海景を表した絵は、女性の揺れ動く心を象徴している。洗濯物の入った籠や画面手前に見える箒は、恋に落ちた女性が(17世紀当時の価値観では女性の義務であった)家事をおろそかにしていることを暗示している。女主人と女中の描かれている長方形の空間を「鏡」であると見なす研究者もいる。なお、この作品は、ブリュッセルにおける展覧会に貸し出し中の1971年9月24日に盗難に遭い、2週間後に発見されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出して丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。窃盗犯は、東パキスタン難民義援金を要求しマスコミとも接触、その後ブリュッセル郊外で通報により逮捕され、懲役2年の判決を受けたが半年で出獄、29歳で病死した。難民救済と文化財のことの軽重を問う物議が起きた。 -第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはヨーロッパのほぼ全域を占領。占領下のヨーロッパ各地にも強制収容所を次々と建設していった。1939年9月、ポーランド侵攻戦の最中にダンツィヒ郊外にシュトゥットホーフ強制収容所が設置された。1940年4月、ハインリヒ・ヒムラーは、ポーランド侵攻後にポーランドから奪ってドイツ本国領に組み込んでいたアウシュヴィッツ(ポーランド名オシフィエンチム)に巨大強制収容所の建設を命じた。これがナチス強制収容所の中でも最も悪名高いアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所となる。1940年夏にブレスラウ郊外にグロース・ローゼン強制収容所、1941年夏にルブリン郊外にマイダネク強制収容所、1941年秋にフランス・エルザス地方にナッツヴァイラー強制収容所と大規模収容所が次々と設置された。1943年春にはラトビアのリガにカイザーヴァルト強制収容所、ニーダーザクセン州にベルゲン・ベルゼン強制収容所が設置されている。 -市民文藝とは「地域に根ざした独自の文化の創造及び発展を目指し、地域文芸の振興を図ること」を目的とし、地域住民からの公募作品によって作られる文芸書である。十勝管内の住民であれば年齢に関係なく応募でき、帯広市教育委員会が委嘱した編集委員会による選考を経て、優秀作品には市民文藝賞などが贈られるほか、入選作品が「市民文藝」誌に掲載される。募集ジャンルは小説、戯曲、文芸評論、随筆、ノンフィクション、童話、詩、短歌、俳句、川柳と10分野にわたる。1961年11月に第1号が発行されて以来、地元の書き手の発掘と育成、そして地域の文芸愛好者のための発表の場として年1回程度、発行が続けられ、2012年12月に第52号まで達した。市民文藝賞の受賞者の中には、のちに全国公募の文学賞を受賞するなどして作家や評論家となった者も多く、過去には春山希義、海保進一、近藤潤一、神谷忠孝らの作品が市民文藝誌上に掲載されている。 -本項で解説する地方病(ちほうびょう)は日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)の山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民らに多大な被害を与えた感染症である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。「日本住血吸虫症」とは、「住血吸虫科に分類される寄生虫である日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する寄生虫病」であり、「ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する人獣共通感染症」でもある。日本住血吸虫はミヤイリガイ(宮入貝、別名:カタヤマガイ)という淡水産巻貝を中間宿主とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生、寄生された宿主は皮膚炎を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が肝門脈内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で生殖産卵を行い、多数寄生して重症化すると肝硬変による黄疸や腹水を発症し、最終的に死に至る。病原体である日本住血吸虫については「日本住血吸虫」を、住血吸虫症全般の病理については「住血吸虫症」を参照のこと。 -陪審には、刑事事件で被疑者を起訴するか否かを陪審員が決定する大陪審(だいばいしん、grandjury、起訴陪審とも)と、陪審員が刑事訴訟や民事訴訟の審理に参加する小陪審(しょうばいしん、petitjury、審理陪審とも)がある。大陪審・小陪審の名称は、大陪審の方が小陪審よりも構成人数が多いことによる(伝統的に、大陪審は23人、小陪審は12人)。一般に陪審という場合は小陪審のことを指す。陪審員は、一般市民から無作為で選ばれ、刑事事件や民事事件の審理に立ち会った後、陪審員のみで評議を行い、結論である評決を下す。同様に一般市民が裁判に参加する制度として、参審制や、日本で実施されている裁判員制度があるが、陪審制は、裁判官が評議に加わらず、陪審員のみで事実認定と法の適用を行う点でこれらと異なる。陪審制は、イギリスで古くから発展し、アメリカ合衆国等に受け継がれたものである。アメリカでは、連邦や各州の憲法で刑事陪審及び民事陪審が保障されており、全事件数から見れば一��であるとはいえ、年に9万件以上の陪審審理が行われている。イギリスでも、刑事陪審が行われているが、現在、民事陪審はほとんど行われていない。その他、オーストラリア、カナダ、韓国、デンマーク、ニュージーランド、ロシア等で陪審制が行われている。日本でも戦前、1928年(昭和3年)から刑事陪審が実施されたが、1943年(昭和18年)に施行停止にされたまま現在に至っている。 -4月30日の昼、ヒトラーは秘書官ユンゲとゲルダ・クリスティアン、専属料理人のコンスタンツェ・マンツィアーリーの4人で最後の食事となる昼食をとった。献立は野菜のスープとマッシュポテトであったとも、ラビオリであったとも言われている。食事を終えたヒトラーとエーファは、地下壕のスタッフや、ゲッベルス一家やマルティン・ボルマン一家、秘書官や国防軍の将校らに最後の別れを告げた。14時30分ごろ、ヒトラーとエーファは執務室の奥にある居間に入っていった。「15時30分ごろに大きな銃声を聞いた」と、複数の証人がのちに伝えている。数分待って、ヒトラーの世話係であった総統護衛部隊のハインツ・リンゲSS中佐が、ボルマンの立ち合いのもと居間のドアを開けた。すぐに焦げたアーモンドの匂いに気付いたと、リンゲはのちに証言している。これは青酸(シアン化水素水溶液)の一般的な特徴として知られている。ヒトラーの副官のオットー・ギュンシェSS少佐が居間に入り、ソファに腰かけた2人の死体を確認した。エーファの死体はヒトラーの左手にあり、膝を胸に抱え込んだ姿勢で、彼から遠ざかるように倒れていた。ヒトラーの死体の状態についてギュンシェは「ぐったりと座っており、右のこめかみからは血が滴っていた。彼はワルサーPPK7.65で自らを撃ったのだ」と述べた。今日では、ヒトラーはまずシアン化物のカプセルを噛み砕き、すぐに右のこめかみをピストルで撃ったものと考えられている。自殺に使われたピストルはヒトラーの足元に落ちていた。彼の頭から滴った血が、居間の床に血だまりをつくっていた。総統護衛部隊員のローフス・ミシュSS曹長によれば、ヒトラーの頭部は前方のテーブルの上に横たわっていたという。リンゲの証言では、エヴァの死体には外傷が見当たらず、その顔からはシアン化物を用いて服毒自殺したことが見て取れた。 -2007年の調査時も100-300頭程度のオガサワラオオコウモリの生息が確認された。1982年の調査時と同じく昼間の活動が確認されたが、昼間の活動は食物探索の合間に休息をしている可能性があり、また夜間も活動していることが確認された。これまでオガサワラオオコウモリの生態について調査が行われた父島、母島、北硫黄島ではいずれも昼間の活動は確認されず、夜間の活動のみであった。南硫黄島のみ昼間にオガサワラオオコウモリの活動が行われる理由としては、猛禽類が生息しておらず昼間に活動しても捕食される恐れがないことと、慢性的な食物不足のために昼間も食物探索に当てねばならない等の理由が考えられる。1982年の調査時にも指摘された、他の生息地域の個体よりも色が明るいという特徴は2007年の調査時も確認された。2007年に捕獲された個体を観察した結果、体毛の生え際は他の地域の個体の色と変わらないと見られるため、南硫黄島のオガサワラオオコウモリの特徴である昼間の活動や、急峻な地形のため日光を遮るものが少ないために紫外線等により後天的に色が変化した可能性が高いとされた。2007年の調査時、オガサワラオオコウモリはタコノキの実の他にシマオオタニワタリとナンバンカラムシの葉を食用としていたことが確認された。これは2007年の調査直前に台風が南硫黄島付近を通過しており、その影響で著しい食物不足に陥っていた可能性があり、シマオオタニワタリとナンバンカラムシの葉は緊急的に利用していた可能性もある。また2007年の調査時に捕獲されたオガサワラオオコウモリ全てに著しい歯の磨耗が確認され、顎の噛む力も強かった。歯の著しい磨耗が台風通過直後の食糧不足に伴う一時的なものか、慢性的な食糧不足による持続的なものであるかは現在のところ不明である。 -カラヴァッジョが最初に描いた宗教画は写実的で、高い精神性をもったものだった��宗教を題材とした最初期の作品として『懺悔するマグダラのマリア(PenitentMagdalene)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1594年-1595年ごろ)があり、描かれているマグダラのマリアはそれまでの娼婦としての生活を悔やんで座り込み、あたりには虚飾を示す宝飾品が散乱している。「宗教的な絵画にはとても見えないかもしれない...濡れた髪の少女が低い椅子に座り込み...良心の呵責に苛まれ...救済を求めているのだろうか」この作品はロンバルド風の絵画で、当時のローマ風の気取った作風ではないと考えられていた。同様の作風で描かれた宗教絵画に『聖カテリナ(SaintCatherine)』(ティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵、1598年ごろ)、『聖マタイとマグダラのマリア(MarthaandMaryMagdalene)』(デトロイト美術館所蔵、1598年ごろ)、『ホロフェルネスの首を斬るユディト(JudithBeheadingHolofernes)』(ローマ国立古典絵画館所蔵、1598年-1599年)、『イサクの犠牲(SacrificeofIsaac)』(ピエセッカ・ジョンソン・コレクション所蔵、1598年ごろ)、『法悦の聖フランチェスコ(SaintFrancisofAssisiinEcstasy)』(ワーズワース美術館、1595年ごろ)、『エジプトへの逃避途上の休息(RestontheFlightintoEgypt)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1597年ごろ)などがある。これらの作品は広く公開されていたわけではなく、比較的限られた人にのみ目にする機会があったものだが、カラヴァッジョの名声は美術愛好家や友人の芸術家の間で高まっていった。しかし一般からの評価を決定付けるためには、教会の装飾絵画のように広く大衆が目にする作品が必要だった。 -中村運輸相が「富里・八街以外にない」と述べた翌日の6月22日に佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案について友納知事と協議し、その内容が報道された。3日後の6月25日、友納知事は成田市長の藤倉武男へこの協議内容を正式に伝達している。今回は千葉県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取はやはり行われておらず、現地には一言の相談もなく空港が押し付けられる形となった。結果、富里での空港建設を対岸の火事と思い、空港建設による経済的恩恵さえ期待していた三里塚・芝山地区の住民らも、寝耳に水の状態で空港建設の内定を報道で知ると「一反歩(1,000平方メートル=10アール)もあるようなもの(航空機)が降りてくんだぞ。そんなもの降りてきたらどうすんだ」「戦争が起きたら爆弾が落とされる」「騒音で牛の乳が出なくなる」などと恐慌状態に陥り、富里と同様に猛反発した。革新政党にとっても三里塚への計画変更は意表を突かれるものであったが、巻き返しを図る日本共産党や日本社会党の指示を受けて、富里の反対運動を支援していた両党のオルグ団や反対派の富里住民らが直ちに現地に駆け付け、動揺する住民らに対して「富里と同じように闘えば、かならず空港を追い払うことができます」「俺らが勝ったんだから、あんたらも勝てる」と謳った。切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ佐藤内閣は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、2週間後の7月4日に「新東京国際空港の位置および規模について」を閣議決定した。この時の決定内容は2017年までの成田国際空港の基本計画となっている。ただし、2018年3月13日に四者協議会(後述)が最終合意した機能強化案はこの範疇に含まれない。 -人魚伝説は世界各地に存在し、その正体は海牛類などとされるが、日本における人魚伝説の多くはリュウグウノツカイに基づくと考えられている。『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などの文献に登場する人魚は、共通して白い肌と赤い髪を備えると描写されているが、これは銀白色の体と赤く長い鰭を持つ本種の特徴と一致するのである。また『長崎見聞録』にある人魚図は本種によく似ている。日本海沿岸に人魚伝説が多いことも、本種の目撃例が太平洋側よりも日本海側で多いことと整合する。日本近海では普通ではないものの、極端に稀というわけでもなく、相当数の目撃記録がある。漂着したり漁獲されたりするとその大きさと外見から人目を惹き、報道されることが多い。サケガシラなど他の深海魚の浅海での目撃や海岸漂着を含めて、天変地異、特に地震の前兆(宏観異常現象)の一つとされることもあるが、魚���学者の本間義治によれば憶測に過ぎず、東海大学の研究でも否定されている。こうした日本の伝承・俗説は、インドネシアでも知られている。2014年1月に兵庫県豊岡市に漂着した個体では、市内の環境省の学習施設の職員らが解剖調査を行った後に調理して試食しており、身に臭みや癖がないことや、食感が鶏卵の白身のようであること、内臓の部位によっては味が濃厚であることなどを報告している。生きたリュウグウノツカイを漁師が銛で突き、極めて新鮮なうちに食べた記録が、長崎県壱岐諸島の『壱岐日日新聞』519号(2010年1月29日付)にある。全長約5メートル、40-50キログラムの個体で「刺身で食べたらゼラチン質がプリプリして、甘みがいっぱい。まるでエビの刺身」という。また、鍋で食べても、「身が甘くてツルッとした口触りで柔らかく、鍋一杯がアッという間になくなるほど好評だった」という。富山県では冬になると本種がしばしば定置網にかかり、漁師から「おいらん」と呼ばれている。また新潟県の柏崎では「シラタキ」と呼ばれる。 -さらに2月26日に国務省・陸軍省・海軍省の3省長官会議が開催された。ロバート・ポーター・パターソン陸軍長官とジェームズ・フォレスタル海軍長官は、同様の事態は南朝鮮や中国など他の諸地域でも発生している為、これらの地域への援助も必要であると考えた。しかし議会で多数を占める共和党が財政支出の削減を強く求めていることに配慮し、対象をギリシャ・トルコに限定した国務省の勧告に基本的に賛同した。会議後マーシャルはギリシャ・トルコ援助案をハリー・S・トルーマン大統領に伝達し、了承を得た。トルーマンはアーサー・ヴァンデンバーグら有力議員8名を招き、対ギリシャ・トルコ援助への協力を事前に取り付けた。 -A318の生産分担についてはエアバス内部で政治的駆け引きがあったものの、最終組み立てはA319やA321と同様にドイツのハンブルクで行うことに決まった。2001年8月からA318初号機の最終組立が始まった。初号機はPW6000エンジン装備機で、A320ファミリーの通算1,599番目の機体となった。2002年1月15日、ハンブルクにて成功裏に初飛行を行い、型式証明取得のための試験が始まった。同年6月3日には2号機も初飛行を行い、この2機で証明取得に必要な試験飛行を行う計画だった。当初、PW6000は、部品点数を減らし保守コストを抑制するため、高圧圧縮機を5段としたところ、燃費の目標値水準を達成できないことが明らかとなった。そこでやむを得ず、MTUエアロ・エンジンズ社製の6段の高圧圧縮機に変更することになった。これにより、試験スケジュールに遅延が生じ、CFM56装備型の証明取得を先行して急ぐこととなった。 -アマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典の復興を目指したオリンピックであるが、二度の世界大戦やミュンヘン大会におけるテロ事件、冷戦下でのアフガニスタン紛争に伴う東西のボイコット合戦など時々の国際政治の影響は大きい。特にヒトラー政権下による1936年のベルリン大会はオリンピックそのものが利用された色彩が強く、聖火リレーのルートを後日ドイツ国防軍がそのまま逆進したとされたり、ナチズムに対する批判をかわすために一時的にユダヤ人政策を緩和したりするなど、政治が大きく影を落としたものとなっている。なお、夏季大会において第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリアの5ヶ国のみである。ギリシャによる開催は、1896年と2004年が正規のものとされている。第1回大会の十年後、1906年アテネ中間大会が唯一、例外的に開催され、開催事実も記録も公式に認めてメダル授与も行っている。しかし、4年に1度のサイクルから外れた開催であったため、後にこれはキャンセルとされ現在では正規の開催数に計上されておらず優勝者もメダリスト名簿から外され登録されてはいない。 -アマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典の復興を目指したオリンピックであるが、二度の世界大戦やミュンヘン大会におけるテロ事件、冷戦下でのアフガニスタン紛争に伴う東西のボイコット合戦など時々の国際政治の影響は大きい。特にヒトラー政権下による1936年のベルリン大会はオリンピックそ���ものが利用された色彩が強く、聖火リレーのルートを後日ドイツ国防軍がそのまま逆進したとされたり、ナチズムに対する批判をかわすために一時的にユダヤ人政策を緩和したりするなど、政治が大きく影を落としたものとなっている。なお、夏季大会において第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリアの5ヶ国のみである。ギリシャによる開催は、1896年と2004年が正規のものとされている。第1回大会の十年後、1906年アテネ中間大会が唯一、例外的に開催され、開催事実も記録も公式に認めてメダル授与も行っている。しかし、4年に1度のサイクルから外れた開催であったため、後にこれはキャンセルとされ現在では正規の開催数に計上されておらず優勝者もメダリスト名簿から外され登録されてはいない。 -のちに「印象派」と呼ばれる画家たちは、それぞれ小さなグループを形成していた。クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマンはシャルル・シュイスの開いた画塾、アカデミー・シュイスで学び友情関係で結ばれた。モネはシャルル・グレールの画塾にも顔を出し、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーらと交友を深めた。この2つの小さなグループはモネが仲立ちとなって、交友を結んでいった。その後、画家たちは、モンマルトルのバティニョール街にあったカフェ・ゲルボアに集まり、絵画について議論をするようになった。エドゥアール・マネは、1863年のサロンに落選した『草上の昼食』が大スキャンダルとなった一方、彼の周囲には若い芸術家たちが集まるようになり、1866年頃からカフェ・ゲルボアで週に1度の会合をもつようになった。エミール・ゾラらの文学者、ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレといった批評家、画家ではモネ、バジール、ドガ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、彫刻家で詩人のザカリー・アストリュク、版画家のフェリックス・ブラックモンやマルスラン・デブータン、写真家のナダールといった人びとが、新しい芸術を生み出すべく、議論を重ねた。彼らはカフェのある街路にちなみ「バティニョール派」、または中心人物の名にちなんで「マネ派」と呼ばれた。 -ユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々カルフォルニア州で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスやフロリダ州に移り、後に仕事の関係でイリノイ州シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むミズーリ州マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。しかし、父親のイライアスはこの地においても農業に失敗して、数年後に家族を連れて同地を去った。イライアスとフローラは息子4人と娘1人を儲けたが、父親のイライアスは子供達に対して愛情に欠けた厳格な態度で接しており、ウォルトとロイが1920年代に成功をおさめても、彼らに対して冷やかな態度は変わらなかった為、ディズニー親子は長年距離を置いて交流はしなかった。イライアスはリタイアするまで転職を重ねたが、結局結婚する前に金鉱で働いて小金を得た以外は、どの仕事に就いても成功出来ず、妻のフローラに苦労を掛け、1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。ディズニー一家の畑の近くにはサンタ・フェ・パシフィック鉄道が走っており、その鉄道の走る音が好きだった。アルバイトで、鉄道構内で新聞やポップコーンを売る仕事をしていたこともある。後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていたが、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった。少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケ��チを近所の人たちに売っていたこともあった。学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。 -1911年、ベルナールが自分宛のファン・ゴッホの書簡集を出版した。1914年、ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、その冒頭に「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出――彼の義妹による」を掲載した。書簡集の出版後、それを追うように、数多くの伝記、回想録、精神医学的な研究が発表された。そこでは、ファン・ゴッホの人生について、理想化され、精神性を付与され、英雄化されたイメージが作り上げられていった。すなわち、「強い使命感」、「並外れた天才」、「孤立と実際的・社会的な生活への不適合」、「禁欲と貧困」、「無私」、「金銭的・現世的な安楽への無関心と高貴な精神」、「同時代人からの無理解・誤解」、「苦痛に耐えての死(殉教のイメージ)」、「後世における成就」といったモチーフが伝記の中で繰り返され、強調されている。これらのモチーフは、キリスト教の聖人伝を構成する要素と同じであることが指摘されている。こうした伝説は、ファン・ゴッホ自身の書簡に記されたキリスト教的信念や、テオの貢献、「耳切り事件」、自殺といった多彩なエピソードによって強められた。1934年にはアーヴィング・ストーンがLustforLifeと題する伝記小説(邦訳『炎の人ゴッホ』)を発表し、全米のトップセラーとなった。 -生息地の破壊と改変は、世界規模で両生類の種に影響を与える最も劇的な原因のひとつである。一般に両生類は生存に水中と陸上に生息地が必要であるため、いずれかの生息地への脅威が生息数に影響しうる。従って、両生類は1つの生息地しか必要でない生物種よりも生息地改変に脆弱であると言える。 -ハン国の実権を握るイナクたちは北方に居住するチンギス・ハーンの子孫を代々傀儡のハンとして擁立した。が、1804年にムハンマド・アミーンの孫イルテュゼル(イルタザル)はアブル・ガーズィー5世を廃位し、チンギス裔をハンとしないイナク朝を創始した。イルテュゼルの簒奪に反対したウイグル族の長アタリク・ベク・プラドは殺害され、アタリクの一族はブハラに亡命する。イルテュゼルに対するウイグルの抵抗は、次代のムハンマド・ラヒームの治世まで続いた。 -『聖家族』はミケランジェロが弟子や助手の力を借りずに一人で制作した、現存する唯一のパネル画である。明るい色の並置は、のちにミケランジェロが手がけるシスティーナ礼拝堂天井画と同じ手法で表現されている。聖家族が着用している衣服のしわやひだははっきりと描かれ、肌はなめらかに表現されて大理石のように見え、聖家族の力強い人体表現は絵画というより彫刻であるかのように描写されているのに対し、背景の裸体の男性たちは柔らかくぼんやりと描かれており、システィーナ礼拝堂の四隅に描かれた裸体像を予兆させる表現となっている。この作品には、最初にもっとも強烈な顔料を用い、徐々に明るい顔料で陰影を付けていって最も暗い色を陰とする「カンジャンテ(玉虫色)」と呼ばれる技法が使用されている。ミケランジェロはこの技法を用いることによって、背景をぼんやりとさせ、前景の聖家族をはっきりと際立たせることに成功した。目をひく色彩のほとんどがマリアの衣服で、マリアがこの絵画の主題であることを示している。X線による調査の結果、ミケランジェロは当時知られていた全ての顔料をこの作品に使用したことが分かっている。まるで男性であるかのように描かれたマリアの肉体表現は、後年ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂天井画を制作する際に、女性肖像のモデルに男性を使用したことへの説明となるかもしれない。 -第1戦は1969年6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やクラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた。なお、こうしたサポーターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行��だった。一方、エルサルバドルでは熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生した。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し葬儀の模様がテレビ中継をされるなど、国家的イベントの様相を呈した。 -シオダマリミジンコでは寿命は実験室内においては孵化後70日ほどだが、野外においては(北海道の例)、越冬時には4ヶ月以上はあるものと考えられる。発生段階としてはノープリウスが6期、コペポディド期が6期、これはカイアシ類の標準的なものであり、コペポディドの第6期が成体である。シオダマリミジンコでの研究では、これらは以下の通りである。 -オウムは全般にずんぐりした体付きをした、オウム目のなかでは中型から大型の鳥で、その大きさは体長30–60cm(12–24in)、体重300–1,200g(0.66–2.6lb)に及ぶ。ただし一種類、オカメインコはほかの種よりもかなり小型で細身であり、体長は32cm(13in)あるが、これにはその先細の長い尾羽根がふくまれる。また体重は80-100g(2.8-3.5oz)である。頭頂部の動く冠羽はすべてのオウムに存在するが、多くの種でそれは華々しいものである。飛んでいた鳥が着地するとき、あるいは興奮しているとき、この冠羽は起立する。オウムは数多くの特徴をインコと共有しており、このなかには特徴的なカーブした形状の嘴や、対趾足の脚(趾(あしゆび)の内側2本が前方を、残りの2本が後方を向いている)などがある。また一方ではオウムに固有の特徴も数多くあり、たとえば胆嚢が存在することや、そのほかのいくつかの解剖学的な細部、またインコに見られる明るい青や緑を出現させる、羽根のダイクテクスチャー組織が欠如していることなどが挙げられる。 -明治維新で江戸幕府が崩壊した後、幕府が保管していた伊能図も新政府に移譲された。明治3年(1870年)には開成所から名を変えた大学南校から「官板実測日本地図」が再版されるとともに「大日本沿海実測録」も刊行された。伊能図の原本は、明治6年(1873年)の皇居の大火災の際に焼失してしまう。そこで伊能家に保管されていた控図(副本)が翌年政府に献納された。 -弾性を利用するものではないが、磁石の磁気力を復元力として利用する「磁気ばね」と呼ばれるばねもある。磁石の同極を近づけると反発力が発生するので、圧縮方向に復元力を持つばねとして利用できる。磁石の異極を対向させる場合は、磁石が横方向にずれたときに吸引力が発生するので、横方向に復元力を持つばねとして利用できる。物体同士の接触を避けることができる、質量を持たないばねなので後述のサージングが発生しない、といった長所がある。 -1946年12月26日、葉子たちは巡業を終えて長野に帰り着いた。その年の内に信濃芸術座は解散し、葉子を中心として、児童劇団「劇団たんぽぽ」として再結成された。かつて葉子が入院中に目にしたように、踏まれても枯れず、強く美しく育ち、数々の種を風に乗せて広めてゆく、タンポポのような劇団になりたいと願っての命名である。翌1947年4月20日、篠ノ井町で、劇団たんぽぽの旗揚げ公演が行われた。演目は小山内薫の翻案によるイギリスの児童劇『そら豆の煮えるまで』、山本有三による『海彦山彦』、そして葉子自身の原作による人形劇『かくれんぼ』であった。客席で身を乗り出し、真剣に見入る子供たちを前にして、葉子は力を込めて、『そら豆の煮えるまで』の主人公の少年を演じきった。 -喜多町の図書館の建物は老朽化・狭小化が進んでいた。1965年(昭和40年)12月23日、矢作川西岸の陣中町に4,306.28m2の新館建設用地を取得し、1969年(昭和44年)4月2日には新館の起工式を行った。この場所は名鉄豊田市駅から北東に徒歩15分の距離にあり、新たな都市計画を行う文教地区の一角にあった。1970年(昭和45年)3月5日には豊田市立図書館新館の落成式を行い、3月6日に延床面積2,004.75m2の新館が開館した。 -大仏殿は焼け崩れ、大仏は融け落ち、東大寺はまさしく風前の灯だった。この状況で復興にあたったのが、勧進の僧・重源である。その大勧進による東大寺再建の過程は、三期に分けて解説される。大仏の再造(第一期)、大仏殿の再建(第二期)、その他���宇、仏像の工作(第三期)である。重源は「支度第一」(『法然上人行状絵伝』)と呼ばれたその実務能力を発揮して、見事に東大寺再興をしたのだった。当時の時代背景として、朝廷や鎌倉政権、奥州政権の相克、それに伴う戦乱、飢饉や地震。さらには他の寺院の復興との競合があった。幾多の障害が立ちはだかる中で、この勧進は時代の救世となるものとして民衆から大きく支持された。この時代を舞台にした歌舞伎の演目、『勧進帳』も、この民衆の大仏への帰依を背景にしている。 -1122年にインド大司教ヨハネと称する人物がローマを訪れ、教皇カリストゥス2世に対して自分の職権の承認を求めた。ヨハネは教皇に対してピション川の側に立つフルナという大都市のキリスト教徒、郊外の修道院と聖トマスの名前を冠する大教会について語ったことがランス僧院長のオドらによって記録されているが、このインド大司教を称する人物は教皇の権威を利用しようとした詐欺師の類だと考えられている。このインド大司教ヨハネのローマ訪問の記録は、しばしば後世に成立するプレスター・ジョンの伝説と混同して語られる。12世紀のドイツで記された、オットー・フォン・フライズィングの年代記内の1145年の条が、プレスター・ジョンに関する最古の記録と考えられている。1145年にシリアのガバラ司教ユーグは教皇エウゲニウス3世に謁見し、中東のキリスト教勢力がイスラーム勢力との戦闘で苦境に陥っている戦況と共に東方に現れたプレスター・ジョンの情報を伝え、謁見の場に居合わせたオットーはユーグの言葉を書き残した。ペルシア、アルメニアの東方に存在する広大な国の王プレスター・ジョンがメディア、ペルシアを支配するサミアルドスを破り、メディアの首都エクバタナを占領したことが、オットーによって記されている。エルサレムに向かったプレスター・ジョンは道中でチグリス川に行く手を阻まれた。チグリス川の北では水が凍結すると聞いたプレスター・ジョンは北進するが川は凍結せず、やむなく帰国したと伝えられている。オットーは戦況の報告に続けて、プレスター・ジョンが新約聖書に登場する東方三博士の子孫であり、エメラルド製の笏を用いているという伝聞を付記している。 -1894年、スタニスワフ・プシビシェフスキがムンクに関する最初の本を出版した。ユリウス・マイヤー=グラーフェ、フランツ・セルヴェース、ヴィリー・パストールとの共著である。4人の友人によるムンクの評論として、信頼性を持った資料となっている。1895年3月、ムンクはベルリンのウンター・デン・リンデン通りの画廊でアクセリ・ガッレン=カッレラとの共同展覧会を開いた。6月、美術評論家ユリウス・マイヤー=グラーフェがベルリンでムンクのエッチング作品集を出版し、これがムンクの最初の画集となった。また、同年10月クリスチャニアのカール・ヨハン通りのブロムクヴィスト画廊(ノルウェー語版)で大規模な作品展が開催され、『マドンナ』『手』『灰』『嫉妬』など、ベルリン時代に制作した「生命のフリーズ」の重要な作品が展示された。この時、国立美術館は『煙草を持つ自画像』の購入を決定した。劇作家のヘンリック・イプセンもこの展覧会を訪れ、後輩であるムンクに「僕を信じたまえ。敵が多ければ多いほど、味方も多いものだ。」と言って激励した。他方で、学生会館ではムンクの精神状態を論じる公開討論会が開かれ、批判派は「ムンクの絵は狂人のもの」と論じた。家族の中では、医者になっていた弟のペーテル・アンドレアースが1895年12月半ばに肺炎で亡くなり、また妹ラウラ・カトリーネも精神病で入院を続けていた。こうした不幸は改めてムンクに死と生の不安を呼び起こした。1895年に描かれた作品は、『死の床』など不吉なものばかりである。ムンクはドイツで展覧会を数多く開き、名前は知られるようになっていったが絵はほとんど売れず、ムンクや家族の生活は経済的にも厳しかった。 -スウェイル川(RiverSwale)は水系のなかでも最も北を流れている。源流は北ヨーク地方のケルド(Keld)にあるバークデイル(Birkdale)に発する。そこから東へ流れ、北ヨーク地方の代表都市リッチモンド(Richmond)に至る。これらの地域は「ス���ェイル谷(スウェイルデイル、(Swaledale))」と呼ばれている。そのあと南へ転じ、モウブレイ低地(ValeofMowbray)を蛇行してユア川に注ぐ。 -地中に埋まった植物が地圧や地熱を受けて石炭になる変化を総称して石炭化と呼ぶ。これは多様な化学反応を伴った変化である。セルロースやリグニンを構成する元素は炭素、酸素、水素であるが、石炭化が進むに従って酸素や水素が減って炭素濃度が上がってゆき、外観は褐色から黒色に変わり、固くなってゆく。炭素の含有量は泥炭の70%以下から順次上昇して無煙炭の炭素濃度は90%以上に達する。化学的には植物生体由来の脂肪族炭化水素が脱水反応により泥炭・褐炭になり、次に脱炭酸反応により瀝青炭となり、最後に脱メタン反応により芳香族炭化水素主体の無煙炭に変わってゆく。植物が石炭化する速度は地中での圧力や温度の影響を受ける。日本は環太平洋造山帯に位置し地殻変動が盛んなため、諸外国の産地よりも高温・高圧にさらされて石炭化の進行が早いとする説もある。 -第二次世界大戦終結後、アメリカ教育使節団報告書が発表され、従来の体錬科は「健康生活の確立」に向けた「体育科」に改められ、学校体育研究委員会が1946年に発足した。この委員に戸倉も選ばれ、竹之下休蔵が委員長を務めた。委員会では「音楽運動」に代わって「ダンス」という名称を採用することを決定し、「学校体育指導要綱」を1947年に発表した。東京女高師はお茶の水女子大学の付置校として生まれ変わり、1949年に東京女高師教授と兼任でお茶大助教授に就任した。東京女高師体育科はお茶大教育学部教育学科体育学専攻に改組し、学科から専攻へと格下げとなったことに戸倉はショックを受けた。1955年にお茶大教授に昇任し、1962年3月に定年退官するまで勤務した。学外では大学設置審議会臨時委員、文部省スポーツ振興審議会委員、東京都体育審議会委員などを務めた。この時期にも創作ダンスを生み出し続けたが、文部省の方針は生徒が自らダンスを創作するという流れになっており、戸倉の作品は「参考作品」として扱われた。1953年、文部省の派遣により、フランス・パリで開催された第2回国際女子体育会議[注10]に出席した。ここでドロシー・エインズワース会長ら多くの女子体育家と知り合い、イタリア・スイス・オランダ・フランス・西ドイツ・デンマーク・スウェーデン・フィンランド・イギリス・アメリカを歴訪して欧米の体育の状況を視察し、日本に帰国した。同年、一宮道子とともに国際体操連盟総会に日本代表として出席した。翌1954年6月19日にお茶大で日本女子体育連盟を発足させ、8月5日に第1回日本女子体育連盟総会を開催した。1955年に役員を選出、戸倉が会長に就任した。一方、1957年第3回国際女子体育会議、1961年第4回会議にも連続参加した。 -選挙後、ホイッグ党の首相メルバーン子爵はアイルランド選出議員の支持を取り付けて政権を維持しようとするだろうと予想された。そのため、1837年12月7日、アイルランド選出議員の代表者オコンネルの演説後に議場の演壇に立ったディズレーリは、オコンネル批判の処女演説(英語版)を行った。これにアイルランド選出議員が激しく反発し、ディズレーリの演説は嘲笑と野次にさらされた。ディズレーリが何か話すたびに議場から笑いが起こる有様だった。保守党党首ロバート・ピールさえも声援を送りながらも笑いをこらえていたという。ディズレーリは怒りを抑えきれず、「いつの日か、皆さんが私の言葉に耳を傾ける日が来るでしょう」と大声で叫んで演壇を去った。しかしこれを見たアイルランド選出議員シェイルは「ディズレーリがアイルランド選出議員から妨害を受けずに演説していたら、あの演説は失敗だっただろう。ディズレーリの演説は失敗したのではなく押しつぶされたのだ。私の初演説はみんなが静聴してくれたがゆえに失敗だったと言える。つまり私は軽蔑をもって、ディズレーリは悪意をもって迎えられたという事だ。」と語ってディズレーリ演説を評価している。 -ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設を具体化させていく。ディズニーがいつからテーマパーク建設の意図を持っていたかははっきりせず、娘たちを遊園地に連れ��ベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て、「大人も楽しめるテーマパークの建設」を思い立ったとも、趣味である鉄道模型の製作が高じて大規模なテーマパークの制作を思い立ったとも言われている。いずれにせよ、このころからディズニーはアニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。1951年3月にはスタジオのあるバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したが、これは遊園地建設による騒音などの住環境悪化を懸念した市当局によって拒否された。また、このころには計画は当初のものを大きく超えた大規模なものとなっていたため、ディズニーは広大な土地の確保できる代替地の確保に乗り出し、1953年9月にはカリフォルニア州アナハイムに160エーカー(730,000m2)の土地を購入し用地を確保した。しかしこれほどの大規模な建設計画を行う資金はディズニーにはなかったため、彼はこの時期に登場した新たなメディアであるテレビとの連携を考え付いた。こうして、新たなテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、1954年には「ディズニーランド」というTV番組をABCで放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。この番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も変遷を経ながら2008年まで54年間にわたって放映され続ける長寿番組となった。ABCはこの成功によって業績を大幅に向上させ、またこの成功を見た大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに1950年に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」や、デンマークに1843年に作られた遊園地チボリ公園など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った。 -ゴジラは1954年に第1作が公開されて以降、半世紀以上に亘って製作されている怪獣映画である。演技者がぬいぐるみ(着ぐるみ)に入って演じる手法を主体としており、この手法は以後、日本の特撮映画やテレビ特撮番組の主流となった。怪獣や怪獣同士の格闘のみならず、逃げ回る住民や攻防する軍隊等の周辺の人間描写も毎回描かれ好評を得ている。日本のみならず海外でも上映されて人気を呼び、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに日本のキャラクターとしては唯一の例として登録されている。 -1959年以降、周辺国へ逃れた多数のツチ系難民は、1980年頃に政治的組織や軍事的組織として団結するようになった。ウガンダでは1979年にルワンダ難民福祉基金が設立され、翌1980年に同組織が発展する形で国家統一ルワンダ人同盟が結成された。ウガンダ内戦(1981年-1986年)における反政府組織であり、最終的に勝利を納めた国民抵抗運動(NRM)に参加した者も多く、1986年時点で国民抵抗運動の約2割がツチであった。しかしながら、内戦の初期から国民抵抗運動に参加していたツチらは相応の高い地位を得たものの、ヨウェリ・ムセベニウガンダ大統領のルワンダ難民問題に関する姿勢の変節などにより、強い失望を受けた。そのため、1987年になると新たにルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。 -農作物の不作により、ジョセフ・スミス・ジュニア一家はバーモント州ウィンザー郡シャロンからニューヨーク州ウェイン郡パルマイラへ移住せざるを得なかった。ジョセフ・スミスはモルモン書を出版し、末日聖徒イエス・キリスト教会を設立することになる。1816年の7月、イギリスの小説家のメアリー・シェリーはジョン・ポリドリら友人とスイスで休暇をとっていたが、絶え間なく降り続く雨のため屋内にいることが多かった。一人一作ずつ怪談を書くことが提案され、シェリーが書いた作品は後に『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメシュース』(Frankenstein,orTheModernPrometheus)として発表された。ポリドイが書いた作品は『ヴァンパイア��(TheVampyre)として発表されている(ディオダティ荘の怪奇談義)。詩人ジョージ・ゴードン・バイロンは夏のない年に触発されて詩『暗闇』を書いている。ドイツの化学者のユストゥス・フォン・リービッヒは、子供の頃にダルムシュタットで飢餓を経験した。リービッヒは後に植物の栄養素について研究し、化学肥料を開発することになる。 -この副本により明治10年(1877年)9月には小図を元に文部省から「日本全図」が発行され、明治11年(1878年)6月には中図を元に内務省地理局より「実測畿内全図」が発行された。さらに同局から中小図に基づいて明治13年には864,000分の1図である「大日本全図」が刊行される。そして明治17年(1884年)には大図・中図が陸軍参謀本部測量部(国土地理院の前身の1つ)によって作成された「輯製20万分1図」の基本図になった。他にも各府県で作成された管内地図の多くが伊能大図・中図を元に作成されるなど、近代日本の行政地図において、伊能図は多大な貢献を果たした。 -タチアナは2003年6月27日に、コロラド州のデンバー動物園で誕生した。シベリアトラは絶滅危惧種であり、世界各国の動物園で保護と繁殖に取り組んでいる。そのため2005年12月16日に、サンフランシスコ動物園に移動して、同園で飼育されている当時14歳のオス「トニー」と繁殖の可能性を探ることになった。タチアナの前に同園にいたメスのトラ「エミリー」は、2005年の後半に脾臓ガンで死亡していた。タチアナは、第1の事件を起こすまで人に危害を加えたことはなかったという。 -そして2007年(平成19年)4月1日より指定管理者による運営に移行した。指定管理者制度導入図書館は、鹿児島県では阿久根市立図書館、徳之島町立図書館に次ぐ3館目となった。そらまめの会は館内のディスプレイの刷新、多彩なイベント開催、職員によるブログ「てくてくライブラリアン」の更新を通した情報発信など、公営時代は停滞気味であった図書館活動を一新した。これを受けて2009年(平成21年)に行われた第2期の指定管理者の募集の際には、そらまめの会のような図書館運営は真似できないとして、そらまめの会以外の団体は応募を見送り、2010年(平成22年)4月からの第2期も引き続きそらまめの会が指定管理者となった。なお第2期の指定期間は5年に延長された。更に指宿市当局もそらまめの会の熱意を受けて、指宿図書館のコンピュータ導入の検討と、廃止された移動図書館の復活の検討に入った。 -こうした流れの中で1806年、ロマン派の詩人ブレンターノとアルニムによる民謡集『少年の魔法の角笛』が刊行された。この民謡集には恩師であるサヴィニーの仲介によってヤーコプ・グリムも収集の協力をしており、その後この民謡集の続編となるメルヒェン集が計画されると、ブレンターノはグリム兄弟にもメルヒェン収集の協力を依頼した。このとき兄弟はブレンターノから、画家のフィリップ・オットー・ルンゲが方言で書き留めた二つのメルヒェン「猟師とその妻」と「ねずの木の話」を渡されており、兄弟のメルヒェン収集・編纂はこの二つのメルヒェンと、『少年の魔法の角笛』におけるブレンターノの再話法とによって方向付けられることになった。兄弟は口伝えと文献のふたつの方向からメルヒェン収集を進め、収集の成果である53篇をブレンターノに送った。しかしブレンターノから音沙汰がなくなったため、ブレンターノとは別に自分たちの童話集をつくることに決め、あらかじめ取っておいた写しをもとに『グリム童話集』の編纂を進めていった。その後ブレンターノのほうの企画は立ち消えとなり、ブレンターノはグリムから送られた原稿も返却しないまま紛失してしまったが、この初期の原稿は19世紀末になって、アルザスのエーレンベルク修道院で発見されており(エーレンベルク稿)、今日グリム兄弟によって加筆修正された刊本と原型を比較するための貴重な資料となっている。 -1956年までには、サンダースは6-8店の加盟者を抱えており、そのなかには後にウェンディーズを創業するデイヴ・トーマスも含まれていた。トーマスは回転する赤いバケット型看板を開発したほか、ハーマンが開拓したテイクアウトのコンセプトを支持した最初期の人物でもあり、トーマスが導入��た簿記の方法は後にサンダースがKFCチェーン全体に広めることにもなった。1968年、トーマスは100万ドルで所有する株式を売却し、ミシシッピ川以東のすべてのKFCレストランの地域マネージャーに就任した。その後1969年にウェンディーズを設立するまでその立場にとどまった。1956年、サンダースは本社をコービンからシェルビービル(ケンタッキー州)に移した。シェルビービルはコービンよりも物流上優れた場所にあり、スパイス、圧力調理器、テイクアウト用の箱、広告用資材などを加盟店に輸送するのに好都合だった。 -結局国書受け取りの場所は、ペリー側の了承も得て浦賀の隣の入江である久里浜となった。久里浜には応接所として仮設の陣屋が設けられた。1853年7月14日(嘉永6年6月9日)の午前8時頃、ペリーらを久里浜へ案内するため、日本側から応接担当がサスケハナ号に向かった。国書受け渡しの当日、久里浜は江戸湾の警備を担当していた彦根藩、川越藩が陸、会津藩、忍藩が海上の警備を行う中、午前10時頃に日本側の応接担当に引率され、ペリー一行は久里浜に上陸した。 -父のイライアスがシカゴで工場経営に加わり、再び一家はシカゴに舞い戻る事になった。青年期を迎えていたウォルトも地元のマッキンリー高校に通いながら、当時無名であったアカデミー・オブ・ファインアーツ専門学校夜間部のコースで絵を学ぶ生活を送っていた。同時に、カンザスの新聞社で新聞配達のアルバイトを始め、朝4:30に起床して配達に行き、放課後に再度配達をするというハードな働き方をしていた。そのためか、学校では居眠りをしたり、悪い成績をとることがたびたびあった。学校では学級新聞の漫画欄を担当してその才能の片鱗を見せていたが、その内容は愛国主義に沿った内容だった。当時、不安定な国際情勢の中でアメリカでも愛国心が国民の間で高まっていた。サラエボ事件を切っ掛けに第一次世界大戦が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、赤十字社の衛生兵として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。同じ衛生隊にはレイ・クロックも居た。大戦終結時、廃墟となったフランスに居たウォルトは、一年振りに故郷のアメリカに帰国した。帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。見かねた兄のロイ(地元銀行の職員として働いていた)が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。ウォルトはここで生涯の友人となるアブ・アイワークスと知り合った。アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。 -ミラノ滞在中の1832年6月、オックスフォードの学友リンカン伯爵から手紙をもらい、彼の父ニューカッスル公爵の強い影響下にあるニューアーク選挙区(英語版)からの出馬を勧められた。グラッドストンにとっては有難い申し出であると同時に不安なことだった。グラッドストンは自分の信念を曲げることを嫌ったので、トーリー党守旧派のニューカッスル公爵の支援を受けてしまうと、守旧的な信念を強要されると懸念したのである。しかし父ジョンは「公爵はこれまで支援する候補者に信念を押し付けたことはないし、公爵と私はすでに話を進めており、私が選挙資金の半分を持つことになっている。」と息子を説得し、出馬を決意させた。 -三十年戦争は終わったが、フランスはスペインとの戦争を継続しており、テュレ��ヌがフランス軍司令官としてスペイン軍に属したコンデ公とネーデルラントで戦った(フランス・スペイン戦争)。フランスはイングランドから軍事支援を受け、1658年のダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟は勝利した。翌1659年に結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈を境界とするフランスとスペインの国境を確定、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサと婚約した。この頃、ルイ14世はマザランの姪マリー・マンチーニと恋仲になっておりスペイン王女との結婚を拒絶したが、事は国益の問題であり、マザランはルイ14世とマリーを無理やり別れさせている。また、この条約でコンデ公は罪を許されフランスへ帰国、以後はフランスのために戦うことになる。 -ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスは、ローマ帝国の皇帝である。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムスの称号を与えられた。ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の1人であり、ローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、コンスタンティヌス1世が自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープルは、その後東ローマ帝国の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした。 -「因幡の傘踊り」以来の伝統的な踊りは和傘を用いるが、近年は和傘の入手が難しい上に、新たに始まった創作振り付けの際に動きの制約になってしまう。これらを解消し、祭りの参加者をさらに増やすために2006年から新たに加わったのが「すずっこ」と呼ばれる楽器である。これは、「鳥取生まれの民族楽器」とされており、幅の広いしゃもじの形をした朱色の板に黄色や青で模様を描き、大中小と3つの穴を穿ち、それぞれ3個、2個、1個の合計6個の鈴を取り付けたものである。動かすとしゃんしゃん傘と同じように鈴が鳴り、掌に握って簡単に扱えるため踊りの自由度が高く、鮮やかなデザインが目を引くものである。しゃんしゃん祭りだけでなく、ガイナーレ鳥取の応援イベントにも採り入れられている。 -ツキヨタケ(月夜茸)は、ハラタケ目ホウライタケ科のツキヨタケ属に属するキノコの一種である。日本を中心として極東ロシアや中国東北部にも分布し、晩夏から秋にかけて主にブナの枯れ木に群生する。子実体には主要な毒成分としてイルジンSを含有し、そのひだには発光成分を有する。シイタケやムキタケ、ヒラタケなどと誤食されやすく、誤食した場合には下痢や嘔吐といった中毒症状から、まれには死亡例も報告されている。 -戦後の佐野の活動は、戦前を上回る目覚ましいものであった。出身地から離れた町で暮らしている上、すでに養女も結婚しており、身内のほとんどいない土地で親族のしがらみや家庭の束縛から解放されていることで、佐野は思うがままに生きることができたとも考えられている。戦中同様に戦後の活動は矯風会から離れたものであったが、弱者に目を向けた活動は戦前同様であった。こうした業績により昭和20年代から昭和40年代にかけ、1957年の法務大臣表彰や1966年の厚生大臣感謝状を含め、多くの団体や公的機関から表彰を受けた。その大半は、刑余者の更生保護に尽くしたことによるものである。1965年には社会福祉に対する奉仕と実績を認められ、勲五等宝冠章を受章した。 -2007年(平成19年)6月、東京都環境局と首都大学東京の手によって25年ぶりの南硫黄島調査が行われた。これは小笠原諸島が世界遺産の自然遺産の候補地とされる中で、調査回数が少なくいまだ全貌が明らかとなっていない南硫黄島の自然環境についての調査を実施し、人間からの影響が極めて少ない海洋島である南硫黄島の生物多様性、生態系のあり方や生物進化の過程を知り、そして南硫黄島への外来生物の進入状況を把握することが小笠原諸島の世界遺産としての価値を証明するためにも必要と判断されたためであった。2007年の調査では1936年、1982年に続き3回目となる山頂までの総合調査が実施され、南硫黄島の自���環境について貴重な知見を得ることができた。また2007年の調査時は、人間からの影響が最小限に抑えられている南硫黄島への外来種の持ち込みを避けるために、島内に持ち込む荷物をクリーンルーム内で殺虫剤の燻蒸を行い、調査隊員の排泄物やゴミも全て持ち帰るなど、調査によって南硫黄島の自然環境に影響を与えぬよう万全の体制を取った。2017年(平成29年)6月、東京都、首都大学東京、日本放送協会の合同による南硫黄島学術調査が実施された。立ち入り困難な場所も多いため、科学者らはロッククライミングの専門家から事前に指導を受け(調査にも同行)、マルチコプターによる空撮も使用された。この記録は2018年のNHKスペシャルで放送された。南硫黄島でこれまで行われた本格的な学術調査は、1936年、1982年、2007年、2017年の4回にすぎず、4回とも山頂部までの調査が実施されたものの、全て島の南西部からほぼ同一コースを取って山頂を目指したため、海岸部を除くと島の南西部から山頂への登頂ルート周辺という島内のほぼ同一地域の調査に限られている。また戦後の1982年、2007年、2017年の調査とも、天候が比較的安定していて台風も少なく波が一番穏やかな季節とされる6月に実施されており、冬季に南硫黄島で繁殖活動を行っている可能性があるとされるアホウドリ類の調査が進んでいないなど、まだ南硫黄島の自然環境については調査が進んでいない部分が残されている。 -山本健吉は『芭蕉―その鑑賞と批評』(1957年)において、上五を「山吹や」とした場合には視覚的なイメージを並列する取り合わせの句となるのに対し、「古池や」は直感的把握、ないし聴覚的想像力を働かせたものであり、「蛙飛びこむ」以下とより意識の深層において結びつき意味を重層化させているのだとしている。そしてこの句が「笑いを本願とする俳諧師たちの心の盲点」を的確についたものであり、芭蕉にとってよりも人々にとって開眼の意味を持ったのだとし、またわれわれが誰しも幼いころから何らかの機会にこの句を聞かされている現在、「われわれの俳句についての理解は、すべて「古池」の句の理解にはじまると言ってよい」と評している。大輪靖宏の『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』(2014年)によると、古池は古井戸の用法の如く、忘れ去られた池であり、死の世界であるはずである。「蛙飛び込む水の音」は生の営みであり、動きがある。蛙を出しておきながら、声を出していない。音は優雅の世界ではない。ここでは優雅でなく、わび、さびの世界である。古池という死の世界になりかねないものに、蛙を飛びこませることによって生命を吹き込んだのである。それでこそ、わび、さびが生じた、と述べている。 -『恋人たちのクリスマス』は音楽批評家に絶賛された。『オールミュージック』のロッシュ・パリジーンは楽器用法とメロディを褒め称え、「数年続く炸裂」("ayear-longbanger")と評した。また『ボストン・グローブ』紙の編集者であるスティーヴ・モースは、キャリーの歌声には魂が強く感じられると書いた。『スタイラス・マガジン』のバリー・シュワルツは、「この曲を今の名曲と言うなんて、この曲の凄さを捉え切れていない。これは現代の定番曲で、楽しく、うきうきさせ、声高で、願い事を仄めかしすらする」と述べ、歌詞については「美しいフレーズだ」("beautifullyphrased")としたほか、キャリーの声は「ゴージャス」("gorgeous")で「誠実」("sincere.")だと絶賛した。 -地殻とは地球の固体表面を指し、マントルと同じく珪酸塩成分から成る。地殻は熱伝導でしか地球内部の熱を伝えないため、マントルの対流と比べると効率が悪く、結果的に核やマントルの冷却を遅延させている。組成差や構造から大陸地殻と海洋地殻に分類される。表面の55%を占める海洋地殻は玄武岩質で、厚さは平均6km、平均密度は3.0g/cm3である。固化形成は2億年以内となる。対して大陸地殻は花崗岩質で、厚さ20-70km(平均35km)、平均密度2.8g/cm3以下と厚く軽い。地殻表面の構造は、プレート運動による造山運動や火山活動、大気と水による風化や浸食、堆積などによって決まる。 -荒川橋は荒川河口から134.1kmの地点に位置する、奥秩父の主要な交通路となっている橋である。荒川の湾曲���に所在する上り方向専用の橋、および下り方向専用の橋の2橋で構成されており、橋詰で車道の上下線が分離し、それぞれの橋に1車線の一方通行として接続されている。なお橋の所在地は埼玉県秩父市荒川小野原である。現在の橋は、上り線が旧橋の鋼上路ブレースト・リブ・バランスド・アーチ橋(鋼上路バランスド・ブレースド・リブ・アーチ橋とも呼ぶ)で、下り線は新橋の鋼上路トラスドアーチ橋となっている。この鋼上路ブレースト・リブ・バランスド・アーチ橋という橋梁形式は全国で2例しかなく、もう一つは栃木県那須塩原市の那珂川に架かる晩翠橋である。なお、晩翠橋は2002年に土木学会選奨土木遺産に認定されている。また、鋼上路トラスドアーチ橋は上路式のスパンドレルブレースドアーチ橋によく似た外見をしている。双方の橋とも橋梁を支える拱台が両岸の岩盤に固定されている直接基礎で、橋脚は立てられていない。親柱(灯柱)は旧橋竣工当時のものが4か所とも橋名板とともに現存している。また、旧橋の欄干や親柱の照明灯や道路照明灯は竣工当時のものではなく後年交換されたものである。歩道は旧橋は川下側、新橋は川上側にそれぞれ設けられている。双方の橋とも橋面は縦に弓なりに反った緩やかな縦断曲線を描いている。橋の管理者は国道の橋であるが埼玉県である。国道140号は国道と称しているが直轄国道ではなく補助国道であり、全区間県管理である。また、埼玉県の第一次緊急輸送道路に指定されている。 -次の金星の太陽面通過は1882年12月6日に発生した。1874年の太陽面通過で期待の結果を得ることができなかったことは、次の太陽面通過の観測への意気を下げることとなった。1875年にはヨハン・ゴットフリート・ガレが小惑星フローラを利用して、太陽視差8.873秒という値を高い精度で得ていた。アメリカ海軍天文台では、1874年の観測を率いたサイモン・ニューカムは金星太陽面通過の観測を天文単位を決める最適な方法と考えることを止め、ウィリアム・ハークネスが1882年の観測を率いることとなった。このような観測の科学的価値への疑義は生じたが、結果的には欧米各国はニュージランドから南アフリカに至る世界各地に観測隊を派遣した。各国の観測計画を調整するための国際会議が1881年10月にパリで開かれ、14の国が参加した。アメリカもパリの会議には出席しなかったが、観測隊の派遣は継続して行うこととした。ニューカムも観測隊の1つを率いて南アフリカのウェリントンで観測を行っている。1874年と異なり、この年の太陽面通過はヨーロッパとアメリカでも観察可能で、町の広場に望遠鏡が置かれ、多くの人たちが観察する盛り上がりを見せた。ニューヨーク・タイムズは、1881年から83年にかけて継続的に金星太陽面通過の記事を出し続けた。記事では、太陽面通過の観測の歴史や観測方法の解説、1882年の各国の観測計画や結果が伝えられ、当時の太陽面通過への興味の高まりを示している。アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザは、このときの太陽面通過に触発されてTransitofVenusMarchを作曲した。アメリカ海軍天文台による1882年の観測結果は、1874年と比較すると良い観測結果であった。集められた観測写真の数も1380枚に上った。アメリカでの観測結果から、ハークネスが1889年に8.842±0.0118秒という太陽視差の値を報告した。また、1895年にはニューカムが、18世紀と19世紀の4回の太陽面通過の記録から8.794±0.0018秒という値を報告した。ただし、金星太陽面通過以外の方法も含めた様々な太陽視差決定結果の中では、プルコヴォ天文台による光行差を利用して得られた値を最も重要性が高いとし、金星太陽面通過によって得られた値の重要性は低いとニューカムはまとめている。 -信玄公旗掛松事件(しんげんこうはたかけまつじけん)は、1914年(大正3年)12月に一本の老松が蒸気機関車の影響で枯れたことから、所有者の清水倫茂(しみずりんも)が1917年(大正6年)に国を相手取り起こした損害賠償請求事件である。この松樹は武田信玄が軍旗を立て掛けたという伝承・由来のある「信玄公旗掛松」と呼ばれていた老松で、国鉄(現JR東日本)中央本線日野春駅(山梨県北杜市長坂町富岡)駅構内に隣接した線路脇に生育していた��、老松の所有者(地権者)であった清水倫茂は、蒸気機関車の煤煙、蒸気、振動などにより枯死してしまったとして、一個人として国(鉄道院)を相手取り訴訟を起こした。 -茶色であることと、漏斗型であることから、多少の毒性を有するチチタケ属の種と混同されることがあるが、乳白色の滲出液を分泌しないことで区別できる。ウグイスチャチチタケLactariusturpisとよく似ているが、この種は暗いオリーブ色である。北米で見られるPaxillusvernalisとは、胞子紋の色が暗い、柄が太い、ポプラの下に生育する、などの点で区別できる。ムクゲヒダハタケP.filamentosusと本種はさらに類似しているが、この種は稀で、ハンノキの下にしか生育せず、傘の縁に向いた平たい鱗片を持つ、肉は淡黄色で傷つけても僅かにしか褐色にならない、傷つけても変色しない深い黄土色のひだを持つ、などの点で区別できる。 -九州地方整備局管内で中止されたダム事業としては、旧建設省時代を含めると11ダム事業がある。筑後川、緑川、大野川水系に中止事業が集中しているのが特徴である。九州最大の河川・筑後川水系では昭和28年西日本水害を機に筑後川改訂改修計画が全面変更になり、1958年に筑後川水系治水基本計画が策定された。これにより松原・下筌ダムが建設されたが、両ダム建設計画が決定するまで複数地点においてダム計画が立案されていた。これらの中で着手に至ろうとしていたダム計画に久世畑ダム計画がある。松原ダムよりも下流、現在の国道212号千丈橋付近に高さ79メートル、総貯水容量1億900万立方メートルのダムを建設する計画であり、筑後川上流のダム計画地点5箇所で真っ先に検討された地点であった。ところが水没戸数が573戸にも及び1953年10月には日田郡大山村が村民大会を開いてダム建設絶対反対を決議した。この結果、久世畑ダム計画は松原ダム計画へ変更となり、現在に至る。また下筌ダムの前身であった簗瀬ダム計画は、地質的な問題が解決できず調査自体が中断された。さらに1969年の北部九州水資源開発マスタープランにおいて、筑後川本流の杖立温泉付近に杖立ダム、支流玖珠川最上流部に猪牟田ダムと天ヶ瀬温泉下流付近に玖珠川ダム、花月川流域に3ダムを建設する計画が立てられたが猪牟田ダム以外は立ち消えとなった。猪牟田ダムは1973年より事業に着手したが、灌漑用水供給域である国東半島の灌漑計画が進捗せず、さらにダム予定地の地質問題が解決できなかったことで2000年中止された。現在ダム予定地跡に石碑が建立されている。このほか久留米市を流れる支流・高良川上流に高良川ダムの計画構想が1980年代初頭に持たれていたが、立ち消えとなっている。 -1954年(昭和29年)には館外貸出を開始。対象は高校生以上であり、1回につき最大1冊・最大1週間であり、保証金として300円を支払う必要があった。1957年度の蔵書数は27,672冊であり、館外貸出数は6,051冊、館内利用数は64,584冊だった。この年の予算は総額293万2200円であり、うち備品費が127万5000円だった。1958年(昭和33年)には横田の後任の第5代館長に杉本斌が就任した。1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風や1962年(昭和37年)の台風14号では岡崎市立図書館も被害を受けたが、岡崎市は図書館よりも岡崎城や岡崎市民会館の再建を優先した。1962年には開館50周年を迎えたが、記念行事などは特に行われていない。旧青年学校校舎は建物が古くて狭く、テニスコートに隣接していたことで騒音がひどく、低地にあったため何度も洪水被害を受けた。 -元禄11年8月の町触で、京都の町に「疲犬」や病犬が多くいたため、従来から申し渡しているように養育し、病犬や子犬などは檻を拵えて収容するように命じた(『京都町触集成』一七一号)。同年9月26日の触書でも、子犬や病犬などは小屋を作って保護するように申し渡されている(『京都町触集成』一七八号)。 -建築事業費は16億1509万円。人口30万人を想定して設計されており、年間10万人の入館を想定していた。閲覧室は旧館と比べて拡充され、電動書架を採用するなど設備の近代化が図られた。新館移転の際の蔵書数は約6万冊だった。開館時間は4月から9月が「9時-18時」であり、10月から翌年3月が「9時-17時」である。毎週木曜日は通常時と比べて閉館時間が1時間��長され、新聞記事は「時間にしばられている勤労者などに暖かい配慮がされている」と伝えている。 -8月6日午後、国際連合安全保障理事会は対イラク貿易を全面的に停止するなどの経済制裁を含む決議661を反対ゼロ(棄権2票)で採択した。これはイラクだけでなく、クウェート暫定政府も対象とするものであった。また、この決議はクウェート暫定政府を承認しないという内容も含まれていた。暫定政府は8月7日を期して市民生活の正常化を呼びかけた。 -ヒョウモンチョウ族(Argynnini、豹紋蝶)は、チョウ目タテハチョウ科ドクチョウ亜科内のひとつの分類単位。本族に分類されるチョウは、和名の通り黄色の地に黒い斑点が並んだヒョウ柄模様の翅を持つものがほとんどである。日本では本族内の一種Brenthisdaphne(DenisetSchiffermüller,1775)に「ヒョウモンチョウ」(別名ナミヒョウモン)の和名が充てられるが、「ヒョウモンチョウ」という言葉は本族のチョウの総称としても使われることが多い。熱帯性のウラベニヒョウモン、ヒメウラベニヒョウモン、ウスイロネッタイヒョウモンなどは近縁のVagrantini族とし、ヒョウモンチョウ族とは普通区別される。 -マダガスカルにおける1万4,883種に及ぶ植物種のうち、80パーセント以上が固有種である。この中には、科レベルで固有の植物群、5科が含まれる。そのような固有科の1つであるディディエレア科は4属11種からなり、全世界でもマダガスカル島南西部の有刺林のみに生育する。キョウチクトウ科のパキポディウム属の仲間のうち、全世界に存在する種の5分の4が本島に固有の種である。マダガスカルに生息するラン科の種は全部で860種とされるが、そのうち4分の3がここだけで見られる種である。世界に9種あるバオバブ属のうち6種がマダガスカルの固有種である。マダガスカルに生育するヤシは全部で170種で、これはアフリカ全体の種数の3倍の多様さであり、しかもそのうち165種が固有種である。東部雨林の数多い固有種の中でも、タビビトノキは、マダガスカルという国の象徴ともいえるものであり、これを図案化したものが国章や国営航空会社のロゴのデザインに用いられている。なお、タビビトノキは現地の言葉では「ラヴィナラ(ravinala)」という名前で知られる。マダガスカルの植物の中には、さまざまな苦痛を取り除く薬草として用いることができるものも多い。ホジキンリンパ腫や白血病、その他の癌の治療に用いられるビンブラスチンとビンクリスチンという薬は、マダガスカルの固有種、ニチニチソウ(Catharanthusroseus)から抽出されたものである。 -「にじのライブラリー」開館からの2週間後の2011年11月26日には、盛岡市に拠点を置くNPO法人うれし野こども図書室が、竹駒町のコミュニティセンター敷地内に子ども図書館「ちいさいおうち」を設置した。この子ども図書館はトレーラーハウスを利用しており、68m2(約20畳)の広さを持つ。NPO法人うれし野こども図書室は、陸前高田市教育委員会と連携して運営・管理を行っている。トレーラーハウスや書架などは特注品であり、蔵書の多くは児童書に詳しい東京こども図書館自身が選書したものである。蔵書は0歳から18歳を対象としており、陸前高田市または近隣市町村在住者であればだれでも利用可能である。開館当初の蔵書数は約2,500冊だったが、2014年7月には4,200冊を超えた。火・水・金・土・日の週5日開館。東京こども図書館から1人、陸前高田市から1人の計2人の職員がいる。開館から15か月後の2013年2月末時点で468人が利用者登録を行っている。「ちいさいおうち」開館時の蔵書は約2,000冊だったが、2015年3月には約4,500冊となった。トレーラーハウスを改造した形態の建物であるため、陸前高田市の復興状況に応じて移転する可能性がある。2012年12月1日に隣接場所に(仮設)陸前高田市立図書館が開館したため、児童へのサービスは「ちいさいおうち」、大人へのサービスは(仮設)陸前市立図書館と、役割を分担している。「ちいさいおうち」は設立当初から陸前高田市立図書館の一部となることを視野に入れて活動している。 -なお、佐々木禎子の兄の佐々木雅弘と、日本への原爆投下を承認したアメリカ合衆国大統領であるハリー・S・トルーマンの孫のクリフトン・トルーマン��ダニエルらは、オバマの広島訪問に先立つ5月26日に、カリフォルニア州の博物館に禎子の折り鶴を寄贈する記念式典に出席し、ロサンゼルス郊外の学校で平和を訴える講演をしている。式典には200名ほどが参加し、佐々木雅弘は「この折り鶴は禎子が命をかけて折ったものです。ここにアンネの日記と一緒に置かれ、皆さんに将来に向けて何かを感じてもらえたら禎子も喜ぶと思います」と挨拶をした。広島県・広島市・原爆資料館はそれぞれオバマに広島ゆかりの記念品を贈った。県は竹原市出身の文化功労者の陶芸家今井政之の「象嵌彩窯変鑛鶴花壺」、市は三宅一生デザインの腕時計と紅葉柄の万年筆(呉市発祥のセーラー万年筆製)、原爆資料館は被爆写真集「ヒロシマを世界に」と被爆者が描いた画集「原爆の絵ヒロシマを伝える」を贈った。 -交差点から南へ向かうと、渋谷駅西口と駅前バスターミナルがあり、そこに面してこれも待ち合わせ場所として有名なモヤイ像が置かれている。交差点の南西角は、複合ビルの渋谷駅前ビルが建ち、2018年時点で仏コスメブランドのロクシタン直営店やファミリーレストランのガストなどが入居している。交差点から西へ向かうとすぐに渋谷109を正面に見る三差路(道玄坂下交差点)となり、左が道玄坂、右が文化村通りとなる。 -コンスタンティヌス1世はモエシア属州のナイッススでローマ帝国の軍人コンスタンティウス・クロルスの息子として生まれた。父はその後、ローマ帝国でテトラルキア体制が形成されると西の副帝を務め、後に正帝となった。父がブリタンニアで死亡した後、コンスタンティヌス1世はその軍団を引き継いで306年に正帝を自称し、312年に東の正帝ガレリウスから正式に正帝としての承認を獲得した。軍人として卓越した手腕を発揮し、帝国国境外の「蛮族」との戦いに従事するとともに、複数の皇帝たちの間で戦われた内戦で勝利を重ねた。306年の正帝自称以来、20年近い歳月を費やして対立する皇帝たちを打ち破り、ローマ帝国を再統一した。3世紀の危機と呼ばれる長い政治的・軍事的な動乱の時代を経ていたローマ帝国では、長期にわたって内政の再編が行われていた。コンスタンティヌス1世に先立ってこの混乱を一時終息させたディオクレティアヌス帝も新しい安定した統治機構の形成を模索し、各種の改革を実施していた。単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスの改革を引き継ぎ、官僚制を整備し、文官と武官を分離するなどしてこれを完成させた。 -サトゥクの孫の時代には、ムーサーの子アリーが国家の東部を支配するアルスラン・ハン、スライマーンの子ハサン(ハールーン)が西部を支配するボグラ・ハンの地位にあり、サーマーン朝が支配するマー・ワラー・アンナフルに侵入した。992年にハサンはマー・ワラー・アンナフルの中心都市ブハラとサマルカンドを占領するが、ハサンはカシュガルへの帰還中に没し、サーマーン朝はブハラを回復する。996年に締結した条約によってカラハン朝はサーマーン朝からザラフシャーン盆地北部地域を獲得し、999年にアリーの子ナスル・アルスラン・イリク・ハンがブハラを占領し、サーマーン朝を滅ぼした。 -2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル(km)(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24km)を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。地震の規模はモーメントマグニチュード9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。震源域は広大で、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmのおよそ10万平方キロメートル(km2)に及ぶ。最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。観測された最大加速度は宮城県栗原市のK-NET築館(MYG004)観測点で、2933ガルであった。 -航空業界の意見が双発機と4発機に分かれていた中で、エアバスはTA9とTA11を同時開発する方向へ舵を切った。総開発費を抑制するため、両機の構成要素は最大限共通化するよう設計が進められた(設計過程の詳細は後述)。2機を同時開発する目処が立ち、1986年1月にエアバスはTA9とTA11をそれぞれA330、A340と命名した。なお、この両機の名称は、元々は逆であった。エアバスはTA11を先に開発する予定であり、A320に続く新型機ということでTA11をA330、そしてTA9をA340としていた。しかし、4発機がA3"3"0で双発機がA3"4"0では、顧客が両機を取り違えるという問題が指摘され、4発機がA340に変更された。最初にA340の発注の意向を示したのはルフトハンザドイツ航空で、1987年1月のことであった。その後、米国のノースウェスト航空もA340の発注を決め、1987年6月までに合計10社の航空会社からA340に89機、A330に41機の注文が集まっていた。開発を進めるのに十分な受注の見込みが立ったことで、エアバスはパリ航空ショーを控えた1987年6月5日、A340とA330の正式開発を決定した。両機は姉妹機として同時に開発が決定されたが、市場調査の結果を踏まえ、A340の開発作業を先行させることになった。 -アジアにおいてイギリスは、1796年には現スリランカを併合、1814年から1816年のグルカ戦争によってネパールを保護国にした。また、1824年からビルマを3次におよぶイギリス・ビルマ戦争によって1886年からイギリス領ビルマとし、1937年までは現在のミャンマーの版図もその領土としていた。カナダやオーストラリアといったイギリス帝国内の自治領とは異なり、帝国の常に一つの独自な構成部分として定義されている。第一次世界大戦および第二次世界大戦には連合国として参戦し、国際連盟、国際連合ともに原加盟国である。 -ナチス・ドイツ政権の大軍拡政策によって、ドイツ空軍は戦闘機の近代化を強力に推し進めた。ところが、主力戦闘機Bf109は高性能ではあったものの、狭い操縦席によって操縦が新任搭乗員にとっては難しく、また主脚が外側へ引き込む方式で脚間のスパンが短く構造も脆弱であったため、着陸事故が多かった。また搭載エンジンであるDB601は生産性に難があり供給数量に限界があった。その事故率の高さと生産性の問題に不安を感じたドイツ空軍上層部は、1938年、フォッケウルフ社に対し、補助戦闘機の開発を依頼した。次に想定される戦争は必ずしも長期戦が想定されていたわけでもなく、当時のドイツが補助戦闘機にまでリソースを回せる国力があるとも限らなかったことから、実際に採用されるかはよくわからない状況であったとも言われるが、フォッケウルフ社ではこれを受けて、クルト・タンク技師およびブラーザー主任技師を中心としたわずか12名のチームで開発を進め、1939年6月1日に初飛行に成功した。 -『私作る人、僕食べる人』のCMの放送を中止させた「行動を起こす女たちの会」は、1986年に「行動する女たちの会」に改称し、1995年の第4回世界女性会議を区切りとして翌1996年に解散した。その間、引き続き女性差別につながりかねない広告に関して抗議したり日本広告審査機構に要望書を提出するなどの活動を続け、一定の成果をあげた。しかし、こうした「抗議・告発型」の活動姿勢が、若い世代の女性に敬遠され、支持を得られなかったことで、解散の一因になったとも言われている。 -先に述べたようにバリ島経済の中心には農業(水田耕作)が伝統的に位置してきたが、世界的な観光地として成長した今でもなお、30%以上が農林漁業に従事している。スハルト体制以来の観光開発が南部バリの一部地域で集中的に行われたためである。水田耕作のほかには、ココナッツやコーヒーの栽培が盛んであり、樹園地ではバナナ、オレンジ、マンゴーが、畑では大豆、サツマイモ、落花生、キャベツ、トマトなどが栽培されている。また、1985年から2004年の間にバリ州における水田の面積は98,830から82,053へと16,741ヘクタールが減少し、その分、屋敷地および建築用地は27,761から45,746へと17,985ヘクタール増加しており、水田の宅地化が進んでいることが分かる(しかし、この間の収穫量は品種改良によって増加している)。こうした中で、土地所有層は地価の上昇による様々な利殖の機会を手にするようになっているが、他方でスバックのメンバーの圧倒的多数を占める小作人にとっては、農地の宅地化、近代化は失業を意味し、深刻な問題となっている。 -カリフォルニア州はとても地質学的に多様な地域であり、気候などのテロワールもやはり多様である。北緯42度のカリ��ォルニア州北端部はスペイン北部やイタリア中央部と同緯度であり、北緯32度の州南端部は北アフリカと同緯度である。カリフォルニア州のワイン産地の大半は太平洋とセントラル・ヴァレーの間に位置する。夏季には内陸部の大気が熱せられて上昇する一方で、太平洋からの冷たい海風が霧となって内陸部に吹き込み、内陸部の気温を下げている。旱魃はブドウ栽培を行う上で脅威になりうるが、カリフォルニア州の大部分の地域では旱魃を避けるのに十分な量の降水があり、サンフランシスコ北側のワイン産地では615-1,150mm、南側のワイン産地でも330-510mmの年降水量がある。一方で内陸部にあるセントラル・ヴァレーは世界のワイン産地の中でもっとも暑く乾燥した地域のひとつであり、灌漑設備は不可欠である。春季の降霜は脅威となりうるが、冬季には降霜の被害の恐れは少なく穏やかである。降霜の脅威を抑制するために、しばしばブドウ栽培農家は送風機による送風やスプリンクラーによる散水、スマッジ・ポットと呼ばれる燻し器を使用している。 -こうした予言に対しては、前出のカトリーヌのように心酔していた有力者もいた。彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アラバの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる。しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになっている。ときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。 -フェズはイスラム教徒だけでなくユダヤ教徒にとっても重要な町であり、11世紀の地理学者バクリーはフェズには他のマグリブのどの都市よりもユダヤ教徒が多く住んでいたと記している。イスラム教徒の住民とユダヤ教徒の住民の関係は不安定であり、時にはイスラム教徒によるユダヤ教徒の殺害・略奪が起きた。1276年に起きたポグロム(ユダヤ教徒の大量虐殺)の後からマリーン朝はユダヤ教徒の居住区の必要性を痛感し、1438年ごろにフェズ・エル・ジェディドにメッラーフ(mellah,ヘブライ語:מלאח‎‎,アラビア語:ملاح,الملاح‎‎,ユダヤ教徒の強制隔離地区)が設置された。また、マリーン朝時代のフェズにはユダヤ人居住区以外にイベリア半島出身のキリスト教徒傭兵の居住区、シリア出身の弓兵の居住区も設けられていた。 -観光客の増加に伴って水質の劣化がみられ、宿泊施設からの排水の流入の影響が大きい。栄養塩に基づく分類では中栄養湖から富栄養湖へ遷移した。赤城大沼は群馬県によって環境基準の類型が指定が行われている。これは利水を行う水域について化学的酸素要求量(COD)に基づく分類を行ったもので、水質環境基準類型は1973年(昭和48年)に「湖沼A」を「5年以内で可及的速やかに達成」すべきものと指定を受けた。その後、1986年(昭和61年)に「累計II」を「5年以内で可及的速やかに達成」すべきとされた。2014年(平成26年)の調査でも環境基準を達成していない。なお、群馬県で指定を受けている湖沼は12水域あり、環境基準を達成していないのは自然湖沼である赤城大沼と尾瀬沼の2箇所となっている。水生生物保全水質環境基準としては、2010年(平成22年)に「湖沼生物A」を「直ちに達成」となった。2011年には、東日本大震災に伴う原発事故の影響で赤城大沼で釣り上げたワカサギから放射性セシウムを検出、釣りは可能だが持ち出しは「自粛」となり、事実上の禁漁となった。その後、セシウム量が安定的に基準値を下回るようになり、2015年に「解禁」となった。 -静岡県立中央図書館(しずおかけんりつちゅうおうとしょかん)は、静岡市駿河区谷田にある公共図書館。静岡県が図書館法に基づき設置している。「調べる・考える・解決する」をスローガンに、レファレンスを軸とした静岡県内127館の図書館のネットワークづくり、資料の永年保存、地域資料の情報収集などを行い、県内図書館の中核として市町立図書館を支援している。静岡県立美術館に隣接し、近隣に静岡県立大学がある���2017年(平成29年)4月から実施された長寿命化改修の可能性調査により、2階閲覧室床部(1階書庫の天井部)にひび割れが発見され、同年7月4日から臨時休館となっていたが、同年8月1日から一部入館と資料閲覧を再開し、2018年(平成30年)1月からは事前予約資料の受け取りに関して個人利用者への貸出業務を再開している。 -1460年にスコータイ(スコータイ自体、アユタヤ王朝の支配下にあった)の支配下にあったチャリエン(現在のシーサッチャナーライ郡)がラーンナーに帰順すると、今度はピッサヌロークとカムペーンペットを攻撃したが失敗した。 -1981年にコマネチはアメリカに遠征した。同行したカロリーコーチ夫妻、振付師はこのとき亡命してしまった。帰国後、コマネチの行動は厳しく監視されるようになり、1984年ロサンゼルスオリンピックに派遣された時も同様であった。その後モスクワやキューバに行く場合などのほんのわずかなケースを除き出国が許可されることはなかった。なお、1984年のロサンゼルスオリンピック直前にはコマネチのドキュメンタリードラマNadiaが放映された。コマネチは1984年から1989年までルーマニア体操協会のコーチとしてジュニア選手の育成にあたったが、ルーマニア革命直前の1989年11月、ハンガリー、オーストリア経由でアメリカに亡命した。チャウシェスク大統領の独裁政権下で、同大統領の次男でもあるニク・チャウシェスクが一方的に愛人関係を持とうとするのを拒むこともできず、そのことに堪えきれなくなったためという報道もなされた。アメリカに到着した際には厚化粧とけばけばしい服装で登場した事、二人きりで一緒に住んでいた亡命を手助けをした男性との関係をメディアに問われて舌を出し「秘密」と答え、男性が4人の子供がいる妻帯者である事に「だから何よ?」と答えた事に対してネガティブな報道もされた。 -夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者である。本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。俳号は愚陀仏である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などである。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身である。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表した。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載した。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆した。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -HTVの運用管制は筑波宇宙センターの宇宙ステーション運用棟内にあるHTV運用��制室(HTVMCR)で行われており、HTVがISSの後方5kmに到達する90分前からはNASAのジョンソン宇宙センター(JSC)にあるミッションコントロールセンター(MCC-H)との統合運用が行われる。運用管制の訓練、打ち合わせは打ち上げの1年以上前から行われており、HTV運用管制チーム(HTVFCT)は、3交代の24時間体制で常時約20名が運用を行っている。運用管制要員のHTV1での認定者は67名、HTV2での認定者は76名となっている。HTVの手順書は1,800種類以上あり、NASAとの手順書も数百種類ある。また、2011年のこうのとり2号機ではミッション中に起きた東北地方太平洋沖地震により、一時的に宇宙ステーション運用棟の管制設備が使えず、NASAの管制センターに管制官を派遣して対応した。この一件により、筑波宇宙センター内の別の建物内にHTVの予備管制センターが設置されている。 -岡本かの子を理想の女性像としたふみ子は、家政学院時代から女性であることを誇りに感じており、後に死の数カ月前に「幸福な少女時代、更になほ幸福な家政学院遊学時代」と回想したように、2年間の家政学院での学生生活を満喫した。ふみ子は麹町にあった中原淳一関連のグッズ販売店「ひまわり」に通いつめ、洋服やレターセットなどを買っていた。そして級友と共にトランプやハイキングに興じ、喫茶店やレストランへ行き、映画や芝居を観覧し、買い物、そしてダンスを楽しんだ。ふみ子の人生はその後、様々な試練、苦闘に見舞われることになるが。自分らしい生き方を貫くことを求め、女性であることを誇りに思う心性を持ち続けた。 -1984年のロサンゼルス大会は画期的な大会で、大会組織委員長に就任したピーター・ユベロスの指揮のもとオリンピックをショービジネス化し、結果として2億1500万ドルの黒字を計上した。スポンサーを「一業種一社」に絞ることにより、スポンサー料を吊り上げ聖火リレー走者からも参加費を徴収することなどにより黒字化を達成したのである。その後「オリンピックは儲かる」との認識が広まり立候補都市が激増し、各国のオリンピック委員会とスポーツ業界の競技レベル・政治力・経済力などが問われる総力戦の様相を呈するようになり、誘致運動だけですら途方もない金銭が投入されるようになってゆく。1989年12月のマルタ会談を以て冷戦が終結してからオリンピックへの冷戦の影響は減り、共産圏と旧共産圏のステート・アマも減ったがその反面ドーピングの問題や過度の招致合戦によるIOC委員に対する接待や賄賂など、オリンピックに内外で関与する人物・組織の倫理面にまつわる問題が度々表面化するようになった。招致活動や関連団体への政治家の参入も増えている。北京大会(+約10億元)やロンドン大会(+約3000万ポンド)は、黒字となり商業的には成功した。一方でIOC加盟、非加盟にかかわらず、ほとんどの国際競技連盟主催の大会で会場広告は許されておりパラリンピックでも許されるようになったが、オリンピックではかたくなに禁止されている。広告収入がないだけでなく、オリンピック開催時の会場常設広告費の補償や撤去費、復元費は開催都市の負担を増している。 -PFI導入前に比べて開館時間が長くなっただけでなく、年間開館日数が1割増加した。夜間時間帯(19時〜21時)の貸出利用者は半年に25,000人から35,000人と波があるものの、入館者数の増加へ確実に貢献している。これにより入館者数も増加し、1日平均2,114人が入館している。 -19日午前9時28分、エディンバラ着。公立慈善病院や王立高等学校を訪れた。王立高等学校でも名誉法学博士の称号を受けるなど歓迎された(20日)。裕仁親王は挨拶の最後に「もし校則が許すなら、今日の記念として次の月曜日(23日)を休校にして生徒達を喜ばせてほしい」と付け加え、校長が承諾すると、生徒達は帽子をとばすなどして歓呼の声を上げた。その後、エディンバラ大学においても名誉法学博士号が贈られる。5月21日、エディンバラ市でボーイスカウトの集会に参加した後、裕仁親王らはパース駅に向かった。パース駅ではアソール公爵が私兵や市民を動員して歓迎式典を行った。裕仁親王はパース駅からアソール公が保有するブレア城まで自動車で向かったが、村人の相次ぐ歓迎によって30マイル進むのに3時間もかか���た。裕仁親王の寝室にブレア城の「赤の間」が用意され、アソール公爵家の領地でとれた産品が振る舞われた。5月23日に行われた別離の舞踏会は領内の村人達が普段着姿で参加し、公爵夫妻とステップを踏むという牧歌的なものであった。宴の最後には一同でスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(蛍の光)が歌われた。裕仁親王はアソール公爵家と領民の関係に強い印象を受け、二荒芳徳伯爵を通じて「時事新報」の後藤武男記者に次のような談話を伝えた。「私は今度の旅で、非常に感銘をうけたものが多かった。アソール公爵夫妻は実に立派な方々で...(中略)私は日本の華族や富豪たちが、アソール公爵のやり方をまねたならば、日本には過激思想などおこらないと思う。私のこの感想は、新聞電報でうってもかまいません。」。 -地球の形や大きさは、その使用目的によって必ずしも一意ではない。測量や地図を作成するときの基準(これを測地系と呼ぶ。)としての地球を考えるとき、回転楕円体を想定する。この回転楕円体を特に地球楕円体という。様々な地球楕円体のうち、個々の測地系が準拠すべき地球楕円体を特に準拠楕円体と呼ぶ。日本だけでなく国際的にもっともよく使われている準拠楕円体はGRS80楕円体と呼ばれているものであり、したがって地球の形・大きさとして最もよく引用されている。このGRS80の定義によれば、地球は赤道半径が正確に6378137m、扁平率が正確に1/298.257222101の回転楕円体である。極半径は約6356752.314m(GRS80地球楕円体の定義からの誘導値)である。赤道半径のほうが極半径よりも約21384.686m大きい。 -1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた。 -ナポレオン3世(NapoléonIII,1808年4月20日-1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年-1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝である(在位:1852年-1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(CharlesLouis-NapoléonBonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る以前については一般にルイ・ナポレオンと呼ばれている。 -作家の息子としてロンドンに生まれる。イタリアからの移民のセファルディム系ユダヤ人の家系だった。13歳の時にイングランド国教会に改宗した。15歳の時に学校を退学になり、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし事務所の業務に関心が持てず、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出すも失敗して破産した。さらに処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ』を出版して評判になるも激しい批判を集めた。その後しばらく南欧や近東を旅行したが、1832年にイギリスへ帰国。帰国後も小説を執筆する一方でしばしば庶民院議員選挙に出馬するようになり、四度の落選を経て、1837年の解散総選挙(英語版)で初当選を果たす。保守党に所属していたが、サー・ロバート・ピール准男爵内閣に入閣できなかったことに反発して、党内反執行部小グループ「ヤング・イングランド(英語版)」を結成・主導、また小説『カニングスビー(英語版)』や『シビル(英語版)』を執筆してピール批判を行った。1846年にピールが穀物法を廃止して穀物自由貿易を行おうとすると、その反対運動を主導してピール内閣倒閣と保守党分裂をもたらした。党分裂で党幹部が軒並みピール派へ移ったことで党内の有力者として台頭するようになり、1849年からは実質的な保守党庶民院院内総務(英語版)となり(1851年に正式に就任)。1852年2月に保守党党首ダービー伯爵の内閣が誕生すると、その大蔵大臣に任じられ���。その後も1858年(第二次ダービー伯爵内閣)、1866年~1868年(第三次ダービー伯爵内閣)とダービー伯爵内閣が誕生するたびに大蔵大臣に任じられた。いずれも少数与党政権なので、出来たことは多くなかったが、第三次ダービー伯爵内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、自由党急進派に譲歩に譲歩を重ねた結果、第二次選挙法改正を達成した。 -転機は1891年秋に、彼女にとって決して幸福ではない形で訪れた。結婚は認められなかったが、カジュミェシュ・ゾラフスキとマリは連絡を取り合っていた。そして9月、2人はザコパネで避暑の旅行を共にした。もうすぐ24歳になるマリは膠着した人生に変化を期待したが、彼は優柔不断で何も決断できずにいた。そのため2人は喧嘩別れしてしまい、マリは自らフランス行きを決意した。一方のカジュミェシュ・ゾラフスキは、博士号取得後に数学者としての履歴を積み、またヤギェウォ大学の学長、ワルシャワ教育庁の長官まで上り詰めた。だが晩年には、1935年に建てられたマリ・キュリーの銅像の前に座り込んで何かの想いにふける、ワルシャワ工科大学の老教授となった彼の姿が見られたという。 -写真をはじめ、清兵衛の道楽は桁外れで、その豪遊ぶりから「今紀文」や「写真大尽」などと呼ばれた。たとえば、大日本写真品評会会長の徳川篤敬の日清戦争凱旋を祝うために、列車を1両買い取って座敷列車に仕立て直し、ぽん太ら芸者や芸人を多数連れて京都へ漫遊したこともあり、当時の取巻きの一人だった三遊亭円右はこのときの模様を「鹿嶋大尽栄華噺し」として高座の1つ話にしていた。1896年(明治29年)には、鴎外がのちに小説にした「百物語」を隅田川船上で開催している。 -ニコライの誕生後、3人の弟としてアレクサンドル(夭折)、ゲオルギー、ミハイル、また2人の妹としてクセニアとオリガが生まれている。 -1822年、オスマン帝国からの要請によりギリシャ独立戦争に参戦した。もともとムハンマド・アリーは、カイロやアレクサンドリアで革命組織が結成されアレクサンドリアから義勇兵が出港するのを黙認するなど反乱に厳しく対処していたわけではなかったが、アラビア遠征に続きオスマン帝国の「積極的で従順な奉仕者たることを強いられ」る恰好となった。 -遠軽の人々は、石北線工事が延期されれば、自分たちはいつまでも貧しい生活を強いられ続けるとして、この延期案を地方の発展を侵害する重大な問題と捉えた。そして国会に行って直訴すべく、陳情団の結成を決意した。上京資金は全額を会費で賄うことはできず、1人あたり50円が自己負担となり、それを払う勇気を持つ者が、有志として上京することになった。当時の50円は小学校教員の初任給に匹敵する大金であり、一家庭からの捻出は決して容易ではなかった。それでもこの一大事に対し、遠軽、丸瀬布、白滝の各村から52名もの有志が、自発的に参加を名乗り出た。団長には、当時42歳の市原が任じられた。 -1954年11月3日、特撮映画製作を熱望していたスタッフが、当時社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作した、第1作“水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が公開される。身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。映画評論家の樋口尚文は、本作の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくというレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる』(1953年)に大きな影響を受けている。観客動員数は961万人を記録した。この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の1955年に公開された第2作『ゴジラの逆襲』では「怪獣同士の対決」が初めて描かれた。この後しばらく東宝はゴジラ以外の怪獣・特撮映画を作っておりゴジラシリーズの新作の企画は無かった。7年後の1962年に公開されたシリーズ第3作『キングコング対ゴジラ』は、当初の企画はアメリカでキングコング(1933)のウィリス・オブライエンがキングコング映画の新作として「キングコング対フランケンシュタイン」として企画していたものである。だが、この企画はアメリカでは資金調達が出来ず、オブライエンも企画から外されたものが回り回って東宝に売り込まれた。それまで東宝にはゴジラ映画の新作の予定はなかったが、東宝側は「キングコングと怪獣を闘わせるなら相手はゴジラしかないだろう」として、これを契約。「キングコング対ゴジラ」となった。これが国内で初めての怪獣対決映画となる。「キングコング対ゴジラ」は、当時の歴代邦画観客動員数第2位の記録となる1255万人を動員した。アメリカなど日本国外でも上映され、大ヒットとなる。以降、日本国外で好調なセールスを買われた昭和ゴジラシリーズは、外貨獲得の手段として1960年代には矢継ぎ早に新作が製作された。 -ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これを阻止すべく、欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし(ウクライナ大飢饉)、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務省人民委員部(NKVD)と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばし、これを食い止めようとする各国の右派からファシズムが生み出されることになった。 -ルーヴル美術館は、フランス王フィリップ2世が12世紀に、もともとは要塞として建設したルーヴル城に収容されている。現在の建物にも要塞として使用されていた当時の面影が一部残っているが、幾度となく増改築が繰り返されて、現在のルーヴル宮殿の建物となっている。フランソワ1世の改築計画以来、歴代フランス王の王宮として使用されていたルーヴル宮殿だったが、1682年にフランス王ルイ14世が、自身の王宮にヴェルサイユ宮殿を選び、ルーヴル宮殿の主たる役割は、1692年以来収集されてきた古代彫刻などの王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となった。1692年にはルーヴル宮殿に、フランス学士院碑文・美文アカデミーと王立絵画彫刻アカデミーが収容され、1699年に最初のサロンが開催されている。アカデミーはその後100年にわたってルーヴル宮殿に設置されていた。そして、フランス革命下の憲法制定国民議会で、ルーヴル宮殿をフランスが保有する優れた美術品を展示する美術館として使用することが決定された。 -しかし、1541年7月4日、フランス駐オスマン大使のアントワーヌ・ド・リンコンがパヴィアを通過中、帝国軍に殺された。フランソワの抗議に対し、カールは責任を否定し、教皇の助けを借りて調査することを約束した。カールは北アフリカ遠征の計画を立てていたため、これ以上ヨーロッパでの争いに巻き込まれたくなかった。 -リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックは1941年4月24日、ニューヨーク市マンハッタンで、医師のダン・ホルブルックとその妻で陶芸家のトゥルーディ・ケアルの間に2人兄弟の長男として生まれた。両親は共にユダヤ人移民であり、父親のダンはワルシャワでロシア系ユダヤ人の両親のもとに生まれ、1930年代にアメリカへ移民した際に「ホルブルック」の姓を名乗るようになった。また、母のトゥルーディは元々ハンブルク在住だったが、1933年にブエノスアイレスに一家で亡命し、その後ニューヨークへやって来た人物である。彼らはユダヤ人ではあったが、無神論者だったためリチャードにユダヤ式の教育��施すことはせず、母のトゥルーディは毎週日曜日にはクエーカー教徒の集会に彼を連れて行ったという。15歳の時、父・ダンが癌のために死去したが学業を続け、スカースデール公立高校を卒業後、奨学金を得てブラウン大学に入学、1962年に学士号を取得・卒業した。スカースデール高校時代には、学内新聞『マルーン』のスポーツ欄の編集を担当していたという。この時『マルーン』の編集長を務めていたのがディーン・ラスクの息子であるデイヴィッド・ラスクであり、なおかつホルブルックはデイヴィッドと親友であったことから、これが縁で彼の父親とも知り合うこととなった。ディーン・ラスクはその後ジョン・F・ケネディ政権とジョンソン政権で国務長官を務めることになるが、彼はホルブルックの将来に大きな影響を与えることとなった。 -永久ラント平和令により、大衆を直接支配し、税を徴収したり徴兵を行ったりするのは領邦(世俗諸侯である領邦君主や聖界諸侯である大司教など)や帝国自由都市が担うことになった。この意味で、帝国の直属下にあるのは領邦であり、大衆は間接的な臣民ということになった。この制度が出来上がるまでには有力な諸侯の意向が働いており、大諸侯ほど有利に領邦国家を形成していったのに対し、中小諸侯の力は弱められていった。とりわけ下級貴族である騎士層の身分の取り扱いはあいまいで、彼らは「帝国騎士」と位置づけられて帝国直属ではあるようだったが、きちんと定められていなかった。彼らは帝国直属の身分であるにも関わらず、帝国議会の票決権も有していなかった。オーベルラインと呼ばれるライン川の上流域、すなわちドイツの南西部は、とりわけこうした帝国騎士や小領邦が多かった。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -図書館の建設工事は1991年9月20日に始まり、1992年12月12日に完成した。総工費は7億8280万円、備品費は3850万円であった。1993年(平成5年)に久居市図書館(愛称は「久居市ふるさと文学館」)が開館した。図書館は独立した建物で、鉄筋コンクリート構造3階建てである。開架室は機能重視のワンフロアで奇をてらわずにシンプルな構造であった。また車椅子でも利用しやすい間隔が広く背の低い書架を採用し、視覚障害者誘導用ブロック(点字ブロック)や多機能トイレの設置など、障害のある人にも利用しやすい施設として整備された。図書館の開館と同時に公民館図書室は閉鎖された。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -この森林衰退の要因の一つとして考えられているのが、首都圏から風に乗って流れてくる大気汚染物質、およびそれ由来の酸性雨・酸性霧である。丹沢山地は東京都心から最も近い山地のひとつであり、檜洞丸は京浜工業地帯から50kmほどしか離れていない場所に位置していることから、風向きによっては汚染大気濃度が高い状態のまま流れてくる。過去の上空大気や降雨などの調査では硫黄酸化物(SOx)や窒素酸化物(NOx)、オゾン(O3)などが首都圏から丹沢山地へ移入していることが明らかになっている。近年では大気汚染物質のうち、オゾンによる影響が大きいと考えられている。なお、このオゾンとは地表近くに影響を与える「対流圏オゾン」と呼ばれるものであり、生物に有害な宇宙からの紫外線を遮断するオゾン層(成層圏オゾン)とは異なるものである。 -さらに、ドイツ統一に燃えるプロイセン王国首相のビスマルクの罠にかかり、1866年の普墺戦争では、消極的な自軍指揮官に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。このような対外的な動きに押される形で、国内では1861年、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。 -第二次世界大戦後、生前のセルゲイ・エイゼンシュテインと親友だったことなどから、当時吹き荒れていたジョセフ・マッカーシーの「マッカーシズム(赤狩り)」の嵐に巻き込まれる。彼は公聴会に出頭し、「(冷戦前の)ソ連に『三匹の子ぶた』(1933年)を売ったことがある。非常に好評だった」と証言している。最終的には無実とされた。この様な形で赤狩りにこそ巻き込まれたが、戦時中や冷戦中、自らが版権を持つキャラクターを軍や政府に無償で提供したり、自社の労働組合と激しく対立していた事から、当人はむしろ熱烈な保守派、右派、反共主義者と考えられている。マッカーシーの赤狩りでは、チャーリー・チャップリン、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラーらも対象となった。委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者(ハリウッド・テン)は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された(ハリウッド・ブラックリスト)。グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)、キャサリン・ヘプバーンらは赤狩りに対する反対運動を行った。グレゴリー・ペックは、リベラルの代表格だった。一方でウォルト・ディズニーとともに、政治家のリチャード・ニクソンや、ロナルド・レーガン(B級俳優)、ゲイリー・クーパー、ロバート・テイラー、エリア・カザンらは告発者として協力した。この様な指摘に関連して、『闇の王子ディズニー』を��したマーク・エリオットは、「赤狩りの時代に、ウォルトはハリウッド内の映画人達の思想についてFBIへの熱心な密告者であった」と指摘している他、ディズニーランドのモノレールの開通時に、アナハイムの近隣のヨーバリンダ出身で、赤狩り時代にマッカーシーに近い反共主義者で知られた共和党選出のリチャード・ニクソン元副大統領(後に大統領)を招待している。なお、7年に及ぶ調査とディズニー社の事前チェック無しに出版されたゲイブラーの執筆による伝記、「WaltDisney」(邦題:創造の狂気)の中では、大戦中のプロパガンダへの協力姿勢は、当時、労働組合との争いや大戦による海外市場の縮小により、経営が圧迫されていたスタジオの生き残りのための方策の一環であったこと、彼にとっても政府への協力には意義を見出していなかったことが記述されている。同時に、戦後の赤狩り時代、彼の反共的な姿勢は、労働組合によりスタジオが壊滅的打撃を受けたことにたいする嫌悪感であったことを指摘している。ともあれ、ウォルトは最晩年の1964年には、右派の共和党員として、大統領選に出馬したタカ派のバリー・ゴールドウォーターを熱心に支持していた。 -古代のセコイアデンドロン(ジャイアントセコイア)の林が、マリポサ・グローブ(200本)、トゥオルミ・グローブ(25本)、マーセド・グローブ(20本)の3か所ある。セコイアデンドロンは、他のどんな木よりも巨大に成長する植物で、体積でも寿命でも際立っている。最後の氷期が始まる前には、今よりずっと広範囲に生えていた。 -『恋人たちのクリスマス』(こいびとたちのクリスマス、英:AllIWantforChristmasIsYou)は、マライア・キャリーが1994年に発表したクリスマスソングである。原題は「クリスマスに欲しいのはあなただけ」という意味である。この曲はシンガーソングライターであるキャリーとウォルター・アファナシェフの共筆で書かれ、キャリーにとって4枚目のスタジオアルバムかつ初めてのホリデーアルバムである『メリー・クリスマス』(1994年)のリード・シングルとして、1994年11月1日にコロムビア・レコードから発売された。曲はアップテンポのラブソングで、ベル・チャイムやバック・コーラス、シンセサイザーなどが使われている。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -484年、ペーローズ1世がバルフ近郊におけるエフタル軍との戦いに敗れて戦死した。軍隊は完全に打ち破られ、ペーローズ1世の遺体は発見されなかった。また、ペーローズ1世の息子と兄弟のうち四人が共に命を落とした。戦後、サーサーン朝の東方に位置するホラーサーンの主要都市であるニーシャープール、ヘラートおよびメルヴがエフタルの支配下に置かれることになった。 -犬小屋(いぬごや)は、江戸幕府が設置した犬を収容する施設のことである。生類憐みに関する法令が出された5代将軍徳川綱吉政権期に設けられた。「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれ、特に中野に造られた犬小屋は「中野御用御屋敷」とも呼ばれた。犬小屋に収容された犬や、村預���された犬は、当時の史料・記録に「御犬(おいぬ)」と記されており、野犬か飼犬かを問わず、犬小屋に収容されたことで幕府管理の犬となり、将軍の権威を帯びた「御犬」となった。 -1969年(昭和34年)には静岡市初の公立図書館として、追手町に静岡市立図書館が開館した。静岡市立図書館の老朽化にともなって、1984年(昭和59年)には城北地区の大岩本町に静岡市立中央図書館が開館。これによって中心市街地から図書館がなくなったため、1986年(昭和61年)には静岡市役所新庁舎3階のワンフロアに静岡市立追手町図書館が開館した。その立地から行政資料コーナーの存在が特色であり、静岡市役所総務課市史編纂室が所管していた自治体市史類を引き継いでいる。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -サルーム・デルタの生態系はマングローブ林の生態系、大西洋沿岸の海洋生態系、乾燥帯の森林などの生態系に大別できる。マングローブ林は約6万haから8万haほどになると見積もられており、それを構成する木々は主にアメリカヒルギ、カズザキヒルギ(Rhizophoraracemosa)、ハリソンヒルギ(Rhizophoraharisonii)、アフリカヒルギダマシ(Avicenniaafricana)などである。モーリタニアのバン・ダルガン国立公園にヒルギダマシの小群生地などはあるものの、サルーム・デルタは西アフリカにおいては最も北でマングローブがまとまって繁茂する地域となっている。しかし、先述の河川の塩分濃度の上昇は、ヒルギダマシよりも相対的に塩分に弱いヒルギ科のマングローブ林の減少につながっている。マングローブ林の減少には、ギニア人の商人の進出でエトマローズの燻製加工業が盛んになり、その薪として伐採されることが増えたことも一因として挙げられる。1980年以降に失われたマングローブ林はかつての面積の3分の1にも及ぶといわれるが、それでも2011年の時点では、セネガル国内では最大のマングローブ林を抱えている地域である。乾燥帯の森林においては、セネガル国内の植生の約20%にあたる植物を見ることができる。 -1443年、オスマン帝国の慣習に従ってメフメトはマニサに知事として赴任し、神学者グラニの元で勉学に励む。 -『天色*アイルノーツ』の主人公・鷺ノ森透は、とある事件から教師を続ける自信を失っていたが、恩師から誘いを受けてライゼルグにあるフェン・シクリッド女学院で教師として働き始める。透はエルフやセリアンスロープが住むライゼルグで、6人の女性——優等生で同人活動を行うシャーリィ・ウォリック、献身的な留学生の天霧夕音、再会した従妹で留学生の白鹿愛莉、セリア���スロープかつ酒場の看板娘である真咲・ガイヤール、透の同僚教師でエルフのティア・ホーエンヴェルフェン、記憶喪失の少女である火宮木乃香——と出会う。透は教師生活を送りながら、やがてある女性と親密な仲になっていく。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -貴重書として、信藤家大庄屋文書9,214点と箕浦家文書55点を所有する。「信藤家大庄屋文書」は久居藩統治下の本村組で大庄屋を務めた信藤家の11代目から寄贈された文書群で、ほとんどが江戸時代から明治時代の庄屋関係の資料である。久居藩の藩政期の様子が分かるほぼ唯一の資料群として貴重であり、詩文学者に関する資料も少量含まれる。「箕浦家文書」は久居藩家老の箕浦家の子孫から寄贈されたもので、久居城内の図を含む文書群である。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった�� -佐々たちは沢田古老の案内で、以前に「ほっぱん」に罹ったという伊田地区内の女性を訪ねた。1942年の堤防工事で罹患した3名の女性のうち、たった1人助かった女性である。刺し口の痕を調べると彼女のへそには明らかな「刺し口」の痕跡が残っていた。もう1人は「沢田メモ」には記載されていない事例であったが、15歳の少年が3年ほど前に罹患し助かったケースである。調べてみると彼の左腋近くの胸部付近に見事な痕跡が残っていた。ここまでの臨床所見があればツツガムシ病にまず間違いないと考えられるが、研究者としては確実なデータを確保する必要があった。ツツガムシ病の存在を証明するためには、1.生存者の血清からツツガムシ病の抗体を確認すること、2.地区内でツツガムシが生息するのを確認し、かつそのツツガムシの個体がリケッチアを保有していること、この2点の確認が必要であった。 -ポターは幼いころから自分の部屋でペットを飼い、動物たちを観察しスケッチに残してきた。時には死んだ動物を解剖したり剥製にして骨格を観察することすらあった。博物館に行き化石のスケッチも多く残したが、ポターが特に興味を惹かれたのは菌類、キノコであった。当時のイギリスでは各家庭に顕微鏡が存在するほど、一般市民の間で博物学の大流行が起きていた。女性の高等教育はまだ一般的ではなく、ようやくその必要性が認められはじめた時代であったが、女性がキノコの観察やスケッチを行うのはそれほど珍しいことではなかった。ポターはキノコの精緻なスケッチを描き続け、叔父にあたる化学者ヘンリー・ロスコーの計らいにより、ついにはキュー王立植物園で自由に観察・研究できるようになった。他の研究者もポターを歓迎していたが、ポターが胞子の培養に成功すると態度は突然冷たくなっていった。アマチュアとしての研究ならば女性であっても認められていたが、大多数の専門家はポターのようなアマチュア研究者が自分たちの領域に入り込むことを疎ましく思っていた。王立植物園から疎外されたポターは、ロスコーの勧めもあって1897年に「ハラタケ属の胞子発生について―ミス・ヘレン・B・ポター」と題した論文をロンドン・リンネ学会に提出した。しかし女性が学会に参加することは認められず、論文は植物園副園長が代理で読み上げた。一説にはタイトルだけしか読み上げられなかったともいわれている。ポターは日記にその無念さを書き残している。ポターはその後もキノコの研究を続けたが、やがて研究からは遠ざかっていった。『ピーターラビットの野帳』の著者、アン・スチーブンソン・ホッブスは1900年以降にはキノコがスケッチにほとんど登場していないと指摘している。もし、こうした事件が起こらなければポターは研究者として名を残したかもしれず、ピーターラビットも生まれなかったという者もいる。彼女が残した絵は、死後の1967年に発行された『路傍と森林の菌類(WaysideandwoodlandFungi)』に挿画として使われている。1997年の4月にリンネ学会は、性差別があったことを公式に謝罪した。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -1998年にトライスター・ピクチャーズ提供による『GODZILLA』が公開された。興行面では世界的に成功を収めたものの、軽快な作風のモンスタームービーに仕上げられた作品は従来のゴジラ像の乖離から酷評が相次いだうえ、第19回ゴールデンラズベリー賞で最低リメイク賞、最低助演女優賞を受賞した。関連グッズ売上の低調もありシリーズ化には至らなかった。 -ピュー(Pyu)とは、かつてミャンマー(ビルマ)のエーヤワディー川流域に居住していた民族集団である。 -漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字など言葉遊びの多用が見られる。漱石以前に使った形跡が見られない造単語や一般的に使われている漢字とは異なる別種の綴りがある。現在、下記の「浪漫」「沢山」のように一般用語化されたものも多いが、漢字検定の上級問題として用いられることも多い。「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもあると言われている。しかし、漱石が生きた時代は現在では使われない当て字が多く用いられており、たとえば「バケツ」を「馬尻」と書くのも当時としてはごく一般的であり、「単簡」などは当時の軍隊用語であるなど、漱石固有の当て字や言葉遊びであるということは、漱石以前の全ての資料を確認しない限り、確定はできない。「新陳代謝」「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩が凝る」などは漱石の造語であると言われているが、実際には漱石よりも古い用例がある。一例としては、漱石が「肩が凝る」という言葉を作ったとする説があるが、18世紀末頃(江戸時代後期)からの歌舞伎、滑稽本に用例が見られる。学術的に「漱石の造語」であると言える言葉はまだ一語も確認されていないが、「浪漫」については『教育と文芸』中に「適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きました」との記述がある。 -3月に行われた第7回党大会では、党の綱領を立憲君主制から民主共和制に変更することが決定された。その一方で、党の幹部ココシキンが「われわれは、いつも市民的権利と国民の平等の原則の不可侵を擁護してきたし、今後もかわらず擁護するだろう」と演説し、自由と平等の擁護、国民主権の原則、社会的公正の実現といった党の目標は不変であることを確認した。また、同大会では、ココシキンの報告に基づいて、現在の臨時政府はあくまで暫定政権にすぎず、できるかぎり早い時期に憲法制定会議(英語版、ロシア語版)を召集して新たな国家体制を決定するべきだという原則が決議された。しかし、4月、ミリュコーフが外相として戦争継続を約束する外交文書「ミリュコーフ通牒」を作成すると、これがペトログラード・ソビエトの反発を招き、さらに兵士たちの抗議デモを引き起こす事態となった。カ��ットの中央委員会も対抗して「ミリュコーフ信任」および「臨時政府万歳」と主張するデモを組織したものの、結局この政府危機「4月危機」によってミリュコーフは辞任を余儀なくされた。 -中世ヨーロッパではアジアを横断して運ばれてくるルバーブは高価であり、シナモンやアヘン、サフランのような高価なハーブやスパイスと比べても数倍の値が付いた。商人にして冒険家のマルコ・ポーロはルバーブの生産地を探し求め、タングート人が住む土地の山間部で栽培されていることを発見した。ティムールの治世に1403年から1405年までサマルカンドで大使を務めたルイ・ゴンザレス・デ・クラビホは、報告書の中でルバーブの価値を「サマルカンドに集まるあらゆる商品の中でも最上のものは中国から来ていた。とりわけ絹、サテン、麝香、ルビー、ダイヤモンド、真珠、そしてルバーブ」と伝えている。 -柳窪には屋敷林に囲まれた江戸時代末期から明治初期の大型民家5軒と明治中期から昭和初期の中規模の伝統的な民家8軒が残っている。また、養蚕による生糸の輸出で栄えた時代の建物もいくつか現存し、実用されている。旧集落内には土蔵が21棟建っている。白壁の土蔵が20棟、外壁に大谷石が積まれている土蔵が1棟で、農村風景の歴史的な環境が維持されている中で、この地区の景観の重要な要素となっている。 -シェトランド諸島の地質は全く異なっている。数多くの断層と褶曲軸が入り乱れ、非常に複雑である。この島々はカレドニア造山運動の北端であり、ルイシアン複合岩帯やダルリアダンおよびモイン累層群の露頭もあり、スコットランド本土の岩石と同様の歴史を受けて生きていることがわかる。さらに小規模な旧赤色砂岩の堆積と、貫入花崗岩がある。最も独自性の高い特徴は、超塩基性オフィオライトや橄欖岩、斑糲岩で、アンスト島とフェトラー島で見ることができる。こういった岩石はイアペトゥス海の海底の名残である。シェトランド諸島の経済はその多くが周辺海域の堆積岩内の石油に依存している。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これを阻止すべく、欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし(ウクライナ大飢饉)、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務省人民委員部(NKVD)と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばし、これを食い止めようとする各国の右派からファシズムが生み出されることになった。 -桜町(さくらまち)は香良洲町西部に位置し、桑畑や荒れ地を開拓して造られた三重海軍航空隊下士官住宅地を起源とする。津市立香海(こうかい)中学校がある。郵便番号は514-0325。 -139年、ローマの地理学者プトレマイオスはクーノイ族(ΧοῦνοιまたはΧουνοἰ)がスニ(Suni)の統治下にあるポントス地方のバスタルン族とロクソラン族の間に住んでいると述べている。彼は2世紀の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国がしばしば「クーノイ」(Χοῦνοι)または「ウーノイ」(Ουννοι)と書いており、東ローマ帝国では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」(Χοῦνοι)と「ウーノイ」(Ουννοι)の類似は偶然である可能性もある。5世紀のアルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツは「アルメニア史」でサルマタイ族の近くに住むフン族について紹介し、194年から214年の間の何れかに起きたフン族によるバルフ攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(Hunuk)と呼ぶ理由を説明している。 -バーレーンにおける真珠採取の歴史は、かつてバーレーン一帯に栄えたディルムンに遡る。ディルムンはメソポタミアとメルーハ(モヘンジョ・ダロ周辺)を結び付けていた中継貿易地であった。一説にはギルガメシュ叙事詩で英雄ギルガメシュが海底に潜って「不老不死の花」を手に入れる話が、ディルムンの真珠採取をモデルにしているという説もあるものの、より直接的にディルムンと真珠の関連性を窺わせる最古の言及は、紀元前2000年頃のアッシリア語碑文である。その碑文は、ディルムンの貿易品目として「魚の目」について触れている。この「魚の目」は珊瑚、ラピスラズリなどの宝飾品類とともに言及されており、真珠のことでないかと考えられている。ディルムン文明の発見者であるジェフリー・ビビーは、その数量の記録が他の多くの貿易品と異なり、容積や重量でまとめるのではなく、1個、2個という単位で記録されていることからも、それが高価な品目であったと推測していた。ディルムン文明のものと考えられる墳墓の中には、副葬品として真珠が見つかる例もある。 -さらに、この路線では他社との競争以上に重要な事実が判明した。サウスウエスト航空が就航する直前の1974年、リオグランデバレーとダラス・ヒューストン・サンアントニオの3都市間を移動する旅客数は年間12万3000人程度であった。ところが、サウスウエスト航空が就航した1975年の同区間の旅客数は32万5000人にも及んだのだ。これまで飛行機を利用していなかった利用者層が、サウスウエスト航空の低運賃によって、飛行機を利用するようになったのである。サウスウエスト航空の基本戦略である「低運賃で頻繁に運航する」という方針が正しかったことが証明され、その後次々とテキサス州への各都市へ路線を開設することになる。数年後には州内10都市を結ぶ航空会社となっていた。なお、合衆国政府は1975年2月14日に、ライバル航空会社のブラニフ航空とテキサスインターナショナル航空が共謀してサウスウエスト航空を廃業に追い込もうと、サウスウエスト航空の投資銀行や仕入先に対して圧力をかけていることなど、シャーマン法に違反した行為を行っているとして起訴した。2社はともに反論しなかったため、罰金として10万ドルを課せられている。 -『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。『書紀』は続けて、馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあたる。しかし、後述のように、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立が発願されたのはそれから9年後の推古天皇13年(605年)、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったということになる。この点については研究者によってさまざまな解釈がある。毛利久は、現存の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、推古天皇4年に渡来系の工人によって造立されたもので、推古天皇13年から造られ始めたのは東金堂と中金堂の本尊であったとする、二期造営説を唱えた。これとは別に、久野健、松木裕美らが唱えた本尊交代説もある。すなわち、蘇我馬子が所持していた弥勒石像が当初の中金堂本尊であったが、後に鞍作止利作の釈迦三尊像が本尊になったとする。この弥勒石像は敏達天皇13年(584年)鹿深臣(かふかのおみ)が百済から将来し、馬子が「宅の東の仏殿」に安置礼拝していたものである。久野説では、飛鳥寺中金堂跡に現存する本尊台座が石造であり、この台座が創建時から動いていないことから、その上に安置されていた仏像も石造であったと推定する。これに対し、町田甲一、大橋一章らは一期造営説を取り、中金堂本尊は交代していないとの立場を取る。この説では、推古天皇4年の「法興寺を造り竟りぬ」は、『書紀』編者が塔の完成を寺全体の完成と誤認したものとみなし、寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔がまず完成し、他の堂宇は長い年月をかけて徐々に完成したとみる。今日では、この説が有力となっている。 -血友病を治癒したことで、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと考えていた。侍医のエフゲニー・ボトキンとウラジーミル・デレヴェンコはラスプーチンの能力は催眠術だと信じており彼を皇帝一家から遠ざけようとし、フェリックス・ユスポフはピョートル・バドマエフから入手したチベット・ハーブでアレクセイを薬漬けにしたと考えていた。しかし、ラスプーチンは1913年以前には催眠術に興味を抱いておらず、また、ユスポフの主張も現在では否定されている。1912年10月9日、皇帝一家はビャウォヴィエジャの森に狩猟に来ていたが、そこでアレクセイの病状が悪化した。皇帝一家はスピアに移り治療を行い、アレクサンドラはペテルブルクにいるラスプーチンに助言を求めた。翌10日、ラスプーチンは「小さな子が死ぬことはありません。しかし、私が治療するのを侍医たちが許さないでしょう」と記した手紙を送っている。ラスプーチンの助言通りにアレクセイは死ぬことはなかったが、病状が回復するのは1913年に入ってからだった。 -四侯会議序盤の議題は朝廷の人事で、当時欠員となっていた議奏の補充を巡り、親幕府派の二条摂政と久光との間に激論が交わされた。久光は以前から懇意の大原重徳・中御門経之を推したが、二条摂政は何かにつけて「先帝の叡慮(孝明天皇は尊王攘夷派の過激公卿を嫌っていた)」を持ち出して難色を示したため、久光が「それならば先帝の叡慮に従い、慶喜が要求する兵庫開港も断然拒否なさるか」と詰め寄り、二条が「暴論なるべし」と激怒し、久光も「暴論とはいかなる趣意か」と応ずる緊迫した場面となった。結局、議奏人事は押し切られ長谷信篤・正親町三条実愛が任じられることになった。 -飛騨市図書館では毎月第4土曜日の夜に「おとなの時間」と題した企画を行っている。2015年(平成27年)6月に始まったこの企画では過去に、「モンブラン→山岳本」などの「カフェ・ビブリオテーク」シリーズや「大人向け絵本の読み聞かせ」、「図書館ジャズライブ」、薬草を研究する「魔女の集い」などを開催し、20代から40代の若年者が読書に親しむ機会を提供することを目的としている。 -1994年にフランスでイミダクロプリドによる種子処理(種子のコーティング)が導入された後、ミツバチ大量死事件が発生。1999年1月にフランス政府はイミダクロプリドによるヒマワリ種子処理を全国的に一時停止し、調査に着手。2000年にはオランダがイミダクロプリドの開放系栽培での使用を禁止し、デンマークでもイミダクロプリドが販売禁止された。2002年にミツバチ全滅事件(蜂群崩壊症候群)発生。 -進化論裁判(しんかろんさいばん)とは、アメリカ合衆国で制定された、進化論を学校教育の場で教えることを制限する法律、いわゆる反進化論法に対する一連の裁判のことをいう。特に有名な裁判として1925年のスコープス裁判、1982年のアーカンソー州の授業時間均等法裁判などがある。また1982年の裁判に関わった科学者のひとりであるナイルズ・エルドリッジの著作物『TheMonkeyBusiness:AScientistLooksatCreationism』の邦題でもある。 -退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。 -1962年(昭和37年)福井に生まれ、小学生の時に千葉県千葉市村田町へ引っ越し、さらに中学になる頃に同県市原市八幡へ移り20歳頃までを過ごす。子供の頃から絵は得意で受賞などもしていたが、アニメや漫画にはさほど惹かれておらず、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズといった特撮ヒーロー物に夢中になっていた。中学時にV55(Technics)という50万円のコンポーネントステレオが欲しくて、当時50万円だった賞金目当てに手塚賞への応募を始める。最初の道具は手塚治虫の入門書を読んで小遣いで揃えた物だった。それまでは漫画家を目指していたわけでもない上に漫画もほとんど読んでおらず、当初は賞金だけが目的であった。目的のコンポは賞金を手に入れる前に買ってもらったが、漫画を描き続ける中で描く面白さを覚え、高校時には授業中にペン入れをするなどして漫画に没頭する。そして1980年(昭和55年)の高校卒業間際にフレッシュジャンプ賞に投稿した作品が選外ながらも編集者・鳥嶋和彦の目に止まり、また同時期に手塚賞に応募していた「ツバサ」が佳作に入選する。 -A330-200Fは、基本的にはA330-200と同じ機体フレームを用い、メインデッキ(機体上半分の客席を設ける部分)に貨物を搭載できるように大型の貨物扉の追加や床面の強化が行われたほか、旅客用設備が取り除かれた。また、ベースとなったA330-200では主脚より前脚が短く地上ではやや機首が下がった姿勢となっているが、メインデッキに貨物を搭載するA330-200Fでは前脚の取り付け位置を下げることで地上姿勢を修正された。このことにより、前脚の格納時に車輪や脚柱がはみ出してしまうため、それを収めるため機首部下面に張り出しが追加された。エンジンはR-R社のトレント700とP&W社のPW4000を装備する仕様がそれぞれ設定された。A330-200Fの初号機はPW4000エンジンを装備する機体で、2009年11月5日に初飛行して試験飛行を開始した。A330-200Fの2号機はトレント700エンジンを装備し、2010年1月20日に初飛行して試験飛行に投入された。約200時間の試験飛行の大半は初号機によって行われ、2010年4月9日に欧州航空安全機関(EASA)の型式証明を取得した。A330-200Fの引き渡しは、2009年後半に開始する予定だったが開発中にスケジュールが延び、その間に貨物市場の崩壊が発生していた。引き渡しの順番が入れ替わり、2010年8月9日、エティハド航空の航空貨物部門であるエティハド・クリスタル・カーゴ社に最初の納入が行われた。 -葵文庫は、「館内閲覧」「貸出」「巡回文庫」「講座」を事業の4本柱として活動を開始し、「公衆に図書を閲覧させること」を使命としていた。1930年(昭和5年)には、昭和天皇が葵文庫に行幸したが、これは、地方の公私立の図書館で初めてのことであった。1935年(昭和8年)の図書館令改正により、葵文庫が静岡県の中央図書館に指定される。これにより県内の図書館を指導する権限が付与され、運営や蔵書整理、講習会の開催などで町村図書館の指導育成を行った。 -シェトランド諸島は、寒い期間は長いが、あまり厳しくはならない冬、短くて冷涼な夏が特徴の海洋性亜寒帯気候である。周囲の海からの影響で、3月の最高気温は5°C、7月8月の最高気温は14°Cと、気候は一年中穏やかである。気温が21°Cを上回ることはまれである。過去に最も気温が高かったのは1991年7月の23.4°Cで、反対に最も低かったのは1952年と1959年の1月に記録した-8.9°Cである。霜のない期間は3ヶ月ほどと短い。気候の総合的な特徴は、曇りがちで風が強いことである。1年に250日間は少なくとも2mm以上の降雨がある。年間平均降雨量は、最も雨の多い11月から12月で1003mmである。降雪は通常11月から2月までの期間に限られており、地上に1日中雪が残っていることが少ない。降水量が50mm以下の月はないが、4月から8月は降水量が減少する。霧は、穏やかな南からの風で海上が冷やされるため、夏に発生するのが一般的である。高緯度にあるため、夏にはほぼ確定した日照がある一方、晴れた冬の夜にはオーロラが時々見られる。年間平均日照時間は1090時間で、曇りの日が一般的である。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -13世紀のレコンキスタの達成後、ポルトガル社会は封建領主が支配する北部地域、富を蓄えた自治都市のブルジョアジーが影響力を行使する中部地域、騎士修道会が支配する南部地域に三分される。1348年秋に流行した黒死病によってポルトガルの総人口は約3分の2に減少し、リ��ボン、コインブラなどの都市部は深刻な被害を受ける。黒死病は零細農民の都市部への流入と農村部の人口の減少、黒死病を恐れる貴族や地主による教会・修道院への土地の寄進などの現象を引き起こし、固定地代に依存していた貴族層の経済力は低下する。他方、一部の都市ブルジョアジーはワイン、オリーブオイルなどの輸出によって利益を得るようになり、ポルトガル王はリスボン商人を初めとする新興資産家を政治基盤に取り込むために頻繁にコルテス(身分制議会)を開催し、相対的に王権が強化されていった。 -しかし、カーゾン卿の統治政策の本性は、1904年のインド大学法と1905年のベンガル分割令によって、明らかとなった。インド大学法において、官吏の統制が強化され、インドにおける高等教育の発展が阻害された。ベンガル分割令において、ベンガルを二分し、ベンガル東部とアッサム地方でもって東ベンガル州を新設し、ベンガル西部とオリッサ州、ビハール州とを合わせて西ベンガル州を新設することで、それぞれの州の多数派をムスリムとヒンドゥーにしてしまうことで、ベンガルで盛り上がっていた反英運動を分断することにあった。ベンガル分割令は、1911年に撤回されるが、それは分割したベンガル州を再統一し、ベンガル、オリッサ、ビハール、アッサム各州に自治権を与えるという、いわば、ベンガル人に対して妥協がなされる形となった。 -特許の有効期限が切れた1800年、ワットは引退した。マシュー・ボールトンとの契約関係も終了したがこの協力関係は彼らの息子たちに引き継がれ、長年工場に勤める技術者ウィリアム・マードックの協力を得て会社は盛栄を維持した。ただし、ワットは完全に発明から手を引いた訳ではなく、望遠鏡を使った新しい距離計測法の開発や、石油ランプの改良や、蒸気式絞り器・彫刻複写機の開発などに取り組んだ。スタッフォードシャーのハンズワースにあった彼の家「ヒースフィールド」で、ワットは屋根裏部屋を工房にしてこのような発明に取り組んだ。ワットは2番目の妻とフランスやドイツ旅行も楽しみ、スランウルスル(ウェールズ中部の村)から1マイルのところにあった「ドルドウロッド・ハウス」という別荘を購入して大いに手を加えた。1819年8月25日、83歳の時に自宅で亡くなり、同年9月2日に埋葬された。 -1981年5月6日、榎本三恵子は初めてロッキード事件に関して検察側の事情聴取を受け、以後、証言台に立つ前日の10月27日まで9回にわたって呼び出される。最初の2回は三恵子は検察に対しては非協力的で、代理人を通して榎本側に「今、検事の取り調べを受けているが、そちらが誠意ある姿勢を示せば有利になるような返答をするが、さもなければ洗いざらい話してしまいます」と伝えている。その田中角栄に出した直訴状の返答待ちなので、田中側と不利な争いは避けたかったからだが、納得する返事がもらえなかったのと、検事から「田中角栄という人の功績なり努力は認めるが、やはりしてはいけないことはある。ここでハッキリと白黒つけないと司法というものは成り立たず、今後一切、政界には手が出せないという、何をしてもまかり通る世の中になってしまう」と言われ、大きく心変わりをした。そして次第に事件の核心にかかわる供述をし、必要とあらば法廷に出て証言してもいいのではと思い始める。その時に「榎本の家から何か証拠物件が出てきたのか?」という三恵子の問いに、検察からは何も出ないと言われると「私自身が罪に問われるかもしれないが、私が全て始末しました」と告白する。子供も榎本側にいるし元夫婦という立場を考えると、証人になってもらうのは忍びないという検察に「法廷に出させて下さい。決心した以上、不発にはしないで下さい」と自ら陳情する。ただし裁判では榎本止まりにして、田中先生にまで累が及ばないようにして欲しいというのが条件だった。政界やマスコミには次第に、検察はすごい隠し玉を持っているとの噂が流れ始め、その正体が榎本三恵子の証言ということが10月28日の法廷で明かされた。 -しかし、そのようなゲイバーにあっても、同性愛者らのナイトライフには不安が付き纏っていた。1960年代まで、ゲイバーが警察による��み込みを定期的に受けることは日常的な光景であったからである。もっとも、1960年代になると、予告なしの踏み込みは徐々に減り始めた。これは相次ぐ訴訟と差別撤廃運動(ホモファイル運動)の成果であった。それでもなお、1965年になるまで、警察は、時として捜索時に居合わせた者全員の個人情報を記録し、新聞で発表することもあった。キスや異性装、さらに手を握っていたことや、バーに居合わせただけですら、拘束の理由とされた。私服警察官がゲイに成りすましてゲイに近づき、法令違反行為を助長するような手法、即ち囮捜査が行われていた。 -1941年(昭和16年)に始まった宮下発電所建設事業は困難の連続であった。まず冬季の豪雪と夏季の豪雨が工事の進捗を阻み、続いて戦局悪化に伴う物資の欠乏で放流用のゲートの搬入もままならなかったばかりか、次第にダム建設のための物資も枯渇する有様となった。こうした状況にもかかわらず日本発送電の監督官庁であった軍需省電気局は1945年(昭和20年)までの完成を厳命しており、中国人労働者の強制労働などで工事を進め1944年(昭和19年)にはダム湖への湛水(たんすい)が開始された。だが完成予定の1945年日本は終戦を迎え、一時工事は中断する。しかし今度は戦後復興のための事業に変化し工事は再開され、物資と電力が極端に欠乏する中で1946年(昭和21年)に発電所第1号機が運転を開始、1万3800キロワットの電力を生み出すことができた。そして1949年(昭和24年)には当初の計画を半減し認可出力3万6000キロワットとして事業を完成させた。これは阿賀野川に建設されていた山郷発電所でも同様だった。 -A310の主翼は、7,000キロメートルの航続距離を無理なく実現しつつ、短距離路線での運航経済性を損なわない、という2つの要求を満たすように新たに設計された。翼型は、A300で採用されたリア・ローディング翼型を洗練させ、翼の後半で得られる揚力がさらに大きくなった。翼平面形については、A300の主翼と比べて大きなアスペクト比を持つ細長い翼となり、翼面積で16パーセントほど小型化された。。A300では、主翼の製造において複雑で大掛かりな外板の加工を避けるため、主翼の翼厚比を一定としたシンプルな形状を採用するとともに、外板を翼幅方向で2枚に分けて製造し、継ぎ手でつなぎ合わせていた。これに対してA310の主翼は、翼の付け根を厚く、翼端にいくほど薄くなるように翼厚比が変化する複雑な曲面をもつ設計となった。さらに、生産設備を改修して翼幅方向に継ぎ目のない外板の製造に踏み切り、主翼の構造重量の低減を図りつつ、主翼内に搭載できる燃料を増やした。高揚力装置の構成については、前縁はA300と変わらないが、後縁のフラップはA300よりも簡略化され、フラップを動作させるトラックレールのフェアリングもA300より1つ少なくなった。また、A300の主翼で設けられていた外翼部の低速用エルロンも廃止された。一方で、主翼動翼の操作系には電気的信号を介するいわゆるフライ・バイ・ワイヤ方式を採用し、スポイラーを左右非対称に展開可能にすることでロール運動の制御にも用いるようにした。以上のように洗練されたA310の主翼は、巡航速度域での揚抗比がA300よりも高くなり、大まかに言うと、同じ揚力を得るのに必要とする推力が小さくて済むようになった。尾翼はA300と同じく胴体に直接配置する一般的な構成とし、垂直尾翼はA300のものが流用されたが、水平尾翼は再設計され翼面積が8パーセントほど小さくなった。降着装置も新規に設計されたが、配置や構成はA300と変わらない。 -1870年代から80年代には、それまで駅舎ファサードによって隠されていたトレイン・シェッドが、直接市街地と向き合うようなデザインが現れてくる。この傾向はドイツにおいて顕著であり、1882年に開業したベルリン市街鉄道の主要駅では、駅舎の機能が高架下に収められたこともあり、アーチ型のトレイン・シェッドそのものがほぼ駅の外観となった。もっともこうした動きには抵抗もあり、ブダペストでは1877年に開業した西駅はトレイン・シェッドの前面が市街に向かって露出していたのに対し、奇異感を覚える市民が多く、1884年開業の東駅ではトレイン・シェッドはファサードで隠されている��一方でイギリスでは駅舎とトレイン・シェッドを別のものとする考え方が続いた。またこの時期には、コンコースの建築にもトレイン・シェッドの影響が現れている。コンコースの屋根は線路やホームを覆っているわけではない。しかし隣接するトレイン・シェッドと連結した空間として、トレイン・シェッド同様の高い屋根を持つ広い空間が造られた。このような変化はまずアメリカで現れ、ヨーロッパにも波及した。 -中川イセは、日本の政治家、北海道網走市の博物館網走監獄を運営する財団法人網走監獄保存財団の元理事長である。網走市議会の初の女性議員である。昭和中期の網走市において、上水道敷設による水質改善、人権擁護活動、女性の地位向上などの活動で地域発展に貢献し、「網走開拓の母」と呼ばれた。政界以前の波乱に富んだ人生でも知られ、網走市民には「中川のばっちゃん」の呼び名で親しまれた。1968年にTBSテレビで放映されたテレビドラマ『流氷の女』のモデルだ。本名、中川いせよ。旧姓は今野である。山形県東村山郡干布村上荻野戸出身。 -536年晩春、ベリサリウスは海を渡ってイタリアへと軍を進め、レギウム(Rhegium:現在のレッジョ・ディ・カラブリア)を奪取した。11月、東ローマ軍は多数の犠牲を出しながらもナポリを攻略し、略奪を行った。ベリサリウスの素早い進軍に東ゴート族は驚愕し、テオダハドの無能さに憤慨した。ナポリ失陥後、ローマにいたテオダハドは追放され、新王にウィティギスが選ばれた。テオダハドは首都ラヴェンナへの逃亡を図るが、刺客に追いつかれ暗殺された。 -骨髄で極めて若い造血細胞の遺伝子に1つ以上の遺伝子異常が後天的に起きて白血病幹細胞が発生し、白血病幹細胞が数千億から1兆個もの白血病細胞を生み出して骨髄を占拠するようになると発症するものと考えられている。白血病幹細胞が発生してすぐに白血病の症状が出るわけではない。1個の白血病幹細胞はゆっくりと、しかし自律的に増加して(コントロールを受けない)多数の白血病細胞を生み出していき、その白血病細胞は不死化(細胞寿命の延長)しているので、やがて骨髄を白血病細胞が占拠し満ちあふれる。骨髄を白血病細胞に占拠され正常な造血細胞が締め出されて正常な造血が阻害され、また骨髄に収まりきれず血液中にあふれ出た白血病細胞が各臓器に浸潤して白血病の諸症状が起きる。 -美幾の墓は、念速寺(東京都文京区白山2丁目9番11号)の本堂裏、千川通り側の塀ぎわに現存する。墓石の裏面には、「わが国病屍の始めその志を嘉賞する」と当時の医学校教官が美幾の志を称えた銘が刻まれ、法名として「釈妙倖信女」が与えられている。この墓は、1974年(昭和49年)11月1日に文京区指定史跡となった。墓碑は、保存のために透明なケースで覆われた状態となっている。 -地球における金星の太陽面通過(きんせいのたいようめんつうか)は、金星が太陽面を黒い円形のシルエットとして通過していくように見える天文現象である。金星が地球と太陽のちょうど間に入ることで起こる。日面通過や日面経過、太陽面経過とも呼ばれる。記録に残る初の観測は、1639年にエレミア・ホロックスによってなされた。金星の太陽面通過は非常に稀な現象で、近年では、8年、105.5年、8年、121.5年の間隔で発生する。直近では協定世界時2012年6月5日から6日にかけて起こった。次回は2117年12月10日から11日にかけて起こる。金星の太陽面通過を観察することで、地球と太陽の間の距離(1天文単位)が算出可能となる。1天文単位の距離を得るために、1761年と1769年の太陽面通過では欧州を中心として国を超えた国際的な観測事業が行われ、世界各地に天文学者が派遣された。この観測プロジェクトは科学における初の国際共同プロジェクトとも評される。 -1881年、クレマン・アデールは世界初の2チャンネル音響システムをパリで公開した。オペラ座の舞台からパリ電気博覧会会場に設置した部屋まで一連の電話通信装置を接続し、オペラ座での公演の音声を生中継で転送して聞かせるものだった。サイエンティフィック・アメリカン誌はこの模様を次のようにレポートしている。「産業宮(博覧会会場)でこの電話を聴く幸運に恵まれた人々は、2つの電話機で��方の耳で聴き、口をそろえて1つの受話器では生み出せないような臨場感があったと述べた...この現象は非常に奇妙である。それは双聴覚的音響の理論の近似であり、我々の知る限り、これまでになかったものである。この驚嘆すべきイリュージョンは立体音響の名にふさわしいかもしれない」この2チャンネル電話方式はフランスでThéâtrophoneの名で1890年から1932年まで、イギリスではElectrophoneの名で1895年から1925年まで販売された。どちらもホテルやカフェに硬貨投入式の受話器を設置するか、個人宅で受信設備を導入してサービス提供を受ける形式だった。 -まず80-160°Cまで加熱すると、マルテンサイトからε炭化物と呼ばれる炭化物が析出し、マルテンサイトは低炭素マルテンサイトあるいは焼戻しマルテンサイトと呼ばれる組織に変わり、組織は低炭素マルテンサイトとε炭化物で構成されるようになる。焼入れによる高炭素マルテンサイトはオーステナイトの炭素含有量をそのまま受け継いで炭素を0.8%含有しているのに対し、低炭素マルテンサイトは0.2-0.3%程度の含有量である。結晶構造は、高炭素マルテンサイトは正方晶であるのに対し、低炭素マルテンサイトは立方晶を取る。ε炭化物は六方晶の結晶構造を持ち、Fe2-2.5CあるいはFe2-3Cで表され、標準組織で析出するFe3Cのセメンタイトとは異なる。また、このような変化により体積が縮小する。この変化は高炭素マルテンサイトが存在する場合のみに発生するので、炭素含有量0.3%以下の低炭素鋼では発生しない。 -防衛省は、地震発生から4分後の3月11日14時50分に「災害対策本部」を設置し、52分に自衛艦隊司令官による出動可能全艦艇への出港命令が下令され、護衛艦「たかなみ」(艦長米丸祥一)が石巻沖での救助の先陣を切った。大湊航空基地からのUH-60J発進を皮切りに、陸海空自衛隊が救助や偵察のためにヘリコプターや戦闘機・哨戒機などをスクランブル発進させた。陸上自衛隊のUH-1が撮影した何波にもわたって襲来する津波の映像は、報道機関を通じて全国に放送されている。また迅速、効果的に救助・支援活動を行うため、14日に陸海空自衛隊の各部隊による統合任務部隊として、君塚栄治東北方面総監を指揮官とする「災統合任務部隊」(JTF-TH)を編成した。自衛隊創設以来最大規模の災害派遣を行った。27日現在人員約10万6900名(陸約7万、海空約3万6000)と回転翼217機、固定翼326機、艦船53隻が救援活動を行っている。また福島第一原発の対処には中央特殊武器防護隊を中心とした中央即応集団が専任し、他の部隊とは異なる指揮系統の下で活動している。日々拡大する被害の復興のため、防衛省は3月16日に、防衛省・自衛隊創設以来初となる即応予備自衛官および予備自衛官の災害招集命令を発令した。2011年に動員した自衛隊員は延べ1,058万人(1日の最大派遣人員約10万7000人)である。自衛隊員23万人のほぼ半数を投入した。3月14日に君塚栄治東北方面総監を指揮官とする自衛隊の各部隊による「災統合任務部隊」(JTF-TH)を編成した。福島第一原発事故に対応しては、JTFとは別に中央即応集団を待機出動させた。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイ��は1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -印刷術・火薬・羅針盤:これら3点は全世界のすべての表層と深層とを変えてしまった。印刷術は文学を、火薬は戦争を、羅針盤は航法を、である。大きな変化が起こってしまうと、それはかつていかなる帝国も、いかなる社会勢力も、いかなる星も発揮したことがない強い影響力を人間社会に及ぼしたことがわかった。14世紀に焦玉が記した『火龍経』は中国の重要な戦術論のひとつである。火薬を使った兵器として記載されたものには、火箭(焼夷矢)、火箭(ロケット)、火鎗、火器、地雷、水雷、射石砲、大砲、および火薬のほか毒ガスや煙幕などの処方も収めてある。11世紀には、畢昇(990年-1051年)が膠泥活字印刷を発明、1298年には王禎が木活字を実用化、1490年には華燧が金属活字を実用化した。 -ニカラグアのGDPの成長率は1984年以降マイナスに転じ失業率は20パーセントを超えた。 -夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者である。本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。俳号は愚陀仏である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などである。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身である。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表した。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載した。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆した。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。 -巣穴は小枝や木片、葉のついた枝などで内張される。オウムの卵は楕円形で、営巣場所のおかげでカモフラージュが必要ないため、当初は白である。とはいえこれは抱卵の過程で変色してゆく。その大きさの範囲はヤシオウムやアカオクロオウムの55mm×37mm(2.2in×1.5in)から、オカメインコの26mm×19mm(1.0in×0.75in)におよぶ。卵の数はグループにより異なっており、ヤシオウムやこのほかの一部の大型のオウムではたった1個の卵しか産まないし、もっと小型の種では2個から8個のあいだのいずれかである。また食糧事情も卵の数に影響を与える。最初の産卵が失敗であった場合に、2度目の産卵を行うことができる種もある。卵の20%前後が無精卵である。オウムの抱卵と哺育の責任は、クロオウムのようにそのいずれも雌のみが受け持つ場合もあり、あるいはこのほかの種のように、雌雄の間で分担して受け持つ場合もある。クロオウムの場合では、雌は雄によって日に何度も餌を与えられる。ヤシオウムの雛だけは裸で生まれて来るが、この他のすべての種の雛は、黄色がかった綿羽に覆われて生まれる。オウムの孵化までの期間は種の大きさによって決まる。小型種であるオカメインコの場合20日前後の期間であるのに対し、大型種のニシオジロクロオウムの卵が孵化するまでには29日かかる。 -配偶行動としては、本群の動物では直接の交尾は行わず、精包の受け渡しが行われ、それに際しては長時間、種によっては1日を超える配偶行動が行われることが知られている。本種については奄美大島で9月にそれが観察されており、雄と雌が同じ方向を向き、雄が前、雌が後ろから雄の腹部後方の両側を蝕肢で挟んで追従する姿が観察されている。ちなみにこの状態から雄同士で闘争することが観察されている。 -歴史研究者の間で交わされる議論の主題となるのが、中国で科学革命が進展しなかった理由は何か、また中国の技術がヨーロッパの後塵を拝した理由は何か��ある。文化から政治経済まで各種の仮説が提唱されている。ネイサン・セビンの論点は、「中国にも科学革命は17世紀に存在したが、我々は西洋と中国の科学革命を政治・経済・社会の視点に細分化して理解するにはまだ程遠い」というものだ。ジョン・フェアバンクの主張は、中国の政治制度が科学発展の障害であったとする。文化的要因が『科学』と呼びうるものの発達を妨げたというニーダムの仮説には賛同者が多い。中国の知識人が自然界の法則性を信じる障害になっているのが、宗教・哲学の枠組であるというものだ。中国人は自然界の法則性を否定しないが、それは合理的人格的存在(天帝)が命じた規律ではなく、合理的人格的存在がかつて布告した天与の法則のコードを、地球的な小さな言語体系で解読しようなどとは思いもしなかったのだろう。道教徒も洞察対象である宇宙の複雑さと神秘性を前にしてそのような仮定をするのはあまりに素朴すぎると軽蔑しただろう。 -禁酒法施行時代やゴルバチョフ時代には、ロシア人はアルコールが含まれているものならローションや中性洗剤でも飲んだと言われ、酒にまつわるアネクドートも多く存在する。一連の取り組みが行われた一方で、リキュール類から得られる税収は政府の収入源になり、1920年代末期には政府は工業化に必要な資金を得るためにウォトカを増産した。ストリチナヤを始めとしたウォトカは外貨獲得のため食料輸出輸入公団(S.P.I.Groupの前身)によって輸出されており、西側諸国ではカクテルベースとして利用されていた。なおアメリカでの販売権はペプシコがペプシの濃縮液との物々交換で獲得した。 -外国産ナマズの定着は日本でも問題となっている。1981年、霞ヶ浦に食用目的で導入された北アメリカ原産のチャネルキャットフィッシュ(アメリカナマズ、Ictaluruspunctatus)は、1994年以降急激に数を増やしている。本種は体長1mを超える大型の捕食魚で他に天敵はおらず、外来生物法における特定外来生物として規制の対象となっている。また、ヨーロッパオオナマズ(ナマズ目中の最大種)・ウォーキングキャットフィッシュの定着が懸念されるほか、マダラロリカリアは既に沖縄への定着が確認されている。いずれも在来魚類との競合が心配され、これら3種は環境省が指定する要注意外来生物リストに掲載されている。 -アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、1848年に大富豪・大地主の息子としてスコットランド・ホィッティンガムに生まれる。ケンブリッジ大学で哲学を学んだ後、1874年に保守党の庶民院議員に初当選した。1878年、叔父である外務大臣第3代ソールズベリー侯爵の議会担当秘書官を務めた。 -夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。夏目家の系図(夏目氏系譜(武家家伝))によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年(元禄15年)旧暦4月、夏目兵衛直情の時、名主に任じられた。現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった。『夏目漱石人と作品3』11頁によると、遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をして過ごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋高橋長左衛門の妹として結婚したが、表向きは四谷大番町の鍵屋と��う質屋から嫁いだことにしていた。そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の孫に、芸能プロダクション経営者でVISAカードのCFで漱石役を演じた新田太郎がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の別の孫に朝日新聞社員(『週刊朝日』副編集長、『アサヒカメラ』編集長、『図書』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の角田秀雄がいる。妻-夏目鏡子との間に2男5女をもうけた。次女・恒子は、『其面影』を著している。四女・愛子は、津田青楓の少女像のモデルとなっている。五女・雛子は1歳で亡くなっている。その臍の緒が発見され、東北大学が購入している。 -1610年にガリレオ・ガリレイは、望遠鏡を用いて木星に4つの衛星を発見した。これらは地球の月以外では初めて発見された衛星で、今日ではガリレオ衛星と呼ばれるイオ・エウロパ・ガニメデ・カリストである。これは同時に、地球以外の天体力学の中心が初めて見つかった例でもあり、ニコラウス・コペルニクスの地動説を支持する有力な証拠とガリレオは主張したが、そのために彼は異端審問にかけられた。1660年代、ジョヴァンニ・カッシーニは新型の望遠鏡を用いて観測を行い、木星表面の斑や多彩な帯を発見した。さらに、惑星全体が極方向でつぶれた扁平状であることも視認した。これらの観察から、彼は木星の自転時間を計算し、1690年には大気が差動回転を起こしていることにも気づいた。南半球にある木星を特徴づける大赤斑は、1664年にロバート・フックが発見したとも、1665年にカッシーニが発見したとも言われる。その詳細は1831年に薬剤師でもあったハインリッヒ・シュワーベが初めて記録した。記録によると、大赤斑は1665年から1708年の間には見つけられなくなり、1878年ごろからしだいに見えるようになった。1883年以降、今日に至るまで大赤斑は一貫して観測され続けている。1892年、エドワード・エマーソン・バーナードはカリフォルニアのリック天文台にある36インチ屈折望遠鏡を使って、木星5番目の衛星アマルテアを発見した。優れた視力を生かした彼の発見は、目視観測で発見された最後の衛星となった。1932年、ルーペルト・ヴィルトは木星のスペクトルを解析し、アンモニアとメタンの吸収線があることを示した。1938年には白斑と呼ばれる永続的な3つの高気圧性の楕円斑が見つかった。これは数十年間にわたって個別に存在し、時に近づくことがあっても合体することなく存在した。しかし1998年には2つが合わさり、2000年に残りのひとつも含まれてオーバルBAとなった。 -『ラス・メニーナス』の後部右側には、ドン・ホセ・ニエト・ベラスケスが立っている。彼は1650年代、王妃の侍従であり、王室のタピストリー工場の長でもあり、画家の親戚であった可能性もある。ニエトは右の膝を曲げ、足を別の段に置いて立ち止まっている。芸術評論家のハリエット・ストーンの言う通り、「行くところか戻るところか」は不明である。ニエトはシルエットで描かれており、壁か何かをバックに、短い階段の途中でカーテンを開けているように見える。逆光や開いたドアから、その背後には別の部屋が存在しているようである。芸術歴史家のアナリザ・レッパネンによれば、その様子が「我々の視線をいやでも奥へと引きつける」のである。国王夫妻の姿は鏡に映っており、反対方向すなわち絵の前方に立っている。遠近法における消失点はドア付近にあり、右の壁と天井との接線を延長することで位置を求めることができる。ニエトを視界に入れているのは王と王妃だけであり、鑑賞者は前景の人物ではなく、国王夫妻の視線を共有することになる。 -宮城県は、震源地に最も近く、福島県や茨城県と共に激震であった。津波の被害としては、浸水面積327km2と浸水域の人口約33万人はともに3県最大だったため、宮城県のみで阪神・淡路大震災を上回る犠牲者を出した。県北部は岩手県中南部沿岸と同様に津波高の増すリアス式海岸のため、津波常襲地域であり、津波への対策(防波堤や防潮堤)がなされていた。過去の津波の伝承や石碑が至るところに残り、住民の防災意識も高く、多くの人々が避難行動��取ったが、想定を大きく上回る規模の津波が押し寄せたため、甚大な被害を受けた。県中南部は単調な海岸線であったが、水深の浅い仙台湾で津波の速度が落ち、後の津波が追いついて津波高が増した。速度が落ちたため襲来まで1時間あったが、北部に比べて中南部は過去の津波が数百年前であり、住民の意識が低いなかで想像だにしない津波に襲われた。平野が広がっていたため数キロメートル内陸まで浸水し、甚大な被害を受けた。気仙沼市では、介護老人保健施設「リバーサイド春圃」で59人が、杉の下地区の住民が避難した海抜12mの高台で93人が亡くなるなど、犠牲者は1,350人以上に及んだ。また、津波により漁船用燃料タンクが倒壊して広範囲に重油が流出して出火、大火災が発生し夜通し燃え続けた。火がついた大量のがれきが気仙沼湾内を漂い、東北最大の有人島である大島にも燃え移り、島民たちが総出で延焼を食い止めた。 -佐久間ダム(さくまダム)は、静岡県浜松市天竜区佐久間町と愛知県北設楽郡豊根村にまたがる一級河川・天竜川本流中流部に建設されたダムである。電源開発(J-POWER)が管理する高さ155.5メートルの重力式コンクリートダム。日本第9位の高さと第8位の総貯水容量を有する日本屈指の巨大ダムであり、戦後日本の土木技術史の原点となった日本のダムの歴史に刻まれる事業である。佐久間発電所と新豊根発電所により最大147万5000キロワットを発電する水力発電を主目的とし、副次的に豊川用水の水源にもなっているほか、2004年(平成16年)より洪水調節目的を付加して多目的ダムとするダム再開発事業が国土交通省によって進められている。ダムによって形成された人造湖は佐久間湖と命名され、ダム湖百選に選定されたほか天竜奥三河国定公園に指定されており、地域の主要な観光地になっている。 -1740年から1748年までのオーストリア継承戦争において、プロイセン王のフリードリヒ大王はオーストリアから富饒なシュレージエン地方を奪取したが、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアは1748年に軍の再建と同盟を組むための時間稼ぎとしてアーヘンの和約に署名した。オーストリア継承戦争において各国は伝統的な敵対関係に基づいて同盟を組んだ。フランスの宿敵イギリスとオーストリアはルイ14世時代と同じく手を組み、フランスはドイツにおける反ハプスブルクであるプロイセンとバイエルンを支持した。しかし、どちらの同盟でも同盟間の不満を残した。イギリスはオーストリアに資金援助したものの、オーストリアがイギリスの利益にならず、オーストリアにとってもイギリスの援助はシュレージエン奪回に結びつかなかった。プロイセンはいざシュレージエンを確保するとフランスを顧みずにオーストリアとの単独講和に走った。それでも、フランスは1747年にプロイセンと防衛同盟を締結し、英墺同盟はイギリス首相ヘンリー・ペラムの兄で北部担当国務大臣でもあったニューカッスル公爵が必要と判断したこともあって継続した。しかし、数年後に両同盟は倒れ、外交革命と呼ばれる事態が起こった。 -フリードリヒ2世は返事を待たず、12月16日にプロイセン軍を率いて、宣戦布告せずに国境を越えてシュレージエンに侵入した。以降1741年1月末までにシュレージエンのほぼ全域を占領し、残るグローガウ、ブリーク、ナイセのオーストリア3拠点を包囲した。オーストリア軍は3月末にナイセの包囲を解いたが、4月10日のモルヴィッツの戦いでプロイセン本軍に敗北したため、プロイセンのシュレージエン支配は揺るぎないものとなった。 -トミヨ属では、エゾトミヨが北海道、トミヨ属淡水型は太平洋側では岩手県以北、日本海側では福井県以北の本州および北海道に分布する。トミヨ属雄物型は秋田県雄物川水系と山形県のみに、トミヨ属汽水型は北海道東部に生息する。トミヨ属淡水型、雄物型、汽水型はそれぞれが独立した分類群である可能性が指摘されているが、適用すべき学名も和名も持たない。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊���旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -1839年11月、新皇帝アブデュルメジト1世は、ムスタファ・レシト・パシャの起草によるギュルハネ勅令(タンジマート勅令)を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、財政、文化、教育に至るまで西欧的体制への転向を図った。タンジマートの始まりである。以降、タンジマート諸改革のもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。改革政治は、途中、ヨーロッパにおける「1848年革命」の影響を受け、クリミア戦争(1853年-1856年)の末期には改革勅令を発布、西欧化の方針はその後も受け継がれ、その集大成というべきオスマン帝国憲法(通称、ミドハト憲法)が制定される1876年までの約37年におよんだ。 -1903年5月、ドラグーティン・ディミトリエビッチ率いるセルビア軍士官の一派がセルビア王宮を襲撃したことで、その状況は変化した。セルビア王アレクサンダル1世と王妃ドラガは繰り返し銃で撃たれ殺害された。一説には、その後「王と王妃の亡骸は服を脱がされ、残忍に切り刻まれた」と言われている。襲撃者らは2人の死体を宮殿の窓から投げ捨て、王に忠実な勢力が反撃を試みる可能性を排除した。襲撃を計画した者たちは、カラジョルジェヴィチ家のペータル1世を新たなセルビア王に即位させた。 -家庭裁判所は、調査の結果、審判に付することができず、または審判に付するのが相当でないと認めるときは、審判を開始しない旨の決定(審判不開始の決定)をしなければならない(少年法19条1項)。こうした審判不開始の理由がない事件については、審判を開始する旨の決定(審判開始の決定)がなされる(同法21条)。後述する18条決定は、法文上は審判を経ずにすることができるが、実務上は審判を経てするのが通例である。そこで、18条決定が相当と認められる事件についても、審判開始の決定がなされることになる。やはり後述する20条検送も、法文上は審判を経ずにすることができるが、実務上は、運転免許を保有する少年による大幅な最高速度違反(道路交通法118条1項1号、2項、22条1項)のように、悪質ではあるが非行事実も非行化の要因も単純な事案に限って、審判を経ずに検察官送致の決定がなされているようである。 -バルト諸国占領(バルトしょこくせんりょう)とは、エストニア、ラトビアおよびリトアニアが、初めは1939年のドイツ国とソ連が締結したモロトフ・リッベントロップ条約の条項に基づきソ連によって、続いて1941年から1944年まではドイツによって、さらに1944年から1991年までは再びソ連によって行われた占領のことである。 -衰退期のラーンナーにおいては、国王の威光も衰退し、台頭してきた官吏らによる政治が行われた。1525年のケートクラオの即位は官吏らの指名によるものである。ケートクラオはそれまでムアンノーイという一地方の国主であり、チエンマイに政治基盤を持たなかった故に、脆弱であった。1535年にラムプーンの国主によるクーデタが起きる。これは失敗に終わるが、1538年官吏らによってケートクラオは王位を簒奪され、ケートクラオの子、チャーイが官吏らに擁立された。しかし5年間の統治の後チャーイも暗殺され、再びケートクラオが擁立されるが、これも2年後に暗殺される。 -この時期の演習林では、学術的な研究を重視した経営方針が立てられていた。当時の京都帝大の演習林では台湾演習林において樟脳の生産が行われ、樺太演習林においては材木の伐採によって収益を上げていたが、芦生演習林においては学術研究の実地拠点にしようとする期待が大きく、学術的な成果を挙げようとする動きが強く働いたことから、「営利的施業より理想的な施業」として、営利目的より学術的な成果を重視する立場を取っていた。こうしたことから、並行して材木の伐採も続けられていたが、しいたけ栽培の原木と用材の択伐のほか、枕木用の栗材や木炭生産用の雑木の伐採が主であった。しかし、昭和恐慌から日中戦争を経て太平洋戦争へと続く時代の流れの中で、軍事費増大による大学予算の削減から大学の収入源確保を求められたことや、国策遂行のために協力を求められたことから、理想的な経営方針は変更を余儀なくされていく。1934年に開通した森林軌道の沿線を中心に、木炭用の雑木や枕木用の栗材が大量に伐採されたほか、ブナ材は飛行機のプロペラ用や梱包材として伐採された。中でも木炭の生産は年を追うことに増加し、昭和十年代における京都帝大の年間木炭需要1万4千俵を大きく上回る俵数を生産、余剰分は市中に販売されて貴重な収入源となったほか、「大学炭」として新聞にも紹介されるほどであった。太平洋戦争に突入後は、総力戦遂行のための林業資源確保のために、1943年には小野子谷方面へ森林軌道の延伸が行われ、伐採面積の拡大に対応していった。こうした伐採面積の拡大は同時に演習林の荒廃を進行させることとなったが、戦時体制の前では如何ともしがたく、このまま終戦を迎えることとなった。 -2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。6月に入って東京スポーツが「三沢社長解任」と報道し、同月13日に三沢は定例役員会において取締役退任を申し出、これをもって三沢は全日本を退団することになった。三沢はすでに退団後に新団体を設立する構想を抱いており、6月16日に記者会見を開いて「約1年間、代表取締役として頑張ってまいりましたが、全日本プロレスが持つ伝統と、私がこれからやろうとするプロレスの間にギャップを感じ、このままでは私の理想とするプロレスを貫き通すと、馬場さんが作ったプロレスらしさを壊してしまうんじゃないかと思い、退団を決意いたしました」とコメントし、自身を含めて会見に同席したレスラー24人で新団体を設立することを宣言した。 -カタルーニャ人のアイデンティティを表す舞踊としてサルダーナがある。男女が交互になって手を高く上げて繋ぎ、輪を描くようにして踊る。サルダーナはリズムの取り方やステップの踏み方が独特である。サルダーナは激しく情熱的なフラメンコとは対比的であり、闘牛(スペインの象徴)と人間の塔(カタルーニャの象徴)の関係に似ているとされる。フランコ体制下ではサルダーナは禁じられており、20世紀初頭や1970年代末の民主化以後にカタルーニャ精神の象徴であるとする意味合いが込められた。 -江戸時代には武蔵野の荒地が開墾されて田畑となった。東久留米市域の村々は江戸時代初期またはそれ以前から存在していたが、旧柳窪村は江戸時代に入ってから開発され、寛文10年(1670年)に幕府領(天領)となった。安政5年(1858年)に一時期熊本藩領となったのを除き、幕末まで天領であった。村が成立して間もない元禄11年(1698年)、その石高は僅かに7石でしかなかったが、宝永6年(1709年)、隣接する田無村の飛地から74石が分けられ、合わせて82石2斗の村高となった。享保18年(1733年)には102石に、幕末ごろには柳窪新田分を含め233石となっている。 -監督の去就について、中日は最終戦の日程決定のとおりの事情があったが、中日スポーツの1面に高木監督の続投決定が掲載され、この試合終了までの時点までには、球団側は高木の慰留に努める旨表明していた。ただ、一度は球団側が解任を通告した経緯もあり、辞意が固い旨報じられていた。なお、巨人についても、試合結果を報じる10月9日付ニッカンが長嶋の留任が確定的となった旨を書くなど、試合直前の時点では流動的な要素があった。高木は、上記ニッカン等でも報じられた予定のとおりに10月11日に球団側にシーズンの報告を行った際にオーナー(当時)の加藤巳一郎らからあらためて慰留を受け、13日に同オーナーとあらためて面会して留任が決まった。高木は、その間に選手会長(当時)の川又米利に電話する等して選手側の気持ちも確認したという。 -警察庁は2019年12月10日現在、4,198箇所で道路の損壊があったと発表している。岩手県山田町の船越半島や宮城県の南三陸町、牡鹿半島などにつながる道路が寸断され、岩手・宮城・福島の3県で少なくとも1万6000人が孤立した。また、茨城県では北浦に架かる鹿行大橋の一部が崩落した。首都高速道路でも湾岸線を中心に被害が発生し、高架橋に破損箇所が発生した新木場出入口-葛西ジャンクション間が3月22日、大黒ジャンクション連絡路が3月27日まで通行止めとなった。東日本高速道路(NEXCO東日本)管内の高速道路では、広範囲の路線で通行止めとなった。東北自動車道の浦和インターチェンジ-碇ヶ関インターチェンジ間、秋田自動車道・釜石自動車道・八戸自動車道の一部、常磐自動車道の三郷ジャンクション以北、磐越自動車道の津川インターチェンジ以東などが公安委員会により緊急交通路に指定され、緊急車両専用となった。3月24日6時に全区間で通行止めが解除され、一般車両の通行が可能となったが、常磐自動車道の広野インターチェンジ-常磐富岡インターチェンジ間は、福島第一原子力発電所事故の旧警戒区域内だが2014年2月22日3年ぶりに再開通(通行再開)した。当初2011年度に予定されていた常磐富岡インターチェンジ-相馬インターチェンジ間は、開通が延期された。なお、旧警戒区域外の南相馬インターチェンジ以北が2012年4月8日に先行開通した。その後、浪江インターチェンジ-南相馬インターチェンジ間は2014年12月6日、常磐富岡インターチェンジ-浪江インターチェンジ間も2015年3月1日に開通し、この日をもって常磐自動車道は全線開通した。東北地方整備局は沿岸部の都市への救援のためくしの歯作戦を実行した。2019年6月現在、浪江町請戸の旧請戸小学校近くの道路には津波の引き波によるアスファルトの表層部分の変位(海側へのずれ)が明瞭に残っている。東北地方太平洋沖地震による津波の痕跡がこのように見られる場所は非常に限られており、防災学習等の分野としても貴重である。 -日本におけるフィラリア症の防圧・克服へ向けた本格的な研究は、1948年(昭和23年)から始まった東京大学付属伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)の佐々学による八丈小島でのフィールドワークと、それに続く同島での駆虫薬スパトニンを用いた臨床試験が端緒である。この八丈小島で得られた一連の治験データや経験は、後に続く愛媛県佐田岬半島、長崎県、鹿児島県、奄美、沖縄県各所での集団治療を経て、最終的に日本国内でのフィラリア症根絶へ向かう契機となる日本の公衆衛生史上���要な意義を持つものであった。そして、1977年(昭和52年)に沖縄県の宮古諸島および八重山諸島で治療が行われた患者を最後に、ヒトに感染するフィラリア症の日本国内での発生事例は確認されなくなった。そして1988年(昭和63年)の沖縄県宮古保健所における根絶宣言により、日本は世界で初めてフィラリア症を根絶した国となった。ヒトに寄生して発症するフィラリア症はフィラリア虫の種類ごと世界各地に8種あるといわれ、そのうち日本国内のフィラリア症はバンクロフト糸状虫によるものがほとんどであった。だが、不思議なことに八丈小島のフィラリア症はバンクロフト糸状虫ではなく、東南アジアを中心とする地域で流行するマレー糸状虫によるものであり、これは日本国内では唯一の流行地であった。 -1969年と1970年に59頭のラッコがアムチトカ島からワシントン州に移され、2000年には504頭、2004年には743頭が確認されている。同州は1981年、ラッコを絶滅危惧種(endangeredspecies)に指定している。1970年代、93頭のラッコがオレゴン州の海岸に移されたが、1980年代初頭にはいなくなっている。逃げたのか死んだのかは分かっていない。 -当時の『学校体操教授要目』では、ダンスは「唱歌遊戯及行進遊戯」として扱われ、体操の授業で採用されていた。この時期は、まず教材作りとして創作ダンスを生み出していた。戸倉の最初の著書『唱歌遊戯』には、文部省唱歌のほか、『どこかで春が』や『シャボン玉』などの愛唱歌をダンスにしたものを14種類収録している。この本の中では、「歌詞の意味に沿った自然な動作を行わせる」という戸倉の基本的なダンス観が既に表れている。1931年の『学校ダンス』では教材作りから一歩前進して教材の選択、教授上の注意と教授法、基本歩法など多岐に言及している。生徒の心身の発達を考慮すること、想像の余地を残して教授することなどの記述があり、大正自由教育の流れを汲んでいることが窺える。戸倉が改正作業に参加した1936年の教授要目では、「唱歌遊戯及行進遊戯」は基本練習、唱歌遊戯、行進遊戯の3つの領域に分けられ、基本練習では基本歩法・基本態勢・応用態勢、唱歌遊戯では『荒城の月』、『寧楽の都』などの日本の楽曲を使ったダンス、行進遊戯ではポルカセリーズ、カドリーユなどの西洋のダンスが採用された。この教授要目で初めて採用された基本練習は、邦正美による学校ダンス批判を受けて、その欠陥を補おうと戸倉が追加したものである。基本練習の導入により、それまでの静的・模倣的な表現術に躍動的・リズミカルな技術が加わり、表現の幅が拡大することになった。改正時、「体育ダンスは芸術か体育か?」という議論がなされたが、女子には鍛練的な教材はそれほど採用されなかった。バレエの手足の訓練を基礎に置いており、情操陶冶を目指す教材に特色がある。小学校から高等女学校まで採用された「唱歌遊戯及行進遊戯」は他の体操科教材と異なり音楽を伴った運動であり、選択する楽曲は児童生徒の発達に応じて変えるべきとした。旋律の美しさを重視して選曲し、幼児・児童対象のダンスは軽快さや明るさを、生徒対象のダンスは哀調を帯びたものを用いることで発達の差を付けている。ダンス表現でも、幼児・児童のダンスより生徒のダンスの方が可動性が高められている。一方、「落葉の踊」などは内容を易しくすれば尋常小学校1年生でも教材として扱えるし、高度化すれば高等女学校での採用にも耐えうるとしている。 -一方、ヒューストンの冬は温暖で、過ごしやすい日が続く。最寒月の1月においても、月平均気温は摂氏11度を超え、最高気温は摂氏17度、最低気温でも摂氏6度ほどである。降雪はめったに見られない。2004年のクリスマスイブには大規模な雪嵐がメキシコ湾岸を襲い、テキサス州南部は「記録的な」大雪に見舞われたが、その時もヒューストンにおける降雪量はわずか2.5cmであった。ヒューストンにおける観測史上最低気温は、1940年1月23日に記録された氷点下15度である。ヒューストンの降水量は1年を通じて多く、年間では1,200-1,300mm程度になる。夏季には散発的な雷雨が起こりやすく、ハリケーンや熱帯低気圧の通り道になることもよくある。2001年6月には、トロピ��ル・ストーム・アリソンがテキサス州南東部に1,000mmを超える豪雨を降らせ、ヒューストンは市史上最悪の洪水に見舞われた。アリソンによる被害総額は60億ドルを超え、死者はテキサス州だけで20名を数えた。2005年9月、ハリケーン・リタが接近したときには、ヒューストン市街地への直撃が懸念され、ヒューストンとその周辺地域の住民約250万人が避難した。リタ襲来の1ヶ月前にニューオーリンズに甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの教訓から多くの住民が早目に避難したことに加え、実際にはリタの進路が東寄りにずれてテキサス・ルイジアナ州境付近に上陸し、ヒューストン市街地はハリケーンの左側半分に入ったため、ヒューストンにおけるリタの被害は、ハリケーンの規模の割には比較的軽微であった。ただし広範囲に避難勧告を出したため数十時間路上に滞在したり自家用車のガソリンが路上で切れたりなどの混乱を伴う極端な避難渋滞が発生し、後のハリケーン・アイクの際の避難計画策定や人々の避難行動に影響を与えた。2008年9月13日に南東郊のガルベストンに上陸したハリケーン・アイクは高潮によりガルベストン西部に壊滅的な被害を与え、ヒューストン周辺で35名以上の死者を出し、ヒューストンの広範囲に停電を引き起こした。市民生活に多大な影響があったが、避難勧告地域を限定したためハリケーン・リタの際に起こった避難渋滞による混乱は発生しなかった。 -ニューイングランドの実業家たちの中には1840年代にイギリスで氷の市場を開こうとした者もいた。最初にそれに挑戦し、そして失敗したのがウィリアム・レフトウイッチであった。彼は1822年にノルウェーから氷を輸入してイギリスに輸出しようとしたのだが、彼の積荷はロンドンに届く前に溶けてしまったのである。成功例としては、フレッシュ湖に自前の供給ルートを持っていたジェイコブ・ヒッティンガーとウェナム湖に土地を持っていたエリック・ランドールのそれぞれ1842年と1844年の挑戦が挙げられる。どちらかといえば上手くいったのはランドールのほうだった。彼はイギリスに氷を輸出するための会社、ウェナム・レイク・アイス・カンパニーを設立し、ロンドンのストランドに氷を貯蔵する倉庫を建設した。ウェナム湖の氷は純度が高く冷却効果に優れているという触れ込みで、イギリスの消費者に地元の氷ではなくこの氷を舶来品として売り込むことに成功した。イギリスの水は汚染されており、健康によくないと避けられていた。当初こそ一定の成功をおさめたものの、事業は次第に縮小していった。一部にはイギリス人は北アメリカほど一般的に飲料を冷やすために氷を使わなかったということもあるが、それよりもこの貿易は長距離輸送により氷が溶ける分を計算にいれると、どうしてもコスト高になってしまうことのほうが大きかった。それでもなお、この貿易によって1840年代にアメリカからイギリスに輸送される品物は氷の積荷と一緒に運ばれるため冷蔵保存されて価値が高まるという副産物はあった。 -地元教会と懇ろであったボストン商人HughHallJr.は、ジョン・レバレットの孫に南海会社重役へ紹介してくれるよう頼んでいた。1720年、南海泡沫事件が起こった。1721年から翌年にかけて、ボストンに天然痘が大流行した。接種技術は輸入された。フリーメイソンを含む人、そして物・金・郵便・病原体がボストン港で往来した。1721年と1728年には土地を担保に発券する公立銀行が設立された。市場経済に巻き込まれた農民・職人勢力の一部からも支持されて、反体制派の中産階級が通貨不足を打開するという目的で設立を推進した。1739年から1740年代初頭にかけて植民地では、銀行券を土地兌換とするか、または厳格に銀兌換とするかで、前者を支持する中産階級以下と、後者を支持する大商人・大地主との間に、深刻な対立・抗争が起こった。1741年に銀行規制法ができて、これら土地兌換銀行と銀兌換銀行の両方を解散させてしまった。ジョージ王戦争の戦費を調達するため政府証券が増発されて、銀行・通貨をめぐる改革運動は立ち消えとなった。 -1815年、前年に対英戦争が終結し時局が安定したため、アラン一家は事業拡大のためイギリスに渡っ��。ポーはアランの生まれ故郷であるスコットランドのアーヴィンで短期間グラマー・スクールに通った後、1816年に一家とともにロンドンに移りここで寄宿舎生活を送った。しかし養母フランセスが健康を害したため転地療養を繰り返し、これに併せてポーも転校を余儀なくされた。1817年の秋季からはロンドン郊外のストーク・ニューイーストンにあるマナー・ハウス学校に通った。ここでの寄宿舎生活はのちに「ウィリアム・ウィルソン」で生かされることになる。1820年になるとアランのロンドンでの事業拡大が失敗に終わったことがはっきりし、6月に一家はリッチモンドに戻ることになった。アメリカに戻ったポーはアイルランド人の経営する英語・古典学校に通い、ここでフランス語、ギリシャ語、ラテン語や古典文学を学んだ。ポーは外国語では抜群の成績を収めており、また詩作もこの頃に始めている。一方義父アランはリッチモンドでの経営も思わしくなく、1825年には商会を解散したうえ自宅も売却せざるを得なくなった。しかしちょうどその頃にアランの伯父にあたるウィリアム・ゴールドが死去し、アラン家に75万ドルと見積もられる莫大な遺産が転がり込んだ。アラン家はふたたび金満家になり、その祝いにリッチモンドの本通りに豪奢な2階建ての家を購入することができた。 -1541年9月末にはカールがマヨルカ島に到着し、アルジェ遠征を準備していた。フランソワはムスリムと戦っているキリスト教徒を攻撃するのは道理に反するとして、皇帝が遠征している間に宣戦しないことを約した。しかし、帝国の遠征は全くの失敗であった。上陸してすぐ、艦隊は嵐でバラバラにされ、カールは11月までに残りの軍とスペインに帰った。1542年3月8日、後任のフランス大使アントワーヌ・エスカリン・デ・アイマールがオスマン帝国に援助の約束をとりつけ、コンスタンティノープルから戻ってきた。フランソワはリンコンの殺害などを口実に、7月12日に宣戦した。 -ゾロアスターは、242ロングトンの灯油を、パイプで連結された2つの鉄製タンクに入れて輸送した。船の中央に機関室が置かれ、1つのタンクがその前方に、もう1つが後方に置かれた。この船は、予備浮力のために21の垂直防水区画を備えていたことがもう1つの特徴であった。船の全長は184フィート(56m)、全幅は27フィート(8.2m)、喫水は9フィート(2.7m)であった。ノーベルの以降のタンカーとは異なり、ゾロアスターの設計はスウェーデンからカスピ海まで、バルト海、ラドガ湖、オネガ湖、ルイビンスク、ヴォルガ・バルト水路、ヴォルガ川を経由して航海できるようになっていた。ノーベルはそれから、単一船殻設計を採用し始めた。これは船体がタンクの構造の一部をなすものである。1880年11月、彼は最初の単一船殻タンカーである「モーゼ」(Moses)を発注した。1年以内に彼はさらに「モハメド」(Mohammed)、「タターリン」(Tatarin)、「ブラマ」(Bramah)、「スピノザ」(Spinoza)、「ソクラテス」(Socrates)、「ダーウィン」(Darwin)、「コーラン」(Koran)、「タルムード」(Talmud)、「カルマック」(Calmuck)と7隻の単一船殻タンカーを発注した。ブラノーベルは、初期の石油タンカーの事故も経験している。1881年にゾロアスターの姉妹船、ノルデンフェールドはバクーで灯油を搭載している最中に爆発した。船が突風に煽られて、灯油を流し込んでいたパイプが船倉から引き離されてしまった。そして灯油は甲板に漏れ出し、機械工が灯油ランプの明かりで作業をしていた機関室に流れ込んだ。これにより船は爆発し、乗員の半数が死亡した。ノーベルはこの事故に対して、漏れがより起こりにくい柔軟な積み込みパイプを作ることで対策した。 -この作品では清水がこれまでの人生の中で聴いてきた音楽の影響を受けており、R&B、ソウル・ミュージック、ジャズ、ヒップホップ、ファンクといったジャンルが同様にこのアルバムの中でも表現されている。また、アルバム収録楽曲の殆どはデモ音源に忠実に仕上がっている。しかし、「Soulmate」を含め2、3曲はアレンジャーの手により大きくアレンジが変わっている。トラック1の「Diggin'OnU」、トラック5の「OneLastKiss」の2曲で清水はラップを行っている。「Diggin'OnU」は清水なりの��ップホップであると同時にヒップホップへのリスペクトが込められており、『B=PASS』のインタビュアー土屋恵介は同曲について「ソウルフルなR&B」と表現している。「OneLastKiss」はイントロにレコードの針のノイズの音声が加えられており、ヴァースとコーラスではピアノの音色を主軸に4つ打ちのリズムにのせ、清水がラップとキックを行っている。『CDジャーナル』はこの楽曲を「ヒップホップ・ソウル風ナンバー」と表現している。トラック6の「LoveStory」ではオートチューンが使用されている。トラック7の「RainyDay'sMorning」ではウッドベースを基軸にしたジャズ・テイストな表現を用いている。トラック8の「UNHAPPY」については、清水は自分なりのR&Bに対してアプローチを行った楽曲だと語った。『BARFOUT!』はこの楽曲を「バッド・ガール系の楽曲」と呼んでいる。トラック11の「MyLove」においてはギター1本でほかの音を一切省いたアンプラグドで録音されている。 -1988年大会は有利と言われていた名古屋を抑えてソウルが開催地に選ばれたが、その裏ではソウル関係者のIOC委員への過剰な接待がなされていたとされる。1998年には、ソルトレークシティ大会の組織委員会が、カメルーンのIOC委員の子どもの奨学金を肩代わりしていた贈賄事件が発覚。翌1999年には、オーストラリア大会の招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことも発覚した。これを受け、複数のIOC委員が除名された。2017年には、ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長が、リオデジャネイロ大会招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕され、ブラジル検察によって起訴されている。またブラジル検察は、東京大会招致委員会からIOC関係者への送金についても明らかにし、買収目的だったと指摘している。ただし、開催費の高騰から、近年は立候補都市が減少している。 -1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 -明暦の大火翌年の万治元年(1658年)、定火消が制度化された。これは幕府の直轄であり、旗本に消防を命じたものである。火の見櫓を備えた火消屋敷(現在の消防署の原型)を与え、臥煙(がえん)と呼ばれる専門の火消人足を雇わせ、消防活動を担当させた。はじまりは4組であったが、一時期15組まで増加し、幕末には逆に1組まで減少するなど、幕府の財政や兵制、町火消の整備などによって増減している。10組で構成された期間が長く、十人屋敷・十人火消とも呼ばれた。 -翌年の1917年に二月革命が起きると、13名の国会議員から構成される国会臨時委員会(英語版)が組織され、国家権力を掌握した。この臨時委員会には、カデットからはミリュコーフと国会副議長ニコライ・ネクラーソフが参加した。臨時委員会において、君主制を維持するべきかどうか��いう議論が生じると、党内左派に位置するネクラーソフは君主制の放棄を支持する一方、ミリュコーフは君主制の維持を訴えた。そのため、両者のあいだで対立が生じたが、最終的に皇帝候補のミハイル大公自身が帝位を拒絶した。その後に成立した第一次臨時政府では、外相にミリュコーフ、運輸相にネクラーソフ、農相にシンガリョフが就任するなど5つの閣僚ポストを得ており、この政府はカデットを中心としていた。一方、社会革命党やメンシェビキといった社会主義政党は、ペトログラード・ソビエト(英語版)を通して労働者・兵士を掌握し、臨時政府を外部から監督するという立場をとった。 -寛政5年7月12日(1793年8月18日)に始まった青ヶ島の復興であったが、いきなり大きな試練にぶつかった。水不足や住居の問題、道路や船着場などのインフラの復興なども課題とされたが、復興を進めるにあたって最大の問題となったのがネズミの害であった。噴火後、人が住まなくなった青ヶ島ではネズミが増え、おびただしいネズミの群れが穂を出した麦や粟を食い荒らしてたちまちのうちに丸裸にしてしまい、もちろん多くの食糧も食い荒らされた。復興にあたる島民らはネズミの駆除に乗り出し、復興開始から1年足らずの間に約1,500匹のネズミを駆除したものの、焼け石に水であった。 -1989年、手塚治虫が亡くなった時、宮崎駿は漫画では自分も影響を強く受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーション作家としての手塚治虫を、店子(たなこ)を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じであると、痛烈に批判した。同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの、手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても、否定的評価を下した。それ以降は、手塚について語る事はほとんど無かったが、2009年に行われたインタビューでは、7歳の時に手塚の「新宝島」を読み「いわく言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かした。その一方で、アニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた。宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮﨑との合作アニメ映画「ロルフ」も企画されていた。この合作は作られなかったがロルフの企画は名前を変え「風の谷のナウシカ」の原案になった。前述の手塚治虫に対する批判の1年程前にディズニーに対しても批判をおこなっている。「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。ぼくには観客蔑視としか思えないのである」。その一方で配給やスタジオジブリの社長をディズニー日本法人の社長が務めるなどディズニーとジブリは密接な提携を結んでおり、近年では賞賛の発言が見られる。スタジオジブリが協力したディズニー・アート展の特集番組では「芸の力」、「本当に驚きましたね」、「尊敬の念は消えません」など賛辞を述べている。 -なお、「龍之介」の名前は、芥川が辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来すると言われているが、出生時刻については資料がないため不明である。戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。1898年、芥川は江東尋常小学校入学した。東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優等者」の賞状を受け、第一高等学校第一部乙類に入学した。1910年に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入る。同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭、土屋文明、渋沢秀雄らがいた。2年生になり一高の全寮主義のため寄宿寮に入るが、芥川は順応することはなかったという。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は第一高等学校一覧によると、1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている。1913年、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学した。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。 -在来種でない捕食者や競合種もまた、その生息地のカエルの生存に影響を及ぼす。カリフォルニア州のシエラネバダ山脈の湖沼群に生息しているmountainyellow-leggedfrogは、遊漁のため放流された外来魚(マス)のため減少した。成長中の幼生と小蛙が多数魚によって捕食された。3年間にわたりカエルの変態は阻害され、それらの生態系全体にわたる明白な衰退を引き起こした。サンフランシスコ州立大学の生物学者バンス・ブリーデンバーグはこの状況の実地調査を行い、その結果報告を受けて、アメリカ合衆国国立公園局は漁網による外来魚の駆除作業を行っている。 -1941年10月からアウシュヴィッツでユダヤ人のガス処理が開始された。1942年には双子収容所のビルケナウ強制収容所にもガス室が置かれ、こちらがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のガス殺の中心となっていく。アウシュヴィッツの犠牲者数は今日に至るまで確定しておらず、諸説あるが、専門家の推定は多くはアウシュヴィッツでガス殺されたユダヤ人を100万人から150万人の間ぐらいであろうと見ている。ただしアウシュヴィッツは絶滅収容所であるだけでなく、強制労働収容所でもあり続け、ガス室に送られずとも「労働を介しての絶滅」させられたユダヤ人が多数いる。一方マイダネクで絶滅させられたユダヤ人の数はラウル・ヒルバーグによれば5万人であるという。また、フランクルによると、ナチスの絶滅収容所により、ヨーロッパのユダヤ人の3分の2以上が殺害されたという。 -公同書簡は本来、公同の教会に宛てて書かれたことからその名があるが、第三ヨハネ書は著者自らが「長老」と名乗り、ガイオという個人に宛ててこの手紙を書いている。便宜上は公同書簡に分類されるとはいえ、本文からはこの手紙が完全に個人的な手紙であることが読み取れる。「長老」は、地域内の信徒の家で営まれた小規模な「家の教会」を巡回して福音を説いていた「兄弟たち」の歓待や支援をしているガイオを賞賛し、彼に対し、ある「家の教会」を取り仕切って「兄弟たち」を拒絶しているディオトレフェスには従わず、引き続き善を行うようにと激励している。初期のキリスト教文献はこの書簡についての言及を何も含んでおらず、3世紀半ばになってようやく言及された。その背景には、この書簡が非常に短いこと、使徒の著作であると承認されるのに時間を要したこと、その内容が個人的であることなどがあったと考えられている。 -米英戦争の中、1814年8月24日から25日にかけて、イギリス軍がアメリカ軍によるヨーク(現在のトロント)焼き討ちの報復として首都を焼き討ちした。議会議事堂、財務省、ホワイトハウスはこの攻撃の中で焼かれ、破壊された。ほとんどの政府の建物は速やかに修復されたが、議事堂は大規模な建設工事が行われ、1868年になって初めて完成を見た。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)��、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -震災発生直後、全国紙やブロック紙、地方紙数紙が一斉に号外を発行した。中日新聞は11日付夕刊の最終版であるE版に(2)という版を設けて1面トップで報じた。3月12日付の朝刊はスポーツ紙を含めた各紙とも、1面から最終面まで最大級の見出しと写真で震災の状況を報道した。また、日曜日の夕刊は通常は休刊だが、読売新聞と朝日新聞は3月13日(震災発生から3日目の日曜日)に「特別夕刊」を発行した。3月12日からしばらくの間、最終面に掲載されている番組表を中面に移設して震災関連の報道を優先した新聞社も数多く存在した(全国紙は3月末まで番組表を中面に移設)。震災直後に発行された新聞では紙面のほとんどが震災報道に当てられたほか、ページ数もおおよそ半分に削減され、新聞広告も自粛された。被災地に立地する新聞社は、災害援助協定を結ぶ近隣地域の新聞社に制作・印刷を委託するなどして新聞発行を継続した。岩手県盛岡市の岩手日報社は、東北地方の地方新聞社6社(河北新報社を除く)で締結する災害時相互支援協定の発動を初めて要請し、自家発電機を有する青森市の東奥日報社で4ページの紙面を印刷。宮城県仙台市に発行本社を置くブロック紙『河北新報』は、免震構造の輪転機で印刷した2頁の号外を地震発生当日の23時すぎに各避難所に届けた。翌日の朝刊は相互支援協定を締結していた新潟日報社に紙面制作を委託し、8頁の朝刊を発行。これらにより、停電のため映像として知られることのなかった沿岸部の深刻な津波被害の詳細を多くの市民が目にすることとなった。石巻市の地方紙・石巻日日新聞は、本社が津波で浸水し輪転機や編集作業用のコンピュータなどをすべて失った。水に浸からずに済んだ印刷用ロールから切り出した紙に油性フェルトペンで集めた情報を手書きした壁新聞を作成し、震災翌日から市内の避難所に張り出して情報提供を6日間にわたって実施した。7日目には入手した複合コピー機を使用して印刷した新聞の配布を開始し、2週間後には関係者が応急復旧させた古い輪転機で印刷を再開した。この壁新聞はワシントンにあるニュース総合博物館「ニュージアム」からの要請により、6日分全てが寄贈された。 -芥川の命日・7月24日は河童忌と呼ばれる。当初は遺族と生前親交のあった文学者たちが集まる法要だったが、1930年の四回忌から「河童忌記念帖」として文藝春秋誌上で紹介され、この呼び名が定着した。以後17回忌まで毎年行われていたが、戦争のため中断する。戦後、再開されたが詳しい記録は残っていない。1976年の50回忌は巣鴨の慈眼寺で墓前祭、丸の内の東京会館で偲ぶ会が催された。この日は第75回芥川賞の贈呈式で、受賞した村上龍も花を手向けにきた。没後90年にあたる2017年からは田端文士村記念館が世話役となり、「河童忌」イベントを開催している。 -この時期、リトアニアの���ウナスには日本領事館領事代理として杉原千畝が駐在していた。ソ連からはリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告が伝えられ、杉原はソ連政府と日本政府からの再三の退去命令を受けながらも、ドイツのユダヤ人に対する迫害政策から逃れようとしてドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人に対し、1940年7月から彼自身がリトアニアを離れる同年9月にかけて大量のビザを発給している。 -イタイイタイ病裁判の勝利を記念して1976年(昭和51年)5月、イタイイタイ病対策協議会が「清流会館」を婦中町萩島(現:富山市婦中町萩島)の被害地域に建設した。敷地3900m2、床面積750m2で患者救済・発生源対策・汚染土壌復元運動の拠点となるほか、全国の公害反対運動に連帯する活動を行っている。館内にはイタイイタイ病の闘いの年表や写真などの展示室および資料館などが設置されている。イタイイタイ病裁判の勝訴から30年以上が経過し、公害への関心が薄まってきたことから資金難に陥り、存続が危ぶまれたため、イタイイタイ病対策協議会は公設の施設を建設するよう要望。これは2012年(平成24年)4月29日に富山県立イタイイタイ病資料館が開館する事で実現している。2014年からは「イタイイタイ病を語り継ぐ会」が活動している。2018年3月15日には、富山大学が「イタイイタイ病資料室」を開設した。 -1776年、ついに最初の業務用に実働する動力機関が組み上がった。これらは鉱山の立抗底部に取りつけたポンプロッドに上下運動を伝えるだけのものだった。それでも、おもにコーンウォールの鉱山から揚水用に受注が舞い込み、ワットは機械の組み立てに忙殺された。これら初期の動力機関はボールトン・アンド・ワット商会で製作されたものではなく、ワットの設計に基づいて他の製造業者が製造し、ワットは技術顧問の役割を担った。機関の調整やならし運転はまずワット自身が行い、その後製造業者に引き継がれるようになっていた。これらは大型なもので、たとえば一番目に製造された機関は直径50インチ(127センチ)のシリンダーを備え、高さ24フィート(7.32メートル)もあり、専用の建屋が設けられるほどだった。この蒸気機関を使うことでニューコメン機関よりも節約できた石炭の3分の1に相当する金額を、年額特許料としてボールトン・アンド・ワット商会が受け取った。 -1994年にシングルとして発売された時、作られたリミックスはインストゥルメンタル版だけだったが、これもシングルには収録されなかった。キャリーは2000年に日本でこの曲を再発売し、「ソー・ソー・デフ・リミックス」(英:theSoSoDefremix)と銘打った新リミックス版を収録した。リミックス版ではボーカルが新収録されたほか、アフリカ・バンバータ&ソウルソニック・フォースの『プラネット・ロック』のサンプルを含む、より激しくアーバンなビートに編曲され、ゲスト・ボーカルとしてジャーメイン・デュプリとバウ・ワウが参加した。このリミックスは、2001年のコンピレーション・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』に特典トラックとして収録された。 -『鏡のヴィーナス』は、ベラスケスの傑作絵画のひとつとして長期間所有されてきた。フェリペ4世の近臣だったガスパール・メンデス・デ・ガズマン・アーロが所有していた絵画コレクションの、1651年6月1日付けの目録にこの作品が記録されていることが1951年に判明した。オリバーレス伯公爵だったアーロはベラスケスの最初のパトロンの甥で、有名な道楽者だった。美術史家のドーソン・カーはアーロのことを「女性を愛するのと同じくらいに絵画を愛した」そして「賞賛する人でさえ、彼が若いころに下級階層の女性に示した、度を過ぎた耽溺を嘆いていた」と書いている。このような理由で、アーロは絵画を集めるようになったのではないかと思われている。さらに2001年に美術史家のアンヘル・アテリドが、『鏡のヴィーナス』はマドリードの画商で、画家でもあったドミンゴ・ゲーラ・コロネルが最初の所有者で、コロネルが死去する数年前の1652年にアーロに売却されたことを発見した。コロネルがなぜこの絵を所有していたのか多くの謎に包まれている。どうやって、いつ入手したのか、なぜコロネルの絵画目録にベラスケスの絵画が記録されていないのか、などである。美術評論家のハヴィエル・ポルトゥスは、絵画目録にこの絵が記録されていないのは裸婦を描いた絵だったためではないかと推測し、「この種の絵画は人目をはばかるものだとみなされていたため、用心深く隠匿されていた」と考えている。 -船でばら積み貨物を輸送する費用はいくつかの要素に影響される。ばら積み貨物輸送市場はとても不安定で変動し、輸送する貨物、船の大きさ、輸送経路など全てが最終的な価格に影響する。ケープサイズの船で石炭を南アメリカからヨーロッパへ輸送する費用は、2005年時点で1トンあたり15ドルから25ドル程度である。パナマックス級の船で骨材をメキシコ湾から日本へ輸送する費用は、同じく2005年時点で1トンあたり40ドルから70ドル程度であった。ばら積み貨物船の運賃変動を表す指数として、バルチック海運指数がある。荷主によっては、1トンあたりの定価を払う代わりに、船を1隻借り切って1日あたりの費用を払う場合もある。2005年時点で、ハンディマックスの船を1日借りる平均費用は18,000ドルから30,000ドル程度で変動していた。パナマックスの船は1日当たり20,000ドルから50,000ドル、ケープサイズの船は40,000ドルから70,000ドルほどであった。 -ブクステフーデのアリアには、BuxWV59,74,80,90のように、ヨハン・シェフラー(アンゲルス・ジレージウス)、ヨハン・ヴィルヘルム・ペーターゼン等の神秘主義者、敬虔主義者やその影響を受けた詩人の歌詞が少なからず存在する。また、クレルヴォーのベルナルドゥス等の中世神秘主義の流れを汲む瞑想的な歌詞も、BuxWV56,57,75等の作品で採用されている。直接的な体験を通して神との合一を求める中世神秘主義は、バロック時代の思想の底流として生き続け、日常生活における霊的体験を重視するルター派敬虔主義の成立にも大きな影響を及ぼす。30年戦争の悲惨な経験を通して、この世を涙の谷ととらえ、来世に憧れのまなざしを向ける17世紀ドイツの民衆の心情には、こうした神秘主義的思潮が広く浸透していた。十字架上のイエスの苦しみをわが身のものとして受けとめ、花婿に擬えたイエスとの結婚を通して魂の救済を希求するこれらの作品は、ブクステフーデのシンプルな旋律法とも相まって、ブクステフーデの声楽曲のなかでもとりわけ強いインパクトをもっている。ブクステフーデの管弦楽書法は、17世紀ドイツの伝統に根ざすものであり、18世紀の標準的なオーケストラ編成とは大きく異なっている。声楽曲における特徴は中声部の充実と多様性にあり、ブクステフーデは楽曲ごとにヴィオラ、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオレッタ、ヴィオラ・ダ・ガンバ等、多様な楽器を組み合わせている。とくにヴィオラ・ダ・ガンバは、BuxWV32,64のように高度な技巧を伴った独奏楽器としても使用しており、ヴィオラ・ダ・ガンバに対する愛好と当時の演奏水準の高さを窺わせる。また、管楽器についても、低音リード楽器として、ファゴットではなく、時代遅れの楽器となっていたボンバルド(バス・ショーム)を使用するなど、古風な楽器編成を採用したものがある。 -カール4世はローマ王となってからもチェコ人としての意識を持ち続けたといわれる。1348年4月、カール4世は開催中であった全ボヘミア領邦議会の会期にあわせて一連の勅書を発布したが、彼はこれによってローマ王の立場から自身の選帝侯及びボヘミア王としての諸特権を再確認し、一方ではボヘミア王のもとでの所領の不可分性を規定した。また、同時に発した別の勅書によって、プラハを単にボヘミアの首都であるだけでなく皇帝の都として大々的に整備することを宣言し、その一環としてプラハ大学の設立を発令した。ヨーロッパにおける大学はボローニャ大学が最古でパリ大学がそれに次ぎ、イングランドではオックスフォード大学・ケンブリッジ大学、さらにイタリア南部でもサレルノやナポリには創設されたが、ライン川の東側、アルプス以北の領域には大学が一つもなかった。したがって現在のドイツにあたる地域で学問を志す若者は遠方で学ぶよりほかなかったが、幼少をパリで過ごした文化人皇帝カール4世はそのような状況の解消に努めるとともに、プラハを「東方のパリ」たらしめんことを図ったのである。ドイツ語圏初の大学は、カール4世の領国建設に資する官僚の育成を目的とするものでもあった。これにより、プラハは中欧における学問の中心として栄え、ヨーロッパ屈指の文化都市として発展した。プラハ大学そのものも上述の諸大学に比肩され、後に神学者ヤン・フスらを輩出している。プラハの旧市庁舎を建設したのもカール4世だといわれる。 -4月にコンスタンティノープルから1,600人のスラブ族とフン族の部隊が到着し、11月に兵5,000の増援が到着すると東ローマ軍は攻勢に転じた。東ローマ軍の騎兵隊が東ゴート軍の背後の諸都市を攻略・略奪し、もともと貧弱だった補給状態をさらに悪化させて、東ゴート族を威嚇した。最終的にラヴェンナから1日の距離にあるアリミヌム(Ariminum:現在のリミニ)がヨハネス将軍によって攻略させられたことにより、ウィティギスは包囲を解いて撤退した。 -当時欧州連合理事会議長国であったフランスの仲介で8月12日に休戦提案が行われ、8月15日にはグルジアがトビリシで、8月16日にはロシアがモスクワで署名に応じた。8月12日にはロシアのメドヴェージェフ大統領から、ロシア軍のグルジア領内での軍事活動に対する停止命令が出ていたが、そのときは実際の戦闘は停止していなかった。ロシア側の停戦受け入れ後、ロシア軍はグルジア領内からの撤退を開始した。ただし完全なものではなく、アブハジアや南オセチアに接するグルジア領内のポティ、セナキ(Senaki)、ペレヴィ(Perevi)に「軍事中立地帯」と称して軍を残した。2008年8月26日、ロシアは国際的にはグルジア領とされている南オセチアとアブハジアの独立を承認した。10月8日、ロシア軍は国際合意を受けてグルジア領内から完全に撤退した。 -当初カラハン朝とガズナ朝との関係は良好で、ナスルとガズナ朝のスルターン・マフムードの娘との婚姻が進められていた。しかし、カラハン朝はガズナ朝を成り上がり者の国と蔑視し、ペルシア・インドを抑えるマフムードもカラハン朝を野蛮な国と見なし、またカラハン朝からの攻撃を警戒していた。1006年にマフムードがインドに出征した際、ナスルは隙を突いてホラーサーン地方に侵入し、ホータンのユースフの援軍を得てバルフ、ニーシャープールを略奪した。1008年1月にナスルはバルフ近郊のシャルヒヤーンの戦闘でマフムードに敗れ、撤退する。1025年にマフムードがナスルの子アリーの支配化に置かれていたマー・ワラー・アンナフルに侵入した際、カシュガルの支配者の地位を継いだユースフはマフムードと連合して西カラハン朝を攻撃した。1026年にアリーはブハラ、サマルカンドをガズナ朝から奪回したが、1032年にはマフムードの子マスウードによって一時的にブハラを占領された。 -18世紀末、ロシアの女帝エカチェリーナ2世は黒海、バルカン半島への勢力拡大を図るだけではなく、オスマン帝国を廃した上でコンスタンティノープルを首都としてビザンツ帝国を再興、孫にコンスタンティンと名付けた上で皇帝に即位させて「バルカン帝国」を築くことを考えていた。1763年以降、ロシアの使者はバルカン半島を駆け巡り、ギリシャ人有力者、高位聖職者、クレフテスやアルマトリらと関係を結んで彼らを蜂起させようとした。1789年、フランス革命が発生するとナショナリズムがヨーロッパを覆い、さらにドイツ・ロマン主義の台頭で各民族の母語の重要性が叫ばれた。これは西欧に移住していたバルカン諸民族の商人らによってバルカン半島へ持ち込まれたが、その結果、発生したのがセルビア蜂起である。 -また、現在黄砂の発生源となっている黄土高原は、250万年前から始まり200万年前から増えた風送ダストによってできたと考えられている。これら黄砂や風送ダストの量の変化は、気候変動や地殻変動によって、風や降水、地形などのパターンが変わったことによる。また、日本の南西諸島にはクチャ(学術名:島尻層泥岩)と呼ばれる厚さ約1,000メートルの泥岩層が分布しているが、この層には黄砂由来の粒子が含まれていると考えられている。島尻層泥岩は新第三紀、およそ2500万年前から200万年前ごろの地層であり、このころにも黄砂が飛来していた可能性を示唆している。さらに堆積物の分析結果から、もっとも古い時代では白亜紀後期にあたる約7000万年前から黄砂が発生していたと考えられている。 -マリア・スクウォドフスカ=キュリーは、現在のポーランド出身の物理学者・化学者である。フランス語名はマリ・キュリー。キュリー夫人として有名である。1867年11月7日、ワルシャワ生まれである。放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルドからキュリー研究所を与えられた。放射能という用語は彼女の発案による。 -夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者である。本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。俳号は愚陀仏である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などである。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身である。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表した。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載した。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆した。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。 -第二次ブルガリア帝国(ブルガリア語:Второбългарскоцарство,英語:SecondBulgarianEmpire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家である。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。 -苛烈を極めた沖縄戦が事実上終結したのは、1945年6月下旬である。この戦闘で、一般住人の約94,000人が戦死または行方不明となった。アメリカ軍は、沖縄戦を生き抜いた住民の大半を沖縄本島内の7箇所のキャンプに収容した。その数は1945年10月の段階で、約249,000人に及んだ。 -ハチ(1941年(昭和16年)2月頃-1943年(昭和18年)8月18日)は、恩賜上野動物園で飼育されていたオスのヒョウである。日中戦争(支那事変)の最中の1941年(昭和16年)2月28日、中華民国湖北省の山中で日本軍の小隊に保護され、「ハチ」と命名された。小隊長の成岡正久(なるおかまさひさ)と小隊の兵士たちはハチを可愛がって育て、ハチも兵士たちを慕うようになった。戦局が切迫するにつれて小隊にハチを同行させることが困難になってきたため、成岡は伝手を頼って恩賜上野動物園にハチを引き取ってもらった。その後ハチは戦時猛獣処分の対象となって薬殺され、第二次世界大戦終戦後に成岡と再会したときには剥製になっていた。成岡は故郷の高知にハチを連れ帰り、晩年になってから高知市子ども科学図書館に寄贈した。ハチの生涯とエピソードについては成岡自身の著書『豹と兵隊』を始め、宮操子、浜畑賢吉、門田隆将などが本の題材として取り上げている。 -1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 -警察の記録によると、負傷した兄弟の車からウォッカの瓶を発見したことと、タチアナに投げつけられたと推定される松ぼっくりと棒切れを発見したことを報じた。3人とも大麻を吸引していて、動物園まで飲酒の上で車を運転していた。ソーサの血中アルコール濃度は0.02に達していて、ダリワル兄弟も事件当時酔っていたことが示唆されていた。クルビルの所持する車からは少量のマリファナが発見された。警察は飼育舎の囲いに靴跡を発見したことを発表し、被害者の靴跡と一致するかの法医学的分析を行った。2008年1月15日には、警察への通報記録とその録音が公表された。 -3月11日の東京市場の大引けまであと14分という時間に震災が発生した。株式市場には売りが殺到、10,350円前後で推移していた日経平均は10,254円43銭と前日比180円安まで急落し、安値引けとなった。週明け3月14日の東京市場は9時より通常通り取引を開始したが、ほとんどの銘柄が売り気配で始まった。日経平均は、始値は210円安の10,044円17銭で始まり、幅広い銘柄に売り注文が殺到し下げ幅を拡大、終値は9,620円49銭(633円94銭安6.18%の下げ)と1万円を割りこんだ。更に翌3月15日には4号機が爆発・炎上し、放射能汚染が広範囲に拡大したことで日経平均は大幅続落、一時1,392円安の安値8,227円63銭まで下げ、終値は1,015円安の8,605円15銭と9,000円を割り込んだ。15日の日経平均株価は前日比-10.55%、過去3番目に高い下落率の大幅下落を記録する事となった。震災前と比べ、3営業日で2,361円87銭安(22.3%安)になった。その後、地震から4営業日目の16日に反発となり、488円高の9,093円まで戻した。一方為替相場では、復興資金調達のために円の価値が高まるとの思惑から急激な円高が進行し、3月17日に一時1ドル=76円台となって戦後最高値を更新した。これに対し、日銀やG7合意に基づく協調介入により市場の安定化を図ったため、3月20日には80円台を回復し円高にも一応の歯止めがかかった。さらに、原子炉事故への対応の進展が伝えられると株価も反発し、3月22日には日経平均も9,600円台を回復した。しかし、世界銀行が最大で2,350億ドル(約19兆円)、日本政府が16-25兆円の震災被害想定額を発表するなど、経済的影響の大きさが伝えられたほか、日銀短観や景気動向調査でも景況感の悪化が伝えられた。工場の被災や部品不足により、国内外で生産停止や特定製品の品薄が発生した一方、「震災特需」「復興特需」による一部産業での景気の上向きが発生している。ただ、2011年末で推定12万人の震災失業が伝えられるなど、被災地を中心に経済への影響はいまだ続いている状況にある。復興費用は10年間で23兆円(2011年7月時点)と見込まれていて、復興債による補填も行われている。 -13世紀初め、それまでアンダルスを支配していたムワッヒド朝が、新たに勃興したハフス朝、マリーン朝との抗争に追われることとなり、アンダルスから事実上の撤退といった状況となった。これにより、アンダルスは「第三次ターイファ」と呼ばれる時代を迎え、都市有力者のマーリク派法学者やアンダルス系軍事小集団の指導者の政権が乱立した。その中で、1232年アンダルス系軍事集団の指導者だったムハンマド1世(ムハンマド・ブン・ユースフ(イブン・アフマル))がハエン近くのアルホーナ(Arjona)で蜂起し、ターイファの1国となった。1237年(1238年ともいわれる。)、ムハンマド1世が都を正式にグラナダに定めた。この後、さらにアルメリア、マラガへ進出し、アンダルス南部に勢力を確立��た。当時、カスティーリャ王国に代表されるキリスト教勢力がレコンキスタ(再征服運動)を展開しており、ナスル朝グラナダ王国以外にもいくつかのイスラーム小王国が存在していたが、13世紀前半までにその多くがカスティーリャ王国に征服されていた。そのため、ナスル朝はイベリア半島におけるイスラーム勢力最後の牙城として位置づけられるようになった。 -オキチモズク(学名:Nemalionopsistortuosa)は、チスジノリ科オキチモズク属に属する淡水産紅藻の一種である。藻体は暗紅褐色のひも状で多数分枝し、10-40センチメートルまで成長するものが多い。1938年(昭和13年)に愛媛県温泉郡川上村(現:東温市)のお吉泉周辺で初めて発見され、その後、九州・沖縄の20数か所で確認されたが、発生がみられなくなり絶滅したと考えられているところも多い。 -1853年にはアルゼンチン初の農業学校がメンドーサ州に設立された。1860年代にサン・フアン州知事を務めたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントは、フランスの農学者であるミシェル・エメ・プジェを農業学校の校長として招聘し、フランスからブドウの挿し木の導入を進めた。プジェがアルゼンチンに最初期に持ち込んだ品種の中にマルベック種があり、彼は初めてマルベック種をアルゼンチンに植えた人物である。アルゼンチンの人口は国土の東側半分で成長したが、ワイン産業はアンデス山麓がある国土の西側半分に集中した。ワインは荷馬車に積まれて長い道のりを輸送されたため、ワイン販売は困難を要する仕事だった。 -デングウイルスに感染しても8割は無症状であり、それ以外も軽度の症状、例えば合併症を伴わない発熱症状が現れるだけがほとんどである。しかし、5%の感染者では重症にまで発展し、さらにごく一部では生命を脅かすこともある。潜伏期間(感染してから症状が出るまでの期間)は3日から14日であるが、ほとんどの場合は4日から7日である。このため、デング熱の流行地域から戻ってきた旅行者が、帰宅してから14日以上経った後で、発熱やその他の症状が出始めた場合、デング熱である可能性は極めて低い。子供の場合、風邪や胃腸炎(嘔吐や下痢)とよく似た症状がたびたび現れ、症状は一般的に大人よりも軽いが、その一方で重度の合併症に陥りやすい。 -ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 -加茂干拓地は安楽島町及び船津町に編入されていたが、複雑に地番が入り乱れていたため、住居表示を導入すると同時に、新町名「大明東町」・「大明西町」を1981年(昭和56年)に制定した。同年6月29日、市民の森公園が開園した。1989年(平成元年)7月17日、鳥羽市立図書館が新築開館し、1997年(平成9年)3月には鳥羽商工会議所会館が、2000年(平成12年)2月には鳥羽市保健福祉センター「ひだまり」が完成した。2007年(平成19年)3月11日には鳥羽市リサイクルパークが開業した。 -ドイツ軍の基本的な防寒具はオーバーコートである。将校と下士官・兵士でデザイン上の大きな違いはない。素材や細部に個人差が見られる程度である。オーバーコートの前ボタンは6個のボタンがダブルになっている。背中の腰部分には2個のボタンで止めるハーフベルトが付いており、そこからプリーツ(のちセンターベント)が下に伸��ていた。コートには襟章は付けず、肩章と袖章のみを付けた。素材はウールであることが多かった。1934年制定の支給オーバーコートは襟の部分だけダークグリーンだったが、野戦服と同様に1940年からコート全体がフィールドグレー色で統一された。1942年に新しい支給オーバーコートが採用されたが、これは1941年から1942年にかけてのロシアでの厳寒の経験を踏まえて襟を大きくし、顔の下半分を隠せるようにしていた。また両脇にスリット・ポケットが加えられていた。また動きやすいように背中のプリーツがセンターベント(切り込み)になり、必要ならボタンで留める仕様となった。大佐以下は襟を閉じてコートを着用するが、将官は開襟でコートを着用した。陸軍将官のオーバーコートの下襟の内側はカーマインレッド色であり、それを外部に見せつけるように開襟した。 -イブン・スィーナーは18歳までに蔵書の全てを読破し、「18歳にして全ての学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至る。王室附属図書館の蔵書はイブン・スィーナーの知識を深める上で大きな役割を果たした。間も無く図書館は火災で焼失するが、イブン・スィーナーの才能を妬む人間たちは、彼が知識を独占するために放火したと噂し合った。18歳の時、隣人のアル・アルーディにむけて、イブン・スィーナーは最初の著作『種々の学問の集成』を書き上げた。 -宋(960年-1279年)は長い内戦後の中国に安定をもたらし、科挙と能力主義で新時代の社会を切り開いた。初代皇帝が打ち立てた政体は言論と思想の自由を大幅に認めたため、科学の進歩、経済改革、芸術・文学が開花する土壌ができた。交易は国内・対外とも盛んになり、開封や杭州の貨幣鋳造所では技術改良が進み次第に宋銭の生産量が増加した。1080年に神宗の貨幣鋳造所は500,000,000個の硬貨(中国人ひとりあたり約50個)を鋳造し、1023年には初の紙幣を生産した。この硬貨は長く市場に出回り700年後の18世紀まで使われた。宋の時代には著名な発明家や科学者が数多く輩出した。官吏の沈括、著作『夢渓筆談』(1088年)でよく知られる。沈括は本書で、船舶修繕用乾ドック、航行用磁気羅針盤の使用のほか、『真北』という概念(および北極への磁気偏角)の発見について触れている。また沈括は、土地形成の地質学的理論(地形学)を創案したり、きわめて長い時間で地質学的地域に気候変動が起こることを理論化した。同じような才能に恵まれた官吏の蘇頌は、1088年頃に完成した開封の天文時計台を技術監督したことで知られる。時計台は水車を動力に脱進機で駆動した。この脱進機がヨーロッパに出現するのは2世紀後のことである。時計台の頂上に冠するのは機械仕掛けで動く大きな青銅製の渾天儀である。蘇頌は『本草図経』(図解薬局方、原典は1058年-1061年)を学者グループで編纂し1070年に出版した。この薬学論文は関連分野が植物学・動物学・鉱物学・冶金学にまたがる博物学的なものであった。中国の天文学者は1054年に世界で初めて超新星観測記録を残したが、この超新星はその後かに星雲となり、超新星爆発に関係することが確認された最初の天体となった。アラビア天文学と中国天文学はモンゴル人支配による元の時代に交流があった。クビライが設立した中国天文局でイスラム教徒の天文学者が働き、ペルシアのマラガ天文台で中国人天文学者が観測に従事した。 -地震が発生した当日、菅直人首相は自身を本部長とする緊急災害対策本部を設置した。これは大規模な災害が発生した場合に内閣府に設置することと法律で定められている臨時の機関であるが、これまでに設置された例はなく、東日本大震災の発生によって初めて設置されることとなった。菅第2次改造内閣は、平成23年度本予算案を衆議院本会議で賛成多数で可決させたものの予算関連法案は成立させるめどが立たず、与野党間の対立も激しさを増していたが、震災発生後は一転し、震災発生から間もなく菅直人首相が首相官邸に集めて与野党党首会談を行い、「救国」のための協力を要請した。野党側も対立姿勢を修正した。14日には震災対応特措法の早期成立が与野党内で合意された。2011年(平成23年)4月11日の閣議決定により、東日本大震災復興構想会議が設置された��同年6月24日に東日本大震災復興基本法が公布・施行され、東日本大震災復興対策本部が内閣に設置された。7月25日、東日本大震災の復旧・復興関連経費を盛り込んだ平成23年度第二次補正予算(1兆9,988億円)が成立した。11月20日、東日本大震災関係経費11兆7,335億円などを柱とする平成23年度第三次補正予算(12兆1,025億円)が成立した。12月7日、東日本大震災復興特別区域法が成立した。12月9日、復興庁設置法が成立し、震災からの復興を目的として期間を定めて設置される復興庁の所掌事務、組織が具体化された。2012年(平成24年)2月10日、復興庁が発足した。2012年(平成24年)1月27日、東日本大震災に関する15組織のうち、「原子力災害対策本部」「政府・東京電力統合対策室」「原発事故経済被害対応チーム」「緊急災害対策本部」「被災者生活支援チーム」「官邸緊急参集チーム」「各府省連絡会議」「経済情勢に関する検討会合」「電力需要に関する検討会合」「電力改革及び東京電力に関する閣僚会合」の10組織が公文書管理法が主旨とする議事録を未作成、そのうち5組織では議事概要も未作成または一部作成であったとする調査結果を発表した。野田佳彦首相は午前の参議院本会議で「文書で随時記録されなかったのは遺憾。会議の意志決定過程を把握できる文書作成は国民への説明責任を果たすため極めて重要」と答弁した。 -忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた。忠敬は伊能家の主人という立場から、村民からの推薦で名主後見という立場に就いた。しかしそうはいっても忠敬はまだ若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった。この時期の忠敬は病気になって長い間寝込んでいたこともあった。新主人として親戚づきあいなど気苦労も絶えなかったと推測されている。 -その後もフッテンは大司教アルブレヒトや、新皇帝カール5世にたびたび手紙を出して、カトリック教会の改革の必要性を説いた。しかしそれは無視された。やがてフッテンは激しい愛国心とローマに対する敵愾心を露わにし、教会に対する革命的闘争を企図するようになっていった。その著作は初めはラテン語だったが、後にはドイツ語で著すようになり、1520年には『対話集』を著した。これはドイツの愛国主義とローマ教会批判の性格を強く帯びたものだった。フッテンは人文主義者の中で、政治家として最も目立つ存在となっていった。 -ジェット旅客機を開発・製造するエアバス・インダストリー(以下、エアバス社)は、欧州各国の航空機メーカーによるコンソーシアム(企業連合)として発足した。エアバス社はその成り立ちから、参加企業が一定の業務量を確保できるように、各社で分担して胴体や翼を生産する国際分業体制を採用した。この枠組みにおいては、欧州各地に点在する工場で生産された機体各部(コンポーネント)を最終組み立て工場のあるトゥールーズに輸送する必要があった。航空機のコンポーネントは、巨大で重量がありながら高品質で繊細、そして高価という特徴があり、相応の扱いが必要だった。そこでエアバス社は、大型貨物用の輸送機としてボーイング377「ストラトクルーザー」を改修した「スーパーグッピー」を採用した。スーパーグッピーは、アメリカ航空宇宙局(NASA)のロケットや宇宙機の巨大な部品を運ぶために開発された輸送機である。エアバス社はスーパーグッピーの運用を1971年から開始し、段階的に増備を重ねて1983年には4機体制となった。競合相手であるボーイング社の輸送機を使用したことで、「全てのエアバス機はボーイングの翼によって届けられる(EveryAirbusisdeliveredonthewingsofaBoeing)」、あるいは「全てのエアバス機はボーイングの翼で初飛行する(EveryAirbustookitsfirstflightonaBoeing)」といった冗談も生まれた。 -東北や関東の被災地では、交通インフラの損壊や燃料不足によって配達が遅延し、復旧までに4-5日以上を要した。『岩手東海新聞』(岩手県釜石市、宮古市などを中心とする夕刊紙)は、本社にあった唯一の輪転機が水没し、読者の多くも被災したため収入の確保が難しくなり、3月29日���で全従業員を解雇し、休刊となった。現在も発行再開の見通しは立っていない。このほか、『いわき民報』(福島県いわき市の夕刊紙)、『しんぶん赤旗』東北版(日本共産党の機関紙)、『大崎タイムス』(宮城県大崎市の日刊紙)、『三陸新報』(宮城県気仙沼市の日刊紙)などが数日休刊となった。その一方で『東海新報』(岩手県大船渡市の日刊紙)のように自家発電装置で輪転機を回して新聞発行を継続したところもあった。3月11日付のニューヨーク・タイムズ紙では「日本の厳しい耐震基準や防災教育により、多くの人命が救われた」とする記事が掲載されたほか、3月15日付では「非常事態に陥っても他者への気遣いや礼節を守り続ける日本人の国民性に学ぶべきものがある」とする記事も掲載された。またワシントン・ポスト紙でも救助・復興活動に当たる消防団員や自衛官、警察官の様子を「能率的」と評したほか、被災者についても「冷静で礼儀正しく、驚くほどけなげに対処している」としている。 -アッシュール・ダン3世とアッシュール・ニラリ3世の治世中、アッシリアの権威と権力は劇的に低下した。統治力がようやく回復したのは、ティグラト・ピレセル3世の治世になってからである。後を継いだその息子シャルマネセル5世の死からサルゴンの即位に至るまでの経緯は、完全には明らかにはなっていない。宮廷クーデターによってサルゴン2世がシャルマネセル5世を廃位・暗殺したという推測が、最も有力視されている。 -チンドンのコンクールも開催されるようになった。東京の新橋で1950年に行われたのが最初で、昭和30年代には、東京都内、前橋、沼津、姫路、伊勢、函館、彦根など、全国各地でチンドンコンクールが開催された。多くのコンクールは継続しなかったが、1955年に始まった富山での「全国チンドンコンクール(1965年に全日本チンドンコンクールに改称)」は、現在(2016年)まで継続して開催されている(2011年は東日本大震災のため中止)。このコンクールは、全体を統括する組織がない中で、業界を「緩やかにつなぐ」役割を果たしている。 -尼港事件(にこうじけん、露:НиколаевскийинцидентNikoláyevskiyIntsidyént,英:NikolayevskMassacre)は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件である。ニコラエフスク事件ともいう。 -サンデーサイレンスは非常に気性が荒く、騎乗した人間の指示に従わず暴れる傾向があった。ウィッティンガムは、厩舎一の腕を持つジャネット・ジョンソンをサンデーサイレンス担当の調教助手に指名したが、ジョンソンは気性の荒さに嫌気が差し、一度騎乗しただけで降板している。騎手のウィリー・シューメーカーも調教のために騎乗したことがあるが、気性の荒さに激怒し、レースでの騎乗を拒否した。ウィッティンガムによると、ヘイローの産駒は総じて気性が荒いという。しかし、種牡馬時代のサンデーサイレンスは、メジロマックイーンがそばにいると大人しくなることが多く、サンデーサイレンスとメジロマックイーンの放牧地は隣同士に設えられていたという逸話がある。前述のように、サンデーサイレンスは1986年11月に悪性のウイルスに感染して激しい下痢を起こし、生死の境をさまよったことがある。この闘病についてハンコックは「普通の馬だったらダメだっただろう」、「よほどの精神力がなければ、とてもじゃないがあんな経験は乗り越えられない」と述べている。 -Sは高校中退後は祖父Xの経営していたウナギ加工・販売などの仕事を手伝っていたが、店の売上金を複数回盗んだほか、1990年1月17日には祖父Xから盗みの疑いを掛けられたことに激怒し、22時ごろに祖父X宅へ赴き就寝中だったXの顔面を蹴るなど暴行を加え、Xの左目を失明させる事件を起こした。また鰻屋の同僚には不良が多く、同僚たちから非行や喧嘩の方法を教わったほか、自分を挑発してきた同年代の同僚に対する暴力沙汰も起こした。また母や弟への家庭内暴力・不良仲間らとの徘徊行為・飲酒・喫煙を行うなど生活は荒れていった。家庭内暴力に耐えかねた母親YはSを別居させるため、1991年6月から契約金58万円余りを出して船橋市本中山のアパートで一人暮らしさせたが、その後も近隣住民とのトラブルを起こしていた。事件直前には本事件の被害者一家宅を知るきっかけとなった強姦事件を含め傷害・強姦・強姦致傷・恐喝・窃盗など多数の事件を起こしたほか、このころには鰻屋も無断欠勤して辞めていたためほぼ無職の身だった。 -ラーンナーが大きな繁栄を見せたのは、クーナー王(1355-1385年)の代からで、ラーマン派(旧ランカーウォン派)と呼ばれる仏教を保護し、スコータイからスマナー長老を招き、ワット・スワンドークを建設して仏教の一大中心地を作り上げた。その後サームファンケーン王(1402-1441年)の代には、長きにわたり滞っていたラーンナーの朝貢に対して侵攻してきたチン・ホー族(雲南のムスリムを呼ぶ言葉)を追い返し、明の支配下から独立した。 -1886年、ウェストミンスター寺院の聖マーガレット教会で初代ファーンバラ男爵、メイの記念碑が立てられた。また、死後に撮影された写真に基づき、アルバート・ブルース=ジョイが胸像を作製し、1890年3月6日に庶民院議長による除幕式が行われた。 -他方、ティムール達に勝利したイリヤース・ホージャは守備兵がいないサマルカンドに向かって進軍を続けた。当時のサマルカンドは城壁と内城が再建されていなかったが、サマルカンド市民の中にはモンゴルからの解放を掲げる「サルバダール運動」を行う一団が存在していた。サマルカンドに入城したイリヤース・ホージャの軍はサルバダールが指揮する市民の奇襲を受けて壊滅し、さらに軍馬が疫病に罹って激減したためにマー・ワラー・アンナフルから退却した。イリヤース・ホージャは敗走中にドグラト部のカマルッディーンによって殺害され、カマルッディーンはモグーリスタンのハンを僭称した。1366年春にイリヤース・ホージャが退却したことを知ったティムールとフサインはサマルカンドに戻り、一度はサルバダールたちの勝利を称え、彼らに面会を申し出る。歓待の後にティムール達は態度を一変させ、ティムールの取り成しによって助命された一人を除いてサルバダールを皆殺しにする。 -成魚の体には5列の隆起線があり、1列は背の正中線上で背鰭と一体になり、他の2対は体側にある。第一背鰭は第二背鰭の2倍程度の大きさである。胸鰭は大きくて幅広い。腹鰭・臀鰭はそれより小さいが、第二背鰭よりは大きい。尾鰭は体と同じくらい長い。下葉は小さく、上葉の先端には大きな欠刻がある。2.5m程度まで成長するが、不確実な記録では3.5mというものもある。全長に雌雄差はない。 -岡本かの子を理想の女性像としたふみ子は、家政学院時代から女性であることを誇りに感じており、後に死の数カ月前に「幸福な少女時代、更になほ幸福な家政学院遊学時代」と回想したように、2年間の家政学院での学生生活を満喫した。ふみ子は麹町にあった中原淳一関連のグッズ販売店「ひまわり」に通いつめ、洋服やレターセットなどを買っていた。そして級友と共にトランプやハイキングに興じ、喫茶店やレストランへ行き、映画や芝居を観覧し、買い物、そしてダンスを楽しんだ。ふみ子の人生はその後、様々な試練、苦闘に見舞われることになるが。自分らしい生き方を貫くことを求め、女性であることを誇りに思う心性を持ち続けた。 -アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制から絶対王政へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた。ピョートル1世がオスマン帝国を圧迫するようにな��と、神聖ローマがロマノフ朝を支援して前線を南下させた。19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。オスマン債務管理局が設置された世紀末から、ドイツ帝国が最後まで残っていた領土アナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は中央同盟国として第一次世界大戦に参戦し敗れた。敗戦後の講和条約のセーブル条約は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったために同条約に反対する勢力が、アンカラに共和国政府を樹立し、1922年にはオスマン家のスルタン制度の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。1923年には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、1924年にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言。結果、アナトリアの国民国家トルコ共和国に取って代わられた(トルコ革命)。 -電気事業のほか軌道事業も営み、神岡軌道を運営して神岡鉱業所の物資輸送などに従事し、両事業を通じて年間約60万円の利益金を上げていた。しかし日中戦争下において電力国家管理政策が強化されると、1941年(昭和16年)に事業の柱であった発電所2か所に対して国策電力会社日本発送電への出資が指示される。翌1942年9月には残る発電所1か所と軌道事業を三井鉱山へと譲渡し、神岡水電は解散した。神岡水電から日本発送電へと出資された2か所の発電所はその後、戦後日本発送電が解体されるにあたって北陸電力が継承している。 -富山県では東礪波郡井波町の北越井波書籍館(1884年-1886年)、中新川郡砂子坂村の真理館(1885年-1899年)、富山市の富山循環書院(1888年6月-????年)、氷見郡氷見町の枇杷籛太郎文庫(1892年-1900年)、下新川郡入善町の米沢図書館(1910年-1937年)など、明治時代に民間が運営する小図書館がいくつも設立されては消えていった。1902年(明治35年)11月18日には富山県初の公立図書館として、下新川郡三日市町に下新川郡立図書館が設立された。 -オットーは1945年6月3日にアムステルダムに帰還した。オットーは親戚や友人の多さのおかげで強制収容所から解放されたユダヤ人の中では経済的には恵まれた方だった。親戚が小包やお金を贈ってくれた。ニューヨークのネーサン・ストラウスjrも送金してくれた。また住居を失ったオットーのためにミープ・ヒースとヤン・ヒース夫妻が自宅に同居させてくれ、プリンセン運河通りの会社の社業にも復帰できた。ヴィクトール・クーフレルとともに会社の取締役に復帰した(オットーとクーフレルは1955年に会社を売却するまで経営を続けた)。だがオットーはこうして得た金を自分のためにはわずかにしか使わず、同じ境遇のユダヤ人、特にアンネの友達でベルゲン・ベルゼン強制収容所から生還したハンネリ・ホースラルとその妹への義捐金に宛てた。オットーは仕事をしながら娘たちの情報を探り続けた。そんな中、1945年7月にベルゲン=ベルゼンでアンネやマルゴーと一緒にいた囚人ヤニー・ブリレスレイペルがオランダ赤十字社からの行方不明者に関する調査に対してアンネとマルゴーの死亡を報告した。これを知ったオットーは7月18日にヤニーに直接面会し、アンネとマルゴーについて聞き質した。彼女の口から改めてアンネたちの死を聞かされたオットーの顔は蒼白になり、椅子にどさりと崩れ落ちたという。ロンドンにいる兄ロベルトから「短い間とはいえ家族で幸せに暮らせたことは、お前にとってせめてもの慰めと思う。彼女たちはもう苦しんではいない。生きること、絶望しないこと、愛する者たちの思い出を大事にすること、それがお前の役目だ。こんなに辛い目にあってもお前は怒りや憎しみの言葉を口にしない。本当に感心している。」という手紙を贈られた。 -東南アジアに限れば、1950年と比較すると、コメの生産量は約4.5倍にまで増大した。その間、収穫面積は約1.8倍になったが、収量は2.5倍に増加した。つまり、収量の増大がコメの増産の原動力であった。南アジアにおいては、東南アジアと比較すると耕作可能な土地が少なく、水田の生産環境も劣っている。さらに、フィリピンを中心にして開発された品種を、南アジアの生産環境に適合させる為に長い時間を要した。これらの事情により、南アジアにおける収穫面積の増大は東南アジアより緩やかで、収量の増���についても東南アジアのものに劣っている。結果としてコメの生産量の伸びにおいても、南アジアは緩慢であった。しかし、南アジアにおいては、1980年代における収量の加速的増大があった。これは、南アジアにおいては東南アジアに数年遅れて「緑の革命」が本格的に普及したことを表している。遅れて緑の革命が開始されたベトナム、バングラデシュ、インドでは、1990年代に入っても収量が増大し続けている。 -ばねの種類の中ではコイルばねがよく知られ、特に圧縮コイルばねが広く用いられている。他には、板ばね、渦巻ばね、トーションバー、皿ばねなどがある。ばねの材料には金属、特に鉄鋼が広く用いられているが、用途に応じてゴム、プラスチック、セラミックスといった非金属材料も用いられている。空気を復元力を生み出す材料とする空気ばねなどもある。ばねの荷重とたわみの関係も、荷重とたわみが比例する線形のものから、比例しない非線形のものまで存在する。ばねばかりのように荷重を変形量で示させたり、自動車の懸架装置のように振動や衝撃を緩和したり、ぜんまい仕掛けのおもちゃのように弾性エネルギーの貯蔵と放出を行わせたりなど、色々な用途のためにばねが用いられる。 -中国史における貴族は、魏晋南北朝時代から唐末期(220年-907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。後漢の豪族を前身とし、魏において施行された九品官人法により貴族層が形成された。北朝ではこれに鮮卑や匈奴といった北族遊牧民系統の族長層が加わり、その系譜を汲む隋・唐でもこの両方の系統の貴族が社会の支配層の主要部を形成した。中国史学では、貴族が社会の主導権を握っていた体制を貴族制と呼ぶ。貴族は政治面では人事権を握って上級官職を独占することで強い権力を維持し、その地位を子弟に受け継がせた。このことにより官職の高下が血統により決定されるようになり、門地二品・士族と呼ばれる層を形成した。一方、文化面では王羲之・謝霊運などを輩出し、六朝から唐中期までの文化の担い手となった。隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。貴族という用語は日本の歴史学界で使われる用語であり、当時の貴族による自称は士・士大夫・士族であった。これに倣い中国の歴史学界では士族の語が使われる。ただし、日本の学界における貴族制の理解と、封建地主制を前提とした中国の学界における士族制または門閥制の理解には相違があり、現状では完全に同義の用語というわけではない。 -夏目金之助(後の漱石)は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、金之助は望まれない子として生まれたといえる。名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。 -東松島市では市域の36%が浸水した。野蒜地区は、東側の仙台湾(石巻湾)から押し寄せた津波が内陸2キロメートル弱を横断し、西側の松島湾に流れ込んだ。野蒜小学校の体育館で13人が、特別養護老人ホーム「不老園」の入所者56人が亡くなるなど、野蒜地区や大曲地区が壊滅的被害を受け、約1,100人が犠牲となった。航空自衛隊松島基地も冠水し、多くの航空機が破損した。その一方、野蒜地区では民間人の佐藤善文が自宅裏の岩山に10年かけて避難階段と避難小屋を作っていた。近所の住民は「津波なんてここまで来るわけがない」と佐藤を変わり者扱いし、この避難所を「佐藤山」と呼んでいたが、結果的に約70人が津波被害を免れた。多賀城市は仙台市のベッドタウンであり、大きな幹線道路2本に沿って郊外型の大型店が建ち並んでいた。海に面しているのは東部の砂押川河口のごく一部であり、市民ですら海の街という認識は薄く、幹線道路を通過する市外の者はさらに認識が薄かった。地震の混乱で道路が大渋滞しているところ、建物の間から突然津波が襲来した。犠牲者は2本の幹線道路の車内を中心に200人弱であり、その半数は市外に住む人であった。仙台市は104.7万人(2011年3月1日推計人口)を擁する政令指定都市であったが、沿岸部の仙台平野の大部分が開発が制限される市街化調整区域であり、田園地帯が広がっていたため、人口密集地への浸水はほぼなかった。しかし、沿岸部にあった主な集落である若林区荒浜地区や宮城野区中野蒲生地区が壊滅し、また仙台港一帯の工業地域や商業地域を中心に、犠牲者数は800人以上となった。若林区では区域の60%が浸水し、田園地帯を3-4km内陸まで浸水する様子がNHKのヘリコプターからも撮影され、大きく報道された。荒浜にある仙台市消防ヘリポートも被害を受け、津波到達前に離陸した2機のヘリコプター以外の機材が使用不可能になる被害を受けたため、内陸部への移転が計画されている。 -夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者である。本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。俳号は愚陀仏である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などである。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身である。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表した。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載した。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆した。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。 -レオナルドは1452年4月15日の「日没3時間後」に、トスカーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた。父はフィレンツェの裕福な公証人セル・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母はカテリーナである。レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチの」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチのセルのレオナルド」という意味となる。セルは敬称であり、レオナルドの父親が公証人についていたことを示している。 -1692年、ナポリの画家ルカ・ジョルダーノは、フェリペ4世の私室に飾られた絵を観ることができる少数に仲間入りを果たし、『ラス・メニーナス』に大きく心を動かされた。ジョルダーノはこの作品を「絵画の神学」と呼び、感化されて『ベラスケスへのオマージュ』という作品を描いた。18世紀初めには、彼の作品は国際的に認知されていた。その世紀の終わりには、英国の収集家が絵の入手を目的にスペインを訪れている。英国の鑑��家の間ではイタリア絵画の人気が絶頂期を迎えていたので、彼らはイタリアの影響を明白に受けた絵に群がり、『ラス・メニーナス』のような例外を無視する風潮があった。 -ハンブルクは中世以来、経済的独立性を保ち、ドイツ関税同盟(1834年)が成立した後も加わることはなかったが、1871年のドイツ帝国成立で情勢が変化した。首相オットー・フォン・ビスマルクがハンブルクをドイツ関税同盟に組み込むことを決め、その旨を1880年に通告したのである。それに対し、ハンブルクの商人団はビスマルクと交渉し、自由港地区は残すことと、1881年から1888年を移行期間とした上での加入とすることを承認させた。ハンブルクはこの移行期間中にハンブルク港を整備したが、その際には2万人以上の住民を立ち退かせ、既存の建物もことごとく撤去し、まったく新しい港へと生まれ変わらせた。世界遺産に登録されたシュパイヒャーシュタットの倉庫群も、このときに形成され始めたのである。 -ドイルは『緋色の研究』出版までの間に『ガス・アンド・ウォーター・ガゼット』誌からの依頼でドイツ語の『ガスパイプ漏れの検査』を英語訳した。後年、ドイルは「世人は『緋色の研究』が私の仕事の突破口だと思うかもしれないが、そうではない。自分から頼んだのではなく出版社から依頼された初めての仕事という意味でこの翻訳が私の突破口となった」と語っている。1887年7月から1888年初めにかけて、17世紀後半のモンマスの反乱を描いた歴史小説『マイカ・クラーク』を執筆した。この作品はロングマン社に買い取ってもらい、1889年2月に出版した。かなり評判がよく、1年の間に3版も重版を重ねている。後年ドイル自身も「この作品が自分の最初の出世作だった」と語っている。1889年にアメリカ合衆国のJ.B.リピンコットからの依頼でシャーロック・ホームズシリーズ第二作の長編小説『四つの署名』を執筆し、1890年2月に英米で出版された。この作品の評判もよかった。 -このようなヨーロッパの状況を背景に、オスマン帝国の支配領域をめぐって「東方問題」という外交問題が発生した。「東方問題」が顕在化するのは、ロシアが黒海沿岸のアゾフをめぐってオスマン帝国と交戦した1736年露土戦争である。この戦争では、ヨーロッパの勢力均衡が著しく損なわれるのを防ぐために紛争の当事者以外が「東方」をめぐる紛争に介入するという「東方問題」の基本的な構造が現れた。以後「東方」をめぐる数々の紛争の解決にあたって、オスマン帝国とヨーロッパ列強との外交によってヨーロッパの勢力均衡を実現するという構造が見られるようになり、「東方問題」はヨーロッパ近代外交の主要な一角を形成した。ギリシャ独立戦争(1821年~)では、各国政府が当初介入に消極的であったのにもかかわらず、世論の後押しによって主要な政治問題に発展した。「東方問題」が最も活発化した時期と考えられるのがクリミア戦争(1853年~)で、「東方」において英仏とロシアは全面的に軍事衝突し、これが戦後のヨーロッパの政治状況にまで大きな影響を及ぼすこととなった。1878年のベルリン会議によって列強間の利害問題としての「東方問題」に一応の決着がつけられ、1880年代のヨーロッパは「ビスマルク体制」のもとで一応の安定がもたらされたかに思われた。しかし実際にはバルカン諸民族はこのベルリン会議の決着に納得しておらず、バルカン半島は紛争の火種を抱えて「ヨーロッパの火薬庫」でありつづけた。 -当時欧州連合理事会議長国であったフランスの仲介で8月12日に休戦提案が行われ、8月15日にはグルジアがトビリシで、8月16日にはロシアがモスクワで署名に応じた。8月12日にはロシアのメドヴェージェフ大統領から、ロシア軍のグルジア領内での軍事活動に対する停止命令が出ていたが、そのときは実際の戦闘は停止していなかった。ロシア側の停戦受け入れ後、ロシア軍はグルジア領内からの撤退を開始した。ただし完全なものではなく、アブハジアや南オセチアに接するグルジア領内のポティ、セナキ(Senaki)、ペレヴィ(Perevi)に「軍事中立地帯」と称して軍を残した。2008年8月26日、ロシアは国際的にはグルジア領とされている南オセチアとアブハジアの独立を承認した。10月8日、ロシア軍は国際合意を受けてグルジア領内から完全に撤退した。 -マルマラ海から黄金の門まで鋭く北東に伸びる城壁は、海抜14メートルの高さがあった。そこからレギオンの門までは北へまっすぐに伸びていき、街の第七の丘を登っていく。そこからは鋭く北東へ進み、第七の丘の頂上にある聖ロマノスの門では標高68メートルの高さまで至る。そしてリュクス川峡谷に沿って標高35メートルまで下降する。今度は第六の丘を登っていき、頂上のカリシウスの門もしくはハドリアノポリスの門で標高76メートルまで上がる。ハドリアノポリスの門からゆるやかに標高を下げて、ブラケルナエ地区で標高60メートルとなり、アネマス監獄に近い金角湾岸に至る。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -ヴィルヘルム2世は、1859年3月5日に洗礼を受けてフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトール・アルベルトと名付けられた。フリードリヒやヴィルヘルムはホーエンツォレルン家の伝統的名前であり、ヴィクトールとアルベルトは祖父母にあたる英女王ヴィクトリアとその王配アルバートからもらった名前である(ヴィクトールはヴィクトリアの男性名、アルベルトはアルバートのドイツ語読み)。ポツダムの宮殿で育てられることとなった。 -米村でんじろうは1973年、千葉県立市原高等学校を卒業する。高校3年生の時に、父親が職場の工場で事故死したこともあって、授業料の安い国立大学を志望して受験したが、失敗した。浪人生活2年目、母親が見かねて「働いてみたらどうか」と勧め、6月から8月まで工場で40代から50代の労働者たちにまざって働いた。また9月から予備校に通うが、講義についていけずにやめた。3年目、母親に頼るのがつらくなり、新聞奨学生の募集を見て、面接を受けたが断られたこともあった。牛乳配達のアルバイトをしながら、3年目の宅浪をつづけ、1976年に東京学芸大学理科B類(物理)に合格、入学した。しかし、大学の講義でもしばしば単位を落とした。所属した研究室で当時は目新しかったパソコン用の理科教育ソフト作成を行い、この時、指導教官から賞賛をうけた。米村は、「先生から褒められたのは人生で初めて。段階を踏んでやればできると自信がうまれた」と回想している。 -フェズ・エル・バリはチュニジアのケルアンからの移住者の居住区が元となったフェズ川西岸のカイラワーン地区と、イベリア半島からの移住者の居住区が元となった東岸のアンダルス地区で構成され、二つの地区は川をまたぐ市壁に囲まれている。フェズ・エル・バリと市外を隔てる厚い市壁には、8つの門が設けられている。8の門のうち、西に建つブー・ジュルード門が旧市街の正門とされており、ギッサ門とハディード門はフェズの建設初期から存在していたと考えられている。城門は交易上重要な方角に設置されており、フトウ門は東のアラブ世界、ギッサ門は北のイベリア半島、ブー・ジュルード門は西のメクネスやラバトに面している。ブー・ジュルード門の��壁と柱頭は幾何学模様のズッリージュ(コバルトの陶製タイル)で彩られ、主門と脇門には馬蹄型のアーチが架かる。ブー・ジュルード門の周辺には、肉や野菜といった生鮮食品を扱う店が集まっている。 -日露戦争の戦勝気分にあった1905年(明治38年)、本郷座で戦争をテーマにした芝居を上演することになった。舞台効果を頼まれた清兵衛は火薬の調合を間違えて大やけどを負い、親指を切断する。その後写真館を閉め、大阪時代に覚えた森田流の笛を本業とし、三木助月の芸名で活動した。妻の恵津(ぽん太)も唄や踊りを再開し、公演料や教授料で生活を支えた。1923年(大正12年)の関東大震災後、吹きさらしの能舞台に体の不調を押して出演したのがもとで、翌1924年(大正13年)、58歳で死去。翌1925年(大正14年)には、妻の恵津も跡を追うように病死した。 -1917年(大正6年)に水利権許可を得ていた木曽川の「大桑第一水力」は、水路が長すぎることから実際の開発にあたっては2地点に分割することになり、下流側は「須原水力」となった。同地点は須原発電所として大同発足直後ただちに着工され、1922年(大正11年)7月に竣工した。須原発電所は長野県西筑摩郡大桑村に設置され、水路式発電所で出力は9,200kW。エッシャーウイス製水車、ウェスティングハウス・エレクトリック製発電機各2台と日立製作所製変圧器を設置した。竣工とともに大桑発電所まで77キロボルト(kV)送電線が完成、大桑発電所より名古屋市北区八龍町の六郷変電所へ至る既設送電線(同年6月全線竣工)と接続し、名古屋方面への送電を開始する。さらに翌1923年(大正12年)12月、大阪送電幹線が完成すると須原変電所を通じ154kVに昇圧した上で大阪方面へも送電するようになった。 -1983年6月10日〜29日に寺山修司追悼公演が西武劇場で上演された。演出は鈴木完一郎、出演は美輪明宏が毛皮のマリー役、井浦秀智が美少年・欣也役であった。再演が決まった時にはまだ寺山は存命であったが既に体調が悪く、稽古が始まった後に亡くなった。寺山の死去後も、美輪明宏によるマリー役でパルコ劇場を中心に何度か再演されている。1994年10月4日〜30日にパルコ劇場にて演出がハンス・ペーター・クロス、美輪明宏が毛皮のマリー役、いしだ壱成が美少年・欣也役で上演された。少女紋白役は池田有希子、下男役は麿赤児。この時はワダエミが衣装を担当している。美術はジャン・ハース、照明はジャン・カルマン。チケットは発売とほぼ同時に売り切れたという。11月には、川口、名古屋、静岡、大阪、相模原でも上演された。1996年1月12日〜2月4日に同キャストで同じパルコ劇場にて再演されている。2001年3月24日〜4月22日には演出・美術・音楽・主演(マリー役)が美輪明宏、美少年・欣也役が及川光博で、パルコ劇場で上演された。その後、各地を巡業した。 -ユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々カルフォルニア州で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスやフロリダ州に移り、後に仕事の関係でイリノイ州シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むミズーリ州マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。しかし、父親のイライアスはこの地においても農業に失敗して、数年後に家族を連れて同地を去った。イライアスとフローラは息子4人と娘1人を儲けたが、父親のイライアスは子供達に対して愛情に欠けた厳格な態度で接しており、ウォルトとロイが1920年代に成功をおさめても、彼らに対して冷やかな態度は変わらなかった為、ディズニー親子は長年距離を置いて交流はしなかった。イライアスはリタイアするまで転職を重ねたが、結局結婚する前に金鉱で働いて小金を得た以外は、どの仕事に就いても成功出来ず、妻のフローラに苦労を掛け、1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。ディズニー一家の畑の近く���はサンタ・フェ・パシフィック鉄道が走っており、その鉄道の走る音が好きだった。アルバイトで、鉄道構内で新聞やポップコーンを売る仕事をしていたこともある。後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていたが、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった。少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。 -オスマン軍はウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる不利な状況にあったが、マムルーク朝も長期の戦争によって財政が悪化しており、1491年にハフス朝の仲介によって和議が結ばれた。 -モンテ・カッシーノの戦い(モンテ・カッシーノのたたかい、英:BattleofMonteCassino)は、第二次世界大戦中、1944年1月17日から5月19日にかけてイタリアのモンテ・カッシーノで行われた戦いである。連合軍のイタリア戦線におけるグスタフ・ラインの突破およびローマ解放のために企画された。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -佐野に援助を受けた著名人の1人に、第10代NHK会長の前田義徳がいる。前田は小学生時代神童と呼ばれるほど明晰な頭脳の持ち主であったが、家庭の経済的な事情により上級学校への進学が困難であった。中学生時代の前田に出会った佐野は、事情を知って彼の援助に乗り出し、後の海外留学までの学資を援助し続けたのである。1935年には旭川市の功労者として藍綬褒章、翌1936年には紺綬褒章を受章した。1941年には、当時の内閣総理大臣である東條英機の私設秘書に任命された。はっきりとした経緯は確認されていないが、東條の妻の東條かつ子が内閣総理大臣夫人として会合などで家を空けることが多く、東條は以前から妻に替って家を任せられる人材を求めていた。そんな折、東條が旭川を訪れた際に佐野を知り、その指導者としての才能や性格、さらに佐野の養女がすでに結婚していたことで佐野が容易に東條家に住み込みできることから、秘書に任命されたものと見られている。 -またテレビ各局で、3月11日の地震発生直後からテレビCMは長時間にわたって放送が中止された。テレビ朝日の約74時間、TBSの62時間、日本テレビとフジテレビの61時間など、各局で長期間CM停止が継続し、CM総合研究所によると、在京民放キー局においては3月11日の14時50分に日本テレビで放送されてから、翌12日の23時56分にテレビ東京で再開されるまで、約33時間にわたってCMが一切放送されなかった。CM枠が復帰してからも多くの企業が震災を考慮して自粛したため、大量に生じたCM枠の空きを埋めるためにACジャパンの公共広告4種類のみが高頻度で繰り返し放送される状態となった。この大量放送によって、視聴者からACジャパンへの問い合わせ・クレームが殺到した一方、CM好感度ランキングでACジャパンが首位を獲得するという現象もあった。この大規模な自粛は、震災以降日本国内に広まった「自粛ムード」のひとつではあるが、諸外国からは特異な現象として指摘される例もあったという。 -開催都市の多くが北半球の都市である。南半球では冬季大会の開催が皆無、夏季大会もオーストラリアのメルボルンで開かれたメルボルンオリンピック(1956年)、同じくオーストラリアのシドニーで開催されたシドニーオリンピック(2000年)、ブラジルのリオデジャネイロで開催されたリオデジャネイロオリンピック(2016年)の3大会のみである。また、これまでアフリカで開催されたことはない。開催を行うに際しては、各国・地域でオリンピックの開催を希望する自治体からの審査・ヒヤリングを各国・地域オリンピック委員会が行い、まずその国・地域内でのオリンピック開催候補地1箇所を選ぶ。その候補地を国際オリンピック委員会に推薦し正式に立候補を行い、国際オリンピック委員会総会において、委員会理事による投票で過半数を得ることが必要である。ただし投票の過半数を満たしていない場合、その回の投票における最下位の候補地を次の投票から除外する仕組みで繰り返し過半数が出るまで投票を繰り返す(最終的に2箇所になったところで決選投票となる)。 -葵文庫、久能文庫、上村順太郎収集浮世絵コレクションの資料は全て電子化が完了しており、公式ウェブサイト上のデジタルライブラリー「ふじのくにアーカイブ」で公開されている。閲覧だけでなく、PDFファイルのダウンロードも可能となっている。江戸幕府が崩壊し、駿府藩に移封となった徳川氏やその家臣たちは、幕府の公的機関が所有していた膨大な貴重資料を集めた教育施設「静岡学問所」を設立した。この学問所は幕臣関係者のみならず、希望者は誰でも就学可能であり、海外から教師を招へいするなど、先進的な教育を行っていた。学制の発布などの影響で学問所が閉鎖した後、駿府学校、静岡学校、静岡県師範学校を経て、その蔵書が引き継がれる形で、静岡県立葵文庫を設立した。徳川家記念事業として設立されたことにより、同家の家紋にちなんで命名されている。1969年(昭和44年)、静岡県立図書館が静岡市谷田に移転すると、館名から葵文庫の名は除かれたが、蔵書は特殊コレクションとして引き継がれた。 -日本列島は大陸プレートであるユーラシアプレートと北米プレートに、海洋プレートである太平洋プレートとフィリピン海プレートが沈み込む場所に位置している関係上、火山活動が活発である。そのため日本列島の高山帯は、富士山や大雪山などといった、主に第四紀後期という最新の地質年代の火山活動によって形成された高山帯、南八ヶ岳のように第四紀後期以前の火山活動によって形成された高山帯、赤石山脈、木曽山脈など火山活動以外の理由で形成された高山帯が見られる。富士山や大雪山のような新しい火山に比べて、古い火山や火山以外の成因によって形成された高山帯は侵食によって急峻な地形となっているが、日本では非火山の高山帯でも山頂付近に比較的起伏がなだらかな地形が多く見られる。この山頂付近の比較的起伏がなだらかな地形は、隆起前に形成されていた地形が残存しているものと考えられている。またヒマラヤ山脈やアルプス山脈で見られるような極めて急峻な山稜や岩壁は日本の高山帯では多くない。これは日本の高山帯は氷期に氷河による侵食活動の影響が比較的少なかったことと、日本の高山帯がヒマラヤやアルプスなどよりも新しい時代に形成されたためと考えられている。 -1877年、第3回印象派展が開かれた。カイユボットが中心となって推進し、ドガ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌが賛同した。もっとも、ピサロ、セザンヌ、ギヨマンは、当初「連合」という反ブルジョア色の強い組織の展覧会に参加しようとしていたが、これを取りやめて、印象派展に参加したようである。都市風俗画を重視するドガは、「印象派」という名称を使うことに強く反対したが、ピサロを含む画家たちの主張により、初めて「印象派画家たちの展覧会」と名乗ることになり、路線の対立が顕在化した。ピサロは、支援者ピエットを印象派展に招待した。ピサロ自身は、ポントワーズとモンフーコーの風景画22点を出品した。医師ジョルジュ・ド・ベリオが、ピサロの主要作品『マチュランの庭、ポントワーズ』を購入した。批評家ジョルジュ・リヴィエールは、美術雑誌「印象派の画家」の4月14日号で、ピサロを高く評価する論評を発表した。ピサロは同年5月28日、ルノワール、シスレー、カイユボットとともに競売場オテル・ドゥルオで、14点を競売に出したが、落札額は50から260フランにとどまり、失敗に終わった。ミュレはピサロを助けようと肖像画を注文し、自分の営む菓子店で福引の1等の景品にしたが、1等を引いた女中は、絵をケーキと交換してほしいと言ったという。この年には、再びセザンヌとキャンバスを並べて制作している。テオドール・デュレは1878年5月、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。 -1999年のシリーズ第23作『ゴジラ2000ミレニアム』でゴジラ映画が再開された。この作品で2度目の世界観のリセットが行われる。第1作以外の過去のエピソードは一切語られず、ゴジラは地震や台風などの自然災害と同じように文明への脅威の存在として設定された。本シリーズの一部は第1作とその他の東宝特撮作品の世界観を反映した。しかし200万人から400万人と比較的高い観客動員数を維持した平成ゴジラシリーズと比べ、本シリーズは100万人から200万人ほどと大幅に減少した。そのため平成ゴジラシリーズと同じく、モスラ、キングギドラ、メカゴジラなどの人気怪獣の再登場路線となった。2001年から2003年までは『とっとこハム太郎』と併映されることになり、その影響で第26作『ゴジラ×メカゴジラ』、第27作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS』の2作は例年より15分ほど、上映時間が短縮化されている。2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS』は110万人と当時のワースト3位を記録(現在はワースト4位)した。制作サイドの目指す本当に新しい「ゴジラ映画」を制作することが当時の技術では困難として、ゴジラ50周年の節目である2004年にシリーズ集大成となる最高の「ゴジラ映画」を作り上げて締めくくろうということになり、同年公開の第28作『ゴジラFINALWARS』にてゴジラシリーズは再度終了となり、東宝が製作するゴジラシリーズは10年以上途���えることとなる。ゴジラシリーズに数多く出演した水野久美や佐原健二らは『FINALWARS』のパンフレットで「まだゴジラシリーズに出演したい」というような趣旨のコメントを寄せた。 -英仏米(イギリス、フランスとアメリカ)など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定(英語版)を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。そのころ日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。 -メフメト2世は、コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻略してビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、オスマン帝国の版図を大幅に広げる。30年以上に渡る征服事業から、「征服者」と呼ばれた。 -それ以降、ムンクはイタリア、ドイツ、フランスと、オースゴールストランとを行き来しながら『赤い蔦』『メランコリー/ラウラ』『生命の踊り』といった作品を制作し、「生命のフリーズ」の終結に向かった。『生命の踊り』の左と右の女性はトゥラ・ラーセン、中央の女性はミリー・タウロウがモデルであると言われる。1900年にはドレスデンやクリスチャニアのディオラマ館で展覧会を開いた。1901年の夏はオースゴールストランで過ごし、9月にクリスチャニアで72点の展覧会を開き、11月にはベルリンに移り住んだ。1902年には、ベルリン分離派展で22点の作品で構成される「生命のフリーズ」を展示した。なお、この頃はまだ「生命のフリーズ」という言葉は使っていなかったが、ベルリン分離派展で「フリーズ:生のイメージの連作の展示」というタイトルを付けており、「フリーズ」という言葉により、単なる連作ではなく一つの装飾プロジェクトであるという意思を明らかにしたといえる。この頃トゥラが結婚を迫るのに対し、ムンクは次第にトゥラを避けるようになっていった。トゥラはストーカーのようにムンクを追いかけ回したり、ムンクに対し訴訟を起こしたりし、ムンクのアトリエを訪れては制作を妨げた。 -藍藻は、酸素発生型光合成を行う唯一の原核生物群である。藍藻は2種類の光化学系(光化学系IとII)をもつ点で、光合成を行う他の細菌(非酸素発生型光合成を行う)とは異なる。緑色硫黄細菌(クロロビウム門)やヘリオバクテリア(フィルミクテス門)は光化学系Iと相同な鉄硫黄型反応中心のみを、紅色細菌(プロテオバクテリア門)や緑色滑走細菌(クロロフレクサス門)は光化学系IIと相同なキノン型反応中心のみをもつ。直列した2種類の光化学系をもつことが、酸素発生型光合成(水を分解する)を可能にしていると考えられている。 -パターソンはいったん危地を脱したが、陰謀は彼が帰宅の途についた途端に再燃した。労働者たちは再度会合を開き、その晩にパターソンを殺す計画を立てた。労働時間の記録係をしている男が、この陰謀をパターソンに知らせた。記録係は、労働者たちが自分をも殺すと脅しつけているので点呼に行くのが怖いと打ち明けた。パターソンは直ちに鉄道警察と地方官のホワイトヘッドに電報を打って急を知らせた。その知らせを受けて、ホワイトヘッドと部下が40キロメートルの距離から駆けつけてきた。ホワイトヘッドの機敏な行動によって、その晩パターソンは襲撃を免れた。2-3日後には鉄道警察も到着して、首謀者とその一味を逮捕した。首謀者たちはモンバサに連行されて取り調べを受け、やがて1人が口を割ったことによって陰��のすべてが明らかになった。首謀者とその一味は全員有罪となり、さまざまな期間の懲役刑を受けた。その後のパターソンは、労働者たちの謀反に悩まされることがなくなった。 -同年6月15日に行われたトロント・メトロス戦には2万5千人の観客が集まり、この後も北米リーグの平均観客数は2万人台を維持した。2年後には西ドイツからフランツ・ベッケンバウアー、ブラジルからカルロス・アウベルトが加わりオールスターチームの陣容を呈し、1977年には同チームの北米選手権のタイトルを獲得した。サッカー不毛の地と言われたアメリカでサッカーの伝道師としての役割を果たし人気選手となり活躍したことで、ニューヨーク市の名誉市民に選ばれた。同年10月1日にジャイアンツ・スタジアムで行われた引退試合のコスモス対サントスFC戦には7万5千人の観衆が詰掛けた。ペレは前半はコスモスの選手として後半はサントスの選手としてプレーし前半に1得点をあげ自らの引退の花道を飾った。試合後のセレモニーでは「愛を!皆に愛を!世界に愛を!」の言葉で締めくくった。 -イトヨ種群(G.aculeatuscomplex)には海性・淡水性・遡河回遊性など、多様な生態をもつ個体群が含まれる。北アメリカの太平洋・大西洋岸、日本を含めたユーラシア大陸および北極海の一部に至る広大な範囲に分布し、特に標高100m未満の低地に多い。カナダ・ブリティッシュコロンビア州のハイダ・グワイ(クイーンシャーロット諸島)には、体長20cm(通常は8cm未満)に達する大型個体群が存在し、同所的種分化の例として知られている。 -JT女性社員逆恨み殺人事件の元死刑囚M・T(姓名のイニシャル、以下の文中では姓イニシャル「M」で表記)は1942年5月15日に日本統治時代の朝鮮・京城府で5人兄弟姉妹の次男として生まれ、2008年2月1日に法務大臣・鳩山邦夫の死刑執行命令により収監先・東京拘置所で死刑を執行された。事件当時は身長180cmほどの大柄な体格で、千葉県船橋市咲が丘四丁目在住の54歳・土木作業員だった。Mの父親は郵便配達員で、Mは終戦後に家族とともに朝鮮半島から日本へ引き揚げ、1947年ごろからは福岡県戸畑市に居住し、1958年3月に同市内の中学校を卒業してからは九州などで映写技師見習いとして働くようになったが、映画産業の斜陽化により5年ほどで退職し、塗装店・映画館従業員などの職を転々とするようになった。 -第二次世界大戦中、ニュルンベルクは連合国軍による空爆の優先目標であった。イギリス空軍とアメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日にニュルンベルク旧市街は破壊され、全市域が甚大な被害を負った。同年4月の4日間に渡る地上決戦で、さらにいくつかの歴史的建造物が破壊された。一時はこの破壊された街を放棄して、他の場所に新しい街を創ることが真剣に検討されたほどの被害状況であった。同大戦期、ナチスにとってその精神性を保持する街として「神聖ローマ帝國宝物展」が開催された。今日コンサート会場として使われる「聖カテリーナ教会」が会場となった。そうした宝物の保管庫がObereSchmiedgasse(オーベレ・シュミートガッセ、上鍛冶屋小路)52番地の地下にあった。Kunstbunker(クンストブンカー、芸術品地下保管庫)は今でも保存、公開され訪れる歴史ファンは多い。 -祖父江町は1993年(平成5年)8月31日に図書館の建設に着工し、1994年(平成6年)10月31日に竣工、11月16日に竣工式が行われた。1995年(平成7年)2月10日、文化ゾーン「祖父江の森」の第1弾として祖父江町中央図書館が開館した。開館時の開館時間は10時-18時であり、貸出冊数は5冊だった。開館から約1か月で1万人が貸出登録を行い、約26,000冊が貸し出された。初年度である1995年度(平成7年度)の延べ入館者数は133,553人、延べ貸出冊数は151,394冊だった。なお、1996年(平成8年)3月26日には温水プールもオープンしており、多目的グランド・テニスコートも併せた文化ゾーン「祖父江の森」が完成している。 -1648年、モスクワ大公アレクセイの勅令「モラルの匡正と迷信の根絶について」によって、スコモローフの演技や楽器演奏が禁止された。法的基盤を失ったスコモローフはロシアの中央地域から追放され、ウラル、シベリア、ヴォルガ川の中下流の左岸など辺境の地に移り住んだ。都会を追われ、ある��は追及を逃れて地方へ向かったスコモローフも、地方では演技を生業としていくことは困難であり、楽器演奏家や民衆劇の役者として一部が残ったほかはやがて姿を消していった。このような過程で、ブィリーナがスコモローフから地方の農民などに伝えられて残ったのではないかと推定されている。とはいえ、その後も各種史料にスコモローフの名は登場し、18世紀に活動したスコモローフとされるキルシャ・ダニーロフの曲集が出版されたのは、19世紀に入ってのことである。スコモローフ衰退の要因として、直接的には政権や教会の弾圧が挙げられるものの、むしろ決定的だったのは、都市に劇場を建てさせた時代の流れといえる。 -サルーム・デルタはその名の通りサルーム川の河口付近に形成された三角州であり、あと2本、ジョンボ川(Diombos)、バンジャラ川(Bandiala)という主要な川が流れている。ほかにも細かな支流が数多く流れて陸地を分断しており、三角州内の島の数は200ほどになる。面積は50万haで、行政上は大半がファティック州に属する。南縁は隣国ガンビアのニウミ国立公園と接している。 -ヴォルテール主義者である父アイザックは息子が文学の世界に浸って神秘主義的になっていくのを懸念し、弁護士事務所で働くようディズレーリを説得した。ディズレーリは弁護士を「法文と駄洒落で過ごし、うまくいけば晩年に痛風と准男爵の称号がもらえるという程度の職業」と看做しており、こんな仕事に就いたら偉人にはなれないと拒否したが、父は「慌てて偉人になろうとしてはいけない」「弁護士事務所という、人間を知るうえで最適な観察場所を経ることは、何の道も閉ざすものではない」と説得した。1821年、17歳の時にオールド・ジェリー(英語版)街のフレデリック広場にあった4人の弁護士の共同事務所で勤務したが、すぐに飽きた。1824年7月末にはベルギーとライン地方を旅行し、ライン川下りをしている時に弁護士業を止める決意をした。1824年11月にリンカーン法曹院の入学許可が下りたが、すでに法曹家になる意思を無くしていた。後年ディズレーリは弁護士事務所時代について、弁護士の仕事自体は何の役にも立たなかったが、この仕事を通じて執筆力が高まり、また多くの人間と知り合って人間の様々な本性を知ることができたのは財産になったと評している。 -中世から近世初期には、バンベルクの人口はゆっくりと増加し、戦争、伝染病、飢饉などにたびたび襲われた。1349年から1350年のペストの大流行と、これに続いて起こったユダヤ人迫害(疫病の原因はユダヤ人だという噂による)により多くの人が亡くなった。三十年戦争により人口は減少し、1648年には約7,000人にまで落ち込んだ。戦争前には12,000人の人口があった。19世紀の工業化の開始とともに、人口増加は加速した。1811年の初めには、この市に17,000人が暮らしていたが、1900年にはそれが42,000人にまで増えている。 -1907年4月、6歳の基次郎は西区の江戸堀尋常小学校に入学した。式の時は袴を着け、平素は紺絣の着流し姿で草履袋と風呂敷包みを持って登校した。同月、母・ヒサは東江幼稚園の保母を辞めて家庭に入った。しつけに厳しく教育熱心なヒサはオルガンを弾きながら歌い、子供らに和歌の『百人一首』『万葉集』や古典の『源氏物語』『平家物語』『南総里見八犬伝』を読み聞かせ、与謝野晶子や岡本かの子の文学の話をした。基次郎は成人してからも、久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを母から勧められたこともあった。宗太郎は家を顧みず、金も入れないこともあったため、ヒサは子供を道連れに堀川に身を投げ自殺しようと思いつめたこともあった。基次郎は元気な子供で、夏は兄と中之島の水泳道場に通い、川に飛び込んで遊ぶのが好きであったが、1908年1月に急性腎炎に罹り、危うく死にかけた。同月21日には次弟・勇が生まれた。 -1820年代、ボストンの人口が増えはじめた。1840年代後半のジャガイモ飢饉では多くのアイルランド人がアメリカ大陸へわたってきて、ボストン市の民族的構成を劇的に変化させた。1850年までに、ボストンに住むアイルランド人は約3万5000人に達していた。ボストン旧家のエイモリー・ローウェルは、当然のようにハーバード大���を卒業し、手形交換所であるサフォーク銀行(SuffolkBank)の経営者となった。彼がボストンの銀行間に連携組織をつくり、1837年から1857年までの経済恐慌に事なきを得たので、政治と血縁による絆が従来に増して堅くなった。 -一般的に、ヨーク地方は、自然が豊かな地域とみなされている。広大で、大都市のまわりにも、昔のままのカントリーサイドの風景が残されている。ヨークシャー・デイルズ(YorkshireDales)やノース・ヨーク・ムーア(NorthYorkMoors)がその典型である。ヨーク地方はしばしば「神の恵みの土地(God'sOwnCountry)」と称される。ヨークシャーの紋章は「ヨークの白薔薇(WhiteRoseofYork)」である。これはかつてのヨーク王家の紋章であり、青地に白薔薇の旗がヨークシャーの旗としてよく使われている。この旗は50年ほど使われてきたが、2008年7月29日に正式化された。1975年以来、毎年8月1日は、ヨーク地方の歴史、文化、方言を記念した「ヨークシャーの日(YorkshireDay)」となっている。 -ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」を興した。事業の過程でアリスシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集めた。そこには、LaughO'Gramstudios時代のスタッフだけでなく、バート・ジレット、フリッツ・フレレングといった新人アニメーターを雇った。ディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へと転進した。これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロスアンジェルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。1925年、会社の従業員だったリリアン・バウンズ(LillianBounds)と結婚し流産を経て実娘のダイアン(Diane)儲けた後に、養女のシャロン(Sharon)を迎え、忙しい生活を送りつつも、父親に愛されなかった反動もあり(後年、長期の南米旅行中ということで、彼は父親の葬儀にも出席しなかった)二人の娘を溺愛しながら育てた。 -10時00分から始まった宮中での結婚の儀では、二人は宮中三殿の賢所に昇殿し、回廊から賢所の内陣に進み、右に皇太子、左に雅子が、それぞれ半畳の畳に着席した。皇太子が内々陣の八咫鏡に玉串を捧げ、立ち座りを繰り返して4回拝礼する「両段再拝」をし、雅子は着席のまま拝礼した。皇太子が結婚を奉告する告文(つげぶみ)を読み、その後賢所の外陣に移り、掌典長から神酒をいただいて、最後に拝礼し15分間で終了、続いて約10分間、皇霊殿、神殿に拝礼した。退出後に、皇族代表として秋篠宮夫妻が拝礼したほか、儀式中の皇太子夫妻拝礼時には参列者も拝礼した。儀式前後には、神楽歌が奉納された。この儀式には天皇・皇后をのぞくモーニング姿の男性皇族とアフタヌーンドレス姿の女性皇族たち、三権の長、各都道府県知事、雅子の親族など計812人が賢所の前庭にある幄舎(あくしゃ)で参列した。雅子の母・優美子と妹たちは涙をハンカチで押さえながらこの儀式を見ていた。 -ニュルンベルク(標準ドイツ語:Nürnberg[ˈnʏrnbɛrk]、バイエルン語:Niamberg、上部フランケン語(東フランケン語):Nämberch)は、ドイツ連邦共和国南部に位置し、バイエルン州のミッテルフランケン行政管区に属する郡独立市である。人口50万人を超えるバイエルン州第2の都市(ドイツ全体では14番目)である。隣接するフュルト、エアランゲン、シュヴァーバッハとともにフランケン地方の経済的・文化的中心をなしている。中世からの伝統ある都市であり、ドイツ統一を主導したホーエンツォレルン家がニュルンベルク城伯を世襲した都市である。また、ナチス政権が最初の大会を開催した都市であり、それゆえナチス政権要人を裁く「ニュルンベルク裁判」が行われたことでも知られる。リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台としても知られる。現在も旧市街は中世の城壁で囲まれてい��。 -当該機の墜落後、消防救助隊の全車両は滑走路22と滑走路17の交点に急行した。隊長は素早く機体尾部を調査し、16時01分頃、全隊にトウモロコシ畑の機体中央部へ進むよう指示した。最初に現場に到着した車両は、胴体中央部分に向けて消火剤を散布した。16時04分ごろ、この車両は搭載していた水を使い果たしたが、後続の車両が到着して消火活動が続けられた。火は右主翼部で激しく機体内部に広がり、17時ごろまで火勢が強くなり続けた。墜落から2時間ほど火災を制圧できず、小さい火は夜まで続いた。脱出した乗客は「他の乗客がトウモロコシの茎の間にいそうだ」と消防救助隊に伝えた。トウモロコシは約7フィート(約2メートル)の高さがあり、生存者は後に「高いトウモロコシの茎のため方向がわからなかった」と証言した。地代収入を見込んで空港の土地をトウモロコシ畑としてリースしていたが、このトウモロコシは、被害者の捜索・救助活動を困難にした。救助活動に際しトリアージが実施され、救助された人たちは重傷度に応じて搬送された。34台の救急車と9機のヘリコプターが動員され、救助された人々が地元の病院へ搬送された。警察は空港と病院の間の主要高速道路を封鎖し、緊急車両の通行を優先させた。最初の搬送者は事故後16分で病院へ到着した。現場の空港では、1987年10月に、被害者90人を想定した大規模な災害訓練が実施されており、本事故前月の1989年6月にも小規模な訓練が実施されていた。これらの経験は、現場や負傷者を受け入れた病院での救助活動に生かされた。救助活動は、後にアメリカ連邦航空局(FederalAviationAdministration;FAA)により賞賛されたほどの水準だったが、機内に取り残され呼吸困難で亡くなった人も多かった。 -1940年3月、日本の大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。 -日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。さらに、2020年の夏季オリンピックの開催地に東京が選出され、2度目の開催が決定している。オリンピックの開催年は、全国高等学校野球選手権大会の日程が調整されることがある。1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会ではバルセロナオリンピックの終了を待って8月10日から開催され、逆に2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会では北京オリンピックとの重複を可能な限り避けるために大会史上最も早い8月2日から開催された。 -1789年に起きたフランス革命後、夫アントワーヌと、父ジャック・ポールズの就いていた徴税請負人に対する民衆の視線は厳しくなっていった。1791年に徴税請負人の職は廃止され、さらに、徴税請負人は市民から集めた金を着服していたという噂が流れるようになっ���。1793年11月28日、アントワーヌとジャック・ポールズは自らの無罪を証明するために出頭した。マリー・アンヌは夫と父のもとに出向いて差し入れをするとともに、2人の助命を求めて走り回ったが、成果を得ることはできなかった。日に日にやつれてゆくマリー・アンヌに宛てて、妻の健康と将来を気遣うアントワーヌからの手紙が残されている。その後、マリー・アンヌが訴求官であるアントワーヌ・デュパンに願い出れば、夫アントワーヌだけは助けることができるという話が持ち上がった。しかしマリー・アンヌはデュパンに対し、「ラヴォアジエの訴訟を同僚の人達と別個に扱うような事は、決してラヴォアジエの心よくするところではありません。ラヴォアジエはそれを不名誉に思うでしょう」と述べたため、デュパンは激怒して、この話は無くなったとされている。ただし、このエピソードについては事実かどうか疑問視する意見もある。1794年5月8日、アントワーヌとジャック・ポールズは革命裁判所に出頭させられ、即日死刑判決を受け、同日、死刑執行された。 -1953年(昭和28年)の台風13号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では篠島も甚大な被害を受けた。1957年(昭和32年)には離島振興法の第7次指定地域となり、日間賀島・佐久島とともに「愛知三島」という指定地域名が付けられた。1961年(昭和36年)6月1日、内海町・豊浜町・師崎町の本土3町と篠島村・日間賀島村の離島2村が合併して南知多町となった。かつては水不足に悩まされたが、1973年(昭和48年)に齋藤進らによって本土の愛知用水から日間賀島・篠島まで海底水道が伸び、真水を必要とするノリ養殖業が盛んとなるとともに、民宿が増加して観光地化が進んだ。1973年時点の面積は0.68km2だったが、1974年(昭和49年)から島北部で本島と属島ふたつ(中手島・小磯島)を繋ぐ0.17km2の埋め立て工事が行われ、1977年(昭和52年)には0.93km2まで拡大した。埋立地一帯は魚介類が豊富な漁場だったが、島の総面積の25%にも相当する埋立地造成計画は大きな反対もなく進められ、造成地には旧来からの一等地よりも高値がついた。 -グリム兄弟の没後、ヴィルヘルムの息子のヘルマン・グリムは、兄弟による取材源のメモを公表した。この際にヘルマンは、メモのなかにある「マリー」という女性について、これは自分の母(ヴィルヘルムの妻となったドルトヒェン・ヴィルト)の実家に住んでいた戦争未亡人のおばあさんで、昔話をよく知っていたと証言している。そのためにこの「マリーおばさん」は、先述の「フィーマンおばさん」と並び『グリム童話集』に貢献した昔話の語り手と信じられるようになった。ところがこれも1975年に発表されたレレケによる研究で、このマリーとは実際には戦争未亡人の老婆「マリーおばさん」などではなく、ヘッセンの高官の家庭であるハッセンプフルーク家の令嬢マリー(de)のことであり、その母親はフランス出身のユグノーであったことが明らかにされた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -イギリス人の探検家でありジャワ島の歴史家でもあるトーマス・ラッフルズの1830年の著作によれば、オランダが任命したバタヴィアの中国人代表NieHoeKongは、黒か青の服を着た中国人は貧乏だと考えられるので全員追放するようにオランダ人に提言したと数人のジャワ人が証言したという。追放者は目的地に到着することはなくジャワ島が見えなくなった時点で船外へと投げ捨てられるのだという噂が流れた。また、船で暴動を起こして死んだという証言もいくつかある。華僑を追放したことで残された中国人の中にも不安が生じ、それにより多くの中国人労働者は仕事を放棄した。 -パルティアという名称は、元来イラン高原北東部に位置する一地方名であり、アケメネス朝(前550年頃-前330年)時代にはパルサワという名前で記録に登場する。アルサケス朝という王朝の名前は、建国者とされるアルサケス1世から来ている。彼は中央アジアの遊牧民の一派、パルニ氏族の族長であり、前3世紀半ばにパルティア地方を征服してこの王朝を打ち立てた。以降、歴代の王たちは彼の名前、アルサケスを代々受け継いだ。 -ヴィルヘルムは加筆修正の際に、メルヒェン集の購入者である当時の都市富裕市民(独:Bürger)の道徳観に合わせて記述を修正したといわれている。特にヴィルヘルムは物語から、妊娠などの性的な事柄をほのめかす記述を神経質なまでに排除している。また近親相姦に関わる記述も削除や修正がなされている。このほか、「ヘンゼルとグレーテル」「白雪姫」など、子を虐待する実母が出てくる話が、購買者である母親への配慮から後の版で継母に変えられているものが相当数存在する。しかしこれらの書き換えに比べると、ヴィルヘルムは刑罰の場面などの残虐な描写については意外なほど寛容で、例えば「灰かぶり(シンデレラ)」の最後で継姉たちの目を鳩に突かせて盲目にするなど、初版にはない復讐の場面が入れられたり、話によっては後の版のほうが却って残虐性が増しているようなものもある。このために『グリム童話集』は子どもへの読み聞かせに適しているか、あるいはそのままの形で読み聞かせてよいのかどうか、といった点が、初版刊行時以来しばしば議論の的となっている。物語内の少女から積極性や能動性を奪ったという指摘がアメリカの学者からなされているが、最近の研究ではグリム兄弟による中世化の結果、性別役割分担で消費者にされてしまった消極的な近代の女性像ではなく、生産者であったたくましく積極的であった近代以前(近世・中世)の女性像も保持されている(例えば「灰かぶり」)ことが、日本の学者によって指摘されている。このほか人種差別的な偏見が見られることなどが指摘されているが、グリム兄弟により挿入されたというより、当時の人々の間で持たれていた偏見がそのまま伝えられたと解釈すべきであろう。 -なお、美幾に続く篤志解剖の2人目から4人目までの人々については、翌年の1870年(明治3年)に記録が残されている。2月の八丁堀亀島町の「金次郎」、3月の深川大島町の「竹蔵」、10月の小日向水道町の「ムツ」の名があるが、いずれの人にも姓の記録がないため、貧しい階級の出と推定されている。これらの人々も丁重に葬られて、遺族には金3両が贈られていた。 -貨物の積み下ろしを行うため、貨物室の最前部に上開き式の扉が設けられている。この扉は貨物室断面が完全に開口するまで上がるため、貨物室の寸法をフルに使用できる。扉はアルミニウム合金製で重量は2トンあり、閉じた際には機体荷重を分担する構成要素となる。扉の閉口部内側の全周にわたりラッチ構造が設けられ、閉じるとファスナーのように順次固定される。貨物扉を開いた時の最大の高さは、貨物を搭載しない状態で16.97メートルとなる。風速20ノット(約10メートル毎秒)の横風まで開口動作が可能で、開ききると30ノット(約15メートル毎秒)の横風まで耐えられる。 -1916年2月18日から21日にかけて、第6回党大会が開かれた。国内では第一次世界大戦におけるロシアの敗勢や皇帝の不合理な統治の継続などの問題が生じており、党大会では左派と右派がさらに激しく争った。ミリュコーフら党の主流派は、政変が戦争に悪影響を及ぼすことを懸念し、政府との全面対決には消極的であった。その一方で、党幹部のアンドレイ・シンガリョフ(ロシア語版、英語版)が「国民の気分は近い将来を考えるのがこわいくらいのものである。国民の苦悩と憤懣は限界に来ている。(中略)われわれは極左派と完全に遊離するところまでゆくべきではない」と演説した。この演説の結果、左翼政党との連携も視野に入れつつ、政府との闘争を続けるという方針が決議される。その後、カデットは政府との対決姿勢を強め、同年11月に開かれた国会において、ついにミリュコーフはいわゆる「爆弾演説」を行い、政府を公然と批判した。この演説において、ミリュコーフはボリス・スチュルメル首相や怪僧ラスプーチンらをドイツの手先だとして激しく非難した。そして、政府の数々の失策について「これは愚かさか、または裏切りか?」と他の議員たちに問いかけたという。議員たちは「愚行だ!」「裏切りだ!」「その両方だ!」と応じた。演説の内容は全ロシアに広まり、反政府運動の活発化に大きな役割を果たしたとされる。 -1938年、早稲田大学講師で心理学者の戸川行男が、早稲田大学大隈講堂小講堂で特異児童作品展をひらいた。戸川は1935年ごろから千葉県市川市の指定知的障害児施設八幡学園に通い、学園生の山下清などの作品に魅了され、これを紹介する美術展の開催を思い立ったのだった。八幡学園は、久保寺保久による設立当初の1928年ごろから、美術の時間を導入していた。この展覧会は評判を呼び、山下のちぎり絵については特に注目された(他にも、学園生の石川謙二、野田重博、竹山新作、沼祐一、苗字は分らないが義明、務、繁の作品が展示された)。『美之國』や『美術』、『みづゑ』による特集や、展覧会に対する安井曾太郎、北川民次、倉田三郎、寺田政明などの評を見ることもできる。式場は、1936年から八幡学園の顧問医師となっていて、この時から生徒の作品を知っていたと思われるが、1938年には「異常児の絵」という文で、前述した1939年発刊の『二笑亭綺譚』でも、山下の作品を図版入りで紹介している。また戸川は作品集を発行するために春鳥会『みづゑ』の大下正男の協力のもと『特異児童作品集』を発行した。安井が選者を担当したのだが、山下の作品が中心に選ばれた。 -1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた。 -1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区等で過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、それらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定した。後のシリーズ���18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわず、再度数年の充電期間に入る。その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。 -セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の前身は1882年成立のセルビア王国であり、1918年に短期間存在したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を吸収する形で建国された。王国は1918年に、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴォイヴォディナ、セルビア、モンテネグロが統合されて成立し、当時セルビアの領土であったコソボ、ヴァルダル・マケドニアもその領域内に組み込まれた。成立から11年の間、公式な呼称はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国であった。一方でユーゴスラビアの呼称は、この王国を表す通称としてごく初期の頃から使われていた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。1984年のロサンゼルスが6829人(221種目)だったが、2008年の北京では10942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。 -以降の戦いで中心的役割を演じたのはアレクサンドロス帝国の大半に権威を確立したアンティゴノスとその息子デメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)である。プトレマイオスは今度はマケドニア本国を抑えたカッサンドロス、バビロニアを追われたセレウコス、リュシマコスらと結んでアンティゴノスに対抗し、シリアおよび海上でデメトリオスと戦った。プトレマイオスはこの過程で、前310年に海路でギリシアに遠征し小アジア南岸のリュキア、カリア、キュクラデス諸島の他、一時的ながらペロポネソス半島の一部を支配下に置いた。しかし、前306年にはサラミスの海戦でデメトリオスに敗れキュプロス島を奪われた。この勝利に勢いづいたアンティゴノス(1世)は、息子デメトリオス(1世)と共に同年中に王位を宣言した(アンティゴノス朝)。 -地球(ちきゅう、羅:Terra、英:Earth)は、人類など多くの生命体が生存する天体である。太陽系にある惑星の1つ。太陽から3番目に近く、表面に水、空気中に酸素を大量に蓄え、多様な生物が生存することを特徴とする惑星である。 -万延元年(1860年)、高遠藩第8代(最後)藩主の内藤頼直は高遠藩の藩校として高遠藩学問所(進徳館)を開き、館内に進徳館文庫を設置した。内藤頼直は高遠文庫から寄贈された660部・3,388冊を進徳館文庫に交付し、さらには江戸の藩邸から1,300冊を送付。その後も毎年交付を行い、1869年(明治2年)の版籍奉還の際には978部・7,113冊となっていた。個人では入手が困難な文献もあり、進徳館文庫には文庫司(司書)もいたようである。進徳館文庫の中身は進徳館が流れを受けている陽明学の図書が多い。この中には中国・明の時代に印刷された『文献通考』(80冊)などもあり、日本で欠本なしに所蔵しているのは進徳館文庫だけであるという。1871年(明治4年)の廃藩置県で進徳館は閉鎖された。 -1685年、オーストリアが大トルコ戦争で戦っている中、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルムにシュレージエンへの領土主張を取り下げさせ、大トルコ戦争でオーストリアに軍事援助を与える代償として、シュレージエンの飛地であるシュヴィーブスをブランデンブルクに割譲した。しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子フリードリヒ3世(後のプロイセン王フリードリヒ1世。1688年に選帝侯に即位)が父の後を継いで選帝侯になると、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルム一代限りでシュヴィーブスを割譲したとして、シュヴィーブスの支配権を取り戻した。フリードリヒ3世は負債の一部をレオポルト1世に肩代わりさせることで、この再占領を秘密裏に承認したが、後に合意を反故にし、クルノフ公国と元シロンスク・ピャスト家領への請求を再開した。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -哲学者の鷲田清一は、ディスコミュニケーション(コミュニケーション圏同士の断絶)の進む現代社会において「キャラ同士」ではなく「人同士」がコミュニケーションをとりあう場を用意するべきであるとし、キャラ的人間関係に対して否定的な見解を示している。評論家の宇野常寛も同様に現代社会における閉鎖的なトライブ間でのコミュニケーションの分断化を指摘しているが、キャラ的人間関係については、人々はそれが顕在化した時代の是非について極端な反応をしがちであるとし、その長所と短所をふまえた上でコミュニケーションがすべてを決定する社会をうまく克服していくべきだと述べている。 -南極における気象観測は1950年代に遡る。数十年以上の観測記録がある基地は比較的少なく、観測網は充分でなかった。衛星による赤外線観測によれば、南極大陸および周辺海域の地面・雪氷・水面の表面温度は、多くの部分で上昇している。場所によっては、1981~2007年の間に、平均して0.1°C/年以上の上昇も観測された。その一方で大陸中央部から東南極地域にかけては殆ど温度が変わらないか、むしろ下降している地域も見られた。このように地域によって表面温度の変化傾向が異なる理由としては、複数の要因が提唱されている。たとえば、周囲の海の温暖化により降雪量が増え、その雪が表面温度を下げている可能性、紫外線を吸収するオゾン層の消失により成層圏が寒冷化し、南極点の周りを回転する極循環を強め、その極渦がより温暖な気団の内陸部への進入を妨げている可能性等が指摘されている。 -ベルーガは、主翼を低翼位置に配した単葉機であり、左右の主翼下にターボファンエンジンを1基ずつ備える。主翼やエンジンはA300-600Rのものと同一である。水平尾翼は低翼に配置され、降着装置は前輪配置である。ベルーガは、大型貨物を搭載できるように極めて太い胴体を持ち、2014年現在において世界最大の胴体幅を持つ飛行機であった。ベルーガの胴体は2階建ての構造で、ダルマを逆さにしたような断面を持つ。A300-600Rの胴体下半分に、巨大な円筒状の貨物室を乗せたような形状で、上部胴体と下部胴体の間は直線的に結ばれている。貨物室の最大幅と最大高はともに7.10メートルで、床面の最大幅は5.11メートルである。円筒の前方と後方は、もとの機体形状に合わせてすぼめられており、完全な円筒部となる部分の長さは21.34メートル、貨物室の全長は37.70メートルである。床下貨物室にも貨物を搭載可能である。貨物室の総容量は1,400立方メートルで、積載量は47トンである。 -1990年代の初めからヨーロッパ全域、フランス、ベルギー、イタリア、ドイツ、スイス、スペイン、ギリシア、ポーランド、オランダ、ドイツ、オーストリアやイギリスなどでも完全にCCDが原因だとは認められていないものの、同様の消失は発生している。ほかにインドやブラジルでも報告され、日本でも類似症例が報告されている。症状が最初に観察され、CCDの現状が報告されている米国ではジョージア州、オクラホマ州、ペンシルベニア州、ウィスコンシン州、カリフォルニア州をはじめとする複数の州のグループでそれぞれ解析されている。北アメリカ全体ではカナダと24の州でもCCDが報告されており、ケベック州のある養蜂家は、養蜂している蜂の40%が死亡したと述べている。合衆国では2006年から2007年に養蜂の25%が消失した。しかし、報告されたこれら全ての例がCCDであると断定するには不確かな点が多い。CCDはかなり知られてはいたものの、症状が事細かに述べられることは稀であったためである。例えば、ドイツではヨーロッパで最初にCCDが報告されたが、ドイツの国家養蜂家組合によれば40%のミツバチのコロニーが絶滅したものの、科学的な検証は行われていないため、2007年5月には「ドイツではCCDと断定できる事例は発生していない」とドイツのメディアが報道した。 -ミネアポリスとその周辺は人口あたりの劇場の数がニューヨークに次いで多く、全米第3位の演劇市場である。ミネアポリスにある劇場のうち著名なものとしては、シアター・デ・ラ・ジューヌ・ルネ、イリュージョ��、ジャングル、ミックスト・ブラッド、ペナンブラ、ブレイブ・ニュー・ワークショップ、ミネソタ・ダンス・シアター、シアター・ラテ・ダ、イン・ザ・ハート・オブ・ザ・ビースト・シアター、チルドレンズ・シアター・カンパニーなどが挙げられる。フランス人建築家ジャン・ヌーベルは、ガスリー・シアターに3つの舞台を有する新館をデザインした。このガスリー・シアターは、もともとは1965年にニューヨークのブロードウェイの劇場をまねて作られた老舗である。ヘネピン通りの歴史ある劇場の保存を目的としたヘネピン劇場トラストにより、市はオーフェウム、ステート、パンテージズの3劇場を購入・改装した。それらの劇場はコンサートや演劇の公演などに使われている。2007年、同トラストによって改装された4番目の劇場、ヘネピン芸術センターが3館からなるミネソタ・シューバート演技芸術・教育センターの一部に加わった。同芸術センターは、もともとは1888年に建てられたフリーメイソンのロッジであったが、1979年に芸術センターとなった。同芸術センターは20の芸術団体の本拠地になっており、またWebベースの芸術教育を提供している。 -ヴィルヘルムは加筆修正の際に、メルヒェン集の購入者である当時の都市富裕市民(独:Bürger)の道徳観に合わせて記述を修正したといわれている。特にヴィルヘルムは物語から、妊娠などの性的な事柄をほのめかす記述を神経質なまでに排除している。また近親相姦に関わる記述も削除や修正がなされている。このほか、「ヘンゼルとグレーテル」「白雪姫」など、子を虐待する実母が出てくる話が、購買者である母親への配慮から後の版で継母に変えられているものが相当数存在する。しかしこれらの書き換えに比べると、ヴィルヘルムは刑罰の場面などの残虐な描写については意外なほど寛容で、例えば「灰かぶり(シンデレラ)」の最後で継姉たちの目を鳩に突かせて盲目にするなど、初版にはない復讐の場面が入れられたり、話によっては後の版のほうが却って残虐性が増しているようなものもある。このために『グリム童話集』は子どもへの読み聞かせに適しているか、あるいはそのままの形で読み聞かせてよいのかどうか、といった点が、初版刊行時以来しばしば議論の的となっている。物語内の少女から積極性や能動性を奪ったという指摘がアメリカの学者からなされているが、最近の研究ではグリム兄弟による中世化の結果、性別役割分担で消費者にされてしまった消極的な近代の女性像ではなく、生産者であったたくましく積極的であった近代以前(近世・中世)の女性像も保持されている(例えば「灰かぶり」)ことが、日本の学者によって指摘されている。このほか人種差別的な偏見が見られることなどが指摘されているが、グリム兄弟により挿入されたというより、当時の人々の間で持たれていた偏見がそのまま伝えられたと解釈すべきであろう。 -クウェート共和国(クウェートきょうわこく)は、1990年のイラクによるクウェート侵攻の結果、クウェートに樹立された国家である。事実上イラクの傀儡国家であり、わずか1週間で消滅した。 -アパラチー族とスペイン領フロリダのティムクア族は、1704年のアパラチー虐殺として知られるようになった、ムーアによる遠征隊の襲撃によって実質的に絶滅した。この襲撃の生き残りのほとんどはサバンナ川へと移住し、彼らの領域はその保留地に制限された。多くのインディアン軍からの襲撃にはしばしば少数の白人が含まれており、それはイギリス人が主導した1707年のペンサコーラ包囲戦および1709年のモービルの戦いを含む主要な遠征の翌年まで続いた。イギリス人に主導され、武装したマスコーギー(クリーク族)、ヤマシー族およびチカソー族は、チョクトー族、ティムクア族およびアパラチー族の犠牲のもとにこれらの紛争を制圧した。後者のインディアン部族たちは、クリーク族やチカソー族よりもいくぶんか穏やかな気質であった。 -逆川(さかさがわ)は、茨城県水戸市を流れる川である。水戸市を流れる逆川は一級水系那珂川に含まれる川である。那珂川に合流する桜川の右支川で、茨城県が一級河川として管理している。総延長は5.8キロメートル、流域���積は10.3平方キロメートルで、全域が水戸市内に収まる。(流域面積11.2平方キロメートルとする資料、延長6キロメートル・流域面積約12平方キロメートルとする資料もある。)流域には史跡笠原水道や、水辺を巡る木造の遊歩道などを設けた逆川緑地がある。"逆川"の名の由来として、付近の他の川が東や南に流れるのに対し、この川は北に流れていることがひとつの説としてあげられている。他に那珂川が大雨で増水した水が逆川まで逆流してきた出来事に由来しているとの説もある。 -飛行13日目から、補給キャリア与圧部内の搭載品の移送作業が本格的に開始された。飛行14日目の9月23日午後6時6分、曝露パレットがカナダアーム2によって補給キャリア非与圧部から取り出され、午後8時13分、曝露パレットがカナダアーム2からきぼうロボットアーム(JEM-RMS)に受け渡され、午後10時33分きぼうロボットアームによって船外実験プラットフォームへの曝露パレット仮置き作業が完了した。なお、JEM-RMSを使ったロボットアーム間の受け渡しは今回が初めての運用だった。飛行15日目の9月24日午後6時21分にHREPが曝露パレットからロボットアームで取り出され、午後8時15分に船外実験プラットフォーム装置交換機構(EFU)6番に取り付けられた。続いて9月24日午後11時23分にSMILESがロボットアームで把持され、9月25日午前1時12分にEFU3番に取り付けられた。飛行16日目の9月25日午後6時7分、使用済みとなった曝露パレットを船外実験プラットフォームから取り外し、曝露パレットはきぼうロボットアームからカナダアーム2へと受け渡され、午後10時20分にHTVの補給キャリア非与圧部へ収納された。10月20日に補給キャリア与圧部内に搭載された物資の搬出作業がすべて完了し、以後ISSの使用済み物資などの不要品をHTVに積み込んでいった。 -ジャカルタ、シンガポール、バンコク、サイゴン、香港、上海、神戸に準備された設備により、まだ発足したばかりの若い会社であったシェルは、アジア市場においてスタンダード・オイルの独占に対する最初の挑戦者となる用意ができた。1892年8月24日、ミュレックスはスエズ運河を通過した最初のタンカーとなった。シェルがロイヤル・ダッチ石油と合併した1907年の時点で、スタンダード・オイルが4隻の蒸気推進タンカーと16隻の帆走タンカーを所有していたのに対して、シェルは34隻の蒸気推進タンカーを所有していた。 -夫となる徳仁親王は第125代天皇明仁と皇后美智子の第1皇男子(第1子長男)であり、御称号を浩宮(ひろのみや)といった。以下の婚約と結婚が進められる間に、父帝・明仁の即位を受けて皇太子となり、31歳で立太子の礼を挙げた。2019年5月1日をもって第126代天皇に即位した。妻となる小和田雅子は婚約当時外務省勤務で、同じく外交官であり当時外務事務次官を務めていた小和田恆の長女である。幼少時より父についてソビエト連邦、アメリカ合衆国での生活を経験した帰国子女で、ハーバード大学経済学部を卒業、学士入学で東京大学在学中に外交官試験に合格、中退して外務省に入省し、研修でオックスフォード大学に留学した。彼女は日本で男女雇用機会均等法が制定され、女性の社会進出というテーマに揺れた世代である。上記の徳仁親王の天皇即位に伴い、同日皇后となった。 -ブルゴーニュ王朝末期から続く経済危機、新興貴族の台頭という潜在的な危険に対して、ジョアン1世はヨーロッパへの金の供給元であるアフリカ大陸への進出という手段で解決を図った。当初はナスル朝が支配するグラナダが攻撃先に挙げられていたが、カスティーリャの感情を考慮して攻撃先はモロッコの港湾都市セウタに変更された。1415年にポルトガル軍はマリーン朝が支配するセウタを攻略し、ポルトガルは世界の一体化に行き着くヨーロッパ諸国の対外拡張政策の先陣を切る。カスティーリャなどの同時期の西欧諸国は内乱の火種を抱えていたが、アヴィス家の下で再編されたポルトガルは団結力を強め、他国に先んじて海外に進出することができたと考えられている。 -人間中心の文学をさらにおしすすめたのが元禄期にあらわれた井原西鶴である。西鶴の経歴は不詳であるが、大坂の富裕な町人平山藤五とする説があり、それによれば経営を手代に��かせて気ままな生活を選んだとされる。俳諧における師であった西山宗因が他界した天和2年、西鶴は自由な散文形式による『好色一代男』を書き上げた。もともと余技として始めた小説執筆であったが、本作品は町人の手による、町人を対象とした、町人を主人公とする、町人の生活相を描いたという点で画期的意義をもち、また、質・量ともに近世小説の最高峰をかたちづくるものであった。小説に転じてからの西鶴は、現実の世相や風俗を背景に、人びとが愛欲や金銭に執着しながら、みずからの才覚で生き抜く姿を描いており、これは浮世草子とよばれ、日本文学に新しい世界をひらいた。 -2008年の南オセチア紛争(みなみオセチアふんそう、SouthOssetiaWar)、別名ロシア・グルジア戦争(Russian-GeorgianWar)は、ジョージア(グルジア)とロシア連邦間の戦争である。ロシア側には分離派の南オセチアやアブハジアも参戦した。21世紀最初のヨーロッパの戦争とされる。2008年8月に始まり、陸戦、航空戦、海戦の全てが行われた。別名8月戦争(AugustWar)とも呼ばれる。 -総力戦も第一次世界大戦より徹底し、国民はただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者への国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、人類史上初の原子爆弾投下を含め、民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、自国および占領地においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的大量虐殺を戦争と並行して進め、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され、その途上で200万人が死亡している。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。 -1953年5月2日、BOAC783便Mk.I8号機G-ALYVはシンガポールからロンドンに向かう途中、経由地のインド・カルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港から、次の経由地ニューデリー(現デリー)に向けて夕刻に離陸した。6分後の通信を最後に、強い雷雲に突入して機体が空中分解し、カルカッタの北西約38kmの西ベンガル地方ジャガロゴリ近郊に墜落した。機体は20km四方に散乱し、残骸の中には盗難に遭って回収できなかったものもあった。乗員6名乗客37名全員が死亡したものと推定され、商用路線に就航中のジェット旅客機として初の有責死亡事故になった。インド政府の事故調査では、事故機は高度10,000ft(≒3,000m)から上昇中にダウンバースト(下向きの突風)に遭遇し、この時、高度を維持しようとしたパイロットの修正操作が過大であったため、昇降舵取付部と、主翼に想定を超える捻り応力が加わり、最初に水平尾翼(後縁が昇降舵)と外翼部が脱落し、主翼から激しく出火して、更に主翼の部品が垂直尾翼を直撃して破壊した、との推測が立てられた。操作過大の誘因として油圧増力式の操縦桿が軽過ぎ、かつ反力が殆ど感じられないため、パイロットが従来の人力操舵機と同様の急操作を誤って行ってしまいやすいことが、パイロットの労働組合から指摘された。それを抑止する人工感覚装置("Q-Feel"=artificialfeelingdevice)の開発が急がれたが、実用化はMk.3以降になった。 -ドイルはスポーツにも積極的に参加した。相手を見つければすぐにボクシングの試合をし、またラグビー部ではフォワードを務めた。当時ドイルの姉2人はポルトガルで働いて実家に仕送りしていたため、ドイルも仕送りしないのは長男として肩身が狭かったらしく、しばしば医師のもとでパートタイムの助手をし、また1880年には7か月にわたって捕鯨船に船医として乗船している。1881年8月に医学士と外科修士の学位を取得したが、成績は並みだった。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -逃亡した奴隷たちはカプアから派遣された討伐隊を撃退し、不名誉と考える剣闘士の武器を捨てて手に入れた軍隊の武器を装備した。養成所脱走直後の動向については史料によって異同があるが、逃亡した剣闘士の集団がカプア周辺を略奪し、そこの奴隷たちを仲間に加え、ウェスウィウス山に立て籠もったという点ではおおよそ一致している。 -地質構造に見られる大きな差異が、2つの諸島の経済構造を相異なるものに帰着させている。シェトランド諸島における主な収入源は、農業に養殖業、漁業、再生可能エネルギー、��油産業(周辺海域における原油および天然ガス生産)、創造産業、観光業である。石油とガスがサロム・ヴォーで最初に陸揚げされたのは1978年で、その後ヨーロッパでも最大級の石油基地となった。石油産業からの税収入により、社会福祉、芸術・スポーツ振興、環境保全、金融対策におけるシェトランド諸島の公共部門支出が増加した。諸島における労働力の3/4が第3次産業に従事しており、2003年には自治体であるシェトランド諸島カウンシル単体で、産出高の27.9パーセントをたたき出している。現在でも漁業は諸島経済の中心を維持しており、2009年の漁獲高は75,767トンに及び、売上は7320万ポンドを超えている。 -1864年、バティニョール大通り34番地に引っ越した。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、イタリアン大通りのカフェ・トルトーニや、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、カフェ・ゲルボワに足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人のザカリー・アストリュク、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家ナダール、批評家ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレ、フィリップ・ビュルティ、画家アンリ・ファンタン=ラトゥール、アントワーヌ・ギユメ、版画家マルスラン・デブータンなどがいた。作家のアルマン・シルヴェストルは、カフェ・ゲルボワでのマネについて、「この革命家は完璧な紳士のマナーをもっていた。しばしば派手なズボンをはき、ショート・ジャケットを着て、つばの平らな帽子を後頭部にかぶり、いつも汚れひとつないスエードの手袋をはめているので、マネはボヘミアンのようには見えなかったし、実際、彼にはボヘミアンらしいところは少しもなかったのである。彼は一種のダンディーだった。彼はとても寛大で親切であったけれども、会話ではわざと皮肉でしばしば毒をふくんでいた。ひとを打ちのめす痛烈な言い回しをすばらしく流暢にあやつった。しかし同時に彼の言葉づかいは好意に満ちていて、そこに込められた考えはまったく正しかった。」(アルマン・シルヴェストル、1892年、『回想の国で』)と描写している。 -1921年に熊本県で生まれ、オアフ島(ハワイ)のサトウキビ農園で育ったバーバラ・カワカミは、仕立屋・家政婦として働いた後、50歳を過ぎて高校進学を決意し、さらに理学士号とアジア学の文学修士号を取得。父親は母親より24歳年上で、彼女が6歳で、母が9人目の子を妊娠しているときに63歳で死去した。女手一つで9人の子を育てたカワカミの母親の仕事は、フィリピン人鉄道工夫の作業服を洗濯することであった。幼い頃、丸一日かけて洗った作業服にアイロンをかけながら、静かに泣いている母を見た。彼女は1979年から30年間にわたって日系一世250人のインタビューを行い、映画『ピクチャーブライド』で衣装など時代背景に関する情報を提供し、2016年には『写真花嫁の物語』を発表した。本書は、写真花嫁たちがいかに日系社会の存続と発展に貢献したかを示すオーラル・ヒストリーである。 -日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。さらに、2020年の夏季オリンピックの開催地に東京が選出され、2度目の開催が決定している。オリンピックの開催年は、全国高等学校野球選手権大会の日程が調整されることがある。1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会ではバルセロナオリンピックの終了を待って8月10日から開催され、逆に2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会では北京オリンピックとの重複を可能な限り避けるために大会史上最も早い8月2日から開催された。 -イソシアネートの選択は、現場スプレー発泡では成形時の粘性が高く蒸気圧が低いポリメリックMDI(クルードMDI)が使用され、モールディング発泡やブロック発泡では流動性を重視しTDIプレポリマーが使われる。また、ポリメリックMDIを触媒で三量化反応させたイソシアヌレート環を使用したPUFは特に「ポリイソシアヌレートフォーム」(PIRF)と呼ばれ、耐熱性や難燃性が高い。触媒は第3級アミンに、スプレー発泡では反応を早めるために有機銀触媒が加えられる。発泡剤は過去、断熱性能を高めるフロン-11やジクロロフルオロメタン(フロン-12)が広く使用されていたが、1995年の使用禁止令以降は代替フロン(フロン-22、HCFC-141b(1,1-ジクロロ-1-フルオロエタン)など)に転換され、さらに2000年代にはHCFC245faとHCFC365mfcの混合フロンやシクロペンタンなどへ変更された。水による発泡は併用する形で用いられていたが、実用化に向けた研究途上にある。その他の添加物では、気泡の微細化や均一化また安定させるためにジメチルポリシロキサン系シリコーンオイルを整泡剤として使用したり、難燃性を付与するためハロゲン化燐酸エステル類や三酸化アンチモンまたは水酸化アルミニウムを加える場合もある。 -古代ギリシアの天文学者、キュロスのアンドロニコス(AndronicusofCyrrhus)は、紀元前1世紀、アテネの風の塔と呼ばれる建物に日時計、水時計を設けている。ギリシアでは昔から、裁判の時間測定に水時計クレプシドラが使われていた。後の古代ローマでもこの時計が使われた。この記録はいくつかの古文献にも記されており、例えばプラトンは著書『テアイテトス』の中で「人々は水の流れに急かされてついつい早口になる」と述べている。また、アプレイウスは『変容』(TheGoldenAss)の中で「法廷の役員は、検察側の証人を呼ぶ時刻になったと大声で叫んだ。演壇に上った老人を私は知らなかった。彼は時計の中の水が空になるまで延々と話し続けた。球体の中の水は、細い管をゆっくりと通りながら、すっかり流れ出てしまったのである。」と描写している。アプレイウスが描写しているのは、数ある水時計の中の1種である。この他、底に小さな穴が空いたタライを水に浮かべ、そのタライが水に沈むまでの時間を測るタイプのものもあった。 -赤羽台の台地は周辺低地に対して約14メートルの高さがある。台地の前後では道路と高架橋が立体交差する必要があることから、新幹線・埼京線の高架橋の高さをあまり下げることができず、結果として赤羽台トンネルの土被りは浅いものとならざるを得なかった。できるだけ土被りを増やすために、トンネル起点側は25パーミル勾配で下り、途中から15パーミル勾配で上るV字形の縦断勾配を採用することになった。結果として土被りは入口部で約0.5メートル、中央部のもっとも深い場所で約5.5メートル、出口部で約2メートルである。 -猫大明神祠(ねこだいみょうじんし)は佐賀県杵島郡白石町にある。「鍋島の化け猫騒動」と同様、鍋島氏にまつわる怪異譚に由来する史跡。化け猫が鍋島勝茂の妾に化けて勝茂の命を狙うが、勝茂の臣下の千布本右衛門がそれを退治する。しかしそれ以来、ネコの祟りのためか千布家に跡継ぎの男子が生まれなくなってしまったため、化け猫を大明神として秀林寺(現・白石町)の祠に祀ったという。この祠には、7本の尾を持つネコが牙を向いた姿で刻まれている。史実では、かつて白石を治めていた秀氏の秀伊勢守が、鍋島氏に尽くしたにもかかわらず、キリシタンの疑いをかけられて滅ぼされ、後に秀氏の残党が鍋島氏を怨んで抗ったことから、秀林寺では秀氏一派の暗躍が化け猫にたとえられたものと見ており、これが「鍋島の化け猫騒動」の原型になったとの説もある。 -マダガスカル島を覆う森林は1950年代から2000年の間に、その面積の約40パーセントが失われたと推定されるが、この推定はそれでも控えめな見積もりである。残された森林地域でも、その80パーセントで間伐が行われている。野生生物保護の障害となっているのは、伝統的農耕もさることながら、保護林の不法伐採である。さらに、国立公園における希少木の伐採を国家が容認することも障害となっている。たとえば、国立公園で希少木材を伐採することは2000年から2009年までの間、ラヴァルマナナ政権下では禁止されていたが、2009年1月に少量であれば認めることとなった。この再認可はラヴァルマナナ追放後における支援者への見返りに当てるため、国家歳入源の切り札として、ラズエリナが認めたものであった。マダガスカル島の雨林のすべてが、保護区や分水嶺の東側に位置する急斜面に存在するものを除いて、2025年までに消滅してしまうと予想されている。 -ジミー・カーター政権が1978年に航空自由化政策(ディレギュレーション)の導入を行ったことで、テキサス州内の航空会社として設立されたサウスウエスト航空も、テキサス州外への路線展開を行うことが可能になった。ここで、それまでのサウスウエスト航空の基本戦略であった「短距離を低運賃・高頻度運航」という方針を今後も続けるべきかどうかが話し合われた。その結果、基本戦略を変更せずに事業の拡大を進めていくということになった。早速、同年にヒューストンとニューオーリンズを結ぶ路線を開設し、続いてダラスからニューオーリンズの路線の開設申請を行ったが、これに対して新空港当局、フォートワース市、ブラニフ航空は猛烈に反対した。反対者の中にフォートワース選出の下院議員であるジム・ライトがいたことから、ロビー活動合戦が繰り広げられた。最終的に、ラブフィールド空港からはテキサス州と隣接する州より遠い地点への路線開設が出来ないことになった。 -7歳(1875年)から10歳(1878年)まで家庭教師アレクサンドラ・オロングレンに師事した。オロングレンの子ウラジーミルとよく一緒に遊んだ。ウラジーミルによると子供の頃のニコライは「顔や挙動が女の子っぽいときが時々あった」という。父アレクサンドル3世も息子の女々しいところをしばしば心配していたという。 -生きたものを調理あるいは活け締めする場合、暴れる上、鰓蓋が非常に鋭く危険であるので、頭部をたたいて失神させてから行うとよい。または、脊椎を切断しなくとも鰓の周囲を包丁でさぐり、尾の付け根の血管も切断して血がにじみ出るのを確認してからしばらく海水中に置けば締められる。特に捕獲してすぐに頭部の付け根付近の脊椎を切断、尾の付け根の血管も切断して活け締めにし、手早く薄造りにしたものを氷を入れた日本酒、または氷水で身が白濁するまで余分な脂肪分を落とした洗いが、日本料理では最も美味だとする食通、料理研究家や識者の評価が多い。大部分の魚類同様、目の周囲の脂身は眼球を動かす筋肉と旨みが凝縮された脂肪分(DHAなどヒトの健康に有益とされる栄養素を多量に含む)を堪能でき、カマや胸鰭の付け根などのアラも筋肉質で身が締まっており、煮ても焼いても美味である。旬以外でも年間を通して癖のない白身は高級食材としてフランス料理にも多用され、カルパッチョ、ムニエル、ポワレ、にも重宝されている。新鮮なものは刺身にするが、昆布じめ、膾、寿司ネタなど、刺身に手を加えて味や歯ざわりを楽しめるようにした料理もよく作られる。他にタタキ、揚げ物、炒め物、塩焼き、奉書焼、煮付、鍋物など、和洋中を問わず多種多様な料理に利用される。変わったところでは、燻製も美味である。 -バルザックは非常にこまごまとした、あふれるほどの詳細さでヴォケール館、住人たち、それを取り巻く世界を描写している。この手法こそ、彼がレアリスム小説の父と呼ばれるゆえんなのである��この詳細な描写は、もっぱらヴォケール館の住人たちの困窮ぶりを浮かび上がらせている。これに対して富裕層の家庭の描写ははるかに雑である。ボーセアン子爵夫人の部屋はさらりと触れるだけ、ニュシンゲン家の生活についての描きぶりも仔細さとは程遠い。小説の冒頭でバルザックは、英語で"Allistrue"(すべて真実なのだ)と断言している。登場人物と設定は仮構であるものの、描かれている細部は-当時のパリの現実生活を反映したものであるのだが-ヴォケール館の世界を忠実に表現している。ヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ通り(そこにヴォケール館があった)は、「家々にぞっとするような外観」を与えたが、「それが高い壁を持つことから、牢獄を示唆するものであった」。屋内の調度は、粗末な居間(「これ以上に憂鬱になる場所はない」)から祝祭を描いた壁紙(「郊外の小さな食堂でもそんなもの使わないような紙」)まで、まずい食事で有名な家を飾る皮肉な装飾が微細に叙述されている。バルザックはこれらの細部描写を、壁紙貼りの修行をした専門家の友人イアサント・ド・ラトゥーシュから教わっている。ヴォケール館はそのぞっとするような、下宿館独特のにおいについてまで描写されている。 -三億円事件のモデルとされる小説『血まみれの野獣』の著者であり、事件発生当初から注目を集めていた作家大藪春彦は、12日の段階で「犯人が地元にそのまま住んでいること自体、不自然だし、顔もある程度モンタージュ写真に似ているだけに、かえっておかしいと思った。だいたい、〔A〕という人は、ぼくの推理する真犯人のイメージと合わない。真犯人は冷静で計画性にとみ、人の心理を読むのがうまい。鉄棒をふりあげて下宿の老婆をおどしたり事件前から金が欲しいと口ばしったり、ホンボシはそんなチンケなやつじゃない」と、Aの無実を取材陣に対し明言している。一方、免田事件の冤罪死刑囚として獄中にいた免田栄は、A逮捕の報道を読んでAクロ説の旗振り役となり、Aシロ説を主張する他の囚人らと論争になったという。しかし、Aが誤認逮捕であったという報道は検閲のため獄中には届かず、長らく免田はAが三億円事件の真犯人であると思い込んでいた。そのため、免田が再審無罪で出所した後に「人権と報道を考えるシンポジウム」でAの妻と同席した際、免田はAの妻に顔向けができなかったという。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -当初カラハン朝とガズナ朝との関係は良好で、ナスルとガズナ朝のスルターン・マフムードの娘との婚姻が進められていた。しかし、カラハン朝はガズナ朝を成り上がり者の国と蔑視し、ペルシア・インドを抑えるマフムードもカラハン朝を野蛮な国と見なし、またカラハン朝からの攻撃を���戒していた。1006年にマフムードがインドに出征した際、ナスルは隙を突いてホラーサーン地方に侵入し、ホータンのユースフの援軍を得てバルフ、ニーシャープールを略奪した。1008年1月にナスルはバルフ近郊のシャルヒヤーンの戦闘でマフムードに敗れ、撤退する。1025年にマフムードがナスルの子アリーの支配化に置かれていたマー・ワラー・アンナフルに侵入した際、カシュガルの支配者の地位を継いだユースフはマフムードと連合して西カラハン朝を攻撃した。1026年にアリーはブハラ、サマルカンドをガズナ朝から奪回したが、1032年にはマフムードの子マスウードによって一時的にブハラを占領された。 -研究所は再開したが、それは設備も試料にも事欠く状態であった。1920年にロスチャイルド家が出資したキュリー財団が設立され、放射線治療の研究を支援したが、物理や化学の研究にはほとんど費用が回らなかった。この年の5月、アメリカの女性雑誌『ディリニエター』編集長のマリ・マッティング・メロニーからの申し入れを受けて、マリはインタビューに応じた。この席で今何が欲しいかという質問に、1グラムのラジウム金属と答えた。その価格は既に5万ドルに相当したが、アメリカの恵まれた科学研究所を知るメロニーにとって驚きの回答だった。彼女は帰国後にキャンペーンを行い、マリにラジウムを贈呈する資金を集めた。彼女の求めに応じ、1921年5月、マリは娘ふたりとアメリカ渡航を決めた。そのスケジュールに多くの大学などへの歴訪から、アメリカ大統領との式典までもが準備されていると知ったフランス政府は慌て、自国が何ら名誉を与えていない不細工さを補おうとまたもレジオンドヌール勲章を授与しようとした。しかし以前と同じ理由でマリは断った。研究から離れたこの宣伝活動は気の進まないものだったが、マリは各地で大歓迎を受け、5月20日、大統領ウォレン・ハーディングから直々にラジウム授与が行われた。ただし彼女はこれを個人への贈与ではなく研究所への寄贈と扱ってもらい、個人の財物にはしなかった。1929年には再渡米し、マリは1925年にワルシャワに姉妹と設立したキュリー研究所に導入する機器類の資金を得るのに成功した。 -1980年代前半まで、双発機の飛行は安全上の理由から60分以内に着陸可能な飛行場があるルートに限られており、大陸間路線などの長距離路線には3発機や4発機が用いられていた。しかし、エンジンの信頼性や性能の向上にともない、1980年代に入ると、双発機の飛行経路に関する制限を緩和する検討が本格化した。規制当局や機体メーカー、航空会社らによって双発機の長距離運航を認める要件がまとめられ、1985年にETOPSと呼ばれる規格が策定された。A300-600のETOPS認証取得が進められ、まず1986年10月22日GE製CF6エンジン仕様において90分まで認められ、翌年4月10日にはP&W製JT9Dエンジン仕様が120分まで認められた。 -竹(たけ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦である。一等駆逐艦竹(たけ)は、日本海軍が太平洋戦争中に横須賀海軍工廠で建造した駆逐艦である。戦時量産型駆逐艦である松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の2番艦であり、日本海軍の艦名としては樅型駆逐艦の「竹」に続いて2代目である。戦時量産型のため「雑木林」と渾名され、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた。 -ニーマンピック病が最初に報告されたのは、1914年である。ドイツの小児科医、アルベルト・ニーマンが、ユダヤ人幼児において神経症状が急速に進む症例を報告した。このとき彼はこの症例を、ゴーシェ病と似ているが神経症状がゴーシェ病とは一致しない、と評価した。その後、1926年にドイツの科学者ルートヴィヒ・ピックが、アルベルト・ニーマンの報告した症例は、ゴーシェ病とは組織学的に異なるものであることを示した。以後、彼らの名前をとって「ニーマン・ピック病」と呼ばれることになる。その後、1961年にクロッカーによって、A型からD型までの4つに分類される。さらにこれに追加して、1967年にリンとテリーによって、成人のニーマン・ピック病がE型と分類された。また、シュナイダーらによって神経症状が異なる患者が1978年に報��され、F型と分類された。ただし、現在ではD型はC型として論じられることが多く、E型やF型には明確な定義はないとされており、主にA型・B型、C型の分類が多く用いられている。 -白血病は年に10万人あたりおよそ7人(2005年、日本)が発症する比較的少ないがんであるが、多くの悪性腫瘍(癌、肉腫)は高齢者が罹患し小児や青年層では極めてまれなのに対し、白血病は小児から高齢者まで広く発症するため、小児から青年層に限ればがんの中で比較的多いがんである。造血の場である骨髄で造血の元になっている細胞が変異したことによって起きるのが白血病であり、癌や肉腫のように固形の腫瘍を形成しないため、胃癌や大腸癌などのように外科手術の適応ではないが、抗がん剤などの化学療法には極めてよく反応する。19世紀にドイツの病理学者ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー(ウィルヒョウ,フィルヒョウ)が白血病を初めて報告してLeukemia(白血病)と名付けた。かつては白血病は治療が困難で、自覚症状が現れてからは急な経過をたどって死に至ったため、不治の病とのイメージを持たれてきた。また、白血病は現代においても現実に若年層での病死因の中で高い割合を占めることから、フィクションでは、かつての結核に代わって、現代において癌と並び、若い主人公が罹患する設定になることが多い。しかし、1980年代以降、化学療法や、骨髄移植(bonemarrowtransplantation;BMT)、末梢血造血幹細胞移植(peripheralbloodstemcelltransplantation;PBSCT)、臍帯血移植(cordbloodtransplantation;CBT)の進歩に伴って治療成績は改善されつつある。 -東大寺創建前、当地には、金鐘寺、福寿寺、天地院(法蓮寺)などの寺々の存在が確認されている。このうち、金鐘寺と福寿寺については後の東大寺との関係性について、文献研究や発掘による研究が進められている。金鐘寺は、金鐘山房、金鍾寺、金鷲寺、金熟寺と書かれることもある。読みについても諸説あって、「こんしゅじ」、「こんじゅじ」と読まれたり、また、慣用的に、「きんしゅうじ」とも呼ばれ、この読みについては、東大寺内で特によく親しまれている。金鐘寺は、天平5年(733年)、良弁によって建立された、という記述が『東大寺要録』にあるが、これについては現在、福山敏男の否定説が有力である。また、喜田貞吉も、この『東大寺要録』の記述は「後の偽作説である」と述べている。一方で別の説が『続日本紀』に記されている。聖武天皇と光明皇后の間に生まれた唯一の男子で皇太子となったが、神亀5年(728年)に夭逝した基王の菩提を弔うのを目的として、天武天皇の孫に当たる智努王が造山房司長官となって山房を建立した、というものである。現在はこちらの記述が有力視されている。吉川真司と菱田哲郎は、丸山地区丸山西遺跡を調査、発掘し、金鐘寺の境内地であると推定した。 -上越新幹線建設にあたっては、乗り心地の限界、蛇行動発生の限界、粘着の限界など諸限界を考慮の上で、近い将来に改良して向上できる限界も加味して、計画最高速度を250km/hと設定した。ただし、自動列車制御装置(ATC)によってブレーキが動作する速度(許容最高速度)は260km/hである。実際には開業時には最高速度210km/hで走行し、その後240km/hに高速化し、1990年(平成2年)3月10日のダイヤ改正から下り2本のみ大清水トンネル内の下り勾配を利用して275km/h運転を実現したが、1999年(平成11年)12月ダイヤ改正で275km/h運転は中止され、240km/h運転となっている。 -ダムの施工においては、投石工法(投石射水工法)と呼ばれる工法が用いられた。まずダムサイト直上流部にある猿岩がロックフィルダム堤体の材料となる原石山に選定され、これを火薬で爆破して岩石を採取しダム本体工事現場まで輸送。本体予定地に建設した橋の上より岩石を投下して、これを高圧水で締め固めてダム本体を盛り立てる工法である。当初は運搬に用いる蓄電車の稼働が満足ではなく、作業も不慣れであり盛り立て作業の進捗は満足ではなかったが、油圧ショベルや運搬用7トンディーゼルの導入により工程は次第に順調な推移を見せた。1950年5月12日より開始された盛り立て作業は昼夜兼行、厳寒の冬季にも作業が行われ完成するまでの間約37万トンの岩石が投石によって積み上げられた。原石採取のための発破作業は1949年(昭和24年)6月13日から1952年9月22日まで計12回実施され、使用された火薬の総量は約98トンに及んだ。そのうち1950年に実施された50トンの火薬を用いた砕石爆破の際には、日本国内の地震関係機関が共同で爆破地震動の観測を実施している。盛り立てが終わるころに投石用の橋が撤去され、上流面で水を遮るコンクリート壁の舗装や積み上げ岩石の整理作業が実施され、取水塔・排水塔・洪水吐きなどの設備も順次完成して1953年6月9日にダム本体は完成した。 -1947年6月25日、オランダ語による初版がHetAchterhuis(後ろの家)というタイトルで出版された。この成功を受けて、1950年にはドイツ語版TagebuchderAnneFrank(アンネ・フランクの日記)とフランス語版LeJournald'AnneFrank(アンネ・フランクの日記)が出版された。ついで1952年には英語版TheDiaryofaYoungGirl(少女の日記)と日本語版『光ほのかにアンネの日記』が出版された。イギリスでは初めあまり売れなかったが(イギリスでは1954年にペーパーバック版になった後に売れるようになった)、西ドイツ、フランス、アメリカ、日本では発売とともに好調な売れ行きを示した。それにつづいてイタリア、スイス、北欧諸国、スペイン、ソ連、東ドイツ、南米諸国、インド、韓国、台湾、タイ、インドネシアなどでも翻訳版が出版された。 -ベリリウムは緑柱石などの鉱物から産出される。緑柱石は不純物に由来する色の違いによってアクアマリンやエメラルドなどと呼ばれ、宝石としても用いられる。常温常圧で安定した結晶構造は六方最密充填構造(HCP)である。単体は銀白色の金属で、空気中では表面に酸化被膜が生成され安定に存在できる。モース硬度は6から7を示し、硬く、常温では脆いが、高温になると展延性が増す。酸にもアルカリにも溶解する。ベリリウムの安定同位体は恒星の元素合成においては生成されず、宇宙線による核破砕によって炭素や窒素などより重い元素から生成される。 -むしろ、水族館で鑑賞されるのが最大の利用であろう。近年は、アクアリウム技術の進歩によって、家庭でも楽しめるようになっている。特に、ヨロイイソギンチャク類やウメボシイソギンチャクのように過酷な潮間帯の環境に生息するイソギンチャクは、比較的丈夫なもので、飼育は難しくない。小型のものなら、コップ程度でも飼育できる。珊瑚礁に生息する大型の種の場合は共生藻類の光合成への依存度が高いので、イシサンゴ類の飼育と同様に水質や照明に注意を払う必要がある。 -爆心地から130mの位置(現在は広島平和記念公園敷地内)にあったM建具店の2階建て家屋の模型を、間取りまで正確に製作し、当時この家の1階にいたM氏の親戚一家に中性子がどのような影響を与えたか推定した。降り注いだ中性子の一部は木造家屋を通過し、さらに屋根瓦や壁からガンマ線を発生させる。番組では、一家は中性子線とガンマ線を致死量となる57.7グレイを浴びたと推定した。この時点で、仮に原爆が炸裂せず、熱線や爆風の影響がなかったとしても爆心地付近の住民は助からなかったという。 -赤軍による制圧直後から、地元の共産主義支援者およびロシアから入った者達の指導で、三国全ての大統領と政府の辞任が強制され、彼らのかわりに完全に共産主義者からなる「人民の政府」に変えられた。これらの作業を監督・指導するため、スターリンの側近のうち、アンドレイ・ジダーノフがエストニアへ、アンドレイ・ヴィシンスキーがラトビアへ、ウラジーミル・デカノゾフがリトアニアへそれぞれ派遣された。 -『毛皮のマリー』は初演時から人気のある作品であった。アートシアター新宿文化で大ヒットとなったため、「伝説の舞台」などと言われることもある。三島由紀夫は本作に感銘を受け、美輪明宏に『黒蜥蜴』の主演を強く依頼したという。一方で、新宿のゲイバーのママたちが大挙して出演し、スキャンダラスな物語を演じる様子は顰蹙も買ったと言われている。寺山修司の芝居としては最も上演回数が多いと言われている。マリーが養子である欣也に執着する様子を描いたこの物語は、母性にもとづく「日本社会の血縁体的な風土」を描いた作品として評価が高く、寺山修司の「母恋いの初期代表作���などと呼ばれることもある。寺山と美輪の美学が前面に出た「キッチュで濃厚な味わいが特徴と言われる。一方で美輪明宏のスタイルの影響力があまりにも強くなったため、その「規範化」を批判的にとらえて新しい演出を求める動きもある。毛皮のマリーズのメンバーである志磨遼平は『毛皮のマリー』が気に入っており、バンド名をここからとった。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -フランスには、1533年にイタリアからカトリーヌ・ド・メディシスによりバレエが持ち込まれ、宮廷において盛んに上演された。ルイ14世が5歳で即位した時にも、5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世自らも出演した。ルイ14世はバレエに魅せられ、バレエを奨励していた。本人も1651年に15歳で舞台デビューし、王立舞踏アカデミーを創立した。バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、彼の時代の功績である。「太陽王」の異名も、元はバレエで太陽(太陽神)に扮したことから生まれた。ルイ14世は高いヒール靴を好み、奨励したことでも知られる。美しい脚線美を維持するためにヒール靴を着用している様子は、彼の全身を描いた肖像画にも描かれている(その後、きついバレエシューズによって小さくなった足が貴族の証とされていくようになる。アレクサンドル・デュマの『三銃士』にも、それが描写されている場面がある)。ルイ14世は1670年に舞台を引退した。1698年にルイ14世が導入したダンサーの年金制度は、フランス最古の年金制度の一つであり、2019年現在もなお存続している。 -『愛知県昭和史』によると、西加茂郡挙母町時代の1926年(昭和元年)に図書館を設立しているが、この図書館の詳細は定かでない。太平洋戦争後の1946年(昭和21年)7月1日には挙母町立図書館設立委員会が組織され、同年9月1日には西町の挙母町都市計画事務所内に挙母町立図書館が設置された。1948年(昭和23年)4月1日には挙母町中央公民館が開館し、図書館が中央公民館の1階の一室に移転している。1950年(昭和25年)時点では2人の専任職員と約1,000冊の蔵書を有し、1日平均で約30人の閲覧者があった。1951年(昭和26年)3月1日には挙母町が市制施行して挙母市となったため、挙母町立図書館から挙母市立図書館に改称した。市制施行当時の蔵書数は約4,000冊であり、兼任館長と2人の臨時職員を有していた。 -レコーディングでは、椎名の憧れていたBLANKEYJETCITY(当時)の浅井健一がゲスト・ミュージシャンとしてギターで参加している。椎名は「『罪と罰』は絶対浅井さんにギター弾いて欲しかった」と語り、ギターパートのみを外して収録したMDのデモテープとこの曲に対する気持ちと自身の電話番号を書いた手紙を同封して浅井に送ったところ、後日浅井健一から連絡が入り、「カッコイイ曲だね、弾くよ」と快諾し今回の参加が実現した。「罪と罰」は浅井とのセッションによって楽曲が盛り上がり、元の収録予定時間に対してアウトロが伸びる結果となった。またアウトロには浅井による歯笛も挿入されている。 -少年とは、20歳に満たない者をいう(少年法2条1項)。20歳という年齢設定の適否については、諸外国の動向(16歳から21歳程度まで幅があるが、18歳が大勢を占める。)や被害者感情、若年者の政治的権利の拡大といった問題意識をも背景に、議論がなされている。非行少年とは、犯罪少年、触法少年及び虞犯少年の総称であり、「審判に付すべき少年」(同法3条見出し��6条1項など)ともいう。少年保護手続は、非行少年を主たる対象とする手続である。また、非行事実とは、犯罪少年の犯罪行為、触法少年の触法行為及び虞犯少年の虞犯事実の総称である。家庭裁判所の新受人員でいえば、非行少年のほとんどを犯罪少年が占めており、虞犯少年がこれに続き、触法少年はまれである。これは、虞犯事由のある少年の大多数と触法少年のほとんどは、警察官・少年補導職員による補導や、児童相談所長による児童福祉法に基づく措置がなされるにとどまるからである。それだけに、虞犯少年として家庭裁判所に送致・通告される者は、補導等のいわば穏和な措置では非行性の深化を阻止することが困難とみられることが多いということになり、実際にも緊急の保護を要するとして観護措置がとられる比率が高い。また、触法少年として家庭裁判所に送致される少年は、非行事実が重大な場合か、緊急の保護が不可欠な場合が多い。 -840年にモンゴル高原のウイグル国家が崩壊した後、カラハン朝の勢力が台頭する。ウイグル国家を構成していたテュルク諸部族は中国、チベット、中央アジアに移動し、そのうち15の部族はセミレチエ地方を支配するカルルク族の元に逃走した。 -後三種は、子実体のいかなる発育段階においても、ひだに発光性を欠いている。また、シイタケでは、肉がツキヨタケのそれに比べてより強靭であり、乾燥すると特有の香気を発する点が異なり、ムキタケはかさの表面に微毛を被るとともに、かさの表皮が容易に剥がれる点で区別される。ヒラタケは、柄にリング状の隆起(不完全なつば)がなく、ひだと柄との境界がより不明瞭なことで異なっている。さらに、ツキヨタケ以外の三種では、かさの表皮に塩基性化合物の水溶液を滴下しても緑色にならないこと、柄の肉に黒紫色のしみを生じないことも識別の上で重要な性質である。 -昭和28年西日本水害の筑後川流域における被害は、死者147人を出したのをはじめ、堤防決壊・崩落84か所、護岸崩壊38か所、道路損壊1,889か所、橋梁流失948か所などにおよび、家屋の被害も下表に示す通りとなった。被災者数は54万4,060人、被害総額は約32億8,700万円(現在の金額で約231億7,000万円)にも上った。浸水した区域は筑紫平野のほぼ全域であり、東は夜明ダム直下、西は佐賀市の嘉瀬川堤防、南は矢部川堤防、北は筑紫野市の宝満川流域にまでおよび、さながら有明海が内陸山沿いまで海域を拡大したかの様相を呈した。1890年(明治22年)の洪水、1921年(大正10年)の洪水と並んで、この水害は「筑後川三大洪水」とも呼ばれている。 -1970年11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区市谷本村町1番地の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門を通過し、東部方面総監部二階の総監室正面玄関に到着した。出迎えの沢本泰治3等陸佐に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇1等陸佐(50歳)に案内され総監室に通された。この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等陸曹が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった。 -1955年(昭和30年)8月4日、熊野村の開業医の萩野昇が執筆した「イタイイタイ病」を紹介する記事が『富山新聞』に掲載された。命名者も萩野である。この記事で萩野は「この病気は婦負郡中部および対岸の富山市南郊から上新川郡にかけての神通川本流水系に発生。患者はこの地域に長年住んでいる35歳から更年期にかけての女性が多い。症状は腰・肩・膝などの鈍痛に始まり、やがて大腿や上膊部の神経痛のような痛みとなり、進行すると少しの動作でも骨折するようになり、引き裂かれるような痛みを感じる。」と書いた。この記事が発表された当初は、過労説や栄養失調説なども出された。しかし、1957年(昭和32年)12月に萩野は富山県医学会で「鉱毒説」を発表。さらに岡山大学の小林純らが患者の骨や内臓および神岡鉱業所の廃水や川水からカドミウムを検出したことを基に1961年(昭和36年)1月、萩野昇と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表した。一方、1961年(昭和36年)12月に富山県、1963年(昭和38年)6月に厚生省及び文部省が独自に原因究明に乗り出す。1966年(昭和41年)9月に合同会議を開き、原因物質としてカドミウムの疑いが濃厚であるが、栄養上の障害も考えられる「カドミウムプラスアルファ説」を発表した。その後、富山県が住民に健康診断を行い、その診断結果に基づき富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、1967年(昭和42年)3月に患者73人、要観察者150人を認定した。厚生省も日本公衆衛生協会に研究委託するなど原因究明に努めた。1968年(昭和43年)5月、厚生省は「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動によって排出されたものである。」と断定した。これによってイタイイタイ病は政府によって認定された公害病の第1号になった。1970年(昭和45年)2月1日、健康被害救済法(公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法)が施行され、公害病患者96名が認定される。 -まず復興開始直後の8月28日(1793年10月2日)、穀物がネズミに食い荒らされるために芋など根菜類を入手することを目的として、復興に従事していた12名の島民のうち5名が八丈島へ向かった。しかし5名は八丈島へたどり着くことなく行方不明となってしまった。そして復興には不運が重なった。寛政6年4月13日(1794年5月12日)、2艘の船に分乗した名主三九郎ら15名が、復興従事者のための穀物や食糧とともに青ヶ島に渡ったが、高波のために青ヶ島で船が壊れてしまい、物資も失われてしまった。青ヶ島の状況を見分したあと、三九郎ら12名は火山灰に埋もれた青ヶ島の家や家財道具の古材を用いて船を建造し、何とか八丈島へ戻ることができた。 -鹿嶋清兵衛(かじませいべい、1866年(慶応2年)-1924年(大正13年)8月6日)は、明治期の写真家である。豪商の跡取り養子だったが、新橋の人気芸者・ぽん太を身請けしたことから家を出て、趣味の写真を本業とした。撮影中の事故で負傷し、その後は能の笛方になった。妻・ぽん太も唄や踊りで暮らしを支え、その献身的な姿が貞女としてもてはやされた。清兵衛の型破りな生き方は、森鷗外の小説『百物語』のモデルにもなった。昭和30年代に、清兵衛が隠したと思われる埋蔵金が見つかり、再び世間を賑わせた。 -2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、第125代天皇上皇明仁・上皇后美智子が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した新潟県中越地震の被害に配慮して取り止めとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)も1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった。競走前に天皇・皇后は場内の競馬博物館で「エンペラーズカップ100年記念栄光の天皇賞展」を鑑賞。競走後に優勝騎手の松永幹夫が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)では「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。この際、優勝騎手のミルコ・デムーロはコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止する規則に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった。なお、第125代天皇上皇明仁とその皇后の美智子は皇太子・皇太子妃だった1987年(昭和62年)にも、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を台覧している。 -アガメムノーンを総帥とするアカイア勢(古代ギリシア人)に侵攻され、十年の戦争の後に陥落したトロイアは、トロイア戦争の舞台として名高い。小アジア西端に位置するこの都城の支配者は、ゼウスを祖とするダルダノスの子孫である。彼はトロイア市を創建し、キュベレー崇拝をプリュギアに導いたとされる。ダルダノスの孫がトロースで、彼がトロイアの名祖である。トロースには三人の息子があり、イーロス、アッサラコス、ガニュメーデースである。ガニュメーデースは美少年中の美少年と言われ、ゼウスが彼��攫ってオリュンポスの酒盃捧持者とした。イーロスはラーオメドーンの父で、後の老トロイア王プリアモスの祖父である。英雄ヘクトールとパリス(アレクサンドロス)はプリアモスの息子、予言で名高いカッサンドラーは娘である。またヘクトールの妻アンドロマケーは、トロイア陥落後、アキレウスの息子ネオプトレモスの奴隷とされ、彼の子を生む。他方、トロースの三人の息子の最後の一人アッサラコスはアンキーセースの祖父で、アンキーセースとアプロディーテー女神のあいだに生まれたのがアイネイアースである。トロイア陥落後、彼は諸方を放浪してローマに辿り着く。ウェルギリウスは彼を主人公としてラテン語叙事詩『アエネーイス』を著した。アイネイアースの息子アスカニオス(イウールス)はローマの名家ユーリア氏族(gensIulia)の祖とされる。 -2016年11月13日午後9時からNHKで放送された特別番組「終わらない人宮崎駿」の番組内で、宮崎が「長編企画覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容はモザイクで隠されていたが、「2019年完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。3か月後の2017年2月24日、鈴木敏夫が「OscarWeek2017」で、宮崎駿が長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった。5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートした。10月28日に早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『君たちはどう生きるか』であると明かされた。2018年5月15日、高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた。 -化け猫のなす怪異は様々だが、主なものとしては人間に変化する、手拭を頭にかぶって猫おどりする、人間の言葉を喋る、人間を祟る、死人を操る、人間に憑く、山に潜み、オオカミを引き連れて旅人を襲う、などといったことがあげられる。珍しい例では、宮城県牡鹿郡網地島や島根県隠岐諸島で、人間に化けたネコが相撲を取りたがったという話もある。ただしネコが喋るということについては、人間がネコを見ながら自分の心の中で思った言葉を、あたかもネコが喋ったかのように誤解したものであり、妖怪の類ではないとの指摘もある。1992年(平成4年)の読売新聞には、ネコが人間の言葉を喋ったように聞こえたが、よく聞き直すと、単にネコが口ごもった鳴き声が、人間の言葉によく似て聞こえたに過ぎなかったとの記事が掲載されている。江戸時代には尾がヘビのように長いネコが化けるという俗信があり、尾の長いネコが嫌われ、尾を切る風習もあった。現在の日本のネコに尾の短いものが多いのは、尾の短い猫が好まれたことによる自然淘汰とする説もある。 -1957年、ポーリングは生物学者のバリー・コモナーと協力して署名運動を始めた。コモナーは北米各地の子供の乳歯から検出される放射性物質のストロンチウム90を研究し、地上核実験が放射性降下物の形で公衆衛生に危険をもたらしたと結論付けていた。また彼は原子物理学者のエドワード・テラーと公開討論に参加し、放射性降下物が突然変異を引き起こす実際の可能性を訴えた。1958年、ポーリング夫妻は国際連合に核兵器実験の根絶を訴え11,000人以上の科学者が署名した請願書を提出した。その後、公共圧力は地上核兵器実験を一時停止へ導き、これに続いて1963年にはジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフが部分的核実験禁止条約に署名した。同条約が発効された日、ノーベル委員会は「核兵器実験や、軍備拡大、またはそれらの使用だけに止まらない、国際紛争の手段とした全武力衝突に反対した活動を1946年から絶え間無く続けてきたライナス・カール・ポーリング」と述べ、彼にノーベル平和賞を授与した。