chats
sequence | footnote
stringlengths 163
3.16k
| meta
dict |
---|---|---|
[
[
"おまえ何処の者なの、二三日まえにもそこへ来たようだね、なにをしに来るの",
"申しわけのないことでございます"
],
[
"おまえ津幡の者ではないの、そうでしょう。津幡の能登屋から、なにか頼まれて来たのでしょう",
"わたくしは旅の者でございます",
"隠しても駄目、あたしは騙されやしないから",
"わたくしは旅の者でございます"
],
[
"ではどうして福井へ行かないの、どうしてこの森本でぐずぐずしているの",
"持病の具合が思わしくないので、宿はずれの宿にもう半月ほども泊って居ります……一日も早く帰りたいとは存じますが、帰っても親類縁者の頼るところはなし。いや!"
],
[
"こんな話はなんの興もございません。本当になんの興もございません……。それよりもお嬢さま、今まで通りこの老人に、お庭の隅からお手並を聴かせてやって頂きとう存じます",
"いつ頃から此処へ来はじめたのだえ"
],
[
"はい、ちょうど五日まえでございましょうか、ふとお庭外を通りかかって『男舞』をうかがいましたが、それ以来ずっとお邪魔をしていたのでございます",
"あたし二三日まえから気付いていました。でもまるで違うことを考えていたのよ",
"津幡の能登屋がどうとか仰有っておいででしたが",
"もうそのことはいいの、それから庭の外なら構わないから、いつでも聴きにおいで"
],
[
"……鼓くらべはもうお取止めになったかと思っていたのです",
"どうしてそう思ったの"
],
[
"おまえ誰なの",
"わたくし宿はずれの松葉屋と申す宿屋の娘でございますが、うちに泊っておいでの老人のお客さまから、お嬢さまに来て頂けますようにって、頼まれてまいりました",
"あたしに来て呉れって",
"はい、病気がたいへんお悪いのです。それでもういちど、お嬢さまのお鼓を聴かせて頂いてから死にたいと、そう申しているのです"
],
[
"あたし家へ断りなしで来たのだから……",
"短いお話でございます、直ぐに済みます"
],
[
"上ります",
"わたくしのお話も、その鼓くらべに関わりがございます。お嬢さまは御存じないかも知れませんが、昔……もうずいぶんまえに、観世の囃子方で市之亟という者と六郎兵衛という者が御前で鼓くらべをしたことがございました",
"知っています、友割り鼓のことでしょう",
"御存じでございますか"
],
[
"それも知っています。あまり技が神に入ってしまったので、神隠しにあったのだと聞いています",
"そうかも知れません、本当にそうかも知れません"
],
[
"打ち違えたのです",
"そんな馬鹿なことはない、いやそんな馬鹿なことは断じてありません、あなたはかつてないほどお上手に打った。わたくしは知っています、あなたは打ち違えたりはしなかった",
"わたくし打ち違えましたの"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「少女の友」
1941(昭和16)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057677",
"作品名": "鼓くらべ",
"作品名読み": "つづみくらべ",
"ソート用読み": "つつみくらへ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「少女の友」1941(昭和16)年1月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-02-14T00:00:00",
"最終更新日": "2022-01-28T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57677.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年6月25日",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "noriko saito",
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"テキストファイル最終更新日": "2022-01-28T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"なんでも梅の咲きだす頃からのことらしい、七日おきぐらいに逢っていたというんだが、そんなけぶりを感じたことはなかったのかね",
"まるで気がつかなかった",
"だって七日おきぐらいに外出していたんだぜ",
"願掛けにゆくということは聞いていた、たしか泰昌寺の観音とか云っていたように思うが",
"それが不自然にはみえなかったんだね"
],
[
"それで、相手も見たのかね",
"見たよ、森相右衛門の三男だ、知っているだろう、森三之助",
"――と云うと、たしか江戸へいった",
"ゆかなかったんだな江戸へは、現におれがこの眼で見ているんだから"
],
[
"わたくし今日は泰昌寺へ参詣にまいりたいのですけれど、よろしゅうございましょうか",
"いや今日はいけない"
],
[
"あのちばめだいたんのだね、たあたま",
"うん大さんのだ、そしてこれからはずっと毎年やって来るよ",
"だいたんのだかだだね",
"そうだ、大さんの燕だかだだ"
],
[
"人ちがいではないのだな",
"――――",
"名を云え、誰だ"
],
[
"では森もいっしょに猿ヶ谷へいったのか",
"――彼には今おいちが必要なんだ",
"では紀平には必要ではないというのか",
"――こんどの事は誰が悪いのでもない"
],
[
"そこまでゆくともう弱気とか、善良などという沙汰ではないね、むしろ不徳義だし、人間を侮辱するものだ、森が男ならそういう恩恵には耐えられなくなるぜ",
"吉良ならほかに手段があるかね",
"森とは決闘するか追っ払うかだ、妻はきれいに赦すか離別するかだ、それがお互いを尊重することなんだ",
"――おれには自分に出来ることしか出来ない"
],
[
"あれだいたんのよ、だいたんのちばめね、こよぶの、こよぶのよ",
"あら、燕がころぶの、大さん",
"うん、こよぶの、ほんとよ、こよんで頭いたいいたいって、ここぶっちゅけて"
],
[
"――あれを呼び戻すって",
"初めにお供を仰せつかったとき、爺がなんと申上げたかお忘れではございますまい、……召使の身で、不貞の加担はできませぬなどと申しました、なにも知らず、愚か者のいちずな気持から、ただもう前後もなく申上げたのでございます",
"――なにも知らないとは、どういうことだ",
"まるで違うのです、奥さまには不貞などはございません、爺は二百余日もお付き申していて、この眼でずっと見てまいりました、奥さまには決して不貞などはないのでございます",
"――松助、なにを云いだすのだ",
"お聞き下さいまし旦那さま、私の申すことをどうぞお聞き下さいまし"
],
[
"燕を見るんだと仰しゃってきかないんですの、まだ起きたりなすってはいけませんのに",
"よしよし、そのくらいならいいだろう"
],
[
"玄関ぐらいならね、さあ抱っこして、おおこれは重くなった、大さんまた重くなったぞ",
"だいたん重たい、はは、重たいねえ"
],
[
"どうったの、たあたま、ちばめどうったの",
"――うん、燕はね"
],
[
"――そして春になって、こっちが暖たかくなると、また大さんのお家へ帰って来る、大さんが四つになると、燕はちゃんと帰って来るんだよ",
"――ちばめ、またくゆの、また",
"ああちゃんと帰って来るよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「講談倶楽部 秋の大増刊」大日本雄弁会講談社
1950(昭和25)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057679",
"作品名": "つばくろ",
"作品名読み": "つばくろ",
"ソート用読み": "つはくろ",
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"原題": "",
"初出": "「講談倶楽部 秋の大増刊」大日本雄弁会講談社、1950(昭和25)年9月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-09-12T00:00:00",
"最終更新日": "2020-08-29T00:00:00",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記",
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"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年11月25日",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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} |
[
[
"どうかしていらっしゃるようだ、なんて云わなくっても本当にどうかしてるんだ、あなたのためにね、阿部雪緒さん",
"そういうお口ぶり嫌いよ、わたくし、――もうゆかなければへんに思われますわ"
],
[
"怒ったふりをなさるのね",
"いらっしゃいと云ってるんです",
"怒ったふりをなさってるのよ",
"どうぞと云ってるだけですよ、みんなのことが心配なんでしょう"
],
[
"いっしょに来ればわかるよ",
"いまはだめって申上げているでしょ、畑中の早苗さまが待っているのよ",
"兄の采女もいっしょにか"
],
[
"五十年にはならぬさ",
"いや、そうなるんだ、私は絵師になろうと決心して家をとびだした、あれが二十の年の春だからね、まる五十年になるよ"
],
[
"わからないかな",
"娘たちの声もするようだが"
],
[
"音頭を取るのは梶本だったな",
"おれが、――なんだって"
],
[
"ここは留守番だけで、なにをしても自由だったからな",
"佐藤の気性が昔どおりなら、いまの若者たちも遠慮はしないだろう",
"そうらしい、みんな勝手に庭の松林を通りぬけてゆくし、もっと遠慮のない者は酒や弁当を持ちこんで、小酒宴をひらくことさえあるよ"
],
[
"ばかなことを云っては困る",
"もうお互いに年だ、こんなことを云うのもこれが最後かもしれない、終りの日の来るまえに、云いたいことは云ったほうがいいと思う、佐藤にしても、いまさらそれでてれることはないだろう"
],
[
"なにをそう誇張するんだ",
"誇張どころか、もっとはっきり云えば、おれは鼻持ちのならない賤民だったよ"
],
[
"その娘とは、――",
"友達のために譲ったという娘さ"
],
[
"あれは一つの譬えだ、私のような味もそっけもない人間に、そんな浮いた話があるわけはないよ",
"庄野の妻になった人か",
"ばかなことを云わないでくれ"
],
[
"渡貫の気持もわからなくはない、慥かに、かれらの中には口先だけの人間もいるよ、藩政改革という気運に調子を合わせていなければ、自分が時勢にとり残され、若いなかまから嘲笑される、ということを恐れるためにね、――本当のことを云うと、十ちゅう七か八まではそういう人間だと思う",
"九分九厘までがそれだ"
],
[
"もちろん密会の理由には触れなかったが、これこれの者が佐藤別墅に集まる、ということをそれとなくおれに告げてくれたんだ",
"渡貫老はわれわれのことを知っているんだな"
],
[
"そういう犠牲を出さないために、これまで苦心をして来たんだぞ",
"おれがその忍耐をしなかったか",
"渡貫ひとりじゃあない、おれだって同じように忍耐して来たぜ"
],
[
"庄野とはたし合になったのは、あの舟小屋でのことがきっかけだったろう",
"それは人が違う"
],
[
"長浜の花屋か",
"そう、あの湖畔にある茶屋だ"
],
[
"阿部さまともですか",
"またそれだ",
"阿部雪緒さまともなさるのね"
],
[
"どうだかな、って、こんどはこっちで云おう、私はなにも信じたりはしない、正直なところ生きることにいそがしいんでね、番たびなにかを信じたり疑ったりする暇なんかないんだ",
"そうね、栗林の中でもおいそがしそうでしたわ"
],
[
"あなたは悪い方よ",
"自分でも望んでいるくせに",
"知りません"
],
[
"医師を呼びにやりましたあと、新原はわたくしに、あなたのところへあやまりにいってくれ、と申しました",
"どうしてです"
],
[
"阿部さんの娘とはどうだ",
"そうどなるな"
],
[
"現に下生えの中に履物が落ちていた、きさまが松林の奥で妹になにをしたか、もし弁解ができるならしてみろ",
"そんなことはしないね",
"弁解もできないのか",
"できなくはない、する必要がないんだ"
],
[
"そんなことなすってはいや",
"誰も見ていやあしないよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1960(昭和35)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057683",
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"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1960(昭和35)年10月",
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[
[
"殺人鬼権六! 当地へ潜入せり、銀行家宮橋多平氏脅迫さる、脅迫状には五千円を要求しあり、当地住民は恐怖動揺を来し、警察当局もまた非常警戒に任じたり",
"うるさい、うるさい!"
],
[
"いま京太郎から研究問題の説明を聞いて居るところじゃ、そんな下らぬ新聞記事などは止めにしろ",
"だって殺人鬼権六と云えば……",
"黙れ、おまえは毎も盗難事件だの殺人だのと、まるで探偵のような事にしか興味を持たんじゃないか、そんな事で立派な医者に成れると思うか、少しは京太郎を見習うが宜い、呆れた奴だ",
"じゃア黙りますよ"
],
[
"帰って勉強する時間ですから、僕は是で失敬します",
"そうか"
],
[
"いまの話は面白かった。火山岩を或種の電波で金に還元する、――それが事実だとすれば世界の経済界をかき廻す事が出来るぞ。まあ精々やって呉れ、直ぐに資金を出すという訳には行かんが、大丈夫と定れば",
"どうか伯父さん!"
],
[
"そんな大きな声で仰有らないで下さい、当分この研究は秘密にして置きたいと思いますから、決して他言なさらないように",
"宜し宜し、もう決して云わん",
"では失礼します。――祐ちゃん失敬",
"うう"
],
[
"祐吉、おまえもっと確りせんと駄目だぞ、そんなにのらくらしていると儂が死んでも遺産を分けてやらんから",
"遺産なんか貰わなくても僕ァ、伯父さんの生きている方が宜いですよ。――なんだ十万や二十万の金なんぞ",
"直ぐそれだ!"
],
[
"貴様は直ぐ金なんぞと云うが、金が無くて人間なにが出来る。京太郎を見ろ、貴様より三ツ年上だけなのに、火山岩を金に変えるという驚くべき発明をやってのけたじゃアないか、国家的にも大功績と云うべきだぞ",
"へえ――まだ万有還金などという事が流行っているんですかね、僕ァまた伯父さんから資金を引出す口実だと思った",
"そう云う奴だ。何かと云うと直ぐ探偵みたいな事を云う",
"あッ、その探偵で思出した"
],
[
"殺人鬼権六が潜入したとなると、こいつは二三日うちに何か事件が持上りますぜ、殊にもう宮橋氏へは脅迫状をやったと云うんですから、伯父さん処なんぞも危いですよ",
"もう沢山だ。殺人鬼などに怖れていて永生きが出来るか、儂なんぞはいま此処へやって来たってびくともしやせんぞ"
],
[
"た、大変です。人が殺されて……",
"なに⁉",
"彼処の栗林の中で、人が……"
],
[
"余りに恐ろしい光景で、前後も知らず逃げて来たんです――",
"殺人鬼権六だ‼"
],
[
"祐吉、行こう。――京太郎案内して呉れ",
"しめた! そう来なくちゃア面白くないぞ!"
],
[
"あの巨きな松の木の処です",
"行って見よう",
"ぼ、僕は此処で待っています。僕には――迚も屍体を見る勇気はありません"
],
[
"じゃア君は待ってい給え、伯父さん行きましょう。僕が先頭を引受けます",
"気をつけろよ、まだ犯人がいるかも知れぬぞ、――足許に注意して……"
],
[
"何だ祐吉",
"手帖が落ちていたんです",
"つまらん物を、どうするんだ",
"なに、どうもしませんさ"
],
[
"も、もう削れねえだ、もう、些っと、押しても、それで……ああ、危ねえ――",
"おい、確りしろ、誰がやったんだ",
"…………",
"おい! 君‼"
],
[
"頸のところを突刺されたんです。もう少し早く手当をすれば、或は助かったかも知れませんが、斯う出血がひどくては……",
"村の者らしいな",
"そうでしょう"
],
[
"ええ、吃驚した、もう少し静かにせんか、貴様の方が殺人鬼よりずっと乱暴だぞ!",
"新聞を読みましたか"
],
[
"警察ではもう権六権六で血眼になっていますよ。――然し僕の観察では、この事件はそう単純には解決ないと思いますね。――僕にはどうも、あの手帖に書いてあった『ぐひんさんを削る』というのが気になってならない",
"まだあんな手帖に拘わっているのか",
"あんな手帖と云うけど、あの手帖のお蔭で石屋の源助という身許が分ったんですからね。――僕は今朝警察へ行って云ったんです。大切なのは源助が殺された事ではなく、どんな理由で殺人鬼が源助を殺したのか? その点を確めなければ解決の鍵は握れないッて",
"貴様……警察などへ行ったのか",
"だってそうでしょう。権六は殺人鬼だが、金品を盗むのが目的です。京大阪の事件もみんな富豪か名士に限られています。それなのにどうして此処では貧乏な石屋の老人などを殺したか、――その点が最も重大ですよ",
"呆れた奴だ"
],
[
"いったい貴様それで宜いのか、学問などは抛放しで、そんな事となるとまるで気違い騒ぎだ。もう学校などは止めて探偵にでも成って了え‼",
"まあそう怒らないで下さい",
"怒るのは当然じゃ、貴様などには一文も遺産はやらんからそう思え、馬鹿馬鹿しい"
],
[
"遺産なんか欲しくはありませんや",
"な、何を、このッ"
],
[
"些っとお伺いしますが、平野さんのお屋敷の方ではありませんか",
"そうです、何か御用ですか",
"種田さんは被居るでしょうか",
"京ちゃんは浜のホテルの方ですよ",
"ホテルにはいないんですが"
],
[
"京ちゃんに何か用があるんですか",
"はあ、――少しその……",
"僕が取次ぎましょう、やがて此処へ来るでしょうから",
"然し、そうですな"
],
[
"では斯う仰有って下さい。蔦屋で午後五時まで待っています。五時までにおいでがなければ断然東京へ帰ります",
"一体なんの用事かね君",
"学校の友達で井上だと云って下されば分りますよ"
],
[
"何をする人ですか",
"宿帳には金融業と書いてございますが",
"金融業……金貸だね"
],
[
"ええ、大倉山の方へ殺人鬼が逃込んだので、これから山狩りを始めるところです",
"殺人鬼、それは本当かい君?",
"丘の平野さんの甥で種田京太郎という人が浜のホテルにいるんです。その人が慥に見たと警察へ訴えたのだそうです。――種田さんという人は、栗林の中で殺人鬼が源助を殺している現場を見たのですから間違いはないでしょう",
"種田は何処にいるんです?",
"猟銃を取りに平野さんのお屋敷へ行きました"
],
[
"否え、さっき京太郎様と御一緒に、馬車で釣にいらっしただよ",
"え? 釣に行ったって?",
"へえ、鯛釣りだと云ってね、場所は向う淵だと云ってござらしっただ",
"なんだ馬鹿げてる!"
],
[
"向う淵というのは馬車で行くほど遠いのか",
"遠いだよ、あのぐひん様の下の崖道を通って五丁ばかり先だ",
"ぐひん様"
],
[
"なんだい、其のぐひん様て云うのは",
"あははは、儂らの方言でな、つまり天狗岩の事だ。御存じだんべえが",
"なんだ天狗岩か……"
],
[
"銀作! 馬を出して呉れ、馬を",
"あ、なにするだね、馬なんぞ出して",
"何でも宜い、早くしろ、大変だッ"
],
[
"どうしたんだ",
"京、京ちゃんは? 一緒に来たんじゃアないんですか",
"一緒に来たさ",
"いないじゃアないですか"
],
[
"餌にする柳の虫を獲るので、向うの土橋のところで降りたよ、もう後から来るだろう",
"――伯父さんも降りて下さい",
"なに、なんだって?",
"伯父さんも降りて下さいと云ってるんです。一生のお願いです。遺産も何も要りませんから今日一度だけ僕のお願いを肯いて下さい",
"一体それはどう云う訳だ?",
"訳は後で話します、早く"
],
[
"何をするんだ祐吉",
"いま面白いものを御覧に入れますよ、――さ少し後から跟いて行ってみましょう"
],
[
"いったい是は",
"叱ッ、黙って――"
],
[
"静かに、いま誰か降りて来ますよ",
"――――",
"騒がないで見ていて下さい"
],
[
"柳の虫を獲るどころか、自分は裏山から先廻りをして天狗岩の処で馬車の来るのを待っていたんですよ",
"ああ――実に、実に恐ろしい奴だ"
],
[
"自分のかけた罠、それと同じような結果に成って自分も死んだ……あの方が彼のためにも幸福でしょう",
"そうだ、儂の一族から殺人犯を出さずに済んだ事も有難い、おまえの探偵癖が、こんなに役に立つとは思わなかったぞ",
"しかし、遺産は要りませんよ"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年春の増刊号
初出:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年春の増刊号
※「彼処」に対するルビの「あそこ」と「あすこ」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059103",
"作品名": "天狗岩の殺人魔",
"作品名読み": "てんぐいわのさつじんま",
"ソート用読み": "てんくいわのさつしんま",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「少年少女譚海」1938(昭和13)年春の増刊号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-08-10T00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介",
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[
[
"ちょっと見てきておやり",
"はい、――"
],
[
"まあ千浪、どうしたの",
"――お姉さま"
],
[
"どうしたの千浪、もう七つにもなるのに、ころんだくらいでそんなに泣くひとがありますか、戦場へ行っているお兄さまのことを考えてごらんなさい",
"――ころんだのじゃないわ",
"ではどうしたの、こんなにどろだらけになって",
"みんながぶっつけたのよ"
],
[
"お兄さまの悪口をいって、お兄さまが裏切者なんですって、卑怯者で不忠者ですって、そして千浪がそんなことうそよっていったら、みんなでどろをぶっつけたんだわ",
"――まあ!"
],
[
"おれたちみんなだ、悪いかい",
"男のくせに小さい子をみんなでいじめるなんて卑怯だとは思いませんか",
"へ! 卑怯とはそっちのことだろう",
"なぜわたくしが卑怯です",
"卑怯者の妹なら卑怯にきまっていらあ。裏切者の伝四郎の妹なら、やっぱりおまえたちも裏切者じゃないか、ほんとうなら菊池の家のものはみんなこの大村からほうり出されるんだぞ",
"おだまりなさい!"
],
[
"ほかのこととは違います。武士に向かって裏切者などといえば、どんなことになるか知っていますか",
"知っているさ、へん"
],
[
"おまえの兄の伝四郎はな、敵軍の方へねがえりをうって味方の陣地のことをしゃべってしまったんだ、そのために味方は釜伏山の陣地を敵軍にとられてしまったんだぞ",
"うそです、そんなことはうそです",
"うそだと思うなら、侍大将の玄蕃様の家へ行ってきいてみろ、伝四郎はいま敵軍のなかで働いているんだ、裏切者なんだ!",
"…………"
],
[
"わたくし今日、いやなうわさをききましたの",
"なにをきいたの?",
"お兄さまのことなんです"
],
[
"お母さまもごぞんじなんですのね",
"――おまえ、……",
"お兄さまが敵軍へねがえりをうったので、釜伏山の陣地をせめとられたということ、お母さまはもうごぞんじだったんですのね",
"――知っていました"
],
[
"知ってはいたけれど、そんなうわさをとりあげておまえを心配させてはわるいと思って",
"いいえうわさではありません、わたくし玄蕃様のお家へ行ってきいてまいりました、裏切者とまではおっしゃいませんでしたけれど、お兄さまがいま敵軍のなかではたらいていることはほんとうだといいました、釜伏山の陣地を敵にとられたのもほんとうだとおっしゃいましたわ",
"――それで"
],
[
"おまえそれで、どうお思いなの?",
"どうってお母さま",
"世間のうわさや玄蕃様のお宅できいてきたことをほんとうだとお思いですか、伝四郎が裏切者だということを信じるのですか",
"――お母さまはお信じになりませんの?",
"若菜、ちょっとこちらへおいで"
],
[
"御先祖のお位牌のまえで、あらためておまえにききますが、――もしおまえが戦争に出て、味方が負けそうになったときはどうしますか、自分の命がおしさに敵軍へ降参しますか",
"いいえ、味方といっしょにりっぱに討死をいたします",
"ではもしきずをおって敵軍にとらえられたとしたらどうします",
"捕虜になるくらいなら、舌をかんででも自殺します"
],
[
"女のおまえでもそれだけの覚悟はありましょう。若菜伝四郎は菊池家の主人です、おまえは女だけれど伝四郎は武士ですよ、おまえのからだにながれている血と、同じ血をもっているのですよ",
"…………",
"女のおまえでさえそれだけの覚悟をもっているのに、男の伝四郎が裏切などをすると思いますか",
"…………",
"世間でなんといおうと、玄蕃様がどのようにおっしゃろうと母は伝四郎を信じています。おまえにはまだ信じられませぬか",
"……いいえ、いいえお母さま",
"それならつまらぬ心配はおやめなさい、そして兄さまを信じているのです。世界中の人たちが悪口をいっても、わたしやおまえは信じていなければいけません、わかりましたね",
"……はい"
],
[
"いよいよ大決戦がはじまるそうだ",
"この弾薬で大村勢をひとうちにせめやぶるのだ、みごとな戦がはじまるぞ",
"赤沢軍の鉄砲陣は天下無敵だからな"
],
[
"ではこれで、お造作をかけました",
"失礼いたします"
],
[
"わたくしです",
"……?",
"若菜です、お兄さま"
],
[
"おまえ、おまえ、若菜か",
"――お兄さま!",
"まて、どうしてこんなところへきた、なんのためにきたのだ",
"おわかりになりませんの?"
],
[
"わたくしお迎えにきたんです、これからすぐ若菜といっしょにお帰りくださいまし、大村へお帰りくださいまし、そして……裏切者だという汚名をそそいでくださいまし",
"だまれ! 兄に向かって裏切者とはなんだ",
"わたくしが申すのではありません、大村城下の人たちがそういうのです。子供たちは妹にどろを投げつけます、お兄さま! 帰ってみんなに裏切者でない証拠をみせてやってくださいまし",
"――いやだ、帰る必要はない",
"なぜですの、どうしてお帰りになりませんの、母さまや千浪やわたくしが、犬のように大村からおわれてもいいのですか"
],
[
"お兄さま!",
"さわぐな、いま思いついたがおまえはいい時にきてくれた",
"――?",
"おれは人質が欲しかったのだ"
],
[
"おれはまだほんとうに赤沢軍に信用されているわけではない、おれはどうしてもここでみんなにおれの心を信じてもらわなくてはならないのだ。どうしても、五十人や百人の足軽頭になるつもりでここへきたわけではないからな",
"それは……どういういみですの?",
"おれは出世をするんだ、一方の旗頭になるんだ",
"――お兄さま!",
"こっちへ来い、さわぐといたいめにあうぞ"
],
[
"お兄さま、あなたはわたくしを!",
"なに、しばらくのしんぼうだ"
],
[
"おれが出世をすればまた自由の身になれるさ",
"――はなしてください"
],
[
"誰だ",
"菊池伝四郎でございます",
"よろしい、はいれ"
],
[
"……なにか用事でもあるか",
"大村軍の者がここへしのびこんできていました",
"なに!"
],
[
"大村城の武士の娘です、どうやら人夫共にまぎれこんできたようです",
"どうしてそれがわかったのか",
"拙者の妹です!"
],
[
"妹ではございますが、赤沢軍の百人頭である拙者にはもう他人も同じことです。お引渡し申しますからよろしくおはからいください",
"――そうか、りっぱなしかただ"
],
[
"逃がせば逃がせるものを、よくうったえて出たな。じつはいま……貴公の小屋の外で貴公たちの問答をきいていた者があるのだ。しかしこれでいままでのうたがいはすっかりとはれるだろう",
"そうなればありがたいと存じます",
"――お兄さま!"
],
[
"あなたはほんとうに裏切者だったのですか、あなたは妹まで……",
"この娘をひいてゆけ!"
],
[
"若菜どの、どこにいますか",
"――どなたです?",
"早く、早くこっちへきてください"
],
[
"――しずかに、あわててはいけません",
"はい",
"これをきて、この笠をかぶって"
],
[
"私は大村から隠密としてこの砦へはいっていた者です、――こっちへきてください、馬が用意してありますから",
"どうしてわたくしが牢屋にいたのをごぞんじですの?"
],
[
"――城ぬけだっ",
"みんな出ろ、城ぬけだ――"
],
[
"これを、本陣へ、とどけてください",
"――はい",
"この道を左へ、くだるとくらやみ谷です、あとは大村まで一本道、たのみましたぞ",
"でも、あなたは?"
],
[
"とまれ!",
"誰だ、どこへ行く!"
],
[
"なに隠密だと?",
"たいせつな手紙を持ってまいりました、いそいで御本陣へおとりつぎください"
],
[
"今宵のはたらきあっぱれであった、か弱い少女の身でよく大任をはたしてくれたな、――さすがは菊池伝四郎の妹、まんぞくに思うぞ",
"――もったいのうございます"
],
[
"兄は、兄はお味方を裏切り……",
"まてまて、そのあとは申すな"
],
[
"伝四郎は裏切者ではないぞ",
"――え⁉",
"敵陣へかけこませたのは余の申しつけだ、裏切者といううわさを立てたのも、こちらへいりこんでいる敵の隠密にうたがわれまいためだ。――玄蕃、わけを話してやれ",
"はっ、かしこまりました"
]
] | 底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「少女倶楽部」大日本雄辯會講談社
1939(昭和14)年6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "058866",
"作品名": "伝四郎兄妹",
"作品名読み": "でんしろうきょうだい",
"ソート用読み": "てんしろうきようたい",
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"初出": "「少女倶楽部」大日本雄辯會講談社、1939(昭和14)年6月号",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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[
[
"おっしゃるとおりこれは手毬唄ですよお客さん、峰の茶店のおゆきさんがいつも唄っているんで、おいらもいつか覚えてしまったんだよ",
"そうだろう、どうも馬子唄にしてはすこしへんだと思ったよ。――けれど、それにしてもこんな山奥の峠茶屋で、武家屋敷の手毬唄を聞くというのは、何かわけがありそうだな",
"そりゃあわけがあるさ"
],
[
"その茶店のおゆきさんの家は、もと新庄の在で古くからある大きな郷士だったんだ。旦那は伝堂久右衛門といって、新庄のお殿さまから槍を頂戴したくらい威勢のある人だったよ",
"ほう、それがどうしてまた峠茶屋などへ出るようになったのだね",
"久右衛門の旦那にはおゆきさんのほかに、その兄さんで甲太郎という跡取がいたんでさ、ところが今から五年まえ、その甲太郎さんが十八の年に酢川岳へ猪射に出たままゆくえ知れずになってしまったんです。谷川へ落ちて死んだともいうし、江戸へ上って浪人隊に加ったともいうし。……ほんとうのことは誰にもわからずじまいでしたが、旦那はそれからすっかり世の中がいやになったといって、屋敷や田地を手離したうえ、おゆきさんと二人でこの峰の峠茶屋をはじめたというわけですよ。――だが、おいらが思うには"
],
[
"いや、ほんとうにそうかも知れない、……なんにしてもお気の毒な話だ、私もそこで茶をよばれて行くとしようか",
"そら、もうあすこへ見えてますよ"
],
[
"今日はいいお日和でございます",
"よく晴れたね",
"御道中もこれならお楽でございましょう。ただ今お茶をいれまする、――五郎さん遠くまでお供かえ"
],
[
"ああ岩崎までお送り申すんだよ",
"おやそう、では湯沢を通ったら帰りにまた蕗餅を買って来ておくれな、父さまの好物が切れて困っていたところなの",
"いいとも、買ってきてあげるよ"
],
[
"いまのお客は上りかな",
"いえ岩崎へお下りですって、三十ぐらいのお商人ふうのかたでしたわ",
"……そうか",
"それより、ねえ、父さま"
],
[
"あの、お侍さま……",
"いや姿はかえているかも知れぬ。見馴れぬ男が通ったかどうだ",
"今しがた一人"
],
[
"おくれてはならぬ、追おう",
"心得た"
],
[
"おゆき、今のはなんだ",
"新庄のお侍さんらしいかたたちよ、襷がけで汗止をして、袴の股立を取っていました、誰かを追いかけて……"
],
[
"えいッ",
"やあーッ"
],
[
"おゆき! 入れというのがわからぬか",
"……父さま",
"しっかりせい、家へ入るのだ"
],
[
"いま谷底へ落ちた若者が、ここへ立寄って何か預けたそうだな、その品を出せ",
"なんでございますか"
],
[
"いまのお侍さまはたしかにお寄りになりましたけれど、湯沢へ行く道をおたずねなさいましたばかりで、べつになにもお預かりしたようなものは",
"ないとはいわさぬぞ"
],
[
"――でもわたくし何も",
"黙れ、今おまえは湯沢へ行く道をきかれたといったな",
"はい",
"たしかに湯沢への道をきいたか",
"……はい、たしかに"
],
[
"嘘だ、嘘の証拠を聞かせてやろうか、いまの男は新庄藩の家中でこの付近の地理はよく知っているのだ、なにを戸惑って湯沢へ行く道などをきくわけがある!",
"――――",
"何か預かったのであろう、おとなしく出せばよし、かくしだてをすると"
],
[
"貴公らは新庄の御藩士と見受けるが、年少の娘をとらえて乱暴をなさるのはもっての外であろう、今こそ茶店をいたしておるが、わしもかつてはお目見以上のお扱いを受けていた、伝堂久右衛門という名ぐらいはお聞きおよびであろう",
"伝堂……あ! 待て鹿島"
],
[
"……不忠とは、どのような不忠をいたしたのか、してまたその品とは何でござる",
"それらのことはお答えがなりかねます。もし事実お預かりになったものなら、ぜひともお差出しが願いたい",
"おゆき――"
],
[
"おまえ何か預かったのか",
"……はい!"
],
[
"たしかにお預かりいたしました",
"――――",
"父さまのお名が出ましたからは、もう嘘は申せませぬ、たしかにお預かりいたしました……けれど、あなたがたにお渡し申すことはできませぬ",
"それは、どうして――",
"お武家さまがわたくしに頼むと仰せられた品です。伝堂久右衛門の娘として、いちどお約束をした以上はどんなことがあってもそれを反古にすることはできませぬ"
],
[
"失礼だが、それでは賊臣の同類ともなることを御承知なのだな",
"お言葉が過ぎまする"
],
[
"これは新庄のお殿さまから拝領のお槍、かなわぬながらお相手を致しますゆえ、わたくしを斬伏せてから家さがしをあそばせ",
"うぬ、――無礼なことを"
],
[
"だがあの品を",
"よいから待てというに"
],
[
"いまいわれた賊臣でない証拠を見せろというお言葉、いかにも道理でござる。その証拠を見せたらお渡し願えましょうな!",
"わたくしに合点がまいりましたら、お渡し申します",
"では新庄まで立ちもどり、証拠となるべきものを持参仕る、そのあいだかの品は相違なくお預かり願いますぞ",
"わたくしは伝堂の娘でございます",
"――――"
],
[
"おゆき、おまえは何歳になる?",
"まあ――何をおっしゃいますの。十五だということは御存じのくせに",
"立派だったぞ"
],
[
"何もいわぬ、……立派だったぞ",
"父さま!"
],
[
"だがおゆき、おまえ御家中の士にあれほどさからったのは、ただ約束を守るというだけなのか、ほかに何か考えがあってしたことなのか",
"――父さま"
],
[
"わたくし、あの若いお侍さまのようすを見たときに、このかたは悪いことをなすっているのではないとすぐに思いました",
"どうしてそれがわかる?",
"自分で悪いことをするような人は、他人をも疑うのが普通でしょう? あのかたはすこしもおゆきを疑わず、命にかえても守らなければならぬというほどたいせつなお品を、見も知らぬわたくしにお預けなさいました。自分は死んでもこの品は渡せないという御立派な態度は、もし父さまがごらんになったとしても、きっとおゆきと同じようになすったと存じますわ"
],
[
"それでよく分かった。けれど……預けた本人が谷底へ落ちて死んでしまったとなると、その品をおまえはどうするつもりなのか。やがて新庄藩の者がまたとりもどしに来ると思うが",
"新庄まで行って来るには、馬で走っても明日の午まではかかりますわ。わたくしそのあいだに湯沢へ行ってまいります"
],
[
"あのお侍さまは、もし明朝までに来なかったら、湯沢の柏屋にいる沖田伊兵衛という人のところへ、とおっしゃいました。追手が来たのでそのあとはうかがいませんでしたけれど、そこへとどけてくれというおつもりに違いないと思いますの",
"もし途中でみつかったら",
"いえ、裏の断崖の水汲道をつたって、杉坂を越えれば佐竹様の御領分です。大丈夫みつからずに行って来られますわ",
"では早いほうがいいな、――いや待て!"
],
[
"……なんですの",
"見張の者がいる"
],
[
"どうだ、あやしいようすはないか",
"何もない、――娘は居間で糸車を廻しながら、例の手毬唄を唄っている",
"ではほんとうに渡部氏の来るのを待っているのかな",
"そうとすれば"
],
[
"いや、万一ということがある",
"そうだとも、渡部氏のもどって来るまでは油断してはならぬ"
],
[
"おゆきさん大へんだ、表であやしいやつが",
"静かになさい"
],
[
"へんなやつがいるもんだから馬をつないどいて先にようすを見たのさ、そうするとこの家をねらっていることがわかったから、裏道を伝って知らせに来たんだ。馬は大曲りの杉につないであるよ",
"ありがとう、よくそうしてくれたわね五郎さん、あたしあなたの馬を借りようと思って待っていたの、これで大切なお約束をはたすことができるわ",
"大切な約束ってなにさ",
"あとで父さまにきいてちょうだい、あたしはすぐに出かけるわ"
],
[
"それからお願いがあるの、あたしのかわりに糸車を廻して、あの手毬唄を唄っていてちょうだい、見張の者にあたしがいると思わせるのよ",
"いいとも。だけどおいら、とてもおゆきさんみたいな声じゃ唄えねえや",
"大丈夫よ、五郎さんの声はあたし以上だわ、頼んでよ!"
],
[
"同志の者のために思わぬ御迷惑をかけました。拙者からあつくお礼を申し上げます",
"つきましては"
],
[
"この文匣の中には何が入っているのか、お聞かせ願いたいと存じます",
"……それを聞いて、どうなさる"
],
[
"わたくしはあのかたを正しいおかただと存じました、けれど万一にもそうでないとしたら、失礼ではございますけれど、あなたにお渡し申すことはできませぬ",
"……もし話さぬとしたら?",
"このまま持って帰ります"
],
[
"……まあ",
"おわかりになりましたか"
],
[
"佐幕派の家老たちがそれと知って、八方から邪魔をしていたのですが、ようやく同志新島貞吉がこれを受取る手はずをつけたのです",
"ではあのかたが……?",
"お預けした男が新島です、これで彼の役目は立派にはたせました、何もかもあんたのお蔭です、――お礼を申します"
],
[
"お待ちなさい、――帰るのはいいが、もし新庄藩の者が受取りに来たらどうなさるか",
"さあ……それは",
"この文匣がなくてはいけないでしょう"
],
[
"せっかくのお骨折にもお礼をすることができません、しかしこの御恩は終生忘れませんよ。……それから取りまぎれてうかがわなかったが、お名前を聞かせてください",
"はい、伝堂ゆきと申します",
"――伝堂、……おゆきどの、――",
"ただ今では茶店をいたしておりますけれど、以前は郷士で父は久右衛門と申します"
],
[
"もしや、あなたに兄さんが……",
"あります、ありますわ"
],
[
"知っています、知っていますとも。伝堂甲太郎は拙者の親友です。京ではいま尊王志士のあいだになくてはならぬ人物として活躍していますよ。――故郷に久右衛門という父とおゆきという妹がいると、いつか聞いたのを覚えていました。あなただったのですね",
"まあ……兄さまが"
],
[
"そんなに、立派になっていますの?",
"倒幕の戦が始れば一方の旗頭です。あなたのことを話したらどんなによろこぶか、……じつに思いがけぬみやげができました",
"わたくしもこれで安心いたしました"
],
[
"おい、とうとう夜が明けたぞ",
"――ついに何ごともなしか"
]
] | 底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「少女倶楽部増刊号」大日本雄辯會講談社
1939(昭和14)年2月
※表題は底本では、「峠の手毬唄《てまりうた》」となっています。
※初出時の表題は「勤王手毬唄」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "とうげのてまりうた",
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"初出": "「少女倶楽部増刊号」大日本雄辯會講談社、1939(昭和14)年2月",
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} |
[
[
"どこの女なの?",
"潮来で勤めていただ"
],
[
"ひでえ女だ、まあちょっとあんなひでえ女あねえ、まったくよ",
"なんだぎ州……"
],
[
"うめえことをいうな",
"本当だ、山形屋のうどんを買うためだ、あの晩エンヂさんも喰べたべえが"
],
[
"船が高浦まで行って来るのに一時間ある、留の女ならそれだけあれば沢山だ、おらあ買物をするとまっすぐにでかけて行っただ",
"家は知っていたのけえ",
"山形屋で訊いたさ"
],
[
"相手は畳屋の職人で、まだあの女が潮来で稼いでいた頃の馴染なんだ。夫婦約束をしたのは留のほうではなくて、じつはその畳屋の職人だった。ところで年期が明けて来てみると、そいつは住込職人で女と世帯をもつことなどはできない、――第一そいつは女のことなんか屁とも思っちゃいねえんだ",
"その畳屋ってのはどこだ",
"栗橋の山形屋の向隣よ",
"へえ……"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「アサヒグラフ」
1935(昭和10)年9月4日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2021年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057666",
"作品名": "留さんとその女",
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"初出": "「アサヒグラフ」 1935(昭和10)年9月4日号",
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} |
[
[
"やい起きろ、金を出せ、起きて来い野郎",
"――――",
"金を出せってんだ、おとなしく有り金を出しあよし四の五のぬかすと唯あおかねえ、どてっ腹へこいつをおんめえ申すぞ"
],
[
"ふてえ野郎だ、狸ねえりなんぞしやあがって、それとも何か計略でも考げえてやがるのか、へっ、こっちあな、表に三十人から待ってるんだぞ、ぴいとひとつ呼笛を吹きあよ、へっ、命知らずの野郎どもがだんびら物をひからしてとびこんで来るんだ、じたばたすると命あねえぞ",
"――面白いな、ひとつそれを吹いてみろ",
"なにょう、な、なんだと野郎",
"――その呼笛を吹いてみろと云うんだ"
],
[
"ふざけるな、しゃらくせえや、なにょうぬかす。笑あせるな野郎、ちきしょうめ、――やい、なんでもいいから金を出せ",
"――気の毒だが金はない",
"てめえおれを素人だと思ってるのか、これだけの大屋敷で金がねえ、へっ、金はないってやがる、ばかにするなってんだ、やい起きろ、こっちあちゃんとめどをつけて来たんだ、四の五のぬかすと家捜しをするぞ",
"それはいい思いつきだ、遠慮はいらないからすぐやってみろ"
],
[
"捜してみてもしも有ったらおれにも少し分けて呉れ",
"ふざけたことを云いやがる、しゃらくせえや、ばかにしやあがるな、野郎、みていろ、そこを動くと命あねえぞ"
],
[
"やい、本当になんにもねえのか",
"おまえの云うとおりすっからかんだ、おれも始めにそう云ったではないか",
"笑いごっちあねえや、おお痛え"
],
[
"腹がへってるんだが、なにか食う物はねえか",
"ないようだな",
"晩飯の残りでいいんだ、なにか食わしてくれ",
"――それがないんだ"
],
[
"米櫃も空っぽみてえだが、米もねえのか",
"――おれは嘘は云わない",
"じあおめえどうしてるんだ",
"――ごらんのとおりさ",
"だって飯は食ってるんだろう",
"――今日で三日、なにも口へは入れない",
"しようがねえなあ"
],
[
"起きて顔を洗わねえか、飯ができたぜ",
"――飯、……どうしたんだ",
"どうしたっていいや、早く起きねえ"
],
[
"どうしたんだ、食わねえのか",
"――いや、食わなくは、ないが",
"じあさっさとやんねえな、ちっとも遠慮するこたあねえんだ、ひもじいときあお互いさまよ、にんげん三日も食わずにいて堪るもんか"
],
[
"おらあ身銭を出して、この米も味噌もちゃんと買って来たんだぜ、嘘だと思うならいってきいてみねえ、この下の柘榴の花の咲いている百姓家だ、石臼みてえに肥えたかみさんからちゃんと買って来たんだから",
"いや勘弁して呉れ、おれが悪かった、それでは馳走になる"
],
[
"じあこれでおらあゆくが、おめえまだずっと此処にいるのか",
"――まあ、そうだ",
"それでその、飯なんぞどうするんだ、なにか当はあるのか",
"――なんにも、ない",
"ないったって、そんなおめえ、それじあかつえて死んじまうぜ",
"――まあそうだろう"
],
[
"まさかおめえが飢死にをするってえのに、おれがみすててゆかれるもんじあねえ、とんだところへへえっちまった、こんなべらぼうなはなしがあるもんか、――だが、まあしようがねえ、なんとかするから、これでも食べて待っていねえ",
"――おまえそれで、どうするんだ",
"どうするったってどうしようもねえじゃねえか、なんとかするよりしようがねえ、まあいいから此処に待っていねえ"
],
[
"――はあ、そういうものか",
"独り身ならそれあ、まあ泥棒でも食っていけるかもしれねえ、けれどもおめえという者を抱えてみりあ、まじめに稼がなくっちゃあ追っつきあしねえや",
"――はあ、それは気の毒だな",
"いやな挨拶をするなよ、気の毒だったってべつに、おれだってそんなに泥棒なんぞしたかあねえや、まあ食おう、――飯が少しかてえかもしれねえ"
],
[
"ところで名めえが知れねえで不便なんだが、おらあ伝九郎てえんだ、伝九ってえばいいんだが、おめえの名はなんていうんだ",
"――おれか、おれの名は……信だ",
"ただ信だけかい、お侍らしくないじゃねえか、なんのなに信てえわけじゃねえのか",
"――いやそれでいい、信でいいんだ",
"ただの信、さとうただのぶか"
],
[
"――これまではそうではなかったのか",
"そうでねえからこそ、泥棒にでもなっちめえてえ量見にもなったのよ、思いだしてもはらわたの煮えるような、ひでえめにばかりあって来たからな"
],
[
"おう信さん、おめえどじょう汁を食うか",
"――よく知らないが食うだろう",
"食うだろうってどじょう汁も知らねえのか、へえ、おめえ知らねえものばかりじゃねえか",
"――うん、まあそんなところだ",
"よっぽど家が貧乏か、それともお大名の若さまみてえだぜ"
],
[
"世のなかは広大だ、おれがどじだと思ったら、おれに輪をかけた野郎がいやあがる",
"――それはいることは、いるだろう",
"いるったって、それがおめえ、泥棒だぜ",
"――ばかなことを、まさか……",
"それがそうらしいんだ、百姓みてえな恰好なんだが、表の塀のまわりや、裏庭の奥のほうをときどきうろついている、おらあ気がつかねえふうで見ているが、さっき飯を炊いてるときもちらっとしやがった、――厩のぶっ壊れたのがある、あのかげのところだ"
],
[
"――なんだ、おれになにか用か",
"急ぎますので、要点だけ申しあげます、大殿には御他界にございます、御承知でいらっしゃいますか",
"――知らない、初めて聞いた"
],
[
"悪くはねえな、おめえさえいて呉れりあ、おらあどこでどんな苦労でもするぜ",
"――なに、おれだって、なにか、するさ",
"それあさきゆきあそうさ、にんげん遊んで食ってちあ天道さまに申しわけがねえ、けれどもせくこたあねえぜ、おめえの躯が丈夫になり、そういう気持が出てからのはなしさ",
"――おれは、躯は丈夫だよ",
"自分じあそのつもりだろうがそうじあねえ、おめえの躯は病んでる、病気てえものじあねえかもしれねえが"
],
[
"そうよ、躯か心んなかかわからねえが、とにかくどこか相当いたんでる、おらあこれでそういう勘はわりかた慥かなんだ",
"――ほう、そんなふうにみえるかな",
"心配するこたあねえんだぜ、信さん、おれがついてるからな、大船……ってえわけにあいかねえが、おれにできるだけのこたあするつもりだ、まあいいから、当分おめえは暢気にしていねえ"
],
[
"――城へはゆかぬ、いやだ",
"わたくしは五日まえに江戸からこちらへ到着いたしました、当地におきましてのおいたわしい御日常は、江戸でもあらまし承知しておりましたが、こちらへまいり、三年以来の詳しいことを聞きまして、おそれながら五体も砕けまじい、心魂の消えるおもいにございました",
"――おれが飢えていたことも聞いたか"
],
[
"――おれが泥棒に食わせて貰っていることも聞いたか",
"おそれながらすべて承知いたしております、その者とのお暮しぶりも、そのお暮しぶりが御意にめしたというごようすも、また、御身分をすてて世に隠れるおぼしめしのことも、すべて承知いたしております"
],
[
"――伝九郎の足をとめたのはそのほうどもか",
"当地の者どもが計らいました、知れざるように手をまわして、賃銀も多く遣わし、役もつけ、今後もながく当地にいて、身の立つようにとも計らってございます",
"――それでおれが城へ帰ると思うのだな"
],
[
"――おれはいやだ、もうおれに構うな、おまえたちの傀儡になるのはもうごめんだ、おれは人間らしく生きることを知った、おれは人間らしく生きる",
"その仰せは覚悟のうえでまいりました"
],
[
"――伝九郎はおれにとっては、恩人ともいうべき者だ、ゆくすえをくれぐれも頼む",
"必らず御意どおりにつかまつります",
"――おれは明日ひとりで帰る、彼とひと夜なごりをおしみたい、今日はこれでひきとるように"
],
[
"なにをこんな、おめえがなにもこんなことをするこたあねえじゃねえか、冗談じゃねえ、お天気が変らあ",
"――今日はおれがするよ、わけがあるんだ",
"わけがあったっておめえに出来るこっちあねえ、おれが代るから向うへいって",
"――いや、もう済んだんだ"
],
[
"――飯も炊けたし、魚も焼いてある",
"こいつあびっくり仰天だ、冗談じあねえ、せっかく続いていた日和が、これできっとおじゃんになるぜ",
"――まあ足を洗え、そして飯にしよう"
],
[
"おめえこれあ、これあどうして、ちゃんとしたもんじあねえか",
"――ちゃんとしたもの、とは、なにがだ",
"飯も上出来だし魚の焼きかたもいいし、おまけに芹のしたしたあ驚いた、こいつあたいした驚きだ、兜をぬいだぜ"
],
[
"お侍は恐えてえことを云うがまったくだな、すまして肩肱を張ってるが、いざとなれあこんなこともできるんだ、やっぱり修業てえものが違うんだな",
"――そう褒めるな、まぐれ当りだ",
"御謙遜にあ及ばねえ、と、思いだしたんだが、おめえさっきこれにあわけがあるとか云ったようだが、あれあなんだ",
"――うん、しかしそれは、喰べてからに、しよう",
"気をもたせねえで呉れ、心配になるぜ"
],
[
"どうしたんだ、わけてえのはなんだ",
"――なに、たいしたことでは、ないさ",
"たいしたことでねえにしても、話しを聞かなくちあおちつかねえ、云って呉んねえな"
],
[
"冗談じあねえ本当かいそれあ、本当になんにもわけあねえのかい",
"――いちどぐらいは、おれが煮炊きをして、伝九に喰べて貰いたかった、おまえにはずいぶんながいあいだ、世話になったから",
"やめたやめた、そんな水臭えこたあ聞きたくあねえ、おらあ横にならして貰うぜ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
1949(昭和24)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057689",
"作品名": "泥棒と若殿",
"作品名読み": "どろぼうとわかとの",
"ソート用読み": "とろほうとわかとの",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社、1949(昭和24)年12月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-04-24T00:00:00",
"最終更新日": "2020-03-28T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57689.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年4月25日",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年4月25日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57689_ruby_70714.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2020-03-28T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57689_70766.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-03-28T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"これあごくないだがな、おらあこんどのお裁きは眉睡だと睨んでるんだ、あれにあおめえ裏の裏があるぜ",
"裏の裏たあなんの裏だ",
"大きな声じゃあ云えねえが、おう、ちょいと耳を貸しねえ、よしか、これはごくないだがな、あれあおめえ本物だあ",
"へええ――そうか、やっぱり本物かえ",
"そうだってことよ、あれあ慥かに将軍様の御落胤よ、ひとに饒舌っちゃあいけねえぜ、ごくないの話だからな、よしか、こんなことがわかったらおめえ文句なしに、これだあ"
],
[
"実はさる信用のおける筋から聞いたのですがな、他言されては困るんですが、これこれしかじか、……どうです、私もうすうすは推察していたんだが、実はこれこれがしかじかと聞いては驚きました、……どうです",
"いやその話なんですがね、私もね、ほら御存知のあの方面ね、あれからちょいと耳にしたことはしたんですがね、だがまさかと思いましてね、だって貴方まさかねえ",
"いいえ、私のはごく信用のできる筋の話なんで、なにしろ将軍家におかれてはですな、そのときはらはらと御落涙、さすが親子の情であると、閣老一統も暗涙に咽ばれたというのですからな、いいえもう、これは間違いのない筋からの話なんでしてな"
],
[
"やって来たもんだ、なにしろ、おれたちは夜中に帰って、それから夜食を喰べて、……寝るから、……そのときやって来たもんだった、……五人ともだった、そして五人とも泣いたもんだった、いつもかつえてやがる、二番めの倉造ってえ婿なんぞは、毎晩おめえ丼で五杯も喰べやがった、ぽろぽろ涙をこぼしながらよ、なあ金太",
"うん、……ぽろぽろとよ、涙をこぼし、また飯もこぼしたもんだ、……飯をこぼすと拾って喰べ、……それくらいかつえていたもんだ",
"なにしろおめえ、昼間は禿とごうつくが掛ってて働かせるだろう、なにしろ千住の先から西は品川目黒のはてまで車を曳いて駆けまわらなけりゃあならねえ、それで餌はおめえ子供の弁当くれえしきゃ食わせねえ、三度が三度おかずは梅干か味噌か古たくわんの尻尾で、魚なんぞは月に一遍、それも目刺し一尾だってんだから、そしておめえ夜は夜であの臼だ、なあ金太",
"うん、……あれは聞いていて、誰もがよもやと思う、本当の事とは誰もが考えられないもんだ、おれはまさかと思った",
"三番めの幾次てえ婿だっけか、なにしろおめえ一と晩も欠かさず五度ずつ神輿のお渡りだてんだ、まるで搾木に掛けて種油をしぼるみてえに、うむを云わさねえてんだから、そしてちっとでも厭なそぶりをすると、厭なら出ていきな、役にも立たねえ者にむだ飯を食わしとくわけにゃあいかないんだから、こうぬかすんだからおどろきだ、なあ金太",
"うん、おどろきだ、まったく、……うん、そしてその婿の持って来た物はみんな取上げて、夫婦の小遣いは……、幾らだったか忘れたが、……それもあの臼が取上げちまって、湯銭も呉れねえということだったもんだ",
"それで毎晩神輿だけはちゃんと渡るんだ、五番目の次郎助なんぞはおめえ、なにしろ毎晩おめえ六度か七度だってんだから、あいつは額までくぼませてやがった、なあ金太",
"うん、……あの次郎助はそんなふうだった、逃げるときはまた泣いた、……無事に逃げられればいいけれども、下手をして、もし捉まったときは、これこれのわけだからと、親許へ知らせて呉れと云って、うん、……ぽろぽろ泣いたもんだった"
],
[
"おいよ、店賃は貰ったよ、貰ったからにゃあただ帰っちゃ済むめえ、朝まであ時刻もたっぷりあるから、ひとつゆっくりと",
"いや、そ、そいつあ待って、そいつだけは",
"遠慮はいらねえということよ、大家と店子は他人じゃあねえんだ、おら水臭えこたあ嫌えだから、ひとつざっくばらんに",
"まあ待って、ちょ、ちょいと待って呉んねえ、大家と店子は他人じゃねえかもしれねえが、世間じゃあ大家は親、店子は子と云うくれえで、親子の仲でそんな事をすりゃあ畜生だと云われるし、ま、とにかくそれに、今夜はおらあ草臥れて、このままぶっ倒れて眠りてえんだから、まあ今夜のところは、このとおり"
],
[
"儂もこうして相当以上の家柄だことをうちあけたからしては、まあ、しぜん言葉なども改めるという理屈だが、それに就いてはおまえさんの家柄というものを聞きたい",
"へえ、それはどうも、なんですが、どうもわっちらときては、それはもうその、なんです",
"いや隠すことはないて、儂もこうして系図を見せたわけで、それというのが大家と店子は親と子といったような理屈で、だからしてはおまえさんもうちあけて貰いたい",
"へえ、それゃあもうよくわかるんですが、なにしろわっちは家柄だの芋殻なんてええごいものはでえ嫌えなんで",
"家柄がえごいわけはない、家柄というものは、……それでは聞くのだけれども、おまえさんの祖先はどういうことになっているか",
"さあてね、祖先となると、こいつは大家さんの前ですが、実はここんところばかに仕事に追われてるんで、暫くつきあいが絶えているようなぐあいですから",
"それはいけない、いくら仕事が忙しいからといって、祖先とつきあわないなどということでは、人間の義理が欠ける理屈だ、……では聞くのだけれども、系図のほうはどうなってるんだ",
"冗談いっちゃいけねえ、いくら大家さんだってふざけちゃいけねえ、わっちはこれでも左官としちゃあ腕っこきと云われてるんだ、酒のために貧乏こそしちゃあいるが、そんないかがわしいうしろ暗えまねは、これっぽっちもした覚えはねえんだ、あんまりばかにしたことを云わねえでお呉んなさい",
"なにをそんなに怒るんだ、儂はただ系図のことを聞いたばかりじゃないか",
"まだ云ってやがる、いってえおれがいつけえず買いをしたってんだ、もういっぺんぬかしてみろ、大家だろうが紺屋だろうが向う脛をかっ払って……"
],
[
"自分の家柄血統がわからないという筈はない、刀剣書画などでさえそれぞれ身分証明の由緒書がある、それが人間たるものがわからないという道理はない、え、そういう理屈だろう",
"まことにどうも面目しだいもございませんので、どうぞ私のところはひとつお目こぼしを",
"お目こぼしといってなにも儂は博奕やかっぱらいの詮議をしているわけじゃあない、儂がこれだけの家柄であってみれば、店子のおまえさん方の中にもそれ相当の人格がいるかもしれぬ、こないだの天一坊様の例もあることだ、もしそれ相当の御落胤とか、よもやというような家柄血統の御仁がいたら",
"いえもうそのへんのところは、決して御心配はいりませんので、決してもう家柄血統などというだいそれたものは",
"べつにだいそれるとか、それないとか、これはそんなわざとらしい話ではない、おまえさんの先祖はどういう身分の人か、公卿とか武家とか大名とか、それがおちぶれてどうしたとか、二代目はこれこれ三代目はしかじか、なに兵衛の子がかに衛門を生んで、それ吉がかれ蔵の子だという、つまりおまえさんまでの代々の、つまり系図、と云ってわからなければ番付、とはちょっと違うて、が、しかし、……え、そんな物はない、なんにも、まるっきりか",
"ええそのへんはもうきれいさっぱりなんで、どうかひとつお目こぼしのほどを、店賃のほうはすぐお払い申しますんで、どうかここはひとつ"
],
[
"ええありません、そんな奇天烈なまやかしものは、あっしゃあでえ嫌えでね、憚りながらこれでも辻駕を担いでまっとうに食ってるんだから、そんなももんがあみてえな物にゃあ用はありやせんッさ",
"そんな愚かな、その、これはももんがあとかまやかしものとか、そんなその、……では聞くのだが、おまえの親父はなに者だ",
"親父ってちゃんのことかい、ああ、ちゃんは銀造ってってね、この金太のちゃんは金兵衛というんで、どっちもいい人間だったよ、金太のちゃんはでこ金、おれのちゃんはやぶ銀ッて云われてたっけ、それッてえのがおれのちゃんは斜視だったし金兵衛さんは、なあ金太",
"うん、……おいらのちゃんは、かなりおでこだった、うん、かなりなもんだった",
"いや、儂は親父の人相を聞いているのではないて、親父があるとすれば、親父の親父があるわけだろう、つまりおまえたちにとっては祖父という理屈のものだ",
"ああそんな化物もいたようだ",
"化物というやつがあるか、仮にも血を分けた祖父と孫、祖父は大親というくらいで、いかに無学文盲とは云いながら、……では聞くのだけれども、その祖父は名をなんといって、生れはどこだ",
"おらあ手品使いじゃあねえから、じじいの人別までは知らねえ",
"なにが手品だ、どういう理屈で手品を使うんだ、ばかばかしい、云うことが一々……では聞くのだけれども、おまえたちの家は元来からの町人か、それともずっと先は武家とか公卿とか、或いはこの諸大名とかいう……",
"うるせえなこの禿は、おらそんないかがわしいけだものたあ、ひっかかりはねえ、つまらねえいんねんをつけると承知しねえぞ"
],
[
"恥を話さなければ理がとおらない、だから云いますけれどもね、店賃は溜めています、けれどもそれだからといって、書画にも劣るの、人間ではないとまで云われては、……皆さんの前ですが、私は、こんな、く……",
"それは尤も、源兵衛さんの泣く気持は尤も、わしもそれを云われた、わしは佃煮行商、けれども人でなしと佃煮とは無関係"
],
[
"ええっ、天一坊ですかい",
"かの仁が家柄血統を調べるときの言動、仔細に考うるに天一坊じゃ、天は上にあり地は下にある、人間はその中間にあって、火風水木金土がこれを、……あれじゃ、そのなにしておる、じゃによって天一坊とてその自然の律動循環の理は動かせぬ、じゃが、あれは実は将軍家正統の御落胤であったという流説で",
"そんな子曰わくを云ったってわからねえ、もっとわかるように絵解きをしてやって呉んねえ",
"さればさ、そこで家主吾助としてはじゃ、仮にもこの長屋にじゃな、天一坊めいた人間がいるかどうか、いるとすれば天地人、これはもうなんじゃ、吾助として繩屋どころの騒動ではない、かの山内伊賀之亮、赤川大膳、常楽院……などはいけない、かれらは獄門になった、じゃが獄門にならぬほうの山内や大膳になれるか知れぬ、そこじゃて、……常楽院でもいい、家主吾助としては莫大な出世であるし、かのごうつく並びに臼においても"
],
[
"青瓢箪みてえなあの若造か",
"うん、あいつだ、……あいつでやれねえかと、いま考げえたんだったんだが",
"だっておめえ、あのうす馬鹿をどうするんだ",
"うん、それなんだが、あれをだな、なんとかくふうして、天一坊みてえに仕立ててだ、そうして大家に押っ付けたらどうか",
"あのうす馬鹿の乞食をか"
],
[
"大家さんは来ねえで下さい、これはあっしと金太で片づけますから、なんか知らねえ身分のある人らしいし、妙な書付だの短刀なんか持ってるんで、おまけに大名の若殿みてえに馬鹿なんで、とにかく大家さんに迷惑が掛るといけねえから",
"いやそんなことはない、店子のことで迷惑が掛るのは家主の義理だて、なにか、その、書付とか短刀など持っているって、それは本当のことか",
"すばらしく大事な物らしいんで、けどこいつはあっしと金太の責任だから"
],
[
"その、なんだ、その書付と短刀というのをひとつ、まず儂が鑑定しようじゃないか",
"あっしは構わねえけれども、なんしろえてえの知れねえ一件だからな、なあ金太",
"うん、……あとで文句をくうと"
],
[
"じゃあ、……見せるか、金太",
"うん、まあ、しょうがねえだろうが"
],
[
"橋のまん中、……両国橋の",
"側に橋番の爺がいましたよ、聞いてみると橋銭が無いのに、平気でずんずん、悠々と渡ってゆくってんで",
"悠々と、へええ、生れが違うんだな",
"もう平気の平左でね、まるっきり大名の若殿みてえなんだそうでね、あっしと金太も見るとこの通りの御人品、こいつあお気の毒だ、なにか深いわけのあるお方だろうと思ったもんだから、ともかくもてんで橋銭を立替えましてね、聞くてえとまるっきり世間知らず、てんで下情てえものに通じていらっしゃらねえんで、……なんだ金太、おめえ笑ってるばあいじゃあねえだろう",
"む、むせ、咽せちゃったんだよ、うん、咽せてね、なにしろ、お気の毒なもんだから",
"そういうわけでまあ金太とも相談したところ、よしんばどんな深いわけがあるにしろ、こんな御身分の高いらしい方を、……おめえまた咽せるのか金太、……でまあ御身分の高い方をうろうろおさせ申しとくのは恐れ多い、なにはともあれ家へお供をしてということでね、それで実はお伴れ申したというわけなんですが"
],
[
"ああそうだろう、一文呉れるか",
"ちょちょ、えへん"
],
[
"どうもね大家さん、このお方はときどき妙な冗談を仰しゃるんで",
"いやおまえは黙っていなさい、総じて高貴のお生れの方は、お言葉が雅びているからして、おまえたちにはその意がげせぬものだ、黙っていなさい、……ええ恐れながら私めは、唯今こそ零落して繩屋渡世などいたしておりまするが、祖先はかの佐野の庄の住人、源左衛門常世にございましてな",
"ああそうだろう、源左は馬鹿で間が抜けてるからな、いつも芥溜ばかり引掻き廻して、痛ッ",
"これはどうも、仰せのほどまことに、へっへ……、で、なんでござりますかな、その御出生の地などはいずれの方面でござりまするかな",
"ああそうだろう、よき、よきよき、よきに取り扱え",
"へへっ恐れ入り奉りまする、次に御生母様はいまだ御在世なりや、これまでいずれに御在住ありしや、そのへんのところお漏らし下さりょうなれば",
"漏らさなくちゃいけないのかい",
"ぜひひとつお漏らしのほどを、へい",
"あたいはね、漏らしたくないけどね"
],
[
"そいつはいけねえ、それゃあ困るよ",
"なぜいけない、なにが不服だ",
"だってこんな素性も知れねえ者を、いいえそれゃあ御人品もこの通りだし、いやいや、いやしやかやいや、ええ畜生、そのい、や、し、からねえお生れのようにゃあ見えるが、もしまやかし者だとすれば、大家さんに迷惑が掛るし",
"いいえさ、店子の迷惑は、大家の心配するのが当然だよ、そこが大家と店子の"
],
[
"ひーひーひー、助けて呉れ",
"う、それもそうだが"
],
[
"大丈夫かな、あのうす馬鹿、いずれはぼろを出すだろうが、すぐ泥を吐くようなことはあるめえか",
"そこだけは大丈夫で、心配はねえ"
],
[
"おれがよくよくあいつに云い聞かした、どこかの凄いような家の御落胤だと思い込ましといたからな、そういうところは馬鹿の人徳てえもんで、一度こうと思ったら待ったなしよ、世間でも馬鹿の一つ覚えというくれえだ、大丈夫だよ",
"うん、それはまあ、そうだ",
"それより大家の禿め、おっ、みろみろ、豆板が三枚、三分あるぜ、これゃあ驚きだ",
"うんなにしろ本筋の本格だからな",
"悠々たるお漏らしか、ひーひーひー、ああまただ、ひーひーひー、助けて呉れ、ひーひー、ものう云わねえで呉れ、ひーひー"
],
[
"御信仰だかなんだか知らないが、どうせ拾って来るなら繩の切っ端でも拾って来るがいい、繩はおまんまを食わないからね、ふん、家へ置くなら食い扶持は、おまえさんの煙草銭から差引だよ",
"でもこの人の鼻、立派だわねえ"
],
[
"この人のことで阿母さんに迷惑は掛けなくってよ、……ねえおまえさん、さあ、あたしと一緒にいらっしゃいな、あたしのお部屋へいきましょう、ねえ、一緒にあっちへいきましょうよ",
"うへっ、鼻がでかいからどこかもって、いい気なものさ、そんなになにがなんなら天狗様でも婿に取ればいい"
],
[
"だってあいつはうす馬鹿で、柳原堤の乞食なんだから、現に乞食をしていたやつをおれたちが引張って来たんだから、なあ金太",
"うん、……慥かに、柳原堤じゃあ、乞食の、うす馬鹿だったものだ",
"それが十二万四千石松平伊賀様の御落胤だって、そんな箆棒なすっ頓狂な、ううう、そのへちゃむくれた話があるもんか、ぺてんにひっ掛ったにちげえねえ、それだけは憚りながらこの銀太が証人だ、いまにざまあ見やがれだ、なあ金太",
"うん、……いまにきっと、そんなこったろう、そうでねえにしたって、まあ、そんなこったろう"
],
[
"うん、……その心配はある、それは気をつけなくちゃいけねえ、かもしれねえ",
"こいつあとんだ事になった、おらあ寝そびれて風邪をひっこみそうだ"
],
[
"これはしたり若殿様、そのようにおうろたえ遊ばすと、姫ごぜのあられもないと世上の物やらいになりやすぞえこれまあちょっと、お静かに、あれ、え、この脳天気め、じたばたするとうぬ、こうするぞ、抜け作野郎",
"ごめんだよ、ごめんだよう、きゅッ"
],
[
"もういけねえ、俺あ引越しの支度にかかるよ、此処も長え馴染だったがなあ",
"お互えになあ"
],
[
"そこはもう決して間違いはござりません",
"左様なれば申し聞けるが、先頃より其の方、伊賀守様上屋敷にまかり出で、御落胤云々の虚構を申し立てたる許りか、大枚なる金子を騙取せりというが確と相違ないか",
"これは異なることを仰せられまする、御落胤様の儀は御邸お役人も既にお認めに相成り、金子なるものは、これはお世話を申すためのお手当てと致しまして前後三回にわたり七十両、あなた様より御下賜に相成ったものにござります",
"黙れ黙れ、御落胤などといううろんな者がある道理はないぞ"
],
[
"――へ、へ、へ……",
"若殿様には早う、早う御上意遊ばされましょうぞえなあ"
],
[
"あ、あた、あたい、ごやくいん……",
"はっきりと申せ、なに者で名はなんというか、紛らわしきことを申すと、おのれ、容赦はせぬぞ"
],
[
"口も満足にきけぬのか、この馬鹿者",
"そだそだ、そ、みんなねエ、そう云うんだよ、馬鹿め、うす馬鹿めってよ、ほんとだよ、柳原じゃみんな、知ってゆよ、あたいお貰いをしてたかやね、嘘つかないよ"
],
[
"乞食じゃないよ、おも、おも、お貰いだよ",
"その辺まことに御艱難、まことにお痛わしき",
"黙れ吾助、控えおらぬか、これ馬鹿者、それでは其の方、柳原に於て乞食をしておった、しかと左様であるか"
],
[
"帰やして呉んないの、この人が、あたい柳原のほうがいいんだけど、土堤はねあたいを押っぺさないし、土堤は舐めたり擽ったりもしないし、そえかや、いろんな事もしないでしかや、ほんとでしよ、だかや、あたあた、あたい柳原へ帰りたいの",
"今すぐ帰りたいか"
],
[
"よし帰れ、許すからすぐに帰ってゆけ",
"えっ、かか、えっ、……ほんと帰っていいの、ほんと帰って、嘘つかない",
"ちょちょちょっとお待ちを願います",
"吾助には構わぬ、早く帰れ"
],
[
"はあ、……そ、……はあ……",
"自分が見るところ、其の方にも悪意はないようじゃ、欲に眼の昏んだ愚か者の所為とみて遣わす、本来ならば奉行所へ達し、屹度申し付く可きところなれど、此の度は穏便にして取らせるから有難く心得ろ",
"はあ……、はあ……",
"但し金子七十両は十日を限り、其の方自身にて御邸へ持参するよう、十日期限七十両、万一にも相違あるときは、始終の事ただちに奉行所へ達するであろう、申し付けたぞ"
],
[
"――どうするとは、なんの事だ",
"あたしは唯のからだじゃありません、貴方だから云いますんだけど、あたしのお腹にはもう御落胤様の御落胤が入ってるんです、この片をつけずにいっちまうなんて、それじゃお侍様の責任は持てないじゃありませんか、帰るならあたしのこのお腹のきまりをつけていってお呉れなさいませ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1950(昭和25)年5月
※初出時の署名は「酒井松花亭」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2019年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"合う、この二つの指紋はぴったり合う、同一の指紋だ",
"それは間違だ‼ 誤解だ‼"
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"僕はなにも知らぬ、僕はそんなことはしやしない、間違だ、失敬な‼",
"指紋がなによりの証拠ですよ"
],
[
"しかし、説明を承りましょう秋山さん。さっき小間使がおそわれた時、この室の外に立っていたのは貴方だ。その時貴方はここでなにをしていたのですか⁉",
"僕は、僕は頭が痛むので、それで、庭へ出ようとしていたのだ。それで出口がわからないで困っていると、突然女の悲鳴が聞えたので駈けつけてきたんだ、そこへ貴方が……"
],
[
"解決しとるよ。女中が何者かに襲われた、そばに女中を殴った棍棒が落ちていた、そして部屋の外に紳士が立っていた、棍棒には指紋があった、その指紋が紳士の指紋であった、女中は自分を殴ったのは夜会服をきた紳士だといった。でその紳士は夜会服を着ている……こんな簡単明白な事件は子供にだって片がつくさ!",
"そうですか"
],
[
"ふん、君はなかなか立派な意見を持っている、では君には事件はもう分っているのかね",
"ええ、そうですよ樫田さん!"