カリフォルニア工科大学化学科はポーリングの政治観を警戒しており、ポーリングに正式な祝辞さえも述べなかった。しかし、同大学生物学科は小さなパーティを開いてポーリングを招待し、彼の放射能変異に関する研究に対して彼らはより深く理解し共鳴していることを示した。ポーリングが化学に与えた貢献を享受した科学者を含め、批評家の多くは彼の政治姿勢に同意せず、彼をソビエト連邦共産党の純粋な代弁者であると受���止めていた。ポーリングが上院国内治安小委員会に出席を命じられた時、委員会は彼を「この国における共産主義的な平和攻勢の主要活動のほぼ全てに顔を出しているナンバーワンの学名」と呼んだ。ライフ誌はポーリングのノーベル平和賞を「ノルウェーからの奇妙な侮辱」と呼んだ。ポーリングは1970年にソヴィエト連邦から国際レーニン平和賞を授与された。 -なお、美幾に続く篤志解剖の2人目から4人目までの人々については、翌年の1870年(明治3年)に記録が残されている。2月の八丁堀亀島町の「金次郎」、3月の深川大島町の「竹蔵」、10月の小日向水道町の「ムツ」の名があるが、いずれの人にも姓の記録がないため、貧しい階級の出と推定されている。これらの人々も丁重に葬られて、遺族には金3両が贈られていた。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -何百万年もの間、両生類は紫外線の害に対する効果的な防御を進化させてきた。自然な状況下での紫外線による死や変異は1種の両生類でさえも報告されていない。大気のオゾン減少による紫外線のいくらかの増加にも関わらず、紫外線を両生類減少の要因とする証拠は極めて弱い。 -このウイルス(中国内外の103例)を北京大学など中国の研究チームが遺伝子解析した結果、コウモリ由来のウイルスに近く古くからあるとみられるS型(全体の3割)と毒性の強弱は不明だが感染力が強いとみられるL型(全体の7割。武漢市の流行では大半を占めるが、市外の流行では現在は減少傾向にある)という塩基配列の異なる2つの型に分類できることが分かった。患者の多くは片方の型にしか感染していないものの両方の型に感染した例も確認されており、ウイルスに一度感染し症状が治っても別の型に再感染する可能性が指摘されている。中国の研究者が報告した主症状は2020年1月21日判明分で、40°C程度の高熱(98%)、乾いた咳(76%)、息切れ(55%)などである。他に、全身倦怠感、吐き気、筋肉痛等を催すと報告されている。顕著な合併症は肺炎である。しかし症状がないまま濃厚接触をしてしまう事が度々ある。他のコロナウイルス科ウイルス感染症との鑑別は外観所見上からは難しい。ただし、発熱せずに死亡した患者もいるので、発熱検知装置だけで検出できない可能性もある。また、無症候キャリアが感染能を持つ可能性もある。入院患者では呼吸困難や胸の圧迫感も多い。また、入院時のバイタルサインは比較的安定している。 -また品位低下を伴う吹替えの度、商人らは品位の高い旧銀を退蔵し、しばしば銀相場の高騰を招いた。元文元年(1736年)の吹替えの際も商人が旧銀を退蔵し銀相場を吊り上げているとして町奉行の大岡忠相は両替商を呼びつけ、御定相場を守るよう通達を出して対立したが、この年、忠相が寺社奉行に昇格したのは商人が裏で手を回すことによる敬遠人事であったとする���もある。吹替えのうち元禄期、宝永期および天保期は財政再建を主目的とし、元禄期および元文期は通貨量増大の目的もあったとされるが、実質的に通貨量が増大したかについてはその意味や効果の究明を行わずに簡単に結論を出せるものではなく、例えば中国人は長崎において日本の丁銀を南鐐銀である銀錠に改鋳して用い、これに伴い大坂の両替商など商人らの取引に於いても貨幣の素材価値を交換の媒体として重視し、当時の通貨の未発達な段階に於いて品位を低下させ名目価値を増大させても、実質価値としての通貨増大という経済的意義にはつながっていなかった。また文政期のものは放漫財政の結果による赤字補填を主とするものであり、安政から万延期のものは1859年の開港に伴う小判流出を抑制する目的のものであった。 -水の江瀧子は1915年、北海道小樽区花園町に生まれる。8人きょうだいの7番目だったが4人が子供の頃に死んだため、4人きょうだいの末っ子として育つ。出生名は三浦ウメ子だ。2歳の時に一家で東京府千駄ヶ谷、次いで目黒村に移り、以後同地で育った。幼少の頃は当時まだ田舎だった目黒にあってベーゴマ遊びやチャンバラごっこ、洞窟探検などに興じる活発な少女であった。1928年、東京松竹楽劇部の新設に伴う第1期生募集の新聞広告を見た次姉が、ウメ子の知らぬ間に入部試験に応募した。ウメ子は「浅草に連れていってあげる」と姉に試験会場まで連れ出され、何も聞かされず言われるがままに試験に臨み、合格した。ウメ子は何の感慨も湧かず、「学校の勉強があまりできなかったから、それよりはこっちの賑やかなほうへ行くほうがいいだろうと思ったぐらい」であったという。試験でのウメ子の様子については様々な伝聞があるが、『タアキイ-水の江瀧子伝-』の著者中山千夏が「おそらく正確なところを語っている」とする試験委員・大森正男の次のような回想がある。 -イヴァン4世は新興貴族出身のアダシェフやシリヴェーストル司祭といった有能な顧問団による選抜会議に助けられ、1549年頃から本格的な改革に着手した。行政面では、士族層の訴えに応じる嘆願局、中小貴族、聖職者、士族にも政治参加の機会を与えるゼムスキー・ソボルが創設された。これまでのロシアの統治は「ツァーリが命じ、貴族が決定する」方式であり、最上位には大貴族たちの貴族会議があったが、全国会議ではその制度と貴族たちの専横を批判し、集まった各階層の代表者に対しては、ツァーリがそれらの搾取から民衆を保護することを約束した。これは貴族たちに対抗し、聖職者、士族の協調を得て中央集権化する狙いがあった。そのため、これらの制度では特に軍や地方行政を担当する士族の利益に配慮されていた。 -757のデビューは成功したものの、米国の航空自由化により需要が小型機に移ったことに加え、燃料価格が下落した結果、1980年代の大半で販売が伸び悩んだ。直接的な競合機種は存在しなかったが、マクドネル・ダグラスMD-80などの150席級のナローボディ機は機体価格が低く、757の座席配置によってはほぼ同数の乗客を乗せることができた。全く売れない期間が3年間続いたが、1983年11月にノースウエスト航空から20機の注文を受けたことで、生産ペースを下げずに済んだ。1985年12月には貨物型の757-200PFが発表されUPS航空から20機受注したほか、1986年2月には貨客混載型の757-200Mがローンチされロイヤル・ネパール航空から1機受注した。貨物型はメインデッキ(旅客型で客席が設けられる部分)を貨物室としたタイプであり、1987年9月にUPS航空によって初就航した。貨客混載型はメインデッキに乗客と貨物を収容できるモデルで、1988年9月にロイヤル・ネパール航空によって就航した。 -バラク・オバマの広島訪問(バラク・オバマのひろしまほうもん)は、2016年5月27日に44代目アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがアメリカによって原子爆弾を投下された広島を訪問し、核兵器の廃絶を訴えた出来事について記す。同国によって核兵器が投下された日本の都市へ現職のアメリカ合衆国大統領が訪問するのは初めてのことである。オバマは伊勢志摩サミット出席後の2016年5月27日、安倍晋三内閣総理大臣とともに広島県広島市中区の広島平和記��公園を訪問し、広島平和記念資料館を10分程度視察後、慰霊碑に献花し、17分にわたって「核兵器のない世界」に向けた所感を述べた。オバマに続いて安倍も所感を述べた後、オバマが被爆者代表2名と対話したり抱擁を交わした。オバマは1時間ほど滞在した。 -中城ふみ子は、日本の歌人である。北海道河西郡帯広町出身だ。旧姓は野江富美子、妹の野江敦子も歌人である。中城は婚姻後の姓で、離婚後も中城を名乗った。戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている。 -アロサウルスは、首に9個、背中に14個、腰部(仙骨)に5個の椎骨を持っていた。尾部の椎骨の数ははっきりせず、個体によっても異なるようである。ジェームズ・マドセンは50個、グレゴリー・S・ポールは45個かそれより少ないと推測している。首部の椎骨には空隙があり、そこには現生の鳥類と同様に呼吸用の気嚢があったと考えられている。 -16歳で庶民院図書館勤務を始めたメイは、長年の功績が認められて1871年に下院事務アドバイザーのトップである庶民院書記官に任ぜられた。71歳での退任後にはファーンバラ男爵に叙されたが、貴族院議員就任に間に合わず1週間後に死去し、爵位は廃絶した。 -死亡したソーサの両親も、サンフランシスコ市と動物園を告訴した。両親はサンフランシスコ市に損害賠償を申し立てていたが、市が責任を否定したため法廷で争うことになった。市は事件の責任はサンフランシスコ動物園と動物園の保険会社にあるとしたことに対し、弁護士は動物園の安全を確保しなかったのは市の責任と主張した。この訴訟は2009年に和解したが、その条件は非公開であった。 -江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎による『狐の嫁入図』では、天気雨のときにはキツネの嫁入りがあるという俗信に基き、キツネの嫁入り行列と、突然の天気雨に驚いて農作物を取り込む人々の様子が描かれている。このように、空想上の情景としてキツネたちと現実の農村風俗とを同時に絵画の中に描くことは珍しい例と指摘されている。同時代の俳諧師・小林一茶の句にも「秋の火や山は狐の嫁入雨」とある。明治時代の俳人・歌人である正岡子規は短歌で「青空にむら雨すぐる馬時狐の大王妻めすらんか」と読んでいる。人形浄瑠璃『壇浦兜軍記』(1732年初演)でも「たつた今までくわんくわんした天気であったが、ええ聞こえた、狐の嫁入のそばえ雨」とあり、戦後では時代小説『鬼平犯科帳』に「狐雨」と題した1篇がある。 -憲法は新たな首都の場所を特定していなかったが、マディソン、トーマス・ジェファーソン及びアレクサンダー・ハミルトンの3人は、1790年、首都を南部に置くことを条件に、合衆国が州の発行した戦時負債を肩代わりするとの合意に達した(後に1790年協定として知られる)。 -1938年(昭和13年)、東條英機ら軍部統制派の圧力に押された第1次近衛内閣は戦時体制を遂行するため電力の国家管理を目論み、松永安左エ門ら電力業界の猛反発を抑え込んで第73帝国議会に「電力国家管理法案」を上程した。翌1939年4月1日に国家総動員法と共に電力管理法・日本発送電株式会社法を成立させた。これに伴い特殊法人として発足した日本発送電株式会社は出力5,000キロワット以上の水力発電所および出力1万キロワット以上の火力発電所をほぼ例外なく管理下に置き、かつ同規模の新規電力開発を電力会社が実施することを事実上禁止した。 -バスク州はアラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県の3県で構成され、それぞれの県都はビトリア=ガステイス、ビルバオ、サン・セバスティアンである。1979年の自治州発足後、全252のムニシピオ(基礎自治体)のうち187のムニシピオが自治体名の改名を行った。その多くはスペイン語名をバスク語名に改名したものだが、二言語の名称をハイフンで連結した自治体や、スラッシュで分けた自治体も見られる。ハイフンで連結された場合には二者択一性は担保されておらず、全体で1つの名称として扱われる。スラッシュで分けられた場合は、使用する言語環境によって二者のうちいずれかを選択する。 -Lは2006年4月、三重大学に留学生として入学し、それ以降同大学に在学していた。Lは当時、国の支援を受けない私費���学生として年間約34万円の授業料を払っており、津市内の大学キャンパス付近の木造平屋アパートで一人暮らししつつ、地域文化論を学んでいた。三重大入学後、Lはコンピューター専門学校在学当時の担当教師に対し、「なぜ自分は奨学金を受けられないのか。そのせいで金に困り、コンビニエンスストアの廃棄弁当を漁って食べるような生活を送っている」という内容の手紙を送っていた。そのため、母国の両親から仕送りを受けつつ、大学付近の飲食店などでアルバイトをして生活していたが、事件前には体調を崩して働けなくなった。しかし三重大の学生時代は学費滞納を繰り返し、前期・後期ごとに大学側から何度も支払いの督促を受けており、所属ゼミの教授は「大学の会計担当者から督促依頼が来ており、会計が退学をちらつかせてようやく支払う状態だった」と証言した。Lは入学後最初の2年こそ半年ごとに授業料を納付していたが、2008年度から2010年度にかけての3年間は、いずれも期限直前の3月下旬に前期・後期分を一括納付していた上、2008年には三重県の私費留学生奨学金を申請したが、成績不良などを理由に認められなかった。これに加えて三重大在学中は、アパートの家賃も滞納するなど、生活費に困窮しており、成績も悪く、授業に来ないことも多かった。結局、事件のあった2009年度は2単位しか取得できなかったが、入学5年目となる2010年度には授業に出席するようになり、2011年3月に卒業した。 -イタイイタイ病裁判の勝利を記念して1976年(昭和51年)5月、イタイイタイ病対策協議会が「清流会館」を婦中町萩島(現:富山市婦中町萩島)の被害地域に建設した。敷地3900m2、床面積750m2で患者救済・発生源対策・汚染土壌復元運動の拠点となるほか、全国の公害反対運動に連帯する活動を行っている。館内にはイタイイタイ病の闘いの年表や写真などの展示室および資料館などが設置されている。イタイイタイ病裁判の勝訴から30年以上が経過し、公害への関心が薄まってきたことから資金難に陥り、存続が危ぶまれたため、イタイイタイ病対策協議会は公設の施設を建設するよう要望。これは2012年(平成24年)4月29日に富山県立イタイイタイ病資料館が開館する事で実現している。2014年からは「イタイイタイ病を語り継ぐ会」が活動している。2018年3月15日には、富山大学が「イタイイタイ病資料室」を開設した。 -千葉県での津波の被害としては、浸水面積は17km2であり、旭市で14人の犠牲者(行方不明者2人)が出た(2015年3月11日現在)。また、銚子市、山武市など北東の沿岸部が浸水、山武市で1人の犠牲者を出した。東京湾岸の埋立地や利根川河川敷で液状化現象が相次ぎ、浦安市では市内の85%が液状化し、中町・新町地区で住宅や電柱の傾き、地割れ、陥没などが起こった。水道断水約4,000戸、下水道使用制限約11,900世帯、都市ガス供給停止約5,800件であり、市は被害額734億円と推計している(3月21日時点)。千葉市でも美浜区を中心に1,906戸、我孫子市布佐(ふさ)東部地区では119棟の家屋が全壊扱いとなり、2012年1月時点での倒壊恐れのある約50棟に解体を要請したが、修理して住み続ける人もいる。歴史的建造物への被害も多く香取市佐原(震度6)にある伊能忠敬旧宅、歴史的建造物が並ぶ小野川の護岸が一部崩れ、正文堂書店の屋根瓦が落ちる被害、旭市の大原幽学遺跡旧宅で敷地の地割れや地盤沈下、佐倉市の旧堀田邸は漆喰に亀裂が入り、市川市の法華経寺では法華堂の天蓋の飾りの一部が落ちる被害が発生した。印西市(震度6弱)で負傷者7名、建物全壊12棟、半壊56棟、一部損壊874棟。市原市にあるコスモ石油千葉製油所では大規模なコンビナート火災が発生した。 -猪谷千春(いがやちはる、1931年5月20日-)は、日本のアルペンスキー選手、実業家。日本人初の冬季オリンピックメダリスト(2018年3月時点、日本人唯一の冬季オリンピックアルペンスキーメダリスト)。引退後はAIU保険会社で実業家として活躍しつつ、国際オリンピック委員会(IOC)副会長など、オリンピック・スポーツ関連団体での要職を歴任した。いつも黒いウェアで競技をしていたことから「ブラック・キャット」とも呼ばれていた。 -発明以来その低消費電力、高寿命から『未来の照明』と言われながらも長らく電光表示などの用途にとどまっていたLEDだが、青色LEDの発明を経て高輝度LEDの単価が下がってきた近年では懐中電灯をはじめ、電球・蛍光灯などと同等の照明器具に用いられるようになってきた。しかしLEDはその構造上光の指向性が高く、高輝度・低立体角の光源(言い換えると「強く細い光」)であり、照明器具として設計する際には特に不快グレアへの対策が要求される。たとえば、乳白色の半透過フィルタやキャップを被せることで拡散発光をさせる、広指向性LEDの開発等、照明器具と周辺との輝度差をより緩やかにするといった工夫がなされている。一方でその視認性の高さから信号機などの運転案内表示や、自動車のヘッドライトやテールランプ、ウインカーなどへ応用されている物もある。 -ユスティヌス1世の崩御が迫る527年4月1日にユスティニアヌスはカエサル(副帝)に就任し、同年8月1日のユスティヌス1世の崩御により単独統治者となった。 -『リッチマン、プアウーマン』は『コード・ブルー-ドクターヘリ緊急救命-』などを手がけ、特定の職業の内実を描く「職業モノ」ドラマに対するセンスを主演の小栗にも評価されている増本淳らのプロデュースによる作品である。増本は本作について、「普遍的なシンデレララブストーリー」であると同時に、「現代社会のある側面を"仕事"というテーマで切り取り、4人(の登場人物)がそれぞれ自分の人生を織り成すヒューマンドラマでもあります」と説明した。IT業界の人物を主人公とした理由としては「単なる金持ちや成功者ではなく、世界を劇的に変えたイノベーターがここ数年で実際に登場した分野だからです」と語り、主人公の魅力を最大限に引き出し、視聴者に感情移入させるための舞台として、2012年現在においてIT業界がふさわしかったからとしている。主人公とは対照的に、高学歴で就職を望んで努力しているにもかかわらず、仕事に就けないヒロインを設定している。この背景には、ドラマの放送前年の2011年に大学卒業後の就職率が史上最低を記録したということがある。増本は、日本社会にここ数年の間に極端な格差社会があるという見解を示しており、それを象徴する主人公とヒロインの二者の間に恋愛は成立するのか、ということをテーマとして挙げている。多くの視聴者からの声に応え、2013年4月1日には続編となるスペシャルドラマが放送された。 -少なくとも29科、111種の魚類が掃除行動をとることが知られている。掃除魚はほとんどすべての環境に分布するが、熱帯のサンゴ礁における多様性が最も顕著である。ジャイアントケルプが繁茂するカリフォルニアの沿岸にも、18種の掃除魚が生息している。 -1890年3月、数か月前に医師カジュミェシュ・ドウズキと婚約した姉ブロスニワバがパリで一緒に住むよう誘う手紙がマリに届いた。だが彼女は断る。父や姉の元にいると決めたこと、ワルシャワの家庭教師の仕事が順調で、ワルシャワ移動大学での勉学に楽しさを感じていること、留学するには蓄えが充分ではないこと、そしてカジュミェシュ・ゾラフスキを忘れられずにいたことが理由であった。彼女は家庭教師をする傍ら、オールドタウン近郊のクラクフ郊外通り66にある農工博物館の実験室で科学研究の技能習得に努めた。この実験室はサンクトペテルブルクでロシアの著名な化学者ドミトリ・メンデレーエフの助手を務めたこともあるいとこのユゼフ・ボグスキーが管理しており、またロベルト・ブンゼンに学んだN.Milicerも彼女を指導した。 -この特徴は、1629年の『バッカスの勝利』にも見られる。この絵では、現代の農民がバッカス神やその仲間に交わっているが、神の姿は従来神話通り、裸の状態である。この作品では、初期の「食品庫の静物」作品他と同じく、人物像は鑑賞者を正面から見据え、その反応を伺うかのようである。『織女たち』は恐らく『ラス・メニーナス』の後に描かれた絵で、オウィディウスから2つの場面が取り入れられている。1つは、前景で現代風の衣装を着用した人々、もう1つはその後ろで、一部が古代風の衣装を着て、部屋の壁の上のタペストリーの前で演技する人々である。批評家シーラ・ダンベによれば、「描写や迫力の面では、この絵で採られた��法は『ラス・メニーナス』での扱いと密接な関係があるという。1630年代の終わりから1640年代にかけて描かれた一連の肖像画は、現在では全てプラド美術館に所蔵されているが、ベラスケスは神や英雄、哲学者の扮装をした道化や、その他の王家の人々を描いた。その意図には、少なくともよく知っている人々にとっては滑稽な部分も確実にあるが、非常にあいまいな表現になっている。 -マッシーとブラウンは統一性のなかったKFCチェーンの標準化を推し進めた。ユタ州におけるピート・ハーマンの事業を視察したあと、2人はユタ州の店舗だけの特徴だったテイクアウトのシステムをKFCチェーン全体に拡大した。フランチャイズ加盟店をKFCの商品に注力させるため、各加盟店はオリジナルの商品をメニューから削除するよう指示された。KFCに加盟しているレストランはデザインし直され、キューポラ付きのマンサード屋根をそなえた特徴的な赤と白のストライプ模様の外観になったフライドチキンのみを販売する店舗というモデルは、潜在的なフランチャイズ加盟希望者にとってより魅力的であり、独立店舗の展開によって会社の成長は加速された。 -この計画は多くの賛同者を得て、同年7月21日に記念碑の除幕式が行われた。記念碑は小樽市観光物産プラザ(運河プラザ)前広場にあり、銅像となったぶん公が倉庫群の方を向いて台座の上に座っている。子供たちが銅像に触れたり記念写真を撮るなどで、ぶん公と親しむことができるよう、台座は適度な高さが心がけられた。台座にはめ込まれた写真プレートには、シボレー製消防車のサイドステップに座るありし日のぶん公の姿が映し出されている。ぶん公の記念碑は人々に親しまれるようになり、好物のキャラメルの他に手編みのマフラーや帽子などが時折供えられている。12月にはクリスマスに合わせてサンタクロースの衣装が着せられ、記念撮影をする観光客も多い。2007年(平成19年)には、小樽市内の印刷会社である石井印刷が、自社ブランド「小樽紙匠堂」のもと、後に小樽観光協会推奨のご当地キャラクターとなる「おたる運がっぱ」など計4点のオリジナルキャラクターを生み出しており、その1つであるメスの白い子犬「シャチくらら」は、ぶん公の孫とされている。翌2008年(平成20年)には携帯電話用ストラップの販売などで人気を呼んだ。同2008年、NPO法人日本福祉愛犬協会(KCジャパン)は「第1回銀の首輪賞」をぶん公に授与した。この賞は「ペットと人間の共生のために、社会に貢献した犬や人」を対象とする賞で、ぶん公の没後70年の命日に当たる2008年(平成20年)2月3日の「消防犬ぶん公・メモリアルコンサート」で表彰式が行われた。 -ユスティニアヌスの時代は、ベリサリウスに仕えた歴史家プロコピオスの著作から、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。これによると、ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあり、アナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれているという点が指摘されている。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛を図るため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現ガズィアンテプ)といった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたハギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。 -イベリア半島とバレアレス諸島の間の海域はバレアレス海と呼ばれ、その最大水深は2,065mである。カステリョン・デ・ラ・プラナの沖合約50km、バレアレス海南西部には無人島のコルンブレテス諸島があるものの、その他に島や浅瀬は存在しない。イベリア半島の沿岸部から20-65kmの範囲に大陸棚が広がり、水深がもっとも深いのは中央部である。バレアレス海の主要な港湾都市はスペイン本土のバルセロナやバレン���ア、マヨルカ島のパルマなどである。地中海西部には長さ900km、幅200kmに渡って平坦な海底があり、この平均水深2,000-3,000m、最大水深3,150mの海底はバレアレス深海平原と呼ばれる。その東端はフランスのコルシカ島とイタリアのサルデーニャ島、南端はアフリカ大陸のアルジェリア、北西端はスペインのバレアレス諸島であり、フランス本土の沖合はバレアレス深海平原には含まれない。フランスのローヌ川やアルジェリア北岸の海底谷から多くの堆積物が供給される。 -1920年1月、ウォルトとアイワークスはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。だが、設立早々にウォルトはアイワークスを置いてカンザスフィルム社にアニメーターとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中でアニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。社員としての仕事の傍らで、映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭、それまでの切り抜き手法からセルアニメに高い可能性がある事を確信した。1920年、独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく、アブ・アイワークスを初め、ヒュー・ハーマンや、ルドルフ・アイジング、カーマン・マックスウェルなどの数人のアニメーター仲間を呼び寄せた。弱冠20歳のウォルトにとってこのLaughO'GramStudio社は最初の成功となったが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -大戦中は好業績を挙げていた電気製鋼所であったが、大戦終結後、特に1920年3月の戦後恐慌発生以降はフェロアロイ部門が極度の不振に陥り、市況の悪化とともに工場に在庫が累積していった。従って専門工場の木曽福島工場は操短を余儀なくされ、1922年(��正11年)6月20日には、熱田工場への生産集約に伴って一時閉鎖措置が採られた。余剰電力については大同電力へ売電することとなった。戦後恐慌に加えて戦後の軍縮による軍需縮小も会社の先行きに関する懸念事項として浮上した。このためワシントン海軍軍縮条約締結を機に電気製鋼所と大同電力の鋳鋼部門が独立した大同製鋼(初代、社長は電気製鋼所と同じく福澤桃介)の統合構想が持ち上がり、1922年7月1日に両社の間で統合契約が成立した。統合方法は合併によらず電気製鋼所の製鋼事業のみを大同製鋼へ移管するというもので、電気製鋼所は熱田・木曽福島両工場と関連会社の株式、あわせて150万円を大同製鋼へ現物出資し、その対価と優先株への応募(10万円分)によって大同製鋼の株式を取得することとなった。7月26日に株主総会にて上記契約が承認され、現物出資の登記が完了した9月15日付で電気製鋼所は「木曽川電力株式会社」へ改称した。この操作によって木曽川電力は、経営陣そのままに旧電気製鋼所の第一・第二発電所と旧福島電気の電灯・電力供給事業を持つ電気事業者として新発足した。また初代大同製鋼改め大同電気製鋼所(後の2代目大同製鋼、現・大同特殊鋼)の株式3万2000株を持つ大株主にもなった。 -江戸時代の花井村では和紙生産が盛んで、「花井紙」として知られていた。隣接する九重村でも生産され、同じく花井紙と呼ばれた。花井紙は関ヶ原の戦いで西軍方に付いて敗北した武将の姫が、貞流尼公という名の尼僧となって花井に住み、布教の傍ら紙漉きの方法を伝授し、生産方法が普及したと伝えられる。花井紙生産は江戸時代を通して花井の村人の生業ないしは副業として続き、永代保存用の証文、紙衣、蚊帳(紙帳)、布団、和傘などに利用された。特に花井紙の紙衣は『和漢三才図会』で奥州白石、駿州ノ阿部川、摂州大坂と並び最高品質であると評されたほどで、熊野市育生町尾川に伝わる大庄屋文書群の中に「花井紙の紙衣を3着送ってほしい」という江戸からの書状が含まれている。 -ダウンタウンおよびサウスボストンの地勢は、特に中央幹線・トンネル事業による変化が加えられた。埋め立てられたサウスボストンの不安定な土壌のため、同事業のトンネル掘削には特別な問題が生じた。ダウンタウン地区では、同事業により、中央幹線の見苦しい高架をなくすことができ、新しい緑地や公園を整備することが可能になった。ボストンのフィナンシャル・ディストリクトやビーコンヒルの近くにあるボストンコモンは、アメリカで最も古くからある公園である。隣のボストン・パブリック・ガーデンとともに、フレデリック・ロー・オルムステッドがデザインしたエメラルド・ネックレスが街を取り巻く公園の連なりを構成している。エメラルド・ネックレスの一部を成すジャマイカ池は、市内最大の淡水域である。同じくエメラルド・ネックレスの一部であるフランクリン・パークは、市内で最も大きな公園であり、中にフランクリン・パーク動物園がある。もう一つ大きな公園としては、チャールズ川両岸に沿って広がるエスプラナード(遊歩道)がある。野外コンサート場のハッチ・シェルがエスプラナードに隣接してある。そのほかにも、市内至る所に公園が散在しており、キャッスル島近くやチャールズタウン内、またドーチェスター、サウスボストン、イーストボストンの海岸沿いには、大きな公園や砂浜がある。 -ルワンダ虐殺は部族対立の観点のみから語られることもあるが、ここに至るまでには多岐にわたる要因があった。まず、フツとツチという両民族に関しても、この2つの民族はもともと同一の由来を持ち、その境界が甚だ曖昧であったものを、ベルギー植民地時代に完全に異なった民族として隔てられたことが明らかとなっている。また、民族の対立要因に関しても、歴史的要因のほかに1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、1990年代初頭のルワンダ愛国戦線侵攻を受けたハビャリマナ政権によるツチ敵視の政策、ルワンダ愛国戦線に大きく譲歩した1993年8月のアルーシャ協定により自身らの地位に危機感を抱いたフツ過激派の存在、一般人の識字率���低さに由来する権力への盲追的傾向などが挙げられる。さらに、国連や世界各国の消極的な態度や状況分析の失敗、ルワンダ宗教界による虐殺への関与があったことが知られている。 -一方、ヴィルヘルム2世は外交では一貫して帝国主義政策を推進し、海軍力を増強して新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリスやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深め、最終的に第一次世界大戦を招いた。 -当時は2019年現在と比べ、航空機の利用は大衆に浸透しておらず、騒音など外部不経済の負担が大きい空港は、単なる迷惑施設であるとしか世間は認識していなかったこともあり、既に空港建設の候補地となっていた各地では、反対運動が繰り広げられていた。富里村および八街町でも1963年には「富里・八街空港反対同盟」が結成されており、政府が迷走している間に革新政党が指導する反対運動が浸透していた。さらに突如として一方的に内定を突きつけられたことで地元農家らは「何が候補地として最適だ。地元の調査も挨拶もないうちに一方的に決められてたまるものか。ここは日本一の農耕地だ。農地はわれわれのいのちだ」と激怒した。その結果、富里・八街の地元住民らは、さらに激しい抗議活動を展開するようになっただけではなく政府発表まで根回しが全くなされなかった地方公共団体からも反発が出て、閣議決定はいったん取りやめとなった。千葉県庁には「富里に決定したら命をもらう」「ベトコン作戦で徹底的に戦う」など、脅迫まがいの電話や直談判が殺到した。また1960年代の日本は、中央政府・地方自治体・住民の力関係が変化しつつある時期にあたっていたが、これまで地元の陳情・請願を受けて飛行場を造ることがほとんどだった運輸省当局は、用地取得に関する地元住民との話し合いをどうするかも全く決めておらず、住民対策として「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の4条件を提示して抗議してきた千葉県側に対しても「新東京国際空港公団法を次の国会に提出し、その公団に各省から人を出してもらって相談してもらう」とした。こうした「地元は政府の決めたことに従えばいい」と言わんばかりの運輸官僚の態度は、さらに火に油を注ぐこととなった。 -バビロニア(バビュロニア)と言う名称は、その主邑バビロンに由来するギリシア語の名前、バビュローニアーから来ている。従ってこれは外部からの呼称であり、現地においてギリシア語のバビュローニアーに完全に対応する地理概念が当初より存在したわけではない。なお、ギリシャ人やローマ人はしばしばアッシリア(アッシュリア)とバビロニアを混同している。 -「クロアチア人の公」として初めて記録に現れるトルピミルはダルマチア地方を拠点とし、彼を始祖とする王朝は「トルピミロヴィチ朝」と呼ばれている。トルピミルの後継者の一人であるヴラニミルはフランク王国からの独立を達成した人物とされているが、トルピミロヴィチ家の出身ではないと考えられている。ヴラニミルによってジュパと呼ばれる部族共同体が割拠していたクロアチアの諸部族の統一が進められ、879年にヴラニミルはフランク王国から独立し、ローマ教皇から独立国として承認される。ビザンツ帝国がパンノニア、ダルマチア支配の確立を進めると、クロアチア公となったヴラニミルはローマの教皇庁に接近してビザンツに対抗し、ダルマチアのキリスト教会をローマ・カトリックに帰属させた。パンノニアではキュリロス、メトディオスによるスラヴ語の礼拝の伝統が残り、カトリックへの改宗が進められるダルマチアではニンの司教座を中心とするスラヴ教会が勢力を維持していた。 -1933年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが、他の多くの軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の反共主義と再軍備の政策を歓迎した。1933年10月10日に少佐に昇進するとともにゴスラーに駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた。1934年9月30日に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した。この時にロンメルの大隊はヒ���ラーを出迎える儀仗兵の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐってSSと揉めたとされ、「閲兵式においても警護のためSS部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒し、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と応酬して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという。 -文芸評論家の大庭萱朗は「黒田硫黄のマンガのすべてのコマ、すべてのページに、観ることと描くことの歓び、そして生きることの瑞々しさが横溢している」と評した上で、漫画の「観る体験を味わう媒体としての側面を捉えた」という点で、黒田を手塚治虫、大友克洋、高野文子の系譜に連なる作家と位置づけている。 -ウェスティの寿命は、長生きする個体もいるが、およそ12年から16年くらいで、一度に出産する仔犬の数は3頭から5頭である。まれに多産な個体も見られ、2012年4月にはアイソベルという名前の雌犬が11頭の子犬を産んだという記録がある。ウェスティは腹部のヘルニアが比較的多い犬種である。また、ウェスティの仔犬は「ライオンの顎」として知られる頭蓋骨下顎骨骨症を発症することがある。これは劣性形質によるもので、親犬がどちらも劣性遺伝子を持っている場合に発症する。頭蓋骨下顎骨骨症自体は他のテリア犬種にも見られ、グレート・デーンなどテリアの血統とは直接関係のない犬種も発症する症例である。1歳未満の幼犬が発症することが多く、食物の咀嚼や嚥下不良の原因となることがある。顎周辺の骨の放射線透過検査によってこの症例を診断することができ、血液中のカルシウム量や酵素量からもある程度の診断は可能となっている。1歳を越える頃になると進行が止まることがほとんどで、症状も治まることがある。それまでは抗炎症薬の投与と柔らかい食餌による治療が行われるが、症状が悪化している場合にはチューブによる流動食が必要となることがある。しかしながら、自力での摂食が不可能で苦痛が抑えられないような場合には安楽死の処置がとられることも多い。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、��倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -富山県立神通中学校内の仮書庫の蔵書は、1949年(昭和24年)7月25日に移転されたが、早月加積等に疎開された蔵書のすべてを回収する作業にはこれより4年を要することとなった。また、旧富山市立図書館の蔵書と富山県立図書館の蔵書では図書分類の方式が異なっており、全蔵書の整理作業にも2年3箇月を費やすこととなった。その蔵書整理作業の完了と同時に富山県立図書館においては郷土資料の目録製作作業に着手し、1953年(昭和28年)11月4日に『志田文庫目録』を刊行したのを皮切りに、1955年(昭和30年)4月29日には『富山県郷土資料分類表』、1957年(昭和32年)6月6日には『立山黒部文献目録』、1962年(昭和37年)6月4日には『富山県郷土資料総合目録』を刊行している。また、郷土資料目録の制作作業が一段落してからは、各種重要資料のマイクロフィルム作成作業に着手し、1967年(昭和42年)5月11日に加越能文庫のマイクロフィルムを完成させ、同年6月21日からは明治以降の郷土新聞の撮影に着手した。 -その一方で、世界遺産条約締約国は190か国を超え、2015年には世界遺産リスト登録物件が1,000件を超えた。世界遺産条約は最も成功した国際条約と呼ばれることもしばしばであるが、反面、その登録件数の増加に対しては、保護・管理といった本来の趣旨に照らして懸念を抱く専門家たちもいる。のみならず、専門家の勧告を覆す政治的決定の増加、都市開発と遺産保護の相克、過度の観光地化など、知名度が高くなったからこその問題も持ち上がっている。また、複数国で共有する「国境を越える世界遺産」は国際平和に貢献しうるものではあるが、領土問題や歴史認識が関わる審議では、国際的あるいは国内的に物議をかもすこともあり、武力衝突に繋がったことさえある(タイとカンボジアの国境紛争)。世界遺産を守っていくためには教育や広報の重要性も指摘されており、ユネスコは若者を対象にした教材の開発や国際フォーラムの開催なども実施してきた。大学などの研究者には「世界遺産学」という学際的な学問を提唱する者たちもおり、大学・大学院によっては世界遺産に関する学科や専攻が設置されている場合があるほか、関連する講座が開講されている大学もある。世界遺産は有形の不動産を対象としており、同じユネスコの遺産でも、無形文化遺産や世界の記憶(世界記憶遺産)とは異なる制度である。ただし、日本語の文献や報道では、これらがまとめて「ユネスコ三大遺産事業」などと呼ばれることもある。 -バラク・オバマの広島訪問(バラク・オバマのひろしまほうもん)は、2016年5月27日に44代目アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがアメリカによって原子爆弾を投下された広島を訪問し、核兵器の廃絶を訴えた出来事について記す。同国によって核兵器が投下された日本の都市へ現職のアメリカ合衆国大統領が訪問するのは初めてのことである。オバマは伊勢志摩サミット出席後の2016年5月27日、安倍晋三内閣総理大臣とともに広島県広島市中区の広島平和記念公園を訪問し、広島平和記念資料館を10分程度視察後、慰霊碑に献花し、17分にわたって「核兵器のない世界」に向けた所感を述べた。オバマに続いて安倍も所感を述べた後、オバマが被爆者代表2名と対話したり抱擁を交わした。オバマは1時間ほど滞在した。 -1857年秋になると兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の精神病が悪化して精神錯乱状態に陥った。プロイセン憲法上ヴィルヘルムが摂政に就任するべきところだったが、首相オットー・テオドール・フォン・マントイフェルや侍従武官長ゲルラッハら「カマリラ」は彼が摂政に就任することによって自由主義政策が行われることを恐れていたため、摂政の設置に応じようとせず、10月23日にヴィルヘルムを3か月の期限付きで憲法上に規定がない「国王代理人」なる地位に就けた。完全なる君主権を有する摂政ではなく「国王代理人」とすることで国王の従来の方針にヴィルヘルムを縛りつける意図だった。ヴィルヘルム派はこれを「憲法違反」として批判し摂政の設置を要求した。ヴィルヘルム当人は「国王代理人」職を神から与えられた使命と感じて快諾し、この地位に留まる限り自分独自の政策を実行する意思はなかった。兄王の「善良な人柄」と義姉の王妃エリーザベトへの思いやりを念頭に行動することを心がけていたという。1858年1月、4月、7月と3か月の期限を迎えるたびに国王の勅書によってヴィルヘルムの「国王代理人」職が更新された。マントイフェル首相は出来る限りこの状態を継続させたかったが、法相や議会から憲法上の根拠の乏しさを追及され、とうとう内閣でも摂政を設置すべきとの意見が多数派となった。10月7日に至ってついにヴィルヘルムを摂政に任じる勅書が出された。 -ヨセミテ国立公園は、シエラネバダ山脈の中で最大規模の、最もまとまった動植物の生息地であり、生物の多様性を育んでいる。公園は高度600メートルから4,000メートルの地域を含み、大きく分けて次の5つの植生帯から成っている。低木・オーク林帯(chaparral/oakwoodland)、低地・低山植生帯(lowermontane)、高地・低山植生帯(uppermontane)、亜高山帯(subalpine)、および高山帯(alpine)である。カリフォルニア州には7,000種の植物が生えているが、そのうちの50パーセントがシエラネバダ山脈にあり、20パーセント以上がヨセミテ公園内に見られる。160種以上の稀少植物の植生地域があり、その形成にはヨセミテのたぐいまれな地質学的形成過程と、特異な土壌が寄与している。また、アメリカグマや、アライグマなどの哺乳類が約100種類、鳥類が200種類以上生息している。セコイアの大木でも有名である。 -日本で初めて電気式補聴器が輸入されたのは1908年のことである。代表的な輸入業者であった吉田勝恵商店は「アウリクル」という名のイヤートランペットやチューブ式補聴器の製造もおこなっていた(同社は1911年の創業で、2010年代にも認定補聴器専門店として営業を続けている)。1910年に輸入されたアコースティコン社のカーボン補聴器には160円の価格がつけられた。国語辞典の広辞林では1925年の版から「補聴器」という言葉が収録された。1934年には、医学博士でろう教育に携わっていた加藤亨によって初の国産電気式補聴器「リッカフォン」が開発された。1949年に制定された身体障害者福祉法によって補聴器が支給対象に指定されると、日本における補聴器の普及は本格化し始めた。その前年、小林理研製作所が日本で初めて真空管補聴器を生産し、5000円の価格で販売した。「弁当箱」という愛称がつけられた第1号モデルは名前の通りやや大きく、同時期のコンパクトな外国産モデルと比べるとまだ技術的に見劣りした。戦後初めて補聴器の民間輸入が行われたのは1951年のことで、ソノトーン社のポケットサイズモデルには諸費用込みで8万円という高額の値段がつけられた。 -ポール・セザンヌは10歳の時、エクスのサン=ジョセフ校に入学した。1852年、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だったエミール・ゾラと友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていた。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っている。もう1人の少年バティスタン・バイユも併せた3人は、親友として絆を深めた。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、ホメーロス、ウェルギリウスの詩、ヴィクトル・ユーゴー、アルフレッド・ド・ミュッセへの情熱を共有した。セザンヌは、同校に6年間在籍する間、1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習った。1858年11月にバカロレアに合格すると、1861年まで、父の希望に従い、エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた。そのうち、徐々に、画家になりたいという夢を持つようになった。父が1859年に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描いた。 -アルニムから自分たちの童話集出版を後押しされたグリム兄弟は、アルニムの仲介でベルリンの出版者ゲオルク・ライマーを版元に決め、1812年のクリスマスに『子どもと家庭のメルヒェン集』初版第1巻を刊行した。この巻には86篇のメルヒェンが収められ、それぞれに学問的注釈をつけた付録が施されていた。しかし、この子ども向けの本と学問的資料との間のどっちつかずの体裁は、批判を呼んだ。86篇収めた第1巻の売れ行きは好調とはいえなかったが、新たに70篇を集めて1815年に刊行された第2巻はさらに売れ行きが悪く、このため計画が持ち上がっていた第3巻は実現しなかった。1819年に刊行された第2版は、弟ルートヴィヒ・グリムによる2枚の銅版画が口絵に入れられ、注釈も別冊として分離されたので、より親しみやすいつくりに変えられた。 -一連の作品は、ロボットが一見して三原則に反するような行動を取り、その謎を解決するというミステリ仕立ての作品が多く、中でも長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』は、3原則の盲点を利用した巧妙な殺人トリックを描いたSFミステリの傑作としても知られている。ファウンデーションとロボットの2つの潮流は、『ロボットと帝国』(1985年)によってひとつの未来史としてまとめられた。また没後に『アンドリューNDR114』および『アイ,ロボット』の2本の映画が公開されている。 -20世紀のなかで宮崎駿が最も影響を受けたものとして、ブルース・スプリングスティーン、映画『イージー・ライダー』、そしてジョン・フォードの監督作品、とりわけ『荒野の決闘』を挙げている。そのほかに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』、デヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』、フリッツ・パペンハイムの『TheAlienationofModernMan』といった本からも影響を受けたと述べている。ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『指輪物語』を厳しく批判する一方、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』からの影響をしばしば公言し、「シュナの旅」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『ゲド戦記』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『ゲド戦記』から影響された部分があると語っている。フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『世界・わが心の旅』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった郵便機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、ハンセン病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」と話す女性を登場させるなど、網野善彦の中世史観の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する。 -1927年(昭和2年)、新しいカバが上野動物園に来園することになった。飼育係の高橋峯吉は、京子の「お婿さん」になるオスカバが来るという知らせを聞いて「そりゃあよかったですね。ハー��ンベックからですか」と黒川に質問している。高橋のこの質問について『物語上野動物園の歴史』の著者、小宮輝之(元上野動物園園長)は、「ハーゲンベックの名が出たのは、カバの将来のために京子との血縁のないオスを迎えたいという気持ちが思わず言葉に出たものであろう」と推測している。しかし、来園が決まったのは京子と同じく昌慶苑動物園生まれで、1925年(大正14年)5月生まれの京子の弟にあたる個体であった。京子のときには同じ宮内省所管の動物園ということで輸送料などの実費を除いて無償譲渡のかたちであったが、今回については上野動物園がすでに東京市の所管となっていたため、李王職から1頭7,000円で購入することになった。 -1929年(昭和4年)、新しいカバ室が完成した。新しいカバ室のプールは広く深く設計され、広い運動場が左右に2部屋設置されてカバの妊娠や分娩の際にはメスとオスが分離できるように配慮されていた。5月19日に一度引っ越しを試みたものの、京子が怖気づいて暴れたため、中止せざるを得ず、しかも5月31日には初めての子を流産していた。7月と8月に改めて行われた京子と大太郎の新カバ室への引っ越しの指揮は、病気がちになっていた黒川に代わって前年に動物園に入ったばかりの古賀忠道が執った。2回目の引っ越しの際も京子は暴れたが、何とか新しいカバ室に移すことができた。ようやくのことで新しいカバ室に着いた京子は暴れすぎた反動でへたり込み、プールに入ったままで2週間もの間新設された運動場に出ることがなかった。それに比べて大太郎の引っ越しは何の苦労もなく、作業にあたった人々が拍子抜けするほどであった。後に高橋は自著『動物たちと五十年』に「やっぱり、オスは度胸がいいんだね、と私たちは語りあった」と記述している。 -アルバムには13歳の時に制作した楽曲からデビュー後19歳になって以降に制作した楽曲までが収録されている。アルバムの最初の楽曲「Diggin'OnU」はライブに来てくれる人やファンに向けての感謝を込めて書かれており、そういった人たちと一緒に盛り上がりたいという思いから生まれた。楽曲の制作時期は2007年の夏頃とされている。「MyLove」は今作収録楽曲のなかで最も制作時期が古く、13歳の時に制作されている。その頃はまだトラックが作れなかったために歌詞とメロディだけをテープに録音していたという。この楽曲はアンプラグドで録音され、清水はエクストリームの代表曲「MoreThanWords」風の編曲を希望していることをアレンジャーに伝えた。「LoveStory」、「Soulmate」、そしてデビュー・シングルとなった「HOME」の3曲は地元大阪時代に制作されている。「ソレゾレ」、「LOVINU」の2曲は地元大阪から東京へと上京して以降に制作された楽曲で、前者は清水曰くアルバムの中でも一番気に入っている楽曲。逆に、19歳を迎えて以降に制作されアルバム収録に至った楽曲も存在する。セカンド・シングルとなった「「アイシテル」」はセカンド・シングルのリリースが2008年6月と決まったことを受け新たに書き下ろされた楽曲で、2008年3月に制作されている。また、「UNHAPPY」や「RainyDay'sMorning」の制作は2008年6月頃に行われている他、4作目のシングルとなった「MyTreasure」は2008年7月頃に制作が行われている。 -1869年秋、ブルノ市のドイツ人中学校を卒業したヤナーチェクは王立師範学校の教員養成科に入学し、音楽のほか歴史、地理、心理学で優れた成績を収めた。イーアン・ホースブルグは、ヤナーチェクのオペラ作品に登場人物に対する深い理解がうかがえることと心理学でよい成績を収めたこととの関連性を指摘している。1872年、3年間の教科課程を修了したヤナーチェクは無給での教育実習を2年間課せられた。同じく1872年にアウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に就任した。留守がちであったクシーシュコフスキーにかわって活動を取り仕切った。指導を受けた生徒の一人によると、ヤナーチェクは「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」という。1873年には、スヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任した。イーアン・ホースブルグによるとスヴァトプルク合唱協会は主に織工によって構成されており、「居酒屋に集まる労働者の歌唱クラブの域をあまり出なかったが、ヤナーチェクの熱意のおかげでその水準はかなり高まった」。ヤナーチェクは合唱協会のために四声部の世俗歌を作曲しており、イーアン・ホースブルグは、合唱協会の指揮者を務めたことと『耕作』や『はかない愛』といった初期作品のいくつかが無伴奏男声合唱のための作品であることとの関連性を指摘している。1874年、2年間の教育実習を終え最終試験に合格したヤナーチェクは王立師範学校を卒業。この時ヤナーチェクが取得したのは「チェック語が話される学校で地理と歴史を教える資格」であり、音楽を教える資格ではなかった(ヤナーチェクが音楽の正教員としての資格を得たのは1890年5月のことである)。また、当時多くの中等学校ではチェック語ではなくドイツ語が話されていた。 -『マリアとマルタの家のキリスト』は現存するフェルメール作品のうち、サイズの点では最大のものだ。画題は『ルカによる福音書』10章のエピソードに基づく。キリストはマルタとマリアという姉妹の家に招待された。マルタはキリストをもてなすため忙しく働いている。一方で、マリアは座り込んだままキリストの言葉に耳を傾け、働こうとしない。マリアをなじるマルタに対してキリストはこう言った「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに心を配り、思いわずらっている。しかし、大切なことは1つしかない。そしてマリアは良い方の選択をしたのだ」。マリアの頬に手を当てるポーズは図像学的にはメランコリーを意味し、マリアが裸足であるのはキリストへの謙譲を意味する。 -小密儀は毎年2月、アッティカ暦のアンテステーリオーンに執り行われた。ケレーニイによると、小密儀は参加者が入信の資格を得るためのもので、デーメーテールとペルセポネーに子豚を犠牲として捧げ、イリソス川で浄めの儀式を行った。小密儀を終えると参加者たちは大密儀に立ち会うにふさわしい「密儀者たち(ミュスタイ)」と見なされた。小密儀に参加した入信者たちは、同じ年の大密儀には参加できず、翌年の大密儀に参加するしきたりとなっていた。伝説によれば、小密儀はヘーラクレースに課された「12の難行」の最後の冒険と関わっている。ヘーラクレースは冥府の番犬ケルベロスを生け捕ってくることを命じられたが、人間が生きたまま冥府に下るには、エレウシスの秘儀に入信することが必要だった。当時の密儀は他国人にはまだ開かれておらず、ヘーラクレースは最高祭司のエウモルポスを訪ねてピュリオスの養子となり、イリソス川で沐浴してケンタウロス殺戮による「血の穢れ」を浄められたのち、入信を許されたという。 -『毛皮のマリー』は初演時から人気のある作品であった。アートシアター新宿文化で大ヒットとなったため、「伝説の舞台」などと言われることもある。三島由紀夫は本作に感銘を受け、美輪明宏に『黒蜥蜴』の主演を強く依頼したという。一方で、新宿のゲイバーのママたちが大挙して出演し、スキャンダラスな物語を演じる様子は顰蹙も買ったと言われている。寺山修司の芝居としては最も上演回数が多いと言われている。マリーが養子である欣也に執着する様子を描いたこの物語は、母性にもとづく「日本社会の血縁体的な風土」を描いた作品として評価が高く、寺山修司の「母恋いの初期代表作」などと呼ばれることもある。寺山と美輪の美学が前面に出た「キッチュで濃厚な味わいが特徴と言われる。一方で美輪明宏のスタイルの影響力があまりにも強くなったため、その「規範化」を批判的にとらえて新しい演出を求める動きもある。毛皮のマリーズのメンバーである志磨遼平は『毛皮のマリー』が気に入っており、バンド名をここからとった。 -ウィリアム・キャヴェンディッシュは、1729年以前はキャヴェンディッシュ卿(LordCavendish)、同年から1755年まではハーティントン侯爵(MarquessofHartington)の儀礼称号を名乗った。 -イヌが最初の馴化(家畜化)動物であることは、考古学的遺物からも間違いない。最古のイエイヌの骨であるかもしれないものとして、以下のものが挙げられる。シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタール人の住居遺跡(約3万5千年前?、ムスティエ文化(ムスティリアン文化))から発掘された��ヌ科動物の下顎骨は埴原和郎らが発掘。オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古のイエイヌとする説がある。ウクライナ・マルタ遺跡などで出土した、イヌ科動物の骨はオオカミにしては小型。同じくウクライナのメジン遺跡(約3万年前)でもイヌの骨が出土している。ロシア・ウラル山脈の東に位置するアフォンドバ遺跡(約2万年前、ムスティエ文化)で発見された犬の骨。アラスカ・ユーコン地方で発掘されたイヌの骨は少なくとも2万年以上前のものと見られる。また、同じアラスカのオールドクロウ川沿岸で、1万8千~2千年前のものと推測されるイヌの骨が発見されている。ただし、(これと同じものについてのものかどうかは不明だが、)ポーキュパイン川沿岸の洞窟で発見された「イヌ科動物の折られた歯」は、実はクマの歯であった、とする論文もある。 -1913年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は大公フランツ・フェルディナントに対し、1914年6月に予定されているボスニアでの軍事演習を視察するよう命令した。大公とその妻ゾフィーは、演習の後にサラエボを訪問し、そこに新設される国立博物館の開館に立ち会うことを計画した。大公夫妻の長男マクシミリアン・ホーエンベルクによると、ゾフィーが視察旅行に同行したのは夫の安全を危惧してのことだった。 -オレゴン州のワイン産業は1960年代に再編が始まった。1960年代にはカリフォルニア州のワインメーカーも幾つかのブドウ園をオレゴン州に開園している。ウィラメット渓谷は、それまでブドウ栽培には寒すぎると永らく考えられてきたが、この時期になってピノ・ノワールの栽培が始まった。1970年代に入ると、さらに多くの州外ワインメーカーがオレゴン州にブドウ園を開園している。土地利用に関する州法は、地方丘陵の宅地利用に制限をかけ、ブドウ園に適した広大な土地を保護した。1979年、ジ・アイリー・ヴィンヤーズがワイン・オリンピックの1975年製ピノ・ノワール部門に出場した。同地域のワインとしては初めて、世界最高級の評価を獲得した。 -キュプロス島での勝利の余勢を駆ったデメトリオスはさらにエジプトに進軍したが、嵐のために大敗しシリアへと引き上げた。これを挽回するために彼がロドスを抑えるべく包囲すると、プトレマイオスはカッサンドロス、リュシマコスらとともにロドスを支援し、1年にわたる包囲(ロドス包囲戦)の末にデメトリオス軍を撃退した。この結果プトレマイオスはロドス人たちから神として祀られ、ソテル(Sōtēr、救世主)と渾名されることになる。そして前305/304年、アンティゴノス親子の後を追ってプトレマイオスも王位を宣言し(在位:前305年-前282年)、エジプトを支配する王家(プトレマイオス朝)が公式に誕生した。 -α-トコフェロールは、食餌中から人為的に欠損させるとネズミに不妊症を引き起こすことから、妊娠を維持するために必須な物質『ビタミンE』として発見された。生物化学あるいは細胞生物学の研究が進展し、ネズミの不妊症の原因が、酸化ストレスによる胎児の妊娠中死亡が原因と判明することで、ビタミンEの抗酸化物質としての位置付けが明らかとなった。さらにビタミンEが過酸化脂質ラジカルを補足することで抗酸化作用を発現することが証明されたのは20世紀後半である。同様にして生体外でビタミンAやビタミンCの抗酸化物質としての機能が再発見されている。さらに生物化学でエネルギー代謝系やオキシダーゼの作用機序など生体内での微量の物質変化が解明されるに従い、抗酸化物質としての役割も多岐にわたることが判明してきた。このような生物化学的な発見は、栄養学、食品科学にも応用され、食品の変質防止やミネラルの吸収促進など、多くの天然由来の抗酸化物質が酸化防止剤やサプリメントとして開発、利用されている。事実として、ビタミンCやビタミンEはビタミン欠乏症の治療薬としてよりは、食品添加物の酸化防止剤として大量に消費されている。さらに医学領域については活性酸素種と酸化ストレスとの関係が注目を集めている。すなわち脳虚血回復後の神経損傷や、動脈硬化叢で過酸化脂質が炎症反応を介してアテロームの沈着を増悪するなど、酸化ストレスが様々な疾患や老化現象に直接関与していることが発見されている。このことは抗酸化物質が脳卒中や動脈硬化症あるいはアンチエイジングに利用可能であると期待されるため、既存の抗酸化物質の薬理研究や新規の抗酸化物質の発見など、抗酸化物質は盛んに様々な研究が進行する分野でもある。 -カルデラについては、1960年代以降、箱根観光が盛んになるにつれて、箱根各地で行われるようになった温泉試掘ボーリングの試料が問題となった。ボーリングの試料からは中央火口丘の噴出物の下の、かなり浅い場所で箱根火山が乗っかっている基盤岩が検出された。基盤岩がかなり浅い場所で検出されたということは、もし陥没が発生していたとしてもその深さはあまり深くなく、陥没の結果、大規模なカルデラが誕生したとの説とは矛盾する。そして成層火山の大陥没によってカルデラが形成された場合、当然あるべき外輪山を構成するものと同じ噴出物はほとんど見つからなかった。その他にも久野説の修正が必要な、新しい事実が判明していき、箱根火山の形成史は書き換えられることとなった。 -2004年(平成16年)9月17日、追手町図書館の御幸町への移転という形をとって静岡市立御幸町図書館が開館した。館長は公募を行うことも検討されたが、追手町図書館長の渡邉がそのまま御幸町図書館長に就任している。追手町図書館の閉館時の蔵書数は約11万冊、開館した御幸町図書館の所蔵可能冊数は18万冊であるため、ゆったりとした書架での出発となった。 -JX仙台製油所や東京湾岸の製油施設、各地油槽所の稼働停止による供給不足と津波によるタンクローリーの被災・遺失による輸送手段喪失が発生し、ガソリン、灯油、軽油の供給が滞った。これに対し政府は、西日本地域の石油製品在庫取り崩し(民間備蓄義務日数70日分を45日分に引き下げ)、製油所の稼働率上昇による増産、流通業者及び地域間の融通を円滑化を指示し、被災地域において特に重要な拠点ガソリンサービスステーション(SS)を指定し、重点的なガソリンなどの供給が行われた。しかし、一般のSSでは元売りからの供給を受けられないため、給油量に制限を設けるなどの対応が行われた。西日本地域から300台のタンクローリーの追加投入や製油所、油槽所の稼働再開により3月21日ごろから次第に供給不足は解消した。2013年、東京大学の研究グループは、東日本大震災以来体調不良になっていると訴える者が多いことに着目し、対象を若年層に絞って全国調査を行ったところ、当該症例数は有感余震回数と高い相関にあり、本震の震度、空間放射線量率、福島第一原子力発電所からの距離との相関性は低いことが判明したと発表した。2014年1月26日、厚生労働省研究班は、岩手・宮城・福島の3県で震災当時に保育園児だった子供を対象に「子どもの行動チェックリスト」(CBCL)を用いた調査を行ったところ、25.9%の子が精神的問題に関する医療的ケアが必要な状況と分かったと発表した。調査対象の子供の43.9%が津波を目撃している。空港が再開した直後から被曝を恐れて日本から避難するために多くの外国人観光客が空港に殺到し、チェックインカウンターには長い列ができた。二重ローン問題対策として、東日本大震災の影響により債務の返済が困難になった、個人の住宅ローンや、個人事業主のローンなどの債務を対象とした「個人債務者の私的整理に関するガイドライン」(被災ローン減免制度)が2011年8月22日より運用開始された。ただし、当ガイドラインの適用件数は2016年4月15日現在、1,347件にとどまっている。また、事業者向けの対策としては、同年11月に東日本大震災事業者再生支援機構法案(二重ローン救済法案)が成立している。 -757は727の後継機と考えられており、当初は727との共通性が重視されたが、いずれ退役することが見込まれる727よりも、同時進行で開発中の767との共通性を高めた方が良いと考えられるようになった。ボーイングはリスクを低減するため、そして開発費を節約するために両機の設計作業を統合し、結果として両機種は搭載機器や取扱上の特性などが共通化された。767で採用されたコンピュータを用いた設計手法(CAD)が757の設計でも取り入れられ、全体の3分の1を超える設計図がCADで作成された。1979年の前半に��757と767のコックピットが共通化され、両機で同じ計器類やアビオニクス、飛行管理システムが採用された。従来の機械式計器類の代わりに合計6個のカラーCRTを配置して操縦士が把握しやすい情報提示を行うとともに、コンピュータによる自動化を進めることで、操縦士の作業負荷の低減やヒューマンエラーの防止が図られた。まだグラスコックピットという言葉もない時代であったが、この新しいコックピットシステムは、それまで操縦士2人と航空機関士の計3人で乗務する必要があったものを、操縦士2人のみで運航できるように設計された。757と767のコックピットの共通化はパイロットの操縦資格まで共通化することを視野に入れていた。通常、旅客機の操縦資格は機種ごとに取得することになるが、1つの操縦資格で2機種に乗務できることになれば、ボーイングの顧客となる航空会社側でも操縦士の勤務割り当ての自由度が増すことになり、メリットは大きくなる。この共通資格認定は1983年7月22日に認められ、地上での数時間の教習によって757と767の相違について学習することにより、双方の機種への乗務が認められることになった。 -一方で、当時、ボーイングではワイドボディジェット旅客機として、250席程度の座席数を持つ「7X7」(後の767)の開発構想を進めていたが、これと同時に、将来にわたって長く販売を続けることが可能で、7X7よりは座席数の少ない新型ナローボディ旅客機を並行開発するという発想が生まれた。この構想は「7N7」と呼ばれることになり、1976年1月から7N7計画の調査と研究が開始された。コンチネンタル航空は、当初727-300の設計にフィードバックを行っていたが、7N7の研究が始まると727-300への興味を失ってしまった。727-300案を提示された他の航空会社も、同案に大きな興味を示すことはなかった。一方で、7N7案に盛り込まれた高バイパス比のターボファンエンジン、新しいコックピット、軽量化された機体、空力特性の向上、低運用コストという特徴に航空会社は関心をよせた。これら7N7の新しい特徴は7X7との並行開発によって得られるものもあり、7N7は7X7とともにボーイングの将来を担う重要なプロジェクトとして扱われることになった。 -エドワード7世は1841年11月9日午前10時48分、ヴィクトリア女王とその王配アルバートの第2子としてロンドンのバッキンガム宮殿に生まれる。姉にヴィクトリアがおり、後に長妹アリス(1843年-1878年)、長弟アルフレッド(1844年-1900年)、次妹ヘレナ(1846年-1922年)、三妹ルイーズ(1848年-1939年)、次弟アーサー(1850年-1942年)、三弟レオポルド(1853年-1884年)、四妹ベアトリス(1857年-1944年)が生まれる。生誕とともにコーンウォール公爵に叙され、一月後の12月4日にはプリンス・オブ・ウェールズに叙される。1842年1月25日に聖ジョージ・チャペルで洗礼を受け、父アルバートと、ヴィクトリア女王の父であるケント公エドワードの名前を取って「アルバート・エドワード」と名付けられた。王室内ではアルバートの名から「バーティ(Bertie)」と愛称された。 -朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(韓国)に侵攻した後、国際連合は韓国の崩壊を防ぐため国連軍を派遣した。しかし、国連軍の支援が可能な極東に駐留しているアメリカ合衆国軍(米軍)の数は、5年前に第二次世界大戦が終結して以来徐々に減少していた。現地に最も近い米軍師団は当時日本に司令部を設置していた第8軍第24歩兵師団だったが、この師団は人員不足であり第1次トルーマン政権で制定された防衛縮小のため装備の大半が旧式のものだった。それにもかかわらず、北朝鮮による侵攻の初動を受け止め第7歩兵師団、第25歩兵師団、第1騎兵師団、他の第8軍支援部隊などの追加戦力が配備されるまでの時間を稼ぐため、第24師団は米軍の中で最初に朝鮮に派遣された部隊となった。 -両生類の生息数の減少が最初に認識されたのは、1980年代に両生爬虫類学者の大規模な集会で、地球全体で両生類が減少していることが報告されたときである。これらの種の中で特に重要な役割を演じたのは、モンテベルデ(コスタリカ)のオレンジヒキガエル(Bufoperiglines)であった。オレンジヒキガエルは1987年に個体数が急激に減少し、1989年に完全に見られなくなるまで科学的調査の対象となっていた。モンテベルデハーレクインフロッグ(Atelopusvarius)を含むモンテベルデの他の種も同時に姿を消した。これらの種はモンテベルデ雲霧林保護区に所在し絶滅に地域の人間活動が関係することがありえなかったため、生物学者たちの関心を大いに集めた。 -一方で南オセチアでは2006年、独立に関する国民投票(SouthOssetianindependencereferendum)が行われ、完全独立に賛成する投票が99%に上った。同時期、南オセチアで少数民族となるグルジア人らも彼らだけの住民投票を行い、こちらはグルジアへの残留が確認された。グルジア政府はロシア政府に対し「南オセチアにエドゥアルド・ココイトゥイによる傀儡政権を立て、そこを国家として承認し、ロシア連邦保安庁とロシア陸軍を入れる行為は事実上の併合だ」と非難している。2007年にはグルジアは国内総生産(GDP)の6%を軍事費に回している。この短期間での軍事費上昇率は世界でも稀である。 -1859年にはイギリス人移民のジョン・パチェットがナパ郡に初の商業的なワイナリーを設立している。パチェットのブドウ畑とワインセラーは今日のナパ市域に位置していた。この時期には、ブエナ・ビスタ・ワイナリー、ガンロック・バンシュー、イングルヌック・ワイナリー、マーカム・ヴィンヤーズ、シュラムズバーグ・ヴィンヤーズなど、カリフォルニアでも古いワイナリーが何件も設立されている。ワイナリーの建設、ブドウ畑での植え付けや収穫、地下セラーの掘削など、この時期のカリフォルニアでのワイン産業の発展には中国人移民が重要な役割を果たしている。醸造責任者(ワインメーカー)などの高い地位に就いた中国系移民もいたが、アメリカ人熟練労働者に有利になるよう中国人移民コミュニティに深刻な影響を与えた1882年の中国人排斥法の制定によって、1890年まで中国人移民の大部分はワイン産業から排除された。カリフォルニアではミッション種が支配的な種であったが、19世紀後半にはヨーロッパ系品種が支配的となった。1880年代から1890年代には最初の黄金時代を築いた。 -その後、2009年11月にオバマが大統領として初来日することが決定するが、その3ヶ月前の8月28日にアメリカのジョン・ルース駐日大使と薮中三十二外務事務次官が会談を行い、その中で薮中がアメリカ合衆国大統領が広島を訪れるのは時期尚早であり、大騒ぎしない形での簡素な訪問にとどめれば象徴的な意義はあるかもしれないと見解を述べた。この会談の様子を伝える外交公電が在日アメリカ大使館によって作成され、アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件によって2011年に一般に知られることとなった。2009年11月、オバマは大統領として初めて日本を訪問した。大統領任期中に被爆地を訪問できれば光栄であると述べたが、この時は訪れることはなかった。 -現在では上記のようには、広重は実際は東海道を旅しておらず、広重が、『東海道五十三次』を製作する以前に描かれた絵を模写し、『東海道五十三次』の浮世絵を製作したという説が有力である。幕府に同行を命じられる以前の1832年3月には、隠居していることが判明し、同行は不可能と考えられているからである。京都の三条大橋の巨大な橋を、200年前の姿で描いている。石に変更されたはずの橋桁が木製のままになっていることや、京都に近くなるほど、以前に描かれた「東海道名所図会」の挿絵と似た作品が増えること。などが理由にあげられる。最初の版は、保永堂と仙鶴堂とを版元とする共同出版であったが、以降の版は保永堂が単独ですべてを取り仕切った。このスタイルの木版画は通常、それぞれ12-16銭で売られた。わらじ1足、あるいはうどん1杯とほぼ同じ値段である。『東海道五十三次』の成功により、広重は江戸期で最も成功し最も有名な浮世絵師となった。 -1954年11月3日、特撮映画製作を熱望していたスタッフが、当時社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作した、第1作“水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が公開される。身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現��た怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。映画評論家の樋口尚文は、本作の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくというレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる』(1953年)に大きな影響を受けている。観客動員数は961万人を記録した。この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の1955年に公開された第2作『ゴジラの逆襲』では「怪獣同士の対決」が初めて描かれた。この後しばらく東宝はゴジラ以外の怪獣・特撮映画を作っておりゴジラシリーズの新作の企画は無かった。7年後の1962年に公開されたシリーズ第3作『キングコング対ゴジラ』は、当初の企画はアメリカでキングコング(1933)のウィリス・オブライエンがキングコング映画の新作として「キングコング対フランケンシュタイン」として企画していたものである。だが、この企画はアメリカでは資金調達が出来ず、オブライエンも企画から外されたものが回り回って東宝に売り込まれた。それまで東宝にはゴジラ映画の新作の予定はなかったが、東宝側は「キングコングと怪獣を闘わせるなら相手はゴジラしかないだろう」として、これを契約。「キングコング対ゴジラ」となった。これが国内で初めての怪獣対決映画となる。「キングコング対ゴジラ」は、当時の歴代邦画観客動員数第2位の記録となる1255万人を動員した。アメリカなど日本国外でも上映され、大ヒットとなる。以降、日本国外で好調なセールスを買われた昭和ゴジラシリーズは、外貨獲得の手段として1960年代には矢継ぎ早に新作が製作された。 -1988年大会は有利と言われていた名古屋を抑えてソウルが開催地に選ばれたが、その裏ではソウル関係者のIOC委員への過剰な接待がなされていたとされる。1998年には、ソルトレークシティ大会の組織委員会が、カメルーンのIOC委員の子どもの奨学金を肩代わりしていた贈賄事件が発覚。翌1999年には、オーストラリア大会の招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことも発覚した。これを受け、複数のIOC委員が除名された。2017年には、ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長が、リオデジャネイロ大会招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕され、ブラジル検察によって起訴されている。またブラジル検察は、東京大会招致委員会からIOC関係者への送金についても明らかにし、買収目的だったと指摘している。ただし、開催費の高騰から、近年は立候補都市が減少している。 -新しい王には兄弟のジャーマースプが据えられた。しかし、妻と親友のシヤーウシュの助けを借り、カワードと彼の幾人かの支持者は東方のエフタルの王が支配する領土へ逃れた。カワードはそこでエフタルの軍事的な協力を得て、498年もしくは499年に王位に復帰した。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回���ため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -演習林にとっては大きな試練となった災害であるが、その復旧工事とともに、施設や林道の建設も推進されていった。1950年には森林軌道が野田谷まで延伸されたほか、水力発電所を建設して電力の供給を開始、1952年には地元住民への給電を開始した。1961年には関西電力による電気の供給が開始されたが、このとき電気の来なかった灰野は住民が全員離村、最後まで残った山番の村も姿を消してしまった。林道の整備は内杉谷から下谷を経て長治谷に抜ける内杉林道を中心に進められ、1952年に落合橋まで開設されたのを皮切りに、1954年に幽仙橋まで延伸、その後もケヤキ坂を越えて工事は進められて1970年に長治谷作業所に到達した。この他にも落合橋で内杉林道から分岐して櫃倉谷を詰める櫃倉林道が1955年に開設され、1972年には長治谷作業所から地蔵峠を越えて朽木村生杉に抜ける峰越林道が開設されたほか、1980年代にかけて内杉林道中央部のケヤキ峠を中心に、北は杉尾峠直下に通じ、南はブナノ木峠の南に達する林道が開設された。 -ゴズリングの次の出演作は2006年の映画『ハーフネルソン』で、若い学生と絆を作る、薬物中毒の中学教師を演じた。役作りのため、ゴズリングは撮影の1ヶ月前にニューヨークへ転居した。彼はブルックリンの小さなアパートに住み、8年生の教師をシャドウイングする生活を行った。『ロサンゼルス・タイムズ』のケネス・テュランは、「催眠術のような演技で、[中略]人物に関する深い理解のようなものを見せており、物に出来る役者はほとんどいない」と評した。『サンフランシスコ・クロニクル』のルース・ステインはマーロン・ブランドとゴズリングを比較し、更に「偉大な演技に関心がある人で、彼の演技を見落とそうとする人などいない」と述べた。ロジャー・イーバートは、「(ゴズリングの演技は)現代映画で働く最も素晴らしい俳優のひとりだと証明した」と評した。この映画により、ゴズリングは史上7番目の若さ(当時)でアカデミー主演男優賞にノミネートされた。2007年には映画芸術科学アカデミーの会員に招待された。 -プロドロモスの古門(ΠαλαιὰΠόρτατοῦΠροδρόμου,PalaiaPortatouProdromou)は、近くの前駆授洗ヨハネス(イオアン)教会(ヨハネスはギリシア語でプロドロモスProdromos、すなわち「前駆者」とも呼ばれる)にちなんで名付けられた門だが、位置が分かっていない。ファン・ミリンゲンは古黄金の門の隣にあったとしているが、ジャナンは第七の丘の北側斜面にあったとしている。メランティアスの門(ΠόρτατῆςΜελαντιάδος,PortatēsMelantiados)の位置についても、さまざまな説がある。ファン・ミリンゲンはこれをテオドシウスの城壁の門(泉の門)であるとしていたが、ジャナンとマンゴーはこの説を否定し、コンスタンティヌスの城壁の城門であるとした。ただ二人の説の間にも相違があり、マンゴーがプロドロモスの門の近くにあるとしたのに対して、ジャニンはこの名がtaMeltiadou区と混同されたものであると考え、モ箕臼の貯水池の西側にあったとした。他にも、A・M・シュナイダーはアドリアノープルの門の近く、A・J・モルトマンはレシオスの門の近くとする説を唱えている。 -13世紀に入りフィリップ2世による王領拡大が進みフランスが発展を見せると農村にも貨幣が浸透してくる。ルイ9世は税を貨幣で納めるよう明文化した。また、貨幣高権の国王集権化はルイ9世時代にほぼ完成したとされる。1262年のシャルトル勅令では各地域での諸侯・教会によるドゥニエ造幣は引き続き認めつつも、域外では通用しないこととし、王の鋳造したドゥニエのみを王国の共通貨幣とした。ルイ9世治世の末期に新たなタイプの通貨単位としてグロとエキュが導入され、それぞれ銀貨と金貨として発行された。金銀複本位制のはじまりである。トゥール貨1グロはトゥール貨1スーと等価とされ、1エキュはトゥール貨10スーと等価とされた。この時の金貨はともかくグロ銀貨は使い勝手がよく大ヒットし、他の国や地域でも模倣された。ただ実際はドゥニエの度重なる悪鋳により、当初の公定レートとされたトゥール貨12ドゥニエよりも多くの銀を含むこととなったために、グロ銀貨は値上がりしていった。グロ銀貨は純度が高かったために信頼され貿易でも利用された。原料は東欧のフリーザッハ、ステュリア、ボヘミアで新たに開発された銀山からの産出によった。 -1955年にバコールは『蜘蛛の巣』と『中共脱出』に出演した。ヴィンセント・ミネリ監督の精神病院を舞台とした『蜘蛛の巣』で、バコールはセラピストのメグ役を演じた。シャルル・ボワイエとの2本目の共演作であり、ほかにリチャード・ウィドマークやリリアン・ギッシュらも出演している。「ニューヨーク・タイムズ」は『蜘蛛の巣』について「心から共感できる登場人物はたった二人だけだ。ウィドマークは素晴らしく、バコールは抑制された抜け目のない演技を見せた」と評している。多くの映画評論家が、1956年に公開されたダグラス・サーク監督作品『風と共に散る』をメロドラマ映画の転機となった作品だと評価している。ロック・ハドソン、ドロシー・マローン、ロバート・スタックらと共演したこの作品で、バコールは石油業界の有力一族に翻弄されるキャリア・ウーマンのルーシー役を演じた。バコールはその自伝で、あまり深く考えないで演じた役だったが、思いのほか好評だったと記している。「バラエティ」誌は「バコールは、狂気に満ちた石油一族に巻き込まれていく聡明な女性を強く印象付けた」としている。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -中小坂鉄山が発見された時期については、文献によれば早いものでは天保年間(1830年-1844年)、続いて弘化年間(1844年-1848年)、そして嘉永2年(1849年)、嘉永3年(1850年)、嘉永6年(1853年)とするものが見られる。現在のところ中小坂鉄山の発見時期は確定できないが、嘉永年間(1848年-1854年)との説が有力である。江戸時代末期に発見されたと考えられる中小坂鉄山は、続いて鉱山開発が開始された。まず鉱山近隣のカベッチャラという場所でたたら製鉄を行ったと考えられる溶鉱炉を仮設し、製鉄を開始したところ良好な結果が出たため、多くの職工を雇い入れ上で字反替戸という場所で本格的な製鉄を開始したが、鉱山経営に不慣れであった上に、設備の不十分さと交通の便の悪さなどにより数年で失敗したと伝えられている。 -セント・ヘレンズ山から流れている主要な河川は3本ある。山の北側から北西側に流れるトートル川、山の西側に流れるカラマ川、山の南側から東側に流れるルイス川である。これらの河川の水は、セント・ヘレンズ山に降り注ぐ雨や雪によって供給されており、アメリカ海洋大気庁の統計によると年間約3600mmの降水がある。ルイス川には水力発電を行うためのダムが3つある。セント・ヘレンズ山はワシントン州スカマニア郡に位置しているが、セント・ヘレンズ山へ行く際には、スカマニア郡の西に位置するカウリッツ郡から向かうほうが便利である。セント・ヘレンズ山から西方約55kmのキャッスル・ロックにある州間高速道路5号線49番出口からワシントン州道504号線を東に向かうことで、セント・ヘレンズ山の北の麓へ行くことができる。 -1937年2月5日にこの新オーケストラ「NBC交響楽団」の創設がサーノフ、トスカニーニの連名で正式発表された。正式契約ではトスカニーニは演奏曲目、ソロイスト、合唱団、客演指揮者の選択、オーケストラ楽団員の人事権などに関して最終的な権限を持つこととされており、NBC交響楽団はまさに「トスカニーニのオーケストラ」としてスタートすることになった。彼はまたその際、オーケストラ団員の選抜ならびに訓練のために、当時クリーヴランド管弦楽団の音楽監督を務めていたアルトゥール・ロジンスキとの契約を要求し、容れられている。トスカニーニはザルツブルク音楽祭での客演時にロジンスキを深く知り、その手腕に信頼を置くようになったと考えられている。ロジンスキの監督下、団員のオーディションは急ピッチで進んだ。参加申込みは全米のみならず、欧州各国からも積極的だった。大恐慌の影響で他のオーケストラの給与水準が必ずしも満足行くものでなかったこと、緊迫化するヨーロッパの政治情勢からの逃避の動き、といった外的条件がNBC響の編成を後押ししていた。最終的には92人の楽団員が雇用された。うち31人はNBC局内の既存オーケストラから、61人は外部からで、特に管楽器では米国内の他有名オーケストラからの引き抜きが多かったようである。 -『天色*アイルノーツ』は広報活動として、美少女ゲーム雑誌と公式サイトでの情報公開や、キャラクターソングの発売、スマートフォン向け時計アプリの配布、他ブランドとの合同キャンペーン、コミックアライブでの漫画の連載が行われた。本作の発表は2013年2月に行われた。2013年2月末発売の美少女ゲーム雑誌にて、本作の情報が公開された。2013年2月21日には公式サイトが公開され、後にホームページやブログ用の応援バナーやTwitter用の素材が配布された。2013年4月から5月にかけ、メインヒロイン4人のキャラクターソングが発売された。2013年5月12日には、iOS向けの時計アプリ・「天色*時計」が無料で配布された。2013年6月14日からは、SAGAPLANETSの作品である『カルマルカ*サークル』との合同バナーキャンペーンが行われた。『コミックアライブ』では、2013年9月号から2014年3月号まで本作の漫画版が連載された。 -ACLUは進化論教育を禁じる法律を裁判にもっていくために、進化論を実際に公立学校で教えて逮捕される志願者を広告で募集した。そして実際に教育の場で進化論を教えたとして逮捕されたのがテネシー州デイトンにあるレイ・セントラル高校の理科と体育の教師ジョン・スコープス(1900年8月3日-1970年10月21日)だった。もっともスコープス自身は、科学的使命に燃えて殉教者となったわけではなかった。実際にACLUの広告に応募したのは裁判によって町の知名度をあげようとした町の顔役たちであり、スコープスは彼らに頼まれて臨時の生物の授業のときに進化論の話をしたという証言をしただけである。また、スコープスはケンタッキー大学法学部を卒業しているが、生物学や理科教育の専門的なトレーニングを受けていなかった。スコープスは本来レイ・セントラル高校フットボールチームのコーチとして招聘されたのであり、教師としてのキャリアは1924年の年度末に2週間ほど理科の代用教員を務めただけであった。 -ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめた。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。当時、公立の精神科病院に入れられれば二度と退院の見込みはなかったのに対し、民間の療養所は遥かに恵まれた環境であった。 -この株による最初の既知のヒトへの感染は2019年11月下旬に発生した。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の拡散は、2019年11月中旬に中国湖北省武漢市で最初に発生し、感染源はおそらく単一の感染動物に由来すると考えられている。その後、このウイルスは中国の全ての省に蔓延し、またアジア、ヨーロッパ、北米、アフリカ、オセアニアなど他の20以上の国にも拡散した。このウイルスのヒト-ヒト感染による拡散は、アフリカを除くこれらすべての地域で確認されている。2020年1月31日、このウイルスの感染拡大が懸念されることから世界保健機関(WHO)は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」(PHEIC)を宣言した。なお、季節性疾患としての自然終息や定着の可能性について議論が続いている。3月1日時点で、86,986人の感染が確認されており、そのうち79,826人は中国本土内である。ある数学的モデル予測によれば、1月25日の時点で、武漢市だけで感染者数は75,815人いたと推定された。中国本土以外における殆ど全ての症例は、武漢市からの旅行者、またはそれらの地域からの旅行者と密接な接触があった者である。感染率、すなわち感染確定数、または臨床上診断可能な感染者数に繋がる割合は依然として不明のままであるが、2月20日(15時30分(UTC))までの新型コロナウイルス感染による死亡者数は2,130人であった。死亡者数の95%は武漢市のある湖北省に局在している。3月7日現在も感染拡大が止まらず、世界で感染者数が100,000人を超えたと発表した。3月11日にはこのウイルスの感染拡大について、WHOがパンデミック(世界的流行)相当との認識を初めて示した。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -競馬は毎年春と秋の2シーズンに各4日間、1日に9〜12レースほどが行われた。競走馬は雑種か馬種を特定できない内国産馬(日本国内で生まれた馬)とサラブレッド系が中心の豪州(オーストラリア)産馬(いわゆる濠サラ)が主体で騎手は東京競馬会が免許を発行した騎手で主に日本人が務めた。池上競馬場以外の競馬場所属馬も出場し、一般レースのほかに初期には軍馬と軍人によるレースも行われている。池上競馬場は大盛況で東京競馬会は高収益を上げたが、池上競馬場の盛況をみて日本各地に競馬場が乱立して混乱を招いた。1908年(明治41年)に馬券は再禁止され、馬券の売り上げ収入が無くなった日本の競馬は政府の補助金によって運営される補助金競馬時代に移り、1910年(明治43年)東京競馬会を含む東京周辺の競馬4団体が合同して目黒競馬場に集合し、池上競馬場は廃止された。 -コンスタンティノープル征服後、メフメトは「征服の父」「2つの海と2つの大陸の支配者」という称号を用いた。オスマンの勢力拡大はヨーロッパ諸国にとっての脅威であり、メフメトは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」と恐れられた。その征服活動よりしばしばアレクサンドロス大王と比較され、彼自身もアレクサンドロスの伝記を好んで読んでいた。 -元号のある国では、目を見張る瑞相や治世を危うくするほど禍々しい出来事があった場合、瑞相ならあやからんがため、凶事ならやり過ごす意図などをもって、しばしば改元が行われた。地震は、ときに瑞相(※厳密には仏教圏に限る概念)、ときに凶事の最たるものと捉えられ、改元の理由になった。一つの例として、安政伊賀地震(伊賀上野地震)・安政東海地震・安政南海地震は嘉永7年に発生したが、世を安んじるべく「安政」へ改元されたことで、現在では改元後の元号を冠しているが、地震発生当時の記録者にとっては当然ながら「嘉永」の世であり、「嘉永七年」の出来事として記録されている。嘉永年間の出来事に「安政」を冠する整合性については、明治改元の際にその年(慶応4年)の正月(旧暦1月1日)まで遡ったうえでの改元として処理された例に倣い、正しいと解釈されている。 -ヤングスタウンは、アメリカ合衆国オハイオ州北東部に位置する都市だ。同州マホニング郡の郡庁所在地で、マホニング・バレーと呼ばれる地域の中心都市である。市はクリーブランドとピッツバーグの中間点に位置し、そのいずれからも100kmほどの距離である。市の中心部にはオハイオ川の支流の1つであるマホニング川が流れている。市名は市の創設者であるニューヨーク州出身の開拓者、ジョン・ヤングにち��んでつけられた。20世紀前半には、ヤングスタウンはクリーブランドやピッツバーグと同様に、鉄鋼生産の中心地として栄えた。しかし、1970年代に鉄鋼業が衰退に向かうと、他に主となる産業の無かったヤングスタウンの地域経済は大きな打撃を受け、市は衰退の一途をたどるようになった。2010年の国勢調査では人口66,982人と、全盛期の約2/5にまで減少している。また、治安の悪化や貧困といった問題も抱えるようになってきており、都市圏単位での人口停滞も顕著である。そうした中、市政府は市の再生を図るべく、市民やヤングスタウン州立大学と協同で、「ヤングスタウン2010」という都市再生計画を打ち出した。更に、2012年には国家主導による、3D印刷による新世代ソフトウェア開発拠点に抜擢されたことで、全米から大きく注目を浴びており、変革期を迎えようとしている。 -門から町の中心に向かう主要街路が伸びており、ブー・ジュルード門から北東に伸びるタラー・ケビラとタラー・セビーラの二本の道路がメインストリートといえる。タラー・ケビラはタラー・セビーラに比べてやや広いが傾斜は急で、通りの途中には階段になっている部分もある。タラー・ケビラよりも新しいタラー・セビーラはやや緩やかだが道幅は狭く、どちらの大通りもカラウィーン・モスクに通じている。南のジャディード門から伸びるアーメド・ベン・エル・アラウィー大通りは、旧市街を通る唯一の自動車道である。8つの主要街路は枝分かれした街路によって互いに接続され、街路から伸びた袋小路の先には個人の住宅が現れる。旧市街の街区は門やアーチで区切られており、長い袋小路の中には街区として設定されているものも多い。中庭の確保と交互に配置された入り口による住居のプライバシーの確保、通りに面して作られた建物に併せて住宅や路地を建設する工程のため、フェズの旧市街には曲がりくねった路地や袋小路が多く現れた。 -河合・宮川の両振興事務所管内には公民館図書室は設置されているものの、飛騨市図書館のシステムとは連動していない。また飛騨市神岡図書館のある神岡町内にありながら、飛騨市立山之村小中学校の学区内では同館まで峠越えなどの交通困難を抱えている。そこでこの3地域では「飛ぶ図書館」と命名された移動図書館サービスが2016年(平成28年)より実施されている。「飛ぶ図書館」は月1回(河合振興事務所で第1木曜日に、宮川振興事務所で第3木曜日に、山之村公民館で第2木曜日に)、図書館職員が出張して貸出・返却やリクエストの受付などの図書館業務を行うものである。貸出は7冊まで、1か月間借りることができる。 -銀貨を選択した理由については、単純に金貨を発行しつづける余力が当時のフランク王国に存在しなかったという衰退説が1927年のアンリ・ピレンヌ『中世の都市』などで有力であったが、1960年以降の研究では、将来的に一般市民にも貨幣を浸透させることを考えれば、彼らがより行う機会の多いであろう小額決済に便利な銀貨をあえて選択したためという説が有力となっている。ちなみに本項では詳細に触れないが、1980年代までの研究においてはこの時期は完全なる銀本位制であり、金貨の製造はなかったと考えられていたが、2015年発表の名城邦夫による論文によれば、流通貨幣としてではないものの細々と金貨の製造は行われていたという論も現在では通用するようになっているとのことである。貨幣の流通と言う点を見ると、初期は発行数が少ないために広く使用されていたとは言えず、主に兵士の給料の支払いに充てられた。また、ドゥニエは通貨単位としては最低単位ではあったが銀貨であり、一般市民の生活におけるパンなどの日用品、それも少量と比較した場合は高額な貨幣なので、物々交換や、帳簿上の相殺、掛売り(ツケにしておいて期日を決めてまとめて払う、など)ということを行うための価値尺度としての利用がメインであった。鹿野嘉昭の論文ではこの状況は12世紀ごろまで続いたとしている。一方で、貨幣の流通についてはカロリング朝時代にすでに活発に行われていたとも言われており、この根拠の様々あるうちの一例としてシャルル2世の発布した貨幣改革及び流通促進についての勅令が��げられている。 -2008年度の豊田市は当初予算で442億円の法人税収入があったが、リーマン・ショックの影響で2009年度には16億円に激減(96%減)し、図書購入費は2008年度の2億1000万円が2009年度には1億円に半減した。2008年度までは複本の購入基準を「予約5件につき1冊程度」としており、ベストセラーの人口1人あたり購入冊数は名古屋市図書館や岡崎市立図書館と比べて突出して多かったが、2009年度には購入基準を「予約10件につき1冊程度」に改め、市外在住者の購入リクエストを受け付けない方針に切り替えた。2012年(平成24年)4月1日には館内整理日の第4金曜日を開館とし、さらに6階の窓口業務を外部委託した。2016年度までの開館時間は、平日が10時から19時、休日が10時から18時だった。 -1921年6月28日、ヴィトスの日に、憲法は可決され、統一的な王国が成立した(ヴィドヴダン憲法)。第一次世界大戦前の伝統的な地域区分は廃止され、中央政府の統治の下に置かれる33の行政州が設置された。この間、8月16日にペータル1世は死去し、アレクサンダル1世が国王となった。 -他方で東亜クモ学会(当時)の学会誌に投稿された論文(例えば江崎(1940)や佐藤(1941))では当たり前のようにサソリモドキが用いられている。佐藤(1941)ではさらにサソリグモという異名を挙げ、これとムチサソリに関してはこの群の英名であるscorpionspider、whip-scorpionの直訳によるものだろうとしており、シリヲムシについてはこれ『を用ふる人もいるが』と、あまりまっとうな用い方でないような物言いである。 -1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典に遡り、「第16回天皇賞」とされた。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬(農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ。現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方もある。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている。 -隣国チリが輸出市場で成功をおさめると、アルゼンチンのワイン産業もより積極的に輸出市場に焦点を当て始め、特に利益を得やすいイギリスとアメリカ合衆国の市場を重要視した。フランス、カリフォルニア、オーストラリアからは空飛ぶ醸造家(飛行機で世界中を飛び回ってワイナリーの指導を行う熟練醸造家)が現代的なブドウ栽培とワイン醸造のノウハウをもたらし、収量管理、発酵温度管理、オークの新樽の使用などがアルゼンチンに持ち込まれた。1980年代後半以降には意図的により涼しい地域に植えられるようになった。1990年末までに、約1250万リットル(330万ガロン)のアルゼンチン産ワインがアメリカ合衆国に輸出されるようになり、イギリスにはさらに多くの量が輸出された。ワインジャーナリストのカレン・マクニールは、20世紀末まで「眠れる巨人」とされていたアルゼンチンのワイン産業が目を覚ましたのがこの時期であるとしている。 -震災発生を受けて同日15時14分に設置された内閣府緊急災害対策本部は2011年5月17日、同日までに2万6708人が警察庁・消防庁・海上保安庁・自衛隊の派遣部隊によって救出されたと発表した。機関別では自衛隊が19,286名、消防が5,064名、警察が3,749名をそれぞれ救出した。また、日本国外の156の国・地域と41の機関が支援を表明し、28の国・地域・機関から救助隊を、53の国・地域・機関から救援物資を受け入れている。被災地では、県や市などの物流の拠点まで輸送された食料や燃料、水、薬品などが隅々まで届かず、阪神・淡路大震災発生時と比較して物資が大幅に不足した。その理由として、各地の港湾が被災し道路網が寸断されたこと、市や町の職員が犠牲になるなどして被災地側の受け入れ態勢が整���なかったこと、輸送車両の燃料が不足したこと、被害が広範囲に及び、避難者が指定避難所以外の施設に分散したことなどが挙げられる。特に燃料が不足し、被災地では自動車で移動したり暖を取ったりすることも困難な状態が長く続いた。また福島県では、原発事故による被曝を恐れてトラックが引き返すなどし、沿岸部を中心に物資が届きにくくなった。奥羽山脈を超える国道347号をはじめとするいくつかの道路は例年通り冬季閉鎖であったが、その情報を知らずに日本海側から救援に向かった車両が引き返す例が見られた。ロイターの編集者であるFelixSalmonは日本に義援金を送るべきではないと主張している。日本は金満な国家であり、何千億ドルに相当するお金を刷って財源を捻出できるからである。金銭の国際援助は発展途上国にすべきものであり、対外純資産世界一である日本に国際援助モデルを適用するのは納得がいかないとしている。また、台湾の寄付総額は少なくとも73億6400万台湾ドル(約200億円、2億5200万米ドル)に達した。また、米軍の後に到着し、最初の救援物資を被災地に持ち込んだのは、2番目の外国人救助隊であった。 -1848年3月にベルリンで自由主義者・民主主義者・ナショナリストなどの市民軍と国王軍が衝突したことで三月革命が発生した。宮廷内の軍支持者の代表格として知られていたヴィルヘルム王子は市民の最大の憎悪の対象だった。国王軍の蛮行の責任を彼に求める論調が強まり、彼の名前を入れた市内の御用商人の看板が次々に破壊された。ベルリン警視総監はヴィルヘルム王子が市民から命を狙われていると報告した。兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は第1位王位継承者である弟に万が一がないようにと配慮し、急遽ヴィルヘルム王子に英国女王ヴィクトリアに会見する任務を言い渡した。3月19日にヴィルヘルム王子は亡命に近い形で国を離れた。妻も伴わずの亡命であり、ヴィルヘルム王子は妻も兄も見捨て逃げてしまったと自責の念に苦しんだという。しかし駐英大使クリスティアン・カール・ヨシアス・フォン・ブンゼンに励まされてなんとか立ち直ったという。 -開業時、福島電気の供給区域は福島町内と発電所のある新開村杭の原集落であり、電灯数は610灯であった。その後事業は順次拡大し、1912年(明治45年)には資本金を5万円へ増資し、駒ヶ根村(現・上松町)への供給も始めている。さらに1917年6月、福島電気は鳥居電力と合併した。この鳥居電力株式会社は、1912年9月17日、木祖村と楢川村(現・塩尻市)の有志によって木祖村薮原に資本金2万円にて設立した。中央本線鳥居トンネルの掘削工事用に奈良井(楢川村)側に設けられていた水力発電所を当時の鉄道院から買収し、翌1913年5月に開業した。合併前の時点で供給区域は木祖・楢川両村であり、また福島電気の供給区域は福島町と新開村・駒ヶ根村・日義村(現・木曽町)であった。電気製鋼所が上記福島電気を合併した時点で、同社の資本金は6万4000円であり、合併に伴って電気製鋼所は28万8000円を増資し資本金を278万8000円としている。また合併により福島電気の電灯・電力供給事業を引き継ぎ、福島町に木曽福島電灯営業所を開設した。 -5月7日午前11時10分、一行はイギリス本国のポーツマス近くのワイト島に到着し、駐英大使林権助や大西洋艦隊司令長官チャールズ・マッデン大将らの出迎えを受けた。一行はここで正式な上陸式典の行われる5月9日まで待つこととなった。翌5月8日、裕仁親王はマッデン大将の旗艦クイーン・エリザベスでの昼食会に招かれ、第一次世界大戦でドイツ海軍が降伏文書に調印した部屋などを案内された。9日午前8時50分、香取と鹿島はポーツマス軍港に到着し、午前10時10分にプリンス・オブ・ウェールズエドワード王太子(後のエドワード8世国王)が香取に乗船した。午前10時27分、裕仁親王とエドワード王子らは連れだって埠頭に上陸し、イギリス首都ロンドンに向かう宮廷列車に乗り込んだ。午後12時40分にロンドンのヴィクトリア駅に降り立った。駅ではヨーク公ジョージ(後のジョージ6世国王)やコノート公アーサー、首相代理などの政軍高官が出迎えた。儀仗兵閲兵の後、裕仁親王、閑院宮、珍田はヨーク公とともに宿舎であるバッキンガム宮殿に向かった。王妃メアリーとの面会の後、国王ジョージ5世との昼食会に出席した。歓迎行事は午後11時30分まで続いた。裕仁親王はこの際に国王に対する答辞を日本語で行ったが、「東京朝日新聞」が「殿下には最も大胆なる大声をもって」と評するほど大きな声であったという。 -高句麗はこの戦争の敗北から立ち直り、美川王(乙弗、在位:300年-331年)が即位したころには、従来からの五部体制を維持しつつも国王権力の集中が推し進められ官位制度が整備されるなど内政面の強化が行われた。そして対外的には、中国を統一した西晋で発生した八王の乱やその後の分裂などの混乱に乗じて遼東地方への進出を図った。311年には丹東を攻略して朝鮮半島の郡県を中国本国から切り離し、盛んに楽浪郡や帯方郡を攻撃した。313年にはこれに耐えられなくなった楽浪郡の郡民の多くが鮮卑の慕容氏の下へ移住し、楽浪・帯方両郡は行政機能を事実上喪失した。同年中に高句麗は楽浪郡を占領し朝鮮半島北部の支配を確立した。それでも楽浪郡の故地には多くの漢人が残留し、新たに中国の戦乱を逃れて流入した漢人もこれに加わった。彼らは南北に分裂しつつあった中国の正統王朝として東晋を支持し、その年号を使用し続けるなど回帰の願望を持っていた。高句麗は平壌を新たな拠点として確保する一方で、彼ら漢人に対しては緩やかな支配で臨んだ。更に北方では夫余を攻撃してその本拠地を支配下に置いた。 -テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板した。この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる。さらに、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店の徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった。 -当初、北方同盟はピョートル1世のロシア、フレデリク4世のデンマーク=ノルウェー、アウグスト2世(強健王)のザクセン=ポーランド=リトアニアから構成されていた。フレデリク4世とアウグスト2世はスウェーデンに敗れて1700年と1706年に脱落したが、1709年に再加入している。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(ハノーファー選帝侯)兼イギリス王ジョージ1世(ゲオルク1世ルートヴィヒ)は1714年にハノーファーとして同盟に加入し、1717年にはイギリスとして参戦した。また1715年にはブランデンブルク=プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が参加した。スウェーデン側ではカール12世のスウェーデンを始め、ホルシュタイン=ゴットルプ公領が、1704年から1710年の間にスタニスワフ・レシチニスキの下にポーランドとリトアニアの諸侯が、1708年から1710年にはコサックのイヴァン・マゼーパがそれぞれ参戦した。オスマン帝国は一時期スウェーデン王カール12世を庇護してピョートル1世に対して介入した。 -近江八幡図書館には「あきんどの里資料室」という地域資料(郷土資料)コーナーが設けられており、近江八幡市および滋賀県の地域資料を収集している。近江八幡市は古い歴史の上に築かれており、図書館は歴史的な資料を数多く所蔵している。近江八幡は観光地でもあり、図書館は観光施設としての役割も有している点が特徴である。近江商人、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ、伴蒿蹊(五代目伴庄右衛門)、豊臣秀次など、近江八幡で活躍した人物に関する資料は網羅的に収集している。八幡文庫時代や近江兄弟社図書館時代の収集物には、近江八幡図書館しか所蔵していない資料も多い。美術評論家の柳宗悦らが1931年から1951年まで刊行した雑誌『工芸』は、滋賀県内で近江八幡図書館しか蔵書していない。前身の近江兄弟社図書館が児童教育に力を入れていたため、児童書は滋賀県内有数のコレクションであるとされる。『さるかに合戦』や『花咲か爺』や『大草原の小さな家』の初版本など、資料的価値の高い児童書も所蔵している。 -各国で食用にされ、中でもマカジキとメカジキが多く利用されている。漁業市場では吻を切り落とされたカジキが横たわった状態で並べられている姿を見ることが出来る。カジキマグロという呼び名で取引されることも多いが、マグロとの類似点が多いことからつけられた俗称であって、先述した通りマグロとは別種である。マグロ延縄(はえなわ)で捕られることが多いが、伝統的な突きん棒漁も行われている。これは船の見張り台でカジキの魚影を探し、水面近くで遊泳しているカジキを銛(もり)で突くというものである。現代では銛の先端から電流を流し失神させる漁も行われている。 -ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ(後期)、オディロン・ルドンらとともに、ポスト印象派(後期印象派)に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった。ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触(タッチ)でキャンバスの上に並置する「筆触分割」という手法を編み出し、伝統的な遠近法、明暗法、肉付法を否定した点で、アカデミズム絵画から敵視されたが、広い意味でギュスターヴ・クールベ以来の写実主義を突き詰めようとするものであった。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる。ゴーギャンやルドンに代表される象徴主義は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙(タブラ・ラーサ)ではないことを明確に意識していた。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた。彼自身、テオへの手紙で、「自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。」と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、ブロンドの髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている。別の手紙でも、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。......星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いている。 -1797年春、何隻かの商船はボンベイに集まり、マカオで中国船隊と合流するための準備をした。レ��ニアはこの商船隊の護衛にシビル号とセンチュリオン号を派遣した。シビルは砲数40門のフリゲートであり、1794年のミコノスの海戦でフランスから拿捕したものであった。一方のセンチュリオンは砲数が50門で、7月に船隊とマラッカ海峡を通過して戦列艦のヴィクトリアス号とトライデント号、そしてパルトニー・マルコムを艦長とするフリゲートのフォックス号と合流した。船隊は航行中大きな事故もなく1797年12月13日にマカオに到着したが、船員は熱帯病に弱らされていた。 -望まれぬ末子として江戸の町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(国家に反抗する姿勢)な態度を貫いたことに対して、津和野藩典医の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられた森鴎外は死ぬまで大日本帝国陸軍をはじめ国家官僚の職を歴任し、官側の人間であり続けた、という対照がある。夏目漱石は「余裕派」、森鴎外は「高踏派」と呼ばれた。しかし、その一方では二人とも「自然主義文学の姿勢」とははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広い知識をもって文学活動を進め、歪んでいく近代化における価値観の主流においても自分たちの認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応の影響を与えた。なお、鴎外が1890年から1年ほど過ごし、『文づかひ』などを執筆した千駄木の邸宅は、後にロンドンより帰国した漱石が1903年から約3年居住して『吾輩は猫である』を著した場所でもあったが、現在、同邸は愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されている。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1952年3月に第十二回医師国家試験に合格、1953年9月18日に医籍登録されている。このため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている。 -埴輪踊る人々は、東京国立博物館が所蔵する、踊るような姿をした大小2体の人物形象埴輪だ。俗に踊る埴輪とも呼ばれ、重要文化財等の指定はされていないが、強いデフォルメと独特の顔の表情が印象的で、一般に古墳時代の埴輪の中でもよく知られた存在である。しかし近年では、踊りではなく手綱を持ち馬を引く「馬飼」(うまかい、馬子・馬曳)を表した像とする説が有力視されている。東京国立博物館における正式な展示資料名は『埴輪踊る人々』である。考古学者の後藤守一による最初の呼称は『踊る男女』だが、一般的には『踊る埴輪』がよく定着している。 -E・J・トーマス演技��術ホールはアクロン大学のキャンパス内に立地している。このホールは1973年にアクロン大学と地元有志によって建てられたもので、同学の学生および教職員が利用するほか、地元オーケストラのアクロン交響楽団の本拠地にもなっている。このホールは3階層に分かれて配置された2,955席を有し、年間集客数40万人を数える。ダウンタウンのチャーチ・ストリートとメイン・ストリートの突き当たりにはアクロン・シビック・シアターが立地している。この劇場は1929年にマーカス・ロウによって建てられ、当初はロウズ・シアターと呼ばれた。2001年6月から翌2002年11月にかけては、老朽化した施設の全面的な改修が行われた。アクロン・シビック・シアターは、1973年に国家歴史登録財に登録された。また、アクロン・シビック・シアターの南西に隣接する第3閘門公園には野外劇場があり、メモリアル・デーからレイバー・デーまでの夏季期間中、80以上のコンサートなどのイベントが行われる。 -大沼の「正しい」読み方は「おの」、小沼は「この」であるとされている。しかし近年は「おおぬま」「こぬま」の読み方をする者が増えている。赤城湖という異称もある。古い呼び名としては、「石垣沼」、「葛葉湖」といったものもある。 -触手には刺胞と呼ばれる小さな袋状の構造が多数並んでいる。この刺胞には長い針が、巻き込まれるか折り畳まれるかして入っており、何かに触れるとその針が打ち出される。いくつかの種類があり、長い針が刺さってくっつくようになっているものもあれば、毒液を注入するものもある。これらが餌を捕獲する時や敵からの防御に働く。また、刺胞は、触手以外にも、体表面の突起部分にそれを持つ種もある。また、体内にある隔膜糸や槍糸というものにも刺胞があり、タテジマイソギンチャクなど、種によってはこれを体外に出して攻撃用に用いる。大部分のイソギンチャクの毒は、人間には影響を与えない程度のものであるが、日本の珊瑚礁海域にも生息するウンバチイソギンチャク(海蜂磯巾着の意)など一部にとても毒が強いものがあるので、該当海域では注意を要する。 -分泌相ではエナメル芽細胞は極性を持つ円柱状の細胞である。この細胞の粗面小胞体では、エナメルタンパクが周囲に産出し、エナメル質基質がアルカリフォスファターゼ酵素により部分的に石灰化するのに寄与している。この第一層が形成されると、エナメル芽細胞は象牙質から離れ、先端部にトームス突起が形成される。エナメル質の形成は隣接したエナメル芽細胞で続けられ、その結果トームス突起を保護するように、壁に囲まれたくぼみができる。また、トームス突起の縁でもエナメル質が形成され、くぼみの中にエナメル母体が析出する。くぼみのエナメル母体は棒状になり、くぼみを囲む芽細胞の壁も最終的に棒同士を繋ぐエナメルになる。棒状のエナメル質と棒同士を繋ぐエナメル質は、カルシウム結晶の方向だけが異なる。成熟相では、エナメル芽細胞がエナメルの形成に必要な物質を運ぶ。組織学的にいって最も注目すべきは、エナメル芽細胞が縦に筋を作り始めるという点である。これによって、エナメル芽細胞が分泌期のような増殖をやめて運搬機能を発揮し始めたということが分かる。ここで運搬される物質は、石灰化の最終段階に使われるタンパク質がほとんどである。主なものにアメロゲニン、アメロブラスチン、エナメリン、タフテリンなどがある。成熟期において、アメロゲニンとアメロブラスチンは使用された後に除去され、エナメリンとタフテリンだけが残る。 -1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区等で過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、��れらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定した。後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわず、再度数年の充電期間に入る。その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。 -無胎盤性の胎生であり、胚は子宮内で卵黄の栄養を使って一定期間成長する。成熟雌の卵巣と子宮は左右ともに機能する。地中海では春と秋を最盛期として繁殖は一年中起こる。一度妊娠したメスにおいては、次の妊娠まで1年間ほど間が空くとみられている。胎児の数は一度の妊娠で10-16匹ほどで、メスの全長が大きいほど多くなる。子供は、地域によって差異はあるものの最大で2年間の妊娠期間を経て、30-45センチメートルほどの大きさで生まれる。オスは77-121センチメートルほど、メスは117-159センチメートルほどで性成熟を迎える。産まれたときの全長と、性的成熟時の全長、その後の最大全長の間には相関関係はない。 -ルノワールは、1863年のサロン・ド・パリに初めて応募したが、落選した。1864年のサロンに「グレールの弟子」として『エスメラルダ』を応募して、入選した。しかし、この作品は、ルノワール自身がサロン終了後に塗りつぶしてしまい、現在は残っていない。ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を題材とした、ロマン派的主題の暗い絵であったという。1864年、磁器の製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作した。ベラスケス、アングル、コロー、エドガー・ドガの影響も感じられる作品となっている。 -アトランタは北緯33度45分18秒西経84度23分24秒に位置している。アトランタの姉妹都市の1つでもある日本の福岡市とはほぼ同緯度である。アメリカ合衆国統計局によると、アトランタ市は総面積343.0km2(132.4mi2)である。このうち341.2km2(131.7mi2)が陸地で1.8km2(0.7mi2)が水域である。総面積の0.51%が水域となっている。標高は場所によってかなり異なり、概ね225-320mの範囲にある。ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港付近では標高約313mである。アトランタの市街はチャッタフーチー川南岸の丘陵上に広がっている。東部分水嶺はちょうどアトランタを通っている。分水界は市の南からダウンタウンまで北上し、ダウンタウンからはデカル・アベニューとCSXの線路に沿って東へと方向を変える。そのため、アトランタ市南部や東部に降った雨は大西洋へと流れていくのに対し、市北部や西部に降った雨はメキシコ湾へと流れていく。このうちメキシコ湾に注ぐほうである、市の北西を流れるチャッタフーチー川の河岸は、川の自然がまだ多く残されており、チャッタフーチー川国立レクリエーションエリアに指定されている。しかしその下流では、渇水時の過剰取水や増水時の汚染などが、対岸のアラバマ州や河口近くのフロリダ州との間で、法的な諍いの元ともなっている。 -ロシアのツァーリ・ピョートル1世は1689年に姉ソフィアの摂政政府を倒して実権を掌握すると、父アレクセイが行っていた諸改革を継続、また1695年から1696年に黒海への出口を求めてアゾフ遠征を行い、オスマン帝国からアゾフ要塞を奪取した。1697年には西欧へのグランドツアーに出発して先進技術を学んでいる。1698年、ピョートル1世は銃兵隊反乱の報を受け、旅行を切り上げて帰国する途上でポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世と会見し、反スウェーデン同盟に合意した。 -開国後、江戸幕府は西洋式の艦船の建造を開始し、また諸外国から艦船の購入を進めるようになった。そのような中で西洋式の艦船を建造し改修、修理する施設の必要性が高まっていった。江戸幕府は主にフランスの援助を仰ぎ、小栗忠順、レオン・ロッシュらが適所を検討した結果、現在の横須賀の地に慶応元年(1865年)に横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)が開設された。そして艦船を改修、修理する横須賀製鉄所内の主要施設として、慶応3年(1867年)にドライドックの建設が開始された。現在の横須賀海軍施設1号ドックである。大政奉還から王政復古の大号令に至る一連の流れにより江戸幕府が廃され、明治政府が成立するが、横須賀造船所の建設は幕府時代と同様に進められることになった。1号ドックは明治4年(1871年)に完成し、引き続き3号ドック、2号ドックが建設された。1号ドック、3号ドックの建設時まではレオンス・ヴェルニーなどフランス人技術者のもとでドック建設が進められていたが、2号ドックについては設計段階ではフランス人が携わったものの、実際の工事場面では横須賀造船所で技術を学んだ恒川柳作が総責任者となってドックを完成へと導いた。その後恒川は日本各地でドック建造に携わることになり、日本のドライドック建設の草分け的な存在となった。 -翌年、ジャワ島全体での華僑への攻撃が引き金となって2年間のジャワ戦争が勃発し、華僑およびジャワ人の部隊とオランダ軍の間で戦闘になった。ファルケニール総督は後にオランダに召還され、虐殺事件に関する罪で告発された。オランダ文学にはこの事件を題材とした作品が多数存在し、またジャカルタではいくつかの地名でこの事件が語源になった可能性があるとされている。 -中小坂鉄山は、上信電鉄下仁田駅周辺の下仁田町中心部から西方へ流れる森沢川流域から、東側は南蛇井駅周辺まで広がる南蛇井層と呼ばれる地層と、南蛇井層の北部に貫入した平滑花崗岩とが接する付近にある。南蛇井層と平滑花崗岩は領家帯に属しており、南蛇井層は検出された放散虫からジュラ紀後期の海生層由来で、日本列島に付加した付加体であり、平滑花崗岩は約6400万年前に南蛇井層に貫入したマグマが固まったものと考えられている。南蛇井層は泥岩と砂岩が交互に堆積した形態を基本とし、砂岩がレンズ状に堆積した箇所も多く、またチャートや石灰岩がレンズ状に分布した部分も見られ、一部はメランジュ状になっている。その南蛇井層に平滑花崗岩となるマグマが貫入したことが引き金となって、磁鉄鉱が主体である中小坂鉄山の鉱床が形成されたと考えられているが、鉱床形成のメカニズムは現在のところはっきりとしていない。 -グレーター・ロンドンのうち、シティ、都心部の13区はインナー・ロンドン、その外縁部の19区はアウター・ロンドンと呼ぶ。1965年、グレーター・ロンドン全体を管轄する広域自治体としてグレーター・ロンドン・カウンシルが発足したが、1986年にサッチャー政権の地方行政改革により廃止された。グレーター・ロンドン・カウンシル廃止以後、各区は「ユニタリー」と呼ばれる状態にあり、カウンティレベルの行政組織として機能していた。ところがブレア政権下の住民投票により、2000年にグレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立され、グレーター・ロンドンの市長は直接選挙で選出されるようになった。初代市長ケン・リヴィングストンはロンドンの主要な政策課題である公共の安全性の確保と交通問題に努めたが、2008年にボリス・ジョンソンとの選挙に敗れ、ジョンソンが2代目市長となった。シティは中世から自治組織を有し、ロード・メイヤーと呼ばれるロンドン市長を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職になっている。また、英国では伝統的に大聖堂(大寺院)がある町(Town)を都市(City)と呼称し、シティ・オブ・ロンドンにはセント・ポール大聖堂、シティ・オブ・ウェストミンスターにはウェストミンスター寺院がそれぞれ存在する。一方、サザークは大聖堂を有するが、16世紀からシティではなく特別区を名乗る。 -芸能・芸術の島として知られ、かつ、早くからビーチ・リゾートが開発されてきたバリは、世界的な観光地となっており、東南アジア各地のビーチ・リゾートのモデルとなっている。先進国の経済的価値を基準として比較すると物価水準がかなり低廉であり、比較的若年層でも十分楽しめることも人気の一要素である。訪れる観光客で一番多いのは、かつては日本人であったが、現在はオーストラリア人である。したがって、バリ島の貨幣経済は観光収入で成立するものとなっており、財政面でもバリ州の収入の2/3が観光関連によるものとなっている。バリ島は古くから農業中心であったが、バリ州の産業部門別就業人口の推移を見てみると、1971年には農林漁業が66.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が18.8%であり、1980年でも農林漁業が50.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が29.8%であったのが、2004年には農林漁業が35.3%にまで減少し、商業・飲食・ホテル・サービス業が36.4%に達している。農民の平均月収が50ドル(約5,000円)未満であるのに対して、観光業従事者のそれは50-150ドル(約5,000-15,000円)に達する。バリ州全体の域内総生産高でみると、農業はなお全体の20%以上を占め、観光業もバリ州のフォーマルな経済活動の40%を占めるに至っており、また、工芸品の輸出額は年額15億ドル以上に上る。 -安永9年6月18日(1780年7月19日)から23日までの6日間、青ヶ島は群発地震に見舞われた。6月24日には地震は収まるが、6月27日、池之沢に噴火口が出現し、そこから大量の湯が噴き上がった。池之沢内の大池と小池の水位は上昇を続け、やがて大池と小池はひとつの大きな池となって耕作地を飲み込んでいった。また、水温も上昇して7月半ばには手を入れられないほどの湯になってしまった。しかも大量に湧出し続ける湯は塩水であり、池之沢の耕地は甚大な被害を受けることになった。また噴煙の噴出も見られ、噴煙によっても農作物は被害を受けた。青ヶ島名主の七太夫は7月末に噴火の被害について報告するために八丈島に渡った。八丈島役所も8月、被害の状況を確認するために見分を実施したが、このときは報告と見分の成果はなく、翌年の天明元年分の青ヶ島の年貢は規定どおりの納入が指示され、通常通り年貢は納められた。 -コロンブスの上陸以来、白人たちはインディアン部族が、アフリカの部族社会のような「酋長が支配する首長制の部族社会である」と勘違いしていた。実際にはインディアンの社会は完全合議制の民主的社会であり、「王」や「首長」のような個人の権力者は存在しない。「大いなる神秘」のもと、人と動物すら明確に区分されず、平等に共有されるのがインディアンの社会であり、まして大地は誰のものでもなかった。 -1953年(昭和28年)の台風13号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では篠島も甚大な被害を受けた。1957年(昭和32年)には離島振興法の第7次指定地域となり、日間賀島・佐久島とともに「愛知三島」という指定地域名が付けられた。1961年(昭和36年)6月1日、内海町・豊浜町・師崎町の本土3町と篠島村・日間賀島村の離島2村が合併して南知多町となった。かつては水不足に悩まされたが、1973年(昭和48年)に齋藤進らによって本土の愛知用水から日間賀島・篠島まで海底水道が伸び、真水を必要とするノリ養殖業が盛んとなるとともに、民宿が増加して観光地化が進んだ。1973年時点の面積は0.68km2だったが、1974年(昭和49年)から島北部で本島と属島ふたつ(中手島・小磯島)を繋ぐ0.17km2の埋め立て工事が行われ、1977年(昭和52年)には0.93km2まで拡大した。埋立地一帯は魚介類が豊富な漁場だったが、島の総面積の25%にも相当する埋立地造成計画は大きな反対もなく進められ、造成地には旧来からの一等地よりも高値がついた。 -利根川流域の気候は関東平野が東日本気候区に属しているため、おおむね温暖湿潤の気候である。しかし流域面積が広大なこともあって上流・中流・下流が一律に温暖湿潤という訳ではなく、季節により相違が見られる。降水量は年平均で1,300mmと、日本の年平均降水量1,700mmに比較すると少ない。上流部は三国山脈などの高山地帯があり、冬季は雪が多く寒さが厳しい。1955年(昭和30年)から2002年(平成14年)の間における平均累積積雪量は大水上山源流部で16m、矢木沢ダム付近で10-14m、みなかみ町付近や片品川上流部などでは2-10mとなっており、最上流部は関東地方でも屈指の豪雪地帯であるが少雨地帯でもある。しかしこの積雪が春季には融雪して利根川水系8ダムに注ぎ、首都圏の重要な水源となる。中流部については夏季は太平洋高気圧の影響で晴天が多いがその分暑さも厳しい。2007年(平成19年)8月16日に熊谷市で記録した40.9°Cは、同日記録した岐阜県多治見市ともに当時の日本最高気温記録となった。また群馬県や栃木県では雷雨が多くな���のも特徴である。一方冬季には北西の乾燥した季節風が強く吹き、群馬ではこれを「上州のからっ風」・「赤城おろし」・「榛名おろし」とも呼ぶ。下流部においては黒潮の影響もあり温暖であり中流部のような猛暑も少ないが、冬季には曇りの日が比較的多い。降水量については中・下流部は夏季や秋の台風シーズンにその極期を迎える。ただし利根川の年平均降水量は観測が開始された1900年(明治33年)以降一貫して減少傾向が続いており、平成に入ると多雨の年と少雨の年の降水量の差が顕著になっている。利根川の年間流出量は約91.5億t、年平均の流量は埼玉県久喜市栗橋の観測地点で毎秒290.43m3で、いずれも日本第5位である。 -英仏米(イギリス、フランスとアメリカ)など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定(英語版)を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。そのころ日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。 -しかし、このような厳しいトレーニングが功を奏し、1943年、11歳の時に前走者として出場した神宮大会(現在の全日本スキー選手権)では優勝者より6秒早いタイムでゴール、「神童」「天才スキー少年」と呼ばれるようになる。1948年に長野県で開催された国民体育大会でも優勝し、オスロオリンピック代表に決定した。 -進化論とキリスト教右派の対立は、科学と宗教の対立としてしばしば取りあげられる。特にアメリカ合衆国における反進化論運動はその顕著な例として知られている。アメリカは伝統的に聖書を重視するプロテスタントの信者が多いが、なかでも聖書の字句を一字一句正しいものとして扱う聖書無誤説をとる福音主義の保守派がその活動の中心となっており、アメリカにおけるキリスト教原理主義の潮流を形成している。ファンダメンタリストが進化論を問題視するようになったのは、20世紀初頭にアメリカではじまった公立学校教育が始まりとされる。児童を集めて全員に同じカリキュラムを教える公立学校において、生物の時間に進化論を扱うようになったためである。 -神宮の祭神は、タケミカヅチが国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという風土記の説話から、武神・軍神の性格を持つと見なされている。特に別称「タケフツ」や「トヨフツ」に関して、「フツ」という呼称は神剣のフツノミタマ(布都御魂/韴霊)の名に見えるように「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神とする説もある。鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては、『梁塵秘抄』(平安時代末期)の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」という歌が知られる。一方、船を納めさせたという風土記の記述から航海神としての一面や、祭祀集団の卜氏が井を掘ったという風土記の記述から農耕神としての一面の指摘もある。以上を俯瞰して、軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたとする説もある。一方でタケミカヅチと中臣氏の遠祖である天児屋命を繋ぐ系図が存在し、中臣氏歴代にも津速産霊命、市千魂命、伊香津臣命、雷大臣命など「雷」に関係した神名・人名が見られ、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)や天雷命など雷に関わる神名が見られることから、雷神としてのタケミカヅチを中臣氏本来の神と見る説もある。 -デング熱の主な媒介生物はヤブ��属の中でも特にネッタイシマカ(Aedesaegypti)やヒトスジシマカ(Aedesalbopictus)などの蚊によって媒介される。このウイルスには4つの異なる型があり、ある型に感染すると、通常その型に対する終生免疫を獲得するが、他の型に対する免疫は短期間にとどまる。また、異なる型に続けて感染すると、重度の合併症のリスクが高まる。デング熱が文献に現れるようになったのは1779年からであり、ウイルスが原因であることや伝染経路について解明されたのは、20世紀初頭である。第二次世界大戦以降、デング熱は世界的に広まり、1960年代からその発生数は急激に増加している。現在では、110か国以上で毎年およそ5000万人から1億人が感染する風土病となっている。うち70%がアジアで、インドは全世界の34%を占める世界一の感染者数を持つ。また「実際の感染規模は政府公表の数百倍を超える」とする専門家もいる。主な原因として、急激な都市化や地球温暖化、また国際化による人の往来の増加による感染拡大が関与していると考えられている。対策としては、蚊の駆除の他に、ワクチンの研究やウイルスに直接働きかける薬物治療の研究が進められている。 -1787年にロシアとオスマン帝国の間で再び戦端が開かれると(露土戦争)、同盟に基づいてオーストリアのヨーゼフ2世も参戦した。この際両国の間でオスマン帝国領を分割する約束がされた。これはイギリス・フランス・プロイセンなどに警戒を抱かせたが、1791年にオーストリアは戦争から手を引かざるを得なくなり、結果的に1792年のヤシ条約ではロシアが黒海支配を大きく進めることとなった。 -1943年(昭和18年)頃の閲覧者数は1日あたり約50人、貸出冊数は1日あたり約25冊であり、文学物や戦記物が多く読まれた。同年4月1日から10月31日までの統計によると、貸出冊数は近江兄弟社の男性社員が567冊、向上学園(後の近江兄弟社高校定時制部で1978年廃部)生徒が513冊、近江兄弟社女学校生徒が54冊、八幡町民の男性が1,167冊、八幡町民の女性が348冊、近江療養院関係が139冊で、計2,778冊だった。1944年(昭和19年)12月には近江八幡YMCA会館の一部に移転した。 -明治初期の日本では、横浜の外国人居留地で盛んに競馬が行われ(横浜競馬場)、神戸外国人居留地でも競馬は行われていた(神戸居留地競馬)。また、日本人の手による競馬も東京の招魂社競馬や三田、戸山、上野のほか札幌、函館、鹿児島など地方でも行われていた。とくに1884年(明治17年)に開設された上野不忍池競馬は、国家的祭典とも屋外の鹿鳴館とも位置付けられるものであった。しかし、当時の日本では馬券は非合法で、売ることはできず、経営難の為に1892年(明治25年)に上野不忍池競馬は閉鎖された。上野に限らず、日本人による競馬場は厳しい経営状況であった。東京では競馬場は1898年(明治31年)までにすべて閉鎖され、地方でも函館、札幌などで有志の努力によって細々と競馬が行われていただけだった。1906年(明治39年)までの日本の競馬では、横浜競馬場でのみ馬券は発売されていたが、それは1899年(明治32年)までは治外法権によって、それ以降も既得権益と外交上の配慮によって馬券発売が黙許されていたことによる。ちなみに、横浜競馬を主催する日本レースクラブの会長はイギリス大使の兼任で、日本レースクラブの主力はイギリス人であったため、当時世界最強国だったイギリスの感情を損ねることや、1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟に影響を及ぼすことを政府は恐れた。横浜競馬場以外の日本の競馬がすべて経営難に陥り、東京では競馬が全滅したのと比較して、経営も安定し順調に開催を続ける横浜競馬場の事例を見れば、競馬の開催・維持に馬券発売による利益確保が必須であることは誰の目にも明らかになっていた。 -夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。夏目家の系図(夏目氏系譜(武家家伝))によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった���1702年(元禄15年)旧暦4月、夏目兵衛直情の時、名主に任じられた。現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった。『夏目漱石人と作品3』11頁によると、遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をして過ごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋高橋長左衛門の妹として結婚したが、表向きは四谷大番町の鍵屋という質屋から嫁いだことにしていた。そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の孫に、芸能プロダクション経営者でVISAカードのCFで漱石役を演じた新田太郎がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の別の孫に朝日新聞社員(『週刊朝日』副編集長、『アサヒカメラ』編集長、『図書』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の角田秀雄がいる。妻-夏目鏡子との間に2男5女をもうけた。次女・恒子は、『其面影』を著している。四女・愛子は、津田青楓の少女像のモデルとなっている。五女・雛子は1歳で亡くなっている。その臍の緒が発見され、東北大学が購入している。 -ユスティニアヌス1世(ラテン語:JustinianusI,482年もしくは483年5月11日-565年11月14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年-565年)である。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(FlaviusPetrusSabbatiusIustinianus)。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -10月から1月まで『河北新報』に『パンドラの匣』を連載した。これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである。1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる。3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、斜陽族が流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。 -アメリカ合衆国憲法第1条第8節第17項によって、連邦議会にアメリカ合衆国の首都を設立する権限が与えられた。同条によれば、「ある州が譲渡し、連邦議会が受諾することにより、合衆国政府の所在地としての地区(ただし10マイル四方を超えてはならない)」が認められた。ジェームズ・マディソンは、1788年1月23日の『ザ・フェデラリスト』第43篇で、合衆国の首都は、その持続と安全のため、各州からは別個のものとすべきだとして、連邦の管轄する区域の必要性を説明した。1783年��は、フィラデルフィアに置かれていた連邦議会に対し、兵士らの暴動により攻撃が加えられたことも、合衆国政府が安全に配慮する必要性があることを強調することとなった。 -寺院史的立場から見ると、東大寺は荘園経営などで経済を保ち、保有する杣から伐り出した木材で伽藍の修繕をしている。その修繕は創建を担当した造東大寺司の後裔である造東大寺所の管轄だったが、平安時代中頃から僧個人の力が強くなると、私僧房ばかりが重視されるようになった。そこで組織を政所内部に組込んで修理所とし、荒廃が進んでいた堂宇の営繕に努めるようになった。荘園は全国におよび、大修理の際には、一国全体を任されることもあった。既存の杣の山林資源が枯渇していたのを補った。しかし、江戸時代には荘園が取上げられ、さらに東大寺が寺請制度の一翼を担わなかったために衰退し、明治時代に入ると、大きな勢力を誇っていた子院の東南院も滅んだ。浄土宗に属していたこともあったが、1886年に独立、華厳宗の大本山となり、観光収入などで寺院経営を行っている。美術史的立場から見ると、東大寺法華堂(三月堂、羂索堂)は、奈良時代から続く堂で、内部には奈良時代彫刻の優品が多く安置されている。また、鎌倉時代の復興期には、重源に重用された慶派の仏師による彫像群が造られた。これは興福寺に安置された彫像とともに重要視されている。 -焼入れ温度に保持してセメンタイトをオーステナイト中に固溶させる操作を、固溶化熱処理、オーステナイト化処理とよぶ。昇温速度にもよるが、加熱するとき加工品の表面に比べて内部・中心は遅れて昇温するので、表面温度が焼入れ温度に達した後に内部・中心温度は遅れて焼入れ温度に達する。そのため、加工品表面が焼入れ温度に達してから冷却するまでの時間を保持時間、加工品全体が焼入れ温度に達してから冷却するまでの時間を有効保持時間と呼び分ける。必要な保持時間は、昇温速度、加工品の大きさ、化学成分や加熱前の組織状態によって変わる。材質の影響としては、焼入れ前の組織の結晶粒が微細化されているほど、均質なオーステナイト化にかかる時間が短く、保持時間も短くてよくなる。また、組成の影響も大きく、高炭素クロム軸受鋼、高速度鋼、ダイス鋼などでは、同じ条件で比較して、機械構造用炭素鋼などよりも約20分程度保持時間が長くする必要がある。 -ナマズ目中最大の魚は、ナマズ科のヨーロッパオオナマズ(Silurusglanis)である。本種は体長3mに達することは普通で、最大では5m、体重にして330kgの個体が知られている。パンガシウス科(メコンオオナマズなど)・ピメロドゥス科(ピライーバなど)の仲間も非常に大きくなるが、目全体で見ればこれらは例外であり、ほとんどの種類は体長12cm程度の小型の魚である。スコロプラクス科には体長2cm程度で成熟する超小型種が所属している。 -境界のほぼ全域は、アメリカ合衆国連邦政府の様々な巡視員が警備している。1990年代、アメリカ陸軍の人員が、アメリカ=メキシコ国境沿いに配備され、不法な外国人と麻薬密業者の流入を食い止めた。これらの軍隊は赤外線監視装置やヘリコプターを駆使し、国境警備隊と共同で警備にあたった。不法入国者の密輸組織、「コヨーテ」が使用していたところは往来がなくなり、一時的ながら密輸業者と不法入国者は一掃された。しかし、効果的に思われたこの警備だが、軍が撤収すると、またすぐに不法入国が再開された。2001年の9.11テロの後、アメリカは警備策として国境に兵士を配備した。このとき、赤外線スコープを搭載したわずか100機のヘリコプターと良好な装備を持った数百名の兵士で国境を封鎖できるという意見があった。 -埴輪挂甲武人は、東京国立博物館が所蔵する甲冑をまとい武装した6世紀代の人物形象埴輪である。古墳時代の埴輪として初めて国宝に指定されたものであり、2020年9月30日に綿貫観音山古墳出土埴輪群が国宝となるまでは、唯一の国宝埴輪であった。『埴輪挂甲武人』は東京国立博物館での展示資料名であり、国宝指定名称は『埴輪武装男子立像』である。『挂甲の武人』となる場合もあり、「武装人物埴輪」または「武人埴輪」とも呼ばれる。群馬県太田市飯��町の長良神社境内で出土した。出土状況など詳細は不明だが、1952年5月29日付で東京国立博物館が個人所有者から購入したという。また、破片の接合や欠損部への石膏の補填は博物館が購入する前に行われていたようで、同年以後の修理記録は存在しなかった。1958年2月8日付で重要文化財に指定、1974年6月8日付で国宝に指定された。その後、修理箇所が経年劣化してきたことから、2017年から2019年までの2年間、バンク・オブ・アメリカ・メリルリンチの文化財保護プロジェクトから助成金を受けて解体修理が行われた。古墳時代後期の武器・武具が巧みに表現されており、当時の東国武人の武装のようすを知ることができる貴重な考古資料である。 -ヘビの鱗は、皮膚の表皮の分化によって形成される。鱗にはそれぞれ外表面と内表面がある。前の鱗と次の鱗の基部との間には空間があり、前の鱗の内表面からは皮膚が出て繋がっている。ヘビの鱗の数は孵化した時から定まっており、加齢による増減はないが、成長して大きさを増し、脱皮の前後で形状が変わる場合もある。口の周囲と胴体側面の鱗は小さく、口や胴体を広げるられるようになっており、自分自身より遥かに大きな獲物を飲み込むことが可能な場合もある。 -1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。オズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。だが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。ミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。ウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。(その例がハーマン=アイジングである)。契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。しかし、諦めきれなかったウォルトはその後も頑張って仕事を続けた。 -触手には刺胞と呼ばれる小さな袋状の構造が多数並んでいる。この刺胞には長い針が、巻き込まれるか折り畳まれるかして入っており、何かに触れるとその針が打ち出される。いくつかの種類があり、長い針が刺さってくっつくようになっているものもあれば、毒液を注入するものもある。これらが餌を捕獲する時や敵からの防御に働く。また、刺胞は、触手以外にも、体表面の突起部分にそれを持つ種もある。また、体内にある隔膜糸や槍糸というものにも刺胞があり、タテジマイソギンチャクなど、種によってはこれを体外に出して攻撃用に用いる。大部分のイソギンチャクの毒は、人間には影響を与えない程度のものであるが、日本の珊瑚礁海域にも生息するウンバチイソギンチャク(海蜂磯巾着の意)など一部にとても毒が強いものがあるので、該当海域では注意を要する。 -マリ・キュリーの生誕時の名前はマリア・サロメア・スクウォドフスカである。父ブワディスカ・スクウォドフスキは下級貴族階級出身で、帝政ロシアによって研究や教壇に立つことを制限されるまではペテルブルク大学で数学と物理の教鞭を執った科学者である。父方の祖父ユゼフ・スクウォドフスキも物理・化学の教授であり、ルブリンで若い頃のボレスワフ・プルスも師事した。母ブロニスワバ・ボグスカも下級貴族階級出身で、女学校の校長を務める教育者だった。マリは5人兄弟の末っ子で、姉ゾフィア、ブロニスワバ、ヘラ、兄ユゼフがいる。その中でもマリは幼少の頃から聡明で、4歳の時には姉の本を朗読でき、記憶力も抜群だった。だが当時、ポーランドはウィーン会議にて分割され、ワルシャワ公国はポーランド���憲王国として事実上帝政ロシアに併合された状態にあり、独立国家の体をなしていなかった。帝政ロシアは知識層を監視して行動に制約をかけた。マリ6歳の時、父ブワディスカが密かに講義を行っていたことが発覚して職と住居を失った。さらに母ブロニスワバも身体を壊してしまった。投機への失敗も重なり貧窮した一家は移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いたが、1876年に生徒が罹患したチフスが一家に移り、姉ゾフィアが亡くなった。それから2年後の1878年5月9日、母ブロニスワバが結核で他界した。10歳のマリは深刻な鬱状態に陥り、母に倣ったカトリックの信仰を捨て、不可知論の考えを持つようになったという。 -ばら積み貨物船を表現するための多くの略語がある。OBO(Ore-bulk-oilcarrier)は鉱石・ばら積み貨物・石油の組み合わせを輸送する船を指し、O/Oは鉱石と石油の組み合わせを輸送する船を指す。大型タンカーにおいてVLCC(verylargecrudecarrier)やULCC(ultralargecrudecarrier)といった記号が使われることに由来して、特に大型の鉱石船やばら積み貨物船にはVLOC(verylargeorecarrier)、VLBC(verylargebulkcarrier)、ULOC(ultralargeorecarrier)、ULBC(ultralargebulkcarrier)などの言葉が用いられる。 -アニメーション作家・映画監督の高畑勲は東映動画(現・東映アニメーション)時代の先輩であり宮﨑に多大な影響を与えた。東映動画の労働組合に書記長として従事した際、高畑は副委員長として宮﨑を支え交流を深めていった。高畑の初監督作品・映画『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが次々とイメージボードを描きアニメーター(兼場面設定)として大抜擢された。人間の深層心理を描いた初のアニメーション映画でありアニメ作品としての構成、作画クオリティは当時として最高峰であり、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人ギルド・コミューンの形成と善悪の彼岸を描いた思想背景、労働者コミュニティの連帯感、ベトナム戦争が影を落とした社会情勢も加味して作品作りに反映させ、強烈な“作家性”に宮崎が傾倒。含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆なレイアウトで魅せる高畑の演出も宮﨑にとっては憧れの的だった。ルパン三世第一シリーズ(共同演出)、パンダコパンダ(高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、アルプスの少女ハイジ、母をたずねて三千里(高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した。『風の谷のナウシカ』・『天空の城ラピュタ』では高畑はプロデューサーを務める。宮崎は音楽には疎いため、音楽的知識が豊富でピアノが弾けて自ら作曲も行う高畑は献身的にサポートした。 -インド洋から西部太平洋にかけての熱帯・温帯域がウナギ科魚類の分布の中心であり、特にインドネシア周辺での多様性が顕著である。西部太平洋にはフィリピン・インドネシア・オーストラリア・ニューギニア島およびニューカレドニアを中心に約14種が知られ、ルソン島(フィリピン)・ニュージーランド・ニューギニア島東部にはそれぞれ固有種が存在する。また、A.brevicepsなど2種が中国大陸のみから報告されている。インド洋にはパキスタン・インドなど南アジアに分布するA.bengalensisbengalensis、ケニアから南アフリカに至るアフリカ東岸(特にザンベジ川水系)を中心に分布するA.bengalensislabiataなど、およそ5種が生息する。このうちの数種は、マダガスカル東方沖の深海で産卵していると推定されている。 -1955年には高田町を中心とする3町5村が新設合併して陸前高田市が成立した。1959年4月、陸前高田市字本丸29にある陸前高田市役所の一室に陸前高田市中央公民館図書部が設置された。1964年には陸前高田市立図書館条例を制定し、4月1日には中央公民館図書部が陸前高田市立図書館に改称された。陸前高田市立高田中学校が移転すると、1967年7月15日には高田中学校の校舎に移転し、2階西側の3教室を用いて図書館業務を再開した。同年11月1日には巡回文庫(移動図書館)を開始したが、トラックにテントを張った簡素な車両だった。中央公民館時代の図書館の蔵書数は約11,000冊だった。 -腕足動物の化石は顕生代のどの時代の地層にも見られる。古くは古生代カンブリア紀初期の地層から発見されて��る。はじめは無関節類しか見られないが、カンブリア紀中期になると有関節類も登場する。有関節類の登場以降、無関節類の数は減少し、デボン紀以降はわずかしか見られない。オルドビス紀には有関節類が多様化し、デボン紀にその多様性は最大となる。しかし古生代末(P-T境界)の大量絶滅で、腕足動物の多様性は大部分が失われた。その後、腕足動物はかつてのように繁栄することなく、衰退傾向にある。腕足動物の化石種は1万3000種記載されているのに対し、現生種は350種程度に留まっている。腕足動物の多様性の減少は、生態の似た二枚貝類との競争に敗れたためと考えられている。 -少年時代に中央競馬の騎手を志し、馬事公苑の騎手養成所に入学した。1967年3月に騎手としてデビューした。2年目の1968年に牝馬東京タイムズ杯で優勝して重賞初制覇を達成し、翌1969年には関東リーディングジョッキー2位を獲得、1971年に優駿牝馬(オークス)を優勝して八大競走初制覇を達成するなどデビュー当初から活躍した。1984年には中央競馬史上4人目の牡馬クラシック三冠達成騎手となった。引退するまでの間に全国リーディングジョッキーを2回(1987年、1991年)、関東リーディングジョッキーを11回獲得した。1995年に騎手として中央競馬史上最多となる通算2017勝を挙げ、以降2005年3月に引退するまでの間、最多勝利記録を更新し続けた。日本国外へ積極的に遠征し、その経験をもとに中央競馬に対しさまざまな提言を行った。また、特定の厩舎に所属せずエージェントを介して騎乗依頼を受ける騎手業のスタイルを確立した。また、日本騎手クラブ会長としても活動した。騎手引退後は競馬評論家的活動を行っている。 -その後、SNSのTwitterや動画投稿サイトのYouTubeでもきさらぎ駅に関する投稿が相次ぎ、2011年以降Twitterでは目撃談や実況体験談を寄せる利用者が続出した。また2014年には、Googleマップで筑波大学構内に「きさらぎ駅」という名称のスポットが何者かによって登録され、「きさらぎ駅」への架空のルート検索ができるようになるといった珍事も起きている。 -1915年には初めて家を借り、結核を発病するまで一人で暮らした(もっとも食事は家族と取っていた)。1916年末には夜間の執筆の為、妹オットラが借りた錬金術通りにある部屋に通い、翌年にかけて「田舎医者」等の一連の作品をここで執筆した。1917年から借りていたシェーンボルン地区の家には暖房がなく、外套を着込み、足に布団を包んで寒さに耐えながらの執筆であった。夜半から夜明けまでかかる事もしばしばあり、こうした無理な生活がたたったものとして、カフカは自身の結核を「自ら招き寄せた病」と呼んだ。 -麻疹は一般にはしかといわれ、麻疹ウイルスによって感染する。感染力はきわめて強く、高熱、咳、鼻水、全身性の発疹をともない、口中にコプリック斑と呼ばれる白い斑点ができる。日本でも古くから知られ、平安時代以降の文献にしばしば登場する「あかもがさ」は麻疹であろうと考えられている。正暦から長徳への改元のあった995年に全国的な伝染病となって平安京を直撃、貴族も多数死亡して政治に混乱をきたした。古来ほとんどの人が一生に一度はかかる重症の伝染病として知られ、かつては「命定め」とよばれて恐れられたため、全国各地に麻疹に関する民間信仰が伝わっている。富山県高岡市では「はしか」が流行すると九紋龍の手形の紙をもらい、「九紋龍宅」と書いて門口に貼って病除けにした伝承がのこる。神奈川県横浜市や大和市、藤沢市に点在する鯖神社を一日で巡る「七さば巡り」をおこなうと「はしか」や百日咳の病除けになるといい、愛知県や三重県ではアワビの貝殻を戸口につるして「はしか除け」をしたという。江戸時代の庶民にとって、地震や火事とともに怖れられたのが感染症であったが、とくに疱瘡・麻疹・水疱瘡は「御役三病」と呼ばれて恐怖された。 -ハノーファー朝のイギリス王ジョージ2世は祖国ハノーファーの維持に熱心であったが、この意向はイギリスの植民地政策と衝突していた。フランスとの植民地戦争を再開する場合、まずハノーファーをフランス・プロイセン連合軍による攻撃から守らなければならなかった。フランスも植民地の拡張に��味を持ち、対イギリス戦争においてハノーファーの脆弱さを利用するつもりでいたが、プロイセンのために中央ヨーロッパへ派兵する用意はなかった。 -A340の主翼は完全に新設計となり、空力設計はブリティッシュ・エアロスペース社が担当した。空力的特性はA310の主翼のものを引き継ぎつつ、長距離飛行に適するよう修正が加えられた。A340とA330で最大離陸重量が同一だと仮定すると、4発機でエンジンの重量が分散されるA340の方が主翼の付け根にかかる負荷が小さくなり、強度的な余裕が生まれる。そこで、長距離向けで燃料を多く必要とするA340にのみ胴体内に燃料タンクが増設されたほか、重量増加に備えた降着装置の増設も行われ、A340とA330で主翼に必要な強度がほぼ等しくされた。A340/A330は主翼下にパイロンを介してエンジンを装備する方式であり、エンジンとそのカウリングの重量、位置、空力特性などが主翼の構造や空力形状の設定に深く影響するため、共通化には高い技術が求められた。エアバスは、コンピュータを用いた強度計算・空力設計と風洞実験を組み合わせることで翼型、翼厚比、取付角などを緻密に検討し、エンジン取付部を除いてA340とA330の主翼は実質的に共通化された。そのほか、設計当初から主翼の翼端には燃費性能を向上させるウィングレットが備えられた。A340の主翼の平面形は、A300と比べて翼幅、後退角、アスペクト比のいずれもが拡大された。主翼の後退角はこれまでのエアバス機で最も大きい30度となった。A340とA330では尾翼も共通化された。垂直尾翼はA310のものがほぼ流用され、生産の共通性が維持された。水平尾翼は新規設計となり、一次構造部材にも炭素繊維強化プラスチック(CFRP)が取り入れられた。A310と同様に水平安定板内には燃料タンクが設けられ、主翼や尾翼のタンク間で燃料を移動させて機体の重心位置を制御するシステムが採用された。 -中国では二里頭文化(夏王朝)から二里岡文化(殷)に移行した(鳴条の戦い)。紀元前1200年の前1200年のカタストロフは、アイスランド・ヘクラ山の大噴火が原因と考えられている(Hekla3eruption)。535年から536年にかけての535年から536年の異常気象現象はインドネシア・クラカタウの大噴火と関連していると考えられている。ヴァンダル戦争直後の異常気象。以後、東ローマ帝国と東ゴート王国が18年間に渡って戦争を行い、東ゴート王国が滅びたものの東ローマ帝国も国力を使い果たし、ランゴバルド人がイタリア半島を征服しランゴバルド王国を建国した。800年頃、パプアニューギニアのニューブリテン島・Dakatauaの噴火による影響でモンゴル高原では異常気象が頻発し、モンゴル高原は諸部族が割拠する時代に入り、モンゴル帝国が登場する舞台となった。9世紀に白頭山で噴火があったことが明らかになり、渤海滅亡との因果関係が指摘されている。915年(延喜15年)に十和田湖も過去2000年間で日本国内最大級の噴火をした。日本では承平天慶の乱が起こった。10世紀(969年±20年)に再び白頭山の天池(HeavenLake)は過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こし、火山灰は偏西風に乗って日本の東北地方にも降り注ぎ、白頭山苫小牧テフラ(B-Tm))として現在も確認出来る。1257年5月から10月にかけて、インドネシアのサマラス山で過去3700年間で最大規模(1883年に起きたクラカタウの噴火の8倍、1815年に起きたタンボラ山の噴火の約2倍)と推定される噴火が発生。中世ヨーロッパの記録文書によると、この噴火の翌年にあたる1258年の夏は異常低温で、大雨による洪水が頻発したことにより農作物が不作だったという記述が残されている。 -カール12世の従弟であるホルシュタイン=ゴットルプ公フレデリク4世はカール12世の姉ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエの夫である。彼の息子であり1702年に公位を継いだカール・フリードリヒはカール12世の死後スウェーデン王位を主張したが、カール12世の妹ウルリカ・エレオノーラの主張に譲らざるを得なかった。後にカール・フリードリヒはピョートル1世の皇女アンナ・ペトロヴナと結婚していた。ウクライナ・コサックの首長(ヘーチマン)イヴァン・マゼーパはピョートル1世側で戦ったが、1708年にカール12世側へ寝返っている。しかし、1709年にスウェーデンがロシアに敗れた後は亡命、同年に亡命地のオスマン帝国で死去した。部下のダヌィーロ・アポーストルは一旦マゼーパと共にスウェーデン軍へ降ったがロシアへ寝返り、以後はロシア軍に従軍、後にヘーチマンに選出された。 -レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった。レオナルドは、正式にではなかったがラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。ひとつはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである。もうひとつの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたときのものである。レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している。 -実際に就く官職においても貴族とそうでない者とでは差別された。これを清濁の別という。例えば郷品二品の者が起家として就く職と郷品六品の者が最終的に到達する職とでは同じ六品官であっても対等ではない。門地二品の者たちが起家として就任する秘書郎・著作佐郎など実際に行う仕事は少なく意見を述べることができる官は清官と呼ばれて好まれ、一方で細々とした雑務が多い職・軍職・郷品六品が最後に到達する官職は濁官とされ嫌われた。また同じ官品でも要職か、閑職かによっても差異が生じた。このような「俗世間の雑事にはとらわれず、高見を世間に問う」というスタイルは清談と通ずるものであり、そのような人物を理想とする貴族の好みが強く反映されたものである。地方官は清濁の別の外に置かれ、その地方の重要性如何によって価値が決まったが、概して中央で出世が見込める人物は地方官への就任を好まなかった。 -1900年頃から、今までルノワール、ピサロといった印象派の大家の陰で売れなかったシスレー、セザンヌ、ゴッホらの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはファン・ゴッホの『立葵』が1100フランで買い取られ、1913年には『静物』が3万5200フランで取引された。さらに1932年にはファン・ゴッホ1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ファン・ゴッホの絵画は大衆に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まり、作品の複製図版の増殖、展覧会や美術館への公衆のアクセスであった。1901年3月には、パリのベルネーム=ジューヌ画廊で65点の油絵が展示され、この展覧会はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクというフォーヴィスムの主要な画家たちに大きな影響を与えた。1905年3月から4月のアンデパンダン展で行われた回顧展も、フォーヴィスム形成に大きく寄与した(→絵画史的意義)。オランダでも、ドルドレヒト、レイデン、ハーグ、アムステルダム、ロッテルダムなど、各地で展覧会が開催され、1905年にはアムステルダム市立美術館で474点という大規模の回顧展が開催された。ヨーはこれらの展覧会について、作品の貸出しや売却を取り仕切った。 -ヴィルヘルム2世は1859年1月27日にプロイセン王国首都ベルリンのウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿に生まれる。その時のプロイセン王の甥であるフリードリヒ王子(のちの第2代ドイツ皇帝・第8代プロイセン王フリードリヒ3世)とその妃ヴィクトリア(イギリス女王ヴィクトリアの長女)の間の第一王子だった。 -国内からの反抗もあり、5月3日憲法はなかなか施行に至らなかった。フランチシェク・クサヴェリ・ブラニツキ、スタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキ、セヴェリン・ジェヴスキ、シモン・マルチン・コッサコフスキ、ユゼフ・コッサコフスキら反対派のマグナートは、自らの特権を守るためにロシアのエカチェリーナ2世に介入を要請した。例えば30年前のレプニン・セイムでロシアの圧力により成立した特権法の枢機卿法などは、5月3日憲法で廃止されることになっていた。こうした親露派のマグナートは、1792年4月27日にサンクトペテルブルクでタルゴヴィツァ連盟を結成した。彼らは新憲法を「パリで起こった致命的な諸事件」により「民主主義の考えに感染した」ものだとして批判した。また「議会は......すべての基本的な法律を破壊し、貴族の持つすべての自由を取り払い、1791年5月3日には革命と陰謀の場となってしまった」と主張した。タルゴヴィツァ連盟はこの「革命」を克服することを目的とした。自分たちは「国家の人々によく敬意を払い、いつも救いの手を差し伸べてくれる」「優れた公正な女帝であり、隣人であり同盟者であるエカチェリーナ2世を信用するほかはない」とした。すなわち、タルゴヴィツァ連盟はエカチェリーナ2世にポーランドへの軍事介入を要請したのである。1792年5月18日、ロシアの使節ヤーコフ・ブルガーコフがポーランド外務大臣ヨアヒム・フレプトヴィチに宣戦布告を伝えた。同日にロシア軍はポーランド・リトアニアへの侵攻を開始し、ポーランド・ロシア戦争が勃発した。 -1788年から1792年の四年セイムにおいて、改革に向けた大きな動きが持ち上がった。この時、周辺諸国はフランス革命への対処やオスマン帝国との戦争(露土戦争、墺土戦争)に忙殺されており、ポーランドに介入する余裕が無かった。またロシアはスウェーデンとの戦争も同時に抱えていた。1790年3月29日にポーランド・プロイセン同盟を結んでロシアに対する備えとしたポーランドは、1791年5月5日に当時としては極めて先進的な民主憲法である5月3日憲法を採択した。 -18世紀後半にフランス革命が起こると、伝統や権威に反発し自由で神秘的なものを重んじるロマン主義がヨーロッパを席巻し、ロマンティック・バレエが誕生した。「ラ・シルフィード」「ジゼル」に代表され、妖精や悪魔が登場する幻想的なもの、エキゾチックな異国趣味のものが多い。くるぶし丈のふんわりとしたチュチュを着た女性ダンサーの、ポワントの技法による軽やかな動きが特徴だ。ロマンティック・バレエで用いられるチュチュは、特にロマンティック・チュチュと呼ばれる。ロマンティック・バレエは現在踊られているバレエの中で最も古い形式のものであり、ロマンティック・バレエによりバレエは現在のものとほぼ同じものに完成した。バレエ・ダクシオンの提唱もあり、後に誕生するクラシック・バレエよりも、踊りによってストーリーを表現する演劇としての要素は強い。 -1530年8月25日、イヴァン4世はクレムリンのテレムノイ宮殿で生まれた。長く後継者のいなかったヴァシーリー3世にとっては待望の嫡男だったが、1525年に正教会の猛反対を押し切って不妊の先妻を追放し、イヴァン4世の母エレナを妻に迎えていることから、イェルサレム総主教はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪ったとされる。なお、エレナは1380年のクリコヴォの戦いでドミトリイ・ドンスコイに敗れたジョチ・ウルスの有力者、ママイの子孫と言われており、イヴァン4世はクリコヴォの戦いにおける勝者と敗者双方の血を引くことになる。 -やがて分光学と磁気嵐の研究は深化するとともに専門化していった。事実上、20世紀半ばの時点ではオーロラの分布や動きに関する研究は全くといっていいほど進んでいなかった。水素原子の光を同定したガルトラインが1947年に全天カメラを考案しており、国際地球観測年の委員長シドニー・チャップマンは極地全域で全天カメラを撮影することを計画した。さらにチャップマンは全天カメラ研究が一段落ついた1965年頃に、人工衛星から写真を撮ることを提案し、これも後述するように実現した。国際地球観測年ではロケットを2��、オーロラの光っている空域へ打ち込み、強力な電子ビームがあることもわかった。 -1792年よりヨーロッパはフランス革命戦争に巻き込まれた。5年の戦いの後の1797年に、フランスは第一次対仏大同盟を崩壊させた。 -ブレーメンはヴェーザー川の両岸に位置している。ヴェーザー川が北海に注ぐ河口の位置するブレーマーハーフェン(ブレーメン州に属する)から上流に約60km遡った地点に位置する。ブレーメン旧市街の上方でヴェーザー川は中流から下流に変わる。オクトゥム川が合流する付近からのウンターヴェーザー左岸一帯をヴェーザーマルシュと称する。同じくヴェーザー川下流の右岸はエルベ=ヴェーザー=ドライエックに属す。ヴュンメ川とハンメ川が合流してできたレーズム川、シェーネベッカー川、ブルーメンターラー・アウエがここから下流側の支流である。 -コンピューター技術の登場と進展と共に進められつつあった図書館における電算技術の導入に対応するため、1983年(昭和58年)9月には金沢工業大学ライブラリーセンター支援の下、北陸3県の公共図書館が協同する北陸公共図書館コンピュータ化推進協議会が発足し、1988年(昭和63年)6月14から図書に対するバーコード貼付作業に着手、1990年4月25日からその本格的稼働を開始させた。1994年(平成6年)10月28日は総合目録編成をコンピュータパッチ処理システムにより自動化した。1997年(平成9年)6月にはホームページを開設、同ホームページにおいては1998年(平成10年)3月より総合目録であるOPACを公開し、2002年(平成14年)10月1日に携帯電話対応ホームページを開設、2005年(平成17年)3月1日に貴重資料の画像提供を開始させ、2009年(平成21年)12月16日からはインターネットからの図書予約に対応するなど、インターネットにおける図書館活動も順次拡充されている。茶屋町に開館してからも蔵書の増加による狭隘や施設の老朽化によって施設の整備拡充が行われており、1987年(昭和62年)3月26日には書庫増築及び構内環境整備事業が完了し、1998年(平成10年)10月21日には増築棟及び資料センターが竣工している。 -フリッツが取り組んだのは、空気中の窒素分子N2からアンモニアを生成しようという試みだった。そのためにはいったん窒素分子を2個の窒素原子に分離しなければならないが、この窒素原子同士の結びつきは三重結合のため非常に強い。そのため分離させるには1000°Cもの高温にしなければならないが、温度を高くすると生成されたアンモニアが壊れてしまうことになる。フリッツは熱を加えてアンモニアを生成してから素早く冷やすという方法で少量のアンモニアを生成したが、それは商業的な生産を見込めるほどの量ではなかった。1905年、フリッツはこれまでの研究結果を論文として発表した。しかしこの結果はネルンストの批判を受けた。ネルンストの理論によれば、この方法によって得られるアンモニアの量はフリッツの結果より少なくなるはずだと主張し、実際に助手に実験をさせて自分の理論が正しいことを確かめた。こうして、フリッツはネルンストと対立した。ネルンストは1907年に開かれたブンゼン協会の会合でこの結果を発表し、フリッツの結果は誤りであり、「次はハーバー教授がほんとうに正確な値を出せる実験方法を採用するよう提言いたします」と述べた。フリッツはネルンストの発表に屈辱と憤りをおぼえ、この会合の後、アンモニア合成にさらに熱心に取り組むようになった。そして装置に精通したル・ロシニョールと共に研究を続け、圧力を加えることで温度を下げることができ、その結果、より多くのアンモニアが作れることを発見した。1908年にはアンモニア合成に関してBASF社と契約を結んだ。そして、BASFからの援助を元に研究を続けた。フリッツは圧力の他に、反応の際の触媒を変えることでアンモニアの生産効率を上げられるかを実験し、結果、オスミウムを使うことで生産量が飛躍的に向上することを明らかにした。フリッツはこれらの研究内容をBASFに提供した。BASFではボッシュを中心にその研究を進め、オスミウムの代わりに鉄を主原料とした触媒を使用することで商業生産を成功させた。 -フクロウの食性は動物食で、主にネズミや小型の鳥類を食べるが、モグラやヒミズなどのトガリネズミ目、モモンガ、リスといった小型の哺乳類、カエルなどの両生類、爬虫類、カブトムシやセミなどの昆虫なども食べる。最も多く捕食しているものが、丸呑みし易いハタネズミの仲間の野ネズミである。ハタネズミは体長が約10cm、体重が30-40g程度で、アカネズミやヒメネズミなどと比較して敏捷性が劣る。日齢が2-45日の巣立ち前のヒナの1日当たりの食餌量は50-200g、日齢46-66日の巣立ち後の幼鳥の食餌量は約200g、日齢66以上の若鳥を含む成鳥の食餌量は約100gである。捕獲した獲物を丸呑みし消化し、骨や羽毛などの消化できないものを塊(ペリット)として吐き出す。市街地近くの森林の少ない場所で巣営するものは、周辺をねぐらとするカワラバトやスズメを捕食したり、民家の屋根裏をねぐらとするアブラコウモリ、飲食店付近ではドブネズミ、夜間に電灯や自動販売機の照明に集まる大型の昆虫などを捕食することもある。秋にはたくさんのノネズミを捕獲して皮下脂肪に蓄えて冬に備える。11月から翌年の2月までにフクロウが食べた物の種類とその割合の調査結果を下表に示す。 -518年にアナスタシウス1世が崩御すると、ユスティヌスはユスティニアヌスの大きな助けを受けて新帝即位を宣言した。ユスティヌス1世の治世(518年~527年)においてユスティニアヌスは皇帝の腹心となった。 -フリードリヒ2世にとって機会となったのは、1740年10月に神聖ローマ皇帝カール6世が男子継承者を残さずに死去したときだった。1713年の国事詔書により、カール6世は長女マリア・テレジアを継承者に定め、マリア・テレジアはカール6世に伴いオーストリアの統治者になり、ハプスブルク帝国のうちボヘミアとハンガリーの領地も継承した。国事詔書はカール6世の存命中にはほとんどの帝国諸侯からの承認を受けたが、多くの諸侯はカール6世の死後すぐに承認を拒否した。フリードリヒ2世はこれを好機とみて、ヴォルテールに「ヨーロッパの古い政治体制を一新する時が来ました」と書き送った。 -養蜂は、閉鎖空間の中に巣を作るというミツバチの習性を利用し、内側をくり抜いた丸太や土管、わら縄製のスケップ、木製の桶などを用いて行われる。かつては巣を切り取り、押し潰して蜜を搾り取る方法が採用されていたが、これはミツバチに大きなダメージを与えるものであった。現代的な養蜂では木製の枠の中に巣を作らせ、蜜が貯まると遠心分離器にかける方法が採用されている。遠心分離器による採蜜法は1865年に、オーストリアのフルシュカによって考案された。遠心分離機の活用によってミツバチ一群あたりの蜂蜜の採集量はおよそ5倍ないし10倍に増加した。採集した蜂蜜には微量の花粉や巣の破片が含まれている。市場に流通している蜂蜜の多くは、それらを濾過した後で容器に詰められているが、濾過には限界があり、若干の不純物が残留する。 -1906年4月19日、8歳の時、イレーヌの父ピエールは馬車に轢かれて死亡した。イレーヌはマリーから、父は頭にけがをしたから会うことはできない、と告げられた。イレーヌははじめ、その意味することがのみこめなかったが、やがて理解し、泣きながら母親のもとへと駆け寄った。ピエールの死によってマリーは非常に大きなショックを受け、しばらく立ち直ることができなかった。その年の秋、マリーは、ピエールの思い出が残る家に住み続けることはできないとして、娘2人と義父ウジェーヌと共に、ソーへと引っ越した。なおイレーヌ自身は後年、幼い頃のことはよく覚えておらず、両親と一緒の生活についてもほとんど記憶に無いと述べている。 -静岡県伊東市の井戸川遺跡から、15世紀末から16世紀前半にかけて食べられたと見られるイルカの骨が大量に見つかっており、静岡県教育委員会はイルカ漁が縄文時代から続いていた可能性が高いと考察している。1675年には現宮城県気仙沼市の唐桑では、イルカの群れが押し寄せてきた時には、唐桑半島と大島の間に建切網を張っての追い込み漁が行われていた記録が残っている。唐桑では明治初めの頃まで追い込み漁が行われていた。1745年に、現静岡県の湯川村で、イルカの大規模捕獲に関係しての争いがあった様子が記録されている。1773年(安永2年)3月に、唐津藩士の木崎攸軒(きざき・ゆうけん)が描いた『肥前国産物図考』のひとつ『海豚漁事・鮪網之図・鯛網・海士』が成立した。このうち「海豚漁事」(又は「江豬漁事」)は、海豚の群れを捕獲する追い込み漁の様子が描かれている。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -ドイツ軍は当初全兵に黒革のブーツを支給しており、それがシュタールヘルムと並んでドイツ軍の特徴であった。ドイツの軍用ブーツはプロイセン軍が1866年に採用したものが端緒であり、靴底には野外での滑り止め用に鉄製の金具が打たれていた。公的には「マルシュシュティーフェル(行軍ブーツ)」(Marschstiefel)と呼称されたが、俗に「クノーベルベッヒャー(サイコロ壺)」(Knobelbecher)とも呼ばれた。行軍ブーツは上等な黒染の牛革で製造されたジャックブーツで、ふくらはぎの部分の丈は35センチから41センチだった。1939年11月9日の通達で35センチから29センチに短縮された。この規定が実際に効力を持ったのは1940年春からである。革の節約のために短めにされたものだった。二重の靴底に35個から45個のスパイク(鋲)で補強されている。しかしこのスパイクは東部戦線で断熱効果を発揮し兵士たちの足を凍えさせ、凍傷の原因になったとされる。 -1917年(大正6年)に水利権許可を得ていた木曽川の「大桑第一水力」は、水路が長すぎることから実際の開発にあたっては2地点に分割することになり、下流側は「須原水力」となった。同地点は須原発電所として大同発足直後ただちに着工され、1922年(大正11年)7月に竣工した。須原発電所は長野県西筑摩郡大桑村に設置され、水路式発電所で出力は9,200kW。エッシャーウイス製水車、ウェスティングハウス・エレクトリック製発電機各2台と日立製作所製変圧器を設置した。竣工とともに大桑発電所まで77キロボルト(kV)送電線が完成、大桑発電所より名古屋市北区八龍町の六郷変電所へ至る既設送電線(同年6月全線竣工)と接続し、名古屋方面への送電を開始する。さらに翌1923年(大正12年)12月、大阪送電幹線が完成すると須原変電所を通じ154kVに昇圧した上で大阪方面へも送電するようになった。 -忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。改暦の動きは秘密裏に行われていたが、この時期の符合から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。その情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻・ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。そのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説がある。 -ティローカラート王(1441-1487年)はラーンナー王朝における絶頂期の王として知られる。ティローカラートは即位から10年間は当時独自の王国を築いていたナーンとプレーを版図に加え、国力を増強した。その後、南進を進めヨム川上流のピチットを、ティローカラートに帰順したピッサヌロークの国主プラヤー・ピッサヌロークと共に攻め入った。 -ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、『エコー・ド・パリ』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。......何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評をいったが、同調する評論家はいなかった。 -ギリシア時代とローマ時代を通じて水時計の技術は大いに上がったが、日時計も使われ続けた。数学者で天文学者のビテュニアのテオドシオスは、緯度の影響を補正する日時計を発明したとされているが、その詳細は伝わっていない。この頃、数学書や文学書の中で、日時計に関して述べられたものがいくつかある。著書『建築について』で知られるローマの建築家ウィトルウィウスは、日時計グノモン(gnomon)の構造について解説をしている。ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時代には、「アウグストゥスの日時計」(SolariumAugusti)と呼ばれる巨大グノモンを建設している。これに使われたオベリスクは古代エジプトの都市ヘリオポリスから運ばれたものである。アウグストゥスはカンプス・マルティウスのオベリスクを使って「アウグストゥスの黄道日時計」も作っている。古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの記録によると、ローマに最初の日時計が作られたのは紀元前264年のことであり、シチリア島の都市カターニアからもたらされたものである。ただしこれはシチリアとの緯度の違いを考慮していなかったために当初は不正確であり、後に改良されたと記録されている。 -『星織ユメミライ』の企画・制作はtonework'sである。ディレクター業務は丘野塔也が担当し、シナリオは丘野塔也・白矢たつき・にっし~・今科理央・魁が担当した。本作のヒロインのうち、逢坂そらの原画は武藤此史、篠崎真理花の原画は恋泉天音、瀬川夏希の原画は秋野すばる、沖原美砂の原画は恋泉天音、鳴沢律佳の原画は秋野すばる、雪村透子の原画は唯々月たすくが担当した。SDイラストは柚木ガオが担当した。BGMは天門・MANYO・水月陵・碓氷悠一朗・しょうゆ・Meeon・どんまるが担当した。動画制作はgram6designが担当した。本作ではヒロイン数が『初恋1/1』の5人から6人へ増加し、ヒロイン数増加を受けて唯々月たすく・秋野すばる・恋泉天音・武藤此史の計4人の原画家が起用された。ビジュアルアーツに所属する恋泉の他に唯々月たすく・秋野すばるが起用されたのは、前作での仕事が素晴らしかったこと、前作と同じ原画家を起用することでブランドイメージを統一したかったこと、恋泉が描くキャラクターに頭身が近くかつ可愛いキャラクターを描ける人は希少であることなどが理由である。新たに武藤此史を起用したのはtonework'sの作風と原画家としての実力を考慮したためである。 -東部大西洋の沿岸性魚類は約500種で、東���太平洋よりもさらに少なく、熱帯性魚類の分布はギニア湾周辺のごく狭い海域に限られる。この地域で多様性を示すグループは、タイ科など数科にとどまる。サンゴ礁も非常に少なく、コンゴ川・ニジェール川・ヴォルタ川など複数の大河川から淡水が流入することが一因と考えられている。 -1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチスがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏(イギリスとフランス)からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。 -単独またはつがいで行動し、渡りは行わない。夜行性で昼間は樹洞や木の横枝などでほとんど動かず目を閉じて休息している。夕方から活動を始めるが、日中に行動することもある。冬場の獲物が少ない時や強風や雨天が続いた場合は昼間でも狩りを行ったり、保存した獲物を食べる。日中木の枝でじっとしている時にカケスなどの他の鳥に騒ぎ立てられて、他の場所へ逃げ出すこともある。森林内の比較的開けた空間や林縁部などの樹上で獲物を待ち伏せて、首を回しながら小動物の立てる物音を察知し獲物を見つけると羽音を立てずに軽やかにふわふわと直飛し獲物に近づく。足の指を広げて獲物の背中に突き立て、獲物を押さえつけて締め殺す。目は人間の10-100倍ほどの感度があるとみられていて、目で遠近感をつかめる範囲は60-78度と広いが、視野は約110度と狭く、これを補うために首は上下左右約180度回り、真後ろを見ることができる。体を動かさずに首だけで約270度回すことができる。発達した顔盤は小さな音を聞くアンテナとしての機能があり。左右の耳は大きさが異なり位置も上下にずれているため、音源の位置の方向と距離を立体的に認識することができる。聴覚が発達しており、音により獲物の位置を特定し、雪の下にいるノネズミや地上付近のトンネル内を移動しているモグラやミミズを仕留めることができる。 -七年戦争はおそらく真の意味ではじめての世界大戦であり、第一次世界大戦から160年前におきたこの戦争は世界中に影響を及ぼした。戦争はヨーロッパにおける政治再編を引き起こしただけでなく、19世紀のパクス・ブリタニカ、プロイセンのドイツにおける地位の上昇、アメリカ合衆国の独立とフランス革命の遠因となった。 -19世紀にはイギリスがペルシア湾において、アラビア半島側の多くを保護領とした。しかし、内政には不干渉の姿勢を取っていたため、真珠採取業にも干渉しなかった。ペルシア湾のうち、アラビア半島側では真珠床を湾岸住民全体の共有財産とする考えが古くからあり、湾岸の住民はどこの真珠床で採取しても許される一方、外国人の採取は全面的に排除されていた。この慣習法はイギリスの保護下でも維持され、イギリス人も「外国人」として採取が禁じられたのである。その一方、イギリスは一帯を保護領化していたため、海上の安全保障に注意を払っており、真珠採取を行なっていた船がしばしば海賊船の襲撃を受けた際には、海賊船の駆逐に当たった。 -『カンポンボーイ』は著者ラットの自伝である。ラットは地方のカンポンに生まれ育ち、州都イポーの小学校に進み、中等教育を修了するとクアラルンプールに移った。成人後は新聞の事件記者として働きながら、9歳のときから描きはじめた漫画で副収入を得た。あるとき香港の雑誌に描いた作品「ベルスナット」が新聞社内で注目され、コラム漫画家の地位につくことになった。社によってロンドンに派遣されてセント・マーチンズ芸術大学で学び、1975年にマレーシアに帰国してからは英国風の風刺漫画��描きはじめた。この路線は人気を集めた。しかし名声が高まるにつれて、都市でのライフスタイルに疑問を持ち始め、カンポン生活を懐かしむようになった。ラットは自分を含めた都市生活者が故郷の村落の暮らしを忘れてしまったと感じ、それを思い出させようと考えた。また、マレーシアにいる外国人に田舎の伝統的な生活を知らせたいという考えもあった。ラットは1977年から新聞漫画の執筆の合間に本作の原稿を描き始めた。完成した『カンポンボーイ』は1979年にブリタ・パブリッシングから刊行された。 -芥川龍之介は、日本の小説家だ。本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。その作品の多くは短編小説である。また、『芋粥』『藪の中』『地獄変』など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。『蜘蛛の糸』『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。東京市京橋区入船町8丁目(現・東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町(現・東京都墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に叔父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族である芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていた。 -アトランタの業務・商業はダウンタウン、ミッドタウン、バックヘッドの3か所に集中している。ダウンタウンはアトランタで最も古くから発展した地域で、3か所の業務・商業集積地のうちで最大のものである。ダウンタウンにはCNNなどの企業の本社をはじめ、州政府・市政府の各種機関の施設、さらには市の名所も集中している。ダウンタウンの北約2kmに位置するミッドタウンは1987年にワン・アトランティック・センターが完成してから急速に発展した地域で、アトランタ連邦準備銀行が立地する金融センターである。ダウンタウンの北約15km、市域の北部約1/5を占めるバックヘッドは、もともとは高級住宅地であったが、1980年代から中高層のオフィスビルが建つようになり、職住近接型のオフィス街へと変貌を遂げた。また、バックヘッドは大型のショッピングモールが立地するアトランタきってのショッピング・エリアでもあり、バーやナイトクラブが立ち並ぶ歓楽街でもある。アトランタで最も高い超高層ビルはバンク・オブ・アメリカ・プラザである。ミッドタウンに建つ高さ311.8m、55階建てのこのビルはアトランタのみならず、ニューヨークとシカゴ以外のアメリカ合衆国の都市に建つビルとしては最も高い。このビルは1991-92年にかけて建設され、わずか14か月の短期間で完成した。完成当初はネイションズバンクの所有で、ネイションズバンク・ビルと呼ばれていたが、1998年にネイションズ・バンクとバンクアメリカが合併し、バンク・オブ・アメリカとなったのち、現称のバンク・オブ・アメリカ・プラザに改名された。 -宝永大噴火は宝永地震の49日後に発生している。そのほかに南海トラフや相模トラフを震源とする地震や近隣地域地震の前後25年以内に、富士山に何らかの活動が発生している事例が多く、地震と富士山活動とは関連性があるとされる。また、噴火活動ではないが、1331年の元弘地震や1792年、1891年濃尾地震では地震の震動で山体崩壊や大規模な斜面の崩落が発生したと記録されている。 -『リッチマン、プアウーマン』は『コード・ブルー-ドクターヘリ緊急救命-』などを手がけ、特定の職業の内実を描く「職業モノ」ドラマに対するセンスを主演の小栗にも評価されている増本淳らのプロデュースによる作品である。増本は本作について、「普遍的なシンデレララブストーリー」であると同時に、「現代社会のある側面を"仕事"というテーマで切り取り、4人(の登場人物)がそれぞれ自分の人生を織り成すヒューマンドラマでもあります」と説明した。IT業界の人物を主人公とした理由としては「単なる金持ちや成功者ではなく、世界を劇的に変えたイノベーターがここ数年で実際に登場した分野だからです」と語り、主人公の魅力を最大限に引き出し、視聴者に感情移入させるための舞台として、2012年現在においてIT業界がふさわしかったからとしている。主人公とは対照的に、高学歴で就職を望んで努力しているにもかかわらず、仕事に就けないヒロインを設定している。この背景には、ドラマの放送前年の2011年に大学卒業後の就職率が史上最低を記録したということがある。増本は、日本社会にここ数年の間に極端な格差社会があるという見解を示しており、それを象徴する主人公とヒロインの二者の間に恋愛は成立するのか、ということをテーマとして挙げている。多くの視聴者からの声に応え、2013年4月1日には続編となるスペシャルドラマが放送された。 -マダガスカルにおける1万4,883種に及ぶ植物種のうち、80パーセント以上が固有種である。この中には、科レベルで固有の植物群、5科が含まれる。そのような固有科の1つであるディディエレア科は4属11種からなり、全世界でもマダガスカル島南西部の有刺林のみに生育する。キョウチクトウ科のパキポディウム属の仲間のうち、全世界に存在する種の5分の4が本島に固有の種である。マダガスカルに生息するラン科の種は全部で860種とされるが、そのうち4分の3がここだけで見られる種である。世界に9種あるバオバブ属のうち6種がマダガスカルの固有種である。マダガスカルに生育するヤシは全部で170種で、これはアフリカ全体の種数の3倍の多様さであり、しかもそのうち165種が固有種である。東部雨林の数多い固有種の中でも、タビビトノキは、マダガスカルという国の象徴ともいえるものであり、これを図案化したものが国章や国営航空会社のロゴのデザインに用いられている。なお、タビビトノキは現地の言葉では「ラヴィナラ(ravinala)」という名前で知られる。マダガスカルの植物の中には、さまざまな苦痛を取り除く薬草として用いることができるものも多い。ホジキンリンパ腫や白血病、その他の癌の治療に用いられるビンブラスチンとビンクリスチンという薬は、マダガスカルの固有種、ニチニチソウ(Catharanthusroseus)から抽出されたものである。 -世界遺産に関する業務の増大を踏まえ、1992年には、世界遺産の事務局に当たる世界遺産センターがユネスコ本部内に設置された。当初はユネスコの文化遺産部との棲み分けが十分になされていなかったが、のちに世界遺産センターは有形の文化遺産を、ユネスコ文化遺産部は主に無形の文化遺産を担当する形で業務分担された。1992年は「作業指針」に文化的景観の概念が導入された年でもある。詳しくは後述するが、この概念は、より多様な文化遺産に世界遺産登録への道を開くものであり、登録件数の多い欧米と、それ以外の地域との間の、不均衡の是正にも寄与することが期待された。1992年は日本が世界遺産条約を批准した年でもあり、先進国では最後にあたる125番目の締約国となった(同年の6月30日に受諾書を寄託、9月30日に発効)。日本の参加が他の国と比べて遅れた理由は、いくつか指摘されている。例えば、文化財保護法などの独自の保護関連法制が整っていて必要性が認識されづらかったこと、参加した場合の煩瑣な行政手続きや国内法の修正作業への懸念があったこと、重要性に対する認識が希薄な中で国会審議の優先順位が高くなかったこと、冷戦下でアメリカを刺激したくなかったこと、世界遺産基金の分担金拠出に関する議論が決着しなかったこと、省庁の縦割り行政の弊害があったことなどが挙げられている。 -タチアナ(Tatiana、2003年6月27日-2007年12月25日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンフランシスコ動物園で飼育されていたメスのシベリアトラである。タチアナはその生涯中に2回人間を襲い、2回目の事件では1名死亡、2名負傷という惨事を引き起こした。2回目の事件後、タチアナは警察官の発砲によって射殺されている。 -元来南アラビアでは月の神を頂点とする多神教の天体信仰が主流を占めていたが、4世紀の第二次ヒムヤル王国の時代にヒムヤルにキリスト教とユダヤ教が伝えられる。多神教の神殿に奉納される碑文の末尾には祈願する多数の神の名前が記されていたが、多神教信仰は一神教信仰に変化していき、363年/373年に奉納された碑文の末尾には「天の神」のみへの祈願が記されていた。4世紀初頭のヒムヤルでは「天の神」を信仰する一神教が存在しながらも王家はユダヤ教の影響を受け、キリスト教に対して非常に友好的な態度を取る状況が成立していた。ユダヤ教の影響を受けた一神教の出現の背景には、キリスト教を受容してビザンツ帝国と同盟したアクスムに対抗するため、ヒジャーズとメソポタミアのユダヤ教徒コミュニティとの関係を深める意図があったと推測されている。やがて、それぞれの宗教の信者の間に宗教的対立が起きるようになる。 -発声映画の商業化への第1歩はアメリカ合衆国で1920年代後半に始まった。トーキーという名称はこのころに生まれた。当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた。長編映画としての世界初のトーキーは、1927年10月公開のアメリカ映画『ジャズ・シンガー』(ワーナー・ブラザース製作・配給)であり、ヴァイタフォン方式だった。これは、前述のレコード盤に録音したものを使う方式で、その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)がトーキーの主流となった。翌1928年に、サウンドトラック方式を採用したウォルト・ディズニー・プロダクション製作の『蒸気船ウィリー』が公開される。『蒸気船ウィリー』は短編ながら、初のクリックトラックを採用した映画である。しかし、世界初のトーキーアニメーション映画に関しては、1926年に、フライシャー・スタジオの『なつかしいケンタッキーの我が家』がすでに公開されている。1930年代に入るとトーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買った。ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった。日本映画では1931年の『マダムと女房』が初の本格的なトーキー作品である。しかし、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流だったため、トーキーが根付くにはかなり時間がかかった。インドの映画はトーキーの到来によって急速に成長し、1960年代以降はアメリカを抜き、世界一の映画製作数を誇るようになった。 -1833年スペイン地方行政区分再編ではスペイン全土に49件が設置され、ナバラ地域にはナバラ県のみが設置された。1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名し、旧来のフエロが廃止されてスペイン憲法の枠組みによるフエロの再編が行われた。関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない密輸が勃興した。ビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。1872年から1876年の第三次カルリスタ戦争中では再びカルリスタ勢力が敗北。1876年7月21日法はスペイン国家に対する兵役や納税などを規定しており、事実上フエロが撤廃された法律と解釈されている。1877年には一般評議会と特権議会が廃止され、バスク地方全域のスペインへの統合が完了した。 -1956年10月31日にジョージ・J・デューフェク(en)を載せたアメリカ海軍の航空機R4D-5Lスカイトレインが着陸し、南極点は人類が訪れない長い空白期間を終えた。この年から翌年の国際地球観測年にかけて、南極点にアムンゼン・スコット基地が建設され、研究者や支援要員の常駐が始まった。アムンゼンとスコットに次ぐ陸路での南極点到達は、イギリス連邦の南極大陸横断探検(en)の一環に当たる1958年1月4日のエドモンド・ヒラリー一行、1月19日のヴィヴィアン・フックス一行が航空機からの支援をうけつつも達成した。その後も、アンテロ・ハボラ、アルバート・P・クレイリー、ラノフ・ファインズ(en)ら多くの探検家が南極点への旅を成功させた。1968年12月19日、日本の第9次越冬隊(隊長・村山雅美)が日本人として初めて南極点に到達した。1987年にはエルスワース山脈内の南緯80度にあるパトリオットヒルズに民間のベース���建設され、南極点への非政府系の遠征が行われるようになった。1989年12月30日には、アルブト・フックス(en)とラインホルト・メスナーが乗り物や動物の助けを受けず、スキーと風力だけで南極点に達した。海岸から支援を受けず徒歩で南極点に到達した例は、2009年にヘラクレス湾(HerculesInlet)から33日をかけたカナダのレイ・ザハブ(en)、リチャード・ウェーバー、ケビン・バレリーが成し遂げた。これは1か月前にトッド・カーマイケルが達成した39日と7時間の記録を更新した。 -『牛乳を注ぐ女』が制作された当初、描かれている女性は「ミルクメイド」ではなく、「キッチンメイド」あるいは家事全般を担当する「メイド」として知られていた。「ミルクメイド」は牛の乳搾りを担当する女性労働者で、「キッチンメイド」は台所仕事を担当するメイドである。この作品が描かれる200年ほど前から、ミルクメイドやキッチンメイドは性愛や性交渉を想起させる存在であり、このことはアントウェルペン、ユトレヒト、デルフトなどのオランダ諸都市で描かれた台所や市場を舞台とした風俗画によく描かれていた。『牛乳を注ぐ女』のように性的な画題を巧妙に隠蔽していた作品もあれば、あからさまに性愛描写を描いた作品もあった。フェルメールよりも前の世代でこのような風俗画を得意とした画家に、アントウェルペン出身のヨアヒム・ブーケラールとフランス・スナイデルスがおり、両者ともに多くの追随者と模倣者をうんだ。アムステルダム出身のピーテル・アールツェン、ユトレヒト出身のヨアヒム・ウテワールとその息子ピーテル・ウテワールらも風俗画を得意とし、後世の画家たちに影響を与えた画家である。フェルメールと同世代では、ニコラース・マースが『怠惰な召使い』などの諧謔画を何点か描いている。しかしながら、フェルメールが活動していた時代では、家で働く女性を描いた作品は別の意味を持つようになっており、最終的にはオランダ家庭の長所や美点を表すようになっていった。 -岩手県の被害は津波によるものが中心であった。被害が特に大きかったことから宮城県、福島県とともに被災3県として総称される。岩手県沿岸は海岸線近くまで山地が迫り、平地が狭いという地形のため、津波による浸水面積は58km2と3県では最も小さかった。しかし、その狭い平地に漁港と市街地が広がっていたため、浸水域の人口は約11万人であり、浸水域の人口密度は1,900人/km2と3県で最も大きかった。県中南部は津波高が増すリアス式海岸のため、津波常襲地域であり、津波への対策(防波堤・防潮堤)の規模は日本随一であった。過去の津波の伝承や石碑(自然災害伝承碑)が至るところに残り、住民の防災意識も高く、多くの人々が避難行動を取ったが、想定を大きく上回る規模の津波が押し寄せたため、甚大な被害を受けた。陸前高田市では、市民会館や市民体育館などの指定避難所の多くがほぼ天井まで水没して避難者の大半が死亡し、市街地全域が壊滅的被害を受けた。高田病院で4階まで浸水し27人が亡くなるなど、1,800人弱の犠牲者を出した。市職員も1⁄3弱に当たる113人が犠牲になり、浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、大槌町と同率の11.72%であった。大槌町では、役場で災害対策本部の準備をしていた職員60人中、当時の町長である加藤宏暉を含め30人以上が亡くなるなど、1,300人弱が犠牲になった。また、火災も発生した。浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、陸前高田市と同率の11.72%であった。 -伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き、吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。吉田・伊勢間は陸路では約4日かかるが、海路では最短半日で着くことができ、金銭的余裕のない参拝者、遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。江戸時代には海運業が経済の中心であり、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋や津に運んだりしていた。 -さらに1980年代���はオークションの高値記録が次々更新されるようになった。1988年2月4日付「リベラシオン」紙は、「昨年(1987年)3月30日、ロンドンのクリスティーズにて日本の安田生命(安田火災海上、現損害保険ジャパン日本興亜)がひまわりを3630万ドル(約58億円)で落札した瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。......またアイリスは、(同年)11月11日に、ニューヨークのサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている。日本のバブル景気であふれたマネーが円高に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた。さらに、1990年5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで齊藤了英が『医師ガシェの肖像』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し、各紙で大々的に報じられた。この作品は、ヨーによって1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられるものである。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた。ファン・ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている。 -露地栽培のほか、冬に掘り取った根株を暖房温室で栽培する軟化栽培法がある。軟化栽培では光のない環境で生育を行うため、葉緑素が形成されず、アントシアニンの鮮やかな赤色が優勢となる。また茎はより甘く柔らかくなる。軟化栽培のルバーブは英語で「ホットハウス・ルバーブ」と呼ばれ、特に早春に店頭に並ぶ。英国では、灯りのない小屋で促成栽培されたルバーブの初物をろうそくの灯りの下で収穫する習慣がある。ウェスト・ヨークシャーの3つの都市(ウェイクフィールド、リーズ、モーリー)の間にある地域はこの種のルバーブを特産としており、「ルバーブ・トライアングル」として名高い。 -いくつかの研究は火山学的にも熱水活動的にも一番活発な地域は南リフト・ゾーン沿いに所在する事を論証してみせた。それほど活動的ではない北縁での潜水調査において、その地域での微小地形はやや安定していて柱状節理が発達していることが判った。新たにできた熱水フィールド(NahaVents:「ナハ・ベント」)はアッパーサウス・リフトゾーン(upper-southriftzone)の深さ1,325m(4,350ft)の場所に位置していた。 -戸倉は丸亀高女で、松本千代栄の母が担当する家事の授業を受けた。1930年夏、別府温泉で戸倉と松本の母は偶然に再会し、当時小学4年生だった松本はここで初めて戸倉と出会った。その後、東京女高師に進学した松本は戸倉から指導を受け、同じダンスの道に進むことになる。松本と戸倉が深く関わるようになるのは、松本の東京女高師研究科進学以降である。入学してすぐ、松本は戸倉の講習会助手として同行し、札幌から東京・下関・釜山を経て満州国の新京までの長旅を経験した。帰国後の東京は空爆の連続であったが、戸倉は空襲警報が解除となるとすぐに防空壕を飛び出して教授要目にダンスを残す研究を開始したという。学校体育指導要綱の委員として活動中、松本は理解者が少なくて悩んでいたところ、「私は二階堂先生に私淑したが、同じにはやらなかった。松本君も自分の思うようにやれよ」と声をかけ、松本を激励した。また学習指導要領の作成中には「もし納得できなかったら席を蹴って帰って来い」と、戦中の自身の経験を踏まえて助言した。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思���出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -A330シリーズで最初に開発されたのはA330-300で、1987年に長距離4発機のエアバスA340と同時に正式開発が決定された。双発機のA330と4発機のA340の同時並行的な開発は航空技術史上において希少な取り組みとなり、両機はエンジン関係を除いて最大限共通化された。A330-300は1994年にエールアンテールによって初就航した。次に開発されたA330-200はA330の短胴・長距離型で、1995年に正式開発が決定され、1997年にカナダ3000によって初就航した。A330-200FはA330-200をベースとした貨物専用型で、2007年に正式開発が決定され、2010年にエティハド航空の貨物部門に初引き渡しが行われた。エンジンを新型に置き換えるエアバスA330neoシリーズは、2014年に正式に開発計画が発表され、2018年に路線就航を開始した。2015年7月現在、1,095機のA330が民間航空路線に就航している。運用者を地域別にみると、全体の約6割がアジア・中東・オセアニア地域の航空会社によって運用されており、中でも中国の航空会社による運用機数は約1��を占める。その次に欧州・ロシア地域の航空会社による運用機数が多く、続いて北米・南米地域、アフリカ地域の順となっている。2019年3月現在、A330の死亡事故は3件発生して338人が死亡している。A330が巻き込まれたハイジャックは2件発生し、1人が死亡している。 -地震が発生した当日、菅直人首相は自身を本部長とする緊急災害対策本部を設置した。これは大規模な災害が発生した場合に内閣府に設置することと法律で定められている臨時の機関であるが、これまでに設置された例はなく、東日本大震災の発生によって初めて設置されることとなった。菅第2次改造内閣は、平成23年度本予算案を衆議院本会議で賛成多数で可決させたものの予算関連法案は成立させるめどが立たず、与野党間の対立も激しさを増していたが、震災発生後は一転し、震災発生から間もなく菅直人首相が首相官邸に集めて与野党党首会談を行い、「救国」のための協力を要請した。野党側も対立姿勢を修正した。14日には震災対応特措法の早期成立が与野党内で合意された。2011年(平成23年)4月11日の閣議決定により、東日本大震災復興構想会議が設置された。同年6月24日に東日本大震災復興基本法が公布・施行され、東日本大震災復興対策本部が内閣に設置された。7月25日、東日本大震災の復旧・復興関連経費を盛り込んだ平成23年度第二次補正予算(1兆9,988億円)が成立した。11月20日、東日本大震災関係経費11兆7,335億円などを柱とする平成23年度第三次補正予算(12兆1,025億円)が成立した。12月7日、東日本大震災復興特別区域法が成立した。12月9日、復興庁設置法が成立し、震災からの復興を目的として期間を定めて設置される復興庁の所掌事務、組織が具体化された。2012年(平成24年)2月10日、復興庁が発足した。2012年(平成24年)1月27日、東日本大震災に関する15組織のうち、「原子力災害対策本部」「政府・東京電力統合対策室」「原発事故経済被害対応チーム」「緊急災害対策本部」「被災者生活支援チーム」「官邸緊急参集チーム」「各府省連絡会議」「経済情勢に関する検討会合」「電力需要に関する検討会合」「電力改革及び東京電力に関する閣僚会合」の10組織が公文書管理法が主旨とする議事録を未作成、そのうち5組織では議事概要も未作成または一部作成であったとする調査結果を発表した。野田佳彦首相は午前の参議院本会議で「文書で随時記録されなかったのは遺憾。会議の意志決定過程を把握できる文書作成は国民への説明責任を果たすため極めて重要」と答弁した。 -こうした都市国家群は前24世紀半ばにウンマ王で後にウルクに拠点を遷したルガルザゲシによって大部分が征服され初めて統合された。このルガルザゲシの王国は、アッカド市(アガデ)の王サルゴン(シャル・キン)によって打倒された。サルゴンが建設した王国はアッカド帝国とも呼ばれ、一般に初の統一王朝として扱われる。バビロニアの中枢となる都市、バビロン(バーブイル/バーブ・イリBābili)は後世の史料ではこのサルゴン王によって建設されたという。しかし、これは一つの伝説であり、同時代史料におけるバビロンの初出はアッカド帝国最後の王、シャル・カリ・シャッリ(在位:前22世紀頃)の時代に建造された神殿の定礎碑文である。 -瀬川夏希は卒業アルバム制作委員会に所属する少女であり、同アルバムに載せる写真を撮るためにいつもカメラを片手に校舎内を駆けずり回っている。スクール編では涼介は夏希の写真撮影を手伝うことになる。七夕祭りに向けて、自然科学部は地元に生息する海棲生物をメインにしたミニ海棲生物館を七夕祭りでやることになる。また、天文部は星座と神話をテーマにパネル展示を行うことになる。夏希はどちらの部活からも写真撮影を依頼される。夏希はまず自然科学部の依頼用に図鑑に載っているような魚の写真を撮る。しかし、その写真に満足出来なかった夏希は撮影をやり直し、魚が生きる姿を捉えた写真を撮ることに成功する。次に夏希は天文部の依頼用として星座の写真を撮るも、露光時間を長くし過ぎたために星は線状に写り、星座の写真として使えないものが出来上がる。涼介と夏希はそらから赤道儀を借りて写真を撮り直し、星座を捉えることに成功する。七夕祭りの準備の合間に、涼介と夏希は相思相愛であることを確認し二人は付き合い始める。二人はデートとして写真展を訪れる。写真展を見学後、涼介は夏希にも写真大会に出るように勧め、夏希は「七夕祭り写真大会」に出ることを決める。以前から「みんなの願いが叶う写真」を撮ることを目標にしていた夏希は、そらから再び赤道儀を借りて大会用に星空の写真を撮る。七夕祭り当日、夏希が撮った魚と星の写真は好評となる。また、夏希は写真大会で審査員特別賞を受賞する。夏希の写真は「祈りの架け橋」というタイトルで、ベガとアルタイルの間に流れた流星を捉えた写真だった。涼介と夏希は、写真の中の流星を見ながらずっと一緒にいられるようにと祈る。こうしてスクール編は幕を閉じる。 -チェバルクリ(チェリャビンスクから西に約70km)から約1km離れた位置にあるチェバルクリ湖の表面を覆った氷に、隕石の落下によるものと見られる直径約8mと約6mの穴も発見されていた。ロシア内務省はチェバルクリ湖に潜水チームを派遣し湖底の調査を行ったが、水が濁っているために何も見つからなかった。ただし、湖の周辺で約0.5cmから1cmほどの小さな黒い物体を複数採集したため、これが隕石の破片であるかどうかを分析した。また、これらの穴は隕石ではない別の原因で生じた穴である可能性もある。そして2月17日になってロシア科学アカデミーは、チェバルクリ湖で破片53個を発見し、破片を分析した結果、金属鉄の含有量が10%と地球上の物質とは異なることから、この破片は隕石であると結論付けた。 -1740年10月20日にカール6世が死去すると、フリードリヒ2世はすぐに先制攻撃を決めて11月8日にプロイセン陸軍の動員を命じ、12月11日にマリア・テレジアに最後通牒を突き付けてシュレージエンの割譲を要求した。シュレージエン割譲の代償として、フリードリヒ2世はそれ以外のハプスブルク家領への攻撃を防ぐこと、多額の賠償金を支払うこと、国事詔書を承認することと、神聖ローマ皇帝選挙でブランデンブルク選帝侯としての票をマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンに投じることを提案した。 -時代の変化の中で、マタシン協会は、解放運動の指導者たちから、その同化主義的な運動方針が、同性愛者らのアイデンティティを否定し異性愛者社会に迎合するものであると批判されるようになり、急速に支持を失っていった。解放運動の指導者の一人ジョン・マーフィーにとっては、ライチによるゲイバーのアルコール飲料提供の合法化実現すら、ゲイバーという名のゲットーを恒久化させ、同性愛者が異性愛者の世界に立ち向かう機会を妨げる行為として、非難すべき対象であった。マタシン協会はその後も細々と活動を続けたが、1987年1月に破産し解散する。 -陪審が有罪の評決をした場合、裁判官は量刑を行い、判決を言い渡す。陪審は有罪又は無罪の判断を行い、有罪の場合の量刑は裁判官が判断するのが原則であるが、州によっては、特に死刑事件など一部の事件で、陪審が死刑適用の当否や刑期についての意見を述べることができるなど、陪審の判断が量刑を決定ないし左右することがある。有罪の評決の場合、裁判官が被告人の申立てに基づき、必要な票数が満たされているかを調べるため、個々の陪審員に対し評決に賛同しているか否かを確認すること(polling)が可能である。陪審の無罪の評決を裁判官が覆すことは許されないが、陪審が有罪の評決をした場合に、裁判官が被告人の申立てに基づき無罪判決(judgmentofacquittal)を下すことは許されている。 -ドラス科やギギ科などのナマズ類には、胸鰭の棘や浮き袋の振動を利用して音を出すことができる種類がある。日本を含めた東アジアに分布するギギ(Pelteobagrusnudiceps)は、胸鰭の棘を使って出す威嚇音が和名の由来となっている。これらのナマズ類は漁獲された際にも発音することから、外敵への警告の役割をもつものとみられるが、仲間同士の伝達手段として用いられているかどうかは不明である。 -2つ目は、13世紀のモカで、イスラム神秘主義修道者(スーフィー)のシェイク・オマール(SheikhOmar)が、不祥事(王女に恋心を抱いた疑い)で街を追放されていた時に山中で��に導かれて赤い実を見つけ、許されて戻った後にその効用を広めた。原典は、アブドゥル・カーディル・アル=ジャジーリーの著書『コーヒーの合理性の擁護』(1587年)写本で、千夜一夜物語をヨーロッパに紹介したアントワーヌ・ガラン(AntoineGalland)の著書『コーヒーの起源と伝播』(1699年)によってヨーロッパに紹介された。オマールの没後早い時期に書かれた歴史書にはオマールがコーヒーを発見した記述は存在せず、東アフリカを原産地とするコーヒーノキがイエメンの山中に自生している点から信憑性には疑問が呈され、モカのコーヒー産業が発達した後に創造された逸話だと考えられている。 -しかしゲーリングは、観測員だけでは満足していなかった。1915年7月から9月にかけてフライブルクでパイロットとしての研修を受け、1915年9月からいよいよ第25野戦飛行隊所属の戦闘機パイロットになる。1915年10月3日に双発戦闘機のパイロットとして初出撃した。 -日本での報告でも、BPDの患者の約50%はうつ病を併存しているという。しかしパーソナリティ障害を併存していない、単独のうつ病でも情緒の不安定さはみられる。通常BPDでの抑うつ症状は、大うつ病性障害の抑うつ症状とは異なるとされるが、対象飢餓、対人依存、傷つきやすい自己評価、無価値感・絶望感など共通点も多い。しかし単独のうつ病の場合、情緒の不安定さが最小のサポートで機能できるとされ、境界性パーソナリティ障害の基準にそぐわない部分も多い。また若年期で発症したうつ病は、成人ほど良好な治療結果が得られないことが多く、軽度から中度のうつ病に関しては海外では精神療法が第一選択となっている。抑うつなどの症状に薬剤が著功しないからといってすぐに「パーソナリティ障害である」と結論づけることはできない。また単極性うつ病の併病としてのパーソナリティ障害は、回避性、依存性、強迫性が多く境界性は少ないのだが、入院患者に限っては53%が境界性パーソナリティ障害と診断されたデータもある。入院環境での退行が関係し、うつ病患者が境界性パーソナリティ障害と誤診されているケースもあるとみられる。 -ニコライが10歳の頃から保守的なダニロビッチ将軍が家庭教師となり、彼が選んだ教師によって語学、数学、歴史、地理、科学などを学んだ。とりわけ歴史と語学が得意であり、母語のロシア語に加えて、ロシア帝国首脳部で事実上の公用語であったフランス語、さらに自身の親族が君主として治める地域の言語である英語やドイツ語をも流暢に話せるようになった。 -アングロサクソン時代のイングランドは七王国時代ともいわれるが、実際のところ存在した王国は100を超えると推定される。七王国と呼ばれるようになったのは、アングロサクソン年代記などによってあと付けされたためで、実際に七王国にあげられている諸王国とそうでない王国の間に確たる差があったわけではない。これらの王国は勢力争いを繰り広げたが、負けた王国は滅ぼされるわけではなく、勝利した側に臣従することによって一種のヒエラルキー構造をなしていた。この国どうしの臣従の慣習は、上位支配権もしくは宗主権(Overlordship)と呼ばれる。 -1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業した。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京した。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。 -佐野文子の両親は熱心なキリスト教徒で、特に父親は弱者のために精力的に尽くす人物であった。そうした環境のもとで文子は、強い正義感と独立心を持つ女性として育った。しかし父はその性格が災いし、知人の借金の保証人となったことで破産。1909年に長女の嫁ぎ先を頼り、一家揃って北海道旭川市へ転居した。旭川の地で文子は、上川尋常小学校の教員を経て、7歳上の牧場経営者の佐野啓次郎と知り合い、間もなく1912年に結婚した。教職を辞して��庭に入り、新婚生活を営んだ。子供には恵まれず、夫の妹が幼い女児を遺して死去したことから、その女児を養女としてひきとった。この頃より、弱者を労わらずにいられない父譲りの性格は現れており、防寒着なしで厳寒の冬を過ごす近隣の小学生たちのために、和裁の仕事で貯めた金を小学校に寄付するなどしていた。1915年、夫婦ともに受洗してキリスト教徒となった。矯風会にも入会したものの、この時期には会員としての活動はほとんどなかった。夫は広大な牧場の土地を持つ有能な実業家であった。しかし1921年、夫の知人が丹毒に罹患、友情に厚い夫が感染の危険も顧みずに知人を見舞ったことで自身も丹毒に罹患し、同年に36歳で死去した。結婚生活と実業家夫人としてのは生活は、10年にも満たずに終わった。 -牛汁を店舗のメニューに加えてもらうにあたり、景勝地である赤目四十八滝周辺の事業者の多くがうどんを取り扱っていることに注目し、「肉うどんのうどんなしの要領で」と依頼することで業者に新メニューの負担感を軽減する作戦が採られた。こうして名張牛汁は伊賀牛を使いながらも安価であり、名張市の観光事業者の間で期待の一品として登場した。2009年4月28日より赤目四十八滝周辺の旅館や飲食店7事業者が赤いのれんを店頭に掲げて提供を開始した。千手滝の前の店舗が単品で提供するほかは、「牛汁定食」や「牛汁御膳」の名前でセットメニューとして売り出した。赤目四十八滝周辺のみでの提供から始まったが、当初から将来的な名張市全域での提供を目標としていた。一方、名張牛汁の宣伝活動はあえて名張市内では行わず、地域外での宣伝に注力し、結果的に成功することとなる。2010年4月4日、四日市市諏訪栄町のグリーンモール商店街で開かれた第2回三重県ご当地グルメ大会に出場し、独自のマイクパフォーマンスで客の関心を惹いたが、出場した四日市とんてき、亀山みそ焼きうどん、津ぎょうざの中で最下位に終わった。同年11月7日には名張商工会議所青年部が第3回三重県ご当地グルメ大会を名張に誘致し、名張市上本町のサンロードで開催、焼きおにぎりを加えるという工夫をほどこして前回の雪辱を果たし優勝した。この大会には前回の出場料理に加え熊野さんま寿司も出場した。この年には提供店舗が10店に増え、赤目四十八滝周辺以外にも広がった。 -高遠藩の藩儒である中村元恒と、鉾持神社の神官であり国学者でもある井岡良古は、収集した書物を失うことを憂慮していた。文政13年(1830年)には中村と井岡が共同で、漢籍を中心とする鉾持文庫を鉾持神社に設置。下野国足利荘(現・栃木県)の足利学校に倣って史書・経典・小説などを収集し、学者の研究に提供した。蔵書は学者からの寄付や藩主の後援によって収集されている。鉾持文庫は後に高遠文庫と改称し、進徳館設置の折には蔵書すべてが寄贈されている。高遠文庫は書物を収集・保存・利用した伊那谷初の施設だった。 -1923年(大正12年)1月7日に岡崎公園の新図書館が開館した。この図書館は現在の「三河武士のやかた家康館」付近にあった。総工費は岡崎市予算の13.4%に相当する73,635円。18,905冊の蔵書を有し、2階建の西洋館に地下室を備えており、本館の建坪は106坪8合6勺(約353m2)、高さは44尺5寸であり、延床面積は計513m2だった。レンガ造2階建の書庫と木造平屋の付属家屋を備えていた。 -1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した。これによりハイパーインフレーションが発生し、軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。 -百夜月には、次のような地名の由来にまつわる伝説がある。昔、紅梅寺に美しい尼僧がおり、村の若い男性の間で憧れの存在となっていた。その中の1人が夜に川を渡り尼僧に会いに行こうとするも、月が明るくて船を出せなかった。若者は毎晩出航を試みるも月は明るく照らし出し、川を渡ることはできなかった。これを99夜繰り返した末、若者は母に事情を打ち明けた。母は「あの方は仏様を守る使命を持っているので、お前が好きになってはいけない。月は村人が悪さをしないように明るく照らしているから、お前が100日待っても無駄だよ。」と息子を諭した。この一件以来、村人はこの地を百夜月と呼ぶようになった。 -中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、埼玉県内にレスリング部があるのは埼玉栄高校だけだったため、当時2年連続でインターハイを制していた足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。レスリング部に入部した三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った。休みは大晦日と正月三が日のみであった。三沢は入学して1か月が経った頃に行われた練習試合で他校の2年生を相手に勝利し、3年時には国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。なお、三沢は高校2年時に寮を抜け出して全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。この時はジャンボ鶴田に高校を卒業してから来るよう諭され、断念している。 -これらの貝のうち、とくにイェットはセネガルの国民的料理であるチェブジェン(魚ご飯)にも使われているが、独特のにおいと噛みごたえがあることから、セネガル人の間でも好き嫌いは分かれるという。他の干し貝も伝統料理に使われるが、貝そのものを賞味するだけでなく、塩味をつける調味料としての役割も指摘されている。干し貝がかつて交易品として意味を持ったのは、海から遠い内陸部のうち、岩塩の産出しない地域において、貴重な塩分補給手段になったからではないかと推測されている。 -11月ごろにはフランスの状況は大分厳しくなっていた。カール5世、イングランド王ヘンリー8世、教皇レオ10世は11月28日に対フランソワ同盟を結成した。フランスのミラノ代官であるロートレック伯爵は帝国軍と教皇軍からミラノを守備する任務についていたが、衆寡敵せずプロスペロ・コロンナに敗れ、11月末にはミラノから追い出されアッダ川沿いまで追い詰められた。そこでスイス傭兵の増援を受けたが、支払えるお金のないロートレックは傭兵の要求を聞き入れてすぐに帝国軍との戦闘を開始した。1522年4月27日、ロートレックはコロンナ率いる帝国軍と教皇軍をミラノ近くのビコッカで攻撃した(ビコッカの戦い)。ロートレックの計画はフランス軍に優勢のある大砲で攻撃して優勢を徐々に拡大する、というものだったが、血気盛んなスイス傭兵がすぐ攻勢に出てスペインの火縄銃部隊を攻撃したのでやむを得ず大砲での攻撃を取りやめた。しかし、傭兵はペスカーラ侯爵フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァロス率いるスペイン軍とゲオルク・フォン・フルンツベルク率いるランツクネヒトに散々にやられてしまった。敗れた傭兵は出身のカントンに戻り、傭兵を失ったロートレックは防衛するだけの兵隊すら不足してロンバルディを諦めた。対抗する軍勢がいなくなったイタリアではコロンナとダヴァロスがジェノヴァを包囲、5月30日に降伏させた。 -『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』のブレイクでは、バッハ(写真)の音楽がフィーチャーされている。この肖像画は本作のミュージックビデオでも使用されている。「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」は、エレクトロ並びにダンス・ミュージック、オルタナティブ・ロックの要素を持つエレクトロ・ダンスソングである。この楽曲は4つ打ちをベースにしたシンプルで「軽やか」なビートの構成となっており、RO69のライター古川純基によれば、「サカナ組曲のハイライトをいきなりガツンと頭に持ってきたような新機軸のアンセム」である。エキサイト・ミュージックのライター森朋之は、楽曲の音楽性について「バンドサウンド、ロックとダンスミュージックのハイブリッド感もさらに進化」(している)とコメントしている。「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」は、「バッハの旋律を/夜に/聴いたせいです/こんな心」というフレーズのコーラスパートから始まる。セカンド・コーラスではサウンドがバンドサウンドとなり、更にバンドのコーラスワークにより、ボーカルに分厚いコーラスが加わる。『WHAT'sIN?』のライター川崎直子はこのコーラスを「合唱団的」と呼んでいる。セカンド・コーラスを経てのブレイクでは、バッハの『チェンバロ協奏曲第1番ニ短調BWV.1052』の第1楽章の旋律がフィーチャーされている。ここでのバッハのフレーズはキーボーディストの岡崎英美によって演奏されている。バンドのフロントマン山口による歌詞は、「日本らしさ」を意識して書かれている。また、サビの部分のメロディは詩吟をモチーフとしている。 -『星織ユメミライ』は恋愛アドベンチャーゲームであり、主人公である日野涼介の視点から紡がれる文章をプレイヤーは読み進めていく。文章は小説のように地の文と会話文から構成される。ゲームを進めていくことでプレイヤーは特別なCGを閲覧できる。本作にはCGやBGMを鑑賞できる機能が搭載されており、ゲームを1回以上クリアするとこの機能を使用出来るようになる。本作は選んだ選択肢により異なった結末に向かって物語が進むゲームである。ゲームを進めていくとある時点でゲームが中断し、選択肢が表示される。選んだ選択肢によって物語の道筋が変わり、ある特定の結末に物語が進む。本作の物語には主に6つの道筋があり、それぞれの物語で1人の少女の話が展開する。全ての物語を読むには、ゲームを複数回やり直して違う選択肢を選んで違う道筋に進む必要がある。『星織ユメミライ』ではtonework's前作の『初恋1/1』と同様にスマートフォンを使うシステムが組み込まれている。作中では主人公が所有するスマートフォンを用いてヒロインと通話をしたり、テキストメッセージを送り合ったりする演出がなされる。ヒロインとの会話中に他のヒロインから電話やメッセージが来るという場面も登場する。また、作中のスマートフォンでカメラ機能を使用すると、お気に入りのシーンをスクリーンショットとして残すことが出来る。PSVita版ではタッチスクリーンを用いてゲーム内のスマートフォンを操作することが出来る。 -1930年代後半のスペイン内戦後に国家の中央集権化を推し進めたフランコ体制下(1939-1975)では、公的使用が禁じられて弾圧を受けた。内戦以前のカタルーニャでは年間700冊以上の書籍・年間200冊以上の雑誌が出版されていたが、カタルーニャ語出版物は全面的に禁じられた。自治体・道路・広場などの名称はスペイン語名に変更され、カタルーニャ語名を戸籍簿に登録することが禁じられた。カタルーニャ主義に関与した教育関係者は一様に罷免され、カスティーリャ地方やエストレマドゥーラ地方からスペイン語教師が送り込まれている。カタルーニャ文化の規制は1946年に緩和され、1962年には実質的に自由化されたが、公教育やマスメディアでカタルーニャ語の使用が始まるのはフランコ死去後のことである。 -この物語への最初の言及は、1300年頃にハーメルンのマルクト教会に設置されていたステンドグラスに見られる。14世紀から17世紀にかけての複数の記録がこのステンドグラスについて述べている。このステンドグラスは1660年に破壊された。残された文献に基づいて、ハーメルンの郷土史家ハンス・ドバーティンにより現在のステンドグラスが復元された。このステンドグラスは、色鮮やかな衣装を纏った笛吹き男と、白い着物姿の子供たちを特徴としている。このステンドグラスには以下に記す説明文が添えられていた。 -焼戻し(やきもどし、英語:tempering)とは、焼入れあるいは溶体化処理されて不安定な組織を持つ金属を適切な温度に加熱・温���保持することで、組織の変態または析出を進行させて安定な組織に近づけ、所要の性質及び状態を与える熱処理のことである。焼き戻し、焼もどしとも表記する。狭義には、焼入れされた鋼を対象にしたものを指す、鋼の焼戻しは、焼入れによりマルテンサイトを含み、硬いが脆化して、不安定な組織となった鋼に靱性を回復させて、組織も安定させる処理である。アルミニウム合金のような非鉄金属やマルエージング鋼のような特殊鋼などへの溶体化処理後に行われる。焼戻し処理は時効処理の一種で、人工時効あるいは焼戻し時効、高温時効と呼ばれる。本記事では焼入れされた鋼の焼戻しについて主に説明する。人工時効については時効(金属)を参照のこと。また、本記事では日本工業規格、学術用語集に準じて、「焼戻し」の表記で統一する。 -グラッドストンはそうした反対を押し切ってでも義務教育を導入することを決意し、内閣で教育を所管している枢密院副議長ウィリアム・エドワード・フォースター(英語版)(急進派)に主導させて初等教育法案(英語版)を作成した。この法案は1870年に議会に提出され、急進派や非国教徒の激しい反発に遭いながらも、保守党の一部議員の賛成を得ることができ、なんとか両院を通過した。この法律により「既存の学校は私立学校として宗教教育を自由にやってよいが、父兄から反対があった時はその子弟に対しては宗教教育をしてはならない」「学校がない地区には教育委員会の監督下に公立学校を設置・運営する。公立学校では特定宗派を引き立てる教育はしてはならない」「義務教育にするかどうかは各地区の教育委員会の判断にゆだねる」ことが定められた。急進派であるフォースターはもともと既存の学校を全て買収して無宗教公立学校に変えたがっていたが、それは熱心な国教徒であるグラッドストンが許さなかったため、この辺りが落とし所となった。しかし急進派や非国教徒の不満はくすぶり続け、自由党内に埋めがたい亀裂が生じ、1875年の総選挙の惨敗につながることになる。 -工業化が始まった1750年以降、ブレーメンの人口は急速に増加した。1812年の市の人口は約35,000人であったが、1875年にはすでに10万人を超え、ブレーメンは大都市の仲間入りをした。1911年に25万人、1956年までには50万人をも超えた。1969年に607,184人の史上最大人口を記録した。これ以後人口は減少に転じたが、21世紀に入って再び増加傾向にある。ブレーメン州統計局による2005年12月31日546,852人、2006年11月1日のそれは548,477人であった。 -スミスが生きた18世紀のイギリス社会は政治の民主化、近代西欧科学の普及と技術革新、経済の発展といった「啓蒙の世紀」であった一方で、格差と貧困、財政難と戦争といった深刻な社会問題を抱えた世紀でもあった。光と闇の両側面を持つ18世紀イギリス社会はアダム・スミスの思想に大きく影響したとされる。アダム・スミスは1723年にスコットランドの海沿いの町カコーディに生まれた。スミスはグラスゴー大学でスコットランド啓蒙の中心人物であった哲学者フランシス・ハッチソン(1694-1746)の下で道徳哲学を学んでいる。ハチソンはフーゴー・グロティウス(1683-1645)やサミュエル・プーフェンドルフ(1632]-1694)らの自然法思想を継承する道徳哲学者であり、スミスもこれらの思想的潮流から大きな影響を受けている。グラスゴー大学卒業後、オックスフォード大学に進んだが中退し、1748年にエディンバラ大学で文学と法学の講義を始めた。1751年にはグラスゴー大学の論理学教授に就任し、翌年道徳哲学教授に転任した。スミスは1750年頃に哲学者ヒュームと出会い、ヒュームが他界する1776年まで親交を続け、『人間本性論』に代表されるヒュームの啓蒙思想からも大きな影響を受けている。1759年には主著『道徳感情論』を出版している。 -ファン・ゴッホは、1881年11月から死を迎える1890年7月まで、約860点の油絵を制作した。生前はほとんど評価されなかったが、死後、『星月夜』、『ひまわり』、『アイリス』、『アルルの寝室』など、多くの油絵の名作が人気を博することになった。油絵のほか、水彩画150点近くがあるが、多くは油絵のための習作として描かれたものである。素描は1877年から1890年まで1000点以上が知られている。鉛筆、黒チョーク、赤チョーク、青チョーク、葦ペン、木炭などが用いられ、これらが混用されることもある。今日、ファン・ゴッホの作品は世界中の美術館で見ることができる。その中でもアムステルダムのゴッホ美術館には『ジャガイモを食べる人々』、『花咲くアーモンドの木の枝』、『カラスのいる麦畑』などの大作を含む200点以上の油絵に加え、多くの素描、手紙が集まっている。これは、ヨーがテオから受け継いで1891年4月にパリからアムステルダムに持ち帰った作品270点が元になっている。アムステルダム近郊のオッテルローには、熱心なコレクター、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(英語版)が1938年オランダ政府に寄贈して設立されたクレラー・ミュラー美術館があり、『夜のカフェテラス』などの名作を含む油彩画91点、素描180点超が収蔵されている。 -旧静岡市と旧清水市では図書館の開館時間が異なっていたが、2005年(平成17年)5月には静岡市の全館を旧清水市の開館時間に合わせ、午前9時30分開館となった。2003年度の追手町図書館と2004年度の御幸町図書館の統計を比較すると、入館者数は1.6倍(1,918人/日)に、貸出点数は1.4倍(1,398点/日)に増加している。2006年4月には第2代館長に豊田高広が就任。豊田は静岡市職員として社会教育分野に携わり、静岡市中央図書館を経て2004年9月の開館時に御幸町図書館に転任していた。 -1970年(昭和45年)には稲沢市役所が新市庁舎に移転しており、1971年(昭和46年)3月には図書館が旧市庁舎2階に移転した。同年4月の資料数は12,015冊であり、同年度の図書費は150万円、利用者数は27,472人だった。1972年(昭和47年)6月5日には稲沢ライオンズクラブから電子複写機(コピー機)が寄贈された。1972年(昭和47年)11月には旧市庁舎の取り壊しにともなって、図書館が旧中央毛織社員寮(後の稲沢市消防署職員寮)に移転した。図書の基本カードの作成、貸出方式のブラウン方式への変更などのために11月から1972年12月まで休館した。1972年12月には中央毛織社員寮跡で仮開館した。 -「ビラ・スタンモーア夜戦」の海戦名はアメリカ側による呼称で、日本側では一方的な敗戦であるためか海戦名は付されていないとする。また、戦史研究家のサミュエル・モリソンは自身の編集による戦史(通称「モリソン戦史」)で「この戦闘は時々クラ湾の第一合戦と呼ばれるが、公式の名称は附與されていない」と記している。 -1495年にジェムが病死するまでの間、オスマン帝国と亡命中のジェムを保護したマムルーク朝の関係が悪化する。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -元禄文化は、しばしば「憂き世から浮世へ」と称せられるように、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神がその特徴とされる。もとより貴族的な雅を追求する芸術の成果も一方には存在したが、「民勢さし潮のごとく」と評された民衆の情緒を作品化したものが多く、世間の現実をみすえた文芸作品もうみ出された。とりわけ、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門は日本文学史上に燦然と輝く存在である。また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた。音楽では生田流箏曲や新浄瑠璃、長唄などの新展開がみられた。さら���、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も、この時代に姿がととのえられた。元禄時代は、めざましい創造の時代だったのである。なお、日本における1960年代の高度経済成長の昭和40年頃の時期の文化隆盛を指す「昭和元禄」という言葉が生まれている。 -震災の影響により、東北・北関東太平洋岸に立地する2製油所(JX日鉱日石エネルギー仙台製油所、鹿島石油鹿島製油所)および16油槽所のすべてが稼働停止または出荷不可能状態となり、京浜・千葉地区においても7製油所の内4製油所が稼働を停止し、国内原油処理能力(約450万BD)が約3割(約140万BD)減少した。加えて、東北6県でサービスステーション約220箇所が被災により営業困難となり、また、石油製品輸送用タンクローリー約150台被災するなど多大な被害が発生したことにより、被災地は深刻な燃料不足に陥った。政府は当初石油の生産量の方に気を取られており、石油の物流の問題への対応が遅れることとなった。3月17日になり海江田万里経済産業大臣は「タンクローリーを西日本から300台移す」と発表。同日、JR貨物によりJX日鉱日石エネルギー根岸製油所から日本海側の鉄道路線を利用し盛岡貨物ターミナル駅への石油列車の運行が行われる。3月23日には国鉄DD51形ディーゼル機関車二重連での磐越西線経由による郡山オイルターミナルへの石油輸送も行われた。3月19日には仙台港に入港した海上自衛隊の輸送艦おおすみが灯油入りドラム缶70本(14kl)を輸送したほか、3月21日には仙台塩釜港塩釜港区の油槽所にオイルタンカーの第一船が入港している。また3月23日までに被災10港で暫定の航路が確保され、海上からの緊急物資の搬入が可能となった。 -第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはヨーロッパのほぼ全域を占領。占領下のヨーロッパ各地にも強制収容所を次々と建設していった。1939年9月、ポーランド侵攻戦の最中にダンツィヒ郊外にシュトゥットホーフ強制収容所が設置された。1940年4月、ハインリヒ・ヒムラーは、ポーランド侵攻後にポーランドから奪ってドイツ本国領に組み込んでいたアウシュヴィッツ(ポーランド名オシフィエンチム)に巨大強制収容所の建設を命じた。これがナチス強制収容所の中でも最も悪名高いアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所となる。1940年夏にブレスラウ郊外にグロース・ローゼン強制収容所、1941年夏にルブリン郊外にマイダネク強制収容所、1941年秋にフランス・エルザス地方にナッツヴァイラー強制収容所と大規模収容所が次々と設置された。1943年春にはラトビアのリガにカイザーヴァルト強制収容所、ニーダーザクセン州にベルゲン・ベルゼン強制収容所が設置されている。 -カトリーヌ・ド・メディシスは、フランス王アンリ2世の王妃である。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后。1519年、イタリアのフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの孫)と、オーヴェルニュ伯ジャン3世の娘マドレーヌの間に生まれた。イタリア語名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチだ。彼女を出産後に母が亡くなり、間もなく父も亡くして孤児となる。1533年、ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワと結婚する。10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに独占されていた。1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担うことになる。 -アメリカ=メキシコ国境は、合法、非合法を合わせて、世界で最も多い数の横断が行われている。両国の距離的な近さと、境界の両側での生活水準の違いはこれらの移住を促進している。毎年100万人以上の不法入国者がいると見られ、その8割はメキシコ人である。残りは中米からの人々で、メキシコ人以外(OtherThanMexicans,OTM)と呼ばれている。カリフォルニア大学デービス校の移民の専門家によると、アメリカの農業人口の45%は不法移民だという。国境巡視隊の活動は、広い範囲でフェンス越えが実行されているサンディエゴとエルパソなど���国境の大都市周辺に集中した。この大都市圏への監視の集中により、不法移民は田舎の山岳地帯や砂漠地帯から入国を試みるようになり、これによって多くの死亡者を生んだ。 -嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航し、翌嘉永7年(1854年)には日米和親条約が締結され、日本の鎖国体制は終焉を迎えた。そのような中、江戸幕府は嘉永6年(1853年)9月、これまで禁止していた荷物船以外の大型船の建造を認めることとした。これは諸外国の船が相次いで日本へ来航する状況を踏まえ、軍艦の建造を可能とすることを狙ったものであった。早速幕府は浦賀にて鳳凰丸の建造を開始し、その後も艦船の建造を継続し、さらに欧米各国から艦船の購入を進めた。幕府が艦船の建造と購入を進めていく中で、保有する艦船の修理を行う必要性が高まってきた。幕府が購入した艦船の多くが中古船であったうえ、慣れない西洋式の艦船の操船で、事故によって船が損傷することも多かったことが修理の必要性をより高めた。幕府はまず、湾が深くかつ水深もあるため、風待ちの港として利用されてきた浦賀に艦船の修理場所を設けた。しかし浦賀は狭い湾の周囲に山が迫っている上に、これまで港町として繁栄していたために広い土地が取れず、恒久的な艦船の修復場所としては適さないとの意見が出されるようになった。そのような中、注目されるようになってきたのが横須賀と長浦であった。特に横須賀では万延元年(1860年)に座礁したアメリカ船の修理を行って以降、オランダ船やイギリス船の修理が行われており、港湾としての有用性が注目されるようになっていた。 -プロメーテウスの息子デウカリオーンは、エピメーテウスとパンドーラーのあいだの娘ピュラーを妻にするが、大洪水は、このときに起こったとされる。洪水を生き延びたデウカリオーンは、多くの息子・娘の父親となる。ピュラーとのあいだに息子ヘレーンが生まれたが、彼は自分の名を取って、古代ギリシア人をヘレーンと呼んだ。デウカリオーンの息子・孫には、ドーロス、アイオロス、アカイオス、イオーンがいたとされ、それぞれが、ドーリス人、アイオリス人、アカイア人、イオーニア人の名祖となったとされるが、これには歴史的な根拠はないと思われる。 -土佐のほっぱんとは、高知県南西部の太平洋沿岸に面した地区にかつて存在した風土病である。「ほっぱん」とは当該地域における赤い発疹の方言名だ。1951年にトサツツガムシが媒介するツツガムシ病であると判明した。本項では、同じ病因で発症する香川県の馬宿病についても言及するが、双方を合わせて「四国型ツツガムシ病」とも呼ばれる。 -1976年(昭和51年)10月31日、市制40周年記念事業の一環で進められていた新図書館の整備が完成、11月3日の文化の日から一般利用を開始した。図書館の建物は民間企業の社屋を改修したもので、鉄筋3階建て延床面積1,100m2で工費は4000万円だった。古い街並みの残る上二之町に立地したことから周囲になじむよう外壁の塗装は茶色系で統一し、前庭の植栽や自然石の配置により落ち着いた雰囲気作りが行われた。高山市の図書館整備に呼応して、高山市文化協会は「1冊の本寄贈運動」を同年10月に展開し、中でも北村兵四郎は4,000冊の寄贈を行った。また武田貞之は同年9月に自身の1973年(昭和48年)の日展入選版画『いらか』を寄贈した。新館は約21,000冊をもって出発し、1階に児童閲覧室・視聴覚室・書庫、2階に中高生閲覧室・書架・事務室、3階に一般閲覧室を設けていた。また市制40周年記念協賛事業として11月3日から11月7日まで名誉市民の瀧井孝作展を開催し、瀧井の手書き原稿、色紙、著書など約80点を展示した。旧図書館は高山市民会館の一部となり、大小のホールとして利用されることになった。 -1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別した。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば満月になけほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。 -アイゼンハワーは9月1日、連合軍の全陸上部隊の指揮官となった。そしてドイツ軍の反撃とフランスに届く物資の制約への懸念から、狭い正面の一撃ではなく幅広い正面で作戦を継続することを決定した。ノルマンディーに上陸した部隊はジークフリート線への進撃の過程で、9月12日、南フランスの連合軍と合流した。9月17日、モントゴメリーは、英米の空挺部隊でオランダ国内の橋を確保し陸上部隊がライン川を渡りドイツへ進撃するマーケット・ガーデン作戦を開始したが失敗した。連合軍の進撃はドイツ軍の抵抗と補給不足(特に燃料)のため遅くなった。12月16日、ドイツ軍はバルジの戦いと呼ばれることになる、西部戦線最後の大攻勢であるアルデンヌ攻勢を開始した。1945年1月12日には、ソ連軍がヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。4月30日、ソ連軍がベルリンの総統地下壕に近づくとヒトラーは自殺し、5月7日にドイツは降伏した。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -享保5年(1720年)、享保の改革の一環として町火消が制度化された。これは町人による火消であり、各町ごとに火消人足の用意と火事の際に出動する義務を課したものである。町奉行に就任した大岡忠相が名主などの意見も取り入れて考案し、複数の町を「組」としてまとめ、隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに1組増加していろは四十八組となる)と、東を担当する本所・深川の16組が設けられた。享保15年(1730年)には、火事場への動員数増加と効率化を目的として、数組ずつに分けて統括する大組が設けられた。町火消は当初町人地の消防のみを担当していたが、町火消の能力が認められるに従って活動範囲を拡大し、武家地への出動をはじめ橋梁・神社・米蔵などの消火活動も命じられ、江戸城内の火事にも出動した。幕末には武家火消が大幅に削減されたため、江戸の消防は町火消が主力となって明治維新を迎えている。 -ただロシア皇太子妃になるためにはロシア正教に改宗する必要があり、アリックスはそれを拒んでいた。1894年4月にヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(アリックスの兄)とヴィクトリア(ヴィクトリア英女王の次男ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの娘)の結婚式に出席した際、アリックスと二人だけで話す機会に恵まれた。ニコライが熱心に説得した結果、アリックスはロシア正教に改宗して婚約する決意を固めてくれた。 -明治の初年頃に追い込み漁が廃止となったところが多い。例えば静岡の湯川、松原では明治時代に廃止されている。稲取でもイルカ到来が不安定で、年に1、2度の追い込み漁では採算が採れないとして明治初年に追い込み漁を廃止したとの証言が残されている。ただし稲取ではイルカが押し寄せるたびに追い込み漁が復活している。現宮城県気仙沼市唐桑や岩手県山田町でも明治の初年を最後にイルカの群れが寄り付かなくなり、追い込み漁が行われなくなっている。逆に、明治になってから追い込み漁が行われるようになったところもある。例えば静岡県の川奈、富戸(現伊東市)、田子(現西伊豆町)などでは明治以降に始められている。川奈でイルカ漁が始まったのは1888年(明治21年)であり、1922年(大正11年)には地元の神社にイルカ漁の絵馬が奉納されている。富戸では川奈から10年ほど遅れて始まったが、1903年(明治36年)に川奈と乱闘になるなどして戦後になるまであまり追い込み漁は行われなかった。静岡などでは大正の初めから昭和初期まで、イルカの回遊が減ったために一時的に衰えた。 -2010年、ゴズリングはミシェル・ウィリアムズと共演し、デレク・シアンフランスの監督デビュー作『ブルーバレンタイン』に出演した。映画は低予算かつ主に即興劇で作られ、ゴズリングは「自分自身で映画を撮ってるんだぞ、と思い出させなくちゃいけないんだ」と語った。『サンフランシスコ・クロニクル』のミック・ラサルは、ゴズリングが「観客へ世間への超自然的な理解を届ける」と評した。『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは、ゴズリングが「歳を取って、���れ切り絶望的なディーンとしてはもっともらしいが、若いディーンとしてはそうでもないかもしれない」と述べた。『エンターテインメント・ウィークリー』のオーウェン・グレイバーマンは、「辛辣な労働階級の新しがり屋としてディーン役を演じたが、彼の怒りが爆発した時には、その演技は力強いものとなる」と述べた。一方で『ボストン・グローブ』紙のウェスリー・モリスは、彼の演技を「間違った新しがり屋」の一例と評した。ゴズリングはこの作品でゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされた。2010年には、実話を基にしたミステリードラマ映画『幸せの行方...』にも出演し、キルスティン・ダンストと共演した。ゴズリングの役はニューヨークの不動産王ロバート・ダーストを基にしたもので、ダンスト演じる妻の失踪に嫌疑を掛けられる。ゴズリングは撮影について「陰鬱な体験」だったと語り、映画の宣伝は一切引き受けなかった。映画を誇りに思えるか尋ねられたゴズリングは、代わりに「キルスティンがあの映画でやったことは誇れる」と返している。『ローリング・ストーン』誌のピーター・トラヴァースは、「ゴズリングはキャラクターの内面に深く踏み込んだので、彼の神経終末に触れた気になれる」と書いた。『サンフランシスコ・クロニクル』のミック・ラサルは、「カメレオンのようなゴズリングは、空虚な殻のような人間として完璧に説得力がある」と評した。『ロサンゼルス・タイムズ』のベッツィ・シャーキーは、映画はダンストのものだとしつつも、「(ゴズリング)もまた良い」と述べた。 -木曽電気製鉄は、発足にあわせて名古屋電灯から木曽川筋大桑第一・同第二・読書・賤母・与川および矢作川筋串原の計6地点における水利権を継承するとともに、新規水利権の出願権もあわせて引き継いだ。名古屋電灯は臨時建設部を設置した1914年以降、木曽川における水利権を相次いで申請しており、その許可促進に向けた運動も木曽電気製鉄の仕事となったのである。水利権の申請は以下の8地点に及ぶ。出願時点ではいずれも水路式発電所の計画であったが、実際にはダム式・ダム水路式で竣工した場所もある。1914年4月に出願したのは落合水力・笠置水力であった。1914年8月に出願したのは王滝川第一水力・同第二水力・西野川水力であった。1916年11月に出願したのは大井水力・錦津水力であった。1917年12月に出願したのは今渡水力であった。これら水利権申請中の発電所出力は合計10万キロワットに及び、大戦景気により電力需要が急増したとしても名古屋地方での需要に見合うものではなく、単独で消化できないのは明白であった。そこで深刻な供給不足に陥っていた関西地方への販売を目指し、まず関西の京阪電気鉄道との間で交渉をもち、1919年折半出資による大阪送電株式会社の設立計画を取りまとめた。同社が元となり大同電力が発足するのは前述の通りである。 -幼獣は育児嚢の中にある対になった乳腺からしみだしてくる母乳を飲む。授乳期間は6か月。孵化後の幼獣(puggle(パグル)という呼び名で知られる)は母親の乳輪を自身で探し出すが、単孔類は乳首を持たず、この乳輪は母乳が染み出してくる特化した部分である。母乳を飲む方法はまだ知られていないが、各々の授乳期間に多量の母乳を摂取することが観察されており、母親は5-10日間、巣穴に子供を置き去りにする。母乳の主成分は脂肪、プロテイン(フコシルラクトースとシアリルラクトース)、鉄分が多く含まれ、ピンク色をしている。生後2か月ほどで幼獣のトゲが発達し始めると、メスは幼獣を孵卵嚢に入れるのを嫌がるようになり外に追い出される幼獣は、トゲが成長する時期(最終的に2-3ヶ月)で育児嚢から出る。授乳は徐々に減少し、授乳期間は約200日程度で乳離れする。約180-240日で巣穴を去る。生後1年ほどで独立する。 -建築では中国技術の頂点に立つのが、紀元前220年-紀元前200年頃に在位した秦の始皇帝の時代に建設された万里の長城である。秦に続く漢の時代から19世紀まで中国の一般建築に大きな変化はなかった。秦の時代に弩が改良されたが、これはのちにヨーロッパに渡り武器の主流になった。始皇帝の墓から出土した��馬俑墓から数点の弩が見つかった。東漢の学者で天文家の張衡(78年-139年)は渾天儀(=天球儀:世界初の天球儀は古代ギリシアのエラトステネスが発明)を発明したが、これは2,500の恒星と100以上の星座を収めている。132年に張衡は世界初の感震計を発明し、『候風地動儀』と名づけた。後漢(25年-220年)の歴史によれば、この感震計は壺のような形の装置で、8個の球のうち1個を落下させて、いつ、どの方向に大地が揺れたか(震源)を知らせるという。2005年6月13日、中国の地震学者がこの複製を作成したと発表した。 -一方北区沿線の反対派住民は、北区新幹線対策連合協議会を結成し、200名余りが1980年(昭和55年)9月に工事差し止め請求を行った。このうち、25名の原告が赤羽台トンネル直上部の居住であった。しかし時とともに理解が得られるようになり、戦時中に崖下から台地へ向けて掘られた防空壕を調査して埋め戻すことを条件として土砂運搬導坑の掘削が認められるようになった。1984年(昭和59年)6月末にトンネル上部の支障住宅の移転が完了し、8月8日には地元と工事に関する協定書が正式に調印された。裁判も10月3日に和解が成立し、全体の着工が可能となった。 -ストーンウォールの反乱の前、同性愛者らの権利運動は、穏健で同化主義的なホモファイル運動が主流であった。マタシン協会に代表されるホモファイル団体は、いかに彼らが異性愛者と同質であり平等であるかを主張し、異性愛社会の共感を得ながら、ソドミー法に代表される差別的な制度の撤廃を目指した。それに対し、ストーンウォールの反乱以後は、異性愛者との差異を認めながら、アフリカ系アメリカ人等の社会的マイノリティと連帯して権利獲得を目指す同性愛解放運動が主流になる。 -東京へ戻った佐々は、伊田地区で採取したサンプルを伝染病研究所のリケッチア研究者である川村明義に渡して検証を依頼した。川村明義は日本のツツガムシ病研究で知られる川村麟也の三男である。4年前に他界した父・麟也と同じ研究を志した明義は、千葉医科大学を卒業後、伝染病研究所に入りリケッチアの研究を行い、自らもリケッチアに感染したが幸いにも治癒することのできた経歴を持つ、当時の日本のリケッチア研究の最前線にいた人物であった。佐々が持ち帰ったサンプルは川村によって綿密な検証が行われ、トサツツガムシの幼虫からリケッチアの検出に成功し、「土佐のほっぱん」の正体はツツガムシ病であることが特定された。伊田地区訪問から2ヵ月後の1951年8月、佐々たちは再び高知県を訪れ、足摺岬から室戸岬までの長い海岸線を何日もかけ、ノネズミを捕獲しツツガムシを探し、その結果トサツツガムシは高知県海岸部の各所に散在して生息していることが分かった。また、新たに2種のツツガムシが発見されたが、ツツガムシ病の発生事例は伊田地区以外にはどうしても見つからなかった。 -ホルブルックは1976年の夏に『フォーリン・ポリシー』編集部を離れ、同年秋の大統領選挙に向けて選挙戦を戦っていた民主党の大統領候補、ジミー・カーター前ジョージア州知事の陣営に加わり、国家安全保障政策の担当者となった。選挙戦では、対立候補である現職のフォード大統領とのディベート、特に外交政策に関するディベートの準備などでカーターを補佐し、カーター陣営の勝利に貢献した。カーター政権誕生後は、東アジア・太平洋担当国務次官補に任命され、1977年3月31日から1981年1月13日まで同職を務めた。ちなみに東アジア・太平洋担当国務次官補の職は、ホルブルックが「外交政策の師」と仰ぐW・アヴェレル・ハリマンやディーン・ラスク、フィリップ・ハビブらも経験しているポジションであり、また35歳での就任は、同職の前身である極東担当国務次官補のポストが設置されて以降、史上最年少での就任であった。在職中はサイラス・ヴァンス国務長官の主要なアドバイザーの1人として活躍し、東アジア・太平洋地域における東側諸国との関係改善や、1978年12月に実現した中華人民共和国との国交樹立・完全国交正常化において主導的な役割を担った。また、当時国際問題にもなっていたインドシナ難民の問題にも取り組み、特に難民問題には生涯を通じて取り組んでいくことにな���た。 -1541年9月末にはカールがマヨルカ島に到着し、アルジェ遠征を準備していた。フランソワはムスリムと戦っているキリスト教徒を攻撃するのは道理に反するとして、皇帝が遠征している間に宣戦しないことを約した。しかし、帝国の遠征は全くの失敗であった。上陸してすぐ、艦隊は嵐でバラバラにされ、カールは11月までに残りの軍とスペインに帰った。1542年3月8日、後任のフランス大使アントワーヌ・エスカリン・デ・アイマールがオスマン帝国に援助の約束をとりつけ、コンスタンティノープルから戻ってきた。フランソワはリンコンの殺害などを口実に、7月12日に宣戦した。 -現代の日本の若者の間では、「キャラ」と呼ばれる類型的役割に応じて振舞うというコミュニケーション作法が浸透しており、このような現象・状況はキャラ化・キャラ的コミュニケーション・キャラ的人間関係・キャラゲーム・キャラ戦争などと表現される。例えば学校ではクラスが似たような傾向を持った人が集まる細かいいくつかのグループに分かれる現象がみられるが、この細分化された各々の小集団の内部でさらに個人に対して「天然キャラ」「いじられキャラ」などの具体的な役割が割り振られていくことになる。グループ内における各自のキャラは自身の本来の性格というより普段行動をともにしているグループのリーダーやほかのメンバーといった他者からあるいは自然発生的に与えられることが多く、場の空気による圧力として本人の意図とは無関係に強制されることもある。酔った勢いで羽目を外して卑猥な発言をしたのがきっかけで「エロキャラ」扱いされるようになるというように、なんらかの具体的な事件をきっかけにキャラが設定されることもあれば、交遊を深めていく中でいつからともなく自然にキャラが確立されていくこともある。 -成虫は体長28-33ミリメートル(mm)、もしくは28-32ミリメートル。体重は約1.7グラム(g)で、オスの方がメスより体長・体幅が若干大きいほか、雌雄で体型が若干異なる(オスは長卵型・メスは卵型)。ゲンゴロウ科の代表種であるゲンゴロウ(ナミゲンゴロウ)よりやや小型である。背面はわずかに緑色を帯びた黒褐色だが頭楯・上唇・触角・口枝・前胸背板・上翅の両側側縁部は黄色-淡い黄褐色である。 -近代以降、両極を探検した人々がオーロラを記録に残し始めた。ジェームズ・クックは、1773年2月の航海誌に「天空に光が現れた」と残しており、世界で最初に南半球のオーロラを見たヨーロッパ人であると言われている。オーロラを世に広く知らしめ、社会のオーロラへの関心を大きく高めた出来事としては、ジョン・フランクリン隊の遭難が挙げられる。フランクリンは北西航路を発見するために1845年に出港し、その後行方不明となった。消息の途絶えたカナダ北部へとフランクリン隊を探すために多くの救助隊が向かい、そこで見たオーロラを報告書や回顧録に残したのである。両極を探検した人々もオーロラを手記や記録に残している。フリチョフ・ナンセンの著書や日記には木版画や絵画のオーロラが掲載されている。またロバート・スコットも日記にオーロラの様子を残している。 -21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。1984年のロサンゼルスが6829人(221種目)だ��たが、2008年の北京では10942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。 -1792年にジョージ・ショーにより最初に発表され、この際、南アメリカのアリクイに近縁であるとの考えから、Myrmecophagaaculeataという学名を付け、オオアリクイ属に分類した。この最初の発表以来、4度に渡り変更がなされ、M.aculeataからOrnithorhynchushystrix、Echidnahystrix、Echidnaaculeata、そして最終的にTachyglossusaculeatusに決定した。Tachyglossusとはquicktongue(素早い舌)という意味であり、採餌する際の舌の動きがとても速いことに由来しており、aculeatusはspiny(とげで覆われた)もしくはequippedwithspines(とげを備えた)という意味である。5亜種が確認されており、それぞれが地理的に異なった場所に分布し、体毛の量やトゲの長さおよび幅、後足にある身繕いをするための鉤爪であるグルーミング・クロー(GroomingClaw)の大きさなどに違いが見られる。 -1929年、劇作家の仲木貞一が、子供を喜ばせる演劇をしたいとの葉子の希望を知り、仲木の師である坪内逍遥に葉子を紹介した。葉子は坪内のもとを訪ねると、坪内の説く児童演劇の大切さ、児童演劇による子供たちの育成に非常に感銘を受け、その日の内に坪内の主宰による早稲田児童演劇研究会に入会した。葉子は坪内を生涯の師と仰ぎ、坪内の没後も、命日の墓参を晩年までほとんど欠かすことは無かった。翌1930年より、葉子は新劇の舞台を踏み始めた。学生の趣味の範囲の演劇ではなく、本職の者たちによる舞台である。折しも東京ではいくつもの劇団ができ、詩人、劇作家、文学者、画家、音楽家などが多く関る時代であった。その一方で、葉子は坪内との出逢いにより、次第に児童演劇へと傾倒していた。しかし演劇は自分1人ではなく、多くの人々の協力を必要とするため、すぐに実行に移すことはできずにいた。 -享保5年(1720年)、享保の改革の一環として町火消が制度化された。これは町人による火消であり、各町ごとに火消人足の用意と火事の際に出動する義務を課したものである。町奉行に就任した大岡忠相が名主などの意見も取り入れて考案し、複数の町を「組」としてまとめ、隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに1組増加していろは四十八組となる)と、東を担当する本所・深川の16組が設けられた。享保15年(1730年)には、火事場への動員数増加と効率化を目的として、数組ずつに分けて統括する大組が設けられた。町火消は当初町人地の消防のみを担当していたが、町火消の能力が認められるに従って活動範囲を拡大し、武家地への出動をはじめ橋梁・神社・米蔵などの消火活動も命じられ、江戸城内の火事にも出動した。幕末には武家火消が大幅に削減されたため、江戸の消防は町火消が主力となって明治維新を迎えている。 -フランシスコ会の本部からは「学校創設の目途が立たないなら帰国するように」との通達があったが、クサヴェラを含む修道女たちは、自力で資金集めを開始した。カトリック関係者に毎日、多数の寄付依頼の手紙を書き、その数は5000通から6000通にも達した。自分たちの食事も、各教会で製造されているパンを分けてもらい、副食も可能な限り節約するなどして、生活をぎりぎりにまで切り詰めた。札幌の人々との交流も次第に深まり、彼らの存在もクサヴェラたちの励みとなった。クサヴェラたちの努力の甲斐あって、1925年、札幌藤高等女学校が開校した。キリスト教主義の高等女学校としては、北海道で最初の学校である。「藤」の名は、学校のある札幌の北26条西2丁目付近が当時、フジの花が多く咲いていたために「藤公園」の名で呼ばれ、しなやかで折れにくいフジの蔓、花弁を低く垂れるフジの姿が、クサヴェラたちには謙虚の象徴に見えたことからの命名である。クサヴェラと共に訪日した修道女であるヨハンナ・サロモン・ベルヒマンスが校長を務め、クサヴェラは副校長に就任した。 -同性愛は悪魔的であるとするモスクワ市長ユーリ・ルシコフへの抗議として、ロシアの同性愛者の権利活動家ニコライ・アレクセエフは、ロシアで大会が開かれることを、同国のLGBTの人々の権利状況をアピール��るために利用した。アレクセエフは、毎年行われるモスクワのプライド・パレードであるMoscowPrideを、2009年は国際反ホモフォビアの日の前日にあたる5月16日とするつもりだと発表した。パレードは「スラヴ・ゲイ・パレード」と銘打ち、ヨーロッパの全てのスラヴ人の同性愛者の権利を広報するものとした。モスクワ市当局はパレードを「社会秩序を破壊する」として拒否した。そして、参加者には「強く」対処する、「強い措置」は全てのパレード参加者に対して取られるとする声明が発表された。ユーロビジョン決勝の日に行われたパレードでは、ニコライ・アレクセエフや、この動きが「ロシアの人々が自由ではないことを示すもの」としていた人権活動家のピーター・タッチェルを含む20人の参加者がモスクワ警察に逮捕された。ユーロビジョン大会のスウェーデン代表であるMalenaErnmanは抗議者を支持し、自身は同性愛者ではないものの、ファンへの支持を表明するためなら喜んで自身をゲイと呼ぶと述べた。Ernmanは、モスクワ市政府が「愛」を賞賛することを認めないのは悲しいことだと言明した。ノルウェー代表のアリャクサンドル・ルィバークもまた支持を表明し、ユーロビジョン・ソング・コンテストそのものが、大きなゲイ・パレードであるとした。 -最高裁判所長官ジョン・ロバーツが、オバマの就任宣誓を執り行った。夫人のミシェル・オバマが、1861年にエイブラハム・リンカーンが最初の就任式で用いた聖書を、オバマ大統領のために手で支えた。オバマは、この数週間前に、宣誓式ではミドルネームである「フセイン」を略さずにフルネームで使いたいと述べていた。その理由については、「伝統に従うだけで、何らかの意味を表したいわけではない」と話した。彼のミドルネームは、2008年アメリカ合衆国大統領選挙の途中、彼を中傷する人がイラクの独裁者サッダーム・フセインを暗に連想させようとして使ったことから、論争を呼んでいた。就任式中も、この宣誓以外のほとんどの場面では、「フセイン」の代わりにイニシャルのHが用いられていた。オバマ自身が事前に要望していたとおり、ロバーツ長官は大統領就任宣誓の最後に「神に誓って(sohelpyouGod)」と先導し、オバマも「神に誓って(sohelpmeGod)」と答えた。そして、ロバーツはオバマを新大統領として祝いの言葉を述べた。 -このような体制が出来上がった背景には、植民地支配の影響がある。現在のアフリカ各国の国境線は地形や民族構成などを反映しない単純な直線が多い。これはヨーロッパ列強間の力関係から引かれたもので、異なる民族や部族が混在または分離される結果を生んだ。そのため独立後にも国民はまとまりを欠き、強権的な政府体制としてアフリカ型社会主義もしくは開発独裁体制が選択された。しかし前者は構造的に経済発展には向かず、後者は汚職や主導権争いが絶えなかった。さらには非アフリカ人を排除したために人材不足にも陥り、結果的に、かつては「AA」もしくは南北問題と呼ばれて同じように発展途上に苦しんだアジア各国が急速な経済発展を実現しつつあるのに対し、アフリカは「例外的に成長しない」経済体制と評され、取り残されたまま現在に至る。 -1000年頃にはヴァイキングの一団がアメリカ大陸東海岸に到達し、繁茂していた野生のブドウを発見している。1522年にはスペイン人コンキスタドールのエルナン・コルテスがスペインからヨーロッパブドウの苗木を送らせ、1542年には野生のブドウに接ぎ木する方法で栽培を始めた。16世紀に持ち込まれたブドウは宣教教会のブドウ畑に植えられ、教会の聖礼典で使用されたため、ミッション種という名称で呼ばれた。1560年頃にはスペイン領アメリカ東海岸のフロリダに自生するブドウから、アメリカで初めてワインが生産された。1769年、フランシスコ修道会のフニペロ・セラ神父がカリフォルニアに最初のブドウ畑を築いたとされている。セラ神父は手始めにサンディエゴでブドウ栽培とワイン作りを行い、1771年にはロサンゼルス郊外にカリフォルニア初のワイナリーを建設した。1769年から1823年にかけてフランシスコ会は徐々に北上し、サンフランシスコ近郊のソノマまでにワイン作りを広めた。ブド��の樹に病気が蔓延した東海岸とは異なり、西海岸ではピアス病以外に大きな問題は起こらなかった。1833年にはメキシコ政府によってカリフォルニア地域の修道院が世俗化され、アルタ・カリフォルニア知事のマリアーノ・グアダルーペ・バレホ将軍はソノマ郡でカリフォルニア初の職業的ブドウ栽培者となった。1831年にナパ・ヴァレーに移住したジョージ・ヨーントは、1841年に初めてナパにミッション種を持ち込んで栽培し、1844年には200米ガロンのワインを生産した。 -1180年代にシチリア王国によるビザンツ領への攻撃が始まるとブルガリアでは増税と徴兵の強化が実施され、さらにビザンツ皇帝イサキオス2世の結婚に際して特別税が課される。1185年にタルノヴォ近郊のヴラフ人(あるいはクマン人)地主ペタルとアセンの兄弟は新税の軽減とプロノイアの付与をビザンツ皇帝イサキオス2世に願い出るが、2人の要求は拒絶された。帰国したペタルとアセンはタルノヴォの聖ディミタル教会の聖別式でブルガリア国家の再興と挙兵を宣言し、ブルガリア人修道士ヴァシリィは年長のペタルを皇帝(ツァール)に戴冠した。 -リビュエーは雌牛となったイーオーの孫娘に当たる。リビュアーと海神ポセイドーンの間に生まれたのがフェニキア王アゲーノールで、テーバイ王家の祖であるカドモスと、クレータ王家の祖とも言える娘エウローペーは彼の子である。カドモスは竜の歯から生まれた戦士としてよく知られる。カドモスの娘にはセメレーがあり、彼女はゼウスの愛を受けてディオニューソスを生んだ。テーバイ王ペンテウスはカドモスの孫にあたり、彼はディオニューソス信仰を否定したため、狂乱する女たちに引き裂かれて死んだ。その女たちの中には、彼の母アガウエーや伯母イーノーも含まれていた。ペンテウスとディオニューソスは従兄弟同士となる。カドモスの別系統の孫にはラブダコスがあり、彼はラーイオスの父で、ラーイオスの息子がオイディプースである。オイディプースには妻イオカステーのあいだに娘アンティゴネー等四人の子供がいる。他方、カドモスの姉妹にエウローペーがあり、彼女はクレータ王アステリオスの妻であるが、ゼウスが彼女を愛しミーノースが生まれる。ミーノースの幾人かの息子と娘のなかで、カトレウスは娘を通じてアガメムノーンの祖父に当たり、同様に、彼はパラメーデースの祖父である。カトレウスの孫には他にイードメネウスがいる。ミーノースの娘アリアドネーは、本来人間ではなく女神とも考えられるが、ディオニューソスの妻となってオイノピオーン等の子をもうけた。クレータの迷宮へと入って行ったテーセウスは、アテーナイ王アイゲウスの息子とも、ポセイドーンの息子ともされるが、ミーノースの娘パイドラーを妻とした。 -バヤズィト2世は、1447年にメフメト2世の長子として生まれた。1456年に弟のムスタファと共に割礼を施され、同日にメフメトによってアナトリアのベイリクたちを招待しての大宴会が開かれた。この祝宴はメフメトがベオグラード包囲で大敗して帰国した直後のことであり、宴を開いたのは敗北を忘れる意味合いもあった。オスマン帝国の皇子の慣例としてアマスィヤの知事を務め、1473年に起きた白羊朝とのバシュケントの戦い(en:BattleofOtlukbeli)では、イェニチェリとヨーロッパ人からなる部隊を指揮し、ウズン・ハサンの甥が率いる騎兵隊と交戦した。 -11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊は、同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離する。かわりに駆逐艦「時雨」を編入し、内地へ帰投する。「木曾」と「霜月」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された。11月13日、マニラ湾は再び空襲をうける。水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)が沈没もしくは大破着底状態となる。竹乗組員達は「マニラに帰投して大空襲に出くわした。島風と一緒にレイテに行けば良かった。本艦は運が悪い」と自嘲したが、第三次多号船団部隊が「朝霜」を除いて全滅した事を知り、逆に「竹は強運の艦だ」という印象が広まった。 -1887年2月、ヴェルディ16年ぶりの新作オペラ『オテロ』初演にスカラ座は、期待以上の出来映えに沸き立った。チェロ演奏を担当していた若きアルトゥーロ・��スカニーニは実家のパルマに戻っても興奮が冷めやらず、母親をたたき起こして素晴らしさを叫んだという。『リゴレット』を越える嵐の表現で開幕し、各登場人物を明瞭に描き出し、彼が追求した劇と曲の切れ目ない融合はさらに高く纏められた。かつての美しい旋律が無くなったとの評もあるが、『オテロ』にてヴェルディはそのような事に拘らず、完成度の高い劇作を現実のものとした。 -マリーは生前、自分用とジョリオ=キュリー家用の2軒の家を建てる目的で、アントニーに土地を取得していた。イレーヌとフレデリックはノーベル賞受賞後、その土地に家を建て、マリーが住むつもりだった土地はテニスコートとして使った。1934年ごろ、イレーヌはフレデリックと同じく、反ファシズムのデモに参加した。マリーの死後は、さらに政治活動に積極的になり、1936年にレオン・ブルム内閣が誕生すると、ブルムからの依頼により、科学担当国務次官に就任した。フランスにおいては初めての女性閣僚だった。ただしイレーヌは、この地位に就くことで研究に割く時間がほとんど無くなってしまうことを危惧して、当初から期間限定という条件でこの職を引き受けており、実際、就任から数か月後に辞任した。研究面においては、ノーベル賞受賞後にフレデリックとの共同研究は終了し、1936年、母の後任としてパリ大学ソルボンヌ校教授に就任した。イレーヌはそこで講義をするかたわら、引き続きラジウム研究所でも研究を続け、核分裂に関わる研究に取り組んだ。一方でフレデリックはコレージュ・ド・フランスの教授になった。 -この株による最初の既知のヒトへの感染は2019年11月下旬に発生した。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の拡散は、2019年11月中旬に中国湖北省武漢市で最初に発生し、感染源はおそらく単一の感染動物に由来すると考えられている。その後、このウイルスは中国の全ての省に蔓延し、またアジア、ヨーロッパ、北米、アフリカ、オセアニアなど他の20以上の国にも拡散した。このウイルスのヒト-ヒト感染による拡散は、アフリカを除くこれらすべての地域で確認されている。2020年1月31日、このウイルスの感染拡大が懸念されることから世界保健機関(WHO)は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」(PHEIC)を宣言した。なお、季節性疾患としての自然終息や定着の可能性について議論が続いている。3月1日時点で、86,986人の感染が確認されており、そのうち79,826人は中国本土内である。ある数学的モデル予測によれば、1月25日の時点で、武漢市だけで感染者数は75,815人いたと推定された。中国本土以外における殆ど全ての症例は、武漢市からの旅行者、またはそれらの地域からの旅行者と密接な接触があった者である。感染率、すなわち感染確定数、または臨床上診断可能な感染者数に繋がる割合は依然として不明のままであるが、2月20日(15時30分(UTC))までの新型コロナウイルス感染による死亡者数は2,130人であった。死亡者数の95%は武漢市のある湖北省に局在している。3月7日現在も感染拡大が止まらず、世界で感染者数が100,000人を超えたと発表した。3月11日にはこのウイルスの感染拡大について、WHOがパンデミック(世界的流行)相当との認識を初めて示した。 -格安航空会社として知られ、後述するように徹底した人件費以外のコスト削減等が図られ、収益率は他社より高い。1973年以来、米国の景気の動向に関わらず黒字運営を続ける全米で数少ない航空会社の1つである。また、経営方針の1つとして「社員第一、顧客第二」を掲げており、米国の航空会社で唯一、アメリカ同時多発テロ事件を受けた航空産業冷え込みにもレイオフを行っていない大手航空会社でもある。2012年にはスイスの航空輸送格付け機関から「世界で最も安全な航空会社」の10社のうちの1社に選定されている。 -アメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイの名著「老人と海」(1952年)では、年老いた漁師サンチャゴと巨大カジキの3日間に及ぶ奮闘が描かれている。 -飛行13日目から、補給キャリア与圧部内の搭載品の移送作業が本格的に開始された。飛行14日目の9月23日午後6時6分、曝露パレットがカナダアーム2によって補給キャリア非与圧部から取り出され、午後8時13分、曝露���レットがカナダアーム2からきぼうロボットアーム(JEM-RMS)に受け渡され、午後10時33分きぼうロボットアームによって船外実験プラットフォームへの曝露パレット仮置き作業が完了した。なお、JEM-RMSを使ったロボットアーム間の受け渡しは今回が初めての運用だった。飛行15日目の9月24日午後6時21分にHREPが曝露パレットからロボットアームで取り出され、午後8時15分に船外実験プラットフォーム装置交換機構(EFU)6番に取り付けられた。続いて9月24日午後11時23分にSMILESがロボットアームで把持され、9月25日午前1時12分にEFU3番に取り付けられた。飛行16日目の9月25日午後6時7分、使用済みとなった曝露パレットを船外実験プラットフォームから取り外し、曝露パレットはきぼうロボットアームからカナダアーム2へと受け渡され、午後10時20分にHTVの補給キャリア非与圧部へ収納された。10月20日に補給キャリア与圧部内に搭載された物資の搬出作業がすべて完了し、以後ISSの使用済み物資などの不要品をHTVに積み込んでいった。 -近代オリンピックの象徴でもあるオリンピックのマーク(オリンピックシンボル)は、クーベルタンが考案し世界5大陸を5つの重なり合う輪で表現したものである。色については、背景の白とこの5色の計6色で、参加国の国旗に使われている色が少なくとも一つは含まれているように選定された。5つの重なり合う輪はまた、平和への発展を願ったものである。なお、このオリンピックマークは1914年にパリで開催されたIOCの創設20周年記念式典で披露され、1920年のアントワープ大会から使用されているが、木綿で作られたオリンピック旗は一度盗まれ1980年のモスクワ大会では閉会式でアメリカにオリンピック旗が伝達されず次の大会ではレプリカを使用された出来事があり、そして1988年のソウル大会閉会式から合成樹脂のオリンピック旗が使われている。 -ハーケンクロイツの上に留まる鷲の紋章(Adler)はナチス・ドイツの国章である。軍服の右胸や軍帽のトップにこれが貼り付けられていた。鷲章は国軍時代、いまだパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が最高司令官だった頃の1934年2月25日に付けるよう命じられたものである。陸軍において右胸鷲章は、ダークグリーンの台布の上にレーヨン糸で刺繍されていた。兵士・下士官は白やグレーの糸で、大佐以下の将校は銀モールで、将官たる将校は金モールで刺繍されていた。しかしやがて支給軍服の台布はダークグリーンではなく、服と同じフィールドグレーになっていった。また刺繍ではなく染めつけただけの物も増え、1944年からは鷲の形に切り取る労力が惜しまれて三角形の台布になった。軍帽の鷲章も基本的には右胸鷲章と同様である。しかし制帽の鷲章だけは金属製であった。ただ制帽のところで前述したが、将校は制帽をオーダーメイドしていたので個人差があり、台布に鷲を刺繍している将校制帽も多く見られる。 -バスク州はトレビニョ(カスティーリャ・イ・レオン州・ブルゴス県)とバリェ・デ・ビジャベルデ(カンタブリア州)という二つの他州の飛地を有している。人口約2,000人、アラバ県の県都ビトリア=ガステイスの南に隣接するトレビニョは2006年時点で13.5%がバスク語話者であり、バスク州は財政的支援を行っている。トレビニョの住民は少なくとも16世紀からアラバ県への編入を望んできたとされ、1940年の住民投票では96%が編入に賛成し、1958年の住民投票でも賛成多数だった。1979年の成立したバスク自治憲章ではトレビニョのバスク州への編入の可能性に言及しているが、ブルゴス県は一貫して分離を認めていない。ビスカヤ県西部にあるビジャベルデは人口400人程度の飛び地であり、やはり住民は1980年代から1990年代にかけてバスク州への編入に熱心だったが、編入は実現していない。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土��野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -アーサー・ジェイムズ・バルフォアの母ブランチェ・メアリー・ハリエット嬢(LadyBlancheMaryHarriet)は第2代ソールズベリー侯爵ジェイムズ・ガスコイン=セシルの娘だった。ソールズベリー侯爵家は代々ハットフィールドを領してきた名門貴族である。 -するとLの背後から、家主の女性Aが、Lを問い質すような声を掛けた。Aは三男Cが5月1日午後8時ごろに外出した際には自宅にいた。これに驚いたLは玄関から逃走しようとしたが、Aに服を掴まれた。この時Lは、全力でAから逃げようとすれば逃げることはできたが、「(金を手に入れる)最後のチャンス」と大金を手に入れることを諦めきれなかったため、Aから逃げなかった。そして金品を強取することを決意した上で、殺意を持ってAの頭部を多数回持っていたモンキーレンチで殴るなどして、頭蓋骨骨折・脳挫傷などによる外傷性脳障害によりAを死亡させて殺害した(強盗殺人罪)。モンキーレンチで襲われた後も、Aはしばらく息があり「誰か」と声を上げたが、Lによって首に紐を巻き付けられてとどめを刺された。 -1836年(天保7年)生まれ。駒込追分(現在の東京都文京区向丘、中山道と日光御成街道の分岐点にあたる)の住人彦四郎の娘といい、名については「美幾女(みきじょ)」、または「ミキ」、「みき」などとも表記される。10歳のころから本郷の旧家へ奉公に出ていたが、父が負傷して働けなくなったため遊女になったと伝えられる。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -ラスプーチン暗殺決行の数日前、ユスポフはモイカ宮殿の新築祝いのパーティーにラスプーチンを誘い、その際、美人と評判だった妻イリナ・アレクサンドロヴナと引き合わせることをほのめかした(ユスポフは「妻は暗殺とは無関係だった」と語っている)。12月16日夜、ユスポフはスタニスラフ・デ・ラゾヴェルト博士と共にラスプーチンのアパートを訪問した。翌17日午前1時、ユスポフは改築したモイカ宮殿にラ���プーチンを招待した。案内された部屋は防音設備が施されており、ラスプーチン暗殺のためにワインセラーを改築した部屋だった。プリシケヴィチの証言によると、窓際にはラスプーチンが好む甘口を含む4種類のワインが置かれていたという。2階の応接室には暗殺メンバーのドミトリー大公、プリシケヴィチ、ラゾヴェルト、スホーチン大尉の他、ユスポフの母ジナイダ・ユスポヴァの友人がいた。ロマノフ家と親しかった美術商アルバート・スタフォードは、同席していた友人はフョードル・アレクサンドロヴィチ公とニキータ・アレクサンドロヴィチ公だと推測している。また、この他にも複数の女性が同席していたが、ユスポフは女性の名前を生涯明かさなかった(マリアンヌ・ピストルコルズとヴェラ・カラーリィという説がある)。 -ツキヨタケのかさは半円形ないし腎臓形をなし(ごく稀に、倒木の真上に生えた場合に杯状の中心生となることがある)、長径5-30cm程度になり、表面は湿時にはいくぶん粘性を示し、幼時は橙褐色〜黄褐色でときに微細な鱗片を散在するが、老成するに従って紫褐色または黄褐色となり、にぶい光沢をあらわす。表皮は肉から剥離しにくく、水酸化カリウム・水酸化ナトリウム・アンモニア水・炭酸水素ナトリウムなどの塩基性化合物によってすみやかに鮮青緑色に変色する(この呈色は、茹でたものや冷凍したもの、あるいは乾燥したものでも反応する)。ひだは垂生し、比較的幅広く、白色〜クリーム色を呈する。柄は通常はかさの一端に着き(まれにほぼ中心生)、太く短くて淡い黄褐色を呈し、ひだとの境界には低いリング状をなした隆起(不完全な内被膜)がある。かさは、柄の近くは厚いが周辺部は薄く、肉は軟質でほぼ白色。柄の基部付近においては多くは紫黒色のしみ(まれに、ほとんどこれを欠くこともある)を生じ、特徴的な味はない。 -1913年、エジソンは1895年のシステムと同じくキネトフォンと名付けた映写式の発声映画システムを開発した。蓄音機は映写機内の複雑に配置された滑車と接続されており、理想的条件下では同期できた。しかし実際の上映が理想的条件でなされることは滅多にないため、この改良型キネトフォンは1年ほどで姿を消した。1910年代中ごろには、発声映画の商業化の熱が一時的に低下した。エホバの証人は人類の起源についての自説を広めるため、1914年からアメリカ合衆国各地を巡回してThePhoto-DramaofCreationを上映した。これは8時間もの超大作で、別に録音された説教と音楽を蓄音機で同時に再生していた。 -1804年に始まったセルビア蜂起は当初こそダヒヤらによるクネズ、聖職者、教師などのセルビア人の指導層が大量虐殺されたことで、ダヒヤ及びイェニチェリに対する反感から蜂起したもので、民族主義に基づくものではなかったが、ヨーロッパ列強らがこれに関与することで民族解放色を強めていった。二次に渡って行われたセルビア蜂起は結果的に自治を獲得、後にセルビア公国の成立へとつながる。そしてこの蜂起はオスマン帝国が弱体化していることをまざまざを見せつけ、ギリシャでは作者不詳であるが『ギリシャの県知事政治(ノマルヒア)』が著され、このことを指摘していた。 -市域は川沿いに長さ約38km,幅約16kmである。市境の全長は136.5kmである。ブレーメンは広さでドイツ10位、人口で11位の都市であるが、北ドイツではハンブルクに次いで2番目、北西ドイツでは最大の都市である。これはヨーロッパで74番目、EU加盟国中では44番目にあたる。ブレーメンはオルデンブルクの東約50km,ハンブルクの南西110km,ハノーファーの北西120km,ミンデンの北100km,オスナブリュックの北東105kmにあたる。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -A300B10の当初案では、胴体を単純に切り詰めるだけで、開発経費を抑えるために主翼やシステム類はA300のものをそのまま用いるとされた。しかし、当時、A300B10と同じ市場を狙って、ボーイングが全くの新規開発となる双発ワイドボディ機「7X7」(のちの767)の研究を行っており、エアバスはこれに対抗するため、新型機構想にできるだけ新しい技術を盛り込むことにした。短縮される胴体サイズに合わせて主翼を設計し直すとともに、機体システムのデジタル化・自動化を推進することで、ワイドボディ機として世界で初めて操縦士2人での運航を実現する案がまとめられた。この機体案は、A300から胴体を10フレーム短くすることから、A300-(マイナス)10と名付けられ、後に正式名称がA310と決定された。A310案は、ルフトハンザドイツ航空から50機、スイス航空から20機の受注を獲得し、さらにその後、エールフランスとサベナ航空も発注の意向を示した。これを受けてエアバスは、1978年7月7日に、同社の2番目の製品としてA310を開発することを正式決定し、同月13日にはフランスと西ドイツの政府が事業認可を与えた。これは、A310の直接的な競合機とされた767の開発が正式決定される1日前のことだった。また、イギリス政府は、これまでエアバス・インダストリーへの参加を見合わせていたが、同社が徐々に事業を発展させていく様子を見て方針を転換した。1977年4月に、ホーカー・シドレー社を初めとするイギリスの航空機メーカー4社の統合により国有会社のブリティッシュ・エアロスペース社が設立され、BAe社は1979年1月にフル・パートナーとしてエアバス・コンソーシアムに加盟した。 -リンゼイは前市長に比べ、同性愛者らに対して寛容であった。彼はマタシン協会の要望に耳を傾け、市の一般職員採用面接で求職者に性的指向を質問する行為を止める等、同性愛者らに有利な改革を幾つか実行した。ライチは、それまでのマタシン協会会長と比較して急進的な活動家であり、1960年代他の公民権主張団体が用いていたような直接行動を信念としていた。1966年初頭、リンゼイが市民の苦情を受け付ける公聴会を開いたとき、マタシン協会は上述の囮捜査を止めるよう抗議した。これを受けて、警察本部長は、同性愛者らを誘惑して法令違反行為を唆さないように警察官を指導し、私服警察官が同性愛者らを猥褻等で逮捕するときには民間人の証人を必要とするという方針を定めた。 -双葉郡は漁港が未発達で産業に乏しかった過去から、積極的に東京電力の電力供給地となり、福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所、広野火力発電所と日本有数の電力供給源になっていた。震災により、日本がかつて経験したことのない全電源喪失による福島第一原子力発電所事故の発生へとつながっていく。大熊町では、双葉病院に入院中の認知症患者と、隣接する老人介護施設の高齢者のうち227人が一時取り残された。原子炉が水素爆発して20-30km圏内の住民10万人以上が各地の避難所へ避難する混乱のなか、132人は医師・看護師を同乗させないまま観光用バスに乗せられ、13時間かけて200km移動した。残りの95人は5日後に自衛隊によって救助されたが、最終的に50人が衰弱死した。このように、福島県では強制的な避難によって避難所を転���とするなかで高齢者が犠牲になる事例が多く、震災関連死の認定者数も最も多い。また、放射性物質の拡散は双葉郡に留まらず福島県の広範囲に広がった。12日20時には25km北の南相馬市で20μSV/h、15日4時には40km南のいわき市で24μSV/hの最大値を計測した。晴れていたため風とともに通り過ぎる一時的な上昇であり、時間が経過するにつれて低減していった。放射性物質の放出は3月15日にピークを迎え、9時には正門付近で11,930μSv/hを計測した。15日午後には南東からの風に乗り、北西方面へと流れた。40km離れた飯舘村では16時に23μSV/hと急上昇し18時半には45μSV/h、伊達市を経由し、60km離れた福島市でも17時に22μSV/hと急上昇し19時半には24μSV/hを計測した。南東の風が長時間続き、高濃度の放射性物質が流れ込んでいる所に、不運なことに17時頃から県内各地で雨(雪)が降り始めたため、放射性物質は地面に落ちて土壌に沈着した。このため、北西方面に伸びるように深刻な土壌汚染を引き起こした。 -アメリカ植民地が独立への道を歩み始めたそもそものきっかけはイギリス本国による課税の強化にあり、それはフレンチ・インディアン戦争(1754-1763)による財政危機の解消を目的としたものであった。イギリス政府は1764年に砂糖法、1765年には印紙法を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に印紙法はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。 -歴史上、コンスタンティノープルの城壁は戦争よりもむしろ地震やリュクス川の洪水によって頻繁に損傷した。同時に幾度も修復工事が行われるたびに、それを指揮した皇帝もしくは政治家の名が刻まれた碑文が建てられた。この城壁修復は、専門の長官であるドメスティコス(コメース)・トーン・テイケオーン(Δομέστικος/Κόμηςτῶντειχέων,Domestikos/Komēstōnteicheōn)が責任をもって、コンスタンティノープルの住民を動員して行っていた。1204年にコンスタンティノープルが征服されラテン帝国が成立して以降は城壁管理がおろそかになり、1261年にビザンツ帝国が復帰して以降も、資材の欠如のため緊急時以外は十分な管理がなされなかった。 -『Signalize!/カレンダーガール』は、日本の女性アイドルユニット・STAR☆ANISの1枚目のCDシングルである。本作は両A面シングルで、2012年11月21日にランティスより発売された。楽曲「Signalize!」と「カレンダーガール」は、テレビ東京系列他にて2012年10月より放送されたテレビアニメ『アイカツ!』の1stシーズン前期オープニング・エンディングテーマとしてそれぞれ起用された。女児を対象としたメディアミックス・プロジェクト『アイカツ!』はゲームおよびアニメが並行して制作され、音楽については本来のターゲットである女児に限らず幅広い年齢層に受容される楽曲を目指した制作が行われてきた。「Signalize!」と「カレンダーガール」はその傾向を汲んだ作品となっている。「Signalize!」は作曲・編曲を担当したNARASAKIおよびSADESPERRECORDによるテクノな要素を含んだポップ・ミュージックに仕上がっているとする者や、ニュー・ウェイヴあるいはニューロマンティックなサウンドで構成されるとする者がいる。作詞家の畑亜貴による言葉選びについては複数のライターから肯定的な指摘を受けており、NARASAKIによるサウンドと合わせて女児向け作品らしくない風変わりな1曲と評されている。「カレンダーガール」は作曲・編曲を担当したMONACAの田中秀和によって様々なヴォーカル加工が施されたディスコ調の楽曲に位置づけられており、女の子の日常が描かれた内容となっている。田中が影響を受けたダンス☆マンを彷彿とさせるとも指摘され、曲中に組み込まれた多彩な編曲技術は音楽ライターらによって称賛されている。両楽曲を収録したシングルはオリコンシングルチャートにおいて最高105位を記録し、「カレンダーガール」は2019年発表の平成アニソン大賞において特別賞にノミネートされた。「Signalize!」と「カレンダーガール」は様々なヴォーカルによるバージョンがリリースされ、イベントでのライブ・パフォーマンスも披露されている。そのほかカバー・バージョンおよびミュージシャンのkzによる「カレンダーガール」のリミックス・バージョンも発表さ��ている。さらにテレビアニメ『アイカツ!』で「Signalize!」と「カレンダーガール」は前述のように主題歌として用いられたほか、作中に登場するキャラクターの3DCGライブ・ステージで披露される挿入歌としても用いられている。とりわけ、アニメ『アイカツ!』1stシーズン最終話に当たる50話の脚本や演出技法は、楽曲「カレンダーガール」のサウンド構成やその歌詞と密接に絡んで制作されている。 -金光明寺は前身寺院があるとはいえ、そのままの寺観だったわけではなく、大仏を本尊とする前から規模を拡大しつつあった。他国の国分寺の整備主体が各国の政庁だったように、大養徳国でも同様だったとする場合、問題となるのは、大養徳国の行政主体となるべき国庁の実態が不明であることである。この当時の大養徳国の政治の実態はよく分かっておらず、国庁が大養徳国金光明寺の建設計画に関っていたのかすら判明していない。『続日本紀』の天平15年の記述「別に大養徳国金光明寺に殊勝の会を設け奉りて、天下の摸(ためし)と為さむとす」から、大養徳国金光明寺が特別な扱いを受けていると見ることもでき、大仏は別としてもこの首都国の国分寺は有力であったことがうかがえる。ただし、大和国の国分寺を東大寺及びその前身寺院ではなく、現在の奈良県橿原市にある国分寺(現在は浄土宗)に求める説(『大和志』(享保19年(1734年))など)もあり、歴史事典類でも大和国国分寺の場所については両説がある。例えば、吉川弘文館『国史大辞典』の「国分寺」(執筆者:井上薫)は東大寺を大和国国分寺としているのに対し、角川書店『平安時代史事典』の「国分寺」(執筆者:角田文衛)は国分寺を大和国国分寺としている。 -翌1959年(昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『薔薇と海賊』の発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『不道徳教育講座』、評論『文章読本』の発表、新居建設(設計・施工は清水建設の鉾之原捷夫)など多忙であった。大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4丁目32-8)に建設したビクトリア風コロニアル様式の新居へは5月10日に転居し、6月2日に長女・紀子が誕生した。ちょうどこの当時、新安保条約の採決を巡る大規模なデモ隊が国会周辺で吹き荒れ、三島はそれを記者クラブのバルコニーから眺めた。三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された。三島の落胆は大きく、この評価は作家として彼が味わった最初の大きな挫折(転機)だった。 -スミスは、同感を通じて人々が自身の感情や行為が評価されていることを意識し、是認されることを望み否認されることを嫌っていると考えた。しかし、現実社会にはしばしば他人の間にも利害対立があるから、人々が自身の感情や行為の適切性を測るためには利害対立から独立した中立的な基準が必要である。スミスはこの基準を公平な観察者(英:impartialspectator)と呼び、人々が具体的な誰かの視線ではなく胸中の公平な観察者の視線を意識しながら行動していると考えた。ただし、偶然(英:fortune)の下では、公平な観察者の評価と世間の評価とが異なる場合がある。スミスはこのような不規則性(英:irregularity)が社会的に重要な意味があると考え、偶然の下で公平な観察者の評価を重視する行為者を賢人(英:wiseman)、世間の評価を重視する行為者を弱い人(英:wealman)と呼んだ。人間は自己統制(英:self-command)によって胸中の公平な観察者の声に従おうとするが、激しい情念の下では自己欺瞞によって公平な観察者の声を無視しようとする矛盾した存在である。『道徳感情論』は自愛心を主張するものとしてグラスゴー大学におけるスミスの後任者トマス・リードなどによって非難され、かつてはスミスの主著として読まれることも少なかった。 -第4代所長の岡野朝治の時期は、度々の糸価下落などの影響を受け、経営的に厳しい時期にあたっていた。そうした状況を受け、1885年(明治18年)には速水が第5代所長として復帰した。速水は同伸会社社長時代に、一手に輸出を引き受けていた富岡製糸所の生糸を、リヨン以外にニューヨークにも輸出するようになっていた。彼は製糸所所���として改革を進める一方で、アメリカ向けの輸出も増やし、米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めた。他方で速水は民営化を引き続いて主張していたが、それは1890年代になってようやく実現することになる。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -ヒトを含む哺乳類においては、皮膚以外の組織で必要とされるコレステロールあるいはステロイドホルモンなどコレステロール誘導体は生合成されるのではなく、肝臓から血漿中を輸送されるコレステロールエステルを含むリン脂質複合体を利用するデノボ合成により産生される。また体内における貯蔵について述べると、コレステロールを貯蔵するための特別な形態は存在しない。たとえばブドウ糖はグリコーゲンへ、アセチルCoAはトリグリセリドへと転換されることで蓄積される。しかし、コレステロールはそうではない。このため輸送途中のリポタンパク質(LDLコレステロール)などは体内におけるコレステロールのリザーバーとしての役割もある。末梢組織にリン脂質とともに運ばれたコレステロールエステルはリソゾームで加水分解を受けてコレステロールに戻り、さらに利用される。このような動態を持つためコレステロールの食事からの吸収や肝臓での生合成は必須である一方、コレステロールの過剰による脂質異常症も問題となる場合も多い。脂質異常症は、食事による外因性コレステロールの増大だけでなく、末梢組織でのLDLコレステロール受容体機能の抑制も大きな因子である。家族性高コレステロール血症では遺伝的に末梢組織のLDL受容体が変成することで、結果として末梢でのコレステロール取り込みが減り、脂質異常症が発生する。また、先天的要因だけでなく後天的に脂質代謝異常も発現していると考えられ、そういった糖・脂質の複合的な代謝異常という意味でメタボリックシンドロームが注目を集めている。なお、植物油に含まれるフィトステロールがコレステロールの吸収を減少させる作用を有する(詳細はフィトステロール#コレステロールの低減を参照)。フィトステロールは小腸の粘膜細胞において一旦は吸収されるが、能動輸送によってフィトステロールが細胞外に排泄される。この時、コレステロールも一緒に排泄されるので摂取したコレステロールの吸収が減少することになる。 -この地は“西条盆地”と呼ばれる海抜200mの地を海抜400から600mの台地が囲む盆地である。この地の特徴的な地層として“西条層”と言われるものがある。地質時代は新生代第四紀で礫・砂・シルトがいわゆるミルフィーユ状に重なった層が約50mの厚さで存在し、その上の沖積平野の上に西条の町が形成されている。以前の説では西条層は湖成、つまり西条盆地は太古の昔は湖で西条層は湖成堆積物である、と言われていた。現在では地質学研究の結果、湖成説は否定され河川成説、つまり蛇行河川の堆積物であったことが有力となっている。 -1834年11月、国王ウィリアム4世はホイッグ党の首相メルバーン子爵を罷免し、保守党党首サー・ロバート・ピール准男爵に組閣の大命を与えた(第1次ピール内閣)。グラッドストンは第一大蔵卿(首相)を補佐する下級大蔵卿(JuniorLordoftheTreasury)に任命された。この役職は複数人置かれる役職なので、各省に一人ずつ置かれる政務次官(Undersecretary)と比べると地位は低いが、首相の側近くにあることから政府全般の事務に関与する役職だった。王の気まぐれで政権についたピール政権は少数与党政権であったため、1835年1月にも解散総選挙(英語版)となった。この選挙ではホイッグ党がニューアーク選挙区に対立候補を立てなかったので、グラッドストンは無投票再選を決めている。総選挙全体の結果は、保守党が100議席回復して300議席近くを獲得した(ただし過半数には届かず)。 -会社設立翌年の1889年5月、大阪市南部の西道頓堀に建設していた出力30キロワット(kW)の火力発電所が完成した。難波新地・千日前・日本橋・心斎橋などの地域にまず150個の電灯を取り付け、同年5月20日より供給を開始して開業した。2年後の1891年6月には、中之島に2番目の発電所を設置し、市内北部でも供給を開始している。大阪電灯に先行して設立されていた東京電灯は、東京での供給事業以外にも開業以来日本各地において発電機の据え付け工事を請け負っていた。紡績工場や後発の電灯会社への設置が主体で、名古屋電灯などで発電機設置工事を担当した。東京電灯の影響力は関西地方の電灯会社にも及び、大阪電灯に先立って開業した神戸電灯、大阪電灯に続いて開業した京都電灯の2社でも、発電機の設置を東京電灯が行っている。しかし大阪電灯は、名古屋や神戸・京都の場合と異なり、東京電灯への対抗意識を持ち、設立・開業にあたり同社の関与を排除した。例えば東京電灯の技師長は藤岡市助であったが、大阪電灯では藤岡より1年後に工部大学校を卒業し当時アメリカ合衆国へ留学中であった岩垂邦彦を招聘している。 -『牛乳を注ぐ女』は、オランダ黄金時代の画家ヨハネス・フェルメールが1657年ごろに描いた絵画である。キャンバスに油彩で描かれた作品で、アムステルダムのアムステルダム国立美術館が所蔵している。アムステルダム国立美術館はこの作品のことを「疑問の余地なく当美術館でもっとも魅力的な作品の一つ」としている。『牛乳を注ぐ女』の正確な制作年度は分かっておらず、残っている記録にも差異がある。この作品を所蔵するアムステルダム国立美術館では1658年ごろとしており、『信仰の寓意』などフェルメールの作品5点を所蔵するニューヨークのメトロポリタン美術館では1657年か1658年ごろとしている。また、フェルメールの著名な研究サイト「エッセンシャル・フェルメール」では、制作年度は1658年から1661年の間とされている。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -2014���(平成26年)、映画「疎開した40万冊の図書」(2013年公開、金高謙二監督)の上映が契機となり、元静岡県立中央図書館職員の田中文雄が、「葵文庫」蔵書の戦時中の疎開先の調査を行った。その結果、行政資料の中に、戦時中の文庫長・加藤忠雄による「昭和20年度事務室日記」が発見され、国民学校4校と民家2軒に蔵書が運搬されたことが判明した。同調査では、空襲により蔵書を焼失した市民の署名や拇印がある「免除届」も発見され、約1,500冊が貸出先で焼失されたことが分かっている。田中は、2015年(平成27年)10月に創立90周年記念事業「葵レク貴重書講座」にて、その調査研究の成果を発表している。 -1932年(昭和7年)10月14日に深谷水道が開通し、以後片田村で副業として真珠養殖を行う業者が増加した。1935年の国勢調査によれば男性100人に対する女性の人口は131人で、東京文理科大学の青野壽郎は「海女といふ職業が、女子を郷土に定住せしめる有力な経済的要因となつてゐることに基く結果の人口現象であると解せられる。」と分析した。 -それに続く研究により、この菌はオーストラリアでは遅くとも1978年、北米では1970年代に出現したと確証された。最初に感染が記録されているカエルはアフリカツメガエル(Xenopuslaevis)である。ツメガエルは世界中のペットショップで売られ、研究室で使われているため、ツボカビがアフリカから移出されたというのはありうることである。 -1940年代から1970年代にかけてのステレオの進歩は、複数チャンネルの録音・再生時の同期の困難さを技術的に克服していく過程であり、同時に新たな録音媒体と録音再生装置を市場に売り込んでいく過程だった。大まかに言って、ステレオシステムはアンプとスピーカーが2つずつ必要となり、モノフォニックシステムの2倍のコストがかかる。消費者がそれだけの金額を出すに値すると考えるかどうかは明らかではなかった。1952年、エモリー・クック(1913年-2002年)はバイノーラル盤を作成する装置を開発した。レコード盤上に2本の溝が刻まれていて、両方に針を落とし、同時に再生する。それぞれのピックアップは別々のアンプとスピーカーに接続されていた。クックはレコード製造装置を売る目的でこれをニューヨークのオーディオフェアに出品した。しかし、すぐにバイノーラル盤のレコードを作って欲しいという注文が入るようになり、クックはレコード盤の商業生産に乗り出した。クックが製造したレコードは、鉄道の音から嵐の音まで様々なものがあった。なお、「バイノーラル盤」とバイノーラル録音には直接の関係はない。1953年のクックのカタログには、オーディオマニア向けの25種類のステレオレコードが掲載されている。 -1474年にカスティーリャ王エンリケ4世が没した後、カスティーリャの一部の貴族はアフォンソ5世に姪であるカスティーリャ王女フアナとの結婚を条件にカスティーリャ王位の継承を提案し、カスティーリャはアフォンソ5世を支持する派閥とフェルナンド・イサベル1世のカトリック両王を支持する派閥に分かれて争った。カスティーリャ内部の王位継承戦争と共に、西アフリカ沿岸部におけるポルトガルとカスティーリャの競争は激化するが、1479年に締結されたアルカソヴァス条約によって西アフリカ沿岸部の領有地域が取り決められた。カスティーリャはカナリア諸島と対岸の地域を領有し、ポルトガルはその他の大西洋の島々とヴェルデ岬以南の沿岸部を獲得する。アフォンソ5世の王子ジョアンはインドを西アフリカでの商業的展開の目的地に定め、1481年にポルトガル王位に就いた後には西アフリカでの探検事業を推進した。 -全長30-45センチメートル、体重2-8キログラム。吻は約75mm。首は外部に見えないため首と胴が一緒になっているように見える。耳の穴は頭部の両側についているが、耳介は持たない。目は小さく、くさび形の口吻の基部にある。鼻孔と口は吻の先端にあり、口の開けられる大きさは5mm程度。体は腹部や顔・脚を除きクリーム色のトゲで覆われており、最大50mmになるこのトゲは体毛が変化したものであり、大部分は角質化したクチクラでできており、1年に1度生え替わる。トゲの根元(毛根)は体内に約1.5cmほどの所にあり、トゲはそれぞれ独���した筋肉により別々に動かすことができる。トゲの間や腹面、尾も覆っている。黒色や濃い赤褐色、黄褐色の体毛は断熱材の役割を果たしている。体毛やトゲの色のバリエーションは、場所によって様々であり、体毛には、世界最大と言われる約4mmのノミの一種Bradiopsyllaechidnaeが寄生している場合が有る。 -1877年、第5代副王ロバート・ブルワー=リットン(初代リットン伯爵)(就任期間1876年4月12日-1880年6月8日)が、ムガル帝国の古都デリーで「帝国会議」(デリー・ダルバール)を主催し、ヴィクトリアのインド女帝即位が発表された。この会議の目的は、藩王、地方豪族、都市の有力者を体制内に取り込むことであった。リットン卿の時代には、アフガニスタンとの最終的な衝突が展開され、また、インド国内では、525万人が餓死するインド大飢饉が発生するなど、インド国内の経済は混乱した時代でもあった。 -腕足動物の化石は顕生代のどの時代の地層にも見られる。古くは古生代カンブリア紀初期の地層から発見されている。はじめは無関節類しか見られないが、カンブリア紀中期になると有関節類も登場する。有関節類の登場以降、無関節類の数は減少し、デボン紀以降はわずかしか見られない。オルドビス紀には有関節類が多様化し、デボン紀にその多様性は最大となる。しかし古生代末(P-T境界)の大量絶滅で、腕足動物の多様性は大部分が失われた。その後、腕足動物はかつてのように繁栄することなく、衰退傾向にある。腕足動物の化石種は1万3000種記載されているのに対し、現生種は350種程度に留まっている。腕足動物の多様性の減少は、生態の似た二枚貝類との競争に敗れたためと考えられている。 -1814年3月31日にパリは反ナポレオン同盟軍によって陥落させられ、ナポレオンは廃位のうえエルバ島の領主に左遷された。反ナポレオン同盟国はフランスを革命前の状態に戻すべく、5月にブルボン家のルイ18世による復古王政を樹立させた。 -1163年、エジプトを支配するシーア派の国家ファーティマ朝の宰相シャーワルは政敵のディルガームとの戦いを有利に進めるためにザンギー朝に援助を求めた。翌1164年4月にヌールッディーンはシールクーフを司令官とする遠征軍を派遣し、遠征軍の幕僚にサラディンが付けられた。シールクーフはビルベイスでディルガムに勝利し、シャーワルを宰相に復職させた。だが、シールクーフを恐れるシャーワルは彼にエジプトからの撤退を求め、十字軍国家エルサレム王国のアモーリー1世に援助を求めた。8月からシールクーフの立て籠もるビルベイスはエルサレム軍とエジプト軍の包囲を受け、11月に和議が成立し、シールクーフとアモーリー1世はエジプトから撤退した。1167年にシールクーフとサラディンは再びエジプト遠征を行うが不成功に終わり、同年8月に和議を結んで撤兵する。 -1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発し、アメリカ大使館を訪れて背広服姿でダグラス・マッカーサーと並ぶ写真が新聞に報道された。公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣(ふんまん)を漏らしたという。また、三谷と焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には、天皇制を攻撃し始めたジャーナリズムへの怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している。なお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。 -1941年に合成のさらなる改良を目指して、ゼネラル・エレクトリック(GE)社、ノートン社、カーボランダム社の3社合同で研究を始めた。彼らは数秒間の3.5GPaの圧力下で3,000°Cまで炭素を加熱させることに成功したが、その後の第二次世界大戦により計画を中断せざるを得なくなった。1951年にニューヨーク州のスケネクタディ研究所で再開し、トレイシー・ホール率いる高圧合成ダイヤモンド研究チームが結成された。この研究所のダイヤモンドアンビルセルが、1946年にノーベル物理学賞を受賞したパーシー・ブリッジマンによって設計・改善された。GEは炭化タングステン製アンビルを用いて、カトリナイトの容器に入れた試料に圧力をかける方法を使用し、偶然にもその方法で合成されたが再現性は得られなかった。後にそれは結晶核として用いられた天然ダイヤモンドと判明した。 -ただし実際の木曽川開発は、名古屋電灯とは別の系統に属する「名古屋電力株式会社」という電力会社が先行した。同社は、1897年(明治30年)に最初の水利権申請が行われた岐阜県加茂郡八百津町付近における水力発電計画に端を発する。加茂郡を地盤に衆議院議員に当選していた実業家兼松煕が参画して以降計画が進展するとともに大規模化し、名古屋財界の奥田正香や東京の資本家を巻き込んで資本金500万円の名古屋電力の創設となった。1906年10月の会社設立に先立って同社は八百津町における水利権を同年6月に取得し、1年半後の1908年1月に八百津発電所を着工した。また、日本電力発起人総代関清英が1907年(明治40年)4月に取得していた、長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町福島)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村野尻にいたる「駒ヶ根水力」の水利権を1908年3月に譲り受けた。 -大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。「伊能図(いのうず)」や「伊能大図」とも称される。完成は文政4年(1821年)。 -2015年(平成27年)6月3日にはこの伝説を題材として、シンガーソングライターの小田純平の歌唱による楽曲「百夜月」(作詞:伊藤美和、作曲:小田純平)が発売された。百夜月の地名の由来には上記の伝説のほか、南北朝時代にこの地に住んだ武将・百井安友の名が変化したという異説もある。また、花井についても、華森神社(稲荷社)で気比(けひ)神を祀っていたことに由来するという別の説がある。 -英仏米(イギリス、フランスとアメリカ)など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定(英語版)を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。そのころ日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。 -エンターブレイン調べでは発売週には242,003本を販売し、前作『テイルズオブリバース』の初動(37.3万本)には届かなかったものの8割近い消化率を記録した。『週刊ファミ通』のクロスレビューにおいては40点満点中32点を獲得した。『テイルズオブリバース』に比べ様々な点で遊びやすくなっているとされる。4人のレビュアー全員が戦闘システムについて触れ、3人がシステムの簡略化を「新規プレイヤーが入りやすくなった」「アクションが苦手でも無理なく楽しめる」と評価している一方、1人は「ボタン連打で何とかなり、単調に感じる」としている。全体的に、シリーズのファンよりも初めての人のほうが楽しめるとされている。『ゲーム批評Vol.65』においてはシンプルなサイドビュー戦闘の採用を「わかりやすく遊びやすい」と評価しているが、エフェクトの地味さが残念とも述べている。ストーリーについては、主人公が海上を漂流している場面から始まりその理由が明かされるのがかなり進んでか���であることなど、プレイヤーと主人公を切り離してストーリーを楽しませるという手法を評価している。またキャラクタークエストについて「シリーズだけでなく、他のRPGでも珍しい」と述べ、「各キャラクターにエンディングが用意されていることもあり、キャラクターの魅力を引き出すという点で成功を収めた」と評価している。定番のおまけ要素がないことがシリーズファンに違和感を覚えさせるとしながらも、第1作の影響を強く受けていることを指摘し、「第1作のファンには嬉しい内容」としている。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -前述の通り、セラムはその発見自体を高く評価する見解がある。それは、セラムの年代の古さ、年齢の幼さ、保存状態の良さの組み合わせに基づくものである。年代は、セラムが発見された地層を挟んでいる火山灰層をアルゴン-アルゴン法で測定した結果などから、彼女の年代が見積もられている。セラムはおよそ331万年前から335万年前の間に生きており、埋もれている位置からは332万年前とされた。前述のように、この年代はルーシーよりも古いものである。 -ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」を興した。事業の過程でアリスシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集めた。そこには、LaughO'Gramstudios時代のスタッフだけでなく、バート・ジレット、フリッツ・フレレングといった新人アニメーターを雇った。ディズニー・ブラザーズ社はアニメ製���会社へと転進した。これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロスアンジェルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。1925年、会社の従業員だったリリアン・バウンズ(LillianBounds)と結婚し流産を経て実娘のダイアン(Diane)儲けた後に、養女のシャロン(Sharon)を迎え、忙しい生活を送りつつも、父親に愛されなかった反動もあり(後年、長期の南米旅行中ということで、彼は父親の葬儀にも出席しなかった)二人の娘を溺愛しながら育てた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -志摩市の南部、前島半島(さきしまはんとう)の西部に位置する。北側(内海)と南側(外洋)が海に面し、南側に漁港と海水浴場を有する。北側は越賀浦と言い、真珠養殖が行われるとともに、外洋が荒れた時に避難港の役割を果たす。内陸部は高台になっており、畑作が盛んである。『角川日本地名大辞典』では「半農半漁の地域」とされ、高木秀和は「熊野灘に面したこれらの集落では農業のウエイトは全体的に低いといえるが、志摩町越賀のみ例外的に高い」としている。東は志摩町和具、西は志摩町御座と接する。集落は主に南部に集まり、中田・高岡・若宮などに分かれる。ただし、自然条件が似通った和具と比べれば1軒あたりの屋敷は広い。 -1860年にパリで生まれる。父は官吏、母はパリの名門出身の画家。母の影響を受けて幼い頃から絵を描き始める。4歳のとき妹が生まれ、8歳の時に父が亡くなる。1871年3月から5月にかけてのパリ・コミューンでは、その成立から崩壊にいたるまで、燃えさかるパリの街や戦闘・殺戮をスケッチしてまわっている。 -シロンスク・ピャスト家のレグニツァ公フリデリク2世とホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世ヘクトルは1537年に継承条約を締結し、シロンスク・ピャスト家が断絶した場合にはホーエンツォレルン家がレグニツァ公国、ブジェク公国、ヴォウフを継承することを定めた。しかし、シロンスク諸公国の宗主であるボヘミア王はハプスブルク家のフェルディナント1世であり、彼は条約を拒絶し、ホーエンツォレルン家に圧力をかけて条約を拒否させた。1603年、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒは親族のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク���フリードリヒからクルノフ公国(ドイツ語でイェーゲルンドルフ公国。シロンスク諸公国の1つ)を継承し、次男ヨハン・ゲオルクに公位を譲った。 -中世に成立した『神道集』の赤木文庫版には、「児持山之事」として子持山の名称の由来に関する逸話が掲載されている。これによれば、もともとこの山は「武部(たけべ)山」と呼ばれていたのだが、伊勢国安濃津(三重県津市)の地頭阿野保明の子女に子持御前という女性がいて、この娘が神通力を得て武部山に移り住んだことから、この山を「児持山」と呼ぶようになったという。一般的には、山容を子どもを抱く姿にみたてて「子持山」と呼ぶようになったとされている。このほか女性器にみたてて「子持山」と称するとする説もある。 -同年6月に指宿市は指宿・山川両図書館に対して指定管理者制度を導入することを決定した。表向きは民間活力の導入を目的としていたが、現実問題としては経費削減が目的であった。指定管理者制度の導入に危機感を抱いたのが、2005年(平成17年)に図書館ボランティアとして発足した「そらまめの会」であった。そらまめの会の活動により、指宿図書館では図書の整理や館内の装飾が行き渡るようになり、減少傾向にあった利用者が戻り始めていた矢先の指定管理者制度の導入決定であり、同年10月に市が指定管理者の募集を行うと、日本全国で図書館業務を行う大手企業が名乗りを挙げた。そらまめの会による図書館改革が始まった矢先の指定管理者制度の導入であり、会員に意見を募ったところ「NPOになって指定管理者に応募するという選択肢もある」という意見が出され、「本と人とのつながりを守りたい」という気持ちから指定管理者に応募することを決意し、少しずつ書類を揃えて10月中旬にNPOの法人格を取得し、同月末に指定管理者への応募を済ませた。最終的に指定管理者へは5団体が応募し、12月の指宿市議会はそらまめの会の理事長が市議会議員であったことを問題視して一旦却下したものの、予算や活動内容への反対意見はなかったため、理事長を据えなおして書類を再提出し、2名の反対議員がいたものの、賛成多数でそらまめの会が指定管理者に選定された。 -終戦直後の1947年(昭和22年)4月15日に、市民の要望と寄付金を得て旧図書館令によって認可を受けた。当時の名称は「桑名市立図書館」であった。同年の予算は32,560円、蔵書は1,300冊と図書館としては不十分で、本格的に「図書館」としての機能を活かせるようになったのは1950年(昭和25年)の図書館法制定以降であった。翌1951年(昭和26年)3月に木造平屋建の旧桑名市議会議場を閲覧室とし、順次施設を拡張していった。1959年(昭和34年)時点で職員は3人、8時30分から16時30分まで開館し、休館日は火曜日であった。同年9月、伊勢湾台風の被害に遭い一時閉館、1960年(昭和35年)2月に業務を再開した。台風により、図書館の多くの資料が失われてしまった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -明治時代から太平洋戦争前までの人口は1,200-1,500人程度で推移し、1947年には過去最大の1,634人に達したが、その後は急速に減少。1975年(昭和50年)から1980年(昭和55年)には日間賀島や篠島の人口が横ばいだったのに対して、佐久島は年平均3.2%の人口減少が見られた。2005年(平成17年)の人口は315人、2010年(平成22年)は271人、2013年(平成25年)は262人と、人口減少には歯止めがかかっていない。1980年国勢調査での高齢者比率は23.4%だったが、1990年調査では35.5%、2000年調査では48.5%、2010年調査では49.8%と急激に上昇した。産業別の就業者比率は、第一次産業が49.0%、第二次産業が5.5%、第三次産業が45.5%である。人口密度は約170人であり、日間賀島や篠島の1/10程度である。 -戦争が始まったとき、アメリカには職業的な陸軍も海軍も無く、各植民地には地元の民兵隊が存在するのみで、これが自らの地域防衛にあたっていた。独立戦争前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。開戦時、一部を除いてこの民兵隊のほぼ全てがアメリカ軍に加わった。民兵の装備は簡単なものであり、ほとんど訓練されておらず、通常は制服も無かった。当時、民兵の従軍期間は数週間から数か月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらなかったので、通常大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが数では勝り、レキシントン・コンコードの戦い、ベニントンの戦いとサラトガ、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共にゲリラ戦を用いたが、アメリカ軍はイギリス軍正規兵がいない地域で効果的に王党派の活動を抑えた。 -1797年に第二次対仏大同盟が結成されたが、1801年には崩壊した。イギリスだけがフランスの統領政府に敵対し続けたが、1802年3月にフランスとイギリスはアミアンの和約によって講和した。 -シュレージエン戦争(シュレージエンせんそう、ドイツ語:SchlesischeKriege)は、18世紀中ごろにマリア・テレジアを君主に戴くハプスブルク帝国(オーストリア)とフリードリヒ2世を君主に戴くプロイセン王国が中央ヨーロッパのシュレージエン地方(現ポーランド南西部)の帰属を巡って戦った3度の戦争の総称である。うち、第一次戦争(1740年–1742年)と第二次戦争(1744年–1745年)はオーストリア継承戦争の局地戦であり、プロイセンはオーストリアの分割を目指す同盟の一員として参戦した。第三次戦争(1756年–1763年)は七年戦争の局地戦であり、オーストリア率いる同盟がプロイセン領の奪取を目指した。英語読みでシレジア戦争(シレジアせんそう、SilesianWars)とも呼ぶ。 -ポターは小さな頃から体が弱く、20代にはリウマチも患っていた。心臓も弱く晩年には「少女のころにリューマチ熱を患ってから、私の心臓は、一度も正常だったためしがないのです」と述べている。1938年には10日間入院することになり、その3か月後には子宮摘出の手術を受けている。術後の経過は順調で、ガールズガイドに77歳の誕生日を祝ってもらうこともあったが、1943年の11月からは気管支炎にかかり病床に臥した。1943年12月22日、死期が近いことを知ったポターはトム・ストーリーを呼びつけ、自分が死んだ後のことを託した。ポターはその晩に亡くなった。遺灰はポターの遺言どおりにストーリーがヒル・トップの丘に散骨した。ポターの財産のほとんどは夫のウィリアムに残され、フレデリック・ウォーン社の株はノーマンの甥、フレデリック・ウォーン・スティーブンズに遺贈された。ポターの著作権や印税もウィリアムの死後は彼に譲られることになった。湖水地方の4000エーカー以上の土地と15の農場、そして建物はナショナル・トラストに寄贈された。ポターが初めて購入し、もっとも大事にしていた場所ヒル・トップは現状を維持し貸し出しをしないよう言い残している。散骨した場所はポターが秘密とすることを望んだため不明となっている。 -日本国内における日本住血吸虫症の流行地は水系毎に大きく分けて次の6地域だった。1つ目は、山梨県甲府盆地底部一帯。2つ目は、利根川下流域の茨城県・千葉県、および中川流域の埼玉県、荒川流域の東京都のごく一部。3つ目は、小櫃川下流域の千葉県木更津市・袖ケ浦市のごく一部。4つ目は、富士川下流域東方の静岡県浮島沼(富士川水系に含まれる現:沼川)周辺の一部。5つ目は、芦田川支流、高屋川流域の広島県福山市神辺町片山地区、および隣接した岡山県井原市のごく一部。6つ目は、筑後川中下流域の福岡県久留米市周辺および佐賀県鳥栖市周辺の一部。日本国内では以上の6地域にのみかつて存在した風土病であり、上記のうち、甲府盆地底部一帯、広島片山地区、筑後川中下流域の3地域が日本住血吸虫症の流行地として特に知られていた。中でも甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯であり、この病気の原因究明開始から原虫の発見、治療、予防、防圧、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。当疾患の正式名称は、日本住血吸虫症(Schistosomiasisjaponica)、ICD-10(B65.2)であるが、山梨県では官民双方広く一般的に「地方病」と呼ばれている。原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要するなど、罹患者や地域住民を始め研究者や郷土医たちによる地方病対策の歴史は、山梨県の近代医療の歴史でもある。 -1978年にはスズキも参入して市場をさらに活性化した。これら新しいカテゴリーのオートバイを利用したのは主に主婦層だったが、副次的に中年男性層にオートバイブームを巻き起こした。危険な乗り物・暴走族の乗り物というイメージが付きまとうオートバイへの距離を、お洒落に乗りこなす妻の姿や、大型自動二輪車免許交付において中年層に対しては比較的簡単に認められた点などが後押しして縮めた。こうしてオートバイ生産は活況を呈し、1976年には130万台、1977年には160万台、1978年には198万台と、ファミリーバイクを中心に順調な伸びを示した。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -ボーイングでは、1963年に短中距離向けのナローボディの3発ジェット機として727を初飛行させていた。727はジェット旅客機としては好調な売れ行きを記録し、胴体延長型の727-200も含めて最終的には1,832機の販売実績を有するベストセラーとなるが、より小型だが運航乗務員が2人で済み、さらに双発エンジンのため燃費にも優れる737-200やマクドネル・ダグラスDC-9-40/50シリーズとの競合もあり1974年頃には売れ行きは鈍化していた。ボーイングは727を改良することでさらに販売機数を伸ばせると考え、改良型として727-300の開発に着手した。この727-300は、胴体を延長した上でエンジンを低騒音化し、降着装置も4輪式にするなどの改良が加えられる計画で、これにより、座席あたりの燃費を13パーセント低減すると同時に、年ごとに厳しくなる騒音規制をクリアすることができると考えられた。ボーイングでは727-300の開発に強い意欲を示し、原寸大の金属製モックアップの製作を進めていたが、1975年に入り、ユナイテッド航空などのアメリカ国内の航空会社は727-300構想に対して、「その程度の燃費改善では、新機材導入のコストをカバーするには不十分であり、騒音規制への対応にも一時的にしか対応できず、長く使い続けることのできる機体ではない」という考えを示した。ボーイングは、727-300構想に既に5000万ドルの資金を投入しており、モックアップも作成していたが、航空会社が727-300を好まないのであれば、この計画を破棄した上で、全く新しい機体を開発する方が将来的にもメリットが大きいと考えた。このような事情から、727-300開発計画は1975年8月には正式に破棄されることになった。 -徳川家斉の治世下にあった日本では、この年(文化13年)は江戸四大飢饉に匹敵する程の大規模な飢饉を引き起こす事態が発生しなかった為、一般には「夏のない年」の日本に与えた影響は小さかったとされており、時に「影響は存在しなかった」とさえ言われる場合もあるが、歴史的事実としては全国的には冷夏が記録され、9月に四国・東海・関東で暴風雨と洪水が頻発し、東北地方は凶作、静岡(遠江国、駿河国、伊豆国)は不作となった。静岡における記録では小田原藩の本領地(相模国、伊豆国、駿河国)ではこの年のみ年貢米の収量が激減しており、新城や島田では不作に伴う年貢米減免を訴える一揆や強訴が発生している。影響は広範囲に及び、翌年以降も続いた。1817年の冬は特に厳しく、気温が-32°Cまで低下したこともあった。アッパー・ニューヨーク湾は凍結し、ブルックリン区からガバナーズ・アイランドまで馬そりで渡ることができた。日本でもこの年(文化14年)も8月に九州で暴風雨と高潮、関東で干魃による凶作、冬は関東と甲府で降雪率(冬季全体日数に対する雪日数の比率)が江戸期で最大の値を記録する(ただし、弘前では減少に転じる等地域差が見られた)等、各地で異常気象が相次いだ。しかし、前年の凶作や異常気象も含めて大規模な飢饉に発展しなかったのは、天明の飢饉を教訓としたサツマイモをはじめとする救荒食の普及が各地で進んでいた事や、松平定信が寛政の改革で提示した藩政改革が各地の藩に広まっていた事の二点が功を奏した結果と考えられている。 -電気事業のほか軌道事業も営み、神岡軌道を運営して神岡鉱業所の物資輸送などに従事し、両事業を通じて年間約60万円の利益金を上げていた。しかし日中戦争下において電力国家管理政策が強化されると、1941年(昭和16年)に事業の柱であった発電所2か所に対して国策電力会社日本発送電への出資が指示される。翌1942年9月には残る発電所1か所と軌道事業を三井鉱山へと譲渡し、神岡水電は解散した。神岡水電から日本発送電へと出資された2か所の発電所はその後、戦後日本発送電が解体��れるにあたって北陸電力が継承している。 -腹部は12節からなり、全体的には小判型をしているが、10-12節は急に細まって環状をなし、つまり短く細い筒が腹部後方に小さく突き出した形になっている。その先端からは細い鞭状の尾節が伸び、この部分は多数の節に分かれ、その数は50を超えるものもある。この尾節の長さは体長をしのぐほどになる。 -汽水魚は掃除共生の興味深い例として、南アジアの汽水域にすむ2種のEtroplus属のシクリッドが挙げられる。このうち小さいほうのE.maculatusが掃除魚であり、それよりずっと大きいE.suratensisがホストとして掃除される。淡水魚は海水魚と比較し、淡水魚には掃除魚が少ない。一例としては、ナマズの一種であるホワイトライン・トーキングキャット(ドラス科)が魚食性のカラシンの一種Hopliascf.malabaricusを掃除することが知られている。 -野口は1915年3月26日、東京高師を卒業し、中等学校の地理科・歴史科・体操科の教員免許を取得した。そして同年4月1日付で、長野県松本女子師範学校教諭兼訓導と長野県松本中学校教諭を兼務し、長野県松本市に赴任した。赴任を前に丸善へ立ち寄り、偶然にもマイク・マーフィーの“AthleticTraining”の原書を入手した。松本女子師範学校での勤務は1916年3月で終わり、以後は松本中単独の教師となる。プライベートでは1917年4月1日に東京府渋谷町出身の生駒豊子と結婚している。松本中教師としての任務は、体育主任として「学校体操教授要目」に準拠した新たな指導方針を策定し、実行することであった。体操科の授業時数は5時間で、当時は適宜指導することとされた「撃剣及柔術」を完全実施したこと、学期ごとに身体検査を実施しその成績を見て授業計画を立案・実行したことが特筆される。校友会ではスポーツの普及に努め、徒歩部、剣道部、游泳部の部長を兼任し、スケートの導入も図った。特に徒歩部は野口が自ら設立した部であり、マーフィーの本を手引きとして自身の競技力向上に向けて練習に励んだだけでなく、東京からスパイクシューズを数足仕入れて生徒に共用させ、ともに汗を流した。校内競技会では部長ながら100ヤード、400m、砲丸投、円盤投に「特別出場」して圧倒的な強さを見せて優勝するとともに、生徒に陸上競技への参加を促した。また野球害毒論の影響で中断していた長野県中等学校聯合運動会の復活に際して陸上競技を採用するよう尽力し、1917年10月15日・16日に長野中学校で開かれた聯合運動会は、長野県における陸上競技大会の先駆けとなった。 -叔父のユスティヌスは近衛隊(Excubitores)に属しており、ユスティニアヌスを養子とし、コンスタンティノポリスへ招き寄せて養育した。このため、ユスティニアヌスは法学と神学そしてローマ史について高い知識を持っていた。 -ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 -いくつかの帝国等族を包含したブロックに帝国を分け、地域の治安維持に当たらせるという帝国クライス制度の発想は、皇帝ルドルフ1世の時代に遡る。1287年にルドルフは公共平和のために地域に基づき領邦をグループ化する試みを行っている。これは、大空位時代に政治的混乱から治安が悪化したことにより、自発的に生じた帝国等族間個別の盟約を���国レベルで整備し直し、安定を図る試みであった。また、都市同盟を結び、帝国と独立した動きを示そうとした有力都市を牽制する意味もあった。 -南三陸町では、3階建ての防災対策庁舎の屋上まで水没するなど町職員42人が、5階建ての公立志津川病院も4階天井付近まで水没し、入院患者107人中72人と職員3人が死亡。また、海抜15mの高台にあった特別養護老人ホーム「慈恵園」も1階が水没して49人が亡くなるなど、850人以上が犠牲となった。女川町は震源に最も近いリアス式海岸の町の一つであり、猛烈な津波が町を襲い、中心部は海抜20mの高さまでほぼ水没、強い引き波により鉄筋の建物の倒壊も目立った。指定避難所であった町立女川病院(女川町地域医療センター)は、海抜16mの高台にあったにもかかわらず、1階が完全に水没した。七十七銀行女川支店では屋上に避難していた行員13人が流され12人が亡くなるなど、犠牲者は約900人であり、浸水域人口に対する犠牲者率は当震災において最大の11.97%であった。一方で5階建ての生涯学習センターでは、屋根付近まで水没したにもかかわらず、鉄扉で密閉され窓もなかったボイラー室に避難した30人弱が無事であった。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -北陸地方整備局管内では、既設ダム・堰が12基、施工中ダム1基の計13基が存在する。日本最長の河川・信濃川を始め阿賀野川、荒川の各水系を一貫管理する関係上、本来は東北地方整備局管内である山形県の横川ダム、福島県の大川ダムや中部地方整備局管内である長野県の大町ダムは北陸地方整備局管理の直轄ダムである。反面北陸地方でも福井県を流域に持つ九頭竜川水系と北川水系は、近畿地方整備局の管轄となっている。事業形態としては河川法第17条における兼用工作物規定に基づき、管内最大規模の直轄ダムである手取川ダムは電源開発、北陸電力、石川県との共同事業で建設され現在は電源開発との共同管理である。また新潟県長岡市に建設された妙見堰は治水目的のほか国道17号バイパスとしての渋滞緩和、東日本旅客鉄道の小千谷・新小千谷発電所の放流水均等化目的も有することから、旧建設省の河川管理部局と道路管理部局および東日本旅客鉄道の三者による共同事業として建設されている。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -石油発見以前のペルシア湾岸では数千年にわたって天然真珠の採取が行われてきたが、その中でもバーレーン近海には好漁場が多く、質の高いことでも古��知られていた。その真珠採取の方法は少なくとも1000年以上の間、ほとんど変化をしなかった伝統的なものであり、多くの潜水夫たちが過酷な採取業に従事していた。バーレーンは周辺諸地域の真珠をボンベイに出荷する際の集積地の役割も果たしており、真珠商人たちも多く集まった。その全盛期は19世紀後半から20世紀初頭のことだったが、1930年代以降、養殖真珠の台頭や世界恐慌の影響などでペルシア湾での天然真珠の採取業は急速に衰退し、バーレーンも大きな打撃を受けた。それと入れ替わるように、バーレーンでは1932年にペルシア湾岸のアラビア半島側で初めて油田が発見されたため、バーレーンは真珠の国から石油の国へと変貌し、真珠採取業に従事する者はほとんどいなくなった。かつての繁栄を偲ばせるムハッラク島の建造物群や周辺の漁場は、2012年に「真珠採り、島の経済を物語るもの」の名前で世界遺産リストに加えられた。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942���中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1946年(昭和21年)、疎開してあった貴重図書を回収、活動を再開する。戦時中は規制されていた活字を求めて、毎日多くの人が来館したという。1948年(昭和23年)には占領軍総司令部民間情報局が静岡CIE図書館(のちにアメリカ文化センターと改称)を設立したが、1953年(昭和28年)、葵文庫に分館として併置された。1956年(昭和31年)には図書館法に従って静岡県立中央図書館葵文庫に名称変更している。 -産駒は日本国外のレースでも活躍を見せ、日本調教馬は日本国外でG1を3勝(ステイゴールド、ハットトリック、ハーツクライが各1勝)した。さらにオーストラリア生まれ(交配は秋〈南半球は春で繁殖シーズンにあたる〉に日本で行われた)のサンデージョイ(SundayJoy)がG1のオーストラリアンオークスを優勝するなど、日本国外生産馬および日本国外調教馬からも複数の重賞優勝馬を輩出した。日本国外で活躍する産駒が出現した影響から、日本国外の有力馬主がセレクトセールでサンデーサイレンス産駒を購買し、さらに繁殖牝馬を日本へ移送して交配させるようになった。1998年にはヨーロッパに生産拠点を置くドバイのシェイク・モハメドが何頭かの繁殖牝馬を日本に送り込んでサンデーサイレンスと種付けさせ、翌年誕生した産駒の内の一頭のサイレントオナーがイギリスのG2・チェリーヒントンステークスを優勝した。2001年に行われた第4回セールでは、ロッタレースの2001を巡ってゴドルフィンとクールモアスタッドの代理人が激しい競り合いを演じた(ゴドルフィンが1億9000万円で落札)。 -ルーマニア政府から食料、燃料、水の補給を拒否されたポチョムキンは、危機的な状況に陥った。海水をボイラーに補給した結果、ボイラーは故障した。フェオドーシヤにポチョムキンが辿り着いたのは1905年6月22日朝6時のことであった。そこではすでに皇帝の正規軍と憲兵団が待ち構えていた。上陸した水兵のグループは銃火を浴びせられた。そのため、艦は再びコンスタンツァに向けて出航した。ポチョムキンが6月24日にコンスタンツァへ到着すると、水兵らは艦をルーマニア政府に引渡した。翌25日には艦は赤旗を降ろし、水兵らは政治亡命者として上陸した。25日正午、ルーマニアの国旗がポチョムキンに掲揚された。第267号水雷艇の乗員は艇の引渡しを望まず、港内停泊地に錨を下ろした。同日、彼らはセヴァストーポリに向けて出航した。6月26日には、コンスタンツァへ黒海艦隊の分遣隊が到着した。翌27日、ルーマニアはロシアにポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還した。7月1日、艦はセヴァストーポリに到着した。 -ヒトラーは1941年には全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを決意した。1941年7月31日にはヘルマン・ゲーリングからの文書でラインハルト・ハイドリヒが「ユダヤ人問題の最終的解決」の委任を受けている。またゲシュタポのユダヤ人課課長アドルフ・アイヒマンによると1941年夏の終わりに彼はハイドリヒに呼び出され「私は今ちょうど親衛隊全国指導者のところから戻ってきたところだ。総統はユダヤ人の肉体的抹殺を命令された」と通達されたという。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスによると1941年8月に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに呼び出され、ヒトラーがユダヤ人絶滅を決定したことを告げられたという。そして1942年1月20日にハイドリヒが主催したヴァンゼー会議において「ユダヤ人問題の最終的解決」が正式に宣言された。 -主流の研究者達によって、『テンペスト』は1610年に書かれた難破事件に関する記録から着想を得たものであることが示されている。1609年、アメリカ植民地へ向かうイギリス船SeaVenture号が嵐に巻き込まれて難破し、消息を絶った。乗員は全員死亡したものと考えられていたが、翌年になって無事に帰還し、大きな話題となった。生存者ウィリアム・ストレイチーによる書簡(出版されたのは1625年)の写しやシルヴェスター・ジョーダンの『バミューダ島発見記』("ADiscoveryoftheBermudas"、通称「バミューダ・パンフレット」)が1610年に広く出回っていたので、嵐の描写の類似などからシェイクスピアがこれらを参照していたというのが定説になっている。しかし、文学者のケネス・ミューアが「私が思うに、バミューダ・パンフレットがこの作品に及ぼした影響の大きさは誇張されているのではないか」と疑義を表明したのである。ミューアは、ストレイチーの報告書よりも前に書かれたセント・ポールによるマルタでの難破報告書と『テンペスト』との間で共通する13の主題や言い回しを引用している。加えてオックスフォード派は、『テンペスト』に登場する言葉やイメージの引用元として、リチャード・エデンの"TheDecadesoftheNewWorldeOrWestIndia"(1555年)やエラスムスの"Naufragium"("TheShipwreck"、1523年)の存在を強調する。これらはいずれも『テンペスト』に影響を与えたかもしれない資料として従来から知られていたが、オックスフォード派はこれこそが種本であったということを証明するために新しい調査を進めている。 -貨車での遭遇以降、しばらくの間人食いライオンはツァボを避けていてパターソンたちを襲うような行動はとらなかった。パターソンはこの期間中に、ある考えを思いついた。それは、2-3人の労働者を危険な目には絶対遭わせずに「おとり」に使うような罠を作れば人食いライオンを捕えることができるのでは、というものであった。パターソンは早速罠の作成にとりかかった。材料となったのは、枕木やトロッコのレール、電線の切れ端や重い鎖などで、彼の考えでは十分に頑丈な出来栄えであった。罠はおとりとなる人間用の部屋と、ライオンを閉じ込めるための部屋に分けられ、2つの部屋の間は枕木とレールを利用して作った堅牢な鉄格子がはめ込まれていた。ライオン用入り口は、ネズミ捕りと同じ要領で餌となるおとりを捕まえなくてもドアが閉まるように工夫されていた。パターソンはライオンの目を欺くため、罠の上にテントを張り、さらに周囲を特別に強力なボマで囲んだ。最初の2-3日はパターソン自身がおとり役となって罠に入っていたが、なかなか眠れないうえに蚊の襲撃を受けただけで特段の変事はおこらなかった。 -文人・学者の保護者となったウルグ・ベクは自身も優れた天文学者・数学者・文人であり、統治者としての事績よりも学者としての事績を高く評価されている。ウルグ・ベクによって統治されたサマルカンドでは王族や有力者による建設事業が盛んに行われ、町に集まった多くの学者が天文学、数学、暦学などの分野で成果を挙げた。ウルグ・ベクの治世はトルキスタン文化の黄金期と呼ばれている。 -ユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々カルフォルニア州で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスやフロリダ州に移り、後に仕事の関係でイリノイ州シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むミズーリ州マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。しかし、父親のイライアスはこの地においても農業に失敗して、数年後に家族を連れて同地を去った。イライアスとフローラは息子4人と娘1人を儲けたが、父親のイライアスは子供達に対して愛情に欠けた厳格な態度で接しており、ウォルトとロイが1920年代に成功をおさめても、彼らに対して冷やかな態度は変わらなかった為、ディズニー親子は長年距離を置いて交流はしなかった。イライアスはリタイアするまで転職を重ねたが、結局結婚する前に金鉱で働いて小金を得た以外は、どの仕事に就いても成功出来ず、妻のフローラに苦労を掛け、1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。ディズニー一家の畑の近くにはサンタ・フェ・パシフィック鉄道が走っており、その鉄道の走る音が好きだった。アルバイトで、鉄道構内で新聞やポップコーンを売る仕事をしていたこともあ���。後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていたが、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった。少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。 -以上の理由から、地理学的に定められる実際の南極点は継続的に測定され、毎年元旦に「ジオグラフィック・ポール」という標識が付け替えられる。ジオグラフィック・ポールは簡単な杭を打って示す。そばにはアメリカ合衆国の星条旗と、添えられた立て看板がある。看板にはロアール・アムンセンとロバート・スコットの業績を讃えて彼らがそれぞれ南極点に到達した日付と短い解説、そして南極点の標高が記されている。過去の標識は観測日を付けて残されるため、氷原に点々と打たれた杭から南極点の移動が確認できる。 -スコットランド有数の名族であるキャンベル氏族の長だった第8代アーガイル公ジョージ・キャンベルは、ローズニーズ・テリアとして知られる白い被毛のスコティッシュ・テリアを繁殖させていた。また、白い被毛を持つ別系統のスコティッシュ・テリアとして、ファイフ出身のドクター・アメリック・エドウィン・フラクスマンが維持していたピトンウィーム・テリアの系統がある。フラスクマンはスコティッシュ・テリアには白い被毛の系統は不要であるとして生まれた仔犬を処分していたが、もともとスコティッシュ・テリアには白い被毛の形質が受け継がれており、一種の先祖がえりで白い被毛をもつスコティッシュ・テリアが生まれるのではないかと考えるようになっていった。そしてフラクスマンは白い被毛を持つスコティッシュ・テリアの計画的作出を試みるようになり、暗色の被毛に比べて低い位置に貶められていた白いスコティッシュ・テリアの復権に力を注いだ。19世紀の終わりにはフラクスマンが出陳した白い被毛のスコティッシュ・テリアが、ドッグショーで高く評価されることもあった。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -締太鼓と鉦(当たり鉦)を組み合わせたチンドン太鼓などの演奏、および諸芸や奇抜な衣装・仮装によって街を廻りながら、依頼者の指定した地域・店舗へ人を呼び込む。また集客した上で宣伝の口上やビラまきなどで商品の購入を促す。街を廻りながら行う宣伝を「街廻り」、移動せず店頭で行う宣伝を「居付き」という。 -香住駅の標高は7.0m,浜坂駅の標高は7.3mとほぼ同じ高さにあるが、その間で山を越えなければならない。長大トンネルを避けるためには、できるだけ山に登って標高の高いところに短いトンネルを掘って抜ける必要がある。この付近では河川の多くが南側から北の日本海へ向かって流れているので、これらの川筋に沿って山に登ることはできなかった。しかし桃観峠(とうかんとうげ)では、東側に西川が流れ出して余部で海に注ぎ、西側に久斗川が流れ出して浜坂で海に注いでいた。そこで、これらの川筋を利用して桃観峠のできるだけ高い位置に登って、峠の下の標高約80mの地点に桃観トンネル(全長1,992m)を建設することが考えられた。 -国際オリンピック委員会は、無関係の会社や店舗などの組織が「オリンピックを応援する」などと言うことは、実際は応援では無くオリンピックの知名度等を不正に利用する「アンブッシュマーケティング」であると称し、禁止をしている。その理由としてオリンピックの公式スポンサーのみが排他的な商業的利用権が与えられていると述べている。 -ゴジラは1954年に第1作が公開されて以降、半世紀以上に亘って製作されている怪獣映画である。演技者がぬいぐるみ(着ぐるみ)に入って演じる手法を主体としており、この手法は以後、日本の特撮映画やテレビ特撮番組の主流となった。怪獣や怪獣同士の格闘のみならず、逃げ回る住民や攻防する軍隊等の周辺の人間描写も毎回描かれ好評を得ている。日本のみならず海外でも上映されて人気を呼び、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに日本のキャラクターとしては唯一の例として登録されている。 -第二次世界大戦以降、タンカーは大きさの点で大きく成長した。第二次世界大戦期の典型的なT2型タンカーは全長532フィート(162m)で載貨重量トン16,500トンの容量であった。現代の超大型原油タンカー(ULCC:UltraLargeCrudeCarrier)は、全長1,300フィート(400m)、載貨重量トン500,000トンにもおよぶ。いくつかの要素がこの成長をもたらした。中東における戦闘がスエズ運河の通航を中断させたことも要素であるし、また中東の製油所が国有化されたことも要素である。船主間の猛烈な競争もまた原因となった。しかしこうした要素が無かったとしても、単純な経済的原則で、石油タンカーが大きいほどより安く原油を輸送でき、伸び続ける石油需要に応えることができるということがあった。1958年にアメリカの船舶関係の有力者であるダニエル・K・ルードヴィヒが満載排水量10万トンの壁を破った。彼の「ユニバース・アポロ」(UniverseApollo)は、同じルードヴィヒの所有船でそれ以前の記録を保持していた「ユニバース・リーダー」(UniverseLeader)から23パーセント大型化して104,500トンとなった。 -日本語の敬語体系は、一般に、大きく尊敬語・謙譲語・丁寧語に分類される。文化審議会国語分科会は、2007年2月に「敬語の指針」を答申し、これに丁重語および美化語を含めた5分類を示している。尊敬語は、動作の主体を高めることで、主体への敬意を表す言い方である。動詞に「お(ご)〜になる」を付けた形、また、助動詞「(ら)れる」を付けた形などが用いられる。たとえば、動詞「取る」の尊敬形として、「(先生が)お取りになる」「(先生が)取られる」などが用いられる。語によっては、特定の尊敬語が対応するものもある。たとえば、「言う」の尊敬語は「おっしゃる」、「食べる」の尊敬語は「召し上がる」、「行く・来る・いる」の尊敬語は「いらっしゃる」である。謙譲語は、古代から基本的に動作の客体への敬意を表す言い方であり、現代では「動作の主体を低める」と解釈するほうがよい場合がある。動詞に「お〜する」「お〜いたします」(謙譲語+丁寧語)をつけた形などが用いられる。たとえば、「取る」の謙譲形として、「お取り���る」などが用いられる。語によっては、特定の謙譲語が対応するものもある。たとえば、「言う」の謙譲語は「申し上げる」、「食べる」の謙譲語は「いただく」、「(相手の所に)行く」の謙譲語は「伺う」「参上する」「まいる」である。なお、「夜も更けてまいりました」の「まいり」など、謙譲表現のようでありながら、誰かを低めているわけではない表現がある。これは、「夜も更けてきた」という話題を丁重に表現することによって、聞き手への敬意を表すものである。宮地裕は、この表現に使われる語を、特に「丁重語」と称している。丁重語にはほかに「いたし(マス)」「申し(マス)」「存じ(マス)」「小生」「小社」「弊社」などがある。文化審議会の「敬語の指針」でも、「明日から海外へまいります」の「まいり」のように、相手とは関りのない自分側の動作を表現する言い方を丁重語としている。 -日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。さらに、2020年の夏季オリンピックの開催地に東京が選出され、2度目の開催が決定している。オリンピックの開催年は、全国高等学校野球選手権大会の日程が調整されることがある。1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会ではバルセロナオリンピックの終了を待って8月10日から開催され、逆に2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会では北京オリンピックとの重複を可能な限り避けるために大会史上最も早い8月2日から開催された。 -自動車が本格的に普及するまでの軍隊では騎兵、大砲曳馬、輜重車曳馬と馬は重要な戦力だったが、日清戦争、義和団の乱、日露戦争と日本軍が大陸に進出するたびに、日本馬の体格の貧弱さと気質の荒さが露呈した。諸外国の軍人からは「日本軍は馬のようなものに乗っている」「日本軍の馬は家畜ではなく野獣である」などと馬鹿にされ、日本軍自身も日本馬の質の低さに頭を抱えた。特に日本にとっての大戦である日露戦争で、日本の馬の劣悪さは国運さえ揺るがしかねないものと認識された。日露戦争中の1904年(明治37年)4月、明治天皇は諸官に馬匹の改良を命じた。すぐさま馬政を統括する馬政局の設置計画が進み、馬政の諸計画がなされ、1906年(明治39年)6月には馬政局は設置され馬政30年計画が推し進められた。その過程で競馬が注目される。良質な洋種馬と繁殖牝馬を輸入し良馬を量産する動機付けには、軍馬の需要だけでは足りなかったのである。良い馬を量産するには馬産農家の意欲が必要、馬産農家に意欲を出させるには良馬の価格を上げ馬産で儲かることが必要、良馬の価格を上げるには高く買う者が必要、良馬を高く買える者を作るのは馬券発売を伴い利益が望める競馬が最適という論理である。実際に当時の馬産地青森・岩手・宮城での馬の平均価格は池上競馬以前の1905年(明治38年)には1頭が35〜42円だったのに対し、馬券黙許時代の最盛期の明治41年には60〜78円に上昇し、馬券再禁止後の補助金競馬時代の1909年(明治42年)���は39〜70円になっている。農商務省、陸軍、宮内省を中心に馬券発売許可への意識が醸成されていく。1905年(明治38年)秋には馬券黙許の方針は内定していたと言われている。その背景には横浜競馬場ですでに馬券が「黙許」されていた前例も影響している。 -1926年3月24日、文部省は日本女子体育専門学校(体専)を認可した。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった。体専の目的は「女子ニ高等ノ体育理論及実際ヲ教授シ、以テ体操科教員ヲ養成スルコト」と定めた。昇格に伴い、修業年限は3年に延長されたが、2年制の専修科も並置された。トクヨの個人経営とはいかなくなり、財団法人日本女子体育専門学校(以下「財団」)を設立し、学校は財団の経営に切り替わり、理事長にトクヨが就任した。専門学校昇格と前後して、1927年にトクヨは「選手育成の試み」を開始した。1928年アムステルダムオリンピックで人見絹枝が800mにて銀メダルを獲得すると、日本各地の女学校に現れた「人見二世」は人見に憧れて続々と体専に入学した。1932年ロサンゼルスオリンピックには卒業生1人、在校生2人が出場、続く1936年ベルリンオリンピックにも卒業生1人、在校生2人が選ばれ、卒業生の松澤初穂がコーチ兼トレーナーとして派遣された。こうしてアスリートが次々と入学してくるようになった体専は明治神宮競技大会でも活躍が目立ち、「女子スポーツのメッカ」と呼ばれるほどになった。 -サンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし「神の人」と称されるようになり、神秘主義に傾倒するミリツァ大公妃とアナスタシア大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになり、1905年11月1日に大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見した。当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、アレクサンドラも神秘主義に傾倒していた。1906年10月、ニコライ2世の要請を受け、爆弾テロにより負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒に当たり、1907年4月にはエカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒に当たった。医師たちはラスプーチンの能力に懐疑的だったが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善した。ギラードと歴史家エレーヌ・カレール=ダンコース、ジャーナリストのディアムルド・ジェフリーズは、ラスプーチンの治療法は1899年以降流通したアスピリンの投与による鎮痛治療だったと推測している。 -憲法改正論議が沈静化した後、海外活動を円滑化する為に憲法解釈を用いた集団的自衛権の整備が第2次安倍内閣で推進されると、宮崎は日本外国特派員協会での記者会見で安倍晋三首相を「偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思います」「でも残らないでしょう」と厳しく批判した。現行憲法は15年間にわたる戦争とその戦禍を生き延びた人々にとって「光が差し込むような体験」であったと高く評価している。いわゆる「押し付け憲法論」であるという批判に対しても、1928年の不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)の精神を引き継いだものであり、特異な内容でもなければ決して押し付けでもないと述べている。2016年1月28日に東京都港区で開かれた「ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議」で宮崎は、「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について、自宅から歩いて15分程にある全生園を訪問し、園内資料館で展示されていた脱走防止用の「園内通用券」などを見て衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。作品を真正面からやらなければならない」と語った。 -非番で搭乗していたTCA機長は、ユナイテッド航空の乗員訓練を信頼しており、当初は協力を申し出るのを遠慮していた。しかし、エンジン1基停止時の飛行手順と異なる飛行状況だったことや、先任客室乗務員から深刻な状況であることを聞き、手助けを申し出た。15時29分、先任客室乗務員がコックピットに入り、DC-10型機のTCA機長が搭乗していること、そして彼が協力の意思があることを伝えた。機長は直ちにTCA機長をコックピットに招くよう指示をした。それから30秒も経たないうちに、TCA機長はコックピットに入った。TCA機長が到着した時、機長と副操縦士は精一杯の力で操縦桿を左に切っていたが、機体は右旋回をしていた。コックピット内は緊迫しており、機長が挨拶し乗員を紹介したが、その間、誰もTCA機長の方を向く余裕もなかった。機長はTCA機長に状況を説明し機体の制御手段が全くないと伝えた。機長は、客室の窓から外部の損傷がないか、そして操縦翼面が操作に反応しているか確認するようTCA機長に依頼した。外観確認を終えたTCA機長はコックピットに戻り、内側エルロンは無傷だが僅かに上向きで固定されていたことと、スポイラーが下げ位置でロックされていることを報告した。主操縦翼面は動作していなかった。