],
[
"どうするんだね、君",
"私、打たれた傷が痛みますから、お水で冷やさせて頂こうと存じまして"
],
[
"そうです、家を出まして銀座で二軒用事をたしました、一軒は日本屋という洋服屋で、春服の仕立を頼んだのです。それから泰昌軒という支那人の陶器店へよって、七宝焼の壺を買いました、それだけです",
"有難う存じました"
],
[
"やれ‼ 壮太君、今夜は僕は邪魔をしないよ、思う存分暴れろ‼",
"有難えぞ、メトラス博士の時にゃ、坊ちゃんにお株をとられたから、今夜こん畜生め、壮太さまがどれくらい強いか見せてやるんだ。さあ豚共、かかってこいっ‼"
],
[
"いえ、私、もうよろしゅうございますの。もう痛みはいたしませんから",
"では、僕が手を洗わしていただこうかな"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1931(昭和6)年1月
初出:「少年少女譚海」
1931(昭和6)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "059104",
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[
[
"声をたてるな、じたばたすると斬ってしまうぞ",
"しょ、しょ、しょ",
"金を出すんだ、有るったけ、静かにしろ、早く、ものを云うな"
],
[
"その仏壇の蔭にあるのを出せ、この際ごまかそうなどとはふといやつだ、斬るぞ",
"で、でも、こ、こ"
],
[
"こむらがえりが起るって、その、そんなに気分でも悪いのか",
"まあ大きな声で、気障ざますよう"
],
[
"さあ、なんといったか、その、か、……かせん……かせんとかいう",
"うちにはそんなおいらんはいませんよ、お部屋はどの辺だったんです",
"この辺だと思うんだが、廊下をこう来て、たぶんその",
"へんな客があったもんだ"
],
[
"冗談じゃない、いくら見ず知らずの人間だからって、あんまり人を馬鹿にしては困る",
"おや妙なことを仰しゃいますね、このお勘定になにかうろんでもあるっていうんですか"
],
[
"うろんがあるかないか知らない、だが、侍のなかには一年に三両扶持で暮す者もずいぶんいる、一年に三両とちょっと、それで侍として家族を養なっているんだ、私は、それは遊んだには相違ない、かなり派手にやったとも思うけれども、いかにどうしたからといって一夜に百何両などとは",
"それみねえお倉さん"
],
[
"おらあゆうべっからどうも臭えと睨んでたんだ。いまどきまともな人間で、あんな金の遣い方ができるわけあねえんだから",
"なにを云うか、聞きずてならんぞ"
],
[
"けちけちすんなてばせえ",
"さっさとしろってばな、いけ好かねえひょうたくれだよ",
"そんなとけえのたばるでねえッつ"
],
[
"それはつきだしです",
"私は註文しないと云ってるんだ",
"でもつきだしですから"
],
[
"いいんですよお侍さん、そいつは店のおあいそでね、酒に付いてるんで、代は取らねえもんなんですから",
"代を取らない、では只というのか",
"もう一本召上るともう一と皿付きますが、ほかの店と違って此処は酒も吟味するし、喰べ物も安いんで繁昌するわけです"
],
[
"いや有難いが、それは、なにしろ下までだから",
"そんならなおさらでさあ、向うにゃあ火が幾らでも有るからすぐ乾きますよ"
],
[
"おれはもうがまんがならないぞ、刀を返せ、こいつを斬ってしまう",
"笑あせるな、出ろったら出ろ"
],
[
"ふざけた野郎だ、外へ放り出せ",
"待って、その人思い違いよ",
"吉公、くせになるぞ、のしちまえ",
"待って頂戴、乱暴しないで"
],
[
"悪いなんて、そんな、……有難いよ",
"お父っつぁんとても心配してるんです。貴方の話を伺って"
],
[
"たとえ話し半分としても、とてもそんなお屋敷へはお気の毒で帰せないって、……佐兵衛さんや徳さんもそう云ってましたわ",
"――私にはまだ信じられない、どうしてみんなこんなに親切にして呉れるのか"
],
[
"――そしてもしもお気に召すなら、いつまでもさめずにいられるわ",
"そんなことが、まさかそこまで迷惑をかけるなんて"
],
[
"なんというだらしのない、……私は、いったいどんなことを話したんだろう",
"お屋敷のこと、お兄さまたちのこと、二十六年のお暮しぶりや、お金のことや、それからほうぼう遊びまわって、ひどいめにおあいになったこと、……でも、そんなこまかい話しより、喧嘩のとき貴方が仰しゃった一と言、あの一と言でみんなあっと思ったんです"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
1951(昭和26)年5月
※「些か」と「些さか」の混在は底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057691",
"作品名": "七日七夜",
"作品名読み": "なのかななよ",
"ソート用読み": "なのかななよ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社、1951(昭和26)年5月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-10-13T00:00:00",
"最終更新日": "2020-09-28T00:00:00",
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"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年11月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年11月25日",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年11月25日",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
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} |
[
[
"あの唄さ、たいそうな声じゃないか",
"ほんとうに佳いお声でございますわ、脇田さまでございますか",
"そうだろう"
],
[
"小さいじぶんから、なにをやっても人の上に出る男だったが、あんな俗曲にもそれが出るんだな、さすがの蜂谷が音をひそめているじゃないか",
"お顔が見えるようでございますね"
],
[
"……それにしても今夜は皆さまずいぶん温和しくていらっしゃいますのね、蜂谷さまだけでなく村野さまも石岡さまもまるでしんとしていらっしゃるではございませんか",
"脇田の帰国を祝う催しだから遠慮しているのだろう"
],
[
"……なんの花だろう",
"梅でございましょう"
],
[
"……二十日のお祝いにはまたお座敷へおよばれにあがります、昨日わざわざ奥さまからお招きを頂きました",
"二十日になにかあるのか",
"まあ、お忘れでございますか"
],
[
"……美しいな",
"中座をして済まなかった"
],
[
"……なんとも堪らなかったものだから",
"そんなことは構わないが、もういいのか"
],
[
"久方ぶりで一揉みやろう",
"どうするのだ",
"相撲だよ"
],
[
"酒では勝ったが力ではまだ負けるかも知れない、あの頃はどうしても勝てなかったからな、さあ来い",
"酔っていてはけがをする、それはこんどに預かろうじゃないか",
"おれは裸になっているんだ、恥をかかせるのか"
],
[
"わざと負けたな、本気ではあるまい",
"ばかなことを云うな",
"いや不審だ、いまの足は軽すぎた、きさまおれを盲目にする気か",
"よせ脇田、人が見ているぞ",
"云え、本気か嘘か"
],
[
"……刀にかけて返答しろ",
"まいった、おれの負だよ"
],
[
"……明日から御政治向きの記録類を調べたい、御納戸、金穀、作事、港、各奉行所の記録方へ資料を揃えるよう、五老職の名で通達して貰いたいんだ",
"それは御墨付が無くてはできないだろう",
"そんなことはない、五年寄役には随時に記簿検察の職権がある筈だ",
"だがそれは事のあった場合に限る",
"事はあるよ"
],
[
"……国家老交替という大きな事が迫っている、理由はそれで充分だ、たのむ",
"謀るだけは謀ってみよう",
"いやいけない、是非とも必要なんだ、それも明日からということを断わっておく"
],
[
"そんなこともないが",
"だって家族の部屋で、二人差向いになっているくらいじゃないか",
"あの家へは小さい時からよく父に伴れられて食事をしにいった、それで普通よりは気安くしているというのだろうかな",
"あの女を嫁に欲しいんだ"
],
[
"しかしそれは、両方の身分がゆるさないだろう",
"なにそういう点は自分で処理する、其許はただ相手へおれの意志を伝えて呉れればいいんだ",
"信じ兼ねるなあ"
],
[
"……なにしろこっちは国家老になる体だし、向うは料亭のむすめだからな、少し違いすぎるよ",
"ばかを云え、江戸では芸者を妻にする者だって珍しくはないんだ、もし本人に来る気持があれば正式に人を立てるから、頼むぞ"
],
[
"……話ならここでなさいな",
"いや少しこみいった事ですから"
],
[
"どうあそばしましたの、そんなにしげしげとごらんなすって",
"毎もとは人違いがしているようだから",
"珍らしいことを仰しゃいますこと"
],
[
"……そう申せば貴方さまも常とはごようすが違うようにみえますわ",
"そうかも知れない、おれにはその理由があるんだから、そしてぶっつけに云ってしまうが、さえを嫁に欲しいという者があって、おれからさえに意向を訊いて呉れと頼まれたんだ",
"まあ、大変でございますこと",
"笑いごとではない、本当の話なんだ",
"ですけれどそんな"
],
[
"……そんなことがございますかしら、他処のむすめを欲しいからといって、親をも通さず直に気持を訊くなどということが",
"習慣というものはその人間の考え方と事情に依ってずいぶん変り兼ねないものだ、うちあけて云えば相手は脇田宗之助だよ",
"脇田さま、江戸からお帰りになったあの",
"去年あたりからだ"
],
[
"……脇田は才能もぬきんでているし、風格もあのとおりだし、身分も家柄も申分のない男だ、難を云えばあまり条件がさえと違いすぎる点だが、これも脇田が自分で手順をつけるという、彼のことだからこれはもちろん信じてもよいだろう、……おれから云えることはこれだけだが、さえはどう思うかね",
"まるでご自分のことのように熱心に仰しゃいますのね"
],
[
"……いかに世が泰平であり、五万石に足らぬ小藩とはいえ、この政治の無能無策はなんとしたことだ、大げさに云えばこの十年間まるで眠っていたようなものだぞ、いったい年寄役としての其許からしてなにを視ていたのかね",
"政治のどこが眠っていたか、その言葉だけでは返辞のしようもないが、領内が平穏に治まって四民に不平がなければ",
"違う違う、そんなことじゃない"
],
[
"どうするんだ",
"お丈が拝見したいんですの、裄は大丈夫だと思うのですけれど、なんですかお丈がちょっと……",
"なんだ母はまたそんなものを頼んだのか",
"わたくしからお願い申したのですわ"
],
[
"先日の話は考えてみたか",
"…………"
],
[
"……はい",
"それで返辞は、どうなんだ",
"わたくしの一存では、本当にどう申上げようもございませんわ、だって本当にわからないのですもの",
"それでは返辞になっていないよ",
"もし頼さまが"
],
[
"……もしも頼さまが嫁げと仰しゃるんでしたら、……",
"おれの気持はこのあいだ話した筈だ",
"あのときは勧めて下さいましたわ",
"しかしおれの気持はさえの気持じゃない、脇田の知りたいのもさえ自身の気持だろう、問題はおまえの一生なんだ、他人の意見に縋るような弱いことでどうするか",
"ではお返辞を致しますわ"
],
[
"年貢も運上も一律に半減だそうな",
"半作しか穫れない郷村は年貢御免になるそうな"
],
[
"……年貢、運上半減、家中の扶持表高どおり復帰という、あの評判の出どころがわかったのです。ことに、豊作まちがいなしと定っている年貢が、やはり今年度から半減という噂は、噂だけでなくその実証があり、しかもそこに国老交替と微妙な関係があるという事実がわかったのです",
"はっきり云ってしまえば"
],
[
"脇田殿の真意はわからないが、かような実行不能なことを申し触らすことは、御政治向きの上に面白くない影響を及ぼすのは必至で、今のうちなんとか方法を講じなければと思い、御相談にまいったのですが",
"すぐには信じ兼ねる話だが"
],
[
"……もし風評が脇田から出たとすると、彼にどんな思案があるにしても捨てては置けないでしょうな",
"そこで御相談なのですが、表向きにすると事が大きくなりますから、樫村殿から話をして頂いて、できる限り早く風評の根を絶つよう手配をしたいと思うのです",
"ひき受けましょう"
],
[
"なんだか貴方に話があるのですと、こちらへよこしますか",
"そうですね"
],
[
"……御病気というお噂も聞かず、おいでもございませんので、何か御機嫌を損じたのではないかと母が心配しておりました、それでぶしつけですけれど、ちょっと御容子を伺いにあがりましたの",
"なにも理由はないさ、つい足が遠くなったというだけだよ",
"どうぞいらっしって下さいまし、母も家の者たちもお待ち申しておりますから",
"話というのはそのことか",
"はあ、……いいえ"
],
[
"半年まえ、貴方様はわたくしに、脇田さまへ嫁く気があるかとお訊ねなさいました、あれは、おたわむれだったのでございますか",
"たわむれ……"
],
[
"どうしてそんなことを云うんだ、脇田との間になにかあったのか",
"わたくし、お受け申しますとお返辞を致しました",
"おれはその通り脇田へ伝えた",
"脇田さまはなんと仰せでしたの",
"すぐ正式に人を立てて縁組をすると云っていた",
"なんのお話もございませんわ、それらしいお人もみえず、そういうおとずれもございませんでした"
],
[
"それは本当だな",
"それでわたくし、お伺い申しました",
"家へ帰っておいで"
],
[
"……あとでゆく",
"脇田さまへおいでになりますのね",
"他にも用があるんだ",
"こんどは"
],
[
"……こんどは、お断わり申しても宜しゅうございますわね",
"いやそれは待って呉れ、おれが会って",
"いいえ"
],
[
"かけ違って暫らく会わなかった、なにか急な用でもあるのか",
"口を飾らずに云うから、其許も言葉の綾なしに答えて貰いたい"
],
[
"……先頃から世間に妙な評判が立っている、年貢、運上、一律半減、家臣一統の扶持を表高に復帰するという、あの風評が其許の手から出ているというのは事実か",
"ほう、来たな"
],
[
"……それは樫村伊兵衛の質問か、それとも筆頭年寄としての問か、どっちだ",
"今のところは古い友人として訊くことにしよう",
"ではその積りで答えるが、ああいう評判を撒いたのはいかにもおれだ、それについてなにか意見があるのかね",
"おれの意見はあとだ、風評が其許から出たとすると、それにはそれだけの根拠があるのだな"
],
[
"……おれが国老の座に坐ればあのとおり実行する",
"それで藩の財政が成り立つと思うか",
"そうとう窮屈なことはたしかだな",
"しかもなお実行する必要があるのか",
"そのこと自体は必要じゃない、むしろ一つの手段だといっていいだろう",
"脇田政治の前ぶるまいか",
"痛いところだ"
],
[
"……たしかにそれもある、活きた政治を行うためにはまず家中領民の人望と信頼を掴まなければならない、家中の士にとっては扶持、領民にとっては租税、この二つは直接生活に及ぶもので、政治に対する信不信も多くここに懸っている、おれはこの二つでおれの政治に対する信頼を獲得するんだ",
"わかった、それではおれの意見を云おう"
],
[
"……その得た人望に依ってどんな政治を行うか知らない、しかしまず人気を取るというやり方には嘘がある、其許の政治が正しいものならあえて事前に人気を取る必要はない筈だ、おれは筆頭年寄として絶対に反対する",
"どこまで反対し切れるか見たいな"
],
[
"……脇田政治のうしろには家中一統と領民が付いているぞ",
"それがどれだけのちからかおれも見せて貰おう、次ぎにもう一つ話がある"
],
[
"……其許は半年まえに、桃園のむすめを嫁に欲しいと云った、おれは頼まれてその仲次ぎをした、女は承知すると答えたので、おれは其許にその返辞をもっていった筈だ、覚えているか",
"ああそんなこともあったな"
],
[
"……そうだ、たしかにそんなことがあったっけ",
"そのとき其許は、すぐ正式に人を立てて申込をすると約束した、ところが人も立てず、むすめのほうへおとずれもしないという、……脇田、これをどう解釈したらいいんだ",
"実は嫁は定ったんだ"
],
[
"……たしか知らせた筈だがな、相手は安藤対馬守家の江戸屋敷で",
"おれの問に答えてくれ、桃園のむすめはどうする積りなんだ",
"どうするって、妻を二人持つわけにはいかないよ",
"それが返辞か"
],
[
"まあどうなさいました",
"いやなんでもない濡れただけだ"
],
[
"……なにか着替えを貸して貰おう",
"はい、でもそのままではお気持が悪うございましょう、お召物をお出し申しますから、ちょっと風呂へおはいりあそばせ",
"そうしようかな"
],
[
"脇田のほうは切をつけて来た、改めておれから訊くが、さえ……樫村へ嫁に来ないか",
"はい"
],
[
"……わたくし、よい妻になりたいと存じます",
"半年のあいだにいろいろ考えたと云った、おれもそうだった、正直に云おう、さえが脇田の申出を受けると答えてから、おれは初めてさえというものをみつけたのだ、それまでは夢にもそんなことは思わなかったが、他人の妻になるときまってから、どうにもならぬほど大切なものに思われだしたのだ、おれはずいぶん苦しい思いをしたよ",
"わたくしが、同じように苦しんだと申上げましたら、ぶしつけ過ぎるでございましょうか"
],
[
"……それ以上は云わないほうがいい、脇田が現われたお蔭で、おれがさえをみつけたとすれば",
"いいえ、さえはもっと以前から……"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1946(昭和21)年2月号
※表題は底本では「彩虹《にじ》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057694",
"作品名": "彩虹",
"作品名読み": "にじ",
"ソート用読み": "にし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談雑誌」博文館 、1946(昭和21)年2月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-05-12T00:00:00",
"最終更新日": "2022-04-27T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年8月25日",
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[
[
"その、まことになんですが、その",
"まだなにか用ですか"
],
[
"しまった、なんというばかなことを",
"わかったんですか"
],
[
"もっとも悪いのは、かれらがその声を無視することです、家中にだって批判の声が起こっている、若い人間のなかにはしんけんに思い詰めている者も少なくないんだ、しかしかれらはそういう声をまったく無視して、私利私欲のために平然と政治を紊っている",
"それでもなお陸田さんは、城代家老としてなにもなさろうとしないんですね"
],
[
"するとどうしろというんですか",
"私が云わなければならないでしょうか"
],
[
"城代家老その人をですか",
"いまこの屋敷はかれらの手で押えられ、伯母と千鳥も一室に監禁されて、一味の者に見張られているというのです"
],
[
"腕が立つといえば、まず斬込隊の三指揮者ですね、寺田、保川、河原、それから関口兵次郎と寺田文治の弟の乙三郎でしょうか",
"その人たちが貴方と共に、事を計った盟友だということは、かれらに知られていると思いますか",
"そんなことは絶対にないでしょう、計画を勘づいたのは伯父だけですから"
],
[
"こんな時刻になにをしているのだ",
"はい、そ、それが、いま馬草を"
],
[
"ありましたよ、しかしそっちの首尾は",
"みんな来ました"
],
[
"みんな押えるつもりですか",
"それが第一着手です、しかしそちらの方がたに紹介して頂きましょうか"
],
[
"なぜ不必要かというとですね、かれらはすでに自分の首に縄を巻きつけている。私どもはただその縄の端を捉まえればいいんです",
"もっと具体的にいって下さい"
],
[
"逃げだしてどうするつもりだった",
"こいそと二人であなたのあとを追うつもりでした"
],
[
"聞きましたよ",
"それからじゅろうさまたちは、お父さまも助け出して下さるのですって"
],
[
"まああきれた、あなたそうして起こされるまでおよってらしたんでしょ",
"いいえお母さま、まさかいくら千鳥だって"
],
[
"私の申上げた姓名にお心当りがありますか",
"ある、全部ではないが、三、四心当りがある"
],
[
"かれらは日時を申していたか",
"昨夜半の話で明後日と云っていましたが、今日の夜にはさらに人数を集めるように聞きました"
],
[
"なるほど、それは仰しゃるとおりかもしれませんな",
"戻ってくれますか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「サンデー毎日臨時増刊涼風特別号」
1954(昭和29)年7月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057728",
"作品名": "日日平安",
"作品名読み": "にちにちへいあん",
"ソート用読み": "にちにちへいあん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「サンデー毎日臨時増刊涼風特別号」1954(昭和29)年7月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-06-22T00:00:00",
"最終更新日": "2022-08-26T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57728.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年1月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年1月25日",
"校正に使用した版1": "1985(昭和60)年1月30日2刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57728_ruby_75635.zip",
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} |
[
[
"あの店で容れ物を求めますからいっしょに来てお呉れな",
"近くならお宅まで持ってゆきますよ"
],
[
"ごらん下さいまし、まだこんなに生きております",
"ほうこれは珍らしいみごとなものだな、もうこんなに鰍の肥る季節になったのだな"
],
[
"ずいぶん数があるではないか、まだ高価であろうに",
"いいえそれほどでもございませんでした、今晩のお酒に甘露煮と魚田をお作り申しまして、余ったぶんは焼干しにしてもよいと思いましたから",
"こんな心配ばかりさせて、どうも……"
],
[
"お寒くはございませんですか",
"まだ酒がきいているとみえてほかほかといい心もちだ、力をいれなくともよい、そうやって撫でていて呉れればよいから",
"はい、このくらいでございますね"
],
[
"松本ではお梶どのがご病気だそうで、おまえにひとめ会いたいから四五日のつもりで来て呉れるようにと、お使いの者が来られたのだ",
"父上さま"
],
[
"寝つかれたのでございましょう、少しやすみすごしましたから",
"それならいいけれど……"
],
[
"ここから一里あまり山のほうへいったところで、湯もきれいだし美しい眺めもあり、疲れたときなどにはよい保養になります",
"有難うございますけれど"
],
[
"わたくし、今日はできますことなら御菩提寺へまいりたいと存じますが",
"ああそれなら山辺へゆく途中ですよ、少しまわりみちをするだけですから参詣してまいりましょう",
"いいえ"
],
[
"でも依田どのとはもうはなしがついているのです、どちらのためにもこれがいちばんよいと依田どのも云っておいでなのですよ",
"それをご本心だとおぼしめしますか"
],
[
"依田の家は貧しゅうございます、わたくしが糸繰りをしてかつかつの暮しをたてているのもほんとうです、けれどもそれはあなたがお考えなさるほどの苦労ではございません、こう申上げては言葉がすぎるかもしれませんけれど、こんどのことさえなければ、わたくし仕合せ者だとさえ思っておりました、依田の父はもったいないくらいよい父でございます、弟もしん身によくなついていて母のようにたよっていて呉れます、わたくしにはあの家を忘れることはできません、いまになって父や弟と別れることはわたくしにはできません",
"それだけの深いおもいやりを、わたしたちにはしてお呉れでないの"
],
[
"持たせてやった手紙は読まなかったのか",
"拝見いたしました",
"それなら事情はわかっているはずだ、おれも安穏な余生がおくれるし、おまえの一生も仕合せになる、そう考えてしたことなのに、眼さきの情に溺れてなにもかもうち毀してしまうつもりか",
"おゆるし下さいまし、父上さま"
],
[
"わたくしもっと働きます、お薬にもご不自由はかけません、お好きなものはどんなにしても調えます、もっとお身まわりもきれいにして、お住みごこちのよいように致します、ですからどうぞお高をこの家に置いて下さいまし",
"おまえにはおれの気持がわからないのか、おれがそんなことを不足に思っているようにみえるか、おれがおまえを西村へかえす決心をしたのは",
"わかっております、わたくしにはわかっておりますの、父上さま"
],
[
"わかっておりますけれど、お高はいちどよそへ遣られた子でございます、乳ばなれをしたばかりで、母のふところからよそへ遣られたお高を、父上さまは可哀そうだと思っては下さいませんか、もし可哀そうだとお思い下さいましたら、ここでまたよそへ遣るようなことはなさらないで下さいまし",
"だが西村はおまえにとって実の親だ、西村へもどればおまえは仕合せになれるのだ",
"いいえ仕合せとは親と子がそろって、たとえ貧しくて一椀の粥を啜りあっても、親と子がそろって暮してゆく、それがなによりの仕合せだと思います、お高にはあなたが真実のたったひとりの父上です、亡くなった母上がお高にとってほんとうの母上です、この家のほかにわたくしには家はございません、どうぞお高をおそばに置いて下さいまし、よそへはお遣りにならないで下さいまし、父上さま、このとおりおねがい申します",
"父上"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1944(昭和19)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057820",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "糸車",
"副題読み": "いとぐるま",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1944(昭和19)年2月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-03-12T00:00:00",
"最終更新日": "2019-02-22T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57820.html",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日2刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年9月10日印刷",
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} |
[
[
"お眼ざわりになって申しわけがございません、昨夜とうとう夜を明かしてしまったものでございますから",
"どうして、なにかあったのか",
"……はあ"
],
[
"そうか、歌か",
"はい、寒夜の梅という題をいただいているのですけれど、どう詠みましても古歌に似てしまいますので",
"一首もなしか",
"明けがたになりましてようやく",
"それはみたいな"
],
[
"一昨日であったが、横山が妻女のはなしだといって、お前にはもう間もなく允可がさがるだろうと申していたが、そのようなはなしがあるのか",
"はい、ついせんじつそういうご内談はございました、ですけれどまだわたくしは未熟者でございますから"
],
[
"母上ただいま登城をつかまつります",
"ご苦労でございます"
],
[
"それで歌はおできになりましたの",
"……はい"
],
[
"しばらくあなたのお歌を拝見しませんからご近作といっしょに、持って来て拝見させて下さらないか",
"御覧いただくようなものはございませんけれど"
],
[
"……はい",
"みごとにお詠みなすったこと、本当に美しくみごとなお歌ですね",
"お恥ずかしゅうございます",
"僅かなあいだにたいそうなご上達です、これだけお詠めになればもうおんなのたしなみには過ぎたくらいでしょう"
],
[
"お言葉をかえすようではございますけれど、もうすこしお稽古を続けさせて頂けませんでしょうか、まだ道のはしも覗いたようには思えませぬし、ようやく字数を揃えることができるようになったばかりでございますから",
"それでも噂に聞くと、あなたにはもうすぐ允可がさがるそうではありませんか、それだけ上達すれば充分です。あなたはからだがあまりお丈夫ではないのだから、こんどはすこし薙刀でもおはじめなさるがよいでしょう",
"……はい"
],
[
"母上が仰しゃったのか",
"……はい",
"云ってごらん、なんと仰しゃったのだ"
],
[
"加代はふつつか者でございますから、母上さまのお気に召すようには甲斐性もございませぬ、けれども自分ではできるかぎりをおつとめ申しているつもりでございます、……からだが弱いためお子をもうけることもできませぬし、いろいろ考えますとわたくし",
"もうおやめ、それ以上はわかっている"
],
[
"ほかの事とはちがって、おまえの和歌の才だけはかくべつだ、わたしからそれとなく母上におはなし申してみよう",
"でもそれでは、わたくしがお訴え申したようで、悪うございますから",
"それほど物のわからぬ母ではない、残った草稿は捨てずに置くがよいぞ"
],
[
"あの寝部屋は冷えますからね、それにあのひとはあまりお丈夫ではないから、……これを肩に当てて寝るといいとおもって",
"それはさぞ珍重に存じましょう"
],
[
"しかしなんだか話が逆でございますね",
"どうしてです",
"それは加代から母上にさしあげる品のように思われますよ",
"でもあたしは丈夫ですから"
],
[
"年寄の愚痴ばなしです、これまで誰ひとりうちあけたことのない、恥ずかしいはなしなのです、聞いて呉れましょうか",
"はい、うかがわせて戴きます",
"かた苦しく考えないで、膝をらくにして聴いて下さいよ"
],
[
"自分の口からこう云っては、さぞさかしらに聞えることでしょうけれど、わたくしは茶の湯の稽古でたいそう才を認められました、傍輩の噂にもなりお師匠さまからも折紙をつけられるというところまでいったのです。そのとき、わたくしは茶の湯をやめました",
"…………"
],
[
"武家のあるじは御しゅくんのために身命のご奉公をするのが本分です、そのご奉公に瑾のないようにするためには、些かでも家政に緩みがあってはなりません、あるじのご奉公が身命を賭しているように、家をあずかる妻のつとめも身命をうちこんだものでなければなりません。……家政のきりもりに怠りがなく、良人に仕えて貞節なれば、それで婦のつとめは果されたと思うかも知れませんが、それはかたちの上のことにすぎません、本当に大切なものはもっとほかのところにあります。人の眼にも見えず、誰にも気づかれぬところに、……それは心です、良人に仕え家をまもることのほかには、塵もとどめぬ妻の心です",
"…………",
"学問諸芸にはそれぞれ徳があり、ならい覚えて心の糧とすれば人を高めます、けれどもその道の奥をきわめようとするようになると『妻の心』に隙ができます、いかに猟の名人でも一時に二兎を追うことはできません。妻が身命をうちこむのは、家をまもり良人に仕えることだけです、そこから少しでも心をそらすことは、眼に見えずとも不貞をいだくことです",
"母上さま"
],
[
"わたくし、あやまっておりました",
"……加代さん"
],
[
"やすみますときに、枕と肩との間に当てるものでございますの、老人の使うものでしょうけれど、わたくしのからだを案じて、はは上さまがご自分で作って下すったのです",
"それがそんなに嬉しいのか",
"旦那さまにはおわかりあそばしませんでしょうけれど"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1942(昭和17)年10月
※初出時の表題は「梅咲きぬ―加賀藩の女性」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057812",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "梅咲きぬ",
"副題読み": "うめさきぬ",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1942(昭和17)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-04-21T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
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"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
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} |
[
[
"とにかく鮒なら貰います、よかったらいつもほど置いていらっしゃい",
"さようでございますか、あてにして来たんですがな、少しでも買って頂きたいんですが、値段だってこちらさまで高いと仰しゃるほどじゃあございませんでしょう"
],
[
"それは久しぶりだな、どのくらいある",
"ほんの四五十もございますかね"
],
[
"約束したら持って来なければだめではないか、もう手にはいるあてはないのか",
"あての無いこともございませんが、なにしろもう数が少のうございますでね",
"四五日うちに客があるからなんとか心配して呉れ、骨折り賃はだすから、いいか"
],
[
"はい、……",
"金を持たせてやったのだな"
],
[
"広岡晣は泊った、それで……",
"わたくしおそばでご接待を致しましたが、お話が禁中御式微のことに触れました"
],
[
"しかし明日の朝では間にあうまい",
"もう夕刻に持ってまいりました"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1944(昭和19)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057808",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "尾花川",
"副題読み": "おばながわ",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1944(昭和19)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-05-21T00:00:00",
"最終更新日": "2019-04-26T00:00:00",
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"名ローマ字": "Shugoro",
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"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
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"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
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[
[
"でもそれでは軽い者の子のようにみられるでしょう",
"なぜです、みられてもいいでしょう、身分の高さ低さで人間のねうちがきまりはしません、そんなことを云うのは思いあがりというものですよ"
],
[
"ここですか、それともこのへんですか",
"もう少し上です",
"ここですか"
],
[
"わたくしにはこれ以上のおせわはできません、そしてこのようなお子にしてしまったのはわたくしも悪いのですから、亡くなった方へのお詫びに此処であなたを刺して自害します、弁之助さん、お母さまのお墓へご挨拶をなさい、お手を合せて……",
"堪忍して下さい、おゆるし下さい叔母さま"
],
[
"弁之助が悪うございました、これからは気をつけます、喰べ嫌いも致しません、塾へもちゃんとかよいます。臆病も直します、決して爪も噛みません、叔母さま、おゆるし下さい、こんどだけおゆるし下さい、叔母さま",
"あなたはそんなに死ぬのがこわいのですか",
"いいえ"
],
[
"怨んでいるほどでなくとも嫌っていることはたしかであろう、そうではないか",
"それは、どういうわけでしょうか"
],
[
"ながいことずいぶん私がご苦労をおかけしましたから、ほんとうに有難うございました",
"まだそれを仰しゃるのは早うございましょう"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1944(昭和19)年8月
※初出時の表題は「母の顔」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057819",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "おもかげ",
"副題読み": "おもかげ",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1944(昭和19)年8月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-06-22T00:00:00",
"最終更新日": "2019-05-28T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57819.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日2刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年9月10日印刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "酒井和郎",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57819_ruby_68223.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2019-05-28T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57819_68268.html",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"この事を誰が知っていますか",
"まだわたくしだけでござります",
"使の者はどうしました",
"わたくしの住居にとめ置いてござります"
],
[
"ではこなたはさがって、その使者を誰にも会わせぬようにはからって下さい、そして子の刻(午後十二時)までにとしより旗頭、それからものがしら全部を巽矢倉へ集めてもらいます",
"すればやはり館林へ御合体でござりますか、それとも……",
"あとで、それはあとで云います"
],
[
"忍城はまもりもてうすく、兵も武器もとるにたらぬ数ではあり、とうてい大軍をひきうけて戦うことはできません、それにひきかえ館林の城は防備も堅く、上野八ヶ城の人数が合体しておりますから、これと力をあわせれば存分に合戦ができると存じます",
"わかりました"
],
[
"軍議ゆえぶしつけにおうかがい申します、城のふせぎは備わらず、武器は足らず、しかも僅かに三百の兵をもって、おかた様には、まことに三万の軍勢とおたたかいあそばすお覚悟でござりますか",
"そうです",
"それにはなにかおぼしめす軍略でもござりますか、城の内外にある老幼婦女をどうあそばしまするか",
"常陸介はわらわをなんとみるぞ",
"…………",
"わらわを女とはみぬか、ここにいる姫を少女とはみぬか"
],
[
"そのもとたちの持場だ、笄が落ちているのにふしぎはあるまい",
"なみなみの品なればふしんはござりませぬが、これはわたくしどもの用うるものではござりませぬ"
],
[
"わたくしそのお笄には見おぼえがござります、わたくしは数年まえまで奥へあがっておりました、そのおりたしかに見おぼえております、それはおかた様が日常お用いなされる品でございました",
"これが、この笄が、おかた様の……"
],
[
"かれらのなかに、かつておそば近く仕えた者がおり、おかたさま御用の品と申しております、その者のおぼえ違いでござりましょうや、それともおかたさま御用のお品にござりましょうや",
"…………",
"もし御用の品なれば、家臣どもと苦労をおわかちあそばすおぼしめしでござりましょうが、それはいささかお考え違いと申さねばなりませぬ、おかた様は忍城のおんあるじ、さようなかるがるしいおふるまいは"
],
[
"少年どもに鉦鼓をうたせ、旗さしものをうちふらせて軍勢ありとみせ、すわ敵の寄せたりといえば、即座に三百の兵をその口へ向け、いずこを攻めてもゆるがぬ采配、あれには敵もあきれたでござりましょう",
"城がせまいおかげでした"
],
[
"そして少い兵たちの足なみがそろっていたからです。足なみがそろったといえば、……領民たちはよくはたらいてくれました、わらわはこのうえもない教訓をうけました、農夫もあきゅうども、女も子供も、いざと心をきめればこれだけのはたらきができる。たたかいは城の備えでもなく武器でもなく、精鋭の兵だけではない、領内のすべての者がひとつになってたちあがる心にあるのだと",
"そしてその心をひとつにまとめたものは"
],
[
"この一本の笄でござりました",
"…………",
"家臣の女どものなかに身をしのばせて、その労苦をともにあそばしたおかた様の、ひとすじのお心がもとでござりました",
"それはもう云わぬ筈ではないか",
"申しませぬ、わたくしの口からは申しませぬ、けれど……あれ以来たれ云うとなく、あのときの壕を笄堀とよんでおるのを御存じでござりますか",
"こうがいぼり、それは"
],
[
"おかた様、領民たちがいま退城するところでござります、さいごにおかた様のお姿を拝みたいようすで、あのように櫓前へ集って騒いでおります、おばしままで出ておやりあそばせ",
"そのような晴れがましいことはいやだけれど……"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1943(昭和18)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「笄堀《こうがいぼり》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057815",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "笄堀",
"副題読み": "こうがいぼり",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1943(昭和18)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-07-21T00:00:00",
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"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
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} |
[
[
"なにか今日は、式日だったのか",
"いいえ、お式日ではございません"
],
[
"その指はどうかしたのか",
"どれでございますか",
"その右手の小指さ"
],
[
"あなた見ておいでなのでしょう",
"ええ、お母さんという人をよく拝見して来ました",
"御当人はどうなすったんですか",
"もちろんいました、しかしこれはよく見ませんでしたよ",
"どうして御覧なさらなかったの、だってその娘さんを見にいらしったのでしょう"
],
[
"それではあなたは来て頂いてもよいとお考えなのですね",
"いいと思います"
],
[
"わたしが、どうか致しましたのでしょうか",
"この平三郎の妻さ",
"…………",
"他から貰うことはなかった、平三郎の妻には八重がいちばんふさわしい、どうしてそれがわからなかったかふしぎだ、これも『袴』のうちだろうか"
],
[
"間違いはないと信じますが",
"八重のほうはどうなのだ",
"それはわたくしから訊きましょう"
],
[
"それは、いつ頃からの約束なんだ",
"こちらへ御奉公に上るとき、親たちの間で定ったのでございます"
],
[
"国のほうに約束した者があるそうです",
"わたくしからもういちど訊いてみましょう、もしかして独り思案の口実かも知れませんから、あの子にはそういうところがあるのです"
],
[
"なんといっても、召使を妻に入れては世間が済みませんからね、不幸が幸いになったようなものですよ",
"それなら、八重は褒めてやるがいい",
"それとこれとは、別でございますわ",
"おまえのいうことは、矛盾しているよ"
],
[
"私が御案内を致しましょう",
"いいえ独りでいきましょう、どこですか",
"その横を右へおいでになると、すぐこの西側でございますが"
],
[
"では、おまえも平三郎は嫌いではなかったのね、少しは好いておいでだったのね",
"……奥さま"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「講談雑誌」博文館
1946(昭和21)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057814",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "小指",
"副題読み": "こゆび",
"原題": "",
"初出": "「講談雑誌」博文館、1946(昭和21)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-08-25T00:00:00",
"最終更新日": "2019-07-30T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57814.html",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日2刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年9月10日印刷",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "酒井和郎",
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} |
[
[
"どうしました、お眼がさめましたの",
"いまおじいさまが来たでしょう"
],
[
"おじいさまとは、どのおじいさまです",
"おじいさまですよ、お髪の白い、お背の小さいおじいさまですよ、仙千代を抱きに来たと仰しゃったのに、おたあさまは……"
],
[
"安房守さまおたち寄りとの前触れにござります",
"安房さまが……"
],
[
"たしかに相違ございません、左衛門佐(幸村)さま御同伴にて昨夜は渋川にお泊りなされ、今朝こちらへ御発向との口上にございました",
"使者の者はいかがしました",
"口上を申しのべますとすぐ引返して去りましたが……"
],
[
"いえ伊豆守さまには江戸へおくだりにございました",
"では沼田へおたちよりなさるのは安房さま左衛門佐さまおふた方ですか",
"さようにございます"
],
[
"それでは安房さまへはかようにお答え申すほかはありません、沼田へのおたちよりは御無用にねがいます、城への御接待はあいなりませんと",
"おそれながらそれは、いかなる思召にござりますか",
"仔細は申すに及ばぬことです、すぐたち戻って安房さまへさようお伝え申すよう"
],
[
"おそれながら安房さまお使者への御挨拶、また城兵に戦備をお申付けあそばす思召のほど、いかなる御思案にござりましょうや、お申聞けねがいとう存じます",
"こうするのが留守をあずかる者のやくめです、わたくしの申付けるとおりにして貰います"
],
[
"おたあさま、上田のおじいさまがおいでなさるのですか",
"しずかになさい"
],
[
"此所はあなた達のおいでになるところではありません、乳母はどうしました",
"乳母はおんなだから御殿へは来られないんです、ねえおたあさま、本当に上田のおじいさまはおいでなさるのですか",
"どうしてそんなことを仰しゃるんです、誰かそのようなことを申しましたか",
"誰も……誰も云いはしませんけれど"
],
[
"仙千代、あなたはゆうべなにか夢をごらんになりましたか",
"夢ですか、……夢"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1943(昭和18)年2月
※表題は底本では、「忍緒《しのびのお》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057806",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "忍緒",
"副題読み": "しのびのお",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1943(昭和18)年2月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-09-25T00:00:00",
"最終更新日": "2019-08-30T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57806.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日2刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年9月10日印刷",
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"校正者": "酒井和郎",
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"テキストファイル最終更新日": "2019-08-30T00:00:00",
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} |
[
[
"……お祝いなんてまるで違います、沢倉さまはいま三河のお軍にいらしっているのですもの、縁談がきまったにしても、めでたく御凱陣なさるかどうかわかりませんし、わたくし喜こんで頂くような気持ではございませんわ",
"そんなこと仰しゃって、ではもし討死でもなすったら、縁談はおやめになさるおつもりですの"
],
[
"ええ大丈夫ですよ、決してひとには申しませんわ、ですから聞かせて下さいまし、それはどなたですの",
"……吉村、吉村大三郎さまですの"
],
[
"……あなたに少しお話がありましてね、家まで来て頂きたいのだけれど、いまお使いのお帰りですか",
"はい、これから帰りませんければ",
"ではこう致しましょう、お帰りになったらお家へはよいように仰しゃって、ちょっとの間でよろしいから家まで来て下さい、内ないでお話し申したいことがありますから"
],
[
"まことに申しわけもございません、なんとお詫び申上げてよいやら、わたくし、こうしておりますのもお恥ずかしゅうございます",
"ああそんなに仰しゃるな"
],
[
"……もうようございます、それでわかりました、あなたのそのごようすでよくわかります、こんなことが年頃のあなたにお答えできるものではない、それでたくさんですよあきつさん",
"でもわたくしお話し申さなくてはならないと存じます、そして赦すと仰しゃって頂かなくては……"
],
[
"畑へ少しものを作ってみたいのですけれどいけませんでしょうか",
"あれは自分の畑をひとに触られるのが嫌いで、わたしにも手をつけさせないのですよ、こんど出陣するときにも、植えてあった菜や人参を、みんな抜いてご近所へ配ってゆきました、帰るまで誰も手をつけないように、諄いほどそう申しましてね",
"でもそれではお畑が荒れてしまいましょう",
"どんなに荒れても、自分が帰って手をつければすぐ元どおりになる、あれはそのように申しますの、土というものは耕やす者の心をうつす、自分はものを作るというより、その土に映る自分の心をみるのが目的だ、……よくそんなことを申しますよ"
],
[
"どうしてです、あの子の畑を作るのですもの、あの子の笠を冠ってもよいでしょう",
"でもそれだけは、いいえお笠はおつむりへのるものですから、お許しもなしに戴くわけにはまいりません、それにわたくし、日に当ることは慣れておりますもの、お笠は却って邪魔でございますわ"
],
[
"まあ……あきつさん",
"これから畑へまいるときはわたくしこれを冠らせて頂きます、そうしたらいつもお側にいるようでございましょうから……"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社
1945(昭和20)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「萱笠《すげがさ》」となっています。
※初出時の表題は「良人の笠」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057805",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "萱笠",
"副題読み": "すげがさ",
"原題": "",
"初出": "「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-10-23T00:00:00",
"最終更新日": "2019-09-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57805.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日2刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年9月10日印刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "酒井和郎",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57805_ruby_69294.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2019-09-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57805_69346.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-09-27T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"お石は持っていないのか",
"いいえ持っておりますけれど……"
],
[
"色が黒いからそう付けたのですと、男のようでおかしいと云ったのだけれど、お師匠さまもおもしろいと仰しゃったそうで、それにきめたのだそうです",
"…………"
],
[
"音楽をまなんで音を聞きわけることはやさしいが、音の前、音の後にあるものをつかむことはなかなかむつかしいのです、お石どのはすらすらとそれをつかみなさる、お石どのの弾く一音一音の前と後につながる韻の味はかくべつなもので、よほど恵まれた素質と申上げてよろしいでしょう",
"ではその道で身を立てることもできましょうか"
],
[
"実はうえもんのすけさまの事に就いて直諌したのだそうだ、あのころはまだ造酒之助さま御在世ちゅうだった、小十郎は御家の血統のために右衛門佐さまを廃し、造酒之助さまを世子にお直しあるよう、繰返しお諫め申したという、殿には『あらぬことを申す』とひじょうなお忿りで、とうとうあのような重科を仰せだされたのだそうだ",
"もうよさないか……"
],
[
"殿があらぬことを申すと仰せられたのならそれが正しいに違いない、そういう噂は聞いた者が聞き止めにしないと、尾鰭がついて思わぬ禍を遺すものだ、ほかの話をしよう",
"そう云おうとしていたところだよ"
],
[
"きょうはお石どのの琴を聴くつもりであんなにしたくをしたのだが、自分もいっぱし聴いて貰うつもりだろう、ことによると弾き負かす気でいるかも知れない",
"おれはまるで耳なしだからわからないが、そでどのの琴は抜群のようじゃないか、お石などは問題ではないだろう",
"いやそれが違うんだ"
],
[
"それほどのたしなみがない、あんまり恥ずかしくて、ただそう云うばかりだ、ほんとうかね",
"そうだろうな"
],
[
"検校の評がたしかならこんな席で弾く筈はない、そでは余りたやすく考えすぎたんだ",
"そんなこともないだろう"
],
[
"たしなみがないと云うのも自分としては偽りのない気持だろうし、ふだんこういうつきあいが無いから恥ずかしくもあるのだろう、なにしろ墨丸だからな",
"ああ墨丸か"
],
[
"あれなら鈴木の嫁として恥ずかしくないと思いますが、どうでしょうか",
"そうですね……"
],
[
"それは検校となにかお約束でもあってのことですか",
"はい、ここをお立ちなさるおり、わたくしから達ておたのみ申したのでございます",
"検校は来いと仰しゃったのですね",
"はい……"
],
[
"きょうまでせわをしたことは云いません、初めからそんな積りはなかったのですからね、でも人情があればあんな断わりようはない筈です、そればかりならよいけれど、わたしたちには内密で検校とそんな約束をしていたなどとはあんまりではないか",
"そうお怒りになってもしようがありません、まあ少し待ってようすをみることにしましょう"
],
[
"あれは実を申すとそでを見てもらうためだったのさ、わからなかったのかね",
"うん……"
],
[
"ここへ来て二十年とすると、京にはながくいなかったのですね",
"はい……",
"ここへはどういうゆかりで住みついたのですか",
"榁先生のおせわでございました",
"そしてそれ以来ずっと独り身で、琴の師匠をして来たのですね",
"いいえ琴はいちども"
],
[
"このあたりの子供たちに読み書きを教えたりしてまいりました",
"それが家を出るときの望みだったのですか"
],
[
"……私は五十歳、あなたも四十を越した、お互いにもう真実を告げ合ってもよい年ごろだと思う、お石どの、あなたはどうしてあのとき出ていったのか",
"…………",
"私があれほど欲し、母もねがったことを拒んだのは、ただこんなところに隠れて寺子屋の師となるためだったのか、お石どの、真実のことが聞きたい、聞かせて下さるだろうな"
],
[
"……お石はあなたさまの妻にはなれない娘でした、どうしても、妻になってはいけなかったのです",
"それはどういうわけです",
"わたくしは鉄性院さま(忠善)のおいかりにふれ、重科を仰せつけられて死んだ者の子でございます",
"そんなことが",
"ありのままを申上げるのです、お石は小出小十郎のむすめでございました"
],
[
"……父は右衛門太夫さまがさる貴い方の御胤だということをもれ聞きました、一徹の気性から繰返し殿さまに御諌言を申上げました、事実は根もない噂だったのでございましょう、血すじに就いてあらぬことを申すと厳しいお忿りを蒙り、生涯蟄居の重い咎めを仰せつけられました、そのとき、父はよろこんでおりました、御血統の正しいことが明らかになれば自分の一身など問題ではない、これで浪人から召し立てられた御恩の万分の一はお返し申せる、そう云いまして、不敬の罪をお詫びするために切腹致しました",
"…………",
"さむらいとして、決して恥ずかしい死ではないと存じますが、重科はどこまでも重科でございます、こなたさまの妻になって、もしもその素性が知れましたばあいには、ご家名にかかわる大事にもなり兼ねません、どんなことがあっても嫁にはなれぬ、そう思いきめまして"
],
[
"あなたが誰の子であるか、どういう身の上かということは私も知らず、母でさえ聞いてはいなかった、父はなにも云わず、なんの証拠も遺さずに死んだ、あなたの素性は誰にもわかる惧れはなかったのですよ",
"そうかも知れません"
],
[
"それではもし、そういう事情さえなかったら、あなたは私の妻になって呉れたろうか",
"自分の身の上を知ったのは十三歳のときでございました、そのときはじめて父の遺書を読んだのでございます、そして、平之丞さまをお好き申してはいけないのだと、幼ないあたまで自分を繰返し戒めました、いま考えますとまことに子供らしいことでございますが"
],
[
"お好き申さない代りに、あなたさまの大事にしていらっしゃる品を、生涯の守りに頂いて置きたかったのです",
"では……"
],
[
"お石はずいぶん辛かったのだな",
"はい、ずいぶん苦しゅうございました"
],
[
"もしおよろしかったら、お泊りあそばしませぬか、久方ぶりで下手なお料理をさしあげましょう、そして墨丸と呼ばれた頃のことを語り明かしとうございますけれど",
"ああ、そんなこともあった、たしかに"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1945(昭和20)年9月
※初出時の表題は「文鎮」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057807",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "墨丸",
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"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年9月",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
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} |
[
[
"……つまり",
"そうでござる、意識はちゃんとしておるが判断力というものがまったくござらぬ、崖から落ちた時に頭を打ったのが原因でござろう、口が利けなくなったのもそのためで、悪くするとこれは生涯治らぬかも知れません"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1945(昭和20)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057816",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "二十三年",
"副題読み": "にじゅうさんねん",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-12-17T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日2刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年9月10日印刷",
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} |
[
[
"番がしらの格別のおはからいで、留守にまわるべきところをお供がかなった、世が泰平となり、もはや望みなしと思っていた晴れの戦場へ出られる、さむらいとしての冥加は申すまでもない、おれは身命を棄てて存分にはたらくつもりだ、そしてもし武運にめぐまれ万一にも凱陣することができたなら、必ず和地の家名をあげ、おまえにもいくらかましな世を見せてやれると思う。しかし今のおれには少しも生きてかえる心はない、めざましく戦って討死をするかくごだ、それについて伊緒",
"…………"
],
[
"本当にわかったのか、約束して呉れるか",
"……はい"
],
[
"いつ御出陣でございますか",
"殿さまには二十七日に江戸おもてを御出馬だそうだ、ここまで五日とみて、六七日には出陣かと思う",
"では籾摺りなどよりその御用意がさきでございます"
],
[
"おはなしはよくわかりました、それで伝四郎のことはどうなるのでございますか",
"伝四郎どののこととは……"
],
[
"また二十七日の法会には、御菩提寺において家族におめみえのおゆるしがある、当日は案内があると思うが、御老母にもそのつもりで支度をして置かれるがよい",
"かたじけのう存じます……"
],
[
"運がめぐって来たのですよ郁之助さま、あなたもきっとおなおりなさいます、きっと、きっと。そうでなければ、今日までのわたくしの苦労が、水の泡になってしまうではありませんか",
"そうです……なおらなければ申しわけがありません、けれど……"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1943(昭和18)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057817",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "春三たび",
"副題読み": "はるみたび",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1943(昭和18)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-01-11T00:00:00",
"最終更新日": "2019-12-27T00:00:00",
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"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日2刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年9月10日印刷",
"底本の親本名1": "",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "酒井和郎",
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} |
[
[
"このとおり風鈴はちゃんと此処にかかってございます",
"まあほんとうね、呆れたこと"
],
[
"わたくしもうとうに無いものとばかり思っていました、それではなにもかも元の儘ですのね",
"なにを感心しておいでなの"
],
[
"その風鈴がどうしたんですか",
"津留さんと賭けをしたんですの、風鈴がまだ此処に吊ってあるかどうかって",
"おかげでわたくし青貝の櫛を一枚そん致しました"
],
[
"……そうなのよ、なにもかも昔どおりなの、このお部屋にある箪笥もお鏡台も、お机もお文筥もお火桶も、昔のままの物が昔のままの場所にきちんと据えられて一寸も動かされない、そういう感じなんです",
"いったいお姉さまはそういうご性分なのね、それともう一つそう思うのだけれども、このお家には色彩というものが少ないのよ、武家だからという以上に、わたくしたちの髪かたちにしろ衣装にしろ、お部屋の調度にしろみんなじみなものくすんだ物ばかりで、娘らしい華やかさ、眼をたのしませるような色どりはまるで無かったのですもの",
"それはつまり若さが無かったことなのよ"
],
[
"わたくしがそう気づいたのは百樹へとついで、あちらの義妹たちの日常を見てからだけれど、世間の娘たちがどういう暮しぶりをしているかということを知って、おどろくことが少なくありませんでしたよ",
"それは百樹さまとこの家ではお扶持が違いますもの、ねえお姉さま",
"そうではないの"
],
[
"わたくし贅沢や華奢を云うのではないのよ、一生のうちのむすめ時代というもの、そのとし頃だけに許される若さをいうんです、そしてこれはなかなか大切なことなんです、なぜかというと百樹へ嫁してからの生活で、お部屋の飾り方とかお道具の調えようとか、また義妹たちの衣装や髪飾りのせわをするのに、ずいぶん戸惑いをすることがありました、そしてこれはわたくしたちがむすめ時代の若さというものを味わずにしまったからだと思い当ることが多かったのですから",
"ああそれであなたは今その若さをとり返していらっしゃるのね"
],
[
"お暮しぶりがたいそうお派手だとご評判でございますわ",
"そんな、ひとのことを云ってよろしいの、秋沢さまのご家族こそ派手な評判ではひけをとらない筈なのに、わたくしみんな知っていてよ"
],
[
"いったいご用というのはなに、二人とも肝心な話をさきに仰しゃいな",
"ああそのことね"
],
[
"それはねえお姉さま、お城でもう五日すると重陽の御祝儀がございましょう、それが済んだらわたくしたち三人で、栃尾の湯泉へ保養にゆきたいと思いますの、そのおさそいにあがったのですけれど",
"栃尾へ保養に、わたくしが",
"これまでのご恩がえしに、小姉さまとわたくしとでご招待よ"
],
[
"なんにもご心配なさらないで、お姉さまはおからだだけいらしって下さればいいの、ねえ、たまにはご謀反もあそばせよ",
"だめですよ、なにをのんきなことを仰しゃるの、あなたたちは"
],
[
"考えてごらんなさいな、わたくしが家をあけてあとをどうするの、旦那さまにお炊事をして頂けとでもいうんですか",
"それはわたくしの家から下婢をお貸ししますわ、気はしの利くよく働く下婢がいますの、それを留守のあいだこちらへよこしますから、ねえお姉さまそれならよろしいでしょう"
],
[
"下男や下婢にできることは、下男や下婢におさせなさるがよろしいわ、そしてお姉さまご自身もっと生き甲斐のある生活をなさらなくては、もっとよろこびのある充実した生きようをなさらなくてはね、そうお思いになりませんか",
"あなたはこの加内の家で下男や下婢が使えると思いますか",
"それはお義兄さまのお考え一つですわ"
],
[
"まえから百樹がご推挙している奉行役所へお替りになれば、そしてお義兄さまほどご精勤なさるなら、家士の二人や三人お置きなさるくらいのご出頭はそうむつかしいことではないと思います、百樹もそれはまちがいないと申しておりますし、秋沢さまでもうしろ楯になろうと仰しゃっておいでですわ、お姉さま、途はすぐ前にひらけていますのよ、手を伸ばしてお捉みになればいいのですわ",
"それはそうかもしれないけれど"
],
[
"加内はいまのお役が性に合っているからとお断わり申したのでしょう、それにおんなの口からお役目のことなど云えはしませんからね",
"そういうお姉さまのお考えも、いまのお役が性に合っているというお義兄さまのお考えも、沈んだように動きのないこの家の生活からくるのではないでしょうか"
],
[
"部屋のもよう替えも気分が変っていいが、やっぱり道具にはそれぞれ据えどころがあるものだな、私にはこのほうがおちついてよい、眼さきの変るのはその時だけのことだし、なんとなくざわざわしくていけない",
"少しは住みごこちもおよろしかろうと思ったものですから",
"家常茶飯は平凡なほどよいものだ、余りそんなことに頭を疲らせないがいい"
],
[
"からだのぐあいでも悪いのではないか",
"はあ……"
],
[
"もしそうなら無理をしてはいけない、医者にみせるとか薬をのむとかしなければ",
"べつにからだが悪いわけではございませんけれど、なんですか気分が重うございまして……",
"わけもなしに気分の重いということもなかろう、いちど医者にみて貰ったらどうだ",
"はい"
],
[
"でも津留さんにはびっくりさせられました、夕餉には四たびともお酒をあがるのですものね、いつも秋沢さまのお相手をするので癖になったのですって",
"あなたもあがったんですか",
"ほんのお相伴くらいでしたけれど"
],
[
"でもなんだかひめごとのようで楽しいものですのね、お姉さまもこのつぎにはぜひいらっしゃらなければ",
"わるい方たちね……"
],
[
"お客さまはどなた",
"お役所の岡田さまよ"
],
[
"やっぱり、いらしったわね",
"やっぱりって、あなたなにか知っておいでなの",
"あのはなしですわ、きっと"
],
[
"然しそこもとの多忙なからだでどうしてこんなむつかしいことを始める気になったのだ",
"それはこの表に一例を書いてみましたが"
],
[
"このように年次表に書きあげますと、飢饉の来る年におよそ週期があるのです、この表はもちろん不完全きわまるものですが、凶作があって一年めに飢饉の続くことがもっとも多く、つぎには五年ないし六年めにくる例がひじょうに多い、この年次表がもっと完成して週期の波がはっきりわかるとすれば、藩の農政のうえにかなり役だつだろうと思うのですが",
"たしかに"
],
[
"自分の預かっている役所に就いてこんなことを申す法はないだろうが、勘定所つとめではさきも知れているし、殊にそこもとの仕事は気ぼねばかり折れて酬われることの少ないまったく縁の下のちからもちだ、わしも役替えをするほうがよいと思うがな",
"それも考えてはみたのですが、やっぱり私には今の役目が身に合っていると思いますので……",
"だがそれでほんとうに満足していられるかな、機会はまたというわけにはゆかぬものだ、あとで悔やむようなことはないかな"
],
[
"役所の事務というものは、どこに限らずたやすく練達できるものではございません、勘定所の、ことに御上納係は、その年どしの年貢割りをきめる重要な役目で、常づね農民と親しく接し、その郷、その村のじっさいの事情をよく知っていなければならぬ、これには年数と経験が絶対に必要です、単に豊凶をみわけるだけでも私は八年かかりました、そして現在では、私を措いてほかにこの役目を任すことのできる者はおりません、……それとも誰か私に代るべき人物がございましょうか",
"正直に申して代るべき者はない",
"……こんどの話がどうして始まったか、推挙して呉れる人の気持がどこにあるか、私にはよくわかっています"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1945(昭和20)年11月~12月
※初出時の表題は「生き甲斐」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2020年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057813",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "風鈴",
"副題読み": "ふうりん",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年11月~12月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-02-14T00:00:00",
"最終更新日": "2020-01-24T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57813.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日2刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年9月10日印刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "酒井和郎",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57813_ruby_70138.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2020-01-24T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57813_70187.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-01-24T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"豆を碾いてながしただけでは、ただどろどろした渾沌たる豆汁です、つかみようがありません、しかしそこへにがりをおとすと豆腐になる精分だけが寄り集まる、はっきりとかたちをつくるのです、豆腐になるべき物とそうでない物とがはっきり別れるのです",
"ではどうしてもにがりは必要なのだな"
],
[
"つねづね千坂どの腹心の男だからおそらく唯では済まぬでしょう、いま考えると離縁したことはかえって幸いでした",
"幸いと申しては悪いが、やっぱりそうだったのかな、少しようすが落ち着かぬとは思っていたのだが",
"唯では済みません"
],
[
"そうすることが仲沢の家名にどうひびくかわかるか",
"わたくしは一旦この家から出た者でございます、尼になるか、世にたよりない御老母をみとるか、いずれにしてもやがてはこの家を出てまいらなければならぬからだです、父上さま、おゆるし下さいまし",
"ならぬと申したらどうする"
],
[
"でも不縁になったわたくしということがわかりましたら、姑上さまはきっと御承知なさらないと存じます、菊枝だということは内密にして、どうぞよろしくおたのみ申します",
"あなたはこの老人をお泣かせなさる"
],
[
"この屋代の者で名はお秋といいます、親きょうだいのないひとり身で気のどくな娘ですから。どうかおめをかけてやって下さいまし",
"それはそれはおかわいそうな"
],
[
"わたしもこのとおり眼の不自由なからだです、いろいろ面倒であろうがどうかよろしくお願いしますよ",
"もったいない仰せでございます、秋と申しますふつつか者、どうぞおたのみ申します"
],
[
"これは唐苣ですね",
"……はい",
"これは不断草ともいうそうで、わたしのなによりの好物ですよ、不断草とはよい名ではないか。断つときなし、いつでもあるというのですね、不断草……ずいぶん久方ぶりでした",
"お気に召しましてうれしゅう存じます"
],
[
"柔らかい葉でございますから御隠居さまにはおよろしかろうとおもいまして、種子を持ってまいりました、土がよく合いましたとみえてたくさん生えておりますから、……でも雪にはどうでございましょうか",
"冬のうちも藁でかこえば大丈夫ではあろうが、陽だまりへ移してやるがいいでしょうね"
],
[
"この手紙を読んで頂こうと思って……",
"はい",
"いま市左衛門どのが届けて下すったのです、せがれから来た文です"
],
[
"でもわたしは、ねえ菊枝どの、わたしは此処へ移るとすぐから、きっとあなたが来てお呉れだと思っていました",
"姑上さま",
"きっと来てお呉れだと、……わたしはあなたのお気性を知っていましたからね"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1943(昭和18)年5月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2020年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057818",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "不断草",
"副題読み": "ふだんそう",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1943(昭和18)年5月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-04-21T00:00:00",
"最終更新日": "2020-03-28T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
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} |
[
[
"あけてよい、なにごとだ",
"病間へおはこびください、母上のごようすが悪うございます",
"……そうか",
"すぐおはこびくださいまし"
],
[
"このさなかに仕事か",
"なにやかや、とりこみつづきでだいぶおくれているものですから",
"いくらおくれているからと申して、今日一日をあらそうことではあるまい、それは仏にたいしても薄情というものだ",
"それでも、べつにさし当ってする仕事はなし、ぼんやりしておるのもこれでなかなかしょざいのないものです"
],
[
"なるほど、しょざいがないというのが本当かも知れぬ、いまさら死別がつらくて泣ける年でもなし、このように人手があまっていては用事もなしとすると、いかにもこれはしょざいがないというかたちか",
"おいそぎでなかったら一盞ととのえましょうか、わたくしはお相手がなりませんけれども、そのうちにはくらんどがみえましょう"
],
[
"お呼びでございますか",
"仏前にまだ誰ぞおるか",
"はい"
],
[
"誦経の声がするではないか、誰だ",
"……はい",
"誰々がおるのだ",
"はい。家士、しもべの女房どもでございます"
],
[
"誰がゆるしてさようなことをした、伽はそのほうと格之助でせよとかたく申しつけたではないか、ならんぞ",
"父上、おねがいでございます"
],
[
"今宵からはかたく無用だと云え、それから、その者どもにやすのかたみわけをして遣わそうと思うがどうか",
"かたじけのう存じます、わたくしからおねがい申すつもりでおりました、さぞよろこぶことでございましょう",
"それでは遣わすべき者を呼んでまいれ"
],
[
"どういう品をお出し申しましょう",
"どれでもよい、わしが選ぶから順にとりだしてくれ",
"かしこまりました"
],
[
"はい、あとはお髪道具がひとそろえあるだけでございます",
"そのほかにはもうないのか、まったくこれでしまいなのか",
"……はい、お納戸の長持には、まだお着古しもございますけれど、もう継ぎはぎもならぬほどのお品で、ひとの眼に触れては恥ずかしいゆえ、よいおりをみて焼き捨てよ、との仰せでござりました"
],
[
"これでは、いかにもみぐるしすぎるように思うが、どうか",
"母上が身におつけになった品ですから、お遣わしになってよろしかろうと存じます。わたくしも一枚、なみに頂戴いたします"
],
[
"ではよいようにわけてやれ",
"かたじけのう頂戴つかまつりまする"
],
[
"そよが申しすごしましたなら、わたくし代ってお詫びをいたします。あのような気性でございますから、母上のおかたみを見てとりみだしたのでございます、どうかゆるしてやって頂きとうございます",
"べつにきげんを損じはせぬ、けれども"
],
[
"やすはどうしてあのような物を、あのようなみぐるしい物を身につけていたのだ。わしはすこしも気がつかなかった、本当にあんなものしか持っていなかったのか",
"母上は、つましいことがお好きでございました",
"それだけか、つましくすることが好きだから、それだけであのような粗末なものを身につけていたというのか"
],
[
"それはおまえに云ったのか",
"いえ、なみをめとりましたとき、あれにそうおさとしくだすったのです。わたくしは次の間からもれ聞いたのですが……はじめて母上の御日常がわかったと思いました"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1942(昭和17)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年1月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057821",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "松の花",
"副題読み": "まつのはな",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1942(昭和17)年6月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-02-14T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
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} |
[
[
"その筈巻のすぐ下のところをみい、なにやら銘のような文字が彫ってある",
"はっ……",
"読めたか",
"はっ、仰せのごとく大願と彫りつけてあるかに覚えます",
"一年ほどまえより折おりにその矢をみる、どこから出たものか、いかなる者の作か、とり糺してまいれ",
"恐れながら"
],
[
"御上意の旨は御不興にございましょうや、もしさようなれば御道具吟味の役目として丹後いかようにもお詫びをつかまつります",
"いやそのほうは申付けたとおりにすればよい、なるべく早く致せ"
],
[
"うえさまには御不興のようにござったか",
"そう存じまして、当座のお詫びを言上つかまつりましたところ、ただ申付けたとおり吟味せよ、急ぐぞ、との仰せにございました、それでとりあえず、お知らせにまいったしだいでございます"
],
[
"これは家来どもには知らせたくないと思う、さいわいこの月末は参覲のおいとまに当るから、日を早めて頂き、自分で帰国してすぐとり糺すとしよう、それまで御前をたのむ",
"承知つかまつりました、できるだけ早く吟味のしだいお知らせねがいます"
],
[
"それで、その大変は、お役目をおはたしあそばしてから後か、それともお役目はまだ残っていてか",
"不幸ちゅうのさいわいには、すでに奉納のお役は滞りなく終ったあとでございました"
],
[
"安之助への御遺言などはなかったか",
"……はい"
],
[
"お言葉ではございますが、おまえさまは御国ばらいのお身の上でございましょう、おふたりさまのお世話は願っても出たいところでございますけれども、まんいちこれが知れたときは国法にそむいた罪に問われ、おまえさまばかりか安之助さまの御一命にもかかわると存じます、それよりはともかく美濃のおさとへお帰りあそばすほうがよろしいのではございませんか",
"それはよくよく考えてみたのです"
],
[
"それには一ついいことがある、御承知かもしれませんがこの岡崎は竹の産地で年々お江戸へ献上する数もたいへんなものですが、そのなかに箭箆にする竹があります、この竹を削って磨いて、箭箆にする仕事があるのですがやってごらんになりますか",
"そのような仕事が女でもできるのでしょうか",
"おもてむきはいけないことになっているが、なにお出入りの屋敷でその宰領をしているからわたしがたのめばどうにかなります、これなら手間賃もいいし、草鞋をつくるよりは骨も折れないでしょう、その気がおありならお世話をいたします"
],
[
"わたくしも十八歳です、男いちにんまえの稼ぎはできなくとも、母子ふたりの口をすごすくらいはどうにかなると存じます、どうぞ働きにやって下さいまし",
"おやめなさい、そんなことは聞きたくありません",
"いいえ申します、母上にはお世話になりすぎています。修業ちゅうのからだゆえ今日まではおなさけに甘えておりました、けれどもう充分です、これ以上母上にご苦労をかけることはできません、わたくしが代ります、どうか母上はもう賃仕事などおやめになって下さい、お願いですから安之助に代らせて下さいまし",
"あなたは考えちがいをしています"
],
[
"母が働いてきたのはあなたをりっぱに成人させたいためにはちがいありません、けれどそれさえはたせば役が済むというわけではないのです",
"そのお言葉は安之助にはわかりません",
"わからない筈はないでしょう、それとも、いつかお話し申した父上の御最期のことはもうお忘れですか"
],
[
"父上がいちばんお考えになったのは、あなたのことだと思います、あなたが人にすぐれた武士になり、父のぶんまで御奉公をするようにとそれだけお望みなすったと思います。あなたにはそう思えませんか",
"そう思います、母上、そう思います",
"それならご自分の修業を一心になさい、そして千人にすぐれた武士になるのです、それだけがあなたのつとめなのです、母のことなど気をつかってはいけません、母には母のつとめがあるのです、あなたを育てることと……父上のつぐないをすることです",
"つぐないと仰しゃるんですか",
"つぐないです、父上の仕残した御奉公をつぐない申すのです、それが茅野百記の妻としての一生のつとめです"
],
[
"よくわかりました母上、わたくしは一心に修業をいたします、そして千人にすぐれた武士になります",
"それをお忘れなさるな、道はまだまだ遠いのですよ",
"けれどいつかは、母上……いつかはわたくしたちの真心が、とのさまにわかって頂ける時がございますね"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1942(昭和17)年12月
※表題は底本では、「箭竹《やだけ》」となっています。
※初出時の表題は「箭竹―岡崎藩の女性」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2020年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057810",
"作品名": "日本婦道記",
"作品名読み": "にほんふどうき",
"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "箭竹",
"副題読み": "やだけ",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1942(昭和17)年12月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-06-15T00:00:00",
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"姓読み": "やまもと",
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"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
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} |
[
[
"せんこく役所へ迎えを出したそうです",
"どうしたのだ"
],
[
"なにか早急に御用の調べものができて退出がおくれる、然し六時までには必ず帰るという使いがあったそうですが、迎えを出したのですからもう戻ると思います",
"御用ではしかたがない"
],
[
"大藪のところに倒れているのをみつけた者があっていま担ぎこまれて来たのだが、かなり重傷のようだ、ひとまず由紀をつれ戻さなければなるまい",
"それはいったいどうしたということでしょう",
"当人が口がきけないのだからなにもわからぬ、いずれにしても家へ帰るほうがさきだ、由紀を立たせてやれ",
"たいへんなことになりました……"
],
[
"おそれいりますがわたくしに着替えをさせて下さいまし、常着になりたいと存じますから",
"でも由紀どのそれは",
"いいえ"
],
[
"すっかり母から聞いた、礼を云いたいが、その礼よりもさきにたのみたいことがある",
"はい……",
"この三日うちにそなたの手で八十金ととのえて貰いたいのだ"
],
[
"わけも話さず、こんなたいまいな金子をつくれと云うのは無理だ、これはよく承知しているし、口ではなにも云えないが、私を信じて調達して呉れ",
"はい……",
"母はあした善光寺詣でに立つ筈だ、往き来に三日はかかるのが毎年の例になっている、そのあいだにたのむ",
"はい、かしこまりました"
],
[
"なにもお訊き下さらないで、由紀が一生にいちどのおたのみです、母上さま、どうぞお願い申します",
"まあちょっとお待ちなさい"
],
[
"あなたがそれほど仰しゃるのなら、金子はさしあげてもようございますけれどねえ由紀さん、この縁組はことによると、破談になるかも知れませんよ",
"……なぜでございますか",
"精しいことはわたしも知らないのだけれど、お役目のことで休之助どのになにか失態があったようすなのです、そのことで沢本さまが二度ばかりみえて父上とご相談をしておいででした、それで近いうちに吉岡さまが安倍へいらっしゃる筈だと思います"
],
[
"金子はいま出してあげます、けれど今のはなしを忘れないようにね、今のうちならまだ嫁といっても名ばかりなのだから、あなたはなにもかも父上やわたくしに任せた気持でいればよいのだからね",
"……はい"
],
[
"沢本さまでございますか",
"そうだ、こちらの名を云えばお会い下さる、取次ではいけない、必ずじかにお会いしてお手わたし申すのだ、たのむ"
],
[
"それを云ってはいけない、その必要はない",
"いや云わなくてはならない"
],
[
"はいまだ……",
"酒を出したいのだが"
],
[
"友人がこんど江戸詰めに出世して別れに来たのだ、ほんのしるしだけでも祝ってやりたいのだが",
"はいかしこまりました"
],
[
"ただいまお茶をさしあげましたらすぐにおしたくを致します",
"こんな時刻に済まないが、暫く会えなくなるものだから"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1943(昭和18)年7月
※初出時の表題は「心の深さ」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2020年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057809",
"作品名": "日本婦道記",
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"ソート用読み": "にほんふとうき",
"副題": "藪の蔭",
"副題読み": "やぶのかげ",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1943(昭和18)年7月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-07-13T00:00:00",
"最終更新日": "2020-06-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57809.html",
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"姓": "山本",
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"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日2刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年9月10日印刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "酒井和郎",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57809_ruby_71234.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2020-06-27T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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} |
[
[
"それは高慢というものよ奈尾さん、そんなことではすみませんよ、来てくだすった方たちみんなを敵にしてしまうつもりですか",
"もうわかったわ叔母さま、わたくし厭なの、気の向かない芸事なんてそらぞらしくって",
"それはお客さまを辱かしめることになるのよ、取り返しのつかないことになるのよ奈尾さん、せめて島川さまがお望みの舞だけでもなさいな、御家老の奥さまだということは知っておいでじゃないの"
],
[
"あなたは私に死ねと云うのですか、私に悶え死にをさせたいのですか",
"あなたは出来ないことをお求めなさいますわ、わたくしもうなにも伺いません、そんなことをおっしゃるのでしたらもうここへもまいることはできません",
"待ってください。ああいかないで――"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
1983(昭和58)年12月25日発行
初出:「新読物」交友社
1948(昭和23)年9月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057662",
"作品名": "合歓木の蔭",
"作品名読み": "ねむのきのかげ",
"ソート用読み": "ねむのきのかけ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新読物」交友社 、1948(昭和23)年9月号",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-09-06T00:00:00",
"最終更新日": "2022-08-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57662.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年12月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年12月25日",
"校正に使用した版1": "1986(昭和61)年10月10日2刷",
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[
[
"お紋はどこに住んでいるんだ",
"お屋敷のすぐ近くでございますわ",
"屋敷を知っているのか",
"ええ、脇屋さまは古くからいらっしゃいますもの、わたくしの家は三つ目橋のそばの徳右衛門町でございますわ",
"そうか、ではそのうち送っていってやろう",
"まあうれしい、きっとですよ"
],
[
"こないだはせっかくいらっしたのに、どうして帰るまで待っていて下さいませんでしたの、ずいぶん情無しでいらっしゃるのね",
"お紋の帰りなんぞ待っていたら、屋敷を抛り出されてさっそく路頭に迷ってしまうよ",
"あらうれしい、そうしたらここへいらっしゃいまし、若さまのお一人くらい"
],
[
"そういうのを栄耀の餅の皮と云うのじゃあございませんか",
"そうだ、爺さんにはわからないかも知れない、あんまり違いすぎるからな"
],
[
"おまえは黙っていな、おれにゃあおれで考えがあるんだ",
"仕事を休んで若さまと呑む考えですか"
],
[
"……ねえお祖父さん、お針も習いたいし、仮名の読み書きぐらいお稽古もしたいし",
"そうだな、そのうち若さまにも御相談してみるとしよう"
],
[
"と仰しゃると、詰りどうなのです",
"私は決して跡目には直らない、そればかりではなく、武士であることさえやめる積りだ"
],
[
"そんな切って篏めるような言葉を我われが信ずるとでも思うんですか、こっちはまじめなんだ、あなたも能登守の御胤ならもう少し堂々とやったらどうです",
"するとそこもとは、私がでたらめを云うとでも"
],
[
"そうすると貴公たちは、是が非でもここでおれを斬ろうというのだな",
"戸沢家六万八千石の社稷を守るためにです、あなた個人を斬るのではない、戸沢家の社稷の害となる存在を斬るのです"
],
[
"これでおれの夢は消えてしまった、然しまだ一つだけ残っている、それはお紋だ、気兼のない裏店に住んで、爺さんとお紋と水入らずで、夏は肌脱ぎ冬は炬燵で、気ままな暮しをする積りだった、それはできなくなった、堅くるしい屋敷住いで、気も詰ろうし可笑しくもなかろうが、おれの唯一つの夢なんだ、爺さん、お紋を又三郎の妻に貰えないか",
"若さま、よくわかります、思召しはよくわかりますが",
"そのあとは聞くまでもないよ、爺さん、身分が身分だから、表むきはどこかの大名の娘を娶らなければならぬだろう、だがそれはまったく名だけだ、式張ったときのほかは話もせずに済む、おれにとって本当の妻は、――お紋ひとり、生涯それでとおせるんだ、父のゆるしも得てある、爺さん、これが唯一つ残った、どうしても失いたくないおれの夢なんだ、お紋をおれの妻にして呉れ、爺さんの一生もひきうけるよ"
],
[
"私に異存はございませんが、帰ってお紋によく相談をしまして、それから……",
"待っている、返辞はこの家で聞こう、待っているぞ爺さん"
],
[
"お祖父さん、おまえ寝言を云ってるのね、そんなに酔って、失礼でもあったんじゃないんですか",
"おらあ酔ってるよ、おめえの見るとおり泥亀のように酔ってる、……なにょう云やあがる、町人になるのはやめた、お紋を妾によこせ、それだけの前金を渡してある、……そんなちょぼ一があるか、若さまどころかあいつはぺてん師だ、これが酔わずにいられるかい"
],
[
"ところがあいつは、……あいつは、こう云った、自分はこんど出世することになった、どえれえ出世だそうだ、それで町人になるのはやめにした、いいか、槍を立てて歩ける身分になれば不足はないし、これからどんな出世でもできる、就いてはお紋を妾によこせ、……聞いてるのかお紋、妾だ、妾だぜ、それからこのおれも一生飼い殺しにして呉れるとよ",
"あんまりだお祖父さん、そんなこと、若さまがそんなことを",
"云ったんだ、そればかりじゃあねえ、おれが返辞に困っていると、いざを云うとでも思ったんだろう、これまで酒肴代として渡してある金はしめてこれこれになる、口では云わないがあれはその手付の積りなんだ、手付を受取った以上いなやは云わせない、五六日うちに迎えをやるから支度をして置け、……こうだお紋"
],
[
"いきなりなによ、なにが罪なの",
"あんな風に若さまを振るなんてあんまりだわ、あたし若さまの話を伺って泣かされてよ"
],
[
"そうじゃないの、奥方になれないからって、事情があんな事情なら、そして若さまがあんなに真実な気持でいらっしゃるなら、お断りするにしても仕方があると思うわ、若さまは本当にお痩せになったことよお紋ちゃん",
"あんたはなんにも知らないのよ、若さまがどんな方か、どんなひどい方かということを、……痩せたのはあたしだわ",
"うそ、それはうそよ、うそだわお紋ちゃん、あたしすっかり伺ったのよ、若さまがお侍をやめて、町人になって、お紋ちゃんを貰うお積りだったことも、それがどうしても戸沢様の御家を継がなければならなくなったことも"
],
[
"お祖父さん、聞いていたのね",
"ああ、……そして、みんな本当なんだ"
],
[
"堪忍してくんな、わかっていたんだ、若さまの気持もおまえの気持も、おれにはよくわかっていたんだ、辛かったんだ、おれだって辛かったんだお紋",
"わかっていたんなら、なぜ、お祖父さん"
],
[
"へえ藤七はおりました、去年の冬から此処へ来ておりましたが、一昨日その孫といっしょに出ましてございます",
"出たというと、用事ででも……",
"いいえ暇を取りましたので"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1946(昭和21)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"お父さま、大変よ、お父さま",
"……どうしたんだ",
"起きて頂戴、早くッ"
],
[
"何だ、どうしたんだ",
"いま、上の方できゃあッて云う声がしたの、二度もしたのよ。何か変った事があったに違いないわ、見に行ってよ",
"そうか、兎に角行ってみよう"
],
[
"吉井、おい、確りしろ",
"…………",
"僕だ、先生もいらしってるぞ、吉井ッ"
],
[
"あの鳥の爪に血が……",
"えっ⁉"
],
[
"本当に助かりましょうな",
"命だけは受合います。然し……否、先ずその珈琲を一杯頂きましょうか。それから少し皆さんにお話があります"
],
[
"吉井君はどうして怪我をしたのか、多分お分りではないと思うが、どうですか宗方さん",
"それなんです"
],
[
"何しろ外側はあの通りなんの手掛りもない絶壁ですし、中は螺旋階段一本で、何処にも犯人の隠れる場所はありません。第一なんのために吉井を殺そうとしたのか、それからして想像もつかぬのです",
"恐らくそうだろうと思いました",
"え? ――そう思ったと仰有るんですか",
"宗方さん"
],
[
"私は同じ事件に逢っています。是は今度が初めてではない。この灯台が廃止されて野山岬の方へ移されたのも、つまり斯うした事件が原因をなして居るんです",
"お話の意味がよく分りません",
"つまり斯うなんです"
],
[
"二十年ほど前のことです。或夜この灯台の灯を慕って一羽の名も知れぬ怪鳥が舞込んで来ました。当時此処に田口という若い看守がいましたが、この男が怪鳥をみつけて拳銃で射殺し、剥製にして壁へ飾付けたのです",
"今もあるあの鳥ですね",
"そうです"
],
[
"不思議な事件はその夜から起りました。昨夜と同じように、その田口という男が発光室で喉を掻切られて死んでいたのです。犯人は何処からも忍込めません。傷口は、……吉井君のと寸分違わずです。然も、――死ぬ間際に田口は『あの鳥が』と云って、例の剥製の怪鳥を指しました",
"そのとき鳥の爪に血が附いていはしませんでした?"
],
[
"附いていました。と云うより血みどろだったと云うべきでしょう。――警官が来て二週間あまりも捜査しましたが、結局……訳の分らぬ怪事件として打切られて了いました。ところが、それから間もなく、左様、ひと月も経った頃でしょうか、今度は灯台長の川村という老人が、全く同じような死方をしたのです",
"つまり、それも原因は分らず了いなのですね",
"そうです、その後の二人も",
"…………"
],
[
"そのお話をつづめると、剥製の怪鳥が動きだして人を殺す、と云う事になりそうですが、貴方はそれをお信じになっているのですか",
"私は御覧の通り貧しい科学者で、試験管の中で実証される事実でない限り何物をも信じません。無論……剥製の鳥が化けて出るなどとという事も信じようとは思いません。然し、――一言みなさんに御忠告をします。どうか早くこの島をお立退き下さい"
],
[
"私は今度で五度まで同じ事件を見ました。この眼で見たのです。灯台も引移りました。貴方がたも立退かれるのが安全です。――では是で失礼致します",
"――――"
],
[
"それなあに?",
"金森さんが落して行ったらしいです"
],
[
"どうだ、気がついたか",
"……先生!",
"もう大丈夫だよ、傷も大した事はない。虫が知らせたとでも云うのだろう。北村と一緒に様子を見に登って行ったのが間に合ったのだ。喉が痛むかね"
],
[
"ああ起きない方が宜いよ",
"大丈夫です"
],
[
"済みませんが水を一杯下さい",
"あたしが持って来てあげるわ"
],
[
"吉井の傷も大分好いようだから、明日は此処を引揚げるとしよう。科学が伝説に負けて了った。残念だがこれ以上諸君を危険に曝す訳には行かん",
"僕は反対します、先生"
],
[
"どうして反対だ。現に君は怪鳥に襲われ、危く殺されかかったではないか",
"そうです。僕は怪鳥の動きだすのを見ました。恐ろしい叫び声も聞きました。襲いかかられて傷も受けました。いま思っても恐怖で体が竦みます……然し、然し僕には信じられない。こんな奇怪な事が有る筈はないと思います。僕は真実を突止めたいのです。例え僕一人でも踏止ってやります"
],
[
"私も立退くのは心外なのだ。こんな怪談めいた事件に負けて、折角の研究を中止するのは科学者として最大の恥辱だ。私も君と一緒に此処へ残ろう",
"あたしだって帰りはしないことよ",
"無論、僕もいます!"
],
[
"斯う気が揃えば何よりです。それでは少し眠りますからどうか皆さんもお引取り下さい。気分も直りましたから",
"そうか、では我々ももうひと眠りしよう"
],
[
"どうした、何か発見したのか",
"大体の見当はつきました"
],
[
"コカインじゃないか",
"そうでしょう、僕もそう睨みました",
"どうしたのだ、こんな物を",
"向うの空家の地下に貯蔵してあるのを発見したんです。つまり……是が怪鳥事件の原因なんです"
],
[
"鳥が地面から這上る訳はありませんからね。それにしては少し高過ぎますよ",
"然し、本当に怪鳥が来るのか",
"来ます、必ず来るんです。もう直ぐ先生の眼でそれを御覧になれます"
],
[
"先生、注意して下さい。この風が怪鳥の来る前触れです。僕がこの猟銃を射ったら、直ぐ観測室へ踏込んで下さい",
"――宜し",
"桂子さんは其処を動かずに"
],
[
"罪はその出たところへ返りました。行って死体の始末をしてあげましょう――金森博士の死体を",
"なに金森博士⁉",
"そうです、怪鳥の正体は金森医師です",
"なんのためだ? 信じられん"
],
[
"金森博士はコカインの密輸出をやっていたのです。この島が貯蔵所でした。それで我々を此処から立退かせるために、こんな怪談を仕組んだのです。――現場を押えて改心を勧めようと思ったのですが、矢張り博士としては生きていられなかったのでしょう",
"だが、どうしてこの高い場所へ来ることが出来たのか",
"怪鳥は空から来ると申上げました"
],
[
"博士は空から来たのです",
"――分らん",
"吉井君の手当をしに来た時、博士は落物をして行きました。それはヘリウム瓦斯の受取書でした。なんのためにヘリウム瓦斯が必要でしょう? 気球なのです。気球を使ったのです"
],
[
"怪鳥の去った後に、銭蘚苔の細片が落ちていました。僕はそれを中心に捜査を進めたのです。そしてあの岬の松林の中に、同じ蘚苔と、人の足跡をみつけました。博士は其処で気球に瓦斯を詰め、怪鳥の仮装をしたうえ、強い東風を待って灯台へやって来たのです。――さっき僕が猟銃で射ったのはその気球でした。博士はそれを知って、遂に自殺を敢行したのです",
"ではあの吉井の傷は",
"博士の死体を検べてみましょう、恐らく両手に拵え爪を嵌めているでしょうから。……ただ警察へは知れぬように心配してあげましょう。悪事は悪事として、博士も医者としては一流の人物でした"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」博文館
1938(昭和13)年7月
初出:「少年少女譚海」博文館
1938(昭和13)年7月
※「米《メートル》」と「米突《メートル》」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "はいとうだいのかいちょう",
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[
[
"ではそう致しましょう",
"きっとですか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
1958(昭和33)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057700",
"作品名": "橋の下",
"作品名読み": "はしのした",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓": "山本",
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"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年10月25日",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
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[
[
"いけないでしょうか、私は、母上はもう御承知だと思っていたんですが",
"とんでもない、母さんはまるで知りませんよ、却ってその反対だと思っていたくらいです、だってあなたは小さいじぶんから和田へ入り浸りで、あちらの子たちとはずっときょうだいのようにしておいでだったでしょう",
"だから察して下すっていると思ったんですがね",
"普通はそれとは逆なものですよ"
],
[
"ほんとにお美しいわ、ふだん肌理のこまかい肌をしていらっしゃるのね",
"なにしろ身じまいということをしないのですから"
],
[
"いろいろ話がある、今泉へは訪ねてゆきにくいんだが、いちど来て呉れないか、しのも心配して逢いたがっているが",
"馬を下りたらどうだ"
],
[
"おれは今でも第さんを親友だと思っている、第さんとの結婚を破るについて、しのがどんなに苦しんだか、おれの立場がどんなものだったか話しても信じないだろうし、話したくもない、だが、……一人の女のために二十年の友情が、こんなに脆く毀れていいだろうか",
"ときによれば、血を分けた兄弟でも殺しあうことがある"
],
[
"いろいろ心配をかけて済まなかったが、どうかその事はもう暫く、このままそっとしておいて呉れないか",
"しかしそうはいかないんじゃないのか、第さんの気持はよくわかってる、おれだって不愉快だから、できるなら闇へ葬ってしまいたいよ、だが……ふりかかる火の粉は消さなければならない、さもないと焼け死ぬかもしれないからね"
],
[
"それは藤島のことをいうのか",
"彼は悪辣に第さんを陥れようとしているよ"
],
[
"それに口から口へ伝わると、言葉には尾鰭が付くものだ、問題はどんなことを云ったかではなく、この状態をこのままにしてはおけない、早急にどうにかしなければならないということだ",
"――彼はおれの婚約を毀した"
],
[
"――彼はおれからあの人を奪った",
"だからこそ彼は第さんを除こうとするんだ",
"――彼は二十年の友情を裏切った",
"しかも今でも親友だと人にはいっているよ"
],
[
"――そういう話はもう暫く待って頂きたいんですが",
"二十七にもなってまだ待つのか",
"――こちらが済むと江戸へ戻らなければなりませんし、ことによると、そのまま江戸に留ることになるかもしれませんから",
"国の者ではぐあいが悪いというのか",
"――それもありますし、とにかく……"
],
[
"――どうしたんだ、なにかあったのか",
"云いたくないんだが"
],
[
"云わずに済むことなら聞かなくてもいいよ",
"――そうしたいんだ、したいんだが"
],
[
"――おれは、はたしあいは不賛成だ",
"彼はおれに申し込むのか"
],
[
"第さんにはお悪いと思ったけれど、一生の大事といえばむげにも断われないし",
"――会いましょう、どこにいるんです"
],
[
"それは藤島の望みですか",
"いいえわたくしがお返しするんです",
"どうしてです、なぜです"
],
[
"藤島は侮辱を受けなかったでしょうか、わたくしは数日まえに初めて聞きました、それも和田の弟から聞いたんです、あなたがお帰りになってから今日まで、わたくしの口からは申せないような、ひどいひどい蔭口や根もない謗りを、藤島はなにも云わずにがまんしていました、侮辱を耐え忍んでいたのは藤島でございます",
"お待ちなさい、私が彼になにをいったというんです",
"なにをですって、なにをいったかと仰しゃるんですか"
],
[
"悪いのはお二人のほかの或る人間です、その人間がお二人をこんなふうにしたんです",
"それは八木千久馬だというんではないでしょうね",
"あの人です、みんなあの人のしたことなんです",
"私は信じませんね",
"ではあなたは、あなたが侮辱されたということをどうしてお知りになりましたの、帰っていらしってから誰ともおつきあいにならないのに、どうしてそれがおわかりになりましたの"
],
[
"おわかりになりましたでしょ、あの人がお二人の間で、お二人を裂いて決闘までさせようとしたんです、みんなあの人の企んだことなんです",
"だって……彼にどうして、そんな必要があるんです"
],
[
"これも暫くのことさ、いま縁談があるんでねえ、嫁が来るとすれば、いくらなんでも、そうあまえてはいられない",
"どうぞそうお願いしますよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「週刊朝日 新年増刊」朝日新聞社
1951(昭和26)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057703",
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"作品名読み": "はたしじょう",
"ソート用読み": "はたししよう",
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"初出": "「週刊朝日 新年増刊」朝日新聞社、1951(昭和26)年1月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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[
[
"室町がまだ来ないんだ",
"いいよ、車がきまっててシート・ナンバーがきまってるんだもの、そうでなくったってあの女傑がまごつきますかさ、わからなければ駅長を呼びつけるくちですよ、駅長おどろくなかれって、ね"
],
[
"もう話したじゃないの、忘れっぽいのね",
"いいえ聞きませんよ、あたしは聞いた覚えはありませんよ"
],
[
"なんていうのかしら、自分では巡回講演だなんて云ってたけれど",
"講演ですって"
],
[
"すっとぼけた野郎だな、そんなことをして食っていけるんですかね",
"食う心配はないでしょ、池田からお金が来るんですもの"
],
[
"眠ってるの",
"いや",
"雪がなかったらまっすぐ家へゆきますか"
],
[
"するとこんどは独りになりたがるかもしれませんぜ",
"そんなこと云わせるもんですか",
"健さんの意見はどうです"
],
[
"五時十分だったそうだ",
"今日の、今日の五時"
],
[
"おかあさんがそれを承知したっていう証拠でもあるの、あるなら見せてちょうだい",
"法光寺の石岡さんに訊けばわかりますよ、石岡さんもその話しは知ってるんだから",
"そんなこと他人に訊けますか"
],
[
"だからちゃんと知らせたじゃあありませんか",
"じゃあ訊くがね、まにあわないとわかってたら知らせないつもりだった、というのはどういう理屈だい",
"理屈も理由もありません、そう思ったからそう思ったと云ったんです"
],
[
"本当にないのか",
"ありません"
],
[
"兄さんは知らないんだ",
"君はあのノートを読んだ",
"読んだのはかあさんだよ"
],
[
"生みの母親のことをですか",
"私は非難しはしなかったよ、君が読んでいればわかるだろうが、私は自分の感じたことを感じたままに書いただけだ、生みの母親だということも考えなかったろう、正直に云えば自分の研究の材料になる、というくらいの気持はあったかもしれない",
"研究とはどんなことです"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
1960(昭和35)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057711",
"作品名": "ばちあたり",
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} |
[
[
"ええ騒々しいや、頭アいるかって眼の前にいるおいらが見えねえのか",
"ほ、まったくそうだ",
"呆けてやがる、なにが大変だ",
"なにがって落着いてちゃあいけねえ、は組の若い者が全滅だ",
"この野郎、云うにこと欠いては組の若い者が全滅たあなんだ、貘がおとといの夢を吐きゃあしめえし、途轍もねえことをほざくと向う脛をかっ払うぞ",
"嘘じゃねえ、まったくの話だ"
],
[
"なにしろ頭、井杉灘屋で浪人者が暴れてたんだ、そこへ辰兄哥が通りかかったもんだから、よしゃいいのに例の調子で停めにはいった",
"なにを云いやがる、町内の紛擾に口をきくなあおれっちの役目の内だ、それでどうした",
"するてえと浪人者がはたして怒った",
"なにがはたしてだ",
"いきなり大刀を抜くてえと、真向から辰兄哥をばらりずんと斬り放した",
"――野郎"
],
[
"おう辰、おめえ無事だったか",
"こりゃあ頭いいところへきておくんなすった、蜆河岸の道場にいた仁木先生ですぜ",
"なんだと?",
"安吉をつれて風呂へいった帰りに、通りかかるとここで浪人者が暴れているんで、停めにへえってみたら、びっくりしましたぜ、三年めえに道場を出たまんま行衛の知れねえ仁木先生なんで",
"そいつぁあ仰天だ"
],
[
"なるほど仁木先生に違えねえ、これじゃあどうにもしようがねえから、とにかく自家へおつれ申すとしよう",
"それがこのとおり動かねえんで",
"まあいいや、おめえそっちの肩を貸しねえ、二人で担いでいこう、――太平さん、騒がしてすまなかったな"
],
[
"仁木先生、あなたはまだ御存じあるめえが、道場は大変なことになりましたぜ",
"そんなことはどちらでもいい、酒をつげ",
"お酒はいくらでもあげますが、まああっしのいうことも聞いておくんねえ"
],
[
"先月の、そうだちょうどいまごろのことだっけ、風の強い夜更の二時すぎ、道場から急に火が出て、どうする暇もなくお屋敷から道場、すっかり丸焼けになってしまいました",
"そりゃあおおかた清姫の祟りであろう",
"なんです",
"道成寺の火事だというから",
"冗談どころじゃありません、駆けつけたあっしたちで、やっとお嬢さまだけゃあお助け申しましたが、旦那あとうとう御焼死なすった……"
],
[
"今朝江戸へ入ったばかりで、そんな話はいま聞くのが初めてだ、しかし日頃の先生にも、似合わぬ焼死をなさるとは不覚だな、――そして、内門人たちは誰も先生に気づかなかったのか",
"それがね、その日にかぎって運の悪いことに松林さんが皆をつれて正月の祝いに奥の植半で夜通しの酒宴というわけです。たった一人残っている孫七爺さんが、お嬢さんの手をひいて煙の中をうろうろしているところへ、ようやくあっしたちが間に合ったので",
"で……後はどうなった",
"へえ、なんでも松林さんを御贔屓になさる伊丹なんとかいうお大名が、緑町の空き屋敷を買ってくれたのへ手入れをして、そっくり道場を移してお嬢さまも引き取り、なかなかお盛んにやっていますが、――なんでも近いうちにその伊丹てえお大名の肝煎で、お嬢さまと婚礼をしたうえ、正式に大先生の跡目相続をなさるてえ話ですぜ",
"うまいことやったな、ははははは"
],
[
"出てくるったって、急にそんな",
"なに、甲子雄とお嬢さんの顔が見たくなったんだ、二人の仕合せな顔がさ"
],
[
"他の者あとにかく、そんな尾羽うち枯らした姿をお嬢さまに見せちゃならねえ",
"――なぜだ!",
"なぜったって、そう云えば先生にだって分るはずだ。ねえ先生、おまえさんが行衛知れずになってから、お嬢さまは落胆なすって、半年の余も病気におなんなすったんだ、――誰が知らなくとも、おまえさんを慕っていなさるお嬢さまの気持は、この佐兵衛がようく知っているんだ、……そんな、そんな落魄れた恰好を見せたら、お嬢さんはきっとまた",
"ははははは、おい止せよ佐の字"
],
[
"水の流れも人の心も、半刻として止まらねえのが世の中だ、お嬢さんにしたって昔は知らず、今は甲子雄と婚礼が定ったといえば、落魄れた兵馬を見るのもいい慰みだろう",
"――先生は人が違いなすったねえ",
"まあそんなところさ、行ってくるぜ"
],
[
"よく無事で帰ってきた、待兼ねていたぞ、さあ、とにかく奥へあがって",
"まあいい、それより先に十両ばかり金を貸してくれ",
"金を、――?",
"ふふふふ御覧のとおりの恰好で、今夜の宿銭にも困っているんだ、それともこの道場へおいてくれるか",
"いや、入用なら十両くらい用立てるが"
],
[
"ただ今江戸へ着きましたが、先生には意外の御最期……などと云ってみたところで、この姿では御挨拶にもなりません。兵馬もすっかり落魄れましてな、はははは",
"とにかくあがったらどうだ"
],
[
"そんなこっちゃねえ、緑町からお嬢さんが訪ねておいでなすったんで、いま頭がおつれ申すから先へいって、片付けておけと",
"ええ、汚ねえ手で徳利へさわるな!"
],
[
"朝酒五合は兵馬様のお勤めだ、将軍家が御成りでも片付けるこたあねえ、いやなら会わねえからとそういいねえ",
"いけないよ先生、おまえさんはそれだから",
"いいえ、どうぞそのまま"
],
[
"先日、ゆっくりお話し申す隙もございませんで名残惜しゅう存じました。じつはあたくし――あなたさまのお帰りを、どんなにお待ち申していたか知れないのです",
"しかし、そんなことは今さらになって",
"いいえ、あなたはなにも御存じないのです"
],
[
"拙者が、なにを知らぬとおっしゃる?",
"父は不意の出火で焼死いたしました、――あなたもそれは御存じでございましょう?",
"うかがいました"
],
[
"――――",
"誰も気付かなかったようですが、あたくしははっきり見ました、肩から胸へかけて、鋭い刀痕がありありと残っていたのです"
],
[
"それはあんまりです、父の不審な死態も、あなたにだけお話し申そうと、きょうまで胸に秘めてきた小浪の気持……そんなふうにおっしゃるのはあんまりです",
"泣くのは勘弁してください。せっかくいい心持に酔った酒が醒めてしまう。うーい、眠くなりましたから失礼、あとでまた金を借りにいくと、帰ったら甲子雄へお言伝てを頼みます、……御免!",
"兵馬さま、それは御本心――"
],
[
"おい安の字、一緒に歩びねえ",
"合点だ、先生のお供なら這ってもいきやす",
"意地の汚ねえ声を出すなよ"
],
[
"きょうはどちらのほうへのしやすね",
"もう呑むことを考えていやがる、ちょうど金がなくなったからまず緑町の甲子雄を強請るんだ。あれだけ立派に道場を張っていれば、十両や二十両の冥加金は安いもんだぜ",
"そりゃあ悪いよ先生、おまえ様はとかく松林さんを悪くいうが、あの人はどうして、なかなか物のわかる良い人物ですぜ",
"ほう、きさままた妙に肩を持つな、甲子雄から割でもとってるのか",
"冗談じゃあねえ、わっちがまえから鍔道楽なのは先生も御存じでしょう、その点でわっちゃあ松林さんの気性を見抜いているんだ。亡くなった大先生も鍔にゃあ眼が明るかったが、松林さんとくるとわっちに輪をかけたような鍔狂人だからね、鍔道楽するくれえの人間に悪いやつはねえ"
],
[
"いま思い出しても惜しくってならねえのは、ねえ先生、わっちがこの道楽にはいって一世一代てえ掘出し物をしたんで",
"と思ったら偽だというやつか",
"ところが、南蛮鉄で龍の透し彫、眼に金の象眼が入っている、耳のところにちょいとした疵はあるが、なんともいえねえ品で、わっちゃあ越前の古鍔と睨んだから、すぐ蜆河岸の道場へ持っていったんでさ",
"そんな詰らねえ話はよしにしな",
"まあ聞いとくんねえ、先生もひと眼ご覧なさるなり、安――こいつは掘り出したぞ。越前の甚左衛門に相違ない、わしが十両で買おうとこうおっしゃるんで、その時お金をいただけばよかったんだが、こっちも欲があるからね、いちど松林さんに御覧を願いてえと思って訊くと、正月祝いに奥の植半へ、門人衆をそっくりつれて呑明しにいらしったてえことで、――じゃあ明朝お帰りになったら御覧にいれてください。どちらでも高いほうへお売りいたしますと、帰ってきたらその晩に火事だ",
"ざまあみろ、大欲は無欲だ",
"肝腎の先生は亡くなる、焼跡を捜しても鍔は出ず、元も子もすっから勘左衛門、今思っても惜しくってならねえ",
"こっちゃあ可笑くって大笑いだ"
],
[
"なにか用でもあってこられたのか",
"また金さ、二十両ばかり貸してもらいたいのだ",
"貸すのはいいが、――そうたびたびは困るな、多くの門人を抱えて、これだけの道場を経営すると、そういつも遊んでいる金はないものだ",
"いやならいいのさ、そのかわりこの道場へ転げこむばかりだ、昔のよしみでまさかそれもいかんとはいうまいが",
"いや貸さぬとはいわん、貸すことは貸すがたびたびは困るというのだ",
"甲子雄、きさまそんなにおれが嫌いか",
"何をいう、貴公と拙者の仲で、今さらそんな穿鑿をする必要はあるまい"
],
[
"おれはまた、ここへおいてくれというたびに、きさまが慌てて金を貸すからおれが側におるとそんなに迷惑なのかと思ったよ、ははははは、落魄れると人間も僻みが出るて",
"そんな馬鹿なことがあるものか、では二十両でいいのだな"
],
[
"――以前見たな、これは",
"そう、父から譲られたあの兼光だ、先日拵えを変えさせたのだ"
],
[
"ときに、変なことを訊くようだが",
"――なんだ",
"蜆河岸道場の出火の夜、貴公は門人たちと奥の植半で呑み明していたそうだが、あの晩貴公は道場へ戻ったのではないか",
"いいや、どうしてだ?",
"なにべつに仔細もないが訊いたまでだ",
"拙者は酒に弱いので早く酔いつぶれて、離室を借りて寝てしまった、火事の知らせがあるまで、なにも知らずに眠っていたのだ",
"では、誰も道場へは戻らぬのだな",
"無論、みんな植半にいたが……それがどうかしたのか",
"なに、べつにどうもしないさ"
],
[
"急に立合いをしろとは妙だな",
"妙なことがあるものか、久しい浪人暮しで、腕が鈍ったかどうか試してみたくなったのだ、それともおれとではいやか",
"いや望むところだが……"
],
[
"おい、木剣でやろうぜ",
"――大丈夫か?",
"おれなら大丈夫だ、剣術は素面素籠手の木剣とこなくちゃあ味がない",
"それでは望みどおり"
],
[
"頼んだ物は持ってきてくれたか",
"へえ、何だか知れませんが、十両持ってすぐこいというお話で"
],
[
"裸のまんま持ってきましたが",
"すまない、借りておくぞ、――これから甲子雄と面白い勝負をするから、隅のほうへさがって見物していけ",
"そいつぁあ豪気ですな、拝見しましょう",
"それから安、――きさま、奥へいってお嬢さまを呼んでこい、早くしろ"
],
[
"先日の十両、返すぞ",
"どうしたのだ、返してもらうつもりで貸したのではない、きょうもこれから二十両……",
"いや取っておけ、木剣試合はちょいと間違うと命に関わる、借金を残して死ぬのはいやなもんだ、さあこれで貸借なしだぞ",
"そうか、――よし"
],
[
"先生、お嬢さまが見えました",
"御苦労、――お嬢さま、いま甲子雄と面白い勝負をしますから、そこでゆっくりと御覧ください、それから……安",
"へえ",
"その上段に甲子雄の脇差がある、それをちょっときさま見てくれ"
],
[
"甲子雄、いいかっ",
"おう、――"
],
[
"あっ、こ、これは……",
"覚えがあるか",
"仁木さんこりゃあ、こりゃあ"
],
[
"龍の透彫、金象眼の眼、耳に疵のあるところ、きさまがあの晩、大先生のお手へ預けた物に相違あるまい",
"ま、まさに、まさにこれです",
"甲子雄、尻尾を掴んだぞ!"
],
[
"今だから話すが、三年前に旅へ出たのは、拙者とお嬢さんの間を妬んで、甲子雄のやつが門中に騒ぎを起そうとするようすが見えた、そこで先生と相談した結果、ひとまず甲子雄の気を抜くつもりで旅へ出たのだ。――あれから諸国を修業して、久かたぶりに江戸恋しく道場をたずねてみると、あれほどの大先生が焼死されたという。こいつは臭いとすぐ気がついたので、酔ってくだんのごとき始末さ。はたして、あいつめ、先生がどうしてもお嬢さんを自分にくれそうもないとみて、とうとうあんなことをしでかしてしまったにちがいない。だが悪事は栄えぬものだ、あれだけ深く企んでいながら、日ごろの鍔狂人が祟って、ついあの鍔に目をつけたのが運の尽、もう一歩というところで露顕に及んでしまった。……今度の手柄は、お天気安が掠ったわけさ",
"そういわれちゃあ面目ねえ",
"遠慮するな、てめえの道楽がこんな役に立とうたあ思わなかった、さあ乾せ"
],
[
"これで大先生も浮ばれましょう。あっしもなんだか胸の閊が下りたような心持だ、――ねえお嬢さん、大先生の一周忌が過ぎたら、あなたと仁木先生のお仲人は佐兵衛が勤めますぜ",
"まあ、いやな頭"
]
] | 底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「新少年」博文館
1938(昭和13)年2月号
※表題は底本では、「初午《はつうま》試合討ち」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058868",
"作品名": "初午試合討ち",
"作品名読み": "はつうましあいうち",
"ソート用読み": "はつうましあいうち",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新少年」博文館 、1938(昭和13)年2月号",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-12-11T00:00:00",
"最終更新日": "2022-11-26T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card58868.html",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "春いくたび",
"底本出版社名1": "角川文庫、角川書店",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年12月25日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年12月25日初版",
"校正に使用した版1": "2008(平成20)年12月25日初版",
"底本の親本名1": "",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/58868_ruby_76725.zip",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"花はさかりまでという、知っているだろう",
"…………",
"美しいものは、美しいさかりを過ぎると忘れられてしまう、人間いつまで若くていられるものじゃない、おまえだってもう十八だろう、ふじむら小町などと云われるのも、もう半年か一年のことだ、惜しまれるうちに身の始末をするのが本当じゃあないか",
"それはわかってますけれど"
],
[
"身の始末をするにしたって、ゆきさきのことを考えますからね",
"私の世話じゃあ不安心だと云うのかえ",
"貴方と限ったことじゃあないんです、これまで貴方には誰よりも我儘を云わせて頂けたし、いちばん気ごころもわかって下さるから、お世話になるとすれば他にはありません。でも、そういう身の上の人をなんにんも知っていますけれど、たいていが末遂げないものですからね",
"この場合はそれとは違うじゃないか"
],
[
"私のは、いろけは二の次にしての話だ、田河屋を買う金も、私がたて替えるというかたちにして、あがって来る物から年割りで返して貰ってもいい、私としては気楽に我儘の云える家、のんびりと手足を伸ばして寛ろげる場所、そういうことだけでも満足なんだよ",
"それもよくわかるんですけれど、でもそれではもし……"
],
[
"もしあたしに思う人があるとしたら、それでも構わないと仰しゃいますか",
"おまえに思う人だって",
"もし仮にそんな人がいて、時どき逢ったりなんかするとしたら、幾ら貴方だってああそうかで済みはなさらないでしょう"
],
[
"花がさかりまでのものなら、散るまで好きなように生きるだけさ、初めからそういう積りなんだもの、どうなったって悔むことなんかありゃあしない",
"どうせ泣くように"
],
[
"いっしょになんかなれなくってもいいの、ただあなたが好きだというだけ、こうして会うほかにはなんにも望みはないわ",
"夫婦になっても三年か五年、くすぶった気持で厭いや一緒に暮すよりも、好きなうちこうしてたのしく逢い、飽きたらさっぱり別れてしまう、これが人間らしい生き方じゃあないか",
"その約束をしましょう、好きなうちは逢う、飽きたら飽きたと隠さずに云う、そしてあとくされなしに別れる、……きっとですよ"
],
[
"きょうで七日ですよ、どうなすったの",
"こんど納戸役というのに成ったんだ、そのことでずっと暇がなかったものだから"
],
[
"あのれんちゅうは役所の新しい同僚だ、恐ろしく酒の強いやつがいるから加減をして呉れ",
"ゆっくりしていらっしゃるのでしょう",
"みんなを帰してからだ"
],
[
"そんなに濡れてどうなさいました",
"人を斬って来た"
],
[
"それはそれだけのことだ、立会った者も三人いるし、作法どおりのはたしあいだから恥ることもなし、後悔もないんだ、けれども喧嘩の原因はおれが悪い、それがやりきれないほどおれを苦しめるんだ",
"でもあの人のほうが半さまをやりこめにかかっていたじゃありませんか",
"そうじゃない、森田は正しいことを云っていたんだ、おれはあいつを斬ってから、雨のなかを当もなく歩きまわるうちにそれがわかった、おれがどんなに下等な卑しい人間だったかということも、……おまえとこういう仲になっていながら、好きなうちは逢おう、飽きたらさっぱり別れよう、そんな約束まで平気でした、それが人間らしい生き方だなど云って"
],
[
"……森田はこう云った、そういう考え方は人間を侮辱するものだ、幾十万人といる人間の中から、一人の男と女が結び付くということは、それがすでに神聖で厳粛だ、好きなうちは逢う飽きたら別れる、いかにも自由に似ているがよくつきつめてみろ、人間を野獣にひき下げるようなものだぞ、……きさまは自分を犬けものにして恥ないのか、この言葉がはたしあいの原因になったんだ、お民",
"でもそれは、それは半さまひとりがお悪いのじゃあなく、あたしだってよろこんでお約束したことだし、二人の身分ちがいということが",
"いやそのことだけじゃないんだ、きょうまでのおれの生き方すべてが、ごまかしと身勝手とでたらめで固まっていた、それがおまえとの仲まで根を張ってきたんだ、おれは雨に濡れて闇のなかを歩きながら、……幾十万という人間のなかから、一人と一人の男女が結びつく、それがどんなに厳粛な機縁かということを身にしみて悟った、お民にはわからないか",
"…………"
],
[
"おれはこれから江戸へゆく、そして人間らしい者になってくる、どんな苦労をしてもやりぬいてみる決心だ、もちろん困難だし、なん年経って望みが果せるかわからない、だから待っていて呉れとは云えないが、もし、……もしおれが人らしくなって帰り、そのときまだおまえが独り身でいたら、おれの妻になって貰いたいんだ",
"待っていろとは仰しゃいませんのね"
],
[
"約束ではないんですね",
"約束じゃあない、いつ帰るとも、いや生涯かえれないかも知れないんだから、待てと云うことは今のおれにはできない、ただ、ちょうどいい折だから云っておこう、……お民、おれは本当におまえを愛していた、心から愛していたんだ、あんな約束はしたけれど気持には嘘はなかった、これだけがおまえに遣れる餞別だよ"
],
[
"なんにも仕事をしないということがこんなに疲れるものだとは気がつかなかった、肩ばかり凝ってどうにもしようがない",
"毎日きめて山でもお歩きになりましたら",
"このまわりはたいてい見尽したし、なにしろ風流というものに縁遠い性分だからな、山水をたのしむなどといった芸がまったくないんだから",
"お書物の行李でも明けましては"
],
[
"さっきから赤児の声がするようだが",
"心づきませんでしたが、見てまいりましょう"
],
[
"まさか捨て児ではあるまいな",
"こんな処まで来て児を捨てる者もございますまいが、どうしたことでございましょうか",
"包になにか書状でもありはしないか"
],
[
"……夜が明けたら名主へ届けるんだな、これは捨て児に違いない",
"この村には乳呑み児のある家はございませんでしたろうか",
"村に無くとも城下には有るだろう",
"いいえ"
],
[
"もし村に乳があって貰い乳ができたら、わたくし育ててみようかと思いまして",
"ばかなことを云ってはいけない、こんな身の上になって、今さら子を育ててどうするのだ、まして氏も素姓も知れぬものを……"
],
[
"こういうことはとかく末のうまくゆかぬものです、おやめなさるが宜しくはございませんか",
"そうも思うが、門へ捨てられたのもなにかの縁であろうし"
],
[
"それに爺婆さし向いの山家ぐらしも退屈なものだからな",
"お孫さま代りでございますか"
],
[
"小太郎もあのとおり馴れてしまったし、せめて立ち歩きのできるまでいて呉れると助かるのですがね",
"そうでございますな"
],
[
"島屋の御隠居さまは御承知でございましょうか",
"喜右衛門どのには話しました",
"それではお世話になりとうございます"
],
[
"去る十一月のことだ、殿が昌平黌の仰高門日講に出られた、すると講壇にのぼったのが半之助どのだった、お側に付いていた者が気づいて申上げ、講義のあとで係りの者に尋ねると、それに相違ないことがわかった、それで殿は大学頭に会われた、仔細を問われたところ、七年まえに堀尾佐吉郎という教官の塾へはいり、それから学問所へ通ううち、才能を認められて助教に挙げられたのだそうで、もちろん身の上は隠してあるから、処士としては極めて異例だということだった。殿にはひじょうな御満足で、旧過は構いなし、儒臣として新たに召抱えるという仰せで、江戸邸ではすでに家臣の待遇をうけているそうだ",
"しかしあのような事があって"
],
[
"お上の御意はともかくも、半之助がさような御恩典をお受けする筈はないと思うが",
"若い者にはまたそれだけの思案があるのだろう、殿の御帰国はこの十日だ、おそらく半之助どのはお供をするだろう、そのときは意地を張らずに、褒めて迎えてやってほしい、こなたの快く迎えてやることが、半之助どのにはなによりの褒美だと思う"
],
[
"……半之助が帰って来るのです、よろこんでもいい筈ではないか、あなたがお民どのだということも、小太郎が半之助の子だということも、わたしたちにはずっと以前からわかっていたのですよ",
"でも御隠居さま、わたくしは決して",
"仰しゃるな、喜右衛門どのから、あなたの気持はみんな聞いています。過ぎ去ったことは忘れましょう、半之助が帰って来ること、小太郎をなかに新しい月日の始まること、あなたはそれだけを考えていればいいのです",
"わたくしにはできません"
],
[
"わたくしには、梶井家の嫁になる資格はございません。そうする積りもございませんし、半之助さまに対しましても",
"もういちど云います、過ぎ去ったことは忘れましょう、七年まえのあなたと、現在のあなたとの違いは、わたしたちが朝夕いっしょにいて拝見しています、旦那さまがなぜ素読の稽古までなすったか、あなたにもわからないことはない筈です"
],
[
"顔をおあげなさい、民さん、……よく辛抱なすったことね",
"おかあさま"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1947(昭和22)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "はつつぼみ",
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[
[
"ええ生きて帰りました",
"まあ、それはまあ、それなら電報くらい打っておよこしになればいいのに、とにかくまあお上がりになって",
"お邪魔します、しかし二時間しか余裕がありませんからどうか構わないでください"
],
[
"まあ生きていたの来さん、ほんとう?",
"こんなはずじゃなかったんだがね"
],
[
"あ痛、このごろの庭球にそんなルールでも出来たんですか奥さん",
"しようがありませんよ悪くなるばかりで、さあこちらがいいでしょう"
],
[
"去年の十月でしたわ、富美子さんから私にお手紙がありましたの、そのなかに近いうちお家を出て新しい生活にはいる、くわしいことは後から知らせるという意味のことが書いてありました",
"新しい生活とはなんのことなんです",
"それがそれっきり手紙がないのでわからないんですよ、まだお家をお出にならないのかとも思うし、それともお出になって……"
],
[
"奥さん、お願いがあるんですがね、どんなのでもいいですから先生の服の古いのを貸してくださいませんか",
"どうして、なにかお必要なの",
"この形じゃあ眼についていけないんです、むやみに戦地のことをきかれるんでね、これがいちばん閉口です、どうかひとつ貸してください"
],
[
"……だってあのリラったら花が咲かないんですもの、あの春に咲くからって植えていらしったでしょう、それがいくら待っても丈が伸びるばかりで花はちっとも咲かないの、それで『花咲かぬリラ』って綽名がついたくらいよ、とうとう杉浦さんが抜いておしまいになったわ",
"来さん、ちょっと当ててみてください"
],
[
"しかしびんびんとよく響いたなあ",
"久しぶりの大音声で胸がすっとしたよ"
],
[
"……訪ねた先で時間を取ってあぶなく乗りおくれるところだった、しかしみんなよくこの列車へ乗ったな",
"それはもう、隊長が乗るとおっしゃれば必ずお乗りになると信じていましたから、その点は安心していました"
],
[
"用事はお会いしないと話せないことです",
"それではお眼にかかれぬと申しますが"
],
[
"いいえここにはおいでなさいません",
"どこへいらしったんです、おかたづきになったんですか、それとも……",
"さようなことは私からはお返事がなりかねます",
"僕はききたいんだ、きかなくてはならない理由があるんだから、教えてくれたまえ、富美子さんはどこにいるんです",
"お返事はできません、お引き取りください"
],
[
"僕は富美子さんに会いたいんです、会わなければならないんですよ、それはあなたがどうお考えになるかということとは問題がまったく別なんです、どうか教えてください富美子さんはどこにいらっしゃるんですか",
"君はいったい何者です、どういう権利があってそんな押付けがましいことが云えるのですか、家の娘がどうしたというのです",
"ひと言だけ申し上げましょう、僕は五年まえに富美子さんと将来を約束した人間です"
],
[
"君は他人の娘を侮辱するつもりですか、富美子がそんな猥らな娘だということを親の私に面と向かって云うんですか",
"将来を約束することは猥らではありません、それはあなたの偏見です、しかし今ここであなたの偏見を指摘してもしようがない、ただ申し上げたいのは富美子さんは親権者の承認なしにも結婚のできる年齢に達していることです、したがってあなたには富美子さんの結婚を阻む権利はないのです"
],
[
"云いましょ、お嬢さんは……苦しい",
"云うなら楽にしてやるよ、そら"
],
[
"西洋の尼さんになるだとおっしゃって、山沢の修道院へお入んなさったですよ",
"山沢というのはどこだ",
"ここから南へ二里ばかりいった所です、仙台から疎開して来たとかいうことで、そこにゃあ尼さんが大勢いましたっけ。へえ、私がそのときお嬢さんの供をしてめえったです",
"それを人に話してはいけないと止められていたのか",
"旦那さまは家から耶蘇の尼を出すなんて家名の恥辱だとたいへんなお腹立ちでした、もう杉浦の者ではない、親子の縁を切るとおっしゃったです"
],
[
"……ここへ入る決心をするまでには、単純には申し上げられないことがたくさんございました、でもいちばん重要なことは、あなたのいらしった部隊が玉砕したという報知のあったことです",
"その点はいま解決したはずだ"
],
[
"ほう、あれは長瀞へ持って来てあったの",
"花の咲かないということが可哀そうでしたから",
"なにリラは寒い所が合うんだ、北海道へいったらきっと咲かせてみせるよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「新青年」公友社
1946(昭和21)年5月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"みごとだった。平手、みごとだったよ",
"今日は調子がよかったんだ",
"そうじゃない、実力だ"
],
[
"しかし、なぜ先生は納屋さんとの勝負を一本で止めたんだろう",
"一本で充分だったのさ",
"そうは思えないんだが"
],
[
"なにか御用でもあるのか",
"あとでお話があるそうです"
],
[
"そうか、いよいよきたな",
"どうだかな",
"ほかにあるものか"
],
[
"なぜですか",
"そこもとはわが流儀に外れた技を遣う、この道場では流儀外れの技を教えることはできない",
"どこがですか"
],
[
"私のどこが流儀に外れているんですか",
"それは自分で考えることだ",
"いや仰しゃって下さい、私に悪いところがあれば、それを指摘して下さるのが貴方の責任ではありませんか",
"それは師弟のあいだのことだ"
],
[
"もういちど云おう、そこもとは会得すべきものはすべて会得した、これ以上わしの教えることはない、それだけだ",
"するとつまり、つまり、私に出てゆけというわけですか",
"私はそうは云わなかった",
"わかりました"
],
[
"代師範を五人も総舐めにし、どうやら貴方もこころもとないので、それで私を追い出そうというのでしょう",
"わしがこころもとないって",
"ほかに理由がありますか"
],
[
"本気ならどこへでも出ますよ、だがいざとなって逃げるんじゃないでしょうね",
"文句はあとだ、出ろ"
],
[
"おれは放逐だ",
"なんだって",
"おれはこの道場から放逐されたんだ",
"平手、――"
],
[
"置き土産におれがどれだけ遣うかみせてやる",
"待て平手、それはいかん",
"止めるな"
],
[
"納屋、試合はならん、わしが許さんぞ",
"道場の面目のためです"
],
[
"頭を打ったから失神したのでしょう。ほかに別条はないようです",
"その血はなんだ",
"歯です、歯が折れたから出たんです――村越と井野、納屋さんを部屋へ運んでくれ"
],
[
"おれに事情を話してくれ、先生にはおれから願ってみる",
"だめだ、万事終りだ",
"短慮はいかん、国のことを忘れたのか"
],
[
"神田の旅籠町におれの知った家がある、そこへいっていないか",
"有難う、しかしなんとかやってみる"
],
[
"いろいろ有難う、ではこの荷物を頼む",
"短気を起こさないでくれ",
"そうしよう"
],
[
"おじさん、雨宿りか",
"うん、まあそうだ"
],
[
"この雨はやみアしねえ、待ってたってやむ雨じゃありアしねえ、雪になるぜ",
"そうらしいな",
"わかっているのかい",
"そうらしいと云ったんだ",
"ふん、――"
],
[
"こっちも向うも、みんな空店のようだな",
"うん、不景気だからな",
"不景気で引越したのか"
],
[
"坊やの家では帰らないのか",
"おじさんはどうだい"
],
[
"こんな処に立っていられちゃ困るんだがな、おじさん",
"どうして",
"どうしてでもさ、やまねえとわかってるのに、雨宿りをしていてもしようがねえ、どこかほかへいってくれねえかな"
],
[
"じゃあ済みませんが、ほかへいって下さいませんか",
"此処では悪いか"
],
[
"こんな処に立ってたって、この雨はやみアしねえ、表通りなら往来があるから、拾ってってくれるような茶人があるかもしれませんぜ",
"拾ってってくれる、――"
],
[
"あんた、おなかすいたでしょ",
"そうでもない",
"いま起きるから待っててね",
"そうすいてもいないよ",
"もうお午ごろだわね"
],
[
"ばいたのくせにえらそうな口をききゃあがって、うぬをなんだと思ってやがるんだ、てめえ、おれに向ってそんな口をきけた義理じゃあねえ筈だぞ",
"おや、乙なことを聞くね、あたしがおまえになにか義理でもあるというのかい",
"白ばっくれるな",
"それはこっちで云うせりふだ"
],
[
"畜生、殴りゃあがったな",
"ぶち殺してくれるぞ"
],
[
"ほっ、おめえ、それを抜く気か",
"いいから帰れ",
"それを抜く気かって訊いてるんだ"
],
[
"けがのねえうちに出てゆくのが身のためだ、へんにきいたふうなまねをすると、生きてこの土地は出られねえぞ",
"お豊さん、ゆこう"
],
[
"ふざけるな",
"ふざけてはいない。出てゆくだけだ",
"うせるなら一人でうせろ、その女にちょっかいを出すな",
"それはこっちで云うことだ"
],
[
"きさまの云うとおり、おれは食いつめて飢え死にするところを助けられた、お豊さんは命の恩人だから、いっしょに伴れてゆく、きさまこそへたに騒ぐと後悔するぞ",
"やれるものなら、やってみろ"
],
[
"仕合せですって",
"さよう、またとない幸運と云ってもよかろう、だからここで"
],
[
"貴公は、信じないのか",
"私は、お豊をもらうよ",
"待ちゃあがれ"
],
[
"このとおり酔っているんだ",
"おれは酔っても腕まで酔いはしないぞ、おい平手"
],
[
"大きな声をしないで下さい",
"なんだって",
"蒲団部屋でいいと云ったのはあなたじゃありませんか"
],
[
"しかしこれでは、おれの寝るところがないよ",
"いいじゃないの、幸坊を挾んで寝ましょうよ。そのほうが温かくていいわ"
],
[
"でもあたしは淋しいわ",
"どうして……",
"どうしてでも……ねえ"
],
[
"事情があって道場を出た、住居が定まったら知らせる、という手紙がまいったきりでございます",
"それで私を訪ねて来られたんですね",
"はい、じつは父が急に亡くなったものですから",
"お父上が――"
],
[
"じつはこの二月から、平手は伊達家の下屋敷の道場へ助教にはいったのです、師範はいるのですが、老齢のために役に立たない、平手が一人で稽古をつけているんです",
"それで――",
"そういうわけで、まだはいったばかりでもあるし、稽古をぬけるわけにはゆかないだろうし、彼もちょっと困ると思うんです",
"でも――ほかのことではなく父が死んだのですから"
],
[
"わたくしでは、いけないのでしょうか",
"ところが遠すぎるし、話の都合で平手を伴れて来ます、そのほうが好便ですから"
],
[
"いま火だねを貰って来る",
"茶ならたくさんだ、それより道場のほうはいいのか",
"道場のほうは断わった"
],
[
"剣士になろうとして、家も妻子も忘れて修行したが、ついに故山へ帰って鍬を握り、自分の夢をこのおれに托した、おれには父の胸中がよくわかった、一日も早く一流の剣士になって、父によろこんでもらおうと思った、しかし、もうそのときは来ない",
"旅の修行者と試合をしながら亡くなったというのは、いかにも御尊父らしいと思う"
],
[
"遠藤とはどういう人だ",
"この下屋敷の年寄役だ、名は帯刀と云って、なかなか頑固でむずかしいじいさんだよ",
"いい話に相違ないぞ",
"どうだかな"
],
[
"菱川を逃がせば藩の面目にもかかわり、あとにいろいろ面倒が残る、よくやってくれた、と云って上機嫌だった",
"それだけか",
"うん、まあそうだ"
],
[
"もしあれなら、金杉にいるという二人のことは、私がなんとか考えてもいいぜ",
"なんとかとは",
"お豊という女は――私はいちど会っただけでよくわからないが、水しょうばいをしていたらしいじゃないか、よければ『山源』に頼んで、女中に使ってもらうという法もある",
"それは、できない"
],
[
"家族を江戸へ呼ぶというのは、妹が云いだしたのか",
"いや、いやそうじゃない"
],
[
"そうでなくっても、私には充分だ、まだ正式に免許を取っていないんだし、いつまでも二十五両三人扶持というわけでもないだろうからね",
"それはそうだ"
],
[
"千葉周作とやるつもりか",
"それはむろん不可能さ、だがおれのくふうした技をみっちり仕込んで、北辰一刀流にぶっつけてみるんだ、いま三人ばかり有望なやつがいるからね"
],
[
"すごいじゃないの、一と月に二十五両も下さるの",
"一と月じゃない一年にだ"
],
[
"もちろん、たいしたことではないだろうがね、しかし、それだけあれば、僅かずつでも、故郷へ送ることができると思う",
"それはそうね",
"もちろん、倹約してのはなしだがね"
],
[
"寺小屋へは、きちんとかよっているか",
"うん、いってるよ",
"清書があったら見せてくれ"
],
[
"うるさくすると帰るぞ",
"あらいやだ、あたしなんにもしやしないじゃないの、なにをそんなに怒るの",
"おれは気持が悪いんだ",
"だから、介抱してあげるんじゃないの、そんなに邪慳にするもんじゃなくってよ"
],
[
"怒ったの、平手さん",
"頼むから構わないでくれ",
"薄情ねえ、いいわよ"
],
[
"おれが嫌っていないことは自分でよく知っている筈じゃないか",
"じゃどうしてあたしを可愛がってくれないの、嫌いじゃないっていうのが本当なら、可愛がってくれないわけがないじゃないの",
"それとこれとはべつだ"
],
[
"もうおそいから寝よう",
"あたし平手さんのおかみさんにしてくれっていうんじゃない、そんなこと夢にも思いやしないわ"
],
[
"好きだよ",
"ほんとのことを聞かして"
],
[
"木剣ですか",
"そうだ、おれは竹刀でいい"
],
[
"野口が、捉まったって",
"猿若町の芝居茶屋に隠れているところを踏みこまれ、女といっしょに捉まって、たったいま伴れ戻されたということです",
"ばかな、なんという――"
],
[
"どうしてだ",
"必ず先生にとばっちりがきますよ、富原という人はそういう人なんです"
],
[
"女はどうしている",
"わかりません。富原さんが引取ったそうですが、それからどうしたか誰も知らないようです"
],
[
"私は自分のしたことを知っています、こうなることも覚悟していました、お願いですから私のことを放っておいて下さい",
"死んでもいいというのか"
],
[
"はい、仮住居があります",
"そこにいる女は……そこもととどういう関係があるのか"
],
[
"しかし、事情がちょっとこみいっておりますし",
"時間はいくらでもある、まさか一と晩で話せないほどこみいっているわけでもないだろう"
],
[
"それでは訊くが、女に隠し売女をさせているような人間を、家中の剣法師範に抱えるなどという藩があるだろうか",
"それはどういう意味ですか"
],
[
"もちろんそう思います",
"まだ若年の野口が、こんな忌わしい過失を犯したについて、師範のそこもとに忌わしい評があるとすれば、重職の立場としていちおう取糺すのは私の責任だと思う",
"では、私に忌わしい評があると仰しゃるのですか",
"単に評判だけではない。私は人を遣わして事実を慥かめてある"
],
[
"そこもとには可笑しいか",
"あんまりばかげています、もっとも野育ち同様で、することに遠慮がありませんから、なにか誤解されたかもしれませんが",
"では、自分で慥かめてみるがいいだろう",
"お望みなら慥かめます",
"私には、その必要はない、私のほうはもうわかっているので、慥かめるのは、そこもと自身のためだ"
],
[
"誰か証人を一人付けて下さいませんか",
"無用だろうね",
"いけないのですか",
"いけなくはない、無用だろうと云うのだ"
],
[
"待って、平手さん、待ってよ",
"おまえは黙れ"
],
[
"遊びにいってるわ",
"この時間にか",
"ねえ、お願いよ平手さん、わけを話せばわかることなんだから、ちょっとあたしに話させてよ"
],
[
"いいわ、そんならあたしも出てゆくわ",
"なんだと"
],
[
"おまえ酔っているな",
"酒を飲めば酔いますよ",
"お豊――",
"あんたなんか嫌いよ、平手さんなんか、三ちゃんいっしょにゆこう"
],
[
"出てっちゃ悪いの",
"おちつけ、おちついて考えてみろ、おまえが四つ目裏から逃げだしたときのことを忘れたのか"
],
[
"おまえは酔ってるんだ",
"あたしをとおしてちょうだい"
],
[
"あたしに触らないでよ",
"お豊、私の云うことを聞け"
],
[
"そこもとの話によると、お豊というその女も尋常な性分ではないようだ。私の聞いたところでは、そして、これはかなりたしかなことらしいが、お豊はしばしば近所の男をひきいれて、いかがわしい行いをしていたという、そこもとは、二十歳ではないかもしれない、だが、酒も飲まず遊蕩もしないそうだ、それでもお豊とは、かかわりがなかったというではないか",
"もちろん、そんな関係はありません",
"どうしてだ",
"それは――しかし、私のばあいは違います",
"ではそこもとが、野口の立場にいたとしたら、やはり誘惑に負けると思うか"
],
[
"では、佐藤どのの告げ口か",
"富原さんとは昵懇のようですから"
],
[
"おれのほうへはなんの便りもない",
"それは私が注意したからだろう、もう少しおちつくまでは、手紙を出さないほうがよかろう、相談があったら私に云って来るようにと、このまえ江戸から帰るときに念を押しておいたんだ"
],
[
"なにがやむを得なかった",
"明らかに道場やぶりに来たようでしたし、海保さんたち三人が負けたものですから、道場の名聞のためにどうしても勝たなければならなかったのです",
"私は技を使うなと云ってある",
"それは、――他流との試合だからいいと思いました"
],
[
"それは打つ打たれるの問題だ",
"しかし勝負は"
],
[
"技によって勝つ者は、技によって必ず負ける、技はくふうすればあみだせるし、くふうは一人だけのものではない、平手のあみだす技が神妙だとすれば、平手のあとに、もっと神妙な技をくふうする者が出るだろう、それは道の精神に反するし、まったくの邪道だ",
"お口を返すようですが、勝負は技の優劣できまるのではないでしょうか",
"私はそんなことを云ってはいない",
"しかし、勝敗は常にあります"
],
[
"私も、身のふりかたを考えなければならないらしいよ",
"なにか思案があるのか",
"ないこともないが、いずれそのときになってから相談するよ"
],
[
"反対する理由はなんだ",
"破壊や殺戮によって事を行うことが、承服できないのです",
"ほかに手段のないときでもか",
"いかなる場合にもです"
],
[
"侍が臆病者と云われて、そうですかで、済むと思うのか",
"海保さんがそう云いたいものを、私が止めることはできませんからね"
],
[
"おれが喧嘩を売るって",
"天下とか、政治とか道義とか、口でいきまくくらいのことはたやすいですからね、また臆病者だとか卑怯者なんていうことも、口で云うぶんには、たやすいものですよ"
],
[
"なにが侮辱です",
"いまの言葉は侮辱だ",
"臆病者とか卑怯者とか云うよりもですか"
],
[
"それはよしましょう、貴方は酔っている",
"道場へ出ろ"
],
[
"ばかなことを云うな、いいからもうよせ",
"すると、若先生は私が平手に負けたと仰しゃるんですか"
],
[
"なんの病気なんだ",
"知らない、聞いたけど覚えてないよ",
"病気というのは、嘘だろう",
"嘘なんかつかないよ、本当に病気なんだ、河内屋の旦那が湯治にゆけっていうんだけど、どうせ死ぬものなら江戸で死にたいって、医者もずいぶん云うんだけども、どうしてもきかないんだよ",
"寝たっきりなのか",
"寝てなければいけないのに、すぐ起きちゃうんだ、二度も血を吐いたんだよ"
],
[
"いまどこにいるんだ",
"深川の佐賀町だよ",
"河内屋の旦那と云ったが、その人の世話になっているのか",
"うん、旦那はいい人だよ"
],
[
"みんなというのは、あの三平という男もか",
"本野さんていう、御家人くずれもいたし、てっぽう安っていう、いつか平手さんが亀戸でやっつけた、あにきとかさ"
],
[
"いまお医者さんが来て帰ったところなんです、寝ていろってうるさく云われるんですけれど、どこも痛くもなんともないのに寝ているなんて辛いんですよ",
"どこが悪いんだ",
"労咳でしょ、医者はそう云わないけれど、あたしにはわかっているんです",
"いけないな――"
],
[
"久しぶりで晩の御飯をいっしょに喰べたいんだけれど、あがって下さる",
"ながくはいられないんだ",
"きみが悪ければいいんですよ",
"病気なんかは平気だが、おそくなると道場がやかましいんだ"
],
[
"お別れだもの、まねぐらい、いいでしょ",
"まねだけだよ",
"心配しなくっても大丈夫よ"
],
[
"ほんの少しよ",
"その病気には、酒はいけないんだろう"
],
[
"自分でそう思うだけだ、病気を持っていて酒がいいなんていう理窟があるか",
"平手さんにはわからないのよ",
"そんな理窟は誰にだってわかるものか",
"そうよ、わかりやしないわ"
],
[
"そういうことをするんならおれは帰る",
"平手さん"
],
[
"遠いわねえ",
"なにが",
"え、ええ、草津がよ"
],
[
"ええ、そうするわ",
"それでいい、道中の無事を祈っているよ"
],
[
"おれが怒るって――",
"怒られるだろうと思うし、怒られるのが当然かとも思う、しかし、正直にうちあけるから怒らずに聞いてくれないか"
],
[
"じつは、おれはもう、かやさんと結婚しているんだ",
"結婚だって――",
"今年の二月だ"
],
[
"それはどういう意味だ",
"このまえ会ったとき、おれは淵辺道場がだめだということを話した、実際そのとおりだったし、現在では没落はもう時間の問題だといってもいい、おれはこんな体で、淵辺にいるから食ってもゆけるが、あの道場からはなれれば生活ができない"
],
[
"田舎のお母さんの承諾は受けている、平手にはそのまえに相談したかったのだが、反対されることはわかっていたし、事情がいろいろ切迫していたものだから、怒られるのを覚悟のうえでそうしてしまったんだ",
"おれが不承知だとわかっていたって",
"平手は望みが高い、かやさんを小商人の嫁などにくれるわけがないからな"
],
[
"かやとはまえからなにかあったのか",
"このまえ出府されて帰ってから文通はしていた、そのほかにはなにもない",
"そして二人だけで、結婚をしたんだな",
"もちろん、形だけだが式も挙げたし、田舎から油屋六兵衛という人とつやさんが来た、仲人は黒門町の店の家主夫婦に頼んだ",
"つやも来たのか",
"いま店で手伝ってもらっているんだ"
],
[
"母が出府するとすれば、いつごろなんだ",
"十月初旬には、来られるだろうと思う",
"みんな黒門町に住むのか"
],
[
"狭くて御不自由だろうが、平手が独立するまでのことだし、他人がはいるわけではないですからね",
"話はそれだけだな"
],
[
"私は今月限りで、淵辺道場を出るつもりだ、そうなれば、店でいっしょに暮すことになるから、そのまえに、いちど来てもらって",
"いやだね"
],
[
"秋田には、ずいぶん世話になっている、その点では、いまでも有難いと思っているが、世話になったことと、この問題はべつだ",
"たしかに",
"おれも正直に思うことを云うが、ここまで無視されればもう充分だ"
],
[
"父が死んだあとは、たとえ形式だけにしろ、おれは平手の家長だ、そのおれに無断で、そこまで事をはこんだとすれば、もうおれの出る幕はないだろう",
"しかし、こうするには、やむを得ない事情があったんだよ"
],
[
"なか(吉原)はいかがです。なかへやっておくんなさいな旦那、お安くまいりますぜ",
"そんな金はない、一杯飲むだけだ",
"一杯めしあがるお金があるんなら、結構なかで遊べますぜ、旦那はもちろん御存じだろうが、通な遊びは小格子ってえますからね、大店は田舎者の遊ぶところだから、ばかな金をふんだくられるだけでさ、そこへいくと小格子はちょくで情があって――"
],
[
"一分で遊べるか",
"一分ですって――遊べるどころじゃあねえ、飲んで食って遊んでお釣が来ますぜ",
"本当だな",
"御存じのくせに、旦那はお人が悪いや"
],
[
"帰るから、勘定をしてくれ",
"ああいやだ、なにを仰しゃるんですよ"
],
[
"いいじゃないのおばさん、どうしてもお帰りになるっていうんだもの、お好きなようにしてあげなさいな",
"そうだわね、それほど花魁がいっても、お帰りになるっておっしゃるんならしようがないわね"
],
[
"躯のぐあいでもお悪いか",
"いや、なんでもない"
],
[
"詳しいことは知りません、腰とか太腿とかを斬られたそうで、命には別条はないということでしたが、このところ二三回そんなまちがいがあったそうで、みんな騒いでいるらしゅうございます",
"此処は入谷あたりだな",
"へえ、金杉上町でございます",
"爺さんはこの近くか",
"もうちっと向うの、箪笥町の裏店ですが、いかがですかな、夜の明けるまで休んでおいでになりませんか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第五巻 山彦乙女・花も刀も」新潮社
1983(昭和58)年7月25日発行
初出:「税のしるべ」大蔵財務協会
1955(昭和30)年1月~7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「髪毛」に対するルビの「かみのけ」と「かみ」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"初出": "「税のしるべ」大蔵財務協会、1955(昭和30)年1月~7月",
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[
[
"どうしても、行ってしまうの、信之助さま。どうしても、もう……帰っては来ないのね",
"帰って来るとも、命さえあったら",
"きっと帰っていらっしゃる",
"帰る、きっと帰って来る、此処は清水家の故郷だもの、何百年の昔から御先祖が骨を埋めて来た土地だもの、望みを果したらきっと帰るよ",
"待っていてよ、香苗は待っていてよ、……ですから"
],
[
"庭の辛夷よ、帰っていらっしゃる時まで持っていてね、香苗も一輪、――大切に持っているわ、そしてこんどお眼にかかる時には、二人でこの花を出し合って見るの",
"有難う、大切に納って置くよ",
"そしてその花があなたをいつも護りますように"
],
[
"その日に、……あの方は?",
"清水と私とは別れ別れになりました、それ以来、私は彼を見ないでしまいました。……集中して来た砲弾が私たちの小隊を全滅させたのです。生残ったのは、……片足を失った私と他に、人夫が二人だけでした",
"ではあの方は、あの方は……信之助さまは",
"私は二度と彼を見ませんでした"
],
[
"なにか、云ったのですね。……失礼でした、すっかり頭が狂っているものだから。……自分でも訳の分らぬ言を云うのです、時々。……恐らくまたあの戦の時のことを申したのでしょう",
"戦争でお怪我をなすったのですね",
"そうです、伏見の戦でした、敵の砲弾にはね飛ばされて",
"伏見。……伏見の戦で砲弾に……"
],
[
"あなたは鳥羽で、鳥羽で戦ったのですね、鳥羽の戦で大砲の弾丸に。……それでは若しや、若しやあなたは、信之助さまではございませんか、清水信之助さまでは",
"信之助……清水……"
],
[
"御尼僧。……あなたも、誰かを待っておいでなのだな",
"…………",
"出来ることなら私は、その人だと云ってあげたい、けれど。……私にも捜している者がいるのだ、あなたが待っているように、私にも私を待っていて呉れる者がある。……私は大野将軍の副官として些かの働きをした功で、将軍の家に引取られていた、そこにいれば安穏な生涯が送れた。……けれど私は、そこを出て来たのです、私を待っていて呉れる人に会いたいと思ったからです"
],
[
"…………",
"さようです、ひょいと行っておしまいになりましたですよ、誰かあの人を待っているからと仰有いましてね。……月心さま、ですからもう一人も此処には居りません、この救護院はじまって以来のことでございますが、一人もいなくなりましたですよ"
]
] | 底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「少女の友」実業之日本社
1940(昭和15)年4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"はい、存じております",
"今からこの手紙を持っていって貰うのだが、たぶん暫く向うにとどまることになるだろうと思う、嵩ばる物はあとから届けるとして、さし当り必要な品はまとめてゆくがよい",
"そう致しますとわたくし……"
],
[
"あれはなんという樹か知っているか",
"どれでございましょうか",
"あの林になっている樹だ"
],
[
"然し、然し、果してこれが過誤だったでしょうか",
"苛斂誅求は政治の最悪なるものだ、その一つだけでも責任の価はきわめて大きい、これだけでも進藤主計の罪は死に当るだろう、そしてこれは、……これは初めから覚悟していたことなのだ、今日あることは……"
],
[
"おんなの手というものは、温かいものだとばかり思っていたが、案外つめたいのだな",
"つめとうございましょうか",
"ただつめたいのではないのだろうが、もっと温かいものだと思っていた、それとも人に依っても違うのか",
"おんなはからだのつめたいものだと俗に申すようでございますけれど"
],
[
"…………",
"おまえの父が死んだとき、中村惣兵衛におまえたち母子を頼んだのは、わしだ、またこんどもわし自身だ。……それはわしにとって惜しい人間だった浜野新兵衛の遺児が見たかったし、できることなら、責任を果したうえで討たれてやるつもりだったからだ、然し、……おまえは今朝、懐剣を持っていないようではないか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談倶楽部」博文館
1945(昭和20)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"その――欲しいんです",
"でもやつはすぐに屍ばっちまうぜ、もう青虫を喰べることもできやしないんだ、ふた月も生きちゃいないぞ",
"一両だしますから"
],
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"そんなものを独りでこそこそ見るなんて、どういうつもりかわけが知れねえ",
"だが気をつけなくちゃいけねえ、きゃつはそのうちに何かしでかすぞ",
"みんなでよく見張るんだ"
],
[
"もう駄目らしいわねえ",
"――うん"
],
[
"どうせ駄目なら今のうちにつぶしちゃったらどう、あたしが絞めてあげるよ、羽根でふわふわした首をぎゅっと絞めるのは良い気持だわ――",
"そんな……罪なことを云うものじゃねえ、商売でもおめえ――",
"気が弱いのねあんた"
],
[
"どうだか、あの人は意久地がなくって、飯がすめば死人のように寝てしまう、まるで年寄みたいだから――",
"――なあ"
],
[
"わたくしは間違いをしました、わたしはあの牝豚の畜生をやっつけるつもりでした",
"なぜ女を殺す気になったのだ",
"あの男には何も恨みはなかったのです、あの阿魔こそ……"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「アサヒグラフ」
1936(昭和11)年8月12日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057704",
"作品名": "蛮人",
"作品名読み": "ばんじん",
"ソート用読み": "はんしん",
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"初出": "「アサヒグラフ」1936(昭和11)年8月12日号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
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"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
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"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月25日",
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"校正に使用した版1": "1985(昭和60)年1月30日2刷",
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[
[
"桃が咲いてなぜどきりとするんだ",
"一種の前兆、といったものかどうか、なにかしら起る、これは単に桃が咲いたというだけのものじゃない、吉か凶かわからないけれどもとにかくなにか起る、こうしてはいられない、といった感じだねえ"
],
[
"どうですかなこれは、どんなものですかな",
"さよう、どんなものでしょうか"
],
[
"――私ども玄武社同人としても、無関心ではおられぬので、いちおう貴方の方針も聞き、私どもの意見も申し述べたいと思う",
"どうぞ云って下さい、聞きましょう"
],
[
"ぶきようで、腰が弱いんだな、もうひと息というところがうまくいかん、そら来い、黒",
"なるほど、うまくないですな"
],
[
"前田甚内などもその組だろう、あれはいつも落し物をしたような顔をしておる",
"前田って家老の前田さんですか"
],
[
"おまけに彼は胆石もちときている、自分では消化不良だなぞと云っておるが、……おまえ見たことのない顔だな",
"そうでしょう、まだ来たばかりですから",
"ではよく見てみろ、わしは保証するが甚内は胆石もちだ、あの顔色は……お?"
],
[
"いやべつに、なんでもないです、どうぞ気にしないで下さい、ほんのちょっとした者なんですから",
"ちょっとした者とはなんだ、いったいどこから来たんだ"
],
[
"――たしかに見えました",
"これは昔は単に堰といわれていたのです"
],
[
"そうするとつまり、この堤防が出来てから竜神川という名が付いたわけですか",
"さよう、それも御城代の撰ですよ"
],
[
"しかしそれはぐあいが悪いですね、いつも側にいて顔を見ないというのは",
"会えば尤もだと思うでしょう"
],
[
"三男坊のひやめしなもんですからね、こんな贅沢な芸当は習わして貰えなかったんです、済みませんが煎茶にして下さいませんか",
"芸当とは仰しゃること"
],
[
"なにもむずかしいことはないんですよ、楽に召上ればそれが作法なんです、わたくしだって真似ごとですから",
"そうですか、それなら無礼講ということで頂きますか"
],
[
"――実はいま御城代のことを考えていたんです",
"わたくしの顔と主人となにか"
],
[
"――反対どころではない、私は御城代ほどの美男をこれまで見たことがありません",
"美男ですって?",
"それも天下第一級のです"
],
[
"――あのときはわたくしも悪かったのですから、わたくし貴方が冗談を云ってらっしゃるとばかり思ったんですの、でもあとで考えてみると仰しゃることがよくわかりましたわ、それでいちどわたくしからお詫びを",
"ちょっと待って下さい"
],
[
"どうもそう仰しゃられると困るんです。実に困るんです、というのがですね、やっぱり私はお詫びをしなければならないんですから",
"あら、どうしてですの"
],
[
"――あのまえは貴女のことを不躾けにみつめて、貴女からお咎めを受けました",
"ええそうでしたわ、それで?……",
"あれは、実は御城代のことを考えていたのではないのです、もちろん御城代が天下第一級の美男だということには変りはありませんが、あのとき考えていたのはべつのことなんです"
],
[
"――私の口から云うのはへんですけれど、非常に美しい人で、それはもう非常に美しくって、私は子供ごころにも姉の美しいのが自慢だったのです",
"その方はもうお嫁にいらしったのね",
"いいえ亡くなりました、十九の年に、嫁入りを前にして死んでしまったんです",
"まあお嫁入りまえに……"
],
[
"はあそうですか、お一人、……本当ですか",
"まあいやだ、どうしてそんなことを仰しゃいますの",
"それがあれなんです"
],
[
"――近いうちにいい知らせが耳にはいるでしょう、もう暫くです",
"笙子嬢を怒らせたそうですねえ"
],
[
"――わが藩の城下の東北には竜神川が流れておる、こう云ってごらんなさい、実に堂々として、百万石の大藩のおもむきがあるじゃないですか、これをもし、東北には堰がある、などと云ったらどうでしょう、まるで申しわけでもしているようじゃありませんか、……かれらにはこのくらいの理窟もわからない、したがってこの堤防の意味なども、ぜんぜん理解ができないわけです",
"堤防についてなにか申しておるのか"
],
[
"あの壮厳な、不易の大磐石のような、古今無類の大堤防、あれなら天地のひっくり返るような大洪水でもびくともしやあしません、百年、千年、万代ののちまで微動もしないですよ、これでこそ政治というものです、これだけの川に対してこの大堤防、これが百年の政治というものです、……金が何千万かかろうとなんですか、金なぞはどしどし租税を取立てればよろしい、そのために百姓が首を吊ろうと、娘を売ろうと一家離散しようと、へ、……いったい百姓とはなんですか、百姓とはなんですか、百姓などというものはそこいらの雑草か虫けら",
"ばかも休み休み云え、黙れ"
],
[
"農は国の基い、百姓は国の宝というくらいだ、この堤防工事については多少のむりがあり、わしも考える点がないわけではない。零落した農家などには、賠償という法もとるつもりである",
"これは驚きました、御城代はそんなことを気にしていらっしゃるんですか",
"わしのことを申すな、うるさい"
],
[
"それともなにかほかの競技でございますか",
"どうしてまたそんなことを訊く、囲碁に定っているではないか"
],
[
"――これが囲碁、……まあ珍しい、こんな妙な布石を拝見するのは初めてでございますわ",
"それはおれのせいじゃない"
],
[
"――ところが愚劣な人間がいるもので、あれは戦略上不都合だなどと云う、道路が曲折していてこそ、いざ合戦のときその角々で防戦ができるというんです、へ、……それは戦争をどう思ってるんでしょう、生死を賭した合戦に、敵の軍勢が曲りくねった道を曲りくねったなりに進んで来るでしょうか、そんなばあいに交通道徳を守る軍隊があるでしょうか、……知れたことです、風上から火をかけて焼き払いますよ、碁盤目も曲折もへちまもありゃしません、さっぱり焼き払って攻めますよ",
"たいへん失礼ですけれど、貴方のお手番ではないでしょうか"
],
[
"――大切な領民を魚や虫けらと同一に扱うやつがあるか",
"わかっていますわ、お父さま"
],
[
"こちらは、笙子がお邪魔で碁をお打ちになりたくないんです、それでただ用もない話をなすっているだけなんですわ",
"おやおや、お嬢さんまだそこにいらしったんですか"
],
[
"いまね、お父さまと大事なお話があるんですよ、貴女には興味のない御政治のことでしてね、お父さまもたぶん貴女にはお聞かせしたくないでしょう、ひとつあちらへいらしって下さい、貴女は聞きわけがおありですねえ",
"笙子、あっちへいっておいで"
],
[
"例えば外壕埋立てと輪番制の耕作ですが、あれには閑地利用と遊休労力の活用という大きな意味があるでしょう、そこをもっと押し進めて全部の侍に耕作させ、百姓なんか領内から追っ払ってしまう、ということも考えられる、ところがかれらにはわからないんです、現在の輪番制でさえもかれらは怒っているんです、かんかんに怒っているんですから、貴方がごらんになったら腹を抱えてお笑いになりますよ",
"どうしてまたおれが笑うんだ",
"だってかれらの無知は底抜けで、三歳の童児も同じことですからね、そうじゃないですか御城代"
],
[
"――しらばっくれるな、われらはみんな知っているんだ、きさまは埴谷城代を隠退させるために来た、にも拘わらず、きさまは城代におべっかを使い、ごまをすり、逆に城代を居据らせてしまったではないか",
"私が城代におべっかを使った?",
"竜神川の堤防を莫大な功績だと褒めたろうが"
],
[
"――町筋改修は歴史的大事業、百姓町人は虫けら同然と云ったろうが",
"しかもわれわれを無知無学、ばかで盲人で近眼で、女の腐ったのとぬかしたではないか",
"ええ面倒だ、抜け"
],
[
"わかった、諸兄は剛健の気に昂奮しているらしいから、弁解をしてもむだだろう。しかしこんな処で勝負はできまい",
"逃げを打ってもその手は食わんぞ"
],
[
"おれは今日、辞職の届けを出した",
"な、なんですって、御辞任?……",
"これでおまえも本望だろう"
],
[
"――御城代のような無双の才腕をもち、第一級の",
"美男か、わかった、なにも云うな、おれは手続きを済まし老職は受理して、明日は江戸表へ届けの使者を出すことになった",
"それは大変、これは一大事です"
],
[
"――おまえいやにおれを褒めたり、賞讃するようなむやみなことを云って、それでもっておれに辞職の決心をさせたではないか、なにが一大事だ",
"なにがと云って玄武社の連中と喧嘩です"
],
[
"――あれはごまかしです、あの衿は初めから綻ろびていたんで、それを見たものですからちょいと鍔を鳴らして、だって御城代、衿の縫目を正面から切るなんて、そんな手づまみたいな芸当ができるわけがありません",
"なんとこの、実におまえというやつは"
],
[
"――望みなら辞職届けの使者ということにしてやるぞ",
"ぜひお願いします、但し今夜のうちに出立しますから、すぐお手配をして下さい"
],
[
"ついては一つお願いがあるのですが、というのはです、……江戸へ帰るのにですね、その、あれです、お嬢さまを頂きたいんですが",
"なんだと、笙子を、江戸へ?……",
"私の妻に頂いて帰りたいんです",
"あれは埴谷の一人娘だぞ",
"私は三男ですから婿にゆけます"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1951(昭和26)年7月
※初出時の表題は「半之助奔走《はんのすけほんそう》」です。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057707",
"作品名": "半之助祝言",
"作品名読み": "はんのすけしゅうげん",
"ソート用読み": "はんのすけしゆうけん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「キング」大日本雄辯會講談社、1951(昭和26)年7月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-01-01T00:00:00",
"最終更新日": "2020-12-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57707.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年11月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年11月25日",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年11月25日",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
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} |
[
[
"気味が悪いよ又平さんは、わたしが茶碗を欠きさえすればきっと嗅ぎつけてやって来るんだね。本当に妙な鼻だよ",
"鼻じゃない耳さ、えっへへへへ"
],
[
"武士は轡の音で眼を覚まし、又平は茶碗の欠ける音で駆けつけるってな、諺にもあるだろう",
"そんな話は聞いたこともないよ",
"ところで今度は何だね",
"この茶碗さ",
"えっへへへ有難え、貰っておくぜ"
],
[
"変だよ、全く変だよ又平さんは。いったいそんなに欠け皿や欠け茶碗を持って行って何にするのさ",
"これがおいらの道楽さ。欠けっ振りのいい皿や茶碗を集めて、じっとこう眺めている気持は何とも言えねえ味なんだ。どうかこれからもせっせと欠いておくんなさい",
"馬鹿におしでないよ"
],
[
"あ、まあお嬢さま",
"そんなに驚かなくてもいいわ。いまおまえ又平と欠け茶碗がどうかしたとか話していたようだけれど、あれは何のことなの?",
"はいお嬢さま、あの又平はずいぶんおかしな人で、わたしが粗相をして欠いたお皿やお茶碗を集めているのでございます",
"何にするんですって……?",
"道楽だと申しております。欠けっ振りのいい皿や茶碗を並べて、じっと眺めていると嬉しくなるんだなんて、本当に半化けは半化けらしいことを申します",
"お黙りなさい"
],
[
"又平は下郎でも男です。女のおまえがそんな悪口を言ってはなりません",
"はい、すみません",
"それから、こんなことは誰にもおしゃべりをするんではありませんよ"
],
[
"やい又平、貴様はこの城下で美しい娘が何人いるか知っているか",
"えっへへへへ一人は知っています",
"誰だ、どこの娘だ",
"こちらのお嬢さまでさあね"
],
[
"馬鹿でも椙江さまの美しいのは分かるとみえるな、――どうだ又平、貴様お嬢さまの婿君になる気はないか",
"でも……身分が違うから――",
"わっはっはっははは"
],
[
"こいつめ、身分が違うなどと本気になっているぞ。もし身分が違わなかったらどうする",
"違わなかったら……まあ止しましょう",
"どうして止すんだ",
"言うとまた皆さんが笑うから"
],
[
"や、これは、お嬢さま",
"大勢で下郎を弄り物になさるなどと、見苦しいではありませんか。冗談も程になさらぬと、父上のお耳に入れまするぞ",
"と、とんでもない。ほんの座興で、決して弄り物などに致した訳ではございません。どうか御勘弁を"
],
[
"おまえ、門人衆のつまらぬ冗談にかかわり合ってはいけません",
"へい",
"あの人たちはおまえをからかっているのです。何を言っても知らぬ顔をしておいで。分かりましたね",
"へい有難うございます"
],
[
"けれどお嬢さま、本当のところを申しますと、からかっていたのはわたしの方でございますよ。えっへっへへへへ",
"何ですって――?"