機長は、TCA機長にエンジンのスロットルの制御を指示した。これにより、機長と副操縦士が他の操作や管制塔との通信などに専念できるようになった。スロットルは機長席と副操縦士席の間のペデスタル(中央制御卓)にある。TCA機長はペデスタルの後ろにひざまずいてスロットル・レバーの調整を担った。TCA機長はエンジン出力でピッチとロールを制御しようと試みた。機体は常に右旋回する傾向があったほか、安定したピッチ姿勢を維持するのが難しくなっていた。TCA機長は第1エンジン(左翼側)と第3エンジン(右翼側)の推力を対称にできないと考え、両手でそれぞれのレバーを操作した。 -1984年春、三沢は越中とともにメキシコへ遠征に出発した。現地で越中は『サムライ・シロー』、三沢は『カミカゼ・ミサワ』のリングネームで試合に出場していたが、数か月が経ったある日、三沢は馬場から国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ直ちに帰国するよう命じられた。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。三沢は初代タイガーマスク(佐山聡)のファンから二番煎じ扱いされるのではと抵抗を感じたが、すでに2代目タイガーマスクとしてデビュー戦のスケジュールは組まれていた。 -総力戦も第一次世界大戦より徹底し、国民はただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者への国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、人類史上初の原子爆弾投下を含め、民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、自国および占領地においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的大量虐殺を戦争と並行して進め、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され、その途上で200万人が死亡している。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。 -これによれば只見川と阿賀野川に連続して15箇所のダム式発電所を建設、既設5発電所の出力を増強させることで新規に増加する発電出力は235万キロワットに及び、年間増加発電量は55億キロワット時にも上るとしてその開発の有用性を主張した。この中で根幹事業として只見川最上流部に4箇所、伊南川に1箇所の巨大ダムを建設し大容量貯水池を建設するとした。ここにおいて初めて奥只見ダムと田子倉ダムの二大ダム計画が登場した。また尾瀬原ダムはこの計画で揚水発電から一般水力発電に修正され、利根川の分水も無くなりダムの規模も縮小された。この案は後に「只見川本流案」となる。「本流案」は只見川・尾瀬原・利根川総合開発計画案を審議する「只見川・尾瀬沼・利根川総合開発調査審議会」に1948年提示されたが、同時期新潟県は只見川の豊富な水量を信濃川水系に導水して灌漑(かんがい)に役立てようと考え、「只見川分流案」を引っさげ、福島県と対立した。また「尾瀬分水案」を巡って福島県は群馬県と争うなど、只見川を巡って河川管理者である福島・新潟・群馬三県が争う三つ巴の構図が生まれた。 -1918年には、ニコラエフスクにも赤軍が進駐し、ソビエト政権が成立していた。しかし赤軍は、サハリン州(当時、ニコラエフスクはサハリン州に含まれていた)全体で300人ほどの少数にすぎず、日本軍の上陸によって追われ、やがてロシア海軍提督アレクサンドル・コルチャークによる臨時全ロシア政府に代わった。「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を呼んだ」という資料も、ソ連側にはあり、日本側も「尼港市民と内外居留民(イギリス人などもいた)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願した」と記している。 -現代の「八百屋お七」の物語では落語などを中心に当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだったとし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するものが多い。人情話としては面白いが専門家からは疑問が呈されている設定であり、またこの設定は西鶴などの初期の八百屋お七物語には見られない。放火犯について15歳以下ならば罪を減じて遠島にする規定が明確に設けられたのはお七の死後40年ほどたった徳川吉宗の時代享保8年(1723年)になってである。ただし、享保8年(1723年)以前にも年少の殺人犯については死罪は避けようという諸規定は存在したが、放火犯については明確な規定は無く、また『天和笑委集』第10章では13歳の放火犯喜三郎が火刑になった記述がある。 -アメリカでは、着氷性の雨または着氷性の霧雨によって道路等の凍結で交通状況が悪くなることが予想される場合に「WinterWeatherAdvisory」、雨氷が1/4インチ以上積もることが予想される場合に「IceStormWarning」が、アメリカ海洋大気庁(NOAA)の気象局(NWS)によってそれぞれ発表され、警戒が呼びかけられる。カナダでは、7時間以上着氷性霧雨が降り続くことが予想される場合や大量の着氷性霧雨が降ることが予想される場合は「SpecialWeatherStatement」に付随する注意情報または「FreezingDrizzleWarning」が、1–4時間以上着氷性の雨が降り続くことが予想される場合や2mm以上雨氷が降り積もることが予想される場合は「FreezingRainWarning」が、カナダ環境省の気象局(MSC)によってそれぞれ発表される。日本では、着氷全般(雨氷以外の霧氷・樹氷・粗氷・樹霜、融雪の再凍結なども対象としている)に注意を呼びかける着氷注意報というものがあり、雨氷の発生が予測される場合に出される注意報・警報等ではこれが最も重い。着氷注意報の発表基準は都道府県や地域によって異なり、(24時間降雪量などが基準になる)大雪警報発表時に気温が−2–2°Cとなる場合(大雪注意報まで含めたり、湿度90%以上という条件を付加したものもある)、大雪注意報発表時に気温が-2°C以上となる場合、著しい着氷が予想される場合、気温0°C付近で並以上の雪が数時間以上降り続くと予想される場合、船への着氷のみを対象に発表する場合等がある。また、着雪注意報という類似の注意報があり、この基準のみを定めて着氷注意報の基準を定めていない所や、両方とも定めていない所もある。 -フリードリヒ2世はザクセンや西プロイセンに野心を持っていたが、侵略戦争を起こした場合、フランスの支持を得ることは期待薄であった。しかし、ハノーファー併合を視野に入れてフランスに味方すると、今度はオーストリアとロシアの攻撃に晒される可能性がある。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はポーランド王も兼ねていたが、ザクセンとポーランドの間にはブランデンブルクとシュレージエンがあった。両国とも大国に成長する可能性は低く、ザクセン軍は2万3千人しかいない(うち3千はポーランドに駐留)ためプロイセンとボヘミアの間の緩衝国に成り下がっていた。ポーランドはリトアニアと連合していたが、国内で親仏派と親露派が分裂していた。このため、プロイセンではオーストリアからボヘミアを強奪してザクセンと交換する作戦もあった。 -子持山はきわめて典型的な成層火山である。ただし北関東の火山としては規模はかなり小さく、山体の基底部は南北およそ9キロメートル、東西はおよそ7.5キロメートルである。山体の体積は6立方キロメートルと見積もられている。山頂は「笠上」と呼ばれており、一等三角点「子持山」が設置されている。標高は1296.2メートル。 -ラムセスの時代に行われた公判を書写したパピルスにより、メディネト・ハブで行われた祝宴中に王室の後宮(ハレム)によるラムセスに対する暗殺事件があったことが知られている。その事件はラムセスの妻の1人であるティイが教唆して、自らの息子のペンタウアーに王権を相続させるというものであった。 -しかしゲーリングは、観測員だけでは満足していなかった。1915年7月から9月にかけてフライブルクでパイロットとしての研修を受け、1915年9月からいよいよ第25野戦飛行隊所属の戦闘機パイロットになる。1915年10月3日に双発戦闘機のパイロットとして初出撃した。 -1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 -ノルマンディー上陸作戦は史上最大の海上侵攻作戦であり、上陸作戦に約5,000隻、護衛艦艇289隻、掃海艇277隻が投入された。連合軍は、ソ連軍の進撃を遅らせるおそれがある大部隊を東部戦線から引きはがすことで、ヨーロッパにおける戦争を早く終わらせようとした。西ヨーロッパに新たな戦線ができることは、第一次世界大戦での二正面作戦の再現を恐れるドイツ軍にとって、巨大な物理的一撃であった。また、ノルマンディー上陸は、何人かの歴史家が冷戦の開始と考える、ソ連と西側諸国との「ヨーロッパでの競争」の開始を告げた。 -その後、セザンヌはパリとエクスの間を行ったり来たりした。1876年の第2回印象派展には出品していない。辛辣な批評に自信を失って出品を断ったとも言われるが、サロンに応募を続けるセザンヌの姿勢が、グループ展に参加するからにはサロンに応募すべきではないというエドガー・ドガの方針に反したためとも言われる。絵画収集家ヴィクトール・ショケの励ましもあり、1877年の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点の合計16点を出品した。ここには、既に、肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語的構成図という、セザンヌが扱う主題が全て含まれていた。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせればパルテノンを批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレのように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた。ゾラも、「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に「ポール・セザンヌ氏は確かに、このグループで最高の偉大な色彩画家である」との賛辞を書いている。 -クーデターでパパンドレウの政治的実権を奪うことに成功はしたものの、内閣の実権を握っていたのは官房長官として入閣していたパパドプロスであり彼の署名を得られないと政策の一つも実行できなかった。こうした実態に不満を抱いていたコンスタンティノス2世は、1967年12月13日に軍の一部と組んで首相コリアスの支持を得た上で逆クーデターを仕掛けるためにギリシャ北部のテッサロニキで王室支持派を集めようとした。しかし、陸軍が軍事政権への忠誠を誓っていたため失敗に終わり、コンスタンティノス2世は家族とコリアスらとともにローマへ亡命した。こうして1864年以来続いた『王冠を戴いた民主主義』は終焉を迎える事となった。 -飛鳥寺(法興寺)は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。発願から創建に至る経緯は『日本書紀』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(醍醐寺本『諸寺縁起集』所収、以下『元興寺縁起』という)、ならびに同縁起に引用されている「露盤銘」と「丈六光銘」に記載がある。福山敏男は、『元興寺縁起』の本文には潤色があり史料価値が劣るとする一方で、「露盤銘」は縁起本文よりも古い史料であり信頼が置けるとしている。 -ウィティギスは後背の安全を確保すべく諸都市と城塞の守備兵を強化した上で、アリミヌム奪回に向かった。この地にはベリサリウスの精鋭を含む2,000の騎兵隊が占拠しており、ベリサリウスはこれを歩兵と交代させ騎兵隊を自らの側において活用可能にしようとしたが、指揮官のヨハネスはこの命令を拒否してアリミヌムに留まった。この失策は間もなく東ゴート軍が到着して明白になる。最初の強襲は失敗したものの、彼らは僅かな兵糧しかない都市の包囲を進めた。同時に別の東ゴート軍がアンコーナへ進軍した。彼らは野戦で東ローマ軍を打ち破ったが、結局、アンコーナの城壁突破には失敗している。 -震災の影響により、東北・北関東太平洋岸に立地する2製油所(JX日鉱日石エネルギー仙台製油所、鹿島石油鹿島製油所)および16油槽所のすべてが稼働停止または出荷不可能状態となり、京浜・千葉地区においても7製油所の内4製油所が稼働を停止し、国内原油処理能力(約450万BD)が約3割(約140万BD)減少した。加えて、東北6県でサービスステーション約220箇所が被災により営業困難となり、また、石油製品輸送用タンクローリー約150台被災するなど多大な被害が発生したことにより、被災地は深刻な燃料不足に陥った。政府は当初石油の生産量の方に気を取られており、石油の物流の問題への対応が遅れることとなった。3月17日になり海江田万里経済産業大臣は「タンクローリーを西日本から300台移す」と発表。同日、JR貨物によりJX日鉱日石エネルギー根岸製油所から日本海側の鉄道路線を利用し盛岡貨物ターミナル駅への石油列車の運行が行われる。3月23日には国鉄DD51形ディーゼル機関車二重連での磐越西線経由による郡山オイルターミナルへの石油輸送も行われた。3月19日には仙台港に入港した海上自衛隊の輸送艦おおすみが灯油入りドラム缶70本(14kl)を輸送したほか、3月21日には仙台塩釜港塩釜港区の油槽所にオイルタンカーの第一船が入港している。また3月23日までに被災10港で暫定の航路が確保され、海上からの緊急物資の搬入が可能となった。 -サンズはスノーフルで出会うスケルトン兄弟の兄だ。怠惰な性格で、骨に関するギャグをよく言う。地底の見張り番をしているが、居眠りをしていることも。彼のセリフテキストは全て小文字かつ「ComicSans」というフォントのみで表記されており、名前の由来にもなっている。虐殺ルートでのみ実質的な最終ボスとして主人公の前に立ちふさがる。2019年9月5日に大乱闘スマッシュブラザーズSPECIALにMiiファイター射撃のMiiコスチュームとして登場した。パピルスはスケルトン兄弟の弟だ。几帳面で、やや尊大とすら言えるたいへんな自信家だが、天然ボケで心を鬼に出来ない優しい性格の持ち主。人気者になるため、アンダインのロイヤルガードにスカウトしてもらおうとしているが、優しすぎるその性格のため何度も断られている。ニンゲンを捕まえればロイヤルガードに入れてもらえるだろうと考え、主人公を捕まえようと立ちふさがるが、その性格のため本気を出してくることはない。彼のセリフテキストもサンズのように独自の表記がなされており、全て大文字かつ名前の由来でもある「Papyrus」とい��フォントになっている。日本語版では彼のみ縦書きになる。 -学名の属名(Strix)はフクロウを意味し、種小名の(uralensis)はウラル地方を意味する。和名は、毛が膨れた鳥であることに由来する、鳴き声に由来する、昼隠居(ひるかくろふ)から転じたなどの説がある。異名として、不幸鳥、猫鳥、ごろすけ、ほろすけ、ほーほーどり、ぼんどりなどがある。古語で飯豊(いひとよ)と呼ばれていた。日本と中国では、梟は母親を食べて成長すると考えられていた為「不孝鳥」と呼ばれる。日蓮は著作において何度もこの点を挙げている。「梟雄」という古くからの言葉も、親殺しを下克上の例えから転じたものに由来する。あるいは「フクロウ」の名称が「不苦労」または「福老」に通じるため縁起物とされることもある。広義にフクロウ目の仲間全体もフクロウと呼ばれている。 -また、同ミュージカルの演出の西川徹は、ごく普通の少女が人々の心を動かす作品を作り上げたことに惹かれたといい、「愛華さんの純粋な12年間は、生きること、人間とは何かということを教えてくれます」と語った。地球環境平和財団の事務局長である矢野等子は「子どもとは思えない完ぺきな内容です。自然の素晴らしさや命の大切さをわかりやすく説いていることが、人々に訴えるのでしょう」と話した。1996年(平成8年)3月発売のアニメビデオ作品『地球の秘密』で、地球の精霊「アース」の声優を担当した薬師丸ひろ子は、「愛華さんのメッセージを今後も語り継いでいかなくては、という思いで仕事をしました」と語った。 -1885年(明治18年)に写真家の江崎礼二に個人レッスンを頼み、1年半の間、江崎の助手(浅草松林堂の今津政二郎?)を1日おきに招き、熱心に写真を学んだ。1889年5月には写真家の江崎、小川一真、小倉倹司や、菊池大麓、石川巌、中島精一、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、また1887年に来日したイギリス人技師で写真家のウィリアム・K・バートンらとともに「日本寫眞會」を発足する。バートンは日本の写真家として小川と清兵衛をイギリスの雑誌などで紹介した。 -ロンドン自然史博物館は、イギリスのロンドン・サウスケンジントンにある博物館だ。大英自然史博物館、英国自然史博物館などとも呼ばれ、自然史系博物館としてはイギリス最大であるのみならず、世界でもトップクラスである。大英博物館の一部として始まり、比較的最近まで正式名称に大英博物館(BritishMuseum)と冠していたため、自然科学分野で単に大英博物館といった場合、ブルームズベリーにある本来の大英博物館ではなくこの博物館のことを指していることがある。最寄り駅はロンドン地下鉄のサウス・ケンジントン駅で、駅からはエキシビション・ロードの入口のすぐ近くまで地下道が延びている。全館入場料無料である。 -ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。 -幕府は安政2年(1855年)に長崎海軍伝習所を開き、文久元年(1861年)には長崎製鉄所となり、製鉄所、造船所に当たる設備を持つようになっていた。しかし長崎は江戸から遠い九州にあって外様大名の勢力に囲まれており、また設備的にも本格的なものにはほど遠く、江戸に近い場所で本格的な製鉄や造船の機能を備えた施設の建設が望まれるようになった。文久2年(1862年)、幕府は長崎でオランダ人技師から江戸近辺で製鉄所の建設を開始するに当たり、アドバイスを受けた。オランダ人の技師からは、当時の長崎製鉄所の設備は貧弱であり大規模な船の建造や修復は出来ないこと、そしてフランスのトゥーロン、シェルブールなど、当時のヨーロッパ最先端の製鉄、造船施設のあらましについて説明を受けた。さらに江戸の周辺は水深が浅く、また河川からの砂の流入で砂底のため、製鉄所の建設には適さないとの意見を受けた。同年、幕府は横浜から三浦半島付近を視察して製鉄所の適所を探す試みも行った。しかし文久2年8月21日(1862年9月14日)、生麦事件が発生し、幕府と諸外国との外交関係が緊迫する中、江戸に近い場所での製鉄所建設計画はいったん中断された。 -バルト三国の独立を求めた闘争は1991年に結実し、各国の独立が回復してソ連から離脱した後は、その半年後のソ連の最終的な分裂を加速した。ロシア軍は、1993年8月にバルト三国からの撤退を開始した(初めはリトアニアから)。最後のロシア軍部隊は1994年8月にバルト諸国から撤退している。ロシア政府は1998年8月まで、スクルンダ-1のレーダー基地を借りる契約を結んでいた。最後のロシア軍部隊は1999年10月にスクルンダ-1から撤退している。 -前述のように那智には7ヶ所の本願所があり、七本願・七ツ穀屋などと呼ばれる。一つの社寺にこれほどの本願所が伴う例はほかになく、大きな特徴となっているが、現存するのは妙法山阿弥陀寺と補陀洛寺(補陀洛山寺)の2ヶ所に過ぎない。このように大規模な本願所が成立する背景には、西国三十三所の隆盛や那智参詣曼荼羅に象徴される多数の参詣者と、そこでの多量の散銭があると見られる。 -没落したスペインがルイ14世の最初の標的となった。ルイ14世はスペイン植民地に対する野心を持つイギリス、さらには神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結んでスペイン帝国の分割を交渉する。オランダとも防御・通商同盟を結び来たるべき対スペイン戦争に備えた。1665年にルイ14世の義父であるスペイン王フェリペ4世が死去すると、後妻が生んだ王太子が即位してカルロス2世となった。王妃マリー・テレーズの持参金がスペインからまったく支払われていない上にフェリペ4世の遺言ではカルロス2世が死去した場合、神聖ローマ皇帝レオポルド1世の婚約者マルガリータ・テレサがスペイン領を相続することになっており、ルイ14世を苛立たせた。これに対してルイ14世はブラバントはカルロス2世の異母姉である王妃マリー・テレーズが継承するべきものであるといわゆる「王妃の権利論」を掲げて領土の割譲をスペインに要求した。 -この後、バンベルクは、ドイツ・ロマン主義の発展に重要な役割を演じた。ヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダーはこの潮流の最初期の作家の一人であり、ルートヴィヒ・ティークと共同で著した"HerzensergießungeneineskunstliebendenKlosterbruders"(『芸術を愛する修道士の告白』)をはじめとするバンベルク滞在中の諸作品により、その発展に寄与した。 -大会の大規模化とともに開催に伴う開催都市と地元政府の経済的負担が問題となったが、ユベロスが組織委員長を務めた1984年のロサンゼルス大会では商業活動と民間の寄付を本格的に導入することによって、地元の財政的負担を軽減しオリンピック大会の開催を継続することが可能になった。それを契機とし、アディダスや電通などを始めとした企業から一大ビジネスチャンスとして注目されるようになった。元々、オリンピックは発足当初からアマ選手のみに参加資格を限って来たが、旧共産圏(ソ連やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回IOC総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除した。さらに観客や視聴者���期待にも応える形で、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった(当初はテニスなど限られていたが、後にバスケットボール、サッカー、野球などに拡大)。1984年ロサンゼルス大会の後、フアン・アントニオ・サマランチ主導で商業主義(利権の生成、放映権と提供料の高額化)が加速したと言われたことがあり、またかつて誘致活動としてIOC委員へ賄賂が提供された事などが問題になったことがある。さらには、年々巨大化する大会で開催費用負担が増額する傾向があったがジャック・ロゲ会長の代になり、これまで増え続けていた競技種目を減らし、大会規模を維持することで一定の理解を得るようになった。なお、現在のIOCの収入構造は47%が世界各国での放送権料で、また45%がTOPスポンサーからの協賛金、5%が入場料収入、3%がオリンピックマークなどのライセンス収入となっており、このうち90%を大会組織委員会と各国オリンピック委員会、各競技団体に配布する形で大会の継続的運用を確保している。 -1949年、美喜子が30歳の若さで急逝し、トクヨの資産は夫の二階堂直富が継承した。学制改革に伴い、体専は1950年に日本女子体育短期大学に改組し、学長に清寿、副学長に真寿が就任した。この時、財団も学校法人二階堂学園に改組したが、その手続き過程で体専の校舎がトクヨの個人名義になっており、これを継承した直富に校舎を譲ってもらわねば学校経営が立ち行かなくなるという波乱があった。日女体短への完全移行は1951年で、同年に体専としての最後の卒業生26人を世に送り出した。日女体短は、トクヨが体操塾を開塾した4月15日を開校記念日と定めて休講とし、学生一同を連れてトクヨの墓に参る日とした。その後、日女体短は東京女高師時代のトクヨの教え子である戸倉ハルを教授に迎え入れ、戸倉を中心に4年制大学設立を推進し、1965年に日本女子体育大学を開学した。 -A330の販売は、1980年代後半にまとまった受注を集めた後は、下火になっていた。航空会社は長大な航続距離性能を持つ双発機を求めるようになっていた。また、姉妹機となるA340は1993年3月に路線就航を開始していたが、その後、段階的に最大離陸重量が引き上げられて航続距離性能が強化されていた。エアバスではA330とA340との中間の航続力を持つ機種として、A330の胴体を短縮して収容力を減らす代わりに燃料搭載量を増やすことで航続力を増強した派生型の検討を始めた。この機体案はA330-200と名付けられ、1995年11月24日に正式開発が決定された。A330-200の開発に伴い、それまでのA330はA330-300と呼ばれることとなった。A330-200が最初の発注を得たのは1996年前半で、リース会社のインターナショナル・リース・ファイナンス社からであった。A330-200の胴体は、A330-300のものから主翼の前後で合わせて10フレーム短縮された。胴体の短縮により機体の重心位置から垂直尾翼までの距離が短くなることから、これを補うため、A330-200では垂直尾翼の高さ方向が拡大された。A330-200では、A340-300の重量増加型と同様に主翼が強化されて最大離陸重量が引き上げられ、胴体中央への燃料タンクが追加されたほか、エンジンが推力増加型に変更された。これらの変更により、航続距離は11,853から12,223キロメートル(6,400から6,600海里)となった。A330-200でもGE、R-R、P&Wの3社のエンジンが選択可能とされた。 -ドイツ軍は当初全兵に黒革のブーツを支給しており、それがシュタールヘルムと並んでドイツ軍の特徴であった。ドイツの軍用ブーツはプロイセン軍が1866年に採用したものが端緒であり、靴底には野外での滑り止め用に鉄製の金具が打たれていた。公的には「マルシュシュティーフェル(行軍ブーツ)」(Marschstiefel)と呼称されたが、俗に「クノーベルベッヒャー(サイコロ壺)」(Knobelbecher)とも呼ばれた。行軍ブーツは上等な黒染の牛革で製造されたジャックブーツで、ふくらはぎの部分の丈は35センチから41センチだった。1939年11月9日の通達で35センチから29センチに短縮された。この規定が実際に効力を持ったのは1940年春からである。革の節約のために短めにされたものだった。二重の靴底に35個から45個のスパイク(鋲)で補強されている。しかしこのスパイクは東部戦線で断熱効果を発揮し兵士たちの足を凍えさせ、凍傷の原因になったとされる。 -他にも、近年では、オオサンショウウオと交雑し、遺伝的撹乱を与えているチュウゴクオオサンショウウオやシロアゴガエルのように在来種と餌や繁殖環境を巡って競争を行うもの、ウシガエルのように在来種を直接捕食するものなど、様々な外来種が確認されている。もちろん同じ両生類のみならずアライグマやカミツキガメ、卵や幼生を捕食するティラピアなどの両生類を餌とする外来生物は多い。これらの生息環境の変化や外来種の脅威によって、日本の両生類相は、その存続を脅かされていると言える。 -馬事公苑修了後1年間の修業期間を経て、1967年に岡部は騎手免許を取得して鈴木清厩舎所属騎手としてデビューする。岡部が騎手になった当初の中央競馬界には徒弟制度が色濃く残されており、見習騎手の頃には庭の掃除、草むしり、使い走り、靴磨きなどに従事した。岡部は当時存在した徒弟制度について、「縦の世界」の中で先輩から技能面や精神面の指導を受け、競馬界のルールを学びとることができる点を肯定的に評価し、もう一度下積みから始めることに何の抵抗もないと述べている。なお岡部は、徒弟制度が崩壊した現在の中央競馬においては縦の人間関係によって守られつつ技能を会得する機会がなく、若手であってもいきなり結果が求められる点を弊害として指摘している。デビュー当初、岡部は兄弟子であり鈴木厩舎の主戦騎手であった高橋英夫を目標とした。高橋も岡部の騎手としての資質に加え研究熱心さを高く評価して親身に指導し、騎手を引退し調教師となった後は岡部を主戦騎手として起用することが多かった(岡部の重賞初勝利は高橋の管理馬によるものである)。そのため、両者の関係を師弟関係に近いととらえる者もいる。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1���3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -太陽から遠い所では、低温のため核は全て凍りついており、地球上から見てもただの恒星状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。それに伴って発生したガスや塵は、非常に大きく、極めて希薄な大気となって核の周りを球状に覆う。これはコマと呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。コマの最外層は水素のガス雲となっており、水素コロナと呼ばれる。そして、太陽からの放射圧と太陽風により、太陽と反対側の方向に尾が形成される。尾には、ダストテイル(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、イオンテイル(イオンの尾)またはプラズマテイルという、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる。これには、核から放出された塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けていたりするためなどの理由がある。2007年のマックノート彗星や歴史上の大彗星のいくつかでは、何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えた。これに対し、イオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、尾の一部が見かけ上太陽の方向に伸びているように見えることがあり、アンチテイルと呼ばれる(アラン・ローラン彗星(C/1956R1)のアンチテイルは殊に有名である)。実際には太陽に向かって尾が伸びているわけではなく、あくまでも視覚上の錯覚である。アンチテイルの観測は太陽風の発見に大きく貢献した。 -ポーリングは元々政治には殆ど関心が無かったが、第二次世界大戦が起きると彼の生き方は大きく変わり、平和活動家になった。マンハッタン計画が始まって間もない頃、ロバート・オッペンハイマーから計画の化学部門に招聘を受けたが、ポーリングは平和主義者であることを理由に辞退した。1946年、アルベルト・アインシュタインが議長を務める「原子力科学者による非常委員会」に出席した。この委員会の任務は、核兵器の開発に付随する危険性を一般社会に警告することだった。ポーリングの平和活動は、1950年にマッカーシズムの攻撃対象となり、上院議会の教育調査委員会に証人として召喚された。彼は事前の記者会見で共産主義者でないことを宣言したうえで委員会では証言を拒否した。しかし1952年には国務省が彼のパスポートを差し押さえた事件が起こった。同年、彼は招かれたロンドンの科学会議で講演をする予定だった。パスポートは1954年、ストックホルムで彼が初めてノーベル賞を受賞した授賞式の直前に返還された。1955年、アインシュタインやバートランド・ラッセルら第一級の科学者や知識人が参加する中、ポーリングはラッセル=アインシュタイン宣言に署名した。 -石巻市は、本震災最多の3,700人以上の犠牲者を出している。市内北東部、リアス式海岸にあたる旧雄勝町、旧北上町、旧河北町の沿岸はほぼ完全に壊滅した。3階建ての雄勝病院は完全に水没し、入院患者と職員の65人が流されて生存者は3人、北上川の河口北側にあった石巻市北上総合支所では職員と避難者合わせて57人のうち生存者は3人だけだった。津波はその北上川を氾濫させながら猛烈な勢いで遡上し、5km上流に位置する石巻市立大川小学校(旧河北町立)では徒歩で避難していた児童78人と職員11人が流され、助かったのは児童4人と職員1人のみであった。市内南部が旧石巻市であり、岩手・宮城・福島では最大規模約12万人の市街地が海に面して広がっていた。このため犠牲者数も多く、また市内各地で身動きのとれない渋滞が発生し、そのまま津波���飲まれて犠牲になる者も非常に多かった。前市長であった土井喜美夫も犠牲となった。 -野口は1915年3月26日、東京高師を卒業し、中等学校の地理科・歴史科・体操科の教員免許を取得した。そして同年4月1日付で、長野県松本女子師範学校教諭兼訓導と長野県松本中学校教諭を兼務し、長野県松本市に赴任した。赴任を前に丸善へ立ち寄り、偶然にもマイク・マーフィーの“AthleticTraining”の原書を入手した。松本女子師範学校での勤務は1916年3月で終わり、以後は松本中単独の教師となる。プライベートでは1917年4月1日に東京府渋谷町出身の生駒豊子と結婚している。松本中教師としての任務は、体育主任として「学校体操教授要目」に準拠した新たな指導方針を策定し、実行することであった。体操科の授業時数は5時間で、当時は適宜指導することとされた「撃剣及柔術」を完全実施したこと、学期ごとに身体検査を実施しその成績を見て授業計画を立案・実行したことが特筆される。校友会ではスポーツの普及に努め、徒歩部、剣道部、游泳部の部長を兼任し、スケートの導入も図った。特に徒歩部は野口が自ら設立した部であり、マーフィーの本を手引きとして自身の競技力向上に向けて練習に励んだだけでなく、東京からスパイクシューズを数足仕入れて生徒に共用させ、ともに汗を流した。校内競技会では部長ながら100ヤード、400m、砲丸投、円盤投に「特別出場」して圧倒的な強さを見せて優勝するとともに、生徒に陸上競技への参加を促した。また野球害毒論の影響で中断していた長野県中等学校聯合運動会の復活に際して陸上競技を採用するよう尽力し、1917年10月15日・16日に長野中学校で開かれた聯合運動会は、長野県における陸上競技大会の先駆けとなった。 -『カンポンボーイ』のスタイルは西欧のグラフィックノベルとは異なっている。多くのページは全体が1枚の絵となっており、そこに文章が添えられる。1枚の絵だけで一つのシーンとなる場合もあれば、見開き2ページに描かれた2枚の絵が出来事のシークエンスを表すこともある。ナレーションはマレーシア風の英語で語られており、文法構造は単純で、ところどころにマレー語の語句が使われている。児童書の書評誌TheBulletinoftheCenterforChildren'sBooksの編集者デボラ・スティーヴンソンは、このナレーションが読者との間に一体感を作り出し、「家族や隣人、村の暮らしへの愛情をさりげなく」表現しているとした。ジ・エイジ紙にレビューを寄せたマイク・シャトルワースは、本書は文章で書かれた内容と反対の絵を描くことでおかしさを出している箇所が多いと述べた。スティーブンソンも同様の指摘をしており、マットが母親から優しくお粥を食べさせてもらったと語る場面を取り上げている。このとき絵の方では、母親は赤ん坊のマットがお粥を吐きかけてくるのに苛立った様子を見せている。 -1906年6月、大学終了試験に合格。カフカは試験勉強に苦労し、ブロートに助けられて5人の試験官の内、3人から「可」をもらい、かろうじて試験を通っている。卒業に先立ち、4月から弁護士リヒャルト・レーヴィの元で無給見習いを始めており、10月からはプラハ地方裁判所にて1年間の司法研修を受けた。また、この年の夏、長期休暇を利用して、長編にするつもりだった作品『田舎の婚礼準備』の執筆に着手している。すでに1904年から「ある戦いの記録」の執筆も試みていたが、これらはいずれも未完のまま放棄された。 -しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった全地総主教座を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去にステファン・ドゥシャンが帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、1557年、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったソコルル・メフメト・パシャの尽力によりセルビア総主教座を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により1766年に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた。イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにアトス山の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた。これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らがアルバニア語を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした。さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはローマ法が固有の法であった。 -滋賀県森林センターでは、前述した実生木から交配を重ね明らかになった劣性遺伝の性質を利用した、松くい虫に抵抗性のあるウツクシマツを作る研究を甲賀市にある圃場で行っている。具体的には、ウツクシマツ型F1およびF2と松くい虫抵抗性を持つアカマツを交配すると抵抗性のある子F3が出来たが、メンデルの法則から予想されたとおり、ウツクシマツ型のF3は1本もなかった。そのため更にF3同士、またはF3とウツクシマツ型F2を交配させて出来るF4苗を作り、このF4苗の苗木に対して人為的に松くい虫を接種したところ、F3同士を交配したF4苗159本中、枯死したのは9本、異常を示したのは37本、健全な状態であったのは114本と、完全ではないものの、松くい虫に対して抵抗性を持つ苗が76.1パーセントに達した。ただし、これら品種改良されたウツクシマツは文化財保護法の観点から、指定地へ移植することはできない。 -夏目金之助(後の漱石)は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、金之助は望まれない子として生まれたといえる。名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。 -多くの異なる所有元から引き継がれ収集されているため、コレクション全体を俯瞰することにより、江戸幕府が当時西洋の学問や最新技術の研究を行っていたことや、明治初頭の近代教育の様子などがうかがえる。和漢書は1,261冊、「昌平坂学問所」「箱館御役所」「諸術調所」などに由来し、代表的なものに後陽成天皇が印刷させた『論語』、百科事典『厚生新編』、蝦夷地の地図などがある。洋書は2,325冊、「蕃書調所」「洋書調所」「開成所」「外国方」などからのもので、内容は法律、経済、政治学から地図、歴史、物理、数学、反射炉の製図まで多岐にわたる。また、ピカードの『英蘭辞書』、日本初のドイツ語辞書『官版独逸単語篇』など外国語の辞書も多く、兵術や戦術、軍事関係の技術書も多く収蔵している。和漢書・洋書あわせて3,586冊からなるコレクションである。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -1982年12月、当時小学4年生だったSは母Y・弟とともに夜逃げして葛飾区立石のアパートへ移住した。Sは1983年1月から葛飾区立清和小学校に通学したが、両親の離婚・生活環境の劣化・転校などから学校でいじめを受けるなど、不遇な生育環境で不遇感を抱いて育った。また、このころには唯一の庇護者だった祖父Xからも見放されたことで劣等感を募らせ、万引きをするようになったほか、放課後には浅草で観光客を標的に置き引き・スリ・かっぱらい・賽銭泥棒などの非行を繰り返し「世の中は金が全てだ。貧乏を笑うようなやつらからはいくら金を盗んでもいい」と考えるようになった。 -第2次世界大戦後、ファン・ゴッホは大部数の伝記、映画、芝居、バレエ、オペラ、歌謡曲、広告、あらゆるイメージ(作品の複製、模作、ポスター、絵葉書、Tシャツ、テレフォンカード等)で取り上げられ、大衆文化に取り込まれていった。他方で、L.ローランドは、1959年の著作の中で、テオの妻ヨーが、ゴッホ書簡集を出版した際、テオのフィンセントへの愛情と献身という物語にとって不都合な部分は削るなどの作為を加えていることを明らかにし、アルトーに引き続いて、ファン・ゴッホをめぐる伝説に疑問を投げかけた。1970年代、ヤン・フルスケルがファン・ゴッホの日付のない手紙の配列について研究を進め、今まで伝えられてきた多くのエピソードに疑問を投げかけた。1984年、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、「アルルのファン・ゴッホ」展を開催し、学芸員ロナルド・ピックヴァンスによる徹底的な研究に基づいたカタログを刊行した。1987年には、続編となる「サン=レミとオーヴェルのファン・ゴッホ」展を開催した。これらは、不遇と精神病のイメージに彩られた伝説を排除し、歴史的に正確なファン・ゴッホ像を確立しようとする動きの到達点を示すものであった。同様のゴッホ展は各国で開催され、没後100年に当たる1990年には、ファン・ゴッホ美術館が回顧展を開催した。 -山頂展望台からは石狩平野、そして石狩湾までを一望することができ、夜には札幌市街の夜景を楽しめる。夜景は、函館市の函館山、小樽市の天狗山とともに「北海道三大夜景」の1つとされ、日本の「夜景100選」にも認定されている。また、札幌市は2015年(平成27年)より「日本新三大夜景都市」に認定されている。札幌市南区北部に位置し、中心部から近いという立地もあって、多くの市民や外国人を含む観光客でにぎわう。2017年(平成29年)度の来訪者は約90万6000人。山頂の南東方向に札幌藻岩山スキー場がある。 -レオナルドは1452年4月15日の「日没3時間後」に、ト���カーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた。父はフィレンツェの裕福な公証人セル・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母はカテリーナである。レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチの」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチのセルのレオナルド」という意味となる。セルは敬称であり、レオナルドの父親が公証人についていたことを示している。 -終戦時、ふみ子は妊娠をしていた。1946年3月11日、長女の雪子が生まれる。ふみ子は雪子の誕生後、1951年に至るまで断続的に「雪子の日記」を書いている。「雪子の日記」の中では、夫が雪子を可愛がる姿や成長を願う短歌を詠んだ穏やかな家庭生活を記したものもある。しかし夫の博は職務上の不祥事が問題となって、1946年末には五稜郭出張所所長を解任されて札幌鉄道施設部に配属となった。終戦後の食糧難と激しいインフレの中、ふみ子の家族の生活は厳しかった。雪子の日記には、博には借金があり、留萌にヤミでサッカリンを売りに行くなどといった記述が見られる。ふみ子の家庭には帯広の実家からの援助もあった。しかしそれだけでは生活が成り立たず、花嫁衣裳、嫁入り道具であったたんすなどを手放しながら、何とか生活していった。しかしそのような生活の中、夫の博は愛人を作っていた。その上、1947年9月22日には三男の潔が誕生する。幼い子を抱え、実家からの援助や花嫁衣裳を手放しながら、日々のやりくりに四苦八苦する中での夫の不貞は、ふみ子と夫との距離を更に広げていった。 -固相発泡成形法は、合成樹脂が固相または水蒸気などで若干加熱した固相に近い状態で発泡させる。あらかじめ合成樹脂と発泡剤および発泡助剤などから予備発泡ビーズを製造し、これを型に投入して内部で発泡(熟成)させる方法から、ビーズ法とも呼ばれる。PSビーズ法を例に取ればビーズには二種類の製法があり、スチレンモノマー・重合触媒・発泡剤などを水中で懸濁重合させる一段法と、含浸槽を使いPSポリマーに発泡剤を含ませる二段法(重合+含浸)が行われている。ガス透過性が高いポリオレフィンのビーズ製造条件には細やかな温度管理が必要となるが、工程改良が進み可能となった。固相発泡成形法に適応する合成樹脂は、前述のPSやポリオレフィン以外にも、ポリ塩化ビニリデンがある。なお、本方法では圧倒的にPS使用量が多いため、一般に「ビーズ法」と言えばPSを用いたものを指す。 -震災発生当時の民主党政権は福島第一原発における事故について炉心溶融(メルトダウン)であった事実を認識しながら、この事実の公表に伴うパニックや混乱を避けるとの判断から公式発表ではこの言葉の使用を避け続けた。そして、事故の状況について公式発表の席で正確な事実を伝えなかった。そうした姿勢がかえって海外(おもに欧米の主要メディア)を中心に日本政府に対する不信感となり、「福島および首都圏が深刻な放射能被害を受けているが日本政府は事実を隠蔽している」との憶測が広まり、各国の大使館が自国民に日本国内からの退避を呼びかける事態に繋がった。のちに客観的事実からそうした認識は単なる憶測の域を出ておらず、心配されるような事態ではないと判明。震災報道に携わった主要メディアは社説などを通じて、過剰な不安を煽った責任について一定の反省を示す一方、政府発表の不正確さがこうした憶測を呼んだとして日本政府を批判した。2012年1月25日、国境なき記者団は東日本大震災の被災地や東京電力福島第一原発事故で過剰な報道規制が敷かれたことなどを理由に、「世界の報道自由度ランキング」において日本を前年の11位から22位へと格付けした。 -17世紀中盤には火星の極冠が確認されており、18世紀後半にはウィリアム・ハーシェルによって、夏と冬で成長したり縮んだりすることが観測された。19世紀中盤までには、火星の1日は地球とほぼ同じ長さである等、地球と様々な似た面を持つことが知られるようになった。また、赤道傾斜角が地球と近く、これは四季があることを示すが、一年��長さが長いため、その期間は地球の倍近くになる。これらの観測から、アルベドの小さい部分は水であり、大きい部分は陸であるという推測が強くなっていった。このように、火星に何らかの生命が存在するというのは自然に受け入れられていった。1854年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのフェローで、「科学者(scientist)」という言葉を一般に広めたウィリアム・ハーシェルは、火星には海と陸があり、生命が存在するという仮説を立てた(しかしハーシェルは、太陽にさえ生命と文明が存在すると考えた)。火星に生命がいるという推測は、19世紀後半に望遠鏡による観測で、「火星の運河」が観測されると、一躍脚光を浴びることになったが、すぐに光の錯覚であったことが判明した。これにかかわらず、1895年にアメリカ合衆国の天文学者パーシヴァル・ローウェルは著書『火星(Mars)』を、1906年には続いて『火星と運河(MarsanditsCanals)』を出版し、運河は大昔の文明の遺物であるという説を唱えた。このアイデアを元に、イギリスの作家ハーバート・ジョージ・ウェルズは、1897年に小説『宇宙戦争(TheWaroftheWorlds)』を執筆し、惑星の乾燥から避難してきた火星人が地球を侵略する様子を描いた。火星の大気の分光法による分析が1894年初頭から始まり、アメリカ合衆国の天文学者ウィリアム・キャンベルは、火星の大気には水も酸素も存在しないと発表した。1909年には、1877年以来の近日点の衝が生じて望遠鏡による精度のよい観測が可能になり、運河説には終止符が打たれた。 -高校時代はロードレース部に所属。この頃に横山光輝のサスペンス作品を愛読する。特に学生服の主人公が古代遺跡を探検する『バビル2世』は『ジョジョの奇妙な冒険』Part3のモチーフに影響を与えており、インタビューでは「自分の原点」とも述べている。16歳の時に同い年のゆでたまごが『週刊少年ジャンプ』でデビューしたことに焦りを感じ、高校3年の時に初投稿、以後何度か投稿を重ね、専門学校在学中の1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」で第20回手塚賞に準入選しデビュー。 -第二次世界大戦後の1950年代、モータリゼーションに伴うタイヤの需要増加で、アクロンは20世紀前半に比較するとその速度は鈍化したもののさらに成長し、1960年には人口290,351人でピークに達した。しかし、その後はラストベルト内に位置する他の多くの工業都市と同様に、アクロンは衰退し、人口は減少に転じていった。アクロンの地域経済を支えたタイヤ製造業も、買収などによってアクロンの街を去り、21世紀に入るまでアクロンに残ったのはグッドイヤーただ1社のみとなった。しかし、タイヤ製造業はアクロンの街に研究インフラという遺産を残した。この研究インフラの存在によって、アクロンはタイヤやプラスチックのみならず、潤滑剤や超強力繊維、液晶ディスプレイにも応用される、ポリマーの街へと変貌を遂げている。21世紀に入り、アクロンは400社のポリマー関連企業が集中する「ポリマー・バレー」の中心都市となり、アクロンの市域内だけでも94社が立地している。アクロン大学のキャンパス内にはグッドイヤー・ポリマー・センターが立地し、研究者がハイテク分野への応用を目指して研究を進めている。また、2007年には、アメリカ合衆国の都市としては初めて、アクロンはドイツのシュマック・バイオガス社と共同で、下水道のヘドロからバイオガスを生成し、発電する施設が建てられた。この施設で生成されたバイオガスはメタンを約60%、二酸化炭素を約35%含んでいる。2008年には、アクロンは3度目の全米都市賞を受賞し、これを契機にCityofInvention(発明の街)と呼ばれるようになった。2008-12年にかけては、長年の工業都市化の間に自浄能力を失い、「ドブ川」化し、下流のカヤホガ川の水質悪化の元凶ともなっていたリトル・カヤホガ川の改修が行われ、水質が改善した。しかしその一方で、4年制大学はおろか、コミュニティ・カレッジやテクニカル・カレッジの卒業率すら低く、技能のある労働者が不足しているなど、問題も抱えている。 -ユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の��としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々カルフォルニア州で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスやフロリダ州に移り、後に仕事の関係でイリノイ州シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むミズーリ州マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。しかし、父親のイライアスはこの地においても農業に失敗して、数年後に家族を連れて同地を去った。イライアスとフローラは息子4人と娘1人を儲けたが、父親のイライアスは子供達に対して愛情に欠けた厳格な態度で接しており、ウォルトとロイが1920年代に成功をおさめても、彼らに対して冷やかな態度は変わらなかった為、ディズニー親子は長年距離を置いて交流はしなかった。イライアスはリタイアするまで転職を重ねたが、結局結婚する前に金鉱で働いて小金を得た以外は、どの仕事に就いても成功出来ず、妻のフローラに苦労を掛け、1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。ディズニー一家の畑の近くにはサンタ・フェ・パシフィック鉄道が走っており、その鉄道の走る音が好きだった。アルバイトで、鉄道構内で新聞やポップコーンを売る仕事をしていたこともある。後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていたが、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった。少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。 -宮崎駿は学習院大学に進学し、児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し漫画を描き続けていたが、アニメーションの世界へ進む事を決断する。学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に定期採用で入社し、動画などを手がける。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。『ガリバーの宇宙旅行』のラストシーンが宮崎のアイディアで変更されるなど、早くから才能を現した。結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。1965年秋には、24歳で同じ東映のアニメーターの女性と結婚し、その後2人の男児をもうける。高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1965-1968年)を作り上げた。 -皇居内のコケ類の調査では、蘚類77種、苔類29種、ツノゴケ類1種の計107種が確認された。これまで都内で最も多くのコケ類が確認されているのは自然教育園の52種で、東京都区内で皇居のみで見つかっているコケ類は蘚類14種、苔類9種の23種に及び、皇居のコケ類が生物多様性に富んでいることがわかる。また絶滅危惧種であるコウライイチイゴケ、ヤワラゼニゴケが生育しているなど貴重な種が見られ、人家の周辺などに見られ都市化の指標とされるヒョウタンゴケ、ゼニゴケなどが生育しないといった特色も見られる。地衣類の調査でも57種の地衣類が確認され、うち3属、5種は日本で初めて見つかった地衣類であった。その大部分は木陰や岩の上に飼育するものであった。他方で大気汚染に対する耐性が低いウメノキゴケ、アカサルオガセなどの大型の地衣類は皇居内では生育しておらず、大都市東京の中心部にある皇居の環境を表している。 -そうした中、清兵衛と乃婦の夫婦仲は次第に冷えていった。清兵衛は横浜の外国人がぽん太を狙っていると耳にするとぽん太を別宅に住まわせ、これがさらに乃婦を硬化させ、乃婦は子供を連れて親戚の家へ身を寄せた。ぽん太が妊娠したこともあり、清兵衛は新川の実家を捨てて、ぽん太と暮らし始め、1897年ころ、ついには鹿嶋家とは離縁となった。清兵衛のお大尽生活は約4年で終止符となり、「玄鹿館」も閉鎖された。大阪で再起を図ったがうまくいかず、再び東京に戻って1907年(明治40年)に本郷座の前に「春木館」という小さな写真館を開店した。 -『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズは1995年(平成7年)にテレビ東京の18時のアニメ枠で放送開始され、1997年(平成9年)以降は劇場版として制作されている。「庵野監督の代表作」として真っ先に名前が挙がる作品であり、数々の受賞歴がある。TVシリーズ後半、特に最終回2話とその前の展開について、パソコン通信上で激しい議論が繰り広げられ、批判意見も多くあった。この現象については、議論内容よりも「パソコン通信にハマる人たちは『現実世界に帰れ』」と苦言を呈している。また、TV放映後から劇場版公開頃の『エヴァブーム』当時、インターネット上のチャットや電子掲示板上での作品論争を「便所の落書き」と言い放っている。『新世紀エヴァンゲリオン』制作終了後、庵野秀明は実写方面への進出(『ラブ&ポップ』『式日』『キューティーハニー』)を経て、それ以降のアニメ作品では、いわゆる「実写畑の声優・つまり俳優」を起用することが多くなる。これは「職業声優の限界」を感じ、新しい可能性を模索するためだという。幾原邦彦の紹介で舞台にも非常に惹かれているが、まだ取り組めないので映画を作ることにした、とインタビューに答えている。 -1783年、ブレーメン商人は大西洋を越えてアメリカ合衆国との直接交易を始めた。1802年に市は古い防衛施設を現在の公園ヴァルアンラーゲに整備するよう造園家イツァーク・アルトマンに依頼した。1811年にナポレオンはブレーメンを占領し、フランスのBouchesduWeserの首都とした。解放戦争に敗北したフランス軍は1814年にブレーメンから撤退した。ブレーメンは19世紀ドイツの海洋交易発展の主役となった。ヨハン・ラーゲの造船所は1817年にドイツ初の蒸気船を建造した。この「ヴェーザー号」は旅客船および郵便船として、ブレーメン、フェーゲザック、エルスフレート、ブラーケ間を航行し、後にはゲーステミュンデ(現在のブレーマーハーフェン)にも1833年まで運行した。増大するヴェーザー川の砂の堆積のため1827年にハノーファー王国から土地を購入し、ブレーメンの前哨基地として新たな入植地ブレーマーハーフェンが建設された。港湾施設獲得に関する協定は1827年1月11日にハノーファーの首相フリードリヒ・フォン・ブレーメンとブレーメン市長ヨハン・スミットにより調印された。1836年中頃、ブレーメン政府は市に対して功績のあった者に与えるブレーメン栄誉金メダルを創設し、1843年にヨハン・スミットにこれを授与した。 -アイレンブルフの家に間借りしていたレンブラントは、1633年にそこでアイレンブルフのいとこで22歳のサスキア・ファン・アイレンブルフと知り合った。彼女の父は亡くなっていたがレーワルデン市長を務めたこともある人物で、その一族は裕福であった。1633年には婚約し、翌年にはレンブラント側の親族を誰も呼ばないまま結婚式を挙げた。これで彼は正式なアムステルダム市民となり、また聖ルカ組合の一員となる。多額の持参金と富裕層へのコネクションをもたらしたサスキアは、レンブラントの絵のモデルとなり、ふくよかな姿を描いた多くの作品が残された。 -1949年(昭和24年)4月、ふみ子は高松から帯広の実家に戻った。この時、三男の潔のみを連れて帰ったとの説と、3人の子ども全員を連れて帰ったとの説がある。8月には夫、博が国鉄を退職して帯広にやって来た。先にふみ子が三男のみ連れ帰ったとの説では、この時、博が上の二人の子どもを連れて帯広に来たことになっている。いずれにしても1949年8月以降、ふみ子の家族は帯広で生活を始めた。ふみ子の父の野江豊作は、国鉄を退職した中城博の職探しに奔走する。結局、帯広商工学校の土木・建築科の教師の職が見つかり、10月から勤め始めた。帯広で心機一転、やり直しを図ろうとしたものの、プライドが高い博にとって、妻の実家に高校教師の職を世話されたことや、そもそも田舎である帯広での教師職自体に不満を持った。夫婦間の諍いは絶えず、この頃、博はしばし���ふみ子のことを口論の末、殴っていたという。1949年の年末、博は同僚の教師たちにしきりと利殖の話を勧めていた。この利殖の話は一種のねずみ講であった。高校教師の仕事もそこそこに、博は事務所を構えて金融関係の仕事を始めた。結局1950年3月には高校を辞めてしまう。しかし金融関連の仕事は上手く行かなかった。その後、博はふみ子の実家、野江家近くにあった建設会社で働くようになるが、そこでも問題を起こしている。上手く行かなかった金融関連の仕事や、建設会社で引き起こした問題の後始末は結局、ふみ子の実家の野江家が行った。また1950年1月にふみ子は堕胎をした。生活が苦しく、これ以上子どもを持つことは出来なかった。教師を辞めた夫、博の生活は更に乱れていった。ほどなく博には愛人が出来た。結局1950年5月、ふみ子夫婦と仲人、そして両親ら親族が集まって話し合いがもたれ、夫婦の別居が決まった。 -ロイヒから採取された岩石標本の年代を特定するために放射年代測定が使われた。ハワイ火山学センター(HawaiiCenterforVolcanology)は、数回の学術調査を目的とした航海で記録されたサンプルを試験した。特筆すべきは1978年の17回もサンプルを浚い上げるのに成功した調査航海であった。殆どのサンプルは古代にその起源をもつように思われた;最も古い記録が残された岩石は30万年前のものであった。1996年イベントを受けて、作られてからそう年代を経ていない火山砕屑岩(角礫岩、Breccia)数個も採集された。サンプルを基にして、科学者チームはロイヒの生成年代を、今よりおよそ40万年前であろうと推定した。山体は、基底部では1年当たり平均して3.5mm(0.14in)、頂部では7.8mm(0.31in)の割合で積み重なっていた。もし、例えばキラウエア火山のような他の火山で得られたデータモデルがロイヒでも当てはまるとすると、火山の重量の40パーセントが最近10万年以内に形成されたことになる。リニアな成長モデルが当てはまると仮定すれば、ロイヒは形成開始から25万年経っていることになる。しかしながら、全てのホットスポット火山と同様に、ロイヒの火山活動レベルは時間が経過するとともに増大したと考えられる;それゆえ、このような火山がロイヒの規模に達するまでに、少なくとも40万年は掛かったと考えられる。ハワイ諸島の火山は北西方向に年間10cm(4in)の割合で引きずられているので、ロイヒは、海底で初めて噴火した時には現在地より40km(25mi)南東にあったはずである。 -その後、これら3か所も含めて四国・九州・沖縄の計20数か所での発生が記録されている。長らくお吉泉を生育北限とする日本固有種とされてきたが、2013年(平成25年)には東京都立川市で発生が確認されたほか、台湾でも発見されている。しかし、多くの生育地で生育量の減少や絶滅が報告されており、環境省のレッドデータブックで「絶滅の危機に瀕している種」(絶滅危惧I類)に指定されている。同じオキチモズク属に属するNemalionopsisshawiiとは藻体の長さが異なることなどで区別されるが、品種レベルの違いに過ぎないとしてN.shawiiと同種であるとする見解も出されている。 -ナマズ目の魚には体内に毒を含むもの、あるいは毒腺を通じて体外に毒液を分泌する種類が知られる。毒液は背鰭と胸鰭(多くの場合は後者)の棘から分泌される。ほとんどの毒ナマズ類にとってこれらの棘は防衛手段であり、積極的に攻撃を行うことは少ない。インドに分布するレッドキャット(Heteropneustesfossiles、ヘテロプネウステス科)など一部の種類に限り、毒棘を使って他の魚や人間を襲う習性をもつことが知られる。日本沿岸にも分布する海産種のゴンズイ(Plotosuslineatus、ゴンズイ科)がもつ毒は強力で、刺された場合死に至ることもある。 -マフムト2世は国内の不満を抑えつつこうした改革を断固として実施したが、エジプトのムハンマド・アリーとの関係が諸外国を巻き込む重大な問題となっていた。ムハンマド・アリーはギリシャの反乱鎮圧(最終的に鎮圧には失敗したが)における貢献の代償としてシリアの統治権を要求した。マフムト2世はこれを拒否したが、ムハンマド・アリーは実力でシリアを切り取りにかかり、西アナトリアにまで侵攻した。進退窮まったマフムト2世はやむなくロシア���国に支援を求め、イギリスとフランスも介入した結果1833年にキュタヒヤの和約が結ばれ、エジプトへのシリアの譲渡を約してエジプト軍は撤退した。しかしシリアをめぐるオスマン帝国とエジプトの紛争は継続し、1839年6月には再びシリアで武力衝突が発生しオスマン帝国軍は敗れた。マフムト2世はこの知らせが届くより前の1839年7月1日に死去した。 -プトレマイオス1世は前283年に死去し、その前に共同統治者となっていた息子のプトレマイオス2世(フィラデルフォス、在位:前285年-前246年)が後継者としてエジプトを統治した。プトレマイオス2世は内乱や対外戦争では多くの苦難を味わったものの、父親が作り上げた行政機構の整備や知的活動を引き次いで組織化し、彼と続くプトレマイオス3世の時代はプトレマイオス朝の絶頂期であるとされる。 -バスク山脈は大西洋と地中海に注ぐ河川を隔てる分水嶺であり、バスク山脈を境にバスク州の気候は明確に区分される。ビスカヤ県やギプスコア県北部の谷、アラバ県のアジャラ谷などはエスパーニャ・ベルデ(スペインの北部大西洋岸地域)の一部であり、湾岸部は西岸海洋性気候(CfB)である。一年中湿度が高く、過ごしやすい気温である。年間降水量は約1,200mmであり、イベリア半島内で最も降水量が多い地域である。ビルバオの1日あたり日照時間は最長を記録する7月が6.06時間、最短を記録する12月が2.51時間である。年間日照時間は1,584時間であり、エスパーニャ・ベルデを除いたスペインの他地域の半分程度、北ヨーロッパのロンドン(イギリス)やワルシャワ(ポーランド)などと同程度である。中央部のアラバ盆地は大陸性気候の影響が大きいが、北部の海洋性気候も混じり合い、乾燥して暖かい夏季と寒く降雪のある冬季をもたらす。南部のエブロ谷は純粋な大陸性気候であり、冬季は寒く乾燥し、夏季はとても温かく乾燥する。降水量は春季と秋季がピークであるが、希少かつ不規則であり、年間300mm程度の少なさである。 -美濃の壺石(みののつぼいし)とは、岐阜県土岐市南西部一帯に広がる丘陵の地中から産出する、国の天然記念物に指定された、壺に似た形状を持つ風変わりな、団塊状の石である。鉄分を含む珪質粘土と小石など複数の礫が互いに連結し球形に固まったもので、内部が空洞になっているため古くより壺石と呼ばれて珍重されてきた。壺石は土中で様々な条件がそろった場合にのみ、局所的に生成されるもので、日本国内の他所でも稀に見つかることがあるが、当地のように多量に産出することは珍しく、「美濃の壺石」の名称で1934年(昭和9年)1月22日に国の天然記念物に指定された。 -1870年、普仏戦争が始まり、ピサロ一家は12月ロンドンに逃れた。モネも同じくロンドンに避難していた。ロンドンでは、ドービニーから画商ポール・デュラン=リュエルを紹介され、以後、デュラン=リュエルはピサロやモネ、その他の印象派の画家たちにとって重要な取引相手となる。ピサロは、モネとともにイギリスの風景画家ターナーやコンスタブルの絵を研究した。1871年6月14日、ピサロはジュリーと正式に結婚した。同月末、一家はルーヴシエンヌに戻ったが、自宅はプロイセン軍に荒らされており自宅に残していた作品も破壊されていた。11月22日、第4子ジョルジュ=アンリが生まれた。 -前述のように、南アフリカ航空201便はサルベージが技術的に不可能であるため、既に行われていたBOAC781便(機体記号G-ALYP)のサルベージに全力を注ぐことになった。機体の残骸引き上げ作業には、イギリス海軍の潜水夫が動員されたが、当時の技術では水深100mが限界であったため、それ以上の海底に沈んだ残骸を網でさらうために、イタリアの民間トロール船もチャーターされた。このチャーター料もアメリカドルの現金払いとなり、事故調査官は闇ドルを現金払いするという二重のリスクを冒して、請負人に直接支払ったという。当時の固定通貨相場で絶大な価値のあった米ドルでの現金払いは、イタリア側の請負人にとっては望外の有利な取引であったが、イタリア政府を通さない違法行為であり、物的にも外交的にも様々なトラブルの原因になりかねなかった。コメットの残骸探索のために手段を選ばなかったイギリス当局の切実さがうかがわれる。捜索範囲は19km四方に広がっていたが、ソナーを使用して海底を探査し、音波の反応があった箇所にマーカーブイを投下し、後に水中カメラなどによって正体が確かめられた。また、コメットが空中分解した時にどのように機体が落下するかを調査するため、模型を気球で持ち上げて空中で部品をバラバラにする実験を行うなどし、捜索範囲を絞り込んだ。 -オーロラという名称が浸透する以前から、現象そのものは紀元前から様々な地で確認・記録されている。アリストテレスやセネカはオーロラを天が裂けたところであると考えていた。特にアリストテレスは『気象論』で「天の割れ目(CHASMATIS)」と表現した。また、日本では古くは「赤気」「紅気」などと表現されていた。現代日本語では北極近辺のオーロラを北極光、南極近辺のオーロラを南極光と呼ぶこともある。北アメリカやスカンジナビアではオーロラのことをnorthernlights(北の光)と呼ぶが、徐々にauroraも使うようになって来ている。また北極光をnorthernlights、あるいはAuroraBorealis(北のオーロラ)、南極光をsouthernlights(南の光)、あるいはAuroraAustralis(南のオーロラ)と呼ぶ。オーストラリアではオーロラのことをnorthernlightsと呼ぶ。ときにはAurorapolarisと呼ばれることもある。 -ピピン3世が採用を決定したデナリウス(denarius)という貨幣の単位はピピンのオリジナルというわけではなく、共和制ローマの時代に起源がある。ローマのデナリウスの語源はadenisassibusで、当時存在した青銅貨アス10枚分と等価の新貨幣として設定されたために命名された。最初の一枚がいつ作成されたかについて、プリニウスは紀元前269年とし、後代の説では紀元前157年、紀元前167年などの説もあったが、現代では紀元前211ごろと考えられている。冒頭で既述のようにやがて各国語で呼ばれるようになったが、フランス語ではドゥニエと呼ばれるようになった。日本語ではドゥニエ、ドニエ、デニエなどと表記ゆれが見られる。同じくデナリウス銀貨を起源とする貨幣は、下表のような各国語で呼ばれた。最上段がラテン語の貨幣単位で、続く各行に各国の対応する単位を各国語で示してある。 -また、『予言集』には造語の多さがしばしば指摘されるが、これは当時俗語とされていたフランス語の地位を高めようとした『フランス語の擁護と顕揚』(1549年)に触発された可能性が指摘されている。同時に、ラテン語ではなくあえてフランス語を用いたことは、言葉が変化すれば読まれなくなることを織り込んでいるという点で、『予言集』が決して未来に向けて書かれたのではなく、同時代の知識人に向けて書かれたことを示している。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -ファン・ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(出生、少年時代)。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働くが、1876年、商会を解雇された(グーピル商会)。その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(聖職者への志望)。以降、オランダのエッテン(1881年4月-12月)、ハーグ(1882年1月-1883年9月)、ニューネン(1883年12月-1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月-1886年2月)と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した『ジャガイモを食べる人々』はこの時代の主要作品である。1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては『タンギー爺さん』などが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した(死)。発作等の原因については、てんかん、統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている(病因)。 -条約の内容は各国を刺激しないよう慎重に書き上げられたが、ヨーロッパ諸国はやはり激昂した。ロシアのエリザヴェータ女帝はイギリスの二元外交に激怒した。フランスは唯一の同盟国プロイセンが突如裏切ったことに怒りと恐怖を感じた。オーストリア、特にカウニッツはこの状況を利用してフランスに同盟を迫り、フランスは孤立を恐れて同意し、1756年5月1日にヴェルサイユ条約を締結した。条約では両国が攻撃される場合お互いに軍勢2万4千を提供することが定められた。ウェストミンスター条約もヴェルサイユ条約も防衛同盟であったが、両同盟の行動により戦争が不可避になり、この外交革命は結果的に戦争のきっかけとなった。 -5月18日日曜日、現地時間の朝8時32分(協定世界時同日15時32分)、セント・ヘレンズ山でマグニチュード5.1の地震が発生した。北側斜面は大規模な山体崩壊を起こし、時速160kmから240kmもの岩屑なだれとなってスピリット湖へ駆け下った。調査本部を呼び出そうとするデイヴィッド��ジョンストンの声("Vancouver!Vancouver!Thisisit!"(「バンクーバー!バンクーバー!もうおしまいだ!」))がアマチュア無線家によって記録されているが、間もなく交信は途絶えた。その直後、セント・ヘレンズ山の内部に蓄積されていたマグマが噴出し、激しい横なぐりの爆風(衝撃波)と大規模な火砕流が北側山麓を襲った。このときの火山爆発指数は5であった。この様子は、山頂から北東に約17km離れた地点に陣取っていたカメラマン、ゲイリー・ローゼンクイスト(GaryRosenquist)により連続写真として撮影され、秀麗な山容のセント・ヘレンズ山が崩落・爆発する様子が記録された。ジェラルド・マーチンは最後の瞬間まで噴火の様子を無線で伝え続けた。また、地質学者のキースとドロシーのストッフェル夫妻(KeithandDorothyStoffel)が小型飛行機で噴火の様子を写真に記録していた。ブラックバーンとランズバーグの遺体はカメラと共に後日発見され、ランズバーグの遺体の下のバッグパックから発見されたカメラからは噴火を記録した4枚の写真が救い出されたが、ブラックバーンのカメラのフィルムは熱で破壊されてしまっていた。ランズバーグの写真は翌81年に発表されている。 -ダレイオス1世はヒュルカニアとパルティアのサトラップ(クシャサパーワン、総督)ヒュスタスペス(ウシュタースパ)とロドグネ(ワルダガウナ)の長男として生まれた。ベヒストゥン碑文においてダレイオス1世自身が語るところによれば、その祖先はアケメネス家(ハカーマニシュ家)の分流であるという。 -アンリ2世はディアーヌのシンボル・カラーである黒と白の羽根飾りを身にまとって馬上槍試合に臨んだ。アンリ2世はギーズ公とヌムール公を破ったが、若いモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュは彼を強打して落馬しかけさせた。アンリ2世はモンゴムリ伯に再戦を挑み、この時、モンゴムリ伯の槍が国王の顔面を突き刺した。アンリ2世は落馬し、顔面からは血が噴き出し、「とても大きな」破片が目や頭に突き刺さっていた。この事態にカトリーヌ、ディアーヌそして王太子フランソワはみな卒倒した。アンリ2世はトゥルネール城に運び込まれ、ここで5つの木片が頭から引き抜かれたが、そのうち一つは眼球を貫通して脳に達していた。カトリーヌは王の枕元に侍したが、ディアーヌは、当時の年代記作家によれば「王妃によって追放される恐怖のために」、遠ざかった。続く10日間、アンリ2世の容体は揺れ動いた。手紙を口述し、音楽を聴くほど回復することもあったが、次第に彼は視力、言語能力そして意識を失い、7月10日に死去した。その日以来、カトリーヌは「これが私に涙と痛みをもたらした」("lacrymaehinc,hincdolor")と刻んだ折れた槍のエンブレムを用い、アンリ2世を悼む黒い喪服を常に着用するようになった。 -カール・ボッシュはドイツの化学者、工学者、経営者である。1899年にBASFに入社し、研究を開始した。1908年から1913年までフリッツ・ハーバーと共にハーバー・ボッシュ法を開発した。第一次世界大戦の後、高圧化学を用いて、ガソリンやメタノールの合成の研究を続けた。1925年にはIG・ファルベンの創立者の一人となった。1931年に高圧化学的方法の発明と開発によって、ノーベル化学賞を受賞した。 -オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになると、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きた(ミュンヘンオリンピック事件)。1976年のモントリオール大会になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカの諸国22ヶ国がボイコットを行った。そして、1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行った。1984年ロサンゼルス大会ではソ連と東側諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはソ連と対立していた中国とルーマニアだけだった。中でも、イラン革命後のイラン・イスラム共和国はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックをボイコットしている。オリンピックが巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題���なり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続いた。 -この後、バンベルクは、ドイツ・ロマン主義の発展に重要な役割を演じた。ヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダーはこの潮流の最初期の作家の一人であり、ルートヴィヒ・ティークと共同で著した"HerzensergießungeneineskunstliebendenKlosterbruders"(『芸術を愛する修道士の告白』)をはじめとするバンベルク滞在中の諸作品により、その発展に寄与した。 -また逃げられるのかとパターソンは心配になったが、ライオンは逃げる代わりにパターソンを攻撃することを選んだ。ライオンはパターソンのいる足場の周囲を、2時間ほどかけてゆっくりとはい回って彼を怯えさせた。急ごしらえの足場の脚部が折れたら、もしくはライオンがパターソンのいる地上3メートル付近まで跳躍してきたら、などという恐ろしい考えがパターソンを後悔させた。切迫した状況に耐えながら、パターソンはできるだけ不動の姿勢を保つように注意を払った。真夜中ごろに何かが飛んできて、パターソンの後頭部を直撃した。一瞬ライオンの攻撃かと動揺したパターソンは足場から落ちそうになったが、その正体はフクロウであることがわかった。一連の行動でパターソンが体を動かしたため、ライオンは唸り声を返した。ライオンは少しずつ忍び足で近寄り、パターソンとの距離を縮めてきていた。ライオンは下草の中に身を潜めていたが、パターソンはおおよその見当をつけることができた。ライオンがそれ以上近づいてこないうちに、パターソンは狙いを定めて銃の引き金を引いた。直後にライオンは恐ろしい唸り声を上げ、のたうち回る音がパターソンの耳に届いた。ライオンの姿自体は見えなかったが、パターソンはライオンが逃れた方向に向けて発砲を続けた。大きい唸り声を上げた後、ライオンの声は苦痛のあまり深い喘ぎ声に変わって、やがて声自体がやんだ。 -アラビカ種は病害虫や霜、少雨等に弱く栽培が困難だが、風味とコクに優れ、レギュラーコーヒー用を主体として多様な品種がある。総生産量の約70%を占める。従来は、ブラジルのブルボンとコロンビアのティピカが、アラビカ種の2大品種と呼ばれ主力品種だった。その後、収量や耐病虫性に優れた品種への置換が進み、最近ではブラジルのカトゥーラ、カトゥアイとムンド・ノーボ、コロンビアのカトゥーラとバリエダ・コロンビアが、それぞれ主力品種となっている。このほか、スマトラ、モカ(銘柄とは別)、ブルー・マウンテン(ブランドとは別)、コナ、マラゴジッペ、アマレロ、ゲイシャなどがある。ロブスタ種はアラビカ種に比べて耐病性が高く、少雨、高温多湿の土地でも栽培できる。また安定収穫できる様になるまでにかかる期間が3年と短い。栽培が容易なので収量も多く、生産量2位のベトナムで主力となっている。抽出しやすく水出しも容易だが、カフェイン成分が多く苦みやクセ(ロブスタ臭)が強く、単独での風味はアラビカ種に及ばないとされる。インスタント用原料や、安いレギュラーコーヒーの増量用が主体となっている他、いわゆるベトナムコーヒーに用いられる。リベリカ種は高温多湿の気候に適応するが病害に弱く、品質もアラビカ種に及ばない。 -寺院群のなかで中心的構造物であるプランバナン寺院は、古マタラム王国(サンジャヤ王統、8-10世紀初頭)の時代に建立された。その後、16世紀の大地震で多くが崩壊し、その存在はほとんど忘れ去られていたが、再発見の後、19世紀には発掘が始まり、20世紀になると遺跡の修復作業が開始された。このプランバナン寺院はインドネシア最大級であり、仏教遺跡のボロブドゥール寺院とともにジャワ建築の最高作の1つとされる。 -クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは妻ニナとの間に5人の子供をもうけた。長男ベルトルト、次男ハイメラン、三男フランツ=ルートヴィヒ、長女ヴァレリエ、次女コンスタンツェである。クラウスは家族が巻き込まれないようにと妻ニナにもヒトラー暗殺計画を打ち明けていなかった。しかしニナは夫の様子が妙である事に気づき、「あなた、謀反人ごっこをしているのでしょう」と聞いたことがあ���た。クラウスはそれを認めたが、「お前は知らない方がいい」と言って詳しい内容は話さなかったという。事件後、ナチス政府の憎しみはレジスタンスの中でも特に貴族に向かった。ドイツ労働戦線全国指導者ロベルト・ライは、事件後に『デア・アングリフ』に寄稿した記事の中で「貴族はユダヤ人の手先」と断定した。そしてその憎しみが最も向けられたのがフォン・シュタウフェンベルク伯爵家であった。内務大臣ハインリヒ・ヒムラーは「シュタウフェンベルク伯爵家は一人残らず根絶やしにせねばならない」と発言した。 -同時にバタヴィアの先住民は、ベタウィ人の奴隷も含め、ますます中国人に不信感を持つようになった。経済的な要素も一因であった。ほとんどの先住民は貧しかったが、この都市の特に最も裕福な人々の一部は中国人であることが知られていた。オランダの歴史家A・N・パースマンは当時の中国人は「アジアにおけるユダヤ人」だったと述べたが、実際の状況はもっと複雑だった。バタヴィア周辺に住む多くの貧しい中国人は製糖工場の労働者であり、オランダ人と中国人の上流階級双方から等しく搾取されていると感じていた。裕福な中国人は工場を所有しており、また農場や船からの収益も得ていた。彼らは製糖や、糖蜜とコメが主原料であるアルコール飲料アラックの蒸留で収入を得ていた。 -1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した。これによりハイパーインフレーションが発生し、軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。 -戦争中から連合国では、国際連合など戦後秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きくなった。この両国は戦後世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、その対立は長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。また、欧州の白人諸国家の統治下にあったアジア、アフリカの植民地では民族自決そして独立の機運が高まって多くの国々が独立し、結果として欧州列強の地位は著しく低下した。こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦中の対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。 -エアバスA319(AirbusA319)はヨーロッパのエアバス社が開発・製造している双発ジェット旅客機である。エアバスのナローボディ機(単通路機)であるエアバスA320ファミリーの1つであり、A320の短胴型である。A319は大きく2世代に分けることができ、第一世代はA319ceo、次世代型はA319neoと呼ばれる。A319ceoは、1993年に開発が正式に決定し、1996年5月にスイス航空によって路線就航を開始した。A319をベースとしたビジネスジェット機「AJC319」も開発され、1999年に初納入が始まった。2010年には、A320ファミリーのエンジンを一新したA320neoファミリーの開発が決定し、同ファミリーの短胴型としてA319neoが開発されている。A319neoは2017年2月に初飛行し、翌年12月に最初の型式証明を取得している。A319の機体は胴体長以外は可能な限りA320と共通化されている。主翼は低翼配置の片持ち翼で、尾翼は通常配置、降着装置は前輪配置、左右の主翼下にパイロンを介してターボファンエンジンを1発ずつ装備する。全長は33.84メートル、全高は11.76メートル、全幅は最大仕様で35.80メートルである。飛行システムもA320ファミリーと共通化されており、操縦資格もファミリー機で共通である。標準座席数はA319ceoが110から140席���A319neoが120から150席である。 -上述の通り桂の描く美少女には定評があるが、「ウイングマン」の連載中には担当編集より「色気がない」との指摘を受けていた。この指摘から桂は色気を出して描くことを意識するが、その結果として女の子を主人公にした作品の依頼しか来なくなったと語っている。ただし、早い時期から美少女の描写は評価されており、「ウイングマン」連載中のファンレターや『超機動員ヴァンダー』の巻末にコメントを寄せた土居孝幸からは共に「女の子が可愛い」との評価を受けている。少女の描写の中でも特に尻の描写は評価が高く、鳥山は「桂君と言えばお尻」との理由によって「さちえちゃんグー!!」の主人公さちえの痣を尻に設定している。また同じく漫画家の河下水希も、「桂正和先生の描かれるお尻なんて物凄い」と評している。美少女を描くのに当たり桂は、グラビアなどからイメージをする程度にとどめ、特定のモデルを決めずに描いている。これは特定のモデルを決めて描くと目の大きさなどのバランスが絵としては悪くなり、修正を加えていっても良い物が描けないことによる。 -1438年の帝国を4つのクライスに分けるとの案に対して国王は、クライスは6つ(フランケンとバイエルン、シュヴァーベンと中ラインをそれぞれ分離)にすること、指揮官の選出について諸侯の意見が不一致の場合は国王がこれを任命すること、指揮官は領主・騎士・都市からなる10人の参議官と共同で活動すること、という修正案を提出した。これらはクライスを管理する指揮官、ひいてはその上位に位置することになる有力諸侯の影響力を減じようという策で、帝国都市は総論賛成・各論反対の立場をとり、諸侯は強く反発したために、クライス案自体が不成立となった。 -1848年2月にフランス・パリで2月革命(1848年革命)が発生し、18年続いたルイ・フィリップの7月王政が打倒され、穏健な共和主義者らが中心となって臨時政府が樹立された。臨時政府は国立作業場の創設や男子普通選挙制度導入などの改革を行った。 -宮崎駿は数千人の従業員を擁した一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、東京市で生まれる。幼児期に宇都宮に疎開、小学校3年生まで暮らしていた。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区永福町に転居した。幼少時は身体が弱かったので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫や杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『沙漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中の3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し、アニメーションにも関心を持つようになる。学生時代にデッサンを独学で学び、ポール・セザンヌのような印象派に影響されている。 -ハワイ王国は、1839年にイギリスのマグナ・カルタを基本とした「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にはハワイ王国憲法を公布して立憲君主政を成立させた。1840年の憲法制定後、諸外国とのあいだで独立承認交渉が進められ、1842年、アメリカのジョン・タイラー大統領がハワイ王国を独立国として承認した。しかし、ジェームス・クック以降の18世紀後半から交流の歴史があったイギリスの賛同が得られず、カウイケアオウリ(カメハメハ3世)がイギリス領事と交渉を行うが決裂した。この決裂を受けて、メキシコ沿岸の軍艦を統括していたイギリス海軍のジョージ・ポーレットが、軍艦を率いて1843年2月にホノルルに入り、威圧的な状況下でカメハメハ3世との会談を強行し、会談後にポーレットによる臨時政府が成立させた。この臨時政府によりハワイ政庁にはイギリスの国旗(ユニオンジャック)が揚げられたが、アメリカ政府による抗議と間接的な圧力に加えてフランス政府の動きから臨時政府は短命に終わり、同年7月にハワイ王国に主権が戻った。その後に宗教問題など英米仏からの干渉を解決し、ヴィクトリア女王のイギリス、ルイ・フィリップのフランス王国の承認を得る。 -古生物・地質学者でナウマンゾウ研究などに大きな功績を残した井尻正二は、小樽の出身である。井尻は大正時代の終わりごろ、小樽・公園通りにあった消防分署の隣に住んでいた。そこには、「純粋の雑種」犬が1匹住み着いていた。井尻の見たところではお世辞にもいい犬とは言えなかったというが、その犬こそぶん公であった。井尻は1972年(昭和47年)の随筆集『化石のつぶやき』において、ぶん公について1編の随筆を書いた。1975年には、画家の金子三蔵とともにぶん公の生涯とエピソードを題材とした絵本『消防犬・文』を創作した。井尻と金子はこの絵本で「絵本が絵本であるためには、あくまで絵が主体であり、絵が直接子供たちに話しかけるものでなくてはならない」という理念を掲げ、説明を最小限にとどめ、絵が持つ訴求力を活かすことを試みている。『消防犬・文』は、2007年(平成19年)5月に読者からの希望で再刊された。この絵本には解説として、随筆集『化石のつぶやき』からぶん公について書いた部分が使用されている。 -東京都では、千代田区にある九段会館の天井仕上げ材の一部が崩落して2人が犠牲に、江東区の金属加工工場では化学薬品トリクロロエチレンを含んだガスが充満し、吸い込んだ従業員2人が犠牲に、町田市にあるコストコ多摩境の駐車場のスロープが崩落して2人が犠牲になるなど計6人が死亡した。津波による死者はいなかった。また、港区台場の国土交通省青海総合庁舎で火災が発生したほか、江東区新木場や江戸川区清新町などの埋め立て地を中心に液状化現象が発生した。 -バタヴィアの華僑虐殺事件(バタヴィアのかきょうぎゃくさつじけん、オランダ語:Chinezenmoord(直訳:中国人殺害)、インドネシア語:GegerPacinan(直訳:チャイナタウン暴動))は1740年にオランダ領東インドで発生した虐殺事件である。オランダ領東インドの兵士が先住民族の協力者と共に港湾都市バタヴィア(現ジャカルタ)の華僑(中国系インドネシア人)を殺害した。日本語では「バタヴィアの狂暴」「バタヴィアの狂乱」と呼ぶ文献もある。この都市での暴力行為は1740年10月9日から22日まで続き、城壁外での小規模な小競合いは同年の11月まで続いた。歴史家の推定によれば、少なくとも1万人の華僑が殺害され、生存者はわずか600-3000人だと考えられている。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -かつては日用の様々な部分に和紙が用いられており、印刷や複写紙にも和紙が用いられていた。因州和紙の産地でも明治期には生産する工場が1300を数え、大正期までピークが続いた。やがて市民生活にも西洋化が浸透するとともに、和紙の原料となるコウゾやミツマタの価格が上がり、手作業で生産される和紙よりも、パルプを原料として工場生産される西洋紙の使用が普及するようになった。大正時代には日本全体では西洋紙の生産量が和紙を上回るに至った。太平洋戦争期には、因州産のコウゾ紙が気球爆弾の原材料にも用いられた。 -イレーヌは1897年、父ピエール・キュリー、母マリー・キュリーの長女として、パリで生まれた。当時、両親は放射性元素の発見に取り組んでいる最中であり、イレーヌが生まれたのは2人がラジウムを発見する前年のことであった。イレーヌ誕生後、両親は夜になるとイレーヌにつきっきりとなり、マリーは娘の成長を日記につづった。しかし日中はマリーもピエールも実験で忙しかったため、3人が一緒に過ごす時間は限られた。そのためイレーヌは、同居していたピエールの父親である医師のウジェーヌ・キュリーと過ごすことが多かった。幼い頃のイレーヌは、父ピエールを「ペ(Pé)」、母マリーを「メ(Mé)」と呼び、母親に対する独占欲が強かった。その当時にキュリー家を訪れた知人は、マリーやピエールと話をしていると、イレーヌが、自分のこともかまって欲しいとたびたび主張してきたことを述懐している。また警戒心が強く、他人とはあまり打ち解けない性格だった。1903年、両親がノーベル化学賞を受賞し、時の人となった。家には連日取材陣が押し寄せ、当時6歳だったイレーヌも取材の対象になることがあった。1904年、妹のエーヴが生まれた。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。夏目家の系図(夏目氏系譜(武家家伝))によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年(元禄15年)旧暦4月、夏目兵衛直情の時、名主に任じられた。現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが���常である)。父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった。『夏目漱石人と作品3』11頁によると、遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をして過ごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋高橋長左衛門の妹として結婚したが、表向きは四谷大番町の鍵屋という質屋から嫁いだことにしていた。そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の孫に、芸能プロダクション経営者でVISAカードのCFで漱石役を演じた新田太郎がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の別の孫に朝日新聞社員(『週刊朝日』副編集長、『アサヒカメラ』編集長、『図書』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の角田秀雄がいる。妻-夏目鏡子との間に2男5女をもうけた。次女・恒子は、『其面影』を著している。四女・愛子は、津田青楓の少女像のモデルとなっている。五女・雛子は1歳で亡くなっている。その臍の緒が発見され、東北大学が購入している。 -芝生や古い牧草地に出現する。子実体は、切り株周辺の腐食した木の上に生えることもあるが、一般的には地面から直接生える。子実体は晩夏から秋に出現する。DavidAroraはカリフォルニアにおいて、晩秋から冬にカシやマツの下に出現するフォームと、秋にカバノキの下に出現するフォームを区別している。幼虫の餌として子実体を利用する甲虫やハエもいる。また、イグチ目に寄生する菌類、アワタケヤドリHypomyceschrysospermusの寄生を受ける。寄生を受けると、最初は白い粉を吹いたようになり、成熟とともに黄金色から赤茶色に変化する。 -1534年、ルートヴィヒ5世によってループレヒト館に石造の上階が増築された。前面の壁段や建物内の1534という年号は現在でもその改築を伝えている。この建物の入り口の上には天使の像が掲げられている。これは館の主の目印であり、こうした方法で後世の人々にそれを伝えていると推測されている。また、この二人の天使は建設作業中に足場から転落して命を落とした建築家の息子をモデルにしたという伝承がある。このために建築家は憂鬱症となり、建設は行き詰まってしまったという。ループレヒト3世は1400年にドイツ王ループレヒトとして戴冠し、この建物を主たる居館に定めた。このためループレヒト館には帝国鷲の紋章が掲げられ、王の居館であることを示している。ループレヒト館の中にはルネサンス様式の暖炉があるが、これは現存する数少ない内装構造のひとつである。 -日本において第一種使用(食用又は飼料用に供するための使用、栽培、加工、保管、運搬及び廃棄並びにこれらに付随する行為)を認められている組換え品種には、例えば、選択マーカー遺伝子以外に1品種に6種類の害虫抵抗性と2種類の除草剤耐性の計8種類の外来遺伝子が導入されたものや1品種に7種類の害虫抵抗性と3種類の除草剤耐性の計10種類の外来遺伝子が導入されたもの、除草剤耐性と改変された脂肪酸残基組成の貯蔵脂質の双方をもつという、世代をまたいでいるといえるものもある。このように、異なった形質を持つ組換え品種を掛け合わせて、複数の形質(stackedtraits)を導入された組換え品種をスタック(ド)品種(stackedGMline(variety,cultivar))ということがある。なお、前述の通り、まだ第三世代については確たる定説がないため、ストレス耐性作物に関しては「第一世代組換え食品の開発状況」において説明する。 -遠軽の人々は、石北線工事が延期されれば、自分たちはいつまでも貧しい生活を強いられ続けるとして、この延期案を地方の発展を侵害する重大な問題と捉えた。そして国会に行って直訴すべく、陳情団の結成を決意した。上京資金は全額を会費で賄うことはできず、1人あたり50円が自己負担となり、それを払う勇気を持つ者が、有志として上京することになった。当時の50円は小学校教員の初任給に匹敵する大金であり、一家庭から���捻出は決して容易ではなかった。それでもこの一大事に対し、遠軽、丸瀬布、白滝の各村から52名もの有志が、自発的に参加を名乗り出た。団長には、当時42歳の市原が任じられた。 -その後、2003年のコロンビア号空中分解事故によってスペースシャトル退役への流れが加速したことにより、HTVを含めた無人宇宙補給機の重要性が高まっていった。当初、人工衛星基準の設計・製作経験しかない日本がHTVをISSへ全自動ランデブーさせる構想を提案したことに対し、NASA側は難色を示して拒絶したという。ちなみに、当初HTVはH-IIAロケットに液体ロケットブースター(LRB)1基を追加した212型で打ち上げる前提で開発が進められていた。しかし再検討の結果、LRBを追加するより、1段目を大型化する方が経済性、確実性、輸送能力などの点でより優れていると判断され、H-IIBロケットの開発が決定した。なお、日本ではHTVの前に再使用型宇宙往還機であるHOPE(ホープ、H-IIOrbitingPlane)の開発が進められていた。HOPEはISSの輸送用途にも考えられていたが、再利用型より使い捨て型のHTVでの輸送の方が費用対効果が優れているということで、結局HOPEが採用されることはなかった。なお後にHOPEは開発自体が凍結されている。 -1914年6月29日午後3時、ポクロフスコエ村に帰郷していたラスプーチンは自宅でキオーニャ・グセヴァに襲われた。キオーニャは顔を黒いハンカチで覆い、短剣でラスプーチンを殺そうとした。ラスプーチンは腹部を刺され自宅から飛び出し、地面に落ちていた棒で反撃した。ラスプーチンは近隣から医師が来るまで自宅に留まり、翌30日午前0時に医師が到着し治療を受けた。4日後、ラスプーチンは妻子に伴われて船でチュメニの病院に移送された。知らせを聞いたニコライ2世は直ちにチュメニに医師団を派遣し手術を受けさせた。7週間後の8月17日、回復したラスプーチンは退院し、9月中旬にペトログラードに到着した。娘マリアによると、ラスプーチンは暗殺未遂の主犯は彼を批判していたセルゲイ・トルファノフとウラジーミル・ドズコフスキーだと信じていたという。しかし、トルファノフはキオーニャからラスプーチンの暗殺を進言された際に拒否していた。10月12日、トルファノフは殺人扇動の罪で告発されたが、検察官は非公開の理由で起訴を取り下げた。また、キオーニャは異常者としてトムスクの精神病院に収容されたため、裁かれることはなかった。この事件を最後にラスプーチンを公然と批判する勢力はいなくなった。ストルイピンは既に暗殺され、ココツェフは失脚、ビストロフとドルガニョフは追放され、トルファノフも逮捕を免れるためマクシム・ゴーリキーの助けを借りて逃亡していた。 -1012年にサーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝のマフムードがイブン・スィーナーらホラズムの学者たちに出仕を要請したが、イブン・スィーナーは要求を拒む。マームーン2世はガズナ朝の使者が訪れる前にイブン・スィーナーに路銀と案内人を与えて密かに逃がし、かくしてイブン・スィーナーはホラズムから立ち去ることになった。ガズナのマフムードはイブン・スィーナーの逃亡に怒り、各地の王侯に彼の捜索を要求する触れ書きを出した。 -バタヴィアの華僑虐殺事件(バタヴィアのかきょうぎゃくさつじけん、オランダ語:Chinezenmoord(直訳:中国人殺害)、インドネシア語:GegerPacinan(直訳:チャイナタウン暴動))は1740年にオランダ領東インドで発生した虐殺事件である。オランダ領東インドの兵士が先住民族の協力者と共に港湾都市バタヴィア(現ジャカルタ)の華僑(中国系インドネシア人)を殺害した。日本語では「バタヴィアの狂暴」「バタヴィアの狂乱」と呼ぶ文献もある。この都市での暴力行為は1740年10月9日から22日まで続き、城壁外での小規模な小競合いは同年の11月まで続いた。歴史家の推定によれば、少なくとも1万人の華僑が殺害され、生存者はわずか600-3000人だと考えられている。 -1871年11月末にバーティは父アルバートの死因となった腸チフスを患い、12月に入ると危篤状態に陥った。これには共和政への移行を論じていた新聞や雑誌も含めて国中が心配した。普段はバーティに厳しい女王もこの時ばかりは2週間にわたってバーティの看病に付きっきりになっ���。ちょうどアルバートの命日の12月14日にバーティは奇跡的に意識を取り戻し、以降病状は快方に向かった。まるで亡きアルバートがバーティを救ったかのような劇的な展開に国中が歓喜した。首相グラッドストンはこれを王室人気を回復させる好機と見て、女王の許可も得て1872年2月27日にセント・ポール大聖堂で1万2000人を招待した皇太子回復感謝礼拝を挙行した。礼拝を終えて宮殿へ戻る女王とバーティは、沿道に集まった人々から「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という熱狂的な歓声を受けた。これにより王室廃止論はほぼ吹き飛んだ。 -2日後の10月9日、華僑による凶行が起きるとの噂が流れたことが原因となり、バタヴィアに住む他の民族集団はベサル川(BesarStream)沿いの中国人の家を焼き、オランダ兵は中国人の家に大砲を撃ち込んだ。この暴動はすぐにバタヴィア全体に広がり、さらに多くの中国人が殺害された。10月11日にファルケニール総督が略奪を止めようとしたものの、総督がより強く交戦停止を求めた10月22日まで不法集団は中国人を狩り殺し続けた。街の城壁の外側では、暴動を起こしている砂糖工場の労働者とオランダ兵の衝突が続いていた。小規模な小競合いが数週間続いた後、オランダ軍は地域全体にある砂糖工場の中国人拠点を攻撃した。 -名取市では市域の27%が浸水した。中心市街地は内陸部にあったが、沿岸部にあった閖上地区が壊滅的被害を受けるなど、1,000人弱が犠牲となった。閖上大橋で地震の揺れにより大型トラックが荷崩れし、対向車線の乗用車運転手が死亡する事故が発生し通行止めとなったことで地区内で渋滞が起こったことも、犠牲者を増やす要因となった。仙台空港の滑走路が冠水する様子は、国内外で大きく報道された。岩沼市は市域の48%が浸水して200人弱が、亘理町でも町域の48%が浸水して300人弱が犠牲となった。仙台市や名取市同様に中心市街地は内陸部にあったが、沿岸部の集落が壊滅した。亘理町では元女子サッカー選手の佐藤恵利子も犠牲となった。山元町では町域の38%が浸水した。養護老人ホーム「梅香園」と併設するケアハウスで82人が犠牲に、常磐山元自動車学校の送迎バス5台が津波に飲まれ、教習生と教官の39人が犠牲になるなど700人弱が犠牲となった。このほか、七ヶ浜町でも甚大な被害を受けた。一方、松島町や塩竈市は周辺の自治体と比較しても被害が軽微であった。これは浦戸諸島とその奥にある松島湾内の島嶼群が津波の威力を緩和、分散したためと推測される。ただし、あくまでも周囲に比べれば軽微だったというだけであり、家屋の浸水や犠牲者が発生したことに変わりはない。 -それに続く研究により、この菌はオーストラリアでは遅くとも1978年、北米では1970年代に出現したと確証された。最初に感染が記録されているカエルはアフリカツメガエル(Xenopuslaevis)である。ツメガエルは世界中のペットショップで売られ、研究室で使われているため、ツボカビがアフリカから移出されたというのはありうることである。 -富山県では東礪波郡井波町の北越井波書籍館(1884年-1886年)、中新川郡砂子坂村の真理館(1885年-1899年)、富山市の富山循環書院(1888年6月-????年)、氷見郡氷見町の枇杷籛太郎文庫(1892年-1900年)、下新川郡入善町の米沢図書館(1910年-1937年)など、明治時代に民間が運営する小図書館がいくつも設立されては消えていった。1902年(明治35年)11月18日には富山県初の公立図書館として、下新川郡三日市町に下新川郡立図書館が設立された。 -これらのぬいぐるみたちに声と性格を与えたのは、ミルンの妻、すなわちクリストファーの母親、ダフネであった。ぬいぐるみたちと一人遊びをするクリストファーに母親が加わることによって、ぬいぐるみたちに生命が吹き込まれていった。ミルンは自分はこうして生み出されたキャラクターをありのまま描写しただけだと記している。物語の舞台は、サセックス州に実在する田園地帯アッシュダウンの森をモデルにして描かれている。ミルンは1924年夏、息子が4歳のときに、この地の北のハートフィールド近郊に建てられていた古農家コッチフォード・ファームを買い取って別荘とした。そして改修が済んだ1925年以降、毎週末や復活祭、夏季休暇などの���びに妻子と乳母の4人でこの地を訪れており、クリストファーはいつもぬいぐるみたちを連れてきていた。作品が有名になって以降、アッシュダウンの森は『プーさん』の愛読者が訪れて物語を追体験する観光地となっている。 -またストラトフォード派は、オックスフォード説にとっては根底を覆されるほど不利な証拠となる作品として『マクベス』を挙げる。この作品は伯爵死後の1605年11月に露見した火薬陰謀事件の余波の中で書かれたものであると考えられるためである。とりわけ、第3幕における門番のセリフに出てくる"equivocation"(二枚舌。同一の曖昧な言葉を複数の意味で使用するという虚偽はどこまで許容されるかという議論も意味する)が、この事件に関与して処刑されたヘンリー・ガーネット神父(HenryGarnet)を指している可能性が高いことも指摘される。オックスフォード派は、この"equivocation"はエリザベス1世の宰相ウィリアム・セシルによる1583年の政治論文もしくは1584年にスペインの高位聖職者マルチン・デ・アツピルクェタ(MartindeAzpilcueta)によって書かれ、ヨーロッパ中に広まって1590年代にはイギリスへも流入していた綱領で扱われていたテーマでもあると反論している。ニュー・ケンブリッジ版全集においてA・R・ブラウンミュラー(A.R.Braunmuller)も、1605年以降の作品と断定するには根拠が薄弱であり、遅くとも1603年以降と見ておくのが妥当であると述べている。またオックスフォード派は、王の殺害と王位簒奪を主題としている作品であることから、『マクベス』がジェームズ1世の即位を祝うために書かれたという定説をも疑問視している。 -A300の設計は計画が紆余曲折していた間も進行しており、生産設計と治具類の設計・制作は1969年5月の計画の正式決定とほぼ同時に開始されていた。西欧では1950年代後期以降、C-160輸送機やアトランティックなどで航空機の共同開発経験が蓄積されており、予想以上にスムーズに開発が進んだ。1971年の春には設計の90パーセントが完了し、ピーク時には総計3000人の技術者がA300に携わったと言われる。A300の空力設計は、全体のまとめと機首形状をアエロスパシアル、主翼とエンジン取り付け部をホーカー・シドレー、胴体後部と尾翼をドイチェ・エアバスが担当した。A300の材料やプロセスは無理に統一規格を作らず、コンポーネントを担当した各国の規格で設計・生産され、1つの図面の中に英語、フランス語、ドイツ語が混在して使用されることもあった。イギリス政府が離脱したことでR-R製エンジンにこだわる必要が無くなったことから、当時欧州の主要航空会社が発注していたDC-10-30と同じGE製のCF6エンジンが採用された。また、エンジン本体だけでなくエンジンポッドや補助動力装置、エアコン装置などもDC-10と同じものが用いられた。 -司馬遷は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者だ。姓は司馬だ。名は遷、字は子長だ。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳、さらにその孫で始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった司馬昌がいる。司馬昌の子は司馬無澤と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。このような家系において、父・司馬談もさまざまな師から天文・易・道論などの教えを受け、漢王朝に仕え、司馬遷3歳の年から元封までの約30年間にわたり太史公の官職を得ていた。談は道家的思想を基礎に、旺盛な批判精神を持ち、先祖が取り組んだ歴史書編纂事業への熱意を常々抱えていた。 -2017年2月24日、任天堂は、公道カートのレンタルサービスを行う「株式会社マリカー」(現商号:株式会社MARIモビリティ開発)に対して賠償を求める訴訟を東京地裁に提起した。この中で任天堂は、株式会社マリカーがマリオカートの略称として知られる「マリカー」の標章を会社名に用いていることに加え、マリオ等の衣装の貸与や��の衣装の宣伝・営業利用などを任天堂に無断で行っていることが不正競争行為および著作権侵害行為に当たると主張している。2018年9月27日の地裁判決では、被告会社に対しマリオ等の衣装の貸与の禁止など不正競争行為の差止と損害賠償金の支払い等が命じられた。また、2020年1月29日には、知的財産高等裁判所において、5000万円の損害賠償金の支払いと不正競争行為の差止等を被告会社に命じる終局判決が下された。 -ギンボシヒョウモンSpeyeriaaglaja(Linnaeus,1758)は前翅長35mm前後ある。和名は後翅裏側に白い斑点が点在することに由来する。ウラギンヒョウモンに似るが、後翅裏側のつけ根にある3つの白斑が三角形に並ぶ点で区別する。ユーラシア大陸の温帯域に広く分布し、日本では中部地方以北で見られる。 -三恵子は元代議士秘書がやっていた会社に一週間ほど勤めたのち、1977年5月から再び義姉の店、『かみしま』で今度はレジ係ではなくホステスとして働き始める。1979年1月からクラブ『エルマーナ』に移り、2月にはクラブ『セビアン』にスカウトされる。この店で後に再婚することになる5歳年下のFと知り合った。Fとは元俳優で、『ケーキ屋ケンちゃん』(TBS)にジャンボという名前の出前持ちの役柄で出演しており、身長183センチ、体重は130キロはあると思われる巨体の持ち主で、私生活でもジャンボと呼ばれている男である。Fは劇団いろはに所属していた経歴があり、当時は北海道の実家で鰻の養殖業を営んでいたという肩書であった。特撮番組、『ダイヤモンド・アイ』にもレギュラー出演している。三恵子は後に胸にジャンボの頭文字であるJの文字の入ったペンダントを絶えず身に着けるようになる。店では源氏名は使わず榎本三恵子の名で通した。1980年1月から再びスカウトされて、クラブ『エミール』で30人余りのホステスを取り仕切る雇われママとして働くなど、銀座を転々としていたが、6月末には店を辞め港区でFと同棲生活に入る。 -有孔虫自体は海洋はもとより淡水、土壌中にも広く分布する生物群であるが、星の砂の元となる種の分布は温暖な海域に限られており、星の砂が見られる場所も限定される。星の砂を成す殻は炭酸カルシウムでできており、サンゴとともにサンゴ礁の炭素循環において重要な役割を果たしている。炭酸固定量(この場合は無機炭素としての固定)は700g(800,000個体相当)/m2/年ほどと見積もられていて、これは造礁サンゴや石灰藻(紅藻の一種)に次ぐ量である。また、星の砂を作る大型の有孔虫には珪藻やハプト藻といった藻類が共生しており、この共生藻は光合成を行っている。このように、生態系の中で一次生産者に住処を提供するという側面もある。星の砂は生態的に重要な生物の残渣なのである。 -アーサー・コナン・ドイルは1859年5月22日、スコットランド・エディンバラに測量士補チャールズ・ドイルの息子として生まれた。アイルランド系・カトリックの家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、ミドルネームのひとつとなる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、のちにアルコール依存症になり精神病院に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった。伯父たちの支援でイエズス会系の学校を出たあと、1876年にエジンバラ大学医学部に進学し、1881年に学位を得て卒業した。大学卒業後、医師として診察所を開業した。患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、1884年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説『緋色の研究』を発表している。1889年に出版された歴史小説『マイカ・クラーク』、1890年に出版されたホームズシリーズ第2作『四つの署名』、1891年に出版された歴史小説『ホワイト・カンパニー』などで小説家として成功した。 -サイチェルは覚書を2通携えていた。1通目はギリシャに関するもので、イギリスが3月31日を限りにギリシャに対する援助を打ち切らざるを得ないとして、年間6000万から7000万ポンド(当時の為替レートは、1ポンド=4.03ドル)の肩代わりをアメリカに求めた。もう1通はトルコに関するもので、軍の近代化と経済発展の両立が困難であること、トルコの戦略的・軍事的位置について英米連合参謀本部(CombinedChiefsofStaff)で協議する用意があることや、トルコ軍拡充の為の財政援助をアメリカが行うよう期待することが記されていた。 -2013年、宮崎駿が戦国時代を舞台にした漫画を執筆中であると『月刊モデルグラフィックス』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『アーマーモデリング』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。2014年、『思い出のマーニー』を最後の作品として、スタジオジブリの制作部門が解体される。三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた。同年11月、第87回アカデミー名誉賞を受賞。日本人としては黒澤明以来2人目の快挙となる。同時受賞となった女優のモーリン・オハラは長年のファンで、会えたことに感動した。同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。京都府八幡市の石清水八幡宮の本殿で奉納された。2015年、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『毛虫のボロ』を制作中であることを明らかにした。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作はスティーブンスティーブンが担当している。2015年5月8日、沖縄・在日米軍基地再編における普天間飛行場の辺野古移転計画に反対する辺野古基金の共同代表に就任した。同年7月13日、日本外国特派員協会の要請に応じて東京都小金井市にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく沖縄に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて鳩山由紀夫内閣が提案した県外移設の実現を強く求めた。 -市街で発生した場合は、特に被害が大きくなる。氷が電線に付着して電柱が倒壊し、氷の量が多い場合には送電線の鉄塔でさえ倒れることもある。鉄道の架線に付着した場合は、給電がストップして運行ができなくなるが、雨氷を取り除く作業は着雪などに比べて時間がかかり、運行再開は遅れがちになる。また、電線の一定の方向にだけ雨氷が付着すると、強風によりギャロッピング現象と呼ばれる振動現象を起こし、電線同士が接触するなどしてショートし、断線することがある。雨氷が道路を覆うと、表面は硬く滑らかなため非常に滑りやすい状態となり、車はスリップし、歩行者も転倒しやすくなる。雨氷に覆われた道路の制動距離は、乾いている場合の10倍、雪に覆われている場合の2倍といわれている。雨氷は表面が滑らかで透明なうえ、雪が降るとすぐ覆い隠されてしまうため、道路が雨氷に覆われていることに気付かないことがある。また、気づいていても滑りやすいので、誤って怪我をしてしまうことが多い。戸外での移動に際しては、靴や車のタイヤのスリップ対策が必要になる。また、鉄道の線路や飛行場の滑走路も凍結した場合、交通網の深刻な停滞・麻痺を来たす。また、特に雨氷の場合に留意しなければならないのが、停電に伴う影響である。雨氷は電線に付着して停電を起こしやすいため、ガスや電気の代わりとして暖房に火を使うことになる。それによって火災の危険性が高まり、締め切った室内で暖房器具や発電機を使うことで一酸化炭素中毒の危険性も高まる。1998年1月上旬に北米を襲ったアイスストームでは、多数の一酸化炭素中毒患者が出ている。 -人気作家の本でも複本は3冊程度に抑えており、人気本では予約から2-3年待ちとなることもある。このことに対する苦情は少なくないが、タイトル数を充実させることで利用促進に努めている。2015年のTOYAMAキラリへの移転を契機に、講演会やバックヤードツアーなどの企画に力を入れている。1970年(昭和45年)に富山市立図書館として独立した際には、富山県新川郡東谷村出身の小説家・ジャーナリストである翁久允から蔵書約2,700点(洋装和書約2,000冊、洋書269冊、雑誌201種、和装本181点)を寄贈され、翁文庫を整備した。 -その後もターン技術を磨き、コルチナダンペッツォオリンピック出場の頃には、世界トップクラスのターン技術を有していると称されるに至る。このようなターン技術の高さから、回転競技を得意としており、アーデルボーデンでのワールドカップ金メダル、コルチナダンペッツォオリンピック銀メダル、バート・ガスタインでの世界選手権銅メダルの他にも、1954年にコロラド州アスペンでの全米大会で優勝、1955年から1957年までNCAASkiingChampionshipsの回転競技部門を三連覇するなどの功績を残している。 -ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これを阻止すべく、欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし(ウクライナ大飢饉)、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務省人民委員部(NKVD)と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばし、これを食い止めようとする各国の右派からファシズムが生み出されることになった。 -アイダ・ゲップは1862年にペンシルベニア州フィラデルフィアで誕生した。モラヴィア派の家庭の生まれであり、伝統的に教育と伝道に熱心な家であった。モラヴィア派は、厳しい信仰規律のもとに日常生活の中でキリスト教徒の交わりを実現しようとした教派であり、国外への伝道も熱心であったことから、この教派の教えが、信仰に対して強い信念を持つアイダの人格形成に影響したと見られている。幼少時はニューヨークの聖公会とメソジスト教会の日曜学校で過ごしており、この2つもまた後のアイダの堅い意志の形成の基礎となった。7歳のときに母を失い、伯母の住むドイツのシュトゥットガルトで高等学校まで過ごした。その後にアメリカに戻り、ニューヨーク市立大学ハンター校を卒業した。後に自分の進路に疑問を抱いた末に、宣教活動を選んだ。1890年に訪日した。女学校の教員を5年間勤めた。 -宮城県教育委員会は、3月14日から18日までを休校とし、15日に予定していた高等学校一般入学試験の合格者発表を22日以降に延期することを決めた。地震発生直後の2011年3月12日、13日には国公立大学の入学試験後期日程が予定されていたが、12日は被災地にある32校の大学(私立大学含む)で試験が中止されることになった。国立36大学・公立15大学・私立7大学が12日の試験の開始時間繰り下げや、地震の影響を受けた受験生の個別対応を行い、追試の対応をした大学もある。文部科学省は、3月12日における国公立大学後期日程の受験者は6万5667人(昨年から2万604人減少)であり、この減少は地震の影響によるものであるとしている。東北地方で同日に試験が実施された国公立大学は、全12校のうち秋田大学・秋田県立大学のみであった。翌13日においても6校で試験を中止し、5校で繰り下げ実施または個別対応を行った。また、家屋の損壊した状況に応じて入学金や授業料の免除を行う大学や、震災や計画停電の影響を考慮して授業開始を5月以降とする大学も増えている。 -ポチョムキン=タヴリーチェスキー公(ロシア語:КнязьПотёмкин-Таврическийクニャースィ・パチョームキン・タヴリーチェスキイ)は、ロシア帝国で建造された戦艦である。艦名は「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公爵」という意味。ロシア帝国海軍では当初は艦隊装甲艦(Эскадренныйброненосец)、のち戦列艦(Линейныйкорабль)に分類された。ロシア第一革命の時期に水兵による叛乱が起こったことで世界にその名を知られた。特に、ポチョムキンという略称で有名である。 -南硫黄島は東京から南南東約1300kmの、北緯24度13.7分、東経141度27.7分に位置している。緯度的には台湾の中部にあたり、北回帰線のすぐ北側にある。南硫黄島の北約60kmには、同じ火山列島に属する硫黄島があり、小笠原諸島の父島からは330km離れている。また、南東約540km先にはマリアナ諸島の北端にあるファラリョン・デ・パハロス島(ウラカス島)がある。南硫黄島は、ほぼ南北方向に延びる、全長約1200km、幅約400kmの島弧である伊豆小笠原弧の最南部に位置している。伊豆諸島や火山列島を構成する島々は、伊豆小笠原弧の火山フロントである七島-硫黄島海嶺に属し、258万8000年前以降の第四紀に活動している火山であるが、南硫黄島もやはり第四紀に火山活動によって形成された火山島である。南硫黄島がいつ頃島として誕生したのかについてははっきりしていないが、採集された岩石の分析から地磁気の逆転が見られないため、数十万年より新しいと考えられている。日本列島のように、かつて大陸と地続きであったが切り離された島を大陸島と呼ぶ。一方海洋底から火山活動によって誕生し、これまで大陸と一度も地続きとなったことがない島を海洋島ないし大洋島と呼ぶ。伊豆小笠原弧の火山フロントである七島-硫黄島海嶺に属する南硫黄島は、典型的な大洋島である。 -馬券の禁止に東京競馬会を含む各地の競馬会は動揺し開催を延期した。延期して開催された池上競馬場の1908年(明治41年)秋場所は競馬としては遅い時期の12月18,19,20に3日間と日程も短縮して行われた。馬券を発売しない競馬は観客からそっぽを向かれ、秋場所初日は1等入場券が5枚、2等入場券が7枚しか売れず、招待客を入れても競馬場は閑古鳥が鳴いた。馬券収入が無くなったので賞金額も前場所の42,000円余りから2500円へと激減した。馬券が禁止された直後の1908年(明治41年)秋の池上競馬には、政府から補助金が25,000円が出された、他、各地の競馬会にも補助金は出されたが、競馬の運営に25,000円程度では到底足りる金額ではなかった。そのため全国の競馬関係者は一斉に馬券復活運動に立ち上がる。補助金による競馬ではなく馬券を売る競馬を求める各競馬会は明治42年春場所は開催しなかった。国会が開かれていた東京に全国から競馬関係者が集合し、政府に馬券復活の請願活動を行う。この運動は激しくついに1909年(明治42年)春の衆議院では議員立法で提出された馬券を認める法案が通過した。しかし、政府と貴族院の抵抗は強く貴族院の反対によって結局は馬券禁止は覆ることはなかった。この後の日本競馬は政府の補助金によって行われる補助金競馬時代に移行する(馬券発売が認められるのは1923年(大正12年)の競馬法成立を待たなければならなかった)。1909年(明治42年)春の開催をあきらめて行った馬券復活運動は実らず、補助金競馬時代に移行した同年秋に3日間開催したのが、結果的には池上競馬場の最終回となった。 -夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者である。本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。俳号は愚陀仏である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などである。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身である。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表した。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載した。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆した。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日��定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -だが1944年4月、今川大佐は水冷エンジンの戦力化に見切りを付ける決心を固め、川崎に対して内密に空冷化を打診した。8月または9月には三式戦闘機二型が100機程度で生産を打ち切ることが決定された。軍需省は1944年8月の二型の生産縮小の後、1944年10月1日、川崎に対し、首無しの三式戦に空冷発動機を搭載したキ100の開発を指示した。古峰(2007)の文献によれば、指示の時期は川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』において11月とも記載される。前掲文献によれば、この月の首無し二型の在庫は68機であった。空冷化にあたり選定されたエンジンは金星62型、陸軍名称ハ112-IIであった。これはハ140と同様の離昇出力1500馬力級エンジンであるが、空冷星型14気筒の構造を持ち、栄よりやや大型で、直径は1218mmである。なお古峰(2007)は、キ99とキ101の試作指示が1943年7月9日に出されていることから、キ100もこの頃には既に機体番号を与えられ、ある程度の検討が成されていた可能性を指摘している。 -広島県全体の造石高で見ると、1874年(明治7年)時点で全国5位以下だったものが、1924年(大正13年)兵庫に次いで全国2位(福岡と同位)に位置していた。そこから大正バブルが弾け昭和恐慌により減少が続き、太平洋戦争時の戦時体制による統廃合で激減した。戦後を経て1958年(昭和33年)に国内の酒造業は最盛期を迎えたものの、以降全国規模の競争の中で大手メーカーの造石数が増える代わりに地方の中小メーカーが廃業していった。西条に現存する酒造メーカーもこの間拡張傾向にあり、西条地区内が手狭となったため地区外へ酒蔵を増設するメーカーもあった。ただ灘・伏見の大手が生産量・経営規模が大きくなっていったのに対し、西条では全て縮小していった。例えば1971年(昭和46年)の企業規模では西条の中では賀茂鶴が最大であったが、全国的に見るとその時点で20位程度でその差は年々広がっている。西条酒の生産量で見ると、1980年(昭和55年)の最大は白牡丹の5,519kl、1989年(平成元年)での最大は白牡丹の4,024klであるが、この間灘・伏見の大手が増加しているのに対し西条では白牡丹も含めてすべて減少している。施設の増設も1990年代初頭つまり平成バブルを境に止まり、以降効率化を進めている。 -第二次長州征討の最中、14代将軍徳川家茂が大坂城で急死した後、後継者と見なされた徳川慶喜は徳川宗家の継承のみ承諾したが、将軍襲職は固辞した。周囲から推され、それを断り切れずに就任する形式をとろうとしたためと言われる。5ヶ月後の12月5日、ようやく慶喜は征夷大将軍に就任する。しかし、同月に孝明天皇が突然崩御。慶喜は治世序盤にして大きな後ろ盾を失うこととなった。新将軍徳川慶喜にとっての大きな課題は、前将軍急死に伴って停戦したとはいえ未だ表向きは朝敵であった長州藩への処分問題と、諸外国と約束したものの孝明天皇の強い反対によって実現しなかった兵庫港(神戸)の開港問題であった。慶喜は、第二次長州征伐に失敗するなど、権威が失墜していた幕府を、幕府を中心とした朝廷との公武合体によって権威を回復し、政治の主導権を握りたいと考えていた。 -生前、フランシス・クリックに業績を認められたポーリングはしばしば「分子生物学の父」の渾名で称えられた。鎌状赤血球病を「分子病」とした彼の発見は、遺伝子的突然変異を分子レベルで検査する手法を開拓した。学界はポーリングのビタミンに関する医療研究の結論や著作に賛同しなかったが、彼の論議への突入は、ビタミンやミネラルなど疾病予防に効く栄養素の重要性を一般社会に知らしめた。ポーリングの姿勢は他の研究者にこれらの分野への活発な調査を促し、それらの研究は今日でも存続している。アメリカ化学会は功績を讃えて1966年にライナス・ポーリング賞を創設し、その第1回授賞者に選んだ。 -1912年10月に勃発した第一次バルカン戦争において、セルビア王国を含むバルカン同盟はオスマン帝国に勝利し、バルカン半島におけるオスマン帝国の旧支配地域を獲得した。1913年6月に始まった第二次バルカン戦争ではそれらの地域の領有を巡り元同盟国のブルガリア王国と対決して勝利し、セルビアはコソボと北マケドニアの領有を確定させた。2つのバルカン戦争の結果、セルビアの領土面積は戦前の1.8倍となり、総人口も300万人から450万人に増加した。 -ニーマン・ピック病は、先天的な遺伝子の変異によって引き起こされる酵素の異常によって、本来分解されるはずの不溶性の代謝物が細胞内に蓄積する先天性代謝異常症である。常染色体劣性遺伝の遺伝形式をとる。分類によって発症メカニズム・症状・予後などが大きく異なる疾患であり、ニーマン・ピック病A型およびB型は、細胞内の酸性スフィンゴミエリナーゼの異常によって起こるスフィンゴミエリンの蓄積が原因とされ、内臓腫大等の症状を生じる。ニーマン・ピック病C型は脂肪輸送の欠陥によって、細胞内にコレステロールが蓄積し、小児期に運動失調やその他の神経症状を生じる。 -一方福島県が頑強に反対していた尾瀬原ダムの利根川への分水計画であるが、1944年9月16日に荒木万寿夫軍需省電気局長は日本発送電に対し「尾瀬沼から利根川水系片品川への流域変更(分水)による発電所出力増強を直ちに図ること」という指令を下した。そして日本発送電から石井英之助群馬県知事と石井政一福島県知事に対し水利権使用の早急な許可を求めた。福島県は当初より分水反対の姿勢を崩していなかったが、軍部に逆らうことの愚を悟り、やむなく許認可を下した。日本発送電が尾瀬沼の分水を「緊急措置」として使用し、戦争終了後は原状復帰すると確約したことも、福島県の認可を引き出す要因になった。翌年に戦争は終了し本来なら原状復帰されなければならないところ、軍需省廃止後に電力行政を継承した商工省は「国土復興のため」として尾瀬沼から片品川への分水を継続するよう日本発送電に指示した。福島県としては当初の約束を反故にされた形になるが、今度は国土復興という大義名分には逆らえずこれを認めた。その結果尾瀬沼から三平峠をトンネ��で越えて片品川へ導水する事業が1949年完成する。 -前述のGE社の他に、1953年2月16日にスウェーデンの大手電気機器メーカーASEA社も独自に完成した。1949年に"QUINTUS"というコードネームで呼ばれた極秘ダイヤモンド合成プロジェクトとして、5人の科学者と技術者を雇い研究に着手した。彼らは大きな分割球装置を使用し、装置内の圧力を1時間で8.4GPa維持することに成功した。しかし宝石としてはサイズも質も劣る非常に小さなダイヤモンドしか生成できず、1980年代まで研究結果の報告を行わなかった。1980年代において新たな競争相手が現れた。それは韓国のイルジン・ダイヤモンドという会社で、数百社の中国企業もそれに続いた。しかし、この会社は元GEの韓国人社員によるGE社の企業秘密を不正流用した開発技術による合成だったと言われている。 -大正時代に千波湖が干拓された後は桜川へ合流するように河道が改修された。周辺の水田への灌漑用として大正年間に以下の水門、堰が設けられている。昭和30年頃までの逆川を知る者は、水門のあるところには多くの魚がいたが、昭和30年頃から川から生物の姿が乏しくなった、と述べている。昭和50年代後半に川底を深くし、岸をコンクリートで覆う工事がなされる。川の周辺も宅地化が著しくなるが下水処理が不十分のまま生活排水が川に流れ込むようになり、水質汚濁が著しくなる。水戸市は市内の環境改善のため、公共下水道の普及を最重要施策として取り組み、2012年度末で市内の普及率56.1パーセントを超えた。この時期以降から、逆川の水質が改善していると見なされるようになった。2008年度から2016年度まではBODは5mg/l以下であり水質基準を達成している。1986年度から逆川緑地の整備事業が始まり、1995年5月1日より利用が始まった。 -1792年(寛政4年)、アダム・ラクスマンが神昌丸漂流民の大黒屋光太夫らを伴い、シベリア総督の親書を所持した使節として蝦夷地に来航した。ラクスマンは江戸での通商交渉を求めたが謝絶され、代わりに長崎入港を認める「信牌」を渡され帰国した。 -そして特撮は単なる趣味に留まらずに作品にも多大な影響を与えており、中でも東映作品は桂がヒーロー物を描くようになった原点となっている。デビュー時期に執筆された短編「学園部隊3パロかん」とその続編「学園部隊3パロかんII」は、戦隊物の自己紹介アクションを漫画で表現することを目的として執筆されたものであり、『サンバルカン』や『バトルフィーバーJ』と言った戦隊物のパロディ作品となっている。そして同シリーズに先立ち執筆され、デビューのきっかけとなった短編「ツバサ」は『デンジマン』に熱中していた時に描かれた作品であり、本作を基として描かれた連載デビュー作『ウイングマン』も様々な面で特撮の影響下にある作品となっている。そもそもとして同作は「東映の特撮物を、自分で動かしてやってみたい」という動機で描かれた作品であり、作中ヒーローであるウイングマンのデザインは鳥を基本とした上で、「デンジマンの目がないところ」と「胸から腕までの白いライン」を基とし、デンジマンのシンプルさを目指してデザインされた物である。また「ウイングマン」という名称もウルトラマンに字数と「ウ」から始まり「マン」で終わる所を合わせて命名されたものである。連載開始後には製作に100万円以上掛けた衣装で自らウイングマンのコスプレを行い単行本各巻の目次背景に写真を掲載、さらに単行本ではおまけページにおいて変身アクションの解説も作成している。 -なんちゃっておじさんのブームの始まりはラジオ番組への投書である。発端は作家のかぜ耕士がラジオパーソナリティを担当する深夜番組『たむたむたいむ』であり、1977年5月27日、当時女子高生であった東京都文京区のリスナーから最初の目撃談が投書された。山手線での目撃談であり、前述のパターンのうちヤクザにまつわるもので、なんちゃっておじさんは40歳代の男性とのことであった。この投書内容は同番組の機関誌にも収録されており、なんちゃっておじさんに関する文献資料としては最古のものと見られている。これが大きな反響を呼んで同様の目撃談の投書が相次いだことで、同番組ではこれを2週にわた��て放送した。しかし投書の中にはほかの投書を真似て書いたと見られるものも多くなり、信憑性を欠いたことから、その2週間をもって紹介は取りやめられた。 -阿賀野川の水力発電事業は東信電気が鹿瀬ダム建設を進め、ダムに付設された鹿瀬発電所(出力5万6400キロワット)は1928年11月より運転を開始した。東信電気は阿賀川水力電気と競合し対立していたが、この頃になるとダム建設の資金調達から一河川一社運営の必要性を感じ、阿賀川水力電気と合併に関する協議を行っていた。阿賀川水力電気もこの申し出に応じ翌1929年、阿賀川水力電気を吸収する形で両社は合併する。合併した同年には鹿瀬ダムの直上流に豊実ダムと豊実発電所(出力4万9500キロワット)を完成させ、さらに開発の手を上流に伸ばしていった。1936年(昭和11年)には阿賀野川と只見川合流点の直下流に新郷発電所(出力5万1600キロワット)を計画して新郷ダムの建設に取り掛かり、1939年(昭和14年)に完成させた。そして新郷発電所完成の直後には下流に山郷発電所(出力4万5900キロワット)を建設する計画に着手した。しかしこの頃戦時体制を進める政府は電力の国家統制を進めており、電力業界にもその暗雲が垂れ込めてきたのである。 -古代の榛名湖は「伊香保沼」と呼称されていた。『万葉集』に収録されている東歌には9首に「伊香保」が詠まれており(「伊香保」自体は榛名山一帯を指す広域名)、そのうち榛名湖を詠んだものと推定されている歌に次のようなものがある。 -一方ヒトラーも、英仏両国が宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落した。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵がカティンの森事件で殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。 -すでに初期ビザンティン建築の項で説明した通り、初期のキリスト教徒は礼拝用建築物の雛形としてローマ建築のバシリカを採用した。このタイプの教会堂は、長期間に渡って広い地域で建設され続けた。いくつかの種類が認められ、代表的なものとして、身廊に高窓を持ち、木造小屋組みの屋根が架けられる「ヘレニスティック・タイプ」と呼ばれるバシリカがある。ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがこれに当たる。大規模なものになると、旧サン・ピエトロ大聖堂、ルーマニアのトロパエウム(6世紀)、アギオス・デメトリオス聖堂、ピリッポイのバシリカBなどのように、トランセプトを構成するものもある。ビザンティン建築のバシリカ式として最も一般的なタイプは、身廊部分にトンネル・ヴォールトを架けた側廊のない、いわゆる単廊式バシリカで、「オリエンタル・タイプ」と呼ばれ、12世紀に至るまで建設され続けた。これはアルメニアの初期キリスト教建築などを起源とし、カッパドキアの岩窟修道院はこの流れを汲んでいる。 -庵野秀明は高校卒業後は就職せず、遊んでばかりいたために親に心配され、一浪を経て、当時、入試が実技のみであった大阪芸術大学映像計画学科に進学する。受験対策は宮崎駿らの絵コンテ等を見て勉強したという。同じ学科の同級生には南雅彦・西森明良などの同業者、広告デザイナーの碇義彦や漫画家の島本和彦および士郎正宗等も在籍していた。士郎とは学生時代の面識・交流の有無は不明だが、後に『アップルシード』『蒼きウル(未発表)』にて互いにスタッフとして参加している。サークルはSF研究会に所属していた。入学当初、同級生の山賀博之、赤井孝美らと班を作る。なお、この頃の庵野について、画力は「特にメカの描写は圧倒的であった」と後に山賀が語っており、学生生活の様子は島本和彦の漫画作品『アオイホノオ』に詳しく描かれている。 -翌886年にイスマーイールの反乱を疑ったナスルはブハラ遠征の準備を進めるが、888年末にイスマーイールはナスルの軍を破り、彼を捕虜とした。イスマーイールは勝者であるにもかかわらずナスルを許し、心を打たれたナスルはイスマーイールを後継者に指名した。ナスルはヒジュラ暦279年(892年-893年)に没するまでサマルカンドで君主として君臨し、イスマイールはブハラに駐屯していた。ナスルの死後、イスマーイールは首都をサマルカンドからブハラに移し、カリフ・ムウタディドからアミールの地位の継承を認められる。 -アマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典の復興を目指したオリンピックであるが、二度の世界大戦やミュンヘン大会におけるテロ事件、冷戦下でのアフガニスタン紛争に伴う東西のボイコット合戦など時々の国際政治の影響は大きい。特にヒトラー政権下による1936年のベルリン大会はオリンピックそのものが利用された色彩が強く、聖火リレーのルートを後日ドイツ国防軍がそのまま逆進したとされたり、ナチズムに対する批判をかわすために一時的にユダヤ人政策を緩和したりするなど、政治が大きく影を落としたものとなっている。なお、夏季大会において第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリアの5ヶ国のみである。ギリシャによる開催は、1896年と2004年が正規のものとされている。第1回大会の十年後、1906年アテネ中間大会が唯一、例外的に開催され、開催事実も記録も公式に認めてメダル授与も行っている。しかし、4年に1度のサイクルから外れた開催であったため、後にこれはキャンセルとされ現在では正規の開催数に計上されておらず優勝者もメダリスト名簿から外され登録されてはいない。 -ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設を具体化させていく。ディズニーがいつからテーマパーク建設の意図を持っていたかははっきりせず、娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て、「大人も楽しめるテーマパークの建設」を思い立ったとも、趣味である鉄道模型の製作が高じて大規模なテーマパークの制作を思い立ったとも言われている。いずれにせよ、このころからディズニーはアニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。1951年3月にはスタジオのあるバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したが、これは遊園地建設による騒音などの住環境悪化を懸念した市当局によって拒否された。また、このころには計画は当初のものを大きく超えた大規模なものとなっていたため、ディズニーは広大な土地の確保できる代替地の確保に乗り出し、1953年9月にはカリフォルニア州アナハイムに160エーカー(730,000m2)の土地を購入し用地を確保した。しかしこれほどの大規模な建設計画を行う資金はディズニーにはなかったため、彼はこの時期に登場した新たなメディアであるテレビとの連携を考え付いた。こうして、新たなテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、1954年には「ディズニーランド」というTV番組をABCで放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。この番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も変遷を経ながら2008年まで54年間にわたって放映され続ける長寿番組となった。ABCはこの成功によって業績を大幅に向上させ、またこの成功を見た大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに1950年に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」や、デンマークに1843年に作られた遊園地チボリ公園など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にし���うと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った。 -『リッチマン、プアウーマン』は、フジテレビ系の「月9」枠で2012年7月9日から9月17日まで、毎週月曜日21時-21時54分に放送された日本のテレビドラマである。主演は小栗旬である。公式な略称は『リチプア』、『RMPW』。2013年4月1日には、続編のスペシャルドラマ『リッチマン、プアウーマンinニューヨーク』が放送された。小栗は若くしてIT企業を作り上げ億万長者となった社長を演じ、ヒロイン役の石原さとみは、東京大学理学部という高学歴ながら内定がもらえず就職活動に奔走する女子大生を演じた。生活も価値観も正反対の2人が、衝突を繰り返しながらもお互いを知り精神的に成長して惹かれあう「現代版『プリティ・ウーマン』」的恋愛ドラマに加え、「絵空事じゃない地に足のついた夢を語って、世の中に発信できる」「男のカッコよさ」を描くことを主題とし、企業ものとしての要素も多く盛り込まれている。平均視聴率は12.4%であったが、有料動画配信では好調な売上を記録した。連続ドラマの特性を生かしたストーリーや、アイデンティティをめぐる問題を描いた姿勢などが評論家などに評価されたほか、ザテレビジョンドラマアカデミー賞での2部門受賞などいくつかの賞を受けている。 -1797年から1798年にかけての冬の中国船隊を守るために、イギリス海軍の東インド指揮官であるピーター・レーニア・ジュニア少将は中国に大使を派遣し、エドワード・クック大佐率いるフリゲート2隻(シビルとフォックス)が護衛を務めた。護衛の任務が終わると、マニラから財宝が集まった船がもうすぐ出航するという情報を聞いて、エドワード・クックは自らマニラのスペイン軍の状態を調べることを決意した。こうして、クックを艦長とするシビル号とパルトニー・マルコムを艦長とするフォックス号は出発し、1798年1月13日にマニラ周辺に到着した。 -夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。夏目家の系図(夏目氏系譜(武家家伝))によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年(元禄15年)旧暦4月、夏目兵衛直情の時、名主に任じられた。現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった。『夏目漱石人と作品3』11頁によると、遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をして過ごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋高橋長左衛門の妹として結婚したが、表向きは四谷大番町の鍵屋という質屋から嫁いだことにしていた。そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の孫に、芸能プロダクション経営者でVISAカードのCFで漱石役を演じた新田太郎がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の別の孫に朝日新聞社員(『週刊朝日』副編集長、『アサヒカメラ』編集長、『図書』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の角田秀雄がいる。妻-夏目鏡子との間に2男5女をもうけた。次女・恒子は、『其面影』を著している。四女・愛子は、津田青楓の少女像のモデルとなっている。五女・雛子は1歳で亡くなっている。その臍��緒が発見され、東北大学が購入している。 -晩年の岡部は左膝の痛みに悩まされ続け、痛み止めの注射を打ちながら騎乗を続けていた2002年には左足を引きずって歩くほどに症状が悪化し、12月の有馬記念での騎乗を最後に休養に入り、左膝の半月板を手術した。1年近くにわたるリハビリを経て2004年1月25日の中山競馬で復帰。復帰初日には丸刈り姿でレースに臨み、同日第9競走の若竹賞で、後に桜花賞を勝つダンスインザムードに騎乗し1着となった。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。一つは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138m×65mにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものもあるが、これは5世紀に流行した型で、当時石工がもっていた在庫品を処分したものであるとの見方が有力である。もう一つは、千一本の円柱宮殿(ビンビルディレク)と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64m×56m貯槽であるが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までの高さは15mにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15m近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。ユスティニアヌス時代の建築はビザンティン建築の始まりであるとともに、世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であるといえる。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、工学的な面において、これを発展させていくことはなかった。 -ファン・ゴッホは、画家を志した最初期は、版画やデッサン教本を模写するなど、専ら素描を練習していたが、1882年にハーグに移ってからアントン・モーヴの手ほどきで本格的に水彩画を描くようになり、さらに油絵も描き始めた。初期(ニューネン時代)の作品は、暗い色調のもので、貧農たちの汚れた格好を描くことに関心が寄せられていた。特にジャン=フランソワ・ミレーの影響が大きく、ゴッホはミレーの『種まく人』や『麦刈る人』の模写を終生描き続けた。当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具をチューブから直接画面に絞り出すこともあった。 -北上川下流の河川改修が進む一方で、岩手県内の北上川流域における洪水量を削減するための計画も進められた。この当時、秋田県出身で東京帝国大学教授・内務省土木試験所所長の職に就いていた物部長穂は日本におけるその後の河川開発に重大な影響をあたえた論文を1926年(大正15年・昭和元年)に発表した。それは個々の河川を単独で改修するのではなく、水系を基準とし���本流・支流の区別なく上流から下流まで一貫して開発し(水系一貫開発)、それまで多種多様な事業者が別個に実施していた治水・利水事業を統合させて総合的かつ効率的に行うという趣旨のものであった。これは河水統制計画案と呼ばれ、その根幹事業として天然の湖沼および大貯水池を有するダムの建設が洪水調節としては有利であると主張した。ここにおいて多目的ダムという概念が登場するが、物部のこうした主張はパナマ運河建設に日本人で唯一参加し、大河津分水や荒川放水路の建設・改修に携わった内務技監・青山士(あおやま・あきら)によって採用され、1937年(昭和12年)に予算が付いて正式な国家プロジェクトとして利根川など全国64河川で調査された。北上川もその中に入っており調査の結果翌1938年(昭和13年)に「北上川上流改修計画」としてまとめられた。 -アメリカ合衆国は経済援助を行うなどニカラグアの新政権に対して当初友好的であったが、新政権は西側諸国との関係を築いていく一方でキューバをはじめとする共産圏との関係も緊密にしていった。 -バンクロフト糸状虫Wuchereriabancrofti(Cobbold,1877)は、バンクロフト糸状虫症の病原体となる寄生虫であり、世界中のリンパ系フィラリア症の90パーセント以上が本虫によるものである。1863年(文久3年)、フランス人医師のデマルクワイが、パリにおいて陰嚢水腫のハバナ人の水夫の血液と陰嚢に溜まった水を顕微鏡で調べた際、その中に小さな細長い糸状の虫体(幼虫)を見出した。この糸状虫の幼虫(ミクロフィラリア)が世界で最初に確認されたフィラリア虫である。フィラリアという名前は、この虫を発見したデマルクワイが「細くて糸状のもの」を表すフランス語のFilaire(電球のフィラメントも同じ語源である。)から、この虫を「ミクロフィラリア」と記述したことが、この寄生虫の名前と病名の由来である。3年後の1866年(慶応2年)にブラジルの医師オットー・エドワード・ワッシャーがブラジルの大西洋沿岸に面した港町バイーアで患者の白い尿からミクロフィラリアを見つけ、さらに1872年(明治5年)にはインドのカルカッタでイギリス人医師のルイスが患者の血液からミクロフィラリアを発見した。これらの研究により象皮病や陰嚢水腫の患者はミクロフィラリアを持つという共通点が分かり始めた。 -寒帯から熱帯まで全世界の陸上に分布し、分類法にもよるが14属・100種ほどが知られる。分布の中心は北半球の温帯・寒帯地域で、チョウとしては北方系の分類群として位置づけられる。このうち日本では8属・14種が見られる。 -4歳となったナリタブライアンの緒戦には、東京優駿(日本ダービー)を見据え東京競馬場のコースを経験させておこうという大久保の意向により、1994年2月14日の共同通信杯4歳ステークスが選ばれた。レースでは馬群の中ほどに控え、最後の直線入り口で早くも先頭に並びかけるとそのまま抜け出して優勝した。なお前日には兄のビワハヤヒデが京都記念を優勝しており、兄弟による連日の重賞制覇となった(共同通信杯4歳ステークスは本来京都記念と同じ日に行われる予定であったが、積雪によって施行日が1日順延したため、兄弟による同日重賞制覇とはならなかった)。 -カミーユ・ピサロはカリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島の生まれだ。家業の金物屋を手伝っていたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年から1854年まで、島を出てベネズエラに旅行に出た。1855年、画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合った。1859年にサロン・ド・パリに初入選するが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し、生活は苦しかった。当時はコローにならった画風であった。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれたが、年長のピサロもこれに加わるようになった。1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作を行ううちに、明るい色調の絵画を描くようになった。1870年の普仏戦争を避けてロンドンにわたり、画商デュラン=リュエルと知り合った。1872年からはポントワーズに住み、田園風景を描いた。サロンへの応募はせず、デ���ラン=リュエルの支援を受けて制作していたが、モネらとともに独自のグループ展を計画し1874年、第1回印象派展を開催した。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -アメリカの国家運輸安全委員会(NationalTransportationSafetyBoard;NTSB)が事故調査を行った。墜落地点の機体の残骸は、激しく分解して散乱しており、それらからは有益な情報をほとんど得られなかった。しかし、フライトデータレコーダとボイスレコーダは火災や熱を免れ回収に成功した。構造的な損傷により2か所で計6秒分のデータが欠落したが、大部分のデータは復元された。フライトデータレコーダは離陸滑走中のデータを50秒間、空中でのデータを31秒間記録していた。一方、コックピットボイスレコーダは第1エンジンの分離とほぼ同時に機能停止していた。これは、コックピットボイスレコーダの電力を第1エンジンの発電機から得ていたため、エンジン分離により給電が停止したためであった。コックピットボイスレコーダに最後に残された音声は"Damn!"(畜生!の意)であった。また、フライトデータレコーダでも、第1エンジンから電源を得ていたデータだけ同じタイミングで記録が途絶えていた。 -ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設を具体化させていく。ディズニーがいつからテーマパーク建設の意図を持っていたかははっきりせず、娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て、「大人も楽しめるテーマパークの建設」を思い立ったとも、趣味である鉄道模型の製作が高じて大規模なテーマパークの制作を思い立ったとも言われている。いずれにせよ、このころからディズニーはアニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。1951年3月にはスタジオのあるバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したが、これは遊園地建設による騒音などの住環境悪化を懸念した市当局によって拒否された。また、このころには計画は当初のものを大きく超えた大規模なものとなっていたため、ディズニーは広大な土地の確保できる代替地の確保に乗り出し、1953年9月にはカリフォルニア州アナハイムに160エーカー(730,000m2)の土地を購入し用地を確保した。しかしこれほどの大規模な建設計画を行う資金はディズニーにはなかったため、彼はこの時期に登場した新たなメディアであるテレビとの連携を考え付いた。こうして、新たなテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、1954年には「ディズニーランド」というTV番組をABCで放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。この番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も変遷を経ながら2008年まで54年間にわたって放映され続ける長寿番組となった。ABCはこの成功によって業績を大幅に向上させ、またこの成功を見た大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに1950年に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」や、デンマークに1843年に作られた遊園地チボリ公園など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った。 -国内では紆余曲折あった日本の参加だが、参加してすぐに重要な議論を本格化させることになる。それは「木の文化をどう評価するか」ということである。日本の世界遺産のうち、最初の文化遺産は姫路城と法隆寺地域の仏教建造物である(いずれも1993年登録)。これらはいずれも解体修理の手法で現代に伝えられてきた建造物であり、基本的にそのような修理を必要としない「石の文化」の評価基準になじまない側面があったために議論となり、それが「真正性に関する奈良文書」の成立に繋がった(後述参照)。これは、アジアやアフリカに多い木、日干し煉瓦、泥の建築物など、多様な世界遺産を増やすことに繋がり、世界遺産の歴史の中で重要な意義を持った。 -1982年の調査時、南硫黄島ではオナガミズナギドリ、アナドリ、カツオドリ、アカオネッタイチョウ、シロハラミズナギドリ、クロウミツバメの6種の海鳥、そしてアカガシラカラスバト、ハシブトヒヨドリ、イソヒヨドリ、ハシナガウグイス、イオウジマメジロ、オガサワラカワラヒワの6種の陸鳥が繁殖ないし繁殖している可能性が高いとされた。2007年の調査ではセグロミズナギドリも繁殖している可能性が高いとされ、2017年の調査ではアカアシカツオドリの営巣が確認された。現在のところ海鳥8種、陸鳥6種が繁殖ないし繁殖を行っている可能性が高いとされている。うち海鳥であるセグロミズナギドリ、シロハラミズナギドリ、クロウミツバメ、アカオネッタイチョウ、陸鳥のアカガシラカラスバト、オガサワラカワラヒワは、2006年に改定されたレッドリストに記載されている。特にクロウミツバメは南硫黄島が現在確認されている全世界で唯一の繁殖地である。このように希少な海鳥、陸鳥が繁殖する南硫黄島を含む火山列島は重要野鳥生息地(IBA)に指定されている。南硫黄島の海岸部には、オナガミズナギドリ、アナドリ、カツオドリ、アカオネッタイチョウの営巣が確認されている。うちアカオネッタイチョウは日本国内ではこれまで北硫黄島、南鳥島、西之島で繁殖が確認されているが、いずれも10つがい程度の営巣で、数十つがい以上が営巣していると見られる南硫黄島は日本国内最大の繁殖地であると考えられる。地面に穴を掘って営巣するシロハラミズナギドリ、クロウミツバメ、セグロミズナギドリは南硫黄島の標高400m以上の、土壌の発達が良い場所を選んで営巣をしている。2007年の調査では、シロハラミズナギドリは標高400mから山頂付近まで、クロウミツバメは標高700m以上、セグロミズナギドリは標高800m以上で確認された。1982年の調査ではシロハラミズナギドリとクロウミツバメは標高750mを境に住み分けがなされているとされており、シロハラミズナギドリの営巣地が25年の間に拡大した可能性が指摘されている。 -片田漁港を拠点としていた片田漁業協同組合(志摩の国漁業協同組合を経て三重外湾漁業協同組合に統合)は、1911年(明治44年)4月1日に片田漁業組合として発足した。組合長を片田村長が兼務していたため、実務は専務が全権を掌握した。明治時代には、伊勢・河崎の朝市に間に合わせるためにカチニモチによって深夜に輸送し、アワビは明鮑(干しアワビ)に、ナマコはきんこに加工して大阪や神戸の貿易商に販売した。地曳網でイワシ、寄網でムツ・ブリ、建切網でボラ・サンマ、刺網でエビ・磯魚、海女による採取で真珠貝・海藻を採取する漁業が営まれてきた。平成に入ると、昭和後期から続いていたブリの大漁が終わり、海女数も減少し、片田漁協の経営は厳しくなり、深谷漁港と片田漁港の改修にかかる地元負担金が支払えず、工事が中断することもあった。釣り場としては、アジ・メバル・アオリイカなどを釣ることができる。 -ウナギ科の魚類は東部太平洋と南部大西洋を除く、世界の熱帯・温帯域に広く分布する。ウナギ属Anguillaに含まれるほぼすべての種類が降河性の回遊魚で、海で生まれた後に淡水域に遡上し、成長後に再び海に降りて産卵するという生活史をもつ。大西洋に生息するのはヨーロッパウナギ(A.anguilla)とアメリカウナギ(A.rostrata)の2種のみで、前者はヨーロッパ全域と地中��沿岸の北アフリカ、後者は北アメリカから南アメリカ北東部にかけて広範囲に分布し、いずれもサルガッソ海を産卵場としていることがわかっている。 -ネリー・ブライはペンシルベニア州コクランズ・ミルズで、1864年5月5日にエリザベス・ジェーン・コクランとして生まれた。父は、地名の由来ともなっているマイケル・コクランだ。製粉所の経営者で、後には郡の陪席判事となった。母のメアリー・ジェーン・コクランは、マイケルにとって2人目の妻である。2人の間には5人の子が生まれた。ネリー・ブライは長女で、上に2人の兄がいた。ブライは、母親が好んで桃色の服を着せていたことから、近所では「ピンク(Pink)」の愛称で呼ばれるようになった。 -山体は岐阜県と長野県に跨がる活火山で日本で19番目に高い山だ。活火山ランクC気象庁による常時観測対象の47火山に含まれるが山頂部に噴気地帯は存在しない。比較的新しい火山であることから穏やかな山容が特徴で、最新の噴火は2000年前の恵比寿岳での噴火とされている。乗鞍岳を含む飛騨山脈の主な山域は1934年(昭和9年)12月4日に中部山岳国立公園の指定を受けた。長野県側の麓には溶岩流で形成された乗鞍高原が広がる。1949年に岐阜県道の観光道路で標高2,702mの畳平までバスが運行されるようになると、大衆化し「雲上銀座」と呼ばれ観光地として賑わった。長野県側からも畳平まで乗鞍エコーラインが開通し山麓にはスキー場が建設され周辺には温泉地があり、四季を通じて美しい景観に恵まれ、乗鞍岳の山域は観光地、保養地として発展している。日本百名山、新日本百名山、信州百名山、ぎふ百山、一等三角点百名山に選定されている。 -貿易商人は、商船を所有するナウクレーロスと、商船に同乗したり陸上で貿易をするエンポロスに大きく分かれており、ポリス内の市場で取り引きをするカペーロスとは区別された。土地を所有できない外国人居留者であるメトイコスが、ナウクレーロスやエンポロスに従事した。メトイコスには、ミケーネ文明の崩壊でアテナイに住み着いた難民が多かったとされる。アテナイに届いた穀物には2パーセントの関税がかかり、エンポロスが3分の2を市内に運び、それをカペーロスがアゴラで販売した。戦争に付随するかたちで奴隷貿易も行われており、従軍商人によって戦利品や捕虜が競売にかけられ、エンポリウムへ送られた。トゥキュディデスの『戦史』や、クセノポンの『アナバシス』には、戦争と結びついた貿易が記されている。 -浜松市立中央図書館(はままつしりつちゅうおうとしょかん)は、静岡県浜松市中区松城町にある公共図書館である。24館からなる浜松市立図書館の中央館である。浜松市には1912年(明治45年)開館の私立浜松図書館があった。1920年(大正9年)に五社公園に浜松市立図書館が開館したが、太平洋戦争末期の浜松空襲で焼失した。戦後の1950年(昭和25年)には松城町に木造の浜松市立図書館が開館し、1974年(昭和49年)に浜松市立中央図書館に改称した。1981年(昭和56年)には同一場所に鉄筋コンクリート造の現行館が開館した。 -宮崎駿は戦史・兵器マニアとして知られ、第二次世界大戦から前の甲冑・鎧兜や兵器(装甲戦闘車両、軍用機など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊モデルグラフィックス』誌の『宮崎駿の雑想ノート』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている。2009年から2010年にかけて『モデルグラフィックス』誌に零式艦上戦闘機の開発者である堀越二郎の若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。また、一式戦闘機「隼」の活躍と陸軍エース・パイロットの戦果を記録した、戦史家梅本弘(市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース』の刊行に際し��、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている。ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、モールス符号での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。 -エドワード7世は、1891年初頭にはロイヤル・バカラ・スキャンダルをめぐって訴えられ、再び法廷に立つことになり、王太子批判が高まった。1892年1月には長男クラレンス公アルバート・エドワードが薨去した。以降は次男のヨーク公ジョージが彼の後継者となった。1901年1月22日に母ヴィクトリア女王が崩御し、59歳でイギリス国王に即位した。王名を「エドワード7世」に定め、王朝名をサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝に変更した。1902年8月9日にウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行した。 -最初にオリンピックを政治的に利用したとされるのは1936年のベルリン大会の際のヒトラーであるが、戦後オリンピックが世界的なイベントとして認知されると、国威発揚のために政治的に利用する国が多くなった。オリンピック憲章ではオリンピックの政治的利用は禁止とされているが身近な例では金メダルをとった選手の表彰式の際、国歌が流れ、国旗が掲揚される。この儀式に対して強く疑問に思ったのが、1936年のベルリン大会のマラソン競技で日本統治時代の朝鮮から「日本代表」として出場し優勝した孫基禎である。共産主義時代のソ連や東欧諸国では国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成し(いわゆる「ステート・アマ」)、メダルを量産してきた。共産主義が崩壊した今でもその傾向は続いており2016年のリオデジャネイロ大会の前にはロシアが国家主導で過去の大会においてドーピング行為を行ったことが判明した(ドーピング問題については後述)。アメリカ合衆国でも2002年の冬季ソルトレークシティ大会の開会式の際は前年の米国同時多発テロで崩壊したニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見された星条旗が入場させている。日本の一部メディアは、2020年の東京オリンピックを「国威発揚」と位置づけるものもあった。そして行き過ぎた政治利用は開催に反対する為のボイコットやテロを生んできた。冷戦期における先述のモスクワ大会、ロサンゼルス大会の大規模ボイコットやミュンヘン大会で発生したテロの他に1996年のアトランタ大会でもオリンピック公園を標的としたテロが発生している。また国際オリンピック委員会は世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進する「オリンピックムーヴメント」を推進することを標榜しているが、オリンピックムーヴメントの理念にそぐわない国が開催することに異議を唱える運動もしばしば起こり、2008年の北京大会では大会に反対するデモが相次いだ。また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」に抗議してアメリカ、ドイツ、フランスなど欧米諸国の首脳が開会式を欠席した。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンラ���ドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -榛名山のカルデラにできた火口原湖。湖面の標高1084メートル。ただし取水によって水面の高さは2メートルほどの季節変動がある。南北方向の長径は約1.3キロメートル、東西方向の短径は約1キロメートル、周囲4.8キロメートル。面積は約1.24平方キロメートル。湛水量はおおよそ1,220万立方メートル。形状は「勾玉形」、「東側がくびれたひょうたん形」ないし「楕円形に近似」している。湖底は、湖岸付近では急斜面になっているが、水深10メートル付近からはなだらかで、湖底平原になっている。最大深度は14メートルないし12.6メートル。湖底には珪藻類の死骸が堆積し、珪藻骸泥となっている。 -東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は、天和笑委集や近世江戸著聞集を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の『御当代記』のお七の記述も後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ疑問を呈している。しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は『御当代記』は後から書き入れられた注釈を含め戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和3年お七という女が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど江戸で発行された天和笑委集と大阪の西鶴が書いた好色五人女に、違いはあれど八百屋の娘お七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか3年後に出版されている事から少なくともお七のモデルになった人物はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずのお七の事件からわずか3年後の貞享3年にあれほど同情を集めるはずが無いとしている。 -三恵子は元代議士秘書がやっていた会社に一週間ほど勤めたのち、1977年5月から再び義姉の店、『かみしま』で今度はレジ係ではなくホステスとして働き始める。1979年1月からクラブ『エルマーナ』に移り、2月にはクラブ『セビアン』にスカウトされる。この店で後に再婚することになる5歳年下のFと知り合った。Fとは元俳優で、『ケーキ屋ケンちゃん』(TBS)にジャンボという名前の出前持ちの役柄で出演しており、身長183センチ、体重は130キロはあると思われる巨体の持ち主で、私生活でもジャンボと呼ばれている男である。Fは劇団いろはに所属していた経歴があり、当時は北海道の実家で鰻の養殖業を営んでいたという肩書であった。特撮番組、『ダイヤモンド・アイ』にもレギュラー出演している。三恵子は後に胸にジャンボの頭文字であるJの文字の入ったペンダントを絶えず身に着けるようになる。店では源氏名は使わず榎本三恵子の名で通した。1980年1月から再びスカウトされて、クラブ『エミール』で30人余りのホステスを取り仕切る雇われママとして働くなど、銀座を転々としていたが、6月末には店を辞め港区でFと同棲生活に入る。 -一方四侯会議の途中から欠席するなど薩摩と距離を置き始めた山内容堂は、むしろこの後徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めていく。同年6月坂本龍馬から大政奉還を含む船中八策を聞いた土佐藩の後藤象二郎は、容堂にこれを進言する。徳川家存続の妙策と考えた容堂は、慶喜に大政奉還を建白した。その結果、薩摩側の倒幕の密勅工作の機先を制し、10月14日大政奉還が実行されることとなる。 -1954��、連邦最高裁判所がブラウン対教育委員会裁判において、公立学校における人種分離はアメリカ合衆国憲法修正第14条に反するとした判決を下すと、アトランタでも人種差別撤廃への機運が高まっていった。アトランタにおける人種間の緊張はより暴力的手段に訴えるものに変わっていった。1958年10月12日、ピーチツリー・ストリート沿いに建つユダヤ教の寺院が爆破されるという事件が起こった。このシナゴーグのラビであったジェイコブ・ロスチャイルドは人種統合の擁護者であった。この事件は、自らを「南部連合の地下組織」と呼ぶ反セム派の白人たちによるものであるとされた。1960年代に入ると、アトランタは公民権運動の中心地の1つになった。アトランタにおける公民権運動では、マーティン・ルーサー・キング牧師に加えて、地元のアフリカ系の学生たちがリーダー的な役割を果たした。公民権運動において最も重要な役割を果たした団体のうち、南部キリスト教指導者会議と学生非暴力協力委員会の2つはアトランタに本部を置いていた。しかし、公民権運動の最中における数々の抗議にも関わらず、アトランタの政治・経済のリーダーは「憎む間も無いほど忙しい都市」というイメージを作り上げていた。1961年、市長アイバン・アレン・ジュニアは、その当時の南部の白人市長としては珍しく、公立学校における差別撤廃を擁護する側に立っていた。 -多くの批評家はこのアルバムに肯定的評価を与え、清水がアルバムで目指した10代の等身大の自分を表現した点などについて言及した。アルバムはオリコン週間CDアルバム・チャートでは最高位2位を記録。オリコンは同チャートにおける平成生まれのアーティストによるトップ3入りは清水が初となったと報じた。アルバムは日本レコード協会からはゴールド・アルバムの認定を受けている。 -ロシアのアカデミーは、天文学の素養を持つ人材の不足から、当初は自国から派遣は出さずにフランスに派遣を打診した。フランスはこの打診を受けてジャン・シャップ・ドートロシュをシベリアのトボリスクに派遣することを決めたが、この連絡はロシアに届いておらず、ロシアは自国の観測者を訓練してイルクーツクとネルチンスクへ派遣を行った。行き違いがあったが、シャップはトボリスクでの観測をロシアに認めてもらい、旅を継続した。結氷したヴォルガ川を超え、太陽面通過の6日前にシャップはなんとかトボリスクに到着し、良好な観測を成し遂げている。シャップは、この旅の記録を後に『シベリア旅行記』として出版した。建国前のアメリカでは、北アメリカ大陸で数少ない観測可能な地域であるニューファンドランド島のセントジョンズにてジョン・ウィンスロップが観測を行った。スウェーデンではペール・ヴィルヘレム・ワルゲンティン(英語版)を中心に観測計画が進められ、当時はスウェーデンの支配下にあったフィンランド東部のカヤーニへアンダーシュ・プランマンを派遣した。本国でも多くの天文学者が観測を行い、ドリルはパリで、ワルゲンティンはストックホルムで観測を行った。ロシア首都サンクトペテルブルクで観測を行ったミハイル・ロモノーソフは、金星が太陽面から出ていくときの様子から金星に大気があることを予測した。1761年の太陽面通過では、最終的には、60以上の場所で120以上の観測が行われた。しかし、後にブラック・ドロップ効果と呼ばれる太陽面の縁に金星がくっついた状態が続く現象が観測時に起こり、接触の正確な時間を特定できなかった。さらには観測地点の経度が正確に把握できていなかったことなども悪影響した。観測結果にもとづき各国の天文学者たちは太陽視差の計算を行ったが、報告された値は8.28秒から10.6秒まで様々で、当初に期待していたほどの正確な測定はできなかった。しかし、前の太陽面通過からホロックスによって測定された値よりも、現在の値である8.79秒に大きく近づいた。 -アメリカは、1948年に設立された統合ヨーロッパのためのアメリカ委員会を通じてヨーロッパの統合を推し進めるための資金提供を行ってきた。例えば、1958年、ヨーロッパ統合の要を成していた欧州運動の資金の53.5%はこの委員会からきたものである。 -飛行1���目での軌道投入後はHTVのサブシステムが自動起動し、姿勢制御、機体の異常点検、HTV運用管制室との通信接続が行われ、ランデブ用軌道制御が始まった。飛行3日目に衝突回避運用(CollisionAvoidanceManeuver:CAM)といったHTVの運用検証が行われた。これらは成功し、飛行6日目にはISSミッション管理会議(MissionManagementTeam:MMT)においてHTV-1のISSへの最終接近運用が承認された。飛行7日目の9月16日午前9時4分、飛行8日目の9月17日午後6時26分および同日午後9時28分に高度調整マヌーバを実施し、ISS後方5kmの接近開始点(ApproachInitiation:AI)に到着しISSに対して相対停止した。飛行8日目の9月18日午前0時31分に接近開始点を出発してISSへの接近を再開した。GPS相対航法でISSの下方約500mのRバー開始点(R-barInitiation:RI)に移動し、同日午前1時38分に到着した。到着後はランデブセンサ(RendezvousSensor:RVS)から照射したレーザ光を、「きぼう」船内実験室の下側に設置された反射器に反射させて位置を確認しながら1-10m/s程度の速度で下方からISSに接近し、同日午前1時48分、ISS下方300mのホールドポイントで自動停止し、緊急時の衝突回避運用のため、HTV-1のヨー方向(横方向)の姿勢を180度変更した。このモードで9番スラスタのインジェクタ温度が上限近くまで上昇するという事象が発生したため、遠隔操作にて主系と冗長系を交互に切替えを行いながら飛行を継続した。スラスタの作動回数はほぼ予定通りで、温度上昇が想定外だったという。 -1970年ごろから『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にて純粋なミステリの『黒後家蜘蛛の会シリーズ』の連載を開始した。SFでは1972年に久々の長編である『神々自身』を出版し、ヒューゴー賞長編小説部門とネビュラ賞長編小説部門を受賞した。1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆したファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『ファウンデーションの彼方へ』がベストセラーとなり、以後再びSF長編を執筆し、同シリーズとロボットシリーズを統合した。 -自分の身を国家に捧げるというトクヨの崇高な志は、時々の政策に引っ張られやすいという弱点を持っており、陸軍現役将校学校配属令が出された時には「ご出陣を祝ひ奉る」と賛美する文章を発表し、軍人への慰問のために校内に花畑を造成した。当時のトクヨを、体専教師の今村嘉雄は「よい軍国婆さん」と表現した。こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ、校内に引きこもり、病気がちとなった。多くの篤志家の寄付に支えられ、優秀な塾生に囲まれて幸福だった創立当初とは異なり、この頃には親しい人が多く離れてしまったと見え、真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かしている。1941年4月7日、トクヨは体専の入学式の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院に入院、後に慶應義塾大学病院へ転院した。病名は胃ガンで、同年7月17日午前1時40分に60歳で死去した。 -従来の旧愛電由来の東部線系統に在籍する車両における標準仕様であったウェスティングハウス・エレクトリック社が開発した電空単位スイッチ式の間接手動進段制御器(HL制御器)ではなく、旧名岐由来の西部線系統に在籍する車両において標準仕様とされた電動カム軸式の間接自動進段制御器(AL制御器)を、東部線所属車両として初めて採用した。モ3400形へ搭載された東洋電機製造ES-515-Aは、通常の直並列組合せによる抵抗制御、および弱め界磁制御のほか、電磁単位スイッチ式の他励界磁制御装置による回生制動および定速制御機能を有する。運転台に設置されたES-63-A主幹制御器(マスコン)の逆転器(レバーサ)を力行モードから回生制動モードに切り替え、マスコンのノッチを任意に選択することにより40km/hから100km/hの範囲で速度制御を行うもので、下り勾配区間において走行速度が指令速度を上回ると自動的に回生制動が動作し、上り勾配区間において走行速度が指令速度を下回ると自動的に力行に移行する。なお、東洋電機製造が設計・開発した他励界磁制御による高速列車向けの回生制動機能は、本系列の新製に先立つ1935年(昭和10年)に阪和電気鉄道へ納入されたES-513-A制御装置によって実用化されており、当時日本国内で最速を記録した超特急列車など高速運転を行う車両における制輪子(ブレーキシュー)の摩耗減少に大きな効果をもたらしていた。本系列の回生制動機能は、東部線本宿付近をはじめとした連続勾配区間における抑速制動としての使用を想定して採用されたものである。また、当時の東洋電機製造の技術担当専務が名鉄の取締役の1人と懇意な間柄であったことが同機能の採用に関係しているとも指摘される。 -東京の鉄道網の始まりは、1872年10月14日(旧暦明治5年9月12日)の日本の鉄道開業に際して新橋-横浜間が開通したことに始まる。この時の新橋駅は後に貨物駅となった汐留駅で、横浜駅は現在の桜木町駅であった。この際の新橋駅の位置の選定経緯は明確にされていないが、大名屋敷の跡地を入手できて駅や車庫、鉄道工場を建設するために必要なまとまった土地を確保できたこと、市街地を避けて横浜への路線を伸ばせる位置であったこと、当時から繁華街であった銀座にも比較的近かったことなどが理由であろうと推測されている。その後東京と関西を結ぶ鉄道の建設が検討されたが、東海道と中山道のどちらを経由するかを決定するためには時間がかかった。中山道経由で建設する際の東京における経路としては、お雇い外国人のリチャード・ボイルの調査報告による、新橋から皇居の東側を北上する現行の東京駅経由ルートに近いものや、開拓使の役人松本荘一郎とお雇い外国人ジョゼフ・クロフォードの調査報告による小名木川駅を起点として北上し、既設の官設鉄道(国鉄)線との連絡は品川駅から分岐する線によるものどがあった。政府は国土開発の観点から、既に開けている東海道よりも内陸の発展を促進する目的で中山道がよいとし、軍部も敵の軍艦による攻撃を受けやすい海岸沿いを避けられる内陸路線を支持したことから、一旦は中山道経由に決定された。 -1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(英語版)のアパルトマンに2人で転居した。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ファン・ゴッホの生活について分かっていないことが多い。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはファン・ゴッホの肖像画を描いている。1886年当時のパリでは、ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭していた。この年開かれた第8回印象派展は、新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了した。ファン・ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになった。カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリ(英語版)にモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(『カフェ・タンブランの女』)を描いたりしたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっている。 -バンカムはイスラーム世界の寺院で秘薬として飲まれ、当初は一般の人間が口にする機会は無かった。バンカムはイスラム神秘主義(スーフィズム)の修道者(スーフィー)によって愛飲され、コーヒーの起源にまつわる3つの伝説にはいずれもスーフィーが関与している。スーフィーたちは徹夜で行う瞑想や祈りのときの眠気覚ましとしてバンカムを用い、宗教活動の中で飲���されるバンは彼らから神聖視された。やがてバンカムは「カフワ(欲望を減退させる飲料。ワインの別名)」と呼ばれるようになる。スーフィーたちは夜の礼拝の時にカフワを飲用し、マジュールというボウルにカフワを入れて仲間内で回し飲みをしていた。 -最終確定したトンネルは、北都留郡笹子村字黒野田に東側坑口を設け、東八代郡日影村を通って東山梨郡初鹿野村に西側坑口を設けるものとなった。東口は笹子川の峡谷のほぼ終点にあり両側とも山に囲まれた地形で、西口は日川の断崖に面した位置にある。線形は、両側坑口の外に半径20チェーン(約400m)の曲線があるもののトンネル内は完全な一直線で、山脈をほぼ直角に横断することからトンネルを最短距離に抑えられている。方角は真南から東側へ35度-真北から西側へ35度の線である。キロ程では八王子起点33マイル20チェーン50リンク(約53.2km)から36マイル11チェーン50リンク(約57.8km)の延長2マイル71チェーン(約4,647.2m)となり、また標高は両側坑口で2044.05フィート(約623.0m)、トンネル内の勾配は800分の1(1.25パーミル)で最高点標高が2053.58フィート(約625.9m)となった。当初の概算予算に対してより詳細な見積もりを行う際には、この規模のトンネルの前例がないため見積もり根拠に苦労することになった。結局通常のトンネルの倍を要するものとして1フィート(約30cm)あたり250円(うち工費150円、材料費100円)とし、総予算は383万円と見積もった。 -『牛乳を注ぐ女』は西ヨーロッパとアメリカの展覧会で公開されている。1872年にアムステルダムで開催された「オールド・マスターによる希少絵画と有名絵画展(Tentoonstellingvanzeldzameenbelangrijkeschilderijenvanoudemeesters)」に展示され、1900年にアムステルダム市立美術館で展示された。オランダ以外では、1929年にロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツが主催した「オランダ絵画展(ExhibitionofDutchArt")」に出陳されている。1921年にはパリのジュ・ド・ポーム国立美術館が主催した「オランダ絵画展:油絵、水彩画とデッサン、今と昔(Expositionhollandaise:Tableaux,aquarellesetdessínsanciensetmodernes")」に出陳された。また、1935年にはロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館が開催した「フェルメール、原点と影響:ファブリティウス、デ・ホーホとデ・ウィッテ展(Vermeer,oorsprongeninvloed:Fabritius,DeHooch,DeWitte")」に出陳されている。 -7世紀に入ると、ピェー(プローム)付近に存在したシュリークシェートラが大勢力となっていた。3世紀から10世紀にかけて存続していたと思われるシュリークシェートラは7つのピューの城郭都市の中で最大の都市であり、中国の僧である玄奘と義浄の著書には「室利差呾羅」「室利察呾羅」という名前で現れる。「シュリークシェートラ」の名前はインドのオリッサ地方の都市の旧称に由来し、やがてビルマ語に転訛してタイェーキッタヤーと呼ばれるようになった。8世紀に至ってもシュリークシェートラはピューの中心であり、18の属国を従え、9の城鎮、298の集落を有していた。シュリークシェートラの遺跡から出土した石棺と骨壷の銘文を解読した結果より、7-8世紀のシュリークシェートラはヴィクラマという王統によって統治されていたと推定されている。 -この地震の震源域に既に知られている活断層はなかった。地震後の海底探査などでも、震源域付近の海底に活断層の証拠となる段差は発見されていない。横ずれ断層では段差が生じにくく、さらに海底であることが発見を難しくしていると考えられている。しかし震源域(余震域)から10kmほど北東には、この地震の余震分布と同じ北西-南東方向に延びる長さ数kmの海底活断層が2か所存在することが知られていた。また、福岡県北部には同じく北西-南東方向に延びる活断層が複数あり、福岡市中心部を縦断する警固断層もその1つである。特にこの地震の余震域はほぼ警固断層の延長線上にあり、地震後にその関連性が調査されることとなった。2007年の地震調査委員会の評価では、この地震の震源域は警固断層そのものではないと断定したが、「警固断層帯」として一括りにし、確率は低いが2つの断層が連動して地震を起こす可能性に含みを持たせている。 -イソギンチャク(磯巾着、菟葵,SeaAnemone)は、刺胞���物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目に属する動物の総称である。柔らかい無脊椎動物で、口の回りに毒のある触手を持つ。岩の上などに定着して生活する動物で、体は基本的には円筒形である。上の面を口盤とよび、その中央には口がある。口盤の周辺には多数の触手が並ぶ。触手は普通、円錐形だが、先端部が膨らんだものや、多数の枝をもつ場合もある。体の側面は滑らかなものが多いが、疣状の突起を持つもの、多数の房状の突起を持つものなどもある。下面は足盤とよばれ、ここで岩などに吸着する。あまり動くことはないように思われるが、イソギンチャクはこの足盤を使って、普通は時速数cm程度の速度で移動することができる。この移動性は六放サンゴ類の中でイソギンチャクの足盤が筋肉質に富むことから可能なことで、他の六放サンゴ類ではあまり見られない特徴である。内田はむしろイソギンチャクはポリプが歩く能力を発達させた唯一の例と見るべきと言っている。 -『グレアムズ・マガジン』を去った後も、ポーは『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で「黄金虫」により100ドルの賞金を受けた他、「マリー・ロジェの謎」「落し穴と振り子」などの作品を各誌に発表し、1843年9月には作品集『散文物語集』を刊行するが、依然として生活は窮乏していた。新規まき直しを図るため1844年6月にニューヨークに移り、「軽気球夢譚」(『ザ・サン』紙にまるで実話であるかのように掲載され大当たりを取った)「早すぎた埋葬」「催眠術の掲示」などを発表していき、1845年10月には週刊誌『イヴニング・ミラー』の記者として迎えられた。1845年にポーが同誌に発表した詩「大鴉」は絶賛を博し、他誌にも次々に掲載されポーの文名を大いに高めたが、この詩の出版に対しポーに支払われた報酬はわずか9ドルであった。 -総力戦も第一次世界大戦より徹底し、国民はただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者への国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、人類史上初の原子爆弾投下を含め、民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、自国および占領地においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的大量虐殺を戦争と並行して進め、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され、その途上で200万人が死亡している。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。 -ミケランジェロのダビデ像の歴史は、制作期間をはるかにさかのぼり、その始まりは1464年まで辿ることができる。当時サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の運営権を担う大聖堂造営局は、実質的にフィレンツェ羊毛業組合が握っていた。大聖堂の建築には140年以上を要したため司教は途中で費用を支払えなくなり、この組合が代わりにそれを請け負ったためである。フィレンツェ羊毛業組合は、かねてよりこの大聖堂のバットレスに旧約聖書を題材とした12体からなる巨大な彫像の連作を飾るという計画を立てており、すでに何人かの彫刻家へ発注もしていた。この計画の背景には、15世紀初頭からミラノ公国をはじめとする外部の脅威が迫っていたため、聖書中の聖人や伝説中の英雄の像を大聖堂に飾りフィレンツェの興国の気運を高めようとの配慮があった。しかし、1463年の時点で完成していたのはドナテッロによる「預言者」像とその弟子アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオによる「ヘラクレス」像の2作だけであった(この2作は、いずれものちに壊されていて現存しない)。この計画を何としても進めるため、大聖堂造営局は同1463年にアゴスティーノと再契約し、ダビデ像を制作するという言質を取りつけた。しかしアゴスティーノは、像の脚部と胸部や衣服の概観を大まかに作り、脚と脚のあいだに隙間を空けるところまで制作を進行させたが、師ドナテッロの死去した1466年、理由は不明ながらも制作を中断し契約も破棄してしまった。大聖堂造営局は、アゴスティーノの未完成品を仕上げるようアントニオ・ロッセリーに依頼した。 -再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていたマウスに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたフィリックス・ザ・キャットに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる「ミッキーマウス」は完成した。後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。因みに当初名前は「モーティマーマウス」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーが「悔しがる・恥をかく」の動詞である「モーティファイ」に言い方が近いため猛反対し「ミッキーマウス」と変更された。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『プレーン・クレイジー』(『飛行機狂』)および第二作『ギャロッピン・ガウチョ』はサイレント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。 -その後、ソ連崩壊間際にバルト三国が独立回復を宣言すると、1991年9月にはソビエト連邦国家評議会も、バルト三国の独立承認を余儀なくされた。しかし、独立回復後の三国の認識によれば、ソ連への自国の併合と領土の変更は国際法に違反する無効なものであり、戦間期の国家とソ連崩壊後の国家は継続している。そのため、ソ連の継承国となったロシア連邦との領有権問題について有効なものは、1920年の平和条約に基づいて策定された国境線のみであると解される。 -1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾したことで第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結し、日本は連合国軍の占領下に置かれ、1952年(昭和27年)4月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し日本が主権を回復するまでの7年間、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって民主化やさまざまな改革が進められた。 -1960年代当時の津市には、中央公民館、一身田公民館、白塚公民館の3つの公民館があり、一身田公民館には図書室が設けられていた。一身田公民館図書室は1966年(昭和41年)時点で1,600冊を所蔵していたが、図書購入費が不足していたため、三重県立図書館の貸出文庫から毎月図書を借り受けて不足分を補っていた。白塚公民館に図書室はなかったが、同時点で325冊を所蔵していた。当時の三重県立図書館は事実上、津市の市立図書館の役割を代行し、津市も年間15万円を県立図書館に納めていた。また津市には県立図書館の貸出文庫を積極的に利用する20の熱心な読書グループがあり、図書館員との交流の中で市立図書館の必要性を認識し、津市立図書館設立実行委員会を立ち上げて市立図書館の設置を目指すようになった。 -金之助はその後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。1874年(明治7年)、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学後、金之助は市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校)に入学したが、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため、中学には2年ほどの在籍で1881年(明治14年)に中退し、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学する。ただし、長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている。しかし、長兄・大助が文学を志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。2年後の1883年(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学し、頭角を現した。 -フランスでは、1669年にオスマン皇帝メフメト4世によって派遣された使節スレイマン・アガ(ソリマン・アガ)がルイ14世にコーヒーを献上したことをきっかけに上流階級にコーヒーが広まった。1671年にマルセイユにフランス最初のコーヒー・ハウスが開業した時、商売敵のワイン商たちから強い反発を受けた。ワイン商の要求を受けた医師がコーヒーが健康に及ぼす悪影響を主張したにもかかわらず、コーヒーはフランスで人気を得ていった。1672年にアルメニア人商人パスカルによってパリ最初のコーヒー・ハウスが開かれ、エスファハーン出身のイラン人グレゴワールは劇場に集まる俳優や批評家を対象としたコーヒー・ハウスを開いて成功を収める。1686年にはカフェ・プロコープが開店し、文人や政治家などの多くの人間が議論を交わした。また、かつてのフランスではコーヒーが心身に悪影響を及ぼすという迷信が広く知られており、「コーヒーの毒性」を消すためにコーヒーに牛乳を入れるカフェ・オ・レが考案された。 -農作物の不作により、ジョセフ・スミス・ジュニア一家はバーモント州ウィンザー郡シャロンからニューヨーク州ウェイン郡パルマイラへ移住せざるを得なかった。ジョセフ・スミスはモルモン書を出版し、末日聖徒イエス・キリスト教会を設立することになる。1816年の7月、イギリスの小説家のメアリー・シェリーはジョン・ポリドリら友人とスイスで休暇をとっていたが、絶え間なく降り続く雨のため屋内にいることが多かった。一人一作ずつ怪談を書くことが提案され、シェリーが書いた作品は後に『フランケンシュタイン、あるいは現��のプロメシュース』(Frankenstein,orTheModernPrometheus)として発表された。ポリドイが書いた作品は『ヴァンパイア』(TheVampyre)として発表されている(ディオダティ荘の怪奇談義)。詩人ジョージ・ゴードン・バイロンは夏のない年に触発されて詩『暗闇』を書いている。ドイツの化学者のユストゥス・フォン・リービッヒは、子供の頃にダルムシュタットで飢餓を経験した。リービッヒは後に植物の栄養素について研究し、化学肥料を開発することになる。 -717の胴体断面や主翼の設計はDC-9-30のものを引き継ぎ、717の開発や認証取得にかかるコストが節約され、1999年時点での717のカタログ価格は3150万USドルであった。主翼はDC-9-34のものを基本とし、新しいアルミ合金を採用して軽量化が図られた。エンジンはBMWロールス・ロイスが開発した低騒音、低燃費の新型ターボファンエンジンであるBR715が採用された。MD-80シリーズの後半から行われていた操縦系統の電子化がさらに進められ、717では完全なグラスコックピットとなった。717の生産は、マクドネル・ダグラスから引き継がれたカリフォルニア州・ロングビーチの工場で行われた。717では一部の主要コンポーネントは米国以外の企業によって設計・生産された。胴体はイタリア、機首や主翼は韓国、内装はオーストリアの企業が担当し、水平尾翼とエンジン・パイロンの設計と製造は日本の新明和工業が担当した。試験飛行のために3機の717が生産され、1号機は1998年9月2日に初飛行した。2号機と3号機は同じ年の10月26日、12月16日にそれぞれ初飛行した。1999年1月23日には量産の初号機となる機体が完成し、型式証明取得のための試験に投入された。1999年9月1日に米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration、以下FAA)、続いて16日にはドイツの航空当局から717の型式証明が交付された。そして同月23日、エアトラン航空への初引き渡しが行われた。 -ローリーは大きく分けると7つの地区に分かれる。市の中心部、環状道路I-440の内側はダウンタウン、もしくはオールド・ローリーと呼ばれる。ダウンタウンにはノースカロライナ州会議事堂をはじめとする州政府・市政府の中枢機関のほか、文化施設も集中している。また、1920年代に建てられたサー・ウォルター・ローリー・ホテルなどの歴史的建築物が点在し、国の史跡にも指定されているフェイエットビル・ストリートが通る、市の歴史地区でもある。I-440の東側はイースト・ローリーと呼ばれる。一方、市の西側のウェスト・ローリーと呼ばれる地区にはノースカロライナ州立大学がキャンパスを構え、またノースカロライナ美術館が建っている。ウェスト・ローリー地区の西側にはケーリーが隣接している。ノース・ローリーは急速に発展を遂げている新興住宅地である。ダウンタウンとこのノース・ローリーの間、I-440の少し北側の地区はミッドタウン・ローリーと呼ばれている。ノース・ローリーとミッドタウン・ローリーには、大規模な郊外型のショッピングモールもいくつか点在している。市の南側、国道401号線・70号線沿いの地区はサウス・ローリーと呼ばれている。その東側、サウスウェスト・ローリーは、南北戦争の終戦時からアフリカ系の住民が多く住む地区で、貧しいインナーシティから郊外型の新興開発地まで、多様性に富んだ地区である。 -マクドネル・ダグラスMD-90(McDonnellDouglasMD-90)は、アメリカ合衆国のマクドネル・ダグラスが開発・製造した、小型双発ジェット旅客機である。ダグラスDC-9の発展型であるマクドネル・ダグラスMD-80をベースにさらに近代化したナローボディ機で、新型エンジンの採用により低騒音・低排気ガスを実現した。低翼配置の後退翼にリア・マウントのエンジン、T字尾翼という特徴がDC-9から引き継がれている。MD-90の巡航速度はマッハ0.76、全長は46.50メートル、全幅は32.87メートル、最大離陸重量はオプション採用時の最大値が76.2トン、標準座席数は2クラスで153席、1クラスで172席、降着装置は前輪式配置である。 -平安時代に下ると、延喜式(967年)に、因幡国から朝廷へ和紙70斤が献上された記録がある。これは当時としては平均的な紙の産地であったことを示している。これ以降、因幡の和紙に関する史料・文献は発見されておらず、詳細は不��である。次に和紙に関する史料が登場するのは、戦国時代後期の亀井氏に関連する文書(次節)になる。これらの古代の紙と、現在の因州和紙の産地である青谷・佐治を関連づける史料はない。青谷・佐治とも、人里が形成されるようになったのは古代よりもずっと後のことと考えられており、これらの地域での紙漉きが始まったのは戦国期より以前には遡らないだろうと考えられている。『和紙文化史年表』によれば、青谷や佐治の各地区のさまざまな口伝や古文書は現地での製紙業は江戸時代初期から中期に始まったと伝えている。ただし、青谷より東の千代川中流域には古代から国府があり、南へ峠を越えた播磨国(現在の兵庫県)の佐用や姫路では紙の生産が行われていたことから、具体的な史料による裏付けはないが、中世には千代川流域で紙漉きが行われていたのではないかと推測するものもいる。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -人食いライオンの脅威に晒されながらも、鉄道敷設工事は進捗していた。川の直前部分に立ちはだかっていた岩の切り通し部分を広げてどんな列車でも問題なく通行できるように掘削する作業や、切り通しとツァボ駅の間にある峡谷にかける陸橋の基礎工事、給水施設などが次々と行われた。この時期は人食いライオンの襲撃が一時的に収まっていたため、野外での昼食や川のイカダ下りなど、パターソンたちにはよい気晴らしになるできごとも時折あった。ただしパターソンは相変わらず多忙で、日中は作業の監督や雑用に明け暮れ、夜には労働者たちの争いの仲裁や様々な報告や不平を聞き届けたりスワヒリ語の学習に時間をとられたりの日々であった。ツァボ川での鉄橋架設準備は急速に進み、パターソンは川の水量などの調査や測量などの必要な仕事を一通りやり終え、橋台と橋脚の位置を選定して基礎石を水中に設置する作業が始まった。この工事は非常な難工事であり、いくら掘り続けても堅い基盤に達しなかったためにくい打ちによる工法に切り替えようかと思い始めた時に、運よく堅い岩を掘り当てることができた。もう一つの難題は、橋に使う石材に適合する岩石が周囲に見当たらないことであった。周辺に岩石は豊富に存在していたが、加工が困難な堅い石ばかりであった。パターソンが何日も探したものの見つからなかった石は、ブロックと鳥撃ちに出かけた先で幸運にも見つかり、トロッコを使って現場に運ぶことができた。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の��況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -所属するサントスFCはリベルタドーレス杯とインターコンチネンタル杯で2連覇を達成した当時の選手達が去り、長期的な展望もなく監督が短期間のうちに次々と入れ代わるなど徐々に衰退を始めていた。このような状況もあって、かつてほどサッカーを楽しめなくなり、引退後の生活を考えるようになった。1970年代には大学や企業の招きを受けて講演を行う機会が増えていたが、高等教育を受けた人物と交流するうちに学問への意欲が芽生えるようになり、サントスFCでフィジカルコーチを務めていたジュリオ・マゼイの指導を受けて試合や練習の合間に勉強を続け、大学入試資格に必要な中等教育課程を修了。大学入学試験にも合格し体育学を専攻した。1973年にはペプシコーラとの間で世界中の子供たちを対象とした「インターナショナル・ユース・フットボール・プログラム」というプロジェクトの契約を結んだ。この契約は当初1年間の予定だったが、更に5年間延長されペレはマゼイと共に世界64か国を訪問しサッカー教室を開き、サッカーの普及に努めた。また「ペレ--キングの法則」と題した教則映画は数々の賞を受賞した。1974年10月2日、18年間を過ごしたサントスFCでの最後の試合となったポンチ・プレッタ戦を行った。試合開始20分に中盤でボールを受けると両手でキャッチしてセンターサークルへと向かい、ボールを置くとピッチに跪き両手を広げ十字架のようなポーズをとり集まったファンへの感謝の意を示すと共に別れを告げた。この後、ペレは思い出の地であるメキシコを振り出しに世界キャンペーンに旅立ち、11月19日には訪日し1週間滞在。静岡県清水市、東京都と広島市で「サッカー教室」を開催した。 -古代中国に始まり長く実用に供されているもののひとつに、道教に由来する鍼灸術や漢方薬などの伝統中国医学がある。鍼灸術の実践は紀元前1世紀に遡ることができる。鍼灸術に類似した医術は青銅器時代のユーラシアですでにみられたとする科学者もいる。古代中国は数学や天文学に使う計数・計時装置も発明した。日時計の前身である影時計が中国で出現したのは4000年前のことであるが、算盤の発明は紀元前1000年-500年の間ごろである。これらを使った中国人は、紀元前500年に惑星の記録を作成した。『天文気象雑占』は紀元前400年頃に著された史上初の彗星図解である。約300年間に出現した29彗星を掲載し、彗星の出現を地上の出来事と関連づけて解釈した。 -レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、ルネサンス人文主義における思想、文化の中心地だった。レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもある。遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、風景画の発展に多大な貢献をなした画家パオロ・ウッチェロは、すでに老境に入っていた。画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ、フィリッポ・リッピ、彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア、建築家・著述家レオン・バッティスタ・アルベルティも60歳代だった。これら初期ルネサン���を代表する芸術家たちの次世代で成功を収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオ、アントニオ・デル・ポッライオーロ、ミーノ・ダ・フィエゾーレらである。フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、ロレンツォ・デ・メディチの父親ピエロや伯父ジョヴァンニの胸像は、本人に非常によく似ていると言われている。 -1916年(大正5年)7月1日には、岡崎町が愛知県3番目・全国67番目に市制施行して岡崎市となった。これにともなって岡崎町立通俗図書館は岡崎市立図書館に改称している。1919年(大正8年)には館長の千蔵が静岡県郡立志太高等女学校(現・静岡県立藤枝西高校)に転任したため、岡崎を代表する文化人だった岡田撫琴は愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高校)教諭を務めた柴田顕正を館長に推薦し、1919年(大正8年)には柴田が第2代館長(市立図書館としては初代館長)に就任した。 -しかし、イブン・スィーナーにとってもアリストテレスの思想は難解なものであり、『形而上学』を40回読んでもなお理解には至らなかったと述べている。ある日、ブハラのバザールを歩き回っていたイブン・スィーナーは店員に本を勧められ、一度はいらないと断ったものの、強く勧められて本を購入した。彼が購入した本はファーラービーが記した『形而上学』の注釈書であり、ファーラービーの注釈に触れたことがきっかけとなってはじめてアリストテレス哲学を修得することができた。 -カミーユ・ピサロはカリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島の生まれだ。家業の金物屋を手伝っていたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年から1854年まで、島を出てベネズエラに旅行に出た。1855年、画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合った。1859年にサロン・ド・パリに初入選するが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し、生活は苦しかった。当時はコローにならった画風であった。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれたが、年長のピサロもこれに加わるようになった。1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作を行ううちに、明るい色調の絵画を描くようになった。1870年の普仏戦争を避けてロンドンにわたり、画商デュラン=リュエルと知り合った。1872年からはポントワーズに住み、田園風景を描いた。サロンへの応募はせず、デュラン=リュエルの支援を受けて制作していたが、モネらとともに独自のグループ展を計画し1874年、第1回印象派展を開催した。 -総力戦も第一次世界大戦より徹底し、国民はただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者への国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、人類史上初の原子爆弾投下を含め、民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、自国および占領地においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的大量虐殺を戦争と並行して進め、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され、その途上で200万人が死亡している。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。 -1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチスがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分���、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏(イギリスとフランス)からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -内閣府沖縄総合事務局管内では既設ダム8基、施工中ダム1基の合計9基が直轄管理・施工されている。沖縄県は九州地方整備局の管轄外であり、直轄ダムの施工と管理は沖縄総合事務局が行っている。1972年の沖縄返還により沖縄の施政権は琉球列島米国民政府より日本政府へと継承された。しかし日本本土に比べ沖縄県のインフラストラクチャー整備は遅れており、本土とは別に国の強力な支援による一体的な措置を講じる必要性が生じた。復帰前年に現在の沖縄振興特別措置法の前身に当たる沖縄振興開発特別措置法が成立し、沖縄返還後の1972年5月15日には沖縄開発庁と地方支分部局である沖縄総合事務局が設置され、2001年の省庁再編により現在の内閣府沖縄総合事務局となった。沖縄総合事務局は北海道開発局と同様に道路、河川、農地開発などの施策を一体的に実施する役割を持ち、国土交通省地方整備局の業務は沖縄総合事務局開発建設部が担当している。 -ローマ建築の最終局面は、キリスト教と深い関わりがある。3世紀の危機の時代以降、すでにローマ帝国領では至る所でミトラ教、マニ教などの東方宗教が信者を獲得したが、最終的に成功を収めたのが、コンスタンティヌスに協力したクリストス教(キリスト教)であった。コンスタンティヌスがニコメディアで発した勅令(いわゆるミラノ勅令)によってキリスト教が容認されると、ローマ帝国の領内ではいくつもの大教会が建設された。当時のキリスト教徒は、ローマ建築が培ってきた様々なプラン、施工方法、技術から、あらゆる要素を任意に選択することができたが、彼らは教会建築として、ローマの世俗建築であったバシリカを多く採用した。ただし、これらの教会堂にヴォールト天井のものは存在しない。キリスト教徒にとって、ローマのヴォールト構造は世俗的で物質的なものだったらしく、ヴォールトはかなり後の時代になってから採用された。装飾についてもフレスコ画は使われず、光を反射させるモザイクによって壁の量塊を極力非物質化させる努力が払われた。初期キリスト教建築は、東ローマ帝国の潤沢な資金と継承された高度な技術の中で成熟していき、6世紀に���ギア・ソフィア大聖堂として、その最も完成された姿を現すことになる。 -14世紀末のカタルーニャ地方の人口は約45万人と推定されており、18世紀初頭までほぼ変化がなかったとされているが、18世紀以後に大きく変化した。1787年のカタルーニャの人口は87万人だったが、1857年には165万人となり、スペイン全土に占める比率も7.8%から10.7%に増加した。19世紀前半にはまだ国内移民は多くなく、基本的には産業革命の進行による自然増によるものである。1900年には196万人(スペイン比10.5%)だったが、アラゴン・バレンシア・ムルシア・アルメリアなどからの国内移民が増加した結果、1930年には279万人(同11.8%)まで増加した。バルセロナではこの30年間に人口が倍増して100万都市となったが、その影響で都市環境の悪化に悩まされている。スペイン内戦とその後の混乱で人口の伸びが停滞し、1950年の人口は324万人だったが、1960年代以降の経済成長で大量に国内移民を受け入れたことで、1975年には566万人にまで急増した。1961年から1975年の間に、アンダルシア地方などからカタルーニャに95万人が流入している。1970年にはカタルーニャの人口の38%が非カタルーニャ人であり、乱開発、インフラや公共サービスの不足、公害などの生活環境の悪化につながった。 -被疑者Sは逮捕直後、「少年犯罪ならどんな犯罪でも少年法により処罰は軽くなる」と考えていたため、自分が死刑になる可能性は考えておらず「これでも俺も少年院行きか」程度にしか考えていなかった。その考えの背景には当時、S自身が少年犯罪への刑罰ついてあまり知識を有していなかったことに加え、「死刑になる者は過去に殺人を犯しておきながら、刑期を終えてからか無期懲役の仮釈放中に再犯するような者ぐらいだ。前科のない自分に死刑は縁遠い」という考えや、1989年に発生・判明した女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年たちに死刑・無期懲役といった厳罰が課されていなかった事情もあった。同事件の加害者少年たちと自身の犯行を比較して「自分の犯行はコンクリート事件ほど長期間ではなく、(事件前に)凶器を準備していない」とも考え、逮捕後には自身の出所後の生活設計のため、面会に訪れた母親Yに頼んで高校時代に使っていた教科書・参考書・辞書類を差し入れさせていた。 -ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これを阻止すべく、欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし(ウクライナ大飢饉)、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務省人民委員部(NKVD)と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばし、これを食い止めようとする各国の右派からファシズムが生み出されることになった。 -A300-600登場後の引き渡し数は、1980年代末から1990年代前半まではおおむね毎年20機超であったが、A340とA330の納入が始まり1990年代半ばになると売れ行きが鈍り、毎年10機程度の生産となった。CCQの対象外であったA300とA310は、A320から始まったエアバス機のファミリー化の流れから取り残される形になった。2006年3月8日、エアバスはA300とA310の生産を2007年7月で終了すると発表し、以降は受注済み機体の生産を終え次第、製造ラインを閉じることとなった。最終生産機は製造番号878号機のA300-600R貨物型であり、2007年4月18日に初飛行し、同年7月17日にフェデックスに引き渡された。A300-600STを含めたA300-600シリーズの生産数および納入数は317機であった。各型式の内訳はA300B4-600が35機、A300C4-600が4機、A300B4-600Rが167機、A300C4-600RCが2機、A300F4-600Rが104機で、A300-600STが5機であった。 -メキシコオオカミ(メキシコハイイロオオカミ)は、アリゾナ州・ニューメキシコ州・テキサス州およびメキシコに分布していた。かつては懸賞金が掛けられるなど駆除の対象となっており、1970年代初めにはほぼ野生絶滅の状態であった。しかしながら、1976年にアメリカ合衆国で絶滅危惧種に指定され、メキシコオオカミに対する評価が変わった。このような背景の下、メキシコとアメリカ合衆国の間で保護繁殖に関する2国間協定が結ばれた。1977年から1980年にかけて、野生に残っていた全ての個体が捕獲され、既に動物園で飼育されていた個体とともに繁殖プログラムが開始された。一方、1982年には野生回復計画が作成され、少なくとも100個体のメキシコオオカミの自立した野生個体群を作り上げることが目標になった。 -しかしリープクネヒトは1916年4月のデモで戦争反対を宣言して逮捕され、1年の懲役を終えて出獄していたルクセンブルクも7月に再び逮捕され、8月にはメーリングも逮捕された(ツェトキンはこの前年に逮捕)。主要指導者が軒並み逮捕されたことでスパルタクスの運動は停滞した。 -当該機の墜落後、消防救助隊の全車両は滑走路22と滑走路17の交点に急行した。隊長は素早く機体尾部を調査し、16時01分頃、全隊にトウモロコシ畑の機体中央部へ進むよう指示した。最初に現場に到着した車両は、胴体中央部分に向けて消火剤を散布した。16時04分ごろ、この車両は搭載していた水を使い果たしたが、後続の車両が到着して消火活動が続けられた。火は右主翼部で激しく機体内部に広がり、17時ごろまで火勢が強くなり続けた。墜落から2時間ほど火災を制圧できず、小さい火は夜まで続いた。脱出した乗客は「他の乗客がトウモロコシの茎の間にいそうだ」と消防救助隊に伝えた。トウモロコシは約7フィート(約2メートル)の高さがあり、生存者は後に「高いトウモロコシの茎のため方向がわからなかった」と証言した。地代収入を見込んで空港の土地をトウモロコシ畑としてリースしていたが、このトウモロコシは、被害者の捜索・救助活動を困難にした。救助活動に際しトリアージが実施され、救助された人たちは重傷度に応じて搬送された。34台の救急車と9機のヘリコプターが動員され、救助された人々が地元の病院へ搬送された。警察は空港と病院の間の主要高速道路を封鎖し、緊急車両の通行を優先させた。最初の搬送者は事故後16分で病院へ到着した。現場の空港では、1987年10月に、被害者90人を想定した大規模な災害訓練が実施されており、本事故前月の1989年6月にも小規模な訓練が実施されていた。これらの経験は、現場や負傷者を受け入れた病院での救助活動に生かされた。救助活動は、後にアメリカ連邦航空局(FederalAviationAdministration;FAA)により賞賛されたほどの水準だったが、機内に取り残され呼吸困難で亡くなった人も多かった。 -イブン・スィーナーは無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高めていった。サーマーン朝のアミール(君主)・ヌーフ2世の病を治療したイブン・スィーナーは彼の信任を得、王室附属図書館を自由に利用することが許された。 -2期の始まりとなる『マクベス』は、怪奇性が全体を占め、主人公のマクベス夫妻の欲望と悲劇が筋となる台本であった。ヴェルディはこの特異性を最大限に生かした細かな心理描写を重視し、ベルカントを否定してレチタティーヴォを中心に据えるなど合唱がこの雰囲気を壊さないことに心を砕いた。当時のオペラには演出家はおらず、ヴェルディは『マクベス』で150回を越えるリハーサルを行い、シェイクスピアを表現するという総合芸術を目指した。『群盗』は主役のジェニー・リンドを立てることに重点が置かれ、気が進まないまま制作した『海賊』は従来からの傾向が強かった。『レニャーノの戦い』は時局に追随する愛国路線の最後の作品として、それぞれ進歩性は鳴りを潜めた。しかし、『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ』からは人物の心理を書き表す方向性が再び示され始めた作品で、最初は観客から理解を得られなかった。しかし『リゴレット』では醜いせむし男を含む主要な4人物それぞれの特徴を四重唱で対比させ、劇進行を創り上げた。この傾向は動的な『イル・トロヴァトーレ』主役の復讐に燃えるジプシー女、静的な『椿姫』主役の高級娼婦の悲哀と死を表現する劇作において、より顕著なものとなった。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』は単純な善悪の対立ではなく、複雑な人間性を音楽と融合させて描き出した中期の三大傑作となった。 -2016年配信の『Miitomo』よりスマートデバイス上でのゲームビジネスを展開している。この事業単体での収益化を実現した上でゲーム専用機事業との相乗効果を生み出し、任天堂の事業全体の最大化を目指すとしている。ゲームアプリの販売方式については、「売り切り型」、「アイテム課金型」とあるがゲームの種類によって使い分けていくとしている。なお、「アイテム課金型」のゲームについて一般的には「FreetoPlay」(プレイ無料、無料で遊べる)という言葉が用いられるが、任天堂は、ゲームの価値を維持したいという観点から「FreetoStart」(始めるのは無料)という呼称を用いている。 -その中でも最高傑作とされるのがチリハウスだが、これは次節に別記する。他の商館建築としては、7階建てのミラマール=ハウス(Miramar-Haus,1921年-1922年)、10階建てのメースベルクホーフ(Messberghof,1922年-1924年)、9階建てのモンタンホーフ(Montanhof,1924年-1926年)、8階建て及び9階建てのシュプリンケンホーフ(Sprinkenhof,1927年-1932年)などがある。北ドイツ表現主義建築について博士論文をまとめた長谷川章は、これらを手がけた表現主義建築家たちの共通点を「ぎざぎざの形態の多用」「クリスタルや星形のモチーフ」「3角形の窓・柱・プラン」「煉瓦の多用」「外観の垂直性の強調」「平滑な壁面のテキスタイル状の装飾」「セラミックの彫刻」「白い梯子状の桟の窓」とまとめ、ベルリンなどの表現主義建築にも共通する要素と、北ドイツの伝統的な要素との融合が見られるとした。 -1941年に合成のさらなる改良を目指して、ゼネラル・エレクトリック(GE)社、ノートン社、カーボランダム社の3社合同で研究を始めた。彼らは数秒間の3.5GPaの圧力下で3,000°Cまで炭素を加熱させることに成功したが、その後の第二次世界大戦により計画を中断せざるを得なくなった。1951年にニューヨーク州のスケネクタディ研究所で再開し、トレイシー・ホール率いる高圧合成ダイヤモンド研究チームが結成された。この研究所のダイヤモンドアンビルセルが、1946年にノーベル物理学賞を受賞したパーシー・ブリッジマンによって設計・改善された。GEは炭化タングステン製アンビルを用いて、カトリナイトの容器に入れた試料に圧力をかける方法を使用し、偶然にもその方法で合成されたが再現性は得られなかった。後にそれは結晶核として用いられた天然ダイヤモンドと判明した。 -移転にともなってコンピュータシステムを導入。貸出冊数を3点から5点に拡大し、レコードとカセットテープの館内試聴を開始した。1989年(平成元年)にはCDの館内視聴を開始した。1990年(平成2年)には中央図書館と各公民館図書室の間に図書業務オンラインシステムを導入した。1992年(平成4年)には愛知県図書館オンライン検索システムに接続した。 -2月15日、宮内省告示第二号によって皇太子裕仁親王が3月3日から、ヨーロッパに外遊することが正式に公表され、随員も発表された。同日には赤坂氷川神社で「東宮殿下御外遊御延期祈願式」が行われ、代議士や内田らが参列した。2月17日、内田・頭山は元東京帝国大学(現東京大学)教授寺尾亨とともに宮内省を訪れ、洋行延期を奏上しようとしたが係員に受領を拒否された。同日、衆議院では押川や大竹貫一が皇太子洋行問題に関する秘密会を開催するよう各派と交渉を行ったが、各党各会派ともこの要求を拒否した。2月27日には西園寺公望元老の嗣子で、随員の一人と発表されていた西園寺八郎邸が洋行延期を唱える「抹殺社」を名乗る6人に襲撃され、八郎は軽傷を負った。この日には東京大神宮で民労会による「東宮殿下御渡欧平安祈願式」、続いて黒竜会ら三千人による「聖上御平癒・東宮殿下御外遊延期祈願式」が開催された。内田はこれが最後の祈願式であると述べ、事実上延期運動を���念したものと受け止められたが、個人レベルでの洋行反対の動きは継続され、警視庁は各方面の警戒を行っていた。3月1日には浪人会が「御治定動かし難し」と決議し、延期運動から外遊時の平安を祈る動きに切り替えた。 -1959年以降、周辺国へ逃れた多数のツチ系難民は、1980年頃に政治的組織や軍事的組織として団結するようになった。ウガンダでは1979年にルワンダ難民福祉基金が設立され、翌1980年に同組織が発展する形で国家統一ルワンダ人同盟が結成された。ウガンダ内戦(1981年-1986年)における反政府組織であり、最終的に勝利を納めた国民抵抗運動(NRM)に参加した者も多く、1986年時点で国民抵抗運動の約2割がツチであった。しかしながら、内戦の初期から国民抵抗運動に参加していたツチらは相応の高い地位を得たものの、ヨウェリ・ムセベニウガンダ大統領のルワンダ難民問題に関する姿勢の変節などにより、強い失望を受けた。そのため、1987年になると新たにルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。 -『ジャズ・シンガー』は1928年9月27日にロンドンのピカデリー・シアターでヨーロッパ初公開となった。映画史家RachaelLowによれば「多くの業界人がトーキーへの転換は避けられないと悟った」という。1929年1月16日、ヨーロッパ初の長編トーキーが公開になった。ドイツ映画の『奥様お手をどうぞ』である。ただし台詞はなく、RichardTauberが歌を数曲披露しているだけだった。この映画では、トリ=エルゴンを引き継いだドイツ-オランダ系企業Tobisが開発したサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。Tobisはヨーロッパにトーキー市場が出現することを見越して参入し、ドイツの有力電機企業2社の合弁会社Klangfilmと同盟を結んだ。1929年初めにはTobisとKlangfilmは録音・再生技術の売り込みを開始した。ERPIがヨーロッパ各地の劇場でトーキー設備の設置を開始すると、Tobis-Klangfilmはウェスタン・エレクトリックがトリ=エルゴンの特許を侵害していると主張し、アメリカの技術が各地に設置されるのを阻止した。ちょうどRCAが録音システムを売り込めるように映画産業に参入してトーキー化を推進したように、Tobisも自ら映画スタジオを設立した。 -1903年には日本で暮らした稲毛海岸を題材にした油彩画がサロンに入選する。これはビゴーにとって生涯唯一の入選であったとみられている。この絵は画風に印象派のスタイルが取り入れられていた。1904年に日露戦争が起きると『フィガロ』紙から特派員の仕事を打診されたが、次女の誕生直後だったためこれを断っている。その代わりに、日清戦争当時の取材経験をもとに想像したと推定される戦争画や日本を題材とした絵をフランスの新聞に寄稿した。ビゴーはこの頃まで日本通の画家として日本を扱った絵を多く手がけたが、日露戦争終結後は減少した。A・ド・ジェリオルの『大仏の耳の中で』(1904年)が、日本を題材にした彼の挿絵本の最後となる。 -北海タイムス社による人物伝『旭川九十年の百人』では、佐野のことを「九十年におよぶ長い市史に登場する女性活動家のなかで、この一生を最も美しく、そしてだれよりも人間らしく生き抜いたのは、廃娼運動に、受刑者の更生保護に、持ちうる限りの全エネルギーを注いだ佐野文子をおいて、他にはいないだろう」と評価されている。北海道の郷土史家である村上久吉は、「旭川三十万の市民にもっとも親しまれ尊敬され、ある意味では全道的であり、全国的ともいえる名高い婦人」と評価している。戦前の託児所設立などの女性たちへの支援については、北海道史に詳しい女性史研究家の星玲子が「働く女性の支援は矯風会本部の方針ではあったけれど、それを旭川で実現させたのは、やはり文子の情熱と実行力、それに先見性のたまものと述べている。 -核分裂物質から発生した中性子が外部に逃げてしまって連鎖反応が止まらないようにするため、中性子反射体が必要である。ファットマンでは天然ウランを用いており、中性子反射体としては厚さ3センチメートルで十分であるが、1ナノ秒の間に80回の連鎖反応を繰り返すまでは核分裂物質を一か所に留めておく必要がある。この押さえがタンパーである。核分裂物質を1ナノ秒間押さ��込むためにタンパーにはある程度の慣性質量が必要で、これを兼ねるために7センチメートルの厚さになった。後年の研究では、熱量の20パーセントは天然ウランによる副臨界系から発生したと言われている。 -電動カム軸式制御器搭載に伴う低圧電源供給を目的として、モ3400形に東洋電機製造TDK-311直流電動発電機(MG、定格出力3.2kW・直流100V)を1両あたり1基搭載する。東部線系統に在籍する従来車における標準仕様であったHL制御方式は、制御装置用電源を架線からの電力を抵抗器によって電圧降下させて用いるため電動発電機(MG)を必要とせず、本系列は東部線に在籍する車両として電動発電機を初めて採用した車両となった。また、モ3400形には制動装置の動作などに用いる空気圧供給元となる三菱電機DH-25電動空気圧縮機(CP、定格吐出量710L/min)を同じく1両あたり1基搭載する。集電装置は回生制動の失効対策としてモ3400形のほかク2400形にも搭載、東洋電機製造PT-7菱形パンタグラフを屋根上先頭寄りに1両あたり1基搭載する。 -竹(たけ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦である。一等駆逐艦竹(たけ)は、日本海軍が太平洋戦争中に横須賀海軍工廠で建造した駆逐艦である。戦時量産型駆逐艦である松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の2番艦であり、日本海軍の艦名としては樅型駆逐艦の「竹」に続いて2代目である。戦時量産型のため「雑木林」と渾名され、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた。 -発声のメカニズムは呼気音でもあり吸気音でもある。吸気音の発声はイヌやキツネなど他の多くの動物も行うことがチャールズ・ダーウィン以来知られている。人間においても、吸気音はゲルマン語派などで用いられている。チーターとネコの喉鳴らしを比較した2010年発表の調査によれば、チーターにおいては呼気音の段階の方が長く、より多くのサイクルを含むが、ネコにおいては呼気音と吸気音の段階の間に差は存在しないか、存在しても僅かであった。2つの段階を通じ、チーターはネコより多くのサイクルを発生させるが、基本周波数は同じであった。 -ハンブルクは中世以来、経済的独立性を保ち、ドイツ関税同盟(1834年)が成立した後も加わることはなかったが、1871年のドイツ帝国成立で情勢が変化した。首相オットー・フォン・ビスマルクがハンブルクをドイツ関税同盟に組み込むことを決め、その旨を1880年に通告したのである。それに対し、ハンブルクの商人団はビスマルクと交渉し、自由港地区は残すことと、1881年から1888年を移行期間とした上での加入とすることを承認させた。ハンブルクはこの移行期間中にハンブルク港を整備したが、その際には2万人以上の住民を立ち退かせ、既存の建物もことごとく撤去し、まったく新しい港へと生まれ変わらせた。世界遺産に登録されたシュパイヒャーシュタットの倉庫群も、このときに形成され始めたのである。 -クサヴェラは校長を退任後、英語の教員として務めた。慣れ親しんだ校長室からも離れ、校内では小さな応接室で過ごした。しかし国からの圧力はなおも強さを増し、英語が敵国語として禁止された。日独伊三国同盟が結ばれていたことから、クサヴェラはドイツ語の教員になることを申し出、許可を得た。しかし間もなく、そのドイツ語までが禁止され、一切の外国語の教育すら認められなくなるに至った。そのときクサヴェラが思いついたことは、最初の訪日が阻まれた際に、ドイツで学んだ看護学と衛生学であった。クサヴェラは「空襲に備えて救急手当の方法を教えたい」と申し出て、再び教壇に立つことができた。こうして教科を転々としながらも、クサヴェラは文句も言わず、収容所入りや本国への強制送還に遭わないことをありがたがり、「きっと父兄たちが庇ってくださっているのでしょう」と感謝していた。この時期は藤学園最大の苦悩ともいえる時期であったが、クサヴェラや、クサヴェラの跡を継いで校長に就任した牧野キクの尽力により、校舎の一部を被服の軍需工場にしての勤務奉仕、生徒を授農など勤労動員に駆り出しての協力により、この時代を乗り越えることができた。敗戦後も、札幌市内の休閑地で農作物を栽培する���どして食力難を凌ぎ、生徒たちを養うことができた。 -少年の被疑者については、なるべく身柄の拘束を避けなければならない(犯罪捜査規範208条)。少年の被疑事件において身柄の拘束が必要なときは、検察官は、所属の官公署の所在地を管轄する地方裁判所または簡易裁判所の裁判官に対して、勾留の請求に代え、観護の措置を請求することができる(少年法43条1項本文、2項、刑事訴訟規則299条本文)。これを勾留に代わる観護措置といい、少年保護事件が家庭裁判所に係属した後に採られることがある観護措置と区別する。勾留に代わる観護措置の効力は、その請求をした日から10日であり(同法44条3項)、勾留延長(刑事訴訟法208条)に対応する制度はない。やむを得ない場合には、少年を勾留することができ(少年法43条3項、48条1項)、この場合には、少年鑑別所にこれを拘禁することができる(同法48条2項)。しかし、この「やむを得ない場合」を検察官や裁判官が安易に認め、さらに、勾留の場所を代用刑事施設とする例が多すぎるという批判が絶えない。 -スズキ(鱸、学名:Lateolabraxjaponicus)は、スズキ目・スズキ亜目・スズキ科に属する魚である。海岸近くや河川に生息する大型の肉食魚で、食用や釣りの対象魚として人気がある。成長につれて呼び名が変わる出世魚である。スズキはいわゆる出世魚で、成長とともに呼び名が変わる。ただし、地方によって呼び名は様々に異なり、統一的な定義はない。例として関東では1年ものと2年もので全長20-30cm程度までのものを「セイゴ」(鮬)、2、3年目以降の魚で全長40-60cm程度までを「フッコ」、それ以上の大きさの通常4-5年もの以降程度の成熟魚を「スズキ」と呼んでいる。関西では「フッコ」の代わりに「ハネ」という呼称が使われている。東海地方では60cm程度までを一律に「セイゴ」、それ以上の大きさの成熟魚を「マダカ」と呼んで二分することが多い。宮城県周辺では小型のものを「セッパ」とも呼ぶ。有明海産は地元の人からは「ハクラ」と呼ばれている。 -カールは一家の領地であるヴィラ・ヴァルトホルツや父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていたプラハで、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずにホテル・ザッハーのロビーを横切るという事件を起こしたこともあった。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。皇族の義務として受けた宗教教育によって、カールはローマ・カトリック教会への篤い信仰心を持つようになった。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの聖母マリアの聖堂に行くのを好んだ。ある日、ライヒェナウ・アン・デア・ラクスの領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、神の母を傷つけたという思いで泣き出してしまったという。1896年、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで1900年に貴賤結婚した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。1906年、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。 -アンテ・スタルチェヴィッチ(AnteStarčević)が創設したクロアチア権利党の支持者であるクロアチアの作家、ジュロ・デジェリッチ(ĐuroDeželić)は1879年に「クロアチア民族」あるいは「クロアチア人の魂」という本を出版し、その中でクロアチア人が住み、従ってクロアチアの土地である地方は「現在のダルマチア全域およびコトル湾・トルコ領クロアチアを含むボスニア・ノヴィ・パザル・パシャリク(サンジャク地方)、1789年のアンゲルの本でトルコ領ダルマチアとして言及された現在のヘルツェゴヴィナ地方・そしてモンテネグロとアルバニア北部である」とした。 -1756年に七年戦争が勃発するとイングランドでは指導者として大ピットを期待する声が高まるが、本人が初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズの政権へ加わるのを拒否した。デヴォンシャー公爵は1756年10月にアイルランドから帰国したが、ちょうど同10月にヘンリー・フォックスが南部担当国務大臣を辞任して第1次ニューカッスル公爵内閣が崩壊、フォックスが組閣に失敗したため家柄と庶民院議員の経験やアイルランドでの人気によりデヴォンシャーが第一大蔵卿(首相)に推された(大ピットはフォックスの後任として南部担当国務大臣に就任)。 -ブクステフーデのオルガン作品は、自由曲、コラール編曲ともに約40曲が現存する。自由曲の多くは、即興的なプレリュードと対位法的なフーガを含んでいるが、「前奏曲とフーガ」と通称されるように、一対のプレリュードとフーガから構成される作品は少ない。典型的な楽曲構成は、北ドイツ・オルガン・トッカータといわれる5部形式であり、冒頭部-第1フーガ-間奏部-第2フーガ-終結部といった展開を示す。BuxWV137,148のように後続するフーガに代えてオスティナート形式が導入されることもある。自由な部分は即興的な性格が強く、とくに冒頭部は入念に展開され、技巧的なパッセージや大胆な和声進行等を伴って、リズム、テンポ、拍子のさまざまな対比が試みられる。リューベックの聖母マリア教会のオルガンは足鍵盤のストップ数が最も多く、ブクステフーデのオルガン作品においても低声部は重要な役割が与えられており、BuxWV137,143のように足鍵盤の技巧的なソロで開始する楽曲も存在する。また、フーガでは二重対位法やストレッタが多用され、足鍵盤が独立した声部を担当してテクスチュアに厚みが加えられている。その他の自由曲としては、3曲のオスティナート楽曲や足鍵盤をもたないカンツォーナ等がある。ニ短調のパッサカリア(BuxWV161)は、後にヨハネス・ブラームスが関心を寄せたことでも知られており、足鍵盤をもたない自由曲は、チェンバロによる演奏も可能である。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -1951年、フェスティバル・オブ・ブリテンがサウス・バンクにて開催された。1952年、ロンドンスモッグの対応策として大気浄化法(1956)が掲げられ、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題はいまだに残されている。1940年代以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くはイギリス連邦加盟国の出身者である。内訳としてはジャマイカ、インド、バングラデシュおよびパキスタン出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。 -プランクトン性藍藻の中には、ガス胞(gasvesicle)をもつものがいる。ガス胞は細長い小胞であり、多数のガス胞が平行に密集して"エアロトープ"(aerotope,gasvacuole)を形成している。ガス胞の膜は脂質ではなく、タンパク質からなる。この膜は水を透過しないため、ガス胞は空気で満たされ比重が軽くなり、細胞は浮くことができる。つまりガス胞は細胞中の気泡のようなものであり、水と屈折率が異なるため光学顕微鏡下では目立つ。光合成産物の増加やイオン取り込みによって細胞内の膨圧が高くなるとガス胞はつぶれて細胞は沈降し、そこで光合成産物の消費やイオン排出によって膨圧が低下すると再びガス胞が膨らんで細胞は浮上する。ガス胞は藍藻に特有の構造ではなく、他のプランクトン性原核生物に見られることもある。 -518年にアナスタシウス1世が崩御すると、ユスティヌスはユスティニアヌスの大きな助けを受けて新帝即位を宣言した。ユスティヌス1世の治世(518年~527年)においてユスティニアヌスは皇帝の腹心となった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1997年に開発着手した当時は、きぼう組立て完了から約3ヶ月後となる2001年度のHTV技術実証機打上げを計画していた。しかし、ロシア・サービスモジュールの遅れやコロンビア号空中分解事故の影響などによる宇宙ステーション組立全体の遅延に伴い、きぼう組立て完了が2009年となったことから、最終的にHTV技術実証機は2009年末打上げとして計画された。この約8年延長された開発期間を活用して、追加安全要求の反映や、曝露輸送の追加といった要求変更等に対応し、安全・信頼性の向上、およびHTVの位置づけの向上などを図ることができた。 -ウェスティに見られる遺伝性疾患としてはクラッベ病があげられる。ただしウェスティ特有の疾患ではなく、ケアーン・テリア、ビーグル、ポメラニアンなどの犬種にも見られるもので、ガラクトセレブロシダーゼと呼ばれる酵素の欠損を原因とする神経系の疾患である。幼犬のころから兆候があり、生後30週程度でこの疾患に罹病しているかどうかが判断できる。症状としては全身の震えや、筋肉の発育不全、歩行困難などである。病状の進行は遅いが、最終的には脚部が麻痺する。遺伝性の疾患であるため、この疾患に罹病しているウェスティは繁殖に使用しないことが求められている。ほかの遺伝性疾患として、ホワイト・ドッグ・シェイカー・シンドロームがあげられる。これもウェスティだけでなくマルチーズ���もよく見られる疾患で、以前は白い被毛を発現する遺伝子が関係していると考えられていたが、ヨークシャー・テリアやダックスフントといった白以外の被毛を持つ犬種にも発症することがわかっている。初期症状としては頭部や脚部の震え、運動失調、ディスメトリアがあげられる。この疾患には雌雄差があり、雌の場合であれば症状が4週間から6週間で収束するのに対し、雄の場合には死ぬまでこの症状がおさまることはない。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。 -ハイチは近代史の中で初めての黒人の共和国であり、フランスの植民地から直接自治に移行し、今日まで続いている。革命前は、奴隷所有者たちが作り上げた仕組みが多数派を支配する時における暴力と軍事力の有効性を示していた。この仕組みが革命後も生き残り、誕生したばかりの黒人共和国でも続いた。多数派の黒人農民に対し、肌の色の薄いムラートなどの少数派エリートが政治力も経済力も支配した。 -1987年(昭和62年)には、元の墓地が採石場に近く汚れやすいことなどを理由に、石原産業が用意した土地へ移設された。この時、紀和町民はお金を出し合い、クリスチャンがほとんどいない土地柄ながら、死亡したイギリス人に畏敬の念を示し、キリスト教式の墓を立てた。新しい墓地は中央に銅製の十字架を建て、その両側に石製の記念碑を配したものとなった。また墓地と土地が石原産業から紀和町へ寄贈された。2005年(平成17年)に熊野市文化財専門委員会は、史跡の名称「外人墓地」が差別用語にあたり好ましくないとの判断から、「英国人墓地」に変更した。2014年(平成26年)6月には、墓地の周囲をレンガで舗装し、ブロック塀を白く塗り直す工事が行われた。 -町中で飼われている犬は、下屋敷や領地へ移したければ遠慮なく送り、犬小屋でも引き取る旨が申し渡され(『御当家令条』五一五号)、元禄10年7月18日の町触では江戸の町々に「残犬」や「紛犬」の犬数を調査するよう命じ(『江戸町触集成』三三三二号)、同16年10月の町触では無主犬が多く集まって町内の人々や道路往来の者たちの支障になっていたため、町奉行所に届け出るように申し渡した(『江戸町触集成』同三八二九号)。 -サーマーン王朝はニーシャープールに配置した総督を介して、南東のホラーサーン地方を支配した。北東部ではマー・ワラー・アンナフルの東限のスィル川を境にテュルク系の遊牧民からの防備に努める一方、国境でテュルク系遊牧民の子弟を軍人奴隷(グラーム)として購入していた。サーマーン朝が遊牧民に対して実施した聖戦(ジハード)、草原地帯でのサーマーン朝王族、商人、学者、スーフィーの活動はテュルク系遊牧民のイスラームへの改宗を促した。 -ニューヨーク植民地モホーク川流域に住むロイヤリスト(王党派)でイギリスのインディアン代理人だったガイ・ジョンソンは、ニューヨーク植民地のイロコイ族と極めて親密にしていたが、パトリオット(愛国者)側の意見がニューヨークで支配的であることが明らかになってからは、自身と家族の身を案じていた。もはやイギリスとの商売を安全に行うことができなくなったと確信すると、200人の追随者やモホーク族の支持者等とともにニューヨークの領地を離れた。まずはオンタリオ砦に向かい、6月17日にインディアン部族の指導者達(大半はイロコイ族とヒューロン族)から、この地域での物資と通信の供給線を途絶えさせないことと、「敵による困りごと」があるときはイギリスを支援することという約束を取り付けた。そこからはモントリオールに向かい、カールトン将軍や1,500名以上のインディアンとの会談で、同様な合意を交渉し、「いつでも臨戦態勢を取れるように」戦争の帯を配った。しかし、これら合意事項に加わった者の大半はモホーク族だった。イロコイ連邦の他の部族はこれらの協議を避け、中立であろうとした。会議後もモホーク族の多くはモントリオール地域に留まった。しかし大陸軍が1775年中に本当に侵略を開始するかが不確かに思えたため、その大半は8月の中旬までに故郷に戻った。 -本樹の生えている一帯の土地は、小田原城主大久保氏の領地であったが、明治維新後に、大久保氏の御用を勤めていた松岡家に払い下げられ、私有地となったものである。天然記念物指定当時は、当時の小田原町助役であった松岡彰吉の私有地であり、木も同氏の所有であった。現在も松岡家の私有地である。牧野富太郎は、この樹が斜面の窪地にあって耕作の妨げになることがなかったため伐採されることもなく今日まで残ったのであろう、と述べている。 -農薬による致死の経由には、蜂蜜と花粉の2つが考えられる。花粉経由説では、ミツバチが餌とするものに使用される農薬は、体内に貯蓄される蜂蜜経由でなく、花粉経由でコロニーに運ばれるため、花粉が媒介として考えられる。花粉は体の外側を使って運ぶのに対し、蜂蜜は体の内部を使用して運搬され、毒性があった場合、そのミツバチが死に至るはずだからである。もっとも、天然・人工を問わず、ミツバチにとって致命的であり得る化学物質の全てがミツバチの成虫に影響するわけではないが、もしそういった化学物質があれば、真っ先に幼虫に影響があるはずなのにCCDの事例では幼虫の死亡は発生していない。蜂蜜経由説では、幼虫は蜂蜜を食べず、大人のミツバチはそれに対してほとんど花粉を消費しない。CCDの症状は、もし環境から入る細菌や毒素が原因であるならば、幼虫が死亡せずミツバチの成虫が死亡している(もしくはどこかに行ってしまっている)ことから、それは蜂蜜を経由して入ってきている可能性が高いと説明される。現在まで、CCDにおける農薬作用に関しては、養蜂家から提供を受けた調査結果によっている。しかし、ネオニコチノイドなどの農薬は、養蜂家不在の場合でも土に撒かれることから残留などが考えられるため、養蜂家不在の地でも、影響を受けたコロニーからサンプルを入手し直接調べる必要がある。 -城を復元するかどうかという問題は長らく議論の対象であった。詩人のヴォルフガング・ミュラー・フォン・ケーニヒスヴィンターは1868年に完全な建て直しを強く主張して激しい反応を巻き起こし、新聞・雑誌や集会で議論がなされた。バーデン大公国政府は1883年にカールスルーエの建築監督ヨーゼフ・ドゥルムをリーダーとし、地方建築監査官ユリウス・コッホと建築家フリッツ・ザイツを顧問とする「シュロスバウビューロ」(城館建築作業局)を設置した。この作業局の使命は可能な限り最新の現状調査を行い、現状維持か復元か主要建築物の処置について提言することであった。作業局の業務は1890年に完了し、ドイツ全土から集められた専門家委員会の検討基盤を作り上げた。専門家委員会は全会一致で、完全であれ部分的であれ復元するという案は考慮に値せず、現在の状態を維持保存することに全努力を傾注するべきであるとの結論を採択した。ただし、火災で内部が破壊されたフリードリヒ館だけは廃墟にはあたらず、復元作業を行うべきであるとした。この復元作業は1897年から1900年にかけて、52万マルクという巨費を投じてカール・シェーファーによって行われた。 -アムクワ・ヴァレーAVAは山岳地帯を除くアムクワ川流域に広がるAVAである。アムクワ渓谷の気候は、ウィラメット渓谷より温暖だが、南方に位置するローグ渓谷よりは寒冷である。このAVAで栽培されている主要なブドウにピノ・ノワールで、小規模ではあるがピノ・グリ(Pinotgris)、カベルネ・ソーヴィニョン、シャルドネ、リースリング、ならびにフランス=アメリカ系雑種も栽培されている。また下位AVAとして、レッド・ヒル・ダグラス・カウンティ・オレゴンAVAがある。 -遺跡船の平穏な日々が続く中、謎の魔物を生み出す黒い霧を目撃したセネルたちは遺跡船に何かが起きていると感じる。そんな中、セネルの仲間たちの回りで様々な事件が起こる。ウィルは娘ハリエットとの親子関係に悩んでいたが、亡き妻アメリアとの思い出を語り合い少しずつだが和解していく。ノーマは師匠スヴェンが追い求めていた秘宝「エバーライト」を見つけ出す。クロエは両親の仇との決着を付ける。モーゼスは魔獣の避けられぬ運命「野生化」で魔物へと還っていくパートナーのギートとの絆を確かめ合う。ジェイは自身を苦しめてきた育ての親ソロンと決別する。 -ホッローケーの村落は、20世紀のハンガリーにおいて経済的に取り残された地域となった。村の周辺には野菜畑や果樹園が広がり、かつては自給自足経済が営まれていたが、地質の悪さから伝統的に貧しく、鉄道や幹線道路の敷設地からも離れていた。1950年代以降にハンガリーが経済成長を遂げ、各地で新しい住宅が建てられたときにも、そうした流れとホッローケーはほぼ無縁だった。しかし、その結果、共産主義政権下での集団農場化にも巻き込まれることがないまま、伝統的集落が良好な状態で保存されることになり、1987年には人が住んでいる村落として初めて世界遺産に登録された。 -ヤングスタウンは北緯41度5分47秒西経80度38分57秒に位置している。市はクリーブランドからは南東へ約105km、アクロンからは東へ約75km、ピッツバーグからは北西へ約100kmに位置する。また、市の中心部からペンシルベニア州境までは東へ約16kmである。市の標高は259mである。アメリカ合衆国統計局によると、ヤングスタウン市は総面積88.7km2である。そのうち87.8km2が陸地で0.9km2が水域である。総面積の1.02%が水域になっている。市域の大部分はマホニング郡内に収まっているが、市北部の一部分がトランブル郡にかかっている。ヤングスタウン・ウォーレン・ボードマン都市圏はマホニング郡を中心に、トランブル郡、およびペンシルベニア州マーサー郡の3郡にまたがっている。ヤングスタウン・ウォーレン広域都市圏はこの都市圏にセーラム小都市���を加えた4郡からなっている。ヤングスタウンの広域都市圏はクリーブランド・アクロン・カントン、ピッツバーグ・ニューカッスル・ウィアトンの両方の広域都市圏に接している。 -幕府はゴローニンらに通訳へのロシア語教育を求め、上原熊次郎、村上貞助(むらかみ・ていすけ)、馬場貞由、足立信頭らがロシア語を学んだ。そのほか学者などが獄中のゴローニンらを訪問しているが、その中に間宮林蔵もいた。林蔵は、壊血病予防の薬としてレモンやみかん、薬草を手土産に、六分儀や天体観測儀、作図用具などを持ち込んで、その使用方法を教えるよう求めた。また、林蔵は毎日、朝から晩まで通っては鍋や酒を振る舞い、自分の探検や文化露寇の際の武勇談を自慢して、ゴローニンに「彼の虚栄心は大変なもの」と評された。なお林蔵はロシア人を疑っており、ゴローニンらをスパイであると奉行に進言し江戸に報告書を送っていたと、ゴローニンは記している。 -大正時代初期の八代国治は、『吾妻鏡』と諸史料との突き合わせを行い、公卿の日記その他京系の多く史料が原史料となっていることを見つける。そして『吾妻鏡』の該当箇所と、オリジナルであろうとするものの該当箇所計29ヶ所を具体的に紹介した。その内、藤原定家の『明月記』が史料として使われている部分が非常に多く、14ヶ所とほぼ半分を占める。それらのことから、『吾妻鏡』は日記の体裁を取りながらも、明らかに後世の編纂物であると八代は断定した。八代国治が指摘した文献との関係については、先に触れた通り『玉葉』については否定され、また五味文彦は『平家物語』や『承久記』、そして平田俊春が戦前に主張した『六代勝事記』も使われた形跡は無く、それらの元となった史料合戦記などを利用したのではないかとする。そうした修整はあるものの『明月記』の他、『金槐和歌集』からの引用などは確かに確認され、後に佐藤進一は『飛鳥井教定記』も原史料のひとつに加えている、五味文彦は『十訓抄』なども二階堂行光の顕彰記事に利用された可能性があるとする。 -収拾した郷土資料は、4階にある郷土資料室「歴史の蔵」に保存され、貴重書が含まれるため入室には申請が必要である。桑名市および三重県の資料を収集・保管する。江戸時代の史料や伊勢湾台風で被災した史料は帙(ちつ)の中で保存し、室内は自動温湿度管理システムと不活性ガスで資料劣化を防止している。主なコレクションに、古文書群である「秋山文庫」と「伊藤文庫」、民俗資料を中心とした「堀田文庫」、児童文学を中心とした「北村文庫」(北村けんじ寄贈図書)がある。 -石油輸送の技術は石油産業と共に発展した。人類による石油の利用は先史時代にまで遡るが、最初の近代的・商業的な利用は1850年のジェームズ・ヤングによるパラフィンの生産からとなる。こうした初期には、ミャンマー北部からの石油は陶器の容器に入れて川岸まで輸送され、そこで船倉に入れられていた。1850年代には、ペンシルベニア州タイタスビル近郊でエドウィン・ドレークが石油を掘り当てて以来、ペンシルベニア州の油田が主な石油の供給源となり、また革新の中心となった。アメリカ合衆国で最初の油田はこの地に1859年に掘られ、当初は1日10バレルほどの産出であった。2年以内にタイタスビルの油田は1日3,000バレルの石油を供給するようになった。この頃には既に石油は、屋内・屋外での照明といった用途に用いられる油として、魚やクジラ、野菜から採れる油を置き換えるようになりつつあり、また大西洋を横断した輸出も開始された。 -第二次世界大戦の戦域を大別する際、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一部を含むものと、東アジア・東南アジアと太平洋・インド洋全域を含むものに分けられる。このうちドイツ、イタリアなどとイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いを欧州戦線、日本などとイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダなどとの戦いを太平洋戦線と大別する。欧州戦線はイギリス、アメリカ、フランス、ブラジルなどが枢軸国と戦った西部戦線および北アフリカ戦線と、ソ連と枢軸国が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。太平洋戦線��太平洋戦争と呼称され(当時の日本側の呼称は「大東亜戦争」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカなどが戦った太平洋戦域(英語版)、オランダの植民地のインドネシアやイギリス領のマレー半島、フランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカなどが戦った南西太平洋戦域(英語版)、ビルマやインド、セイロンやアフリカで日本がイギリス、アメリカなどと戦った東南アジア戦域(英語版)、そして中国大陸で日本が中華民国とアメリカなどと戦った日中戦争に分けられる。しかし、これら以外にオーストラリアや中南米、カリブ海、東アフリカなどでも戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。 -1954年12月16日に、ホールはベルトプレス型アンビルを用いて最初の商業的な合成に成功し、1955年2月15日に公表された。このアンビル内では温度2000°C以上、圧力10GPa以上の状態を作り出すことができ、溶融したニッケル・コバルト・鉄で溶解したグラファイトを葉ろう石の容器に入れ使用する。融解した金属は"触媒"のような役割を果たし、グラファイトを溶かすだけでなく、ダイヤモンドへ変化させる速度を上げている。彼が合成したものは最大でも直径0.15mmで、それはあまりにもサイズが小さく宝石としては不完全なものであったが、工業用研磨材として利用できた。ホールの同僚たちも合成することに成功し、研究結果を科学専門誌ネイチャーに掲載した。ホールは再現・証明可能な合成を行い、また十分な裏付けのある合成過程を創出した人物となった。彼は1955年にGEを退社、3年後新しく合成用アンビルを開発し、これまでの研究成果を讃えられアメリカ化学会賞を受賞している。 -イギリスはギリシャの王党派を援助してきたが、これに対して内外から批判が挙がった。加えて、1946年から翌年にかけての冬は実に66年ぶりの厳冬となったため、国内では深刻な燃料危機が発生した。イギリスは大戦で経済が疲弊した上、巨額の対米借款を抱えており、援助政策の再考を迫られていた。経済情勢も深刻で、工業生産は戦前の40%程度に留まっていた。1946年末にアメリカを訪問したギリシャのコンスタンディノス・ツァルダリス首相はギリシャ経済の窮状を説明し、今後5年間に12億4600万ドルの援助が必要であると訴えた。 -ルノワールは、1841年、フランス中南部の磁器の町リモージュで生まれた。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父レオナールは仕立屋、母マルグリットはお針子であった。後の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは1人労働者階級出身であった。1844年、一家でパリに移住した。ルーヴル美術館の近くで、当時は貧しい人が暮らす下町であった。幼い頃から絵への興味を示していたが、美声でもあったルノワールは、1850年頃、作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーは、ルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申出があったことから、グノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた。1854年、磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなった。ルノワールは、後に次のように回想している。 -1763年にグラスゴー大学を辞職すると、スコットランド貴族ヘンリー・スコットの家庭教師としておよそ3年間フランスやスイスを旅行した。この間スミスは、ヴォルテール(1715-1771)、ケネー(1694-177])、テュルゴー(1727-1781)などのフランス啓蒙思想の重鎮とも交流を持った。イギリス帰国後は執筆活動に専念し、1776年に主著『国富論』を出版した。その後1778年にはスコットランド関税委員に任命され、1787年にはグラスゴー大学名誉総長に就任した。1790年にエディンバラで67歳で病死した。スミスは生前「法と統治の一般原理と歴史」に関する書物を出す計画があったが、死の数日前に友人に命じてほぼ全ての草稿を焼却させてしまった。焼��されずに残った草稿はスミスの死後、『哲学論文集』(1795)として出版された。また、1895年にはグラスゴー大学時代の学生がとった講義ノートが見つかっており、『法学講義』として後に公刊された。 -美幾(みき、1836年-1869年8月12日)は、江戸時代末期-明治時代初期の遊女である。梅毒の治療中に重体に陥り、医師から解剖のための遺体提供を依頼されて承諾したと伝えられ、日本で最初の献体者(篤志解剖)とされる。美幾とその生涯については、渡辺淳一の小説『白き旅立ち』、吉村昭の小説『梅の刺青』などが題材に取り上げている。 -1945年の第二次世界大戦終結後に、母エラとオードリーはアムステルダムへと移住した。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団(en:RambertDanceCompany)で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた。ただしヘプバーンの170cmという身長と、体格や筋肉を作る成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいと言われている。ヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した。 -魚食性の遊泳性深海魚には、体のサイズと比較してかなり大きな口や歯を備えたものが多い。並外れた大きな口の持ち主として、フウセンウナギ目に属するフウセンウナギ・フクロウナギの仲間が特に知られている。彼らは一見すると頭が異常に大きいように見えるが頭蓋骨は小さく、大きな口は極端に発達した顎の骨に支えられている。フウセンウナギが鋭い歯を持ち大型の獲物を飲み込むのに対し、フクロウナギの顎には歯がほとんどなく、小型の魚やプランクトンをかき集めて食べている。発達した歯列もまた魚食性深海魚の特徴であり、オニキンメ(オニキンメ科)など鋭い牙状の歯を持つものもいる。ワニトカゲギス・チョウチンアンコウ類の一部には、内側に折れ曲がった歯を持つものがあり、捕えた獲物を逃しにくい構造になっている。チョウチンアンコウ類やクロボウズギス科の魚など、食道や胃を大きく拡張させることのできる深海魚もいる。オニボウズギスは自分の何倍もある獲物を飲み込むことが可能で、腹部を異常に膨らませた状態で捕獲されることがある。また、メラニンなどの色素沈着によって、黒色化した腸管を持つ深海魚も珍しくない。発光生物を捕食した際に、消化管を透過した光が外敵を誘引することを回避しているものと見られる。継続的な捕食を行うことが難しい深海の環境では、エネルギーを効率的に蓄えることが課題となる。肝臓は深海魚にとって重要なエネルギー貯蔵器官であり、シンカイエソ科などは非常に大きく脂質に富む肝臓を備えている。ヨロイダラ(ソコダラ科)の肝臓もまた脂質・グリコーゲンを豊富に含み、およそ180日間は餌がとれなくとも生命を維持できると推定されている。脂質は海水よりも比重が小さいため、肝臓に多量に脂肪分を蓄えることは浮力の確保にも貢献する。アイザメ科・カラスザメ科(ツノザメ目)など、浮き袋を持たない深海性の軟骨魚類には、ときに体重の25%にも及ぶ巨大な肝臓を持つものがある。 -狭山池は『日本書紀』の中で崇神天皇が詔を発して狭山池を建設した、また『古事記』で垂仁天皇が印色入日子命に命じて狭山池を建設させたという記事があったが、明確な建設時期は長らく不明であった。建設時期についての調査に具体的な進展を見たのは「平成の大改修」と呼ばれる狭山池ダム再開発事業が1980年(昭和55年)から2001��(平成13年)に掛けて施工された時であった。この事業は灌漑専用目的の狭山池をダムかさ上げと貯水池掘削によって貯水容量を増大させ、洪水調節目的を持たせるというものであったが、この事業において発掘された木製の樋管を年輪年代測定法で測定した結果、616年に伐採された木材であったことが判明。『古事記』・『日本書紀』の伝承は否定され、少なくとも7世紀前半に建設されたという結論を得た。完成した狭山池は645年の大化の改新により公地公民制を打ち出した大和朝廷によって直轄管理され、いわゆる国直轄ダムの端緒にもなった。732年(天平4年)には狭山下池の改修が行われたが、この時に改修の総指揮を執ったのが後に東大寺大仏の建立にも関わり、聖武天皇の信頼を得て大僧正にまで上り詰めた行基である。しかし762年(天平宝字6年)に狭山池の堰堤が決壊、延べ8万3000人を動員して修復が行われた。その後狭山池は幾つかの記録に残され、清少納言は『枕草子』の「池は」の段で「狭山の池」に言及している。 -グレア(glare、眩輝『げんき』、眩惑『げんわく』)とは、不快感や物の見えづらさを生じさせるような「まぶしさ」のことをいう。ある光の状態がグレアとなりうるか否かは、周辺の総合的な環境と個々人の生理的状態で決まる。光源とその周辺との明るさのバランスや、直接光・間接光の別、視線の方向と光源のなす角度などにも依存する。また、同じ光環境、同じ位置であっても、観察者の特性によってグレアとして受け取られるか否かは異なる。特に高齢者はグレアを感じ易く、また不快感から回復するのに要する時間も長い傾向にある。グレアは、程度によっては単なる不快感にとどまらず、眼の障害や、状況把握能力の急な低下による事故などにもつながるため、照明器具の設計や照明計画などにおいては、グレアを防ぐことが必須となる。国・地域によっては、道路交通や照明設計に関して、グレア防止のための法規が整備されている。たとえばヨーロッパでは「輝度制限法」によって照明器具の輝度が制限されている。なお、グレアは光害という概念とも一部共通するが、「光害」が主に公共性の面での問題として捉えられるのに対し、「グレア」はより工学的な問題として捉えられる。 -スズキ(鱸、学名:Lateolabraxjaponicus)は、スズキ目・スズキ亜目・スズキ科に属する魚である。海岸近くや河川に生息する大型の肉食魚で、食用や釣りの対象魚として人気がある。成長につれて呼び名が変わる出世魚である。スズキはいわゆる出世魚で、成長とともに呼び名が変わる。ただし、地方によって呼び名は様々に異なり、統一的な定義はない。例として関東では1年ものと2年もので全長20-30cm程度までのものを「セイゴ」(鮬)、2、3年目以降の魚で全長40-60cm程度までを「フッコ」、それ以上の大きさの通常4-5年もの以降程度の成熟魚を「スズキ」と呼んでいる。関西では「フッコ」の代わりに「ハネ」という呼称が使われている。東海地方では60cm程度までを一律に「セイゴ」、それ以上の大きさの成熟魚を「マダカ」と呼んで二分することが多い。宮城県周辺では小型のものを「セッパ」とも呼ぶ。有明海産は地元の人からは「ハクラ」と呼ばれている。 -1964年4月に馬事公苑騎手養成所に入学。16名いた養成所の同期生には柴田政人・福永洋一・伊藤正徳らがおり、花の15期生と呼ばれる。岡部曰く、馬事公苑の実習においては競馬関係者の息子が教官に贔屓されて能力の高い馬があてがわれ、岡部のようなバックボーンのない者よりもいい成績を収めた。その結果岡部は成績の悪い者を集めた班に振り分けられた。岡部は一矢報いるために能力の著しく劣る馬を調教し、成績優秀者の馬に劣らぬ高いパフォーマンスを発揮させることに成功した。岡部は教官の贔屓によって無意識のうちにハングリー精神が培われたとしている。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -ペリー率いる黒船襲来をきっかけとし、日本の鎖国は破られ開国することになった。開国後、日本から多くの人々が学問や技術を学ぶために欧米諸国へ向かうことになる。アメリカにも多くの日本人が渡っていったが、明治時代後半になるとかつてアメリカで学んだ人々が、在米旧友親睦会、遊米人会という親睦会を組織するようになった。そして1898年(明治31年)12月には在米旧友親睦会、遊米人会が合同して米友協会が発足し、1900年(明治33年)9月、米友協会は金子堅太郎を会長とし、かつてアメリカで学問や技術等を学んだ日本人同士の親睦を図るとともに、日米友好親善に係わる活動を繰り広げるようになった。 -デビュー2年目の1955年、雷蔵は『新・平家物語』(1955年9月21日公開)の平清盛役でスターとして注目を集めるようになった。雷蔵の映画を16本監督した田中徳三は、当初雷蔵の俳優としての大成は難しいと感じていたが、『新・平家物語』で印象が一変したと述べている。また雷蔵の映画を16本監督した池広一夫は、それまで長谷川一夫の亜流のようなことをやっていたのが、じわじわと役者根性が出てきたと評している。映画評論家の佐藤忠男は、『新・平家物語』を境に「長谷川一夫の後を追うように、もっぱらやさ男の美男の侍ややくざを演じた」雷蔵が、「通俗的なチャンバラ映画だけではなく、しばしば格調の高い悲劇も鮮やかに演じるすぐれた俳優になっていった」と評している。雷蔵は足腰が弱く、立ち回りの時にふらつく癖があった。元大映企画部長の土田正義によると、立ち回りに不安のある雷蔵に「天下を制した青年清盛」を演じさせるのは大変な冒険だったという。雷蔵も自身の足腰の弱さを自覚しており、同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行ったが改善されず、撮影時にスタッフは足腰の弱さが画面に表れないよう配慮する必要があった。雷蔵の映画を18本監督した三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉体的欠陥を受けいれた上で、それを乗り越えようとする姿勢をとるようになったという。『新・平家物語』を境に雷蔵は、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった。 -三十年戦争で歴史の転換点となったのがネルトリンゲン包囲戦とそれに続く1634年に起きたネルトリンゲンの戦いである。この戦いでスウェーデン=プロテスタント軍は初めて皇帝=ハ���スブルク軍にはっきりとした敗北を喫したのであった。ネルトリンゲンは勝者に城門を開かねばならなかったが、高額の賠償金を支払うことで略奪行為を免れた。しかし、この都市は包囲戦からその後にかけて飢餓や病気で住民の半分以上を失うという被害を受けていた。さらにその後のスペイン継承戦争でも、近くで起こったヘーヒシュタットの戦いによりこの都市は打撃を被っている。 -逢坂そらは星を愛する少女であり、天文部の唯一の部員である。涼介はそらとの出会いの後、天文部に入り浸り天体観測を行っていく。涼介が好奇心からそらに星を好きになった理由を尋ねると、幼い頃に出会った少年の影響だとそらは答える。幼い頃に七夕祭りで迷子となったそらは、出会った少年と星の話をして大いに励まされた。これをきっかけにそらは、出会いをくれる星をより好きになったという。涼介はそらの人生に大きな影響を与えた少年に対し、密かに対抗心を抱く。やがて涼介はそらへの恋心を自覚して彼女に告白する。そらは少し考えたいと告げ、返事を待つことを涼介に求める。日が経つにつれ涼介は、幼い頃にある少女と星座の話をしたことを思い出していく。後にそらが幼い頃に出会った少年とは涼介のことであると判明し、そらは涼介への想いを告白する。こうして二人は付き合い始める。初めてのデートでプラネタリウムを訪れたことをきっかけとして、そらはプラネタリウムの解説員を目指すこと、七夕祭りで天文部はプラネタリウムを公演することが決まる。涼介とそらは他のヒロイン達の手を借りながら公演の準備を進めていく。投影機を借りるための資金集めやドーム制作に取り掛かり、途中でドームが崩れるというアクシデントに見まわれつつもプラネタリウムは完成する。七夕祭り当日、プラネタリウムは行列が出来る程に盛況となる。七夕祭りが終わり、星空の下で涼介とそらがずっと一緒にいることを誓う場面でスクール編は幕を閉じる。 -2016年リオデジャネイロオリンピックの閉会式のフラッグハンドオーバーセレモニーで紹介された次回開催地・東京を紹介する映像パート「WARMINGUP!TOKYO2020」では、冒頭で体操選手の土橋ココがこの交差点でゆかの演技(タンブリング)をするシーンからスタートし、さらには最終盤ではドラえもんがスクランブル交差点に建てた土管にマリオが飛び込んでリオデジャネイロに向かうという形で、東京を代表するロケーションとして紹介されている。 -第21次長期滞在のISSクルーはHTVの分離に先立ち、補給キャリア与圧部内の蛍光灯およびHTVが運んできた煙探知機を取り外す作業を行った。蛍光灯はISS共通品であるので他のモジュールの予備品として、煙探知機は今後打ち上げられるHTVで再利用するためそれぞれISS内で保存される。HTV-1与圧部へのISSの不要品収容作業は10月29日までに完了し、728kgの廃棄物資と896kgの空ラック、計1,624kgが搬入された。10月30日午前2時32分に補給キャリア与圧部のハッチが閉じられた。その後結合部の配線・ケーブルが取り外され、モジュール間通風換気(IMV)を停止した。ISSからのHTV-1取外し時刻は10月30日午後10時30分頃、カナダアーム2からの放出は10月31日午前1時5分頃を当初予定していたが、HTV-1がISSから離れた直後にアボートが発生した場合スペースデブリ(コスモス2421号)がHTV-1に接近・衝突する可能性があることが判明したため、作業をISSの1周回分(90分)遅らせることになった。ISSへの衝突の可能性はなかったので、ISS自体の軌道変更はなかった。 -CRJ700は、座席数の違いによりCRJ700(68席)、CRJ701(71席)、CRJ702(72-78席)、CRJ705(CRJ900のフレームを使用して2クラスで70-75席)という細かいバリエーション展開がなされているが、これらを総称してCRJ700と呼ばれる。CRJ700にも航続距離を延長したER型とLR型が設定されている。CRJ700のNextGenへの改良では、主に客室の改善と機体軽量化が行われた。客室の改良点としては、窓の大型化、頭上の荷物入れの大型化、LED照明の採用、側壁と天井パネルの再設計などがあげられる。機体軽量化の面では、機体構造にレジントランスファーモールディング(RTM)と呼ばれる複合材料の成形法が採用された。日本ではアイベックスエアラインズが唯一、同機を保有している。 -人類初の南極点到達は、1911年12月14日にノルウェーのロアール・アムンセンの南極点遠征隊によって成し遂げられた。アムンセンは南極点にポールハイム(en)というキャンプを張り、南極点周辺の台地を国王ホーコン7世にちなみ「ホーコン7世台地(en)」と命名した。ロバート・スコットもまたテラノヴァ号探検隊を組んで再び南極大陸に上陸し、南極点を目指していた。スコットと4人の探検隊が南極点に到達したのは1912年1月17日、アムンセンに遅れる事34日後だった。帰路、飢餓と極寒の中で彼らは全滅した。 -この個体数に富んだスズメ目の鳥類は、主として開けた疎林、草地、耕作地、および居住地周辺に生息する。本種は適応性があるが、その個体数は、シンガポールやマレーシア(その地方ではgembalakerbauと呼ばれ、それは文字通り「水牛の牛飼い」を意味する)では、移入されたジャワハッカという近縁種との競争によって、著しく減少している。 -リングビア属Lyngbyaは、淡水・海水を問わず様々な環境に生息する藍藻。温泉や周辺の土壌に生息する種が知られている。ミクロキスチス属Microcystisは、淡水域で大発生する浮遊性の藍藻。細胞内にガス胞を持ち、浮沈を制御している。しばしばアオコを形成して問題視される。温泉に見られるのはM.protea、M.thermalisなどである。 -志摩町片田には鉄道は通っていない。最寄り駅は陸路なら阿児町鵜方にある近鉄志摩線鵜方駅だ。国道260号は北部を通る志摩バイパスと南部を通る本線が深谷大橋西交差点で分岐する。志摩バイパスには長田橋と志摩丸山橋、本線には歩道橋がある。 -こうしたアメリカの動きは、例えばソ連のキューバにおけるミサイル配備計画の発覚(キューバ危機)に続くキューバ敵視政策、1965年のドミニカ共和国占領、1983年のグレナダ侵攻などにみられる。ニカラグア革命後のニカラグアに対しても同様に、アメリカは親ソ勢力排除を目的とした介入をおこなった。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -ロボジッツの戦い(ドイツ語:SchlachtbeiLobositz)は、1756年10月1日にプロイセン軍とオーストリア軍との間で行われた、七年戦争における会戦である。プロイセン軍が勝利した。 -ちなみにハ112-IIルは、エンジン本体は同じもので、排気タービン「ル2」を増設しただけのものである。これは重量54kg、ブレード平均直径276mm、同長さ43mm、同数80枚の単段式のもので、回転許容は20,000rpm、タービン入り口の排気ガス温度は700度であったという。ハ112-II自体は1段2速過給器である���で、排気タービンを加えると2段2速式となる。なおエンジン側に元々水エタノール噴射装置があるため、新たな冷却装置(インタークーラー)は装備されていない。ただしこの要目はあくまで一〇〇式司偵の文献を参照し紹介しているもので、五式戦闘機II型に装備されたものと全く同じ要目であるとも限らないため、参考にとどめて頂きたい。一〇〇式司偵の場合、この過給器の有無で、高度10,000mにおいて50km/hの差を生じたという。当時三菱の航空機発動部に所属していた曾我部正幸は、五式戦闘機II型とほぼ同様に試作機4機のみの完成で終戦を迎えたものの、少なからざる問題があったにせよ、実用化の見通しはついていたと回想している。曾我部の提示する性能曲線グラフによれば、ハ112-IIルは高度10,000m以上でも1,200馬力以上を発揮でき、これは高度5,800mでのハ112-IIの出力とほぼ同等である。 -川原(かわら)は香良洲町北部の雲出川古川沿いにあり、「北新町」と呼ばれる三重海軍航空隊の将校住宅地から一般の住宅地となった地域を含む。梨や稲の栽培が行われる。郵便番号は514-0326だ。 -1040年にミカエル4世の治下で実施された財政改革によってブルガリアの農民に金銭での納税が課され、ブルガリアの農民の生活はより圧迫された。同じ時期にブルガリアではテマ制に代わって疑似封建的な土地制度であるプロノイア制が導入され、農民は領主の搾取にも苦しめられる。1040年にマケドニア地方でブルガリア皇帝サムイルの孫ペタル・デリャンが指導する民衆蜂起が勃発し(ペタル・デリャンの蜂起)、指導者のデリャンはブルガリア帝国の再建を掲げた。デリャンの反乱は傭兵の助けを借りたビザンツ軍によって鎮圧されたがその後もブルガリアでは反ビザンツの蜂起が頻発し、その背景には社会不安が存在していた。 -震災に便乗した犯罪がなかったわけではないが、諸外国で見られるような略奪や暴動はなく、秩序は保たれていた。しかし、首都圏を中心に不安を感じた市民が生活物資の買い貯めを行う動きが収まらず、物流の回復後も小売店の店頭では品薄状態が続き、震災の影響がなかった地域にも拡大した。震災だけでなく、東日本での電力不足なども加わったことなどから、日本全体が過度の自粛ムードに包まれ、経済への悪影響が懸念された。宮城県では、津波で大きな被害を受けた仙台市東部や多賀城市、石巻市などで、従業員のいない店舗や住宅、ガソリンスタンドや車などのガソリンを狙った窃盗事件が相次ぎ、地震発生から26日までに被害総額が約1億円に上った。また、全国的に義援金の募集が行われているなかで募金詐欺も発生した。警察庁の発表によると、岩手、宮城、福島の被災3県で3月11日から6月末までに発生したATMからの現金窃盗事件は56件、被害総額は6億8400万円に上った。その内の34件は福島県で発生し、そのほとんどが福島原発から20km圏内での犯行だった。また、20-30km圏内でも大多数の住民が避難したため、空き巣の被害が相当数あった。20km圏内では住民の出入りが禁止されていたため、数か月後に順次開始された一時帰宅によって初めて空き巣が発覚する事案が多発した。避難所などの関係から飼い主がペットを手放さざるを得なくなったり、飼い主が死去したりしたために引き取り先がないペットや野生化したペットが福島県を中心に多発している。 -ヒルズボロの夏は通常温暖であるが、一年を通して気温は太平洋の影響で穏やかである。ヒルズボロはウィラメット渓谷の内部に位置するため、冬に雨季があり、特に11月から3月までの降水量が多い。ヒルズボロの降水日数は161日である。1930年から1998年までの年間平均降水量は38インチであった。8月が最も気温が高く、同月の平均最高気温は華氏80.2度である。最も気温が低いのは1月で、平均最高気温は華氏45.3度である。年間の平均最高気温は華氏62.4度である。一方、平均最低気温が最も低いのは1月で華氏32.5度である。7月の平均最低気温が最も高く、華氏51.8度である。年間の平均最低気温は華氏41.3度である。 -4万2000年前からこのカルデラ内での火山活動が再び活発化して、標高1700メートルに達する溶岩ドームをつくり、大爆発を起してカルデラを作った。このときのカルデラは東西約4��ロメートル、南北約2キロメートルの規模で、おおむね現在の榛名湖の外輪山に相当する。当時は、このカルデラ全体に水が湛えられて巨大な湖になっていた。3万1000年前になると、このカルデラ湖の中央部で新たな火山活動があり、溶岩ドームが形成された。これが現在の榛名富士(標高1390.5メートル)である。また、蛇ヶ岳(標高1229メートル)も同時に形成されているが、蛇ヶ岳が中央火口丘であるか火口縁であるかは説が分かれている。当時、榛名富士や蛇ヶ岳は巨大な榛名湖の湖中島になっていた。 -三治郎が生まれる前の寛保2年(1742年)、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と)では、当主の長由(ながよし)が、妻・タミと1歳の娘・ミチを残して亡くなった。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。ミチが14歳になったとき、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。そのためミチは、ふたたび跡取りを見つけなければならなくなった。伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若いながらもいい仕事ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いた。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、のちに三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。 -車両は東京大学演習林軌道が大規模な伐採事業を行っていたことから本格的なガソリン機関車やディーゼル機関車を所有していたのに対し、当研究林では、当初、トロッコを人力や馬力で押し上げ、下りはブレーキを操作しつつ滑走していた。その後機関車を導入して作業の効率化を図ったが、機関車といってもトロッコの台枠に農業用のエンジンを搭載し、その上に簡単な屋根を乗せただけのものだったので、屋台形機関車と呼ばれていた。機関車以外にもトロッコの台枠にミゼットのエンジンを搭載した自走式人車もあり、こちらは林内の巡視などに使用されていた。また、大規模伐採時期には業者が機関車やトロッコを持ち込んで使用していたが、こちらの実態については不明である。現在の森林軌道は林内の巡視などのために灰野までの区間で極めて不定期ながら運行されている。灰野から先は落石や倒木、あるいは赤崎の大Ωループ橋のように朽ち果てて倒壊した木橋などが連続しており、軌道の復活はおろか歩行も困難を要する。また、国土地理院の1/25,000地形図「中」では1979年修正、1981年5月発行版まで「特殊軌道」の記号で表されていたものが、1991年修正、1992年5月発行版では「徒歩道」の記号で表されている。 -イギリスは四国同盟が締結される前にジョージ・ビング提督率いる艦隊を派遣して、スペインのシチリア島奪取を阻止しようとしたが失敗した。ビングは1718年6月に地中海西部に到着、8月11日のパッサロ岬の海戦でスペイン艦隊を壊滅させた。スペインはそれでも諦めず、イギリスは1718年12月に、フランスは1719年1月に対スペイン宣戦に踏み切った。オランダは1719年8月に宣戦した。その後、イギリス艦隊の支援を受けたオーストリア軍はシチリアに上陸したが、ミラッツォの戦い(1718年10月)とフランカヴィッラの戦い(1719年6月)とスペイン軍に連敗した。しかし、艦隊の支援がなくなったスペイン軍の状況はそれ以上に悪化しており、1719年のミラッツォでの再戦はオーストリア軍が勝利、そのまま10月にはメッシーナも占領された。 -1989年7月から9月にかけて、ボイジャー2号は新たに海王星の衛星を6個発見した。これらのうち、不規則な形状をした衛星プロテウスは、自身の重力で球状になることができない最大級の大きさの天体として注目されている。海王星では2番目に大きな衛星であるが、質量はトリトンのわずか0.25%しかない。海王星で最も内側を公転している4つの衛星、ナイアド、タラッサ、デスピナ、ガラテアは海王星の環の中に入るほど海王星に近い。次に近いラリッサは、1981年に恒星を掩蔽したことで発見された。当時は、この掩蔽は環に起因しているとされたが、1989年にボイジャー2号が海王星を観測した際にラリッサがそれを引き起こしたことが確認された。2002年から2003年までの間に新しく発見された5個の不規則衛星が、2004年に発表された。2013年には、ハッブル宇宙望遠鏡によって撮影された複数の画像を組み合わせた結果、海王星の衛星の中では現時点で最も小さな新衛星ヒッポカンプ(S/2004N1)が発見された。海王星の名称の由来はローマ神話の海の神に因むため、海王星の衛星には、より小さな海の神に因んで命名される。 -1970FIFAワールドカップの北中米カリブ海予選は、史上最多となる12チームがエントリーして行われた。同地域ではメキシコ代表がワールドカップ本大会に連続出場するなど優勢を保っていたが1970年大会は地元開催ということで予選を免除されていたため、それ以外のチームにとっては本大会出場の機会となった。エルサルバドル代表はスリナム代表とオランダ領アンティル代表を、ホンジュラス代表はコスタリカ代表とジャマイカ代表をそれぞれ下して1次ラウンドを突破し、準決勝ラウンドで対戦することになった。 -ヴァンダル族戦士の勇猛さを恐れる世評にも関わらず、遠征軍は驚くほど小規模だった。5万人の兵力を有し、動員時には16万人にもなるヴァンダル軍に対して、東ローマ帝国の遠征軍はローマ人歩兵10,000と同盟部族の騎兵5,000からなる15,000に過ぎず、これにはベリサリウスの私兵であるブケライオス軍(bucellarii)のローマ人および同盟部族の騎兵3,000そしてフン族400人とヘルール族600人の騎馬弓兵が含まれている。遠征軍は92隻の戦艦(デュロモイ)に護衛された500隻の船団で輸送される。 -繁殖期は6-9月で、雌は大きな石の下に楕円形から馬蹄形の産室を作る。大きさは径が10cm、深さが3-7cmにもなる。雌は32-61個、平均45個の卵を産む。卵は1つの塊、卵嚢の形に纏められ、雌はこれを腹部の下面、その前方にある生殖板の所に付着させ、孵化まで保護する。その際に雌は腹部をやや扁平にし、それを持ち上げるようにして卵嚢が地面に着かないように持ち上げている。卵は約3週間で孵化し、一見ではウジ状の白い幼虫は自分の力で雌の背面に上り、そこで互いに絡まり合うように塊を作り、1週間ほどはそのままで過ごす。雌はその間はじっと動かない。幼生は1週間で雌の体を降り、それから2週間ほどを産室内で過ごす。その頃には幼生は自力で餌を取れるようになり、産室から出て散らばり去る。雌成体は幼生が背中から降りた後も餌を採ること無く、そのまま衰弱死する。 -合成ダイヤモンド(ごうせいダイヤモンド、英:syntheticdiamond)または人工ダイヤモンド(じんこうダイヤモンド、英:artificialdiamond)は、地球内部で生成される天然ダイヤモンドに対して、科学技術により人工的に作製したものである。主に高温高圧合成(HPHT)や化学気相蒸着(CVD)法により合成される。研究所製造ダイヤモンド(英:lab-growndiamond)という呼び名もある。1879年から1928年にかけて、合成が試みられたが、全て失敗している。1940年代には、アメリカ合衆国、スウェーデン、そしてソビエト連邦がCVD法とHPHT法を用いた合成を体系的に研究し始め、1953年頃に最初の再現可能な合成方法を発表した。現在はこの2つの方法で主に合成されている。CVD法、HPHT法以外では、1990年代後半に炭素元素を含む爆薬を使用し、爆轟(デトネーション)によるナノダイヤモンド合成法が開発された。さらに高出力の超音波を用いてグラファイトを処理するキャビテーション法もあるが、未だ商業的には利用されていない。 -1811年、現在のアクロン市ではブフテル・アベニューとブロードウェイ・ストリートの交差点があるあたりに、コネチカット土地会社の測量家ポール・ウィリアムズと、コネチカット西部保留地の将軍サイモン・パーキンスが入植し、当時掘削中であったオハイオ・アンド・エリー運河の最高点であったこの地に入植地の創設を提案した。入植地の名は、ギリシア語で「頂上」もしくは「高いところ」を意味するἄκρονから付けられた。その後1825年、現在のサウスアクロン地区に相当する地域が区画され、オハイオ運河の掘削に携わったアイルランド系労働者たちの小屋、およそ100棟がその近くに建てられた。その後、1833年にはエリアキム・クロスビーが「ノースアクロン」を創設し、1836年にサウスアクロン・ノースアクロンの2つが合併して、アクロンという1つの村として正式に法人化された。1840年、ポーテージ、メダイナ、およびスターク各郡のそれぞれ一部を分割・再編する形で、サミット郡が創設されると、翌1841年には、サミット郡議会がカヤホガフォールズを郡庁所在地に指定したが、州議会がこれを覆し、郡庁所在地は住民投票に基づいて決めるようにと差し戻した。その結果、郡庁はアクロンに置かれることになった。その頃、アクロンからペンシルベニア州ビーバーへと通ずるペンシルベニア・アンド・オハイオ運河が開通し、炻器、下水管、漁具、農作業道具などの産業が興った。1847年には、アクロン学校法が成立し、今日ではアメリカ合衆国全土で用いられている、K-12の学年制による教育の先駆けとなった。 -宮沢賢治は1924年4月20日、『心象スケッチ春と修羅』刊行した。花巻の吉田印刷所に持ち込み1000部を自費出版した(定価2円40銭)。発行所の名義は東京の関根書店になっている。東京での配本を関根喜太郎という人物に頼み500部委託したが、関根はゾッキ本として流してしまい、古本屋で50銭で売られたという。本は売れず、賢治もほとんど寄贈してしまったが、7月にダダイストの辻潤が『読売新聞』に連載していたエッセイで紹介。詩人の佐藤惣之助も雑誌『日本詩人』12号で若い詩人に「宮沢君のようなオリジナリティーを持つよう」と例に挙げた。中原中也は夜店で5銭で売っていた『春と修羅』のゾッキ本を買い集め、知人に配っている。同年12月1日、『イーハトヴ童話注文の多い料理店』刊行した。盛岡高農の後輩で農薬のパンフレットを作っていた近森善一と及川四郎が賢治の原稿を見て刊行を計画、出版費用の工面に苦労しながら東京で印刷・製本した。出版社「光原社」の名義で1000部作ったが全く売れず、賢治は父親から300円借りて200部買い取った。本の挿絵を担当した菊池武雄は『赤い鳥』主宰の鈴木三重吉に『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』を送ったが「あんな原稿はロシアにでも持っていくんだな」と返された。しかし翌年1月、『赤い鳥』に『注文の多い料理店』の一頁広告が掲載される。三重吉の厚意で無料だった。7月、詩人の草野心平の同人誌『銅鑼』に参加する。11月23日、花巻の北上川小船渡に東北帝国大学地質古生物教室の早坂一郎教授を案内、賢治が採集したバタグルミ化石の学術調査に協力。この場所を賢治は「イギリス海岸」と名付けていた。 -マイン川は緩やかに蛇行を繰り返しながら東から西に向かって、オーバーフランケン、ウンターフランケン、ヘッセン南部を流れ下り、バイロイト(赤マイン川)、クルムバッハ、バンベルク、シュヴァインフルト、ヴュルツブルク、アシャッフェンブルク、フランクフルト・アム・マインといった都市を通って、マインツ近郊のマインシュピッツェでライン川に注ぐ。マイン川は特にウンターフランケンでは人口密集地を流れるが、アシャッフェンブルクから河口までのウンターマイン平野はほぼ完全に産業集中地帯および交通路ライン=マイン地域を形成している。 -1955年(昭和30年)8月4日、熊野村の開業医の萩野昇が執筆した「イタイイタイ病」を紹介する記事が『富山新聞』に掲載された。命名者も萩野である。この記事で萩野は「この病気は婦負郡中部および対岸の富山市南郊から上新川郡にかけての神通川本流水系に発生。患者はこの地域に長年住んでいる35歳から更年期にかけての女性が多い。症状は腰・肩・膝などの鈍痛に始まり、やがて大腿や上膊部の神経痛のような痛みとなり、進行すると少しの動作でも骨折するようになり、引き裂かれるような痛みを感じる。」と書いた。この記事が発表された当初は、過労説や栄養失調説なども出された。しかし、1957年(昭和32年)12月に萩野は富山県医学会で「鉱毒説」を発表。さらに岡山大学の小林純らが患者の骨や内臓および神岡鉱業所の廃水や川水からカドミウムを検出したことを基に1961年(昭和36年)1月、萩野昇と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表した。一方、1961年(昭和36年)12月に富山県、1963年(昭和38年)6月に厚生省及び文部省が独自に原因究明に乗り出す。1966年(昭和41年)9月に合同会議を開き、原因物質としてカドミウムの疑いが濃厚であるが、栄養上の障害も考えられる「カドミウムプラスアルファ説」を発表した。その後、富山県が住民に健康診断を行い、その診断結果に基づき富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、1967年(昭和42年)3月に患者73人、要観察者150人を認定した。厚生省も日本公衆衛生協会に研究委託するなど原因究明に努めた。1968年(昭和43年)5月、厚生省は「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動によって排出されたものである。」と断定した。これによってイタイイタイ病は政府によって認定された公害病の第1号になった。1970年(昭和45年)2月1日、健康被害救済法(公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法)が施行され、公害病患者96名が認定される。 -ジャン=フランソワ・ミレーは、1814年、フランス・ノルマンディー地域圏マンシュ県のグレヴィル村グリュシー地区に生まれた。コタンタン半島の突端にある村である。ミレーの家は、農家だが、母エーメ=アンリエット=アデライド・アンリは、フランス革命後に没落したアーグ地方の領主の家系である。父ジャン=ルイ=ニコラ・ミラーは、神父、科学者、農学者を輩出した家系である。父は、農作業の傍ら、グレヴィルの教会の合唱指揮者を務めたり、絵を描いたりすることもあった。ミレーが幼い頃は、祖母ルイーズ・ジュムランが面倒をみてくれた。ミレーは、9人兄弟の長男であり、農家の後継ぎとして期待されていた。7歳になる前に学校に入り、12歳頃からラテン語を学んだが、やがて家の農作業を手伝うようになった。アルフレッド・サンシエの伝記によれば、ミレーは、農作業の傍ら、写生をし、1832年、ミレーが18歳の頃、腰の曲がった老人の歩くポーズを描いた木炭の素描に両親が感激し、シェルブールの画家ムシェルの画塾に連れて行ったという。1835年11月、父が死去したため、ミレーは家業を継ぐため実家に戻ったが、祖母の強い勧めで再びシェルブールに出て、アントワーヌ=ジャン・グロの弟子テオフィル・ラングロワ・ド・シェヴルヴィル(フランス語版)という画家の下で修業を続けた。この頃、シェルブールでは、地元の美術愛好家トマ・アンリがコレクションを基にトマ=アンリ美術館を開館したばかりであり、ミレーはこの美術館に通った。ミレーは、アントニス・モルの『キリストの埋葬』、イタリア・バロックの画家バルトロメオ・スケドーニの『聖バルトロメオの殉教』、18世紀フランスのアカデミー派シャルル=アンドレ・ヴァン・ローの『憂鬱質』などの作品を模写している。 -ルーシーの骨格には、次のような特質がある。ルーシーの最も印象的な特質のひとつは、外反足である。このことは、彼女が普通に二足歩行をしていたことを示している。彼女の大腿骨は骨頭が小さく、骨頚が短い。それらは原始的な特徴ではあるのだが、一方で大転子は(大腿骨頭より高位にならず)明らかに短くなり、現生人類に近づいている。彼女の大腿骨の長さに比べた上腕骨の長さの比は84.6%である。現代人の71.8%、一般的なチンパンジーの97.8%に比べると、アファール猿人の腕が短くなり始めているか、足が長くなり始めているか、あるいはその両方が同時進行しているかのいずれかを意味している。ルーシーには、別の二足歩行の指標といえる腰椎の前弯も見られる。偏平足とは異なる非病理的な平らな足を持っていたが、他のアファール猿人には反った足も見られる。 -アイユーブ朝は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配したスンナ派のイスラーム王朝である。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とす���。 -「なんてこった、あのグレービーソースは最悪だ!彼らは15-20セントで水道水を1000ガロン買ってきて、そこに小麦粉とデンプンを混ぜ合わせて、純然たるウォールペーパーペースト(壁紙を貼付けるための糊)のできあがり、というわけだ。......それに、あの新しいクリスピーチキンのレシピは、くだらないパン生地を丸めて揚げたのをチキンに貼りつけただけに過ぎないね。」この刺激的な発言を受けて、ボーリンググリーン(ケンタッキー州)のあるKFC加盟者はサンダースを名誉毀損で訴えようとしたが、この試みは失敗した。1973年、サンダースがケンタッキー州シェルビービルで、「カーネル夫人、クラウディア・サンダースのディナーハウス」という名のレストランを開業したことに関して、ヒューブライン社はサンダースを訴えようとした。サンダースは報復として、自らが開発に関与していない商品の宣伝に自分(サンダース)の肖像を不正利用したこと、および自らがレストランをフランチャイズ展開することへの妨害行為でヒューブライン社を訴える構えを見せ、1億2200万ドルを求めるとした。ヒューブライン社の広報担当者は、サンダースの動きを「嫌がらせ訴訟」であると表現した。1975年、サンダースはヒューブライン社との示談に応じ、ヒューブライン社はサンダースに100万ドルを支払い、レストラン事業もその名前を「クラウディア・サンダース・ディナーハウス」に改めた上で継続することが許可された。 -ばら積み貨物船は、今日では、世界の商船の40パーセントを占めており、その大きさは船倉が1つの小型ばら積み船から載貨重量トン数が40万トンに達する巨大鉱石船まである(「ヴァーレ・ブラジル」)。載貨重量トン数が10,000ロングトンを超える船は、2006年6月現在で6,224隻ある。多くの専用設計が存在し、貨物船そのものに積み荷を降ろす能力を持っているもの、積み荷を降ろすために港の設備に頼るもの、さらに搭載中に積み荷の梱包作業を行うものもある。全てのばら積み貨物船の半分以上の所有者はギリシャ・日本・中華人民共和国で、また4分の1以上がパナマに船籍を置いている。ばら積み貨物船の最大の建造国は日本で、また82パーセントはアジアで建造されている。 -タランティーノはハンス・ランダ役にはもともとレオナルド・ディカプリオを希望していたが、その後、さらに年上のドイツ人俳優を起用することを決めた。最終的に、この役はオーストリア人のクリストフ・ヴァルツが演じることになった。タランティーノは脚本を書きながら、ランダが完璧でないと妥協になると思っていたが、ある日オーディション会場にヴァルツが入ってきたという。「自分の映画にでてくれ」とヴァルツに頼んだところ、「演じられるような役じゃない」と不安がられたという。脚本を書き始めた当時、タランティーノは演技にも力を入れようとしており、アルド・レイン中尉役を自分で演じることも検討していた。結局、ブラッド・ピットが演じることになったが、レインのあごがしゃくれ気味なのはタランティーノを意識した役作りかもしれないとコメントしたことがある。ピットとタランティーノは長年いっしょに仕事がしたいと言っていたが、よい企画に恵まれなかった。タランティーノは『イングロリアス・バスターズ』の脚本を半分ほど完成させた頃、レイン役にピットを起用することを思いついた。脚本を全て書き終えたころには、ピットならば「すごいことになる」と考えるようになり、代理人と連絡をとって出演可能かどうかを照会した。ピットが演じたレイン中尉が映画の最後でつぶやく台詞は、作品に対する監督自身のコメントだと解釈されている。 -1989年、手塚治虫が亡くなった時、宮崎駿は漫画では自分も影響を強く受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーション作家としての手塚治虫を、店子(たなこ)を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じであると、痛烈に批判した。同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの、手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても、否定的評価を下した。それ以降は、手塚につい��語る事はほとんど無かったが、2009年に行われたインタビューでは、7歳の時に手塚の「新宝島」を読み「いわく言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かした。その一方で、アニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた。宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮﨑との合作アニメ映画「ロルフ」も企画されていた。この合作は作られなかったがロルフの企画は名前を変え「風の谷のナウシカ」の原案になった。前述の手塚治虫に対する批判の1年程前にディズニーに対しても批判をおこなっている。「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。ぼくには観客蔑視としか思えないのである」。その一方で配給やスタジオジブリの社長をディズニー日本法人の社長が務めるなどディズニーとジブリは密接な提携を結んでおり、近年では賞賛の発言が見られる。スタジオジブリが協力したディズニー・アート展の特集番組では「芸の力」、「本当に驚きましたね」、「尊敬の念は消えません」など賛辞を述べている。 -同日16時、村雨と峯雲は補給物資として米入りのドラム缶や弾薬などを積載してラバウルから出撃しコロンバンガラ島へと向かった。また、村雨と峯雲はこの輸送作戦が終われば、ブインからラバウルへ航空部隊基地員140名と物資を輸送する任務も与えられていた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -現在では一般的に、1816年の気候異常は前年5月5日から同月15日までのタンボラ山の噴火により引き起こされたと考えられている。過去1600年間で最大規模の噴火であり、火山爆発指数ではVEI=7に分類されている。噴火により莫大な量の火山灰が大気中に放出された。タンボラ山の噴火が起こった時期が、太陽活動が低かったダルトン極小期(1790年-1830年)であったことも重要である。同時期に発生した大規模な噴火は以下の通り。1812年にカリブ海セントビンセント島のスフリエール山が噴火した。1812年にインドネシアサンギヘ諸島のアウ火山が噴火した。1813年に現在の鹿児島県鹿児島郡十島村の諏訪之瀬島が噴火した。1814年にフィリピンルソン島のマヨン山が噴火した。これらの噴火により既に相当量の火山灰が大気中に放出されてい���。これにタンボラ山の噴火が加わり、大量の火山灰により太陽光が遮られたため世界的な気温の低下が引き起こされた。 -日々の激務に体を蝕まれたイブン・スィーナーは腹痛に苦しむようになり、自身に施した浣腸などの治療によって、容体はますます悪化していく。1037年にイブン・スィーナーはアラー・ウッダウラのハマダーン遠征に同行し、行軍中に病に倒れる。死の2週間前、イブン・スィーナーは一切の治療を拒み、貧者に施しを与えて所有していた奴隷を解放し、毎日クルアーンを朗読していたと伝えられている。同年6月18日にイブン・スィーナーはハマダーンで生涯を終える。死因は胃癌(あるいは赤痢)だと考えられており、没時のイブン・スィーナーに家族は無かった。 -サン=レミ時代に、糸杉が重要なモチーフとして登場する。入院直後の1889年6月に、『星月夜』、『2本の糸杉』、『糸杉のある小麦畑』などを描き、テオに宛てて「糸杉のことがいつも僕の心を占めている。僕は糸杉を主題として、あのひまわりの連作のようなものを作りたい。......それは、線としても、比例としても、まるでエジプトのオベリスクのように美しい。」と書いている。糸杉は、プロヴァンス地方特有の強風ミストラルから農作物を守るために、アルルの農民が数多く植えていた木であった。西欧では、古代においてもキリスト教の時代においても、糸杉は死と結びつけて考えられており、多くの墓地で見られる木であった。アルル時代には生命の花であるひまわりに向けられていたゴッホの眼が、サン=レミ時代には暗い死の深淵に向けられるようになったことを物語るものと説明されている。 -日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。さらに、2020年の夏季オリンピックの開催地に東京が選出され、2度目の開催が決定している。オリンピックの開催年は、全国高等学校野球選手権大会の日程が調整されることがある。1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会ではバルセロナオリンピックの終了を待って8月10日から開催され、逆に2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会では北京オリンピックとの重複を可能な限り避けるために大会史上最も早い8月2日から開催された。 -本作はダーク・ファンタジー(ホラー)のジャンルに分類されるが、背景はどちらかというと現代的である。批評家マーク・バクストンは本作を「名手の手による物語で、大人が読むダーク・ファンタジーの潮流を作った」と評し、それ以前のファンタジー・ジャンルでは小説やコミックを含めて同種の作品はなかったと述べた。本作はまた業界の制約にとらわれず、アーバン・ファンタジー(英語版)、神話の再解釈、史劇、スーパーヒーローのような多様なジャンルを縦横に利用している。初期のエピソードでは、『サンドマン』の神話体系はDCユニバースの一部であり、数多くのDCキャラクターが直接間接に登場していた。しかしシリーズが進むにつれ、他誌とのストー��ー上の関連性は弱められていった。その理由の一つは創作上の自由を確保するためである。シリーズの連載中、ほかのタイトルのストーリー展開に足並みを合わせるよう求められたゲイマンは、編集者カレン・バーガーと激しく衝突することがあった。コミック原作者のグラント・モリソン(英語版)は本作を評して、「スーパーヒーロー・コミックという当初の立脚点を逸脱してファンタジーやホラーと文学の交差する地点に、新しいジャンルを確立することになった」と述べている。作者ゲイマンは、シリーズの長編ストーリーラインに「男性的」なものと「女性的」なものを交互に配置したと述べている。男性主人公ドリームが困難な状況に挑む「プレリュード&ノクターン」や「シーズン・オブ・ミスツ」は男性的なストーリーであり、人間女性のキャラクターを中心に置いて人間関係やアイデンティティのテーマを扱った「ドールズハウス」や「ゲーム・オブ・ユー」は女性的なストーリーだとされた。 -アクロンは市長制を採っている。市長は市の公式な長であると同時に行政の最高責任者であり、1)市議会の採択した法令・条例の施行、2)予算案の作成および市議会への提出、3)市の財政状況および要望の市議会への報告、4)市職員の任命および罷免、5)市政府各局の管理・監督、6)市が関与している、もしくは契約している事項についての条件の閲覧、および7)条例の導入およびその議論への参加について権利を有し、また義務を負う。市長は全市からの選挙で選出され、その任期は4年である。多選には特に制限は設けられておらず、例えば、1987年に市長に就任したドナルド・プラスケリックは7選し、2015年5月31日に辞任するまで、28年間にわたって市長を務めた。市の立法機関である市議会は13人の議員から成っている。そのうち10人は市を10区にわけた小選挙区から1人ずつ選出され、残りの3人は全市から選出される。市議会議長は議員の中から選出される。また、書記官は市議員とは別に、市議会によって任命される。小選挙区選出、全市選出のいずれであっても、市議員の任期は4年である。 -栃木県では、芳賀町にある本田技術研究所で壁が崩れて男性1人が犠牲に、那須烏山市神長地区で夫婦が山崩れに巻き込まれて2人が犠牲に、日光市で女性が屋根から落ちて脳出血を起こして1人犠牲になるなど計4人が死亡した。真岡市反町では数か所で地震の影響による液状化現象が発生し、割れ目から砂が噴出した。液状化が起こった地域はかつて旧河川あるいは河岸だった場所であり、農地の下には砂の層で広がっているからであるという。宇都宮市では、板戸地区で国道408号線沿いにある地山が土砂崩れを起こし、道路が封鎖されるなどの被害が出ている。那須塩原市の国道400号線では、地震の影響で落石が発生し通行止めになる被害が出た。栃木市岩舟町では、霊山岩船山の西側の峰がV字に崩れ、さらに別の部分でも山肌が崩れたりしたが、人や家屋に被害はなかった。那珂川町では県内の主要道のひとつである栃木県道52号矢板那珂川線にある新那珂橋が地震の影響で橋脚10基のうち4基の頭部に亀裂が見つかりうち2か所は沓が破断、上部工も破損しているなどの大きな被害を受け、撤去されることとなった。真岡市の井頭公園一万人プールが震災の影響でウォータースライダーを支える支柱や配管などが壊れ営業が中止になり、2013年には完全復旧した。歴史的遺産の被害としては益子町の地蔵院の歴代宇都宮氏の墓所にある戦国大名下野宇都宮氏17代当主宇都宮成綱、18代当主宇都宮忠綱の五輪塔が被害を受けた。また、さくら市では観光スポットである喜連川城城跡にあるお丸山公園が地震の影響により敷地内に700メートルにわたる大規模な亀裂が生じたほか、公園内の各種施設が損壊するなどの被害を受け、立ち入り禁止となってしまった。現在は土地部分の復旧はしているが喜連川スカイタワーなどの施設はまだ復旧のめどが立っていない。日光市にある日光田母沢御用邸記念公園では石積みが破損するなどの被害が出ている。 -価格がここまで下がったことで、氷は相応に大規模な取引がされるようになった。富裕層だけでなくさまざまな階級の消費者に氷の市場は開か���るようになり、ついには供給がおいつかなくなることすらあった。氷は直接消費されるよりも、商売人が傷みやすい品物を保存するために使われるようになった。チューダーはメイン州にまで仕入れ先を拡大したり、洋上の氷山から氷を収穫したりすることまで考えていたが、どちらも氷の供給源としては実用的ではないと判明した。代わりに、チューダーはナサニエル・ワイエスと組むことで、ボストンにおける氷の供給をより大規模なスケールで工業化しようとした。ワイエスは、1825年にこれまでよりも効率的に氷を正方形のブロックに切り出すことができるよう、馬に氷の裁断機を引かせる手法を編み出した。さらにマサチューセッツ州のフレッシュ湖から氷を納入するようにして、1ショートトン(901キログラム)あたり30セント(7.3ドル)だった収穫のコストをわずか10セント(2.4ドル)にまで低減させた。一方で氷の断熱材となるおがくずの仕入れは、年間に16,000ドル(390,000ドル)にものぼった。 -狐の嫁入り(きつねのよめいり)は、日本の本州・四国・九州に伝わる怪異。「狐の嫁入り」といわれるものには、昭和中期頃までの嫁入り行列の提灯の群れを思わせる夜間の無数の怪火、俗にいう天気雨、古典の怪談、随筆、伝説などに見られる異様な嫁入り行列などがある。いずれも伝承上で人間を化かすといわれたキツネと密接な関連があり、平成以降の現代においても、それらにちなんだ神事や祭事が日本各地で開催されている。本項ではそれぞれについて述べる。宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌『越後名寄』には、怪火としての「狐の嫁入り」の様子が以下のように述べられている。 -一方ヒトラーも、英仏両国が宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落した。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵がカティンの森事件で殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。 -新潟県の麒麟山にもキツネが多く住み、夜には提灯を下げた嫁入り行列があったといわれる。この新潟や奈良県磯城郡などでは、狐の嫁入りは農業と結び付けて考えられており、怪火の数が多い年は豊年、少ない年は不作といわれた。これについては、狐火がリンの発光と考えられていたことから、狐火の多い時期には、農作物の生育に必要不可欠なリンが土中に多く生成されていたとも考えられている。地域によっては怪火が見えるだけではなく、実際に嫁入りの痕跡が見られるという伝承もある。埼玉県行田市では、谷郷の春日神社に狐の嫁入りがよく現れるといい、そのときには実際に道のあちこちにキツネの糞があったという。岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市)では、怪火が見えるだけではなく、竹が燃えて裂ける音が聞こえるなどが数日続き、確かめてもそんな痕跡はないといわれた。 -アムステルダムの運河システムの多くは、都市計画の優れた産物である。アムステルダムは、オランダ独立戦争を境に没落していったアントウェルペンに代わり、16世紀末以降、国際的な中継貿易の拠点となっていった。ヨーロッパ商業の変化に適応するとともに、ジェノヴァに代わって国際的な金融市場の機能も備えて急成長したアムステルダムの人口は、3万(16世紀末)、10.5万(1622年)、22万(1660年-1670年)と急増していった。そうして17世紀初頭に増大した移民に対応することと防衛上の観点から、アイ湾を終端とする4つの主要な半円状の運河を含む包括的な都市計画が立案された。 -1792年5月18日の夜、ロシア軍が国境を越えてウクライナに侵攻した。ロシア軍は、ポーランドの最高司令官であるポニャトフスキとコシチュシコが率いるポーランド軍から想定外の抵抗を受けた。コシチュシュコ軍は、5月29日にヤヌフ付近でポニャトフスキ軍と合流した。しかしロシアの四軍を押しとどめるにはあまりにも非力だったポーランド軍は、南ブーフ川の西岸へ、ルバルからポウォンネへと撤退していった。この時、コシチュシュコが殿としてロシア軍と戦いながら退却した。圧倒的な兵力差を前に、ポニャトフスキはスタニスワフ2世アウグストの援軍を求めるとともに、ウクライナを放棄してヴォルィーニに撤退した。ここのポウォンネはポーランド軍の一大防衛拠点だった。ここでルボミルスキが兵力補給を任された。 -1780年以前、手紙や絵などを複写する有効な手段は無く、せいぜい複数のペンを連結した器械がある程度だった。ワットは当初この方式の改良に乗り出したが、あまりに煩わしい機構にこれを放棄し、別な解決策を模索した。彼は、インクが裏まで染み込みやすい薄い紙を使い、それに別の紙を重ねて圧力を掛けることによって、紙から別の紙に内容を転写する手法を考案した。1779年に開発に着手したワットは、インクの成分や紙の選定、薄い紙を濡らしてどのくらいの圧力をかければよいか、などの実験を繰り返した。何度もの試行錯誤を経なければならなかったが、ワットはすぐに特許取得に充分な手法開発に成功した。ワットはボールトンの出資とジェームズ・キアーの経営による別会社ジェームズ・ワット・アンド・カンパニー社を創設した。複写技術は一般に使用されるには未だ改良の余地が多かったが、これも数年のうちに成し遂げられた。ワットとボールトンは1794年には事業を息子たちに引き継いだ。この複写機は商業的成功を収め、20世紀まで利用されていた。 -誤ってエウリュティオーンを殺してしまったペーレウスは、狩りに参加していたアカストスを頼り、イオールコスで罪を浄められた。しかし、アカストスの妻クレーテーイス(アステュダメイアとも)から恋心を寄せられ、これを断ったために恨みを買って殺されそうになる。ヘーラクレースがケルベロスを生け捕るために冥界に入ったとき、亡霊たちがみなヘーラクレースの前から逃げ出すなか、メレアグロスだけは輝く甲冑を身に付けた姿で彼を迎えた。ヘーラクレースはメレアグロスに恐怖を感じて弓を引いたが、メレアグロスは笑って「恐れるな。死者は傷つけられないし、生者を傷つけることもない」と話した。メレアグロスは彼の死につながった狩りについて語り、妹のデーイアネイラが心残りであり、ヘーラクレースに娶ってくれるように頼んだ。このとき、ヘーラクレースは涙を流したが、これがこのギリシア最大の英雄の最初で最後の涙だったという。 -1907年に作品の著作権が切れると、イギリスの出版社はいっせいに新しい挿絵による『不思議の国のアリス』を出版した。1907年には8種、翌8年には7種の新たな挿絵本が出され、以後ほぼ毎年途切れることなく新しい挿絵による『アリス』が出版されている。1907年に出たものでは、特にアーサー・ラッカムのものとチャールズ・ロビンソンのものが傑出している。挿絵画家は著者と召使ではなくパートナーであるべきだと主張したラッカムは、茶色と灰色を基調とした水彩画とペン画でまったく独自の『アリス』を描いた。ラッカムによる挿絵はデッサンや画面構成などもテニエルに比してすぐれており、アリスの肢体もずっとしなやかに描かれ、現在でもテニエルの挿絵に次いで人気が高い。しかし出版当時はそれまでの作品のイメージを損なったという悪評にさらされ、そのためにラッカムは続編『鏡の国のアリス』への挿絵の仕事を頑として受けなかった。 -学士を獲得後、それまでの蓄えに頼る生活を変えてマリはフランス工業振興協会の受託研究を行い、わずかながらも収入を得るようになった。相変わらず屋根裏の貧乏生活は続いたが、その中で貯蓄し奨学金を全額返納した。しかし、受託した鋼鉄の磁気的性質の研究は大学や勤めていたガブリエル・リップマンの工業試験場で行うには手狭で困っていた。そんな頃、チェハヌフ���代に知り合った女性が新婚旅行でパリに来て、マリを訪ねてきた。彼女の夫であるフリブール大学物理学教授のユゼフ・コヴァルトスキが悩みを聞き、場所の提供を頼めそうな人物を紹介する運びとなった。それが、フランス人科学者・ピエール・キュリーだった。ピエール・キュリーは当時35歳だった。パリ市立工業物理化学高等専門大学の教職に就いていた。当時のピエールはフランスでは無名に近かったが、彼はイオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げており、キュリー天秤開発や後にキュリーの法則へつながる基本原理などを解明していた。1893年にはイギリスのウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)がわざわざ面会に訪ねるほど、フランス国外では既に天才の呼び声が高かった。 -その後、曲がりなりにも安定政権を築いた東晋であったが、その権力基盤は脆弱であり、貴族たちの歓心を買い、離反を防ぐために官職をばら撒くことを行った。郷品のうち、一品は皇族や大官の子などだけが得られる特別のものであってまず与えられることはない。そして西晋代には郷品二品もまた貴重であり、大抵は郷品三品から始まっていた。しかしばら撒きにより名門であれば郷品二品が珍しくなくなり、次第に郷品二品と三品以下との間にはっきりとした線が引かれるようになる。郷品二品の家は門地二品と呼ばれ、三品以下の家は寒門・寒士と呼ばれる。また庶民が任官して昇進しても寒士より更に低い所で壁に当たることになる。これら庶民出身の官吏は寒人と呼ぶ。東晋の初めごろはこれら北からの亡命者が増えることはそれだけ労働力を増やすことになり、大いに歓迎された。これら亡命者たちは元の本籍地で戸籍に登録され、亡命後の定着地の戸籍には登録されなかった。これを白籍という(反対に現地で登録される戸籍を黄籍という)。そのためこれら亡命者たちは亡命後の定着地に対しては何ら義務を負わず、単に権利のみを有していた。しかし東晋がある程度安定すると亡命者たちも持てはやされることもなくなり、現地の戸籍に登録して税を徴収するべきであるとの意見が強くなった。これが桓温などの実力者の元で実行された土断である。 -レヒ川が流れる森林地域には、余暇施設が人気のクー湖やこれよりも小さなシュテムプフレ湖がある。アウクスブルク北部には、アウトバーン湖、カイザー湖、アウクスブルガー・ミュールベルクのヨーロッパ池がある。アウクスブルク南部には、ヴェルタハ川の堰止め湖、ラウター湖、イルゼ湖(近郊型保養地)がある。アウクスブルク南部の自然保護地区にはアウクスブルクの飲料水の水源がある。アウクスブルクの市の森やウンターベルゲン近郊のレヒアウヴァルトにも水源はある。硬度13.5°dH(中硬水)のこの水はアウクスブルク、ノイゼス、フリートベルク、シュタットベルゲンに供給されている。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -イギリス人の探検家でありジャワ島の歴史家でもあるトーマス・ラッフルズの1830年の著作によれば、オランダが任命したバタヴィアの中国人代表NieHoeKongは、黒か青の服を着た中国人は貧乏だと考えられるので全員追放するようにオランダ人に提言したと数人のジャワ人が証言したという。追放者は目的地に到着することはなくジャワ島が見えなくなった時点で船外へと投げ捨てられるのだという噂が流れた。また、船で暴動を起こして死んだという証言もいくつかある。華僑を追放したことで残された中国人の中にも不安が生じ、それにより多くの中国人労働者は仕事を放棄した。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -以上の発電所建設とともに、変電所や送電線の建設も進行していた。変電所のうちまず建設されたのが、串原仮発電所の電力を受け入れるための六郷変電所である。同変電所は名古屋市北区八龍町(旧六郷村)に建設され、串原仮発電所から77キロボルト送電線を架設して1918年6月より運転を開始した。その後1921年2月、本発電所の建設にあわせて名古屋市瑞穂区石田町に瑞穂変電所を新設、串原発電所から瑞穂変電所まで同じく77キロボルト送電線を整備している。木曽川の発電所からは六郷変電所へと送電された。まず1919年7月、賤母発電所建設にあわせて賤母発電所から既設線に接続する瑞浪開閉所まで77キロボルト送電線が完成。1921年8月には大桑発電所の建設に伴って同発電所から賤母送電線に接続する中津開閉所までの送電線も完成し、それぞれ六郷変電所への送電に使用された。 -1頭が死んでも、人食いライオンはもう1頭残っていた。1頭目が死んでほんの2、3日後に、ライオンは鉄道監督官を狙った。ライオンは監督官のいるバンガローの階段を上り、ベランダを徘徊していたが監督官はその物音を酔っぱらった労働者の立てるものと思い込んで、「あっちへ行け!」と怒鳴りつけた。監督官を襲うのに失敗したライオンは、その代わりにヤギ2頭を襲ってその場で空腹を満たした。この話を聞いたパターソンは、次の日の夜に監督官の住まいのそばで見張りをすることに決めた。近くには無人の鉄製の小屋があり、銃を発砲するのに適したのぞき穴も備わっていた。小屋の外には3頭のヤギをおとりとしておき、重量が110キログラムほどもある鉄製のレールにつないだ。夜明けの直前までは、平穏に過ぎていった。ライオンはそのときに現れて、ヤギのうち1頭にとびかかり、他の2頭もろともレールごと引きずっていった。パターソンはライオンのいる方向に向けて数回発砲したが、真っ暗だったためライオンではなくヤギのうち1頭に当たったのみであった。 -アメリカが行なった過去の核実験のデータに基づき、次のように推定された。まず爆弾の内部でウラン235の核分裂が進行し、原爆の炸裂に至る。爆弾内部の温度は250万度(摂氏。以下同じ)に達する。内部から放射されたエネルギーは、爆弾周辺の空気に衝撃を与え��。衝撃波が半径約8mに広がったあたりから、閃光というより火の玉「火球」として視認される。放射線が周囲の空気に衝突し青白く光らせる。100万分の15秒後、温度は40万度に下がり、火球は直径20mとなる。0.2秒後には火球の直径は310mとなり、表面温度は6,000度で、この時に最も大きく明るく見える。また地上に熱線の影響が出てくる。2秒後までに熱線は90%が放出される。この頃からガンマ線が大量に放出され、空気が反応して紫色に見える。0.51秒後、火球は縮み始め、煙が出始める。1.7秒後にはキノコ雲が形成され始める。 -その後ポーは『メッセンジャー』誌の創刊者トマス・ホワイトに再就職の希望を伝えて受け入れられ、10月に妻となったヴァージニアと叔母マライアとともにリッチモンドに移り住んだ。『メッセンジャー』主筆としてポーは自作の短編を発表していっただけでなく、毎号広い分野におよぶ論壇時評を書き、また苛烈な作品評を行なって評判を取った。『メッセンジャー』はポーが主筆になったことによって、500程度だった発行部数が3500まではね上がり、南部の主導的な文芸雑誌の地位にまでのし上がった。仕事が軌道に乗ったことから、1836年5月にポーはクレム叔母やホワイト、トマス・クリーランド知事など9名を招いてヴァージニアとの公開の結婚式を挙げた。『メッセンジャー』誌は好評を取り続けたが、しかしポーは実績に見合った昇給をしてもらえず、また編集に口出しがされ始めたことで創刊者のホワイトと不仲になり始めた。就職から1年経った1837年1月、ポーは『メッセンジャー』を辞し、2月末に家族を連れてニューヨークに移った。ここで編集の仕事をするつもりだったのだが、しかし依頼しておいた『ニューヨーク評論』編集のポストが不採用になり、代わりに以前『メッセンジャー』に2度掲載した長編『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の完成に力を注いだ。翌年7月に出版された『ピムの物語』はアメリカの20誌以上の新聞・雑誌に言及するなど話題作となったものの売り上げは伸びず、すでに収入減からフィラデルフィアに移っていた一家の生活はみるみる窮乏していった。 -渋谷黎子は、日本の農民運動家、社会運動家、女性活動家だ。夫は同じく農民運動家の渋谷定輔だ。福島県伊達郡粟野村出身だ。出生名は池田ムメ、または池田ウメ子、池田ウメ、池田梅、池田梅子。結婚後の別名は渋谷ムメ、土方黎子。財産家に生まれて何不自由ない暮しを送りながら、そのすべてを捨てて出奔し、昭和初期の農民運動に挺身し、特に農村婦人の組織化に尽力した。全国農民組合の支部結成に係る弾圧を受けた末に、満25歳で死去した。 -1963年2月に高松駅の構内に立ち食いうどん店が開店した。当時、立ち食い蕎麦は全国の多くの駅にあったが、うどんは前例がなかった。まもなく高松駅構内には2号店もオープンし、テレビなどで「食べる民芸品」として県内で味の評価の高い店が紹介された。1969年には宇高連絡船デッキの立ち食いうどんコーナーが営業を開始した。また、この頃にポリエチレン包装など衛生面の進歩により保存期間が伸び、土産品としての販売も上昇してきた。 -ネロの追放とそれに続く混乱期の後、実権を握ったウェスパシアヌス帝は、「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」が元老院議決により制定されたことで、ユリウス・クラウディウス朝に与えられた諸特権を確保した(これは以後フラウィウス家に引き継がれる)。これにより、彼は、火災や争乱によって破壊されたローマの再建に着手し、灰燼に帰したカピトリウムのユピテル大神殿を再建するとともに、平和が訪れたことを象徴する建築物として、テンプルム・パキスを建設した。この建築物は、三方を列柱廊で囲んだ庭園(ウェスパシアヌスのフォルム)の一辺を占め、ペディメントを持つ神殿の左右に図書館と美術館が付属していた。アテナイのハドリアヌスの図書館のモデルになった可能性も指摘される、ギリシア建築の伝統に則した巨大公共建築であった。同じくヴェスパシアヌスによって起工され、ネロのドムス・アウレアの人工池があった場所を埋め立てて建設されたフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)は、こちらはローマの伝統的意匠に則���た大建築物であった。コロッセウムの意匠はルネサンスの建築家たちによって繰りかえし手本とされたが、当時はタブラリウム、バシリカ・ユリア、マルケッルス劇場に連なる、どちらかというとすでに使い古されたデザインで、この建築物のすばらしさはむしろ工学的な部分にあると言える。基礎はかなり深く造られており、池の跡に建設されたにもかかわらず建物は全く沈下を起こしていない。下部構造は切り石による積石造で、上部構造は重量を軽減するためにコンクリートが用いられた。建設は4つの部分に分割施工され、材料に応じて入念に行程分けされた。その組織的かつ効率的な建設事業はたいへん高度なもので、ローマ建築の技術レベルの高さを物語る。 -前述までのように嫁入りを思わせる自然現象だけではなく、江戸時代の古書や、地方によっては伝説上にも、実際に嫁入りが見られたという話がある。寛永時代の随筆『今昔妖談集』には江戸の本所竹町、文政時代の草紙『江戸塵拾』には同じく江戸の八丁堀、寛政時代の怪談集『怪談老の杖』には上州(現・群馬県)神田村で、それぞれ奇妙な嫁入り行列が目撃され、それが実はキツネだったという話がある。このようにキツネ同士の婚礼をそれとなく人間たちに見せる話は、全国的に分布している。一例として民間の伝承においては、埼玉県草加市の伝承で、戦国時代、ある女性が恋人と結婚を約束したにもかかわらず病死してしまい、その無念さがキツネに乗り移り、女性の葬られた場所の付近で狐の嫁入り行列が見られるようになったという伝説がある。また信濃国(現・長野県)の民話では、ある老人が子ギツネを助けたところ、やがて成長したキツネが婚礼を迎え、老人に礼として引出物を持参したという話がある。こうした嫁入りの話では、前述までのような自然現象および超自然の「狐の嫁入り」が舞台装置のように機能しており、日中の嫁入りは天気雨の中、夜間の嫁入りは怪火の中で行なわれることが多い。 -生身の人間が直接大深度に潜行することはできないため、深海探査には常に困難が付きまとう。漁網中に混獲されたり、海岸に打ち上げられたりした深海魚も時として貴重な標本となったが、彼らが実際に生きている姿(生息環境や生態)を伝える情報は損なわれていることが多かった。19世紀後半以降、ワイヤーロープや底引き網の改良により大深度からの標本採取が可能になったものの、深海魚を直接観察することは依然容易ではなかった。兵器としての潜水艦は第一次世界大戦時には既に実用化されていた一方で、学術目的での潜水機器開発は遅れていたのである。1928年、有人の潜水球(バチスフェア)が開発され、ようやく深海魚の観察が可能になった。バチスフェアは無動力ではあったが、深度923mまでの潜水に成功している。そして1948年、オーギュスト・ピカールにより自前の動力を有した深海探査艇、バチスカーフが建造された。バチスカーフは複数の後継機が作られ、深海魚の生態観察や大深度での標本採集に強力な手段を提供した。20世紀後半から現代にかけては、日本のしんかい6500、ロシアのミール、フランスのノティールおよびアメリカのアルビン号などによる調査を通じ、深海魚の生活様式・環境への適応についての情報が蓄積されつつある。 -太陽から遠い所では、低温のため核は全て凍りついており、地球上から見てもただの恒星状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。それに伴って発生したガスや塵は、非常に大きく、極めて希薄な大気となって核の周りを球状に覆う。これはコマと呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。コマの最外層は水素のガス雲となっており、水素コロナと呼ばれる。そして、太陽からの放射圧と太陽風により、太陽と反対側の方向に尾が形成される。尾には、ダストテイル(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、イオンテイル(イオンの尾)またはプラズマテイルという、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる。これには、核から放出���れた塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けていたりするためなどの理由がある。2007年のマックノート彗星や歴史上の大彗星のいくつかでは、何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えた。これに対し、イオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、尾の一部が見かけ上太陽の方向に伸びているように見えることがあり、アンチテイルと呼ばれる(アラン・ローラン彗星(C/1956R1)のアンチテイルは殊に有名である)。実際には太陽に向かって尾が伸びているわけではなく、あくまでも視覚上の錯覚である。アンチテイルの観測は太陽風の発見に大きく貢献した。 -現在は小平霊園内にあり、昔はさいかちの木が何本も生えていたためその名で呼ばれる「さいかち窪」(柳窪三丁目)は、地形的には黒目川の源流部にあたり、雨量の多いときに稀ではあるが林の中に湧水が出現する「幻の湧水」と言われる。黒目川沿いの天神社(柳窪四丁目)付近の湧水は、東京の名湧水57選に指定された。季節や天候により水量は変動し枯れることもあるが、透明でゆるやかな流れと伝統ある社殿、周辺の曲がりくねった道や道祖神は、昔ながらの風景を残している。 -ヘリコバクター・ピロリの持つウレアーゼは細胞の表層部に局在しており、中性および酸性領域の2種類の至適pHを持つため、胃内部の酸性条件下でも尿素からのアンモニア産生が可能である。ウレアーゼによって作られたアンモニアは局所的に胃液を中和するため、その部分にヘリコバクター・ピロリが定着可能となって感染が成立する。アンモニアはまた、ヘリコバクター・ピロリに対して走化性因子としても作用し、胃内にいる他のヘリコバクター・ピロリが鞭毛により遊泳して感染部位に集合しやすくなる。さらに細菌感染に対して動員された白血球が産生する過酸化水素と、その過酸化水素からさらに生成する活性酸素や次亜塩素酸がアンモニアと反応すると、モノクロラミンなどの組織障害性が強いフリーラジカルが生成されて、胃粘膜傷害がさらに進行する。 -1763年からは、コンギラト族出身のイナク(宰相)のムハンマド・アミーンが実権を握った。1770年にヒヴァの町はヨムド部族によって占領・略奪され、さらにハン国南部で発生した飢饉のために住民はブハラ方面に移住する。同1770年にムハンマド・アミーンはブハラに亡命し、ブハラのダーニヤール・ビーの支援を受けてヨムド部族からヒヴァを奪回した。国政を掌握したムハンマド・アミーンは自らハン位に就かず、傀儡のハンを立てて他のアミールと争った。ヒヴァの歴史家たちは、ムハンマド・アミーンの勝利がハン国の復興の転機となったと考えた。 -1997年(平成9年)4月には小沢渡町に浜松市立可新図書館が、2004年(平成16年)7月には大人見町に浜松市立はまゆう図書館が開館し、その間の2002年(平成14年)4月には中央図書館駅前分室が開室している。2005年(平成17年)7月1日には浜松市周辺の2市8町1村が浜松市に編入合併されている。2006年(平成18年)10月には浜松市立城北図書館が「第二の中央館」として移転開館した。城北図書館の6,530m2という延床面積は中央図書館を上回り、浜松市立図書館の中で最大である。中央図書館の閉架書庫にあった資料のうち、郷土資料などを除く図書、クリエート浜松に収蔵されていたビデオ・CD・DVDが城北図書館に移管されたほか、移動図書館の拠点も城北図書館に集約された。 -各CIE図書館の開館時の蔵書数は約4,000冊、定期刊行物が約400種という規模で、最も大きな神戸CIE図書館が302坪であった。収容人員では、大阪と仙台が最大でともに246名、いっぽう最小は函館の72名である。冷暖房も備えられていた。熊本CIE図書館の館長を務めたグレース・イイジマによると、CIE図書館の科学・技術分野の���書は米国の一般的な公共図書館のそれよりも豊富であったという。それぞれのCIE図書館にはアメリカ人のプロのライブラリアンが1人ずつ館長として置かれ、その業務を日本人職員が補佐する形を取った。館長として来日したライブラリアンのうち、判明している者は3分の2が女性であった。 -アーサー・コナン・ドイルは1901年には久々のホームズ作品である長編小説『バスカヴィル家の犬』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、1903年から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された。彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「ジョージ・エダルジ事件」や「オスカー・スレイター事件」といった事件で、警察のずさんな捜査を暴き、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した。1912年4月のタイタニック号沈没事件について、乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的なジョージ・バーナード・ショーと論争した。1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『毒ガス帯』を発表し、SF小説にも進出した。 -1867年、ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。これにより、ハプスブルク帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。 -1945年5月21日に、バコールは俳優のハンフリー・ボガートと結婚した。2人の結婚式と新婚旅行に選ばれたのは、オハイオ州マラバーのファーム州立公園にあった、ボガートの親友でピューリッツァー賞受賞作家ルイス・ブロムフィールドのカントリー・ホームだった。二人の結婚式は大邸宅を式場にして挙行されている。結婚当時のバコールは20歳、ボガートは45歳で、年齢が離れていたこともあってボガートはバコールを「ベイビー」という愛称で呼んでいた。2人の結婚生活は、1957年にボガートが食道がんで死去するまで続いた。ボガートの死後、ジャーナリストのマイケル・パーキンソンから、ボガートとの結婚生活のことを訊かれたバコールは「未亡人でいることには慣れていない」と応えている。ボガートが出演する『アフリカの女王』(1951年)の撮影中に、バコールとボガートは共演者のキャサリン・ヘプバーンと、当時ヘプバーンと交際していたスペンサー・トレイシーと親しくなった。バコールは役者仲間以外にも交友関係を広げるようになり、歴史家のアーサー・シュレジンジャー、ジャーナリストのアリステア・クックたちと友人となった。1952年にバコールは民主党の合衆国大統領候補アドレー・スティーブンソンの応援演説を行っている。また、多くのハリウッド関係者と同様に、マッカーシズムには断固反対する立場をとっていた。 -19世紀まで、古代エジプト医学に関する情報源は新しい年代の書物であった。ホメロスは、紀元前800年ごろに『オデュッセイア』の中で「エジプトの人々は、あらゆる人間の中で最も医学にすぐれている」、「エジプト人たちは、他のどんな技術よりも医学にすぐれている」と記している。ギリシャ人の歴史家ヘロドトスは紀元前440年ごろにエジプトを訪れ、エジプト人の医学技術への広範な観察を書き記しており、大プリニウスもまた歴史的観点から好意的に記している。ヒポクラテス・ヘロフィロス・エラシストラトス・後にはガレノスもアメンホテプの神殿で学んでおり、古代エジプト医学からギリシャ医学への貢献を認めている。1822年、ロゼッタ・ストーンの解読によって、古代エジプトの碑文やパピルス上のヒエログリフの解読が可能になった。これらの中には医学に関する事柄が多数含まれていた。この結果19世紀に生じたエジプト学への関心が、エドウィン・スミス・パピルスやハースト・パピルスなど、紀元前3000年にまでさかのぼる古代医学文献のさらなる発見につながった。 -飛行1日目での軌道投入後はHTVのサブシステムが自動起動し、姿勢制御、機体の異常点検、HTV運用管制室との通信接続が行われ、ランデブ用軌道制御が始まった。飛行3日目に衝突回避運用(CollisionAvoidanceManeuver:CAM)といったHTVの運用検証が行われた。これらは成功し、飛行6日目にはISSミッション管理会議(MissionManagementTeam:MMT)においてHTV-1のISSへの最終接近運用が承認された。飛行7日目の9月16日午前9時4分、飛行8日目の9月17日午後6時26分および同日午後9時28分に高度調整マヌーバを実施し、ISS後方5kmの接近開始点(ApproachInitiation:AI)に到着しISSに対して相対停止した。飛行8日目の9月18日午前0時31分に接近開始点を出発してISSへの接近を再開した。GPS相対航法でISSの下方約500mのRバー開始点(R-barInitiation:RI)に移動し、同日午前1時38分に到着した。到着後はランデブセンサ(RendezvousSensor:RVS)から照射したレーザ光を、「きぼう」船内実験室の下側に設置された反射器に反射させて位置を確認しながら1-10m/s程度の速度で下方からISSに接近し、同日午前1時48分、ISS下方300mのホールドポイントで自動停止し、緊急時の衝突回避運用のため、HTV-1のヨー方向(横方向)の姿勢を180度変更した。このモードで9番スラスタのインジェクタ温度が上限近くまで上昇するという事象が発生したため、遠隔操作にて主系と冗長系を交互に切替えを行いながら飛行を継続した。スラスタの作動回数はほぼ予定通りで、温度上昇が想定外だったという。 -コレステロールは生体の細胞膜の必須成分であり、また動脈硬化症の危険因子として、ヒトにおけるコレステロールの生理学は注目を集めている。まず、コレステロールが含有することでリン脂質より構成される脂質二重膜は、生体膜特有のしなやかさを発現する。そして、コレステロールから代謝産生されるステロイドホルモン類は、細胞核内の受容体タンパク質と結合して転写因子となり遺伝子の発現を制御する。複雑な体制を持つ多細胞動物の体内では、コレステロールは胆汁酸、リポタンパク質など輸送分子と共に複合体を形成して移送される。そして、どの輸送分子と組み合わされているかによって、どの組織からどの組織へ移送されるのかが制御されている。コレステロールに関する研究ではコンラート・ブロッホ、フェオドル・リュネンがコレステロールと脂肪酸代謝の調節機序を解明した功績で1964年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。 -16世紀に書かれた『本草綱目』には、「高麗に石油がある」と記述されている。また、19世紀初頭に韓致奫が著した『海東繹史』内の『物産志』にも、石油の産出に関する記述がある。1917年および1918年には、これら古典の情報などを基に石油の鉱業権が取得されているが、具体的な成果はなかった。1964年、平安南道安州市における炭田の調査・開発中に油微が発見され、石油存在の可能性が具体的に認識された。これを受けて北朝鮮はソ連に協力を要請し、黄海の重磁力探査を行っている。翌1965年に燃料資源地質探査理局を、1968年には安州市に原油探査を専門とする研究所をそれぞれ設置し、原油探査を行ってきた。1973年からは中国の技術者の指導を受けて本格的な試掘を行い、1976年に測線長2,200kmにわたる西海の地震探鉱を行った結果、同海域に石油の胚胎が期待できる堆積盆地が発達しているという自信を得たとされる。1978年にはユーゴスラビアと共同開発契約を結んで探鉱を行ったが、1981年に資金不足を理由にユーゴスラビアは撤退した。1983年には政務院の傘下に原油探査総局を設置し、シンガポールから14,000トンの試掘探査船を購入するとともにボーリングを建設して黄海の南浦沖合を重点的に探査した。1987年にはイランおよびオーストラリアの企業が南浦沿岸22,600km2の探査と試掘を行ったが、不発に終わっている。 -リビュエーは雌牛となったイーオーの孫娘に当たる。リビュアーと海神ポセイドーンの間に生まれたのがフェニキア王アゲーノールで、テーバイ王家の祖であるカドモスと、クレータ王家の祖とも言える娘エウローペーは彼の子である。カドモスは竜の歯から生まれた戦士としてよく知られる。カドモスの娘にはセメレーがあり、彼女はゼウスの愛を受けてディオニューソスを生んだ。テーバイ王ペンテウスはカドモスの孫にあたり、彼はディオニューソス信仰を否定したため、狂乱する��たちに引き裂かれて死んだ。その女たちの中には、彼の母アガウエーや伯母イーノーも含まれていた。ペンテウスとディオニューソスは従兄弟同士となる。カドモスの別系統の孫にはラブダコスがあり、彼はラーイオスの父で、ラーイオスの息子がオイディプースである。オイディプースには妻イオカステーのあいだに娘アンティゴネー等四人の子供がいる。他方、カドモスの姉妹にエウローペーがあり、彼女はクレータ王アステリオスの妻であるが、ゼウスが彼女を愛しミーノースが生まれる。ミーノースの幾人かの息子と娘のなかで、カトレウスは娘を通じてアガメムノーンの祖父に当たり、同様に、彼はパラメーデースの祖父である。カトレウスの孫には他にイードメネウスがいる。ミーノースの娘アリアドネーは、本来人間ではなく女神とも考えられるが、ディオニューソスの妻となってオイノピオーン等の子をもうけた。クレータの迷宮へと入って行ったテーセウスは、アテーナイ王アイゲウスの息子とも、ポセイドーンの息子ともされるが、ミーノースの娘パイドラーを妻とした。 -彗星の本体は核と呼ばれる。核は純粋な氷ではなく、岩石質および有機質の塵を含んでいる。このことから、彗星の核はよく「汚れた雪玉」に喩えられる。核の標準的な直径は1-10km程度で、小さく暗いものでは数十m、非常に大きいものでは稀に50kmほどに達する。質量は、大きさによってかなり異なってくるが、直径1km程度の彗星で数十億トン単位、10km程度の彗星で数兆トン単位であると考えられる。これは、地球の山1つ分ほどに相当する。自らの重力で球形になるには質量が足りないため、彗星の核は不規則な形をしている。氷の構成成分を分子数で見ると、たとえばハレー彗星の場合、80%近くは水(H2O)で、以下量の多い順に一酸化炭素(CO)、二酸化炭素(CO2)、アンモニア(NH3)、メタン(CH4)と続き、微量成分としてメタノール(CH3OH)、シアン化水素(HCN)、ホルムアルデヒド(CH2O)、エタノール(C2H5OH)、エタン(C2H6)などが含まれる。さらに鎖の長い炭化水素やアミノ酸などのより複雑な分子が含まれる可能性もある。双眼鏡や望遠鏡で見た時に青緑色に見えるのは、これらの微量成分が太陽光で解離してできるC2(炭素が2つ繋がったもの)やCNなどのラジカルの輝線スペクトルが強いためである。2009年には、NASAの探査機スターダストによるミッションで回収された彗星の塵から、アミノ酸のグリシンが発見されたことが確認された。 -暗紅褐色の柔らかなひも状で粘質に富み、1本の主軸から大小多数の側枝が互生または偏生し、枝の先端は徐々に細くなる。老熟すると色は徐々に黄緑色になっていき、粘りも少なくなる。乾燥させるとほぼ黒色になるが、わずかに紙に付着する程度の粘性は残る。主軸の太さは0.4-0.9ミリメートルであり、体長は10-40センチメートルのものが多く、まれに90-100センチメートル近くまで成長する。多くの場合多数の株が集まってふき状に生育する。 -その後、第二次世界大戦開戦が迫る1939年8月23日、ソビエト・ロシアの後身であるソビエト連邦は、ナチス・ドイツとの間に独ソ不可侵条約を締結した。しかし、その条約には秘密議定書が附属しており、その内容は、バルト三国などを両大国が当事国たちの与り知らぬところで分割するというものであった。 -イースタン航空は757の初の商業運航を1983年1月1日にアトランタ-タンパ線で行った。1983年2月9日にはブリティッシュ・エアウェイズがロンドン-ベルファスト間のシャトル便に757を就航させ、3発旅客機であるホーカー・シドレートライデントを置き換えた。チャーター便を運航しているモナーク航空とエア・ヨーロッパもこの年の後半に757の運用を開始した。早くから757を就航させた航空会社では、従来のジェット旅客機と比べて757は信頼性と静粛性能が向上していると評した。従来機種からの転換訓練によって、パイロットがCRTを用いた新しいコックピットに対応するのを助けられ、大きな技術的問題が起きることもなかった。イースタン航空は、757は従来機よりもペイロード容量が大きく、燃料消費が少なく、また、運航乗務員が2人で済むことから運用コストが低減されることを認めた。757の座席当たりの燃料消費は、��に典型的な中距離フライトでは、707よりも42パーセント、727よりも40パーセント少なく済んだ。 -1999年(平成11年)の旧静岡市と清水市の外国人登録人口は計6,163人だったが、近年に両地域の外国人人口は急成長しており、2003年(平成15年)には計7,933人となった。御幸町図書館の基本構想における柱はビジネス支援サービスのみだったが、その後多言語サービスも柱の一つに位置づけられた。 -天明4年1月16日に幕府は、米穀売買勝手令という法令を公布する。これはこの当時、決められた業者のみが米の流通、販売を行うことが出来るとされていた規制を撤廃し、例えば江戸に持ち込まれた米を問屋を通さずして自由に販売してよいとするものであった。問屋を通さない米の販売を認める米穀売買勝手令は当時としては画期的なものであり、米の流通量を増やして米価を引き下げることを目的とした緊急時の時限立法的な色彩が強い法令であった。しかしこの法令は期待したほどの成果を挙げることはできなかった。これは米の流通の活性化という点からは米穀売買勝手令によって大坂からの米の搬出が活発となったが、今度は大坂が米不足に襲われ価格が急騰したため、大坂町奉行所はあわてて大坂からの米の搬出を厳しく制限する措置を行ったことなどによるものであった。結局米穀売買勝手令は天明4年の秋、米の作柄がある程度期待できることが市場に周知されたことによって米価が落ち着きを見せたため、天明4年9月10日に廃令となった。なお米穀売買勝手令は凶作によって再び米価が激しく高騰した天明6年、そして天明7年に再施行され、特に天明7年の施行時には法の意図したものとは全く逆の結果を招き、米価高騰に拍車をかけることになった。 -2013年2月頃からミニブログサービスのTwitterにおいて、怒りの感情を表すギャル語「おこ」から派生した「激おこぷんぷん丸」という言葉が頻出するようになっていた。その最中、2013年3月2日にTwitter利用者の一人が「ギャルが怒った時に使う言葉」と題し、「おこ」を怒りの度合いに合わせて6段階に発展させたツイートを投稿したことが流行の発端になったとされ、その中の3段階目に該当する「激おこぷんぷん丸」が特に広まるようになった。多少の表記ゆれは存在するが、「おこ」の6段階表現は以下の通りである。 -傾斜をつけた水路を設け、魚にこの流れを一気に上らせるもの。単なる傾斜水路では途中で流れが加速して急流になるため、魚道内にイボ型、桟型の突起を設けたり、阻流板と呼ばれる板を立てて流れを妨げ、流速を落とす。突起を設けたものとしては粗石付き斜路式魚道があり、阻流板を用いたものとしては、いくつかの派生型を持つデニール式魚道がその典型である。デニール式は、凹字型の板を斜め上流側に傾けて水路に差しこんだ独特の形状をした魚道で、水面付近が激流になるが、底の流れが緩い。ストリーム式(水路タイプ)の魚道はプール式のように流れを大きく遮る隔壁を設けないので、概して勾配が緩やかになるが、デニール式はその中でも急勾配化が可能な形式である。反面、急勾配化のためには水路断面に対し、阻流板を大きくしなければならないので、ゴミづまりの問題が生じやすくなる。ストリーム式魚道では、プール式のように低流速のプールがないので、魚道の途中に休息プールを設けなければならないことも多々ある。 -スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で、宮崎が「NO!原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は東小金井で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、鈴木敏夫、河野太郎、大西健丞、川上量生による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちに���トロなどのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている。 -慶応元年10月12日(1865年11月29日)、幕府は中小坂鉄山の領主である小幡藩主に対して、中小坂鉄山に溶鉱炉を建設するよう通達が出され、同年中に陸軍奉行から勘定奉行に対し、中小坂鉄山の半鉱炉で使用するための炭を確保するため、御用林の使用について相談がなされている。続く慶応2年(1866年)には溶鉱炉建設のための水運についても調査が行われたが、慶応3年10月14日(1867年11月9日)には大政奉還が行われ、江戸幕府の手による中小坂鉱山の溶鉱炉建設は日の目を見ることはなかった。 -ビューヒナーの生前に発表された文学作品は『ダントンの死』のみであったが、その作品はグツコーをはじめ「青年ドイツ」と呼ばれる作家の間で評価を受けたものの、大きな名声を得たわけではない。ビューヒナーの死の直後には数年の間にグッコーの尽力によって遺稿『レンツ』『レオンスとレーナ』が文芸誌に掲載された。1850年には弟ルートヴィヒ・ビューヒナーの編集のもとで初めてまとまった著作集が出版されたが、これは『ヴォイツェック』を含まないなどきわめて不完全なものであった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -扁形動物の寄生性吸虫(ジストマ)が、いくつかの地域での両生類の異常発育と生息数減少に関係しているという考慮すべき証拠がある。Ribeiroia属であるこれらの吸虫は、3種の宿主をもつ複雑な生活環を有する。最初の宿主は水生巻貝の多数の種を含む。吸虫は幼生期の初期に水生オタマジャクシへ移動し、そこではメタケルカリア幼生は手足芽が発生する際に包嚢に包まれる。包嚢に包まれた生活段階は、変態後の過剰肢や欠損肢を含む発育異常を引き起こす。これらの奇形によりカエルが吸虫の最終宿主である水鳥に捕食される確率が高まる。 -1947年6月5日にハーヴァード大学の学位授与式に臨席したマーシャルは記念講演の中で、アメリカがヨーロッパに対して大規模な復興援助を供与する用意がある旨を表明した。これに応じた西ヨーロッパ16か国は、復興4か年計画と援助所要額をまとめた報告書を共同で作成してアメリカの援助を仰ぐと共に、援助受け入れ機関として欧州経済協力機構(OEEC)を設置した。一方アメリカは援助政策の根拠���たる「1948年対外援助法」を制定し、実施機関として経済協力局(ECA)を設置した。援助は旧敵国(枢軸国)にも供与され、イタリアやオーストリアが原参加国に名を連ねたほか、アメリカ・イギリス・フランス3か国の占領下にあったドイツ西部も援助対象として認められた。 -ダレイオス1世はアーシナを逮捕することで迅速に制圧することに成功し、ティグリス川の河畔でバビロニア軍を撃破し、次いでナディンタバイラが滞在していたユーフラテス川河畔のザーザーナ市の戦いでもバビロニア軍を撃破した。ナディンタバイラはバビロン市に逃げ込んだが、ダレイオス1世はこの都市も制圧してナディンタバイラを殺し、バビロニアの反乱は鎮圧された。 -南北戦争と前後して、アクロンでは次々と発明品が生まれ、近代的な産業も興っていった。フェルディナンド・シューマッハーは1856年に工場を買収し、オーツ麦のバーを大量生産し、南北戦争時には北軍に供給した。南北戦争の終結後も、このバーに対する需要は高いものとなった。1883年には、地元のジャーナリストがアクロン・トイ・カンパニーを設立し、近代的な玩具製造事業を始めた。翌1884年には、サミュエル・C・ダイクが粘土製のビー玉を大量生産に乗せた。これらの他、アクロンではゴム風船、アヒルの玩具、人形、ボール、乳母車の緩衝装置、茶色の小瓶などが発明された。1895年には、アクロンとクリーブランドを結ぶ、全長35.5マイル(57.1km)のインターアーバン、アクロン・ベッドフォード・アンド・クリーブランド鉄道が開通した。1899年には、市当局は地元警察に、全米初となるパトロールカーを配備した。1916-20年にかけては、10,000人の女学生が、食塩にヨードを添加することで甲状腺腫を予防する、後に「アクロン実験」として知られることになる実験に参加した。この実験は成功を収め、後に世界中でヨード欠乏症による甲状腺腫を激減させることにつながった。ボストン・デイリー・グローブ紙はこの頃、アクロンをSummitCity(頂点の街)と呼んだ。 -ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。 -1955年にバコールは『蜘蛛の巣』と『中共脱出』に出演した。ヴィンセント・ミネリ監督の精神病院を舞台とした『蜘蛛の巣』で、バコールはセラピストのメグ役を演じた。シャルル・ボワイエとの2本目の共演作であり、ほかにリチャード・ウィドマークやリリアン・ギッシュらも出演している。「ニューヨーク・タイムズ」は『蜘蛛の巣』について「心から共感できる登場人物はたった二人だけだ。ウィドマークは素晴らしく、バコールは抑制された抜け目のない演技を見せた」と評している。多くの映画評論家が、1956年に公開されたダグラス・サーク監督作品『風��共に散る』をメロドラマ映画の転機となった作品だと評価している。ロック・ハドソン、ドロシー・マローン、ロバート・スタックらと共演したこの作品で、バコールは石油業界の有力一族に翻弄されるキャリア・ウーマンのルーシー役を演じた。バコールはその自伝で、あまり深く考えないで演じた役だったが、思いのほか好評だったと記している。「バラエティ」誌は「バコールは、狂気に満ちた石油一族に巻き込まれていく聡明な女性を強く印象付けた」としている。 -1915年3月、戸倉ハルは丸亀高女を卒業し、同年4月に東京女子高等師範学校附設の第六臨時教員養成所家事科第一部に進学した。家事科には第一部と第二部があり、戸倉が入学した第一部は、第二部よりも体操や音楽の授業が多いという特色があった。ここで永井道明から合理体操、跳び箱・平行棒・肋木・梯子を使った体操を、二階堂トクヨから器械体操、ダンス、スウェーデン体操を学んだ。特に夜まで厳しい指導を受けた二階堂の授業が強い印象を与え、二階堂から教わった「三人遊び」などのダンスは、生涯戸倉の中に生き続けた。とは言え、所属はあくまでも「家事科」なので、専門的に学んだのは家事科が中心であった。1918年3月、修身・家事・体操の教員免許を取得して卒業した。 -前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にも関わらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年にカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がアッシリア人を駆逐し、新バビロニア王国(カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年にアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王キュロス2世(クル2世、在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入城し、また征服の後はバビロンで死去した。 -南北戦争前夜のアクロンでは2人の著名な奴隷制度廃止運動家が活躍した。1844年、ジョン・ブラウンは、共同事業者であったサイモン・パーキンスの豪邸と道1本を隔てた対面側に自身の家を移し、アクロンを事業活動の拠点とした。1851年には、オハイオ女性の権利大会がアクロンで開催され、ソジャーナ・トゥルースが原稿無しで、後に「私は女ではないの?」と名付けられることになる演説を行った。1870年、地元実業家にして博愛主義者であったジョン・R・ブフテルの出資で、アクロン大学の前身となる、ユニバーサリスト教会系のブフテル・カレッジが創立した。また、この頃、ルイス・ミラーとウォルター・ブライスの2人の博愛主義者と建築家ジェイコブ・スナイダーは、アクロン・プランというデザインパターンを確立し、1872年に初めてこの様式を用いてアクロンのファースト・メソジスト監督教会堂を建てた。その後、第一次世界大戦時に至るまで、会衆派、バプテスト、長老派などの多数の教会堂が、この様式を用いて建てられた。 -シューマッハーはその著書『現代煉瓦建築の本質』(1917年)で、自然と人間の統一を志向し、それを具現する材質としてのレンガの特性と優位性とを詳しく論じた。しかし、レンガが伝統的な建材だからといって、ハノーファー派のような過去の様式への回帰は拒絶し、レンガを駆使した表現主義建築という、新たな様式が発展する基盤となった。このシューマッハーの影響により、ヘルマン・ディステル、ゲルソン兄弟(Hans_und_Oskar_Gerson)、フリッツ・ヘーガーおよびその弟ヘルマン・ヘーガーなどが、レンガによる商館建築を手がけていった。 -周代の族的集団を基盤とする都市国家社会においては士・大夫と呼ばれる族集団の族長層である支配者階層があり、族集団の祭祀を主催し軍事の枢要を占めて、その下の庶(民衆)とは隔絶する存在であった。この両階層を総称した士大夫という呼称は、後世に儒教が周代を理想時代としたこともあり、後世の支配者層により自らの雅称として盛んに使われ��。この項で述べる漢代の豪族・魏晋南北朝の貴族ともに自称は士族・士大夫であり、当時において貴族という呼称は使われていない。前漢中期より、各地方において経済的な実力を持った者たちが当地の農村を半支配下に置いて、豪族と呼ばれる層を作った。武帝によって導入された郷挙里選により、豪族たちは一族の子弟を官僚として中央に送り出すようになった。中央で官職を得た豪族たちは次第にその階層を固定化して貴族へと変化しだした。 -英国は、2020年1月にEUを離脱した最初の加盟国となり、2016年の国民投票を経て離脱の意思を表明し、離脱協定を交渉した。英国は少なくとも2020年12月31日までは過渡期にあり、その間はEU法とEU単一市場・関税同盟の一部の適用を受ける。これまでEUやその前身となる地域から離脱したのは、フランス領アルジェリア(1962年、独立に際して)、グリーンランド(1985年の住民投票の結果)、サンバルテルミー(2012年)の3国・地域のみであった。 -検察側の代表としてW・J・ブライアンが、そして弁護側の代表として有名な弁護士だったクラレンス・ダロウがでることになった結果、この裁判は全米の注目を集めることになった。これが1925年7月10日から21日まで計10日間、テネシー州デイトンで行われたスコープス裁判(ScopesTrial)である。アメリカでは、通称モンキー裁判(MonkeyTrial)として知られている。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -1989年代末から1990年代初頭にかけて冷戦の終結、東西ドイツの統一といった動きがあり、A310は旧東側諸国でも導入されるようになった。1989年6月に、旧東ドイツのインターフルークは同社初のワイドボディ機としてA310を受領した。また、1991年10月にロシアでA310の型式証明が交付され、これは西側諸国製の旅客機がロシアの証明を得た最初の事例となった。アエロフロート・ロシア国際航空は1992年8月にA310-300を導入し日本路線の主力機に用いたほか、ウズベキスタン航空やタロム航空でもA310を採用し、旧ソ連邦諸国や欧州を結ぶ路線のほか、長距離国際線に投入した。1980年代の後半には、A310は毎年20機前後の受注を得ていた。1991年時点で、A310を最も多く運用していたのはパンアメリカン航空でその数は21機であった。そのほか、ルフトハンザ航空、KLM、エールフランス、シンガポール航空、トルコ航空が10機以上のA310を運航していた。ところが、1990年代に入ると売れ行きが急減速し、1993年に22機を納入したのを最後に、1994年以降は年間の生産・納入数が2機ずつとなった。1990年代初頭にパンアメリカン航空が倒産し、路線と機材の一部を引き継いだデルタ航空はA310を手放しつつあったほか、ルフトハンザ航空でもA310の運用数を減らす動きが見られた。一方で、アジアや中南米などの開発途上国では、1990年代に入ってからA310を導入する会社も見られ、ビーマン・バングラデシュ航空、MIATモンゴル航空、アルゼンチン航空、エア・ジャマイカ、エミレーツ航空、イエメニアなどで採用された。 -まず、エジプト軍は陸路から北東国境に侵入した「海の民」の軍を破った(ジャヒの戦い)。次いで海より侵入した「海の民」の軍に対してエジプトの海軍は貧弱であったとの評判にもかかわらず頑強に戦った。 -この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『永すぎた春』や『美徳のよろめき』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった。川端康成を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞、人気戯曲『鹿鳴館』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」を所収)も刊行された。私生活でも、1954年(昭和29年)夏に中村歌右衛門の楽屋で知り合った豊田貞子(赤坂の料亭の娘。『沈める滝』『橋づくし』のモデル)と深い交際をしていた頃で、三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、新派公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した。 -やがてボンはアラビア半島に伝わり、アラビア語で「バン」と呼ばれるようになる。コーヒー豆から抽出した飲料について、9世紀のイランの哲学者であり医学者でもあったアル・ラーズィー(ラーゼス)が、自著でコーヒー豆を指す「バン」とその煮汁「バンカム」について記述している。バンカムは乾燥させたバンを臼ですり潰して熱湯に入れて煮出した飲み物であり、コーヒーの原型と考えられているが、まだ豆は焙煎されていなかった。バンカムの入れ方については、イスラーム世界の学者イブン・スィーナーも詳しい記述を残している。しかし、ラーズィーとイブン・スィーナーによるバンカムの解説には、コーヒーに含まれるカフェインが神経系統に及ぼす影響について述べられてはいない。 -ブクステフーデの家系は、北ドイツ・エルベ河畔の都市ブクステフーデに由来し、13世紀から14世紀には、ハンブルク、リューベック等のバルト海沿岸の諸都市に一族の名が現れるようになる。当時のバルト海沿岸地域は、ハンザ同盟によって経済的に密接な関係を有し、同一の文化圏を形成していた。人々の移動も活発で、ブクステフーデの祖先も16世紀初頭にはホルシュタイン公国のオルデスロー(現ドイツ、バート・オルデスロー(ドイツ語版))に移住している。祖父ディートリヒ・ブクステフーデ(生年不詳-1624年頃)は、1565年から1590年までオルデスローの市長を務める。父ヨハネス・ブクステフーデ(1602年-1674年)はこの地でオルガニストとして活動した後、1632年から1633年頃にスコーネ地方のヘルシンボリ(当時はデンマーク領)に家族とともに移り、当地の聖マリア教会のオルガニストに就任する。さらに、1641年にはズント海峡を越えて、デンマーク・ヘルセンゲアの聖オーラウス教会のオルガニストとなっている。 -爬虫類については絶滅危惧種であるウミガメの生息地であり、アオウミガメ、アカウミガメ、ヒメウミガメ、ケンプヒメウミガメ、オサガメ、タイマイなどの生息が確認されている。ほかにナイルオオトカゲも生息している。水棲哺乳類に関しては危急種のアフリカマナティー(Trichechussenegalensis)のほか、アフリカウスイロイルカ、マイルカ、クジラが生息している。陸棲や半水棲の哺乳類ではヌママングース、サバンナモンキー(Cercopithecusaethiopssabaeus)、パタスモンキー、ショウガラゴ、イボイノシシ、ブチハイエナ、ヨコスジジャッカル(Canisadustus)、ブッシュバック(Tragelaphusscriptus)、サバンナダイカー(Sylvicapra_grimmia)、ボホールリードバック(Reduncaredunca)、ケープジェネット(Genettatigrina)、ジェネットモドキ(Genettathierry)などが棲息している。 -カールトン将軍はセントジョンズ砦の襲撃があった後に、南から侵略される危険性を痛切に感じ取り、ボストンにいるトマス・ゲイジ将軍からの援軍を要請した。カールトンはモントリオールとケベック市の防衛のために地元の民兵隊立ち上げに取り掛かったがほとんど成功しなかった。カールトンはフランス系住民が自発的に植民地の防衛にあたることを期待していたが、当の住民の大多数は英米どちらの側にもつかず、中立であることを望んでいたためである。イギリス側はタイコンデロガ砦が奪取されセントジョンズ砦が襲われたことに反応して、モントリオー���の南、リシュリュー川沿いにあるセントジョンズ砦を守る為に700名の部隊を派遣し、シャンプレーン湖で使う為の船舶建造を命令し、またその防衛を援けさせるためにモホーク族インディアン約100名も兵士として採用した。主な防御はセントジョンズ砦に頼っていたので、カールトン自身は僅か150名の正規兵を連れただけでモントリオールの防衛を監督した。ケベック市の防衛は副総督のヘクター・クラマヘの指揮に委ねた。 -ところがこれがかなり過大な評価で、実際の戦力はその半分程度であった。これはオーストリア軍の集結がもたついていて遠方の部隊がまだ到着していなかったうえに、ピッコロミーニ軍がシュレージエンから侵入してきたシュヴェリーン軍に牽制されてベーメン北東部から動けなかったためである。 -ニコラエフスクにおける日本企業進出の中心は、1896年に島田元太郎が設立した島田商会であり、市内随一の商社となっていた。ロシア革命による経済混乱期には自らの肖像入り商品券を流通させるほどの信用が築かれていた。 -NintendoEntertainmentSystemには、任天堂のライセンスを受けていないソフトウェアの動作を防ぐロックアウト機構が搭載されていたが、1988年に著作権局からソースコードを得たアタリはロックアウト機構のリバースエンジニアリングを行い、ライセンス外のソフトウェアの動作を可能にした。任天堂はアタリの著作権侵害を主張し、アタリはフェアユース(公正な利用)を主張して訴訟を行った。1992年に任天堂の主張が認められ、アメリカ連邦控訴裁判所は任天堂勝訴の判決を下した。 -ハンブルクはかつてハンザ同盟の主要都市として栄えた。しかしながら、現代のハンブルクの街並みには、そのころの面影は乏しい。その一因は、ダイヒ通りが火元となったハンブルク大火(1842年)による焼失である。17世紀以降、ハンザ同盟は衰退に向かった。しかし、18世紀以降のハンブルクは、アメリカ合衆国の独立やラテンアメリカ諸国の相次ぐ独立に後押しされ、ハンブルク・アメリカ郵船会社が急成長を遂げたことをはじめ、経済的に最盛期を迎えた。 -サルゴン2世の治世はティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)とシャルマネセル5世(在位:前727年-前722年)という2人の王に続いている。前18世紀からティグラト・ピレセル3世が前745年に王となるまで、アダシの王朝によるアッシリアの統治はおよそ1,000年にも及んでいた。 -受刑者Mは1984年12月20日に岡山刑務所を仮出所すると、千葉県船橋市内に転居していた両親の下へ身を寄せ、地元の映画館で映写技師として働いた。その後は東京都内で住み込みの建設作業員などとして働くようになったが、1987年末-翌1988年初めにかけて東京都内で自動車を盗み、その盗難車を無免許で運転したとして、窃盗・道路交通法違反の罪で1988年3月10日に東京地方裁判所で懲役1年2月の実刑判決を受け、1989年2月15日に46歳で仮出所するまで府中刑務所に服役した。加害者Mは被害者Aへの強姦致傷事件を起こした1989年12月当時、船橋市内の母親の実家に住み、東京都江東区内の建設会社に勤務していた。同年12月19日深夜1時ごろ、Mは江東区大島六丁目のバス停付近で、付近の「大島六丁目団地」に居住し、同団地に帰宅する途中だった被害者女性Aがタクシーから下車するところを見かけたため、Aに「一緒に酒を飲まないか」と声を掛け、深夜営業の居酒屋に2人で入った。Mは女性Aと2人で深夜の居酒屋で飲酒した後にAをホテルに誘ったが、拒否されたことから路上でAの頸部を両手で強く締め付けて失神させた。そしてAを近くのゴミ集積所の横へ引きずり込み、付近に落ちていた電気コードでAの首を絞めるなど暴行を加えて強姦し、Aに全治約2週間を要する頸部縊創などの傷害を負わせた。 -裸掘式とも呼び、通常の山岳トンネルと同様に水底下を横に掘削していく方法で、湧水はポンプでくみ上げる。古くから用いられてきた方法で、施工が可能な場所ではより新しい工法が登場してからも用いられた。湧水が激しいときは、いったんトンネル内を水で満たしてしまい、トンネル上にあたる水底に粘土を投げ込んで突き固め、粘土層を築いてトンネル内への湧水を減少させるという方策が採られることがある。イギリスのセヴァーン川河口に建設されたセヴァーントンネルは通常工法で建設された例であるが、このトンネルは建設に要した15年中、3年間は水没しており、潜水道具も未発達な建設当時は建設関係者は浸水対策に大変な苦労をした。 -日本語の語彙は、語構成の面からは単純語と複合語に分けることができる。単純語は、「あたま」「かお」「うえ」「した」「いぬ」「ねこ」のように、それ以上分けられないと意識される語である。複合語は、「あたまかず」「かおなじみ」「うわくちびる」「いぬずき」のように、いくつかの単純語が合わさってできていると意識される語である。なお、熟語と総称される漢語は、本来漢字の字音を複合させたものであるが、「えんぴつ(鉛筆)」「せかい(世界)」など、日本語において単純語と認識される語も多い。「語種」の節で触れた混種語、すなわち、「プロ野球」「草野球」「日本シリーズ」のように複数の語種が合わさった語は、語構成の面からはすべて複合語ということになる。日本語では、限りなく長い複合語を作ることが可能である。「平成十六年新潟県中越地震非常災害対策本部」「服部四郎先生定年退官記念論文集編集委員会」といった類も、ひとつの長い複合語である。国際協定の関税及び貿易に関する一般協定は、英語では「GeneralAgreementonTariffsandTrade」(関税と貿易に関する一般協定)であり、ひとつの句であるが、日本の新聞では「関税貿易一般協定」と複合語で表現することがある。これは漢字の結合力によるところが大きく、中国語・朝鮮語などでも同様の長い複合語を作る。なお、ヨーロッパ語を見ると、ロシア語では「человеконенавистничество」(人間嫌い)、ドイツ語では「Naturfarbenphotographie」(天然色写真)などの長い語の例を比較的多く有し、英語でも「antidisestablishmentarianism」(国教廃止条例反対論。英首相グラッドストンの造語という)などの語例がまれにある。 -神岡鉱山から排出されたカドミウムが神通川水系を通じて下流の水田土壌に流入・堆積して起きる。汚染実態を把握するため、富山県は1971年から1974年にかけ、「農用地汚染防止法」に基づいて、細密検査と補足検査を実施した。汚染面積は神通川左岸で1,480ha、右岸で1,648haの計3,128haで、そのうち1,500.6haが対策地域に指定された。カドミウム汚染田は、神通川によって形成された扇状地にある。右岸は熊野川、左岸は井田川に囲まれる範囲で、八尾町(現:富山市八尾町)以外の地域は「イタイイタイ病指定地域」に含まれる。対策地域内の平均カドミウム濃度は表層土で1.12ppm、次層土で0.70ppmと、深くなるにつれて濃度は低下する。特に、上流部に分布する洪積扇状地では、平均2.0ppmと非常に濃度が高い。土壌中のカドミウム濃度と玄米中カドミウム濃度の間には相関関係が認められず、土壌中のカドミウム含量が低くても高濃度の汚染米が出現しやすい。上記の調査では、食品衛生法の基準である玄米中のカドミウム汚染米が230地点の水田で検出されていることから、これらの水田では、三井金属鉱業の補償によって作付けが停止されてきた。また、カドミウム濃度が0.4ppm以上1.0ppm未満の米は、政府が「準汚染米」として全て買い上げている。買い上げ後は食用にしないで破砕し、ベンガラで着色し、工業用糊の原料として売却されていた。 -キャバリエ=スミスは触手冠動物の3群のなかで、外肛動物だけは異なる系統的位置にあるが、腕足動物と箒虫動物は単系統になると考えて、この2群を亜門として含む腕動物門を提唱した。ヘルムカンプらの研究は腕動物の単系統性を支持し、さらに紐形動物(ヒモムシ類)がその姉妹群になると主張した。またコーエンは、箒虫動物は腕足動物門のなかに含まれると述べている。一方で、ダンらは腕足動物、箒虫動物、紐形動物の3群が単系統群になるという点では同じ結論に達しているが、腕足動物にもっとも近縁なのは箒虫動物ではなく、紐形動物と推定した。遠藤は、ミトコンドリアゲノム上の遺伝子の順序に基づいて、腕足動物はむしろ環形動物やユムシ動物に近いと推定し、箒虫動物との近縁性に疑問を呈している。 -1756年に七年戦争が勃発するとイングランドでは指導者として大ピットを期待する声が高���るが、本人が初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズの政権へ加わるのを拒否した。デヴォンシャー公爵は1756年10月にアイルランドから帰国したが、ちょうど同10月にヘンリー・フォックスが南部担当国務大臣を辞任して第1次ニューカッスル公爵内閣が崩壊、フォックスが組閣に失敗したため家柄と庶民院議員の経験やアイルランドでの人気によりデヴォンシャーが第一大蔵卿(首相)に推された(大ピットはフォックスの後任として南部担当国務大臣に就任)。 -再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていたマウスに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたフィリックス・ザ・キャットに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる「ミッキーマウス」は完成した。後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。因みに当初名前は「モーティマーマウス」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーが「悔しがる・恥をかく」の動詞である「モーティファイ」に言い方が近いため猛反対し「ミッキーマウス」と変更された。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『プレーン・クレイジー』(『飛行機狂』)および第二作『ギャロッピン・ガウチョ』はサイレント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。 -関西地方における深刻な電力不足を受けて、名古屋電灯から水力開発事業を継承した木曽電気製鉄(木曽電気興業)は棚上げされていた大阪送電計画に再び着目し、実現に向けて動き出すこととなった。木曽電気製鉄には当時、許可済みの水利権が約5万kW分あるほかにも、水利権申請中の発電所が10万kW分存在していたが、名古屋方面ではそれらの電力の受け皿たり得ず、他地域への送電が必須であるという事情もあった。関西ではこの時、京阪電気鉄道が電力供給を求めており、同社取締役の林謙吉郎と木曽電気興業の社長福澤桃介が旧知の間柄であったという関係から、両社の間で提携話が浮上する。1919年1月に京阪の常務太田光熈と交渉が持たれ、最終的に京阪方面への電力供給を行う新会社設立の合意へと漕ぎ着けた。この時、京阪以外にも出資する電鉄会社がある方が有利だと判断し太田は複数社の重役に声をかけたが、大阪送電計画の実現に懐疑的で、中には福澤と組むのは危険だという者もあり、まったく賛同されなかったという。 -そして、危惧されていたはずの領有権問題が障壁とならないまま、2004年にエストニアはEUおよびNATOへの加盟を果たすに至った。 -深海の中では比較的明るい中深層に住む魚類では、体表面の銀化による擬態が見られる。ムネエソの仲間は厚さ数ミリの平べったい体を持ち、表面はアルミホイルのような光沢のある銀色を呈している。彼らの体表面にはグアニンによる微小な反射性結晶が何層にもわたり規則的に並んでおり、鏡のように光を反射して捕食者に自らの姿を認識されないようにしている。ムネエソ類の一部は夜間には反射効率を低下させ、生物発光の反射による発見の危険性を減らすことができる。水深600m付近から、深海魚の体色は銀白色から鉛色へと急速に変化し、1,000mの漸深層に達するとほぼ均一に暗色となる。クジラウオ類の多くは鮮やかな赤い体色をしているが、青い波長の光しか届かない深海においては、黒色同様ほとんど目立たないと考えられる。 -イリオモテヤマネコ(西表山猫、Prionailurusbengalensisiriomotensis)は、ネコ科ベンガルヤマネコ属に分類される、ベンガルヤマネコの亜種である。1965年、八重山列島の西表島で発見された。20世紀に入って発見された中型以上の哺乳類は稀有であり、また当初はネコ類でも原始的な形質を有する新属・新種と発表されたこともあってその発見は大きく取り上げられた。しかし、現在は遺伝情報の分析により、独立種ではなく、アジア東部に生息するベンガルヤマネコの亜種に分類されている(ベンガルヤマネコに似ていること自体は、当初から指摘されていた)。国の特別天然記念物。 -グラナダに首都を置いたため、グラナダ王国(スペイン語:ReinodeGranada)、ナスル朝グラナダ王国などとも表記される。国家の規模としては小さかったが、巧みな外交政策などを通じて独立を維持し、アルハンブラ宮殿にみられるような文化的遺産を後世に残した。 -室町時代初期の書札礼である『書札作法抄』では、武家に手紙を出す際には「杉原紙」を用いなければならないと定められており、武士階級の間で定着していたことが示されている。将軍や執権など、武士階級の中で上位にある者が下位の武士へ送る文書を「御教書」と呼び、これにも杉原紙が用いられたことから「御教杉原」「御教書杉原」という表現が頻繁に登場する。武家は杉原紙を用い、公家や女性は檀紙や引合紙を用いるというしきたりは鎌倉時代に形成された。その結果として杉原紙を生産が各地に広がったのだが、必ずしも需給が見合ったわけではなく、特に建武の新政以降、公家が杉原紙を用いたり、武家が檀紙や引合紙を用いた例はある。江戸期の『玉勝間』が伝えるところでは、1343年(康永3年)に洞院公賢が自身の日記『園太暦』の中で、左大臣辞任の際に、書札礼に反して杉原紙に辞表を書いたことについての弁解を行った。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -ハリモグラ(Tachyglossusaculeatus)は、単孔目ハリモグラ科ハリモグラ属に分類される単孔類。本種のみでハリモグラ属を構成する。背面がトゲで覆われており、特有の吻と特化した舌を持ち、それを使い獲物であるアリやシロアリを素早く捕らえる。現存している他の単孔類であるカモノハシやミユビハリモグラ属のように、卵生であり、育児嚢や母乳で子供を育てる。英語では、エキドナ(Echidna)と呼ばれる。オーストラリアに広く自然分布し、ニューギニア島南西部の高地および海岸地帯にも分布している。差し迫った絶滅の危機にはないともいわれるが、狩猟や生息地の開発などの人間活動、外来種や寄生虫などにより、オーストラリアにおける分布域は減少しつつある。 -第二次世界大戦中、ニュルンベルクは連合国軍による空爆の優先目標であった。イギリス空軍とアメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日にニュルンベルク旧市街は破壊され、全市域が甚大な被害を負った。同年4月の4日間に渡る地上決戦で、さらにいくつかの歴史的建造物が破壊された。一時はこの破壊された街を放棄して、他の場所に新しい街を創ることが真剣に検討されたほどの被害状況であった。同大戦期、ナチスにとってその精神性を保持する街として「神聖ローマ帝國宝物展」が開催された。今日コンサート会場として使われる「聖カテリーナ教会」が会場となった。そうした宝物の保管庫がObereSchmiedgasse(オーベレ・シュミートガッセ、上鍛冶屋小路)52番地の地下にあった。Kunstbunker(クンストブンカー、芸術品地下保管庫)は今でも保存、公開され訪れる歴史ファンは多い。 -こうした県立図書館側の変化は、県民の心も動かし、図書館協議会委員が立ち上げた「県立図書館サポーターネットワーク」を中心とした、減額の危機にあった予算の獲得のための署名活動が行われる。署名は2か月で1万数千名分が集まり、賛同団体29、賛同人124名によって要望書が知事に届けられた。それにより、7千万円の予定だった資料費は、2001年度(平成13年度)には1億円にまで大幅増額が実現した。また、図書館協議会より要望のあった児童図書の購入が2001年(平成13年)4月から開始され、その後2004年(平成16年)6月には「子ども図書研究室」が開設された。 -1887年1月20日、合衆国は真珠湾の租借を開始した。その直後に、大半が非ハワイ人からなるグループが、「ハワイアン同盟」と名乗り反乱を引き起こした。彼らは1887年7月6日に独自で憲法を起草した。この憲法を書いたのは内務大臣のロリン・サーストンで、義勇軍の武力を背景にカラカウアを脅迫し、首相の退陣と君主の権力を大きく削減する新憲法への署名を強いた。この憲法は武力を背景に制定されたため、「バヨネット憲法」と呼ばれた。 -ホワイトヘッドを乗せた汽車は定刻を大幅に過ぎてツァボ駅に到着したため、あたりは暗くなっていた。ホワイトヘッドはアブドゥラという名の現地人の軍曹を伴って、パターソンのキャンプへの道を歩み始めた。キャンプまでのトロッコ道は、途中狭くなった切り通��の部分を通っていた。ホワイトヘッドが先に歩き、アブドゥラはランプを持ってその後ろを歩いていた。途中までは何事もなかったが、切り通し部分の中ほどまで来たとき突然土手の上から1頭のライオンが2人をめがけて飛びかかってきた。ホワイトヘッドの背中の傷は、このときつけられたものであった。カービン銃を持っていたホワイトヘッドはすぐさま発砲し、銃声と閃光がライオンをひるませた。しかし次の瞬間、ライオンはアブドゥラに飛びかかって彼をくわえて逃走した。「おお、ブワナ(だんな様)、シンバ!(ライオンだ!)」というのがアブドゥラの最期の言葉になった。ライオンが土手の上にアブドゥラを引きずり上げているときにホワイトヘッドは再度発砲したが、これも徒労に終わった。ホワイトヘッドの話を聞いたパターソンは、昨夜見たあの「食事」はアブドゥラだったのかと合点がいった。ホワイトヘッドの負傷は軽度だったため、後遺症もほとんどなく回復した。 -当初はピューと扶南の間で交易が行われていたが、やがて新興のドヴァーラヴァティー王国が交易に参加するようになり、9世紀以前にはすでにエーヤワディー流域、チャオプラヤ流域、メコン下流域で旭日銀貨を介した交易圏が成立していた。しかし、エーヤワディー下流域を抑えるドヴァーラヴァティーの台頭によってピューの交易路は制限され、チャオプラヤ、タイ湾を通した交易に打撃を受ける。ピューの没落に伴って旭日銀貨を介した経済圏も崩壊し、851年に下ビルマを訪れた旅行家スレイマンは、銀貨ではなく子安貝が貨幣として流通していたことを伝えている。 -サルゴン2世の遠征の中でも最大級のものは、アッシリアの北の隣国ウラルトゥに対する前714年の遠征と、前710年から前709年のバビロンの再征服である。バビロンはシャルマネセル5世の死に際して、独立した王国を再構築することに成功していた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -神々の父ゼウスは、真偽を知る知恵の女神メーティスを最初の妻とした。ゼウスはメーティスが妊娠したのを知るや、これを飲み込んだ。メーティスの智慧はこうしてゼウスのものとなり、メーティスよりゼウスの第一の娘アテーナーが生まれる。ゼウスの正妻は神々の女王ヘーラーである。ヘーラーとのあいだには、アレース、ヘーパイストス、青春の女神ヘーベー、出産の女神エイレイテュイアが生まれる。また、大地の豊穣の女神デーメーテールとのあいだには、冥府の女王ペルセポネーをもうけた。ゼウスはまた、ティーターン神族のディオーネーとのあいだにアプロディーテーをもうける。アプロディーテーは、クロノスが切断した父ウーラノスの男根を海に投げ入れた際、そのまわりに生じた泡より生まれたとの説もあるが、オリュンポスの系譜上はゼウスの娘である。ゼウスは、ティーターンの一族コイオスの娘レートーとのあいだにアルテミス女神とアポローンの姉弟の神をもうけた。更にティーターンであるアトラースの娘マイアとのあいだにヘルメースをもうけた。最後に、人間の娘セメレーと交わってディオニューソスをもうけた。 -1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去した。4月、青森県立弘前中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した。在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行。小説家を志望するようになる。1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあって、病弱と偽り下宿生活をしていた。夏休みで金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。 -1697年、プファルツ継承戦争を終結させたレイスウェイク条約により、ようやくわずかな平安がもたらされた。城を破壊し、まだ使える部分は渓谷に造営する新しい宮殿に利用するという計画が立てられた。しかしこの計画の遂行は困難であるため、城は応急処置的に修復されることとなった。同時にカール3世フィリップは城を完全に立て替える計画も描いたが、資金難のためこの計画は先送りされた。また選帝侯は、聖霊教会をカトリックに転向させたために市のプロテスタント信者と争いになっていた。聖霊教会をカトリックの宮廷教会に変更しようとする彼の計画をプロテスタント教徒らは手を尽くして妨害しようとした。こうしたことから、宮廷をマンハイムに移転する計画が持ち上がり、選帝侯はハイデルベルクに対する興味を失った。1720年4月12日、彼は宮廷をすべての官庁と一緒にマンハイムに移転すると発表した。選帝侯はこの古来の首都を運命の手に委ねるが、「路傍の草に至るまで移転する」つもりだと発言した。後継者のカール・テオドールは一時期、居館をハイデルベルク城に戻す計画を立てた。しかし1764年6月24日、立て続けに2発の稲妻がホールの建物に落ち、城はまたもや炎上した。選帝侯はこれを神の意志と見なし、計画は中止となった。その後何十年もの間、必要な修復を立案する者もあったが、ハイデルベルク城はおおむね廃墟として過ごした。 -その後武智は、子がなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知る。1950年12月、三代目市川壽海は「つくし会」に審査員として立ち会い、『修禅寺物語』の源頼家を演じた雷蔵に高評価を与えていた。壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無縁の出自を抱えながら、苦労の末に戦中から戦後にかけての関西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには関西歌舞伎俳優協会会長の要職を担う重鎮となっていた。さらに七代目團十郎と九代目團十郎が俳名に使っていた「壽海」を名跡として名乗ることを許され、加えて「成田屋」と「壽海老」という、通常ならば市川宗家の者が使用する屋号と定紋を許されてもいた。そこで武智は関係者に働きかけ、この養子縁組を取りまとめることに成功する。壽海は雷蔵に、自身と同じような市川宗家ゆかりの由緒ある名跡である「市川新蔵」を継がせたいと願ったが、これには当時東京で市川宗家の番頭格としてこれを代表する立場にあった二代目市川猿之助(初代猿翁)が「どこの馬の骨とも知れない役者に新蔵の名跡はやれない」と猛反対、交渉の結果「市川雷蔵」の名跡を継ぐことで決着した。養子縁組は1951年4月に成立。同年6月には大阪歌舞伎座で雷蔵襲名披露が行われた。なお、映画監督の池広一夫によると三代目市川壽海について、雷蔵の実父ではないかという噂があったという。養子縁組を受けて、雷蔵は後半生の本名・太田吉哉に改名した。この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった。ちなみに大映京都撮影所所長だった鈴木晰也によると雷蔵は周囲にも盛んに改名を勧め、大映の関係者の中には雷蔵の勧めで改名した者が20〜30人はいたという。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している。 -宮城県教育委員会は、3月14日から18日までを休校とし、15日に予定していた高等学校一般入学試験の合格者発表を22日以降に延期することを決めた。地震発生直後の2011年3月12日、13日には国公立大学の入学試験後期日程が予定されていたが、12日は被災地にある32校の大学(私立大学含む)で試験が中止されることになった。国立36大学・公立15大学・私立7大学が12日の試験の開始時間繰り下げや、地震の影響を受けた受験生の個別対応を行い、追試の対応をした大学もある。文部科学省は、3月12日における国公立大学後期日程の受験者は6万5667人(昨年から2万604人減少)であり、この減少は地震の影響によるものであるとしている。東北地方で同日に試験が実施された国公立大学は、全12校のうち秋田大学・秋田県立大学のみであった。翌13日においても6校で試験を中止し、5校で繰り下げ実施または個別対応を行った。また、家屋の損壊した状況に応じて入学金や授業料の免除を行う大学や、震災や計画停電の影響を考慮して授業開始を5月以降とする大学も増えている。 -夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者である。本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。俳号は愚陀仏である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などである。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身である。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表した。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載した。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆した。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。 -利根川流域における地下資源としては金、銀、銅、マンガン、鉄といった金属資源や石灰石、硫黄、天然ガスなどの非金属資源が存在する。金属資源のうち特に銅については1973年(昭和48年)まで操業されていた足尾銅山が著名で、一時期は日本全国の銅産出量の40%強におよぶシェアを誇っていた。その他では金・銀が利根川本流上流や鬼怒川上流の一部、マンガンは渡良瀬川流域、鉄は吾妻川上流域の一部に分布している。一方、非金属資源としては硫黄が吾妻川上流域、石灰石が烏川流域で採掘される。また石材として栃木県の大谷石や群馬県の三波石が特産として知られ、塀や高級庭石として利用されている。天然ガスについては利根川下流域一帯および江戸川下流域の千葉県北中部・東京都東部一帯が南関東ガス田として知られ、多くのガス田が存在した。1956年(昭和31年)以降天然ガス採掘が江戸川下流の東京都江東区、千葉県市川市・船橋市で活発となったが、工業用水道用途としての地下水過剰取水と相まって天然ガス採掘によりこの地域で地盤沈下が深刻化した。このため東京・千葉の両都県当局は当地の業者よりガス採掘権を1972年(昭和47年)に買い上げ、採掘を禁止したことで地盤沈下は収束に向かった。このため現在は天然ガス採掘は行われていない。 -A320neoファミリーのエンジンとして、CFMI社のLEAP-1Aと、プラット・アンド・ホイットニー(以下P&W)社のPW1100G-JMが選定され、A319neoにも両シリーズのエンジンが設定された。A320neoファミリーの中ではA319neoが最後に開発された。A319neoの初号機はLEAP-1Aエンジン仕様で、2017年3月31日に初飛行に成功した。初飛行ではハンブルクを離陸後、5時間の飛行を経てフランスのトゥールーズに着陸した。トゥールーズを拠点に500時間を超える試験飛行が行われ、2018年12月にLEAP-1A装備型のA319neoの型式証明が交付された。その後、A319neo初号機のエンジンはPW1100に換装された。2019年4月25日にPW1100エンジンでの初飛行に成功し、試験飛行を開始している。この間、2015年5月19日にはビジネスジェット仕様の「ACJ320neoファミリー」の開発も発表され、ACJ319neoについても2016年4月11日に初受注を獲得している。 -"rhubarb"(ルバーブ)という言葉は古代ギリシア語の"ρά"(rha)+"βάρβαρον"(barbarum)に由来すると考えられている。"ρά"はディオスコリデスが呼んでいたルバーブの名で、"βάρβαρον"は「蛮族の」を意味する。ほかにルバーブ(レウム属)の瀉下作用との関連でギリシア語の"rheo"(流れる)が語源となったという説もある。"Rha"はまたヴォルガ川の水名でもある。ルバーブは初期には"rhaponticum"とも呼ばれていたが、「ヴォルガ川(Rha)と黒海(Pontus)を越えて」という意味だという説がある。 -17世紀から18世紀、シェトランドを天然痘の流行が襲った。しかし1760年以降ワクチンが一般的となり、1861年の人口はこれまでの最高の31,670人に達した。イギリス支配は多くの一般人のみならず、貿易業者にとって高くついた。シェトランド諸島人の航海技術が、イギリス海軍に求められていた。約3000人が1810年から1815年のナポレオン戦争に供出され、強制徴募が行われた。このときフェトラー島だけで120人もの男性が連れて行かれ、このうち故郷へ戻れたのはたった20人だった。19世紀後半、シェトランド全体の90%の土地を所有していたのは32人の地主だった。1861年から1881年にかけ8000人以上のシェトランド諸島人が移住していった。1886年、自由党の首相ウィリアム・グラッドストンが、地主から小作農を解放すべく、クロフターズ法を可決させた。これは地主のために農奴となっていた小作農たちが、自分の所有する農園を持ち家とできるようになった効果的な法律だった。 -遺伝子組み換え作物(いでんしくみかえさくもつ)は、遺伝子組換え技術を用いて遺伝的性質の改変が行われた作物である。日本語では、いくつかの表記が混在している。「遺伝子組換作物反対派」は遺伝子組み換え作物、厚生労働省などが遺伝子組換え作物、食品衛生法では組換えDNA技術応用作物、農林水産省では遺伝子組換え農産物などの表記を使うことが多い。英語のgeneticallymodifiedorganismからGM作物、GMOとも呼ばれることがある。なお、GMOは通常はトランスジェニック動物なども含む遺伝子組換え生物を指し、作物に限らない。 -最大の論点となったのは治水効果についてである。反対派は国土交通省が定めた計画高水流量が過大であるとし、川辺川ダム建設を前提にした空論であると指摘した。また昭和40年の豪雨は市房ダムの放流が被害を拡大させたとして、「ダムが水害を招いた」と非難した。実際人吉市では市房ダム完成以前はせいぜい膝までしか浸水しなかったのが、ダム完成以後人の背丈以上に浸水するようになったという被災住民の話を紹介し、水害を招くダムは不要であると説いた。また、下流の八代市についても萩原にある通称「萩原堤防」は200年以上も破堤していないとし、球磨川の治水にはダムは不要であると論じた。そして球磨川のこれからの治水についてはヨーロッパ型のダムに拠らない治水対策を図るのが最良として森林の整備による保水力の増強で計画高水流量が30パーセント減少するとしたほか、未改修部分への堤防整備と河岸補強、遊水池の人吉盆地への建設、そして球磨川水系における全てのダム撤去を行うべきと主張した。最終的には球磨川は熊本県だけを流れていることから、国の管理ではなく熊本県が管理する、すなわち一級水系から二級水系へ変更させるというのが彼らの到達目標でもある。一方国土交通省は計画高水流量については過去の降雨量や洪��量、地形を分析した結果算出したとしてデータを提示して反論。またダムによる水害増幅についてはダム単独での治水には限界があると認めながらもそれを防止するために川辺川ダムの建設は必要とし、その上で堤防の増強や河岸補強を実施するとしており、河川改修だけでは洪水被害を回避できないとした。また森林整備については間伐の必要性は認めたが森林整備だけでは水害を防止できないとした。そして遊水地建設とダム撤去については多大な費用や補償案件の発生、環境への影響が未知数であるとして非現実的と一蹴した。 -1964年(昭和39年)、五稜郭築城100年を記念して、南隣に高さ60メートルの五稜郭タワーが開業。1970年(昭和45年)からは毎年5月に「箱館五稜郭祭」が開催され、箱館戦争の旧幕府軍・新政府軍に扮した「維新パレード」、土方歳三の物まねを競う「土方歳三コンテスト」などが行われている。そのほか、1988年(昭和63年)から五稜郭の土手や堀を舞台に市民ボランティアが函館の歴史を演じる「市民創作函館野外劇」や、1989年(平成元年)からは、冬の夜間に五稜郭のライトアップを行う「五稜星の夢」が始まり、現在まで続いている。近年では、2006年(平成18年)に五稜郭タワーが高さ107メートルの新タワーに改築された。五稜郭は、2004年(平成16年)に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されたほか、観光地の評価としては、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、「五稜郭跡」、「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得している。 -野口は「白黎生」をペンネームとした。これはアントワープオリンピック出場者で結成した白黎会に由来する。白黎会とは、ベルギーの漢字表記「白耳義」から「白」、「黎明」という言葉から「黎」の字を取ったものであり、スポーツも社交界に出て交歓すべしという、野口の考えから生まれた会であった。白黎会のメンバーはオリンピックから帰国後、Hの字が入った揃いのトレーニングシャツを着てスポーツを楽しんだ。戒名「白黎院転輪法浩日源居士」にも白黎の文字が入っているのは、野口の生前の希望によるものである。私生活では1917年に生駒豊子と結婚し、2男2女を授かっている。晩年の野口は、妻への恩返しとしてよく夫婦で旅行に出かけていた。子供に対しては「理解のあるパパ」であり、トランプで一緒に遊ぶ時にはねじり鉢巻きをして勝負に挑み、負けた時には罰ゲームでコーヒーを淹れたり、菓子を買いに行ったりしていた。渋谷・神泉町の自宅では家庭菜園を楽しみ、イチゴ・ブドウ・イチジク・モモなどを栽培していた。仕事も家庭もうまくいっていたため、やっかみ的な批判を浴びせる人もいたという。幸福な生活が周囲に知られた一方で、死の数日前には母の愛を知らないさみしさを付き添いの人々に語ったといい、人知れず苦悩を抱えていた一面もある。 -クラッシュキャップは将校が制帽の代わりに用いた戦闘用の略帽である。「クラッシュキャップ」(Crushercap)は俗称であり、正式名称は「野戦帽」(Feldmütze)である。後に支給を廃されたので「旧式野戦帽」(FeldmützeältererArt)と名付けられた。制帽に似た形状だが、中に形状を保つワイヤーが入っておらず、柔らかい。また顎紐がなく、顎紐を留めるためのボタンもない。鷲章・円形章・柏葉章も金属ではなく刺繍だった。兵科色がトップ周りとバンド部に入っているのは制帽と同じである。1934年に制定されるも1938年に支給が廃止された。しかし持ち運びに便利であることから、前線では下士官以上の者がオーダーメイドしてよく使用していた。 -「アロサウルス」という名称は分類学的には属名と科名(上科を含む)に現れるが、特に断りがない場合は属名を示す(ちなみにアルファベットでの綴りは科名がAllosauridae、上科名がAllosauroidea)。いわゆる恐竜の中でも竜盤目・獣脚亜目(以下、獣脚類)・テタヌラ下目・カルノサウルス類のアロサウルス科に属し、マーシュの命名した最も著名な種はアロサウルス・フラギリス(A.fragilis、ラテン語で“脆いもの”の意)である。この他にもアロサウルス科には数種が属するとされるが、分類の妥当性に関して議論中のものが多く、正確な数は一概には言えない。アロサウルスの化石の多くは北ア��リカ大陸のモリソン層(en:MorrisonFormation)産だが、ヨーロッパ大陸のポルトガルからも産出している。またアロサウルスの一種である可能性のある化石がアフリカ大陸のタンザニアでも発見されている。20世紀にはアントロデムス(Antrodemus)という学名で呼ばれた時期もあったが、クリーブランド・ロイド発掘地(en:ClevelandLloydDinosaurQuarry)で発見された大量の化石の研究により、アロサウルスの学名が妥当であることが認められ、著名な恐竜の一つとして一般に知られることになった。 -スズキの全長は最大で1mを超える。体は細長くて平たい(側扁する)。口は大きく、下あごが上あごより前に出る。体色は背中側が緑黒色-灰緑色、体側から腹部にかけて銀白色をしている。尾びれはハート型に切れこむ。若い個体の中には背側や背びれに小黒点が散在する個体もあり、成長とともに消えるが、背びれの黒点は大きくなっても残ることがある。北海道南部から九州までの日本列島沿岸と、朝鮮半島東・南部、沿海州に分布する。冬は湾口部や河口など外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行ない、春から秋には内湾や河川内で暮らすという比較的規則的な回遊を行なう。昼間はあまり動かないが夜になると動きだす。食性は肉食性で、小魚や甲殻類などを大きな口で捕食する。産卵期は大体10月から3月で、盛期は日本の多くの場所で12月から1月である。上記の海域において直径約1.3mmの卵を生む。卵は単独で海中を漂い(分離浮性卵)、仔魚は成長に伴い湾奥や河口近くに集合する。冬から春に湾奥(干潟、アマモ場、ガラモ場、砂浜海岸)や河口付近、河川内の各浅所で仔稚魚が見られる。一部は体長2cmほどの仔稚魚期から純淡水域まで遡上する。この際、遡上前の成長がより悪い個体ほど河川に遡上する傾向がある。仔稚魚は遊泳力が非常に弱いため、潮汐の大きな有明海では上げ潮を利用して、潮汐の非常に小さい日本海では塩水遡上を利用して河川を遡上する。若狭湾で、耳石の微量元素を指標にして調べた結果によれば純淡水域を利用する個体の割合は3割強に上る。仔稚魚はカイアシ類や枝角類などの小型の生物から、アミ類、端脚類などの比較的大型の生物へとを主食を変化させながら成長する。夏になると河川に遡上した個体の一部が5cmほどになり海に下る。春〜秋にかけての水温の高い時期は浸透圧調整機能も高いため、成魚期以降も少なからぬ個体が河川の純淡水域のかなり上流まで遡上する。かつて堰やダムのなかったころは琵琶湖まで遡上する個体もいたと言われる。現在でも利根川(100km以上)をはじめ多くの河川で遡上が見られる。さいたま水族館(公益財団法人埼玉県公園緑地協会)は飼育水温を常時23度以上に維持することで、多数のスズキを淡水魚として周年、終生、生体展示することに成功している。一方で、内湾にも多くの個体が存在するが、それらの数と河川の個体の数との比や、相互の移動などについてはよくわかっていない。 -商業は10世紀から徐々に復興し、12-13世紀には「満開」といってよいレベルの活況を呈すようになっていた。886年のパリ伯ウードをはじめとし、そして10世紀になりカロリング朝とパリ伯ウードの家が交代で王位につくようになり王権が弱体化すると、貨幣のデザインも各地の諸侯や教会でばらばらとなり様々なドゥニエが鋳造されていく。10世紀中ごろの貨幣デザインについて、王の銘は箔付けのために引き続き使われはしたが、諸侯や教会の鋳造した貨幣には、諸侯や聖人の銘をいれるケースが見られるようになった。諸侯でこのようなデザインを用いたのはオーヴェルニュ伯のギョーム年少伯が、教会ではトゥールのサンマルタン教会が最初という。中には、誰を王としてよいか分からなかったためか、十字の周囲に銘を入れず模様のみとしたものもある。 -カジキ類は水中における最速のスプリンターである。水中ゆえに最高遊泳速度を正確に測定することは難しいが、種によっては時速100km以上に達すると考えられている。バショウカジキのトップスピードなら、25mプールを1秒以内で駆け抜ける速さに相当する。水中で最も速く泳ぐことのできる動物として、ギネスブックにも記載されている。その体には高速遊泳に適応した構造や機能がいくつか見られる。 -アロサウルスは、首に9個、背中に14個、腰部(仙骨)に5個の椎骨を持っていた。尾部の椎骨の数ははっきりせず、個体によっても異なるようである。ジェームズ・マドセンは50個、グレゴリー・S・ポールは45個かそれより少ないと推測している。首部の椎骨には空隙があり、そこには現生の鳥類と同様に呼吸用の気嚢があったと考えられている。 -東松島市では市域の36%が浸水した。野蒜地区は、東側の仙台湾(石巻湾)から押し寄せた津波が内陸2キロメートル弱を横断し、西側の松島湾に流れ込んだ。野蒜小学校の体育館で13人が、特別養護老人ホーム「不老園」の入所者56人が亡くなるなど、野蒜地区や大曲地区が壊滅的被害を受け、約1,100人が犠牲となった。航空自衛隊松島基地も冠水し、多くの航空機が破損した。その一方、野蒜地区では民間人の佐藤善文が自宅裏の岩山に10年かけて避難階段と避難小屋を作っていた。近所の住民は「津波なんてここまで来るわけがない」と佐藤を変わり者扱いし、この避難所を「佐藤山」と呼んでいたが、結果的に約70人が津波被害を免れた。多賀城市は仙台市のベッドタウンであり、大きな幹線道路2本に沿って郊外型の大型店が建ち並んでいた。海に面しているのは東部の砂押川河口のごく一部であり、市民ですら海の街という認識は薄く、幹線道路を通過する市外の者はさらに認識が薄かった。地震の混乱で道路が大渋滞しているところ、建物の間から突然津波が襲来した。犠牲者は2本の幹線道路の車内を中心に200人弱であり、その半数は市外に住む人であった。仙台市は104.7万人(2011年3月1日推計人口)を擁する政令指定都市であったが、沿岸部の仙台平野の大部分が開発が制限される市街化調整区域であり、田園地帯が広がっていたため、人口密集地への浸水はほぼなかった。しかし、沿岸部にあった主な集落である若林区荒浜地区や宮城野区中野蒲生地区が壊滅し、また仙台港一帯の工業地域や商業地域を中心に、犠牲者数は800人以上となった。若林区では区域の60%が浸水し、田園地帯を3-4km内陸まで浸水する様子がNHKのヘリコプターからも撮影され、大きく報道された。荒浜にある仙台市消防ヘリポートも被害を受け、津波到達前に離陸した2機のヘリコプター以外の機材が使用不可能になる被害を受けたため、内陸部への移転が計画されている。 -学徒勤労動員により紀州鉱山で働いた三重県立木本中学校(現・三重県立木本高等学校)の生徒によると、捕虜は毎朝9時半に日本兵の監視誘導の下で持ち場に着き、16時半頃に収容所へ引き揚げる生活を送っていた。これは学徒動員の生徒よりも前後1時間労働時間が短かった。捕虜と日本人が同じ作業場を割り当てられることもあり、片言の英語と日本語でコミュニケーションをとることができた。捕虜からチョコレートをもらった日本人もおり、捕虜が火葬されるたびに手を合わせたという。日本人が見た捕虜の印象は、勤勉で明るかったといい、シンガポールの戦いを経験していたため、山下奉文の名をよく知っていた。 -第5作『三大怪獣地球最大の決戦』でゴジラが人類の味方としての戦いを見せて以降、ゴジラは恐怖の対象として役目が希薄になる。次第に娯楽作品へのシフトが進み、当初のテーマであるSFとしての特色もシリアス路線からエンターテインメント性重視のものに変わっていく。第12作『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』以降は完全に正義のヒーローとして描かれるようになった。当時の「邦画の斜陽」による深刻な興行不振や家庭へのテレビの普及などもあり、新作の度に観客動員数が前作を下回っていった。この時期はテレビアニメ最盛期であることもあって『東宝チャンピオンまつり』というタイトルのテレビ作品と混載5〜6作品混合プログラムの中の一作という扱いになり、上映時間も短縮され制作費も縮小された。そのため特撮シーンの多くに過去作品の流用フィルムが多用されるようになる。そして1975年に公開された第15作『メカゴジラの逆襲』では観客動員数97万人と、歴代ワースト1位を記録した。これを受けて東宝は巨額の予算がかかる怪獣映画を封印することを決定し、シリーズは1984年まで長い休止期間に入る。 -グアダルキビー��川流域のハエン一帯を割譲したことにより、領土の損失は大きかったものの、山岳地帯のグラナダ周辺を主とする領土となり、守るには有利な状況となった。また、フェルナンド3世への臣従により平和が続き、内政に専念することができたため、アンダルス各地から知識人、手工業者の流入があり、その後の繁栄をみることとなった。 -おもに日当たりの良い森林の周辺、草原、湿原、岩場などに生息し、寒冷地を好む種類ではアサヒヒョウモンなど高原性のものも多い。ほとんどの種類が年1回だけ発生する。温暖な地方では成虫の期間は比較的長く、晩春に羽化して夏の暑い時期に一時的に活動を停止して「夏眠」、秋になると再び活動するものが多い。ただし暖地性・多化性で夏眠もしないツマグロヒョウモンのような例外もある。幼虫の食草はスミレ類が多いが、ワレモコウ類、キバナシャクナゲなどを食べる種類もある。どちらにせよ草原性草本に強く依存した分類群といえる。成虫は食草に直接産卵せず、周囲の岩や樹木に産卵する性質がある。冬は卵または若齢幼虫で越冬し、春になると食草に幼虫が現れる。成虫は日当たりの良い所を好んで飛び、各種の花に訪れる。 -ビューヒナーは農民への扇動を目的に、ヴァイディヒの援助のもとに宣伝パンフレット『ヘッセン急使』の原稿を書き下ろした。これにヴァイディヒが修正を加え、1834年7月30日に刷り上げられると、「人権協会」会員とヴァイディヒのグループとで手分けして頒布に取り掛かった。しかしヴァイディヒのグループにスパイが混じっていたため間もなく非合法出版が警察に発覚し、8月1日に『急使』を所持していたミニゲローデが逮捕、他の関係者にも次々に警察の手が及んだ。ビューヒナーはミニゲローデの逮捕後すぐに行動を起こし、その日の間にヴァイディヒ、ベッカーと会って今後の対応を話し合い、仲間のシュッツのもとを訪れて危険を告げ彼を亡命させている。この間にビューヒナーの下宿にも家宅捜索が行われたが、証拠となるものが押収されなかったため逮捕を免れている。しかし地下組織は壊滅に追いやられ、農民に配られた『ヘッセン急使』も大部分のものが読みもせずに警察に届けてしまっていた。心配した家族に従い、ビューヒナーはこの年の9月にダルムシュタットの実家に戻り、両親のもとで翌年まで医学、自然科学の研究を行なった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -その後のピューの動向に関する記録は確認されておらず、エーヤワディー流域では9世紀半ばから11世紀のパガン王アノ��ヤターの即位に至るまでの、200年近い空白の時代が生まれる。1千年紀に完成したビルマの建物のうち、ピューの建物と同じレンガが使われているものが50以上パガンで発見されている。この発見は経済力と軍事力を蓄えたパガン王朝がビルマで台頭する前に、ビルマ族とピュー族の間に接触があったことを物語っている。「パガン」は「ピューの集落」を意味する「ピュー・ガーマ」が転訛した言葉だとする説があり、エーヤワディー沿岸に散在していた19のピューの集落がパガン王朝の原型になったとも言われている。伝承によれば、ピュー最後の王の甥にあたるタムダリッはピュー族を引き連れてシュリークシェートラから移住し、彼の女婿であるピューソウティがパガン王家の祖となったと言われている。 -園井恵子は小学校3年生のとき少女雑誌により宝塚歌劇の存在を知り、小学校卒業のころにはすでに入団を志望していたが、当時は叶えることができなかった。その後、小樽ではじめて「宝塚少女歌劇の姉妹座とかいう劇団」による「少女歌劇らしいもの」を観劇し、古本屋で宝塚歌劇の機関誌『歌劇』を見つけては熟読していた。小樽高女は2年次1学期末の1928年7月をもって中退し、川口村の両親のもとへ戻ったが、のちに両親と親戚の反対を押し切って宝塚音楽歌劇学校受験のため単身大阪へ赴き入学を果たす。当時、正規の入学試験はすでに終了し入学式も済んでおり、特別試験を経て入学が認められ、音楽歌劇学校予科へ編入された。姓の「袴田」から「ハカマ」という愛称で呼ばれ、寮で同室だった桜緋紗子や社敬子とは特に親しい間柄となった。予科時代は平凡な存在だったという評がある一方、当時本科生だった冨士野高嶺によれば、「しっかりしている」という評判のあった予科生の中で、神代錦、桜緋紗子らとともに、ひときわ目立つ存在だったともいう。 -トンネルの防振対策が様々な観点で検討された。軌道構造としては弾性被覆材を介してPC枕木をコンクリート路盤上に固定するB型弾直軌道が採用された。また路盤構造としては、通常はトンネルの底盤をそのまま路盤とするが、路盤をトンネル底面から浮かせるフローティングスラブ構造を採用することにした。路盤をコンクリート製の桁構造とし、トンネル底盤に設置したゴムシューで桁を支えるものである。またトンネル躯体の寸法を厚くすることにし、質量・剛性の増大により振動を抑えることにした。加えて掘削時の土留壁を連続地中壁として、トンネル完成後も存置することで地中振動遮断壁として利用することにした。さらにトンネル上部に建設される校舎については、トンネルを跨ぐ架台を構築してその上に校舎の基礎を載せることで、トンネルと校舎を絶縁する対策が採られることになった。 -柏の少女殺し事件とは、1981年に千葉県柏市で発生した殺人事件である。被害者の実名を冠してみどりちゃん殺人事件と呼ばれることも多い。1981年6月14日、柏市に在する市立柏第三小学校の校庭で、同校の生徒である当時11歳の少女Bが刺殺された。捜査の結果、付近に住む当時14歳の知的障害者の少年Aが被疑者として浮上した。Aは任意出頭の段階で犯行を自白し、捜査員・検察官・裁判官に対してのみならず、親族や弁護士、冤罪を疑う支援者らに対しても一貫して犯行を認めた。千葉家裁松戸支部での少年審判においてもAは事実を争わず、8月に保護処分決定を受け、少年院へと収容された。 -大正初め頃に囃子隊を結成して、寄席などで演奏しつつ、宣伝業を手掛ける者が現れ、1917年には「一人で太鼓と鐘を叩いて背に広告の旗を立てて囃し立てて居る広告や」があったという記録がある。ひとりで複数の打楽器を演奏するためにチンドン太鼓が考案されたのは大正中期だとされる。遅くとも1925年には鉦・太鼓・銅鑼を組み合わせ、花柄の衣装を纏った「東西屋」が存在したことが写真によって明らかとなっている。チンドン太鼓は、1937年頃に大阪にも登場した。 -陸前高田市立図書館(りくぜんたかたしりつとしょかん、RikuzentakataPublicLibrary)は、岩手県陸前高田市の公共図書館。1964年に設置された。2011年3月11日の東日本大震災で壊滅的な被害を受け、2012年からはログハウスの仮設館で業務��行っていたが、2017年7月20日に新図書館が開館した。震災後には市立図書館のほかに3館の私設図書館が陸前高田市内で活動を行っている。 -1960年代から1980年代初頭にかけて、ルワンダは持続的な成長を遂げ続けたアフリカの優等国であった。しかしながら、1980年代後半には主要貿易品目であったコーヒーの著しい値崩れなどを受け経済状況は大きく悪化し、さらに1990年に行われた国際通貨基金の構造調整プログラムにより社会政策の衰退、公共料金の値上げを招き、状況の一層の悪化を導いた。その結果、失業率の悪化や社会格差による貧困などの諸問題が噴出し、特に若者を中心として不満を募らせるようになった。 -『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』の舞台はヴィクトリア朝中期のロンドン・フリート街である。理髪師のベンジャミン・バーカーは、船乗りのアンソニー・ホープと共にロンドンに到着する。物語開始から遡ること15年前、彼は美貌を誇る妻ルーシーを狙った治安判事のターピンにより、無実の罪を被せられてオーストラリアへ流罪にされていた。バーカーは「スウィーニー・トッド」と名前を偽り、ラヴェット夫人が階下で閑古鳥の鳴くミートパイ店を営む、フリート街のかつての店へと戻る。トッドはラヴェット夫人から、妻ルーシーがターピンにいたぶられ、砒素を呑んで自殺したこと、そして娘ジョアンナがターピンに軟禁されていて、彼の欲望がジョアンナに向かっていることを聞かされる。トッドは復讐を誓い、ラヴェットが大切に保管していた西洋かみそりを受け取って理髪店を再開する。その間にアンソニーは、窓辺に顔を出したジョアンナと恋仲になるが、ターピンに捕まえられ、その部下であるバムフォードにつまみ出される。 -臨海部に所在する日本製紙の石巻工場と三菱製紙の八戸工場が津波により被災、また内陸部にある日本製紙の岩沼工場、勿来工場も津波の影響は受けなかったが、これらの工場を含む太平洋沿岸部にある製紙工場の生産設備、製品在庫の多くが損壊した。また、燃料不足などにより、これらの工場からの出荷が困難となり、全国的に印刷用紙の需給が逼迫した。日本雑誌協会によると、3月18日の時点で発行を休止・中止または発売を延期した雑誌は、『週刊少年ジャンプ』ほか191誌に及んだ。このため、集英社を始めとした各出版社は、緊急措置として『週刊少年ジャンプ』や『週刊アスキー』などの一部雑誌の最新号をインターネット上で無料配信した。また、震災後しばらくは印刷用紙不足が続いたため、一部の雑誌ではページ数の削減や紙質の変更などの措置が取られた。中小印刷会社の中にはこれにより営業が不可能になり、短期間で倒産する企業も現れた。情報提供の手段としてインターネットを利用した対応が行われており、テレビではNHKと民放各局(日本テレビ・テレビ東京を除く)で「停電などでテレビを見られない視聴者への配慮」として、番組をニコニコ動画(ニコニコ生放送)、Ustream、Yahoo!JAPANでリアルタイム配信した。ニコニコ生放送では、NHK、フジテレビ、TBSニュースバードの許諾を得た上で、ライブストリーミング配信(NHKは総合テレビジョン・NHKワールドTVをリアルタイム配信)を行うとともに独自の緊急生特番も実施し、これらの配信はアカウントなしで視聴が可能になっていた。Ustreamでは、NHK(総合テレビジョン・NHKワールドTV)、テレビ朝日、TBS(TBSニュースバード)、フジテレビ、テレビ神奈川、Yahoo!JAPANでは、NHK(総合テレビジョン・教育テレビジョン)のライブストリーミング配信を行った。なお、インターネット対応が行われたきっかけは、地震発生から約17分後に1人の中学生が行っていたNHKの臨時ニュースの無断配信からとされている。 -ユーロビジョン・ソング・コンテスト2009は、第54回のユーロビジョン・ソング・コンテストであり、2009年5月12日から5月16日にかけて、ロシア・モスクワのオリンピック・スタジアムにて開催された。コンテストでは、ノルウェー代表として「Fairytale」を歌ったアリャクサンドル・ルィバークが、史上最高得点の387点を得て優勝した。2位はアイスランド、3位はアゼルバイジャンであった。前年までとは投票方式が変更され、決勝では��国の審査員による投票が再導入され、電話投票と併用される。準決勝は前年までと同様である。42箇国が参加を表明している。スロバキアは今年から大会に復帰すると表明し、他方でサンマリノは資金的な理由により今年の参加を見送る。ラトビア、グルジアは参加辞退を表明していたものの、欧州放送連合が後に、両国は大会に参加すると言明した。しかし、その後グルジアの参加曲は曲名や歌詞が政治的であるとして欧州放送連合がこの変更を求め、グルジア側はこれに対して大会への参加の辞退を表明した。大会の司会は準決勝がナタリア・ヴォディアノヴァとAndreyMalahov、決勝がIvanUrgantとアルスーである。 -英仏米(イギリス、フランスとアメリカ)など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定(英語版)を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。そのころ日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。 -潜水夫が採取した真珠貝は1箇所にまとめられてしまうので、誰が採った貝からどの真珠が出たかなどは分からなくなる。こうした潜水はグハマ制と呼ばれるグループ単位の規則的な制度で行われ、連続して何回か潜水をしたあと、他のグループが採取しているときには休憩となる。このグループの数や潜水する回数、休憩とのバランスなどは、船の規模や漁期(水温が高く、潜りやすい時期かどうか)などによっても変化する。また、グループ内で海に入る順番も決まっており、これによって互いの縄が絡まないようになっている。一般的には、潜水夫たちが息を止めて海中で作業する時間の累計は1日当たり1時間から2時間にもなり、休憩時間の累計もほぼ同じくらいになるとはいえ、かなり過酷なものであった。潜水夫の労働を「地球上に存在した最も過酷な労働の一つ」と位置づける者さえいる。 -1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチスがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏(イギリスとフランス)からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -具体的な両生類の保護対策の例として、1996年6月18日に環境省と建設省(当時)は、アベサンショウウオを対象に種の保存法に基づく「保護増殖計画」を策定した。本種の生息地である丹後半島で、重要な生息環境である小規模な水溜まりや溝等の現状維持や拡大、その周辺にある森林の保全、モニタリング調査、密猟の防止、普及啓発などの対策が講じられている。また、それを担保するために、兵庫県豊岡市と京都府京丹後市の2箇所の生息地が、生息地等保護区に指定されている。また民間によるトウキョウサンショウウオのビオトープの創出も成果をあげている。その他、上記の天然記念物に指定されている3種も文化財保護法に基づく規制がかけられており、国際的な商取引を規制する目的で、オオサンショウウオが国際希少野生動植物種に指定されている。加えて、国の天然記念物等に指定されていなくても、都道府県や市町村の条例に基づく天然記念物や希少野生動植物種に指定され、保護されている種もいる。 -白菜栽培の衰退を食い止めるために、品種改良の試みが始まった。品種改良を手がけた篤農家の中に、世田谷区で農業を営んでいた下山義雄がいた。下山は1913年(大正2年)、当時の千歳村に生まれ、1928年(昭和3年)に就農した。下山家では1930年(昭和5年)頃からたくさんの白菜の栽培を始め、1935年(昭和10年)くらいから貯蔵した後に売って現金収入を得るようになっていた。さらに下山家では、下山の父の代から自家で白菜の採種を行い、希望者には種子を分けていた。「芝罘」白菜と「包頭」白菜という品種を交配して栽培し、耐病性に優れた株を選んで栽培を繰り返して独自の品種として育ててきた。下山が父とともに交配と栽培を続けて改良した白菜は、通常の白菜と比べると2-3倍の大きさがあった。 -ちょうどこの頃、東京市における道路や運河、上下水道、港などの都市施設の計画についてまとめて議論して、各省庁・機関・地元との調整を行おうとする市区改正と呼ばれる動きがあった。市区改正は現在の都市計画に相当する言葉で、東京においては第7代東京府知事松田道之が提案した総合的な都市計画が端緒となった。さらに松田の後任の芳川顕正は松田の構想を継承しつつも、日本全体のことを考えた道路や鉄道網を構想し、東京府に設置された東京市区改正取調委員局から内務省に対して1884年(明治17年)11月14日に提出された市区改正意見書では、「鉄道ハ新橋上野両停車場ノ線路ヲ接続セシメ、鍛冶橋内及万世橋ノ北ニ停車場ヲ設置スヘキモノトス」とされた。この鍛冶橋に設置を提案された停車場が後の東京駅につながることになる。この意見書を受けて内務省に市区改正審査会が設置され、官庁や財界からの委員が審議を行った。その結果、新橋と上野を結ぶ高架鉄道を建設し、鍛冶橋付近に中央停車場を設置し旅客用の高架ホームを設けること、地平には貨物取扱設備を設けることなどの原案が固まった。この意見書はしばらく放置されていたが、国の正式な計画とするために元老院へ回され審議された。しかし守旧的であった元老院はその価値を理解せず、国庫に余裕がないとして1888年(明治21年)6月15日に否決してしまった。ところが当時の内務大臣山縣有朋や大蔵大臣松方正義はこれを巻き返し、閣議において元老院決定を一刀両断の上、1888年8月16日に勅令第62号として東京市区改正条例が公布された。 -手塚治虫(てづかおさむ、本名:手塚治(読み同じ)、1928年(昭和3年)11月3日-1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、アニメ監督である。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身(出生は大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)同市名誉市民である。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。医師免許取得のち医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。 -1963年2月に高松駅の構内に立ち食いうどん店が開店した。当時、立ち食い蕎麦は全国の多くの駅にあったが、うどんは前例がなかった。まもなく高松駅構内には2号店もオープンし、テレビなどで「食べる民芸品」として県内で味の評価の高い店が紹介された。1969年には宇高連絡船デッキの立ち食いうどんコーナーが営業を開始した。また、この頃にポリエチレン包装など衛生面の進歩により保存期間が伸び、土産品としての販売も上昇してきた。 -12世紀になっても各地であいかわらず諸侯や教会がおのおの好き勝手に鋳造を続け、デザインは様々なものが作られる中、フィリップ2世がパリ貨のタイプをベースに、自身の支配圏においてドゥニエの標準化を進めた。フィリップ2世はまずパリ貨ドゥニエをオルレアン、パリ、フランドルの標準貨幣とし、次いでトゥール貨をノルマンディー、メーヌ、アンジュー、トゥーレーヌの標準貨幣とした。この2種は等価ではなく、交換比率はトゥール貨5に対してパリ貨4とされた(つまりパリ貨の方が1.25倍価値があるということ)。これら地域では次代のルイ8世以降、パリ貨をやめトゥール貨に統一されたが、後述するようにいまだそれ以外の地方では独自通貨はまだまだ存在した。また、パリ貨自体も計算貨幣として表現の上では存続した。さらに後のこととなるが、『世界大百科事典』によれば両通貨は1667年の王令をもってようやく一本化されることとなる。 -ステレオフォニック再生はモノフォニック再生に比較して、音像定位や音場感が加わり、再生音の臨場感が増す効果がある。2つのスピーカと聴取者頭部が一辺3メートルの正三角形に位置する配置が最も望ましいとされている。この時の聴取者の位置のことをリスニング・ポイントまたはスイート・スポットと呼ぶ。録音については、左右1対のマイクロフォンで集音してそのまま2チャンネルの音声とする方式と、個々の楽器や歌手に個別のマイクをあてがい、オーディオミキサーで2チャンネルの音声にまとめる方式とがある。現在の殆どのコンパクトディスクはステレオフォニック再生用として収録されているが、前者の方式で録音されたものは一部のクラシック音楽(ソロパートに専用マイクを使う事は多い)などであり、大半は後者の方式で録音されている。 -2001年、ボリビア統計局調査で、行政区分のオキナワ村の人口は11,661人となっている。2004年の日系コミュニティーの調査では、第1移住地、第2移住地、第3移住地の合計の人口は約6000人、そのうち日系人は878人であった。人口統計の上で、日系人はマイノリティーとなる。 -みよかは翌1952年にもアメリカとパリへ渡って、美容医学と全身美容を学んだ。同1952年に松坂屋銀座店に本格的エステティックサロン「サロン・ド・ボーテ」を開設し、話題となった。これが「全身美容」の名称が一般化するきっかけにもなった。その後も、日本国外で学んだ技術をもとに、総合的なエステティック技術を提供する店舗を展開させていった。1961年には、美顔術と美容術の視察のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア各国を回る旅に出た。パリではフェルナンド・オーブリーとジャン・デストレに師事し、美容術を学んだ。 -『ラス・メニーナス』に描かれた9人の像のうち、国王夫妻もしくは鑑賞者の視線から直接見えているのは5人である。彼らの視線や国王夫妻の鏡像から、国王夫妻がいるのは、作品に描かれた空間の外側だと考えられる。それとは別に、芸術歴史家のH.W.ジャンソンは国王夫妻の像は、ベラスケスの描くカ��バスが鏡に映ったものだと考えている。ただしカンバスの正面は、観賞者側からは見えない。他の論評家には、ベラスケスが制作中のカンバスは、彼の描いた肖像には大きすぎるが、『ラス・メニーナス』の大きさと同じくらいだと考える人もある。ベラスケスが描いた国王夫妻の肖像のうち、2人一緒に描かれたものとしては、知られる限り『ラス・メニーナス』が唯一である。 -アメリカの東海岸でも氷の消費量は増え始めていた。とりわけ、業務用、家庭用を問わず冷蔵保存という用途そのものに光が当てられたのである。氷は乳製品や新鮮な果物を保存するという目的からアメリカ北東部でも需要が高まった。氷によって冷蔵された品物は拡大しつつあった鉄道網によって各地に輸送された。1840年ごろには、氷はより少量の商品を大陸を横断してさらに西部へ輸送するためにも使われるようになった。アメリカ東部の漁師たちは氷を使って自分たちがとった魚の冷蔵を始めた。東部では企業でも家庭でも、もはや冬にかけて独自に氷を収穫することは少なくなり、商品として流通したものを利用することがほとんどであった。 -1971年、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社し、新企画『長くつ下のピッピ』を制作するためにAプロダクションに移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。その後、宮崎駿は高畑と大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『ルパン三世』で宮崎にとって事実上の初監督の仕事を引き受ける。名義上は演出であった。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた。「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『パンダコパンダ』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。1974年TVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当した。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。 -眼窩の鱗(circumorbitalやocular)には、日本では定訳がみられない。この鱗は眼球をカバーする透明なもので、英語圏ではブリル(brille)、スペクタクル(spectacle)、アイキャップ(eyecap)などと呼ばれる。眼窩を囲む鱗のうち、前方のものを眼前板(preocular)と、後方のものを眼後板(postocular)、上側(背側)のものは眼上板(supraocular)と呼ばれる。また、眼窩下側(腹側)も囲むように鱗がある場合があり、眼下板(subocular)と呼ばれる。眼前板と後鼻板の間には、頬板(loreal)と呼ばれる鱗が1-2個ある。コブラ科には頬板がない。 -1855年、起業家のジェームズ・メイソン・ハッチングズ、画家のトマス・エアーズほか2人が旅行者として初めてこの地を訪れた。ハッチングズはこの時や後の旅行について記事や本を書き、また、エアーズのスケッチはヨセミテの景観を初めて正確に伝えるものとなった。写真家チャールズ・リンダー・ウィードは1859年に初めてヨセミテの写真を撮った。後には写真家のアンセル・アダムスも登場した。 -ウォルト・ディズニー(WaltDisney,1901年12月5日-1966年12月15日)は、アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴに生まれたアニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナーである。世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキーマウス」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『ディズニーリゾート』の創立者であり、兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。本名はウォルター・イライアス・ディズニー(WalterEliasDisney)である。一族はアイルランドからの移民であり、姓の「ディズニー」(Disney)は元々「d'Isigny」と綴られ、フランスのノルマンディー地方のカルヴァドス県のイシニー=シュル=メールから11世紀にイギリスやアイルランドに渡来したノルマン人の末裔であることに由来し、後に英語風に直され「ディズニー」となった。「イライアス」は父名である。共和党を支持し右派として知られていた。 -後藤は薩長が権力をふるう政府を見て、薩長を抑制するために民間の勢力を養成し下から薩長藩閥政府を打破して国民政府を作らねばならないと考えていた。後藤は自ら野に下り商人となって商業を興し、ひいては一般国民の力を盛り上げようと考えた。後藤自身は実務に暗いので、後藤よりは実務に明るい大隈重信に賛助を求めた。しかし、大隈からは後藤や自分では「士族の商法」で失敗すると反対された。大隈からは反対されたものの後藤は会社設立に突き進む。後藤は会社設立の動きを進めながらも、政府内では西郷、板垣、江藤、副島らと共に征韓論を唱える。しかし1873年(明治6年)10月征韓論者は敗れ野に下る。後藤も同じく参議を辞職し蓬莱社経営に専念することになる。 -メフメトは30年にわたる2度目の治世において、コンスタンティノープルやバルカン半島の諸国、アナトリア半島のトルコ人の諸勢力を征服し、オスマン朝の勢力を急速に拡大させた。これによりオスマン朝は帝国と呼び得る内実を獲得することになる。 -1990年にNintendoofAmericaは「NintendoEntertainmentSystem」用のチート機である「ゲームジニー」が任天堂の著作権を侵害しているとして製造元であるLewisGaloobToys,Inc.に販売差し止めを求める訴訟を起こした。アメリカ連邦地裁は仮差し止めを認めたが、1991年に、ゲームジニーは著作権を侵害していないとして仮差し止め命令を破棄した。連邦控訴裁判所も地裁を支持して任天堂の訴えを退けた。また、仮差し止めによる損失の賠償としてLewisGaloobToys,Inc.に対する1500万ドルの支払いを命じられた任天堂は、この金額についても争ったが、連邦控訴裁判所は再び退けた。 -Baculogypsinaとは和名として「ホシズナ」の名を持つ、星の砂の主要構成種である。体長は数百μm〜数mmである。Baculogypsina属は1属1種であるが、生息場所の違いなどにより形態には若干の変異がある。殻は不規則な突起を持っており、星を想起させる形状となっている。生きているBaculogypsinaは突起の先端から網状仮足を伸ばし、移動や基物への付着、摂食などを行っている。餌は海藻の断片や微細藻類などであるが、エネルギー収支としては共生藻の光合成産物に依存する割合が高いとされる。 -1796年、ニューヨーク州ユーティカ近郊、ホワイツタウン出身の開拓者ジョン・ヤングはこの地を測量し、その後間もなく入植地を創設した。翌1797年2月9日には、ヤングは西部保留地会社から約63km2のタウンシップを16,085ドルで購入した。ヤングは購入したタウンシップ内を流れているミル・クリークに、この地域で最初の製材所と製粉所を建設した。1802年8月19日には、ヤングスタウンは1797年創設であると公式に記録された。今日のヤングスタウンがある地は、コネチカット州からの入植者のために確保されていたコネチカット西部保留地の一部であった。コネチカット西部保留地の首都はクリーブランドに置かれていた。この地域への初期の入植者の多くはコネチカット州からの移入者であったが、ヤングスタウンには東隣のペンシルベニア州からも少なくない数のスコットランド系・アイルランド系の移民が移入してきた。この地域への最初のヨーロッパ系定住移民はピッツバーグ出身のジェームズ・ヒルマンとその妻キャサリン・ダファーティであった。1798年頃には、ヤングスタウン地域内のミル・クリークとマホニング川の合流点近くに数家族が集まって住んでいた。 -とはいえ、1623年のアンボイナ事件をはさんだ時期において、平戸の商館を閉鎖するなど、アンボイナ事件以前より、イギリスは東アジア・東南アジアにおける活動を縮小しており、イギリス東インド会社の主な活動拠点は、インド亜大陸とイラン(サファヴィー朝)へ移っていった。今日、アンボイナ事件の歴史的意義を見直す動きもあり、アンボイナ事件を契機に東南アジアにおける活動の撤退をしたとされる学説を否定する主張もある。それによると、あくまで、アンボイナ事件の意義とは、イギリス、オランダ両国において、封印されるべき記憶として刻印されたものの、事件の原因は当時のオランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(en:JanPieterszoonCoen)が個人的にイングラン��人を毛嫌いにしており、本国政府の意向を無視したからに他ならないとの事である。 -エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルは、ドイツの陸軍軍人である。最終階級は陸軍元帥。第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。広大な砂漠に展開されたアフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた。アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名で世界的に知られた。貴族出身では無い、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動と多才な人柄で悲劇的な最期をとげたがSSではなく国防軍の所属であった。1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着しており、日本でもほぼ同様の評価が行われてきた。しかし、1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再度検証されるようになった。 -『原爆投下・10秒の衝撃』(げんばくとうか・じゅうびょうのしょうげき)は、NHK総合テレビの「NHKスペシャル」枠で1998年8月6日に放送されたドキュメンタリー番組である。2005年4月3日には、同局にて月1回放送の「平和アーカイブス」枠で再放送された。広島市には1945年(昭和20年)8月6日に原子爆弾(以下「原爆」と表記)「リトルボーイ」が投下された。番組は、原爆がどのような惨禍を地上と人々にもたらしたかを、原爆が炸裂した最初の10秒間にタイムスケールを絞って検証し、CG映像やシミュレーション実験の映像、そして多くの被爆者に取材して得た証言を交えつつ再現している。 -下院軍事委員会の議長でもある、下院議員ダンカン・ハンター(共和党・カリフォルニア州)は、2005年11月3日に、強化されたフェンス(事実上の壁)をアメリカ=メキシコ国境沿いに構築することを提案した。12月5日には、H.R.4437への修正案を提出。この計画には、メキシコ境界の698マイル(1,123キロメートル)に沿ったフェンスの建設の義務化が盛り込まれた。2006年5月17日、上院で、三重構造のフェンスと自動車用フェンスを370マイル作るというS.2611が承認された。 -1930年代後半のスペイン内戦後に国家の中央集権化を推し進めたフランコ体制下(1939-1975)では、公的使用が禁じられて弾圧を受けた。内戦以前のカタルーニャでは年間700冊以上の書籍・年間200冊以上の雑誌が出版されていたが、カタルーニャ語出版物は全面的に禁じられた。自治体・道路・広場などの名称はスペイン語名に変更され、カタルーニャ語名を戸籍簿に登録することが禁じられた。カタルーニャ主義に関与した教育関係者は一様に罷免され、カスティーリャ地方やエストレマドゥーラ地方からスペイン語教師が送り込まれている。カタルーニャ文化の規制は1946年に緩和され、1962年には実質的に自由化されたが、公教育やマスメディアでカタルーニャ語の使用が始まるのはフランコ死去後のことである。 -焼入れ(やきいれ、英語:quenching)とは、金属を所定の高温状態から急冷させる熱処理である。焼き入れとも表記する。広義には、金属全般を所定の高温状態から急冷させる操作を行う処理を指し、狭義には、鉄鋼材料(特に鋼)を金属組織がオーステナイト組織になるまで加熱した後、急冷してマルテンサイト組織を得る熱処理を指す。本記事では、狭義の方の鋼の焼入れについて主に説明する。焼入れを行うことにより、鉄鋼材を硬くして、耐摩耗性や引張強さ、疲労強度などの強度を向上させることができる。焼入れ性がよい材料ほど、材料内部深くまで焼きを入れる(マルテンサイト化させる)ことができる。焼入れしたままでは硬いが脆くなるため、靭性を回復させて粘り強い材料にするために焼戻しを焼入れ後に行うのが一般的である。焼入れ処理にともなって割れやひずみなどの欠陥が起きる可能性があり、冷却方法などに工夫が行われる。 -メフメト2世(トルコ語:II.Mehmet、1432年3月30日-1481年5月3日)は、オスマン帝国の第7代スルタン(皇帝、在位:1444年-1446年、1451年2月3日-1481年5月3日)である。 -以���のように明治時代から三井鉱山が利用してきたのは、跡津川(土第一発電所を建設)など神岡鉱山の麓を流れる高原川(神通川水系)の支流にあたる河川であったが、大正時代、第一次世界大戦が終息する頃になると高原川本流の開発にも目が向けられるようになる。その契機は逓信省による水力調査であった。神通川を含む飛騨山脈(北アルプス)を水源とする水量豊富な富山県下の諸河川は、明治末期以降に水力発電事業が本格化するとその適地として業界の注目を浴びていた。逓信省においてもこれに着目し、臨時発電水力調査局を置いて水力調査を進めた。同局が1914年(大正3年)、時の大隈内閣により行政整理の一環として廃止されると、三井鉱山は神通川・黒部川などの調査を担当していた技師田中吉政を逓信省から迎える。田中は逓信省の了解を得た上で担当していた河川に関する調査資料を入社した三井鉱山に提供したことから、三井の水力発電計画は急速に具体化し、その後数年間にわたる水量測定、気象観測、地形測量を行って、三井鉱山は神通川水系ならびに黒部川水系において水利権(水利使用許可申請)を出願した。出願地点は、神通川水系では高原川4地点をはじめとする計5地点、黒部川水系では計5地点であった。高原川および黒部川における水利権を出願した三井鉱山であったが、黒部川の開発は実現しなかった。これは、アメリカ資本の導入によるアルミニウム製錬を企画する高峰譲吉が水利権の競願者として現れたためである。この競願に対して政府当局は、三井鉱山に高原川、高峰側に黒部川の水利権をそれぞれ許可する意向を示したことから、電力の提供を条件として1918年(大正7年)に三井鉱山は黒部川における水利権出願を撤回。黒部川の水利権は高峰らの東洋アルミナムに許可され、以降、同社や1928年(昭和3年)に同社を吸収する日本電力の手によって黒部川開発が進むことになる。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -青年会や学校教員などが協力して、1908年(明治41年)5月3日には会費制の図書館活動である高遠図書館が創立された。この団体は文芸欄や新着図書欄を持つ「図書館月報」を発行し��巡回文庫(移動図書館)の規定を設けて町民に読書を奨励。この巡回文庫は20冊程度の図書を入れた箱を会員間で巡回させるものである。月1回の例会、年3回の大会を開催し、大会ではレコード鑑賞、講演、研究発表・弁論、運動会などを行った。1914年(大正3年)には活動が評価されて長野県知事表彰を受けている。同年から1915年(大正4年)には寄付金を募って書庫を建設した。書庫建設後には図書館の建設を模索したが、進徳図書館及美術館の構想が具体化したために凍結された。 -1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチスがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏(イギリスとフランス)からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。 -豊田市中央図書館(とよたしちゅうおうとしょかん)は、愛知県豊田市西町1丁目にある公共図書館のことである。名鉄豊田市駅東側の参合館の3-7階にある。豊田市はトヨタ自動車の本社所在地であり自動車産業とともに発展してきた街であることから、自動車資料の収集に力を入れており、公共図書館としては日本最大の自動車資料コレクションを有する。豊田市における図書館サービスは、中央館である豊田市中央図書館、分館である豊田市こども図書室、計31のネットワーク館で構成されている。2015年度時点の図書館・図書室の蔵書数は、全国の中核市45市の中で最多である。 -「ポジャールスキー公」は、1869年に竣工した。艦は事実上の試験艦であり、その後も改修作業が続けられることになった。特に1871年には、バルト海装甲艦実習艦隊長官G・I・ブタコーフ海軍中将の意見に従い、近接戦闘時における銃撃に対する防禦として、すでに撤去されていた戦闘司令塔のかわりに中間艦橋上方に厚み50.8mmの装甲覆いが取り付けられた。 -しかし当時主流だったアカデミズム絵画の立場からは受け入れられず、新聞からは酷評された。その後も、印象派展は全8回開かれたが、全てに参加したのはピサロだけである。第4回印象派展の頃から、主に風景画を描くモネ、ルノワールらの仲間と、風俗画を描くドガとの間でサロンへの立場など様々な問題について意見の対立が顕在化し、ピサロもその調停を試みたがグループの分裂を防ぐことはできなかった。第7回印象派展の開かれた1882年頃には、人物画を中心に描くようになった。1884年からは、エラニーに住んだ。1885年、若手のジョルジュ・スーラと知り合うと、その点描の技法に感化され、1880年代後半は、周囲の不評にもかかわらず、新印象主義を追求した。最後となる第8回印象派展にスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品させたのもピサロであるが、この展覧会は、印象派の終焉を象徴するものとなった。1890年代初めには、点描の限界を感じて新印象派を放棄した。晩年は眼の病気が悪化したこともあり、パリ、ルーアン、ル・アーヴル、ディエップという4都市で、ホテルの部屋などから都市の情景を描く「都市シリーズ」を多く制作している。ピサロが生涯残した油彩画作品は1316点、版画は200点余りに上る。 -江戸時代の文献や石造物には「柳窪」または「柳久保」と表記されている。現在では柳窪一丁目-五丁目を中心に、下里四丁目の一部が含まれる。柳窪村の江戸時代、文政10年(1827年)の家数は38軒、人口は222人、1872年(明治5年)の家数は42軒、人口は253人だった。1872年(明治5年)から神奈川県に編入され、1889年(明治22年)に柳窪村など8村に柳窪新田などを加えて久留米村が成立した。1893年(明治26年)に東京府に編入し、1943年(昭和18年)に東京都となった。 -香川県のうどん店���家庭で作られるうどんを指すとともに、日本全国各地の飲食店でもうどん料理が当名称で供されていたり、冷凍食品などとして手軽に購入できたりするなど、香川県外の地域でも容易に食せる料理として広まっている。代表的なうどんの一種として有名になったことや、2006年から開始された地域団体商標制度への登録は「地名+商品名」でも、一般的に使用されている名称で全国各地で作られている物は難しいという見解を特許庁は示しており、該当する商品(後述)において「本場」「特産」などと表示する場合のみ、公正競争の観点から規制を設けた程度にとどまっている。本場でしか味わえない点と、どこでも容易に触れ得る点の両面から、「本場の味を試したい」という欲求を呼び起こすことに成功している一方で、日本国外でのブランド防衛では後手に回った事例も見られる。小麦粉の切り麺であるうどんは香川にしかないものではなく、古来全国にあるが、讃岐は特にうどんのトップブランドとして広く認知されており、各地のうどんを紹介する際に「第二の讃岐うどん」といった表現が用いられたり、特にゆかりはなくとも「讃岐」「讃岐風」を謳われたりしている。 -オバマの選挙キャンペーン中のメッセージは、変革(チェンジ)の必要性に焦点を当てたものであったことから、マッキンは、オバマが大統領としてアメリカ国家の伝統から逸脱することはしないのだということをアメリカ国民に対して安心させようとしたのだと指摘する。責任への訴えの中で、オバマは、「我々の中で市民の金を管理する者は、説明を果たす責任を負う」、「我々に今求められているのは、新しい責任の時代である――あらゆるアメリカ人が認識することである」と述べた。オバマは、ミュージカル映画「スイング・タイム」からジェローム・カーンとドロシー・フィールズが歌う「ピック・ユアセルフ・アップ」の歌詞を引用し、「今日からは、我々は立ち上がり、体のほこりを払い、アメリカ再建という仕事を再び始めなければならない」と述べた。ニューヨーク・タイムズ紙の記事において、コラムニストで元ドラマ批評家のフランク・リッチは、映画から引用されたフィールズの歌詞との関係について言及し、オバマは演説の中で「かすかな大恐慌時代のイメージ」をほのめかしたのだと書いている。 -オウムの分布はインコのそれに比べると遥かに限定されており、自然界での生息はオーストラレーシアに限られている。野生では21種のうち11種がオーストラリアのみに分布しており、さらに7種がフィリピン諸島、インドネシア、パプアニューギニアおよびソロモン諸島のみに分布する。興味深いことにボルネオ(近くのパラワンとスラウェシでの彼らの存在にもかかわらず)や多くの太平洋の島嶼(化石の痕跡がニューカレドニアで記録されているにも関わらず)ではオウムは見つかっていない。 -1860年代前半には、ベルギー人画商のアルチュール・ステヴァンスおよびそのビジネス・パートナーであるエヌモン・ブランと長期契約を結び、経済的に安定するようになってきた。1862年には、グーピル商会との取引が始まった。ミレーは、1861年のサロンでは、『羊の毛を刈る女性』、『ミルク粥』、『待つ人』の3作品が入選した。『羊の毛を刈る女性』は、サロンで賞賛された。この年、第8子(三男)ジョルジュが生まれた。1863年のサロンに、代表作の一つとなる『鍬に寄りかかる男』を出品したが、重労働にあえぐ農民の姿は、サロンでは酷評された。「脱走した殺人者がモデルではないか」との評もあった。他に『羊毛を梳く女』と『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』を出品している。 -2011年の水戸市立博物館特別展示『逆川緑地』の図録では、逆川緑地には現在88種の野鳥が確認できている、としている。この多種な鳥が生息するのは、逆川緑地がヨシ原、竹林、落葉樹林、杉林といった多様な植生を持っているからとしている。以下は水戸市立博物館が2010年9月から2011年8月に行った逆川緑地で見られる野鳥調査で紹介されている鳥である。逆川は流量が少ない為、水生植物の生息は広くは見られない。それでも、ササバモ等の沈水植物も見られる。陸上においては、逆川緑地において���ヨシ原、竹林、落葉樹林、杉林といった多様な植生が見られる。 -オークニー諸島の約80km北、フェロー諸島の南東約280kmに位置し、シェトランドの西は大西洋、東は北海となる。総面積は1,468km2で、2009年時点の人口は22,210人である。スコットランド議会のシェトランド選挙区を構成しており、スコットランドの32あるカウンシル・エリアの1つである。シェトランドの行政中心地で、唯一の自由都市はラーウィックである。諸島のうち最大の島は単にメインランド島といい、面積は967km2、スコットランドの島のうち3番目、ブリテン諸島中5番目の面積を持つ。さらに15の有人島がある。シェトランド諸島は海洋性気候であり、複雑な地質、険しい海岸線と総じて低い丘陵がある。 -1973年(昭和48年)末から1974年(昭和49年)初頭には建物を増築して延床面積は1,250.9m2となった。1974年度(昭和49年度)を境に図書購入費や蔵書数の伸びが著しく、1974年度(昭和49年度)に47,477冊だった蔵書数は10年後の1984年度(昭和59年度)には188,967冊に達した。この時の建物は安城公園内にあるために都市公園法の規制を受け、立地条件はよかったものの、これ以上の増築は不可能だった。1980年(昭和55年)の安城市総合計画には新図書館構想が盛り込まれ、1981年度(昭和56年度)には新築移転の方向性が示された。1982年度(昭和57年度)中には移転場所が決定し、1983年(昭和58年)には競技設計方式で石本建築事務所が設計者に選定された。 -三島由紀夫(みしまゆきお、本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)、1925年(大正14年)1月14日-1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者である。血液型はA型。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁した。バルコニーでクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた。 -当時、水戸藩の徳川斉昭は強硬な攘夷思想を持っており、攘夷を果たすことを目的として反射炉を建設して鉄製の大砲を鋳造することにした。しかし斉昭の強硬な攘夷思想の影響もあって、水戸藩内には蘭学など西洋の技術を学んだ人材がいなかったため、南部藩士の大島高任など、藩外部から人材の派遣を受けて反射炉の建造を進めることになった。大島高任は鉄製大砲の鋳造には鉄鉱石の鉄を用いる必要があると判断していた。安政3年(1856年)、大島は中小坂鉄山の鉄鉱石を鑑定し、大砲鋳造用の鉄の原料として極めて優秀な鉱石であるとした。そこで中小坂鉄山の鉄、約1800貫目が数回に分けて那珂湊に建設された水戸藩の反射炉で用いるために運ばれることになった。 -1796年と1800年の戦役では、いずれもドナウ川周辺がフランス軍の戦闘の中心地になるとナポレオンが考えたにもかかわらず、イタリアが最も重要な舞台となった。宮廷評議会はナポレオンがイタリアを再び攻撃すると考えたが、ナポレオンには別の目的があった。210,000のフランス軍はブローニュの野営地から東に向かい、もしオーストリア軍がシュヴァルツヴァルトに向かって行軍を続けるなら、マック将軍のオーストリア軍を包囲するつもりだった -血液検査(末梢血)で芽球を明らかに認めれば白血病の可能性は高い。末梢血で芽球が認められなくとも、白血球が著増していたり、あるいは赤血球と血小板が著しく減少し非血液疾患の可能性が見つからなければ、骨髄検査が必要になる(白血病では白血球は、著増していることもあれば正常あるいは減少していることもある。10万を超えるような場合以外は白血球数だけでは白血病かどうかは分からない)。骨髄で芽球の割合が著増していたり、極端な過形成であればやはり白血病の可能性は非常に高い。急性白血病の骨髄では芽球の増加を認め、WHO分類では骨髄の有核細胞のなかでの芽球の割合が20%以上であれば急性白血病と定義するので骨髄検査を行わないと診断を確定できない。さらに骨髄内の有核細胞中のMPO陽性比率や非特異的エステラーゼ染色や免疫学的マーカー捜索によって急性白血病中の病型の診断を確定させる。CMLやCLLでも骨髄でのそれぞれの特徴的な骨髄像の確認は重要であり、CMLではフィラデルフィア染色体の捜索を行う。また、白血病細胞の中枢神経への浸潤の可能性や脾・肝臓腫、感染症などの白血病の症状を探るための諸検査(CT検査、脳脊髄液検査、細菌培養検査等)も行われる。 -女性Cは1908年7月4日生まれだ。男性Aの実母かつB・E姉妹の祖母で、事件当時は現場マンションにて息子夫婦・孫2人と同居していたが、高齢のため散歩に出るとき以外は玄関北側の自室で過ごしていたことが多かった。事件当日16時30分ごろに自宅でSに首を絞められて窒息死し、市川一家4人殺人事件で最初の犠牲者となった。女性Dは1955年6月19日生まれ、熊本県八代市出身だ。事件当日19時ごろ、長女Bとともに帰宅した直後に室内に隠れていたSから襲撃され、Bの目の前で包丁で刺されて出血多量で死亡した。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -スペインではクリスマスにキリストの降誕の場面を模したベレン(Belén)と呼ばれる立体模型を製作することが多いが、カタルーニャ地方ではこの生誕飾りがパセブラと呼ばれる。パセブラには必ずカガネル(排便人形)が飾られ、翌年の豊穣などを祈願する。この時期になると子どもはカガ・ティオー(糞しろ、丸太)と呼ばれる人形を作り、クリスマスに「糞しろ、丸太、糞しろ丸太」と歌いながら人形を棒で叩くと、菓子やおもちゃが貰える。春季には聖週間や復活祭が行われ、白いシュロ飾りやチョコレート菓子などが登場する。聖木曜の沈黙の行列を行う都市もあり、キリストの受難劇を含む行列を行う村もある。4月23日にはカタルーニャの守護聖人であるサン・ジョルディの祭礼が行われ、人々はバラの花や本を贈りあう。夏至の時期である6月23日にはサン・ジュアンの祭礼が行われ、この日には爆竹を鳴らすのが一般的な風習となっている。カタルーニャの象徴であるカニゴー山でたき火を行い、その火をカタルーニャの全自治体の祭礼会場に届けることでカタルーニャ地方の一体感を再確認する日でもある。9月24日はバルセロナの守護聖人であるマルセー(慈悲の聖母)の日であり、この日を中心とする一週間にはコンサート、マラソン、航空ショー、花火など様々なイベントが開催される。11月1日の諸聖人の日と11月2日の死者の日が祝われ、焼き栗などが食べられる。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -斗満虐殺事件は朝鮮戦争中の大田の戦いにおいて1950年7月16日に行われた戦争犯罪である。現大韓民国世宗特別自治市錦南面斗満里の北にある山で、重傷を負った非武装のアメリカ陸軍兵士30名と同じく非武装のチャプレン1名が北朝鮮軍の部隊によって殺害された。大田の戦いの錦江付近での軍事行動中に、アメリカ陸軍の第24師団第19歩兵連隊の部隊がバリケードによって補給線を断たれた。このバリケードは北朝鮮軍の第3歩兵師団が設置したものだった。バリケードを破壊するのは困難だと分かり、部隊は負傷兵を撤退させるため近くの山間部を移動させるしかなかった。疲労のため負傷兵の搬送が困難となり、重傷を負った米軍兵30名は山頂に取り残された。2名の非戦闘員、チャプレンと衛生兵各1名も負傷兵と共に山頂に残っていた。この負傷兵の部隊は北朝鮮軍の斥候に発見され、衛生兵は逃走に成功したものの残りの31名全員が銃殺された。非武装のチャプレンは負傷兵らのために祈っているところを射殺され、その後残りの負傷兵30名も殺害された。同年7月、この虐殺などいくつかの事件を理由に、アメリカ軍の指揮官らは朝鮮戦争中の戦争犯罪を調査するための委員会を設立した。同月、北朝鮮の指揮官らは自軍の兵士による捕虜の取り扱い方を懸念して、より厳格な敵捕虜の取り扱いに関するガイドラインを策定した。北朝鮮におけるこの事件の史料はこれ以外ほとんど知られていない。そのため、この記事の執筆に用いた参考文献のほとんどはアメリカ合衆国の文献であり、残りも国連軍側で参戦した国の文献である。 -クーデターでパパンドレウの政治的実権を奪うことに成功はしたものの、内閣の実権を握っていたのは官房長官として入閣していたパパドプロスであり彼の署名を得られないと政策の一つも実行できなかった。こうした実態に不満を抱いていたコンスタンティノス2世は、1967年12月13日に軍の一部と組んで首相コリアスの支持を得た上で逆クーデターを仕掛けるためにギリシャ北部のテッサロニキで王室支持派を集めようとした。しかし、陸軍が軍事政権への忠誠を誓っていたため失敗に終わり、コンスタンティノス2世は家族とコリアスらとともにローマへ亡命した。こうして1864年以来続いた『王冠を戴いた民主主義』は終焉を迎える事となった。 -マイン川とドナウ川の間の運河は、1843年にはすでにルートヴィヒ運河が開通していた。この運河もやはりバンベルクでマイン川に接続していたのだが、運河の川筋に沿って曳舟道があり、幅の狭い運河を馬が船を引いて往き来していた。この運河は、技術的に時代遅れになっていたことや第二次世界大戦で被害を受けたことから、1950年に廃止された。近代的な運河掘削の計画は1920年からすでにあった。1960年にバンベルク側で工事が始まり、1972年に、まずはニュルンベルクまでの区間が開通した。これにより、人口100万人を数えるニュルンベルク工業地域がマイン川の内陸航行システムに結びつくこととなり、交通状況の改善を印象づけた。1992年に運河は、ドナウ川沿岸のケルハイムまで完成し、両河川間の交通が接続された。 -警察庁は2019年12月10日現在、4,198箇所で道路の損壊があったと発表している。岩手県山田町の船越半島や宮城県の南三陸町、牡鹿半島などにつながる道路が寸断され、岩手・宮��・福島の3県で少なくとも1万6000人が孤立した。また、茨城県では北浦に架かる鹿行大橋の一部が崩落した。首都高速道路でも湾岸線を中心に被害が発生し、高架橋に破損箇所が発生した新木場出入口-葛西ジャンクション間が3月22日、大黒ジャンクション連絡路が3月27日まで通行止めとなった。東日本高速道路(NEXCO東日本)管内の高速道路では、広範囲の路線で通行止めとなった。東北自動車道の浦和インターチェンジ-碇ヶ関インターチェンジ間、秋田自動車道・釜石自動車道・八戸自動車道の一部、常磐自動車道の三郷ジャンクション以北、磐越自動車道の津川インターチェンジ以東などが公安委員会により緊急交通路に指定され、緊急車両専用となった。3月24日6時に全区間で通行止めが解除され、一般車両の通行が可能となったが、常磐自動車道の広野インターチェンジ-常磐富岡インターチェンジ間は、福島第一原子力発電所事故の旧警戒区域内だが2014年2月22日3年ぶりに再開通(通行再開)した。当初2011年度に予定されていた常磐富岡インターチェンジ-相馬インターチェンジ間は、開通が延期された。なお、旧警戒区域外の南相馬インターチェンジ以北が2012年4月8日に先行開通した。その後、浪江インターチェンジ-南相馬インターチェンジ間は2014年12月6日、常磐富岡インターチェンジ-浪江インターチェンジ間も2015年3月1日に開通し、この日をもって常磐自動車道は全線開通した。東北地方整備局は沿岸部の都市への救援のためくしの歯作戦を実行した。2019年6月現在、浪江町請戸の旧請戸小学校近くの道路には津波の引き波によるアスファルトの表層部分の変位(海側へのずれ)が明瞭に残っている。東北地方太平洋沖地震による津波の痕跡がこのように見られる場所は非常に限られており、防災学習等の分野としても貴重である。 -ヨーロッパ人の入植は、オランダ人が1614年にマンハッタンの南端に毛皮貿易のために建てた植民地が始まりであり、これがのちに「ニューアムステルダム」と呼ばれるようになった。オランダ植民地の総裁ピーター・ミヌイットが、1626年、レナペ族(デラウェア族)からマンハッタン島を60ギルダー(2006年現在の換算で1,000ドル程度)分の物品と交換した。現在では否定されているが、マンハッタンの代価は24ドル相当のガラスのビーズであったという伝説もある。インディアンには「土地を売る」という文化がそもそもなかったため、この取引を彼らが理解していたかどうかは疑わしい。以後、ボタンをかけ違えたまま、レナペ族や周辺部族と入植者は何度も領土をめぐって戦いが繰り返されているのである。 -1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者となって以降、ソ連からの独立を宣言する地域が続出し、南オセチア議会も1989年に独立を宣言する。グルジアはそれに異議を唱えて1991年1月に南オセチアに軍を送って戦争となった。この戦争での死者は2000人以上と見られている。戦争中は両軍によって数々の残虐行為が行われた。グルジアあるいは南オセチア内の住居を追われたオセット人は10万人に達し、一方で2万3千人のグルジア人が南オセチアに留まった。その結果、戦後の南オセチア人口は7万人に減り、グルジア人の割合は5分の1に上がった。グルジアは戦争中の1991年4月にソ連からの独立を宣言し、12月にソ連解体が決まったため正式に独立国となった。1992年に停戦が合意され、南オセチアの中心都市ツヒンヴァリの周りに「グルジア・オセチア間紛争解決合同調整委員会」(JointControlCommissionforGeorgian-OssetianConflictResolution)の管理下で、ロシア、グルジア、南オセチア3者による平和維持軍が置かれ、南オセチアは事実上独立状態になった。 -この博物館は元々大英博物館の一部門として始まっている。大英博物館自体は、1753年にアイルランドの医師ハンス・スローン卿から英国政府に遺贈された彼のコレクションを、ブルームズベリーのモンタギュー・ハウスに収めたことに始まる。このコレクションには、書籍・コインなどに加えて動物・植物・鉱物のコレクションも含まれていた。既に大英博物館の成立時に自然史博物館としてのスタートは切られていたのである。しかしながら、およそ一世紀も経つと、モンタギュー・ハウスに収蔵するには標本・資料類が膨大になってきた。そこで、大英博物館の自然史関係標本のために新しく別館を建てるべきであると強固に主張したのが、1856年から大英博物館の自然史部門長を務めていたリチャード・オーウェンである。オーウェンの主張は程なく受け入れられ1860年に新館の建築と自然史関係標本の移動が決定し、サウスケンジントンで1862年に開催されたロンドン万国博覧会跡地が新しい博物館のために購入された。 -ニンテンドーDS上で不正にプログラムを動作させる「マジコン」と呼ばれる装置について、任天堂及びソフトメーカー49社は販売業者に対して各地で著作権被害を訴えて訴訟を起こした。被害総額は全世界で4兆円近くとも試算されている。2013年7月、東京地裁で任天堂側勝訴の判決が下された。また、2016年1月には最高裁で上告が棄却され、任天堂側の勝訴が確定した。 -A330の生産はそれまでのエアバス機と同様に国際分業体制がとられ、参加各国でパーツを分担して製造し、最終組み立てはフランスのトゥールーズで行われた。生産においてもA330とA340の共通性は極めて高く、同一ライン上で両機の組み立てが行われた。トゥールーズにはA330/A340を組み立てるための施設が新設され、最終組み立て工程の一部にはロボットが導入された。試作機の製造や試験もA340が先行して行われた。1991年10月4日にA340の1号機の完成披露式典が行われたが、ちょうどその頃、A330の試作機の最終組み立てが開始されている。A330の初号機は1992年10月14日に完成し、11月2日に初飛行を行った。当初のA330の飛行試験に用いられたのは3機で、いずれもCF6エンジン装備機だった。1993年10月21日、A330の最初の型式証明が、欧州の合同航空当局(JointAviationAuthorities)と米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration)から同時に交付された。1993年12月末にエールアンテールに対してA330の最初の引き渡しが行われた。その後、初号機はエンジンをトレント700に換装されて1994年1月31日に初飛行し、1994年12月22日に同エンジン装備型に対する型式証明を取得した。PW4000エンジン仕様については、最初の機体が1993年10月14日に初飛行し、1994年6月2日に同エンジン装備型の型式証明を取得している。PW4000を装備した最初の機体は、型式証明の取得から間もない6月30日に試験飛行時に墜落し、搭乗していた7名全員が死亡した(エアバス・インダストリー129便墜落事故)。これは、A330で最初の墜落事故となった。 -この時期のローマは西方のヒスパニアではセルトリウスの反乱が紀元前77年から続いており、紀元前73年にはこれに呼応する形で東方のポントス王ミトリダテス6世との戦争が再開していた(第三次ミトリダテス戦争)。東地中海ではクレタの海賊が跋扈してローマの補給路を脅かしており、この危機のさなかにイタリア本土で剣闘士や奴隷による蜂起が発生した。 -ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 -ペンシルベニア州の研究報告では、予備調査の対象である全ての生産者が、問題の死亡現象の前にコロニーが「特殊なストレス」にさらされていたことを記載しているというものがあった。そのストレスとは栄養不足や水不足、あるいはどちらか一方である。この報告においては、「ストレス」という要因がCCDの全事��に共通する唯一の要因である。従って、この現象が栄養状態のストレスと相関関係にあり、健康で栄養が十分に与えられたコロニーでは影響が見られないという可能性はあるだろうと思われる。気候変動が原因とする説もある。地球全体の温暖化によって局所的には通常より低い温度になったり高い温度になったり、また寒波の周期が遅れるためではないかと指摘される。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -彗星が太陽に近づいた時に放出された塵は流星の元となる塵の供給源となっている。彗星の中には肉眼でもはっきり見えるほど明るくなるものもあり、不吉なことの前兆と考えられるなど、古くから人類の関心の的となってきた。いくつかの明るい彗星の出現の記録は、古文献などに残っている。古代ギリシアの時代から長い間、彗星は大気圏内の現象だと考えられてきたが、16世紀になって、宇宙空間にあることが証明された。彗星の性質などには未だに不明な点も多く、また近年は太陽系生成論の方面からも大きな関心が寄せられ、彗星の核に探査機が送り込まれるなど、研究・観測が活発に続けられている。彗星には、発見報告順に最大3人まで発見者(個人またはチーム、プロジェクト)の名前が付けられる。彗星を熱心に捜索する「コメットハンター」と呼ばれる天文家もいるが、20世紀末以降は多くの彗星が自動捜索プロジェクトによって発見されるようになっている。2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合(IAU)総会での決議により、彗星は小惑星とともにsmallsolarsystembodies(SSSB)のカテゴリーに包括することが決定された。これを受け、日本学術会議は2007年4月9日の対外報告(第一報告)において、2007年現在使われている「彗星」「小惑星」等の用語との関係については将来的に整理されることを前提とした上で、smallsolarsystembodiesの訳語として「太陽系小天体」の使用を推奨した。 -東方問題(とうほうもんだい、英:EasternQuestion)とは、オスマン帝国およびその支配地域をめぐるヨーロッパ諸国の外交問題のことをいう。広義にはオスマン帝国成立以来の、キリスト教ヨーロッパ世界への圧迫に関わるヨーロッパ諸国間の外交問題。狭義においては18世紀以降のオスマン帝国の解体過程に伴って生じ、19世紀に顕著となったオスマン帝国領内での紛争に関連するヨーロッパ諸国間の国際問題を意味し、今日一般的にはこの用法で使われる。サンクトペテルブルクから資本を注入され債務国となったロシア帝国は、オスマン債務管理局の利権にくいこめず南下政策を完封された。ロシアを欠い��神聖同盟は第一次世界大戦で粉砕され、東方問題は一応の決着をみた。 -採取の中心となる潜水夫は、シーブ(縄の引き上げ役)と対になって潜水を行う。潜水夫は2本の縄とともに潜るが、片方には重石が付いている。潜水夫は重石を利用して効率的に海底にたどり着くと、迅速に作業を始める(重石の付いた縄はこの時点で引きあげられる)。潜水夫は素潜りに近く、半ズボンのようなものを着けただけで、ほかには鼻挟み、真珠貝を引き剥がすナイフ、貝を入れておく網袋(首から提げる)、指先を傷つけないための指袋を携帯しているのみである。ただし、ミノカサゴやクラゲなどに刺されると、潜水できなくなって送還される理由になりえたため、その対策として全身を覆う黒い潜水服(リビス)を着用することがあった。 -この疾患がいつから山梨県で「地方病」と呼ばれるようになったのかを明確に記したものはない。しかし明治20年代(1887-1896年)の初め頃には、甲府盆地の地元開業医の間で「地方病」と称し始めていたことが各種資料文献などによって確認することができる。医学的に「日本住血吸虫症」と呼ばれるようになったのは、病原寄生虫が発見され、病気の原因が寄生虫によるものであると解明されてからのことである。しかし山梨県内では病原解明後も今日に至るまで、「地方病」という言葉は一般市民はもとより行政機関等においても使用され続け定着しており、一般的には風土病を指す「地方病」という言葉は「日本住血吸虫症」を指す代名詞と化している。腹部が大きく膨らむ特徴的な症状から古くは、水腫脹満(すいしゅちょうまん)、はらっぱり、などと呼ばれていた「地方病」は、以下に示す史料文献中の記述により、少なくとも近世段階にはすでに甲府盆地で流行していたものと考えられている。 -水星は、太陽系にある惑星の1つで、太陽に最も近い公転軌道を周回している。岩石質の「地球型惑星」に分類され、太陽系惑星の中で大きさ、質量ともに最小のものである。太陽系の惑星の中では最も小さい。例えば赤道面での直径4,879.4kmは、地球の38%に過ぎない。衛星である木星のガニメデや土星のタイタンよりも小さい。衛星や環はない。天球上での見かけの明るさは−0.4等から5.5等まで変化する。水星は太陽に非常に近いため、日の出前と日没直後のわずかな時間しか観察できず、時期によっては望遠鏡でも見ることが難しい。これは太陽との最大離角が28.3度に過ぎないためである。アメリカの探査機マリナー10号が初めて水星へ接近し、地表の約40から45%の地図が作られた。撮影された映像から、水星には多数のクレーターがあり、月と非常によく似た環境だと考えられた。依然として分からないことが多い惑星であるが、2008年に探査を始めたアメリカのメッセンジャーや、2018年10月に打ち上げられた日欧共同プロジェクトベピ・コロンボなどによって、探査の進展が期待されている。 -1792年のポーランド・ロシア戦争(ポーランド語:Wojnapolsko-rosyjska)または第二次分割戦争(英語:WaroftheSecondPartition)または5月3日憲法防衛戦争(ポーランド語:wojnawobronieKonstytucji3maja)は、同年5月18日から7月27日にかけて、ポーランド・リトアニア共和国と、同国内の5月3日憲法に反対する勢力タルゴヴィツァ連盟とエカチェリーナ2世治下のロシア帝国の連合軍の間に起こった戦争のことをいう。 -緑地の中、水神橋近くには茨城県指定の史蹟「笠原水道」がある。笠原水道は水戸藩第2代藩主徳川光圀が水戸城下への飲料水供給のために整備した上水道である。史蹟にある水源には「龍頭栓」と呼ぶ蛇口が設置されており、市民の水くみに供している。また、小門橋近くの「いきののたちの広場」には笠原水道の遺物である、水を城下に運んだ岩樋の一部が展示されている。緑地内には周回2.2キロメートルのウォーキングコースも設定されている。また同じ市内の千波公園、偕楽園等いくつかの公園等を一括した300ヘクタールのエリアを「偕楽園公園」と総称し、これは市街地に近い都市公園としてはニューヨークのセントラル・パークに次ぐ世界第2位の広さを持つものであると、1999年から茨城県及び水戸市により広報されているが、逆川緑地はこの総称「偕楽園公園」の一角に加え��れている。 -サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家であるドラクロワ、レンブラント、ミレーらの版画や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは『ピエタ』や『善きサマリア人』、レンブラントからは『天使の半身像』や『ラザロの復活』という宗教画を選んで模写していることが特徴である。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている。サン=レミでは、そのほかにギュスターヴ・ドレの『監獄の中庭』やドーミエの『飲んだくれ』など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない。ファン・ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した『ラザロの復活』(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている。 -人魚伝説は世界各地に存在し、その正体は海牛類などとされるが、日本における人魚伝説の多くはリュウグウノツカイに基づくと考えられている。『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などの文献に登場する人魚は、共通して白い肌と赤い髪を備えると描写されているが、これは銀白色の体と赤く長い鰭を持つ本種の特徴と一致するのである。また『長崎見聞録』にある人魚図は本種によく似ている。日本海沿岸に人魚伝説が多いことも、本種の目撃例が太平洋側よりも日本海側で多いことと整合する。日本近海では普通ではないものの、極端に稀というわけでもなく、相当数の目撃記録がある。漂着したり漁獲されたりするとその大きさと外見から人目を惹き、報道されることが多い。サケガシラなど他の深海魚の浅海での目撃や海岸漂着を含めて、天変地異、特に地震の前兆(宏観異常現象)の一つとされることもあるが、魚類学者の本間義治によれば憶測に過ぎず、東海大学の研究でも否定されている。こうした日本の伝承・俗説は、インドネシアでも知られている。2014年1月に兵庫県豊岡市に漂着した個体では、市内の環境省の学習施設の職員らが解剖調査を行った後に調理して試食しており、身に臭みや癖がないことや、食感が鶏卵の白身のようであること、内臓の部位によっては味が濃厚であることなどを報告している。生きたリュウグウノツカイを漁師が銛で突き、極めて新鮮なうちに食べた記録が、長崎県壱岐諸島の『壱岐日日新聞』519号(2010年1月29日付)にある。全長約5メートル、40-50キログラムの個体で「刺身で食べたらゼラチン質がプリプリして、甘みがいっぱい。まるでエビの刺身」という。また、鍋で食べても、「身が甘くてツルッとした口触りで柔らかく、鍋一杯がアッという間になくなるほど好評だった」という。富山県では冬になると本種がしばしば定置網にかかり、漁師から「おいらん」と呼ばれている。また新潟県の柏崎では「シラタキ」と呼ばれる。 -1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した。これによりハイパーインフレーションが発生し、軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、国力の衰えからそれを実現���る条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。 -1968年(昭和43年)6月、雷蔵は『関の弥太っぺ』の撮影中に下血に見舞われ、入院した。検査の結果、直腸癌であることが判明したが、本人には知らされなかった。8月10日に手術を受け退院したが、家族は医師から「半年余りの間に再発する」という宣告を受けた。雷蔵は生まれつき胃腸が弱く、1961年(昭和36年)にも『沓掛時次郎』の撮影後に下血に見舞われており、病院で精密検査を受けた結果、「直腸に傷がある」という診断を受けたことがあった。また、1964年(昭和39年)1月に日生劇場で『勧進帳』をつとめた際には武智鉄二に対し、「下痢に悩まされている」と告白している。 -また、DC-10の次世代型として開発されたMD-11も期待したほどの受注を得られず、マクドネル・ダグラスの経営は次第に苦しくなった。マクドネル・ダグラスは、ボーイングに吸収合併されることとなり、1997年8月4日、合併作業が完了した。MD-90は、ボーイングの既存製品である737NGと客席数や航続距離性能が完全に重複していたため、製造機種を737NGに一本化することとなった。1997年10月、新生ボーイングは、MD-90の新規受注を停止して製造を終了することを発表した。2000年10月23日、MD-90の最終生産機がサウジアラビア航空(現・サウディア)に納入されて生産終了となった。MD-90は正式開発の決定から約10年で生産終了を迎え、総生産数は116機であった。MD-90は、そのルーツとなったDC-9の時点から保守的な機体であり、ダグラスらしいと評される堅実な設計ではあったが、先進技術を積極的に採用したA320が登場すると、古さが目立つようになった。また、737やA320では胴体延長により200席級の派生型が開発されたが、DC-9由来のMD-90の胴体はA320や737より座席1つ分細いことに加え、エンジンをリア・マウントしたことによる制約もあり、大型化の余地が少なかった。ボーイングとの合併、そして737NGへの製品一本化によりMD-90の生産期間が短くなったのは確実だが、マクドネル・ダグラスの経営は悪化しており、旅客機の販売力も大幅に低下していた。仮にマクドネル・ダグラスが合併せずにMD-90の生産が継続されたとしても、競合機ほどの受注機数は得られなかったであろうという見方もある。 -1712年、イギリスとフランスは休戦を宣言し、最終的な和平協定はその翌年に調印された。フランスはスペイン継承戦争の戦争目的であったフェリペ5世のスペイン王即位を反フランス同盟側に承認させることの代償として講和条件を大幅に譲歩せざるを得ず、1713年のユトレヒト条約のもと、イギリスはアカディア(イギリスによりノバスコシアと改名)、ニューファンドランド島の主権、ハドソン湾地域およびカリブ海に浮かぶセントキッツ島の島々を得た。アカディアの地位は和平交渉の中でもより議論を呼びもう少しで別の新たな戦争が起こるところだったが、最終的に国境線を明記しないままイギリス領とすることで決着し、その代わりフランスは大西洋の漁場を確保するために重要なサンジャン島(現プリンスエドワード島)とケープ・ブレトン島の2島を維持した。フランスはサンジャン島およびケープ・ブレトン島を含むセントローレンス湾の全ての島々を保有することとなり、この地域での漁業権に加えてニューファンドランド島北岸で干物を作る権利を維持した -MD-90は客室に1本の通路を持つナローボディ機で、片持ち式の低翼の主翼を持つ単葉機である。エンジンは胴体尾部に左右1発ずつ配置したリア・マウント方式であり、垂直尾翼の上端部に水平尾翼を配したT字尾翼機である。胴体断面はDC-9から引き継がれたもので、2つの円を組み合わせたダルマを逆さにしたような断面を持ち、最大幅が3.34メートル、胴体長は43.03メートルである。MD-90の主翼はテーパーがついた後退翼で、内部の構造や前縁、後縁、動翼などをMD-83のままとし、上面と下面の外板が強化された。主翼の平面形は、翼幅が32.87メートル、翼面積は112.4平方メートル、25パーセント翼弦の後退角は24.5度である。主翼には動翼として、エルロン、スポイラー、高揚力装置が配置されている。エルロンは後縁の最も外側にあり、トリム・タブとコントロール・タブと呼���れる小板を有する。エルロンの操縦は油圧を用いない手動式で、コックピットの操縦桿でコントロール・タブを動かし、タブにあたる空気の力でタブの変位と反対方向にエルロンを動かす仕組みである。高揚力装置は前縁にスラット、後縁にフラップを備える。スラットは翼幅全長にわたって配置され6枚構成、フラップは内舷部と外弦部の2枚構成である(いずれも片翼あたりの枚数)。フラップはベーン付きのダブル・スロッテッド・フラップで油圧駆動式である。スポイラーは片翼あたり3枚で、内側の1枚がグラウンド・スポイラー、外側の2枚がフライト・スポイラーである。フライト・スポイラーは、飛行中にスピード・ブレーキとして働くほか、エルロンの補助としても用いられる。着陸時の接地後と離陸中止の停止時には全てのスポイラーが直立し、主翼の揚力を減殺すると同時にスピード・ブレーキとしても働く。 -マリ・キュリーは1883年6月12日にギムナジウムを優秀な成績で卒業した。しかし当時、女性には進学の道は開かれていなかった。父は、マリを1年間、親戚やかつての教え子が住む田舎で息抜きさせ、彼女は自然の中でのんびりした生活を堪能した。その後ワルシャワに戻ってチューターなどを務めていたが、ピャセツカという女性教師の紹介で非合法の「さまよえる大学」で学ぶ機会を得た。その頃、姉ブロスニワバがパリで薬学修学のために貯金をしていたため、マリは申し出て働き、姉を援助することを決めた。1885年からマリは住み込みの家庭教師を始めた。最初はクラクフの法律家一家で、その後チェハヌフで農業を営む父方の親戚筋に当るゾラフスキ家でガヴァネスとなった。ここで勉学に打ち込んだ彼女に、ワルシャワ大学で数学を学んでいた一家の長男カジュミェシュ・ゾラフスキが惹かれ、ふたりは恋仲となった。しかし、カジュミェシュが結婚の希望を両親に告げると、社会的地位の違いを理由に猛反対された。彼女は失意のまま契約の2年間を終えるとチェハヌフを去り、バルト海沿岸にあるソポトの町に住むフックス家でさらに1年間家庭教師の仕事を続けた。 -事故調査は、当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルが費用や人員の投入を惜しまぬ徹底解明を指示したことから、RAE(ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント、英国王立航空研究所)や英国軍の協力の下、国家を挙げての全力の調査として行われることになった。2つの事故とも、事故機に搭乗していた全員の遺体を収容することはできなかったが、収容された犠牲者の法医学による検死は、事故発生時の状況について重要な証言をすることになった。犠牲者の遺体はいずれも激しく損傷していたが、爆発物が機内で炸裂した場合に受けるであろう金属片は検出されなかった。そのため、事故当初一部で唱えられた航空テロの可能性は否定された。次に犠牲者の遺体には肺気腫や肺の出血と血栓があるほか、頭蓋骨に損傷がないのに鼓膜が破れていた。これらの症状は、急減圧に見舞われた人体特有のものであった。そのため、搭乗者は客室の与圧が突如失われる事態に遭遇した事に相違ない、と断定された。 -みよかは1969年には男性参入による美容師の地位向上を願い、日本初のユニセックスサロンとして、男性スタッフのみのサロン「コワフュール・シバヤマ」を青山に開業して、話題を呼んだ。翌1970年、エステティシャンの国際組織であるCIDESCO(シデスコ)の、オランダでの国際会議にオブザーバーとして参加した。ここで日本支部の設立の許可を得た。2年後の1972年、CIDESCOの23番目の支部として、日本エステティシャン協会が設立された。エステティシャンの地位確立と技術向上、エステの技術普及を目的とした専門団体は、日本ではこれが最初である。1980年にはアジア初のCIDESCOの国際会議を主催し、世界各国のエステティシャンとの交流を深めた。また同1980年、エステの民間資格制度への道として、インターナショナル・エステティシャン試験を実施した。婚礼部門にも尽力し、ヘアデザイン、着付け、エステティックと、総合的な美容を広めた。日本エステティシャン協会の他にも、日本ヘアデザイン協会、日本婚礼美容家協会など、業界団体の設立にも力��注いだ。エステティック業界では「効果が無い」など客の苦情も少なくなかったことに対しては、「原因は技術者の勉強不足」と主張し、1988年9月にはシドニーで開催されたCIDESCOの国際研究会に、技術者31人と共に参加するなど、技術者の育成にも努めた。2009年6月11日、老衰のため、家族たちに看取られつつ満101歳で死去した。没後は長男の小守谷巽が日本エステティック協会の理事長を継いだ。墓碑は千葉県野田市の宗英寺にある。 -カメハメハが1819年5月8日に他界すると、長男のリホリホが王位を継承した。しかし、執政能力に不安を感じていたカメハメハは摂政(クヒナ・ヌイ)の地位を新設し、リホリホの義母にあたる妻のカアフマヌをその地位に充てた。カアフマヌは、リホリホの母であるケオプオラニと協力し12世紀以降続いていた禁令制度(カプ)の廃止を進めた。土着信仰として根付き、かつカフナたちの立場的優位性を築いてきたタブーを率先して破り、神および神官の存在を否定した。こうして古代宗教の神殿は破壊され、礼拝や生贄といった儀式も中止されることとなったが、階層構造により保たれていた秩序や規範も崩壊し、ハワイ王国は波乱の時代を迎えることとなった。1820年3月31日、アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニューイングランドよりコハラに到着した。彼らはそこで見たハワイ先住民たちの非道徳的な振舞いに衝撃を覚える。男はマロと呼ばれるふんどしのような帯のみを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、フラダンスという扇情的な踊りを踊り、生まれた幼児を平気で間引く彼らの文化は、無知で、野蛮で、非人道的なものであると理解するに十分であった。こうした風紀と社会秩序の乱れを回復すべく、ビンガムを主導として宣教師らはプロテスタンティズムによる社会統制を試みた。こうしたアメリカ人宣教師らの影響は次第に教育、政治、経済の各分野へ広がっていった。 -1792年のポーランド・ロシア戦争(ポーランド語:Wojnapolsko-rosyjska)または第二次分割戦争(英語:WaroftheSecondPartition)または5月3日憲法防衛戦争(ポーランド語:wojnawobronieKonstytucji3maja)は、同年5月18日から7月27日にかけて、ポーランド・リトアニア共和国と、同国内の5月3日憲法に反対する勢力タルゴヴィツァ連盟とエカチェリーナ2世治下のロシア帝国の連合軍の間に起こった戦争のことをいう。 -1965年(昭和40年)4月には愛知県立図書館が運営する愛知県移動図書館と連携して自前の移動図書館事業が開始された。市制施行前の稲沢町には稲沢町立図書館があったが、1967年(昭和42年)2月には愛知県稲沢農業改良普及所の2階に稲沢市立図書館が開館した。貸出を受けられるのは小学4年生以上に制限された。同年4月の資料数は4,821冊であり、同年度の図書費は303,000円、利用者数は8,434人だった。1966年度(昭和41年度)の図書館利用者数は5,142人だったが、1970年度(昭和45年度)には13,243人と4年前の2.6倍になった。1970年度の利用者属性は中学生以下が7,946人(60%)、高校生以上が5,297人(40%)だった。 -中・下流部に広がる丘陵地帯や洪積台地は第四紀に形成され、古東京湾により堆積した砂や泥が主体の固結度の低い下総層群と呼ばれる海成地層などが主体である。この地層の上に関東ローム層が覆う。沖積低地は更新世の末期より完新世に掛けて形成された厚い沖積層が主体で、現在の東京湾沿岸部などでは最大で60mから80mもの厚みになる。これら洪積台地・沖積低地では第四紀に関東山地など関東平野を囲む周辺山地の隆起運動が活発になり、相対的に平野中央部が沈降する関東造盆地運動が本格化することで低地には上流から流れてきた土砂が沖積層に堆積。その後沈降していた平野中央部が隆起に転じたことから今度はそこに土砂が堆積し、現在の台地・低地となった。こうして形成された山地や台地が現在利根川および利根川水系の分水界を形成する。分水界は群馬・新潟県境の三国山脈や群馬・栃木・福島県境の帝釈山脈、および茨城県から栃木県にかけて広がる八溝山地が北側、群馬・長野・埼玉県境の関東山地が西側に位置し、これらの山地の南麓および東麓に降った雨が最終的に利根川へと注���。 -フェズ(アラビア語:فـاس‎、Fez、Fès)はアフリカ北西端、モロッコ王国北部の内陸都市。アラビア語では「ファース」。フェスとも表記される。イドリース朝、マリーン朝などのモロッコに存在した過去のイスラム王朝の多くはフェズを首都に定めていた。首都が他の都市に移された時であっても、フェズはモロッコ人にとって特別な都市であり続けている。数世代前から町に住み続けているフェズの住民はファシ(ファーシー)と呼ばれ、彼らの間では独特の方言が話されている。ファシの間にも方言の差異があり、旧市街では北部方言、新市街では南部方言が話されている。フェズはラバト、マラケシュ、メクネス、カサブランカといった都市と共にモロッコの観光資源となっている。複雑な構造の旧市街地は迷路にも例えられ、1981年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フェズ旧市街」が登録された。 -1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求め、映画産業に対しても協力を要請するが当初は成功しなかった。これは検閲や行政指導ができないことに加え、高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させる体制となっていたためである。しかし、ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反ナチス」の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作した。大衆文化史の研究者にはディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘するものもいる。政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。しかし大衆自身が願う形へミッキーを作り変える作業を続けることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。当時のウォルトディズニー社は白雪姫の大ヒットで得た莫大な収益を注ぎ込んで製作したピノキオやファンタジアがヒットしなかったせいで、あっという間に膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパも戦争中で映画の輸出も出来なくなり、株価も1株が25ドルから4ドルまで大暴落し倒産の危機に陥ったが、プロパガンダ映画の制作により、ある程度の収益を得て経営を建て直すことが出来た為、戦後も引き続きディズニーは経営の安定させる理由で政府の核実験、原子力開発キャンペーンのためにOurFriendtheAtom(我が友原子力)という映画を作成するなどプロパガンダに参加している。大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメ映画に、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーンがあったり、ドナルドダックのアニメ映画「総統の顔」に東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたものでもなく、ウォルトが積極的に自ら制作したものである。このほかにもFP-45のために文字を使用せず、漫画のコマ割り風に絵を配置して説明するマニュアルや、ボーイズ対戦車ライフルの兵士向けの映像教材など細かな依頼も引き受けている。 -同年3月12日に上下両院合同会議の場においてトルーマンは特別教書を発表した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。トルーマンは、イギリスが対ギリシャ・トルコ援助打ち切りを通告したことに触れ、ギリシャ及びトルコの現状について説き起こした。この教書の中でトルーマンは、世界のほぼ全ての国々が否応なく「2つの生活様式」即ち自由主義と全体主義の選択を迫られているという二元論的な外交理念を提示すると同時に、「武装した少数者や外部からの圧力による征服の試みに抵抗している自由な諸国民を支持することこそ合衆国の政策でなければならないと信じる」と語った。そして、ギリシャやトルコが全体主義者の手に落ちればその影響は両国のみに留まらないと主張し、両国に対する経済的・軍事的援助として、1948年6月末までに4億ドルの支出と民間人・軍人の派遣を認めるよう議会に要請した。 -ヒムラーが生まれる2年前の1898年7月29日に夫妻は長男ゲプハルト・ルー��ヴィヒを儲けている。さらに1905年12月23日には三男エルンスト・ヘルマンが生まれている。 -ライナス・カール・ポーリングは、アメリカ合衆国の量子化学者、生化学者だ。彼自身は結晶学者、分子生物学者、医療研究者とも自称していた。ポーリングは20世紀における最も重要な化学者の一人として広く認められている。量子力学を化学に応用した先駆者であり、化学結合の本性を記述した業績により1954年にノーベル化学賞を受賞した。また、結晶構造決定やタンパク質構造決定に重要な業績を残し、分子生物学の草分けの一人とも考えられている。ワトソンとクリックが1953年にDNAの生体内構造である「二重らせん構造」を発表する前に、ポーリングはほぼそれに近い「三重らせん構造」を提唱していた。多方面に渡る研究者としても有名で、無機化学、有機化学、金属学、免疫学、麻酔学、心理学、弁論術、放射性崩壊、核戦争のもたらす影響などの分野でも多大な貢献があった。1962年、地上核実験に対する反対運動の業績によりノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞を2度受賞した4人の1人。初めてのキュリー夫人に次いで2人目だ。化学賞と平和賞という全く異なる分野に及ぶ唯一の受賞者。後年、大量のビタミンCや他の栄養素を摂取する健康法を提唱し、更にこの着想を一般化させて分子矯正医学を提唱、それを中心とした数冊の本を著してこれらの概念、分析、研究、及び洞察を一般社会に紹介した。 -カラハン朝の時代は「西トルキスタン」の黎明期とも言え、パミール高原以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、ウズベク、カザフなどの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する。タリム盆地のウイグル族はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主サトゥク・ボグラ・ハンやマフムード・カーシュガリー、ユースフ・ハーッス・ハージブらカラハン朝時代の学者の廟を建立した。 -アウクスブルクは3つの川が流れる街である。レヒ川が最も大きな川である。その支流のヴェルタハ川は市内を流れ、ヴォルフツァーナウ風致保護地区北部でレヒ川に合流する。アウクスブルクを流れる3つめの川であるジンゴルト川は、オストアルゴイで湧出し、市内に広く分岐した人工の小川・運河網に注いでいる。その多くが旧市街のレヒ街に張り巡らされている無数の運河網はアウクスブルクを、計500本の橋が架かる橋の街にしている。ジンゴルト川が注ぎ込むファブリーク運河は、ゲッギンゲンでヴェルタハ川から分岐してヴェルタハ運河、ホルツバッハ、ゼンケルバッハと名前を変えながら北に向かって流れ、アウクスブルク風船会社の裏でヴェルタハ川に再び合流する。 -630年にマディーナの支配権を確立したムハンマドは、大きく膨れ上がった軍勢を率いて、敵対していたメッカに進軍した。ほとんど無血のうちに街の征服を完了したムハンマドは、カアバの黒石に触れて「アッラーフ・アクバル」(神は偉大なり)と叫び、周囲の者も唱和したとされる。その後の632年3月、ムハンマドは、生涯で最初で最後となる巡礼を行った。後述するハッジにおける黒石の果たす役割も、この別離の巡礼の際にムハンマドが示した作法に基づくものである。黒石は割れていくつもの破片となっており、その数は7から15まで諸説あり、これらは銀の枠によってまとめられている。この損傷がいかにして起きたかにも諸説がある。1911年度版の『ブリタニカ百科事典』によれば、この損傷は638年の包囲攻撃の際に起きたものだったという。『Time-LifeBooks』の編者たちはウマイヤ朝のカリフ、アブドゥルマリク・ブン・マルワーン(646-705)による包囲戦の際の損傷だとしている。2007年度版のブリタニカを含む他の情報源によれば、アッバース朝の時代にバハライン地方で信奉者を多数得ていたカルマト派というイスマーイール派の一派が、930年にアブー・ターヒル・ジャンナービーという指導者に率いられてメッカに攻め入り、黒石を本拠地のアハサーに持ち去った際に損傷が起きたのだという。歴史家ジュワイニーによると、黒石は20年後の951年に、いささか不思議な状況で戻って来たのだという。黒石は袋に包まれ、「我々は命令によりこれを持ち去り、命令によりこれを戻した。」というメモと共にクーファの金曜モスクに投げ込まれた。この持ち去りと移動はさらなる損傷をもたらし、黒石は割れて7つの破片になった。 -最も広く支持されている説は、子供達は東ヨーロッパのドイツ人植民地で彼ら自身の村を創建するために、自らの意思で両親とハーメルン市を見捨て去ったとする説である。この時代に創建された幾つかのヨーロッパの村と都市は、ハーメルンの子供達による開拓者としての努力の結果であると考えられる。この主張は、Querhameln(ハーメルン製粉村)のような、ハーメルンと東方植民地周辺の地域それぞれに存在する、対応する地名によって裏付けられている。この説でも笛吹き男は、運動のリーダーであったと見なされている。この説のバージョンの一つは1955年に『サタデー・イブニング・ポスト』誌で発表された。植民説の裏付けとなるのは、ハーメルンの旧家の壁から発見された文章である。その述べるところによれば、1284年6月26日に、笛吹き男が130人の子供を街の外へ連れ去り、おそらくはその笛吹き男はモラヴィア(現在のチェコ共和国の一地方)への植民運動を組織していたオロモウツの司教ブルーノ・フォン・シャウンブルクの代理人であったという。シャウンブルク司教自身もまたボヘミア王オタカル2世の代理人として行動していた。 -総辞職したパーマストン子爵内閣の後を受けて、1858年2月25日には保守党政権の第二次ダービー伯爵内閣が成立した。1859年3月に大蔵大臣・庶民院院内総務ディズレーリが庶民院に提出した選挙法改正法案が否決されたことで解散総選挙(英語版)となり、保守党があと少しで過半数を獲得できるところまで議席を伸ばした。これに対する野党の危機感とイタリア統一戦争の勃発による自由主義ナショナリズムの盛り上がりを背景にホイッグ党の二大派閥(ジョン・ラッセル卿派とパーマストン子爵派)、ジョン・ブライト率いる急進派、ピール派が合同して自由党が結成された。これによりグラッドストンも自由党議員となった。ダービー伯爵政権は少数与党政権なので野党が一つに団結すれば政権は維持できず、1859年5月にも自由党から内閣不信任案を突き付けられて内閣総辞職に追い込まれた。グラッドストンは自由党議員でありながらこの不信任案に反対票を投じた。グラッドストンは自由党を率いるパーマストン子爵と(保守党の大部分を占める親オーストリア派を排除した)保守党少数派を率いるダービー伯爵による連立政権を希望していたためといわれる。 -1796年11月にはじめて戦争の危機を知ったレーニアはすぐさまフィリピン侵攻の計画を開始した。彼は1762年のマニラの戦いを再現すべく、アーサー・ウェルズリー大佐とベンガル総督のサー・ジョン・ショアと提携して海軍と陸軍の大軍を準備した。しかし、その矢先に1797年8月のカンポ・フォルミオ条約締結と第一次対仏大同盟の終結という報せが舞い込んできて、イギリスは単独でフランスとスペインと戦わなければならなくなった。さらにイギリスの宿敵であるマイソール王国のティプー・スルターンが使者を派遣してフランスの援助を求める情報がもたらされると、マニラ侵攻を目的とした陸軍はインドで釘付けにされ、作戦は中止された。中国船隊の護衛は取り消しにならず、レーニアは艦隊の一部を東、中国のほうへ移動させた。 -1774年に会した第一次大陸会議は、10月26日付けの公式書簡で1775年5月に開催される第二次会議にフランス系カナダ人も加わること、つまりケベック植民地も革命に参加することを招請した。第二次大陸会議も1775年5月にそのような2度目の手紙を送ったが、どちらの手紙にも実質的な反応は無かった。 -只見川下流での水利権獲得競争が始まった頃、源流である尾瀬沼についても水利権申請が行われていた。関東水電株式会社は1919年8月14日、尾瀬沼にダム式発電所を建設して利根川水系の片品川に導水し、水力発電を行うことを利根川の河川管理者であった群馬県知事に申請していた。この申請は当時の原内閣の内務大臣であった床次竹二郎の強力な後援もあって関東水電に水利権の使用許可が下りた。ここに尾瀬原ダム計画が開始されたが宮田福島県知事は1921年(大正10年)に尾瀬沼の関東水電への水利権取得は容認できないとして反対を表明した。その後関東水電と群馬県の動きに対抗すべく尾瀬沼の発電用水利権を14件認可したが、内務省と逓信省は関東水電の計画を優先し福島県が許可した水利権使用を全て却下した。この間、平野長蔵が尾瀬原ダム建設に反対するため、単独で尾瀬に定住して抵抗の姿勢を表し、原内閣の後を継いだ加藤友三郎内閣の水野錬太郎内務大臣に計画の中止を求める書簡を送っている。 -皇居の生物相(こうきょのせいぶつそう)では、東京都千代田区にある皇居内で、特に豊かな自然環境が見られる吹上御苑を中心に、皇居の生物相について説明する。また東京23区内には皇居以外にも緑地が点在しているが、この項では適宜皇居以外の東京23区内にある緑地の生物相についても触れていく。文中の年代については、主な参考文献である生物学御研究所(1989)、国立科学博物館皇居調査グループ(2001)が、ともに和暦に西暦を併記する形式であるため、基本的に和暦に西暦を併記する形式に統一して記述した。 -カスケード山脈の東部に位置しており、山の周囲にはセント・ヘレンズ山と兄弟関係にある火山が多数存在している。セント・ヘレンズ山から東に約55kmの地点にはアダムス山が、セント・ヘレンズ山から北東に約80kmの地点にはレーニア山が、セント・ヘレンズ山から南東に約95kmの地点にはフッド山が、位置している。1980年の大噴火までは、セント・ヘレンズ山はワシントン州の中で5番目に高い山であり、カスケード山脈の中では目立って高い山ではなかった。それでもセント・ヘレンズ山の標高は3,000m近くあり、さらに山の頂は万年雪に覆われていたため、周囲の丘陵から傑出した外観をしていた。山頂は山の基底部から約1,500mの高さにあり、山の北東側では隣の峰と長さ約10kmにわたって標高約1,340mの谷を形成していた。その他の部分でも標高1,200m級の谷が多数存在していた。北側に位置するスピリット湖は、有史以前の噴火によって谷が堰きとめられてできた湖である。 -10世紀に入るとアッバース朝の権威は著しく衰退し、3カリフが鼎立する時代となる。現在のカイロを建設したファーティマ朝は、トゥールーン朝が培ってきた建築手法を用いることで、世界最古の大学であるアズハル大学とそのモスクを作り上げた。また、第6代カリフであるハーキムの建造によるアル・ハーキム・モスクは、ファーティマ建築の傑作であり、ここで、ファーティマ朝のカリフの宗教的、政治的役割を強調する式典が執り行われた。このアル・ハーキム・モスクは、モハンマド・ブルハルッディーンの手によって、修繕されている。また、ファーティマ建築の代表作としてアル・ハーキム・モスクと同様に挙げられるのが、カイロ市街の城門である。 -結局、五十首応募の特選を獲得した上に、ふみ子から送られた自作集のノートを高く評価した川端康成が角川書店に強く推薦したことにより、華々しい全国歌壇デビューを飾った。ふみ子の作品はこの当時の主流であった平明な日常詠の短歌からかけ離れたものであったため、既存歌壇から激しい反発と戸惑いを持って迎えられたが、その一方で若手歌人を中心とした熱狂的な支持の声が巻き起こった。そのような毀誉褒貶の最中、ふみ子は1954年8月3日に31歳の生涯を閉じる。 -1955年(昭和30年)4月1日には自治体警察であった指宿町警察署の道場だった建物(十町241番地)に移った。この頃の図書館は県立図書館から移動図書1,000冊と青年文庫50冊を借用し、読書グループの育成を進めていた。同年9月6日には「柳和母親読書グループ」が成立し、図書館はグループの育成に努めた。この活動が評価され、翌1956年(昭和31年)2月24日に鹿児島県図書館コンクール努力賞を受賞、9月5日にはNHKの『茶の間の時間』で同グループが紹介された。また10月17日には、同グループが図書館と協力して文集『柳和』を創刊し、1958年(昭和33年)から『文芸いぶすき』に改題し、指宿市全体の文芸作品集へと発展した。 -戸倉ハルは東京女高師研究科の卒業後、1924年4月に東京府立第六高等女学校へ赴任し四谷の酒屋での下宿���活を開始した。第六高女の校長・丸山丈作は体育に理解があり、施設整備に力を入れていたため、新しい体育館で授業を行うことができた。戸倉は自ら作成した教科書で授業を行い、徒歩の奨励、正しい姿勢の維持、健康管理などを行い、ダンスの授業では二階堂から教わったメイポールダンスや自身の創作ダンスを教えた。冬季には雪国でスキー実習を行ったが、この時は現地の人が教師となり、戸倉は生徒に交じって転びながらスキーをしたという。1926年からは二階堂体操塾より改名した日本女子体育専門学校で非常勤講師を務めることになり、二階堂との交流を再開した。 -アメリカ合衆国の都市の中では公共交通機関が際立って多く利用されており、多くの交通機関が24時間運行している。また人口密度の高さと、その多様性も著しい。2005年の調査によれば、ニューヨーク市内では170近くの言語が話され、人口の36%がアメリカ合衆国の外で生まれた人であった。ニューヨークは「眠らない街」とも呼ばれ、そのほかにも「ビッグ・アップル」「ゴッサム」といったニックネームがある。 -合併における存続会社は大阪送電会社。合併前の公称資本金は大阪送電会社2000万円、木曽電気興業が1860万円、日本水力が5000万円であったが、合併後の大同電力の公称資本金は3社合計に合併による増資1140万円を加え1億円とされた。ただし合併による8000万円の資本金増加に伴う新株の交付は、木曽電気興業側に60万株、日本水力側に100万株となっている。また合併条件は払込資本金額について木曽電気興業側を高く評価し、合併交付金348万4000円を木曽電気興業株主に別途交付する、合併に先立って日本水力側の資金拠出で同社株を木曽電気興業株主に無償取得させる、という付帯条件も付いており、実質的には資産内容が優れる福澤系2社による日本水力の吸収であったといえる。 -単通路機市場の発達とともに、航空会社はより長距離路線に単通路機を投入することを望むようになった。A320ファミリーの改良を続けつつ後継機の研究を行ってきたエアバスは、2010年12月1日、エンジンを一新した次世代A320neoファミリーの開発を発表した。「neo」は「NewEngineOption」の頭字語と「新しい」という意味のギリシャ語「neo」をかけたものである。その名の通り新型エンジンを装備することで、燃費性能や航続力を向上させる機体である。A320ファミリーのうちneoに移行されるのはA321、A320、A319の3機種とされた。最も短胴型のA318は、将来需要が見込めなかったことからneoの開発は見送られた。neoの登場に伴い、既存のA320ファミリーはA320ceo(CurrentEngineOption;現行エンジン選択型の意)と呼ばれ区別されることとなった。 -太陽系の年齢もまた隕石の年代測定に依拠するので、地球は太陽系の誕生とほぼ同時に形成されたとしてよい。10個程度の火星サイズの原始惑星の衝突合体によって形成されたと考えられている。太陽系内の惑星としては、太陽から2天文単位内の位置に存在し、岩石質外層と鉄を主成分とする中心核を持つ「地球型惑星」に分類され、太陽系の地球型惑星の中で大きさ、質量、密度ともに最大のものである。組成は地表面からの深さによって異なる。地殻に存在する元素は、酸素(質量比49.5%)とケイ素(同25.8%)が主体で、以下アルミニウム・鉄・カルシウム・ナトリウム・カリウム・マグネシウムなどの金属元素が含まれる。この元素別質量百分率はクラーク数として纏められている。ほとんどはケイ酸塩など金属酸化物の形で存在する。対照的に、中心部分は鉄やニッケルが主体である。地表面の71.1%は液体の水(海)で被われており、地表から上空約100kmまでの範囲には窒素・酸素を主成分とする大気がある。大気の組成は高度によって変化する。 -1401年、プファルツ選帝侯ループレヒト3世はローマ王(ドイツ王)になった。城は王の宮廷としては大変に手狭であり、戴冠式の後、ループレヒトはアウグスティン修道院(現在の大学)にまで宮廷を拡張した。それは王の宮廷にふさわしく、多くの官吏が執務するスペースを有するものであり、同時に防衛施設としても機能すべきものであった。1410年にループレヒトが亡くなった後、その支配地は4人の息子達の間で分割された。プファルツの本拠地は���男のルートヴィヒ3世のものとなった。コンスタンツ公会議後、1415年に皇帝ジギスムントの命令により、アイヒェルスハイム城(現在のマンハイム、リンデンホーフ区)にいた元対立教皇ヨハネス23世がこの城に拘禁された。フランスの詩人ヴィクトル・ユーゴーは1838年にハイデルベルクを訪れ、城趾を特に好んで散策した。この取材に基づいて教皇幽閉の歴史を記述している。 -A310-200の開発が決定した当時、双発機の飛行ルート設定に際して、安全上の理由により60分以内に着陸可能な飛行場があることが求められ、大陸間路線などの長距離路線には3発機や4発機が用いられていた。しかし、エンジンの信頼性や性能の向上にともない、1980年代に入ると、双発機の飛行経路に関する制限を緩和する検討が本格化した。また、A310-200の納入が始まる頃には、航空会社は、以前よりも機材の航続距離の長さを重視するようになっていた。このような状況下で、エアバスは、A310の航続距離をさらに延ばした発展型として、A310-300を開発することにした。A310-300のローンチカスタマーはスイス航空に決まり、1983年3月29日に行われたA310-200の引き渡しセレモニーの場で発表された。A310-300は機体の寸法はA310-200と変わらず、航続距離を伸ばすために、水平安定板の内部にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やすことになった。また、尾翼と主翼の燃料タンクの間で燃料を移送し、機体の重心位置を制御するシステムが搭載された。このシステムによって機体の姿勢を一定に保つのに必要なトリム抵抗を最小限に抑えられ、運航経済性の向上が図られた。燃料を移動してトリム調整を行う技術は超音速旅客機コンコルドで開拓されたもので、水平尾翼内に燃料タンクを設けて重心の制御を行った旅客機はA310-300が初めてであった。さらに、燃料搭載量を増やすオプションとして、LD-3貨物コンテナ2個分のサイズで貨物室内に取り外しできるようにした補助中央タンク(AuxiliaryCenterTanks)が用意された。 -1874年までにルーヴル宮殿は現在の構成となった。ほぼ正方形の宮殿本体、中庭の東に面する最古の建築物シュリー翼、ナポレオン広場の北に面するリシュリュー翼と、広場の南に面するセーヌ川沿いのドゥノン翼である。1983年に、当時のフランス大統領ミッテランが推進した「パリ大改造計画」の一環である「大ルーヴル計画」で建物が改築されるとともに、それまでルーヴル宮殿内にあった財務省が移設され、宮殿施設全体が美術館となった。そして建築家イオ・ミン・ペイから、ナポレオン広場に設けられた新たなエントランスにガラス製のピラミッドを建築する提案がなされた。このピラミッドと直下の地下ロビーが落成したのは1988年10月15日のことである。そして大ルーヴル計画の第二段階として、1993年に地下のカルーゼル・ショッピング・モールに、採光用途を兼ねる逆ピラミッドが完成した。従来の宮殿入口には、多数の来館者をさばききれないため行列ができるという問題があったが、ナポレオン広場の広大な地下エントランスがその問題を解決した。2002年以降のルーヴル美術館入場者数は、この大ルーヴル計画以前に比べて約2倍に増加している。 -幕府は安政2年(1855年)に長崎海軍伝習所を開き、文久元年(1861年)には長崎製鉄所となり、製鉄所、造船所に当たる設備を持つようになっていた。しかし長崎は江戸から遠い九州にあって外様大名の勢力に囲まれており、また設備的にも本格的なものにはほど遠く、江戸に近い場所で本格的な製鉄や造船の機能を備えた施設の建設が望まれるようになった。文久2年(1862年)、幕府は長崎でオランダ人技師から江戸近辺で製鉄所の建設を開始するに当たり、アドバイスを受けた。オランダ人の技師からは、当時の長崎製鉄所の設備は貧弱であり大規模な船の建造や修復は出来ないこと、そしてフランスのトゥーロン、シェルブールなど、当時のヨーロッパ最先端の製鉄、造船施設のあらましについて説明を受けた。さらに江戸の周辺は水深が浅く、また河川からの砂の流入で砂底のため、製鉄所の建設には適さないとの意見を受けた。同年、幕府は横浜から三浦半島付近を視察して製鉄所の適所を探す試みも行った。しかし文久2年8月21日(1862年9月14日)��生麦事件が発生し、幕府と諸外国との外交関係が緊迫する中、江戸に近い場所での製鉄所建設計画はいったん中断された。 -コーシー列による実数の定義は、最初に(いずれも)1872年にエドゥアルト・ハイネとゲオルク・カントールにより独立に発表された。0.999⋯=1の証明を含む、小数展開による上記のアプローチは1970年にグリフィス(Griffiths)とヒルトン(Hilton)の書いた教科書Acomprehensivetextbookofclassicalmathematics:Acontemporaryinterpretation(「古典数学に関する総合教科書:現代的解釈」)に従っている。この教科書は、よく知られた概念について、現代の観点から再検討することを主眼に書かれている。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -開会式では、オリンピック賛歌を演奏することやオリンピック旗掲揚、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた。しかし、聖火台で鳩を焼いてしまったソウル大会での一件や、外来生物への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。ロンドン大会では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人がワイヤーアクションで空中へ上昇した。開会式の入場行進はオリンピックの発祥地であるギリシャの選手団が先導し、その後参加国は開催国の言語順に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。2002年のソルトレークシティオリンピックではジョージ・W・ブッシュ大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(Onbehalfofaproud,determinedandgratefulnation...)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である。また、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとのファンファーレが演奏されることが通例となっている。1984年のロサンゼルス大会のファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ作曲)は世界的に有名となった。なお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。なお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。 -開会式では、オリンピック賛歌を演奏することやオリンピック旗掲��、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた。しかし、聖火台で鳩を焼いてしまったソウル大会での一件や、外来生物への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。ロンドン大会では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人がワイヤーアクションで空中へ上昇した。開会式の入場行進はオリンピックの発祥地であるギリシャの選手団が先導し、その後参加国は開催国の言語順に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。2002年のソルトレークシティオリンピックではジョージ・W・ブッシュ大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(Onbehalfofaproud,determinedandgratefulnation...)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である。また、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとのファンファーレが演奏されることが通例となっている。1984年のロサンゼルス大会のファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ作曲)は世界的に有名となった。なお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。なお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。 -1716年、イギリスの天文学者エドモンド・ハレーが1761年に起こる金星の太陽面通過を世界各地から観測して1天文単位の正確な値を得るための、国際的な共同研究プロジェクトを提案した。。この提言を受けて、1761年と続いて太陽面通過が起きる1769年に、各国の科学アカデミーや学会から多数の探検隊が世界の様々な場所へ太陽面通過を観測するため派遣された。国を超えて行われたこれらの観測を、アンドレア・ウルフ(英語版)は「史上初の世界的な科学プロジェクト」と評している。ハレーは1742年に死去し、自身がこの研究プロジェクトを直接指揮することはできなかった。ハレー自身も自分の高齢のために1761年の太陽面通過に間に合わないことを理解していたため、どこでどんな観測をすべきかという詳しい説明を残し、好機を逃さないことを多くの天文学者たちに伝えた。1761年の太陽面通過は、フランスのジョゼフ=ニコラ・ドリルが中心となって、ヨーロッパ各地の天文学者に観測を呼びかけられた。ハレーの方法は太陽面通過の始まりから終わりまでの経過時間の記録を必要とするものだったが、ドリルはこれを改良して、2つの観測地点から通過開始(第2接触)、または通過終了(第3接触)の時刻を記録するだけで事足りる方法を提案した。太陽面通過の全過程を観測できる地域は限られているため、ドリルの方法であれば、さらに多くの地点を観測地にすることができる。一方で、ドリルの方法は観測地点の正確な経度を把握する必要がある。しかし、経度の情報は当時はまだ不十分だった。 -子持山はきわめて典型的な成層火山である。ただし北関東の火山としては規模はかなり小さく、山体の基底部は南北およそ9キロメートル、東西はおよそ7.5キロメートルである。山体の体積は6立方キロメートルと見積もられている。山頂は「笠上」と呼ばれており、一等三角点「子持山」が設置されている。標高は1296.2メートル。 -震災発生を受けて同日15時14分に設置された内閣府緊急災害対策本部は2011年5月17日、同日までに2万6708人が警察庁・消防庁・海上保安庁・自衛隊の派遣部隊によって救出されたと発表した。機関別では自衛隊が19,286名、消防が5,064名、警察が3,749名��それぞれ救出した。また、日本国外の156の国・地域と41の機関が支援を表明し、28の国・地域・機関から救助隊を、53の国・地域・機関から救援物資を受け入れている。被災地では、県や市などの物流の拠点まで輸送された食料や燃料、水、薬品などが隅々まで届かず、阪神・淡路大震災発生時と比較して物資が大幅に不足した。その理由として、各地の港湾が被災し道路網が寸断されたこと、市や町の職員が犠牲になるなどして被災地側の受け入れ態勢が整わなかったこと、輸送車両の燃料が不足したこと、被害が広範囲に及び、避難者が指定避難所以外の施設に分散したことなどが挙げられる。特に燃料が不足し、被災地では自動車で移動したり暖を取ったりすることも困難な状態が長く続いた。また福島県では、原発事故による被曝を恐れてトラックが引き返すなどし、沿岸部を中心に物資が届きにくくなった。奥羽山脈を超える国道347号をはじめとするいくつかの道路は例年通り冬季閉鎖であったが、その情報を知らずに日本海側から救援に向かった車両が引き返す例が見られた。ロイターの編集者であるFelixSalmonは日本に義援金を送るべきではないと主張している。日本は金満な国家であり、何千億ドルに相当するお金を刷って財源を捻出できるからである。金銭の国際援助は発展途上国にすべきものであり、対外純資産世界一である日本に国際援助モデルを適用するのは納得がいかないとしている。また、台湾の寄付総額は少なくとも73億6400万台湾ドル(約200億円、2億5200万米ドル)に達した。また、米軍の後に到着し、最初の救援物資を被災地に持ち込んだのは、2番目の外国人救助隊であった。 -イエローストーン国立公園とアイダホ州で再導入が開始されたのは1995年である。イエローストーン国立公園で野生のオオカミが殺された最後の公式記録は1926年であった。その後、オオカミの獲物となっていたワピチ(アメリカアカシカCervuscanadensis)や他の動物が増加し、その結果、植生に被害が出た。オオカミが果たしていた捕食者としての役割の一部はコヨーテが果たすことになったが、成獣のワピチはコヨーテの捕食対象にはならない。 -1759年に出版されたアルベルトゥス・セバのシソーラス『Locupletissimirerumnaturaliumthesauriaccuratadescriptio–Naaukeurigebeschryvingvanhetschatrykekabinetdervoornaamsteseldzaamhedendernatuur』の中でツノザメ属の新種Squalusvariusとして記載された。セバは幼体のイラストとラテン語による包括的な記載を発表したが、タイプ標本は指定しなかった。1783年にジャン・エルマンは『Tabulaaffinitatumanimalium』の中でSqualusfasciatusとして記載命名した。 -津島家を県下有数の大地主に押し上げた三代目惣助は嘉瀬村の山中家出身で、元の名を勇之助といった。1835年(天保6年)に大百姓・山中久五郎の次男として生まれ、1859年(安政6年)津島家の婿養子となった。山中家の先祖は、「能登国山中庄山中城主の一族」だったと伝えられている。1867年(慶応3年)に二代目惣助が他界し、家督を相続して三代目「惣助」を襲名した。油売りのほか、木綿などの繊維製品も扱い、金貸しで財を蓄えて新興の大地主となった。1894年(明治27年)に北津軽郡会議員の大地主互選議員に当選、1895年(明治28年)に北津軽郡所得税調査委員選挙に当選。1897年(明治30年)、合資会社「金木銀行」を設立した。再び郡会の大地主議員となり、県内多額納税者番付の12位に入って貴族院議員の互選資格を手に入れた。無名の金貸し惣助からちょっとした地方名士として名を成したのであった。跡取りがいなかったため婿養子・惣五郎を迎える。惣五郎にも跡取りがいなかったため源右衛門が婿養子となった。家紋は「鶴の丸」である。金木の生家は源右衛門が建造したもので、太宰治記念館「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -2011年4月1日、震災発生翌日の12日に駐屯地を出発し、15日から作業に従事していた50歳代の曹長(陸上自衛隊・旭川駐屯地所属)が死亡した。死因は過労死の可能性があるとされている。曹長が所属していた第2特科連隊の連隊長は曹長の死亡について、「誠に残念で、ご冥福をお祈りする。災害派遣活動との因果関係を調査し、原因を究明したい」と述べた。4月2日、防衛省は同曹長を1日付で准尉に特別昇任させることを決めた。15日には遠野市の指揮所で運用調整に当たっていた第9施設大隊所属の1等陸曹が脳幹出血で死亡、防衛省は同日付で1曹を曹長に特別昇任させた。1曹が所属していた第9施設大隊の大隊長は、「大変残念。倒れた隊員の復興に懸ける気持ちを受け継ぎ、全力で活動するとともに、隊員の健康管理に万全を期す」と述べた。5月27日未明には第18普通科連隊所属の3等陸曹が死亡。本震災における自衛隊員の災害関連死は3人目となった。 -1971年、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社し、新企画『長くつ下のピッピ』を制作するためにAプロダクションに移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。その後、宮崎駿は高畑と大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『ルパン三世』で宮崎にとって事実上の初監督の仕事を引き受ける。名義上は演出であった。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた。「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『パンダコパンダ』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。1974年TVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当した。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。 -初出は1686年(貞享3年)閏3月刊行の『蛙合』(かわずあわせ)であり、ついで同年8月に芭蕉七部集の一『春の日』に収録された。『蛙合』の編者は芭蕉の門人の仙化で、蛙を題材にした句合(くあわせ。左右に分かれて句の優劣を競うもの)二十四番に出された40の句に追加の一句を入れて編まれており、芭蕉の「古池や」はこの中で最高の位置(一番の左)を占めている。このときの句合は合議による衆議判制で行われ、仙化を中心に参加者の共同作業で判詞が行われたようである。 -本科の中で最も原始的な群とされるウミトゲウオでは、繁殖行動はやや単純化されている。海産の本種は藻場に縄張りをもち、海藻の根元に鳥の巣に似た巣を形成する。雄は求愛のダンスはせず、巣に近づくものは雌雄を問わず攻撃する。産卵の意思をもつ雌は攻撃にひるまず、これを確認した雄は吻を巣に突っ込んだり、雌の尾柄をかんだりして巣に誘導する。産卵と受精が済むと、イトヨと同じように雌は雄の攻撃によってすぐに巣から追い払われる。これを何度か繰り返した後、雄はファニングで新鮮な水を卵塊に送り、胚の成長につれてその頻度が増加する。ウミトゲウオの雄は他の巣に産み付けられた卵を奪い、元親に代わって育てるという特異な習性も知られている。この習性の意義はよくわかっていないが、繁殖経験を有する(強い)雄であることを雌にアピールしている可能性が指��されている。 -約23万年前から、箱根火山の噴火の様式は一変した。これまでは比較的小型の成層火山が複数噴火活動を続けていたものが、大量の流紋岩質、デイサイト質の溶岩を噴出する大規模な火砕流を伴う噴火活動を見せるようになった。このような大規模な噴火は約23万年前から約4万年前までに繰り返された。箱根火山のカルデラの成因についてはいくつかの説が唱えられている。久野は大陥没によって現在の箱根カルデラが誕生したと考えた。陥没の原因については、当初は火山活動以外のものを想定していたが、その後、大規模な噴火活動があったことが明らかとなったため、大噴火後に地面が一気に陥没してカルデラが誕生したとした。 -他にも、古村を開発や騒音から守ろうとする芝山地区等の住民や、皇室ゆかりの御料牧場に強い思い入れを持つ戦前派ら、行政が推進していた東山地区営農改善計画(シルクコンビナート計画)に応じて養蚕用の桑の栽培を始めたばかりにも関わらず計画を反故にされ憤る農家等、さまざまな背景を持つ者が反対運動に合流した。1966年7月から8月にかけて「三里塚空港反対同盟」および「芝山空港反対同盟」が合同し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下、反対同盟。)が結成された。初期段階での反対同盟は、農民を中心に用地外も含め約1200戸・約1500人で構成された。各部落には独立性が認められていたが、反対同盟の下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織されたことにより各世代間での横でのつながりが生まれ、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ。 -鳥は215種、この中には22種の海鳥と32種の海岸線に棲む鳥を含み、暗礁を巣やねぐらの場にしている。その中にはシロハラウミワシやベニアジサシも見られる。ほとんどの営巣は北部または南部の島で行われ、140から170万羽が繁殖する。また、グレート・バリア・リーフの島々は知られているだけで2195種にものぼる植物の生育地となっており、固有種も3種が見つかっている。北部の島々に繁る300から350種の植物は樹木が多く、南部の200種は草本中心という傾向がある。ウィットサンデー地区は最も植生が豊かな場所で、1141種が根付く。植物の伝播には鳥が貢献している。 -総裁であった高碕達之助は大規模な重機を駆使した近代化工法の採用が、ダム建設を最短で終わらせる唯一の策と考えた。日本におけるダム技術は庄川の小牧ダムにおいて近代的なコンクリート打設工法が導入されていたが、大型重機運用の導入はまだ緒についたばかりだった。日本においては木曽川の丸山ダムにおいて日本国産油圧ショベルとダンプカーによる大型重機の機械化工法が導入されていたが、日本人の操作技術が未熟だったため故障が続出した。導入した重機の稼働率は半分程度であった。このため高碕は当時最先端の土木技術を有していたアメリカ合衆国に活路を見出そうとした。1952年11月に渡米した高碕は当時建設されていたパインフラットダム(英語版)を視察する。アメリカ陸軍工兵司令部が施工していた高さ130メートル、総貯水容量約12億3300万立方メートルの巨大ダムであるが、ダム本体規模が佐久間ダムと同程度でありながら重機が整然と動いており、これを佐久間の参考とした。その後日本興業銀行の保証を得てバンク・オブ・アメリカから3年期限・無担保で総額900万ドルの借款を得た。その資金援助を背景に、アメリカの土木業者・コンサルタントと提携しアメリカ製大型重機を使用する条件を以って国際入札を翌1953年(昭和28年)1月に発表した。この結果最も入札額が安く、かつ先に視察したパインフラットダムで使用されていた重機をそのまま移送して使用するという条件提示をしたアトキンソン社・間組・熊谷組連合が落札し、ダム本体工事を間組、発電所工事を熊谷組が担当することになった。 -北陸地方を流域に持つ河川は融雪による豊富な水量、北アルプスや三国山脈といった急峻な山岳地帯を流れるため急流かつ高落差であるという水力発電の好条件を備える河川が多く、大正時代から水力発電事業が各河川で盛んに実施された。だが水力発電に適した河川は大雨が降れば容易に洪水を引き起こし、信濃川の戌の満水や横田切れなど流域に甚大な被害を与える水害を度々もたらしていた。こうした中で実施された国直轄の河川事業で早期に行われたものとして信濃川大河津分水事業が挙げられる。享保年間より構想された分水計画は1896年7月22日の横田切れを機に急速に進められ、放水路である大河津分水と信濃川の流量を調節する大河津洗堰が1922年完成する。しかし1927年の洪水で分水側の堰が破壊されたことから、1931年大河津可動堰が完成し分水本来の目的が強化された。しかし完成から70年以上経過して老朽化が著しく、治水安全上施設を改良する必要性が生じた。このため2000年に大河津洗堰が改築され、続いて大河津可動堰の改築が2014年にそれぞれ実施された。何れも旧堰地点とは別に新堰を建設し、旧堰の機能を継承・向上させる目的である。 -アッシュール・ダン3世とアッシュール・ニラリ3世の治世中、アッシリアの権威と権力は劇的に低下した。統治力がようやく回復したのは、ティグラト・ピレセル3世の治世になってからである。後を継いだその息子シャルマネセル5世の死からサルゴンの即位に至るまでの経緯は、完全には明らかにはなっていない。宮廷クーデターによってサルゴン2世がシャルマネセル5世を廃位・暗殺したという推測が、最も有力視されている。 -ギリシア時代とローマ時代を通じて水時計の技術は大いに上がったが、日時計も使われ続けた。数学者で天文学者のビテュニアのテオドシオスは、緯度の影響を補正する日時計を発明したとされているが、その詳細は伝わっていない。この頃、数学書や文学書の中で、日時計に関して述べられたものがいくつかある。著書『建築について』で知られるローマの建築家ウィトルウィウスは、日時計グノモン(gnomon)の構造について解説をしている。ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時代には、「アウグストゥスの日時計」(SolariumAugusti)と呼ばれる巨大グノモンを建設している。これに使われたオベリスクは古代エジプトの都市ヘリオポリスから運ばれたものである。アウグストゥスはカンプス・マルティウスのオベリスクを使って「アウグストゥスの黄道日時計」も作っている。古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの記録によると、ローマに最初の日時計が作られたのは紀元前264年のことであり、シチリア島の都市カターニアからもたらされたものである。ただしこれはシチリアとの緯度の違いを考慮していなかったために当初は不正確であり、後に改良されたと記録されている。 -ガルディエリア属Galdieriaは、前述のイデユコゴメに似るが葉緑体の配置が異なる。細胞の直径は10μm前後。数種が報告されており、温泉の温度や湿潤状態などにより、同属間でもしくはイデユコゴメと棲み分けている。Galdieriasulphurariaはガルディエリア属の代表的な種である。種形容語のsulphurariaは硫黄(sulfur)に由来する。温泉の蒸気があたる岩盤の表面や、多孔質の岩の内部にも入り込んで生育する。本種のゲノムプロジェクトも進められている。G.partitaとG.daedalaはいずれもロシアの温泉などから採取されている。系統的にも両種は近縁である。G.maximaは他のガルディエリアとは異なったやや系統的位置を占める。18SrRNA系統解析ではG.partitaに近いが、rbcL遺伝子配列ではシアニディオシゾンに近縁である。 -「しゃん☆しゃん☆しゃんぐりら」は平成15年に登場した。従来使われてきた「きなんせ節」「鳥取しゃんしゃん傘踊り」の2曲は「基本踊り」として所定の振付が決められているのに対し、「平成鳥取音頭」は「創作踊り」として各連ごとに自由な振付が認められていた。さらにそこへ、より若い世代の参加を促進しようと新曲の公募が行われた。全国から30曲が寄せられ、その中からグランプリ作品として選出されたのが「しゃん☆しゃん☆しゃんぐりら」である。登場以来「創作踊り」の曲として使用されている。原曲は宝塚市の女性による作詞・作曲で、これを鳥取市出身の松本正嗣が編曲し、「アップテンポ」で「活気ある」曲となった。歌詞は全編を通して鳥取弁で書かれている。しゃんしゃん祭りでは例年、歌手の藤井真由美(元REG-WINK)とTOMMY(BLUFF)が曲を披露している。 -1986年(昭和61年)7月12日には中島郡平和町に��和町立図書館が開館した。開館時の開館時間は9時-16時30分であり、貸出冊数は4冊だった。2005年(平成17年)4月1日には平和町・旧稲沢市・祖父江町が合併して新稲沢市となり、稲沢市立平和町図書館に改称した。稲沢市立中央図書館の開館に合わせて、平和町図書館は2006年(平成18年)6月20日から8月31日まで休館し、蔵書へのICタグの導入などを行った。 -イスファハーンに移住したイブン・スィーナーは政務から退いて著述に専念したいと考えていたが、イスファハーンの君主アラー・ウッダウラは彼を宰相に登用したため、願いはかなわなかった。イブン・スィーナーはアラー・ウッダウラに科学や文学についての助言を行い、また遠征に随行した。アラー・ウッダウラの遠征に従軍した時には、馬上で書記に口述筆記をさせて著作を書き進めた。この時期の軍事遠征への参加は、『治癒の書』の植物学と動物学の章の完成に寄与する。 -1989年になると、レティンゲルの後半の予言が的中した。ポーランドの民主化を皮切りに、東ヨーロッパ諸国における政変が相次ぐなか、鉄のカーテンが劇的に取り払われていき、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊、翌年10月3日にドイツが再統一された。このさい東ドイツで復活した5州が西ドイツに編入され、これに伴って欧州諸共同体は旧東ドイツにもその領域を拡大させた。東ヨーロッパ諸国の共産主義体制の崩壊は欧州諸共同体にとっても重大な影響を及ぼし、これら諸国が自由主義陣営につくことが想定され、ヨーロッパの統合は政治の分野においても協力関係を強化することが求められるようになった。そこで1992年2月7日に欧州連合条約が調印され、翌年11月1日に欧州連合が発足した。 -1950年(昭和25年)12月末時点の蔵書数は7,440冊であり、閉館時の安城農業図書館より4,000冊ほど少なかった。とはいえ、1949年度(昭和24年度)には安城農業図書館のピーク時の閲覧者数37人/日を上回る59人/日が町立図書館を利用した。1950年度(昭和25年度)に527,060円だった図書館費は、1955年度(昭和30年度)に1,545,500円、1960年度(昭和35年度)に1,630,770円、1965年度(昭和40年度)に3,320,000円と伸びていった。蔵書数は1953年度(昭和28年度)に10,000冊を突破し、1961年度(昭和36年度)に20,000冊を突破した。 -1747年イギリス総選挙で再選を果たすと、ウィリアム・キャヴェンディッシュは議会開会直後にアーサー・オンズローの庶民院議長再任を動議した。1751年に王太子ジョージ(後の国王ジョージ3世)の家庭教師への任命を打診されたが辞退した。 -王国の歴史は成立からエチオピアのアクスム王国の攻撃を受ける4世紀頃までの第一期、525年に滅亡するまでの第二期に分けられる。南アラビア史において主導的な役割を果たした国家であり、同時期に南アラビアに存在していたサバア王国、ハドラマウト王国と覇権を争った。523年にユダヤ教徒の国王ズー・ヌワースがナジュラーンに居住するキリスト教徒を弾圧した事件の後、ヒムヤル王国はアクスム王国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、イランのサーサーン朝の介入を受けて滅亡する。ただし、525年のアクスム王親征軍によりズー・ヌワースが破滅すると、アクスム王によってキリスト教徒のスムヤファ・アシュワァが王位に封じられている。その後にアクスム軍の将軍がクーデターで王位を簒奪している。以上のことから、真の滅亡は570年代とみられる。 -輸入された氷の価格は、競争の程度によって変動した。ハバナでは、チューダーの氷は1ポンドあたり25セント(2010年の3.7ドルに相当)で販売されたが、ジョージア州では高くても6セントから8セントで売られていた(2010年の0.9ドルから1.2ドル相当)。チューダーは高いシェアを握る商圏では、時々の競争相手に価格を大幅に下げることで対抗していた。そういう場合には、1ポンドあたりの価格は1セント(0.2ドル)という利益度外視の価格で氷が売られたため、ほとんどの場合、競争相手は採算のとれる価格では在庫を処分することすらできなかった。そうなれば彼らは負債を負うか、あるいは安値で売ることを拒否しているうちに氷が熱で溶けて消えてしまうのであった。そうなればチューダーは現地に保存のための倉庫を持っているため、再び値上げをすることができたのだった。1820��代の半ばには、ボストンから一年あたりおよそ3,000トンもの氷が出荷されており、実にその3分の2がチューダーの荷であった。 -車両限界と建築限界については、東海道・山陽新幹線に比べて縮小することでトンネル断面積の削減を検討したが、将来的な直通運転への対応やサービス向上に対する弾力性などを考慮し、また工事費の節減効果が少ないとされたことから、東海道・山陽新幹線と同じ断面が採用された。軸重は、東海道・山陽新幹線では16tであったが、雪害対策を施したために1t増加して17tとなった。これに合わせて活荷重は新P-17標準活荷重およびN-16標準活荷重を採用している。最小曲線半径については山陽新幹線の基準を踏襲し、停車場外では4,000m(やむを得ない場合3,500m)と設定されていたが、後述するようにこれは結果的に達成できず、トンネル内に半径1,500mの曲線が設定されることとなった。縦曲線半径は15,000m以上、最急勾配は15パーミル以下、延長10km間平均勾配で12パーミル以下とされた。軌道中心間隔は4.3mで、軌道は全面的にスラブ軌道を採用している。トンネルの断面は、ほぼ山陽新幹線のものを継承している。基面の幅は、レール面の下0.4mの高さ(基面)で直線区間では8.4m、スプリングライン(トンネル側壁から上部の円形部分への接続点)の高さはレール面から2.6m、アーチ(トンネル上部の円形部分)の半径は4.8mである。 -プリーストリーにとって科学は神学に不可欠な要素であり、一貫して啓蒙合理主義とキリスト教の融合を心がけていた。哲学的著作では有神論、唯物論、決定論の融合を試み、それを"audaciousandoriginal"(大胆で独創的)と称した。彼は自然界を正しく理解することで人類の進歩が促進され、キリスト教的千年王国が到来すると信じていた。言論の自由を強く信じ、宗教的寛容と非国教徒の平等な権利を主張、イングランドにおけるユニテリアン主義の確立に関与した。物議を醸す著作『誤りと迷信という古い建物を爆破して』を出版しフランス革命支持を表明したことで、政治的疑惑を引き起こした。国教会に扇動された群衆が彼の家と教会に押し寄せ火を放ったため、1791年にはロンドンに逃げ、さらにアメリカ合衆国への移住を余儀なくされた。晩年の10年間はペンシルベニア州ノーサンバーランド郡で過ごした。生涯を通じて学者であり教育者だった。教育学における貢献として、英文法に関する重要な著作を出版。歴史についての本では初期の年表を記載し、後世に影響を与えた。こういった教育目的の著作が最も出版部数が多かった。しかし、後々に長く影響を与えたのは哲学的著作である。影響を受けた哲学者としてジェレミ・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサーらがおり、彼らは一般に功利主義者と呼ばれている。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -1931年の満州事変勃発以後、軍需拡大で大同電気製鋼所の経営が改善したため木曽川電力の経営も好転した。1935年5月、上松町全域に供給区域を拡大した。さらに同年9月には、奈川電灯株式会社(資本金5万円)より事業を譲り受けた。奈川電灯は西筑摩郡奈川村(後の南安曇郡奈川村、現・松本市)にて村の有志によって1922年6月25日に設立され、村内の黒川に小水力発電所を設けて翌1923年(大正12年)2月1日に開業した小事業者である。 -ゴート戦争は、前世紀に蛮族の侵入によって失われたかつての西ローマ帝国の属州を回復しようとする東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の野望に端を発している。長期間にわたる戦争によってイタリアは荒廃し、戦災と飢餓そして疫病によって人口も激減してしまい、東ローマ帝国の国力も使い果たされた。そのため、東ローマ帝国は568年のランゴバルド族の侵攻に抗することができず、イタリア半島の大部分が失われることになった。 -ダムを建設することで、そこに住む住民は移転を余儀無くされる。これは避けえないことだが北上川水系の場合は特に補償問題が大規模な例が見られた。田瀬ダムでは一旦移転した住民に対し、事業中止中に農地開墾のために帰村を認めたことから二度にわたる補償交渉が行われた。この「再補償」は田瀬ダムでしか見られなかった特色ある事柄であった。湯田ダムでは水没世帯数が622世帯と、多摩川の小河内ダム(奥多摩湖)における945世帯に次ぐ日本第二位の水没世帯数であった。このため全国的にも注目された補償交渉となり、最終的には1956年(昭和31年)「湯田ダム水没者更生大綱」を発表してインフラ完全整備の代替地を整備して交渉は妥結した。また国道107号や国鉄北上線の大規模付け替えといった公共補償も行われ、後のダム補償の先駆となった。御所ダムでは湯田ダムに次ぐ522世帯が水没対象となったが、盛岡市街に近く大規模住宅地が水没することで反対運動は激しく、1973年(昭和48年)に施行された水源地域対策特別措置法(水特法)による補償基準を厚くすることで最終的には妥結したものの、結果五大ダムで最も完成が遅くなった。水特法については胆沢ダム・長沼ダムも対象となっている。宮城県の花山ダムでは交渉中に当局がダム建設の前段階に着手、これにより当初融和的であった住民がダムに強硬に反対する事態となった。一関遊水地では450戸が移転対象となるため反対運動が強く、これも長期にわたる補償交渉が行われた。 -オーストリアが自軍を他の敵軍への対処にあて、失地を回復し始めると、フリードリヒ2世はオーストリアに密約を履行してシュレージエンの割譲に応じるつもりがないと判断し、協定の無効を宣言して進軍を再開した。1741年12月、プロイセン軍はモラヴィアに進軍して首府オルミュッツを占領、ボヘミア辺境のグラーツ要塞を包囲した。1742年1月、皇帝選挙が行われ、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが(カール7世として)神聖ローマ皇帝に当選した。2月、フリードリヒ2世はザクセン軍とフランス軍とともにモラヴィアを経由してウィーンへの進軍をはじめたが、フランス軍が非協力的な態度をとったためウィーンへの進軍の計画は4月に放棄され、プロイセン軍はボヘミアと上シュレージエンへ撤退した。 -市域の86.5%を山林原野が占め、平地がごく限られる鳥羽市では、埋め立てや干拓によって面積を拡大していった。特に志摩郡鳥羽町に隣接する加茂川河口部の加茂村北部は明治時代から注目されていた。 -1949年(昭和24年)4月1日には安城農業図書館の蔵書などが安城町農会から安城町役場に譲渡され、安城農業図書館は安城町立図書館として再建されることとなった。7月には新館が建設され、蔵書・疎開図書の移動や図書の整理などを経て、11月1日に安城町立図書館が開館した。場所は今日の安城市役所正面駐車場北東角、大字安城花ノ木53(開館時)である。既存の木造平屋建の建物を移築したとされ、用地購入費を含めた建設費は1,186,500円程度だったとされる。蔵書は安城農業図書館から譲り受けた。開館前には大見為次安城町長が図書館長を兼任していたが、開館時には書記の岡田清之が専任館長に就任した。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もド���ツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -この一連の問題は、主として、ヨーロッパ諸国にとっては「外交問題」、バルカン諸民族にとっては「民族問題」、オスマン帝国にとっては「領土問題」の側面を持つ。これを「東方問題」と総称する場合、あくまでヨーロッパ列強から見た「外交問題」の側面が強調される。列強間の東方に関する外交問題はベルリン会議(1878年)で一応の決着を見た。それ以降、列強の利害は「東方」地域だけでなく、エジプト以南のアフリカ・極東を含めて全世界規模で調整されるようになったので、列強にとって「東方問題」の重要性は減じた。しかし、これはあくまで列強間の外交上のことであり、バルカンの民族問題は全く解決されていなかった。後にそのことは二度のバルカン戦争によって明らかになり、この民族問題は第一次世界大戦を引き起こす要因のひとつとなった。最近のコソボ紛争にいたるまでこの民族問題は未だ解決されておらず、今日まで持ち越されている問題である。このため「東方問題」の決着は見方によって一様ではなく、ベルリン会議とみなす場合が多いが、後に続く紛争も「東方問題」に含めて論ずる場合もある。 -駅が開業したことにより、近隣の人々の暮らしは便利になった一方で、日野春駅まで登ってきた蒸気機関車の熱い蒸気や多量の煤煙は当然、信玄公旗掛松に噴き付けられた。設置された給水塔は松樹の近くにあり、煙を吐き続ける機関車が松樹の傍で給水のため長時間停車し、機関車の振動にさらされ続けるなど悪条件も重なった。さらに、1911年(明治44年)には、駅構内に鉄道の待避線が新たに引かれ、これに伴いレールと松樹の距離は更に狭まってしまう。開業当初に約4間(約7メートル)であった信玄公旗掛松の根元とレールとの実距離は、1間未満となってしまったのである。これに追い討ちをかけるように同年9月18日未明、日野春駅構内で転轍手の不注意による貨物列車の脱線事故が発生し、脱線した機関車が信玄公旗掛松に激突、松樹の大枝が数本折れてしまう。ただでさえ煤煙や蒸気、振動により衰弱していた老松にとって、この脱線衝突事故によるダメージは大きく、この事故に対し鉄道院は慰謝料として15円を清水に支払っている。 -夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者である。本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。俳号は愚陀仏である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などである。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身である。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表した。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載した。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆した。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。 -アルバムからのサード・シングル「Diggin'OnU」はフィジカルでのリリースはされず、デジタル・ダウンロードのみでのリリースとなった。2008年9月10日に日本でリリースされている。楽曲はJapanHot100チャートでは最高位80位を、JapanAdultContemporaryAirplayチャートでは2008年9月26日付のチャートで最高位31位を記録した。アルバムからの4曲目のシングル「MyTreasure」は、2008年10月22日に日本でリリースされた。オリコン週間CDシングルチャートでの最高位は15位で、トップ20ヒットとなった。JapanHot100では最高位12位を記録している。 -が、9月30日に主力部隊がエーガー川を渡河するころにはプロイセン軍の予想以上に早い南下のため一両日中の会戦が避けられない情勢となり、ブラウンは作戦を急遽変更して結局ラシを西岸に呼び戻した。30日夕刻、ブラウン軍はラシと合流してエルベ川屈折部ロボジッツに布陣した。 -ゴズリングが大きく注目されるようになったのは、同じくカナダ出身のレイチェル・マクアダムスと共演したロマンティック・ドラマ映画『きみに読む物語』後のことである。作品はニコラス・スパークスの同名作品を映像化したもので、ニック・カサヴェテスが監督した。ゴズリングはノア・カルフーン役を演じ、役について「時代を超えて—1940年から1946年まで—役を演じる機会を得たけれど、それはとても難解で物を作るような作業だった」と述べている。ゴズリングは役柄に「静かな強さ」を吹き込もうとしたほか、共演者のサム・シェパードが『天国の日々』で見せた演技に刺激を受けた。撮影は2002年後半から2003年初頭にかけてサウスカロライナ州チャールストンで行われた。この映画撮影後の2005年にゴズリングとマクアダムスは恋仲となったが、セットでは互いにいがみ合うような関係で交際に発展するとは思えなかったという。ゴズリングはこの時を振り返り、「互いにひどくけしかけ合うような関係だった。恋物語を撮っているのに、共演者と全く仲良くやれないなんて奇妙な経験だったよ」と述べている。撮影中、マクアダムスがあまり協力的でないと感じたゴズリングは、カサヴェテス監督に「自分がカメラに写らないショットでは別人を使ってほしい」と頼み込んだ。 -19世紀末の最盛期には、アメリカにおける氷貿易は9万人の雇用を生み出し、資産規模にして2,800万ドル(2010年時点での6億6600万ドル相当)に及んだ。この頃になると、貯氷庫は25万ショートトンの氷を収蔵できる巨大なものが使われていた。ノルウェーは人工の湖を並列的に利用して、年間100万ショートトンの氷を輸出した。一方で自然氷は、徐々に人工的に製造される氷や機械による冷却装置などとの競争に晒されるようになった。はじめは信用もなく、高価であった製氷機による氷は、オーストラリアでは1850年代から、インドでは1870年代から自然氷を駆逐するようになり、1914年に第一次世界大戦が勃発する頃には、アメリカで製氷機による生産量が天然氷の収穫量を下回る年はなくなった。戦争中、一時的にアメリカでは氷の生産量が増加したが、戦間期になると世界中で氷貿易は壊滅的な状況を迎えた。今日では、氷像をつくったり雪まつりを開催するために氷が収穫されることはあっても、19世紀に存在した産業としての氷の保存や輸送の連携はほぼ消滅してしまった。 -1916年3月、基次郎は成績上位で3年を修了した。異母弟・順三は高等小学校を終えると、北浜の株屋に奉公に出された。道義心の強い基次郎はこれに同情し、北野中学に退学届を出して中退した。自分も筋向いのメリヤス問屋の丁稚となった(6��からは西道頓堀の岩橋繁男商店の住込み奉公に変わる)。4月に兄は大阪高等工業学校電気科に入学した。順三は基次郎に気兼ねし長崎に移っていくが、不憫に思った父が順三を家に連れ戻した。この年、祖父・秀吉の遺した金1,000円を元手に、母は父に勧めて自宅を改装し玉突き屋「信濃クラブ」(信濃橋にちなんだ名称)を開業した。店は繁盛した。1917年(大正6年)2月、基次郎も奉公をやめて家に戻り、母の説得もあって4月から北野中学4年に復学。終生の友となる同級生の宇賀康、畠田敏夫、中出丑三らと親交を持つようになった。彼らの間では基次郎の綽号は「熊」であった。またこの頃、同級で野球部の美少年・桐原真二(遊撃手)に惹かれて同性愛的思慕を持った。この年から兄・謙一は結核性リンパ腺炎で手術を重ねた。1918年4月、5年生に進級した基次郎も、潜伏していた結核性の病で寝込むようになり、1学期は33日間も欠席した。その時に兄に差し出された森鷗外の『水沫集』(舞姫、うたかたの記、文づかひ、玉を懐いて罪あり、地震を収録)、邦訳『即興詩人』を読んだのをきっかけに、読書傾向が『少年倶楽部』から文学作品に変った。 -ヘレン・ビアトリクス・ポター(英:HelenBeatrixPotter[ˈbiːətrɪksˈpɒtə]、1866年7月28日-1943年12月22日)は、ピーターラビットの生みの親として知られるイギリスの絵本作家である。ヴィクトリア時代の上位中産階級に生まれ、遊び相手も少ない孤独な環境で育つ。教育は家庭で行われ生涯学校に通うことはなかった。幼いころから絵を描くことを好み、多くのスケッチを残している。さまざまな動物をペットとして飼育し、キノコにも興味を持ち学会に論文を提出したこともあった。絵本作家としての原点は、1902年に出版された『ピーターラビットのおはなし』で、これは元家庭教師の子どもに描いて送った手紙が元になっている。39歳で婚約するが、わずか1か月後に婚約相手が死去する。その後、たびたび絵本にも登場する湖水地方において念願の農場を手に入れ、47歳で結婚した。結婚後は創作活動も少なくなり農場経営と自然保護に努めた。死後、遺灰はヒル・トップに散骨されている。 -NintendoEntertainmentSystemには、任天堂のライセンスを受けていないソフトウェアの動作を防ぐロックアウト機構が搭載されていたが、1988年に著作権局からソースコードを得たアタリはロックアウト機構のリバースエンジニアリングを行い、ライセンス外のソフトウェアの動作を可能にした。任天堂はアタリの著作権侵害を主張し、アタリはフェアユース(公正な利用)を主張して訴訟を行った。1992年に任天堂の主張が認められ、アメリカ連邦控訴裁判所は任天堂勝訴の判決を下した。 -1960年代中期、モノラル録音を電気的にステレオ風に加工した(擬似ステレオ,略して擬似ステ,デュオフォニック)ステレオ盤が多数製作された。その頃のポピュラー音楽では同じ曲をモノラル録音と別に(後に、もしくは同時期に)ほぼ同じバージョンでステレオで録音し直す事もあった。例えばビートルズのレコードにはモノ録音、ステレオ録音(擬似ステに対しtruestereoと言う)、擬似ステ、そしてステレオ録音を単に足したモノラル(擬似モノと言う事がある)のものが存在する。ビートルズの場合、さらに最新リマスター(リミックス)版が加わる。1968年までにレコード会社の多くはモノラル盤の新譜発売をやめた(アメリカでのシングルのステレオ化は1970年代初頭)。 -4月22日、菅義偉官房長官は記者会見で日米両政府間でオバマの広島訪問を調整しているという事実はなく、アメリカが決めるべきことであるとした。同時に、世界の指導者が被爆の実情に触れることで、核廃絶への機運が高まるとの認識も示した。しかし水面下では日米間でオバマ大統領訪問に向けた調整が進み、4月下旬にはほぼ訪問が固まった。安倍首相はオバマの訪問に同行することを望み、サミット議長記者会見の予定時間を若干繰り上げることを検討。また当日の広島の日の入りが午後7時以降であることから、オバマの訪問を夕方に遅らせることも決定した。5月10日、ホワイトハウスはオバマが伊勢志摩サミットに合わせ、安倍首相とともに広島を5月27日に訪問すると発表した。その場では核兵器のない世界��平和、安全保障のため継続的に深く関わっていくことを強調する一方、原爆投下については謝罪しないことも発表された。日本政府もオバマの広島訪問を正式に発表し、5月11日に菅官房長官はオバマの広島訪問は核廃絶のための国際的な機運を盛り上げる、極めて重要な歴史的機会であるとして歓迎の意向を表明した。 -だが、ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団を突入させた。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、ベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる近衛隊の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走した。 -夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者である。本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。俳号は愚陀仏である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などである。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身である。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表した。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載した。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆した。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。 -リープクネヒトとルクセンブルクが義勇軍に虐殺されたので、代わってパウル・レヴィが党の指導者となる。1919年にはコミンテルンに加盟し、1920年7月にはコミンテルン参加に賛成するドイツ独立社会民主党左派と合同してドイツ統一共産党(VKPD)と改名した(翌1921年に「ドイツ共産党」の党名に戻る)。蜂起失敗の反省からレヴィは一揆主義者の追放を断行し、社民党や労働組合の中の反指導部層との共闘を図るという「統一戦線戦術」を推し進めたが、コミンテルンの方針に異を唱えたことからコミンテルンの不興を買って1921年2月に失脚した。 -1970年(昭和45年)6月頃には明大寺町に新館を建設することが決定した。明大寺町は名鉄名古屋本線東岡崎駅の南に位置する文教地区であり、1912年の開館から半世紀以上を経て初めて、名鉄名古屋本線以南に図書館が立地することとなった。この敷地には市立岡崎高等看護学院(現・岡崎市立看護専門学校)と岡崎市婦人会館があったが、それぞれ市立岡崎病院(現・岡崎市民病院)跡地と旧農林水産省種畜牧場内に移転している。 -この伝承の背後に潜む意味を説明するために、多数の説が提出されてきた。ウィリアム・マンチェスターの『炎のみに照らされた世界』(AWorldLitOnlybyFire,1992)は、笛吹き男は精神異常の小児性愛者だったと述べている。マンチェスターはこの事件が起こったのは1484年の6月20日であり、この犯罪者はハーメルンのザクセン人の村から130人の児童を誘拐し、「口に出して言うのも憚られる目的」に用いたのだと断言している。更にマンチェスターは「ある子供達は二度と姿を見せず、ある子供たちは五体バラバラにされて、森の繁みの中や木の枝から吊り下がっている所を発見された」と付け加える。しかし、マンチェスターがまことしやかに述べ立てる事件を裏付けるような資料は一切発見されておらず、彼は事実と断言するこの説に対して出典を提示していない。マンチェスターの説は、少なくともその120年以前から現れている物語のバージョンを無視している。 -1960年、バチスカーフの後継機の一つであるアメリカのトリエステ号が、当時既に世界最深地点として知られていたマリアナ海溝のチャレンジャー海淵を目指して有人潜航を行った。乗船していたジャック・ピカール(オーギュストの息子)は、到達した最深地点(水深10,900m前後)で「シタビラメに似たカレイの一種」を目撃したと報告した。一方、日本の無人探査艇「かいこう」が1998年に行った調査では、同地点で魚類を確認することはできなかった。21世紀初頭時点では、ピカールによる「目撃報告」は疑問視され、ナマコの一種を見間違えたのではないかと考える研究者もいる。日本のNHKが、海洋研究開発機構(JAMSTEC)のチャレンジャー海淵調査について2017年8月27日放映したテレビ番組「DEEPOCEAN超深海/地球最深(フルデプス)への挑戦」によると、チャレンジャー海淵の底ではナマコ類やエビ類は撮影されたものの、魚類は写っていなかった。確かな科学的裏付けを持つ例として、これまでに最も深い場所から採集された深海魚はアシロ科(アシロ目)のヨミノアシロ(Abyssobrotulagalatheae)である。デンマークの調査隊がプエルトリコ海溝の水深8,372mから本種を引き揚げたのは1952年のことで、学名には当時の調査船ガラテア号の名前が冠されている。他に、クサウオ科(カサゴ目)のシンカイクサウオおよびアシロ科のソコボウズが7,000m以深で観察されている。海洋研究開発機構(JAMSTEC)の調査船「かいれい」の機器が2017年5月、マリアナ海溝の水深8178mにおいてシンカイクサウオの採餌行動の撮影に成功した。2017年8月時点で、これが生きた魚類の映像の最深記録である。 -1916年10月、マイトナーは研究所へと戻った。研究所ではフリッツ・ハーバーを中心として、毒ガスなど、軍事用の研究が中心となっていたが、その中でマイトナーは以前からの放射性物質の研究を続け、1918年、新元素プロトアクチニウムを発見した。マイトナーの業績は認められ、1918年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を任された。これによりマイトナーはようやく研究者として十分な給与を得ることができるようになった。第一次大戦後の1920年、ハーンとの共同研究は終了し、マイトナーは独立で研究を行うようになった。同じ年、プロイセンでは女性の大学教授資格が認められ、マイトナーは1922年にベルリン大学の教授となった。すでに何本もの論文を発表しているため、通常必要とされる論文審査は免除された。10月に行った就任記念講義の内容は「宇宙生成における放射能の意味」。当時女性の物理学者は非常に珍しかったため、「コスミッシュ(宇宙の)」とすべきところを「コスメティッシュ(化粧の)」と記載してしまった記事もあった。 -アテナイの学堂はルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の、現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず署名の間と呼ばれる部屋から着手することにした。そして、最初に『聖体の論議』を仕上げてから、2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化したものと言えよう。 -1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。その後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発...といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導���過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。 -ドイルは『緋色の研究』出版までの間に『ガス・アンド・ウォーター・ガゼット』誌からの依頼でドイツ語の『ガスパイプ漏れの検査』を英語訳した。後年、ドイルは「世人は『緋色の研究』が私の仕事の突破口だと思うかもしれないが、そうではない。自分から頼んだのではなく出版社から依頼された初めての仕事という意味でこの翻訳が私の突破口となった」と語っている。1887年7月から1888年初めにかけて、17世紀後半のモンマスの反乱を描いた歴史小説『マイカ・クラーク』を執筆した。この作品はロングマン社に買い取ってもらい、1889年2月に出版した。かなり評判がよく、1年の間に3版も重版を重ねている。後年ドイル自身も「この作品が自分の最初の出世作だった」と語っている。1889年にアメリカ合衆国のJ.B.リピンコットからの依頼でシャーロック・ホームズシリーズ第二作の長編小説『四つの署名』を執筆し、1890年2月に英米で出版された。この作品の評判もよかった。 -20世紀のなかで宮崎駿が最も影響を受けたものとして、ブルース・スプリングスティーン、映画『イージー・ライダー』、そしてジョン・フォードの監督作品、とりわけ『荒野の決闘』を挙げている。そのほかに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』、デヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』、フリッツ・パペンハイムの『TheAlienationofModernMan』といった本からも影響を受けたと述べている。ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『指輪物語』を厳しく批判する一方、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』からの影響をしばしば公言し、「シュナの旅」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『ゲド戦記』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『ゲド戦記』から影響された部分があると語っている。フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『世界・わが心の旅』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった郵便機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、ハンセン病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」と話す女性を登場させるなど、網野善彦の中世史観の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する。 -同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『アルルの女』)。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている。 -東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は、天和笑委集や近世江戸著聞集を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の『御当代記』のお七の記述も後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ疑問を呈している。しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は『御当代記』は後から書き入れられた注釈を含め戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和3年お七という女が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど江戸で発行された天和笑委集と大阪の西鶴が書いた好色五人女に、違いはあれど八百屋の娘お七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか3年後に出版されている事から少なくともお七のモデルになった人物はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずのお七の事件からわずか3年後の貞享3年にあれほど同情を集めるはずが無いとしている。 -第一次世界大戦で1916年のベルリン大会は開催中止となったが、1920年のアントワープ大会から再開され初めてオリンピック旗が会場で披露された。この時期は、選手村・マイクロフォン(1924年)、冬季大会の開催(1924年)、16日前後の開催期間(1928年)、聖火リレー(1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。この時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安にとして国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。この様子は1924年のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』に詳しい。開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、1936年のベルリン大会では当時のナチス政権は巧みに国威発揚に利用した。聖火リレーやオリンピック記録映画の制作などの劇的な演出もこのとき始まった。しかしその後、第二次世界大戦でオリンピックは2度も流会してしまうこととなった。 -1146年にザンギーが没した後にバールベックはセルジューク朝のダマスカス総督の攻撃を受け、アイユーブは現金・領地と引き換えに降伏した。1152年に14歳になったサラディンはアイユーブの元を離れ、ザンギーの子でアレッポを支配するヌールッディーン・マフムードに仕官する。サラディンはヌールッディーンからイクター(封土)を与えられ、彼に近侍した。ヌールッディーンがダマスカスへの進出を試みたとき、ダマスカスに居住していたアイユーブはヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取りあい、1154年にヌールッディーンはダマスカスの無血開城に成功した。ダマスカスの開城後、アイユーブはヌールッディーンに協力したことを評価されてイクターとダマスカスの支配権を与えられ、引き続きダマスカスに留まった。 -アッタロスの門(ΠόρταἈτ[τ]άλου,PortaAt[t]alou)は、特徴も位置も不明である。位置については、シリル・マンゴーは古黄金の門のそば、ファン・ミリンゲンは第七の丘の頂上付近(後にテオドシウスの城壁の城門の一つがおかれた場所、レーモン・ジャナンはより北方のリュクス川が城壁の下を横切る地点というように様々な説が唱えられている。かつてはコンスタンティヌス1世などの多くの彫像で彩られていたが、740年の地震で崩壊した。聖アエミリアヌスの門(ΠόρτατοῦἁγίουΑἰμιλιανοῦ,PortatouhagiouAimilianou)は、その正確な位置が確定している唯一の城門である。トルコ語ではダヴトパシャ門(DavutpaşaKapısı)と呼ばれている。陸上の城壁と海側の城壁の継ぎ目にあり、海岸との連絡通路となっていた。復活祭年代記によれば、門の隣にはラブドスの聖マリア教会が立っていて、「モーセの杖」が収められていた。 -敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結されたヴェルサイユ条約によって天文学的賠償金が課せられた。また国境付近のドイツ領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツ領土は大きく縮小した。軍については陸軍兵力を小国並みの10万人に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有を全て禁止された。1919年7月31日にはヴァイマルで開かれた国会でヴァイマル憲法が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「ヴァイマル共和国」の時代が始まった。ちなみに将校4000人という制限は、軍に残る事を希望するドイツ帝国将校6人のうち1人だけがヴァイマル共和国陸軍に残れるという倍率をもたらした。そしてロンメルはヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の1人であった。この後、ロンメルは9年ほどシュトゥットガルトの第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月に長男のマンフレートが生まれている。彼は戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めている。1929年10月1日にドレスデン歩兵学校の教官に任じられた。多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという。 -『ラス・メニーナス』の表面は水平方向に4つ、垂直方向には7つに分割されている。このグリッド線は、人物像のグループをきちんと組織化するのに役立ち、当時は一般的に使われた技法であった。ベラスケスは人物像を9つ、国王夫妻の鏡像を含めれば11の肖像を描いたが、彼らはキャンバスの下半分を占拠している。さらに複雑なことに、7分割は絵の表面構成だけではなく、奥行にも適用できる。不規則な間隔で7層に配列された、舞台装置のような表現が興味深い。最初の層は、絵の左側に突き出したキャンバスと、右側の大きな犬と男の小人で構成される。2番目の層には、王女と女官、小人がいる。3番目の層を成すのは、画家自身や、その少し後ろにいるシャペロン、目付役である。4番目の層は、絵の架かった後部の壁面である。ドアの向こうでニエトが立っているのが、5番目の層である。6番目の層は、後ろの壁にかかった鏡の奥で、鏡像が映し出される場所である。7番目の層が、鑑賞者や国王夫妻が立つ場所、ということになる。 -アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、英:AmericanWarofIndependence)は、1775年4月19日から1783年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命(英:AmericanRevolution)もしくは革命戦争(英:RevolutionaryWar)と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている。なお、日本の歴史教科書では、「アメリカ独立戦争」と表記することもあれば、単に「独立戦争」と表記することもある。 -サンデーサイレンスは非常に気性が荒く、騎乗した人間の指示に従わず暴れる傾向があった。ウィッティンガムは、厩舎一の腕を持つジャネット・ジョンソンをサンデーサイレンス担当の調教助手に指名したが、ジョンソンは気性の荒さに嫌気が差し、一度騎乗しただけで降板している。騎手のウィリー・シューメーカーも調教のために騎乗したことがあるが、気性の荒さに激怒し、レースでの騎乗を拒否した。ウィッティンガムによると、ヘイローの産駒は総じて気性が荒いという。しかし、種牡馬時代のサンデーサイレンスは、メジロマックイーンがそばにいると大人しくなることが多く、サンデーサイレンスとメジロマックイーンの放牧地は隣同士に設えられていたという逸話がある。前述のように、サンデーサイレンスは1986年11月に悪性のウイルスに感染して激しい下痢を起こし、生死の境をさまよったことがある。この闘病についてハンコックは「普通の馬だったらダメだっただろう」、「よほどの精神力がなければ、とてもじゃないがあんな経験は乗り越えられない」と述べている。 -歌詞では、プレゼントは要らないからクリスマスに最愛の人と共に過ごしたいと切望する気持ちが描かれている。曲ではピアノ、ドラムス、ヴァイオリン、オーボエ、フルート、ベルチャイム、バスドラム、カウベルなどの楽器音が使われている。また、ブリッジを含め、全編でバック・ボーカルが重ねられている。ソニーATVミュージックパブリッシングのMusicnotes.comが出版した楽譜によれば、この曲は4分の4拍子で、キーはト長調(Gメジャー)であり、キャリーの声域はG3からG5までに及ぶ。キャリーはこの曲の作詞・作曲を行い、アファナシェフが編曲に加え、シンセサイザーで作ったコンピュータ音源と録音を合わせて曲を完成させた。 -掃除魚(そうじうお、Cleanerfishes)とは、他種の魚の死んだ皮膚組織や外部寄生虫を食べる習性をもつ魚類の総称。これは双方が利益を得る生態学的相互作用、すなわち相利共生の一例として理解されている。ベラ・ハゼ・シクリッド・ナマズなど、さまざまな魚が掃除行動をすることが知られている。また魚ではないが、エビ類にも同様の掃除行動をとる種が多くいる。 -2001年(平成13年)4月1日には基本構想等策定委員会が設置され、栗田仁(建築家)、草谷桂子(児童文学者)、杉田至朗(静岡新聞論説委員)、竹内比呂也(図書館情報学者)、平野雅彦(情報プランナー)の5人が委員に就任。静岡市が基本構想策定委員会を設けるのは、(中央館ではない)地域館としては異例のことである。2002年5月10日には「仮称静岡市立御幸町伝馬町地区図書館基本構想」が策定され、「ビジネス支援サービス」というコンセプトが明確にされた。 -開発チームは、『KHII』の戦闘シーンを担当したスタッフを主軸に構成される。開発前半期にコンセプトディレクターとしてチームの取りまとめを担った塩川洋介は過去に『KH』などを担当していた。プランニングディレクターとしてバトル全般のディレクションをした高橋光則は『KH』、『KH2』ではボス戦などを任されていた。シネマティクスムービークリエイティブディレクターとしてムービー全般のディレクションを行った野末武志は過去に『FFVIIAC』、『KH』などに関わった。メインプログラマーの池田隆児は過去に『KH』などを担当している。本作の開発には「若手スタッフにチャンスを作ろう」という意図があったことも関係して、若手スタッフが多いのも特徴。ゲーム全体のディレクションは『すばらしきこのせかい』でプランニングディレクターを担った荒川健がシニアディレクターとして担当した。そして、そんなチームに開発をまかせつつ、プレッシャーをあたえる役を担うのが本作の最年長スタッフとなるプロデューサーの北瀬佳範である。 -758年4月にマンスールはメッカ巡礼に発ち、エルサレムを経由してシリアを巡幸した後、ハーシミーヤに帰国した。しかし、マンスールが帰国してみるとハーシミーヤではアッバース家を支持するラーワンド派の信奉者がハーシミーヤのマンスールの宮殿の周りを歩き回り、ここが神の住居であると騒ぎ立てる事件が起きていた。ラーワンド派はインドの輪廻思想の影響を受け、自分たちに食料と水を与えるマンスールは神の生まれ変わりだと考えていた。彼らの行動を不快に思ったマンスールはおよそ200人を投獄したが、残ったラーワンド派の人間は激高し、牢内の仲間を救いだした後、宮殿に殺到した。マンスールは護衛とともに戦ったが数の上では劣勢であり、戦闘の中で突然現れた覆面の人物の奮戦によってマンスールは難を脱することができた。戦闘を終えたマンスールは覆面の男に正体を訪ね、男は自分はアッバース朝の探索から逃れていたウマイヤ朝の将軍マアン・ブン・ザーイダであることを明かした。マンスールはザーイダの功績を評価して彼をヤマン(イエメン)の総督に任じ、ザーイダは任地の統治で大きな功績を挙げた。また、この時宮殿の門に馬が繋がれていなかったため、マンスールはラバに乗って戦わなければならなかった。この事件以後マンスールは宮殿の入り口に常時馬を繋ぎとめるようになり、救難馬の制度は後のカリフや他のイスラーム国家の支配者にも受け継が���た。 -第一次世界大戦で1916年のベルリン大会は開催中止となったが、1920年のアントワープ大会から再開され初めてオリンピック旗が会場で披露された。この時期は、選手村・マイクロフォン(1924年)、冬季大会の開催(1924年)、16日前後の開催期間(1928年)、聖火リレー(1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。この時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安にとして国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。この様子は1924年のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』に詳しい。開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、1936年のベルリン大会では当時のナチス政権は巧みに国威発揚に利用した。聖火リレーやオリンピック記録映画の制作などの劇的な演出もこのとき始まった。しかしその後、第二次世界大戦でオリンピックは2度も流会してしまうこととなった。 -竣工後の「竹」は、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期。当時の旗艦は「長良」)に編入される。6月中は横須賀から動かなかった。7月初旬に横須賀から瀬戸内海へ移動し、「冬月」や「清霜」および松型姉妹艦と訓練をおこなう。7月中旬、門司で物資を搭載、南大東島への輸送作戦に参加する。7月15日付で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻(梅、竹、松、桃)により第43駆逐隊(駆逐隊司令菅間良吉中佐)が、それぞれ編制される。 -デチャニ修道院中央聖堂はロマネスクの影響の強い建築物であるが、実際には、当時のセルビア王国は、皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの娘シモニスを娶ったステファン・ウロシュ2世ミルティンによってかなりビザンツ化しつつあった。これがセルビアのビザンティン建築の第2段階で、セルビア・ビザンティン建築が確立された時期であると言ってよい。ミルティン王から、皇帝を称したステファン・ウロシュ4世ドゥシャンまでの間に、セルビア王国はバルカン半島の東ローマ帝国領を軍事制圧し、占領地から東ローマ帝国の建築家や技師を雇って、多くの修道院を建立した。ミルティン王は、ステファン・ネマニャによって開かれたアトス山のヒランダル修道院に、中央聖堂を建立した。1303年に建設されたこの聖堂は、まだ充分に研究された建築物ではないが、純粋なビザンティン建築で、テッサロニキ、あるいはコンスタンティノポリスの建築家が施工したものと考えられる。身廊の四隅に円柱を備える伝統的な四葉形であるが、独創的な点として2つのドームを持つ奥行きの深いナルテクスが付属する。アトス山でも重要な役割を担う修道院の中央聖堂として、この構成はセルビアの教会堂建築にかなり大きな影響を与えた。 -背びれは2枚あり、第一背鰭は第二背鰭と比べてわずかに小さく、基底部が短い。第二背鰭には1本の棘があるが、第一背鰭にはない。第一背鰭は、背面の胸びれの最後部にあたる位置から付く。一方、第二背鰭は腹びれ基底部のわずかに後方に当たる位置からのびる。尾びれの上部は丸く著しく突出し、その頂点近くには欠刻がある。尾びれの下部にもわずかに他の魚類のような丸い突出がみられる。ひれの形状と配置はマルバラユメザメと類似しているが、ヨロイザメが持つ第二背鰭の棘状の突起で区別できる。皮膚は他のサメ類と同じく皮歯(いわゆる鮫肌)と呼ばれる歯と相同の鱗で覆われている。 -3月11日の東京市場の大引けまであと14分という時間に震災が発生した。株式市場には売りが殺到、10,350円前後で推移していた日経平均は10,254円43銭と前日比180円安まで急落し、安値引けとなった。週明け3月14日の東京市場は9時より通常通り取引を開始したが、ほとんどの銘柄が売り気配で始まった。日経平均は、始値は210円安の10,044円17銭で始まり、幅広い銘柄に売り注文が殺到し下げ幅を拡大、終値は9,620円49銭(633円94銭安6.18%の下げ)と1万円を割りこんだ。更に翌3月15日には4号機が爆発・炎上し、放射能汚染が広範囲に拡大したことで日経平均は大幅続落、一時1,392円安の安��8,227円63銭まで下げ、終値は1,015円安の8,605円15銭と9,000円を割り込んだ。15日の日経平均株価は前日比-10.55%、過去3番目に高い下落率の大幅下落を記録する事となった。震災前と比べ、3営業日で2,361円87銭安(22.3%安)になった。その後、地震から4営業日目の16日に反発となり、488円高の9,093円まで戻した。一方為替相場では、復興資金調達のために円の価値が高まるとの思惑から急激な円高が進行し、3月17日に一時1ドル=76円台となって戦後最高値を更新した。これに対し、日銀やG7合意に基づく協調介入により市場の安定化を図ったため、3月20日には80円台を回復し円高にも一応の歯止めがかかった。さらに、原子炉事故への対応の進展が伝えられると株価も反発し、3月22日には日経平均も9,600円台を回復した。しかし、世界銀行が最大で2,350億ドル(約19兆円)、日本政府が16-25兆円の震災被害想定額を発表するなど、経済的影響の大きさが伝えられたほか、日銀短観や景気動向調査でも景況感の悪化が伝えられた。工場の被災や部品不足により、国内外で生産停止や特定製品の品薄が発生した一方、「震災特需」「復興特需」による一部産業での景気の上向きが発生している。ただ、2011年末で推定12万人の震災失業が伝えられるなど、被災地を中心に経済への影響はいまだ続いている状況にある。復興費用は10年間で23兆円(2011年7月時点)と見込まれていて、復興債による補填も行われている。 -約35万年前からは、現在箱根外輪山を形成する金時山や明星ヶ岳などの噴火活動が開始したと考えられる。ともに玄武岩や安山岩から成る成層火山で、地形や噴出物の内容から、金時山や明星ヶ岳とも現在はカルデラ内部となっている場所に火山体の噴出口があったと考えられている。金時山や明星ヶ岳の活動とほぼ同時期、現在の芦ノ湖付近に火山体の噴出口があったと考えられる山伏峠火山体、十国峠付近に火山体の噴出口があったと考えられる白糸川溶岩グループなどの活動があったと見られている。約30万年前からは、中央火口丘付近に火山体の噴出口があったと考えられる深良火山体などの活動があった。このように箱根火山では複数の成層火山の活動が続き、成層火山群が形成されていった。 -レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い。とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ・リザ』と、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に比肩しうる絵画作品は、ミケランジェロ・ブオナローティが描いた『アダムの創造』以外には存在しないといわれている。また、ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』も文化的象徴と見なされており、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書、Tシャツなど様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。これはレオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイングや科学に関するイラストが描かれた手稿、絵画に対する信念などは後世の芸術家へ多大な影響を与えた。このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも20歳余り年少のミケランジェロ・ブオナローティだけであった。レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている。ヘリコプターや戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論、二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした。また、解剖学、土木工学、光学、流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった。また、発生学の研究も行っていた。更に眼を調べることで光と眼鏡の原理も解明していた。 -榛名山は約50万年前から同じ場所で噴火を重ねており、山頂のカルデラは馬蹄形に連なる多重の外輪山に囲まれている。約22万年前の爆発で直径3キロメートルほどのカルデラが生じ、そこに榛名湖の原型ができた。4万年ほど前にカルデラ内で再び噴火があり、東西4キロメートル、南北2キロメートルほどのカルデラをつくった。これが現在の榛名湖の周囲を囲む外輪山で、当時はその内側が全て湖だったと考えられている。その後も、このカルデラ内で何度か噴火があり、榛名富士などが生じた。カルデラ内の湖の一部が火山噴出物で埋め立てられ、いまの榛名湖の姿になった。 -1954年11月3日、特撮映画製作を熱望していたスタッフが、当時社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作した、第1作“水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が公開される。身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。映画評論家の樋口尚文は、本作の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくというレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる』(1953年)に大きな影響を受けている。観客動員数は961万人を記録した。この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の1955年に公開された第2作『ゴジラの逆襲』では「怪獣同士の対決」が初めて描かれた。この後しばらく東宝はゴジラ以外の怪獣・特撮映画を作っておりゴジラシリーズの新作の企画は無かった。7年後の1962年に公開されたシリーズ第3作『キングコング対ゴジラ』は、当初の企画はアメリカでキングコング(1933)のウィリス・オブライエンがキングコング映画の新作として「キングコング対フランケンシュタイン」として企画していたものである。だが、この企画はアメリカでは資金調達が出来ず、オブライエンも企画から外されたものが回り回って東宝に売り込まれた。それまで東宝にはゴジラ映画の新作の予定はなかったが、東宝側は「キングコングと怪獣を闘わせるなら相手はゴジラしかないだろう」として、これを契約。「キングコング対ゴジラ」となった。これが国内で初めての怪獣対決映画となる。「キングコング対ゴジラ」は、当時の歴代邦画観客動員数第2位の記録となる1255万人を動員した。アメリカなど日本国外でも上映され、大ヒットとなる。以降、日本国外で好調なセールスを買われた昭和ゴジラシリーズは、外貨獲得の手段として1960年代には矢継ぎ早に新作が製作された。 -震災直後は、宮城・岩手・福島・茨城の4県を中心に北海道から愛知県まで広範囲にわたり、17道県の少なくとも約140万戸で断水が発生した。各地の水道事業者などで作る日本水道協会は、全国の応急給水車約210台に、東北・関東両地方の被災地への派遣を要請。中部、近畿、中国、四国、九州の主に西日本側の自治体の給水車が被災地へと派遣された。東北地方を中心に100局以上の郵便局に建物全壊や浸水などの大きな被害が出ており、また長野県北部地震によるものや被害規模の小さいものも含め約600局の郵便局に被害が出た。このほか簡易郵便局、集配センターなどの郵便ネットワーク施設や、それら施設などで郵便業務に従事する者にも多くの被害が出ている。かんぽの宿松島には津波が3階まで押し寄せたが、130人以上の避難者とともに4階に移動し、12日には全員が救出された。また、青森県・岩手県・宮城県・福島県・茨城県で郵便物の配達が困難になり、北海道・東北6県・茨城県を差出元・差出先とする宅配便の引き受けを中止した。ヤマト運輸は3月11日、北海道および東北6県への全商品の荷受け・集荷および関東への低温宅配サービスなどの荷受けを中止した。佐川急便も北海道・東北行きの集荷と関東行きの一部集荷を見合わせた。日本郵船は、貨物船3隻が福島県で津波の被害に遭った。後に全て再開しているが、警戒区域内への配送は一切できない。電子商取引大手のアマゾンジャパンは、同社の流通設備における地震被害により、速達サービスを停止するとともに、北海道および東北への商品配送を停止した。後に再開しているが、警戒区域内への配送は現在でも不可能。 -榛名湖(はるなこ)は、群馬県西部にある湖だ。榛名山のカルデラ内に生じた火口原湖で、水系としては利根川に属する。周囲は約4.8キロメートル、面積は約1.2平方キロメートル、最深部は約12メートルから15メートルだ。『万葉集』の時代から上野国を象徴する歌題「伊香保の沼」として知られる。榛名神社とともに、江戸時代以降は関東地方を中心とする雨乞い信仰「榛名講」の目的地となった。明治以降は近接する伊香保温泉に集まった文化人によって文芸作品に描かれた。大正時代からは本格的な観光開発がはじまり、年間百数十万人(1987年)の観光客を集め、一年を通じて群馬県を代表する観光地の一つとなっている。 -1952年(昭和27年)4月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効によって日本の占領が終結したことで、CIE図書館は閉鎖され、うち13の都市では米国国務省に移管のうえ5月1日からアメリカ文化センター(ACC)と改められた。基本的なサービス内容はそれまで通りであったが、米国政府の広報活動の最先端を担う施設となり、映画会、展覧会、英会話教室、講演会、人事交流事業に重点が置かれるようになった。翌1955年(昭和30年)には国務省から米国広報・文化交流庁に移管された。1967年(昭和42年)以降、予算削減のため7つのセンターが閉鎖され、1972年(昭和47年)の時点で札幌、東京、名古屋、京都、大阪、福岡の6都市のみとなった。さらに1996年(平成8年)に京都、1997年(平成9年)に札幌のセンターも閉鎖されたが、USIAが国務省に統合された1999年(平成11年)には札幌のセンターが再開されることとなった。2006年(平成18年)には東京アメリカン・センターの資料室も閉鎖され、米国大使館へと移転した。 -ナリタブライアンは約1か月間厩舎で静養したのち早田牧場新冠支場で療養生活を送り、7月上旬から2か月にわたって函館競馬場内において調整が行われた。この時軽い運動しか行われなかったため、マスコミによって体調不安が指摘された。この時期に函館競馬場でナリタブライアンを見た岡部幸雄は、「もうカムバックは難しいだろうなぁと思った」と述べている。9月に栗東トレーニングセンターに戻った後も約1か月間は負荷の強い調教が積極的に課されることはなく、体調不安や調教不足を指摘する声は根強かったが大久保は天皇賞(秋)への出走を決定した。1番人気に支持されたがレース終盤に失速し12着に敗れた。その後ジャパンカップ・有馬記念に出走したがそれぞれ6、4着に敗れた。 -A310-300の開発と時期を同じくして、規制当局や機体メーカー、航空会社らによって双発機の長距離運航を認める要件がまとめられ、1985年にETOPSと呼ばれる規格が策定された。当時、ETOPS認証を取得するためには一定時間以上の飛行実績を必要とし、1986年4月10日にA310で初めての120分ETOPS(飛行ルート中に120分以内に着陸可能な空港があれば良い)が認められた。ETOPSはエンジンとの組み合わせで認証されるものであり、各エンジン搭載型の認証日ならびに、後に許容時間が180分に延長された「180分ETOPS」の認証取得日は後述の表3に示した通りである。航続距離が伸びたこととETOPSの要件を満たしたことで、A310は大西洋横断路線のような長距離洋上路線や、アジアとヨーロッパを結ぶ大陸横断路線へも就航可能となった。パンアメリカン航空やオーストリア航空は、欧州と米国を結ぶ北大西洋横断航路にA310を投入した。また、トルコ航空とオーストリア航空はそれぞれトルコ、オーストリアと日本を結ぶ長距離国際線にもA310-300を就航させた。そのほか、1985年6月にはシンガポール航空がA310をシンガポール-モーリシャス線に就航させており、これは4,000海里(約7,400キロメートル)近い飛行ルートの大半が洋上となる路線であった。 -1736年にロシアが再びアゾフを求めてオスマン帝国と争うオーストリア・ロシア・トルコ戦争(露土戦争���も、1735年-1739年)に参戦した。この戦争の結果は1739年のベオグラード条約で、これによりロシアのアゾフ領有が確定しロシアの黒海進出を招いたものの、オスマン帝国はオーストリアからベオグラードを奪還した。しかしこの戦争ではその結果よりも推移状況において「東方問題」に特徴的な傾向が現れた。ロシアの同盟国オーストリアは、開戦の1年後にロシアを支援する形で参戦したが、ロシアの影響力の拡大を恐れたために、休戦交渉においてはロシアの敵国フランスの懸念を利用してロシアの主張を抑え込もうとした。ここでは「東方」をめぐる紛争に、紛争の当事者以外の第三国を介入させることで勢力均衡を維持しようとする「東方問題」の基本構造を見ることができる。 -2014年はしゃんしゃん祭が始まってから第50回となる節目の年であり、これを期して「世界記録」に挑むことになった。傘踊りの世界記録は、全員が同時に傘を使って5分間以上踊ることによって認定されており、従来はルーマニアでの1461人が世界記録だった。記録挑戦は2014年8月14日に行われた。10名の証人が記録挑戦者を数え、県知事の平井伸治や市長の深澤義彦も含めて「1729名」となった。「5分以上」を達成するために「きなんせ節」を2回続けて踊り、これを36名の監視員が審査した。その結果、踊りが揃っていないといった理由で41名が失格となったものの、1688名による踊りが成立したと認められ、「世界最大のアンブレラダンス」と認定された。この年は一斉踊りの総参加者は4200名、来場者は推定21万人を記録した。 -南硫黄島の植生は大きく分けて海岸部の乾生低木林帯、島の中腹を中心に広がる山地常緑広葉樹林帯、そして島の上部に見られる木生シダや草本植物群落の3つに分けられる。海岸部から標高200-300m付近までは断崖が多く、土壌に乏しい地域であり、保水性が悪いため土地は乾いていることが多い。このためセンダンやタコノキなどの群落が発達している。また、標高200-300m以上ではチギやオオバシロテツなどの常緑広葉樹林が広がっている。そして標高400m以上ではコブガシ林が広がっているが、コブガシ林は海鳥たちの巣穴が集中している地域と重なるため、小さな植物が極めて少ないという特徴を持っている。さらに標高500m以上の地域は雲霧林となり、コブガシの幹にはコケ植物、シダ植物、種子植物の着生が見られる。標高600-700m以上は、火山列島固有種のエダウチムニンヘゴなどの木生シダの群落や、ガクアジサイ、ヒサカキの群落、さらには草本であるススキの群落などが見られる。特にエダウチムニンヘゴ群落は幹に多くの種子植物、シダ植物、コケ植物の着生が見られ、雲霧林としての特徴を良く示している。またガクアジサイ、ヒサカキ群落は北硫黄島、そして八丈島の八丈富士にも分布しているが、父島や母島などの小笠原群島では見られない。これは南硫黄島や北硫黄島のような高い山が小笠原群島にはないためガクアジサイやヒサカキの群落が発達せず、さらには小笠原群島ではなく、伊豆諸島、日本本土そしてアジア大陸との共通種が南硫黄島に見られる原因も島の標高の高さが原因であるとの説がある。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -1445年にスリ・パラメスワラ・デワ・シャーが明に朝貢の使節を派遣した際、護国の勅書、衣服、朝貢のための船の下賜を明に要請して認められているが、この要請は簒奪によって即位したスリ・パラメスワラ・デワ・シャーの不安定な立場と、タイのアユタヤ朝からの外圧が強まっていたことの裏返しとも言える。1446年に即位したムザッファル・シャーの治下、王の即位直後にアユタヤの攻撃を受ける。マレー半島西岸のクランを統治していたブンダハラ(宰相)家のトゥン・ペラクの活躍によってアユタヤ侵攻を撃退、マレー半島のパハン、スマトラ中部(現在のリアウ州)にマラッカ成立以前より存在したと思われるインドラギリ、カンパールに成立した都市国家を従属させるべく軍を進めた。ムザッファルの治世においては、彼の異母兄弟であり、中国人の血を引くと伝えられる副王ラジャ・プテの活躍が軍事と外交の両方で目覚ましい活躍を見せ、ラジャ・プテはパハン、カンパル、インドラギリの王と婚姻を結び、それらの地を支配したマラッカ分家の祖となった。 -船での交通が可能となったマイン川は、バンベルクから西に向かって流れてゆく。シュヴァインフルトまでの間は、比較的直線的な行程である。ここでも、城下町エルトマン、木組み建築とマルクト広場が印象的なツァイル、マリアブルクハウゼン修道院の町ハースフルトといったロマンティックな小都市が沿岸に並ぶ。リムバッハ(エルトマン市内)とツァイルには、それぞれ有名な巡礼教会がある。マイン川の右岸はハース山地、左岸はシュタイガーヴァルトである。ハースフルトから約20kmでシュヴァインフルトに到着し、ここから『マインドライエック』(マインの三角)と呼ばれる区間に入る。 -作品の完成後、初演に向けてのリハーサルが始まるが、ドビュッシーは初演を担当する指揮者カミーユ・シュヴィヤールを全くといってよいほど信頼していなかった。また、オーケストラに配付されたパート譜には誤植が多く、ドビュッシーは本番直前まで間違った音の修正に追われるという有様であった。このような状態の中、1905年10月15日、パリにおいてシュヴァイヤール指揮ラムルー管弦楽団により『海』の初演は行われた。「ドビュッシー主義者」たちは新作『海』が「ペレアス」的な音楽でないことに失望し、直後に発行された『ル・タン』紙1905年10月15日号では、かつてドビュッシーの擁護者であった音楽評論家ピエール・ラロが、同作品について「自然の複製品」「海を感じることができない」などと酷評した。その後、パリでは1週間後に、ブリュッセルでは12月3日に『海』が演奏されたが、聴衆の反応は芳し���ものではなかった。『海』が聴衆や批評家の理解を得られなかったことで、その後しばらくの間ドビュッシーの創作活動は極端に低調なものになり、1906年に作曲されたのは、わずかにピアノ小品1曲のみであった。 -枢軸国は1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。対する連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。ただし、すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。また、イタリアなど連合国に降伏したあとに、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国と呼ばれ、連合国の一員であるとはみなされなかった。枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはイギリス、ソビエト連邦、中華民国、アメリカ合衆国、フランスの5か国である。 -イエローストーン国立公園とアイダホ州で再導入が開始されたのは1995年である。イエローストーン国立公園で野生のオオカミが殺された最後の公式記録は1926年であった。その後、オオカミの獲物となっていたワピチ(アメリカアカシカCervuscanadensis)や他の動物が増加し、その結果、植生に被害が出た。オオカミが果たしていた捕食者としての役割の一部はコヨーテが果たすことになったが、成獣のワピチはコヨーテの捕食対象にはならない。 -ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、『エコー・ド・パリ』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。......何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評をいったが、同調する評論家はいなかった。 -上野動物園側がハチの受け入れを正式に決定するまでにはかなりの時間がかかった。成岡はハチのことが心配でならず、焦燥の日々を送っていた。出動の日が明後日に迫った1942年(昭和17年)5月3日の昼頃、成岡のもとに上野動物園からの返事が航空便で到着した。返事には「是非、送っていただきたい。大いに歓迎する」と書かれていて、成岡と部下たちはハチが生き永らえることを心から喜んだ。部隊が出動するまでの残りの2日間、成岡と部下たちはハチとの別れを惜しんだ。橋田はハチのためにノロジカを仕留め、シカ肉をふるまった。成岡や部下たちには、明日の命も知れない自分たちの代わりにせめてハチには生を全うしてもらいたいという思いがあった。このとき、第8中隊の1人から「ハチという軽い名前では可哀想だ」という話が出た。せっかくハチが東京まで行くのだから、それにふさわしい名前が必要だという理由であった。そこで当時の日本政府が掲げていた「八紘一宇(はっこういちう)」のスローガンから「八紘」の字を充てるのはどうかという意見に賛同者が相次ぎ、ハチは「八紘」と呼ばれることになった。成岡はハチを東京に送り出す手順などを残留組の初年兵係教官の三宮少尉に託し、5月5日に江西省九江を目指して部隊とともに出発した。このときの成岡には、これがハチとの永遠の別れとなることなど知る由もなかった。 -寺院史的立場から見ると、東大寺は荘��経営などで経済を保ち、保有する杣から伐り出した木材で伽藍の修繕をしている。その修繕は創建を担当した造東大寺司の後裔である造東大寺所の管轄だったが、平安時代中頃から僧個人の力が強くなると、私僧房ばかりが重視されるようになった。そこで組織を政所内部に組込んで修理所とし、荒廃が進んでいた堂宇の営繕に努めるようになった。荘園は全国におよび、大修理の際には、一国全体を任されることもあった。既存の杣の山林資源が枯渇していたのを補った。しかし、江戸時代には荘園が取上げられ、さらに東大寺が寺請制度の一翼を担わなかったために衰退し、明治時代に入ると、大きな勢力を誇っていた子院の東南院も滅んだ。浄土宗に属していたこともあったが、1886年に独立、華厳宗の大本山となり、観光収入などで寺院経営を行っている。美術史的立場から見ると、東大寺法華堂(三月堂、羂索堂)は、奈良時代から続く堂で、内部には奈良時代彫刻の優品が多く安置されている。また、鎌倉時代の復興期には、重源に重用された慶派の仏師による彫像群が造られた。これは興福寺に安置された彫像とともに重要視されている。 -9月ないし10月には、両軍の本格的な戦闘が開始された。戦闘開始の責任について、中ソ両陣営とも、相手方の宣戦布告なき不当な先制攻撃があったと主張していた。ソ連が自衛を大義名分に攻撃を正当化する手法は、フィンランドとの冬戦争などでも見られたことであるが、今回は実際にも中国側の暴力的な財産侵害が先行していた。黒龍江・松花江合流地点方面では、中国側によると9月から本格的なソ連軍の攻撃が始まり、9月19日に綏浜、10月12日に黒竜江と松花江合流点の同江、10月31日に富錦を攻略し、松花江沿いの約50キロにわたって侵攻した。うち10月12日の戦闘では、ソ連軍のアムール小艦隊(中国側の観測によると砲艦5隻と武装商船4隻)が航空機の援護を受けて侵攻し、中国軍江防艦隊(砲艦2隻と武装商船など4隻)と水上戦闘になった(三江口の戦い)。中国艦隊は砲艦「利捷」(旧ドイツ海軍「オッター」)や武装商船「江平」「江通」「江安」などを失って壊滅し、艦載砲13門が鹵獲されたほか、ソ連軍上陸部隊との地上戦闘も合わせて死傷250名・捕虜150名、陸上火砲21門鹵獲などの大損害を受けた。中国側のラハスス要塞は占領された。中国側はソ連艦2隻炎上・1隻撃破と航空機2機撃墜を主張したが、ソ連側の記録によると戦死5名・戦傷24名と軽微な損害であった。10月30日には、富錦攻略に来襲したソ連河川艦隊と中国江防艦隊残党の戦闘も起きており、このときも中国側は砲艦「江享」などを失って敗北した(富錦の戦い)。ソ連側の記録では地上戦とあわせて中国軍の戦死300名、戦傷・捕虜数百名の損害を受けた。ソ連側の損害は、戦死3名と戦傷11名だったとされる。中国側の河川艦隊はほぼ全滅状態となったほか、一連の過程で商船9隻が拿捕された。 -バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人やアッカド人たちはバビロニア南部でウルやウルク、ニップル、ラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第三王朝がそれに続いた。 -吾妻鏡の原資料の全体像について際だった研究を行ったのは、大正時代の八代国治と最近では五味文彦である。五味文彦は『吾妻鏡』の原史料として3つの類型「幕府事務官僚の日記・筆録」「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」が浮かび上がるとする。ここでは説明の都合上「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」に「京系の記録」を追加して先に説明し、最後に将軍記毎に「幕府事務官僚の日記・筆録」を見ていく。地頭・御家人、寺社などから、訴訟の証拠や由緒として提出されたと思われる文書である。しかし訴訟の証拠書類だろうと思われるものの中には、明らかに偽文書と思われるものが混じっている。元久2年(1205年)閏7月29日条にある河野通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書はその代表例である。それらのことから幕府の中に保管されていた文書は実はほとんど無く、後世に提出された書類から採録したものがかなりの量に及ぶだろうと推測される。有力御家人の伝承の項で触れた建久3年(1192年)8月5日条などは千葉氏の家伝と思われる。 -感染症の歴史では、世界の歴史において、特に後世に社会的、経済的、文化的に甚大な影響を与えた感染症について記述する。医学は感染症の対策や治療の探求により発展してきた。感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって規模が拡大していった。病原微生物ないし病原体がヒトや動物のからだや体液に侵入し、定着・増殖して感染をおこすと組織を破壊したり、病原体が毒素を出したりしてからだに害をあたえると、一定の潜伏期間を経たのちに病気となる。これを感染症という。類義語として伝染病があるが、これは伝染性をもつ感染症をさしている。また、伝染性をもつ感染症の流行を疫病と呼んでいる。感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきた。感染症や疫病に関する記録は、古代メソポタミア文明にあってはバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』にすでに四災厄のなかのひとつに数えられ、同時期のエジプトでもファラオの威光は悪疫の年における厄病神に比較されている。中国にあっても、紀元前13世紀における甲骨文字の刻された考古資料からも疫病を占卜する文言が確認されている。日本においては平安時代には疫病の終息を願う神事が全国で行われていた。 -現在のグレート・バリア・リーフを形作る基盤となる地層は、古い暗礁や火山の名残りなどを含む海丘の上にグレートディバイディング山脈からの堆積物が重なった開析海岸平野である。協同リサーチセンター(CRC)内のサンゴ礁リサーチセンターは、50万年前のサンゴ骨格による鉱床を発見した。グレート・バリア・リーフ海洋公園管理局(GBRMPA)は、初期の暗礁は60万年前頃から形成が始まったという見解を述べ、現在生育しているサンゴ群はその上に、約2万年前から成長を始めたと考察している。オーストラリア海洋科学研究所もこれに同意し、成長開始の時期は最終氷期最盛期に当たり、海深も現在より120mほど浅かったと述べている。 -1918年、戦争は終結した。ボッシュはドイツ工業会の代表として、1919年3月にベルサイユで始まった和平交渉に参加した。ベルサイユではホテルからの外出は許されず、回りには鉄条網がはりめぐらされ、厳しい監視がつけられた。交渉の内容もドイツにとって厳しいものだった。ドイツにある多くの化学工場は、火薬や爆薬が製造可能であるという理由で、軍需工場とみなされた。そして連合国であるフランスは、BASFのオッパウ工場とロイナ工場の閉鎖を求めた。ボッシュは、ドイツの秩序と賠償金の支払いのため、工場は連合国にとっても必要であると主張したが、聞き入れてもらえなかった。そこでボッシュは、ある夜、ホテルを抜け出し、鉄条網を乗り越え、監視の目をすり抜けて、フランス化学工業界の大物であるジョセフ・フロッサールと会って話をつけ、2時間後にホテルに戻った。その結果、ボッシュはパリに行くことが許され、そこでの数度にわたる交渉の末に、1919年11月に話はまとまり、オッパウ・ロイナ両工場は操業を続けることが許された。その代わり、フランスは国家窒素局(ONIA)の手でフランス国内にハーバー・ボッシュ法を利用したアンモニア工場を建てることが決まり、BASFはそのための技術援助をすることになった。ボッシュは交渉をまとめた功績により、1919年、BASFの取締役会長に任命された。こうしてボッシュはBASFの代表となったが、従業員との細かい取り決めについては深く関わろうとはしなかった。そういった中で、労働者からの不満が表面化するようになった。1919年にはロイナ工場でストライキが発生し、1921年には、共産主義活動家によって組織された労働者によってロイナ工場の入り口が封鎖され、警察との間で戦闘状態となった。こうした背景には、ロイナ工場が短期間のうちに作られたために従業員の住居が十分に建てられておらず、労働環境においても長時間労働や安全性の欠如といった問題を抱えており、さらに従業員に対する厳しい管理への反発もあったことが挙げられる。 -ペンシルベニア産の石油は当初、40米ガロン(150リットル)の木製の樽に入れられて、混載のボートや艀が輸送に用いられた。しかし樽による輸送にはいくつかの問題があった。最初の問題は重量で、標準的な空の樽は64ポンド(約29kg)ほどで、これは中を満たした樽の全重量の20パーセントほどに相当する。また、樽は中身が漏れやすく、一方向への輸送にしか用いることができない。そして最後に、樽はそれ自体が値の張るものである。例えば、ロシアの石油産業発展の初期には、樽の値段は石油生産価格の半分を占めていた。ばら積みでの石油の輸送が多くの地域で多くの手段で試みられた。石油のパイプラインは1860年から存在している。1863年、2隻の帆走タンカーがイングランドのタイン川で建造された。これに続いて、1873年に最初の蒸気推進タンカーであるVaderlandがベルギーの所有者向けにパーマーズ・シップビルディング・アンド・アイアン・カンパニーによって建造された。こうした船の使用は、安全上の問題を懸念したアメリカとベルギーの当局によって抑えられた。1871年時点で、ペンシルベニア油田では石油輸送艀と、今日用いられているものに似た鉄道のタンク車を限定的に用いていた。 -1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者となって以降、ソ連からの独立を宣言する地域が続出し、南オセチア議会も1989年に独立を宣言する。グルジアはそれに異議を唱えて1991年1月に南オセチアに軍を送って戦争となった。この戦争での死者は2000人以上と見られている。戦争中は両軍によって数々の残虐行為が行われた。グルジアあるいは南オセチア内の住居を追われたオセット人は10万人に達し、一方で2万3千人のグルジア人が南オセチアに留まった。その結果、戦後の南オセチア人口は7万人に減り、グルジア人の割合は5分の1に上がった。グルジアは戦争中の1991年4月にソ連からの独立を宣言し、12月にソ連解体が決まったため正式に独立国となった。1992年に停戦が合意され、南オセチアの中心都市ツヒンヴァリの周りに「グルジア・オセチア間紛争解決合同調整委員会」(JointControlCommissionforGeorgian-OssetianConflictResolution)の管理下で、ロシア、グルジア、南オセチア3者による平和維持軍が置かれ、南オセチアは事実上独立状態になった。 -20世紀後半に発見された嵐の神ハダドの古代神殿は、エブラおよびマリの楔形文字の文書に記されており、丘の利用は紀元前3千年記の中頃にさかのぼる。神殿は、ドイツの考古学者カイ・コールマイヤーらによる発掘と、そのなかで発見されたレリーフからも明らかなように、紀元前3千年記中頃から、少なくとも紀元前9世紀まで使われ続けていた。その都は紀元前2千年紀前半にヤムハドの首都となり、「ハダドの都」として知られていた。預言者アブラハムは城塞の丘の上で彼の羊の乳を絞ったといわれる。アレッポを中心とした新ヒッタイト衰退の後、アッシリアがその区域を支配し、それに新バビロニアおよびペルシア帝国が続いた。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼���たのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -衝撃波は1ミリ秒につき8メートルも進むため、32個の雷管が点火するタイミングの許容誤差は0.1マイクロ秒以下になる。このため原爆用に新しい原理の雷管が新規に開発された。それが起爆電橋線型雷管である。起爆電源のために、5キロボルト1,000アンペアの大型の高圧オイルコンデンサが必要で、0.1マイクロ秒以下の誤差で作動させるために1マイクロファラッドの低キャパシタンスのスイッチ機構が必要である。これに電力を供給するための新型電池が開発された。コンデンサと電池だけで1トン近い重量があり、爆縮レンズの爆薬に次いで重量を占めている部品である。 -因幡国での和紙生産は古く、8世紀前半(奈良時代)のものが確認されており、これは日本で最古期のものである。江戸時代には藩の輸出品になり、保護策がとられた。しかし、現在のように全国的な知名度を確立したのは第二次世界大戦後のことで、西洋紙が普及にともなって全国的に和紙の生産が急速に衰退する中で、新しいタイプの和紙の生産を繰り返してきた結果、全国的なシェアを獲得するに至った。 -元々のシリーズがRPGであることからARPGと対戦アクションゲームを足したイメージで開発されており、キャラクターの成長要素に比重が置かれているところが通常の対戦ゲームと異なる点である。RPGである従来シリーズとは一線を画した作品であり、そうした点を強調する意味も込めてジャンル名には「プログレッシブアクション」という名称が用いられた。タイトルに付けられた「ディシディア」とは、ラテン語やギリシア語で「異説」などを意味する中性名詞dissidiumの複数(主格/対格)形である。その名が示すとおり、世界観は本作オリジナルのものとなっており、舞台は本作のオリジナルキャラクターである調和の神「コスモス」と混沌の神「カオス」が、幾千年も争い続けてきた世界とされる。 -狭山池と満濃池以外で古代から中世の日本ダム事業史において特色を持つダムとして摂津国の昆陽池(こやいけ)と大和国の大門池がある。昆陽池は兵庫県伊丹市にあるため池であるが、このため池は狭山池や満濃池とは異なる目的を持っていた。昆陽池は武庫川支流の天神川に隣接して建設されたが、この土地は西に武庫川、東に猪名川が流れ箕面川が合流する地点であり洪水常襲地帯であった。昆陽池は行基によって建設が進められたが、この地の灌漑に加えて洪水調節による治水を昆陽池の目的に据えて731年(天平3年)に完成させた。昆陽池は治水ダムとしても多目的ダムとしても記録に残る日本最初の堰堤であり、流域の治水・利水に貢献した。昆陽池は1,300年近く経た現在、治水機能は無くなったものの上水道専用貯水池および公園として伊丹市が管理しており、阪神・淡路大震災では活断層上にあって強い揺れを受けたにも関わらず現役で運用されている。一方大門池は奈良県生駒郡三郷町、信貴山の麓を流れる大和川水系大門川に1128年(大治3年)建設された灌漑専用のため池であるが、完成時の高さが32.0メートルという規模は紀元前240年頃趙によって建設され当時高さ世界一であったグコーダム(北宋)の記録(30.0メートル)を破り世界最高の高さに躍り出た。この記録はその後14世紀末にスペインのアルマンサダムによって破られるまで約300年間にわたり続いた。完成以来約900年間流域の農地を潤していたが、大門川の治水を目的に2012年(平成24年)完成した大門ダムによって水没した。 -本願所が成立する以前、中世における熊野三山の財源とされたのは、熊野山(本宮・新宮)・那智山へ寄進された三山経営そのものにかかわる各々の荘園、熊野御僧供米、造営料国・造営料所などであった。熊野へ寄進された荘園の早い例は11世紀末に遡ると見られ、その事例として応徳3年(1086年)11月13日付けの「内侍藤原氏施入状案」に見られる紀伊国比呂庄と宮前庄の事例、次いで白河院が寛治4年(1090年)1月21日に「紀伊国二ヵ郡五ヵ所合百余町」を寄進した事例があげられる。(『中右記』・『百錬抄』)これ以後、熊野別当・修理別当・在庁・三綱・熊野所司を始めとする熊野三山の執行機関が常陸国から日向国に至るまでの30ヵ所余りの荘園の執行実務に携わり、14世紀中頃まで熊野三山経営の中核を担っていたと考えられている。 -1969年12月13日にはラモン・ホセ・カステジャーノ大司教によって司祭に叙階された。1970年には修士号を取得。1972年から1973年の間、サン・ミゲルのヴッラ・バリラリ修練院修練長を経て、神学の教授、管区顧問、神学院院長に就任した。その指導力を高く評価されたベルゴリオは、1973年7月31日にアルゼンチン管区長に任ぜられ、1979年までの6年間この職を務めた。1980年から1986年の間にはサン・ミゲルの神学校の神学科・哲学科院長、サン・ミゲル教区のサン・ホセ小教区の主任司祭を務める。1986年3月には博士号取得の為、ドイツのフランクフルトにあるイエズス会が運営する聖ゲオルク神学院(ザンクト・ゲオルク神学院)に在籍。同僚の話によると、この時期ベルゴリオはドイツの神学者ロマーノ・グアルディーニに興味を示していたという。その後アルゼンチンに帰国し、サルバドーレ学院院長を経て、コルドバで霊的指導者・聴罪司祭を務める�� -21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。1984年のロサンゼルスが6829人(221種目)だったが、2008年の北京では10942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。 -また、佐藤進一は「麟」の花押について信長が「自らの力によって」平和社会を実現しようとしたものである可能性を指摘しているが、この「自らの力によって」という部分に異議を唱えたのが高木叙子である。伝説上、麒麟は聖人が現れた際に姿を見せる聖獣であるが、高木によれば、この聖人とは次期将軍候補の足利義昭(義輝の弟)のことを指すという。この高木の解釈は次のようなものである。後年に生じた信長と義昭の対立、あるいは信長による覇権の確立といった結末から逆算して、この花押に全国統一の野望のような含意があったと解釈するのは妥当ではない。むしろ、信長がこの花押を使用し始めたのは、義昭から上洛支援の要請を受けた直後であるのだから、義昭こそが信長の「待望の聖君」であったと考えるべきである。そして、義昭を君主として推戴して室町幕府の政治に関わろうとした信長の意図をこの花押は示しているという。近年では信長の印章「天下布武」にも全国統一のような意図はなかったと考えられている(→信長の政権構想)。このような研究の流れを受けて、足利義昭による理想社会の実現という上記の高木説について、金子拓も説得力のあるものだとして支持している。 -アウクスブルクの年齢構成はドイツ平均とほぼ同じで、18歳以下が16.0%(43,213人)である。全住民の52.2%(140,592人)が女性、47.8%(128,857人)が男性である。 -タイリクスズキは全長1mほどである。日本記録は1.38m(拓寸)である。近年までスズキと同種とされていた。鰓杷数、脊椎骨数および側線鱗数で区別できる。スズキと異なり成魚でも多くの個体で黒点が目立つため「ホシスズキ」とも呼ばれるが、黒点の全くない個体もある。もとは中国沿岸、台湾、朝鮮半島西岸に分布し、日本沿岸には分布していなかったが、養殖用に輸入された個体が逃げ出して野生化した外来種である。日本で再生産を行なっているのかについては不明である。産卵期は渤海では8月から11月ごろ、上海近海および台湾では1月ごろである。淡水中での繁殖も可能であり、実際に台湾では行われている。中国では河口から400km上流まで遡上する個体もいる。天然水域での生態についてはほとんどわかっていない。 -第二世代の組換え作物として最も有望視されているものの一つがゴールデンライス(goldenrice)である。多くの発展途上国において深刻な問題になっているビタミンA(vitaminA)欠乏の解決策として開発された。ビタミンAの前駆体であるβ-カロテンを内胚乳に含有するため精米された米が黄色を呈することから、このような名称がつけられた。 -信秀の死後に、当主の居城であった末森城を継承したのは、信行であった。さらに、柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門ら弾正忠家の重臣が付されていて、信行は弾正忠家においてかなりの権勢を有していたようである。弾正忠家の家督は信長が単独で継承したとされるが、信秀所領の西部を信長が継承し、東部を信行が継承すると��う合意があったのではないかとする説もある。この段階において、信長は弾正忠家の当主として確固たる地位を築いていたわけではなかった。信行は、叔父の守山城主・織田信光らと並び、信長にとっての大きな脅威となっていたのである。とはいえ、柴裕之によれば、翌年の天文22年(1553年)7月の段階では、信長・信行の両者は協力して弾正忠家の運営にあたっていたと考えられる。信行方の家臣である柴田勝家が、信長と敵対する織田大和守家と戦っていたからである。 -1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。その後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発...といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。 -利根川の名称は、『万葉集』巻第十四に収載されている「東歌」のうち「上野国の歌」にある以下の和歌が文献上の初出である。刀祢河泊乃可波世毛思良受多太和多里奈美尓安布能須安敞流伎美可母(利根川の川瀬も知らずただ渡り波にあふのす逢へる君かも)—『万葉集』巻第十四、東歌「上野国の歌」この和歌の冒頭にある「刀祢河泊」がすなわち利根川のことである。意味は「利根川の浅瀬の場所もよく考えないで真っ直ぐに渡ってしまい、突然波しぶきに当たるように、ばったりお逢いしたあなたです」と解され、庶民女性による寄物陳思の表現様式を採る相聞歌である。これについて犬養孝は自著『万葉の旅(中)』において、上野国の歌でありかつ人が渡河できる程度の川幅であることから、歌に詠まれた利根川の位置は現在の沼田市から渋川市にかけてではないかと推定している。 -13世紀のレコンキスタの達成後、ポルトガル社会は封建領主が支配する北部地域、富を蓄えた自治都市のブルジョアジーが影響力を行使する中部地域、騎士修道会が支配する南部地域に三分される。1348年秋に流行した黒死病によってポルトガルの総人口は約3分の2に減少し、リスボン、コインブラなどの都市部は深刻な被害を受ける。黒死病は零細農民の都市部への流入と農村部の人口の減少、黒死病を恐れる貴族や地主による教会・修道院への土地の寄進などの現象を引き起こし、固定地代に依存していた貴族層の経済力は低下する。他方、一部の都市ブルジョアジーはワイン、オリーブオイルなどの輸出によって利益を得るようになり、ポルトガル王はリスボン商人を初めとする新興資産家を政治基盤に取り込むために頻繁にコルテス(身分制議会)を開催し、相対的に王権が強化されていった。 -無機材料のセラミックスもばねとして利用されている。既存の金属ばねでは対応不可能な700°Cから1000°Cの高温下でも実用できる耐熱性を持つ。セラミックスは脆性材料であり、小さな欠陥でも破壊に至り、強度のばらつきが大きいため、ばね用材料としては不適当と以前は考えられていた。その後の製造技術の進歩によって、高強度のセラミックスが誕生し、ばねとして実用可能となった。実際の使用例としては、高温下使われる治具用ばねに窒化ケイ素が使われている。 -6月14日、ヴィエルホルスキ率いるポーランド軍がボルシュコフツェの戦いで敗れた。17日、ポニャトフスキは待ち望んだミハウ・ルボミルスキ率いる2000人の援軍を手に入れた。翌18日、ポニャトフスキ率いるポーランド軍は、イラクルィ・モルコフ率いるロシア軍をジェレンツェの戦いで破った。スタニスワフ2世はこの勝利を「ヤン3世以来のもの」と賞して軍功勲章をコシチュシュコらに授与した。 -グラッドストンはそうした反対を押し切ってでも義務教育を導入することを決意し、内閣で教育を所管している枢密院副議長ウィリアム・エドワード・フォースター(英語版)(急進派)に主導させて初等教育法案(英語版)を作成した。この法案は1870年に議会に提出され、急進派や非国教徒の激しい反発に遭いながらも、保守党の一部議員の賛成を得ることができ、なんとか両院を通過した。この法律により「既存の学校は私立学校として宗教教育を自由にやってよいが、父兄から反対があった時はその子弟に対しては宗教教育をしてはならない」「学校がない地区には教育委員会の監督下に公立学校を設置・運営する。公立学校では特定宗派を引き立てる教育はしてはならない」「義務教育にするかどうかは各地区の教育委員会の判断にゆだねる」ことが定められた。急進派であるフォースターはもともと既存の学校を全て買収して無宗教公立学校に変えたがっていたが、それは熱心な国教徒であるグラッドストンが許さなかったため、この辺りが落とし所となった。しかし急進派や非国教徒の不満はくすぶり続け、自由党内に埋めがたい亀裂が生じ、1875年の総選挙の惨敗につながることになる。 -ティムールは登位したトクタミシュが自身の忠実な同盟者になることを期待したが、トクタミシュはオロスの方針を継承してジョチ・ウルスの統一を目指し、1380年にクリミア半島の有力者ママイを破ってジョチ・ウルスの再統一を達成する。トクタミシュはジョチ・ウルス再統一後にアゼルバイジャンに遠征軍を送り、1385年にはタブリーズを攻撃する。やがて、中央アジアに勢力を広げるティムールは、トクタミシュと衝突することになる。1376年夏、王子ジャハーンギールが早世する。ティムールは4人の息子たちの中でも、特にジャハーンギールに目をかけていた。1376年から1377年にかけて、ティムールは5度目のモグーリスタン遠征を行う。1379年にティムールがモグーリスタンへの遠征に出ている最中、スーフィー朝のユースフがマー・ワラー・アンナフルに侵入し、サマルカンド近辺を略奪した。ユースフに一騎討ちを申し込まれたティムールは挑戦を受けて立ったが、怯んだユースフは決闘の場所に現れず、家臣に蔑視されたユースフは憔悴のうちに没した。3か月の包囲の末にティムールはウルゲンチを攻略、ユースフを支持した一部の住民を虐殺した。 -1993年に、旧市街は、ユネスコの「人類の文化・自然遺産」に登録された。その選定理由に、バンベルクが、中央ヨーロッパの諸都市で発展することとなる中世初期のグランドデザインを比類ないあり方で示していることが挙げられた。ユネスコ世界遺産の登録対象地域は、歴史的な市の中心街である、ベルクシュタット、インゼルシュタット、ゲルトナーシュタットが含まれ、その総面積は約140haとなる。2004年の100ユーロ記念金貨ユネスコ世界遺産シリーズに、バンベルクの歴史的都市風景が採り上げられた。 -1928年、ピアソン夫妻は帰国のために北見を発った。駅には大勢の人々が見送りに詰めかけ、讃美歌『また会う日まで』を合唱し、誰もが涙を流して別れを惜しんでいた。夫妻が15年間暮らした野付牛の開町30周年には、夫妻は開拓功労者としての表彰を受けた。アメリカへ帰国後の夫妻は、アイダの生地であるフィラデルフィアで過ごした。ジョージは研究を続け、辞典の編纂、伝道論、神学研究、自伝など、多くの著作を出版した。日本での伝道で多くの迫害や困難に遭ったにも関らず、夫妻の思い出は日本人たちとの楽しい思い出ばかりであった。後の夫婦の共著による『楽しかった日本の四十年』は、北海道での伝道を主とした書であり、苦しみよりも喜びや楽しさが多く語られている。アイダは晩年、肺炎による高熱に冒されて脳を病み、正常心を失い、生涯最期の1年はほとんど何もわからない状態であった。ジョージはそんな妻を最後までいたわり、看護した。1937年3月13日、アイダがジョージに看取られながら、満75歳で死去した。その2年後の1939年7月31日、ジョージはアイダを追うように、糖尿病により満78歳で死去した。 -1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立。当初は6人のスタッフから始まった。最初に制作した作品『ある街角の物語』はスタッフの給料から制作費まですべてを手塚の描いた漫画の原稿料で賄い、1年をかけて40分のカラー長編アニメーション作品で、ブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞する。その後1962年に動画部は「虫プロダクション」と改名した。(虫プロダクションは最盛期には400人を超えた数の正社員を擁していたという。) -1801年のコロンビア特別区基本法(TheOrganicAct)により、正式にコロンビア特別区が編制され、アレクサンドリア市、ジョージタウン市、ワシントン市を含む連邦の管轄地域全体が、連邦議会の排他的支配下に置かれた。さらに、特別区内で自治体に組み込まれていない領域は、二つの郡(county)に組織された。すなわち、ポトマック川北岸のワシントン郡と南岸のアレクサンドリア郡である。同法制定後は、特別区内の市民はメリーランド州やバージニア州の住民ではなくなり、議会の代表権もなくなることとなった。 -坑内における作業員の避難所として、マンホールを2チェーン(約40m)おきに合計115か所、下り列車に対して本線左側に設置した。また両側坑口から3100フィート(約945m)、5600フィート(約1,707m)、および中央点の合計5か所は大マンホールとした。工事中は監督員の仮詰所を設置したり、工事資材の倉庫として利用したりした。また将来的に複線化を行う際には、これらのマンホールのうち12か所から横坑を掘削して同時に着手することで、工期を2年程度に短縮することも考えられていた。工事中、1897年(明治30年)7月から8月にかけて山梨県内において赤痢の流行が発生し、特に笹子側にあたる北都留郡の流行は激しかった。人夫の感染予防に努めて工事を中止することは無かったが、それでも一時的に作業員の数が減少して工事の進捗に影響が出た。また1898年(明治31年)には不況の影響で予算が減額され、導坑から第3切り広げまでの工事のみを行って第4切り広げおよび覆工の工事は中断することになった。翌1899年(明治32年)には状況が回復して第4切り広げ以降の作業の進行改善に努めたが、この遅れにより多少の重複作業が発生するなど効率に影響を及ぼした。 -1995年1月連邦政府は、カナダアルバータ州から野生のオオカミの輸送を始めた。しかしながら、1月9日にFarmBureauから差し止め請求があったため、それが同年3月19日に棄却されるまでオオカミを放すことができなかった。そして3月21日、オオカミの檻の扉は開けられた。また1996年1月にも追加のオオカミが放された。再導入されたオオカミは順調に増え、2009年末にはアイダホ州、ワイオミング州、モンタナ州の3州の個体数は約1700頭になり、そのうちイエローストーン国立公園には約100頭が生息している。この頭数は、当初の計画が予定していたものを上回って推移している。現在、「十分に個体数が回復したので絶滅危惧種法の対象から外すべきだ」という議論が起きている。2009年に一度外されて狩猟が解禁されたものの、「同法の対象からまだ外すべきではない」という訴訟が起こり、2010年8月の判決によって再び絶滅危惧種法の保護対象となり狩猟禁止に戻った。 -『ラ・ラ・ランド』でゴズリングの相手役は3度目の共演となるエマ・ストーンで、ストーンの出演決定を聞いて役に飛びついたとの話もある。作品を手掛けたデイミアン・チャゼル監督は、ミュージカル映画の撮影には困難も多かったが「(ゴズリングとストーンは)セットの中でも外でも有機化学的反応を起こしていた」と語ったほか、ゴズリングの過去作品を引きつつ「この映画をやるのに必要な要素を全部持っていた」ともしている。ゴズリングはストーンとのダンス練習と併行してピアノ演奏を学び、劇中の演奏シーンでは自分で演奏した。『ガーディアン』紙のピーター・ブラッドショウは、「ストーンのように元々歌手ではないが、それでも画面にはとても現実的な何かがあり、歌に向き合う生身の人間がいる」と評した。『ローリング・ストーン』のピーター・トラヴァースは、「ゴズリングの映画出演作は[中略]多岐に渡り、いつも彼には何でも出来ると思わされてきたが、今回は完全に納得させられてしまった」と述べた。『シカゴ・トリビューン��紙では、"ALovelyNight"のシーンで気後れが見られ、情熱的だったストーンほど多くを伝えられていないと評された。セバスチャンのキャラクターには「白人の救世主」であるという批判もあった。この作品でゴズリングはゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を獲得し、2度目となるアカデミー主演男優賞のノミネートも受けた。2016年12月には、チャゼルとゴズリングが、ニール・アームストロングの伝記『ファーストマン:ニール・アームストロングの人生の映画化作品『ファースト・マン』で再タッグを組むと発表された。 -病院を出たブライは、病院の内実を記した連載記事を書き、それは退院からおよそ1週間後の10月9日からワールド紙に大々的に掲載された。ブライの暴露記事は全米に広がり、話題を呼んだ。この記事は後に『精神病院での10日間』という本にまとめられた。ブライの記事を受け、ニューヨークの地区検察局は大陪審を招集した。ブライも証言台に立ち、ブラックウェル島への視察にも同行した。精神病院はブライがいた時とは様変わりしており、住環境はきれいになり、食事も改善していた。ワールド紙は10月28日、「ネリー・ブライの記事市営精神病院を救う」と題した記事を掲載した。市はブラックウェル島の予算を増額し、他市の市営精神病院も追加予算を計上した。秘密を調査し暴露するという手法は彼女のトレードマークとなった。病院や工場に潜入したり、公園で女性が連れ去られる事件では自らが実験台となった。政治家の収賄を暴いたこともあった。一方でブライはバレエを習い舞台にも出演し、その様子を体験記として記事にしたりもした。ブライは有名人となり、新聞には「ネリー・ブライ空を飛ぶ」「ネリー・ブライ催眠術師になる」「ネリー・ブライ囚人になる」といった見出しが躍るようになった。ブライあての手紙も多く届けられた。内容はプロポーズ、脅迫のほか、「私たちのことを新聞に書いてください」と助けを求めるものもあった。 -遊廓での勤めを続けるうちに、美幾は梅毒に罹患した。その治療のため、医学校(東京大学医学部の前身)の附属病院として設置されていた黴毒院(ばいどくいん)に入院した。美幾の病は重く、治療に当たっていた医師からの解剖のための遺体提供を求められた。美幾は自らの死期が近いことを悟り、その求めに応じた。父母と兄が連署の上、美幾の遺言を東京府に届け出た。届け出は認容されたが、許可書には「厚ク相弔イ遣ルベキコト」との条件が付加されていた。 -『星織ユメミライ』の開発チームであるtonework'sは、ビジュアルアーツの20周年企画作品・『初恋1/1』の専門プロジェクトとして始まった。『初恋1/1』では専門プロジェクトということもあり、「一般的な美少女ゲームを上回る作品規模にしたい」「ユーザーさんへの恩返しをしたい」というスタッフの思いから、様々なアイディアを盛り込んだ採算度外視な作品が作られた。こうして出来た『初恋1/1』は、tonework'sの丘野塔也によれば売り上げは好調でユーザーからも大きな反響があったという。特に、ヒロインと結ばれた後を描く追加シナリオの評価が高かったという。tonework'sは設立当初は二作目を作る予定は全くなかったが、『初恋1/1』の制作終了後にスタッフ間で「もう1本作品を作りたい」という意見が上がるようになり、これが後に『星織ユメミライ』を作るきっかけとなった。本作の企画には、『初恋1/1』への評価や要望が反映されている。『初恋1/1』ではヒロインと結ばれた後を描く追加シナリオが高評価だったため、本作はヒロインと結ばれるまでの学生生活を描くスクール編とヒロインと結ばれた後を描くアフター編の二部構成となった。また、『初恋1/1』ではシリアス成分が強いという意見やもっと甘い展開が欲しいという要望が寄せられたため、本作では明るくポジティブでピュアな恋愛を目指すことになった。物語の時期が夏となったのもその一環で、さわやかな青春を描くためとされる。tonework'sの「リアリティある恋愛像」「ヒロインをより身近に描く」というコンセプトは本作でも踏襲された。作品のテーマは「将来の夢と未来への不安に揺れる年頃の少年少女たちに���る、青春の絆と達成感」とされ、「プレイした後、心に幸せの残るゲーム」を目指して制作された。 -長野県内務部学務課が行った「図書館文庫ニ関スル調査」によると、1916年時点で上伊那郡には30の図書館があり、その中で高遠図書館は佳良図書館に挙げられている。4,000冊以上の蔵書を持つ図書館は長野県に6館だけであり、約25,600冊を持つ長野市の信濃教育会信濃図書館(現・県立長野図書館)と約17,500冊を持つ松本市の松本開智図書館(現・松本市図書館)を除けば、6,944冊の高遠図書館を筆頭に4館すべてが上伊那郡内にあった。 -本橋梁は木津川橋梁、伏見第一・第二高架橋と並ぶ奈良電気鉄道線の重要施設の一つであり、奈良電気鉄道が近畿日本鉄道へ吸収合併され同社京都線となった際にもそのまま承継された。そのため、完成以来実に80年以上にわたりほぼ竣工時のままの姿で、使用され続けている。ただし、1977年に橋桁を支える主構可動支承のロッカー部分、つまり振動や熱膨張などによるずれ、あるいは伸縮を吸収する重要部品が損傷していることが明らかとなった。このため、1983年に問題となった主構可動支承ロッカー部の新型支承板への交換や、縦桁支承および端対傾構ガセットなどの摩耗部材について補修を実施することで延命が図られている。本橋梁は2000年10月18日に近鉄澱川橋梁という名称で「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として国の登録有形文化財(登録番号26-0073)に指定されている。 -アロサウルス属にいくつの種が属すのかははっきりしていない。1988年以来アロサウルス属としてある程度の妥当性が認められてきたものには、フラギリス(A.fragilis基準標本)、アンプレクサス(A.amplexus)、アトロクス(A.atrox)、エウロパエウス(A.europaeus)、ジムマドセニ(A.jimmadseniただし正式には記載されていない)、マキシマス(A.maximus)、テンダグレンシス(A.tendagurensis)の合計7種がある。この中には骨の欠片しか見つかっていないようなものもある。また、これまでの歴史の中で少なくとも10種の恐竜がアロサウルスと同一種であったり、アロサウルスと混同されたりしてきた経緯がある。原初的なテタヌラ類に関する21世紀初頭のレビューによると、フラギリス、ジムマドセニ、テンダグレンシスのみが妥当な種として受け入れられており、アンプレクサスとアトロクスはフラギリスに編入され、エウロパエウスはまだ種として提唱されておらず、マキシマスはサウロファガナクスと同一であると言及されている。 -プルタルコスの説によると、アルキメデスの評判を知っていたマルケッルスは、彼には危害を加えないように命令を出した。アルキメデスの家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは砂に描いたの上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していたアルキメデスが無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したという。 -帯広叢書とはアイヌの研究者であった吉田巖が整理・収集した資料を伝えるために刊行されている叢書である。吉田は教員としてアイヌ児童を教えるかたわら、赴任地域のアイヌ文化や郷土史を調べ膨大な記録や資料を残した。調査成果は吉田自身によって学術雑誌などで発表されるとともに、その草稿や資料が帯広市教育委員会によって編纂され、1955年から「帯広市社会教育叢書」として発刊された。吉田が高齢になったことから、1960年12月の第6巻発行をもって刊行が中断されたが、1963年の吉田の没後、遺された資料(以下、「遺稿資料」)の多くは遺族らの厚意によって帯広市に寄贈された。「遺稿資料」は帯広市図書館が保管することとなり、1964年から叢書の発行が再開された。1972年の第16巻からは「帯広叢書」に改題された。年1回程度の発行を続け、2013年3月には第65巻が発行されている。アイヌの文化・歴史の分野において、個人が遺した記録・関係資料を継続的に整理・刊行している数少ない取り組みの一つである。 -アトランタ都市圏のメディア・マーケットは全米の2.0%にあたる2,310,490世帯を抱え、全米8位の規模である。そのためアトランタ都市圏内には、主要テレビ局の支局やCNNをはじめとするテレビ局や、音楽、スポーツ、トークなど幅広いジャンルをカバーするラジオ局が多数置かれている。アトランタはケーブルテレビ番組制作の一大中心地である。テッド・ターナーはこのアトランタの地にメディア帝国を創り上げた。まずターナーはUHFのテレビ局を買収し、ターナー・ブロードキャスティング・システム(TBS)を設立した。次いで、ターナーはCNNを設立し、ダウンタウンの西にCNNセンターという本社ビルを建てた。ターナーの会社が成長するにつれて、カートゥーンネットワーク、BOOMERANG、ターナー・ネットワーク・テレビジョン(TNT)、ターナー・サウス、CNNインターナショナル、CNNヘッドラインニュース、CNNエアポート・ネットワークなどのチャンネルを次々と開設した。これらのチャンネルの本局も全てアトランタに置かれた。また、ターナーとは関係が無いが、ウェザー・チャンネルの本部もアトランタの北西郊、コブ郡のカンバーランド/ガレリア地区に置かれている。 -「能動的三分間」は、東京事変の4作目のスタジオ・アルバム『スポーツ』からの先行シングルとしてリリースされた。バンドとしては椎名のソロ活動を挟んで約2年ぶりのリリースとなる。表題曲「能動的三分間」は、バンドのボーカリスト・椎名林檎がイメージ・キャラクターに起用され、テレビCMにも出演した江崎グリコ「ウォータリングキスミント」のCMソングとして使用されている。この楽曲のシングル化の経緯について、椎名は単純にこの楽曲がタイアップ曲に選ばれたためだと語っている。2007年のアルバム『娯楽(バラエティ)』では椎名は作詞と歌唱に専念していたため、2006年の『大人(アダルト)』以来3年ぶりに椎名がバンドの作曲クレジットに名を連ねた楽曲となっている。リリースが『娯楽(バラエティ)』から約2年の期間が空いたことについて椎名は、"本当はすぐに詰めていきたかったのですが、私がソロ10周年という、これまでの音楽活動を振り返らなければならない時期を迎えたこともあって。期間が開くな、もうちょっと劇的な成長を聴いてもらいたいと思うようになったんです。事変については特に勉強したいことが増えたので、一年間ほどお休みをいただきたいと申し出たんです。その結果、リリースまでに倍ぐらいの期間が空いてしまったという感じです。"と述べた。 -マンネルヘイムはサンクトペテルブルクの社交界に受け入れられたが、経済的な負荷がかかった。1892年、伯爵夫人の仲介でマンネルヘイムはアナスタシア・アラフォヴァ(АнастасияАрапова)と結婚した。アナスタシアはロシア少将ニコライ・アラポフの遺児で、農園を所有した裕福な貴族であり、家計の問題は無くなった。 -セラムの全身骨格は、上半身が類人猿に近く、下半身がヒトに近い。彼女の発見は、アファール猿人の歩行に関して既に得られていた知見を裏付けるものであった。彼らは直立二足歩行をしてはいたが、体を揺すりながらであり、ずっと直立したまま歩き続けることはできなかった。まだ、彼らは樹上での生活に適応しており、普段はそちらでも暮らしていたと分析された。現在でこそディキカ周辺は荒涼としているが、沼地、草原、森林が入り混じっていた当時の環境にはよく適合していた。ただし、こうした分析については、後述するように異論もある。 -飛騨市役所本庁舎に隣接して建ち、市役所西庁舎を取り壊した跡地に建設された。建物は地上4階地下1階建てで、延床面積は7,143m2、プロポーザルで株式会社金沢計画研究所が設計を担当。日本建築家協会優秀作品選2011および2010年優秀照明施設東海支部長奨励賞を受賞している。建物としての別名は「飛騨市西庁舎」、正式名称は「飛騨市図書館複合施設」である。飛騨市役所の一部の部署を並置するほか、多目的ホールや授乳室、会議室も設け、広く市民の交流の場となるよう整備された。事業費は26億4千万円。図書館として機能する部分は1階にあり、延床面積は2,134m2である。館内は木のぬくもりが感じられるように整備され、太陽光を取り込みやすく設計されている。2階には飛騨市高度情報センターと飛騨市教育委員会、3階には飛騨市役所の各部署や会議室がある。 -正式な交戦通知が届いたとき、ムーアはスペイン領フロリダに対して軍を組織し、指揮した。1702年のセントオーガスティン包囲戦において、500人のイギリス人兵士および民兵は300人のインディアンと共にセントオーガスティンの町を占領し、焼き払った。その後、イギリス軍は主要な要塞を奪取することができず、キューバのハバナから送られたスペイン艦隊が到着した際に撤退した。1706年、カロライナ植民地はハバナから送られてきたスペインおよびフランス混成の水陸両用部隊によるチャールズ・タウンへの攻撃(チャールズ・タウン遠征)の撃退に成功した。 -1936年7月にはフランシスコ・フランコ、エミリオ・モラ両将軍を首謀者とする軍事クーデターが発生し、スペイン内戦が始まった。 -一方で国土交通省の定める交通規則では平常走行では上向き照射(ハイビーム)で走行し、市街地及び対向車がある場合は下向き照射(ロービーム)で走行するよう定めている。グレアを引き起こしやすい上向き照射(ハイビーム)も対人でない限りは運転者の視界確保に極めて有効であり、対人であっても瞬間的に明滅するパッシングなど効果的に使えば他車とのコミュニケーション、注意喚起にもなる。また下向き照射(ロービーム)であってもテールランプと共に夜間は暗闇の中で自車の存在を他者に知らせ、二輪車ではこの理由から昼間でもヘッドライトの常時点灯が義務付けられているなど、光を他者・他車運転者の視界に入れる、則ち意図的に軽微なグレア現象を引き起こす事で対称者の意識を向け注意を促す一定の機能・役割を持っている。 -『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』でメル・ファーラーと共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨークタイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した。そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞主演舞台女優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはシャーリー・ブースに次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった。(その後、1974年にエレン・バースティンも受賞して3人になった。2013年現在)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、二人の結婚は14年間続いた。ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。 -第一世代組換え作物としては、ラウンドアップやビアラホス(bialaphos)など特定の除草剤に耐性を持つ品種を作成し、その除草剤による雑草防除を利用するような作物も開発されている。これは農作業の効率化だけではなく、土壌流出による環境破壊を防ぐ不耕起栽培を適用できる。ダイズの主要生産国である北米や南米諸国では表土流出が大問題となっている。前作の植物残渣を放置できるため、植物残渣がマルチ(マルチング)となって風雨から土壌流出を防ぎ、土壌を耕すことによって土壌が流亡しやすくなることを不耕起栽培によって防ぐことができる。その他、有毒雑草の収穫物への混入を減らせるとの主張もある。単一の除草剤と除草剤耐性作物の組み合わせで長年栽培を続けるとその除草剤に対する耐性雑草が出現する。この現象自体は一般的なものであり、既に除草剤ラウンドアップに対する耐性雑草の出現が報告されている。このような事態を避けるための方策として、複数の除草剤に対して耐性を持つ作物と複数の除草剤の混用、異なる除草剤とその除草剤耐性作物の複数の組み合わせを用いた定期的な輪作などが推奨されている。 -ソ連時代のロシアでは、食品を扱う小売店の数は少なかった。食材を扱う店や、既成の食品を扱う食料品店(ガストロノム)は国営であるため固有の名前は無く、看板には店が扱う商品の名前が書かれていた。店に並ぶ肉と野菜、乳製品の種類は限られ、質も低かった。しかし、中にはアイスクリームやサラミのように質の高さを評価される食品も製造されていた。市場(ルィノク、Рынок)では農民が自営地で作った物品が売られており、商品の種類とサービスの質は国営の商店に勝っていたが、価格も2-3倍と相応に高かった。マフィアが取り仕切っていると言われる市場には農民が製造するのは難しい加工食品が並んでおり、主な売り手はカフカス系・中央アジア系の民族だった。ソ連崩壊後は国営の商店、屋台、市場に代わって民営の大型スーパーや郊外型の小売店が台頭する。 -中村運輸相が「富里・八街以外にない」と述べた翌日の6月22日に佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案について友納知事と協議し、その内容が報道された。3日後の6月25日、友納知事は成田市長の藤倉武男へこの協議内容を正式に伝達している。今回は千葉県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取はやはり行われておらず、現地には一言の相談もなく空港が押し付けられる形となった。結果、富里での空港建設を対岸の火事と思い、空港建設による経済的恩恵さえ期待していた三里塚・芝山地区の住民らも、寝耳に水の状態で空港建設の内定を報道で知ると「一反歩(1,000平方メートル=10アール)もあるようなもの(航空機)が降りてくんだぞ。そんなもの降りてきたらどうすんだ」「戦争が起きたら爆弾が落とされる」「騒音で牛の乳が出なくなる」などと恐慌状態に陥り、富里と同様に猛反発した。革新政党にとっても三里塚への計画変更は意表を突かれるものであったが、巻き返しを図る日本共産党や日本社会党の指示を受けて、富里の反対運動を支援していた両党のオルグ団や反対派の富里住民らが直ちに現地に駆け付け、動揺する住民らに対して「富里と同じように闘えば、かならず空港を追い払うことができます」「俺らが勝ったんだから、あんたらも勝てる」と謳った。切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ佐藤内閣は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、2週間後の7月4日に「新東京国際空港の位置および規模について」を閣議決定した。この時の決定内容は2017年までの成田国際空港の基本計画となっている。ただし、2018年3月13日に四者協議会(後述)が最終合意した機能強化案はこの範疇に含まれない。 -ダレイオス1世がバビロニアに滞在している間、更に反乱が相次いだ。紀元前522年12月、エラム王イマニを名乗ったマルティヤという人物によってエラムで反乱が発生した。しかし彼は部下の裏切りにあって殺害されたためこれはすぐに終息した。 -ブナは土壌の乾燥化など水不足に対して非常に敏感な樹種であり、水ストレスによる影響が考えられているのはこのためである。ブナ林の衰退地は南向きの斜面に多くみられるが、これは春〜夏にかけて南から吹き付ける風によって、水ストレスを受けやすいためだと考えられている。また、このような場所では先述したオゾンの影響も受けやすく、水ストレスとオゾンの複合影響によってブナの成長が著しく低下した事例も報告されている。しかし、水ストレスに由来する葉の気孔閉鎖によってオゾンの吸収量が低下し、両者の影響を相殺するように作用した結果、成長低下が確認できなかった例もあり、一概に水ストレスがブナの衰弱に結び付けられるとは言えないようである。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦��中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -13世紀に入りフィリップ2世による王領拡大が進みフランスが発展を見せると農村にも貨幣が浸透してくる。ルイ9世は税を貨幣で納めるよう明文化した。また、貨幣高権の国王集権化はルイ9世時代にほぼ完成したとされる。1262年のシャルトル勅令では各地域での諸侯・教会によるドゥニエ造幣は引き続き認めつつも、域外では通用しないこととし、王の鋳造したドゥニエのみを王国の共通貨幣とした。ルイ9世治世の末期に新たなタイプの通貨単位としてグロとエキュが導入され、それぞれ銀貨と金貨として発行された。金銀複本位制のはじまりである。トゥール貨1グロはトゥール貨1スーと等価とされ、1エキュはトゥール貨10スーと等価とされた。この時の金貨はともかくグロ銀貨は使い勝手がよく大ヒットし、他の国や地域でも模倣された。ただ実際はドゥニエの度重なる悪鋳により、当初の公定レートとされたトゥール貨12ドゥニエよりも多くの銀を含むこととなったために、グロ銀貨は値上がりしていった。グロ銀貨は純度が高かったために信頼され貿易でも利用された。原料は東欧のフリーザッハ、ステュリア、ボヘミアで新たに開発された銀山からの産出によった。 -中川イセの夫である中川卓治は柔道道場仲間でもあり、道場が縁で知り合った。酒ばかりでろくに働かない人物であり、そのような夫を妻が懸命に支える夫婦生活であった。晩年は脳卒中で倒れた後、1962年に妻に看取られつつ死去した。離婚歴があったために結婚当時は連れ子である息子がすでにおり、この息子は父の牧場を継いだ後、2002年に死去した。実子である娘は、1932年に夫の同意のもと、里親先から引き取られた。1943年、中川夫妻が牧場の競馬師にするために引き取っていた養子と結婚して息子を身ごもるが、息子の誕生前に戦争により夫と死別。終戦後に美容師の修行を経て、網走で美容院を開業。息子が15歳で結核で死去という不幸に見舞われたものの、そのときの主治医の父親と再婚。1985年にその後夫が死去した後は、中川のもとに通って朝晩の食事を共にし、母娘2人で山形などを旅行して回る生活を送っていた。 -名古屋電灯では明治末期に大規模水力開発を展開し、1910年(明治43年)に長良川にて出力4200キロワットの長良川発電所を、翌1911年(明治44年)には木曽川にて出力7500キロワットの八百津発電所をそれぞれ完成させた(双方とも岐阜県所在)。名古屋電灯では開業以来、需要に対して供給力の方が小さいという状態が続いていたが、この2つの大規模発電所の建設によって供給力に余剰が生じ、しばらく工場や電気鉄道といった大口需要の開拓に追われることとなった。こうした中、第一次世界大戦勃発直後の1914年(大正3年)10月、前年から名古屋電灯顧問を務め欧米視察から帰国したばかりの寒川恒貞に対し、福澤は余剰電力5,000キロワットの利用方法の研究を依頼した。これに対し寒川が将来性のある事業として電気による製鉄・製鋼事業を進言したことからただちに社内で同事業の企画が始まった。 -宮崎は、外国メディアからのインタビューの中で「日本の女性声優は男性を惹きつけるコケティッシュな声を持っているが、それは私達の望むものではない」と述べている。監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋の神隠し、崖の上のポニョなど、平仮名の「の」が含まれている。ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ𦻙記』を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない。『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕はもう既成の起承転結のよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。 -EUは、2020年には世界人口の約5.8%を占めており、2017年(英国を含む)の名目国内総生産(GDP)は約20兆ドルと、世界の名目GDPの約25%を占めていた。また、国際連合開発計画によれば、EU各国とも非常に高い人間開発指数を持っている。2012年、EUはノーベル平和賞を受賞した。共通外交・安全保障政策を通じて、EUは対外関係と防衛における役割を発展させてきた。国連、世界貿易機関(WTO)、G7、G20に代表される世界各地に常設の在外公館を持ち、グローバルな影響力を持つ欧州連合(EU)は、新興超大国と言われている。 -支配勘定を務めた大田南畝が寛政12年(1800年)にまとめた『竹橋余筆』に収録された帳簿「元禄九子年中野・四谷・大窪御用屋敷新規修復御勘定帳」には、中野の犬小屋の拡張・修復工事経費が記されていた。元禄9年(1696年)の時点で、1棟25坪の犬部屋・犬餌飼部屋は290棟、敷地面積10万坪であった。1棟7坪5合の日除け所は295棟、敷地面積10万坪あった。1棟6坪の日除け所餌飼所は141棟半。その他、子犬養育所は459か所、役人居宅は8か所、御犬小囲舂屋(つきや)、御役屋敷4ヵ所、御用屋敷長屋4棟・食冷まし所5棟・冠木門8か所・医師部屋・医師居宅・女犬養育所・御側衆・御目付衆・奉行小屋・玄関書院・釜屋・井戸・厩・米蔵・塩蔵・味噌蔵・火の見櫓・冠木門などがあった。 -フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは、ヴァイマル共和政末期の1932年にクルト・フォン・シュライヒャーに擁立されてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣の首相を務めたが、パーペン内閣は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した。 -国内では紆余曲折あった日本の参加だが、参加してすぐに重要な議論を本格化させることになる。それは「木の文化をどう評価するか」ということである。日本の世界遺産のうち、最初の文化遺産は姫路城と法隆寺地域の仏教建造物である(いずれも1993年登録)。これらはいずれも解体修理の手法で現代に伝えられてきた建造物であり、基本的にそのような修理を必要としない「石の文化」の評価基準になじまない側面があったために議論となり、それが「真正性に関する奈良文書」の成立に繋がった(後述参照)。これは、アジアやアフリカに多い木、日干し煉瓦、泥の建築物など、多様な世界遺産を増やすことに繋がり、世界遺産の歴史の中で重要な意義を持った。 -エヴァリスト=デジレ・ド・パルニーは、インド洋のブルボン島に生まれたクレオールであり、晩年にはアカデミー・フランセーズ会員となった詩人である。詩集『マダガスカル島民の歌』は、パルニーがインドに住んでいた1787年の作品で、序文と12の詩から成っている。序文ではマダガスカル島の風土や人々の暮らしなどを紹介した後、「私は彼らの習慣やしきたりについての情報を与えてくれるようないくつかの歌を収集し、翻訳した。」と書いているが、パルニーは実際にマダガスカル島を訪れたことがなく、またマダガスカル語も解さなかったため、詩は翻訳ではなく全てパルニーの創作であると考えられている。ラヴェルはこの詩集から、「シャンソン12」、「シャンソン5」、「シャンソン8」の3篇を選び曲付けした。なお、ラヴェルは、ピアニストのリカルド・ビニェスを通じて学生時代からこの詩集の存在を知っていたとされる。 -この事件の全体像を把握するためには、まず、1969年当時アメリカ合衆国に住む同性愛者らが置かれていた状況を知る必要があろう。彼らは、今日ほど自由な私的生活環境を享受することが出来なかった。民事刑事両面において、法は彼らにとって苛酷であった。例えば、性的指向を理由とする解雇は違法とされていなかった。また、イリノイ州を除く全州が、同性間性交渉を禁止する法律(通称:ソドミー法)を依然として維持していた。そのため、成人間の同意に基づいていようとも、性交渉を持ったことが明らかになった同性愛者らは、罰金刑や自由刑を科せられていた���である。 -1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別した。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば満月になけほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素���強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -病院を出たブライは、病院の内実を記した連載記事を書き、それは退院からおよそ1週間後の10月9日からワールド紙に大々的に掲載された。ブライの暴露記事は全米に広がり、話題を呼んだ。この記事は後に『精神病院での10日間』という本にまとめられた。ブライの記事を受け、ニューヨークの地区検察局は大陪審を招集した。ブライも証言台に立ち、ブラックウェル島への視察にも同行した。精神病院はブライがいた時とは様変わりしており、住環境はきれいになり、食事も改善していた。ワールド紙は10月28日、「ネリー・ブライの記事市営精神病院を救う」と題した記事を掲載した。市はブラックウェル島の予算を増額し、他市の市営精神病院も追加予算を計上した。秘密を調査し暴露するという手法は彼女のトレードマークとなった。病院や工場に潜入したり、公園で女性が連れ去られる事件では自らが実験台となった。政治家の収賄を暴いたこともあった。一方でブライはバレエを習い舞台にも出演し、その様子を体験記として記事にしたりもした。ブライは有名人となり、新聞には「ネリー・ブライ空を飛ぶ」「ネリー・ブライ催眠術師になる」「ネリー・ブライ囚人になる」といった見出しが躍るようになった。ブライあての手紙も多く届けられた。内容はプロポーズ、脅迫のほか、「私たちのことを新聞に書いてください」と助けを求めるものもあった。 -『そして誰もいなくなった』は、1939年にイギリスで刊行されたアガサ・クリスティの長編推理小説である。本作はアガサ・クリスティをベストセラー小説家にした作品の一つである。同著者の最も多く出版された作品で、1億冊以上が出版され、世界中のミステリ作品の中で最も販売されたベストセラー本であり、2009年時点で『聖書』を1位とするすべての書籍の中で6番目に多く販売されていた。本作の評価はクリスティ作品中でも特に高く、代表作に挙げられることが多い。「絶海の孤島」を舞台にしたクローズド・サークルの代表作品であると同時に、見立て殺人の代表的作品とも評される。孤島の兵隊島を舞台にして、10人の登場人物が童話「十人の小さな兵隊さん」の詩になぞらえて殺されていく。10人全員が死亡することで題名の『そして誰もいなくなった』を回収する。物語はエピローグに続き、警察の捜査では迷宮入りとなった後に真犯人による独白手記が見つかり、真相が明かされることで終結する。初期のイギリス版の題名はTenLittleNiggersだったが、1940年にアメリカ版が出版された際にAndThenThereWereNoneとなった。日本語訳は1939年に雑誌『スタア』で清水俊二が「死人島」として連載したのが初出で、1955年6月に早川書房から『そして誰もいなくなった』として刊行された。作者自身により戯曲化されている。また、ルネ・クレール監督の映画を初めとして、多数の映画化作品や舞台化作品、テレビドラマ化作品がある。 -エッセイストの能町みね子は、週刊文春にて連載されていたコラム「言葉尻とらえ隊」において、「���人的にここしばらく若者語は不作だったと思う」とした上で「激おこぷんぷん丸」は久しぶりに活きの良い、若者らしい流行語であり「チョベリバ」以来久々のヒットの予感と述べており、お上が流行らせたようなイメージのある「KY」、流行語というより常用語として定着しそうな気配のある「ディスる」、インパクトは強いが使いどころがない「あげぽよ」と比較して「『ムカつく』と同じ意味なので誰でも使いやすい」「リズミカルな響きは耳に残る」「何より本当に流行っていることが信じられないほどインパクトのあるダサさ」を特徴として肯定的に評価している。そして「時代を彩る若者の流行語は、聞いた瞬間に異様なインパクトが必要。珍妙な響きで一気に流行り、しばらくして皆が我に返って一気にダサく感じるものこそ流行語である」とした上で、「『激おこぷんぷん丸』よ、流行語として笑われながら消費しつくされあっという間に消えてなくなってください!時代の徒花として刹那的に輝け!」と述べている。 -プルトニウム型原爆(インプロージョン方式)の実証のため、1945年7月16日にアメリカ合衆国は、ニューメキシコ州アラモゴード砂漠にあるホワイトサンズ射爆場でファットマンのプロトタイプであるガジェットを用いて人類史上初の核実験であるトリニティ実験を実行した。ファットマンの特異な形状の空中挙動を確かめるため、通常爆薬を装填した同形・同重量の模擬弾「パンプキン」が作られ、投下訓練の一環として日本に対して実戦投入された。ファットマン型の原爆はまず3発が製造され、1発が長崎へ投下されたほか、核実験のクロスロード作戦(1946年)で使用された。 -しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった全地総主教座を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去にステファン・ドゥシャンが帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、1557年、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったソコルル・メフメト・パシャの尽力によりセルビア総主教座を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により1766年に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた。イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにアトス山の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた。これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らがアルバニア語を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした。さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはローマ法が固有の法であった。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始ま��た。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -1986年10月18日、スペインの王女・エレナを迎えた東宮御所でのパーティーに100人ほどが招かれ、その中に小和田家一同も招かれた。このとき雅子をはじめ小和田家の人々はお妃候補としての顔見せのために招かれているとは知らされておらず、皇室からの誘いとあって断るという考えは持たなかった。中川の側も雅子の出席を恆に確認したが、この段階ではお妃選びとの関連を気付かれないように心を配っていた。当時外交官試験に受かったばかりの雅子は、お妃候補として以前に、父娘二代の外交官の卵として注目を集めていて、パーティー出席も重要な仕事のひとつである外交官としての経験を踏む意味もあり出席した。事前に資料や高円宮憲仁親王を通じて雅子の人柄を知り、この場で本人と会話した浩宮は彼女に強い印象と好感を持った。 -三重県四日市市海山道の海山道稲荷神社でも、毎年節分に「狐の嫁入り道中」の神事が行われる。こちらも江戸時代に追儺として行われていたものが、やはり戦後に甦ったもので、その年の厄年の男女が、神使の総本家での子ギツネと、海山道稲荷神社の神使の家の娘のキツネに扮し、嫁入りの様子が再現され、大勢の参拝客の賑わいを見せている。 -神通川以外に取水元のない婦中町(当時)では、カドミウムの溶出した水を農業用水(灌漑用水)や飲料水として使用してきた。また、カドミウムには農作物に蓄積される性質があるため、カドミウムを多量に含む米が収穫され続けた。この米を常食としていた農民たちは体内にカドミウムを蓄積することとなり、このカドミウムの有害性によりイタイイタイ病の症状を引き起こした。カドミウムは自然界にも一定の割合で存在し人体にも少量は含まれているものの、神通川流域で生産された米には非常に高濃度のカドミウムが含まれており、被害者の体内に蓄積されたカドミウムは基準値の数十倍から数千倍の濃度に達していた。カドミウムの毒性については長い間よくわかっておらず、また公害の発生当時カドミウムとイタイイタイ病に特有な症状との関連もはっきりとしていなかった。このため神岡鉱山側の対策が遅れ、公害を拡大させることとなった。なお、公害病認定後もしばらくの間、武内重五郎(東京医科歯科大学名誉教授)ら「ビタミンD不足説」を主張するグループが一定の勢力を有していた。世界中にカドミウム鉱山は存在するものの、神通川下流域以外では同様の症状が見られないこと、電線の被膜などに多くカドミウムが使われるが、工場労働者には同様の症状は見られないことなど、からカドミウムと症状との因果関係は科学的には不明であるものの、司法判断が科学に優越している状況であるといえる。また、カドミウムをイタイイタイ病の原因とする見解は、訴訟の中で状況証拠により「断定」されているのみで、化学的、生理学的証明は21世紀現在もなおされていないだけでなく、同様の症例やそれを証明する研究も、世界中のどこからも報告されていないとする主張が存在するが、カドミウムの毒性およびその症状は現在の医学では一般に知られている。 -イソギンポ科のニセクロスジギンポAspidontustaeniatusやミナミギンポPlagiotremusrhinorhynchosのように、掃除魚に擬態することで利益を得る魚類も知られている。これら2種は掃除魚ではな��が、その形態はホンソメワケベラによく似ており、クリニーングを受けようと近づいたホストの健康な皮膚や鱗を齧り取って逃走する。ただしこれは飼育下で観察された行動に基づく考えであり、野外調査によればニセクロスジギンポの主な餌は魚の鱗や皮膚ではなく魚卵やゴカイ類であることから、基本的には単に捕食を逃れるための擬態とみなすべきであるという意見もある。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。夏目家の系図(夏目氏系譜(武家家伝))によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年(元禄15年)旧暦4月、夏目兵衛直情の時、名主に任じられた。現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった。『夏目漱石人と作品3』11頁によると、遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をして過ごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋高橋長左衛門の妹として結婚したが、表向きは四谷大番町の鍵屋という質屋から嫁いだことにしていた。そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の孫に、芸能プロダクション経営者でVISAカードのCFで漱石役を演じた新田太郎がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の別の孫に朝日新聞社員(『週刊朝日』副編集長、『アサヒカメラ』編集長、『図書』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の角田秀雄がいる。妻-夏目鏡子との間に2男5女をもうけた。次女・恒子は、『其面影』を著している。四女・愛子は、津田青楓の少女像のモデルとなっている。五女・雛子は1歳で亡くなっている。その臍の緒が発見され、東北大学が購入している。 -1945年4月15日にはイギリス軍がベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放した。ベルゲン・ベルゼンは伝染病と飢餓が蔓延して悲惨な状況だった。この収容所では数ヶ月前に『アンネの日記』を書いたユダヤ人少女アンネ・フランクが死亡していた。イギリス人将校は「誰もがこの場所に来て、彼らの顔を、歩き方を、弱りきった動きを見るべきだと思う。一日に300人ものユダヤ人が死んでいくが、彼らを救う手立ては何もない。もう手遅れだったのだ。小屋の側にはたくさんの死体���転がっている。囚人たちはせめて太陽の下で死のうと小屋から最後の力を振り絞って出てくる。私は最後の弱々しい「旅」をする彼らの姿を見ていることしかできなかった。」と書いた。イギリス軍も地元のドイツ住民を連行してくると彼らに収容所の状況を見させた。イギリス軍は彼らに「貴方たちがこれからここで見る物はナチが犯した釈明しようもない犯罪の証拠である。連合国がナチを根絶するためにいかなる手段をとろうとも、それは正当化される。貴方達がこれからここで見る物はまさにドイツ国民の恥辱であり、ドイツという国名を文明国の中から抹消しなければいけないほどのものである。」と通告した。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -東京都では、千代田区にある九段会館の天井仕上げ材の一部が崩落して2人が犠牲に、江東区の金属加工工場では化学薬品トリクロロエチレンを含んだガスが充満し、吸い込んだ従業員2人が犠牲に、町田市にあるコストコ多摩境の駐車場のスロープが崩落して2人が犠牲になるなど計6人が死亡した。津波による死者はいなかった。また、港区台場の国土交通省青海総合庁舎で火災が発生したほか、江東区新木場や江戸川区清新町などの埋め立て地を中心に液状化現象が発生した。 -1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別した。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば満月になけほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。 -マネの油彩画は400点余りとされている。マネは、保守的なブルジョワであり、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は本人の意図と裏腹にスキャンダルを呼び、美術界の革命を起こすことになった。主題の面では、娼婦の存在や、近代社会における人間同士の冷ややかな関係をありのまま描き出したことが、革新的であり、非難の的ともなった。造形の面では、陰影による肉付けや遠近法といった伝統的な約束事にとらわれない描写を生み出していった。同時に、伝統的なイタリア絵画、スペイン絵画、フランス絵画から学んでいる点も多く、オールド・マスターの作品から主題やモチーフを引用し、現代的な文脈に置き直していったといえる。また、平面的な彩色やモチーフを切り取る構図などに日本の浮世絵の影響を受けていると考えられる。印象派の画家たちから敬愛され、彼らに大きな影響を与えた一方、マネ自身が後輩の印象派から影響を受けた。マネには印象主義的な要素の濃い作品もあるが、印象派グループ展には参加していないことから、印象派には含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である。マネの作品は、セザンヌ、ゴーギャン、ピカソなどによって、模倣や再解釈の題材とされており、彼らの芸術に様々な影響を残していると考えられる。 -金属材料では実現できない機能や特性を得たいとき、非金属材料がばね材料として使われる。プラスチックやゴムといった高分子材料も、ばね材料として利用される。ゴムの弾性を利用するばねは、特に「ゴムばね」と呼ばれる。ゴムの弾性は非線形であり、ひずみが小さい範囲でのみ線形とみなせる。具体的な材料としては、汎用に使われる天然ゴム、対候性の高いクロロプレンゴム、振動減衰特性が良いブチルゴムなどが使われている。金属ばねと比較すると、ばね定数を方向に応じて自由に調整できる、ゴムの内部摩擦によって変形時に減衰力が生まれる、といった長所を持っている。車両用や産業機械用の防振ゴムとして広く利用されている。一方で、高温・低温で性能が劣化しやすい、長期間の大荷重負担でクリープが生じやすい、といった短所もある。さらに、ゴムばねの挙動は明確には計算できないので、おおよその範囲で計算する必要がある。 -江戸時代後期にまとめられた尾州徇行記による人口は584人であり、同史料で938人の日間賀島よりも少なかったが、1874年(明治7年)には1,006人、1891年(明治24年)には1,562人と、1世紀余りの間に人口が3倍近くに増加し、日間賀島の人口を上回った。その後も人口は増え続け、1950年(昭和25年)には過去最大値の3,785人を記録した。その後は1960年(昭和35年)の国勢調査で3,403人、1970年(昭和45年)の調査で2,807人、1980年(昭和55年)の調査で2,576人、1990年(平成2年)の調査で2,352人、2000年(平成12年)の調査で2,039人、2010年(平成12年)の調査で1,763人と減少が続いている。2000年調査での高齢者人口比率は22.6%だったが、2010年調査では29.4%に大きく上昇した。2000年調査による人口密度は2,192人/km2であり、日間賀島(2,882人/km2)、池島(長崎県、2,641人/km2)に次いで日本の離島中第3位だった。 -1983年に、任天堂は、日本国内における1980年から1982年頃の電子玩具の販売活動について独占禁止法違反として公正取引委員会の排除勧告審決を受けた。2002年には、ヨーロッパで任天堂と現地の卸売業7社がゲーム機とゲームソフトの並行輸入を妨害したとして、欧州委員会が任天堂らに対して合計1億6780万ユーロの課徴金の支払いを命じ、首謀者と認定された任天堂は、このうち1億4912万8千ユーロの支払いが課せられた。 -仔犬は白い毛色に茶色のブチがある雑種のオスで、誰が言うともなく「ぶん公」と呼ばれるようになった。ぶん公は命の恩人である消防組第5部長の神山という人物にとりわけなついていた。他の隊員たちにも可愛がられ、エサは隊員たちの弁当を少しずつ分けてもらっていた。ときには隊員たちがお金を出し合って、近くの市場でぶん公の好物である身欠き鰊を安く分けてもらうこともあった。ぶん公は身欠き鰊の他にキャラメルも大好物だったという。神山が定年を迎えて消防組を去った後も、ぶん公は消防車の車庫をねぐらとして引き続き消防組に住み着いた。ぶん公は賢い犬で、近所の人々や子供たちにも好かれていた。ぶん公が一番喜んだのは、眼鏡をかけてもらった上に消防組の帽子を頭にかぶせてもらうことだった。眼鏡に帽子姿のぶん公はその格好のままで建物内を得意げに歩き回って見せて、人々から好評を博していた。ぶん公は朝の点呼の際には、「一」「二」「三...」と続く隊員たちの声に続いて最後に「ワン!」と吠えて答えた。「気をつけ」の号令では前足をそろえた上で首を上げ、「直れ」の号令を聞くまでその姿勢を崩さなかった。「敬礼」の号令がかかると、右の前足を耳のところまで上げるようになった。 -秋田県の被害は、負傷者11名、建物の一部損壊3棟であった。東北6県で唯一死者がいない県となった。山形県の被害は、死者3名、負傷者29名、建物の全壊が37棟、半壊が80棟であった。福島県は、沖合の全域が震源域となり、宮城県や茨城県とともに激震であった。津波の被害としては、浸水面積は112km2と岩手県を上回っている。しかし、福島県の沿岸部は湾や入り江がなく、遠浅の地形のために漁港に適さず、港を中心とした市街地形成が成り立ちにくい県であった(日本の漁港一覧によると、岩手県111か所と宮城県114か所に対して、福島県10か所)。沿岸市町村の中心市街地は、海岸線より数km内陸にあったため、浸水域人口は7万人弱、浸水域の人口密度は600人/km2と、ともに3県でもっとも少なく、犠牲者数も比例して少なく済んだといえる(ただし、浸水域の人口が宮城県の1⁄5で、犠牲者が1⁄6であるため、犠牲率でみるとほぼ同じである)。 -ミネアポリスにおける差別撤廃は1886年に始まっていた。この年、マーサ・リプリーは結婚している母親と未婚の母親の両方を収容する産科病院を設立した。世界恐慌で国の運命が一転した後、1934年には、その年に起こったトラック運転手のゼネスト(ミネアポリス・チームスター・ストライキ)を受けて、労働者の権利を認める法律が成立した。生涯にわたり公民権運動を支えてきた当時の市長で、後に副大統領となったヒューバート・H・ハンフリーは、1946年に市の雇用機会均等条例の制定、およびマイノリティの側に立って仲裁にあたる人間関係委員会の設立に助力した。ミネアポリスは早くから白人優位主義を排し、差別撤廃運動や公民権運動に参加し、1968年にアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)を生んだ地ともなった。1950年代から1960年代にかけては、都市再開発の一環としてダウンタウンの約4割、25ブロックにわたる200棟の建物を取り壊した。ゲートウェイ地区も取り壊された。そのときに取り壊された建物の中には、メトロポリタン・ビルディングなどの有名なものも多数あった。建物を守る策は失敗に終わったが、これを機に歴史的建造物保護への機運が高まった。 -黒石の材質は玄武岩質溶岩、瑪瑙、天然ガラス、そして最も一般的には石質隕石などとさまざまに記述されている。あれほどまでの接触に耐えてきたのであるから、硬い岩石なのは明らかである。951年に、その21年前に盗まれた石が取り戻された時の話は、石の性質の重要なヒントとなる。年代記編者によれば、黒石は水に浮くことでそれと分かったのだという。この話が正確であるなら、瑪瑙、玄武岩質溶岩、石質隕石という可能性は排除され、ガラスまたは軽石であるという可能性は残る。黒石は、約6000年前に、メッカから1,100キロメートルほど東にあるルブアルハリ砂漠のワーバルに落ちた、断片化した隕石の衝撃によってできたガラス片なのではないかという説がある。ワーバルには、衝撃で溶け、隕石のニッケル鉄合金の小片を含む石英ガラスの塊があることで知られている。これらのガラスの塊の中には、白や黄色の内部とガスが充ちた空洞を持つ、輝く黒のガラスでできたものもあり、この空洞によって水に浮く。科学者たちは1932年になるまでワーバルのクレーター群の存在に気付いていなかったが、これらはオマーンからの隊商路の近くに位置していたので砂漠の住民たちには知られていた可能性が非常に高い。より広いエリアとしては間違いなく良く知られていた。古いアラビア語の詩では、ワーバルもしくはウーバルとは、邪悪な王を頂いていたために天国からの火によって破壊された伝説上の都市の名前であった。クレーターの推定年代が正確であるとすれば、隕石の落下はアラビアに人間が住んでいた時期に収まり、衝突そのものも目撃されていた可能性がある。しかしながら、近年(2004年)の科学的な分析によれば、衝突は以前考えられていたよりも遥かに最近の出来事であり、ほんの200-300年前のことであったかもしれない。 -雨氷は高山で発生することが多いため、山地で局地的に雨氷が発生し、樹木への被害をもたらす例が多数報告されている。雨氷が樹木にもたらす被害は、枝のみが折れる軽微なものもあるが、傾いたり、大きく曲がったり、地面に倒れこんだり、根ごと倒れたり、途中で折れたりといった深刻なものもあり、林業にとっては大きな打撃となる。雪が樹木の上部や外部にのみ付着するのに対し、雨氷は樹木の枝葉1つ1つに氷がついて重くなるため、雪の半分程度の降水量で折れ曲がったり倒壊してしまう。ある調査では、樹木に付着する雨氷の重さは、平均で木の総重量の5–16倍に達していたといい、15mの木に総重量4.5トンの雨氷が付着した例もある。日本における事例では、森林に被害を与える気象現象の中で雨氷は珍しい部類ではあるが、北海道、岩手、長野などで詳しい記録がある。なお、雨氷で森林被害が生じても氷が解けるとそれが雨氷が原因であったことがわからないこともあるため、報告されていないものもあると考えられている。北海道のカラマツ人工林で行われた被害調査では、同年齢の樹木の中で太く高いものが被害を受ける事例、逆に細く低いものが被害を受ける事例、また樹勢に関係なく被害を受ける事例があり、樹勢よりも風や付着の仕方などの気象条件の方が雨氷被害との相関性が高いと報告されている。2016年1月末に長野県中部で発生した雨氷による倒木被害は標高800–1100mの範囲に被害が集中していたが、このように雨氷による倒木被害が一定の標高に集中するのは、標高がより高い場所では雨粒が雪になり、標高がより低い場所の地表付近は気温が高く雨氷現象が起こらなくなるためという見方がある。 -戦後の復興の中で、チンドン屋は勢いを取り戻した。大規模な広告展開が困難な状況であった中で、少人数・小規模で小回りが利くチンドン屋の営業形態が時代に合っていたこと、陽気な音楽や派手な衣装が求められたことなどが理由として挙げられる。特に関東ではパチンコ店からの仕事が多かった。1950年にはチンドン屋人口は2500人に及んだとされる。昭和20年代後半には、もともと忙しい時期が異なるために人的交流があったサーカス関係者や、映画におされて芝居小屋が縮小したため、旅役者もチンドン界に流入した。 -古代からバロック期にいたるまでの数多くの絵画が、ベラスケスの『鏡のヴィーナス』に影響を与えたといわれる。イタリアの画家たちが描いた裸体のヴィーナス、たとえばジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』などである。ベラスケスはこの絵画にそれまでのヴィーナスの作品でよく描かれた、ベッドや長椅子に横たわるヴィーナス、鏡に映った自分自身を見つめるヴィーナスという二つのポーズを取り入れている。この作品は以降のさまざまな絵画表現における出発点となった。それは中央に鏡を配置することにより、鑑賞者に背を向けているヴィーナスの向こうむきの表情まで表現していることなどである。『鏡のヴィーナス』はベラスケスが描いた裸婦画で唯一現存している作品で、厳格なカトリック教国であった当時のスペインにおいて17世紀に異端審問によって徹底的に弾圧の的となった裸婦を描いたスペイン絵画で残っている非常に数少ないものの一つである。こういった弾圧にもかかわらず、外国の画家たちによって描かれた裸婦画はスペイン貴族階級の間で熱心に収集されており、『鏡のヴィーナス』も、イングランドのヨークシャーにあるカントリーハウスのロークビー・パークへ持ち込まれる1813年まではスペイン宮廷人の家に飾られていた。この絵画は1906年にナショナル・アート・コレクション・ファンドによってロンドン・ナショナル・ギャラリーのために購入された。1914年には婦人参政権論者のカナダ人メアリ・リチャードソンによって切り付けられひどく損傷したが、すぐに修復され、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに元通り展示されている。 -熊野市の南西部、紀和町の西部に位置し、北山川上流部の左岸(東岸)の山麓に展開する。北は奈良県十津川村、西は和歌山県新宮市(旧熊野川町)と接する県境の集落である。三重県に所属するものの1984年(昭和59年)まで道路が整備されず、和歌山県側から北山川を船で渡らねばならなかった。北は奈良県吉野郡十津川村竹筒(たけとう)および和歌山県新宮市熊野川町嶋津、東は三重県熊野市紀和町湯ノ口・紀和町大河内(おこち)、南は三重県熊野市紀和町小船、西は和歌山県新宮市熊野川町四瀧(したき)・熊野川町九重と接する。 -ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。 -熱帯雨林のような生態系は驚異的な比率で破壊されており、利用可能な生息地を減少させている。また汚染物質はオゾン層を破壊し、カエルの敏感な皮膚に太陽光による損害をもたらし、さらに免疫系にも影響を与えている。中南米では、エルニーニョによる乾燥が問題視されている。1988年から1990年にかけての乾燥が、オレンジヒキガエルなどの繁殖に悪影響を与えた可能性がある。 -1914年、第一次世界大戦が開戦すると、6月に釈放されていたティラクをはじめ、多くの民族主義指導者はイギリスへの支持を打ち出した。ティラクをはじめとする彼らの期待は、インドのイギリスによる支持は、終戦後、結果として、インドへの大幅な自治が認められるという期待に基づいていた。100���人以上のインド人が徴兵に応じ、フランス、中東で戦死した。大戦期、インド経済は極度のインフレーションと重税に直面することとなり、民族主義的な政治運動が展開される環境が整った。その結果、「自治連盟(HomeRuleLeagues)」によるインド政界の活性化、革命的な運動の展開が見られるようになった。前者の活動を指導したのは、1つは、ティラクを中心とする勢力であり、もう1つは、イギリス人女性アニー・ベサントであった。後者の革命的活動はベンガル、マハーラーシュトラから、全北インドに広がりを見せた。 -オウムは昼行性であり、食料を探すために日光を必要とする。彼らは早起きではなく、むしろ日光がそのねぐらを暖めるのを待って餌を探しに行く。すべての種が一般に高い社会性を備え、ねぐらにつく時や、採食、移動に際してはカラフルで騒々しい群れをつくる。この群れの大きさは食料の状況によって変化し、潤沢な時期には100羽かそれ以下の小さな群れを形成するが、旱魃やその他の逆境の時期においては、数千から数万羽の群れにまで膨れ上がることがある。キンバリーでのある記録には、32,000羽のアカビタイムジオウムの群れのことが記述されている。開けた土地に生息する種は、森林地帯に生息するものよりも大きな群れをつくる。たいていの種はねぐらの場所からえさ場までの間、長大な距離を移動するかもしれないが、それでもすべての種はねぐらの近くに水場を必要とする。オウムの水浴びには特徴的な方法がいくつもあり、雨の中で逆さまにぶら下がったり飛び回ったりする、あるいはまた樹冠のぬれた葉の中で羽ばたいたりすることもある。 -これによりFw190は液冷王国ドイツにおける唯一の空冷エンジン単座戦闘機となったのであるが、エンジンの出力が高いほか、カウリングの直径をぎりぎりまで絞った上にオイルクーラーやオイルタンクをエンジンの前面に搭載、単排気管の推力で速度を稼ぐと言う、タンクの先進的な設計もあり、試作段階より既にBf109Eを凌駕する速度を発揮していた。量産型ではのちに搭載エンジンを、BMW社が開発に成功した、より高出力のBMW801シリーズへと換装した。なお開発時および実戦配備初期には空冷エンジンの冷却不良・過熱や、エンジンの自動制御装置の不良などが問題視されていた。本機は、Bf109がヨーロッパ最強を誇っていた第二次世界大戦の緒戦ではあまり注目を浴びなかったが、スピットファイアMk.V等、連合国の新型戦闘機に対抗する高性能機として1941年から実戦配備が始まった。最初の配備型Fw190Aは英国のスピットファイアMk.Vを実戦で圧倒し、強力な新型戦闘機の登場という混乱を連合国に与えた。本機の活躍によりドーバー海峡上の制空権はドイツ空軍の手中に収められ、この状況は半年後のイギリス空軍のスピットファイアMk.IXの出現まで継続した。Fw190Aは搭載するBMW801エンジンの特性上高度おおよそ6,000m-7000m以上で急激に出力が落ちるため高高度性能が不足していたが(後述)、しかし大戦前半ではそれは問題とならず中低高度で高性能を遺憾なく発揮し、その後も改良が続けられ、Bf109と共にドイツ空軍を支えた。 -9月25日、ブラウンは救援軍を構築するためラシ支隊をエルベ東岸ライトメリッツに派遣した。 -新しい空港計画は運輸省が「21世紀にも耐えうる」と自画自賛した富里案の規模に比べ大幅に縮小されてはいたが、それでも空港建設用地は成田市・芝山町・大栄町・多古町に跨る1065ヘクタールもの広大なものであり、御料牧場等の面積は空港予定地の4割(国有地は243ヘクタール、公有地は152ヘクタール)に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った。しかし、このとき日本政府は空港建設をまだ楽観視しており、あくまで「5年間で完成させるプロジェクトチーム」として各方面からの寄せ集めの人員で新東京国際空港公団を立ち上げている。後に一律に定められた補償額等の制約や激しい反対の中で、空港公団職員らは必死の用地買収交渉を行うこととなるが、省庁から出向してきた職員らの中には横柄な態度で地権者に接して不評を買った者もおり、「民間業者に任せれば(用地取得は)もっと早かったと思う」と振り返る空港公団OBもいる。1966年12月12日に運輸省が空港公団に指示した基本計画では、1971年春に滑走路1本と西側半分の施設(一期地区)で開港することとし(工事を1970年度中完成)、残りの施設(二期地区)の完成目標は1973年度末とされた。 -第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。2005年に敷地全体が国の史跡に、2006年に初期の主要建造物(建築物7棟、貯水槽1基、排水溝1所)が重要文化財の指定を受け、2007年には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。2014年6月に世界遺産登録の可否が審議され、6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。 -1962年にお茶大を退官した戸倉は、直ちに日本女子体育短期大学の教授に着任した。長らく非常勤講師として勤務してきた恩師・二階堂が設立した学校で正規の教員となった戸倉は、学校法人二階堂学園に4年制大学を作る「二階堂学園大学設置期成会」の会長に推挙され、資金調達、関係団体との折衝、校地買収と校舎建設、教具整備に陣頭指揮を執り、教授陣の招聘に辣腕を振るった。1965年4月1日に日本女子体育大学が開学すると、その教授に就任した。日女体でもダンスの創作意欲が尽きることはなく、作品は最高の境地に達した。この間、1964年東京オリンピックの開会式では戸倉が集団演技の全体指導を担当した。1965年には西ドイツ・ケルンの第5回国際女子体育会議に出席し、次の第6回大会を東京に誘致した。またこの時、国際女子体育連盟の副会長に就任した。1966年、エインズワース元会長とディエム会長が来日し、国際女子会議東京大会の主題案を提示したが、戸倉と準備委員会のメンバーは日本が誇りうる領域を主題にしたいと「体育の伝統と現代の形式」を提案して認めさせた。1967年夏、永年講師を務めてきた日本幼稚園協会の講習会で最後の指導を行った。 -帯広市図書館では郷土資料の収集・保存を行っており、吉田巖遺稿資料や中城ふみ子に関する資料など、学術的・文化的に貴重なものも多く含まれる。先述(「郷土文化や文芸振興に関する取り組み」)の通り、吉田が遺したアイヌの文化や歴史に関する「遺稿資料」は、遺族の寄贈により帯広市図書館が保管している。この「遺稿資料」は、フィールドノートのような性格をもつ日記をはじめとする、ノート、草稿などの文書類のほか、図書、雑誌、書簡、写真などを含み、「アイヌの文化と歴史に関する膨大かつ重厚な基礎資料群」とされる。また、吉田は、日本の統治下であった台湾を視察旅行で訪れており、「遺稿資料」の中には、視察に関する手記、書簡類、視察先で入手した学校資料なども含まれ、国内外の他機関では確認できない貴重な資料もある。「遺稿資料」の中には、アイヌの生徒の作品や、生徒が家庭での伝統文化・習俗の様子などを記した提出物なども含まれており、教育実践や生活実態に関する貴重な記録になっていると同時に、著作権やプライバシー、個人の尊厳に関わる問題を含むものも少なくないため、資料の適切な活用のために、閲覧や利用に際して慎重な配慮が求められている。「遺稿資料」のほとんどは2005年までにマイクロフィルムに撮影され、マイクロフィルムあるいは原資料のコピー製本を閲覧利用できる。 -エアバスは、A320以降の機種でも参加各国でパーツやコンポーネントの生産を分担する体制を続けていた。これまで、参加各国で生産されたコンポーネントの輸送には「スーパーグッピー」輸送機が用いられてきたが、同機が旧式化したことに加え、エアバスの事業が急成長したことで、これに対応するために新しい輸送機が必要になった。そこで、エアバスは、A300-600Rをベースとした新型輸送機A300-600ST(ベルーガ)を開発することを1991年8月に正式決定した。A300-600STは、主翼やエンジンなどをA300-600Rと同じくし、大型貨物を収容できるよう胴体上半分が極めて太いものとなった。A300-600STは1994年9月13日に初飛行し、1995年10月25日に引き渡しが始まった。A300-600STは2001年までの間に5機生産され、全機がエアバス子会社の「エアバス・トランスポート・インターナショナル」(AirbusTransportInternational)で運航され、これによりエアバス機の生産に従事していたスーパーグッピーは全機退役した。 -神岡水電株式会社(かみおかすいでんかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。大手電力会社の大同電力と三井財閥に属する三井鉱山の共同出資により1922年(大正11年)に発足した。神通川水系にて電源開発を手がけ、水力発電所を運営した。また軌道(通称神岡軌道)を経営する軌道事業者でもあった。1942年(昭和17年)に解散した。 -フランス北部で戦火が広がった。ヘンリー8世の命令でジョン・ワロップが5千の軍勢を連れてイギリス海峡を渡ってカレーに到着、そのままネーデルラントの守備についた。フランス軍ではヴァンドーム公アントワーヌが4月にリレを、ダヌボーが6月にランドルシーを占領した。ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世は公然とフランソワに味方してブラバント公国を攻撃、アルトワとエノー伯領で戦闘がおこった。フランソワもついに進軍したがなぜかランスで止まり、一方カールはユーリヒ公国に侵攻してデューレンを占領した。 -2月4日、クック一行は必要な物資を積み込み、北洋へ漕ぎ出したが、カワイハイ沖で遭遇した暴風雨にレゾリューション号のメインマストが破損したため、2月11日、再度ハワイ島へ戻り修繕にあたろうとした。しかし、先住民らは「クックはあまりにも人間的な肉欲を持っている」「ロノ神の乗る船があのように傷つくものだろうか」といった疑念を持ち始める。先住民らが険悪な様相でディスカバリー号のボートを奪い取ろうとしたため、クックはカラニオプウを人質として拘束した。この諍いは乱闘へ発展し、1779年2月14日、クックは4名の水兵と共に殺害されるに至った。ディスカバリー号を率いていたチャールズ・クラークは、大急ぎで船の修復を終え、イギリスへと舵を取った。クラークは同年8月に結核で死亡したため、その後はジョン・ゴアが指揮を取り、イギリスに帰還した。海軍本部、英国王立協会にクックの死、北方海路探索の失敗、そしてサンドウィッチ諸島の発見を報告し、欧米にその存在を知らしめた。この頃のハワイ諸島には大族長(アリイ・ヌイ)による島単位での統治が行われていた。ハワイ島をカラニオプウが、それ以外の島をマウイ島の大族長カヘキリが支配していた。大族長は世襲制であったため、1782年にカラニオプウが没すると息子のキワラオが王位を継承した。軍隊の指揮で頭角を現しつつあったカラニオプウの甥にあたるカメハメハはこのとき戦争の神(クカイリモク)という称号を授かり、コハラおよびコナの領地を譲り受けた。これに立腹したキワラオはカメハメハに戦争をしかけたが、モクオハイの戦闘で負傷し、逆に1790年、カメハメハによるハワイ島統一が成された。 -「杉原紙」という名称は、歴史的に2つの異なる意味で用いられてきた。ひとつは「杉原地域で生産された和紙」を指す語で、もうひとつは「杉原式の製法で作られた和紙」を指す語である。後者の「杉原紙」は中世から近世にかけて、日本各地で作られるようになっており、「杉原紙」や単に「杉原」と呼称されていた。この杉原紙は、鎌倉幕府の公用紙となり、大量に流通した。この頃、武士階級に一束一本という贈答品の慣習が定着したが、ここでいう「一束」は通常「杉原紙を一束(一束は約500枚)」を意味した。武士に対して手紙を書く際には杉原紙を用いるのが作法とされ、杉原紙は武家を象徴する和紙となった。杉原紙は極めて大量に流通してあちこちで生産され、様々なバリエーションが登場して人気を博したため、「杉原紙の特徴」を特定して端的に説明することは難しい。しかしおおまかに言うと、コウゾを原料とし、米粉を添加し、凹凸(皺)のない和紙ということができる。 -1985年1月8日9時30分ごろ、熊本県下益城郡松橋町の町営住宅の一室で、男性の遺体が発見された。被害者は同室に一人で住む59歳の男性であった。司法解剖の結果、死後2日から4日が経過していると推定された。遺体には頚部を中心に15の創傷があり、死因��刃物で頸部を刺されたことによる失血死であった。 -『聖家族』の構成は、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『聖アンナと聖母子』の下絵の影響を多少なりとも受けている。『聖アンナと聖母子』の初期の下絵同様、ミケランジェロが描いた聖家族は押し込むように小さなスペースにまとめられ、ダ・ヴィンチの肖像画に良く見られる左右対称の三角形の構図が採用されている。ミケランジェロはフィレンツェでダヴィデ像を制作していた1501年に、ダ・ヴィンチが描いた『聖アンナと聖母子』の下絵を目にしていたことがわかっている。また、『聖家族』はシニョレッリの作品で、ウフィツィ美術館所蔵のメディチ家の聖母マリアとの関連性も指摘されている。シニョレッリを賞賛していたミケランジェロはこの作品もおそらく知っており、そのアイディアを自身の作品にも取り入れたいと考えた可能性が高い。シニョレッリの『聖母マリア』は『聖家族』と同じ円形画で、地面に直接マリアが座り、その背景に裸体の男性たちが描かれている作品である。 -離婚後、ラムフォードとは適度な距離を置いて交友が続いた。1814年にラムフォードが死去すると、マリー・アンヌは、理由は不明であるが、ラムフォード伯爵夫人と名乗るようになった。マリー・アンヌは晩年もサロンを開き、フランソワ・アラゴらを招いた。メアリー・サマヴィルも招いたが、サマヴィルがラプラスやアラゴの注目を浴びていることに嫉妬したりもした。マリー・アンヌは死の前日まで友人と社交を続け、1836年2月10日、78歳で死去した。アントワーヌ・ラヴォアジエの同僚の孫であるドゥラントによれば、生前の社交の参加者が集う、盛大な葬儀であったという。 -最初にオリンピックを政治的に利用したとされるのは1936年のベルリン大会の際のヒトラーであるが、戦後オリンピックが世界的なイベントとして認知されると、国威発揚のために政治的に利用する国が多くなった。オリンピック憲章ではオリンピックの政治的利用は禁止とされているが身近な例では金メダルをとった選手の表彰式の際、国歌が流れ、国旗が掲揚される。この儀式に対して強く疑問に思ったのが、1936年のベルリン大会のマラソン競技で日本統治時代の朝鮮から「日本代表」として出場し優勝した孫基禎である。共産主義時代のソ連や東欧諸国では国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成し(いわゆる「ステート・アマ」)、メダルを量産してきた。共産主義が崩壊した今でもその傾向は続いており2016年のリオデジャネイロ大会の前にはロシアが国家主導で過去の大会においてドーピング行為を行ったことが判明した(ドーピング問題については後述)。アメリカ合衆国でも2002年の冬季ソルトレークシティ大会の開会式の際は前年の米国同時多発テロで崩壊したニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見された星条旗が入場させている。日本の一部メディアは、2020年の東京オリンピックを「国威発揚」と位置づけるものもあった。そして行き過ぎた政治利用は開催に反対する為のボイコットやテロを生んできた。冷戦期における先述のモスクワ大会、ロサンゼルス大会の大規模ボイコットやミュンヘン大会で発生したテロの他に1996年のアトランタ大会でもオリンピック公園を標的としたテロが発生している。また国際オリンピック委員会は世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進する「オリンピックムーヴメント」を推進することを標榜しているが、オリンピックムーヴメントの理念にそぐわない国が開催することに異議を唱える運動もしばしば起こり、2008年の北京大会では大会に反対するデモが相次いだ。また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」に抗議してアメリカ、ドイツ、フランスなど欧米諸国の首脳が開会式を欠席した。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -バレエはフランスで発達したため、バレエの振付用語は基本的にはフランス語である。近代バレエの特徴は爪先立ちを多用することにある。これをポワントまたは英語のトーという。このために履く特製の靴がトウシューズである。その性質上、足首が固いと非常にバレエには不向きとなる。また、爪先立ちを多用するために、爪先を様々な形で痛めることがあり、日常生活に影響が出るレベルにまでなり、バレエダンサーとしても活動できなくなるケースは少なくない。ポワントで立たず足を舞台につけて立つ立ち方は6つに分類される。これをポジションと呼ぶ。振付においては特に詳述せずポジション名で呼ぶ。バレエ舞踏の重要な技法としては跳躍と回転がある。これもフランス語で呼び、たとえば片足を前方に投げ出しその方向へ飛ぶことをジュテと呼び、空中での足の位置や跳躍の大きさによってジュテは細分される。一方物語り進行上の感情を表すのにはマイムを用いる。マイムが過度に多い作品はしばしば「バレエ的でない」と批判されることからも、バレエが舞踊芸術であることが理解される。 -反スウェーデン同盟(北方同盟)の結成に深く関わった人物が亡命スウェーデン貴族ヨハン・パトクルである。パトクルはスウェーデン領リヴォニアの貴族でスウェーデン王カール11世の時に大逆罪を宣告されて亡命を余儀なくされ、ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世に仕えていた。パトクルの画策により、1699年8月にデンマークとザクセンとの同盟が成立し、そして11月22日(露暦11月10日)にはロシアとザクセンとのプレオブラジェンスキー条約が締結され、ロシアとデンマーク、ザクセンによる北方同盟が成立する。反スウェーデン同盟が結成されたことを知ったカール12世は1700年1月にイギリス、オランダと防御同盟を結んでこれに対抗した。 -神奈川県では震災の影響で停電が相次ぎ、停電による酸素吸入装置の停止で女性1名死亡したほか、横浜市や藤沢市、川崎市にて避難中などに転倒し女性2名、男性1名の死亡が確認されている。また、横須賀市で火災が2件発生し、男女2人が死亡している。計画停電で信号機が停止した厚木市内の県道交差点で、オートバイとワゴン車が衝突するなど、この死亡事故を含め、計画停電で信号機が止まった影響による事故は37件(人身12件、物損25件)となった。一方、建物被害は横浜市内で多発。同市によると、住宅と住宅以外の建築物の被害は少なくとも198棟。建物全壊1棟、半壊7棟、一部破損151棟。新耐震基準が導入された1981年以前のビルが傾いており、全壊とされている。また、同市内では臨海部などの埋立地で液状化による被害も多数報告されている。川崎市では、手抜き工事によりミューザ川崎シンフォニーホール(大ホール)の天井板が大規模に崩落し、ミューザ川崎シンフォニーホールは2年以上の長期間の休館を余儀なくされた。埼玉県久喜市など内陸部においても液状化が発生した。久喜市南栗橋地区で地区約2千戸のうち、11戸が全壊し、大規模半壊は41戸、半壊は54戸、一部破損71戸に上り、道路は21路線で隆起や側溝の破損が起き、水道管や電柱にも影響が及ぶなど被害は甚大となった。群馬県では地震の影響で1���が死亡し、国道354号線の五料橋において4センチメートル(cm)の段差が発生した。 -エドヴァルド・ムンクは1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県ロイテンに生まれた。父クリスティアン・ムンクは医者であり、1843年から船医、1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが、1861年にラウラ・カトリーネ・ビョルスタと出逢い間もなく結婚した。2人の間にはエドヴァルドの前に長女ヨハンネ・ソフィーエが生まれていた。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々、一家はクリスチャニアに移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース、次女ラウラ・カトリーネが生まれた。しかし母ラウラ・カトリーネが結核に冒され、いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエを産んだものの1868年12月29日に亡くなった。以後、母の妹カーレン・ビョルスタがムンク家の世話をすることになった。 -餌になる小動物が触れた場合には、触手がそれに触れて餌が毒で麻痺してから、口に運んで丸のみにする。微小な餌を捕らえるものは、口盤の表面の繊毛によって餌が口に運ばれる。餌は胃腔に取り込まれ、消化液で分解され、吸収される。未消化物(糞など)は再び口から吐き出される。ただし、予想されるほどの餌を取ってはいないとの報告もあり、海水中の有機物を直接取り入れる仕組みがあるのではとの説もある。ただ、実際に捕食しているのは書籍などで紹介されているような大型の魚類などよりも小型のプランクトン性の甲殻類などであることが多いようである。また、近縁のイシサンゴ類と同様に体内に褐虫藻と呼ばれる渦鞭毛藻類に属する藻類を共生させており、ここから多くのエネルギーを得ている種も多く知られている。本州や九州など日本列島中央部の岩礁潮間帯で普通に見られるヨロイイソギンチャクが褐色をしているのがこの共生藻類の色によるものであるし、サンゴイソギンチャクなど珊瑚礁域などでクマノミと共生しているような大型のイソギンチャクもこうした共生藻類による栄養摂取に多くを依存しているものが多い。 -もともと、この花押が何の文字にあたるのかは研究者の間でも不明であり、日本中世史研究者の佐藤進一も、初めて見たときはこの花押を解読することはできなかったという。しかし佐藤は、勝海舟(勝麟太郎)の花押「麟」と比較することで、この信長の花押も「麟」の字をもとにしたものである可能性に気づいた。勝海舟の花押「麟」は、「麟」の字の草書体の下半分が左右に開いたものである。佐藤によれば、信長の花押「麟」は勝海舟の花押の形と比べてより記号化がなされたものであり、「鹿」の草書体での書き出しの部分と「米」の部分を省いている。 -漁業の対象として重要な種である。FAOの統計によれば2013年には全世界で一年の間に75,257トン漁獲されている。その中でもインドネシアにおいて最も漁獲量が多く、57,288トンが漁獲されたという。その他イラン、マレーシア、タイ、パキスタンでも年間1,000トンを超える漁獲があった。東シナ海でも底引き網により年間数10トンから100トン前後漁獲がある。ペルシア湾北部では刺し網による多魚種を対象にした漁業で漁獲され、本種の漁獲量は持続可能な水準で推移している。 -大町桂月の伝記『伯爵後藤象二郎』によれば蓬莱社は蒸気船5隻を持っていたとのことである。北海道や九州などとの海運業に加え貿易業(ジャーディン・マセソン商会との事業)にも携わったとされるが、大町桂月の伝記以外の史料は乏しく詳細は不明である。 -『聖家族』はミケランジェロが弟子や助手の力を借りずに一人で制作した、現存する唯一のパネル画である。明るい色の並置は、のちにミケランジェロが手がけるシスティーナ礼拝堂天井画と同じ手法で表現されている。聖家族が着用している衣服のしわやひだははっきりと描かれ、肌はなめらかに表現されて大理石のように見え、聖家族の力強い人体表現は絵画というより彫刻であるかのように描写されているのに対し、背景の裸体の男性たちは柔らかくぼんやりと描かれており、システィーナ礼拝堂の四隅に描かれた裸体像を予兆させる表現となっている。この作品には、最初にもっとも強烈な顔料を用い、徐々に���るい顔料で陰影を付けていって最も暗い色を陰とする「カンジャンテ(玉虫色)」と呼ばれる技法が使用されている。ミケランジェロはこの技法を用いることによって、背景をぼんやりとさせ、前景の聖家族をはっきりと際立たせることに成功した。目をひく色彩のほとんどがマリアの衣服で、マリアがこの絵画の主題であることを示している。X線による調査の結果、ミケランジェロは当時知られていた全ての顔料をこの作品に使用したことが分かっている。