],
[
"木剣の一撃で大皿を、まるでお豆腐のようにお切りなすった秘術――あれこそ古中条流『忍び太刀』の一手でござりましょう",
"な、何と……",
"下郎に姿こそやつしても、まことは名ある御方とお察し申しました。仔細あれば他言は致しませぬ。どうぞお打明け下さりませ",
"えへへへ、どうも、えへへへへへ"
],
[
"どうも、そんなにおっしゃられると面目がございません。名ある御方にも何にも、下郎又平は下郎又平で、へへへへどうか",
"いえ、お隠しなされても駄目です。百人に余る門人衆のうち、一人としてまだ伝授された者のない『忍び太刀』の秘手、そうやすやすと会得できるはずがござりませぬ",
"いや驚いた、これは驚いた、――すると、なんでございますか、いまの皿割りが、古中条流の大事な術に似ているとおっしゃるのでございますか。へえ……こいつは占めた"
],
[
"それではわたしはもう、大先生と同じ腕前になった訳ですな。さあ大変だ。そうだとするとこんな下郎などはしていられないぞ",
"――又平",
"いやそれは冗談ですが、実はこうなのですお嬢さま、わたしも八重樫道場の下郎とあれば、木剣の持ちようぐらい知らなくては恥だと思いまして、毎日あの道場の溜りの後ろ窓から皆様のお稽古振りを拝見していたのです。そのうちに門前の小僧なんとやらで、自分でも木剣を持ってみたくなり、ひとりでこっそり悪戯を始めたのでございました。しかしただ木剣を振廻すだけでは面白くありません。そこでお松さんから貰い溜めてあった欠け皿や茶碗を持出し、先生の型の見よう見真似で据物の真似事をしていたのです、――という訳で、べつにそのほかには何も仔細があるの何のという訳ではございません。それどころか、こんなことが皆様に知れるとまたいじめられますから、どうか内証にしておいて下さいまし",
"それでは、どうしても本当のことを打明けては下さらないのですか",
"打明けると言えば、いま申し上げただけでぎりぎり結着、これ以上は逆さに振って絞っても出る物はございません。どうか内証にお願い致します。でないと本当に困りますので、えへへへへ"
],
[
"承知の通り儂には娘が一人しかない。そこで、ただ今からここに集まった者五名で勝抜き試合をしたうえ、最後に勝った者へ古中条流の秘伝、忍び太刀、浮き太刀、飛電、小波、火竜――の組太刀、並びに極意を授け、また娘椙江とめあわせて八重樫の家名を相続させたいと思う。どうじゃ、一同これに異存はないか",
"――ははっ"
],
[
"何で異存がござりましょう。仰せの趣有難くお受け致しまする",
"いずれも同意じゃな",
"ははっ"
],
[
"さらば、早速ながら勝抜き試合を致す。組合せはこれに認めてあるぞ、――いずれも用意",
"畏まりました"
],
[
"なんだ椙江、ここは女子供の出る場所でないぞ、控えて居れ",
"お言葉ではござりますが、この勝負はわたくしにとっても生涯の大事お怒りを承知でお願いがござります",
"なるほど、勝抜いた者をそなたの婿に定める勝負、徒に見過ごせぬというも道理じゃ。して願いとは何事だ",
"恐れながら、この試合へ、下郎又平をお差加え下さりますよう"
],
[
"なに、下郎を加えよとは?",
"仔細はのちに申し上げます。椙江が一生の良人を定める大事、枉げてお聞届け下さいませ"
],
[
"ど、どういうわけでございますか、何か悪いことでも致したなら、御勘弁下さい、どうかひらに御勘弁を",
"いや何も謝ることはない"
],
[
"お嬢さまのお望みで、その方と拙者共と試合をするのだ、さあ立て",
"と、とんでもない、そんな",
"ええ面倒だ。誰か道具を着けてやれ"
],
[
"は? 伊丹氏と立合いまするか",
"又平と勝負じゃ、早く"
],
[
"先生の仰せじゃ、又平来い",
"そ、そ、そんな馬鹿な、わたしは負けましたので、こ、この上やったら殺されます。どうか御勘弁",
"先生の御意じゃ、竹刀を持て"
],
[
"しかしまだ最後の勝負が残っております。勝ち残りました我ら二人の内いずれか、先生の跡目相続を定めて頂いたうえ……",
"分からぬ奴だな"
],
[
"下郎又平を相手の試合、両人とも己れの勝ちと思いおるか",
"は、その、まさに手前共の……",
"駄目だ、そんなことではまだ古中条流の極意伝授など思いもよらぬ。――よく見よ、勝ったはずのその方たちが、二人とも大汗をかいているのに、又平は汗どころか呼吸も変えてはいなかったぞ",
"し、しかしそれは、その",
"見苦しい、申すな。隠退しようと思ったが、この有様ではとても覚束ない。跡目相続のことは延期とする。いずれもなお両三年勉強するがよい、これまで!"
],
[
"あ、又平、早く、父上が",
"お退き下さい"
],
[
"又平か。こやつら……儂を闇討ちにして流儀の秘伝と、娘椙江を横奪しようというのだ",
"奇怪な、――"
],
[
"それっ、おのおの、やってしまえ",
"心得た!"
],
[
"先生にはお怪我もなく祝着に存じます。早速この趣を届け出でまして",
"いや待たれい"
],
[
"ではあの、お赦し下さいまするか",
"貴殿ほどの人に伝えらるれば古中条流も本望でござる。道場へおいでなされい。土産代りに流儀の秘伝悉く御伝授仕ろう、いざ"
]
] | 底本:「美少女一番乗り」角川文庫、角川書店
2009(平成21)年3月25日初版発行
初出:「少女倶楽部」大日本雄辯會講談社
1936(昭和11)年11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "058560",
"作品名": "半化け又平",
"作品名読み": "はんばけまたへい",
"ソート用読み": "はんはけまたへい",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「少女倶楽部」大日本雄辯會講談社、1936(昭和11)年11月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-12-27T00:00:00",
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"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card58560.html",
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"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"底本出版社名1": "角川文庫、角川書店",
"底本初版発行年1": "2009(平成21)年3月25日",
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} |
[
[
"いや、聞いてはいたんだがね、喧嘩のことが頭にあったものだから",
"わたくしもう二十一ですのよ"
],
[
"わたくしもう二十一です",
"ついこのあいだまで人形と遊んでいたようだがね",
"お友達はみなさんお嫁にいって、中には三人もお子たちのいる方さえあります、それをわたくしだけがまだこうして、白歯のままでいるなんて、恥ずかしくって生きてはいられませんわ"
],
[
"そう云うがね、世間にはそういうことが",
"なぜだか御存じですか"
],
[
"云われなければわからなかったと仰しゃるんですか",
"いやそんなことはない、そんなことはないさ、自分だってうすうすは感づいていたんだ"
],
[
"きさまそれでも武士か",
"どう思おうとそっちの勝手だ、私は私のやりかたで役目をはたすよ"
],
[
"きいているのはあたしのほうです",
"私は闇討ちをしようなんて、考えたこともありませんよ"
],
[
"そしておようさんですか",
"昔のお友達に同じ名の、しとやかで温和しい人がいたんです",
"しとやかで温和しいとね"
],
[
"さもなければ、妹は一生嫁にゆけないんですからね",
"あなたのことはどうなんですか",
"私のなにがです"
],
[
"あれは番頭の喜七と、女中がしらのおこうに任せて来ました、あの二人にはもう子供もあるんです",
"私にはよくわからないが"
],
[
"証拠をみせて下さる",
"どうすればいいんですか"
],
[
"きさまそれでも武士か",
"それはまえにも聞いたよ",
"しかも恥ずかしくはないんだな"
],
[
"勝負はしないのか",
"そちらしだいです、念には及ばないでしょうがね"
],
[
"なんだと",
"そうそっちのお手盛りで片づけられては困ります",
"お手盛りとはなんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
1981(昭和56)年12月25日発行
初出:「別冊文藝春秋」
1964(昭和39)年10月
※「ひとごろし」と「人殺し」と「人ごろし」、「茶屋」と「茶店」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057727",
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"初出": "「別冊文藝春秋」1964(昭和39)年10月",
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[
[
"木は伐ってみなくちゃあわからねえさ",
"なにがわからねえんだ"
],
[
"十のときから江戸へ奉公に来てましたからね、十八の年に嫁にゆくんで水戸へ帰ったんですけれど、そんなわけで世帯を持ったのは五年そこそこ、子供が一人っきりだからまだ助かったほうでしょうが、やくざな亭主を持つとほんとに女は苦労しますわ",
"そうすると、子供さんはもう十くらいになるのね",
"いいえ、二十一の年の子ですからまだ七つですわ"
],
[
"それはあんたの勘ちがいよ",
"勘ちがいなもんですか、旦那の眼顔にちゃんと出ていたんですもの",
"それは勘ちがいよ、もしあの人にそんな気持があったんなら、あたしにだってわからない筈はないし、そうとしたらあの人のお世話にはなりゃあしなかったわ",
"あらどうしてですか",
"だってあの人にはちゃんとおかみさんがいたんだもの、御夫婦になって半年ばかりすると寝ついたまま、今年の二月に亡くなるまで七年も寝たきりだったのよ、そういう人がいるのに、そんな気持でお世話になれる道理がないじゃないの、あの人にだってそんな薄情な気持はなかったし、あたしにはどうしたってそんな罪なことはできやしないわ"
],
[
"こんどあの人から話があったときは、あたしちっとも迷わなかった、いちにち考えただけで承知したわ",
"いやと仰しゃったって、旦那のほうであとへはひかなかったでしょうよ",
"それはわからないわ"
],
[
"だって、そうじゃなかったんですか",
"可愛がられていたことはいたの、その人も可愛いという気持だったんだろうけれど、いっしょに寝ることがたび重なるうちに、――そうよ、あの人ませていたんだわ",
"たび重なるうちにどうしたんですか"
],
[
"でもうかがってみると、おかみさんは苦労なんかなすってないようじゃありませんか、餝屋さんの一人娘に生れて、大事にかけて育てられて、津ノ正の方たちに可愛がられて、そうしてこんどは津ノ正のごしんぞさんになるんですもの、苦労なすったにしてもあたしなんぞの苦労とは段も桁もちがいますよ",
"みんなそう思うんじゃないの",
"とんでもない、ほんとにあたしなんぞの苦労とは桁ちがいですわ"
],
[
"だめだ、店は閉ってる",
"閉ってるって"
],
[
"じゃあ、はいらなかったのか",
"すぐ向うの店で飲みながら聞いたんだ、源平っていう店で、いわばしょうばいがたきだろうが、ひどくかみさんのことを褒めていた、よっぽどできてる女らしい、自分のことのようによろこんで褒めていたぜ"
],
[
"あの店は五年まえに始めたんだそうだ、堀留の津ノ正という、袋物屋の主人の世話だそうだが",
"そいつはわかってる"
],
[
"どういうこった",
"津ノ正の康二郎は昔からあいつが好きだった、あいつのためならどんなことでもするだろう、おれが石川島の寄場へ送られるまえ、まだあいつと世帯を持っていたときにも、津ノ正はおようのやつにひかされて、ずいぶんおれの無理をきかずにはいられなかったもんだ",
"おめえ津ノ正の主人てのを知ってたのか"
],
[
"それで、まだ会わねえのか",
"すみのことは心配するな",
"会ったのか会わねえのか"
],
[
"酔ったようだが、もう少し飲みたいな",
"わる酔いをなさりゃしないかしら"
],
[
"云えばよかったんだな、十五ならそういう話をだしてもふしぎはなかったんだ",
"でもあたし、一人っ子でしたから"
],
[
"お父っさんはあの人に惚れこんじゃったんですよ",
"そうだとしてもさ"
],
[
"こんなこと、初めて云うんだけれど、いちどなんかあたしの躯を、人に売ろうとしたことがあるんですからね",
"おまえの躯を、人に売るって"
],
[
"済みません、怒らないで下さい",
"怒りゃあしない、私がすすめたんだ、ただもう少しゆっくり飲むほうがいいよ"
],
[
"慥かでしょうね",
"私は十六年まえのことも話した筈です"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「講談倶楽部」
1958(昭和33)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057712",
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"初出": "「講談倶楽部」1958(昭和33)年1月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
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[
[
"おまえのことは知っておる、うん、又四郎か、なかなか人物だということだが、慢心はいかんぞ、人間万事慢心はよくない、だがまあ、なんだ、うん、遊びにまいれ",
"ひとつ精を出すんじゃな、はっはっは、国許と江戸とは違うて、江戸というものは、そこは一概にはいえないけれども、これを要するに国許とは格別なもんじゃ、論より証拠、江戸は天下のお膝元じゃ、はっはっは"
],
[
"なにか怒ることがあっても貴方はそのときはがまんなさるのですってね、ずいぶんがまんして、そうして相手が忘れたころになって、がまんが切れて、それからお怒りにいらっしゃるのですってね、わたくしちゃんと聞いてますわ",
"――いや、そうではないのです、そのときはべつに、怒りにゆくわけではないのです",
"あらあ、わたくし聞きましたわよ",
"誤伝です、そうではないのですよ"
],
[
"ほほ、ごめんあそあせ、貴方には百足ちがいという綽名があるそうですけれど、それはどういう故事から出たのでございますか",
"――うう、私は、それは……",
"もしかしたらそれは百足とげじげじをお間違えにでもなったんですか"
],
[
"あなたは、その、たいへん、……いろいろなことをご存じのようですが、いったい、そのどこから、……うう、どうしてそんなことを知っておいでになるのですか",
"あらもちろん赤井さまからうかがったんですわ、石谷さまや双木さまからも、……三人とも御親友なのですってね、御勤番ちゅうたびたびいらしって、秋成さまのお噂をよくなさいましたわ、ですからこの上邸で貴方のことを知らない方はないでしょうけれど、いちばんよく存じあげているのはわたくしよ、わたくしなにもかもうかがいましたの、お三人が同じ事を五度仰しゃるまでゆるしてさしあげなかったのですから"
],
[
"――うう、それはですね、百足ではない、……百足、……それは多分その、字、手紙かなにかで間違えたと思うんですが、百足ではなく、ひゃくあしちがいというわけです",
"あらいやだ、どうしましょう、ほほほ、すると駆けっこでもなすったんですのね",
"――いやそうではないのです、駆けっこではない、うう、しかしこれは、また、いつか話します"
],
[
"うん決心がついた、おれもやるよ――",
"――おれもやるって……なにを",
"なにをって、……むろん千本松の件さ、馬廻りのれんちゅうと例のことをやる件さ、おまえ知らないのか",
"――ええと、まあ掛けないか"
],
[
"――すると、あれだね、……うう、つまりもう、みんな済んだわけだね",
"まあ済んだわけだね",
"――すると、つまり、もうその、千本松へゆく必要は、うう、ないわけだ",
"まあそうだろうね"
],
[
"わたくし赤井さまたちのほうがもっとお驚きになったと思いますわ、きっとそういうところから百足ちがいなどということが出たんですのね",
"――つまり、かれらとしても、そのくらいのことを云わなければです、うう、そこはやっぱり、肚がおさまらなかったでしょうなあ"
],
[
"そのまちかねえという方、なんですの、女の方なのでしょ、どんな方、もちろん若い方でしょ、おきれいにちがいありませんわね、御親類とか従兄妹とか、貴方とどんな関係がおありですの",
"それはです、まちかねえではないのです、正確には松家おかねというのですが、この人については、うう、また次に話すとしましょう"
],
[
"あらどうしてですの",
"――どうしてって、……だってこの秋で、勤番の期限が、私は切れるんですから",
"あら、そうすればそれで、お帰りになるんですの",
"――だって、それは、……どうしてですか",
"どうしてって、なにがどうしてですの"
],
[
"だってもし貴方が予定どおり帰国なさるおつもりなのでしたら、もうあの話を父か母にして下さっていなければならない筈ですわ",
"あの話、……っていうと、つまり、それは",
"もちろんあの話ですわよ、いやですわ、ご存じのくせに"
],
[
"どういう人かということは、ちょっと説明に困るんですが、簡単にいえば、老職の娘でして、名は松家おかねというのです",
"まあどうしましょう、まあ、……まちかねさまとかなんとかって、あんな方とですの",
"あなたはご存じなのですか、あの人を",
"知っていたら此処でこんなことをいっていはしません、まっすぐにいって申しあげますわ、でもそれは、……そのお約束はいつなさいましたの、その方いまお幾つなのですか",
"――うう、それはです、約束したのはですね、それは今から、……まる七年まえ",
"まあっ、まる七年もですって",
"私が二十二、その人が、そうです、……私より一つ上で、二十三のときでした",
"そうするとその方、今はちょうど……"
],
[
"ほかにもって、……まだ約束した方がいるんですの",
"いやそうではないのです、まるで違う、その、……要するにですね、三年まえの、……いろいろと、……しかしこれはまたあとで話します"
],
[
"はあ、それは、うう……承知しました",
"きっとでございますよ"
],
[
"その女の産んだ子だって、本当にあいつの子かどうかわかりゃしないのさ、なんでも半年ばかり前から悪い病気にかかって、もう長いことはなかろうという話だが、……あいつになにか用でもあるのかい",
"――いやなにも、用なんかは、ないんだが"
],
[
"用は簡単なんだ、五年まえのことを思いだして貰えばいい",
"――五年まえのこと、……なんだ"
],
[
"いやだ、……と云ったらどうする",
"日と時刻を定めて呉れればいい",
"――決闘かっ"
],
[
"――祝杯を受けて呉れないって",
"初めに断わっておくが、おれは決して側用人ではない、単に御用係心得だ、次に、おれがきた用件を云おう、面倒かもしれないが、ちょっと五年まえのことを思いだして呉れないか",
"――それはいったい、五年まえっていったい、……",
"城中の詰の間で、支配もいたしほかにも十人ばかりいたと思う、そこでおれを辱しめたことがあるんだ"
],
[
"わかるよ、よくわかるよ、しかしおれは決してそんな暴言を吐いたことはないと思うがね、だっておれはそこもとの人物を知っていたし",
"はぐらかすのはよして呉れ、たくさんだ"
],
[
"それでおれは今日、条件を二つもって来た、その一つは城中で、あのときの人たちを集めて、そこでみんなの前で謝罪して貰いたいんだ",
"だってそれは、そんな、それはひどい、少なくとも普請奉行ともある身で、それは自殺するのと同じだよ、それはひどいよ"
],
[
"――だって、どうしてそんな、……そんなことを定めてどうするのさ",
"果し合だよ、わかってるじゃないか"
],
[
"まさか、まさか、……そんなことを、ははは、……からかってるんだね",
"私のことを云うのなら本気だよ"
],
[
"いやそれで来たのです、決して忘れたわけではありません、私は約束を忘れるような人間ではありません",
"そうですとも、お約束したんですものね"
],
[
"そうそう、お約束がございましたわね",
"三十になるまで待って頂きたい、私はあのとき、こうお願いしました",
"――三十になるまで……",
"そうです、今年はそれで、私は三十になったものですから"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1950(昭和25)年8月
※「「参」つなぎ」と「参つなぎ」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057720",
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[
[
"ついこないだ気がついたんですが、さもなければまだ気がつかなかったかも知れません、人間なんてうっかりしたものですね",
"人間がではなくあなたがでしょう、でも、……さもなければって、なにか年に気のつくようなことでもおありだったの",
"みそめちゃったんですよ"
],
[
"はっきり仰しゃいな、どうしたんですって",
"或るむすめをみそめちゃったんです"
],
[
"けれどって、……いけませんかね",
"そのことはいけなくはないけれど、ちょっと嫁に貰うというわけにもいかないでしょう"
],
[
"粂之助さんが分家しているし、そのうえあなたに分けるということもむずかしいでしょう、でも、その方はどういうお身の上の人なの",
"まったく知らないんです、ただ時たま道でゆき会うだけですから",
"縁組のできるような方だといいけれどね"
],
[
"読まなかあありません、読みますよ",
"読みますかね、へえ、なんのためにさ",
"なんのためと云ったって、そりゃあ、読みたいからでさあね",
"まるっきり尻取り問答だ、いいからあっちへゆこう、酒と肴を持って来てあるんだ、粂さんもすぐ来るだろう、今日は四人で飲むんだよ",
"なにかあったんですか",
"飲みたいからでさあね"
],
[
"まじめな話ですよ、今日の酒は半分はそのお祝いという意味があるんです、とにかく四郎がよその娘にみそめられたというんだから、祝杯の値うちはあるでしょう",
"それが本当なら大いに祝杯の値うちはあるが、半分というのはどういうんだ",
"そこが問題なんですが、まず四郎を少し酔わせましょう"
],
[
"三郎の話は、この辺から眉へ唾をつけて聞かなくちゃあいけないんだ",
"まあお聞きなさい、病気といってもむろん寝たり起きたりで、蒼い顔をして部屋にこもって、涙ぐんだ眼を伏せては千代紙で鶴を折っている、折った鶴を糸でずらっと吊って、それを見上げながら溜息をつく、いちにち夜具をかぶって忍び泣いていたと思うと、物も喰べずにまた鶴を折る、そんな風で鶴ばかり折っているんですね、どの医者にみせても気鬱という他にみたてがないというわけです"
],
[
"下女は武蔵ヶ辻から跟けて来て、四郎がうちへはいるのを見届けて帰った、そして娘の母親にあらましの事を話したんです、どんないきさつがあったかわからない、一昨日、その娘の兄が私の役部屋へやって来て、こういう若君がうちにいるかと訊く、いない、いやいる筈だというんで、考えてみると四郎なんですね、どうかしたのかと訊き返すと、自分の妹を嫁に貰って欲しいというわけです",
"いきなり縁談とは思い切ったものだな",
"その男とは私が中村へいってから役向きの関係で親しくしていたんですよ、そしてみそめから鶴の病いまで精しく話すんです"
],
[
"残り物に福があったわけか",
"それじゃあ小遣もふやさなければなるまいなあ、四郎"
],
[
"鯉のあらいに御酒でございますね",
"そうだ、然しちょっと待って呉れ、あらいの値段は幾らだい、酒はどのくらいするのかね"
],
[
"さあ、おみかけ申さない方のようでございますね",
"馴染でなかったら頼まれて貰いたいことがある、聞かれては悪い、寄って呉れ"
],
[
"御当家の名札が入っていましたからお届けにまいりました、どうかお受取り下さい",
"それは御迷惑でござりました、暫くお控え下さい"
],
[
"紙入を届けてまいったのは其許か",
"さようでございます"
],
[
"然しお名札が入っておりますが",
"名札は入っておる、わしの紙入にも間違いはない、だが中の金が足らぬのだ"
],
[
"それでは、持ち帰って元の処へ置いてまいりましょう",
"元の処へどうすると……",
"お受取り下さらぬというのですから、元あった処へ置いてまいります",
"待て、そうはなるまいぞ",
"然し他に致しようがございません"
],
[
"お人柄も、ゆったりと品がございました",
"八重の婿はあれにきめるぞ",
"そう仰しゃいましても貴方……"
],
[
"だいぶ奇覯書があるというじゃないか",
"冗談じゃない、蔵書などと云われては恥をかく、好きで集めたがらくたが少しあるだけで、人に見せるようなものはありはしないよ",
"然し臨慶史を持っていると聞いたがね",
"ああ史類は二三ある",
"とにかく見せて呉れないか、そのために来て一刻も待っていたんだ"
],
[
"これだけ独りで集めたのかね",
"たいてい破損して、紙屑になりかかっていたものが多いからね、むろん保存がよかったら、手は届かなかったろうね"
],
[
"……どうするんだ",
"まだ内密だけれど、きょう見に来たのはお上の御命令だったんだ、書肆の難波屋が其許のことを申上げたらしい、だいぶ奇覯書があるそうだから見て来いという仰せで来たんだ",
"すると、献上ということにでもなるわけかね"
],
[
"それじゃあ厚顔ましいという意味ですか",
"言葉を解けばそうなるよ",
"すると逆なんだな、拾い物を届けたうえに金を取られて、先方はいい面の皮だ、こう云わなくちゃあいけないんだ、然しこれじゃあ変ですよ"
],
[
"向うは誰だと思う、当ててみろ四郎",
"わかりゃしませんよ",
"なんとあの紙入殿だ、堤町の中川老だよ、八重さんという十八の令嬢がいる、それへぜひという懇望だそうだ"
],
[
"しきたりではございませんの、これは里の近くにある観音堂へ納めるのでございますわ",
"それじゃあ信心というわけだね"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1947(昭和22)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品名": "ひやめし物語",
"作品名読み": "ひやめしものがたり",
"ソート用読み": "ひやめしものかたり",
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"初出": "「講談雑誌」博文館、1947(昭和22)年4月号",
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[
[
"どうした",
"あのねえ須磨寺の豹が逃げたんです、人が二人たべられましたって",
"豹が逃げた――?"
],
[
"本当です、小田さんとこではペスを鎖でつないでしもうた",
"お帰りなさい"
],
[
"お風呂へお入りなさい",
"政ちゃんは?",
"僕もう入ってしもうた"
],
[
"熱かったらうめさせましょう",
"ちょうどいいです",
"そう"
],
[
"遠慮することないわ、兄さんのもときどき流してあげたんです",
"大丈夫です、僕ひとりでやれます"
],
[
"いや、わたしはここを離れられませんのや何しろ女房や餓鬼があるし――それに、奥さんところやって不要心で",
"うちは安心ですのよ"
],
[
"気の毒ですよ、あんなにおっしゃっては",
"何が",
"せっかく好意をもって来てくれるのに、あれじゃあ曲がなさすぎますよ"
],
[
"あなたは黙っていらっしゃい、あんな男に同情したりして、あなたにはまだ分らないのよ――",
"何が分らないんです",
"何もかもよ"
],
[
"正三さん、あなた兄さんがなぜ自殺なすったか御存じですか",
"嫂さんは――",
"ほほ"
],
[
"それ、本当ですか、兄さんが家政婦に子を生ませたという話――",
"内緒よこんなこと、私どうかしてるのね今夜、聞かないつもりでいてちょうだい、ねえ"
],
[
"いま裏のほうで妙な音がしたんです。豹が来たのじゃないかしらと思って",
"見て来ましょうか"
],
[
"豹じゃないでしょうねえ",
"大丈夫です"
],
[
"叔父さんたら",
"何だ"
],
[
"あのねえ、豹が殺されたんですよ",
"ほう、いつ……?",
"昨日叔父さんがお留守のあいだに、ねえ母さま"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「アサヒグラフ」
1933(昭和8)年9月20日号
※「赭《あか》く」と「赧《あか》く」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
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"作品ID": "057733",
"作品名": "豹",
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[
[
"床間の物を庭へ抛りだすのが穏やかなのか",
"だってまだ殴りもしないし喧嘩も吹っかけた訳じゃないんですから、ぽっと出の田舎者だと思うから柔らかく出たんです、それでわかる訳なのにあの頓痴気はなんとかいう名工の作だとか、やがて御老職にも成ることだから少しはこんな趣味もどうだとか、詰らない念仏を並べたてるんです、世の中に理屈と念仏と海鼠っくらい厭な物はありあしません、我慢したんですけれどもあんまり舐めたことを云うからつい、――なにしたんですよ、お蔭で酒を一升棒に振っちまいました"
],
[
"そんなことは断じてありません",
"これは譬えだ、例えばおまえが殴られたとして、ああよく殴って呉れたいい気持だ、――そう思うか",
"誰がそんなことを思うもんですか、もしそんな奴がいたら",
"まあ聞くんだ、いいか、おまえが殴られていい気持がしないとすれば、おまえに殴られる相手だっていい気持はしない、そうだろう",
"そしたら殴り返しゃあいいんです、簡単明瞭ですよ",
"黙れといったら黙れ、――手も早いが口も減らないやつだ、どう云えばいったい"
],
[
"はあ、――",
"いまおれに殴られて伯父だから殴り返せないと云うが、なぜおれが殴ったかということを考えてみないか、殴られるようなことを昔おれにした覚えはないかどうか"
],
[
"おれの云う意味がわかったか、思い当ることがあったか",
"わかりました、然し、――"
],
[
"もしもがに股だったら、――",
"そしたら手とか、背骨とか、鼻筋とか",
"それがどこもかしこも曲っているとすると、――",
"そうすれば詰り、全体が曲ってるとすれば、詰りそれなりに、統一が取れている訳で、統一が取れているということはそれなりに真直だということになる、――だが口を出すな、話がこんがらかっていけない"
],
[
"それだけではない、ひとを尊敬し、ひとの意見を重んじ、寛厚に付合い、過ちを恕し、常に勘忍袋の緒を緊めて、――",
"わかりました、きっとうまくやりますから安心して下さい",
"大丈夫だということが保証できるか",
"保証かどうかわかりませんが、今日で八回もお小言を聞きながら、いちども肚を立てなかったとしてみれば――",
"申したな、よし、その言葉を忘れるなよ"
],
[
"――ではいつ始めようか",
"さよう、いつでもいいでしょう",
"明日からでよかろうか",
"いいでしょうな",
"では明日からとして、場所や師範者は定っているのだろうな",
"場所は川でも海でも沼でも池でもお好み次第です、お城の濠以外はどこで泳いでも心配はありません、師範者というのは私は知りませんが、御希望なら捜させましょうか"
],
[
"誰が、なにをです",
"其許の組下たちで、水練を師範者なしにやって来たのかと訊くんだ"
],
[
"そんなことは云わないが、今後なお組織立った方法でいっそう",
"いや御安心下しゃい、みんな実に達者なもので、それは実に吃驚するくらいでしから、その点なら実に塵ほどの御心配もありましぇんでし",
"それはそうだろうが、役目のことであるからなお",
"いや大丈夫でしとも、なわも蓆もない金の草鞋に太鼓判でしよ、慶徳院さまの御治世に臼鉢百兵衛という速足がいたそうでし、間坂山が崩れて七郷の田が流れたとき、彼の百兵衛は半日で二十一里十二町を往復したそうでしが、いま私の組にいる井田典九郎なずはあなた、実に並足で半刻五里という記録を持つくらいでしからな、尤も寿門院さまの御治世に一人、後に相法院さまが久良加平の髭をお毮りなせった折、――あれは慥か蛇卵論議といって江戸屋敷でも評判だったそうでしから御承知かも知れましぇんが、蛇が鶏小屋へ卵を盗みに来るに就いて、いや牝鶏を瞞着するために瀬戸物で卵を作るそうでしな、なぜ瞞着せなければならぬかというとでし、牝鶏というやつは卵を産むと、――"
],
[
"この稽古が年齢や妻子に関係があるのかね",
"考えてみて下さい、この髭を生やした、鬢の毛に白いもののみえる男が七八つの腕白みたいにえっさえっさと木登りをやる、――否え勘弁して下さい、私は構わないとしても妻や子供が可哀そうですから、どうか私の妻子に泣きをみせないで下さい、妻や子供を憐れんでやって下さい、お願いです"
],
[
"へえ",
"断わって置くがおれの拳骨は痛いうえに文句なしの待ったなしだ、眼の玉が二つとも飛出した奴があるから気をつけろ",
"へえ、よ、よくわかりました、それで鰻を",
"買って来い、荒いところを五人前だ、酒も付けるんだぞ"
],
[
"聞えました。まずい面だというのがはっきり聞えました",
"それはめでたいね、耳だけはまあ人並の証拠だ",
"それは正気で云うんですか、それとも寝言ですか"
],
[
"――す、水練で……",
"はっきり申せ、なんだ",
"水練でございます",
"よし、猿山四郎次の組はなんだ",
"木登りでございます",
"有賀は",
"速足です",
"よし、――水練は水練、速足は速足、富田弥六は三組用達として明日から鍛錬にかかるんだ、布令に従わぬ者は支配へ申し達して屹度処罰する、わかったか"
],
[
"あなたは、あなたは",
"ええ来ておりました、庄司さまよりほんのひと足早く、――",
"私より早くですって、だってどうしてそれが",
"昨日のお噂は城下じゅう知らない者はございませんですわ、そして伺ったわたしが、ここへまいらないでいられましたろうか、――"
],
[
"返し物とはなんだ",
"勘忍袋ですよ、とうとうやぶけちまいましたし私にはもう用がありません、きれいさっぱりお返しします",
"――、――"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「新読物」公友社
1947(昭和22)年12月号
※誤植を疑った箇所を、「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社、1988(昭和63)年8月25日3刷の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年3月27日作成
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"作品ID": "057731",
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[
[
"あさって、――たしかだな",
"ええ、間違いありません"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「文藝春秋」文藝春秋新社
1957(昭和32)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2020年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057723",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年10月25日",
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[
[
"甲野殿を訪ねてまいった者ですが、通って宜しゅうございますか",
"失礼ですが御姓名をどうぞ"
],
[
"長崎からまいった花田万三郎という者です、休之助の弟で、手紙が届いている筈です",
"すると、――"
],
[
"するとお手前さまは、甲野休之助殿をお訪ねでございますか",
"そうです",
"それはそれは"
],
[
"こうのと仰しゃったので、ほかのこうのさまかと思いましたが、甲野休之助さまだとすると非常にお気の毒でございます",
"甲野がどうかしたのですか",
"ゆうべ自火をお出しなさいましてな、夜半の、さよう子ノ刻半(一時)ごろでございましたろうか",
"自火というのは火事ですか"
],
[
"それでいったい家人はどうしたのですか",
"つまり、お気の毒と申すのはそのことでございますが、御一家ぜんぶ御焼死なさいましたようで――"
],
[
"それは本当ですか、主人の休之助もですか",
"御尊父も御息女も奥さまも、みなさまぜんぶ"
],
[
"逃げるんだよ小父さん",
"なんだ、どうしたんだ"
],
[
"小父さん築地を知ってるかい",
"――――",
"築地の飯田町さ",
"ああ知ってるよ",
"それじゃあね、そこに増六っていう船宿があるからね、あとを跟けられないようにそこへいってておくれよ",
"増六っていう船宿だな",
"そこで待ってればね、そこでだよ、そうすればあとからお嬢さんがゆくからって"
],
[
"なんだかわけのわからないことばかりだが、そのお嬢さんというのはなんだい",
"おれだって知らねえさ"
],
[
"どこの人だか知らねえけど、きれいなお嬢さんがおれにそう頼んだんだ、それでおいら小父さんの来るのを見張ってたんだ",
"その人は私の名を知ってるのか",
"ちぇっ、あたりきじゃねえか"
],
[
"こんなに汗になっていらっしゃる、ちょうどお風呂が沸いたところですから、すぐおはいりなさいましな",
"それはなによりだ"
],
[
"お客さまがみえておりますが、御案内してよろしゅうございましょうか",
"どんな客だ"
],
[
"若いお嬢さまのような方でございます、頭巾をしていらっしゃるのでよくはわかりませんけれど、ごようすでみるとそのような",
"誰か伴れがあるのか",
"いいえお一人でございます"
],
[
"ええそうです、万三郎です",
"わたくし甲野のつなでございます",
"つなさん、――貴女が"
],
[
"しかし貴女は、火事に遭われたんではないのですか",
"わたくしはゆうべ家にいませんでしたの"
],
[
"詳しいことはわたくしもよく存じませんし、今はお話しする暇もございませんけれど、お義兄さまに云いつかって、この品を持って本所のさるお家へいっておりました、たぶん危険なことが迫っているのを知っていらしったのでしょう、それでわたくしだけ助かったのでございます",
"すると、貴女のほかは、みなさん本当に亡くなられたのですか",
"どうでございましょうか"
],
[
"ただ、これは想像なのですけれど、お義兄さまは半年ほどまえから、麹町のお義兄さまと共同で、なにか調べものをしていらっしゃるようでした、たいそう重大な、秘密なお調べもののようで、――それがどんな事なのかは、姉にさえ見当もつかなかったのですが、十日ほどまえからお義兄さまは急にそわそわし始めて、身のまわりをいろいろ片づけたりしていらしったということでございます",
"それは調べている事に関係があるんですね",
"そう思うよりほかにございません、そして一昨日の夜のことですけれど、わたくしが呼ばれまして、この包を預けられ"
],
[
"兄もいっしょでしたか",
"いいえわたくしだけでしたの、舟を漕いでいったのは船頭のようでもあり、侍のようでもありました"
],
[
"あなたにこれを預かって頂くためにまいりましたの、わたくし家のほうのようすを知りたいと思いますし、この品を持っていてもし間違いがあるといけませんから",
"預かるのはいいですが、中はなんですか",
"わたくし存じません"
],
[
"ようすがわかりましたらすぐにまたまいります、それまではどうぞ充分にお気をつけ下さいまし、此処は大丈夫だと思いますから、当分は外出などなさいませんように",
"しかし、――"
],
[
"貴女も覘われているわけでしょう、もしすることがあるなら私が代ってやりますよ",
"いいえ、わたくしは焼け死んだことになっている筈ですし、女のほうが却って眼につかないと思いますから、それにわたくし、もうなにも怖れてはおりませんわ",
"ああ、そうでしたね"
],
[
"貴女は小太刀の名手だった",
"いいえ"
],
[
"貴女が、つなさんですって",
"初めておめにかかります"
],
[
"休之助にいさまは、あなたのほうへもわたくしのことを、書いておあげになったのではございませんでしょうか",
"ええ、そ、そうです"
],
[
"貴女のことは兄から、いろいろ手紙に書いて来ました。それはあれなんですが、しかし、それよりもですね、――ちょっと当惑するんですが、その",
"なにを御当惑なさいますの"
],
[
"私は五日まえに江戸へ着いて、すぐに浜屋敷へいったんですが、甲野さんは火事をだして、みなさん焼死なすったと聞いたんですが",
"あら、でもそれは、――"
],
[
"そのことは御存じではなかったんですか",
"そのこと、――というと",
"火事をだしたことも、一家が焼死したことも、みんな敵の眼をあざむくためにした計略だということをですわ",
"なんですって",
"そのことを休之助にいさまから申上げてなかったのでしょうか"
],
[
"しかし、それは本当ですか",
"だって現にこうして、わたくしが此処にいるではございませんの"
],
[
"父も姉も、休之助にいさまも、みんな無事でございますわ、それはもう御存じだと思っておりました",
"いいえ知りません、そう聞いてもまだ信じられないくらいです、いやそうじゃない、みなさん焼死なすったということのほうが信じられなかったんですが、いま貴女にそう云われて、却ってみなさん無事だというほうが信じられなくなったんです",
"此処にいるつなもですの"
],
[
"もちろん、貴女がつなさんだということは信じましょう。私はお会いするのが初めてだし、貴女がそう仰しゃるからにはつなさんに相違ないと思うんですが、――ではあの日、私にこの増六へいって待つようにと、少年にことづけたのも貴女なんですね",
"ええもちろんわたくしでございますわ",
"しかし貴女はいま、私が火事のことを知っていると思った、と仰しゃったでしょう、それならことづけをする必要はない筈じゃありませんか",
"あらどうしてですの"
],
[
"そういう計略があることは御存じでも、あの晩にそれをするということは御存じではなかったでしょう、あなたへのおことづけもわたくしの考えでしたのではなく、休之助にいさまに頼まれてしたのですわ",
"なるほど、そうですか"
],
[
"それで、麹町のほうはどうなんですか、花田でもやっぱりなにかあったんですか",
"よくは存じませんけれど、花田のお義兄さまは登城したまま帰っていらっしゃらないということですの",
"ゆくえ知れずですか",
"いいえ、お城の中のどこかに、敵の手で捉まっているのではないかって、休之助にいさまが仰しゃっていました",
"城中に捉まって、――すると、敵というのは城の中にいるんですか",
"それは御存じなのでしょう",
"それとは、なにをです",
"あらいやですわ"
],
[
"だって、そのために長崎から出ていらしったのでしょう、花田のお義兄さまや休之助にいさまのお仕事を、手伝うためにいらしったのではございませんか",
"それはむろんそうですが",
"わたくし万三郎さまにそれがうかがいたかったんですわ、休之助にいさまがなにをなすっているのだか、姉もわたくしもまるで知りませんの、なにか恐ろしいほど秘密なことらしいし、家族ぜんぶが焼死したようにみせて逃げたりするので、姉はもう怯えたようになっていますわ"
],
[
"ねえ万三郎さま、お願いですから聞かせて下さいまし、ほんのあらましだけでようございますわ、姉は気が小さいものですから、もう頭が狂いそうだなんて申していますの、およそどんなことかというだけでもわかれば、姉もわたくしも覚悟のしようがございますから",
"ところがだめなんです、それは私も知らないんです",
"いいえ嘘ですわ",
"本当に知らないんです"
],
[
"兄からの手紙には、すぐ出て来いというだけで、なんのためかという理由はなにも書いてはなかったのです",
"わたくしにはそうは思えませんわ",
"しかし、もし知っていたとしても、兄が云わないとすれば私だって話すことはできないでしょうね",
"まあひどい、――"
],
[
"手紙っておれにか",
"はい、お使いの方が持ってみえました"
],
[
"使いというのは男か女か",
"子供さんでございました",
"待っているのか",
"さあどうでしょうか、お帰りになったように思いますけれど"
],
[
"いけませんわ万三郎さま、どうしてお隠しなさいますの、あなたは御自分が覘われているということを御存じでしょ",
"どうしてですか"
],
[
"私は兄に呼ばれてきただけで、まだなんにもしていないし、兄たちがなにをしていたかも知らないんですよ、要するにまったく無関係なんだから、覘われる理由がないと思うんですがね",
"理屈はそうですけれど、でもあなたは御兄弟ですし、呼ばれていらしったというだけでも、ええそうですわ、あなたがなにも御存じなしにいらしったということを、敵は信じませんわ",
"ちょうど貴女が信じないようにですか"
],
[
"万三郎さまはわたくしを疑ぐっていらっしゃいますのね、わたくしが甲野のつなではなく、敵のまわし者だと思っていらっしゃるのですわね",
"どうしてそんなことを云いだすんです",
"ごようすでわかります"
],
[
"お願いですわ万三郎さま、その手紙になんと書いてあったか仰しゃって下さいまし、文句を伺えば敵がなにをしようとしているか、およそわたくしにも見当がつきますから",
"いや、その心配は御無用です"
],
[
"夜道で危ないから送りましょう",
"いいえ駕籠が待たせてございますの",
"どこまで帰るんですか"
],
[
"流れついたお精霊さまの茄子みてえな面をしやあがって、いってえどこから迷いこんで来やがったんだ、どこのもんだ",
"うるせえや"
],
[
"おれが誰だか知りたけりゃあいって聞いてみろ、こっちは銀座から向うは芝、麻布、品川は大木戸まで、金杉の半次といえば知らねえものはありゃしねえ",
"この野郎なまあ云うな",
"知らねえものはありゃしねえ、おらあ金杉の半次ってえもんだ、それがどうした"
],
[
"金杉で放り込まれた茄子なら金杉の海で浮いてろ、この頃ちょいちょい見かけるが、冬木河岸はおれっちの繩張りだ、誰に断わって繩張りを荒しに来やあがるんだ、云ってみろ、誰に断わって来やあがるんだ",
"くそをくらえ"
],
[
"深川の蜆っ食いが洒落れたことをぬかしゃあがる、冬木河岸が誰の繩張りだろうと、道は天下の往来だ、用があって通るのに、いちいち断わるなんてちょぼ一があるか、笑あせるな",
"深川の蜆っ食いだって、云やあがったな野郎",
"云ったらどうした、てめえたちゃあ年中ぴいぴいで、蜆ばっかり食ってやがるから口まで蜆っ臭えや",
"てめえのされてえのか",
"のせるもんならのしてみろ"
],
[
"甲子の火事で親父もおふくろも死んだ、おれが死んでも泣く人間はいねえから、やりたければ遠慮なくやってくれ",
"この野郎、深川っ子がどんなもんだか知らねえな",
"知りたくもねえやそんなもの",
"やっちまおうじゃねえか"
],
[
"やっちまおうじゃねえか",
"やっちまえやっちまえ"
],
[
"てめえの出る幕じゃあねえ、女なんぞの出る幕じゃねえんだ",
"半ちゃんをどうするのさ"
],
[
"それがどうしたい",
"おまえなんだね、名前を聞かしとくれ",
"女のくせに、ちぇっ、女のくせに",
"名前を聞かしとくれってんだ"
],
[
"なんでえ女なんか、女なんか相手にするかえ、喧嘩は男と男でするもんだ、なにいってやんでえ",
"くそったれあまア"
],
[
"どうしてでしゃばるんだ、おいらが負けるとでも思ったのか",
"深川っ子は危ないのよ",
"危ねえからどうしたっていうんだ"
],
[
"あんた知らないのよ、半ちゃん、深川っ子の喧嘩って凄いのよ、あたし本所の二つ目で生れたから知ってるけど、芝のほうと違って物を使うの、きまって大けがをするんだから、ほんとなのよ半ちゃん",
"おめえどうしておいらを跟けまわすんだ"
],
[
"おらあおめえなんか嫌えだよ、女なんか、おいら大嫌えだ、ついて来るなよ",
"そんなに怒らないでよ"
],
[
"あんたも一人ぼっちだし、あたしも一人ぼっちじゃないの、あんたはふた親を火事で取られたし、あたしはおっ母さんと弟を大水で取られたわ",
"なん十遍同じことを云うんだ",
"三年まえの大水で、おっ母さんと弟を取られたのよ、弟は半ちゃんと同い年で、生きてればもう十三だわ、あんたを見ていると、あたし弟の金坊のような気がしてくるの、どうしても弟のような気がしてしようがないのよ、半ちゃん"
],
[
"あんたに嫌われて、あんたに逃げてゆかれたら、あたしやけになってしまうわ、やけになってうんと悪い女になっちまうわよ",
"おら嫌ってやしねえよ"
],
[
"増上寺の山内にいたのと同じやつかな、山内からこんな処まで飛んで来れるかな",
"そのくらい飛べなくってどうするのさ",
"おめえ知ってるのか"
],
[
"ふしぎだなあ、赤い雀だなんて、おいらまだ聞いたこともありゃしねえぜ",
"なにか悪いことが起こるのよ",
"夏じぶんからだね"
],
[
"増上寺の山内で初めて見たっけ、それからも三度ばかり山内で見たっけよ、どこから飛んで来やがったのかな",
"なにか悪いことが起こるのよ"
],
[
"なにか大水とか、大きな火事とか、地震とか、饑饉かなにか起こる前兆よ",
"ちぇっ、女って云うことは定ってやがら",
"ほんとうよ半ちゃん、こんなのを昔から前兆っていうのよ",
"どうかして捕れねえかな"
],
[
"小父さんどうしてこんなひどいことをするの、可哀そうじゃないの",
"そうだ、ひでえことをするぜ"
],
[
"なんにも罪もねえものを、それにこんなに小さな、赤くって可愛らしい雀をよ、どういうわけで殺したりするんだ、小父さん",
"おいおいよせよ坊や"
],
[
"おまえだっていま石を拾ってたじゃないか、石を拾ってこの雀に投げようとするのを見ていたぜ",
"おいら、ただ、――なにってやんでえ、おいらただ威かそうとしただけだ",
"隠すなよ坊主、赤くなったぜ"
],
[
"どうしてこんなふうにできるんだろ、小父さん吹矢の名人かい",
"まあそんなもんだ"
],
[
"それより坊主、おまえこんな処に遊んでいていいのか、誰かに使いを頼まれているんじゃないのか",
"使いがなんだって"
],
[
"そこの屋敷の河原という人のところへさ、なにか使いを頼まれて来たんだろう、そうじゃないのか",
"おめえ誰だ",
"そんなに驚くなよ"
],
[
"おまえのほうでは知らないだろうが、おれは河原さんの下役だからおまえを知ってるんだ、大事な使いの途中で遊んでいちゃだめじゃないか、それに、――そこにいるその子はどうしたんだ",
"ほんとか小父さん、小父さん本当にあの人の下役なのか",
"いっしょに屋敷へゆけばわかるさ",
"じゃあゆこう"
],
[
"この子はちい公っていって、おいらの友達なんだ、友達だけれど、頼まれた事が秘密だから、ついて来ちゃだめだって云ったんだ、それでもついて来て離れねえからそれですぐにお屋敷へゆけなかったんだ、ほんとだよ小父さん",
"独りじゃ帰れないのか"
],
[
"あとから来たその女は偽者に違いない、おまえがなにか知っているかどうかを探りに来たのだ、しかし、どうして、増六におまえのいることを嗅ぎつけたろう",
"これが預かった包です"
],
[
"つなという娘はそれから来なかったのだな",
"昨日までは来ませんでした",
"――ふん"
],
[
"なにかあったかもしれない",
"するとあれですか"
],
[
"あとから来たのが偽者だとすると、甲野さん一家が無事だというのは嘘ですか",
"むろん嘘だ",
"ではつなさんのほかはみんな",
"休之助も難をのがれた"
],
[
"そのまま西丸下の上屋敷へゆき、夜になるのを待って、この下屋敷へ隠れることになったのだ",
"では麹町のみなさんは"
],
[
"妻子まで捕えるようでは、休之助も危ないと思ったからだ",
"それがまにあったのですね",
"藤兵衛殿といとさんには相済まなかった"
],
[
"かれらが火を放つなどとは夢にも思わなかったし、休之助も家族ぜんぶで逃げるわけにはいかなかったろう、つなの助かったのは偶然だったが、それでも不幸中の幸いといわなければならない、まことに無残なことをするやつらだ",
"それで、――休さんやつなという人は、いまどこにいるんですか",
"休之助は大久保加賀侯の邸内にいる、紀伊家の浜屋敷と堀を隔てた位置で、浜屋敷の海手の見張りについているのだ、つなは、――"
],
[
"あの少年は知っていますよ",
"半次という浮浪児で、つなが使っている子供だ"
],
[
"つなは賢い娘だが、あの浮浪児の使えることをよく見込んだものだ、いつも浜屋敷の付近を暴れまわっていて、日頃から役に立ちそうだと思っていたそうだが、つなの見込んだ以上なのに驚いている",
"ではあの少年といっしょにいるんですかつなさんは",
"いやそれは、――"
],
[
"用はなんだ",
"用じゃないんです、お嬢さんからちっとも知らせがないんで、もしかしたらこっちへ来ちゃったのかと思ったもんで",
"つなから沙汰がない"
],
[
"あの晩増六から帰ったきりで、そのときはちゃんと送っていったんだけど、それから一遍もなんの知らせもないんです",
"なにか変ったようすはなかったのか",
"べつにそんなことはありません。こっちへ来てるんでもないんですか"
],
[
"つなは榊原主膳という、宇田川町の旗本の家に身を寄せている、榊原は休之助の友人なんだ、そこで大久保邸の休之助と連絡をとることになっていたのだが",
"消息を断ったというのですね"
],
[
"榊原は休之助の友人ということで、やっぱり敵に監視されている、つなは火急のばあいだったし、ほかに適当な家がなかったので、とりあえず身を寄せたのだが、外部からうっかり近づくわけにはいかないのだ",
"しかし兄さん"
],
[
"偽者のつなが増六へ来たことを考えて下さい、増六に私がいることを誰と誰がしっているかしりませんが、まず本当のつなさんに指を折ってもいいでしょう、そのつなさんが消息を断ったとすれば、かれらがつなさんを捉まえて、そうして増六をつきとめたという想像はできませんか",
"想像はどうにでもつく、おまえの考えは当っているかもしれないが、しかし、つなはしっかりした娘だ"
],
[
"つなのことはつな自身に任せるがいい",
"こうなると聞きたいですね"
],
[
"そればかりじゃない、私を長崎くんだりから出発させ甲野さんのお二人を焼死させた、――いったいこれはなんのためです、どんな必要があってこれだけの犠牲を払うんです、兄さんたちの仕事というのは、いったいどれほど重大だというんですか",
"相変らずなやつだ"
],
[
"おまえは昔からわけも知らずに怒る、そうしてあとでいつもあやまるんだ",
"だからわけを聞きましょう",
"まあおちつけ、話はそう簡単じゃあないんだ"
],
[
"そうだとすると前代未聞の陰謀ということになりますね",
"事実なんだ、事実だということはもう避けられないんだ",
"しかしそれは、もしそのことが実現するとすれば"
],
[
"もしこれが実現するとすれば、単に政権の顛覆というだけでは済まないでしょう",
"三郎でもそれがわかるか",
"もし、この調書にまちがいがなければ、この日本という国を"
],
[
"怖れることはない、云ったらいいじゃないか",
"この日本という国を異国人の手に売る、ということになるんじゃありませんか",
"おまえにもそれがわかるか"
],
[
"これだけのものを見、私の云うことを聞いただけで、三郎にもそれがわかるんだな、――そうなんだ、しかもこれがある程度まで進捗しているということは、もう疑う余地のない事実なんだ、われわれが今日まで探索したところでは、探索して得た資料を総合したところでは、どうしてもそういう結論が出てくるんだ",
"私は頭がちらくらしてきた"
],
[
"いったいこれは、どういう経路からどうして、誰が端緒を掴んだんですか",
"休之助だよ"
],
[
"しかも端緒はこの一枚の小粒銀なんだ",
"南鐐ですか",
"みてごらん"
],
[
"わかりませんね、これがどうかしたんですか",
"偽造なんだ",
"ははあ、――",
"掛目も違うし銀の含量がずっと落ちる、おそろしく質が粗悪で、とうてい二朱には通用しないものなんだ",
"とするとよく出来てますね"
],
[
"つなさんが身を寄せたという、宇田川町の榊原主膳ですか",
"そうだ、休之助とは聖坂(学問所)での友達なんだ"
],
[
"これは手紙ですか",
"おそらくそうだろう"
],
[
"何枚かの中の一枚と思われる、前後がないとはっきりしないが、そこにある断片的な文句を綴り合せてみるとそれだけでも容易ならぬ意味があるとは思わないか",
"――砲の鋳造はさきの火炉にては不可、休さんはここに眼をつけたんですね"
],
[
"この偽造の二朱銀を鋳る特殊な技術、というやつが、現在の座方にわからない方法だとすると、それが外国から舶来されたと考えることができる、そうしてここに、――さきの火炉とある、つまり向うから送って来たものと思っていいでしょう、砲というのは文章の前がないから大砲か鉄砲かわからないが、とにかくなにかの合金を鋳るわけでしょうからね",
"おまえの云うとおり、休之助はそこに気がついたんだ"
],
[
"さっき中谷が赤い雀を捕って来たろう",
"よく見なかったですが",
"普通の雀よりずっと小さい、そして全身が鮮やかに赤いのだ、それをこの夏のはじめ頃に、お浜屋敷の庭で休之助が見た、むろん生れて初めて見るのだが彼は南方の異国に紅雀という小鳥のいることは聞いて知っていた",
"私も聞いたことがありますよ",
"このイスパニア語の断簡もお浜屋敷の中で拾ったのだ"
],
[
"これで彼が私のところへ来たわけがわかるだろう、イスパニア語の手紙と、紅雀、鋳造技術のわからない偽造の二朱銀、――しかも手紙の文言は、あまりに重大な意味をもっている",
"わかります"
],
[
"兄さんたちが探索に乗り出した気持は、よくわかります、そして、単刀直入にうかがいますが、――紀州さまですか",
"ぜんぜんわからない",
"だって、その手紙と紅雀のことがあった。しかも甲野さんが放火されたでしょう",
"見えないんだ"
],
[
"それで、私はどういう役割なんですか",
"とにかくみんなと会ってもらおう"
],
[
"私はまずつなさんの安否を慥かめたいんですがね",
"休之助から聞いたよ"
],
[
"三郎はあの娘を嫁にもらってもいいと書いて来たそうだな",
"いや、それとこれとは違いますよ",
"われわれはこの調査を朱雀と呼ぶことにしている、つまり紅雀を符号にしたものだ、朱雀、といえばこの事件のことをさすのだ",
"わかりました",
"今われわれにとっての第一義は朱雀だ、私情に関することはすべて第二第三だ、不可抗力ではあるが休之助はすでに妻と義理の父を死なせているぞ",
"しかし、つなさんはまだ生きているかもしれないでしょう",
"かれらがもしあの娘を誘拐したとすれば"
],
[
"村野と梶原がみえないな",
"二人はまだ帰りません"
],
[
"なんのぶっかけですか",
"わからねえな、ぶっかけといえばぶっかけだよ、この家はぶっかけを食わせるんだろう"
],
[
"どっちをあげますか",
"じゃあ鳥の叩きをくれ"
],
[
"さあ一杯、済まねえがつきあってくれ",
"有難いが、まあ、――"
],
[
"まあ今日は勘弁してもらおう、まだこれから稼がなきゃあならないから",
"それが挨拶か",
"怒られては困るが、お、おらあ、昼は酒を飲まないんだ"
],
[
"用がなくって遊んでいるときならべつだが、仕事の中途で飲んだって美味くないしね",
"おれの酒が美味くねえって"
],
[
"まだそう飲んだようすもないのに、もうたいそうな御機嫌じゃないか、そう怒らないで、まあそっちはそっちで",
"舐めるなわかぞう"
],
[
"こっちは穏やかに話をつけようと思っているのに、その挨拶はなんだ、うぬあこのおれを誰だと思ってるんだ",
"――話をつける"
],
[
"つまり、おめえは権あにいの繩張りを荒してるんだよ",
"――繩張りとは、なんの",
"いまおめえの云った稼ぎってやつよ、この辺でやっている稼ぎの繩張りのことよ"
],
[
"初めからそう云えばいいんだ、まわり諄いことをするからわからねえ、さあ、話をつけるから外へ出てくれ",
"外へ出ろって",
"そのほうが手っ取り早いっていうんだ"
],
[
"拾い屋なんてものは道の上や芥箱をあさって、雀の涙ほどの稼ぎをするしがねえしょうばいだ、誰のお世話にもならねえ人の捨てた物を拾うのに、繩張りもくそもあるか",
"大きな口を叩くな野郎"
],
[
"どんなしょうばいだってそれぞれの繩張りがあり取締りというものがある、乞食にだってあるんだ、たとえ人の捨てた物を拾うにしたって、それでこんにちを食ってくからには冥利てえことを知らなくちゃならねえ",
"笑わせるな、冥利とはどういう冥利だ、おめえにかすりを払えってことだろう",
"野郎、喧嘩を売る気か",
"念を押すこたあねえや"
],
[
"きさまらのようなけだものには理屈を云ったって始まらねえ、これから弱い者を泣かせねえように性をつけてやる",
"ほざくなわかぞう"
],
[
"失礼ですがごらんのような始末で、いま役人が来るそうですから退散します",
"まあお待ちあそばせよ"
],
[
"この男たちは評判のあぶれ者ですから、お役人が来たってあなたが咎められるような心配はございませんわ",
"しかし面倒ですからね",
"ではごいっしょに"
],
[
"私になにか用でもあるんですか",
"あら、あなたのほうでわたくしに用があるんじゃあございませんの",
"私が貴女にですって",
"あら違いましたかしら"
],
[
"あなたはあの人のいどころを捜していらっしゃる、そのためにそんな姿に身を扮して、ずっとこの辺を歩きまわっていらっしゃるのでしょ",
"それを見られていたというわけですか",
"殿方が見はぐるようなものでも、女の眼はちゃんと見るものですわ、特に自分の好きな方なら、どんなに姿を変えていてもひと眼でわかります",
"女の眼ですかね、なるほど",
"あら道が違いますわ"
],
[
"この向うにゆきつけの家がございますの、珍しい精進料理とお酒の良いので評判ですわ",
"いっしょに来いというんですか",
"ええぜひ――",
"私はこの恰好ですよ",
"御人品は隠せませんわ"
],
[
"腕ずくでもご馳走をして下さろうというわけですな",
"まさかいやだとは仰しゃいませんでしょう",
"そうらしいですね"
],
[
"みいら取りがみいらになったようです、ではひとつ御馳走になるとしましょう",
"まあ嬉しい"
],
[
"そうして夜になると、五艘ばかりの荷足船で、水門からなにか邸内へ運び込むのです、夜の十時過ぎから、夜明け前三時ごろまで、休みなしに運び込んでいました",
"沖の本船から積下ろすことがわかるのか",
"往復する櫓音でほぼ見当がつきますし、ほかに大きな船が泊っていないのですから、間違いはないと思います"
],
[
"これまでの材料は浜屋敷から出ている、二朱銀以外の材料はみなそうだ、そうしていままた、こういう事が起こったとすれば、紀伊家そのものが陰謀の主体でないにしても、なにかのかたちで関係をもっている、少なくとも浜屋敷が一つの役割をはたしている、とみて誤りはないだろう",
"それはもう動かせない事実だと思います",
"そこで次に打つ手だが"
],
[
"第一に紀伊家御本邸へ人を入れなければならない、第二は浜屋敷だ、これまでのいきさつがあるから、相当むずかしいだろうが、その積下ろした荷物がなんであるかはぜひ知っておかなければならない",
"私はこう思うのですが"
],
[
"舶送の手順よし、――それからここの、武器庫は多く散在せしめ厳重に秘匿のこと肝要、これですが、私は浜屋敷へ運び込んだのは、この武器というやつだと思うんです",
"およそどういう、――",
"向うから輸送して来るんですからまず鉄砲でしょう、鉄砲と弾薬、そうみて間違いないと思いますね"
],
[
"しかし浜屋敷には置けないだろう",
"むろん置けません、運び出して武器庫というのへ隠しますね"
],
[
"おそらく船は数カ所の港で陸揚げするでしょう、そうして分散された所在の武器庫へ運び込まれるのです、浜屋敷へ入れたのは、この関東のどこかにも武器庫のある証拠だと思います",
"すると運び出すときに",
"いや、もうすでに運び出していたんです",
"その荷をか",
"そうなんです"
],
[
"私は海手の監視に気をとられていましたが、大久保家の者の話によると、紀州から来た蜜柑を上屋敷へ送るのだといって、相当の荷を三日にわたって積出していたそうです",
"蜜柑もあったわけだな",
"偽装のためにですね、一部は本邸へ入れるでしょう、しかしその他の大部分は他へ運びますね、なにしろ御三家の威光があるから便利です。毎年の例で日光廟へ納めるというのも怪しめば怪しめるでしょう",
"よし、それをつきとめることにしよう"
],
[
"紀尾井坂(紀伊家の本邸)へ人を入れるにはつなが適任ではないでしょうか",
"消息がないんだ",
"――どうしたんです",
"十日ばかりまえから音信が絶えている、どこかへ誘拐されたとしか思えないんだが"
],
[
"三人はどうした",
"林は今日は来ませんし、花田さんと中谷は外出です",
"いっしょにか",
"花田さんは存じませんが"
],
[
"中谷はつい今しがた、誰か呼びに来た者があって出ていったようです、ちょっとでかけると云っただけですから、すぐ帰って来るだろうとは思いますが",
"誰か呼びに来た、――"
],
[
"呼びに来たのは誰だ",
"はあ、いえ私は、――",
"隠すことはない、誰だ"
],
[
"まるでわれわれは鼻をあかされたようなものじゃありませんか",
"顔色なしだ"
],
[
"万三郎をやりたいと思うが",
"三郎はどうしたんです"
],
[
"三郎もやるが、事情が急を要するから、この中で誰か一人すぐに出立してもらいたいのだ",
"私でよければまいります"
],
[
"休之助にはほかに担当してもらうことがあるから、では斧田に頼むとしよう",
"よければ私もまいりましょう"
],
[
"例の小田原町の河岸にある紀州屋敷の中です",
"やっぱりそうか"
],
[
"私の妹の友人が最近あの屋敷へ勤めに入ったのです、日本橋の袋物屋の娘で、妹とは仲の良い友達ですが、それが妹を訪ねて来て、母子二人の者が厳重に匿まわれている、という話をしたのです",
"それだけではわからないではないか"
],
[
"松之助ですよ、それは間違いなしです",
"たぶんそうだろう"
],
[
"その娘というのは、なにか頼むことができるだろうか",
"それはもう頼みました"
],
[
"あなたの温たかさがしみてきて、躯じゅうが痺れるようだわ",
"だいぶ手厳しくなるね",
"抱いてちょうだい"
],
[
"そんなお義理じゃなく、もっとぎゅっと抱いて",
"ますます手厳しいな、こっちも生身の躯だぜ",
"あらそうかしら"
],
[
"生身かどうか証拠をみるのよ",
"ばかなことを云え",
"あら震えてるの"
],
[
"そのくらいからかえば気が済んだろう、そろそろ用談にかかろうじゃないか",
"いやあ――"
],
[
"あたしこうしていたいの、あなたと二人っきりで、あなたに抱かれていればいいの、ねえ、もういちど抱いてちょうだい",
"用がないなら帰るよ",
"帰すもんですか"
],
[
"あたしはつなよ",
"云えよ、おまえはなに者だ"
],
[
"どんな素姓で、誰の手先を勤めているんだ、おれを誘惑してどうするつもりなんだ",
"――苦しいわよ"
],
[
"放して、息ができないじゃないの",
"息詰る恋さ"
],
[
"もっと苦しくなるぜ",
"あたしを、どうなさるの",
"云えばいいんだ",
"知りません"
],
[
"知らないなんて云ってとおると思うのか、増六へつなと名乗って来るからには、本当のつながいないことを知っていたからさ、そして、もう自分の正体がばれたと思ったから、こんどは色仕掛けときたんじゃないか",
"本当に知りません"
],
[
"肋骨が折れるぜ",
"――あっ、やめて"
],
[
"やあどうも、これほど用心堅固とは思わなかった、失敗ですな",
"黙ってあがれ",
"あんまり手荒にしないで"
],
[
"後学のために聞かしてもらおう、よほどの腕とみえるが、いったい貴方は誰です",
"おれの腕がわかるのか",
"鷺と鴉ぐらいの見分けは誰にだってつくさ、これでも念流と小野派を少しばかり噛っているからね、名を聞かせてもらえないか",
"――いいだろう"
],
[
"――名は刀で教えたいが、今はあちらで御用があるそうだ、麹町七丁目に道場を持っていたことのある",
"石黒半兵衛どのか"
],
[
"私はまだ少年でしたが、貴方の飛魚という秘手はよく噂に聞きましたよ、尋常な人ではないと思ったが、意外ですね",
"その口ぶりをやめろ、ぶった斬るぞ"
],
[
"飲むとからむのが癖なんです、構わないでこっちへいらっしゃいまし、なにか云えば云うほどいきり立つんですから",
"しかしあの人は",
"いいの、飲み直しましょ"
],
[
"さあ、どうしてでしょう",
"石黒半兵衛じゃあないが、こういう扱いはちょっと戸惑いをするぜ",
"あんなひどいことをしたのに、あたしが怒らないからですか",
"尤も理由はわかっているがね",
"あらそうかしら"
],
[
"あなたがわかっていると仰しゃるのは、あたしが色仕掛けで、あなたから秘密を探りだそうとしている、っていうことでしょ",
"まさかそうじゃないとは云えないだろうな",
"それは云いませんわ"
],
[
"本当はそのほうがあたしの役目なんだけれど、もうひとつ底をあけると、あなたが欲しいんです",
"また同じせりふか",
"あなたが欲しいんです、死ぬほど",
"やれやれ",
"古い文句に、胸を割ってみせたいということがありますわね、あたしできるなら本当に割ってみせたい、この胸を割って、あたしの心の中をあなたに見せてあげたいと思いますわ",
"それを信じろというのか",
"休之助さまなら信じて下さいますわ"
],
[
"あたしが万三郎さまをずっとまえから想っていた、見ぬ恋にあこがれていたということを、休之助さまはよく御存じなんですから",
"――貴女は兄を知っているんですか",
"云ってしまいますわ"
],
[
"わたくし甲野家の遠縁の者で、五年まえから甲野の家にいましたの、孤児になったので養われていたんですわ、名前も申上げましょう、木島かよといいますの",
"かよさん、いい名前じゃありませんか",
"そう思って下さる"
],
[
"怒れるものですか、嬉しゅうございましたわ、あなたに抱き緊められたとき、骨が折れそうになったとき、お膝でここのところをぎゅっと押えられたとき、あたし躯じゅうが痺れて、眼が眩むほど嬉しゅうございましたわ",
"しかし、その、――"
],
[
"そういうわけだとすると、貴女はいったい火事のときどうしたんですか",
"もうそんな話はいや"
],
[
"あたしがずっとまえから万三郎さまを想っていたということがわかって下さればいいんですの、あなたが長崎から出ていらっしゃると聞いてから、まもなくあたしは甲野の家を出ました、――もちろん孤児ですから、保護してくれる者がありましたけれど",
"それが兄たちの敵なんですね",
"わたくしだって敵ですわ、つなさんははっきり敵ですし、休之助さまだって、あなたをつなさんに渡そうとなすったのだもの憎まずにはいられませんわ",
"ではあの火事には貴女も加担していたんですか",
"まあひどいことを"
],
[
"あなたにはわたくしが、そんなに悪い女にみえますの",
"いったい誰です"
],
[
"貴女の保護者というのはなに者です。貴女がもし本当に私を好いているなら云ってくれるでしょう、それはいったいどんな人間なんです",
"そんな怖いお顔なさらないで"
],
[
"さあ帰りましょう",
"しかし私はこんな恰好だが",
"すべてあとのことですよ"
],
[
"どうもお手数をかけて済みませんでした",
"礼は半次に云って下さい"
],
[
"それで、つなさんの手掛りがつきましたか",
"いやだめでした、あの女は本当に知らないらしいんです、つなのことばかりでなく、肝心なことはあの女はなにも知らないようすでした",
"敵もさる者ですか"
],
[
"よしてくれ、本当に定宿があるんだ",
"うそ仰しゃいまし",
"嘘なもんか、上州屋仁兵衛というのが定宿なんだよ",
"まあお上手な、知ってますよ"
],
[
"本当はお伴れさまが先にあがって、あなたを待っていらっしゃるんですから",
"伴れだって、――",
"つい今しがたですわ、あれがそうだからって、わたしに教えて下すったんです、こっちが先に着いていることは内証にしてくれ、あとで驚かしてやるんだからって"
],
[
"伴れというのは侍だな",
"お三人さまですわ"
],
[
"いつもつまらない悪戯をする連中なんだ、今日はこっちで驚かせてやるからな、三人のところへいって、私がどうしても寄らなかった、ずいぶん先へいってしまったと云ってくれないか",
"それでどうなさるんですか",
"向うがどうするか見てやるのさ、つまりこっちで笑ってやろうというわけなんだ、うまくやってくれ、頼むよ"
],
[
"なにか用ですか",
"江戸から来られたのですな"
],
[
"さよう、江戸から来ました",
"御藩と姓名と、ゆき先を仰しゃって頂きたい",
"なんのためにです",
"代官所の命令です、江戸からそういう急布令があったのです"
],
[
"役は馬廻り、食禄は百二十石、主人に心願のことがあって、日光の御廟へ参詣するところです",
"するとその、願文かなにかお持ちですか"
],
[
"もちろん持っています",
"拝見できますか",
"むろんお断わりします、願文は神前へ捧げるものですからね、たとえ代官自身の命令でもお見せするわけにはいきません",
"そういうものでしょうな"
],
[
"いまは溜間詰の上席です",
"ほう御詰衆ですか、それは違やあしませんか"
],
[
"酒井駿河守さまは菊の間で御詰並だと聞いていますがね",
"ばかなことを、――"
],
[
"有難う、花田さん",
"走れますか",
"走れますとも"
],
[
"ちょっと挫いただけです",
"じゃあ隙があったら逃げて下さい、向うのあの枝道がいいでしょう、私はしっぱらいをやりますから、頼みますよ"
],
[
"逃げるのか、それとも掛って来るつもりか、おい、そこにいる大将、おまえが責任者なんだろう、どうするつもりだ",
"黙れ、神妙にしろ"
],
[
"逃げられはしないぞ",
"慥かにそうか"
],
[
"結城の手前の江川というところです",
"結城へはまだゆかなかったんですね",
"いやいちどゆきました"
],
[
"葛西屋という宿屋へいったんですが、つなさんはいないらしいし、どうもようすがおかしいんです",
"つなさんがいないんですって",
"宿の者はちょっとでかけたと云っていましたが、すぐ帰るから待っているように、むりやり上へあげようとするんです、そして、それは主人らしい男でしたが、そう云いながら眼くばせをすると、下女の一人がこそこそ裏から出てゆくのが見えたんです",
"そいつはいかん、そいつは"
],
[
"なにか噂が聞けるかとも思ったんですが、食事の途中で役人に踏みこまれ、混雑していたためにどうすることもできないし、馬子たちも敵に加勢したもんですから――",
"この辺でおりましょう"
],
[
"私も境で代官所の下役人に調べられました、江戸から急の布令があったというんですが、これは敵が積極的な行動に出はじめた証拠だと思うんです",
"いちど江戸へ戻りますか",
"斧田さんは戻りたいですか",
"いや私は貴方の御意見に従いますよ",
"じゃあ此処に踏留りましょう"
],
[
"なんのためでしょう、おわかりにならないかしら",
"わからないわ、もちろん知りたくもないけれど",
"あらそうかしら、――"
],
[
"十三の年からごいっしょに暮した、かよが来たんですもの、あなたは嬉しさに躍りあがる筈だし、もっと歓迎なさらなくちゃならない筈だわ、そうして、どうか助けて呉れと仰しゃる筈じゃないの",
"あなたがつなを助けて下さるというの",
"ええ、条件によってはね",
"云ってちょうだい、どうしろというの",
"まず万三郎さまを諦めて頂くこと"
],
[
"あなたは心にないことを云えない性分なんだから、口約束で結構ですわ、仰しゃってちょうだい、万三郎さまを諦める、あの方とはもう決して結婚をしないって",
"そうしてかよさんが結婚しようというのね",
"それはあなたとは関係のないことだわ",
"あなたが結婚しようというのね、あの方と、それでわかったわ",
"なにがおわかりになって",
"あなたが甲野を出たわけがよ"
],
[