まるで男性であるかのように描かれたマリアの肉体表現は、後年ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂天井画を制作する際に、女性肖像のモデルに男性を使用したことへの説明となるかもしれない。 -139年、ローマの地理学者プトレマイオスはクーノイ族(ΧοῦνοιまたはΧουνοἰ)がスニ(Suni)の統治下にあるポントス地方のバスタルン族とロクソラン族の間に住んでいると述べている。彼は2世紀の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国がしばしば「クーノイ」(Χοῦνοι)または「ウーノイ」(Ουννοι)と書いており、東ローマ帝国では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」(Χοῦνοι)と「ウーノイ」(Ουννοι)の類似は偶然である可能性もある。5世紀のアルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツは「アルメニア史」でサルマタイ族の近くに住むフン族について紹介し、194年から214年の間の何れかに起きたフン族によるバルフ攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(Hunuk)と呼ぶ理由を説明している。 -日本企業のジャパン・スーパー・ゼネラル・インダストリー社は、自社の技術力を世に広めるため、巨大ロボット「ビッグマイティ」による各国のロボットの撃破と技術収集を行っていた。ビッグマイティの操縦者でもある製作チームは、高度な技術力を持つ小国「ジュネス王国」を次の目標とする。ジュネス王国には、他人に心を開かない少女カナ製作の巨大ロボット「ファンシーロボ」が存在した。ビッグマイティの襲来に対し、カナの姉クローネはファンシーロボの出撃をカナに要請する。カナはファンシーロボが傷つくことを嫌って要請を拒否するが、ビッグマイティに捕まった妹ネネを助けるため了承する。出撃したファンシーロボはビッグマイティを返り討ちにする。戦いの後、ファンシーロボは同じくカナ製作のロボット「リンクル」によって「ジュネりん」と名付けられる。一方、ビッグマイティ製作チームの上司・島田耕作は、社の重役たちにビッグマイティの敗北を見せ付けてしまったことで怒り、製作チームに再出撃を追加予算なしで命令する。予算のほとんどない中で製作チームはビッグマイティを修復、再出撃するが、再度ジュネりんに敗北する。チームのリーダーである大矢仁はビッグマイティの新たな武装を使うことでジュネりんの足止めをし、チームメンバーを逃がす。大矢はカナに助けられ、2人はロボットに関する話題を語り合う。度重なるビッグマイティの失敗に業を煮やした島田は、自ら巨大ロボット「ザ・パーフェクト」で出撃する。ザ・パーフェクトの攻撃によりジュネりんは破壊されそうになるが、ザ・パーフェクトは出力を上げ過ぎたことから爆発寸前になる。そこに現れたビッグマイティがザ・パーフェクトを抱え込み上昇し、ともに爆発するが、後にカナの携帯電話に大矢から脱出を知らせるメールが届く。カナとジュネりんは無事に帰還し、国民たちから歓声を受ける。 -この地域には鬱蒼としたケヤキ、シラカシからなる屋敷林が残っている。そのなかでひときわケヤキの大木が目立つ柳窪四丁目の村野家住宅は、唯一東久留米市内に残る江戸時代の茅葺民家である。同住宅は、江戸から大正期にかけて建てられた貴重な建物として、2011年(平成23年)に主屋等7件が国の登録有形文化財に登録された。同年それらの建物を総称して「顧想園」と命名し、春と秋に一般公募の見学会(都文化財ウイークへの参加など)が実施されている。園内にはさまざまな植生が見られ、なかでも武蔵野では急激に数を減らしてなかなか見られなくなったクマガイソウ、キンランなどが保護されて、毎年春に花を咲かせる。 -ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。......何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。......今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。また、ミレーの『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえている。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、『オリーブ畑』、サン=レミの『プラタナス並木通りの道路工事』などを描いた。 -エドワード7世は、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代イギリス国王、インド皇帝である。母であるヴィクトリア女王の在位が長期にわたったため、2020年1月1日現在の王太子であるチャールズに次いで長くプリンス・オブ・ウェールズの立場にあった。在位は1901年から1910年までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝(Edwardianera)」と呼ばれる。在位中は1905年まで保守党(ソールズベリー侯爵とバルフォア)、その後は自由党(キャンベル=バナマンとアスキス)が政権を担当した。彼の治世下に日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本・フランス・ロシアとの関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた。王妃はデンマーク国王クリスチャン9世の娘アレクサンドラである。 -「兵隊王」と呼ばれ軍事的天才と評されることになるスウェーデン王カール12世は1697年に14歳で父カール11世からスウェーデン王位を継承、絶対君主国家としてバルト帝国(スウェーデン王国)を引き継いだ。父は戦争を避けて国政改革に専念し、保護関税制や貴族領地を削減して王領を増加させる土地回収(reduktion)を実施して財政を安定させ、王権と帝国の軍事力を強化させていた。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -1189年に第3回十字軍が行われると、ブルガリアはビザンツと敵対する神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に同盟の締結を提案した。同盟の条件としてブルガリアが奪回した領土の保持と皇帝の称号の許可と引き換えに、神聖ローマ帝国に40,000人の援軍の提供を申し出るが、フリードリヒ1世からの回答は得られなかった。フリードリヒ1世がビザンツ領を通過した後、1190年の夏にビザンツ軍はブルガリアの首都タルノヴォに遠征を行う。天然の要害に位置する堅牢な城壁を持つタルノヴォはビザンツ軍の包囲に耐え、クマン人がブルガリアの援軍として到着した噂が広まるとビザンツ軍は撤退した。追撃に出たブルガリア軍はトリャヴナでイサキオス2世が率いるビザンツ軍に大勝し、ビザンツ皇帝の象徴である帝冠、笏、衣装を手に入れた(トリャヴナの戦い)。同年にペタルは弟のアセンに帝位を譲り、自身はプレスラフを中心とするブルガリア北東部とドブルジャ地方を統治した。 -250-350°Cからの焼戻しで発生する脆化を低温焼戻し脆性と呼ぶ。低温焼戻し脆性は、焼戻しの冷却速度と鋼種を問わずに発生する。一端高温で焼戻しすれば、この条件で焼戻ししても低温焼戻し脆性は発生しなくなるのが特徴である。低温焼戻し脆性の原因は、リン、窒素などの不純物が旧オーステナイト結晶粒界に析出すること、300°C以上で析出する初期セメンタイトが薄板状のため粒界に析出すること、残留オーステナイトから炭化物が析出して不安定になり、荷重負荷時にマルテンサイト変態して脆くなること、などが挙げられる。そのため、リン、窒素などの不純物を減らすことも脆化を軽減する対策の1つである。防止策としては、この温度域からの焼戻しを避けることが第一で、珪素を添加も有効である。珪素の働きでε炭化物を安定させて、セメンタイトの析出と成長を抑え、脆化発生領域を高温域に移動させることができる。 -広島県南部は温暖な気候が続く瀬戸内海式気候に属すが、この地の気温はそれではなく地形に起因するものが現れる。冬は極端ではないが雪がふるほど冷え込むため寒仕込みに適している。夏は、昼夜の寒暖差が大きいため酒造好適米(酒米)の栽培に適している。古くから米作が行われ広島県内屈指の穀倉地帯であり、現在は県の酒造好適米産地のうち県南部では西条盆地とその周辺だけになる。品種は主に、八反系(八反・八反錦)、山田錦系(千本錦・県内産の山田錦)、雄町系(県内産)を用いている。 -一般の結納にあたる納采の儀は4月12日9時00分から行われた。使者役である東宮大夫の菅野弘夫が小和田邸を訪れ、金屏風の置かれた1階の16畳の応接間に納采の品が届けられた。品の内訳は以下のような物である。絹地5巻は、のちにドレスなどに仕立てられる絹の服地。京都の龍村美術織物製で、朝見の儀で着るローブ・デコルテに使用された「明暉瑞鳥錦」(めいきずいちょうにしき)という白地に金箔の入った生地、桃色系のうす香色生地「四方(よも)の海」、金糸入り若草色生地「呉竹」、白地にうす桃色をぼかし金糸の入った「楽興の時」、水色の「やまなみ」で、最後の2点は皇后が育てたカイコの糸が使われた。清酒一荷は、宮内庁御用達の蔵元から納入した清酒一升瓶6本が白木の箱に納められたものである。鮮鯛一折は、日本近海で獲れた大きさ50cm以上、2匹で10kgを越える大物の生のマダイ雌雄一対(計2尾)を、八の字の形に台の上に並べたものである。この鯛以外には白い掛け紙と輪結びにした金銀の水引が結ばれていた。 -ロベルタ・オルソンは『聖家族』が「家族の重要性」を描いた作品であると考え、「ドーニ家が待望する子供」と関係しているのではないかと推測した。素晴らしい結婚を意味するものとして、ヨセフとマリアがキリストを抱いている「お互いの動作」の描写があげられる。さらに重要なのはヨセフが着ている衣服の色で、黄色はこの家族が真に聖なるものであることを意味し、紫はヨセフが古代イスラエルのダヴィデ王に連なる王家の血統であることを証明しているとした。さらに、ヨセフという名前は、ドーニ家の幼くして亡くなった3番目の子供のミドルネームでもあった。洗礼というテーマも、この絵画の額縁がギベルティの彫刻『天国への門』の影響を受けていることで表されていると主張している。フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉にある『天国への門』は洗礼式を意味しており、聖家族のような幸せな結婚を通じて子供を授かるというドーニ家の希望が、この絵画をミケランジェロに依頼した理由のひとつといえるだろうとした。 -1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別した。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば満月になけほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。 -只見川は、阿賀野川水系における最大の支流である。群馬県・新潟県・福島県の三県にまたがる尾瀬国立公園の一つ、尾瀬沼がその水源であり、湿原の水を集めながら三条の滝を経て北へ流路を取り、深いV字谷を形成しながら南会津郡只見町の中心部付近で東から流れる伊南川(いながわ)を合わせる。「会津のマッターホルン」とよばれる蒲生岳を過ぎると次第に向きを北東に変え、大沼郡金山町で野尻川を合わせた後沼沢湖の横を流れ、大沼郡三島町、河沼郡柳津町・会津坂下町を過ぎた後に喜多方市高郷町付近で阿賀野川に合流する。流路延長146.0キロメートル、流域面積2,800平方キロメートルの河川である。 -ピョートルがスイス出身のレフォルト、下士官出身のメーンシコフを側近に取り立てたのはこの時期とされる。1689年、16歳になったピョートルは母の勧めによりエヴドキヤ・ロプーヒナを后妃に迎えたが、彼女を愛することはなく、後に不幸な結果を招くことになる。 -ミハイルは妹オリガ大公女と仲が良く、ガッチナ宮殿の周辺の森に頻繁にハイキングに出かけていた。また、この頃には馬術などの教育も受けていた。普段は質素な生活だったが、クリスマス、復活祭、四旬節の時は肉や乳製品を食べることが許され、夏は家族と共にペテルゴフ宮殿で母方の祖父母クリスチャン9��、ルイーゼ王妃と過ごしていた。しかし、1894年は父の体調不良のためペテルゴフ宮殿に行くことが出来ず、父は11月1日に崩御した。このため、長兄ニコライ2世が皇帝に即位し、ミハイルの幼少時代は終わりを迎えた。アレクサンドル3世の死後、母マリアはミハイルとオリガを連れてアニチコフ宮殿に戻った。 -1965年(昭和40年)4月には愛知県立図書館が運営する愛知県移動図書館と連携して自前の移動図書館事業が開始された。市制施行前の稲沢町には稲沢町立図書館があったが、1967年(昭和42年)2月には愛知県稲沢農業改良普及所の2階に稲沢市立図書館が開館した。貸出を受けられるのは小学4年生以上に制限された。同年4月の資料数は4,821冊であり、同年度の図書費は303,000円、利用者数は8,434人だった。1966年度(昭和41年度)の図書館利用者数は5,142人だったが、1970年度(昭和45年度)には13,243人と4年前の2.6倍になった。1970年度の利用者属性は中学生以下が7,946人(60%)、高校生以上が5,297人(40%)だった。 -ルーヴル美術館は、パリにあるフランスの国立美術館だ。世界最大級の美術館であるとともに世界最大級の史跡のひとつで、パリ中心部1区のセーヌ川の右岸に位置する。収蔵品38万点以上。先史時代から19世紀までのさまざまな美術品3万5,000点近くが、総面積6万600平方メートルの展示場所で公開されている。世界でもっとも入場者数の多い美術館で、毎年800万人を超える入場者が訪れ、2018年は初めて1,000万人を超えた。フランスの世界遺産であるパリのセーヌ河岸にも包括登録されている。そのコレクションの一部は、日本を含め海外へ貸し出されることも多い。 -イレーヌは1897年、父ピエール・キュリー、母マリー・キュリーの長女として、パリで生まれた。当時、両親は放射性元素の発見に取り組んでいる最中であり、イレーヌが生まれたのは2人がラジウムを発見する前年のことであった。イレーヌ誕生後、両親は夜になるとイレーヌにつきっきりとなり、マリーは娘の成長を日記につづった。しかし日中はマリーもピエールも実験で忙しかったため、3人が一緒に過ごす時間は限られた。そのためイレーヌは、同居していたピエールの父親である医師のウジェーヌ・キュリーと過ごすことが多かった。幼い頃のイレーヌは、父ピエールを「ペ(Pé)」、母マリーを「メ(Mé)」と呼び、母親に対する独占欲が強かった。その当時にキュリー家を訪れた知人は、マリーやピエールと話をしていると、イレーヌが、自分のこともかまって欲しいとたびたび主張してきたことを述懐している。また警戒心が強く、他人とはあまり打ち解けない性格だった。1903年、両親がノーベル化学賞を受賞し、時の人となった。家には連日取材陣が押し寄せ、当時6歳だったイレーヌも取材の対象になることがあった。1904年、妹のエーヴが生まれた。 -香住駅の標高は7.0m,浜坂駅の標高は7.3mとほぼ同じ高さにあるが、その間で山を越えなければならない。長大トンネルを避けるためには、できるだけ山に登って標高の高いところに短いトンネルを掘って抜ける必要がある。この付近では河川の多くが南側から北の日本海へ向かって流れているので、これらの川筋に沿って山に登ることはできなかった。しかし桃観峠(とうかんとうげ)では、東側に西川が流れ出して余部で海に注ぎ、西側に久斗川が流れ出して浜坂で海に注いでいた。そこで、これらの川筋を利用して桃観峠のできるだけ高い位置に登って、峠の下の標高約80mの地点に桃観トンネル(全長1,992m)を建設することが考えられた。 -美幾の墓は、念速寺(東京都文京区白山2丁目9番11号)の本堂裏、千川通り側の塀ぎわに現存する。墓石の裏面には、「わが国病屍の始めその志を嘉賞する」と当時の医学校教官が美幾の志を称えた銘が刻まれ、法名として「釈妙倖信女」が与えられている。この墓は、1974年(昭和49年)11月1日に文京区指定史跡となった。墓碑は、保存のために透明なケースで覆われた状態となっている。 -読書(よみかき)は1917年に水利権の許可が下りていた地点の一つである。読書発電所は1922年3月に着工され、翌1923年12月に竣工した。西筑摩郡読書村(現・南木曽町読書)にあり、木曽川本流のみならず支流の阿寺川・柿其川からも取水可能な設計である��エッシャーウイス製水車、ウェスティングハウス製発電機各3台にゼネラル・エレクトリック製変圧器が設置された。出力は4万700kWである。東京電灯猪苗代第一発電所(出力3万7,500kW)を上回る、当時日本最大の発電所となった。送電線は後述の大阪送電線が接続した。 -1736年にロシアが再びアゾフを求めてオスマン帝国と争うオーストリア・ロシア・トルコ戦争(露土戦争とも、1735年-1739年)に参戦した。この戦争の結果は1739年のベオグラード条約で、これによりロシアのアゾフ領有が確定しロシアの黒海進出を招いたものの、オスマン帝国はオーストリアからベオグラードを奪還した。しかしこの戦争ではその結果よりも推移状況において「東方問題」に特徴的な傾向が現れた。ロシアの同盟国オーストリアは、開戦の1年後にロシアを支援する形で参戦したが、ロシアの影響力の拡大を恐れたために、休戦交渉においてはロシアの敵国フランスの懸念を利用してロシアの主張を抑え込もうとした。ここでは「東方」をめぐる紛争に、紛争の当事者以外の第三国を介入させることで勢力均衡を維持しようとする「東方問題」の基本構造を見ることができる。 -1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 -ペリーの久里浜上陸から47年が経過した1900年(明治33年)10月、ペリー来航時は17歳の少尉候補生としてプリマス号に乗船し、その後アメリカ海軍の少将にまでなったレスター・ビアズリーが来日した。ビアズリーは1898年(明治31年)2月をもって退役しており、夫婦で日本などアジア諸国歴訪の旅の途上の日本訪問であった。1900年(明治33年)10月25日、ビアズリーは横浜からかつてペリーが上陸した久里浜へと向かった。彼はペリー上陸を記念する何らかのモニュメントがあるものと期待していたが、全くそのようなものがないことに落胆した。ビアズリーはペリーの日本来航が日本を開国へと導き、大きな歴史の転換点となったのにもかかわらず、ペリーの上陸地である久里浜にそのことを記念する事物が全く存在しないことを遺憾とする意見を、11月5日掲載の時事新報のインタビューの中で述べた。 -名取市では市域の27%が浸水した。中心市街地は内陸部にあったが、沿岸部にあった閖上地区が壊滅的被害を受けるなど、1,000人弱が犠牲となった。閖上大橋で地震の揺れにより大型トラックが荷崩れし、対向車線の乗用車運転手が死亡する事故が発生し通行止めとなったことで地区内で渋滞が起こったことも、犠牲者を増やす要因となった。仙台空港の滑走路が冠水する様子は、国内外で大きく報道された。岩沼市は市域の48%が浸水して200人弱が、亘理町でも町域の48%が浸水して300人弱が犠牲となった。仙台市や名取市同様に中心市街地は内陸部にあったが、沿岸部の集落が壊滅した。亘理町では元��子サッカー選手の佐藤恵利子も犠牲となった。山元町では町域の38%が浸水した。養護老人ホーム「梅香園」と併設するケアハウスで82人が犠牲に、常磐山元自動車学校の送迎バス5台が津波に飲まれ、教習生と教官の39人が犠牲になるなど700人弱が犠牲となった。このほか、七ヶ浜町でも甚大な被害を受けた。一方、松島町や塩竈市は周辺の自治体と比較しても被害が軽微であった。これは浦戸諸島とその奥にある松島湾内の島嶼群が津波の威力を緩和、分散したためと推測される。ただし、あくまでも周囲に比べれば軽微だったというだけであり、家屋の浸水や犠牲者が発生したことに変わりはない。 -ニンテンドーDS上で不正にプログラムを動作させる「マジコン」と呼ばれる装置について、任天堂及びソフトメーカー49社は販売業者に対して各地で著作権被害を訴えて訴訟を起こした。被害総額は全世界で4兆円近くとも試算されている。2013年7月、東京地裁で任天堂側勝訴の判決が下された。また、2016年1月には最高裁で上告が棄却され、任天堂側の勝訴が確定した。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -初期のイスラーム世界のコーヒー店ではコーヒーは大鍋に入れて温められ、小さな容器に移して客に供されていたと考えられている。イスラーム世界ではコーヒーに砂糖と牛乳を入れることはほとんどなく、調味には主にカルダモンが使われていた。また、牛乳を入れたコーヒーはハンセン病の原因になるという迷信が存在していた。1600年頃のカイロでコーヒーに砂糖が入れられ始められ、1660年頃に中国に滞在していたオランダ大使ニイホフがコーヒーに牛乳を加える飲み���を始めたと言われている。17世紀のカイロを訪れたヨーロッパ人ヴェスリンギウスはコーヒーの苦みを無くすために砂糖を入れる人間が現れていたことを記し、トルコでは「コーヒーは甘くなくてはならない」という格言が生まれた。 -ヴィルヘルム1世は、1863年にオーストリアの主導で開催されたドイツ諸侯会議には出席の意思を強めていたが、ビスマルクの説得を受け入れて断念した。1864年にシュレースヴィヒ・ホルシュタインをめぐって発生した対デンマーク戦争ではアウグステンブルク公フリードリヒの独立公国構想を強く支持したが、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン併合を狙うビスマルクの説得により断念した。戦後、ヴィルヘルムもシュレースヴィヒ・ホルシュタイン併合論に傾き、オーストリアとの対決路線をとり、1866年の普墺戦争においてオーストリアを下した。講和交渉をめぐってはオーストリアやザクセンに寛大な講和条約を目指すビスマルクと一時対立したが、最終的にはビスマルクの説得を受け入れている。普墺戦争の勝利によりオーストリアが連邦議会議長国を務めるドイツ連邦は解体され、プロイセン王を盟主とする北ドイツ連邦が創設され、ヴィルヘルムは北ドイツ連邦主席に就任した。 -任天堂は1889年(明治22年)に創業した老舗企業で、娯楽に関する様々な事業を展開している。創業以来多くの種類の玩具を製作しており、特に花札やトランプは創業初期から現在に至るまで製造・販売を続けている。1970年代後期からは家庭用や業務用のコンピュータゲーム機の開発を開始した。1983年(昭和58年)発売の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」用ソフトとして1985年(昭和60年)に発売した『スーパーマリオブラザーズ』は世界的にヒットし、任天堂はゲーム機やゲームソフトを開発する会社として広く認知されるようになった。また、先述の『スーパーマリオブラザーズ』の主人公「マリオ」など、任天堂のゲームソフトに登場するキャラクターは世界で知られているものが多く、近年は、こうしたキャラクターのゲーム外での活用を進めている。 -A310の就航当初は、欧州域内を結ぶ路線や欧州と中東・北アフリカを結ぶ路線を中心に用いられた。1980年代後半になると、ETOPSと呼ばれる双発機の長距離飛行に関する緩和要件が認められ、欧州と北米を結ぶ大西洋横断路線や、欧州と日本を結ぶ長距離国際線でも運航されるようになった。冷戦終結後には、旧東側諸国でも採用され、1991年に西側諸国製の旅客機として初めてロシアの型式証明を取得した。1993年には中古のA310を貨物専用機へ改造する事業が始まった。1998年に初飛行した255号機を最後にA310の生産は途絶え、エアバスは2006年に生産終了を正式発表した。2014年4月までに、A310の機体損失事故は12件発生し、その内の8件は死亡事故である。 -上記のように本類はその生息域の条件により、まず手に入れやすく、非常に生活温度や塩分濃度の変動に強い、つまり広温性・広塩性であり、そのために室内での培養が容易で、また繁殖サイクルが短くてよく繁殖する。そのような性質もあって遺伝学や生理学の実験動物としても用いられてきた。このことを指して、Dethierは本属のものを「potentialasa'marinefruitfly'(海のショウジョウバエとなる可能性がある)」と言っている。生態毒性の試験にはこの類が広く用いられる。またそれを使用して繁殖させたものを稚魚の飼料にするなどの利用も行われている。 -事故機の飛行時間は2,704時間で、1952年の製造から2年しか経過しておらず、飛行回数も僅か900回程度であった。翌日からBOACのアンバサダー旅客機や、英海軍の空母イーグルと駆逐艦ダーリンなどの船舶、並びにアベンジャー哨戒機による捜索が行われたが、漂流中の幾許かの残骸と5名の遺体を収容しただけに終わった。その後、犠牲者1名の遺体が海岸に漂着した。また墜落現場の水深は1,000m近くもあり、サルベージは断念された。G-ALYPとG-ALYYの連続事故で、コメット自体に重大な問題があることは最早明白になった。英政府は事故翌日の4月9日中にコメットの耐空証明を再び取り消した。世界中で運用されていたコメットは与圧システムを作動させずに再び本国へ召還回送され、二度と路線に復帰する��とはなかった。 -1966年に川辺川ダム計画が発表されたが、水没予定となる五木村は即座に「ダム絶対反対」の意思を表明した。ダムは相良村に建設されるが水没予定地のほとんどは五木村であり、かつ町役場など主要公共機関が集中する中心部落の頭地部落など403戸・528世帯が水没する。この水没世帯数は東京都の小河内ダム(多摩川)の945世帯、岩手県の湯田ダム(和賀川)の622世帯、奈良県の池原ダム(北山川)の529戸、岐阜県の徳山ダム(揖斐川)の466戸に次ぐ日本では第5番目の大規模な水没対象となる。またダム自体は相良村に建設されることでダム完成後の莫大な固定資産税は相良村に払われ、五木村には払われない。こうしたことから五木村の存亡にかかわり、かつ村には何のメリットもないダム計画であることからダム計画の発表と同時に五木村と五木村議会は決議を以ってダム計画に反対する姿勢を明確にした。これ以後五木村は建設省との交渉を拒絶、建設省関係者の立ち入りも一切拒んだ。 -シリーズの出版に加えて、物語のなかにしばしば登場するプーの詩(鼻歌)は、フレーザー・シムソンによって曲が付けられ、1929年に『プーの鼻歌』としてミルンの序文つきで出版されている。シムソンはチェルシーでのミルン家の隣人であり、『ぼくたちがとてもちいさかったころ』『ぼくたちは六歳』の詩にもそれぞれ曲をつけている。これらの詩や鼻歌は、高名なバリトン歌手であったディル・スミスをはじめ、ヴェラ・リン、ロバート・ティアーなど様々なプロの歌手がレコードやテープに吹き込んだ。プーの物語ははじめから朗読されることを意識して書かれていたということもあり、『クマのプーさん』の出版前にドナルド・カスロップがラジオで朗読したのをはじめとして、物語の朗読レコードやテープも数多く作られた。A.A.ミルン自身の朗読レコードも作られたが、クリストファー・ミルンは父の朗読を「一本調子」と評している。BBCのラジオ放送ではノーマン・シェリーがプーの役を演じたが、A.A.ミルンは彼の演技を高く評価し、ミルンの葬儀では彼によるミルンの詩の朗読・歌唱が行われた。 -また、前記決裁書においては、東部線向け新型車両2両編成3本について、当時の流行を反映して前頭部を流線形状とし、さらに連接構造を採用した「流線形連接車」として予算を計上しており、本系列は2車体3台車構造の連接車として計画されていたことが明らかとなっている。連接構造の採用は製造発注先の日本車輌製造本店からの提案であったと伝わり、同社は本系列の受注に先立つ1934年(昭和9年)に、京阪電気鉄道向けに日本の鉄道車両史上初の連接車として設計・製造された60型電車「びわこ号」を納入していたことから、その実績をもって名鉄側に提案したものとされる。また、本系列をはじめとした日本国内のみならず世界的に大流行した鉄道車両における流線形デザインの祖であるドイツの電気式気動車「フリーゲンダー・ハンブルガー」が連接構造を採用していたことに影響を受けたともされる。連接構造の採用による長所としては、一編成あたりの台車数の削減による製造コストおよび保守コスト削減などが挙げられ、設計担当者より連接構造の採用を強く推奨された。しかし、本格的な高速鉄道向けの鉄道車両における連接構造の採用は当時の日本国内においては前例がなく、本系列を連接車として設計することについて担当部署の上長より慎重な見解が示されたことも記録されている。 -ばら積み貨物船は、今日では、世界の商船の40パーセントを占めており、その大きさは船倉が1つの小型ばら積み船から載貨重量トン数が40万トンに達する巨大鉱石船まである(「ヴァーレ・ブラジル」)。載貨重量トン数が10,000ロングトンを超える船は、2006年6月現在で6,224隻ある。多くの専用設計が存在し、貨物船そのものに積み荷を降ろす能力を持っているもの、積み荷を降ろすために港の設備に頼るもの、さらに搭載中に積み荷の梱包作業を行うものもある。全てのばら積み貨物船の半分以上の所有者はギリシャ・日本・中華人民共和国で、また4分の1以上がパナマに船籍を置いている。ばら積み貨物船の最大の建造国は日本で、また82パーセントはアジアで建造されて���る。 -ゴールデンライスはイネOryzasativaの品種の1つで、ビタミンAの前駆体であるβ-カロテンの生合成が可食部でも行われるよう遺伝子操作を行った品種である。ゴールデンライスはビタミンAの摂取が不足している地域で生育し消費される栄養強化食品となることを目的として開発された。ビタミンA欠乏症によって毎年67万人の子供が5歳に達するまでに死亡し、さらに50万人に不可逆的な失明が引き起こされていると推計されている。コメは世界の半数以上の人々の主食であり、アジア諸国では摂取するエネルギーの30–72%を占めるため、ビタミン不足の対策として効果的な作物である。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -第一次世界大戦期、ガージャール朝の弱体化に伴い、イランはイギリスとロシア帝国による半植民地状態となっていた。そしてこの頃、イラン北部のカスピ海南西岸に位置するギーラーン州では、イギリス・ロシア両国の干渉にパルチザンとして抵抗をつづけ、テヘラン中央政府からも距離をとる独自の勢力が存在していた。かつて挫折した立憲革命の再生を訴え、ギーラーンの森林(ジャンギャル)の中からイランの独立回復と変革を求める彼らの闘争は「ジャンギャリー運動」と称され、この指導者であるミールザー・クーチェク・ハーンにも多くの支持が集まっていた。 -ベギンはロシア領ブレスト・リトフスクに生まれた。1919年から1939年にかけて、ブレスト・リトフスクはポーランド領であったが、1939年ソビエト連邦によって占領された。そのため、1940年から1941年にかけてソ連に収監されていた。1941年に解放され、ソ連領内につくられたポーラン��のアンデルス軍団に参加。家族はナチスに殺されている。1942年のソ連脱出後はユダヤ人の非公然武装組織イルグンに参加し1947年頃にはそのリーダーとなる。アイルランドの活動家・マイケル・コリンズを師と仰いだ。エルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件を実行した。イルグン・ツヴァイ・レウミとそのリーダーのベギンは1948年の第一次中東戦争において、デイル・ヤシーン事件などパレスチナ人の虐殺を行ったという悪名でも知られている。また、「パレスチナ人は2本足で歩く野獣である」と公言していた。 -当研究林全体が日本海側気候と太平洋側気候の移行帯に属しており、年間を通じて降水量が多い。事務所構内の年平均気温は11.7°C、降水量は2,353mmで、京都市内に比べると平均気温で3-4°C低く、降水量は約1.6倍である。標高が事務所構内より約300m上昇する東部の長治谷(標高640m)では、事務所構内に比べて年平均気温が約2°C低く、降水量も400-600mm程度多くなる。また、豪雪地帯としても知られており、事務所構内の積雪深は1m前後、長治谷では2mを超える。その年の気候にもよるが、初雪は11月に降り、4月に入っても雪が舞うこともある。12月以降に降った雪は根雪となることが多く、長治谷をはじめ林内の多くの地域が12月から4月初めまで根雪に閉ざされてしまう。 -王室儀式の準備は宮内長官の任務だが、結婚式の準備はチャールズ皇太子自らが取り仕切り、宮内長官マクレーン卿に様々な指示を出した。皇太子の決定により結婚式は1981年7月29日にセント・ポール大聖堂で挙行されることになった。ここはバッキンガム宮殿から離れているため警備上の不安があるものの、ウェストミンスター寺院よりも広いので多くの人間を収容できた。式で流す音楽も皇太子が選定し、キリ・テ・カナワに祝賀の歌が依頼されることになった。聖歌も皇太子が選定した。ダイアナは式の準備にはほとんど関与しなかったが、彼女の好きな愛国歌『我は汝に誓う、我が祖国よ』は曲目に入れてもらえた。招待客については基本的に女王が取りきめた(ダイアナと彼女の父スペンサー卿にも一応提案権はあった)。祝典は実質的に結婚式前夜の7月23日夜から始まっていた。ハイド・パークでは1万2000発の花火が打ち上げられ、近衛隊とモリストン・オルペウス合唱団が聖歌の合同演奏を行った。英国中がお祭り騒ぎになった。イギリスがこれほど全国民あげての祝賀ムードに包まれたのは1953年のエリザベス2世戴冠式以来のことであったという。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -1761年、プリーストリーはウォリントンに引越し、そこの非国教徒向けアカデミーで現代言語と修辞学の講師を務めるようになったが、好んで数学や自然哲学も教えた。ウォリントンにはすぐ馴染み、友人もできた。1762年6月23日、メアリー・ウィルキンソンと結婚した。1763年4月17日、娘が生まれ、叔母の名をとってサラと名付けた。ウォリントン時代に出版した本は全て歴史関連である。彼は歴史を学ぶことが世俗的成功にも宗教的成長にも必須だと考えていた。科学とキリスト教の歴史を描くことで、人間性の進歩を明らかにすると同時に、逆説的に「原始キリスト教」が変質していった様を明らかにしようとした。 -Hは被害者Dが所持していた現金約56,000円・携帯電話を奪ったほか、「タクシーの座席がDの血液・(失禁した)糞尿で汚れてはまずい」と考えたため、Dの遺体の首に巻き付けたネクタイの両端を天井側部の手すりに結び付け、遺体を首吊りの格好で天井に固定した状態でタクシーを移動させた。そして2時40分ごろ、Hは広島県佐伯郡湯来町葛原の国道433号旧道沿い草むらにDの遺体を投げ捨てるようにして遺棄した。Hは犯行後の14日4時ごろにタクシーで広島市東区内の会社へ戻り、タクシー後部座席の客用シーツを新品と交換した上で古いシーツを持ち帰り、自分の自家用車で帰宅した。その後、翌日(1996年9月15日)も普段通り4時ごろに出勤して広島市内を中心に乗務していた。 -1983年に、任天堂は、日本国内における1980年から1982年頃の電子玩具の販売活動について独占禁止法違反として公正取引委員会の排除勧告審決を受けた。2002年には、ヨーロッパで任天堂と現地の卸売業7社がゲーム機とゲームソフトの並行輸入を妨害したとして、欧州委員会が任天堂らに対して合計1億6780万ユーロの課徴金の支払いを命じ、首謀者と認定された任天堂は、このうち1億4912万8千ユーロの支払いが課せられた。 -ガンバレル方式・インプロージョン方式のプルトニウム原子爆弾にはそれぞれ「シンマン」「ファットマン」とのコードネームが与えられた。これらの命名を行った人物は、ロバート・オッペンハイマーのかつての教え子で、自らもマンハッタン計画に参加したロバート・サーバー(en:RobertSerber)だった。サーバーはそれぞれの爆弾の外観に基づいて名前を選んだ。Mark2は細長い形状であったため、ダシール・ハメットの探偵小説『影なき男(原題:TheThinMan)』とその映画化作品から着想を得て、「シンマン(痩せ男)」と命名された。Mark3は丸くずんぐりした形状であったため、『マルタの鷹』(ハメットの同名探偵小説の1941年の映画化作品)にて、シドニー・グリーンストリート(英語版)が演じたキャラクター「カスパー・ガットマン」から着想を得て、「ファットマン(太った男)」と命名された。なお、イギリス保守党の政治家であるチャーチル首相にちなんだものとする俗説がある。 -1827年のナヴァリノの海戦で優位を確定し、1829年のアドリアノープル条約によって自治国としての独立が承認され、1830年のロンドン議定書によって列強間でギリシャの完全な独立が合意され、最終的には1832年6月のコンスタンティノープル条約でギリシャの独立は正式に承認された。ギリシャでは1821年3月25日を独立記念日としている。ギリシャ独立戦争の局面は大きく二つに分けられる。フィリキ・エテリアの蜂起からギリシャ軍が有利であった1821年から1825年までが第一期、オスマン帝国が有利になりギリシャ軍に壊滅の危機が迫った1825年から1827年が第二期であるが、1827年に列強三国(イギリス、フランス、ロシア)が介入したことによりギリシャの独立は現実味を帯びた。そして1830年ロンドン議定書が締結されたことで独立が決定されたが、そこには多くの問題が含まれていた。 -純鉄と呼ばれる炭素質量パーセント濃度が0.022%以下の領域を除いて、鉄-炭素系二元合金平衡状態図を見ていく。室温では、鋼の相はフェライト相およびセメンタイトで構成される。詳しく見ると、炭素濃度0.77%未満ではフェライト+パーライトで、0.77%丁度ではパーライトのみで、0.77%超過ではパーライト+セメンタイトで構成される。この0.77%の点を共析点と呼び、共析点未満の炭素濃度の鋼を亜共析鋼、共析点丁度を共析鋼、共析点超過を過共析鋼と呼ぶ。硬さに注目すると、フェライトは軟らかく粘りのある組織で、パーライトも比較的柔らかい組織で、セメンタイトは非常に硬いが脆い組織となっている。 -ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し、父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となっていき、1935年5月に家庭を捨てて出て行った。1939年6月、正式に離婚が成立している。ジョゼフはイギリスに渡り、戦争が始まると逮捕されマン島で過ごした。その後1960年代になってから、当時の夫メル・ファーラーの尽力でヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会することができた。その後もスイスの自宅で会っている。ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている。ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980��、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行したロバート・ウォルダーズには娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた。 -ブクステフーデのアリアには、BuxWV59,74,80,90のように、ヨハン・シェフラー(アンゲルス・ジレージウス)、ヨハン・ヴィルヘルム・ペーターゼン等の神秘主義者、敬虔主義者やその影響を受けた詩人の歌詞が少なからず存在する。また、クレルヴォーのベルナルドゥス等の中世神秘主義の流れを汲む瞑想的な歌詞も、BuxWV56,57,75等の作品で採用されている。直接的な体験を通して神との合一を求める中世神秘主義は、バロック時代の思想の底流として生き続け、日常生活における霊的体験を重視するルター派敬虔主義の成立にも大きな影響を及ぼす。30年戦争の悲惨な経験を通して、この世を涙の谷ととらえ、来世に憧れのまなざしを向ける17世紀ドイツの民衆の心情には、こうした神秘主義的思潮が広く浸透していた。十字架上のイエスの苦しみをわが身のものとして受けとめ、花婿に擬えたイエスとの結婚を通して魂の救済を希求するこれらの作品は、ブクステフーデのシンプルな旋律法とも相まって、ブクステフーデの声楽曲のなかでもとりわけ強いインパクトをもっている。ブクステフーデの管弦楽書法は、17世紀ドイツの伝統に根ざすものであり、18世紀の標準的なオーケストラ編成とは大きく異なっている。声楽曲における特徴は中声部の充実と多様性にあり、ブクステフーデは楽曲ごとにヴィオラ、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオレッタ、ヴィオラ・ダ・ガンバ等、多様な楽器を組み合わせている。とくにヴィオラ・ダ・ガンバは、BuxWV32,64のように高度な技巧を伴った独奏楽器としても使用しており、ヴィオラ・ダ・ガンバに対する愛好と当時の演奏水準の高さを窺わせる。また、管楽器についても、低音リード楽器として、ファゴットではなく、時代遅れの楽器となっていたボンバルド(バス・ショーム)を使用するなど、古風な楽器編成を採用したものがある。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になってい���狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -高温域を見ていくと、A1線と呼ばれる727°Cの温度を超えた領域では、亜共析鋼はフェライト+オーステナイトに、共析鋼はオーステナイトのみに、過共析鋼はオーステナイト+セメンタイトになる。この温度では亜共析鋼にはまだフェライトが存在するが、さらに温度を上げてA3線と呼ばれる温度を超えると亜共析鋼もオーステナイトのみの相となる。オーステナイトもフェライトに似て軟らかく粘りのある組織であるが、炭素固溶領域が大きい特徴を持つ。オーステナイトあるいはオーステナイト+セメンタイトの高温状態から、逆に冷却していくとする。ゆっくり平衡的に冷やしていくと上記で説明した順序を逆にたどって変態が起こるだけだが、冷却速度を上げて冷やすと、パーライトやフェライトに変態する時間が足りず、マルテンサイトと呼ばれる平衡状態図には示されない相が現れる。この変態をマルテンサイト変態と呼ぶ。マルテンサイト組織は、α鉄が過剰に炭素を強制固溶した組織で、非常に硬い性質を持つ。このように、急冷によるマルテンサイト変態を起こして鋼を硬くさせる操作が、一般的な鋼の焼入れである。日本刀の焼入れなど、焼入れは古来から経験的な鍛冶職人の技術として存在していたが、1888年、ロシアの冶金学者ドミートリー・コンスタンチノヴィッチ・チェルノフ(DmitryChernov)により、焼入れが起こる具体的な加熱・冷却条件が発表され、これが鋼の焼入れ、及び熱処理の理論的な嚆矢とされる。 -ナポレオン3世は1808年4月20日から21日にかけてホラント王ルイ・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟)とその王妃オルタンス(ナポレオンの皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの前夫との間の娘)の三男としてパリのセリュッティ通り(現ラフィット通り)に生まれた。つまりナポレオンの甥にしてジョゼフィーヌの孫にあたる。兄にナポレオン・シャルル(5歳で薨去)とナポレオン・ルイがいた。 -コンピュータのディスプレイには、グレアを防ぐための加工がなされる場合がある。特に映りこみの発生しやすいCRTのガラス面には微細な凹凸で入射光を乱反射させるノングレア(アンチグレア、防眩)加工がなされることが多い。この加工には、入射光を乱反射させるシリコーンやフッ素加工の薄い層を設ける方法が一般的である。また、もともとグレア対策のなされていないディスプレイには、利用者自らアンチグレアフィルムやパネルを装着することでグレアを防ぐことができる。ディスプレイを覆う形のフードを用いる場合もある。反射光が直接目に入らないように照明の位置やディスプレイの角度を工夫するのも効果的である。また、CRT・液晶ともに、画面自体の輝度もグレアを生じさせる要因となる。ほとんどの製品には輝度を調節する機能が備わっている。また、背景の輝度とディスプレイの輝度に極端な差がある場合、不快グレアを生じやすいため、暗い部屋での作業は適当ではない。 -伊那市立図書館を除く2013年の優秀賞は千代田区立日比谷図書文化館、長崎市立図書館、まち塾@まちライブラリーだったが、伊那市立図書館は審査員票のほとんどを獲得した。川口市メディアセブンでディレクターを務める氏原茂将は、伊那市立図書館が「今後の図書館のあり方」について他に先んじていると評価した。図書館が住民と協同で知識や情報を発掘し、図書館の新たな機能を見出しているとしている。審査員を務めた情報学者の高野明彦は、対照的なコンセプトを持つ伊那市立図書館とまちライブラリーのアプローチが重なる場所に新たな図書館が生まれるのではないかと指摘している。 -起源は、BremeもしくはBremumと呼ばれる部族が、ヴェーザー川右岸に定住したことに始まるとされる。1世紀から8世紀の間に、最初の入植地が築かれた。そこは長く伸びた砂丘で洪水から護られ、同時に徒渉地の入り口にあたる場所であった。紀元150年にはすでにアレクサンドリアの地理学者クラウディオス・プトレマイオスは、この入植地の存在を記録している(Fabiranum、またはPhabiranumとも記述している)。 -ホッローケー村の伝統的な住民たちはパローツ人であり、モンゴルの西進の際にカスピ海沿岸部から逃れてきたクマン人の流れを汲むともされる。その伝統的集落は木造を主体としており、焼失と再建を繰り返してきた。1781年には木造を禁止する法令も出され、罰則も定められたが、木造の伝統は守られていった。1772年には単一の通りしか存在していなかったが、後に裏通りが整備され、基本的な区画は1885年には確定した。それは今でもほとんど変わっていないが、建造物群の大半は1909年の大火で焼失してしまったため、20世紀になって再建されたものである。再建時には石壁を主体とするようになり、木造は限定的に取り入れられている。 -翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、その会見内容は不明である。翌年にノストラダムスが書いたものをもとに、むしろ会見では予言能力を疑われるような不手際があったのではないかという指摘もある。カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで自身の子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない。この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。 -その他のビタミンは体内で合成させる。例えば、ユビキノール(補酵素Q)は腸で吸収されにくく、ヒトではメバロン酸経路にて合成される。また、グルタチオンはアミノ酸から合成される。グルタチオンは腸ではシステインとグリシンとグルタミン酸に分解されてから吸収されるため、グルタチオンの経口投与は体内のグルタチオン濃度にはほとんど影響がない。アセチルシステインのような含硫アミノ酸が高濃度であることによりグルタチオンが増加するが、グルタチオン前駆体を多く摂取することが成人健常者において有益であるという根拠はない。前駆体を多く摂取することは急性呼吸窮迫症候群、蛋白エネルギー栄養障害の治療、もしくはアセトアミノフェンの過剰摂取によって生じる肝臓障害の予防に役立つと考えられている。食品中のある成分は酸化促進剤(プロオキシダント)として作用することにより抗酸化物質の含有量を経時的に低減させることがある。抗酸化物質が消耗した食品を摂取することで酸化ストレスが惹起される時には、身体は抗酸化防衛能を高めるように反応することがある。イソチオシアン酸やクルクミンなどは異常細胞の癌性細胞への変質を遮断したり、既存の癌細胞を殺したりする予防についての機能性化学種であると考えられている。各種飲み物の抗酸化能を調査した中で、赤白双方のワインの抗酸化能が高いと報告した例がある。 -この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。 -��立委員会がリーフでの石油採掘を禁じ、1975年にオーストラリア政府はグレート・バリア・リーフ海洋公園を定めて各種の経済活動を制限したが、それは全地域を包括してはいない。公園はクイーンズランド州政府との協力の下、公園管理局が継続的に保てる節度を持った利用を保証する。そのために、ゾーニング、管理計画、認可、教育、エコツーリズム証明などの奨励を組み合わせて、サンゴ礁の維持管理に努めている。 -ローマが紀元前64年にセレウコス朝を退けた後も、城塞の丘は宗教的意義を持ち続けていた。神ハダドはゼウスと同一視された。皇帝ユリアヌスは西暦363年にアレッポを訪れ、「私は一日そこに滞在し、アクロポリスを訪れて帝の習わしによりゼウスに白い牡牛を捧げ、神々の崇拝について町議会と短い話をした」と記している。城塞においてローマ期の物的な遺構はほとんど発見されていない。ローマ帝国は395年、東西2つの部分に分割された。アレッポは東半分の東ローマ帝国にあった。7世紀のサーサーン朝の王ホスロー2世との衝突時には、都市の防壁がひどい状態にあったため、アレッポの住民が城塞に避難してきたといわれる。現在、東ローマ帝国時代からの遺構は城塞の丘でほとんど見られない。城塞内にある2つのモスクは、東ローマ帝国時代に当初建てられた教会から転換されたことが知られている。 -結婚式前夜、ダイアナはクラレンス邸に入り、早めに就寝した。翌日朝6時におきたダイアナは、浴槽につかった後、朝食をたっぷりと取り、美容師やメイクアップアーティストに整髪や化粧をしてもらい、ウェディングドレスを着用した。ウェディングドレスは、英国製シルクでできたこの上なく豪華なものだった。そのドレスの裾は王室史上最長の7.5メートルにも達した。ティアラは実家スペンサー伯爵家伝来のダイヤモンドの物、イヤリングは母から贈られたダイヤモンドの物を着用した。用意が済むと父スペンサー卿とともに馬車に乗り込み、群衆に手を振りながらセント・ポール大聖堂へ向かった。大聖堂には世界中の君主、王族、大統領、首相などが集合していた。アメリカからはファーストレディのナンシー・レーガン、日本からは皇太子明仁親王と美智子皇太子妃が出席していた。大聖堂に到着したダイアナは、バージンロードを父とともにゆっくり進み、王立海軍礼服を着用して待つチャールズ皇太子の横に立った。この結婚式の模様はテレビ中継され、全世界70か国7億5000万人もの人々が見守っていた。式に出席していた旧ユーゴスラビア王族のカタリナ王女は「ダイアナが神々しいほどに美しかった」と回想している。ダイアナが文字通り全世界の人々の視線を釘付けにした瞬間だった。 -発見された骨も多い。頭骨、胴体、肩甲骨などはほぼ完全で、脚の大部分も保存されており、残存部位は全体の約60%とも推定されている。猿人幼児の断片的な頭骨ならば、いわゆる「最初の家族」にも含まれていた。しかし、セラムはそれらと異なり、ルーシーでさえ失われていた顔面の骨がきれいに残されており、状態の良い頭骨に下顎骨がくっついたまま発見された。後者の発見は、アファール猿人の形態的特質に関して新たな知見を付け加えたと評価された。また、後述するように舌骨や完全な一対の肩甲骨などは、猿人では初めて発見された。 -インドハッカは、日中にはつがいもしくは単独でいるが、餌が豊富な場所では群れとして集まることもある。ほとんどのムクドリ類と同様に、インドハッカは雑食性である。昆虫類、クモ類、多足類、カタツムリ、甲殻類、両生類、爬虫類、鳥類の卵や雛、小型哺乳類、種子類、穀物や果実類、それにヒトの居住より捨てられた廃棄物を餌とする。地面で草の中にいる昆虫類を採餌し、とりわけバッタ類から、Acridotheres「バッタを狩るもの」という属名を得ている。ただし、概ね地上で摘んだ多様な昆虫類をその餌とする。また、例えばキワタ属Salmaliaやデイゴ属Erythrinaなどの花の交配の花粉媒介者である。二足歩行を行なうが、時折、跳ねるように地上を歩き、牛の放牧に加えて草刈りで乱された昆虫類を狙って食餌する。 -「平成ゴジラシリーズ」は、シリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』の全7作まで一貫した世界観となっており、『ゴジラvsビオランテ』で初登場した超能力少女・三枝未希(演:小高恵美)がシリーズの要として続けて登場している。ゴジラは一貫して人類の脅威として描かれ、対決相手は人類側の兵器ないし味方(メカキングギドラ、モスラ、メカゴジラ、モゲラ)あるいは三つ巴の戦いとなっている。後半、『ゴジラvsメカゴジラ』からは自衛隊に代わる新たな対ゴジラ組織・Gフォースと新怪獣のベビーゴジラ(後のリトルゴジラ)が登場した。なお「VSシリーズ」と「ミレニアムシリーズ」(『FINALWARS』以外)は映画製作・公開年の翌年を物語の舞台にしている。クライマックスとなる戦場には公開当時に話題となった名所が選ばれることが多い(新宿都庁、みなとみらい、幕張メッセ等)。この当時は、主に新作公開の時期に合わせて『金曜ロードショー』(vsモスラ)、『水曜ロードショー』(vsビオランテ)、『ゴールデン洋画劇場』(vsキングギドラ、vsスペースゴジラ、vsデストロイア)などのゴールデン枠でも作品が全国ネット放映され、高視聴率をマークしている。この当時に防衛庁の広報課で対外広報を担当していた潮匡人によれば、1992年ごろにゴジラ映画に対する協力体制が本格化したという。各作品の別名として『ゴジラ』を『ゴジラ1』とするナンバリングタイトルが存在し、(例:『ゴジラvsメカゴジラ』=『ゴジラ5』、『ゴジラvsスペースゴジラ』=『ゴジラ6』、『ゴジラvsデストロイア』=『ゴジラ7』)劇場版本編終了後の特報などで見られる。このシリーズでは特殊技術を川北紘一(『ゴジラ』のみ中野昭慶)、ゴジラのスーツアクターは昭和シリーズでヘドラ、ガイガンを担当した薩摩剣八郎が務めている。休止期間中の1997年には第1作からゴジラ映画を製作し続けてきた田中友幸が死去し、ゴジラシリーズとしては『ゴジラvsデストロイア』が最後の参加となった。 -21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。1984年のロサンゼルスが6829人(221種目)だったが、2008年の北京では10942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。 -『ラス・メニーナス』は、マドリードのフェリペ4世のアルカサル(城)にあるベラスケスのアトリエで描かれた。アトリエは非常に天井が高い部屋で、シルヴィオ・ガッジの言葉によれば「1点透視図法の格子線で区切れるような、シンプルな箱」だという。前景の中央には、マルガリータ王女(1)が立っている。この時点では王女は5歳で、フェリペ4世とマリアナの間に生まれた中では唯一の生き残りであり、のちに神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚する。王女は2人の女官にかしずかれている。お辞儀をしようとしているのがイサベル・デ・ヴェラスコ(2)、ひざまずいて金のトレイの赤いカップを王女に勧めているのがマリア・アグスティナ・サルミエント・デ・ソトマイヨール(3)である。王女の右側には、2人の小人がいる。軟骨無形成症のドイツ人マリア・バルボラ、通称マリバルボラ(4)と、イタリア人のニコラ・ペルトサート(5)である。ニコラはふざけて、足元のマスティフ犬を起こそうとしている。彼らの後ろに立った王女のシャペロン、マルセラ・デ・ウリョーア(6)は喪服を着ており、名前不詳の目付役(guardadamas)(7)に話しかけている。 -1月8日に、結婚の儀の日取りは5月下旬ごろにと報道されていたが、正式な日付は6月9日となった。4月20日10時00分、結婚の儀の日取りを皇室の使者が伝える告期の儀(こっきのぎ)が行われた。侍従長山本悟が小和田邸を訪れ、金屏風の前でエメラルドグリーンのワンピースの雅子、モーニングの父親とワンピースの母の前で、結婚の儀が6月9日に決まったことを伝達し、1分で終了した。小和田家では4月17日に結婚の報告のため新潟県新潟市の泉性寺へ先祖の墓参りをし、最後の家族旅行として5月15日に箱根で1泊した。並行して衣装や儀式の打ち合わせ、リハーサルも続いた。4月28日には皇太子と雅子とで吹上御所(大宮御所)の皇太后のもとへ挨拶に出向いている。6月4日、小和田家の家族と雅子の祖父母たちは、マスコミらの注目のため外出もままならない中、その追跡を逃れて松濤のレストラン・シェ松尾を訪れ、皇太子がかつて訪問した個室「インペリアル・ルーム」で家族水入らずの最後の外食をした。前日6月8日午前には、結婚を前に婚約者同志が和歌を贈り合う贈書の儀(ぞうしょのぎ)が行われた。また雅子はこの夜、家族とお手伝いの女性に、身の回り品やアクセサリーなどのプレゼントを贈り、父あてに添えられたカードには「長いこと有難うございました。胸が一杯で書けないの。ごめんなさい」としたためた。 -ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。 -図書館周辺は桑名市の中心市街地であり、JR・近鉄・養老鉄道桑名駅および三岐鉄道西桑名駅から徒歩6分である。路線バス利用の場合、K-バス東部ルート乗車、桑名メディアライヴ前バス停からすぐ、または三重交通バス及び八風バス市役所前バス停から徒歩約3分である三重県道504号桑名港線沿い。駐車場は当初50台だったが、利用者の安全のために38台に減らされ、駐車場不足が指摘されている。駐輪場は120台。 -アクロンの気候は四季がはっきりしており、特に冬の厳しい寒さと降雪に特徴付けられる、大陸性の気候である。最も暑い7月の平均気温は約22°C、最高気温の平均は約28°Cで、日中32°Cを超えることは平年で月に1-2日程度である。最も寒い1月の平均気温は氷点下3°C、最低気温の平均は氷点下7°Cで、月のほとんどの日は気温が氷点下に下がる。降水量は1年を通じてほぼ平均しており、月間70-110mm程度であるが、冬季の1月・2月はやや少なく、月間55-65mm程度である。年間降水量は1,000mm程度である。また、冬季の12月から3月にかけての月間降雪量は20-27cm、年間降雪量は120cmに達する。ケッペンの気候区分では、アクロンは中西部の大部分に分布する亜寒帯湿潤気候に属する。 -変電所はまず、送電用変電所と配電用変電所に大きく分類される。送電用変電所は、電力系統の途中に配��されて電圧の変換を行っており、大電力が通過する。これに対して配電用変電所は電力系統の末端に近いところに配置されて、送電用変電所から送られてきた高い電圧を消費者に供給する低い電圧に落として地域の配電網に供給する。送電用変電所に比べて1つの変電所を通過する電力は小さく、施設の規模も小さくなるが、その数は送電用変電所よりかなり多い。配電用変電所の受電電圧は154-22kV程度で、配電網へ送り出す電圧は22-6.6kV程度である。送電用変電所の多くは高い電圧を低い電圧に落とすために使われているが、逆に低い電圧を高い電圧に上げるために用いられているものもある。電圧を上げる変電所は昇圧用変電所、下げる変電所は降圧用変電所と大きく分類される。昇圧用変電所は基本的に発電所に付属して設置されており、電力を発電所から送り出す段階での電圧変換を行っている。 -1470年から1530年までの期間にはゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンやコンラート・ショット・フォン・ショッテンシュタインといった騎士達がフェーデや戦いを繰り広げたにもかかわらず、ニュルンベルクはその最盛期を迎えていた。優れた手工芸やヨーロッパの中央に位置する交易上の好条件により、この街に富がもたらされた。マイスタージンガーのハンス・ザックスや、画家アルブレヒト・デューラーはこの時代にニュルンベルクで活躍した人物である。デューラーの『四人の聖人』(いわゆる『使徒たち』:アルテ・ピナコテーク所蔵)はこの街の教会のためにこの街で描かれた。この時代のニュルンベルクはケルンやプラハとならぶ神聖ローマ帝国最大の都市の1つであった。しかし1525年、市当局が宗教改革を受け入れたことで、皇帝との関係は次第に疎遠となり、「皇帝の街」としての権威は失われていった。一方でフランケン公領の創設を目論むホーエンツォレルン家と度々衝突、アンスバッハ辺境伯アルブレヒト・アヒレス、クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスとの戦争はそれぞれ第一次辺境伯戦争、第二次辺境伯戦争と呼ばれたが、いずれもホーエンツォレルン家の敗北に終わった。 -歌舞伎は、歌と踊りを中心とする舞台芸能から、物語性を重んじる演劇へと変化した。郭制度の公許にともなって、初期の女歌舞伎(遊女歌舞伎)は風紀を乱すとして他の女性芸能ともども1629年に禁止された。少年による若衆歌舞伎も初期の時代にはさかんであったが、この段階で先行する能や狂言の舞が導入され、物真似などの個人芸が成立するとともに放下・蜘蛛舞など軽業の要素が加わったとされている。ところが1652年、若衆歌舞伎もまた風紀をみだすとの理由で全面的に禁止された。それに対し、歌舞伎再開をのぞむ庶民の声にはきわめて根強いものがあったので、俳優が若衆の象徴である前髪を切り払い、扇情的な舞・踊りを排して「物真似狂言づくし」のみを演ずるということを条件に再開がゆるされたといわれている。これ以降、成年男子のみが演ずる野郎歌舞伎として現代に引き継がれている。ただし、この条件は一方では、歌舞伎を容色本位の芸能から技芸本位の芸能に深化させる契機になったとも評される。また、寛文以降は、演目に2番つづき、3番つづきの狂言が仕組まれるようになって多幕物が発生し、このことは、演劇内容が筋立てを中心とする複雑なものへ進化していったことを物語る。さらにこの多幕物が、引幕や花道の出現を促したように、舞台構造・装置にも創意工夫がほどこされるようになった。 -1775年6月、組織だった作戦行動をとるため、大陸会議は正規軍を(紙の上で)設立しジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。大陸軍が成長を続ける中、ワシントンは正規軍と民兵の両方を使い続けた。1775年10月13日、大陸会議が大陸海軍のための艦船建造に承認を与えられたことによりアメリカ海軍が発足、この時4隻の武装船の購入および艤装が認められた。アメリカ海兵隊の前身である大陸海兵隊も1775年11月10日の大陸会議決議により結成され、フィラデルフィアのタン酒場を最初の本拠にした。1783年の終戦時、大陸海軍と大陸海兵隊は解体された。独立戦争を通じ、延べ約25万人の兵士が正規兵または民兵として従軍したが、どの期間に���いても武装した兵士は9万人を越える事は無かった。陸軍は当時のヨーロッパの標準的な軍隊から考えれば小さなものだった。ワシントンが自ら戦場で指揮した兵士の数は一番多いときでも17,000名足らずであった。これは、戦術的選択の結果であったが、アメリカ軍が弾薬に不足していたために多くの兵士を一度に使えなかった側面も存在した。 -鹿島神宮は、下総国一宮の香取神宮(千葉県香取市、位置)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる。 -1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州コンコードに植民地民兵が保管している弾薬を押収するために700名の部隊を派遣した。革命勢力に属するポール・リビアなどの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ったが成果を上げられなかった。イギリス軍がボストンに引き揚げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。このレキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まった。 -日々の激務に体を蝕まれたイブン・スィーナーは腹痛に苦しむようになり、自身に施した浣腸などの治療によって、容体はますます悪化していく。1037年にイブン・スィーナーはアラー・ウッダウラのハマダーン遠征に同行し、行軍中に病に倒れる。死の2週間前、イブン・スィーナーは一切の治療を拒み、貧者に施しを与えて所有していた奴隷を解放し、毎日クルアーンを朗読していたと伝えられている。同年6月18日にイブン・スィーナーはハマダーンで生涯を終える。死因は胃癌(あるいは赤痢)だと考えられており、没時のイブン・スィーナーに家族は無かった。 -カナダ侵攻作戦(カナダしんこうさくせん、英:InvasionofCanada)は、アメリカ独立戦争初期の1775年から1776年にかけて、新設間もない大陸軍の主導によって行われた最初の作戦行動である。作戦の目的はイギリス領ケベックを軍事支配し、フランス語を話すカナダ人に13植民地の側で革命に加わるよう説得することだった。 -1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投��を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 -桂はバットマングッズのコレクターとしても有名で、1997年(平成9年)の『バットマン&ロビンMr.フリーズの逆襲』および2012年(平成24年)の『ダークナイトライジング』ではパンフレットにコメントを寄稿、2008年(平成20年)にバンダイより発売される『ダークナイト』のアクションフィギュア『MOVIEREALIZATIONBATMAN&BAT-POD』ではスーパーバイザーを務め、デザインアレンジとパッケージイラストを担当している。ファンとなったきっかけは1989年の映画『バットマン』(ティム・バートン)で、同作によって「ウイングマン」の連載終了後には飽きていたヒーロー物に対する情熱が再燃した旨を語っている。 -現在のウェスティの血統にもっとも大きな貢献を果たしたのは、ポルタロックの領主エドワード・ドナルド・マルコムである。マルコムは狩猟用にテリアを飼育していたが、あるときキツネと間違えて赤茶色のテリアを撃ってしまった。そしてこの過ちを悔いたマルコムは白い被毛を持つテリアの作出を決心したという言い伝えがある。そしてマルコムが作出した白色のテリアが領地にちなんでポルタロック・テリアと呼ばれるようになっていった。最初期のポルタロック・テリアの被毛の色はサンドで、すでに現在のウェスティの特徴といえる立ち耳を持っていた。ポルタロック・テリアとピトンウィーム・テリアとが交配されたかどうかは明らかになっていない。1903年にマルコムはポルタロック・テリアの作出者として名前が知られることは望まないとして、自身が作出した白い被毛を持つテリアの名前をポルタロック・テリアから改名することを求めた。「ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア」という名称が最初に見られるのは、1908年に出版されたL.C.R.キャメロンの『カワウソとカワウソ猟(OttersandOtterHunting)』である。ウェスティの愛好クラブが最初に設立されたのは1904年で、初代の代表者には第10代アーガイル公ナイアル・キャンベルが就任した。 -1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別した。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば満月になけほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。 -リンパ系フィラリア症はヒトのリンパ系各所に寄生虫であるフィラリア虫が寄生することにより、さまざまな症状を引き起こす寄生虫病の総称である。フィラリア虫は日本などの先進国では、イヌの心臓に寄生する寄生虫(犬糸状虫)がよく知られているが、ヒトやイヌだけでなく多種多様の脊椎動物毎に寄生するフィラリア虫が多数存在する。これらの中でヒトに寄生するタイプのフィラリア虫は、主にヒトのリンパ管やリンパ節などに寄生することから、リンパ系フィラリアと呼んでヒト以外のフィラリア症と区別している。ヒトがリンパ系フィラリア症に感染するメカニズムは、フィラリアの幼虫であるミクロフィラリア(microfilaria)を体内に宿す媒介者(ベクター)の役割を持つ蚊がヒトを吸血する際、ミクロフィラリアが人間の体内に侵入することによって成立する。媒介する蚊の種類は、イエカ属、ヤブカ属、ハマダラカ属などさまざまである。日本国内ではアカイエカCulexpipienspallensが主な媒介蚊であった。フィラリア虫の成虫はヒトのリンパ管内部に住み着き、6年とも8年とも言われる生存期間中、数百万匹ものミクロフィラリア(幼虫)を宿主の体内で産み、そのミクロフィラリアはヒトのリンパ系や血液中を循環する。媒介者の蚊は感染した終宿主であるヒトを吸血することにより、ミクロフィラリアを含む血液を取り込む。取り込まれたミクロフィラリアは蚊の体内で感染性を持つ幼虫に成長し、その蚊が再びヒトを吸血することによって感染力を持ったミクロフィラリアがヒトの体内へ侵入し、リンパ管へ移動して成虫になることで生活環が成立する。このようにリンパ系フィラリア虫の生活環(ライフサイクル)は蚊が中間宿主であり、ヒトが終宿主である。 -「俳聖」と称される松尾芭蕉は、もと伊賀国上野の藤堂家に仕えた武士であり、好学の君主藤堂良忠の近習に取り立てられ、その影響もあって当初は京都の国学者北村季吟から貞門派の俳諧を学んだ。良忠没後の寛文12年、江戸に出た芭蕉は談林派の強い影響を受け、深川六間堀に芭蕉庵を営み、そこに住んだ。芭蕉はやがて、奇抜な着想と卑俗な奔放さに走った談林俳諧にあきたらず、連歌の第一句(発句)を文学作品として独立させ、民衆のことばを用いながらも和歌・連歌の長い伝統をいかす蕉風(正風)俳諧を確立した。西行や宗祇ら中世詩の伝統のうえに立った芭蕉は、新味を求めて変わり続ける流行性こそが不易であると唱え、わび・さび・しおり・かるみ・細みなどで示される幽玄閑寂の境地をめざし、これによって俳諧は和歌・連歌にならぶ芸術性の高いものとなった。彼の句の多くは『曠野』『猿蓑』『炭俵』『冬の日』など「俳諧七部集」に収められている。 -1921年に熊本県で生まれ、オアフ島(ハワイ)のサトウキビ農園で育ったバーバラ・カワカミは、仕立屋・家政婦として働いた後、50歳を過ぎて高校進学を決意し、さらに理学士号とアジア学の文学修士号を取得。父親は母親より24歳年上で、彼女が6歳で、母が9人目の子を妊娠しているときに63歳で死去した。女手一つで9人の子を育てたカワカミの母親の仕事は、フィリピン人鉄道工夫の作業服を洗濯することであった。幼い頃、丸一日かけて洗った作業服にアイロンをかけながら、静かに泣いている母を見た。彼女は1979年から30年間にわたって日系一世250人のインタビューを行い、映画『ピクチャーブライド』で衣装など時代背景に関する情報を提供し、2016年には『写真花嫁の物語』を発表した。本書は、写真花嫁たちがいかに日系社会の存続と発展に貢献したかを示すオーラル・ヒストリーである。 -ナスル1世はサマルカンドを本拠に定め、874年末に弟イスマーイール・サーマーニーを混乱状態に陥っていたブハラに総督として派遣した。イスマーイールはブハラの内乱を収め、この地を拠点としてホラーサーンの征服を進めた。ナスルはブハラのイスマーイールに対して猜疑心を抱くようになり、885年に側近の進言を受けてイスマーイール討伐の軍を起こした。ホラーサーン総督ラフィの仲裁によってナスルとイスマーイールの間に和平が成立し、イスマーイールは徴税官としてブハラに留まった。 -カメガエル科は大きなグループで22属約120種を数え、オーストラリアのカエル相の57%を占める。このグループの注目に値する種として、カラフルで、そして絶滅の危機に瀕しているコロボリーヒキガエルモドキ(en)がある。アマガエル科はオーストラリアに3属70種以上を数える。オーストラリアのカエルの中でもっとも小さな種(ScantyFrog)はヒメアマガエル科に属する。 -アメリカとしては、ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、蒋介石政府の戦争からの脱落を防ぎ、100万の日本軍支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせ、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻勢を行えないような状況を作ることが必要だった。蒋介石政府への軍事援助は、1941年3月以降は「レンドリース法」に基づいて行われるようになった。さらにアメリカは、志願兵という形を取って、クレア・リー・シェンノートが指揮する航空部隊「フライング・タイガース」をビルマへ進出させた。 -プトレマイオス朝はグレコ・マケドニア人を中核とした古代エジプトの王朝である。アレクサンドロス3世(大王)の死後、その後継者(ディアドコイ)となったラゴスの子プトレマイオス(1世)によって建設された。建国者の父親の名前からラゴス朝とも呼ばれ、セレウコス朝やアンティゴノス朝とともに、いわゆるヘレニズム国家の一つに数えられる。首都アレクサンドリアは古代地中海世界の経済、社会、文化の中心地として大きく発展し、そこに設けられたムセイオンと付属の図書館(アレクサンドリア図書館)を中心に優れた学者を多数輩出した。対外的にはシリアを巡ってセレウコス朝と、エーゲ海の島々やキュプロス島を巡ってアンティゴノス朝と長期にわたって戦いを繰り返したが、その終焉までエジプトを支配する王朝という大枠から外れることはなかった。この王朝が残したロゼッタ・ストーンは近代のエジプト語解読のきっかけを作った。 -「レゲエ(reggae)」と言う呼称の語源には諸説あるが、「ぼろ、ぼろ布、または口げんか、口論」という意味を表すジャマイカ英語のスラング、パトワ語で「レゲレゲ」が転じたものという説が有力である。語源にはいくつかの異説がある。歌手のデリック・モーガンは以下のように述べている。「僕達は「ロックステディ」という名前が気に入ってなかったから「ファット・マン」の新しいヴァージョンを作ることにした。オルガンを使って地を這うようなビートに作り直す事にしたんだ。プロデューサーのバニー・リーはその変化を気に入ってくれた。そして彼はオルガンとリズムギターで「レゲッ、レゲッ」と聞こえるサウンドを創り出した。バニーはそれを「レゲエ、レゲエ、レゲエ」と呼び、他のミュージシャン達もそう呼ぶようになったのさ。」また、「都合のいい女」を意味するジャマイカ・クレオール語(パトワ)のスラング「ストレゲエ("streggae")」をクランシー・エクルズが略語化したという説もある。 -ハチ(1941年(昭和16年)2月頃-1943年(昭和18年)8月18日)は、恩賜上野動物園で飼育されていたオスのヒョウである。日中戦争(支那事変)の最中の1941年(昭和16年)2月28日、中華民国湖北省の山中で日本軍の小隊に保護され、「ハチ」と命名された。小隊長の成岡正久(なるおかまさひさ)と小隊の兵士たちはハチを可愛がって育て、ハチも兵士たちを慕うようになった。戦局が切迫するにつれて小隊にハチを同行させることが困難になってきたため、成岡は伝手を頼って恩賜上野動物園にハチを引き取ってもらった。その後ハチは戦時猛獣処分の対象となって薬殺され、第二次世界大戦終戦後に成岡と再会したときには剥製になっていた。成岡は故郷の高知にハチを連れ帰り、晩年になってから高知市子ども科学図書館に寄贈した。ハチの生涯とエピソードについては成岡自身の著書『豹と兵隊』を始め、宮操子、浜畑賢吉、門田隆将などが本の題材として取り上げている。 -2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル(km)(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24km)を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。地震の規模はモーメントマグニチュード9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。震源域は広大で、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmのおよそ10万平方キロメートル(km2)に及ぶ。最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。観測された最大加速度は宮城県栗原市のK-NET築館(MYG004)観測点で、2933ガルであった。 -19世紀末からは、アメリカでは巨大化した駅の建設に関して経済性がより重視されるようになり、トレイン・シェッドにかけられる費用は減少に転じた。1894年に開業したセントルイスのユニオン駅は、当時「世界最大の駅」と宣伝され、幅600フィートのトレイン・シェッドに覆われていた。しかし外観では一つのアーチのように見えるものの、天井は低く抑えられた上に内部はいくつもの支柱があり、窮屈な印象は否めないものであった。トレイン・シェッドの拡大競争は限界に達しており、ペンシルバニア鉄道以外の会社はもはや追随を諦めていた。1899年のボストン南駅でも、シェッド内に支柱を置く方式がとられた。1906年には、デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道のホーボーケン駅において、リンカーン・ブッシュの発明した「ブッシュ式シェッド」と呼ばれる新たな形の屋根が実用化された。これはプラットホーム上の柱で支えられる鉄筋コンクリート製の屋根で、高さはレール面から16フィート(約5m)しかない低いものだった。蒸気機関車の排煙のため、線路の上の部分には溝が開けられていた。1918年以降はブッシュ式シェッドの新設もなくなり、以後は「蝶(バタフライ)型シェッド」とも呼ばれるプラットホームだけを覆う形の上屋が造られるのみとなった。 -ここにきてフランソワ1世は親征を決行、1525年にミラノを攻撃した。しかし、パヴィアの戦いで大敗して捕虜になったことで戦争は終結を迎えた。フランスは講和を模索しなければならなかったが、フランソワはスペインで囚われていたため、彼の母ルイーズ・ド・サヴォワが外交を主導した。彼女はオスマン帝国のスレイマン1世の宮廷へ使節団を派遣、スレイマン1世に神聖ローマ帝国への最後通牒を出させた。これは後のフランス・オスマン同盟の素地となった。スレイマン1世はこの機会に乗じて1526年の夏にハンガリー王国を侵攻、モハーチの戦いでカール5世の同盟者ラヨシュ2世を戦死させた。こうした外交努力と背後からの一撃にもかかわらず、フランソワ1世はマドリード条約への署名を余儀なくされ、イタリア、フランドル、ブルゴーニュ公国を全て放棄した。しかし、フランソワ1世は解放されるや条約の履行を拒否して戦争を再開した。マドリード条約以降の戦いはコニャック同盟戦争と呼ばれる。イタリア戦争はこの後30年間続くが、最終的にはフランスのイタリア占領の野望は潰えることになる。 -1920年にプラハで上演された『プロウチェク氏の旅行』は、ヤナーチェクが手掛けたオペラ作品の中で唯一初演がプラハで行われた作品であり、さらに初めて作家に頼らず独力で台本を完成させるスタイルを確立させるきっかけをつかんだ作品である。『プロウチェク氏の旅行』より後に制作された4つオペラ(『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』、『マクロプロス事件』、『死者の家から』)はすべてヤナーチェク自身が台本を手掛けた。和田亘はその理由を、ヤナーチェクが目指した「できるかぎり自然な楽曲形成をおこなうためにはそれにふさわしい台詞が必要であった」からだとしている。なお、イーアン・ホースブルグによるとこのうち『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』、『マクロプロス事件』は、(ヤナーチェクがカミラを通じて垣間見た)女性がもつ3つの顔を描いた三部作で、『カーチャ・カバノヴァー』は「苦悩に満ちた情熱」を、『利口な女狐の物語』は「自然な天真爛漫さ」を、『マクロプロス事件』は「冷たい不自然な美」を描いている。ホースブルグは『マクロプロス事件』と『死者の家から』について、「(ヤナーチェクの)主題の展開と探求の体系が究極的な豊かさに到達しており、オペラ化がきわめてむずかしい物語が、かえって彼の豊かな才能を十分に引き出している」と評している。1920年、ヤナーチェクはプラハ音楽院ブルノ分校の教員となり、1925年まで作曲を教えた。 -1939年、3年に渡る工事ののち、ヒッカム飛行場が開設した。陸軍はすべての運用をこちらへ移し、ルーク・フィールドは海軍に引き渡された。引き渡し後はフォード島海軍航空基地と改名され、第2哨戒航空団の司令部となった。その後、旧名はアリゾナに設立された新たな基地、ルーク空軍基地に引き継がれることになる。1939年9月8日、大統領による緊急声明により、島はさらなる軍事行動に備えるために新たな施設建設に拍車がかかった。これにより兵舎、組立補修用格納庫、本部棟、管制塔が整備され、さらに洗濯場や劇場まで建てられた。第二次世界大戦の絶頂期には、4万人の人員が島内で生活し働いていた。 -ペレ(Pelé)こと、エドソン・アランテス・ド・ナシメント(EdsonArantesdoNascimento、1940年10月23日-)は、ブラジルの元サッカー選手である。アフリカ系ブラジル人。サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝した。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した。その実績から「サッカーの王様」(英語:TheKingoffootball、ポルトガル語:OReidoFutebol)、あるいは「20世紀最高のサッカー選手」と評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と見做されている選手である。 -標準的なエレキベースが使用されるが、極端に重低音を強調した音にチューニングされる。レゲエにおいてベースはうねるようなベースラインを繰り返し、転調も少ない。標準的なエレキギターが使われることが多いが、アコースティックギターが使用されることもある。レゲエにおいてギターはカッティング奏法で2拍目・4拍目のオフビートを強調することが多い。カッティング奏法といってもファンクのように空ピックを多用することはなく、所々で空ピックや実音で引っ掛けるフレーズでスイングを演出する。バンドによってはカッティング奏法を担当するリズムギターとブルース風やロック風のメロディやリフの演奏を担当するリードギターの二本を用意することもある。パーカッションとしては、ボンゴ、カウベル、シェイカー、ビンギ・ドラム、ギロ、クラベス等が使用される。1990年代以降ではAKAIMPC等のサンプラーが使用されることもある。レゲエには多彩なボーカルスタイルが存在する。ソロ・シンガー、ボーカル・デュオ、ボーカル・トリオ、ディージェイ、シンガーとディージェイのデュオ、ディージェイ同士のデュオなどである。なお、レゲエ特有の歌唱法としてはディージェイによるトースティング、ディージェイとシンガーの中間的歌唱法であるシングジェイ(en)がある。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なす���べもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -8月7日、アリー暫定政府首相がイラクの首都バグダードを訪れ、フセイン大統領と会談する様子をイラク国営放送が公開した。アリーはクウェート国民の蜂起にイラクとイラク軍が支援を行ったことに対して感謝し、フセインはクウェートをアラブ社会に復帰させた暫定政府の功績は大きいと表明した。クウェートへの攻撃には両国が敢然と立ち向かうことで合意した。同日夕方、クウェート暫定政府はイラク国営放送を通じて声明を発表し、クウェートは首長制を今後永久に廃止し共和制を宣言、国名を「クウェート共和国」に変更するとした。また、イラクはクウェート暫定政府と通貨統合を行うことを打ち出した。 -1775年の初期、イギリス陸軍は世界で36,000名いたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらにアメリカ独立戦争のときは、ドイツ諸侯から30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くはヘッセン=カッセル方伯領から来ていたので、「ヘシアン」すなわちヘッセン人と呼ばれた。この軍隊は主君に雇われた職業軍人という意味で傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、カナダからフロリダまで分散した形になっていた。 -ムハンマド・アリーの生涯について、エジプトの経済学者ガラール・アミーンは、「強力な独立の工業国家建設策を超大国に認められず、......軍事的敗北に続いて門戸開放政策をとるように強制され、外国資本によって操作される政治的・経済的圧迫に屈せざるを得なかった」点において、第2代エジプト共和国大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルの生涯と共通する部分があると指摘している。山口直彦は、「ヨーロッパ列強と中東の旧秩序に軍事力で挑み、そして敗れたムハンマド・アリの姿は敗戦までの日本を想い起こさせる」と評している。山内昌之は、「西欧による侵略と分割の脅威に直面して政治をリアリズムの観点から見すえ」る事を余儀なくされながら、片やオスマン帝国、片や江戸幕府による統治が手詰まりに陥った状況を打開すべく、「産業化と軍事的強化を結びつけながら近代化を図った点」が薩摩藩の第11代藩主島津斉彬と共通すると指摘している。歴史学者の牟田口義郎は、「エジプトのほか、一時的ながらシリアも領有し、アラビアを2度征服して、以後150年続く王朝を開いた点では、かの風雲児、バイバルスに匹敵されよう」と評している。 -それまでは館外貸出の対象を安城市在住・在勤・在学者に制限していたが、1995年(平成7年)には碧海5市(安城市に加えて碧南市、刈谷市、知立市、高浜市)の在住・在勤・在学者に対して貸出カードの発行を始めた。2001年(平成13年)には広域行政圏利用を拡大し、安城市に隣接する3市(岡崎市、豊田市、西尾市)の在住者に対して貸出カードの発行をはじめた。 -2005年、シンジェンタ社の研究者チームによってゴールデンライス2(GR2E)が作出された。ゴールデンライスのcrtI遺伝子にトウモロコシのフィトエンシンターゼを組み合わせたことで、ゴールデンライス2では既存のゴールデンライスに比べ、23倍のカロテノイド(最大で37μg/g)が産生され、さらにβ-カロテンが選択的に蓄積される(カロテノイド37μg/gのうち最大31μg/gがβ-カロテン)。2015年から2016年にかけてフィリピンの4ヶ所で栽培されたゴールデンライス2の組成解析の結果、β-カロテンを含む各種プロビタミンA以外の物質の量は一般的に消費されているイネ系統と同等に収まっていた。2018年、カナダとアメリカ合衆国でゴールデンライス2の栽培が承認され、カナダ保健省とアメリカ食品医薬品局(FDA)はゴールデンライス2の消費が安全であると宣言した。FDAの決定は上述の組成解析の結果を受けてのものである。カナダ保健省も調査の結果、上述の解析と同じ結論を得ている。2019年には、フィリピンで食品や動物飼料のための直接利用や加工が承認された。フィリピンのバイオセーフティ規制をクリアして出荷するためには、さらに商業的種子生産についての承認を得る必要がある。 -手塚賞佳作受賞作である「ツバサ」から長期連載の『ZETMAN』に至るまで、変身ヒーローを扱った作品が多い。上述の通り高校時代には特撮ヒーローに夢中となってそのトレースのような作品ばかりを書いていたこともあり、初期の作品には特撮ヒーロー物の影響が強い。また、『バットマン』公開以降の作品については同作の影響を自身で述べている。桂自身はヒーロー物に対してはこだわりがあり、『ZETMAN』については物語の構想としては変身ヒーローである意味が無いことを認識しながらも、「僕がやる限りヒーローだよな」との思いから変身ヒーロー物として描いている。 -ラムセス在位前よりリビュア人はナイル川デルタの西部を支配していたが、そのリビュア人に対してラムセスは2度にわたり戦争を行った。在位5年目に行った1度目の戦争はラムセスがリビュアに政治介入したことがきっかけとされる。この戦争でエジプトはリブ、メシュウェシュ、セペド(Seped)などの各部族から成るリビュア軍に勝利し、リビュア軍は戦死者約12,500名、捕虜約1,000名を出した。 -江戸時代後期に始まったうど栽培は、多くの関係者の品種改良や栽培技術改善にかける努力によって北多摩地域を品質・生産量ともに日本一のうど産地とした。高度成長期には高級食材として高値で取引され、「うどで蔵が建つ」といわれるほどであった。しかし、うどの栽培地は農地の宅地化や都市化の進行によって栽培面積の減少が進んだ。さらには長年の連作で畑の生産力が低下したことや、地球温暖化の影響で寒暖の差が小さくなったこと、天井が低く、階段の昇降をも伴う穴蔵での重労働や生産の担い手である農家の高齢化の進行など、複数の要因が重なって栽培の継続が困難になっていった。消費者の嗜好の変化(日本料理から洋風料理への需要の移行)もあって、うど自体の価格も下落した。栽培初期からの産地であった杉並区上井草付近では1975年(昭和50年)頃を境に栽培が見られなくなり、武蔵野や練馬周辺にかつては100軒ほどあった栽培農家も、2014年(平成26年)の時点では5軒ほどに減ってしまった。 -1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されると、シュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年、シュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者になるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった。しかしシュトラッサーは自らの補佐役としてはヒムラーよりヨーゼフ・ゲッベルスの方を高く買っていたという。 -愛国的科学者として名声の絶頂にあったフリッツだが、1933年にその生涯は暗転した。ナチスが政権をとると、ユダヤ人の多かったカイザー・ヴィルヘルム協会への圧力が強まった。フリッツは、第一次大戦の従軍経験が考慮されたために自らが解雇されることはなかったが、研究員におけるユダヤ人の割合を減らすよう求められた。しかしフリッツは、この要求は受け入れなかった。1933年4月、フリッツは、研究員を採用するにあたって今まで自分はずっと人種を基準にしたことはなかったし、その考えを65歳になった今になって変えることはできない、さらに、「あなたは、祖国ドイツに今日まで全生涯を捧げてきたという自負が、この辞職願を書かせているのだということを理解するだろう」と記した辞職願をプロイセン州教育大臣に提出した。フリッツは9月までベルリンに留まり、他のユダヤ人研究者の転職先を探すなどの活動を続けた。その間、自らの職も求めたが、フリッツはすで���高齢で健康状態が悪化しており、しかも毒ガス開発にかかわったことによって印象を悪くしていたせいもあって、思うような仕事を見つけることは出来なかった。10月にはドイツを離れ、息子ヘルマンのいるパリや、スイスなどで生活した。その後ウィリアム・ポープからケンブリッジ大学への誘いを受けて一旦イギリスに渡った。ケンブリッジでは触媒を使用した過酸化水素の分解の研究に携わった。しかしイギリスでは毒ガスの件で風当たりが強く、たとえばアーネスト・ラザフォードにはこの理由により会うことを拒まれた。さらにイギリスの気候もフリッツには合わなかった。フリッツはスイスにいた時に、シオニズム運動家のハイム・ヴァイツマンと出会っており、ヴァイツマンからパレスチナへ来るよう誘いを受けていた。そのため1934年1月、パレスチナへ向かおうとして、いったんスイスのバーゼルへと移った。しかしその移動中に体調を崩し、1月29日、バーゼルのホテルで睡眠中に冠状動脈硬化症により死去した。 -樹高は約20メートル、枝張り東西17メートル、南北14メートル。急斜面に生育しており、南側(高地側)は北側(低地側)より1メートルほど高く、土に覆われているため、周辺長は正確に測れないが、南側の地際を基準とすると根本周囲は6メートルになる。推定樹齢は、資料によって違いがあるがおおむね250年から350年と推定されている。 -13世紀には新約聖書に範をとった「救らい事業」が行われた。ローマ教会に対抗し、アッシジのフランチェスコの献身的な救済活動により、1209年に組織されたフランシスコ会はアッシジに「らい村」を建設した。そこでは、一つの共同自治社会が形成され、「死のミサ」や「仮装埋葬」などの儀式もなく、また外出も自由にできた。新約聖書の「マタイ伝」16章に出ているイエス・キリストの教えと行動に則った病者への「労わり」に基づく救済活動であった。また、キリストによるハンセン病患者の治療は奇跡として扱われ、ハンガリーの聖女エリーザベトによる救済などや、十字軍時代のパレスチナに設置されたらい院でのラザロ看護騎士団の患者救済にも影響を及ぼした。フランシスコ会は日本の安土桃山時代にも伝来し、日本のハンセン病患者の救済も行われた。14世紀頃になるとヨーロッパではハンセン病患者は次第に減少した。1348年の黒死病(ペスト)の大流行でラザレットの収容者が一掃されることもあり、ヨーロッパ各地のらい院は次々に閉鎖された。 -ピョートルは母とともにモスクワ郊外のプレオプラジェンスコエに移り、儀式の際のみクレムリンを訪れた。ピョートルの教育係は後に側近となるニキータ・ゾートフが務めた。少年時代のピョートルは近くの外国人村に頻繁に出入りし、多くの外国人と親交を結んだ。また、遊戯連隊を編成して戦争ごっこに勤しんでいる。 -しかしロシア軍の侵攻は止まらなかった。殲滅されるのを避けるために、ポニャトフスキらは撤退に撤退を重ねるほかなかった。7月上旬、ドゥブノ付近で、スタニスワフ2世から再度の補給を任されていたミハウ・ルボミルスキがロシア側に寝返った。彼はポーランド軍の物資を、あからさまにロシア軍に流した。しかし強大なマグナートだったルボミルスキは、公式には翌年5月下旬までポーランド軍の地位を剥奪されなかった。ロシア軍の侵攻から1か月ほどで、ポーランド軍はウクライナのほぼ全土から撤退した。7月7日、コシチュシュコはロシア軍を足止めするためヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーで敵と戦った(ヴウォジミェシュの戦い)。7月18日、ポニャトフスキの本軍がブク川を渡る際のを援護するため、コシチュシュコ軍はドゥビエンカの戦いを戦った。この戦いでコシチュシュコは、5300人のポーランド軍でミハイル・カホフスキー率いるロシア軍2万5000人の攻撃を防ぎ切った。しかしロシア軍がオーストリア国境を越えて側面攻撃を試みたので、コシチュシュコ軍はドゥビエンカを放棄した。ブク川線からも撤退して後退し続けたポーランド軍だが、未だ戦闘による決定的な敗北は喫しておらず、ワルシャワ付近まで撤退して良地を選び、決戦を挑むことを企図していた。 -栃木県では、芳賀町にある本田技術研究所で壁が崩れて男性1人が犠牲に、那須烏山市神長地区で夫婦が山崩れに巻き込まれて2人が犠牲に、日光市で女性が屋根から落ちて脳出血を起こして1人犠牲になるなど計4人が死亡した。真岡市反町では数か所で地震の影響による液状化現象が発生し、割れ目から砂が噴出した。液状化が起こった地域はかつて旧河川あるいは河岸だった場所であり、農地の下には砂の層で広がっているからであるという。宇都宮市では、板戸地区で国道408号線沿いにある地山が土砂崩れを起こし、道路が封鎖されるなどの被害が出ている。那須塩原市の国道400号線では、地震の影響で落石が発生し通行止めになる被害が出た。栃木市岩舟町では、霊山岩船山の西側の峰がV字に崩れ、さらに別の部分でも山肌が崩れたりしたが、人や家屋に被害はなかった。那珂川町では県内の主要道のひとつである栃木県道52号矢板那珂川線にある新那珂橋が地震の影響で橋脚10基のうち4基の頭部に亀裂が見つかりうち2か所は沓が破断、上部工も破損しているなどの大きな被害を受け、撤去されることとなった。真岡市の井頭公園一万人プールが震災の影響でウォータースライダーを支える支柱や配管などが壊れ営業が中止になり、2013年には完全復旧した。歴史的遺産の被害としては益子町の地蔵院の歴代宇都宮氏の墓所にある戦国大名下野宇都宮氏17代当主宇都宮成綱、18代当主宇都宮忠綱の五輪塔が被害を受けた。また、さくら市では観光スポットである喜連川城城跡にあるお丸山公園が地震の影響により敷地内に700メートルにわたる大規模な亀裂が生じたほか、公園内の各種施設が損壊するなどの被害を受け、立ち入り禁止となってしまった。現在は土地部分の復旧はしているが喜連川スカイタワーなどの施設はまだ復旧のめどが立っていない。日光市にある日光田母沢御用邸記念公園では石積みが破損するなどの被害が出ている。 -上述のごとき富山県立図書館の発展は、一方において従来の館舎の限界を来しつつあり、書庫の狭隘によって1963年(昭和38年)5月10日には新聞閲覧室を閉鎖し、翌1964年(昭和39年)7月1日には第二会議室をも書庫に転用せざるを得なくなった。すでに富山県立図書館は従来の館舎から新設の富山県民会館に移転包摂せらるべしとの意見は出ていたものの、1962年(昭和37年)2月5日に財源不足や県立図書館としての使命を果たしえないとの理由を以て計画は中止されていた。ここにおいて吉田実は明治100年記念事業として富山県立図書館の館舎新設を公約として富山県知事選挙に出馬し、1964年(昭和39年)9月15日に3度目の当選を果した。国道8号沿い、国道41号沿いなど10か所ほどの候補の中から、水火の災害に強く、広大なる敷地を供し得る好条件の土地を探した結果、呉羽山茶屋町地内の富山市有地が適当であるとの結論に至り、1968年(昭和43年)1月13日にボーリング調査に着手、同年8月12日に起工式を挙行した。かくて1969年(昭和44年)7月13日に旧館舎は移転作業のため休館し、同年9月22日に新館舎の開館式を挙行、同年9月24日より一般閲覧の業務を開始した。新館舎はモダンな外観で、ガラス越しに見える打ちっ放しの鉄筋コンクリートや斜め格子の梁構造が評価され、第1回富山県建築賞を受賞した。 -1797年にダイヤモンドは炭素のみで構成されていることが発見されると、科学者らは安価な炭素材料を用いての合成を試みた。1879年にジェームス・バランタイン・ハネイが初めて合成に成功し、1893年にアンリ・モアッサンも続いて合成している。彼らの方法は、炭素を含む鉄製のるつぼに木炭を3,500°Cまで加熱し合成させる方法であった。ハネイは炎熱管を用いたが、モアッサンは新しく改良したアーク炉を使用した。溶融した鉄は水に浸すと急激に冷やされ、恐らくその鉄が凝固した際に発生した体積の収縮が、グラファイト(黒鉛)の変化に十分な高圧力を発生させたのではないかと考えられた。モアッサンは1890年代に研究論文を発表しているが、当時の実験を再現しても温度や圧力が足らず、モアッサンが行った実験と同等の結果は得られないとされており、同じ作業を延々と繰り返され根が尽きた助手が実験の切り上げを決断するように天然のものの粒を混ぜたのではないか、という説が存在する�� -政治史的立場から見た東大寺は、鎮護国家の思いを込めて創建され、2度の戦乱や罹災などで衰退の危機に陥りながらも王朝や幕府の力や勧進によって大伽藍を保ってきた。東大寺は隣接する興福寺とともに大きな大衆の力を持ち、彼らの上洛は時の権力者の頭を悩ませ続けた。それが戦争の火種となったこともある。別の説として、天武天皇系王朝の断絶に危機感を抱いた皇族らにより建立されたというものがある。宗教的立場から見ると、東大寺は、前身寺院のひとつ、金鐘寺(こんしゅじ、などと呼ぶ)の古密教としての性格と、いわゆる南都六宗の教学を持ち、さらに平安時代以降は天台宗、真言宗などが同居して「八宗兼学」と呼ばれていた。その中でも華厳経学が重視され、その中心地とも見られ、その教えを体現する本尊の盧舎那仏像によって時の権力者や庶民の信仰を集めてきた。 -有明海産スズキは成魚になっても体側に黒点がみられる個体がいること等,形態から日本のスズキL.japonicusと中国のスズキとの中間的な特徴が指摘されていた.仔稚魚期にも色素胞が少ないなど、日本の他地域のスズキとの違いがみられ,有明海のいくつかの魚類のように大陸遺存の可能性が指摘された.アイソザイムやDNAのAFLP解析の結果、スズキとタイリクスズキとの交雑個体群に由来する独特な集団であることが示された。 -ルーヴル美術館の古代オリエント美術部門は、1881年に創設された二番目に新しい部局で、イスラム教普及前の古代オリエント文明の美術品が収蔵されている。古代オリエント美術部門は、ユーフラテス川西側地域、古代メソポタミア、ペルシアの三地域別に細分化されている。古代オリエント美術のコレクションが充実したのは、フランス人学者ポール=エミール・ボッタによる、1843年のドゥル・シャルキン発掘調査、アッシリア王サルゴン2世の王宮発見とほぼ同時期に当たる。この遺跡からの出土品が、古代オリエント美術部門の前身である「アッシリア美術館」の基礎となった。古代オリエント美術部門では、初期メソポタミア文明ともいわれるシュメール文明の美術品と、アッカド帝国の出土品であるラガシュ王国王子の碑文『禿げ鷹の碑』、アッカド王ナラム・シンの戦勝記念碑などが展示されている。1901年に発見された、高さ2.25メートルの閃緑岩に古代バビロニアの「ハンムラビ法典」が楔形文字で刻まれた石碑も有名である。紀元前18世紀のマリ王国王宮壁画や、紀元前25世紀の『エビフ・イルの像』も、この古代オリエント美術部門の展示室で公開されている。古代ペルシアの所蔵品では、『射手のフリーズ』などが有名である。ペルセポリスからの貴重な出土品も所蔵されており、2005年にイギリスで開かれた古代ペルシア展で公開するために、大英博物館に貸し出されたこともある。 -A310は、欧州の航空会社ではルフトハンザ航空とスイス航空のほかにKLM、サベナ航空やエールフランスなどでも採用され、ヨーロッパの各都市を結ぶ路線のほか、ヨーロッパと北アフリカや中東を結ぶ路線にも就航した。欧州以外で最初にA310を導入したのはクウェート航空で、1983年9月に初引き渡しが行われた。また、翌年にはキプロス航空や、アフリカのアルジェリア航空、ナイジェリア航空でもA310の導入が始まり、これらの航空会社では欧州線などに就航させた。アジアで最初にA310を導入したのはシンガポール航空で、同社は1984年11月に最初の機体を受領してアジア路線を中心に就航させ、続いて翌年6月にはアジアで2番目の運航者となった中国民用航空局への引き渡しも行われた。この頃、A310-200をベースに貨客コンバーチブル型のA310-200Cも開発された。A310-200Cは、メインデッキ(機体上半分の客席を設ける部分)に貨物と乗客の両方を収容可能にする設備を有するモデルで、1984年11月27日に型式証明を取得し、同月29日に1号機がマーティンエアーに納入された。さらに、A310-200について、最大離陸重量をもう一段階引き上げたオプションが設定され、1984年11月に型式証明を取得した。米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration)からA310-200の型式証明が交付されたのは、欧州から2年ほど遅れて1985年2月21日であった。同年5月、パンアメリカン航空に対して米国の航空会社と���て第1号となる引き渡しが行われ、同社は727の後継機としてA310を就航させた。 -隠れ家生活は2年間続いたが、1944年8月匿名の密告によって、フランクと家族、同居していた4人、およびクーフレルとクレイマンはナチス親衛隊SS曹長カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーに逮捕された。オットーら隠れ家メンバー8人はオランダ北東ヴェステルボルク通過収容所に1カ月弱収容された後、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られた。1944年9月5日から6日にかけての深夜にビルケナウ強制収容所に到着している。到着後すぐに男女に分けられ、アンネ・マルゴー・エーディトと引き離された。彼女らはビルケナウ収容所に、オットーは3キロ離れたアウシュヴィッツ収容所に収容された。この時がオットーが妻と娘の姿を見た最後となった。オットーはファン・ペルス父子やプフェファーと一緒にアウシュヴィッツ収容所の第2ブロックに収容された。過酷な野外労働と少ない食料により1.8メートルの身長のオットーの体重が52キロまで下がってしまった。ヘルマン・ファン・ペルスはやがてガス室に送られたが、その息子ペーター・ファン・ペルスはオットーの面倒を献身的に見たという。しかし比較的健康だったペーターは1945年1月17日に別の収容所へ移された。 -2016年1月1日、元製本会社の社員は、なかなか販売数の伸びないノートに対し、「使ってもらえば、良さがわかってもらえる」と思い、新年のあいさつに来ていた専門学校生の孫に、友達にあげてくれと、ノートを手渡した。孫は、周りには使う人がいないだろうがTwitter上での知り合いの絵描きには需要があるかもしれないと思い、その場でノートの写真を撮り、Twitterで「うちのおじいちゃんノートの特許とってた...」「宣伝費用がないから宣伝できないみたい。Twitterの力を借りる!」などとツイートし、ノートを紹介した。このツイートは大きな反響を呼び、リツイート数は3万を超え、購入を希望する声が多数寄せられた。商品を販売していた通販サイトではすぐに在庫切れとなった。また、中村印刷所の公式サイトへのアクセス数は、それまで4千数百だったのが、その日のうちに十万を超えた。 -確定審の上告審から国選弁護人についた齊藤誠弁護士を中心に再審に向けた検討が続けられ、熊本地方検察庁が保管していた証拠物の中にAが自供の中で「犯行時に凶器に巻き付けて使用し犯行後に燃やした」と話していた布片が見つかり、さらに被害者の傷はAが自供した凶器では成傷しえないとする法医学鑑定が得られた。日本弁護士連合会は、2011年8月11日の理事会で再審に対する支援を決定した。2012年、燃やしたとされた布片や法医学鑑定などを新証拠として、認知症となっていたAに代わってAの成年後見人が再審を請求。熊本地裁は、凶器やその使用方法などといった自白の核心部分と矛盾する新証拠が示されたと判断し、もはや自白には有罪と認定し得るだけの信用性は失われているとして再審開始を決定した。検察側は即時抗告・特別抗告をしたが、福岡高裁・最高裁も地裁決定を支持して再審開始が確定した。 -イソギンチャクは、さまざまな動物と共生していることが知られている。最もよく知られているのは、魚類のクマノミ類との共生であろう。サンゴ礁に生息する、ハタゴイソギンチャクなど大型のイソギンチャクに見られる。クマノミ以外の魚もイソギンチャクに住み着いていることがあるが、クマノミとは異なり触手に触れてしまうと捕食される。同様な関係は一部のエビやカニ類との間にも見られる。ヤドカリ類の殻の上に着くものでは、イソギンチャクは、移動して砂地にまで進出できるし、ヤドカリは大型の捕食者から身を守れる、相利共生の関係にある。イソギンチャクとヤドカリの種の組み合わせはほぼ決まっている。それらのヤドカリがイソギンチャクを見つけると、ヤドカリは鋏でイソギンチャクを刺激する。そうするとイソギンチャクは自ら体を岩から離すので、ヤドカリはこれを自分の殻の上に移動させる。さらに、ある種のイソギンチャクは、自分で殻を分泌して、そこにヤドカリを住まわせるので、ヤドカリは成長しても引っ越しをしなくてすむようになる。ヤドカリとカニには��鋏にイソギンチャクをつけるものがある。キンチャクガニはカニハサミイソギンチャクを両側の鋏で挟んで持ち歩き、敵に対してはそれを振りかざすようにする。他に、カニや巻き貝などに着く種が知られているが、共生関係については不明である。 -テレビで生中継されたこの会見では、事前用意されたマスコミからの質問文書に答え、プロポーズの日時や様子、その返事の言葉が詳しく回答された。また、婚約に当たり、一部の皇室評論家が、皇后が雅子を招いて説得したという話を女性週刊誌でコメントし事実であるかのように流布された件を、この会見上で事実ではないと二人で否定している。実際は皇后は当事者と周囲の職員に任せる姿勢を取り特定の人物を支持することはなかったのだが、噂に分かりやすい「物語性」があるためか、とくに日本国外のメディアでは否定後も事実であるかのように流布し『ヴァニティ・フェア』にはこれを元にして、皇后が雅子に(自分の皇室入り後に受けたような)迫害から守ると約束したという「作り話」が掲載された。会見後、皇太子と雅子は各宮家に挨拶に回り、夜には天皇が小和田家の家族とともに雅子を招き、天皇家、秋篠宮家と夕食を共にした。この際、皇后から雅子に皇太后(香淳皇后)から受け継がれたルビーの指輪が贈られた。2月9日、雅子は外務省を退職、職員らに花束を贈られ、省舎をあとにした。3月12日から、一般に「お妃教育」といわれる、婚約者に皇族として必要な知識などを講義するご進講(ごしんこう)が行われた。雅子が堪能な語学を省略しても週に4日のペースで6週間、計50時間、宮中祭祀、皇室制度や皇室典範・憲法、日本歴史、和歌、書道などで、祭祀と制度関係は親王妃の2倍近い時間だった。雅子は数十冊のノートを取り熱心に学習したという。 -高温域を見ていくと、A1線と呼ばれる727°Cの温度を超えた領域では、亜共析鋼はフェライト+オーステナイトに、共析鋼はオーステナイトのみに、過共析鋼はオーステナイト+セメンタイトになる。この温度では亜共析鋼にはまだフェライトが存在するが、さらに温度を上げてA3線と呼ばれる温度を超えると亜共析鋼もオーステナイトのみの相となる。オーステナイトもフェライトに似て軟らかく粘りのある組織であるが、炭素固溶領域が大きい特徴を持つ。オーステナイトあるいはオーステナイト+セメンタイトの高温状態から、逆に冷却していくとする。ゆっくり平衡的に冷やしていくと上記で説明した順序を逆にたどって変態が起こるだけだが、冷却速度を上げて冷やすと、パーライトやフェライトに変態する時間が足りず、マルテンサイトと呼ばれる平衡状態図には示されない相が現れる。この変態をマルテンサイト変態と呼ぶ。マルテンサイト組織は、α鉄が過剰に炭素を強制固溶した組織で、非常に硬い性質を持つ。このように、急冷によるマルテンサイト変態を起こして鋼を硬くさせる操作が、一般的な鋼の焼入れである。日本刀の焼入れなど、焼入れは古来から経験的な鍛冶職人の技術として存在していたが、1888年、ロシアの冶金学者ドミートリー・コンスタンチノヴィッチ・チェルノフ(DmitryChernov)により、焼入れが起こる具体的な加熱・冷却条件が発表され、これが鋼の焼入れ、及び熱処理の理論的な嚆矢とされる。 -1階は児童図書室や視聴覚室などであり、児童図書室は2万冊を収納できる。2階は一般図書室やレファレンス室(郷土資料)などであり、一般図書室は6万冊を、レファレンス室は2万冊を収納できる。3階の書庫は10万冊を収容可能。館全体で計20万冊の蔵書能力を持つ。『長野県の公共図書館』によると、1995年当時の蔵書数は66,293冊、雑誌294冊、新聞29紙、視聴覚1,816タイトルだった。 -アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍とフランス王国発遣軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立���認めた。 -1483年に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟グロスター公リチャードはエドワード4世の幼い遺児エドワード5世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経てリチャード3世として即位する。リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸すると、ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。(第三次内乱) -2009年バラク・オバマ大統領就任式(にせんくねんバラク・オバマだいとうりょうしゅうにんしき)は、2009年1月20日に行われた、当時初当選のバラク・オバマの第44代アメリカ合衆国大統領就任、およびジョー・バイデンの第47代副大統領就任に際して、それぞれ就任宣誓を披露した式典である。ワシントンD.C.で行われた式典は記録的な人出でにぎわい、オバマ大統領とジョセフ・バイデン副大統領の4年間の任期の第一歩を飾った。この就任によって、オバマは最初のアフリカ系アメリカ人(黒人)の大統領となるとともに、最初のハワイ州生まれの大統領となった。第44回就任式のテーマは、エイブラハム・リンカーン生誕200年を記念して、「自由の新しい誕生(ANewBirthofFreedom)」とされた。 -ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 -スカンジナビア人人口の拡大は、利用可能な資源と耕地の不足につながった。このことがヴァイキングの海外遠征時代を招き、ノース人は徐々に略奪から占領へ関心を移していった。シェトランドは8世紀終わりから9世紀にかけ征服された。既に島にいた先住民の運命については不明である。現在のシェトランド諸島人は、父方の先祖も母方の先祖もスカンジナビア人である割合が同一である。このことは島に男女とも均等に移住したことを示唆している。当時のヴァイキングは、島をノルウェーおよびスコットランド本土の海岸に対する海賊遠征の本拠としていた。それに対してノルウェー王ハーラル美髪王は875年にノーザン・アイルズを併合した。ムーレ伯爵RognvaldEysteinssonはハーラル美髪王より、スコットランドでの戦いで息子を失った代償として、オークニーとシェトランドを伯領として授かり、オークニー伯爵(英語ではEarlであるがノース語ではJarl)となった。その後弟SigurdEysteinssonが伯領を継承した。 -1949年、美喜子が30歳の若さで急逝し、トクヨの資産は夫の二階堂直富が継承した。学制改革に伴い、体専は1950年に日本女子体育短期大学に改組し、学長に清寿、副学長に真寿が就任した。この時、財団も学校法人二階堂学園に改組したが、その手続き過程で体専の校舎がトクヨの個人名義になっており、これを継承した直富に校舎を譲ってもらわねば学校経営が立ち行かなくなるという波乱があった。日女体短への完全移行は1951年で、同年に体専としての最後の卒業生26人を世に送り出した。日女体短は、トクヨが体操塾を開塾した4月15日を開校記念日と定めて休講とし、学生一同を連れてトクヨの墓に参る日とした。その後、日女体短は東京女高師時代のトクヨの教え子である戸倉ハルを教授に迎え入れ、戸倉を中心に4年制大学設立を推進し��1965年に日本女子体育大学を開学した。 -星美学園中高特別教室棟は前述の通り、アンダーピニングにより既存の建物の下にトンネルを構築することになった。そのためにトンネルを跨ぐコンクリートスラブ方式の架台に校舎の荷重を受け替えてからその下を掘削することになった。まず地面を覆う覆工板を敷設する必要があったが、許された工期は1983年(昭和58年)7月21日から8月31日の約40日間のみであった。その上、埋蔵文化財の調査後に工事にかからなければならないという制約があったが、遺跡が少なく天候にも恵まれたため、無事工期内に覆工作業を完了した。この覆工の下で以降のアンダーピニング作業を進めることになったが、資材の搬入や掘削土の搬出のために覆工の一部を開けておくことは許されなかった。そこで、起点側の先に工事が行われていた部分からトンネル本坑断面内に約100メートルに渡って幅2.7メートル×高さ2.0メートルの作業用導坑を掘削した。アンダーピニング作業時に出る土砂は、作業用導坑内からベルトコンベアで起点側に搬出した。校舎を支える架台の基礎は場所打ち杭で径2.0メートル、長さ25.5メートルのものをTBH工法で施工した。作業場所の高さが制約されているため、鉄筋かごを3.0-4.0メートル毎に継ぎ手を設けて繋ぎながら立て込んでいった。これにより架台を構築した後、油圧ジャッキを利用して校舎基礎の杭24基を受け替えた。受け替え完了後にトンネルの底面までの掘削を行った。受け替えた校舎のトンネルルート上の部分の重量は約6,000トンであった。 -マーク・アンダーソン(MarkAnderson)は著書"ShakespearebyAnotherName"においてシェイクスピアの作品それぞれの執筆年代を調べ、作者が1604年に謎の休筆をしていることに注目した。1593年から1603年にかけて、シェイクスピア作品は少なくとも年に1作、多い時には4作もの割合で出版されていたのだが、その後1604年に入ると、シェイクスピアは突如として沈黙期に入り、約5年間新作の発表が途絶えたのである。初期の史劇の再版も1604年を1つの転換点としている。1593年から1604年までの間、シェイクスピア作品の劣悪な海賊版が数多く出版されては、その直後に増補ないし改訂された公式の再版本が刊行されるといういたちごっこが続いていた。ところが1604年を過ぎると、この新しい増補や改訂が行われなくなったのである。この点においてもシェイクスピアの仕事が1604年に中断されていることが見て取れるが、当時存命であったストラトフォードのシェイクスピアが作者であるならば、名声の頂点に達していた頃に筆を折るべき理由がないのである。アンダーソンはさらに、シェイクスピアは16世紀の終わり頃まではその時点で最新の科学的発見や出来事を作品の中へ盛り込んでいたのにもかかわらず、オックスフォード伯の死去した1604年頃から科学に関しても沈黙を守るようになったことに喚起を促している。いくつかの例の内目立ったものを挙げるならば、1604年の10月に見られた劇的な超新星(SN1604)や、1609年に発表されたケプラーの惑星軌道に関する画期的な研究について、作品の中で全く触れられていないのである。 -1910年(明治43年)、森鷗外が『スバル』誌上の「むく鳥通信」でファン・ゴッホの名前に触れたのが、日本の公刊物では最初の例であるが、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、武者小路実篤らの白樺派であった。1910年に創刊された『白樺』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、ロダン、マティスなど、印象派からポスト印象派、フォーヴィスムまでの芸術を、順序もなく一気に取り上げた。第1年(1910年)11月号には斎藤与里による最初の評論が掲載、第2年(1911年)2月号からは児島喜久雄訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年(1912年)11月号には「ゴオホ特集」が掲載された。特集号には、多くの作品の写真版、阿部次郎の訳したヨーによる回想録、武者小路や柳宗悦の寄稿などが掲載された。そして、1920年(大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、実業家山本顧彌太に購入してもらったファン・ゴッホの『ひまわり』が展示された。白樺派は、西欧よりも早���、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である。他方、画壇でも、1912年(大正2年)に第1回ヒュウザン会展を開催した岸田劉生ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった。第2次世界大戦前、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、佐伯祐三や高田博厚らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている。1927年から1930年代にかけて、斎藤茂吉や式場隆三郎がゴッホの病理についての医学的分析を発表した。 -相前後してパーペンは中央党(カトリック系中道政党)に入党し、1920年にカトリック系労働組合の委員長に就任した。保守系の農民組合の指導者であった。1921年にプロイセン州議会議員に当選するも、与党に属するにも関わらず社会民主党(SPD)首班のオットー・ブラウン政権を支持せず不信任案提出を繰り返し、世間の注目を集めるとともに、保守派との親交を重ねる。 -1709年、いくらかの財政的、実務的な支援をイギリス本土のアン女王から得たフランシス・ニコルソンおよびサミュエル・ヴェッチは、ヌーベルフランスに対する大がかりな攻撃隊を組織した。その計画は、シャンプレーン湖を経由したモントリオールへの陸路による攻撃と、ケベックに対する海軍による海上からの砲撃を含んでいた。陸路による遠征隊はシャンプレーン湖の南部に到達したが、海軍によるケベックへの攻撃が予定通りに行われなかったため、海軍による支援が得られず撤退した。海軍は当初の予定を変更してポルトガルへの支援に回されていた。イロコイ連邦はイギリス軍のこの奮闘に対するあいまいな支援の約束を行ったが、明らかに遠征が失敗しそうになるまで支援を送るのをうまく引き伸ばし続けた。この失敗の後、ニコルソンとスカイラーはイギリス本国の北アメリカでの戦争に対する関心を喚起するため、ヘンドリック王と他の酋長たちを連れてロンドンへと旅立った。インディアンの代表団はロンドンでセンセーションを巻き起こし、アン女王は彼らに謁見の機会を与えた。ニコルソンとスカイラーの努力が実り、1710年、アン女王の支援を得たニコルソンはポートロイヤルの占領に成功した。ニコルソンはこの成功を引っ提げて再びイギリスに戻り、1711年、ケベックへの再攻撃計画に対する支援を取り付けた。 -ナイル川に沿って、紀元前5200年頃からエジプト北部、紀元前4200年頃には南部で系統の異なる農耕・牧畜文化が存在した。ナイル下流にナカダ文化が栄えると、南のヌビアとの交易が行われるようになる。ナカダからはビール、油、チーズ、ヌビアからは象牙、黒檀などが輸出された。交易用の土器は、紀元前3200年頃になるとパレスチナ産も含まれており、交易の長距離化が進んでいた。古代エジプトの王朝が統一されて古王国時代になると、官僚や神官によって遠征隊が組織されて、砂漠での採石や採鉱、ミイラの製作に必要なナトロンの採集を行った。貿易においても同様に遠征隊が派遣されて、金や乳香をプント国に求め、象牙や黒檀はヌビア、銀はメソポタミア、木材は東地中海のグブラから輸入した。エジプト王朝が弱体化した時期にはヌビアに遊牧民が生活して交易を行ったが、紀元前2040年以降の中王国時代には、エジプト王朝がナイル川の第2瀑布まで進出して金を採集するようになる。採掘やプント国との貿易で得た金は神殿や王宮に蓄蔵され、地中海やメソポタミアとの貿易にも用いられた。紀元前17世紀から異民族のヒクソスが建国した第15王朝や第16王朝では、クレタ島で栄えたミノア文明などとの貿易が行われた。 -2014年はしゃんしゃん祭が始まってから第50回となる節目の年であり、これを期して「世界記録」に挑むことになった。傘踊りの世界記録は、全員が同時に傘を使って5分間以上踊ることによって認定されており、従来はルーマニアでの1461人が世界記録だった。記録挑戦は2014年8月14日に行われた。10名の証人が記録挑戦者を数え、県知事の平井伸治や市長の深澤義彦も含めて「1729名」となった。「5分以上」を達成するために「きなんせ節」を2回続けて踊り、これを36名の監視員が審査した。その結果、踊りが揃っていないといった理由で41名が失格となったものの、1688名による踊りが成立したと認められ、「世界最大のアンブレラダンス」と認定された。この年は一斉踊りの総参加者は4200名、来場者は推定21万人を記録した。 -青ヶ島島民の八丈島への避難という事態を招いた天明5年の大噴火後、八丈実記には天明7年(1787年)6月には噴火後の様子を確認するために青ヶ島へ渡ったことが記録に残されている。また噴火後、時々青ヶ島に渡り様子を確認していたとの記述もあり、噴火後の島の様子をしばしば確認していたことがわかる。しかし噴火直後の青ヶ島がどのような状態であったのかについては記録が残されていない。噴火後の青ヶ島についての最初の記録は、噴火後3年目にあたる天明8年(1788年)4月に行われた八丈島役所が行った見分の記録である。このときの見分によれば噴火はおさまっているものの、ようやく草木に緑が戻ってきた段階で、耕作地は火山灰に埋まり水を得にくい状態は続いており、道や船着場も大きく損壊しており、当分人が住めそうもないと判断され、4、5年は青ヶ島の見分は見合わせるべきとの内容であった。 -オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになると、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きた(ミュンヘンオリンピック事件)。1976年のモントリオール大会になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカの諸国22ヶ国がボイコットを行った。そして、1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行った。1984年ロサンゼルス大会ではソ連と東側諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはソ連と対立していた中国とルーマニアだけだった。中でも、イラン革命後のイラン・イスラム共和国はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックをボイコットしている。オリンピックが巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題となり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続いた。 -16世紀にデンマークから独立したスウェーデンは、その後も幾度かデンマークと戦火を交えてきた(北方七年戦争、カルマル戦争)。グスタフ2世アドルフ(在位:1611年-1632年)の時代にスウェーデンは動乱時代にあったロシアに介入して、1617年にストルボヴァの和約を勝ち取り、カレリアとイングリアを割譲させ、ロシアからバルト海への直接的な出口を奪い、これによりロシアはスウェーデンの地域覇権に対抗しえない地位に陥ることになった。 -第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英:WorldWarII、略称:WWII;中国語:(繁体字)第二次世界大戰、(簡体字)第二次世界大战;フランス語:SecondeGuerremondiale;ドイツ語:ZweiterWeltkrieg;ロシア語:Втораямироваявойна;ヘブライ語:מלחמתהעולםהשנייה)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、オランダ、フランス、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソビエト連邦によるポーランド侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの太平洋戦争開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大最悪の戦争となった。 -3回表、巨人は松井のバントで二塁に送った走者を落合の適時打で還して1点を勝ち越した。今中は、味方が同点に追いついた直後に落合にこの適時打を打たれたショックが点差、イニングにかかわらず大きかった旨を述べている。なお、落��は3回裏に立浪のゴロを捕球の際に足を滑らせ、この回終了後負傷退場している。さらに巨人は、4回表に村田、ヘンリー・コトーの本塁打で2点を追加し、3点の点差をつけた。今中は4回裏の打順で代打を送られ降板した。中日の試合ぶりについて、原辰徳は「(試合が始まり)『これはいつものドラゴンズじゃないな』とすぐにわかった。彼らもプレッシャーを感じていたんですね」と、川相昌弘も「試合前、笑顔も見られた中日ナインでしたが、いざ試合が始まってみると緊張に縛られていたのはドラゴンズのほうでした」と振り返っている。10月12日付東京新聞(中日系列)19面12版のコラム「デスク発」は「ミスがあれだけ出れば大試合には勝てない」と評した。 -五式戦闘機II型とは、1945年2月から開発に着手した型で、ターボ過給器(排気タービン)「ル102」搭載のハ112-IIル(離昇出力1500馬力)を搭載した機体である。このエンジンの排気タービンは海軍の雷電(航空機)、100式司偵などで装備試験が実施された物である。このエンジンは高度10,000mで1000馬力を発揮した。重量は従来のエンジンより150kg増加したが、高度10,000mまで18分で到達した。速度は高度8,000mで590km/h、高度10,000mで565km/hを発揮した。過給器および空気取り入れ口はI型と異なり、機首下面に装備された。もともとあった薬莢殻入れは撤去され、機外に排出されるかたちに改められている。高々度戦闘機であるため燃料冷却系の装置は撤去された。実用化されれば日本陸軍で唯一の排気タービン装備の実用単発戦闘機となっていたであろう本機であるが、エンジントラブルは少なく、担当の一人である航空審査部の名取少佐は、何分1機を審査したのみであるので正確な稼働率はわからないにせよ、手応えは相当によかったと回想している。この型の機体は4月に設計が完了し、5月には実機が生産された。9月から量産が予定されていたが、終戦のため試作機3機の生産に終わった。 -前述のとおり、幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーション(注:1960年代ぐらいまでは世間一般では漫画映画と呼ばれていた)に強い関心を持っており、アニメーションの制作は念願の仕事であった。特に影響を受けた作品はディズニーの『バンビ』(1942年米国公開)だが、これは日本では戦後の1951年になって公開された(ディズニーの『白雪姫』(米国公開1937年)や『ピノキオ』(米国公開1940年)も日本での公開は戦後になってのことである)。日本は戦時中はディズニーやフライシャー兄弟など米国のアニメーションの公開を禁止していたが、1942年(昭和17年)に戦時中の日本において初めて公開された動画作品であるアジア初の劇場用長編動画作品『西遊記鉄扇公主の巻』(中国、1941年、73分、モノクロ)を観て感動した。戦後ずいぶん経った1980年に中国を訪れた際には上海美術映画製作所で監督の万籟鳴と対面を果たして孫悟空とアトムが握手するイラストを制作した。手塚はプロの漫画家になる前の敗戦の年である1945年に、焼け残った大阪の松竹座に於いて海軍省製作の長編漫画映画『桃太郎海の神兵』を観て感涙し、このとき将来必ず自分の手で漫画映画を作ることを決意したという。戦後の1946年(昭和21年)に上京した際にアニメータ募集の張り紙をみて漫画映画製作会社「芦田漫画製作所」(芦田巌)に出向いて採用を志願したが断られている。漫画は手塚にとってアニメーション制作の資金を得るための手段だった。評論家の大宅壮一から(華僑のように出身地の大阪を離れて東京で稼ぐという意味で)「阪僑」と嘲評されるほど漫画を描いて稼ぎまくった。また自らを「ディズニー狂い」と称した。また前述のとおり、東映動画から請われて嘱託の仕事を受けてもいる。 -メフメトは30年にわたる2度目の治世において、コンスタンティノープルやバルカン半島の諸国、アナトリア半島のトルコ人の諸勢力を征服し、オスマン朝の勢力を急速に拡大させた。これによりオスマン朝は帝国と呼び得る内実を獲得することになる。 -中央図書館の設計は日建設計。収容可能冊数は45万冊であり、半分の22万5000冊が開架である。収容可能冊数の観点では、開館時に西尾張地方最大の図書館であった(2013年には60万冊収容可能な一宮市立中央図��館が開館)。中央階段から自然通風を取り入れる自然換気システムを採用している。2階の一般閲覧室には部分的に自然光を取り入れており、常に一定の照度を確保する照明システムを採用している。2階の床下には冷温水コイルを用いた床下空調方式を導入している。太陽光発電システムでは年間20,000kWの発電を行っている。 -グレート・バリア・リーフは宇宙空間からも確認できるほど広大であり、生物が作り出した単一の構造物としては世界最大である。しかし、その生物とは微小なサンゴやポリプ等の有機体であり、これらが数十億集まって形成しているサンゴ礁。そして、この暗礁は生物多様性を支える重要な役目を持ち、1981年に世界遺産(自然遺産)に登録された。1997年、CNNはグレート・バリア・リーフを「7大世界の驚異」自然部門のひとつに挙げ、クイーンズランド州のナショナル・トラストは州を代表する象徴に認定した。暗礁のかなりの部分はグレート・バリア・リーフ海洋公園に指定され、漁業や観光など人間の行為が及ぼす影響を制限している。ただし、表面流出や気象変動によるサンゴの白化現象、オニヒトデの異常繁殖など、生態系に打撃を与える環境変化が発生している。これらへの対策も取り組まれており、その統合沿岸管理(ICM)は先端的な事例にも挙げられる。 -浮き袋(鰾)は浅海魚が浮力を得る一般的な手段であるが、深海では極度の高水圧のため、通常のガス交換による浮き袋の機能には期待できない。高水圧と急激な圧力変化に耐えるため、深海魚には浮き袋の壁を頑丈なグアニン結晶で覆う、あるいは内容物を気体ではなく脂肪やワックスに置換するなどの適応が見られる。特にハダカイワシ類のように、餌を求めて深海と浅海を往復する習性を持つ深海魚は、毎日数百気圧に及ぶ圧力変化を受けることになる。彼らは遊泳性深海魚の中では比較的発達した浮き袋を持ち、奇網(ガス交換に寄与する微細な血管網)は浅海魚に比べ非常に長く、一部の種類では中身を脂肪で満たしている。深度が大きくなるに従って、高水圧に逆らいガス交換(特に分泌)を行うことへの負担も増大する。中深層遊泳性の深海魚(浅海への移動を行わないグループ)では浮き袋は一般に退化的であり、さらに深度を増した漸深層では浮き袋をもたない種類が多い。一方で底生性魚類は、海底付近からあまり離れず急激な圧力変化を受けないためか、大深度でもよく発達した浮き袋を持つ場合がある。 -審理が終わってからの説示から評議への流れは前述の刑事陪審と同様である。ただし、連邦裁判所の場合、裁判官は、当事者の申立てに基づき、合理的な陪審であれば相手方に有利な判断をするだけの証拠はないであろうと判断するときは、陪審に評議を求める前に法律問題としての判決(judgmentasamatteroflaw)を下して一審手続を終局させることができる。それ以外の場合、裁判官は、陪審に対して評議の上評決を答申するよう求めるが、その際には、原告勝訴か被告勝訴か、また原告勝訴の場合は救済内容(賠償額等)についての結論だけを答申する一般評決(generalverdict)を求めるのが一般的である。しかし、裁判所は、各争点についての結論をそれぞれ答申する個別評決(specialverdict)を求めることもできる。陪審の評決は全員一致であることが求められるのが普通であるが、連邦裁判所では、当事者が合意した場合は全員一致でなくても評決をすることができる。州裁判所でも、場合によって、全員一致を要求しないところが多い。 -水先人のウィリアム・ヘイエス(WilliamHayes)を乗せたイモは、12月6日午前7時30分頃、警備艇アカディアからの信号でベッドフォード湾を離れることを許可された。イモは石炭の積載での遅れを取り返そうと、港の制限速度をはるかに超えてナローズへ進入した。イモは、港の間違った側(西側)を水先案内されていたアメリカの不定期貨物船クララ(Clara)と遭遇した。両船の水先人は右側通行ですれ違うことで合意した。イモはその直後、ナローズの中央近くを港からベッドフォード湾へ航行していたタグボートのステラ・マリスを追い越した後、さらにダートマス側へ舳先を向けることを強いられた。ステラ・マリスの船長ホレーショ・ブラネン(HoratioBrannen)は、��スピードで接近するイモを見て、事故を回避するため船を西岸へ近づけさせた。 -1954年以降も、磁気テープのサウンドトラックによるステレオ設備を導入できない映画館のため、ステレオ音声の映画をモノラルに変換し、光学で記録したものが必要とされた。ドルビーラボラトリーズのドルビーステレオ(ステレオ音声を光学で記録したもの)が使われ始めた1975年ごろまで、このような状況が続いた。例えば、フランコ・ゼフィレッリの『ロミオとジュリエット』のサウンドトラックのアルバムはステレオになっていた。ステレオを使う映画は、『ウエスト・サイド物語』、『マイ・フェア・レディ』、Camelotなどのミュージカル映画、『クレオパトラ』などの叙事詩、サイモン&ガーファンクルの曲を多用した『卒業』のような音楽を重視した映画に限られていた。今では、映画は基本的に全てステレオで公開されている。 -伊豆伊東に珍しい魚の棲む池があることが知られ始めると、これを学術的に調査し、価値のあるものならば天然記念物に指定し保護対象とするべきではないかと生物学者らが考え始めた。日本における天然記念物制度は1919年(大正8年)に制定された史蹟名勝天然紀念物保存法により発足し、日本各地に点在する生物、植物、地質鉱物等が調査され始めていた。指定制度発足当時の天然記念物を指定管理する省庁は内務省であり、内務省より依頼を受けた複数の学者が日本各地を巡り調査を行っていた。その一環として浄の池の異魚も調査が行われることとなった。調査が行われたのは指定制度発足からわずか2年後の1921年(大正10年)であり、調査時期の最も早い天然記念物指定候補対象のひとつであった。 -先に見たように島南部を中心として土地が肥沃であったことから、昔からバリの人々は余裕を持った生活を送ることができた。そこで、農民は朝夕それぞれ2、3時間働くと、その日の残りは絵画、彫刻、音楽、ダンスなどの創作活動に当てるなど、美術・芸術活動にも勤しんでいた。バリの美術には、古くからのインド的性格が残存しており、時代が新しくなるにつれ、バリ島独自の土着的な性格が強くなっていく。インド色の濃い遺品として、例えば、ペジュン出土の粘土製の奉納板(8世紀頃)にはインドのパーラ朝美術を思わせる仏教尊像が描かれている。さらにインド・ヒンドゥーの石彫であるドゥルガー像(11世紀頃)が傑作として挙げられる。ただし、今日のバリで見られる、とりわけ観光客向けの芸能・美術のほとんどは、1920年代以降のオランダ植民地時代以降の歴史のなかでバリを訪れた欧米人との共同作業によって構築されたものである。そして、これらの文化芸能は、当時の欧米人によっても、また戦後のインドネシア政府によっても、さらには大衆観光客によっても、バリの「伝統文化」として表象され、「ツーリスト・パフォーマンスが、いまやバリの伝統として認められている」。今日のバリの「伝統文化」は「観光文化」にほかならないのである。さらに、スハルト体制崩壊後は、分権化の流れの中で、地域自治の確立を目指す動きがインドネシア社会全体でみられるようになり、バリでは、その一環として地域文化の振興が掲げられ、『バリポスト』を中心として、バリTVが創設されるなど、アジェグ・バリの運動が起きている。もちろん、現在のバリでも近代的な西洋文化を巧みに取り込み続けており、街では携帯電話を手にメールを打つ姿なども多く見られるし、また、島民の移動手段は主にオートバイとなっている。 -国土地理院はGPS観測を行っている電子基準点の位置について地震の前後で比較を行った。「福岡」(福岡市東区志賀島)で南西に約17cm、「前原」(糸島市前原)で南に9cm、「古賀」(古賀市)で西に6cmの変位をそれぞれ観測した。また、三角点についても再測量を行い、玄界島で南に約38cmの変位を観測したのを始め、東区の一部を除いた福岡市と前原、志摩など震源域の南西側では、沿岸を中心に南に10cm前後の変位を観測した。一方、新宮や相島など震源域の北東側では、西方向の変位を観測した。 -草丈の高い穀類は収穫前のモンスーンや台風で倒伏する被害が多発するので、高収量品種群のゲノムの中に、風雨でも倒れにく��半矮性遺伝子が導入されている。コムギの緑の革命の品種開発には、日本の半矮性品種小麦農林10号が用いられた。IRRIで開発され初めて広域に普及したイネの高収量品種IR8は、インドネシア品種ペタ(Peta)と台湾在来品種・低脚烏尖(ていきゃくうせん,Dee-Geo-Woo-Gen)の交配から育成された。分子遺伝学(en:Moleculargenetics)の発展につれ、矮性に対応する突然変異遺伝子が、ジベレリンの生合成系や情報伝達に関わる遺伝子と同定され、クローニングされている。その例としては、アラビドプシスの遺伝子(GA20-oxidaseの遺伝子GA5の劣性変異ga5,ga1,ga1-3)、コムギのRht遺伝子、イネ低脚烏尖のsd1遺伝子がある。それらの突然変異遺伝子をホモ接合で持つことによって稈の成長は、矮性表現型になるように著しく短縮される。丈の低い植物体は物理的には本質的により安定であり、茎へ供給される光合成産物量が劇的に減らされる。同化産物は穀粒生産に向け直されるようになり、商業的な収穫のための化学肥料の効果が特に増加する。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -しかし翌1712年からピョートルのロシアは攻勢に転じ、ハンゲの海戦で歴史的勝利をおさめ、ロシア海軍の成長を見せつけると同時にバルト海の覇権を獲得した。ロシアは勢いに乗じてスウェーデンのドイツ領を侵略、反スウェーデン同盟の加盟国を増やしてスウェーデンを追い込み、1716年には姪エカチェリーナ・イヴァノヴナを北ドイツのメクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レオポルトと結婚させ、同盟を結んでスウェーデン侵攻拠点を手に入れバルト海への影響力を増していった。この事態はイギリスをはじめとする同盟諸国を警戒させ、ピョートルは圧力に屈してポーランドから撤退した。 -明治11年(1878年)6月26日、中小坂鉄山は正式に官営となり、鉱山局中小坂分局となった。官営となった中小坂鉄山であったが、設備面では熱風炉を一基増設し、高炉の補修を行ったのみで、基本的にこれまでの民営時代の設備をそのまま使用した。操業体制については木炭の製造、運搬をこれまで農閑期の農民の出稼ぎに頼っていたものを専属職員を置くように改め、木炭の運搬用に役牛を購入、更には木炭用の森林を新たに確保した。そして採鉱、運搬、土木工事に囚人を使役するなどという変更が加えられたが、民営時代と比較して最も大きな変化は、外国人技術者を雇うことなく日本人のみによって操業が行なわれた点である。官営での操業準備が整った1879年7月1日より中小坂鉄山は操業が再開された。 -1882年、第7回印象派展が開かれた。グループ内では、ドガとその仲間、特にジャン=フランソワ・ラファエリを参加させるかが大きな争いとなった。ピサロもカイユボット、ベルト・モリゾ、モネ、デュラン=リュエルなどと連絡をとりながら、ドガとの争いを調停しようと努力した。結局、デュラン=リュエルの周���により、モネ、ルノワールらが復帰する一方で、ドガは不参加となった。モネ、ルノワール、シスレーの出品作の多くはデュラン=リュエルの所有であり、ピサロは「デュラン=リュエルの要員」による展覧会のようだと苦言を呈した。1880年代初頭から、ピサロは従来の風景画家から、人物画家へと移行しており、第7回展には、戸外の人物画を中心とする36点を出品した。しかし、こうした人物画は批評家からジャン=フランソワ・ミレーの模倣だと批判された。1882年末、ポントワーズの家の家賃が上がったことから、ピサロ一家はその北西にあるオニーに移った。1883年5月、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通りに新しく開いた画廊で、ピサロの初の個展が開かれ、作品70点が展示された。個展は成功したが、ピサロは印象派の画風に飽き足らないものを感じていた。1883年10月から11月にかけて、ミュレがホテルを開業したルーアンを訪れ、港の風景を描いた。戸外制作のため、天気が変わると状況が一変してしまい、続きを描くことができなくなるという困難に直面しながらも17枚の絵画を仕上げ、うち7枚をデュラン=リュエルが購入した。これがピサロの都市シリーズの端緒となった。 -明治末期から大正期にかけての野付牛は、ニホンハッカの生産による好景気に沸き、飲食店が建ち並んでいた。その一方では多くの芸者や遊女が働かされており、公許遊郭設置の動きもあった。1916年4月23日に、野付牛を訪れた北海道長官へ町の有志から遊郭設置の陳情書が提出されるや、アイダは当地の女性たちと共に遊郭建設阻止に動きだすことを決心した。翌24日には弁護士に陳情書を書いてもらい、信者18名の賛成署名を得た。同年6月26日、アイダが中心となって野付牛婦人矯風会が設立された。アイダは会員たちと共に地元民たち300名以上の署名を得、長官と当時の内務大臣である後藤新平宛てに提出した。翌1917年には矯風会で、遊郭建設の防止、公娼全廃のための運動開始などの決議が為された。その後も後援会などで市民に向けての働きかけが行なわれた。逃亡してきた女性を夫妻が自宅にかくまい、教会員と結婚させたこともあった。こうした反対運動に際し、夫妻は業者からの暴力を頻繁に受けた。娼妓の女性がピアソン館に助けを求めに訪れ、ジョージが話を聞いていたところ、暗闇から突然殴りつけられ、ジョージがその場に倒れたことがあった。アイダもまた、料理屋で女性を救うために交渉しているところ、怒った店主に太い棒で殴られたことがあり、後も長期にわたって、その傷跡の痛みを訴えており、生涯にわたって傷跡が消えることは無かった。一方では酌婦の女性を、アイダが私財を投じて身代金を払って救出して親元に帰したものの、親が業主と結託して娘をまた売り払い、アイダを落胆させることもあった。暴力や裏切りと多くの困難に遭いながらも、夫妻は強い信仰のもとに救済活動を続けた。アイダの廃娼運動はこうして、旭川での挫折を経て、北見で成功に至った。戦前の北海道内の中核都市の内、遊郭が無いのは北見だけであった。 -移住地は、農業と牧畜業の第一次産業が主要な産業である。1971年、第1移住地、第2移住地、第3移住地のそれぞれ別個にあった農業協同組合を統合し、「コロニア沖縄農牧総合協同組合」(略称:CAICO)が発足した。CAICOが中心となり、大型設備の導入が進められている。移住地の主要な農作物は、入植直後に陸稲、1970年代に綿花、1980年代から大豆と推移してきた。現在でも最も作付面積が大きい作物は大豆である。1990年代に入り、大豆価格の下落と天候不順による価格低下に見舞われた。このため冬場の作物として小麦とヒマワリも導入され、主要作物として定着していった。その他に家畜飼料用としてとうもろこしやソルゴー(ソルガム)も生産されている。 -沢田のメモ書きには、1919年から1948年までの約30年間に、伊田地区で発生した10例の「ほっぱん」の記録が記されており、それぞれ発症もしくは死亡した年月、発症者の年齢性別、病気の経過などが書かれていた。メモに書かれていたのはこの10例であるが、これ以外にも複数の発症事例があったという。また、メモにはいくつかの補足が記載されており、1925年の40歳男��の事例では、当時の幡多病院の橋本久博士がこれを見て「ツツガムシ病」らしいと言ったが、橋本博士はすぐに札幌へ転任したという。さらに1928年の70歳女性事例でも、これを検診した丹治医師は「ツツガムシ病」ではないかと言ったという。1932年に海岸沿いの藪を伐採してから一時発症者が減った。また、1942年の同時に発生した3事例では、地区内を流れる伊田川下流の堤防工事に携わった3名の女性が発病し、そのうち2名が死亡、一番若かった25歳の1名だけが助かったという。 -デル・マーソ作の2枚の肖像画に、『ラス・メニーナス』で描かれた主題のほぼ直接的な影響を見ることができる。いくつかの点で、『ラス・メニーナス』のモチーフを逆向きに描いているのである。10年後の1666年デル・マーソは、15歳になって神聖ローマ皇帝との結婚に向けてマドリードを去ろうとしている時期のマルガリータ王女を描いている。背景には、離れた戸口のあたりに2人の人物像が描かれている。1人はマルガリータ王女の弟で新しい王のカルロス2世であり、もう1人は小人のマリバルボラである。また寡婦となったマリアナ王妃を描いたデル・マーソの肖像画には、アルカサルの戸口の向こうに、若い王と、おそらくマリバルボラを含む小人たちや、彼に飲み物を勧める女官たちの姿が描かれている。 -Fw190ヴュルガー(Focke-WulfFw190Würger)は、ドイツのフォッケ・ヴルフ社が開発し、第二次世界大戦時にドイツ空軍などで運用された戦闘機である。愛称の「ヴュルガー(Würger)」は百舌(鳥)を意味する。設計責任者はクルト・タンクで、メッサーシュミット社が開発したBf109戦闘機とともに第二次世界大戦におけるドイツ航空戦力の主力を担った。本機は「液冷王国」であった当時のドイツ空軍にあって、初期型が唯一強力な空冷エンジンを搭載した主力戦闘機として優れた飛行性能を見せたほか、機体が頑丈で発展性に余裕があり、戦闘爆撃機型や対爆撃機型、高速偵察機型など様々な派生型が生産され、また機体の整備・運用の手間に要するコストも比較的少なく、第一次世界大戦への従軍経験のあるタンクの設計コンセプトが具現化し、よく過酷な戦場に耐えて大戦を戦い抜いた。1944年には不足していた高高度性能を改善するため、エンジンを液冷エンジンのJumo213Aに換装したFw190D-9型が登場した。大戦末期に開発されたさらなる改良型は、設計者であるタンクの名称を取ってTa152と命名された。シリーズの総生産数は20,000機以上であり、うち、戦闘爆撃機型は6,600機強である。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -リン脂質から人工的に製造した脂質2分子膜は電気容量、屈折率、水との界面張力が実際の生体膜とよく類似するが、生体膜と異なり相転移温度Tcを持つ。すなわちTc以上では流動性を示すが、Tc以下では硬くなり流動性を失う。これに30–50mol%のコレステロールを加えると流動性はさらに増し、しかもTcが消滅することが知られている。脂質2分子膜上では次のように埋め込まれる。すなわち、親水性を示すコレステロールのヒドロキシ基は外向きに配置されリン脂質の燐酸基部分と水素結合する。そして嵩高いステロイド骨格と炭化水素側鎖は内側のリン脂質の脂肪酸鎖の間に埋め込まれる。コレステロールは高等動物の細胞膜の必須成分であるが、植物細胞の細胞膜には別のステロールであるフィトステロール類(シトステロール、スチグマステロール、フコステ���ール、スピナステロール、ブラシカステロールなど)も含まれ、真菌では別のステロールであるエルゴステロールも含まれる。一方細菌の細胞膜にはコレステロールは含まれない。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -16世紀に書かれた『本草綱目』には、「高麗に石油がある」と記述されている。また、19世紀初頭に韓致奫が著した『海東繹史』内の『物産志』にも、石油の産出に関する記述がある。1917年および1918年には、これら古典の情報などを基に石油の鉱業権が取得されているが、具体的な成果はなかった。1964年、平安南道安州市における炭田の調査・開発中に油微が発見され、石油存在の可能性が具体的に認識された。これを受けて北朝鮮はソ連に協力を要請し、黄海の重磁力探査を行っている。翌1965年に燃料資源地質探査理局を、1968年には安州市に原油探査を専門とする研究所をそれぞれ設置し、原油探査を行ってきた。1973年からは中国の技術者の指導を受けて本格的な試掘を行い、1976年に測線長2,200kmにわたる西海の地震探鉱を行った結果、同海域に石油の胚胎が期待できる堆積盆地が発達しているという自信を得たとされる。1978年にはユーゴスラビアと共同開発契約を結んで探鉱を行ったが、1981年に資金不足を理由にユーゴスラビアは撤退した。1983年には政務院の傘下に原油探査総局を設置し、シンガポールから14,000トンの試掘探査船を購入するとともにボーリングを建設して黄海の南浦沖合を重点的に探査した。1987年にはイランおよびオーストラリアの企業が南浦沿岸22,600km2の探査と試掘を行ったが、不発に終わっている。 -1903年5月、ドラグーティン・ディミトリエビッチ率いるセルビア軍士官の一派がセルビア王宮を襲撃したことで、その状況は変化した。セルビア王アレクサンダル1世と王妃ドラガは繰り返し銃で撃たれ殺害された。一説には、その後「王と王妃の亡骸は服を脱がされ、残忍に切り刻まれた」と言われている。襲撃者らは2人の死体を宮殿の窓から投げ捨て、王に忠実な勢力が反撃を試みる可能性を排除した。襲撃を計画した者たちは、カラジョルジェヴィチ家のペータル1世を新たなセルビア王に即位させた。 -マルコ・ポーロは商取引を父ニッコロー・ポーロと叔父マッフェーオ・ポーロに学んだ。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して3人の子供に恵まれた。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会に埋葬された。彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロ���世界図が作成された。またクリストファー・コロンブスなど多くの人物に刺激を与えた。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やマルコポーロヒツジにも使われ、彼の生涯をテーマにした小説や映画なども製作された。 -続く上弦材の組み立て順序も、この下弦材組み立て工程の混乱の影響で組み立て順序が変更された。当初とは逆に左岸へ大型ゴライアスクレーンを移動してそこから中央へ向かって順に上弦材を組み立てた後、クレーンを右岸へ移動、そこから再度中央へ向けて上弦材を組み立て、最後に中央の水平な上弦材を組み付けることとなったのである。この組み立て作業においては合計73,094本のリベットが使用された。それらの鉸鋲作業はスケジュールの関係で夏の炎天下での実施となったが、川崎造船所から派遣された工員30名がリベット打ち5組と穿孔機2組に分かれて従事し、約60日におよぶ作業日程で鉸鋲作業を全て完了した。こうして組み上がった橋桁の塗装は浅野物産が担当し、同社の工員20名によりValduraAsphaltPaintと称する銘柄の塗料(色はダークグリーン)が塗布された。各部材には加工を行った川崎造船所で下地塗りとして光明丹が予め塗布されており、塗装工程では通常部位に2回ずつ、リベット結合部については3回ずつ塗装を行った。この作業には前後30日を要し、消費された塗料の総量は約1,300ガロンに及んだ。 -北海大陸棚事件(ほっかいたいりくだなじけん、英語:NorthSeaContinentalShelfCases、フランス語:AffairesduplateaucontinentaldelamerduNord)は、北海における大陸棚の境界画定を巡って西ドイツ、デンマーク、オランダが争った国際紛争である。1967年2月20日にこの3カ国は紛争を国際司法裁判所(ICJ)に付託することで合意し、1969年2月20日に判決が下された。大陸棚の境界画定について定めた大陸棚条約第6条の等距離基準が同条約に加盟していない西ドイツに対して適用されるかが争点となったが、ICJはこれを否定し、境界画定は関連するすべての状況を考慮に入れて衡平な結果を実現できるように合意によって行われなければならないとし、当事国に対し誠実に交渉を行うことを命じる判決を下した。この判例は大陸棚の境界画定に関するリーディングケースであり、この問題に関する後の判例に大きな影響を与えている。 -コレステロールは生体内の代謝過程において主要な役割を果たしている。まず多くの動物でステロイド合成の出発物質となっている。また動物細胞においては、脂質二重層構造を持つ生体膜(細胞膜)の重要な構成物質である。人間では肝臓および皮膚で生合成される。肝臓で合成されたコレステロールは脂肪酸エステル体に変換され血液中のリポタンパク質により全身に輸送される。コレステロールが生命維持に必須な役割を果たす物質であるという事実は、科学者以外にはあまり知られていない。むしろ、一般社会には健康を蝕む物質として認知されていることが多い。すなわち、様々なリポタンパク質コレステロール複合体の血液中でのあり方が、脂質異常症など循環器疾患の一因になるとの認識が強い。たとえば、医者が患者に対してコレステロールの健康上の懸念がある場合には、悪玉コレステロール(LDLコレステロール:lowdensitylipoproteincholesterol、いわゆるbadcholesterol)の危険性を訴える。一方、悪玉コレステロールの対極には善玉コレステロール(HDLコレステロール:highdensitylipoproteincholesterol、いわゆるgoodcholesterol)が存在する。この両者の違いはコレステロールを体内輸送する際における、コレステロールと複合体を作るリポタンパク質の種類によるものであり、コレステロール分子自体の違いではない。詳細は、体内輸送およびリポタンパク質、変性LDLの項を参照のこと。 -プファルツ=ジンメルン家の最後の当主、カール2世が1685年に子供のないまま亡くなると、フランス王ルイ14世は、弟であるオルレアン公フィリップ1世の名の下に(オルレアン公フィリップ1世の妃エリーザベト・シャルロッテはカール2世の妹であった)プファルツ領の相続を主張した(プファルツ継承戦争)。1688年9月29日、フランス軍がプファルツ領に進攻すると、新しく選帝侯位を継いだプファルツ=ノイブルク家出身のフィリップ・ヴィルヘルムは10月24日にハイデルベルクを放棄した。フランス軍の軍事会議は、アウクスブルク同盟軍に対抗するために、すべての防衛施設を破壊し国土を荒廃させることで、この地域における反攻の機会を敵から奪うことを決議した。フランス軍は1689年3月2日の退却の際に、城だけでなく都市にも多発同時的に火をかけた。ヨハン・ヴィルヘルムは、破壊されたハイデルベルクに戻るとすぐに市壁と塔の再建を命じた。フランス軍は1691年と1692年に再びハイデルベルクの門前にまで迫ったが、防衛施設が再建され良好な状態にあることを目の当たりにして、攻撃を行わず退却した。しかし1693年5月18日に再び来襲し、5月22日に街を占領した。だが、彼らの作戦は城に拠点を構える事ではなく、町の破壊することで城にダメージを与える事であった。数日後に城の守備隊は降伏し、フランス軍は1689年の退却時の慌ただしさに不完全であった破壊を今度は完遂した。前回は破壊を免れた塔や壁が爆破されたのである。 -1855年2月、クリミア戦争の泥沼化で総辞職したアバディーン伯爵内閣に代わって第一次パーマストン子爵内閣(ホイッグ党政権)が成立した。はじめ同内閣にも大蔵大臣として入閣していたが、首相との方針の食い違いからすぐにも下野した。以降はパーマストン卿の強硬外交を批判した。第二次ダービー伯爵内閣(保守党)期の1859年には保守党政権打倒のためホイッグ党、ピール派、急進派(英語版)が大同団結して自由党を結成。これに伴いグラッドストンも自由党議員となった。第二次ダービー伯爵内閣倒閣後の1859年6月に成立した第二次パーマストン子爵内閣(自由党政権)には大蔵大臣(在職1859年-1865年)として入閣し、英仏通商条約(英語版)を締結するなどして自由貿易体制を完成させた。また「知識に対する税金」として批判されていた紙税を廃止した。続く1865年から1866年の第二次ラッセル伯爵内閣(自由党政権)では蔵相(在職1865年-1866年)留任のうえ、庶民院院内総務を兼務した。選挙法改正の機運が高まる中、自助を確立している上層労働者階級に選挙権を広げる選挙法改正を目指し、保守党庶民院院内総務ディズレーリと激闘したが、敗れ、内閣総辞職に追い込まれた。つづく第三次ダービー伯爵内閣(保守党政権)で庶民院院内総務ディズレーリが行った第二次選挙法改正には選挙権が貧民にまで拡大される恐れありとして反対したが、阻止できなかった。1867年末に引退したラッセル伯爵の後継として自由党党首となる。1868年2月に成立した第一次ディズレーリ内閣(保守党)に対して、アイルランド国教会廃止を掲げて挑み、11月の総選挙に勝利したことで同内閣を総辞職に追い込んだ。 -子持山の火山活動は20万年前頃に収束した。これは、数万年前から1万年前頃までに激しい噴火を繰り返した榛名山・赤城山・浅間山などの周囲の大火山とくらべ、かなり古い部類にはいる。子持山の南北の山麓にできた山体崩壊にともなう扇状地の上には、榛名山や浅間山の噴火にともなうテフラ(火山噴出物)が10メートルもの厚さで堆積している。また、東方にある赤城山の噴火では、噴出物によって利根川が堰き止められ、川筋が大きく西へ移動した。これにより、子持山の東麓は利根川によって大きく浸食され綾戸渓谷となった。山体やカルデラそのものも、20万年の間に風雨や河川による浸食・開析により大きく姿を変えた。火山活動にともなって噴出された火山灰を主成分とする凝灰岩や凝灰角礫岩は、比較的やわらかいために削られ流されてしまい、火山の内部構造ともいうべき火道の岩脈が「骨組み」のように露出する形となった。こうした開析が最も進んでいるのが、南斜面を大きく削って谷をつくっている唐沢周辺で、この扇状地の根元部分に子持神社が鎮座する。 -音楽家や建築家を目指した時期もあったクラウス・フォン・シュタウフェンベルクだったが、最終的には軍人の道を志し、1926年4月1日にバイエルン州バンベルクに駐留するヴァイマル共和国軍第17騎兵連隊に入営した。シュトゥットガルトに駐留する第18騎兵連隊ではなく、バンベルクの第17騎兵連隊に志願したのは、この連隊がヴェルサイユ条約後に縮小された既存の連隊を合併させて作られた騎兵連隊であり、その中には伯父ベルトル��が大佐を務めていた旧バイエルン重騎兵連隊も含まれており、その縁故を期待したためと思われる。しかし一族からは「高位の貴族が共和主義の軍隊に仕えるとは何事」と不評であったという。1927年8月18日には伍長級士官候補生(Fahnenjunkergefreiter)となった。1927年10月から1928年8月までドレスデンの歩兵学校に在学して士官候補生としての訓練を受けた。さらに1928年10月から1929年8月にかけてはハノーファー騎兵学校に入学した。将校任官試験に騎兵の首席で合格し、1930年1月1日に少尉に任官した。 -ルワンダ虐殺(ルワンダぎゃくさつ、英語:RwandanGenocide)とは、1994年にルワンダで発生した大量虐殺である。1994年4月6日に発生した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺から、ルワンダ愛国戦線(RPF)が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された。正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、およそ50万人から100万人の間、すなわちルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -二足歩行をし衣服を纏うなど人間と変わらぬ姿に擬人化された動物が登場する作品は、ディズニーなどの欧米作品に数多く存在する。日本では、古くは日本のストーリー漫画の始まりと言われる『鳥獣戯画』があるが、近代日本において動物漫画の開拓者となったのが田河水泡である。田河は欧米の「フィリックス」などのコミック・ストリップの影響を受けた動物漫画を数多く描いた。中でも代表作は1931年(昭和6年)に発表された『のらくろ』である。この作品では、擬人化された野良犬くろが軍隊に入隊して奮闘する姿を描いている。田河に影響された吉本三平(急逝後に芳賀まさおが引き継ぐ)が描いた『コグマノコロスケ』と並び、日本の戦前を代表する動物漫画である。 -1914年までの5年間、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアにおいて、単独犯の暗殺者(主にセルビア人)がオーストリア=ハンガリー帝国官吏の暗殺を試み、失敗するという事件が多数発生していた。1910年6月3日、「青年ボスニア」の参加者であるボグダーン・ツェラジッチは、当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督マリヤン・ヴァレシャニンの暗殺を試みたが、失敗に終わった。22歳のツェラジッチは、正教会を信仰するヘルツェゴビナ出身のセルビア人で、ザグレブ大学法学部の学生でもあり、頻繁にベオグラードを訪れていた。ツェラジッチはヴァレシャニンに向けて5発の弾丸を発射した後、自らの頭部を撃って自殺しており、その行為はガヴリロ・プリンツィプのような未来の暗殺者にインスピレーションを与えた。プリンツィプはのちに、ツェラジッチは「私が最初に模範とした人物であり、私が17歳の時、彼の墓の前で何度も夜を過ごし、彼のことを考え、また惨めな現状を思い返した。そして墓の前で、私もいずれは暴力的な手段に訴えることを決めた」と語った。 -手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっている。当初期待した講談社では断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった。同年11月より雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年-)の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画の連載が開始された。1953年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始した。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった。1954年には『ジャングル大帝』連載完結の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始した。『火の鳥』のシリーズはその後も休刊等によりCOM、マンガ少年、野性時代と掲載誌を変えながら長年に描き継がれ,手塚のライフワークとなった。 -アラビカ種は病害虫や霜、少雨等に弱く栽培が困難だが、風味とコクに優れ、レギュラーコーヒー用を主体として多様な品種がある。総生産量の約70%を占める。従来は、ブラジルのブルボンとコロンビアのティピカが、アラビカ種の2大品種と呼ばれ主力品種だった。その後、収量や耐病虫性に優れた品種への置換が進み、最近ではブラジルのカトゥーラ、カトゥアイとムンド・ノーボ、コロンビアのカトゥーラとバリエダ・コロンビアが、それぞれ主力品種となっている。このほか、スマトラ、モカ(銘柄とは別)、ブルー・マウンテン(ブランドとは別)、コナ、マラゴジッペ、アマレロ、ゲイシャなどがある。ロブスタ種はアラビカ種に比べて耐病性が高く、少雨、高温多湿の土地でも栽培できる。また安定収穫できる様になるまでにかかる期間が3年と短い。栽培が容易なので収量も多く、生産量2位のベトナムで主力となっている。抽出しやすく水出しも容易だが、カフェイン成分が多く苦みやクセ(ロブスタ臭)が強く、単独での風味はアラビカ種に及ばないとされる。インスタント用原料や、安いレギュラーコーヒーの増量用が主体となっている他、いわゆるベトナムコーヒーに用いられる。リベリカ種は高温多湿の気候に適応するが病害に弱く、品質もアラビカ種に及ばない。 -旧橋梁は1909年(明治42年)12月16日着工、1912年(明治45年)1月13日に完成し、同年3月1日に開通した。全長310.59m(橋台面間長309.42m)、下を流れる長谷川の河床からレール面までの高さ41.45m,総工費331,536円。11基の橋脚、23連の橋桁を持つ鋼製トレッスル橋である。23連となるのは、各橋脚上に30フィート桁、各橋脚間に60フィート桁がそれぞれ架設されているためである。土木学会による技術評価では近代土木遺産のAランクに指定されていた。その独特な構造と鮮やかな朱色がもたらす風景は、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも人気があった。その一方、直近の地元住民は多くの落下物や騒音に悩まされてきた事例もあり、旧橋梁による負の一面も存在していた。 -織田信長は、1565年9月頃から文書に麟(りん)の字をかたどった花押を使用するようになった。この花押は伝説上の生物である「麒麟」を意味するとされるが、麒麟は正しい政治が行われている世にしか現れない生物であると中世日本では信じられていた。そして、この「麟」字型花押が使われはじめるきっかけとなったのは、室町幕府将軍・足利義輝の非業の死(永禄の政変)であった。このような背景から、この花押は平和社会の実現を目指した信長の理想を示すものだと解釈されている。上の解釈は定説となり、織田信長に関する多くの論文で注目されてきた。しかし、同説には様々な異論も存在し、例えば、「麟」の字ではなく「信長」の字を表しているとする説、あるいは足利様の花押との連続性があるとする説、平和社会実現の主体を信長自身ではなく足利義昭とみる説などがある。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画ととも��、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -就任祝賀パレードは、D.C.北西地区のペンシルベニア通りを、連邦議会議事堂から出発し、ホワイトハウスの北面まで進んだ。パレードの途中、オバマ大統領とファーストレディのミシェル・オバマは、2回、リムジンからペンシルベニア通りに降り立ち、パレードのルートを歩いて、集まった群衆の歓声に応えた。2度目に歩いて車に戻ったのは、ホワイトハウスの門のすぐ前であった。その2回を除けば、大統領とファーストレディは、パレードの間、警備上の問題から、ルートの大部分を新型の防護されたリムジンで移動した。バイデン副大統領とその妻ジル・バイデンも、数か所で、子のビュー、ハンター、アシュリーとともにパレードのルートを歩いた。ビュー・バイデンは、デラウェア州の司法長官兼デラウェア州兵法律顧問将校であり、イラク戦争の軍役から特別の休暇を得て式典に参加した。 -CIE図書館(シーアイイーとしょかん、英語:SCAPCIEInformationCenter,SCAPCI&EInformationCenterLibrary)は、第二次世界大戦後に連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が日本各地に設置した図書館である。戦後日本において連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が、札幌、函館、仙台、秋田、東京(日比谷および新宿)、横浜、新潟、金沢、長野、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、広島、高松、松山、小倉(現北九州)、福岡、長崎、熊本の23か所に設置した米国式の図書館であり、日本国民の民主化や米国への理解、そして日本の公共図書館の近代化を進める役割を果たした。連合国軍による占領の終焉によってうち13館がアメリカ文化センター(ACC)へ移行したが、残りは廃止され、その蔵書は公共図書館に統合・寄贈された(徳島や熊本では市立図書館の前身となった)。 -1474年にカスティーリャ王エンリケ4世が没した後、カスティーリャの一部の貴族はアフォンソ5世に姪であるカスティーリャ王女フアナとの結婚を条件にカスティーリャ王位の継承を提案し、カスティーリャはアフォンソ5世を支持する派閥とフェルナンド・イサベル1世のカトリック両王を支持する派閥に分かれて争った。カスティーリャ内部の王位継承戦争と共に、西アフリカ沿岸部におけるポルトガルとカスティーリャの競争は激化するが、1479年に締結されたアルカソヴァス条約によって西アフリカ沿岸部の領有地域が取り決められた。カスティーリャはカナリア諸島と対岸の地域を領有し、ポルトガルはその他の大西洋の島々とヴェルデ岬以南の沿岸部を獲得する。アフォンソ5世の王子ジョアンはインドを西アフリカでの商業的展開の目的地に定め、1481年にポルトガル王位に就いた後には西アフリカでの探検事業を推進した。 -こうして橋台が完成し、兵庫の川崎造船所から淀川を遡航して現場まで運ばれた部材により、橋桁本体の組み立てと架設が本格的に開始された。設計・製造の双方の努力が実り、現場に到着した各部材の加工精度はほとんど修正を要しない水準に達しており、むしろ高精度ゆえに弦材支承面の密着が良すぎて組み立て作業に手間取るほどであった。また、橋桁本体を組み上げる工程にお���ては、効率化を図って大林組が設計したゴライアスクレーン(門型自走式クレーン)が導入され、威力を発揮した。このゴライアスクレーンは、橋桁本体の組み立てに用いる鋼製で大型のものと、船で運ばれてきた部材を仮設足場上へ揚陸するための木造で小型のものの2種が用意された。いずれも上部に電動巻き上げ機を、下部に台車をそれぞれ備え、橋桁の組み立て工程の進捗に合わせて仮設足場上に敷設された4列のレール上を移動する設計であった。大型のものは、工事完了後に柱部を分解し他の工事現場で工事用エレベーターに転用可能な寸法として設計され、高さ100フィート(30.48m)、長さ54フィート8インチ(16.66m)、と本橋梁の規模に見合った極めて巨大な構造物であった。 -一方、西南戦争に伴う軍事輸送などで、鉄道の威力を認識した大日本帝国陸軍は、1887年(明治20年)に、当時の参謀本部長有栖川宮熾仁親王からの建議案において、海岸近くに敷設する鉄道は、海上の敵からの攻撃を受けて、破壊されやすく防備上不利であり、内陸を貫通する鉄道が必要であると主張した。こうしたこともあり、鉄道局長官井上勝も、1891年(明治24年)の「鉄道建設ニ関スル議」という建白書で、山梨・長野の物産の輸送に資して、経済的にも利点があることに軍事上の利点を加えて、東京と名古屋を結ぶ鉄道の建設を直ちに着工する必要があると指摘した。こうして1892年(明治25年)6月に鉄道敷設法が帝国議会で成立し、その筆頭に「神奈川県下八王子若ハ静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府及長野県下諏訪ヲ経テ伊那郡若ハ西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鉄道」が挙げられた。。その後比較路線の検討が行われ、八王子を起点とする経路が1894年(明治27年)の第6回帝国議会において承認を受けた。笹子峠周辺の経路についても、複数案が検討されていた。笹子からそのまま西進して摺針峠(原文では摺張山脈と記載)を越えて黒駒、石和を通るものがあり、全長14マイルにおよぶアプト式のラック鉄道が必要とされた。また大月から南下して吉田を経て河口湖へ出て、御坂峠(八町峠)を越えて、藤の木・黒駒・石和と通る経路もあったが、距離が伸びて建設費も増加するため採用されなかった。こうして笹子峠を通過するルートが採用されることになった。 -19日には病欠と称した容堂を除く3人が、老中板倉勝静(備中松山藩主)・稲葉正邦(淀藩主)に談判するが納れられず、松平春嶽は両件同時奏請を提案して妥協を試みる。しかし慶喜の政局主導を阻止したい大久保利通は越前藩邸へ出向いて説得(小松も伊達宗城を説得)。結局23日にいたって四侯は、連名で長州問題先議を建議書にして提出するにとどまった。 -アルバニア遠征から帰国後、ムラトはメフメトとアナトリアのドゥルカディル侯国の王女シット・ハトゥンの婚姻を成立させる。1450年から1451年にかけての冬、エディルネで3か月にわたる結婚式が開かれた。 -2016年リオデジャネイロオリンピックの閉会式のフラッグハンドオーバーセレモニーで紹介された次回開催地・東京を紹介する映像パート「WARMINGUP!TOKYO2020」では、冒頭で体操選手の土橋ココがこの交差点でゆかの演技(タンブリング)をするシーンからスタートし、さらには最終盤ではドラえもんがスクランブル交差点に建てた土管にマリオが飛び込んでリオデジャネイロに向かうという形で、東京を代表するロケーションとして紹介されている。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機���空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -1811年(文化8年)、ペトロパブロフスクに寄港していたスループ船・ディアナ号の艦長ゴローニン海軍大尉は千島列島南部の測量任務を命じられ、ディアナ号で千島列島を南下。5月に択捉島の北端に上陸、そこで千島アイヌ漂流民の護送を行っていた松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会った。ゴローニンが薪水の補給を求めたところ、石坂は同島の振別(ふれべつ)会所に行くよう指示し、会所宛の手紙を渡した。しかし、逆風に遭遇したことに加えて、当時のヨーロッパにおいて未探索地域であった根室海峡に関心を持ち、同海峡を通過して北上しオホーツクへ向かう計画であったゴローニンは振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった。そして5月27日、泊湾に入港した。湾に面した国後陣屋にいた松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃させると、ゴローニンは補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送り、日本側と接触した。 -くわなメディアライヴは、桑名市立中央図書館が入居する建築物で、保健センター・勤労青少年ホーム・多目的ホールを含む複合施設となっている。佐藤総合計画が設計し、鹿島建設が建築した。事業者は株式会社くわなメディアライブ。鉄骨構造地上5階建て敷地面積は3,191.22m2、建築面積は2,728.51m2、延床面積は9,1113.77m2。南側の外観は鳥居をモチーフとしている。これは「歴史と未来への鳥居」を表しており、桑名市の目指す「ひと育て」「まち育て」「歴史育て」に沿うものである。図書館は3・4階にあり、1階入り口からはエスカレーターを乗り継いで行くことになる。同じ建物にあることを活かした中央図書館と保健センターの連携によるブックスタート支援事業が行われている。 -合成に必要な圧力と温度を供給するために、主に3種類の高圧装置が用いられている。それはベルト型、キューブ型、そして分割球型である。ベルト型は元来、GE社のトレーシー・ホールによって開発された装置である。装置内に試料の入った筒状セルが設置され、上下アンビルから油圧で圧力が加えられる。「ベルト」といわれる線材によりセルに巻き、あらかじめ圧力を加える。2つのアンビルは電極の役割を果たし、セルの内蔵ヒーターに電流を流し、高温高圧の状態を生み出すことができる。今日においても、ベルト型が使用され、初期の装置よりも巨大な圧力装置が製造されている。キュービック型圧力装置は、6つのアンビルを用い立方体型のセルの6面全てに圧力をかけるマルチアンビル装置である。最初のマルチアンビルは正四面体構造の圧力装置で、圧力が四面体のセルに集中するように、4つのアンビルを使用していた。その後すぐに、その装置を利用してセル内容積を増加させるためキュービック型圧力装置が作られた。装置の大きさはベルト型よりもキュービック型が小さいが、ダイヤモンドを合成するのに適した圧力と温度に達する時間が速いのがキュービック型である。しかしながら、キュービック型装置は一般的には簡単に大きな容積を確保できない。よりアンビルが大きくなれば、加圧できる空間も広くなるが、同じ圧力を掛けるためには、プレスする力も強くしなければならない。そのためには、正十二面体のような面の多い正多面体上に配置したより多くのアンビルにより、圧力をかけられる空間の体積に対する表面積の比を小さくすればよい。しかし、このような装置はあまりにも複雑で、開発することは非常に困難である。そして分割球装置(BARS装置)がベルト型とキュービック型装置より最もコンパクトで、効率よく、さらに経済的にもダイヤモン��を合成できる。この装置の中心には、容積約2cm3のセラミックス製の小さな円筒容器が配置されている。この合成容器を葉ろう石等の立方体の圧力伝達物質の中に入れ、さらに炭化タングステン等の超硬合金製の内部アンビルで、そしてそれを最も外側にある8つの鋼鉄製外部アンビルにより加圧する。直径1mのチャンバー内に固定され、この中に油が満たされ、反応容器に熱と圧力を同時に加えていく。同軸グラファイト加熱装置により合成容器を熱し、温度を熱電対により計測する。 -パブリックアートという用語は第二次大戦後のアメリカ合衆国で誕生しヨーロッパに広まった。日本には1990年前後に用語や概念が導入されたが、それ以前にも「野外彫刻」などの名で実践されていた。パブリックアートという語は各国の美術界の中で重要なものになりつつある。設置を依頼する政府・自治体・企業、設置される場所のコミュニティや住民、設置を企画するキュレーター、設置する土地の特殊性に対応すること(サイト・スペシフィック)を考えコミュニティとも協力しながら作品作りを行う美術家など、多数の人の協力や理解によって多くの作品が作られている。 -尼港事件(にこうじけん、露:НиколаевскийинцидентNikoláyevskiyIntsidyént,英:NikolayevskMassacre)は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件である。ニコラエフスク事件ともいう。 -ところが、平成13年(2001年)3月にアメリカ合衆国議会図書館で、伊能大図のうちの207枚(うち169枚が彩色なし)が発見された。これは上記の陸軍による輯製20万分1図作成のための骨格基図として模写されたものが、米国に渡ったものと考えられる。さらに残る7枚のうち、佐倉市の国立歴史民俗博物館で2枚(34番:蝦夷江差、35番:蝦夷ヲコシリ島)、国立国会図書館で1枚(107番:駿河静岡)が発見された。最後に残った4枚(12番:蝦夷宗谷、133番:山城・河内・摂津、157番:備中・備後福山、164番:備後・安芸・伊予今治)についても、2004年5月に海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることが判明した。海上保安庁の前身である旧海軍水路部が明治初期に海図を作製する目的で模写したものだという。これらの発見により、伊能大図214枚の全容がつかめるようになった。これを受け、2006年5月に国土地理院所管財団法人日本地図センターが「伊能大図総覧」を刊行し、伊能図が一般の目にも触れられるようになった。大図の詳細な検討によって、伊能忠敬による測量がいかに行われたかなど従来検証しづらかった点についても、今後の研究が期待される。なお、その後も2007年1月に、やはり海上保安庁から高画質の原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見されるなど、まだまだ状態の良い伊能図が発見される可能性はある。 -ルノワールは、1841年、フランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれ、1844年、一家でパリに移り住んだ。聖歌隊に入り、美声を評価されていた。1854年、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年、失業した。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた。1861年、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合った。フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしている。1864年、サロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選している。経済的に苦しい中、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もあった。1869年、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである筆触分割の手法を生み出していった。1870年、普仏戦争が勃発し、騎兵隊に従軍したが、1871年、パリ・コミューンの動乱に揺れるパリに戻った。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事もあった。 -スタッフが美味しくいただきました(スタッフがおいしくいただきました)は、日本のテレビ番組で、料理や食材が登場した際に、画面上に表示される注釈(テロップ)。それら料理や食材を無駄に捨てずに食���たことを示すものだが、その信憑性には疑問を挙げる声もある。また、この注釈の表示が却ってテレビ番組の質を下げているとの意見もある。テレビのバラエティ番組などで食材を粗雑に取り扱った際、それを不道徳とする視聴者からの苦情に備え、その自衛策としてテレビ局側が用いることになったと考えられている。いつ頃からこの注釈が使われ始めたかは明確ではないが、テレビプロデューサーの菅賢治によれば、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ)で、小玉スイカを用いた芸を放映したところ、「食べ物を粗末にするな」と視聴者の声が届き、それを受けて翌年にこの注釈を表示したという。 -高い電圧を取り扱う変電所ほど規模が大きくなり、また送電線に関わる施設も大きくなる。こうした施設を建設する費用の兼ね合いから電力消費者に近い末端では低い電圧で送る必要があり、発電所に近い側が最も高い電圧で送られ、消費者に近づくにつれて順次電圧が落とされていくようになっている。この電圧が次第に低くなっていく各段階のことを電圧階級と呼んでいる。各階級の間にはそれに対応した変電所が設置されている。また電力系統は、発電所から消費者まで一直線になっているわけではなく、電力システムの信頼性を高め故障や補修作業時のバックアップを相互に行うために、複数の発電所からの送電線が集合され、あるいは必要に応じて各所へ分散されていくようになっている。変電所はこうした送電系統上の集合・分岐点にもなっており、必要に応じて系統をつないだり切り離したりする役割もしている。さらに、送電線に落雷があるなどで一部の区間に障害が発生すると、遮断器を動作させてその区間を送電系統から一旦切り離し、障害の波及を防止し回復を図る役割もしている。この他に、直流送電に関連して交流と直流を変換する交直変換所や、周波数の異なる電源を接続する周波数変換所も変電所の一種である。 -1900年時点のナバラ地方の人口はスペイン全体の1.7%だったが、20世紀を通じて緩やかに比率を低下させた結果、1991年時点では1.3%となった。ナバラ州より人口が少ない自治州はラ・リオハ州とカンタブリア州だけであり、ナバラ州の人口はスペインの全17自治州中15位である。1900年の人口は307,669人だったが、2014年には約2倍の640,356人となった。人口密度は1900年の29人/km2から2014年には61.4人/km2に増加したが、スペイン平均の人口密度92人/km2を下回っている。ピレネー渓谷や南西部のエステーリャ地域では20世紀初頭から人口が減少しつづけているが、パンプローナ盆地や河岸地域では人口が増加している。2000年代にはラテンアメリカ、東欧、北アフリカなどからの移民が増加しており、他国出身人口は約70,000人、比率では約11%と推定されている。 -757はイースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズによって1983年に就航した。旧式のナローボディ機を置き換え、米国の短中距離国内線やシャトル便、大陸横断路線などで一般的に使われる旅客機となった。1986年にはETOPSと呼ばれる双発機の長距離飛行に関する緩和要件が適用され、大陸間路線にも就航するようになった。主な運航者は米国の大手航空会社、欧州のチャーター便航空会社、貨物航空会社である。2014年10月までに757の機体損失事故は8件発生しており、うち7件は死亡事故である。757シリーズは54の顧客向けに総計1,050機が製造され、2004年10月28日に生産が終了した。シリーズ中では757-200が圧倒的に多く913機が製造された。やがて旅客機需要の中心が小型機に移り757の販売が縮小したため、ボーイングは小型の737シリーズに力を入れ、757の生産終了時に直接的な後継機は開発されなかった。最終機は2005年4月26日に上海航空に引き渡された。757が生産されていた当時、日本の航空会社はボーイング機を好んで使う傾向にあったが、757に関しては登場から生産終了までに1機も購入・使用されることはなかった。2018年7月の時点で666機が就航しており、最大の運用者は旅客型がデルタ航空、貨物型がフェデックス・エクスプレスである。 -他にも、近年では、オオサンショウウオと交雑し、遺伝的撹乱を与えているチュウゴクオオサンショウウオやシロアゴガエルのように���来種と餌や繁殖環境を巡って競争を行うもの、ウシガエルのように在来種を直接捕食するものなど、様々な外来種が確認されている。もちろん同じ両生類のみならずアライグマやカミツキガメ、卵や幼生を捕食するティラピアなどの両生類を餌とする外来生物は多い。これらの生息環境の変化や外来種の脅威によって、日本の両生類相は、その存続を脅かされていると言える。 -1556年に、神学者ヨプス・フィンツェリウスによるDemiraculissuitemporis(ラテン語で『現代の不可思議について』の意味)が、この伝説に言及している。著者ヨプスは、笛吹き男を悪魔と見なしている。1559年から1565年頃に、フローベン・クリストフ・フォン・ツィンメルン伯爵は自著『ツィンメルン年代記』ZimmerischeChronikの中でこの伝説を紹介した。この紹介がネズミの集団発生が登場した最初の記録だと考えられている。しかし、ツィンメルンはこの出来事の日付を「何百年も昔(voretlichenhundertjarn)」と記しているのみであり、事件のあった日付に関する論争に全く解答を与えていない。 -農業の集団化による農村の荒廃と、農業の集団化とともに実施された穀物の徴発は1932年から1933年にかけてロシア、ウクライナ、中央アジア、コーカサスを襲った大飢饉を引き起こし、さらに第二次世界大戦による国土の荒廃が生産に打撃を与えた。農村の荒廃は生産力を低下させただけではなく、農村で食べられていた伝統的な料理を破壊した。ロシアの穀物不足を補うために中央アジアなどから穀物が輸送されたが、そのためにウズベキスタンなどの地域で食料が欠乏する。 -こうしてメイの庶民院書記官への昇進は1871年2月2日に発表され、16日には任命の特許状(letterspatent)が発行された。メイ、56歳の時である。ル・マーチャントは自身の引退のときにアースキン・メイに対し感謝を述べている。 -スズキは定置網、刺し網などの沿岸漁業で多く漁獲される。東京湾、伊勢湾、瀬戸内海(大阪湾含む)、有明海(別個体群)などの内湾が主な漁場である。最も漁獲量が多いのは千葉県で、兵庫県が次ぐ。また、養殖は昔から採捕種苗を用いて少量ながら行われていたが、1990年ごろから愛媛県などで主にタイリクスズキを用いた養殖が盛んになった。現在はかつてほど盛んではない。普通のエサ釣りは勿論、海のルアーフィッシングの対象魚としても人気が高い。ルアーフィッシングではスズキによく似たヨーロッパスズキ(スズキ亜目を参照)の英語名からとった「シーバス」(Seabass)の名が定着している。釣りジャーナリストの西山徹がこの名を使用しはじめたといわれる。観賞用等に飼育することも可能であるが、相応の設備が必要である。 -ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これを阻止すべく、欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし(ウクライナ大飢饉)、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務省人民委員部(NKVD)と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばし、これを食い止めようとする各国の右派からファシズムが生み出されることになった。 -厳密には「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易をめざしてジャワ島のバンテンやインドのスーラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本���平戸、台湾の安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。 -自衛隊は発災から2か月間、10万人態勢で復興支援を行ってきたが、2011年5月2日に国際テロ組織アルカーイダのテロリスト、ウサーマ・ビン・ラーディンの死亡が発表されたことを受け、国内でのテロ活動の阻止にも隊力を使用する必要が生じたことから、段階的に派遣の規模を縮小する方針とした。航空自衛隊は当初の規模の半分に縮小している。派遣勢力は最大時で、人員約107,000人(陸上自衛隊約70,000人、海上自衛隊約15,000人、航空自衛隊約21,600人、福島第一原発対処約500人)、航空機約540機、艦艇59隻だった。発災から6月11日までの3か月の派遣規模は、人員延べ約868万7000人、航空機同約4万1000機、艦艇同約4,100隻に達した。おもな成果は、人命救助1万9286人、遺体収容は9,487体であった。物資等輸送は約11,500t、医療チーム等の輸送は18,310人、患者輸送175人であった。被災者の生活支援面では、給水支援が約32,820t、給食支援が約4,477,440食、燃料支援が約1,400kLであった。このほか入浴支援は約854,980人、衛生等支援は約23,370人となっている。震災を目撃したアメリカ海兵隊幹部たちは、もしアメリカ海兵隊のような軍事能力を持つ組織が日本にあったなら、数千名の命を救えたと指摘した。 -一般電気事業者(電力会社)の発電所は多くの場合、電力消費地から離れた場所に設置される。特に大規模水力発電所の場合はその適所が山間部となり、需要家の多い平野部とは距離がある。原子力発電所は水力発電所のような地形的制約は無く、都市部等、人口密集地への設置も可能ではあるが、リスク管理の観点からどの国においても人口密集地からは離れた所に設置される。長距離の送電では電力の損失(主にジュール熱)が発生するため、より高電圧かつ低電流に変換して送電ロスを低下させている。また臨海部の火力発電所も発電出力が大きく大容量の送電では送電線の発熱が問題になるため、発電所内の変電所では27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送電されるが、電力の最終需要家までの送電網の途中に変電所が幾つかあり、そこでは段階的に電圧が下げられ(降圧)、一般家庭向けには日本では100ボルトまで変圧される。 -「分類学の父」とされる博物学者カール・フォン・リンネは、ヨーロッパの最貧国に数えられていた祖国スウェーデンに茶、コーヒー、ココナッツなどの商品作物を導入しようと試みた。その多くは失敗に終わったが、数少ない例外がルバーブであった。晩年のリンネはルバーブの導入を「私のもっとも誇らしい業績」と呼んだ。 -当初はSqualuslichaという学名でフランスの博物学者ピエール・ジョセフ・ボナテールによって1788年に記載された。これがのちにコンスタンティン・サミュエル・ラフィネスクによって記載されたシノニムからとられた、現行のヨロイザメ属(Dalatias)に移された。しかしながらラフィネスクが命名したD.sparophagusという学名は「国際動物命名規約上の疑問名に相当しふさわしくないため属名にはScymnorhinusを使う方が良い」と主張する学者もいる。属名のDalatiasはギリシャ語で「たいまつ」という意味のdolosあるいはdalouに由来する。また、種小名のlichaは本種のフランス語名であるlalicheに由来する。和名は硬い皮膚に由来する「ヨロイザメ」で、他にもひれの形(英名:kitefinshark)や皮膚の色(中国名:黑黒鮫)などにちなんで各地域で様々な名前がつけられている。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -Sは高校中退後は祖父Xの経営していたウナギ加工・販売などの仕事を手伝っていたが、店の売上金を複数回盗んだほか、1990年1月17日には祖父Xから盗みの疑いを掛けられたことに激怒し、22時ごろに祖父X宅へ赴き就寝中だったXの顔面を蹴るなど暴行を加え、Xの左目を失明させる事件を起こした。また鰻屋の同僚には不良が多く、同僚たちから非行や喧嘩の方法を教わったほか、自分を挑発してきた同年代の同僚に対する暴力沙汰も起こした。また母や弟への家庭内暴力・不良仲間らとの徘徊行為・飲酒・喫煙を行うなど生活は荒れていった。家庭内暴力に耐えかねた母親YはSを別居させるため、1991年6月から契約金58万円余りを出して船橋市本中山のアパートで一人暮らしさせたが、その後も近隣住民とのトラブルを起こしていた。事件直前には本事件の被害者一家宅を知るきっかけとなった強姦事件を含め傷害・強姦・強姦致傷・恐喝・窃盗など多数の事件を起こしたほか、このころには鰻屋も無断欠勤して辞めていたためほぼ無職の身だった。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -青ヶ島にいつごろから人が住み始めたのか現在のところはっきりしていない。これはほかの伊豆諸島の島々で発見されている縄文時代や弥生時代の遺跡がまったく発見されておらず、また中世の遺跡も見つかっていないうえに文献資料も乏しいためである。15世紀になってようやく青ヶ島に人が居住しているとの記録が現れる。青ヶ島は絶海の孤島で周囲を黒潮が流れ、波が荒いことが多く青ヶ島への船の航行は困難を極めた。また島の周囲は約50-250メートルの海食崖が発達しており船の接岸も困難であった。15世紀の青ヶ島についての記録の多くは船の遭難に関することであり、この船の往来の困難さは現在に至るまで青ヶ島に住む人々を悩ませ続けている。往来は困難を極めたが、青ヶ島での生活には利点もあった。これは八丈島、八丈小島と比べて食糧事情がよかったことである。八丈島や八丈小島は19世紀のサツマイモの本格的な普及まで慢性的な食糧危機に見舞われていた。これはおもに台風の襲来による風害によるものであり、ひとたび強い台風が八丈島や八丈小島を襲うと多くの作物に甚大な被害がもたらされ、餓死者が出ることも稀ではなかった。 -今中慎二は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手・コーチ等の野球指導者、野球解説者だ。愛称は「チュー」または「イマチュー」である。現役時代は中日ドラゴンズに所属し、最多勝利や沢村栄治賞を獲得するなど、1990年代のNPBを代表する左腕として活躍した。今中慎二は大阪府門真市の古川橋駅周辺で生まれ、3歳年上の兄の影響で浜町小学校2年生の時に野球を始めた。本来は右利きだが、この時に近所の中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった。3年生になると兄と同じ軟式野球チームに入り、4年生からは投手になった。門真第一中学に進むと同年設立されたリトルシニアチームである門真シニアに入団し、1年目からエースとなっている。当時から球速があったが、チームの守備力が高くない事などから大会ではなかなか勝てず、野球を辞めようかとも考えたという。 -ハチの飼育については、部隊内の上層部からも強く諫める声が出ていた。特に連隊長である亀川良夫から「危険であるから、隊内での飼育は絶対に禁ずる」と再三にわたって注意されていた。成岡と部下の兵士たちは困り果てたが、皆が可愛がっているハチをいまさら捨てたりすることなどできずにこっそりと飼い続けることにした。成岡たちは兵営への出入りの監視を一層厳重にして、事情を知らない他の隊の兵士などに射殺されないように守るように努めていた。ハチも兵営を囲む鉄条網の内側が安全であることを判っていたようで、日中に単独で隊の外に出ることを慎んでいた。ハチの「処分」などできないままに日々が経過し、亀川連隊長が内務巡視に来る当日になった。ハチをどこかに隠しておくこともできず、成岡たちは亀川の一行を出迎えることになった。一行が成岡たちのところまで10メートルほどに近づき、成岡たちが一斉に挙手の敬礼を行ったところで、成岡の足下に座っていたハチがやおら起き上がった。 -1972年の研究によれば、吸息中の横隔膜の緊張には均等な切れ目があり、喉頭と横隔膜との間の筋電図のピークは同期していなかった。この交互な活性化は気管の圧力の負の変動を抑えることを可能にし、喉頭が抵抗を最小とする期間中の吸息における空気の流れを促進する。1987年の新しい研究は筋電図により、呼息にかかわる筋肉もまた喉鳴らしに関与している可能性があることを示した。2000年のデニス・C・ターナーとパトリック・ベイトソンの研究では横隔膜やその他の筋肉は呼吸をするために必要ではあるが喉鳴らしそのものに必要なわけではないとしている。喉頭の筋肉の収縮という仮説を否定しうる要素の一つとして、喉頭切除術を受けたネコたちが横隔膜を用いて喉を鳴らすことができるという事実がある。他の仮説では、気管支・気管鼻腔により増幅された大静脈の振動や、さらには仮声帯もしくは軟口蓋の振動なども言及されている。 -加茂干拓地は安楽島町及び船津町に編入されていたが、複雑に地番が入り乱れていたため、住居表示を導入すると同時に、新町名「大明東町」・「大明西町」を1981年(昭和56年)に制定した。同年6月29日、市民の森公園が開園した。1989年(平成元年)7月17日、鳥羽市立図書館が新築開館し、1997年(平成9年)3月には鳥羽商工会議所会館が、2000年(平成12年)2月には鳥羽市保健福祉センター「ひだまり」が完成した。2007年(平成19年)3月11日には鳥羽市リサイクルパークが開業した。 -従来の旧愛電由来の東部線系統に在籍する車両における標準仕様であったウェスティングハウス・エレクトリック社が開発した電空単位スイッチ式の間接手動進段制御器(HL制御器)ではなく、旧名岐由来の西部線系統に在籍する車両において標準仕様とされた電動カム軸式の間接自動進段制御器(AL制御器)を、東部線所属車両として初めて採用した。モ3400形へ搭載された東洋電機製造ES-515-Aは、通常の直並列組合せによる抵抗制御、および弱め界磁制御のほか、電磁単位スイッチ式の他励界磁制御装置による回生制動および定速制御機能を有する。運転台に設置され��ES-63-A主幹制御器(マスコン)の逆転器(レバーサ)を力行モードから回生制動モードに切り替え、マスコンのノッチを任意に選択することにより40km/hから100km/hの範囲で速度制御を行うもので、下り勾配区間において走行速度が指令速度を上回ると自動的に回生制動が動作し、上り勾配区間において走行速度が指令速度を下回ると自動的に力行に移行する。なお、東洋電機製造が設計・開発した他励界磁制御による高速列車向けの回生制動機能は、本系列の新製に先立つ1935年(昭和10年)に阪和電気鉄道へ納入されたES-513-A制御装置によって実用化されており、当時日本国内で最速を記録した超特急列車など高速運転を行う車両における制輪子(ブレーキシュー)の摩耗減少に大きな効果をもたらしていた。本系列の回生制動機能は、東部線本宿付近をはじめとした連続勾配区間における抑速制動としての使用を想定して採用されたものである。また、当時の東洋電機製造の技術担当専務が名鉄の取締役の1人と懇意な間柄であったことが同機能の採用に関係しているとも指摘される。 -プリンセン運河沿いの観光名所としては、北教会(Noorderkerk)、北市場(Noordermarkt)などのほか、アンネ・フランクの家がある。アンネの家は1635年に建てられたものだが、18世紀に裏側部分が増築され、アンネたちが隠れ住むのに使われることになった。西教会(Westerkerk)はプリンセン運河とケイザー運河に面する高さ85mのプロテスタントの教会堂で、1620年から1631年にかけて建造された当時としては、世界最大級のものだった。現在はホモモニュメント(同性愛者記念碑)が隣接している。 -1767年にイギリス本国議会がタウンゼンド諸法を制定して植民地へ新たに税を課そうと試みると、またも反対運動が盛り上がり、1770年にタウンゼンド関税も撤廃された。だが、このとき茶に対する課税は廃止されず、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。1773年の茶法によって東インド会社のお茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が乱入し、積載されていた茶を海に投棄した(ボストン茶会事件)。 -近年は雪氷や氷床の減少が複数報告され、IPCC第4次評価報告書の見積もりよりも海面上昇幅が大きくなる可能性が指摘されている。2007年には雪氷の融解地域の拡大等が確認されている。2009年には既に融解が観測されていた西南極氷床だけではなく、安定していると見られていた東南極氷床でも氷量の減少が報告されている。またラーセン棚氷のような大規模な棚氷の崩壊によって陸上の氷が海に流入・融解する速度が速まることが懸念されている。2010年の報告では、世界の海面上昇量がIPCC第4次評価報告書の記載値(最大59cm)を上回り、今世紀中に1~2mを超える可能性が指摘されている。 -具体的な両生類の保護対策の例として、1996年6月18日に環境省と建設省(当時)は、アベサンショウウオを対象に種の保存法に基づく「保護増殖計画」を策定した。本種の生息地である丹後半島で、重要な生息環境である小規模な水溜まりや溝等の現状維持や拡大、その周辺にある森林の保全、モニタリング調査、密猟の防止、普及啓発などの対策が講じられている。また、それを担保するために、兵庫県豊岡市と京都府京丹後市の2箇所の生息地が、生息地等保護区に指定されている。また民間によるトウキョウサンショウウオのビオトープの創出も成果をあげている。その他、上記の天然記念物に指定されている3種も文化財保護法に基づく規制がかけられており、国際的な商取引を規制する目的で、オオサンショウウオが国際希少野生動植物種に指定されている。加えて、国の天然記念物等に指定されていなくても、都道府県や市町村の条例に基づく天然記念物や希少野生動植物種に指定され、保護されている種もいる。 -「平成ゴジラシリーズ」は、シリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』の全7作まで一貫した世界観となっており、『ゴジラvsビオランテ』で初登場した超能力少女・三枝未希(演:小高恵美)がシリーズの要として続けて登場している。ゴジラは一貫して人類の脅威として描かれ、対決相手は人類側の兵器ないし味方(メカキングギドラ、モスラ、メ��ゴジラ、モゲラ)あるいは三つ巴の戦いとなっている。後半、『ゴジラvsメカゴジラ』からは自衛隊に代わる新たな対ゴジラ組織・Gフォースと新怪獣のベビーゴジラ(後のリトルゴジラ)が登場した。なお「VSシリーズ」と「ミレニアムシリーズ」(『FINALWARS』以外)は映画製作・公開年の翌年を物語の舞台にしている。クライマックスとなる戦場には公開当時に話題となった名所が選ばれることが多い(新宿都庁、みなとみらい、幕張メッセ等)。この当時は、主に新作公開の時期に合わせて『金曜ロードショー』(vsモスラ)、『水曜ロードショー』(vsビオランテ)、『ゴールデン洋画劇場』(vsキングギドラ、vsスペースゴジラ、vsデストロイア)などのゴールデン枠でも作品が全国ネット放映され、高視聴率をマークしている。この当時に防衛庁の広報課で対外広報を担当していた潮匡人によれば、1992年ごろにゴジラ映画に対する協力体制が本格化したという。各作品の別名として『ゴジラ』を『ゴジラ1』とするナンバリングタイトルが存在し、(例:『ゴジラvsメカゴジラ』=『ゴジラ5』、『ゴジラvsスペースゴジラ』=『ゴジラ6』、『ゴジラvsデストロイア』=『ゴジラ7』)劇場版本編終了後の特報などで見られる。このシリーズでは特殊技術を川北紘一(『ゴジラ』のみ中野昭慶)、ゴジラのスーツアクターは昭和シリーズでヘドラ、ガイガンを担当した薩摩剣八郎が務めている。休止期間中の1997年には第1作からゴジラ映画を製作し続けてきた田中友幸が死去し、ゴジラシリーズとしては『ゴジラvsデストロイア』が最後の参加となった。 -アムクワ・ヴァレーAVAは山岳地帯を除くアムクワ川流域に広がるAVAである。アムクワ渓谷の気候は、ウィラメット渓谷より温暖だが、南方に位置するローグ渓谷よりは寒冷である。このAVAで栽培されている主要なブドウにピノ・ノワールで、小規模ではあるがピノ・グリ(Pinotgris)、カベルネ・ソーヴィニョン、シャルドネ、リースリング、ならびにフランス=アメリカ系雑種も栽培されている。また下位AVAとして、レッド・ヒル・ダグラス・カウンティ・オレゴンAVAがある。 -中金堂跡は、壇上積基壇跡が残るが、基壇上の礎石は残っていなかった。『護国寺本諸寺縁起集』によれば、中金堂は「三間四面二階在裳階」の建物で、身舎(内陣)の柱間が正面3間、側面2間、その周囲に庇(外陣)が廻り(建物の外側から見ると正面5間、側面4間)、重層の建物であったとみられる。裳階(もこし、本来の屋根の下に設けた屋根)は当初からあったものかどうか不明である。東西金堂跡の基壇は下成(かせい)基壇上に玉石を並べた上成(じょうせい)基壇を築いた二重基壇で、塔・中金堂の壇上積基壇よりは格の下がるものである。二重基壇のうち上成基壇の礎石は失われ、下成基壇には小礎石が並んでいた。この小礎石がどのように用いられたかは不明であるが、深い軒の出を支えるための小柱が並んでいたものと推定される。『七大寺巡礼私記』には東金堂には百済伝来の弥勒菩薩石造、西金堂には金銅像とともに作られた繡仏を祀っていたと記されている。 -双葉郡は漁港が未発達で産業に乏しかった過去から、積極的に東京電力の電力供給地となり、福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所、広野火力発電所と日本有数の電力供給源になっていた。震災により、日本がかつて経験したことのない全電源喪失による福島第一原子力発電所事故の発生へとつながっていく。大熊町では、双葉病院に入院中の認知症患者と、隣接する老人介護施設の高齢者のうち227人が一時取り残された。原子炉が水素爆発して20-30km圏内の住民10万人以上が各地の避難所へ避難する混乱のなか、132人は医師・看護師を同乗させないまま観光用バスに乗せられ、13時間かけて200km移動した。残りの95人は5日後に自衛隊によって救助されたが、最終的に50人が衰弱死した。このように、福島県では強制的な避難によって避難所を転々とするなかで高齢者が犠牲になる事例が多く、震災関連死の認定者数も最も多い。また、放射性物質の拡散は双葉郡に留まらず福島県の広範囲に広がった。12日20時には25km北の南相馬市で20μSV/h、15日4時には40km南のいわき市で24μSV/hの最大値を計測した。晴れていたため風とと��に通り過ぎる一時的な上昇であり、時間が経過するにつれて低減していった。放射性物質の放出は3月15日にピークを迎え、9時には正門付近で11,930μSv/hを計測した。15日午後には南東からの風に乗り、北西方面へと流れた。40km離れた飯舘村では16時に23μSV/hと急上昇し18時半には45μSV/h、伊達市を経由し、60km離れた福島市でも17時に22μSV/hと急上昇し19時半には24μSV/hを計測した。南東の風が長時間続き、高濃度の放射性物質が流れ込んでいる所に、不運なことに17時頃から県内各地で雨(雪)が降り始めたため、放射性物質は地面に落ちて土壌に沈着した。このため、北西方面に伸びるように深刻な土壌汚染を引き起こした。 -1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。9月10日に日本を出発した。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(WilliamJamesCraig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ......」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという。当時の漱石最後の下宿の反対側には、1984年(昭和59年)に恒松郁生によって「ロンドン漱石記念館」が設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの欧州連合(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館した。漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開された。 -ツツジ新道ルートは前述のとおり檜洞丸登山で最も多く使われる人気ルートであり、その名の通り登山道にはツツジが多く自生しているため、ツツジのシーズン中(5月下旬〜6月上旬)は平日休日問わず多くの登山者が訪れる。ツツジ新道の登り口は、西丹沢自然教室バス停前から神奈川県道76号山北藤野線を北へ少し進んだところに位置する。登り口からは沢沿いのトラバース道が続き、ゴーラ沢出合と呼ばれる沢の渡渉点から尾根道となる。登山道の多くは樹林帯であるため眺望はほとんどないが、登山道途中の展望園地と呼ばれる場所からは西側の展望が開け、畦ヶ丸や富士山を望むことができる。ツツジ新道上部〜石棚山稜合流点付近はツツジのトンネルとなっている。 -第1戦は1969年6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やクラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた。なお、こうしたサポーターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった。一方、エルサルバド���では熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生した。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し葬儀の模様がテレビ中継をされるなど、国家的イベントの様相を呈した。 -ボーイング707とダグラスDC-8の相次ぐ就航により本格的なジェット旅客機の時代が到来し、1960年代の中盤には旅客機の大型化が望まれるようになった。空港に行けばいつでも飛行機に乗れる時代が到来すると予想され、バスのように気軽に乗れる飛行機として「エアバス」という言葉が生まれた。当時、欧州の航空機メーカーは単独で「エアバス」を事業化できる資金力が無かったことから、欧州各国では「エアバス」の国際共同開発が模索された。途中、牽引役だったイギリス政府が計画から脱退するなど紆余曲折があったが、フランスとドイツ(西ドイツ)両政府が計画の中心となり、1969年5月29日に正式開発の調印式が行われた。機体案はA300Bと名付けられ、座席数が250席程度でターボファンエンジンを備えた双発のワイドボディ機にまとまった。事業を取りまとめるため、企業連合「エアバス・インダストリー」が設立された。エアバス・インダストリーへの出資は、フランスのアエロスパシアルと西ドイツのドイチェ・エアバスが50パーセントずつ分担し、後にスペインのCASAが加わった。このほか、イギリスのホーカー・シドレーとオランダのフォッカーが協力会社として開発や生産を分担した。アエロスパシアルとドイチェ・エアバスが機体全体のとりまとめを行い、ホーカー・シドレーが主翼の設計を担当した。A300Bは1972年10月に初飛行し、1974年5月にエールフランスにより初就航した。当初A300Bの受注は低迷したが、参加国政府と銀行団の強力な支援のもと米国のイースタン航空などへの売り込みに成功し、1977年後半から好転した。 -ドイツ軍人を象徴する防具がこの鉄兜、シュタールヘルム(Stahlhelm)である。国防軍は1935年6月25日にM35シュタールヘルムを制定した。それまでに使われていた第一次世界大戦時のM16やM18よりも軽量化されてデザイン的にも洗練された。もっとも西方電撃戦ぐらいまでの頃には一次大戦時のシュタールヘルムが依然として用いられていたという。シュタールヘルムは国防軍、SS、警察で共通であり、貼り付けるデカールのみが異なった。国防軍のシュタールヘルムのデカールは右側にドイツ帝国以来の「黒白赤(シュヴァルツ=ヴァイス=ロート)」の国家色、左側には鷲章が貼り付けられていたが、迷彩効果を優先する為、国家色デカールは1940年3月21日、鷲章は1943年8月23日に廃止命令が出された。 -1939年の9月、ナチスドイツによるポーランド侵攻を受けてベギンは人口の40%をユダヤ人が占め、YIVOが置かれているリトアニア共和国のビリニュスに亡命する。しかし1940年6月、リトアニアはすぐにソ連軍に侵攻され、多くのユダヤ人とポーランド人(当時のビリニュスの人口はほとんどがポーランド人で占められていた)が連行された。1940年9月20日、ベギンは『イギリス帝国主義の扇動』を理由に8年の禁固刑を言い渡され、強制収容所に送られた。1941年の6月にはロシア北部のペチョラの強制労働収容所へ移り、1942年の5月まで過ごした。ベギンの手記「WhiteNights」にはこのペチョラでの尋問や生活の体験が描かれている。1941年の7月、ドイツ軍によるソ連軍攻撃(バルバロッサ作戦)の後にポーランドとソ連のあいだで交わされたシコルスキ=マイスキー協定(Sikorski-MayskiAgreement)がロンドンで採択されると強制収容されていたポーランド人やユダヤ人が解放され、その中にはベギンも含まれていた。 -カウイケアオウリの甥のアレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世)が王位に就いた1855年頃のハワイ王国政府には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、たがいに対立していた。アレクサンダー・リホリホは、前王が付与した一般成年男子の参政権が王権の失墜を招くのではないかと怖れ、兄のロト・カメハメハと協力して王権の強化と貴族主義的な君主政の確立を目指した。アレクサンダー・リホリホは、増大するアメリカ人実業家の勢力を���限してアメリカ世論におけるハワイ併合への動きを牽制するとともに、1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名の聖公会をハワイに設立し、英国よりトーマス・ステイリーをはじめとするイングランド国教会の聖職者を招いた。これには、息子のアルバートを洗礼させ、ヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的意図があったといわれている。しかし、1862年にはアルバート王子が、翌1863年11月には王自身が死去して、この計画は頓挫した。王位は兄のロト・カメハメハが継承し、カメハメハ5世として即位した。 -1973年(昭和48年)にはRCC興発により、日本初登場となるパターゴルフ場「楽々園パットパットゴルフ」が開園し、人気施設になった。また、「ひろでん楽々園ショッピングタウン」の屋上には観覧車などがある、ミニ遊園地が整備されていた。1991年(平成3年)12月31日の広電ストア合併まで、会社としての広電楽々園は継続。「和食レストラン楽良久」および「楽々園パットパットゴルフ」については、広電ストア移行後もしばらくは営業を継続し、「楽々園パットパットゴルフ」は1998年(平成10年)3月の廃止まで営業した。楽々園のプラネタリウムの館長だった人物は、1980年(昭和55年)の広島市こども文化科学館開館時に転籍し、プラネタリウムの担当になっている。 -ピュー族はブラーフミー系文字に起源を持つ独自のピュー文字を使用していた。ピュー文字はヒンドゥー教徒が伝えた文字が元となり、碑文にはインド西海岸のカダンバ字音が使われているといわれている。パガン時代の1112年/13年ごろに奉納されたミャ・ゼーディー碑文にはパーリ語、モン語、ビルマ語とともにピュー語も刻まれている。1911年にイギリスの学者オットー・ブラグデンによってミャ・ゼーディー碑文の解読が試みられ、ピュー語はチベット・ビルマ語派に属することが判明したが、ピューの言語は完全に解読されていない。ピュー語が書かれた碑文はおそらくミャ・ゼーディー碑文が最後であり、他の言語と共にピュー語が刻まれた理由は判明していない。 -1874年4月15日に、サロンから独立したグループによる展覧会が開かれた。30名の芸術家が合計165点の作品を展示した。この展覧会は、同年のサロン開催の2週間前であったことから、サロンを意識して開催されたと考えられる。期間は1か月で、場所はカピュシーヌ大通り35番地で、かつて写真家のナダールが使用していたアトリエであった。午前10時から夕方の6時までと夜8時から10時まで開催していた。入場料は1フラン、カタログの値段は50サンティームであり、作成はルノワールの弟のエドモン・ルノワールが行った。展覧会の正式名称は、開催以前には「印象派」という名称がなかったため、「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」であった。委員たちが展示会を仕切ったが、ルノワールを除くほかの委員は積極的に参加しなかった。そのため、実質的にはルノワール一人の手で、展覧会の構成がなされた。作品の出品場所は、どの芸術家も平等に得られるように、サイズごとに分類した後、抽選でそれぞれの展示場所が決まった。 -2011年にゴズリングが演じた3つの役は、それぞれ異なって注目を集めるものだった。まず、ロマンティック・コメディ映画『ラブ・アゲイン』で初めて喜劇的な役を演じ、スティーヴ・カレルやエマ・ストーンと共演した。ゴズリングは、女性を丸め込む男性を演じるため、ロサンゼルスのバーで開かれたカクテル教室に通った。『ワシントン・ポスト』紙のアン・ホーナデイは、「(彼の)魅惑的な命令の存在は、ジョージ・クルーニーに次ぐ人材を見つけたのかもしれないと思わせる」と評した。ピーター・トラヴァースは「とびきりいかした喜劇人」と述べ、『USAトゥデイ』のクローディア・プイグは「1番驚きなのはゴズリングで、彼はコメディの才能を露わにした」と述べた。彼はこの作品でゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。ゴズリング初のアクション演技は、ジェームズ・サリスの小説を基にした映画『ドライヴ』(2011年)で、逃がし屋(getawaydriver)をしつつハリウッ��のカースタントマンとしても働く主人公を演じた。この映画についてゴズリングは「暴力的なジョン・ヒューズ映画」だと述べ、「いつも『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』で頭を殴るシーンがあったら完璧だと思っていたんだ」と語っている。監督を務めたニコラス・ウィンディング・レフンは、ゴズリングとの出会い・関係について次のように述べている。 -1954年4月8日、BOACから南アフリカ航空にリースされていたMk.I9号機(G-ALYY、"ヨーク・ヨーク"(YokeYoke))は、ロンドン発ローマ・カイロ経由ヨハネスブルグ行き南アフリカ航空201便として運用されていた。201便は前日にローマから出発する予定であったが、出発前点検で"G-ALYY"翼上パネルのボルト30本に緩みが見つかり、更に燃料系統にもトラブルを生じたため、修繕作業で出発を見合わせていたのである。定刻から25時間遅れの18時32分(UTC)、201便はローマのチャンピーノ空港を離陸しカイロに向かった。19時05分にカイロの航空管制塔に「カイロへの到着時間は21時02分」と報告したのが、201便の最後の通信になった。G-ALYYはその直後の19時07分頃、ナポリ南東のストロンボリ島付近50km沖合のティレニア海上空高度35,000ft(10,700m)を巡航中に空中爆発し、乗員(全て南アフリカ国籍)7名と乗客14名の21名全員が行方不明になった。通信途絶直後より航空管制官が201便に何度も連絡を試みたが、無応答が続いたため遭難したと見做された。この時の無線通信を傍受していたドイツのラジオ局によって、事故の速報が世界中に伝えられた。 -1971年、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社し、新企画『長くつ下のピッピ』を制作するためにAプロダクションに移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。その後、宮崎駿は高畑と大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『ルパン三世』で宮崎にとって事実上の初監督の仕事を引き受ける。名義上は演出であった。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた。「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『パンダコパンダ』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。1974年TVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当した。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。 -宇宙ステーション補給機(うちゅうステーションほきゅうき、H-IITransferVehicle、略称:HTV)は、国際宇宙ステーション(ISS)へ食料・水などの物資や機材を届ける日本の無人宇宙補給機であり、愛称はこうのとり(KOUNOTORI)である。宇宙開発事業団(NASDA)と後継法人の宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発し、三菱重工業や三菱電機、IHIエアロスペースなどの大小100社程度の企業が製造した。H-IIBロケットに搭載されて種子島宇宙センターから打ち上げられ、高度約400キロメートル上空の軌道上を周回する国際宇宙ステーション(ISS)へ食糧や衣類、各種実験装置などの最大6.2トンの補給物資を送り届ける。その後、使わなくなった実験機器や使用後の衣類などを積み込み、大気圏に再突入させて断熱圧縮によって焼却する。ISSとの接続にはハーモニー付近に設置されたロボットアームで掴んでハーモニーの下部の共通結合機構(CBM)に結合させる方法が採られる。初号機以降、主要機器の国産化が進められたことにより3号機でHTVの開発は完了し、4号機以降は運用機として量産が行われている。三菱重工業はプライムメーカーとして開発に携わり、全部で約350社の企業が開発に参画している。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -浄ノ池(以下、浄の池と記述する)は指定解除後に埋め立てられ池自体が消滅しており、2020年現在、跡地には民間病院が建てられ往時を偲ぶものは残されていない。しかし、かつて浄の池は家屋の密集する市街地に位置する交通の便の良い珍しい天然記念物であったことから、温泉都市伊東温泉における代表的な名所として大正期から昭和中期にかけ多くの観光客が訪れる場所であった。人々は池に閉じ込められた南海産の珍奇な魚類を眺め、天然のビオトープとも言える小さな水中の不思議な生物相に想いを巡らせた。 -1792年5月18日の夜、ロシア軍が国境を越えてウクライナに侵攻した。ロシア軍は、ポーランドの最高司令官であるポニャトフスキとコシチュシコが率いるポーランド軍から想定外の抵抗を受けた。コシチュシュコ軍は、5月29日にヤヌフ付近でポニャトフスキ軍と合流した。しかしロシアの四軍を押しとどめるにはあまりにも非力だったポーランド軍は、南ブーフ川の西岸へ、ルバルからポウォンネへと撤退していった。この時、コシチュシュコが殿としてロシア軍と戦いながら退却した。圧倒的な兵力差を前に、ポニャトフスキはスタニスワフ2世アウグストの援軍を求めるとともに、ウクライナを放棄してヴォルィーニに撤退した。ここのポウォンネはポーランド軍の一大防衛拠点だった。ここでルボミルスキが兵力補給を任された。 -19世紀より以前、千島列島には20,000-25,000頭のラッコが住み、カムチャッカ半島やコマンドルスキー諸島にも多く住んでいた。「大いなる狩猟(GreatHunt)」以後は、この地域に住むラッコはわずか750頭となっていた。2004年現在、かつての生息地全域でラッコが見られるようになり、27,000頭にまでなった。このうち、約19,000頭が千島列島に住み、2000から3500頭がカムチャッカ半島に、5,000から5,500頭がコマンドルスキー諸島に住んでいる。ここに来て増加はわずかに遅くなり、ほぼ環境収容力に達したものと見られる。ロシアでのラッコ生息数の復活成功は、広範囲かつ長期間の保護によるものであり、島からの人間の移住が大きく影響している。 -ニューヨーク市は、ロンドンとともに最高水準の世界都市、金融センターであり、国際連合の本部所在地でもあり、世界の政治、経済、文化、ファッション、エンターテインメントなどに多大な影響を及ぼしている。 -1905年の反乱に参加した水兵の大部分は、1917年の2月革命までルーマニア国内に残る事を選択した。反乱の直後にロシアに戻った水兵も居たが、少なくとも56人が反乱罪で投獄され、うち7人が首謀者として処刑されている。その一方で、下士官の中には「水兵の脅迫の下に行動したのみである」と主張して免罪を受けたものも居た。ルーマニアには約600人の水兵が残留した。首謀者の一人マチュシェーンコは1907年に恩赦の約束の下に4人の同僚と共にロシアに帰国したが、約束は反故にされ絞首刑に処された。別の首謀者の一人であるJosephDymtchenkoは、1908年に31人の元水兵と共にアルゼンチンに脱出し、彼の地に定住した。最後まで生存した元水兵はIvanBeshoffで、トルコとロンドン(彼はロンドンでレーニンに会ったと主張していた。)を経由してアイルランドに脱出、ダブリンに定住した。彼はダブリンでフィッシュ・アンド・チップスの販売店を経営し、1987年10��25日に102歳で死去した。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設を具体化させていく。ディズニーがいつからテーマパーク建設の意図を持っていたかははっきりせず、娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て、「大人も楽しめるテーマパークの建設」を思い立ったとも、趣味である鉄道模型の製作が高じて大規模なテーマパークの制作を思い立ったとも言われている。いずれにせよ、このころからディズニーはアニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。1951年3月にはスタジオのあるバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したが、これは遊園地建設による騒音などの住環境悪化を懸念した市当局によって拒否された。また、このころには計画は当��のものを大きく超えた大規模なものとなっていたため、ディズニーは広大な土地の確保できる代替地の確保に乗り出し、1953年9月にはカリフォルニア州アナハイムに160エーカー(730,000m2)の土地を購入し用地を確保した。しかしこれほどの大規模な建設計画を行う資金はディズニーにはなかったため、彼はこの時期に登場した新たなメディアであるテレビとの連携を考え付いた。こうして、新たなテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、1954年には「ディズニーランド」というTV番組をABCで放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。この番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も変遷を経ながら2008年まで54年間にわたって放映され続ける長寿番組となった。ABCはこの成功によって業績を大幅に向上させ、またこの成功を見た大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに1950年に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」や、デンマークに1843年に作られた遊園地チボリ公園など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った。 -篠枝は、私生活では1948年に再婚して次男をもうけるが、同年に次男を夫に託して離婚した。1952年、前年に死去した父の治療費や生活費のために割烹旅館を開業した。1953年、原爆傷害調査委員会の検査により癌の徴候が確認され、数年後には原爆症の後遺症が現れ、原爆病院へ入退院を繰り返す身となった。この頃より篠枝の歌は、後述の「かりそめの貧血症なればよし原爆症と呼ばれたくなし」のように、自身の病気の方向へと内向していった。1959年には病身に鞭を打ち、第5回原水爆禁止世界大会に参加した。栗原貞子、前田とみ子らとともに「原水爆禁止広島母の会」を結成し、1961年から機関紙『ひろしまの河』を発刊を開始。同紙第1号には、篠枝は「私の苦悩と寂莫」と題し、平和を望むという当然の行為が侮蔑されていることを苦悩する文章を寄せている。しかし1963年の原水爆禁止世界大会の内部分裂の影響を受け、篠枝たちの会も組織分裂を起こし、篠枝は苦悩の日々を送ることとなった。1962年、『さんげ』の再録およびその後の新作をまとめた『耳鳴り』が出版された。岩波書店や筑摩書房に断られ続けた末、平凡社からの出版であった。短歌以外にも詩、手記、童話で構成されており、原爆の恐怖と悲しみを子供に伝えるために著した童話『ピカッ子ちゃん』や、被爆後の篠枝の生活と闘病の記録も盛り込まれた。 -2005年10月に開館したジョージア水族館は世界最大の水族館である。水量31,000tにおよぶこの水族館の水槽ではジンベエザメ、シロイルカ、オニイトマキエイなども飼育されている。2007年5月には、リニューアルされ、水族館の近くに移転されたワールド・オブ・コカ・コーラが開館した。ワールド・オブ・コカ・コーラでは、コカ・コーラの歴史を紹介すると共に、来館者が世界中のコカ・コーラ社製品の試飲をできるようになっている。ジョージア水族館やワールド・オブ・コカ・コーラのほかにも、アトランタには芸術や歴史をテーマにしたいくつもの美術館・博物館がある。アトランタ歴史センターは全米でも有数の歴史博物館である。ミッドタウンのウッドラフ・アーツ・センター内に建つハイ美術館は、常設展示品だけで11,000点の作品を展示しているアトランタ随一の美術館である。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが少年時代を過ごした家は、国家歴史登録財に指定されている。アトランタ・シクロラマは、南北戦争のアトランタの戦いを描いたパノラマ絵画で、同名の博物館の館内に展示されている。20世紀初めに建てられた家具王ローズの家や、「風と共に去りぬ」の原作者マーガレット・ミッチェルの家も、それぞれ国家歴史登録財に指定され、博物館になっている。子供向けの博物館としては、ファーンバンク科学センターなどがある。 -1990年代、桑名市が実施した市民アンケートで、新しい図書館の建設が最も多く挙げられた一方、保健センターと勤労青少年ホームを建て替える必要があった。3つの施設を建てるのは費用がかかるため、3つの機能を持つ1つの施設を建設することが検討された。1999年(平成11年)2月、「PFI推進検討会」を設置してPFIの導入可能性を検討し、2001年(平成13年)8月に正式にPFIを導入することを決定した。導入可能性の調査は日本経済研究所に委託された。桑名市が採用したPFIはBOT方式と呼ばれるもので、民間が設計から建設、施設の所有と管理を行い、30年後に市へ無償で所有権を移すというものだった。計画段階ではくわなメディアライヴ全体にPFIを導入することを検討したが、民間に運営させてサービス向上できるものは図書館のみであると判断され、現在の形となった。事業参加の意思を表明した企業グループは8つであった。 -メルバーン卿の議会における求心力は低下し続け、1841年6月4日には保守党提出の内閣不信任案が1票差で可決された。メルバーン卿はヴィクトリア女王に上奏して解散総選挙(英語版)に打って出たが、保守党の勝利に終わった。グラッドストンもニューアーク選挙区から圧勝で再選した。メルバーン卿は召集された議会で敗北して総辞職し、代わってピールが組閣の大命を受け、第二次ピール内閣(英語版)が発足した。グラッドストンはアイルランド担当大臣(英語版)としての入閣を希望したが、ピールはグラッドストンにその地位を与えたらアイルランド人に国教会を押し付けることに利用するだろうと見ていた。ピールはグラッドストンに神学論争から離れてほしがっており、そのためにも実際的な仕事をさせようと商務庁副長官(英語版)のポストを与えた。商務庁長官は貴族院議員リポン伯爵だったため、グラッドストンが庶民院における商務庁代表者となった。グラッドストンは財政には門外漢だったが、この役職に就任したのを機に急速に財政に関する知識を身に付け、その勤勉さでリポン伯爵よりも商務庁の政務に精通するようになった。やがてリポン伯爵を傀儡にして商務庁の経済政策を主導するようになった。 -結局ナポレオンは6月18日にワーテルローの戦いにおいてイギリス軍とプロイセン軍に敗北を喫した。ナポレオンは再び廃位されてイギリス領セント・ヘレナ島へ流された。7月6日には再度ルイ18世がパリへ帰還し、復古王政を再開した。今回のルイ18世はオルタンスとその子供たちがパリに滞在することを許さず、7月19日に母子は国を追われ、ルイ・ナポレオンは亡命生活を送ることを余儀なくされた。 -1903年に展覧騎兵中隊に任じられ、騎兵連隊の装甲訓練委員の一員となった。妻と別れてから経済的状況は再び悪化し、ギャンブルの負けによってさらに加速した。マンネルヘイムは環境を変えることで解決を図り、日露戦争が勃発すると前線勤務を志願して受理された。 -ライアン・トーマス・ゴズリングは、カナダの俳優・ミュージシャンである。ディズニー・チャンネルで放送された『ミッキーマウス・クラブ』で子役としてキャリアを開始させ、『アー・ユー・アフレイド・オブ・ザ・ダーク?』や『ミステリー・グースバンプス』など子ども向け娯楽番組にいくつか出演した。映画初主演作はユダヤ人のネオナチを演じた『ザ・ビリーヴァー』で、その後も『完全犯罪クラブ』・『スローター・ルール』・『16歳の合衆国』など、自主映画数本に出演した。ゴズリングが注目を集めるようになったきっかけは、商業的に成功したロマンティック・ドラマ『きみに読む物語』への出演である。薬物中毒の教師を演じた2006年の映画『ハーフネルソン』ではアカデミー主演男優賞にノミネートされ、社会に上手くなじめない孤独な主人公を演じた『ラースと、その彼女』ではゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされた。また3年後・2010年に公開された『ブルーバレンタイン』では、2度目のゴールデングローブ賞ノミネートを受けた。2011年には、ロマンティック・コメディ映画『ラブ・アゲイン』、政治ドラマ『スーパー・チューズデー���正義を売った日〜』、アクション・スリラー『ドライヴ』に出演し、前2作で第69回ゴールデングローブ賞の主演男優賞2部門にノミネートされた。監督デビュー作となる『ロスト・リバー』は2014年に公開されたが酷評された。映画『マネー・ショート華麗なる大逆転』、『ラ・ラ・ランド』での演技は好評を得て、後者ではゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を獲得したほか、2度目のオスカーノミネートを受けた。 -近自然型魚道ともいい、自然の川を模してあらゆる水生生物が通れるように配慮したもの。多自然型迂回水路などがある。魚の遡行を妨げないための人工構造物という魚道のもともとの概念を離れ、多自然型川づくりを魚道に持ち込んだものと言える。条件しだいで自然の川と見まがう水路ができるが、自然に任せればうまくいくというものではなく、細かく配慮した設計と施工が必要になる。また、自然な流れで魚を遡上させるには、概して人工的な魚道よりも勾配を緩やかにする必要があり、その分、長大な魚道となって建設コストは嵩む。場所も多くとる。さらに魚道内の植物繁茂等も生じやすく、維持管理の手間・コストもかかる。魚道内の石組み、石の大きさ等を工夫すれば、それなりに急勾配化は可能だが、その場合の流れは、プール式魚道などの人工的な魚道と同様になる。総じて多自然化、近自然化の度合いを高めるほど、見た目の美しさ、親水性、自然への接近という利点は増進するものの、建設費、維持管理の手間などのコスト面の問題も増し、また、魚道効果の持続性に十分な配慮が必要となる。 -このような事情から、近年の論文や書籍では、「信行」ではなく、「信勝」として表記されることが多い。例えば、谷口克広の『織田信長家臣人名事典第2版』は項目名に「織田信勝」を、岡田正人の『織田信長総合事典』は「織田信勝(信行)」をそれぞれ採用している。このほか、池上裕子や村岡幹生も「信勝」という表記を使用している。なお、すでに述べたとおり、通称として勘十郎を名乗り、官途名として武蔵守を使用しているが、これ以外に「弾正忠」を称したとも考えられている。このように信行の名が実際に使われていたか不確かであるが、この記事では便宜上、以後も「信行」で統一する。 -1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別した。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば満月になけほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。 -ニコライの誕生後、3人の弟としてアレクサンドル(夭折)、ゲオルギー、ミハイル、また2人の妹としてクセニアとオリガが生まれている。 -「デング」の語源は明らかではないが、スペイン語:dengueが由来という説や、スワヒリ語で「霊魂に取り付かれた状態」を意味する言葉に由来するという説もある。デング熱に苦しんでいた西インド諸島の奴隷たちが、ダンディな(気取った)姿勢や歩き方をしていたと言われていて、「ダンディ熱(dandyfever)」とも呼ばれるようになった。台湾語では日本統治時代から「天狗熱」(thian-káu-jia̍t)という名称を使い続ける。英語ではデング熱はbreak-bonefeverとも呼ばれるが、この用語が初めて使われたのは1789年のことで、医師だったアメリカ合衆国建国の父ベンジャミン・ラッシュが、1780年フィラデルフィアで起きた流行を記述した報告書の中で使用した。実際には、その報告書の中で彼は、より正式な用語である「胆汁性寛解型発熱(biliousremittingfever)」の方を多用している。デング熱という用語が一般的に使われるようになったのは、1828年以降のことである。そのほか、過去に使用された用語に「激しい発熱(breakheartfever)」や「ラ・デング(ladengue)」がある。重度の疾患を示す用語には、「感染性血小板減少性紫斑病」や「フィリピン出血熱」、「タイ出血熱」、「シンガポール出血熱」がある。 -同じく紀元前522年12月にマルギアナ(マルグ)ではマルギアナ人フラーダによる反乱が発生したため、バクトリアのサトラップ、ダーダルシに鎮圧が命ぜられ、これを撃破した。更に同月、ペルシア(パールサ)でワフヤズダータという人物が、キュロス2世(クル2世)の息子バルディヤを自称して反乱を起こしたため、これも臣下のアルタワルディヤによって鎮圧させた。 -TOPとは「ワールドワイドパートナー」(英:TheOlympicProgramme)の事である。元々、オリンピックマークの商業使用権は各国のオリンピック委員会(NOC)が各々で管理をしていたが、サマランチ会長がIOCの一括管理にした事から1988年の冬季カルガリー大会と夏季ソウル大会から始まったプログラムで、オリンピックの中でも全世界的に設けられた最高位のスポンサーである。基本的には4年単位の契約で1業種1社に限定されており、毎回計9〜11社ほどが契約を結んでいる。なお、TOPにパナソニック、ゼネラル・エレクトリック(GE)、サムスンと同業種の企業が名を連ねているが、これはパナソニックが音響・映像機器、サムスンは無線通信機器と細分化されており、またGEはエネルギー関連、インフラ、照明、その他の電気製品などの上記と重ならないカテゴリーのスポンサーとなっているからである。この他にも、各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした「ゴールドスポンサー」(1社数十億円程度)、権利はゴールドスポンサーと同様だがTOPと競合しない事が条件の「オフィシャルサプライヤー/サポーター」(1社数億円程度)、グッズの商品化のみが可能な「オフィシャルライセンシー」がある。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツ���ロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスはモエシア属州のナイッススに生まれた。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである。主にアウレリウス・ウィクトルやエウセビオスが残した年齢と死亡年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス自身が自分が生まれた正確な年を知らなかった可能性もある。父親はローマの将軍コンスタンティウス・クロルスであり、母親はその最初の妻ヘレナである。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスの出自をクラウディウス・ゴティクス帝と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い。コンスタンティウスはまた貴族出身ともされるが、恐らくは農民であり一兵卒から成り上がったものであろう。ビテュニアのドレパナ出身とも伝えられる母ヘレナが卑賎な身分の出身であったことは広く知られており、彼女は給仕婦であったともナイッススの宿屋で働いていたとも言われる。彼女はコンスタンティウスが西の正帝マクシミアヌスの義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚する際、政略的な理由から離縁されたが、コンスタンティヌスは母ヘレナとの間に密接な関係を維持した。コンスタンティウスとテオドラの間には6人の子供が生まれた。 -ベーメン北西部のこの一帯はベーミッシュ・ミッテルゲビルゲと呼ばれる山地で、プロイセン軍はこの山々の間を縫って行軍してきた。ロボジッツは山地の出口にあたり、ロボジッツの北はエルベ川、南には平地が広がる。ロボジッツの西には、北西にロボシュ山、南西にヴォフチュィン山があって、ヴェレミンの北にも同じように山があり、従ってヴェレミンは谷の底にあった。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工���国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -バンベルクは魔女狩りの中心地の一つであった。魔女狩りの時代、バンベルク大司教ヨハン・ゴットフリート1世・フォン・アシュハウゼン(1609年-1622年)及び次代のヨハン・ゲオルク2世・フークス・フォン・ドルンハイム(1623年-1633年)の指導下、大規模な魔女狩りが行われた。同様の大規模な魔女狩りは、ヴュルツブルク大司教領やマインツ選帝侯領など、ドイツ南部で行われた。1612/1613年から1617/1618年の間に、バンベルク司教領で300人が薪の上で炎に焼かれた。特に1617年には、この司教領で102人の人々が処刑された。最も有名な犠牲者は、市長のヨハネス・ユニウスで、1628年8月に魔術師監獄での拷問を受け死亡した。 -21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。1984年のロサンゼルスが6829人(221種目)だったが、2008年の北京では10942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。 -アイユーブ朝は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配したスンナ派のイスラーム王朝である。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。 -1830年7月、ポーは入学試験を経てウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学した。しかしここでの生活はポーが想像したほど自由なものではなく、詩も小説も読むことを禁じられていた。この年の10月、義父ジョン・アランはルイザ・パターソンと再婚するが、この結婚と、さらに彼が別の恋人との間に婚外子をもうけていた問題でポーと口論になり、その結果義父により勘当が言い渡された。遺産相続の可能性がなくなったポーは士官学校を去ることを決意、1831年1月にアランへ手紙でその旨を伝えた後、意図的な怠業を行なって軍法会議にかけられ、放校処分となった。2月にウェストポイントを出たポーは、3月中ごろまでニューヨークの安ホテルに滞在し、エラム・ブリス社を訪れた。エラム・ブリスはウェストポイントに出入りしていた業者で、ポーの評判を聞いて詩集の出版を引き受けたのである。出版費用はウェストポイント士官学校の生徒のカンパで賄われており、一人につき75セントずつ、合計で170ドルに達した(彼らはこの詩集を、ポーが以前書いて見せたような上官に対する風刺詩を集めたものと思っていたらしい)。ポーの第三詩集『ポー詩集』は「アル・アーラーフ」や「タマレーン」を再録していたほか、「ヘレンへ」「海の中の都市」「イスラフェル」などの新詩を含んでいたが、あまり好評は得られなかった。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』���執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -グレーター・ロンドンは1,583km2(611sqmi)の面積があり、人口は2001年現在7,172,036人で人口密度は4542人/km2。より広い範囲はロンドン大都市圏またはロンドン大都市圏密集体と呼ばれ面積は8,382km2(3,236sqmi)で人口は12,653,500人に達し人口密度は1510人/km2である。現代のロンドンはテムズ川河畔に位置する。テムズ川の特徴として、航行可能で、ロンドン市域を南西部から東部にかけ横切っている。テムズ低地は氾濫原で周辺部はなだらかな丘陵地である。その中にはパーラメント・ヒルやアディントン・ヒル、プリムロズ・ヒルが含まれる。テムズ川はかつてはより川幅が広く、水深も浅くて沼地が広がり、満潮時には河岸は通常の5倍にも達していた。 -大桑第一水力は水路が長すぎることから分割され上流側を「駒ヶ根水力」、下流側を「須原水力」とし、さらに景勝地寝覚の床が途中にあることから駒ヶ根水力も「寝覚水力」「桃山水力」に分割、計3地点とされた。読書とあわせていずれも大同電力発足後に着工された。まず須原発電所(9,200キロワット)が発足直後に着工され、翌1922年7月に竣工した。続いて1922年3月読書発電所(よみかき、4万700キロワット)、同年8月桃山発電所(2万3100キロワット)が着工され、ともに翌1923年(大正12年)12月に竣工した。残る寝覚発電所(3万2600キロワット)は開発が延期されたため、15年後の1938年(昭和13年)9月運転開始である。 -大陸軍の本軍事作戦の目的地であるイギリス領ケベックは、1775年の時点では「カナダ」と呼ばれることが多かった。例えば第二次大陸会議がフィリップ・スカイラー将軍に出した侵攻作戦の承認文では、もしも「カナダ人にとって不愉快でない」のであれば、「即座にセントジョン砦、モントリオールおよびかの国の如何なる所も占領する���と」、そして「カナダでは」植民地の「平和と安全を促進」する「如何なる手段も追求すること」という文言があった。この作戦を詳細に語る比較的現代の歴史書であっても、その表題にカナダを使っている。イギリスがケベックと呼んだこの領土は、フランスがフレンチ・インディアン戦争を正式に終えパリ条約でイギリスに同地を割譲する1763年までは、フランス領カナダ植民地と呼ばれていた(フランス軍は1760年にこの植民地をイギリス軍に明け渡していた) -地家(じけ)は雲出川と雲出川古川の分岐点にあり、第二次世界大戦前までは堤防沿いの桜並木は花見客で賑わった。香良洲西山遺跡や常夜灯がある。郵便番号は514-0324だ。砂原(すなはら)は香良洲町中心部に位置し、漁業世帯が多い。香良洲漁協が置かれている。郵便番号は514-0321だ。 -15時32分、TCA機長が客室乗務員達はゆっくり準備をしていたと伝えた。これを受けて機長は不時着の可能性を示唆し、備えを急いだ方が良いと答えた。間もなく、機長はスー・ゲートウェイ空港の進入管制官に、油圧の作動液を失い昇降舵を制御できないこと、そして滑走路にたどり着けず不時着する可能性があることを伝えた。ユナイテッド航空の運航管理部門も直接スー・ゲートウェイ空港の管制塔に連絡し、緊急着陸、消火、救命の準備を要請していた。15時34分、機長はスー・ゲートウェイ空港に着陸を試みる決断をした。機長は、航空機関士に高揚力装置を使用せず着陸する場合の情報を求め、進入管制官に計器着陸装置の周波数および滑走路の方向と長さを問い合わせた。管制官は周波数を回答し、UAL232便の現在地と進路、そして滑走路31の長さを伝えた。この時、UAL232便はスー・ゲートウェイ空港から北東約35マイル(約65km)の地点にいた。15時35分、機長は急速投棄で燃料を放出するよう航空機関士に指示した。燃料は自動投棄の下限である33,500ポンド(約15トン)まで放出された。15時38分、乗員の一人が「クリーン形態(高揚力装置と降着装置を格納した状態)の進入操作速度は200ノット(時速約370km)だろう」と発言した。副操縦士が、機長に200と185にバグ(速度計の縁にある可動式の目盛り)をセットするよう求めた。 -アイゼンハワーは9月1日、連合軍の全陸上部隊の指揮官となった。そしてドイツ軍の反撃とフランスに届く物資の制約への懸念から、狭い正面の一撃ではなく幅広い正面で作戦を継続することを決定した。ノルマンディーに上陸した部隊はジークフリート線への進撃の過程で、9月12日、南フランスの連合軍と合流した。9月17日、モントゴメリーは、英米の空挺部隊でオランダ国内の橋を確保し陸上部隊がライン川を渡りドイツへ進撃するマーケット・ガーデン作戦を開始したが失敗した。連合軍の進撃はドイツ軍の抵抗と補給不足(特に燃料)のため遅くなった。12月16日、ドイツ軍はバルジの戦いと呼ばれることになる、西部戦線最後の大攻勢であるアルデンヌ攻勢を開始した。1945年1月12日には、ソ連軍がヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。4月30日、ソ連軍がベルリンの総統地下壕に近づくとヒトラーは自殺し、5月7日にドイツは降伏した。 -15世紀以後に「カフワ」はイエメンからイスラーム世界に広まる。イエメンの古都ザビードでは、1450年頃にスーフィーによってコーヒーが飲まれていたことを証拠づける考古学的資料が発掘されている。16世紀初頭には、カイロのアズハル大学でもコーヒーが飲まれていた。16世紀初頭のメッカ、メディナ、あるいはカイロのモスクではコーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーの姿が多く見られたが、同時にコーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった。1511年にはメッカで高官ハーイル・ベイ・ミマルによってコーヒー飲用の是非が諮られた後、メッカ内のコーヒー豆が焼かれ、コーヒーを売買した者や飲用した者は鞭打ちに処されるコーヒーの弾圧事件が起きる。翌年にカイロから「コーヒーの飲用に随伴する反宗教的行為の取り締まり」のみを許可する通達が出され、ハーイル・ベイ・ミマルは職を解任された。1525年/26年には風紀を乱すとしてメッカ内のコーヒーハウスの閉鎖が命じられたが、コーヒー自体の飲用は禁止されなかった。 -同様の皮肉として、2017年(平成29年)2月には、漫画家の横山了一が描いた漫画『各方面に気を使いすぎておかしな事になったヘンゼルとグレーテル』が、Twitterで話題となった。横山が「スタッフが美味しくいただきました」の注釈をヒントに、グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』で地面にパン屑を撒く場面を連想し、同作品をもとに、横山と加藤マユミの漫画家夫妻で注釈を考えたものである。ヘンゼルとグレーテルが森をさまよう場面では「危険なので決してマネしないでください」、道標としてパン屑を撒く場面では「この後スタッフが美味しくいただきました」、魔女をかまどに突き飛ばす場面では「この物語はフィクションです」など、すべての場面に徹底して注釈が入れられている。 -ミネアポリスには5つの病院があり、そのうちアボット・ノースウェスタン病院、ヘネピン郡メディカルセンター(HCMC)、ミネソタ大学メディカルセンターの3つはUSニューズ&ワールド・レポート誌の「アメリカで最も優れた病院」ランキングにその名が載っている。その3病院はすべて19世紀から20世紀初頭までの間に設立された。市内にはこのほか、ブリトン物理療法・リハビリテーションセンターとミネソタ小児病院がある。ミネアポリス・セントポールの南東約125km、車で約2時間のロチェスターには、メイヨー・クリニックの本部がある。心臓手術はミネソタ大学のバラエティ・クラブ病院で発達した。1957年頃までの間、同病院は200人以上の患者に対し開胸手術を行い、成功させた。患者の多くは子供であった。またこの頃、外科医C・ウォルトン・リレハイとの協働のもと、メドトロニック社は携帯可能、移植可能な心臓ペースメーカーの開発に取り組んでいた。 -太平洋戦争後、連合軍総司令部(GHQ)の指示により武道教育や時代劇映画は禁止されていたが、1951年のサンフランシスコ講和条約の締結以降に相次いで解禁されると、漫画の世界でも武道を描いた作品が登場し、1952年から1954年にかけて柔道漫画『イガグリくん』(福井英一)が『冒険王』で連載された。この作品は講談や時代劇などで描かれてきた伝統的な日本人的心情に則ったもので、柔道だけでなく異種格闘技戦の要素も含んだ作風は熱血スポーツ漫画のルーツとも呼ばれ、後の作品群に影響を与えることになった。『イガグリくん』のキャラクター設定や必殺技を擁した対決シーンは、1958年から『おもしろブック』で連載された貝塚ひろしの野球漫画『くりくり投手』へと引き継がれ、これ以降のスポーツ漫画における定石となった。『くりくり投手』では『イガグリくん』の手法をさらに極端化し、必殺技を身に付けるための過激な特訓の描写も登場した。1961年から1962年にかけて『週刊少年マガジン』では福本和也原作・ちばてつや作画による野球漫画『ちかいの魔球』が連載された。この作品は実在のプロ野球の世界と必殺技の要素を併せた内容となり、後に同誌でやはり福本作・一峰大二作画で連載された『黒い秘密兵器』や、梶原一騎の『巨人の星』へと踏襲された。 -セラム(Selam)ないしディキカ・ベビー(DikikaBaby)は、アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の幼女の化石人骨で、2011年時点で発見されている中ではホミニン最古の幼児化石である。2000年12月10日にエチオピアで発見された。標本番号はDIK-1-1だが、後述するように、発表当初は「ルーシーの赤ちゃん」(Lucy'sbaby)とも呼ばれていた。ホミニンの化石人骨は多く見付かっているが、全身骨格となると非常に例が少ない。まして幼体は軟骨が多いことから骨が残りにくいにもかかわらず、セラムは全身の骨格が発見された点で高く評価されている。 -江戸時代後期に始まったうど栽培は、多くの関係者の品種改良や栽培技術改善にかける努力によって北多摩地域を品質・生産量ともに日本一のうど産地とした。高度成長期には高級食材として高値で取引され、「うどで蔵が建つ」といわれるほどであった。しかし、うどの栽培地は農地の宅地化や都市化の進行によって栽培面積の減少が進んだ。さらには長年の連作で畑の生産力が低下したことや、地球温暖化の影響で寒暖の差が小さくなったこと、天井が低く、階段の昇降をも伴う穴蔵での重労働や生産の担い手である農家の高齢化の進行など、複数の要因が重なって栽培の継続が困難になっていった。消費者の嗜好の変化(日本料理から洋風料理への需要の移行)もあって、うど自体の価格も下落した。栽培初期からの産地であった杉並区上井草付近では1975年(昭和50年)頃を境に栽培が見られなくなり、武蔵野や練馬周辺にかつては100軒ほどあった栽培農家も、2014年(平成26年)の時点では5軒ほどに減ってしまった。 -特定の動作を行なうことで狐の嫁入りが見えるという伝承も各地にあり、福島県では旧暦10月10日の夕方にすり鉢を頭にかぶり、腰にすりこぎをさしてマメガキの下に立つ、愛知県では井戸に唾を吐き、指を組み合わせてその穴から覗くと、狐の嫁入りが見えるという。江戸時代頃には、こうした「狐の嫁入り」の伝承が信じられていたことから、人間がキツネに仮装して「狐の嫁入り」を演じたとしても、庶民にはそれを見破ることができなかったとして、人為的な仕掛けで会った可能性も示唆されている。キツネ同士の結婚ではなく、人間の男性のもとにメスのキツネが嫁ぐ話もあり、代表的なものとしては、人形浄瑠璃にもなり、平安時代の陰陽師・安倍晴明の出生にまつわるものとしても知られる『葛の葉』が挙げられる。このほかにも『日本現報善悪霊異記』や、1857年(安政4年)の地誌『利根川図志』などに同様の話がある。後者は、関東の諸葛孔明と喩えられる実在の武将・栗林義長にまつわるもので、茨城県牛久市の女化町の名の由来でもあり、同県龍ケ崎市に女化神社としてキツネが祀られている。 -2005年11月、那珂川から迷い込んだと思われるサケが遡上する姿が桜川・逆川で確認され、新聞で報道された。以後2017年まで毎年秋にサケの遡上が確認され、逆川の水質改善の成果と捉えられている。逆川に来たサケは主にふれあい橋から水神橋の間で産卵を行っている。2005年に遡上した時の調査では26個の採卵中1個が生存卵であった。サケの遡上数は桜川との合流点より下流にある柳堤堰の開閉により変動が見られる。柳堤堰は水戸市柳町・本町にある備前堀への導水のための堰で、2005年は工事により堰が開放されており、サケが遡上しやすい環境であった。その後も柳堤堰を長く開けていた年はサケの遡上数が多いことが分かってきたことから、サケのライフサイクルに合わせ、11月から3月は堰の開放するようになった。また、逆川でのサケの稚魚放流事業が2009年から行われている。なお逆川は水質が今よりもずっと清浄であった時期であってもサケが来るような川では無かったとされ、茨城新聞紙上において市民より"それは何故か?"との問いが投げかけられた。それに対し国交省霞ヶ浦導水工事事務所員は、"河川改修以前の逆川は段差がある小さな川であった為、サケが遡上出来なかったのでは"との見解を紙上で返している。 -主として1960年代半ば以降、ロンドンは世界的なユースカルチャーの中心地となっていった。キングス・ロード、チェルシー、カーナービーストリートといった地域ではスウィングロンドンといったスタイルが流行した。流行の発信拠点としての役割はパンク・ロックの時代に復活し、1965年、ロンドンの都市的地域の拡大にともない、管轄範囲を拡大したグレーター・ロンドン・カウンシルが設立された。北アイルランド問題に関連し、ロンドンではIRA暫定派による爆破事件が発生した。1981年のブリクストン暴動では、人種差別問題が注目を集めた。第二次世界大戦以後、グレーター・ロンドンの人口は次第に減少していった。ピーク時の1939年の推計人口が861万5,245人だったのに対し、1980年代では約680万人に減少していた。ドックランズのカナリー・ワーフ再開発事業にともない、ロンドンの主要港は下流に位置するフェリクストウ港やティンバリー港に移転した。また、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な金融センターとしての役割は増加の一途をたどった。 -1383年10月にフェルナンド1世が没した後、ベアトリスがポルトガル女王に即位し、大貴族メネゼス家出身の王妃でベアトリスの母であるレオノール・テレスが摂政となり、貴族らと共に専制政治が始まった。戦争に疲弊し、経済的に困窮する都市の下層民や職人層の反乱���ベアトリスの即位前から各地で勃発し、都市下層民と一部の貴族はカスティーリャとの戦争で利益を得たレオノールとその寵臣であるオーレム伯アンデイロを悪政の元凶として敵視していた。 -フランシスコ(羅:Franciscus、伊:Francesco、西:Francisco、英:Francis、1936年12月17日-)は、第266代ローマ教皇(在位:2013年3月13日-)。就任は3月19日であり、この日にサン・ピエトロ広場において就任ミサを執り行った。新教皇の選出にあたり、日本のカトリック中央協議会は声明を発し、枢機卿自身は「フランチェスコ」とイタリア語で発音したが、「日本では英語の発音で『アッシジの聖フランシスコ』との呼び名が定着している」ので、混乱を避けるために「報道機関も英語読みで統一してほしい」と要請した。そのとき、併せてアッシジのフランチェスコとの混同を避けるために「日本の教会は1世を付けて呼んでいく」と付言したが、その後教皇庁大使館より日本カトリック中央協議会に通知があり、新教皇名には「1世」を付けないことになり、新教皇名を「教皇フランシスコ」として各小教区・信徒・司祭・修道者に周知するよう指示がなされた。なお、本項目ではローマ教皇着座前の言動に関しては「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ」、着座後の言動に関しては「フランシスコ」と呼称を区別する。 -ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスは、ローマ帝国の皇帝である。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムスの称号を与えられた。ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の1人であり、ローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、コンスタンティヌス1世が自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープルは、その後東ローマ帝国の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした。 -現在のチェコは大きく分けて、ベドルジハ・スメタナやドヴォルザークの生まれたボヘミア(西部)とヤナーチェクの生まれたモラヴィア(東部)という歴史的地域から成り立っているが、両者の間には文化においても違いがある。ボヘミアが「いつも多分に西ヨーロッパの一部」で「いっそう都会風で豊か」なのに対し、モラヴィアは「スラヴ系特有の東洋との同一性を保持」し、「本質的に農村」と評される。音楽についてもボヘミアの音楽が「単純な和声と規則的なリズムのパターンと調的構造」「厳格で規則正しい拍子」を有するのに対し、モラヴィア、とりわけワラキア、ラキアなどスロバキアに近い東部の音楽は規則性がなく、自由な旋律によって構成される。また、ボヘミアの音楽には長調のものが多く、モラヴィアの音楽には短調のものが多い。。ボヘミアの音楽は舞踊に適するがモラヴィアの音楽は適さないとされる。ヤナーチェクはチェコの音楽史において、「スラヴ人民の為のチェコ音楽の創造を目ざし、モラヴィア地方の諸要素を自らの内に正当化しつつ、地方レベルの音楽からモラヴィアの地方性に基づく国民音楽へ、さらには20世紀における世界的水準に至る現代音楽へと、創作の意味内容と価値を昇華させた」と評される。ヤナーチェクは、スメタナの音楽のもつボヘミア的を西欧音楽・ドイツ音楽に傾斜した、「モラヴィアの『地方性』や『民俗性』を含む『汎スラブ主義』の理想を脅かす」ものとみなし、「モラヴィアの伝統文化こそが、西スラヴ民族であるチェコ人の音楽を象徴するものである」と考えた。内藤久子は、ヤナーチェクは「西洋としてのチェコ音楽」ではなく「『スラヴ民族としてのチェコ民衆の音楽』を通して見出される表現領域」、「西洋文化の影響がどちらかといえば希薄な南東モラヴィアのスロヴァーツコ地方や、東モラヴィアのラシュスコおよびヴァラシュコ地方の民俗音楽」にこそ、スラヴィ人としてのアイデンティティを見出したのだと述べている。モラヴィア出身の音楽学者J・ヴィスロウジルは、西洋音楽の枠にとらわれなかったヤナーチェクこそ「真のスラブ民族の音楽を樹立しようとした人物」であり、ヤナーチェクの出現によって「本当の意味での『チェコ国民音楽』の発展」が始まったのだと述べている。 -紅藻は、真核温泉藻の中核を成す生物群。温泉藻である紅藻は海洋に生息するような大型の藻類ではなく、全てイデユコゴメ綱(Cyanidiophyceae)に分類される単細胞の紅藻である。本綱の紅藻は全て温泉藻である。紅藻の中で初期に分岐したと考えられることから、このグループを原始紅藻と呼ぶ場合もある。イデユコゴメ綱の紅藻は赤色の色素であるフィコエリスリンを欠くため、紅藻ではあるが藍藻と同じフィコシアニンの青緑色を呈する。そのため、肉眼による藍藻との判別は困難である。いずれも硫酸酸性の低pHの温泉を好み、世界各地に生息する。イデユコゴメ綱イデユコゴメ目イデユコゴメ科の3属が含まれる。 -18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命を通じて安価で大量生産が可能になると玩具はさらに普及した。切り絵や工作用または着せ替え人形の服など玩具の材料に紙が使われるのもこの頃である。日本でも庶民の間で広く玩具が広がったのは江戸時代中期以降であり、それまでは宮中の行事用や上流階級の遊び用であった様々な道具に起源をもつ玩具が一般層に広がった。『日本永代蔵』では風車職人の話があり、元禄文化時代には家内制手工業による生産と露天商や行商等の販売、そして庶民文化と生活の発展による消費が成り立った。また、自然素材を用いたからくり玩具も江戸時代の庶民に普及した。19世紀に玩具は大きな発展を見せた。「ママ」としゃべる人形が登場し、ぜんまい仕掛けの玩具も精巧になり、1851年に開催されたロンドン万国博覧会では当時最先端の玩具が多数出品された。また、幼児教育と玩具の関係が重要視され始めたのもこの時期である。 -1865年に南北戦争が終結すると、アフリカ系の市民に教育の機会が与えられ、男子には参政権も与えられた。解放黒人局の助力により、多くの解放奴隷が田舎からローリーへと移入してきた。1865年には、南部初の黒人大学、ショー大学が開学した。ショー大学は開学当初は男子大学であったが、やがて共学に移行し、全米で初めてとなるアフリカ系女子学生の教育を行う校舎としてエステー・ホールが建てられた。また、ショー大学にはアフリカ系学生のための4年制医学校としては全米初となる、レナード・メディカル・センターも設置された。1867年には聖公会が解放奴隷を受け入れる高等教育機関としてセント・オーガスティンズ大学を開学した。さらに1869年には、州議会は全米初の、アフリカ系盲人・聾人学校をローリーに設置することを可決した。しかし、人種の壁が完全に取り払われたわけではなかった。1900年、州議会は新しい州憲法案を可決させた。この州憲法により、ほとんどの黒人と多くの貧困層の白人から投票権が剥奪された。1908年には黒人票は0になった。アフリカ系の市民の多くが再び投票権を得たり、裁判において陪審員となったり、地方公務員として従事したりすることができるようになったのはそれからだいぶ後、1965年以降のことであった。クラレンス・E・ライトナーは1967年に市議会議員に当選、その後1973年には市長に就任し、ローリー市史上初のアフリカ系市長となった。 -逃亡した奴隷たちはカプアから派遣された討伐隊を撃退し、不名誉と考える剣闘士の武器を捨てて手に入れた軍隊の武器を装備した。養成所脱走直後の動向については史料によって異同があるが、逃亡した剣闘士の集団がカプア周辺を略奪し、そこの奴隷たちを仲間に加え、ウェスウィウス山に立て籠もったという点ではおおよそ一致している。 -1169年にエジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する。サラディンはアッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカス、アレッポ、ディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した。アル=アーディル、アル=カーミル、アッ=サーリフら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らはカイロで政務を執った。1250年にマムルーク(軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出したモンゴル帝国とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。 -セント・ヘレンズ山はシュガー・ボウル噴火期から約700年間の休息期間を経た1500年頃、突発的に活動を再開し、カラマ噴火期と呼ばれる活動期間に入った。薄い灰色をした軽石と火山灰を噴出し、セント・ヘレンズ山の北東斜面には約9.5kmにわたって噴出物が約1mほど堆積した。また、北東方向に約80km離れた地点においても約5cmの降灰が確認されているまた。大規模な火砕流や土石流が西側の斜面で発生し、カラマ川に流れ落ちた。 -トリエルは主人公が最初に訪れる遺跡の番人を務めるモンスターの女性で、ヤギのような姿をしている。心優しく母性に溢れ、地底に来たばかりの主人公を自身の住処で保護するが、地底世界から脱出するために外に出ようとした主人公を止めるため立ちふさがる。アズゴアとは元夫婦だが、現在は関わっていない。彼の考えを良しとしていない彼女の真の目的は、遺跡に落ちてきたニンゲンを匿い、アズゴアに渡さないようにすることであった。平和主義ルートでは、アズゴア戦の直前に現れ、戦闘を未然に防ぐ。 -リュウグウノツカイの体は左右から押しつぶされたように平たく側扁し、タチウオのように薄く細長い。体高が最も高いのは頭部で、尾端に向かって先細りとなる。下顎がやや前方に突出し、口は斜め上に向かって開く。鱗・歯・鰾を持たない。鰓耙は40-58本と多く、近縁のAgrostichthys属(8-10本)との鑑別点となっている。椎骨は143-170個である。背びれの基底は長く、吻の後端から始まり尾端まで連続する。全て軟条であり、鰭条数は260-412本と多く、先頭の6-10軟条はたてがみのように細長く伸びる。腹びれの鰭条は左右1本ずつしかなく、糸のように長く発達する。腹びれの先端はオール状に膨らみ、本種の英名の一つである「Oarfish」の由来となっている。この膨らんだ部分には多数の化学受容器が存在することが分かっており、餌生物の存在を探知する機能を持つと考えられている。尾びれは非常に小さく、臀びれは持たない。 -ロイヒ(英:Lōʻihi)またはロイヒ海山(ロイヒかいざん、英:LoihiSeamount)とは、アメリカ合衆国、ハワイ島からおよそ35km(22mi)南東沖にある活発な海底火山である。山頂は地球上最大の楯状火山であるマウナ・ロア山の中腹、海面下975m(3,000ft)に位置している。「ロイヒ」とは、ハワイ語で「長い」を意味する言葉である。 -スズキ(鱸、学名:Lateolabraxjaponicus)は、スズキ目・スズキ亜目・スズキ科に属する魚である。海岸近くや河川に生息する大型の肉食魚で、食用や釣りの対象魚として人気がある。成長につれて呼び名が変わる出世魚である。スズキはいわゆる出世魚で、成長とともに呼び名が変わる。ただし、地方によって呼び名は様々に異なり、統一的な定義はない。例として関東では1年ものと2年もので全長20-30cm程度までのものを「セイゴ」(鮬)、2、3年目以降の魚で全長40-60cm程度までを「フッコ」、それ以上の大きさの通常4-5年もの以降程度の成熟魚を「スズキ」と呼んでいる。関西では「フッコ」の代わりに「ハネ」という呼称が使われている。東海地方では60cm程度までを一律に「セイゴ」、それ以上の大きさの成熟魚を「マダカ」と呼んで二分することが多い。宮城県周辺では小型のものを「セッパ」とも呼ぶ。有明海産は地元の人からは「ハクラ」と呼ばれている。 -船山春子は1910年、熊本県玉名郡江田町の商家に誕生した。次女であり、姉の他に兄と弟が1人ずついた。裕福な家の生まれであったが、春子が8歳のときに父が死去し、家は人手に渡った。母は飲食店を営んだが、商売は成功せず、後に中風に倒れた。これにより春子は、空の米櫃にすがって泣く日があり、田のある家に稲穂拾いに行くほど、極貧の少女時代を送った。1923年、熊本県立玉名高等女学校に入学した。下駄を履き減らすのが惜しいといって、約4里の通学路を��とんど裸足で通学した。その傍ら、豆腐を作って売り、学費を工面した。しかし、その金を兄が遊びに使い込んだため、学費が払えず、失意の内に2年で中退を強いられた。地元での学業を諦め、台湾に勤める親戚を頼って台湾に渡った。看護師の養成学校に通い、病院の見習い看護師として勤めつつ、生計のために正看護師の資格を得た。病院の院長秘書を務め、教員養成学校にも通い、教員の資格も得た。これらはほぼ独学で、当時は1日の睡眠時間は3時間だった。この台湾滞在中に、母とも死別した。 -蓬莱社(ほうらいしゃ)は1873年(明治6年)2月(設立年月には異説あり)征韓論を主張して敗れ下野した後藤象二郎を中心に士族たち、島田組・鴻池組などの関西商人、上杉・蜂須賀などの旧大名らなど後藤象二郎の幅広い人脈によって設立された会社である。金融・為替業および高島炭鉱経営の他、海運業、洋紙製紙業、近代的機械精糖業、神岡鉱山経営などと幅広く業務を手がけたが、経営は不振で1876年(明治9年)8月わずか3年半ほどの期間で倒産している。後藤の経営は大隈重信の言葉によると「士族の商売」であり、前時代的であり過ぎたが、資本の有限責任性や持分資本家と機能資本家の分離など時代の先を行く面もあり、また洋紙製紙業、近代的機械精糖業は結果的には事業に失敗したとはいえ、それぞれ日本における嚆矢であり時代的意義は大きい。後藤は蓬莱社の事業失敗で巨大な借金をかかえるが、その後も政界で活躍する。銀座汐留にかかっていた木橋は蓬莱社の資金で石橋に架け替えられたため蓬莱橋と名付けられ、現代に蓬莱橋交差点としてその社名を残している。 -ベラ湾夜戦では、日本軍のコロンバンガラ島への輸送部隊が、アメリカ軍の水雷戦隊に邀撃され、日本側駆逐艦3隻が沈没した。アメリカ軍側の呼称はヴェラ湾海戦(BattleofVellaGulf)である。 -マダガスカル島は南北に細長い形であるが、その気候は南北の差異よりも東西の差異の方が大きい。マダガスカルの気候は、南東貿易風と北西モンスーンの影響を強く受け、これら勢力の組み合わせにより季節が移り変わる。気温が高く降雨量が多い雨季(11月から4月まで)と、比較的低温で乾燥する乾季(5月から10月まで)がある。雨季には頻繁に破壊的なサイクロンが襲来する。インド洋上で発生する雨雲は、島の東海岸部上空で蓄えた水分の多くを放出する。そのため当該地域の降雨量は非常に多く、熱帯雨林の生態系の形成に寄与している。中央高地は東海岸部よりも乾燥し、気温も低い。西部はさらに乾燥しており、島の南西部と南部の内陸は、半砂漠気候(ステップ気候)が広がる。熱帯性低気圧は毎年定期的に、インフラストラクチャーと地域経済に損害を与え、家を失う人を出す。1848年から1970年までの122年間で155回のサイクロンに見舞われたという記録があり、年平均1.27回のサイクロンがあったことになる。 -1867年、ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。これにより、ハプスブルク帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。 -警察庁は、2019年(令和元年)12月10日時点で、死者は1万5899人、重軽傷者は6157人、警察に届出があった行方不明者は2529人であると発表している(ただし未確認情報を含む。余震によるものを含む)。日本国内で起きた自然災害で死者・行方不明者の合計が1万人を超えたのは戦後初めてであり、明治以降でも関東大震災、明治三陸地震に次ぐ被害規模であった。岩手・宮城・福島の3県を中心に、1都1道10県で死者・行方不明者が、また1都1道18県で負傷者が発生した。警察庁は2012年3月11日までに、岩手県・宮城県・福島県で検死された1万5786人の詳細を発表した。この震災での犠牲者の死因のほとんどが、津波に巻き込まれたことによる水死であった。津波の中には、大量の砂や海底のヘドロ、港湾施設の重油などの有害物質などが含まれていた。砂が肺に入れば気管を詰まらせ、有害物質が肺に入れば身体を侵す。水死に至る経緯は、これらで呼吸困難になったり、がれ���が当たり意識を失ったり、3月の雪の舞う中で低体温を伴ったりなど、様々な経緯もあったと考えられる。圧死・損傷死・焼死も、ほとんどが津波によるがれきが要因となっている。建造物の倒壊や土砂崩れ、天井の非構造部材の落下、高所からの落下など、地震の揺れそのものが原因による犠牲者は、福島県36人・茨城県18人・宮城県13人・東京都7人など、分かっているだけで90人に上る。 -明治20年代になると、大阪では、丹波屋九里丸(息子が漫談家で売った花月亭九里丸)、さつまやいも助が中心的な存在となり、東京では秋田柳吉の広目屋が楽隊広告を始める。1874年に木村屋が売り出したアンパンは文明開化の象徴的食べ物として明治天皇のお墨付きを得、初めて宣伝用にチンドン屋を用いたとされている。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -CIE図書館(シーアイイーとしょかん、英語:SCAPCIEInformationCenter,SCAPCI&EInformationCenterLibrary)は、第二次世界大戦後に連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が日本各地に設置した図書館である。戦後日本において連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が、札幌、函館、仙台、秋田、東京(日比谷および新宿)、横浜、新潟、金沢、長野、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、広島、高松、松山、小倉(現北九州)、福岡、長崎、熊本の23か所に設置した米国式の図書館であり、日本国民の民主化や米国への理解、そして日本の公共図書館の近代化を進める役割を果たした。連合国軍による占領の終焉によってうち13館がアメリカ文化センター(ACC)へ移行したが、残りは廃止され、その蔵書は公共図書館に統合・寄贈された(徳島や熊本では市立図書館の��身となった)。 -松下電気器具製作所は1918年(大正7年)3月に大阪市北区西野田大開町にて創業した。当初は川北電気から受注した扇風機の碍盤を製造していたが、同年アタッチメント・プラグを売り出す。アタッチメント・プラグはアタチンと通称され、天井の電気の供給口からコードを延長し、手元で電球などを使用するものである。このアタッチメント・プラグは、古電球の口金を再利用することなどにより、他社がすでに発売していたものよりも3割程度安く高性能なものであった。そのため、好評を博し、問屋から注文が予想以上に来ることとなった。アタッチメント・プラグに続いて、松下電気器具製作所は二灯用差込みプラグを売り出す。当時他社から販売されていた二灯用差込みプラグを、さらに使いやすく、故障しにくいように改良し、他社製品よりも3割から5割程度安く売り出したため、売り上げはアタッチメント・プラグ以上のものとなった。発売後しばらくすると、大阪で問屋「吉田商店」を開いている吉田という男から、総代理店になり、親しい「川商店」に東京でも販売させたいという申し出を受ける。保証金と引き換えに吉田商店と総代理店契約を結んだ松下は、この保証金を元手に生産設備を拡張、工場に棚を吊り下げて、棚上、棚下両方で作業ができるようにした。工場を見に来た吉田はこの生産設備を「蒸気船の船室」にたとえている。二灯用差込みプラグの販売が軌道に乗り始めた矢先、東京の各競合メーカーが製品を値下げする。このため総代理店の契約書に書かれていた販売責任数を守れるか否かが心配になった吉田は、契約の解除を強引に申し出た。保証金を月賦で返済するという条件でこの申し出を受け、販売網を失った松下は、その日のうちから大阪の各問屋へ出向いて取引を交渉し、また月に一度は必ず東京に行くことを決め、販売網を開拓していった。 -馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズのフェステニオグ鉄道の1フィート11.5インチ(597mm)がある。ただし当時はこうした狭軌鉄道では蒸気機関車を用いることはできなかった。1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になった。ノルウェーのカール・アブラハム・ピルは、同国西部での鉄道の建設にあたり、3フィート6インチ(1067mm)軌間がコストと能力のバランスのとれた理想的な軌間であるとした。ピルはイギリスで技術教育を受けており、その見解はチャールズ・フォックスをはじめとするイギリスの技術者たちにも支持された。さらに1865年ごろからは、フェステニオグ鉄道の技術者チャールズ・イーストン・スプーナーやイギリス商務省のヘンリー・タイラーらによって、3フィート(914mm)や2フィート6インチ(762mm)の軽便鉄道のアイデアが提唱された。スプーナーらは、従来の標準軌や広軌の鉄道は無駄が多く、狭軌の軽便鉄道こそが将来の鉄道にふさわしいと主張した。 -やがて敦子は篤之と恋仲となり、1844年、16歳年上の篤之のもとに嫁いだ。敦子が篤之の描く絵に感動し、「こんな絵を描くことのできる人と結婚したい」と言ったともいわれる。篤之は郷里の薩摩藩(鹿児島県)で結婚し、2人の娘をもうけたが、諸事情で離婚し、薩摩の母に娘たちを託して上京しており、敦子は後妻であった。篤之は男尊女卑の風習の中で育った身であり、敦子の才能を認めながらも、無理な小言を言い、暴力も振るった。遊廓への出入りも多かった。敦子は理不尽な境遇に耐え、従順に使えた。友人が心配して敦子に問うと「夫が心を尽くして教えるのに、私が学びえないから、夫が憤る」「私が至らないから、夫が他に心を移す」「今は夫が『不憫な奴』と思い返してくれる日が来ることを祈っている」と言い、その優しさで友人を涙させた。やがて敦子の祈りは通じ、篤之の素行はおさまり、周囲が羨むほど仲睦まじい夫婦となった。1849年には女児の徳子が生まれた。この時期の敦子は、夫の博学の影響によって文才がさらに開花し、その芸術性が高まっていた。徳子の出産の喜びを詠った歌には、親としての細やかな情愛と喜びが詠み込まれている。 -前述のように当研究林が日本海側気候と太平洋側気候の移行帯に位置���ていることから、植生区分の上でも暖温帯林と冷温帯林の移行帯に属し、植物の種類が多い。当研究林内で確認されている種数は、木本植物が243種、草本植物が532種、シダ植物が85種を数える。その中には、下枝が雪の重みで接地することで発根し、やがて一個体として独立して増殖する、多雪地帯に特有の伏条更新を行うことで知られるアシウスギやアシウテンナンショウのように「芦生」の地名を冠した学術上貴重な植物が含まれている。また、多雪地帯に特有のエゾユズリハ、ヒメアオキ、ヒメモチ、ハイイヌガヤなどの植物が自生しているほか、氷河期の遺存種であるニッコウキスゲやリュウキンカも生育している。この他、年間降水量が多いことから、ナメコやヒラタケ、ツキヨタケをはじめ多様なきのこ類が繁殖している。 -城郭に住処を置いて領地を所有していた、紀元前1世紀から4世紀までの第一次ヒムヤル王国の王は封建領主に比定される。王国で発行された銀貨と銅貨の表面にはアテネの町の紋章でもあるフクロウ、裏面には雄牛の像が刻まれた。 -近代オリンピック(きんだいオリンピック、仏:Jeuxolympiques、英:OlympicGames)は、国際オリンピック委員会(英:IOC)が開催する世界的な総合スポーツ大会である。1994年から夏季大会と冬季大会の各大会が4年に1度、夏季大会は西暦で4の倍数の年、冬季大会は4の倍数でない偶数の年で2年ずらして開催されるので、2年に1度開催されることになる。日本語ではオリンピック、またそのシンボルマークから五輪と呼ぶこともある。 -当初国営を原則とした鉄道であったが、西南戦争による政府の財政悪化もあり、民間に建設を認める方向に方針転換した。これを受けて発足した最初の私鉄が日本鉄道で、最初の建設区間として中山道鉄道の一部を構成する東京-高崎間の路線を建設することになった。日本鉄道建設に際しては、官設鉄道との連絡から品川を起点とすることも有力視されていたが、距離がやや長くなり東京西部の丘陵地帯を通過する工事に時間がかかると見込まれたこともあり、とりあえず上野駅を起点とする方針となって、1883年(明治16年)7月28日に上野-熊谷間が開通した。しかしその後、中山道経由の鉄道の建設の困難さが明らかになったこともあり、1886年(明治19年)に政府の方針が転換し、東海道経由で東西連絡鉄道を建設する方針に変わった。これを受け、当初は中山道経由の東西連絡鉄道に対する支線の位置づけであった新橋-横浜間の鉄道から延長する工事が始められ、1889年(明治22年)7月1日に東海道本線新橋-神戸間が全通した。一方の日本鉄道は同じ1889年の9月1日に青森までの東北本線を全通させ、さらに1898年(明治31年)8月23日には常磐線も全通した。また上野と秋葉原を結ぶ貨物線も1890年(明治23年)11月1日に開通した。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨー��ッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -フランスの童謡『小さな羊飼いの娘』(Ilétaitunebergère)にはチーズを守るために子猫を殺してしまう羊飼いの娘が登場する。この歌のリフレインはネコの喉鳴らしを模倣している。サー・パー(SirPurr;「ごろごろ卿」)はアメリカンフットボールのチームカロライナ・パンサーズのマスコットである。 -ヤングスタウンにはメジャーのプロスポーツこそ存在しないものの、下部リーグのチームはいくつか置かれてきた。1902年には、この地にはヤングスタウン・オハイオワークスというチームが創設された。オハイオワークスは1905年に創設されたオハイオ・ペンシルベニアリーグに加入した。オハイオワークスは1905年、翌1906年と連覇を果たしたが、1907年のシーズン前に売却され、ヤングスタウンを去った。その後も、ヤングスタウンにはいくつかのマイナーリーグの野球チームが置かれてきた。現在では、1999年に創設されたクリーブランド・インディアンス傘下のショートシーズンAクラスのチーム、マホニングバレー・スクラッパーズがヤングスタウン北西郊のナイルズに本拠を置いている。スクラッパーズはイーストウッド・モールの裏手に立地するイーストウッド・フィールドを本拠地とし、ニューヨーク・ペンリーグに所属している。 -ニューイングランドの実業家たちの中には1840年代にイギリスで氷の市場を開こうとした者もいた。最初にそれに挑戦し、そして失敗したのがウィリアム・レフトウイッチであった。彼は1822年にノルウェーから氷を輸入してイギリスに輸出しようとしたのだが、彼の積荷はロンドンに届く前に溶けてしまったのである。成功例としては、フレッシュ湖に自前の供給ルートを持っていたジェイコブ・ヒッティンガーとウェナム湖に土地を持っていたエリック・ランドールのそれぞれ1842年と1844年の挑戦が挙げられる。どちらかといえば上手くいったのはランドールのほうだった。彼はイギリスに氷を輸出するための会社、ウェナム・レイク・アイス・カンパニーを設立し、ロンドンのストランドに氷を貯蔵する倉庫を建設した。ウェナム湖の氷は純度が高く冷却効果に優れているという触れ込みで、イギリスの消費者に地元の氷ではなくこの氷を舶来品として売り込むことに成功した。イギリスの水は汚染されており、健康によくないと避けられていた。当初こそ一定の成功をおさめたものの、事業は次第に縮小していった。一部にはイギリス人は北アメリカほど一般的に飲料を冷やすために氷を使わなかったということもあるが、それよりもこの貿易は長距離輸送により氷が溶ける分を計算にいれると、どうしてもコスト高になってしまうことのほうが大きかった。それでもなお、この貿易によって1840年代にアメリカからイギリスに輸送される品物は氷の積荷と一緒に運ばれるため冷蔵保存されて価値が高まるという副産物はあった。 -1932年、朝日新聞社の主宰により、故郷の浜松での演劇で、葉子が主演を務めることになった。しかも場所は、かつて葉子が川上音二郎らの劇によりその魅力を知った、あの浜松の歌舞伎座であり、まさに晴れ舞台といえた。しかし葉子の母は依然として役者という職業を理解せず、実娘が浜松で劇をすることを拒み、各団体を困らせていた。そこへ葉子の恩師である母校の岡本校長が乗り出し、母に葉子の現在の職業が決して卑しいものではないことを語って説得し、ようやく母の許可を得ることができた。また同1932年には、堀内敬三の指導による『カルメン』において、主役のカルメンを務めた。1934年には真船豊作、久保田万太郎演出の舞台で、脇役ながらも東北弁を巧みに操ることで、一躍にしてその存在を認められるに至った。葉子は、自分たちの参加している新劇では収入が得られないため、カフェーの女給を続けつつ、様々な演劇の舞台に立った。映画やラジオドラマにも出演した。小柄であったために老女の役も���めた。老女の役を演じれば右に出る者はいないとの声もあった。『西遊記』の三蔵法師の役を務めたこともあった。中でも葉子は最も好んだものが、子供向けのラジオドラマであった。 -1933年にナチ党政権が誕生すると新しい野戦服が検討され、いくつかの改良を経たのち、1935年9月5日にM36野戦服が制定された。フィールドグレー色を基調としたレーヨンが5%混ざったウール製の軍服であり、襟と肩章の部分だけダークグリーン色の上質なラシャ製だった。襟は閉じても開襟でもよかった。前ボタンは5つ、波型のふた付きプリーツポケットが両胸・両裾に合計4つ付いており、右胸ポケットの上部には鷲章が付いていた。両腰にはそれぞれ小穴があり、後述の装備ベルトを支えるためのフックを設けた。このフックは上衣内側の腋下から布ベルトで吊るし、フックの先端を外部へ出すようになっていた。上衣背面の裾にはセンターベントが設けられている。 -450-550°Cからの焼戻しで発生する脆化を高温焼戻し脆性と呼ぶ。さらに、この温度域を避けて550-650°Cから焼戻ししても500°C付近を徐冷すると同様に高温焼戻し脆性が発生してしまう。そのため、高温焼戻し脆性を避けて550-650°Cから焼戻しする時には急冷が推奨される。脆化を避ける冷却速度は空冷以上が望ましいとされる。高温焼戻し脆性の原因は、リン、アンチモンなどの不純物が旧オーステナイト結晶粒界に析出するためで、モリブデンの添加が析出を遅らせるのに有効である。一方で、クロム、ニッケル、マンガンなどは析出を促進させるので、ニッケルクロム鋼、クロム鋼、ニッケルマンガン鋼、マンガン鋼などで発生しやすい。低温焼戻し脆性と異なり可逆性を持つのが特徴で、適切な他の条件で焼戻ししても、その後にこの条件で焼戻しすると高温焼戻し脆性が発生する。逆に、高温焼戻し脆化された加工品でも再度急冷で焼き戻し直せば使えるようになる。 -1983年に、任天堂は、日本国内における1980年から1982年頃の電子玩具の販売活動について独占禁止法違反として公正取引委員会の排除勧告審決を受けた。2002年には、ヨーロッパで任天堂と現地の卸売業7社がゲーム機とゲームソフトの並行輸入を妨害したとして、欧州委員会が任天堂らに対して合計1億6780万ユーロの課徴金の支払いを命じ、首謀者と認定された任天堂は、このうち1億4912万8千ユーロの支払いが課せられた。 -堤防を決壊させた濁流は浮羽郡各所に流入、支流の巨瀬川の洪水と合流し巨瀬川の堤防を決壊させ、さらに吉井町・船越村・江南村(うきは市)の筑後川堤防も相次いで決壊した。田主丸町(久留米市)では橋梁がことごとく流失、町内は水深1m以上の浸水となった。原鶴温泉街も完全に水没し、筑後川南岸は一面が海のようになったと伝えられている。筑後川北岸の朝倉郡でも甘木町・蜷城村・朝倉村・大福村(朝倉市)で堤防決壊が多発してほぼすべての地域が浸水。三井郡では、小郡町(小郡市)などを除き完全に外部との交通が遮断され、数日間陸の孤島と化した。久留米市では、東櫛原町など数か所で堤防が決壊し、東・西・北の三方向から一挙に市内に濁流が流れ込んだ。東櫛原町の堤防では、決壊の一時間前より堤防上を洪水が越流しはじめたが、その様子はあたかも滝のようであった。決壊した堤防から流出した水は久留米市内に押し寄せ、国鉄久留米駅、久留米大学医学部附属病院など久留米市中心部をことごとく水没させ、市内の80%が浸水した。水位は市内中心部の明治通りにある旭屋デパート(のちの久留米井筒屋)前で約1m、もっとも深い場所では約3mに達した。道路も国道3号久留米大橋、国道264号豆津橋をはじめ、小森野橋、宮ノ陣橋、両筑橋、恵蘇宿橋、原鶴大橋が流失または損壊し、国道3号は佐賀県三養基(みやき)郡鳥栖町(鳥栖市)と久留米間が完全に不通となった。特に、小森野橋では、橋の補修作業を行っていた作業員5人と作業を見物していた住民20人を乗せたまま橋が流される災害となった。 -日本女子体育専門学校は、東京府荏原郡松沢村に存在した旧制女子専門学校だ。日本女子体育短期大学・日本女子体育大学の前身となった学校である。二階堂トクヨが個人で開設した二階堂体操塾を起源とする。代々木の民家を���修した小さな塾舎で女性体操教師の育成を目的に設立し、1期生からほぼ全員が中等学校へ就職した。関東大震災を契機に松沢村へ移転し、昭和初期には日本最大の女性体操教師養成機関に発展した一方で、人見絹枝が卒業して以降はスポーツを志す生徒が多く入学し、女性アスリートの養成機関を兼ねるようになった。重要な教材としてダンスを採用し、女性らしい健康な心と体づくりを掲げて厳格な教育を施した。 -さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった。1988年2月4日付「リベラシオン」紙は、「昨年(1987年)3月30日、ロンドンのクリスティーズにて日本の安田生命(安田火災海上、現損害保険ジャパン日本興亜)がひまわりを3630万ドル(約58億円)で落札した瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。......またアイリスは、(同年)11月11日に、ニューヨークのサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている。日本のバブル景気であふれたマネーが円高に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた。さらに、1990年5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで齊藤了英が『医師ガシェの肖像』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し、各紙で大々的に報じられた。この作品は、ヨーによって1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられるものである。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた。ファン・ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている。 -この間1970年6月にはエールフランスがA300Bの発注の意向を示していたが、同社はパリとロンドン、ジュネーヴ、コルシカ島などを結ぶ高需要路線に適した機材を求めており、A300の座席数をもう少し増やすよう要求した。そこで、A300Bの胴体を5フレーム(2.65メートル)延長したモデルを用意することとなり、A300Bの2番目のタイプということでA300B2と名付けられた。そして1971年11月3日、エールフランスはA300B2を正式に発注した。これがA300の初受注となり、注文数は確定6機、オプション10機であった。これにより原型機はA300B1と呼ばれるようになったほか、後に基本名称がA300BからA300に戻され、旅客型をA300Bとして貨客転換型をA300C、貨物型をA300Fとする型式名の整理が行われている。1972年2月にはスペインのイベリア航空から確定4機、オプション8機の受注を獲得した。イベリア航空は4,000キロメートル以上の航続距離性能を求めていたが、A300B2の航続距離は3,430キロメートルだったため、航続距離延長型としてA300B4を開発することになった。 -ほとんどのインコと同様にオウムも空洞に営巣する鳥で、樹洞に巣をつくるが自分でその穴を掘ることはできない。これらの洞は、木の枝が折れたあとの腐朽や破壊によるものや、キノコやシロアリのような昆虫によるもの、あるいは生息域が重なる場合にはキツツキによって形成されたものと言う場合すらある。大抵の場所でこのような穴は不足しており、このため同じ種の仲間のみならず、異なる種の鳥や動物との競争の原因となる。一般にオウムは自分の体よりもわずかに大きい洞を選ぶ。この結果、体の大きさによってそれぞれの種が、そのそれぞれに対応した(そして大きさの異なる)樹洞に営巣する。機会に恵まれれば、オウムは地上7–8m(23–26ft)の高さで、水と食料に近い場所に営巣することを好む。 -スズキ(鱸、学名:Lateolabraxjaponicus)は、スズキ目・スズキ亜目・スズキ科に属する魚である。海岸近くや河川に生息する大型の肉食魚で、食用や釣りの対象魚として人気がある。成長につれて呼び名が変わる出世魚である。スズキはいわゆる出世魚で、成長とともに呼び名が変わる。ただし、地方によって呼び名は様々に異なり、統一的な定義はない。例として関東では1年ものと2年もので全長20-30cm程度までのものを「セイゴ」(鮬)、2、3年目以降の魚で全長40-60cm程度までを「フッコ」、それ以上の大きさの通常4-5年もの以降程度の成熟魚を「スズキ」と呼んでいる。関西では「フッコ」の代わりに「ハネ」という呼称が使われている。東海地方では60cm程度までを一律に「セイゴ」、それ以上の大きさの成熟魚を「マダカ」と呼んで二分することが多い。宮城県周辺では小型のものを「セッパ」とも呼ぶ。有明海産は地元の人からは「ハクラ」と呼ばれている。 -1958年(昭和33年)に三河湾一帯が三河湾国定公園に指定されると、名古屋鉄道は篠島一帯を海上動物公園にする構想を示した。観光に加えて日本モンキーセンターの繁殖研究をも目的とし、木島にはカニクイザルが、築見島にはアヌビスヒヒが、野島にはニホンザルが放された。無人島の築見島には年間数千人の観光客が来島し、これらのサルは1974年(昭和49年)まで飼育された。 -藍藻は原核生物であり、DNAは核膜に包まれず、また葉緑体やミトコンドリア、ゴルジ体などの細胞小器官をもたない。細胞内で生体膜に包まれた構造としては、光合成における光化学反応の場であるチラコイドのみが存在する。チラコイドはふつう重なることなく、細胞内で同心円状、放射状または不規則に配置する。ふつうチラコイドには、フィコビリンタンパク質からなるフィコビリソームが付着している。一部の藍藻(原核緑藻)はフィコビリソームを欠き、チラコイドが重なってラメラを形成している。藍藻では、酸素呼吸における呼吸鎖の酵素もチラコイド上に存在することがある(一部の酵素を光化学系と共有する)。最も初期に分かれた藍藻であるグロエオバクター属(Gloeobacter)はチラコイドをもたず、光化学系は(呼吸鎖とともにパッチ状に)細胞膜上に存在する。プロクロロン属(Prochloron)では、チラコイドの一部が膨潤して液胞状になることがある。チラコイドは、細胞膜と直接つながることはないと考えられていたが、現在では”チラコイド形成中心”(thylakoidcenter)が細胞膜上に存在することが示されている。光学顕微鏡下では、チラコイドが存在する細胞周縁部が色付き、チラコイドを欠く中心域が淡色に見えることがあり、伝統的に前者を有色質(chromoplasm)、後者を中心質(centroplasm)とよぶ。中心質にはふつうDNAが存在するため、この領域は核質(nucleoplasm)ともよばれる(ただし藍藻の中には、DNAが細胞周縁部に存在する例もある)。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -シオダマリミジンコでは寿命は実験室内においては孵化後70日ほどだが、野外においては(北海道の例)、越冬時には4ヶ月以上はあるものと考えられる。発生段階としてはノープリウスが6期、コペポディド期が6期、これはカイアシ類の標準的なものであり、コペポディドの第6期が成体である。シオダマリミジンコでの研究では、これらは以下の通りである。 -地球内部の構造は地表面での観測で得るしかない。その中で最も優れた方法は地震波の分析である。地震波解析によると、地球は外側から、岩石質の地殻、岩石質の粘弾性体であるマントル、金属質流体の外核、金属質固体の内核という大構造に分けられる。岩石質とはいっても、地殻とマントルでは化学組成が違う。外核と内核も金属質とはいうが、若干化学組成が異なると推定されている。上部マントルには、地表面からの深さ100km付近に、地震波が低速になる層(低速度層、アセノスフェア)がある。この層は部分的に溶融していると考えられ、上部の相対的に冷たく硬い層とは物理的に区別される。アセノスフェアの上にあり、上部マントルの一部と地殻とから成るこの層を岩石圏(リソスフェア)という。岩石圏は10数枚のプレートと呼ばれる板に分かれている。 -農林省は滝名川に当時「東洋一」の規模を有する山王海ダムを1953年(昭和28年)に完成させ、長きにわたって懸案であった紫波郡へのかんがい用水供給が図られ水喧嘩はこれにより撲滅された。また石淵ダムも同年に完成し、胆沢扇状地は肥沃な農地として生まれ変わり「胆沢平野小唄」にも伸びる胆沢の底力と地域住民にも称えられた。こうしたかんがい整備とダムの効用は、治水重視であった「北上川上流改修計画」を転換させる一つのポイントにもなった。 -反乱の指導者となったスパルタクス(Spartacus)はトラキア人の剣闘士奴隷で、カンパニア地方のカプアにあるレントゥルス・バティアトゥス所有の剣闘士養成所に属していた。スパルタクスの出自についてプルタルコスはトラキアのマイドイ族出身とし、アッピアノスは、元はローマ軍団の補助兵であったが、捕虜となって売られ剣闘士になったトラキア人であると伝えている。フロルスはより詳細に「トラキアのメディ族出身、ミトリダテス戦争にてポントス王国側の傭兵として参戦。メディ族がローマと講和して後はローマの補助兵となったものの、反ローマ闘争に身を投じた。やがてローマ軍の捕虜となり、奴隷として売られてカプアの剣闘士養成所に入った」と述べている。近代の歴史家モムゼンはボスポラス王国のトラキア系王家の子孫とする説を唱えている。スパルタクスの出身については史料の述べるトラキア(Thraex)とは民族ではなく彼が訓練された剣闘士のスタイル(トラキア剣闘士というタイプがある)のことではないかとする異論もある。 -ファン・ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(出生、少年時代)。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働くが、1876年、商会を解雇された(グーピル商会)。その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(聖職者への志望)。以降、オランダのエッテン(1881年4月-12月)、ハーグ(1882年1��-1883年9月)、ニューネン(1883年12月-1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月-1886年2月)と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した『ジャガイモを食べる人々』はこの時代の主要作品である。1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては『タンギー爺さん』などが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した(死)。発作等の原因については、てんかん、統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている(病因)。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -ウラルトゥに対する戦争において、サルゴン2世はアッシリアとウラルトゥの国境沿いの長いルートを進むことでウラルトゥの要塞線を回避し、ウラルトゥの最も神聖な都市ムサシルを占領・略奪することに成功した。バビロニアへの遠征においても、サルゴン2世はまずはティグリス川に沿って前進し、その後、北方ではなく南東からバビロニアを攻撃するという、予想外の攻撃を仕掛けた。 -1996-2018年までの日本国内の新規患者数を見ると、日本で発見された日本人の新規患者数に関しては減少傾向を示し2005年にはじめてゼロになった。よって日本で発見された新規患者は、外国で過ごしたことがある在日外国人がほとんどである。在日外国人の中ではブラジル出身者と東南アジア出身者がほとんどである。一方、登録患者数は日本では1997年(平成9年)以降、公表されていない。日本国内の療養所入所者数は、2008年現在2,717人であるが、ハンセン病が治癒しても障害を負った人々が、施設で暮らしている。WHOに定義されるように「診断されて適切に一定期間治療を行いその後は患者登録から除外される」という観点で日本の登録患者数を推定すると、新規患者数と同程度である数名となる。しかし、日本では菌をゼロにするまで���療を行う治療基準が設けられており、WHOが規定している治療期間より大幅に治療が長期化しているケースや、一旦治癒したが菌検査で少しでも陽性がみられれば治療を行うというケースも考えられるため、実際に治療を行っている患者数に関してはWHOで定義している登録患者数に比べるとかなり多いと推定される。しかし実際のところは、治療を行っている患者数に関する統計を行っていないので詳細は不明である。病型別では、昭和前半の統計ではあるが、日本では多菌型が多く癩性禿頭症や失明が多かった。光田健輔によると1911年に公立療養所第一区府県立全生病院(現、国立療養所多磨全生園)では58.63%に禿頭症がみられた。沖縄県や東南アジアの様な流行地では症状は一般的に軽いといわれている。 -1997年、ハワイ大学の研究グループがOBO(Oceanbottomobservatory,「海底観測機」)をロイヒ海山の頂上に設置した。その水中観測ロボットは、HawaiʻiUnderseaGeologicalObservatory(「ハワイ海底地質観測機」)のアクロニムを取ってHUGOと渾名が付けられた。HUGOは、海底を這わせた光ケーブルで34km(21mi)離れた海岸にある操作表示部とつながっていた。このおかげで、科学者はリアルタイムでロイヒの現況についての震動・化学・画像の各種データを得ることが出来た。この段階で、HUGOは、海底火山についての研究を深めるうえで欠かせない、国際的な海底火山研究所となった。1998年10月、HUGOに電力を送り続け、各データを伝送してきた海底ケーブルが切断されてしまった。このことは、観測所が事実上閉鎖することを意味していた。翌年の1月19日、HUGOはパイシーズVの訪問を受けた。この観測ロボットは、2002年に再び機能不全をきたすまでの4年間にわたってその役割を果たした。 -アン女王戦争(アンじょうおうせんそう、英語:QueenAnne'sWar、1702年-1713年)は、欧州のスペイン継承戦争に対応して北米大陸において起こった、フランス王国とイングランド王国(後にグレートブリテン王国)との間の戦争であり、一連の北米植民地戦争においては2度目の戦争である。名称は当時イギリスを統治していたアン女王の名にちなむ。それぞれの国と同盟を結んでいた多数のアメリカ州の先住民族および、フランス王国の同盟国であったスペイン帝国も戦争に加わった。別称に第三次インディアン戦争(英:ThirdIndianWar)があり、またフランス語では第二次植民地間戦争(仏:DeuxièmeGuerreintercoloniale)と呼ばれる。 -857年頃にカイラワーン地区に建立されたカラウィーン・モスクは、アラブ人富豪の娘ファーティマが建立した礼拝堂が元になっているモスクである。当初は個人的な礼拝所として使用されていたといわれているが、859年には宗教教育を始め、現存する世界最古の大学とも言われる。建設初期のカラウィーン・モスクの上部に架けられていたアーチ、アーチを支える柱の形状は明らかになっていない。後ウマイヤ朝時代の956年に完成したミナレットには、パラペットとドーム部分を除いてコルドバ風の建築様式が採用されており、アーチはコルドバ風の円頭馬蹄型をしている。ミナレットはイドリース2世の剣の上に建てられたという伝承が残り、フェズに存在する他のモスクのミナレットの高さはいずれもカラウィーン・モスクのミナレットの高さを考慮して設計されたと言われている。後ウマイヤ朝の時代に初期のモスクに備わっていた北側の中庭は取り壊されて拡張工事が行われ、新たな中庭が作られた。後ウマイヤ朝時代に拡張された部分のうち、開口部の柱とアーチにはレンガ、外壁にはある種のセメント、ミナレットには石が建材として使われている。 -アルキメデスの人生の記録は、彼が没してから長い時間が過ぎた後に古代ローマの歴史家たちによって記録されたため、全容を掴めていない。アルキメデスの友人のヘラクレイデスも伝記を書き残したといわれるが、失われてしまい細部は伝わっていない。 -太初元年、司馬遷はひとつの事業を完成させ、新たな事業に取り掛かった年であった。前者は太初暦の制定であり、後者は『史記』執筆に着手したことである。太初暦は、年初を夏の暦である春正月に固定し、二十四節気を取り入れることで、各月の朔日・十五日・月末を確定させた。中国におけ��時間感覚の基礎となったこの暦制定には30-40名の人間が関わり、公孫卿・児寛・壺遂・唐都・落下閎ら専門家も名を連ねたが、司馬遷は「私と壺遂が律暦を制定した」と述べており、主導的役割を果たしたと考えられる。司馬遷の先祖は天文を司り、星暦の観測は歴史家の重要な仕事のひとつであった。太初暦制定は、父の遺言である祖先の事業を実現する一環であり、また孔子の言葉「夏の暦が正しい」を実現するものでもあった。そして、司馬遷はいよいよ『史記』に取り掛かった。20歳頃からの大旅行、そして仕官後の武帝巡遊に随行し、前漢が支配下に置く中国のほぼ各地を歴訪していた彼は、旅先で土地の長老を訪ねては故事を聞き、太史令として各種史料に眼を通し、過去に思いを巡らせていた。史記執筆が始まってからも武帝の巡幸は毎年のように行われ、司馬遷もさらに知見を積んだ。 -もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、天龍源一郎、ロッキー羽田、桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。ちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。 -『鏡のヴィーナス』はローマ神話の愛と美と豊穣の女神であるヴィーナスが、しどけない姿でベッドにもたれかかっている様子を描いている。古代の芸術作品でも背中を向けたヴィーナスはよく見られた構図で、文学的性愛を表すモチーフであった。この作品でもヴィーナスは背中を向けており、右ひざは左脚の下に隠れている構図となっている。神話をモチーフにした絵画に通常描き足されている、バラ、宝石、ミルトスといった装飾物は一切描かれていない。また、それまでに描かれたヴィーナスはほとんどがブロンドの髪だが、ベラスケスはこの作品でブルネットの髪のヴィーナスを描いている。彼女の息子であるキューピッドがともに描かれていることによって、初めてこの作品の女性がヴィーナスであると理解できるようになっている。 -英仏米(イギリス、フランスとアメリカ)など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定(英語版)を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。そのころ日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。 -火山の噴火が続いたことにより、農作物の不作が数年間続いた。アメリカでは、「夏のない年」によってニューヨーク中部や中西部、西部への移住が進んだと多くの歴史家は見ている。ヨーロッパでは、ナポレオン戦争が終結しつつあったが、今度は農作物の不作による食糧不足に苦しめられることになった。イギリスやフランスでは食料をめぐって暴動が発生し、倉庫から食料が略奪された。スイスでは暴動があまりにひどく、政府が非常事態宣言を発令するに至った。食糧不足の原因は、ライン川を始めとするヨーロッパにおける主要な河川の洪水をもたらした異常な降雨であり、1816年の8月には霜が発生した。2005年5月にBBCTwo(英国放送協会)で放送されたドキュメンタリーでは、スイスにおける1816年の死亡率は平年の2倍だったと推定しており、ヨーロッパ全体ではおよそ20万人もの死者が出たとしている。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1��早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -1820年代、ボストンの人口が増えはじめた。1840年代後半のジャガイモ飢饉では多くのアイルランド人がアメリカ大陸へわたってきて、ボストン市の民族的構成を劇的に変化させた。1850年までに、ボストンに住むアイルランド人は約3万5000人に達していた。ボストン旧家のエイモリー・ローウェルは、当然のようにハーバード大学を卒業し、手形交換所であるサフォーク銀行(SuffolkBank)の経営者となった。彼がボストンの銀行間に連携組織をつくり、1837年から1857年までの経済恐慌に事なきを得たので、政治と血縁による絆が従来に増して堅くなった。 -1886年、ゾラが小説『作品』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いた。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしをルーゴン・マッカールの著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙を送った。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが、セザンヌ研究の第一人者ジョン・リウォルドの説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌの助言が反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性ジャンヌ・ロズロをめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている。しかし、2014年にこれまで絶交したと思われていた年より後年の交友を示す手紙(新著『大地』へのお礼と「君がパリに返ってきたら会いに行くよ」との内容)が発見されるに至り、断絶説の再考が求められている。同年4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。同年10月、父が88歳で死去した。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなった。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -このように保全に向けて、官民でさまざまな取り組みが行われており、2010年(平成22年)には地元の高齢者らによる「平松長寿会」が保全活動をはじめ、自生しているウツクシマツ1本ずつの状態を確認し、採種した種を育成する活動が続いている。同会ではこれまでに約80本を植樹したが、松は成長するのに数十年が必要なため、高齢者が主体の同会では次世代へ活動を受け継いでいくことが重要であるとして、2017年(平成29年)には前述したウツクシマツが校歌にも歌われている三雲小学校の児童と一緒に種まきをし、地域の大切な遺産を若い世代に継いでいく活動が行われている。 -「ポジャールスキー公」は、1875年秋に無事にクロンシュタットへ帰港した。そして、艦を大洋巡洋艦型により一層近づけるための改修工事が施工された。船体水中部分は、一列の通しボルトで留められた木製外板と亜鉛板で覆われた。機関はオーバーホールを受けた。古びた6基のボイラーに替えて、新しい8基のボイラーが設置された。煙突は1基だけであったのが撤去され、2本に増やされた。そのうちひとつは固定式で、もうひとつは取り外し可能なものであった。砲熕兵装は203mm砲と152mm砲、それに87mm砲をそれぞれ8門ずつといくつかの16mmおよび44mm速射砲になった。加えて、棹式・折り畳み式・曳航式の外装水雷も使用できるように改修を受けた。 -隠れ家生活は2年間続いたが、1944年8月匿名の密告によって、フランクと家族、同居していた4人、およびクーフレルとクレイマンはナチス親衛隊SS曹長カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーに逮捕された。オットーら隠れ家メンバー8人はオランダ北東ヴェステルボルク通過収容所に1カ月弱収容された後、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られた。1944年9月5日から6日にかけての深夜にビルケナウ強制収容所に到着している。到着後すぐに男女に分けられ、アンネ・マルゴー・エーディトと引き離された。彼女らはビルケナウ収容所に、オットーは3キロ離れたアウシュヴィッツ収容所に収容された。この時がオットーが妻と娘の姿を見た最後となった。オットーはファン・ペルス父子やプフェファーと一緒にアウシュヴィッツ収容所の第2ブロックに収容された。過酷な野外労働と少ない食料により1.8メートルの身長のオットーの体重が52キロまで下がってしまった。ヘルマン・ファン・ペルスはやがてガス室に送られたが、その息子ペーター・ファン・ペルスは��ットーの面倒を献身的に見たという。しかし比較的健康だったペーターは1945年1月17日に別の収容所へ移された。 -1870年に普仏戦争が勃発しプロイセン軍がパリに迫ると、マネは国民軍に入隊し、首都防衛戦に加わった。普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息して第三共和政の時代になると、バティニョール派の若手画家たちはサロンから独立したグループ展を立ち上げ、印象派と呼ばれるようになった。マネは、批評家からは印象派のリーダー格と目されていたが、自身はサロンで成功することを重視し、印象派グループ展への参加を拒絶した。それでも、特にモネとの親しい関係は続き、モネのアルジャントゥイユの家を度々訪れ、戸外制作などの印象派の手法を取り入れた作品も制作している。また、詩人ステファヌ・マラルメと親しくなり、その影響も受けた。1880年頃からは、梅毒により左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しながら制作を続けた。1882年のサロンに最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』を出品した。1883年4月、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けたが、経過が悪く、51歳で亡くなった。マネの死後、1890年にモネの働きにより『オランピア』が国のリュクサンブール美術館に受け入れられ、1896年にギュスターヴ・カイユボットの遺贈により『バルコニー』などが政府に受け入れられるなど、マネに対する公的な認知は進んだ。もっとも、これらの受入れの際にも美術界の保守派からは反対の声が上がり、マネと印象派に対する抵抗は根強いものがあった(→名声の確立)。しかし、その後、美術市場でのマネの評価は急速に上がり、1989年には『旗で飾られたモニエ通り』が2400万ドル(34億7520万円)で落札され、2014年には『春(ジャンヌ)』が6512万ドル余り(約74億円)で落札されるなど、美術市場の上位を占めるに至っている。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。その後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発...といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。 -それからの3週間で、重複の一切ない数百もの骨の破片が見付かり、それらが一体の人骨だったという当初の憶測を裏付けた。調査隊はさらに分析を進め、それが全体の40%にもなることが分か��た。この数値については、手足の骨の一部を除いた算定であるとして、実際には20%台と見積もる見解もあるが、発見当時としては驚異的な数値だった。なお、1994年にはアファール盆地で身長120cmのラミダス猿人「アルディ」が発見され、最古の猿人は440万年前にまで遡ることになったが、その発見の詳細は2009年まで公刊されることがなかった。このアルディが発表された時点でも、10万年以上前のホモ属やアウストラロピテクス属の全身骨格は、トゥルカナ・ボーイ、セラム、リトル・フット、ルーシー、アルディの5体しかなかった。ルーシーはそれらの中で最も早く発見された全身骨格であった。 -1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。オズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。だが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。ミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。ウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。(その例がハーマン=アイジングである)。契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。しかし、諦めきれなかったウォルトはその後も頑張って仕事を続けた。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -ピョウタンの滝がある札内川は、中部日高山脈の渓流を集め北東方向へ流下し、十勝平野の中央部で十勝川に合流する。ピョウタンの滝は札内川上流域にあり、滝の3キロメートル上流には札内川ダムがある。ピョウタンの滝は、前述の通り人工のダムとして建設されたが、2015年現在の地図では滝として記されている。堰堤の全高は18メートル、長さは84.5メートルである。水の落ち口は砂防ダムのように長く平らになっているが、コンクリート堤体が���然の大岩をいくつも挟み込んでおり、水はそこで砕けて落下し、自然の滝のような落水表情が得られている。 -ポール・セザンヌは10歳の時、エクスのサン=ジョセフ校に入学した。1852年、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だったエミール・ゾラと友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていた。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っている。もう1人の少年バティスタン・バイユも併せた3人は、親友として絆を深めた。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、ホメーロス、ウェルギリウスの詩、ヴィクトル・ユーゴー、アルフレッド・ド・ミュッセへの情熱を共有した。セザンヌは、同校に6年間在籍する間、1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習った。1858年11月にバカロレアに合格すると、1861年まで、父の希望に従い、エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた。そのうち、徐々に、画家になりたいという夢を持つようになった。父が1859年に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描いた。 -1727年1月1日、フェリペ5世はイギリス政府に親書を送り、ジブラルタルをイギリスに割譲したユトレヒト条約第10条の無効を宣告した。その理由としてはイギリスの駐留軍がジブラルタルの要塞を拡張したこと、密輸を支持したこと、そしてジブラルタルのカトリック教会が弾圧されたことが挙げられた。これらの理由は全くのでたらめではなく、今となっては開戦事由に適する理由となっていた。そのため、この親書は宣戦布告に等しかった。1727年2月11日にはジブラルタルへの攻撃が開始され、正式な宣戦布告はなかったものの英西間の戦争は遅くともこの時点で開始した。 -カナダの軌間に対して、1851年に5フィート6インチを標準とする法律が制定されたが、1870年に廃止され、アメリカ合衆国との直通の必要から4フィート8.5インチに改軌された。英領インドでは、最初のカルカッタ周辺は4フィート8.5インチ軌間で始まったが、1851年以降ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイ総督により5フィート6インチ軌間が標準とされた。ダルハウジーはイギリスの経験から最初に軌間などの規格を統一しておくことが重要であると考えていたが、インドはイギリス本土と直通するわけではないので独自に最良を選ぶべきだとして4フィート8.5インチがイギリスで統一されたのは「あくまで一地方の状況から偶然できたもので鉄道のベストとは限らない」としたが、ブルネルの7フィート1/4インチも大きすぎると考えたのか「この間に最良のものがある」と自身は6フィートを主張した(連続急勾配対策やハリケーン対策などの意味があったとも言われる)が4フィート8.5インチ組と話し合った結果5フィート6インチでまとまった。オーストラリアでは後の各州に相当する各植民地が独自に鉄道建設を行なった結果、最初(1850年)のサウスオーストラリア州は4フィート8.5インチ、次(1852年)にニューサウスウェールズ州はアイルランド式の5フィート3インチでビクトリア州と前述のサウスオーストラリア州もこれに合わせ改軌。しかしニューサウスウェールズの技師長がアイルランド人からスコットランド人に変わると今度は4フィート8.5インチになる(ビクトリア・サウスオーストラリアは変更せず)など混乱が続き、1870年代の狭軌ブームの時代もあって1067mmの州も加わるなど、州ごとにゲージが分断されたまま発展が続いて現在に至っている。ラテンアメリカ各地の鉄道の軌間は建設の始まった時期により異なり、1837年から1851年までの6例ではすべて1435mm軌間、1854年から1863年までの6例はすべて広軌である。1865年にウルグアイが1435mm軌間を採用したのを挟んで、以後はもっぱら狭軌となる。 -ピッツバーグ市内、および都市圏内には多くの大学がキャンパスを置いている。中でもとりわけ高い評価を受けており、全米のみならず世界的に知名度が高いのが、1900年にアンドリュー・カーネギーが設立したカーネギー技術学校と1913年にアンドリュー・メロン���設立したメロン工学研究所を前身とするカーネギーメロン大学である。この私立大学はUSニューズ&ワールド・レポートが毎年発行している全米の大学ランキングで常に上位25位以内に入る評価を受けている。同学はカーネギー技術学校時代からの伝統の工学をはじめ、コンピュータ科学、情報公共政策管理、経済学、および芸術の分野で特に高い評価を受けている。同学は学部生約6,000人、大学院生約5,000人を抱え、ダウンタウンの東約5km、教育機関、研究機関、文化施設の集中するピッツバーグの文教地区であるオークランド地区に約580,000m2のキャンパスを置いている。同学は2005年、アジアにおける情報セキュリティ教育研究拠点となることを目指して、兵庫県神戸市中央区に日本校を設立した。 -JX仙台製油所や東京湾岸の製油施設、各地油槽所の稼働停止による供給不足と津波によるタンクローリーの被災・遺失による輸送手段喪失が発生し、ガソリン、灯油、軽油の供給が滞った。これに対し政府は、西日本地域の石油製品在庫取り崩し(民間備蓄義務日数70日分を45日分に引き下げ)、製油所の稼働率上昇による増産、流通業者及び地域間の融通を円滑化を指示し、被災地域において特に重要な拠点ガソリンサービスステーション(SS)を指定し、重点的なガソリンなどの供給が行われた。しかし、一般のSSでは元売りからの供給を受けられないため、給油量に制限を設けるなどの対応が行われた。西日本地域から300台のタンクローリーの追加投入や製油所、油槽所の稼働再開により3月21日ごろから次第に供給不足は解消した。2013年、東京大学の研究グループは、東日本大震災以来体調不良になっていると訴える者が多いことに着目し、対象を若年層に絞って全国調査を行ったところ、当該症例数は有感余震回数と高い相関にあり、本震の震度、空間放射線量率、福島第一原子力発電所からの距離との相関性は低いことが判明したと発表した。2014年1月26日、厚生労働省研究班は、岩手・宮城・福島の3県で震災当時に保育園児だった子供を対象に「子どもの行動チェックリスト」(CBCL)を用いた調査を行ったところ、25.9%の子が精神的問題に関する医療的ケアが必要な状況と分かったと発表した。調査対象の子供の43.9%が津波を目撃している。空港が再開した直後から被曝を恐れて日本から避難するために多くの外国人観光客が空港に殺到し、チェックインカウンターには長い列ができた。二重ローン問題対策として、東日本大震災の影響により債務の返済が困難になった、個人の住宅ローンや、個人事業主のローンなどの債務を対象とした「個人債務者の私的整理に関するガイドライン」(被災ローン減免制度)が2011年8月22日より運用開始された。ただし、当ガイドラインの適用件数は2016年4月15日現在、1,347件にとどまっている。また、事業者向けの対策としては、同年11月に東日本大震災事業者再生支援機構法案(二重ローン救済法案)が成立している。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに���戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -Lは2006年4月、三重大学に留学生として入学し、それ以降同大学に在学していた。Lは当時、国の支援を受けない私費留学生として年間約34万円の授業料を払っており、津市内の大学キャンパス付近の木造平屋アパートで一人暮らししつつ、地域文化論を学んでいた。三重大入学後、Lはコンピューター専門学校在学当時の担当教師に対し、「なぜ自分は奨学金を受けられないのか。そのせいで金に困り、コンビニエンスストアの廃棄弁当を漁って食べるような生活を送っている」という内容の手紙を送っていた。そのため、母国の両親から仕送りを受けつつ、大学付近の飲食店などでアルバイトをして生活していたが、事件前には体調を崩して働けなくなった。しかし三重大の学生時代は学費滞納を繰り返し、前期・後期ごとに大学側から何度も支払いの督促を受けており、所属ゼミの教授は「大学の会計担当者から督促依頼が来ており、会計が退学をちらつかせてようやく支払う状態だった」と証言した。Lは入学後最初の2年こそ半年ごとに授業料を納付していたが、2008年度から2010年度にかけての3年間は、いずれも期限直前の3月下旬に前期・後期分を一括納付していた上、2008年には三重県の私費留学生奨学金を申請したが、成績不良などを理由に認められなかった。これに加えて三重大在学中は、アパートの家賃も滞納するなど、生活費に困窮しており、成績も悪く、授業に来ないことも多かった。結局、事件のあった2009年度は2単位しか取得できなかったが、入学5年目となる2010年度には授���に出席するようになり、2011年3月に卒業した。 -ダウンタウンおよびサウスボストンの地勢は、特に中央幹線・トンネル事業による変化が加えられた。埋め立てられたサウスボストンの不安定な土壌のため、同事業のトンネル掘削には特別な問題が生じた。ダウンタウン地区では、同事業により、中央幹線の見苦しい高架をなくすことができ、新しい緑地や公園を整備することが可能になった。ボストンのフィナンシャル・ディストリクトやビーコンヒルの近くにあるボストンコモンは、アメリカで最も古くからある公園である。隣のボストン・パブリック・ガーデンとともに、フレデリック・ロー・オルムステッドがデザインしたエメラルド・ネックレスが街を取り巻く公園の連なりを構成している。エメラルド・ネックレスの一部を成すジャマイカ池は、市内最大の淡水域である。同じくエメラルド・ネックレスの一部であるフランクリン・パークは、市内で最も大きな公園であり、中にフランクリン・パーク動物園がある。もう一つ大きな公園としては、チャールズ川両岸に沿って広がるエスプラナード(遊歩道)がある。野外コンサート場のハッチ・シェルがエスプラナードに隣接してある。そのほかにも、市内至る所に公園が散在しており、キャッスル島近くやチャールズタウン内、またドーチェスター、サウスボストン、イーストボストンの海岸沿いには、大きな公園や砂浜がある。 -その後、ハワイアンリーグは、ホノルルライフルズなどが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させた。それが1887年7月に採択された、1887年憲法(通称「ベイオネット憲法」)である。「ベイオネット」とは「銃剣」を意味し、威嚇のもとに強制的に調印された憲法であった。この憲法はすべてのアジア系移民から一切の投票権を奪い、かつ、投票権の有資格者として収入や資産などの一定の基準を設けたため、大多数の先住ハワイ人とごく少数の欧米人から成る貧しい人びとは選挙権を剥奪され、ごく少数のハワイ人エリートや富裕な欧米系住民の発言力が飛躍的に高まった。また、王権は制限され、枢密院や内閣は強い影響力をもつようになった。カラカウアはベイオネット憲法の廃案を画策し、1889年には混血ハワイ人で王国の軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックスらの抵抗もあったが失敗に終わった。1891年1月20日、カラカウアは志半ばで保養先のサンフランシスコで死去した。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -1895年、物理学者アンリ・ベクレルはウランから放射線が発生していることを発見した。1897年にはマリー・キュリー、ピエール・キュリー夫妻が、この放射線はウランが他の元素と化合することで発生するのではなく、ウランそのものから直接出ていることを確かめた。さらに1903年、ピエール・キュリーとアルベール・ラボルドは、ラジウムは放射線を出すときに大量の熱を発生することを発見した。 -1966年(昭和41年)11月、被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成した。その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも企業側の対応が冷ややかだったためイ対協の会長であった小松義久などは裁判で訴えることを決意する。1968年(昭和43年)1月、全国から集まった20人の弁護士によってイタイイタイ病訴訟弁護団を結成した。1968年(昭和43年)3月9日、患者・遺族28人が三井金属鉱業を相手に総額約6億3000万円の第1次訴訟を起こす。1971年(昭和46年)6月に第1審が原告勝訴の判決を下した。1審判決を不服とする三井金属鉱業は控訴したが、第2審も1972年(昭和47年)8月9日に原告側勝訴の判決となった。三井金属鉱業は上告を断念し、第2次以下の訴訟も判決内容にしたがって補償することを決めた。判決ではカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定した。三井金属鉱業は第5次訴訟まで総額23億5633万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の3点を内容とする和解に応じることとなった。 -クサヴェラ・レーメは、ドイツ出身の修道女、教育者だ。日本で大正末期から昭和中期にかけて、北海道札幌市でドイツ語の私塾を開くことを始め、札幌市の藤高等女学校の創設に尽力し、軍国化が進み困難な社会情勢の中で、女子教育に尽力した。戦後は藤女子短期大学及び藤女子大学の設立などの実績により、女子総合教育の場の設立に貢献した。クサヴェラの名は修道名であり、出生名はカタリナ・レーメである。ドイツのニーダーザクセン州オスナブリュック郡オスターカッペルン出身だ。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -帝国クライス(ていこくクライス、ドイツ語:Reichskreis)とは、神聖ローマ帝国で16世紀に確立した統治システムである。帝国を複数の帝国等族を包含した10のクライスに分け、ラント平和(地域内の治安維持)にあたった。平和破壊活動(一揆、暴徒化した傭兵、諸侯の侵略行為など)の規模に応じ、隣接するクライスと共同でその平定にあたることもあった。 -インドハッカは、都市および郊外の環境への適応に成功している。例えば、オーストラリアの首都キャンベラにおいては、1968年から1971年の間に110羽のインドハッカが放鳥された。1991年には、インドハッカの個体密度は1平方キロメートルあたり平均15羽となった。わずか3年後の第二次調査では、同地域における平均個体密度は1平方キロメートルあたり75羽であることが分かった。 -1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区等で過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、それらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定した。後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわず、再度数年の充電期間に入る。その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。 -治水のために行われる川岸の護岸はヨシ原を消失させ、魚の繁殖にとって問題となる。また、圃場整備に伴う用排分離(これ自体は用水水質維持のために必要とされるが)によって、水路部分と水田部分の魚類の行き来が阻害されることが、メダカやドジョウ、ナマズ、絶滅危惧種のアユモドキ、イトヨといった魚類や、トキ・コウノトリ・サシバなど湿地・水田(里山)を生息域にする鳥類の減少・絶滅の原因であることが広く知られるようになってきている。また、洪水で流された生物が元の場所に復帰遡行できなければ、河川内で生活圏の後退が起こる。そのため、堰などで遮断された地点から上流の生態系は貧弱になる傾向がある。 -マウリッツとの会話からセネルたちは、宇宙から飛来し光跡翼を用いて海しかなかった世界に陸地を作ったのが、水の民ではなく陸の民だったことを知る。仲間たちは「自分たちの先祖が来なければ何も起きなかった」と考え項垂れるが、セネルは前へ進みシャーリィに自身の想いを伝え、2人は互いの心を通わせる。水の民を代表するシャーリィが陸の民との共存に踏み切ったことで、陸の民の滅亡は回避された。しかしシャーリィを裏切り者と見なしたマウリッツが滄我の力を取り込み光跡翼を発動させようとする。メルネスではないマウリッツが滄我を取り込んだことで彼は暴走し異形の姿に変貌するが、セネルたちに倒され元の姿に戻る。シャーリィが陸の民を受け入れたことで、猛りの滄我もまた陸の民を許したことを知ったマウリッツは陸の民への憎悪をなくし、彼らとの共存を決意する。陸の民と水の民は少しずつ和解への道を歩み出し、遺跡船に平穏が戻る。 -1998年(平成10年)頃には静岡市立図書館の職員のプロジェクトチームが中央図書館を中心市街地に移転させる構想を打ち出した。2000年には中心市街地の御幸町と伝馬町に再開発ビルを建設することが決定したため、静岡市はこの再開発ビルの4フロアを購入して、2フロア分を図書館に、残りの2フロアを都市型産業支援施設に宛てることとした。図書館2フロア分の延床面積は約2,000mであり、延床面積の狭さなどの問題から中央図書館を移転させるのは困難だったため、近隣の追手町図書館を複合ビルに移転させることとした。このビルは静岡鉄道新静岡駅とバスターミナルがある新静岡センターと向かい合っており、静岡市でもっとも賑わいのあるエリアに位置する。複合ビルの設計は静岡市内で葵タワーなども手掛けることになるアール・アイ・エー。 -9月初旬、成岡は悪性の熱帯性マラリアに罹患して臥床を余儀なくされた。ちょうどその頃、香川県からの慰問団が近日中に訪問してくるという知らせが届いたが、体調の悪い成岡はそれどころではなかった。ハチは成岡の体調を気づかうように、1日の大部分を彼の枕元で過ごした。成岡が高熱に苦しみだすと、その舌で手先や顔をなめ回したり体をすり寄せたりして見守り続けた。成岡はハチのいじらしさに涙を流し、体の痛みを忘れてハチを撫でるほどであった。数日が過ぎ、成岡の体温はほぼ平熱に戻っていたが、激しい頭痛とめまいが残って体力が弱っていた。その朝部下の1人が「大隊長が慰問団を案内してハチを見学に来る」旨を知らせてきた。成岡と部下が病気のことなどについていろいろ話し合っていると、中庭の方からにぎやかな声が聞こえてきた。その中には若い女性の声も混じっていた。ハチは成岡の枕元にいて中庭の騒ぎに聞き耳を立てていたが、いきなり声の方向に向かって走り出した。とっさのことに成岡は無意識のうちに起き上がってハチの後を追い、ハチが慰問団の一行に飛びかかる寸前で引き留めることに成功した。騒ぎに驚いた慰問団の一行が慌てて���げたため、負傷者は出なかった。若い女性が1人失神して倒れていたが、スカートと下着を切り裂かれただけで怪我はなく、応急措置を受けて約30分後には無事に回復した。 -オーストラリアには、よく知られた135種を含む多種多様なクモ綱が分布する。咬傷により時に命に関わる、悪名高いシドニージョウゴグモやセアカゴケグモを含む多数の非常に危険な種が生息する。ダニ目には数千種のダニとマダニが属する。また8種のカニムシ目と9種のサソリ目が分布している。環形動物の貧毛綱には多数の水生あるいは陸生のワームが見られる。ヒメミミズ科、ムカシフトミミズ科、フタツイミミズ科とフトミミズ科などである。フトミミズ科に属する世界最大のミミズであるメガスコリデス・アウストラリス(Megascolidesaustralis)がビクトリア州ギプスランドにのみ分布している。この種は平均で全長80cmになり、最大で3.7mにも達する。 -ブクステフーデは、大きな旅行をすることもなく、約40年にわたって聖母マリア教会の職務を全うした。旅行の確実な記録は、ハンブルクの聖ニコラウス教会に設置されたアルプ・シュニットガー作のオルガンを鑑定するために、1687年に当地を訪問したことのみである。しかしながら、ブクステフーデは、ヨハン・アダム・ラインケン、ヨハン・タイレ、クリストフ・ベルンハルト、マティアス・ヴェックマン、ヨハン・パッヘルベル等、当時のドイツの主要な音楽家と関係をもっていた。。ヨハネス・フォールハウトの『家庭音楽のひとこま(HauslicheMusikszene)』(1674年)には、ブクステフーデ、ラインケン、タイレと思われる3人の音楽家の交流が描かれている。また、タイレが1673年に出版した『ミサ曲集第1巻』や、パッヘルベルが1699年に出版した『アポロンのヘクサコルド(HexachordumApollinis)』は、ブクステフーデに献呈されたものである。一方、ブクステフーデに師事した音楽家としては、後にフーズム市教会オルガニストとなるニコラウス・ブルーンスが有名である。ブクステフーデが晩年に作曲した2曲のアーベントムジークは、その規模の大きさにおいて際立っている。1705年の神聖ローマ皇帝レオポルト1世の死を悼み、新皇帝ヨーゼフ1世の即位を祝うこれらの作品は今日消失しているが、丁重に印刷されたフォリオ版のリブレットからは、帝国自由都市リューベックの威信を賭けた一大イベントであったことが偲ばれる。ブクステフーデは、これと前後して、後継者捜しに苦心するようになる。1703年8月17日には、ヨハン・マッテゾンとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルをハンブルクから迎えるが、2人は30歳に近いブクステフーデの娘との結婚が後任の条件であることを知ると、興味を失ってハンブルクに帰ってしまう。また、1705年11月にアルンシュタットから訪問したヨハン・ゼバスティアン・バッハも、情熱的なブクステフーデのオルガン演奏に強く魅了され、無断で休暇を延長してリューベックに滞在したが、ついに任地として選ぶことはなかった。結局、ブクステフーデは弟子のヨハン・クリスティアン・シーファーデッカーを後任に推挙し、当局に受け容れられる。1707年5月9日、ブクステフーデは死去し、5月16日に聖母マリア教会で父ヨハネスと早逝した4人の娘の傍らに埋葬される。「まこと気高く、大いなる誉れに満ち、世にあまねく知られた」(ヨハン・カスパル・ウーリヒによる追悼詩)と謳われたオルガニストの最期であった。 -煥章館は高山市図書館を中核とした複合施設で、ほかに高山市近代文学館や高山市生涯学習ホールも設置されている。煥章館の名は、建物が立地している場所が学制発布時に創立した煥章学校(現・高山市立東小学校)の所在地であったことに由来する。煥章学校は瀧井孝作の祖父である大工の瀧井與六が建築した飛騨地方初の近代学校であった。「煥章」の語は『論語泰伯』の一節「煥乎として其れ文章に有り」を典拠とし、中国神話上の君主・堯(ぎょう)の時代の活発な文物の探求を意味し、単に煥章学校の名を受け継いだだけでなく、煥章館が高山市の生涯学習・文化振興の核となるようにという高山市当局の願いを含んだものである。 -漆沢ダム完成後も水害や水需要の拡大が続き、建設省は支流である田��に田川第一ダムと田川第二ダムを建設して田川・鳴瀬川の治水と鳴瀬川流域農地への灌漑用水供給、および上水道・工業用水道供給を図る目的で鳴瀬川総合開発事業を1992年より着手した。しかしその後の水需要の変化などで事業が縮小されて田川第二ダムは中止、第一ダムは田川ダムと名称を変更しさらに工業用水道供給目的を廃止した。隣接する二ッ石川流域よりバイパストンネルによる洪水導水路を田川ダムに連結して、田川・二ッ石川および鳴瀬川下流域の治水と灌漑・上水道供給目的を以って計画された。しかしダム事業再検証対象となり多くの代替案を検討したところ、同時期に宮城県が補助多目的ダムとして計画しやはり再検証対象となっていた筒砂子ダム計画を大幅に拡張して田川ダムを統合し、合わせて漆沢ダムを治水ダムとして洪水調節目的に特化した方が費用対効果で最適であるという結論に達した。これに伴い田川ダム事業と宮城県補助事業としての筒砂子ダム事業は中止され、直轄事業としての「新」筒砂子ダム事業・漆沢ダム再開発事業を両軸とした鳴瀬川総合開発事業として事業自体は継続になった。 -黒田は藤子・F・不二雄のファンであり、『Comickers』では藤子の『21エモン』が漫画家となるきっかけだったかも知れないと語っている。『QuickJapan』では新沢基栄や徳弘正也などに言及、小説家では学生時代に筒井康隆を愛読していたと語っている。 -保護拘禁による逮捕数が多くなってくると正規の警察が収容先に困るようになった。強制収容所に収容する必要があったが、突撃隊の無法ぶりに眉をひそめていたゲーリングは強制収容所を突撃隊ではなく州の管理下に置きたかった。そこでゲーリングは、ベルリン郊外のオラニエンブルクのオラニエンブルク強制収容所、オランダ国境に近いエムスラント(Emsland)のエステルヴェーゲン強制収容所(KZEsterwegen)、オスナブリュックのパーペンブルク強制収容所(Papenburg)、メルゼブルクのリヒテンブルク強制収容所(KZLichtenburg)、フランクフルト・アン・デア・オーダーのゾネンブルク強制収容所(KZSonnenburg)、ポツダムのブランデンブルク強制収容所(KZBrandenburg)の6つのみを州公認の強制収容所と定めた。ついで1933年8月には突撃隊をプロイセン州の補助警察から外し、さらに10月には保護拘禁で逮捕した者は原則として州公認の強制収容所にのみ収容することを定めた。それ以外の私設収容所は1933年末頃までにあらかた片づけられ、1934年3月には全て解散した。しかし親衛隊と対立を深めたくないゲーリングは、親衛隊の私設収容所コロンビアハウス強制収容所(KZColumbiahaus)には手をつけず、この収容所は1936年まで存続した。ゲーリングはニュルンベルク裁判において強制収容所はボーア戦争の際にイギリスが南アフリカに建設した強制収容所(concentrationcamp)をモデルにしたと証言している。ヒトラーも1941年に「強制収容所の発明者はドイツ人ではない。イギリス人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べている。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8��の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -1889年で『トバエ』は休刊し、その後もビゴーは複数の風刺画雑誌を刊行した。しかし、大日本帝国憲法発布で自由民権運動が終息すると、条約改正問題を除けば日本の政治に関する風刺はほとんど見られなくなった。1893年には半年ほど京都市に滞在。これは大阪市や神戸市の外国人居留地へのセールスが目的であった。また、この時期に千葉県検見川村稲毛(現・千葉市稲毛区)にアトリエを構えて移り住み、帰国直前まで暮らすことになる。 -榛名山は約50万年前から同じ場所で噴火を重ねており、山頂のカルデラは馬蹄形に連なる多重の外輪山に囲まれている。約22万年前の爆発で直径3キロメートルほどのカルデラが生じ、そこに榛名湖の原型ができた。4万年ほど前にカルデラ内で再び噴火があり、東西4キロメートル、南北2キロメートルほどのカルデラをつくった。これが現在の榛名湖の周囲を囲む外輪山で、当時はその内側が全て湖だったと考えられている。その後も、このカルデラ内で何度か噴火があり、榛名富士などが生じた。カルデラ内の湖の一部が火山噴出物で埋め立てられ、いまの榛名湖の姿になった。 -人肉パイで大繁盛したラヴェットは、引き取ったトビーと、トッドとの3人で海辺に暮らす夢を歌い上げるが、トッドは気乗りしない。店の周りには、汚らしい身なりの女性がうろつくようになり、ラヴェットはトビーを使って女を追い返す。アンソニーからジョアンナの居場所を突き止めたと知らされ、トッドはかつら職人の見習いを装って彼女を助けるよう助言する。その後トッドはターピンへ手紙を出し、アンソニーとジョアンナの駆け落ち計画をだしにして彼を誘き出す。トッドを疑い始めたトビーは、自分がラヴェットを守ると申し出るが、彼女がピレリの小銭入れを使っていたことで狼狽する。バムフォードがラヴェットのパイ屋に現れ、近所の住民が店の煙突から異臭がすると訴えていることを伝える。トッドは無料で髭剃りをしようとバムフォードを店へ招き、そのまま彼を殺す。トッドは手作りの回転椅子と仕掛け扉で、彼の遺体を地下にあるラヴェットの厨房へ落とすが、そこにいたトビーは、トッドが殺した人間の肉がパイのペイストリーに使われていたことを知ってしまう。同じ頃、ジョアンナを救出したアンソニーは、彼女を若い船乗りに変装させてトッドの店に連れて行き、自分が帰るまでここにいるよう言い含める。その後ラヴェットの店の周りをうろついていた女性が、バムフォードを追ってトッドの店に現れ、ジョアンナは店のトランクに隠れる。女性はトッドを認めて何か話そうとするが、トッドは早業で彼女を殺し、仕掛け扉から地下へ遺体を落とす。直後、ターピンが再び店に訪れ、トッドはジョアンナが後悔していたと嘘をつき髭剃りを申し出る。ターピンがトッドの話から、彼の正体がベンジャミン・バーカーだったと知ったところで、トッドは何回も切りつけてターピンを殺害し、遺体を地下へ落とす。ジョアンナは様子を伺うためトランクから顔を出し、トッドの手にかけられそうになるが、ラヴェットの悲鳴が彼女を助ける。悲鳴を聞いて地下に向かったトッドは、先ほど殺した女性が、死んだと聞かされていた妻ルーシーであることに気付く。ラヴェットの嘘に激怒したトッドは、ワルツを踊ると見せかけて彼女をオーブン窯へ放り込んで殺し、妻の亡骸を腕に抱く。そこへ下水道に逃げ込んでいたトビーが戻ってくるが、トッドはトビーに剃刀でのどを掻き切られるのを黙って受け入れる。トビーは地下室を去り、トッドはルーシーの亡骸を抱いたまま、首から血を流して死んでいく。 -ヨセミテ国立公園は、カリフォルニア州シエラネバダ山脈の中央部にある。サンフランシスコからは車で約3時間半、ロサンゼルスからは約6時間、サンバーナーディーノからは約7時間である。周りには原生地域が広がり、南東にアンセル・アダムス自然保護区域、北東にフーバー自然保護区域、北にエミグラント自然保護区域がある。 -21世紀に入ってからも新たな候補者が現れた。シェイクスピアの遠い親戚に当たる同時代の外交官、ヘンリー・ネヴィルである。プリマス大学の非常勤講師ブレンダ・ジェームズとウェールズ大学アベリストウィス校教授ウィリアム・ルビンシュタインによる共著"TheTruthWillOut"において提唱された学説で、ネヴィルの経歴を調べてみると、多くの戯曲の書かれた時期に、作中の舞台となる場所をネヴィルが訪れていること、ネヴィルの生涯と作中の事件に暗合が見られることなどがその論拠である。ネヴィルは1599年にフランス大使を務めていることから、同じ時期に書かれた『ヘンリー五世』にフランス語が頻出している事実と符合する。外交官であれば、シェイクスピアに備わっていたはずのない外国語や宮廷に関する知識を持っていたことは明らかである。他にもネヴィルは諸外国を公務で訪れているが、ウィーン(『尺には尺を』)やヴェローナ(『ロミオとジュリエット』『ヴェローナの二紳士』)、デンマーク(『ハムレット』)など、シェイクスピア作品の舞台となった国が多い。特にジェームズとルビンシュタインが強調するのは、シェイクスピアの史劇は密かに前王朝のプランタジネット朝を支持するものだという点である。ネヴィルは、1601年に第2代エセックス伯ロバート・デヴルーが企てたクーデターに連座したため、ロンドン塔に幽閉されている。作風が重くなっていった時期と一致しており、当時の現体制であるテューダー朝に忠実なものでないことにも説明がつく。そもそもネヴィルはプランタジネット朝の血を引いており、その上政治犯とあっては著者として表に名を出す訳にいかなくなったため、遠い親戚のシェイクスピアに名前を借りて作品を発表していたのだという説である。またジェームズとルビンシュタインは、ロンドン塔幽閉中にネヴィルが記した文書の内容が『ヘンリー八世』の中で使用されている、また計量文献学による両者の文体比較から、シェイクスピアとネヴィルの文体や語彙、特殊語の使用頻度などには類縁性が見られるとも主張している。 -今回の隕石の落下では、事前に小惑星としての観測はなされていなかった。このサイズの小惑星は元々観測が難しい上に、地球に接近した側は当時日中であったため、事前の観測による落下の把握は極めて困難であった。今回の隕石落下の事象以前で、落下前に小惑星が観測されたのは、2008年10月6日6時39分に発見され、10月7日2時46分スーダンに落下した直径2mから5mの2008TC3の1例のみで、今回の事象以後で観測されたのは、2014年1月1日6時18分に発見され、1月2日3時0分に落下した小惑星2014AAなどごく少数である。宇宙からは、欧州気象衛星開発機構が運営している気象衛星の1つであるメテオサット10が偶然、大気圏に突入した後の隕石雲の画像を捉えていた。 -カルデラの形成後、約13万年前から8万年前にかけて、再び噴火活動が活発化し、カルデラ内に流動性に富む溶岩が噴出して、傾斜が緩い南東部の鷹巣山や屏風山、浅間山などの楯状火山が出来た。約6.6万年前から4.5万年前にかけて、大噴火によって楯状火山の西半分が陥没して新期カルデラが誕生した。残された東側の楯状火山は新期外輪山となった。最後にカルデラ内部の噴火活動によって、神山などの小規模な成層火山と二子山などの溶岩円頂丘による中央火口丘が誕生して現在に至る。 -一方四侯会議の途中から欠席するなど薩摩と距離を置き始めた山内容堂は、むしろこの後徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めていく。同年6月坂本龍馬から大政奉還を含む船中八策を聞いた土佐藩の後藤象二郎は、容堂にこれを進言する。徳川家存続の妙策と考えた容堂は、慶喜に大政奉還を建白した。その結果、薩摩側の倒幕の密勅工作の機先を制し、10月14日大政奉還が実行されることとなる。 -また、初期の陪審制においては、陪審員が、有罪評決を答申するまで監禁されるということも行われていた。星室裁判所では、有罪評決を出すことを拒んだ陪審員に対し、土地や財産を没収して処罰したことが知られている。このような伝統からの転換点となったのが、1670年のブシェル事件(Bushel'sCase)であった。クエーカーであったウィリアム・��ンとウィリアム・ミードが集会煽動罪で訴追された際、有罪評決を出すことを拒んだ12人の陪審員は、食べ物や水も与えられずに2晩監禁され、それでも無罪評決を撤回しなかったため、罰金を納めるまでの間懲役刑に処せられた。ブシェルをはじめとする4人の陪審員は罰金を納めることを拒否し、ヘイビアス・コーパスの訴えを提起したところ、高等法院王座部の首席判事は、陪審は事実の認定について他からの干渉を受けないという画期的な判断をしてブシェルらを釈放した。こうして、17世紀ころには、陪審は被告人にとって、苛酷な刑罰からの防護壁という重要な位置付けを与えられるようになった。古くからのイングランドの刑罰は、重罪事件で有罪になればほとんどが死刑に処せられていたが、中世から18世紀にかけての裁判記録には、陪審員が多くの重罪事件の被告人を無罪としたり、烙印や鞭打ち程度で済む、より軽い罪としたりしたことが記されている。 -1788年から1792年の四年セイムにおいて、改革に向けた大きな動きが持ち上がった。この時、周辺諸国はフランス革命への対処やオスマン帝国との戦争(露土戦争、墺土戦争)に忙殺されており、ポーランドに介入する余裕が無かった。またロシアはスウェーデンとの戦争も同時に抱えていた。1790年3月29日にポーランド・プロイセン同盟を結んでロシアに対する備えとしたポーランドは、1791年5月5日に当時としては極めて先進的な民主憲法である5月3日憲法を採択した。 -1502年にレオナルドはチェゼーナを訪れ、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した。1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作した。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはレオナルドのまったく新しい概念が導入されていた。チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化した工兵の長たる軍事技術者に任命している。同年にレオナルドは、トスカーナの渓谷地帯ヴァルディキアーナの地図も制作している。この地図もチェーザレが軍事戦略上有利な地位を占めるのに役立った。レオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎大会議室の壁画『アンギアーリの戦い』のデザインと制作に2年間携わった。このとき大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』の制作に取り掛かっていた。またレオナルドは1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『ダヴィデ像』をどこに設置するべきかを決める委員会の一員になっている。 -本作の戦闘システムは、対戦型格闘ゲームのようにサイドビューの1ラインで戦う従来の基本的な戦闘システム「LMBS」と、ナムコの格闘ゲームから採用された戦闘システムを融合させた「X-LMBS」である。戦闘は「わかりやすく」ということを意識しており、そこから考案された要素として、隣接する敵の背後に回り込む行動「パッシングスルー」や、敵が特殊な行動を取ろうとする際に表示される「コーションシグナル」がある。本作の術技は、「爪術(そうじゅつ)」と言い、特技・奥義・投げ技・我流奥義を使用する「アーツ系爪術士」と、術を使用する「ブレス系爪術士」がいる。いずれの術技も発動にはTP(テクニカル・ポイント)を消費する。TPは戦闘中1秒ごとに、また戦闘勝利時に一定量自動回復する。従来と違い、戦闘不能になるとHPとともにTPも0になる。術はレベルを上げることによって手に入る「呪文書」に書かれた量の「スカルプチャ」を集めることで初めて使用可能となる。投げ技はセネルとボスキャラクターのヴァーツラフのみが使用でき、通常はダメージを与えられないダウン中の敵にダメージを与えられ、投げた敵がほかの敵に命中すると命中した敵にもダメージを与えられる。セネルは投げ技を複数持っており、敵に設定されている「重さ」に合うものでなければ効果はない。我流奥義は習得した特技・奥義を使い込むことで入手できる「極意」を組み合わせることで使用可能となり、特定の種族以外には効果は薄��(もしくは無効)が大ダメージや状態異常を与えられる。 -事業存続の見通しが立ったエアバス・インダストリーは、市場調査により座席数200席強の旅客機需要が高まると予測し、次期製品としてA300の胴体短縮型の開発を決断した。この派生型はA310と名付けられ1978年7月7日に正式開発が決定し、同月13日にフランス・ドイツ両政府からの事業認可を得た。A300の販売好転とA310の開発決定という将来性が見えてくると、計画を離脱していたイギリス政府が方針を変えた。1977年4月29日、イギリスはホーカー・シドレーを含む航空機メーカー4社を統合して国有企業のブリティッシュ・エアロスペースを設立した。そして1978年11月、イギリス政府のエアバス計画への加盟が決定した。 -250-350°Cからの焼戻しで発生する脆化を低温焼戻し脆性と呼ぶ。低温焼戻し脆性は、焼戻しの冷却速度と鋼種を問わずに発生する。一端高温で焼戻しすれば、この条件で焼戻ししても低温焼戻し脆性は発生しなくなるのが特徴である。低温焼戻し脆性の原因は、リン、窒素などの不純物が旧オーステナイト結晶粒界に析出すること、300°C以上で析出する初期セメンタイトが薄板状のため粒界に析出すること、残留オーステナイトから炭化物が析出して不安定になり、荷重負荷時にマルテンサイト変態して脆くなること、などが挙げられる。そのため、リン、窒素などの不純物を減らすことも脆化を軽減する対策の1つである。防止策としては、この温度域からの焼戻しを避けることが第一で、珪素を添加も有効である。珪素の働きでε炭化物を安定させて、セメンタイトの析出と成長を抑え、脆化発生領域を高温域に移動させることができる。 -1805年8月、ナポレオン(前年12月にフランス皇帝に即位)は新たに現れたオーストリアおよびロシアの脅威に対処すべく、軍の目標をイギリス海峡からライン川へ振りかえた。9月10日にオーストリア軍がフランスの同盟国であるバイエルンに侵攻した。これに対して、ナポレオンは元老院においてバイエルン救援を宣言する。 -1966年(昭和41年)11月、被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成した。その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも企業側の対応が冷ややかだったためイ対協の会長であった小松義久などは裁判で訴えることを決意する。1968年(昭和43年)1月、全国から集まった20人の弁護士によってイタイイタイ病訴訟弁護団を結成した。1968年(昭和43年)3月9日、患者・遺族28人が三井金属鉱業を相手に総額約6億3000万円の第1次訴訟を起こす。1971年(昭和46年)6月に第1審が原告勝訴の判決を下した。1審判決を不服とする三井金属鉱業は控訴したが、第2審も1972年(昭和47年)8月9日に原告側勝訴の判決となった。