"あなたは万三郎さまが長崎から出ていらっしゃると聞いて、そうなれば二人が結婚するので、見ていられなくなって甲野を出てしまったのね",
"あらいやだ、いまごろそんなことがおわかりになったの",
"でもそれはあなたが万三郎さまを好きだからではありません、あなたはそういう人なんです、あなたはただ、このつなに嫉妬しているだけなんですわ"
],
[
"人形でも玩具でも、同じ物を買って貰っているのに、自分の物よりわたくしのほうのを欲しがった、休之助にいさまが甲野へ来ると、休之助にいさまがつなのことを好きなんだと思って、本当はそんなことは少しもないのに、つなを嫉妬して休之助にいさまにいやらしいことをなすったわ",
"あたしが休さまになにをしたんですって",
"そんなこと云えますか",
"知らないからでしょ、根もないことで人を辱しめるなんて、つなさんにも似合わないことをなさるのね",
"知っていますよ"
],
[
"知っているけど、云うほうが恥ずかしいから云わないだけだわ",
"ではあたしから云いましょうか"
],
[
"いいえ聞きたくありません",
"あたしが休さまのお寝間へ忍んでいったということでしょ",
"よして下さい",
"おいとねえさまが風邪で寝ていらっしゃるとき、あたしが夜中に休さまのお寝間へ入っていったというんでしょ、あなたその話のことを仰しゃるんでしょ、つなさん",
"あなたは恥じなければならない筈よ",
"どう致しまして、恥じなければならないのはあなた方のほうよ"
],
[
"あなたも甲野のみなさんも御存じないのよ、あたしお寝間へなんかゆきゃあしないわ、休さまが来いと仰しゃったのよ、夜中にそっと寝間へ来いって、おれはまえからかよが好きだったんだって、そう仰しゃったけれどあたしいかなかったわ、あたしがいかなかったので、休さまは逆にあたしを誹謗なすったのよ",
"嘘よ、嘘にきまってます"
],
[
"わたくし休之助にいさまを知っています、休之助にいさまはそんな人ではないわ、決して、そんなでたらめを誰が信ずるものですか",
"信じて頂くことはなくってよ、あたしはただ本当の話をしたまでなんだから、嘘だと思うなら休さまとつき合せて下さればいいでしょ、でも休さまはかよの前へは出られないだろうけれど、――"
],
[
"きれいにしらをきっているけど、心の中ではいつも好色なことばかり考えているものだわ、身近に女がいれば、小間使いだろうと下女だろうと、お構いなしに手を出すのよ",
"やめてちょうだい、そんなこと聞きたくありません",
"あら、万三郎さまのことも",
"――なんですって",
"万三郎さまのことも、聞きたくないと仰しゃるの"
],
[
"あの方がどうしたというんです、あなたはまだ見たことのない人まで嘘を云うんですか",
"見たことがないですって、あらいやだ、あたし万三郎さまとは幾たびも会っているし、お話もしたし、それから――"
],
[
"それなら云ってあげましょうか",
"でたらめはもう結構ですよ",
"船宿の増六がでたらめかしら",
"――――",
"甲野さんのお家が焼けた明くる朝、あの方が江戸へお着きになったのもでたらめかしら、お浜屋敷へ入ろうとなすって、どこかのちびに注意されてお逃げになり、それから廻り道をして増六へいらしった、――これがでたらめでしょうか、つなさん"
],
[
"あの方は想像以上にいい殿御ぶりだわ、休さまなどよりずっと御美男で、意地っ張りらしいけれど子供っぽくて、それにずいぶん情が深くっていらっしゃるわ",
"あなたは、――かよさん"
],
[
"あなたは謀反人たちの味方になっているのね、あなたは今わたくしたちの敵なのね",
"そんなことどっちだっていいでしょ、あたしは万三郎さまのことで頭がいっぱいだわ"
],
[
"二人っきりでお酒を飲んだとき、あたしも酔ったしあの方もお酔いになったわ、ずいぶんお酔いになって、ほほほほ、殿方ってみんな同じね、あんな子供っぽいお顔をしていらっしゃるのに、お酔いになると吃驚するほど色っぽいの、お顔が上気して、眼が怖いくらいぎらぎらして、そうして、――もうなにもかも夢中になってしまうらしいわ",
"嘘よ、嘘にきまってるわ",
"あたしがいやですって云うと、あの方はいきなりとびかかって、あたしを抱き竦めておしまいになったわ",
"そんなことまるっきり嘘よ",
"こうやって、――ぎゅうっと"
],
[
"だってあの方ったら力いっぱい緊めつけたり、押えつけたりなさるんだもの、息もできないし骨が折れてしまいそうになるのよ",
"もうわかりました"
],
[
"あなたがそれほど信じさせようというのなら信じてあげます、あなたは万三郎さまとそういう仲になったのでしょう、それで、それがいったいどうしたんですか",
"あら、あなた嫉妬していらっしゃるの",
"それが望みなのでしょう"
],
[
"わたくしに嫉妬させるために、そこまで詳しく作り話をしたのでしょう、――でも、江戸から結城まで、わざわざ来たのはそれだけの用事なんですか",
"だからさっき云ったでしょ、あなたを此処から出してあげに来たんだって",
"ではなぜすぐにそうして下さらないの",
"あたしのお訊ねすることに御返辞をなされば、すぐに出してさしあげますわ",
"そうだと思いました"
],
[
"でもそれならむだですからおやめなさい、わたくしなにも云いはしませんから",
"いいえ仰しゃらなければいけないわ、だっていつまで強情が張れるわけではないし、強情を張るとすれば、よくいって一生此処に押籠められているか、たぶんその前に死ななければならないんですもの",
"出ていって下さい"
],
[
"わたくしはなにも云いません、またなにも聞きたくありません、二度とわたくしに口をきかないで下さい",
"それでよろしいの、本当に",
"――――",
"あたしとあなたとはもう立場が違いますのよ、あなたが甲野のお嬢さんでも、あたしはもう哀れな孤児の厄介者じゃございませんのよ、あなたはいま、かよに命乞いをなさらなければならない筈だわ"
],
[
"では気が折れたら呼んで下さいな、あたしもうしばらく此処にいるつもりですから",
"――――",
"それから万三郎さまになにかお言づけはなくって"
],
[
"いまのは虎さんの知合いかね",
"屋敷へ来ている客よ",
"長い滞在かえ",
"なに来たばかりだが、――おらあおめえのことを待ってたんだぜ"
],
[
"だが明日も此処で会おうと云ったから、おらあちゃんと来て待ってたんだぜ、今日だっておめえ一刻もめえから来て飲んでたんだ、それなのにおめえは寄りもしねえで素通りをしようとしたぜ",
"だって虎さんはおれなんぞたあ違って、お屋敷では重い人なんだからな、そう暇があるとは思えなかったんだよ"
],
[
"なあに、おらあ時間は幾らでもあるんだ、旦那と江戸へいっているときにゃあだめだが、こっちにいるときゃあ暇なんだ、おらあ旦那のお草履をつかむだけが役なんだからな、――まあおめえも一杯やんねえな",
"おらあ酒はごく弱いんだ"
],
[
"自分ではあんまり飲めねえが、飲む人の相手をするのが好きでね、まったく酒ってものは妙なもんだと思うが、ひとついいだけ飲んでくんな",
"うん、おめえの癖はいい癖だ"
],
[
"そういう癖の人間は、おらあ好きだ、これからはひとつ親類づきあいにしようぜ",
"それあ願ってもねえが",
"本当のこった、そのうちおれのところへ来てもらおうじゃねえか、汚ねえ馬小屋みてえなところだが、そこなら悠くり飲めるし、銭も安くて済むからな",
"だっておれなんぞがいっちゃあ、お屋敷でやかましくはねえか",
"うん、いまはだめだ"
],
[
"ちょっとわけがあって、いまは知らねえ者を入れることはできねえが、もう五六日もすれば片がつくだろうから",
"なにかとりこみ事でもあるのかい",
"とりこみ事ってえんでもねえんだが"
],
[
"あんまり意外なのでわけがわからない、あの女がどうしてこんな処へ来たものか",
"たぶんわれわれでしょうね"
],
[
"それからもう一つ、虎造という下男のことだが、いちど自分の住居へ来いと云ってから、五六日はだめだ、なにか片づける仕事があるから、それが済むまではよその者を入れることはできないと云った",
"おそらく紀州家の例の荷駄じゃあないでしょうか",
"例の荷駄だって、――",
"今日、古木家のうしろを歩いていますと、畑で二人の百姓が話していたんですが、あの屋敷の裏門から、いつも昏れ方になってからだそうですが、人と馬で、なにか荷物を運び出しているということでした"
],
[
"しかしつなさんのほうが先ではありませんか、なんとか手段を講じて、早くあの人を助け出さないと、手後れにでもなったら取返しがつきませんからね",
"いや荷駄のほうが先です"
],
[
"あの人が危険の中へとびこんだのも、あの荷駄のためです、おそらくあの人自身、荷駄のほうを先にしろと云いますよ",
"帰って来たようです"
],
[
"本当にでかけるんですか",
"日の昏れ刻だというでしょう。爺さんには然るべく云っておいて下さい、場合によっては帰りが延びるかもしれないから",
"私もいかなくっていいですか",
"斧田さんはこっちを頼みます"
],
[
"つなさんが本当に檻禁されていて、そのためにあの女が来たんだとすると、かれらはつなさんをよそへ移すかもしれない、江戸へ伴れてゆくかもしれませんからね、――斧田さんはあの女には初めてだから、感づかれるようなことはないでしょう",
"その女だということが私にもわかるでしょうか",
"恰好ですぐにわかりますよ"
],
[
"ずばぬけて派手な女ですからね、どうか油断なく頼みます",
"花田さんも自重して下さい"
],
[
"川の流れは強いか、深さは",
"深いだよ、流れも早いだ"
],
[
"だがこれはどうしたことだね又さん",
"あがって来い"
],
[
"じたばたしてもだめだ、逃げ道はない、神妙にすれば命だけは助けてやる、あがって来い",
"試してみてくれ、爺さん"
],
[
"舟が出るかどうか、やってみてくれ",
"斬込め"
],
[
"その舟を動かすな、そいつらは大罪人だ、きさまも同罪だぞ",
"舟を岸へ寄せろ"
],
[
"爺さんには迷惑をかけてしまって申し訳がない、これには訳があるんだ、今はなにも云えないが",
"なんにも仰しゃるにゃ及ばねえだよ"
],
[
"豆州(信明)さまは風邪のため、数日まえから中屋敷で御静養ちゅうですが、そこでお会いになるから内密でまいられるように、という御内意でございました",
"私ひとりでまいりますか",
"いや私が御案内を致します"
],
[
"あれが事実とすれば未曽有の大事だが、あまりに意想外で、とうてい真実とは思えない、なにかの間違いではないのか",
"間違いであれば仕合せですが、事実を証明するものが次つぎに出てまいるのです",
"あの調書のほかにか",
"写しを差上げましたあと、お浜屋敷へ海手からひそかに大量の荷を揚げ、それをさらに他の場所へ輸送するのを発見致しました",
"その荷の内容は",
"まだその報告はまいりませんが"
],
[
"なにかお心当りでもございますか",
"いや心当りというのではないが、結城には古木甚兵衛と申す富豪がいて、江戸にも店と住居があるし、紀伊家へよく出入りをするというはなしを聞いたが",
"紀伊さまへ、――"
],
[
"名目は不逞の浪人が徒党を組んで、某所に集合するという情報があった、ということなのだが",
"それは私どもに対する布令に相違ありません",
"前後のもようではそのようにも思えるな",
"間違いなく、結城へ人を遣わしたことが知れたのでしょう、これをとってみても、調書のことが事実であるか、少なくとも事実に近いということがおわかりにならないでしょうか"
],
[
"しかしこれはむずかしい、非常にむずかしい問題だ",
"さすればこそお願い申すのです",
"それはよくわかるのだが"
],
[
"どうもまずいことになりました、貴方がたの此処にいらっしゃることが感づかれたようなぐあいです",
"どうかしましたか",
"小普請奉行から使いが来まして、小普請組の内で不行跡のため失踪した者たちが数名、この屋敷に潜伏しているという密訴があった、それには証人もあるから、ただちに放逐されなければ、手続きをとって邸内を捜索するというのです"
],
[
"しかし邸内捜索などということができるでしょうか",
"御承知のとおり井伊家の立場が立場なものですから"
],
[
"では早速、なんとか方法を講ずることに致しましょう",
"あとで御相談にあがります"
],
[
"では加賀邸へも小普請奉行から使いがいったのか",
"此処へもですか",
"いま小出から聞いたばかりだ"
],
[
"これは内通者がいますね、われわれの中に、さもなければ大久保と此処と、ぴったり見当のつくわけがありませんよ",
"仲間のことを云うな、どちらの屋敷にもそれぞれ家臣がいる、それが全部われわれの協力者というわけではないんだ、そんなせんさくよりもまず本拠をどこへ移すかということを考えよう",
"そのまえに報告があります"
],
[
"お浜屋敷へ揚げた荷物の中身がわかったのです、あれは大部分が鉄砲と弾薬ですよ",
"――鉄砲と弾薬"
],
[
"それは確実なことか",
"一昨日の夜、また荷揚げがあったんです、私は舟を出して、沖のほうから本船へいってみました。側へ近づいただけで、船へは入れませんでしたが、荷を伝馬へ移すときに、荷役の者が注意するのを聞きました、――この箱は銃だ、こっちは弾薬だから気をつけろ、そう云っているのをはっきり聞いたんです",
"すると、――結城へ送ったのも同じ物だな",
"むろんですね"
],
[
"私はすぐに結城へゆきます",
"どうするんだ",
"もう貯蔵所がみつかっているでしょうから、いってそこを焼き払ってやります",
"それがそう簡単ではなくなったんだ"
],
[
"少し事情があって、悠くり話している暇がないのですが、なにか変ったことでもあったのですか",
"はい、お知らせすることが二つございます、一つはお坊ちゃまが急に御病気におなりなさいまして、医者のはなしではかなり重いということでございます",
"それは松之助のことですね"
],
[
"もう一つというのは、――",
"こちらに花田万三郎さまという方がいらっしゃるでしょうか",
"おります",
"その方が下総のほうへおいでになりましたでしょうか",
"ゆきました",
"それは危のうございます"
],
[
"そのことがわかって、小田原河岸のお屋敷から、かよという女の人と、侍が五人、追手になってゆきました",
"かよ、――という女、ですって"
],
[
"失礼ですがそのかよという女はどんな女ですか",
"おまえ知っているのか"
],
[
"わたくしよく存じませんのです、二度ばかり遠くからお姿を見ただけなのですから",
"大体の感じを云えませんか",
"上背のある、――たいそうきれいで、好みの派手な方のように拝見しました"
],
[
"それはどういう身分の女なんです、奥勤めですかそれとも家臣の娘ですか",
"よくわかりませんのですけれども、お屋敷の方ではなく、よそから来て、身を寄せているというふうに思われました"
],
[
"それは慥かですね、万三郎のことになると狂人だと云ったのは",
"はい、そのときお名前を初めて聞いたのですから",
"甲野にいた娘です"
],
[
"詳しいことは略しますが、三郎が長崎から出て来るとわかって、甲野の家を出ました、三郎がつなを嫁に欲しいと云って来たとき、自分が三郎の嫁になるのだ、と云っていたそうです、ほかにもごたごたした事がありましたが、今の話のようすでは、慥かに甲野にいたかよに相違ありません",
"しかし、――あの仲間に入るという条件があったのか",
"あるんです、しかもこれはなかなか重要なことですが"
],
[
"お浜屋敷の支配に、渡辺蔵人という者がいます、次席で五百八十石の物頭ですが、これが妻を亡くして、かよという娘を後添いに欲しがっていました、非常な執心で、甲野の父はずいぶん困っていましたが、かよはどうしても承知しなかったのです、――ところがこの春、渡辺蔵人は小田原河岸のほうへ首席支配に変りました、かよは他に身寄りのない娘ですから、そこにいる以上は蔵人を頼っていったに相違ありません",
"それで、――重要なこととは",
"云うまでもないでしょう"
],
[
"かよの動きから判断すれば、渡辺蔵人が朱雀事件でなにかの役割を果していることは確実です、そう思いませんか",
"少なくとも仮定することはできそうだな",
"間違いなしですよ"
],
[
"そこがお借りできるのですね",
"はい、よろしければ帰りに日本橋の家へ寄りまして、すぐお支度をするように手配を致します"
],
[
"旅絵図でみると水戸街道の土浦から下館まで十里足らず、そこから結城まで僅かな距離ですから、馬の都合さえうまくいけば、明日の夕方までには着けると思います",
"注意のうえにも注意してゆけ"
],
[
"途中はもちろん、葛西屋という宿もどうなっているかわからない、油断してしくじると取返しがつかぬぞ",
"貯蔵庫を発見したら焼き払いますが、いいでしょうね",
"やるなら徹底的にやれ"
],
[
"早く来い、こっちだ",
"いまゆくぞ、逃がすな"
],
[
"お武家さまはいってえどこへゆかっしゃるつもりだったのかえ",
"筑波神社に参拝して"
],
[
"それから山の頂上へ登って、そのときその、北のほうにまた山が見えたものだから",
"加波山ていうだよ",
"たぶんそうだろうと思って"
],
[
"ちょっとみると尾根づたいにゆけそうだったものだから、それがどうもなかなか",
"若い人はよくそれで間違うだ"
],
[
"お梅、かまの火を見て来う",
"あい、おじいさん"
],
[
"私は謀反人ではない",
"わしもそう思うだ",
"詳しい事情は話せないが、いま天下の大乱にもなりかねないような、恐ろしい陰謀を企てている者がある、私たちは少ない人数で、その陰謀を未然に防ぎ、その計画を叩き潰すために奔走しているのだ",
"わしにはむずかしい事はわからねえだ"
],
[
"それにはなにかわけがあるのか",
"役人嫌えかね、――ふん、つまらねえお笑いぐさだがね"
],
[
"伜夫婦はまもなく牢死しただが、たぶん毒でものまされただろうさ、運上をごまかしたなんて根も葉もねえことを白状させたで、生かしちゃおけなかったに違えねえ",
"――それで老人は",
"この山ん中へ逃込んだだよ、あの孫娘を伴れてな",
"――なんと無残な",
"わしも当座は血が凍っただ"
],
[
"古木には結城の御領主も頭があがらねえ、近在の者は甚兵衛を殿さまと云っているだ、この土地じゃあしようがねえ、江戸へでも訴えて出ようかと思ったりしただ",
"どうしてそうしなかったのだ",
"訴える先を考えただよ"
],
[
"おまけに、古木は江戸にも店と住居があって、どういう因縁かわからねえだが、紀州家のお屋敷へ親しく出入りしている、大納言さまの茶席へも出るほどだっていうでね、――御三家さまとそんなあいだがらなら、将軍さまへ直訴をしたってむだなこんだ、そう思ってからわしはすっかり諦めただよ",
"話をそらすようだが"
],
[
"火はいいだよ、お祖父さん",
"そうか、寒かったろう",
"寒いことも寒いが、また山霊さんが哭いているだよ"
],
[
"なにが哭いているのだ",
"山霊さまですよ"
],
[
"――それ、よく聞いてごらんなせえ、あれがそうでさあ",
"いや私には、なにも"
],
[
"だが、山霊とはなんだ、野獣か鳥のたぐいなのか",
"いや、そんなものじゃねえのです"
],
[
"あれは去年の夏ごろから聞え始めただが、場所は加波山の弁天谷のあたりでしょうか、ときどき夜になると、あんなような気味の悪い声で哭くだ、初めのうちは狼かなんぞだと思って、土地の若い者たちが退治にでかけただが、――でかけていった者で、生きて帰ったのは、たった一人しかいなかったということでさ",
"あとはどうしたのだ",
"みんな山霊さまに掠われちまって、どこへ持ってゆかれるもんだか、死躰もみつからず、骨も残っちゃいねえのです"
],
[
"それは、たった一人だけ生きて帰った者が見たというのです",
"山霊を見たって、――",
"それは真壁という村の、弥助という百姓の伜でしたが、七人の仲間といっしょに、ちょうど夜なかの八つ刻(二時)ごろ、――弁天谷を登っていったのだそうです"
],
[
"お武家さまには信じられねえだかね",
"いや、――"
],
[
"どうだきょうでえ、もういいかげんにあがらねえか",
"うん、まあもうちっと、――"
],
[
"おらあもういっそく(百)四五十もあげたぜ、そろそろひきあげて一杯やるとしようや、おらあもう躯の芯まで冷えきっちまった",
"一杯もいいが、――おらあまだ、十尾も釣らねえんでね",
"釣れねえものはしようがねえ、こいつばかりは勘のもんだからな、いいからもうあがるとしようじゃねえか",
"うん、――まあもうひとっ時"
],
[
"帰るとするか",
"おちついてちゃいけねえ、おらあしんじつ凍えちまったぜ",
"釣れねえもんだね"
],
[
"どうして、大めしへゆくんだろう",
"今夜は違うんだ、今夜はおれん所でやろうと思って、支度をさせてあるんだ",
"だって、――お屋敷でか",
"お屋敷のおれの巣でよ",
"だってそれは"
],
[
"そいつは、お屋敷がやかましいんじゃねえのか",
"大丈夫だよ、おめえがどんな人間だかもうわかってるし、おらあ屋敷じゃあ頭分だ、おれの古い友達だって云えば、御支配人にだって文句はいわせやしねえ",
"けれども迷惑をかけるといけねえから",
"おめえも臆病な人間だな"
],
[
"たなごの焼きたてでぐっと一杯どうだ、温たまって寝られるぜ",
"有難えがまたにしよう"
],
[
"明日の朝が早いから、諄いようだが火を頼みますぜ、此処は火を禁められてる処なんだからね、いつもと違って預かった物があるんだから",
"わかってるよ、うるせえな、念にや及ばねえってことよ"
],
[
"おれはあんまりやらねえ口だから、虎あにいこっちへ来てくれ、おれが焼き番になろうじゃねえか",
"そうか、それじゃあひとつ"
],
[
"冷じゃあやっぱり美味くねえ、こんな晩は熱燗でねえと、――",
"いまの人が預かってる物とかなんとか云ったが"
],
[
"このお屋敷じゃあ預かり物もするのか",
"なあにそんなんじゃあねえ"
],
[
"おめえだから云うがな、きょうでえ、この屋敷にゃあ今、わけのわからねえ事がいろいろあるんだぜ、わけのわからねえ、きびの悪いような事がよ",
"おどかしっこなしにしてくれ、おらあこうみえても気の小せえほうなんだから",
"ばかだな、誰がおどかすもんか、そんなんじゃねえんだ"
],
[
"こりゃあ内証なんだ、おめえよそへいって話すようなこたあねえだろうな",
"聞かねえほうがいい"
],
[
"おらあ虎あにいのほかに知り合いはねえし、当分は宝積寺の家へも帰れない、話してえにも相手はいねえんだ、また、――話すなといわれたら、口をふん裂かれたって話しゃあしねえけれど、おらあそんな、内証ごとなんぞ聞かねえほうがいいように思う",
"わかってる、おめえの気性はわかってるよ"
],
[
"うちの殿さまが、御三家の紀州さまへ出入りしている、ってことを知ってるか",
"いんや知らねえ",
"そうだ、おめえは土地の者じゃあなかったっけな、うん、――そうなんだぜ、お出入りというより、紀州さまとはお友達づきあいみてえなもんだってよ、ほんとだぜ",
"焼けてるぜ、虎あにい",
"おっと有難え、酒がやっとまわってきやがった"
],
[
"まだ起きてるのか、あにい",
"平公か、もう寝るところだ",
"いい匂いがするぜ",
"たなごを釣って来たから一杯やってるところだ、御苦労だな"
],
[
"雪だとよ、もよおしてやがったからなあ、こいつは積るぜきょうでえ、おめえ泊るよりしようがねえぞ",
"泊めてもらえるだろうか",
"憚りながらこの家の主人だ、おれが承知だから大手を振って泊んねえ"
],
[
"そうなれば話も悠くり聞けるんだが",
"そうともよ、これからだぜ"
],
[
"半月か、もっとめえからか、あの土蔵の中に誰か押籠められている者があるんだ",
"なんだって、――"
],
[
"どうもそれが女らしいんだ、どういうわけで、いつ押籠められたかおらあ知らねえが、食事なんぞの世話をするのがこの屋敷の女中頭で、お辰という婆さんだし、このあいだの、江戸から来たお嬢さんも、ときどき入ってゆくのを見かけるんだ、――男が一人も近寄らねえところをみると、きっと押籠められているのは女にちげえねえと思うんだ",
"すると、江戸から来たあの娘さんは、その押籠められている人と知り合いなのかい",
"そいつはわからねえが"
],
[
"とにかく、押籠められている人のために、江戸から来たことは慥かだと思うんだ",
"娘さんは一人で来たのか",
"いんや、お侍が五人いっしょに来た"
],
[
"虎あにい、どうしたんだ",
"もう飲めねえ、わけがわからなくなっちまった、もうだめだ、腹の中までたなごっ臭くなりゃあがった、もう寝るぞ",
"そのままじゃあしようがねえ、おめえ寝衣になって",
"うるせえ、放っといてくれ"
],
[
"起きて下さい、お気の毒だが少し辛抱してもらいます",
"つなさまを助けにいらしったのですね"
],
[
"そうだ",
"では鍵を差上げます"
],
[
"わたくしのことはお案じなさいますな、いつかどなたか助けにいらっしゃるだろうと、待っていたのでございます",
"それは有難う、しかし"
],
[
"そんな話はあとのことです、さあ早く逃げましょう、ひとりで歩けますか",
"ええ大丈夫です"
],
[
"足袋をはいておりますから、これで充分でございます",
"では辛抱して下さい"
],
[
"貴方は誰です",
"休之助だ"
],
[
"甲野さんですか、斧田です",
"しっ、人が来る"
],
[
"よくわかりましたね",
"来るのを見ていたんだ、こんな処に隠れて街道を見張るようすだから、二人のうちのどちらかだろうと思ったのさ、――三郎はどうしている",
"いま町へいっています",
"つなもいっしょか",
"いやつなさんは"
],
[
"すると三郎はいま、その下男の虎造と飲んでいるわけだな",
"相手はすっかり信用して、そろそろ屋敷の中へ呼ばれそうだということです",
"もうそんな必要はないんだ"
],
[
"必要がないんですって",
"荷駄の内容もわかったし、古木邸から運び出してゆく貯蔵庫の所在も見当がついた、今夜にでも此処をひきはらわなければならないんだ",
"それは本当ですか"
],
[
"つまりそこに、貯蔵庫があるというわけですね",
"山霊というのは人を近寄らせないための作りごとだ、妖怪退治だと云って、三度も若者たちがでかけてゆき、中でただ一人だけが生きて帰った、その若者が山霊の姿を見ている、つまりその若者の口から、山霊のいることを語らせるために、わざとその者だけ無事に帰らせたのだ"
],
[
"黒装束で現われた人数というのは侍たちだ、屈強の若者たちが手も足も出なかったというし、やり方の巧みなことも侍に違いない",
"とすれば紀州家のですね",
"こうなればもう紛れなしだ"
],
[
"そんな手を使ってまで人を近づけないようにするのは、貯蔵庫のある証拠というばかりでなく、相当大掛りなもの、ことによれば砦塁のような設備があると想像することもできる、いやおれはそれが慥かだと思うんだ",
"差当り実地につきとめることですね",
"すぐやりたいんだ",
"すると古木邸のほうはもういいわけですか",
"貯蔵庫をつきとめて、そこを見張っているほうが確実だ"
],
[
"貴方がたは危ないが、わしなら誰に遠慮もない、よければそう致しますが",
"済まないが頼みましょう"
],
[
"甲野とゆかりのある女で、事情は話す必要もないが、いま敵方に付いていろいろ奔走しているらしい",
"ではつなさんとも知り合いのわけですか"
],
[
"そこにおいでですか",
"此処だ、――"
],
[
"いなかったって",
"いらっしゃらねえし、今日は二人とも一度もみえなかったと云っております",
"屋敷ですね"
],
[
"虎造といっしょに古木邸へいったんでしょう、きっとそうだと思いますよ",
"それにしては遅すぎる"
],
[
"いろいろ御苦労だった。ではあとはわれわれで考えるから、もうこれで引取ってもらうとしよう",
"さようですか、では、――どうか首尾よく"
],
[
"用心の厳しい古木の屋敷へ初めていって、こんな時刻までいるというのは不審だ",
"雪で帰れなくなったのかもしれませんね",
"ばかなことを"
],
[
"あの火は松明らしいが、ちょうど古木家の裏門に当るようですがね",
"あいつ、しくじったな"
],
[
"お独りで逃げて下さい早く",
"なにをばかな"
],
[
"気をつけて下さい、その中に石黒半兵衛がいます、飛魚という突の名手です",
"こっちに構うな"
],
[
"あたしそう思っていたのよ、あなたはきっと来る、つなさんを助けにきっと来るに違いないって、――でもこんな下手なやり方ってないわ、どうしてあたしにそう仰しゃらなかったんですの",
"どうしてって、なにを、――",
"あらいやだ、わかってらっしゃるくせに"
],
[
"あなたにこうと頼まれれば、どんな事だってかよには拒むことはできませんわ、それもまだなんにもないうちならべつでしょうけれど、山内の和幸であんなふうにお肌に触れたあとですもの",
"ばかな、なにをそんな"
],
[
"そんな、肌を触れたなどということが",
"あら、嘘だと仰しゃるの、あんなふうにかよを抱いて、骨が折れそうなほどきつくきつく抱いて",
"よしてくれ、やめろ",
"はい、やめますわ"
],
[
"わたくしなんでも万三郎さまの仰しゃるままよ、つなさんを出せと仰しゃれば、どんな無理をしたってお出し致しましたわ、そのくらいのことわかって下さいませんでしたの",
"云うことはそれだけか"
],
[
"それだけならそこを退いてもらおう",
"さあどうぞ、万三郎さま"
],
[
"誰だい、――",
"誰だいはねえだろう、おれたちだよ",
"なあんだ"
],
[
"お相撲くずれの三島に屁十じゃないか、何か用かい",
"おっそろしく威勢がいいな"
],
[
"色も白くなったし、胸や腰っつきなんぞ、めっきり娘らしくなってきたぜ、嘘あ云わねえ、まったくのところきれいになるばかりだ",
"うるさいね、どいとくれよ"
],
[
"おめえが娘らしくきれいになったって、褒めているんじゃねえか、なあ三島、そうだなあ",
"そうらとも、褒めてるんら"
],
[
"おめえがきれいになったってよ、ほんとられ、褒めてるんら",
"どいてくれってんだ"
],
[
"屁十や三島なんぞにそんなことを云われると反吐が出そうになる、ひとを甘くみるとあとで後悔するよ",
"なにをそう怒るんだ"
],
[
"おらあいつもおめえに同情しているんだぜ、家もなく親きょうでえもなし、世間さまからは冷たい眼で見られて、山猫のちい公なんぞと云われてるのを",
"山猫だって、――"
],
[
"あたいを山猫だって",
"おれじゃねえよ、世間でそ云ってるんだ、この頃みんなが蔭でおめえのことをそ云ってるんだ、だからおらあちい公が可哀そうで、いつか折があったら悠くり慰めてやろうと、なあ、――そうだなあ三島",
"うん、そうら、そうらとも、おらっちれゆっくいなぐさめてやろうとら、ほんとらろ",
"やかましい、どかねえか"
],
[
"おらっちでおめえを慰めてやろうっていうんだからな、いいか、大きな声なんぞ出すんじゃあねえぞ、わかったか",
"此処へおろすべえや",
"ちょいとまて、こいつまだ暴れそうだぜ"
],
[
"おらっちは同情しているんだから、決して悪いようにゃしやしねえんだから、いいか、このとおり頼むから",
"ちい公をおろせ"
],
[
"おらっちは、まさかそんな",
"よしゃあがれ、このけだもの"
],
[
"あたい口惜しい",
"わかってるよ、でも忘れなよ、あんなけだもののことなんぞ忘れるんだ、こんど会ったらもっとひどいめにあわせてやるから",
"口惜しいのはあいつらばかりじゃないの",
"ほかにも誰かいたのか",
"そうじゃない"
],
[
"自分が口惜しいの、自分で自分が口惜しくってしようがないのよ",
"云ってみな、どうして自分が口惜しいんだ",
"いつもなら、あんなやつら"
],
[
"あんなやつの二人や三人に、捉まるようなあたしじゃないわ、誰だって捉まえようとでもすれば、がりがりにひっちゃぶいてやったわ、そうだわね半ちゃん",
"そのとおりさ、この界隈でそれを知らねえ者はいやあしねえよ",
"それだのに今夜は"
],
[
"今夜のあたしはだめだったの、三島のやつに胸のところを抱かれたら、躯じゅうが痺れたようになって、どうにも手向いすることができなかったの、手も足も力がぬけちまって、自分の躯が自分のものじゃないみたいになっちゃったのよ",
"それはおめえ、あれだよ、三島は力があるからだよ"
],
[
"なにしろあいつは相撲くずれなんだから",
"いいえ違う、違うのよ半ちゃん、まえのあたしなら三島なんぞ血だらけにしてやったわ、できなかったのはあたしのせいなのよ",
"おれにゃあてんで、わけがわからねえ",
"あたしの躯のせいなのよ"
],
[
"三島のやつが腕を巻いたとき、この胸のお乳のところが痛かった。とびあがるほど痛かったわ",
"そんな話よせよ",
"いいえ聞いて、――半ちゃんには話さずにいられないの、話してしまわなければ頭がへんになりそうなのよ"
],
[
"頭の中ではあたし、この二人殺してやろうと思ったわ、でも躯が自由にならない、お乳のところのとびあがるほど痛いのが、頭から足の先まで響いて、身動きさえできなくなったの、あたし口惜しかった、そんなになった自分の躯が、口惜しくって憎らしくって、いまでもひっちゃぶいてやりたいくらいだわ",
"ばかなことを云うなよ"
],
[
"もうそれでおしまいにしてくんな、そして寝ることにしよう",
"あたし眠れやしないわ",
"腹が減ってるんだろう"
],
[
"半ちゃんは喰べないの",
"おらあ喰べて来た"
],
[
"旅って、――遠いの",
"紀州の田辺ってとこへゆかなくちゃならねえんだ",
"お屋敷のお使い",
"もうほかに人がいねえし、いろんな事がむずかしくなったから、いそいでゆかなくちゃならねえんだ",
"紀州って遠いんでしょう",
"当りきよ、お伊勢さまよりもっと遠いんだぜ",
"箱根とどっちかしら",
"そりゃあおめえ、――"
],
[
"わからねえさ、ぬけ参りというかたちで、遠州の浜松という処までいって、そこで船に乗ってゆくんだ",
"ずいぶんだわねえ",
"そりゃあそうよ"
],
[
"あたしも伴れてってくれるわね、半ちゃん",
"じょ、冗談云うなよ",
"いやよあたし"
],
[
"あたし付いてゆくわ、半ちゃんがいけないっていったってあたし付いてゆくわよ",
"冗談じゃねえ、遊びにゆくんじゃあねえぜ",
"知ってるわよ"
],
[
"でも半ちゃんだって、今夜のような事があったのに、あたしを独りで置いてきゃしないでしょ",
"そりゃあそうだけれど、おめえだってもう赤ん坊じゃあねえんだし、そのつもりになればどっかへ、奉公にだってへえれるしよ",
"いやいや、そんなこといやよ"
],
[
"あたし奉公になんぞいかないわ、あたしは一生半ちゃんの側にいるの、半ちゃんが地獄へゆくなら、あたしだって地獄へいってよ",
"ばかなこと云うなよちい公",
"ほんとよ、あんたといっしょなら地獄へだってどこへだってゆくわ、あたしあんたと離れたら生きてゆけないのよ"
],
[
"おっ母さんと弟の金坊が水で死んでから、あたし二十日ばかり町内の厄介になっていたことがあるわ、そのあいだにどんな扱いをされたかわかるでしょ、乞食よりもひどい、犬も食わないような喰べ残りの御飯に、辻番の裏の物置へ寝かされて、一日じゅう走り使いや子守りをさせられて、おまけになにかっていえば厄介者ってどなられたわ",
"おめえばかりじゃねえ、おいらだっておんなじこった",
"だから世間や世間の人たちを憎んだり、いっそおっ母さんたちといっしょに死ねばよかったと思ったものだけれど、この頃では生きていてよかったと思うようになったわ"
],
[
"憎んでいた町内の人たちの気持も、少しずつわかってきたの、みんな自分たちのことで精いっぱいなんだもの、厄介者までそう親切に世話のできるわけがないわ",
"大人みたいなことを云うなよ",
"あたし十五よ、半ちゃん",
"重てえからどけよ"
],
[
"十五っていえば、もうお嫁にゆく人だってあるでしょ、世間を見る眼や、ものの考え方も変らずにはいないわ、初めはあたし半ちゃんを護っているつもりだった、死んだ弟のような気がして、弟を護るように半ちゃんを護っているつもりだったの、そのために生きる張合もできたし、ぐれて悪い女にもならずに済んだわね、――でもこの頃になってからわかったの、あたしは半ちゃんを護ってたんじゃなくて、半ちゃんに護られていたんだってことが",
"よせよ、つまらねえ"
],
[
"護るも護られるもありゃあしねえ、お互いっこじゃねえか",
"あんたが側にいて護ってくれたから、あたしこうして生きて来られたし、悪い女にならずにも済んだのよ、もしかあんたがいなかったら、あたしきっと死んじまうか、ぐれて夜鷹にでもなっていたわ",
"ちい公はそんな女じゃねえ",
"いいえ、自分のことは自分がよくわかるわ、これからだって半ちゃんが側にいなくなれば、あたしどうなるかわからなくってよ",
"おめえ、おれを脅かすのか",
"証拠を見た筈よ、半ちゃん"
],
[
"さっきあの二人に捉まったとき、あたしは身動きができなかった、頭では殺してやりたいと思っても、躯が痺れていうことをきかない、もしか半ちゃんが来てくれなかったら、あたしどうなったかわからないわ",
"そりゃちい公が今日どうかしていたんだ、今日だけどっか具合でも悪かったんだ",
"いいえ、そうじゃないの、あたしの躯がもうまえの躯じゃなくなったからなの、今夜はじめて、自分でそれがわかったのよ"
],
[
"伴れていければいきてえけど、入り鉄砲に出女といって、女が江戸から出るのはやかましいんだぜ",
"あんたに心配はかけないわ、自分のことは自分でやってよ",
"そう安く云ったっておめえ"
],
[
"でまかせを仰しゃるのね、これは蕗の薹でございますよ",
"しかし似てはいるでしょう",
"なんにですか",
"もちろん薺にですよ",
"わたくしをからかっていらっしゃるのね"
],
[
"休さんも貴女もどうしてそんなに怒っているのです、あの晩からこっち、二人とも私にはろくに口もきかないし、話しかけても満足に返辞もしてくれない、――これはいったいどういうわけなんです",
"どうぞそんな大きな声をなさらないで下さい"
],
[
"わたくし聾ではございませんから",
"では云って下さい、なぜです"
],
[
"休之助にいさまが怒っていらっしゃるわけを、あなたは本当に御存じないのですか",
"知りません、知らないから訊くんです",
"では休之助にいさまが、つなのことも怒っていらっしゃるということはむろん御存じではございませんわね",
"貴女のことも怒っているって",
"わたくし、あなたがそんなに暢気な方だとは思いもよりませんでしたわ"
],
[
"じつは花田の兄ともいつか云いあったんですがね、花田の兄も同じような不人情なこと云いましたよ、――つなさんは自分の始末くらいできる娘だ、仕事が第一だ、第一は仕事だ",
"そのとおりでございますわ",
"なんですって",
"お兄さまたちの仰しゃるのが本当だというのでございますわ",
"ばかな、貴女までがそんな"
],
[
"それはまあ、貴女がそう云うのは自分のことだからいいかもしれないが、まだ年の若い女の貴女が危険なめにあっているのに、大の男どもが任務が大事だからといって、平気で見殺しにするなんて人間じゃありません、そんなやつは私は大嫌いです、そんな不人情な人間に大事な任務がはたせるわけがありません",
"そんなふうに仰しゃっても、わたくしは少しも嬉しくはございません"
],
[
"万三郎さまは、お兄さまたちを薄情とか不人情とか仰しゃる、任務よりも人間の命のほうが大切だと仰しゃる、それはそうかもしれません、あなたは人情に篤くっていらっしゃるかもしれませんわ、ことに、――かよわい女にはね",
"もちろんですとも"
],
[
"なんですって、それはどういう意味ですか",
"べつに意味はございません",
"だっていま、ことに女には、――とか云われたでしょう",
"申しましたわ"
],
[
"あの晩のことは仰しゃるとおりです、あの人はみんなに見せつけるために、わざとあんないやらしい態度をなすったのですわ",
"そうですとも、だから私は",
"いいえお待ち下さい、あの晩のことはそうだとしてもわたくし、ほかにもっといろいろなことを知っておりますのよ",
"ほかにいろいろって"
],
[
"ほかにはべつになんにもない筈ですがね",
"増上寺の山内に、和幸といういかがわしい茶屋があるそうでございますね",
"はあ、それはあれです",
"御存じでございましょう"
],
[
"その茶屋を御存じでございましょう、万三郎さま",
"ええ、それは知っていることは知っていますが",
"あの人とごいっしょにいらしって、お二人だけで、仲良くお酒を召上ったそうでございますわね",
"それは誤解です、それはそうではないんで、それにはわけがあるんで、つまりそれは私がですね、つなさんの居どころを捜すために",
"わたくしを捜すためですって",
"むろんですよ"
],
[
"あの晩もわたくしを助けに来て下すったし、和幸のときもわたくしを捜すためだったと仰しゃいますの、はあ、ずいぶんたびたび同じようなことがございましたのね",
"しかし事実なんですから"
],
[
"貴女からみると偶然すぎるかもしれない、私が作りごとを云っていると思われるかもしれないが",
"わたくしなにも思いは致しません、ただかよさんから詳しく聞いていたので申上げるだけですわ",
"あの人が、話したんですって",
"わたくしが押籠められているとき、かよさんが来ては話してゆきました、和幸という茶屋が、破戒僧たちのいかがわしい出合い茶屋だということや、あなたとお二人きりで、どんなに仲良くお酔いになったかということなどを、――それはそれは熱心に、詳しく、二度も三度も話してくれましたわ",
"それで貴女は、まさかそれを、信用なさったんじゃないでしょうね",
"信じませんでした",
"有難う、さすがに貴女です"
],
[
"お礼を仰しゃることはありませんわ、信じなかったのは話を聞いたときのことで、今では本当だったのだと思っているのですから",
"それはばかげていますよ",
"どうしてですの、――あの晩、わたくしたちはすっかり取巻かれてしまいましたわ、紀伊家の侍たちや、まだあとから古木家の男たちが幾らでも加勢に来たでしょう。わたくしは足を挫いていましたし、こちらの三人がどれほど強くとも、みんなで無事に切り抜けることは、決してできや致しませんでしたわ、――それができたのは、ただかよさんのお蔭でございましょう",
"しかし待って下さい"
],
[
"事実はそうではないのだが、貴女の云うことを聞いていると、なにもかもそのとおりで、弁解すればするほどぐあいが悪い、ますます情勢が悪くなるようですから、私はもうなにも云わないことにします",
"そのほうがようございますわ"
],
[
"事実はいつかわからずにはいないでしょうし、今わたくしたちに大事なのは朱雀調べで、ほかのことにかかわっている暇はないのでございますから",
"わかりました、黙ります",
"どうぞそうお願い致します",
"ええもう、決して弁解なんかしません"
],
[
"どうしたんです、なにを怒っているんですか",
"どこをほっつき歩いているんだ"
],
[
"必要のない限り出歩くなと云ってあるじゃないか、どこに敵の目があるかわからない、用心の上にも用心をしなければならないのに、なにを毎日うろうろしているんだ",
"うろうろなんかしませんよ"
],
[
"しないことがあるか、ちゃんと知っているぞ",
"な、なにをですか",
"一昨日はどうした"
],
[
"つなのあとを跟けていって、つなをうるさがらせたのはおまえではないのか",
"それはその、しかし"
],
[
"しかしそれは、……それはつなさんが云ったんですか",
"あれが告げ口をするような娘だと思うか、また誰が云おうとおまえの知ったことではない、どうしてそんなばかなまねをするんだ",
"そうどなるのはよして下さい"
],
[
"私はわけもなしにつなさんに話しかけたんじゃありません、辛抱できないことがあったから、その理由を聞くために",
"それもわかっている"
],
[
"おれがなぜ怒ってるとか、つながなぜ不愛想なのかとか、愚にもつかぬことを訊いたんだろう、そんなことがおまえには辛抱できないというのか",
"兄さんは平気かもしれないが、私には辛抱ができなかったんです、私には人間の感情というものがありますからね",
"それはどういう意味だ",
"つまり石や金仏のようにはなれないということですよ"
],
[
"三郎といっしょになったら気をつけろ、よく気をつけて喧嘩をするな、どんなことがあっても喧嘩はならん、そう云われて来た、――だからがまんしているんだぞ、さもなければきさまなんぞはり倒してくれるんだ",
"そうでしょうさ"
],
[
"休さんは強いですからね、さぞみごとにはり倒せるでしょうよ",
"はり倒せないというのか",
"ためしてみてもいいでしょう",
"云ったな、きさま"
],
[
"私だってこれで侍のはしくれですからね、はり倒すなんて云われて黙ってはいられません、やってみようじゃありませんか",
"よし、堪忍が切れた"
],
[
"大丈夫ですか",
"大丈夫だ、繩を持って来い"
],
[
"なにがこいつだ",
"こいつを捜していたんです"
],
[
"知っていたのか、こいつのいるのを",
"そうなんです、一昨日、つなさんと話をしたあとのことですが、私たちの通った谷の中腹に、妙な人間がいるのをみつけたんです、林の上のほうでよくわかりませんでしたが、どうやら私たちのようすをうかがっていたらしく、猿のようにすばしっこく逃げてゆくのを見ました",
"それで昨日も今日も出あるいていたのか",
"そうです"
],
[
"ようすをうかがっていたのなら、また来るに相違ないと思ったんです、それで弁天谷の口のところを注意していたんです",
"それならそうと云えばいいじゃないか、なぜ黙っていたんだ",
"云ったって同じですよ"
],
[
"私のすることは休さんにはなんだって気にいらないんだから",
"よせ、ばかなことばかり云うやつだ"
],
[
"きさま、紀伊家の者だな",
"訊いてもむだだ"
],
[
"おらあなにも饒舌らねえ",
"というとなにか知っているわけだな",
"なにを知るもんか、知っているのは、おめえらが悪者で、いつかみんな捉まってお仕置になる、ってえことだけだ",
"おれたちがお仕置になるって",
"ならねえでどうするもんか"
],
[
"天下の謀反人が捉まらねえ筈はねえし、捉まってお仕置にならねえ筈もねえ、おらあそれだけはちゃんと知ってるだ",
"――どう思います、休さん"
],
[
"こいつ、言葉のようすでは紀伊家の人間ではなさそうじゃありませんか",
"そうらしいな"
],
[
"そのほうの名はなんというんだ",
"そんなこと訊いてもむだだ",
"だが親兄弟はあるんだろう"
],
[
"おめえら、おらを斬るってか",
"もちろんだ"
],
[
"そのほうが信じているように、もしわれわれが天下の謀反人だとすれば、いいか、そういう悪人だとすればなおさら、ようすを探りに来た人間などを生かしておく筈はないだろう、そうではないか",
"そんなこたできねえ、そんなことのできるわけがねえ",
"われわれは斬る"
],
[
"斬らずにはおかないが、親兄弟があるなら死躰だけは渡してやりたい、だから、どこのなに者かを云うがいい、――もし云わなければ谷へ捨てるまでだ",
"おら、――おら云わねえ"
],
[
"云うもんか、そんな、おどかしたって誰がそんな",
"――刀を取ってくれ"
],
[
"おどかしでないわけを云って聞かせよう、いいか、そのほうはわれわれを謀反人だと云ったな、そう信じているんだな",
"おらちゃんと知ってるだ、みんな聞いて知ってるだから",
"では私からも聞こう、そのほうは忍び支度をしている。そのほうの仲間にも、こんな支度で観音谷の仕事をしたり、山霊のまねをして村人たちをおどかしたりしている者があるだろう"
],
[
"観音谷には鉄砲や弾薬が大量に隠されている。これは幕府の禁制を犯すものだ、そのくらいのことはそのほうにもわかるだろう",
"いや違う、あれは幕府御用のものだ、危険な物だから山の中に納めて置くだ",
"ではなぜ村人を騙すのだ",
"なにも、騙しなんかしねえだ",
"山霊さまというのもか"
],
[
"山霊が哭くなどといったり、村の若者たちがでかけてゆくと、黒装束で現われて、みんな捕えて殺してしまう",
"嘘だ、殺しなんかしねえ",
"しかし帰った者はないぞ、帰ったのは一人だけで、あとの三十人ちかい若者たちはみな行方知れずのままだ"
],
[
"おまえもその一人だ",
"――――",
"どうだ、それに相違あるまい"
],
[
"われわれは公儀の役目で、観音谷の貯蔵庫を調べに来た。鉄砲弾薬を密蔵することは、それだけでも許し難い大罪だし、かれらはそれ以上の謀反を企んでいる、これを探索し摘発するのは、単に役目だけではなく天下の安穏を守るためだ",
"――――",
"そのほうに罪はないかもしれない、かれらに騙されたのではあろうが、われらは役目のためには生かしてはおけない、たとえ生かしておいたにしても、事が露顕すれば、大罪人の同類として仕置をされる",
"待って下せえ、どうか"
],
[
"どうか待って下せえ、お話を聞いてよくわかりました、騙されていたです、おら、まったく騙されていたです、おらもみんなもほんとに騙されていたですから",
"そんなことは聞くまでもない",
"いんや聞いて下せえ、おらたちは知らなかったです、うまいこと騙されて、いまに侍にしてやるなんぞと云われたもんで、ついうっかり手伝っていただけですから",
"しかし、われわれが此処にいることを、かれらにもう知らせたのであろう",
"いんや云わねえです",
"一昨日、この二人をみつけたのはそのほうではないか",
"それはおらですが、この小屋をみつけてから云おうと思っていたです",
"なぜ云わなかった",
"だって一昨日はただお二人を見かけただけだし、観音谷を探索に来ただか、加波山神社へ参詣に来ただかわからねえし、それに、早まって饒舌って、ひとに手柄を取られちゃいけねえと思ったもんだで"
],
[
"荷駄が来るようです、結城からいましがた馬が来まして",
"斧田さん、――"
],
[
"結城からどうしたって",
"あの晩の女が、――"
],
[
"かよというんですか、あの女が五人の侍たちと馬で来て、弁天谷へ登ってゆくのを見たんです",
"かよが来たって"
],
[
"かれらが登ってゆきながら話すのを聞くと、どうやら今夜から荷駄が来るらしいんです、三晩ぐらいで運べるだろう、などと云っていました",
"それはなによりの知らせだ"
],
[
"では今夜から見張りは、朝まで交代で続けるから、三郎は早く夕食を済ませて、ひと眠りしておくほうがいいだろう",
"その男をどうしますか",
"これはおれが片づける",
"お願いです、助けて下せえ"
],
[
"おらあすぐこの下の長岡の人間で、嘉平の伜の伝次っていう者であんす、おらばかりじゃねえ、二十六人も、みんなあいつらに騙されて、なんにも知らずに使われていたですから",
"助けてやれないという理由はもうわかっている筈だ",
"よくわかったです、お話を聞いたからわかったすがほかの二十六人はなにも知らねえ、なにも知らずに謀反人に使われているであんす、それがみんな罪人になっていまにお仕置にされるというのはあんまりむごい、それは旦那あんまりであんすだ",
"黙れ、みれんがましいことを申すな"
],
[
"たとえ知らなかったにもせよ、こんな悪事に加担すれば罪を逃れるわけにはいかん、ましてわれわれの役目はぬきさしならぬ大切なものだ、きさまなどを生かしておいて、万一にもかれらに内通されるようなことがあったら",
"そんなことはしねえです"
],
[
"もう首を捻じ切られたってそんなことはしねえです、ほかの二十六人だって、ほんとうのことがわかれば使われてなんぞいやしません、みんな親も兄弟もあるんですから、謀反人と同罪なら親兄弟も縛られるくらい、みんなわかっているんであんすから",
"ではどうしろというんだ"
],
[
"おまえの泣き言に免じて、おまえをこのまま放せというのか",
"そうじゃねえです、おらも助かりてえが、ほかの二十六人も助けてやりてえ、あの仲間にもほんとの事を話して、助かるようにしてやりてえです",
"どうすればそれができる",
"観音谷へいかして下されば、仲間に会ってよく話してやります",
"内通することもできるぞ"
],
[
"謀反人どもにこれこれと話して、この小屋のことを教えることもできるぞ",
"――ああっ"
],
[
"雪の晩にいたあの石黒半兵衛という男もいましたか",
"ええ、無反の長い刀を差したやつでしょう、慥かにいました",
"三郎は彼を知っているのか"
],
[
"或ることでいちど会ったんですが、世間の評判よりも実際の腕は上らしいですから、貴方も斧田さんも、立合うことになったら気をつけて下さい、いざとなったら私が引受けます",
"ずいぶん自信がありそうだな",
"刀を持ったら休さんより強いですよ",
"云うだけならなんとでも云えるさ",
"知らないような顔をしますね",
"まあいい、――喧嘩はよそう"
],
[
"なんのためにこんな処へ来るんだろう、女なんか来たってしようがないじゃないか",
"あなたがいらっしゃるからですわ"
],
[
"そこにいたんですか",
"また夜具も敷かずにおやすみになりはしないかと思って来てみたんですの",
"それで、――私がいるからとはどういう意味ですか",
"御自分で知っていらっしゃる筈でしょう"
],
[
"おまえ死ぬのはいやだろう",
"――ええ",
"助けてもらいたいか"
],
[
"ほかの者に聞えるぞ、もっと静かにしろ",
"へえ、へえ済みません",
"夕方おまえも見たろう"
],
[
"兄はおまえを斬るつもりだが、おれはどうかして生かしてやりたい、それには、おまえにそれだけの事をしてもらわなければならないんだ",
"します、どんな事でもします",
"おまえ二十何人かのなかまもいっしょに助けたいと云ったな",
"助けてえです"
],
[
"みんなおらと同様に、なんにも知らねえで使われているんですから、話をすればすぐに",
"まあ聞け、おれたちは観音谷の貯蔵庫に火をかける、あの鉄砲や弾薬は、謀反を起こすための準備だから、火をかけてすっかり焼いてしまうつもりだ。それで、――おまえのなかまのうち、役に立つものは手伝ってもらい、そのほかの者は観音谷から立退いてもらいたいんだ、わかるか",
"よくわかりあんす",
"それには二つの方法がある"
],
[
"一つはなかまと連絡をとって、外からみんなに呼びかける、もう一つは、おまえが観音谷に帰って、自分の口から説明する、この二つなのだが、おまえはどっちを選ぶか",
"へえ、おらはもうどっちでも、こうしろと仰しゃるとおりに致します",
"信用してもいいか"
],
[
"それはいい、そのとおりにゆけば悪くはないだろう、しかし",
"いや大丈夫です、あいつは決して、裏切るようなことはありません、なぜなら村にいる親兄弟を、われわれに押えられると思いこんでいますから、つまり親兄弟を人質にとっているのも同様なんですから",
"だがもう一つ"
],
[
"一期の大事というような瀬戸際には、たいていの人間がたいていな事はするものですよ",
"おまえは楽天家だよ",
"私は人間を信ずるだけです",
"朱雀事件の一味をもか",
"また始まりそうですな、よしにしましょう"
],
[
"もう放してしまったんだし、私にだってめどはあるんですから、どうかこんどは怒らないで見ていて下さい",
"おれはおれの方法を守ってもらいたかったんだ"
],
[
"ときに、荷駄はどんなぐあいですか",
"半刻ほどまえに五駄いった"
],
[
"あれにまた提灯の火が見える",
"見えますね",
"この谷を登って来るようだが、あれもおそらく荷駄に違いない",
"こうなると張合が出ますね"
],
[
"では代りますから、どうかいって休んで下さい",
"しっかり頼むぞ"
],
[
"あんまり棚から牡丹餅すぎるんで、なかには渋る者もあったですが、百姓をしていたでは一生かかっても五両なんて金は持てねえだし、つまりは金にひかされてうんといってしまったですよ",
"それはわかった、かれらが謀反の旗挙げをしたあとではだめだが、いまのうちならおまえたちは罪にならぬようにしてやろう"
],
[
"そこで、こちらから誰か入込みたいのだが、それができるかどうか、おまえたちの考えを聞かせてくれ",
"昼のうちはむずかしいが、夜ならばやりようによって大丈夫だと思いあんす"
],
[
"お侍たちは夜は寝てしまうだから、する事があればそのあいだに悠くりできるだ、なあ秀",
"私がやってみましょう"
],
[
"どうしてです、なぜ私より斧田のほうがいいんですか",
"なぜといってべつにわけはございませんけれど"
],
[
"貴女はあそこにかよがいるので、それで私をやりたくないんでしょう",
"まあ、万三郎さま"
],
[
"理由はそれに相違ない、しかし貴女には、私がそんなにだらしのない人間にしかみえないんですか",
"いいえそうではございません、決してそんなわけで云ったのではございませんわ",
"じゃあ理由はなんです"
],
[
"云って下さい、ほかに私でいけないという理由があるなら聞こうじゃありませんか",
"でもそんな理由なんて本当にないのですから、ただふとそんな気がしたまでのことなんですから",
"じゃあ私でもいいんですね",
"それは、もちろん、――",
"もちろんどうなんです"
],
[
"なにも理由がないと云っているのに、そんなに拘るやつがあるか、それより本当におまえがゆくのなら、あの女に用心しなければいけないぞ",
"休さんまでがそんなことを",
"事実だからいうんだ"
],
[
"自分でもそう云っていたが、あの女にはなにか妙にするどい勘がある、おまえがどこへいっても、必ずそこへついてゆくと云った",
"ばかな、みんな偶然ですよ"
],
[
"偶然ということもあるだろうが、それ以外になにかふしぎな勘をもっている、たとえば、千人の群衆の中に紛れこんでいても、そこに三郎がいれば必ずみつけ出すといったような",
"おどかすのはよして下さい",
"おどかすんじゃない、だから用心しろと云ってるんだ。おまえ自分でそう思わないのか",
"それは少しはあれですが"
],
[
"信用のできる人間か",
"同じ村の者で、安吉、大作、市太というですが、おらとはみんな幼な友達で、大作は小頭をしているですから",
"もうそれでやめておけ"
],
[
"あとのことはおれの指図するとおりにやるんだ",
"へえ、わかりました"
],
[
"ばかに静かだな",
"もっと低い声で話して下せえ"
],
[
"あらましのことは伝次から聞きあした、お手伝い致しますから、どうかおらたちに罪のかからねえようにお願え申しあす",
"よし、わかった"
],
[
"これからいろいろ頼むことがある、その手助けをしてくれれば決して悪いようにはしない、――ところで、いま荷駄が着いたようだが、積下ろしはおまえたちがやるのか",
"いんえ、あの荷駄はおらたちには触らせねえです、みんなお侍たちだけで庫へ入れるですよ",
"見たりしてもいけないか",
"出ちゃあいけねえことになってるであすが、もしなんなら"
],
[
"旦那は積下ろしを御覧になりてえですね",
"庫のようすを探りたいんだ",
"そんなら、――"
],
[
"あんまり長く暇どらねえように頼みます",
"戻ったら爪で叩いて下せえ"
],
[
"なにそう多くはない、常駐の兵は二百人ぐらいのものだろう",
"いつ頃までいるのでしょうか",
"三月にまず五十人ほど――"
],
[
"中を御覧なされますか",
"そうさな、明日にしよう"
],
[
"ひどく腹が減ってるんです、いま足を洗って来ますからなにか喰べさせて下さい",
"すぐお支度を致しますわ"
],
[
"うまくいったと思うが、はっきりしたことは今夜でないとわかりません",
"どうしてだ",
"私のほうはうまくいきましたが、あの秀という男が戻ってからどんな事があるかもわかりませんからね"
],
[
"それも少ない数じゃない、まず二百人とか云ってました",
"どういう人間が云っていた",
"荷駄といっしょに来た男です"
],
[
"しかし駐在兵の来ることは事実らしいですから、どうしたって焼打ちはそのまえに決行しなければなりませんね",
"もちろんだ、それもできるだけ早いほうがいい"
],
[
"ほんとですよ、決して嘘なんか云やしません、絶対に会わなかったんです",
"誰も嘘だなんて云いはしない、念のために訊いたまでだ",
"むろんそうでしょうけれど、しかしどうしてあの女に会ったかなんてことを気にするんですか",
"諄いな、ただ訊いてみただけだと云ってるじゃないか、会わなければ会わないでいいんだ",
"だから会わないと云ってます",
"わかったよ"
],
[
"なんだって、――",
"いやこっちのことです"
],
[
"どうかと思って心配していたんだ。気づかれずに済んだんだな",
"しっ、もっと低い声で"
],
[
"大丈夫でしたが、今日は江戸から来た女が小屋へ現われまして、なかまの顔をそれとなく見てゆきあした",
"――あの女がか",
"そらめ使ってただが、慥かに、誰か人を捜しているようなふうであんした、なあ秀",
"なにがわかるもんだ"
],
[
"夜になってからも見に来るようなふうだったか",
"さあそこは、どんなものか"
],
[
"待って下さい石黒先生",
"御短慮はいけません、相手が悪うございます、どうか気を鎮めて下さい",
"先生お願いです"
],
[
"おれたちには酒を飲むなとか騒ぐなとか云いながら、自分は気にいりの部下を集め、女をひきつけて酒宴をする、此処は料理茶屋ではないんだぞ",
"わかってます、お願いですから、先生",
"あいつはかよどのに、――"
],
[
"この糧秣倉に燈油があるだろうと思うんです。それを藁や蓆にぶっかけてやればまちがいなしですね",
"火薬が使えればもっと簡単なんだが",
"なお調べてみましょう"
],
[
"お上の仕事に山霊さまの声まねだの、黒装束で見廻りをするだのってことがあるわけはねえだ",
"五両なんていう莫大もねえ金だの、侍にしてくれるって話からしておかしかっただな"
],
[
"おまえたちのほかは、もうみんなが承知しているんだ、もし番士に密告でもするようなことがあるとすぐにわかるし、わかれば生きてはいられないぞ",
"それでははあ、もうみんな合点しているですか",
"残っているのはもうおまえたちだけだ、――但し、なかま同志で話すことはならない、万一にも番士どもに気づかれては水の泡になる、この事に関する限り、ひと言でも他の者と口をきいてはならんぞ"
],
[
"いったいどこへいらっしゃるんですか",
"うるさいな、黙って来ればいいんだ",
"だって寒うございますわ"
],
[
"なにが寒いものか、お互いに酔った躯で、夜気がひんやりとこころよいくらいではないか",
"酔っているのは太夫さまだけですわ",
"なにを云うか、知っているぞ"
],
[
"なにをなさいますの",
"騒ぐなよ、――ちょっと手がすべっただけだ"
],
[
"山の上へ月を見にゆくと云っておられた",
"酒を持って来いと云われたで"
],
[
"こんなことを冗談に云えるか",
"でもそれだけで万事だめになるというわけでもないでしょう",
"わからん、――"
],
[
"わたくしもう頂けませんわ",
"まあ一つ、――少し酔わないと、聞いて胆を消すかもしれないぞ"
],
[
"深川にある井伊家の下屋敷がかれらの本拠だとわかったから、逐い出しをかけたうえ一網打尽の策をとった、ところがほんの一歩の差でかれらを取り逃がした",
"なぜ踏込まなかったんです",
"井伊家で逃がすとは思わなかった、白川侯の睨みが利いている、田沼との関係で逼塞している状態だから、よもやそんな勇気はないだろうと思ったのだ",
"そして行方知れずですか",
"行方が知れぬばかりではない、かれらものるかそるかで松平伊豆のふところへとびこんだ"
],
[
"伊豆さまはおろか御老中が出たって、こちらは紀伊家、びくともするものじゃあないでしょう",
"ところがさすが豆州侯だ、直接この問題には触れず、異国船が近海に出没する、沿岸の防備を固めるようにと白川侯に強硬な進言をした",
"それだけですか",
"それだけさ"
],
[
"それで充分だし、最も辛辣な一札だ、豆州侯の進言には、紀州一帯の沿岸が覘われていること、某地には現に異国船の補給港があるということまで述べられていたという、そこで、――大殿から査察の使者が出されたくらいだ",
"大殿というのは何誰ですの",
"な、なに、それは"
],
[
"よく聞いてくれ、かよ、話というのはこれからなんだ",
"まあ放して下さいまし、そんなに乱暴になすっては痛うございますわ",
"やぼな声を出すな",
"ではこれを頂きますから"
],
[
"なんの汐刻ですって",
"おちついて聞くんだ、いいか"
],
[
"おれは握るだけの金を握った、大阪に家も買ってある。一生遊んで、贅沢三昧に暮す準備がすっかり出来ているんだ",
"では、――ではあなたは"
],
[
"事が危なくなったので、御自分だけ身を逭れて、安楽に暮そうと仰しゃるのですか",
"危なくなったからではない、初めからそのつもりでいたんだ",
"初めからって、――",
"そもそもの初めからさ、こんな大それた、夢みたような企みが成功する筈はない、そのうちには邪魔がはいるか、お屋形御自身が飽きるに違いない、そのときまでに掴めるだけのものを掴んでやろう、そう思って奔走していたんだ",
"わたくしには信じられません、太夫さまがそんな方だなんて",
"まあそう騒ぐな"
],
[
"おれの本心をあかせば、もっと大きい野心があったんだ、もう少し時日があればその野心が実現したんだ、それは花田徹之助のためにぶち毀されたが、しかしこれだけでも充分だ、あとはただ、――この",
"あれ、いけません",
"この、――かよだけだ",
"いけません、太夫さま"
],
[
"おれの妻になってくれ、かよ、おれはおまえと暮したいばっかりに、金も握り家も買った、なにもかもおまえのためだ",
"あっ、――放して下さい",
"おまえのためならなんでもする、この世にありとある楽しみをおまえに与えてやる、おれにはそれが出来るんだ、かよ、おれといっしょに逃げてくれ、おれの妻になってくれ、おれはかよを",
"あっ、ああ、そんな"
],
[
"どうするんです、それで私を斬ろうとでもいうんですか",
"斬れないと仰しゃるの",
"と思いますね"
],
[
"なぜなら、いま渡辺蔵人とかいうあのけだものが、あんな無礼なことをしたのに、貴女はその懐剣を抜いてみせようともしなかったじゃありませんか",
"必要があれば抜きます",
"へえー、すると私はよけいなお節介をしたというわけですか",
"もちろんですとも"
],
[
"あなたがもう少し見ていればおわかりになったでしょう、自分の身を護るくらいのことはあたしにだってできます",
"慥かですか、それは",
"お望みならば証拠をごらんにいれますわ"
],
[
"万三郎さま、どうかあたしを死なせて",
"動いちゃいけない"
],
[
"それはどうしたことだ",
"話はあとでします"
],
[
"つなさん、寝る支度をして下さい、この人は怪我をしているんです",
"あたし大丈夫です"
],
[
"どうかおろして下さい、自分で歩けますから",
"黙んなさい"
],
[
"なに者だ、――",
"わからないが相当なやつらしいんです、名は渡辺蔵人とかいってましたがね",
"なに、渡辺蔵人"
],
[
"いやそうじゃない、自分でやったんです",
"自分でですって",
"自害しようとしたんですよ",
"どうしてですの",
"あとで話します"
],
[
"知っている男ですか",
"お浜屋敷の支配だ"
],
[
"おまえたち、観音谷へ帰ったら、することはわかっているな",
"へえわかっているです",
"木戸で疑われたらおしまいだぞ、いいか、太夫さまを捜すのに暇取った。太夫さまはもう少し月を眺めると仰しゃっていた、はっきりそう云うんだぞ",
"間違いなくそう云うです",
"それから藁と油だ、油を藁にたっぷり掛けて、武器庫の裏に用意しておけ、――ほかの者たちに知らせるときよほど用心しないと危ないぞ",
"よくわかってるです"
],
[
"柵は木戸から南へ二十本めであんすから、どうか旦那も忘れねえで下せえ",
"わかった、早く帰れ"
],
[
"どうしたんだ三郎、なにをぐずぐずしているんだ、話せというのに話さないのか",
"まあそうどならないで下さい"
],
[
"花田の兄さんがやったんだそうですよ",
"兄上がどうしたって",
"こうなんです、――"
],
[
"おれが別れて来るときには、あまり頼みになりそうもない話だったが、――しかし、紀州家で国許へ査察使を出したというのはどういうことだ",
"その点なんです"
],
[
"老中から紀伊家に向って、沿岸に異国船の補給港があるという申入れをしたところ、大殿がすぐに査察使を出したというんですが、大殿といえば宰相(徳川治宝)さまでしょう、ところで、話のなかにお屋形というのが出ました",
"お屋形といえば、和歌山に御在城の左近将監(頼興)さまのことだろう",
"その人がくさいんです、もっとその男の口を割らないとわからないが、どうやら朱雀事件の首謀はその人の帷幄にあるらしい、そんなような口ぶりでしたよ",
"それが事実ならなによりだ"
],
[
"この男とかよさんが戻らなければ、貯蔵所は騒ぎだすに違いありません、今夜のうちにやってしまうほうがいいと思うんですが",
"できればそのほうがいい",
"伝次と秀にはそう云ってあるんです、柵も抜いてあるし、焼打ちの支度もできているでしょう、かれらのなかまも殆んど味方に付くし、事を起こす手筈も教えてあります",
"――おまえ残るか、三郎",
"なんですって",
"みんな死ぬわけにはいかん"
],
[
"この渡辺蔵人は生き証人として、江戸まで送らなければならない、朱雀調べには初めての、しかも重大な人間だ、彼を送るために誰か残らなくてはならない",
"冗談じゃない、いや冗談じゃないじゃない、そいつは私の役じゃありませんよ"
],
[
"それは休さんか、いや斧田さんがいいでしょう、斧田さんでなければつなさんか誰か",
"まあ待って下さい"
],
[
"それはいま定めないでも、焼打ちが済んでからでもよくはないでしょうか",
"しかし貯蔵所には侍が二十人、小者が十人ほどいるんですよ"
],
[
"仕掛けるほうに分があるとしても、三人と三十人ですからね、伝次たちのなかまが二十余人味方に付いてくれる筈だがどこまで頼みになるかはわかりませんからね",
"だが目的は焼打ちでしょう、武器庫を焼くのが目的なんで、三十人と勝負をしにゆくわけではないと思いますがね"
],
[
"まさにそのとおりだ、斬合いにゆくわけじゃあなかったな",
"そう定ったら支度をしましょう"
],
[
"もしそのようなことがありましたら、どう致したらようございましょうか",
"そんなことは訊くまでもない"
],
[
"では、――",
"もちろんだ"
],
[
"いやそんなことはないでしょう、大丈夫ですよ、あんなにひどく出血して、そのために気を失ったくらいなんですから、二日や三日はきっと歩けもしないですよ",
"たぶんそうでございましょう"
],
[
"貴女の油断のないのにはいつも感心しますよ",
"三郎、――"
],
[
"これまでずいぶん好いおもいをして来たらしいから、その代償と思って諦めるんだな、断わっておくが、――もし逃げようとでもすると、番に残るものが遠慮をしないぜ、じつに断乎たるものなんだから、わかったな",
"三郎、――"
],
[
"なかまにはみんな話がついたろうな",
"みんな承知です、これまで話してなかった者にも話しました、よければすぐにでも始めるです",
"藁のある処を教えてくれ"
],
[
"どこです、休さんですか",
"此処、こっちです、――"
],
[
"兄はどこです、だめですか",
"いや、ただ頭を、――"
],
[
"それはもう無意味ですよ、もうそんなことをする必要はないじゃありませんか",
"なにが無意味だ",
"ごらんのとおりこの貯蔵所は全滅したし、それに、そうです、渡辺蔵人という人間も私たちの手に",
"やかましい"
],
[
"そっちに意味がなくともこっちにはあるんだ、此処が全滅したことは、このおれ自身が破滅したことだ、おれはもう生きている要はない、この貯蔵所といっしょに亡びるつもりだ、が、――きさまを生かしたままでは死なんぞ",
"ちょっと云わせて下さい石黒先生、まあひと言だけ聞いて下さい",
"よせ、おれは石黒半兵衛ではない、その名を口にするな",
"悪ければ云いません、しかし"
],
[
"貴方がそんな、破滅だなどと仰しゃるのは違うと思います、貴方は無神流の師範として、立派に道場の持てる腕がおありだし、此処と縁を切ればいつでもその途がひらけるではありませんか、どうかそんなにつきつめたことをお考えにならないで、――",
"黙れ、黙れ黙れこの青二才"
],
[
"きさまは、このおれから、二つの大事なものを奪った、おれが生涯の夢にしていたものを、二つともおれから奪い取った",
"一つはこの陰謀ですね、が、もう一つはなんですか",
"刀を抜け",
"貴方の大事なもの、――"
],
[
"誤解です、それは貴方の誤解です、私とかよさんはなんでもありません",
"その名も云うな"
],
[
"動けなくなった人を斬れやしません",
"そいつは敵だぞ",
"しかしもうなにもできなくなった人です",
"ではおれが片づけてやる"
],
[
"待って下さい、いけません",
"きさま、――また悪い癖がはじまったな",
"この人は斬らせません"
],
[
"この人は不幸な人です、これまでも実際にはなんにもしなかったし、これからはなおさらなにもできやしません、翼の折れた鷲のようなものです、この人に構わないで下さい",
"――おかしなやつだ"
],
[
"だって手が足りないでしょう",
"どうせ素人の手には負えやしない、伝次を医者の迎えにやって、おれたちはできるだけ早く江戸へゆく工夫をするんだ",
"しかし休さんはどこか怪我をしているんでしょう、知らせに帰るんなら休さんが",
"おれの云うとおりにしろ"
],
[
"おれは頭を打ってちょっと気を失っただけだ、おれのことを心配するより、自分がよけいなことをしないように気をつけるがいい",
"そのとおりでしょう多分、いやいいです、帰りますよ"
],
[
"あらいやだ、なにをそんなに見惚れているのさ、そんな恰好でぼんやりしていると風邪をひくよ",
"あたしもう大人だわねえ、松吉姐さん",
"あたりまえよ"
],
[
"十五と云えばもうお嫁にゆく年じゃないの、あんたの躯はおくなくらいだわ、――それよか話のあとをお聞かせな、その半ちゃんって子を追っかけてどこまでいったの",
"藤沢ってとこまでいったわ"
],
[
"どこなのそこ、箱根よりかも遠いの",
"いやだ姐さん、箱根のずっとこっちよ、大山へ登る道のわかれる処ですって、江の島ってとこへもいけるんですってよ",
"その藤沢でどうしたの",
"あたしお金を持ってないでしょ、川崎って処から水ばかり飲んでったもので、藤沢までいったらふらふらになって、なんとかいう橋の袂で倒れちゃったのよ",
"そこで鬼六に捉まったんだね",
"そうじゃないの、そのときは大山帰りの親切なお爺さんに助けてもらったのよ"
],
[
"親切でやさしくって、ほんとにいいお爺さんだったわ、――でもいい人って大抵お金がないもんね、そのお爺さんも木賃宿へ泊って、自分でお粥を拵えてあたしに喰べさしてくれたわ",
"そういうものらしいね、世の中ってものは"
],
[
"善い人ってものは疑うことを知らないからねえ",
"その明くる日、いっしょに木賃宿を立つと、まだ藤沢の宿を出るか出ないうちに、おまえさんは躯がまだ本当じゃないから、駕籠に乗っておいでと云って、あたし駕籠に乗せられました、まる一日半も水ばかり飲んで歩いたあとで、まだ疲れも治らないし、安心もしたんでしょう、揺られているうちについうとうとと眠ってしまったんです"
],
[
"それであたしいきなり啖呵を切ったの、ばかにしちゃあいけないよ、江戸の金杉で山猫のおちづといえば、知らない者のないおねえさんだ、へたなまねをして後悔しないようにおしって",
"よくもまあ、――"
],
[
"旅先のそんな家で、そんな人間によくもまあ云えたものだね",
"そのくらい馴れたものだわ"
],
[
"それが鬼六だったのね",
"そうじゃあないんです、鬼六は五人めにあたしを買った男なんです",
"まあ五人めだって"
],
[
"そのあいだずっと暴れとおしたのかえ",
"片っ端から傷だらけにしてやったわ"
],
[
"がりがりひっ掻いてやるし、噛みつくし、蹴っとばす殴る、――みんなあたしの十八番ですもの、三人めのやつなんか耳へ噛みついて耳たぶを食い切ってやったわ",
"――呆れたひとだこと",
"そのときは怒ったわよ、そして、このお乳のところを拳骨で突かれて気を失っちゃったわ"
],
[
"あたし姐さんを見たときすぐに、ああこの人はあたしを助けてくれる、って思ったわ",
"とびついたじゃないの"
],
[
"いきなりあたしにとびついて、助けて下さい、ってどなったじゃないの、――あたし吃驚してとびあがりそうになったわ",
"ごめんなさい、あたし夢中だったんです、この人に助けてもらえなければ、もうだめだって気がしたんです",
"そう云われると辛いわ",
"あら、なあぜ姐さん",
"だって助けたと云ったって、このまま堅気にさしてあげられるわけじゃなし、やっぱり芸を覚えて稼いでもらわなくちゃならないからねえ",
"そんなこと覚悟のうえよ"
],
[
"あたし鬼六の処へ来るまでに考えたの、あたしのような者はお店の女中奉公もできないし、といって十五にもなってみれば、いつまで街をうろついてもいられない、なにか生きてゆくしょうばいを身に付けなければならない、それならいっそ躯を張ってやれって",
"そこへおちるわねえ、女は",
"いいえ、おちるんじゃないわ"
],
[
"あたし女衒の男をやっつけるたびに気がついたの、男はあたしたち女を食いものにしたりなぐさんだりする、けれど、こっちがそのつもりになれば、男ほどたあいのないものはない、こっちの思うままにすることができるって、――そうじゃないかしら、姐さん",