三井金属鉱業は上告を断念し、第2次以下の訴訟も判決内容にしたがって補償することを決めた。判決ではカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定した。三井金属鉱業は第5次訴訟まで総額23億5633万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の3点を内容とする和解に応じることとなった。 -ロシアではフランスの宮廷バレエが伝わり、1730年頃にはフランスのジャン=バティスト・ランデによりサンクトペテルブルクにバレエ学校が創立された。フランスでロマン主義が衰退した19世紀後半、後進国であるロシアではロマンティック・バレエが踊り続けられており、その後独自の発展をした。ドラマ主体のロマンティック・バレエに、物語とは無関係のダンスシーンを取り入れたことから、クラシック・バレエと言う。クラシック・バレエでは技法はどんどん複雑になり、動きやすいように丈の短いチュチュが考案された。これをクラシック・チュチュと呼ぶ。ロマンティック・バレエでは1回回るのがやっとだったが、32回のフェッテ(連続回転)まで演じられるようになった。2人で踊るグラン・パ・ド・ドゥなどの様式も成立した。ダンスとマイムが分離されて演じられるようになり、現在のバレエの構成が完成した。1888年、サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場の監督であるウセヴィロジュスキーは、フランスから招いた振付家マリウス・プティ���の振付けのもと、ピョートル・チャイコフスキーに「眠れる森の美女」の作曲を依頼した。この作品が1890年に上演、大成功をおさめると、続いて「くるみ割り人形」(1892年、振付:レフ・イワノフ、台本:マリウス・プティパ)、「白鳥の湖」(1895年、振付:レフ・イワノフ、マリウス・プティパ)が上演された。これらは3大バレエと呼ばれる。チャイコフイスキーの3大バレエであると同時に(彼はこの3つしかバレエ音楽を書いていないが)、上演・演奏人気において、すべてのバレエにおける3大バレエでもある。 -北部諸島は冷涼で温和な気候をしており、比較的高緯度であるわりに穏やかで安定してる。これは周囲の海域とメキシコ湾流の影響が大きい。オークニー諸島の平均年降水量は982ミリメートルで、シェトランド諸島では1,168ミリメートルである。風はこの地域の気候において重要な要素を占めており、夏季においてもほぼ常に一定の軟風がある。冬になると頻繁に強風が吹き荒れ、オークニー諸島の強風継続時間の年平均は52時間に達する。シェトランド諸島にあるバラデール・ウィンドファームは、660キロワットを出力するヴェスタV47型タービンを5機使用し、恒常的な強風により、2005年の1年間の発電効率が57.9パーセントを記録し世界記録を成し遂げた。旅行者にとって、この諸島の魅力の一つは「夜のない」夏である。シェトランド諸島において可照時間が最も長い日は太陽が19時間とどまり、完全に闇に包まれることはない。この長い黄昏のことを北部諸島では"simmerdim"と呼んでいる。冬の夜は相応に長く、冬至の日の可照時間は6時間に満たない。一年のこの時期になると、時折オーロラが北の水平線上に現れ、幻想的な光景を醸し出す。 -2隊は12月にケベック市の前で合流し、1775年の大晦日、暴風雪の中でケベック市を強襲した。この戦闘でモントゴメリーは戦死し、アーノルドは負傷したが、市を守るイギリス軍にはほとんど損失が無く、大陸軍にとって悲惨な敗北になった。その後アーノルドは無益な市の包囲を始めたが、その間に行われた情報宣伝活動によってロイヤリストを支持する声が高まり、またモントリオールでのデイビッド・ウースター将軍の失政には大陸軍を中傷する者だけでなく支持する者からも不満の声が上がった。 -1925年、マリーの研究所に助手としてフレデリック・ジョリオが雇われた。これはポール・ランジュバンの推薦によるもので、当時フレデリックは25歳だった。イレーヌとフレデリックはやがて親密になり、1926年10月に結婚した。結婚の儀式はせず、2人とそれぞれの家族は証人と一緒に昼食を食べ、午後からは通常通り仕事に戻った。イレーヌはやがて妊娠したため、診察を受けに行くと、医者から肺結核の症状が出ていると告げられた。これは母マリーがイレーヌを産むときに診断されたのと同じ病気だった。イレーヌは1927年9月17日、長女のエレーヌを産んだ。イレーヌは後にこの出来事について、「わたしにもこんな素晴らしい体験ができるのに、もしこの世に子供を送り出していなかったとしたら、こういう体験をしなかったことを一生悔やむでしょうね」と述べている。医者はイレーヌに、肺の状態が悪いので、静養して、もう子供は産まないように、と告げたが、イレーヌは育児のかたわら仕事にも復帰し、1932年には長男のピエールを産んだ。 -うどは東洋原産で、ウコギ科タラノキ属に属する多年草である。うどは、フキやワサビなどとともに日本原産である数少ない野菜とされる。北海道から九州に至る日本各地に自生し、中国や朝鮮にも広く分布する。日本では古代から自生のものが山菜として食されていたが、栽培されるようになった経緯は明らかではない。一説には、10世紀頃からすでに栽培が始まっていたともいわれる。最も古い栽培の記録は尾張国のもので、その後江戸時代後期に江戸に移入された。うどはアワ、ヒエ、ソバ、ムギ、サツマイモ、ラッキョウなどとともに、武蔵野台地の水の乏しい乾燥した畑作地で多く栽培された。 -ドイツ人王と称せられるルートヴィヒ2世の治世(840年-876年)から、アルヌルフが死ぬ899年までの期間、ごく短期間を除き東フランクではカロリング家の1人の王による統治が持続���た。その領域内には多数の部族、民族が居住していたが、王家と親族関係を築いた聖俗の貴族が王家の委託を受けて統治する複数の分国からなる国家へと成長していた。その領域は後世に「ドイツ」と呼ばれる地域にほぼ合致し、単一の「ドイツ」民族への共属意識もこの時期に芽生えることから、歴史学上この王国は東フランク=初期ドイツ王国と呼ばれる。アルヌルフは教皇庁の強い求めに応じてイタリアへ派兵し、896年にはローマ教皇フォルモススによって皇帝に戴冠された。しかしその主要な関心は西フランク王位の拒否からもわかる通り、東フランク内の分国に対する統制力の維持にあり、基本方針としてはイタリアに対し不介入で臨んだ。彼は将来に備え、嫡出子優先の継承制度を整えたが、後継者となったルートヴィヒ4世は900年に即位したとき7歳であり、王家の親族による合議で運営されるようになった。911年にこのルートヴィヒ4世が死去すると、カロリング王家の男系が断絶した。西フランク王シャルル3世の擁立を目指す動きも不発に終わり、コンラート家のコンラート1世が国王に推戴された。 -庵野秀明は幼い頃よりアニメや特撮、そして大規模建造物等に夢中でよく絵を描いていたという。また、漫画少年でもあり、中学生の頃は特に少女漫画を大量に読んでいた。山口県立宇部高等学校での高校生時代には、美術部で部長を務めるほどの画力を有していた。アマチュア映像制作グループ「グループSHADO」にも所属し、自主制作の映像作品『ナカムライダー』が、文化祭で上映された。 -第1戦は1969年6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やクラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた。なお、こうしたサポーターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった。一方、エルサルバドルでは熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生した。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し葬儀の模様がテレビ中継をされるなど、国家的イベントの様相を呈した。 -円蓋式バシリカには、クロス=ドーム・バシリカ(Cross-DomedBasilica)と呼ばれる、身廊部分がギリシア十字平面に近い形式になったものもある。ハギア・ソフィア大聖堂では、身廊と側廊を分けるアーケードとティンパヌムが、四隅に設けられた角柱の内側に設けられているため、角柱は側廊に隠され、南北のアーチは内部には露出していない。しかし、中小規模の教会堂で同様の形状にすると、身廊がかなり狭苦しく、空間の広がりを保つことができない。クロス=ドーム・バシリカは、ティンパヌムとアーケードを角柱の外側に構成することによって、身廊内部に広がりを持たせたものである。この場合、やや奥行きの深いアーチを持つ空間が短手方向にも伸びるため、身廊は十字型の平面となる。円蓋式バシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用されたが、内接十字型がビザンティン建築の主流として確立されると廃れてしまった。しかし、12世紀には一時的にリヴァイヴァルされている。現存する代表的な円蓋式バシリカは、上記に挙げた聖堂のほか、ミュラ(現デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂(8世紀頃か?)、デレアジの廃墟となっている聖堂(名称不明、9世紀初期?)、721年頃に創建されたテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂などがある。特にテッサロニキのものはクロス=ドーム・バシリカの典型例として引用される。12世紀にリヴァイヴァルされたものでは、コーラ修道院中央聖堂(12世紀初期)やコンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミイ(12世紀中期)が挙げられる。カレンデルハネでは側廊が失われ、集中性の高いギリシア十字型平面になっている。これらは、もはやバシリカとは言えないような形式となっているため、単にクロス=ドーム(Cross-DomedChurch)とも呼ばれる。 -熊本県に次いで被害が大きかったのは福岡県である。特に筑紫平野(筑後川・矢部川流域)、北九州(門司・小倉)、福岡市内の被害が深刻であった。福岡県では人的被害もさることながら、家屋への被害が他県に比べて群を抜いている。筑後川では、上流部の大分県日田郡上津江村(日田市上津江町)上野田にある建設省の観測所で5日間の総降水量が1,148.5mmに達したのをはじめ、熊本県阿蘇郡小国町宮原で1,002.6mm・時間雨量90.2mm、小国町小国で994.6mmなど本流(大山川)流域で平均900mm、支流の玖珠川流域で平均700-800mmの豪雨が降り注いだ。このため筑後川の水位は、6月25日22時に治水基準点である久留米市瀬の下観測所で警戒水位の5.14mを超え、以後一時間ごとに60cm上昇した。日田市では計画高水位を6月26日14時の時点で過去最悪の水位を突破した。6月26日以降、筑後川の水位は8mから9mの水位まで上昇し、堤防天端すれすれの状態が6月27日まで続き、警戒水位を下回る平常の水位に戻ったのは、7月2日以降になってからであった。本流および支流・玖珠川の膨大な濁流は、日田郡夜明村(日田市)から浮羽郡浮羽町(うきは市)・朝倉郡杷木町(朝倉市)間の夜明峡谷に集まり、一挙に筑紫平野に流入した。この地点には、当時九州電力が水力発電専用ダムである夜明ダムを建設中であったが、濁流は夜明ダム堤体に激突。九州電力は水門を全開して濁流からダムを守ろうとしたが、濁流はダム両岸をえぐるように流れ、25日夜半から翌26日午前中にダムは左岸の発電所取水口と右岸の国道386号から決壊、ダム本体に据えつけられた水門も3門吹き飛んだ。その後濁流は、1674年(延宝2年)に建設された大石堰に激突し、ここで堤防を決壊させ、浮羽町役場をはじめ町内すべてを水没させた。 -960年頃にサトゥクの子ムーサーはベラサグンの大ハンを破り、仏教国である于闐(ホータン)を攻撃した。ムーサーはカシュガルを本拠地に定め、それまでの大ハンの都であるベラサグンを副都に降格し、兄弟のスライマーンをベラサグンの小ハンに任命した。于闐は同じ仏教国である天山ウイグル王国、吐蕃と同盟を結んで優位に立ち、969年9月に于闐の攻撃を受けたカラハン朝の君主TazikTsunHienはカシュガルを放棄して逃走し、多くの財宝と捕虜が于闐の手に渡った。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1930年代、アラスカのアリューシャン列島とプリンス・ウィリアム湾の辺りにラッコの生息地に適した土地が発見された。アムチトカ島のラッコ生息地は禁猟区に指定され、個体数が増加した。1960年代半ば、アムチトカ島は核実験に使用され、ラッコを数多く殺すことになった。1968年、アメリカ原子力委員会は大規模核実験を前にして、数百頭の動物を他の場所に移すことを決めた。それを受けて1960年代、ラッコは700頭が移され、その経験から科学者達は動物を安全によそに移す方法を学んだ。1973年、アラスカのラッコ頭数は、100,000から125,000頭に上ると推定されている。 -天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国で全く勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった。1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された。帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した。第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった。 -開館直後の12月からは月1・2回の頻度でレコードコンサートが開催され、その他には映画会、講演会、展覧会などの文化的な催しが数多く開催された。昭和30年代には映画が大衆娯楽の頂点に君臨しており、浜松市立図書館では静岡県視聴覚ライブラリーや日米文化センターから借りた文化映画などを上映した。児童閲覧室では紙芝居・人形劇・幻灯・おはなし会などを開催した。当時は市内に美術館や博物館がなかったため、美術展・華道展・書き初め展・写真展・志戸呂焼展などの催しも図書館で開催された。やがて浜松市公会堂や松菱が美術展の会場の役割を引き継ぎ、1958年に開館した浜松郷土博物館が博物施設の役割を引き継いだ。1961年には浜松市民会館、1962年には浜松市児童会館、1963年には浜松市体育館が完成しており、これらの諸施設と重複するような事業は取りやめて図書館本来の役割に専念するようになった。 -1998年11月3日、参合館に豊田市中央図書館が開館した。開館記念事業として11月3日から12月13日には「オックスフォード大学ボドリアン図書館重宝展」を開催しており、ボドリアン図書館が所蔵する『マグナ・カルタ』、『徳川家康朱門状』、シーボルトの『日本動物誌』、三浦按針の航海日誌、西欧の世界地図に初めて印刷された日本地図などを展示した。同年には自動車に関する大型資料集『英国におけるモータリングの歴史1895-1940年』をボドリアン図書館と共同出版している。開館時の蔵書数は約45万冊であり、旧館の24万冊から大幅に増加した。 -またさらに、不凍港を求め南下政策を採用していたロシアのエカチェリーナ2世はオスマン帝国との戦いを続けていたが、露土戦争(1768年-1774年)で勝利したロシアは1774年に結ばれたキュチュク・カイナルジ条約で黒海北方を得た上でオスマン帝国内のキリスト教徒らを保護する権利も得た。そしてワラキア、モルダヴィア両公国のボイエールらもこの条約締結の際に参加していたが、彼らはロシア、プロイセン、オーストリアの保障の下でワラキア、モルダヴィアの自治国化を求めた。 -アンリ2世はカトリーヌが如何なる政治的影響力を持つことも許さなかった。国王が不在中はカトリーヌが摂政の役割を担ったが、権限を厳しく制限されており、名目的なものに過ぎなかった。アンリ2世はカトリーヌが貰い受けることを望んだシュノンソー城をディアーヌ・ド・ポワチエに与えてしまい、彼女はここを権力の中枢となしてパトロネージを施し、贈物を受け取った。神聖ローマ帝国大使は、アンリ2世は来客たちの前でディアーヌの膝に座ってギターを弾き、政治について語り、または彼女の乳房を愛撫していたと報告している。ディアーヌはカトリーヌを脅威と認識していた。彼女は国王にカトリーヌと寝室を共にして、もっと子供をつくるよう勧めた。1556年、カトリーヌは双子の娘を出産した際に死にかけている。医師たちはカトリーヌの命を救うために双子の一人の脚を折り、その子は彼女の胎内で死亡した。生き残った子も7週間後に死亡した。以後、カトリーヌが子を生むことはなくなった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -しかしゲーリングは、観測員だけでは満足していなかった。1915年7月から9月にかけてフライブルクでパイロットとしての研修を受け、1915年9月からいよいよ第25野戦飛行隊所属の戦闘機パイロットになる。1915年10月3日に双発戦闘機のパイロットとして初出撃した。 -委員としては1994年の冬季オリンピック準備のための研究・評価委員会、第12回オリンピックコングレス準備委員会など多数の委員会の委員を歴任した。開催地候補都市の評価を行う評価委員会は、猪谷の尽力により設立されたものである。1987年から1991年までと1996年から2000年までは理事を務め、ドーピング問題への対応などに力を入れる。2005年から2009年まではIOC副会長を務めた。2011年12月、80歳定年制によりIOC委員を退任し、2012年から名誉委員に就任、同年、それまでの功績を讃えオリンピック・オーダー銀章を受章する。 -しかしアイリーン・ドナン城はジャコバイトが出払っている間にイギリス軍に占領、破壊された(アイリーン・ドナン城占領)。また第2代オーモンド公ジェームズ・バトラー率いる軍勢7千は1719年3月にカディスから出航したが、フィニステレ岬で嵐に遭いグレートブリテン島に上陸できなかった。スペイン軍とジャコバイト軍が糾合して戦ったグレン・シールの戦いも政府軍の勝利に終わり、「ザ・ナインティーン」または「1719年の反乱」と呼ばれた1719年ジャコバイト蜂起は1回の戦闘で鎮圧された。 -カラカウアは、王位を継承してすぐに自分の後継者として弟のレレイオホクを指名して国王選挙の前例が繰り返さないよう手をうち、1874年中にハワイ国王として最初にアメリカ本土を訪れ、貿易関税撤廃相互条約(米布互恵条約)を締結した。これによりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカ合衆国本土への輸出が可��となったが、第4条に「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾斜に拍車がかかることとなった。いっぽう、製糖業を支える外国人をハワイ王国の市民として受け入れる政策をとり、これは製糖業を独占していたアメリカ人商人には不評であった。カラカウアはウォルター・マリー・ギブスンという人物を政治顧問とし、内閣を指導させた。 -1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。その後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発...といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。 -1917年、ホノルルに第6飛行隊が設立され、司令官としてジョン・F.カーリー大尉が任官した。50機が所属することとなったが、49機しか到着せず、1機は途上で放棄された。カーリーは新たな部隊の基地として、水の入手と風の状況の良さからフォード島を選び、ジョン・パパ・イイ土地信託団体から236,000ドルで用地を買い取った。カーリーがワシントン州に移動となり、隊の指揮権はまずジョン・B・ブルックに移り、その後ヒュー・J・ナー少佐が着任して、彼が格納庫と滑走路を整備した。最初に配属した兵士たちは、丘を削り巨石を取り除き、地面を水平に整備しなければならなかった。 -電気製鋼所時代の製鋼工場は以下の2か所であった。熱田工場の所在地は、名古屋市南区熱田東町字丸山(現・熱田区花表町)。熱田火力発電所隣接地に所在。大同製鋼時代は主として鋳鋼品を生産したが1950年(昭和25年)6月閉鎖。木曽福島工場の所在地は、長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町福島)字新万郡であった。フェロアロイ専門工場で、大同製鋼時代の1932年(昭和7年)に操業を再開。1969年(昭和44年)に精密鋳造製品に生産転換され、1980年(昭和55年)には大同特殊鋼より大同特殊鋳造として分社化。さらに2002年(平成14年)には会社統合により大同キャスティングス木曽工場となるが、2004年(平成16年)に中津川工場への集約により閉鎖された。 -6000系は急行用として6両編成で製造されたため、当初は5000系が7両編成で特急、6000系は6両編成で急行に運用された。1975年に6000系の8両編成が登場、平日の特急にも運用されるようになったが、一部駅ではホーム延伸が間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた。オフシーズン休日の特急は高幡不動で京王八王子方面と高尾山口方面で分割される運転形態だったため、5000系が引き続き充当されていたが、一部の6000系の5両+3両編成化により6000系がオフシーズン休日の特急にも運用されるようになり、オンシーズン時には8両編成で「高尾」「陣馬」などのヘッドマーク付き列車などにも運用された。5両編成は平日日中にグリーン車とともに各駅停車にも運用された。1978年に京王新線が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、笹塚-新線新宿間の折り返し運転が行われた。1980年3月から都営新宿線への乗入が始まったが、岩本町より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり、1987年12月に大島まで、1989年3月に本八幡までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された。1981年9月からは朝ラッシュ時の乗入運用の一部が10両編成化され、2007年9月に京王車両で運用される列車は終日10両編成での運転となった。乗入開始当初から10両編成化までの間、乗入距離精算のため6000系が新宿線内を折り返す運用が1運用設定されていた。朝ラッシュ時の相模原線から調布以東に直通する列車(相模原線系統)は京王八王子・高尾山口から調布以東に直通する系統(京王本線)の1時間当たり10本に対して半分の5本だったため、京王本線より先に輸送力が限界に達すると予想されたこと、京王線新宿駅と府中以西各駅の10両編成対応に時間を要したことから京王本線よりも先行して相模原線-新宿線乗入系統の10両編成化が実施された。東京都交通局は新宿線を6両編成対応で開業させた直後に8両・10両対応への延伸を行うこととなったが、東京都も開発に関連している多摩ニュータウンの輸送力確保が目的であることから協力的だったと言われている。京王線新宿駅の10両編成対応が完了した1982年11月から京王本線-京王線新宿駅系統も10両編成化されたが、乗入系統とは2両編成の連結位置が異なっていた。30番台の2両編成は当初日中の運用がなく、全車若葉台で待機していた。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -トゲウオ科の魚類は北半球の淡水・汽水域、および沿岸海域にかけて幅広く分布する。本科に記載される5属のうち、スピナキア属(ウミトゲウオSpinachiaspinachiaのみ)は海産で、北欧の大西洋岸に生息する。イトヨ属の1種(Gasterosteuswheatlandi)およびアペルテス属(Apeltesquadracusのみ)も通常は海水魚で、北アメリカ北東部の大西洋岸に産する。 -典型的な瀬戸内海式気候に属するため日照時間が長く、また平地が多い事から穀物栽培に適している。古く条里の時代から畿内を凌ぐほどの水田が広がる一大穀倉地であったが、主要な作物は長らくイネであった。やがて戦国時代から江戸時代にかけて二毛作が盛んになり、小麦の生産が増加した。降雨も河川も少ないこの地で水田から一度水を抜いて畑にする二毛作は、少ない水を徹底的に使う治水開発を促し、今日見られるおびただしいため池が広がる讃岐平野の景観もこの頃に形作られた。 -1929年5月27日、中華民国東三省北部特警管理局はハルビンのソ連総領事館においてコミンテルンの秘密会議が開かれていることを突き止め、同領事館を捜索して中国とソ連の共産党員39人を逮捕した。中国側によれば、この際に押収された文書からいくつかのソ連の陰謀が明らかになった。その中には中東鉄道の職員の構成が中ソで平均されることを妨害し、ソ連人以外の排除と共産党員の補充を命じるモスクワからハルビンへの電文が含まれていた。中東鉄道の人事問題に関しては、実際、前年の12月にソ連のレフ・カラハン外務人民委員代理が、ソ連共産党の中央委員会に対して人員整理の必要を訴える書簡を送っていた。カラハンによると、中東鉄道の職員は中国側の要求で不必要に増加しており、ポスト確保のため多くの閑職が作られ、大量の補助金が投下されていた。その結果、運賃収入の増加にもかかわらず、経営状態は悪化して、中国銀行からの巨額の借り入れが必要になっていたという。贈収賄・怠慢・強欲・横領が日常茶飯事の「中国風の企業」と化していたと評している。カラハンは合理化策として、支配人の権限を縮小して内部統制を充実させるとともに、公金横領者・収賄者を解雇して、できれば共産党員のソ連側職員と交代させることを提案していた。 -余部橋梁(あまるべきょうりょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区(旧・城崎郡香住町)余部、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線鎧駅-餘部駅間にある橋梁(単線鉄道橋)である。余部橋梁は2代存在し、初代の旧橋梁は鋼製トレッスル橋で「余部鉄橋」の通称でも知られ、1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了した。2代目の現橋梁はエクストラドーズドPC橋で、2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に供用が始まった。新・旧両時代ともに、橋梁下には長谷川と国道178号が通じている。 -1274年にローテンブルクはハプスブルク家のルドルフ1世から帝国都市の特権を与えられた。市内には3つの有名な市場が出来、その後の数世紀にわたり街は発展した。市内の住民と郊外の騎士らはフランシスコ会の修道院と聖霊病院を設置した(1376年-1378年に市の防壁に組み込まれた)。ドイツ騎士団は1311年に聖ヤコブ教会の建設をはじめ、1336年から市民が使えるようになった(完成は1485年)。聖ヤコブ教会には、十字軍遠征に伴いローテンブルクにもたらされた聖遺物とされる聖血が置かれた。これが多くの巡礼者を引き寄せ、中世のローテンブルクは第一級の巡礼地であった。その当時は神聖ローマ帝国内の上位20都市の中に入っていた。市壁の内側の人口は約5500人で、これに加えて周辺の390平方キロメートルの領地の中に14,000人が居住していた。1350年には皇帝から徴税権と関税権を認められ、この頃からローテンブルクは帝国自由都市とみなされるようになる。1356年のバーゼル地震で古い城塞が崩壊した。今もなお聖バルシウス教会が残っている所である。その廃墟の切石は当時としては貴重な資材であり、市壁の建造に用いられた。 -人魚伝説は世界各地に存在し、その正体は海牛類などとされるが、日本における人魚伝説の多くはリュウグウノツカイに基づくと考えられている。『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などの文献に登場する人魚は、共通して白い肌と赤い髪を備えると描写されているが、これは銀白色の体と赤く長い鰭を持つ本種の特徴と一致するのである。また『長崎見聞録』にある人魚図は本種によく似ている。日本海沿岸に人魚伝説が多いことも、本種の目撃例が太平洋側よりも日本海側で多いことと整合する。日本近海では普通ではないものの、極端に稀というわけでもなく、相当数の目撃記録がある。漂着したり漁獲されたりするとその大きさと外見から人目を惹き、報道されることが多い。サケガシラなど他の深海魚の浅海での目撃や海岸漂着を含めて、天変地異、特に地震の前兆(宏観異常現象)の一つとされることもあるが、魚類学者の本間義治によれば憶測に過ぎず、東海大学の研究でも否定されている。こうした日本の伝承・俗説は、インドネシアでも知られている。2014年1月に兵庫県豊岡市に漂着した個体では、市内の環境省の学習施設の職員らが解剖調査を行った後に調理して試食しており、身に臭みや癖がないことや、食感が鶏卵の白身のようであること、内臓の部位によっては味が濃厚であることなどを報告している。生きたリュウグウノツカイを漁師が銛で突き、極めて新鮮なうちに食べた記録が、長崎県壱岐諸島の『壱岐日日新聞』519号(2010年1月29日付)にある。全長約5メートル、40-50キログラムの個体で「刺身で食べたらゼラチン質がプリプリして、甘みがいっぱい。まるでエビの刺身」という。また、鍋で食べても、「身が甘くてツルッとした口触りで柔らかく、鍋一杯がアッという間になくなるほど好評だった」という。富山県では冬になると本種がしばしば定置網にかかり、漁師から「おいらん」と呼ばれている。また新潟県の柏崎では「シラタキ」と呼ばれる。 -ローマの元老院は奴隷集団に対する連戦連敗と略奪行為に危機感を持ち、最終的には8個軍団をも動員し、その指揮権を厳格かつ有能なマルクス・リキニウス・クラッススに委ねた。紀元前71年、スパルタクスの奴隷軍はクラッススの軍団によってイタリア半島最南端のカラブリアに封じ込められた。元老院が増援としてポンペイウスとルクッルスの軍団を送り込んだことを知ったスパルタクスは残る全兵力を結集してクラッススに決戦を挑み、敗れて全滅した。 -ルーヴル美術館の古代オリエント美術部門は、1881年に創設された二��目に新しい部局で、イスラム教普及前の古代オリエント文明の美術品が収蔵されている。古代オリエント美術部門は、ユーフラテス川西側地域、古代メソポタミア、ペルシアの三地域別に細分化されている。古代オリエント美術のコレクションが充実したのは、フランス人学者ポール=エミール・ボッタによる、1843年のドゥル・シャルキン発掘調査、アッシリア王サルゴン2世の王宮発見とほぼ同時期に当たる。この遺跡からの出土品が、古代オリエント美術部門の前身である「アッシリア美術館」の基礎となった。古代オリエント美術部門では、初期メソポタミア文明ともいわれるシュメール文明の美術品と、アッカド帝国の出土品であるラガシュ王国王子の碑文『禿げ鷹の碑』、アッカド王ナラム・シンの戦勝記念碑などが展示されている。1901年に発見された、高さ2.25メートルの閃緑岩に古代バビロニアの「ハンムラビ法典」が楔形文字で刻まれた石碑も有名である。紀元前18世紀のマリ王国王宮壁画や、紀元前25世紀の『エビフ・イルの像』も、この古代オリエント美術部門の展示室で公開されている。古代ペルシアの所蔵品では、『射手のフリーズ』などが有名である。ペルセポリスからの貴重な出土品も所蔵されており、2005年にイギリスで開かれた古代ペルシア展で公開するために、大英博物館に貸し出されたこともある。 -コロンビア・ゴージAVAはコロンビア峡谷に広がるAVAで、オレゴン州とワシントン州の両郡に属し、中央をコロンビア川が流れている。オレゴン州フッドリバー郡及びワスコ郡、ワシントン州スカマニア郡及びクリッキタト郡から構成される。近くにあるフッド山とアダムズ山の山頂付近までを範囲とし、山の雨蔭に位置することから、ウィラメット渓谷に比べて著しく乾燥した気候を持つ。また、峡谷からなる地形のために標高が場所により大きく異なり、強風が日常的に吹いていることもこの地域の特徴的な気候の一因になっている。このような事情もあり、コロンビア・ゴージAVAではさまざまな品種のブドウが幅広く栽培されるに至った。ブドウ園の数は約40で、シラー、ピノ・ノワール、シャルドネ、ゲヴュルツトラミネール、ジンファンデル、カベルネ、ピノ・グリ(Pinotgris)、リースリング、サンジョヴェージェなどを始めとするさまざまな品種が栽培されている。 -最初に現れたマルーンの際立った指導者は、ブードゥー教のカリスマ性のある「ウンガン」(フォン語:hùngan、英語:Houngan)と呼ばれる司祭のフランソワ・マッカンダルであり、黒人の抵抗集団を纏め上げることに成功した。マッカンダルは、アフリカの伝統と宗教に配下の者を惹き付けることで集団を鼓舞した。集団を連携させただけでなく、プランテーションの奴隷の中に秘密の情報組織を造り上げた。マッカンダルは1751年から1757年にかけて、部下の黒人を率いて反乱を指揮した。マッカンダルは1758年にフランス軍に捕縛され、火炙りにされたが、多くの武装したマルーン集団は、マッカンダルの死後も襲撃や示威行為を続けた。 -双葉郡は漁港が未発達で産業に乏しかった過去から、積極的に東京電力の電力供給地となり、福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所、広野火力発電所と日本有数の電力供給源になっていた。震災により、日本がかつて経験したことのない全電源喪失による福島第一原子力発電所事故の発生へとつながっていく。大熊町では、双葉病院に入院中の認知症患者と、隣接する老人介護施設の高齢者のうち227人が一時取り残された。原子炉が水素爆発して20-30km圏内の住民10万人以上が各地の避難所へ避難する混乱のなか、132人は医師・看護師を同乗させないまま観光用バスに乗せられ、13時間かけて200km移動した。残りの95人は5日後に自衛隊によって救助されたが、最終的に50人が衰弱死した。このように、福島県では強制的な避難によって避難所を転々とするなかで高齢者が犠牲になる事例が多く、震災関連死の認定者数も最も多い。また、放射性物質の拡散は双葉郡に留まらず福島県の広範囲に広がった。12日20時には25km北の南相馬市で20μSV/h、15日4時には40km南のいわき市で24μSV/hの最大値を計測した。晴れていたため風とともに通り過ぎる一時的な上���であり、時間が経過するにつれて低減していった。放射性物質の放出は3月15日にピークを迎え、9時には正門付近で11,930μSv/hを計測した。15日午後には南東からの風に乗り、北西方面へと流れた。40km離れた飯舘村では16時に23μSV/hと急上昇し18時半には45μSV/h、伊達市を経由し、60km離れた福島市でも17時に22μSV/hと急上昇し19時半には24μSV/hを計測した。南東の風が長時間続き、高濃度の放射性物質が流れ込んでいる所に、不運なことに17時頃から県内各地で雨(雪)が降り始めたため、放射性物質は地面に落ちて土壌に沈着した。このため、北西方面に伸びるように深刻な土壌汚染を引き起こした。 -北上川は長さ約249キロメートル、流域面積10,150平方キロメートルと岩手県・宮城県の大部分をカバーする東北地方最大の大河である。流域には岩手県の県庁所在地である盛岡市をはじめ花巻市・北上市・奥州市・一関市、宮城県栗原市・登米市・大崎市・石巻市があり流域を潤す「母なる川」でもある。また流域は肥沃であり古くはアテルイなど蝦夷の本拠、下って奥州藤原氏の本拠として、また仙台藩伊達氏62万石あるいは盛岡藩南部氏20万石の基盤として重要な穀倉地帯でもあった。だが有史より度々洪水をもたらす河川でもあって、その対策もまた為政者にとっては重要な課題であった。洪水をもたらす最大の要因は北上川流域の地形的な要因が挙げられる。北上川本流自体は勾配が緩やかな河川であるが、支流の河川は何れも急勾配であり大雨が降れば一挙にその水は北上川沿岸の低地に押し寄せ、かつ長い間水が滞る。これに加えて一関市から登米市までの約18キロメートル区間は北上川が急激に川幅を狭くする。この狭窄部を「北上川癌狭窄部」と呼ぶが、一関市までは広大な平野となっているために狭窄部が天然ダム的な働きをしてしまうことで、岩手県内の洪水は一関市付近で一度行き場を失うという「バックウォーター現象」が起こる。このため特に一関市周辺は上流からの洪水が「貯水」されてしまい洪水になると被害は甚大なものとなっていた。こうした場合通常は狭窄部を広げる「開削工事」が行われるが狭窄部は18キロメートルもの長距離であり、限定した狭窄箇所に行うケースが大多数である開削工事では当時の技術から到底不可能な事業であった。従って北上川の治水においては如何に洪水の水量をコントロールして被害を防ぐかに焦点が当てられていた。 -1774年以降、一時的な平和を得たワラキア、モルダヴィア両公国は一時的に停止されていたファナリオティス制が復活、アレクサンドル・イプシランティスがワラキア公に就任すると様々な改革が行われた。しかしこの改革も困窮していたオスマン帝国政府が過大な要求を出したため、崩壊、さらに露土戦争(1787年)が勃発するとロシア軍、オーストリア軍がワラキア、モルダヴィアへ侵攻、両公国は主戦場となり荒廃した。ただしオーストリア軍はフランス革命の発生とオランダにおける反乱の発生のために、途中で手を引かざるをえなくなったため、ロシアとオスマン帝国の間で1792年、ヤシー条約が結ばれた。そしてバルカン半島においてビザンツ帝国を復活させギリシャ帝国を復興させるというエカチェリーナ2世の夢はモルダヴィア、ワラキア両公国を占領しながらもイギリスとの利害関係が発生した事であきらめざるを得なかった。 -ドビュッシーは1903年8月、『海』の作曲に着手した。同年9月12日付のジャック・デュラン及びアンドレ・メサジェに宛てた手紙には、《管弦楽のための交響的素描『海』》の作曲に取り組んでいること、作品は、1.「サンギネール諸島付近の美しい海」、2.「波の戯れ」、3.「風が海を踊らせる」の3つの楽章で構成されることなどが記されており、この段階である程度作品の構想が固まっていたことが伺える。当時ドビュッシーは海から離れたブルゴーニュ地方のビシャン(Bichain)という町で作曲を進めており、先のメサジェ宛の手紙には「ブルゴーニュの丘から海は見えないが、記憶の中の海の方が現実よりも自分の感覚には合っている」と、海が見えない場所で『海』を作曲していることに対する言い訳めいた説明をしている。その後、前述のとおりドビュッシーの私生活が劇的に変化する中で作曲が行われた。オーケストレーションが進められたのはエンマとの逃避行で滞在したジャージー島やディエップにおいてであり、第1楽章のタイトルの変更や第2楽章終結部の書き直しが行われたのはリリーの自殺未遂事件によって世間からのバッシングを受けている最中のことであった。全曲が仕上がったのは1905年3月5日のことである。着想から完成までに約1年半を要したものの、『夜想曲』が5年、『映像』が7年の年月を必要としたことに比べれば異例の早さとも言える。 -1980年3月20日、セント・ヘレンズ山付近を震源とするマグニチュード4の地震が発生し、雪崩が山麓の駐車場を襲った。その後も地震が続き、3月27日には最初の噴火(水蒸気爆発)が発生した。連日のように噴火が頻発し、山頂にできた火口は幅600mまで拡大した。4月に入ると噴火は次第に減少したが、地下でマグマが移動していることを示す地震は続き、やがてセント・ヘレンズ山の北側が膨らみ始めた。4月の末には、北側斜面の一部が1979年8月時点と比べて100m近く移動しており、移動速度は1日に1.5mもの速さに達していた。5月16日に航空機から撮影された赤外線写真には、北側斜面膨張部の山頂側に沿った数箇所で地熱が異常に上昇しているのが記録されていたが、そのフィルムが現像されたのは大噴火の後だった。 -『Undertale』は、アメリカ人の作曲家兼ゲーム開発者であるトビー・フォックスによって開発されたインディーズタイトルであり、グラフィックの一部分を除けば、ゲーム全編をほぼ1人だけで開発した。製作資金はクラウドファンディングで調達され、開発には2年以上が費やされた。影響を受けた作品はコメディ番組の『Mr.ビーン』が挙げられているほか、様々な日本のゲーム作品からも影響を受けているとコメントされている。本作はレビュアーに高く評価されており、とりわけ称賛を集めているのが、シナリオ・キャラクター・直感的な戦闘システムである。売上は100万本以上を記録、ゲーム系メディア主催のゲーム・オブ・ザ・イヤーをはじめとして、海外・国内問わず複数の年間ゲーム大賞にノミネートされている。また、2018年10月31日より同じくトビー・フォックスによる『UNDERTALE』の姉妹編であるとされる『DELTARUNE』のチャプター1のデモ版の配信が開始された。プレイは無料。 -1949年、八戸市内で急性灰白髄炎の集団感染が発生した。まだ予防ワクチンの存在しない時代であり、新聞でも「世界的にも稀有の現象」と報じられた。八戸赤十字病院の担当医から要請を受けた花田は、治療法を求めて上京し、日赤を通じてGHQから、オーストラリアで効果を上げた治療法「ケニー療法」の資料を入手した。八戸赤十字病院で毎日その療法を続けるとともに、新聞記事を通じ、一般向けにこの療法をわかりやすく紹介した。戦後の看護改革の中で花田はアメリカ式の看護を学び続け、日本の看護教育がアメリカよりもはるかに遅れていることを知った。そこで看護婦を社会的に専門職として認めさせるため、ロンドンのナイチンゲール看護学校に倣い、看護教育施設の建立を目指した。1951年に悲願の看護教育施設として、青森県立高等看護学院の開校が決定した。しかし花田の考えはなかなか世間に認められず、入学応募者はたった1人であった。新聞紙上では「嫌われた県立看護学院」と題し、不要不急の建物を創ったと非難の記事が掲載された。花田は青森県内の高等学校を回り、手製のフローレンス・ナイチンゲールの紙芝居などで看護教育の重要性を説き、生徒集めに奔走した。その甲斐があり、翌1952年3月には38名の入学者が集い、花田自らも講師として教壇に立った。 -消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる。循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされる。ガス交換は体表で行われる。1対か2対の腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす。神経系はあまり発��していない。背側と腹側に神経節があり、2つの神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる。 -やがてぶん公は誰が教えたわけでもないのに、隊員たちの作業を見習って働くようになった。通常の電話ベルと火災報知器のベルを聞き分け、火事発生となるとその吠え声で隊員たちに出動を知らせた。出動の際には、真っ先にシボレー製消防車のサイドステップに乗って出動を待ち受けていた。ぶん公は全速力で走る消防車から、1度たりとも転落したことさえなかったと伝わる。火事の現場では、まずホースの先端をくわえて筒先係の隊員に渡し、消火活動中にホースがもつれているとその部分を直して水のとおりをよくした。さらにぶん公は、現場に集まってくるやじ馬たちが火事の現場に近づき過ぎないように非常線に沿って吠えながら巡回し、その整理までこなすほどであった。体調を崩したときには、自分だけで動物病院へ行って入院したという逸話も残っている。 -日本広告審査機構(JARO)は、「いかなる文言を使用しようとも、商業広告で2020年のオリンピック東京大会を想起させる表現をすることは、アンブッシュ・マーケティング(いわゆる便乗広告)として不正競争行為に該当するおそれがあり、JOC(日本オリンピック委員会)やIOC(国際オリンピック委員会)から使用の差し止め要請や損害賠償請求を受ける可能性がある」との見解を出しており、「東京オリンピック・パラリンピックを応援しています」という直接的な表現以外に「祝・夢の祭典」「2020円キャンペーン」など間接的に連想できる物もアンブッシュマーケティングである可能性であることを示唆している。友利昴氏(1級知的財産管理技能士・著述家)はオリンピック委員会の規制には根拠がないことが明らかにしている。過去の裁判やトラブル事例から「キャンペーンや抗議行動の態度からうかがえる、非常に旺盛な権利保護方針の割には、実際にはなんでもかんでも訴えているわけではない」と指摘し、アンブッシュマーケティングをめぐり訴訟になった数少ない裁判では、IOC側が敗訴していることを挙げている(オーストラリア、カナダ)。また上記のJAROの見解はIOCやJOCへの忖度に過ぎないとして、(JAROが正しい法的検討をせずに)「逃げを打つのは、広告業界の指針となるべき団体として、適切な姿勢といえるだろうか」と批判している。日本の商標権に関する規則では登録商標は同一又は類似した商品・役務の登録商標にのみ独占権があるとしており、オリンピックそのもの(大会や委員会)を示すために使うことは合法であるとしている。飲食店の屋号や表示として権利者に許可無く「オリンピックレストラン」、「オリンピック公式レストラン」などと表示するのは違法だが、本物のオリンピックに対して「オリンピックを見ながら飲食しましょう」と宣伝するのは問題無いとしている(商標としての独占であり、言葉の独占では無い)。著作権法上では公式のロゴやマークを許可無く利用する事は一般的に禁止されており、オリンピックも同様である。店内でのオリンピック競技の放映をオリンピック委員会の許可無く行う事は禁止されているが、誰でも見られる放送をそのまま店内の民生用機器で再生する事は一般的な権利として認められる。このため、テレビ放映されているオリンピックの映像を店内で流すことに関しては問題が無い。この場合は放送局がオリンピック委員会に放送するという事で利用料を払っている。 -だが、多くのドイツ人やドイツ化したエストニア人が民俗学的関心や啓蒙主義・ロマン主義に基づいてエストニア語の保存・収集を行ったことは(エストフィリア)、その意図に反してエストニア人民衆の民族意識を覚醒させる方向に働いた。やがて1918年2月にエストニア第一共和国がロシアからの独立宣言をなすと、11月に制定された国語法によって、エストニア語がその「国家語」であると宣言された。これによって、出生・婚姻・死亡届や郵便物の住所もエストニア語で書かれるようになり、軍隊での公用語もエストニア語となった。一方、革命後のソビエト・ロシア政権が少数民族の言語権を保障したことに呼応し、翌12月には教育省令によって、20人以上の同一言語使用者がいる場合にはその母語を教授言語とし、20人に満たない場合でも週3時限の母語での学習が認められるようになった。また、国会など公的な場でもエストニア語に加えドイツ語とロシア語が併用され続けており、これには実用性のみならず少数言語の威信という側面もあった。1919年に成立した、姓のエストニア語化を謳う法律はさほど影響力を持たず、中等・高等教育においてはエストニア人であっても子弟を「文化的な」ドイツ語学校へ通わせる例もあった。 -ダレイオス1世の対外遠征の中で史上名高いのはイオニアの反乱に端を発したギリシア遠征である。この戦いは一般にペルシア戦争と呼ばれる数次にわたる戦争の第一回目とされている。 -アルバートサウルスはティラノサウルスやタルボサウルスといった他のティラノサウルス科よりも小型である。典型的なアルバートサウルスの成体は最大で全長9メートルに達するも、希に10メートル超まで成長する個体もあった。複数の成体のアルバートサウルスをそれぞれいくつかの手法を組み合わせて検証した結果、体重は1.3トンから1.7トンの範囲と推定されている。アルバートサウルスの外見上の特徴は、他のティラノサウルス科と共通点が多い。獣脚類の典型的特徴である二足歩行であり、長い尾を使って重い頭部や胴部とバランスを取っていた。しかし、ティラノサウルス科の前肢は体サイズに対して極端に小さく、指も2本だけである。後肢は長く、4本の指を持ち、そのうち第1趾は地面に届かないほどに短い。第3趾は他の足の指よりも長い。アルバートサウルスの歩行速度は時速14-21キロメートルに達した可能性がある。ただし幼体に限定すると、歩行速度はこの数値を上回っていた可能性も指摘されている。 -フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト率いる大陸軍は210,000人から成る7個軍を保有しており、ロシア軍の増援が来る前にドナウ川のオーストリア軍を撃滅することを狙っていた。10月20日、ナポレオンは迅速な行軍によりマック将軍率いる23,000人のオーストリア軍をウルムで降伏させることに成功し、この戦役を通して60,000人のオーストリア軍を捕虜とした。一般的にこの戦役は戦略上最も偉大な勝利であると考えられており、19世紀末のシュリーフェン・プランに大きな影響を与えた。 -入札を含む工事の開始は、水没住民に配慮し佐久間補償対策本部による補償交渉が開始されたのを見計らって着手された。まず大型重機や建設用資材を運搬するための工事用道路の建設に着手した。ダム現場のすぐ近く、約3キロメートルのところに国鉄飯田線中部天竜駅があり、遠方からの運搬は鉄道輸送で賄えたが工事現場は先に述べた通り両岸が絶壁に近い峡谷であるため、右岸の川沿いと左岸の山中に道路を敷設する計画が取られた。しかし一刻も早く工事に着手する必要があったことから、道路が完成するまでは大型重機を川舟に乗せて工事現場まで輸送する策が取られた。幅員6.5メートル、全長3キロメートルの道路が完成したことで、重機やコンクリートなどの資材運搬はきわめて円滑に行われるようになり、工期の短縮に貢献する。この工事用道路のうち左岸部の道路は佐久間ダム連絡道路として現在でも利用されているが、右岸の道路は廃道となりダム直下流にある飛龍橋にその痕跡を留めているのみである。 -A318の生産分担についてはエアバス内部で政治的駆け引きがあったものの、最終組み立てはA319やA321と同様にドイツのハンブルクで行うことに決まった。2001年8月からA318初号機の最終組立が始まった。初号機はPW6000エンジン装備機で、A320ファミリーの通算1,599番目の機体となった。2002年1月15日、ハンブルクにて成功裏に初飛行を行い、型式証明取得のための試験が始まった。同年6月3日には2号機も初飛行を行い、この2機で証明取得に必要な試験飛行を行う計画だった。当初、PW6000は、部品点数を減らし保守コストを抑制するため、高圧圧縮機を5段としたところ、燃費の目標値水準を達成できないことが明らかとなった。そこでやむを得ず、MTUエアロ・エンジンズ社製の6段の高圧圧縮機に変更することになった。これにより、試験スケジュールに遅延が生じ、CFM56装備型の証明取得��先行して急ぐこととなった。 -ルーマニア政府から食料、燃料、水の補給を拒否されたポチョムキンは、危機的な状況に陥った。海水をボイラーに補給した結果、ボイラーは故障した。フェオドーシヤにポチョムキンが辿り着いたのは1905年6月22日朝6時のことであった。そこではすでに皇帝の正規軍と憲兵団が待ち構えていた。上陸した水兵のグループは銃火を浴びせられた。そのため、艦は再びコンスタンツァに向けて出航した。ポチョムキンが6月24日にコンスタンツァへ到着すると、水兵らは艦をルーマニア政府に引渡した。翌25日には艦は赤旗を降ろし、水兵らは政治亡命者として上陸した。25日正午、ルーマニアの国旗がポチョムキンに掲揚された。第267号水雷艇の乗員は艇の引渡しを望まず、港内停泊地に錨を下ろした。同日、彼らはセヴァストーポリに向けて出航した。6月26日には、コンスタンツァへ黒海艦隊の分遣隊が到着した。翌27日、ルーマニアはロシアにポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還した。7月1日、艦はセヴァストーポリに到着した。 -沢田のメモ書きには、1919年から1948年までの約30年間に、伊田地区で発生した10例の「ほっぱん」の記録が記されており、それぞれ発症もしくは死亡した年月、発症者の年齢性別、病気の経過などが書かれていた。メモに書かれていたのはこの10例であるが、これ以外にも複数の発症事例があったという。また、メモにはいくつかの補足が記載されており、1925年の40歳男性の事例では、当時の幡多病院の橋本久博士がこれを見て「ツツガムシ病」らしいと言ったが、橋本博士はすぐに札幌へ転任したという。さらに1928年の70歳女性事例でも、これを検診した丹治医師は「ツツガムシ病」ではないかと言ったという。1932年に海岸沿いの藪を伐採してから一時発症者が減った。また、1942年の同時に発生した3事例では、地区内を流れる伊田川下流の堤防工事に携わった3名の女性が発病し、そのうち2名が死亡、一番若かった25歳の1名だけが助かったという。 -結果として、チューリップは誰もが欲しがる贅沢品となり、品種が豊富になった。当時のチューリップは、いくつかのグループに分類される。赤色、黄色または白色の単色のチューリップはCouleren、多色のチューリップはRosen、Violettenまたは最も珍しいグループであるBizardenとしてそれぞれ知られている。花弁の、複雑な線や炎のような形の縞模様による多色の効果は、鮮やかで目を見張るものであった。このような効果を有し、多色のチューリップをより異国情緒ある植物に見せるような球根は大人気となった。今日では、このような効果は、チューリップのみに感染するモザイク病であり、1つの花弁の色を2つ以上に分けてしまう「Tulipbreakingvirus」に球根が感染したため生じるものであると知られている。 -海王星には14個の既知の衛星が存在している。トリトンは海王星最大の衛星で、海王星の周回軌道上において全質量の99.5%以上を占めており、回転楕円体になっている唯一の天体である。トリトンは海王星の発見から17日後にウィリアム・ラッセルによって発見された。太陽系内の他の大型衛星とは異なって逆行軌道を描いており、このことはトリトンが海王星と共に形成されたのではなく、外部から捕獲された天体であることを示している。捕獲されるまでは、カイパーベルト内に位置する準惑星規模の天体であったとされている。自転と公転の同期(潮汐固定)を受けるのには充分に海王星に近く、さらに海王星の自転に対して逆行しているため潮汐減速によって海王星に向かってゆっくりと螺旋軌道を描き、徐々に海王星へと接近している。このため、今後約36億年以内に、トリトンは海王星のロッシュ限界に達して崩壊してしまうと考えられている。1989年、トリトンは太陽系で最も表面温度が低い天体であると測定され、その推定温度は38K(-235°C)であった。 -1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た。ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員に推薦したのもモーヴであった。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった。同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった。ファン・ゴッホは同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した。ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている。ファン・ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した。 -ボッシュはこのまま学問への道を進みたかったが、経済的な理由で父親からの反対を受けたため断念した。父親はライプツィヒへ行き、息子の化学工場への入社についてウィスリセヌス教授に相談を持ちかけた。教授から希望先を聞かれたカール・ボッシュは、その場でBASFの名を挙げた。ボッシュがBASFを志望したのは、教授や先輩の勧めによるところもあったが、同社の名声や将来性も大きな理由だった。また同社には、ハインリッヒ・フォン・ブルンクやルドルフ・クニーツといった著名な学者が在籍していたことも、ボッシュにとっては魅力的だった。ボッシュは1899年1月30日付けでBASFに求職願いを出し、面接の結果、4月15日に採用になった。BASF社では、新入社員はまず中央研究室に入り、そこで社員の適性を見てから配属先を決めることになっていた。ボッシュも中央研究室を経てから、無水フタル酸の製造工場に回された。担当部長は、無水フタル酸の製造における硫酸水銀の触媒作用を発見したオイゲン・サッパーだった。それと並行して、ボッシュは1900年、ルドルフ・クニーツからアンモニア合成に関する実験を命じられた。 -1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。9月10日に日本を出発した。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(WilliamJamesCraig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ......」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという。当時の漱石最後の下宿の反対側には、1984年(昭和59年)に恒松郁生によって「ロンドン漱石記念館」が設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの欧州連合(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館した。漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開された。 -名鉄3400系電車(めいてつ3400けいでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)が主に優等列車運用に供する目的で1937年(昭和12年)に導入した電車である。名鉄の直流1,500V電化路線において運用された吊り掛け駆動車各形式のうち、間接自動進段制御器を搭載するAL車に属する。先頭車の前頭部を流線形状として、前面から側面にかけての車体下部全周をスカートと称する下部覆い板にて覆った外観を特徴とし、名鉄社内においては3400系電車を「流線」と呼称した。また鉄道愛好家からは主に「いもむし」の愛称で呼称された。以下、本項においては3400系電車を「本系列」と記述し、また編成単位の説明に際しては制御電動車モ3400形の車両番号をもって編成呼称とする(例:モ3401-ク2401の2両で組成された編成であれば「3401編成」)。 -カワード1世はサーサーン朝の君主である。カワード1世はペーローズ1世(在位:459年-484年)の子で、途中2年もしくは3年の退位していた期間を挟み、488年から531年にかけてペルシアを統治した。彼は不評によって退位させられた叔父のバラーシュ(在位:484年-488年)に代わり、貴族の手によって王位に就いた。 -1914年10月末から1915年6月末にかけてゲーリングは第5軍隷下の第25野戦飛行隊(FeldfliegerAbteilung25(FFA25))所属のレールツァーの操縦する偵察機の観測員を務めた。1915年春ごろからレールツァーとゲーリングの航空機は戦場に出撃して偵察活動を行った。目標地点に着くとゲーリングはレールツァーに高度を下げるよう合図して機体の外に乗り出し、足の先だけでコクピットの中から自分の体を支えてカメラを構えた。 -アメリカ合衆国では、重罪で訴追された者は、陪審による審理を受ける憲法上の権利を有する。すなわち、アメリカ合衆国憲法3条では、「すべての犯罪の審理(トライアル)は陪審によって行われる。審理はその犯罪が行われた州で行われる。」と規定されており、さらに修正6条では「すべての犯罪の訴追において、被告人は、犯罪の行われた州及び地区の公平な陪審による、迅速かつ公開の審理を受ける権利を有する。」と規定している。これらの規定は、直接的には連邦の裁判所に適用されるものだが、修正14条1節のデュー・プロセス(適正手続)に陪審制の保障も含まれることによって州にも適用されるとするのが連邦最高裁の判例である(ダンカン対ルイジアナ州事件)。合衆国憲法上は、軽微な犯罪については陪審審理の権利はないとされ(ダンカン判決)、自由刑の上限が6か月を超えるか否かが基準とされている。すなわち、上限が6か月以下の自由刑に当たる罪の場合には、陪審審理は合衆国憲法上要求されておらず、そのような事件では各州が陪審審理を許すか否かを選択できる。合衆国憲法とは別に、ほとんどの州の憲法でも、刑事陪審の権利を保障している。なお、連邦最高裁は、被告人は、有罪か無罪かの点だけでなく、制定法や量刑ガイドラインが原則的に設けている上限を超えて被告人の刑を加重するための事実についても、陪審審理を受ける権利を有していると判断した。 -スズキは定置網、刺し網などの沿岸漁業で多く漁獲される。東京湾、伊勢湾、瀬戸内海(大阪湾含む)、有明海(別個体群)などの内湾が主な漁場である。最も漁獲量が多いのは千葉県で、兵庫県が次ぐ。また、養殖は昔から採捕種苗を用いて少量ながら行われていたが、1990年ごろから愛媛県などで主にタイリクスズキを用いた養殖が盛んになった。現在はかつてほど盛んではない。普通のエサ釣りは勿論、海のルアーフィッシングの対象魚としても人気が高い。ルアーフィッシングではスズキによく似たヨーロッパスズキ(スズキ亜目を参照)の英語名からとった「シーバス」(Seabass)の名が定着している。釣りジャーナリストの西山徹がこの名を使用しはじめたといわれる。観賞用等に飼育することも可能であるが、相応の設備が必要である。 -1945年1月27日アウシュヴィッツの病棟にいたところをソビエト赤軍により解放された。赤軍は病人とそれ以外の者を隔離し、オットーもこれまでとは別のバラックに移された。2月23日にスイスにいる母親に手紙を書くまでに病状が回復した。その手紙の中でオットーは「エーディトと子供たちの所在は分かりません。1944年9月5日に別れたきり、わずかにドイツに移送されたという噂を聞くだけです。三人とも無事でいてくれることを願うだけです」と書いている。その後もアウシュヴィッツで療養しながら手紙を書き続けていたオットーだったが、3月になってようやく収容所を出ることが認められ、赤軍のトラックに乗ってポーランド南部カトヴィツェへ移動した。そこでヴェステルボルク収容所で一緒だったローザ・ド・ヴィンテルと再会した。彼女はビルケナウ収容所でアンネ・マルゴー・エーディトと一緒にいたので、エーディトが死んだことを知っていた。エーディトの死を知らされたオットーは、ショックを受けながらも娘2人が生きていることに望みをかけてアムステルダムへ帰る決意をした。4月半ばにはオランダ北東部の大半は解放されていた。オットーはチェルノフツィを経由して4月25日にオデッサに到着した。そこからニュージーランド船に乗って5月21日に船出し、5月27日にフランスのマルセイユに入港した。5月28日朝にオランダ行きの列車に乗り込んだ。 -ポトマック川の北岸に位置し、南西をバージニア州に、その他の方角をメリーランド州に接している。2010年度国勢調査による人口は601,723人で全米24位だが、労働時間帯には近郊からの通勤者により人口100万を超える。ワシントンD.C.を中心に、メリーランド州、バージニア州北部、ウェストバージニア州の最東部2郡を併せた地域を一般に「首都圏」または「メトロポリタン」と呼んでいるが、その人口は5,582,170人(2010年国勢調査)で、全米7位である。また、北東に約65キロメートルの地には人口620,961人(2010年国勢調査)を抱えるメリーランド州の最大都市ボルチモアが位置している。このボルチモアといわゆる首都圏を併せたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏の人口は8,572,971人(2010年国勢調査)を数え、全米4位の規模である。 -中村印刷所は1938年に創業した印刷会社であったが、印刷業界の斜陽化にともない、2010年から2011年ごろにかけて経営状態が悪化していった。そこで社長の中村輝雄は再起をかけて、付加価値のあるオリジナル商品の販売に取り組むことを決めた。そしてその頃、会社をたたむことにしていた製本会社の経営者を社員として呼び寄せ、2人でオリジナルノートの開発を始めた。2013年、中村印刷所は東京都北区の産業展に出展し、「旅行の想い出帖」「都電ノート」といったオリジナルノートを展示した。これらのノート自体は会場であまり話題を呼ばなかったが、その中でノートを手に取った来客の1人が、ノートは真ん中が膨らむから書きにくい、と話して立ち去って行った。それを聞いた社長の中村は、ノートとはそういうものだと思ったが、元製本会社の社員は、手作業で手間はかかるが真ん中が膨らまないノートは作れると言った。この言葉に興味を持った社長の中村は、よそが真似できない、うちだけのノートを作ろうと決意し、2人で「水平開きノート」の開発に取り組むことにした。 -ファン・ゴッホの作品については、晩年の1890年1月に『メルキュール・ド・フランス』誌に発表されたアルベール・オーリエの評論で、既に高く評価されていた。オーリエは、「フィンセント・ファン・ゴッホは実際、自らの芸術、自らのパレット、自然を熱烈に愛する偉大な画家というだけではなく、夢想家、熱狂的な信者、美しき理想郷に全身全霊を捧げる者、観念と夢とによって生きる者なのだ。」と賞賛している。同時期の他の評論家らによるアンデパンダン展についての記事も、比較的ファン・ゴッホに好意的なものであった。他方、ファン・ゴッホの絵が生前売れたのは、友人の姉アンナ・ボックが400フランで買い取った『赤い葡萄畑』だけであるとされ、これは一般的に生前の不遇を象徴する事実とみなされている。ただし、これについては、ファン・ゴッホが絵を描いたのは10年に満たず、ちょうど展覧会に出品し始めた時に若くしてこの世を去ったことを考えれば、彼の絵画が成熟してから批評家によって承認されるまでの期間はむしろ短いとの指摘もある。 -金鐘寺と福寿寺の2つの寺院はのちに統合され、大養徳国金光明寺(やまとのくにこんこうみょうじ)と呼ばれる大和国の国分寺となった。これが、東大寺の直接の前身である。国分寺建立の詔は、紫香楽宮から、天平13年(741年)2月14日に出されている。ちなみに、大仏造立発願の詔が出たのは、同じく紫香楽宮の、この2年半後の天平15年(743年)10月15日のことである。大養徳国金光明寺は、各国の国分寺の中では珍しく、新たに建立されたものではなく、前身となった寺院が認められていることになる。統合の時期であるが、福寿寺一切経写経所の名が金光明寺一切経写経所と改名されたことが分かる文献もあり、天平14年7月頃と推測されている。金光明寺の金堂の所在地については論争が続いている。法華堂(三月堂、羂索堂)に葺かれている瓦から堂の創建年代を天平13年初夏から14年7月頃と見なし、この堂が福寿寺の金堂であり、さらには金光明寺の金堂にもなったとする説がある。一方、この説に不備や不自然な点があると指摘し、また、福寿寺は金鐘寺に吸収されて合併した可能性から、金堂の推定地について他の候補を挙げる説もある。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィ���ランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -ヒトに発症するリンパ系フィラリア症の経過は、無症候期、急性期、慢性期があり、感染初期の罹患者は自覚症状がなく感染していることに気付かないことが多い(無症候期)。ただし、無症状であってもすでに罹患者はリンパ系組織各所や腎臓に障害を起こしており、人体の免疫機能への影響が始まっている。また、体内にミクロフィラリアがいても無症状のまま一生自覚症状が出ない場合もある。無症候期から急性期に進行する場合、感染から1年程度経過した頃、突然何の前触れもなく悪寒や高熱などの熱発作と戦慄を起こす。この最初の熱発作は数日間で治まるが、その後も悪寒や発熱を伴う熱発作を長期間にわたり何度も繰り返すことが多い。このようにフィラリア症と一口に言っても、その症状は一様ではない。適切な治療を行わないまま長期間放置すると、体内のフィラリア虫が成長・増殖して慢性期に入る。こうなってしまうと成虫になったフィラリア虫がリンパ管やリンパ節に居座り、リンパ液の流れを塞いでしまう。このようなリンパ液の閉塞による循環障害が引き金となり、リンパ系フィラリア症特有のさまざまな病状が現れる。リンパ系フィラリア症の慢性期には、象皮病や陰嚢水腫・乳房肥大、乳糜尿のような特有の症状が知られている。 -18世紀にイングランドの画家、評論家ジョシュア・レイノルズがこの作品の優れたクオリティを高く賞賛した。1719年に「デルフトのフェルメールが描いた有名な素晴らしい『牛乳を注ぐ女』」がオークションにかけられ、世界でも有数のオランダ絵画コレクションを誇るメトロポリタン美術館が購入に動いたが、最終的にはアムステルダムの画商が購入している。その後アムステルダムのいくつかのコレクションを経て、ルクレツィア・ヨハンナ・ファン・ウィンテルが『牛乳を注ぐ女』を購入した。ルクレツィアは1822年にアムステルダムの名家シクス家の一員と結婚し、1908年になって二人の息子がシクス家の絵画コレクション39点の一つとして『牛乳を注ぐ女』をアムステルダム国立美術館に売却した。このときのアムステルダム国立美術館の購入に対して、オランダ政府とレンブラント・ソサエティが資金援助をしている。しかしながら絵画購入に公的資金を導入することについて、世論の十分な議論は行われておらず、オランダ議会やオランダ政府のこのような介入も前代未聞のことだった。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の��のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -目の単位では、有尾目(サンショウウオ目)が32種(外来種除く)、無尾目(カエル目)が38種(外来種除く)であるのに対し、世界における現生の両生類は、有尾目が約436種、無尾目が約4383種である。後述するように、2014年現在においても新種が記載がされていることから単純には比較できないものの、世界に対する日本に分布する在来両生類の割合は、前者が約7.3%、後者が0.87%となり、世界総陸地面積に対する日本の国土面積との割合0.25%よりも、ともに大きい値である。それを示唆するものとして、新種記載が進んでいない1980年代において、千石(1982)は、『(サンショウウオ類の)発生の地と考えられるユーラシア大陸の東部でも、その広大な地域を合わせてすら種類数が日本におよばない。』と説明している。 -ベルトは将校か下士官兵士で大きく分かれる。下士官兵士は長方形バックルの付いた黒いベルト、将校はオープン・フレームのバックルの茶色ベルトを用いることが多かった。将校の茶色ベルトはサイズ調整用の穴が2列に開けられている。対して下士官兵士のベルトはベルトの一端にバックルに引っ掛けるフックが付いていた。下士官兵士用のベルトのバックルにはプロイセン時代からの格言「神は我らと共に(GottMitUns)」という文字が鷲の周りを取り囲むように刻まれている。一方将校にも礼装用やアフリカ軍団使用のベルトに丸型バックルの付いた物があったが、このバックルには文字は刻まれておらず、かわりに鷲の周りを柏葉が取り囲んでいるデザインになっていた。SSでは将校の丸型ベルトにも下士官兵士の四角いバックルにも「忠誠こそ我が名誉」という文字が刻まれており、ヒトラー個人への忠誠を陸軍よりも強く打ち出していた。初期のベルトには右肩から斜革がたすき状に付けられていたが、これは1940年から使用されなくなった。 -ゴールデンライスはイネOryzasativaの品種の1つで、ビタミンAの前駆体であるβ-カロテンの生合成が可食部でも行われるよう遺伝子操作を行った品種である。ゴールデンライスはビタミンAの摂取が不足している地域で生育し消費される栄養強化食品となることを目的として開発された。ビタミンA欠乏症によって毎年67万人の子供が5歳に達するまでに死亡し、さらに50万人に不可逆的な失明が引き起こされていると推計されている。コメは世界の半数以上の人々の主食であり、アジア諸国では摂取するエネルギーの30–72%を占めるため、ビタミン不足の対策として効果的な作物である。 -感染は、未治療のらい菌保有者(特に菌を大量に排出する多菌型、LL型患者)の鼻汁や組織浸出液を感染源とするルートが主流となっている。ヌードマウスに菌のスプレーを与えた動物実験により確認された。飛沫感染(dropletinfection)とも呼ばれる。また、経鼻・経気道感染とは別に接触感染のルートも存在する。傷のある皮膚(英:abradedskin)経由説と呼ばれ、刺青部や外傷部に癩の病巣ができる病例より証明されている。前述したとおり、その他の感染経路として昆虫からのベクター感染のルートの検討もあるが、否定的な意見も多く証明されていない。たとえ菌を大量に排出するハンセン病患者(特にLL型)と接触しても、高頻度に感染が成立する訳ではない。濃密な感染環境下に置かれる等の特殊な条件が必要であり、感染力は非常に低い。らい菌と接触する人の95%は、自然免疫で感染・発症を防御できるためである。感染時���は小児が多く、大人から大人への感染及び発病は、極めて稀である。患者から医療関係者への伝染に関しては、一般的に「医療関係者に伝染発病した事実はない」と言われている。ただし、流行地で幼児期を過ごした人であれば発病する可能性がゼロではないこと、実際に患者に接触して感染した医師や神父(ダミアン神父など)も存在することを考慮する必要がある。感染してから発症するまでの潜伏期間は長く、3〜5年とされているが、10年から数十年に及ぶ例もある。 -1月8日に、結婚の儀の日取りは5月下旬ごろにと報道されていたが、正式な日付は6月9日となった。4月20日10時00分、結婚の儀の日取りを皇室の使者が伝える告期の儀(こっきのぎ)が行われた。侍従長山本悟が小和田邸を訪れ、金屏風の前でエメラルドグリーンのワンピースの雅子、モーニングの父親とワンピースの母の前で、結婚の儀が6月9日に決まったことを伝達し、1分で終了した。小和田家では4月17日に結婚の報告のため新潟県新潟市の泉性寺へ先祖の墓参りをし、最後の家族旅行として5月15日に箱根で1泊した。並行して衣装や儀式の打ち合わせ、リハーサルも続いた。4月28日には皇太子と雅子とで吹上御所(大宮御所)の皇太后のもとへ挨拶に出向いている。6月4日、小和田家の家族と雅子の祖父母たちは、マスコミらの注目のため外出もままならない中、その追跡を逃れて松濤のレストラン・シェ松尾を訪れ、皇太子がかつて訪問した個室「インペリアル・ルーム」で家族水入らずの最後の外食をした。前日6月8日午前には、結婚を前に婚約者同志が和歌を贈り合う贈書の儀(ぞうしょのぎ)が行われた。また雅子はこの夜、家族とお手伝いの女性に、身の回り品やアクセサリーなどのプレゼントを贈り、父あてに添えられたカードには「長いこと有難うございました。胸が一杯で書けないの。ごめんなさい」としたためた。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた。 -雨氷ができた後、気温が上昇するなどして氷が融けてしまえば大きな被害は発生しない。しかし、例えばカナダ・アメリカでは、着氷性の雨の約45%が1時間以内、約90%が5時間以内に終わってしまうという研究があり、長時間続くと被害が大きくなる。雪や霧氷などに比べて雨氷は密度が高く、固い。雨氷による被害の主なものとして、樹木の被害、電力網への被害、交通の支障、人的被害等が挙げられる。北東部を中心に被害が多いアメリカでは、着氷性の雨を伴った天候をアイスストームと言うが、1949年から2000年までの間にアイスストームによる損害額は163億ドル(2000年時点)に上るとされ、同国内の気象災害によるケガの20%がアイスストームによるものだという報告もある。 -スティーラーズは1933年に創設された、現存するNFLのチームの中では5番目に長い歴史を持つチームである。スティーラーズは1970年代にはTeamoftheDecadeと呼ばれ、黄金時代を謳歌した。その間、チームは1972年に地区優勝、さらに1974年から1979年までは6年連続で地区優勝し、そのうち1974年、1975年、1978年、1979年と4回のスーパーボウル制覇を果たした。1980年代には平凡なシーズンが多かったものの、1990年代から2000年代にかけてチームは上位に入ることが多くなり、2005年には5度目、さらに2008年にはNFL史上最多となる6度目のスーパーボウル制覇を果たした。また、スティーラーズはテリブルタオルと呼ばれる黄色いタオルを振り回すファンの応援スタイルでも知られている。スティーラーズは2001年にフットボール専用スタジアムとしてノース・ショア地区に建てられたハインツ・フィールドをホームとしている。 -H-IIBロケットで高度200km/300kmの楕円軌道に打ち上げられたHTVは、NASAの追跡・データ中継衛星TDRSとの通信を開始し、筑波宇宙センターにあるHTV管制センター(HTV-CC)の管制を受ける。HTVが正常であることが確認されると、約3日間掛けて国際宇宙ステーション(ISS)から23kmの位置まで接近する。この距離では、「きぼう」に設置された近傍域通信システム(ProximityCommunicationSystem:PROX)との通信が可能になる。きぼうに搭載されているGPS受信機を利用したGPS相対航法(RGPS)により、ISSと同じ高度で、ISSの5km後方の接近開始点(AI点(ApproachInitiationPoint))に投入される。AI点まで正常な状態が確認できれば、AIマニューバ(AIManeuver)により接近を継続する。何らかの理由で接近を中断したい場合は、AI点にて相対的に停止(ISSと一定の位置関係を保持)する。 -このような類似点は古代の紅縞メノウのカメオや、15世紀のドナテッロの円形彫刻にも見られる。例えば円形だったり、筋肉の表現手法、男性のような身体のマリアなどであり、当時フィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿に所蔵されていたこれらの作品をミケランジェロが目にしていても不思議ではない。『聖家族』に描かれたマリアの右腕はカメオに彫刻されたサテュロスの腕に酷似し、さらにカメオのサテュロスの肩には幼児が乗せられており、これは幼児キリストがマリアの肩にある構図と非常によく似ている。古代彫刻『ラオコーン像』にも影響を受けていると指摘する学者たちもいる。1506年に発掘されたこの彫刻はミケランジェロにとって馴染み深いものだった可能性がある。『聖家族』の背景に描かれた裸体の男性たちのポーズや肉体表現は、『ラオコーン像』の蛇に巻きつかれて身体をよじっている男性像によく似ている。さらに額縁から立体的に突き出している5つの頭部は、ルネサンス初期の彫刻家ギベルティのフィレンツェ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉彫刻『天国への門』などにも見られるように、当時よく使われたモチーフだった。そしてこの彫刻をミケランジェロが絶賛していたことはよく知られていた。 -ハギア・ソフィア大聖堂やハギア・エイレーネー聖堂で試みられたような、バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されるのは6世紀頃である。ドーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカ(DomedBasilica)と呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂である。側廊に据えた大きな角柱にアーチを架け、教会堂の短手方向で、身廊を横断するアーチはその���ま滑らかにトンネル・ヴォールトに連続するか、アーチが突出する。長手方向(側廊側)のアーチ下部はティンパヌムを構成し、開口部が設けられる。平面は単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるも)である。ハギア・ソフィア大聖堂、およびハギア・エイレーネー聖堂は基本的にこの形式である。 -ヨーロッパ映画で最初に成功したトーキーとしては、イギリスの『恐喝』がある。監督は当時29歳のアルフレッド・ヒッチコックで、この映画はロンドンで1929年6月21日に公開された。本来は無声映画として撮影されたが、会話シーンを追加し、音楽や効果音を追加して公開となった。BritishInternationalPictures(BIP)による製作で、録音はRCAフォトフォンで行われた。実は、ゼネラル・エレクトリックはTobis-Klangfilmの市場に関与するためにその親会社であるAEGの株式を取得していた。『恐喝』はかなりのヒット作となった。評論家も概ね好意的だった。例えば辛口で知られた評論家HughCastleは「我々が見たこともない音と静けさのおそらく最も知的な混合物」と評した。 -1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 -1959年にハイテク産業を誘致すべく、ローリー・ダーラム・チャペルヒルの3市町間にリサーチ・トライアングル・パークが設立されると、ローリーは急成長を始めた。1950年には約6万5000人だった人口は、1960年には約9万人、1970年には約12万人に急増した。しかし、1977年にフェイエットビル・ストリート・モールができ、市のメインストリートであるフェイエットビル・ストリートが歩行者専用道に変えられると、ダウンタウンの活性化を目的としたその計画は外れ、かえって衰退を招いてしまった。2007年には、フェイエットビル・ストリートにおける自動車の通行が再び許可された。2008年、フェイエットビル・ストリートは国の史跡に指定された。1990年代に入ると、ローリーのスカイラインにも高層ビルが加わるようになった。1991年には、ファースト・ユニオン・キャピタル・センター、およびトゥー・ハノーバー・プラザの2棟の高層ビルが完成した。2000年代には、34階建てのRBCバンクタワーがこれらに加わった。 -KFCは国際的に展開した最初のファストフードチェーンのひとつだった。1960年代中頃までには、イギリス、メキシコ、ジャマイカに店舗を展開していた。1970年代-1980年代にかけてKFCのオーナーとなった企業は、いずれもレストラン業における経験に乏しかったため、そのような時期を通してアメリカ国内での業績は上昇と下降を繰り返した。1970年代初頭にKFCを買収したのは蒸留酒の販売業者ヒューブラインだった。ヒューブラインはその後、食品・タバコを扱う複合企業体R.J.レイノルズに買収され、そのR.J.レイノルズも後にKFCチェーンをペプシコに売却した。KFCは海外展開を継続し、1987年には中国に進出した最初の欧米のレストランチェーンとなった。1997年、ペプシコは自社のレストラン部門を「トライコン・グローバル・レストランズ」として分離独立させた。トライコン社は2002年に名称をヤム・ブランズに変更した。ヤム・ブランズはKFCのオーナーとして、ペプシよりも明確な意志を持った経営を行っており、アメリカ国内の店舗数は減少したものの、KFCはアジア、南アメリカ、アフリカ地域で成長を続けている。2015年末の時点で、KFCは全世界125の国と地域で1万9952店舗を展開しており、KFCにとって最大の市場である中国には5003店舗が存在する。 -DNAナノテクノロジーの概念的基盤は1980年代初頭にネイドリアン・シーマンによって築かれた。広く関心を集め始めたのは2000年代半ば以降である。核酸を用いる利点は、核酸鎖のうち互いに相補的な塩基配列を持つ部分だけが結合して強固な二重らせん構造を形成するという厳しい塩基対合則の存在である。この規則を利用して合理的な塩基配列デザインを行えば、ナノスケールの精密なパーツが自然に組みあがって複雑な標的構造を形成することが可能になる。構造のアセンブル方式としては、より小さな構造(DNAタイル)をアセンブルさせるタイルベース構造や、核酸の折りたたみによって望みの形状を得るDNAオリガミ法、鎖置換法によって動的な再配置を行う方式などがある。 -分類が進むとともに、病因の解析も進められた。1934年には、クレンクが患者組織に蓄積している物質をスフィンゴミエリンと同定した。1966年には、ブラディによって、スフィンゴミエリンを分解する酵素である酸性スフィンゴミエリナーゼが患者組織において欠損していることが示された。さらに、Levranらによって、遺伝子SMPD1の変異が1991年に発見され、1992年には秋田大学の高橋勉らによって、ニーマン・ピック病A型およびB型がこのSMPD1の変異により生じると報告された。C型についても、1997年に、Carsteaらによって、症例の90%以上に特徴的な遺伝子が同定され、NPC-1と命名されている。さらに2000年には、Naureckieneらによって、C型における別の原因遺伝子NPC2が報告されている。治療法としては、EUにおいてニーマン・ピック病C型の治療薬ミグルスタットが2009年に承認され、日本においても2012年に承認されている。 -日本における『リッチマン、プアウーマン』の初回放送は15分拡大放送(21時-22時9分)されたほか、第4話はロンドンオリンピック中継の実施のため21時55分-22時49分の放送となった。7月27日から8月12日まで行われたこのオリンピック中継の影響で、2012年7月期の連続ドラマは全般的に視聴率競争では厳しい戦いとなったが、本作はスタートから開催中までの間、常に2桁台の視聴率を保持するなど健闘している。8月29日には、27時5分(翌日3時5分)からフジテレビで、第8話までの30分バージョンダイジェストが放送された。本作は台湾の緯來日本台でも2012年7月21日(日本での放送12日後)から日本語音声のまま繁体中国語字幕付きで放送された。台湾でのタイトルは『多金社長小資女』である。web上の展開として、フジテレビの有料配信サービス・フジテレビOnDemandにて、放送後の水曜日16時から最新話が配信されている。この配信では第7話終了時点でスマートフォン向けでの歴代1位の売上を記録しているほか、2011年以降のトップだった『マルモのおきて』を上回って本店配信の売上1位となった。また、8月22日から、フジテレビ公式YouTubeチャンネルで、「ロマンス編」「ビジネス編」の2種類に編集された第8話までの各話のダイジェストが無料配信された(番組終了後は配信も終了した)。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -徳島県では、こうした怪火を嫁入りではなくキツネの葬式とし、死者の出る予兆としている。これらの怪火の正体については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものとも考えられている。また戦前の日本では「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事があり、狐の嫁入りが田植えの後の夏に出現する、水田を潰すと見えなくなったという話が多いことから、虫送りの灯を見誤ったとする可能性も示唆されている。 -細胞内にはカルボキシソーム(carboxysome,polyhedralbody)とよばれる直径200〜700nmほどのタンパク質顆粒が存在する。カルボキシソームは主にルビスコや炭酸脱水酵素からなり、殻タンパク質で包まれている。カルボキシソームは、おそらく効率的な二酸化炭素濃縮機構に関わっており(重炭酸イオンから二酸化炭素を生成)、このため藍藻はほとんど光呼吸を示さない。ただし、おそらく特異なグリコール酸代謝経路をもつ。カルボキシソームは、炭素固定を行う他の細菌(光合成細菌や化学合成細菌)に見られることもある。 -イレーヌと夫フレデリックは、マリー・キュリーが発見した元素であるポロニウムを抽出し、この試料を使って様々な実験に取り組んだ。1930年、ヴァルター・ボーテとヘルベルト・ベッカーは、ポロニウムから放出されるアルファ粒子がベリリウムと衝突すると、ベリリウムは非常に貫通度の高い放射線を出すと発表した。この論文を読んだイレーヌとフレデリックは、さっそくこの事実を実験により確かめ、そして、この放射線は水素を含む物体から陽子を追い出すと発表した。しかしジェームズ・チャドウィックは2人の発表に疑問を抱き、追試して、追い出されるのは陽子ではなく中性子であると主張した。このチャドウィックの主張は他の物理学者によって確かめられ、チャドウィックは後に中性子の発見によってノーベル物理学賞を受賞した。結果としてイレーヌとフレデリックはあと一歩のところで、大きな業績を逃すことになった。 -寄生虫病であることが確定した後、ヒトへの感染経路の解明が進められた。感染経路には2つの仮説があり、一つは飲料水からの経口感染説、もう一つが皮膚からの経皮感染説であった。甲府盆地では前述した「能蔵池葭(葦)水飲むつらさよ」と民謡に歌われたように、飲料水から罹ると信じられていた地域がある一方で、皮膚からの感染を疑う農民も少なからずいた。有病地では水田や川に入ると足や手などが赤くかぶれることがあり、地域ではこれを泥かぶれと呼び、この奇病を発症する者は必ず泥かぶれを経て罹患することを、農民たちは経験的に知っていた。しかし、感染源が飲み水だとしても人は水を飲まなければ生きてゆけず、皮膚からの感染だとしても農民に「田んぼに入るな」というのは仕事を奪うことと同じである。農業を辞めたくても転職することが難しい、職業選択の自由など実質的にない時代であり、他に収入源のない小作農民は、奇病の感染を恐れつつも半ば諦観を持って水田での��働に就くという、いわば命懸けの米作りを強いられていた。 -ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されている。『キリストの洗礼』はテンペラで描かれた絵画の上から、当時の新技法だった油彩で加筆された作品であり、近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだと言われている。また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。それらの作品はフィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻『ダヴィデ』と、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『トビアスと天使』に描かれている大天使ラファエルである。レオナルドは20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスターの資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としたギルドだった。その後、おそらく父親セル・ピエロがレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった。制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日に、ペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである。 -真空管補聴器は音の再現性がよく、増幅性能も70デシベルまで向上した。また難聴者の社会運動の影響もあり、1920年代から1930年代にかけて真空管補聴器は一般に普及していった[1]。1920年代半ばに開発された「アコースティコン」56型は携帯用モデルとして最初期のものである。着用可能な真空管補聴器は英国で1936年に、米国では翌年に最初に発売された。補聴器の利用者にとって機器が目立たないことは重要な要素だった。真空管の登場後も、隠蔽性を重視して増幅性能の劣るカーボン補聴器を選ぶ使用者は多かった。1930年代に登場した着用式モデルはマイクロフォンとバッテリーを別々に衣服の中に隠すことができた。第二次世界大戦で周辺技術が進歩すると、耳の中に隠せる小型受信機も登場した。1940年代にはサブミニチュア真空管やプリント回路、ボタン型電池といった新しい技術を採用した一体型補聴器が登場し、モダンなデザインによって補聴器のイメージを変えていった。当時の流行はゼニス社のポケットサイズモデル「ミニチュア75」に見ることができる。このころの補聴器はエレクトロニクスの小型化技術の「実験場」であり、サブミニチュア真空管のように、補聴器のために開発された技術が標準化した例もあった。ジョセフ・ポリアコフが1937年に特許を取った「テレコイル」は電話機の音声信号を磁気的に受信する部品で、通話音声以外のノイズを除去することができた。テレコイルを採用した補聴器はロンドンのマルチトーン社によって最初に製品化された。この技術が原型となった「ヒアリング・ループ」は21世紀にも用いられている。 -1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区等で過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、それらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定した。後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわず、再度数年の充電期間に入る。その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決も���としてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -バーティは1863年3月にウィンザー城のセント・ジョージ・チャペルでアリックスと結婚した。二人はセント・ジェームズ宮殿近くのマールバラ邸で新婚生活を始めた。またノーフォークにサンドリンガム邸を購入した。夫妻は長男アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード、次男ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバートはじめ二男三女に恵まれた。同年11月には岳父クリスチャンがクリスチャン9世としてデンマーク王に即位した。当時デンマークはシュレースヴィヒ公国やホルシュタイン公国と同君連合の関係にあったが、両公国のドイツ人住民の間でドイツ・ナショナリズムが高まっており、デンマーク君主を戴くことに反発が強まった。このドイツ世論を背景にプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリアと連携して1864年2月から第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を開始した。 -寒帯から熱帯まで全世界の陸上に分布し、分類法にもよるが14属・100種ほどが知られる。分布の中心は北半球の温帯・寒帯地域で、チョウとしては北方系の分類群として位置づけられる。このうち日本では8属・14種が見られる。 -17日で公式日程は終了し、18日、裕仁親王の一行は特別列車でキングストン駅からスコットランドに向かった。イギリス政府はスコットランドの風物が裕仁親王にとって安らぎになると考え、またスコットランドの大貴族アソール公爵ジョン・スチュアート=マレーに裕仁親王の接遇を依頼することで、親王にイギリス貴族を知ってもらう機会になると考えていた。当初アソール公爵は日本人をよく知らないとして裕仁親王の接遇に難色を示していたが、ロイド・ジョージ首相の再三の説得もあり、この役目を引き受けた。なお、一部の供奉員は宿泊所の都合上同行せず、ロンドンに待機する。18日、ケンブリッジ大学に立ち寄る(政府国賓としての最後の行事)。ジョセフ・タナー教授の「国王と臣民との関係」という講義を受け、名誉法学博士の学位を贈られる。トリニティ・カレッジで晩餐会の後、午後11時にケンブリッジを出発した。 -当初構想どおり、A319の胴体はA320のものから7フレーム短縮された。短縮量は主翼の前で3フレーム(1.60m)、後ろで4フレーム(2.13m)であった。胴体短縮に合わせて、A320では最後部にあったバルク貨物扉が除去され、ばら積み貨物はコンテナ用貨物扉から積み下ろしすることになった。座席数の減少に合わせて、主翼上の非常口が1つに減らされた。原型となるA320が設計されてから10年余りが経過しており、エアバスはA319に新たな改良を加えるべきか検討した。顧客となる航空会社に意見を求めたところ、「何もしないことが最善」という結論に至った。したがってA319は可能な限りA320���共通化された。主翼もコックピットもA320と同一であり、尾翼を含めた尾部構造や降着装置も何も変更されなかった。エンジンについてもA320やA321と同じくCFMインターナショナル社のCFM56と、インターナショナル・エアロ・エンジンズ社のV2500が設定された。小型化されたA319に合わせて両エンジンとも推力抑制型が用意された。それぞれのエンジンは基本的な構成などは標準推力型と同じであり、専用の部品や工具なども不要とされた。 -鎌倉時代には箱木御園(はこぎみその)と呼ばれる伊勢神宮の御園であり、『神宮雑例集』によると「二宮領」、すなわち皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)の両宮の所領であった。箱木御園の記録には「塩三石」の字が見え、『神鳳鈔』の傍書に香良洲町の旧称である「矢野」と記されていることから、香良洲町が箱木御園に比定される。三節祭の際に、神宮へ塩を供進した。製塩は江戸時代中期まで続き、塩田は新田に変わった。室町時代には伊勢湾を警固する港と矢野下野守の居城を擁していた。中世には長野氏が支配していたが、後に北畠氏に代わり、北畠氏の家臣である矢野下野守が城を置いていたという。城跡は小字地家垣内と推定される。北畠氏は矢野浦に何度も「新関」を設け、神宮は再三に渡って新関の廃止を訴えていた。 -英仏米(イギリス、フランスとアメリカ)など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定(英語版)を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。そのころ日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。 -さらに、この路線では他社との競争以上に重要な事実が判明した。サウスウエスト航空が就航する直前の1974年、リオグランデバレーとダラス・ヒューストン・サンアントニオの3都市間を移動する旅客数は年間12万3000人程度であった。ところが、サウスウエスト航空が就航した1975年の同区間の旅客数は32万5000人にも及んだのだ。これまで飛行機を利用していなかった利用者層が、サウスウエスト航空の低運賃によって、飛行機を利用するようになったのである。サウスウエスト航空の基本戦略である「低運賃で頻繁に運航する」という方針が正しかったことが証明され、その後次々とテキサス州への各都市へ路線を開設することになる。数年後には州内10都市を結ぶ航空会社となっていた。なお、合衆国政府は1975年2月14日に、ライバル航空会社のブラニフ航空とテキサスインターナショナル航空が共謀してサウスウエスト航空を廃業に追い込もうと、サウスウエスト航空の投資銀行や仕入先に対して圧力をかけていることなど、シャーマン法に違反した行為を行っているとして起訴した。2社はともに反論しなかったため、罰金として10万ドルを課せられている。 -1888年に、ブライはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をモデルとして実際にリポーターを世界一周させるという企画を提案した。しかしこのときワールド紙は、女性の一人旅は危険だとしてブライの提案を認めず、代わりに男性記者を世界一周させる案を進めようとした。これに対してブライは、「男性を出発させたら、私は他の新聞社と契約して同じ日に出発し、その男を負かす」と言った。この時は結局企画自体が流れたが、それから約1年後の1889年、ブライの企画が採用され、ブライがそのリポーターに決定した。ワールド紙が企���を採用した背景には、当時部数が減少傾向にあり、注目されるイベントを起こす必要があったことが挙げられる。ブライが企画の採用を告げられたのは1889年11月11日の午後で、出発は11月14日であった。3日間でブライは旅行用の服を用意し、支度を調えた。また、ブライはパスポートを持っていなかったため、ワールド社の社員が国務長官ジェームズ・G・ブレインに直接依頼し、出発までに仮パスポートを入手した。 -安永9年と天明元年の噴火によって大きな被害を受けた青ヶ島であったが、天明3年(1783年)3月からの噴火はこれまでのものよりも規模が大きく、甚大な被害が出た。2月には島の北部にある神子浦(みこのうら)が大崩壊を起こし、舞い上がった土砂が島内の耕地に積もった。そして3月9日(1783年4月10日)には地震が頻発、そして池之沢に大きな火口が出現し、島内に灼熱した噴石が降り注いだ。そのために噴火開始時に池之沢にいた14名が死亡し、高温の噴石によって火災が発生して61軒の家屋が焼失した。噴石の噴出後には火山灰が激しく噴出し、島内は真っ暗となり火山灰が厚く降り積もった。火山灰は青ヶ島全体の耕地に壊滅的な被害をもたらしたうえに島の水源をも埋め、雨が降ると火山灰交じりの水が流れ出して人家に流れ込むといった二次災害を引き起こした。天明3年の噴火は八丈島からも激しい火の手と猛烈な噴煙が立ち昇るのを見ることができた。青ヶ島からの報告を受けた八丈島役所では青ヶ島の被害状況の見分を行うこととして、視察は5月に八丈島を出発し、噴火後の青ヶ島の状況を約1か月見分して八丈島に戻る際、船が上総の興津まで流されたうえ、ようやく八丈島へと戻った。青ヶ島は多くの耕地が噴出した火山灰によって失われ、厳しい食糧不足に悩まされることになり、また多くの家も焼失した。しかし今回は年貢が免除となり、救援の穀物の支給なども行われた。また噴火の影響で荒廃した青ヶ島から八丈島へ住民が避難することも勧められた。天明4年(1784年)には噴火はなく、青ヶ島の島民は噴火からの復興に向けて努力をしていた。しかし翌天明5年(1785年)に破局的な大噴火が起こり、青ヶ島島民は全島離島に追い込まれることになる。 -神岡鉱山から排出されたカドミウムが神通川水系を通じて下流の水田土壌に流入・堆積して起きる。汚染実態を把握するため、富山県は1971年から1974年にかけ、「農用地汚染防止法」に基づいて、細密検査と補足検査を実施した。汚染面積は神通川左岸で1,480ha、右岸で1,648haの計3,128haで、そのうち1,500.6haが対策地域に指定された。カドミウム汚染田は、神通川によって形成された扇状地にある。右岸は熊野川、左岸は井田川に囲まれる範囲で、八尾町(現:富山市八尾町)以外の地域は「イタイイタイ病指定地域」に含まれる。対策地域内の平均カドミウム濃度は表層土で1.12ppm、次層土で0.70ppmと、深くなるにつれて濃度は低下する。特に、上流部に分布する洪積扇状地では、平均2.0ppmと非常に濃度が高い。土壌中のカドミウム濃度と玄米中カドミウム濃度の間には相関関係が認められず、土壌中のカドミウム含量が低くても高濃度の汚染米が出現しやすい。上記の調査では、食品衛生法の基準である玄米中のカドミウム汚染米が230地点の水田で検出されていることから、これらの水田では、三井金属鉱業の補償によって作付けが停止されてきた。また、カドミウム濃度が0.4ppm以上1.0ppm未満の米は、政府が「準汚染米」として全て買い上げている。買い上げ後は食用にしないで破砕し、ベンガラで着色し、工業用糊の原料として売却されていた。 -加工品の加熱・保持後に冷却を行う。焼入れに必要な冷却速度は大体160°C/秒以上とされる。冷却速度を下げていくと、マルテンサイト変態の前にパーライト変態、ベイナイト変態、フェライト変態が発生するようになり、冷却後の組織にマルテンサイト以外の組織が混入し始める。この他の組織が発生するようになる限界の冷却速度を上部臨界冷却速度、あるいは単に臨界冷却速度と呼び、完全焼入れになる限界速度でもある。上部臨界冷却速度からさらに冷却速度を下げていくと、他の変態が多くなりマルテンサイト変態の比率が下がっていき、遂にはマルテンサイト変態が発生しなくなる。この限界の冷却速度を下部臨界冷却速度と呼び、不完全焼入れになる下限速度となる。さらに冷却速度を遅くすると(亜共析鋼の場合は)焼ならしに、もっと遅くすると完全焼なましに該当するような熱処理操作となる。このような冷却速度と変態の関係を、亜共析鋼を例にしてCCT図(連続冷却変態曲線)で見ていくと、上部臨界冷却速度でパーライト変態開始線にかかり出す。上部臨界冷却速度と下部臨界冷却速度の間では、100%パーライト変態する前にパーライト変態領域を抜けて残りはマルテンサイト変態領域に入る。下部臨界冷却速度で100%パーライト変態線にかかり出し、これ以上になると全てパーライト変態となる。 -これより前の533年にユスティニアヌス1世(ユスティヌス1世の甥で後継者)はヴァンダル王国の内紛を利用して北アフリカ諸州を回復すべく最も有能な将軍ベリサリウスを派遣していた。このヴァンダル戦争は思いがけず迅速かつ決定的な勝利に終わり、ユスティニアヌス帝の西方諸州回復の野望を励ますことになったのは疑い無い。この戦争に際してアマラスンタは東ローマ艦隊の作戦基地として東ゴート領のシチリア諸港の使用を認めていた。ユスティニアヌス帝は使節を通じてアマラスンタの命を救おうとしたが、無駄に終わった。いずれにせよ、アマラスンタの死はユスティニアヌス帝に絶好の口実を与えた。「治世の9年目にあって、アマラスンタの身に起こったことを知るやいなや彼は戦争を始めた」と歴史家プロコピオスは述べている。 -1415年、帝国改造を掲げた皇帝ジギスムントは、コンスタンツの帝国議会で、国王裁判権の強化を訴えた。それに伴い、帝国を4つのタイル(部分)、すなわち、ライン、アルザス、ヴェッテラウの一組と、テューリンゲン、マイセン、ヘッセンの一組、フランケン、シュヴァーベンの4つの区域に分け、国王が派遣する指揮官がその平和維持、判決執行を行う政策を提案したが、諸侯の反発が強く実現はできなかった。 -翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、その会見内容は不明である。翌年にノストラダムスが書いたものをもとに、むしろ会見では予言能力を疑われるような不手際があったのではないかという指摘もある。カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで自身の子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない。この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。 -ニューヨークは、イギリス帝国の支配の下、貿易港としての重要性を増していった。1735年にはジョン・ピーター・ゼンガー事件の裁判が行われ、北アメリカにおける報道の自由の確立へとつながっていった。1754年、国王ジョージ2世の勅許によって、ロウアー・マンハッタンに王立大学としてコロンビア大学が設立された。1765年10月には印紙法会議がニューヨークで開かれた。 -園井恵子は1913年、岩手県岩手郡松尾村に、袴田清吉、カメ夫妻の長女として生まれる。出生名は袴田トミだ。実家は菓子の製造販売業を営み、祖父・政緒は松尾村の初代村長を務めた人物であった。翌年、政緒の死去に伴い一家はそれぞれ菓子舗として独立、トミは両親と共に同郡川口村に移った。以後しばらく同地で育つが、岩手女子師範附属小学校高等科への進学に伴い、盛岡市の叔父・袴田多助宅に身を寄せる。さらに叔父一家が北海道小樽市に移転すると、トミもこれに付き従い、1927年に小樽高等女学校に入学した。なお、戸籍上の本名は「トミ」だが、幼少のころ、歌舞伎の演目『切られ与三』の「いやさ、お富」という台詞で散々からかわれたことに辟易し、「英子」という通称を名乗り、宝塚在団中は専らこの通称の方が知られた。さらに後には「真代」を名乗っており、死去4日前に書かれた最後の手紙も「真代」という署名で締められている。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -ニュルンベルク市は北から時計回りに以下の市町村、あるいは市町村に所属しない地域と境を接している。エアランゲン(郡独立市)、ノインホーフの森、クラフツホーフの森(以上、エアランゲン=ヘーヒシュタット郡)、シュヴァイク・バイ・ニュルンベルク、ラウフアムホルツの森、ツェルツァーベルスホーフの森、フォルストホーフ地区、フィッシュバッハ地区、フォイヒト(以上、ニュルンベルガー・ラント郡)、ヴェンデルシュタイン、クラインシュヴァルツェンローエの森(以上、ロート郡)、シュヴァーバッハ(郡独立市)、ロール(ロート郡)、シュタイン、オーバーアスバッハ(以上フュルト郡)、フュルト(郡独立市)。ニュルンベルクの飛び地ブルンには、いずれも市町村に属さない地域であるブルン、ヴィンケルハイト、フィッシュバッハ(全てニュルンベルガー・ラント郡)が隣接する。 -1163年、エジプトを支配するシーア派の国家ファーティマ朝の宰相シャーワルは政敵のディルガームとの戦いを有利に進めるためにザンギー朝に援助を求めた。翌1164年4月にヌールッディーンはシールクーフを司令官とする遠征軍を派遣し、遠征軍の幕僚にサラディンが付けられた。シールクーフはビルベイスでディルガムに勝利し、シャーワルを宰相に復職させた。だが、シールクーフを���れるシャーワルは彼にエジプトからの撤退を求め、十字軍国家エルサレム王国のアモーリー1世に援助を求めた。8月からシールクーフの立て籠もるビルベイスはエルサレム軍とエジプト軍の包囲を受け、11月に和議が成立し、シールクーフとアモーリー1世はエジプトから撤退した。1167年にシールクーフとサラディンは再びエジプト遠征を行うが不成功に終わり、同年8月に和議を結んで撤兵する。 -1927年1月、義兄の西川豊が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「物語の面白さ」を主張する谷崎潤一郎に対して、『文芸的な、余りに文芸的な』で「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話のない」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。このころ、芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている。芥川は7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。享年36〈数え年〉、満35歳没。服用した薬には異説があり、たとえば山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。同日朝、文夫人が「お父さん、よかったですね」と彼に語りかけたという話もある。戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。 -日本と中国とは1937年に勃発した日中戦争の最中にあった。日本軍は沿岸部の主要都市を占領したが、中国の蒋介石政府は重慶へと後退し頑強に抗戦を続けていた。日中両国とも国際社会に対しては「これは戦争ではない」との立場をとったため、アメリカ政府は交戦国への軍需物資の輸出を禁止する「中立法」を発動しなかった。軍需物資の多くを輸入に頼っていた日本はこれにより恩恵を受けていたが、中国へのアメリカやイギリスからの援助も妨げることはできなかった。 -花井に常住者はなく、元住民は新宮市や御浜町・紀宝町に生活拠点を置き、墓や元居宅、寺などを維持するために盆・正月に花井へ帰る。特に花井の最後の住民であった男性の弟は1か月の半分ほどを花井で寝泊まりして過ごしていたという。この男性は2011年(平成23年)の紀伊半島豪雨災害の時も花井におり、家ごと流されるも何とか生還するという経験をした。 -ロレンツォとマドレーヌは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に対抗するフランス王フランソワ1世と教皇レオ10世との同盟の一環として1518年にアンボワーズで結婚していた。同時代の年代記によると、カトリーヌが1519年4月13日水曜日にフィレンツェで生まれた時、両親は「まるで男子が生まれたかのように喜んだ」という。しかし彼らの喜びは長くは続かず、母マドレーヌは4月28日に、父ロレンツォ2世もまた5月4日に相次いで死去してしまう。メディチ家兄脈を正統に継ぐ唯一の人間となったカトリーヌに対し、フランソワ1世は後見人たるを望むが、教皇レオ10世はこれを拒絶した。教皇レオ10世はカトリーヌを弟の庶子であるイッポーリト・デ・メディチと結婚させてフィレンツェの共同統治者に据えることを意図していた。 -1870年7月、普仏戦争が勃発すると、ルノワールは第10騎兵部隊に配属されたが、1871年3月、動員が解除された。赤痢にかかり、生命まで危ぶまれたが、おじがボルドーに引き取ってくれ、回復したようである。ルノワールがパリに戻ると、パリ・コミューンによる動乱の真っ只中であった。ルノワールは、セーヌ河岸で制作していたところ、パリ・コミューンの兵士から、第三共和政政府のスパイと勘違いされて逮捕された。連行される途中、知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴーが通りがかって身元が判明し、釈放された。その上、リゴーに通行許可証を出してもらい、パリ・コミューンの動乱期に防衛線を越えてルーヴシエンヌの両親の家と行き来することができた。フランスに残っていたシスレーと、ルーヴシエンヌやマルリーで一緒に制作した。「血の1週間」の最中の5月23日夜、コミューン政府はセーヌ河岸の建物に火を放ったが、ルノワールは、ルーヴシエンヌの水道橋から、炎上するパリ市街を暗澹たる思いで見ていた。普仏戦争では、友人バジールが戦死した。また、モネやピサロはロンドンに渡って画商ポール・デュラン=リュエルと知り合うなど、バティニョール派の画家たちにとっては一つの転機が訪れた。 -1956年、荒木は高知県の優良職員の第1回表彰者5名の中に選ばれた。後に宿毛市改善業者の表彰を受賞。1966年には自治大臣賞を受賞した。翌1967年、保健婦としての18年の功績が認められ、国民文化の向上に尽くした個人または団体に与えられる文化功労賞である「第1回吉川英治文化賞」を受賞。沖の島の島民たちは、自分たちのことのように大きく喜んだ。この際、島民たちは荒木を祝おうとしたものの、自分の祝いと言われたら荒木は決して出席しないだろう、と思い、料理を教えてほしいと言って荒木を呼び出し、ようやく祝賀会を開くことができたという。この受賞を機に、沖の島に関心を抱いて好意の手が差し伸べられるケースも次第に増加した。同1967年からは岡山大学から年に数回、衛生についての講師が派遣された。また集団検診の際は、岡山大学の医師も助力のために島へ訪れた。メディアでは、NHKテレビ番組『育て赤ちゃん』で荒木の活動が紹介されて一躍脚光を浴びた。1967年、直木賞作家である伊藤桂一が荒木の半生を『沖ノ島よ、私の愛と献身を』として著した。この作品により荒木は、悪条件下で風土病と闘いつつ多くの島民たちの命を救う孤島のヒロインとして全国的に注目され、高知県の保健婦の代名詞ともいえる存在となった。翌1968年、同書を原作とする映画『孤島の太陽』が上映された。NHKドラマ『おはなはん』で人気を博した女優の樫山文枝が荒木役を演じたことで注目を浴びた。荒木自身も「土佐のマザー・テレサ」「日本のマザー・テレサ」として全国的な話題となり、ブームは頂点に達した。 -南極大陸は非常に寒冷であり、2018年には気温が−97.8°Cに達したことが報告されている。観測史上の最高気温は、2020年2月6日に南極半島北端にあるアルゼンチン管轄のエスペランサ基地で観測された18.3°Cである。緯度と標高と海からの距離によって気温は異なる。内陸部の寒極では年平均気温は−57°Cと推定され、寒極に近いボストーク基地では−55.3°C、南極点では−49.5°Cである。海岸はこれより温暖であり、海岸に近い昭和基地の年平均気温は−10.5°Cである。また、緯度が比較的高く、かつ海沿いのマクマード基地では、月平均気温は8月が最も低く−27°Cで1月が最も高く−3°Cである。なお、南極点での観測史上最高気温は−13.6°Cである。 -初期の分析において緑柱石とエメラルドは常に類似した成分が検出されており、この物質はケイ酸アルミニウムであると誤って結論づけられていた。鉱物学者であったルネ=ジュスト・アユイはこの2つの結晶が著しい類似点を示すことを発見し、彼はこれを化学的に分析するために化学者であるルイ=ニコラ・ヴォークランに尋ねた。1797年、ヴォークランは緑柱石をアルカリで処理することによって水酸化アルミニウムを溶解させ、アルミニウムからベリリウム酸化物を分離させることに成功した。1828年にフリードリヒ・ヴェーラーとアントワーヌ・ビュシーがそれぞれ独自に、金属カリウムと塩化ベリリウムを反応させることによるベリリウムの単離に成功した。 -「アロサウルス」という名称は分類学的には属名と科名(上科を含む)に現れるが、特に断りがない場合は属名を示す(ちなみにアルファベットでの綴りは科名がAllosauridae、上科名がAllosauroidea)。いわゆる恐竜の中でも竜盤目・獣脚亜目(以下、獣脚類)・テタヌラ下目・カルノサウルス類のアロサウルス科に属し、マーシュの命名した最も著名な種はアロサウルス・フラギリス(A.fragilis、ラテン語で“脆いもの”の意)である。この他にもアロサウルス科には数種が属するとされるが、分類の妥当性に関して議論中のものが多く、正確な数は一概には言えない。アロサウルスの化石の多くは北アメリカ大陸のモリソン層(en:MorrisonFormation)産だが、ヨーロッパ大陸のポルトガルからも産出している。またアロサウルスの一種である可能性のある化石がアフリカ大陸のタンザニアでも発見されている。20世紀にはアントロデムス(Antrodemus)という学名で呼ばれた時期もあったが、クリーブランド・ロイド発掘地(en:ClevelandLloydDinosaurQuarry)で発見された大量の化石の研究により、アロサウルスの学名が妥当であることが認められ、著名な恐竜の一つとして一般に知られることになった。 -単行本の著者近影は10数年間ほとんど変わらず若々しさを保っており、『ユリイカ』で10年越しにインタビューを行った斎藤環は荒木について「当時と比べてまったくお変わりないですね。むしろ若返ったくらいで驚くばかりです。さすが波紋の使い手というか......」と作品にちなんで驚きを表すも、それに対して荒木は「着実に老化しており、週刊連載が量的にきつくなったから月刊に移った」と語っている。体力維持のため50歳を過ぎてもジムでのトレーニングや水泳を欠かさず、ご飯はひとめぼれを食べる。また独自の健康法として冬でも冷水のシャワーを浴びるというものがあったが心臓への負担の考慮から現在はやっていないと述べている。 -PW6000エンジン装備機である初号機は、180時間飛行したところでCFM56-5Bにエンジンが換装された。そしてCFM56エンジンでの初飛行は2002年8月29日に行われた。重心位置の後方限界が若干小さくなった他は、エンジンの違いが機体の取り扱いに与える悪影響はなかった。認証取得の試験飛行には主に初号機が充てられ、エンジン換装後に490時間の飛行を行った。エンジンの選択肢にCFM56が加わっていたことで、エアバスは救われる形になった。飛行試験において、降着装置を下ろして迎角を大きくとると、前脚の格納扉で発生した乱流が胴体に備わる迎角センサに影響することが判明した。そこで、乱流が迎角センサのプローブを支障しないように、ストレーキが追加された。CFM56エンジン仕様機は、2003年5月23日にヨーロッパの合同航空当局(JointAviationAuthorities;JAA)から型式証明を取得した。続いて6月4日に米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration;FAA)からも同エンジン仕様の型式証明が交付された。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -また、芸術の分野では、黄砂のもたらす独特の景観などが文化表現にも取り入れられており、黄砂のもたらす情景を詠った古代中国の漢詩が伝えられるなどその歴史は古い。黄砂が生活に深刻な被害を与えている地域もある一方で、影響が軽微であり珍しい自然現象・季節の風物詩などとされている地域もある。「黄砂」という語でひとくくりにされているが、こ��語を気象学的に定義すると複数の現象が含まれている。発生地付近では黄砂の元となる「砂塵嵐」(砂嵐)、大気中を浮遊する黄砂は「エアロゾル粒子」であり、風の有無にかかわらず黄砂が空中に大量に浮遊・降下している状態は「風塵」や「煙霧」「ちり煙霧」である。また、視程障害現象にも分類される。東アジア各国では、気象機関がそれぞれ「黄砂」の定義や強弱の基準を定めているが、いずれも少しずつ異なっている(後節参照)。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -翌年の1917年に二月革命が起きると、13名の国会議員から構成される国会臨時委員会(英語版)が組織され、国家権力を掌握した。この臨時委員会には、カデットからはミリュコーフと国会副議長ニコライ・ネクラーソフが参加した。臨時委員会において、君主制を維持するべきかどうかという議論が生じると、党内左派に位置するネクラーソフは君主制の放棄を支持する一方、ミリュコーフは君主制の維持を訴えた。そのため、両者のあいだで対立が生じたが、最終的に皇帝候補のミハイル大公自身が帝位を拒絶した。その後に成立した第一次臨時政府では、外相にミリュコーフ、運輸相にネクラーソフ、農相にシンガリョフが就任するなど5つの閣僚ポストを得ており、この政府はカデットを中心としていた。一方、社会革命党やメンシェビキといった社会主義政党は、ペトログラード・ソビエト(英語版)を通して労働者・兵士を掌握し、臨時政府を外部から監督するという立場をとった。 -2月15日、宮内省告示第二号によって皇太子裕仁親王が3月3日から、ヨーロッパに外遊することが正式に公表され、随員も発表された。同日には赤坂氷川神社で「東宮殿下御外遊御延期祈願式」が行われ、代議士や内田らが参列した。2月17日、内田・頭山は元東京帝国大学(現東京大学)教授寺尾亨とともに宮内省を訪れ、洋行延期を奏上しようとしたが係員に受領を拒否された。同日、衆議院では押川や大竹貫一が皇太子洋行問題に関する秘密会を開催するよう各派と交渉を行ったが、各党各会派ともこの要求を拒否した。2月27日には西園寺公望元老の嗣子で、随員の一人と発表されていた西園寺八郎邸が洋行延期を唱える「抹殺社」を名乗る6人に襲撃され、八郎は軽傷を負った。この日には東京大神宮で民労会による「東宮殿下御渡欧平安祈願式」、続いて黒竜会ら三千人による「聖上御平癒・東宮殿下御外遊延期祈願式」が開催された。内田はこれが最後の祈願式であると述べ、事実上延期運動を断念したものと受け止められたが、個人レベルでの洋行反対の動きは継続され、警視庁は各方面の警戒を行っていた。3月1日には浪人会が「御治定動かし難し」と決議し、延期運動から外遊時の平安を祈る動きに切り替えた。 -1910年秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた。1911年5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣���交際していることを知らなかったため、大いに驚いた。しかし旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した。1911年6月24日、ローマ教皇ピウス10世はツィタに「私はあなたの未来の夫を祝福します。彼は次のオーストリア皇帝になるでしょう」と言った。ツィタらが次の皇帝はフランツ・フェルディナント大公であると訂正しても、ピウス10世は次の皇帝はカールであると繰り返したという。同年10月21日、シュヴァルツアウの城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。 -ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。 -1998年(平成10年)頃には静岡市立図書館の職員のプロジェクトチームが中央図書館を中心市街地に移転させる構想を打ち出した。2000年には中心市街地の御幸町と伝馬町に再開発ビルを建設することが決定したため、静岡市はこの再開発ビルの4フロアを購入して、2フロア分を図書館に、残りの2フロアを都市型産業支援施設に宛てることとした。図書館2フロア分の延床面積は約2,000mであり、延床面積の狭さなどの問題から中央図書館を移転させるのは困難だったため、近隣の追手町図書館を複合ビルに移転させることとした。このビルは静岡鉄道新静岡駅とバスターミナルがある新静岡センターと向かい合っており、静岡市でもっとも賑わいのあるエリアに位置する。複合ビルの設計は静岡市内で葵タワーなども手掛けることになるアール・アイ・エー。 -同年12月までは政治活動の明確な方針は定まらなかったが、翌年の1906年1月の第2回党大会でミリュコーフが「我が党はすぐれて議会政党である」と演説し、綱領には立憲君主制・議会制を掲げることとなった。この大会において党中央委員会のメンバーが確定しており、この当時の党の主な指導者にはミリュコーフをはじめ、ストルーヴェ、コリューバキン、ロジチェフ(ロシア語版)、ゲッセン(ロシア語版)、ペトルンケヴィチ(ロシア語版)といった人物がいた。党員数は10万人を数えたという。同年に行われた第1国会の選挙は、労働者にも選挙権を与えていたものの、土地所有者の1票が都市民2票・農民15票・労働者45票に相当するという極めて不平等な選挙制度であった。そして、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、社会革命党といった社会主義政党は選挙をボイコットした。一方で小規模な土地所有者が選挙に強い影響力を有しており、都市中間層もカデットについた。こうした条件下でカデットは圧勝し、約150から180議席程度を得て第一党となった。国会議長もカデット出身の法学者セルゲイ・ムーロムツェフ(ロシア語版、英語版)となっている。 -このブローニュの兵士たちが後に大陸軍(LaGrandeArmée)と呼ばれる軍��の中核となった。当初、このフランス軍は7個軍団から成る約20万人で、各軍団は36から40門の大砲を有し、他の軍団が来援するまで単独で戦う能力を有していた。1個軍団は(もしも適切な防御拠点に配置されていたなら)支援なしで丸1日戦い続けることができ、このことは全ての戦役において大陸軍に計り知れない戦術的選択肢を与えることになる。これらの軍隊に加えて、ナポレオンは22,000人の予備騎兵部隊を創設しており、これは2個胸甲騎兵師団、4個乗馬龍騎兵師団、1個下馬龍騎兵師団、1個軽騎兵師団から成り、各々が砲24門を装備していた。1805年時点で、大陸軍は35万人に拡大しており、装備状況は良好で、よく訓練されており、優れた指揮官に率いられていた。 -エストニアは、ロシアが実効支配するレニングラード州イヴァンゴロド周辺地域、およびプスコフ州ペチョールィ周辺地域の2か所について、自国の領有権を主張していた。 -かくて富山県立図書館の設立を求める声は日を追うて高まり、1940年(昭和15年)に迎える紀元二千六百年記念行事の一環として県立図書館を開設しようという考えが各層より起った。1939年(昭和14年)11月27日には矢野兼三富山県知事が県会において「県民性伸長助長策として」県立図書館を設置することがふさわしいとの考えを披瀝し、同年12月の通常県会に県立図書館開設計画を含んだ予算案を提出、同月14日可決された。超えて1940年(昭和15年)2月11日には松浦鎮次郎文部大臣が富山県立図書館の設立を認可し、4月1日には富山市総曲輪に紀元二千六百年記念富山県立図書館が設置された。同年5月10日に富山市立図書館は中央図書館の指定を解除され、代って県立図書館が中央図書館となったが、開館式を挙行したのは同年11月30日のことであった。 -安城市図書情報館(あんじょうしとしょじょうほうかん)は、愛知県安城市の御幸本町のアンフォーレ本館にある公共図書館。2017年(平成29年)6月1日開館。1985年(昭和60年)から2017年1月31日までは城南町に安城市中央図書館(あんじょうしちゅうおうとしょかん)があった。安城市には安城市図書情報館に加えて11か所の公民館図書室があり、安城市図書館(あんじょうしとしょかん)と総称されることがある。 -1965年(昭和40年)以降に安城公園が再整備されると、今日の安城公園北西角、桜町18番2号に新館が建設され、1967年(昭和42年)5月4日に開館した。敷地面積は2,231.3m2、建物面積は403.2m2、延床面積は757.3m2であり、図書収容能力は4万冊。鉄筋コンクリート造2階建であり、総工費は22,010,590円。1階は新聞・雑誌コーナー、会議室、展示室、閉架書庫、事務室などがあり、2階は一般室、児童室、参考資料室・産業資料室などがあった。産業資料室には農業関連資料が集められ、安城の農業指導者だった山崎延吉から寄贈された図書を並べたコーナーが併設された。閲覧方法は新館移転時から開架方式を採用し、貸出方法は1971年(昭和46年)12月から変形ブラウン方式が採用された。 -現在の本種の水揚げは、主にポルトガルと日本の近海で行われている底引き網漁などにおける、混獲(他魚を狙った漁業で捕獲されること)によるものである。ポルトガルは2000年に282トン、2001年に119トン、本種を混獲によって水揚げしたと報告している。北東大西洋においてはこの魚は珍しく、捕獲の報告は他種との混同による間違いであることも多い。ブリテン島の東部で行われている深海刺し網漁で他魚に混ざって漁獲されることも有るが、この海域でも個体数は1970年代と比べて減少していることが調査によって分かっている。地中海では底引き網や刺し網にまれにかかる。南半球でもオーストラリアやニュージーランドで盛んに水揚げされた時期もあった。現在では本種は通常、網にかかっても生きたまま海に返されるが、その多くは深海までたどり着くことが出来ずに死んでしまう。IUCNは、本種を全世界において準絶滅危惧と評価し、北東大西洋の個体群については前述のような個体数の減少から、危急種と評価した。飼育例は少なく、2017年の冬に沼津港深海水族館で飼育された例がある。 -フランス王国で発生した2月革命がヨーロッパ中に飛び火して、オーストリア帝国では3月革命が発生した。ウィーンでは、およそ27年にわたっ���帝国宰相を務めていたメッテルニヒの罷免を求める声が、学生や労働者を中心に高まった。 -1960年代になると老朽化が問題となり、図書館の移転新築の要望が起こり、1963年(昭和38年)、県政の重点施策として草薙地区に図書館、美術館兼博物館、体育館、音楽ホールを内包する大規模文化エリア「県文化センター」の建設構想がまとめられる。1960年度(昭和40年度)には、県の広報課に文化センター建設準備室を設置、教育委員会は新図書館研究委員会を設けて、調査研究に入った。1961年(昭和41年)8月には、企画調整部長の意見聴取に対し同研究委員会による成果物「新図書館の望ましい姿」を教育長名で回答、翌1962年(昭和42年)9月、県会の議決を得て、12月に着工する。名称変更と準備期間を経て、1970年(昭和45年)4月に静岡県立美術館に隣接する現在地に移転し、静岡県立中央図書館が開館した。初代館長は高林静夫。 -14世紀末のカタルーニャ地方の人口は約45万人と推定されており、18世紀初頭までほぼ変化がなかったとされているが、18世紀以後に大きく変化した。1787年のカタルーニャの人口は87万人だったが、1857年には165万人となり、スペイン全土に占める比率も7.8%から10.7%に増加した。19世紀前半にはまだ国内移民は多くなく、基本的には産業革命の進行による自然増によるものである。1900年には196万人(スペイン比10.5%)だったが、アラゴン・バレンシア・ムルシア・アルメリアなどからの国内移民が増加した結果、1930年には279万人(同11.8%)まで増加した。バルセロナではこの30年間に人口が倍増して100万都市となったが、その影響で都市環境の悪化に悩まされている。スペイン内戦とその後の混乱で人口の伸びが停滞し、1950年の人口は324万人だったが、1960年代以降の経済成長で大量に国内移民を受け入れたことで、1975年には566万人にまで急増した。1961年から1975年の間に、アンダルシア地方などからカタルーニャに95万人が流入している。1970年にはカタルーニャの人口の38%が非カタルーニャ人であり、乱開発、インフラや公共サービスの不足、公害などの生活環境の悪化につながった。 -1372年にティムールはコンギラト部族の国家スーフィー朝が支配するホラズム地方に遠征軍を派遣する。14世紀半ばまで、ホラズム地方の北はジョチ・ウルス、南はチャガタイ・ハン国が支配していたが、それぞれの国が衰退するとコンギラトがホラズムを支配下に収めた。1371年にティムールはチャガタイ家が領有していたホラズム南部の返還を要求して軍を進め、首都ウルゲンチを包囲されたスーフィー朝の君主ユースフはホラズム南部の返還に同意して講和した。1373年、ティムールがモグーリスタン遠征に出発した隙をついてユースフがホラズム南部の奪回を図ると、ティムールはモグーリスタン遠征を中止してホラズムに急行する。同年冬、ティムールの王子ジャハーンギールとスーフィー朝の王女ソユン・ベグの結婚を条件として和平が成立するが、ユースフはなおティムールに服従しなかった。 -ヒヴァ・ハン国の建国者イルバルスは、ウズベク国家のブハラ・ハン国(シャイバーニー朝)の創始者アブル=ハイルと別の家系に属する。イルバルスの一族はアブル=ハイル家と敵対関係にあり、1500年にシャイバーニー朝のハンに即位したムハンマド・シャイバーニー・ハンの遠征事業にもイルバルスの一族は参加しなかった。 -そこで旭川では危機を脱するため、旭川と北見地方を短絡する鉄道路線を建設させるべく「開発期成同盟」が設立された。折しも1916年(大正5年)には湧別軽便線(のちの名寄本線の一部。1989年廃止)が下湧別(のちの湧別)へ延伸したことで、同盟は旭川と名寄経由でつながった遠軽(のちの遠軽村)での参加を呼び掛けた。この遠軽で同盟参加を求められた1人が、同地の農場管理人である市原多賀吉であった。 -ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、『エコー・ド・パリ』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。......何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評をいったが、同調する評論家はいなかった。 -同時期にテヘランでは、親英派のヴォスーグ・オッドウレ内閣が倒され、民族主義的なモシール・オッドウレ政権が誕生していた。ここに至って、テヘラン政府との接触を持とうとするクーチェクと、それに断固反対し社会改革の実施を求める共産党との対立は激化した。7月10日、共産党中央委員会とジャンギャリー左派の合同会議は、政権からクーチェクらジャンギャリー右派を武力をもって排除することを決議した。同月19日、危機を察知したクーチェクは政権を見限り、ラシュトを離れて州西部フーマンの森に拠点を移した。 -河出書房から依頼された長編のタイトルを〈仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての私小説〉(ただし、文壇的私小説でない)に挑み、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した。同月20日には、書き上げまで2年以上を費やした初の長編『盗賊』が真光社から刊行され、12月1日には短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された。1949年(昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた。4月24日には、「仮面の告白」の後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した。紫色の古風な袱紗から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を店の片隅で目撃していた武田泰淳は、その時の三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している。 -1747年イギリス総選挙で再選を果たすと、ウィリアム・キャヴェンディッシュは議会開会直後にアーサー・オンズローの庶民院議長再任を動議した。1751年に王太子ジョージ(後の国王ジョージ3世)の家庭教師への任命を打診されたが辞退した。 -408年、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えてモエシア属州のカストラ・マルティス要塞を攻略した。それから、ウルディンはトラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが、彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた。それから程なく、ウルディンは死去している。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直��、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -”検察官または司法警察員が事件を家庭裁判所に送致する場合において、書類、証拠物その他参考となる資料があるときは、併せて送付しなければならない(少年審判規則8条2項;伝聞法則の適用はない。)。すなわち、家庭裁判所は、事件が送致された当初から、送致官署が収集した資料(一件記録)全てを自ら検討して少年の弁解や保護環境上の問題点を把握し、観護措置の必要性の有無や審理計画を見立てることができる。このように初期段階から資料が充実していることが、少年保護手続における家庭裁判所の能動的・裁量的手続運営(職権主義)を支える重要な基盤ともなっており、刑事訴訟法が当事者主義を基調とし、起訴状一本主義(刑事訴訟法256条6項)を採用していることと対照をなしている。もっとも、一定の軽微事件については、司法警察員及び検察官は、送致書のみを家庭裁判所に送付して事件を送致することが許されており(犯罪捜査規範214条)、これを実務上、簡易送致という。簡易送致事件については、社会調査を経ないで事案軽微による審判不開始の決定がなされる例が多い。送致書には、少年の処遇に関する意見を付けることができる(同規則8条3項)。この意見は、社会調査を経ていない段階のものであるため、公判における求刑とは異なり、家庭裁判所の処遇決定への影響力は大きくない。 -漱石は彼らと、自分の後継者を養成するという意味での師弟関係を結んでいたわけではない。漱石が教員だった時期の教え子もかなりの割合を占めているが、多くは木曜の面会日(所謂「木曜会」)を中心に客としてやって来た青年で、漱石との交流を通じて強い感化を受け、門下を称するに至ったものである。ただ、漱石は木曜会においてもほとんど対等の立場で彼らと議論しており、徳田秋声は自分が師事した尾崎紅葉と比べ「漱石氏の場合は事情が少し違って、厳密な意味の師弟関係とはいへない、各人は相当自由な態度でゐられたやうに思ふ」という。門下生の一人とされる阿部次郎も次のように述べている。「若し門下生とは、先生と正式に師弟の約を結んだ者を意味するならば、自分は先生には門下生なるものが全くなかったと云ひたい。固より先生の周囲には多くの若い人達が集ってゐた。先生と此等の人達との間には、先輩及び後輩として、今日の日本の文壇では他に見られないほどの親しみがあった。併し此等の人達は、先生がその道を伝へるために、特に簡抜された人達ではなかった。(中略)先生は唯その寛容な心を以て、自然にその門に集って来る青年を接見して、之と話をしたり、その相談に預かったり、時としてはその世話をされたりしたに過ぎなかった。所謂先生の門下生となるには、唯先生の風を慕って、木曜日にその家の客となれば足りたのである。先生と所謂門下生との関係は最初はこれほどの意味に過ぎない。(中略)先生はいつも独立を重んぜられる人であったから、所謂門下生に対して自分の意見を強制するやうなことは殆んどないやうに見受けられた。さうして実際先生と所謂門下生との間には、随分激しい意見の扞格があった。」また、阿部次郎が挙げている門下のリストには、白樺派の武者小路実篤や志賀直哉も含まれており、長尾剛も彼らを漱石の弟子として扱っている。彼らは当時の文壇で漱石を最も尊敬していることを自認していて、漱石も彼らに目をかけていた。だが彼らは、文壇に先輩や師を持たないというポリシーを持っており、漱石門下を自称することはな��った。彼らを上記の門下生と区別して、「直接の門下生ではなかった」とする見解もあるが、漱石本人にそのような区分意識があったわけではない。 -オランダによる東インド(現在のインドネシア)の植民地支配の初期において、ジャワ島の北西の沿岸にバタヴィアを建設する際に多くの中国人を熟練の職人として雇用した。中国人は商人、砂糖工場の労働者、小売店の店主としても働いていた。バタヴィア港を利用した東インドと中国の交易は好景気をもたらし、ジャワへ移住する中国人移民は増加した。バタヴィアの華僑人口は急速に増加し、1740年には合計1万人に到達した。その上、数千人もの人々が都市の城壁の外に住んでいた。オランダ人の入植者らは華僑に登録証を携帯するよう要求し、従わないものは中国へと送還した。 -古くからこうした様々な産業を持ち、フォーチュン500に入る企業の本社数がニューヨークに次いで多いヒューストンは、テキサス州のみならず、成長著しいサンベルトの中心都市の1つであり、アメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸地域における経済・産業の中枢である。また、全米最大級の貿易港であるヒューストン港を前面に抱え、ユナイテッド航空のハブ空港であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港を空の玄関口とする、交通の要衝でもある。また、日本を含む世界86ヶ国が領事館を置く世界都市でもある。このようにヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージが強い都市であるが、文化水準の高い都市でもある。ダウンタウンの南側には10以上の博物館・美術館が建ち並び、年間700万人の訪問者を呼び寄せるミュージアム・ディストリクトがある。ミュージアム・ディストリクトに隣接するエリアには、全米の総合大学の中で常にトップ25位以内の高評価を受けている名門私立大学、ライス大学のキャンパスが広がっている。一方、ダウンタウンの中心部に位置するシアター・ディストリクトはヒューストンにおける演技芸術の中心地で、演劇のみならず、オペラ、オーケストラ、バレエなど多彩な演技芸術の公演が行われている。ジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンには1967年にSpaceCity(宇宙の街)という公式な別名がつけられた。地元住民はこのほか、BayouCity(バイユーの街)、MagnoliaCity(マグノリアの街)、H-Townなどと呼ぶこともある。 -第二次世界大戦の戦域を大別する際、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一部を含むものと、東アジア・東南アジアと太平洋・インド洋全域を含むものに分けられる。このうちドイツ、イタリアなどとイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いを欧州戦線、日本などとイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダなどとの戦いを太平洋戦線と大別する。欧州戦線はイギリス、アメリカ、フランス、ブラジルなどが枢軸国と戦った西部戦線および北アフリカ戦線と、ソ連と枢軸国が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。太平洋戦線は太平洋戦争と呼称され(当時の日本側の呼称は「大東亜戦争」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカなどが戦った太平洋戦域(英語版)、オランダの植民地のインドネシアやイギリス領のマレー半島、フランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカなどが戦った南西太平洋戦域(英語版)、ビルマやインド、セイロンやアフリカで日本がイギリス、アメリカなどと戦った東南アジア戦域(英語版)、そして中国大陸で日本が中華民国とアメリカなどと戦った日中戦争に分けられる。しかし、これら以外にオーストラリアや中南米、カリブ海、東アフリカなどでも戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。 -キャバリエ=スミスは触手冠動物の3群のなかで、外肛動物だけは異なる系統的位置にあるが、腕足動物と箒虫動物は単系統になると考えて、この2群を亜門として含む腕動物門を提唱した。ヘルムカンプらの研究は腕動物の単系統性を支持し、さらに紐形動物(ヒモムシ類)がその姉妹群になると主張した。またコーエンは、箒虫動物は腕足動物門のなかに含まれると述べている。一方で、ダンらは腕足動物、箒虫動物、紐形動物の3群が単系統群になるという点では���じ結論に達しているが、腕足動物にもっとも近縁なのは箒虫動物ではなく、紐形動物と推定した。遠藤は、ミトコンドリアゲノム上の遺伝子の順序に基づいて、腕足動物はむしろ環形動物やユムシ動物に近いと推定し、箒虫動物との近縁性に疑問を呈している。 -アシモフは1992年4月6日に没した。死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVに汚染されていたことが原因である。アシモフの死因は、彼の死から10年後に出版されたジャネット夫人の自伝It'sBeenaGoodLife(我が良き生涯)で明らかにされた。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した。 -翌1992年(平成4年)2月、作者の母である坪田揚子は、愛娘が皆の心に生きることを願い、遺作となった『地球の秘密』を自費でコピーし、西野小学校の同級生らと教員らに配布した。折しも別件で読売新聞の記者が学校に取材に来ており、その記者の目に本作がとまった。本作に感銘を受けて朝日新聞の販売店に持ち込んだ保護者もいた。こうして本作は期せずして、読売、朝日の2大新聞で同日の新聞記事に取り上げられ、両親の家や学校宛てに、本作を読みたいとの問合せが殺到した。環境保護について地球という大きな観点で捉えていながら、年少者向けに漫画というわかりやすい形式で述べられた内容は話題を呼び、活動の輪が急速に広まることとなった。 -都市名はローマ属州時代のアウグスタ・ヴィンデリコルム(AugustaVindelicorum)に由来し、紀元前15年にローマ皇帝アウグストゥスによって築かれた城にその起源を持つ。このため、アウクスブルクはドイツで最も古い都市の一つに数えられる。また、15世紀から16世紀に、フッガー家やヴェルザー家によって金融都市として繁栄を極めたことから、「フッガーシュタット」(フッガー都市)としばしば称される。なお、標準ドイツ語では「アウクスブルク」と発音されるが、日本語では「g」を濁音で読み「アウグスブルク」「アウグスブルグ」などと表記される場合もある。2019年、アウクスブルクの水管理システムがUNESCO世界遺産に登録された。 -「後ろの家」の隠れ家の入口は正面の建物から3階に上がり、本棚の後ろに隠れた秘密の入口を通って入ることができた。秘密の入口を通るとすぐ右手に4階への階段があった。階段のすぐ横のドアはオットーとエーディトの部屋であった。その部屋とつながっている右側の細長い部屋がアンネとマルゴーの部屋だった(フリッツ・プフェファー合流後、プフェファーはアンネの部屋で暮らすことになり、マルゴーはオットーたちの部屋に移っている)。アンネたちの部屋と4階への階段の手前から洗面所に入ることができ、そこに洗面台と水道、そして水洗トイレがあった。4階に通じる階段を上ると大きな部屋があり、そこは隠れ家のリビングルーム、またファン・ペルス一家の部屋だった。またその部屋に通じる部屋にファン・ペルス一家の長男ペーター・ファン・ペルスの部屋があり、この部屋から屋根裏部屋へ上がるはしご段があった。屋根裏部屋のつきあたりのアーチ形の窓からは西教会の時計塔が見え、別の窓からは中庭に立つマロニエの巨木を眺めることができた。隠れ家にはオットー・フランク一家(オットー、妻エーディト、長女マルゴー、次女アンネ)、1942年7月13日からヘルマン・ファン・ペルス一家(ヘルマン、妻アウグステ、長男ペーター)、1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも合流して合計8人が隠れ家で同居した。 -この記事では東京駅の歴史(とうきょうえきのれきし)を説明する。東京駅は、東京において各方面別に分かれていたターミナル駅の中間を結んで中央停車場を設置する構想から始まり、1914年(大正3年)12月20日に開業した。その後中央本線の乗り入れや山手線の環状運転の開始などにより利用客は急速に増加していき、昭和初期にはプラットホームなどの増設工事に着手した。しかし第二次世界大戦によりすべては完成せず、戦争末期には空襲を受けて丸の内駅舎を焼失した。大戦後丸の内駅舎の復旧が行われるとともに、中止されていた増設工事が再開された。1964年(昭和39年)10月1日には東海道新幹線が開通し、新幹線のターミ��ルともなった。さらに地下鉄丸ノ内線の乗り入れ、総武・横須賀線の地下ホームの開業、京葉線の乗り入れと地下にもホームの増設が進んだ。1991年(平成3年)6月20日には東北新幹線が開通し、東北・上越方面へのターミナルともなった。2012年(平成24年)10月には、戦災で応急復旧したままであった丸の内駅舎の復原工事が完成している。 -1901年(明治34年)7月14日、日米両海軍の軍艦、そして桂太郎首相ら大勢の来賓を招き、ペリー上陸記念碑の除幕式が盛大に行われた。ペリー上陸記念碑は日米友好のシンボルとしての役割を果たしていたが、1941年(昭和16年)12月8日、日本がアメリカに宣戦して日米は敵国同士となり、やがて戦況が悪化する中で、ペリー上陸記念碑は人々の間に高まってきたアメリカ憎しの感情の格好のターゲットとなった。1944年(昭和19年)には、横須賀市の翼賛壮年団が中心となってペリー上陸記念碑の破壊運動が行われるようになり、1945年(昭和20年)2月8日、ついにペリー上陸記念碑は倒される。 -バイユー・シティの別名が示す通り、ヒューストン市内にはバイユーと呼ばれる小川がいくつも流れている。中でも最大のバッファロー・バイユーは、ヒューストン西郊のケイティに源を発し、ヒューストンのダウンタウンを東西に貫いて流れ、ヒューストン港のヒューストン・シップ・チャネルに注ぐ。ヒューストン・シップ・チャネルは南東へ続き、ガルベストンでメキシコ湾に注ぐ。ヒューストンはケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、実際には亜熱帯と呼ばれる、熱帯と温帯の中間にあたる気候である。春の雷雨は竜巻を伴うこともある。1年を通じて南から南西寄りの風が吹き、メキシコの砂漠地帯からの熱気とメキシコ湾からの湿気をヒューストンとその周辺地域にもたらす。 -単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある『収穫』などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却とバロック的・ロマン主義的な感情表出に向かっている。ファン・ゴッホは、「結局、無意識のうちにモンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である。ファン・ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、補色に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ファン・ゴッホは、既にオランダ時代にシャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していた。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること」を目指したと書いたり、『夜のカフェ』において、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう」と考えたりしている。同じアルル時代の『夜のカフェテラス』では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる。 -プリーストリーにとって科学は神学に不可欠な要素であり、一貫して啓蒙合理主義とキリスト教の融合を心がけていた。哲学的著作では有神論、唯物論、決定論の融合を試み、それを"audaciousandoriginal"(大胆で独創的)と称した。彼は自然界を正しく理解することで人類の進歩が促進され、キリスト教的千年王国が到来すると信じていた。言論の自由を強く信じ、宗教的寛容と非国教徒の平等な権利を主張、イングランドにおけるユニテリアン主義の確立に関与した。物議を醸す著作『誤りと迷信という古い建物を爆破して』を出版しフランス革命支持を表明したことで、政治的疑惑を引き起こした。国教会に扇動された群衆が彼の家と教会に押し寄せ火を放ったため、1791年にはロンドンに逃げ、さらにアメリカ合衆国への移住を余儀なくされた。晩年の10年間はペンシルベニア州ノーサンバーランド郡で過ごした。生涯を通じて学者であり教育者だった。教育学における貢献とし��、英文法に関する重要な著作を出版。歴史についての本では初期の年表を記載し、後世に影響を与えた。こういった教育目的の著作が最も出版部数が多かった。しかし、後々に長く影響を与えたのは哲学的著作である。影響を受けた哲学者としてジェレミ・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサーらがおり、彼らは一般に功利主義者と呼ばれている。 -クウェート暫定政府の樹立宣言に対し、政権を追われサウジアラビアに逃亡したジャービル3世は政権の存続を主張した。サアド首相は抵抗を呼びかけ、クウェート軍による散発的な抵抗が続いた。当初、クウェート国民は統一感に欠け、指導者層に対する反発があったことから、暫定政府に対する本格的な抵抗運動が発生するか疑問視する声もあがったが、不服従運動による抵抗が見られた。 -1871年11月末にバーティは父アルバートの死因となった腸チフスを患い、12月に入ると危篤状態に陥った。これには共和政への移行を論じていた新聞や雑誌も含めて国中が心配した。普段はバーティに厳しい女王もこの時ばかりは2週間にわたってバーティの看病に付きっきりになった。ちょうどアルバートの命日の12月14日にバーティは奇跡的に意識を取り戻し、以降病状は快方に向かった。まるで亡きアルバートがバーティを救ったかのような劇的な展開に国中が歓喜した。首相グラッドストンはこれを王室人気を回復させる好機と見て、女王の許可も得て1872年2月27日にセント・ポール大聖堂で1万2000人を招待した皇太子回復感謝礼拝を挙行した。礼拝を終えて宮殿へ戻る女王とバーティは、沿道に集まった人々から「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という熱狂的な歓声を受けた。これにより王室廃止論はほぼ吹き飛んだ。 -マンネルヘイムはサンクトペテルブルクの社交界に受け入れられたが、経済的な負荷がかかった。1892年、伯爵夫人の仲介でマンネルヘイムはアナスタシア・アラフォヴァ(АнастасияАрапова)と結婚した。アナスタシアはロシア少将ニコライ・アラポフの遺児で、農園を所有した裕福な貴族であり、家計の問題は無くなった。 -トンネル入口から約50メートルの間は八幡神社境内を通り、続いて約300メートルの間を星美学園敷地内を通過して、赤羽台四丁目住宅地区の地下を通り抜けて出口へ至る。沿線には星美学園の教育施設・社会福祉施設に加えて国立王子病院(現在の東京北医療センター)もあって厳しい振動対策が求められた。防振対策として通常より壁厚を大きくし、上面および側面は1.2メートル、床板は1.5メートルとした。トンネル内面の高さは7.3メートル、新幹線トンネルの内面幅は10.8メートル、埼京線トンネルの内面幅は場所により9.35メートルから14.43メートルである。地質は地面の表面から約7メートルが関東ローム層に覆われており、その下は本郷層および東京層という礫混じりの砂層があり、30メートル以上の深さに東京礫層がある。地下水位はトンネル掘削面より下であったため掘削中の出水はほとんどなかった。 -結局、五十首応募の特選を獲得した上に、ふみ子から送られた自作集のノートを高く評価した川端康成が角川書店に強く推薦したことにより、華々しい全国歌壇デビューを飾った。ふみ子の作品はこの当時の主流であった平明な日常詠の短歌からかけ離れたものであったため、既存歌壇から激しい反発と戸惑いを持って迎えられたが、その一方で若手歌人を中心とした熱狂的な支持の声が巻き起こった。そのような毀誉褒貶の最中、ふみ子は1954年8月3日に31歳の生涯を閉じる。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビ���ト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -日本語の語彙を出自から分類すれば、大きく、和語・漢語・外来語、およびそれらが混ざった混種語に分けられる。このように、出自によって分けた言葉の種類を「語種」という。和語は日本古来の大和言葉、漢語は中国渡来の漢字の音を用いた言葉、外来語は中国以外の他言語から取り入れた言葉である。もっとも、和語とされる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」「カミ(紙/簡)」「ヱ(絵/画)」などが元来中国語からの借用語であった可能性があるなど、語種の境界はときに曖昧である。和語は日本語の語彙の中核部分を占める。「これ」「それ」「きょう」「あす」「わたし」「あなた」「行く」「来る」「良い」「悪い」などのいわゆる基礎語彙はほとんど和語である。また、「て」「に」「を」「は」などの助詞や、助動詞の大部分など、文を組み立てるために必要な付属語も和語である。一方、抽象的な概念や、社会の発展に伴って新たに発生した概念を表すためには、漢語や外来語が多く用いられる。和語の名称がすでにある事物を漢語や外来語で言い換えることもある。「めし」を「御飯」「ライス」、「やどや」を「旅館」「ホテル」などと称するのはその例である。このような語種の異なる同義語には、微妙な意味・ニュアンスの差異が生まれ、とりわけ和語には易しい、または卑俗な印象、漢語には公的で重々しい印象、外来語には新しい印象が含まれることが多い。 -1988年、日本、カナダ、アメリカ合衆国、および欧州宇宙機関(ESA)加盟国の政府間で宇宙基地協力協定(IGA)が署名された。1993年にロシア連邦も加わり、1994年に現在の国際宇宙ステーション計画が誕生した。こうした中で、1994年7月の宇宙ステーション計画の了解覚書協議において、アメリカ航空宇宙局(NASA)は宇宙ステーションへの輸送を、国際パートナーがスペースシャトルでの輸送経費を実費負担する方式から、各パートナーごとが輸送能力を提供することを原則とする方式への変更を提案した。これを受け、日本の宇宙開発事業団(NASDA)は1995年に宇宙ステーション補給機の概念設計を開始し、1997年にHTV開発に着手した。1998年2月24日に署名された宇宙基地了解覚書(MOU)においては、日本が国際宇宙ステーションへの補給義務を負うことが国際的に約束された。 -夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。夏目家の系図(夏目氏系譜(武家家伝))によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年(元禄15年)旧暦4月、夏目兵衛直情の時、名主に任じられた。現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった。『夏目漱石人と作品3』11頁によると、遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をして過ごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋高橋長左衛門の妹として結婚したが、表向きは四谷大番町の鍵屋という質屋から嫁いだことにしていた。そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の孫に、芸能プロダクション経営者でVISAカードのCFで漱石役を演じた新田太郎がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の別の孫に朝日新聞社員(『週刊朝日』副編集長、『アサヒカメラ』編集長、『図書』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の角田秀雄がいる。妻-夏目鏡子との間に2男5女をもうけた。次女・恒子は、『其面影』を著している。四女・愛子は、津田青楓の少女像のモデルとなっている。五女・雛子は1歳で亡くなっている。その臍の緒が発見され、東北大学が購入している。 -紀元前522年12月に、メディアでもフラワルティ(フラオルテス)がメディア王クシャスリタを称して反乱を起こした。この反乱はメディアの他、アルメニア(アルミナ)、アッシリア(アスラー)地方まで巻き込む大規模なものとなり、ダレイオス1世はメディアで2回、アルメニアで4回、アッシリアで1回の戦いを行った。メディアで行われた最後の戦いで逃亡したフラワルティを捕らえ、メディアの首都エクバタナで鼻と耳を舌をそぎ落とし最後に杭刺しにして殺害し反乱を鎮圧した。 -激おこぷんぷん丸(げきおこぷんぷんまる、激おこプンプン丸)とは、「激怒している状態」を意味する俗語である。2011年頃より存在していた「怒っている」ことを意味するギャル語「おこ」から派生して誕生した言葉であり、「激おこぷんぷん丸」もギャル語、もしくは女子高生言葉として報じられている。 -富岡製糸場は、明治5年10月4日(1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使���て操業するにとどまった。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた。同年4月に就業していた工女は556人となり、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)も含まれていた。 -Lは日本語語学学校を卒業後、2005年4月には奈良県奈良市内の、コンピューター専門学校に入学したが、後述の三重大学合格を受けて中退した。当時の授業料は年間65万円余りでLはこれを延滞せずに納めていたが、クラスの成績上位者が選ばれる私費留学生向けの奨学金は受けられなかった。コンピューター専門学校では「クラスのまとめ役」と評価されていたが、奨学金を受けられないことに不満を抱いており、担任教師に対して何度も「なぜ奨学金を受けられないんだ」と詰め寄っていた。 -標準的なエレキベースが使用されるが、極端に重低音を強調した音にチューニングされる。レゲエにおいてベースはうねるようなベースラインを繰り返し、転調も少ない。標準的なエレキギターが使われることが多いが、アコースティックギターが使用されることもある。レゲエにおいてギターはカッティング奏法で2拍目・4拍目のオフビートを強調することが多い。カッティング奏法といってもファンクのように空ピックを多用することはなく、所々で空ピックや実音で引っ掛けるフレーズでスイングを演出する。バンドによってはカッティング奏法を担当するリズムギターとブルース風やロック風のメロディやリフの演奏を担当するリードギターの二本を用意することもある。パーカッションとしては、ボンゴ、カウベル、シェイカー、ビンギ・ドラム、ギロ、クラベス等が使用される。1990年代以降ではAKAIMPC等のサンプラーが使用されることもある。レゲエには多彩なボーカルスタイルが存在する。ソロ・シンガー、ボーカル・デュオ、ボーカル・トリオ、ディージェイ、シンガーとディージェイのデュオ、ディージェイ同士のデュオなどである。なお、レゲエ特有の歌唱法としてはディージェイによるトースティング、ディージェイとシンガーの中間的歌唱法であるシングジェイ(en)がある。 -志摩市の南部、志摩半島最南端の先島半島(前島半島)東端に位置する。北は英虞湾に、南は太平洋(熊野灘)に面する。東は深谷水道をはさんで大王町船越、西は志摩町布施田と接する。熊野灘沿岸は、岩礁が発達し、複雑な地形を形成する一方で、大野には砂浜が広がる。海食崖である麦崎には志摩半島最南端の灯台である麦崎灯台が建ち、布施田水道に東から入る船の目標物となっている。片田の中央部は起伏が多いため、限られた平地に家々が密に建ち並ぶ。集落は東側の大野と西側の乙里に分かれ、相互にライバル意識を持つ。大野集落は海抜ゼロメートル地帯であり、長年に渡り暴風雨や高潮の被害を受けてきた。 -1945年、太平洋戦争が終結した。日本が無条件降伏し、アメリカ軍に占領されたことで、日本では多くの人々が失望の顔を見せていた。葉子は、こんな時代こそ皆に明るい光を投げかけ、元気をつけさせるべく、女優としての自分が演劇で活動するべきと考えた。同1945年、葉子らの疎開先である長野県更級郡篠ノ井町で、葉子らにより劇団「信濃芸術座」が結成された。後に舞台監督となる水品春樹も、当時の団員の1人であった。同1945年秋には、信濃芸術座の第1回公演が開催された。敗戦からわずか1か月後であり、まだ演劇を楽しみたいと思うほど心に余裕のある人々は少なかった。葉子は失望せず、「活動を続ければ観劇に来てくれる人は増えるはず」と皆を励ました。その甲斐あり、翌1946年2月2日の第2回公演は大成功を収めた。この公演直前に葉子の母が死去したが、葉子は滅入ることなく、劇団の活動を続けた。葉子は第2回の成功を糧とし、信濃芸術座の長野県の巡業を開始させた。敗戦から立ち直り、芸術や演劇などの美しいものに目を向けようという当時の風潮にあって、信濃芸術座はどこでも拍手喝采を受けた。 -イミダクロプリド(Imidacloprid)は土に撒かれ、花粉や蜂蜜といった植物の組織に吸収される。ミツバチをはじめとする昆虫に見られるイミダクロプリドの効果は、CCDの症状と一致する。例えば、シロアリへのイミダクロプリ��の効果は免疫系に影響を与え、方向感覚を喪失させる。ヨーロッパでの「ミツバチの死亡」現象とイミダクロプリドの関係については議論と研究が蓄積されてきている。 -青森県内での死者の数は八戸市で1名、三沢市で2名の計3名、行方不明者は八戸市の1名であった。いずれも地震に伴い発生した津波によるものである。負傷者は、重傷者18名、軽傷者77名の計95名であった。私立学校関係の被害は、3市町16校(園)に及び、その被害額は約9,000万円であった。このうち、幼稚園が1市7園、約300万円、中学校が1市1校、8万円、高等学校が1市5校、約8,500万円、専修学校が3市町3校、約200万円となっている。県庁舎等関係の被害額は約100万円であった。このうち、県庁舎が約50万円、合同庁舎が約50万円となっている。県庁舎では、南棟、東棟に廊下のひび割れや床の一部破損などが生じたほか、西棟立体駐車場でも車両の入庫ができない程度の破損が生じた。合同庁舎では、むつ合同庁舎に被害がみられ、壁のひび割れなどが主なものである。廃棄物処理施設関係では、八戸地域広域市町村圏事務組合のし尿処理施設2施設の地下ポンプ室が津波により冠水し、その被害額は約11億8,100万円であった。 -1182年9月にジャズィーラ(北イラク)に到着したサラディンは現地の領主に帰順を進める手紙を送り、モースルのザンギー朝の支配下にあった領主は次々にサラディンに降伏した。しかし、モースルを支配するザンギー朝の王族マスウードにアイユーブ朝の主権と対十字軍戦への参加を認めさせることはできなかった。1183年6月にアレッポがアイユーブ朝の支配下に入ったことでシリア内陸部が統一され、1186年にマスウードがアイユーブ朝への臣従を受け入れたことでモースルの併合が達成された。 -土佐のほっぱんとは、高知県南西部の太平洋沿岸に面した地区にかつて存在した風土病である。「ほっぱん」とは当該地域における赤い発疹の方言名だ。1951年にトサツツガムシが媒介するツツガムシ病であると判明した。本項では、同じ病因で発症する香川県の馬宿病についても言及するが、双方を合わせて「四国型ツツガムシ病」とも呼ばれる。 -金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 -戦後、バルフではフサインを支持した住民への報復として略奪が行われ、内城が破壊された。フサインの2人の息子は火刑に処され、ティムールはフサインが抱えていた妻のうち4人を自分の妻として残りの女性を配下の部族長たちに分け与えた。ティムールが娶った妻の一人であるサライ・ムルク・ハーヌムはチャガタイ・ハン・カザンの娘にあたり、チンギス家の娘を娶ったティムールは「ハーンの娘婿」を意味する「キュレゲン」の称号を名乗った。同1370年、ティムールはサマルカンドに移動して首都に定め、城壁、内城、宮殿を建設して外敵に備えた。 -またアルゼンチンの隣国で歴史的にライバル関係にあるブラジルのジルマ・ルセフ大統領は「なんと素晴らしい方が教皇に選ばれて、アルゼンチン国民の皆様は幸せでしょう。でも私たちはかねがねこう申し��います。教皇がアルゼンチン人でも、神様はブラジル人にちがいない」と、ユーモアを交えて祝意を表した。一方で、フォークランド諸島の領有権を巡ってアルゼンチンとフォークランド紛争を抱えるイギリスは、バチカンの元首にアルゼンチン人が就任したことに警戒感を示し、デーヴィッド・キャメロン首相は「教皇聖下には先ごろの行われたフォークランド諸島の帰属に関する住民投票の結果を尊重するように」と釘をさした。これに関してはアルゼンチン政府は、アルゼンチン人教皇の誕生はフォークランド諸島問題に関してアルゼンチンに有利に働くと認識し、クリスティーナ・キルチネル大統領はそれまでのベルゴリオ枢機卿との対立とは打って変わり、すぐにバチカンを訪問し、バチカンの元首、教皇フランシスコとなったベルゴリオに謁見した -TOPとは「ワールドワイドパートナー」(英:TheOlympicProgramme)の事である。元々、オリンピックマークの商業使用権は各国のオリンピック委員会(NOC)が各々で管理をしていたが、サマランチ会長がIOCの一括管理にした事から1988年の冬季カルガリー大会と夏季ソウル大会から始まったプログラムで、オリンピックの中でも全世界的に設けられた最高位のスポンサーである。基本的には4年単位の契約で1業種1社に限定されており、毎回計9〜11社ほどが契約を結んでいる。なお、TOPにパナソニック、ゼネラル・エレクトリック(GE)、サムスンと同業種の企業が名を連ねているが、これはパナソニックが音響・映像機器、サムスンは無線通信機器と細分化されており、またGEはエネルギー関連、インフラ、照明、その他の電気製品などの上記と重ならないカテゴリーのスポンサーとなっているからである。この他にも、各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした「ゴールドスポンサー」(1社数十億円程度)、権利はゴールドスポンサーと同様だがTOPと競合しない事が条件の「オフィシャルサプライヤー/サポーター」(1社数億円程度)、グッズの商品化のみが可能な「オフィシャルライセンシー」がある。 -流線形の前頭部は、側面の乗務員扉付近から前端部にかけて前後方向に滑らかな半円を描き、後退角は前面窓付近で床面に対して約70度とし、腰板下部で縦方向の曲線を描きつつ緩やかに垂直となる形状である。前面に配された3枚の前面窓はいずれも車体曲面に合わせた曲面ガラスを採用して外観の一体性を高めているほか、妻面からの曲面上に位置している乗務員扉の窓についても曲面ガラスを採用する。また、3枚の前面窓のうち両端の2枚の窓上には横格子のルーバー状の通風器開口部を設けている。前照灯は白熱灯式のものを1灯、前面屋根部中央に埋込形のケースを介して設置し、また後部標識灯は前面向かって左下の腰板下部に砲弾型の灯具を1灯、車体より水平方向に突き出した支持腕へ取り付ける形で設置する。 -サルーム・デルタの生態系はマングローブ林の生態系、大西洋沿岸の海洋生態系、乾燥帯の森林などの生態系に大別できる。マングローブ林は約6万haから8万haほどになると見積もられており、それを構成する木々は主にアメリカヒルギ、カズザキヒルギ(Rhizophoraracemosa)、ハリソンヒルギ(Rhizophoraharisonii)、アフリカヒルギダマシ(Avicenniaafricana)などである。モーリタニアのバン・ダルガン国立公園にヒルギダマシの小群生地などはあるものの、サルーム・デルタは西アフリカにおいては最も北でマングローブがまとまって繁茂する地域となっている。しかし、先述の河川の塩分濃度の上昇は、ヒルギダマシよりも相対的に塩分に弱いヒルギ科のマングローブ林の減少につながっている。マングローブ林の減少には、ギニア人の商人の進出でエトマローズの燻製加工業が盛んになり、その薪として伐採されることが増えたことも一因として挙げられる。1980年以降に失われたマングローブ林はかつての面積の3分の1にも及ぶといわれるが、それでも2011年の時点では、セネガル国内では最大のマングローブ林を抱えている地域である。乾燥帯の森林においては、セネガル国内の植生の約20%にあたる植物を見ることができる。 -ヨーロッパにおいては、かつて本種と同種だと見なされていた2種が存在する。Paxillusobscurosporusは本種より大型で、傘の直径は40cmに達し、縁は最初は巻いているが、時間とともに平たくなる。柄は先細りになり、基部をクリーム色の菌糸が覆っている。Paxillusvalidusは広葉樹林や緑地で見られ、直径20cmに達し、柄の太さは上部と下部で変わらない。ヒダハタケを含むヒダハタケ属の種は、根状菌糸束(rhizomorph)に存在する結晶物の長さが0.5μm以下であるのに対し、Paxillusvalidusでは2.5μmに達する。 -ブクステフーデは、大きな旅行をすることもなく、約40年にわたって聖母マリア教会の職務を全うした。旅行の確実な記録は、ハンブルクの聖ニコラウス教会に設置されたアルプ・シュニットガー作のオルガンを鑑定するために、1687年に当地を訪問したことのみである。しかしながら、ブクステフーデは、ヨハン・アダム・ラインケン、ヨハン・タイレ、クリストフ・ベルンハルト、マティアス・ヴェックマン、ヨハン・パッヘルベル等、当時のドイツの主要な音楽家と関係をもっていた。。ヨハネス・フォールハウトの『家庭音楽のひとこま(HauslicheMusikszene)』(1674年)には、ブクステフーデ、ラインケン、タイレと思われる3人の音楽家の交流が描かれている。また、タイレが1673年に出版した『ミサ曲集第1巻』や、パッヘルベルが1699年に出版した『アポロンのヘクサコルド(HexachordumApollinis)』は、ブクステフーデに献呈されたものである。一方、ブクステフーデに師事した音楽家としては、後にフーズム市教会オルガニストとなるニコラウス・ブルーンスが有名である。ブクステフーデが晩年に作曲した2曲のアーベントムジークは、その規模の大きさにおいて際立っている。1705年の神聖ローマ皇帝レオポルト1世の死を悼み、新皇帝ヨーゼフ1世の即位を祝うこれらの作品は今日消失しているが、丁重に印刷されたフォリオ版のリブレットからは、帝国自由都市リューベックの威信を賭けた一大イベントであったことが偲ばれる。ブクステフーデは、これと前後して、後継者捜しに苦心するようになる。1703年8月17日には、ヨハン・マッテゾンとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルをハンブルクから迎えるが、2人は30歳に近いブクステフーデの娘との結婚が後任の条件であることを知ると、興味を失ってハンブルクに帰ってしまう。また、1705年11月にアルンシュタットから訪問したヨハン・ゼバスティアン・バッハも、情熱的なブクステフーデのオルガン演奏に強く魅了され、無断で休暇を延長してリューベックに滞在したが、ついに任地として選ぶことはなかった。結局、ブクステフーデは弟子のヨハン・クリスティアン・シーファーデッカーを後任に推挙し、当局に受け容れられる。1707年5月9日、ブクステフーデは死去し、5月16日に聖母マリア教会で父ヨハネスと早逝した4人の娘の傍らに埋葬される。「まこと気高く、大いなる誉れに満ち、世にあまねく知られた」(ヨハン・カスパル・ウーリヒによる追悼詩)と謳われたオルガニストの最期であった。 -ラムセスが在位した時期は古代ギリシアが暗黒時代に入り政治的に混乱していた時期と重なっており、「海の民」やリビュア人といった外敵の攻撃に晒された。経済的な苦境にも陥り、国内ではストライキも起こった。 -ザンビア代表はアフリカの強豪チームの一つで、1988年のソウルオリンピックではグループリーグでイタリア代表やグアテマラ代表を破りグループリーグ首位で準々決勝進出を果たした。準々決勝では西ドイツに敗れたものの、この大会での活躍はザンビア代表の存在を世界中にアピールしアルジェリアやモロッコやカメルーンに次ぐアフリカの新勢力として認知された。その中でもイタリア戦でのハットトリックを含め6得点を挙げたエースストライカーのカルシャ・ブワルヤは同年にアフリカ年間最優秀選手賞を受賞し、翌1989年にオランダのPSVアイントホーフェンへ移籍した。一方、チルバ政権による経済政策の転換により国営鉱山会社からの資金援助が受けられなくなり、慢性的に資金難の状態にあったザンビアサッカー協会の下では選手の待遇も劣化し、遠征費費用の捻出が困難な場合はザンビア空軍に依頼し老朽化した軍用機を借受けて遠征するほかなかった。1992年から始まった1994FIFAワールド��ップ・アフリカ予選では1次予選H組で1位となり最終予選進出を果たし、1993年4月から始まる最終予選ではモロッコ代表とセネガル代表と同じグループとなった。3チームでホームアンドアウェイ方式のリーグ戦が行われ、1位で勝ち抜いたチームが翌年にアメリカ合衆国で開催されるワールドカップへ出場することになっていた。 -1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた。 -すでに五賢帝の時代からローマ帝国は衰退をはじめており、特に国境防衛力の弱体化は、マルクス・アントニヌス帝の時代に顕著となった。さらにセウェルス朝以降になると、東方ではサーサーン朝の、北方ではゲルマン民族の侵入が繰り返されるようになり、デキウス帝はゴート族との戦いで敗死し、ウァレリアヌス帝はサーサーン朝に破れて捕らえられるなどの危機的状況を迎えたため、軍事力の強化は帝国の第一の課題となった。パルミラ王国とガリア帝国を平定したアウレリアヌス帝は、北方蛮族の脅威に対して、失われて久しかったローマの市壁を復活させた。彼の時代には、ローマ市にそれほど差し迫った危険性はなかったものの、市壁が建設されたという事実そのものが、帝国の現状を象徴する出来事であった。 -夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。夏目家の系図(夏目氏系譜(武家家伝))によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年(元禄15年)旧暦4月、夏目兵衛直情の時、名主に任じられた。現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった。『夏目漱石人と作品3』11頁によると、遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をして過ごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋高橋長左衛門の妹として結婚したが、表向きは四谷大番町の鍵屋という質屋から嫁いだことにしていた。そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の孫に、芸能プロダクション経営者でVISAカードのCFで漱石役を演じた新田太郎がいる。三兄・和三郎(夏目直矩)の別の孫に朝日新聞社員(『週刊朝日』副編集長、『アサヒカメラ』編集長、『図書』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の角田秀雄がいる。妻-夏目鏡子との間に2男5女をもうけた。次女・恒子は、『其面影』を著している。四女・愛子は、津田青楓の少女像のモデルとなっている。五女・雛子は1歳で亡くなっている。その臍の緒が発見され、東北大学が購入している。 -ロレンツォとマドレーヌは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に対抗するフランス王フランソワ1世と教皇レオ10世との同盟の一環として1518年にアンボワーズで結婚していた。同時代の年代記によると、カトリーヌが1519年4月13日水曜日にフィレンツェで生まれた時、両親は「まるで男子が生まれたかのように喜んだ」という。しかし彼らの喜びは長くは続かず、母マドレーヌは4月28日に、父ロレンツォ2世もまた5月4日に相次いで死去してしまう。メディチ家兄脈を正統に継ぐ唯一の人間となったカトリーヌに対し、フランソワ1世は後見人たるを望むが、教皇レオ10世はこれを拒絶した。教皇レオ10世はカトリーヌを弟の庶子であるイッポーリト・デ・メディチと結婚させてフィレンツェの共同統治者に据えることを意図していた。 -1366年の秋にティムールはフサインからカシュカダリヤのカルシを奪還し、さらにブハラを攻撃した。フサインはマー・ワラー・アンナフル奪還を目指してブハラとサマルカンドを制圧、ティムールは一時ホラーサーンに退くが、モグーリスタンとの戦いに備えて二人は講和した。この時にはジャライル部やスルドゥズ部といった有力部族がフサイン側に付いており、ティムールは不利な状況下に置かれていた。講和後にティムールはフサインの政権下で起きた反乱の鎮圧に協力するが、ティムールを警戒するフサインは自身の本拠地であるバルフの改築を決定する。工事に要する多額の費用を捻出するために住民に重税が課されたため、ティムールは工事の中止をフサインに進言するが聞き入れられなかった。また、遊牧生活を営む諸部族もフサインの工事に反対し、ティムールの支持に回った。 -合併後しばらくは、各自治体が使用していた9種類の図書館システムが並立していたが、城北図書館の移転開館を機に、全21館分室の市立図書館すべてを統合するネットワーク化が行われた。これに合わせて浜松市立図書館の全蔵書約200万冊にICタグが貼られたが、43万冊の高岡市立図書館を上回って日本最多のICタグ貼付数であった。なお、国外の大規模図書館とICタグ貼付数を比較しても、アメリカ合衆国のシアトル公共図書館(約220万冊)や中国の深圳図書館(約180万冊)にも見劣りしない規模とされる。城北図書館は開館当初から窓口業務を外部委託していたが、2007年には中央図書館も窓口業務が外部委託された。 -当初、東海テレビは10月6日から9日まで同局主催で行われるゴルフトーナメントの東海クラシックの中継に人員を割くため、10月8日の試合は録画中継で対応する予定であったが、この試合に勝ったチームが優勝という状況となった10月6日の夕方に急遽生中継が決定した。吉村は東海クラシックでは10月8日の3日目と9日の最終日の実況を担当する予定であったが、3日目の実況を後輩の植木圭一と交代して「10.8決戦」の実況に臨んだ。ただ、最終日の実況は当初の予定通り吉村が担当したため、吉村は野球とゴルフの両方の実況準備の為、生中継が決まった6日から2日間ほとんど睡眠がとれず、また8日の午前中も東海クラシックの会場である三好カントリー倶楽部で取材をした後で14時過ぎにナゴヤ球場に入ったという。さらに吉村は「10.8決戦」の実況を終えた後も名古屋市内のホテルで翌日の東海クラシックの実況の準備をしていたが、そのホテルが巨人の名古屋遠征時の定宿のホテルであったため、祝勝会の様子を見に降りていくとそこで落合と遭遇。吉村の部屋の番号を聞いた落合は祝勝会終了後に吉村の部屋を訪れて30分ほど2人で飲んだといい、その去り際に「勝ってよかった。もし、負けていたら俺は巨人を辞めるつもりだった。勝って本当に良かった。明日頑張って。」と言い残したという。この中継に対応するため、フジテレビでは、当初この時間に放送する予定だった『幽☆遊☆白書』#101を10月15日、『平成教育委員会・北野先生も知らぬ(秘)奥の手下克上スペシャル!!』を10月29日の放送とした。 -平松のウツクシマツ自生地の所在地は滋賀県湖南市平松541。交通情報はJR草津線甲西駅下車。車5分、徒歩25分。 -戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、投入��行われた。世界の61か国が参戦し、総計で約1億1,000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦であったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦とケーブル切断を主体に展開されたが、第二次世界大戦では無線通信を用いた機動戦の結果、戦線が拡大した。また、無線は電信と違い敵に傍受されたため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果がもたらされた。使用された兵器も、航空機や戦車などの著しい発達に加え、レーダーやジェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾つまり核兵器という大量殺戮兵器まで登場した。 -地震直後、東北電力管内では、青森県・岩手県・秋田県の全域、山形県・宮城県のほぼ全域、福島県の一部で合わせて440万戸、東京電力管内では茨城県全域などの404万6千戸が停電した。その後、東京電力では3月19日1時までに停電が解消した。東北電力管内では、4月7日16時までに停電世帯は16万戸まで減ったが、7日夜に起きた余震の直後に再び401万戸が停電した。複数の発電所が停止したことによる電力不足を受け、東京電力管内では地域を分けて順に停電させる輪番停電(計画停電)が3月28日まで実施された。夏場には電力需要の高まりからふたたび電力不足が予想されたため、東京電力と東北電力の管内で大口需要家へ15%以上の節電を義務付ける電力使用制限令が発動され、節電努力により計画停電は回避された。しかし事故の影響から、定期検査に入った各地の原子力発電所の再稼働を地元の自治体が認めなくなったため、全国の原発が次々と運転を停止。関西電力、九州電力、北海道電力などでも夏季と冬季を中心に電力不足となって節電が呼びかけられた。 -1954年11月3日、特撮映画製作を熱望していたスタッフが、当時社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作した、第1作“水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が公開される。身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。映画評論家の樋口尚文は、本作の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくというレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる』(1953年)に大きな影響を受けている。観客動員数は961万人を記録した。この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の1955年に公開された第2作『ゴジラの逆襲』では「怪獣同士の対決」が初めて描かれた。この後しばらく東宝はゴジラ以外の怪獣・特撮映画を作っておりゴジラシリーズの新作の企画は無かった。7年後の1962年に公開されたシリーズ第3作『キングコング対ゴジラ』は、当初の企画はアメリカでキングコング(1933)のウィリス・オブライエンがキングコング映画の新作として「キングコング対フランケンシュタイン」として企画していたものである。だが、この企画はアメリカでは資金調達が出来ず、オブライエンも企画から外されたものが回り回って東宝に売り込まれた。それまで東宝にはゴジラ映画の新作の予定はなかったが、東宝側は「キングコングと怪獣を闘わせるなら相手はゴジラしかないだろう」として、これを契約。「キングコング対ゴジラ」となった。これが国内で初めての怪獣対決映画となる。「キングコング対ゴジラ」は、当時の歴代邦画観客動員数第2位の記録となる1255万人を動員した。アメリカなど日本国外でも上映され、大ヒットとなる。以降、日本国外で好調なセールスを買われた昭和ゴジラシリーズは、外貨獲得の手段として1960年代には矢継ぎ早に新作が製作された。 -ミレーは、1840年のサロンに2点の肖像画を提出し、このうち、親友マロルの父親を描いた『ルフラン氏の肖像』が初入選を果たした。これを機に、パリを去ってシェルブールに戻った。1841年11月、洋服仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚した。ミレーは、シェルブールの社交界で肖像画家としての名声を得、次々に肖像画の注文を受けた。1840年から1843年にかけて、50点以上の肖像画を制作し、そのほとんどが油彩である。その中で、シェルブール市議会から、亡くなったばかりの前市長ジャヴァン氏の肖像画の注文を受けたが、ミレーは故人を知らず、若い時の不出来な肖像画しか与えられない状態で制作せざるを得なかった。出来上がりは不評で、市議会が300フランの報酬を100フランに値切ったため、ミレーは落胆し、市議会に肖像画を寄贈してしまった。1842年、妻ポーリーヌとともにパリに移った。1842年、1843年のサロンに応募したが、落選した。しかし、ポーリーヌは、不健康な都会生活や貧しさから結核にかかり、1844年4月21日、亡くなってしまった。この年のサロンには2点が入選したが、妻の死に落胆したミレーは、パリを去った。 -ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期旧石器時代のマドレーヌ文化期(18,000年前-11,000年前)のものである。北西部のアララール山地には金属器時代初期の巨石記念物(ドルメン、メンヒル、ストーンサークル)が見られ、南部からは鉄器時代の集落が発見されている。その後やってきたケルト人はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山麓に達した。紀元前133年のヌマンティアの攻囲戦で古代ローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはグナエウス・ポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現・パンプローナ)を建設した。ポンパエロには神殿、公衆浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり、ブドウ、オリーブ、小麦などのローマ作物の大規模農場が作られた。東部のサングエサやルンビエルなど、アラゴン川やアルガ川河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった。ローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝承によれば、レイレ修道院の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、ロンセスバーリェス修道院の建設は638年とされている。 -神奈川県では震災の影響で停電が相次ぎ、停電による酸素吸入装置の停止で女性1名死亡したほか、横浜市や藤沢市、川崎市にて避難中などに転倒し女性2名、男性1名の死亡が確認されている。また、横須賀市で火災が2件発生し、男女2人が死亡している。計画停電で信号機が停止した厚木市内の県道交差点で、オートバイとワゴン車が衝突するなど、この死亡事故を含め、計画停電で信号機が止まった影響による事故は37件(人身12件、物損25件)となった。一方、建物被害は横浜市内で多発。同市によると、住宅と住宅以外の建築物の被害は少なくとも198棟。建物全壊1棟、半壊7棟、一部破損151棟。新耐震基準が導入された1981年以前のビルが傾いており、全壊とされている。また、同市内では臨海部などの埋立地で液状化による被害も多数報告されている。川崎市では、手抜き工事によりミューザ川崎シンフォニーホール(大ホール)の天井板が大規模に崩落し、ミューザ川崎シンフォニーホールは2年以上の長期間の休館を余儀なくされた。埼玉県久喜市など内陸部においても液状化が発生した。久喜市南栗橋地区で地区約2千戸のうち、11戸が全壊し、大規模半壊は41戸、半壊は54戸、一部破損71戸に上り、道路は21路線で隆起や側溝の破損が起き、水道管や電柱にも影響が及ぶなど被害は甚大となった。群馬県では地震の影響で1人が死亡し、国道354号線の五料橋において4センチメートル(cm)の段差が発生した。 -因州和紙の紙漉きは、1996年(平成8年)に環境庁(現在は環境省)による日本の音風景100選に選ばれた。「因州和紙の紙すき」は、佐治村や青谷町の民家で行われている紙漉きの工程(流し漉き)で、水に溶かしたミツマタの繊維を漉きあげる際の「ちゃっぽん、ちゃっぽん」という音が伝統的な風物詩として評価されたものである。 -テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板した。この時期、『となりのト��ロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる。さらに、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店の徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった。 -宮城県教育委員会は、3月14日から18日までを休校とし、15日に予定していた高等学校一般入学試験の合格者発表を22日以降に延期することを決めた。地震発生直後の2011年3月12日、13日には国公立大学の入学試験後期日程が予定されていたが、12日は被災地にある32校の大学(私立大学含む)で試験が中止されることになった。国立36大学・公立15大学・私立7大学が12日の試験の開始時間繰り下げや、地震の影響を受けた受験生の個別対応を行い、追試の対応をした大学もある。文部科学省は、3月12日における国公立大学後期日程の受験者は6万5667人(昨年から2万604人減少)であり、この減少は地震の影響によるものであるとしている。東北地方で同日に試験が実施された国公立大学は、全12校のうち秋田大学・秋田県立大学のみであった。翌13日においても6校で試験を中止し、5校で繰り下げ実施または個別対応を行った。また、家屋の損壊した状況に応じて入学金や授業料の免除を行う大学や、震災や計画停電の影響を考慮して授業開始を5月以降とする大学も増えている。 -フェルメールの時代のオランダ文学、オランダ絵画では、メイドが男性の欲望をかきたて、家庭の名誉や秘密に悪影響を及ぼすような存在として表現されていた。ただし、ブリュッセル出身の前世代の画家ミヒエル・スウェールツ、フェルメールと同年代人のピーテル・デ・ホーホらのようにメイドを普通の画題として扱った芸術家もわずかではあるが存在した。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』も、メイドを愛情のこもった気品ある存在として扱った希少な作品のひとつといえるが、それでもなお、性愛を象徴する伝統的な寓意が描かれている作品でもある。 -施工中のダムとして石狩川水系では新桂沢、三笠ぽんべつの2ダム、天塩川水系では支流名寄川の二次支流であるサンル川にサンルダム、沙流川では支流の額平川に平取ダムがあるが、国土交通省によるダム事業再検証の対象となりその後事業が再開になった経緯がある。またダム事業に対する地元との摩擦については二風谷ダムにおいて萱野茂と貝沢正が起こしたダム建設差し止め訴訟が知られる。ダム建設差し止め自体は却下されたがアイヌ民族の先住性が裁判で認められ、1997年には差別的法律であった北海道旧土人保護法の廃止とアイヌ文化振興法の制定につながった。 -カジキ(梶木・舵木・旗魚・羽魚・鮙)はスズキ目カジキ亜目Xiphioideiに分類される魚の総称。温暖な海を高速で遊泳する大型肉食魚で、いずれも上顎が剣のように長く鋭く伸びて「吻」(ふん)を形成しており、食用やトローリングによるスポーツフィッシングの対象魚。カジキ亜目はメカジキ科Xiphiidae、マカジキ科Istiophoridaeの2科からなる。分類によってはサバ亜目に含めたり、カジキ上科Xiphioideaとしたりもする。全世界に10-12種が分布し、このうち日本近海にはメカジキ、マカジキ、バシ��ウカジキ、フウライカジキ、シロカジキ、クロカジキの6種が生息する。マグロとは異なる分類群であるが、混同する場合もある。 -トレイン・シェッドはその形状から、三角形の断面を持つ切妻形と、曲線状のアーチ(ヴォールト)形に大別される。それぞれ規模や建設時期によって様々な建設技術が用いられている。また国によって好まれるシェッドの形状も異なった。イギリスではゴシック様式の駅舎に合う切妻屋根が用いられたのに対し、フランスではエコール・デ・ボザール出身の建築家により、鉄という素材に調和するデザインが追求された。ドイツではアーチ構造をより積極的に露出させている。 -ウォルト・ディズニー(WaltDisney,1901年12月5日-1966年12月15日)は、アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴに生まれたアニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナーである。世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキーマウス」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『ディズニーリゾート』の創立者であり、兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。本名はウォルター・イライアス・ディズニー(WalterEliasDisney)である。一族はアイルランドからの移民であり、姓の「ディズニー」(Disney)は元々「d'Isigny」と綴られ、フランスのノルマンディー地方のカルヴァドス県のイシニー=シュル=メールから11世紀にイギリスやアイルランドに渡来したノルマン人の末裔であることに由来し、後に英語風に直され「ディズニー」となった。「イライアス」は父名である。共和党を支持し右派として知られていた。 -ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、タンギー爺さん(パリ時代)、ジヌー夫人、郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌ(ゆりかごを揺らす女)らその家族(アルル時代)、医師ガシェとその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの肖像画を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は大聖堂よりは人間の眼を描きたい」と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。......僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」。 -住宅の敷地の形状や大きさはそれぞれ異なり、街区の奥に進むほど豪華な造りの住宅が見られるようになる。中庭が住宅の中心となっており、建物の配置はロ字型、コ字型、二時型、L字型に分類できる。敷地に余裕がある豪邸ではロ字型が採用されていることが多く、面積が狭まるにつれてコ字型、二時型、L字型とスペースを節約できる構造が採用されるようになる。いずれの構造の住宅でも左右対称性が重視されており、向かい合う部屋の大きさはほぼ同じであることが多い。中庭が小さい割に周りを囲む建物は高く、部屋は奥行きが狭く横幅が広い。中庭の面積と比べて周囲の壁面が高い構造は、古代ローマの住宅(ドムス)と共通している。中庭の周囲の構造は、列柱が並ぶ2階建ての回廊が中庭を囲むギャラリー型が最も多く、他に2階が吹きさらしのテラスになっているテラス型、部屋の壁が直接中庭に面しているウォール型の二種が存在する。シリア、イラン、イラクの住宅と比べて、フェズ旧市街の住宅では中庭が室内空間として積極的に利用されており、中庭の上に簡素な屋根が取り付けられるとその傾向はより顕著になる。中庭を積極的に利用して開放感を高めようとする構造は、人口密度が高いフェズの住民が生み出した生活の知恵とも言える。 -セント・ヘレンズ山は、1980年5月18日に大噴火を起こしたことで広く知られる山頂部分は大規模な山体崩壊によって直径1.5kmにわたる蹄鉄型のカルデラが出現し、山の標高は2,950mから2,550mに減少した。崩壊した土砂は岩屑なだれとなり、200軒の建物と47本の橋を消失させ、57人の命を奪った。鉄道は24km、高速道路は300kmにわたって破壊された。この噴火では事前にハザードマップをうまく活用して立入制限を行い、人的被害を小さなものにとどめることができた例としてよく知られている。カスケード山脈の他の多くの火山と同様に、セント・ヘレンズ山は火山灰や軽石などの噴出物が溶岩とともに円錐状に堆積した山であり、複式円錐火山ないし成層火山と呼ばれる内部構造をしている。またセント・ヘレンズ山には複数のデイサイトの溶岩ドームが崩壊してできた玄武岩と安山岩の層が含まれており、この層には1980年の大噴火で崩壊したゴート・ロックスと呼ばれた山体の北側の斜面にあった溶岩ドームも含まれている。 -レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などである。ただしこの騎馬像は、レオナルドが手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作が開始されなかった。騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのは1492年である。このフランチェスコの騎馬像を大きさの点で凌ぐルネサンス期の彫刻作品は、ドナテッロの『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)と、ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルドが制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬」(GranCavallo)として知られるようになっていった。レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造を具体的に進めようとしたが、レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれている。この騎馬像制作のために17tのブロンズが用意されたが、フランス王シャルル8世のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月にこのブロンズが大砲の製作材料に流用されてしまった。 -第1ノープリウス期は、体は円形で腹背に扁平、無分節で0.102-0.107mm。2対の触角が発達し、その対の間に方形の上唇がある。大顎はごく小さい。後端に1対の長い棘を持つ。これ以降のノープリウス期も2対の触角と大顎には変化がない。構造そのものも体の後端に体節がわずかに見られる程度で、大きさは0.2mm程になる。 -「兵隊王」と呼ばれ軍事的天才と評されることになるスウェーデン王カール12世は1697年に14歳で父カール11世からスウェーデン王位を継承、絶対君主国家としてバルト帝国(スウェーデン王国)を引き継いだ。父は戦争を避けて国政改革に専念し、保護関税制や貴族領地を削減して王領を増加させる土地回収(reduktion)を実施して財政を安定させ、王権と帝国の軍事力を強化させていた。 -マダガスカルの多様性に富む生物相は、人間の活動により危機に瀕している。人類がおよそ2350年前にマダガスカルに初めてわたったときから、そこにもともとあった森林は失われ始め、今ではその90パーセント以上を喪失した。この森林喪失を大きく加速させているのが、マダガスカルに最も早くから住み着いた人々が持ち込んだタヴィ(tavy)と呼ばれる焼畑である。農民たちはこの農法を、利益が出るという理由だけでなく、繁栄、健康、尊ばれてきた先祖伝来の慣習(フンバ・マラガシ、fombamalagasy)と文化的に結びつくために取り入れ、恒常化させている。 -ヴィルヘルムは1797年3月22日にプロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルムと皇太子妃ルイーゼの次男としてベルリンの皇太子宮殿に生まれた。兄であるフリードリヒ・ヴィルヘルムと同様に神学者・教育者フリードリヒ・デルブリュックから教育を受けた。ナポレオン戦争中にはロシア帝国に亡命し、ケーニヒスベルクやメーメル、サンクト・ペテルブルクなどで暮らした。 -日本が戦争へと向かうにつれ、人々は命がいつ��でもつかわからない時代となった。春子は、女であるからには子供を残して死にたいと考え、先述の通り馨の文学に強く魅了されていたことから、馨の子供を産むことを望んだ。やがて春子は、馨との間の子を孕んだ。私生児であり家庭というものを拒絶していた馨は、春子に産んでほしくないと伝えた。春子は結婚を迫る気は無いものの、産む意志に変わりは無く、女1人でも子供を育てる決意であった。父と死別し、母が病気に倒れた後の極貧生活を生き抜いた春子は、苦境を乗り越える自信を持っていたのである。1944年5月より、馨は長編小説『半獣神』の執筆を始めるが、序章を書き終えた翌6月には、執筆中の覚書の中で、「この頃佐々木との関係のために私の精神は破滅にひんし、しきりに自殺を想う」と、春子(佐々木翠)との関係における苦悩を吐露している。馨は、親交のあった椎名麟三から堕胎薬を調達し、春子に飲ませたが、それは偽薬であり、春子は男児の眞之を出産した。春子はその子を抱いて東京の船山家に挨拶に訪れ、出産の報告だけで去るつもりであったが、馨の母に「馨を父無し子にしてしまった。同じ過ちを繰り返させないでほしい」と懇願され、引き留められた。1944年8月18日、春子はささやかに船山家に嫁入りした。こうして春子の、馨の妻として、秘書としての生活が始まった。結婚後は春子は「佐々木翠」の筆名を捨て、生涯その著作が発表されることは無かった。『新創作』も、同年4月に通巻38号をもって終刊した。 -ナカプリバインとは、東京都北区にある有限会社中村印刷所が製作したノートの商品名である。開いたときに中央部分が水平になることから水平開きノートと名付けられている。2016年、「おじいちゃんのノート」として話題になった。 -河川上流や湧水などからの清澄な小川の半日陰となる場所で生育する。一般的には秋から初冬にかけて発生して冬から春にかけて生長し、4月から5月に繁茂して夏には消失するが、発生地や年による差異も大きい。体長は10-40センチメートルのものが多く、まれに90-100センチメートル近くまで成長する。 -福岡市消防局のまとめによると、福岡市内で地震に伴う傷病により救急搬送された人数は地震当日の3月20日に87人、翌3月21日に6人など、4月6日までの18日間で計109人となっている。なお、このうち地震当日に玄界島から6人がヘリコプターで災害拠点病院である九州医療センターまたは済生会福岡総合病院に搬送されているほか、翌日以降の搬送人数には熱傷患者の転院による搬送なども含まれる。受傷要因別の内訳は、転倒による負傷が31人(28%)、鍋等の転倒による熱傷が19人(17%)、落下物による負傷が同じく19人(17%)、建物等の倒壊による負傷が12人(11%)などとなっている。また、年齢別では60代以上が約6割を占めた。唯一の直接死者となった70代女性は、博多区吉塚の自宅付近にて清掃作業を終えて近所の住民と談話中、倒壊したブロック塀の下敷きとなり出血性ショックなどが原因で死亡した。このほか、福岡市で80代女性、筑紫野市で50代男性がそれぞれ飛んできた瓦で頭を打つなどして重体となった。 -軍事力におけるもう一つの極めて重要な構成要素はアルメニア人騎兵の存在であり、彼らはパルティア人のウズルガーンの階級の外から徴兵されていた。しかし、451年におけるアルメニアの反乱(アヴァライルの戦い)とアルメニアの騎兵隊の喪失は、北東部で国境を接するエフタルの侵入を食い止めるサーサーン朝の試みの妨げとなった。 -1947年2月21日に金曜日の午後遅く、駐米英国大使を務めるアーチボルド・クラーク・カー男爵の一等書記官であるM・H・サイチェルが国務省を訪れた。大使から覚書(Aide-Mémoire)を託された書記官は、応対したディーン・アチソン国務次官に対し、ジョージ・マーシャル国務長官との面会を求めた。しかし、当のマーシャルはプリンストン大学創立200年祭で記念講演を行うため、国務省を発ったばかりであった。覚書は緊急の検討を要したが、国務長官宛の正式文書を他の者が受け取ることは出来ないため、応急処置として覚書の写しを国務省近東・アフリカ局長ロイ・ウェズリー・ヘンダーソンに手渡し、正本は後日マーシャルに渡すことにした。 -オレ��ン・ワインは、オレゴン準州が成立した1840年代から生産されていたが、ワイン生産が州の主要産業として興隆を迎えたのは1960年代に入ってからである。1847年に初めてブドウの栽培が始まり、記録上最も古いワイナリーは1850年にジャクソンヴィルで設立した。19世紀の間は、さまざまな品種のブドウが移民によって実験的に栽培された。1904年、オレゴンのワインメーカーがセントルイス万国博覧会で入賞を果たした。その後、禁酒法でワイン生産は一時中断した。他の州と同じく、オレゴンのワイン産業は禁酒法廃止後の30年間、休止期が続いた。 -第2期の初期(『ゴジラ』『ゴジラvsビオランテ』)は高齢化した当時のゴジラファンをターゲットにしていたためストーリーもマニア層向けであった。しかし実際の観客は親子連れが多数を占めていたため、徐々にファミリー向け娯楽映画にシフトしていき、内容もファンタジー要素やSF要素が強くなっていった。また『ゴジラvsビオランテ』が評価を得なかったため、その後は昭和の人気怪獣の再登場路線となる。『ゴジラvsキングギドラ』以降は動員数も大幅に向上し、スタジオジブリ作品などと並び、毎年の邦画興行ランクの1・2位を争うドル箱シリーズとして定着していった。その後、ハリウッド版『GODZILLA』の製作決定をキッカケとしシリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』で、いったんシリーズの終了が決定した。『〜デストロイア』劇中ではゴジラの「死」を描き、ゴジラの物語は一区切りとなった。 -1188年春にブルガリア軍はタルノヴォに進軍するビザンツ軍をロヴェチで食い止め、3か月にわたる包囲を凌いだ。包囲が解除された後にブルガリアとビザンツの間に和平が締結され、この和約でブルガリアの独立が事実上承認された。和平の際、人質としてペタルとアセンの弟カロヤン・ヨアニッツァがコンスタンティノープルに送られた。 -ウィリアム・キャヴェンディッシュは、1729年から1755年までハーティントン侯爵の儀礼称号を使用した。家庭教師のアーサー・スミス(後のダブリン大主教)から教育を受けた後、1739年から1740年にかけてスミスとともにグランドツアーに出てフランスとイタリアを旅した。 -1971年(昭和46年)に当初の工事実施計画が認可された時点では、上越新幹線の完成は1976年度(昭和51年度)と設定されていた。約5年の工期は、東海道新幹線や山陽新幹線の実績を考えれば、それほど無謀な設定ではなかった。しかし建設中の1973年(昭和48年)には第一次オイルショックに見舞われ、建設予算の削減や新規発注の凍結が行われ、工事の遅れに直結した。中山トンネルでは、当初完成予定のはずの1976年度の時点で四方木や高山の立坑がようやく完成して本坑の工事に入る段階で、工事が大幅に遅れていることは明らかであった。こうしたことから、1977年(昭和52年)3月24日の工事実施計画変更申請、同3月30日認可により、完成予定は1980年度(昭和55年度)へと延期となった。しかし出水事故などに見舞われて工期はさらに遅延することになり、1980年(昭和55年)12月24日には1982年(昭和57年)春に東北・上越新幹線を同時開業させる方針が発表された。ところが中山トンネルで2回目の出水事故が発生して、最終的に東北新幹線との同時開業の断念に追い込まれた。結局上越新幹線は1982年(昭和57年)11月15日の開業と決定し、これに間に合わせるべく突貫工事を続け、中山トンネルを同年3月に完成させた。 -イングランド王ジェームズ1世(在位1567年-1625年)の治世最初期の、白い被毛を持つスコットランドの犬に関する記録が残っている。フランス王への贈り物とするために、ジェームズ1世が12頭のテリアをアーガイルで産ませるように命じた記録である。当時はサンド(砂色)とブリンドル(虎毛)の被毛の犬が丈夫で、白い被毛の犬は虚弱だと考えられていた。ウェスティの作出には、スコティッシュ・テリアやケアーン・テリアの白い被毛の犬が大きな役割を果たしたと考えられている。 -コレステロールは工業製品原料として化粧品・医薬品・液晶などに利用される。これらは全て天然物から精製し原料に供される。コレステロールを多く含む高等動物の組織、あるいはイカの内臓からも抽出され、工業原料として利用される。コレ��テロールを多く含む天然物から抽出すると、ヒドロキシ基(OH基)の部分に脂肪酸が結合したエステル体であるアシルコレステロール、さらに他のステロイド(コレスタノールや7-デヒドロコレステロール)のアシル体などが含まれる粗精製物が得られる。この混合物から純粋なコレステロールを取り出すには、脂肪酸を鹸化して取り除いたあと、鹸化されない分画を抽出し、アセトンあるいはアルコールを用いて再結晶する。二重結合を持たないコレスタノールや7-デヒドロコレステロールなどを取り除くために、臭素付加してコレステロールの二臭素体とすることがある。二臭素体は難溶性を示すので再結晶などで容易に精製することが可能であり、そのあと二臭化物を脱臭素化してコレステロールに戻すことにより、純粋なコレステロールを得る。 -アメリカ合衆国は経済援助を行うなどニカラグアの新政権に対して当初友好的であったが、新政権は西側諸国との関係を築いていく一方でキューバをはじめとする共産圏との関係も緊密にしていった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1945年(昭和20年)2月20日に紀元二千六百年記念富山県立図書館長に就任した大田栄太郎は、東京における経験を活かして蔵書疎開の急務なることを説いた。この大田栄太郎館長の意向によって疎開作業は速やかに開始され、同年3月27日には早月加積の海恵寺に蔵書約3000冊を送達、以降7月30日まで9度に渡って県内各所に蔵書の疎開を進めた。1945年8月2日、アメリカ軍第73爆撃団B-29計182機の編隊は、富山市市街地を猛爆して13.79平方キロメートル(4172700坪)を焼き尽くした(富山大空襲)。富山市は一望の焼け野原と化し、紀元二千六百年記念富山県立図書館館舎もまた全焼するに至った。それにもかかわらず、約6万5000冊の蔵書は疎開されていて無事であり、焼失した蔵書の多くは官報や県報、特許公報の類であった。1945年(昭和20年)8月12日からは富山県文教課内に図書館本部を設け、疎開せる図書を貸出文庫として閲覧に供することとなった。 -鳴沢律佳はピアノを演奏するのが得意な少女である。両親共に高名な音楽家であり、妹のめぐるも既にプロのピアニストとして活躍している。律佳はそんな妹に対し引け目を感じている。涼介と律佳の交流は、汐凪第一学園に転入した涼介が律佳の隣の席になったことから始まる。涼介は律佳が気になり出し、彼女をキャンプに誘ったり、行事運営委員会への参加を促したりする。行事運営委員となった律佳は、七夕祭りにてコンサートの手配を担当することになる。他の行事運営委員���頼まれて、律佳は妹・めぐるを七夕祭りに呼ぶことにする。さらに律佳はめぐるとの二重奏を頼まれるも、自分のピアノに自信がないために断る。その後、涼介は律佳をデートに誘い、何度かデートを繰り返した後に二人は付き合い始める。律佳は涼介との交流を機に少しずつ変化していく。人前でピアノを弾くのが苦手だった律佳は徐々にそれを克服する。また、涼介の計らいにより自分のピアノの価値を知った律佳は、考えを改めてめぐると一緒に七夕祭りでピアノの演奏をすることを決める。七夕祭りの直前、ある学生バンドがコンサートで演奏したいと申し出る。行事運営委員会は既にプログラムを決めた後だったためその申し出を断る。七夕祭り当日、律佳は先述のバンドは今年卒業の学生のみで構成されており、七夕祭りが最後の演奏機会だったことを知る。律佳はめぐるや行事運営委員会の了承を得て、学生バンドに自分とめぐるの出場権を譲る。その後、コンサートは予定通りの時間で終了するが、涼介達は律佳とめぐるの演奏を実現させるために奔走する。教師や近隣住民との交渉の結果、涼介達はコンサート時間を延長する同意を得る。律佳とめぐるは念願叶ってピアノの連弾を行う。後日、律佳が再びプロのピアニストを目指すことを涼介に告げる場面でスクール編は幕を閉じる。 -スミスは、同感を通じて人々が自身の感情や行為が評価されていることを意識し、是認されることを望み否認されることを嫌っていると考えた。しかし、現実社会にはしばしば他人の間にも利害対立があるから、人々が自身の感情や行為の適切性を測るためには利害対立から独立した中立的な基準が必要である。スミスはこの基準を公平な観察者(英:impartialspectator)と呼び、人々が具体的な誰かの視線ではなく胸中の公平な観察者の視線を意識しながら行動していると考えた。ただし、偶然(英:fortune)の下では、公平な観察者の評価と世間の評価とが異なる場合がある。スミスはこのような不規則性(英:irregularity)が社会的に重要な意味があると考え、偶然の下で公平な観察者の評価を重視する行為者を賢人(英:wiseman)、世間の評価を重視する行為者を弱い人(英:wealman)と呼んだ。人間は自己統制(英:self-command)によって胸中の公平な観察者の声に従おうとするが、激しい情念の下では自己欺瞞によって公平な観察者の声を無視しようとする矛盾した存在である。『道徳感情論』は自愛心を主張するものとしてグラスゴー大学におけるスミスの後任者トマス・リードなどによって非難され、かつてはスミスの主著として読まれることも少なかった。 -ペレ(Pelé)こと、エドソン・アランテス・ド・ナシメント(EdsonArantesdoNascimento、1940年10月23日-)は、ブラジルの元サッカー選手である。アフリカ系ブラジル人。サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝した。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した。その実績から「サッカーの王様」(英語:TheKingoffootball、ポルトガル語:OReidoFutebol)、あるいは「20世紀最高のサッカー選手」と評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と見做されている選手である。 -計10本の車線が交差し5本の横断歩道が引かれたこの交差点は、宮益坂から道玄坂に至る東西の通りと、渋谷駅西口駅前から渋谷公園通りに至る南北の通りが交わる位置にあり、さらに北西方向に渋谷センター街が伸びた五叉路となっている。北西側が渋谷区宇田川町、北東側が神南一丁目、南側が道玄坂二丁目となる。歩行者にとってここは、渋谷駅ハチ公改札を出てすぐのハチ公前広場と、道玄坂、センター街、公園通りなど各方面の繁華スポットを連絡する交通の要所であり、渋谷で最も混み合う地点になっている。唯一斜め方向の横断歩道がある南東角(ハチ公前広場)から北西角(QFRONT前)までの距離は約36メートルあり、世界有数の巨大交差点である。 -ユレモ属Oscillatoriaは、イデユアイミドリと同様に世界中の温泉に見られる藍藻。リングビアに似た糸状群体を形成する。温泉藻としてO.geminata、O.jovis、O.lemmermannii、O.subbrevis、O.tenuisなど。フォルミディウム属Phormidiumはフォ���ミジウム属とも。前述のユレモに似るが、これとは異なり細胞外マトリックスとして寒天質の鞘を持つ。P.fragile、P.subuliforme、P.tenueなど。P.fragileは地熱の影響を受けた土壌にも生息する。 -隕石は主にチェリャビンスク州から、スヴェルドロフスク州、オレンブルク州の上空で目撃されている。また、ウラル中南部と国境を接するカザフスタン北部でも目撃されている。目撃例から、隕石はカザフスタン側からロシアへと侵入していったと見られている。カザフスタン側のロシアとの国境付近で約70km、隕石が分裂する直前の高度で約30kmであったと見られている。 -人間の塔(カステイス)はカタルーニャの象徴の一つとされる組体操であり、結束・団結・努力などカタルーニャ人の民俗的特質を表しているとされる。大きなものでは約150人が参加し、3階建てのビルに相当する約10mの塔を組む。人間の塔は18世紀末にタラゴナ地方のバイスで生まれたとされており、20世紀前半には消滅しかけたものの、1960年代以降にカタルーニャ文化が見直されるようになるとカタルーニャ地方全土に広がった。1990年代にブームが起こり、2010年時点では56のチーム、8,000人が活動しているとされる。2010年には「人間の塔」が、「ベルガのパトゥム」に次いでカタルーニャ地方で2番目の無形文化遺産となった。 -1685年、オーストリアが大トルコ戦争で戦っている中、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルムにシュレージエンへの領土主張を取り下げさせ、大トルコ戦争でオーストリアに軍事援助を与える代償として、シュレージエンの飛地であるシュヴィーブスをブランデンブルクに割譲した。しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子フリードリヒ3世(後のプロイセン王フリードリヒ1世。1688年に選帝侯に即位)が父の後を継いで選帝侯になると、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルム一代限りでシュヴィーブスを割譲したとして、シュヴィーブスの支配権を取り戻した。フリードリヒ3世は負債の一部をレオポルト1世に肩代わりさせることで、この再占領を秘密裏に承認したが、後に合意を反故にし、クルノフ公国と元シロンスク・ピャスト家領への請求を再開した。 -現在のオウム科を、最初にインコ科Psittacidaeの亜科(Cacatuinae)として分類したのは、1840年に英国の自然学者ジョージ・ロバート・グレイである。このとき、Cacatua属は初めて属として記載された。このグループはさまざまな専門家たちによって代わる代わる、科と考えられたり亜科であると考えられてきた。アメリカの鳥類学者ジェイムズ・リー・ピーターズは1937年の著書Check-listofBirdsoftheWorldにおいて、また1990年には、オウム目の専門家であるジョセフ・フォーショウが1973年にこれらをオウム科として分類していたにも関わらず、シブリーとモンローもまたオウム亜科としての位置づけを維持した。その後の分子分岐学の研究によって、オリジナルのインコの祖先からの最も初期の分岐がニュージーランドのインコであるミヤマオウム科であり、これに続いて現在では明確にグループないし単系統群に分類されているオウム科が分岐し、これ以外のインコが南半球への適応放散によりパラキートやコンゴウインコ、ヒインコ、ボタンインコ、そしてその他のインコといったさまざまなインコ科の種へと多様化していったことが示されている。 -Wayneら(1993年)は、イヌ科動物を、ミトコンドリアDNA(mtDNA:ミトコンドリアタンパク質をコードするDNA)の2,001bp塩基対の配列によって比較した。その結果、イヌはオオカミと最も近縁であり、コヨーテやジャッカルとは少し離れていた。Vilàら(1997年)は、世界の27か所から集めたオオカミ162頭と、67品種(犬種)140頭のイヌを用いて、同じくミトコンドリアDNAのうち、region1と呼ばれる、変異の大きな領域の塩基配列を比較した。その結果、イヌとオオカミの配列に大きな違いはなかった。VilàらやTsudaら(1997年)による、ミトコンドリアDNAの塩基配列の分析からは、イヌとオオカミははっきり分けられるものではなく、系統樹を描くと、さまざまなオオカミの亜種やイヌの犬種が入り交じって出現する。VilàらやTsudaらの分子系統学的研究と、イヌとオオカミがお互いの子を作ることが可能であり、両者の間にできた子供も生殖可能である事実を考え併せると、イヌとオオカミは近縁種であると考えられる。 -リュウグウノツカイはそのインパクトの強い外見から、西洋諸国におけるシーサーペント(海の大蛇)など、世界各地の巨大生物伝説のもとになったと考えられている。その存在は古くから知られており、ヨーロッパでは「ニシンの王」と呼ばれ、漁の成否を占う前兆と位置付けられていた。属名のRegalecusもこの伝承に由来し、ラテン語の「regalis(王家の)」と「alex(ニシン)」を合わせたものとなっている。中国と台湾では「鶏冠刀魚」や「皇帯魚」と呼ばれる。 -また、ゴッホはパリ時代に数百枚に上る浮世絵を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味(ジャポネズリー)はマネ、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には日本の開国に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある。ファン・ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていた。このように、制度や組織に縛られないユートピアへの憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、ナザレ派、ラファエル前派、バルビゾン派、ポン=タヴァン派、ナビ派と続く19世紀のプリミティヴィスムの系譜に属するものといえる。一方、造形的な面においては、ファン・ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」などに独特の遠近法を応用している。1888年9月の『夜のカフェ』では、全ての線が消失点に向かって収束していたのに対し、10月の『アルルの寝室』では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられるなど、立体感が排除され、奥行きが減退している。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらのクロワゾニスムとも軌を一にしている。 -1916年11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながらこう語ったとされる。「私は、多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった......」。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝「カール1世」と呼ばれることとなった。新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた。ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた燕尾服の着用を不要とするなどした。侍従武官アルべルト・フォン・マルグッティはカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている。 -彗星は、太陽を焦点の一つとする楕円、放物線あるいは双曲線の軌道をとり、軌道によって分類される。離心率が1より小さい楕円軌道を持つ彗星は、太陽を周期的に周回するもので、周期彗星と呼ばれる。周期彗星が太陽の近くへ戻ってくることを、「回帰」という。離心率が1である放物線軌道、あるいは離心率が1より大きい双曲線軌道を持つ彗星は、二度と戻って来ないと考えられ、非周期彗星と呼ばれる。ただ、惑星や近傍恒星の重力や、非重力効果により、実際の彗星の軌道は不安定である。特に、周期数百年以上の彗星の楕円軌道は、わずかな軌道の変化で周期が大きく変わるので、周期どおりに戻ってくるとは限らない。また、後述する通り、起源や��性からも、周期の長い周期彗星は非周期彗星に近い。このような理由により、彗星を、周期彗星と非周期彗星ではなく、公転周期200年未満の短周期彗星と、200年以上の長周期彗星に分けることが多い。その場合、「周期彗星」という言葉は、短周期彗星と長周期彗星の両方を指す場合もあるが、特に短周期彗星のみを指して用いられる場合もある。周期彗星、長周期彗星、非周期彗星の3つに分けることもある。21世紀初頭では別の種類として、小惑星帯上にありながら彗星として活動する彗星が発見されており、メインベルト彗星と呼ばれている。これは小惑星と彗星の分類に見直しを迫ることになるかもしれない。他にも、特徴的な軌道を持つ彗星として、近日点が太陽に極めて近いサングレーザーがある(後述)。 -ビゴーの取材対象は政治に限らず、1888年の磐梯山噴火や1891年の濃尾地震、1896年の三陸大津波といった災害にも、上記の外国紙通信員として取材をおこなっている。磐梯山取材の際には写真の力を痛感し、自らも写真の技術を身につけた。濃尾地震では撮影した写真をもとに報道画を描いている。これらの報道画はビゴーが本来の画業で培った写実的なものである。この間、ビゴーはフランスのサロンに油彩画を出品し続けた。しかし、若い頃に写実主義の影響を強く受けたまま祖国を離れたビゴーの画風は、印象派などの新しい流派が主流となったフランスでは時代遅れとなっており、度重なる出品にもかかわらず滞日当時は入選することはなかった。 -ふみ子と夫、中城博との結婚生活は札幌市にあった鉄道省工事事務所官舎で始まった。戦時体制下、従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしていたふみ子は結婚はしたものの、まもなく深い絶望感に囚われるようになる。東京家政学院時代の親友に「私たちの結婚は不幸から出発してゐるのです」と、手紙に書いている。「私は理想主義ですし、夫は現実的でありすぎ」とも書いている。夫に離婚を切り出すものの承知してくれない。ふみ子は九州の東京家政学院時代の親友宅に逃げ出そうと計画するが、体調を崩してしまう。体調不良の原因は妊娠であった。妊娠後も心の葛藤は続いたが、結局、離婚や夜逃げは断念することとなった。1943年1月、夫、中城博は室蘭に転勤となり、5月8日には長男、孝が生まれる。翌1944年2月、夫、博は今度は函館五稜郭出張所に転勤となり、4月には五稜郭出張所所長に就任した。この頃発行された帯広高等女学校の同窓生便りにふみ子も短文を寄稿しているが、その中で「家庭に入って歌も随分作りましたけど、発表禁止でございます」と書いている。ふみ子は夫から短歌の発表を止められていたと考えられる。五稜郭出張所所長に就任するなど、夫、中城博は出世コースを歩んでおり、この頃は夫婦関係も一応安定していたと考えられる。戦時中のふみ子は国防婦人会の班長を務め、班の事務をそつなくこなし、勤労奉仕にも積極的に参加していたという。しかしまもなく夫婦関係に修復し難い亀裂が入っていくことになる。 -4億ドルという額についてトルーマンは、アメリカが大戦中に支出した戦費(3410億ドル)の0.1%強に過ぎないと語り、負担に充分耐え得ることを強調した。そして、自由世界を全体主義体制から守る責務を全うできる国家は今やアメリカをおいて他にないとして、上記の提案に賛同することを議会に求めたのである。この演説は名指しこそ避けたものの、ソ連の影響力が地中海沿岸地域にまで及ぶことを警戒する内容となっていた。ギリシャ・トルコ危機という地域問題は、この演説によって世界規模の問題として捉えられ、その背後にはアメリカとソ連の対立という図式が潜んでいるとする認識が同時に示されたのである。この演説は広汎な支持の獲得に成功したという。しかし国務省からは演説内容に対する驚きの声が上がった。反共的な主張の並んだ草稿に驚いたマーシャルは、事態を過大に言い過ぎているとの電報をトルーマンに宛てて送信した。また、ケナンは草稿を読んで「これはまずいな」と懸念した。ケナンはギリシャへの経済・技術援助には賛同しつつも、軍事援助には消極的であった。また、局地的問題を普遍化するかのような言��にも反対した。 -1981年にコマネチはアメリカに遠征した。同行したカロリーコーチ夫妻、振付師はこのとき亡命してしまった。帰国後、コマネチの行動は厳しく監視されるようになり、1984年ロサンゼルスオリンピックに派遣された時も同様であった。その後モスクワやキューバに行く場合などのほんのわずかなケースを除き出国が許可されることはなかった。なお、1984年のロサンゼルスオリンピック直前にはコマネチのドキュメンタリードラマNadiaが放映された。コマネチは1984年から1989年までルーマニア体操協会のコーチとしてジュニア選手の育成にあたったが、ルーマニア革命直前の1989年11月、ハンガリー、オーストリア経由でアメリカに亡命した。チャウシェスク大統領の独裁政権下で、同大統領の次男でもあるニク・チャウシェスクが一方的に愛人関係を持とうとするのを拒むこともできず、そのことに堪えきれなくなったためという報道もなされた。アメリカに到着した際には厚化粧とけばけばしい服装で登場した事、二人きりで一緒に住んでいた亡命を手助けをした男性との関係をメディアに問われて舌を出し「秘密」と答え、男性が4人の子供がいる妻帯者である事に「だから何よ?」と答えた事に対してネガティブな報道もされた。 -陸戦隊員763名と物件54トンを載せた輸送隊3隻(萩風〔第4駆逐隊司令杉浦大佐〕、嵐、時雨〔第27駆逐隊司令原為一大佐〕)は、7月31日朝にラバウルを出撃した。ブインに到着後、陸戦隊と物件を降ろし、代わりに陸海軍人員902名と物件73トンを搭載する。 -ニコラエフスクにおける日本企業進出の中心は、1896年に島田元太郎が設立した島田商会であり、市内随一の商社となっていた。ロシア革命による経済混乱期には自らの肖像入り商品券を流通させるほどの信用が築かれていた。 -バーティは1852年に初の外国訪問として大叔父レオポルド1世が国王として統治するベルギーを訪問した。ついで1855年8月には両親とともにフランス帝国帝都パリを訪問した。フランス皇帝ナポレオン3世は当時皇子がなかったのでバーティを我が子のように可愛がってくれ、バーティはナポレオン3世と馬車に同乗した際に「貴方の息子に生まれたかった」と呟いたという。1857年から2、3年間、父アルバート王配の方針でロンドン南西リッチモンド・パーク内ホワイト・ロッジで過ごした。バーティは1859年1月から陸軍大佐ロバート・ブルースを補導役にしてイタリア半島教皇領ローマに留学した。フレデリック・レイトンはじめ多くの画家たちの知遇を得、またローマ教皇ピウス9世とも会見した。しかし4月にはイタリア統一戦争が勃発し、フランス軍がローマへ進駐してきたため、父アルバートから帰国を命じられた。これにより予定より2、3カ月早い5月初めに帰国した。 -ベリリウム原子の電子配置は[He]2s2である。ベリリウムはその原子半径の小ささに対してイオン化エネルギーが大きいため電荷を完全に分離することは難しく、そのためベリリウムの化合物は共有結合性を有している。第2周期元素は原子量が大きくなるにしたがってイオン化エネルギーも増大する法則が見られるが、ベリリウムはその法則から外れており、より原子量の大きなホウ素よりもイオン化エネルギーが大きい。これは、ベリリウムの最外殻電子が2s軌道上にあり、ホウ素の最外殻電子は2p軌道上にあることに起因している。2p軌道の電子は内殻に存在するs軌道の電子によって遮蔽効果(有効核電荷も参照)を受けるため、2p軌道に存在する最外殻電子のイオン化エネルギーが低下する。一方で2s軌道の電子は遮蔽効果を受けないため、相対的に2p軌道の電子よりもイオン化エネルギーが大きくなり、これによってベリリウムとホウ素の間でイオン化エネルギーの大きさの逆転が生じる。 -1915年10月27日に木曽川3地点における使用水量増加を申請したのに続いて、名古屋電灯は計画の見直しを進めて1916年6月30日に引用地点の変更を申請した。この結果、木曽川の水利権は以下の4地点となった。それは、大桑第一水力の福島町字和合-大桑村字宮森間、大桑第二水力の大桑村字和村-大桑村字野尻向間、読書水力の大桑村字阿寺-読書村字沼田間、賤母水力の吾妻村(現・南木曽町大字吾妻)字茅ヶ沢-山口村(現・岐阜県中津川市山口)字麻生間である。このうち最下流の賤母水力の水利権は、流材問題が解決する目処がついたため、森林鉄道敷設の条件付きで1917年3月3日付で許可された。そして同年8月、名古屋電灯は賤母発電所(しずも)の建設に着手する。 -木星の赤道傾斜角は、3.08°-3.12°と水星に次いで小さく、自転軸がほぼ垂直である。このため、地球などに見られるような、気象現象の季節変化はあまりないと推測されている。ところが、木星表面の温度は極部分と赤道部分でほとんど差がない。さらに木星の表面温度はマイナス140°C程度だが、これは太陽からの輻射熱だけで計算されるマイナス186°Cよりも高い。このようなことから、木星は内部から熱を発していると考えられる。太陽から受ける熱量の2倍に相当する熱量の熱源は、水素より重いヘリウムが中心に沈む際に生じる重力エネルギーではないかと考えられている。 -1950年(昭和25年)11月15日に浜松市立図書館の落成式が行われ、11月20日に開館した。敷地面積は5,493m2であり、延床面積は1,457m2である。総工費は900万円だった。新聞は「東海一の図書館」などと報じ、雑誌『新建築』は単なる図書館ではなく文化センターとして建設されたことを称賛している。戦後に開館した図書館としては、全国的にみてもっとも早い時期の開館だった。児童書はすべて開架であり、一般書は部分開架となる予定だったが、整理が間に合わなかったため書庫が開放された。 -グリシンベタインを生産するようになった形質転換植物は、低温ストレス、高温ストレス、乾燥ストレス、凍結ストレス、塩ストレスなど様々なストレスに抵抗性を示すようになる。合成されたグリシンベタインのモル濃度だけでは、そのストレス抵抗性を説明できない。そこで、グリシンベタインの細胞内局在による局所的高濃度、膜やタンパク質に対する保護作用、コリン酸化酵素の反応に伴い生じる過酸化水素による活性酸素消去系酵素の常時誘導、などストレス耐性機構を説明する様々な説がある。 -地質構造に見られる大きな差異が、2つの諸島の経済構造を相異なるものに帰着させている。シェトランド諸島における主な収入源は、農業に養殖業、漁業、再生可能エネルギー、石油産業(周辺海域における原油および天然ガス生産)、創造産業、観光業である。石油とガスがサロム・ヴォーで最初に陸揚げされたのは1978年で、その後ヨーロッパでも最大級の石油基地となった。石油産業からの税収入により、社会福祉、芸術・スポーツ振興、環境保全、金融対策におけるシェトランド諸島の公共部門支出が増加した。諸島における労働力の3/4が第3次産業に従事しており、2003年には自治体であるシェトランド諸島カウンシル単体で、産出高の27.9パーセントをたたき出している。現在でも漁業は諸島経済の中心を維持しており、2009年の漁獲高は75,767トンに及び、売上は7320万ポンドを超えている。 -ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、『エコー・ド・パリ』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。......何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評をいったが、同調する評論家はいなかった。 -七王国時代は、イングランドにキリスト教が復興した時代でもあった。��ーマ帝国の衰退によって、ブリテン諸島はいったんはキリスト教の圏外となった。流入してきたアングロサクソン諸部族は当初ゲルマン神話に基づく信仰を有しており、キリスト教世界からみればイングランドは蛮族の地となっていた。スタフォードシャーのウェンズベリ(Wednesbury)は主神ウォウドゥン(Woden)(北欧神話のオーディン(Odin)に相当)の名に因むほか、英語の曜日名にもゲルマン神話の残滓が見られる。諸々の王国は次第にキリスト教に改宗していったが、マーシア王国は比較的遅くまでキリスト教に改宗しなかった。 -「ソー・ソー・デフ・リミックス」用にもミュージック・ビデオが作られたが、これにはキャリーやこの曲を演奏するヒップホップミュージシャンは実写で登場しない。代わりにアニメを用い、キャリーが1999年に発表した『ハートブレイカー』のビデオから1シーンが使われている。また、キャリーやジャーメイン・デュプリ、バウ・ワウ、ルイス・ミゲル(キャリーの当時の恋人)、キャリーの飼い犬のジャック、サンタクロースがアニメになって登場している。この映像の監督には、サンタクロースを意味する「クリス・クリングル」(英:KrisKringle)の名前がクレジットされている。2009年からは、ESPN(『NBAonESPN』)と姉妹局のABC(『NBAonABC』)でクリスマスに放送されるNBAクリスマス・ゲームズ用のミュージック・ビデオも作られている。ジャスティン・ビーバーとのデュエット版では、ニューヨークの百貨店・メイシーズでミュージック・ビデオを撮影し、ビーバーが友人たちと買い物をする一方で、キャリーがサンタクロースの格好をして歌う姿が収録されている。このミュージックビデオは1億4000万回以上再生されている。 -1837年、ミュラーとヘンレは本種を独自の新属Stegostoma属に移し、1801年にブロッホおよびシュナイダーによって『110の画像付分類魚類学』("SystemaichthyologiaeiconibusCXillustratum")の中で用いられた種小名fasciatusを使用した。Stegostomaは中性形であるため、学名はStegostomafasciatumとなる。1984年、レオナルド・コンパーニョは、Squalusvariusも学名の一つと解釈することはできるが、セバが記載論文中で学名を一貫して用いていないことを理由に、"fasciatus/m"を正式な学名として支持した。コンパーニョによれば、最初に"varius/m"が適切に用いられたのは1913年のサミュエル・ガーマンによるものであり、この名はジュニアシノニムとみなせる。現在はS.fasciatum・S.variumどちらも本種を指す学名として用いられている。 -ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街(ハンブルクのそうこがいとチリハウスをふくむしょうかんがい)はドイツの世界遺産の一つであり、ハンブルクが世界屈指の国際商業都市として急成長を遂げた19世紀後半から20世紀初頭の様子を伝える倉庫街(シュパイヒャーシュタット)と商館街(コントーアハウス地区)を対象としている。登録名にあるように、後者にはフリッツ・ヘーガーによる表現主義建築の傑作チリハウスが含まれる。 -1987年に牧場主たちは、再導入提案者に経済的負担に対する補償を要求した。それに対してDefendersofWildlife(アメリカ合衆国の自然保護団体)は、オオカミによる被害で失われる家畜の市場価格を牧場主たちに補償するために、「オオカミ補償基金」を準備した。その同じ年、最終的な回復計画が発表された。その後、研究・公的な教育・意見募集を行い、公開検討を加えるために1993年に環境影響評価書(環境アセスメントの結果報告書:EnvironmentalImpactStatement)の草稿が発表された。この環境影響評価書には15万以上の意見が寄せられ、1994年5月に成立した。元の計画には3つの回復地域(イエローストーン国立公園含むワイオミング州・アイダホ州・モンタナ州)が含まれていたが、モンタナ州は北西部に小さいながら繁殖している群れが確認されたので回復地域から外された。現在は再導入されたオオカミ群はモンタナ州とも往来しているため、モンタナを含む3州が回復地域として設定され、モニタリングされている。回復地域に再導入されるオオカミは、絶滅危惧種法に規定する「実験的な個体群」分類に区分されている。 -1445年にスリ・パラメスワラ・デワ・シャーが明に朝貢の使節を派遣した際、護国の勅書、衣服��朝貢のための船の下賜を明に要請して認められているが、この要請は簒奪によって即位したスリ・パラメスワラ・デワ・シャーの不安定な立場と、タイのアユタヤ朝からの外圧が強まっていたことの裏返しとも言える。1446年に即位したムザッファル・シャーの治下、王の即位直後にアユタヤの攻撃を受ける。マレー半島西岸のクランを統治していたブンダハラ(宰相)家のトゥン・ペラクの活躍によってアユタヤ侵攻を撃退、マレー半島のパハン、スマトラ中部(現在のリアウ州)にマラッカ成立以前より存在したと思われるインドラギリ、カンパールに成立した都市国家を従属させるべく軍を進めた。ムザッファルの治世においては、彼の異母兄弟であり、中国人の血を引くと伝えられる副王ラジャ・プテの活躍が軍事と外交の両方で目覚ましい活躍を見せ、ラジャ・プテはパハン、カンパル、インドラギリの王と婚姻を結び、それらの地を支配したマラッカ分家の祖となった。 -2014年2月14日、ボロブドゥール、プランバナン、ラトゥボコなど、ジョグジャカルタおよび中部ジャワの主な観光名所は、前夜に噴火したジョグジャカルタの東方約200キロメートルに位置する東ジャワのケルート山の火山灰により、深刻な影響を受けて閉鎖された。その後、ボロブドゥールは2月26日より、プランバナン、ラトゥボコなどの訪問も28日には再開された。その4年前の2010年、ボロブドゥールに影響を与えたムラピ山の噴火における火山灰においては、風や降灰の方向が西向きであったため、プランバナンは影響を免れていた。 -カトリーヌは当初、父方の祖母アルフォンシーナ・オルシーニに養育された。1520年にアルフォンシーナが死去すると叔母のクラリーチェ・デ・メディチに引き取られ、従兄弟たちと育てられた。1521年に教皇レオ10世が死去し、皇帝カール5世の推すハドリアヌス6世が新教皇に選出されたことにより、メディチ家の権力は一時的に衰えたが、新教皇は短命に終わり、1523年に一門のジュリオ・デ・メディチ枢機卿が教皇に選出された。教皇クレメンス7世はカトリーヌにフィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿を与えた。フィレンツェの人々は彼女の公認されていないウルビーノ公位継承権を尊重して「小公女」と呼んだ。 -『イェヌーファ』の完成から数か月でヤナーチェクはオペラ『運命』の制作に乗り出し、半年で完成させた。イーアン・ホースブルグによるとこの作品は「然るべき方向に進めることができなかった失敗作」であった。台本の書き直しを模索するなど上演を躊躇するうちに第一次世界大戦が勃発して上演が不可能となり、没後30年にあたる1958年に初めて舞台で上演された。1906年から1909年にかけ、ヤナーチェクはモラヴィア教員合唱団のために3つの男声合唱曲(『ハルファール先生』、『マルイチカ・マグドーノワ』、『7万年』)を作曲しており、これらはヤナーチェクの男性合唱曲の「頂点を極めた傑作」と評されている。1904年、ワルシャワ音楽院院長就任を打診される。親露家のヤナーチェクはこの話に前向きであったが、立ち消えとなった。1905年10月1日、ブルノでチェコ人のための大学創立を要求するデモと軍隊が衝突し一人の労働者が死亡する事件が起こると、ヤナーチェクは猛烈に怒り『ピアノソナタ「1905年10月1日街頭にて」』を作曲した。 -1969年(昭和44年)には富山県立図書館が呉羽山西麓の茶屋町に移転した。富山市は市制80周年記念事業として、富山県立図書館から分離する形で丸の内の富山城址公園内の北西部に新館の建設を計画。設計は日新建築設計事務所であり、施工は佐藤工業。1968年(昭和43年)10月2日に着工し、1970年(昭和45年)4月30日に竣工。1970年6月に富山市立図書館が開館した。鉄骨鉄筋コンクリート構造、地上7階・地下1階建であり、延床面積は6,961.74m2、富山市産業奨励館が同居する複合施設である。建設費は4億7574万円、総工費は5億4480万円であった。この際にはコクヨ創業者の黒田善太郎(富山市出身)が寄付による「黒田文庫」や、救心製薬社長の堀正由(富山出身)の寄付による「堀文庫」、著作家の翁久允(富山県上新川郡東谷村出身)が渡米中に収集した文献を基にして寄贈した「翁文庫」が設置された。 -農業労働者として���住した多くの日本人は、もともと衣錦還郷を夢見て、一定期間滞在するつもりであったが、一日50セントの低賃金では財産を築くことができず、貧しい生活を余儀なくされた。「恥」の意識が強い当時の日本人男性には、失敗者として故郷に帰ることなど考えられず、やがて現地で結婚して家庭を築き、定住・永住することに希望を見出すようになった。アメリカ西海岸に移住した日本人も多かったが、いずれにせよ、日系一世は1790年の帰化法により市民権取得資格がなく、異人種間の結婚も禁止されていた。加えて、1908年から一般の移民が禁止され、両親や妻子の呼び寄せのみが許可されると、米国で家庭を築き、日系社会を存続させるためには、写真花嫁に頼る以外に方法がなかった。当時、ハワイでは男性447人に対して女性100人の割合であったが、呼び寄せ時代と呼ばれた1911年から1919年までの間にハワイに渡航した写真花嫁の数は9,500人、米国では、1900年に男性24人に対して女性1人の割合であったのが、写真花嫁の渡米によって1910年から1920年の間に、女性の人口が9,087人から38,303人に急増し、男性2人に対して女性1人の割合になった。1908年から1924年までの間に渡航した写真花嫁の数は20,000人以上である。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -『システィーナの聖母』あるいは『サン・シストの聖母』は、盛期ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティが、その晩年1513年から1514年頃に描いた絵画である。祭壇画の一翼として描かれ、ラファエロが描いた最後の聖母マリアであり、ラファエロが自身だけで完成させた最後の絵画でもある。1754年にドイツのドレスデンに持ち込まれ、その後ドイツの美術界に大きな影響を与え続けた。第二次世界大戦後にモスクワへと持ち去られたが、10年後にドイツに返還されて、現在はアルテ・マイスター絵画館の最重要なコレクションの一つになっている。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条���の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -2003年10月から2004年4月末までに、660,390人がアメリカ合衆国国境警備隊によって拘留され、同時期に43-61名が、ソノラ砂漠から密入国しようとして死んだ。これは前年の同時期の3倍にのぼる。2004年10月には、過去1年間で325人が死亡したことが国境巡視隊によって発表された。1998年と2004年の間では、1,954人が国境沿いで死んだことが正式に報告された。 -ウィリアム・キャヴェンディッシュは、1729年以前はキャヴェンディッシュ卿(LordCavendish)、同年から1755年まではハーティントン侯爵(MarquessofHartington)の儀礼称号を名乗った。 -1775年の初期、イギリス陸軍は世界で36,000名いたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらにアメリカ独立戦争のときは、ドイツ諸侯から30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くはヘッセン=カッセル方伯領から来ていたので、「ヘシアン」すなわちヘッセン人と呼ばれた。この軍隊は主君に雇われた職業軍人という意味で傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、カナダからフロリダまで分散した形になっていた。 -両同盟ともさらなる同盟国を探し、ここにロシア帝国が大北方戦争以来再び重要な役割を果たすこととなった。1724年以降、ロシア王家であるロマノフ家はホルシュタイン=ゴットルプ家と姻戚関係を結んでおり、ホルシュタイン=ゴットルプ家領のシュレースヴィヒ=ホルシュタインが大北方戦争でデンマーク=ノルウェーに併合されたため、ロシアはシュレースヴィヒ=ホルシュタインを請求していた。英仏両国がロシアにバルト海西部への進出を許したくなかったためデンマークを支持、結果としてはロシア皇帝エカチェリーナ1世は1726年8月6日にオスマン帝国という共通した敵を有するオーストリアと同盟した。 -アジアの通信各社では、インターネットや電話に使用される海底ケーブルが一部損傷を受けた。東日本電信電話(NTT東日本)は、地震の影響で電話が集中し、交換機の処理能力を超える恐れがあったため、最大90%の通話規制を実施した。また被災地周辺の公衆電話を無料で利用可能とした。NTTドコモ・東北支社は、携帯電話の無料充電や衛星携帯電話の貸与などのサービスを提供した。停電によって機能停止した携帯電話基地局は備えつけの自家発電により継続稼働させたが、停電が長時間に及んだため自家発電施設の燃料が枯渇、相次いで停波し通信サービスが停止した。そのため、移動電源車や可搬型発電機を配備した。移動体通信各社では通信障害により電話がつながりにくい状況が生じ、音声通話についてNTTドコモでは90%、KDDIでは95%、ソフトバンクテレコムでは70%の通信規制を実施した。音声通話の通信規制が続くなか、インターネットを使った情報交換が活発となった。Twitterなどのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)では、被災者に対する呼びかけや、ボランティアや人道支援に関する呼びかけ、医師による健康相談などが行われた。また、東京電力の電気供給能力の不足による停電の恐れがあるなか、節電を呼び掛ける活動も行われた。一方で、情報交換の容易さからデマ情報も多く発信され、問題となった。 -マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガルの用意周到な計画によって、カールは1909年にツィタ・フォン・ブルボン=パルマと出会う。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり、さらにツィタにとっては母の妹であった。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘エリーザベト・フ��ンツィスカを嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度はオルレアン家の血を引くデンマーク王女マルグレーテをカールと結婚させようと考えた。 -帝国クライスの治安維持活動により、弱小等族単独では対応が困難であった大規模な平和破壊活動に対処することが可能となり、いたずらな戦禍の拡大を防げるようになった。また、クライス会議を通じて地域行政の調整を行うことで、帝国の連邦的性格を決定づけた。帝国クライス制度は、いわゆる「アウクスブルクの宗教和議」で名高い1555年のアウクスブルク帝国議会で審議され、発令された帝国執行令で一応の完成を見た。 -14世紀後半になると、ヨーロッパでペストが大流行し、2500万人ともいわれる死者を出した。また、1378年に起こったローマ教会の大分裂などの出来事も相まって、世界の終わりは近いという思いが広まっていった。さらに16世紀には宗教改革が起こり、旧来の教会に対する批判が高まった。そしてプロテスタントは教会批判のよりどころとすべく、聖書を注意深く読むようになり、批判を受けたカトリックも同様に聖書を読むようになった。 -『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋と対立していた。馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。岸俊男によると、古代の「飛鳥」の地とは、飛鳥川の右岸(東岸)の、現在の飛鳥寺境内を中心とする狭い区域を指していた。 -ローリーの気候は四季がはっきりしており、暑い夏と肌寒い冬、概ね過ごしやすい春・秋に特徴付けられる。夏の日中はしばしば摂氏30度を超えるが、夜になると摂氏20度前後まで下がり、熱帯夜になることはあまりない。冬の日中は摂氏10度ほどまで上がるが、夜になると摂氏0度前後まで下がり、氷点下に下がることも珍しくない。降水量は1年を通じほぼ一定で、夏にやや多くなり、春・秋にやや少なくなる。年間降水量は約1,060mm、降雪量は約17.8cmである。ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属する。 -2017年2月24日、任天堂は、公道カートのレンタルサービスを行う「株式会社マリカー」(現商号:株式会社MARIモビリティ開発)に対して賠償を求める訴訟を東京地裁に提起した。この中で任天堂は、株式会社マリカーがマリオカートの略称として知られる「マリカー」の標章を会社名に用いていることに加え、マリオ等の衣装の貸与やその衣装の宣伝・営業利用などを任天堂に無断で行っていることが不正競争行為および著作権侵害行為に当たると主張している。2018年9月27日の地裁判決では、被告会社に対しマリオ等の衣装の貸与の禁止など不正競争行為の差止と損害賠償金の支払い等が命じられた。また、2020年1月29日には、知的財産高等裁判所において、5000万円の損害賠償金の支払いと不正競争行為の差止等を被告会社に命じる終局判決が下された。 -只見川は流域の大半が山地で占められ、平地はごくわずかである。特に上流部は三国山脈の険しい山岳地帯で人跡未踏の地も多い。加えて年間雨量は2,500から3,000ミリに達する多雨地帯であり、しかも冬季は豪雪地帯で春季の融雪と夏季の多雨によって水量は極めて豊富で、会津坂下町片門におけるピーク時の基本高水流量は毎秒9,000立方メートルにも及ぶ。加えて源流から阿賀野川合流点までの落差が1,500メートル近くもある。こうした自然条件は、急流・豊富な水量・高落差という水力発電の好条件を全て備えており、只見川は水力発電には日本で最も有望な地点の一つとして古くは明治時代から電力会社にとっては垂涎(すいぜん)の的であった。現在とは違い当時は日本各地におびただしい数の電力会社が存在しており、経営拡大のため激烈なシェア争いを演じていた。只見川の開発を成功させることは、他の電力会社に対し一頭地を抜く存在になり得ること明らかで、いわば電力会社にとって只見川は「宝の山」的な存在であった。しかし険しい山岳地帯と厳しい気象条件がこれを阻み、本格的な開発にはなかなか乗り出すことができなかった。 -中川イセは1975年、数えで75歳を迎えたことを機に市議会を引退した。周囲からは引き止められたが、自身は「引き際が大事」と語った。当時の網走市内には4軒の保育園があったが、17時までに子供を引き取る規則であった。早退を強いられていた仕事を持つ女性たちから相談を受けたことにより、女性の地位向上のため、1981年、社会福祉法人網走愛育会を作って自ら理事長を務め、潮見保育園を開設した。園児のために貯金通帳を作り、卒園式の際に1人1人に渡した。1988年、博物館網走監獄を運営する財団法人網走監獄保存財団の理事長就任を依頼された。前任の佐藤久は中川の友人でもあった。また、旭川市や釧路市への道路を造って網走の基礎を築いたのは網走刑務所の囚人であり、彼らの力なくしては網走はただの漁村に過ぎなかったと考えたこともあり、2代目理事長に就任した。当時、運営財団には9億円の負債が残っていた。中川はその立て直しのため、旅行ツアーに博物館見学を盛り込ませようと旅行会社を駆け回り、博物館の入館者を倍以上に増やした。開館10周年を迎える1993年には総入場者は300万人を超え、同年の入場者数は60万人に届くまでになった。1992年、網走市から名誉市民の称号を受けた。網走市名誉市民の称号は32年ぶりであり、女性では中川が初である。ほかに紺綬褒章も受章した。 -前述した田辺高等学校や大塔公民館の剥製のような標本は複数存在しており、1922年(大正11年)11月に旧大塔村の向越(むかごし)の富田川で捕獲された全長145センチ、重量8.6キログラムの大型個体は剥製にされ、現田辺市立鮎川小学校に保存されている。また、1971年(昭和46年)1月には紀勢本線紀伊富田駅近くの富田川に架かる富田橋の上流で、瀕死の状態のオオウナギが浮いているのが発見され、同駅駅員によって捕らえられた。このオオウナギは体長151.2センチメートル、体重10.5キログラム、胴回り37.1センチメートルもあり、その後しばらくの間、紀伊富田駅改札口の横にホルマリン漬けにされ展示されていた。 -西洋へのムカシトカゲの報告としては、クック船長が1769年にニュージーランドに上陸したとき、マオリ族の族長から現生生物についての聞き取り調査をした際に聞いた「トカゲ」の話がその最初のものであるとする見方がある。ただし、ここで記録されているその「トカゲ」に関する証言は「体長はおよそ2.5m、身体の幅はヒトと同じぐらい、地下の洞窟に住み、ヒトを襲って食う」という、生息場所以外の記述は実際のムカシトカゲとかなり異なるものである。この生物に関する確実な記録としては、1838年にJ.S.ポラックというユダヤ人商人が出版した書籍の中に、「プレンティ湾の島々にすむトカゲ」として記されているのを確認することが出来る。だが、実際にこの動物を捕獲して持ち帰ったのは、博物学者で探検家でもあったエルンスト・ディーフェンバッハであった。彼はニュージーランド商会の後援のもと、ニュージーランドの各地を何年にもわたって旅し、地理学・地質学・動物学・植物学・文化人類学など各分野にわたる記録を残していた。原住民がトゥアタラと呼ぶ大型のトカゲがいるということを聞いたディーフェンバッハは、懸賞金付きでそのトカゲを探し求めた。しかし長い間そのトカゲは手に入らず、結局彼がそのトカゲを手に入れたのは1841年ヨーロッパに帰る10日前になってからであった。彼はそのトカゲをアガマ科の仲間と推測し、生きたまま持ち帰った個体をしばらく飼育していた。そしてその動物が死ぬと、大英博物館にその死体を寄贈した。その標本を受け取って研究したのは当時大英博物館で動物学部門の管理者であったジョン・エドワード・グレイであった。1842年、彼はそのトカゲにHatteriapunctataという学名を与えて発表した。しかしその後、この動物の頭蓋骨が以前大英博物館に送られており、他ならぬグレイ自身がそれにSphenodonという学名(ただし属名のみ)を1831年に与えていたことが判った。そのため、学名の先取権の原則により、現在のこの動物の学名はSphenodonpunctatusとなっている。しかしHatteriaという名称もしくはこれに由来する語は、いくつかの言語で今でもムカシトカゲを指す単語となっている。 -1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の開削事業に出資したりするようになる。こうした活動と並行して、翌1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書は大変な評判となり、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手する。1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされている。そのわずか2か月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされることが多いが、暦書の評判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もある。 -1878年にソノマに植樹されたとするのが、カベルネ・ソーヴィニヨン種のもっとも古い記録である。19世紀末には品質を重視するワイナリーの主力品種となり、フィロキセラと禁酒法の影響でカベルネのブドウ畑はほぼ絶えたものの、1960年代以降に盛り返した。1961年にはわずか200ヘクタールだったが、1990年には13,300ヘクタール、2008年には30,000ヘクタールとなった。1999年のメルロー種の栽培面積は19,300ヘクタールであり、ピークの2007年には20,200ヘクタールにまで拡大していたが、映画『サイドウェイ』の公開がメルロー種の人気に冷や水を浴びせ、2008年には19,100ヘクタールに減少した。1850年代に持ち込まれたジンファンデル種は成熟した際に糖度が高く、格好の低価格ワイン用品種となった。1980年代にピンク色のホワイト・ジンファンデルが流行し、現在では酒精強化ワインの素材にも使用されている。上記の品種以外で重要な黒ブドウ品種には、バルベーラ種、カベルネ・フラン種、カリニャン種、グルナッシュ種、マルベック種、ムールヴェードル種、プティ・シラー種、プティ・ヴェルド種、サンジョヴェーゼ種、タナ種がある。 -1886年から1895年に外洋船のブレーメンまでの航行を確保するために河川水路の大規模な改修が行われた。この都市は種々の物品の積み替え港として発展した。1890年、ブレーメン市民公園内で北西ドイツ産業・工業展が開催された。ブレーメンの経済的発展はヴァイマル共和政下で促進された。1920年、空港に定期路線が就航した。1928年、ブレーマーハーフェンにコロンブス護岸堤防が完成した。ここから大西洋最速横断のブルーリボン賞を獲得した北ドイツ・ロイド社の客船「ブレーメン号」が出航した。こうした経済的な重要性が増すにつれ、人口も大きく増加していった。1939年にブレーメン市はブレーマーハーフェンを失った。ブレーマーハーフェンはプロイセン=ハノーファーのヴェーザーミュンデに併合された。これと引き替えにブレーメンはブレーメン=ノルト(ただしフェーゲザックだけはこれ以前からブレーメンに属していた)、ヘーメリンゲン、アルベルゲンを得た。 -フランツ・ヨーゼフ1世は、1830年8月18日、オーストリア皇帝フランツ1世の三男フランツ・カール大公とバイエルン王女であるゾフィー大公妃の長男として生まれる。この出産は公開され、宮廷に出入りできる者なら誰でも見ることができた。 -6月27日にメキシコの首都メキシコシティにあるエスタディオ・アステカで行われた最終戦は、会場となったエスタディオ・アステカの収容人数を10万人から2万人に制限した。試合の2日前から観戦のために訪れていた両国のサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離して入場させ、緩衝地帯には催涙ガス銃を装備した機動隊員を配置させる、といった厳戒態勢の中で執り行われた。試合は延長戦の末にエルサルバドル代表が3-2でホンジュラス代表を下し、ハイチ代表との最終ラウンドへと進出した。 -マリーン朝の滅亡後に成立したワッタース朝はフェズを首都とし、1549年にフェズはマラケシュを本拠とするサアド朝の支配下に入る。フェズは外来者の受け皿となり、グラナダのナスル朝��滅亡によって現れた難民を受け入れ、アルジェリアやサハラ砂漠からの移民のための居住区が建設される。16世紀以降、断続的に起きる反乱によってフェズの町は衰退していく。17世紀に成立したアラウィー朝はフェズを首都に定め、宗教・学問・商業の中心地として繁栄する。1911年にフェズはフランスによって占領され、翌1912年に締結されたフェズ条約によってモロッコはフランスの保護下に置かれる。フランス統治下のフェズは軍用地域と市民用地域に分けられ、移動は制限されていた。1916年にフランス人居住区として第三の市街地(ヴィル・ヌヴェル)が建設され、フェズに3つ目の市街が形成される。新市街は幅の広い道路が直角に交差する「近代的」な構造で、さながら迷路のような旧市街と対照的な町並みとなっている。また、フランスによって公布された旧市街に新たな建築物を建てることを禁じる法令は、旧市街の景観の維持に一役買った。このような状況下で、フェズのイスラーム法学者はラバトの知識人と共にモロッコの民族独立運動の担い手として、フランスへの抗議活動に参加した。第二次世界大戦期のアフリカでの植民地戦争において、フェズはレジスタンスの拠点となった。 -ここ数十年で、西アラスカアリューシャン諸島のラッコ頭数は急落している。1980年代、この地域に住むラッコは55,000-100,000頭いたが、2000年には6,000頭にまで減った。この理由として、反論も多いが、シャチによる捕食によるものとする説がある。この説を裏付ける証拠としては周囲の状況がある。まず、頭数が減少するような病気や飢えが発生していた形跡がない。そして、減少が大きかったのはシャチがたびたび観察される地域であり、潟のようにシャチがいないところでは減少が少なかった。 -強大な権力を手中にした国王アレクサンダル1世は中央集権化を進めたが、1934年にマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。その後、政府は非セルビア人の要求に対してある程度寛容になり、1939年には特に強い反発のあったクロアチア人に対し、その自治権を大幅に認めてクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。 -日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。さらに、2020年の夏季オリンピックの開催地に東京が選出され、2度目の開催が決定している。オリンピックの開催年は、全国高等学校野球選手権大会の日程が調整されることがある。1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会ではバルセロナオリンピックの終了を待って8月10日から開催され、逆に2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会では北京オリンピックとの重複を可能な限り避けるために大会史上最も早い8月2日から開催された。 -ビッグ・ナウマン便とは市内小学校を対象に、学校図書館の活性化を図るため、学校単位で一括大量貸し出しを行うサービスのことである。図書館で選定した絵本100冊と読み物200冊の合計300冊で1セットが構成され、貸出期間は4週間���ある。図書館の閉架資料の有効利用という側面もある。ぶっくーる便とは市内小中学校を対象に、朝の読書や調べ学習などの読書活動を支援する目的で、対象年齢やテーマに沿って作られた図書セットをクラス単位で貸し出すサービス。朝の読書向けセットのほか、科学・英語・国際理解・福祉・食育・職業などのテーマに基づくセット、点字セットのほか、支援学級も対象に含めた「しかけ絵本セット」も用意されている。 -セラムは2000年12月10日に、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所に所属していたエチオピア人の古人類学者ゼレゼネイ・アレムゼゲド(ZeresenayAlemseged)によって発見された。エチオピアは重要な化石人骨が多く出土しているが、それらの発見はエチオピア人以外の調査チームによってなされたものばかりであった。セラムの発見は、地元エチオピア出身の研究者が初めて達成した業績という点でも特筆に価する。発見場所は、アワッシュ川の南に位置する「ディキカ1」(LocalityDikika-1)と呼ばれる地域である。エチオピア北東部のこの一帯はその種の人骨が多く発見されてきた場所で、セラムが見付かったのも、アファール猿人の最初の全身骨格であるルーシーが見付かった場所と4kmしか離れていなかった。そのため、セラムはしばしば「ルーシーの赤ちゃん」と報道されることになった。しかし、ルーシーが生きていたのは318万年前のことなので、実際には332万年前のセラムの方が、15万年近く古い時代を生きていたことになる。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -登録範囲は140haあまりで、伝統的村落の中心的な通りのコシュート・ラヨシュ通りと、その裏手に当たるペテ���フィ・シャーンドル通りに並ぶ65軒、および近隣の菜園やホッローケー城などが対象となっている。緩衝地域は今のところ設定されていない。コシュート通りはメインストリートとはいえ、傾斜している上に平坦に整備されているわけではない。この道には、伝統文化を知ることのできる「村の博物館」、昔の郵便配達人の姿を伝える郵便博物館、民族衣装を纏った様々な人形の展示された人形博物館などがある。通りの端にはカトリックの木造教会が建っている。それは本来14世紀に建造されたものだが、1909年に焼失したため、現在のものは忠実に再建されたものである。2002年にも改修がなされた。 -生食用を含む2008年のブドウ収穫量は、イタリア、中国、アメリカ合衆国に次いで世界第4位である。OIVによる2010年の統計によると、スペインの1人あたり年間ワイン消費量は23.6リットルであり、世界第15位である。スペインのワイン総生産額は約12億ユーロであり、ワインがスペインの農業総生産額に占める割合は2.8%である。5.6%のオリーブ・オイルを下回っているが、2.4%の小麦を上回っている。スペインはEU全体のワイン総生産額の7.8%を占めているが、付加価値額の高いワインは少ない。イベリア半島はコルクガシの樹皮を使用するコルクの主産地である。スペインは世界全体の約30%を生産しており、約50%を生産するポルトガルに次いで世界第2位を占めている。特にカタルーニャ州とアンダルシア州で生産量が多く、カタルーニャ州パラフルゲイにはコルク博物館が存在する。スペインで使用されるフレンチ・オーク樽の多くは国産であり、主にラ・リオハ州都ログローニョ周辺で製造されている。 -フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト率いる大陸軍は210,000人から成る7個軍を保有しており、ロシア軍の増援が来る前にドナウ川のオーストリア軍を撃滅することを狙っていた。10月20日、ナポレオンは迅速な行軍によりマック将軍率いる23,000人のオーストリア軍をウルムで降伏させることに成功し、この戦役を通して60,000人のオーストリア軍を捕虜とした。一般的にこの戦役は戦略上最も偉大な勝利であると考えられており、19世紀末のシュリーフェン・プランに大きな影響を与えた。 -1955年には高田町を中心とする3町5村が新設合併して陸前高田市が成立した。1959年4月、陸前高田市字本丸29にある陸前高田市役所の一室に陸前高田市中央公民館図書部が設置された。1964年には陸前高田市立図書館条例を制定し、4月1日には中央公民館図書部が陸前高田市立図書館に改称された。陸前高田市立高田中学校が移転すると、1967年7月15日には高田中学校の校舎に移転し、2階西側の3教室を用いて図書館業務を再開した。同年11月1日には巡回文庫(移動図書館)を開始したが、トラックにテントを張った簡素な車両だった。中央公民館時代の図書館の蔵書数は約11,000冊だった。 -皇帝ヴィルヘルム2世の学友だった父のコネもあり、パーペンは第一次世界大戦中の1915年までアメリカ大使館付き武官となる。フランクリン・ルーズベルトやダグラス・マッカーサーといった、後年のアメリカ合衆国指導者の知遇を得た。 -1900年頃から、今までルノワール、ピサロといった印象派の大家の陰で売れなかったシスレー、セザンヌ、ゴッホらの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはファン・ゴッホの『立葵』が1100フランで買い取られ、1913年には『静物』が3万5200フランで取引された。さらに1932年にはファン・ゴッホ1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ファン・ゴッホの絵画は大衆に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まり、作品の複製図版の増殖、展覧会や美術館への公衆のアクセスであった。1901年3月には、パリのベルネーム=ジューヌ画廊で65点の油絵が展示され、この展覧会はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクというフォーヴィスムの主要な画家たちに大きな影響を与えた。1905年3月から4月のアンデパンダン展で行われた回顧展も、フォーヴィスム形成に大きく寄与した(→絵画史的意義)。オランダで��、ドルドレヒト、レイデン、ハーグ、アムステルダム、ロッテルダムなど、各地で展覧会が開催され、1905年にはアムステルダム市立美術館で474点という大規模の回顧展が開催された。ヨーはこれらの展覧会について、作品の貸出しや売却を取り仕切った。 -だが1944年4月、今川大佐は水冷エンジンの戦力化に見切りを付ける決心を固め、川崎に対して内密に空冷化を打診した。8月または9月には三式戦闘機二型が100機程度で生産を打ち切ることが決定された。軍需省は1944年8月の二型の生産縮小の後、1944年10月1日、川崎に対し、首無しの三式戦に空冷発動機を搭載したキ100の開発を指示した。古峰(2007)の文献によれば、指示の時期は川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』において11月とも記載される。前掲文献によれば、この月の首無し二型の在庫は68機であった。空冷化にあたり選定されたエンジンは金星62型、陸軍名称ハ112-IIであった。これはハ140と同様の離昇出力1500馬力級エンジンであるが、空冷星型14気筒の構造を持ち、栄よりやや大型で、直径は1218mmである。なお古峰(2007)は、キ99とキ101の試作指示が1943年7月9日に出されていることから、キ100もこの頃には既に機体番号を与えられ、ある程度の検討が成されていた可能性を指摘している。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -合併後しばらくは、各自治体が使用していた9種類の図書館システムが並立していたが、城北図書館の移転開館を機に、全21館分室の市立図書館すべてを統合するネットワーク化が行われた。これに合わせて浜松市立図書館の全蔵書約200万冊にICタグが貼られたが、43万冊の高岡市立図書館を上回って日本最多のICタグ貼付数であった。なお、国外の大規模図書館とICタグ貼付数を比較しても、アメリカ合衆国のシアトル公共図書館(約220万冊)や中国の深圳図書館(約180万冊)にも見劣りしない規模とされる。城北図書館は開館当初から窓口業務を外部委託していたが、2007年には中央図書館も窓口業務が外部委託された。 -ビアトリクスは乳母と家庭教師(ガヴァネス)によって教育され、4階の子ども部屋から階下の両親に会いに来るのは特別なときか「おやすみなさい」を言うときだけであった。親が認めない子と遊ぶことも許されないため、ビアトリクスは弟のバートラムが生まれる5歳までは、遊び相手が存在しなかった。しかしこれは当時の中流階級の家庭では特段珍しいものではなかった。良家の女児は学校へは行かず、家庭教師によって教育が行われることが一般的であり、ポターもまた例外ではなかった。一度も��校に通わなかったポターであったが、後年「学校に行かなくて良かった。行っていれば独自性が潰されてしまっていただろう」と述べており、学校に行けなかったことを後悔する節はない。少女時代は飼っているペットを観察しスケッチに残すか、他の何かの絵を描いていることが多かった。孤独で変化に乏しい毎日であったがポターは従順にそれを受け入れている。しかし、成長するにつれ抑圧された自我は吐け口を求め、15歳から31歳まで独自の暗号を使った日記に日々のことを書き綴っている。どこかに出かけた話や、誰かから聞いたジョーク、出会った人物の批評、時事問題などさまざまなことが記されており、非常に細かなところまで詳細に記されており、ポターが若い頃から鋭い観察眼を持った女性であったことがわかる。この暗号日記はポターの死後10年以上も解読されずにいたが、1958年にレズリー・リンダーが解読に成功しており、それまで不明だったポターの若いころのことが一挙に明らかになっている。日記の内容はわざわざ暗号にするほどのものではなく、なぜ暗号を使ったかについてはさまざまな考察があるが、猪熊葉子や灰島かりは、抑圧された環境で自我を形成していく上で、秘密を持つことそのものが重要だったのではないかとしている。 -ばら積み貨物船の航海は市場の力によって決定され、航路と積み荷はしばしば変更される。収穫期には穀物輸送に関わった船が、それ以外の時期には他の貨物を輸送したり、他の航路に移ったりする。不定期輸送に関わる沿岸輸送船舶の場合、船員は積み荷が完全に搭載されるまで、次の寄港地を知らないことがしばしばある。ばら積み貨物は積み降ろしが難しいため、ばら積み貨物船は他の種類の船に比べて寄港時間が長い。小型ばら積み貨物船に関する調査によれば、積み込みに比べて積み降ろしには平均で2倍の時間が掛かっていた。小型ばら積み貨物船は55時間寄港していた一方で、同じ大きさの木材輸送船は35時間であった。この寄港時間は、ハンディマックスで74時間、パナマックスで120時間に伸びる。コンテナ船の12時間、自動車輸送船の15時間、大型タンカーの26時間の寄港時間に比べ、ばら積み貨物船の船員は上陸時間を長くすることができる。 -そのほか、あまり見られない疾患としては、尿、血漿、髄液に含まれるα-ヒドロキシグルタル酸の異常亢進を伴うヒドロキシグルタル酸尿症がある。ヒドロキシグルタル酸尿症は発作、筋硬直、運動失調などの原因となるが、ウェスティよりもスタッフォードシャー・ブル・テリアに、より発症しやすい疾患となっている。股関節変性の一種であるレッグ・ペルテス病を発症することもある。しかしながらウェスティがこのレッグ・ペルテス病を発症する割合は他の犬種に比べて低く、オーストラリアン・シェパードやミニチュア・ピンシャーなどに、より見られる疾患となっている。また、小型犬によく見られる膝蓋骨脱臼は発症しにくい犬種でもある。 -マクシミリアン1世が1519年に亡くなったことで、皇帝選挙がヨーロッパ政治の表舞台に出た。教皇レオ10世はカール5世の権力が強すぎることを恐れてフランソワ1世を支持したが、カール5世の選出を阻止し得ないことがわかると、フランソワ1世を見捨ててカール5世支持にのりかえた。選帝侯たちはザクセン選帝侯フリードリヒ3世を除いて全員がハプスブルク家とヴァロワ家の候補の両方への支持を表明した。というのも、マクシミリアン1世は生前、選帝侯たちに「カールに投票する代わりに50万フローリンを払う」という約束をし、フランソワは300万フローリンの支払いを確約、さらにカールは支持を得るためにフッガー家から大金を借入、支払い金額を釣り上げたためである。この賄賂には教皇も参加しており、レオ10世はマインツ大司教に教皇使節の位を約束している。しかし、選挙の行方を決めたのは賄賂ではなかった。民衆たちのフランス人皇帝への反感は強く、選帝侯は決められずにいたが、カールが兵隊を選挙地フランクフルトの近くへ向かわせると、選帝侯たちは意を決してカールに投票した。彼は1520年10月23日に戴冠したが、その時点ではすでにスペイン王位とネーデルラントでのブルゴーニュ公国領地を影響下に収めていた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -時代を下って1740年5月、即位したばかりのプロイセン王フリードリヒ2世は再びシュレージエンの領有を目指した。彼はシュレージエンへの請求が正当であると考え、また父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世からよく訓練された大軍であるプロイセン陸軍を継承し、国庫の状態も健全だった。一方、オーストリアは財政状況が悪く、軍も直近のオーストリア・ロシア・トルコ戦争で不名誉な敗北を喫したにもかかわらず増強も改革もなされなかった。ヨーロッパの情勢もプロイセンの先制攻撃に有利だった。グレートブリテン王国とフランス王国はお互いに注目していてヨーロッパ全体を見ておらず、ロシア帝国とスウェーデン王国はハット党戦争で戦っており、バイエルン選帝侯領とザクセン選帝侯領はオーストリアへの継承権を主張できる立場にあるため攻撃に参加する可能性があった。ホーエンツォレルン家による請求権は法律上の開戦事由になったが、実際にはレアルポリティークと地政戦略上の理由が戦争勃発の主因である。 -先述の通り、本作が読売新聞と朝日新聞で取り上げられたことで、作者の家や学校には、本作を読みたいとの問合せが殺到した。作者の両親は私費で100部を増刷。1992年(平成4年)2月には、新聞記事で本作を知った地元の斐川町が、より多くの希望者に本作を届けることを望んで協力を申し出て、教育委員会が町の予算を用いて400部を増刷し、町内の小・中学校の全学級に配布した。その後も、日本全国の自治体から「啓発用に使いたい」、全国の学校から「授業で用いたい」との要望が殺到した。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -へルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング���、ドイツの政治家、軍人である。軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥(Reichsmarschall)であった。 -『ディシディアファイナルファンタジー』(DISSIDIAFINALFANTASY、略称:DFFなど)は、スクウェア・エニックスより2008年12月18日に発売されたPlayStationPortable(PSP)専用のアクションゲームである。開発は「キングダムハーツシリーズ」などを手掛けた野村哲也を中心とするチームが行っており、「ファイナルファンタジーシリーズ」(以下『FF』)に登場した歴代のキャラクターを操作し1対1で戦う3Dのアクションゲームであり、また作品の垣根を越えたクロスオーバー作品として、シリーズ誕生20周年を記念して制作された。PSPのアドホックモードやPlayStation3(PS3)を介したネットワーク通信機能であるアドホック・パーティーを用いた対戦が可能である他、すれちがい通信を利用してゴーストと呼ばれる「キャラクターAI」を交換できる機能が盛り込まれた。これにより見知らぬプレイヤーとの対戦が可能となっている。ストーリー展開は光と闇の双方の神々によって異世界から召喚されたシリーズキャラクターたちが、両陣営に分かれて戦うものとなっており、初代『FF』から『FFX』までの10作品の登場キャラクターが両陣営に1名ずつ配され、『FFXI』と『FFXII』からも隠しキャラクターとして1名ずつ登場する。この総勢22名が操作可能なプレイヤーキャラクターである。物語は光の陣営の10人の戦士がクリスタルの力に導かれ、カオスを倒すまでを描いている。本作の日本国内の販売実績は、発売週(初動)で約50万本、累積で約95.4万本に達している。初動50万本および2009年2月2日時点の累計84.7万本は、日本国内のPSPソフトの初動および累計で共に第3位(当時)の記録となる。2009年11月1日にはバージョンアップ版である『ディシディアファイナルファンタジーユニバーサルチューニング』(DISSIDIAFINALFANTASYUNIVERSALTUNING)が発売された。またディシディアシリーズ第2弾として『ディシディアデュオデシムファイナルファンタジー』が2010年9月に発表、2011年3月3日に発売されている。 -木曽川電力株式会社(きそがわでんりょくかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。中部電力パワーグリッド管内にかつて存在した事業者の一つ。1916年(大正5年)に株式会社電気製鋼所(でんきせいこうしょ)の名で設立した。社名の通り当初は製鋼事業が本業で、電気事業は1919年(大正8年)に追加された付帯事業であったが、1922年(大正11年)に製鋼事業を手放して木曽川電力へ改称した。電気事業者としての事業地は長野県木曽地域である。1942年(昭和17年)に中部電力の前身中部配電へ統合された。製鋼事業者としての電気製鋼所は、その後の再編を経て成立した大同特殊鋼の前身にあたる。同社は1950年(昭和25年)設立であるが電気製鋼所の設立日を「創業」の日としている。 -1960年代、ダウンタウン・ヒューストンの建物はそのほとんどが中層オフィスビルであった。1970年代に入り、ヒューストンがエネルギー産業ブームに沸くようになると、建設ブームが起こり、矢継ぎ早に超高層ビルが建ち始めた。この時期に建てられた超高層ビルの多くは市内で不動産開発会社を営むジェラルド・D・ハインズが手がけたものであった。1982年には、高さ305.4m、75階建てのJPモルガン・チェース・タワーが完成した。JPモルガン・チェース・タワーはテキサス州で最も高いビルで、全米でも11位、全世界でも35位の高さである。翌1983年には高さ302.4m、71階建てのウェルズ・ファーゴ・バンク・プラザが完成した。2006年現在、ダウンタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は約4,000,000m2に及ぶ。ポスト・オーク大通りとウェセイマー通りを中心としたアップタウンは、1970年代から1980年代初頭にかけて開発が進められ、環状線I-610に沿って、主に中層のオフィスビルやホテル、小売店などが建ち並ぶようになった。アップタウン・ヒューストンは最も成功したエッジ・シティの一例となった。フィリップ・ジョンソンとジョン・バーギーの設計によるウィリアムズ・タワーは高さ274.6m、64階建ての超高層ビルで、アップタウンのランドマークになっている。1983年に完成した当時は、ウィリアムズ��タワーは都市中心部以外に建つものとしては世界で最も高いビルであった。このほかにも、アップタウンにはイオ・ミン・ペイやシーザー・ペリなど、著名な建築家の設計による建築物が建ち並んでいる。1990年代から2000年代初頭にかけては、アップタウンには高層マンションがいくつも建った。この時期に建てられた高層マンションの中には30階建て以上のものもある。2002年現在、アップタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は2,100,000m2を超える。その質も総じて高く、総面積の7割以上にあたる1,500,000m2はクラスAのオフィススペースである。 -IMFによると、2009年のアフリカ52ヶ国の合計のGDPは1兆1848億ドル(約100兆円)であり、全世界の約2%のシェアとなっている。アフリカの1国平均のGDPは227億ドル(約2兆円)であり、鳥取県(平成18-19年度)とほぼ同じ経済規模である。アフリカ最大の経済大国は南アフリカである。アフリカ唯一のG20参加国であり、2010年には史上初めてアフリカ大陸でサッカーのワールドカップを開催している。またアフリカ第2の経済大国はエジプトであり、北部アフリカにおいて影響力の強い国の一つになっている。 -ポーランドにある9,300もの湖のうち、大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また湿原が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。西南部にはヨーロッパ最大の砂漠がある。 -リュウグウノツカイは太平洋、インド洋、大西洋など、世界中の海の外洋に幅広く分布する。海底から離れた中層を漂い、群れを作らずに単独で生活する深海魚である。本来の生息域は外洋の深海であり、人前に姿を現すことは滅多にないが、特徴的な姿は図鑑などでよく知られている。実際に生きて泳いでいる姿を撮影した映像記録は非常に乏しく、生態についてはほとんどわかっていない。通常は全身をほとんど直立させた状態で静止しており、移動するときには体を前傾させ、長い背びれを波打たせるようにして泳ぐと考えられている。食性は胃内容物の調査によりプランクトン食性と推測され、オキアミなどの甲殻類を主に捕食している。本種は5mを超えることもある大型の魚類であり、外洋性のサメ類を除き、成長した個体が捕食されることは稀と見られる。卵は浮性卵で、海中を浮遊しながら発生し、孵化後の仔魚は外洋の海面近くでプランクトンを餌として成長する。稚魚は成長に従って水深200-1000mほどの、深海の中層へ移動すると見られる。2018年(平成30年)12月、沖縄県読谷村の沖合で雌雄の個体が網に掛かった。2匹から精子と卵子を取り出して沖縄美ら島財団総合研究センターが人工授精、人工孵化させたところ20匹が孵化した。このリュウグウノツカイの人工授精と人工孵化は世界初の事例となった。 -2009年、ポーランド政府は大きく被害を受けた国内経済のために、IMFから205億ドルを借り入れた。ポーランド・ウクライナ開催のUEFAユーロカップ2012では、関連施設・インフラ建設準備や住宅バブルに向け、西欧や諸外国から大きな投資を受けた、このインフラ投資事業により世界金融危機の大きな被害を免れた。しかし世界的な金融危機も反映し、住宅投資バブルは不発となり投資家の予測に反する結果に終わった。2010年は世界中で行われている景気対策を目的とした大規模な金融緩和のため、ポーランドの第二四半期成長率は+3.5%を記録した。ポーランド政府とポーランド国立銀行は景気の過熱と資産価格上昇の可能性やそれに伴う高いインフレの可能性を懸念し始め、公的部門の財政再建路線の強化、金融引き締め政策、貸出規制の強化といった対応策を考慮している。2014年、GDP成長は1.3%。 -魏において司馬懿が権力を奪取する際に州大中正が導入されたことで、更にこの傾向は進んだ。それまで中正は州の下の行政区分である郡と県にのみ置かれていたが、州に中正が置かれたことにより、中央の大官たちの意向が中正の選任に強く反映されるようになり、貴族層の固定化が一層進むようになった。中正は地方の輿論をもとに郷品を下す。そのため、貴族の子弟たちは自分の存在をアピールするために社交界で名を売ろうとした。このような猟官活動は明帝の時に一時弾圧されることもあったが、その傾向は改まらなかった。竹林の七賢に代表されるような清談や、また『世説新語』に登場する「ブタを人の乳で育てた」などといった奢侈もまた名を売るための手段であった。 -工業化が始まった1750年以降、ブレーメンの人口は急速に増加した。1812年の市の人口は約35,000人であったが、1875年にはすでに10万人を超え、ブレーメンは大都市の仲間入りをした。1911年に25万人、1956年までには50万人をも超えた。1969年に607,184人の史上最大人口を記録した。これ以後人口は減少に転じたが、21世紀に入って再び増加傾向にある。ブレーメン州統計局による2005年12月31日546,852人、2006年11月1日のそれは548,477人であった。 -1831-1925年ごろ、ロンドンは世界最大の都市であった。著しく高い人口密度によりコレラが大流行し、1848年に1万4,000人が死亡、1866年には6,000人が死亡した。特に、1854年8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。1855年に、首都建設委員会が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークであるロンドン地下鉄が開通している。首都建設委員会は1889年にロンドン郡議会になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。第二次世界大戦時、ザ・ブリッツをはじめとするドイツ空軍による空爆により、3万人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の1948年、ロンドンオリンピックが初代ウェンブリー・スタジアムにて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。 -カール・ボッシュは1893年、高等実業学校を卒業したとき、化学者になりたいという思いを持っていた。しかし父の勧めにより、シレジアの精錬所で組立工の従弟として学ぶことになった。化学から離れて職人仕事にたずさわることは本意でなかったが、仕事仲間からの評価は高かった。翌1894年になると、シャルロッテンブルク工科大学に冶金学と機械工学の学生として入学が認められた。そこでは専攻分野の講義のほか、化学の講義も受講した。ただし同校では理論的な計算値よりも職人たちが感覚で導いた値を優先するようなところがあって、ボッシュは不満に思っていた。そして、純粋な科学に魅力を感じたボッシュは、ライプツィヒ大学に入学した。ライプツィヒ大学ではヨハネス・ウィスリセヌスのもとで有機化学を学び、1898年に学位を得た。大学では化学のほか、鉱物学や昆虫、植物についての講義を聞き、知見を広めた。また、イギリスから講演にやってきたウィリアム・ラムゼーが希ガスのスペクトルを実演した時は、自らの手でそれを再現しようと思い、自分で装置を作り上げ、ラムゼイ講演の3日後にヘリウムのスペクトル実演を成功させた。 -東部大西洋の沿岸性魚類は約500種で、東部太平洋よりもさらに少なく、熱帯性魚類の分布はギニア湾周辺のごく狭い海域に限られる。この地域で多様性を示すグループは、タイ科など数科にとどまる。サンゴ礁も非常に少なく、コンゴ川・ニジェール川・ヴォルタ川など複数の大河川から淡水が流入することが一因と考えられている。 -まず、生物化学的観点に立つと、多くの好気的生物では生体内の分子状酸素は、そのほとんどがミトコンドリアでのATP産生において消費され、最終的には酵素的に還元されて水分子に変換され(詳細は記事ミトコンドリアや電子伝達系を参照のこと)、少量の酸素がヒドロキシル化代謝反応のオキシゲナーゼ酵素の基質として利用される。また特筆すべきは活性酸素種ですら、白血球が貪食した細菌に示す殺菌作用物質として白血球内部で発生したり、活性酸素シグナリングのように局所的な化学伝達物質として利用されるなど、存在場所と反応対象を代謝系が制御している状態で積極的に酸素が利用されることである。酸素が関与する酸化反応は生命にとって極めて重要であるが、化学種としての分子状酸素は反応性が高いために活性酸素種に変換される。��のプロセスは非生物化学的であり必ずしも生物物質や酵素の関与だけに限定される現象ではない。なので環境が整えば、それは生体でもそうだし、精肉など食品でもそうだが、酸素は活性酸素プロセスを通じて周囲の水、不飽和脂質、その他の容易に酸化される生体物質に対して変質や不都合な化学反応を引き起こす。この場合の活性酸素プロセスはラジカル連鎖反応であり、生体内で最も豊富に存在する水を起点として連鎖的に他の物質をラジカル化する(詳細は活性酸素を参照)、発生した過酸化脂質あるいは過酸化脂質ラジカルは周囲の生体物質とさらに反応して細胞膜やタンパク質を変性させたりDNA切断を引き起こすなど、細胞に損傷を与える。このような生体反応は酸化ストレスとして知られており、細胞損傷や細胞死の原因の一助となる。 -正田篠枝は1910年に誕生した。1920年(大正9年)に広島市に転居。広島市大手町小学校卒業後、旧制安芸高等女学校に編入した。浄土真宗が盛んな広島において、同学校は真宗安芸婦人会が母体となって設立されており、後に篠枝の詠む歌に仏教思想を背景とした語句が多く用いられるなど、彼女の人生観に大きな影響を与えた。学校卒業後は父の仕事を手伝う傍ら、1929年頃より短歌誌『短歌至上主義』『香蘭』に投稿を始め、『短歌至上主義』主宰者である杉浦翠子らに師事した。1931年に結婚して一子をもうけるが、1940年に夫と死別した。 -1916年にパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将による軍部独裁体制が成立すると、ヴィルヘルム2世はほとんど実権を喪失した。 -20世紀のなかで宮崎駿が最も影響を受けたものとして、ブルース・スプリングスティーン、映画『イージー・ライダー』、そしてジョン・フォードの監督作品、とりわけ『荒野の決闘』を挙げている。そのほかに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』、デヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』、フリッツ・パペンハイムの『TheAlienationofModernMan』といった本からも影響を受けたと述べている。ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『指輪物語』を厳しく批判する一方、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』からの影響をしばしば公言し、「シュナの旅」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『ゲド戦記』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『ゲド戦記』から影響された部分があると語っている。フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『世界・わが心の旅』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった郵便機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、ハンセン病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」と話す女性を登場させるなど、網野善彦の中世史観の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さら���ヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -またルワンダは国土の比較的狭い国であるが、「千の丘の国」と呼ばれる平均標高の高い土地のために温暖な気候に属しており、人の居住に適し、土地が肥沃で自然環境も豊かなことで知られていた。しかし1948年に180万人であった人口が1992年には四倍を超える750万人にまで増加し、アフリカで最も人口密度の高い国となり、農地などの土地不足の問題が発生するようになった。加えて人口の増加により食料不足の問題が生じ、国民の6人に1人が飢えに苦しむ状況となった。国民の多くは数ヘクタールにも満たない狭い農地で生産性の低い農業に頼った自給自足の生活をしており、市場に売却する余剰食料を充分に生産できなかった(先進国では数%の農業従事者が他の国民のための食料を生産している)。そのため日頃から生活の糧となる土地をめぐって争いが頻発していた。 -ウォルト・ディズニー(WaltDisney,1901年12月5日-1966年12月15日)は、アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴに生まれたアニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナーである。世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキーマウス」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『ディズニーリゾート』の創立者であり、兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。本名はウォルター・イライアス・ディズニー(WalterEliasDisney)である。一族はアイルランドからの移民であり、姓の「ディズニー」(Disney)は元々「d'Isigny」と綴られ、フランスのノルマンディー地方のカルヴァドス県のイシニー=シュル=メールから11世紀にイギリスやアイルランドに渡来したノルマン人の末裔であることに由来し、後に英語風に直され「ディズニー」となった。「イライアス」は父名である。共和党を支持し右派として知られていた。 -1861年のサロンに、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちやフランス・ハルスを思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている。『��ペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、テオフィル・ゴーティエが絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた。アルフォンス・ルグロ、アンリ・ファンタン=ラトゥール、カロリュス=デュラン、フェリックス・ブラックモンなど、若いレアリスムの画家たちはこの作品に衝撃を受け、そろってマネの家を訪れた。マネは彼ら画家集団の核となっていった。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた。同年秋には、イタリアン大通りのルイ・マルティネの画廊で主要作品を展示する展覧会を開いた。この時以来、マルティネ画廊ではマネ作品を取り扱うようになった。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -ベルーガの開発・生産プロジェクトはエアバスの関連企業のSATIC(SuperAirbusTransportInternational)社によって行われ、1994年9月13日に1号機が初飛行した。計5機が生産され、エアバス関連企業のエアバス・トランスポート・インターナショナル社によって運航されている。欧州各地で分担して生産されるエアバス機のパーツを最終組み立て地へ輸送する任務についており、飛行機を作るための飛行機とも言われる。また、エアバス以外の顧客向けにチャーター輸送業務に用いられることもある。 -三井鉱山が高原川第四水力(猪谷発電所)の水利権を得た当初、会社は流材への配慮を義務付けられていた。水利権の許可条件にダムへの流木路設置ならびに使用水量1,100立方尺(30.61立方メートル)のうち400立方尺(11.13立方メートル)の放流が盛り込まれていたのである。しかしこれでは発電事業として採算がとれないので、岐阜県・富山県当局や高原川上流地域の国有林を管轄する大阪営林局と交渉し、官材をすべて神岡軌道にて陸送し流材を代替する、大阪営林局と陸送に関する協定を締結する、という条件で流木路設置・使用水量制限の許可条件解除の許可を得た。そして実際に大阪営林局との協定の交渉を進める都合上、神岡軌道を自社の所有とする必要があったため、神岡水電は前述の通り1932年にこれを譲り受けた。譲り受け価格は57万5000円であった。 -戦中や戦後すぐは物資難から和紙も大きな需要があったが、まもなく西洋式の生活スタイルが一般的になり、和紙や障子紙が日用品から姿を消すとともに、事務用の需要もなくなり、和紙製造業は壊滅した。そこで因州和紙の生産界では、昭和30年代(1950年代半ばから1960年代半ば)に書道や工芸に用いる画仙紙や工芸紙などの生産をはじめた。原材料の一部にパルプを採用したり、製造過程の一部を機械化して機械漉きの和紙製法を導入するなどの改革も行われた。この頃、太平洋戦争後に進駐軍によって廃止されていた学校での書道教育が再開され、毛筆の書に適した因州和紙の半紙は人気を博した。機械漉きの安価な学生用半紙と手漉きの高級画仙紙というラインナップを揃えた因州和紙は人気となり、全国的に高い知名度とシェアを得た。とはいえ、佐治村では、主要産業としての和紙作りは衰退し、もっぱら伝統工芸として存続するようになった。青谷町でも同様で、最盛期に1300を数えた生産業者も、現在は20軒から30軒ほどが残るのみである。それぞれ鳥取県の無形文化財に指定されたほか、1975年(昭和50年)には因州和紙が伝統的工芸品に認定された。これは和紙としては日本全国で初めてのものだった。 -しかし暫定政府の方針や、構成する具体的な人物の名前などが公表されなかったため、国際社会からは当初から実態はイラクの傀儡であるとみなされていた。一方でクウェートは1,000人を超す王族が政官財界の要職を占める変則的支配となっており、反政府勢力の受け皿となる不満分子には事欠かないともされた。8月4日夜になってようやくアラー・フセイン・アリー大佐を首班とする閣僚名簿が発表されたが、後述するとおり全員がイラク人で構成されるイラク傀儡政権であるとみなされていた。また同時に、イラクとの領土交渉を行う用意があることも表明した。 -グドークはスコモローフが最初に手にしたと考えられている弦楽器である。楕円型あるいは梨型の胴と平らな共鳴板を持ち、3弦であった。1951年-1963年の発掘調査で12世紀のものと思われるグドークが見つかっている。16世紀には種類が増え、グドーチェク、グディーシチェといったバリエーションが誕生した。グースリはキエフのスコモローフたちがもっとも多用したと考えられている楽器である。初期のものは、翼の形をした木製の小型の胴から「翼型」と呼ばれた。ノヴゴロドで1951-1962年にかけての考古学的な発掘調査によって13世紀の翼型グースリが発見されている。この型のグースリの弦は4-9本であった。14-15世紀には翼型の改良版として兜型グースリが登場した。弦の数は11-30本に増えている。16世紀になると、箱形グースリが製作された。 -その後武智は、子がなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知る。1950年12月、三代目市川壽海は「つくし会」に審査員として立ち会い、『修禅寺物語』の源頼家を演じた雷蔵に高評価を与えていた。壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無縁の出自を抱えながら、苦労の末に戦中から戦後にかけての関西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには関西歌舞伎俳優協会会長の要職を担う重鎮となっていた。さらに七代目團十郎と九代目團十郎が俳名に使っていた「壽海」を名跡として名乗ることを許され、加えて「成田屋」と「壽海老」という、通常ならば市川宗家の者が使用する屋号と定紋を許されてもいた。そこで武智は関係者に働きかけ、この養子縁組を取りまとめることに成功する。壽海は雷蔵に、自身と同じような市川宗家ゆかりの由緒ある名跡である「市川新蔵」を継がせたいと願ったが、これには当時東京で市川宗家の番頭格としてこれを代表する立場にあった二代目市川猿之助(初代猿翁)が「どこの馬の骨とも知れない役者に新蔵の名跡はやれない」と猛反対、交渉の結果「市川雷蔵」の名跡を継ぐことで決着した。養子縁組は1951年4月に成立。同年6月には大阪歌舞伎座で雷蔵襲名披露が行われた。なお、映画監督の池広一夫によると三代目市川壽海について、雷蔵の実父ではないかという噂があったという。養子縁組を受けて、雷蔵は後半生の本名・太田吉哉に改名した。この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった。ちなみに大映京都撮影所所長だった鈴木晰也によると雷蔵は周囲にも盛んに改名を勧め、大映の関係者の中には雷蔵の勧めで改名した者が20〜30人はいたという。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している。 -ハ140の生産数を見るならば、44年7月に20台納入の予定が8台、8月は40台納入予定がわずかに5台、9月に至っては1台であった。一説にはこの時海軍のアツタを調達して装備することが検討されたとも言われるが、両エンジンの仕様の違いなどから実現しなかった。1944年8月には三式戦二型の実戦化に見切りが付けられた。機体の生産の削減が行われ、代わりに四式重爆撃機の生産が指示される。削減後にも工場内において低調な生産が続けられ、1944年12月から1945年2月の時期には三式戦二型の首無し機体が常時200機程度、川崎の工場内に滞るという異常事態が起きた。航空戦力として全く期待ができない状況であった。最終的に三式戦闘機二型の生産は100機程度で一旦打ちきられることとなった。しかし、アメリカ軍の爆撃により完成機の一部が破壊され、陸軍に納入されたのは60機程度であった。なお、1945年6月から8月の整備計画には三式戦闘機が残されていることから、ハ140の生産が安定すれば生産が再開された可能性がある。 -中世に登場した、杉原紙と武士階級を結びつける重要な習慣が一束一本(一束一巻)である。この一束一本に用いられる紙は原則として杉原紙とされていた。武家同士での贈答においては、水引をかけた紙1束(1束は10帖に相当する。1帖が紙何枚にあたるかは、紙の種類によって差があるが、概ね500枚。杉原紙の場合にはたいてい480枚となる。)に扇1本を添えて送るのが正式な作法とされた。扇1本のかわりに巻物(緞子)1巻とする場合もある。著名な事例としては、醍醐の花見のときに豊臣秀吉と三宝院との間で一束一巻の授受があった例や、徳川家康と雲光院が二束を贈った例が知られている。 -『ジークフリート』は、リヒャルト・ワーグナーが1856年から1871年にかけて作曲し1876年に初演した楽劇だ。台本も作曲者による。ワーグナーの代表作である舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』四部作の3作目に当たる。原案は叙事詩『ニーベルンゲンの歌』及びドイツの英雄的主題『ニーベルンゲン伝説』。『ニーベルングの指環』四部作は、ひとつのプロローグと3日を要する舞台上演と見なすことができ、その「第2日」に当たる本作『ジークフリート』は、「序夜」(『ラインの黄金』)を除く「三部作」の中間に位置づけられる作品である。「指環」四部作はそれぞれ独立した性格を持ち、単独上演が可能である。『ジークフリート』は全3幕からなり、上演時間は約3時間50分だ。第2幕第2場「森のささやき」の音楽はしばしば管弦楽のみで独立して演奏される。 -これらの貝の採集や加工を担うのは女性たちである。魚を対象とする男性たちの漁と違い、捕まえるのにさしたる困難がないことなどがその理由である。マングローブガキに関しては、根にへばりついている性質上、他の貝に比べると引き剥がすのに困難が伴うが、その分、単価は最も高くなる。鋭利な貝殻を剥がす時の疲労と怪我が感染症を惹き起こすリスクもあるため、村の中でも経済的に厳しい境遇にある女性がこの貝の採集に従事する傾向があるという。オヤカタサルボウはその反対で、干潟の表層をなでるようにするだけで大量に取れる分、単価は最も低くなる。 -1774年以降、一時的な平和を得たワラキア、モルダヴィア両公国は一時的に停止されていたファナリオティス制が復活、アレクサンドル・イプシランティスがワラキア公に就任すると様々な改革が行われた。しかしこの改革も困窮していたオスマン帝国政府が過大な要求を出したため、崩壊、さらに露土戦争(1787年)が勃発するとロシア軍、オーストリア軍がワラキア、モルダヴィアへ侵攻、両公国は主戦場となり荒廃した。ただしオーストリア軍はフランス革命の発生とオランダにおける反乱の発生のために、途中で手を引かざるをえなくなったため、ロシアとオスマン帝国の間で1792年、ヤシー条約が結ばれた。そしてバルカン半島においてビザンツ帝国を復活させギリシャ帝国を復興させるというエカチェリーナ2世の夢はモルダヴィア、ワラキア両公国を占領しながらもイギリスとの利害関係が発生した事であきらめざるを得なかった。 -3月11日の東京市場の大引けまであと14分という時間に震災が発生した。株式市場には売りが殺到、10,350円前後で推移していた日経平均は10,254円43銭と前日比180円安まで急落し、安値引けとなった。週明け3月14日の東京市場は9時より通常通り取引を開始したが、ほとんどの銘柄が売り気配で始まった。日経平均は、始値は210円安の10,044円17銭で始まり、幅広い銘柄に売り注文が殺到し下げ幅を拡大、終値は9,620円49銭(633円94銭安6.18%の下げ)と1万円を割りこんだ。更に翌3月15日には4号機が爆発・炎上し、放射能汚染が広範囲に拡大したことで日経平均は大幅続落、一時1,392円安の安値8,227円63銭まで下げ、終値は1,015円安の8,605円15銭と9,000円を割り込んだ。15日の日経平均株価は前日比-10.55%、過去3番目に高い下落率の大幅下落を記録する事となった。震災���と比べ、3営業日で2,361円87銭安(22.3%安)になった。その後、地震から4営業日目の16日に反発となり、488円高の9,093円まで戻した。一方為替相場では、復興資金調達のために円の価値が高まるとの思惑から急激な円高が進行し、3月17日に一時1ドル=76円台となって戦後最高値を更新した。これに対し、日銀やG7合意に基づく協調介入により市場の安定化を図ったため、3月20日には80円台を回復し円高にも一応の歯止めがかかった。さらに、原子炉事故への対応の進展が伝えられると株価も反発し、3月22日には日経平均も9,600円台を回復した。しかし、世界銀行が最大で2,350億ドル(約19兆円)、日本政府が16-25兆円の震災被害想定額を発表するなど、経済的影響の大きさが伝えられたほか、日銀短観や景気動向調査でも景況感の悪化が伝えられた。工場の被災や部品不足により、国内外で生産停止や特定製品の品薄が発生した一方、「震災特需」「復興特需」による一部産業での景気の上向きが発生している。ただ、2011年末で推定12万人の震災失業が伝えられるなど、被災地を中心に経済への影響はいまだ続いている状況にある。復興費用は10年間で23兆円(2011年7月時点)と見込まれていて、復興債による補填も行われている。 -遺伝子組換え作物の栽培国と作付面積は年々増加している。2015年現在、全世界の大豆作付け面積の83%、トウモロコシの29%、ワタの75%、カノーラの24%がGM作物である(ISAAA調査)。遺伝子組換え作物が商業的に本格的に栽培された1996年から2014年までは年々栽培面積が増えてきたが2015年になって初めて前年に比べ栽培面積が1%減少した。なお、限定的ではあるが、青いバラ(サントリーフラワーズ)の商業栽培により2009年には日本も遺伝子組換え作物の商業栽培国となった。日本の輸入穀類の半量以上は既に遺伝子組換え作物であるという推定もある。 -高山市近代文学館(たかやましきんだいぶんがくかん)は高山市図書館「煥章館」2階にある文学館。「文学を通して高山の文化を将来に伝え、発展させること」を目的に設置され、『俳人仲間』の瀧井孝作、『山の民』の江馬修、『春の夢』の福田夕咲、『キューポラのある街』の早船ちよら高山市を代表する近代文学作家と市民の文学活動に関する展示をしている。館内は展示コーナーと関連図書閲覧コーナーで構成され、年2回企画展を開催する。入場料は無料で、開館時間・休館日は図書館と同じである。 -ゾフィーは貴族出身ではあったが王族出身ではなく、ハプスブルク家の皇位継承者であるフランツ・フェルディナントとの結婚は貴賤結婚となった。皇帝フランツ・ヨーゼフは、2人の間に生まれた子孫が皇位を継がないことを条件として結婚を承認していた。視察が予定されている6月28日は2人の14回目の結婚記念日であった。 -三井鉱山が1919年7月に水利権を得た「高原川第四水力」では、同社の手により猪谷発電所が1923年(大正12年)10月に着工された。岐阜県吉城郡船津町大字土(現・飛騨市神岡町土)にて高原川本流にダムを構築し、富山県上新川郡大沢野村大字猪谷(現・富山市東猪谷)まで導水して同地に発電所を設ける設計である。1929年(昭和4年)6月に完成し、7月1日より発電を開始した。前述の通り、完成後の1931年1月に中山発電所とともに三井鉱山から神岡水電へと譲渡されている。猪谷発電所と中山発電所の発生電力は三井鉱山では消化できないため、すべて発電所渡しにて大同電力に売電された。なお、大同電力は神岡水電から受電した電力を立山水力電気に供給していたが、1927年(昭和2年)上期からは日本電力を通じて大阪方面へと送電するようになり、次いで日本水力の計画が元となっている昭和電力北陸送電幹線が1929年6月に富山県から大阪府まで完成すると、昭和電力が発電所渡しにて神岡水電から電力を購入、大阪で大同電力へと供給する体制へと変更された。 -時期としては、春にもっとも多く発生する。降水量が少なく地面が乾燥する冬は、シベリア高気圧の影響で風があまり強くない穏やかな天候が続くうえ、ほとんどの乾燥地帯の表土は積雪に覆われてしまうため、黄砂が発生しにくい。春になると、表土を覆った積雪が融け、高気圧の勢力が弱まる代わりに偏西風が強まり、低気圧が発達しながら通���するなどして風が強い日が増えるため、黄砂の発生も増えると考えられている。春の中盤に入り暖かくなってくると植物が増え、夏になると雨も多くなるため、土壌が地面に固定されるようになって次第に黄砂の量は減り、秋に最少となる。発生地側の新疆ウイグル自治区での砂塵嵐の日数を調べた統計では、最多の4月に年間の約20%が集中し、3月から6月の4か月間に年間の約70%が集中する。敦煌から河西回廊での砂塵嵐の日数を調べた統計では、春の3か月間に年間の5割弱が集中する。ただし、秋にも約1割の発生があり、年間を通して発生している。 -蓬莱社の正式な発足の前、1872年(明治5年)にすでに大阪商人たちの連名で三潴県・小倉県・福岡県・名東県・岡山県・東肥県(白川県・八代県)の6県(いずれも明治初頭の旧制度の県)で年貢米買請業務引き受けを申請し許可されている。蓬莱社の正式な発足前なのでこれは蓬莱社の前身の六海社としての受けたと思われている。蓬莱社がこれを引き継いだのは確実である。 -その後、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世』の映画を大塚に持ちかけられ、宮崎は演出を引き受ける。その為、テレコム・アニメーションフィルム(東京ムービー新社内)に移籍し、映画『ルパン三世カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。この直後には、『ルパン三世』で最終回含め2話の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『風の谷のナウシカ』に登場する巨神兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『アニメージュ』副編集長で取材に訪れた鈴木敏夫と出会っている。宮崎本人は「ルパンや東映時代にやったことの大たなざらえ」と位置づけており、自らが手がけた『ルパン三世』1stシリーズのいくつかのエピソードも元ネタにしている。『ルパン三世PartIII』放送にあわせ、劇場版第3作の製作が決定した際は、監督としてまず前作の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされたが、宮崎は参加を拒否。宮崎の推薦により、当時宮崎の事務所にいた押井守が監督を務めることになった。 -新約正典の中で節が最も少ないのは第二ヨハネ書であるが、単語数で見れば、第三ヨハネ書が新約正典中で最短である。ブラウンはネストレ・アーラント21版に基づく算定として、短い順に第三書を219語、第二書を245語、『フィレモンへの手紙』を355語、『ユダの手紙』を457語としている(文字数は第二書が1126字、第三書が1105字)。ティンデル聖書注解でヨハネ書簡を担当したジョン・ストット、「インタープリテーション」シリーズでヨハネ書簡を担当したD・M・スミス、大貫隆のように、第二書、第三書をともに聖書中で最短の書と位置づける者もいる。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ��に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -『ゴリオ爺さん』におけるバルザックの文体は、アメリカの小説家ジェイムズ・フェニモア・クーパーとスコットランドの作家ウォルター・スコットに影響されている。バルザックは、クーパーのアメリカ先住民の描写の中に、文明化の努力にもかかわらず残っている人間の野蛮性を見ている。1835年第2版の序文でバルザックはゴリオについて、飢えが蔓延する時代にヴァーミセリを売って財を成したゴリオは「小麦取引をするイリノイ族」、「穀物市場のヒューロン族」だという。また、ヴォートランにパリは「20の蛮族がひしめき合う新世界の森のようだ」と語らせており、これもまたクーパーの影響である。 -cockatooという語は17世紀に遡る。その起源はこれらの鳥のマレー語の名前KakatuwahないしKakakTua("年長の兄弟"の意味)がオランダ語のkaketoeを経て伝わった。17世紀にはcacato、cockatoonやcrockadoreなどの別称もあり、その他cocatoreやcocatooなどが18世紀に使われていた。これらの別称は学名において科や属を表すCacatuidaeやCacatuaにそれぞれ使用されている。オーストラリア英語やスラングでは、秘密であったり違法な行い(ことに賭博)に従事する者が、見張りを命じられた人物をcockatooと呼ぶ。また、小規模な農家のことを滑稽めかしたり、軽い侮蔑をこめてしばしばcockyfarmers(cockyはオーストラリア英語のスラングで、cockatooのこと)と呼ぶ。 -女神の名に由来するオーロラは古代から古文書や伝承に残されており、日本でも観測されている。近代に入ってからは両極の探検家がその存在を広く知らしめた。オーロラの研究は電磁気学の発展とともに進歩した。発生原理は、太陽風のプラズマが地球の磁力線に沿って高速で降下し大気の酸素原子や窒素原子を励起することによって発光すると考えられているが、その詳細にはいまだ不明な点が多い。光(可視光)以外にも各種電磁波や電流と磁場、熱などが出る。音(可聴音)を発しているかどうかには議論がある。両極点の近傍ではむしろ見られず、オーロラ帯という楕円上の地域で見られやすい。南極と北極で形や光が似通う性質があり、これを共役性という。地球以外の惑星でも地磁気と大気があれば出現する。人が地球上から目視できるオーロラの色には、主に青や緑、赤があげられる。さらに状況さえ再現すれば、人工的にオーロラを出すこともできる。 -1811年(文化8年)、ペトロパブロフスクに寄港していたスループ船・ディアナ号の艦長ゴローニン海軍大尉は千島列島南部の測量任務を命じられ、ディアナ号で千島列島を南下。5月に択捉島の北端に上陸、そこで千島アイヌ漂流民の護送を行っていた松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会った。ゴローニンが薪水の補給を求めたところ、石坂は同島の振別(ふれべつ)会所に行くよう指示し、会所宛の手紙を渡した。しかし、逆風に遭遇したことに加えて、当時のヨーロッパにおいて未探索地域であった根室海峡に関心を持ち、同海峡を通過して北上しオホーツクへ向かう計画であったゴローニンは振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった。そして5月27日、泊湾に入港した。湾に面した国後陣屋にいた松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃させると、ゴローニンは補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送り、日本側と接触した。 -生前のカフカについては友人、知人たちによる���くの証言が残っている。それらによればカフカは至って物静かで目立たない人物であった。人の集まる場では大抵聞き役に回り、たまに意見を求められるとユーモアを混じえ、時には比喩を借りて話し、意見を言い終わると、また聞き役に戻った。職場では常に礼儀正しく、上司や同僚にも愛され、敵は誰一人いなかった。掃除婦に会った際にも挨拶を返すだけでなく、相手の健康や生活を案じるような一言二言を必ず付け加えたという。掃除婦の一人はカフカについて「あの方は、ほかのどの同僚とも違っていました。まるきり別の人でした」と話している。晩年は年少者の人の相談や対話の相手をする事も多く、1919年にサナトリウムで出会った少女ミンツェ・アイスナーとは死の年まで文通が続いた。1920年には職場の同僚の息子で作家志望の青年であったグスタフ・ヤノーホと知り合い、後々まで彼の対話の相手となった。ヤノーホは後に、この体験を回想して『カフカとの対話』(1951年)を執筆し、後のカフカ受容に影響を与える事になる。1921年からは16歳年下の医学生ローベルト・クロプシュトックとも親しくなり、作家に憧れて進路に悩んでいた彼の相談相手になった。 -シチリアでの戦闘の間、イギリスとオランダの艦隊がスペインの艦隊と通商を攻撃し、沿岸攻撃も行った。ジャコバイト蜂起の後、1719年10月にはイギリスが報復としてフェロルとサントーニャに上陸、さらにビーゴを占領、スペイン政府は動揺した。フランス軍はベリック公ジェームズ・フィッツジェームズがパンプローナの攻囲を主張したが、物資の準備が追い付かなかったため、代わりに1719年6月18日にオンダリビアを3週間の包囲を経て攻略した。フェリペ5世率いるスペイン軍はその前日にオンダリビアから2リーグほどのレサカまで来ていたが、町が占領されたことを知ると引き返した。ベリック公は続いて8月にサン・セバスティアンを降伏させたが、背後にパンプローナという強固な要塞を残して進軍することに危険を感じて撤退、カタルーニャに転じて8月31日にラ・セウ・ドゥルジェイも攻略した。しかし、続くロザス包囲戦では悪天候が続き、嵐により補給船が多数破壊されたためベリック公はやむなく撤退、冬営に入った後パリへ戻った。 -この時、抗酸化物質が存在する生化学システム上の意義は、活性酸素とその関連する物質をシステムから排除するために、不都合に発生した活性酸素種やそれが生体物質と反応したラジカル中間体と反応することで酸素由来の有害反応を停止させることにある。あるいは直接、抗酸化物質が活性酸素種などと反応するのではなく、触媒的に分解代謝する抗酸化酵素とも称される一連の酵素が存在する。酵素は基質特異性を持ち、活性酸素の分子の種類が異なれば、関与する酵素も異なるし、ある活性酸素種の分子を基質する酵素についても複数存在し、その散在部位も酵素の種類によって異なる。具体例を挙げるならば活性酸素種の一つである過酸化水素は酵素であるカタラーゼの作用で水と分子状酸素に分解されるということである。あるいはスーパーオキシドディスムターゼ、ペルオキシダーゼ類など有害な酸素由来の生成物を無害化する酵素が存在する。低分子の抗酸化物質のいくつかはこれらの酵素の基質あるいは補欠分子族として有害反応の制御に関与する。たとえばカタラーゼは単独で過酸化水素を分解排除するが、抗酸化物質として知られているグルタチオンは、過酸化水素や過酸化脂質を代謝するグルタチオンペルオキシターゼの基質として消費される。 -その後セント・ヘレンズ山は再び約400年にわたる休息期間を経て、紀元前400年頃にキャッスル・クリーク噴火期と呼ばれる活動期に入った。キャッスル・クリーク噴火期ではそれまでの活動期とは異なった成分の溶岩を噴出した。溶岩には橄欖岩や玄武岩が混ざり合っており、さらに粉々になった安山岩や火山灰などが含まれていた。100年頃には大規模な噴火があり、このときに流れ出た溶岩は山体の一部となり、長さ約15kmに及ぶ溶岩洞が形成された。また流れ出た溶岩の一部はルイス川やカラマ川にも到達した。これと同時期には大規模な土石流も発生し、トートル川やカラマ川の���谷を長さ約50kmにわたって埋没させた上、その一部はコロンビア川にまで到達した。そしてセント・ヘレンズ山は、再び約400年間の休息期間に入った。500年頃、セント・ヘレンズ山の火山活動は再び活発化し、シュガー・ボウル噴火期と呼ばれる活動期に入った。シュガー・ボウル噴火期では山体の北側の斜面から小規模な噴火を起こし、800年頃まで継続した。シュガー・ボウル噴火期の末期には「シュガー・ボウル」と呼ばれる溶岩ドームが形成された。 -中国の科学技術史(ちゅうごくのかがくぎじゅつし)は、長い歴史をもち科学技術の発展に大きく寄与してきた中国における科学と技術の発達を対象とする。古代にはギリシアの哲学者と他の文明圏、および中国の哲学者がそれぞれ独自に科学・技術・数学・天文学を発達させた。彗星や超新星の世界で最も古い観測記録が残っているのは中国である。伝統医学、鍼灸術、漢方薬も実践された。初期の発明には算盤・影時計・凧や天灯など世界初の人工飛行体などがある。古代中国の4大発明といわれる羅針盤、火薬、紙、印刷は最も重要な技術革新であるが、ヨーロッパに伝わったのは中世も終わりごろである。唐朝(618年-906年)はことに発明が続いた時代である。ヨーロッパと中国の間で知見の交換が始まったのは清朝以前のことである。イエズス会中国使節は16世紀-17世紀に西洋科学と天文学を中国に持ち込み社会改造に利用する一方、中国技術の知識をヨーロッパに持ち帰った。欧米における中国科学史研究の初期の業績の多くはジョゼフ・ニーダムに帰することができる。近代以後の日本では薮内清らがこの分野を手がけてきた。 -5月13日にはウィルヘルミナ女王やディルク・ヤン・デ・ヘール首相以下政府閣僚がイギリスへ逃亡した。ドイツ空軍によるロッテルダム空襲の後、5月14日夜7時、オランダ軍総司令官ヘンリー・ヴィンケルマン大将はドイツ軍に対して降伏することを発表した。5月15日正午にはオランダ政府はドイツ政府に対して正式に降伏文書に調印した。侵攻から1週間足らずでオランダ全土はドイツ軍占領地となった。 -ピアソン夫妻が北見の私邸として建築した館は、伝道局から北見市役所、さらに北海道庁へとわたって児童相談所として用いられ、次第に激しく劣化した。が、1970年に復元され、ピアソン記念館として、北見市の観光名所の一つとなっている。建物に沿って伸びるポプラ並木の通りはピアソン通りと呼ばれるが、平成期以降のこの地は住宅が立ち並び、ピアソン夫妻在住時の面影は薄れている。1969年、ピアソン夫妻が縁となり、ジョージの故郷であるエリザベス市と北見市との姉妹都市提携が行われた。提携以来、相互に使節団を派遣しあい、交流を深めている。1998年9月、ピアソン夫妻の功績を語り継ぐための団体「ピアソン会」が発足した。 -ギリシャ軍事政権は、1967年から1974年まで存在したギリシャにおける軍事独裁政権のことである。1967年4月21日、ギリシャ軍の将校が蜂起して政権を掌握した時に始まり、1974年7月24日、亡命していたコンスタンディノス・カラマンリスが帰国して新政権を樹立し終焉を迎えた。 -デ・ハビランドコメット(この名称の機体としては2代目。形式「DH.106」)は、イギリス政府の商業輸送機に対する国家戦略的見地から、1944年にジェットエンジン搭載の小型郵便輸送機として開発計画が立案された。デ・ハビランドによる実際の開発は1946年に着手、その過程で当初計画から大きく飛躍した全金属製の4発ジェット旅客機となり、試作初号機は1949年7月に初飛行した。量産型コメットは1951年1月から英国海外航空に順次納入開始され、運行実施のために長期の準備期間を採ったうえで、1952年5月2日、史上初の実用ジェット旅客機として、英国海外航空のロンドン-ヨハネスブルグ便に就航した。所要時間は従前のレシプロ旅客機に比較して半減され、振動の少ないジェットエンジンで高高度飛行を行うため居住性も高められたことで、ジェット旅客機の優位性を広く世に示した。開発から就航に至る詳細な経緯については、デ・ハビランドDH.106コメットの頁を参照のこと。 -学徒勤労動員により紀州鉱山で働いた三重県立木本中学校(現・三重県立木本高等学校)の生徒���よると、捕虜は毎朝9時半に日本兵の監視誘導の下で持ち場に着き、16時半頃に収容所へ引き揚げる生活を送っていた。これは学徒動員の生徒よりも前後1時間労働時間が短かった。捕虜と日本人が同じ作業場を割り当てられることもあり、片言の英語と日本語でコミュニケーションをとることができた。捕虜からチョコレートをもらった日本人もおり、捕虜が火葬されるたびに手を合わせたという。日本人が見た捕虜の印象は、勤勉で明るかったといい、シンガポールの戦いを経験していたため、山下奉文の名をよく知っていた。 -1887年1月20日、合衆国は真珠湾の租借を開始した。その直後に、大半が非ハワイ人からなるグループが、「ハワイアン同盟」と名乗り反乱を引き起こした。彼らは1887年7月6日に独自で憲法を起草した。この憲法を書いたのは内務大臣のロリン・サーストンで、義勇軍の武力を背景にカラカウアを脅迫し、首相の退陣と君主の権力を大きく削減する新憲法への署名を強いた。この憲法は武力を背景に制定されたため、「バヨネット憲法」と呼ばれた。 -帝政初期のローマ建築にあって、皇帝ネロが造形に与えた影響はかなり大きい。彼はローマ芸術の保護者を自認しており、今日、皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなるネロ浴場、そしてドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設した。前者についてはほとんど何も分かっていないが、後者はローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設された、誇大妄想的な巨大宮殿である。当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、エスクイリヌスの丘の斜面にテラスを造り、人工池(現在コロッセオがある場所)とこれを囲む庭園を見下ろす、すばらしい景観を眺めることができた。現在はトラヤヌス浴場の地下に残された一部のみが残る。八角形を半分にしたような中庭を挟んで、方形の中庭を囲む食堂などがある部分と八角堂のある部分に分かれ、おおまかな構成は当時の海辺に建設されたヴィッラそのものである。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、その装飾はルネサンス時代にグロテスクと呼ばれ、ラファエロ・サンティらに影響を与えた。しかし、この建物の真に革新的な部分は、ローマン・コンクリートによって構築されたヴォールト天井とドームが架けられた八角型の部屋である。八角堂の形式は他にみられないが、ドムス・アウレアではじめて採用されたとは考えにくいので、直接の原型があると考えられる。ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、オクタウィアヌスの時代から培われたローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅に革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となった。 -Twitterでのブームを機にきさらぎ駅の都市伝説は一般のネット利用者に広く知られるものとなり、体験談の舞台となった遠州鉄道本社にも問い合わせが寄せられるようになった。また、きさらぎ駅を題材としたフィクション作品も見られるようになり、2018年には遠州鉄道が、きさらぎ駅のエピソードを収録した漫画『裏世界ピクニック』のPR列車を運行するタイアップ企画も実現した。海外では、特に台湾や香港で「きさらぎ駅(中:如月車站)」は日本を代表する都市伝説として良く知られており、日本と同様に当地を舞台にした架空の駅の都市伝説が語られたり、日本の都市伝説や鉄道にまつわる話題でしばしば引き合いに出されたりしている。台湾のホラー作家笭菁は、自身の都市伝説シリーズで「きさらぎ駅」を主題にした長編小説を発表しており、全12巻のシリーズ中最も印象的な作品として紹介されている。 -1933年(昭和8年)に帯広町に市制が施行され、2年後の1935年(昭和10年)に市議会の議決によって名称が大典記念図書館に変更された。その後、建物の老朽化や狭あい化といった理由のほか、建物が軍の司令部に転用されたために数度の移転を経て、1950年(昭和25年)に市内西5条南9丁目に帯広図書館として移転開館した。また、この間、1945年(昭和20年)には、第二次世界大戦の戦局悪化により約半年間の閉館も経験した。その後、サービスの充実が図られ、1954年(昭和29年)には児童室が開設されるとともに、16か所の移動図書ステーションが設置されたほか、15歳以上を対象とした図書の館外貸し出しも始まった。1955年(昭和30年)には、アイヌ研究者の吉田巖が収集した郷土の文化・歴史資料を編纂した帯広市教育叢書(現帯広叢書)の発行が始まった。また、1961年(昭和36年)には地域の文芸振興を図る取り組みとして、帯広市民文芸誌「市民文藝」が創刊された。 -開会式では、オリンピック賛歌を演奏することやオリンピック旗掲揚、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた。しかし、聖火台で鳩を焼いてしまったソウル大会での一件や、外来生物への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。ロンドン大会では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人がワイヤーアクションで空中へ上昇した。開会式の入場行進はオリンピックの発祥地であるギリシャの選手団が先導し、その後参加国は開催国の言語順に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。2002年のソルトレークシティオリンピックではジョージ・W・ブッシュ大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(Onbehalfofaproud,determinedandgratefulnation...)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である。また、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとのファンファーレが演奏されることが通例となっている。1984年のロサンゼルス大会のファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ作曲)は世界的に有名となった。なお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。なお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。 -一方、社民党の主流派閥である「中央派」の中にも「城内平和」に否定的な者が徐々に増えていき、社民党の共同党首フーゴー・ハーゼを中心に平和主義的中央派「ハーゼ・グループ」が形成されるようになった。1915年春に戦争目的論争が勃発するとカール・カウツキーやエドゥアルト・ベルンシュタインら党の長老がハーゼを支持するようになり「ハーゼ・グループ」が勢いを増した。 -サレカット・イスラム(SI)の前身は、バタヴィア(現ジャカルタ)と西ジャワのバイテンゾルフ(現ボゴール)で、それぞれ1909年と1910年に結成されたサレカット・ダガン・イスラム(イスラム商業同盟、SarekatDagangIslam,以下SDI)である。この団体を結成したのは、ジャワ貴族出身のジャーナリスト、ティルトアディスルヨであり、彼の目的は同じムスリムであるアラブ人商人と「原住民」商人が手を結び、当時の東インドで活発な経済活動をおこなっていた華人系商人に対抗することだった。 -ヘロドトスによれば、カンビュセス2世は弟であるスメルディスによる王位簒奪を恐れ密かに殺害した。そのためスメルディスの死は人々に知られる事はなかった。しかしカンビュセス2世がエジプトに遠征している最中、本国を任せていたマゴス僧パティゼイノスが反旗を翻した。 -直轄ダムで施工中のダムは4基あるが、ダム再開発事業として津軽ダムがある。完成すれば直上流にある目屋ダムは水没する。既に浅瀬石川ダムにより沖浦ダムが、長井ダムにより管野ダムが、胆沢ダムにより石淵ダムがそれぞれ湖底に水没した。この他施工中のダムには鳥海ダム、成瀬ダムがあり、何れもダム事業再検証の対象となったが事業再開されている。また��砂子ダムは田川ダムを統合拡大する形で計画された。ダム事業と住民の摩擦については住民軽視の補償交渉が後年批判の的となった石淵ダム補償問題のほか、胆沢ダムと津軽ダムでは石淵・目屋ダムで移転を余儀なくされた住民が、再び移転を余儀なくされる例も現れている。また、度重なる大地震による施設被害も起こり、岩手・宮城内陸地震では石淵ダムの堤体が損傷、東日本大震災では沿岸を襲った大津波が河川を遡上したことで北上大堰、阿武隈大堰、馬淵大堰などが被害を受けている。なお、東北の直轄ダムにおける技術的特徴として、石淵ダムはロックフィルダム施工の日本第一号であり、鳴子ダムは日本人だけで手掛けられた最初のアーチ式コンクリートダムである。また堰では鳴瀬堰は大河川を堰き止めた最初のゴム引布製起伏堰であり、最上川さみだれ大堰はゴム引布製起伏堰として日本最大級である。 -イブン・スィーナーは幼いころからクルアーンを学び、10歳ですでに文学作品とクルアーンを暗誦することができたという。イブン・スィーナーは父アブドゥッラーフによって教師を付けられ、野菜商人の下で算術を学び、ホラズム地方出身の哲学者ナティリの元で哲学、天文学、論理学などを学んだ。ナティリからユークリッド幾何学とプトレマイオスの天文学を学び、間も無くイブン・スィーナーの学識はナティリのそれを上回った。しかし、イブン・スィーナーが読んでいた書籍は受験参考書のような入門用の啓蒙書であり、原典の逐語訳とは大きく内容が異なっていた。 -アンリ2世の治世にギーズ家兄弟が台頭し始めており、次男のシャルルが枢機卿となり、アンリ2世の幼馴染の長男フランソワがギーズ公となった。彼らの姉メアリー・オブ・ギーズはスコットランド王ジェームズ5世と結婚して1538年にスコットランド女王メアリーの母后となった。メアリーは5歳半の時にフランス宮廷に招かれ、王太子フランソワと婚約した。カトリーヌはメアリーを自分の子供たちとともにフランス宮廷で育て、一方でメアリー・オブ・ギーズは娘の摂政としてスコットランドの統治にあたった。1559年4月3日から4日、アンリ2世は神聖ローマ帝国およびイングランドとカトー・カンブレジ条約を締結し、長期にわたったイタリア戦争を終結させた。条約では13歳になるカトリーヌの娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世との婚約が取り決められていた。同年6月22日にパリで挙行された代理結婚式は祭典や舞踏会、仮面劇そして5日間にわたる馬上槍試合で祝われた。 -紀元前522年12月に、メディアでもフラワルティ(フラオルテス)がメディア王クシャスリタを称して反乱を起こした。この反乱はメディアの他、アルメニア(アルミナ)、アッシリア(アスラー)地方まで巻き込む大規模なものとなり、ダレイオス1世はメディアで2回、アルメニアで4回、アッシリアで1回の戦いを行った。メディアで行われた最後の戦いで逃亡したフラワルティを捕らえ、メディアの首都エクバタナで鼻と耳を舌をそぎ落とし最後に杭刺しにして殺害し反乱を鎮圧した。 -『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。日本における武家政権の最初の記録と、研究者の吉永博彰には評される。 -グリム兄弟自身は生前メルヒェンの取材源を公にしなかった。唯一の例外がカッセル地方の仕立て屋の妻であった「フィーマンおばさん」ことドロテーア・フィーマンであり、グリム兄弟は第2版の序文で、多数のメルヒェンを提供した彼女の貢献を称え、弟のルートヴィヒ・グリムが書いた彼女の肖像画を掲載したため、彼女は昔話の理想的な語り手として読者から親しまれきた。しかしこの人物は、実際には旧姓をピアソンという、フランスから逃れてきたユグノーの家庭の出で、普段はフランス語を話し『ペロー童話集』などもよく知っている教養ある婦人であったことがヴェーバー=ケラマンの研究によって明らかにされた。 -アメリカ独立後、ボストンは主要な海港、そして製造業の中心地となり、その長く豊かな歴史に呼び寄せられて、現在年間1630万人の観光客がこの地を訪れている。ボストンでは、アメリカ最初の公立学校であるボストン・ラテン・スクール、アメリカ最初の大学であるハーバード大学、アメリカ最初の地下鉄網などが生まれた。市内および周辺地域には多くの総合・単科大学があり、高等教育の中心地であるとともに、医療の中心地でもある。それ以外に市の経済を支えるのは研究、エレクトロニクス、エンジニアリング、金融、テクノロジーなどである。面積当たりの職の数では、ニューヨークとワシントンD.C.に次ぐ。 -サッカー戦争(サッカーせんそう、スペイン語:GuerradelFútbol)は、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。両国間の国境線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題が引き金となり戦争に発展した。この戦争の根本的な原因は両国の経済成長モデルと農地問題に起因した国内矛盾にあり、寡頭支配層が国際紛争を引き起こすことで政情不安の高まりを一時的に回避しようとする狙いがあったと考えられている。一般的には同年6月に行われた1970FIFAワールドカップ・予選における両国の対戦と関連付けた「サッカー戦争」の名称で知られているが、この戦争の性質を端的に捉えたものではない。100時間戦争、エルサルバドル・ホンジュラス戦争、1969年戦争とも呼ばれる。 -性成熟時の体長については研究によって見解にばらつきがある。例えば2008年のクウェートにおける研究では、オスは尾叉長17.5cm以上で、メスは尾叉長29cm以上で50%の個体が性成熟に達していたという。一方で2015年には、インド西部で漁獲された個体の体の化学組成に注目した研究から、性成熟に達する際の体長が雄で28cmから32cm、雌で25cmから30cmと推定された。本種の成長は早く、クウェート沖で調査がなされている魚類の中では、年成長率が最も高いという。 -1163年、エジプトを支配するシーア派の国家ファーティマ朝の宰相シャーワルは政敵のディルガームとの戦いを有利に進めるためにザンギー朝に援助を求めた。翌1164年4月にヌールッディーンはシールクーフを司令官とする遠征軍を派遣し、遠征軍の幕僚にサラディンが付けられた。シールクーフはビルベイスでディルガムに勝利し、シャーワルを宰相に復職させた。だが、シールクーフを恐れるシャーワルは彼にエジプトからの撤退を求め、十字軍国家エルサレム王国のアモーリー1世に援助を求めた。8月からシールクーフの立て籠もるビルベイスはエルサレム軍とエジプト軍の包囲を受け、11月に和議が成立し、シールクーフとアモーリー1世はエジプトから撤退した。1167年にシールクーフとサラディンは再びエジプト遠征を行うが不成功に終わり、同年8月に和議を結んで撤兵する。 -2016年11月13日午後9時からNHKで放送された特別番組「終わらない人宮崎駿」の番組内で、宮崎が「長編企画覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容はモザイクで隠されていたが、「2019年完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。3か月後の2017年2月24日、鈴木敏夫が「OscarWeek2017」で、宮崎駿が長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった。5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートした。10月28日に早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『君たちはどう生きるか』であると明かされた。2018年5月15日、高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた。 -1989年7月から9月にかけて、ボイジャー2号は新たに海王星の衛星を6個発見した。これらのうち、不規則な形状をした衛星プロテウスは、自身の重力で球状になることができない最大級の大きさの天体として注目されている。海王星では2番目に大きな衛星であるが、質量はトリトンのわずか0.25%しかない。海王星で最も内側を公転している4つの衛星、ナイアド、タラッサ、デスピナ、ガラテアは海王星の環の中に入るほど海王星に近い。次に近いラリッサは、1981年に恒星を掩蔽したことで発見された。当時は、この掩蔽は環に起因しているとされたが、1989年にボイジャー2号が海王星を観測した際にラリッサがそれを引き起こしたことが確認された。2002年から2003年までの間に新しく発見された5個の不規則衛星が、2004年に発表された。2013年には、ハッブル宇宙望遠鏡によって撮影された複数の画像を組み合わせた結果、海王星の衛星の中では現時点で最も小さな新衛星ヒッポカンプ(S/2004N1)が発見された。海王星の名称の由来はローマ神話の海の神に因むため、海王星の衛星には、より小さな海の神に因んで命名される。 -サルーム川の下流域に広がる面積50万haのサルーム・デルタは、西アフリカではバン・ダルガン国立公園(モーリタニア・世界遺産)、ビジャゴ諸島(ギニアビサウ)などに次いで、西アフリカでは重要な渡り鳥の繁殖地となっている。ほかにも多くの動物が生息しており、絶滅危惧種のウミガメも多くの種類が生息している。植物相の面ではマングローブ林が広がっている点が特徴的である。これは、西アフリカでのマングローブ林の群生地の北限にあたっており、セネガル国内では優れた景観美を呈している場所として評価されている。こうした動植物を保護するために、地域内には生物圏保護区となっている地域があり、その中にサルーム・デルタ国立公園やラムサール条約の登録地が存在している。 -ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 -『天色*アイルノーツ』は、エルフやセリアンスロープなど現実には存在しない種族と人間が共存する「ライゼルグ」という架空の島が舞台のゲームである。この島には、主人公とヒロインたちが通うフェン・シクリッド女学院がある。ライゼルグは、日本の上空に浮かびさまざまな種族が住む島で、観光地として知られている。物語が始まる数十年前に日本近海の上空に突如現れた後、日本との交渉の末にライゼルグは独立国家として認められ、ライゼルグ市国という国が設立された。ライゼルグ内は中世ヨーロッパ風の町並みで、機械ではなく魔法道具が普及している。ライゼルグにはヒト・エルフ・セリアンスロープなど多種多様な種族が住んでいる。日本からはパスポートなしで入国でき、移動にはゴンドラが用いられる。ただし、日本とライゼルグの行き来には時間がかかり、日帰りには向かない。宿泊施設が多く観光に力を入れているが、移住には慎重で厳しい審査が行われる。ライゼルグ内には、フェン・シクリッド女学院というさまざまな種族が通う教育機関が存在する。この学院はライゼルグにある唯一の学院であり、設立からまだ5年と経っていない。校舎は広いが、学生数は約100人で、そのうち留学生は10人ほど。ヒト・エルフ・セリアンスロープなど、多種多様な種族が通っている。日本の教育を見習って高いレベルの教育が行われており、留学先として人気がある教育機関である。主��公やヒロインたちが通う学院でもある。本作では、エルフやセリアンスロープという架空の種族が登場する。エルフはヒトよりも耳が長く、伝統文化を重んじるという特徴がある。伝統文化を守るため、他の種族との交際には消極的な種族である。セリアンスロープには獣のような耳と尻尾が生えており、身体能力はヒトよりも遥かに高い。また、セリアンスロープは恋を我慢し続けると二度と恋ができなくなるという性質を持つ。 -スミスは、同感を通じて人々が自身の感情や行為が評価されていることを意識し、是認されることを望み否認されることを嫌っていると考えた。しかし、現実社会にはしばしば他人の間にも利害対立があるから、人々が自身の感情や行為の適切性を測るためには利害対立から独立した中立的な基準が必要である。スミスはこの基準を公平な観察者(英:impartialspectator)と呼び、人々が具体的な誰かの視線ではなく胸中の公平な観察者の視線を意識しながら行動していると考えた。ただし、偶然(英:fortune)の下では、公平な観察者の評価と世間の評価とが異なる場合がある。スミスはこのような不規則性(英:irregularity)が社会的に重要な意味があると考え、偶然の下で公平な観察者の評価を重視する行為者を賢人(英:wiseman)、世間の評価を重視する行為者を弱い人(英:wealman)と呼んだ。人間は自己統制(英:self-command)によって胸中の公平な観察者の声に従おうとするが、激しい情念の下では自己欺瞞によって公平な観察者の声を無視しようとする矛盾した存在である。『道徳感情論』は自愛心を主張するものとしてグラスゴー大学におけるスミスの後任者トマス・リードなどによって非難され、かつてはスミスの主著として読まれることも少なかった。 -選挙活動と並行してディズレーリは小説家としても活発に活動した。近東旅行からの帰国の船の中で書いた『コンタリーニ・フレミング』を1832年5月、『アルロイ』を1833年3月に出版した。さらにその後『イスカンダーの興隆(TheRiseofIskander)』、『天国のイクシオン(IxioninHeaven)』、『地獄の結婚(TheInfernalMarriage)』などを続々と出版した。また、メルバーン子爵やホイッグ党政権を批判した『ランニミード書簡』、イギリス憲政について論じた『イギリス憲政擁護論』『ホイッグ主義の精神』など政治論文も多数著した。だがいずれも大した儲けにはならなかった。しかもこの頃ディズレーリは社交界の女性ヘンリエッタと交際するようになっており、その交際費、また選挙活動の費用で支出が増えていた。生活費に困るようになり、友人オースチンから借金をしている。さらにオースチンが止めるのも聞かず、スウェーデン公債の販売に関する事業に携わって失敗し、多額の借金を背負った。1836年から1837年はとりわけディズレーリが自堕落な生活を送っていた時期である。債権者から追われる日々を送り、何度も金の無心に来るディズレーリにオースチンも我慢の限界に達した。オースチンは繰り返し返済の催促をし、一度も返済しないなら法的手段に訴えると脅しさえした。1836年夏から秋にかけて恋愛小説『ヘンリエッタ・テンプル』を書きあげ、10月に出版され、『ヴィヴィアン・グレイ』に並ぶ金銭的成功を収めた。しかしこれだけでは借金を完済できなかったので、1837年5月にさらに『ヴェネチア(Venetia)』を出版したが、これは『ヘンリエッタ・テンプル』ほど売れなかった。 -下総台地が削られてできた谷地では谷津田と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む江戸時代から続く集落は古村(こそん)と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。芝山の集落の多くがこの古村であり、成田側でも取香や駒井野がこれに該当する。なお、駒井野には水野葉舟が居住しており、開墾の様子を「我はもよ野にみそきすとしもふさのあらまきに来て土を耕す」と短歌で謳っている。この地は下総と上総の分水嶺に位置し、江戸時代は天領の代官の管轄区域の末端となっていたために強力な支配権が及ばず、権力に反抗的な風土が培われていたともいわれ、1914年には農民組合が組織されていた芝山町(当時は千代田村と二川村に分かれていた)では農村の階級支配に対し過去数々の争議が行われてきて��り、千葉県内でも農民運動が最も盛んな地域だった。 -また、化け猫の俗信として「行灯の油を舐める」というものがあり、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、ネコが油を舐めることは怪異の兆候とある。これは近世、行灯などの灯火用に安価な鰯油などの魚油が用いられ、ネコがそうした魚油を好んで舐めたためと見られている。また、当時の日本人の食生活は穀物や野菜類が中心であり、その残りを餌として与えられるネコは肉食動物ながらタンパク質や脂肪分が欠乏した食生活にあった。それを補うために行灯の油を舐めることがあり、行灯に向かって二本足で立ち上がる姿が妖怪視されたものとの指摘もある。こうしたネコの神秘性は、江戸時代の遊廓に勤めていた遊女のイメージとも結びつき、当時の草双紙などで人気を博していたキャラクター「化猫遊女」が生まれる元にもなった。 -読書(よみかき)は1917年に水利権の許可が下りていた地点の一つである。読書発電所は1922年3月に着工され、翌1923年12月に竣工した。西筑摩郡読書村(現・南木曽町読書)にあり、木曽川本流のみならず支流の阿寺川・柿其川からも取水可能な設計である。エッシャーウイス製水車、ウェスティングハウス製発電機各3台にゼネラル・エレクトリック製変圧器が設置された。出力は4万700kWである。東京電灯猪苗代第一発電所(出力3万7,500kW)を上回る、当時日本最大の発電所となった。送電線は後述の大阪送電線が接続した。 -競争・勝負がつけられる玩具もある。これには運動を伴うものもあれば、基本的に知的作業のみで行われるものもある。貝殻や土器に発し紙が使われるようになっためんこ、独楽を戦わせるベーゴマ、他にもビー玉やおはじきなどもルールに即したゲームとして使われる。ゲームには、より高度かつ複雑なものも無数に存在する。かるたやトランプなどカードゲーム類、将棋や囲碁およびチェス類、野球盤など数々のボードゲーム類、麻雀、ビリヤードなどから、これらが拡張されたスポーツ全般で使われる用具類も、広義の玩具に入れることができる。最古の盤ゲームは紀元前4000-3500年頃の古代エジプト墳墓から発見されている。これは暦や占いまたは死霊信仰の道具であった。紀元前1400年頃には初期のマンカラが登場してアフリカに伝播した。これは奴隷貿易とともにアメリカ大陸にも伝わり、ハイチではブードゥー教とも関連づいた。一方インドにはギャンブルのひとつとして流行した。 -グラム陰性で、直径約0.5μm、長さ2.5-5μmである。2-3回ねじれたらせん菌の形状を持ち、顕微鏡下ではS字状、あるいはカモメ状と呼ばれる曲がりくねった形態として観察される。長軸の両端(極)に、それぞれ4-8本の鞭毛(極鞭毛とよばれる)を持ち、この鞭毛の回転運動によって、溶液内や粘液中を遊泳して移動することが可能である。微好気性で栄養要求性も厳しいため、分離や培養が難しい部類の細菌であり、酸素濃度5%、二酸化炭素濃度5-10%の雰囲気で専用の培地を用いることで培養可能となる。ヘリコバクター・ピロリは自然環境においては動物の胃内だけで増殖可能であり、それ以外の場所では、生きたらせん菌の形では長時間生残することはできない。しかし、患者の胃生検組織、唾液あるいは糞便中からcoccoidformと呼ばれる球菌様の形態に変化したものが分離されることがある。Coccoidformは一種のVNC状態だと考えられており、この形態では増殖はできないものの、一部のcoccoidformが再びヒトの体内に入って蘇生する可能性が示唆されているため、この性状も本菌の感染に関与しているのではないかという説も提唱されている。 -ファン・ゴッホ作品のカタログ・レゾネ(作品総目録)を最初にまとめたのがジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユであり、1928年、全4巻をパリとブリュッセルで刊行した。ド・ラ・ファイユは、その後の真贋問題を経て附録や1939年補訂版を出すなど、1959年に亡くなるまで補訂作業を続けた。1962年、オランダ教育芸術科学省の諮問によってド・ラ・ファイユの原稿の完成版を刊行するため委員会が組織され、10年をかけて決定版が刊行された。ここでは作品にF番号が付けられている。また、1980年代にヤン・フルスケルが全作品カタログを編纂し、1996年に改訂された。こちらにはJH番号が付されている。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べている。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指す。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されている。 -グレアの研究が始められたのは1910年頃である。電球が普及し、従来の照明とは異なる強い視覚刺激が問題視されはじめた時期であった。グレア研究の先駆となった人物は、アメリカの視覚研究者PercyG.Nuttingであった。彼はアメリカ照明学会(IlluminatingEngineeringSociety,IES)のグレア研究会の座長として「不快なまぶしさ」についての定量的研究成果を発表していった。彼が研究テーマとしていたのは「光源の輝度」と「順応レベル」の関係であった。1920年代、アメリカとイギリスを中心にグレア研究は盛んとなる。この頃、研究初期には同列のものとみられていた「不能グレア」と「不快グレア」が明確に区別されるようになる。研究を主導したのは、主に各国の照明学会であった。1940年代になると、光源輝度と背景輝度の対比を考慮した不快グレア評価法が提唱され、徐々に実用化されはじめる。1950年にイギリス照明学会が提唱したDGI(DaylightGlareIndex)法は「背景輝度」「光源輝度」「視界に占める光源の立体角」の3要素から不快グレアの程度を算出するものであった。 -この曲はアップテンポで、ポップス、ソウル、コンテンポラリー・R&B、ゴスペル、ダンス・ポップ、リズミック・アダルト・コンテンポラリーの影響を受けた構成になっている。8月初めまでにキャリーとアファナシェフは、「悲しくバラード風の」(英:"sadandballd-y")『ミス・ユー・モスト(アット・クリスマス・タイム)』"MissYouMost(AtChristmasTime)"と、「ゴスペル調で宗教的な」(英:"Gospel-tingedandreligious")『ジーザス・ボーン・オン・ディス・デイ』"JesusBornonThisDay"の2曲を既に書き上げていた。アルバムに収録される3曲目のオリジナル曲について、ふたりはこれをアルバムの中心に据えることと、「フィル・スペクター、古いロックンロール、60年代風のクリスマス・ソング」の雰囲気が感じられるようにすることを決めた。 -中国人は本種の近縁種(大黄)の根を数千年にわたって薬用としてきた。西暦紀元前後(漢代)に成立したとされる『神農本草経』にも記載がある。古代ギリシアでも知られており、医師ディオスコリデスが記録した"ρηον"または"ρά"と呼ばれる薬草の根が現在ヨーロッパ圏でいうルバーブ(ダイオウ属)だと考えられる。ルバーブはボスポラス海峡経由でギリシアに伝えられたが、交易ルートが確立されたのはかなり後のイスラーム時代であった。このころルバーブはシルクロードを通って運ばれた。14世紀にアレッポとスミルナの港を通じてヨーロッパに運ばれたルバーブは「ターキッシュ・ルバーブ(R.palmatum)」と呼ばれた。後には別の海上交易路やロシア経由の陸路が開拓された。交易ルートによって「インディアン・ルバーブ」「チャイニーズ・ルバーブ」など様々な名がつけられたが、これらが種や産地の違いを意味するかは明らかではない。ロシア帝国では特にルバーブを対象とした品質管理制度があり、そのためか18世紀ヨーロッパでは「ロシアン・ルバーブ」が最も珍重された。 -芋焼酎(いもしょうちゅう、いもじょうちゅう)は、サツマイモを主原料とした焼酎のことである。甘藷焼酎とも呼ばれる。サツマイモを原料とした大衆的な酒は、世界的に見ても珍しい。柔らかで上品な甘みと特有の香りが特長とされる。奄美群島を除く鹿児島県、宮崎県の平野部、および伊豆諸島などで製造されている。 -極圏の海は水温が氷点下に達することさえある過酷な環境であるが、北極海および南極海の沿岸・大陸棚にはそれぞれ289種、252種の海水魚が分布している。合計72科214属のうち、北極海・南極海の両方に分布するのは10科12属に過ぎず、魚類相の姿は互いに異なっている。 -グレアを生じるような視環境を自力で避けることのできない場合もある。特に視力回復手術後・高齢・白内障などで特別グレアを受けやすい人にとっては、深刻な不快や不便をもたらす。対策���して、偏光のかかったサングラスなどを用いて視覚を守ることがある。又、遮光レンズといい、ある特定の波長のみを減光させてグレアを防ぐものもある。 -学習院大学時代に社会主義や共産主義などの左翼運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。東映動画入社の志望動機書には「米帝ディズニーに対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたと岡田斗司夫が著書で述べているが事実かは不明である。実際に高畑勲らと入社後に激しい組合活動を行っている。宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながら資本論などの理論書は読んでいないと率直に述べている。宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。希望ということなんじゃないかって思いましたから」と述べている。ただし後年に「マルクス的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言や、「今はプロレタリアートがいない代わりに、良い人と悪い人がいるって思ってるだけでね」と語るなど影響を受けている事は認めている。その後も左翼的思想を保ち続けていたが、冷戦崩壊期の1989年に起きた天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に思想的修正を余儀なくされたとする向きもある。 -1947年2月21日に金曜日の午後遅く、駐米英国大使を務めるアーチボルド・クラーク・カー男爵の一等書記官であるM・H・サイチェルが国務省を訪れた。大使から覚書(Aide-Mémoire)を託された書記官は、応対したディーン・アチソン国務次官に対し、ジョージ・マーシャル国務長官との面会を求めた。しかし、当のマーシャルはプリンストン大学創立200年祭で記念講演を行うため、国務省を発ったばかりであった。覚書は緊急の検討を要したが、国務長官宛の正式文書を他の者が受け取ることは出来ないため、応急処置として覚書の写しを国務省近東・アフリカ局長ロイ・ウェズリー・ヘンダーソンに手渡し、正本は後日マーシャルに渡すことにした。 -インドハッカ(印度八哥、Acridotherestristis)は、カバイロハッカ(樺色八哥)の名でも知られるスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属に分類されるアジア産鳥類の1種である。英名はCommonMynaであるが、時にMynahと綴られるほか、"IndianMyna"とも称される。開けた疎林にいる雑食性の鳥で、強い縄張りの習性を持つインドハッカは、都市の環境にも非常によく適応している。 -1775年の春、レキシントン・コンコードの戦いを契機に、アメリカ独立戦争が始まった。だが戦況はその後すぐに膠着し、ボストンのイギリス軍に対する包囲戦が続いた。1775年5月、イギリス軍のタイコンデロガ砦は防御が手薄で、しかも重火器(大砲や火薬)が置いてあることに気付いたベネディクト・アーノルドとイーサン・アレンがタイコンデロガ砦とクラウンポイント砦を占領し、セントジョンズ砦を襲撃した。これらの砦は全て当時はほんのわずかな手勢で守られていた。タイコンデロガ砦とクラウンポイント砦は6月にベンジャミン・ハインマンの指揮するコネチカット民兵1,100名によって守られることになった。 -ヒューストン都市圏における2006年の地域総生産(GrossAreaProduct、GAP)は3255億ドルで、オーストリア、ポーランド、サウジアラビアなどの国内総生産(GDP)を若干上回る。全世界の国の中でも、ヒューストン都市圏のGAPを上回るGDPを有する国はアメリカ合衆国自身を除いて21ヶ国しかない。主に石油や天然ガスの生産による鉱業は、ヒューストンのGAPの11%を占めるが、1985年の21%からは大幅に減っている。オイルショック後の原油価格暴落による経済停滞の教訓から、ヒューストン地域経済は石油への依存度を減らしており、その分技術サービス、保健サービス、製造業など、産業の多様化を進めている。GAPに占める鉱業の割合の減少には、そういった傾向が如実に現れていると言える。ヒューストンは全米10大都市圏の中で、雇用増加率では2位、名目雇用増加数では4位である。フォーブス誌による「ビジネスやキャリアアップに良い場所」のランキングでは、ヒューストンはテキサス州内で1位、全米でも3位につけている。ヒューストンにはアメリカ合衆国外の40ヶ国の政府が国際貿易・通商機関を置き、23ヶ国の商業局・貿易協会が現在活動している。また、アメリカ合衆国外10ヶ国の銀行20行がヒューストンに支店もしくは事業所を置き、地域内の外国人コミュニティに財務補助サービスを提供している。 -旅客車は、鉄道車両のうち主に乗客を乗せるための車両である。動力を有している車両と有していない車両がある。どちらの車両でも、接客のための設備はおおむね共通した構造を有している。動力集中方式に分類される旅客車として客車が、動力分散方式に分類される旅客車として電車と気動車が存在する。近年では、ハイブリッド車やEDC方式の登場により、電車と気動車双方に分類される車両も増えている。郵便物を輸送する郵便車や、乗客の手荷物を輸送する鉄道手荷物輸送(チッキ)において荷物を搭載するための荷物車も、一般に旅客車として分類されている。 -1979年、ヤマハ発動機の第2代社長、小池久雄は社内外に「チャンスが来た!オートバイ業界の盟主の座を狙う」と高らかに宣言した。当時ホンダの軸足は四輪自動車にあった。前年から建設が始まっていたアメリカ合衆国オハイオ州のオートバイ工場は自動車生産への布石であり、ブリティッシュ・レイランド(BL、現:ローバー)との提携も交渉の途上にあった。日本国内でも1978年に販売チャンネル「ベルノ店」を整備し、既に四輪車の売り上げが二輪車を越えていた。一方でヤマハ発動機は、小池自ら主導したマーケティング改革で実力を着実に伸ばしていた。このような状勢の中、小池はヤマハ発動機が仕掛ければホンダは二輪車首位の座を諦めざるを得ず、そしてその地位にヤマハ発動機が着く可能性は充分にあると踏んだ。小池の宣言を、当初ホンダは意気高揚を狙ったプロパガンダだと捉えていた。本田宗一郎と川上嘉市の関係、国内4社しかもファミリーバイクに参入しなかった川崎重工業(現・川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー)を除けば寡占状態の典型のようなオートバイ市場で、ヤマハ発動機が挑戦的な行動を取るとは思えなかった。と言いつつもホンダも無為に過ごす訳には行かず、9月には「カレンNX50」、11月には「ロードパルS」と新製品を発売した。これらの効果もありホンダはシェアを45%前後まで巻き返した。 -これを受けて、詳細を詰めるための東京市区改正委員会が発足した。そこでさらに議論が行われたのち、原案のように新橋と上野を高架線で結び、この間に中央停車場を設置することが答申された。この報告を受けて内務省は鉄道庁長官に対して1890年(明治23年)9月17日付で、中央停車場より南側を官設鉄道が、北側を日本鉄道が建設する形で、ただちに工事に着手するように訓令した。中央停車場が計画されたのは、皇居の前にあたる丸の内、当時の町名で永楽町であった。江戸時代には武家屋敷の建ち並んでいた一帯で、明治維新後には陸軍の兵営や練兵場、警視庁や裁判所などの政府関連施設が並んでいた。しかし繁華街に近いとはいえ監獄も置かれているなど、東京の場末と言ってもよい場所であった。明治政府が安定して皇居の目前で警備を行う必要性も薄れてきたことから、兵営を郊外に移転させてこれらの土地の再開発が検討されることになり、丸の内の広大な敷地が三菱財閥に払い下げられて欧米様式のオフィス街の建設が開始された。馬場先門通りの部分だけは明治末までに煉瓦造りのオフィスビルができあがって「一丁倫敦」(その部分だけロンドンのようであるという意味)と呼ばれたが、それ以外の部分は依然として未開発で、荒涼たる野原は「三菱ヶ原」と呼ばれていた。この原野に中央停車場が建設されることになり、丸の内はこれにより初めて日本のビジネスセンターとしての道を歩み始めることになる。 -夫・中城博はやがて業務上の不正行為が原因で出世コースから外れ、その上、愛人を作るようになった。夫婦仲の亀裂は徐々に深刻化していき、ふみ子は短歌に生きがいを見い出すようになる。中城博は1949年8月には国鉄を退職し、ふみ子の実家である野江家の援助を受けて帯広で高校教師の職に就くもすぐに退職してしまい、その後、建設会社で働き出したもののそこでも問題を起こし、結局1950年5月に夫婦別居となった。戦後、ふみ子は短歌結社に参加し、自作の短歌を発表していた。1949年からは帯広の「辛夷短歌会」に参加し、そこで大森卓と出会う。大森は重い結核にかかっていたが短歌に強く傾倒しており、ふみ子は短歌に傾倒する大森に激しい恋愛感情を抱き、大きな影響を受けることになる。大森は1951年9月に亡くなるが、亡くなった大森に寄せたふみ子の挽歌はその内容が高く評価されている。翌10月には別居中の夫・中城博と正式に離婚となる。 -ほとんどの藍藻は、クロロフィルaをもつ。また一部の藍藻は、クロロフィルaに加えて、クロロフィルb、d、またはfをもつ。クロロフィルdやfは生物の中で一部の藍藻のみがもつ色素であり、人間の目には見えない近赤外光を光合成に利用できる。クロロフィルb(または類似色素)をもつ藍藻は、原核緑藻ともよばれる。原核緑藻のプロクロロコックス属(Prochlorococcus)はクロロフィルaの代わりにジビニルクロロフィルaをもつ点で特異な存在であり、光合成の反応中心でジビニルクロロフィルaを用いる唯一の生物である。またアカリオクロリス属(Acaryochloris)はクロロフィルa量が少なく、反応中心でクロロフィルdを用いている。 -現在のウェスティの血統にもっとも大きな貢献を果たしたのは、ポルタロックの領主エドワード・ドナルド・マルコムである。マルコムは狩猟用にテリアを飼育していたが、あるときキツネと間違えて赤茶色のテリアを撃ってしまった。そしてこの過ちを悔いたマルコムは白い被毛を持つテリアの作出を決心したという言い伝えがある。そしてマルコムが作出した白色のテリアが領地にちなんでポルタロック・テリアと呼ばれるようになっていった。最初期のポルタロック・テリアの被毛の色はサンドで、すでに現在のウェスティの特徴といえる立ち耳を持っていた。ポルタロック・テリアとピトンウィーム・テリアとが交配されたかどうかは明らかになっていない。1903年にマルコムはポルタロック・テリアの作出者として名前が知られることは望まないとして、自身が作出した白い被毛を持つテリアの名前をポルタロック・テリアから改名することを求めた。「ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア」という名称が最初に見られるのは、1908年に出版されたL.C.R.キャメロンの『カワウソとカワウソ猟(OttersandOtterHunting)』である。ウェスティの愛好クラブが最初に設立されたのは1904年で、初代の代表者には第10代アーガイル公ナイアル・キャンベルが就任した。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされ��。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -寺院群は1600年頃(1549年)の大地震により崩壊した。寺院はもはや崇拝における中心的要地ではなかったが、一帯に点在する遺構がなおも認められ、後世の地元のジャワ人に知られていた。その遺構や彫像は、ロロ・ジョングラン伝説の主題や発想の源となった。周囲のジャワの村民は、正式に再発見される以前より寺院の遺構について知っていたが、それらがいつの王朝の支配期のものか、いずれの王がその記念碑的建造を命じたかなどの歴史的背景については認識していなかった。それにより地元の住人は、大男と呪われた王女の神話を取り入れて、寺院の由緒を説く物語や伝説を創作し、プランバナン寺院およびセウ寺院に見事な由緒を与えた。その王女ロロ・ジョングラン(「痩身の処女」の意)の伝説によると、これらの寺院はバンドゥン・ボンドウォソ(BandungBondowoso)のもと、多くの精霊により一夜のうちに建造されたといわれる。 -忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交じった。このような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている。当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった。その村民の中でも特に経済力が大きく、村全体に大きな発言権を持っていたのが永沢家と、忠敬が婿入りした伊能家であった。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根水運などにも関わ��ていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。他方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった。 -イレーヌは子供のころから社交的ではなく、その点においては妹のエーヴと対照的であった。服装や化粧に気を使わず、ノーベル賞の式典でも、周りの女性が着飾っている中で、宝石や装飾品を一切つけずに参加した。また、他人には笑顔を見せず、ぶっきらぼうな態度や言葉づかいで、人と話をしているときにスカートの中からハンカチを取り出して鼻をかむ、などといった行動は、研究所を訪れた人たちを驚かせた。ただし家族や親しい友人のいるときにはくつろいだ表情をみせた。リーゼ・マイトナーは、「イレーヌは、一見したところ無愛想といってもいいくらいだったので、気持ちの暖かさを理解できた人はごくわずかでした」と語っている。ラジウム研究所の研究員は、イレーヌに話があるときは、面会の約束をしなくても、いつでもどんなときでも会ってくれたと証言している。妹のエーヴも、姉は「落ち着いて、いつも機嫌が良い人でした」と述べている。 -1887年9月9日、アイルランド・コーク県ミッチェルスタウンで警官と農民が衝突し、農民3人が警察官に銃殺される事件が発生した。 -警察の記録によると、負傷した兄弟の車からウォッカの瓶を発見したことと、タチアナに投げつけられたと推定される松ぼっくりと棒切れを発見したことを報じた。3人とも大麻を吸引していて、動物園まで飲酒の上で車を運転していた。ソーサの血中アルコール濃度は0.02に達していて、ダリワル兄弟も事件当時酔っていたことが示唆されていた。クルビルの所持する車からは少量のマリファナが発見された。警察は飼育舎の囲いに靴跡を発見したことを発表し、被害者の靴跡と一致するかの法医学的分析を行った。2008年1月15日には、警察への通報記録とその録音が公表された。 -太平洋戦争末期に廃館した後、約2年間にわたって全面的に休館。1947年7月11日には岡崎公園内の康生町511にある演舞場(戦時中は青年学校校舎)だった建物にて再開館した。所在地は岡崎市康生町515、この場所は後に公園管理事務所となり、現在の岡崎公園グラウンド東側付近に相当する。戦後初の館長には岡崎市教育長との兼任で横田良四が就任したが、横田は1955年(昭和30年)頃に専任の図書館長となっている。延床面積は戦前の半分程度の280m2であり、再開館時の蔵書数は戦後の混乱が影響して1,000冊程度だった。閲覧時間は午前10時から午後5時、閲覧料は1回50銭、館外貸出はできなかった。1947年には愛知学芸大学岡崎分校にCIE図書室が設置されている。 -ヴェルサイユ体制は敗戦国のみならず戦勝国にも禍根を残すものであった。戦勝国イタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気によって政情が不安定化した。この状況下でイギリスの支援を受けて勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。同じく戦勝国の日本では、1918年9月に「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣が組織された。1921年にはその原が暗殺されたものの、1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入され、議会制民主主義化が根付き「大正デモクラシー」の興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。この前後の1922年に日本はワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、1923年には日英同盟が解消された。 -治承・寿永の乱(源平合戦)については、鎌倉方が直接関与する部分とそうでない部分とでは、情報の正確さにかなりの開きがあり、特に、源義仲(木曾義仲)の北陸地方における動向などは、かなり後の時代の京都方資料により補っていると見られる。例えば『吾妻鏡』では、養和元年(1181年)8月13日条の記述に、木曾義仲追討の宣旨が出されたとある。『吾妻鏡』と同様に、鎌倉時代後期の成立とされる『百錬抄』にも同様の記述がある。しかし当時の公家の日記、例えば『玉葉』の養和元年(1181年)8月6日条や、『吉記』の同15日条、翌16日条などには「信乃の国逆徒」とあるだけで木曾義仲の名はない。この段階で京が注視していたのは、信濃国に侵出していた甲斐源氏であり、義仲の名が登場するのはそれから2年後の『玉葉』寿永2年(1183年)5月16日条が初見である。 -明治時代になると、榛名湖の北隣にある伊香保温泉に文化人が集まるようになり、竹久夢二、与謝野晶子、高浜虚子らによって榛名湖は文学、絵画、音楽に描かれるようになった。大正時代には、群馬県内で最初の自然公園に指定され、観光客が急増した。高度成長期には1日3万人の行楽客が押し寄せたといい、夏は水上スポーツやボート遊び、冬はスケートや氷上でのワカサギ釣りなどが行われる観光地となった。湖畔には土産物屋がならび、対岸には温泉が掘られ、湖畔の榛名富士や沼ノ原にはキャンプ場やスキー場がつくられ、ロープウェーも建設された。近年は湖上の花火大会やイルミネーションイベントも催されている。 -この時期、リトアニアのカウナスには日本領事館領事代理として杉原千畝が駐在していた。ソ連からはリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告が伝えられ、杉原はソ連政府と日本政府からの再三の退去命令を受けながらも、ドイツのユダヤ人に対する迫害政策から逃れようとしてドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人に対し、1940年7月から彼自身がリトアニアを離れる同年9月にかけて大量のビザを発給している。 -アマミサソリモドキTypopeltisstimpsoniiは、サソリモドキ科サソリモドキ属に分類されるサソリモドキである。サソリモドキの中では唯一日本本土に生息する。沖縄には類似の別種であるタイワンサソリモドキT.cruciferが生息しており、以前は本種と同種とみられていた。 -1804年、セルビアでオスマン帝国に対する不満から反乱が発生した。後にセルビア蜂起と呼ばれるこの反乱はあくまでもセルビアで暴政を振るったイェニチェリに対してであったが、徐々に民族的側面を帯びセルビアの独立を目指すようになっていった。1804年に始まった第一次セルビア蜂起は失敗に終わったが、1815年に再び始まった第二次セルビア蜂起でセルビアは自治権の獲得に成功してセルビア公国が成立、オスマン帝国下ではあるが指導者ミロシュ・オブレノヴィチを世襲君主とする自治国家となった。また、ギリシャ人らも独立運動を展開し始め、1814年にはロシアのオデッサでフィリキ・エテリア(友愛教会)が設立され、アルバニア南部のアヤーン、アリー・パシャも不穏な動きを見せていた。 -このように鉄道院時代の日本における鉄道の役割は、国家目的の遂行、しかも国防上の目的という考え方が背景にあり、一般の人々にとって鉄道は国のもの、「国は悪をなさず」という考え方が強かった。たとえば、1909年(明治42年)、中央本線沿線の武蔵野市(当時の東京府北多摩郡武蔵野村)で蒸気機関車の火の粉によるボヤが生じ、被害者が鉄道院に補償を求めたところ、鉄道院はこれを全く受け付けなかったという。また、事故も頻発していたようで汽車をもじって「人ひき車」と揶揄されるほど、被害も生じたというが、これらの賠償問題がどのようにして処理されていたのか記録が残されておらず、被害者の救済がどのように行われたのか不明であるが、今日で言う無過失責任に近い処理が行われたと考えられている。いずれにしても「国の権威を背景にした鉄道院」、「国は悪をなさず」という世間一般の鉄道に対する認識が、信玄公旗掛松事件の生じた背景に控えていたと言える。 -チョウノスケソウ、ヒメカラマツ、クモマキンポウゲとも、現在、北極海周辺を分布の中心とした広範囲に分布している周北極要素の植物である。これらの植物は最終氷期であるヴュルム氷期に日本列島へ南下してきたものと考えられている。なお氷期に日本列島を南下していく際、東北地方など高い山がないため南下が困難となる場所もあったと考えられているが、火山活動が活発な日本列島では、火山活動による荒原を伝いながら南下していったと見られている。またツガザクラなど一部の高山植物は、中部地方の高山帯を越え、中国、四国地方の山地、そして九州地方の山地にまで達した種もある。中部地��より先まで分布を広げた高山植物が、どのように分布を広げたかについてはまだ明らかになっていない。 -1914年8月1日にドイツはロシアに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦した。ドイツ社会民主党(SPD)は党派争い停止(「城内平和」)を求める政府の呼びかけに応じて戦争を支持した。しかしこの戦争を「帝国主義戦争」と捉えていたローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒト、フランツ・メーリング、クララ・ツェトキンら党内の急進左派は反発し、1914年9月10日にもスイスで発行していた社民党系新聞紙上において党の戦争支持方針への公然たる反対声明を出した。この社民党急進左派勢力がドイツ共産党の源流となる。 -ツキヨタケ(月夜茸)は、ハラタケ目ホウライタケ科のツキヨタケ属に属するキノコの一種である。日本を中心として極東ロシアや中国東北部にも分布し、晩夏から秋にかけて主にブナの枯れ木に群生する。子実体には主要な毒成分としてイルジンSを含有し、そのひだには発光成分を有する。シイタケやムキタケ、ヒラタケなどと誤食されやすく、誤食した場合には下痢や嘔吐といった中毒症状から、まれには死亡例も報告されている。 -もうひとつの代表的な扇形魚道として「棚田式魚道」が挙げられる。同じく扇形の魚道表面(底面)に配置する自然石は扇形の魚道の輪郭に沿って並べられ、順次上流側に向かって間隔をおいて階段状に配置されている。各段の自然石の配列は階段式のプール壁を年輪状に形成されている。魚道全体として原風景の「棚田」を連想させる構造である。この魚道のプール水深は20cm程度としてある。従来の魚道のプール水深が60cm~80cm以上とされてきたのに比べ浅く設定してあるが、この水深については各種の実験結果などにより、アユの遡上行動、跳躍行動、メンテナンスフリーなどにおいて良好な成果が報告されている。また、自然石を連続して並べて自然石と自然石の間に隙間のあるプール壁としてある。この隙間の部分を魚類をはじめ水棲生物が移動経路として通過していくのが確認されている。魚類をはじめとする生物は棚田式魚道の底面に沿って魚道内を遡上することになるため、従来のように幾つものプール壁を乗り越えなくても良い魚道となっている。この隙間付きのプール壁は「スリット付きプール壁」と称されている。 -1988年には瀬戸大橋の開通が好影響を及ぼし、加ト吉「冷凍讃岐うどん」の売上が急増した。 -犯罪少年とは、罪を犯した少年(少年法3条1項1号)をいう。刑法学において「罪」(犯罪)とは、構成要件(刑罰法令が規定する、ある行為を犯罪と評価するための条件)に該当し、違法かつ有責な行為をいう。そこで、犯罪少年と評価するためには、その少年の行為が構成要件に該当し、違法でなければならない。しかし、その少年がその行為について有責であることまで要するかについては、裁判例や学説が分かれている。他方、処罰阻却事由があったり、訴訟条件を欠いたり(東京家裁平成12(2000)年6月20日決定・家月52巻12号78頁)しても、犯罪少年と評価することができると解されている。触法少年とは、14歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年(少年法3条1項2号)をいう。触法少年と評価するための要件は、行為時の年齢を除けば犯罪少年と同一である。年齢に下限の定めはないが、極端に低年齢の行為者には構成要件としての故意・過失や事理弁識能力(自己の行為の社会的意味を理解する能力)が認められないことから、実務上は10歳前後が限界とされているようである。事理弁識能力が問われるのは「意味も分からずにした行為を理由に処罰をしても、行為者の改善・更生には役立たないし、社会に対する示しにもならない」という考えに基づくものであり、刑法学の基本的概念である。 -ゲンゴロウモドキ属共通の特徴として前頭中央後方には暗赤色の三角形の紋があるほか、前頭両側の黄色部の内側には点刻を有する浅い凹みがあり、上唇前縁は弓状に湾入する。前胸背板の前縁付近には不規則で粗い点刻列を持ち、オスでは光沢があるが、メスでは細かい点刻列があり光沢を欠く。オスの上翅には強い光沢と各2条の点刻列があり、後方にも粗い点刻が散在するが、メスの上翅にはオスより強い点刻が散在し前半に各10個の縦溝を持つ。この縦溝は西日本産個体群(コゲンゴロウモドキ)の場合は明瞭な一方、東日本産個体群(アズマゲンゴロウモドキ)では薄いかほとんどないため、前者はメスの上翅に深く長い縦溝がある点で容易に雌雄を区別できるが、後者は他のゲンゴロウ類と同様に前脚の吸盤の有無(オスにのみ吸盤がある)で区別する。 -ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点のひまわりの絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の『ひまわり』である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した『ひまわり』は7点に終わった。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える。西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは「その花が太陽に顔を向け続けるように、信心深い人はキリスト(又は神)に関心を向け続ける」、あるいは「愛する者は愛の対象に顔を向け続ける」という象徴的意味が広まっており、ファン・ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている。後に、ファン・ゴッホは『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、祭壇画のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている。 -1000年にわたる建築文化財が比類のない街の風景を創り出している。バンベルクはローマと同じく7つの丘に築かれた街で、このため、時に「フランケンのローマ」と呼ばれる。バンベルクは、第二次世界大戦でも、大部分が被害を免れ、今日に至るまで変わらない昔の風景を見せてくれている。街は、宗教施設が占めるベルクシュタット(大聖堂周辺の「山の街」)と市民の街であるインゼルシュタット(レグニッツ川の二つの分流の間にある「島の街」)、そしてゲルトナーシュタット(「庭園都市」)の三つの部分からなる。大聖堂の塔がそびえるこの街では、中世の建築物と市民的バロック芸術が、保護文化財となる芸術的アンサンブルを描き出している。 -1872年、次の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが急死した。王位の決定は議会に委ねられ、選挙により親米派のルナリロが王位継承者となって、翌1873年1月、即位した。ルナリロはアメリカ人を閣僚にすえ、アメリカからの政治的・経済的援助を求める政策を採用した。アメリカとの間に互恵条約を結ぶことを目標にして外交交渉もなされたが、ルナリロが肺結核とアルコール依存症によって没したため、王位は再び議会に委ねられた。候補者のひとりが故カメハメハ4世アレクサンダー・リホリホの王妃エマであり、もうひとりは、ハワイを統一したカメハメハ1世(大王)の有力な助言者だった大宮司ケイアウェアヘウルの子孫にあたるデイヴィッド・カラカウアであった。エマ王妃とカラカウアが「国王選挙」で争った結果、カラカウアが当選、1874年2月13日に即位した。 -大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビューした。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -1853年にはアルゼンチン初の農業学校がメンドーサ州に設立された。1860年代にサン・フアン州知事を務めたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントは、フランスの農学者であるミシェル・エメ・プジェを農業学校の校長として招聘し、フランスからブドウの挿し木の導入を進めた。プジェがアルゼンチンに最初期に持ち込んだ品種の中にマルベック種があり、彼は初めてマルベック種をアルゼンチンに植えた人物である。アルゼンチンの人口は国土の東側半分で成長したが、ワイン産業はアンデス山麓がある国土の西側半分に集中した。ワインは荷馬車に積まれて長い道のりを輸送されたため、ワイン販売は困難を要する仕事だった。 -木曽電気興業・京阪電気鉄道の関係者が発起人となって新会社の設立準備を進め、1919年8月に電気事業の経営許可を逓信省に申請、10月にその許可を取得した。そして同年11月8日、東京市において創立総会が開催され、新会社「大阪送電株式会社」が発足した。資本金は2000万円で、出資比率は木曽電気興業側が51.2%、京阪電気鉄道側が48.8%であった。取締役には木曽電気興業から福澤桃介・下出民義・増田次郎・村瀬末一、京阪電気鉄道から太田光熈・林謙吉郎・岡崎邦輔、計7名が就任し、社長に福澤、常務に下出・増田・太田・林の4名が選任された。本社は東京市麹町区八重洲町1丁目で、大阪市と名古屋市にそれぞれ支店を構えた。 -クリミア戦争での敗戦後、ロシア帝国はまず沿岸域防衛用の艦隊を創設した。その作業が一段落した1864年3月、装甲艦シリーズの第二弾を着工する決定がなされた。新しい装甲艦は国内造船所で国産資材を用いて建造することとされており、特に大きな戦闘力と高い航洋性が要求された。海軍省は、イギリスのE・J・リード技師の設計した装甲フリゲート「ベレロフォン」を原型にした装甲フリゲートの建造を決定した。当時、海軍省は5つの設計から8隻の艦船の建造を予定しており、そのうち2隻が「S」設計による砲門装甲艦(Батаре́йныебронено́сцыпопрое́кту«С»)と呼ばれたこの装甲フリゲートになった。 -A300-600STの製造は1993年から始まり、各パーツはスーパーグッピーでトゥールーズに集められ、1994年から最終組み立てが開始された。A300-600STの1号機は1994年9月13日に初飛行し、335時間におよぶ飛行試験を経て1995年10月25日に型式証明を取得した。同年にエアバス社へ引き渡しされ、2号機から5号機についても、初飛行と型式証明の取得、そして納入がそれぞれ進められた。最終組み立てが始まった頃、A300-600STは非公式に「スーパーフリッパー」という愛称で呼ばれていた。これは、テレビドラマ「わんぱくフリッパー」に登場するイルカの名前に由来するという説がある。その後、1994年6月23日、A300-600STの1号機の完成発表と同時に「ベルーガ」という愛称が発表された。ベルーガはSATICによっ���付けられた名前で、エアバス社本体は当初はこの愛称を気に入っていなかったが、広く浸透したことから後に認めて使用するようになった。A300-600STの生産数は5機で、そのうちの1機は当初はオプションとされたが、最終的に5機全てが生産された。 -江戸時代初期には消防組織が制度化されていなかったが、度重なる大火などを契機として火消の制度が設けられていった。火消は、武士によって組織された武家火消と、町人によって組織された町火消に大別される。また、武家火消は大名による大名火消と旗本による定火消に分類される。火消による消火は現代の主な消火方法とは異なっていた。燃えやすく類焼しやすい木造建築が多かった江戸市中では放水による鎮火は難しく、主な手段としては火元の火事場のまだ燃えていない周囲の建物を破壊してそれ以上の延焼を防ぐ破壊消防という方法が用いられた。明和年間ごろからは竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれた木製手押ポンプが配備されたが、人口が急増して飲料水の確保が追いつかないほどだった江戸市中では水を継続的に供給する手段に乏しく、明治維新に至るまでの間、消火の主力は火消人足(中核は鳶職人)による破壊消防であった。燃えやすい安普請の建築が大火の発生を助長したともされるが、反面、壊しやすく再建しやすい構造で大火の類焼を防いでいたとも考えられ、大きな寺社や武家屋敷では類焼が防げずに大火となっている。 -漫画家としてデビューする前の1945年頃、2代目桂春団治が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した(現物は宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている)。2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。1946年、同人誌『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作された。1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている。 -『恋人たちのクリスマス』には3本のミュージック・ビデオが作られた。最初の1本は、スーパー8mmフィルムを用いたホーム・ムービー風で撮影され、1993年のクリスマスシーズンに、キャリー自身の監督・撮影で制作された。このビデオは、キャリーがクリスマスツリーの飾り付けをしているシーンから始まり、雪の山辺ではしゃいでいるシーンに繋がる。外のシーンはニュージャージー州のフェアリー・テイル・フォレスト(英:theFairyTaleForest)で撮影され、キャリーが当時結婚していたトミー・モトラがサンタクロース役でカメオ出演している。その後、キャリーが自身のアルバムのカバー写真を撮ろうとしているシーン、また飼い犬のジャックと共に過ごすシーンに移る。最後にはサンタクロースがキャリーと共に、プレゼントの入った袋を持って、手を振るシーンになる。このミュージック・ビデオは2009年にYouTubeのアカウントで公開されたが、2017年12月段階で、再生回数は3億回を突破している。もう1本のミュージック・ビデオはザ・ロネッツに影響を受けたもので、キャリーは1960年代風のスタジオで、ゴーゴーダンサーに囲まれて歌う。1960年代風の設定に合わせ、映像は白黒で、キャリーは白いブーツに長く梳いた髪である。この映像もキャリーが監督したもので、2つの編集版がある。 -榎本三恵子は1948年7月4日、富山県滑川市に兄一人、姉一人の末っ子として生まれる。生家である細田家は二代続いた薬の配置販売業を営んでおり、顧客の家庭を回って薬箱に使用された分の薬を補給して歩く、いわゆる富山の薬売りであった。祖父が一代で築いたという売薬業は滑川では五本の指に入る大きさであったが、父の代から配置売薬というシステムが徐々に崩れ始め、薬販売の近代化路線に取って代わられ、一家��事業は縮小を余儀なくされる。1955年4月、滑川市立寺家小学校へ入学、同校卒業後は母親と二人で富山市内に住み、1961年4月、富山県内でも名門として知られた富山市立芝園中学校に入学、水泳と陸上に夢中になるが二年の時、胸部疾患で三ヵ月入院、治療を含めて一年間休学する。三年の頃には病弱だった父を亡くし、一家の暮らしは母親が支えることになる。中学卒業後、1965年4月、富山県立女子高等学校商業科へ入学するが、一年二学期の終わりに扁桃炎を手術、経過がよくなく欠席日数が多く二年に中退する。その年の1966年9月、18歳で上京、姉の夫の姉が銀座で経営している高級クラブ『かみしま』で、レジ係やおしぼり作りなどをして働き始める。 -一方の皇帝カール5世は1521年3月のヴォルムス帝国議会でマルティン・ルターを対処することに忙殺されていた。皇帝は宗教改革により帝国が解体することを恐れ、教皇レオ10世もルターが教皇の権威を否定したことにより決別、二人は手を組むことを決めた。フランツ・フォン・ジッキンゲンとザクセン選帝侯フリードリヒ3世を後ろ盾とするルターに対し、皇帝と教皇大使のジロラモ・アレアンドロは1521年5月25日にヴォルムス勅令を発布、ルターをローマ教会から破門するとともに帝国アハト刑に処した。皇帝はさらに当時フランスに占領されていたパルマとピアチェンツァをメディチ家に、ミラノ公国をスフォルツァ家に返還することを教皇に約束した。レオ10世は宗教改革に対抗するうえで帝国の支持が必要だったため、フランスをロンバルディアから追い出す手伝いに同意、これによりフランソワ1世のイタリアにおける同盟国はヴェネツィア共和国のみとなる。 -1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 -「エアバス」という言葉は、もともと特定の機種名や企業名を指すものではなく、「中短距離用の大型ワイドボディ旅客機」という意味合いで使われ、その語源は1960年代の欧州の大型機構想にある。1950年代終盤に707とDC-8が相次いで就航すると、本格的なジェット旅客機の時代が到来した。航空旅客は爆発的に増加し、1960年代の中盤になると旅客機の大型化が望まれるようになった。空港に行けばいつでも飛行機に乗れる時代が到来すると予想され、バスのように気軽に乗れる飛行機として「空のバス」すなわち「エアバス」という言葉が生まれた。1964年にイギリスでは王立航空研究所の主導でメーカーや航空会社も参加した委員会が開かれ、今後の欧州には大量輸送用に経済的な短距離輸送機が必要になるとの考えから様々な機体案が検討された。フランスでも1961年から1962年頃にエールフランスがカラベルの後継となる大型短距離旅客機の開発を求めており、1963年から1965年にかけてシュド、ノール、ブレゲーらの���ーカーが200席から250席級の旅客機構想を相次いで発表した。同じ頃、ドイツ(西ドイツ)の航空機メーカーは小規模だったため、1960年にメッサーシュミット、ベルコウ(英語版)、ジーベル(英語版)、ドルニエ、VFWなどの各社が集まりエアバス検討グループが立ち上げられ、後のドイチェ・エアバスの前身となった。 -石淵ダム(いしぶちダム)は岩手県奥州市、一級河川・北上川水系胆沢(いさわ)川に建設されたダムである。国土交通省東北地方整備局が管理する国土交通省直轄ダムで、北上川上流改修計画に基づく北上川五大ダム計画の第一弾として建設された、高さ53メートルのダム。日本で最初に施工されたロックフィルダムで、コンクリートで上流部の水を遮る日本では5基しか存在しないコンクリートフェイシングフィルダムの一つ。胆沢川・北上川の治水及び胆沢扇状地への灌漑、水力発電を目的とする多目的ダムであるが、治水・利水機能強化を目的としてダム下流2キロメートルの地点に胆沢ダムが完成し、石淵ダムは水没した。栗駒国定公園内に位置する。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -フランスでは、ドリルに代わりジェローム・ラランドが計画の指揮を執っていた。1761年に遠征したパングレとシャップとル・ジャンティは、1769年の太陽面通過でも再び遠征地にて観測を行った。パングレは中央アメリカのハイチへ派遣され、観測を行った。シャップはメキシコのバハ・カリフォルニアへ遠征し、良好な観測を達成した。しかし、当時のメキシコではチフスが流行しており、観測隊も次々に感染して亡くなっていった。観測後に看病しながら仕事を続けていたシャップも感染し、観測地にて没した。シャップの観測記録は、観測隊の生存者によって1年後にパリへ届けられた。1761年にはインド洋上で観測を強いられたル・ジャンティは、観測後はフランス本国には戻らずにインド洋周辺に滞在し、次の太陽面通過に向けて準備を行った。ル・ジャンティはフィリピンのマニラで観測を行うことにしたが、フランス本国からはインドのポンディシェリで観測がより良いと連絡が届けられた。1769年、ル・ジャンティは予定を変更してポンディシェリで観測を行ったが、当日の天候は曇りで、太陽面通過を観測することはできなかった。さらには、観測の帰途で船が難破し、11年を経てパリへ帰還した際にはル・ジャンティは死んだことになっており、財産とアカデミーでの地位を失っていた。イギリスでは、マスケリンが1765年にグリニッジ天文台の天文台長となり、1769年の観測を統率した。前回遠征したディクソンとメイソンは再度観測のために遠征し、ディクソンはノルウェーへ、メイソンはアイルランドへ派遣された。さらに、ウィリアム・ウェールズ(英語版)を北アメリカのハドソン湾へ、ジェームズ・クックを南太平洋のタヒチ島へ派遣した。ハドソン湾への航路は初夏まで凍り付くため、ウェールズは1768年の春の暮れに出航し、観測地で冬を越し、太陽面通過が起こる1769年6月まで待つ必要があった。ジェームズ・クックは、天文学者のチャールズ・グリーン(英語版)と共にエンデバー号で出航し、未開だったタヒチへの航海を成し遂げ、観測に成功した。この航海は、後にキャプテン・クックと呼ばれるクックの第1回航海に当たる���天候に恵まれて太陽面通過の様子を十分観測することはできたが、ブラック・ドロップ現象が現れ、接触の時刻を精密に記録することはできなかった。最終的には、1769年の太陽面通過では、77つの場所で150以上の観測が行われた。観測結果にもとづく太陽視差の計算結果は、8.43秒から8.80秒までの値が報告された。1716年に観測を呼びかけたハレーの見込みでは太陽面通過の観測から1/500の精度で測定可能とされており、今回もブラック・ドロップ効果の邪魔が入る結果となった。しかし、もっと良い精度の結果が期待されてはいたものの、1761年に得られた値からさらに現代の値に近いより正確な値を得ることができた。後の1824年にヨハン・フランツ・エンケが経度の最新値と最小二乗法を使い、1761年と1769年の観測記録から太陽視差8.5776秒という値を算出した。この値は、その後四半世紀ほど太陽視差の代表的値として扱われた。 -1958年(昭和33年)、市川崑は『炎上』(同年8月19日公開。原作は三島由紀夫の小説『金閣寺』)の主役に雷蔵を抜擢した。市川によると、はじめは川口浩を起用しようとしたが、大映社長の永田雅一に反対され、そこで直感的に雷蔵を指名したという。この役は吃音症に劣等感を持つ暗い学生僧で、大映社内にはそれまで二枚目の役ばかりを演じてきた雷蔵の起用を疑問視したり反対する意見もあったが、「俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ雷蔵はこの役を好演した。市川は雷蔵の演技を「百点満点つけていいと思います。もう何もいうことないですよ」と評した。『炎上』での演技はしばしば、雷蔵自身の生い立ちが反映していると評される。市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か...(中略)...彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している。田中徳三は雷蔵の複雑な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している。池広一夫は、生い立ちにまつわる「人生の隠された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷蔵だからこそできた表現と評している。なお、大映企画部だった辻久一が雷蔵自身の生い立ちが『炎上』での演技に影響しているのではないかと問うたところ、雷蔵はこれを否定しなかった。『炎上』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞した。雷蔵はトップスターとしての地位を確立した。 -ラムセスが在位した時期は古代ギリシアが暗黒時代に入り政治的に混乱していた時期と重なっており、「海の民」やリビュア人といった外敵の攻撃に晒された。経済的な苦境にも陥り、国内ではストライキも起こった。 -他方、シリアの教会では第三書の承認が遅れ、5世紀以降になった。5世紀初頭に新約部分が成立したシリア語訳聖書(ペシタ訳)には、ヨハネ書簡は第一書しか含まれていない。それに対し、508年に成立したシリア語訳、フィロクセノス訳には3書簡全てが含まれ、616年の改訂版(ハルケル訳)でも踏襲された。 -コラムニストの小田嶋隆は、毎日新聞の記事およびフジテレビの自己批評番組『新・週刊フジテレビ批評』において2013年に誕生した流行語の多くを批判しているが、「激おこぷんぷん丸」は「合点承知之助」の子孫であると述べた上で、「言葉を人名風に変化させるのは江戸時代から続く伝統的な言葉遊び。これは楽しい」「実は伝統に乗っている素晴らしい必然性を備えた言葉」として肯定的に評価している。國學院大學教授の山西治男は、現代用語の基礎知識(2014年版)において「かつてのライオン丸、近くはおじゃる丸などの影響だろうか、2013年は精神状態を『○○丸』などと表現するのが目立った」と論じている。 -18世紀初頭には、オーストリアはオスマン帝国との戦争で連勝を続け、1718年のパサロヴィッツ条約ではオスマン帝国からベオグラードを一時的に奪取した。同時期、ロシアは1700年にオスマン帝国から黒海沿岸のアゾフを獲得し黒海支配の足がかりを得たかに思われたが、1711年のプルート戦役では敗北してプルト条約でアゾフを返還した。ロシアの圧迫は一時的に緩和され、オスマン帝国はしばらくの間安定した時期を迎えた。従来オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国に特権としてのカピチュレーション(外交特権、治外法権なども含まれる)を与える恩恵的な性格の強い外交政策をとっていたが、この時期には西欧文化・技術を吸収する西欧宥和政策に転換した(チューリップ時代と呼ばれる)。1719年ウィーンに、1720年にはパリに外交使節を派遣するなど自ら積極的な外交を展開する姿勢を示した。 -ホイヘンスは1655年に、DeSaturniLunaObservatioNova(土星の衛星の初観測)を出版し、そこで彼の発見した衛星をSaturniLunaと命名した。ジョヴァンニ・カッシーニが1673年から1686年の間に発見した土星(Saturn)の4つの衛星を公表した後、タイタンとこれらの4つの衛星にはSaturnIからVまでの番号が付与された(タイタンは4番目)。初期にはSaturn'sordinarysatelliteという別名もあった。それ以来、数多くの小さな衛星が土星のより近くに発見されている。土星の新たな衛星が発見されるたびに、タイタンの番号は「第2衛星」→「第4衛星」→「第6衛星」と変更が重ねられてきた。1789年の「第1衛星」ミマスと「第2衛星」エンケラドゥス発見以後は、更なる新発見による混乱を避けるため、この番号制は凍結されることになり、公式にはタイタンは「SaturnVI」(第6衛星)と呼ばれる。タイタン(Titan)とその後に発見される7つの衛星の名称は、ジョン・ハーシェルが1847年に出版したResultsofAstronomicalObservationsMadeduringtheYears1834,5,6,7,8,attheCapeofGoodHopeの中で命名されたものである。土星は英語で「サターン」(ローマ神話の農耕神サートゥルヌスのこと。)といい、サートゥルヌスはギリシャ神話のクロノスと同一視される。このクロノスは「タイタン」(ティーターン、ティタン、チタン)と呼ばれる神族の一柱である。日本では「タイタン」という英語読みの表記や、ティタンという表記が用いられる。 -第一次世界大戦中の1917年、コルフ島に置かれていたセルビア王国亡命議会はコルフ宣言を採択し、ユーゴスラビア王国の建国を決定した。王国は1918年12月1日、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」として成立した。1918年12月1日、王国は国王ペータル1世の摂政王子アレクサンダル1世によって設立が宣言された。 -1931年(昭和6年)頃に50人規模の赤痢患者を出したことから、佐久島の住民の間では安全な飲料水を求める要望が強かった。1958年(昭和33年)頃には再び100人規模の赤痢患者を出し、この事件が契機となって上水道整備が進んだ。それまでは一色港から水槽船が運航されていたが、1973年(昭和48年)、日間賀島や篠島と同様に愛知用水を水源とする海底水道が敷設され、水道の導入は真水を必要とするノリ養殖を盛んにした。 -アロサウルス(属)は、分類学的には大型獣脚類カルノサウルス類に属するアロサウルス科の一つに位置付けられている。アロサウルス科は1878年にオスニエル・チャールズ・マーシュによって創設されたが、1970年代まではメガロサウルス科(en:Megalosaurid)(メガロサウルスをはじめとする獣脚類が属するとされた旧分類)というタクソンの方が好んで使用された。また1930年頃〜1980年頃には属名としてアロサウルスの代わりにアントロデムスが使用され、アロサウルスという学名を復権した1976年のジェームズ・マドセンのモノグラフ以前の出版物を読む場合は注意が必要である。アロサウルス科の代わりにメガロサウルス科を記載している著名な刊行物はチャールズ・W・ギルモアの1920年の論文、フリードリヒ・フォン・ヒューネの1926年の論文、アルフレッド・シャーウッド・ローマーの1956年と1966年の論文、R・スティール(R.Steel)の1970年の論文、アリック・ウォーカー(en:AlickWalker)の1964年の論文である。 -1932年5月30日、ハインリヒ・ブリューニング内閣が瓦解すると、ヒンデンブルク大統領の側近のクルト・フォン・シュライヒャーは、パーペンを後継の首相に推薦した。当時ほとんど無名だったパーペンが推薦されたのは無経験で外見ばかり気にする彼が、シュライヒャーにとって操り人形にし易しと判断されたからという。「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。彼は帽子みたいなもんだ」と語ったという。シュライヒャーの推薦を受けてヒンデンブルク大統領はパーペンに首相就任を打診した。 -警察庁は2019年12月10日現在、4,198箇所で道路の損壊があったと発表している。岩手県山田町の船越半島や宮城県の南三陸町、牡鹿半島などにつながる道路が寸断され、岩手・宮城・福島の3県で少なくとも1万6000人が孤立した。また、茨城県では北浦に架かる鹿行大橋の一部が崩落した。首都高速道路でも湾岸線を中心に被害が発生し、高架橋に破損箇所が発生した新木場出入口-葛西ジャンクション間が3月22日、大黒ジャンクション連絡路が3月27日まで通行止めとなった。東日本高速道路(NEXCO東日本)管内の高速道路では、広範囲の路線で通行止めとなった。東北自動車道の浦和インターチェンジ-碇ヶ関インターチェンジ間、秋田自動車道・釜石自動車道・八戸自動車道の一部、常磐自動車道の三郷ジャンクション以北、磐越自動車道の津川インターチェンジ以東などが公安委員会により緊急交通路に指定され、緊急車両専用となった。3月24日6時に全区間で通行止めが解除され、一般車両の通行が可能となったが、常磐自動車道の広野インターチェンジ-常磐富岡インターチェンジ間は、福島第一原子力発電所事故の旧警戒区域内だが2014年2月22日3年ぶりに再開通(通行再開)した。当初2011年度に予定されていた常磐富岡インターチェンジ-相馬インターチェンジ間は、開通が延期された。なお、旧警戒区域外の南相馬インターチェンジ以北が2012年4月8日に先行開通した。その後、浪江インターチェンジ-南相馬インターチェンジ間は2014年12月6日、常磐富岡インターチェンジ-浪江インターチェンジ間も2015年3月1日に開通し、この日をもって常磐自動車道は全線開通した。東北地方整備局は沿岸部の都市への救援のためくしの歯作戦を実行した。2019年6月現在、浪江町請戸の旧請戸小学校近くの道路には津波の引き波によるアスファルトの表層部分の変位(海側へのずれ)が明瞭に残っている。東北地方太平洋沖地震による津波の痕跡がこのように見られる場所は非常に限られており、防災学習等の分野としても貴重である。 -この隕石の爆発的な分裂により発生したエネルギーは、NASAによりTNT換算では約500キロトンと見積もられている。これは約2100兆J(2.1PJ)、広島型原爆の30倍以上にあたる。ただし爆発は上空数十kmと高かったため、高度約600mで爆発した広島型原爆に比べると、分裂した高度が20kmと仮定した場合、地表での受けるエネルギーは真下でも約37分の1と小さくなり、被害ははるかに小さくて済んだと考えられる。この時、隕石の表面は6000°Cまで加熱されていたと考えられている。CTBTOは先述の観測された超低周音波から、隕石の分裂のエネルギーを450から500キロトンと推定しており、これはNASAによる推定とほぼ一致する。ポポーヴァらの論文では、隕石が持っていた運動エネルギーは、ヒトの可聴域よりも低い周波数の音(20Hz以下の音)の分析による見積りでTNT換算570±150キロトン、衛星からの可視光・赤外光の分析による見積りで590±50キロトンである。 -一方下流の阿賀野川については立憲政友会所属で阿賀川水力電気発起人の一人であった吉野周太郎が1918年(大正7年)に水利権使用申請許可を宮田福島県知事に申請したのが最初である。だが政友会と対立する憲政会所属の大島要三が同志19名と語らい岩越電力株式会社を組織して同じく阿賀野川の水利権使用申請を申請したのである。政友会と憲政会の代理戦争の様相を呈した阿賀野川の水力発電開発は同年12月に政友会所属でもあった宮田知事が阿賀川水力電気に水利権の使用許可を与える旨内諾した。だが宮田知事は内諾後すぐに転出、水利権使用許可申請は6年間保留状態であった。6年後福島県知事が川淵洽馬に替わると岩越電力は再度水利権の申請を行ったが、この時川淵知事は「上流が政友会なら下流は憲政会の方が公平を期すことが出来る」として只見川合流点より下流の阿賀野川の水利権を福島県側上流部は阿賀川水力電気に、新潟県側下流部は岩越電力に与えた。岩越電力は水利権を取得後の1927年(昭和2年)、東信電気株式会社に買収され、現在の新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬にダム式発電所を建設する計画を立てた。これが鹿瀬ダムであり、同年に着工した。この鹿瀬ダムが阿賀野川・只見川流域における最初の発電用ダムであり、以降只見川、阿賀野川にもダム建設ブームが到来するのである。 -成熟期が終わり、歯が口腔内に萌出する前にエナメル芽細胞はなくなる。このため、エナメル質は体の多くの組織と異なり、う蝕や外傷などによるエナメル質の欠損の後、再生する手段がない。ただし、石灰化自体は唾液中に存在する過飽和のカルシウムとリン酸により萌出後も進行する。エナメル質は非病理学的な過程に影響されることがある。喫煙やコーヒー、茶などに長期的に触れることにより変色する。エナメル質のみでなく象牙質もであるが、硬化していく。その結果、年をとるほど、歯の色が暗くなっていく。さらに、流動体の浸透性が低下し、酸に解けにくくなり、水分の含有量が減少する。乳歯、永久歯ともにエナメル質の結晶はハイドロキシアパタイトCa10(PO4)6(OH)2を最小単位として形成されるが、乳歯のエナメル質は永久歯のエナメル質と比較して結晶粒子が小さく、厚さが1/2でほぼ全体での厚さが等しく1-2mmである。また含水量が多く(乳歯2.8%、永久歯2.3%)、硬度が低く、化学反応性が大きく、脱灰の影響を受けてのう蝕やフッ化物による歯質強化を受けやすい。 -『消防犬ぶん公』は、1998年(平成10年)12月に文溪堂から上梓された。著者の水口は1929年(昭和4年)生まれで、幼いころから小樽に「ぶん公」というとても利口な犬がいたという話を聞かされていた。水口はその話を聞いてから、ぶん公が死んでから何年も経っているというのに消防の建物の前を通るたびにその姿を探していた。大人になってからは、ぶん公がいた建物の向かいに全くの偶然でしばらく住んでいたこともあった。やがて水口は創作活動を始め、ぶん公の話を書くことになった。このとき水口は、ぶん公との間に「不思議な糸でむすばれている」縁を感じたという。ただし、ぶん公の活躍していた時期は既に遠い過去のことであった。水口は小樽市立博物館を訪ね、剥製となったぶん公に面会した。ぶん公の剥製は非常に保存状態が良く、毛並みを撫でたり目を見たりしていると、ありし日の活躍が想像できるほどだった。小樽市消防本部や小樽市立博物館などの協力を得て、水口は1編の童話を書き上げることができた。 -1916年12月17日、ラスプーチンはユスポフ一派によって暗殺された。しかし、暗殺犯がロシア有数の大貴族だったユスポフや皇族のドミトリー大公だったため、警察は満足な捜査を行うことが出来ず、ユスポフに拒否され暗殺現場であるモイカ宮殿に立ち入ることすら出来なかった。さらに、ソビエト連邦成立後に捜査資料の大半が破棄もしくは消失したためラスプーチン暗殺の詳細は不明な点が多く、様々な逸話が残されている。 -1930年代後半には新規の水力開発も再開され、1937年(昭和12年)に日義発電所、翌1938年(昭和13年)には城山発電所が相次いで完成した。一方で1936年(昭和11年)に、大同電力寝覚発電所建設に伴い第二発電所(神戸発電所)を同社へと譲渡している。こうして事業の拡大を進めたが、日中戦争勃発後の電力国家管理強化の流れの中で、太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)8月5日、配電統制令に基づく中部配電(中部電力の前身)への電気供給事業設備出資命令が下った。出資すべきとされた事業設備の範囲は、杭ノ原・新開・日義・城山・黒川の5発電所と送電線3路線、変電所1か所、それに中部配電の配電区域内にある配電設備・需要者屋内設備・営業設備の一切である。10月1日付で中部配電への設備強制出資が実施に移され、事業を失った木曽川電力は同年12月1日付にて解散した。 -江戸城内では天守や多くの殿舎、そして多くの濠が造られた。建設に用いられた多くの石材は主に伊豆半島から切り出されて運ばれ、現在の青梅市からは大量の石灰が運ばれ白壁が作られるなど、各地から建築材料が運び込まれた。なお濠の中で道灌濠については太田道灌の築城時に造られたとの説もある。結局寛永13年(1636年)から寛永15年(1638年)にかけて行われた外濠の築造によって江戸城は完成することになる。明暦3年(1657年)の明暦の大火によって大きな被害を蒙った江戸城は、出火対策などの改造が実施されることになった。まず幕府の支配体制が安定した時代には不要不急のものとされた天守の再建が断念された。続いてやはり安定した時代となって江戸城本体にほど近い現在の吹上御苑の地に親藩などの邸がある必要性が薄れ、その上城本体の北西にあたる吹上御苑の地は冬の北西方向の季節風から城を守るためにも防火地とすることが望ましいとされ、まず明暦の大火後徳川御三家の邸などが移転され、その後順次幕臣の邸も移転されて、17世紀末から18世紀初めの元禄、宝永年間には現在の吹上御苑の地は庭園化されることになった。 -オウムは一雄一雌で繁殖を行い、つがいの絆は長年にわたる。多くの鳥は性的に成熟する以前に群れの中でペアとなり、少なくとも1年は繁殖を行わない。雌が初めて繁殖を行うのは3歳から7歳の間のいずれかであり、たいてい雄はこれより年かさである。鳥が雛を取り上げて哺育できる技術を発達させることができるように、性的な成熟は遅れ、これはほかの種の鳥に比べて長期にわたる。なかには若鳥が両親のもとに1年以上とどまる種もある。また、オウムは何年も同じ営巣場所に戻ってくる性質(sitefidelity)を示すことがある。求愛行動は一般に、ことに確立したペアの間では単純である。ただしクロオウムの仲間だけは、求愛給餌行動を行う。確立したペアは互いに羽繕いをしあう行動をするが、おそらくはそのつがいの絆の強さのため、抱卵が始まるとすべての形態の求愛行動は次第に少なくなる。 -人魚伝説は世界各地に存在し、その正体は海牛類などとされるが、日本における人魚伝説の多くはリュウグウノツカイに基づくと考えられている。『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などの文献に登場する人魚は、共通して白い肌と赤い髪を備えると描写されているが、これは銀白色の体と赤く長い鰭を持つ本種の特徴と一致するのである。また『長崎見聞録』にある人魚図は本種によく似ている。日本海沿岸に人魚伝説が多いことも、本種の目撃例が太平洋側よりも日本海側で多いことと整合する。日本近海では普通ではないものの、極端に稀というわけでもなく、相当数の目撃記録がある。漂着したり漁獲されたりするとその大きさと外見から人目を惹き、報道されることが多い。サケガシラなど他の深海魚の浅海での目撃や海岸漂着を含めて、天変地異、特に地震の前兆(宏観異常現象)の一つとされることもあるが、魚類学者の本間義治によれば憶測に過ぎず、東海大学の研究でも否定されている。こうした日本の伝承・俗説は、インドネシアでも知られている。2014年1月に兵庫県豊岡市に漂着した個体では、市内の環境省の学習施設の職員らが解剖調査を行った後に調理して試食しており、身に臭みや癖がないことや、食感が鶏卵の白身のようであること、内臓の部位によっては味が濃厚であることなどを報告している。生きたリュウグウノツカイを漁師が銛で突き、極めて新鮮なうちに食べた記録が、長崎県壱岐諸島の『壱岐日日新聞』519号(2010年1月29日付)にある。全長約5メートル、40-50キログラムの個体で「刺身で食べたらゼラチン質がプリプリして、甘みがいっぱい。まるでエビの刺身」という。また、鍋で食べても、「身が甘くてツルッとした口触りで柔らかく、鍋一杯がアッという間になくなるほど好評だった」という。富山県では冬になると本種がしばしば定置網にかかり、漁師から「おいらん」と呼ばれている。また新潟県の柏崎では「シラタキ」と呼ばれる。 -さて、ヒエラポリスのパピアスによって140年頃に書かれ、エウセビオスによって引用された断片からは、書簡の著者に関して使徒ヨハネとは別の可能性が指摘されている。その断片で長老ヨハネという人物について言及されているからであるが、この人物について知られていることはパピアスの乏しい言及以外には何もないので、第三書の著者とこの詳細不明の人物と結びつける根拠は何もない。それでもヒエロニムスがこの「長老ヨハネ」を第二・第三ヨハネ書の著者と位置づけていたことで、近代以降にもこの見方を採る者たちがいる。その延長線で、中村和夫、NTD新約聖書註解シリーズでヨハネ書簡を担当したヨハネス・シュナイダーらのように、3書簡すべてを長老ヨハネの作品とする者もいる。3書簡を執筆したのは使徒ヨハネその人かもしれないし、長老ヨハネのような他の人物かもしれないが、チャールズ・ドッドは「もしも我々がこれらの書簡の匿名の著者を...いくらか知られている人物と結び付けようとするなら、ほとんどうまくいかないものと思われる」と述べていた。 -FCバルセロナはサッカーやバスケットボールなどの競技チームを持つ総合スポーツクラブであり、サッカー部門は世界戦略を展開する強豪クラブである。マドリードに本拠地を置くレアル・マドリードとライバル関係にあり、両者の対戦はエル・クラシコと呼ばれる。カタルーニャ人にとってFCバルセロナは単なるスポーツクラブに留まらず、クラブの歴史はカタルーニャの歴史と重ね合わされる存在である。ホームスタジアムであるカンプ・ノウは、フランコ体制下でカタルーニャ語の使用が許可された唯一の場所であり、エル・クラシコはカタルーニャと中央政府の代理戦争の意味合いを呈した。FCバルセロナはソシオと呼ばれる会員によって運営されていることが特徴である。 -工業規模でのベリリウム産出に関与しているのはアメリカ、中国、カザフスタンの3国のみである。2008年時点のアメリカにおけるベリリウムおよびベリリウム化合物のおもな生産者は、ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社である。ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社では、ベリリウムを製錬するための原料の大部分を自身が所有するスポール山の鉱床(ユタ州)から産出されるベリリウム鉱石(ベルトラン石を含む)から得ている。ベリリウムの製錬およびほかの精製は、ユタ州デルタの北10マイルにある工場で行われており、その場所はインターマウンテン・パワー・プロジェクトによる発電設備から近くかつ町からも離れているために選ばれた。1998年から2008年までの間、ベリリウムの世界の生産量は343トンからおよそ200トンにまで減少しており、200トンのうち176トン(88パーセント)はアメリカで生産されている。真空鋳造によって製造されたベリリウムインゴットの2001年におけるアメリカ市場でのキログラム単価は745ドルであった。日本での国内取り扱いトップの日本ガイシによると1キロあたり70-80万円である。 -第一次世界大戦後は、フランスの地方都市で鉄筋コンクリート製のトレイン・シェッドがいくつか建設されている。このうち港町であるシェルブールとル・アーヴルのものは、旅行者に対する印象を念頭に設計された。またランスでは、トレイン・シェッドが第一次世界大戦で破壊されたまま、復旧されない方針であった。ところがランス市民は、トレイン・シェッドを失ったままでは都市の格が下がったように感じるとして、トレイン・シェッドの再建を求める運動を行なった。このため鉄筋コンクリート製の新しいシェッドが建設され、1934年に完成した。戦間期に建設された他のトレイン・シェッドとしては、イタリアのミラノ中央駅(1933年)がある。 -ドイツ空軍・コンドル軍団はゲルニカ爆撃作戦をリューゲン作戦(OperationRügen)という作戦名で呼んだ。ビトリア=ガステイスの飛行場は狭かったため、コンドル軍団の戦闘機基地はビトリア=ガステイス、爆撃機基地はブルゴスに分かれていた。フーゴ・シュペルレ将軍はサラマンカの反乱軍総司令部に留まり、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン大佐が攻撃部隊の実戦指揮を執った。リヒトホーフェンは当時の日誌で、共和国軍の退却路を断つことをリューゲン作戦の目的として挙げている。 -成岡は病臥の身のままで1942年(昭和17年)の新春を迎えることになった。その時分から彼の容態は快方に向かいつつあった。2月になると、前線に出動していた連隊の主力部隊が任務を果たして引き上げてきた。軍用トラックから降りてきた兵士たちは、白布にくるまれた包みを十数個携えていた。帰還した兵士たちは疲労の色が濃かったものの、成岡のもとに走り寄って「成岡曹長殿、ご病気はよくなられましたか」と容体を気遣い、成岡もその思いやりに感謝しつつ「ご苦労様でした」と彼らの労をねぎらった。成岡は秋田中隊長に「留守中異常ありません」と報告したところ、秋田は成岡の病気全快を喜ぶとともにハチの近況を問いかけてきた。成岡は秋田の問いかけを聞いて、ハチの姿が見えないことにようやく気づいた。成岡が自室に戻ったところ、ハチは土間の隅にうずくまっていたが、明らかに様子がおかしかった。成岡はハチののどに何かが刺さっていることに気づいて、嫌がるハチの体を押さえてのどの中を覗き込もうとした。大きく成長したハチは必死に抵抗を続けたため、成岡はそれ以上の処置を断念せざるを得なかった。やがてハチは屋外に出て行った。 -1901年(明治34年)に入ると記念碑建設への動きが本格化した。1月15日には米友協会の金子会長の名で、設立趣意書を各方面に配布するとともに募金を開始した。募金は順調に集まり、日米両国から寄せられた募金総額は6月末までに2万円余りに達した。その上、6月23日には宮内省から明治天皇の思召とのことで1000円が下賜された。 -グレア(glare、眩輝『げんき』、眩惑『げんわく』)とは、不快感や物の見えづらさを生じさせるような「まぶしさ」のことをいう。ある光の状態がグレアとなりうるか否かは、周辺の総合的な環境と個々人の生理的状態で決まる。光源とその周辺との明るさのバランスや、直接光・間接光の別、視線の方向と光源のなす角度などにも依存する。また、同じ光環境、同じ位置であっても、観察者の特性によってグレアとして受け取られるか否かは異なる。特に高齢者はグレアを感じ易く、また不快感から回復するのに要する時間も長い傾向にある。グレアは、程度によっては単なる不快感にとどまらず、眼の障害や、状況把握能力の急な低下による事故などにもつながるため、照明器具の設計や照明計画などにおいては、グレアを防ぐことが必須となる。国・地域によっては、道路交通や照明設計に関して、グレア防止のための法規が整備されている。たとえばヨーロッパでは「輝度制限法」によって照明器具の輝度が制限されている。なお、グレアは光害という概念とも一部共通するが、「光害」が主に公共性の面での問題として捉えられるのに対し、「グレア」はより工学的な問題として捉えられる。 -「Hervatska」紙の主張は、クロアチア民族内において決して特別に急進的なものではない。1869年にエウゲン・クヴァテルニク(EugenKvaternik)はドン・ミホヴィル・パヴリノヴィッチ(donMihovilPavlinović)に手紙を書き、「クロアチア国家と歴史的権利」に従いクロアチア権利党の政策を完遂すれば、ドラーヴァ川からアドリア海までではなく、ザルツブルク・アルプスからアルバニアおよびコソボまでの領域に純粋で穢れなきクロアチアの国旗がはためくだろうと述べた。 -とはいえ、1623年のアンボイナ事件をはさんだ時期において、平戸の商館を閉鎖するなど、アンボイナ事件以前より、イギリスは東アジア・東南アジアにおける活動を縮小しており、イギリス東インド会社の主な活動拠点は、インド亜大陸とイラン(サファヴィー朝)へ移っていった。今日、アンボイナ事件の歴史的意義を見直す動きもあり、アンボイナ事件を契機に東南アジアにおける活動の撤退をしたとされる学説を否定する主張もある。それによると、あくまで、アンボイナ事件の意義とは、イギリス、オランダ両国において、封印されるべき記憶として刻印されたものの、事件の原因は当時のオランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(en:JanPieterszoonCoen)が個人的にイングランド人を毛嫌いにしており、本国政府の意向を無視したからに他ならないとの事である。 -そもそもの白人とインディアンとの戦争は、クリストファー・コロンブスの上陸に始まるものである。コロンブスは中米のインディアン諸部族を艦隊を率いて数年にわたり虐殺し、その人口を激減させた。インディアンたちを黄金採集のために奴隷化し、生活権を奪ったためにインディアンたちは飢餓に陥り、疫病が蔓延し、その数をさらに減らした。白人のもたらした疫病が中米のインディアンを減らしたのではない。コロンブスによる大量虐殺が、疫病によるインディアンの激減を招いたのである。 -カール10世(在位:1654年-1660年)の時にスウェーデンはオリヴァ条約でポーランドからリヴォニアを獲得した(大洪水��代)。またデンマークとのカール・グスタフ戦争ではユトランド半島を制圧し、1658年のロスキレ条約によってスコーネ(スウェーデン南部)、トロンハイム(ノルウェー中部、後に返還)、ボーンホルム島を割譲させた。こうして1560年から1658年の間にスウェーデンはフィンランド湾を中心としたカレリア、イングリア、エストニア、リヴォニア地方を含むバルト帝国をつくり上げた。 -震源に近い玄界島には、3月20日の本震の時点では震度計が置かれていなかった。本震における玄界島の震度はいくつかの推定が発表されているが、幅がある。地震学者の武村雅之は余震のデータを基に推定で震度6弱(5.9)とする試算結果を発表している。筑波大学の境有紀の話によれば住宅被害の多くが地盤崩壊や崖崩れを伴い建物自体が地震動で大きく破壊されたとは考えづらいものの、屋根瓦の被害率が高い状況などから震度6強相当ではないかとHP上で発表している。東京大学地震研究所の三宅弘恵らの研究チームは余震の観測記録を基に本震の地震動をシミュレーションし、推定で震度7(6.5)に達した可能性があるという試算結果を発表している。気象庁は玄界島の被害程度の調査を行っており、山本雅博地震津波監視課長(当時)は記者会見で「調査結果を総合的に見ると震度6弱程度ではないか」とコメントしている。なお、気象庁は地震機動観測班を派遣して玄界島漁村センター(福岡市西区玄界島)に震度計を設置し、3月21日18時から観測を開始した。 -ピョウタンの滝(ピョウタンのたき)は、北海道十勝総合振興局管内河西郡中札内村の札内川上流域にある滝である。地図上では滝として記されているが、本来は人の手により建設されたダムであった。ピョウタンの滝の元となったダムは小水力発電の取水施設として建設され、1954年6月に竣工式が執り行われて農協ダムと呼ばれた。しかし1年後の1955年7月、豪雨により流された土砂で埋没し、発電施設も壊滅的打撃を受けて再建は断念された。残された堰堤はいつしか「ピョウタンの滝」と呼ばれるようになり、周辺一帯が「南札内渓谷札内川園地」として整備され、札内川を代表する観光名所となった。堰堤の全高は18メートル、長さは84.5メートルである。自然の大岩をいくつも抱き込むようにコンクリート堤体が建設され、自然の滝のような落水表情が得られている。 -ハリモグラ(Tachyglossusaculeatus)は、単孔目ハリモグラ科ハリモグラ属に分類される単孔類。本種のみでハリモグラ属を構成する。背面がトゲで覆われており、特有の吻と特化した舌を持ち、それを使い獲物であるアリやシロアリを素早く捕らえる。現存している他の単孔類であるカモノハシやミユビハリモグラ属のように、卵生であり、育児嚢や母乳で子供を育てる。英語では、エキドナ(Echidna)と呼ばれる。オーストラリアに広く自然分布し、ニューギニア島南西部の高地および海岸地帯にも分布している。差し迫った絶滅の危機にはないともいわれるが、狩猟や生息地の開発などの人間活動、外来種や寄生虫などにより、オーストラリアにおける分布域は減少しつつある。 -篠島の南0.8kmにある野島は面積0.03km2の無人島であり、篠島小学校がサバイバルキャンプなどに利用していたことがある。野島には篠島の属島では唯一、灯台(野島灯台)と社(野島神社)が設置されている。野島灯台は1957年(昭和32年)12月に初点火されたものであり、野島神社は7月の野島祭の際に信仰の対象となる。篠島の北西0.2kmにある木島は面積0.03km2、最高標高36mの無人島である。 -ロシア帝国末期になると、皇帝専制体制のもとで急激な経済成長が進められる一方で、経済成長によって生じた問題への不満から大衆運動が活発化した。こうしたなか、地主貴族を含む地方議員や中産階級の専門職層からなる自由主義知識人たちの政治的結集が進む。1903年7月に政治団体「解放同盟(ロシア語版)」が結成されると、パーヴェル・ミリュコーフら自由主義知識人はこの団体のもとで憲法制定や皇帝専制打倒を訴える政治運動を行った。1905年に第一次ロシア革命が起き、皇帝ニコライ2世は国家ドゥーマ(国会)を設置することを同年2月18日の勅書において約束した。これを受けて、ロシアの自由主義勢力のあいだでは、将来の���会開設に備えて政党の結成の動きが加速化する。しかし、国会が立法権を持たない単なる諮問機関となることが明らかになると、自由主義勢力の多数がこれに反発した。 -『Umbrella』は、2008年12月8日付の日本の音楽セールス調査会社オリコンの週間CDアルバム・チャートにて発売初週に約56,000枚を売り上げ、同週発売の中島美嘉の『VOICE』に続く2位で初登場した。アルバムが2位を記録したことにより、10代男性ソロ歌手のファースト・アルバムのTOP3入りとしては1981年3月23日付の近藤真彦『Thank愛You』以来27年9ヶ月ぶり、更に10代男性シンガーソングライターとしては1978年4月3日付の原田真二『フィール・ハッピー』以来、30年8ヶ月ぶりにして史上2人目という記録を打ち立てている。チャートイン2週目には、アルバムは約26,000枚を売り上げ6位を記録し、トップ10を維持した。このアルバムは合計で同アルバムチャートには20回のチャート・インを果たしている。加えて『Umbrella』は日本レコード協会からはゴールド・アルバムの認定を受けている。台湾では『Umbrella』は2008年12月にリリースされ、台湾G-MusicJ-POPチャートでは2008年同チャート第49週付のチャートにて第6位でチャート・デビューしている。 -米村は科学技術館の「ワークス」でサイエンスショーの実演をする一方で、地方から依頼のあったサイエンスライブショーの公演を行うようになった。1998年、科学技術館で米村の実験助手を務めていたチャーリー西村などと共に、「米村でんじろうサイエンスプロダクション」を立ち上げた。2004年より、岩手大学で任期付き客員教授を務めた。2005年、愛知万博では、長久手会場日本広場内にて「日本館わくわくエネルギー教室」を監修し、自ら出演して実演実験を行った。2006年4月20日には、科学技術館を視察に訪れた内閣総理大臣小泉純一郎が、遠足で訪れていた厚木市立厚木第二小学校の小学5年生の28人と一緒に米村の実験ショーに参加した。2007年9月には、NHKの番組撮影と国際協力機構(JICA)のサポートで、ケニアの中学校、孤児院などで科学実験の授業を行った。2008年にチャーリー西村が独立したが、その後もアシスタントとして杉木優子、ジャイアン村上、市岡元気などのキャスティングでサイエンスライブショーを各地で実施している。 -平たいお面のような顔で、頭は丸くて大きい。目は大きく暗闇でも物がよく見えるように眼球が大きく発達し、眼球とまぶたの間に半透明の瞬膜があり、日中は眼球を覆い網膜を保護する。角膜は大きく盛り上がり、網膜細胞が発達している。目は、他の種類の鳥が頭部の側面にあるのに対して、人間と同じように頭部の前面に横に並んでいる。虹彩は黒や暗褐色。嘴は先端が鋭く、視野の邪魔にならないように短く折れ曲がっていて、色彩は緑がかった黄褐色。趾は羽毛で被われ、指が前後2本ずつに分かれていて、大きな指の先に鋭いかぎ状の爪が付いている。ミミズクにある羽角はなく、耳は目の横にあり、顔盤の羽毛で隠れている。幼鳥は全身が白い羽毛で被われる。 -金沢CIE図書館は1948年(昭和23年)6月4日、石川県金沢市西町三番丁の一村産業ビルに設置された。後に下本田3番町5へ移転。図書館長はM.O.クレー。講和条約発効後はアメリカ文化センターに改称された。1951年(昭和26年)には第1回金沢県図書館大会の会場にもなっている。長野CIE図書館はCIE図書館より先に、1947年(昭和22年)3月に長野県立図書館内にCIE読書室が開設され、続いて松本市、諏訪市、上田市、飯田市、岡谷市にもCIE読書室が置かれた。1950年(昭和25年)10月3日(6月とする資料もある)、CIE図書館が長野県長野市城山公園内のアメリカ文化館に設置された。図書館長はV.H.イェイツ。1952年(昭和27年)、長野アメリカ文化センターに改称した。 -868年にデーン人のブルグレッドがマーシア王位についたが、これが最後のマーシア王となった。ブルグレッドは874年追放され、マーシア王国はデーン人とウェセックス王アルフレッドによって分割、歴史の表舞台から姿を消した。 -石炭は蒸気ボイラー用燃料として発電・製鉄所・各種工場燃料に使われるほか、途上国では鉄道・船舶暖房や煮炊きに使われる場合もある。また日本のセメント工業の燃料としては石油よりも多く使わ��ている。製鉄所では瀝青炭を乾留したコークスが大量に使用されている。乾留の際の副生成物であるコールタールは化学薬品などの原料として重要であり、同じ副生成物のコークス炉ガスは過去に都市ガスとして使用された。また固体燃料の取り扱いの不便さ改善のために石油と混合して液体燃料化したCOMや、水と混合した液体燃料CWMも実用化されている。また石炭を化学的に液化(石炭液化)して人造石油を合成する方法として水素添加法や、石炭をガス化した一酸化炭素と水素を元にフィッシャー・トロプシュ反応により炭化水素を合成する方法(南アフリカで実用化)などが工業化、第二次大戦ではドイツは人造石油で軍用燃料をまかなっている。 -于闐を滅ぼした後、アフマド1世は天山ウイグル王国に改宗のための聖戦を数度にわたって実施する。1017年にカラハン軍はベラサグンから天山ウイグル王国に攻め込むが反撃に遭い、天山ウイグル王国の軍隊はベラサグン近郊に接近した。病床についていたアフマド1世は陣頭で指揮を執って天山ウイグル王国を破り、トルファンに進軍するが、帰国後に病没した。アフマド1世の死後にカラハン朝内部の抗争は激化し、ホータンを支配するユースフ・カディル・ハンがカシュガルのハン位を継いだ時代には中央アジアの支配権を巡ってガズナ朝と争った。 -救援物資の調達では水や食料は農林水産省、日用品と燃料は経済産業省、医薬品は厚生労働省がそれぞれ各業界から集め、それを自衛隊や、国土交通省が依頼した運送業者が輸送する(日本通運などの運送業者や全日本トラック協会は政府の指定公共機関となっている)という体制がとられた。物資は自衛隊や在日米軍の各基地や駐屯地から、航空自衛隊松島基地や米軍により復旧された仙台空港、福島空港、花巻空港(岩手県)へ空輸され、陸路で県の一次物資集積拠点に搬入されたのち、民間業者により荷卸し・仕分け・搬出され市町村の二次集積所へ運ばれ、陸上自衛隊のトラックで各避難所へ運ぶという方式がとられた(※岩手方式)。自衛隊以外では東京消防庁航空隊のヘリコプターや海上保安庁の巡視船や航空機を利用した物資輸送が行われ、さらに国土交通省の大型浚渫兼油回収船の清龍丸、海翔丸、白山による緊急物資輸送や、航海訓練所所属の航海練習船である銀河丸および海王丸(2代)による医薬品などの緊急物資輸送、調査捕鯨船日新丸や、水産庁所属の漁業取締船、水産総合研究センターの調査船などを利用した物資供給も行われた。また(社)海外まき網漁業協会所属のまき網漁船は、3月13日以降に計26隻が被災地へ向かい、船に搭載された小型艇(レッコボート)を用いて大型船が接岸できない地域に食料、軽油、毛布などを搬入した。また全日本海員組合はチャーターした200トン型イカ釣り漁船を用いて、函館港から宮古港、気仙沼港、石巻港への物資輸送を行っている。 -本艦の起工と同時に実質的な乗員の編成に着手された。このために、第36海兵団が編成された。海兵団には、砲術士、機関士、水雷術士が含まれていた。1905年5月に艦が竣工した時点で乗員は731名を数え、そのうち26名が士官であった。1905年6月14日、艦上で水兵による武装蜂起が発生した。黒海艦隊ではかねてより武装蜂起の準備がされていたが、蜂起の計画者らは本来1905年秋に決起する計画を立てていた。しかし、ポチョムキンは突出し、計画よりずっと以前に蜂起を実行に移したのである。6月14日、ポチョムキンはテーンドル湾の沖合い停泊地にて武装の試験を行っていた。叛乱突発の原因は、昼食のボルシチに腐った肉が使われているのに不満を申し立てた水兵に対して艦の指揮官が懲罰を加えようとしたことであった。それに対し、水兵らはライフル銃を取り、士官らを武装解除した。艦長と上級士官のほか、特に憎まれていた士官は水兵によって射殺された。残る士官らは逮捕された。蜂起の指導者には、パナース・マチュシェーンコが選出された。艦を掌握すると、水兵たちは艦船委員会と指導部を選出し、武装や機関、および逮捕者の管理に関する艦の体制を整えた。 -この項目では東大寺の歴史(とうだいじのれきし)について解説する。東大寺は、奈良県奈良市にあり、現在では華厳宗��大本山の、奈良時代から続く歴史ある大寺院である。奈良の大仏(盧舎那仏、るしゃなぶつ)があることで有名である。東大寺は、創建当初から「東大寺」と呼ばれてきたわけではない。文書における「東大寺」の初見は、天平19年(747年)12月25日日付の正倉院文書の一つ、『東大寺写経所解』(とうだいじしゃきょうしょのげ)である。また同時期には、「東大之寺」という表記も散見される。現在につながる「東大寺」の由来は、平城宮の東に位置する官大寺であろうが、詳細は不明である。大仏の建立時に「自然発生的に生まれたもの」だと推測されている。21世紀現在まで1,200年以上の歴史を持つ東大寺は、日本史そのものに多大な影響を及ぼしてきた。平岡定海によれば、東大寺の歴史を見るには、次の4つの視点があるという。羅列すると、政治史的立場、宗教的立場、寺院史的立場、最後に美術史的立場となる。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -マック将軍はオーストリアの安全保障がフランス革命戦争中に多くの戦いが行われてきた南ドイツのシュヴァルツヴァルト一帯の隙間を埋める事にかかっていると考えていた。ドイツ中部では何の軍事的行動も起きないと考えたマックは、ウルムを防衛戦略の中心に据えることにした。そのためには、ミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が到着してナポレオンに対する勝算が増すまで、フランス軍を食い止める必要があった。要塞化されたミヒェルスベルクの高地に守られているため、ウルムは事実上外からの攻撃によって陥落できない都市であるという印象をマックは持っていた。 -ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 -だが、最大の難問であった鋼材納入について最良の結果を得たと言っても、その時点で絶対的な工期の不足がほぼ致命的な水準に達していたことに変わりはなかった。国内で調達可能な補助部材については先行して調達と加工を実施するようにしたものの、主要鋼材到着後にそれらを工場で加工し、工場で一旦仮組みした後に分解、輸送し現場で再度組み立てるという、大規模構造物建築で常識とされる手順を踏んでいたのでは、1928年1月の鋼材到着後、1928年11月に予定された御大典までの10ヶ月に満たない短期間でこの橋梁を完成させ、路線そのものの開業にこぎ着けることは到底不可能であった。そこで関場らは、実際に橋桁の製造を担当する川崎造船所兵庫工場(本橋梁工事中の1928年5月18日付で川崎造船所から独立、川崎車輛兵庫工場となる)での仮組工程を省略し、加工済み部材を現場にて直接組み立てることを決断した。仮組を省略した場合、その分の所要時間を節約できるが、その反面、部材の切断ミスや接合用リベットのために予め開口された鋲孔のずれなどがあった場合、それらの修正のために架設工事全体が大きく遅れ、仮組を実施するよりもかえって時間がかかってしまう危険がある。そのため、川崎造船所で実際の桁製造を監督することになった阪根繁三郎技師はその部材製作工程の管理および工作精度の維持に細心の注意を払うことを強いられ、また設計を担当する関場らもミスが一切許されないため、本橋梁に関する各種図面の精査に追われた。 -当時のバコールは20世紀フォックスと出演契約を結んでおり、『百万長者と結婚する方法』に続いて20世紀フォックスが配給するコメディ映画『ニューヨークの女達』(1954年)に出演した。監督も前作と同じくジーン・ネグレスコだったが、『百万長者と結婚する方法』ほどには興行成績は伸びなかった。1955年に、ボガートの出世作となった映画『化石の森』(1936年)が、テレビの生放送番組「プロデューサーズ・ショウケース」でドラマ化された。ボガートは映画版と同じデューク・マンティ役で、新たにヘンリー・フォンダがアラン役を、そしてバコールは映画版ではベティ・デイヴィスがつとめたガブリエル役を演じた。『化石の森』はもともとブロードウェイで上演されていた舞台作品で、映画化する際にワーナー・ブラザースは舞台版でボガートが演じていたデューク・マンティ役をエドワード・G・ロビンソンに変更するつもりだった。しかしながら、舞台版に引き続いて映画版でも主役のアラン役が決まっていたレスリー・ハワードが、映画版でもデューク・マンティ役はボガートが演じるべきだと主張したという経緯があった。このことに感謝して、ボガートとバコールの間に生まれた娘はレスリー・ハワード・ボガートと名付けられている。 -ナポレオン1世が失脚し、フランスはルイ18世が王位に就いて、王政復古期(1814年-1830年)に入る。ルイ18世と次王のシャルル10世の治世下で、72万フランをかけてルーヴル美術館に135点の美術品が追加された。さらに、古代エジプト学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンの指揮の下、古代エジプト美術品の専門部局が編成され、イギリス人画家、エジプト学研究者ヘンリー・ソルトやイタリア人古美術品収集家ベルナルディーノ・ドロヴェッティらのコレクションから、7,000点以上の古代エジプト美術品を購入している。ただし、この時代に追加された美術品の数よりも、王権を回復するためという名目でルーヴル美術館からヴェルサイユ宮殿へと持ち出された美術品のほうが多かった。1848年に第二共和制が成立すると、共和政府は美術品の修復費用として200万フランを供出し、さらに美術品の展示場所である「アポロン・ギャラリー」、「サロン・カレ」、「大展示室」の完成を推進した。1858年にフランス第二帝政が成立し、フランス皇帝となったナポレオン3世は、1861年に641点の絵画、古代ギリシアの金貨、ジャンピエトロ・カンパーナ侯爵の美術品コレクション由来の古美術品など、1万1,835点の美術品を購入した。1852年から1870年にわたるフランス第二帝政下でフランス経済は拡大し��ルーヴル美術館は1870年までに2万点にのぼる美術品を新たに収蔵している。また、「花の展示室」と「大展示室」が、建築家ルイ・ヴィスコンティとヘクター・ルフェルによって改装されたのもこの時期である。 -夜行性であり、昼間は生息地の地上、石や倒木の下に隠れている。隠れている石を捲るなどすると大きく触肢を広げ、腹部と鞭状の尾節を持ち上げる威嚇の姿勢を取る。更にピンセットでつつくなどすると肛門腺から強い酢酸臭のする液を出し、これが皮膚に付くとひりひり痛み、目に入ると激痛を起こす。この液の成分は酢酸80%、カプリル酸5%、水15%である。この液噴出は同一個体で連続して2回くらいは出せる。腹部末端節は可動なので、その液噴出の方向もかなり変えることが出来る。ピンセットなどで刺激すると尾節をピンと差し上げ、腹部末端節を上に向けて噴出し、その到達距離は20cmにもなる。この行動は外敵に対して行われるものとみられ、同種個体間で行われることは見ない。 -芥川は、1916年には第4次『新思潮』を発刊したが、その創刊号に掲載した『鼻』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業した。卒論は「ウィリアム・モリス研究」だ。同年12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新宗教「大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する。そこで畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦(内田百閒によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。1918年の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)と澤木四方吉(『三田文学』主幹で西洋美術史家)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった。1919年(大正8年)3月、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年、同じように朝日新聞社に入社している。 -TOPとは「ワールドワイドパートナー」(英:TheOlympicProgramme)の事である。元々、オリンピックマークの商業使用権は各国のオリンピック委員会(NOC)が各々で管理をしていたが、サマランチ会長がIOCの一括管理にした事から1988年の冬季カルガリー大会と夏季ソウル大会から始まったプログラムで、オリンピックの中でも全世界的に設けられた最高位のスポンサーである。基本的には4年単位の契約で1業種1社に限定されており、毎回計9〜11社ほどが契約を結んでいる。なお、TOPにパナソニック、ゼネラル・エレクトリック(GE)、サムスンと同業種の企業が名を連ねているが、これはパナソニックが音響・映像機器、サムスンは無線通信機器と細分化されており、またGEはエネルギー関連、インフラ、照明、その他の電気製品などの上記と重ならないカテゴリーのスポンサーとなっているからである。この他にも、各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした「ゴールドスポンサー」(1社数十億円程度)、権利はゴールドスポンサーと同様だがTOPと競合しない事が条件の「オフィシャルサプライヤー/サポーター」(1社数億円程度)、グッズの商品化のみが可能な「オフィシャルライセンシー」がある。 -猪谷はダートマス大学留学中、日本での競技大会などに参加できなかったため、全日本スキー連盟からは日本代表入りを疑問視する声もあったものの、関係者の尽力によりコルチナ・ダンペッツォオリンピック日本代表に選ばれることができた。猪谷は滑降、回転、大回転に出場、滑降では失格となったが、大回転では12位、そして回転では銀メダルを獲得した。このメダルは冬季オリンピックで日本代表選手が獲得した初めてのメダルであるとともに、欧州以外からの出場選手がアルペンスキー競技で獲得した初めてのメダルともなった。 -オオウナギ(英:Giantmottledeel)はウナギ目ウナギ科ウナギ属に属する魚であり、学名Anguillamarmorata(QuoyandGaimard,1824)、標準和名はオオウナギ(大鰻)で��る。熱帯性の魚類であり、日本国内では利根川河口以南(以西)の太平洋沿岸、長崎県以南の東シナ海沿岸を生息地とする。その数は少なく、国、県、市町村単位の天然記念物に指定された生息地が関東から九州地方にかけた各地に点在する。当地の方言名で蛇鰻と呼ばれたオオウナギは、黒田が調査を行った時点で浄の池には大小わずか2尾が生息するのみであった。大きい方は全長5尺5寸(約1.6m)、重量は当時の伊東小学校が計測した値として5-6貫匁(約20kg)であったという。小さい方は全長4尺(約1.2m)。隣接する唐人川にも小型の個体が確認されている。浄の池ではかつて20尾ほど生息していたが徐々に数が減り、普段は水中の穴に潜り込み姿を見せることが少なく、人目にはあまりつかないようであった。黒田も調査3日目にしてようやく姿を観察することが出来たようで、余も3日目に始めて観察するを得たり體肥大なるを以て遊泳極めて悠然なり、と報告書には記載されている。浄の池では餌として主にイワシ、マアジを時々与えていたという。また、明治から昭和初期にかけて水産学者の倉場富三郎(トーマス・アルバート・グラバー)が長崎近海の水産動物を編纂した図譜、『グラバー図譜』のオオウナギの解説には、本種の生息北限地として韓国済州島と並び「浄の池」の名前が記載されている。 -ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」を興した。事業の過程でアリスシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集めた。そこには、LaughO'Gramstudios時代のスタッフだけでなく、バート・ジレット、フリッツ・フレレングといった新人アニメーターを雇った。ディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へと転進した。これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロスアンジェルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。1925年、会社の従業員だったリリアン・バウンズ(LillianBounds)と結婚し流産を経て実娘のダイアン(Diane)儲けた後に、養女のシャロン(Sharon)を迎え、忙しい生活を送りつつも、父親に愛されなかった反動もあり(後年、長期の南米旅行中ということで、彼は父親の葬儀にも出席しなかった)二人の娘を溺愛しながら育てた。 -その結果、古代に起源をもつ数種、すなわち、中国犬(チャイニーズ・シャー・ペイ、チャウチャウ)と日本犬(柴犬、秋田犬)、コンゴ共和国のバセンジー、アラスカのシベリアン・ハスキーとアラスカン・マラミュートの3グループが比較的オオカミに近かったのに対して、ヨーロッパに起源をもつその他の多くの品種は相互に近く、比較的新しく分岐したものであることがわかった。この研究は、イヌの家畜化は東アジアのオオカミからなされたとしたSavolainenら(2002年)の結論を支持する結果となった。なお、現在のイヌの品種の大部分を占めるヨーロッパ系のイヌの品種が人為的に作られ始めたのは8世紀ごろとされるが、品種として増加したのは、18世紀以降のことと考えられる。 -1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ(en:Gigi(1951play))』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。そしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」と言ったという有名なエピソードがある。『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった。ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた。そこで見せた笑顔と反応を���た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社は王女役にヘプバーンに決定した。ヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認めるという条件でパラマウント映画社と契約した。『ジジ』は1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアター(en:FultonTheatre)で初演を迎え、劇場入り口に張出された公演タイトルの上にヘプバーンの名前が掲げられた。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード(en:TheatreWorldAward)を受賞している。『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された。 -かつてマウレタニアと呼ばれた北アフリカのマグリブで遊牧生活を営んでいたベルベル人は、8世紀より前はキリスト教などを信仰していたようであるが東方から来たウマイヤ朝によるマグリブの征服後、イスラームを受容した。イスラーム化及びアラブ化したベルベル人であるムーア人とウマイヤ朝軍はイベリア半島を征服した。バレアレス諸島にも707年にムスリム軍が来襲し、地元の首長が何人かダマスカスまで捕虜として連行された。ムスリム軍は一時期南仏まで攻めたが、789年ごろにはフランク王シャルルマーニュにピレネー山脈まで押し戻された。フランク王国の年代記には、セプティマニアを手に入れたシャルルマーニュの宮廷に、バレアレス諸島が海賊の来襲を受けているという知らせが入ったと記されている。798年にマヨルカ島のキリスト教の修道会士からもたらされたこの知らせにおいて、海賊は「サラセン人とムーア人」であるとされている。 -2009年(平成21年)には図書館地域通貨「りぶら」を用いたイベント「ぶら・りぶら」を初開催し、2015年まで毎年開催している。この地域通貨は上伊那図書館から生まれた除籍本の引換券、一棚古本市の割引券、商店街での割引券などとして使用することができる。参加者は軒先に書棚が置かれた商店街を歩き回り、図書館通貨を除籍本や古本と交換する過程で、地域と図書館の関係を再発見する。 -このようなヨーロッパの状況を背景に、オスマン帝国の支配領域をめぐって「東方問題」という外交問題が発生した。「東方問題」が顕在化するのは、ロシアが黒海沿岸のアゾフをめぐってオスマン帝国と交戦した1736年露土戦争である。この戦争では、ヨーロッパの勢力均衡が著しく損なわれるのを防ぐために紛争の当事者以外が「東方」をめぐる紛争に介入するという「東方問題」の基本的な構造が現れた。以後「東方」をめぐる数々の紛争の解決にあたって、オスマン帝国とヨーロッパ列強との外交によってヨーロッパの勢力均衡を実現するという構造が見られるようになり、「東方問題」はヨーロッパ近代外交の主要な一角を形成した。ギリシャ独立戦争(1821年~)では、各国政府が当初介入に消極的であったのにもかかわらず、世論の後押しによって主要な政治問題に発展した。「東方問題」が最も活発化した時期と考えられるのがクリミア戦争(1853年~)で、「東方」において英仏とロシアは全面的に軍事衝突し、これが戦後のヨーロッパの政治状況にまで大きな影響を及ぼすこととなった。1878年のベルリン会議によって列強間の利害問題としての「東方問題」に一応の決着がつけられ、1880年代のヨーロッパは「ビスマルク体制」のもとで一応の安定がもたらされたかに思われた。しかし実際にはバルカン諸民族はこのベルリン会議の決着に納得しておらず、バルカン半島は紛争の火種を抱えて「ヨーロッパの火薬庫」でありつづけた。 -ヴェルトハイムでタウバー川がマイン川に合流する。この町の中世の街並みと城址は、ロマンティックな小都市に恵まれたマイン渓谷の中でも、最も見事な街の一つである。ヴェルトハイムからマイン川は蛇行しながら西に向かう。この辺りでは、マイン川がバイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州の州境をなしている。��イン川左岸のヴェルトハイムはバーデンに属していたため、右岸のクロイツヴェルトハイムはバイエルン州だが、主要部分の旧市街はバーデン=ヴュルテンベルク州に属している。この付近の風景は、マインフィーアエックの東側に似ている。城を戴く2つの小都市シュタットプロツェルテンとフロイデンベルク、この地域では最も古い都市のドルフプロツェルテンの他にはほとんど町はなく、シュペッサルト山地南部の森に覆われた山のために川は蛇行を繰り返しながらのたうつように進んで行く。 -また、1984年にはイタリアの欧州議会議員アルティエロ・スピネッリが提出した欧州連合設立条約草案を欧州議会が可決させたことは大きな後押しとなった。これに対応するべくドロール委員会のもとで1986年に単一欧州議定書が調印され、ローマ条約を大幅に修正し、経済分野に関する政策を原則として欧州経済共同体が統括することで共同市場設立が掲げられた。また域内における人、商品、サービスの移動の自由を図るべく、1985年にシェンゲン協定が調印され、加盟国間の国境という障壁を除去していくことが盛り込まれた。 -ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 -農薬による致死の経由には、蜂蜜と花粉の2つが考えられる。花粉経由説では、ミツバチが餌とするものに使用される農薬は、体内に貯蓄される蜂蜜経由でなく、花粉経由でコロニーに運ばれるため、花粉が媒介として考えられる。花粉は体の外側を使って運ぶのに対し、蜂蜜は体の内部を使用して運搬され、毒性があった場合、そのミツバチが死に至るはずだからである。もっとも、天然・人工を問わず、ミツバチにとって致命的であり得る化学物質の全てがミツバチの成虫に影響するわけではないが、もしそういった化学物質があれば、真っ先に幼虫に影響があるはずなのにCCDの事例では幼虫の死亡は発生していない。蜂蜜経由説では、幼虫は蜂蜜を食べず、大人のミツバチはそれに対してほとんど花粉を消費しない。CCDの症状は、もし環境から入る細菌や毒素が原因であるならば、幼虫が死亡せずミツバチの成虫が死亡している(もしくはどこかに行ってしまっている)ことから、それは蜂蜜を経由して入ってきている可能性が高いと説明される。現在まで、CCDにおける農薬作用に関しては、養蜂家から提供を受けた調査結果によっている。しかし、ネオニコチノイドなどの農薬は、養蜂家不在の場合でも土に撒かれることから残留などが考えられるため、養蜂家不在の地でも、影響を受けたコロニーからサンプルを入手し直接調べる必要がある。 -1533年12月、ヴァシーリー3世の死去により、イヴァン4世は3歳で大公に即位する。その後見には、まずシュイスキー公を中心とする貴族会議が、次いで母后エレナがオフチーニン=テーレプニェフ=オボレンスキー公の援助を受けて、摂政として政務を執行した。エレナの政府は全国レベルでの単一通貨の導入、辺境防衛の強化など精力的に政治に取り組み、隣国リトアニア大公国との国境紛争にも勝利した。また大公位を狙うイヴァン4世の二人の叔父、ドミトロフ公ユーリーとスターリツァ公アンドレイを失脚させ、母方のグリンスキー家が実権を掌握した。しかし1538年にエレナが死去すると、シュイスキー家とベルスキー家の人々に政権を奪取され、8歳のイヴァン4世の存在は無視されるようになった。またこの貴族同士の権力争いによってロシア正教会モスクワ府主教のイオシフが廃位されると、代わってイヴァン4世の教育係でもあるマカリーが府主教に叙任された。この時期、教会の権威は貴族勢力に左右されるまでに弱体化しており、マカリー府主教は教会の権威を高めるため、それに代わる強大な保護者を必要としていた。そのため、イヴァン4世には大公としてよりも「神に選ばれたツァーリ」としての教育が施された。聡明なイヴァン4世はよく学び、ダビデ王から始まり東ローマ帝国に続く「聖なる歴史」に親しむとともに、信仰心篤い青年へと成長する。しかしその一方で、鳥獣を虐殺したり、貴族の子弟と共に市内で暴れまわるなどの二面性を見せた。また13歳の頃には大公としての権限を行使し、かつて自らの廷臣を排除した摂政の一人、名門貴族のアンドレイ・シュイスキーを処刑している。 -2006年の総漁獲量260万トンのうち、養殖ナマズが180万トンを占める。アジア・アフリカ両地域での漁獲量増大もまた、内水面での養殖業の発達によって支えられている。アジアにおける淡水ナマズ類の養殖による水揚げは、1990年・2000年・2006年の各時点でそれぞれ7万5千トン・24万トン・145万トンと、著しい上昇を示している。アフリカでは2000年の時点で7千トン弱であった漁獲量が、2006年には8万トンと10倍以上に増加した。生産額の面でも同様の成長がみられており、アジア地域では2006年に16億ドル(2000年時点で3億ドル)に達している。 -ペーパードリップの方法は、1908年にドイツ人のメリタ・ベンツが考案した。彼女はペーパードリップシステムの特許を取得し、メリタを創業した。メリタ式とカリタ式が存在し、最適なメッシュが異なるとされているが、どの挽き方が最適かは様々な意見がある。抽出法の違いは、メリタ式が杯数分の湯を全量フィルターに投入し滴下するのを待つのに対し、カリタ式は湯を数回に分けて投入し続ける。フィルタの下のデカンタに杯数分滴下した段階でフィルタをはずし、フィルタ内の抽出中の湯(コーヒー)は廃棄する。従って、カリタの方が経験を要し、味のぶれる要素は大きいとも言える。ドリッパーの形状はメリタが開発した台形が主流であるが、近年では円錐形も登場している。台形は腕に左右されず安定した味と香りが出せ、円錐形は粉の層が縦に厚くなりよりネルドリップに近くなるとされる。台形と円錐形ではフィルタの互換性が無く、HARIOは両方のドリッパーとフィルタを販売しているが円錐形の方が若干高価である。メリタとカリタは台形のみ、珈琲サイフォン株式会社は円錐形のみ販売している。 -湖水は大沼の北西端である「沼尻(湖尻)」でカルデラの外輪を破って火口瀬をつくり、沼尾川として西方へ流出している。沼尾川は旧赤城村(現渋川市赤城町深山)を貫流して津久田(渋川市)で利根川に注いでいる。東南岸の大洞地区には土産物店や旅館などが集まり、観光の拠点となっている。地蔵岳山麓にはスキー場が整備されている。北岸の沼尻地区には企業・学校の寮や厚生施設、山荘が散在する。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会���で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -水星は重力が小さいため、長く大気を留めておくことは難しい。しかし、ごく薄く分子同士の衝突がほとんど無い無衝突大気の存在が確認されている。水星の気圧は10-7Pa(10−12気圧)程度と推測され、その成分は水素、ヘリウムの主成分に加え、ナトリウム、カリウム、カルシウム、酸素などが検出されている。この大気組成は一定しておらず、絶えず供給と散逸を繰り返している。水素やヘリウムは太陽風の粒子を水星磁場が捕捉したものと考えられ、やがて宇宙空間に拡散されてゆく。地殻で生じる放射性崩壊もひとつのヘリウム供給源であり、ナトリウムやカリウムも地殻起源である。水蒸気も存在しており、これは水星の表面が崩壊して生じたものと、太陽風の水素と岩石由来の酸素がスパッタリングを起こして生成されるもの、永久影にある水の氷が昇華して発生するものがある。探査機メッセンジャーによる水の存在に関連するO+、OH−、H2O+などのイオン発見は、驚きをもって受け止められた。これら発見されたイオンの量から、科学者らは水星の表面は太陽風に吹き晒されている状態にあると推測した。大気中にナトリウム・カリウム・カルシウムがあることは1980-1990年代に発見され、当初は隕石衝突による地殻の蒸発がこれらを供給していると考えられた。さらに探査機メッセンジャーによってマグネシウムの存在が確認された。その時点での研究の結果、ナトリウムの供給領域は惑星磁場に対応する部分に絞られた。これは水星の表面と磁場が相互作用を起こしていることを示す。 -しかしその後ヴィルヘルム2世は保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は政治的権力を大きく落とした。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍���どの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -ニューアーク方式(英:Newarkchargingsystem)は図書館における図書の貸出方式の一つ。アメリカ合衆国ニュージャージー州のニューアーク公共図書館の館長であったジョン・コットン・デイナ(1856年-1929年)が考案したとされており、ニューアーク方式の名はニューアーク公共図書館による。日本においては、第二次世界大戦後、連合国軍総司令部民間情報教育局によって開館されたCIE図書館が導入を推進したこともあり、一時は急速に普及するが、プライバシーを守れないなどの欠点を抱えていたために後にブラウン方式に置き換えられた。ニューアーク方式と似た貸出方式で、個人カードを併用するツーカード方式や、一部業務を機械に行わせるゲイロード方式についても本項で述べる。 -この知らせを聞いたポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは1511年7月に16隻の艦隊を率いてマラッカに来航した。アルブケルケはマラッカに対して捕虜の釈放、要塞建設の用地の提供、賠償金の支払いを要求したが、マラッカ側は捕虜の釈放を除いた条件の受け入れに難色を示したため、上陸したポルトガル軍の攻撃を受けた。マラッカは中国、タイ、ビルマ、あるいは地中海地域より輸入した火砲と自国で生産した鉄砲で応戦するが、マラッカ側は火器の使用法を熟知しておらず、性能もポルトガルのものが勝っていた。また、国内のジャワ商人と中国商人の中にポルトガルと内通した一派があって統率を欠き、翌8月にマラッカは陥落した(マラッカ占領(1511年))。 -サラディンは兄弟のトゥーラーン・シャーを司令官とする遠征軍を近隣の地域に派遣し、1173年にヌビア、1174年にイエメンを征服して支配領域を拡大する。1174年5月にトゥーラーン・シャーの軍隊はザビードに到達し、翌6月に国際貿易の拠点となっていたアデンを占領した。イエメン遠征が実施された理由には諸説あり、ヌールッディーンのエジプト攻撃に備えた土地の確保、紅海貿易の拠点の確保などが挙げられている。ファーティマ朝の残党はエジプトの兵士の一部がイエメン遠征に従軍し、サラディン配下の騎士が徴税のために自分たちのイクターに戻る機会に乗じて反乱を企てたが計画は事前に露見し、1174年5月に反乱者は逮捕・処刑された。また、1174年5月にはヌールッディーンが没し、サラディンとヌールッディーンの衝突は未然に終わる。 -米村は「社会に出て働きたくない」という理由で、東京学芸大学大学院に進学した。大学院で知り合った女性と卒業後の1982年に結婚し、米村姓を名乗る。卒業後���研究職につくことを希望し、他大学の博士課程や公務員試験を受けたが落ちたため、研究生として東京学芸大学に残る道を選んだ。教授の紹介で、自由学園の講師を務める。自由学園では、「教科書にとらわれず、思い通りに授業してもらって結構です」とアドバイスを受け、林で拾った木の枝からつくった炭とアルミ缶を使った「木炭電池」を生徒に披露するなど、実験重視の授業に取り組んだ。 -明治9年(1876年)7月、中小坂鉄山を経営していた丹羽正庸は約10万円の借財を負って経営から手を引き、由利公正と三浦安が経営を引き継いだ。経営の再建を急いだ由利らは、明治9年(1876年)11月に東京府瓦斯局からガス用鋳鉄管を大量受注をした。この受注については、東京府瓦斯局のフランス人技師であるアンリ・プレクランが中小坂鉄山と製鉄所を視察した結果、生産される鋳鉄そのものの品質の高さは認めたものの、鋳鉄管を製造する設備と技術者の不足を厳しく指摘し、ガス用鋳鉄管の製造は不可能であるとした報告を無視して行われた。果たして中小坂鉄山で製造された鋳鉄管のほとんどが著しい不良品で、東京府から前渡金として渡されたガス管製造代金と内務省勧商局からの借入金の返済に窮することになった。経営に行き詰った由利公正らは明治10年(1877年)11月、中小坂鉄山と製鉄所を官営とし、併せて東京府や内務省勧商局などの返済すべき借財を政府に肩代わりを依頼する願を工部省に提出した。由利らの願は認められ、明治11年(1878年)5月、中小坂鉄山は官営となることが決定された。 -干し貝作り自体は今もサルーム・デルタで行われている。干し貝の原料となる貝は以下の4種が代表的である。まずは現地でヨホス(Yoxos/Yokhoss)と呼ばれる貝で、これはマングローブガキ(Crassostreagasar)を指す。その名の通り、ヒルギ科のマングローブの根にへばりつくようにして生息する貝で、貝塚からは根が付着した貝殻も出土する。次は現地でパーニュ(Pagne)と呼ばれる貝で、これはフネガイ科のオヤカタサルボウ(seniliasenilis)のことである。アカガイなどに似た貝で、干潮時の干潟で採集できる。最後が大型巻貝のイェット(Yéét/Yeet)で、ナツメヤシガイ(Cymbiumpepo)などと同一視する文献と、ハッカイボラ(Cymbiumcymbium)と同一視してナツメヤシガイと別に扱う文献とがある。最後がシロオビクロテングニシ(pugilinamorio)のことだというトゥファ(Toufa)と呼ばれる中型の巻貝である。 -1910年(明治43年)、森鷗外が『スバル』誌上の「むく鳥通信」でファン・ゴッホの名前に触れたのが、日本の公刊物では最初の例であるが、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、武者小路実篤らの白樺派であった。1910年に創刊された『白樺』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、ロダン、マティスなど、印象派からポスト印象派、フォーヴィスムまでの芸術を、順序もなく一気に取り上げた。第1年(1910年)11月号には斎藤与里による最初の評論が掲載、第2年(1911年)2月号からは児島喜久雄訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年(1912年)11月号には「ゴオホ特集」が掲載された。特集号には、多くの作品の写真版、阿部次郎の訳したヨーによる回想録、武者小路や柳宗悦の寄稿などが掲載された。そして、1920年(大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、実業家山本顧彌太に購入してもらったファン・ゴッホの『ひまわり』が展示された。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である。他方、画壇でも、1912年(大正2年)に第1回ヒュウザン会展を開催した岸田劉生ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった。第2次世界大戦前、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、佐伯祐三や高田博厚らはゴッホ作品を見るべくオーヴ���ルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている。1927年から1930年代にかけて、斎藤茂吉や式場隆三郎がゴッホの病理についての医学的分析を発表した。 -法人税は19%である。所得税は非常に簡単な2段階の累進課税方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。国内経済悪化のため税率改正され、付加価値税は2011年1月1日より23%を基本税率とした複数税率で、ほかに食品、農産物、医薬品、建築資材、観光サービス、書籍等にかかる8%、7%、5%の3つの税率があり、対象の品目によって税率が異なる。 -こうして人々の聖書や歴史への関心が高まった結果、聖書から地球の年齢を求める動きが再びさかんになった。マルティン・ルターは聖書を元に、天地創造の年を紀元前4000年とした。ジェームズ・アッシャーは年代紀を出版し、その中で天地創造の年を紀元前4004年10月23日前夜(土曜日)と記述した。この紀元前4004年という数字は欽定訳聖書にも注釈として書き加えられたため、英語圏の人々には広く知れわたるようになった。欽定訳聖書の記述は19世紀まで残った。また、ケンブリッジ大学副総長のジョン・ライトフットは天地創造を紀元前3928年として、アダムは午前9時に誕生したと求めた。 -「スパルタクス団」と並ぶ急進左派勢力として「革命的オプロイテ」がある。これはリヒャルト・ミュラーとエミール・バルトが指導するベルリンの金属労働組合の代表者の集まりであり、組合の公式の指導部に造反して軍需工場内において抵抗運動を拡大させ、1916年以降ドイツ全土にその組織を広げていた勢力である。1916年のリープクネヒトの判決の際にはストライキを組織し、1917年と1918年のストライキも彼らが主導した。 -インパクトは、意図していた範囲を越えた、経済的、科学技術的、社会的影響としての間接的成果である。HTV-1によって世界初のキャプチャ方式によるドッキング(バーシング)が実証され、このキャプチャ・バーシング方式を米国商業民間輸送機(COTS/CRS)が採用した。さらに当時開発中であったシグナスがHTVと同等の近傍通信機器(PROX)を三菱電機から購入する(9機分、約60億円)など、日本技術の優位性を世界に示し、宇宙産業活性化へ繋がった。またマスメディアでもHTV-1ミッションは盛んに報道され、テレビでは計3時間25分54秒分の報道があった。さらにテレビCMにて三菱電機はHTV開発への参加を宣伝し、パナソニック電工は与圧キャリア用のLED照明装置の開発実績を宣伝した。その他の下請け企業も宣伝・広告にHTV-1を利用した。経済波及効果は、HTVの波及倍率を2.53とした分析に従うと概算で約1568億円である。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には���尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -インド太平洋の熱帯に分布する。南アフリカから紅海・ペルシャ湾(マダガスカル・モルディブを含む)・インド・東南アジア(インドネシア・フィリピン・パラオを含む)、北は台湾・日本まで、東はニューカレドニア・トンガまで、南はオーストラリア北部までで確認されている。底生で、潮間帯から水深62m程度の大陸棚の上に生息する。成体、大型の幼体はよくサンゴ礁・礫底・砂底で見られる。不確実ではあるが、フィリピンの淡水で見られたという報告もある。外洋を渡って別の島や海山に移動することもあり、ある個体は140kmを移動した記録がある。だが、遺伝子からは、連続する分布域であっても個体群間の移動は少ないことが示された。 -夏のない年(なつのないとし、英:YearWithoutaSummer)とは、1816年に北ヨーロッパ、アメリカ合衆国北東部およびカナダ東部にて起こった、夏の異常気象(冷夏)により農作物が壊滅的な被害を受けた現象のことである。この年の気候異常は太陽活動の低下と前年までの数年間、大火山の噴火が続いたことによる火山の冬の組み合わせにより引き起こされたと見る向きが大多数である。1815年のインドネシア中南部、スンバワ島に位置するタンボラ山の噴火は過去1600年間で最大規模である。歴史家のジョン・デクスター・ポストは「夏のない年」を「西洋において最後で最大の危機」と呼んだ。 -うどんは観光客向けの名物というよりは、老若男女問わず県民の生活に密着した食物・食習慣となっている。うどん店は高松市・中讃を中心に県全域に分布し、たとえば観光用に店鋪の特定集中区域はない。彼らは県外に出てもうどんへのこだわりを隠さず、里帰りにうどんを食して帰郷を実感するほどである。 -しかしこの悪しき風潮は、11世紀中頃に改められた。境内の有様に危機感を覚えた僧は改修に勤しみ、寺の財政を一本化し、造東大寺所を完全に傘下に置いて組織を東大寺修理所に改めた。この改組は組織の規模を大きく小さくしたが、官の手を離れて政所の傘下に収めたことで働きが良くなった。この修造は、11世紀中頃から1160年代の南大門再建まで続き、境内の堂宇の多くが修理修造された。永長元年(1096年)には朝廷からの命令もあり、さらに修繕が進んだ。天永元年(1110年)からは国の主催の下に大仏殿の大改修も行い、前年には造東大寺司も復している(が、この大改修の後は、また寺主体の修造に戻った)。この時代、世間からは「ておのゝおとする所」(『大鏡』)と呼ばれ、寺側もこれを受けて「東大寺の斧音絶えざる由、世を以つて伝へ申すところなり」と自らを表現している。また、伊賀国の黒田荘・玉瀧荘などに代表される東大寺領の荘園の整備が進んだのもこの時期である。 -当時の弘前医大で学長を務めていたのは東北帝国大学元教授の精神科医、丸井清泰であり、学内では東北大学系の学閥が力を持っていた。同時期に東北大学から赴任してきたばかりの松永藤雄もまた、丸井の片腕として大きな政治力を持ち、同大学教授と大学附属病院内科部長も務めていた。松永は1947年から弘前市在府町で、妻Sと2人の子供たちとともに住むようになった。一家が身を寄せたのは松永が東北大学に勤務していた頃の患者宅の離れで、その付近には古くからの武家屋敷が立ち並んでいた。その屋���町の、松永一家の寄宿先から200メートル足らずの距離に屋敷を構えていたのが、下野国を治めていた戦国大名の那須氏直系の家であった。統一那須家から数えて15代目の時代に東京の屋敷を台風で失い、かねてから養子縁組などで縁の深かった津軽家を頼って弘前へ移り住んだ那須家であったが、農地改革で小作地を奪われた当時の那須家は没落状態にあった。この家庭に12人きょうだいの次男(長男は夭逝したので実質的な長兄)として生まれたのが当時25歳の那須隆である。1943年に東奥義塾を卒業し、かつては満州国興安総省の開拓団指導員や青森県通信警察官としても働いていた那須であったが、通信警察が廃止されてからは定職に就けず、失業者として暮らしていた。しかし、那須は長兄として家族を養うために警察官に戻ることを考えていた。 -オーストリアも同じく神聖ローマ皇帝カール6世の政策により孤立していた。彼はユトレヒト条約によりスペインの王位継承権を放棄しなければならないことに納得せず、スペインとの和解を頑なに拒否していた。イギリスやオランダなどの海洋国家とも1722年にオステンド会社を設立して競争に参入、さらにハプスブルク家領の女子継承を認める国事詔書の承認も要求した。この2つの要求により、オーストリアの外交政策は不安定となった。歴史家のハインツ・ドゥフハートによると、「四国同盟が活動を停止した後、ヨーロッパは常に全面戦争の瀬戸際にあった。ウィーンとマドリードの間の古く未解決の問題に新しい問題(オステンド会社、国事詔書)が加わり、『冷戦』といういつでも爆発しそうな雰囲気を生み出した」。1724年、ヨーロッパ諸国はカンブレー会議を開いて、カール6世とフェリペ5世の最終的な和解を実現しようとした。 -ユスティニアヌスは地方の下層階層出身であったため、コンスタンティノポリスの伝統的な貴族階層に権力基盤を持たなかった。その代わり、彼は生まれではなく功績によって選ばれた非常に才能のある男女に取り巻かれていた。有能な臣下には司法長官のトリボニアヌス、外交官で長きにわたり宮内長官を務めたペトロ・パトリキウス、財務長官カッパドキのヨハネスそしてかつてなく効果的に徴税を行い、これによってユスティニアヌスの一連の戦役の財源を賄ったペトロ・バルシャメス、そして最後に偉大な名将ベリサリウスがいた。 -また百夜月の最後の住民であった男性の息子が毎週百夜月に通い、庭の手入れなどを行っている。この男性は、築70年の自宅に住み、自宅裏から天然水をホースで引いて生活用水とし、近くの川で獲れる天然ウナギを取って食べる。男性の父は入院して以降も「集落に戻り花の手入れがしたい」と亡くなる直前まで語っていたことから、父のハスを絶やしたくないと毎週百夜月に通っている。百夜月の最寄りのバス停は熊野御坊南海バス(旧・熊野交通)「百夜月」であり、バス停から河原に至る階段を下ると船着き場がある。電気は集落内に引かれている。北山川で水運が盛んであった頃には、筏師や団平船の乗員として生計を立てる住民が数人おり、中国の鴨緑江へ筏指導に行った者もいたという。 -こうした予言に対しては、前出のカトリーヌのように心酔していた有力者もいた。彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アラバの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる。しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになっている。ときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。 -片田稲荷神社は大野浜付近に鎮座する、京都から勧請した神社だ。安政2年(1855年)創建された。朱色の鳥居が並び立つ参道を抜けると、本殿の隣に石段があり、その上に日和山だった名残の方位石がある。漁業神として信仰を集め、1月7日の縁日には多くの参詣者が集う。 -島内の道路はすべて市町村道(南知多町道)であり、道路舗装率は83.5%と愛知県平均(87.1%)と同等である。外周道路以外は幅員が狭く、四輪車の通行が禁止されている。島内に定期バス路線は存在しないが、三河湾三島で唯一乗合タクシーが運行されている。2011年(平成23年)時点で島内に1,354台の車両があるが、このうち716台は軽トラックなどの軽自動車、691台は原動機付自転車である。多くの島民は軽トラック以外の自動車を本土に所有しており、定期船の本土側寄港地である師崎には篠島住民の車が150-200台も駐車してあるという。日間賀島と同様に、ヤマト運輸はトラックをカーフェリーに載せて篠島に渡り、そこで集配を行っている(島内では外周道路以外は原動機付自転車に荷物を積み替える)。 -ベラ湾夜戦では、日本軍のコロンバンガラ島への輸送部隊が、アメリカ軍の水雷戦隊に邀撃され、日本側駆逐艦3隻が沈没した。アメリカ軍側の呼称はヴェラ湾海戦(BattleofVellaGulf)である。 -地震によって東北・関東地方を中心に大規模な停電が発生したため、停電した放送局の多くは自家発電によって放送を続けた。しかし、東北地方では電力の復旧が遅れたことから、自家発電機の燃料が尽きて停波する放送局が多数現れた。大手の放送局でもTBCラジオや東日本放送は親局が一時停波に追い込まれたが、数日中に復旧した。一方中継局も被災し、3月15日時点でテレビ63か所、ラジオ2か所が停波するなど、放送自体への影響が長引いた。在京のテレビ・ラジオ各局は、地震発生直後に臨時ニュースを順次編成。その後は3月13日夜まで、ほぼ報道特別番組を中心とした特別編成を組んだ。レギュラーの報道番組も番組としての枠を外し、通常枠に近い時間帯の特別番組をキャスターやスタッフが担当して伝えるといった態勢がとられた。地震3日後の14日から地上波テレビ放送キー局では臨時報道特番の構成が緩和し、一部の情報番組とニュース番組のレギュラー番組が再開されたが、放送時間を拡大した特別版と緊急報道特番を組み合わせた構成の番組がおもに放送され、ドラマ・アニメ・バラエティ・映画といったレギュラー番組の大多数が放送中止・繰り下げを継続したが、15日未明から順次バラエティ・ドラマ・映画などのレギュラー番組も再開した。 -1930年代に入ると、金輸出再禁止に伴う急速な円安により、1920年代に発行していた外債の支払利子負担が跳ね上がるという電力外債問題が発生する。この処理のため2年間にわたり無配に転落するが、1930年代半ばより業績は持ち直した。しかしその一方で、そのころより政府主導の業界再編を目指す「電力国家管理」政策の検討が本格化する。同政策は1938年(昭和13年)の電力管理法公布、そして翌1939年(昭和14年)4月の国策会社日本発送電設立という形で実行に移された。同社設立の過程で大同電力は電力設備の出資を命ぜられ、他の設備も強制買収の対象とされた上に、政府当局から残余の資産・負債についても日本発送電へ移管することを慫慂された。このことから大同電力は全社を挙げて日本発送電へと合流する道を選び、資産・負債を同社へと継承させて1939年4月に解散した。最後の社長(2代目社長)であった増田次郎は、解散により日本発送電の初代総裁に転じている。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1966年にはトーベ・ヤンソンが、自身の代表作『ムーミン』を思わせる世界観で『アリス』の挿絵を描いている。1967年には、ドイツ表現主義の画家ゲオルグ・クロスやアメリカの風刺漫画家ソール・スタインバーグの影響を受けたラルフ・ステッドマンによる風刺性の強い挿絵本が出され、この本はテニエルのイメージを初めて完全に打ち砕いたとしてフランシス・ウィリアム・イラストレーション賞を受賞した。1969年にはシュルレアリストのサルバドール・ダリが、1970年にはマックス・エルンストが、それぞれリトグラフによる挿絵を制作している。 -寛政9年(1797年)6月、八丈島とは逆の南から一艘の奇妙な船が青ヶ島にやってきた。これは天明5年(1785年)、天明7年(1787年)そして寛政2年(1790年)の合計3回の海難事故で鳥島に漂着した野村長平ら14名が、流木などを材料として船を建造し、やっとの思いで鳥島から脱出した船であった。青ヶ島で復興に従事していた人々は苦しい生活を強いられた中でも彼らを歓迎し、2名の水先案内人をつけたうえで八丈島へ向かうこととなった。流木で作られた船であったが八丈島に無事到着し、14名の漂流民は江戸へ向かい、その後、故郷へ帰ることができた。青ヶ島で復興に従事していた2名は、さっそく青ヶ島の現状について報告した。報告はおもにネズミの害についてであり、作物はよくできるものの穀類はネズミに食い荒らされるために収穫は皆無であること、芋についてはネズミの害はあるものの収穫が可能であること、作物は噴火以前のようによく実るので、開墾する人数を増やしてネズミの駆除につとめれば、青ヶ島での生活は可能であるといった内容であった。青ヶ島の現状についての報告を受けた名主三九郎はさっそく青ヶ島へ向かうこととした。寛政9年7月29日(1797年8月21日)、名主三九郎ら14名の青ヶ島島民は物資を積み込み青ヶ島へ向かった。しかし船は猛烈な時化に遭い、青ヶ島へたどり着くことなく閏7月6日(1797年8月27日)、紀州に漂着した。14名の乗船者のうち11名が死亡し、名主の三九郎も死亡した。 -本艦の主砲は前級に引き続き「Pattern189530.5cm(40口径)砲」を採用した。砲弾重量は331.7kgの砲弾を仰角15度で初速は792.5m/sで撃って最大射程14,640mまで届かせられ、射程5,490mで201mmの舷側装甲を貫通できた。この砲を円筒形の連装砲塔に収めて2基4門だった。砲塔1基当たりの重さは43tで、仰能力は仰角15度・俯角5度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右135度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分1発の設計であったが1分あたり0.75発であった。1門当たりに割り当てられた砲弾は、徹甲弾が18発、榴弾が18発、破砕弾が4発、鋳鉄弾が18発、対人散弾が2発であった。砲塔は、最大254mmの装甲を持っていた。 -平松のウツクシマツの樹形には、いくつかのバリエーションがあり、湖南市教育委員会が作成した現地解説板によれば、扇型(上方山形)という根元から約1.5-2メートル付近で複数の幹に分岐し扇状になり、樹冠上部が山形になっているもの、扇形(上方やや円形)という扇型と同型で樹冠上部が丸みがかったもの、傘型という地表付近から幹が多数分岐し、樹冠が傘状に広がったもの、ホウキ型という幹の分岐は傘型と同じであるが、樹冠の広がりが狭いため全体的に箒状に見えるもの、以上の4タイプに分類されている。このような樹形になる要因は長らく不明で、当地の土質が砂礫の混ざった赤土で、一部には岩盤が露出するような層の浅い土壌の影響などが���えられてきたが、確定的なものは無いままであった。滋賀県庁の出先機関である滋賀県森林センターでは、平松のウツクシマツの遺伝様式を解明するため1973年(昭和48年)より研究を開始した。 -また、1950年(昭和25年)10月6日からは移動図書館たる「移動公民館」を発足させた。この自動車文庫の発足は全国で千葉に次いで2番目のことであって、当初は一台の車を以て県内各地を巡廻していたが、翌1951年7月4日からは新たに2台の自動車を導入した。自動車内には図書のほかに映写機や幻燈機を積載し、社会教育主事や図書係が同乗して図書の貸借と共に、映画や紙芝居の上映、あるいは座談会や講演会を行った。特に農山漁村の人々は、子供も大人もこの移動公民館が来ることを心待ちにしていたという。 -4世紀前半の内戦で、ビザンティウムは先の内戦とまったく同じ運命をたどった。リキニウスに味方したためにコンスタンティヌス1世に征服されたのだが、次第にコンスタンティヌス1世もこの都市の地理的重要性に気づき、324年から336年にかけて再建していった。その過程でコンスタンティヌス1世は、330年5月11日にビザンティウムを「第二のローマ」と呼んで落成式を行った。次第にこの都市は、「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス(ギリシア語:Κωνσταντινούπολις,Konstantinoupolis英語名コンスタンティノープル)と呼ばれるようになった。新生コンスタンティノープルでは、セウェルスの城壁のさらに2.8キロメートル(15スタディア)西方に新たな城壁が築かれた。コンスタンティヌスの城壁は1重ながら、324基もの塔で防御を固めることになった。この工事は、息子のコンスタンティウス2世の時代まで続いた。コンスタンティヌスの城壁の位置も、わずかな部分しか判明していない。金角湾の聖アントニウス教会(現在のアタチュルク橋付近)から南西に伸びてモキウスの貯水池やアスパルの貯水池の東側を抜け、マルマラ海沿岸のテオトコス教会付近で終わっていたとされる。 -20世紀のなかで宮崎駿が最も影響を受けたものとして、ブルース・スプリングスティーン、映画『イージー・ライダー』、そしてジョン・フォードの監督作品、とりわけ『荒野の決闘』を挙げている。そのほかに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』、デヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』、フリッツ・パペンハイムの『TheAlienationofModernMan』といった本からも影響を受けたと述べている。ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『指輪物語』を厳しく批判する一方、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』からの影響をしばしば公言し、「シュナの旅」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『ゲド戦記』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『ゲド戦記』から影響された部分があると語っている。フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『世界・わが心の旅』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった郵便機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、ハンセン病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」と話す女性を登場させるなど、網野善彦の中世史観の影響が強く窺える。こ��作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する。 -現在の村の自治体(VillageMunicipality)が成立したのは1990年10月10日である。それ以前には、ナギローツ(Nagylóc)とホッローケーの共同村議会が存在していた。現在の議会は市長以下5人の代議士が存在している。その目下の課題は、年金受給者が7割にも達する村人口の高齢化である。もちろん世界遺産登録地域の保全や関連する文化の継承も重要な課題となっている。 -焼入れ後の組織には、残留オーステナイトと呼ばれるマルテンサイト化しきれなかったオーステナイト組織が残っている。残留オーステナイトは常温で放置すると時間が経つに連れて徐々にマルテンサイトに変態する。残留オーステナイトからマルテンサイトへの変態の際、組織の体積が膨張するので変形や寸法変化を起こしたり、上記の残留応力とも相まって割れが発生する場合がある。また、マルテンサイトも低炭素マルテンサイトへ時間が経つに連れて徐々に変化していき、その際に縮小を起こす。焼戻しにより、このような不安定な組織を安定化させて、加工品の寸法変化や割れの発生防止をすることができる。 -軍事力におけるもう一つの極めて重要な構成要素はアルメニア人騎兵の存在であり、彼らはパルティア人のウズルガーンの階級の外から徴兵されていた。しかし、451年におけるアルメニアの反乱(アヴァライルの戦い)とアルメニアの騎兵隊の喪失は、北東部で国境を接するエフタルの侵入を食い止めるサーサーン朝の試みの妨げとなった。 -寛政9年(1797年)6月、八丈島とは逆の南から一艘の奇妙な船が青ヶ島にやってきた。これは天明5年(1785年)、天明7年(1787年)そして寛政2年(1790年)の合計3回の海難事故で鳥島に漂着した野村長平ら14名が、流木などを材料として船を建造し、やっとの思いで鳥島から脱出した船であった。青ヶ島で復興に従事していた人々は苦しい生活を強いられた中でも彼らを歓迎し、2名の水先案内人をつけたうえで八丈島へ向かうこととなった。流木で作られた船であったが八丈島に無事到着し、14名の漂流民は江戸へ向かい、その後、故郷へ帰ることができた。青ヶ島で復興に従事していた2名は、さっそく青ヶ島の現状について報告した。報告はおもにネズミの害についてであり、作物はよくできるものの穀類はネズミに食い荒らされるために収穫は皆無であること、芋についてはネズミの害はあるものの収穫が可能であること、作物は噴火以前のようによく実るので、開墾する人数を増やしてネズミの駆除につとめれば、青ヶ島での生活は可能であるといった内容であった。青ヶ島の現状についての報告を受けた名主三九郎はさっそく青ヶ島へ向かうこととした。寛政9年7月29日(1797年8月21日)、名主三九郎ら14名の青ヶ島島民は物資を積み込み青ヶ島へ向かった。しかし船は猛烈な時化に遭い、青ヶ島へたどり着くことなく閏7月6日(1797年8月27日)、紀州に漂着した。14名の乗船者のうち11名が死亡し、名主の三九郎も死亡した。 -本機の飛行性能に関し、好意的な評価や証言が多数見られる。五式戦に対する操縦者からの評価は総じて高く、陸軍戦闘機最優秀とする意見も少なくない。川崎のテスト操縦士からの評価も上々であった。ただし、性能に顕著な差を感じるほどではないとする証言もある。なお、当時の文書において、高速で鈍重な三式戦闘機二型を「重戦」、低速で軽快な五式戦闘機を「軽戦」とした書類も存在したとされ。三式戦闘機二型と比較して「軽戦」(軽戦闘機)と言われる事もあったという。武装は前述の通り、五式戦闘機の武装は三式戦闘機一型丁または二型と同様、機首に20mm機関砲ホ5×2門(弾数各200発)、翼内に12.7mm機関砲ホ103×2門(弾数各250発)を装備している。空冷エンジンであるハ112-IIの搭載に伴い最も向上したのは信頼性・実用性である。前述の通り五式戦闘機に搭載されたハ-112-IIは従来の三式戦闘機が搭載していた液冷エンジン、ハ-140またはハ-40とは比較にならないと言っても良い信頼性を発揮し、燃料と油を入れればいつでも飛べると評されるなど、各所で高く評価された。 -1877年秋に行われた試験において、ボイラー圧力は1.54気圧になり、機関は2214馬力の出力を記録した。これにより速力は喫水6.26mにおいて11.9kn、喫水6.36mにおいても11.7knに達し、従って1872年に行った試験の際より丸々1kn速くなった。燃料の石炭積載量は365tだけであり、この量では仕様書通りの燃料消費率2.95t/hを発揮したとしても最大速度で123時間しか航行できなかった。帆の面積は、約2200m2であった。大檣の甲板からの高さは16.5m、檣の重量は135tであった。4基搭載されたアドミラル・アンカーの重量は、16.8tであった。錨鎖は太さ54mmで長さは500サージェン、重量は約56tであった。乗員数は士官が24名で、水兵は470名以上となり、全部で500名近くに上った。 -1520年12月、フランスは戦争の準備をはじめた。しかし、ヘンリー8世は平和を破る者への介入を宣言したため、フランソワ1世は公的にはカール5世を直接攻撃できなかった。その代わり、彼はドイツとスペイン領への先制攻撃を支援した。まず、ロベール3世・ド・ラ・マルクがムーズ川沿岸を攻撃、同時にフランスとその同盟者であるナバラ王の連合軍がサン=ジャン=ピエ=ド=ポルを占拠、続いて(このときスペインに占領されていた)ナバラ王国全土に侵攻した。この侵攻は名目的には18歳のナバラ王アンリ・ダルブレが率いたが、実際に軍を指揮したのはアンドレ・ド・フォワであり、資金と装備はフランスが提供した。フランスの計画はすぐに破たんした。ムーズ川の攻撃はネーデルラント総督のブレダ伯ハインリヒ3世に撃退され、ド・フォワはパンプローナを占領したものの1521年6月30日のノアインの戦いで敗北してナバラからの撤退を余儀なくされた。 -1885年と1886年から1887年の二度にわたって半年間、中江兆民の仏学塾でフランス語を教える。ビゴーは中江の門弟とも交流し、当時の自由民権運動の模様にも接することになる。1886年にはいったん帰国を検討するが、フランスの『ル・モンド・イリュストレ』やイギリスの『ザ・グラフィック』といった新聞から日本を題材とした報道画家の職を得たため、さらに滞在を延ばした。この頃には『団団珍聞』への漫画の寄稿(1885年)や『郵便報知新聞』に掲載された翻訳小説の挿絵(1886年)など、日本の大衆の目に触れる仕事もおこなうようになる。ビゴーはフランスでは漫画を描いたことはなく、日本で『団団珍聞』や『ジャパン・パンチ』(居留地向け)といった風刺画中心のメディアに接して、自らも漫画に進出した。ビゴーが残した風刺画の中には影絵の形式で複数のコマを並べてストーリーに仕立てたものがある。4コマ漫画との関連について、清水勲は、ビゴーは7~10コマの複数のコマを使用しており、ビゴーが描いた4コマ漫画は日本の漫画家のものを筆写した例があるだけだと記している。とはいえ、清水は「ビゴーはヨーロッパの比較的長いコマ漫画のスタイルを日本にもたらした」とも評している。 -このウルム戦役によって戦いは終わったわけではなく、まだウィーンの近くにはミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が控えていた。ロシア軍はオーストリア軍の生き残りと合流するために北東に撤退した。フランス軍は11月12日にウィーンを占領した。12月2日にアウステルリッツの戦いでフランスは決定的な勝利を得て、オーストリアはこの戦争から離脱した。12月の終わりに、プレスブルクの和約により、第三次対仏大同盟は崩壊し、フランスの覇権は中央ヨーロッパにまで及んだため、翌年、プロイセンとロシアによる第四次対仏大同盟が結成された。 -変電所はまず、送電用変電所と配電用変電所に大きく分類される。送電用変電所は、電力系統の途中に配置されて電圧の変換を行っており、大電力が通過する。これに対して配電用変電所は電力系統の末端に近いところに配置されて、送電用変電所から送られてきた高い電圧を消費者に供給する低い電圧に落として地域の配電網に供給する。送電用変電所に比べて1つの変電所を通過する電力は小さく、施設の規模も小さくなるが、その数は送電用変電所よりかなり多い。配電用変電所の受電電圧は154-22kV程度で、配電網へ送り出す電圧は22-6.6kV程度である。送電用変電所の多くは高い電圧を低い電圧に落とすために使われているが、逆に低い電圧を高い電圧に上げるために用いられているものもある。電圧を上げる変電所は昇圧用変電所、下げる変電所は降圧用変電所と大きく分類される。昇圧用変電所は基本的に発電所に付属して設置されており、電力を発電所から送り出す段階での電圧変換を行っている。 -上記の門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会でも中心になって仕切っていたので、漱石門下四天王と称されている(木曜を面会日と定めたのも三重吉である)。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、大岡昇平から「漱石の最も正当な継承者」と評されている。漱石自身の評言から見ると、彼が特に才能に注目し、期待をかけていたのは志賀直哉と芥川龍之介である。なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙(小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正2年(1914年)、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤らに依頼している(そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった)。ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12年(1937年)にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である。長編には不向きな作家であった志賀が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化の強さは上記の門下生に劣らないものがあったと言える。また漱石は明治42年(1909年)、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。大正4年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、翌日の時事新報に「新しき女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 -レヒ川が流れる森林地域には、余暇施設が人気のクー湖やこれよりも小さなシュテムプフレ湖がある。アウクスブルク北部には、アウトバーン湖、カイザー湖、アウクスブルガー・ミュールベルクのヨーロッパ池がある。アウクスブルク南部には、ヴェルタハ川の堰止め湖、ラウター湖、イルゼ湖(近郊型保養地)がある。アウクスブルク南部の自然保護地区にはアウクスブルクの飲料水の水源がある。アウクスブルクの市の森やウンターベルゲン近郊のレヒアウヴァルトにも水源はある。硬度13.5°dH(中硬水)のこの水はアウクスブルク、ノイゼス、フリートベルク、シュタットベルゲンに供給されている。 -このような解放運動の成果により、1970年代、合衆国の同性愛者らの境遇は飛躍的に向上する。1971年にコネティカット州がソドミー法を撤廃したのを皮切りに、いくつかの州議会や州裁判所でソドミー法が撤廃または緩和される決定がなされた。1972年にはミシガン州アナーバー市が同性愛者の人権保護を条例化する。著名人たちが同性愛的性的指向を公表し始めたのも、この頃であった。1973年末までに全国で1100の同性愛団体が設立された。 -ファン・ゴッホは、最初期からバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーを敬愛しており、これを模写したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、アルフレッド・サンシエの『ミレ���の生涯と作品』で読んだという「彼[ミレー]の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている。アルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた『種まく人』を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは聖書におけるキリストのたとえ話に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている。ファン・ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人......の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている。「種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている。 -宮城県教育委員会は、3月14日から18日までを休校とし、15日に予定していた高等学校一般入学試験の合格者発表を22日以降に延期することを決めた。地震発生直後の2011年3月12日、13日には国公立大学の入学試験後期日程が予定されていたが、12日は被災地にある32校の大学(私立大学含む)で試験が中止されることになった。国立36大学・公立15大学・私立7大学が12日の試験の開始時間繰り下げや、地震の影響を受けた受験生の個別対応を行い、追試の対応をした大学もある。文部科学省は、3月12日における国公立大学後期日程の受験者は6万5667人(昨年から2万604人減少)であり、この減少は地震の影響によるものであるとしている。東北地方で同日に試験が実施された国公立大学は、全12校のうち秋田大学・秋田県立大学のみであった。翌13日においても6校で試験を中止し、5校で繰り下げ実施または個別対応を行った。また、家屋の損壊した状況に応じて入学金や授業料の免除を行う大学や、震災や計画停電の影響を考慮して授業開始を5月以降とする大学も増えている。 -カラハン朝は、かつて中央アジアに存在したイスラム王朝である。中央アジアのテュルク系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられている。 -1985年(昭和60年)に豊田市立図書館が行った読書調査によると、豊田市民の公共図書館への依存率は他都市よりも低かった。1988年度(昭和63年度)の豊田市立図書館の蔵書数は約18万冊で貸出冊数は約29万冊、分室・分館の蔵書数は約20万冊で貸出冊数は約63万冊だった。豊田加茂広域市町村圏移動図書館の蔵書数は約10万冊であり、貸出冊数は豊田市域のみで約26万冊だった。1988年7月13日には豊田市中央図書館建設検討委員会が発足し、1989年(平成元年)9月21日には中央図書館建設基本計画書を教育委員会に答申した。1990年(平成2年)4月1日には豊田市図書館建設準備室が発足した。 -取り決めに従ってアブドゥッラティーフは解放されたが他の条件は履行されず、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラの戦争は再開される。1448年にウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに勝利してマシュハドを占領し、アブドゥッラティーフはヘラートの制圧に成功した。しかし、ウルグ・ベクの遠征中にサマルカンドがウズベクの襲撃を受け、町は破壊と略奪の被害を受ける。ウルグ・ベクはシャー・ルフが本拠地としていたヘラートからサマルカンドに首都機能を移転しようと考え、シャー・ルフの遺体をサマルカンドのグーリ・アミール廟に移して帰国する。 -イルカボーイズ(英語:IrukaBoys)は、日本軍の捕虜として三重県南牟婁郡入鹿村(現・熊野市)の紀州鉱山で労働に従事したイギリス人兵士の通称。入鹿村に送られた捕虜の数は300���いたが、うち16人が落命した。紀州鉱山にやって来る前より泰緬鉄道建設で酷使されていたことから、日本に対して怒りや憎しみを抱いているメンバーが多かったが、鉱山で死亡した仲間が熊野市の住民によって弔われていることを知り、日本への再訪を望んだ。日英両国の民間人による草の根的な資金援助により、1992年(平成4年)10月に47年ぶりに日本を訪れ、旧友の慰霊や地域住民との交流を行った。イルカボーイズによる日本訪問は、戦争の記憶を忘れないことや、かつての交戦国の国民同士の和解の在り方の一例として取り扱われている。 -7か月におよぶ757の試験飛行には初号機から5号機までの5機が投入された。試験内容には飛行システム・推進システムの試験、高温・低温気象下での試験、路線実証飛行が含まれた。767の開発過程で得られたデータも活用された。設計上の問題点が洗い出された後、757の非常口ドアには取り扱いを簡単にするために2重ばね構造が採用されたほか、バードストライクに備えて胴体が強化された。実際に製造された機体は、当初の計画値よりも重量が1,630キログラム軽くなったほか、燃料消費率が3パーセント向上した。このことにより航続距離が200海里(370キロメートル)延び、ボーイングは、ますます757の経済性を宣伝するようになった。1,380時間の試験飛行の後、1982年12月21日にRB211エンジン搭載仕様の757に対して米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration)の型式証明が交付され、続く1983年1月14日には英国の民間航空局(CivilAviationAuthority)の型式証明を取得した。最初の引き渡しはローンチカスタマーのイースタン航空に対して1982年12月22日に行われた。これは767の初引き渡しの約6か月後のことであった。PW2037エンジン仕様の最初の757は約1年後にロールアウトし、1984年11月5日にデルタ航空に対して引き渡された。 -1997年、ハワイ大学の研究グループがOBO(Oceanbottomobservatory,「海底観測機」)をロイヒ海山の頂上に設置した。その水中観測ロボットは、HawaiʻiUnderseaGeologicalObservatory(「ハワイ海底地質観測機」)のアクロニムを取ってHUGOと渾名が付けられた。HUGOは、海底を這わせた光ケーブルで34km(21mi)離れた海岸にある操作表示部とつながっていた。このおかげで、科学者はリアルタイムでロイヒの現況についての震動・化学・画像の各種データを得ることが出来た。この段階で、HUGOは、海底火山についての研究を深めるうえで欠かせない、国際的な海底火山研究所となった。1998年10月、HUGOに電力を送り続け、各データを伝送してきた海底ケーブルが切断されてしまった。このことは、観測所が事実上閉鎖することを意味していた。翌年の1月19日、HUGOはパイシーズVの訪問を受けた。この観測ロボットは、2002年に再び機能不全をきたすまでの4年間にわたってその役割を果たした。 -虞犯少年とは、一定の不良行状(虞犯事由)があって、かつその性格または環境に照らして、罪を犯しまたは触法行為をするおそれ(虞犯性)がある少年(少年法3条1項3号)をいう。虞犯事由と虞犯性とをあわせて、虞犯事実という。成人とは異なり少年については、犯罪行為をしていなくても保護的措置を採ったり保護処分に付することが可能とされている。これは、非行のある少年を早期に発見し、少年保護手続の枠組の中で更生を促し、それによって社会防衛を効果的に達成することを目的としている。しかし、虞犯事由は評価的・価値的な表現を多く用いて定義されているため、その存否は、判断者の価値観や事実評価に大きく左右される危険をはらむ。このため、虞犯少年を非行少年から外し、不良行為少年(少年警察活動規則2条6号)として補導(同規則13条、8条2項)や児童福祉法に基づく措置をとるに止めるべきであるとの立法論もある。 -元来南アラビアでは月の神を頂点とする多神教の天体信仰が主流を占めていたが、4世紀の第二次ヒムヤル王国の時代にヒムヤルにキリスト教とユダヤ教が伝えられる。多神教の神殿に奉納される碑文の末尾には祈願する多数の神の名前が記されていたが、多神教信仰は一神教信仰に変化していき、363年/373年に奉納された碑文の末尾には「天の神」のみへの祈願が記されていた。4世紀初頭のヒムヤルでは「天の神」を信仰する一神教が存在し��がらも王家はユダヤ教の影響を受け、キリスト教に対して非常に友好的な態度を取る状況が成立していた。ユダヤ教の影響を受けた一神教の出現の背景には、キリスト教を受容してビザンツ帝国と同盟したアクスムに対抗するため、ヒジャーズとメソポタミアのユダヤ教徒コミュニティとの関係を深める意図があったと推測されている。やがて、それぞれの宗教の信者の間に宗教的対立が起きるようになる。 -フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは1933年のヒトラー内閣成立でヒトラーに次ぐ副首相の座に就いた。 -神奈川県では震災の影響で停電が相次ぎ、停電による酸素吸入装置の停止で女性1名死亡したほか、横浜市や藤沢市、川崎市にて避難中などに転倒し女性2名、男性1名の死亡が確認されている。また、横須賀市で火災が2件発生し、男女2人が死亡している。計画停電で信号機が停止した厚木市内の県道交差点で、オートバイとワゴン車が衝突するなど、この死亡事故を含め、計画停電で信号機が止まった影響による事故は37件(人身12件、物損25件)となった。一方、建物被害は横浜市内で多発。同市によると、住宅と住宅以外の建築物の被害は少なくとも198棟。建物全壊1棟、半壊7棟、一部破損151棟。新耐震基準が導入された1981年以前のビルが傾いており、全壊とされている。また、同市内では臨海部などの埋立地で液状化による被害も多数報告されている。川崎市では、手抜き工事によりミューザ川崎シンフォニーホール(大ホール)の天井板が大規模に崩落し、ミューザ川崎シンフォニーホールは2年以上の長期間の休館を余儀なくされた。埼玉県久喜市など内陸部においても液状化が発生した。久喜市南栗橋地区で地区約2千戸のうち、11戸が全壊し、大規模半壊は41戸、半壊は54戸、一部破損71戸に上り、道路は21路線で隆起や側溝の破損が起き、水道管や電柱にも影響が及ぶなど被害は甚大となった。群馬県では地震の影響で1人が死亡し、国道354号線の五料橋において4センチメートル(cm)の段差が発生した。 -ヒューストンは、アメリカ合衆国テキサス州南東部に位置する都市。2,099,451人の人口を抱えるテキサス州最大、全米第4の都市である。ハリス郡を中心に9郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は5,920,416人にのぼる。市域面積は1,500km2におよび、市郡一体の自治体を除くとオクラホマシティに次ぐ全米第2の広さである。ヒューストンは1836年8月30日にオーガストゥス・チャップマン、ジョン・カービーのアレン兄弟によってバッファロー・バイユーの河岸に創設された。市名は当時のテキサス共和国大統領で、サンジャシントの戦いで指揮を執った将軍、サミュエル・ヒューストンから名を取って付けられた。翌1837年6月5日、ヒューストンは正式に市制施行された。19世紀後半には海港や鉄道交通の中心として、また綿花の集散地として栄えた。やがて1901年に油田が見つかると、市は石油精製・石油化学産業の中心地として成長を遂げた。20世紀中盤に入ると、ヒューストンには世界最大の医療研究機関の集積地テキサス医療センターやアメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターが設置され、先端医療の研究や航空宇宙産業の発展が進んだ。 -1996年9月7日23時50分ごろ、Hは真っ暗な山道にタクシーを停車して被害者Cに「俺は後ろからするのが好きだ。四つん這いになってくれ」と後背位で性行為をするよう求めた。Hからの申し出を承諾した被害者Cは後部座席で背を向け、下着を脱いで腰を突き出したが、Hはネクタイ・ズボンのベルトを緩めて唸り声を上げながらCにのしかかった。Cは危険を察知して振り返り、Hに「何をするの!」と叫んだが、Hはベルトを引き抜いて被害者Cの首に回して絞め上げ、激しい抵抗にも躊躇せずCを絞殺した。その後、HはCの財布から現金約82,000円を奪い、9月8日0時10分ごろに遺体をタクシーに乗せたまま発進し、約1時間にわたり遺棄場所を探しながらタクシーで走行した。最終的にHは殺害現場から約10km離れた滝山川左岸の法面斜面に被害者Cの遺体を遺棄し、遺体発見を遅らせようと近くの農家から盗んだ青いビニールシートで遺体を隠した。 -同1963年、葉子ら数人が沖縄にわたっての事前交渉を経て、��団たんぽぽ沖縄後援会が発足して、沖縄公演が実現した。同1963年11月11日には当時のNHKの人気番組『私の秘密』に、「沖縄の子供たちへ演劇を運んで行く者」として、葉子が出演した。このときには放送作家の西沢実が沖縄公演を励ますために作った詩『沖縄にとぶたんぽぽ』を、中村メイコが朗読した。同1963年11月12日、初の沖縄公演が開始された。本土から離れた沖縄では、葉子らは大歓迎され、新聞、テレビ、ラジオでも大きく報道された。同1963年11月21日に那覇市の城北小学校での開催では、開演前まで騒がしかった数百人の小学校たちが、開園後は次第に舞台に吸いつけられ、文字通り劇に溶け込むほどの反応を示した。終演後は喝采が送られ、「面白かった」「楽しかった」など、初めて見る教育劇に話を弾ませていた。 -2隊は12月にケベック市の前で合流し、1775年の大晦日、暴風雪の中でケベック市を強襲した。この戦闘でモントゴメリーは戦死し、アーノルドは負傷したが、市を守るイギリス軍にはほとんど損失が無く、大陸軍にとって悲惨な敗北になった。その後アーノルドは無益な市の包囲を始めたが、その間に行われた情報宣伝活動によってロイヤリストを支持する声が高まり、またモントリオールでのデイビッド・ウースター将軍の失政には大陸軍を中傷する者だけでなく支持する者からも不満の声が上がった。 -苦闘を重ね、ワットは性能のよい蒸気機関の設計ができたが、フルスケールの蒸気機関を製作するには多額の資金が必要だった。ジョゼフ・ブラックや、フォルカーク近郊のキャロン・カンパニー創設者のジョン・ローバックも協力者となり、多額の資金提供をした。しかし、主要な困難はピストンやシリンダーの加工にあった。当時の金属加工技術は鍛冶屋のレベルであり、十分な精度が出せなかったのである。また資金の多くは数々の特許取得のためにも費やされることとなった。金に困ったワットは測量士、のちに8年間も土木技師として働かざるをえなかった。ローバックが破産すると、バーミンガムでソーホー鋳造所を経営していたマシュー・ボールトンがローバックの特許権を取得した。1775年には、その特許の1800年までの期限延長を首尾よく達成できた。ワットはボールトンを介して当時の世界で最良の鉄鋼職人と取引することができた。ピストンと精密に合う大きなシリンダーの製作は、北ウェールズのレクサム近郊にあるバーシャム鉄工所で大砲製造用に精密中ぐり技術を開発したジョン・ウィルキンソンが実現した。後述する通り、ワットとボールトンはのちにボールトン・アンド・ワット商会を設立し、25年間にわたって協力関係を続けることとなる。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -皇居内で確認されている哺乳類としてはまずタヌキとハクビシンが挙げられる。ともにいつ頃から皇居内に住みだしたのかは不明であり、ペットとして飼われていた個体が逃げ出して繁殖した可能性もあるが、町田付近など東京近郊の里山ではタヌキやハクビシンの生息が確認されており、皇居まで分布を広げた可能性もある。また1950年代の記録に皇居にタヌキがいるとの説が載せられていることから、タヌキについてはかなり以前から生息し続けている可能性もある。タヌキとハクビシンについては赤坂御用���内でも生息しており、特にタヌキが多く生息している。 -歌舞伎は、歌と踊りを中心とする舞台芸能から、物語性を重んじる演劇へと変化した。郭制度の公許にともなって、初期の女歌舞伎(遊女歌舞伎)は風紀を乱すとして他の女性芸能ともども1629年に禁止された。少年による若衆歌舞伎も初期の時代にはさかんであったが、この段階で先行する能や狂言の舞が導入され、物真似などの個人芸が成立するとともに放下・蜘蛛舞など軽業の要素が加わったとされている。ところが1652年、若衆歌舞伎もまた風紀をみだすとの理由で全面的に禁止された。それに対し、歌舞伎再開をのぞむ庶民の声にはきわめて根強いものがあったので、俳優が若衆の象徴である前髪を切り払い、扇情的な舞・踊りを排して「物真似狂言づくし」のみを演ずるということを条件に再開がゆるされたといわれている。これ以降、成年男子のみが演ずる野郎歌舞伎として現代に引き継がれている。ただし、この条件は一方では、歌舞伎を容色本位の芸能から技芸本位の芸能に深化させる契機になったとも評される。また、寛文以降は、演目に2番つづき、3番つづきの狂言が仕組まれるようになって多幕物が発生し、このことは、演劇内容が筋立てを中心とする複雑なものへ進化していったことを物語る。さらにこの多幕物が、引幕や花道の出現を促したように、舞台構造・装置にも創意工夫がほどこされるようになった。 -パターソンが「凶暴なライオンが付近に現れる」という話を初めて聞いたのは、ツァボに着任してまだ2、3日程度の頃であった。その直後に労働者が1人か2人いなくなって、ライオンが夜間にテントから連れ去って食い殺したという話を聞かされたが、パターソンはその話を信じることができなかった。パターソンによればその2人は非常に善良な人間であり、2人とも金をかなり蓄えていたためその金目当ての悪人に殺されることもありうると思ったためであった。パターソンの疑いは、不幸な形で消えることになった。着任して3週間ほどたったある日の朝、パターソンは労働者の頭を務めていたウンガン・シンという名のシーク人が夜間にテント内で襲撃を受け、連れ去られて食われたという知らせを受けた。パターソンはテントに急行して現場を調べ、その場に居合わせた他の労働者の証言を聞いた。当時テント内にはウンガン・シンの他に6人の労働者が居合わせ、そのうち1人が事件を目の当たりにしていた。目撃者は夜間に突然ライオンがテントの入り口から首を突っ込んで、たまたま一番近くにいたウンガン・シンの喉元に食いついたと証言した。ウンガン・シンは「チョロ(放せ)」と叫んで抵抗し、両腕をライオンの首に回したが間もなくテント内から姿が消えていた。他の労働者たちはこの事態に怯えきり、テント外での戦いの気配を聞くほかになす術はなかった。 -なお、美幾に続く篤志解剖の2人目から4人目までの人々については、翌年の1870年(明治3年)に記録が残されている。2月の八丁堀亀島町の「金次郎」、3月の深川大島町の「竹蔵」、10月の小日向水道町の「ムツ」の名があるが、いずれの人にも姓の記録がないため、貧しい階級の出と推定されている。これらの人々も丁重に葬られて、遺族には金3両が贈られていた。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイ��とソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -大きさは本州に見られる種であるシオダマリミジンコで雌は体長1.2mm、雄は0.9mmである。いずれも褐色から赤褐色のはっきりした色がある。このため、日本では「赤コペ」(おそらく「赤いコペポーダ」の略・コペポーダはカイアシ類のこと)との通称が用いられた由。 -1960年代から運河は全面的な改修が行われた。第1期工事は1961年に始まったがスエズ動乱で長く中断し、1975年に再開され、1980年に13億ドルをかけた拡張計画が終了した。これによって航路幅は89メートルから160メートルに、水深は14.5メートルから19.5メートルとなり、通過できる船舶の規模も拡大した。1995年までに、ヨーロッパで消費された石油の3分の2はスエズ運河を経由して運ばれた。世界の近海航路を利用する船舶では7.5%がスエズ運河を利用し、2008年の統計では21,415隻が通過し、総計53億8100万ドルの使用料が納められた。1隻あたり平均料金は25万1千ドルである。スエズ運河は通行できる船舶の大きさ、総通行量ともにパナマ運河を上回る。スエズ運河庁(SCA)理事会は、2008年1月1日付けで船舶やタンカーの運河通行に関する規則を改訂した。その最も重要な点は、62フィート船舶の通行許可と、船舶最大幅を32メートル(105フィート)から40メートル(130フィート)まで拡大したこと、運河の境界内でダイバーを活用する際、事前にSCAの許可を得なければ罰金が科せられるようになったことがある。また、放射性物質や可燃物などの危険物を積載した船舶についても、国際協定で定める最新の規定に適合していれば通行が認められた。またSCAは、軍艦の通過時に使われるタグボートの隻数を取り決める権限を持ち、航行時の高い安全性を確保している。 -敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。英仏両国(イギリスとフランス)はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、失業者が増大した。 -一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン(フィンセント)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。......彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。......色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ファン・ゴ��ホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70キロのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ファン・ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた。 -2006年(平成18年)に、庵野秀明はアニメ制作会社「株式会社カラー」を設立し、それまで名を連ねていたガイナックスの取締役から退いている。新スタジオでの第一作目は、2007年(平成19年)9月1日に全国主要映画館にて封切りされた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』四部作の1つ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』であった。2009年(平成21年)6月27日には『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、2012年(平成24年)11月17日に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を全国主要映画館にて封切りした。完結編として『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が予定されている。2011年(平成23年)に平野勝之監督の『監督失格』を実写初プロデュース作品として手掛けた。2013年(平成25年)には、宮崎駿の長編アニメーション映画『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎役で声優デビューした。2014年(平成26年)に第27回東京国際映画祭の企画で「庵野秀明の世界」が開催された。学生時代からの映像作品がTOHOシネマズ日本橋で上映、トークセッションも開催された。2015年(平成27年)4月1日、2016年に公開予定の「ゴジラシリーズ」新作で、脚本と総監督を務めることが発表された。2015年秋から撮影開始し、2016年7月29日に『シン・ゴジラ』のタイトルで公開された。2017年(平成29年)5月8日、NPO法人『アニメ特撮アーカイブ機構』を設立し、代表を務める。 -ハンガリー王マーチャーシュ1世が没した後、バヤズィトは1492年にマーチャーシュの死を好機と考えてベオグラード攻略に挑むが失敗、1495年にハンガリーと10年の休戦協定を結んだ。 -また、プトレマイオス2世はエーゲ海方面では小アジアやエーゲ海の拠点を強化し、アンティゴノス朝と対立するアテナイやその他のギリシア人ポリスを支援して東地中海での勢力基盤を固めようとした。前265年頃にアンティゴノス朝とアテナイ、スパルタを中心としたギリシアのポリス連合との間でクレモニデス戦争が勃発すると、海軍を派遣してアテナイ・スパルタを支援した。この戦争はリュシマコスとその妻でプトレマイオス2世の姉にあたるアルシノエ2世の息子プトレマイオスをマケドニアの支配者とすることを目論んでのものであったと言われる。しかし、この戦争も前261年にアテナイがアンティゴノス朝によって陥落させられ敗退に終わった。 -GE社が作製したものとと天然のものとは化学的に同一であるが、物理的性質は異なっていた。無色のダイヤに短波長の紫外線を照射すると、蛍光と燐光を発生するが、比較的長波長の紫外線ではこれらの現象は起こりにくい。希少で天然の青色ダイヤもこのような特性を示す。天然のものと違い、GE社が合成したものにX線を向けると、濃黄色の蛍光を発した。デビアス社ダイヤモンド研究所で、高温高圧法で6週間合成し続けて高品質の25カラット(5.0g)のものの合成に成功した。しかし、経済的な理由も考慮して、1.0-1.5カラット(200-300mg)の大きさが最良であると結論づけた。 -ムハンマド・アリーは単に武力を用いて反乱を鎮圧するのではなく、外交を駆使して自国に有利な状況を作り出そうとしていた。1826年9月、ムハンマド・アリーはアレクサンドリア駐在のイギリス総領事ヘンリー・ソールトに対し、海軍力の増強とアラビア方面への勢力拡大を認めることと引き換えにギリシアからの撤退を打診した。 -通常は単独でいるが、20-50匹の群れを作ることも記録されている。クイーンズランド南東では毎夏、浅瀬で数百匹の群れが見られる。この群れはほぼ全て大型の成体で、雌3に対し雄1の割合である。群れ内での交尾行動は観察されておらず、このような群れを作る目的は不明である。成体雄が他の雄の胸鰭に噛み付き、海底に押さえつける行動が観察されている。押さえられた雄は仰向け��なって数分間動かなくなる。この行動は雌雄間の交尾前行動と似ており、これは上になった雄が自身の優位性を主張する行動ではないかと推測されている。 -鉄道用の沈埋トンネルは、1910年のデトロイト川をくぐるミシガン・セントラル鉄道トンネルが最初のものである。沈埋トンネルは、エレメント同士の接続に多少の潜水作業を必要とするが、シールド工法で必要とされるような、費用がかかって作業員の健康によくない圧気中の作業を必要としないという利点があり、沈埋工法の採用に不利な条件がある場合以外では、シールド工法に比べて安価に建設できる。1988年時点の統計では、沈埋トンネルは世界に67本存在していた。この他に、水域を囲い堰で囲って水を抜いて水底を露出させ、溝を掘って中にトンネルを構築してから埋め戻す、開削工法を採った例もある。 -同年中、『信長公記』によれば、信行は、岩倉城の織田信安に通じるなどして謀反を企てた。信行は再び篠木三郷を押領しようとしたが、柴田勝家がこれを信長に密告した。『信長公記』によれば、信行は若衆の津々木蔵人を重用し、勝家を蔑ろにしていたのである。信長が仮病を装うと、信行は11月2日に清洲城へ見舞いに行き、そのまま誘殺されてしまった。信行という脅威を除いた信長の勢力は飛躍的に拡大し、信行殺害からわずか数か月後、信長は守護代家の岩倉織田家打倒に成功した。すでに守護家の斯波義銀も追放されていたため、尾張の守護・守護代体制は完全に解体され、信長が同国の大半を支配することとなった。信行の子の坊丸(後の津田信澄)は助命され、長じてからは信長の有力武将として活躍したが、本能寺の変に際して明智光秀の娘婿であったことも相まって謀反を疑われ、信長の三男・信孝に討たれた。ただし信澄の子の織田昌澄は生き延び、最終的に江戸幕府の旗本となった。 -救援物資の調達では水や食料は農林水産省、日用品と燃料は経済産業省、医薬品は厚生労働省がそれぞれ各業界から集め、それを自衛隊や、国土交通省が依頼した運送業者が輸送する(日本通運などの運送業者や全日本トラック協会は政府の指定公共機関となっている)という体制がとられた。物資は自衛隊や在日米軍の各基地や駐屯地から、航空自衛隊松島基地や米軍により復旧された仙台空港、福島空港、花巻空港(岩手県)へ空輸され、陸路で県の一次物資集積拠点に搬入されたのち、民間業者により荷卸し・仕分け・搬出され市町村の二次集積所へ運ばれ、陸上自衛隊のトラックで各避難所へ運ぶという方式がとられた(※岩手方式)。自衛隊以外では東京消防庁航空隊のヘリコプターや海上保安庁の巡視船や航空機を利用した物資輸送が行われ、さらに国土交通省の大型浚渫兼油回収船の清龍丸、海翔丸、白山による緊急物資輸送や、航海訓練所所属の航海練習船である銀河丸および海王丸(2代)による医薬品などの緊急物資輸送、調査捕鯨船日新丸や、水産庁所属の漁業取締船、水産総合研究センターの調査船などを利用した物資供給も行われた。また(社)海外まき網漁業協会所属のまき網漁船は、3月13日以降に計26隻が被災地へ向かい、船に搭載された小型艇(レッコボート)を用いて大型船が接岸できない地域に食料、軽油、毛布などを搬入した。また全日本海員組合はチャーターした200トン型イカ釣り漁船を用いて、函館港から宮古港、気仙沼港、石巻港への物資輸送を行っている。 -読売新聞では、「カム着火インフェルノォォォォオオウ」について、「come」と「着火」、およびロシア連邦の火山帯である「カムチャツカ半島」を掛けたものと報じ「ちょっと知的」であるとした上で、「明らかに表記されることを意識している言葉」と論じている。北海道新聞では、「激おこぷんぷん丸」について「若者言葉における感情表現で代表的なもの」と報じている。また、梅花女子大学教授の米川明彦は、北海道新聞の同記事において、感情を表すフレーズが多く流行する点について「自分の思いを丁寧に説明し、周囲に理解してもらおうと努力することを『煩わしい』と敬遠する態度が伺える」と分析している。 -1982年(昭和57年)3月17日、群馬県知事や近隣町村長、日本鉄道建設公団総裁や請負会社の社長らが臨席して、中山トンネル完成式が行われた。代表者により最後の軌道用コンクリートの打設が行われた。これによりトンネルは土木工事から軌道工事に引き渡された。トンネルの建設がまだ行われている中でも、既に完成した区間では軌道の敷設が始められていた。引き渡しを受けて最後の区間の工事が進められ、4月に軌道工事が、5月に電気工事が完了した。7月23日に試運転が開始され、11月15日についに開通を迎えることができた。14,857mのトンネルに、約10年の歳月とのべ230万人の作業員が投入された。中山トンネルのメートル当たりの建設費は約839万円に上り、上越新幹線の全トンネルの平均約330万円を大きく上回った。わけても2回水没し、八木沢層に苦しめられた四方木工区の建設費はメートル当たり3467万円という多額に上った。トンネルの長さ14,857mをかけると、総額は1246億5023万円となる。この他に、渇水対策費として約119億円を費やしている。これだけの難工事であった中山トンネルであるが、上越新幹線全体で72名の殉職者を出しているのに対して、2名(資料によっては4名)の犠牲に留まっている。2回の水没事故も犠牲者を出すことがなかった。このトンネルを、新幹線は約4分で走り抜ける。 -江戸時代の文献や石造物には「柳窪」または「柳久保」と表記されている。現在では柳窪一丁目-五丁目を中心に、下里四丁目の一部が含まれる。柳窪村の江戸時代、文政10年(1827年)の家数は38軒、人口は222人、1872年(明治5年)の家数は42軒、人口は253人だった。1872年(明治5年)から神奈川県に編入され、1889年(明治22年)に柳窪村など8村に柳窪新田などを加えて久留米村が成立した。1893年(明治26年)に東京府に編入し、1943年(昭和18年)に東京都となった。 -1918年4月末、カフカはプラハに戻り職場に復帰するが、これ以降は長期療養と職場復帰とを何度も繰り返す事になる。この年11月にはスペイン風邪にかかり、治りかけていた肺に大きな打撃を与える事になった。この時は医師の勧めに従ってシュレーゼンの保養地に出かけ、翌年4月まで滞在した。カフカはここで、同じく肺を病んで療養中だった4歳年下のユダヤ人女性ユーリエ・ヴォリツェクと出会い、交際を始めている。4月には彼女と婚約するが、貧しい家柄を嫌った父ヘルマンから猛反対を受けた。カフカは父との関係改善を図り、11月から12月半ばまで再びシュレーゼンに滞在した時に、長文の「父への手紙」を書いている。しかしこれは、受け取った母親の判断で父の手には渡らなかった。ユーリエとの結婚の目途が立たないまま、カフカは1920年からチェコ人のジャーナリスト・翻訳家でユダヤ人の夫を持つミレナ・イェセンスカと親しくなった。彼女がカフカの「火夫」をチェコ語に翻訳したいと申し出たのがきっかけで(これはカフカ作品の最初の翻訳であった)、文通を通じて親しい交際が始まり、7月にはユーリエとの婚約を解消した。しかしミレナは夫と別れる決心が付かず、彼女との仲も次第に冷えていった。 -1978年、米地質調査所の調査船は、ロイヒが現在でも活動するか否かを調べるため、底浚いで得たサンプルを収集し、ロイヒ海山山頂を写真に撮った。写真の分析と枕状溶岩の岩石標本の試験をおこなったところ、火山から噴出した物質は「新鮮な」噴火してからそんなに年月が経過していないことを示しているように思わた。ロイヒが未だ活発であることを示す更なる証拠が得られたのである。1980年10月から1981年1月にかけての調査航海ではさらに多くのサンプルを浚い上げ、何十枚にもわたる写真を撮影し、さらなる証拠がもたらされた。研究から、噴火現象はリフトゾーンにあるクレーターの南部から始まると言う事を示していた。この海域はロイヒにマグマを供給する源であるハワイ・ホットスポットのすぐそばである。1986年の群発地震を受けて、OBOs(oceanbottomobservatories)5台で構成されたネットワークをロイヒ周辺に一カ月掛かりで設置した。ロイヒでは頻繁に起こる火山性微動はOBOによる地震学の研究にとって、まさにおあつらえ向きの好環境だった。1987年、潜水艇アルビン号がロイヒの多角測量(en)に使われたそのほかには、1991年に群発地震を追跡するために自律観測機が設置された。 -2009年、アメ���カの成人ボランティアに対するゴールデンライスの臨床試験の結果がAmericanJournalofClinicalNutrition誌に発表された。試験は「ゴールデンライス由来のβ-カロテンはヒトで効率的にビタミンAに転換される」と結論付けられた。アメリカ栄養学会は、ゴールデンライスを毎日コップ一杯程度の量消費することでおそらくビタミンAの栄養所要量の50%を摂取することができると考えられ、ほとんどの幼い子供とその母親にとってこの量は消費習慣の範囲内である、とした。β-カロテンは、果物や野菜など、世界中で食べられている栄養豊富な食品の多くに含まれ消費されていることはよく知られている。食品中のβ-カロテンはビタミンAの安全な供給源である。2012年にタフツ大学などからAmericanJournalofClinicalNutrition誌に発表された研究では、子供に投与した際、ゴールデンライスによって産生されるβ-カロテンは油脂中のβ-カロテンと同程度に効率的であることが示された。この研究の募集のプロセスとプロトコルは承認を得たものであることが述べられていたが、研究者らは中国人の子供にゴールデンライスを提供する際に両親の同意を得ておらず倫理的問題があるとして、ジャーナルは2015年に研究を撤回した。ネブラスカ大学のFoodAllergyResourceandResearchProgramによる2006年の研究では、ゴールデンライス2中の新たな遺伝子から産生されるタンパク質にはアレルゲン性がみられないことが示された。 -事態が変わらぬまま時は流れ、1987年(昭和62年)に墓地が移設された。1988年(昭和63年)、紀和町へ帰省した日系イギリス人の恵子ホームズはこの新しくなった墓地の存在と住民による弔いの活動を知って感銘を受け、このことを遺族や元捕虜に伝えたいという思いを抱いてイギリスに帰国した。しかしホームズは遺族や元捕虜につながる人脈がなく、伝える術はなかった。しかし偶然にも、和歌山県新宮市の宣教師ビード・クリアリーが、東京から訪ねてきた友人のシリル・マーフィー神父を墓地へ連れて行き、これに感動したマーフィーはカトリック系の雑誌『極東』に「小さな英国」(ALittleBritain)と題して寄稿した。『極東』の読者に、入鹿で労働に従事した元捕虜のジョー・カミングスがおり、カミングスはマーフィーに手紙を送った。マーフィーはクリアリーにカミングスからの手紙のコピーを送り、コピーは新宮のクリスチャンから紀和町のホームズの母へ届き、ホームズまでたどり着いた。これを契機としてホームズはカミングスと文通をするようになり、他の元兵士とも交流が始まった。 -1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)した。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。���の門下には内田百閒・野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始した。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 -オオウナギ生息地として最初に国の天然記念物に指定された三つ石、濁り、蟇(ひき)岩の3ヶ所の淵にほど近い十九淵(つづらぶち)では、1930年(昭和5年)の渇水の際、毎日10数匹が水面に現れ見物人で賑わうなど、富田川はオオウナギが多数生息していたが、昭和30年代頃から始まった護岸工事や生活排水の流入、上流域での森林開発なども加わり、生息環境が大きく変わり始めた。オオウナギは地元では「カニ食い」とも呼ばれるように、ベンケイガニやモクズガニなどの甲殻類を好んで食べ、アユやオイカワ等の川魚、ユスリカやカゲロウ等の水生昆虫、さらに淡水性の貝やカエルに至るまで様々な生物を餌としており、富田川水系生態系の頂点捕食者であるオオウナギが生息するためには、さまざまな生物にとっても棲みやすい環境が必要である。 -開館からの15日間の貸出冊数は8,475冊に達し、館報ではこれを「爆発的」「驚異的」と伝えている。同年10月13日には800冊積載の移動図書館車両「おおぞら号」を用いて、10ステーションを月2回の頻度で巡回する移動図書館サービスを開始した。下津町の稲沢市農協東部支所、六角堂町の長光寺、日下部松野町の仲よし広場、東緑町の遊園地、東出張所、西出張所、坂田町の坂田分校跡、矢合町の地蔵様広場、片原一色町の善応寺、老人憩の家にステーションが置かれている。1976年(昭和51年)3月には肢体不自由者に宅配サービス(家庭文庫)を開始し、1985年(昭和60年)4月には視覚障害者に録音テープの郵送貸出を開始した。1975年の開館時の住所は稲沢市小池正明寺町北反田35番地だったが、1984年には住居表示が実施されて稲沢市国府宮3丁目1番1-101号となっている。 -6月4日、クーチェクは赤軍とともにギーラーンの州都ラシュトへ入城し、カールゴザーリー広場の大群衆を前に「イラン・ソビエト社会主義共和国」の樹立を宣言した。革命政府によって従来の地方政庁は解体され、その官吏らはギーラーンから追放された。また、警察長官が革命側に寝返ったため、革命政府は治安組織の掌握にも成功した。その一方、当時ギーラーンに駐屯していたペルシア・コサック師団は、革命政府による武装解除を拒否し、テヘラン政府への忠誠を誓い続けた。しかし、6月15日にジャンギャリーと赤軍の合同軍が敢行した包囲戦により、その450人のコサック兵も100人以上の戦死者を出した末に武装解除へと追い込まれた。 -クロアチア王国は恒常的な首都を持たず、君主が変わるたびに王宮の位置も変化していた。ニン、ビオグラード、クニン、シベニク、ソリンの5つの都市が「王の都市」の称号を得ていたと伝えられている。 -1639年には、マドラスの領主に招聘される形で、要塞の建設が開始された。また、サファヴィー朝のシャー・アッバース1世にも使節を派遣し、その結果、当時、ポルトガルの活動拠点であったホルムズ島はサファヴィー朝の支配下に入った。ホルムズ島の対岸に港市機能を持たせたバンダレ・アッバースが建設された。当時のイギリス東インド会社の弱点は、航海ごとに、出資者を募りその売り上げ全てを出資者に返却する方式であった。この方式では継続的に商業活動を営むオランダ東インド会社との対抗が時代を経るごとに困難になってきた。1657年、オリヴァー・クロムウェルによって、会社組織の改組が実施された。この改組により、利潤のみを株主に分配する方式へ改めると同時に株主は会社経営に参画できる総会方式が採用されることとなった。 -『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』でメル・ファーラーと共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨークタイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した。そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞主演舞台女優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはシャーリー・ブースに次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった。(その後、1974年にエレン・バースティンも受賞して3人になった。2013年現在)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、二人の結婚は14年間続いた。ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。 -コレステロール(英:cholesterol)とは、ステロイドに分類され、その中でもステロールと呼ばれるサブグループに属する有機化合物の一種である。1784年に胆石からコレステロールが初めて単離された。室温で単離された場合は白色ないしは微黄色の固体である。生体内ではスクアレンからラノステロールを経て生合成される。コレステロール分子自体は、動物細胞にとっては生体膜の構成物質であったり、さまざまな生命現象に関わる重要な化合物である。よって生体において広く分布しており、主要な生体分子といえる。精製物は、化粧品・医薬品・液晶の原材料など工業原料としても利用される。いわゆる「善玉/悪玉コレステロール」と呼ばれる物は、コレステロールが血管中を輸送される際のコレステロールとリポタンパク質が作る複合体を示し、コレステロール分子自体を指すものではない。善玉と悪玉の違いは複合体を作るリポタンパク質の違いであり、これにより血管内での振る舞いが変わることに由来する。これらのコレステロールを原料とする複合体分子が血液の状態を計る血液検査の指標となっている。名称は1784年に研究者が胆石からコレステロールの固体を初めて同定した際、ギリシア語のchole-(胆汁)とstereos(固体)からコレステリン(cholesterin)と命名されていたが、その後化学構造がアルコール体であるため、化学命名接尾辞"-ol"が付けられて現在の名称となっている。ヒトのあらゆる組織の細胞膜に見出される脂質である。ヒトを始めとした哺乳類においては、コレステロールの大部分は食事に由来するのではなく、体内で合成され、血漿に含まれるリポタンパク質と呼ばれる粒子を媒体として輸送される。コレステロールはそれを生産する臓器や細胞膜や小胞体のような膜組織が密集している細胞で構成される臓器、たとえば肝臓、脊髄、脳に高濃度に分布している。成人の体内コレステロール量である100-150gのうち約1/4が脳に集中し、約1/3が脳を含めた神経系に集中している。動脈硬化叢に形成されるアテローム(血管の内側に詰まるカスのようなもの)にも高濃度で存在する。また、コレステロールが胆汁中で結晶化すると胆石の原因となる。植物の細胞膜においてはわずかな量のコレステロールが認められるに過ぎず、他の種類のステロイド(フィトステロールもしくは植物ステロールと呼ばれる)が同様の役目を担う。 -1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った。10年前に絵画の受け入れを希望したバスク地方はこのマドリード市内での移動に不満を示した。プラド美術館でもソフィア王妃芸術センターで���絵画の破壊行為が起こったことはなく、1995年には防弾ガラスが取り除かれた。同時に展示室内から展示室の側壁に移されたため、鑑賞者が正面から絵画全体を観ることはできなくなったが、展示室内に鑑賞者があふれて身動きが取れなくなることは避けられた。絵画の両脇には非武装の警備員が配備されているが、絵画まで4mの距離まで近づくことができる。1992年の開館当初のソフィア王妃芸術センターは、この絵画を除けば凡庸なコレクションであるとされたが、1997年にはプラド美術館の入館者数を上回り、スペインでもっとも入館者数の多い美術館となった。 -1517年にルターによる宗教改革がはじまり、宗教界が分裂して対立が始まると、1522年秋にジッキンゲンとフッテンは同郷の没落騎士を率い、ルターを奉じてカトリック教会を駆逐すると称して、近隣のトリーア大司教領に攻めかかった。しかし、翌1523年春に周辺諸侯によってすぐに鎮圧された。 -このような抑圧的な社会的状況はニューヨーク州とて例外ではなかったが、大都市であるニューヨーク市は、田舎に比べれば幾分か自由の息吹を感じられる街であったため、全国から移住してきた同性愛者らによって、グリニッジ・ヴィレッジの一角、クリストファー・ストリートと七番街アベニューの交差点を中心とした半径数ブロックに同性愛者らのコミュニティが形成されていた。そこには1950年代に既に、現存する市内最古のゲイバー「ジュリアス」を始めとして、数軒のゲイバーが存在していた。 -総力戦も第一次世界大戦より徹底し、国民はただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者への国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、人類史上初の原子爆弾投下を含め、民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、自国および占領地においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的大量虐殺を戦争と並行して進め、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され、その途上で200万人が死亡している。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。 -「ポジャールスキー公」は、1875年秋に無事にクロンシュタットへ帰港した。そして、艦を大洋巡洋艦型により一層近づけるための改修工事が施工された。船体水中部分は、一列の通しボルトで留められた木製外板と亜鉛板で覆われた。機関はオーバーホールを受けた。古びた6基のボイラーに替えて、新しい8基のボイラーが設置された。煙突は1基だけであったのが撤去され、2本に増やされた。そのうちひとつは固定式で、もうひとつは取り外し可能なものであった。砲熕兵装は203mm砲と152mm砲、それに87mm砲をそれぞれ8門ずつといくつかの16mmおよび44mm速射砲になった。加えて、棹式・折り畳み式・曳航式の外装水雷も使用できるように改修を受けた。 -篠崎真里花は涼介の幼なじみである。幼い頃は喘息持ちで学校も休みがちだったが、物語開始時点では完治している。汐凪市に戻ってきた涼介は真里花と再会し、二人は「天体水族館」という七夕祭りの企画を手伝うことになる。これは自然科学部と天文部の合同企画であり、水槽を置いた一室でプラネタリウムも同時に公演する。涼介達は準備として、水族館用の水槽と濾過装置、プラネタリウム用の投影機の自作に取り掛かる。一度は水槽を作り上げるも水漏れが生じ、涼介達は特殊なコーキング剤を手に入れて水槽を作り直す。投影機はピンホール式と決まり、制作途中で光源による熱で恒星球が溶けるというアクシデントが起こるも、光源や恒星球を取り替えることで対処する。天体水族館の準備の合間に涼介と真里花は相思相愛となり、二人は付き合い始め���。涼介は真里花の家に何度も訪れるが、真里花の父親・浩二とは衝突してしまう。それは浩二は真里花と涼介の交際を認めたがらないのであった。挙句の果てに、涼介は浩二から天体水族館の展示が上手くいかなかったら真里花との交際を諦めろとまで言われてしまう。七夕祭り当日、天体水族館は大盛況となる。天体水族館には浩二も訪れ、「たいしたものだった」と涼介に感想を伝える。七夕祭りの翌日、涼介は浩二に呼び出され、真里花が今までいかに喘息に苦しんで来たかを伝えられる。涼介は真里花を必ず幸せにすると浩二に誓う。その後、涼介と真里花がお互いの夢(建築士・保育士)や、二人で幸せになる未来を語り合う場面でスクール編は幕を閉じる。 -一方、トンネル工事終了後にトンネル直上部に短大校舎が建築されることになっており、この区間についてはトンネルのボックス構造を構築後にコンクリートスラブで建物基礎となる架台をトンネルを跨ぐように施工した。ここでは、架台の基礎となる連続地中壁が掘削時の土留壁を兼ねる構造とし、またトンネル上床版は架台を構築する際の型枠支保工基盤となる構造で建設された。出口側の工事は、1984年(昭和59年)3月から着工され、BW工法で厚さ500ミリ、長さ17-20メートルの連続地中壁を構築する方法で建設が進められた。通常、開削工法で掘削する土砂はトンネル上部で積み込んで搬出するが、赤羽台トンネルでは付近の道路が狭く大型車両通行禁止であり、この方法は利用できなかった。そこで出口側でも同様にトンネル本坑断面内に導坑を掘削してここにベルトコンベアを設置し、この上に立坑を5か所に設置して、ブルドーザーやバックホーで立坑に土砂を落とし込む形で掘削を行った。土砂は出口側に設けた工事用車路からダンプカーで搬出した。 -図書には1冊ずつICタグが付けられており、利用者は自動貸出機(3台設置)を使って借りることができる。ICタグ導入は東海地方の図書館では初めてで、事業者側から提案された。これにより、図書の返却・貸出業務に当たっていた人員を図書館利用者へのサービス人員に振り替えることができた上、図書の紛失が激減するという効果もあった。学校図書館の蔵書もICタグ化して学校間の相互貸借、中央図書館との図書の往来も検討されたが、実現していない。 -2011年(平成23年)に、JA東京中央会は「江戸東京野菜」を商標登録した。東京都内で生産されるうどは江戸東京野菜の1種として「東京うど」の名で呼ばれるようになり、特産野菜としてその知名度を高めた。東京うどは東京うど生産組合連合会によって規格が統一され、規定の箱に入れる出荷の目安は約80センチメートルである。穴蔵軟化法によって白く育った姿と歯ざわりと香りのよさなどが評価され、日本料理向けの高級食材として利用される他に、洋風料理や中華料理などにも合う。東京うどは江戸東京野菜普及推進連絡協議会により江戸東京野菜として認定され、旬の野菜を食べるイベントで使われたり、都市農業の活性化を目指すNPO法人によってセミナーの題材として取り上げられたりしている。東京うどの産地の1つである立川市では、うどによる「街おこし」をめざして「うどラーメン」、「うどパイ」、「うどせんべい」などを開発している。 -2010年8月6日、広島平和記念式典にルースがアメリカの駐日大使としてはじめて参加。2014年の平和記念式典には、ルースの後任のキャロライン・ケネディが出席した。2015年4月17日にケネディは広島を再訪し、原爆慰霊碑に献花を行っている(なお、ケネディは1978年1月、叔父のエドワード・ケネディ上院議員とともに広島の平和記念公園を訪れ、被爆者とも面会している)。2015年夏、翌年のG7外務大臣会合の開催地に広島が決定し、岸田文雄外務大臣と斎木昭隆外務事務次官はケネディとの面談で、オバマらが広島を訪問した場合でも日本は謝罪を求めない考えや、現職のアメリカ合衆国大統領が被爆地を訪問することは核廃絶を世界に強くアピールすることに繋がるであろうという見解を伝えた。アメリカ合衆国大統領の広島訪問を実現させる上で、日本による謝罪要求がアメリカ側の最大の懸念点であると認識していた日本側は、まずこの点を払拭することに務めた。こうした経緯を経て、ケネディは本国に戻った際にオバマに直接広島を訪問することの意義や日本国内の空気を説明した。 -第二次世界大戦直後の日本には、外国のスキー技術の情報が伝わってきていなかったため、猪谷は父・六合雄と共に、独自にスピードの出る滑り方を研究していた。例えば、ターンの際の体重移動について、当時日本では曲がる側の足に体重をかけ、上体も曲がる側に捻るようにするのが定石とされていたが、猪谷はその体重移動ではスキー板の後部にずれが生じることを発見した。猪谷はそのようなずれによる遅れを防止するため、敢えて、曲がる側と逆側の足に体重をかけ、上体も曲がる側には捻らず逆側に残したままにしておく方法を開発した。オスロオリンピックに出場した猪谷は、欧州の強豪選手らも同じ体重移動を行っていることを発見し、自分たちの研究に誤りはなかったと自信を持つに至っている。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -日本では、上智大学神学部の山岡三治教授が「ベルゴリオ枢機卿の出身地の中南米は最大の信者を抱え、貧困問題もあり、大国を近くで冷静に見ている。環境問題や幼児虐待で、化学や心理学などにも通じる彼は最適任者だ」と歓迎の意を表し、「アッシジのフランチェスコは環境保護の聖人でもある。新法王は、貧しさや自然を愛する基本に戻ろうとしているのではないか。その人格で信用をつかみ、新たな教会を築いて欲しい」と述べて、新教皇への期待を表明した。さらに、池長潤大司教は「教皇フランシスコは、全教会の賢明かつ力強い牧者としてわたしたちの働きを導き支え助けてくださることと確信します」と、日本カトリック司教協議会を代表して声明を発した。また、アルゼンチンでの神学生時代に新教皇の指導を受けた「日本二十六聖人記念館」館長のレンソ・デ・ルカ師は、「厳しいのは厳しいのですが、同時にとても人に理解があり、霊的指導者としても素晴らしい人。神学生が自立するよう促し、自分で考えるよう導いてくれました」と、その人柄と卓越した指導力を回顧している。江戸初期にローマへ渡り、帰国後殉教した日本人のイエズス会士、ペトロ岐部の故郷である国東市立熊毛小学校(大分県)の児童44名が、3月29日に就任祝いの手紙をバチカンへ送った。同校には5月20日、教皇庁から返事が届けられた。 -1995年からは、リージョナルジェット市場の成長に対応するため、CRJ100/200の胴体を延長した機体(計画名はCRJ-X)の検討がすすめられた。CRJ-Xの基本仕様は1996年に確定され、1997���にボンバルディア社の役員会の承認が下りて正式に製造計画が進められることになった。その後、CRJ-Xは客席数が70席程度であることにちなんでCRJ700と命名され、1999年5月27日に初飛行した。飛行試験と地上試験が重ねられて2000年12月にカナダの型式証明が交付され、翌2001年1月にはイタリアとフランスの所管当局から、同年2月にはFAAからも型式証明が交付された。顧客への引き渡しは、2002年2月にフランスの航空会社ブリテールに対して行われたのが最初である。 -荒木の作品では非対称な変形コマを多用し、ページ全体が歪んで見えるようなコマ割りがしばしば行なわれる。「斜めになったコマ」はそれほど珍しいものではないが、「1ページのコマ割り全体が斜めになっている」のは他にあまり例がない。この変形ゴマは『ジョジョ』Part3後半より使われるようになり次第に頻度が増え、それに従いコマ外の余白が増えていったが、Part7『スティール・ボール・ラン』では全ページがタチキリ(ページの端いっぱいまで絵を入れること)で描かれるようになったため余白が激減した。このタチキリの使用については、Part7の舞台である西部アメリカの広大さを意識して取られた方法ではないかと指摘されている。 -ラザル・フレベリャノヴィチの墓所として1375年に建設されたラヴァニツァの修道院付属ヴォズネセーニェ聖堂は、ドームを4本の柱によって支える三葉型平面で、外壁はネセバルにある聖堂群に見られる横縞、市松模様の模様積みのほか、窓に額縁や板石をくり抜いたバラ窓の装飾が施されている。同じくラザルにより1378年に創建された、クルシェヴァツの宮廷礼拝堂(ラザリツァ聖堂)になると、外部装飾はさらに洗練され、ますます華やかなものとなった。しかし、平面はドームを支持する柱こそないものの、ラヴァニツァと同じく三葉型で、セルビアにおけるアトス山修道院の権威の高さを物語っている。王女ミリツァにより、1417年に建設されたカレニチの生神女聖堂(ボゴロディツァ聖堂)はモラヴァ派末期の傑作であるが、モラヴァ派によるこうした装飾の起源はあまりよく分かっていない。マナシア修道院中央聖堂は、ステファン・ラザレヴィチにより1419年に建立された。この教会堂の平面は三葉型だが、それまでのラシュカ派の教会堂と異なり、教会堂の装飾性はほとんどない。外観は無装飾だが、城塞的な性格はこの教会堂に強い記念性を持たせている。 -松橋事件は、1985年1月、熊本県下益城郡松橋町で発生した殺人事件である。将棋仲間の男性が逮捕・起訴され、懲役13年の有罪判決が言い渡され確定したものの、服役後の再審で無罪が言い渡され確定した。事件発生・逮捕から再審での無罪確定まで34年を要した。日本弁護士連合会が支援する再審事件の一つである。 -この記事では東京駅の歴史(とうきょうえきのれきし)を説明する。東京駅は、東京において各方面別に分かれていたターミナル駅の中間を結んで中央停車場を設置する構想から始まり、1914年(大正3年)12月20日に開業した。その後中央本線の乗り入れや山手線の環状運転の開始などにより利用客は急速に増加していき、昭和初期にはプラットホームなどの増設工事に着手した。しかし第二次世界大戦によりすべては完成せず、戦争末期には空襲を受けて丸の内駅舎を焼失した。大戦後丸の内駅舎の復旧が行われるとともに、中止されていた増設工事が再開された。1964年(昭和39年)10月1日には東海道新幹線が開通し、新幹線のターミナルともなった。さらに地下鉄丸ノ内線の乗り入れ、総武・横須賀線の地下ホームの開業、京葉線の乗り入れと地下にもホームの増設が進んだ。1991年(平成3年)6月20日には東北新幹線が開通し、東北・上越方面へのターミナルともなった。2012年(平成24年)10月には、戦災で応急復旧したままであった丸の内駅舎の復原工事が完成している。 -スペインはフランスとの火種も抱えていた。1715年、フランス王ルイ14世が死去してルイ15世が5歳で即位したが、夭折の可能性もあり、フェリペ5世がユトレヒト条約でフランスの王位継承権を放棄したにもかかわらずフランス摂政のオルレアン公フィリップ2世とルイ15世の継承者の位を争った。その裏にはメーヌ公妃ルイーズ・ベネディク���・ド・ブルボンが夫を唆して参加させ、スペインの駐仏大使のチェッラマーレ公爵アントニオ・デル・ジューディチェが一枚かんでいたチェッラマーレ陰謀もあり、オルレアン公を追放してフェリペ5世を摂政につかせるという陰謀があった。 -およそ15,800種が知られる海水魚のうち、少なくとも2,000種以上が深海魚に該当すると見積もられている。これらは海底付近で暮らす底生性深海魚と、海底から離れ中層を漂って生活する遊泳性(漂泳性)深海魚の2タイプに大きく分けられ、それぞれに含まれる種数はほぼ同数と考えられている。底生性深海魚と遊泳性深海魚の生活様式はまったく異なり、また進化上の系統分類をよく反映していることから、深海魚の進化・生態を理解するために両者を区分して考えることは重要である。太陽光の届かない深海には光合成を行う植物(海草・海藻や植物プランクトン)が存在しないため、深海における食物連鎖の基礎を支えるのは浅海の動植物である。浅海で消費されなかった生物の遺骸や排泄物は、マリンスノーとなって沈降し、最終的に深海に降り積もる。これらの沈み行く有機物はオキアミやクラゲなど浮遊性の深海生物に消費されるほか、深海底に堆積した後は貝類やナマコ、クモヒトデなどの底生生物のエネルギー源として利用される。彼ら自身は(深海魚を含む)さらに大型の深海生物によって捕食され、深海での食物連鎖を形成する。深海は極度に高い水圧と低水温に阻まれた暗黒の海域である。また、利用可能な総エネルギーは浅海で生産されるうちのごく一部に過ぎない。深海魚はこの極限とも言える環境に適応するため、浅海の魚類には見られない特殊な身体構造および生活様式を獲得している。地表面の7割を覆う海の平均水深は約3,800mに達し、200m以深の深海は体積比で実に93%を占める。地球で最大の生物圏を構成する深海の環境と、そこに広がる生物多様性を理解する上で、深海魚研究の果たす役割は大きい。 -日本広告審査機構(JARO)は、「いかなる文言を使用しようとも、商業広告で2020年のオリンピック東京大会を想起させる表現をすることは、アンブッシュ・マーケティング(いわゆる便乗広告)として不正競争行為に該当するおそれがあり、JOC(日本オリンピック委員会)やIOC(国際オリンピック委員会)から使用の差し止め要請や損害賠償請求を受ける可能性がある」との見解を出しており、「東京オリンピック・パラリンピックを応援しています」という直接的な表現以外に「祝・夢の祭典」「2020円キャンペーン」など間接的に連想できる物もアンブッシュマーケティングである可能性であることを示唆している。友利昴氏(1級知的財産管理技能士・著述家)はオリンピック委員会の規制には根拠がないことが明らかにしている。過去の裁判やトラブル事例から「キャンペーンや抗議行動の態度からうかがえる、非常に旺盛な権利保護方針の割には、実際にはなんでもかんでも訴えているわけではない」と指摘し、アンブッシュマーケティングをめぐり訴訟になった数少ない裁判では、IOC側が敗訴していることを挙げている(オーストラリア、カナダ)。また上記のJAROの見解はIOCやJOCへの忖度に過ぎないとして、(JAROが正しい法的検討をせずに)「逃げを打つのは、広告業界の指針となるべき団体として、適切な姿勢といえるだろうか」と批判している。日本の商標権に関する規則では登録商標は同一又は類似した商品・役務の登録商標にのみ独占権があるとしており、オリンピックそのもの(大会や委員会)を示すために使うことは合法であるとしている。飲食店の屋号や表示として権利者に許可無く「オリンピックレストラン」、「オリンピック公式レストラン」などと表示するのは違法だが、本物のオリンピックに対して「オリンピックを見ながら飲食しましょう」と宣伝するのは問題無いとしている(商標としての独占であり、言葉の独占では無い)。著作権法上では公式のロゴやマークを許可無く利用する事は一般的に禁止されており、オリンピックも同様である。店内でのオリンピック競技の放映をオリンピック委員会の許可無く行う事は禁止されているが、誰でも見られる放送をそのまま店内の民生用機器で再生する事は一般��な権利として認められる。このため、テレビ放映されているオリンピックの映像を店内で流すことに関しては問題が無い。この場合は放送局がオリンピック委員会に放送するという事で利用料を払っている。 -「能動的三分間」のサビ部分ではバンドメンバーの浮雲と伊澤一葉によりコーラスが歌われている。もともとコーラスとシンセサイザーありきの曲で、椎名のデモ段階から決まり事として入れられていた。女声側としてはキーをあと4つほど高くしたかったが、浮雲の声のスイートスポットにキー設定を合わせている。また前作まではピアノに拘っていた伊澤がシンセサイザーを弾いている。椎名の中ではバンドが次のステップに進むための練習曲のような意味合いがあり、自身を除く4人に演奏する際に出して欲しいノリを体得してもらうために作った曲。そのノリについてはなかなか全員での共通認識を持ってもらえず、これは生でやるから意味があるのであってそのノリを体現できないなら今録音する必要はないということを「それが出来ないんだったら全部打ち込みにするよ」と口にするほどの勢いで伝えた。もしCMタイアップが決まっていなければ先送りされただろうとも椎名は語っている。レコーディング前に腱鞘炎を悪化させてしまったベーシストの亀田誠治は、それまでの120%、200%の力を込めて弾くやり方を改め、80%の力の入れ具合をキープして弾く新しい演奏方法を試している。カップリング曲の「我慢」は作詞を椎名、作曲を伊澤が手掛けている。伊澤曰く「反射神経で書いた曲」で、歌詞が関西弁なのは椎名の関西弁が聞きたいという伊澤からのリクエストによるもの。 -中川イセは2歳のとき、産後の肥立ちの悪かった母が死に瀕したため、里子に出された。預かり先での生活は、後に中川の長女が「NHKドラマ『おしん』の幼少時代が天国に思えるほど」と語るほど極貧であったが、実母に代って養母に愛情を注がれて育ち、養母の尽力で荒谷尋常小学校に通うこともできた。学業は優秀であったが、4年修了後に生家に戻された。すでに実母は死去しており、継母のもとで家業を手伝わされ、進学は許されなかった。11歳のとき、継母との不仲から家を出た。山形、米沢市、東京市を渡り歩き、女中奉公、女工、給仕など、様々な職を転々とした。妻子持ちの男性に騙されて暴行され、1918年に17歳にして女児を出産、未婚の母となった。身内を頼ることもできず、自分で娘を育てようにも、幼い子供を抱えた女を雇ってくれる仕事場は何もなかったため、やむを得ず娘を里子に出した。翌1919年、娘の養育費捻出のため北海道に渡り、網走の遊廓に入った。客を喜ばすために趣向を凝らし、遊女として次第に頭角を現し、一時は遊郭きっての看板遊女となった。1921年、牧場経営者である中川卓治と結婚して身請された。中川家の親戚たちから結婚に反対されて居場所を失ったため、開拓景気に沸く樺太に渡り、夫婦で牧場、旅館、飯場などで働いた。 -また、小田原藩主大久保忠真が、小田原に帰国したとき、真っ先にこのビランジュについて問うた、という逸話がある。大久保忠真は、文化7年(1810年)に大阪城代、文化12年(1815年)には京都所司代となったが、文政元年(1818年)には38歳で老中に抜擢された。そこで9年ぶりに小田原に戻ったとき、忠真を迎えた家老がゴマすりのつもりで「留守中は殿様と同様に領内をくまなく回って領民との対話を欠かさなかったので領内は安泰」と報告すると、忠真は上機嫌で「あのビランジュは無事か」と尋ねた。しかし、ビランジュのことを知らなかった家老は「そのような寺は領内にございません」と答えたため、「あの名木を知らぬとは、城内にばかりいたのであろう」と嘘の報告が露見し忠真の大目玉を食らった、という話である。 -ライアン・トーマス・ゴズリングは、カナダの俳優・ミュージシャンである。ディズニー・チャンネルで放送された『ミッキーマウス・クラブ』で子役としてキャリアを開始させ、『アー・ユー・アフレイド・オブ・ザ・ダーク?』や『ミステリー・グースバンプス』など子ども向け娯楽番組にいくつか出演した。映画初主演作はユダヤ人のネオナチを演じた『ザ・ビリーヴァー』で、その���も『完全犯罪クラブ』・『スローター・ルール』・『16歳の合衆国』など、自主映画数本に出演した。ゴズリングが注目を集めるようになったきっかけは、商業的に成功したロマンティック・ドラマ『きみに読む物語』への出演である。薬物中毒の教師を演じた2006年の映画『ハーフネルソン』ではアカデミー主演男優賞にノミネートされ、社会に上手くなじめない孤独な主人公を演じた『ラースと、その彼女』ではゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされた。また3年後・2010年に公開された『ブルーバレンタイン』では、2度目のゴールデングローブ賞ノミネートを受けた。2011年には、ロマンティック・コメディ映画『ラブ・アゲイン』、政治ドラマ『スーパー・チューズデー〜正義を売った日〜』、アクション・スリラー『ドライヴ』に出演し、前2作で第69回ゴールデングローブ賞の主演男優賞2部門にノミネートされた。監督デビュー作となる『ロスト・リバー』は2014年に公開されたが酷評された。映画『マネー・ショート華麗なる大逆転』、『ラ・ラ・ランド』での演技は好評を得て、後者ではゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を獲得したほか、2度目のオスカーノミネートを受けた。 -1960年代、ダウンタウン・ヒューストンの建物はそのほとんどが中層オフィスビルであった。1970年代に入り、ヒューストンがエネルギー産業ブームに沸くようになると、建設ブームが起こり、矢継ぎ早に超高層ビルが建ち始めた。この時期に建てられた超高層ビルの多くは市内で不動産開発会社を営むジェラルド・D・ハインズが手がけたものであった。1982年には、高さ305.4m、75階建てのJPモルガン・チェース・タワーが完成した。JPモルガン・チェース・タワーはテキサス州で最も高いビルで、全米でも11位、全世界でも35位の高さである。翌1983年には高さ302.4m、71階建てのウェルズ・ファーゴ・バンク・プラザが完成した。2006年現在、ダウンタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は約4,000,000m2に及ぶ。ポスト・オーク大通りとウェセイマー通りを中心としたアップタウンは、1970年代から1980年代初頭にかけて開発が進められ、環状線I-610に沿って、主に中層のオフィスビルやホテル、小売店などが建ち並ぶようになった。アップタウン・ヒューストンは最も成功したエッジ・シティの一例となった。フィリップ・ジョンソンとジョン・バーギーの設計によるウィリアムズ・タワーは高さ274.6m、64階建ての超高層ビルで、アップタウンのランドマークになっている。1983年に完成した当時は、ウィリアムズ・タワーは都市中心部以外に建つものとしては世界で最も高いビルであった。このほかにも、アップタウンにはイオ・ミン・ペイやシーザー・ペリなど、著名な建築家の設計による建築物が建ち並んでいる。1990年代から2000年代初頭にかけては、アップタウンには高層マンションがいくつも建った。この時期に建てられた高層マンションの中には30階建て以上のものもある。2002年現在、アップタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は2,100,000m2を超える。その質も総じて高く、総面積の7割以上にあたる1,500,000m2はクラスAのオフィススペースである。 -在来品種の多くは、雑草などの競合に強く、肥料が乏しい環境下でもある程度の生育を示す生育期間が長く、草丈の長いものであった。しかし、施肥、除草などの栽培管理技術が進歩すると共に、更に多肥下で生産性が高まるように肥料に対する反応性が高く、栽培管理の労力が少なくて済む生育期間の短い品種が求められた。そこで、農学者たちがトウモロコシ・コムギ・イネで作り上げた系統は、「高収量品種群」(HYVs)と呼ばれる。それらの品種群は以下の形質を持っている。耐肥性は在来品種と比べて高収量品種群は窒素吸収能力が増加している。 -フリウーリ公ベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)の王位就任以降をイタリア史では「独立イタリア王国」の時代と呼ぶ。これはカール3世の死によってフランク王国からイタリアが独立した888年を始まりとし、オットー1世によって神聖ローマ帝国に取り込まれる962年までを言う。女系でカロリング家と血縁を��ったベレンガーリオ1世に対し、同じく女系でこの王家とつながりを持つスポレート公グイードが挑戦を挑み、勝利を収めた。グイードはパヴィアでイタリア王に即位し、891年にはローマで皇帝戴冠を行った。グイードの皇帝位はその息子ランベルトに継承され、ベレンガーリオ1世とランベルト双方から圧力を受けたローマ教皇フォルモススは東フランク王アルヌルフに救援を求めた。この結果、896年にアルヌルフはベレンガーリオ1世とランベルトの抵抗を排してローマを占領し、そこで皇帝に戴冠された。これは東フランク王によるイタリア政局介入の端緒となった。アルヌルフとランベルトが相次いで死去すると、ベレンガーリオ1世は899年に改めてイタリア王となった。しかし、ベレンガーリオ1世に反対するイタリアの諸侯の一部は、やはり女系でカロリング家の血を引くプロヴァンス王ルイ3世を担ぎ出して900年にイタリア国王に即位させ、901年には皇帝戴冠が行われた。ベレンガーリオ1世は905年にルイを打ち破り、915年には教皇による皇帝戴冠を行った。イタリア諸侯はなおも高地ブルグントの王ルドルフ2世を担ぎ出してベレンガーリオ1世に対抗した。ベレンガーリオ1世は923年に敗れ去り、翌年家臣によって暗殺された。これによって神聖ローマ帝国に組み込まれるまで、イタリアでは皇帝の称号を持つ人物はいなくなった。 -ドゥアルテ1世の死後、わずか6歳のアフォンソ5世が即位し、アフォンソ5世の母レオノールが摂政を務めた。ドン・エンリケ、ドン・アフォンソら主戦派から支持を得ていたレオノールに対して、ドン・ペドロ、ドン・ジョアンがブルジョアジー、下層民の支持を背景にして反乱を起こした。ペドロがアフォンソにブラガンサ公爵の称号といくつかの特権を与える事で両派の間に妥協が成立し、ペドロは摂政として王国を統治するが、カスティーリャの干渉によって国情はより混迷する。ペドロが摂政の職を解かれた後、アフォンソ5世は叔父のアフォンソの助言を受け入れ始め、先の内戦で敗れたエンリケ、アフォンソらの主戦派が力を取り戻す。追い込まれたペドロは反乱を起こすが、1449年にリスボン近郊のアルファロベイラで戦死する。 -ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。 -連邦議会の幹部によって用意されたプログラムでは、歌手のアレサ・フランクリンが“MyCountry,'TisofThee”を歌い、ジョン・ウィリアムズの曲“AirandSimpleGifts”が演奏された。屋外の寒さが楽器に悪影響を及ぼし、演奏中に弦が切れるなどのトラブルが生じる恐れがあったため、この曲は事前に録音されるとともに、チェリストのヨーヨー・マ、バイオリニストのイツァーク・パールマン、ピアニストのガブリエラ・モンテーロ、クラリネットのアンソニー・マクギルによって録音に合わせてライブ演奏が行われた。そのほか、アメリカ海兵隊楽隊とアメリカ海軍楽隊も参加した。サンフランシスコ少年合唱団・サンフランシスコ少女合唱団も式典で合唱を披露した。次いで、福音派の牧師リック・ウォレンが祈りを捧げた。福音派は民主党支持勢力のリベラルと対立することが多いが、ウォレンは福音派の中では政治的に左派に近いとされている。その後、市民権活動家で合同メソジスト教会の牧師JosephLoweryが祝福を行った。 -イギリスでは1650年にオックスフォードに最初のコーヒーハウスが開業した後、17世紀にはロンドンを中心にコーヒーハウスが社交や議論、情報交換の場として隆盛を極めた。ロイズの前身もコーヒーハウスである。このイギリスのコーヒーハウスの隆盛は紅茶の普及により廃れる18世紀半ばまで続いた。フランスでは1669年には駐トルコ大使がルイ14世に献上したことがきっかけになって上流社会で流行し、さらに一般にも広まって多くのカフェが作られた。ウィーンでは、1683年、オスマン帝国による第二次ウィーン包囲が失敗した際に、オスマン軍が塹壕に残していったコーヒー豆をゲオルク・フランツ・コルシツキーが戦利品として拝領し、ウィーン初のコーヒーハウスを開業したのが始まりといわれている。 -両生類の減少(りょうせいるいのげんしょう)とは、両生類の生息数減少、個体群消滅、および、地域的絶滅などが発生する現象である。劇的な両生類の減少は、1980年代以降世界各地で注目されている。また両生類生息数の減少は、グローバルな生物多様性に対する最も重大な脅威のひとつとみなされている。生息地の破壊と改変・乱獲・汚染・外来種・気候変動・有害紫外線(UVB)の増加・疾病など、多くの原因があると考えられている。しかし、両生類減少の原因は多くが未だよく理解されておらず、現在進行中の多くの研究のトピックとなっている。 -しかし、カーゾン卿の統治政策の本性は、1904年のインド大学法と1905年のベンガル分割令によって、明らかとなった。インド大学法において、官吏の統制が強化され、インドにおける高等教育の発展が阻害された。ベンガル分割令において、ベンガルを二分し、ベンガル東部とアッサム地方でもって東ベンガル州を新設し、ベンガル西部とオリッサ州、ビハール州とを合わせて西ベンガル州を新設することで、それぞれの州の多数派をムスリムとヒンドゥーにしてしまうことで、ベンガルで盛り上がっていた反英運動を分断することにあった。ベンガル分割令は、1911年に撤回されるが、それは分割したベンガル州を再統一し、ベンガル、オリッサ、ビハール、アッサム各州に自治権を与えるという、いわば、ベンガル人に対して妥協がなされる形となった。 -『ラス・メニーナス』の後部右側には、ドン・ホセ・ニエト・ベラスケスが立っている。彼は1650年代、王妃の侍従であり、王室のタピストリー工場の長でもあり、画家の親戚であった可能性もある。ニエトは右の膝を曲げ、足を別の段に置いて立ち止まっている。芸術評論家のハリエット・ストーンの言う通り、「行くところか戻るところか」は不明である。ニエトはシルエットで描かれており、壁か何かをバックに、短い階段の途中でカーテンを開けているように見える。逆光や開いたドアから、その背後には別の部屋が存在しているようである。芸術歴史家のアナリザ・レッパネンによれば、その様子が「我々の視線をいやでも奥へと引きつける」のである。国王夫妻の姿は鏡に映っており、反対方向すなわち絵の前方に立っている。遠近法における消失点はドア付近にあり、右の壁と天井との接線を延長することで位置を求めることができる。ニエトを視界に入れているのは王と王妃だけであり、鑑賞者は前景の人物ではなく、国王夫妻の視線を共有することになる。 -1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流���に枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別した。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば満月になけほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。 -近くにいた船の船員は連続する警笛を聞いて、衝突が迫っていることを認識し、イモがモンブランに向かって進むのを見るため集まっていた。この時には両船とも機関を停止していたが、慣性でゆっくりと互いに向って進んでいった。衝撃により積荷が爆発することを恐れて船を座礁させることができず、マッケイは衝突回避に向けた最後の賭けで、モンブランに港のほうへ大きく面舵をとらせ、イモの舳先を横切ろうとした。イモが動力機関を逆回転させていることを知らせるために突如警笛を3回鳴らしたとき、二隻はほぼ平行となった。イモは空船で喫水線が高いことと右回転プロペラによる横移動が重なり、船首をモンブランのほうへ変えた。そしてモンブランの右舷、第一船倉にイモの船首が突っ込んだ。 -爪術の使用者は「爪術士(そうじゅつし)」と呼ばれる。爪術の使用には滄我との意志交感が不可欠で、意志交感がより強くなると爪術の究極奥義「聖爪術(せいそうじゅつ)」を行使できる。爪術には体内の滄我の力を攻撃とともに放出する「アーツ系」と、使用者を取り囲んでいる滄我の力に働きかけて術を発動させる「ブレス系」の2つの系統がある。水の民が繰り出す精神の結晶体「テルクェス」は広義には爪術とされているが、水の民しか使えないため爪術との位置づけはされていない。冒険の舞台は海上を進む巨大な船「遺跡船(いせきせん)」。船上は陸地のようになっており、外面は自然で覆われ、遺跡や洞窟なども多数存在している。操舵方法などの機能は存在するものの、使用方法を知る者はいない。物語の始まりから数えて15年ほど前に発見され、調査や遺跡の財宝目当てに訪れた考古学者、トレジャーハンターらが築いた「灯台の街ウェルテス」には陸の民が現在生活している他、各集落にて水の民やラッコのような生物「モフモフ族」��少数ながら住んでいる。正確な大きさは作中では明らかにされないが、設定上は全長120キロメートル、全幅60キロメートル、全高9キロメートルとされる。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -その中でも最高傑作とされるのがチリハウスだが、これは次節に別記する。他の商館建築としては、7階建てのミラマール=ハウス(Miramar-Haus,1921年-1922年)、10階建てのメースベルクホーフ(Messberghof,1922年-1924年)、9階建てのモンタンホーフ(Montanhof,1924年-1926年)、8階建て及び9階建てのシュプリンケンホーフ(Sprinkenhof,1927年-1932年)などがある。北ドイツ表現主義建築について博士論文をまとめた長谷川章は、これらを手がけた表現主義建築家たちの共通点を「ぎざぎざの形態の多用」「クリスタルや星形のモチーフ」「3角形の窓・柱・プラン」「煉瓦の多用」「外観の垂直性の強調」「平滑な壁面のテキスタイル状の装飾」「セラミックの彫刻」「白い梯子状の桟の窓」とまとめ、ベルリンなどの表現主義建築にも共通する要素と、北ドイツの伝統的な要素との融合が見られるとした。 -1798年、イギリスとの間でエジプト経由の交易路を巡る外交戦を展開していたフランスが、自国商人の保護を理由にエジプトへの侵攻を開始した(エジプト・シリア戦役)。エジプトの宗主国であるオスマン帝国はこれに対抗するべく、カヴァラ市に対しアルバニア人非正規部隊300人の派遣を命じた。この部隊の副隊長として戦功を挙げたムハンマド・アリーは、6000人からなるアルバニア人非正規部隊全体の副司令官へと昇進した。 -ゴールデンライスの開発に向けた調査は1982年にロックフェラー財団により開始され、1980年代中頃にはビタミンAを豊富に含むイネを遺伝子組換えによって作出する戦略はロックフェラー財団内に浸透していた。1993年にチューリッヒ工科大学の植物生物工学者IngoPotrykusとフライブルク大学の生化学者PeterBeyerがロックフェラー財団、欧州連合およびスイス連邦教育科学局の支援のもと、実際にゴールデンライスを作出する研究プロジェクトを開始した。PeterBramleyは1990年代、遺伝子組み換えトマトでフィトエンからリコペンの産生を行���際に、高等植物で通常用いられている複数のカロテン不飽和化酵素を導入する必要はなく、1つのフィトエン不飽和化酵素遺伝子を導入することで代替可能であるを発見した。ゴールデンライスでも同様の遺伝子が利用され、リコペンは内在性の環化酵素によってさらにβ-カロテンへと環状化される。ゴールデンライスは1999年に完成し、その科学的詳細は2000年にサイエンス誌で発表された。その成果は、非常に複雑な生合成経路を改変することで作物の健康促進作用を向上させることができると示し、またそれをわずか2遺伝子を導入することで達成したことで大きなブレイクスルーであると見なされていた。ゴールデンライスの最初の野外栽培試験は2004年にルイジアナ州立大学農業センターの指揮のもと行われ、追試がフィリピン、台湾、そしてバングラデシュで行われた。カロテンの蓄積以外の農業形質に変化がないことは複数回の野外栽培試験および、別系統での試験でも確かめられている。 -被害者一家は市川市幸二丁目の新興住宅街に建つ9階建てマンションに住んでいた。千葉地裁(1994)は判決理由で被害者一家について「慎ましくも平穏な暮らしを営んでおり、本来ならば娘2人の成長を温かく見守りつつ会社の経営を盛り立てて平穏に生活できたはずの家庭」と述べている。被害者男性Aは事件2年前の1990年ごろに寄稿していた料理雑誌『月刊食堂』(柴田書店)の元編集長・玉谷純作に対し「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にE統合があるのであちらに拠点を持って活動したい」と話していたが、その夢はSの凶行により断ち切られた。被害者一家4人の葬儀を仕切った住職は『東京新聞』記者の取材に対し「被害者4人の遺骨はA・Dそれぞれの親族に引き取られた」と証言した。 -中国人は本種の近縁種(大黄)の根を数千年にわたって薬用としてきた。西暦紀元前後(漢代)に成立したとされる『神農本草経』にも記載がある。古代ギリシアでも知られており、医師ディオスコリデスが記録した"ρηον"または"ρά"と呼ばれる薬草の根が現在ヨーロッパ圏でいうルバーブ(ダイオウ属)だと考えられる。ルバーブはボスポラス海峡経由でギリシアに伝えられたが、交易ルートが確立されたのはかなり後のイスラーム時代であった。このころルバーブはシルクロードを通って運ばれた。14世紀にアレッポとスミルナの港を通じてヨーロッパに運ばれたルバーブは「ターキッシュ・ルバーブ(R.palmatum)」と呼ばれた。後には別の海上交易路やロシア経由の陸路が開拓された。交易ルートによって「インディアン・ルバーブ」「チャイニーズ・ルバーブ」など様々な名がつけられたが、これらが種や産地の違いを意味するかは明らかではない。ロシア帝国では特にルバーブを対象とした品質管理制度があり、そのためか18世紀ヨーロッパでは「ロシアン・ルバーブ」が最も珍重された。 -檜洞丸の標高については文献によってやや揺れがあり、1,600mとしているものと1,601mとしているものが存在する。これは、山頂部に三角点が設置されておらず、正確な標高の測量が未だ行われていないためであるが、山頂の標識や昭文社で発行されている登山地図では標高1,601mとされている。 -流線形の前頭部は、側面の乗務員扉付近から前端部にかけて前後方向に滑らかな半円を描き、後退角は前面窓付近で床面に対して約70度とし、腰板下部で縦方向の曲線を描きつつ緩やかに垂直となる形状である。前面に配された3枚の前面窓はいずれも車体曲面に合わせた曲面ガラスを採用して外観の一体性を高めているほか、妻面からの曲面上に位置している乗務員扉の窓についても曲面ガラスを採用する。また、3枚の前面窓のうち両端の2枚の窓上には横格子のルーバー状の通風器開口部を設けている。前照灯は白熱灯式のものを1灯、前面屋根部中央に埋込形のケースを介して設置し、また後部標識灯は前面向かって左下の腰板下部に砲弾型の灯具を1灯、車体より水平方向に突き出した支持腕へ取り付ける形で設置する。 -1998年(平成10年)4月には、一宮市・尾西市・稲沢市・平和町・木曽川町・佐織町・八開村に対する広域貸出を試行開始した。2002���(平成14年)には尾張西部図書館運営協議会を構成する3市3町の広域貸出を正式に開始している。2000年9月には延べ貸出冊数が100万冊を突破し、2001年9月には延べ入館者数が100万人を突破した。2001年4月には閉館時間を延ばして19時までとし、2001年度からはゴールデンウィーク期間中の休館日が廃止された。2002年版『日本の図書館』(日本図書館協会)によると、人口2万人以上で図書館を有する231町村の中で、祖父江町の延床面積(2,287m2)は38位、年間貸出冊数(10.17冊/人)は39位、年間購入冊数(10,540冊)は28位、年間資料費(22,297,000円)は33位の高水準だった。 -1815年3月にエルバ島を脱出したナポレオンは「人民の権利」「反封建制」を掲げてパリの民衆や軍隊の支持を獲得し、人心を掌握できないでいたルイ18世をパリから追って「百日天下」と呼ばれる一時的な復権を果たした。 -ポーランドの地質構造は、6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四氷期によって形成された。このときスデート山地とカルパティア山脈が形作られている。北部ポーランドのモレーンの景観は主に砂とロームからなる土壌によるものである。氷期に形成された南部の河川の谷は黄土を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原、ピェニヌィ山地、西タトラ山地は石灰岩で構成される。高タトラ山地、ベスキド山地、カルコノシェ山地は花崗岩と玄武岩で構成される。南部のクラクフ=チェンストホヴァ高原はジュラ紀の石灰岩からなる。バルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。 -ジャン=フランソワ・ミレーは、1814年、フランス・ノルマンディー地域圏マンシュ県のグレヴィル村グリュシー地区に生まれた。コタンタン半島の突端にある村である。ミレーの家は、農家だが、母エーメ=アンリエット=アデライド・アンリは、フランス革命後に没落したアーグ地方の領主の家系である。父ジャン=ルイ=ニコラ・ミラーは、神父、科学者、農学者を輩出した家系である。父は、農作業の傍ら、グレヴィルの教会の合唱指揮者を務めたり、絵を描いたりすることもあった。ミレーが幼い頃は、祖母ルイーズ・ジュムランが面倒をみてくれた。ミレーは、9人兄弟の長男であり、農家の後継ぎとして期待されていた。7歳になる前に学校に入り、12歳頃からラテン語を学んだが、やがて家の農作業を手伝うようになった。アルフレッド・サンシエの伝記によれば、ミレーは、農作業の傍ら、写生をし、1832年、ミレーが18歳の頃、腰の曲がった老人の歩くポーズを描いた木炭の素描に両親が感激し、シェルブールの画家ムシェルの画塾に連れて行ったという。1835年11月、父が死去したため、ミレーは家業を継ぐため実家に戻ったが、祖母の強い勧めで再びシェルブールに出て、アントワーヌ=ジャン・グロの弟子テオフィル・ラングロワ・ド・シェヴルヴィル(フランス語版)という画家の下で修業を続けた。この頃、シェルブールでは、地元の美術愛好家トマ・アンリがコレクションを基にトマ=アンリ美術館を開館したばかりであり、ミレーはこの美術館に通った。ミレーは、アントニス・モルの『キリストの埋葬』、イタリア・バロックの画家バルトロメオ・スケドーニの『聖バルトロメオの殉教』、18世紀フランスのアカデミー派シャルル=アンドレ・ヴァン・ローの『憂鬱質』などの作品を模写している。 -逆川は生活排水が流れ込む上流部と、湧水の流入量が増える中・下流部より水質が異なっている。その為、源流から笠原付近の上中流域ではミズムシ(ワラジムシの仲間)、ユスリカ、ヒルといった汚れた水でも生息可能な生物が多く見られ、魚の姿はあまり見られない。またアメリカザリガニも多くいる。流れが逆川緑地に移るとコイやオイカワ、カワムツ、ヨシノボリ、ドジョウなどの魚が現れる。ドジョウの中には「環境省レッドリスト」で絶滅危惧種IB類に指定されているホトケドジョウも見られ、流れ込む周辺の清涼な湧水がホトケドジョウの生息を可能にしていると考えられる。後述のサケの遡上姿が見られるのもこの辺りである。川底に泥、砂が��くなる桜川の合流付近はモクズガニ、ウグイの姿が見られる。以下に挙げたのは"『河川生物生息実態調査報告書』(2010年3月)水戸市"、"『平成16年度自然環境調査(河川生物編)結果報告書』(2005年3月)水戸市"、"『平成26年度自然環境調査(市内東部地区)』水戸市"の出典から抽出された、逆川で確認された魚類及び底生生物である。 -12世紀前半、アルメニアに居住していたクルド人のシャージーはナジムッディーン・アイユーブとシールクーフを連れてイラクに移住し、セルジューク朝の下でバグダードの軍事長官を務めるビフルーズに仕官した。シャージーはティクリートの城主に任じられ、彼の死後はアイユーブがティクリートの城主の地位を継承した。 -『鏡のヴィーナス』は、ベラスケスの傑作絵画のひとつとして長期間所有されてきた。フェリペ4世の近臣だったガスパール・メンデス・デ・ガズマン・アーロが所有していた絵画コレクションの、1651年6月1日付けの目録にこの作品が記録されていることが1951年に判明した。オリバーレス伯公爵だったアーロはベラスケスの最初のパトロンの甥で、有名な道楽者だった。美術史家のドーソン・カーはアーロのことを「女性を愛するのと同じくらいに絵画を愛した」そして「賞賛する人でさえ、彼が若いころに下級階層の女性に示した、度を過ぎた耽溺を嘆いていた」と書いている。このような理由で、アーロは絵画を集めるようになったのではないかと思われている。さらに2001年に美術史家のアンヘル・アテリドが、『鏡のヴィーナス』はマドリードの画商で、画家でもあったドミンゴ・ゲーラ・コロネルが最初の所有者で、コロネルが死去する数年前の1652年にアーロに売却されたことを発見した。コロネルがなぜこの絵を所有していたのか多くの謎に包まれている。どうやって、いつ入手したのか、なぜコロネルの絵画目録にベラスケスの絵画が記録されていないのか、などである。美術評論家のハヴィエル・ポルトゥスは、絵画目録にこの絵が記録されていないのは裸婦を描いた絵だったためではないかと推測し、「この種の絵画は人目をはばかるものだとみなされていたため、用心深く隠匿されていた」と考えている。 -526年8月にテオドリックが死去して孫のアタラリックが後を継いだ。アタラリックがまだ幼少であったため、母のアマラスンタ(テオドリックの娘)が摂政の地位に就き、ローマの教育を受けた彼女は元老院および帝国との和解政策を執った。これらの政策そして彼女が息子にローマ風の教育を施していたことは東ゴート族には不評であり、彼らは彼女に対する陰謀を企て始めた。危険を察知したアマラスンタは陰謀の首謀者三名を処刑したが、一方で皇帝に書簡を送り、もしも彼女がイタリアから逃れざる得なくなれば庇護を与えてくれるよう求めている。結局、534年に息子のアタラリックが死去してもアマラスンタは実権を握り続け、彼女は従弟のテオダハドを共同統治者に任命した。これは致命的な誤りとなり、テオダハドは間もなく彼女を逮捕し、535年初めに暗殺してしまった。 -一方、これらの微量ミネラルの体内でのADMEは特定の酸化状態であることが必要である。たとえば、鉄は鉄(III)イオンは特定の膜トランスポーターに依存するので生体に吸収されないが、鉄(II)イオンがキレート(ラクトフェリンのように高分子の場合もあればクエン酸など低分子の場合もある)を形成して取り込まれる。さらに体内ではトランスフェリンは鉄(III)イオンに結合して貯蔵、輸送される。このような酸化状態の特異性は、ほかの微量ミネラルでも同様に見ることができる。つまり、微量ミネラルは低分子あるいは特定のタンパク質がキレートすることで、それぞれの状況に有利な酸化状態で輸送、貯蔵される。微量ミネラル元素でも鉄イオンは酵素と結合して酵素補欠因子にならなくても、生体内の環境で金属イオンが酸化還元機能を持つ場合もある。しかし多くの場合は微量ミネラルは、生体内の環境では酵素補欠因子として酵素の活性中心に配置されて初めて酸化還元機能をもつ。いずれにしろ微量ミネラル元素を取り込んだオキシターゼは基質特異的に抗酸化作用を触媒するので、微量ミネラル元素はオキシター��が関与する抗酸化生体システムのカギである。そのオキシターゼの存在量も、微量ミネラル元素を輸送・貯蔵に関与する分子、それは低分子あるいは高分子の微量金属元素をキレートする生体物質であるが、それらのキレート物質が欠乏すれば酵素の存在量を変動させ間接的には生体の抗酸化機能に変動をもたらす。したがってトランスフェリンやフェリチンのようなキレート物質は生体システムの観点においては抗酸化物質と見なされる。 -その後、野口を心配した埼玉師範の教師の勧めで、東京高等師範学校の補欠募集を見て応募し、1911年4月、文科兼修体操専修科に進学した。スポーツの腕前に自信があったことと、体育だけでなく文科を兼修できることが決め手となった。兼修とは言え、地理歴史の専修生と同じ授業・同じ試験を受ける必要があり、体育の方でも柔道・剣道ともに最低2段にならねばならないという厳しいものであったことから、24人いた同期が卒業時には12人に半減した。入学してすぐに春の校内長距離競走で1学年先輩の金栗四三と競り合うも、ゴールの手前でレースを中断したため6位となり、同年10月6日の秋の校内長距離競走では金栗に次ぎ2位となった。こうした活躍が校長の嘉納治五郎の目に留まり、羽田運動場で開催されるストックホルムオリンピックの予選会への出場を勧められた。11月19日の予選会ではマラソンで4位に入賞したが、日本代表に選ばれたのはこの時優勝した金栗と短距離走の三島弥彦の2名であった。日本代表にはなれなかったものの、これが野口の陸上競技界入りを果たす契機となり、本格的に競技に打ち込むことになった。野口自身は、なぜ金栗・三島がオリンピックで敗北したのか、日本国外のスポーツとはどんなものか、という疑問を持ったことが陸上競技に向かう契機となったと述懐している。1913年11月1日・2日に陸軍戸山学校で開かれた第1回全国陸上競技大会には400m継走、走幅跳、棒高跳にエントリーし、棒高跳で7フィート10インチをマークして優勝した。陸上競技以外に剣道にも精を出し、1914年6月には4段に昇段した。また水泳に関しても水府流を習得し初段に列している。高師時代の野口には経済事情が付きまとい、何度も退学を決意するも、嘉納校長と峰岸舎監の物心両面からの支援に励まされ、無事卒業を果たした。 -最も広く支持されている説は、子供達は東ヨーロッパのドイツ人植民地で彼ら自身の村を創建するために、自らの意思で両親とハーメルン市を見捨て去ったとする説である。この時代に創建された幾つかのヨーロッパの村と都市は、ハーメルンの子供達による開拓者としての努力の結果であると考えられる。この主張は、Querhameln(ハーメルン製粉村)のような、ハーメルンと東方植民地周辺の地域それぞれに存在する、対応する地名によって裏付けられている。この説でも笛吹き男は、運動のリーダーであったと見なされている。この説のバージョンの一つは1955年に『サタデー・イブニング・ポスト』誌で発表された。植民説の裏付けとなるのは、ハーメルンの旧家の壁から発見された文章である。その述べるところによれば、1284年6月26日に、笛吹き男が130人の子供を街の外へ連れ去り、おそらくはその笛吹き男はモラヴィア(現在のチェコ共和国の一地方)への植民運動を組織していたオロモウツの司教ブルーノ・フォン・シャウンブルクの代理人であったという。シャウンブルク司教自身もまたボヘミア王オタカル2世の代理人として行動していた。 -Bf109やスピットファイアなどにみられた、キャノピー後部が胴体と一体化したファストバック型は空力的には有利であるが、代償として後方視界が良くない。Fw190では視界の良いスライド型のものが用いられた。Fw190は一見前方視界が悪いように見え、またやはり良好とも言い難いものであったようだが、通常時はいくぶん機首を下げた状態で飛行するため、飛行時については劣悪という訳ではなかった。また地上滑走時の前方視界に問題はあったものの、尾輪式の単発レシプロ戦闘機であれば、持ち上げられたエンジン部分により正面などは見えないものである。むしろFw190は前下方の視界がキャノピー側面の胴体への食い込みで確保されているため、���界良好な部類であったとする評価もある。また日本へ輸入されたA-5型を操縦した大日本帝国陸軍パイロットは、機体への切れ込みがあり前下方の視界は良好で、接地の寸前まで良好な着陸視界を得ることができると評価している。鹵獲機体を試験飛行させたイギリス空軍パイロットは、前方視界はBf109、スピットファイア、マスタングよりも良好であったと評価した。キャノピーは後方にスライドさせて開く形式であったが、飛行時に人力で開く事が非常に困難でありパイロットの脱出に支障をきたしたため、20mm機関砲の薬莢の火薬を用いてキャノピーを脱落させる機能が付与された。また、後期の型には高さを増し視界を向上させた「ガーラント・ハウベ」(Galland-Haube)と呼ばれる形状のものを装備している。本機の航続距離はBf109より多少長い。燃料搭載容量は前部胴体タンクが232リットル、後部胴体タンクが292リットル、予備タンク115リットルである。この状況で航続距離は通常800km程度、さらに300リットルの増槽を付けた場合は1,400km程度だった。予備タンク内の燃料は出力増強装置などに用いられる場合もあり、その場合は航続距離はより少なくなった。 -その後、イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社と東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返すこととなった。1602年にはジャワ島のバンテンに、1613年には、日本の平戸に商館を設置した。1610年代から20年代にかけてのイギリス、オランダ、スペインの競合において、オランダは、1612年にスペインとの間で休戦協定を締結する事により、イギリスとの対立を鮮明にした。しかし、オランダは、イギリスと対立するゆとりが無い事を悟り、1619年には、オランダ東インド会社に対して、イギリス東インド会社との融和を命じると同時に、1619年にはイギリス、オランダ両国の間で休戦協定が締結された。 -1918年10月4日に連合国との講和を目的とするバーデン大公子マクシミリアン内閣が発足し、社民党と中央党と進歩人民党が政権に参加した。マクシミリアンはアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが主張した「ドイツ軍部や王朝的専制君主は交渉相手とは認めない」という交渉資格の要求をクリアーするために議院内閣制導入など様々な改革を実施した。その一環で政治犯釈放が行われ、リープクネヒトやルクセンブルクなど反戦運動で投獄されていた急進左派人士が続々と釈放された。彼らは釈放後、前年に起きた十月革命を模範とした革命扇動を開始した。 -1815年にナポレオン戦争が終結すると、織物産業における短い好景気は記録的な経済不況の時代に取って代わられた。1803年に週6日労働で15シリング稼ぐことも可能だった織工たちは1818年には賃金は5シリングかひどいときには4シリング6ペンスに削減される羽目に陥った。産業資本家は救済を提供せずに賃金を削減し、ナポレオン戦争の余波で生まれた市場の力に責任を押しつけるばかりであった。事態を悪化させたのは穀物法であった。1815年に第一次穀物法が制定されると、イングランドの穀物生産者を保護する目的により外国産の穀物に高関税がかけられた。民衆は外国産に比べて高くて質の悪いイングランド産の穀物を買わざるを得なかったために食料の値段が高騰した。このように食料不足と記録的高失業の時代が続いてランカシャーはもとより全国で政治改革への要求が増していった。 -マインドライエックの起点であるシュヴァインフルトは、かつての帝国自由都市で、後にボールベアリング生産の中心地となった。このため、第二次世界大戦中には激しい空爆を受けた(ダブル・ストライク作戦と呼ばれる)。シュヴァインフルトの最も重要な保護文化財である旧ラートハウス(1572年建造)は、南ドイツのルネサンス建築中、最もすばらしいものの一つである。シュヴァインフルトの数km下流の左岸にグラーフェンラインフェルト原子力発電所がある。この発電所の、それぞれ143mの高さがある2本の冷却塔は、数kmの範囲のどこからでも目に付くランドマークである。 -1848年2月にフランス・パリで2月革命(1848年革命)が発生し、18年続いたルイ・フィリップの7月王政が打倒され、穏健な共和主義者らが中心となって臨時政府が樹立された。臨時政府は国立作業場の創設や男子普通選挙制度導入などの改革を行った。 -6000系は京王線初の車両全長20m・両開扉・4扉車となり、最大幅2,844mmの初代5000系と同じ室内幅2,600mmを新宿線乗入で規定された最大幅2,800mmで実現するための設計上の工夫が施され、6両編成で5000系7両編成に匹敵する収容力をもつものとされた。床面の車体幅が5000系の2,700mmから2,780mmに拡幅されたことと併せ、20m車の導入に際して曲線上のホームとの干渉が発生するためホームの修正などの準備が行われたが、車両設計認可には時間を要した。6000系では京王で初めて電気指令式ブレーキを採用し、主幹制御器がブレーキハンドルと一体化されたワンハンドルマスコンが採用された。1962年(昭和37年)には井の頭線用に3000系がオールステンレス車体で就役していたが、6000系は5000系に続いて普通鋼車体とされ、アイボリー色の車体の窓下にえんじ色の帯が巻かれた。製造当時の法令に従い、6000系はA-A基準を満足するよう設計されている。1972年に入線した6両編成6本は5000系とほぼ同一の制御装置を採用した抵抗制御となったが、1973年製造車から界磁チョッパ制御に変更されている。当初は5000系が特急用、6000系は急行用と位置付けられ、性能もそれに見合うものとされた。1975年から既存の編成に新造車を組み込む形で8両編成化が開始され、平日の特急にも運用されるようになった。6両編成で製造された12編成すべてが新造車を組み込んで8両編成となったが、製造時に想定されていた電動車と非電動車の比率(MT比)1:1ではなく、5両が電動車、3両が非電動車(5M3T)となり、界磁チョッパ制御の6編成は8両固定編成、抵抗制御の6編成は高尾山口行きと京王八王子行きに分割される休日の特急運用にも充当できるよう5両+3両の編成となった。これ以降は8両編成での製造が基本となった。1980年に開始された新宿線乗り入れでは、故障した編成を後続編成が押して33.3‰の坂を登れる性能が求められたことから、電動車を1両増やした6M2T編成とする必要があり、中間付随車の電動車化が一部編成で行われ、新宿線用保安装置搭載などと併せて新宿線乗入対応とされた編成全車を車両番号の下2桁が31または81から始まる番号(30番台)に改番、以降は乗入対応編成と京王線専用編成が並行して製造された。 -1483年に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟グロスター公リチャードはエドワード4世の幼い遺児エドワード5世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経てリチャード3世として即位する。リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸すると、ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。(第三次内乱) -治世の中断の影響によって財政が破綻したため、カワード1世は東ローマ皇帝アナスタシウス1世に対し補助金の支払いを要請した。東ローマ帝国は以前より北方からの侵略に対するコーカサスの防衛を維持するために、サーサーン朝に対し資金援助を行っていた。しかしアナスタシウス1世が補助金の支払いを拒否したため、カワード1世は東ローマ帝国の領土へ侵攻し、アナスタシア戦争と呼ばれる戦争を開始した。 -しかし、このような選挙妨害にも拘らず、中道諸政党が合流した中央同盟は33%の得票を得、政権交代が可能な第二党と化した。このため、中央同盟党首ゲオルギオス・パパンドレウは民主的な再選挙を要求して『不屈の闘争』を宣言した。中央同盟と民主左翼連合は選挙が不正であったとして街頭でデモを行ったが、これを主導していた左翼の国会議員グリゴリス・ランブラキスが暗殺されたため、それまでの国民急進党政権は方向性を見失った上にコンスタンディノス・カラマンリス首相と親ナチス的で評判の悪かったフリデリキ王妃との確執も表面化するなど、ギリシャ政局は一気に不安定に陥った。全国規模に広がった民主化要求のために1963年11月、再選挙が行われたが、穏健な改革政策を唱える中央同盟はギリシャ王室とアメリカの支持を得た上で世論の支持を集めて勝利を収め、左派の協力を得た上でパパンドレウが組閣し、カラマンリスは国民急進党党首を辞すると共にフランスへ出国した。翌1964年2月には再々選挙が行われ、中央同盟は絶対多数の議席を得て中道単独の政権が樹立された。 -他方、ティムール達に勝利したイリヤース・ホージャは守備兵がいないサマルカンドに向かって進軍を続けた。当時のサマルカンドは城壁と内城が再建されていなかったが、サマルカンド市民の中にはモンゴルからの解放を掲げる「サルバダール運動」を行う一団が存在していた。サマルカンドに入城したイリヤース・ホージャの軍はサルバダールが指揮する市民の奇襲を受けて壊滅し、さらに軍馬が疫病に罹って激減したためにマー・ワラー・アンナフルから退却した。イリヤース・ホージャは敗走中にドグラト部のカマルッディーンによって殺害され、カマルッディーンはモグーリスタンのハンを僭称した。1366年春にイリヤース・ホージャが退却したことを知ったティムールとフサインはサマルカンドに戻り、一度はサルバダールたちの勝利を称え、彼らに面会を申し出る。歓待の後にティムール達は態度を一変させ、ティムールの取り成しによって助命された一人を除いてサルバダールを皆殺しにする。 -緑の革命に含まれるプロジェクトは、すでに存在していたが先進工業国以外ではほとんど利用されていなかったテクノロジーを発展途上国に広めた。これらのテクノロジーは、農薬・灌漑事業・合成窒素肥料・その時に利用できる従来の科学に基づいた(つまり狭義のバイオテクノロジーを使っていない)育種法で開発された改良品種を含む。緑の革命での新技術の開発は、「奇跡の種子」と称された物の生産であった。 -1961年にスペンサー伯爵家の嫡男であるオールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサーとその夫人フランセスの間の三女としてサンドリンガムの屋敷パークハウスで生まれる。スペンサー家は17世紀以来続く貴族の家系である。両親は1967年から別居し、1969年に離婚した。ダイアナら子供の親権は父が獲得した。弟チャールズとともにパークハウスで育てられたが、1970年にはノーフォークの寄宿学校リドルズワース・ホール学校に入学、ついで1973年にケント州にある寄宿学校ウェスト・ヒース学校に入学した。1975年に父がスペンサー伯爵位を継承したのに伴い、ダイアナもLady(姫、令嬢)の儀礼称号を得た。 -きさらぎ駅(きさらぎえき)とは、日本のインターネットコミュニティで都市伝説として語られている架空の鉄道駅である。2004年にインターネット掲示板の2ちゃんねるに投稿された実況形式の怪奇体験談の舞台として登場したもので、人里離れた沿線に忽然と現れた謎の無人駅として描写されている。体験談の内容から静岡県浜松市の遠州鉄道沿線、またはそこから繋がった異界にあるものとされているが、以後ネット上では類似の体験談が相次いで、インターネット・ミームとしての広まりを見せている。 -江戸時代後期の1797年(寛政9年)に刊行された『伊勢参宮名所図会』、および1815年(文化12年)刊行の『近江名所図会』には、「平松村此村の右の方の山に美し松といふあり。一山凡二町餘の間不殘(あいだのこらず)雌松にて、其生ふる形一樹にして根本より數十幹を出す。甚奇観なり。」と記され、東海道沿いの名所として知られていた様子が分かる。また、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』の水口宿で描かれた浮世絵の2作品に「うつくし松」は描かれており、画中に「平松山美松」、「名松平松山の麓」の副題が添えられており、特に「平松山美松」では複数の幹が放射状に分岐する特徴的なウツクシマツの樹形が描かれている。 -フランス語«ronron»([ʀɔ̃ʀɔ̃]、「ロンロン」)は日本語でいう「ゴロゴロ」というネコの出す音を真似た擬声語であり、初出はジャン=ジャック・ルソーの1731年の小説『新エロイーズ』の一節であった。この名詞から「喉を鳴らす」という意味の動詞«ronronner»(「ロンロネ」)が派生し、さらに喉鳴らし一般を指すronronの同義語«ronronnement»(「ロンロヌマン」)が派生した。アナロジーにより、ronronやronronnementという語はエンジンなどの鈍い連続音も指す。 -金鐘寺と福寿寺の2つの寺院はのちに統合され、大養徳国金光明寺(やまとのくにこんこうみ���うじ)と呼ばれる大和国の国分寺となった。これが、東大寺の直接の前身である。国分寺建立の詔は、紫香楽宮から、天平13年(741年)2月14日に出されている。ちなみに、大仏造立発願の詔が出たのは、同じく紫香楽宮の、この2年半後の天平15年(743年)10月15日のことである。大養徳国金光明寺は、各国の国分寺の中では珍しく、新たに建立されたものではなく、前身となった寺院が認められていることになる。統合の時期であるが、福寿寺一切経写経所の名が金光明寺一切経写経所と改名されたことが分かる文献もあり、天平14年7月頃と推測されている。金光明寺の金堂の所在地については論争が続いている。法華堂(三月堂、羂索堂)に葺かれている瓦から堂の創建年代を天平13年初夏から14年7月頃と見なし、この堂が福寿寺の金堂であり、さらには金光明寺の金堂にもなったとする説がある。一方、この説に不備や不自然な点があると指摘し、また、福寿寺は金鐘寺に吸収されて合併した可能性から、金堂の推定地について他の候補を挙げる説もある。 -一方、アメリカ軍もコロンバンガラ島砲撃のためこの日艦隊を出撃させていた。当時、ムンダおよびコロンバンガラ島を砲撃するアメリカ艦隊には二つの任務部隊があった。一つはヴォールデン・L・エインスワース少将の第67任務部隊(旗艦ホノルル)、もう一つがアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊(旗艦モントピリア)であった。この二つの任務部隊は交替で夜間にムンダとコロンバンガラ島へ接近し、艦砲射撃の後即座に退却して基地に帰投するというパターンを繰り返した。また、ガダルカナル島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは違い、夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、レーダーに関する知識を学び、常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果、均整が取れた部隊となっていた。ハルゼー大将は過大報告された前回の砲撃結果に基づき、再度の攻撃のためメリルを出撃させた。メリル少将の第68任務部隊はエスピリトゥサントを出撃し、「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡をひたすら北上する。このニュージョージア海峡突入時から「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のPBY「カタリナ」3機が第68任務部隊の前路警戒配備に就いた。なお、第68任務部隊の軽巡洋艦群のうち、コロンビア(USSColumbia,CL-56)は修理を行う必要があったため作戦から除外された。 -マダガスカル島においては、一直線に伸びる東海岸に沿って、狭く急激にせり上がるエスカープメント(断崖地形)が形成されており、ここにマダガスカル独特の低地熱帯雨林が残されている。断崖の稜線を超えて西、島の中央部には、海抜750メートルから1,500メートルの標高のプラトーがある。ここがメリナ族の故地、「中央高地」と呼ばれる地方で、首都のアンタナナリヴもここに所在する。中央高地はマダガスカル島で最も人口稠密な地域であり、草で覆われた丘とまばらに点在する半湿潤林の間を縫って、米が育つ階段状の渓谷が走るという自然景観に特徴づけられる地方である。なお、この半湿潤林はかつては中央高地全体を覆っていたが、15世紀ごろから始まる人間活動により縮退したものと考えられている。中央高地から西へ向かうにつれ、乾燥した土地が増えつつなだらかにモザンビーク海峡へと下る。海岸沿いの塩性湿地にはマングローブが茂る。 -地質的には香良洲町全域を第四紀沖積層の砂礫やシルトが覆っており、沿岸部ほど厚く堆積している。丘陵と呼べるものは町内になく、平坦な地形をしている。縄文海進の頃、香良洲町域は海面下にあり、弥生時代後期には干潟であった。これ以降に香良洲町は陸化し、江戸時代になるとシルト層の堆積が起き、現代と同じ地形が形成された。 -1959年以降、周辺国へ逃れた多数のツチ系難民は、1980年頃に政治的組織や軍事的組織として団結するようになった。ウガンダでは1979年にルワンダ難民福祉基金が設立され、翌1980年に同組織が発展する形で国家統一ルワンダ人同盟が結成された。ウガンダ内戦(1981年-1986年)における反政府組織であり、最終的に勝利を納めた国民抵抗運動(NRM)に参加した者も多く、1986年時点で国民抵抗運動の約2割がツチであった。しかしながら、内戦の初期から国民抵抗運動に参加していたツチらは相応の高い地位を得たものの、ヨウェリ・ムセベニウガンダ大統領のルワンダ難民問題に関する姿勢の変節などにより、強い失望を受けた。そのため、1987年になると新たにルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。 -バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人やアッカド人たちはバビロニア南部でウルやウルク、ニップル、ラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第三王朝がそれに続いた。 -四国同盟戦争(しこくどうめいせんそう、英語:WaroftheQuadrupleAlliance)は、1718年から1720年まで行われた、スペインと四国同盟(オーストリア、イギリス、フランス、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の4カ国)およびサヴォイア公国(当時シチリア王国を称する)との間に行われた戦争のことをいう。 -「ポジャールスキー公」に装備された17.3口径9インチ砲は古い鋳鉄製カバーを16箇所の固定環に交換したものであった。これを、新規に設計した21箇所の固定環を持つ20口径9インチ砲に変更する要求が出されたが、この砲の製造がクルップ社へ発注されたのが1868年7月のことであり、「ポジャールスキー公」の就役に間に合わなかったため、9インチ砲の搭載は中止して8砲を搭載することになった。 -ペーパードリップの方法は、1908年にドイツ人のメリタ・ベンツが考案した。彼女はペーパードリップシステムの特許を取得し、メリタを創業した。メリタ式とカリタ式が存在し、最適なメッシュが異なるとされているが、どの挽き方が最適かは様々な意見がある。抽出法の違いは、メリタ式が杯数分の湯を全量フィルターに投入し滴下するのを待つのに対し、カリタ式は湯を数回に分けて投入し続ける。フィルタの下のデカンタに杯数分滴下した段階でフィルタをはずし、フィルタ内の抽出中の湯(コーヒー)は廃棄する。従って、カリタの方が経験を要し、味のぶれる要素は大きいとも言える。ドリッパーの形状はメリタが開発した台形が主流であるが、近年では円錐形も登場している。台形は腕に左右されず安定した味と香りが出せ、円錐形は粉の層が縦に厚くなりよりネルドリップに近くなるとされる。台形と円錐形ではフィルタの互換性が無く、HARIOは両方のドリッパーとフィルタを販売しているが円錐形の方が若干高価である。メリタとカリタは台形のみ、珈琲サイフォン株式会社は円錐形のみ販売している。 -ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、(ポーランド語:RzeczpospolitaPolska)、通称ポーランドは、国連の区分では東欧、米CIAの区分では中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。通貨はズウォティ。首都はワルシャワ。北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけポーランド・リトアニア共和国を形成、ヨーロッパで有数の大国となった。18世紀、3度にわたって他国に分割された末に消滅(ポーランド分割)、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた。 -2002年12月3日にはオンライン蔵書検索システム(OPAC)を導入した。岩手県の63館中(分館を含む)32館目のコンピュータ導入事例である。コンピュータの導入によって貸出冊数が大幅に増加し、2002年度の貸出点数80,692点が2003年度には108,666点(1.35倍)となった。震災前の2010年4月時点の蔵書数は80,364点だった。 -1975年(昭和50年)3月8日には1階と地下1階を利用して稲沢市立図書館が移転開館した。1階にはブラウジングコーナー・おはなしコーナーなどがあり、地下1階には成人閲覧室・参考図書閲覧室・視聴室・展示コーナー・書庫などがあった。座席数は約170席であり、児童向けのスペースを重視し��いた。図書館部分の延床面積は1,027m2だった。1975年4月の資料数は25,780冊だった。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -1419年にジョチ・ウルスの王族バラクがウルグ・ベクに支援を求め、ウルグ・ベクはバラクに援助を与える。また、ウルグ・ベクはワイスとの内争に敗れたモグーリスタン・ハン国のシール・ムハンマドに援助を与え、バラクとシール・ムハンマドはそれぞれの国で君主の地位に就いた。ウルグ・ベクは2人を通した間接支配を計画していたが、1426年にバラクはシル川中流域のティムール帝国領を占領して敵対し、シール・ムハンマドもウルグ・ベクに従属の意思を見せなかった。 -一方四侯会議の途中から欠席するなど薩摩と距離を置き始めた山内容堂は、むしろこの後徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めていく。同年6月坂本龍馬から大政奉還を含む船中八策を聞いた土佐藩の後藤象二郎は、容堂にこれを進言する。徳川家存続の妙策と考えた容堂は、慶喜に大政奉還を建白した。その結果、薩摩側の倒幕の密勅工作の機先を制し、10月14日大政奉還が実行されることとなる。 -徳川家の記念事業として、静岡県知事・関屋貞三郎の相談を受けた渋沢栄一が斡旋を行って集めた寄付により、県立図書館の設立提案が県会に議決される。設立費17万円で、1923年(大正12年)12月起工、1924年(大正13年)10月竣工し、1925年(大正14年)4月1日、静岡県立葵文庫として静岡市追手町249番地に開館した。開館記念講演は関口隆吉の子・新村出による「葵文庫の歴史的背景と其将来」。初代館長は貞松修蔵、開館時の蔵書は約2万2,000冊、職員数は16名であった。春夏季は午前8時から午後9時、秋冬季は午前9時から午後9時と労働者の夜間の来館に配慮した開館時間を設定し、使用料3円を納付すると交付される「図書携出特許証」により図書貸出を行った。 -白血病(はっけつびょう、Leukemia)は、「血液のがん」ともいわれ、遺伝子変異を起こした造血細胞(白血病細胞)が骨髄で自律的に増殖して正常な造血を阻害し、多くは骨髄のみにとどまらず血液中にも白血病細胞があふれ出てくる血液疾患である。白血病細胞が造血の場である骨髄を占拠するために造血が阻害されて正常な血液細胞が減るため感染症や貧血、出血症状などの症状が出やすくなり、あるいは骨髄から血液中にあふれ出た白血病細胞がさまざまな臓器に浸潤(侵入)して障害することもある。治療は抗がん剤を中心とした化学療法と輸血や感染症対策などの支持療法に加え、難治例では骨髄移植や臍帯血移植などの造血幹細胞移植治療も行われる。大きくは急性骨髄性白血病(AML)、急性リンパ性白血病(ALL)、慢性骨髄性白血病(CML)、慢性リンパ性白血病(CLL)の4つに分けられる。 -レンブラントは、同じオランダのフェルメール、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどと共に、バロック絵���を代表する画家の一人である。また、ヨーロッパ美術史における重要人物の一人である。「光の画家」「光の魔術師」の異名を持ち、油彩だけでなくエッチングや複合技法による銅版画やデッサンでも多くの作品を残した。絵画『夜警』はレンブラントの代表作として著名である。また、生涯を通じて自画像を描いたことでも知られ、これらはその時々の彼の内面までも伝えている。若くして肖像画家として成功し、晩年には私生活における度重なる不幸と浪費癖による財政的苦難に喘いだが、生前、すでに著名で高い評価を受け、オランダには比類すべき画家がいないとさえ考えられていた。フェルディナント・ボル、ホーファールト・フリンクなどはレンブラントの弟子として知られる。なお、オランダ政府観光局による片仮名表記はレンブラント・ファン・ラインとなっている。 -20世紀の中国科学史家ジョゼフ・ニーダムによると、メソポタミアから中国に水時計が伝わったのは、紀元前2000年から紀元前1000年頃の殷の頃である。漢の時代となった紀元前202年、水時計は外流式から、浮きと連動してバーが動く仕組みの内流式へと徐々に置き換わっていった。後漢の科学者張衡は、水時計内の水の流速がタンクの水位で変化するのを改良するため、タンクと水時計の間に予備タンクを設ける工夫をしている。南北朝時代の紀元550年頃にはオーバーフローさせることによって水位が(つまり底の水圧が)一定となるタンクが水時計に利用された。その詳細が後に沈括によって記録されている。隋になった610年頃、耿詢と宇文愷は水時計に初めて棹ばかり(Steelyardbalance)を組み込んだ。ジョゼフ・ニーダムはこれを評して「水時計に棹ばかりを組み込んだことにより、水速を好きなように調整することができるようになった。当時は昼と夜とで時間の刻み間隔を変えていたが、それにも対応できるようになった。オーバーフロータンクも必要なくなった」と語っている。 -池上競馬場は、東京・池上に、明治時代末期の1906年(明治39年)から1910年(明治43年)までの5年間だけ開設された、1周1マイルの競馬場である。池上競馬場の位置は現在の大田区池上6〜8丁目あたり(池上駅の南方の一帯)になる。池上競馬場では日本人の手によるはじめての馬券が発売され、日本競馬の新しい時代である馬券黙許時代を切り開いた競馬場である。所有者並びに運営者は東京競馬会であった。東京競馬会は加納久宜と補佐役の安田伊左衛門が中心となって1906年に設立され、池上競馬場は政府と陸軍の支援を受けて開場した。政府は後続の競馬場の模範たるべく、また賭博の弊害を生まぬよう、さらに池上競馬場を上品な競馬場にすべく、観客は紳士・淑女に限るとし、入場料を高額にさせ、東京競馬会は池上競馬場に玉座や高級料理店などを設置した。 -国王戦死によって高句麗は混乱し、跡を継いだ小獣林王(在位:371年-384年)と故国壌王(在位:384年-391年)の兄弟は国制の立て直しに邁進しなければならなかった。小獣林王は前燕を滅ぼした前秦との関係強化に努めた。372年に秦王苻堅(在位:357年-385年)から僧順道や仏典・仏像が贈られ、375年には寺院が建立された。これが高句麗への仏教公伝である。また同じ年には教育機関として太学(大学)が設けられ、具体的な内容は伝わらないものの律令が制定されたという。更に故国壌王時代には国社・宗廟、礼制の整備が行われた。こうした積極的な国内政策を通じて国力の回復が図られた。 -ピエールは一念発起して学位取得を目指し、仕上げた「対称性保存の原理」(キュリーの原理)論文の写しを彼女に贈り、2人の距離は縮まった。そしてマリは自分の屋根裏部屋に彼を招待し、ピエールは貧しく慎ましい彼女に打たれた。お互いに尊敬し信頼し合う親密な間柄になった2人だが、マリはいつかポーランドに帰ると誓っていた。1894年7月に数学の学士資格を得たマリは夏季休暇を利用してワルシャワに里帰りしたが、ふたたびフランスに戻るかどうか決めかねていた。彼女は働き口を探してみたが、ヤギェウォ大学は女性を雇い入れなかった。その間、ピエールはマリに、求婚の手紙を何度も送り、10月にマリはパリに帰ってきた。ピエールは熱意を直接マリに語り、一緒にポーランドに行ってもよいとまで伝えた。彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年7月になった。1895年7月26日、質素な結婚式が行われた。新婦のドレスは義兄の母が贈ったもの。教会での誓いも、指輪も、宴もない式にはポーランドから父や姉たちもかけつけた。祝福の中で式を終えた2人は、祝い金で購入した自転車に乗ってフランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発した。こうしてマリは、新しい恋、人生の伴侶、そして頼もしい科学研究の同志を得た。 -イヤートランペットの商業生産はロンドンのフレデリック・レイン社によって1800年に始められた。同社はほかにも扇形や伝声管式の補聴器(ヒアリングファン、スピーキングチューブ)も扱っていた。これらはいずれも音を集めて聞き取り易くする機器で、持ち運びも可能だったが、概してかさばるため下から支える必要があった。後になると手持ち式の小型化されたイヤートランペットや円錐型の補聴器が使われるようになった。1800年代末になると、集音用の円錐と耳に差し込む部分をチューブでつないだ「アコースティック・ホーン」が作られた。レインは1819年にポルトガル王ジョアン6世から集音機能がついた特製の椅子を製作するよう依頼された。注文に応じて作られた玉座は、口を開いた獅子を象った装飾的なひじ掛けを左右に備えていた。獅子の口が受音器にあたり、ここに入った音が伝声管を介して玉座の裏に送られ、王の耳に届く仕掛けだった。19世紀の終わりにかけて、英国や米国では外から目立たないタイプの補聴器が広まり出した。レインは他社に先駆けて注目すべきデザインの多くを送り出した。「オーロリース・フォーン」と名付けられた同社の補聴器では、花や貝など様々な形の被り物に集音器が巧妙に仕込まれていた。家具、衣服、装身具の中に隠せる補聴器もあった。これらは聴覚障害の存在を隠すことを第一に考えたデザインであり、補聴器としての性能は高いものではなかった。機械式の補聴器は江戸時代の日本にも伝えられた。1813年ごろ、蘭学者司馬江漢はオランダ人ボイスの科学事典を参考にイヤートランペットを制作し、眼鏡とかけて「耳鏡」と呼んだ。その用法は当時の広告文(引き札)に見ることができる。 -1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術した。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「��いよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士である。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)にある。1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 -1460年にスコータイ(スコータイ自体、アユタヤ王朝の支配下にあった)の支配下にあったチャリエン(現在のシーサッチャナーライ郡)がラーンナーに帰順すると、今度はピッサヌロークとカムペーンペットを攻撃したが失敗した。 -弘治2年(1556年)4月、信長の岳父であり支援者でもあった美濃国の戦国大名・斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去した。義龍は、もう一つの守護代家・岩倉織田家などの信長の敵対勢力の支援に動き、信長は苦境に立たされた。同じ頃、未遂に終わったものの、信行派の林美作守らが信長を殺害しようとした事件もあった。同年8月、信行は林秀貞・林美作守・柴田勝家らとともに、信長と敵対する旗幟を鮮明にした。信行らは、信長の直轄領である篠木三郷を押領しようとした。この動きに対し、信長は名塚砦を築いて自派の佐久間大学を入れ、牽制を図った。信行方の柴田勝家らは名塚砦への攻撃に打って出て、信長がこれを迎え撃った。8月24日、両者は稲生で激突する。結果、柴田勝家は敗走し、林美作守は討ち取られて、信行方が敗北を喫した。敗れた信行は末森城に籠城する。信長は末森城に攻め寄せたが、このときは母・土田御前の取りなしにより、林秀貞、柴田勝家共々、信行は赦免された。 -イレーヌ・ジョリオ=キュリーは、フランスの原子物理学者である。父はピエール・キュリー、母はマリー・キュリーだ。妹はエーヴ・キュリーだ。パリに生まれ、パリ大学でポロニウムのアルファ線に関する研究で学位を取得した。1926年、母マリーの助手だったフレデリック・ジョリオと結婚した。1934年に30Pを合成し、1935年、「人工放射性元素の研究」で、夫フレデリックと共にノーベル化学賞を受賞した。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -1967年までには、KFCはアメリカで6番目に売上高の大きいレストランチェーンとなっており、その売り上げの30パーセントがテイクアウトによるものだった。ブラウンは、急速に拡大しなければ、KFCはチャーチズ・チキンのような台頭するライバルの後塵を拝すことになると考えていた。したがって、1968年には863もの店舗が開業された。KFCの成長は、その株価をロイターが「成層圏に達した」と表現するレベルにまで押し上げた。1969年にはニューヨーク証券取引所に上場された。その間、KFCは他社とともに新事業に乗り出していた。ブラウンは、「カーネル・サンダース」というブランドはあらゆる商品のマーケティングに利用できると考えていた。ブラウンは「ケンタッキーローストビーフ」(レストランチェーン)と「カーネル・サンダース・イン」(モーテル)を開業した。ローストビーフチェーンは1970年までに100店舗を抱えていたものの、これらふたつの��事業はすぐに経営破綻した。1970年には、カリフォルニアに本拠を置くフィッシュ・アンド・チップスチェーンのH・ソルト・エスクァイアとの合弁事業にも乗り出し、これは一定の成功を収めたが、1980年には事業が売却される結果となった。 -「高遠ぶらり」はiPadやスマートフォンで地図を閲覧するアプリケーションであり、GPSを用いて古地図や絵図に現在地を表示したり、古地図や絵図と現代の地図を切り替えながら街歩きを行うことができる。図書館がプロジェクトオーナーとなった政策委員会方式でアプリの開発やワークショップの開催を行い、図書館職員のほかには観光ガイド、郷土史家、デザイナー、エンジニア、学生などさまざまな属性の市民が参加者に名を連ねている。街歩きワークショップや観光客向けウォークラリーを行い、年2回のアップデートで掲載する地図を増やしている。デジタル化した情報を再び街歩きに活かし、地域住民による能動的な情報収集・発信を支援している。高遠藩内藤家の下屋敷が新宿御苑にあった縁で、2013年には新宿御苑周辺もアプリに加えられ、新宿区立四谷図書館が街歩きイベントなどに活用している。 -2008年11月3日にはFM802が主催するイベント『MINAMIWHEEL2008』に出演、同年12月1日には世界エイズデーにあわせ、同じくFM802が主催するイベント『ActAgainstAIDS2008LIVEINOSAKA』に出演、ライヴ・パフォーマンスを行った。12月13日には、ケーブルテレビ局スペースシャワーTVにて「清水翔太SPECIAL」として特別番組『清水翔太のRadioUmbrella』が放映された。12月16日には『J-WAVECHRISTMASLIVE』に、同年12月20日にはTOKYOFMの公開放送『DHCカウントダウンジャパン』に出演。12月23日には、ライブイベント『ACT!Cultureofpeacebymusic!?『FriendsofPeaceMusic』』に出演。両イベントともに、ライヴ・パフォーマンスを行った。2009年3月からは、このアルバムを引っ提げてのライヴ・ツアーである『清水翔太UmbrellaTour2009』が開催された。このツアーは清水にとって初となるワンマンライヴで、大阪、名古屋、東京の3ヶ所計4公演が行われている。2009年4月4日には、ブラック・ミュージックの祭典SPRINGROOVEでのライブ・パフォーマンスも行っている。 -ヘビの鱗には様々な形状がある。メクラヘビ科では時に円形で、ハナナガムチヘビでは長くて先端が尖った先細り形、シロクチアオハブでは幅広な木の葉形、またナンダなどのネズミヘビ(ナミヘビ科)では鱗が幅広で長い。時にはキスジヒバァのように、大なり小なりの筋状突起(キール)が見られる場合もある。ユウダ属の一部の種では、時に先端に2つの歯状突起がみられる(bidentate)。トゲウミヘビ等では並列した棘状の鱗を持っている場合があり、一方でミツウロコヘビ(ドラゴンスネーク)のように重なり合わない大きな突起(knob)になった鱗をもつ場合もある。特殊化した鱗の例としては、ヘビの眼球を覆うブリル(brille)と呼ばれる透明な鱗が挙げられる。これは脱皮の際には古い皮膚の一部として脱落する。英語圏では、ブリルはしばしば癒合したまぶた(fusedeyelid)と呼ばれることがある。 -地球の年齢(ちきゅうのねんれい)は、地球誕生から現在までの経過年数である。45.4±0.5億年(4.54×109年±1%)であると推定されている。この年齢は、隕石の放射年代測定から得られたデータに基づいている。現在、地球の年齢は放射年代測定によって求めるのが一般的である。これは、岩石の中に含まれる放射性同位体の量を調べる方法で、地球の年齢を調べるにはその中でもウラン-鉛法(U-Pb法)、カリウム-アルゴン法(K-Ar法)、ルビジウム-ストロンチウム法(Rb-Sr法)などが用いられる。 -ルーシー(Lucy)とはエチオピア北東部ハダール村付近で1974年11月24日に発見された318万年前の化石人骨。アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の中で最初期に発見されたもののひとつであり、全身の約40%にあたる骨がまとまって見つかったという資料上の貴重さから、広く知られている。モーリス・タイーブ(タイエブ、MauriceTaieb)を中心とする国際アファール調査隊(theInternationalAfarResearchExpedition;IARE)が発見しビートルズの曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」に因み「ルーシー」と命名。 -日本のイトヨ(Gasterosteusaculeatus)には生���史多型が存在し、生涯を淡水域で送る淡水(陸封)性の個体は北海道(阿寒湖など)と本州(福島県・栃木県・福井県など)の内陸部に、海で成長して産卵期に河川に遡上する遡河回遊性の個体が北海道の太平洋側に分布する。また、ニホンイトヨ(G.nipponicus)は遡河回遊性の生活史を持ち、北海道から九州以北の日本海沿岸部、千葉県銚子付近までの太平洋沿岸部に生息する。ハリヨは滋賀県ならびに岐阜県に分布し、後者の生息地はトゲウオ科魚類の南限の一つとみなされている。 -1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年が同性愛の容疑をかけられたが放免されたというものがある。この1476年以降、1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録が残っていない。1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行ったと思われる。アノニモ・ガッディアーノという正体不明の人物が、1480年にレオナルドがメディチ家の庇護を受けており、フィレンツェのサン・マルコ広場庭園で新プラトン主義者の芸術家、詩人、哲学者らが集まった、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーの一員だったという説を唱えている。1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、『東方三博士の礼拝』(en:AdorationoftheMagi(Leonardo))の制作依頼も受けている。しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置された。『東方三博士の礼拝』もレオナルドがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。 -1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区等で過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、それらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定した。後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわず、再度数年の充電期間に入る。その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。 -それに続く研究により、この菌はオーストラリアでは遅くとも1978年、北米では1970年代に出現したと確証された。最初に感染が記録されているカエルはアフリカツメガエル(Xenopuslaevis)である。ツメガエルは世界中のペットショップで売られ、研究室で使われているため、ツボカビがアフリカから移出されたというのはありうることである。 -翌1930年、園井恵子は音楽学校本科生となり、劇団第19期生として花組に編入した。当時の芸名は「笠縫清乃」であった。同年4月から上演されたレビュー『春のをどり』で初舞台を踏み、同年12月から芸名を「園井恵子」と改めた。1931年3月末に宝塚音楽学校を卒業し、月組配属となる。8月、白井鐵造作『ジャックと豆の木』初日において、母親役の高千穂峯子が突然倒れたことにより、予定のなかった園井が急遽代役として出演。30分で台詞を覚えて演じきり、好評を博した。10月には『ライラック・タイム』に門番婆さん役を好演し、宝塚歌劇創始者・小林一三から「今年最大の収穫」と賞賛された。以後役付きが良くなっていき、喜劇的な役どころを中心に、奥方役、老婆役など、できない役はないというほど多彩な芸を持つ名バイプレーヤーとして地歩を固めていった。親しかった桜緋紗子、社敬子、葦原邦子はいずれも、園井の好演作として主人公の母親「ローズ」役を演じた『アルルの女』(1934年)を挙げている。この作品は当時大ヒットを記録し、後に全国に宝塚劇場が開場するたびにこけら落とし作品として選ばれた。 -帰途、裕仁親王の一行はマンチェスターで市長主催昼食会に招かれた(25日)。この席で裕仁親王は炭坑ストライキに同情をこめたスピーチをアドリブで行い、周囲を驚かせた。26日午後7時10分、裕仁親王の一行はロンドンに帰着した。そのままホテル・セシルで開催されたロンドン日本協会(ジャパン・ソサエティ)の奉祝会に参加した。この会にはプリンス・オブ・ウェールズやヨーク公、閣僚や各国大使も参列した大規模なものだった。27日にはイートンを遊覧した後、バッキンガム宮殿で国王王妃夫妻との別れの午餐会に出席した。その後海軍記念日の行事やリージェンツ・パークでの在留邦人の祝賀会に参加した後、在英日本大使館で裕仁親王主催で晩餐会を開いた。28日、裕仁親王らは軍事参議院代表の祝辞を受けた後、日本人の祝賀会に出席し、翌日未明まで歓談に及ぶ。29日、オーガスタス・ジョン(王立肖像画家協会会頭)のアトリエにて肖像画を作成。サリーでゴルフプレイを観戦する。午後2時半には国王王妃夫妻らに見送られ、ヴィクトリア駅からロンドンを発って再びポーツマスに向かった。30日、香取と鹿島はポーツマスを出港し、フランスに向かった。 -地球を取り囲む大気は酸素を20.9%含み、これは他の太陽系惑星には見られない特徴である。大気圧は海面上を1気圧と定義され、上空に行くほど低くなる。水循環を担いほとんどの気象現象が生じる対流圏は、上空になるにつれ温度と大気密度は低下する。しかし約17kmを境に水蒸気が凝結を起こす領域(コールドトラップ)に入り、これより上空は非常に乾燥した成層圏となる。ここでは上空に行くにつれ気温は‐60°Cから上昇に転じる。また、水が無い環境のため紫外線によって酸素からオゾンが作られる領域(オゾン層)が20-50km付近に広がる。これが太陽紫外線の短波長を吸収し、地表の生命を護る役目と成層圏を暖める機能を持つ。また、成層圏は水を拡散させないため、地表の水が宇宙空間に拡散し失われることを防ぐ機能を持つ。上空90kmの成層圏上域からは高度につれて温度が下がる中間圏に入り、ここからは電離層に当たる。温度低下は上空90kmで再び上昇を始め、この領域は熱圏と呼ばれる。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -土星が太陽の周りを公転するのには地球の時間で29年を要し、したがってタイタンも29年で太陽の周りを公転する。地球と同じように地軸が傾いているため、「季節」変動がある。タイタンの「1年」は地球の29年に相当し、一つの「季節」は地球での7年あまりの長さがある。小さく不規則な形状をした、タイタンの一つ外側を公転している衛星ヒペリオンは、タイタンと3:4の軌道共鳴の関係にある。理論モデルに基づくと、ヒペリオンは「ゆっくりで滑らかな」軌道の進化を経てタイタンとの共鳴に捕獲されたとは考えづらい。これは、共鳴に捕獲される前にヒペリオンの軌道が不安定化されてしまうと考えられるからである。そのため、ヒペリオンは初めからタイタンと共鳴する安定な軌道領域にあった物質が集積して形成され、不安定な領域にあった物質はタイタンに吸収されたり放り出されたりして失われたと考えられる。 -ポポーヴァらによると、地上まで落ちてきた多数の隕石の破片のうち0.1g程度の微小なものは火球が最も明るかった地点直下のアレクサンドロヴカ周辺に降り、重くなるほど軌道の延長に沿って遠くまで飛んだ。破片の大多数はグラム単位の小さなもので、最大のものを加えて地表に達した隕石の総量は4~6トンと見積もられている。これは突入時の質量のわずか0.03~0.05%にあたる。質量の76%は蒸発し、残りはチリ状になったと見積もられている。収集された目撃情報では、およそ1時間後からまる1日、焼け焦げる匂いや硫黄の匂いを感じた人もおり、隕石起源のチリのためと考えられる。隕石が多くの小さな破片に分裂したことは、突入時の天体が物質的および構造的に弱いものであったことを示唆している。 -一方、社民党の主流派閥である「中央派」の中にも「城内平和」に否定的な者が徐々に増えていき、社民党の共同党首フーゴー・ハーゼを中心に平和主義的中央派「ハーゼ・グループ」が形成されるようになった。1915年春に戦争目的論争が勃発するとカール・カウツキーやエドゥアルト・ベルンシュタインら党の長老がハーゼを支持するようになり「ハーゼ・グループ」が勢いを増した。 -2月下旬、第四水雷戦隊(司令官高間完少将、旗艦「長良」)に所属する白露型駆逐艦村雨(第2駆逐隊所属)と朝潮型駆逐艦峯雲(第9駆逐隊所属)は南東方面部隊(略号「NTB」、指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)麾下の外南洋部隊(略号「SNB」、指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された。3月2日、村雨と峯雲はラバウルに進出した。2隻は3月3日、ラエに第五十一師団を送り込む第八十一号作戦の陽動としてコロンバンガラ島方面を行動し、ビスマルク海海戦で第五十一師団を乗せた輸送船団が壊滅した悲報を受け、外南洋部隊(第八艦隊)は17時5分にラバウルへの帰投を下令した。だがラバウル入港直前に村雨が座礁事故を起こし、離礁してラバウルに帰投したのは3月4日の夜明け前のことだった。この日は、ビスマルク海海戦沈没艦船の生存者を乗せた駆逐艦浦波と初雪がラバウルに帰着した日でもあった。 -デビュー2年目の1955年、雷蔵は『新・平家物語』(1955年9月21日公開)の平清盛役でスターとして注目を集めるようになった。雷蔵の映画を16本監督した田中徳三は、当初雷蔵の俳優としての大成は難しいと感じていたが、『新・平家物語』で印象が一変したと述べている。また雷蔵の映画を16本監督した池広一夫は、それまで長谷川一夫の亜流のようなことをやっていたのが、じわじわと役者根性が出てきたと評している。映画評論家の佐藤忠男は、『新・平家物語』を境に「長谷川一夫の後を追うように、もっぱらやさ男の美男の侍ややくざを演じた」雷蔵が、「通俗的なチャンバラ映画だけではなく、しばしば格調の高い悲劇も鮮やかに演じるすぐれた俳優になっていった」と評している。雷蔵は足腰が弱く、立ち回りの時にふらつく癖があった。元大映企画部長の土田正義によると、立ち回りに不安のある雷蔵に「天下を制した青年清盛」を演じさせるのは大変な冒険だったという。雷蔵も自身の足腰の弱さを自覚しており、同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行ったが改善されず、撮影時にスタッフは足腰の弱さが画面に表れないよう配慮する必要があった。雷蔵の映画を18本監督した三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉体的欠陥を受けいれた上で、それを乗り越えようとする姿勢をとるようになったという。『新・平家物語』を境に雷蔵は、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった。 -1835年の1月、ビューヒナーは参考人として裁判所に呼び出される。身の危険を感じたビューヒナーは、亡命を決意、亡命資金を得るために戯曲『ダントンの死』を5週間で書き上げ、フランクフルトの書店を経由して作家カール・グツコーに送る。グツコーはビューヒナーの才能を認め出版を約束、稿料を送ったがこれは亡命には間に合わず、ビューヒナーは独自に資金繰りをした上で2月にストラスブールに亡命した。ビューヒナーはストラスブールの酒店に下宿し、婚約者のイェーグレ家や、彼と同じくドイツからの亡命者であったヴィルヘルム・シュルツ夫妻と親しく付き合いながら自然科学の研究に没頭した。上述のグツコーとも手紙のやり取りを続け、1835年の夏には生活費稼ぎの仕事として、グッコーから斡旋されてヴィクトル・ユゴーの『ルクレチア・ボルジア』『マリア・チューダー』の2作の翻訳を行なっている。またグッコーからは彼が創刊する予定だった新雑誌『ドイツ評論』への寄稿を依頼されたが、研究の時間を惜しんで定期的な寄稿は断っている(『ドイツ評論』は発禁命令を受けたため結局刊行されなかった)。1836年の初めころ小説『レンツ』執筆した。春ごろに喜劇『レオンスとレーナ』を執筆しコッタ出版の懸賞に応募したが、期限切れのため返却されている。また夏ごろに戯曲『ヴォイツェック』を創作した。 -英仏米(イギリス、フランスとアメリカ)など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定(英語版)を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。そのころ日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。 -陪審員が個人の知識をもとに裁判を行っていた古くの陪審とは異なり、現代の陪審は法廷に現れた証拠のみによって判断しなければならず、中立公平性が強く要求される。しかし、審理(トライアル)前や審理中の報道によって将来の陪審員又は現在の陪審員に偏見が与えられると公平な審理が妨げられるので、報道による陪審への影響をいかに防ぐかが問題となる。イギリス(イングランド、ウェールズ)では、評決が下されるまでの間、事件に関する報道を厳しく制限することにより、陪審への影響の防止を図っている。すなわち、制定法やコモン・ローにより、マスメディアの事件報道に対し、重い罰金(場合によっては拘禁)などの制裁を伴う強い規制を課している。審理前には、関係者の名前や予備審問の日時・場所のような最低限の情報しか報道してはならない。予備審問等は一般に公開されているものの、その内容を広く伝えることは規則によって禁じられている。審理が始まった後も、報道は手続を正確に伝えるものでなければならず、現在又は将来の手続(まだ審理が始まっていない別件の手続も含む)に害を及ぼすようなものであってはならない。これらに違反した場合は法廷侮辱罪による処罰の対象となり(実際上、処罰されるのは審理に深刻な影響を与える実質的な危険がある場合に限られている)、時々、法廷侮辱罪による処罰が行われる例がある。スコットランド、アイルランドも概ね同様の規制を敷いており、オーストラリア、ニュージーランド、カナダでは、これより緩やかな規制をしている。 -荒木の赴任当時、沖の島には3千人以上の島��がいた。無医地区の上に、衛生環境も悪かった。当時の統計によれば自然死が0であり、これは病気による死亡率の圧倒的な高さを意味しており、中でも医療水準と衛生知識の不備による病気が大半であった。さらに乳幼児の死亡率は、出生1000人に対して全国平均が60人であったのに比べ、その約4倍の217人もの高確率であり、しかも乳児の93パーセントは標準体重以下であった。それに加えて戦後の食糧難にも見舞われ、荒木は後に当時の生活の貧しさをNHKのドラマにたとえ「『おしん』のようだった」と語っている。荒木は、午前中に勤務先である保健所の支所で実務をこなすと、午後からは島内の各家庭を1人で巡回訪問した。島内はほとんどが傾斜地である上、当時は道路が未整備であり、自転車も使えず、毎日徒歩での山越えだった。道は迷路のように入り組んだ石段ばかりであり、中には石段が三百段余りある道もあった。 -ガンバレル方式・インプロージョン方式のプルトニウム原子爆弾にはそれぞれ「シンマン」「ファットマン」とのコードネームが与えられた。これらの命名を行った人物は、ロバート・オッペンハイマーのかつての教え子で、自らもマンハッタン計画に参加したロバート・サーバー(en:RobertSerber)だった。サーバーはそれぞれの爆弾の外観に基づいて名前を選んだ。Mark2は細長い形状であったため、ダシール・ハメットの探偵小説『影なき男(原題:TheThinMan)』とその映画化作品から着想を得て、「シンマン(痩せ男)」と命名された。Mark3は丸くずんぐりした形状であったため、『マルタの鷹』(ハメットの同名探偵小説の1941年の映画化作品)にて、シドニー・グリーンストリート(英語版)が演じたキャラクター「カスパー・ガットマン」から着想を得て、「ファットマン(太った男)」と命名された。なお、イギリス保守党の政治家であるチャーチル首相にちなんだものとする俗説がある。 -ボッシュは入社直後から、工場内の住居に住み、週末にはボウリングをしたり、酒を飲みに出かけたりしていた。また、休暇や祭日には両親のところで過ごすようにしていた。そしてここで、妹の友達のエルゼ・シルバッハと仲が良くなり、1902年に結婚した。結婚後はルートヴィヒス・ハーフェンのアパートに住み、その後、さらに大きな家に移り住んだ。1906年には長男のカール、1911年には長女のインゲが生まれた。一方、仕事においては、無水フタル酸工場の拡張が計画されていた。ボッシュはこの際、装置の加熱方法を従来の石炭ガス加熱から、新たな発生炉ガス加熱に切り替えることを提案し、実行に移した。ブルンクは当初これに反対していたが、後に、ボッシュの方法は経費の節約になることを認めた。ボッシュは他にもいくつかの改良を提案したが、ブルンクやクニーツから信頼されるようになっていたため、上司の支持を得ることができた。ボッシュには大きな権限が与えられ、フタル酸工場拡張後には実験室が与えられ、助手もつくようになった。 -1366年の秋にティムールはフサインからカシュカダリヤのカルシを奪還し、さらにブハラを攻撃した。フサインはマー・ワラー・アンナフル奪還を目指してブハラとサマルカンドを制圧、ティムールは一時ホラーサーンに退くが、モグーリスタンとの戦いに備えて二人は講和した。この時にはジャライル部やスルドゥズ部といった有力部族がフサイン側に付いており、ティムールは不利な状況下に置かれていた。講和後にティムールはフサインの政権下で起きた反乱の鎮圧に協力するが、ティムールを警戒するフサインは自身の本拠地であるバルフの改築を決定する。工事に要する多額の費用を捻出するために住民に重税が課されたため、ティムールは工事の中止をフサインに進言するが聞き入れられなかった。また、遊牧生活を営む諸部族もフサインの工事に反対し、ティムールの支持に回った。 -日本で初めてフィラリア虫が確認されたのは1876年(明治9年)のことで、お雇い外国人として東京医学校(現東京大学医学部)に招かれたドイツ人内科医のエルヴィン・フォン・ベルツ(独:ErwinvonBälz)が、来日したその年に日本人患者の血液中からミクロフィラリアを発見したのが最初である。ただし、1876年の時点でのフィ��リアに関する知見は、前述したように研究の途上であり、八丈小島で最初に調査が始まった明治後期から大正初期の頃は、ミクロフィラリアと象皮病との関連性について日本国内の医学界での見解は完全には定まっておらず、1927年に新種記載されたマレー糸状虫に至っては、その存在すら知られていなかった。なお、八丈小島以外の伊豆諸島にもかつてフィラリア症は存在しており、少数ながら新島、八丈島、青ヶ島にはバンクロフト糸状虫が存在した。 -三河国碧海郡の碧海台地には江戸時代まで原野が広がっていたが、1881年(明治14年)に開通した明治用水のおかげで先進的な農業地域に変貌。碧海郡安城町で行われた多角形農業経営手法は、農業先進国デンマークになぞらえて「日本デンマーク」と呼ばれた。全国各地から農業関係者が安城町に視察に訪れ、農会(農会法によって公認された農業団体)が建設した安城町農会館、農事試験場、愛知県立農林学校、農業補習学校、明治用水などを見て回ったという。1932年度(昭和7年度)・1933年度(昭和8年度)の視察者は年間12,000人にも上った。日本列島だけでなく朝鮮・大連・樺太などからも視察者が訪れ、民間人だけでなく農林省や商工省からも視察者が訪れた。 -ファン・ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった。ファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(『アルルの跳ね橋』)、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン(英語版)と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家ドッジ・マックナイト(英語版)やベルギーの画家ウジェーヌ・ボックとも親交を持った。 -生食用を含む2008年のブドウ収穫量は、イタリア、中国、アメリカ合衆国に次いで世界第4位である。OIVによる2010年の統計によると、スペインの1人あたり年間ワイン消費量は23.6リットルであり、世界第15位である。スペインのワイン総生産額は約12億ユーロであり、ワインがスペインの農業総生産額に占める割合は2.8%である。5.6%のオリーブ・オイルを下回っているが、2.4%の小麦を上回っている。スペインはEU全体のワイン総生産額の7.8%を占めているが、付加価値額の高いワインは少ない。イベリア半島はコルクガシの樹皮を使用するコルクの主産地である。スペインは世界全体の約30%を生産しており、約50%を生産するポルトガルに次いで世界第2位を占めている。特にカタルーニャ州とアンダルシア州で生産量が多く、カタルーニャ州パラフルゲイにはコルク博物館が存在する。スペインで使用されるフレンチ・オーク樽の多くは国産であり、主にラ・リオハ州都ログローニョ周辺で製造されている。 -1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマでインパール作戦、アメリカがマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた���統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし日本は6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態に、日本はようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾した。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 -五輪は、近代オリンピックのシンボルマークである5色で表現した5つの輪と宮本武蔵の『五輪書』の書名を由来として、読売新聞社記者の川本信正が1936年に考案した訳語である。本人は「以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた」と述べている。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -3月に行われた第7回党大会では、党の綱領を立憲君主制から民主共和制に変更することが決定された。その一方で、党の幹部ココシキンが「われわれは、いつも市民的権利と国民の平等の原則の不可侵を擁護してきたし、今後もかわらず擁護するだろう」と演説し、自由と平等の擁護、国民主権の原則、社会的公正の実現といった党の目標は不変であることを確認した。また、同大会では、ココシキンの報告に基づいて、現在の臨時政府はあくまで暫定政権にすぎず、できるかぎり早い時期に憲法制定会議(英語版、ロシア語版)を召集して新たな国家体制を決定するべきだという原則が決議された。しかし、4月、ミリュコーフが外相として戦争継続を約束する外交文書「ミリュコーフ通牒」を作成すると、これがペトログラード・ソビエトの反発を招き、さらに兵士たちの抗議デモを引き起こす事態となった。カデットの中央委員会も対抗して「ミリュコーフ信任」および「臨時政府万歳」と主張するデモを組織したものの、結局この政府危機「4月危機」によってミリュコーフは辞任を余儀なくされた。 -ウェスティの寿命は、長生きする個体もいるが、およそ12年から16年くらいで、一度に出産する仔犬の数は3頭から5頭である。まれに多産な個体も���られ、2012年4月にはアイソベルという名前の雌犬が11頭の子犬を産んだという記録がある。ウェスティは腹部のヘルニアが比較的多い犬種である。また、ウェスティの仔犬は「ライオンの顎」として知られる頭蓋骨下顎骨骨症を発症することがある。これは劣性形質によるもので、親犬がどちらも劣性遺伝子を持っている場合に発症する。頭蓋骨下顎骨骨症自体は他のテリア犬種にも見られ、グレート・デーンなどテリアの血統とは直接関係のない犬種も発症する症例である。1歳未満の幼犬が発症することが多く、食物の咀嚼や嚥下不良の原因となることがある。顎周辺の骨の放射線透過検査によってこの症例を診断することができ、血液中のカルシウム量や酵素量からもある程度の診断は可能となっている。1歳を越える頃になると進行が止まることがほとんどで、症状も治まることがある。それまでは抗炎症薬の投与と柔らかい食餌による治療が行われるが、症状が悪化している場合にはチューブによる流動食が必要となることがある。しかしながら、自力での摂食が不可能で苦痛が抑えられないような場合には安楽死の処置がとられることも多い。 -717は低翼配置の主翼を持つ単葉機であり、エンジンは胴体尾部の左右に1発ずつ配置され、垂直尾翼の上に水平尾翼が配置されたT字尾翼を持つ。717の尾翼やエンジンの配置はDC-9シリーズの流れが受け継がれたものである。胴体断面もDC-9から引き継がれたもので、2つの円を組み合わせたダルマを逆さにしたような断面を持ち、最大幅が3.34メートルである。機体の寸法はDC-9-30と同程度であり、全長が37.81メートル、全幅は28.45メートル、全高は8.92メートルである。717の主翼はテーパーがついた後退翼で、翼端にはウィングレットを持たない。この主翼はDC-9-34の主翼と基本設計は同様で、前縁・後縁ともに直線で構成されたシンプルな平面形を持ち、翼面積は92.97平方メートル、25パーセント翼弦での後退角は24.5度、翼厚/翼弦比は11.6である。717で変更された点としては、取り付け角が1.3度増やされているほか、使用部材に新アルミ合金などの新素材が採用されている。降着装置は前輪配置で、前脚と主脚ともに2輪式である。717には長胴型や短胴型といった派生型は開発されなかったが、最大離陸重量を増加させたHGW型と呼ばれる仕様が設定されている。標準型の最大離陸重量は49,845キログラムであり、HGW型では54,885キログラムとなる。HGW型では中央翼(胴体)内に燃料タンクが追加され、重量増加分はこの燃料に充てられる。106名の乗客と手荷物を搭載した場合の航続距離は、標準型が1,430海里(2,648キロメートル)、HGW型が2,060海里(3,815キロメートル)となる。HGW型ではエンジンの推力も強化されている。 -日本語の呼び名は、背中の針と、前脚の形や役割、顔つきなどがモグラに似ていることから名づけられたもので、モグラとの生物学上の共通点はない。ハリネズミやヤマアラシとは体が針で覆われている点で共通するが、系統分類的には関係ない。オーストラリア先住民のアボリジナル・アートや伝承を含む自然崇拝文化を特徴づけており、西オーストラリア州のNoongar族を含むいくつかのグループにとって、トーテム(象徴)となっていた。多くのグループはこの動物の神話を持っている。ある神話では、腹を空かせた若者のグループが夜間に狩りに行き、ウォンバットを発見した際にハリモグラが作られたと説明している。彼らはウォンバットをめがけてやりを投げたが、暗闇で投げたやりを見失ってしまった。ウォンバットはやりを己の防具に改造し、ハリモグラへと変化したのである。別の神話では、食い意地の張った男が食糧を彼の部族から隠した神話を伝えている。戦士達は彼をやりで刺し、彼は藪の中へと這って逃げた。そこで彼はハリモグラへと姿を変え、やりは彼のトゲへと変化したのである。現代オーストラリアの象徴的な動物であり、オーストラリアの5セント硬貨、および1992年に発行された200ドル記念硬貨に描かれていることである。郵便公社のいくつかの発行物にも含まれている。オーストラリアの切手に描かれた4種のオーストラリア在来種の1つであり、1974年には25セント切手に、1987年には37セント切手に、1992年には35セント切手に描かれた。 -電気モジュールには、誘導制御系・電力供給系・通信データ処理系・通信系の電子機器を搭載する。なお、太陽電池はプログレスやATVと異なり、パドル形ではなく、電気モジュールや補給キャリアの外面に取り付けられる。これはHTVがプログレスやATVのような自動ドッキングではなく、共通結合機構(CBM)を用いての接続のため、カナダアーム2による把持(キャプチャ)させるためにはパドルがあると邪魔になるからである。しかし、HTVと同じ結合方式となる米国の商業補給機ドラゴンとシグナスは太陽電池パドルを使う方式を採用しており、設計次第ではどちらでも可能である。太陽電池パネルは「こうのとり」の外壁に、4号機では55枚、5号機で49枚、6号機と7号機は48枚搭載されており、6号機以降では補給キャリア与圧部の外壁に20枚、非与圧部の外壁に20枚、電気モジュールの外壁に8枚、推進モジュールの外壁に0枚(初号機では6枚あり、段階的に減らして6号機以降は0枚となっている。)という内訳となっている。 -世界で最も長期間に渡って漂流した人物として知られる船頭小栗重吉は佐久島の出身である。文化10年(1813年)、重吉らを乗せた督乗丸は江戸から尾張藩への帰還途中に暴風雨に巻き込まれ、アルタ・カリフォルニア(当時スペイン帝国領、現アメリカ)付近でイギリス船によって救出されるまで484日間にわたって漂流した。『寛永高附』による村高は90石余、『元禄郷帳』では99石余、『天保郷帳』と『旧高旧領』では534石余であり、1868年(明治元年)の石高は535石だった。民俗学者の宮本常一によれば、江戸時代の佐久島は他地域に比べて生活水準が高く、幕末時点でも瓦屋根を持つ民家がほとんどだったという。 -岩手県の被害は津波によるものが中心であった。被害が特に大きかったことから宮城県、福島県とともに被災3県として総称される。岩手県沿岸は海岸線近くまで山地が迫り、平地が狭いという地形のため、津波による浸水面積は58km2と3県では最も小さかった。しかし、その狭い平地に漁港と市街地が広がっていたため、浸水域の人口は約11万人であり、浸水域の人口密度は1,900人/km2と3県で最も大きかった。県中南部は津波高が増すリアス式海岸のため、津波常襲地域であり、津波への対策(防波堤・防潮堤)の規模は日本随一であった。過去の津波の伝承や石碑(自然災害伝承碑)が至るところに残り、住民の防災意識も高く、多くの人々が避難行動を取ったが、想定を大きく上回る規模の津波が押し寄せたため、甚大な被害を受けた。陸前高田市では、市民会館や市民体育館などの指定避難所の多くがほぼ天井まで水没して避難者の大半が死亡し、市街地全域が壊滅的被害を受けた。高田病院で4階まで浸水し27人が亡くなるなど、1,800人弱の犠牲者を出した。市職員も1⁄3弱に当たる113人が犠牲になり、浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、大槌町と同率の11.72%であった。大槌町では、役場で災害対策本部の準備をしていた職員60人中、当時の町長である加藤宏暉を含め30人以上が亡くなるなど、1,300人弱が犠牲になった。また、火災も発生した。浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、陸前高田市と同率の11.72%であった。 -スミスが生きた18世紀のイギリス社会は政治の民主化、近代西欧科学の普及と技術革新、経済の発展といった「啓蒙の世紀」であった一方で、格差と貧困、財政難と戦争といった深刻な社会問題を抱えた世紀でもあった。光と闇の両側面を持つ18世紀イギリス社会はアダム・スミスの思想に大きく影響したとされる。アダム・スミスは1723年にスコットランドの海沿いの町カコーディに生まれた。スミスはグラスゴー大学でスコットランド啓蒙の中心人物であった哲学者フランシス・ハッチソン(1694-1746)の下で道徳哲学を学んでいる。ハチソンはフーゴー・グロティウス(1683-1645)やサミュエル・プーフェンドルフ(1632]-1694)らの自然法思想を継承する道徳哲学者であり、スミスもこれらの思想的潮流から大きな影響を受けている。グラスゴー大学卒業後、オックスフォード大学に進んだが中退し、1748年にエディンバラ大学で文学と法学の講義を始めた。1751年にはグラスゴー大学の論理学���授に就任し、翌年道徳哲学教授に転任した。スミスは1750年頃に哲学者ヒュームと出会い、ヒュームが他界する1776年まで親交を続け、『人間本性論』に代表されるヒュームの啓蒙思想からも大きな影響を受けている。1759年には主著『道徳感情論』を出版している。 -1997年5月に、カナダ3000によってA330-200は初就航した。1999年11月の時点で、スイス航空を筆頭に、サベナ・ベルギー航空、エミレーツ航空、ガルフ・エア、大韓航空、TAM航空など14の航空会社で46機のA330-200が運用され、大西洋や太平洋を横断する路線にも投入された。フライトあたりの平均飛行時間は、A330-300が1.7から3.5時間であったのに対し、A330-200では3.5から8時間であり、これはA340に近い数値であった。A330-200の導入初期のトラブルとして、前脚の旋回角度の制限によって狭い滑走路などで機体の取り回しが困難になる場合があったほか、主脚のショックアブソーバーからの油漏れなどが指摘され、エアバスでは角度範囲の見直しなどの対応を行った。また、大型化された垂直尾翼に対応するため、尾翼のロゴを照らす照明も再設計されている。A330-200でもETOPSの認可取得が進められ、1998年4月27日にGE製のCF6エンジン装備機で180分のETOPSが認められたのを最初に、1999年前半までにP&W製とR-R製のエンジン装備仕様でも180分のETOPSが認められた。 -バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人やアッカド人たちはバビロニア南部でウルやウルク、ニップル、ラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第三王朝がそれに続いた。 -1538年と1539年の間、両大国は調整を続けた。1539年、フランソワはヘントの反乱に直面していたカールを会談に誘った。当時スペインにいたカールは反乱鎮圧のためにフランスを経てネーデルラントへ向かわなければならず、この申し出に同意した。歓待を受けたカールは宗教改革についての議論に前向きだったが、政治的な問題の解決は引き延ばされ、フランス領を離れるまでに合意したことは何もなかった。 -ところで、紀元二千六百年記念富山県立図書館の設立と共に中央図書館指定を解除された富山市立図書館は、紀元二千六百年記念富山県立図書館に統合するべきではないかとする意見が漸次高まり始めていた。これは戦時下の類似団体統合の風潮に影響されたものであって、富山県においては1940年7月31日に北陸日日新聞社、富山日報社、高岡新聞社及び北陸タイムス社が統合され北日本新聞社となり、1941年(昭和16年)8月1日には日本海電気、高岡電灯等の電気事業者が合併して北陸合同電気を発足させるなど、すでに種々の団体が戦時統合によって合理化を図っていたのである。そもそも紀元二千六百年記念富山県立図書館の設立が論議され始めたころからすでに富山市立図書館との合併案は取り沙汰されていたのであるが、矢野兼三富山県知事の県立図書館と市立図書館は機能的に異なる存在であるという見識によって富山市立図書館とは別に紀元二千六百年記念富山県立図書館が開設されたという経緯があった。しかし、矢野兼三は1941年(昭和16年)1月7日に内務省からの転出命令を拒否して休職となり、爾来富山県と富山市の間において合併交渉は着々と進められた。当時富山県立図書館長であった加藤宗厚はこれに抵抗したものの、1943年(昭和18年)3月24日には富山市議会において富山市立図書館を紀元二千六百年記念富山県立図書館に合併させる案が可決され、同年3月31日を以て富山市立図書館は廃止された。 -バタヴィアの華僑虐殺事件(バタヴィアのかきょうぎゃくさつじけん、オランダ語:Chinezenmoord(直訳:中国人殺害)、インドネシア語:GegerPacinan(直訳:チャイナタウン暴動))は1740年にオランダ領東インドで発生した虐殺事件である。オランダ領東インドの兵士が先住民族の協力者と共に港湾都市バタヴィア(現ジャカルタ)の華僑(中国系インドネシア人)を殺害した。日本語では「バ���ヴィアの狂暴」「バタヴィアの狂乱」と呼ぶ文献もある。この都市での暴力行為は1740年10月9日から22日まで続き、城壁外での小規模な小競合いは同年の11月まで続いた。歴史家の推定によれば、少なくとも1万人の華僑が殺害され、生存者はわずか600-3000人だと考えられている。 -アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、ロンドンに次ぐ世界2位の都市と評価された。また、2017年に日本の民間研究所が発表した「世界の都市総合力ランキング」においても、ロンドンに次ぐ世界2位の都市と評価された。 -先端に重りを付けたばねを天井に吊るし、重りを下に引っ張り、力を放す。すると重りは一定の振動数で上下に振動する。この一定の振動数は「固有振動数」と呼ばれる。このような固有振動数を持つことが、ばねの大きな特性の3つ目である。一般的にも、ばねが硬いほど固有振動数が大きくなり、ばねが柔らかいほど固有振動数が小さくなる。固有振動数は実際上のあらゆる振動の問題に関係し、固有振動数は振動の問題を考えるときの最重要の物理量ともいわれる。特に、大きさや向きが周期的に変動するような力が質点に加わったり、ばねを支える基礎自体が周期的に揺れ動くとき、このような外からの振動数が固有振動数に一致すると「共振」と呼ばれる質点が激しく振動する現象が発生する。共振を積極的に利用する機械・道具もあるが、通常は共振を避ける必要がある。共振が起こると、機械の動作が不安定になったり、故障の原因となったり、最悪は破壊事故を引き起こすこともある。このため、固有振動数と外からの振動数をずらすように機械や構造物を設計することが求められる。 -1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区等で過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、それらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定した。後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわず、再度数年の充電期間に入る。その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。 -五式戦闘機II型とは、1945年2月から開発に着手した型で、ターボ過給器(排気タービン)「ル102」搭載のハ112-IIル(離昇出力1500馬力)を搭載した機体である。このエンジンの排気タービンは海軍の雷電(航空機)、100式司偵などで装備試験が実施された物である。このエンジンは高度10,000mで1000馬力を発揮した。重量は従来のエンジンより150kg増加したが、高度10,000mまで18分で到達した。速度は高度8,000mで590km/h、高度10,000mで565km/hを発揮した。過給器および空気取り入れ口はI型と異なり、機首下面に装備された。もともとあった薬莢殻入れは撤去され、機外に排出されるかたちに改められている。高々度戦闘機であるため燃料冷却系の装置は撤去された。実用化されれば日本陸軍で唯一の排気タービン装備の実用単発戦闘機となっていたであろう本機であるが、エンジントラブルは少なく、担当の一人である航空審査部の名取少佐は、何分1機を審査したのみであるので正確な稼働率はわからないにせよ、手応えは相当によかったと回想している。この型の機体は4月に設計が完了し、5月には実機が生産された。9月から量産が予定されていたが、終戦のため試作機3機の生産に終わった。 -また『今昔物語集』や、1689年(元禄2年)の『本朝故事因縁集』、1696年(元禄9年)の怪談集���玉掃木』には、既婚の男のもとに、キツネがその妻に化けて現れる話がある。ちなみに1677年(延宝5年)の怪談集『宿直草』では逆に、オスのキツネが人間の女性に惚れ、その女の夫に化けて契り、異形の子供が生まれる話がある。 -1870年のサロンには審査委員に選ばれるとともに、風景画『11月』と『牛乳をかき回す女』を出品した。ただ、その後はサロンへの応募をしていない。既に評価の確立したミレーにとって、それ以上サロンに応募する必要はなくなっていた。1870年7月、普仏戦争が開戦し、ナポレオン3世がプロイセン軍に敗北した。1871年3月には、パリ・コミューンの蜂起があり、5月の「血の1週間」で鎮圧されるまで内乱が続いた。この間、ミレー一家は旧友ファルダンを頼ってシェルブールに疎開したが、戦中は野外で写生することも禁じられ、ミレーは、写生中にスパイ容疑で何度も勾引された。故郷グレヴィルに家族で訪れた時には、サンシエに、「私が生まれ、両親が生涯を送った家を、今やよそ者として改めて見ると、何ともいえない悲しい気持ちで一杯になる。」と感想を漏らしている。ミレーは、グレヴィルの断崖をパステル画に描き、また、シェルブールを訪れたサンシエに故郷を案内して回った。サンシエによれば、楽しい思い出が詰まった生家を改めて見て、ミレーは涙があふれるのをこらえている様子だったという。その年11月、一家がようやくバルビゾンに帰宅すると、新しい注文が一気に押し寄せた。 -日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。さらに、2020年の夏季オリンピックの開催地に東京が選出され、2度目の開催が決定している。オリンピックの開催年は、全国高等学校野球選手権大会の日程が調整されることがある。1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会ではバルセロナオリンピックの終了を待って8月10日から開催され、逆に2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会では北京オリンピックとの重複を可能な限り避けるために大会史上最も早い8月2日から開催された。 -当時の著作権法の規定によって、イギリスでは1907年まで『不思議の国のアリス』の著作権が存在したが、しかしアメリカでは自由にイギリスの本を出版することができた。このためテニエル以外の挿絵による『アリス』はイギリスより前にアメリカ合衆国で出版されており、1907年までに少なくとも4人の挿絵画家が『アリス』に挿絵をつけている。そのうちの一人ペーター・ニューエル(1901年刊)は、テニエルとは違いキャラクターを写実的で表情豊かに描いており、近年になって再評価をうけている。またブランチ・マクマナスによるもの(1896年)は1907年にイギリスでも出版された。 -伊那市ふるさと大使の田畑貞寿と森田芳夫から寄贈された専門書を軸にして、関係する図書や資料に加えて地域活動の情報も収集したのが「伊那谷自然環境ライブラリー」である。地域の自然・歴史・文化を「屋根のない博物館」ととらえ、地��の発展を考えたエコミュージアム構想を提言。このコーナーには情報の窓口としての役割を持たせた。新刊書コーナーに次いで回転率が良いという。2009年(平成21年)7月には図書に加えて家具や昆虫標本なども展示した「自然がくらしをささえ、くらしが自然をつくる」を開催し、シンポジウムも行った。2010年夏には伊那市内の平地林で「森をきく、森にかたる」を開催し、詩や短歌の発表、火起こし体験、建築士を招いてのワークショップなどを行った。 -数学における循環十進小数0.999⋯は、"1"と同じ数。実数として"0.999⋯"と「1」は同じ数であると示すことができる。これが等しいことの証明は、実数論の展開、背景にある仮定、歴史的文脈、対象となる聞き手などに合ったレベルで、各種段階の数学的厳密性が相応に考慮された、多様な定式化がある。0.999⋯は、省略記号の前の9の個数を多少増減させて0.99999⋯のようにも書くこともある。一般に、任意の0でない有限小数(を末尾に無限個の0を付けて無限小数と見たもの)は、末尾に無限個の9が連なる値の等しい双子の表示(例えば8.32と8.31999⋯)を持つ。ふつうは有限小数表示が好まれることで、それが一意的な表示であるとの誤解に繋がり易い。同じ現象は、任意の別の底に関する位取り記数法や、あるいは同様の実数の表示法でも発生する。 -有理数から実数への拡張は(自然数から整数や有理数への拡張と比べて)大きな飛躍である。この拡張の方法は、少なくとも2つの手法がよく知られている。ともに1872年に発表された有理数の切断によるものとコーシー列によるものである。これらの実数の構成法により0.999⋯=1を証明している実解析の教科書は見られない。現代数学では、解析学的に実数を構成し、それが数の公理を満たすかどうかに注意が払われる。公理による解析的手法により0.999⋯=1を証明することになるからである。しかしながら、実数の構成をより適切に、論理的に行うことにより、0.999⋯=1の証明はもっと直接的になされる(self-contained)と主張する人もいる。 -一方、青ヶ島は大きな成層火山の山頂部が海面上に出ている地形をしており、島の南部には直径1.5-1.7キロメートルという成層火山の大きな火口にあたる池之沢がある。池之沢にはかつて大池、小池という淡水の池があり、土地も肥沃であった。何よりも、大きな火口の内側となる池之沢は周囲の山によって強風が遮られるため、作物の被害が少なかった。このような土地であるため、元禄13年(1700年)11月には激しい飢饉に襲われ青ヶ島へ出発した八丈小島の住民24名全員が行方不明になるという事件も発生した。しかし池之沢は成層火山の大きな火口内であり、承応元年(1652年)に池之沢内で噴煙が上がり、寛文10年(1670年)から約10年間、池の沢にあった池から細かい砂が約10年間にわたって噴出したとの記録が残されている。いずれの事件も小規模な異変であったと考えられ、青ヶ島の島民に大きな影響を与えることはなかった。安永3年(1774年)の記録によると、青ヶ島には流人1名を加えて328名の島民が、農業やカツオ漁などの漁業、そして年貢としての生糸を生産するための養蚕を営みながら生活していた。島内で農業や養蚕の最大の拠点は、土地が肥え淡水の池があって風害から守られている池之沢であった。 -カジキ類は水中における最速のスプリンターである。水中ゆえに最高遊泳速度を正確に測定することは難しいが、種によっては時速100km以上に達すると考えられている。バショウカジキのトップスピードなら、25mプールを1秒以内で駆け抜ける速さに相当する。水中で最も速く泳ぐことのできる動物として、ギネスブックにも記載されている。その体には高速遊泳に適応した構造や機能がいくつか見られる。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから���土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1992年(平成4年)10月8日、イルカボーイズ一行26人(家族を含む)は大雨の中、47年ぶりに入鹿の地に降り立った。来日したばかりのイルカボーイズは、心身の深い傷を抱えたままどこか頑(かたく)なな姿勢を崩しておらず、入鹿へ向かう列車の中で「決して忘れることはできないけれど、許すことはできる」と通訳に語っていた。しかし熊野市駅から入鹿に至る道中で日本人から歓迎を受け、表情が和らいでいった。一行は湯ノ口温泉の瀞流荘に宿泊し、捕虜だった頃にイルカボーイズの通訳を務めた日本人男性と再会し、旧交を温める場面があった。翌10月9日は快晴の空の下、慰霊祭が開かれ、イルカボーイズのほか、実行委員、紀和町民、紀和町役場関係者、墓を維持してきた老人クラブの面々、駐日英国大使館付きの武官、大勢の報道陣が参列し、総勢約300人となった。慰霊祭は日本語と英語を交互に用いながら、しめやかに営まれた。イルカボーイズは70歳前後のおじいさんになっていたが、元気かつ陽気に振る舞い、昔覚えたテンコ(点呼)、サギョウ(作業)、コラ、チョットマテなどの日本語を冗談めかして使い、笑い合っていた。慰霊祭翌日の10月10日(体育の日)には入鹿中学校で開かれた町民運動会に出場し、「幼児・イルカボーイズ連合チーム」として紀和町の「お年寄りチーム」と玉入れで対決し、59対31でイルカボーイズらが勝利した。同日、入鹿を出発し、鳥羽や京都を観光して10月15日にイギリスへ帰国した。 -日本ではコーヒーが江戸時代から長崎を通して貿易品として輸入されていたが、嗜好品と言うよりも薬としての効果を期待されたもので、水腫に効果があるとされていた。これはコーヒーに含まれるビタミンの効用と考えられる。1807年の樺太出兵では野菜が摂取できないことによる兵の水腫病が問題になり、幕府から貴重なコーヒー豆が支給されたという。1855年頃、やはり寒さなどで殉難が多かった弘前藩士の為に幕府が薬用としてコーヒーを用意したという記録も残っている。1888年4月13日、東京下谷に最初の喫茶店「可否茶館」が開店、明治時代末から大正時代にかけて、カフェーと呼ばれる喫茶店が全国的に普及した。1889年には東京の氷砂糖問屋が珈琲挽茶入角砂糖を売り出し、湯または牛乳に溶かして飲ませた。現代では世界各地でよく飲まれている。国際コーヒー機関によると、2017年における1人当たり年間消費量の上位国はアイスランド(9.26kg)、ノルウェー(8.84kg)、スイスおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナ(ともに6.33kg)、カナダ(6.29kg)、ブラジル(6.26kg)の順で、日本は3.64kg(12位)である。コーヒーの世界市場規模は2018年の小売金額で880億ドルと推計されている。ネスレが24.9%のシェアを持つ最大手で、オランダのヤコブ・ダウ・エグバーツ(10.2%)などが続く。国際コーヒー機関(ICO)は2014年、10月1日を翌2015年から「国際コーヒーの日」(InternationalCoffeeDay)とすることを決めた。 -4世紀から6世紀までの初期ビザンティン建築は、末期ローマ建築の要素と初期キリスト教建築が混在している���、両者の明確な区別はほとんど不可能である。また、この時代の宮殿・住居などの世俗建築は図版や文献も含めてあまり残っておらず、これについての記述は今後の発掘・研究を待たねばならない。一方で、今日、初期キリスト教建築と呼ばれる建築群については、原型のまま残っているものはないものの、文献や遺構の調査によってその全貌が知られている。黎明期のキリスト教は美術に対して敵対的で独自の宗教美術は持たず、文献などから宗教行事は比較的大きな個人邸宅を借用していたと考えられている。しかし、布教地域が拡大するにつれて宗教美術も発展し始め、4世紀前半にはローマの神々を祭る異教礼拝堂を思わせないバシリカを採用することで礼拝空間を確立した。ローマ建築におけるバシリカはそもそも礼拝を目的とした建築ではなかったが、キリスト教の宗教儀礼は一般信徒と司祭が参加する集会的形態であったので、宗教空間としては有効に機能したと推察されている。ただし、これはキリスト教独自の活動ではなく、ユダヤ教やミトラ教も同様で、ロンドンのクイーン・ヴィクトリア・ストリート(英語版)に存在するミトラ教寺院(2世紀頃)の遺構などもバシリカ式神殿であることが知られている。 -現代までのスペインは赤ワインの国とされていた。現在でもスペイン産ワインは赤ワインが中心であるが、比較的涼しい気候での白ワイン、カバなどのスパークリングワイン、シェリーなどの酒精強化ワイン、サングリアなどのフレーバードワインと、様々なタイプのワインが製造されている。20世紀末時点の生産比率は、赤ワインが35%、白ワインが31%、ロゼワインが15%であり、残りは酒精強化ワインや工業用蒸留用ワインなどである。フランコ体制による経済発展の遅れも影響し、スペインのワインは1970年代頃まであまり注目されてこなかったが、近年ではいくつもの産地が銘醸地として知られるようになった。スペインはヨーロッパの旧ワイン生産国の中で、現代における品質の向上がもっとも著しいとされる。現代になって実験的かつ情熱的なワイン醸造を行っていることで、イタリアワインと比較されることがある。主要な輸出先はドイツ、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、オランダなどである。著名なワイン生産地域としては、テンプラニーリョ種から生産する赤ワインが有名なリオハ(DOCa)やリベラ・デル・ドゥエロ(DO)、安価で質の高いワインを生産するバルデペーニャス(DO)、シェリーの拠点であるヘレス、アルバリーニョ種による白ワインで知られるリアス・バイシャス(DO)、スパークリングワインのカバ、リオハとともにDOCaに認定されているプリオラート(DOQ)などがある。 -京城府龍山公立尋常小学校卒業後は公立京城中学校に入学するなど、各地を転々とする少年時代を過ごした。そのため、一般の人々が口にする「故郷」という懐かしみの感覚が敦には分からなかった。中学時代の同級生には湯浅克衛、小山政憲がいた。敦は中学のころは湯浅や小山のような文学青年とはあまり付き合わず普通の友人と親しく交遊していたが、このころからすでに英文学の本などを鉄道図書館で借りて読んでいた。また、湯浅が授業中に急進的な総合雑誌『改造』を読んでいたときや、寄宿舎の机の中の『痴人の愛』が摘発されたとき、敦が強く湯浅を擁護し停学処分が免れたというエピソードも知られている。また、とある級友に頼まれ彼の試験答案を代筆したことが発覚し、謹慎処分を受けたこともあったという。小学校・中学時代を通して成績はきわめて優秀で開校以来の秀才といわれ、異母妹を背負って子守りながら中学1年ですでに四書五経を読破するなど多くの和漢書を読み、英語や数理学科の成績もよかったが、16歳のとき、父親が関東庁立大連中学の勤務となり、伯母・志津(京城女学校に勤務)の家に移り住んでいた間は少し成績が落ちたこともあった。この龍山小学校・京城中学時代を通して、中島敦は合わせて5年半を朝鮮半島で暮らしている。初期の複数習作や「虎狩」における植民地時代の朝鮮像や朝鮮人の描写は、その後に得た朝鮮に関する広い知識によるところが大きいものの、このころの朝鮮での経験をベースとしたものである��される。 -幼少期のウルグ・ベクは、ティムール第一の正室であるサラーイ・ムルクの下で養育される。1404年にティムールによって、ウルグ・ベクと彼の従姉妹のエケ・ベグムの結婚が取り決められる。同年夏にサマルカンド郊外の牧草地で二人の結婚式が開かれ、式は2か月にわたるものになったといわれている。ティムールの中国遠征にはウルグ・ベクも従軍しており、ティムール死後の内戦においてはシャー・ルフの部下のシャー・マリクとともにバルフ近郊のアンドゥフドとシバルガンの統治を命じられた。 -一方で8月12日昼ごろ、Mとともに宿泊していた甲が一向に起きてこないことを不審に思ったホテル従業員がホテル和室で甲の遺体を発見して広島東警察署に110番通報し、広島県警捜査一課は本事件を殺人事件と断定して捜査を開始した。その結果、翌8月13日には遺体の身元が甲と断定され、同時に現場から採取された指紋が前歴者カードに記録されていたMの指紋と一致することが判明したため、同日朝になって広島県警捜査一課・広島東署は被疑者Mを殺人容疑で全国に指名手配した。その後、8月24日夜になって港警察署(大阪府警察)へ匿名で「新聞に載っていたMによく似た男が泊まっている」と110番通報が寄せられ、Mは翌25日早朝に駆け付けた大阪府警機動捜査員・港署員により殺人容疑で逮捕された。被告人Mは1977年1月14日に広島地方裁判所で懲役10年の有罪判決を言い渡され、後述の仮出所まで約8年間にわたり岡山刑務所に服役した。 -情勢が安定すると、アンティオコス3世はパルティアとバクトリアを再び支配下に置くべく、前210年から前209年にかけて大規模な遠征を開始した。彼は目的を達成できなかったが、新たにパルティア王となっていたアルサケス2世は和平交渉でアンティオコス3世を上位者と認めた。そして代償として王(希:Basileus、バシレウス)の称号が付与された。セレウコス朝は前190年のマグネシアの戦いで共和制ローマに敗れ、その脅威によってそれ以上パルティアでの出来事に介入することはできなくなっていた。パルティアではプリアパティオス(在位:前191年-前176年頃)がアルサケス2世の跡を継いだが、史料からは彼が「アルサケス1世の甥の子孫」であることと、アルサケス2世の後継者であったこと以外何もわからない。続いてプラアテス1世(フラハート1世、在位:前176年-前171年頃)がパルティア王位に昇った。プラアテス1世はセレウコス朝の干渉を受けることなくパルティアを統治した。 -2004年のEU加盟後、ポーランドはEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つことから、ほかの中東欧国同様にEU内の「工場」、そしてさらに、現在ではその高い教育水準を生かして研究開発施設をポーランドに設けようとする企業もあるようである。また、EU加盟後、さらにポーランドから多くの労働者がおもにEUの先進諸国に出稼ぎに行っている。ほかのEUの中東欧国同様、おもに単純労働者としての雇用が先行している。一部ではホワイトカラーとしての雇用もみられ、財を成すものも現れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと求人していないのではないかと考え、帰国をためらう動きも出てきた。 -ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部イタリア戦線に動員された。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰し、山岳三個中隊と機関銃一個中隊からなる任務部隊司令官に任じられた。カポレットの戦いにおいてドイツ第14軍司令官オットー・フォン・ベロウは戦略的要衝であるマタイユール山やコロヴラト山脈の1114高地を最初に占領した部隊の指揮官にはプール・ル・メリット勲章を与えると布告した。これは1667年制定の由緒ある戦功勲章でドイツ帝国一般軍人の事実上の最高武勲であった。これにより各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになった。ロンメルは自分の名誉欲で部下を犠牲にするような男ではなかったが、名誉に関心���ないわけでもなく、ロンメルの部隊もこれらの要衝の占領を目指すことにした。 -オークニー諸島での経緯は多少異なっていた。スコットランドの事業家が殺到し、農民や漁民、商人などが集まった相異なり独立したコミュニティーが作られていった。そういった人々は自身を“comunitatisOrcadie”と呼び、大領主から自らの権利を守るために有効であることを大いに知らしめていった。17世紀には、オークニー諸島出身者がカナダのハドソン湾会社において従業員の大半を占めていた。オークニー諸島の厳しい気候と住人にたいする「真面目」という評判、そして彼らが有する操船技術が、カナダ北部の冷厳な環境で働く人員として理想的な候補者であった。この時期、ケルプを燃やして灰を製造することが、島の経済の大黒柱となっていた。たとえば、シェイビンセー島では、ソーダ灰を製造するために毎年3,000トンを越える海藻が焼却され、地元経済に20,000ポンドをもたらしていた。農業改革は17世紀に共有地の囲い込みと同時に始まり、ヴィクトリアの治世には大規模で適切に管理された5輪作制を採用し高品質の肉牛を生産する農場が登場している。19世紀までは、オークニー諸島に漁船団が存在した証拠はほとんどないが、ストロンゼー島では1840年代までに700隻まで急速に膨れ上がり、その後はストロムネスが、発展の中心となっていった。19世紀になると、オークニー諸島の多くの漁民が北極海域で捕鯨に従事するようになったが、通常漁船はイギリスの何処かを本拠としていた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -デビュー後は、仙台に在住したまま『週刊少年ジャンプ』で『魔少年ビーティー』を執筆していた。上京後は『バオー来訪者』の短期連載を経て、1987年(昭和62年)より『ジョジョの奇妙な冒険』の連載を開始し、2003年(平成15年)までに6部の物語を執筆する長期連載となった。2004年(平成16年)に同誌にて『ジョジョ』のPart7にあたる『スティール・ボール・ラン』の連載を開始し、連載途中の2005年(平成17年)より月刊誌『ウルトラジャンプ』に移籍。『ジョジョ』シリーズは2010年(平成22年)には通算100巻を達成し、達成後の2011年(平成22年)に『スティール・ボール・ラン』を完結させた後、すぐさま『ジョジョ』のPart8である『ジョジョリオン』の連載を開始し現在に至る。 -喉鳴らしにはリラックス効果があるので人間にとっても非常に有益になりうる。喉を鳴らすネコがいることで傷の治癒が早くもなるという。ネコの喉鳴らしは『失われた時を求めて』におけるマドレーヌのように��い思い出を蘇らせ、ストレスを解消する効果があるという。一部の病院では特に高齢者に対してネコによる安らぎの効果を試行しており、また日本では誰でもネコのそばで時間を過ごし安らぐことが出来る猫カフェが営業されている。(音楽つき、もしくはなしで)喉鳴らしを録音したものまで販売されている。Purr-likevibrationdevice(喉鳴らし風バイブレーター)という、低周波の(ありうる)治癒効果を利用した発明もある。体に固定し、喉鳴らしの周波数の振動を送り込む小さな装置である。認知行動療法では、ネコの喉鳴らしを真似て呼気を中心とした呼吸を学び直すことを狙ったソフロロジーの訓練が行われている。短く、フランス語のRの音に似た喉音を伴う呼気を行うのである。 -ミハイルは妹オリガ大公女と仲が良く、ガッチナ宮殿の周辺の森に頻繁にハイキングに出かけていた。また、この頃には馬術などの教育も受けていた。普段は質素な生活だったが、クリスマス、復活祭、四旬節の時は肉や乳製品を食べることが許され、夏は家族と共にペテルゴフ宮殿で母方の祖父母クリスチャン9世、ルイーゼ王妃と過ごしていた。しかし、1894年は父の体調不良のためペテルゴフ宮殿に行くことが出来ず、父は11月1日に崩御した。このため、長兄ニコライ2世が皇帝に即位し、ミハイルの幼少時代は終わりを迎えた。アレクサンドル3世の死後、母マリアはミハイルとオリガを連れてアニチコフ宮殿に戻った。 -黒田はデビュー時から作品にスター・システムを取り入れており、同じ外見のキャラクターを複数の作品でそれぞれ別の役どころで登場させている。なかでも中年男性「高間」は『大日本天狗党絵詞』『茄子』で同じ名前で登場するなどやや特殊な位置付けがなされている。以前の公式ホームページには「キャラクターとは役者であります」という言葉で始まる「俳優図鑑」という各キャラクターの解説もあった。 -2004年に公開された塚本晋也の映画『ヴィタール』は、人間の肉体と意識あるいは魂の関連を取り上げた作品である。映画の主人公で人体解剖に耽溺する記憶喪失の医学生高木(浅野忠信)にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、高木の幻想の中に繰り返して現れるヒロイン、涼子(柄本奈美)には美幾のイメージがそれぞれ投影されているという。 -インターネット関連企業のクルーズが運営するウェブサイト「GRP(ギャル・リサーチ・プレス)」において、2013年に開催された「GRPAWARD2013」の「ギャル流行語トップ10」では2位であった。NTTコムオンライン・マーケティング・ソリューションが実施した「この発想はなかった...と感心した2013年のギャル語」のアンケートでは1位であった。サイバーエージェントが運営していた女子中高生向けSNS「Candy」において実施された「2013年に自分の周囲で流行っていた“言葉”」のアンケートでは3位であった。未来検索ブラジル主催の「ネット流行語大賞2013」では銀賞であった。 -一部のメディアにより、任天堂が公式に発表したわけではない情報を公式のように報じられたり、関係者の発言を歪めた形で伝えられたりすることがある。こうした状況について任天堂は、全てに反応してしまうとデマの拡散に繋がりかねないため、会社や株主に迷惑がかかると判断した場合に機動的に対応するとしている。また対策として、インターネットプレゼンテーション「NintendoDirect」やTwitterなどで情報を直接発信する取り組みを行っている。日本経済新聞が報じた2012年2月20日付の記事について、当時の社長・岩田聡はTwitterで「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。このようなことが何度か続いていますが、文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり、事実と憶測を混ぜて書いたり、まるでゴシップ誌のような手法を採られていることに驚いています」と言及している。さらに、日本経済新聞は2012年6月5日にも「『WiiU』にカーナビゲーションや電子書籍などの機能を搭載」という憶測記事を掲載し、任天堂が同日に否定した。朝日新聞は、2012年6月8日付の記事の中で、社長の岩田がインタビューを受けていないにもかかわらず、任天堂ホームページ上の動画から岩田の発言部分を抜き出しインタビューのように仕立てて掲載、こ���に対し任天堂は直ちに抗議した。朝日新聞は抗議に対して謝罪したとしているがその時点では記事を訂正せず、2年後の2014年9月14日付の紙面に任天堂と新聞読者に対する謝罪文を掲載した。任天堂が2016年10月20日に公開したNintendoSwitchの紹介動画の中でベセスダ・ソフトワークス社のソフト『TheElderScrollsV:Skyrim』(スカイリム)の映像を用いた際、既にベセスダ社が公式に歓迎のコメントを出していたにもかかわらず、まとめサイトの一つ「はちま起稿」は、「スカイリム映像、無断使用だった」と報じた。この問題を取り上げたメディア「BuzzFeedJapan」の取材に対し任天堂広報は、「今回の映像で使用されているゲームはすべて許可をとっております」と、はちま起稿の記事を否定している。翌21日に、はちま起稿は捏造を認め記事を訂正した。 -新宿線乗り入れに対応するため、京王として初の20m車体、1,300mm幅両開き片側4扉の車体を採用した。最大幅2,844mmの5000系と同じ室内幅2,600mmを新宿線乗入協定で定められた最大幅2,800mmで実現するため、側窓を1枚下降式として壁厚さを薄くする手法が取られた。車体外幅は同寸法で車体をステンレス化する場合にコルゲートを追加できるよう2,780mmとなり、5000系に続いてアイボリー色の車体の窓下にえんじ色の帯が巻かれた。窓上にも赤帯をまくことが登場前には検討されたが、実現しなかった。従来の車両に取り付けられていた社紋の代わりに京王帝都電鉄を表すKTRのプレートが取り付けられた。平面を中心とした凹凸や曲面の少ない外観となり、客室屋根高さを高く取るため屋根も平面に近くなった。側窓はサッシ付き一枚下降式で、床面から1,300mmまで窓が下がる。戸袋窓が設けられ、戸袋窓にもサッシが付いた。サッシの角が角ばっているのは少しでも視界を広く取りたいためとされている。客用ドアは体格向上に併せ、5000系の高さ1,800mmから1,850mmに変更された。戸閉表示、非常通報、ブレーキ不緩解の3つの表示灯は車体中央部窓上にまとめて設置され、表示灯群の両側に種別と行先の表示装置が設けられた。 -1869年秋、ブルノ市のドイツ人中学校を卒業したヤナーチェクは王立師範学校の教員養成科に入学し、音楽のほか歴史、地理、心理学で優れた成績を収めた。イーアン・ホースブルグは、ヤナーチェクのオペラ作品に登場人物に対する深い理解がうかがえることと心理学でよい成績を収めたこととの関連性を指摘している。1872年、3年間の教科課程を修了したヤナーチェクは無給での教育実習を2年間課せられた。同じく1872年にアウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に就任した。留守がちであったクシーシュコフスキーにかわって活動を取り仕切った。指導を受けた生徒の一人によると、ヤナーチェクは「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」という。1873年には、スヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任した。イーアン・ホースブルグによるとスヴァトプルク合唱協会は主に織工によって構成されており、「居酒屋に集まる労働者の歌唱クラブの域をあまり出なかったが、ヤナーチェクの熱意のおかげでその水準はかなり高まった」。ヤナーチェクは合唱協会のために四声部の世俗歌を作曲しており、イーアン・ホースブルグは、合唱協会の指揮者を務めたことと『耕作』や『はかない愛』といった初期作品のいくつかが無伴奏男声合唱のための作品であることとの関連性を指摘している。1874年、2年間の教育実習を終え最終試験に合格したヤナーチェクは王立師範学校を卒業。この時ヤナーチェクが取得したのは「チェック語が話される学校で地理と歴史を教える資格」であり、音楽を教える資格ではなかった(ヤナーチェクが音楽の正教員としての資格を得たのは1890年5月のことである)。また、当時多くの中等学校ではチェック語ではなくドイツ語が話されていた。 -この魚道は河川構造物の壁表面に縦方向に設置されることから「たて型壁面魚道」と称される。この魚道のパーツは大きく3種類から成る。「右の折返し部」と「左の折返し部」及びそれらをつなぐ「樋部」である。螺旋式魚道が一定方向に旋回を繰り返すことで流れに加速が生じる報告がされているため「たて型壁面魚道」の折り返し部の旋��方向は「右旋回」と「左旋回」を交互に繰り返し、全体としてS字状の流れがブレーキをかけて加速現象を防ぐ構造となっている。この鋼製魚道のプール壁の形状は「棚田式魚道」の丸みのある自然石に挟まれた「スリット部」の形状や間隔が、アユをはじめとする水棲生物の通過に良好な成果が報告されているため、その形状を鋼製で模して製作してある。設置方法についても、ダム本提及び側壁などの河川構造物の壁面に直接ボルトを使用して3種類のパーツ毎に単体で取り付ける工法を用いている。このため上部の魚道の重量が下部の魚道に荷重としてかからない構造であるため何層もの設置が可能となる。魚道を河川構造物の壁面に直接取付けるため、魚道用として河川構造物以外の用地が必要ない。また、建設費が安価で施工期間も大幅に短縮された施工例が報告されている。 -司馬遷は20歳頃から旅に出発し、東南および中原を巡る。この旅のきっかけは何か、また一人なのか複数によるものなのかは不明だが、その旅程は詳しくわかっている。最初に江淮へ行き、韓信が建てた母の墓を訪ねた。次に江西の廬山から禹が疏いた九江を見物し、さらに浙江省の会稽山に登り、禹が入ったと伝わる洞窟を探検したりした。そこから南下し、湘江の舜が葬られたという九疑山を訪ねた。この後、彼は湘江に沿って長沙に向かった。そこで屈原が身を投げた汨羅江を見て、また当地で不遇を託った賈誼へ思いを馳せた。 -1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチスがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏(イギリスとフランス)からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。 -カロヤンはブルガリア正教会の独立を回復するためにローマ教会との関係を強化し、1199年からブルガリアとローマ教会の交渉が開始された。1202年から交渉は活性化し、1204年秋にローマ教皇からの使節がタルノヴォを訪問した。カロヤンはローマの使節である枢機卿レオからブルガリアの「王」に戴冠されるが、カロヤンは皇帝の称号が授与されたとみなして「ブルガリア人とワラキア人の皇帝」を自称した。同年にブルガリアがローマ教会の権威を認める協定が結ばれ、建国時から続いていたハンガリーとの戦争が終息する。協定の締結後にブルガリア正教会がローマ教会からの干渉を受けることはほとんどなく、ブルガリア正教会は実質的には東方正教会に属していた。 -富山県では東礪波郡井波町の北越井波書籍館(1884年-1886年)、中新川郡砂子坂村の真理館(1885年-1899年)、富山市の富山循環書院(1888年6月-????年)、氷見郡氷見町の枇杷籛太郎文庫(1892年-1900年)、下新川郡入善町の米沢図書館(1910年-1937年)など、明治時代に民間が運営する小図書館がいくつも設立されては消えていった。1902年(明治35年)11月18日には富山県初の公立図書館として、下新川郡三日市町に下新川郡立図書館が設立された。 -船山春子は、日本の編集者、小説家。夫は小説家の船山馨だ。旧姓は坂本春子、筆名は佐々木翠である。船山馨の妻かつ秘書として、苦楽を共にして生活し続けた。馨が執筆の苦悩から覚醒剤であるヒロポンに手を出せば、春子もまたヒロポンを用いて、馨と苦労を分かち合った。馨がヒロポンを断ってから『石狩平野』で成功するまでの低迷期は、金策や出版社との交渉など、汚れ役を一手に引き受け、夫を支え続けた。晩年の馨の糖尿病悪化後は献身的に看護し、馨の死去と同日に死去したことも話題を呼んだ。熊本県玉名郡江田町出身、熊本県立玉名高等女学校中退。 -爆心地から130mの位置(現在は広島���和記念公園敷地内)にあったM建具店の2階建て家屋の模型を、間取りまで正確に製作し、当時この家の1階にいたM氏の親戚一家に中性子がどのような影響を与えたか推定した。降り注いだ中性子の一部は木造家屋を通過し、さらに屋根瓦や壁からガンマ線を発生させる。番組では、一家は中性子線とガンマ線を致死量となる57.7グレイを浴びたと推定した。この時点で、仮に原爆が炸裂せず、熱線や爆風の影響がなかったとしても爆心地付近の住民は助からなかったという。 -任天堂にとって、世界で支持される豊富なIP(知的財産)を抱えていることは強みの一つである。以前まではそうしたキャラクターIPをゲーム外で用いることに消極的な立場をとっていたが、2014年以降はその方針を転換し、積極的に活用するようになった。活用例の一つとして、色々なゲームと連動させることができるフィギュア「amiibo」の販売を2014年末より展開している。このamiiboが店頭に並ぶことで任天堂キャラクターの存在感を維持する効果も期待されている。また、ユニバーサル・パークス&リゾーツが展開するテーマパークへの登用、映像コンテンツ化、商品化など様々な計画を予定している。以前には、ウルトラハンド、ウルトラマシン、ラブテスター、光線銃シリーズ、テンビリオンなどの独自製品や、ルーレット、野球盤、ボードゲーム、ツイスター(ライセンス生産)、組立式コースター、組立ブロック、トランシーバー、ラジコンカー、人形といった玩具を製造・販売していた。玩具以外では、家庭用綿あめ製造機、ベビーカー「ママベリカ」、簡易コピー機「NCMコピラス」、電気時計、電子楽器、無線式簡易掃除機など多種多様な製品の製造、販売、タクシー、食品事業などの経営も行っていた。 -フランスの地質学者モーリス・タイーブは、1972年にハダール累層(theHadarFormation)を発見したことを踏まえ、国際アファール調査隊を組織した。そこには、アメリカの人類学者で後にアリゾナ州立大学人類起源研究所(InstituteofHumanOrigins)の所長となったドナルド・ジョハンソン(DonaldJohanson)、イギリスの考古学者メアリ・リーキー(MaryLeakey)、フランスの古生物学者で後にコレージュ・ド・フランスに招聘されたイヴ・コパン(YvesCoppens)らが、共同責任者として招かれた。 -開業までの工程を考えると、星美学園内の掘削作業に使える工期は2か月程度しかないと見積もられた。この間に搬出が必要な土砂の総量は約8万立方メートルに上るものと見込まれ、1日当たり約1,500立方メートル、ダンプトラックにして200台あまりとされた。これは先の大型車両通行制限に抵触してしまうことになる。そこで1984年(昭和59年)3月から、在来線の東北本線側から星美学園のグラウンドの下をトンネルルートに向かって作業導坑を約400メートルに渡って掘削した。この作業導坑にベルトコンベアを設置し、作業導坑を出た後は在来線の線路の敷地を利用して北へベルトコンベアを伸ばし、新河岸川の河川敷にダンプトラックに積み替えるためのホッパーを設置した。ベルトコンベアは全長約950メートル、ベルト幅約900ミリ、速度120メートル/分、最大で1日約2,000立方メートルの土砂を搬送した。トンネルルート上の作業導坑に沿って約30メートル毎に立坑が設置され、掘削作業によって出た土砂をこの立坑から落とし込むことで土砂の搬出を行った。作業導坑は後で星美学園側が再利用できるように新オーストリアトンネル工法(NATM)で掘削され、11月までに土砂の搬出を完了した。 -この知らせを聞いたポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは1511年7月に16隻の艦隊を率いてマラッカに来航した。アルブケルケはマラッカに対して捕虜の釈放、要塞建設の用地の提供、賠償金の支払いを要求したが、マラッカ側は捕虜の釈放を除いた条件の受け入れに難色を示したため、上陸したポルトガル軍の攻撃を受けた。マラッカは中国、タイ、ビルマ、あるいは地中海地域より輸入した火砲と自国で生産した鉄砲で応戦するが、マラッカ側は火器の使用法を熟知しておらず、性能もポルトガルのものが勝っていた。また、国内のジャワ商人と中国商人の中にポルトガルと内通した一派があって統率を欠き、翌8月にマラッカは陥落した(マラッカ占領(1511年))。 -子持山(こもちやま)は、群馬県の中部にある火山である。標高1296メートルである。「ぐんま百名山」の一つに選ばれている。典型的な成層火山で、浸食が著しく進行した結果、火山の内部構造である火山岩頸や放射状岩脈が地表に露出しており、地質学の観察に適した山として知られる。火道のマグマが柱状に岩化して垂直に屹立する「獅子岩(大黒岩)」など特徴的な山容をしており、関越自動車道からも遠望できる。 -カラフトヒョウモンClossianaiphigenia(Graeser,1888)は前翅長25mm前後で、ヒョウモンチョウに比べて横長の翅をもち、後翅裏側外縁には黒く縁取られた三角形の白色紋が並ぶ。幼虫はスミレ科のミヤマスミレを食草とする。アムール地方から朝鮮半島まで分布するが、日本では北海道だけに分布する。 -18世紀になるとフランスの財政は手が付けられない状態に陥っていた。収入は歳出に全然追いつかず、大量の負債が積み上がった。ルイ15世の継承した負債は240億リーヴルであり、1715年度の収支を見ると税収6900万リーヴルに対して歳出は1億4700万リーヴルであった。兌換紙幣の発行や財政改革、富くじの発行なども試みられたが奏功しなかった。そしてフランス革命へと向かうのである。フランス革命期における憲法制定国民議会の時期においてもドゥニエが発行された。表面にルイ16世の肖像を、裏面には額面(3、6、12があった)および“D”の文字を中央に配し、周囲を月桂樹で縁取ったデザインであった。国民公会(1792年-1795年)の時代になると最小貨幣の銅貨はスー(ソル、額面は1/2、1、2の3種類)を単位としたので、ドゥニエはコインとしては姿を消した。そして1795年4月5日、リーブル-スー(ソル)-ドゥニエの通貨体系は丸ごと廃止となり、フランに一本化された。この時10進法を採用し、フラン-デシム(1/10)-サンチーム(1/100)の体系が定められた。旧貨幣となったリーヴルとの交換比率は80フラン=81リーヴル(1フラン=1リーヴル3ドゥニエ)であった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1919年(大正8年)、2番目のカバが京城の昌慶苑動物園から来園することになった。当時の上野動物園は宮内省の所管だったため、同じく宮内省所管の昌慶苑動物園からカバを「贈呈」というかたちで移動させる話が進んだ。昌慶苑動物園では、上野動物園より1年遅れの1912年にハーゲンベックからカバをつがいで購入した。このカバのつがいは1914年から第2次世界大戦中に至る30年ほどの間に、12頭以上の子をもうけていた。贈呈されることになったカバはメスで、1917年9月生まれの子であっ���。 -ブラウントラウト、カワマス、ニジマス、タイセイヨウサケ、マスノスケ、ヨーロピアンパーチ、コイとカダヤシを含むいくつかの外来種の淡水の魚種がオーストラリアの水域に移入された。カダヤシは他の魚のひれをかみ切ることで知られる攻撃的な種である。カダヤシは数種の固有の小型魚種の生息数の低下や、局所的な絶滅に関連がある。移入されたマス類は、SpottedTreeFrog(en)(アマガエル科の一種)のような他の高地の動物相や、トラウトコッド、マッコリーパーチ、マウンテンガラクシアスを含むいくつかの高地の固有の魚種への重大な悪影響を与えた。コイは、オーストラリア南東部のマレー・ダーリング流域で、水草の劇的な減少、小型固有魚種の減少と、汚濁の安定した高いレベルに強く関係している。 -芥川は1925年ごろから文化学院文学部講師に就任した。1926年、胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が高じ、ふたたび湯河原で療養した。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲の療養のため鵠沼の実家別荘に移住。2月22日、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せる。7月20日には東屋の貸別荘「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。夏休みに入り、比呂志、多加志も来る。7月下旬、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品『家を借りてから』『鵠沼雑記』、さらに『点鬼簿』を脱稿。堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山に通院する。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品『悠々荘』を脱稿。