"そうかもしれないわね"
],
[
"いやだわ姐さん、半ちゃんとこの話とはまるっきりべつよ",
"だから半ちゃんはべつにして、って云ったでしょ",
"だっていやだわ"
],
[
"あたしが云うのはね、女は結局のところ弱いもんだと云うことなんだよ、いまあんたは、そのつもりになれば男なんか手玉に取ってみせるって、云ったわね",
"あたし姐さんにその証拠をみせてあげられると思うわ",
"でも半ちゃんはべつなんだろう",
"姐さんったら",
"まあお聞きよ、――そりゃあね、女がいちどこうと肚をきめれば、男なんてこっちの思うままさ、鼻づらに繩を付けて曳き廻すことだってできるわ、でもそれは好きな人ができるまでのことよ、好きな人もないし、男なんてけだものだと思っていられるうちは、あんたの云うようにやれるだろうけど、いちど好きな人ができ、情愛というものを知ってしまうと、――女はもうだめ、こんどはまた泣く番がまわってくるのよ"
],
[
"――姐さんにも、好きな人がいるのね",
"そりゃあおまえ、あたしだって女だもの",
"――いまでもいるの",
"あたしはあんたに話してるんじゃないの"
],
[
"半ちゃんていう子が帰って来て、あんたと会うことができたにしても、お互いに年も若いしすぐいっしょになれるわけじゃない、あんたはあんたで稼ぎ、半ちゃんにもなにか職を覚えてもらって、さきを楽しみに辛抱するんだわね",
"ええ、そうするつもりです"
],
[
"だからあたし、半ちゃんが帰ったら此処へ来るように半ちゃんの知っている家へ頼んでおいたんです",
"あたしもできるだけのことはしてあげるつもりよ、――このしょうばいには、あんたなんぞの知らない辛いことがいろいろある、それも八方から義理に絡まれて、泣いても泣ききれないような事さえあるんだよ",
"あたしおよそ知ってます"
],
[
"あたしは街で育ったようなものだし、ごろつきやならず者たちの、云うことすることを聞いたり見たりしてきたんですもの、どんな事があったって驚きゃしませんわ",
"ああ、――あんたってひとは"
],
[
"いまうたっていた謡曲は、なんというんです",
"いやですわ、謡曲だなんて"
],
[
"わたくしのはうろ覚えで、ひとのうたっているのを聞いたんです、わたくしには謡を稽古するような時間はございませんでしたわ",
"それにしては上手じゃありませんか、なんというんです"
],
[
"なぜそんなに気になさいますの、御存じなのでしょ、三郎さま",
"知らないから訊くんですよ",
"あらそうかしら、――"
],
[
"知っているなら教えてもいいでしょう、なんという謡曲ですか",
"わたくし知ってますわ",
"じゃあ教えて下さい",
"いいえ謡じゃなく、あなたがどうしてお訊きになりたいかということ",
"――悪い癖だ"
],
[
"貴女はいつも話をはぐらかす、肝心なところになるときまってはぐらかすんだから",
"はぐらかしはしませんわ、本当のことを云っているんです、あなたはつなさんがうたっていらしったので、なんという謡かお知りになりたいんでしょ",
"それはまあ、それもあるが",
"あらいやだ、お顔を染めたりなすって、三郎さまもずいぶんだこと、――でもね"
],
[
"本当は三郎さまは思い違いをしていらっしゃるのよ、御存じないでしょ",
"なにが思い違いですか",
"あなたはね、――云ってもいいかしら"
],
[
"あなたが本当にお好きなのはね、つなさんじゃないっていうこと、つなさんを好きだと思っているのは、御自分の思い違いだっていうことよ",
"ほほう、――"
],
[
"それが思い違いだとすると、私が本当に好きな人はほかにいるというわけですね",
"もちろんですわ",
"教えてもらいましょう、誰です",
"わ、た、く、し、――"
],
[
"貴女ですって、私が貴女を",
"お好きなんですの"
],
[
"あなたは長崎にいらっしゃるうちに、つなさんのことをお聞きになって、あの方をお嫁にもらうおつもりになったでしょ、そのことがあなたのお頭に残っていて、まだ約束もなにもなさらないのに、まるで許婚かなんかのような気持でいらっしゃるんですわ",
"もちろん約束はしていません、しかし私の意志は休さん、いや甲野の兄からもうちゃんと伝えてあるんです、あの人もそれを知っているんですよ",
"それでどうして婚約をなさいませんの"
],
[
"つまりですね、いくらなんだってこんな騒ぎのさいちゅうに、婚約だなんて、そんなことが云いだせるわけがないからですよ",
"あら、なぜでしょう"
],
[
"まさか合戦をしていたわけではなし、あんな山の中の小屋に、長いあいだいっしょにいて、本当に好き合っている同志なら、婚約はおろかもう愛し合っていていい筈ですわ",
"ばかな、冗談じゃない",
"かよならそうしますわ"
],
[
"そういう話は私も聞きたくないし、貴女にとっても褒めたことじゃない、また、私がつなさんよりも本当は貴女を好いているんだなんということもよして下さい",
"あら、なぜですの",
"そんなことは事実じゃあないし、若い男女の口にすべきことでもないからです",
"事実じゃあないんですって",
"むろんですとも",
"では三郎さまは、かよを好いてはいらっしゃらないというんですわね"
],
[
"どうするんです",
"貼り替えて頂くのよ"
],
[
"好きでもなんでもなければ、このくらいのこと平気でしょ、三郎さまがわたくしを愛していらっしゃるとすれば、それは無理かもしれませんわ、愛している女の肌にじかに触るなんて、そうたやすくできることじゃありませんもの、――でも愛してもいず好きでもなければべつですわ、石かなにかに触るのと同じですもの、ねえそうでしょ",
"つまり、――つまり貴女は私をからかっているわけですね",
"いいえ、かよが好きでないという、証拠を拝見したいだけですわ",
"私は、云っておきますが",
"おできになれませんの"
],
[
"お望みならばやりますよ",
"ではどうぞ、まえのを剥がして、そのあとをよく拭いて、それから新しいのを貼って下さいましな",
"なにそのくらいのこと"
],
[
"そんなふうに触っては擽ったいじゃございませんの、もっと遠慮なしにやって下さいまし、ぐいぐいと",
"もちろん、――やりますよ"
],
[
"まあひどい",
"こ、これは失礼",
"まあひどい"
],
[
"これは悪かった、とんでもないことをしました、貴女が遠慮なくぐいぐいやれと云うもので、ついその、――済みません、勘弁して下さい",
"それにしてもずいぶん邪険になさるわ",
"まったく済みません",
"これで拭いて下さいまし、それから、これが血止め薬ですから、これを先に塗って、それから膏薬を、――"
],
[
"そんなに動いてはだめです、少し動かないでいて下さい",
"だって痛いんですもの",
"動くからですよ、じっとしていれば、――もうちょっとこっちへ向いて下さい"
],
[
"いついらっしゃいましたの、まあ、少しも存じませんでしたわ",
"やあいらっしゃい"
],
[
"あのときの傷の手当をしていたんですよ、慣れないもんでちょっと失敗したりしましたが、まあおあがりになりませんか",
"此処で失礼いたします"
],
[
"花田のお兄さまからお言づけがあってまいりました、御用があるから来て頂きたいとのことでございます",
"そうですか、今日ですか",
"よければすぐにということでございました、おわかりでございますか",
"わかりました、しかし",
"おわかりでしたら帰ります"
],
[
"お願いですから、どうか私の云うことをすなおに聞いて下さい",
"――さあどうぞ",
"貴女はつまり、なにか考え違いをなすっていらっしゃるようですが、実際のところあれはなんでもないんです、ほんとですよ、本当にただ膏薬の貼り替えをしていただけなんです",
"あの人には藤井という老女が付いている筈ですわね",
"ええ付いています",
"どうしてその老女がしないで万三郎さまがなさいますの"
],
[
"それもほかのところならともかく、あんなに胸をひろげて、――親に見られても恥ずかしい胸などをひろげて、それをまた万三郎さまが、たいそう御熱心に",
"待って下さい、つまり、そ、そこに、誤解があり理由があるんですよ、私だってべつに好んであんなことをしたわけじゃないんです",
"でもまさか腕ずくでさせられたわけでもございませんでしょ",
"ひとつすっかり話しましょう"
],
[
"あ、あ、貴女と私とが、いや私が長崎にいたときにですね、私が長崎にいたことは御存じでしょう",
"どうぞ続けて下さいまし",
"ええ続けます、もちろん"
],
[
"その、いや、長崎は問題じゃないんです、休さんから手紙で、いや、もっと話を端折りましょう、私は云ったんですよ、そんなことはないですって、私は、私たちはもう",
"なにを仰しゃっているんです、わたくしには仰しゃることがまるでわかりませんわ",
"そうでしょうか、――"
],
[
"いやそうじゃない、話はこれからなんですよ、しかし、どうも考えてみるのに、これは私の口からは云えそうもないんです",
"つまり弁解はできないと仰しゃるんですわね",
"弁解じゃない、真実を云いたいんです、しかし、――",
"わたくし無理にお聞きしたくはございませんわ"
],
[
"あなたのお話がどうあろうと、わたくしの眼で見たことに変りはないと思います、どんなに条理の立った弁明より、わたくしは自分の眼で見た事実のほうを信じますわ",
"それが誤解のもとなんですがね"
],
[
"人間の眼で見ることなんてたかが知れてます、誰が殴ったとか、泣いたとか、転んだとか、そんなことはみんな上っ面の問題で、真実なんか見えるもんじゃないんですから",
"では真実を仰しゃって下さい",
"それが貴女はそう軽く云うけれども、真実というものはそう易々と口にできないばあいもありますからね",
"はあ、そうでございますか"
],
[
"もう兄上に会ったのか",
"いや、それがその、いま来たばかりなもんで、これからすぐ",
"いっしょに来い"
],
[
"すばらしい知らせがあるぞ",
"――なんです"
],
[
"どうかと思って案じていた、たぶんだめだろうと諦めていたんだが、これでみると無事に会っているし、こっちから云ってやった問題も調べ済みだったらしいな",
"なにを云ってやったんですか"
],
[
"左近将監さま、――頼興さまの御動静だ",
"だって中谷がいったのは田辺でしょう",
"だから使いを出したんだ"
],
[
"頼興さまがお忍びで、田辺へしばしば遊猟にいらっしゃる、そういう密報があったんだ",
"休さん知ってたんですか",
"おれは兄上から聞いたんだ",
"なーんだ"
],
[
"ずっと加波山でいっしょだったのに、いやに知ったようなことを云うからどうしたのかと思った",
"おれが知ったふりをするって",
"やめろ、二人とも黙れ"
],
[
"江戸邸の中心について、あいつどうしても口を割りませんか",
"云わない、どうやら知らないというのは事実らしい、ただ一つだけ新しいことを白状した",
"なんです",
"深川のさる料亭で、月に二度ずつ日を定めて会っていた人間があるそうだ",
"紀伊家の者でしょうか",
"そうかも知れない、――かたく秘密が守られていたところをみると、同家中でありながら屋敷の外で密会する、ということも不自然ではない",
"しかし、顔でわかるでしょう",
"相手はいつも覆面しているということだ"
],
[
"そいつを押えてみましょう",
"おれもそう思う、が、――"
],
[
"これはなんです、これを読みましたか兄上、甲斐のくににも貯蔵所があるというじゃありませんか",
"静かにしないか",
"しかしここにちゃんと書いてありますよ",
"わかっている"
],
[
"お呼びになったのは、つまり私にその人間を捉まえろというわけですね",
"まあおちつけ、――"
],
[
"渡辺の口ぶりでは、その男は枢要な位置にいる人間のようだ、おそらく、その料亭へ来るときには、蔭に護衛者が付いているだろう",
"そんな者の五人や十人",
"うるさい、おちついてよく聞けというんだ",
"はい、――よく聞きます"
],
[
"護衛の有る無しにかかわらず、できるならその男から情報を聞きたい、捉まえるよりは、そのほうが敵の動きや内情がわかる、そう思わないか",
"そう思います",
"そこで、――渡辺は結城へ去って以来ずっと会わない、加波山の貯蔵所の潰滅したことはむろんわかっているだろうし、かれらのほうでは渡辺が、死躰の出ない以上、連絡のあるのを待っているに違いない、だから、おまえが渡辺の使いということになって、その男に会ってみるのだ",
"本来なら私の役なんだ"
],
[
"三郎では不安心なんだが、私は紀伊家の者に顔を知られている、その男が紀伊家の人間だとするとぶち毀しになるから、やむなくおまえに代行させるんだ",
"そう口惜しがらなくってもいいですよ"
],
[
"むろん私はうまくやりますが、渡辺の使いだといって、相手を信じさせる方法があるんですか",
"――これだ"
],
[
"拝領の品とみえて、目貫に花葵の紋がある、中身は来国俊だから、かれらのあいだでは相当ひろく知られている品だと思う",
"つまり証拠に使うんですね",
"そして、こういうぐあいに云うんだ"
],
[
"わかりました",
"忘れてはならんぞ"
],
[
"渡辺がその男に会うのは月に二度、十一日と二十一日だ、臨時に用のあるときは、その男から小田原河岸の下屋敷へ知らせて来る、十一日と二十一日は、用の有無にかかわらずその料亭で会う、これが二人のあいだの規約だ、――いいか",
"向うは疑ってかかるぞ"
],
[
"まあ休さんは黙って見ていて下さい",
"どうかそう願いたい"
],
[
"おれだっておまえがそれほど凡くらだとは思ってやしない、相当なことができるとは信じているよ、ただ一つ悪い癖があるんだ、――肝心な事だけやれば立派なんだが、おまえとくると必ずよけいな事にちょっかいを出す、つまらないようなところで情にほだされて、肝心な事をお留守にする、そいつが三郎のなによりの欠点だ",
"わかってますよ",
"本当にわかってもらいたいね、今日だって呼ばれて来たのに、あんな庭の隅のところで",
"もういいですよ"
],
[
"あれはべつなんだ、あれにはわけがあって、休さんは知らないだろうが",
"いつもそれだ、いつもそれじゃないか、いつもなにか理由があって肝心の事をそっちのけにする、それが悪い癖だというんだ",
"それは休さんの誤解だよ"
],
[
"そう云うなら訊くけれども、これまでそのことで失敗した例がありますか、古木邸のときだって、つなさんを助け出したのをよけいな事だというけれど、結局は加波山の焼打ちに成功しているでしょう、観音谷のときだってそうだ、かよを掠って来たのはよけいかもしれないがあの人を死なせたからってべつに焼打ち以上の価値があるわけじゃない、そんなに云われるほどばかなまねをしてはいないと思いますがね",
"もういい、やめろ"
],
[
"休之助は注意をしているんだ、おまえが抗弁をすることはない、三郎には慥かにそういう欠点があるし、これまでうまくいったからといって、今後もうまくゆくとは限らない、休之助はそこを云っているんだ",
"ええそれはわかってます",
"わかったらはいと云えばいい"
],
[
"こんな処にいやあがったのか",
"いやあがったのか"
],
[
"この山猫め、こんな処にいやがって、ふてえあまら、――が、どうしたんら、ばかにきれえになったらねえか",
"そうだ、いい着物を着て髪なんぞ結やあがって、すっかり見ちげえちまったぞ、すっかり見ちげえるほどきれえになりやがった、おまけにもうちゃんとした娘じゃあねえか",
"娘ら、娘ざかりら",
"なにかうめえ蔓でも捉めえやがったな、――いや、そんなこっちゃねえ、そんな褒めてるようなばええじゃあねえぞ"
],
[
"やい、この山猫、あのときはひでえめにあわせてくれたな",
"それはこっちの云うことだよ"
],
[
"大の男が二人がかりで、あたしを手籠めにしようとしたじゃないか、ひどいめにあったのはあたしのほうだよ",
"な、なにを、この、その、てめえなんぞ知らねえからそんな大きな口をきくんだろうが、あのとき三島のあにいはまた眼が昏んじまったんだぞ、まるでめくらも同然てえありさまになっちまったんだぞ",
"そうらとも、まったくらぞ"
],
[
"笑いごとじゃあねえぞ、とんでもねえあまっ子だ、笑うどころの話か、あれからこっち五十日の余もおめえ、こっくりさまのお灸へ通ったんだぜ",
"そうらとも、五十日の余も、こっくりさまのお灸へ通ったんら",
"なんのためにさ"
],
[
"なんのためだってやがら、へっ、冗談じゃねえとぼけるなってんだ、おめえがまた三島のあにいの頭をどやしつけたから",
"殴ったのは半ちゃんだよ",
"半公、――ああそうか",
"殴ったのは半ちゃんさ、あたいなら頭を叩き潰してやったんだ",
"なんだって",
"あたいなら丸太で叩き潰して、蟹びしおのようにしてやったっていうんだ、半ちゃんは温和しいから命が助かったのさ、お礼でも云いたいっていうのかい",
"このあま、大口をたたきゃあがって、畜生、よくもぬかしゃあがったな、やい、よく聞けよ"
],
[
"おかげであにいはまた眼が見えなくなり、金杉からこの深川のこっくりさままで、五十日の余もお灸に通ったんだ",
"そうらとも、五十日の余も",
"その御利益でようやく見えるようになったが、五十日余の日当とこっくりさまへ払った療治代はどうしてくれる、さあ、これをどうしてくれるか返答しろ",
"そうら、これをろうしてくれるんら",
"やかましいね"
],
[
"日当や療治代が欲しかったら、番太にでも訴えて出たらどうだい、恐れながらおちづ姐さんを手籠めにしようとして、殴られてこんなことになりましたってさ、そうすればきっとたんまり日当を下さるだろうよ",
"な、なんだと、このあま",
"どいてくれってんだ、あたしは用のあるからだなんだよ",
"――どうしたんだ"
],
[
"たしか権あにいとかいう男の子分だったな、そうだろう",
"へ、へえ、それはその",
"忘れたのか、いつか新銭座のぶっかけの前で、おれにいんねんをつけて喧嘩になったことがあったろう、うん、姿が変ったからわからないかもしれない、それ、よく見ろ、おれはあのときの拾い屋だ",
"あっ、いけねえごめんなさい"
],
[
"つまらない文句をつけただけで、もっとうるさくしたら、あべこべにやっつけてやろうと思ってたんです",
"ほう、そいつは強いな",
"それよりか、あの、――"
],
[
"あたし貴方を知っています",
"私をか、――",
"ぶっかけの前のことを仰しゃったので気がついたんですけど",
"ははあ、するとあれを見ていたんだな",
"ええ、そして、そのあと半ちゃんと二人で、山内の和幸まで跟けてゆきました",
"和幸まで、――",
"半ちゃんが深川のお屋敷へ知らせにゆき、あたしは残って見張りをしていました",
"へえ、――それはどうも"
],
[
"それは奇遇だ、よく覚えているよ、おかげで危ないところを助かった、お礼を云うひまもなかったが、では、――おまえが",
"ええ、ちい公です",
"そうだ、半次とちい公と聞いたっけ",
"本当はおちづっていいます"
],
[
"それで、今はどこでなにをしているんだ",
"半ちゃんが紀州へいっちゃいましてから、いろいろなことがありました、ずいぶん辛いことがありましたけれど、今はもういいんです"
],
[
"そういうわけで、これから姐さんのところへこれを届けにゆきますから、ゆっくり話してはいられないんですけれど、――半ちゃんのようすはまだわからないでしょうか",
"いや、半次は無事だよ"
],
[
"紀州から手紙が来て、半次はうまく中谷という者に出合ったそうだ、もう用事も終ったようだから、まもなく帰って来るだろうと思う",
"まあ、よかった、それで安心しましたわ",
"いろいろ苦労させて済まなかったな",
"いいえそんなこと"
],
[
"あたしたちなんてろくなお役にも立たなかったんですから、ただ半ちゃんが無事で、近いうちに帰るとわかれば、それでもうなんにも云うことはありません",
"私も今日は用があるので、これで別れなければならないが、――家は仲町だといったね",
"ええ仲町で松島屋っていえばわかります",
"わかった、いずれみんなと相談して、なんとか身のふりかたを考えるとしよう、決して悪いようにはしないからな",
"いいえ、そんな心配はいりませんわ、半ちゃんさえ帰れば、あたしたちちゃんとやってゆく段取りがついているんですから"
],
[
"とにかく、思い遣りというものがないんだ",
"はい、なんでございますか"
],
[
"敵の監視が厳しいうえに、加波山で手傷を負いまして、暫く動くことができないのです",
"そのほうは、――彼とどういうかかわりがあるのか",
"渡辺さんが江戸へ帰る途中で会い、そのまま浅草の裏に家をかりて、いっしょに住んでいます、申しおくれましたが、私は常陸のくに石岡在の郷士の二男で",
"いや、名を云うには及ばない"
],
[
"結構でございますな、蕨めしというのはまだ聞いたこともなし、もちろん喰べたこともありません、想像するだけでも美味そうですが、やはりどこか田舎のほうの名物でございますか",
"たぶんそうだろう"
],
[
"申しつけるのなら私がいってまいりますから、どうぞ",
"なに、ほかに用もあるのだ"
],
[
"もう逭れる途はない、神妙にしないと射殺すぞ",
"卑怯者――"
],
[
"たった一人のおれを、それほどの人数でなければやれないのか、さっきの男を出せ、あの覆面をした男はどこにいる",
"やかましい、刀を捨てろ"
],
[
"もう諦めるとするか",
"刀を捨てろ"
],
[
"あたしおお袖のとき、どうしてもうまく集まらないのよ",
"せんはもっとうまかったわ"
],
[
"町内のお絹ちゃんだってあたしにはかなわなかったのよ",
"お絹ちゃんて、――",
"酒屋の子よ、お金持だもんだからいつも威張りくさってたわ、あらいけない、――さ、こんどはたあちゃん",
"あらあたし"
],
[
"ねえおかみさん、旦那の岡さまって、神さまみたいだわね",
"神さまだって、――",
"だってそう思うわ、うちの姐さんにもよくして下さるし、あたしを鬼六から助けて下さるし、ここのお宅だってやっぱり岡さまのおかげだし、――あたしそんな人って初めてよ"
],
[
"そういえばそうね",
"そういえばって、――世間はずいぶんせち辛いのに、そんな人がいるなんてふしぎに思わない、おかみさん",
"はいお銚子あがりました"
],
[
"ほんとに、そう云われてみればそうだわね",
"あら、同じことばかり云って",
"だって気がつかなかったんだもの、あたしたちは長いこと御贔負になって来たし、この頃ではもうお世話になるのがあたりまえみたいになっているもんでね、――そういえば松吉さんだって、あんなによく面倒みてあげていながら、まだいちどもわけがないなんて、いくら通人にしてもちょっと珍しいと思うわね",
"よっぽど御大身のお武家さまなのね、――それともお忍びのお大名かしら",
"まさか、いくらなんだってお大名ってこともないだろうけれど、でも相当御大身だということは慥からしいわ",
"あたしもいちど、お眼にかかってみたいわ"
],
[
"やっぱり升屋へいらっしゃるんですって、あんたもいっしょに伴れてってやれって仰しゃってよ",
"あら、あたしも"
],
[
"あたしもいちどおめにかかりたいって、願がかなったわけだね、ちいちゃん",
"どうしておめにかかりたいの"
],
[
"どうしてでもないけど、だって姐さんの旦那だし、あたしも御恩になってるんですもの、お顔も知らないっていうほうがへんだと思うわ",
"それもそうね"
],
[
"でも気をつけておくれよ、舟の中は狭いから、失礼のないようにね",
"ええ知ってますわ",
"あんたは男の子みたいに乱暴なことをするんだから",
"大丈夫よ姐さん"
],
[
"このまえ、いやなやつと良い人に会ったんです、このまえ升屋へお座敷のあった日なんです",
"このまえって、十一日のときかえ",
"そうです"
],
[
"いやなやつと良い人に会ったなんて、いったいそれはどういうことなの",
"それはあの、あの、――"
],
[
"いやなやつっていうのは、いつか姐さんに話した、金杉のならず者で、相撲あがりの三島と屁十っていうやつなんです",
"ああ、半ちゃんが丸太で殴ったとかいうあれだね",
"ええそうです、三島っていうのは、まえにも丸太で殴られて眼が見えなくなったんですけど、こんどもまた見えなくなって、――こっくりさまのお灸へ五十日も通ったんですって、――でも、こんな話もうよしますわ",
"良い人というのはどうしたの、その人が助けてくれたんじゃないの",
"ええそうなんです",
"知らない人なのかえ",
"いいえ、ええ、――"
],
[
"岡さまがいらしっているときは、定っている係りの者のほかは、お座敷へ近よってもいけないんだから、今夜はお手伝いはしてくれなくてもいいのよ",
"だってあたしならいい筈よ、松吉姐さんのうちの者なんですもの",
"それでもだめ、今夜はじっとしていらっしゃい"
],
[
"あなたがわたくしを訪ねていらっしゃるなんて、ちょっと信じられませんわね",
"あなたはお笑いになるの"
],
[
"いいえ、笑うどころですか、きみが悪くって躯がちぢむくらいですわ",
"そんなにおちついていらっしゃるところをみると、あなたは知っておいでなのね"
],
[
"なんのお話かわかりませんけれど、そんな処に立っていないでおあがりになったらどう、べつに取って食いはしませんことよ",
"知っていらっしゃるのね"
],
[
"もちろん万三郎さまのことよ",
"――万三郎さまですって",
"どこにいらっしゃるの"
],
[
"どこにって、――それはつなさんのほうが知っていらっしゃるでしょう、万三郎さまはあの明くる日、此処を出ていらしったままお帰りになりませんわ",
"それで、そんなにおちついていらっしゃれるの",
"おちついてって、――",
"出ていらしったまま十二日も音沙汰がないのに、少しも案じているようすはないし、平気で笑うことさえできるではありませんか、それはあなたが万三郎さまのいどころを知っているからでしょう",
"では、――あの方は"
],
[
"あの方は、あのまま帰っていらっしゃらないんですの",
"だからまいったんですわ"
],
[
"いったいあの方はどこへ、どんな事をしにいらっしゃいましたの",
"深川洲崎の料亭へ、渡辺蔵人の使いとして、ゆかれました",
"まあ乱暴な、――"
],
[
"それでいったいどうなさるおつもりですの、観音谷の事もあるし、ぐずぐずしていると取返しのつかないことになりましてよ",
"ではかよさんは本当になにも御存じないんですのね",
"わたくしがなにか知っていると思っていらしったの",
"だってあなたは向うの一味でしょ、押籠められていたって、どこからどう連絡がつかないものでもないし、万三郎さまはあのとおり正直な方ですから、あなたが騙すくらいぞうさのないことですもの",
"それならそう思っていらっしゃればいいわ、いまそんなことで口論してもしようがありませんもの、それより万三郎さまをどうなさるんですか",
"御存じないとわかれば宜しいのよ"
],
[
"もしやと思って来たのだけれど、なにも御存じないということがわかりましたから、わたくしもうお暇しますわ",
"待って下さい"
],
[
"これから方法を考えるようでは手後れになります、なにか手配をなすってあるんですか",
"そんなこと御心配には及びませんわ",
"つなさん"
],
[
"お願いですから聞いて下さい、万三郎さまをお助けするいい方法があります、どうか聞いていって御相談なすって、あの方を早く助けてあげて下さい",
"いい方法ですって"
],
[
"――うかがうだけうかがいますわ、仰しゃってごらんなさい",
"渡辺蔵人を返すんです",
"――まあ",
"捉まえて置いたって、あの人はそれほど役に立ちはしません、また仮に少しぐらい役に立つにしても、万三郎さまと交換ができれば充分じゃございませんの",
"あなたのいい方法というのはそれだけですの",
"もしそれでだめなら、あたしを代りにやって下さい",
"あなたをですって",
"あたしなら助けてあげられます、あたしならどんなことをしたってきっと、――つなさん、待って下さい"
],
[
"あたしを信じて下さい、ほかの事とは違います、万三郎さまのお命にかかわる大事なばあいですから、お願いですつなさん、あたしを代りにやって下さい",
"そこを通して下さい"
],
[
"それはどういう意味ですの、あたしが裏切るとでもいうんですか",
"裏切らないという証明がおできになれて",
"あの方の命が危ないというときに、まだそんなことを疑っていられるのね",
"万三郎さまのことを口になさらないで下さい、あなたは関係のないことですから"
],
[
"わかりました、つなさんは嫉妬していらっしゃるのね",
"嫉妬ですって",
"そうよ、あたしが万三郎さまを取ると思って、嫉妬しているんだわ",
"なんのために、――"
],
[
"わたくしがなんのために嫉妬しなければならないんです、万三郎さまから望まれて、わたくしあの方の妻になる約束ができているんですのよ、もし嫉妬するとすればそれはわたくしではなくかよさんの筈です",
"ええもちろん、あたし嫉妬しています"
],
[
"嫉妬のために躯が焦げてしまいそうよ、――でもね、それはつなさんの嫉妬とは違いますの、あたしは万三郎さまが、あなたのような冷たい、お利巧だけれど情のない、自分勝手な人に好意を持っているのが、口惜しくってお気の毒でじれったいのよ",
"わたくしが冷たい情のない女ですって",
"おまけに高慢で負け嫌いで見栄坊で理屈屋よ"
],
[
"万三郎さまはあなたなんぞで幸福になれやしないわ、あなたは万三郎さまを訓戒したり叱ったり、やりこめたりすることはできるでしょう、でも愛してあげることはできやしないわ、愛するというのは、相手の悪いところも欠点もすべてそのままうけいれることよ、あなたにそれができて、つなさん、――できるもんですか、万三郎さまを愛してあげ、幸福にしてあげられるのは決してあなたじゃあありませんわ",
"それは自分だというわけね"
],
[
"かよさんなら万三郎さまを仕合せにしてあげられるというのね、ほほほ、試してごらんなさい、わたくし拝見させて頂くわ",
"できないと思うの",
"わたくしあなたと張合うつもりなんかありません、あなたに自信があるならやってごらんになればいい、わたくし黙って拝見していますから",
"その言葉を忘れないでちょうだい"
],
[
"あっ、甲野さまのお嬢さま",
"――だあれ、あなたは",
"おちづです、いいえあの、半ちゃんの友達のちい公です",
"――まあ、あなたが"
],
[
"それよりか大変な事があって、それでいそいで来たんです",
"そう、では中へ入りましょう"
],
[
"誰か石倉の中に押籠められているに違いない、その人が助けてもらうために、鼠の首へ手紙を付けたんでしょう、でも、あたしには字が読めないし、うっかり升屋の人にも読んでもらえないでしょう、だって升屋の石倉の中にいるんですもの、みんなその事を知っているかもしれませんから",
"よくそこに気がついたわね",
"ですから、――それはゆうべのことだったんですけれど、姐さんと仲町の家、――これはあとでお話ししますわ、仲町の家へ帰ってから、あたし船宇というお茶屋へいって、おかみさんに読んでもらったんです"
],
[
"そうすると、この手紙を真崎稲荷の近くの、この寮へ届けてくれ、と書いてあるって云われたものですから",
"持っているのね、その手紙",
"ええ持ってます、これですわ"
],
[
"この手紙を書いたのは、わたくしたちにとって大事な人なの、十日ばかりまえから行方がわからないので、みんなでどうしようかと心配していたのよ",
"もしかして、それは"
],
[
"あの、花田万三郎さまじゃないんですか",
"あなた知っておいでなの",
"ええ、十日ばかりまえだとすると、あたし花田さまに道でお会いしたんです"
],
[
"これが最後の仕事になるだろうし、あとの始末はそのときになってからのことにしよう、しかし、――甲府というだけで、貯蔵所の所在がわからないが",
"蔵人をもういちど痛めてくれませんか、それでだめなら現地で当ってみます、どうせかれらは甲府城を覘うでしょうし、狭い土地のことだからそう探索に困難はないと思います",
"ちょっと申上げたいのですけれど"
],
[
"お話のようすでは、万三郎さまをそのままにしてお置きなさるようですが",
"むろんですとも、なぜです"
],
[
"わたくし、それはあんまりだと思います",
"なにがあんまりです",
"万三郎さまは敵の手で殺されてしまいます、それでもいいのでしょうか",
"万三郎が殺されるんですって",
"――かよさんがそう申しました、あの人は敵の一味ですから、敵の内情もよく知っています",
"貴女はかよの処へいったのか",
"まいりました",
"なんのために"
],
[
"万三郎さまの事が知りたかったからです、もしかしてあの人のところへなにか消息がありはしないかと思ったからですわ",
"それでどうだったんだ"
],
[
"そして事実を話すと、すっかり取乱して、万三郎さまは殺されるに違いない、と云いました、升屋の会合はたいそう厳重なもので、一味の者でも出席を許されるのはごく稀だし、誰と誰が会うか、まったく秘密になっている、だから、そこへ偽って入って捉まれば、生かして帰す筈は決してないと云いましたわ",
"それだけか、――"
],
[
"かよの申したのはそれだけか",
"はい、それから、――"
],
[
"ばかげたぺてんだ、そんな子供騙しを信じたのか",
"あなたにはおわかりにならないのですわ",
"あの女は逃げたいだけだ、自分がゆけば万三郎を返させる、――そんな洒落にもならないことを",
"あなたは御存じないんです"
],
[
"かよさんは万三郎さまを愛しているんです、自分でもそう云いましたし、わたくしにもそれがよくわかりました、あの人は本当に万三郎さまの命の危ういことを知って自分の身に代えてもお助けしようとしていましたわ",
"――わけがわからない"
],
[
"貴女はこの朱雀調べの重大さを知っている筈だ、甲野の父上やいとは焼死しているし、花田の嫂上や松之助はまだ檻禁されたままだ、われわれはできるだけ犠牲を少なくしたいが、犠牲を少なくするために、第一義を忘れるようであってはならない、それは貴女も",
"わかっています、これまでは私もそう思ってまいりました"
],
[
"わたくし初め、その言葉をみれんだと思いました、第一義のまえには親を滅してもよいと思っていました、でも今はそうは思えません、万三郎さまの仰しゃったことが本当だと信じます、人間の命を軽んずるところからは本当の大事は果せないと信じます",
"よろしい、そうお信じなさい"
],
[
"そう信ずることは貴女の勝手だ、われわれは貴女の信念を変えようとは思わないし、そんな時間もない、――兄上、人を集める使いを出しましょう",
"まあ待て、――"
],
[
"はい、あまり詳しいことは存じません、まだ四五たびしかいったことがないんです、でも中のようすはあらまし知っています",
"石倉のある場所はどんなふうになっているか",
"ええと、――此処に母屋がこんなぐあいにありまして"
],
[
"あたしは字はだめなんです、読むことも書くこともできないんです",
"字は書かなくともいいの"
],
[
"升屋の中のようすを、できるだけ間違えないように書いてみてちょうだい",
"筆なんて持つの生れて初めてだから"
],
[
"こっちは道だな",
"はい、ずっと堀に沿っています、堀の向うは洲崎弁天です",
"こっちは空地か",
"いいえ三方とも堀で、堀の北側は館屋の木場、西側は山屋の木場、こっちの東だけが、堀を越すと空地になっています",
"――よくわかった"
],
[
"しかし甲府のほうを一刻も早く",
"心にもないことを云うな"
],
[
"おまえは初めから三郎を助けたいと思っていたんだろう、ごまかしてもだめだ、おれの口から云わせるためにことさら乱暴につなを叱りつけた――わかっているぞ",
"そんな、決してそんな"
],
[
"それよりまず、手順を考えよう、刻は夜半過ぎがいいだろう、弁天社の海側へ舟をまわして置く、それから、西側の堀に沿って塀を越え、――一手は裏門で騒ぎを起こすがいいな、石倉へは三人、おまえと、斧田、それから太田嘉助は一刀流を相当にやるから、太田を頼んで",
"御案内はあたしがします"
],
[
"うるさいなんて不人情なことを云うなよ、喉がすっかり渇いているんだ、からからに渇いて喉笛がひりつきそうなんだ、たのむから茶を一杯くれないか",
"うるさいと云ったらうるさい、少しは黙って寝たらどうだ",
"それは寝たいさ、寝たいことはやまやまなんだ、しかしこう喉が渇いていては寝ようにも寝られないんだよ、なあ、頼むよ権兵衛さん、茶を一杯だけ頼むよ"
],
[
"本当に喉がからからで眼が眩みそうなんだ、茶を一杯だけでいいんだから、なあ権兵衛さん、でかいほうの権兵衛さん",
"黙れ、われわれを愚弄するか"
],
[
"でかい権兵衛だの小さい権兵衛だの、いいかげんにしろ、われわれにはちゃんと姓名がある、なにが権兵衛だ",
"だってその名前を知らないんだからしようがない、名前がわからなければ名無しの権兵衛、二人を区別するためにでかいの小さいの、これで理屈に合ってるじゃないか、なあでかいほうの権兵衛さん",
"黙れ黙れ、黙れというんだ",
"茶を呉れれば黙るよ",
"ええくそ、人をばかにするな"
],
[
"きさま宵のうちから茶を呉れ茶を呉れといって、もう五たびも茶を飲んでいるじゃないか、その合間にはなにか喚きちらす、どたばた暴れる、いったいどうしようというんだ、なんのためにそう騒ぎたてるんだ",
"済まなかったね、そんなに怒るならいいよ"
],
[
"きさま、いま、なん刻だと思う、もう夜なかだぞ、夜なかを過ぎようとしているんだぞ畜生、いったいなんのためにそう騒ぐんだ、どういうわけでおれたちを寝かさないんだ、なんのためだ",
"喉がね、渇いてるんでね",
"おれは誓って云うがきさまを殺してやる、引摺り出して、この手でこう絞め殺して、躯じゅうをめちゃめちゃに踏みにじってやる、こうこう、こう"
],
[
"いいか本当にこうだぞ、きさまなんぞいずれは殺される人間なんだ、おれがちょっとそういうつもりになれば今が今だってぶち殺してやれるんだ、威かしだなんて思ったら大きな間違いだぞ、わかったか",
"わかったよ、よくわかった",
"そんなら黙れ、黙っておとなしく寝ろ",
"ああ、そうするよ",
"騒がずに寝るか",
"騒がずに寝るよ",
"きっとだな",
"きっとだよ"
],
[
"そんなことを云って、また騒ぎだすつもりじゃないだろうな",
"そんなつもりはないさ"
],
[
"だがねえ、喉が渇くんだよ",
"ひい、――"
],
[
"火繩に火をつけろ、鍵をよこせ、おれはもう堪忍がならない、おれはこいつを殺してやる、えい畜生、おれはもう",
"まあ待て、そんなことを云ったって",
"黙れ黙れ、鍵をよこして火繩をかけろ、おれはこいつを",
"いけない、そんな乱暴な",
"ええよこせ、邪魔をするな",
"待てといったら、――あっ",
"あっ誰だ"
],
[
"――曲者だ",
"鳴子を引け"
],
[
"あとで大将から私のを貰いなさい、いろいろお世話になりましたね、お二人ともどうか気をつけて",
"早くしろ、三郎"
],
[
"早く、なにをしている、三郎",
"――あの人が",
"ばか者、いそげというんだ"
],
[
"――おまえだったのか",
"ええあたしでしたの",
"そうか、うん、そうだったか"
],
[
"誰でしょう、私も知りません",
"太田は知っているか",
"い、いや、――"
],
[
"一刀、一刀、じつにみごとに相手を倒していました、あのくらい使える人はそう多くはないでしょう、花田さんそう思いませんか",
"えっ、なんですか"
],
[
"慥かにあのくらい使える人は少ないと思いますね",
"どういうことだろう"
],
[
"しかし、どうもそうとは思われない、あの人が突然、こんな処へ現われるわけがない、だが、いや、そのほかには想像もつかないが、やっぱりそうとは思えない",
"あたし永代橋のところであげて頂きますわ"
],
[
"――ちい公",
"――半ちゃん"
],
[
"きっと無事に帰って来ると思っていたけれど、でもずいぶん心配していたわよ",
"ごめんよ、ちい公"
],
[
"あんなふうにして置いてきぼりにして悪かった、でもああするよりほかにしようがなかったんだ、勘弁しておくれね",
"いいのよ、こうしてまた会えたんだもの、勘弁するもなにもないわ、でもさぞ苦労なすったんでしょうね",
"おいらよりもおめえこそ"
],
[
"まるで人違いがしちゃったぜ、さっき見たときは、どこかのお嬢さんみてえだった",
"いやだわ、半ちゃん、よしてよ"
],
[
"いくら髪や着物が変ったからって、あたしがお嬢さんにみえるわけがないじゃないの",
"だってそうみえたんだよ、――それに"
],
[
"それにおめえ大きくなったぜ",
"――そうお",
"大きくなったし、それになんてったらいいかわからねえけど、なんだかおとなになっちまったような気がするよ",
"あらいやだ、それは髪や着物のせいだわ",
"そりゃあそうさ、でも"
],
[
"それだけじゃねえさ、だっておめえ、もう十五になったんだからな、まえのような恰好をしていちゃわからねえが、そうやってきちんとすると、やっぱし年が出るんだよ",
"そんなふうに云わないでよ"
],
[
"それは十五は十五だけれど、おとなびてみえるとすればわけがあるの、あたし今ね、半ちゃん、怒っちゃいやよ",
"おれがなにを怒るんだ",
"今ね、あたし芸妓屋にいるの",
"――芸妓屋に",
"あたし深川の仲町で下地っ子になったのよ"
],
[
"むろん、おいらの怒る筋じゃあねえけど、でもいったいどうしてそんな",
"あたしもずいぶん苦労したのよ、半ちゃん"
],
[
"おいらがいたら、その畜生めら、一人残らず叩きのめして、足腰の利かねえようにしてやるんだったのに",
"あたしも半ちゃんがいてくれたらって、ずいぶん思ったことよ"
],
[
"でも松吉姐さんっていう、善い人に助けられたし、これからのことも見当がついたんだから、不幸が却って仕合せになったともいえるわ",
"これからの事って、――おめえこれから、どうしようっていうんだ",
"あたし松吉姐さんにみっちり仕込んでもらって、仲町第一の芸妓になるの、もう三味線や踊りのお稽古をしているんだけれど、どのお師匠さんも筋がいいって褒めてくれるわ",
"そうだろうな、きっと"
],
[
"おめえは縹緻もいいし、気はしが利くし、きっと評判の名妓になれるよ、――でも、そうなるともう、おいらなんぞは側へも寄れなくなるなあ",
"なにを云うの半ちゃん",
"なにをって、おめえだってそんなこたあ、わかってる筈じゃねえか"
],
[
"おらあこんな街の宿無しで、読み書きもできねえし手に職もありゃしねえ、どうせいまに土方か人足になるくれえがおちだ、そんな者が、深川で名うての芸妓なんぞに",
"待って、待ってよ半ちゃん"
],
[
"あたしの云うことも聞いてちょうだい、あたしがゆくさきの見当もついたと云ったのは、自分だけのことじゃなくあたしたち二人のことを云ったのよ",
"おいらがどうするんだ",
"あたしはあたしで誰にも負けない芸妓になるわ、だから半ちゃんもなにかしっかりした職を身につけて、二人でお互いに稼ぐのよ、そうしてそのときが来たら、――もしかして、半ちゃんがいやでなかったら、二人でいっしょに家を持つのよ"
],
[
"そんなことは、ただのお話さ、いまおめえがそう思ってるだけのこった",
"ただのお話ですって",
"売れっ妓の芸妓になれば、いい客が掃いて捨てるほど付く、それこそ玉の輿ってやつを断わりきれねえほど持ち込まれるんだ、おめえがいま口でなんて云ったって、そのときになればおいらみてえな",
"よして、よしてよ半ちゃん"
],
[
"あんたあたしをそんな人間だと思ってるの、あんたが紀州へいったあと、自分が置いてきぼりにされたのも忘れて、ただあんたに逢いたい、あんたが辛い思いや、危ないめにあっていやしないかどうか、それだけで気違いみたいになって、夢中であとを追っかけていった気持を、あんたわかっちゃあくれないのね",
"そんなこたあわかってるよ"
],
[
"今のおめえの気持ならわかってるんだ、おめえはまだちい公だし、ひとの納屋で寝た匂いが躯に付いてる、――けれども芸妓になって、客に騒がれるようになれば",
"じゃあ、半ちゃんはあたしが、芸妓になるのが不承知なのね"
],
[
"そうなんでしょ、半ちゃん",
"知らねえさ、そんなこと",
"そうなんだわ、芸妓になるのがいやなんだわ"
],
[
"もう少し経てば、あんたにもわかってもらえるわ、もし芸妓になることが間違っているにしても、あたしに間違いがなければいいんだし、それは見ていてもらうよりしようのないことだわ、これからはまた、いつだって逢いたいときに逢えるんだし、あたしが変るか変らないかは、半ちゃんの眼で見ていてくれればいいのよ",
"おいらのことなんぞ、放っといてくれ"
],
[
"おらあ自分のことは自分の好きにするよ、それに、すぐまた江戸を出てゆくんだ",
"――江戸を出てゆくって",
"中谷さんや花田さんたちといっしょにゆくのさ、ことによると生きて帰れるかどうかもわからねえんだ",
"――あたしを脅かすのね"
],
[
"なんのためにおめえを脅かすんだ",
"だって半ちゃん、あんたたち紀州から帰って来たばかりじゃないの",
"おめえにゃあわからねえさ",
"嘘よ、嘘だわそんなこと"
],
[
"そうだ、半次の云うことは嘘だよ",
"あっ――"
],
[
"おまえたち二人にはずいぶん厄介をかけた、この私までが二度も危ないところを助けられている。もうたくさんだ",
"おいら自分の好きでやってるんですぜ、そんな水臭いことを云わねえでおくんなさい",
"わかってるよ、わかってるが物には切目ということがある。私たちの仕事もどうやら最後のひと押しというところへ来たし、もうおまえたちの力を借りなくとも済む、おまえとちい坊のことは花田の兄が引受けるから、こんどは江戸で待っているんだ",
"それは、――それは、中谷さんも承知したんですか",
"もちろんさ"
],
[
"紀州のほうはどうでした",
"案外なほど、楽でしたね"
],
[
"土地が狭いうえに、なにしろ領分の中のことですからかれらは公然とやっていたし、われわれが乗込もうとは夢にも思わなかったんでしょう、貯蔵所もすぐにわかったし、夜襲もじつにうまくゆきました",
"林さんがやられたのはそのときですか",
"いや、ずっとあとです"
],
[
"田辺へは船でいったんですが、夜襲を終って脱出するとき、港のほうへ手が廻ったものですから、陸路を古座の港へぬけようとしたんです",
"追手が掛ったわけですね",
"見老津という処で追いつかれまして、――そこでちょうど半次に会ったんですが、いちおう斬りぬけたと思ったとき、鉄砲を射たれましてね、たった一発でしたが、林の背中から胸を射抜いてしまったんです"
],
[
"結城のほうはどんなぐあいでしたか",
"仕事はうまくいきましたが"
],
[
"例によって私はへまばかりやって、休之助に怒られどおしでしたよ、そうそう、いつか中谷さんに助けてもらったときのあの女",
"和幸のときのですね",
"あれにすっかり付纒われましてね、あの女はいまわれわれの手に押えてあるんですが、おかげでずいぶん誤解をまねきまして"
],
[
"あのときのことを思いだしたもんですから、そう、あの女に付纒われれば誤解されるのは当然でしょう、いや誤解じゃあない、あの女は本気ですからね",
"冗談じゃない、中谷さんまでがそんな",
"いや私は見ていました、和幸のときによく見ていましたが、あの女は、云ってみれば貴方に首ったけですよ",
"ところが、あの女に首ったけの人間がいたんです"
],
[
"いや、じつは今、とつぜん思い当ったことがあるんです",
"あの女に首ったけの男ですか",
"その一人なんですが"
],
[
"中谷さんは石黒半兵衛という剣士を覚えていますか",
"知っています",
"飛魚という突の秘手で名高かったでしょう",
"和幸のときも見ましたよ",
"ああ、そうでしたね"
],
[
"石黒半兵衛がどうしたんです",
"今夜のことはお聞きですね",
"あらまし聞きました",
"升屋で敵に取巻かれたとき、覆面の剣士が助太刀に現われたんです、それがずばぬけた使い手で、たちまち敵を圧倒したんですが、なに者だか全然わからない、――それがいまわかったんです",
"するとその剣士が",
"まちがいなく、石黒半兵衛だということです",
"しかし、それは、――"
],
[
"彼はしかし敵がわの人間でしょう",
"理由があるんです"
],
[
"いい話だ、甲野さんが怒るのは当然だし、ちょっと誰にもできないことでしょう、――なるほど、そうだとすると、それは石黒剣士かもしれませんね",
"だってそのほかに、あれだけ腕が立って、しかも助勢に出るような人間はないんですからね"
],
[
"――事実そのとおりだとすると、今夜だけではない、彼はまた現われますね",
"また現われる、というと、――",
"彼は三郎さんから眼を放さないんですよ、貴方の情けが身にしみたんでしょう、きっといつも蔭から貴方を見張っていて、貴方を護っているに違いないと思う",
"――そうでしょうかね"
],
[
"私はそうであってもらいたくないんだが",
"彼はきっと甲府へも来ますよ"
],
[
"しかし、おまえは無断で家をあけたし、その女主人の旦那という人間の、いわば敵にまわったようなものだから、帰っても無事には済まぬと思うが、どうだ",
"家をあけたことは悪うございますけれど"
],
[
"でも人間ひとりの命にかかわるばあいですから、話をすれば堪忍してくれると思います、そして、――姐さんは旦那のなさる事はなんにも知りませんし、旦那の岡さまも、あたしがこんなことをしたとは御存じないんですから、なにも面倒なことは起こらないと思います",
"――そうかもしれない"
],
[
"だが芸妓にならずとも、たとえば私の家に行儀見習いとして奉公し、半次は半次でしかるべき職を身につける、という方法もあるではないか",
"有難うございますけれど"
],
[
"あたし姐さんに恩がありますから、――悪い人買いの手で、どんな辛いめにあわされるかわからないとき、姐さんに助けられた恩がありますから、いまここで姐さんの家を出るわけにはいかないんです",
"それは違う、おまえがそれを恩義だと思うのはよいが、もともと人間を金で売り買いするというのが道に外れたことで、それだけの金を返しさえすれば恩も義理もない筈だ",
"――そうでしょうか"
],
[
"おまえ年は幾つになる",
"はい、十五です"
],
[
"けれども、そこまで考えているなら、ともかく自分の思うとおりやってみるがよかろう",
"有難うございます",
"できたら私のほうと連絡をして、もし困るようなことがあるときには、そう申してよこすがよい、事情の奈何に拘らず、必ず力になるであろうから、――次に半次だが"
],
[
"そのほうは将来になにか望みはないか",
"――――",
"黙っておらんで、遠慮なく申してみるがいい、いったいなんになるつもりなんだ"
],
[
"あんたは男だしなにか御相談になって頂くことが",
"うるせえ、黙ってろ"
],
[
"――云えないのか、将来どうして身を立てるか、自分に望みはないのか",
"――ありません",
"おちづは女ながら、二人のゆくすえについて、これだけ考えておる、男のおまえがなんの望みもないで済むのか"
],
[
"雛祭りの宵節句がよろしいかと思ったのですけれど、じつは思いがけないことが起こりましたので、こちらへまいるまえに、舟の用意を命じてまいりました",
"――思いがけない事とは"
],
[
"すると、灯をつけない舟が三ばい、水音を忍ぶように入ってまいりました",
"水門の番士になにか云わなかったか",
"申したかもしれませんけれど、でも、番士からすぐに知らせたのでしょうか、舟が着きますと同時に、御殿のほうから提灯を持って、五人ばかりの人が駆けつけてまいりました",
"そして、その舟の者たちは"
],
[
"わたくしそう考えたものですから、此処へ来るまえに、舟のほうへそう申しつけ、いつでも出せるように手配を致させたのですけれど、いかがでございましょうか",
"そういうことなら、思いきってやることにしよう",
"今夜に致しますか、それとも明日の晩がようございましょうか",
"邸内の情勢によるから、今夜と明晩、夜半一時に、こちらから人を乗せて、定めの場所へ舟を着けて置くことにしよう",
"はい、わかりました"
],
[
"その場は無事に斬りぬけながら、追手の放った一発の弾丸で斃れたとのことだ、不運というほかはないが、――われわれはじめ、当人も死は覚悟していた。わかってくれるか",
"――はい、わかります"
],
[
"こう申しては無情かもしれぬが、彼は、百年息災に生きるよりも、もっと末永く生きたも同じことだ、――どうかそう思って、辛いではあろうが、諦めてくれ",
"はい、よく、わかりました",
"今後のことは、及ばずながらわれわれが相談相手になろう、あまり悲しんで躯に障ってはならない、また、――盃は交わさずとも、こなたも武士の妻になる筈であった、どうかみれんなまねをしないように"
],
[
"ええと、喉まで出て来ているんだが、なんという魚だったか",
"ほほう、知ってるんですか",
"ええ知ってたんですよ",
"喰べたことがあるんですね",
"あまり好きじゃなかったと思います"
],
[
"海の魚だと思いますか川魚だと思いますか",
"それですよ"
],
[
"ちょいと見ると川魚のようですがね、人はよくそこで間違えるんですが",
"すると海のほうですか",
"いやそれがそう簡単じゃないんでね、川魚でなければ海の魚っていう、こいつはそう簡単なもんじゃなかったようですよ",
"川でなし海でなしとすると"
],
[
"ああ、では湖水の魚ですな",
"そうですそうです"
],
[
"こいつはその湖水でとれた魚ですよ、たしかに間違いありません、湖水の魚です",
"名まえはなんといいますかな",
"その名ですがね、こうっと"
],
[
"なんです、なにが可笑しいんですか",
"いやまあ、ちょっと笑わしてもらいましょう",
"つまり、間違えたわけですか",
"まあそうですな"
],
[
"私が知らないと思って、赤腹だなんてそんな、――中谷さんも人が悪いですな",
"いや本当です"
],
[
"これは処により、季節によっていろいろ違った呼び方をしますが、ふつうは鮠、この腹のところに赤い斑紋ができると赤腹っていうので、これは川魚なんです",
"それはどうも"
],
[
"そいつはどうも失敗でしたな",
"しかしなぜまた湖水の魚だなんて思いついたんですか",
"どういうわけですかな、そこは自分にもわかりませんが、いや、じつを云うと私にはそんなような妙な癖があるんですよ"
],
[
"私としては閉口したわけですが、しかしわからないんだからしようがないですよ",
"怒るでしょうな、あの人なら",
"私は清国を羨ましいと思いますね、あっちでは花といえば菊のことで、そのほかの花はぜんぶひっくるめて洋花というそうじゃありませんか"
],
[
"それでいつも思うんですよ、木は木、草は草とひとまとめにしてしまったらいい、魚なんぞもこれは海魚、これは川魚、これは湖水魚、それでいいと思うんですがね",
"人間も名前なんかとって、男は男、女は女とひとまとめにしてしまいますか"
],
[
"なんですかこの野菜は",
"――うん、洒落れていますね",
"なんという物です",
"知らないんですか"
],
[
"どうしたんです、嫌いですか",
"嫌いです、大嫌いです"
],
[
"合い部屋ですって",
"入れこみですよ、つまりこの部屋へほかの客もいっしょに泊るというわけです",
"すると銭湯のようなものですな"
],
[
"なにしろ二十何人という人数ですで、旅籠ぜんぶに割振ってようやくっていうわけでございますから",
"大名でも着いたのかい"
],
[
"いいえ、お大名じゃございません、お侍衆だけでございます",
"侍だけ二十余人、――どこの御家中だか知ってるか",
"なんでも、はい、甲府御勤番にいらっしゃるとか、仰しゃってましたようです"
],
[
"合い宿はいいが、その侍たちは困るね、ほかの旅商人かなにか、侍でない客にしてもらおうじゃないか",
"それで宜しゅうございますか",
"ぜひそうしてもらいたいね"
],
[
"場所は猿橋、――もしそうだとしたら、仕止めるにはもってこいですな",
"一夫関に当れますからね",
"四対二十余人なら楽なもんですよ、が、まあともかく祝杯といきましょう",
"私はもう、――"
],
[
"慥かめなくてはわからないが、いちおう休さんに知らせて来ましょう",
"まあお待ちなさい"
],
[
"升屋のことがあるから、もしかして三郎さんの顔を知っている者がいるかもしれない、甲野さんには私が知らせにゆきますよ",
"なるほど、――",
"それにしてもせくことはない、かれらが泊るとすれば出立するのは明朝ですからね、慥かに相違ないとわかってからでも充分です、まあ任せておきなさい"
],
[
"――万全の策とはなんだ",
"――休さんはすぐ怒るから、話ができやしません"
],
[
"――いいから云ってみろ",
"――そうせかさないで下さい"
],
[
"十七人ばかりですが、みんな馬でやって来ますから、もうすぐに着くでしょう",
"その馬は返さないのか"
],
[
"なんで必要になるかわかりませんからね、事が済んでから返すことにします",
"番所では信用したわけですね"
],
[
"手形があるし大目付から急の通達があったようです",
"大目付から、――",
"われわれが立って来たあとで、なにかあったんじゃないでしょうか、そうでないにしても老中が積極的に出はじめたことは慥かなようですよ"
],
[
"よしたほうがいいぜ、どうやら寝ころんで見物することになりそうだ、襷や鉢巻をして寝ころぶというのも妙なものだろう",
"寝ころんでどうするって",
"あれを見ろよ、火繩をかけた鉄砲が五挺、あのとおりちゃんと控えているんだ"
],
[
"かれらにとっては最後の機会ですからね、甲府の貯蔵所へたてこもって、挙兵の一戦に参加しようとして来たんですから",
"そうあってもらいたいですな",
"此処で手を束ねて捕えられる筈はありません、噛みついて来ることは必定ですよ",
"まあ見ているとしましょう"
],
[
"じつは必要があって荷駄の内容を調べたいのですが",
"荷駄を調べる、――"
],
[
"それはどういう理由ですか",
"役目の上の必要からです",
"ばかなことを――"
],
[
"甲府勤番は老中の支配である、そこもとはいかなる職権でさようなことを要求されるのか",
"失礼ですが、――"
],
[
"しかし、――荷駄を調べるというのは、なにか不審があるからでしょうが、その理由をうかがいましょう",
"そんな必要はない"
],
[
"巡検使の権限で調べるのだ、荷駄の内容がなんであるか云ってもらいましょう",
"――甲府城の、用度品です",
"どういう品です",
"――器具、帳簿――",
"器具はどんな物です"
],
[
"万三郎さんの老婆心もどうやらむだのようでしたな、貴方は見物していらっしゃい",
"私は荒れると云いましたよ",
"口ではね"
],
[
"やれやれ、骨を折ったぞ",
"百里もとばした馬のようだぜ、あにい、この汗を見てくれ",
"まず一服とするか"
],
[
"なん年稼いでも下り坂の駕籠は骨が折れていけねえ",
"おらあ腰の骨が外れそうだぜ",
"それ、おめえも一服やんねえ"
],
[
"もうかれこれ五時だろうが、まだこんなに明るいぜ",
"だが昏れるとなると早いぜ、あにい、山ぐには日が落ちるとすぐまっ暗だ",
"旅の客のいそぐ時刻か"
],
[
"もしお客さん、――",
"聞えねえのかい、お客さん"
],
[
"暇をつぶして古い手を使うことはないっていうのよ、おまえさんたち眼がないのかえ",
"よしゃあがれ、きいたふうなことをぬかすな、あま"
],
[
"えらそうなふりをして、さも伝法な口まねをしたって、そんなことでごまかされるような半端野郎じゃあねえんだ",
"おや、たいそうお怒りじゃないか、あたしがなにをごまかすというんだい",
"その口をよせってんだ"
],
[
"きさまなかなかいい眼を持っているな、さっきから聞いていたが、この婦人を見抜いた眼力も慥かなものだ",
"な、なにょうぬかしやがる",
"駕籠かき人足より観相占易でもしたらどうだ、そのほうが汗もかかないし、人に敬われて儲かるぞ"
],
[
"酒手をもらってやろうというのに、逃げるやつがあるか、まだきさま駄賃も頂戴してはいないんだろう、ばかなやつだ、――戻って来い",
"へえ、どうかひとつ、御勘弁なすって",
"いいから戻って来るんだ"
],
[
"多分にはいりません、駄賃に少しいろを付けて遣って下さい",
"ふしぎな処でお会いするのね"
],
[
"たぶん貴女もそうだろうが、私も花田さんのあとを追って来たのだ",
"――なんのためにですの",
"それも貴女と同じだと思う",
"――わかりませんね",
"私のほうが先に来たんだ"
],
[
"まる一日早かったので、貴女の知らないことを知っている、というのは、昨日の朝、猿橋の宿でちょっとした騒ぎがあった、例の紀の字の人数と、花田さんたちとが斬合いをやって",
"万三郎さまが、あの方が",
"いや大丈夫、――"
],
[
"敵の三分一は斬死に、残りは鳥沢の番所へ捕えられた、そうして、花田さんたち四人は、目的の地へ乗込んでいったそうです",
"目的の地がわかりましたの",
"わかったから、私もこのとおり追って来たんです",
"――もういちど訊きますわ"
],
[
"――なんのために、貴方があの方のあとを追うんです、あの方をどうしようというつもりなんですか",
"ああそうか、そうですか"
],
[
"私は新しい世界を知ったように思った、慥かに、暗い世界から明るい世界へ出た、これはまだ私の知らない、初めて見、初めて感ずる世界だ、しかし私はもう石黒半兵衛ではない",
"――どういう意味で",
"花田さんは私に、剣士として立直れと云ってくれた、だがそれは不可能だ、剣の道は清高廉直でなければならない、私はいちど節操を売った。剣士として立直ることは、かつて剣士であった石黒半兵衛の良心がゆるさない――だから、私は自分の過去のつぐないをしようと決心した"
],
[
"きさま要害山というのを知っているか",
"へえ、知っております",
"そこへ裏からゆく道があるそうだな",
"北原という処から、茶屋越えというのがございます",
"よし、それを駕籠でやれ"
],
[
"酒手はたっぷり頂いてやる、悪事の罪ほろぼしにもなるだろう、やれ",
"へえ、ようございます"
],
[
"さよう、猿橋で捕えた小者の自白で、そこが本拠だとわかったのだそうです――私は鳥沢の番所まで戻って聞いたのだが、聞きに戻ったために貴女にも会えたわけです",
"ものごとがうまくゆき始めると、なにもかもうまくゆくようになるのね",
"しかし、――ふしぎですな"
],
[
"私も貴女も、こんなことになろうとは思わなかった、いや、そうじゃない、かよさんはそうじゃなかった、貴女は初めから花田さんに",
"仰しゃらないで"
],
[
"予想したとおりですよ",
"なにがです",
"覆面の怪剣士です、――きっとやって来るって云ったでしょう、つい今しがた現われて、すばらしい手並をみせていますよ"
],
[
"なんという乱暴なことをするんですか、なんのためにこんな処へ来たんです",
"わたくしのことより"
],
[
"うまくいったようですね、おめでとう",
"先生、どうして貴方は"
],
[
"なぜ貴方はこんなことをなすったのですか、私は先生に生きて頂きたかった、石黒先生として生きて頂きたいために",
"もうたくさんです、それを云われるのが、なにより辛い、――どうかもう、もう、そのことは云わないで下さい"
],
[
"泣いてくれるんですか、花田さん、――ああ、それは勿体ない、私のような人間のために、泣いてくれる人がある、などとは、想像もできなかった、――これで思い残すことは、一つもなしです、どうかお仕合せに",
"先生、泣いているのは私だけではない、もう一人いますよ"
],
[
"かよさんは、必ず貴方を仕合せにする人です、一生の事は、勇気をもって、つかむべきものをつかんで下さい、わかりますか",
"よくわかります",
"この二つの手は、このまま放れることはないでしょうね",
"決して、――",
"それでこそ花田さんだ"
],
[
"休さんですね、どうしました",
"どうしたとは、こっちで云うことだ"
],
[
"こんな処でなにをしていた",
"まあそうどならないで下さい",
"なに、どならないでくれって"
],
[
"敵はすっかり片づいた、騒ぎはすべておさまった、人数を調べてみるときさまがいない、呼んでも答えはないし見た者もない、てっきり斬られたと思った、死んでいるか、それとも重傷で動けないか、そう思うとおれは、――夢中で捜しに駆けまわっていたんだ、それなのにきさまは、こんな処で暢気な面をして、おまけに云うことが、どならないでくれ",
"お願いです休さん、どなるまえにこれを見て下さい"
],
[
"升屋のときの人か",
"――そうです",
"なに者なんだ",
"――石黒先生でした"
],
[
"大事がおさまりましたそうで、おめでとうございます",
"――三郎"
],
[
"今日、老中から恩賞の沙汰がありましたが、その原因である朱雀調べという事実が、灰も残らず堙滅されたというのは、少なからず妙な感じのものですな",
"中谷さんもそう思いますか"
],
[
"どんな妙な心持なんだ",
"いってみれば、まあ、その"
],
[
"その、あれですよ、――こうきれいさっぱりと、すべてが水に流されたところは、いっそ風流といった感じじゃありませんか",
"あてずっぽうなことを云うやつだ、このために幾人か死に、みんな命懸けではたらいたのになにが風流だ",
"むろんその点は厳粛ですよ"
],
[
"しかしですね、それだけの事実が、まるっきり無いものになったというところは、どうも私には風流とでもいうほかに感じようがないと思うんですよ",
"私もそんな気持ですな"
],
[
"花田さんの旦那は、もっとまじめなしょうばいをしろって云うんだ、商人の店へ奉公するとか、大工か左官、指物職なんぞでもいいっていうんだ、けれど、――おいらあだめだ、おいらにゃそんな堅っ苦しいこたあ向かねえんだ、それは自分がよく知ってるんだから",
"そうよ、半ちゃんにはそんなの似合わないことよ",
"だからおらあ船宿の船頭ならやるっていったんだ、金杉にいるじぶん、舟は漕いだことがあるし、舟は好きだから、――"
],
[
"そうしたら花田の旦那が、――まえから御贔屓だったってよ、――船源へ自分で伴れていって、頼んでくれたんだ、慥かに預けた、まちがいのないように、腕のいい船頭に仕込んでくれ、ゆくゆくは株を買って船宿をもたせてやるんだからってよ",
"まあいいこと、それじゃあ半ちゃん船宿の旦那になるのね",
"よしてくれ、旦那なんて柄じゃねえや",
"よかったわ、嬉しい"
],
[
"そうなるとおれのような旗本の四男坊には高峰の花だから、いまのうちに酌をしてもらうとしよう",
"あら、皆さんならお金は頂きませんわ"
],
[
"いつも旦那の来る、黒江町のちづかというお茶屋さんへ、定って二十日の日にお手当が届くんですけれど、使いの人はそのたびに変っているのと、どこの誰から頼まれたかも知らないんですって",
"――ふしぎなことをする人物だな",
"姐さんも困っていますわ、義理も悪いしなんだか気持がおちつかないって、――ですからお手当はそのままちゃんとしまってあるんですのよ"
],
[
"鬼怒川べりの繋ぎ船にいた友吉爺さんですよ、どうしていますかね",
"さあね、あのまま伝右衛門の家にいるか、それともまた船を繋いで、独りで暢びり暮しているでしょうな"
],
[
"――誰に",
"わかっているじゃありませんか、つなさんによ"
],
[
"いまちょっとお化粧を直すんだから待っていらっしゃい、ほんのちょっとだから",
"どうして待つんだ",
"そんなことお訊きになるものじゃないわ、そこに坐っていらっしゃい"
],
[
"かくべつなことは云やあしない、ごくあたりまえな挨拶さ",
"だからなんて仰しゃったの",
"うう、その、……ながいこといろいろと御面倒をかけましたってさ",
"あの方はなんて、――",
"いいえわたくしこそ",
"それから、――"
],
[
"あなたどんなお気持だった。正直に仰しゃってよ、いざとなると別れるのが辛かったんじゃなくって",
"正直にいえばほっとしたさ"
],
[
"おれはいつも叱られてばかりいたからね、あの人の前にいると必ずなにか失敗するんだ、あの人がきちんとすまして、じっとこっちを見られると冷っとするからね、なんだかいつもこわい叔母さんに睨まれてるような心持だったよ",
"あらそうかしら"
],
[
"だって向島の青山さまの下屋敷で、あなたははっきり仰しゃいましたわ、私とつなさんとは許婚者も同様ですって、そうでしょ",
"私は怒りっぽいほうじゃないが、ぜんぜん怒らない人間でもないんだぞ",
"まあ嬉しい"
],
[
"あたしまだあなたのお怒りになったのを見たことがないでしょ、あなたはがまん強くて、いつも親切でおやさしかったわ、でも、――怒ったらどんなにすてきだろうって、あたしいつも考えていましたのよ",
"さあ、――よかったら寝ようじゃないか"
],
[
"寝るまえにお盃をするの",
"――お盃だって、またか",
"ええ、お寝間でよ、それが本当のかための盃っていうんですわ"
],
[
"これで残りなく片づいたよ",
"いいえ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第六巻 風流太平記」新潮社
1983(昭和58)年5月25日発行
初出:「四国新聞」
1952(昭和27)年12月12日~1953(昭和28)年7月13日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「贔負」と「贔屓」の混在は底本通りです。
※大見出し「ながれる雲」の中見出し「一」の中で「休之助、万三郎の兄弟と、中谷兵馬、太田嘉助らの四人が、甲府へ向って立っていった。」の記述と、その後にある「そして、五人が出立するとすぐ、おちづと半次を前に坐らせて、将来どうするつもりかと訊いた。」の記述における人数が異なっているのは、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"は……真に、御健勝にわたられ、……なんとも祝着に存じ……夏気がひどくありまして、……なんとも",
"それで、用向はなんだ"
],
[
"は、御意の如く、真に、勿論……新九郎といたしましても、遙々国許より、その",
"用があれば手短かに申せ、聞こう",
"ただ今、……ただ今、申上げます"
],
[
"なにを考えておる、押掛け出府は筋でないぞ、急用あらば格別、さもなくして軽々しく国許を明けるとは不埓であろう、新九郎どうだ",
"恐入り奉る、実は、実は……"
],
[
"真に、我儘なことを申上げまするが、実はこのたび、新九郎め、一生の妻とすべき者をみつけましたので、そのため、ぜひともお上のお許しをお願い仕るべく、……かようにお目通りを",
"ほう嫁を娶りたいというのか、してその相手は何者だ",
"は、お上のお側におりまする者で",
"余の側におるとは",
"その、……浪江どのでございます"
],
[
"そうか、浪江が欲しいか、さすがに新九郎は凡眼でないな、年寄役筆頭、老職の身分でおこぜを家の妻にとはよくぞ申した。よし、……余がなかだちをしてとらせる、ただちに国許へ伴れ帰るがよい",
"ああいや"
],
[
"籔から棒に暇をくれとはなんだ",
"我々はいざ鎌倉という場合、君の御馬前に討死する覚悟で扶持を頂いております、武士として百姓仕事をいたす訳には参りませぬ",
"分らんことを云う"
],
[
"百姓仕事とはなんのことを云うのだ",
"それを御存じではございませんか",
"知らん、いったいどうしたのだ",
"では御案内をいたしますから、御覧ください"
],
[
"たいそう急がしいようだな",
"まあ……旦那さま",
"いやそのまま続けていい。……だがなにを拵えているんだ",
"蕗漬と申す物でございます"
],
[
"こういう大きな蕗は江戸や上方では珍しゅうございますから、このように輪切りにいたしまして、砂糖漬けにしたうえ、まず江戸表へ送って売らせてみようと存じます",
"すると菓子代りだな",
"秋田名物という風にしますと、都の人々は珍しい物を好みますから、きっと評判になることでございましょう",
"それはいい思着だ、当地では捨てるほどあり余っているのだから、もし売れたらいい物産になるだろう、……よく考えたな",
"この夏のはじめに、お上がお国許から大蕗をお取寄せになりましたでしょう、あれを見て諸侯さま方がたいそう珍重あそばすのを拝見いたしたとき、ふと思着いたのでございます",
"この夏、……殿が、大蕗を……"
],
[
"恐れながら、御諫言に参上仕りました",
"余に諫言、……なんだ",
"お気付き遊ばしませぬか",
"……申してみい",
"恐れながら去る五月、殿には御城中にて諸侯方の御座談に、秋田蕗の御自慢を遊ばし、御一座様のお信じなきところから、早馬にて国許より大蕗をお取寄せのうえ、諸侯方に改めて御謝罪をなさせられましたこと、……よもお忘れではございますまい",
"…………",
"御城中にて御恥辱を受けさせられましたことは、新九郎実に恐入り奉りまするが、これは殿の御失慮にござりまするぞ。……本多平八郎殿の聞書に、東照神君の仰せがござります、『座談の折などには真らしき嘘は申すもよし、嘘らしく聞ゆる真は申すべからず』と。実に味わい深きお言葉にござります。なにも御存じなき方々に、いきなり秋田の大蕗を話せばとて嘘と思われるは必定、これは殿の御思慮の足らぬところでござります。……なおそのうえに、御家の御勝手向き御不如意の折柄、早馬を以てわざわざ国表より蕗を取寄せ、諸侯方を辱めてお心遣りを遊ばすなどとは、太守の御身分としてまことに軽々しきお振舞い、……かようなことでは御家風にも障るでござりましょう、以後はきっとお慎み遊ばすよう平にお願い申上げまする",
"分った、……余の思慮が足らぬであった"
],
[
"以後は必ず慎むであろうぞ",
"はっ、それ承わって新九郎め安堵を仕りました、過言の儀は平に",
"いや、よいよい、……真らしき嘘は申せ、嘘らしき真を申すな、味わい深きお言葉だな。以後は必ず心しようぞ",
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"まあ待て"
],
[
"新九郎、その方……五月に出府したとき、その小言を申すつもりで参ったのであろうが",
"なんと、仰せられます",
"忘れ寒森、まんまと小言を忘れたうえ、苦しまぎれにおこぜを伴れ帰ったのであろうが、いや隠すな、あのとき浪江を嫁にと申すその方の顔を見て、余は笑うのを我慢しようとどんなに骨を折ったか知れぬぞ、ははははは",
"も、以てのほかの仰せ"
],
[
"浪江は私が家の妻に頂戴仕りましたので、殿のおなかだちにて既に仮盃もいたしております、お側へお返し申すなどとは以てのほか、これは平にお断り申上げます",
"なに、では本当におこぜを娶ったと申すか",
"姿容こそ醜けれ、浪江は御家中に二人となき名婦にございます",
"負惜みではあるまいの、新九郎",
"恐れながら"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「冨士」大日本雄辯會講談社
1940(昭和15)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"道はいうまでもなくけわしい、けれどそれよりも困難なことがある。それは羽黒山の奥に住んでいる土生一族だ",
"知っております",
"この一族の守っている梟谷をつきやぶらなければ庄内へ攻め入ることはできない。きっと非常に苦しい戦をするであろうが、ぜひともうまく行くようにしっかりやってもらいたい",
"かしこまりました",
"すぐ出発してくれ、後援隊はあとから三百名おくる"
],
[
"部落のなかまで見てきましたが、まるで人かげがなく、家々はがらあきで、それこそ犬の子一ぴきもいません",
"砦の方にも誰もいないようです"
],
[
"隊長! やつらは逃げたんです、我々のくるのを知ってかなわぬと思ったのでしょう、すぐつっこんで占領したら――",
"いや待て"
],
[
"土生一族が一戦もせずに逃げるはずはない、これにはなにかはかりごとがあるものと思う。今夜はここに野営しよう、進むのは明日だ",
"――銃を置け、野営の準備……"
],
[
"部落のなかを見まわって来よう、どうも何かありそうだ",
"食糧ぐらい残っているかもしれませんな"
],
[
"倉のなかをしらべようとして戸を明けると、すぐそこのところまでころげてきていたのです",
"縄をといてやれ"
],
[
"銃隊長、みんなここへ呼べ",
"はっ、――",
"敵になにかはかりごとがあっても、この砦なら後援隊のくるまではふせげるだろう",
"もうその心配はないでしょうが",
"いや、まだわからん"
],
[
"――隊長",
"なんだ",
"さっきの少女がどうやら起きられそうです",
"そうか、行ってみよう"
],
[
"どうだ、少しは気分がよくなったか",
"……はい",
"我々は天子様の兵隊だ。おまえを苦しめるような悪者ではないから安心するがいい。――私の名は中村半九郎という。おまえはどうしてこんなところにしばられていたのか",
"あのう、――わたくしは……"
],
[
"いってごらん、こわいことはないよ",
"はい、わたくしは酒田の御領分の者でございます。父は海産商人で名は市郎兵衛、わたくしはお糸と申します",
"――うん",
"父といっしょに松島見物にまいりました帰り、月山へお参りに寄りますと、ここの人たちにつかまりまして密偵だろうというお疑いをうけ、父はどこかへ連れ去られましたし、わたくしはしばられてあの倉の中へおしこめられてしまったのです、――もう命はないものと思っていましたら、昨日のひる頃でございましたか、……官軍が攻めてくるといって、ここの人たちは逃げて行き、わたくしは……",
"うそをつけ!"
],
[
"それはこっちでいうことだ、そんな涙まじりのうそにかかる我々と思うか",
"あのう……でもほんとうに",
"だまれ、お前は土生一族の者だろう、そして我々の様子をさぐるために、わざとしばられてここに残っていたのだろう、――隊長"
],
[
"貴公がそう思うのは尤もだ、しかしよくしらべないで斬るという法はない",
"でも万一これが密偵だとしたら",
"まあ待て、我々は一人や二人の密偵を恐れる必要はない、それにたかが少女のことだ、この少女のことはおれにまかせてくれ"
],
[
"心配しなくともいいんだよ、私はおまえを信じている、父さんのこともしらべてあげようし、また酒田へも帰れるようにしてあげる、安心しておいで",
"はい、……ありがとう存じます"
],
[
"お早う、よく眠れたかね",
"お早うございます。おかげさまで……",
"なにをしているんだ",
"隊士のお方のズボンが破れていましたので、いま針と糸をみつけて来ておつくろいしているところですの",
"それはありがとう",
"でも……下手ですから"
],
[
"早く酒田へ帰りたいだろうね",
"――はい",
"気を強くもっているんだ、いまにきっと帰らせてあげるから"
],
[
"でも、みなさまはここで戦をなさるのでしょう? そんなことをしていただくおひまがございますでしょうか",
"いやここにいるのは少しの間だ"
],
[
"あとから後援隊が着きさえすれば、いっしょに庄内の方へ進軍する、そうしたら酒田へ送るたよりはいくらでもあるよ",
"後援隊はたくさんくるんですの?",
"たくさんくるよ、今いるだけではこの梟谷をつきやぶるのはむつかしいからね",
"たくさんってどのくらい……"
],
[
"――銃をとれッ",
"――部署につけっ"
],
[
"石岡、一小隊だしてやれ",
"はっ",
"敵がいたら深入りせずにもどるんだ、決して深入りしてはいかんぞ"
],
[
"救援隊を出しましょう!",
"いかん",
"彼らはまたやられます、私を行かせて下さい、隊長!",
"いかん、おちつけ!"
],
[
"敵はそれを待っているんだ、救いに行けば行っただけ全滅だ。――これで、ようやくわかったぞ、土生一族のはかりごとはこれだったのか",
"これがはかりごとですって?",
"彼らはわざとこの砦をからにした、そして我々をこの谷間へ入れて袋攻にしようとはかったのだ"
],
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"――隊長"
],
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"我々は敵にかこまれている、しかしこの砦はかたい、兵糧も弾薬もたくさんある、そして一日二日のあいだには三百人の後援隊が来るんだぞ、それよりおくれることは絶対にない、一日か二日だ、そのあいだがんばってくれ、わかったか",
"官軍の名をけがすな"
],
[
"お糸さんだね、こんなところへなにしに来た",
"……心配で、たまりませんの――すっかりとりかこまれたのですってね",
"とりかこまれたって大丈夫だ",
"後援隊はほんとうにくるんですの? 三百人もくるってほんとうですの?",
"――聞いていたのか",
"ひるま鉄砲の音を聞いたとき、あたしもうだめなんだと思いました"
],
[
"大丈夫だ、ほんとうに後援隊は三百人くる、明日のうちには着くだろう、私を信じて心をしっかりともっておいで",
"早く酒田へ帰りたいんですの",
"大丈夫だよ"
],
[
"こうすると友達だと思って、誘われて鳴くんですの、酒田ではみんなよくこうして遊びますわ",
"私も子供のじぶんして遊んだことがあるよ"
],
[
"おいで下さい、後援隊の使者です",
"――なに、来たか",
"騎馬の兵が一名、いま先につきました"
],
[
"後援隊三百人、松原金之進殿の指揮にて前進中です、二時間もすればここへつきましょう、――私が使者としてまいりましたのは、副総督の命令がありまして、明日の夕方までに黒川まで進めとのことでございます",
"明日の夕方までに?",
"はい、それで後援隊がつくまでに、出発の用意をしていただきたいと申します。松原隊長の考えでは今夜半ここを出立しなければなるまいとのことでした",
"――わかった、御苦労だった"
],
[
"部署についている者は離れるな、敵は間近にいるんだ、油断するとやられるぞ、――篝火を消せ",
"篝火を消せ――"
],
[
"見はられていますからすぐかえります、――後援隊は三百人もう二時間もすると着くそうです、そして夜中には黒川へ向けて進軍するそうです",
"よし、ではやはり屏風岩がやくにたつ",
"火薬はもうつめてあるのですか",
"五十貫ずつ五か所だ、――松火一本なげつければどかぁんといく、五百や七百の人数はいっぺんに生埋めさ",
"ではこれで帰ります",
"もう少しだ、あやしまれるな"
],
[
"あっ",
"うごくな、拙者のにらんだ通り、お前はやっぱり土生一族の密偵だったな、――来い!"
],
[
"隊長、やっぱりこいつ密偵です",
"どうしたんだ",
"私ははじめからあやしいやつとにらんだので、たえず様子を見はっていたのです。するとさっき裏の防壁をのりこえて行くのを見ました。梟の鳴声をあいずにして、仲間となにか連絡をとって来たのです",
"梟の鳴声だと?"
],
[
"おまえ、それはほんとうか?",
"ほんとうです"
],
[
"わたくしは土生一族の娘です、そしてこの梟谷はわたくしたちのものです、酒井の殿様を守るために、土生一族の土地を守るために、わたくしは自分のつとめをはたしたのです",
"こいつ!"
],
[
"小娘のくせにふといことをぬかす。隊長! 斬ってしまいましょう",
"お斬り下さいまし"
],
[
"わたくしは自分の役目をはたしました。斬られても少しも心残りはございません、お糸は御先祖の土地を守ったのです、お斬り下さい",
"よし、血祭だ!"
],
[
"なぜ止めます、こいつは我々を",
"待て、待てというのだ"
],
[
"後援隊はもうすぐ到着する、いいか、それまではこの娘が人質の役にたつんだ。……なにをしめし合わせたか知れぬが、後援隊が到着してここを一緒に出発するまで、もし土生一族が攻めて来るようだったらこの娘を人質にして彼らの攻撃を中止させることができる",
"おう、そうでした",
"しばれ! 手も足も、そして猿轡をはめるんだ、はじめてみつけた通りにしろ"
],
[
"もういいから篝火を焚かせろ。それから後援隊のために握飯をつくらせて置け",
"――はっ",
"出発の準備はいいな?",
"荷造はすみました、弾薬も食糧も馬へつむばかりです",
"夜襲に注意しろ"
],
[
"私はいまでもおまえをにくんではいない、おまえは自分の役目をはたした、土生一族にとってはりっぱな手柄をたてたのだ。……けれどひとこといって置きたい",
"…………",
"おまえは日本人だね? 私も日本人だ、おまえは梟谷にそだって知るまいが、私たちを生んだ日本の国は、いま大変なあぶない瀬戸際にいるんだよ。――北からロシヤ、東からはアメリカ、西からはイギリス、フランスというように、世界の強い国がみんな日本をねらって押しかけてきているんだ。日本は三百年という長いあいだ、徳川氏のまちがった鎖国主義のために、この島国のなかでちぢまって暮してきた。そのあいだに世界の国々はどんどん文明が進んで、弱い国を攻めて亡ぼしながら日本へ近づいてきたんだ。……いいかい。いま日本の四方には、日本を攻め取って自分の物にしようという恐しい敵がいっぱい押寄せているんだよ"
],
[
"よけろ‼ 馬だ!",
"馬だ! あぶない‼"
],
[
"見たろうな、あの娘だぞ",
"……はい",
"天子様万歳といったな――"
]
] | 底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「少女倶楽部」大日本雄辯會講談社
1939(昭和14)年5月号
※表題は底本では、「梟谷《ふくろうだに》物語」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058870",
"作品名": "梟谷物語",
"作品名読み": "ふくろうだにものがたり",
"ソート用読み": "ふくろうたにものかたり",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「少女倶楽部」大日本雄辯會講談社、1939(昭和14)年5月号",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-12-17T00:00:00",
"最終更新日": "2022-11-26T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card58870.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
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"底本名1": "春いくたび",
"底本出版社名1": "角川文庫、角川書店",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年12月25日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年12月25日初版",
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[
[
"うん? いやなんでもない、腹が空いたので御馳走を待兼ねているところだ",
"まあいや、……この膾ができるとすぐですわ、もうしばらく我慢をあそばせ",
"ではお雛様へ燈でもあげるか"
],
[
"いやですわそんな、どうぞお兄さまからお先に",
"三樹の祝いは端午、今夜はおまえのお相伴だ、遠慮をすることはない、さあ",
"では――"
],
[
"今日はどうか遊ばしたのではございませんの? 何だかとてもお悲しそうに見えますけれど",
"そんな馬鹿なことがあるか"
],
[
"じつは加代、おまえに話がある",
"――はい",
"今宵の祝いはな……"
],
[
"えいッ",
"えいッ"
],
[
"ええ素浪人、邪魔するなッ",
"かまわぬ、そやつも斬捨てろ"
],
[
"お兄さま、お怪我は……?",
"おれは大丈夫だが、この人が傷をしている、手当をするから湯を沸かしてくれ",
"はい",
"それから清潔な布と、巻木綿があったはずだな、それから金瘡薬を",
"はい"
],
[
"動いてはいかん、静かに",
"春枝を、ああ、春枝が斬られる、早く、早く助けて、妹を――妹を……",
"しっかりなされい、それはどういうわけだ"
],
[
"加代、この人を頼む、出がけに医者を呼んで行くから、しっかりと預るのだぞ",
"――はい",
"おまえも武士の娘だ、見苦しい振舞はすまい、いってくるぞ"
],
[
"思いがけぬ事情にてそこもとのお兄上と会いましたが、ここにいては危いと申される、すぐ拙者の家までお運びなさるよう",
"――",
"さ、早くせぬと曲者が参ります"
],
[
"馬鹿なことを申せ、拙者は今",
"ええいうな!"
],
[
"これ乱暴するな、きて見れば分る",
"お嬢さま早く、お逃げなされませ"
],
[
"ええ鎮まれ、そのほうが勘違いをしたばかりに、頼まれてきたのが空になった、今こそいうが、そのほうの主人は斬られたのだぞ",
"え⁉ わ、若旦那様が……",
"命には別状ないが、いま拙者の家で手当をしているところだ、真疑のほどはきて見れば分る",
"それでもお嬢様の身上が",
"いや、掠って行くからはすぐに斬ることもあるまい、仔細を聞いたうえで拙者がどうにもいたそう、とにかく参れ"
],
[
"爺か、春枝はどうした",
"それは拙者が申上げよう"
],
[
"と申すわけで、この老人の誤解とはいいながら、妹御をやみやみ敵手に奪われ、なんとも申訳がござらぬ、――ついては今宵のことの仔細、とくとお話しくださらぬか、拙者身に代えてもかならず妹御をお救い申上げるが",
"かたじけのうござる、お言葉に甘え何もかもお話し申す、お聞きください"
],
[
"右の次第にて、今日妹と六平を榧寺に待たせおき、拙者一人にて道場へ乗込みましたところ、かえって三十余名の門人たちに取囲まれ、危くここまで逃延びて参ったのです",
"そうであったか、――"
],
[
"赤星湛左衛門、――たしかにおりますな、無念流の達者で、鬼の湛左と評判は聞いている。よし、山県氏御安心なされい、妹御は三樹八郎がたしかにお救い申すぞ",
"しかし相手は多勢の門人もおり……",
"なんの、邪悪の剣が何千あろうと、正しき武道をもって臨むに何の怖るることがあろう、――日月我が上にあり!"
],
[
"やったッ",
"狼藉者、斬ってしまえ",
"逃がすなッ"
],
[
"む――",
"がっ"
],
[
"その頬桁、忘れるな、行くぞ‼",
"――おう"
],
[
"いぇいッ",
"やあッ"
],
[
"加代ではないか、どうした",
"山県さまも御一緒に"
],
[
"兄上さま",
"おお春枝、そなたも無事でか",
"村松さまのお蔭で、菊一文字の御刀も取戻すことができました",
"おお!"
],
[
"たしかに、たしかに菊一文字、……これで父の命も助かり、山県の家名も相立ちます。――村松氏、お礼は申上げぬ、ただ拙者の胸中……お察しくだされい",
"お察し申す、礼などは素よりいうに及ばぬ、これもみな貴殿御兄妹の孝心を、武道の神が護られたのであろう、祝着に存ずる",
"ただかくのとおり"
],
[
"かく本望を達したうえは、一時も早く故郷へ立帰り、父をも安堵させ、殿の御意をも安んぜとうござる、まことに礼を知らぬいたしかたではござるが、ここでお別れ申します",
"しかしこの夜中では……",
"いや、夜中ながら、もはや一刻も惜しく、また湛左衛門の件について、貴殿に御迷惑がかかってはなりません、これより江戸邸へ参って始末のことを頼み、すぐ国許へ出立仕ります",
"なるほど、お心急くのも道理、では……途中気をつけて",
"お傷を御大切に"
],
[
"あなたのお兄さまのお蔭で、兄もわたくしも命拾いをいたしました、たとえ遠く離れても、この御恩は決して忘れませぬ",
"そんなことはお案じなさいますな、それよりどうぞ銀之丞さまをお大事に",
"あなたもお兄さまを、どうぞ御大切に"
],
[
"宵節句の馳走が、思わぬことですっかり邪魔をされた、おまえもおなかが空いたであろう、三樹もぺこぺこだぞ",
"でも嬉しそうでしたことねえ",
"うむ"
],
[
"あら、こんな物が……",
"なんだ",
"家のではございませんわね"
],
[
"お兄さま、いよいよ御出世の時が参りました、永い御苦労の酬われる時が参りましたのね",
"おまえもそう思うか",
"山県様にして差上げたことは別ですわ、でも今夜こそお兄さまの本当の腕前が認められたんです、明日になれば、江戸中に村松三樹八郎の名が知れることでしょう"
]
] | 底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「新少年」博文館
1938(昭和13)年3月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "058871",
"作品名": "武道宵節句",
"作品名読み": "ぶどうよいぜっく",
"ソート用読み": "ふとうよいせつく",
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"初出": "「新少年」博文館、1938(昭和13)年3月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2022-12-19T00:00:00",
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[
[
"爺さん、良いお日和だの",
"おや、是は珍しい。さあお掛けなさって",
"御免なさいよ"
],
[
"毎年八幡屋さんの顔が見えると、もうこれで春もきまったかと思うだが、今年は少し早いようだのう",
"今年はどうやら相場が上値を叩きそうだから、混まぬうちに敷打(養蚕家へ手金を打つこと)をすべえと思ってね、十日ばか早くやって来たのさ……ときに爺さん"
],
[
"えらく人徳のある人だそうだね",
"それがおまえ様、先月の七日に人手にかかって殺されなすっただ",
"へえ――そいつは初耳だ"
],
[
"それで下手人は――?",
"誰だか分らずじまいだと"
],
[
"へえ……ひどく紛擾しそうな話だの",
"ひと荒れあるだね、久しく親分衆の出入りを聞かなかっただが、今度はどうやら血の雨が降りそうだ――御覧なせえまし、あっちの茶店へ来ているのは佐貫屋のお身内衆でね、今日その江戸へ奉公に出ていさしった半太郎どんが帰ってござるので、ここまで迎えに出さしったと云う話だ",
"おや、そう云えば向うの皆さんが、道の方へ出て来なさった……",
"それじゃ息子どんが見えたずらよ"
],
[
"へえ、お帰りなせえまし",
"若親分お帰りなせえまし"
],
[
"その御会釈では恐れ入ります、どうかお手をお上げ下さい、さぞお疲れでございましょう。峠にかかりますから暫くここでお休み下さいませんか",
"そうさせて頂きましょう",
"左助、お腰掛けをお払い申せ"
],
[
"この度は親分がとんだ事になりまして、お留守を預った私ら一同、若親分にお合せ申す面がございません、そのお詑びは改めてのこと、先ず――お悔みだけ申上げます。さぞお力落しでございましょう",
"有難う、是もこうなる運命でしょう"
],
[
"しかし親分を手にかけた相手は分っております、お察しかも知れません――鼻の猪之助でござんす",
"証拠でもございましたか",
"親分の死骸の上に麗々と載せてあった莨入れ、毎も鼻猪之が腰から放さぬ品で、そればかりか印入りの提灯までこれ見よがしに置いてございました",
"又二郎申上げます"
],
[
"死骸の側に証拠の品を残して置いたのも、口惜しかったら腕で来いと云う、果し状同様のやり方なんで",
"一同揃って殴り込みをかけようと支度まで致したのですが、若親分を差し措いて勝手な真似は出来めえ、一太刀でも若親分に恨みをおさせ申さなければと云うので――今日までお帰りをお待ち申しておりました"
],
[
"あらましは右のような訳でござんす、頭数は減っても佐貫屋一家、生命を捨てて若親分のお力になりますから、どうか一日も早く親分の恨みを晴らしておくんなせえまし",
"そうですか、いや――よく分りました"
],
[
"と、とんでもねえ、そんな",
"それから――"
],
[
"と――云うと、お供は出来ねえのでござんすか",
"折角ですがお断り申します",
"それゃあ……またどう云う訳で?",
"訳は家へ戻ってから申上げましょう、では皆さん、お先へ失礼致します"
],
[
"へえ、一同揃っております",
"左様ですか、皆さん態々お集り下すって恐れ入ります、今日は父の三十五日でもあり旁々お話し申す事があってお出でを願いました、どうかお楽になすって下さいまし"
],
[
"お話と申すのは外でもございません、父の在世中は皆さんにも色々御厄介をかけましたが、碌々お為にもならずあんな事になりまして、皆さんの前にお詑びの致しようもございません、つきましては父の死んだのを機会に佐貫屋一家はこれで跡を断つことに決めました――皆さん今後の事も御相談に乗れると宜しゅうございますが、御存じの通り私は素っ堅気の商人育ち、渡世上の事はとんと分りません、それで……ここに些少の貯えと家屋敷を売った金がございます。母と談合のうえで頭数に分けてありますから",
"ちょ、ちょっとお待ちを願います",
"いやどうか終いまでお聞き下さい"
],
[
"私ですか、私はこれから近くへ小さな店でも借りて、慣れた太物商いでもしながら母の老後をみとる積りでございます",
"――太物商人……?"
],
[
"私の帰りが遅れましたのも、実はその用意にひま取りましたので、お店からお暇を頂いたり、御主人のお情で今後ずっと品物を廻して頂いたりする手筈を定めて参ったのです",
"そ、それじゃあ、亡くなった親分の敵はどうなさるんです",
"鼻猪之はぴんぴんしていますぜ",
"若親分! まさか彼奴を生かして置くと云うんじゃござんすまいね!"
],
[
"皆さんはどうおっしゃるか知れませんが、私は父の敵を討とうなどとは思いません",
"何で――ござんすって⁈",
"やくざ渡世は初めから生命を賭けているはず、強い者が勝って弱い者が負ける、唯それっきりの世界――人並の義理や人情を持出すことの出来ない、言わば人間の道を踏外した稼業でございましょう、斬るも斬られるも素より稼業柄のことで、堅気の私共が関わるべき事じゃ有りません",
"若親分!"
],
[
"別だとはどう別なんで――?",
"それは云えません",
"そうだろう、云えなかろう"
],
[
"丹三、口が過ぎるぞ",
"うっちゃっといてくんねえ吉兄哥、あんまり人を馬鹿にしゃあがる、こちとらあ生命を投出して親分の仇討をしようとしているんだ、それをなんでえ、やくざが殺されるのは稼業柄だ。糞を喰え――親を殺した当の野郎が大手を振ってのさばりかえるのを見ながら、太物商いをして世を過そうなんて女の腐ったような意気地なしめ",
"まあ待て、待てったら丹三",
"待たねえ、こんな腑抜けとは知らず、今日まで待っていたのはこっちが白痴だ、親分の恨みはこの丹三一人で立派にお晴らし申してみらあな、この人でなしめ"
],
[
"放してくれ、おらあ胆が煮えて仕様がねえんだ、放してくれ",
"まあよい、おれに任せろ"
],
[
"それではこれで申上げる事は終りました、おっつけ法事で寺から人が見えるはずですから、失礼ですがこれでお引取りを願います",
"じゃあ――"
],
[
"――と云う訳だそうですよ",
"へええ"
],
[
"それで身内の人たちは――?",
"それがねえ、初めのうちは若親分を措いて自分たちだけで殴り込みをかけ、親分の仇を討つんだと騒いでいたようですがね、当節はみんな利に敏くなっていますから、一人ぬけ二人ぬけ――中には猪之助親分の盃を貰う者も出来たりして、とうとうおじゃんになってしまいましたよ",
"半太郎さんと云うのはどうしましたえ",
"ここを行った辻のところへ店を持ちましてね、毎日近在へ太物の担ぎ商いに出ていなさいますだが、若いに似合わず親孝行な良い息子さんでございますよ",
"――そうかねえ、ふーん",
"おや、そう云えばそれ、向うへ風呂敷包みを背負った人が来ましょうが、あれがその半太郎さんでございますよ"
],
[
"あ、お信さんですか",
"お疲れでございましょう、よく御精がでますことね",
"貧乏暇なしですよ",
"――あのう……"
],
[
"このあいだの手紙、読んで下さいまして",
"ああ拝見致しました",
"――それで……?",
"お信さん、あの手紙は恋文でしたね"
],
[
"待ちますわ、待ちますわ、私……",
"お信さん"
],
[
"それは無駄ですよ、いえ幾ら待って貰っても無駄だと云うんです、私は御存じの通り堅気の商人、貴女は立派な貸元の娘さん――とても嫁に来て頂く訳には行きません",
"知っていますわ"
],
[
"半太郎さんは私の父を憎んでいらっしゃるんです、私の父が貴方のお父さんを",
"お待ちなさい",
"いえ云います、私の父があんな事をしたという噂、私はそれを聞いて死ぬほど吃驚いたしました。私は本当に父に代って自害をしてお詑びをしようと思ったんです――でも、死ねなかった、死ねませんでしたわ……幼い頃から心のうちにしみこんでいた貴方の俤、それが眼にちらついて死ねなかったのです",
"――お信さん",
"貴方のお口からお信……と、一度でも呼んで頂くまでは、私どんな辛いことも辛棒して待ちます、五年でも、十年でも――貴方がこうしろと云えばどんな事でもしてみせます、ねえ……半さん",
"諦めて下さい、私にはこれだけしか云えません、左様なら",
"待って",
"人眼についてはお互いの迷惑、これで御免を蒙ります",
"――半さん"
],
[
"おっ母さん肩でも揉みましょうか",
"なに、いいよ、おまえ昼の稼ぎで疲れているんだから、まあちょっとお休みな",
"疲れるほど稼ぎもしません、ちょっと捉まるだけでも捉まりましょう",
"そうかえ、済まないねえ"
],
[
"おまえは怒るかも知れないが、実は今日もお信さんが来たんだよ",
"おっ母さん、その話ならもう",
"それゃあね、おまえの気持はよく分っているんだよ、だけどあの娘のことを考えると可哀そうでね、――親同志があんな間違いを起した為に、若いおまえ達が……",
"おっ母さん"
],
[
"もしや今でも、お父さんの敵などと……",
"はははは"
],
[
"こう云っちゃあ済みませんが、お父さんの死んだのはやくざ渡世の自業自得、御定法の裏をぬけて、世間の道を踏外した者同志の斬った張ったは、堅気の者に関わりのない事です。人を殺しても――悪かったと一度悔むことのないような者は人間じゃあありません、人間でない者を相手に敵だ仇だと云ったところで始まりませんからねえ",
"そうだとも、こっち――"
],
[
"半太郎や!",
"大丈夫です、おっ母さん"
],
[
"おまえさんは猪之助……さん!",
"え?"
],
[
"ようございます、こっちへお上んなさい",
"きいてくれるか、有難え",
"この納戸へ入っておいでなさい"
],
[
"ちょっとあけてくんねえ",
"何ぞ御用でございますか",
"訊ねてえ事があるんだ、あけてくれ"
],
[
"乱暴な、どうなさるんだ",
"うるせえ"
],
[
"いまここへ鼻猪之の奴が逃げ込んで来ただろう、どこへ隠した、下手に庇いだてをしやぁがると汝も唯あ置かねえぞ",
"おまさんはどこの誰ですかい"
],
[
"誰だろうと汝の詮議は受けねえ、鼻猪之が来たろうと訊いているんだ、返答しろ",
"ええ面倒だ、家探しをしろ"
],
[
"ちょっとお待ちなさい、家探しをするとおっしゃいましたね、結構です、存分にお捜しなさい、だがひと言訊いて断っておきます。おまえさん方も知らぬ筈はないでしょうが、ここは二年あとに死んだ佐貫屋庄兵衛の家ですよ",
"げえっ",
"そこにいるのはお袋、私は庄兵衛の子の半太郎です、今は堅気の商人だが――おまえさん方に家探しをされて、もし猪之助さんがいなかったら、私は黙っている積りでも死んだ佐貫屋庄兵衛の血が黙っちゃあいませんぜ。それを御承知のうえで得心のゆくだけお捜しなさいまし、燈もお貸し申しますよ"
],
[
"これゃ悪いことを致しました。私達は西条村の繩権の身内で、とんと不案内なもんですから、お騒がせ申して相済みません。なあに、佐貫屋さんのお宅と伺っただけで鼻猪之のいねえ事は分ります、どうか御勘弁下せえまし",
"お分りになれば結構ですが、念のため御案内を致しましょうか",
"なにその御念にゃあ及びません、どうもとんだお騒がせを致しました、お袋さまへ宜しくお詑びを"
],
[
"はは、野郎どこへずらかりやがったか",
"西を洗ってみろ"
],
[
"ああ、お礼には及びませんよ、よかったらすぐに出て行っておくんなさい",
"今夜はなんにも云わねえ、お房さん"
],
[
"――それには及びません",
"じゃあ、今夜はこれで御免を蒙ろう"
],
[
"半太郎どんや、お疲れのところを済まないがちょっと顔を貸して貰えまいか",
"何か御用でございますか",
"少しばかり訳があって稲田屋へ人が寄っているのだが、どうしてもお主の顔が要ることになった、手間は取らせないから顔出しだけしておくれ",
"御丁寧な事でようございます、御一緒にお供を致ましょう",
"じゃあ案内をするから"
],
[
"構わずおいで、二階だから",
"どんなお顔触れでございますか",
"なあに行きゃあ分るよ"
],
[
"――これは……?",
"年寄役が付いてるんだ、悪い様にはしないからずっとお入り",
"そうですか、では――"
],
[
"この間の晩、韮崎の(猪之助)と繩権どんの身内と出入りがあって、すんでに危いところをお主の気転で助かったそうだの",
"お恥かしゅうございます",
"ふだんの付合どころか、悪い因縁のある仲でよくそうしておやんなすった、さすがに庄兵衛どんの息子さんだと、聞いた私も口幅ってえが感心申しました、それについて――韮崎のが来て云うのに、庄兵衛どんとの間違いは取返しようもねえ、然し今度という今度はお主の前に男の頭を下げてどんなにでも詑びをする、どうか前のことは水に流して勘弁して貰いたいとこう云うのだ",
"――はい",
"それで私も韮崎のがそこまで云うなら何とか計ってみようと、こうして佐貫屋に縁のある人達に集って貰ったのだが、どうだろう、お主の気持は?"
],
[
"人を殺しても悪かったと一度も思わぬような奴は、やくざの気風かも知れぬが、人間じゃあない犬畜生だ、犬畜生を親の敵と狙う私じゃあありません――だが、悪い事をしたと後悔して、人らしくなればお父さんの仇、今こそ恨みを晴らさなければなりません、甲府の小父さん――放して下さい",
"まあ待て、おれたちの面を潰す気か"
],
[
"もう断末魔だ、安心さして眠らせてやれ",
"き、きいてくれるか、半太郎どん"
],
[
"甲府のはじめ、御一統、猪之助は二年あとたしかに庄兵衛どんを手にかけた、こ、これは立派な仇討だ……御一統で、お上への証人を頼みましたぜ",
"よし、和田源がたしかに引受けた",
"有難え。庄兵衛どんの血を、おいらの血で洗ったのだ、これで半太郎どんとお信の仲も、さっぱりと浄められるだろう――あとは、冥途で庄兵衛どんに詑びを云うだけよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング」大日本雄弁會講談社
1936(昭和11)年3月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057725",
"作品名": "無頼は討たず",
"作品名読み": "ぶらいはうたず",
"ソート用読み": "ふらいはうたす",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「キング」大日本雄弁會講談社 、1936(昭和11)年3月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-02-04T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"底本名1": "山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜",
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[
[
"川向うも川向う、亀戸の先よ",
"へえー、そいつはおどろきだな",
"おどろきどころじゃあねえや、おれが帳場から帰ると、町内は迷子捜しの大騒ぎよ"
],
[
"多町の自身番で貼り紙を出しているのを、町内の人がみつけてくれたのは、その明くる日のことさ",
"懲りたのは親のほうってわけか",
"みごとにしっぺ返しをくらったようなものさ"
],
[
"板前を呼んで来いと云ってるんだ",
"旦那はいそがしくって、いま手が放せねえです、用はなんですか"
],
[
"あっしをお呼びですか",
"ああ、おまえさんかい、この店の旦那で板前さんてえのは",
"ええ、あっしがこの店のあるじで板前をしています",
"じゃあこの刺身をたべてみてくれ",
"なにかお気に入りませんか"
],
[
"もういい、勘定をしてくれ",
"いいえとんでもない、お気に入らない物を差上げて、あっしのほうからお詫びをしなくちゃあなりません"
],
[
"なんの用だ",
"おつまさんの云うようなことはよしにしましょうや、親方",
"馴れ馴れしいやつだな、いってえおめえは誰だ"
],
[
"いちいち親方、親方って云うなよ、なにが云いてえんだ",
"まあそうせきなさんな、おらあおめえを他人とは思えなくなった、これからよろしく頼むぜ",
"なにをよろしく頼むんだ"
],
[
"おまえさんお武家だね",
"そんなことはどっちでもいいじゃねえか、人足だろうと駕籠かきだろうと、人間が人間だということにゃあ変りはねえさ"
],
[
"そいつあとんだへちまの木だ",
"へちまがどうだって"
],
[
"おれのじゃあねえ、家に付いた石高だぜ",
"だって房さん、千石以上っていえば御大身じゃありませんか"
],
[
"学問と瓦版とはまるで違うんだが、まあいいでしょう、文華堂のおやじにはまたおやじの思案があるでしょうから、ときにねぐらだが",
"おらあここでもいいぜ"
],
[
"房やん、もうあの後家さんとできたんじゃあねえのか",
"なんだい、その後家さんてえのは",
"小舟町のおるいさんよ、白ばっくれたってだめだぜ"
],
[
"ばあさんだって",
"よくは知らねえが、もう三十四五になるんだろう、おれにゃあおふくろみてえなもんだ"
],
[
"ゆうべはどのくらい飲んだのかな",
"おれの知っている限りじゃあ二合とちょっとだったぜ、そのあとは知らねえがね"
],
[
"それが沢茂さ",
"冗談じゃあねえぜ",
"どうしてもゆくんだってきかねえんだ、こんどはおれが刺身のかなっけをためしてやるんだってな"
],
[
"弁慶は一遍きりで女を断った、っていう話を聞いたこたあねえかい",
"おらあ源さんのことを聞いてるんだ",
"てめえのざんげ話をするほどぼけちゃあいねえよ"
],
[
"夫婦も同じなのかね",
"女狐のその日の機嫌によるそうだ"
],
[
"朝このうちから使いが来たんでね、どんなようすか見に寄ったんだ",
"そんな心配はいらなかったのに",
"ゆうべがゆうべだからな",
"というと、――なにかあったのかい"
],
[
"覚えていらっしゃらないの",
"売り子の段平と久兵衛がいっしょだったんで、知らないところを引廻されたものだから、いつどうして帰ったか覚えがないんだ"
],
[
"酔ったあとにはあれがお好きなんでしょ",
"そんなことを云ったかな"
],
[
"おれにも覚えがあるぜ",
"ところが、――その男の家は亀戸辺にあるらしいが、子供は蒲団を背負ったまま、神田の多町までいっちまったっていうんだ"
],
[
"反吐が出そうだな",
"世間をよく見てみな、みんなお互いに化かしあっているようなもんだぜ"
],
[
"小網町の沢茂っていうお店でしょ、その話はうかがったわ",
"ひでえもんだな、そんなことまで饒舌ったのか",
"だからあんまり酔っちゃあだめだって云ってるでしょ、飲みたかったらここへ帰ってからあがればいいのに、それなら酔い潰れたって間違いはないじゃありませんか"
],
[
"あたしが好きでしているのに、自分を咎めることなんかないじゃないの",
"それはおばさんの気持だよ"
],
[
"そうして少しずつおとなになるわけさ",
"おれはいっそ、のら犬にでも生れてくればよかったと思うよ",
"のら犬だって餌をあさるには苦労するぜ"
],
[
"いやなことを云いなさんな",
"そうでなくって、着物を拵えてくれたり、小遣いを貢いだりする道理があるかい",
"だって相手は七つもとし上だぜ"
],
[
"その人に頼んで、桜田小路へ帰るんだな、それがいちばんだよ",
"そんなとこへ腰掛けちゃあだめだ、木内さんのうちはもうすぐそこだぜ"
],
[
"ばかなことを云いなさんな",
"今日、私はちょび髭の前で四つん這いになった、池さんはさぞ軽蔑したこったろう、人間の屑、卑しい野郎だと思ったことだろう"
],
[
"かみさんから仕送りがきていたのさ",
"それで箱根か"
],
[
"それがだめなんだ",
"なにがだめなんだ、おまえさんのうちじゃあないか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
1981(昭和56)年12月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
1966(昭和41)年3月号
※「躯」と「躰」、「灯」と「燈」、「かなっけ[#「かなっけ」に傍点]」と「かな[#「かな」に傍点]っけ」、「しと[#「しと」に傍点]」と「し[#「し」に傍点]と」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057737",
"作品名": "へちまの木",
"作品名読み": "へちまのき",
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"初出": "「小説新潮」新潮社、1966(昭和41)年3月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2021-05-20T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
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[
[
"お早うございます",
"ああお早う",
"好くお寝みになれましたか"
],
[
"よく眠れなかったよ君、一体この向うの部屋にはどんな客が泊っているんだい? ひと晩中へんな音をたてたり妙な声をしたり、実に閉口したぜ",
"向うの部屋と申しますと?",
"廊下の向うさ、この翼屋で、向うと云えば此室と廊下の向うと二部屋しか無いじゃないか"
],
[
"矢張りって? 何かあるのかい",
"あの部屋には何誰も泊ってはいらっしゃいません。もうずっと以前からお客様をお入れしない事になっていますので、――と申しますのは、実は極く内々のお話なのですが、彼室は『亡霊の部屋』と云って、私共仲間でも怖がって近寄らないくらいです",
"ふふふふ今どき亡霊とは古風だな",
"お笑いになりますが、現に昨夜、貴方様がそれをお聞きになったではございませんか"
],
[
"それ以来、あの部屋へお客様をお泊め致しますと、定って変な事がございますので、――今では使わない事になっているのです。然しどうか……この話は決して御他言下さいませぬように、なにしろこんな事が広まっては客商売のことですから",
"その点は安心し給え、僕なら決して誰にも饒舌りはしないから",
"有難う存じます。若しお望みでしたら早速お部屋を変えましょうか",
"否ここで宜いよ",
"然し若し貴方様に間違いでもありましては",
"まあそれ程の事もなかろう"
],
[
"なんだ、ドーリイじゃないか",
"ひどいわ、東京へいらしったのにどうして家へ知らせて下さらないの?",
"君は又どうして僕の来たことを知ったんだ",
"ゆうべホテルのロビイでお友達がお兄さまを見かけたんですって、慥かにお兄さまらしいからって知らせて来たのよ、どうして家へいらっしゃらないの?"
],
[
"で、一体どうしたんだって?",
"なんだか秘密を要する研究報告のために、鹿谷博士と御一緒に上京したんですって、だからそれが済むまでは家へ来られないって",
"そう――じゃあおまえ、福岡の方へ送る積りで用意しといたズボン下やシャツを持って行ってお上げな",
"そうね、どうせ学校の帰りに麻布の村上さんを訪ねるお約束だから行くわ、そして汚れ物があったら持って来るわね"
],
[
"君の部屋は何号だね",
"翼屋の六号です",
"ははあ、――ではゆうべ何かあったろう"
],
[
"御存じなんですか、先生",
"うん、僕も初めあの部屋へ入ったよ、どうやら一番静かそうだから望んだのだがね、前の部屋に亡霊が出て少し怖いから引移った訳さ",
"先生まで亡霊を怖がるんですか",
"君だって怖くない事はあるまい、――が、兎に角それに就て少し考えている事があるんだ、まあ……後で僕の部屋へ来給え"
],
[
"ああお母さんですか",
"豊治かえ、東京へおいでだってね、御用が済んだら牛込へも寄ってお呉れよ",
"ええ一週間ほどしたら伺います",
"待ってますよ。それからみどりは未だ其方にいるかえ、余り帰りが遅いからどうしたかと思って",
"ドーリイが来たんですか",
"行っていないのかえ",
"否え、――尤も今まで此室を留守にしていましたが、些っと帳場へ訊いてみましょう"
],
[
"母の話では、新しいシャツやズボン下を持たせて寄来したと云うんです。片町の村上という友達の家へ問合せたら、六時頃に出たそうですから、どんなに遅くとも来ない筈はないと思います",
"帳場では何と云ったね",
"その時分丁度みんな食事中で、帳場には若い給仕がいたそうですが、それがもう帰ったあとで分らないと云うんです。――然し来たものなら着換えの包みを預けるくらいの事はして行く筈ですから……"
],
[
"先生、僕ちょっと家へ帰って来たいと思うのですが、妹の身上がどうも心配で",
"まあ待ち給え"
],
[
"君はねえ伊藤、――今度の僕の研究が、軍事上の機密に関するものだと云うことを知ってはいないだろうね",
"存じません。ただ厳重な秘密研究だということだけは伺いましたから、此方へ来ても誰にも知らせなかったのです。然し――ゆうべこのホテルへ着いた時、ロビイで妹の友達にみつかったそうで、それで妹が",
"否々、僕はそれを責めているんじゃない、寧ろ妹さんの行方不明になった事が、僕のためには重大な役に立った事を感謝したいくらいなんだ",
"――と、仰有いますと",
"妹さんは必ず無事に帰るよ"
],
[
"それは本当ですか、先生",
"科学者は根拠の無い事は言わんさ、――だから安心して僕のする事を見てい給え"
],
[
"まだ九時前だね。宜しい、――君はお家へ電話をかけて、妹さんは此方へ泊ることになったと知らせてあげるんだ。お母さんに心配をかけると不可んからな、それが済んだら暢くり寝て宜しい",
"それで妹の事は……?",
"僕が引受けたと云っているじゃないか、それより君は亡霊に喰われぬ要心でもするが宜い。――じゃあお寝み"
],
[
"音をさせぬように起きるんだ。支度が出来たら是を持って……",
"――あ、拳銃ですね",
"叱ッ、黙って跟いて来給え"
],
[
"先生、どうなさるのですか",
"亡霊を退治するのさ"
],
[
"――先生",
"黙って、黙って!"
],
[
"そうか、そうだったのか、――遉にそこ迄はこの鹿谷も気付かなかったぞ、ふふふふ",
"どうなすったのですか、先生",
"叱ッ……誰か来る、――"
],
[
"あ! こんな所に抜け穴が",
"左様、こんな抜穴を使うなんて、亡霊にしては不便極まる話さ。だが、この建物は数年前から煖房器式になっているので、絶対にこの煖炉は使わないのだから、秘密の通路には持って来いの場所だね、――さあ入るんだ",
"大丈夫でしょうか",
"虎穴に入らずんば虎児を獲ずさ"
],
[
"まだ手を触れては不可ん",
"だって先生こんなに縛られて……",
"宜いから待ち給え、妹さんにはお気毒だが、もう数時間この苦痛を堪忍んで貰わなければならぬ、この事件は生やさしい問題ではない。国家の重大な機密に関係しているのだ、――斯う云えば恐らくみどりさんも暫しの苦痛を忍んで下さるだろう"
],
[
"お早うございます",
"ヤアオ早ウ、宜イ天気デスネ",
"左様でございます、――今日は特にベーコン・エッグスを致しましたからどうかお試し下さいまし"
],
[
"×××国の特務機関員諸君、もうじたばたしても駄目だよ、この通り網の口は締められたんだ。亡霊のからくりは暴露したぜ",
"あ! うぬ――",
"手を挙げろ! 動くと射殺するぞ‼"
],
[
"彼等は×××国の間諜だった。あの給仕は支那人で、勿論彼等の手先なのだ。――亡霊の話は、あの部屋へ人を近寄せないためだったが、その訳は彼処が秘密の連絡に使われていたからだ。どういう方法で連絡を取ったかと云うと、……あの紙を裂くような音、あれがその機械だ。別の間諜が第×聯隊の横に張込んでいて、聯隊の移動状態を探り、それを光線通信であの部屋へ送っていたのだ",
"ですが先生、若し夜間に光線で通信すれば直ぐ発見されるではありませんか、――現にゆうべ僕たちが見張っていたのに、別になんの光も見えなかったですよ",
"だからさ、見えない光線を使ったのだ"
],
[
"つまり赤外線だ。兵営の附近から特殊の機械で、この部屋へ向って赤外線を放射する、君も知っている通り赤外線は人間の眼には見えないものだ。然し同じ受感装置には感じるから、光線を受けると同時に自動的に動きだし、眼に見えぬ通信を完全に記録するんだ。――ゆうべ壁のところでカチリと音がして、小さな火花が閃めいたろう。あのとき記録装置が活動を始めたのだ。それから白い亡霊……あれは例の支那人給仕が化けたのだが、あれがその記録を取外し、朝になって彼の三人の外人に給仕をする時、そっと手から手へ渡すという仕組みなのさ……実に敵ながら天晴れ、赤外線を使ったのは間諜戦はじまって以来是が最初だろうよ",
"――ところで、どうして先生は是を間諜事件だとお気付きになりましたか?",
"初めはそこまで気がつかなかったね。ただあの給仕が、得々と亡霊の話をしたので、こいつは怪しいと思ったのだ。何故って、――客商売の勤めをする者が、訊かれもしないのに客の厭がる亡霊の話などをする筈がないからなあ。是は何かある! と睨んだよ、その次にみどりさんの行方不明を聞いたので、慥に此家に何かあると感付いた。そして何の気もなく外の空気を吸おうとして窓を明けたところが、向うに第×聯隊の営舎があるのをみつけたので、――そう、一種の霊感だな、本能的に是は間諜事件に相違ない! と思ったんだ……すると毎朝あの三人の外人が、定ってロビイへ朝飯に来る事、その給仕はあの男に限っている事などがはっきり思出された。斯うなればあとは簡単さ、みどりさんを縛ったままにして置けば、彼奴はまだ自分の罪の暴露した事に気付かず、堂々とロビイで連絡を取るに違いない、――そう思った事が図星に当った。頼んで置いた警視庁の諸君も、なかなか立派に芝居をして呉れたよ"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年11月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059105",
"作品名": "亡霊ホテル",
"作品名読み": "ぼうれいホテル",
"ソート用読み": "ほうれいほてる",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新少年」1937(昭和12)年11月",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-08-07T00:00:00",
"最終更新日": "2022-07-27T00:00:00",
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"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "2007(平成19)年10月15日",
"入力に使用した版1": "2007(平成19)年10月15日第1刷",
"校正に使用した版1": "2007(平成19)年10月15日第1刷",
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"底本の親本初版発行年1": "1937(昭和12)年11月",
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[
[
"だから店賃はここと同じでいいって",
"店賃も店賃ですけれど"
],
[
"せっかく家主さんがそう云ってくれるんだ、それにここじゃあ誰もあの事を知ってる者はねえんだし、いつまで肩をすぼめてくらしてるこたあねえじゃねえか",
"でもねえ、女世帯で角店に住むなんて、少し晴れがましすぎると思うから"
],
[
"日本橋本町三丁目の伊予巴の職人です",
"よくここの面倒をみてくれるようだな、家主のおれからも礼を云うぜ",
"よしてくんな、こっ恥ずかしい、こっちはまだ半人めえ、ここのおかみさんは江戸に幾人という腕っこきだ"
],
[
"有難うよ、親方によろしく云ってちょうだい、おこころざしは本当にうれしゅうございましたってね",
"なんだか引込みがつかねえが、それじゃあ親方にそのとおり云っておきます"
],
[
"ではあたしたち、そんなふうに思われてるのね",
"めしにするかい",
"話のあとを聞きたいわ、こんなうちへあがったの初めてだし、あたしなんにも喰べられそうじゃないの"
],
[
"そうだったね、ちょっと考えごとをしていたもんだから、うっかりしてたよ",
"芳っさんが送って来てくれたのよ、ああ、行燈はあたしがつけるわ"
],
[
"なにがかかわりのない、ことなの",
"せっつかないでおくれって云ったでしょ、芳っさんがお店を持つまでには、少なくとも二年はかかる、とか云ってたそうじゃないの",
"でもなにかむずかしいことがあるって"
],
[
"おまえさんが猿屋町の",
"いずれは婿になる男です、名めえは芳造、おまえさんが幸助と仰しゃる人ですね"
],
[
"じゃあどこにいるんです",
"ゆうべまではいたんだが、ゆうべおそく賭場から使いがあって、でかけたまんままだ帰らねえというわけで",
"じゃあまた出直して来ます"
],
[
"つまるところ、その人に会わせたくないんですね",
"なんだって"
],
[
"辰とかいう人に会えばいいんだ",
"三両の金は、そこに持ってるんだな",
"ここにあるよ"
],
[
"そうくるだろうと思った",
"なんだって"
],
[
"辰っていう人に会うのが先だ",
"どうしても信用できねえっていうんだな",
"それはおまえさんしだいだ"
],
[
"相手によるさ、――と云いてえところだが、いいよ、わかったよ、これからは決して乱暴なまねはしねえよ",
"きっとよ",
"ああ、きっとだ"
],
[
"その芳っさんだけはよしてくれねえかな",
"あらどうして",
"どうしてってこともねえが、なんとなく子供っぽいようでな、ずいぶんなげえこと云われてきたもんだから"
],
[
"向島までゆくにはおそいかしら",
"そんなことはねえさ、けれども花はもうおしめえだぜ"
],
[
"そうだ、あそこには腰掛け茶屋があって、酒も飲ませるそうだからな",
"お祖父さんはそんなにお酒飲みじゃなかったわ",
"そうは云やあしねえ、そういうわけじゃあなく、そういう掛け茶屋で一本の酒をちびちびやる、っていうこともたのしみの一つだということさ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
1981(昭和56)年12月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「躯」と「躰」、「灯」と「燈」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"此処はあの時分よく跳ねまわって遊んだ処だな",
"お上がお眼を傷つけなされた場所でございます",
"そうだった"
],
[
"たしか五名であったと心得ます",
"昔話をしてみたいと思うが、明日にでも揃って出るように計らって置け",
"承知仕りました"
],
[
"神童の小次郎ならば、いま家を継ぎまして八郎兵衛と申しております",
"彼はひどく人柄が変りました、事実を申上げましても、お上にはお信じあそばすことはなるまいかと存じます"
],
[
"変ったといって、どう変ったのか",
"一言では申上げ兼ねますが、詰り神童と云われていた頃とはまるで反対になったと申しましょうか、家は継ぎましたがお役にも就けず、妻を娶りましても",
"これ角之進、慎もうぞ"
],
[
"いや無作法は許す、申してみい",
"はあ、まことにこれは、口が滑りまして"
],
[
"行方が知れぬ、それはどうした訳だ",
"どう致しましたことか、ある日ふらりと出たまま、まるで音沙汰がございません、国越えをしたのでないことは番所を調べて分りましたし、家の者たちが手分けをして捜し廻ったのですが、どうしても所在が知れないのでございます"
],
[
"不調法を仕りまして申訳ござりませぬ、ふと、思いついたことがございましたので、御帰国までには必ず立戻る心得で出掛けたのでございますが、心懸けた事がなかなか思うようにまいらなかったものですから",
"なにを思いついたのだ"
],
[
"他人に笑われるようなことか",
"みんな笑いますので、誰も真面目に聞いて呉れませぬので弱りました、実は、達磨が面壁九年に大悟したと申します、むろんお上にも御承知でござりましょう",
"それがどうした",
"九年の面壁で、達磨はなにを悟ったのでございましょうか、私はふとそれが知りたくなったのでござります、お上にはお分りあそばしましょうか",
"知らんな、大学はどうだ"
],
[
"誰にたずねましても笑われるばかり、致方なく自分で試みる決心をつけまして、白狐の窟に籠ったのでござります",
"それで達磨の悟が分ったのか",
"はあ……",
"ばかに早いではないか、どう分った"
],
[
"面壁九年ののち、達磨は結跏を解いて起ちながら、かように申したと存じます、なるほど、ただ睨んでいるだけでは壁に穴は明かぬ",
"なに、もういちど申してみい"
],
[
"一揆の軍師と称しているのは其方か",
"そんなことに答える舌は持たん、検地を取止める使者なら許すが、その他の用で来たのなら此処から帰れ、我われは暴政を拒けるか、伊達の家を宇和島から逐うか、孰れか一途を貫徹せぬ限り手はひかんのだ",
"其処を退け、退かぬか"
],
[
"一揆の者を斬ったというのは事実か",
"はい、粗忽を仕りました",
"誰が斬れと命じた、八郎兵衛、紛らわしい返答はならんぞ"
],
[
"斬ってよいものなら、其方などの手を俟つまでもなく斬っておる、事を穏便に納めようと思えばこそ、余をはじめ老職共もこれまで苦心していたのだ、それを知りもせず、短慮に事を誤るとは不届きなやつだ",
"恐入り奉る、平に、平に"
],
[
"なんだ、大学までがさようなことを申すのか",
"斬るべきでござりました、八郎兵衛が斬りました三人は浪人者で、穏便のお沙汰を城中に力無きものと思い誤り、農民を煽動して一揆を企てたのでござります、断乎として彼等を斬ったればこそ、一揆の者共はその支配者を失うと共に、はじめて竿入れの正しい事実を見知ったのでござります",
"然し、それは事実なのか、浪人者であったというのは、事実なのか"
],
[
"恐れながら八郎兵衛には御無用でござります",
"赦しては悪いか",
"彼は切腹をして相果てました"
],
[
"八郎兵衛はあの日、屋敷へ立戻ると間もなく切腹を仕りました、まことにあっぱれな最期でござりました",
"なんで……なんで、八郎兵衛が"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「現代」大日本雄辯會講談社
1940(昭和15)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057747",
"作品名": "松風の門",
"作品名読み": "まつかぜのもん",
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"初出": "「現代」大日本雄辯會講談社、1940(昭和15)年10月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
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"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月25日",
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} |
[
[
"家でも恋しくなったか",
"いえ……"
],
[
"ではどうしたのだ、体の具合でも悪いなら遠慮なく云うがよい",
"べつにそんな訳ではございませぬ",
"なんだ、おかしなやつだな"
],
[
"改めて訊くまでもないが、おまえ家へ帰りたいのであろう、どうだ",
"――――",
"蝙也の側にいるのが嫌なのだな"
],
[
"そのくらいのことが分らぬ蝙也ではない、おまえが何を悲しんでいるか、何を怨んでいるか俺はよく知っている、――町、おまえ側女になったことで蝙也を憎んでいるだろう",
"…………"
],
[
"ではここで相談をしよう、おまえはいつでも俺の側にいる、俺にどんな油断があってもおまえには分るはずだ、よいか、――その油断を狙って俺を驚かせて見ろ、見事に蝙也をあっと云わせたら、三年分の給金を倍増しにして、即座に暇をくれてやる、どうだ",
"それは……本当でござりますか",
"戯れにこんなことは云わぬ、よかったらいますぐからでも狙うがよい"
],
[
"拙者にできることなら何なりとお力添えを致しましょう、お心に余ることがあったらお打明けくださらぬか",
"はい、――"
],
[
"――そういう訳で、先生をお驚かし申せば、わたくし清いままの体でお暇が頂けるのでございます",
"そうでしたか",
"それでこの七日あまり、毎夜お寝間をうかがっているのですが、どうしても入ることができず、今ではすっかり気が挫けて……",
"お町どの!"
],
[
"これはとてもあなた独りの手には負えません、拙者に助勢をさせてください、実は我々門人も先生から同じようなことを云われているのです、だからお互いに助け合って先生の油断を狙いましょう。独りでできないことも二人ならやれる道理です",
"そうして頂けましたら……",
"しかし、――先生からお暇をとった場合、あなたはむろん家へ帰られるのでしょうね",
"はい",
"こんなことを云って、不躾なやつだと思われるかも知れませんが"
],
[
"あなたは、もう、――お家のほうで誰か約束を交した人でもおありですか",
"まあ、そんなこと、決して……",
"本当に? ああそれで万歳だ",
"なぜそんなことをおっしゃいますの――?",
"今は何も申上げません。やがて先生からお暇の出る時がきたら、拙者からあなたに、改めてお願いすることがあります、どうかそれを覚えていてください"
],
[
"ああ、ひどく酔ってしまった、こう酔っては寝られもしない、これから染屋町の堤へ螢でも見に行こう、おまえ行って皆を呼んで来い",
"誰々を呼びましょうか",
"栗原に滑川に土居金八、それから渡辺の頑太郎も呼んでやれ"
],
[
"お町どの早くおいでなさい",
"――何でございますの?",
"先生を驚かす絶好の機会です、早く"
],
[
"拙者がこちらを閉めるから、あなたはそちらをお閉めなさい、一度に呼吸を計って、力いっぱいにやるのです",
"――はい",
"合図をしますから"
],
[
"駄目だ駄目だ、こんなことで蝙也を驚かそうとしても無駄だぞ。これでは暇をやるのも先の長いことらしいな、ははははは",
"…………",
"まあ水でも持って来てくれ、それからいま四五人やって来るから、町も一緒に螢を見に参ろう",
"はい"
],
[
"先生に知れますから",
"この人混で知れるものですか、少しお話し申したいことがあるのです"
],
[
"お話って何でございますの",
"突然こんなことを云って吃驚なさるかも知れませんが、どうか落着いて聞いてください、お町どの、――実は、拙者と一緒に当地を立退いてはくださるまいか",
"ええ? 何とおっしゃいます",
"打明けて申しますが、拙者はとうからあなたを想っていました。先生の許へおいでになったあの日から、――"
],
[
"先生とあなたとの約束を聞いた時、拙者はどんなに嬉しかったか知れません、あれ以来寸刻も忘れ得ず先生の油断を狙いました。けれど駄目です、先生には常住坐臥、いささかも隙というものがありません、現にさっきも……今度こそと思ったのにやはり失敗でした、とても我々の力で先生に参ったと云わせることはできないでしょう。――といってこのまま、便々としていれば先生も人間です、どんなことであなたの身に過ちがないともいえません。それを考えると拙者は堪らない、我慢ができないのです、――お町どの、逃げてください、山根道雄も武士、どこへ行こうと決してあなたに不自由はさせません、家の妻として立派に",
"お止めください、お止めくださいまし!"
],
[
"お話の仔細はよく分りました、けれどそれはお断り申します",
"断る? どうして、どうしてです",
"わたくしは三年分のお給金をもう家のほうへ頂いてあるのです。先生とのお約束を果さぬうちは、どのようなことがあってもお側は去れませぬ。またたとえお給金のことがなくとも、――一旦こうと約束した以上、反古にして逃げるなどという卑怯な真似はできませぬ",
"そ、それは理窟だ、そんなことを云っているうちにもし清い体に間違いでもあったら",
"仕方がございません、わたくし初めからそのつもりで参ったのですから、――お給金も取ったまま、せっかくの約束も果さず逃げるような、恥知らずのことをするくらいなら、まだしも妾と呼ばれるほうが増しだと存じます"
],
[
"あ、あなたは先生を好いているのだな",
"――何をおっしゃるのです",
"好いているのだ、先生を好いているのだ、先生は女に好かれるんだ、あなたも口では厭だなどと云いながら心では",
"お黙りなさい",
"いいや黙らない、あなたは先生を愛してさえいる、ははははは、山根道雄は馬鹿者だった、道化の木偶だった、だが――このまま黙ってはいないぞ、たとえ先生であろうと誰であろうと、あなたの体に指一本触らせはしないんだ、どうなるか見ているがよい",
"お黙りなさい、でないと――"
],
[
"やあやあ怪しいぞ",
"螢を追って暗闇まぎれ、うまいことをやっているな、どんな果報者か顔を見せろ"
],
[
"はははは、どうやら家中の若蔵らしかったが、獺のように消えおったぞ",
"なに男などはどっちでもよい、それよりまず怨敵を逃がさぬようにしろ。や――これは凄いぞ、螢の精が化けてきたか、まるで輝くような美人だぞ",
"どれどれ拙者にも拝ませろ",
"ええうぬ、そう無闇に押しこくるな"
],
[
"これは松林先生……",
"お揃いで螢見物かな。せっかくの興を妨げるようで失礼だが、これは拙者の娘分で町と申す者だ、見物の人波にはぐれたので捜しておったところ、――貴殿がたのお蔭で難なくみつけることができた、まことにかたじけのうござる",
"いや、それはその、あれでござる",
"はははは、まず螢の精などには充分お気をつけなされい"
],
[
"そんなこと……却ってわたくし",
"よいよい、怒らなければよいのだ、――ときにどうやら酔も醒めたが、この辺で螢を見ながら少し話でもするか",
"――はい"
],
[
"おまえが来てからもう四十日余りになる、今日までつくづく話し合ったこともないが、そろそろ打解けてくれてもよい頃ではないか",
"どう致したらよろしゅうございましょう",
"おまえらしい返辞だな。俺はいつか約束したとおり、おまえが俺を驚かし、俺に参ったといわせることができたら、いつでも暇をやる覚悟でいる、――決してそれを反古にしようとは思わない、けれどもし……",
"いえ!"
],
[
"いえ、どうか何もおっしゃらないでくださいまし、そしてわたくしにお約束を守らせてくださいまし、――どうぞ……",
"そうか"
],
[
"は、どうも、面目次第もございません",
"今さら仕損じを詫びるにも及ばない、あれから無事に帰ったかと訊くのだ",
"いえ別に、は、――",
"嘘だろう、頑太郎は嘘つきだな",
"とおっしゃいますと?",
"何か落物をしたはずだ"
],
[
"どうだ頑太郎!",
"は、その、実は、ちょいとした物を",
"ちょいとした物というと、紙入か",
"いや、もそっと大きなもので",
"紙入より大きくちょいとした物か……ははあ、すると印籠か。そうでもない、では袴でもおとしたか",
"いや、な、な、長い物のようで",
"ようだとは面妖だな、長い物なら長い物と云わなければ分らぬ。ようだなどと曖昧なことを申すな、――長くてどんな色をしている",
"その、少しばかり光っております"
],
[
"強情者、長くて光ってちょいとした物というのはこれだろう",
"あ、どうしてこれを!",
"今頃になって慌てるな、そのほうが背中へ突掛ったとき俺が抜取っておいたのだ",
"――参った!"