これは、震災前に岸田劉生が住み、震災後に建て直されて国木田虎雄が借りていた貸別荘を視察したときの経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。また、この間、斎藤茂吉、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寛らの訪問を受けている。元号が昭和に変わってから、妻子は田端に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の葛巻義敏と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている。 -1961年にレオ・スターンバックらのグループは以下の方法によるジアゼパムの合成を報告した。p-クロロアニリンに過剰量の塩化ベンゾイルを加えて、アミノ基をベンゾイル化し、そこに塩化亜鉛を添加して、そのまま連続的にフリーデル・クラフツ反応を行う。ここで反応物はもう1分子のp-クロロアニリンが一つのカルボニル基とイミンを形成し、もう1つのカルボニル基とはアザアセタールを形成して6員環化合物になっている。硫酸-酢酸-水による反応で、この余計なp-クロロアニリンを除去すると同時にアミノ基上のベンゾイル基を脱保護する。続いてヒドロキシルアミン塩酸塩との反応でオキシムを得る。この際に得られるオキシムは主に(Z)-体であるが、後の反応に必要なのは(E)-体であるため、異性化を行う。ギ酸によりオキシム窒素をホルミル化すると、異性化が起こると同時にギ酸のカルボニル基がアミノ基とイミンを形成した6員環化合物が得られる。水酸化ナトリウムによりこのホルミル基を除去すると、(E)-体のオキシムが得られる。次にクロロ酢酸クロリドとのショッテン・バウマン反応によりアミノ基をクロロアセチル化する。さらに水酸化ナトリウム存在下で反応させると、オキシム窒素のクロロアセチル基への求核置換が起こり、ベンゾジアゼピン骨格が形成される。なお、スターンバックらはこの化合物の合成法について、同じ文献上でいくつかの別法も報告している。ナトリウムメトキシドにより、アミド窒素上のプロトンを引き抜いた後に、ジメチル硫酸によりメチル化する。ラネーニッケル触媒を用いて1気圧の水素ガスによりN-オキシドを還元すると、ジアゼパムが得られる。なお、メチル化とN-オキシドの還元の順番は逆でも問題ない。 -このオオウナギはその後、鮎川地区で旅館を経営していた佐々木家に剥製として保管され、1936年(昭和11年)6月に鮎川を訪れた東久邇宮稔彦王に披露されたという。当時の記録には、全長6尺3寸(約191センチメートル)、重量5貫600匁(約21キログラム)とあり、これは日本国内で確���されたオオウナギの中でも最大級のものであり、この剥製は2009年(平成20年)所有者の佐々木家から田辺市大塔公民館へ寄贈され、田辺市教育委員会によって大切に保管されている。 -1942年7月5日には長女マルゴーに対してユダヤ人移民センターに出頭するよう召喚状が届いた。召喚後にはヴェステルボルク通過収容所からドイツの強制労働収容所へ移送されることになっていた。帰宅後オットーはただちに隠れ家生活に入ることを決意し、ファン・ペルス家や隠れ家支援メンバーと連絡を取り、アンネたちにも家を出て隠れ家に入ることを告げた。この時フランク家には下宿人がいたので、その人物(ちなみに彼もユダヤ人で、その後収容所送りになるが、生還した)に気取られぬように皆どたばたしたり、声を荒らげたりしないよう気を使ったという。翌日朝6時にミープが自転車に乗って駆け付け、まず自転車を持っていたマルゴーが彼女と一緒に隠れ家へ向かった。ついで朝7時半にはオットー、エーディト、アンネも家を出た。なお義母ローザは1942年1月29日に癌により死去していた。オットーは下宿人に宛ててアンネの飼い猫モールチェをお願いする旨を書き残し、また下宿人の目に付くようにスイスへ逃れることをほのめかした手紙も置き残した。2週間後、この隠れ家にファン・ペルス一家(ヘルマン、アウグステ、ペーター)が加わり、11月にはフリッツ・プフェファーが加わった。この隠れ家生活はヨハンネス・クレイマン、およびミープ・ヒース、ヴィクトール・クーフレル、ベップ・フォスキュイルに支えられていた。 -1916年11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながらこう語ったとされる。「私は、多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった......」。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝「カール1世」と呼ばれることとなった。新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた。ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた燕尾服の着用を不要とするなどした。侍従武官アルべルト・フォン・マルグッティはカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている。 -16世紀に書かれた『本草綱目』には、「高麗に石油がある」と記述されている。また、19世紀初頭に韓致奫が著した『海東繹史』内の『物産志』にも、石油の産出に関する記述がある。1917年および1918年には、これら古典の情報などを基に石油の鉱業権が取得されているが、具体的な成果はなかった。1964年、平安南道安州市における炭田の調査・開発中に油微が発見され、石油存在の可能性が具体的に認識された。これを受けて北朝鮮はソ連に協力を要請し、黄海の重磁力探査を行っている。翌1965年に燃料資源地質探査理局を、1968年には安州市に原油探査を専門とする研究所をそれぞれ設置し、原油探査を行ってきた。1973年からは中国の技術者の指導を受けて本格的な試掘を行い、1976年に測線長2,200kmにわたる西海の地震探鉱を行った結果、同海域に石油の胚胎が期待できる堆積盆地が発達しているという自信を得たとされる。1978年にはユーゴスラビアと共同開発契約を結んで探鉱を行ったが、1981年に資金不足を理由にユーゴスラビアは撤退した。1983年には政務院の傘下に原油探査総局を設置し、シンガポールから14,000トンの試掘探査船を購入するとともにボーリングを建設して黄海の南浦沖合を重点的に探査した。1987年にはイランおよびオーストラリアの企業が南浦沿岸22,600km2の探査と試掘を行ったが、不発に終わっている。 -特にラスタファリアンのレゲエ・アーティストは、エチオピア帝国最後の皇帝ハ��レ・セラシエ1世を「ジャー(現人神)」と、ジャマイカのジャーナリスト・企業家のマーカス・ガーベイを預言者と考え、アフリカ回帰(en)を主義とする宗教的運動であるラスタファリズムを、しばしば作品の主題とする。アーティストは自らを戦士やライオン、イスラエル民族になぞらえ、「バビロンと戦いこれを打ち破り、ザイオンに帰還する」などと原理主義的に描写する。ラスタファリアンでないアーティストもしばしば(黒人の)人種的プライドを誇ったり、反転した価値観を訴える。 -薩摩藩の西郷・大久保らは四侯会議の失敗を受け、戦略の変更を余儀なくされる。慶応3年(1867年)5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、西郷、小松帯刀らは土佐藩の討幕派の重鎮・乾退助、谷干城らと薩土討幕の密約を締結し、5月25日、薩摩藩邸で重臣会議が開かれ、武力討幕に舵を切ることが確認された。すなわち、もはや列侯会議で幕府(および慶喜)を牽制するのは不可能であるとして、斉彬以来維持してきた公議路線を放棄し、武力倒幕路線を指向することとなる。軍役奉行伊地知正治はこの倒幕の方針を久光に伝え、これに久光も半ば同意した。(久光は武力による倒幕は諸外国の介入を招く恐れがあると懸念をもっていた)薩摩藩は秘かに岩倉具視と結び、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之らの協力を得て倒幕の密勅降命に向け、工作することとなる。 -翌年より『月刊アフタヌーン』にて『大日本天狗党絵詞』を連載。連載終了後の1998年、この作品に注目していたよしもとよしともから合作の話を持ちかけられ、よしもと原作、黒田作画による「あさがお」を『COMICCUE』に掲載。これを端緒として同誌に短編作品を発表していく。1999年に作品集『大王』を刊行、帯に大友克洋、寺田克也、よしもとよしとも三名からの推薦文が寄せられた。 -富岡製糸場は、明治5年10月4日(1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた。同年4月に就業していた工女は556人となり、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)も含まれていた。 -1980年、年頭にヤマハ発動機は年間販売台数95万台という計画を打ち上げた。これはヤマハ発動機の本気を如実に示す数字であった。さらに6月、日本楽器製造社長の河島博が解任され、川上源一が社長職に返り咲いた。この背景には、経営方針の相違や長男、川上浩への禅譲が遅れることを嫌った源一の意思が働いたなどとする憶測が飛び交ったが、旧本社である日本楽器製造において、ホンダとの繋がりを持つ河島博の退任は、覇権を狙うヤマハ発動機社長、小池にとっては思う存分戦うに当たって障害のひとつが取り除かれたに等しかった。ヤマハ発動機の追撃は止まることを知らず、1980年の販売台数は83万台と、ホンダの101万台との差を20万台以下まで縮めた。1981年には掲げた100万台計画を11月には達成し、ホンダに迫った。1982年、年頭の挨拶で小池は「メドがついた。あと一息」と社員を鼓舞した。 -その後、マラッカ海峡の両岸は、ポルトガルとスマトラ島北端部のアチェ王国、マレー半島南部とリアウ諸島に基盤を置くジョホール王国の三者が合従連衡を繰り返してマラッカ海峡の交易の利を独占しようとし(「三角戦争」)、17世紀前半にはアチェ王国が優位に立ってアチェ全盛時代を築いたが、最終的には、新規参入者であったオランダとマラッカ王国の末裔であったジョホール王国とが連合し、1641年にポルトガル勢力を駆逐し、ムラカはオランダの占領するところとなった。しかし、ムラカ(マラッカ)は貿易港としては衰退し、17世紀後半には海上民を統制し。オランダ・アチェとも良好な関係を構築したジョホール王国がジャンビ王国と抗争しながらも全盛期をむかえ、東西交易の中継として繁栄した。 -特性は合成方法により異なり、硬さや熱・電気伝導性、電子移動度が天然のものよりも優れる特性を有する。このため研磨材、切削工具、ヒートシンク(放熱板)などに広く使われる。また、発電所の高電圧開閉器、高周波電界効果ト���ンジスタと発光ダイオードとしての利用が進められている。HPHT法やCVD法で合成されたものは宝石としても利用される。天然ダイヤモンドの取引会社にとっては、重大な関心事であり、天然のものと区別するために、分光装置を開発するなど様々な対策が施されている。 -当時の『学校体操教授要目』では、ダンスは「唱歌遊戯及行進遊戯」として扱われ、体操の授業で採用されていた。この時期は、まず教材作りとして創作ダンスを生み出していた。戸倉の最初の著書『唱歌遊戯』には、文部省唱歌のほか、『どこかで春が』や『シャボン玉』などの愛唱歌をダンスにしたものを14種類収録している。この本の中では、「歌詞の意味に沿った自然な動作を行わせる」という戸倉の基本的なダンス観が既に表れている。1931年の『学校ダンス』では教材作りから一歩前進して教材の選択、教授上の注意と教授法、基本歩法など多岐に言及している。生徒の心身の発達を考慮すること、想像の余地を残して教授することなどの記述があり、大正自由教育の流れを汲んでいることが窺える。戸倉が改正作業に参加した1936年の教授要目では、「唱歌遊戯及行進遊戯」は基本練習、唱歌遊戯、行進遊戯の3つの領域に分けられ、基本練習では基本歩法・基本態勢・応用態勢、唱歌遊戯では『荒城の月』、『寧楽の都』などの日本の楽曲を使ったダンス、行進遊戯ではポルカセリーズ、カドリーユなどの西洋のダンスが採用された。この教授要目で初めて採用された基本練習は、邦正美による学校ダンス批判を受けて、その欠陥を補おうと戸倉が追加したものである。基本練習の導入により、それまでの静的・模倣的な表現術に躍動的・リズミカルな技術が加わり、表現の幅が拡大することになった。改正時、「体育ダンスは芸術か体育か?」という議論がなされたが、女子には鍛練的な教材はそれほど採用されなかった。バレエの手足の訓練を基礎に置いており、情操陶冶を目指す教材に特色がある。小学校から高等女学校まで採用された「唱歌遊戯及行進遊戯」は他の体操科教材と異なり音楽を伴った運動であり、選択する楽曲は児童生徒の発達に応じて変えるべきとした。旋律の美しさを重視して選曲し、幼児・児童対象のダンスは軽快さや明るさを、生徒対象のダンスは哀調を帯びたものを用いることで発達の差を付けている。ダンス表現でも、幼児・児童のダンスより生徒のダンスの方が可動性が高められている。一方、「落葉の踊」などは内容を易しくすれば尋常小学校1年生でも教材として扱えるし、高度化すれば高等女学校での採用にも耐えうるとしている。 -ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。ドイツは、5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。 -また、ジョンボ川河口付近のベタンティ島に流れ込むボロン(現地の言葉でデルタ地帯の網目状の支流を指す)であるバンブーン・ボロン周辺は、バンブーン海洋保護区に指定されている。これは1996年に村落共同体による自然保護区設置を認める法改正が行われたことを踏まえて、セネガルの環境保護NGOオセアニウムの働きかけで成立した地域共同体海洋保護区であり、2004年の政令で国から認可された。しかし、この保護区設置でバンブーン・ボロンが禁漁区となった一方、代替収入源として設置された観光用の村営ロッジは期待された経済効果を挙げるには至っていないため、地元住民たちは意思決定の関与度への不満なども含め、保護区に対する反対論が根強く存在している。 -日本では在来のナマズ目魚類は全国各地(沖縄は海産種のみ)に分布するものの、その数は5科11種のみと極めて少ない。淡水産種としてはナマズ科ナマズ属の4種(ナマズ、イワトコナマズ、ビワコオオナマズ、タニガワナマズ)、ギギ科の4種(ギギ、ネコギギ、ギバチ、アリアケギバチ)、およびアカザ科のアカザが知られるのみである。このうちイワトコナマズ・ビワコオオナマズ・タニガワナマズ・ギギ科の4種・アカザは日本固有種であり、前二者は琵琶湖水系のみに分布し、タニガワナマズは東海地方に分布する。種としてのナマズ(S.asotus)の分布はかつて西日本に限られていたが、江戸時代以降東日本や北海道にも移植され、現在では沖縄を除く日本全国に生息している。 -この削岩機は、坑外に設置した蒸気機関により空気圧縮機を運転し、圧縮空気を鉄管で坑内に送ってその圧力により動作する仕組みになっていた。長いトンネルでは換気の問題が常に生じ、特に坑口付近に切土区間があって換気条件が悪い東口においては唐箕を用いて送風を試みるほどであったが、この圧縮空気で動作する削岩機は使用後の空気がそのまま坑内に排出されるため換気の効果も期待された。このため1898年(明治31年)の予算縮減で経費不足により削岩機の使用を一時中断した際にも、送風のみは続行した。設置されたボイラーは東西とも伝熱面積160平方フィート(約14.9平方メートル)、圧力80psi(約550kPa、約5.5気圧)の公称16馬力のもので、さらに1900年(明治33年)8月に小仏トンネルで使用されていた同一仕様のボイラーが東口に増設されて2台となった。また西口では電力を利用して1900年(明治33年)9月からウェスティングハウス・エレクトリック製の直流100V40馬力電動機を運転して空気圧縮機を駆動するようになり、従来の蒸気機関を廃止して、良好な結果を得た。削岩機は当初切り広げでの使用も行ったが、もっとも掘削が困難で全体の進行に影響を与えるのは導坑掘削であったため、最終的にすべて導坑掘削のみに削岩機を投入した。当初は東西それぞれ3台ずつ使用したが常時2台を使用している状況で不足が感じられたため、輸入品を基に国内で7台を模造し、さらに1台を別途導入して、結局東西7台ずつ合計14台で運用した。 -ダビデ像はピエタと並ぶミケランジェロの代表作であるばかりでなく、ルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つである。人間の力強さや美しさの象徴ともみなされる作品であり、芸術の歴史における最も有名な作品のひとつと言える。ダビデとは旧約聖書においてイスラエル王国の二代目の統治者だ。大理石で身の丈5.17メートルにかたどられたこの像は、ダビデが巨人ゴリアテとの戦いに臨み、岩石を投げつけようと狙いを定めている場面を表現している。そして、ルネサンスならではの表現として、瞳がハート型に象られていることや、イスラエルの民の証とされる割礼の痕がないことが挙げられる。元来はフィレンツェ市庁舎の置かれたヴェッキオ宮殿の前に飾られていたことなどもあり、のちに都市国家フィレンツェ共和国が周囲を取り囲む強大な対抗勢力に脅かされるようになった時には、巨人に立ち向かうこの像こそフィレンツェを象徴するものだという解釈がなされるようになった。 -『道徳感情論』は、スミスがグラスゴー大学の教壇に立っていた時期に書かれた本であり、1759年に出版された。スミスは生涯に『道徳感情論』と『国富論』という2冊しか書物を遺していないが、『国富論』が経済学に属する本であるのに対して『道徳感情論』は倫理学に関する本とされる。今日のような秩序だった社会において人々は法の下で安心して安全な生活を送ることができるが、その根幹には人間のどのような本性があるのだろうか。『道徳感情論』において、スミスはこの問題に応えようと試みた。スミスの師であるフランシス・ハッチソンがこうした社会秩序が人間のひとつの特殊な感情に起因すると考えたのに対し、スミスは社会秩序が人間のさまざまな感情が作用し合った結果として形成されると考えていた。『道徳感情論』の原題TheTheoryofMoralSentimentsのSentimentsが単数形ではなく複数形であるのも、こうしたスミスの思想が反影されている。『道徳感情論���においてスミスが社会秩序の要因と考えた感情とは、端的に言えば同感(英:symphathy)である。スミスが重要視した同感とは、他人の感情および行為の適切性(英:property)を評価する能力であり、こうしたスミスの思想は現代の神経科学者や行動経済学者からも注目されている。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -21世紀になると、日本において地震活動や火山活動が活発化し、また、地球温暖化の進行に伴い大気中の水蒸気量が増え、それ以前ではほとんど起こらなかったような豪雨災害が頻発するようになった。例えば、2005年にはハリケーン・カトリーナの後にハリケーン・リタが上陸し、日本でも平成17年台風第14号が猛威を振るった。さらに、2019年には、9月に襲来した令和元年房総半島台風からの復興もままならないような状況で令和元年東日本台風が上陸した。このような状況から、「天災は忘れた頃にやってくる」から派生し、「忘れる間もなくやってくる」、「忘れるまもなくやってくる」、「忘れる前にやって来る」、「忘れないうちにやってくる」などの表現が使われるようになった。また、2019年7月18日には、鳥飼否宇が著した『天災は忘れる前にやってくる』という題名の、災害を題材にしたフィクション作品が、光文社より発売された。 -進化論裁判(しんかろんさいばん)とは、アメリカ合衆国で制定された、進化論を学校教育の場で教えることを制限する法律、いわゆる反進化論法に対する一連の裁判のことをいう。特に有名な裁判として1925年のスコープス裁判、1982年のアーカンソー州の授業時間均等法裁判などがある。また1982年の裁判に関わった科学者のひとりであるナイルズ・エルドリッジの著作物『TheMonkeyBusiness:AScientistLooksatCreationism』の邦題でもある。 -1957年、ポーリングは生物学者のバリー・コモナーと協力して署名運動を始めた。コモナーは北米各地の子供の乳歯から検出される放射性物質のストロンチウム90を研究し、地上核実験が放射性降下物の形で公衆衛生に危険をもたらしたと結論付けていた。また彼は原子物理学者のエドワード・テラーと公開討論に参加し、放射性降下物が突然変異を引き起こす実際の可能性を訴えた。1958年、ポーリング夫妻は国際連合に核兵器実験の根絶を訴え11,000人以上の科学者が署名した請願書を提出した。その後、公共圧力は地上核兵器実験を一時停止へ導き、これに続いて1963年にはジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフが部分的核実験禁止条約に署名した。同条約が発効された日、ノーベル委員会は「核兵器実験や、軍備拡大、またはそれらの使用だけに止まらない、国際紛争の手段とした全武力衝突に反対した活動を1946年から絶え間無く続けてきたライナス・カール・ポーリング」と述べ、彼にノーベル平和賞を授与した。カリフォルニア工科大学化学科はポーリングの政治観を警戒して���り、ポーリングに正式な祝辞さえも述べなかった。しかし、同大学生物学科は小さなパーティを開いてポーリングを招待し、彼の放射能変異に関する研究に対して彼らはより深く理解し共鳴していることを示した。ポーリングが化学に与えた貢献を享受した科学者を含め、批評家の多くは彼の政治姿勢に同意せず、彼をソビエト連邦共産党の純粋な代弁者であると受け止めていた。ポーリングが上院国内治安小委員会に出席を命じられた時、委員会は彼を「この国における共産主義的な平和攻勢の主要活動のほぼ全てに顔を出しているナンバーワンの学名」と呼んだ。ライフ誌はポーリングのノーベル平和賞を「ノルウェーからの奇妙な侮辱」と呼んだ。ポーリングは1970年にソヴィエト連邦から国際レーニン平和賞を授与された。 -999年、イブン・スィーナーが仕えていたサーマーン朝がガズナ朝とカラハン朝の攻撃を受けて滅亡する。21歳の時、法学者アル・バルキーのために全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げる。同年に父アブドゥッラーフが没し、父の死後にイブン・スィーナーは跡を継いで宮廷に出仕するが、その死のために生計を立てていくことが困難になる。ブハラの人間たちが無名の家系出身のイブン・スィーナーを邪険に扱ったためか、イブン・スィーナーは22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出、生涯ブハラに戻ることは無かった。 -鉄橋守が置かれなくなった後も、潮風が吹きつける橋脚には防錆処理をするため4-5年に1度の周期で塗装作業が行われてきた。鉄道塗装(後に建設塗装工業と改称)が請け負って、1チーム20人ほどの作業班を作って、春から秋にかけての時期に足場・上下移動式足場・作業用ゴンドラなどを使用して塗装作業が繰り返されてきた。こうした保守作業の結果、橋梁架け替えの検討に際して行われた健全性調査では、もっとも重要な主脚で断面欠損が最大で12.5%に留まり、基礎の状況も良好で、健全な状態であることが確認されていた。阪神・淡路大震災後の耐震基準に対しても、アンカーボルトの増設で満たすことができると判断されていた。この厳しい環境を逆に利用し、鉄道総合技術研究所(鉄道総研)・JR西日本・日本鉄鋼連盟橋梁用鋼材研究会の共同研究で鋼材暴露試験が2003年から3年間にわたり行われ、旧橋梁の各部にワッペン試験片が貼り付けられ経過観察された。保守経費の負担について、晩年は支柱・リベットが著しく腐食している(特に第4号橋脚)など橋梁構成部品の劣化が進行しており、2006年時点において年単位で約2300万円の修繕費が必要と余部鉄橋利活用検討会で試算されていた。 -江戸時代後期には金毘羅参りを対象とした旅籠が増え、その1階がうどん屋であることが多かった。また参拝客が船で発着する丸亀や多度津にもうどん屋があった。うどん屋の店頭には麺を茹でる釜が据えられ、うどんを入れた砥部焼の鉢、付け汁を入れた猪口、そしてショウガやネギが供され、漬けて食べる形式が一般的だった。 -中新世に海中で堆積した島とされ、2500万年前と推定される貝の化石が島の各所で発見されている。佐久島には紀元前3000年頃から人が住み始め、縄文・弥生式の土器片などが多く出土している。『佐久島旧記』によれば、崇神天皇(紀元前97年-紀元前30年、第10代天皇)の時代に、斎宮(いつきのみや・さいぐう)の郷にいた佐久彦命が移住して農業を始めたことが島名の由来とされている。古墳時代後期の横穴式円墳は島内に38基が散在しており、古墳全体では47基を数える。島の両端と中央部の3ヶ所に多いこれらの古墳を総称して佐久島古墳群と呼び、知多半島から三河湾三島にかけての地域で最大規模である。1966年(昭和41年)に発掘が行なわれた山の神塚古墳の石室からは金環や緑玉などが出土した。藤原京時代(694年-710年)には文献に初めて佐久島の名前が登場。藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている。 -『牛乳を注ぐ女』は抑制された地味ともいえる作品だが、性的な象徴も依然として描かれている。壁下部のタイルには、女性の性的興奮を暗示する、あるいは���きながら男性を夢想していることを意味するキューピッドが描かれている。その他、性的な意味合いを持つものとして、口の広い水差しが女性の肉体の象徴として描かれている。足温器は多くの画家が女性の性的興奮の象徴として描いているが、この理由についてリトケは、女性のスカートの下に置いて腰から下を温める器具だからだとしている。イギリス人美術史家セリーナ・カントは、足温器に閉じ込められた木炭が「宿屋での強い欲望や売春宿、あるいは慎み深く隠された夫に対する激しい熱情」を象徴している可能性があると指摘した。白い漆喰塗の壁と牛乳から、この部屋が牛乳やバターのような酪農製品を料理するための「冷涼な台所」であることを示しているため、足温器は実用的な器具として置かれている。当時のほかのオランダ絵画では、足温器は使用者が座った状態で描かれているのに対し、『牛乳を注ぐ女』では女性が立っていることから足温器は「勤勉な性格」を象徴しているのではないかという説もある。 -『道徳感情論』は、スミスがグラスゴー大学の教壇に立っていた時期に書かれた本であり、1759年に出版された。スミスは生涯に『道徳感情論』と『国富論』という2冊しか書物を遺していないが、『国富論』が経済学に属する本であるのに対して『道徳感情論』は倫理学に関する本とされる。今日のような秩序だった社会において人々は法の下で安心して安全な生活を送ることができるが、その根幹には人間のどのような本性があるのだろうか。『道徳感情論』において、スミスはこの問題に応えようと試みた。スミスの師であるフランシス・ハッチソンがこうした社会秩序が人間のひとつの特殊な感情に起因すると考えたのに対し、スミスは社会秩序が人間のさまざまな感情が作用し合った結果として形成されると考えていた。『道徳感情論』の原題TheTheoryofMoralSentimentsのSentimentsが単数形ではなく複数形であるのも、こうしたスミスの思想が反影されている。『道徳感情論』においてスミスが社会秩序の要因と考えた感情とは、端的に言えば同感(英:symphathy)である。スミスが重要視した同感とは、他人の感情および行為の適切性(英:property)を評価する能力であり、こうしたスミスの思想は現代の神経科学者や行動経済学者からも注目されている。 -チェコの音楽学者J・ヴィスロウジルは、ヤナーチェクの作品に「モラヴィアのフォークロア(民俗音楽)を活用し、あるいは摂取して、地方性を強く芸術作品に表出しようとする動き」と濃厚なモラヴィアの地方色を見出し、フランチシェク・スシル、パヴェル・クシーシュコフスキー、アロイス・ハーバとともにヤナーチェクを音楽のモラヴィズム、モラヴィア主義の系譜に属する音楽家であると評価している。ヤナーチェクは「民俗音楽と芸術音楽は一つの管で繋がっているようなものである」と考えた。ヤナーチェクは芸術音楽が「唯一、民謡から発展する」と確信し、モラヴィア民謡から音楽の基礎を会得したといわれており、その作品はモラヴィアの民俗音楽から強い影響を受けた。ドイツの音楽批評家ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、ヤナーチェクが目指したものは「民謡の精神に基づく現代音楽の刷新」であったと述べている。ヤナーチェクは民謡を直接引用するのではなく、その構造を科学的に分析して独自の「語法」を会得しようとした。 -プランクの講義を受けながら、マイトナーは自分が研究する場所を探していた。実験物理学研究所所長のハインリヒ・ルーベンスに相談したところ、今席があいているのは自分の個室だけなので、そこで共同で仕事をするならば良いと回答された。マイトナーは、ルーベンス相手だと気軽に質問などができないと思ったので、その提案を受け入れるのをためらったが、その後ルーベンスは、オットー・ハーンという化学者があなたとの共同研究を求めていると告げた。そして1907年9月28日、マイトナーは初めてハーンと出会った。ハーンはマイトナーと同年代で(マイトナーが4か月年上)、気さくな性格であったため、マイトナーは、この人になら何でも恥ずかしがらず話すことができると感じた。しかし、ハーンの上司であるエミール・���ィッシャーは、女性が研究所に入ることを許さなかった。そのためフィッシャーは、マイトナーは地下の木工作業所のみで実験を行い、研究所内には姿を見せないという条件で、二人の共同研究を認めた。マイトナーはこの木工作業所で1912年まで、ハーンと共に研究を行った。マイトナーの物理的知識とハーンの化学的知識とが補完しあって放射線の研究に成果をあげた。2人の研究が成果を上げるようになると、フィッシャーもマイトナーが研究所内に入るのを認め、2人の研究に援助を行うようになった。研究所では多くの同僚と交流を深めた。また研究所外でも、1909年にエリザベート・シーマンと出合い、生涯にわたる友人となった。 -1763年にグラスゴー大学を辞職すると、スコットランド貴族ヘンリー・スコットの家庭教師としておよそ3年間フランスやスイスを旅行した。この間スミスは、ヴォルテール(1715-1771)、ケネー(1694-177])、テュルゴー(1727-1781)などのフランス啓蒙思想の重鎮とも交流を持った。イギリス帰国後は執筆活動に専念し、1776年に主著『国富論』を出版した。その後1778年にはスコットランド関税委員に任命され、1787年にはグラスゴー大学名誉総長に就任した。1790年にエディンバラで67歳で病死した。スミスは生前「法と統治の一般原理と歴史」に関する書物を出す計画があったが、死の数日前に友人に命じてほぼ全ての草稿を焼却させてしまった。焼却されずに残った草稿はスミスの死後、『哲学論文集』(1795)として出版された。また、1895年にはグラスゴー大学時代の学生がとった講義ノートが見つかっており、『法学講義』として後に公刊された。 -硬質PURフォームは注型発泡成形法の様々な手法が用いられる。その際、全原料を一度に混合発泡させるワンショット法と、イソシアネートを除いた原料だけをすべて混合させた液体(R液)とイソシアネート(T液)を別々に準備し、それらを合わせて混合発泡させるプレミックス法があり、原料選択や設備などが異なる。また、工場内で製造するケースと現場にて発泡させるケースでも区分される。工場内で行うブロック法やモールディング法は軟質PURフォームの製造法に準じるが、クラッシング工程は無い。モールド法では比較的緻密なスキン層が形成されるため、金属部品などのインサート成形が可能となり、耐水性も向上する。家具・インテリアの芯材など多様に利用される。高密度のフォームは木肌に近い質感があり、さらにガラス長繊維で強化されたフォームは材木に匹敵する機械強度を持つため、耐腐食目的の構造材料として、船舶やタンク類または軽量で断熱性を持つ構造材として輸送・住宅・スポーツ用品などにも採用される。 -A330の販売は、1980年代後半にまとまった受注を集めた後は、下火になっていた。航空会社は長大な航続距離性能を持つ双発機を求めるようになっていた。また、姉妹機となるA340は1993年3月に路線就航を開始していたが、その後、段階的に最大離陸重量が引き上げられて航続距離性能が強化されていた。エアバスではA330とA340との中間の航続力を持つ機種として、A330の胴体を短縮して収容力を減らす代わりに燃料搭載量を増やすことで航続力を増強した派生型の検討を始めた。この機体案はA330-200と名付けられ、1995年11月24日に正式開発が決定された。A330-200の開発に伴い、それまでのA330はA330-300と呼ばれることとなった。A330-200が最初の発注を得たのは1996年前半で、リース会社のインターナショナル・リース・ファイナンス社からであった。A330-200の胴体は、A330-300のものから主翼の前後で合わせて10フレーム短縮された。胴体の短縮により機体の重心位置から垂直尾翼までの距離が短くなることから、これを補うため、A330-200では垂直尾翼の高さ方向が拡大された。A330-200では、A340-300の重量増加型と同様に主翼が強化されて最大離陸重量が引き上げられ、胴体中央への燃料タンクが追加されたほか、エンジンが推力増加型に変更された。これらの変更により、航続距離は11,853から12,223キロメートル(6,400から6,600海里)となった。A330-200でもGE、R-R、P&Wの3社のエンジンが選択可能とされた。 -製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの��糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた。また、特徴的なのは揚返器156窓も備えていたことである。揚返(あげかえし)は再繰ともいい、小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本の気候の場合、一度巻き取っただけではセリシン(生糸を繭として固めていた成分)の作用で再膠着する恐れがあり、それを防ぐために欠かせなかった。これに対し、ヨーロッパの場合はこの工程を省く直繰式が一般的で、前出の前橋製糸所が導入した器械も直繰式であった。前出の通り、ブリューナは富岡製糸場のための器械を特注していたが、その一つはこの日本の気候に合わせて再繰式を導入する点にあった。なお、特別注文したほかの点には、日本人女性の体格に合わせて高さの調整をしたことなどが挙げられる。 -次に230-280°Cまで加熱すると、組織中の残留オーステナイトが下部ベイナイトに変態する。この変化で体積は膨張する。この変化は残留オーステナイトが存在する場合のみに発生する。生じたベイナイトはやがてフェライトと炭化物(ε炭化物とセメンタイト)に変化する。 -ムカシトカゲは多くの爬虫類が耐えられる温度よりかなり低い温度でも生存でき、冬眠することでも知られている。気温5〜10°Cでも活動し、それより寒くなると冬眠する。彼らは7°Cまでは通常の活動性を維持可能で、16〜21°Cが適温であるが、これはすべての爬虫類の最適温度中最低の部類である。28°C以上になると多くの場合死に至る。ムカシトカゲはトカゲ類より低い代謝率をもつが、それは体温の差に現れている。ムカシトカゲの体温は他のトカゲより低く、トカゲ類がおよそ20°Cぐらいの体温なのに対し、5.2〜11.2°Cの範囲である。 -ローリーは、アメリカ合衆国ノースカロライナ州中央部に位置する都市である。同州の州都であり、ウェイク郡の郡庁所在地である。また、北はニュージャージー州から南はアラバマ州まで、ピードモント台地の東縁に連なる滝線都市の1つとしても知られている。人口は403,892人(2010年国勢調査)で、2000年の国勢調査時と比較して約46%増加しており、シャーロットに次ぐ州第2の都市となっている。ローリー市域のほとんどはウェイク郡内に属し、一部が西隣のダーラム郡にかかっている。ローリーの郊外には、西に隣接する発展著しい大型衛星都市ケーリーをはじめ、いくつかの衛星都市化した町村がひしめいている。 -「平成ゴジラシリーズ」は、シリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』の全7作まで一貫した世界観となっており、『ゴジラvsビオランテ』で初登場した超能力少女・三枝未希(演:小高恵美)がシリーズの要として続けて登場している。ゴジラは一貫して人類の脅威として描かれ、対決相手は人類側の兵器ないし味方(メカキングギドラ、モスラ、メカゴジラ、モゲラ)あるいは三つ巴の戦いとなっている。後半、『ゴジラvsメカゴジラ』からは自衛隊に代わる新たな対ゴジラ組織・Gフォースと新怪獣のベビーゴジラ(後のリトルゴジラ)が登場した。なお「VSシリーズ」と「ミレニアムシリーズ」(『FINALWARS』以外)は映画製作・公開年の翌年を物語の舞台にしている。クライマックスとなる戦場には公開当時に話題となった名所が選ばれることが多い(新宿都庁、みなとみらい、幕張メッセ等)。この当時は、主に新作公開の時期に合わせて『金曜ロードショー』(vsモスラ)、『水曜ロードショー』(vsビオランテ)、『ゴールデン洋画劇場』(vsキングギドラ、vsスペースゴジラ、vsデストロイア)などのゴールデン枠でも作品が全国ネット放映され、高視聴率をマークしている。この当時に防衛庁の広報課で対外広報を担当していた潮匡人によれば、1992年ごろにゴジラ映画に対する協力体制が本格化したという。各作品の別名として『ゴジラ』を『ゴジラ1』とするナンバリングタイトルが存在し、(例:『ゴジラvsメカゴジラ』=『ゴジラ5』、『ゴジラvsスペースゴジラ』=『ゴジラ6』、『ゴジラvsデストロイア』=『ゴジラ7』)劇場版本編終了後の特報などで見られる。このシリーズでは特殊技術を川北紘一(『ゴジラ』のみ中野昭慶)、ゴジラのスーツアクターは昭和シリーズでヘドラ、ガイガンを担当��た薩摩剣八郎が務めている。休止期間中の1997年には第1作からゴジラ映画を製作し続けてきた田中友幸が死去し、ゴジラシリーズとしては『ゴジラvsデストロイア』が最後の参加となった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -貴重書として、有造館文庫4,614点、橋本文庫9,411点、絵葉書6,992点、井田文庫371点、稲垣家文庫2,537点、河邊家文書605点を所有する。これらの貴重図書は2階のレファレンス室で閲覧することができ、月替わりで1階と2階にあるガラスケースで展示を行っている。「有造館文庫」は津藩の10代藩主・藤堂高兌が設立した藩校「有造館」の蔵書と同館発行書から成り、津市図書館の開館時に三重県立図書館から移管したものである。「橋本文庫」は津市で味噌や醤油の醸造業を営み、津商工会議所会頭や津市議会議長を務め津市の発展に貢献してきた橋本家から寄贈された近世・近代の資料群で、本居宣長・春庭・大平父子の著書などを含んでいる。「絵葉書」は橋本家が所有していたものを中心に、他の人からの寄贈品も含まれる。「井田文庫」は、旧神戸村出身で、代々医師を務めてきた井田家から1992年(平成4年)5月に寄贈されたもので、天文学関係の図書と江戸時代の天体観測器具を中心に医学・易学・和算・郷土資料・世界地図を含む資料群である。「稲垣家文庫」は伊勢商人であった稲垣定穀の著書と蔵書、「河邊家文書」は庄屋や戸長を歴任した河邊家の保有していた公的・私的な文書群である。 -6月、ブレダ伯ハインリヒ3世率いる皇帝軍はフランス北部に侵攻して、アルドルやムーゾンを破壊しトゥルネーを包囲、陥落させた。しかし、快進撃を続けた帝国軍はメジエール包囲戦でピエール・テライユとアンヌ・ド・モンモランシーの抵抗を受けて失敗、進軍が停止してしまった。フランソワ1世はすぐ軍を集めて反撃、1521年10月22日にヴァランシエンヌでカール5世自ら率いる帝国軍の主力と会戦した。ブルボン公シャルル3世の度重なる要請にもかかわらずフランソワは攻撃を躊躇い、カール5世に撤退の時間を与えた。フランソワがついに攻撃を命令したときには雨が激しくなって有効な攻撃ができず、帝国軍は戦闘を回避して戦場から離脱した。そのすぐ後、ボニヴェ領主ギヨーム・グッフィエとギーズ公クロード率いるフランスとナバラ王国の連合軍はビダソア川河口部の戦略的要所フエンテラビーアを包囲・陥落させ、その後の2年間スペイン北部に脅威を与え続けた。 -ナマズ目の魚には体内に毒を含むもの、あるいは毒腺を通じて体外に毒液を分泌する種類が知ら���る。毒液は背鰭と胸鰭(多くの場合は後者)の棘から分泌される。ほとんどの毒ナマズ類にとってこれらの棘は防衛手段であり、積極的に攻撃を行うことは少ない。インドに分布するレッドキャット(Heteropneustesfossiles、ヘテロプネウステス科)など一部の種類に限り、毒棘を使って他の魚や人間を襲う習性をもつことが知られる。日本沿岸にも分布する海産種のゴンズイ(Plotosuslineatus、ゴンズイ科)がもつ毒は強力で、刺された場合死に至ることもある。 -紀元前2世紀以後、急速に進んだ社会構造の複雑化に対応するため、ローマではギリシア起原の建築も独自に修正され、都市の中に組み込まれていった。特に南イタリアでは、典型的なローマ建築と思われている建物、すなわち闘技場、劇場、そして恐らく公共浴場とバシリカが作り出された。共和政時代の都市が残るポンペイの遺跡では、紀元前55年に建設された最初の恒久的なローマ劇場と闘技場が残っている。バシリカもローマ領内では初期のものに属する。このように、共和制時代のローマ建築は、社会構造に適した建築を新たに作り出したり、あるいはギリシア由来の建築物を機能に沿うべく作りかえたりしていた。 -しかし15世紀に入ると、1410年には重要な都市アンテケーラがアラゴン王フェルナンド1世の攻撃により陥落し、またこの頃にはカスティーリャへの貢納金が復活するなど、再びナスル朝は危機を迎えた。キリスト教勢力のカスティーリャ王国とアラゴン王国が接近し始めたことで、両国の対立を外交上利用することが困難になる一方、近隣の地中海沿岸などに強力なイスラーム国家は存在せず、友好的なイスラーム勢力との外交を通じた安全保障も困難になっていた。 -個人に与えられる役割分担という意味では、人類は狩猟・採集などで生活していた時代から現代に至るまでずっと分業を行っていたともいえるが、社会学者の森真一によれば「キャラ」は(生活・仕事を成り立たせるためではなく)楽しくコミュニケーションを盛り上げるために割り当てられるという点が異なるという。法学者の白田秀彰の表現を借りれば、若者たちが演じるキャラ(仮想的キャラ)は、大人の世界で「上司」「教師」のように社会的な文脈によって与えられる規範(社会的キャラ)と違って社会的な要素が欠如しているといえる。キャラ的コミュニケーションのほかに若者の間の人間関係に存在する暗黙の規範としては、摩擦を回避するために仲間内では上下関係をなるべくつけないという「対等性原則」がある。その意味で若者たちのキャラ化は、実際には存在している上下関係を、(例えば「いじりキャラ」と「いじられキャラ」のような形で)表面的にはフラットな関係に読み替えることによって隠蔽するという側面があるといえる。 -型の中で発泡させるため形状が複雑な製品を高い寸法精度で大量に生産できるモールディング法は、キュア工程の温度によってホットキュアとコールドキュアに分けられる。ホットキュアは150-300°Cで5-15分ほどプレキュアを行い金型温度25-50°C程度のアルミキャストで成形する。金型に多数のベントホールを設ける必要があるが、型抜き後のクラッシング(冷却後の収縮を避けたり、独立気泡を連続気泡化するためにローラーなどで圧縮する工程)を必要としない。コールドキュアのプレキュアは80-110°Cと低く時間も5分以下に設定可能な上に、金型のベントホールも少なくできる。しかし金型のクランプは高くしなければならず、クラッシング工程も必要になる。モールディング法フォームは弾性に優れ、硬度/密度比が大きい特徴を持つ。製造時に複数の原料を注入できる設備では、フォームの特定部位の硬度を変えることも可能となる。またファブリックなど表皮カバーを一体成形をする製法もある。用途は乗り物のシートや自転車のサドルなど、また家具のクッション類、枕などに利用される。 -墜落地点は、滑走路32Rの離陸側終端から北西に約4,600フィート(1,400メートル)にある開けた土地だった。機体は爆発し、墜落の衝撃と火災で破壊された。残骸は墜落地点とその隣にあったトレーラー・パークに飛散した。この火災によって、倉庫として使用されていた古い格納庫など墜落地点付近の6棟が全焼し、トレーラーハウスも5棟が全半焼した。墜落地点から約100メートルの場所にいた目撃者は「見上げると炎の雨が降ってきた」と述べている。搭乗者271人は全員死亡し、地上にいた2人も巻き込まれて死亡、2人が火傷を負った。犠牲者の遺体は墜落の衝撃と火災で激しく離断・損傷して散乱し、現場に駆けつけた消防士は「遺体が男性か女性か、あるいは大人か子供かも判らない状況だった」と証言している。シカゴのクック郡病院では事故の知らせを受けて、ただちに災害対応の緊急体制が敷かれた。しかし、1時間も経たないうちに生存者がいないとの連絡とともに体制が解除され、病院職員たちは衝撃を受けた。 -一部のメディアにより、任天堂が公式に発表したわけではない情報を公式のように報じられたり、関係者の発言を歪めた形で伝えられたりすることがある。こうした状況について任天堂は、全てに反応してしまうとデマの拡散に繋がりかねないため、会社や株主に迷惑がかかると判断した場合に機動的に対応するとしている。また対策として、インターネットプレゼンテーション「NintendoDirect」やTwitterなどで情報を直接発信する取り組みを行っている。日本経済新聞が報じた2012年2月20日付の記事について、当時の社長・岩田聡はTwitterで「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。このようなことが何度か続いていますが、文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり、事実と憶測を混ぜて書いたり、まるでゴシップ誌のような手法を採られていることに驚いています」と言及している。さらに、日本経済新聞は2012年6月5日にも「『WiiU』にカーナビゲーションや電子書籍などの機能を搭載」という憶測記事を掲載し、任天堂が同日に否定した。朝日新聞は、2012年6月8日付の記事の中で、社長の岩田がインタビューを受けていないにもかかわらず、任天堂ホームページ上の動画から岩田の発言部分を抜き出しインタビューのように仕立てて掲載、これに対し任天堂は直ちに抗議した。朝日新聞は抗議に対して謝罪したとしているがその時点では記事を訂正せず、2年後の2014年9月14日付の紙面に任天堂と新聞読者に対する謝罪文を掲載した。任天堂が2016年10月20日に公開したNintendoSwitchの紹介動画の中でベセスダ・ソフトワークス社のソフト『TheElderScrollsV:Skyrim』(スカイリム)の映像を用いた際、既にベセスダ社が公式に歓迎のコメントを出していたにもかかわらず、まとめサイトの一つ「はちま起稿」は、「スカイリム映像、無断使用だった」と報じた。この問題を取り上げたメディア「BuzzFeedJapan」の取材に対し任天堂広報は、「今回の映像で使用されているゲームはすべて許可をとっております」と、はちま起稿の記事を否定している。翌21日に、はちま起稿は捏造を認め記事を訂正した。 -竹(たけ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦である。一等駆逐艦竹(たけ)は、日本海軍が太平洋戦争中に横須賀海軍工廠で建造した駆逐艦である。戦時量産型駆逐艦である松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の2番艦であり、日本海軍の艦名としては樅型駆逐艦の「竹」に続いて2代目である。戦時量産型のため「雑木林」と渾名され、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた。 -2014年、ポーランドに進出している日系企業はトヨタ、ブリヂストン、味の素、シャープ、東芝など約261社。そのほかのEU中東欧国への進出は、チェコ約186社、ハンガリー約140社、ルーマニア約100社。 -戸倉は第2回国際女子体育会議(パリ)に出席し、いつかこの会議を日本に招致したいという思いを抱いて日本に帰国した。そのためにはまず、日本国内の女子体育の組織と研究を充実させる必要があると考え、1954年8月に日本女子体育連盟を創立した。翌1955年に役員を選出し、会長に戸倉、副会長に伊沢ヱイ、理事長に竹内菊枝が就任した。続いて日本女子体育連盟は1954年に卒業論文発表会と夏季女子体育講習会を開始し、『世界女子体育の動向』(1961年、NCIDBA48711635)、『学校ダンスの指導法研究』(1962年、NCIDBN12010539)、『女子体育の研究資料抄録』(1963年、NCIDBA74432730)を立て続けに刊行した。1965年には第1回全国女子体育研究大会を開催し1,200人の参加者を集め、1966年11月15日には連盟が社団法人に認可された。こうして日本の女子体育界をまとめ上げ、国際女子体育会議東京大会の下地作りを整えたところで戸倉は病に伏し、大会の開催を見届けることなく死去した。この間、国際女子体育会議には第3回(ロンドン、1957年)に5人、第4回(ワシントン、1961年)に15人、第5回(ケルン、1965年)に40人と日本人参加者が増えていった。戸倉はこのすべての会議に出席した。 -2003年(平成15年)、読み聞かせ活動を再編し「ふれあいおはなし会」に変更、読書週間に「読書まつり」を開催した。同年度の蔵書数は101,176冊、貸出冊数は77,019冊で、利用者数は23,752人(うち移動図書館が4,346人)であった。1985年から開始された移動図書館車つまべに号は2005年(平成17年)3月、20年間の役目を終えた。同年、図書館ボランティアグループ、本と人とをつなぐ「そらまめの会」が発足した。そらまめの会はまず、熱意のある当時の司書とともに10年間も貼ったままであった恐竜のイラストを剥がし、館内装飾の制作を始めた。そらまめの会の活動以降、減少傾向にあった利用者が徐々に戻り始めた。 -スズキの全長は最大で1mを超える。体は細長くて平たい(側扁する)。口は大きく、下あごが上あごより前に出る。体色は背中側が緑黒色-灰緑色、体側から腹部にかけて銀白色をしている。尾びれはハート型に切れこむ。若い個体の中には背側や背びれに小黒点が散在する個体もあり、成長とともに消えるが、背びれの黒点は大きくなっても残ることがある。北海道南部から九州までの日本列島沿岸と、朝鮮半島東・南部、沿海州に分布する。冬は湾口部や河口など外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行ない、春から秋には内湾や河川内で暮らすという比較的規則的な回遊を行なう。昼間はあまり動かないが夜になると動きだす。食性は肉食性で、小魚や甲殻類などを大きな口で捕食する。産卵期は大体10月から3月で、盛期は日本の多くの場所で12月から1月である。上記の海域において直径約1.3mmの卵を生む。卵は単独で海中を漂い(分離浮性卵)、仔魚は成長に伴い湾奥や河口近くに集合する。冬から春に湾奥(干潟、アマモ場、ガラモ場、砂浜海岸)や河口付近、河川内の各浅所で仔稚魚が見られる。一部は体長2cmほどの仔稚魚期から純淡水域まで遡上する。この際、遡上前の成長がより悪い個体ほど河川に遡上する傾向がある。仔稚魚は遊泳力が非常に弱いため、潮汐の大きな有明海では上げ潮を利用して、潮汐の非常に小さい日本海では塩水遡上を利用して河川を遡上する。若狭湾で、耳石の微量元素を指標にして調べた結果によれば純淡水域を利用する個体の割合は3割強に上る。仔稚魚はカイアシ類や枝角類などの小型の生物から、アミ類、端脚類などの比較的大型の生物へとを主食を変化させながら成長する。夏になると河川に遡上した個体の一部が5cmほどになり海に下る。春〜秋にかけての水温の高い時期は浸透圧調整機能も高いため、成魚期以降も少なからぬ個体が河川の純淡水域のかなり上流まで遡上する。かつて堰やダムのなかったころは琵琶湖まで遡上する個体もいたと言われる。現在でも利根川(100km以上)をはじめ多くの河川で遡上が見られる。さいたま水族館(公益財団法人埼玉県公園緑地協会)は飼育水温を常時23度以上に維持することで、多数のスズキを淡水魚として周年、終生、生体展示することに成功している。一方で、内湾にも多くの個体が存在するが、それらの数と河川の個体の数との比や、相互の移動などについてはよくわかっていない。 -水星は、太陽系にある惑星の1つで、太陽に最も近い公転軌道を周回している。岩石質の「地球型惑星」に分類され、太陽系惑星の中で大きさ、質量ともに最小のものである。太陽系の惑星の中では最も小さい。例えば赤道面での直径4,879.4kmは、地球の38%に過ぎない。衛星である木星のガニメデや土星のタイタンよりも小さい。衛星や環はない。天球上での見かけの明るさは−0.4等から5.5等まで変化する。水星は太陽に非常に近いため、日の出前と日没直後のわずかな時間しか観察できず、時期によっては望遠鏡でも見ることが難しい。これは太陽との最大離角が28.3度に過ぎないため���ある。アメリカの探査機マリナー10号が初めて水星へ接近し、地表の約40から45%の地図が作られた。撮影された映像から、水星には多数のクレーターがあり、月と非常によく似た環境だと考えられた。依然として分からないことが多い惑星であるが、2008年に探査を始めたアメリカのメッセンジャーや、2018年10月に打ち上げられた日欧共同プロジェクトベピ・コロンボなどによって、探査の進展が期待されている。 -しかし同年8月15日には終戦となり、11月には碑の再建工事が行われた。1947年(昭和22年)7月14日、ペリー上陸記念碑前でペリー上陸95周年記念式典が行われ、これを機に毎年7月半ばには久里浜ペリー祭りが行われるようになった。1953年(昭和28年)にはペリー来航100周年が盛大に祝われ、その後記念碑周辺の公園化、ペリー記念館の建設がなされ、記念碑は再び日米友好のシンボルとしての役割を果たすようになった。 -レコーディングでは、椎名の憧れていたBLANKEYJETCITY(当時)の浅井健一がゲスト・ミュージシャンとしてギターで参加している。椎名は「『罪と罰』は絶対浅井さんにギター弾いて欲しかった」と語り、ギターパートのみを外して収録したMDのデモテープとこの曲に対する気持ちと自身の電話番号を書いた手紙を同封して浅井に送ったところ、後日浅井健一から連絡が入り、「カッコイイ曲だね、弾くよ」と快諾し今回の参加が実現した。「罪と罰」は浅井とのセッションによって楽曲が盛り上がり、元の収録予定時間に対してアウトロが伸びる結果となった。またアウトロには浅井による歯笛も挿入されている。 -神話の解釈や研究において大きな刺激となったのは、19世紀にあっては、印欧語の比較研究より生まれた比較言語学である。ドイツ生まれで、後半生をイギリスに生き研究を行ったマックス・ミューラーは比較神話学という形の神話解釈理論を提唱した。比較言語学の背景にある思想は当時西欧を席巻していた進化論と進歩主義的歴史観である。ミューラーは、ギリシア神話をインド神話などと比較した上で、これらの神話の意味は、最終的には太陽をめぐる自然現象の擬人化であるとする神話論を主張した。ジェームズ・フレイザーはミューラーと同じく自然神話学を唱えたが、彼は浩瀚な『金枝篇』において王の死と再生の神話を研究し、神話は天上の自然現象の解釈ではなく、地上の現象と社会制度のありようの反映であるとした。また神話は呪術的儀礼を説明するために生み出されたとも主張した。ミューラーの解釈では、ゼウスは太陽の象徴で神々の物語も、太陽を中心とする自然現象の擬人的解釈であるということになる。他方、フレイザーでは、「死して蘇る神」の意味解明が中心主題となる。エレウシースの秘儀がこのような神話であり、ディオニューソスもまた死して後、ザグレウスとして復活する。 -1955年(昭和30年)8月4日、熊野村の開業医の萩野昇が執筆した「イタイイタイ病」を紹介する記事が『富山新聞』に掲載された。命名者も萩野である。この記事で萩野は「この病気は婦負郡中部および対岸の富山市南郊から上新川郡にかけての神通川本流水系に発生。患者はこの地域に長年住んでいる35歳から更年期にかけての女性が多い。症状は腰・肩・膝などの鈍痛に始まり、やがて大腿や上膊部の神経痛のような痛みとなり、進行すると少しの動作でも骨折するようになり、引き裂かれるような痛みを感じる。」と書いた。この記事が発表された当初は、過労説や栄養失調説なども出された。しかし、1957年(昭和32年)12月に萩野は富山県医学会で「鉱毒説」を発表。さらに岡山大学の小林純らが患者の骨や内臓および神岡鉱業所の廃水や川水からカドミウムを検出したことを基に1961年(昭和36年)1月、萩野昇と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表した。一方、1961年(昭和36年)12月に富山県、1963年(昭和38年)6月に厚生省及び文部省が独自に原因究明に乗り出す。1966年(昭和41年)9月に合同会議を開き、原因物質としてカドミウムの疑いが濃厚であるが、栄養上の障害も考えられる「カドミウムプラスアルファ説」を発表した。その後、富山県が住民に健康診断を行い、その診断結果に基づき富山県イタイイ���イ病患者審査委員会は、1967年(昭和42年)3月に患者73人、要観察者150人を認定した。厚生省も日本公衆衛生協会に研究委託するなど原因究明に努めた。1968年(昭和43年)5月、厚生省は「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動によって排出されたものである。」と断定した。これによってイタイイタイ病は政府によって認定された公害病の第1号になった。1970年(昭和45年)2月1日、健康被害救済法(公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法)が施行され、公害病患者96名が認定される。 -電気に関する現象は古くから研究されてきたが、科学としての進歩が見られるのは17世紀および18世紀になってからである。しかし電気を実用化できたのはさらに後のことで、産業や日常生活で使われるようになったのは19世紀後半だった。その後急速な電気テクノロジーの発展により、産業や社会が大きく変化することになった。電気のエネルギー源としての並外れた多才さにより、交通機関の動力源、空気調和、照明、などほとんど無制限の用途が生まれた。商用電源は現代産業社会の根幹であり、今後も当分の間はその位置に留まると見られている。また、多様な特性から電気通信、コンピュータなどが開発され、世界にも広く普及している。 -フェズはアトラス山脈の北西、サイス平野の町で、フェズ川とセブー川の合流点の南に位置する。モロッコ南部のサハラ砂漠、アトラス山脈と北の地中海沿いの都市、モロッコ西部のカサブランカ、ラバト、メクネスから東に向かう交易路の交差点に位置するフェズには隊商宿と巡礼者や商人のための小規模の商店が多く建てられた。サハラ交易において、フェズは年2回トンブクトゥに向かう隊商の拠点とされていた。 -1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。その後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発...といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。 -オークニー諸島の表層を構成する岩石は、ほぼ全てが中期デボン紀に形成された旧赤色砂岩である。本土側で近隣のケイスネス郡では、この砂岩はモイン累層群の変成岩の上に積層しているが、この構造はオークニー諸島のメインランド島でも目にすることができ、この島内で最も古い岩石の露頭がストロムネスからイェスナビーにかけてとグレインセイ島の一部において、細長い帯状に分布している。中部デボン系の玄武岩質火山岩がホイ島の西部やメインランド島東部のディアネス、シェイビンセー島で見受けられる。ホイ島の火山活動と他の2ヶ所の露頭との間に関連があるか議論となったが、その化学組成の違いから、明確な結論は得られていない。上部ペルム系のランプロファイア岩脈は、オークニー諸島のあちこちで見受けられる。氷河の擦痕や、北海の海底を起源とするチョークや燧石の迷子石の存在は、諸島の地形に対する氷河の影響を明示している。氷礫土も豊富に存在し、モレーンがかなりの面積を覆っている。 -鳥山と桂は鳥嶋和彦によって才能を見出された友人同士であり、数少ない漫画家の友人の中で最も親交の深い人物として互いに互いを挙げている。またアシスタント経験の無い桂は鳥山に漫画の相談をすることもあり、鳥山との関係について「師匠と言ってもいいかも」や「学校の先生のようなもの」と表現している。初期には共に田舎出身であることから、鳥山が『Dr.スランプ』���田舎者として桂を登場させ、桂が『ウイングマン』に都会者であるかの様に振る舞う「生徒会トリヤマ」や「Mr.マヤリト」として鳥山を登場させるなどと、互いに相手の方が田舎者であると冗談でけなし合うやり取りを『ジャンプ』誌上で行っていた。また、桂が病気療養のために「ウイングマン」を一時休載した際には、応援コーナー「がんばれ!がんばれ!桂くん!」に「イナカ友だち」として鳥山がタイトルとイラストを寄稿している。また、1983年~1984年当時の桂は鳥山に「鳥嶋和彦似」であることを指摘されていたことから、『Dr.スランプ』の中で則巻千兵衛に「Dr.マシリト」と言われる場面がある。 -1999年10月12日、エアトラン航空によって717の商業運航が開始された。2001年6月までに、7社の航空会社に63機の717が導入された(リース会社が機体を保有するリース機も含む)。717の新造機納入数が多かったのは米国の航空会社で、エアトラン航空で22機、その次がトランス・ワールド航空で20機であった。その他の地域では、スペインのエーバルと、ギリシャのオリンピック航空の子会社オリンピック・アビエーション、オーストラリアのインパルス航空、アジアのバンコク・エアウェイズに引き渡しが行われていた。エアトラン航空では717により旧式のDC-9が置き換えられ、ハワイアン航空は島々を結ぶ短距離路線に717を投入した。インパルス航空やオリンピック・アビエーションは、それまで小型のターボプロップ機しか運航しておらず、717が最初に導入したジェット旅客機となった。717の初期の運航者は、ボーイングが従来取引していた航空会社よりも小さかったため、ボーイングはカスタマーサポートの新しい方針を打ち出し、整備や運航に関する諸問題を運航者間で共有できる体制を整えた。初期に717を導入した航空会社では、補助動力装置やエンジンなどに関するいくつかのトラブルがあり、ボーイングは対処が必要であったが、早期に出発信頼度は99パーセントに達していたほか、上昇性能、燃費性能などが当初計画値を上回り、着陸滑走距離は計画より短く済んだ。また、エンジンの排気や機外騒音は当時の規制値を十分下回った。 -1873年(明治6年)には近江商人の西川甚五郎(11代)によって、八幡に奨風社文庫が設置されている。蒲生郡に隣接する神崎郡の北五個荘村には、1901年(明治34年)11月1日に神崎図書館が開館した。神崎図書館は滋賀県初の教育会立の図書館であり、これに刺激されて1902年(明治35年)1月には八幡町でも文庫開設の計画が立てられた。日露戦争開戦後には一時的に計画が中断したが、戦勝記念事業として文庫開設の計画が再開され、1904年(明治37年)11月23日に蒲生郡教育会戦時記念文庫「八幡文庫」が設置された。開設にあたっては西川甚五郎が図書12箱2,000余巻を寄贈しており、さらに町民から多くの金銭や図書の寄贈があった。この際には「文庫商議委員会」が組織されており、これは今日の図書館法でいうところの図書館協議会に相当する。文庫開設時の八幡町は1,470戸・7,254人の人口を有していた。日露戦争が図書館または文庫建設の引き金となったのは全国的な傾向であり、滋賀県では本図書館を含めて8館の日露戦争記念図書館が設立された。当時は「戦時記念文庫」の設置が一種の流行を見せており、滋賀県には日露戦争時のものを含めて26館もの戦時記念文庫が開設されている。 -日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中も、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた。だが、やがて戦局が悪化すると馬主にも多くの戦死者がでるようになり、競走馬の所有権問題が浮上した。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券(勝馬投票券)の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は農商省賞典四歳(現:皐月賞)や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「能力検定競走」として競馬を行った。帝室御賞典も1944年(昭和19年)春は施行場を京都競馬場に移し、皇室からの賞品下賜も辞退したうえで「能力検定競走」として非公開で行われたが、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走も行われなくなった。終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では連合国軍総司令部(GHQ)による皇室への処分等が確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた。既に御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行した。 -1897年、ドイツで開かれた第1回国際らい会議でノルウェーの事例が発表され強制隔離政策が推奨された。ただし、日本の隔離政策とは異なり警察による取締りではなく、医師の判断に基づいた強制隔離であった。1909年にノルウェーで第2回国際らい学会が開催され、強制隔離政策による対策の重要性が再確認されるとともに、早期にハンセン病患者から子供を引き離すことが推奨された。1907年、フィリピン(米国統治下)では、元来、強制隔離政策を行っていたが、大風子油(当時の治療薬)による施設治療を行い、菌が陰性化した患者は社会復帰させるという開放制度に転換した(パロールシステム)。患者の意志ではなく、多くの伝染病患者に対し施設収容・治療の効率化することが目的であったが、この開放制度は世界で初めての試みで画期的な政策であった。この政策は、1923年にストラスブルクで開かれた第3回国際らい学会によって発表されたが、退所後の再発は非常に高いことなどが明らかになり、開放制度や大風子油治療の効果については否定された。一方で小児に伝染しやすいことから「産児は母から引き離すこと」「らい患者は伝染させる職業にはつくべきでない」などの公衆衛生的に必要な隔離ための方法が決議された。1931年、国際連盟は「らい公衆衛生の原理」と題する著作を発刊し、ハンセン病の早期患者に対しては施設隔離を行わず、外来診療所で大風子油による治療を行うのが望ましいとされ、政策として初めて「治療対策」「脱施設隔離」が打ち出された。ただしその一方で重症の伝染性の強い患者は施設に強制的に隔離する重要性も再確認されている。1938年にカイロで開催された第4回国際らい学会では、その影響を受けて疫病地の大風子油による施設治療政策は認められた1941年にはアメリカのファジェットにより新薬であるプロミンが使用され、これにより大風子油からプロミンと治療方法が変化しハンセン病は治る病気となった。その後は、隔離政策は徐々に衰退し外来診療が重視されていくことになる。 -1873年の国際会議で決定された気象用語では、ほぼ透明な付着氷が「glazedfrost」、白色で脆いものは「silverthaw」であった。日本では前者を「樹氷」に後者を「凝霜」と訳す予定であったが、1877年に内務省地理局が英語から気象用語を翻訳する際、2つの英文が入れ替わったため、「glazedfrost」は「凝霜」に「silverthaw」は「樹氷」と訳された。後に霜と混同して誤解を生むとされたことから、中国語の「霧淞」をより平易にした「雨氷」が1915年(大正4年)から使用されるようになった。英語では「上ぐすり(釉薬)」の意味があるglaze、glazeiceを雨氷を意味する語として用いる。また、航空の分野では航空機に付着する雨氷を特にcleariceと呼ぶことがある。また、着氷性の雨、霧雨、霧はそれぞれFreezingrain、Freezingdrizzle、Freezingfogという。 -同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。テオには���都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、フィンセントの要望は膨らんだ。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、フィンセントとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。フィンセントは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。......また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。 -それまでスペインの鉱山は主にイギリス資本が所有していたため、ドイツ軍にとってバスクを手に入れることはイギリスの軍事経済に打撃を与える効果も期待できた。 -華々しく名を成したマコーリーであったが、個人的には災難が続いた。父ザッカリーの活動は、奴隷制廃止協会に加えロンドン大学設立その他の組織にも活動の輪を広げており、仕事をする余裕がなくなっていた。そこで自分で貿易会社を設立し、縁者にこの仕事をまかせた。ところがこの縁者に経営能力がなく、3年後の1826年には破産を避けられない状態に陥る。マコーリー家は施しを受けて生活するほどに転落し、両親と8人の弟・妹たちの生活は長男トーマスの両肩にのしかかった。マコーリーの奨学金などでなんとか食いつないできたが、1830年に妹ジェーン、つづいて1831年には母セリナを相次いで失うという不幸が続いた。このような状況でマコーリーは生活してゆくために弁護士の道を選んだ。マコーリーの法律への興味は数学へのそれと大差ないもので、むしろ文学のほうを向いていた。そんなときにマコーリーに声をかけたのが第3代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスであった。 -ベリリウムは低質量かつ高剛性であるため、およそ12.9km/sと高い音の伝導率を示す。ベリリウムのこの物性を利用して、ツイーター(高音域スピーカー)の振動板としておもにドーム型に成形し使用される。しかしながら、ベリリウムはしばしばチタン以上に高価であり、その脆性の高さにより成形が困難であり、処置を誤れば製品の毒性を封印できないため、ベリリウム製のツイーターはハイエンドな家庭用や業務用オーディオ、PublicAddressなどの用途に限られている。高音域スピーカーの振動板としての使用例としては、ヤマハ・パイオニアなどの音響機器メーカーの製品があり、またヤマハ・パイオニア・オーディオテクニカ・グレース製ピックアップ・カートリッジのカンチレバーに用いられた例がある。また、その熱伝導率のよさから、セラミック送信管(アイマック社製、eimac8873)の本体および純正放熱用熱伝導体として酸化ベリリウムが採用された例がある。ベリリウムはほかの金属との合金としても頻繁に利用されるが、その合金組成に明記されないこともある。 -1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求め、映画産業に対しても協力を要請するが当初は成功しなかった。これは検閲や行政指導ができないことに加え、高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させる体制となっていたためである。しかし、ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反ナチス」の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作した。大衆文化史の研究者にはディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘するものもいる。政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。しかし大衆自身が願う形へミッキーを作り変える作業を続けることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。当時のウォルトディズニー社は白雪姫の大���ットで得た莫大な収益を注ぎ込んで製作したピノキオやファンタジアがヒットしなかったせいで、あっという間に膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパも戦争中で映画の輸出も出来なくなり、株価も1株が25ドルから4ドルまで大暴落し倒産の危機に陥ったが、プロパガンダ映画の制作により、ある程度の収益を得て経営を建て直すことが出来た為、戦後も引き続きディズニーは経営の安定させる理由で政府の核実験、原子力開発キャンペーンのためにOurFriendtheAtom(我が友原子力)という映画を作成するなどプロパガンダに参加している。大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメ映画に、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーンがあったり、ドナルドダックのアニメ映画「総統の顔」に東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたものでもなく、ウォルトが積極的に自ら制作したものである。このほかにもFP-45のために文字を使用せず、漫画のコマ割り風に絵を配置して説明するマニュアルや、ボーイズ対戦車ライフルの兵士向けの映像教材など細かな依頼も引き受けている。 -バスク州はトレビニョ(カスティーリャ・イ・レオン州・ブルゴス県)とバリェ・デ・ビジャベルデ(カンタブリア州)という二つの他州の飛地を有している。人口約2,000人、アラバ県の県都ビトリア=ガステイスの南に隣接するトレビニョは2006年時点で13.5%がバスク語話者であり、バスク州は財政的支援を行っている。トレビニョの住民は少なくとも16世紀からアラバ県への編入を望んできたとされ、1940年の住民投票では96%が編入に賛成し、1958年の住民投票でも賛成多数だった。1979年の成立したバスク自治憲章ではトレビニョのバスク州への編入の可能性に言及しているが、ブルゴス県は一貫して分離を認めていない。ビスカヤ県西部にあるビジャベルデは人口400人程度の飛び地であり、やはり住民は1980年代から1990年代にかけてバスク州への編入に熱心だったが、編入は実現していない。 -浅虫温泉は、青森県青森市浅虫にある温泉だ。海水浴やスキー、水族館や遊園地といったさまざまなレジャー施設も兼ね備えた観光地として賑わい、「東北の熱海」、「青森の奥座敷」などと呼ばれた。陸奥湾に突出する夏泊半島の基部に位置し、浅虫夏泊県立自然公園の一角を成している。かつて浅虫温泉にはいくつもの源泉があり、30°Cから78°Cで湧出していた。しかし乱掘によって湧出量の減少をみたうえ、泉質が変わって食塩泉となった。そのため1968年に源泉を1箇所に統合して汲み上げることとなった。こうした方式は当時の日本では珍しい試みだったという。源泉から46°Cに調整後、各温泉施設や一般家庭へ配湯が行われている。 -オスマン帝国がハンガリー王国、カラマン侯国と和約を結んだ後、1444年にメフメトは父から譲位されてスルタン位に就く。ムラトは大宰相のチャンダルル・ハリル・パシャにメフメトの補佐を任せ、マニサで隠遁生活を送った。メフメトは補佐役のハリル・パシャをララ(じい)と呼んだが、打ち解けることはできなかった。 -第五次イタリア戦争(1542年-1546年)は、イタリア戦争の一部である。フランス王フランソワ1世とオスマン帝国のスルタンスレイマン1世が神聖ローマ皇帝カール5世とイングランド王ヘンリー8世と戦った。イタリア、フランス、ネーデルラントで戦闘がおき、さらにスペインとイングランドの侵攻が企図されるなど、西ヨーロッパの大半を巻き込んだ戦いとなったが、決着はつかず、いたずらに交戦国の財政を悪化させただけに終わった。 -その結果として1740年7月25日、先住民関係を担当する弁務官のロイ・フェルディナンド(RoyFerdinand)はアドリアーン・ファルケニール総督の命を受け、疑わしい中国人はセイロン(現在のスリランカ)へと追放し、シナモン収穫の強制労働に従事させると布告した。裕福な中国人は腐敗したオランダの役人に追放すると脅迫され、金を強請られた。 -その後もターン技術を磨き、コルチナダンペッツォオリンピック出場の頃には、世界トップクラスのターン技術を有していると称されるに至る。このようなターン技術の高さから、回転競技を得意としており、アーデルボーデンでのワールドカップ金メダル、コルチナダンペッツォオリンピック銀メダル、バート・ガスタインでの世界選手権銅メダルの他にも、1954年にコロラド州アスペンでの全米大会で優勝、1955年から1957年までNCAASkiingChampionshipsの回転競技部門を三連覇するなどの功績を残している。 -分解直前の隕石の推定される大きさは発表した機関によって異なるが、直径は数mから15mと見られている。ロシア科学アカデミーの解析によれば、隕石の質量は10トン、落下速度は秒速15km以上で、隕石が分解したのは高度30kmから50kmではないかと見られている。RIAノーボスチは、公式発表として空中爆発が高度10kmで発生したことを探知したと報道した。また、アメリカ航空宇宙局(NASA)の解析では爆発した高度は15kmから25kmとしている。落下方向は東から南への方角と見られている。 -神岡鉱山から排出されたカドミウムが神通川水系を通じて下流の水田土壌に流入・堆積して起きる。汚染実態を把握するため、富山県は1971年から1974年にかけ、「農用地汚染防止法」に基づいて、細密検査と補足検査を実施した。汚染面積は神通川左岸で1,480ha、右岸で1,648haの計3,128haで、そのうち1,500.6haが対策地域に指定された。カドミウム汚染田は、神通川によって形成された扇状地にある。右岸は熊野川、左岸は井田川に囲まれる範囲で、八尾町(現:富山市八尾町)以外の地域は「イタイイタイ病指定地域」に含まれる。対策地域内の平均カドミウム濃度は表層土で1.12ppm、次層土で0.70ppmと、深くなるにつれて濃度は低下する。特に、上流部に分布する洪積扇状地では、平均2.0ppmと非常に濃度が高い。土壌中のカドミウム濃度と玄米中カドミウム濃度の間には相関関係が認められず、土壌中のカドミウム含量が低くても高濃度の汚染米が出現しやすい。上記の調査では、食品衛生法の基準である玄米中のカドミウム汚染米が230地点の水田で検出されていることから、これらの水田では、三井金属鉱業の補償によって作付けが停止されてきた。また、カドミウム濃度が0.4ppm以上1.0ppm未満の米は、政府が「準汚染米」として全て買い上げている。買い上げ後は食用にしないで破砕し、ベンガラで着色し、工業用糊の原料として売却されていた。 -火時計とは、何かを燃やして、その燃えた量(もしくは燃え残りの量)を調べることで、火を付けてから経過した時間を計る時計である。火時計の起源はよくわかっていない。記録としては520年の中国の古詩に書かれたものが知られている。この詩によると、夜間の時刻を知るのに使われていた。日本でも10世紀初頭には火時計が使われていた。初期の火時計として有名なのは、9世紀イギリスのアルフレッド大王によるものである。この火時計は、72ペニーウエート(約110グラム)のロウを使った6本のロウソクを使ったもので、ロウソクの長さは30センチメートルであり、2.5センチ毎に印がつけられていた。1本のロウソクが燃えきるのに約4時間、2.5センチの印あたり20分であった。火が付けられたろうそくは風で消えないように木枠の箱に入れられた。 -1920年のビルンバウム(ドイツ)による論考に引き続き、1924年フランスで精神医学者ジャン・ヴァンションが、ファン・ゴッホの事例に言及した論文を発表すると、ゴッホの「狂気」に関する同様の研究が次々発表されるようになった。1940年代初頭までに、1ダースもの異なった診断が提示されるに至った。他方、アントナン・アルトーは、1947年に小冊子『ファン・ゴッホ――社会が自殺させし者』を発表し、ファン・ゴッホが命を捨てたのは彼自身の狂気の発作のせいではないとした上で、ガシェ医師がゴッホに加えた圧迫、テオが兄のもとを訪れようとしなかったこと、ペロン医師の無能力、ガシェ医師がファン・ゴッホ自傷後に手術をしなかったこと、そしてファン・ゴッホを死に追いやった社会全体を告発している。 -しかしロシア軍の侵攻は止まらなかった。殲滅されるのを避けるために、ポニャトフスキらは撤退に撤退を重ねるほかなかった。7月上旬、ドゥブノ付近で、スタニスワフ2世から再度の補給を任されていたミハウ・ルボミルスキがロシア側に寝返った。彼はポーランド軍の物資を、あからさまにロシア軍に流した。しかし強大なマグナートだったルボミルスキは、公式には翌年5月下旬までポーランド軍の地位を剥奪されなかった。ロシア軍の侵攻から1か月ほどで、ポーランド軍はウクライナのほぼ全土から撤退した。7月7日、コシチュシュコはロシア軍を足止めするためヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーで敵と戦った(ヴウォジミェシュの戦い)。7月18日、ポニャトフスキの本軍がブク川を渡る際のを援護するため、コシチュシュコ軍はドゥビエンカの戦いを戦った。この戦いでコシチュシュコは、5300人のポーランド軍でミハイル・カホフスキー率いるロシア軍2万5000人の攻撃を防ぎ切った。しかしロシア軍がオーストリア国境を越えて側面攻撃を試みたので、コシチュシュコ軍はドゥビエンカを放棄した。ブク川線からも撤退して後退し続けたポーランド軍だが、未だ戦闘による決定的な敗北は喫しておらず、ワルシャワ付近まで撤退して良地を選び、決戦を挑むことを企図していた。 -また品位低下を伴う吹替えの度、商人らは品位の高い旧銀を退蔵し、しばしば銀相場の高騰を招いた。元文元年(1736年)の吹替えの際も商人が旧銀を退蔵し銀相場を吊り上げているとして町奉行の大岡忠相は両替商を呼びつけ、御定相場を守るよう通達を出して対立したが、この年、忠相が寺社奉行に昇格したのは商人が裏で手を回すことによる敬遠人事であったとする説もある。吹替えのうち元禄期、宝永期および天保期は財政再建を主目的とし、元禄期および元文期は通貨量増大の目的もあったとされるが、実質的に通貨量が増大したかについてはその意味や効果の究明を行わずに簡単に結論を出せるものではなく、例えば中国人は長崎において日本の丁銀を南鐐銀である銀錠に改鋳して用い、これに伴い大坂の両替商など商人らの取引に於いても貨幣の素材価値を交換の媒体として重視し、当時の通貨の未発達な段階に於いて品位を低下させ名目価値を増大させても、実質価値としての通貨増大という経済的意義にはつながっていなかった。また文政期のものは放漫財政の結果による赤字補填を主とするものであり、安政から万延期のものは1859年の開港に伴う小判流出を抑制する目的のものであった。 -グレンヴィルは1770年11月13日に死去した。彼の死とともに彼の派閥は自然消滅した。ノース卿に警戒される政敵の一人だった彼の死はノース卿内閣の安定に資したとみられる。彼の長男ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィルは、兄リチャードから第3代テンプル伯爵位を継承し、小ピット内閣で国務大臣などの閣僚職を務め、バッキンガム侯爵に叙せられた。三男のウィリアム・グレンヴィルも小ピット内閣で閣僚職を歴任してグレンヴィル男爵に叙され、さらに首相となって「総人材内閣」と呼ばれる内閣を組閣している。 -541年、共和政ローマ以来の執政官制度を廃止する。543年、黒死病が大流行し多くの死者が出て政府も機能不全に陥る(ユスティニアヌスのペスト)。ユスティニアヌスも感染したが回復している。これにより帝国の人的資源は大打撃を受け、ユスティニアヌスのローマ帝国再興事業は衰退に向かうことになる。548年に皇后テオドラが、おそらく癌によって比較的若くして崩御した。 -『Signalize!/カレンダーガール』は、日本の女性アイドルユニット・STAR☆ANISの1枚目のCDシングルである。本作は両A面シングルで、2012年11月21日にランティスより発売された。楽曲「Signalize!」と「カレンダーガール」は、テレビ東京系列他にて2012年10月より放送されたテレビアニメ『アイカツ!』の1stシーズン前期オープニング・エンディングテーマとしてそれぞれ起用された。女児を対象としたメディアミックス・プロジェクト『アイカツ!』はゲームおよびアニメが並行して制作され、音楽については本来のターゲットである女児に限らず幅広い年齢層に受容される楽曲を目指した制作が行われてきた。「Signalize!」と「カレンダーガール」はその傾向を汲んだ作品となっている。「Signalize!」は作曲・編曲を担当したNARASAKIおよびSADESPERRECORDによるテクノな要素を含んだポップ・ミュージックに仕上がっているとする者や、ニュー・ウェイヴあるいはニューロマンティックなサウンドで構成されるとす��者がいる。作詞家の畑亜貴による言葉選びについては複数のライターから肯定的な指摘を受けており、NARASAKIによるサウンドと合わせて女児向け作品らしくない風変わりな1曲と評されている。「カレンダーガール」は作曲・編曲を担当したMONACAの田中秀和によって様々なヴォーカル加工が施されたディスコ調の楽曲に位置づけられており、女の子の日常が描かれた内容となっている。田中が影響を受けたダンス☆マンを彷彿とさせるとも指摘され、曲中に組み込まれた多彩な編曲技術は音楽ライターらによって称賛されている。両楽曲を収録したシングルはオリコンシングルチャートにおいて最高105位を記録し、「カレンダーガール」は2019年発表の平成アニソン大賞において特別賞にノミネートされた。「Signalize!」と「カレンダーガール」は様々なヴォーカルによるバージョンがリリースされ、イベントでのライブ・パフォーマンスも披露されている。そのほかカバー・バージョンおよびミュージシャンのkzによる「カレンダーガール」のリミックス・バージョンも発表されている。さらにテレビアニメ『アイカツ!』で「Signalize!」と「カレンダーガール」は前述のように主題歌として用いられたほか、作中に登場するキャラクターの3DCGライブ・ステージで披露される挿入歌としても用いられている。とりわけ、アニメ『アイカツ!』1stシーズン最終話に当たる50話の脚本や演出技法は、楽曲「カレンダーガール」のサウンド構成やその歌詞と密接に絡んで制作されている。 -オホーツクに戻ったリコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、良左衛門や1810年(文化7年)にカムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民を伴ない、ディアナ号と補給船・ゾーチック号の2隻で1812年夏に国後島へ向かった。8月3日に泊に到着、国後陣屋でゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民を受け取るものの、ゴローニンらの解放については既に処刑したと偽り拒絶した。リコルドはゴローニンの処刑を信じず、更なる情報を入手するため、8月14日早朝、国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕した。乗船していた嘉兵衛と水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治・アイヌ出身のシトカの計6名をペトロパブロフスクへ連行した。 -13C-尿素を含んだ検査薬を内服し、服用前後で呼気に含まれる13C-二酸化炭素の量を比較する。本菌に感染していると、そのウレアーゼによって胃内で尿素がアンモニアと二酸化炭素に分解されて、呼気中の二酸化炭素における13Cの含有量が、非感染時より大きく増加するため、間接的な診断ができる。検査薬服用の20分後の13C-二酸化炭素の上昇が2.4パーミル以上の場合に、本菌による感染があるものとするなどの基準値が設けられている。通常、除菌治療の効果判定の目的に施行されている場合が多い。ヘリコバクター・ピロリが感染すると、本菌に対する抗体が患者の血液中に産生される。血液や尿を用いてこの抗体の量を測定し、ヘリコバクター・ピロリ抗体(血清Hp抗体)が高値であれば本菌に感染していることが認められ、ヘリコバクター・ピロリ感染の有無を検索するスクリーニング検査として簡便であるため、現在広く行われている方法である。尿を検体とする場合は判定が迅速で20分程度で判定が可能である。しかし、除菌後の抗体価低下には時間が掛かるため除菌後の検査や、一過性の感染既往による偽陽性が出やすい。閾値である10U/mLに近い陰性例(抗体価が3U/mL≦かつ<10U/mL)には、2割弱の偽陰性感染者が含まれることが明らかになってきており、日本ヘリコバクター学会が注意喚起を行っている。診断や研究用途に作られたヘリコバクター・ピロリに対する抗体を用いた抗原抗体反応による検査。この抗体が、生きた菌だけでなく死菌なども抗原(H.pylori抗原)として認識し、特異的に反応することを利用し、糞便中H.pylori抗原の有無を判定する。非侵襲的に本菌の存在を判定できるという長所がある。 -これによれば只見川と阿賀野川に連続して15箇所のダム式発電所を建設、既設5発電所の出力を増強させることで新規に増加する発電出力は235万キロワットに及び、年間増加発電量は55億キロワット時にも上るとしてその開発の��用性を主張した。この中で根幹事業として只見川最上流部に4箇所、伊南川に1箇所の巨大ダムを建設し大容量貯水池を建設するとした。ここにおいて初めて奥只見ダムと田子倉ダムの二大ダム計画が登場した。また尾瀬原ダムはこの計画で揚水発電から一般水力発電に修正され、利根川の分水も無くなりダムの規模も縮小された。この案は後に「只見川本流案」となる。「本流案」は只見川・尾瀬原・利根川総合開発計画案を審議する「只見川・尾瀬沼・利根川総合開発調査審議会」に1948年提示されたが、同時期新潟県は只見川の豊富な水量を信濃川水系に導水して灌漑(かんがい)に役立てようと考え、「只見川分流案」を引っさげ、福島県と対立した。また「尾瀬分水案」を巡って福島県は群馬県と争うなど、只見川を巡って河川管理者である福島・新潟・群馬三県が争う三つ巴の構図が生まれた。 -ゲルニカ爆撃(ゲルニカばくげき、バスク語:Gernikakobonbardaketa,スペイン語:BombardeodeGuernica,英語:BombingofGuernica)またはゲルニカ空爆(ゲルニカくうばく)は、スペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツ空軍のコンドル軍団がスペイン・ビスカヤ県・ゲルニカに対して行った都市無差別爆撃である。当時、戦争に新たに加わった無差別攻撃が空爆であり、ゲルニカ爆撃が最初であった。 -イブン・スィーナーは18歳までに蔵書の全てを読破し、「18歳にして全ての学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至る。王室附属図書館の蔵書はイブン・スィーナーの知識を深める上で大きな役割を果たした。間も無く図書館は火災で焼失するが、イブン・スィーナーの才能を妬む人間たちは、彼が知識を独占するために放火したと噂し合った。18歳の時、隣人のアル・アルーディにむけて、イブン・スィーナーは最初の著作『種々の学問の集成』を書き上げた。 -『牛乳を注ぐ女』は、欧米では牛の乳搾り作業に従事する女性を意味する「ミルクメイド」と呼ばれているが、実際に描かれている女性は低級の家事使用人であり、台所担当の召使いあるいは家政の女中である。この作品には、簡素な部屋の中でメイドが、牛乳をテーブル上のずんぐりとした陶製の容器に丁寧に注ぎ入れている情景が描かれている。さらにテーブルの上にはさまざまなパンが描かれている。メイドは若くがっしりとした身体つきの女性として表現され、ぱりっとしたリンネルのキャップ、青いエプロン、しっかりした肘まで捲りあげた分厚い作業着を着用している。背景の壁の床との接地面にはデルフト陶器のタイルが嵌めこまれている。左のタイルにはキューピッドの、右のタイルには長い棒を持った人物の装飾画があり、さらにタイルの前面の床には四角い足温器が置かれている。画面左側に描かれた窓からは日光が射し込んでいる。『牛乳を注ぐ女』には、詳細表現のためにではなく、女性とテーブルの重量感を表現するために錯視技法が使用されている。「明るい光が射し込んでいるが、パンの粗い表面や、女性の太く平らな胴まわり、丸い肩の質感表現には何の影響も与えていない」と、美術評論家カレン・ローゼンバーグは『ニューヨーク・タイムズ』の記事に書いている。ローゼンバーグはさらに、女性の顔半分には陰が落ちており「下向きの視線とすぼめた唇が、悲哀を意味しているのか、集中を意味しているのかは、誰にも判断できない」ともしている。ニューヨーク近代美術館西洋絵画部門のキュレーターで、2度のフェルメール展を担当したワルター・リトケは、『牛乳を注ぐ女』には「わずかながら『モナ・リザ』と同様の効果が見られる」としている。「現代の鑑賞者から見れば、(『牛乳を注ぐ女』に描かれている)この女性はちょっとした謎である。彼女は日課とも言える仕事をわずかに微笑みながらこなしている。我々がこの作品に抱く思いは「この女性はいったい何を考えているんだ」である」 -サーマーン朝は表面上はアッバース朝に従属の意思を示していたが、実際は独立国家としてイラン・中央アジアを統治していた。946年にブワイフ朝がバグダードに入城するまでの間、慣例としてサーマーン朝の歴代君主はカリフへの貢納と引き換えにアミールの地位の承認を受けていた。 -ホッホアプラス堰の地点でハウプトシュタットバッハとノイバッハがレヒ川から分岐するが、数百m後には再び合流する。その少し下流で北に向かうヘレンバッハ(下流ではハンライバッハやフィヒテルバッハを分岐しプロフィアントバッハとなる)や西に向かうカウフバッハを分岐する。カウフバッハはシェフラーバッハを分岐し市の堀と中核市区運河として流れる。北に向かいUPMKummeneで再び合流してシュタットバッハとなり、ヴォルフツァーナウでプロフィアントバッハと合流後、ヴェルタハ川河口の数m上流側でレヒ川に注ぐ。ミュールバッハ川はプファーゼー市区を流れている。ここから無数の小川が分岐し、中核市区の手前で合流する。 -因幡国での和紙生産は古く、8世紀前半(奈良時代)のものが確認されており、これは日本で最古期のものである。江戸時代には藩の輸出品になり、保護策がとられた。しかし、現在のように全国的な知名度を確立したのは第二次世界大戦後のことで、西洋紙が普及にともなって全国的に和紙の生産が急速に衰退する中で、新しいタイプの和紙の生産を繰り返してきた結果、全国的なシェアを獲得するに至った。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -2018年7月現在、木星には衛星が79個発見されている。そのうち53個は直径10キロに満たない小さなもので、54個は母星となる木星の自転方向とは反対の公転軌道を持つ逆行衛星であることが確認されている。そのうち、大きな4つの衛星であるイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストはガリレオ衛星と呼ばれる。イオ、エウロパ、ガニメデの3つは軌道共鳴状態にある。イオが木星を1周する間にエウロパは約1/2周、ガニメデは約1/4周する。このためこれら3衛星には特定の場所で重力の共鳴作用が起き、そのとき公転軌道は楕円形になる。なお、木星からの潮汐力は衛星の公転軌道を円型にしようと働く。 -同年(1883年)12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、1884年1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった。ピサロやモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の絵を描くフィンセントの間には意見の対立が生じた。1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたフィンセントは、再び父との争いを勃発させた。1885年3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。フィンセントはテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのはフィンセントであり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した。1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った。夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた。同年(1885年)10月、ファン・ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラント、フランス・ハルス、ロイスダールなどの17世紀オランダ(いわゆる黄金時代)の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された。 -技術実証機の建造費約200億円を含んだ総開発費は677億円、2号機以降の1機あたり建造費は約140億円である。1機目のHTV技術実証機には、「おおすみ」や「はやぶさ」のような他の国産宇宙機に付けられる愛称がつけられなかった。これは、補給機を再利用せず使い捨てにする用途のためであったが、2号機以降はより親しみを持ってもらうために2010年8月27日から9月30日までの期間に愛称が一般公募され、同年11月11日に「こうのとり」という愛称が発表された。選定理由は赤ん坊や幸せといった大切なものを運ぶコウノトリのイメージが、HTVのミッション内容を的確に表しているから、というものであ���た(愛称決定後、技術実証機を便宜上「こうのとり1号機」と呼ぶこともある)。なお、有効応募総数は17,026件、「こうのとり」の提案者数は217名で、提案者には特典として認定書・記念品が届けられ、抽選で選ばれた6組が、2号機から7号機まで毎回1組ずつ、名付け親の代表として種子島宇宙センターでの打上げを見守る。 -ニューアーク方式(英:Newarkchargingsystem)は図書館における図書の貸出方式の一つ。アメリカ合衆国ニュージャージー州のニューアーク公共図書館の館長であったジョン・コットン・デイナ(1856年-1929年)が考案したとされており、ニューアーク方式の名はニューアーク公共図書館による。日本においては、第二次世界大戦後、連合国軍総司令部民間情報教育局によって開館されたCIE図書館が導入を推進したこともあり、一時は急速に普及するが、プライバシーを守れないなどの欠点を抱えていたために後にブラウン方式に置き換えられた。ニューアーク方式と似た貸出方式で、個人カードを併用するツーカード方式や、一部業務を機械に行わせるゲイロード方式についても本項で述べる。 -1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 -東海道本線は、明治時代末期から昭和初期にかけては国府津駅から箱根の外輪山を迂回する「函嶺越え」のルートをとって沼津へと抜ける現在の御殿場線が本線であった。現在根府川駅を通っている東海道本線に該当する部分は当時は「熱海線」と呼ばれていて、1922年12月21日には真鶴駅まで延伸開業していた。9月1日午前9時5分、真鶴行の普通第109列車は、定刻通りに東京駅を発車した。新橋駅、品川駅、横浜駅、保土ケ谷駅、戸塚駅の順に停車し、10時15分に大船駅に到着した。大船駅では9時30分に東京駅を発車した特急第1列車の通過待ちをし、10時27分に発車した。第109列車は国府津駅、小田原駅にも定時に発着した。 -篠島(しのじま)は、三河湾に浮かぶ離島。行政上は愛知県知多郡南知多町に属し、全域が三河湾国定公園に含まれる。2015年(平成27年)の国勢調査における人口は1,653人、世帯数は622世帯である。日間賀島・佐久島と合わせて「三河湾三島」または「愛知三島」などと呼ばれる。古くから伊勢神宮との関係が深く、三節祭には干鯛(御幣鯛)の神饌が行なわれる。 -2年間の留学を終えたビューヒナーは、1833年7月にダルムシュタットに戻り、地元のギーセン大学医学部に移った。シュトラースブルクでの開放的な生活や自由な雰囲気に比べ、谷間の田舎町であるギーセンでの生活は彼の気を滅入らせ憂鬱にさせた。当時ギーセン大学には著名な化学者ユストゥス・フォン・リービッヒがいたものの、ビューヒナーが専攻した生理学・解剖学の分野はストラスブールに比べ遅れていた。なかでも解剖学の主任教授ヴィルブラントは旧態依然とした生理学理論を振りかざし、血液の循環を否定するなどして学生たちの間で笑いものになっていた。ビューヒナーは後に彼をモデルにした変人の医師を戯曲『ヴォイツェック』に登場させている。ビューヒナーはこの時期、シュトラースブルクでの生活を懐かしむ手紙を友人やヴィルヘルミーネに送り、自身の境遇を「みじめな生活」と言い表している。旧友ともあまり付き合おうとしなくなり、周囲の人間に対し高慢で冷淡な態度を取るようになっていた。憂鬱な生活を送るうちに、この年の11月に脳膜炎に罹り、実家で翌年の1月まで養生することになった。 -ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、タンギー爺さん(パリ時代)、ジヌー夫人、郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌ(ゆりかごを揺らす女)らその家族(アルル時代)、医師ガシェとその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの肖像画を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は大聖堂よりは人間の眼を描きたい」と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。......僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」。 -キルデリク1世の息子がクロヴィス1世である。クロヴィス1世は466年ごろに生まれ、481年もしくは482年に父キルデリク1世の死を受けて「フランク人の王」の地位を継いだ。クロヴィス1世が王位を継承したとき、北ガリアでは、キルデリク1世の同盟者であったガリア軍司令官・アエギディウスの息子であるシアグリウスが「ローマ人の王」と呼ばれ、カンブレー地方からロワール川までの支配権を抑えていた。クロヴィス1世は父親同士が最後まで崩さなかった友好関係を破棄し、北ガリアの覇権をめぐってシアグリウスと争った。486年にソワソンの戦いでクロヴィス1世がシアグリウスを打ち破り、ロワール川流域までフランク族の支配が広がった。その後、クロヴィス1世は周辺諸部族との戦いに次々と勝利を収めていく。491年にライン地方でテューリンゲン族(英語版)を撃破して服属させ、496年にスイス地方でアレマン人に勝利した。トゥールのグレゴリウスの伝えるところによれば、この間にブルグント王・グンドバト(英語版)の姪、クロティルダと結婚した。彼女はカトリック教徒であり、その教化と対アレマン戦での奇跡的な勝機の出現に啓示を得たクロヴィス1世は、従士3,000人とともにランス大司教のレミギウスによってカトリックの洗礼を受けたとされる。 -氷貿易の歴史は1806年にニューイングランドの実業家であったフレデリック・チューダーによって始まる。チューダーは、はじめカリブ海にあるフランス領マルティニークに氷の輸出を行った。この島に住む裕福なヨーロッパの上流階級に氷を売ることを目指し、そのために自前の貯氷庫も建設した。しばらくすると、販路はキューバとアメリカ南部にも拡大し、ニューイングランドで氷の収穫と輸出をおこなう競合者も現れはじめた。1830年代から1840年代にかけて氷貿易はさらに拡大し、彼らの積荷はイギリス、インド、南アメリカ、中国、オーストラリアにまで達した。チューダーは特にインドとの貿易を通じて一財産を築き、ロンドンではマサチューセッツ州ウェナム湖産の氷がウェナム・アイスとして有名なブランドになった。 -大仏造立発願の詔は、この2年半後の天平15年(743年)10月15日、紫香楽宮から発せられた。当初の計画では、離宮であった紫香楽宮近くで、一時期近江国国分寺にも当てられた甲賀寺に大仏が造営されることになっていた。この計画では、民衆の多大な支持を集め、一時期には政権から危険視されていた僧・行基を起用、重用することで民衆の理解を求めた。現在、紫香楽宮の遺跡は発掘調査が行われており、その結果、現在の信楽町大字黄瀬の宮町遺跡として知られる場所に宮があり、史跡にも指定されている紫香楽宮址こそが甲賀寺の跡であろうと確定的に見られている。ところが、紫香楽宮での大仏造立計画は何故か中止となり、天平17年(745年)、聖武天皇は恭仁京からの遷都を発表(とはいえ、この当時は、大半の行政が紫香楽宮で行政が行われていた)、都を平城京へ復することとなった。これには、頻発した地震や反対勢力の抵抗などの原因が指摘されているが、わざわざ建設半ばの大仏までも捨ててしまうほどの肝心の主因はよく分かっていない。飯沼賢治は大仏建立に関して聖武天皇と光明皇后の間に仏教観の相違を含めた対立が存在したとする見方を取る。飯沼は聖武の意向は行基教団や知識集団を巻き込んで紫香楽に建立する構想であったが、光明の意向は国家事業として自らが建立に関わった福寿寺の後身で国分寺の中心であり、いずれは所謂「国家仏教」の中核として機能する筈である奈良の東大寺に建立する構想を持っており、そのモデルは亡き父・藤原不比等および唐の則天武后の仏教政策であったと推測する(行基に対する朝廷の弾圧が激しかったのは不比等の政権下である)。聖武天皇と光明皇后の仏教観の対立は政治的対立の要素を帯び、最終的に皇后側が勝利して天皇の意図した紫香楽の大仏計画は中止されて、改めて皇后が意図する東大寺での大仏計画が開始され、政権は皇后を支えた藤原仲麻呂が主導権を得ることになったとする。 -これらの反進化論法に対し、裁判の場で争って廃止しようとする動きを主導したのが、アメリカ自由人権協会(ACLU、AmericanCivilLibertiesUnion、アメリカ市民自由連合、全米自由人権協会)だった。ACLUは表現の自由など様々な市民の自由を守るための活動を続けている団体である。 -この時点でフランソワとヘンリー8世の関係はこじれていた。ヘンリーは同盟条約で規定されていた年金支払いをフランスが拒否したことに激怒していて、さらにフランスのスコットランド介入に直面していた。ヘンリーは息子とスコットランド女王メアリーを結婚させようとし、それがスコットランドの政争につながり、ヘンリーはその隙をついてスコットランドを攻撃した。ヘンリーは1543年夏の宣戦を目途に、フランソワに対する戦争を準備していたが、皇帝の支持を取り付けるのに苦労した。皇帝はヘンリーが教会分裂を引き起こすとみていたので、ヘンリーを攻撃から守ることも、教会の長と呼ぶことも到底受け入れられるものではなかった。交渉は数週間続き、1543年2月11日に同盟条約に漕ぎつけた。条約では2年内のフランス侵攻が約された。同年5月、ヘンリーはフランソワに最後通牒を送り、20日内の返答を要求し、6月22日に宣戦した。 -ウィリアム・キャヴェンディッシュは、成人直後の1741年イギリス総選挙でダービーシャー選挙区から出馬して庶民院議員に当選、1742年11月16日に初めて議場での演説をした。 -1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区等で過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、それらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定した。後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわず、再度数年の充電期間に入る。その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作され���。 -なお、西条酒の仕込み水が軟水から中硬水になったのは大正期とされている。これは町が発展していく中で他の井戸から生活用水としての取水が増えたため地下水位が下がったことにより、井戸を深く掘らなければならなくなり結果中硬水になったと推定されている。そこで賀茂鶴木村静彦や白牡丹島博三などの尽力で軟水醸造法と西条の醸造法をあわせた「西条中硬水醸造法」が完成した。更に中硬水となったことで灘と同じ醸造法でも作れることが分かった。酒質改善には民だけではなく官も動いている。これは酒税が国税収入の重要な位置を占めるようになったため、国も財政の一環として働きかけたのである。その中で、1902年(明治35年)広島税務管理局醸造技術部に大蔵省の醸造技手として橋爪陽が着任し、以降広島県下の酒造業発展・杜氏の育成に尽力した。全国に先駆けて1929年(昭和4年)西条に広島県立醸造試験場ができたときには、橋爪が初代醸造部長に就任している。また、このころの西条町長である吉井常夫も多大な尽力をしている。こうして、元々持ち合わせていた良い酒米・水を生み出す環境に、近代的な酒造技術が確立したことで、銘酒が生まれる下地が出来上がった。 -昆虫では体内で必要とするコレステロール合成ができないため、肉食性の昆虫では食物からすべてのコレステロールを得ている。草食性の昆虫では食物となる植物細胞の構成要素となるステロールの主体がシトステロールなどであり、コレステロールの量がわずかであるため必要量を満たせない。そのためシトステロールを体内でコレステロールに変換していることが知られている。(教科書を含む)多くの書籍では植物にはコレステロールが含まれないという誤った記述が見られる。この誤解の多くは、米国の食品医薬品局が食品中のコレステロール含有量が一回の食事当り2mg以下の場合にラベル表示をしなくても良いとしていることに起因する。植物性食品にも多少のコレステロールは含まれる(ベールマン(Behrman)とゴパラン(Gopalan)によると動物性食品では5g/kgなのに対し、植物性食品では総脂質のうち50mg/kgがコレステロールであると指摘している)。 -『道徳感情論』は、スミスがグラスゴー大学の教壇に立っていた時期に書かれた本であり、1759年に出版された。スミスは生涯に『道徳感情論』と『国富論』という2冊しか書物を遺していないが、『国富論』が経済学に属する本であるのに対して『道徳感情論』は倫理学に関する本とされる。今日のような秩序だった社会において人々は法の下で安心して安全な生活を送ることができるが、その根幹には人間のどのような本性があるのだろうか。『道徳感情論』において、スミスはこの問題に応えようと試みた。スミスの師であるフランシス・ハッチソンがこうした社会秩序が人間のひとつの特殊な感情に起因すると考えたのに対し、スミスは社会秩序が人間のさまざまな感情が作用し合った結果として形成されると考えていた。『道徳感情論』の原題TheTheoryofMoralSentimentsのSentimentsが単数形ではなく複数形であるのも、こうしたスミスの思想が反影されている。『道徳感情論』においてスミスが社会秩序の要因と考えた感情とは、端的に言えば同感(英:symphathy)である。スミスが重要視した同感とは、他人の感情および行為の適切性(英:property)を評価する能力であり、こうしたスミスの思想は現代の神経科学者や行動経済学者からも注目されている。 -16世紀初頭、ポルトガル人トメ・ピレスの『東方諸国記』によれば、ムラカの港市には、カイロ・メッカ・アデンのムスリム、アビシニア人(エチオピア人)、キルワやマリンディなどアフリカ大陸東岸の人びと、ペルシャ湾沿岸のホルムズの人、ペルシャ人、ルーム人(ギリシャ人)などを列挙したうえで、「62の国からの商人が集まり、84もの言葉が話されている」と記している。こうした繁栄を知ったポルトガル人は1511年、16隻の軍艦でこの町を攻撃、占領してポルトガル海上帝国の主要拠点のひとつとした。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を「発見」してから15年足らずのことであった。 -セラムは2000年12月10日に、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所に所属していたエチオピア人の古人類学者ゼレゼネイ・アレムゼゲド(ZeresenayAlemseged)によって発見された。エチオピアは重要な化石人骨が多く出土しているが、それらの発見はエチオピア人以外の調査チームによってなされたものばかりであった。セラムの発見は、地元エチオピア出身の研究者が初めて達成した業績という点でも特筆に価する。発見場所は、アワッシュ川の南に位置する「ディキカ1」(LocalityDikika-1)と呼ばれる地域である。エチオピア北東部のこの一帯はその種の人骨が多く発見されてきた場所で、セラムが見付かったのも、アファール猿人の最初の全身骨格であるルーシーが見付かった場所と4kmしか離れていなかった。そのため、セラムはしばしば「ルーシーの赤ちゃん」と報道されることになった。しかし、ルーシーが生きていたのは318万年前のことなので、実際には332万年前のセラムの方が、15万年近く古い時代を生きていたことになる。 -こうした欧米化は、従来のアフプアアを軸とした土地概念にもおよび、ハワイ社会でも土地私有の観念が広く受け入れられた。1848年制定の土地法により、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割されたが、1850年にクレアナ法が制定され、外国人の土地私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となって、先住ハワイ人の生活基盤が損なわれるようになった。いっぽうアメリカ国内のジャーナリズムは、すでに1849年頃には、ハワイ諸島をアメリカに併合し、ハワイ州として連邦に加えるべきだと主張し始めており、1852年、この提案が議会に提出されて検討に付された。なお、この間カリフォルニアが1850年に州への昇格を果たしている。 -三島事件とは、1970年11月25日に、作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件とも呼ばれる。この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家の起こした異例な行動に一様に驚きを示した。 -追い込み漁の方法は、漁船50-60艘で半月状に群れを取り囲み、投石、水面を叩く、船縁を叩くなどして湾内に追い込み、湾を「建切網」で塞ぐというものだった。小型鯨類の漁法は追い込み漁以外にも、呼吸の際を狙った突取と呼ばれる銛を使った方法も行われた。当時は肉は食用、脂肪は油採取、革は革製品(とりわけ靴)に用いられた。なお、食用としてはゴボウなどと共に味噌煮にするのが一般的だった。静岡県では醤油漬けや味醂漬けを天日に干したものが焼いて食べられた。皮からは油が取られ、揚げ油や石鹸の原料として使われた。絞った後の皮は揚げて菓子として食べられた。残りは良質の肥料とされた。静岡県の川奈(現伊東市)でのいるか小型鯨類の追い込み漁は、カンカンと呼ばれる孟宗竹の節を抜いた棒で海面を叩いたり、ドウズキと呼ばれる150センチメートル位の棒を投げ込んだりして、13ノット(24km/h)ぐらいの速度で行われた。1回の漁獲量が1000-2000頭ほどだった。江戸時代の漁の様子は、『肥前国産物図考』のひとつ『海豚漁事・鮪網之図・鯛網・海士』を参照されたい。 -ベネディクト16世が2013年2月28日をもって辞任したことを受け、その後継を選ぶために同年3月12日より実施されたコンクラーヴェにおいて、翌3月13日、新教皇の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿115名による5回目の投票で新教皇に選出された。コンクラーヴェ開始前、ベルゴリオはすでに76歳と高齢であり、マスコミからは新教皇の有力候補とは見做されていなかった。そのため、新教皇としてベルゴリオの名前が発表された時には、各国のマスコミは大きな驚きをもって彼の名前を報道した。彼はマスコミの事前予想を完全に覆し、新教皇の選出に必要とされる枢機卿全体の3分の2を大きく上回る90票以上の得票をもって選出されたという。 -トビー・フォックスは本作の開発に2.7年を費やした。制作資金は、Kickstarter上のクラウドファンディング���ャンペーンを通じて調達された。キャンペーンは2013年6月25日に始まり、当初の目標金額は5,000ドルだった。終了したのは2013年7月25日で、2,398人から51,124ドルが集まった。実に目標金額の10倍以上である。まず、フォックスはゲーム制作システムのGameMaker:Studioで戦闘システムを作り、その後ゲーム本編の制作に入った。フォックスはいわゆるJRPGのファンであるが、古いRPGのデザインにはかねてから退屈しており、そういったものにとらわれないゲームを作りたいと考えていた。開発にあたって目指したのは、「興味をそそられるキャラクター」をゲームに吹き込むこと、そして、「ゲームならではの表現媒体をストーリーテリングの道具として活かし、ストーリーとゲームシステムとを別々のレベルで扱うようなことはしない」ことである。グラフィックの一部分を除けば、フォックスはほとんど全編を1人で制作した。他人には頼らず作ろうと決心していたのである。しかし、フォックスにはゲーム開発の経験がほとんどなかった。子供のころは、3人の兄弟と一緒に『RPGツクール2000』でゲームづくりを楽しんでいた。しかし、それも完成までこぎつけたことはほとんどなかった。高校時代には『MOTHER2』のROMハックに取り組み、いくつか作品を残した。ゲーム開発のキャリアはそれだけだった。メイン・アーティスティック・アシスタントとしてテミー・チャン(TemmieChang)が参加し、スプライトとコンセプトアートを多く手がけている。フォックスは考えでは、もっと大人数のアーティストチームが加わっていたとしても、グラフィックの方向性は変わっていなかっただろうという。「プレイヤーが愛着を抱くのは、細かく描き込まれたキャラクターじゃない。シンプルに描かれたキャラクターのほうなんだ。そう確信している」。特に、シンプルなグラフィックを用いると、視覚的なギャグが使いやすいというメリットがあったという。 -国家の成立以前、エストニア地域における公式言語はデンマーク語・ドイツ語・スウェーデン語と、支配者の移り変わりによって変遷した。同地にロシア帝国の支配が確立した後は、ロシア語が唯一公式の教授言語となった。しかし、その文化領域での支配的言語はエリートのバルト・ドイツ人が使用したドイツ語であり、17世紀にスウェーデン帝国によって設立されたタルトゥ大学も、エストニア独立までほぼ一貫してドイツ語を教授言語としていた。19世紀初頭の農奴解放令によって生まれ始めたエストニア人知識層も、やはりコミュニケーション手段としてはドイツ語を使用した。 -本種の漁獲の深海域への拡大によって、成長と繁殖の周期が遅い、本種を含めた深海性のサメの乱獲への懸念は強くなった。この懸念は、アゾレス諸島における本種の漁獲量の急激な減少によって裏付けられる。アゾレス諸島における本種を目的とした漁獲は、1970年代初頭に肝油を採るために始まった。1980年代初頭には底引き網漁などによって漁業規模が拡大し、その結果1983年には漁獲量のピークに達し937トンを水揚げした。しかし1991年以降漁獲量は急激に減少し、年に15トンほどとなった。肝油の価格が下落したこともあり、1990年代の終わりには漁業はほとんど行われなくなった。北東大西洋において、生息数は乱獲前の50%にまで減少したとみられている。 -1日の時刻の測定に使われた初めての時計は日時計だった。最も古いタイプの日時計は古代エジプトで作られており、緑色片岩を加工したものだった。紀元前3500年頃に作られたオベリスク(方尖塔)もまた日時計の役割も果たしていた。エジプトでは日中を10に分けていた。オベリスクはそれに合わせて作られており、エジプトの人々は午前と午後を、あるいは季節を読み取ることができた。紀元前1500年頃には日時計の影を作る部分がT字型になり、その形の歪で時刻の補正ができるようになった。ただし、形をどれだけ工夫しても、日時計は曇りや夜など太陽が見えていない時には使えない。そこでエジプト人は、水時計、砂時計、天体図などを使って時刻を知ろうとした。水時計に関して残っている最も古い文献資料は、紀元前16世紀のアメンエムハト[要曖昧さ回避](Amenemhet)の墓碑銘で、この内容から彼が��時計の一つを発明したと考えられている。いろいろな水時計が考案されており、中には非常に複雑な構造のものもあった。その一つは容器の底に小さな穴が開けられたもので、水面の高さから時間変化を読み取ることができた。有名なのは古代エジプト第18王朝の第2代ファラオ、アメンホテプ1世の墓で見つかったもので、おそらくこれが古代エジプトで初めて作られた水時計である。砂時計も古代エジプトで発明されたものと考えられており、その原理は今のものと同じ、2つの容器を細い管でつないだものであった。水時計と砂時計の大きな違いは、水時計は流れる水の速度が水面が低くなるにつれて次第に遅くなるのに対し、砂時計はほぼ一定速度で砂が落ちることである。この砂時計は逆さにすれば再び時を測ることができるものであった。このほか、星を観察しての時刻測定も行われた。たとえばメルケット(merkhet)と呼ばれる鉛直線を求める装置や、紀元前600年頃になると北極星から南北線を見つける装置を使って、鉛直線や南北線と星との位置関係から時刻を割り出すようになった。 -ハンセン病の分類に関しては様々な分類法がある。一般的な病型分類は、WHOのMB型・PB型分類法であり、この分類が望ましい。以前は、1962年提唱のRidley&Joplingの分類法が一般的に使用された。WHOは、多剤併用療法による治療方針決定上の簡便な病型分類として、MB型(多菌型、multibacillary)とPB型(少菌型、paucilbacillary)の2分類を採用している。MB型はおおむねLL型、BL型、BB型および一部のBT型に相当する。一方、PB型はおおむねI群、TT型および大部分のBT型に相当する。菌スメア検査のBI(bacterialindex)(菌指数)と皮疹(皮膚の発疹)の数によって分けられる。BIについては検査の項を参照。Ridley&Joplingの分類法とは、1962年に提唱された分類法である。分類の方法は、らい菌に対する生体の細胞性免疫の強弱に基づいている。LL型(らい腫型、lepromatoustype)、TT型(類結核型、tuberculoidtype)、B群(境界群、boderlinegroup)、I群(未定型群、indeterminategroup)に分け、さらにB群はLL型に近いBL型(borderlinelepromatoustype)、TT型に近いBT型(borderlinetuberculoidtype)、中間のBB型(mid-borderlinetype)と、1群5型に分類した。 -A318の生産分担についてはエアバス内部で政治的駆け引きがあったものの、最終組み立てはA319やA321と同様にドイツのハンブルクで行うことに決まった。2001年8月からA318初号機の最終組立が始まった。初号機はPW6000エンジン装備機で、A320ファミリーの通算1,599番目の機体となった。2002年1月15日、ハンブルクにて成功裏に初飛行を行い、型式証明取得のための試験が始まった。同年6月3日には2号機も初飛行を行い、この2機で証明取得に必要な試験飛行を行う計画だった。当初、PW6000は、部品点数を減らし保守コストを抑制するため、高圧圧縮機を5段としたところ、燃費の目標値水準を達成できないことが明らかとなった。そこでやむを得ず、MTUエアロ・エンジンズ社製の6段の高圧圧縮機に変更することになった。これにより、試験スケジュールに遅延が生じ、CFM56装備型の証明取得を先行して急ぐこととなった。 -弘治元年(1555年)6月、弟・秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された。それを聞いた信行は、信次の居城・守山城の城下を焼き払わせた。これに対して信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」と言って、信次を処罰しようともしなかった。この対応の違いにも、信行と信長の対立が見て取れる。信次は逐電したため、守山城主の地位には、信行の兄弟である織田安房守(信時ないし秀俊)がついた。安房守は信長方の人物だったと考えられる。ところが、時をおかずに、翌年の弘治2年6月頃、安房守は横死してしまった。安房守を死に追いやったのは守山城年寄衆・角田新五であった。しかし角田は全く処罰を受けておらず、後の稲生の戦いでは信行の側について参戦していることから、安房守謀殺に信行が関与していた可性が指摘される。前々年の叔父・信光の殺害に続き、安房守も死去したことで、織田弾正忠家内の覇権争いに生き残ったのは、信行と信長の2人となった。 -18世紀前半までに、ポーランド・リトアニア各地はマグナート(大貴族)の手に握られ、また彼らは、2世紀にわたりシュラフタ(貴族)階級が大きな権限を持ち、王権が制限されてきた黄金の自由の時代を通じて得てきた数々の特権を盾に、それを阻害しうるようなあらゆる改革に反対していた。セイム(国会)では自由拒否権の濫用により議会制度が麻痺し、貴族間や外国勢力による買収活動が横行して、1世紀以上にわたりポーランド・リトアニア共和国は国家機能が半ば崩壊した状態が続いていた。17世紀中盤から共和国の改革を進めようという機運は続いていたが、それは大貴族のみならず、共和国の弱体化を望む周辺諸国にとっても好ましくないことだった。マグナートやシュラフタの軍役回避策が重なって、ポーランド・リトアニア共和国軍はわずか1万6000人にまで減少しており、30万人を擁するロシア軍や、20万人を擁するプロイセン軍・オーストリア軍にとっては格好の餌食であった。 -1984年のロサンゼルス大会からは商業主義を取り入れることとなった。この方式は成功したが、一方で、IOCが、競技者よりも、金銭を提供するテレビ局やスポンサーを優遇する問題が生じている。2008年の北京大会ではアメリカのテレビ局NBCの意向で、アメリカでの視聴率が取りやすいように(北京の午前はアメリカの夜のゴールデンタイムになるため)一部の競技の決勝が午前中に開催された。2018年の平昌大会ではその傾向が顕著になりスキージャンプ競技は深夜の風の強いコンディションで行われ、更に普通夕方~夜に行われるフィギュアスケートは午前から競技開始と異例の競技時間となった。2020年の東京大会でもNBAやNFLなどアメリカ国内の他プロスポーツとの兼ね合いから開催時期を7~8月に設定した結果、後に猛暑から選手の健康を守るという観点で開催9ヵ月前にも関わらず、男女マラソンや競歩の開催地を東京から札幌市に移す一因にもなった。後述のアンブッシュ・マーケティング規制は、スポンサーにのみオリンピックへの言及を許し、一般企業がオリンピックを応援することを規制しようとする試みである。 -1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗した。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北した。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領した。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 -また降水量との関係で言うと、発生地で降水量が少ないほど黄砂の発生は多い傾向にある。降水量によって、土壌の乾燥状態、積雪や植物の有無といった地面の状態が変化するためである。なお、砂塵嵐のことを中国語で沙塵暴(簡体字:沙尘暴、拼音:shāchénbàoシャーチェンパオ)といい、中国の市民の間では「黄砂」という言葉はほとんど使われず、「沙塵暴」をよく用いる。沙塵暴は時に猛烈に発達することがあり、中国の気象当局は、瞬間風速25m/s以上で視程が50メートル以下の砂塵嵐を「黒風暴」(ウイグル語でقارابوران、英字表記:qaraboran、日本語音写:カラボラン、「黒い嵐」「大嵐」「台風」の意)または「黒風」と規定、俗に「黒い嵐」などと呼ばれている。黒風暴は、寒冷前線の通過時などで大気が不安定になったときに、ダウンバーストやガストフロントなどの局地的な突風をきっかけに発生する。水平方向の大きさは小さいもので数百メートル、大きいものは100キロを超える。大きな渦を巻きながら移動し、これが押し寄せてくると、高さ数百メートルの「砂の壁」が迫ってくるように見える。「砂の壁」の中に入ると、急激に周りを飛ぶ砂の量が増え、(昼間であれば)次第に周囲が黄み・赤みを増しながら暗くなり、風も強まってくる。数十分ほど屋外は真っ暗となり、歩くことさえままならない状態となる一方、屋内に避難していても砂の進入によって日常生活が難しいほどになる。黒風暴の発生はごくまれではあるが、近年では1993年5月5日に発生して甚大な被害を出した(後節で詳しく解説)。また、周囲を山脈に囲まれたタクラマカン砂漠などの高低差が大きい発生地では、山谷風と呼ばれるほぼ毎日同じ時間帯に吹く強風が砂塵嵐を強める要因になっているとの指摘もある。ゴビや黄土高原からの黄砂は上空1-2キロでよく観測されるのに対し、周囲を6,000メートル級の山脈に囲まれるタクラマカンからの黄砂は上空6キロ程度によく観測される傾向にあり、夏の「バックグラウンド黄砂」のおもな発生源となっている。 -連合軍は初日の目標達成に失敗したが、細長い海岸堡を確保した。その後、徐々に戦線を拡大し、6月26日にシェルブールを、7月21日にカーンを占領した。8月8日のドイツ軍の反撃は失敗し、ファレーズ・ポケットに第7軍の兵士5万人が取り残された。連合軍は、8月15日に南フランスへの侵攻を開始(ドラグーン作戦)し、8月25日にはパリを奪還した。 -ニコラエフスクにおける漁業を事業として成立させたのは日本人だったが、1901年に日本人の漁業は禁止され、1907年に調印された日露漁業協約においてもニコラエフスク近辺は対象からはずされたため、ロシア人と共同経営をしていた島田商会などをのぞき漁業関係者は撤退した。しかし海産物の交易は続き、第一次世界大戦による食糧不足でロシアの国内需要が急増するまで、ニコラエフスクの主要海産物であった鮭の主な輸出先は日本であり、居留邦人の数が多かったため領事館が設けられていた。 -ロイヒはハワイ-天皇海山列のなかで一番新しくできた火山である。ロイヒはハワイ諸島を構成する火山列の中で形成された年代が最も若い。ハワイにある火山の成長史のなかで、現在のロイヒは幼年期(Submarinepreshieldstage:直訳すると「海底火山/先盾状火山期」「先楯状期」)に相当する。2012年の現時点では、ロイヒ以外に幼年期にあたる火山は、ハワイ諸島の火山のなかでは発見されていない。ロイヒは海底深くで火山島へと成長しつつある海底火山であるといえる。ロイヒは約40万年前に形成を始めた。今後1万から10万年後頃になれば、海面上に姿を現しはじめるだろうと予測されている。ロイヒは深海底から比高3,000m(10,000ft)以上に聳え立っている。この高さはセント・ヘレンズ山が1980年に起こした破局的な噴火(en)で低くなる前の海抜標高に匹敵しているか、それを追い抜くほどになっている。今のところ、山頂は海面下975m(3,000ft)に届いている。ロイヒ山頂周辺の熱水噴出孔には多種多様な微生物群が生息している。 -漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字など言葉遊びの多用が見られる。漱石以前に使った形跡が見られない造単語や一般的に使われている漢字とは異なる別種の綴りがある。現在、下記の「浪漫」「沢山」のように一般用語化されたものも多いが、漢字検定の上級問題として用いられることも多い。「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもあると言われている。しかし、漱石が生きた時代は現在では使われない当て字が多く用いられており、たとえば「バケツ」を「馬尻」と書くのも当時としてはごく一般的であり、「単簡」などは当時の軍隊用語であるなど、漱石固有の当て字や言葉遊びであるということは、漱石以前の全ての資料を確認しない限り、確定はできない。「新陳代謝」「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩が凝る」などは漱石の造語であると言われているが、実際には漱石よりも古い用例がある。一例としては、漱石が「肩が凝る」という言葉を作ったとする説があるが、18世紀末頃(江戸時代後期)からの歌舞伎、滑稽本に用例が見られる。学術的に「漱石の造語」であると言える言葉はまだ一語も確認されていないが、「浪漫」については『教育と文芸』中に「適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きました」との記述がある。 -浄ノ池(以下、浄の池と記述する)は指定解除後に埋め立てられ池自体が消滅しており、2020年現在、跡地には民間病院が建���られ往時を偲ぶものは残されていない。しかし、かつて浄の池は家屋の密集する市街地に位置する交通の便の良い珍しい天然記念物であったことから、温泉都市伊東温泉における代表的な名所として大正期から昭和中期にかけ多くの観光客が訪れる場所であった。人々は池に閉じ込められた南海産の珍奇な魚類を眺め、天然のビオトープとも言える小さな水中の不思議な生物相に想いを巡らせた。 -9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ(ドイツとソ連)不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 -物語の舞台の星には、「水の民(みずのたみ)」と「陸の民(りくのたみ)」という2つの種族が存在する。両者の姿形は似ているが、水の民は水中での呼吸が可能な水生民族で皆金色の髪を持ち、水中で髪が輝くことから陸の民からは「煌髪人(こうはつじん)」とも呼ばれる。水の民の間では「古刻語(ここくご)」という言語が使用され、彼らが苗字の代わりに使用する「誠名(まことな)」も古刻語で表現される。水の民は意思を持つ海「滄我(そうが)」を崇め、滄我の声を聴くことが出来る存在「メルネス」を通じて滄我との意志交感を行い生きている。ほぼ全ての水の民は滄我の力を源とする特殊能力「爪術(そうじゅつ)」の高度な行使能力を持つ。陸の民はいわゆる「人類」であり、水中での生活は不可能で爪術も当初は使えなかったが、本編から数えて50年ほど前から使える者が現れ出した(その理由は不明)。4000年前に起きた大地の半分を海に沈めた災害「大沈下」の影響で陸の民は壊滅的な打撃を受けたが、ゲーム本編の時代では人口を増加させている。逆に水の民は環境の変化により個体数が極端に減少している。 -掃除魚の存在が生態系に与える影響の程度は、個々の環境によって異なると考えられている。主に熱帯のサンゴ礁域において、掃除魚を一時的に環境から取り除く、あるいは新たに追加することで、魚類の行動や多様性に生じる変化を観察する実験が行われているが、その結果はさまざまである。カリブ海で実施された掃除魚の除去実験では、ホストとなる魚類の減少と寄生虫感染の増加が認められた。一方、ハワイでの同種の実験ではそのような変化はみられず、グレート・バリア・リーフでの6ヶ月にわたる実験でも、魚の数や種類に影響は観察されなかった。しかし、紅海およびオーストラリアの小規模なサンゴ礁においては、短期的な変動こそなかったが、18-20ヶ月後には魚類の多様性が著しく低下することが示されている。紅海とオーストラリアでの長期実験で最も強く影響を受けていたのは、サンゴ礁の多数の生物に影響を与えるであろう大型の遊泳性魚類であった。掃除魚はサンゴ礁に大型魚を呼び寄せ、それに伴う多様な生態系を維持するためのキーストーン種として機能し得ることをこの結果は示している。 -山体は岐阜県と長野県に跨がる活火山で日本で19番目に高い山だ。活火山ランクC気象庁による常時観測対象の47火山に含まれるが山頂部に噴気地帯は存在しない。比較的新しい火山であることから穏やかな山容が特徴で、最新の噴火は2000年前の恵比寿岳での噴火とされている。乗鞍岳を含む飛騨山脈の主な山域は1934年(昭和9年)12月4日に中部山岳国立公園の指定を受けた。長野県側の麓には溶岩流で形成された乗鞍高原が広がる。1949年に岐阜県道の観光道路で標高2,702mの畳平までバスが運行されるようになると、大衆化し「雲上銀座」と呼ばれ観光地として賑わった。長野県側からも畳平まで乗鞍エコーラインが開通し山麓にはスキー場が建設され周辺には温泉地があり、四季を通じて美しい景観に恵まれ、乗鞍岳の山域は観光地、保養地として発展している。日本百名山、新日本百名山、信州百名山、ぎふ百山、一等三角点百名山に選定されている。 -ピューリツァーが精神病院の取材を認めた背景には、ブライがワールド社を訪れる少し前に、ワールド社あてに病院職員からの内部告発の手紙が届いていたことがある。ブラックウェル島にあるこの病院では、患者への虐待が相次いでいるとの内容であった。病院については各紙ですでに記事にもなっていたが、病院の内部に入ることはできず、医師や看護師も話を拒んでいたため、実態については不透明だった。ブライは会社の指示で、患者を装って病院に潜入することとなった。指示を受けたブライは「できます」と答えたが、潜入後に救出される確かな見込みはなく、不安を感じた。「ネリー・ブラウン」という偽名を使い、キューバ人を装ったブライは、まずマンハッタンの女子臨時宿泊所を訪れた。ここは、身寄りのない女性が数日間宿泊できる場所である。当時は貧困と疲労によって精神を病むキューバからの女性移民がおり、その結果、キューバの女性は精神を病みやすいという噂が流れていた。 -1995年(平成7年)には夏季開館時間延長サービスを開始し、2001年(平成13年)と2004年(平成16年)にこのサービスを拡大した結果、6月-9月の平日すべてで開館時間を延長している。1998年(平成10年)には文庫本の貸出を開始し、1999年(平成11年)にはCDと漫画本の貸出を開始した。2000年(平成12年)7月には対面朗読室内に弱視者コーナーが設置された。 -『クマのプーさん』出版の際には、シェパードはミルンの家に招かれ、キャラクターのモデルとなったぬいぐるみたちをさまざまな角度から丁寧にスケッチして挿絵の準備をしている。ただし「プー」だけは、ミルン家のテディベアのスケッチも取っていたものの、結局描きなれていた自分の息子グレアム所有のよりずんぐりした体型のテディベア「グロウラー(うなりや)・ベア」のほうをモデルにして描くことになった。「グロウラー」はおそらくシュタイフ社製で、『ぼくたちがまだとてもちいさかったころ』の挿絵のほか、それ以前のシェパードによる『パンチ』寄稿作品にも何度か登場している。シェパードはまたミルンの別荘コッチフォード・ファームにも家族ぐるみで招かれ、この地を散策して物語の舞台のスケッチを取った。これらのシェパードのスケッチの大部分は、1969年にロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に寄贈されている。後年、シェパードは『クマのプーさん』『プー横丁にたった家』の自身の挿絵に彩色をほどこしている。この彩色版は1973年に出版され、その後ひろく使用されるようになった。またシェパードは、もとの挿絵ほどの評価は受けていないものの、1950年代の終わりに絵柄を変えて描いた別の彩色版『プーさん』も手がけている。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -ゴズリングはオンタリオ州ロンドンで、製紙工場の巡回セールスマンだった父トーマス・レイ・ゴズリングと、秘書でその後高校教師も務めた母ドナの間に生まれた。父トーマスはイングランド系・スコットランド系・フランス系カナダ人のルーツを持っており、ゴズリングの高祖父に当たるジョージ・エドワード・ゴズリングは、イングランド・ロンドンのパディントン出身だった。ゴズリングの両親は末日聖徒イエス・キリスト教会、いわゆるモルモン教の信徒で、信仰は両親の生涯に多面的な影響を与えていると語っている。一方で、モルモン教徒として育ったことの影響は認めつつも、ゴズリング自身は「自分を[モルモン教徒と]考えることはできない」と発言している。ゴズリングは父親の仕事の関係で引っ越しを繰り返しており、オンタリオ州のコーンウォールやバーリントンで暮らした経験がある。両親は彼が13歳の時に離婚し、ゴズリングは姉マンディと共に母親に引き取られ、他に女性の家族しかいない状況は彼に「女の子のように物事を考えさせた」と回想している。 -1299年にはグジャラートのヴァーゲーラー朝(後期チャールキヤ朝の後継国家)にムルターンのウルグ・ハーンとデリーのヌスラト・ハーンを派遣し、国王カルナ2世の軍をアーシャーパッリー(現在のアフマダーバード)近郊で破り、首都アナヒラパータカを攻略した。アラーウッディーンは征服地に長官を置かず、またヴァーゲーラー朝と臣従関係を結ぶこともなく、軍隊をデリーに引き上げさせたためにカルナ2世が従来通りグジャラートを統治するが、カルナ2世と婚姻関係を築いた後に彼が謀反を企んでいる情報が入ると、1304年に再びグジャラートに軍を進め、ヴァーゲーラー朝を滅ぼした。 -1866年(慶応2年)、大坂天満北富田町の酒問屋「鹿嶋」当主・鹿嶋清右衛門の次男・政之助として生まれる。4歳のときに、東京の霊巌島四日市町(現・新川)にあった同族の鹿嶋本店(ほんだな)の養子になる。当家には乃婦(のぶ)という名の跡取り娘がおり、清兵衛はその夫となるべくして育てられた。鹿嶋家は江戸きっての下り酒問屋で、明治になると貸地・貸家業を始めて大いに栄えた指折りの豪商だった。 -1981年に発足したアメリカのレーガン政権はサンディニスタ民族解放戦線が周辺諸国の反政府組織に武器弾薬などの供与し、ニカラグアがソ連の米州進出や麻薬取引・テロリズムの拠点になっているとの理由でこれを米州全体の脅威とし、経済援助を停止して次第にニカラグアの反政府武装組織コントラを支援するようになった。コントラはホンジュラスやコスタリカとの国境地帯に基地を設けて活動し、1980年代半ばには約1万5千人の兵力を有するほどまでに拡大した。 -現在では一般的に、1816年の気候異常は前年5月5日から同月15日までのタンボラ山の噴火により引き起こされたと考えられている。過去1600年間で最大規模の噴火であり、火山爆発指数ではVEI=7に分類されている。噴火により莫大な量の火山灰が大気中に放出された。タンボラ山の噴火が起こった時期が、太陽活動が低かったダルトン極小期(1790年-1830年)であったことも重要である。同時期に発生した大規模な噴火は以下の通り。1812年にカリブ海セントビンセント島のスフリエール山が噴火した。1812年にインドネシアサンギヘ諸島のアウ火山が噴火した。1813年に現在の鹿児島県鹿児島郡十島村の諏訪之瀬島が噴火した。1814年にフィリピンルソン島のマヨン山が噴火した。これらの噴火により既に相当量の火山灰が大気中に放出されていた。これにタンボラ山の噴火が加わり、大量の火山灰により太陽光が遮られたため世界的な気温の低下が引き起こされた。 -1999年のシリーズ第23作『ゴジラ2000ミレニアム』でゴジラ映画が再開された。この作品で2度目の世界観のリセットが行われる。第1作以外の過去のエピソードは一切語られず、ゴジラは地震や台風などの自然災害と同じように文明への脅威の存在として設定された。本シリーズの一部は第1作とその他の東宝特撮作品の世界観を反映した。しかし200万人から400万人と比較的高い観客動員数を維持した平成ゴジラシリーズと比べ、本シリーズは100万人から200万人ほどと大幅に減少した。そのため平成ゴジラシリーズと同じく、モスラ、キングギドラ、メカゴジラなどの人気怪獣の再登場路線となった。2001年から2003年までは『とっとこハム太郎』と併映されることになり、その影響で第26作『ゴジラ×メカゴジラ』、第27作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS』の2作は例年より15分ほど、上映時間が短縮化されている。2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS』は110万人と当時のワースト3位を記録(現在はワースト4位)した。制作サイドの目指す本当に新しい「ゴジラ映画」を制作することが当時の技術では困難として、ゴジラ50周年の節目である2004年にシリーズ集大成となる最高の「ゴジラ映画」を作り上げて締めくくろうということになり、同年公開の第28作『ゴジラFINALWARS』にてゴジラシリーズは再度終了となり、東宝が製作するゴジラシリーズは10年以上途絶えることとなる。ゴジラシリーズに数多く出演した水野久美や佐原健二らは『FINALWARS』のパンフレットで「まだゴジラシリーズに出演したい」というような趣旨のコメントを寄せた。 -1874年6月の『繁昌誌』に「辻売の煮肉は、一串僅文久三孔、廉価此の如くなれば、人力曳は、夜寒を凌ぐに便る地を得、按摩針に霜を踏むに杖の力云々」とあり、1944年の『増補改訂明治事物起源』はそれを紹介して「辻売の煮込の様子は今日と変わらない」と解説している。1882年頃の東京の低所得者の生活を記録した文学である、松原岩五郎の『最暗黒の東京』には「煮込み」の記述が記されており、これは労働者の滋養食にして種は屠牛場の臓腑、肝、膀胱、あるいは舌筋等を買い出してこれを細かに切りと書き出され、田楽のように串に刺して、醤油に味噌が混ざった汁で煮込んだものと記されている。 -ヨーロッパ映画で最初に成功したトーキーとしては、イギリスの『恐喝』がある。監督は当時29歳のアルフレッド・ヒッチコックで、この映画はロンドンで1929年6月21日に公開された。本来は無声映画として撮影されたが、会話シーンを追加し、音楽や効果音を追加して公開となった。BritishInternationalPictures(BIP)による製作で、録音はRCAフォトフォンで行われた。実は、ゼネラル・エレクトリックはTobis-Klangfilmの市場に関与するためにその親会社であるAEGの株式を取得していた。『恐喝』はかなりのヒット作となった。評論家も概ね好意的だった。例えば辛口で知られた評論家HughCastleは「我々が見たこともない音と静けさのおそらく最も知的な混合物」と評した。 -アラー・ウッディーン・ハルジーは、奴隷王朝に加わったテュルク系部族集団ハルジー族の出身で、奴隷王朝を滅ぼしてハルジー朝を開いたジャラールッディーン・ハルジーの甥にあたり、娘婿でもあった。 -現在アトランタという都市が存在しているこの地には、古くはスタンディング・ピーチツリーと呼ばれる、ネイティブ・アメリカンの村があった。1822年、チェロキー族とクリークス族がヨーロッパ人入植者に土地を割譲し、この地にディケーター(Decatur)という名の入植地が建設された。その後まもなく、非公式の取引所がヨーロッパ人の入植地へと発展し、スラッシャービル(Thrashersville)と名付けられた。1836年12月21日、ジョージア州議会は、こ��地と中西部との通商ルートを提供するため、アパラチア山脈を越えてテネシー州チャタヌーガへと通ずるウェスタン・アンド・アトランティック鉄道の建設案を可決した。一方、この一帯に住み着いていたチェロキー族は、1830年に成立したインディアン移住法の結果、強制移住によって土地を追われた。ネイティブ・アメリカンの去った土地には、鉄道を敷く余地が残された。1842年、マーサズビル(Marthasville)と名を変えたこの町には6棟の建物が建ち、30人の住民が住んでいた。その後も幾度か町名が変わった後、ジョージア鉄道の主任技術者エドガー・J・トムソンは、この地をアトランティカ・パシフィカ(Atlantica-Pacifica)という名に変えることを提案した。この名はすぐに「アトランタ」に縮められた。住民はこの名に賛同し、1847年12月29日、町はアトランタという名で正式な町になった。1854年には、アトランタとジョージア州西部、アラバマ州との州境近くの町ラグレンジとを結ぶ鉄道が開通した。1860年には、町の人口は9,554人へと増えた。 -笹子トンネルは中央東線の中でももっとも難工事が見込まれ、およそ8年の工期が予定されていた。このため中央東線全体を早く開通させるためになるべく早く着工する必要があり、1896年(明治29年)5月に八王子に建設工事の事務所が設置されると、すぐに路線建設のための詳細な測量を開始した。6月上旬に笹子峠の三角測量および水準測量が開始され、10月下旬に終了した。この際には雲や霧で見通しが遮られて大変な苦労をしたとされる。笹子側および初鹿野側に基線を設け、峠の上に設置した三角点との間での三角測量を実施した。トランシットは当初測定精度が1分角のものしかなくしかも古かったために苦労することになった。三角測量との検測を行うために定規を使った測量も行われ、梯子を掛けたり縄を垂らしたりして断崖をよじ登りながら苦労して測定が行われ、結果として三角測量との差は小さかったことから三角測量の値が採用された。水準測量については甲州街道に沿って測量を行い高低差を確定した。その後、トンネルの向きに少し変更が必要とされることになったため、12月に改測を行って最終確定とした。この改測では当時最新のトランシットを導入して20秒角まで測定できるようになり、精度が改善された。 -7世紀に入ると、ピェー(プローム)付近に存在したシュリークシェートラが大勢力となっていた。3世紀から10世紀にかけて存続していたと思われるシュリークシェートラは7つのピューの城郭都市の中で最大の都市であり、中国の僧である玄奘と義浄の著書には「室利差呾羅」「室利察呾羅」という名前で現れる。「シュリークシェートラ」の名前はインドのオリッサ地方の都市の旧称に由来し、やがてビルマ語に転訛してタイェーキッタヤーと呼ばれるようになった。8世紀に至ってもシュリークシェートラはピューの中心であり、18の属国を従え、9の城鎮、298の集落を有していた。シュリークシェートラの遺跡から出土した石棺と骨壷の銘文を解読した結果より、7-8世紀のシュリークシェートラはヴィクラマという王統によって統治されていたと推定されている。 -政府により、1977-1987年にブラフマー祠堂(チャンディ・ブラフマ〈ブラーマ〉、尼:CandiBrahma)が修復され、1982-1991年にヴィシュヌ祠堂(チャンディ・ウィスヌ、尼:CandiWishnu)が修復された。その後、1991-1993年にかけて、ヴァーハナ(尼:Wahana)のナンディ祠堂(チャンディ・ナンディ、尼:CandiNandi)、ガルーダ祠堂(チャンディ・ガルーダ、尼:CandiGaruda〈チャンディ・A〉)、ハンサ祠堂(チャンディ・ハンサ、尼:CandiHamsa〈チャンディ・B〉)が修復された。修復の取り組みは今日もなお続いている。しかし、現在もほとんどの小祠堂はそれらの基礎が認められるのみである。 -タイコンデロガ砦の奪取に続いてアーノルドとアレンは、イギリス軍がアメリカ植民地を分割しようという試みに対してタイコンデロガ砦を防御拠点とする必要性を主張し、併せてケベックの守りが薄いことも指摘した。彼らは、1,200から1,500名程度の小さな軍隊でもケベック植民地からイギリス軍を追い出すには十分なことを示して、それぞれ別にケベックに対する遠征を提案した。大陸会議は当初タイコンデロガなどの砦の放棄を命令し、ニューヨークとコネチカットの各植民地には基本的に防衛の目的で軍隊と物資を出すように促したが、ニューイングランドやニューヨーク植民地の一般大衆からは大陸会議にその姿勢を変えるよう抗議の声が上がった。このときケベック総督のガイ・カールトンがセントジョンズ砦の防御を強化しており、ニューヨーク植民地北部のイロコイ族インディアンを巻き込もうとしていることも明らかになり、大陸会議はより積極的な姿勢が必要であるとの決断を下した。1775年6月27日、大陸会議はフィリップ・スカイラー将軍にその地域を調査するよう認め、適切と考えられるならば侵略を始めることを承認した。指揮権を与えられなかったベネディクト・アーノルドはボストンに向かい、ジョージ・ワシントン将軍を説得して、アーノルドの指揮で別働隊をケベックに向けて派遣させることにした。 -ファン・ゴッホ作品のカタログ・レゾネ(作品総目録)を最初にまとめたのがジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユであり、1928年、全4巻をパリとブリュッセルで刊行した。ド・ラ・ファイユは、その後の真贋問題を経て附録や1939年補訂版を出すなど、1959年に亡くなるまで補訂作業を続けた。1962年、オランダ教育芸術科学省の諮問によってド・ラ・ファイユの原稿の完成版を刊行するため委員会が組織され、10年をかけて決定版が刊行された。ここでは作品にF番号が付けられている。また、1980年代にヤン・フルスケルが全作品カタログを編纂し、1996年に改訂された。こちらにはJH番号が付されている。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べている。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指す。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されている。 -ルイ14世の72年もの在位期間はフランス史上最長であり、18世紀の啓蒙主義思想家ヴォルテールはルイ14世の治世を「大世紀」(グラン・シエクルGrandSiècle)と称えている。また、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されている。また、メヌエットを宮廷舞踊に取り入れ、メヌエットを最初に踊った人と言われ、その時、太陽神アポロンに変装して踊った姿から「太陽王」と言う諢名がついたとも言われる。 -「東方問題」は、ヨーロッパから見て東方に位置するオスマン帝国を中心とした地域におけるヨーロッパの一連の外交問題を総称した、主にヨーロッパ側の呼称である。広義には、14世紀末以降オスマン帝国のバルカン半島進出によって形成された外交問題で、対オスマン十字軍やオスマン帝国を利用したブルボン家の対ハプスブルク家外交などを含み、20世紀前半のトルコ共和国成立にいたるまでのヨーロッパ対オスマン帝国間の外交問題のことを言う。狭義の、そして今日一般に使われる意味での「東方問題」は上記のうち、特に後半期の18世紀後半から19世紀後半にかけた外交問題を指し、オスマン帝国解体期にヨーロッパ諸国間の勢力均衡を帝国領の分配によって調整しようとしたものである。以下今日一般的に使われる「東方問題」として、狭義について説明する。 -東京(日比谷)CIE図書館は1945年(昭和20年)11月15日に東京都麹町区(現千代田区)内幸町のNHK東京放送会館108号室に設置された、最初のCIE図書館である。当初は主にCIE関係者に利用されていたが、翌1946年(昭和21年)3月16日に有楽町一丁目12日東紅茶の喫茶室へと移転し日本人にも開放された。1949年(昭和24年)2月からは小説・旅行記・歴史・伝記・児童図書に限り館外貸出しを開始した。後にアメリカ文化センターに改称。関東民事部のCIEが7か所にCIE読書室を設置していたが、そのうち杉並、深川、立川、前橋の4か所にCIE図書館から2か月ごとの巡回文庫サービスを提供していた。また、高崎分室(高崎市立図書館内の元CIE読書室)、巣鴨刑務所分室、桐生分室があった。歴代の図書館長はポール・J・バーネット、ローランド・A・マルハウザー、マイケル・C・フィンキン、ヘレン・M・ウッドであった。初代館長に任命されたバーネットは、一時帰国したのち再び来日し、第3代CIE図書館担当官となっている。 -フランスの地質学者モーリス・タイーブは、1972年にハダール累層(theHadarFormation)を発見したことを踏まえ、国際アファール調査隊を組織した。そこには、アメリカの人類学者で後にアリゾナ州立大学人類起源研究所(InstituteofHumanOrigins)の所長となったドナルド・ジョハンソン(DonaldJohanson)、イギリスの考古学者メアリ・リーキー(MaryLeakey)、フランスの古生物学者で後にコレージュ・ド・フランスに招聘されたイヴ・コパン(YvesCoppens)らが、共同責任者として招かれた。 -このアルバムでは、シングル楽曲4曲のうち「HOME」、「「アイシテル」」、「MyTreasure」の3曲を、加藤ミリヤ、CrystalKay、AI、MINMI作品のプロデュースなどで知られる3rdProductionsが、サード・シングルの「Diggin'OnU」はCHEMISTRY作品などで知られる塩川満己がプロデュースを担当した。その他シングル楽曲以外では、「WithYou」では鈴木"Daichi"秀行と近藤ひさしの2人によるプロダクション・チームConey'sJelly、「UNHAPPY」ではSTY、「Soulmate」ではYANAGIMANがそれぞれプロデュースというように、清水はこのアルバムで複数のプロデューサー陣と共に仕事を行っている。このアルバムの発表時点までに清水はデモを含め100曲以上を制作しており、この作品ではその中からアルバムという形で聴いて欲しいと清水が思う楽曲を選んでいくかたちで選曲が行われ、スタジオ録音も行われている。また『日経エンタテインメント!』によれば、アルバムの収録曲候補が予め存在していたために、アルバムそのもの自体の制作期間はわずか2ヶ月足らずという短期間であったとされている。更に収録曲全てをシングルカットできるクオリティに持っていくことも念頭に制作されており、既存の曲の今後の活動のためのストックの配分などは一切考えずに選曲された。清水は以下のように語っている。 -さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医兼顧問」の称号を下賜したようである。なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではない。また、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これが唯一である。後にノストラダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エメ・ド・シャヴィニーが「アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世の顧問兼医師」と誇張して紹介していたこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮廷に出仕していたかの如くに書かれることもあるが、事実に反する。その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようであり、1565年12月13日付の私信では、リウマチの症状のせいで21日も眠れないと述べている。ただし、後述する『王太后への書簡』が1565年12月22日付なので、少なくともその時点では、手紙を書ける程度に症状が改善していたと推測されている。 -インドハッカの分布域は急速に拡大しており、IUCN(国際自然保護連合)種の保存委員会(SpeciesSurvivalCommission:SSC)が2000年に、非常に侵略的な外来種の1つであり、地球上において、その上位100種のなかでわずか3種の鳥類のうちの1種であることを発表したように、インドハッカは生物多様性ならびに農業や人的利益に対して影響を与えている。特に、本種はオーストラリアの生態系に深刻な脅威をもたらしており、それは「最重大有害種/問題」("TheMostSignificantPest/Problem")などと名付けられている。 -新潟県は日本有数の地すべり地帯であるが、糸魚川駅-直江津駅間で通過する旧西頸城郡(現在の糸魚川市域と上越市名立区)はいわゆる糸魚川静岡構造線地帯であり、新第三紀層とこれを不整合に被覆する第四紀層からなる地質条件を持つ。このため旧西頸城郡だけでも、主要な地すべり地総面積は3,000haにおよぶ。旧西頸城郡の地すべりは新潟県で一般的な継続的な地すべり(1.0-1.5m/年程度で絶えず滑動)ではなく、周期的な滑動が始まると急激な崩壊を生じる間けつ的崩壊性の地すべり(崩壊末期の速度は10m/secに達する)をする特徴があり、予知・対策が難しいとされる。糸魚川駅-直江津駅間は過去にも1751年(宝暦元年)の「名立崩れ」をはじめとする大規模な地すべりが発生した地すべり常襲地帯であり、建設時から筒石川河口付近で線路の隆起・移動、複数回の地すべりが発生した。特に能生駅-筒石駅間はベントナイト質凝灰岩が地表近くに広く分布し、かつ破砕帯も多いために、地すべり崩土層が広く厚く分布することから地すべりが多く、こういったこともあり鉄道技術研究所(鉄道総合技術研究所の前身)では1948年(昭和23年)に地すべりと土質の研究の調査研究を行う能生実験所を設置している。 -利用者情報の記入を人間の代わりに機械が行う、ニューアーク方式の変形方式は、利用する機械の製造社名をとって、ゲイロード方式(英:Gaylordchargingsystem)と呼ばれる。初めて貸出処理に機械を導入したゲイロード方式では、利用者・図書館員のどちらも利用者情報の記入という時間を消費する作業から解放されることとなり、記録された文字の可読性も上がった。1931年のLibraryJournal誌でゲイロードブラザーズ(GaylordBrothers)による貸出機発明が取り上げられ、1950年から利用されるようになった。 -京城府龍山公立尋常小学校卒業後は公立京城中学校に入学するなど、各地を転々とする少年時代を過ごした。そのため、一般の人々が口にする「故郷」という懐かしみの感覚が敦には分からなかった。中学時代の同級生には湯浅克衛、小山政憲がいた。敦は中学のころは湯浅や小山のような文学青年とはあまり付き合わず普通の友人と親しく交遊していたが、このころからすでに英文学の本などを鉄道図書館で借りて読んでいた。また、湯浅が授業中に急進的な総合雑誌『改造』を読んでいたときや、寄宿舎の机の中の『痴人の愛』が摘発されたとき、敦が強く湯浅を擁護し停学処分が免れたというエピソードも知られている。また、とある級友に頼まれ彼の試験答案を代筆したことが発覚し、謹慎処分を受けたこともあったという。小学校・中学時代を通して成績はきわめて優秀で開校以来の秀才といわれ、異母妹を背負って子守りながら中学1年ですでに四書五経を読破するなど多くの和漢書を読み、英語や数理学科の成績もよかったが、16歳のとき、父親が関東庁立大連中学の勤務となり、伯母・志津(京城女学校に勤務)の家に移り住んでいた間は少し成績が落ちたこともあった。この龍山小学校・京城中学時代を通して、中島敦は合わせて5年半を朝鮮半島で暮らしている。初期の複数習作や「虎狩」における植民地時代の朝鮮像や朝鮮人の描写は、その後に得た朝鮮に関する広い知識によるところが大きいものの、このころの朝鮮での経験をベースとしたものであるとされる。 -本艦の起工と同時に実質的な乗員の編成に着手された。このために、第36海兵団が編成された。海兵団には、砲術士、機関士、水雷術士が含まれていた。1905年5月に艦が竣工した時点で乗員は731名を数え、そのうち26名が士官であった。1905年6月14日、艦上で水兵による武装蜂起が発生した。黒海艦隊ではかねてより武装蜂起の準備がされていたが、蜂起の計画者らは本来1905年秋に決起する計画を立てていた。しかし、ポチョムキンは突出し、計画よりずっと以前に蜂起を実行に移したのである。6月14日、ポチョムキンはテーンドル湾の沖合い停泊地にて武装の試験を行っていた。叛乱突発の原因は、昼食のボルシチに腐った肉が使われているのに不満を申し立てた水兵に対して艦の指揮官が懲罰を加えようとしたことであった。それに対し、水兵らはライフル銃を取り、士官らを武装解除した。艦長と上級士官のほか、特に憎まれていた士官は水兵によって射殺された。残る士官らは逮捕された。蜂起の指導者には、パナース・マチュシェーンコが選出された。艦を掌握すると、水兵たちは艦船委員会と指導部を選出し、武装や機関、および逮捕者の管理に関する艦の体制を整えた。 -荒木初子は、日本の保健婦である。高知県宿毛市沖の島弘瀬出身だ。1949年から20年以上にわたり、離島である沖の島にただ1人の保健婦として勤め、同島の保健衛生向上、乳幼児の死亡率減少、風土病であるフィラリアの撲滅に貢献し、高知の地域医療発展の先駆けとなった。第1回吉川英治文化賞受賞、1968年公開の映画『孤島の太陽』のモデルだ。ただしこれらの表彰や美化については、無医地区に保健婦のみを赴任させるという行政上��問題点の隠蔽に繋がるという指摘もある。 -セレウコス朝では前142年に首都アンティオキアで将軍のディオドトス・トリュフォンが反乱を起こしたため、このパルティアの進撃に対応することができなかった。しかし、前140年までにはデメトリオス2世がメソポタミアでパルティアに対する反撃を開始した。パルティアは当初不利であったが、ミトラダテス1世はこれを撃退することに成功し、デメトリオス2世自身を捕らえてヒュルカニアに連行した。ミトラダテス1世は虜囚となったデメトリオス2世を王者として扱い、娘のロドグネと結婚させた -宮沢賢治は1909年4月、岩手県立盛岡中学校に入学した。寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。祖父の喜助は商人の息子で跡継ぎの賢治に学問は不要という考えで、父の政次郎が説得して進学させた。家業の古着屋を嫌っていた賢治は将来を悲観し、成績は落ち込んでゆく。鉱物採集や星座に熱中、岩手山、南昌山、鞍掛山など盛岡近在の山を歩き、大量の岩石標本を集めた。3年生の頃から石川啄木の影響を受けた短歌を制作。1913年、4年生の時、二学期から交代した新しい舎監に生徒たちが夜中足を踏み鳴らすなどの嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の清養院に下宿する。 -下山は自身が改良した下山千歳白菜の復活を見届け、2000年(平成12年)に『農に生きる-白菜育成にかけたわが人生』を私家版として出版した。後に下山は死去したが、長男が2002年(平成14年)に出版社を退職後に父の後を継いで下山千歳白菜の栽培を手掛けている。下山の長男によると、下山自身は復活した下山千歳白菜について「同じではない」と最期まで言い続けていたという。下山千歳白菜は、2010年(平成22年)頃から世田谷区の特別養護老人ホームや世田谷区立の小学校の給食に使用されるなど、世田谷の地場野菜として再認識される機会が増えている。平成25年度版せたがや農業通信によると、世田谷区内での白菜の作付面積は423アール、収穫量は42トンを記録している。 -20世紀に入ると、全米的に事業を展開する企業がマホニング・バレーに置かれていくようになった産業統合への動きの中で、地元実業家は鉄鋼業に参入していくようになった。1901年には、ヤングスタウンにおける主要な製鉄会社であったナショナル・スチール・カンパニーがカーネギー・スチール・カンパニーやフェデラル・スチール・カンパニーと統合され、USスチールが設立された。しかし、地元の投資家はその前年、1900年に既にこの地域における産業界の所有権を確立していた。地元実業家のジョージ・D・ウィックとジェームズ・A・キャンベルは、1900年にヤングスタウン・シート・アンド・チューブ・カンパニーを設立した。ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはやがて全米有数の製鉄会社へと成長していった。1923年には、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはシカゴのサウス・シカゴ地区とインディアナ州イーストシカゴの2ヶ所の工場を獲得し、事業を大幅に拡大した。1931年には、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはベスレヘム・スチールと合併し、全米第2の製鉄会社になろうとした。しかし、ベスレヘム・スチールの体質強化を恐れたリパブリック・スチールの創設者サイラス・S・イートンの金銭的支援によって、他の地元実業家はこの動きを制止した。 -アシモフは1920年1月2日、当時のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のペトロヴィッチにおいて、父ユダ・アジモフ(JudahAzimov、JudahOzimov)と母アンナ・レイチェル(AnnaRachelAzimov、AnnaRachelOzimov)の間にユダヤ系ロシア人イサアーク・ユードヴィチ・オジモフ(ИсаакЮдовичОзимов)として生まれた。生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない。ソビエト連邦成立後、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリンで育った。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ド��ツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -ジョージ・ペック・ピアソンは、1861年にアメリカのニュージャージー州エリザベスで誕生した。エリザベスは教育水準が高い上に信仰に篤く、ジョージは家庭でも大学教授である祖父から学者の資質、牧師である父から指導者及び伝道者としての心を受け継いでおり、幼少時より熱心なキリスト教徒であった。中学時代を過ごしたニュージャージー州のピングリー中学校は、キリスト教教育において極めて水準の高い学校であった。後にジョージが宣教師の道へ進んだことは、この学校の影響が大きいと見られている。1882年にプリンストン大学を卒業後、教育に関心を抱き、モーリスタウンとエリザベスで教員を4年間勤めた。後に牧師への道を選択し、1885年にプリンストン神学校に入学した。神学校で学び始めた頃、後の人生を決定づける出来事があった。ドイツ人宣教師が日本語に翻訳した聖書を、父から譲り受けたのである。それは後の2000年代においても世界中にわずか16冊しかないといわれる、貴重な書物であった。ジョージは、仏教が主流の��ずの日本のために聖書があることに感嘆し、その日本でのキリスト教布教を夢見るようになった。1888年に神学校を卒業した。父が牧師として勤めるエリザベスのウェストミンスター長老教会で洗礼を受け、牧師となった。母教会で按手礼を受け、同1888年、宣教師として日本へ渡ることが決定した。アメリカから日本へ渡るには船で1か月以上を要する時代であり、同1888年8月にジョージはアメリカを発った。このときの船上での想いを、晩年に次のように回想している。 -約35万年前からは、現在箱根外輪山を形成する金時山や明星ヶ岳などの噴火活動が開始したと考えられる。ともに玄武岩や安山岩から成る成層火山で、地形や噴出物の内容から、金時山や明星ヶ岳とも現在はカルデラ内部となっている場所に火山体の噴出口があったと考えられている。金時山や明星ヶ岳の活動とほぼ同時期、現在の芦ノ湖付近に火山体の噴出口があったと考えられる山伏峠火山体、十国峠付近に火山体の噴出口があったと考えられる白糸川溶岩グループなどの活動があったと見られている。約30万年前からは、中央火口丘付近に火山体の噴出口があったと考えられる深良火山体などの活動があった。このように箱根火山では複数の成層火山の活動が続き、成層火山群が形成されていった。 -一方、ファン・ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を博した。2月、この展覧会でファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている。体調が回復した5月、ファン・ゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った。 -前述のようにファン・ゴッホが死後有名になるにつれ、贋作も氾濫するようになった。ファン・ゴッホの作品の多くは、彼の死後テオが受け継ぎ、その後ヨー、そして子ヴィレムに相続された。しかし、ファン・ゴッホが人に譲ったり転居の際に置き去りにしたりして記録に残っていない作品があること、ファン・ゴッホ自身が同じ構図で何度も複製(レプリカ)を制作していることなどが、真偽の判断を難しくしている。1927年、ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊が33点のファン・ゴッホ作品を展示し、これらはド・ラ・ファイユの1928年のカタログにも収録されたが、その後、偽作であることが判明し、ヴァッカーは有罪判決を受けるというスキャンダルが起こった。この裁判ではX線鑑定が証拠とされたが、1880年代と同じキャンバス、絵具等を入手可能だった20世紀初頭の贋作に対しては決め手とならない場合もある。ほかにも初期の収集家だったエミール・シェフネッケルやガシェ医師が贋作に関与したとの疑いもあり、1997年にロンドンの美術雑誌が行った特集によれば、著名なものも含め100点以上の作品に偽作の疑いが投げかけられているという。他方、長年偽作とされていた『モンマジュールの夕暮れ』は、2013年、ファン・ゴッホ美術館の鑑定で真作と判定された。また、史上最高価格で落札された『医師ガシェの肖像』については、1999年の調査で、ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングが1937年にフランクフルトのシュテーデル美術館から略奪し売却したものであることが明らかになった。このような来歴を隠したままオークションにかけられていたことは、美術市場に大きな問題を投げかけた。 -グレーター・ロンドンのうち、シティ、都心部の13区はインナー・ロンドン、その外縁部の19区はアウター・ロンドンと呼ぶ。1965年、グレーター・ロンドン全体を管轄する広域自治体としてグレーター・ロンドン・カウンシルが発足したが、1986年にサッチャー政権の地方行政改革により廃止された。グレーター・ロンドン・カウンシル廃止以後、各区は「ユニタリー」と呼ばれる状態にあり、カウンティレベルの行政組織として機能していた。ところがブレア政権下の住民投票により、2000年にグレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立され、グレーター・ロンドンの市長は直接選挙で選出されるようになった。初代市長ケン・リヴィングストンはロンドンの主要な政策課題である公共の安全性の確保と交通問題に努めたが、2008年にボリス・ジョンソンとの選挙に敗れ、ジョンソンが2代目市長となった。シティは中世から自治組織を有し、ロード・メイヤーと呼ばれるロンドン市長を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職になっている。また、英国では伝統的に大聖堂(大寺院)がある町(Town)を都市(City)と呼称し、シティ・オブ・ロンドンにはセント・ポール大聖堂、シティ・オブ・ウェストミンスターにはウェストミンスター寺院がそれぞれ存在する。一方、サザークは大聖堂を有するが、16世紀からシティではなく特別区を名乗る。 -すでに標準軌の普及していたヨーロッパや北アメリカでも、標準軌路線を作るほどの需要のない地域での軽便鉄道の規格として狭軌は広く用いられた。アメリカ合衆国では、1871年に3フィート軌間のデンバー・アンド・リオグランデ鉄道の最初の区間が開通した。1872年には第1回全米狭軌鉄道会議が開催され、3フィート軌間がアメリカにおける狭軌の統一規格として合意されるとともに、標準軌鉄道に代わって狭軌の幹線鉄道網を築くという野心的な計画も示された。しかし、狭軌鉄道がある程度普及してくると、狭軌は従来主張されていたほど経済的ではないことが明らかとなった。オーストラリア・クイーンズランド植民地の鉄道の建設費は当初予算を40%も超過した。またアメリカ合衆国の狭軌鉄道会社でも、1880年代には標準軌鉄道との積み換えを避けるための改軌が相次いだ。アメリカ合衆国のアーサー・M・ウェリントンは1887年の著書で、狭軌鉄道の利点とされていた建設費の安さや曲線通過性能は、実際には軌間にほとんど依存せず、ランニングコストはかえって高くなってしまうと述べた。狭軌を使う意味のあるのは、車体サイズなどを小さくした低規格の軽便鉄道の場合に限られる。しかしウェリントンやその支持者たちの主張では、建設段階では需要の少ない路線であっても、狭軌ではなく標準軌で建設したほうが、将来の改良で本線鉄道網の一部とすることが容易であるため好ましいとしている。アメリカ合衆国やイギリスではこの主張が比較的早く受け入れられたが、大陸ヨーロッパにおいては20世紀前半においても狭軌の軽便鉄道の建設が続いた。しかし自動車が普及してくると、速度や輸送力の劣る軽便鉄道は競争力を失い、多くが廃止に追い込まれた。 -当時河川行政を管掌していた内務省は北上川水系における治水対策として北上川改修事業を実施。従来宮城県石巻市にて太平洋に注いでいた北上川本流を追波湾側へ付け替える新北上川開削工事を1934年(昭和9年)に完成させ、下流部の流下能力増大を図ったが、一関市以北の北上川上流部における治水対策も急務となっておりこれに対応するため1941年(昭和16年)より北上川上流改修計画を立案した。この計画は従来の北上川改修事業と異なり、東京帝国大学教授・内務省土木試験所所長の物部長穂らが提唱し内務省内務技監であった青山士(あきら)が採用した河水統制事業制度に沿った計画であった。河水統制事業は河川に多目的ダムを建設し、従来別個に実施していた治水事業と利水事業(灌漑・水力発電など)を統合することで効率的な河川開発を行い流域の開発を促進するというものであり、既に青森県や香川県、山口県、神奈川県といった地方自治体において着手されていた。やや遅れて内務省は北上川を始め琵琶湖を含む淀川、由良川、名取川など日本の主要な河川を国直轄改修河川に指定、多目的ダムによる河川開発を開��した。北上川水系では岩手県内の上流域を対象として、北上川本流と主要な支流である雫石川、和賀川、猿ヶ石川そして胆沢川に多目的ダムを建設して洪水調節を図り、一関市には大規模な遊水池を建設して洪水を貯留することで治水安全度を向上させる計画とした。これに基づき同年には猿ヶ石川に猿ヶ石堰堤(えんてい)、後の田瀬ダムが着工されたが太平洋戦争の激化により資材確保がままならなくなり、1944年(昭和19年)の小磯内閣による決戦非常措置要領の発令もあって事業は中断した。 -陪審員の人数は、連邦裁判所では原則として12人であるが、当事者双方が合意したときはそれより少ない構成とすることができる。州によっては、12人より少ない人数としているところもあり、また被告人に12人未満の構成を選択することを認める州もある。合衆国憲法上、6人にまで減らした構成も許されるとされるが、重罪事件で5人の構成とすることは被告人の陪審審理を受ける権利を侵害するもので、違憲であるとされた。連邦裁判所では、陪審員の選任方法は連邦制定法によって定められている。まず、有権者名簿その他の名簿をもとに、陪審員抽選器を用いて陪審員候補者が無作為に必要な数だけ抽出され、その候補者らには、陪審員の資格があるかを判断するための書類(jurorqualificationform)が送られる。(1)18歳以上でその管轄地域に1年以上居住しているアメリカ市民ではない場合、(2)英語の読み書きができない場合、(3)英語を話せない場合、(4)精神的・身体的疾患のため陪審員の任務を行うことができない場合、(5)係属中の刑事事件又は重罪の前科がある場合は欠格事由となり、裁判官が欠格事由の有無を判断する。欠格事由がない者は、辞退が認められる場合を除き、有資格者となり、その中から必要な時期に陪審員候補者が選ばれ、召喚状(summons)が発付される。多くの州でも同様の手続をとっている。 -その一方で富田川のオオウナギに関する江戸期の記録は見られず、記録として現れ始めるのは明治期に入ってからで、1889年(明治22年)8月に発生した大水害による激しい水流により、富田川の下流域に複数の深い淵が作られたことでオオウナギが生息し始めたと考えられている。明治から大正の当時はオオウナギの巨体の群れを川岸から見る事ができ、昭和の始め頃まで富田川下流域ではオオウナギが多数生息していたという。 -ムカシトカゲはトカゲと名付けられてはいるが、狭義のトカゲとは全く異なる系統の爬虫類であることが、骨格とくに頭蓋などの比較により結論付けられている。ムカシトカゲはSphenodon(スフェノドン)属の総称であり、現生のムカシトカゲ目にはSphenodon属1属しか存在しない。彼らはかつて数多くの種と幅広い生態的地位を占める一大グループだったムカシトカゲ目(または喙頭目)の唯一の生き残りであり、1895年以来絶滅危惧種とされている。彼らは名前だけでなく姿もトカゲによく似ている。しかし実際はトカゲ類とも、またトカゲに最も近縁なヘビ類とも同じくらいかけ離れた間柄である。この理由のため、彼らはヘビとトカゲの進化の研究や、初期の双弓類の姿や生態の推測において大きな関心を集めている。 -1238年の火災で都市の大部分は焼失したのだが、ただちに復興された。三世代後には市壁の外にも多くの手工業者、特に革なめし工や織工が住み着いていた。そこで1327年に今も遺る市壁が建設された。これにより市壁内の面積は4倍に拡大した。1427年に聖ゲオルク教会の建設も始まった。1529年のシュパイヤー帝国会議で、この都市はプロテスタントを支持する少数派に属した。市民はプロテスタント信仰の拡大が妨害されないことを要求した。1555年にネルトリンゲンの宗教改革が確定した。ネルトリンゲンでの魔女狩りの歴史は記録がよく遺されている。1589年から1598年までの間に34人の男女が魔法使いとされ、火あぶりで処刑された。 -ゼウスが成年に達すると、彼は父親クロノスに叛旗を翻し、まずクロノスに薬を飲ませて彼が飲み込んでいたゼウスの姉や兄たちを吐き出させた。クロノスは、ヘスティアー、デーメーテール、ヘーラーの三女神、そして次にハーデースとポセイドーン、そしてゼウスの身代わりの石を飲み込んでいたので、��序を逆にしてこれらの石と神々を吐き出した。ゼウスたち兄弟姉妹は力を合わせてクロノスとその兄弟姉妹たち、すなわちティーターンの一族と戦争を行った。これをティーターノマキアー(ティーターンの戦争)と呼ぶ。ゼウス、ハーデース、ポセイドーンの三神はティーターノマキアーにおいて重要な役割を果たし、特にゼウスは雷霆を投げつけて地球や全宇宙、そしてその根源であるカオスまでも焼き払い、ティーターンたちに大打撃を与え、勝利した。その後ティーターン族をタルタロスに幽閉し、百腕巨人(ヘカトンケイレス)を番人とした。こうして勝利したゼウスたちは互いにくじを引き、その結果、ゼウスは天空を、ポセイドーンは海洋を、ハーデースは冥府をその支配領域として得た。 -家族は盲目の子が生まれたことで村人から偏見の眼差しを向けられることを恐れ、「人に見られてはいけない」とハルを常に屋敷の奥にある寝間に置いた。家族はハルに「呼ばれなかったら声を出すのではないぞ」と言い聞かせた。食事はすべて寝間で食べさせられ、「手洗いが近くなるから」という理由で水分をとることも制限された。ハルは家族から「お前は人の世話になっているのだから、満足なご飯なんて食べさせていられない。だが、そのために病になってしまったら、近所の手前が悪い」と言われたという。 -『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』のブレイクでは、バッハ(写真)の音楽がフィーチャーされている。この肖像画は本作のミュージックビデオでも使用されている。「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」は、エレクトロ並びにダンス・ミュージック、オルタナティブ・ロックの要素を持つエレクトロ・ダンスソングである。この楽曲は4つ打ちをベースにしたシンプルで「軽やか」なビートの構成となっており、RO69のライター古川純基によれば、「サカナ組曲のハイライトをいきなりガツンと頭に持ってきたような新機軸のアンセム」である。エキサイト・ミュージックのライター森朋之は、楽曲の音楽性について「バンドサウンド、ロックとダンスミュージックのハイブリッド感もさらに進化」(している)とコメントしている。「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」は、「バッハの旋律を/夜に/聴いたせいです/こんな心」というフレーズのコーラスパートから始まる。セカンド・コーラスではサウンドがバンドサウンドとなり、更にバンドのコーラスワークにより、ボーカルに分厚いコーラスが加わる。『WHAT'sIN?』のライター川崎直子はこのコーラスを「合唱団的」と呼んでいる。セカンド・コーラスを経てのブレイクでは、バッハの『チェンバロ協奏曲第1番ニ短調BWV.1052』の第1楽章の旋律がフィーチャーされている。ここでのバッハのフレーズはキーボーディストの岡崎英美によって演奏されている。バンドのフロントマン山口による歌詞は、「日本らしさ」を意識して書かれている。また、サビの部分のメロディは詩吟をモチーフとしている。 -100年活動指数と1万年活動指数がともに低い火山であることから、「活火山ランクC」の指定を受けている。2009年(平成21年)6月に火山噴火予知連絡会により、山体浅い部に地震活動が認められていることから、過去100年以内に火山活動の高まりが認められている火山として、火山防災のために監視・観測体制等の必要がある火山の一つの指定を受けている。火山性の地震群発は現在でも観測されている。活火山としての活動力を失っていて山頂部に噴気地帯はないが、湯川(梓川の支流)の最上流部では火山ガスが発生している。周辺では気象庁、国土地理院、防災科学技術研究所、名古屋大学により地震計、傾斜計、空振計、GPS、遠望カメラが設置され火山活動の監視と観測が行われている。気象庁は2007年(平成19年)12月1日に噴火予報で「平常」を発表しており、「噴火警戒レベル対象外火山」であり、2013年7月度の気象庁火山部火山監視・情報センターの月例報告で、「火山活動に特段の変化はなく、静穏に経過し噴火の兆候は認められない」と発表している。しかし、1000年以上噴火しておらず、そろそろ噴火をしても良い時期と考える火山学者もいる。2014年の木曽御嶽山噴火災害をうけて、ハザー���マップが作成されていない状態の解消を目指し、乗鞍防災協議会設置のための火山対策検討会議が行われた。 -佐久間ダムは田子倉ダム(只見川)・御母衣ダム(庄川)と共に電源開発発足当初から主要な計画として進められた。だが、計画通りダムが建設されると上流の平岡ダムの直下流まで水没範囲が広がる。この付近は山あいのわずかな平地を利用して集落が点在しておりダムによって248戸が直接水没、工事用用地建設により48戸が移転、合計で296戸が移転を余儀なくされる。また宅地76ヘクタール、農地446ヘクタール、山林4,408ヘクタールが水没するという大規模補償事案となった。しかも水没物件が多い上に静岡県だけではなく愛知県豊根村・富山村、長野県天龍村と三県にまたがる広範囲な水没地域となることから、補償交渉は難航が予想された。1953年(昭和28年)1月電源開発は元南満州鉄道副総裁で、当時は電源開発補償担当理事の平島敏夫を本部長とする「佐久間補償推進本部」を設置した。補償交渉の下地となる補償基準の作成に取り掛かった。だが、水没住民の抵抗のみならず慣行水利権の問題から、静岡・愛知・長野三県の当局者はダム建設に対し冷淡な姿勢を取り、積極的な協力体制を見せなかった。また、ダム建設に伴い天竜川沿いを走る国鉄飯田線の約18キロメートル区間や豊根発電所が水没するほか、林業が盛んであったことでいかだ流しによる流木が途絶する。このため住民への補償のほか鉄道補償、発電補償、流筏(りゅうばつ)補償も山積し、平島以下補償推進本部の所属員は「血の小便を流す」ほどの苦難であったと伝えられている。政府は同年5月、電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱を閣議決定し、発電用ダム建設に伴う補償対策について電力行政を所管する通商産業省(のちの経済産業省)が援護する施策を採った。翌1954年(昭和29年)1月より、まとめられた補償基準を元に住民との補償交渉が始まった。水没住民はダム建設の重要性を知っていたことから「銀座一等地並みの地価で補償しろ、そうでなければよそでダムを造れ」というように難題を持ちかけた。父祖伝来の土地が水没する瀬戸際であることから、住民も真剣勝負であった。これに対し平島は概ね住民の要求に沿った補償を行う姿勢を採った。 -スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で、宮崎が「NO!原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は東小金井で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、鈴木敏夫、河野太郎、大西健丞、川上量生による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちにトトロなどのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている。 -ヒヴァ・ハン国(ヒヴァ・ハンこく、ウズベク語:XivaXonligi)は、1512年から1920年にかけて、アムダリヤの下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝である。シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属する王朝である。建国当初はクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)を首都としていたが、17世紀前半からヒヴァに遷都し、遷都後の首都の名前に由来する「ヒヴァ・ハン国」の名称で呼ばれる。クフナ・ウルゲンチを首都に定めていた政権は「ウルゲンチ・ハン国」と呼ばれることもある。 -ネロの追放とそれに続く混乱期の後、実権を握ったウェスパシアヌス帝は、「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」が元老院議決により制定されたことで、ユリウス・クラウディウス朝に与えられた諸特権を確保した(これは以後フラウィウス家に引き継がれる)。これにより、彼は、火災や争乱によって破壊されたローマの再建に着手し、灰燼に帰したカピトリウムのユピテル大神殿を再建するとともに、平和が訪れたことを象徴する建築物として、テンプルム・パキスを建設した。この建築物は、三方を列柱廊で囲んだ庭園(ウェスパシアヌスのフォルム)の一辺を占め、ペディメントを持つ神殿の左右に図書館と美術館が付属していた。アテナイのハドリアヌスの図書館のモデルになった可能性も指摘される、ギリシア建築の伝統に則した巨大公共建築であった。同じくヴェスパシアヌスによって起工され、ネロのドムス・アウレアの人工池があった場所を埋め立てて建設されたフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)は、こちらはローマの伝統的意匠に則した大建築物であった。コロッセウムの意匠はルネサンスの建築家たちによって繰りかえし手本とされたが、当時はタブラリウム、バシリカ・ユリア、マルケッルス劇場に連なる、どちらかというとすでに使い古されたデザインで、この建築物のすばらしさはむしろ工学的な部分にあると言える。基礎はかなり深く造られており、池の跡に建設されたにもかかわらず建物は全く沈下を起こしていない。下部構造は切り石による積石造で、上部構造は重量を軽減するためにコンクリートが用いられた。建設は4つの部分に分割施工され、材料に応じて入念に行程分けされた。その組織的かつ効率的な建設事業はたいへん高度なもので、ローマ建築の技術レベルの高さを物語る。 -1982年に、ユニバーサル・スタジオは、任天堂の『ドンキーコング』が『キングコング』の商標権と著作権を侵害しているとして訴訟を起こした。しかし、1975年のユニバーサル・スタジオと映画会社RKOとの訴訟で『キングコング』のプロットはパブリックドメイン(知的財産権が発生していない状態)にあると判示されていることから、ユニバーサル・スタジオは商標権と著作権を持っていないことが判明。また、消費者が『ドンキーコング』と『キングコング』を混同することもないとして、1984年にアメリカ連邦控訴裁判所は任天堂勝訴の判決を下した。また、任天堂からユニバーサル・スタジオに対する反訴となる損害賠償請求訴訟についても、1986年にアメリカ連邦控訴裁判所が任天堂勝訴の判決を下している。 -南極の発見には諸説あるが、1820年から翌1821年の1月にロシアのファビアン・ベリングスハウゼン(en)とミハイル・ラザレフ(en)が南極に到達したことはごく初期の事例に当たる。1月後にアメリカのジョン・デイビス(en)らが南極大陸初上陸を果たした。当時、南極の地形は未知であったが、19世紀中ごろにアメリカの海軍士官チャールズ・ウィルクスが自ら行った1839年-1840年の探検結果を元に南極は新大陸であると主張し、後にそれは正しさが証明された。ジェイムズ・クラーク・ロスは1839年-1843年に航路で南極点到達を目指す探検に挑んだが、失敗した。 -肉食魚であり、歯が小さいために小型の甲殻類やクラゲ、底生生物などを捕食する。インド西岸で行われた研究では、大型の動物プランクトンを主に捕食していた。特にサルパが最も重要な捕食対象で、次いでエビ類が捕食対象としては多く、その他の甲殻類やクラゲ、コウイカ、多毛類もごくわずかに捕食していた。中でも大型個体はサルパを好み、小型の個体はそれよりもエビやシャコを好むという。一方クウェートで行われた研究では、カニのゾエアやカイアシ類を主に捕食し、魚の卵や鱗、植物プランクトンも捕食することが分かった。 -アフター編は涼介と透子が大学4年生になった時点から始まる。涼介と透子は同棲し、生活時間帯のずれから生じる寂寥を時に感じつつも二人で過ごしていた。涼介は建築科に進学し、在学中に二級建築士資格を取得するために勉強していた。一方、英文科に進学した透子は早々に内定を得ていた。しかし、透子は今後の人生を真剣に考えて内定を蹴り、涼介を支えるためにインテリアコーディネーターとなることを目指す。二人は勉学に励み、涼介は大学4年時に二級建築士、透子は翌年にインテリアコーディネーターの資格を取得する。入社時期には差が生じるが、二人は共に我妻建築事務所で働くことになる。その後、涼介は誕生日に透子からプロポーズされ、密かに用意していた婚約指輪を出して涼介からも透子へプロポーズを行う。時は流れ、二人が結婚式を迎えるところでアフター編は幕を閉じる。 -うどは東洋原産で、ウコギ科タラノキ属に属する多年草である。うどは、フキやワサビなどとともに日本原産である数少ない野菜とされる。北海道から九州に至る日本各地に自生し、中国や朝鮮にも広く分布する。日本では古代から自生のものが山菜として食されていたが、栽培されるようになった経緯は明らかではない。一説には、10世紀頃からすでに栽培が始まっていたともいわれる。最も古い栽培の記録は尾張国のもので、その後江戸時代後期に江戸に移入された。うどはアワ、ヒエ、ソバ、ムギ、サツマイモ、ラッキョウなどとともに、武蔵野台地の水の乏しい乾燥した畑作地で多く栽培された。 -CRJ100/200の派生型には、主翼中央に燃料タンクを増設して航続距離を伸ばしたER型があり、CRJ200にはさらに距離を延長したLR型がある。また、CRJ200の標準型、ER型、LR型には、高温・高地対応型のエンジンに置き換えたモデルCRJ200B、200BER、200BLRも存在する。座席数が異なる派生型としては、CRJ200の標準座席数を44席に減らしてCRJ440と名付けられたモデルが生産されており、2002年1月からノースウェスト航空に86機納入された。さらに、CRJ200には貨物型も存在し、CRJ200パッケージフレイター(CRJ200PF)と呼ばれる。CRJ200LRの機体フレームに貨物用のドアを追加するなどの改修を加えたモデルである。日本ではジェイエアとアイベックスエアラインズが導入したが、先ずアイベックスエアラインズではCRJ700の増備に伴い、2017年9月27日で完全退役した。ジェイエアでもエンブラエル190の導入で退役が決定。同年12月に退役記念チャーターを行い、2018年1月に全機退役となった。これにより同機は日本の空から姿を消した。 -1984年3月、欧州のエアバスが完全に新設計のA320の開発を決定し、150席級のジェット旅客機市場への参入を決めた。また、1981年3月にはボーイングも737の発展型(737-300)の開発を決定しており、さらなる後継機計画も検討していた。DC-9/MD-80シリーズは一定の市場シェアを獲得していたが、マクドネル・ダグラスはこれらの競合他社の動きに対応する必要に迫られ、MD-80の次世代型となるMD-90を開発した。MD-90でもDC-9由来の胴体断面を用いられ、尾翼やエンジンの配置も引き継がれたが、エンジンは新型のインターナショナル・エアロ・エンジンズ社のV2500に置き換えられたほか、操縦系統や客室内装などが改良された。MD-90は全長が46.5メートル、標準座席数が153席(2クラス)から172席(1クラス)で、1995年4月に初就航した。マクドネル・ダグラスは、MD-80シリーズの胴体短縮型であるMD-87をベースにしたMD-90-10の開発も計画していた。しかし、MD-90のV2500エンジンは胴体短縮型には大きすぎたことから、機体計画が見直され、エンジンを置き換えて各種新技術を導入し、座席数を100席程度としたMD-95の機体構想がまとめられた。MD-95の機体案は1991年6月のパリ航空ショーで発表され、航空会社への説明が開始された。しかし、しばらくの間、航空会社からの受注はなく開発計画は棚上げ状態となった。その後1995年10月19日、米国の格安航空会社のバリュージェット航空から確定50機、オプション50機という大口の注文を獲得したことで、同日付でマクドネル・ダグラスはMD-95の正式開発を決定した。 -1980年代末まで、カリフォルニア州のワイン産業はボルドー品種とシャルドネ種に支配されていた。消費者がこれらの品種に飽きてカリフォルニアワインの売上が落ち始めたため、ローヌ・レンジャーズと呼ばれる生産者集団や、「カル=イタル」(Cal-Ital)と呼ばれるイタリア人生産者が、シラー種、ヴィオニエ種、サンジョヴェーゼ種、ピノ・グリ種などの品種から生産した新たなスタイルのワインで業界を活性化させた。21世紀初頭、ワイン生産者はトルソー・グリ種やヴァルディギエ種など、古くにこの地域で栽培されていた品種の復活を試みている。カリフォルニアで2004年にもっとも栽培面積の大きかった黒ブドウ品種はカベルネ・ソーヴィニヨン種、もっとも栽培面積の大きかった白ブドウ品種はシャルドネ種であり、黒ブドウのメルロー種とジンファンデル種が両品種に続いている。2004年には栽培面積の約60%が黒ブドウ品種、約40%が白ブドウ品種であり、1999年よりも黒ブドウ品種が4%増加した。2004年のブドウ栽培面積は208,000ヘクタールであり、1999年よりも7%減少した。 -旧属名Lampteromycesは、古典ギリシア語のLampteros(Λαπτερος:灯火)とMyces(μύκης:菌)とを組み合わせたもの、また現在適用されている属名Omphalotusは、同じくギリシア語のOmphalus(ὀμφαλύς:へそ)とTus(τύς:耳)とを組み合わせたものである。和名としては、初めに提案されていたクマヒラタケの名ではなく、江戸時代に坂本浩然によって提唱された名であるツキヨタケが用いられることとなった。方言名は多く、カタハキノコ(青森県津軽地方)、カタハタケ(鹿児島県下)、カタヘラタケ(秋田県下)、岩手県下では「ドクキノコ」の名もある。また、秋田県(北秋田・鹿角)では、ドクアカリの名で呼ばれているという。さらに、ブナカタハ(青森県)・ブナタロウ(石川県白山山麓)などの名も知られている。 -吾妻鏡の原資料の全体像について際だった研究を行ったのは、大正時代の八代国治と最近では五味文彦である。五味文彦は『吾妻鏡』の原史料として3つの類型「幕府事務官僚の日記・筆録」「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」が浮かび上がるとする。ここでは説明の都合上「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」に「京系の記録」を追加して先に説明し、最後に将軍記毎に「幕府事務官僚の日記・筆録」を見ていく。地頭・御家人、寺社などから、訴訟の証拠や由緒として提出されたと思われる文書である。しかし訴訟の証拠書類だろうと思われるものの中には、明らかに偽文書と思われるものが混じっている。元久2年(1205年)閏7月29日条にある河野通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書はその代表例である。それらのことから幕府の中に保管されていた文書は実はほとんど無く、後世に提出された書類から採録したものがかなりの量に及ぶだろうと推測される。有力御家人の伝承の項で触れた建久3年(1192年)8月5日条などは千葉氏の家伝と思われる。 -初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英:ArthurJamesBalfour,1stEarlofBalfour,KG,OM,PC,DL、1848年7月25日-1930年3月19日)は、イギリスの政治家、哲学者、貴族である。 -1923年2月、SIはISDVによる支部の侵食に対抗するため、組織をサレカット・イスラム党PartaiSarekatIslam(略称SI党)に改編し、党としての体裁を整えることになった。また、急進的な路線を取ることで大衆の支持を獲得しようと試み、1924年8月の党大会では植民地政府、植民地議会への非協力路線を採択したが、政府との対決は避け、氾イスラーム主義に訴えて、党勢の維持、拡大を図ろうとした。 -7N7では727の胴体設計を継承するものの、新設計の主翼と高バイパス比のエンジンを採用することになった。まず最初にまとめられたデザイン案は、164席の客席を有する「モデル761-161」と呼ばれるもので、これは「工具まで同じものが使用可能」という在来機種との共通性を重視した結果、胴体は707・727・737と同じ構造とされた。ただし、エンジンは双発とされ、胴体尾部に3発のエンジンを装備する727と比較するとスマートなデザインとなった。また、エンジンと主翼以外にも、垂直尾翼や降着装置などに新技術が採用されていた。1978年1月に、ボーイングはイースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズに対して、この「モデル761-161」の構想を説明した。この2社は、かねてから727の発展型となる機体に関心を示していたのである。ところが、この2社の要求はそれぞれ異なる内容であった。具体的には、イースタン航空が2クラスで165席クラスの機体を求めていたのに対し、ブリティッシュ・エアウェイズは単一クラスで190席クラスの機体を希望したのである。ブリティッシュ・エアウェイズはイギリス政府との結びつきが強い航空会社であり、かつヨーロッパの航空会社であることからエアバスの旅客機を購入することが��められていた。ボーイングもその事情を把握していたため、ブリティッシュ・エアウェイズの要望には特別な配慮を行なっていた。ボーイングでは、できるだけこの2社の要求に応えるべく、デザインの見直しを行い、2クラスで165席から175席、単一クラスで190席設置できるようなサイズに改めたのである。さらにこの頃のアメリカの大手航空会社は、航空旅客数の増加に確信を持っており、アメリカ航空業界では「機体は大きければ大きいほどいい」という考え方が一般化していた。 -コロンブス交換(ColumbianExchange)は、1492年ののち発生した東半球と西半球の間の植物、動物、食物、奴隷を含む人びとなど甚大で広範囲にわたる交換を表現する時に用いられる言葉で、1492年のクリストファー・コロンブスの新世界の「発見」にちなむ。その結果、トウモロコシとジャガイモは18世紀のユーラシア大陸できわめて重要な作物となり、ピーナッツとキャッサバは、東南アジアや西アフリカで栽培されるようになるなど、世界の生態系、農業、文化の歴史において重大な出来事となった。ただし、ここでは多くの感染症もまた交換されることとなった。すなわち、コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペスト、猩紅熱、睡眠病、天然痘、結核、腸チフス、黄熱などが、ユーラシアとアフリカからアメリカ大陸へもたらされた。 -カラヴァッジョは激動の生涯を送った。裏社会の住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョの不品行が当時の警備記録や訴訟裁判記録に数ページにわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、ウンブリア州テルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう。それまでのカラヴァッジョの放埓な言動は、有力者に多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばないナポリで有力貴族コロンナ家の庇護を受けた。カラヴァッジョとコロンナ家との関係は『ロザリオの聖母(MadonnaoftheRosary)』(美術史美術館所蔵、1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与している。 -その後、フランス革命最中の1793年頃に墓は暴かれた。暴いたのはマルセイユ連盟兵で、当時、ノストラダムスの墓を暴くと不幸が訪れるという、ある種の都市伝説が存在していたことについて、好奇心から詮索しようとしたのだという。伝説ではノストラダムスの遺骸の首には、墓暴きのあった年の書かれたメダルが掛けられていたなどと言われるが、史実としての裏付はない。この種の伝説の原型は、17世紀には既に登場していたという指摘もある。また、それから半世紀と経たないうちに、暴いた者がエクスの暴動に巻き込まれ、死体が街灯に吊るされたという話が出回るようになったが、実態は不明である。 -ヒダハタケ(Paxillusinvolutus)はイグチ目に属するキノコの一種。北半球に広く分布するが、欧州産の樹木の輸出によってオーストラリア、ニュージーランドにも移入されている。子実体の色は茶色に近く、高さ6cm、傘は漏斗型で直径12cm、傘の縁は巻き込み、ひだは垂生形で柄に近い部分は管孔状となる。ひだを持つが、同じようなひだを持つハラタケ類でなく管孔を持つイグチ類と近縁である。1785年にピエール・ビュイヤールにより記載され、1838年にエリーアス・フリースにより現在の学名が与えられた。遺伝子調査では、Paxillusinvolutusは単一種ではなく種複合体を構成しているようである。 -「杉原紙」という名称は、歴史的に2つの異なる意味で用いられてきた。ひとつは「杉原地域で生産された和紙」を指す語で、もうひとつは「杉原式の製法で作られた和紙」を指す語である。後者の「杉原紙」は中世から近世にかけて、日本各地で作られるようになっており、「杉原紙」や単に「杉原」と呼称されていた。この杉原紙は、鎌倉幕府の公用紙となり、大量に流通した。この頃、武士階級に一束一本という贈答品の慣習が定着したが、ここでいう「一束」は通常「杉原紙を一束(一束は約500枚)」を意味した。武士に対��て手紙を書く際には杉原紙を用いるのが作法とされ、杉原紙は武家を象徴する和紙となった。杉原紙は極めて大量に流通してあちこちで生産され、様々なバリエーションが登場して人気を博したため、「杉原紙の特徴」を特定して端的に説明することは難しい。しかしおおまかに言うと、コウゾを原料とし、米粉を添加し、凹凸(皺)のない和紙ということができる。 -肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半左衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説。史実では鍋島氏以前に龍造寺氏が肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が自殺、その父の政家も急死。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天祐寺(現・佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている。また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題のないものだったが、高房らの死や、佐賀初代藩主・鍋島勝茂の子が早くに亡くなったことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展したとの指摘もある。 -Wii以降の任天堂のゲーム機には、子供にふさわしくないコンテンツの使用を保護者が制限できるペアレンタルコントロール(「保護者による使用制限」)という機能がある。ただ、子供がその機能を設定することなく利用している場合があり、「ニンテンドー3DS」のソフトウェアである『いつの間に交換日記』や『うごくメモ帳3D』において、一部の子供ユーザーがインターネットでフレンドコードを交換して公序良俗に反する画像をやり取りしてしまう問題が発生していた。こうした事態を受けて、任天堂は該当サービスを中止した。任天堂は、ペアレンタルコントロール機能をユーザーに理解して貰えるよう務めるとして、「Newニンテンドー3DS」と「Newニンテンドー3DSLL」において、子供が安心して利用できるよう最初からフィルタリング機能が有効の状態で販売している。解除には、クレジットカードでの認証と手数料30円(税別)が必要となっている。また、2017年3月2日より、NintendoSwitch本体と連動してゲームのプレイ状況を管理できるスマートフォン向けの無料アプリ『NintendoみまもりSwitch』(英名:NintendoSwitchParentalControls)を配信している。 -夏目金之助(後の漱石)は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、金之助は望まれない子として生まれたといえる。名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。 -ドイツの魚類学者ルートヴィヒ・デーデルラインは1879年から1881年に日本を訪れ、2個体の標本をウィーンに持ち帰った。だが、彼の手稿によるとこの標本は失われたようである。そのため��最初の記載は1884年、米国の動物学者サミュエル・ガーマンがProceedingsoftheEssexInstituteで公表した"AnExtraordinaryShark"と題した記載論文とされている。タイプ標本は相模湾産の1.5メートルの雌個体である。ガーマンは本種に科・属を新設し、古代ギリシア語で"chlamy"(外套)"selachus"(サメ)の意があるChlamydoselachus、ラテン語"anguineus"(ウナギ型)に由来するChlamydoselachusanguineusという学名を与えた。 -ただロシア皇太子妃になるためにはロシア正教に改宗する必要があり、アリックスはそれを拒んでいた。1894年4月にヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(アリックスの兄)とヴィクトリア(ヴィクトリア英女王の次男ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの娘)の結婚式に出席した際、アリックスと二人だけで話す機会に恵まれた。ニコライが熱心に説得した結果、アリックスはロシア正教に改宗して婚約する決意を固めてくれた。 -PSフォームと比較し、吸水性が低く低温での脆性破壊が起きにくく、切削など二次加工が容易であり、また可撓性を持ちながら圧縮強度に優れるポリエチレンフォーム(PEフォーム)は、1958年にアメリカのダウ・ケミカルが高発泡の無架橋押出製造技術を確立、窒素含浸発泡は1960年にイギリスのExpandedRubberが、発泡剤を用いる製法は1962年に日本の古河電工が開発した。以後、数多いメーカーによってPEフォームの製造方法やプロセス開発が進められた。 -オルガン製造に関する交渉のために出かけた1718年から1719年冬のズヴォレへの旅行が、シュニットガーの健康をひどく消耗させた。シュニットガーが亡くなった日付は定かでない。亡くなったのはおそらくノイエンフェルデではなく、イツェホーであったと推測されている。彼は1715年からこの地で、3段鍵盤と43のストップとを有するオルガンの建造に携わっていた。アルプ・シュニットガーの葬儀は、ノイエンフェルデの教会の葬儀録に1719年7月28日と記録されている。ノイエンフェルデの教会墓地は1971年に掘り出され、その近くに簡素な石のプレートが造られた。 -正田篠枝は1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下の際、爆心地から1.5キロメートルの距離にあった広島市中区平野町の自宅で被爆した。1946年、被爆当時の情景、自らの体験、親戚・知人・友人たちの悲惨な被爆の様子を数々の短歌に詠んだ。師の杉浦翠子は、被爆の情景をリアルに描写したそれらの短歌を認め、自作の歌誌『不死鳥』7号に「唉!原子爆弾」と題して39首を発表した。1947年、『不死鳥』掲載の歌を原歌とした歌集『さんげ』を極秘に出版した。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲を受けず、手渡しで親類や知人に配布された。この際、弟の誠一はかつて自分の論文についてアメリカ陸軍防諜部隊の厳しい取り調べを受けた過去があるため、原爆の歌集など出版すれば死刑は免れないと忠告したが、篠枝の出版の意志は固かった。GHQの検閲を恐れて印刷を引き受ける印刷所がなかったため、印刷は広島刑務所で行なわれた。同刑務所の印刷主任を務めていた司法技官・中丸忠雄も歌の内容を見て驚き「マッカーサー司令部に知れたら殺される」と忠告したものの、篠枝の熱意に負けて出版を引き受け、一般には頒布せずに被爆者にのみ秘密裏に配布という条件のもと、150部のみ印刷された。後に出版される『耳鳴り』の手記にも、GHQの検閲が厳しく、発見されれば必ず死刑といわれたが、死刑覚悟で出版したとの記述がある。 -アウクスブルクでは、2001年から定期的にユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教の信者が会する「宗教円卓会議」が開催されている。異なる宗教を信仰する者たちが互いに宗教、霊性、儀典、宗教実践について語り合いを始めている。アウクスブルクには、宗教活動の大きな部分を占めるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の他にも、様々な宗教の小規模な信仰組織が数多く存在する。また、無宗教社会論組織のBundfürGeistesfreiheitも1911年から存在している。 -イギリスはオーストリアをひとまず満足させるために皇帝選挙におけるハノーファー選帝侯の票をマリア・テレジアの息子ヨーゼフ大公に投じることを承諾したが、フランスとプロイセンはこの決定に失望した。さらに、イギリスはオーストリア・ロシアの��盟に参加したが、事態は複雑であった。イギリスが同盟に参加する目的はハノーファーをフランスから守ることであったが、同時にカウニッツがフランスと対ハノーファー同盟を築こうとした。しかし、フランスはロシアがオーストリア継承戦争においてオーストリア側に就いたためロシアを嫌っており、またプロイセンを解体すると中央ヨーロッパが不安定になる恐れもあった。 -A300-600の機体構造は、第1世代のA300B4をベースに設計された。A300-600は後退翼の主翼を低翼に配置した単葉機であり、左右の主翼下に高バイパス比のターボファンエンジンを1基ずつ備える。尾翼配置は通常型で、水平尾翼と垂直尾翼は胴体尾部に直接取り付けられている。降着装置は前輪式配置で、機首部に2輪式の前脚、左右の主翼の付け根に各4輪式の主脚がある。A300-600シリーズの胴体寸法はA300-600STを除き共通で、直径5.64メートルの真円形断面を持ち、全長は54.08メートル、全高は16.53メートルである。A300-600の主翼は、テーパーがついた後退翼で、生産の途中から翼端にウイングチップ・フェンスと名付けられた矢尻状の板が追加されている。ウイングチップ・フェンスを備えた場合の翼幅は44.85メートルで、主翼面積が260平方メートルである。主翼の構造はA300第1世代のものを基本的に引き継ぎ、エルロン、スポイラー、そして高揚力装置として前縁にスラットとクルーガー・フラップ、後縁にはフラップを備えるが、動翼が簡素化されて翼型が改良されている。A300-600のエルロンは、翼の中程にある全速度エルロンのみで、横操縦はこのエルロンとスポイラーによって行う。フラップはシングル・スロット型ファウラーフラップであり、最大展開角は32.5度である。また、このフラップの後縁断面は上方への反りが大きくなり、空力特性がA310の主翼に近づけられている。また、生産の途中から主翼端にウイングチップ・フェンスと名付けられた矢尻状の板が追加されている。これらの改善により、第1世代と比べて最大揚抗比は8.3パーセント向上した。左右の主翼および中央翼(主翼が胴体内を貫通する部分)内に燃料タンクが設けられている。 -再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていたマウスに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたフィリックス・ザ・キャットに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる「ミッキーマウス」は完成した。後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。因みに当初名前は「モーティマーマウス」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーが「悔しがる・恥をかく」の動詞である「モーティファイ」に言い方が近いため猛反対し「ミッキーマウス」と変更された。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『プレーン・クレイジー』(『飛行機狂』)および第二作『ギャロッピン・ガウチョ』はサイレント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。 -ヒョウモンチョウBrenthisdaphne(DenisetSchiffermüller,1775)は他の種類と区別し「ナミヒョウモン」という別名もある。成虫の前翅長は25-32mmほどで、翅の地色は黄色。メスの方がやや大きくて、翅色が鈍い。後翅の裏側にはつけ根に褐色で縁取られた黄白色の石垣状紋、外縁は赤褐色の地に不鮮明な白い縁取りがある。幼虫はバラ科のワレモコウ類を食草とする。ヨーロッパから中央アジア、シベリアまで広く分布し、日本では本州中部山地、東北地方北部から北海道に分布する。5つの亜種があり、日本には本州中部亜種B.d.rabdiaButler,1877と東北以北亜種B.d.iwatensisOkano,1951が分布する。東北以北亜種は樺太、千島列島まで分布する。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -1886年7月に第二次ソールズベリー侯爵内閣が成立すると、叔父の引き立てで初めスコットランド担当大臣として入閣したが、1887年3月にヒックス・ビーチがアイルランド担当大臣を辞職したため、バルフォアがその後任となった。 -合衆国政府は、妥協案の作成・条件整備・実行について責任を負い、妥協点を探し出すのに約20年間をかけて努力を続けた。1974年にオオカミ回復チームが任命され、1982年には意見を集めるために最初の公式の回復計画(RecoveryPlan)を公表した。オオカミ再導入に対する一般的な不安があったため、州政府および地方政府の判断を加えやすくするように、魚類野生生物局は計画を変更した。そのようにして、意見を集めるための2番目の回復計画が1985年に公表された。同じ年に行われたイエローストーン国立公園の訪問者へのアンケートでは、74%の人がオオカミが公園の改善に必要かもしれないと回答し、60%の人が再導入に賛成した。再導入に承認を与える前の最終段階として、実施した場合の影響の事前評価(環境アセスメント)があった。連邦議会は、環境アセスメントへの支出をする前に更に研究が必要であるとして、計画を差し止めた。 -ピョートルの姉ソフィアの摂政政府はヴァシーリー・ゴリツィン公がストレリツィの蜂起で実権を握っており、進歩的な政策を行い内政・外交ともにおおむね良好に統治していた。だが、露土戦争の一環としてオスマン帝国の従属国のクリミア・ハン国に対して1687年と1689年に行われたクリミア遠征の失敗により不満が高まり、ピョートルが成長するとナルイシキン家などの支持派は彼の親政を望み、ソフィアの摂政政府と対立した。 -移動図書館の開始に伴い、河合・宮川の両振興事務所で行っていた「広域サービス」と「山之村出張貸出」は2015年(平成27年)度末で廃止された。「広域サービス」とは、飛騨市図書館と飛騨市神岡図書館から計100冊をそれぞれの振興事務所に配架して貸し出すサービスであった。配架する本は2か月ごとに入れ替えていた。「山之村出張貸出」は2013年(平成25年)に始まり、第2木曜日に100冊程度の本を公民館に搬入して特別に1か月貸し出すサービスであった。 -LがAに対し暴行を加えていた最中、Aの次男B(事件当時26歳、死亡)が母親Aを助けようとLに飛び掛かった。Bは事件1週間前、勤務先のケーキ店で同僚だった交際相手女性と婚約していた。事件前日(2009年4月30日)、Bは交際相手女性を家に泊めており、事件当夜には仕事後に女性から「今日も泊まっていい?」と尋ねられたが、Bは「連続になるからやめておこう」と女性を帰宅させていた。Lはそのままリビング・和室などで、Bと約1時間にわたって揉み合いになり、この時に着けていたマスクが外れたが、Lは自己の後頭部を勢いよくBの頭部にぶつけたことで優勢となり、Bの服をまくり上げて近くにあった電気コードでBの両手を縛り上げた。マスクが取れてしまい「Bに顔を見られた」と思ったLは「Bを殺すしかない」と考え、A宅の台所にあった包丁(刃渡り約17.2cm)を持ち出し、殺意を持って包丁でBの左背部を数回突き刺すなどして、被害者Bを左肺動脈切断による出血性ショックにより死亡させて殺害した(強盗殺人罪)。Bの殺害に使用された包丁は刃全体が反り曲がっていた。 -王国の歴史は成立からエチオピアのアクスム王国の攻撃を受ける4世紀頃までの第一期、525年に滅亡するまでの第二期に分けられる。南アラビア史において主導的な役割を果たした国家であり、同時期に南アラビアに存在していたサバア王国、ハドラマウト王国と覇権を争った。523年にユダヤ教徒の国王ズー・ヌワースがナジュラーンに居住するキリスト教徒を弾圧した事件の後、ヒムヤル王国はアクスム王国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、イランのサーサーン朝の介入を受けて滅亡する。ただし、525年のアクスム王親征軍によりズー・ヌワースが破滅すると、アクスム王によってキリスト教徒のスムヤファ・アシュワァが王位に封じられている。その後にアクスム軍の将軍がクーデターで王位を簒奪している。以上のことから、真の滅亡は570年代とみられる。 -クロアチア共和農民党の党首スティエパン・ラディッチは政治的理由により何度も投獄された。ラディッチは1925年、「クロアチア共和農民党」の党名から「共和」を外して「クロアチア農民党」とすること、ヴィドヴダン憲法を認めることを表明した。ラディッチは釈放され、議会に復帰した。 -1975年から1985年まで、バスク州の域内総生産はマイナスとなり、1985年にはビスカヤ県で26%、ギプスコア県で22%という高い失業率を記録した。バスク州は重工業一極型の産業構造・石油依存社会からの転換を図り、1990年の湾岸危機による石油価格高騰の影響も比較的軽かった。1990年頃には第三次産業従事者割合が就業人口の50%を超え、2002年の経済成長率は欧州連合(EU)平均を上回る1.8%、失業率は8.3%にまで回復した。3県都の郊外には工業団地が設置されて企業が誘致され、工業都市だったビルバオはビルバオ・グッゲンハイム美術館の開館に象徴されるように文化産業都市としてよみがえった。 -バクチノキの樹皮は灰褐色で剥��れやすく、剥がれた跡が赤褐色または紅黄色になる。これを博打に負けて丸裸にされた状態に例えてバクチノキと呼ばれる。本樹の幹には縦に筋状に模様が入り、くぼみ部分はひときわ鮮やかな赤褐色であり、ところどころ瘤状に隆起している。平成19年(2007年)の調査では、3ヶ所以上の大枝が欠損していた。同じ株から伸びている若い幹には灰褐色の樹皮も残っていて鹿の子模様になっている。根本は急斜面の岩場だが、枝には葉がよく茂り、前方に深く幕のように垂れ下がって、この巨木一本で森のように見える。本樹の赤褐色の幹は、その中に入らないと見えない。 -前述の通り、電気エネルギーはさまざまな形態のエネルギーへの変換が容易であり、伝送も比較的簡単であるので、現代ではさまざまな分野で必要不可欠のものとなっている。非電気エネルギーを電気に変換することを、発電と呼ぶ。タレスの琥珀棒の実験は、電気エネルギー生産の最初期の研究だった。その摩擦帯電現象は軽い物なら引き寄せることができ、火花を発生させることもあるが、発電方法としては極めて非効率である。史上初の実用的な電力源は18世紀に発明されたボルタ電池である。ボルタ電池から始まった電池はエネルギーを化学的に蓄え、そこから必要に応じて電気エネルギーを引き出して使うことができる。電池は様々な用途に使える一般的な電力源だが、蓄えているエネルギー量は有限であり、完全に放電すると再充電するか廃棄するしかない。電気エネルギーへの大きな需要に応えるためには、継続的に発電し、電線を通してそれを送電する必要がある。 -鉄鋼業が伸長したこの時期、スウェーデン・ノルウェー・アメリカ合衆国など欧米において実用化されつつあった製鉄法(製銑法)が「電気製鉄」(電気製銑)であった。電気製鉄とは、鉄鉱石を還元して銑鉄を取り出す際に電気炉を用いる方法である。一般的に行われていた高炉(溶鉱炉)による製鉄法では、鉱石の加熱にコークスないし木炭を使用するが、電気製鉄ではこれを電力による加熱に代える。還元に必要な炭素を供給するため電気製鉄でもコークスないし木炭は必要であるが、加熱に使用しない分高炉法に比べて使用量を1/3に圧縮できる。他にも電気製鉄法は高炉法に比して、鉱石の大小を問わない、コークス・木炭の使用量が少ないため銑鉄中の不純物が少ない、操業が容易、建設費が最大1/2程度と安い、といったメリットがあった。ただ前提として電力が廉価である必要があった。この新規事業である電気製鉄を、名古屋電灯は1917年(大正6年)より日本で初めて導入する。 -同年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。—『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日ファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。パリに戻ったゴーギャンと会ったベルナールは、彼から伝え聞いた話として、1889年1月1日消印の友人オーリエ宛の手紙で次のように書いている。「アルルを去る前の晩、私の後をヴァンサンが追いかけてきた。私は振り向いた。時々彼が変な振舞いをするので警戒したのだ。すると彼は言った。『あなたは無口になった。僕も静かにするよ。』。私はホテルへ寝に行き、帰宅した時、家の前にはアルル中の人が押しかけていた。その時警官たちが私を逮捕した。家の中が血まみれになっていたからだ。事の次第はこうだ――私が立ち去った後、彼は家に戻り、剃刀で耳を切り落とした。それから大きなベレー帽をかぶって、娼家へ行き、遊女の一人に耳を渡して言った。『真心から君に言うが、君は僕を忘れないでくれるね。』」一方、その10年あまり後、晩年のゴーギャンが書いた自伝���前後録』の中では、ファン・ゴッホが自身の背後から剃刀を手に突進してきた話が付け加えられているが、その信憑性には疑問もある。翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せた。 -1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求め、映画産業に対しても協力を要請するが当初は成功しなかった。これは検閲や行政指導ができないことに加え、高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させる体制となっていたためである。しかし、ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反ナチス」の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作した。大衆文化史の研究者にはディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘するものもいる。政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。しかし大衆自身が願う形へミッキーを作り変える作業を続けることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。当時のウォルトディズニー社は白雪姫の大ヒットで得た莫大な収益を注ぎ込んで製作したピノキオやファンタジアがヒットしなかったせいで、あっという間に膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパも戦争中で映画の輸出も出来なくなり、株価も1株が25ドルから4ドルまで大暴落し倒産の危機に陥ったが、プロパガンダ映画の制作により、ある程度の収益を得て経営を建て直すことが出来た為、戦後も引き続きディズニーは経営の安定させる理由で政府の核実験、原子力開発キャンペーンのためにOurFriendtheAtom(我が友原子力)という映画を作成するなどプロパガンダに参加している。大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメ映画に、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーンがあったり、ドナルドダックのアニメ映画「総統の顔」に東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたものでもなく、ウォルトが積極的に自ら制作したものである。このほかにもFP-45のために文字を使用せず、漫画のコマ割り風に絵を配置して説明するマニュアルや、ボーイズ対戦車ライフルの兵士向けの映像教材など細かな依頼も引き受けている。 -ゲルニカ爆撃は敵国民の戦意をそぐために行われる戦略爆撃の先駆けと考えられており、戦略爆撃は第二次世界大戦で本格化した。コンドル軍団はこの作戦をリューゲン作戦(OperationRügen)という作戦名で呼んだ。 -男性Aは1950年8月10日に生まれた(41歳没)。事件当日(1992年3月5日)21時40分ごろ(帰宅直後)にSにより背後から左肩を刺されて致命傷を負い、翌日(3月6日)0時30分ごろに再び包丁で背中を刺され出血多量で死亡した。フリーランスのカメラマンとして働いていた1985年(事件7年前)には写真週刊誌に掲載された三浦和義のプライベート写真を撮影したことがあったが、結婚後は年ごろの娘を持つようになったためにそれまでの風俗関連から離れ、事件直前まで妻Dと共に料理雑誌・旅行雑誌の仕事を中心にしてレストラン・温泉地などの写真を撮影していた。1986年ごろから後述の女性Dと同居を開始し、1987年3月にDと結婚して継子の少女Bを養子にした。同年8月には妻Dとともに行徳駅前のマンションを事務所として雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立して取締役を務めており、社員を数人抱えていた。 -1871年のコロンビア特別区基本法(DistrictofColumbiaOrganicActof1871)により、連邦議会は特別区全体の新しい政府を創設し、ワシントン市、ジョージタウン市及びワシントン郡を一つの自治体に統合した。これをもって現在のワシントンD.C.が形作られ、この町が「ワシントン」と「コロンビア特別区」の両方の名前で知られているのはこのためである。同じ法律の中で、連邦議会は公共事業委員会を設立し、町の近代化に当たらせた。1873年、ユリシーズ・グラント大統領は、同委員会の最も有力なメン��ーであるアレクサンダー・シェパードを新たに設置された知事職に任命した。その年、シェパードは2000万ドルを公共事業に費やし(2007年は3億5700万ドル)、ワシントンの近代化を行ったが、同時に財政を破綻させることにもなった。1874年、連邦議会はシェパードの知事職を廃止して直接統治を選んだ。更なる町の改修作業は、1901年に行われたマクミラン・プラン(McMillanPlan)を待たなければならなかった。 -『星織ユメミライ』の企画・制作はtonework'sである。ディレクター業務は丘野塔也が担当し、シナリオは丘野塔也・白矢たつき・にっし~・今科理央・魁が担当した。本作のヒロインのうち、逢坂そらの原画は武藤此史、篠崎真理花の原画は恋泉天音、瀬川夏希の原画は秋野すばる、沖原美砂の原画は恋泉天音、鳴沢律佳の原画は秋野すばる、雪村透子の原画は唯々月たすくが担当した。SDイラストは柚木ガオが担当した。BGMは天門・MANYO・水月陵・碓氷悠一朗・しょうゆ・Meeon・どんまるが担当した。動画制作はgram6designが担当した。本作ではヒロイン数が『初恋1/1』の5人から6人へ増加し、ヒロイン数増加を受けて唯々月たすく・秋野すばる・恋泉天音・武藤此史の計4人の原画家が起用された。ビジュアルアーツに所属する恋泉の他に唯々月たすく・秋野すばるが起用されたのは、前作での仕事が素晴らしかったこと、前作と同じ原画家を起用することでブランドイメージを統一したかったこと、恋泉が描くキャラクターに頭身が近くかつ可愛いキャラクターを描ける人は希少であることなどが理由である。新たに武藤此史を起用したのはtonework'sの作風と原画家としての実力を考慮したためである。 -沖原美砂は海と魚を愛する少女であり、自然科学部の唯一の部員である。父親は汐凪市にあるマリンピアしおなぎという水族館の館長であったが、同水族館は物語開始時点では閉鎖してしまっている。涼介と美砂の交流は、涼介が閉鎖したマリンピアしおなぎを訪れたことをきっかけとして始まる。後に涼介は学園で美砂と再会し、美砂が所属する自然科学部を行事運営委員として手助けすることになる。自然科学部は天文部と合同で七夕祭りにて「星空の水族館」を展示することが決まる。涼介達は広い展示場所を求めて旧館の使用を申請するも難色を示される。これは、マリンピアしおなぎの閉鎖により水族館自体が人気がないと思われていたためである。涼介は調査を行い、同水族館に人気があったことや閉鎖した真の理由を示す。涼介の説明により、自然科学部は旧館の使用を許可される。涼介達は企画実現に向けて水槽の準備と魚の採集を始める。涼介と美砂は採集のために訪れた無人島で相思相愛であることを知り、二人は付き合い始める。準備の過程では、停電を原因とした水槽の水温上昇と酸素不足、水槽の濁りといったトラブルが発生するが、涼介と美砂の対処により解決する。また、涼介は併設展示用にマリンピアしおなぎの建築模型を作成する。七夕祭り当日、多数の人が水族館を訪れる。美砂は来訪していた市議会議員にマリンピアしおなぎの再開にかける思いを伝える。議員は市民の要望が大きくなれば同水族館が再開する可能性もあると指摘し、地道な啓蒙活動を続けることを勧める。七夕祭り後、二人で打ち上げ花火を見ながらずっと一緒にいることを誓う場面でスクール編は幕を閉じる。 -DNAナノテクノロジー(英:DNAnanotechnology)とは、有用な核酸構造を人工的に設計・作製する技術をいう。DNAの名が冠されているが、他の種類の核酸も用いられるため「核酸ナノテクノロジー」という別名がある。この分野では核酸を生細胞の遺伝情報キャリアとしてではなく、非生物学的なナノ材料として用いる。これまでの研究で、DNAを用いた2次元・3次元の結晶格子やナノチューブ、多面体、さらに任意形状の静的構造が作製されており、分子機械やDNAコンピューターのような機能デバイスも得られている。X線構造解析や核磁気共鳴スペクトロスコピーによるタンパク質の構造同定など、構造生物学や生物物理学における基礎的な問題を解決するツールとしても用いられ始めた。将来的な分子スケールエレクトロニクスやナノ医療への応用も研究されている。 -A310の主��は、7,000キロメートルの航続距離を無理なく実現しつつ、短距離路線での運航経済性を損なわない、という2つの要求を満たすように新たに設計された。翼型は、A300で採用されたリア・ローディング翼型を洗練させ、翼の後半で得られる揚力がさらに大きくなった。翼平面形については、A300の主翼と比べて大きなアスペクト比を持つ細長い翼となり、翼面積で16パーセントほど小型化された。。A300では、主翼の製造において複雑で大掛かりな外板の加工を避けるため、主翼の翼厚比を一定としたシンプルな形状を採用するとともに、外板を翼幅方向で2枚に分けて製造し、継ぎ手でつなぎ合わせていた。これに対してA310の主翼は、翼の付け根を厚く、翼端にいくほど薄くなるように翼厚比が変化する複雑な曲面をもつ設計となった。さらに、生産設備を改修して翼幅方向に継ぎ目のない外板の製造に踏み切り、主翼の構造重量の低減を図りつつ、主翼内に搭載できる燃料を増やした。高揚力装置の構成については、前縁はA300と変わらないが、後縁のフラップはA300よりも簡略化され、フラップを動作させるトラックレールのフェアリングもA300より1つ少なくなった。また、A300の主翼で設けられていた外翼部の低速用エルロンも廃止された。一方で、主翼動翼の操作系には電気的信号を介するいわゆるフライ・バイ・ワイヤ方式を採用し、スポイラーを左右非対称に展開可能にすることでロール運動の制御にも用いるようにした。以上のように洗練されたA310の主翼は、巡航速度域での揚抗比がA300よりも高くなり、大まかに言うと、同じ揚力を得るのに必要とする推力が小さくて済むようになった。尾翼はA300と同じく胴体に直接配置する一般的な構成とし、垂直尾翼はA300のものが流用されたが、水平尾翼は再設計され翼面積が8パーセントほど小さくなった。降着装置も新規に設計されたが、配置や構成はA300と変わらない。 -1979年(昭和54年)5月24日には浜松市立中央図書館の新館が起工された。浜松市制施行70周年の当日にあたる1981年(昭和56年)4月13日に落成式が行われ、4月14日に開館した。蔵書収容能力は65万冊であり、冷暖房設備やコンピュータ設備も有する最新式の図書館だった。総工費は約14億円。コンピュータ設備では貸出・返却・予約・資料検索などを行なうことができ、全国の図書館関係者が見学に訪れている。1989年(平成元年)には全館がオンラインで結ばれ、利用者用検索端末(OPAC)が設置された。2001年(平成13年)には蔵書の予約が可能となった。 -内観は木材を多用した暖かな雰囲気の構造で、ユニバーサルデザインの考え方に沿った設計となっている。書架・机・椅子は地元の飛騨地方産の木材を使い、書架の間に設置された木製のソファは地元家具メーカーから寄付を受けた。1階に「木のくにこども図書館」と名付けられた児童閲覧室(532m2)と生涯学習ホール(204m2、108人収容)、2階に一般閲覧室(1,008m2)と近代文学館を設置する。木のくにこども図書館は大木のモニュメントが利用者に強い印象を与え、「おはなしのへや」や靴を脱いで入室する「たたみのへや」、授乳室を設け、列車の形をした絵本の棚「ブックトレイン」もある。館内は全面禁煙である。 -変圧器は、絶縁と冷却の方式で分類することができる。変圧器自体は大変効率の高い設備であるが、それでもわずかながら損失が発生してこれが熱に変わる。変電所の変圧器は大電力を取り扱うことから、この放熱が大きな問題となる。この冷却方式は絶縁の方式とも大きく関係している。乾式変圧器は、間隔を空けて回路を保持することで空気により絶縁する方式で、小容量のものに用いられる。冷却は自然放熱によるか、送風して空気で熱を運び出す方式となる。特に耐熱性の高い絶縁材料を使用して送風により冷却をしたものでは、数千kVA程度の容量のものまである。変圧器全体の効率的な運転を図るために、変圧器の負荷に応じて送風量を加減する方式もある。巻線などをエポキシ樹脂などで固めたモールド変圧器もある。 -高句麗はこの戦争の敗北から立ち直り、美川王(乙弗、在位:300年-331年)が即位したころには、従来からの五部体制を維持しつつも国王権力の集中が推し進められ官位制度が整備されるなど内政面の強化が行われた。そして対外的には、中国を統一した西晋で発生した八王の乱やその後の分裂などの混乱に乗じて遼東地方への進出を図った。311年には丹東を攻略して朝鮮半島の郡県を中国本国から切り離し、盛んに楽浪郡や帯方郡を攻撃した。313年にはこれに耐えられなくなった楽浪郡の郡民の多くが鮮卑の慕容氏の下へ移住し、楽浪・帯方両郡は行政機能を事実上喪失した。同年中に高句麗は楽浪郡を占領し朝鮮半島北部の支配を確立した。それでも楽浪郡の故地には多くの漢人が残留し、新たに中国の戦乱を逃れて流入した漢人もこれに加わった。彼らは南北に分裂しつつあった中国の正統王朝として東晋を支持し、その年号を使用し続けるなど回帰の願望を持っていた。高句麗は平壌を新たな拠点として確保する一方で、彼ら漢人に対しては緩やかな支配で臨んだ。更に北方では夫余を攻撃してその本拠地を支配下に置いた。 -ヒューブライン社には過去にファストフード店を経営した経験がなく、その自信過剰な経営は香港のような海外市場においてKFCを失速させた。1975年には2年間の活動の後、KFCは香港での事業から撤退した。サンダースは公然とヒューブライン社への批判を続け、1976年には同社が「やってることを何もわかっていない」と批判し、現状のひどい品質の商品と関係があるように自分のイメージが使われているのは「まったくもって恥ずかしいこと」だと述べた。1978年までには、800もの直営店が不採算店舗となっていた。1977年、ヒューブライン社はマイケル・A・マイルズをKFCチェーンの経営者に抜擢した。マイルズは、経営難のKFCを原点回帰路線で立て直した功労者と見なされている。マイルズは店舗の改装を推し進め、店内に座席を設けた上で、ドライブスルー用の窓口も導入した。電子レジスターの導入により、日々の顧客数、在庫目録、損益計算書の確認が可能になり、問題をすぐに認識できるようになった。KFCは70年代から80年代にかけて国際的な展開(特に日本、オーストラリア、イギリス)を推し進めた。マイルズはさらに、サンダースをKFCへと復帰するよう誘い、ビジネスにおけるサンダースの提言にも耳を傾けた。後に続く変革は結果として現れ始め、1980年の暮れには1店舗当たりの売上高の上昇が30ヶ月連続となった。 -禁酒法施行時代やゴルバチョフ時代には、ロシア人はアルコールが含まれているものならローションや中性洗剤でも飲んだと言われ、酒にまつわるアネクドートも多く存在する。一連の取り組みが行われた一方で、リキュール類から得られる税収は政府の収入源になり、1920年代末期には政府は工業化に必要な資金を得るためにウォトカを増産した。ストリチナヤを始めとしたウォトカは外貨獲得のため食料輸出輸入公団(S.P.I.Groupの前身)によって輸出されており、西側諸国ではカクテルベースとして利用されていた。なおアメリカでの販売権はペプシコがペプシの濃縮液との物々交換で獲得した。 -銀貨も中世の頃から灰吹銀およびそれに極印を打った極印銀が目方に応じて高額取引に使用され、金貨と同様にこれらを打ち伸ばしたのであるが、金と異なり不純物の関係で銀は脆く、薄い板に延ばそうとするとひび割れるため、譲葉あるいはナマコ型の丁銀となった。このような丁銀の鋳造を行う銀座は秀吉が堺、京都の銀吹屋を集めて大坂に常是座を設けたことにより始まったとされる。また灰吹法の導入により16世紀後半から石見銀山を始めとして日本各地で銀の産出が増大し、さらに生糸などの貿易先として重要であった中国において銀錠が大口取引に使用されていたことも影響して、銀が大坂を中心とする商人により盛んに使用されるようになった。家康はこのような銀を取引の中心とする商人の力を無視することができず、金貨の使用を強制するよりは既存の体制を継承して貨幣制度の整備を進める道を選択した。恩賞および贈答には銀一枚(四十三匁)とする単位の包銀が用いられた。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を���討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -クロヴィス1世はさらに507年、ライン・フランク人とブルグント族の支援を受け、ヴイエの戦い(英語版)でガリア最大の勢力であった西ゴート王国に勝利をおさめ、その王アラリック2世を戦死させた。西ゴートを支援する東ゴート王国の介入のために地中海へ到達することは叶わなかったものの、これによりガリア南部(ガリア・アクィタニア)から西ゴートの勢力を駆逐し、イベリア半島へと追いやった。クロヴィス1世の勢力の急激な拡張は、フランク族のほかの王たちとの間に軋轢を生んだ。この段階においても、クロヴィス1世はフランク族の唯一の王であったわけではなかった。クロヴィス1世以外のフランク族の王についての情報は乏しいが、カンブレーを中心とするラグナカール(英語版)、支配地域不明のカラリク(英語版)、ケルンを中心とするシギベルト跛王(英語版)などのフランク王の名が伝えられている。西ゴートをガリアから駆逐したあと、クロヴィス1世は策略によってこれらの王国を奪い取り、ついに唯一のフランク人の王となった。その時期は508年以降であると考えられている。このため、のちにクロヴィス1世は「フランク王国の初代の王」と記録されている。 -大クロアチア(クロアチア語:VelikaHrvatska)は、クロアチアの民族主義の潮流のひとつで、クロアチア人による民族統一主義である大クロアチア主義が自国領とみなす領域である。 -1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。建議書には「神岡鉱業所事業の勃興に伴い、土砂に流入する田地の稲は発育に変調をきたし、完全に登熟しない。鉱山経営者に対し除害施設を講ぜしめられたい。」と訴えられている。その後も同様に要望が婦負郡農会や富山県会からも出たため、東京鉱務署の調査があり、神岡鉱業所に廃砕・廃水処理の改善が命じられた。また、富山県は災害対策費として1ヶ所2円の県費補助金を出して、用水路幹線からの取水口に小沈殿池を設けさせて被害の軽減に努めた。これによって一時的に効果をあげたが、満州事変や日中戦争などに伴い神岡鉱業所が増産体制に入ったり、何度かの出水で小沈殿池が流されたり、埋没したりして以前にも増して泥や砂など流入が激しくなった。1948年(昭和23年)、熊野村(現:富山市婦中町)など3町4村の農家が神通川鉱毒対策協議会を結成。富山県を通じて交渉し、1951年(昭和26年)に神岡鉱業所が農業協力費を関係市町村へ支払うことになった。しかし、原因は解明されないままであった。 -ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に���まり、タンギー爺さん(パリ時代)、ジヌー夫人、郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌ(ゆりかごを揺らす女)らその家族(アルル時代)、医師ガシェとその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの肖像画を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は大聖堂よりは人間の眼を描きたい」と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。......僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」。 -多摩湖鉄道は1928年4月6日に国分寺駅-萩山駅間の旅客運輸営業を開始したが、この際の車両は日本自動車製の4輪ガソリン客車キハ1形キハ1・2号の2両であった。この区間の動力はもともと電気動力のみの予定であったが、資金不足および早期完成のため電気・ガソリン併用ただし電気設備未竣功として、実質的にガソリン動力のみで運輸営業を開始したものである。ところが当初のキハ1形キハ1・2号は故障が多く、開業当日に松井自動車製作所に4輪ガソリン客車2両を発注するとともに、その完成までのつなぎのほか延長線建設等に備え、蒸気動力併用の認可を受けた上で、鉄道省から1650形1650号蒸気機関車1両、駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)から4輪客車1両を譲り受けた。このうち、松井自動車製作所に発注した新車両はジハ101形ジハ101・102号として、1928年8月に1両、10月に残りの1両が竣功したが、蒸気機関車および客車は放置ののち1929年3月に竣功した。しかし、蒸気機関車と客車については営業用に使用した記録が残されていない。また、キハ1形キハ1・2号についても伝達装置等の改造を行い、1929年10月にキハ2号、1930年1月にキハ1号が竣功し延伸区間の開業を迎えた。 -フェズの起源は紀元前に遡ると言われることもあるが考古学的な根拠は無く、半ば伝説として扱われている。紀元前40年ごろにはフェズから北西に50km離れた場所に建てられたローマ都市のヴォルビリスが繁栄しており、同時期のフェズには公衆浴場が存在していたと伝えられている。8世紀末にイドリース朝の創始者イドリース1世がフェズ川西岸に国家の首都となる町を建設し、イドリース1世の跡を継いだイドリース2世はフェズ川東岸に新たな町を建設した。818年にイベリア半島を支配する後ウマイヤ朝の首都コルドバから8,000の家族がフェズに移住し、イベリア半島からフェズに亡命したイスラム教徒は町の発展に寄与した。825年にはチュニジアのカイラワーン(ケルアン)から追放された家族によって、フェズ川西岸にカイラワーン地区が形成される。9世紀にアンダルス出身者が自分たちの居住区であるアンダルス地区に建立したアンダルス・モスクはイスラム教徒の礼拝の場となり、カイラワーン地区にはアンダルス・モスクの建立と同時期にカラウィーン・モスクが建立された。伝説によれば、カイラワーンからフェズに亡命した富豪が2人の娘に莫大な財産を遺して没し、遺産を相続した姉妹は信仰心の篤さを示すために、それぞれカラウィーン・モスクとアンダルス・モスクを建立したという。 -ペルシアは非常に軍事化された社会を形成し、支配層は自らを「戦士貴族」(アルテーシュターラーン)と呼んでいたが、それでもローマ帝国と比較して人口はかなり少なく、貧困であり、中央集権化の程度で劣っていた。結果として、サーサーン朝の王は少数の常備軍よりも貴族の軍事力に依存していた。いくつかの例外は、王室警護の騎兵隊と守備隊、そしてペルシアの外部から徴兵された部隊であった。 -還住(かんじゅう、げんじゅう)は、一度居住地を去った者がその土地に戻り再度居住することを意味する語。本記事では、伊豆諸島の青ヶ島で、安永9年(1780年)に始まった噴火活動が天明5年(1785年)になって激しさを増したため、島民が八丈島に避難して無人島になったあと、文政7年(1824年)の旧青ヶ島島民全員の帰還、そして島の復興を達成し、天保6年(1835年)に検地を受けるまでの経過について記述する。 -2006年(平成18年)に、庵野秀明はアニメ制作会社「株式会社カラー」を設立し、それまで名を連ねていたガイナックスの取締役から退いている。新スタジオでの第一作目は、2007年(平成19年)9月1日に全国主要映画館にて封切りされた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』四部作の1つ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』であった。2009年(平成21年)6月27日には『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、2012年(平成24年)11月17日に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を全国主要映画館にて封切りした。完結編として『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が予定されている。2011年(平成23年)に平野勝之監督の『監督失格』を実写初プロデュース作品として手掛けた。2013年(平成25年)には、宮崎駿の長編アニメーション映画『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎役で声優デビューした。2014年(平成26年)に第27回東京国際映画祭の企画で「庵野秀明の世界」が開催された。学生時代からの映像作品がTOHOシネマズ日本橋で上映、トークセッションも開催された。2015年(平成27年)4月1日、2016年に公開予定の「ゴジラシリーズ」新作で、脚本と総監督を務めることが発表された。2015年秋から撮影開始し、2016年7月29日に『シン・ゴジラ』のタイトルで公開された。2017年(平成29年)5月8日、NPO法人『アニメ特撮アーカイブ機構』を設立し、代表を務める。 -1515年9月のマリニャーノの戦いはカンブレー同盟戦争を終息へと向かわせたが、その平和は1518年までには崩れ始めた。当時の西欧大国(フランス、イングランド、スペイン、神聖ローマ帝国)はロンドン条約で相互不可侵と軍事同盟を約するなど、表面上は友好的だったが、神聖ローマ帝国の継承では意見が合わなかった。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はハプスブルク家の世襲体制を確固にすべく、孫のスペイン王カルロス1世(後の皇帝カール5世)を次期の皇帝に推した一方、フランス王フランソワ1世は自らを推した。しかし、両者ともそれぞれの事情があった。宗教改革の創始者マルティン・ルターが帝国貴族の間で影響力を増しつつあるため、教皇と神聖ローマ帝国は対応に追われた。イングランドが起用したウルジー枢機卿は大陸ヨーロッパでの紛争に介入する野心的な外交政策を断行して、イングランドと自分の影響力を増大させようとしたため、フランソワ1世の障害となっていた。 -この間1970年6月にはエールフランスがA300Bの発注の意向を示していたが、同社はパリとロンドン、ジュネーヴ、コルシカ島などを結ぶ高需要路線に適した機材を求めており、A300の座席数をもう少し増やすよう要求した。そこで、A300Bの胴体を5フレーム(2.65メートル)延長したモデルを用意することとなり、A300Bの2番目のタイプということでA300B2と名付けられた。そして1971年11月3日、エールフランスはA300B2を正式に発注した。これがA300の初受注となり、注文数は確定6機、オプション10機であった。これにより原型機はA300B1と呼ばれるようになったほか、後に基本名称がA300BからA300に戻され、旅客型をA300Bとして貨客転換型をA300C、貨物型をA300Fとする型式名の整理が行われている。1972年2月にはスペインのイベリア航空から確定4機、オプション8機の受注を獲得した。イベリア航空は4,000キロメートル以上の航続距離性能を求めていたが、A300B2の航続距離は3,430キロメートルだったため、航続距離延長型としてA300B4を開発することになった。 -耳介の先端は丸く黒色の毛で縁取られ、先端の体毛は房状に伸長しない。また成獣の耳の背面は白濁色の虎耳状斑とよばれる斑紋がある。この虎耳状斑は、他のベンガルヤマネコは幼獣の時から小さな白濁した斑があり、成長するにつれ白色になるが、イリオモテヤマネコは幼獣にはこの虎耳状斑は無く、成長しても白色にはならない。虹彩は淡い琥珀色である。吻端の体毛で被われない板状の皮膚(鼻鏡)は淡赤褐色をしており、大型で、鼻面も太い。肉球の幅はイエネコの24-30ミリメートルより大きく、29-37ミリメートルである。頭骨はイエネコに比べて細長いが、他のベ���ガルヤマネコとは大きな違いはない。しかし、他のベンガルヤマネコよりも頭骨が厚く、その分脳の容量も小さく、脳の重量は他のベンガルヤマネコのオスの42グラムに対して、イリオモテヤマネコのオスは30グラムと小型である。後頭骨の突起と聴胞が接しない。下顎の縫合部が短い。歯列は門歯が上下6本、犬歯が上下2本、小臼歯が上下4本、大臼歯が上下2本の計28本で、ヤマネコなどのネコ類より上顎前臼歯が1対少ない。亜熱帯に生息する哺乳類には珍しく、歯に年輪ができることが確認され、これにより年齢別での行動分析などができるようになると期待されている。臭腺(肛門腺)は他のベンガルヤマネコを含む他のネコ類は肛門内にあるのに対し、イリオモテヤマネコは肛門を取り囲むように存在する。遺伝的な差異がわずかであるにもかかわらず、このように形態的な差異が大きいことから、発見当時は新属新種とされた。 -『眠る女』は室内の女性を描いたフェルメールの作品のうちもっとも初期のものだ。画中にあるライオンの頭部の飾りのついた椅子、東洋風の絨毯、白いワイン入れなどは、以後のフェルメールの作品にしばしば登場する。テーブルの上の2つのワイングラス(1つは倒れている)は、女が酒に酔って眠り、家庭の主婦としての勤めをおろそかにしていることを暗示している。テーブルの上の果物の鉢も性的な堕落を示唆するものである。女の背後の壁に掛けられた絵は、暗くてよく見えないが、キューピッドが仮面(虚偽の愛)を踏み付けている様子がわずかに見える。女の背後の開けっぱなしのドアの向こうには隣の部屋が見える。X線写真によると、絵のこの部分には犬(やはり性的なものを示唆する)と、一人の男が描かれていたが、後に画家によって塗りつぶされたことが明らかになっている。 -ユーロビジョン・ソング・コンテスト2009は、前年にベオグラードで行われた2008年大会でロシアのジーマ・ビラーンが「Believe」を歌って優勝したことにより、ロシアが開催国となる。モスクワ市長は難色を示したものの、首相のウラジーミル・プーチンは直ちに、同大会がモスクワで開催されるとした。また、大会を主催するチャンネル1は、モスクワのオリンピック・スタジアムを会場とすることを提案した。この提案は欧州放送連合によって審議され、2008年9月13日に認められた。大会を監修するヴラジーミル・チュリーリンは、会場の緊急改修が必要になるとの噂を否定し、「ユーロビジョン・ソング・コンテストのために改修をする必要はない。我々はいつでも2万5千人までの観衆を受け入れ可能だ。」と述べた。 -カール大公(オーストリア皇帝の弟)は1801年に軍制改革に着手し、宮廷戦争会議(Hofkriegsrat:オーストリア軍の意思決定を行う政治軍事会議)から実権を奪った。カール大公はオーストリア軍では最優秀の指揮官であったが、宮廷内では人気がなく、彼の意見に反して対仏開戦が決定された際には影響力を失っていた。代わってカール・マック将軍が新たな総司令官となった。戦争の直前に彼は連隊の編制をこれまでの6個中隊から成る大隊が3個から、4個中隊から成る大隊4個に改編させた。この突然の改編に対応する士官の訓練は全く行われておらず、この結果、新編制の部隊は以前と同様の指揮統率をすることができなくなっていた。オーストリア騎兵はヨーロッパ最良と見なされていたが、騎兵部隊は多数の歩兵部隊に分遣されており、集中運用されたフランス騎兵に比してその有効性を減じていた。 -原発被害などを受けて、イタリアやフランス、アメリカ合衆国やオーストラリアなどの政府が、日本に駐在している会社員や外交官、学生や旅行者などを一時的に国外へ避難させるために政府専用機や民間チャーター機などを日本国内の空港に派遣し、無償で自国民を国外に避難させると同時に、放射能の影響を受けないと思われる地域への一時避難を奨励する勧告を行った。また在日外国人の中には、本国政府や所属企業からの避難勧告が出ていないにもかかわらず、「自主的に」国外へ逃れるものもいた。これらの在日外国人の避難や逃亡を受けて、これらの国の企業の日本法人や支店などの中には通常の業務に障害をきたすものや、操業を���時的に停止せざるを得なくなるものもあった。その後も一部の外国企業は、日本法人の本社や支店を「原発被害を受けにくい」とされた関西地方や九州地方などに一時的に移転させることを検討し、実際にアリコジャパンなど、一時的に地方に移転させた企業もあった。また同様の理由から、ルフトハンザ航空やエールフランス航空などは、原発事故がある程度鎮静化し放射能被害が及ばないことが確認されるまで成田国際空港への乗り入れを停止したり、関西国際空港などへ一時的に目的地を移す措置を行った。また、関西国際空港や韓国経由で成田国際空港へ運航し、その日のうちにこれらの空港に引き返させることで、成田国際空港での乗務員の宿泊および機内食の積み込みが発生しないようにする航空会社もあった。 -エドワード7世は1863年3月にデンマーク王女アレクサンドラと結婚した。1864年に妻の母国デンマークとプロイセン・オーストリアの間に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発し、彼はデンマークを助けようと同戦争の仲裁のための国際会議ロンドン会議開催を後援したが、同会議は失敗に終わり、結局デンマークはシュレースヴィヒとホルシュタインを失った。これをきっかけにバーティ夫妻は反プロイセン派になった。1866年11月、ロシア皇子アレクサンドルとデンマーク王女マリー・ダウマーの結婚式に出席するため訪露。さらに1867年6月のパリ万国博覧会に際してロシア皇帝にガーター勲章を授与することに尽力し、ロシア皇室との親善を図った。1869年1月からはエジプト、トルコ、ギリシャの三か国を訪問した。同年のサー・チャールズ・モーダント准男爵の離婚訴訟をめぐって証人として出廷する事態になり、世間から王太子としての資質を疑われた。女王がアルバート崩御後に引きこもったこともあって、王室人気は危機に瀕した(→モーダント離婚訴訟事件)。しかし1871年11月から12月にかけて腸チフスを患って命の危機に瀕したところ、劇的に回復したことで人気を回復した(→腸チフスからの回復)。 -戦後の復興の中で、チンドン屋は勢いを取り戻した。大規模な広告展開が困難な状況であった中で、少人数・小規模で小回りが利くチンドン屋の営業形態が時代に合っていたこと、陽気な音楽や派手な衣装が求められたことなどが理由として挙げられる。特に関東ではパチンコ店からの仕事が多かった。1950年にはチンドン屋人口は2500人に及んだとされる。昭和20年代後半には、もともと忙しい時期が異なるために人的交流があったサーカス関係者や、映画におされて芝居小屋が縮小したため、旅役者もチンドン界に流入した。 -1902年、ミハイルはザクセン=コーブルク=ゴータ公国のベアトリス公女と恋に落ちた。ミハイルは流暢な英語とフランス語を話し、互いに英語で文通を行った。二人は結婚の約束を交わしたが、ベアトリスの母がアレクサンドル3世の妹マリア大公女であったことから、原則としていとこ同士の結婚を認めていないロシア正教会の教会法によりニコライ2世の許可が得られず、この結婚話は立ち消えとなった。ベアトリス公女との悲恋の後、ミハイルの周囲は妹オルガの女官を務め「ダイナ」の愛称で慕われていたアレクサンドラ・コッシコフスカヤとの関係に注目を集めた。しかし、彼女の父ウラジーミル・コッシコフスキーは平民出身の弁護士であり、彼女との結婚は貴賤結婚に該当するため実現は難しかった。ミハイルの友人たちは結婚を諦め愛人の一人としてダイナと交際するように勧めたが、ミハイルはこれを拒否し、1906年7月にニコライ2世に手紙を送り結婚の許可を求めた。手紙を読んだニコライ2世と母マリアは衝撃を受け、ロシア皇室の法に従い貴賤結婚を認めようとせず、許可なく結婚した場合には軍人俸給の停止とロシアからの出国を禁止すると迫った。また、母マリアはミハイルがデンマークに出かけている9月中旬までにダイナを罷免し、宮廷から追い出した。 -両生類は、5科約200種(全世界に分布する両生綱の構成種のうち約5%)が分布する。大陸の大部分を乾燥域が占めるため面積あたりの種数は多いとはいえない。(例として面積は日本の20倍以上だが、一定の面積あたりに分布する種数は日本の1/5以下)現生の両生類では無尾目のみが分布する。主にカメガエル科やアマガエル科(アメガエル亜科)が分布する。これらにはアオガエル科やアカガエル科、ヒキガエル科に類似した形態を持つ種もいて、他地域における他科のニッチを占めている。他大陸および隣接する東洋区に多く分布するアオガエル科やヒキガエル科は自然分布せず、アカガエル科は1種のみ自然分布する。有尾目や無足目は分布しない。 -もう1つの決定的な原因は踊りの振付にあった。当初の想定では、決められた踊りを1曲ぶん踊ると35メートル進むことになっていた。第1回しゃんしゃん祭で使われた「きなんせ節」は1曲3分だったので、3時間の開催時間のあいだ休みなく踊り続けると60曲ぶん踊る計算になり、理論上なんとか2100メートル進む勘定になる。しかし「鳥取しゃんしゃん傘踊り」は4分30秒あって、二曲を交互に踊ると平均4分、一切休憩をはさまず踊っても45曲で1575メートルしか進めない。そのうえ、35メートル進むというのは普段着で踊った場合の測定値で、本番で浴衣を着ると、特に女性の場合には歩幅がずっと小さくなり、1曲で35メートルも進めなかった。そこで、踊りそのものと踊り歌の2方面から抜本的な解決策が図られることになった。新たに導入されたのが「平成鳥取音頭」と「しゃんしゃんしゃんぐりら」である。この2曲では基本的に自由な振付で踊ることとされ、1曲で進む距離は従来の倍以上になった。この結果、1991年には100メートル進むのに平均6分で済むようになった。なお、どちらの曲も従来の伝統的な振り付けで踊ることもできる。一方、こうした理由でかつて踊られた「吉岡小唄」や「白兎小唄」は使われなくなった。 -ナターリアは当初の亡命計画を断念し、子供たちを連れてウクライナ国・キエフに向かいドイツ軍の保護を受け脱出した。しかし、ドイツ革命によってドイツ帝国が崩壊したため、ナターリアはイギリス海軍の保護を受けイギリスに脱出した。彼女は1951年にパリの病院で無一文の状態で死去した。息子ゲオルギーは1931年にフランスのサンスで交通事故を起こし、20歳で死去した。ゲオルギーの死でアレクサンドル3世の男系子孫は絶えることになる。義理の娘ナターリア・マモントヴァは生涯で三度結婚を経験し、1940年に回顧録を出版した。ミハイルの死から91年経った2009年6月8日、ロシア当局は「不当な逮捕によって弾圧を受けた」として、ミハイルとジョンソンの名誉回復を発表した。 -一方で、17世紀後半からピョートル1世のもとで近代化政策を推し進めたロシアは、大北方戦争での勝利者となり(1721年)、積極的に黒海への南下を図り、同時にドナウ川沿岸にも影響を及ぼそうとしていた。このことが、「東方問題」の時期には、同地域に影響を拡大しようとしていたオーストリアとの利害対立を生じさせた。またこの期間、イギリスは自国と植民地インドを媒介する地中海経路を確保しようとしており、伝統的に地中海に大きな影響力を保持しているフランスはイギリスと対立する傾向にあった。 -古代には、公用紙を生産するために全国各地から紙の原料であるコウゾを納める制度があり、中央には紙屋院が設けられて朝廷で用いる記録用の高級紙(紙屋紙)を生産していた。中央集権化がすすんで各地の国・国府が整備されるようになると、地方でも公用紙の需要が起きたが、紙はそれぞれの地方で調達することとされ、各地の農産地でも紙漉きが行われるようになった。平安時代には、貴族階級が地方に所有する荘園が発達し、それによって中央への貢納が衰えるようになった。紙も同様で、有力な貴族は地方の荘園で紙を独占してしまい、中央の紙屋院へ納められる原料は減っていった。一方、各地の紙産地では独自の製紙法がうまれ、産地固有の紙が登場するようになった。例えば越前国では奉書紙が、美濃国では美濃紙が、備中国では檀紙が、大和国では吉野紙・奈良紙が生み出されていった。 -ファン・ゴッホはアントウェルペンないしパリ時代からアブサンを多飲していたが、アブサンには原料のニガヨモギに含まれるツジョンという有毒成分があり、振戦せん妄、てんかん性痙攣、幻聴を主症状とするアルコール中毒を引き起こす。サン=レミの精神病院に入院中、ファン・ゴッホが絵具のチューブの中身を飲み込んだことがあるが、これは絵具の溶剤であるテレビン油がツジョンと性質が似ているためであるという意見も発表されている。しかしこれを「耳切り事件」のような行動と結びつけるには難点もある。ゴッホの手紙の中にアブサンを飲んだという記録はないし、アルルではアブサンはほとんど売られていなかったという指摘もある。 -知られている中で最も質量が小さな太陽系外惑星はDraugrで、月の約2倍の質量しか持たない。一方で、NASAExoplanetArchiveに記載されている最も質量が大きな太陽系外惑星はHR2562bで、木星の約30倍の質量を持つが、惑星の定義に基づくとこの質量は惑星とみなすには大きすぎるため、褐色矮星に分類される可能性がある。太陽系外惑星には主星に非常に近い軌道をわずか数時間で公転しているものや、とても遠くに離れて数千年かけて公転しているものもあり、中には主星と重力的に結び付いているかどうかも曖昧なほど離れているものもある。これまで発見されてきた太陽系外惑星のほとんどは銀河系内に位置しているが、銀河系から遠く離れた別の銀河内に存在する銀河系外惑星が存在する可能性を示す証拠も見出されている。現在、知られている最も太陽系に近い太陽系外惑星はプロキシマ・ケンタウリbで、約4.2光年(約1.3パーセク)離れている。 -3月17日、選出後初めての日曜日、バチカン市国内の聖アンナ教会の説教において、「姦通の女」(ヨハネ8:1-11)の個所を引用し、「イエスは蔑みの言葉も、断罪の言葉も言いません。わたしたちが聞くのは、ただ愛の言葉、回心に招く憐れみの言葉だけです」と述べ、他者の振る舞いを非難したり断罪することではなく、「神の慈しみ」こそが世界を変えると力説した。正午には教皇として日曜日恒例の「お告げの祈り」に臨み、サン・ピエトロ広場に集まった15万人の信徒に「神は慈悲を与え続ける...神は慈悲を与えることにうんざりすることはない。うんざりするのは我々のほうだ」とユーモアを交えながら慈悲と寛容について説いた。同日、フランシスコは9言語のTwitterアカウントを用いて「親愛なる友よ、心から感謝します。私のために祈り続けてください。教皇フランシスコ」と投稿した。新教皇のフォロワー(読者)は、2013年4月17日時点で、英語版、スペイン語版を中心に合計で500万人以上にのぼった。 -1685年、オーストリアが大トルコ戦争で戦っている中、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルムにシュレージエンへの領土主張を取り下げさせ、大トルコ戦争でオーストリアに軍事援助を与える代償として、シュレージエンの飛地であるシュヴィーブスをブランデンブルクに割譲した。しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子フリードリヒ3世(後のプロイセン王フリードリヒ1世。1688年に選帝侯に即位)が父の後を継いで選帝侯になると、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルム一代限りでシュヴィーブスを割譲したとして、シュヴィーブスの支配権を取り戻した。フリードリヒ3世は負債の一部をレオポルト1世に肩代わりさせることで、この再占領を秘密裏に承認したが、後に合意を反故にし、クルノフ公国と元シロンスク・ピャスト家領への請求を再開した。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・��リテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -そのような経緯で原爆スラムと呼ばれる住宅密集地、基町不良住宅街が誕生した。多くの火災が発生し、路地が細くて消防車が入りにくいことにより、大火事に発展しやすい地域になった。とくに1967年(昭和42年)7月27日に発生した火災の被害は大きく、焼失家屋93戸・焼失面積4,085m2に及ぶ火災になり、その火災では道具を取りに戻った1人の老女が焼死した。最終的に、1961年(昭和36年)から1976年(昭和51年)までに、計14回の火災が起き、403戸が焼失した。1955年(昭和30年)の広島市長選で、中央公園に住宅を建てる公約で渡辺忠雄が当選した。1956年(昭和31年)11月に、公園予定地の一部を公営住宅用地として用途変更し、中層住宅を1,894戸建設する計画を決定。実際に、1955年(昭和30年)頃から1968年(昭和43年)までに、県と市が中層アパートを930戸(市17棟(630戸)・県13棟(300戸))供給したが、まだ地域内には約2,600戸の不良住宅があり、住宅不足の解消には至らなかった。1967年(昭和42年)の火災当時、原爆スラムの扱いについても、県が住宅地区改良法による解消を目指すのに対し、市は特別立法による解消を目指し、方向性の食い違いにより進展していなかった。県と市の足並みがそろわずなかなか計画が進まなかったが、ようやく1968年(昭和43年)5月に『基町地区再開発促進協議会』を設置した。翌1969年(昭和44年)3月に、基町地区の約33,600m2が住宅改良地区として国の指定を受け、3月20日に必要な入札が行われ、翌4月より着工した。不良住宅の一掃に加え、広島市中央公園や護岸緑地の整備など、日本初の大規模高層高密度再開発になった。 -サラエボ事件(サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者(推定相続人)であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件である。プリンツィプは、大セルビア主義テロ組織「黒手組」の一員ダニロ・イリッチによって組織された6人の暗殺者(5人のボスニア系セルビア人と1人のボシュニャク人)のうちの1人だった。暗殺者らが語った動機は、のちに「青年ボスニア」として知られるようになった反オーストリア的革命運動と一致していた。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった。 -しかしその後、氷貿易は急速にその性格を変え、アメリカの東海岸で成長著しかった都市の需要を満たすとともに、アメリカの中西部における市場開拓の実現を目指す産業になっていった。この頃には長く暑い夏が続くニューヨークとフィラデルフィアは氷の一大消費地になっており、需要を満たすためにハドソン川やメイン州から新たに氷が収穫されるようになった。鉄道産業が氷を利用した冷蔵車を導入したことで、シカゴやシンシナティ周辺の食肉加工業は、現地で屠畜した肉牛を精肉までして、アメリカ国内だけでなく海外の市場に輸出することが可能になった。低温保存の可能な鉄道車両や船舶も登場し、それまでは地場で野菜や果物を消費していただけのアメリカの農業は国を代表する産業となった。収獲した魚を氷によって保存できるようになったイギリスの漁師は、さらに航路を伸ばして漁獲高を増やすことができるようになった。醸��業にも、通年の営業が可能になるという大きな変化がもたらされた。アメリカによる氷の輸出は1870年以降は減少していくが、代わりに国際市場で台頭したのはノルウェーだった。ノルウェーは、船便によってイギリスやドイツに大量の氷を輸出した。 -8月2日にカバは上野行きの輸送箱に収容され、8月7日に京城を出発した。運搬は鉄道と関釜連絡船によって行われ、8月13日に上野動物園に到着した。このカバは京城の1字をとって「京子」と命名された。京子は健康な個体で、順調に成長していった。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生して東京は甚大な被害を受けた。上野恩賜公園は被災した市民たちの避難場所となり、上野動物園も即日閉園せざるを得なかった。上野動物園自体の被害は少なく、動物たちも来園者たちも直接負傷するようなことはなかった。ただし、臆病な性格の京子は怯えきってプールの底に潜ったままになってしまい、ときおり呼吸のために水面から鼻面を出す以外は全く姿を見せなくなった。飼育担当者たちがこのまま餓死してしまうのではないかと気をもんでいたところ、京子は大震災発生から3日後の朝に水面から顔を出して、ようやくエサを食べて無事な姿を見せた。 -ビルマ(現在のミャンマー、漢字表記では「緬甸」)は、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接している。南北の最長距離は約2,000キロ、東西の最長距離は約1,000キロ、国土面積は68万平方キロである。南側はベンガル湾に面し、東部、北部および西部国境はいずれも峻険な山脈によって囲まれている。中央部は平原地帯であり、大河イラワジ川(現在のエーヤワディー川)が流れている。支流チンドウィン川を含むイラワジ川、シッタウン川(現在のシッタン川)、タンルウィン川(現在のサルウィン川)がビルマの三大河川をなしている。 -一方、国勢調査局と疾病予防管理センターのデータを使って、ハーバード大学とカナダのブリティッシュコロンビア大学が調査をしたところ、ニューヨークは全米でもっとも不幸だと感じる都市とする結果となった。 -村は首都ブダペストの北東に位置し、スロバキアとの国境にも比較的近い。一帯は低い山頂が連なるチェルハート山脈(Cserhát)の渓谷に含まれており、この自然環境は保護地区にもなっている。チェルハートの語源はチェル(cser)で、山腹に自生していたブナ科のターキー・オーク(TurkeyOak)を意味する。現在はターキー・オークに限らず様々なオークが生えており、北の山腹はフユナラ(SessileOaks)を、南の山腹はカシやセイヨウサンシュユ(EuropeanCornels)などを主体としつつ、ほかにもカエデ、シュンギク、モモバキキョウ(Peach-leavedBellflower)、シデなどを見ることができる。さらに人工林としてスプルースやアカシアの林も存在している。このような豊かな自然の下、生息している哺乳類にはアカシカ、ノロジカ、アナグマ、イタチ、イノシシ、フェレット、ヤマネなどが挙げることができ、ほかに多くの野鳥も生息している。 -1859年8月29日、ヴェルディとジュゼッピーナはサヴォアのコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式を挙げた。45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げた。夫妻は平穏な生活を送ったが、イタリアは第二次独立戦争でオーストリアに勝利し、この知らせにはヴェルディも喜んだ。だがそれはすぐに失望へ変わった。同じくオーストリアと対立しイタリアを支援したナポレオン3世が秘かにオーストリアと通じヴィッラフランカの講和に踏み切った。エマヌエーレ2世はしぶしぶこれを呑み、宰相カミッロ・カヴールは辞任した。しかし、各公国の領主層はことごとく亡命し、民衆による暫定政府が立ち上げられていた。パルマ公国もモデナと合併されて議会が開かれることになり、ブッセート市の当局は地域の代表をヴェルディに打診した。政治家の資質などないと自覚していたが、彼はイタリアのためとこれを受けた。9月7日に開かれたパルマ議会はサルデーニャ王国との合併を決議し、ヴェルディはパルマの代表として王国首都のトリノでエマヌエーレ2世に謁見した。さらに彼は郊外で隠棲し農業をしていたカヴールと会い、音楽から身を引いた農���として政治から身を引いた農夫と話し合った。 -英仏米(イギリス、フランスとアメリカ)など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定(英語版)を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。そのころ日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。 -そのような経緯で原爆スラムと呼ばれる住宅密集地、基町不良住宅街が誕生した。多くの火災が発生し、路地が細くて消防車が入りにくいことにより、大火事に発展しやすい地域になった。とくに1967年(昭和42年)7月27日に発生した火災の被害は大きく、焼失家屋93戸・焼失面積4,085m2に及ぶ火災になり、その火災では道具を取りに戻った1人の老女が焼死した。最終的に、1961年(昭和36年)から1976年(昭和51年)までに、計14回の火災が起き、403戸が焼失した。1955年(昭和30年)の広島市長選で、中央公園に住宅を建てる公約で渡辺忠雄が当選した。1956年(昭和31年)11月に、公園予定地の一部を公営住宅用地として用途変更し、中層住宅を1,894戸建設する計画を決定。実際に、1955年(昭和30年)頃から1968年(昭和43年)までに、県と市が中層アパートを930戸(市17棟(630戸)・県13棟(300戸))供給したが、まだ地域内には約2,600戸の不良住宅があり、住宅不足の解消には至らなかった。1967年(昭和42年)の火災当時、原爆スラムの扱いについても、県が住宅地区改良法による解消を目指すのに対し、市は特別立法による解消を目指し、方向性の食い違いにより進展していなかった。県と市の足並みがそろわずなかなか計画が進まなかったが、ようやく1968年(昭和43年)5月に『基町地区再開発促進協議会』を設置した。翌1969年(昭和44年)3月に、基町地区の約33,600m2が住宅改良地区として国の指定を受け、3月20日に必要な入札が行われ、翌4月より着工した。不良住宅の一掃に加え、広島市中央公園や護岸緑地の整備など、日本初の大規模高層高密度再開発になった。 -園井恵子は、日本の女優である。1930年に宝塚少女歌劇入団した。高い演技力をもつ名バイプレーヤーとして知られた。1942年に宝塚を退団、新劇の劇団「苦楽座」に籍を移し、翌年出演した映画『無法松の一生』における吉岡夫人役で名声を博す。1945年8月6日、所属していた移動劇団「桜隊」が当時活動の拠点としていた広島市で原子爆弾投下に遭い、同月21日に原爆症のため32歳で死去した。 -本種の初記録はWehnckeがThoreyから受け取った日本産(おそらく関東地方周辺産)のタイプ標本(1ペア)に基づき1875年に新種記載したもので、シャープ(Sharp)は1884年にLewisが東京都上野で採集した個体の標本(1880年)を基に本種を再記載した。この関東地方に生息する個体群はアズマゲンゴロウモドキ(D.sharpisharp)として後述の西日本産個体群(コゲンゴロウモドキ)とは別種として区別、もしくは亜種として分類する見解が存在し、2個体群を同一種として扱う場合でも本個体群を「関東産」「関東型」などと呼称して区別する場合がある。 -重量については小型化が試みられて、1969年(昭和44年)に発行された『最新園芸大事典』第2巻では「その後消費の傾向に応じ4kg程度に変わっている。」との記述があった。大きく成長する品種のため、株同士の間隔は通常の白菜を栽培する場合の2倍にあたる60センチメートルほど開けて栽培する。大型の品種であるが味はよく、和洋中どの用途にも使え、鍋にも漬物にも向いていて旨味も十分にある。下山千歳白菜は明治神宮で開催された全国農産物品評会で、1952年(昭和27年)から3年連続で農林大臣賞を受賞した。一時期は東京の近郊で開催された秋蔬菜品評会においても、白菜の出品はほとんどこの品種で占められていたほどに普及が進んでいた。この品種における課題は、温暖化の進行による暑さ対策である。病害に強い下山千歳白菜は、近年の猛暑や局地豪雨の影響を受けて順調に成育しないときがある。2013年(平成25年)には根が腐るなどしたために、播種した種のうち約1割の100株しか収穫できなかった。下山の長男は「地域の誇りとおやじへの孝行のため、死ぬまで守りたい」と栽培方法について模索を続けているという。 -結局、この裁判は進化論教育が行われたかどうかではなく、「聖書の正しさを主張する検察側と進化論の正しさを主張する弁護側のプロパガンダ合戦」となった。スコープスは有罪となり、罰金100ドルが科せられた。弁護側は控訴審で法律の可否を争うつもりだったのである。しかし、控訴した州最高裁では、罰金額がテネシー州の規定に違反して不当に高いとしてこの裁判自体が無効とされることになった。裁判終了後、スコープスは教職を退き、シカゴ大学の大学院で地質学の学位を取得。地質測量技師として石油業界に転身し、1963年に引退するまで勤め上げた。スコープスは引退後の1970年に死去している。 -彗星は、尾が伸びた姿から日本語では箒星(ほうきぼし、彗星、帚星)とも呼ばれる。英語ではコメット(comet)と呼ばれる。天体写真が似るため流星と混同されがちであるが、天体観望における見かけの移動速度は大きく異なり、肉眼による彗星の見かけ移動は日周運動にほぼ等しいため、流星と違い尾を引いたまま天空に留まって見える。彗星と小惑星とは、コマや尾の有無で形態的に区別するため、太陽から遠方にあるうちは、彗星は小惑星と区別が付かない。彗星は、太陽からおおよそ3AU(天文単位)以内の距離に近づいてから、コマや尾が観測されることが多い。その位置は火星軌道と木星軌道のほぼ中間に当たる。太陽に近づく周期(公転周期)は、約3年から数百万年以上まで大きな幅があり、中には2度と近づかないものもある。軌道による分類の節を参照のこと。 -ナチス・ドイツ政権の大軍拡政策によって、ドイツ空軍は戦闘機の近代化を強力に推し進めた。ところが、主力戦闘機Bf109は高性能ではあったものの、狭い操縦席によって操縦が新任搭乗員にとっては難しく、また主脚が外側へ引き込む方式で脚間のスパンが短く構造も脆弱であったため、着陸事故が多かった。また搭載エンジンであるDB601は生産性に難があり供給数量に限界があった。その事故率の高さと生産性の問題に不安を感じたドイツ空軍上層部は、1938年、フォッケウルフ社に対し、補助戦闘機の開発を依頼した。次に想定される戦争は必ずしも長期戦が想定されていたわけでもなく、当時のドイツが補助戦闘機にまでリソースを回せる国力があるとも限らなかったことから、実際に採用されるかはよくわからない状況であったとも言われるが、フォッケウルフ社ではこれを受けて、クルト・タンク技師およびブラーザー主任技師を中心としたわずか12名のチームで開発を進め、1939年6月1日に初飛行に成功した。 -スハルトによる開発独裁の時代に入ると、バリ島はようやく平穏を取り戻す。そして、インドネシア政府の周到な配慮の下、観光による外貨獲得を最大の目的とした観光開発が始まり、1970年代以降、世界的な観光地へと成長することとなった。1963年、日本からの戦争賠償金によりサヌールにバリ・ビーチ・ホテルが建設され、1966年に開業した。1967年にングラ・ライ空港が開港すると、サヌールがバリ島へのマス・ツーリズムの最初のメッカとなった。ただし、当時のサヌールやクタでは無計画な開発が進みインフラ面でも大きな支障が出ていたことから、ジャカルタ中央政府は新たにヌサドゥアをパッケージ型の高級リゾートとして開発することを決定。日本のパシフィックコンサルタンツインターナショナルが具体的な計画策定を担当した。ただし、当時のオイル・ショックなど世界的な経済不況により開発は進まず、1983年になり、わずか450室���客室とともにヌサドゥア・ビーチが開業した。しかし、その後、ヌサドゥアは世界有数のホテルが林立する一大リゾートへと発展していく。このようにバリ島の観光開発は長らく中央政府主導で集権的に進められ、観光関連の税収のほとんども中央に吸い上げられてきた。しかし、現地の人々は、このように中央主導によって「創られた伝統」をそのまま受け止めることはなく、逆に自らの伝統の価値に自覚的な関心を持つようになり、画一的なイメージや「観光のまなざし」と向き合いながら、自身の文化を巧みに鍛え上げることにもなった。1989年に入ると、バリ州政府は、独自に観光開発のマスタープランの見直しを行い、ガジャマダ大学から総合観光村タイプの開発が提唱され、これを採用。ヌサドゥアのような大規模開発とは対極をなす、バリの村の日常的な生活、文化を観光客が体験できるような「観光村」の整備が開始され、2008年現在、プングリプラン、ジャティルイの2村が完成している。 -漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字など言葉遊びの多用が見られる。漱石以前に使った形跡が見られない造単語や一般的に使われている漢字とは異なる別種の綴りがある。現在、下記の「浪漫」「沢山」のように一般用語化されたものも多いが、漢字検定の上級問題として用いられることも多い。「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもあると言われている。しかし、漱石が生きた時代は現在では使われない当て字が多く用いられており、たとえば「バケツ」を「馬尻」と書くのも当時としてはごく一般的であり、「単簡」などは当時の軍隊用語であるなど、漱石固有の当て字や言葉遊びであるということは、漱石以前の全ての資料を確認しない限り、確定はできない。「新陳代謝」「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩が凝る」などは漱石の造語であると言われているが、実際には漱石よりも古い用例がある。一例としては、漱石が「肩が凝る」という言葉を作ったとする説があるが、18世紀末頃(江戸時代後期)からの歌舞伎、滑稽本に用例が見られる。学術的に「漱石の造語」であると言える言葉はまだ一語も確認されていないが、「浪漫」については『教育と文芸』中に「適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きました」との記述がある。 -電力は電流×電圧で表される。電流が流れると送電線の抵抗によりジュール熱として送電したエネルギーが失われ、かつ電圧降下により有効な電圧を送電線の終点のところで受け取ることができなくなる。送電中の電力損失は電流の2乗に比例することから、送電線の電圧をできるだけ高く上げ少ない電流で送電することが、低い電圧のまま大きな電流を用いて送電する場合と比較して、同じ電力を送る際の電力損失を減らすことができる。したがって、発電所のそばで高い電圧に上げて、オフィスや一般家庭などの電力消費者のなるべく近くで低い電圧に落として配電することがエネルギーを無駄にしない観点上望ましい。この電圧の変換を行っているのが変電所である。 -ちょうどこの頃、東京市における道路や運河、上下水道、港などの都市施設の計画についてまとめて議論して、各省庁・機関・地元との調整を行おうとする市区改正と呼ばれる動きがあった。市区改正は現在の都市計画に相当する言葉で、東京においては第7代東京府知事松田道之が提案した総合的な都市計画が端緒となった。さらに松田の後任の芳川顕正は松田の構想を継承しつつも、日本全体のことを考えた道路や鉄道網を構想し、東京府に設置された東京市区改正取調委員局から内務省に対して1884年(明治17年)11月14日に提出された市区改正意見書では、「鉄道ハ新橋上野両停車場ノ線路ヲ接続セシメ、鍛冶橋内及万世橋ノ北ニ停車場ヲ設置スヘキモノトス」とされた。この鍛冶橋に設置を提案された停車場が後の東京駅につながることになる。この意見書を受けて内務省に市区改正審査会が設置され、官庁や財界からの委員が審議を行った。その結果、新橋と上野を結ぶ高架鉄道を建設し、鍛冶橋付近に中央停車場を設置し旅客用の高架ホームを設けること、地平には貨物取扱設備を設けることなどの原案が固��った。この意見書はしばらく放置されていたが、国の正式な計画とするために元老院へ回され審議された。しかし守旧的であった元老院はその価値を理解せず、国庫に余裕がないとして1888年(明治21年)6月15日に否決してしまった。ところが当時の内務大臣山縣有朋や大蔵大臣松方正義はこれを巻き返し、閣議において元老院決定を一刀両断の上、1888年8月16日に勅令第62号として東京市区改正条例が公布された。 -ダムの名称である「石淵」はかつてこの一帯が猿岩を始め巨石や巨岩などによって険阻な峡谷が形成されていた所から「石淵野」と呼ばれたことに由来する。また河川名の「胆沢」については諸説があり、アイヌ語で「イ」(それが)・「サワ」(山間の平地)または「エサバ」(酋長のいる所)に由来する説のほか、胆沢扇状地の砂を「イサ」と呼びそれに沢を合体させたとする説、水路を意味する「イ」と窪地を意味する「サワ」を合わせた説などがある。しかし何れも定説になっていない。なおダムが建設された当時の自治体は胆沢郡若柳村であり、後に胆沢村に合併されさらに胆沢町に町制施行されたが平成の大合併に伴い水沢市、江刺市、胆沢郡前沢町・衣川村と合併して奥州市となり、旧胆沢町域は胆沢区となった。 -1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため、ソ連は国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始した。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 -近代オリンピック(きんだいオリンピック、仏:Jeuxolympiques、英:OlympicGames)は、国際オリンピック委員会(英:IOC)が開催する世界的な総合スポーツ大会である。1994年から夏季大会と冬季大会の各大会が4年に1度、夏季大会は西暦で4の倍数の年、冬季大会は4の倍数でない偶数の年で2年ずらして開催されるので、2年に1度開催されることになる。日本語ではオリンピック、またそのシンボルマークから五輪と呼ぶこともある。 -トーキーは、映像と音声が同期した映画のことを言う。この語は「talkingpicture」から出たもので、「movingpicture」をmovieと呼んだのにならったものである。サイレント映画の対義語として「トーキー映画」と呼ばれることもあるが冗語である。無声映画の対義語としては「発声映画」と呼ばれる。音声が同期した映画が一般的な現在では、あえて「トーキー」と呼ぶことはない。発声映画が最初に上映されたのは1900年のパリでのことだったが、商業的に成り立つにはさらに10年以上を要した。当初は映画フィルムとは別にレコード盤に録音したものを使っていたため同期が難しく、しかも録音や再生の音質も不十分だった。サウンドカメラの発明によって同期が簡単になり、1923年4月にニューヨークで世界で初めてその技術を使った短編映画が一般上映された。 -総力戦も第一次世界大戦より徹底し、国民はただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者への国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、人類史上初の原子爆弾投下を含め、民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、自国および占領地においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的大量虐殺を戦争と並行して進め、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され、その途上で200万人が死亡している。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。 -1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 -1938年(昭和13年)4月、昭和に入って以来の懸案であった電力国家管理問題が決着、電力の国家管理をうたう「電力管理法」が公布されるに至った。これによって全国の電気事業者から火力発電所と主要送電線を現物出資させて翌1939年(昭和14年)4月に国策電力会社日本発送電株式会社を設立することが決定した。その後出資すべき設備の範囲が確定し、33の事業者を対象に発送電設備の現物出資が指示されたが、この時点では神岡水電は対象に含まれなかった。しかしながら親会社の大同電力は全固定資産の4割に相当する設備の出資を命ぜられ、最終的にすべての資産・負債を日本発送電へと継承させる道を選んだため、1939年4月2日付で解散した。大同電力の解散により同社が保有する神岡水電の株式は日本発送電に継承され、電力の供給先も同社へと切り替わった。また電力管理法の影響により新規の水力開発が不可能になり、建設準備を進めていた東町発電所の権利が日本発送電へと移行したのは前述の通りである。 -9月ないし10月には、両軍の本格的な戦闘が開始された。戦闘開始の責任について、中ソ両陣営とも、相手方の宣戦布告なき不当な先制攻撃があったと主張していた。ソ連が自衛を大義名分に攻撃を正当化する手法は、フィンランドとの冬戦争などでも見られたことであるが、今回は実際にも中国側の暴力的な財産侵害が先行していた。黒龍江・松花江合流地点方面では、中国側によると9月から本格的なソ連軍の攻撃が始まり、9月19日に綏浜、10月12日に黒竜江と松花江合流点の同江、10月31日に富錦を攻略し、松花江沿いの約50キロにわたって侵攻した。うち10月12日の戦闘では、ソ連軍のアムール小艦隊(中国側の観測によると砲艦5隻と武装商船4隻)が航空機の援護を受けて侵攻し、中国軍江防艦隊(砲艦2隻と武装商船など4隻)と水上戦闘になった(三江口の戦い)。中国艦隊は砲艦「利捷」(旧ドイツ海軍「オッター」)や武装商船「江平」「江通」「江安」などを失って壊滅し、艦載砲13門が鹵獲されたほか、ソ連軍上陸部隊との地上戦闘も合わせて死傷250名・捕虜150名、陸上火砲21門鹵獲などの大損害を受けた。中国側のラハスス要塞は占領された。中国側はソ連艦2隻炎上・1隻撃破と航空機2機撃墜を主張したが、ソ連側の記録によると戦死5名・戦傷24名と軽微な損害であった。10月30日には、富錦攻略に来襲したソ連河川艦隊と中国江防艦隊残党の戦闘も起きており、このときも中国側は砲艦「江享」などを失って敗北した(富錦の戦い)。ソ連側の記録では地上戦とあわせて中国軍の戦死300名、戦傷・捕虜数百名の損害を受けた。ソ連側の損害は、戦死3名と戦傷11名だったとされる。中国側の河川艦隊はほぼ全滅状態となったほか、一連の過程で商船9隻が拿捕された。 -この株による最初の既知のヒトへの感染は2019年11月下旬に発生した。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の拡散は、2019年11月中旬に中国湖北省武漢市で最初に発生し、感染源はおそらく単一の感染動物に由来すると考えられている。その後、このウイルスは中国の全ての省に蔓延し、またアジア、ヨーロッパ、北米、アフリカ、オセアニアなど他の20以上の国にも拡散した。このウイルスのヒト-ヒト感染による拡散は、アフリカを除くこれらすべての地域で確認されている。2020年1月31日、このウイルスの感染拡大が懸念されることから世界保健機関(WHO)は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」(PHEIC)を宣言した。なお、季節性疾患としての自然終息や定着の可能性について議論が続いている。3月1日時点で、86,986人の感染が確認されており、そのうち79,826人は中国本土内である。ある数学的モデル予測によれば、1月25日の時点で、武漢市だけで感染者数は75,815人いたと推定された。中国本土以外における殆ど全ての症例は、武漢市からの旅行者、またはそれらの地域からの旅行者と密接な接触があった者である。感染率、すなわち感染確定数、または臨床上診断可能な感染者数に繋がる割合は依然として不明のままであるが、2月20日(15時30分(UTC))までの新型コロナウイルス感染による死亡者数は2,130人であった。死亡者数の95%は武漢市のある湖北省に局在している。3月7日現在も感染拡大が止まらず、世界で感染者数が100,000人を超えたと発表した。3月11日にはこのウイルスの感染拡大について、WHOがパンデミック(世界的流行)相当との認識を初めて示した。 -法律上の正式名称は「コロンビア特別区」である(コロンビアとくべつく、DistrictofColumbia)。州には属さないアメリカ合衆国・連邦政府直轄地。コロンビア特別領(territoryofColumbia)として1790年に創設され、1801年のコロンビア特別区自治法(旧)により地方自治権を持つコロンビア特別区となった。特別区内には自治権を持つ市や郡があり、その一つが首都たるワシントン市だった。しかし1871年のコロンビア特別区自治法(新)により特別区内の全ての自治体は特別区に統合された。この歴史的な経緯から、かつての呼び名であるWashington,DistrictofColumbiaがしばしば使われる。ただしこれは「コロンビア特別区のワシントン市」という意味の語句であり、かつての正式名称というわけではない。またそれゆえ、これを和訳する場合は(語順どおりにワシントン・コロンビア特別区ともするが)直訳はコロンビア特別区ワシントンとなる。略してワシントンD.C.と呼び、米国ではWashington、TheDistrict、または単にD.C.とも通称する。 -イギリスでも戦争勃発が近いと予想され、慌ただしく戦争の準備を進めた。1725年8月以降、ジブラルタル総督リチャード・ケインはジブラルタルの防御工事を補強しており、1726年には首相ロバート・ウォルポールが海軍を外交カードとして使った。これにより、イギリスの地中海艦隊が増強され、チャールズ・ウェージャー提督率いるイギリス艦隊がバ��ト海に派遣されて1726年5月から9月までレヴァル港を封鎖、ロシア艦隊の出撃を阻止した。フランシス・ホジアー海軍少将率いるイギリス艦隊はカリブ海に派遣され、スペインの貿易を妨害しつつポルトベロを封鎖した。ウォルポールはスペインのインディアス艦隊がヨーロッパに到着できなくなることでその同盟国の財政を悪化させるほか、スペインとその植民地帝国の生存がイギリスの慈悲に依存することをフェリペ5世に示そうとした。 -1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた。 -主要なサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路である「フランスの道」は2つの峠によってピレネー山脈を超え、ナバラ地方のプエンテ・ラ・レイナで合流する。サンティアゴの巡礼路は850年以後に人気を得て、巡礼者の往来は11世紀にピークに達した。ナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。西ゴート族もフランク族も、この地域を完全に征服するには至らなかった。778年、カール大帝率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い(ロンセスバーリェスの戦い)には大敗し、この戦いは叙事詩ローランの歌のモデルとなった。824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタがイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後のナバラ王国)を興した。 -紀元前1世紀の共和政ローマでは剣闘士試合は最も人気のある娯楽のひとつであった。試合に出場する剣闘士を供給するためにイタリア各地に剣闘士養成所がつくられた。これらの養成所では戦争捕虜や奴隷市場で売買された者そして志願した自由民が剣闘士として闘技場で戦うための技術を教え込まれていた。強い剣闘士は富と名声を得られ、興行師(ラニスタ)も大金を稼げたが、一方で当時のローマ社会では剣闘士は奴隷の中でも最下等の者とされ、興行師は売春宿の主人と同じ賤業と見なされていた。剣闘士は試合に敗れても助命されるケースが多く必ずしも殺されるわけではなかったが、幾度もの試合を生き延びて自由を得られる者は少数であり、過酷な境遇であることに変わりはなかった。 -マッケイによれば、17世紀初頭におけるチューリップ人気の高まりは、オランダ全体の注目を集め、「最下層民までもがチューリップの取引に手を出すようになった」。1635年までに、ある取引において、40個の球根が100,000ギルダーで購入されたと記録されている。これに対し、バター1トンの価格は約100ギルダーであり、熟練工の年収が約150ギルダーであり、「肥えた豚8頭」の価格は240ギルダーであった。社会史国際研究所によれば、1ギルダーの購買力は2002年時点において10.28ユーロと同等である。1636年までにはオランダ中の市や町の取引所でチューリップが取引されるようになっていた。これにより社会のあらゆる階層がチューリップ取引に参加するようになった。マッケイは、チューリップに投機するため財産を売却したり交換に出す人々について詳述しているが、中にはSemperAugustusの球根の現物2個のうち1個と12エーカー(49,000m2)の土地の交換を申し出た例や、Viceroyの球根1個を2,500ギルダー相当の財産で購入した例などがある。 -成人後、乃婦と結婚し、8代目鹿嶋清兵衛となる。大阪の両親を引き取ったところ、家内に悶着が起こり、その憂さ晴らしに蒔絵や漆画などの趣味を始める。河鍋暁斎と知り合い、入門したのもこの頃で、暁雨という画号を授かっている。さらに、��男政之助が5歳で亡くなり意気消沈していた際に、先代が持っていた写真機を蔵で見つけ、写真を始める。写真に関しては、趣味というだけでなく、明治維新によって酒問屋の将来性に不安が見えてきたため、写真を通して時の権力者たちと近づきになろうという意図もあったと見られている。 -アロサウルスは、首に9個、背中に14個、腰部(仙骨)に5個の椎骨を持っていた。尾部の椎骨の数ははっきりせず、個体によっても異なるようである。ジェームズ・マドセンは50個、グレゴリー・S・ポールは45個かそれより少ないと推測している。首部の椎骨には空隙があり、そこには現生の鳥類と同様に呼吸用の気嚢があったと考えられている。 -一方、『常陸国風土記』では鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す。しかしながら、風土記にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない。神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺』(807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述である。ただし、『延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」においても「鹿島坐健御賀豆智命」と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲2年(768年)までさかのぼるという説がある。以上に基づき、8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある。 -マダガスカル島は南北に細長い形であるが、その気候は南北の差異よりも東西の差異の方が大きい。マダガスカルの気候は、南東貿易風と北西モンスーンの影響を強く受け、これら勢力の組み合わせにより季節が移り変わる。気温が高く降雨量が多い雨季(11月から4月まで)と、比較的低温で乾燥する乾季(5月から10月まで)がある。雨季には頻繁に破壊的なサイクロンが襲来する。インド洋上で発生する雨雲は、島の東海岸部上空で蓄えた水分の多くを放出する。そのため当該地域の降雨量は非常に多く、熱帯雨林の生態系の形成に寄与している。中央高地は東海岸部よりも乾燥し、気温も低い。西部はさらに乾燥しており、島の南西部と南部の内陸は、半砂漠気候(ステップ気候)が広がる。熱帯性低気圧は毎年定期的に、インフラストラクチャーと地域経済に損害を与え、家を失う人を出す。1848年から1970年までの122年間で155回のサイクロンに見舞われたという記録があり、年平均1.27回のサイクロンがあったことになる。 -未だ敗戦の色の残る日本では、母に連れられて劇場に来ることのできない子供も大勢いた。そこで葉子は、自分たちから子供たちのもとへ出向き、方々の学校を借りて劇を演じた。自動車の購入にも不自由する当時、葉子たちは演劇道具の一切をリュックサックに詰め込んで背負い、列車と徒歩だけであちこちの学校を回り、時には講堂で、時には教室で劇を演じた。興行の資金を得るために、葉子は自分の持ち物で価値のあるものは次々に売り払った。演劇の傍らで、化粧品の行商も行なった。自前の衣服は次々に舞台衣装に仕立て直し、帽子や食器など身の回りのものは何もかもが舞台の小道具となった。母のように一座を支える葉子を、劇団員たちはいつしか「おふくろさん」と呼んで慕うようになった。葉子たちの苦心しての興業につれ、その評判は次第に広がっていった。長野県内はもちろん、東京、静岡、岐阜などにも呼ばれるようになった。少年院や鑑別所での慰問も多かった。このために少年院や鑑別所を出て、親の手に負えない子供が、葉子のもとに預けられることも多くなった。この子供たちは、劇団内で悪事を働く者も何人かいたものの、多くは劇団の仲間として、生きる希望を見につけていった。当時の葉子は「演劇は面白ければ良いというものではない、子供の心に夢を広げることが大切。そして、この子供たちはいつか大人になるのだから、大人になった時に困らないように、様々なことを教えてあげなければならない」が信念であった。���務所に講演に行った後、葉子の講演を聞いた受刑者の1人が、出所後にたんぽぽに入団を希望したこともあった。1953年には、活動拠点を長野から葉子の郷里の浜松へと移した。 -また、手塚の担当編集者でマネージャーも務めた手塚プロ社長の松谷孝征は手塚が最も愛して尊敬したのは万籟鳴であり、手塚はディズニーの影響を受けていると多くの人が認識するも実際は中国アニメ、特に万籟鳴の影響を受けており、その時期はディズニーよりも早くて影響も深いと述べている。病で倒れる直前の1988年に第1回上海国際アニメフェスの審査員として中国を訪れた際も古希を迎えた万籟鳴と再会しており、1989年8月27日に手塚プロが制作し、日本テレビの24時間テレビ「愛は地球を救う」で放映された『手塚治虫物語ぼくは孫悟空』でも中国で万籟鳴と会った場面が再現されており、病床の手塚が草案をしたためたものの完成を見ずに放送年の2月に手塚は死去したために遺作の1つとなった。 -7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。......兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている。 -オオウラギンスジヒョウモンA.ruslana(Motschulsky,1866)は前翅長35-40mmある。前翅の前端が外へ突き出ること、後翅つけ根の黒斑の列がつながることでウラギンスジヒョウモンと区別する。北海道から九州までを含む東アジアに分布するが、ウラギンスジヒョウモンよりやや山地性の傾向がある。ミドリヒョウモンArgynnispaphia(Linnaeus,1758)は前翅長35-40mmある。和名通り後翅の裏側が緑褐色で、太い白の縦線が数本走る。また、メスの中には翅の表側全体に緑色を発色するものもいる。ユーラシア大陸の温帯・亜寒帯域に広く分布し、日本でも北海道から九州まで分布する。 -1806年に最初の積荷が出航した。チューダーはおそらくロックウッドにある一族の地所から収穫した氷を、試験的な意味も込めてカリブ海のマルティニーク島に出荷した。しかし現地に貯蔵施設が不足していたために売り上げはふるわなかった。チューダーの在庫分もこの地の客が購入した分も貯蔵することができず、結果として氷はすぐに溶けてなくなってしまったのである。この経験に学んだチューダーは、ハバナに氷の倉庫を建造して運用した。1807年、英仏を含む諸外国との通商を禁止する法律がアメリカで制定されたが、1810年には再び貿易が可能になった。チューダーはキューバに氷を輸出する排他的権利こそ得られなかったが、現地に貯氷庫を押さえていたため独占状態を維持した。1812年には短期間だけ貿易が中断したが、しばらくして再開し、ハバナから本土への帰路に果物を輸入する事業も始めた。この果物は、売れ残りの氷を利用して新鮮な状態を維持することができた。その後、出荷先はチャールストンやジョージア州のサバンナにも広がったが、チューダーの商売敵も現れ、ニューヨークからの船便やケンタッキー州から流れを下る荷船を使ってサウスカロライナ州やジョージア州へも氷の供給が行われるようになった。 -2015年1月より、YouTubeにゲーム動画をアップロードした制作者が広告収益を任天堂とシェアできるサービス「NintendoCreatorsProgram」を提供した。それまではYouTube側の規定により任天堂にのみ広告収益が付与されていたが、この仕組みにより動画制作者側も利益が得られるようになる。また、ニコニコ動画における同様のサービス「クリエイター奨励プログラム」にも参加している。OPENREC.tvでも任天堂タイトルの動画配信が可能になっている。2018年11月、任天堂は「NintendoCreatorsProgram」を終了すると発表した。そして新たな任天堂の著作物の利用に関するガイドラインを発表した。「NintendoCreatorsProgram」では広告収益を受け取るには動画の審査が必須だったのに対して新ガイドライン「ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」は動画の審査が不要で実況できる任天堂ソフトの制限もなくなった。新ガイドラインは個人を対象にしているため法人は対象外であるが、YouTuberの事務所(MCN)であるUUUM株式会社のように包括的許諾をとる所もある。またタレント事務所に所属するタレントやMCNに所属するYouTuberなどが個人でやる場合はガイドライン対象となるが業務として投稿する場合はガイドライン対象外となる。 -オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになると、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きた(ミュンヘンオリンピック事件)。1976年のモントリオール大会になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカの諸国22ヶ国がボイコットを行った。そして、1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行った。1984年ロサンゼルス大会ではソ連と東側諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはソ連と対立していた中国とルーマニアだけだった。中でも、イラン革命後のイラン・イスラム共和国はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックをボイコットしている。オリンピックが巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題となり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続いた。 -熊野三山もまたそうした例に漏れず、15世紀後半以降に勧進聖の活動に財源が求められ始め、15世紀末以降に本願所が成立する。熊野三山本願所は各地の本願所の中でもとりわけ規模が大きく、三山のそれぞれに独立した本願所があった。熊野の本願所には庵主(あんじゅ)という独自の呼び方があった。新宮庵主は霊光庵の名でも知られ、末社神倉社にはさらに独自の本願があり、神倉本願と呼ばれた。また、那智庵主は7ヶ寺もの大規模な本願所からなり、穀屋(こくや)と総称された。 -戦況の悪化でウール不足が深刻化し、1943年から1944年頃になると再生ウールが多く使用されるようになり、レーヨンの混紡率も高くなり、保温機能が悪化した。素材の変化でM43野戦服の頃からフィールドグレーというよりグレーブラウンに似た色になっていった。1944年には更なる生産工程の簡略化のためM44野戦服が登場した。これはもはやドイツ軍というより英軍の野戦服「バトルドレス」に似た形状であり、丈が短く下ポケットが廃止され、襟も開襟で着るのが普通になった。またこれまで下士官は襟廻りにトレッセという縁取りを入れて兵と区別されていたのだが、M44ではそれが廃止され、兵卒か下士官かの違いは肩章のみで判別するようになった。前ボタンはM43の6つが維持された。服の素材もますます劣悪となり、スパンレーヨンにわずかに再生ウールが入ってるだけになり、その色はますますグレーブラウンになっていき、この色は「フェルトグラウ(フィールドグレー)44」と呼ばれた。 -一方で、熱血スポーツ漫画からスポ根漫画への流れとは別に、井上一雄の野球漫画『バット君』や寺田ヒロオの野球漫画『スポーツマン金太郎』など��爽やかな作風のスポーツ漫画が存在した。こうした作品に代わって熱血ものが発展した経緯について漫画評論家の竹内オサムは1950年代に始まったテレビ放送の影響を挙げている。竹内によれば、テレビで扱われたプロ野球や大相撲やプロレスの実況放送を通じて大衆の間で「するスポーツ」ではなく「観るスポーツ」が支持を得たことの影響により漫画の世界もエンターテインメント性を強めたという。また、この時代には漫画では新しい表現形式の劇画が生み出されており、劇画の写実的かつ動的な手法が後のスポ根作品において取り扱われたことで作品に現実味を与えることに貢献した。 -2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。 -南極における気象観測は1950年代に遡る。数十年以上の観測記録がある基地は比較的少なく、観測網は充分でなかった。衛星による赤外線観測によれば、南極大陸および周辺海域の地面・雪氷・水面の表面温度は、多くの部分で上昇している。場所によっては、1981~2007年の間に、平均して0.1°C/年以上の上昇も観測された。その一方で大陸中央部から東南極地域にかけては殆ど温度が変わらないか、むしろ下降している地域も見られた。このように地域によって表面温度の変化傾向が異なる理由としては、複数の要因が提唱されている。たとえば、周囲の海の温暖化により降雪量が増え、その雪が表面温度を下げている可能性、紫外線を吸収するオゾン層の消失により成層圏が寒冷化し、南極点の周りを回転する極循環を強め、その極渦がより温暖な気団の内陸部への進入を妨げている可能性等が指摘されている。 -移民問題に対処するべく、両国政府は1962年と1965年に条約を締結し調整を図ってきたが、ホンジュラス国内の人口増加、バナナ農園の近代化に伴う労働需要の激減、牧畜や綿花農園の拡大による農地不足が問題となり、野党や富裕層から農地改革への圧力が高まっていた。ホンジュラス政府は1969年1月に条約の更新を拒否し、オスバルド・ロペス・アレジャーノ大統領は、1962年に制定された農地改革法の実施に踏み切ることになった。この改革法は土地の所有者をホンジュラス国内で出��した者に限定したもので、それに該当しないエルサルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求める内容となった。ホンジュラス政府による発表は1969年4月に行われ、同年5月下旬までにエルサルバドル移民の帰還が始まった。 -イブン・スィーナーは無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高めていった。サーマーン朝のアミール(君主)・ヌーフ2世の病を治療したイブン・スィーナーは彼の信任を得、王室附属図書館を自由に利用することが許された。 -動物漫画(どうぶつまんが)は、日本における漫画のジャンルの一つで、人間以外の動物を主題にした漫画を指す事が多い。また、動物漫画であるか否かに明確な基準は無く、漫画作品や漫画家の宣伝文や話者の恣意的な分類として使用されることが多い。昆虫(虫)を題材とした動物漫画の場合は昆虫漫画(こんちゅうまんが)と称される。 -宮城県教育委員会は、3月14日から18日までを休校とし、15日に予定していた高等学校一般入学試験の合格者発表を22日以降に延期することを決めた。地震発生直後の2011年3月12日、13日には国公立大学の入学試験後期日程が予定されていたが、12日は被災地にある32校の大学(私立大学含む)で試験が中止されることになった。国立36大学・公立15大学・私立7大学が12日の試験の開始時間繰り下げや、地震の影響を受けた受験生の個別対応を行い、追試の対応をした大学もある。文部科学省は、3月12日における国公立大学後期日程の受験者は6万5667人(昨年から2万604人減少)であり、この減少は地震の影響によるものであるとしている。東北地方で同日に試験が実施された国公立大学は、全12校のうち秋田大学・秋田県立大学のみであった。翌13日においても6校で試験を中止し、5校で繰り下げ実施または個別対応を行った。また、家屋の損壊した状況に応じて入学金や授業料の免除を行う大学や、震災や計画停電の影響を考慮して授業開始を5月以降とする大学も増えている。 -1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。6月に日本海軍はミッドウェー海戦で敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。また日本軍はガダルカナル戦で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄した。さらに9月にはイタリアが降伏し、その後同国北部をドイツ軍が占領するものの、かつての枢軸国の勢いを取り戻すことはなかった。 -アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、1874年1月の総選挙でハートフォード選挙区から保守党候補として出馬して当選した。 -アッタロスの門(ΠόρταἈτ[τ]άλου,PortaAt[t]alou)は、特徴も位置も不明である。位置については、シリル・マンゴーは古黄金の門のそば、ファン・ミリンゲンは第七の丘の頂上付近(後にテオドシウスの城壁の城門の一つがおかれた場所、レーモン・ジャナンはより北方のリュクス川が城壁の下を横切る地点というように���々な説が唱えられている。かつてはコンスタンティヌス1世などの多くの彫像で彩られていたが、740年の地震で崩壊した。聖アエミリアヌスの門(ΠόρτατοῦἁγίουΑἰμιλιανοῦ,PortatouhagiouAimilianou)は、その正確な位置が確定している唯一の城門である。トルコ語ではダヴトパシャ門(DavutpaşaKapısı)と呼ばれている。陸上の城壁と海側の城壁の継ぎ目にあり、海岸との連絡通路となっていた。復活祭年代記によれば、門の隣にはラブドスの聖マリア教会が立っていて、「モーセの杖」が収められていた。 -1908年(明治41年)7月、運営者の大野郡中部教育会は高山町教育会に改称した。1909年(明治42年)、高山町教育会は予算規模拡大が決まり、毎年図書購入費として約140円を支出することになった。1912年(大正元年)には荏野文庫1,400冊を購入、蔵書は倍以上の2,291冊に増加した。翌1913年(大正2年)9月20日、大野郡教育会施設図書館が創立され、戦捷記念高山図書館の蔵書や設備一式を大野郡教育会施設図書館に移した。1914年(大正3年)11月30日、御大典記念として大野郡公会堂が城山三の丸に建設され、図書館はその1階に移った。この時の大野郡公会堂は「仮開館」という形であり、1915年(大正4年)4月23日に落成式を挙行している。 -市の南西から流れ、ダウンタウンの西でマホニング川に合流するミル・クリーク沿いには、約8kmにわたってミル・クリーク・パークという公園が広がっている。ワシントンD.C.のロック・クリーク・パークに倣って1891年に整備されたこの公園は、オハイオ州内では最も古い公園地区である。この公園は2005年に国家歴史登録財に指定された。ミル・クリーク・パークの園内にはランターマンズ・ミル、フェローズ・リバーサイド庭園、デービス・ビジター・センター、フォード自然センター、「シンデレラ・ブリッジ」と呼ばれる鉄製の吊り橋などが保存・設置されている。ランターマンズ・ミルは19世紀中盤に建てられた製粉所を修復したものである。この製粉所ではかつてとうもろこし、小麦、蕎麦などが挽かれていた。約48,560m2の広さを持つフェローズ・リバーサイド庭園には四季折々に、様々な花が咲き誇っている。この庭園内に立地するデービス・ビジター・センター内には、ミル・クリーク・パークの歴史的な事物を展示する博物館や、図書館、アートギャラリー、展望台、土産物屋がある。また、デービス・ビジター・センターには講堂、喫茶店、会議室、教室も設けられており、結婚式やパーティー、会議などにも使用することができる。フォード自然センターはオハイオ州北東部の自然に関する事物を展示しているほか、様々な自然教育プログラムを催している。シンデレラ・ブリッジは1895年にミル・クリークの両岸を結ぶために架けられた、園内で最も古い橋である。この橋は2007年に補修された。 -コンスタンティヌスの城壁にあった5つの城門の名が知られているが、それぞれの役割や正確な位置いついては議論が続いている。古黄金の門(ラテン語:PortaAurea,古代ギリシア語:ΧρυσείαΠύλη)、またはクセロロフォス門、サトゥルニヌスの門は、ノティティア・ウルビス・コンスタンティノポリタナエで「凝った装飾が成されている」と評された門で、第七の丘の南側の斜面に建っていた。一般にコンスタンティヌス1世の時代の成立とされているが、正確な建設時期は不明である。後のビザンツ帝国の学者マヌエル・クリュソロラスは14世紀当時の門を、大きな大理石でできた、開口部が非常に高く開いた門で、上に柱廊のようなものを戴いている、と描写している。伝えられるところでは、ビザンツ帝国後期にこの門に磔の絵が描かれたために、後に街を征服したオスマン帝国がこの門をİsakapı(「イエスの門」の意)と呼ぶことになったという。この門は1509年の地震で倒壊してしまったが、跡地にエセ・カピモスクが建てられたため、おおよその位置が今でも分かっている。 -リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックは1941年4月24日、ニューヨーク市マンハッタンで、医師のダン・ホルブルックとその妻で陶芸家のトゥルーディ・ケアルの間に2人兄弟の長男として生まれた。両親は共にユダヤ人移民であり、父親のダンはワルシャワでロ��ア系ユダヤ人の両親のもとに生まれ、1930年代にアメリカへ移民した際に「ホルブルック」の姓を名乗るようになった。また、母のトゥルーディは元々ハンブルク在住だったが、1933年にブエノスアイレスに一家で亡命し、その後ニューヨークへやって来た人物である。彼らはユダヤ人ではあったが、無神論者だったためリチャードにユダヤ式の教育を施すことはせず、母のトゥルーディは毎週日曜日にはクエーカー教徒の集会に彼を連れて行ったという。15歳の時、父・ダンが癌のために死去したが学業を続け、スカースデール公立高校を卒業後、奨学金を得てブラウン大学に入学、1962年に学士号を取得・卒業した。スカースデール高校時代には、学内新聞『マルーン』のスポーツ欄の編集を担当していたという。この時『マルーン』の編集長を務めていたのがディーン・ラスクの息子であるデイヴィッド・ラスクであり、なおかつホルブルックはデイヴィッドと親友であったことから、これが縁で彼の父親とも知り合うこととなった。ディーン・ラスクはその後ジョン・F・ケネディ政権とジョンソン政権で国務長官を務めることになるが、彼はホルブルックの将来に大きな影響を与えることとなった。 -アメリカ=メキシコ国境は、4つのアメリカ合衆国の州と6つのメキシコの州に接している。20以上の横断道路があり、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴとメキシコバハカリフォルニア州ティファナの接する西から、アメリカ合衆国テキサス州ブラウンズビルとメキシコタマウリパス州マタモロスが接する東まで伸びている。都会のエリアから荒れ果てた砂漠までさまざまな地形を横切り、東はテキサス州エルパソとメキシコチワワ州シウダー・フアレスの両国の大都市圏の境界を成し、メキシコ湾に流れるリオグランデ川に沿っている。ソノラ砂漠、チワワ砂漠、コロラド川デルタ、バハカリフォルニア半島の北端も横切る。境界の全長は1,951マイル(3,141キロメートル)、世界で最も頻繁に横断される国境で、毎年のべ3億5000万人が(合法的に)横断している。 -電気はエネルギーの形態としては極めて柔軟であり、その用途は極めて幅広い。1870年代に実用的な電球が発明され、照明が電力の用途として最初に一般に普及した。照明に電気を使うことは新たな危険性を伴っていたが、同時にガス灯などの火をそのまま使う従来の技法に付きまとっていた火災の危険性を大きく低減させることになった。電力網は電気照明のためにまず大都市圏から急激に整備され始めた。電球が利用しているジュール熱現象は、より直接的に電気ストーブでも利用されている。電気エネルギーをジュール熱に変換して利用することは制御が容易で便利だが、元々の発電で熱エネルギーを電気エネルギーに変換していることを考えると大きな無駄ともいえる。デンマークなどの多くの国々で、新たに建設する建物で電気を熱源として利用することを制限または禁止する法律が成立している。しかしながら電気は冷却や空調のエネルギー源としてよく使われていて、その分野の需要増が電力需要全体を押し上げている。電気は電気通信にも使われている。中でも電信は1837年、チャールズ・ホイートストンとウィリアム・フォザギル・クック(英語版)が最初に商業化した。1860年代には大陸間の電信網、さらには大西洋横断電信ケーブルができ、電気によって数分で世界中に通信可能となった。光ファイバー技術も通信の一部を担うようになったが、やはり通信の大部分は電気が担っている。電磁気学的現象を目に見える形で使っている例として電動機があり、クリーンで効率的な動力源となっている。ウインチなど据え置き型では電力供給が容易だが、電動輸送機器のような電動機自体が移動する用途では、電池を搭載して電力を供給するか、集電装置のような機構で電力を供給する必要があり、移動距離や移動範囲が制限されている。20世紀最大の発明の1つであるトランジスタは、現代のあらゆる電子回路の基本素子である。最近の集積回路には、数センチ平方メートルの中に数十億個の微細なトランジスタが含まれている。 -熊野三山もまたそうした例に漏れず、15世紀後半以降に勧進聖の活動に財源が求められ始め、15世紀末以降に本願所が成立する。熊野三山本願所は各地の本願所の中でもとりわけ規模が大きく、三山のそれぞれに独立した本願所があった。熊野の本願所には庵主(あんじゅ)という独自の呼び方があった。新宮庵主は霊光庵の名でも知られ、末社神倉社にはさらに独自の本願があり、神倉本願と呼ばれた。また、那智庵主は7ヶ寺もの大規模な本願所からなり、穀屋(こくや)と総称された。 -1891年、死去したウィリアム・ヘンリー・スミスの後任として第一大蔵卿および庶民院院内総務に抜擢された(これは第一大蔵卿が首相と異なる最後の例であった)。バルフォアはアイルランド民族運動を激しく弾圧したことで保守党庶民院議員たちから人気を集めており、その声にソールズベリー侯爵が応えた人事だった。 -エア・ギャップより南側のヨーク地方南西部の山塊は、北部に比べると褶曲が強まっていて、石灰岩まで侵食が及んでいない。山脈の中心に近い高標高地域では、石灰岩層の上の砂岩層が残っていて、平坦である。このためペナイン山脈に降った豊富な雨が地表にとどまっていて、砂岩をもとにした薄い土壌が泥炭地をつくっていて、酸性で痩せている。植生はおもにシダ類、ワタスゲ、コケモモやイネ科の雑草が生える程度のヒースになっている。ペナイン山脈に降り注いだ豊富な雨がこの泥炭地を流れて下ってくることで、ヨーク地方南西部の山麓の川は繊維産業に適した軟水となる。この豊富な軟水を利用することで、ヨーク地方南西部は世界的な羊毛工業地帯に発展した。 -伝説によれば、ビュザンティオン(後のビザンティウム、コンスタンティノープル)は紀元前687年にメガラから来た植民者によって建設され、その指導者ビュザスにちなんで名づけられたという。この時代のビュザンティオンは、最も東側にあった丘(現在のトプカプ宮殿付近)にアクロポリスがあり、それを中心として小さく広がる都市に過ぎなかった。10世紀末から14世紀までに編纂された『コンスタンティノープルの起源』(ギリシャ語:ΠάτριαΚωνσταντινουπόλεως)によると、当時のビュザンティオンは小さな城壁に囲まれていた。これを27の塔が守り、陸上には少なくとも2つの門があった(うち一つは「ウルビキウスの門」として知られ、もう一つは後にミリオンが建てられる場所にあった)。海側にも城壁があったが、陸側と比べてかなり低いものだった。『起源』には、こうした城壁はビュザスの時代に建てられたものだと書かれている。しかしフランスの研究者レーモン・ジャナンは、ペルシア戦争中の紀元前479年にビュザンティオンを占領したスパルタの将軍パウサニアスが都市を再建して以降のものであるとしている。またこの城壁は、紀元前340年にマケドニア王ピリッポス2世の侵攻を受けた際に、墓石を再利用して修復されている。 -その後、SNSのTwitterや動画投稿サイトのYouTubeでもきさらぎ駅に関する投稿が相次ぎ、2011年以降Twitterでは目撃談や実況体験談を寄せる利用者が続出した。また2014年には、Googleマップで筑波大学構内に「きさらぎ駅」という名称のスポットが何者かによって登録され、「きさらぎ駅」への架空のルート検索ができるようになるといった珍事も起きている。 -化け猫同様にネコの怪異として知られる猫又が、尻尾が二つに分かれるほど年を経たネコといわれることと同様に、老いたネコが化け猫になるという俗信が日本全国に見られる。茨城県や長野県では12年、沖縄県国頭郡では13年飼われたネコが化け猫になるといい、広島県山県郡では7年以上飼われたネコは飼い主を殺すといわれる。ネコの飼い始めに、あらかじめ飼う年数を定めておいたという地方も多い。また地方によっては、人間に残忍な殺され方をしたネコが怨みを晴らすため、化け猫になってその人間を呪うなど、老いたネコに限らない化け猫の話もある。 -999年、イブン・スィーナーが仕えていたサーマーン朝がガズナ朝とカラハン朝の攻撃を受けて滅亡する。21歳の時、法学者アル・バルキーのために全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げる。同年に父アブドゥッラーフが没し、父の死後にイブン・スィーナーは跡を継いで宮廷に出仕するが、その死のために生計を立てていくことが困難になる。ブハラの人間たちが無名の家系出身のイブン・スィーナーを邪険に扱ったためか、イブン・スィーナーは22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出、生涯ブハラに戻ることは無かった。 -ポーランド経済は、2004年EUメンバーシップ獲得後、EU内の先進地域と貧しい地域の格差を縮める目的であるEU構造ファンド(EUStructuralFunds)の融資獲得により経済成長を遂げている。失業率はEU平均を超えながら、経済の豊かさを比較する指標とされる1人あたりの国内総生産額のGDPは、著しくEU平均以下のままとなっている。若年人口の多さに支えられて、近年は毎年4-6%前後の高成長を見せていたが、世界的な金融危機の余波を受けたため、2009年の成長率は、欧州委員会(EC)の予測では-1.4%、国際通貨基金(IMF)の予測では-0.7%、欧州復興開発銀行(EBRD)の予測では0%、ロイター通信調査のポーランド国内外の民間金融機関の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。 -神聖ローマ帝国においてはザクセン選帝侯領(と同君連合であるポーランド=リトアニア共和国)とバイエルン選帝侯領がウィーン条約に加入した。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は皇帝を支持したことで後に見返りとして息子フリードリヒ・アウグスト2世のポーランド王位請求への支持を受けた。またネーデルラント連邦共和国はオステンド会社との競合を消すためにヘレンハウゼン同盟に加入した。英仏はオスマン帝国とも同盟しようとしたが失敗した。フランツ・ドミニク・ヘーベルリン(FranzDomincHäberlin)は後に「年末にはどんなことでも血なまぐさい戦争の勃発につながる可能性があった」と記述した。 -五式戦闘機(ごしきせんとうき)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機である。キ番号(試作名称)はキ100であり、略称・呼称は五式戦である。他陸軍機に用いられた公式愛称、また本機固有の連合軍コードネームも存在しない。ただし書類上などでは便宜上「TonyII」とされたことがあったという。川崎内では「きのひゃく」または「ひゃく」、陸軍航空敞では「きひゃく」または「ひゃく」と呼ばれていた。以下、本項では一般的な認知度の高い「五式戦闘機」の呼称を用いる。開発・製造は川崎航空機で、設計主務者は土井武夫である。 -哺乳類以外で後生動物の中で歯にエナメル質を持つ生物としては、硬骨魚類、両生類、爬虫類が存在する(軟骨魚類はエナメロイド)。爬虫類や魚類の多くはエナメル質の構造が哺乳類と異なり、小柱構造を持たない類エナメル質と呼ばれることもある。また、エナメル質を持たないサワラやヒラメや、歯の発生において象牙質より先にエナメル質が作られる鯛のようなものも魚類の中に存在する。 -大同電力株式会社は、1919年(大正8年)から1939年(昭和14年)にかけて存在した、電気事業者への電力供給、すなわち電力の卸売りを主体とする電力会社である。大正末期から昭和戦前期にかけて大きな勢力を持っていた電力会社5社、いわゆる「五大電力」の一つに数えられる。1919年11月、「大阪送電株式会社」の社名で設立されたのが大同電力の始まりである。設立の前年にあたる1918年(大正7年)9月に中部地方を流れる木曽川の水力開発などを目的として設立されていた木曽電気興業(旧社名木曽電気製鉄)が主たる親会社で、同社が開発する水力発電所の発生電力を関西地方へと送電することを起業の目的とした。これら大阪送電・木曽電気興業の2社に加えて、北陸地方などにおける水力開発を計画し、関西方面への送電を構想するという点で起業目的が共通する日本水力の計3社が1921年(大正10年)2月に合併し、大同電力株式会社は発足した。初代社長は大阪送電・木曽電気興業両社の社長を兼ねていた福澤桃介である。 -1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられ��ドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた。 -1985年に徳間書店の出資を得てスタジオジブリを設立し、以後の制作の基盤とした。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。また1986年頃、宮崎が推薦した押井守によるルパン三世劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井守を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている。『魔女の宅急便』(1989年)は、当初は片渕須直監督により進められていたがスポンサーの意向により降板し宮崎が後を継いだ。本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けてジブリの労働環境を整えるため社員化を決定する。『紅の豚』(1992年)は、もともと日本航空の機内で上映される中編として企画されたが、次第に構想が膨らみ、長編作品として公開された。1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入308億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。 -しかし反対者は、アメリカ軍が国境を巡回することは、PosseComitatusAct(「民兵隊壮年団法」。アメリカ国内において、アメリカ合衆国憲法及び法律の定めがある場合を除き、軍隊の治安活動を禁止した法律。もともとレコンストラクションの後の1878年に制定された法律で、陸海軍対象だったが1956年に空軍も加えられた。これがSWATが作られるきっかけになる)に違反すると主張した。もっと現実的な者は、国境を完全に封鎖することは不可能で、さらに頑丈で強大な軍が投入され、不法入国に恐らく深刻な影響を与えるだろうと考えた。アメリカの各州は州兵(NationalGuard)組織を持ち、原則として、州知事の判断で国境の警備のために配置することが可能である。また、一部の州は緊急時には州防衛軍(StateDefenseForce)という名の警備隊を動かすことができる。しかしながら、ほとんどの州知事は、地域の企業と、大きくなっていくメキシコ人コミュニティの反発を恐れて実行しなかった。 -それからの3週間で、重複の一切ない数百もの骨の破片が見付かり、それらが一体の人骨だったという当初の憶測を裏付けた。調査隊はさらに分析を進め、それが全体の40%にもなることが分かった。この数値については、手足の骨の一部を除いた算定であるとして、実際には20%台と見積もる見解もあるが、発見当時としては驚異的な数値だった。なお、1994年にはアファール盆地で身長120cmのラミダス猿人「アルディ」が発見され、最古の猿人は440万年前にまで遡ることになったが、その発見の詳細は2009年まで公刊されることがなかった。このアルディが発表された時点でも、10万年以上前のホモ属やアウストラロピテクス属の全身骨格は、トゥルカナ・ボーイ、セラム、リトル・フット、ルーシー、アルディの5体しかなかった。ルーシーはそれらの中で最も早く発見された全身骨格であった。 -ロンメルは1910年7月19日にヴァインガルテンに駐留するヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ・ヴィルヘルム1世」に下級士官候補生として入隊した。下士官として半年の���隊勤務を経た後、1911年3月にプロイセン王国ダンツィヒの王立士官学校に進んだ。士官学校在学中には、当時ダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーツィエ・マリア・モーリンと出会った。士官学校卒業後もルーツィエと手紙で連絡を取り合い、二人は1916年に結婚した。1912年1月27日に少尉に任官し、第124歩兵連隊に戻った。ロンメルは、新兵の訓練を担当した。この頃から、ロンメルは自分のカリスマ性を存分に発揮している。1913年12月8日、ヴァルブルガ・シュテマーとの間に私生児の娘ゲルトルートをもうけ、生活費を送る代わりに表沙汰にしないことで合意した。しかし、シュテマーは、1928年に肺炎もしくは自殺で死去した。ロンメルは、後に妻のルーツィエにゲルトルートの存在を打ち明け、彼女はロンメルの「親類」として戦中から戦後まで一家と親しく付き合った。事情を教えられていなかった息子のマンフレート・ロンメルは、ゲルトルートを「従姉妹」と呼んでいた。1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下であるウルム駐留のヴュルテンベルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊に転属となった。しかし、第一次世界大戦の開戦により第124歩兵連隊に復帰し、同歩兵連隊隷下の第2大隊第7中隊に所属する小隊の小隊長に就任した。 -当初犬小屋は、武蔵国多摩郡世田谷領喜多見村(現・東京都世田谷区)にあった側用人・喜多見重政の陣屋(『新編武蔵風土記稿』第七巻)の敷地内に設けられた。喜多見は犬支配役を担当していたが、元禄2年(1689年)2月に綱吉への背信行為によって喜多見氏が断絶した後、この地は天領となり、犬小屋係下役が配置された(竹内秀雄「喜多見の犬小屋」『世田谷』第二十一号)。元禄6年2月の「武州喜多見村御用屋鋪諸色御入用帳」(『竹橋余筆』別集収録)によれば、当時は喜多見村の幕府の御用屋敷がこの周辺の天領支配の拠点となっており、ここに40匹ほどの犬が収容施設で飼育されていた。この御用屋敷内に、正月から12月までの354日間に1万3878匹の犬が預けられた。病気の犬や子犬のための「介抱所」「看病所」「寝所」のほか、陣屋役所・門番所・台所・舂屋・鶏部屋・鶏遊び所などがあった。犬に餌を与え、急病の犬が出た場合には犬医者を呼び寄せて薬を処方していた。中間16、7人が介護にあたり、養育のためには約5728人の人手を要した。 -1765年初頭に国王ジョージ3世はポルフィリン症の発作を起こした。発作の再発に備えてグレンヴィル内閣は「摂政法」の制定を行った。しかし権力の制限を恐れた国王が強く反対し、この件でグレンヴィル内閣と国王の関係は決定的に悪化した。グレンヴィルを排除するため、国王はホイッグ党の第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースと和解・接近した。そしてグレンヴィルは1765年7月に罷免された。 -活性酸素種は細胞において過酸化水素(H2O2)およびヒドロキシルラジカル(·OH)とスーパーオキシドアニオン(O-)2のようなフリーラジカルを形成する。ヒドロキシルラジカルは特に不安定であり、即座に非特異的に多くの生体分子との反応を起こす。この化学種はフェントン反応のような金属触媒酸化還元反応によって過酸化水素から形成する。これらの酸化物質は化学的連鎖反応を開始させることにより脂肪やDNA、タンパク質を酸化させ細胞を損傷させる。DNA修復機構は稀な頻度で修復ミスを発生するので突然変異や癌の原因となり、タンパク質への損傷は酵素阻害、変性、タンパク質分解の原因となる。 -いっぽう、アメリカ大陸より旧大陸にもたらされた感染症には、人獣共通感染症であるシャーガス病、性病として知られる梅毒、イチゴ腫、黄熱(Americanstrains)がある。梅毒は、元来はハイチの風土病だったのではないかと考えられ、コロンブス一行が現地の女性との性交渉によりヨーロッパにもち帰ったとされる。アジアへはヴァスコ・ダ・ガマの一行が1498年頃インドにもたらし、日本には永正9年(1512年)に中国より倭寇を通じて伝わったとされ、江戸時代初期には徳川家康の次男結城秀康も梅毒に罹患している。日本で流行する前に琉球王国、とくにその花柳界で大流行し、古くから花柳界にいる人の罹患率が高かったので、梅毒は「古血」と称され、また、沖縄で��梅毒患者のことを「ふるっちゅ」(古い人)と呼ぶようになった。なお、梅毒は、ヨーロッパ諸国も介入した16世紀のイタリア戦争を通じてヨーロッパ各地に広がったため「ナポリ病」と称することも多い。 -その後ノストラダムスは、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス、以下「サロン」と略記)に落ち着き、1547年11月11日にこの地で未亡人のアンヌ・ポンサルドと再婚した。ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。 -ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 -ゲルニカにはバスク地方の自治の象徴であるバスク議事堂とゲルニカの木があり、歴代のビスカヤ領主がオークの木の前でフエロ(地域特別法)の遵守を誓ったことから、ゲルニカはバスクの文化的伝統の中心地であり、自由と独立の象徴的な町だった。 -ハーディング卿(就任期間:1910年11月23日-1916年4月4日)が第13代副王として就任すると、その翌年、ジョージ5世とメアリー王妃がインドを訪問し、デリーにおいて、戴冠式典が挙行された。イギリス国王がインド帝国時代にインドを訪問したのはこれが最初で最後であり、その式典で、カルカッタからデリーへの遷都が宣言された。ハーディング総督時代のインド政治を左右したのは当時の国際情勢であった。1911年から始まった伊土戦争とそれに続く2度のバルカン戦争により、オスマン帝国の宗教的権威が大きく揺らぐこととなった。ムスリム大衆の間には親トルコ的感情が生まれることとなり、後に、オスマン帝国が第一次世界大戦で敗れると、ヒラーファト運動へと発展することとなった。 -1887年11月28日、大阪府知事あてに事業設立願書が提出された。その発起人は大阪の有力実業家20名で、鴻池財閥の鴻池善右衛門、住友財閥の住友吉左衛門のほか、山口吉郎兵衛・阿部彦太郎・下郷伝平・松本重太郎・田中市兵衛・藤田伝三郎・土居通夫らが名を連ねた。同年12月1日に認可を受けて準備を進め、翌1888年2月5日、発起人により創立総会が開催されここに大阪電灯が発足するに至った。社名は発足当初「有限責任大阪電灯会社」と称したが、18937月に「大阪電灯株式会社」に改称している。資本金は40万円である。会社の設立とともに20名の発起人の中から土居通夫・豊田文三郎・玉手弘通・野田吉兵衛・徳田亀太郎の5名が取締役に選出され、そのうち土居が初代社長に就任した。土居は宇和島藩出身の士族で維新後は明治政府に出仕していたが、1884年に官を辞して実業界に入り鴻池家の顧問となり、次いで大阪電灯の設立に参加、後年には大阪商業会議所会頭にも推された。設立以後30年にわたり、土居は大阪電灯を社長として率いることになる。 -ゲルニカ爆撃は焼夷弾が本格的に使用された世界初の空襲であり、「史上初の都市無差別爆撃」や「史上初の無差別空爆」とされることもある。この爆撃は敵国民の戦意をそぐために行われる戦略爆撃の先駆けと考えられており、戦略爆撃は第二次世界大戦で本格化した。コンドル軍団はこの作戦をリューゲン作戦(OperationRügen)という作戦名で呼んだ。 -ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住��域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 -きらめき☆プロジェクトは『アニメージュ』掲載のクロスレビューでは、第1話に対しては5人のレビュアーがそれぞれ4,2,4,3,4点を付け、平均得点は3点となった。総評では、厳しい意見もあるものの、レビュアーごとに見どころの異なる多様な魅力を持つ作品と評された。第3話に対しては4,2,3,3,5点が付けられ、平均得点は3点となった。総評ではオヤジたちに人気が集まったが、視点が散漫なことに苦言があるとされた。第5話に対しては4人が5点、1人が1点を付け、平均得点は4点となった。1点を付けたレビュアーは伏線のない行き当たりばったりな敵味方の交流など、他人に見せるという視点のない内輪向けの作品と断じたが、他の4人は島田役の立木文彦の演技、ザ・パーフェクトに挑むボロボロのビッグマイティというシチュエーションの熱さ、オヤジたちの格好良さなどに好意的な評価を与えている。 -三島由紀夫(みしまゆきお、本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)、1925年(大正14年)1月14日-1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者である。血液型はA型。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁した。バルコニーでクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた。 -ヤナーチェクは王立師範学校長のエミリアン・シュルツにプラハのオルガン学校で学ぶことを勧められ、1年間の休暇が与えられた。出願に際し、師であるクシーシュコフスキーは「彼の音楽的才能、特にオルガン演奏の才能は殊のほか傑出したものであり、音楽をあますところなく研究する十分な機会が与えられるならば、彼はいつの日か真にすぐれた音楽家になることでしょう。」との推薦状を書いた。プラハ滞在中、ヤナーチェクはアントニン・ドヴォルザークと出会って親交を深め、その音楽を深く愛するようになった。また、ロシアを「全スラブ民族の理想の源泉」と位置付けて親ロシア的な心情を抱くようになり、ペテルブルク留学を志し独学でロシア語を学んだ。ヤナーチェクは後に生まれた2人の子供に、ロシア式の名をつけている。1918年に完成した交響的狂詩曲『タラス・ブーリバ』は「ロシア人をスラヴ民族の救済者であり指導者であるとみなす国家的情熱」が反映された作品とされる。ヤナーチェクの最後のオペラ作品である『死の家より』はフョードル・ドストエフスキーの小説『死の家の記録』を、1921年初演のオペラ『カーチャ・カバノヴァー』はアレクサンドル・オストロフスキーの戯曲『嵐』をもとに制作されており、他に実行には移せなかったもののレフ・トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』、『生ける屍』を題材にしたオペラの制作を計画していた。また1898年にはロシア愛好者協会を設立して1914年まで会長を務め、1909年にブルノのロシア文化サークルの会長を務めた。文芸評論家の粟津則雄は、ロシアの作曲家を除けばヤナーチェクほど「ロシアの文化や文学と強く結びついた作曲家はちょっとほかに思いつかない」と述べている。粟津は、ヤナーチェクの親ロシア的な心情には政治的な動機はまったくなく、「ロシアとかチェコといった区別を超え、それらをともに包んだ汎スラヴ的なものへの夢想」によるものであったと分析している。ヤナーチェクは教会音楽を中心としたオルガン学校の教育課程を「きわめて優れている」成績で修了。1875年の夏をズノロヴィの叔父のもとで過ごした後、ブルノに戻った。 -望まれぬ末子として江戸の町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(国家に反抗する姿勢)な態度を貫いたことに対して、津和野藩典医の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられた森鴎外は死ぬまで大日本帝国陸軍をはじめ国家官僚の職を歴任し、官側の人間であり続けた、という対照がある。夏目漱石は「余裕派」、森鴎外は「高踏派」と呼ばれた。しかし、その一方では二人とも「自然主義文学の姿勢」とははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広い知識をもって文学活動を進め、歪んでいく近代化における価値観の主流においても自分たちの認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応の影響を与えた。なお、鴎外が1890年から1年ほど過ごし、『文づかひ』などを執筆した千駄木の邸宅は、後にロンドンより帰国した漱石が1903年から約3年居住して『吾輩は猫である』を著した場所でもあったが、現在、同邸は愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されている。 -ニュルンベルクはペグニッツ川の両岸に広がる。ペグニッツ川はこの都市の北東約80kmに湧出し、市内を東西に約14kmにわたって貫いている。旧市街地区のこの川はすっかり運河化されている。隣のフュルトでペグニッツ川とレドニッツ川が合流してレグニッツ川となる。ニュルンベルクの西部および北西部は主にペグニッツ川の堆積物によって形成された。ニュルンベルク北部は重要な野菜の耕作地であるクノープラウフスラント(Knoblauchsland、ニンニク地方)である。ニュルンベルクの土地はコイパー期に形成された柔らかい砂岩からなっている。この町の北側は、一部は海抜600mを超える中低山地のフレンキシェ・シュヴァイツにつながっている。 -テニエルによる『アリス』の挿絵は、いずれも木口木版(こぐちもくはん)によって作られた木版画である。木材を輪切りにした断面に彫りつけるこの方法は、木材を縦に挽き割った断面を用いる板目木版(いためもくはん、浮世絵などはこちらを使用する)よりも緻密な描写が可能であり、銅版画のように原版の扱いが難しくないうえ、エレクトロタイプによって容易に原版を複製することもできたので、当時のイギリスの挿絵のほとんどはこの方法で刷られていた。このような木版では、ふつう挿絵画家は描きたい絵を原版に左右逆にして直接描き付け(コントラストを強めるために、版には「のろ」と呼ばれる、石灰水とでんぷん・糊を混ぜた液体が塗られた)、それを専門の彫版師が、何も描かれていない部分を削って線を浮き立たせるようにして彫ることによって凸版を作った。不規則な描線やクロスハッチ(ハッチング、斜線を複数方向にいくつも重ねて陰影をつける方法)をも再現しなければならないため、彫版師には何時間にもおよぶ緻密な手作業が要求されたが、『アリス』の挿絵がこのような職人作業のうえで成り立っていることに思いを馳せるものは当時も今日もほとんどいない。 -かつてマウレタニアと呼ばれた北アフリカのマグリブで遊牧生活を営んでいたベルベル人は、8世紀より前はキリスト教などを信仰していたようであるが東方から来たウマイヤ朝によるマグリブの征服後、イスラームを受容した。イスラーム化及びアラブ化したベルベル人であるムーア人とウマイヤ朝軍はイベリア半島を征服した。バレアレス諸島にも707年にムスリム軍が来襲し、地元の首長が何人かダマスカスまで捕虜として連行された。ムスリム軍は一時期南仏まで攻めたが、789年ごろにはフランク王シャルルマーニュにピレネー山脈まで押し戻された。フランク王国の年代記には、セプティマニアを手に入れたシャルルマーニュの宮廷に、バレアレス諸島が海賊の来襲を受けているという知らせが入ったと記されている。798年にマヨルカ島のキリスト教の修道会士からもたらされたこの知らせにおいて、海賊は「サラセン人とムーア人」であるとされている。 -コンスタンティヌスの城壁にあった5つの城門の名が知られているが、それぞれの役割や正確な位置いついては議論が続いている。古黄金の門(ラテン語:PortaAurea,古代ギリシア語:ΧρυσείαΠύλη)、またはクセロロフォス門、サトゥルニヌスの門は、ノティティア・ウルビス・コンスタンティノポリタナエで「凝った装飾が成されている」と評された門で、第七の丘の南側の斜面に建っていた。一般にコンスタンティヌス1世の時代の成立とされているが、正確な建設時期は不明である。後のビザンツ帝国の学者マヌエル・クリュソロラスは14世紀当時の門を、大きな大理石でできた、開口部が非常に高く開いた門で、上に柱廊のようなものを戴いている、と描写している。伝えられるところでは、ビザンツ帝国後期にこの門に磔の絵が描かれたために、後に街を征服したオスマン帝国がこの門をİsakapı(「イエスの門」の意)と呼ぶことになったという。この門は1509年の地震で倒壊してしまったが、跡地にエセ・カピモスクが建てられたため、おおよその位置が今でも分かっている。 -アンリ・ピレンヌはシャルルマーニュをさして「大帝が中世の貨幣制度の創始者である」とした。シャルルマーニュは1リーヴル=240ドゥニエという貨幣体系を制定し、この体系は18世紀末までおおむね維持されたが、当初実際に貨幣として発行されたのはドゥニエだけであった。基本設計として、1リーヴル重量の純銀から240枚のドゥニエを作るということから、この貨幣体系となった。以後時代を経ると貶質していき、最終的には銅貨に姿をかえ、さらにフランス革命を機にフラン体系に取って代わられる運命ではあるが、それまでの10世紀ほど存続した。インフレによってドゥニエの価値が下がってくると、より高額な単位であるスーやリーヴルの貨幣も出現するが、それまではこのふたつはあくまでも計算上の単位にすぎず、現代日本における厘や銭のような存在であった。その点においてドゥニエは基軸通貨として唯一の存在、現代日本における円のような存在であった。とはいえ経済が発達して貿易が盛んに行われるようになり、貿易などの大口取引を現金決済する機会が増えてくると、さすがに度重なる改鋳で価値の落ちたドゥニエを箱一杯分担いで取引を行うのは非現実的であることから、より価値の高い貨幣に対する需要が高まった。これに対応して、エキュ、フラン、グロなどの、金貨を含む新たな通貨単位が制定された。これらの新たな体系の通貨が発行された場合でも、ドゥニエはそれらの価値を計るための単位として用いられ、より高額な通貨体系と並立していくことになる。価値とともにその立ち位置も変化していくが、詳細は次の「歴史」節で記述する。 -1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まる。9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国(ドイツとソ連)に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンラ��ドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカの真珠湾も攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 -11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊は、同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離する。かわりに駆逐艦「時雨」を編入し、内地へ帰投する。「木曾」と「霜月」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された。11月13日、マニラ湾は再び空襲をうける。水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)が沈没もしくは大破着底状態となる。竹乗組員達は「マニラに帰投して大空襲に出くわした。島風と一緒にレイテに行けば良かった。本艦は運が悪い」と自嘲したが、第三次多号船団部隊が「朝霜」を除いて全滅した事を知り、逆に「竹は強運の艦だ」という印象が広まった。 -合衆国は植民化を進めるにあたり、まずインディアンから領土を「購入」しようとし、「物品」と引き換えにこれを行った(つもりだった)。しかしこれは、インディアンの共同体から見れば「白人が贈り物をして、ここに住まわせてくれと言って来た」ということである。白人は「ここから出て行ってくれ」と言ったつもりだが、インディアンはこれを理解していない。彼らに「土地を売り買いする」という文化習慣が無いからである。 -篠島は伊勢国・志摩国と東国を結ぶ海上交通の要衝であり、南北朝時代の延元3年(1338年)には南朝の後醍醐天皇の皇子義良親王(後の後村上天皇)が東国に向かう途中、難破して当地に漂着した。親王は篠島城を住居として6-7ヶ月滞在した後、迎えとともに吉野に帰還した。これを物語るものとして、親王の飲料水を確保するために掘られたとされる「帝井」(みかどい)が存在する。奈良時代には三河国幡豆郡に属したが、鎌倉時代には志摩国答志郡、室町時代には伊勢国度会郡の所属となり、慶長元年(1596年)に尾張国所属で落ち着いた。篠島からは頑丈で良質な岩が取れるため、加藤清正は名古屋城築城の際に篠島から石を切り出し、愛知県立内海高校篠島分校跡近くに名残(清正の枕石)が残っている。 -第一次大火では3名の死者と、132名の負傷者という人的被害を出した。住家1,295棟、非住家942棟が焼失、また破壊消防によって5棟が破壊された。被災世帯数は1,755世帯で、8,790人が被災している。火災発生から10日間、渟城第一、第二、第三小学校を休校とし、縁故者のいない被災者333名がこれら3校及び能代工業高校に分けられて収容された。被害範囲は東西約1,500m、南北約800mに及び、焼失面積約25万2,000坪は、当時の市街地のおよそ42%に達した。被害が出た町名は、上町、万町、馬喰町、羽立町、上川反町、仲町、幸町、大町、畠町、後町、清助町、下川反町、富町、寺町、長根町の15町に及んだ。焼失した区域には473棟の土蔵があったが、焼け残ったのは127棟だけで、大部分の土蔵が持ちこたえられなかったことが火勢の強さを物語る。当時の市街地は製材所や木工所が各所にあり、木材や板材といった可燃物が多かったが、これらが火柱となって飛び、文字通り飛び火して被害を拡げた。さらに丸太は青光りする炎を上げて飛びながら燃えたという証言が、当時の能代市長柳谷清三郎から残されている。 -犬小屋用地は、中野村の百姓82人と宝仙寺から田畑・屋敷・芝地合わせて反別23町5反4畝10歩、坪数でいえば7万630坪の土地を御用地として収公して犬小��の建設地とした(中野村「御用地ニ渡候田畑書貫帳」(堀江家文書C七六))。元禄15年5月の「中野村亥・子両年御用地相渡候反別之覚」(堀江家文書C77)では元禄8、9年の両年で百姓61名と宝仙寺から田畑反別48町9反、14万6717坪収公されたことが記されており、元禄9年には中野村からさらに田畑反別25町3反6畝7歩を御用地として幕府に引き渡したこととなる。「犬小屋御囲場絵図」(堀江家文書S一、元禄10年4月25日作成)によれば、元禄8年には17万9156坪、翌年には10万2330坪の土地で普請が行われ、道路分としてそれぞれ1万1095坪と5071坪も造成された。犬小屋全体の御用地は29万7652坪におよび、中野村だけでなく周辺の高円寺村(現・東京都杉並区)などの土地も収公された。 -腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物。二枚貝のように2枚の殻を持つが、二枚貝類の殻は体の左右に1枚ずつあるのに対して、腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる。2枚の殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる。殻長は5センチメートル前後のものが多い。 -『三国名勝図会』によると焼酎の製法は中国から琉球王国経由で薩摩国に伝わり、1546年にジョルジ・アルヴァレスが記した『日本の諸事に関する報告』では薩摩の山川付近で米焼酎が飲まれていると記されている。宝永2年(1705年)に琉球から薩摩の山川にサツマイモが伝わると、水はけが良くて稲作には適さないシラス台地での栽培が急速に広まり、18世紀前半までには薩摩藩内で芋焼酎が作られるようになった。さらに18世紀中盤には薩摩藩内の都城や佐土原藩などにも芋焼酎の製法が伝えられ、さらに飫肥藩や高鍋藩にも伝播して、日向国中南部に普及していった。また、19世紀半ばに八丈島に流罪となった丹宗庄右衛門によって三宅島や八丈島に芋焼酎の製法が伝わっている。 -1985年に徳間書店の出資を得てスタジオジブリを設立し、以後の制作の基盤とした。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。また1986年頃、宮崎が推薦した押井守によるルパン三世劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井守を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている。『魔女の宅急便』(1989年)は、当初は片渕須直監督により進められていたがスポンサーの意向により降板し宮崎が後を継いだ。本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けてジブリの労働環境を整えるため社員化を決定する。『紅の豚』(1992年)は、もともと日本航空の機内で上映される中編として企画されたが、次第に構想が膨らみ、長編作品として公開された。1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入308億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。 -1990年8月1日、イラクとクウェートとの間で行われていた石油採掘交渉が決裂し、翌8月2日、イラクは軍をクウェートに派兵し武力制圧した。イラクは武力侵攻の理由について、クウェートにおいて「若き革命家たち」による革命が起こり、革命政府の求めに応じて軍を派遣したと説明し、同日中にイ��クは国営放送でクウェート国のジャービル3世政権打倒と、自由クウェート革命の成就を宣言した。現地時間の午後2時になってクウェート反政府勢力によるクウェート暫定自由政府の樹立を宣言し、暫定政府による声明文を読み上げた。 \ No newline at end of file