],
[
"お稽古中お騒がせ申して――",
"いやその御斟酌には及びませぬ、急の御使と承わりましたが何か出来致しましたか",
"実は是非とも御出馬を願いたいので"
],
[
"お上にはこれを聞かれて、それでは蝙也の手で捕えたうえ引渡してやれとおおせられたのでござる、――いかがであろうか",
"承知仕った、拙者が捕えましょう"
],
[
"早速の御承引でかたじけない、では何かお指図でもあらばただちに手配を仕りましょう",
"なにべつに仔細ござるまい。ああ、――御貴殿の組下に小具足取りの手利きがいましたな",
"鈴木伝右衛門と申す、あれ",
"あの仁をお差廻し願いたい、日暮れ過ぎに出張仕るから",
"承知致した、では何分よろしく、――"
],
[
"先程山根様と一緒に中庭のほうにいらしったと存じますが",
"山根? ……見て参れ"
],
[
"どこにも見えませぬ",
"山根もいないのか",
"はい、――"
],
[
"はて、南部のお武家……",
"他にも武家の客がいるか",
"いえ、お武家様はひと組だけで、いかにも御婦人連れでござりますが、たしか出羽の御藩中とか",
"それに違いない、よいからその者に申せ、南部藩より上意をもって召捕りに参った、宿の周囲は伊達家の人数で固めてある、唯今参るから神妙に致せ――と、分ったか",
"へ、へい"
],
[
"失礼ながら不意に踏込むほうが仕損じのないように思われまするが",
"場合によってはそうかも知れぬ"
],
[
"しかし、不意を襲っても心得のある者なら狼狽はしないし、却って絶体絶命、窮地の勇を与える怖れがあろう。先に知らせておけば、いよいよ来たかとまず覚悟をするが、一応は斬ひらいて遁れるだけは遁れようと念う。これが心の虚だ――その虚を与えるためにあらかじめ、や、亭主が戻って来たようだ",
"あ、あの、お武家が刀を抜いて"
],
[
"馬鹿者、なんの恨みで蝙也を斬る、待て、待たぬか山根!",
"ええイ、くそっ!",
"おのれ、斬捨てるぞ"
],
[
"おお、おまえ、どうしてここへ",
"や、山根のために、他国へ連れて行かれるところでございました",
"そうか"
],
[
"武太夫の手引をする者が仙台にあると聞いたが、それでは山根のやつだったのか、――それにしても俺を斬ろうなどとは見下げ果てたやつだ。どこも痛めてはいまいな?",
"はい。中庭にいるところを、いきなり猿轡をかけられ、どうしようもなくここまで担ぎこまれましたが、幸い怪我はございませぬ。今宵のうちにあの椙原という者と連立って江戸表へ出立と聞き……どうなることかと生きた心はございませんでした",
"間に合ってよかった。――人眼については面倒だから、おまえは裏へでもぬけて先に帰っているがよい、俺もすぐあとから帰る",
"では――お先に……"
],
[
"お帰り遊ばしませ",
"うむ、――洗足を取ってくれぬか",
"はい"
],
[
"お洗い致しましょう",
"うん――"
],
[
"計ったな、――町、だが駄目だぞ、こんな熱い湯で蝙也をあっと云わせるつもりだろうが、そう旨くはゆかぬ",
"まあ――"
],
[
"今夜こそ大丈夫と思いましたのに",
"段々考えるようだが、まだ俺に参ったと云わせるまでには間があるぞ。まあうめてくれ",
"――とても敵いませぬ"
],
[
"や、やったな、町!",
"――――",
"参った、まさに参ったぞ"
],
[
"――どうした。なんだ泣いているのか、家へ帰るのがそんなに嬉しいのか?",
"いえ、いえ違います"
],
[
"旦那さま、お願いでございます、どうぞ今までどおりお側へおいてくださいませ",
"なに、なにを云う",
"お側へおいてくださいませ、町は……もうとてもお側から離れることができませぬ、たとえ側女でもいといませぬゆえ、どうぞ、どうぞお側において――"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング」大日本雄弁会講談社
1938(昭和13)年1月号
※「仕え」と「事《つか》え」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2021年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057748",
"作品名": "松林蝙也",
"作品名読み": "まつばやしへんや",
"ソート用読み": "まつはやしへんや",
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"初出": "「キング」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年1月号",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
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} |
[
[
"なんだって",
"筋のとおった腕だ、旅芸人には惜しいよ"
],
[
"だって、もうすぐ産れそうなのよ",
"いいからいきなさいってば、そんなことしなくったって犬は独りで産むわよ",
"あたし小菊さんのねえさんに"
],
[
"はい、御心配をかけて済みません、もう泣きませんから堪忍して下さい",
"それで結構よ、さあ、まいりましょう"
],
[
"つまり私を恨むっていうわけか",
"恨むですって、若尾がですか",
"だって、あんなに泣き続けるほどいやだったんだろう"
],
[
"へえ、ただ泣いただけですかね",
"ねえお兄さま、聞かせて、――"
],
[
"まあ、いやですわ",
"本当なんだ、もちろん客に見せる芸だから、これまでのようではいけないが、生れつきの才分というか、若尾の薙刀には本筋のものがある、あとで武家の血をひいていると聞いて、みっちり稽古をすれば相当な腕になると思った",
"お兄さまも薙刀をなさいますの"
],
[
"おまえの云うとおりだったな、私はまた深江に似ているので、却って悲しがりはしないかと思ったのだが",
"母親というものは娘を欲しがるそうですから"
],
[
"なにか悪戯でもしたんだろう",
"あらいやだ、――あらいやですわ、もうわたくし、まさか子供じゃあるまいし、悪戯なんか致しませんことよ",
"それじゃあ、なんで怒られたんだ"
],
[
"はい、お兄さま",
"それから、私のことなんぞ、あまり話すんじゃないよ"
],
[
"若尾だって、もう子供じゃあございませんわ、そんなこと決して申したりしませんわ",
"それを忘れないように頼むよ"
],
[
"さあ、――夜にでもならないと暇がございませんけれど",
"結構です、あの築山のうしろの林の中で待ってますから",
"でも、――御用はなんでしょうか"
],
[
"有難う、では返事を聞かせてもらえますね",
"わたくしも飾らずに申上げますわ、せっかくですけれど、お受けできませんの"
],
[
"どうしてですの",
"だって彼は、――いや、それはだめです"
],
[
"これは貴女だから云うのだが、あの人は、こともあろうに懐妊して、懐妊三月の躯を恥じて自害したんです",
"懐妊ですって、――"
],
[
"若ぼう、――やっぱりおめえだったか",
"あんたは権之丞のにいさんね"
],
[
"誰に、誰に聞いたんだ",
"誰にって、それは、人の名は云えないが"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社
1954(昭和29)年5月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057750",
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"ソート用読み": "みすくるま",
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"初出": "「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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} |
[
[
"日並が悪いでどうも喰いがたたねえ、昨日はひとつもあげなかっただあ、ところ島せえってこの沖に寄り場があるで、あそこなら餌を換える暇もないほど釣れるだがね、――お客様は対洋館に泊ってござるんかの",
"そう、煙草を一本どうだ"
],
[
"わしはいつでもここに来ているだで、退屈なときには遊びにござるがいい。よかったら吾八の話でも聞かせるべえから",
"何かあったのかね",
"わしの屋敷で使っていた下男だがのう、猿の祟りで崖から堕ちて白痴になってしまっただ、かわいそうに良い男だったが、――ずっと前、そうだ、柿の生ってる時分だっただ"
],
[
"あれからすっかり村のようすは変った。森には端から斧が入ったで、野猿も鹿もどこかへ行ってしまったし、岬の鼻は波にけずられて少しずつ海の下になっていく、そしてあの娘も今では孫がある",
"それで吾八は――?",
"さあどうしているかのう、かわいそうに。村じゅうの可愛がられ者だったが、白痴になるとまもなくどこかへ行ってしまって戻らねえだ、今はどうしていることだか"
],
[
"吾八と――? どこで",
"岬道のところで釣りをしながら話していらしったじゃありませんか"
],
[
"あれが吾八なのかい",
"誰だと思いなさいましたの",
"いやべつに誰とも思わないが、吾八の話はあの爺さんから聞いたぜ",
"ほほほほ"
],
[
"それじゃお客様も吾八の嘘にひっかかりなすったんですよ、自分は村一番の旧家の主人だって云いましたでしょう",
"なんでもそんなことだった",
"それから自分の嫁になるはずの娘があって、よそへ片付いたとか、かぶっている麦藁帽子はその娘がくれた物だとか云ったでしょう、――嘘ですわ、みんな作りごとですわ",
"嘘かい"
],
[
"なんでも松屋敷のお嬢さんが十二三の頃、町へ出たときあの人に麦藁帽子を買って来てあげなすったことがあるそうですけれど、それがいつまで残っているわけもありませんし、またあんなに大きな物じゃなかったという話ですわ、まあ白痴のことですから好き勝手なことを云うのでしょうが、あれでいつまでも生きていられては松屋敷でも大変でしょうよ",
"その絹子という人はどうしたのかい",
"今でも達者でいらっしゃいますわ、もう五人もお孫さんがおありです"
],
[
"今日は僕も釣りに来たよ",
"ようござった、餌は何を持って来さしったかね、ああこれは駄目だあ"
],
[
"そんなことはないさ",
"昔語りというやつは、話す当人が面白いほど聴く者には退屈なもんだ、だけれどもわしがのように年寄りになると、行末のたのしみというものがねえで、過去ったことを考えたり人に聞いてもらったりするのが何よりの慰めになるだよ、――お客様あ若いに似合ずよくこんな年寄の思出話を聞いてくらっしゃる、これが村の者とくると"
],
[
"村の人たちはいけないかね",
"わしにはあの衆の気持が分らねえだ――まあたとえばあの娘のことを云うとする、ところが村の衆はそんな娘はいなかったぞと云うだ、なるほどわしはずっと昔ひどく病んだことがあるで、あんまり物覚えの良いというほうではねえだ、けれどもわしのことはわしが一番よく知っている、――そうだ、あの話をお客様に聞いてもらうべえ"
],
[
"わしが一番心配したのは、あれがいつまでもわしのことを気懸りに思っていやせぬかということじゃった。だがそんな心配もなく、それからはあれも幸福にやっているということでさ、男の子供は揃って出来者だしのう、娘が二人あったがそれも片付いただ、今じゃ暢気に孫の子守りをしているそうで、――わしもこの頃はすっかり気が落着いただよ",
"もう一生会わぬつもりかね",
"老人には柿の実は毒だでなあ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「アサヒグラフ」
1934(昭和9)年11月14日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2021年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057754",
"作品名": "麦藁帽子",
"作品名読み": "むぎわらぼうし",
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"初出": "「アサヒグラフ」 1934(昭和9)年11月14日号",
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[
[
"よしよしわかった、詰りひと口にいうと金の用途は云えないと申すのだろう",
"いや申上げられないのではございません、ただ申上げにくいのです。伯父上のお耳に入れるほど重要なことでもなし、却ってそんな詰らぬことを一いち聞かせるなどお叱りを受けそうでございますから"
],
[
"それはちょっとお待ち下さい",
"それとはどれだ、金のほうか嫁のほうか"
],
[
"なぜ待つんだ、そうする必要があるか",
"いやともかくもそのお話は待って頂きます、いずれ伯父上にもおわかり、……えへん、ばかに暑うございますな、ちょっと水を浴びて来ます"
],
[
"このずんぐりした寸詰りの木です",
"それは八重紅梅だ、それからずんぐりとか寸詰りなどという褒め言葉はない、それではまるで背の低い人間の悪口を云うようではないか",
"こちらは芙蓉ですね",
"芙蓉は草だ、よく見て口をきくがいい、それは木ではないか、槻というのだ"
],
[
"なんのためにおまえを騙すんだ",
"それではどこへでもいってごらんなさいまし、槻といえばよく屋敷まわりに植えてありますが、たいてい太さはひと抱えもあり、二丈も三丈も高く活溌に伸びて……",
"それは自然に生やしておくからだ、ばかばかしい。盆栽というものは二丈にも三丈にも伸びる樹をわざと小さく育てて鉢に植え、しかも自然に伸びた二丈三丈のものと同じ高さ、同じ年代の古さ、同じ樹ぶりにみえるように仕立てるのが技術だ、こっちの松、この杉、梅も桜も、みな三十年からの年代が経っている、これがつまり盆栽なんだ"
],
[
"渋いうえに地味で、地味な中にこう……ちょいとしたところがあって、榊というものがこんなに育つとは知りませんでした",
"いいかげんにしろ、地味な中にちょいとしたところとはなんだ、なにがちょいとするんだ、だいいち盆栽に榊などを作りはせん",
"ではこれはなんでございますか、檜ですか"
],
[
"う……知らん",
"はてなんだろう、こうっとああわかりました、これはご自慢の真柏です、こんどは当ったでしょう、いかがです",
"きさま当て物をしに来たのか、それが真柏ならいったいどうしたというんだ"
],
[
"瀬沼がなにを口惜しがっていたんだ",
"残念だが高滝どのには敵わない、自分も真柏ではずいぶん苦心したが、とうてい高滝どののようなみごとな花は咲かされぬと"
],
[
"屋敷へひき取れといって、その、相手はなに者なんだ",
"その穿鑿はあとにしましょう、唯今は伯父上のお許しが出るか出ないかが問題です、もしここでその者を突き放してしまえば、その者は世の中のどん底へ堕落して、あたら一生を地獄の責苦に遭わなければなりません、助けてやって下さい伯父上、人間ひとりを生かすも殺すも伯父上の方寸にあるのです、どうかお願い申します"
],
[
"数寄屋のほうがずっと風流だと思いますがね、あの茶室は凝りすぎていて却って俗すぎますよ、……さっきもうすっかり片付けて、お道具は数寄屋へ運んでおきました、お手数を煩わしたくないと思いまして",
"そういうやつだ。はじめからまるめ込むものときめかかっておる",
"ご承知下さいましょうか",
"そこまで計略をかけられてはしようがないじゃないか、しかしひき取るまえにいちど伴れてまいれ、わしが会って人物を見てから",
"もう来ております"
],
[
"あれは女ではないか、このふとどき者め",
"さようでございます、たしかに女でございます、私は女でないとは決して申しません",
"女でないとは云わぬが、どことなく女でないような口ぶりだったぞ、その者はとか、ひとりの人間をとか、人物だとか、それはむろん女をその者と申すこともある、女も人間には違いない、だが世間一般に女ならあの女とか一人の娘とか申すだろう、たとえば困っている女があるとか、……ええ面倒、さい限がなくなってくる、だいたいきさまはまだ妻帯もせぬ身の上で、素性もわからぬあんな女を"
],
[
"う、うるさい、寄るな",
"冷でも持ってまいりましょうか"
],
[
"ご存じのように、私はこんど殿のお供で江戸へまいります、一年在府するわけでございますが、そのあいだお笛をお預け申します、身近にお使い下さいまして、性質をよくごらんのうえ……",
"ちょっと待て直二郎",
"もうひと言です、お笛の性質をよくごらんのうえ、もし御意に協いましたなら、私の妻に娶って頂きとうございます"
],
[
"したくもないことを、きげん取りの積りでするならたくさんだぞ、わしはおべんちゃらは大嫌いだ",
"あのうここに真柏の植わっております鉢は、白磁とか申すお品でございますか"
],
[
"白磁とか青磁とか、そうひとからげに云われてはかなわん、それは白磁の内でも饒州の白といって、唐来の珍品だ",
"饒州の白、……有難う存じました"
],
[
"それを白の秘色というのだ",
"肌理の密かな、手触りにしっとり厚味のあるところも、やはり饒州のほうがすぐれているように存じます"
],
[
"これは香物だな",
"はい",
"町人や農家は知らぬが、武家では茶うけに香物などということはないぞ、他人に見られたら高滝の恥じになる、それほどのことがわからんでどうするか",
"心づかぬことを致しました、以後は気をつけまする、どうぞご免下さいますよう"
],
[
"しかしいま申したとおり武家には厳しい規式作法がある、近来は商家から嫁を迎える例も無いではないが、それさえ極めて稀なことだ、ましてそのほうのように、いちど芸妓づとめなどした体では正式の婚姻などは不可能だといってもよいだろう、しかしそれとも神かけてできないというわけではない、ないけれども直二郎は高滝家の跡目を継ぐからだだ、万一にも血統の濁るようなことがあったら、祖先に対して申しわけのしようがない",
"血統が濁ると仰しゃいますと",
"稼業がらそのほうの体が潔白であろうとは思えぬからな"
],
[
"十六で座敷へ出ましてから三年、ぬきさしならぬ場合も度たびございましたけれど、わたくしそれだけは命にかけて守りとおしてまいりました",
"あの世界で、そのほうの年になって、さようなことが許される筈はない",
"そのために、この一年ほどは直二郎さまにずいぶん無理なご心配をおかけしました、もしあの方がそうして下さいませんでしたら、仰しゃるとおり、今日のお笛ではいられなかったろうと存じます"
],
[
"花むらにいた頃は小笛と申したか",
"はい、本名をそのままでございました",
"わしにはまるで記憶がないが、わしの座敷へは出たことがなかった"
],
[
"初めからお計りあそばしたものなれば、今さらなにを申上げてもおとりあげはなさりますまい、けれど本性を見たという言葉について、ひと言だけ申上げたいと存じます",
"云いわけなど聞くまでもないぞ"
],
[
"お断わり申します、わたくし小父さまにはご恩になりました、小父さまにはどんなことをしてもお返し申さなければならないと思いますけれど、小父さまの亡くなった今、あなたにはなに一つ云われる義理はございません、どうか帰って下さいまし",
"侍屋敷に飼われてたいそう気が強くなったな、こっちもなが居はしたくねえのだ、さあ早く支度をするがいい、更けると外は物騒だぜ",
"たとえ殺されても、お笛はここを出は致しません、早くお帰りなさいまし、さもないと声を立て人を呼びます"
],
[
"仕て貰わないことを覚えている筈がありますか",
"夫婦なんてものはそんな薄情なものじゃあねえ、おれが冬の寒い晩に膏薬を練り、綿を延ばして上からあてがい……",
"嘘です、そんなことはいちどもありません",
"そうどなってもいけねえ、現に本人の亭主がこうして云ってるんだ、幾らどなったって人さまが承知するものか、ねえ旦那そうでございましょう",
"よろしゅうございます、それほどたしかに手当をしてくれたというなら見せましょう、……貴方、ごめんあそばせ"
],
[
"あっぱれだ、どうするかと実ははらはらしておったが、みごとな気転でよくきりぬけてくれた、あそこまでひき込んでいった手際はりっぱな判官と申してもよかろう、正直に云うとわしまで事実と思ったからな",
"女の身であられもない、大切な肌をあらわに致したりしまして、なんとも申しわけがございませんでした、お慈悲でございます、どうぞお忘れ下さいますように",
"それを許すか許さぬは直二郎の考えひとつ、わしの関わるべきことではないようだ、しかし心配するには及ばぬぞ、女の操に瑾がつくかどうかの瀬戸際、あのような場合には例え秘すべき肌をあらわしても、あとくされのないようきれいに始末をつけるのが第一だ、これでそなたの潔白はゆるぎがない、こんどこそわしも安心することができたぞ",
"そう仰しゃって頂いて生き返りました、わたくし……苦労して来た甲斐があったと、嬉しゅう存じます"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1946(昭和21)年9月号
※初出時の署名は「風々亭一迷」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年2月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057755",
"作品名": "明暗嫁問答",
"作品名読み": "めいあんよめもんどう",
"ソート用読み": "めいあんよめもんとう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談雑誌」博文館 、1946(昭和21)年9月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-03-05T00:00:00",
"最終更新日": "2022-02-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57755.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年8月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年8月25日",
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[
[
"ただいやだなんて、そんな子供のようなことを云ってどうなさるの、あなた来年はもう二十一になるのでしょう",
"幾つでもようございますわ、いやなものはいやなんですもの"
],
[
"いったいその武井という方のどこがお気にいらないの、御家族も少ないというし、御身分のつりあいもいいし、申し分はなさそうじゃないの",
"ですから申上げたでしょう、その方には不足はないんですのよ、ただいやなんです、本当はわたくし結婚するということがいやなんです",
"まだそんな詰らないことを云って、だってあなた、女はどうしたって、いつかは家を出なければならないものなのよ",
"ええわかっていますわ、でも結婚しなくってもお家を出ることはできるでしょう、尼さんになってもいいし、なにか芸事を教えて独りで暮してもいいし……わたくしだってそのくらいのことは考えていますわ"
],
[
"あなたそれはまじめに仰しゃってるの、文代さん",
"まじめですとも、わたくしもうずっとまえからそう思っていたんです"
],
[
"お姉さま、西原の知也さまが牢舎へおはいりになったことご存じでしょう",
"――知也さまが、……なんですって",
"梶さま岩光さま大炊さまなど六人いっしょに、ひと月ばかりまえにお召出しになって、そのままお城の牢にいれられておしまいなすったんですって、ご存じなかったんですか",
"――いいえ、ちっとも……"
],
[
"でも文代さん、あなたはどうしてそんなことをわたくしに仰しゃるの、西原さんのことなんてわたくしに関わりがないじゃないの",
"――ええ、べつに関わりありませんわ"
],
[
"――そんなつもりで云ったんじゃないんです、わたくしたち古くから親しくしていたし、あんまり思いがけない事になったので、……お姉さまはご存じかと思っておききしただけなんです",
"わたくしなんにも知りません、それに御政治むきの事なんて、知りたいとも思いませんわ"
],
[
"お客さまはお幾人くらいでございますか",
"三人か四人、それより多くなることはない、しかし、……そこは適当にしておけ",
"御祝儀でございますか、それとも……"
],
[
"病気とは、……どんな病気だ",
"――医者の申しますにはたいへん腸を悪くしているそうで、二三日は大事をとるようにとのことでございました",
"それなら城へ使いをよこすべきだ"
],
[
"やはり甲之助がそばにいてくれなくては寂しいか――",
"いいえ、もう慣れましたから",
"慣れたから、うむ……慣れた"
],
[
"庭に足跡は残っておりませんか",
"大丈夫です、雪が消して呉れました",
"そのままこちらへ、どうぞ"
],
[
"牢を破ったのは七人ですって、三人はどこかの御門で捉まり、もう一人は大橋のところで、それから街道口で一人、つまり五人捉まったけれど、知也さまともう一人の方はお逃げになったらしいですわ",
"――でもそれが、逃げられたのが知也さまだということがどうしてわかるの",
"西原のお家へ役人が詰めているのですって、五人も夜昼ずっと詰めて見張っているということですわ、もう大丈夫よ、もう五日も経つんですものね",
"――どうしてそんなことをなすったのかしら、どんな悪い事をなすったのかしら"
],
[
"――そこに持っているのはなんだ",
"ああ、ああびっくり致しました"
],
[
"どうした。ひどく顫えるではないか",
"いま驚いたからでございますわ、本当に面白いように顫えますこと",
"まるで悪事でもみつけられたようだな",
"――ええ、そうかもしれません"
],
[
"――仮にも旦那さまの眼に触れてはならないものを見られてしまったのですから、でもとつぜんはいっていらしった方も悪うございますわ",
"そんなにむきになって云いわけをするほどのことか"
],
[
"――巽門で捉まったのは囮です、わざと三人で追手をひきつけ、その隙にわれわれが逃げたのですが、梶、大炊、岩光、そのなかで二人捉まったとすると、誰が脱出できたかわからないし、一人ではいつまで待ってもいられないでしょう",
"どこかで待合せるお約束ですのね",
"青井川の下流の蒔山という船着です、もう十日以上になりますから"
],
[
"――いろいろ案を立ててみたんですが、これよりほかに手段はなさそうです、文代さんと御相談のうえ、御迷惑でしょうがぜひそう手配をして下さい",
"わかりました、では妹を呼びまして"
],
[
"やっぱり知也さまは頭が良いのね、石仏さんのところへもぐるなんて、よほど智恵がまわって勇気がなければできることではないわ、お姉さまもよくなすったわ、よくその勇気がおありになったわね、おりっぱよ、わたくしこれで胸がせいせいしました",
"もっとまじめになって頂戴、ひとつまちがえば知也さまもわたくしも生きてはいられないのよ",
"お姉さま、……ねえ"
],
[
"知也さまと御相談なすって、お姉さまもごいっしょにお逃げなさいませんこと",
"まあ、なにを云うのあなたは"
],
[
"――あの御相談、なすって",
"ええ、あとで話すわ"
],
[
"今後のことは予想もつきません、ことによるともっと御迷惑をかけることになるかもしれない、……けれども信じて下さい、私はどうしてもこれをしなければならなかったのです、そして私の力の及ぶ限りは、あなたを不幸にはさせないつもりです、信乃さん、……どんな事があっても気を折らずにしっかりして、待っていて下さい",
"――よい御首尾を、お祈り致します",
"大丈夫やってみせます、では、……こんどは天下晴れてお会いしに来ますよ"
],
[
"もしかするとって、思ったけれども、やっぱり知也さまだわ、大掃除が始まるのね、きれいさっぱりと、誰がどうなって誰がどうなるか、ともかく新しい風が吹きだすんだわ、お姉さま、勇気をおだしになってね、……文代はどんなにでもお力になるわ、こんどこそ本当にお姉さまらしく生きる機会よ",
"もう心配は御無用、勇気はだしているわ",
"きっとよ、約束してよ、これでわたくしの夢がかなうわ"
],
[
"――知也さまが大目附に御就任なすったんですって、昨日お沙汰があったということよ",
"それで、……なにがたいへんなの",
"――まあ、お姉さまにはこれがなんでもないの、知也さまが大目附よ"
],
[
"すぎを離してやりなおさなければだめですよ、あなたたちは赤ちゃんから独りで寝たんですから、あんなに附いていてなにすると、気の弱い子になるし、丈夫には育ちませんよ",
"ええ、そう思うんですけれど"
],
[
"もうあなたには関係がなくなったのだから、上村との事はいっさい忘れて、これから幸福になるんだと思わなくてはだめですよ、あなたはまだ若いんですから",
"そう思っているのよ、でも……そんなに早く気持を変えることはできませんわ"
],
[
"なんど断わってもきかないんですもの、熱心にほだされたし、お姉さまもおしあわせになるんだし、このへんがみきりどきだと思ったのよ",
"それは、いつかお話しのあった方"
],
[
"なにをしていらっしゃるの、お姉さま、お手伝い致しましょうか",
"ありがとう、もう終ったところよ",
"こんな旅装束なんかお出しになって、まるでどこかへいらっしゃるようね"
],
[
"お母さまにも、誰にも知らせたくないの、あなただけ聞いて頂きたいことがあるのよ",
"お姉さま、……いらっしゃるのね",
"ええゆきます、上村といっしょに"
],
[
"人にはそれぞれの性質があるわ、上村には小身者の出だというひけめがあって、生れつきの性質がいっそう片寄っていて、妻を愛していながら、ほかの方のようにそれをあらわすことを知らない、知っていてもできなかった、……上村には才能もあり出世もしたけれど、心からの友達もない――誰にも好かれていない、いつもみんなから敬遠されていたわ、――慰めもなく、孤独で、ほかの方のように妻を愛することもできない、本当にさびしい気の毒な人だったのよ",
"よくわかるわ、お姉さま、上村さまのことはよくわかってよ"
],
[
"――信乃、どうするのだ",
"ごいっしょにお供を致します、あなたのお支度も持ってまいりました、どうぞお着替えあそばして",
"――離別状は届かなかったのか"
],
[
"――伴れていっては、おまえを不幸にする、拒むのが本当だ、拒まなくてはいけない、けれどもおれには拒めない、……おれはおまえにいて貰いたい、この世の中で、おれにはおまえが唯ひとりの味方なんだ、信乃、……いっしょに来て呉れるか",
"あなた、うれしゅうございます"
],
[
"――甲之助は大丈夫だな",
"はい、すぎと母が見て呉れます、……わたくしたちがおちつきましたら、迎えにまいりましょう",
"――明るい、勿体ないほど、明るい景色だ",
"初めてでございますわね"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談倶楽部 春の臨時増刊号」大日本雄弁会講談社
1950(昭和25)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"子供たちは寝たか",
"はい、寝ております"
],
[
"こんな時刻にですか",
"わけはあとで話す、いそいでゆけ"
],
[
"どうするの、また遊ぶの",
"静かになさいな"
],
[
"え、ああ、宮本さまよ",
"ただゆけばよろしいの",
"あなた、いっておくれか"
],
[
"ええ大丈夫よ、お母さま",
"ではそうしておくれ"
],
[
"宇乃さん、貴女の家へゆくところだ",
"わたくしも",
"えっ、貴女も――"
],
[
"ではだめだ、外へ出よう",
"外へですって",
"大変なことが起こるらしい、兄は畑さんに知らせて、それから浜屋敷の渡辺さんのところへゆけと云った",
"わたくし弟といっしょですの",
"不浄門から出よう"
],
[
"さあ虎之助さん、あたしに負ぶさるのよ",
"いやだ、自分で歩くよ"
],
[
"こちらへおいでなさい",
"どうするんですか",
"いまようすを見にやったから、どんなぐあいかわかるまで、向うで待つがいいだろう"
],
[
"おとなしくしていてね",
"おうちへ帰ろう",
"そんなことを云わないの、もうすぐお母さまが迎えにいらっしゃってよ",
"お母さまが来るのか",
"ええ、いらっしゃるわ"
],
[
"お母さま、ほんとに、迎えに来るのか",
"そうよ、だからおとなしく待ってるのよ",
"泣かないでか"
],
[
"宮本又市も畑与右衛門も斬られました、畑では妻女も斬られたそうです",
"妻女まで斬った",
"邪魔をしたので斬られたということです",
"なに者が斬ったのだ"
],
[
"意趣も云わずにか",
"いや、上意討だと云ったそうです"
],
[
"承知しました",
"誰が来ても渡すな"
],
[
"斬ってしまえばよかった",
"それでおれはどなった",
"おれなら、そのとき斬ってしまう"
],
[
"おれはどなりつけた、おれは忠宗さま御代から二十余年、ずっと目付役を勤めておる、きさまのような新参者に意見されるほど、不鍛練な人間ではない",
"おれなら、その場で斬ってしまうよ",
"すると坂本八郎左、まっ赤になった、まっ赤になりおって、かように面罵されては男の道が立たぬ、と申した、そうか、とおれは云った、そうか、男の道が立たぬか、それなら男の道の立つようにしてやろう、とおれは云った、まず場所と時刻をきめよう"
],
[
"やつめ、宿老に泣訴し、殿のお袖にすがりおった",
"それでおしまいさ"
],
[
"そこもとは身軽だからそう云えるのだ",
"殿が御逼塞になってから斬るくらいなら、そのまえに斬るのが当然じゃないか",
"そこもとは身軽だから、そう簡単に云うことができる"
],
[
"ばかをいえ、もともと侍の身命は軽いものだ",
"おかしなことを云うぞ",
"なにがおかしい、義に当面すれば、身命を鴻毛よりも軽しとするのが、侍の本分ではないか"
],
[
"これは一般論だ",
"いやそうではあるまい"
],
[
"その厄介者がおれにそんな口をきくのか",
"そう怒るな、まあそう怒るな、おれはつまりこう云いたかったんだ"
],
[
"おくみどのでございます",
"いまなん刻だ"
],
[
"おめにかかりたいと申しておられます",
"用を云わないのか",
"おめにかからなければ、と申しておられます"
],
[
"では松山へこれを",
"ひと緊め緊めてくれました"
],
[
"ではあちらで、――",
"あの若輩者は手綱をしめておかねばいけません、こなたさまは寛容すぎる、こなたさまは誰に対しても御寛容すぎます、あまりさもない人間はお近づけなさらぬがよい",
"ではあちらで、――"
],
[
"はい、――",
"顔をあげてごらん"
],
[
"畑の子供を預けた筈だな",
"はい、――",
"親たちのことを聞かせたか",
"いいえ、聞かせないようにしておりますが、姉のほうは気づいているようすでございます",
"悲しがっているか",
"いいえ、そのようにはみえません"
],
[
"いずれ良源院へやるつもりだが、それまで面倒をみてやるようにと、母に申しておけ",
"はい、――"
],
[
"今朝の膳は誰と誰だ",
"蜂谷さまと伊東さま、里見さまのお三人です",
"では湯島のも出してやれ"
],
[
"もう十五日にもなるのに、お顔もみせて下さらないなんて",
"出られなかったんだ",
"まる十五日もですか"
],
[
"お待ち下さい、そのまえに申上げたいことがございます",
"あとにしてくれ"
],
[
"ゆうべおそくお着きになったんです",
"奥がか、――",
"中黒さまがお供ですわ"
],
[
"なんだろう、――",
"御病気の治療をするために、江戸の良い医者にかかりに来たのだ、と仰しゃっていらっしゃいます",
"供は達弥だけか",
"あたしの存じあげているのは中黒達弥さまだけですけれど、ほかにお二人、中年の御家来がごいっしょです"
],
[
"怒ってなんかいるもんですか、奥さまがあまりお若くてお美しいので、びっくりしているんです",
"あれはもう三十七だ",
"あたしは幾つだとお思いになって",
"いって飯を食おう",
"あたしが幾つだか御存じないんでしょ、あたしだってもう二十八ですよ、八年の余もお世話になっていて、ごぜんはまだいちども"
],
[
"待って下さい",
"おまえどうかしているぞ"
],
[
"向うへゆこう",
"お客さまはどなたですか",
"伊東七十郎と、里見、蜂谷の三人、みんなおまえの知っている者ばかりだ",
"伊東さまは一昨日おめにかかりました",
"どこで、――",
"湯島へいらっしゃいました、お友達という方とごいっしょに"
],
[
"なにか云ったか",
"貴方は、――"
],
[
"あんたにも痛いのか",
"少ししゃべりすぎるというのだ",
"では里見さんが発言するか"
],
[
"おれが誰を憎んでいるって",
"黒川郡吉岡の館主奥山大学どの、げんざい江戸家老の第一人者をさ"
],
[
"まあ、曲輪へいらしったんですか",
"人にさそわれたんだ",
"御用で出られなかったと仰しゃったじゃあございませんか"
],
[
"貴方には負けます",
"飯にしようか",
"貴方には負けです原田さん、だがいいですか、私はいつか貴方から本音をひきだしてみせますよ、いつかはね、必ずですよ"
],
[
"船岡で作ってこちらへ送って来るのを、わたくしの実家の雁屋で売るんですの",
"売るんですって"
],
[
"どういうことです",
"湯島の家をまかなうんですね",
"からかってはいけません",
"そんな暇はないさ、七十郎などは世間がひろいから、見本を持ってひろめに廻ってもらうつもりだ"
],
[
"そうか雁屋の娘か",
"いや待て、それでは雁屋の年間あきない高をしらべておけ"
],
[
"そこもとの名を聞こう",
"遠山勘解由でございます",
"いつ評定役になられた",
"当月の拝命です"
],
[
"たしか奥山どのの身内ではなかったか",
"大学の弟でございます"
],
[
"よろしい、聞きましょう",
"金兵衛ら三名は暗殺のとき"
],
[
"――なぜだ",
"私どもはかの四人を討取るつもりでした、四人だけ討取ればよいので、そのほかに不必要な死傷者はだしたくなかったのです"
],
[
"たしかな証拠だと",
"そうです、一般の評や漠然とした伝聞などでなく、現実にこれということのできる証拠です"
],
[
"これはまだ評議にはかけておりませんが、畑の伜は六歳の幼年、娘は十三歳とか申しましたが、私の一存で伜は出家させることにし、姉をつけて、とりあえず良源院へ遣わしました",
"なるほど、姉をつけてか",
"いちじに父母をうしなって哀れでもあり、まだ六歳では寺かたでも迷惑でございましょう、八歳になるまでと思って、いっしょに遣わしました"
],
[
"船岡どのともあるものが、なにをそんなに困っておられるのか",
"お力を貸して頂けましょうか",
"勘解由のことか",
"それもありますが、――"
],
[
"――――",
"私にも知らせず、どうやら藩庁にも届けずに来たもようで、まことに当惑いたしました"
],
[
"こなたさま以外にはお願いできません、無届け出府のことをよろしくおたのみ申します",
"いいでしょう",
"まことに、女というものには手を焼きます"
],
[
"これはお言葉でございます",
"聞いておるぞ"
],
[
"おとなしくすれば",
"おえらいわ、皆さまが褒めて下すってよ",
"そして、おうちへ帰るのか",
"おとなにしていればね"
],
[
"あれがわたくし共の御主人のお部屋です",
"原田さまのですか"
],
[
"おばさまは船岡を御存じですの",
"わたくしは船岡で育って、塩沢へ嫁にまいったのです。もちろん亡くなった塩沢もあちらの者でしたわ"
],
[
"どうした、坊、口では云えないのか",
"云わんない"
],
[
"向うに木が一本あるだろう、あの蘚苔の付いた石の右がわのところに",
"樅ノ木でございますか",
"樅ノ木だ、宇乃は知っているのか",
"はい、塩沢さまのおばさまに教えていただきました"
],
[
"坊も大事にするか",
"大事にする、坊は木を揺らないよ",
"えらいな――"
],
[
"ひとりだけ、見も知らぬ土地へ移されて来て、まわりには助けてくれる者もない、それでもしゃんとして、風や雨や、雪や霜にもくじけずに、ひとりでしっかりと生きている、宇乃にはそれがわかるね",
"はい――"
],
[
"虎之助が八歳になったらね",
"宇乃はお国へつれていっていただきとうございますわ",
"二年たてばゆけるよ"
],
[
"いいじゃないか、もうしばらく抱っこはできないよ",
"歩いてゆくんだ",
"なんだ、怒っているのか"
],
[
"両親の仇が誰だったか、討たせてもらえるかどうか、訊いてみなかったのか",
"訊きませんでした",
"どうして"
],
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"怒っていらっしゃるのね",
"汗を拭いて来ないか",
"怒ってはいない、と仰しゃって下されば",
"怒ってはいないよ",
"怒っていらっしゃるわ"
],
[
"暑い、そっちへ坐らないか",
"怒っていらっしゃるんですもの",
"帰れなかったわけは知っている筈だ",
"知っていました、けれどもそれはよそから聞いたので、あなたはなにも知らせては下さいませんでしたわ"
],
[
"そうらしいな",
"一年半ぶりですわ",
"いっておいで"
],
[
"そうらしいな",
"らしい、ですって"
],
[
"館だってできるさ",
"あらそうでしょうか"
],
[
"人が待っているんだ",
"おでかけになるのですって"
],
[
"普請小屋ですって",
"堀普請のことは知っているだろう、周防どのは総奉行で、三日にいちどずつ吉祥寺の支配小屋へ泊られるのだ",
"涌谷さまがそんなお小屋へいらしっているんですか"
],
[
"私が戻って来るまで、ここで寝て待っていてくれ",
"なにか大事な御用談があるんですのね",
"律には縁のないことだ"
],
[
"途中、大丈夫でしたか",
"だと思います"
],
[
"ひとり口では申し上げられないことでしたし、また船岡どのもまだ知らない、新たな秘事がわかったのです",
"話しを聞こう"
],
[
"しかしその第一はもう事実になりました",
"第一とは",
"殿の御逼塞です"
],
[
"久世侯が申されたのだな",
"しかも、所領分割のことは、すでにその人々にも通じているかもしれぬ、白石どのなどは十万石ということであるから、さもあるまいが特に注意するように、とのことでした"
],
[
"わかりません、しかし思い当ることはございます",
"それを聞こう",
"その一つは酒井家と一ノ関さまとの縁組です"
],
[
"姻戚関係になるとすれば、一ノ関さまを諸侯の列にあげたい、そういうところから始まったのではないかと思うのです",
"しかし、現に一ノ関は一万石の直参大名ではないか",
"それも厩橋侯の尽力によるものだったことを、御存じありませんでしたか"
],
[
"すっかり曇っちまいました、足もとが危のうございますから、提灯をつけます",
"足もとは大丈夫だ",
"つけてはいけませんか",
"もう少し待とう"
],
[
"あたしみやですよ、ほら、お浜屋敷の渡辺にいた、――お忘れになって",
"お浜屋敷ですって"
],
[
"お待ちなさいよ、それであなた、どこへいらっしゃるの",
"私は、私はこれから",
"たよってゆく知合いがおありになるの"
],
[
"あたしの旦那も、あなたのお兄さんと同じようなめにあったから、事情はおよそわかります。だからうかがうんだけれど、めったなところへいらっしゃると、それこそ自分から罠へはまるようなことになりますよ",
"それは考えているんです",
"それで、本当に大丈夫なんですか",
"わかりません、でも、いちど助けてもらったし、立派な人だということは、みんなが云っていますから",
"では御家中の方ね"
],
[
"しかし、私は、――",
"だって、原田さまを訪ねていって、大丈夫だっていう証拠はないんでしょ"
],
[
"貴女は武家出なんですか",
"ええそう、あら、ここの裏よ、泥溝板に気をつけて下さいな"
],
[
"そこは遠いの",
"江戸から三日かかりました、江戸を出たのが七月二十九日ですから",
"今日はもう八月七日よ"
],
[
"酔っているときはむずかしいの、きげんの好いときもあるし、たいていきげんがいいんだけれど、そうでないときは雷さまみたようなの、気を悪くしないでね",
"失礼したほうがいいんじゃありませんか"
],
[
"どうして",
"私は、私は知っているんです",
"なにを"
],
[
"江戸へ逃げ帰ったのは、そのためか",
"なんですか"
],
[
"伊達家に内紛があるということは聞いていたし、みやの話しであらまし察しがついたのだが、そこもとの考えはどうだ",
"私も、私も、そう思います"
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[
"兄上が云ったのか",
"兄がいいました"
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"御家の系譜を正しくするためだと聞きました",
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],
[
"それは兵部の説だな",
"兄はそうだと云いました"
],
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"私もそうかと思っていたのですが、殿さまが御逼塞になった日、兄は、はかられた、と申しておりました",
"はかられたって",
"そうです、ひどく苛いらしたおちつかないようすで、はかられた、はかられたと申し、どうしたらいいか、などと、苦しそうに独り言を云っていました",
"その明くる晩、刺客が来たのか",
"その明くる晩でした"
],
[
"私は兄の恨みをはらします",
"まあおちつけ"
],
[
"金のことか",
"そうです、私はもう、二三枚の銭しか持っていないんです"
],
[
"はい、畑さんに二人、宇乃という娘と、虎之助という小さい子がいます",
"そこもと一人の敵ではない、そうだろう"
],
[
"ええ、でもこれで",
"いいじゃないの、よそではいるんじゃなし人が見るわけでもなし、あたしだっていつもそうするのよ"
],
[
"どうしたの、新さん",
"ええ、いま",
"あらいやだ、恥ずかしいの",
"あっちへいって下さい",
"恥ずかしいのね"
],
[
"ながしてあげるわよ",
"よして下さい、大丈夫ですから"
],
[
"擽ったいんです",
"子供のようなこと云わないの、しゃんと力をいれてなさいな、ずいぶん垢がよれるわ"
],
[
"もう自分でやります",
"伸ばすのよ、そんなに世話ばかりやかせるとぶってあげるから"
],
[
"こんなに湯をはねかして",
"済みません"
],
[
"お帰りはわかりませんか",
"昨日でかけたままですから、今日はたぶん戻るだろうと思いますけれど"
],
[
"誰ですか",
"あら、もう出ちゃったの",
"いまのは誰ですか",
"心配しなくっても大丈夫、兄のところへむしんにでも来たんでしょ、おちぶれた恰好をして、あたしも見たことのない人よ"
],
[
"どこを見ているの、新さん",
"煙が眼にはいったんです"
],
[
"なんですか",
"あたしだってながしてあげたじゃないの、背中ぐらいながしてくれるものよ"
],
[
"いいわよ、たんとそうなさい、もう頼まないわ",
"済みません"
],
[
"野口、いいえ、あらいやだ、なんていったかしら、野口じゃなかったわね",
"もの覚えの悪いやつだ",
"さっきまでちゃんと覚えていたのよ"
],
[
"あら、そうかしら",
"野中又五郎といっておられましたよ"
],
[
"今夜もですか",
"茶漬で食おう"
],
[
"野中さんがみえたら、なんて云っておきますか",
"来はすまいが、来たら寺へいったと云っておけ",
"お寺ですって",
"云えばわかる"
],
[
"ええいいわ、いかないわ、おとなしくするわ、だからあんたも戻って来て",
"私は此処にいます",
"もう決してなにもしないから、ねえ、お願いよ新さん",
"来ないで下さい",
"ゆきゃあしないことよ、ほら、こっちにいるじゃないの",
"構わないで寝て下さい、私は少しこうしています",
"だめよ、そんなこと、もうしないってあやまってるじゃないの、お願いだから戻って寝てちょうだい、お願いよ、新さん",
"私は少しこうしています"
],
[
"私が用向きを聞きます",
"侯には会わせないというんですね",
"用向きを聞きましょう"
],
[
"私は非常な大事について、侯じきじきに会いたいと申しいれ、会うから来いという返事で来たのだ",
"その返事は私が出したのだ",
"侯は知らぬというんですか",
"かようなことを、いちいち殿の採否にまつくらいなら、家老や用人はなくて済む、そうは思われないか",
"これは尋常のばあいではない",
"どう尋常でないかを聞きたいのだ"
],
[
"役目上やむを得なかったのです、どうぞ御了解のうえお戻り下さい",
"手数をかける人たちだな"
],
[
"それほどのことか",
"侯のおためです"
],
[
"隼人どのからお耳に達したと思いますが、侯のおしるしを覘っている者がございます",
"どういう人間だ",
"おわかりの筈だと思います"
],
[
"仰せのとおりです",
"ではなんのために来た",
"お役に立つかと思ったのです"
],
[
"おれは単直を好む、それだけのことだ",
"私は単直に申しています",
"よし、つづけるがいい"
],
[
"そのほうもか",
"私もです",
"妄想ではあるまいな",
"それは侯が御存じの筈です"
],
[
"そして、それがこのおれだというのか",
"私はお役に立つつもりです",
"おれが六十万石のあるじに直るつもりだというのか"
],
[
"おれは部屋住の苦いおもいを経験した",
"存じております"
],
[
"その男たちも事情を知っているのか",
"私は必要のないことを情にまかせてしゃべるような人間ではございません"
],
[
"いや、侯御自身から頂きます",
"なぜだ",
"この契約は侯と私だけ、ほかには誰びとにも口だしをしてもらいたくないのです、お申しつけになる御用も侯じきじき、お手当も御自身のお手から頂きます",
"家来どもは信用せぬと申すのか",
"私は人に頭を下げるのが嫌いでございます"
],
[
"御用人に申しておきます",
"役に立つという証拠は",
"宮本新八という者を、御存じでございますか",
"知っておる",
"国もと預けになった筈でございますな",
"送る途中で脱走したそうだ",
"それを押えてあります",
"新八をか"
],
[
"そこもとは誰だ",
"聞くことはそれだけか"
],
[
"七十郎が縁起をかつぐのか",
"縁起じゃあありません。雁のはやく来る年は凶作だという、古くからの農民のいい伝えです",
"それでどうした"
],
[
"それで終りです",
"その男はなに者だ"
],
[
"このうちでもやるか",
"だからこそ、ここに間者のいることも、貴方に知らせることができたわけです"
],
[
"もっとも、貴方はもう知っておられた、そうでしょう",
"どうだかな",
"貴方にはかないません"
],
[
"七十郎も出るのか",
"あのじいさんだけは、苦手でしてね",
"そうらしいな"
],
[
"ぬけて来たのは、いまの話しをするためか",
"なに、ひと口論やって、うるさくなったからです、この盃で一杯どうですか",
"あとにしよう",
"貴方は酒のみではない",
"酒は好きだよ",
"貴方は酒のみではない、よく酒を飲むし、酒好きのようにみえるが、貴方は酒のみではない",
"そんなにいきまくな"
],
[
"伊東七十郎は、ごまかせませんよ",
"どうだかな",
"では云いましょうか",
"ゆこう、好きな酒と女のところへゆこう、里見のほかに誰が来ている",
"後藤孫兵衛、真山刑部の二人です",
"真山と後藤だって"
],
[
"それは云ったが",
"奥方の別宴とかち合ったので、十左衛門はひどく恐縮していたようです",
"涌谷どのは五時だな",
"席は松山さんです",
"五時か、――いいだろう"
],
[
"戻って来るつもりだ",
"わたくしお話しなければならないことがあるんです",
"船岡へ帰ってから聞こう",
"それではまにあわないかもしれませんわ"
],
[
"わかっていらっしゃるんですって",
"わからないと思うのか",
"わかる筈がありませんわ"
],
[
"待って下さい",
"もう時間がないんだ"
],
[
"私はおまえの良人だ",
"本当にですか"
],
[
"船岡へ帰ってから話そう",
"いいえいまうかがいます",
"時間がないんだ"
],
[
"あなたの考えていることを仰しゃって下さい、今夜も戻っていらっしゃらないことはわかっています、わたくしをこのまま船岡へ帰らせるなんてあんまりですわ",
"私はこんな性分なんだ"
],
[
"そんなことうかがうまでもありませんわ",
"それなら結構だ",
"だからどうだと仰しゃるんですか",
"それなら結構だというのだ"
],
[
"なんのためだ",
"理由は云えません"
],
[
"ですから一つだけのお願いと申しているんです",
"そんなことはできない",
"どうしてもですか"
],
[
"母上によろしく伝えてくれ",
"あなた、――"
],
[
"涌谷のじいさんに会うことにしました、里見の頑固おやじよりましですからな",
"むずかしいぞ",
"なにがですか",
"涌谷どのもそうだが、松山(茂庭周防)もきちんとした人だ、七十郎が招かれているならべつだが、さもないと席へとおるのもむずかしいぞ"
],
[
"じいさんは格式と儀礼を第一にしますからね、私はそこが嫌いなんだが、懐柔するにはやさしい相手ですよ",
"それは結構だ",
"貴方は信じないんですか",
"そんなことはないよ"
],
[
"むしろ不和な仲のようにだ",
"不和であるように致しましょう"
],
[
"ちょっと坐ってくれないか",
"もう人の眼につく"
],
[
"いま相談したことをやってゆくには、これまでのように単に不和をよそおっているだけではだめだ、もっとはっきりと、互いに離反しているかたちを、とらなければならないと思う",
"たとえば"
],
[
"忍んで来いとか",
"忍んでゆくものか、私が板倉侯を訪ねたことは、一ノ関さまのほうにもとっくにわかっている、松山がいまそんなことを云うのはおかしいくらいだ"
],
[
"もし涌谷さまやおれが、手をひいてもいいと云ったら、船岡は手をひくか",
"そのほうがいいね"
],
[
"うたたねをしておりましたので、お呼びになったのが聞えませんでした",
"聞えなかったか",
"二度めのお声で、やっと眼がさめました"
],
[
"中黒達弥が切腹しようとしております",
"達弥が"
],
[
"その理由のために、おまえは死のうとしたんだな",
"――はい"
],
[
"達弥、おまえは、このおれをなんとおもう",
"三世までの、ただ一人の、御主人とおもいます",
"そのおれがゆるさぬのに、おまえはなぜ死のうというのか"
],
[
"もしこのおれを、しんじつ三世までの主人とおもってくれるなら、おれのたのみもきいてくれる筈だ、こう云っては無理か",
"私にできることでございますか",
"それはおまえの肚ひとつだ",
"私はもう死んだ人間も同様です",
"話しを聞くか"
],
[
"感仙殿さまのことさえ仰せられなければ、よろこんでお話しをうけたまわります",
"事実であってもか",
"いかような事実があろうともです"
],
[
"私も聞いております",
"浜屋敷のことをか",
"お席から遠い端に、里見十左が詰めておりました"
],
[
"私はまだ聞きません",
"ではすぐに聞けるだろう、ここに押籠められているおれの耳にも聞えたのだ、甲斐にも聞える筈だからよく聞くがいい、彼はいま周防を誹謗することでやっきになっている、糸に操つられるいかのぼりだということは気がつかずに"
],
[
"しかも誰ひとり抑える者がない、すべて兵部の策略だと知っている者でも、手を束ねて傍観している、ただ黙って、なに一つせずに見ているだけだ",
"おくち返しを致すようですが"
],
[
"正月には船岡へ帰ります",
"また来てくれるな",
"御番であがりましたら伺候いたします"
],
[
"なにをです",
"殿さまを御本邸へお迎えするということです、このまま御隠居おさせ申すのは、あんまりおいたわしすぎます、なんとかお咎めを解く手だてはないのですか"
],
[
"ああ、原田さま",
"これでおいとまをいただきます"
],
[
"おや、お帰んなさい、今朝は早いのね",
"法事があるんですって",
"そう、まあこっちへおいでなさいな、まだ誰も来ていないのよ"
],
[
"いま火を取るからね",
"あたしすぐに帰りますわ"
],
[
"おばさん、これ、いつもの",
"あらそう、済まないね"
],
[
"頭巾はぬがないほうがいいよ、今朝はめっぽう冷えるからね",
"もう十一月ですものね",
"十一月だよ、本当に、そうするとおみやさんは、浄妙院へはもう幾月になるかしら",
"八月からですから"
],
[
"あらそう",
"あの和尚さんときたら、はいお茶"
],
[
"そうかしらって、おまえさん思い当ることはないの",
"いいえ、べつにそんなことはないわ"
],
[
"だって、どうして逃げだすのかしら",
"わる好みをするっていうじゃないの"
],
[
"そうじゃないの",
"いやだ、おばさんったら"
],
[
"そうかしらねえ",
"思い当るでしょ"
],
[
"相当なもんだ、おまえさんて人も",
"あらどうして",
"まえの武家の旦那っていうのに仕込まれたんだね",
"ぶつわよ、おばさん"
],
[
"あたし帰りますわ",
"まあいいじゃないの",
"でもそうしてはいられませんから"
],
[
"あの人があんたのあとを跟けてったらしいわよ",
"あの人って",
"新八っていう人よ"
],
[
"どんなふうに",
"いつまでも寝ないで、家の中を歩きまわったり、ぶつぶつなにか独り言を云ったり、ずいぶん変なようすだったわ",
"いま、いるのね",
"いる筈よ、あの調子だと朝まで寝なかったかもしれないし、いま静かなのは寝ているのかもしれないわ",
"有難う、いってみるわ"
],
[
"まあ、お久米さんたら",
"とうとうものにしちゃったのね、にくらしい",
"そんなんじゃないのよ、まだ十六のまるっきり子供じゃありませんか"
],
[
"けがらわしいですって",
"けがらわしいさ",
"なにがけがらわしいの",
"自分で知らないのか"
],
[
"いや、ちがう",
"なにがちがうの",
"貴女は、おこもりにゆくのだと云った、お父上の遺骨を預けたから、供養のために、ときどきおこもりにゆくのだと云った",
"まあ、新さん",
"私はそう信じていた",
"まあ聞いてちょうだい",
"けれども嘘だった、私はゆうべ浄妙院へいって、寺男にすっかり聞いたんだ",
"なぜそんなことをしたの"
],
[
"まあ聞いてちょうだい",
"たくさんだ"
],
[
"これが嘘じゃないって",
"そんなつもりはこれっぱかりもなかった、ほんとよ、もしあんたを騙すつもりなら、お骨をあんなところに置いときゃあしない、いくらあたしだってそのくらいの知恵はあってよ",
"ではいったいどういうことなんだ",
"あたし新さんが察してくれると思ったのよ"
],
[
"あら、なにが嘘なの",
"私はいつか柿崎さんが貴女に云っているのを聞いた、もう稼ぐ必要はない、金はおれが遣るって、柿崎さんははっきり云ったし、貴女が金を貰っていることも知っているんだ",
"あんたって子供ねえ",
"まだ私を、ごまかせると思うのか"
],
[
"私は自分で稼ぎます",
"世の中はそう簡単じゃあなくってよ"
],
[
"それはもう聞いた",
"ですから、信じてくれているとは思いますが、どれほど信じてくれるかは、事と次第によると思います"
],
[
"おまえは、護送される途中で脱走し、江戸へ戻って来たときに、原田どのを頼るつもりだと云っていたな",
"――そうです",
"そんなに信頼できる男か"
],
[
"そう思うというのは、自分で直接知っているわけではないのだな",
"直接には知りません、原田さんは着座といって、家老になる家柄ですし、私の家とは身分がちがいますから"
],
[
"ぜひともだ",
"いつですか"
],
[
"移って来て、いっしょに住むわけ",
"そうです"
],
[
"あたしみやちゃんからあなたのこと頼まれたのよ、ほんとよ、隣りどうしだから面倒をみてあげてくれって、あたしあのひとみたようにいろんなこと上手じゃないけれど、でもあんたのお世話くらい大丈夫よ",
"ちょっと用がありますから",
"いいじゃないの、ねえ、寄ってらっしゃいよ"
],
[
"わたくしまた、あなたは仙台へいらしったものとばかり思っていましたわ",
"いちどいったんですが",
"たしか国もと預け、ということだったとうかがいましたけれど"
],
[
"麻疹を御承知ですのね",
"貴女はなにか疑っていらっしゃるんですか",
"いいえ、疑ってなんかおりません、ただお医者さまに、すっかり発疹してしまうまでは、風に当ててはいけないといわれておりますの、そして弟はまだ発疹し始めたばかりなのですから"
],
[
"そうでしょうか",
"かれらに掠われれば、まちがいなく命にかかわるのですから、どうかできるだけ早くお支度をなすって下さい"
],
[
"迎えが来た、どこから",
"それはその、お屋敷からでございます",
"屋敷とはどこの",
"それはもう、原田さまにきまっております"
],
[
"付いている人数は",
"二人いたようです"
],
[
"いそいで帰りましょう",
"宮本さまは、わたくしをどうしようとなすったのでしょうか",
"わかりません、しかしやがてわかるでしょう"
],
[
"さがってよい、また会おう",
"隼人か、なんだ"
],
[
"涌谷さまが帰国されるので、松山の家で別宴が設けられたときです",
"それでどうなりまして",
"私はとめたのですがね、七十郎はしゃれたことを云いました、じいさん、というのは涌谷さまのことですが、じいさんは格式や儀礼にはやかましいが、懐柔するぶんにはたやすい人です、というわけです",
"伊東さまらしいこと"
],
[
"たぶんなにか懐柔する策があったんでしょう、大いに自負していたようですが、茂庭家ではむろん奥へとおしはしません、こちらで、と控えの間へいれられたまま、ついにめどおりかなわずです",
"原田さまもお人の悪い、どうしておとりなしをしてあげなかったのですか",
"そんなことをすれば、七十郎は怒りますよ",
"お怒りになるんですって"
],
[
"伊東さまもむずかしいことね",
"私はわる酔いをして泊ってしまったので、彼がいつ帰ったか知りませんでしたが、まさしく彼はその角を折ったと思いますね、そうではないか、七十郎",
"私は自分に角があったとは思いません、したがって、ない角を折ることもできないと思うんですがね"
],
[
"だからどうだというのか",
"もし仮に、本藩で公儀へ、産金のいくばくかを献納するとすれば、その金山は本藩に属するでしょう、そうでないとすれば、鉱山は土地に付いたものですから、その土地を領する人に属するのが当然ではないでしょうか",
"それが、そこもとの、意見なのだな"
],
[
"まだ飯は早い、里見さんはまだだめだ",
"いや、飯をいただこう"
],
[
"なんですか",
"少し口をお慎しみあそばせ",
"貴女にはその眼を慎しんでもらいたいですね、貴女のそのにらみかたは不謹慎だ、柴田老は気がつかなかったらしいが、さっきから私はひやひやしていたんですぜ",
"あら、なんでひやひやなすったんですか"
],
[
"まあ、伊東さまったら",
"恍惚と、溶けるような眼つきでね、そうでしょう原田さん"
],
[
"しかし金山の帰属ということが問題になれば、御評定役としてその衝に当らなければなりますまい",
"それは御一門、御一家の意見による",
"御評定役の係りではないと仰しゃるのですか"
],
[
"では御評定役がその衝に当るとして、お考えのほどをうかがいましょう",
"その話しはよそう",
"うかがえませんか"
],
[
"あの噂は私なども初耳ですが、どこから出たものでしょうか",
"噂とは、――",
"一ノ関さまに推されて、国老になられるということです"
],
[
"米谷どのは上府するまえに、涌谷へ寄られたのだろう、そのとき涌谷さまが話されたのだと思う",
"そう致しますと"
],
[
"おまえはそうはしないだろう",
"私はお側にいるのが耐えられそうもございません"
],
[
"話してくれ",
"家の前でお駕籠を停め、気分が悪くなったから休ませてもらいたい、と仰しゃいました",
"酒井侯となのってか",
"あとでお供の方が、内密だが、といって知らせて下さいました",
"座敷へあげたのか"
],
[
"あたしの口からは云いにくうございますわ",
"云いにくいところは略してもいい"
],
[
"あなたが伊達家の原田さまと知って、いらっしたのでしょうか",
"どうだかな"
],
[
"そうでしょうか",
"少し眠らせてくれ",
"でも、こんどいらしったらどうしましょう"
],
[
"では麹屋はもう作るまい",
"そうでしょうか",
"彼は初めから気がすすまなかった"
],
[
"どうでございますかな",
"――なにを笑う"
],
[
"茂庭さまがですか",
"うん、木戸をあけておいてくれ"
],
[
"どうしてもこの咳が止まらない、夜もよく眠れないのでまいっている",
"私のほうからいってもよかったのに"
],
[
"知っているのか",
"つい先日、耳にはいった",
"内容も知っているのか",
"まず聞こう"
],
[
"これまでに幾たびか、そういう訴状を一ノ関の手へ送っているらしい",
"同じ意味のものか",
"そういうことだ"
],
[
"堀普請とそれとはべつだ、吉岡が私を弾劾しているとすれば、私もそれに対抗する手段を講じなければならぬではないか",
"なんのために",
"なんのためだって"
],
[
"松山は疲れている",
"私は首席国老に坐っていなければならない、藩家を犯そうとする勢いをくい止めるために、第一の堤防として、この席を動くことはできないのだ"
],
[
"吉岡が一ノ関と組もうとしていることは、あるいは事実かも知れない、しかし、それが本心でないことは、一ノ関がよく知っている",
"本心でないとは",
"吉岡の本心は、むしろ一ノ関を押えることだと思う"
],
[
"七月の評定役会議で、遠山勘解由がひとり異をとなえ、渡辺金兵衛ら三名を訊問にかけた",
"それは聞いている",
"遠山勘解由は吉岡の弟で、彼を評定役に推したのは一ノ関だ、それにもかかわらず、勘解由は一ノ関に盾をついた",
"盾をついたとは",
"渡辺金兵衛らには一ノ関の息がかかっている、あの七月十九日夜の暗殺事件は、一ノ関が糸をひいたものだ"
],
[
"勘解由が三人の訊問を主張したのは、むろん吉岡の指図によるものだし、吉岡がなぜそんなことをしたかといえば自分の存在を一ノ関に知らせるためだと思う",
"反対者としてか",
"向背両面の意味でだ",
"というと"
],
[
"私にはそうは思えない",
"彼が一ノ関と手を握りたがっているのは、自分の権勢欲のためではなく、首席国老になるための方便なのだ",
"それは船岡の思いすごしだ"
],
[
"すれば吉岡が代るぞ",
"火は燃えきれば消える"
],
[
"噂が出ているって",
"米谷から今日そのことを云われて、殆んど面目を失ったかたちだった",
"どういう意味だ"
],
[
"七十郎は一ノ矢だと云った",
"彼もいたのか"
],
[
"それは、それは",
"効果はてきめんだった、米谷と古内が立ったあとで、里見十左がさっそく詰問し、七十郎はそれを二ノ矢だと喝采した",
"すると、一ノ関の耳にも、すぐ伝わるな"
],
[
"わからない",
"ここを船岡の隠宅と知ってのことか"
],
[
"罠だな",
"屋敷へ来なければ、自分のほうでまたここへ来る、とも云ったそうだ",
"それは罠に相違ない"
],
[
"するといまのは",
"小間使のうらと久馬、馴れあいだ"
],
[
"船岡へはいつ立たれる",
"米谷が出て来たからいつでも立てるが、酒井侯のことがあるので、もうしばらくいようと思う",
"年を越すことになるか"
],
[
"風邪をこじらせないように",
"うん、ではこれで"
],
[
"かもしれないって",
"いつか留守に来た客さ、酒井侯だよ"
],
[
"あの角はみごとでございました",
"みごとだった"
],
[
"今年お供ができないでしょうか",
"今年はだめだ、おまえは良源院にいる姉弟をみてやらなければならぬ"
],
[
"私はおくみが好きだ",
"あたしばかりじゃなく、兄もそう思いこんでいました",
"私はおくみが好きだよ"
],
[
"あたしどんな不幸だって、いといはしませんわ",
"おまえは知らないからだ",
"なにをですの"
],
[
"もういい、ねるとしよう",
"お願いですから仰しゃって"
],
[
"失礼ですがここは私の住居でございます。たとえ貴方が従四位下の少将で、十余万石の御城主かは存じませんが、扶持をいただいておらぬ限りは対と対、私は自分の住居では自分の好ましいように致します",
"ではおれの盃は受けぬというのだな",
"お直ではおそれ多いと申上げるのです"
],
[
"それだけで酒井さまを怒らせておしまいなすったんですか",
"侯は怒りはしない",
"お怒りになりましたわ、お顔がぱっと赤くなって、あたしあの盃をお投げになるかと思いました"
],
[
"ですからあたし、いそいで頂戴したんですわ",
"いい呼吸だった"
],
[
"そんなことはありません、私はまだなにも知らないのです",
"知らないんですって"
],
[
"うん、見た、島渡りだ",
"そうかしら"
],
[
"雪が降ってるね",
"冬になると、蔵王のお山から雪になる"
],
[
"宇乃はまだそんなに子供でしょうか",
"そういう意味ではない、宇乃には弟がいる、虎之助をしっかりみてやるのが宇乃の役だ、それも決して楽な役ではないだろう、このあいだのような事もあるしね"
],
[
"虎之助が、八つになれば、ですわね",
"そうだ、虎之助が八つになればね"
],
[
"医者を変えるように云おう",
"玄庵さまはよくして下さいますわ"
],
[
"宇乃は大丈夫だな",
"はい、大丈夫でございます"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第九巻 樅ノ木は残った(上)」新潮社
1982(昭和57)年11月25日発行
初出:「日本経済新聞」
1954(昭和29)年7月20日~1955(昭和30)年4月21日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:富田晶子
2018年1月27日作成
2018年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057788",
"作品名": "樅ノ木は残った",
"作品名読み": "もみノきはのこった",
"ソート用読み": "もみのきはのこつた",
"副題": "01 第一部",
"副題読み": "01 だいいちぶ",
"原題": "",
"初出": "「日本経済新聞」1954(昭和29)年7月20日~1955(昭和30)年4月21日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-02-14T00:00:00",
"最終更新日": "2018-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57788.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第九巻 樅ノ木は残った(上)",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年11月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年11月25日",
"校正に使用した版1": "1982(昭和57)年11月25日",
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} |
[
[
"このごろずっとあんなふうだ、あれは稽古じゃあない、拷問だ",
"なにかわけがあるな"
],
[
"みんなで相談をしよう、今夜にでもみんな集まるとしよう",
"だが、問題は食うことだ",
"むろん眼目はそのことだ",
"みんな食いつめたあげくのなかまだ、食えないことの辛さは、みんな骨身にこたえているからな"
],
[
"蔭でこそこそ耳こすりをするほうが、木剣を使うより身についたらしいな",
"なんですって",
"もういちど云おうか"
],
[
"柿崎に云いぶんがあるって",
"そうだ、しかしいまは石川の腕の手当をしなければならない"
],
[
"私は飲みません",
"今日はつきあってくれ"
],
[
"柿崎さん",
"本当だ、おれは妹を妾に出した、みんなは妹が身を売った金で、飢を凌いだことがあるんだ"
],
[
"しかしかれらは戻っては来ないぞ",
"私が話します",
"おれの恥をさらしてか",
"みやどののことは口外しません、但し、貴方はどうか譲歩して下さい",
"謝罪しろというんだな",
"貴方の暮しぶりを改めてもらいたいのです",
"たとえば",
"あの女たちを道場から出して下さい、よそへ囲って置かれることは自由ですが、この道場からは出して下さい",
"おれは石川の腕を打ち折っているぞ",
"そのことは私が話します"
],
[
"とにかく話してみます",
"おれの条件を忘れないでくれ"
],
[
"外出は禁止なんです",
"あたしが断わってよ",
"野中さんに気の毒なんです、柿崎さんは怒るにきまっていますから",
"ではあんた、ずっと家にいるっきりなの",
"一日おきに道場へゆきます"
],
[
"駕籠がいいわね",
"どこへゆくんですか"
],
[
"石川さんの腕を折ったんです",
"石川さんて誰なの",
"道場にいた石川兵庫介という人です"
],
[
"あらそうかしら",
"まえにもいちど話しがあって、月に幾らとか、相当な扶持を遣ろうと云われたのを、柿崎さんと別れるわけにはいかない、といってきっぱり断わったのだそうです",
"それで、こんどはこっちから泣きついたってわけね",
"いいえ、藤沢内蔵助さんが偶然その人に会って、また話しをもちかけられたのだそうで、しかもそれは、柿崎さんの世話をしているのと同じ人だということです",
"兄の世話をしているんですって"
],
[
"そうです",
"だって兄が兵部さまの世話になるわけはないでしょ、兄はあたしの主人やあなたたちの親の仇として、いつか兵部さまを討たせてやると云った筈よ",
"そう云われました",
"それで一ノ関の世話になってるなんておかしいじゃないの"
],
[
"それで、その人たちみんな道場へ帰ったのね",
"石川さんは帰りません",
"腕を折られた人ね",
"そうです、いつかこの恨みは必ずはらしてみせると云って、一人だけ西福寺からどこかへいってしまったそうです",
"よせばいいのに、ばかな人だわね"
],
[
"そうですね",
"へたなことをすれば、こんどは命までなくしてしまうわ、みんな兄の強いことを知らないのよ"
],
[
"これで充分です",
"じゃああたしのほうからいくことよ"
],
[
"なんですって",
"私は帰ると云ったんです",
"なぜそんな意地悪なことを云うの"
],
[
"なにを云うの新さん",
"私はなにもせずに、柿崎さんや貴女に食わせてもらっている、この着物も貴女に買ってもらったものだし、小遣いまで",
"よして、よしてちょうだい"
],
[
"国目付が着くまでには、周防も帰ると思いますが、そうでなければ、帰るまで仙台で待つつもりでいます",
"それがいいでしょう"
],
[
"佐月さまにも無断か",
"願っても許して下さらないのですもの、黙って出て来るよりしかたがございませんでしたわ"
],
[
"なぜでございます",
"話せないのだ"
],
[
"お返辞がないのはそうなのでしょう、そうなのでしょう、あなた、わたくしを離別なさるおつもりなのでしょう",
"声が高すぎるぞ",
"仰しゃって下さい、なぜなのですか",
"その話しはできない"
],
[
"そうか",
"わたくしのからだのことはたびたび申上げました、十年もまえからよく申上げて、だから淋しがらせないで下さい、とおたのみしてあります",
"それは聞き飽きた"
],
[
"私はそれを禁じはしなかった筈だ",
"そうです、お禁じにはなりません、でもお禁じになるよりずっと残酷でしたわ"
],
[
"いいえ申します",
"私は聞かぬぞ",
"なぜですの、聞くことができないほど、嫉妬していらっしゃるからですか",
"なんでもいい、その話しだけはよせ"
],
[
"もういちど云うが、その話しはよせ、私は聞きたくもないし聞いてもいないぞ",
"ではほかに離別するわけがあるんですか"
],
[
"どうしてわたくしには話して下さいませんの、これは律の一生にかかわることでございますわ",
"私は周防に話すよ"
],
[
"達弥は私にはなにも云わなかった",
"でもわたくしを憎んでいますわ、わたくしが不義をしたと思いこみ、不義をするだろうと疑って、絶えずわたくしを監視していますわ"
],
[
"泣かないでくれ、二人は別れるほうがいいのだ、別れるほうがいいということは、おまえにもよくわかっているはずだ",
"わたくし自分が良い妻だったとは思いませんわ",
"そんなことはべつだ",
"わがままでむら気で、求めることが強くて、あなたの負担にばかりなっていましたわ、でもそれはどうにもしようのないことだったのです",
"わかっている"
],
[
"もうきまったことだ",
"わたくし松山へは帰れませんわ",
"仙台にいるがいい"
],
[
"わたくしは船岡へ帰れなくなりました",
"律、ならんぞ",
"母上さまにも宗誠にも逢えません、こなたたちにももう逢えなくなります"
],
[
"ふじこがどうした",
"殿さまについていったままです",
"殿さまにだって、またか",
"おとつい出たままです",
"なにか心配になることでもあるのか",
"嫁にやるですよ"
],
[
"ふじこは、おらが久兵衛の嫁にもらうですよ",
"心配するな"
],
[
"古内が、――それはいつのことだ",
"昨日ということです",
"船岡はまだ戻らない",
"与五兵衛も留守でございましたか",
"いや、与五はいた"
],
[
"彼は五十三だったな",
"帰国してから会ったか",
"五月に会った、国目付を出迎えたとき、河原町でいっしょだった、目礼を交わしただけで、話しはしなかったが",
"感仙殿(故忠宗)さまの法要で高野山へいったとき、躯をこわしたのが長びいていると聞いた、もともと病弱ではあったようだ"
],
[
"桑茶だ、口に合わないかもしれない",
"桑茶だって",
"桑の若葉と乾した枸杞の実がはいっている、与五がおれのために作ってくれるんだ"
],
[
"松山の留守の者からの知らせによると、世間では律が不義をして戻された、と云っているそうだ、その相手は中黒達弥ともう一人だと、相手の名まで出ているそうだが",
"私は世間の評に責任をもつわけにはいかない",
"中黒達弥は船岡にいるか"
],
[
"断わっているようだな",
"国老はまだ早い"
],
[
"それは膝詰めでやっても同じことだろう",
"そのときは江戸へ出て、幕府老中に訴えるつもりでいるらしい"
],
[
"どういう手がある",
"まず船岡が国老に就任することだ"
],
[
"どうしてだ",
"まだ時期ではない、と云うよりほかに理由はない",
"では吉岡(奥山大学)には好きにさせるつもりか"
],
[
"しかし老中がとりあげて、家中内紛の責を問われたらどうする",
"この問題はべつだ",
"どうして",
"この問題では幕府は内紛の責を問うわけにはいかない、訴えをとりあげるとすれば、一ノ関と岩沼(田村右京)に、六カ条を承知させるよりしかたがないだろう",
"理由はなんだ"
],
[
"古内へは隼人がゆくように、葬儀の済むまで仙台にいるように、と云ってくれ",
"御帰館ではないのですか",
"うん、まだ此処にいる"
],
[
"虚空蔵(山)からおりて来たです",
"鉄砲を射ったのは誰だ",
"おらが射ったです",
"なぜ射ったのだ"
],
[
"かじりつくって",
"あの爺さまは女に捉まると萎えてしまって、怒る精もなくなっちまうだ"
],
[
"ふじこはなぜ小坂などへ来ているんだ",
"久兵衛が暴れてしようがねえです",
"おれをつけまわしているんではないのか"
],
[
"殿さまを覘っても館の衆の眼がきびしいだで、思うように動きがとれねえ、それで小屋へ来ては暴れるです",
"なぜ館へ云って来ないのだ",
"おらあなんでもねえです、あんなかぼねやみの一人や二人、なんとも思やしねえし、父さまも館へ申上げるほどのことはねえ、ちっとのま小屋をあけて、久兵衛の気をぬけばいいって、それで小坂へ来ているです",
"おまえ嫁にゆくのだろう",
"おらがですか",
"久兵衛の嫁になる筈ではないのか"
],
[
"それなら早く祝言をしたらどうだ、そうすれば久兵衛も暴れるようなことはなくなるだろう",
"それがそうでねえのです"
],
[
"若い牝鹿がさきに渡り、あとからくびじろが、それを追って渡ったです",
"西からか東からか",
"東からこっちへです",
"いつだ",
"今日の八つさがりです"
],
[
"だが、おれとくびじろの関係も与五はよく知っている筈だ、もうなにも云うな、――隼人、なんの用だ",
"一ノ関からお使者がございました",
"帰国されたのか",
"この月下旬まで仙台に滞在されるそうで、相談したいことがあるから仙台へ来られたい、との口上でございます",
"所労だと云ったろうな",
"申しました",
"なるべくまいるつもりでいるが、所労がぬけないようだったら、一ノ関の館へ参上するといってくれ",
"一ノ関へでございますか",
"そう云ってくれ"
],
[
"くびじろは谷地へはいったか",
"谷地を川上のほうへいったようです"
],
[
"急用でなければあとにしてもらおう",
"江戸から宇乃と申す少女がまいりました"
],
[
"宇乃が来たというのか",
"昨日の夕刻、惣左衛門の書面をもって、辻村と塩沢の二人が伴れてまいりました"
],
[
"いつ御帰館なされますか",
"なるべく早く帰る"
],
[
"ではそのときになってからのことに致しましょう",
"どうしてです",
"わけはいま申上げました",
"虎之助さんのことですか",
"それもあり、まだお預けの身の上ですから、お咎めがいつ解けるかわかりませんし、年つきが経つうちには、あなた御自身がどうお変りになるかもしれませんわ"
],
[
"ひとことだけ聞かせて下さい。貴女は私を嫌っているのではないんですか",
"なぜそんなことを仰しゃいますの",
"私の云うことに返辞をして下さい、貴女は丹三郎が嫌いなのではありませんか"
],
[
"小野の伊東さまを御案内いたしました",
"新左衛門どのか",
"はあ、この青根へ保養に来られる途中、船岡へおたちよりなされましたそうで"
],
[
"理由はそれだけですか",
"もちろんです"
],
[
"国老に就任されるとすると、早速これらの問題に当面されるわけで、どう解決するかというみとおしをつけられたことと思うが、どうでしょうか",
"それはいまなんとも云えません",
"私はぜひうかがいたいのです、それによって私も、国老就任を受けるかどうかを、きめるつもりです"
],
[
"貴方はわざとわからないふうをしていらっしゃる",
"なにをです",
"私がなぜ貴方の御意見をうかがいに来たかということをです"
],
[
"私はずっと田舎で籠居しているが、耳もあるし眼もあります、陸奥守さまに逼塞の沙汰が出た理由がなんであるか、また、現在いかなる非謀が進められているか、着座の一人として知らなければならぬことは、およそ知っているつもりです",
"私は頭が悪いものだから、自分でそれとたしかめたこと以外は信じません"
],
[
"毒を盛って謀殺しようとしているときでも、現に毒死するのを見るまでは信じない、と云われるのですか",
"そういう問いには返辞ができませんね",
"どうしてです",
"理由はない、返辞ができないから、できない、というだけです"
],
[
"毒薬も薬の内でしょう、ある種の病気には毒薬を調合するということを聞いていますがね",
"それならなぜ秘密に買い求めたりするのですか、正当な調剤のために必要なら、その係りにいって御用商から買上げるのが順序ではありませんか"
],
[
"もちろん若君ですよ",
"なんのために"
],
[
"なぜできないのです",
"綱宗さまには岩沼の田村右京さま、寺池の式部宗倫さまという、二人の兄ぎみがおられる、仮に亀千代ぎみに不慮のことがあるとしても、このお二人を措いて、東市正どのを世継ぎに直すことができると思いますか"
],
[
"また、これはついさきごろ、江戸屋敷からの手紙で知ったのだが、品川下屋敷ではお部屋さま(三沢初)が御懐妊だということだ、まこと一ノ関さまにさような御野望があるとすれば、亀千代ぎみばかりでなく、岩沼さま、寺池さま、つづいてはやがて御出産となろう和子さままで、次つぎに毒害しなければならぬ、そんなことができると思われるか",
"では、では船岡どのは"
],
[
"もう結構です、よくわかりました",
"怒ったのではないでしょうね"
],
[
"私はいつも宇乃のそばにいるよ",
"はい",
"此処にいても、江戸へいってもだ、わかるか"
],
[
"どういうことって",
"柿崎さんが承知だという意味ですよ、どういう理由でそうなったんです"
],
[
"そう思うんですけれど",
"そう思うとは"
],
[
"同じことを幾たび云うんだ",
"あたしこういうことは忘れっぽいから",
"簡単に云え",
"三日まえに兵部さまがみえたんです",
"一ノ関は出て来たのか",
"ええ、それでそのときの話しに、また原田さまのことと、伊東新左衛門という人のことと、ほかに変なことを聞きました",
"原田というのは",
"船岡の館主で、原田甲斐宗輔という方です、いつか話しましたわ"
],
[
"ええ、いつも話しというと、きっと原田さまのことがでるんです、うちの殿さまは、兵部さまよりも原田さまのほうを、ずっと気にかけていらっしゃるようですわ",
"それは初めて聞くぞ",
"あら、そうだったかしら",
"あとをつづけろ",
"兵部さまは、原田はもうこっちのものだ、と仰しゃっていました"
],
[
"原田のことはそれだけか",
"殿さまは、近いうちにいちど会おう、伴れて来てくれと仰しゃってましたわ",
"よし、次を聞こう",
"次はなんだったかしら",
"伊東なにがしのことだ"
],
[
"それがどうした",
"その三カ条がたいそう困るもので、さきに田村右京さまが承諾なすったものだから、兵部さまもやむなく誓紙を書いたけれど、あとでなにかあったばあいにはひじょうに困る、と仰しゃってましたわ",
"その三カ条はどんなものだ",
"あたし聞いたんだけれど、とても覚えてなんかいられやしませんよ"
],
[
"ええ、いま病気だから、五月か六月に江戸へ出て来て、御家老になるということですわ",
"それから",
"それからって"
],
[
"ええ、その鬼役のことで、お二人がながいこと話していました",
"どんな話しだ",
"それがよく聞えなかったんです",
"人払いか"
],
[
"兵部さまが、亀千代ぎみの袴着のときに、と仰しゃったところ、殿さまが、それはこちらから知らせよう、と云われました",
"袴着というのはいつだ",
"あたし知りませんわ"
],
[
"あたしおちついてますよ、でもこれでもう話すことは残らず話しましたわ",
"もういちどはじめから云ってみろ",
"はじめからですって"
],
[
"これはまだはっきりしたことではないが、おれの聞いたところによると、隣りにいる女となにかあるようだぞ",
"お久米さんとですか"
],
[
"そのときお久米さんと逢ってるっていうのね",
"たしかではない、ときどきでかけて、帰りのおそいことがあるというんだ"
],
[
"それはだめだ、なにか頼めるのは野中ひとりだ、野中なら安心して預けられるが、ここに置いたらいつ逃げられるかわかったものではない",
"だって新さんにはゆくとこがないじゃありませんか"
],
[
"新さん、あんたよくもそんな口がきけるわね、まさか三年まえのことを忘れたんじゃないでしょうね",
"それはこっちの云うことだ",
"なんですって"
],
[
"あの道場をひらいた金の出どこも、この新八をひきつけて置く理由も、私にはもうわかっている、世話をするどころか、あんたたちは私を利用して来たんだ",
"待って、ね、待って新さん"
],
[
"おまえは、あのことを私に教えこんだ、私はいやがった、私は恥ずかしさと怖ろしさとで、身も心もちぢみあがった",
"やめて、お願いだからやめて、新さん"
],
[
"本当にこのおれが好きなら、女はもっと違ったことをする筈だ、私はまだ十六にしかなっていなかったんだぜ",
"でもあたしは、そうするよりほかにどうしようもなかったの、あなたの年のことも、そんなふうにしていいか悪いかということも、なんにも考えられないほど夢中だったわ",
"おまえはただそのことだけが好きなんだ、相手はおれでなくったって、誰だってよかったんだ",
"いいえ違う、それだけは違う、あたしがそんな夢中になったのは新さんだからよ",
"そう云えば私がよろこぶとでも思うのか"
],
[
"泣くのはよせというんだ",
"云ってちょうだい、あたしどうしたらいいの、新さん"
],
[
"新さん、あんた本気でそう云うの",
"もちろん本気だ",
"お久米さんのために",
"おまえの知ったことじゃないさ",
"お久米さんのためね"
],
[
"子供を騙すようなことはよしてくれ",
"あなたはもう子供でもないし、あたしなんかが逆立ちをしたって騙せやあしないわ、新さんはもういちにんまえの男よ、あたしの負けだわ"
],
[
"お願いよ、もう堪忍して",
"いつもの手だ"
],
[
"云わなければいいのか",
"お願いだからあの人のことだけは云わないでちょうだい"
],
[
"そこに駕籠を持って来てある、じたばたしないほうがいいぞ",
"あなたはどなたですか"
],
[
"久しぶりで会うのに気の毒だが、へたな手出しはよせよ、おれは柿崎に仕返しをするつもりで、やわらという新らしい武術をならった、この左手の一撃で骨を断つことができる、片輪だと思ったらまちがいだぞ",
"しかし、石川さん",
"なにも云うな、それよりもこれからすぐに道場へいって、柿崎にこう伝えろ"
],
[
"あなたは黒田さんじゃありませんか",
"ええ、黒田ですが",
"お勘定部屋の黒田玄四郎さんでしょ"
],
[
"掠われるとは",
"いきなりとびかかって、駕籠で掠ってゆこうとしたんです、でもよかったわ、あなたが来て下すったので、あぶないところを助かりました",
"貴女は私をどこで知っていたんです"
],
[
"酒井家にですか",
"お上づきの腰元で、名は滝尾といいますの"
],
[
"酒をもらえませんか",
"私はでかけなければならないんだ"
],
[
"なにをそんなに拗ねるんだ",
"貴方は変りましたね"
],
[
"なにがです",
"まあいい、答えられることは答えよう",
"答えられないこともあるんですか",
"そう思うね",
"だがそうはいきませんよ、今日こそ私は納得のゆくお答えを聞くまでは、断じて動かないつもりですからね"
],
[
"第一にうかがいますが、貴方が一ノ関の与党になられた、という評を御存じですか",
"知らないね",
"そういう評がもっぱらです、ではそういう評が生れる理由はおわかりになるでしょう",
"どうだかな",
"わからないこともないわけですか",
"次を聞こう"
],
[
"貴方は佐月どのの葬儀にも松山へゆかれなかったし、青根の宿では私の義兄(伊東新左衛門)と話しもされなかった",
"話しはしたと思う",
"したのは義兄です、貴方ではない、義兄はまじめに、しんけんな気持で貴方を訪ね、貴方の意見を聞こうとした、ところが貴方はまるで相手にもならず、義兄の問いに対して満足な答えもされなかった、義兄は帰って来て、あなたのひとがらがまったく変った、と云っていましたよ",
"では七十郎と意見が合ったわけだな",
"そういうところです"
],
[
"それで",
"私がうかがいたいのはその点です"
],
[
"どっちでもないんですって",
"そう、私は私であるだけだ",
"不偏不党ということですか",
"私は私だというのだ",
"松山との盟約はどうなるんです",
"盟約とはどんなことだ"
],
[
"松山がそれを云ったのか",
"茂庭さんからじかに聞きました"
],
[
"誰がです",
"松山がだ、もしその盟約が事実だとしたら、ほかへはもれないようにする筈だ",
"ほかへもれたんですか",
"現に七十郎が知っている",
"私がですって、――貴方はこの七十郎を、そんなふうにみているんですか"
],
[
"私は人を非難したことなどはない",
"ではいまの言葉はどういう意味です"
],
[
"云って下さい、では盟約はどういうことになるんです",
"つまりなかったということだろうね",
"なかった、ですって",
"当然、秘すべきことを、そうたやすく人に話すとすれば、それは秘すべき必要のないことであり、つづめていえば、そんな盟約はなかったということになるだろう",
"それはまじめですね",
"酔っているのは、七十郎だ"
],
[
"質問は終りらしいな",
"まだ二つあります",
"私はもうでかける時刻だ",
"なに、雅楽頭なんぞ待たせておきなさい"
],
[
"手短かにたのむ",
"まず離婚についてうかがいましょう、どうして御内室を離別されたのですか",
"それはむずかしいな",
"だめですか",
"だめということはないが、夫婦のあいだのことを他人に話すのはむずかしい、むずかしいばかりでなく、他人には理解のつかないことがある",
"たとえば"
],
[
"もう少しはっきりうかがえませんか",
"はっきり云う必要があるのか",
"茂庭さんの依頼です",
"律の恥になってもか",
"私は伊東七十郎です"
],
[
"要するに、それは、そのほうの病気ということですか",
"病気なら治療することができる、律は風邪ひとつひいたことがないほど健康だ"
],
[
"私にはこれだけしか云えない、律にとっては、それは狂気になるのを防ぐ、ただ一つの手段であったし、そのことは決して密通ではない、世間の道徳からいえばどう解釈されるかわからないが、密通でないことは私にはよく理解することができる、ただ、それが私に不快であり、厭悪を感じさせたことは慥かだ",
"そうまわり諄く云うほかに云いようがないんですか",
"云えるのはこれだけだ",
"茂庭さんは具体的なことが知りたいといっていたんですがね",
"私に云うことのできる限りは云った、これ以上に具体的なことは、律だけにしか云えない、律に聞けといってくれ"
],
[
"達弥は律の秘事を見たのだ",
"お相手ではなくですか",
"律の秘事を見て、自分なりに解釈し、それが繰り返されないように、ひそかに看視していたのだ",
"はあ、すると離別した方への義理で達弥を放逐した、というわけですね",
"次の質問を聞こう"
],
[
"事実なら有難いな",
"ほう、有難いですか"
],
[
"それは残念だ",
"しかし忘れないで下さい、私には眼もあるし耳もある、七十郎はどこにいても、眼と耳が健在だということを忘れないで下さい"
],
[
"それで終りか",
"終りです、しかし、これで彼が召出されるとすると、御身辺からだいぶ人が去ってゆくわけですね"
],
[
"それがどうしました",
"私はそれが事実であってくれるように願う、それだけだ"
],
[
"どうする",
"おそらく、鼬のように逃げることでございましょう",
"おれに会わぬか"
],
[
"おそれ多くもあり、また、退屈でございます",
"おれが退屈か"
],
[
"御承知のとおり、陸奥守綱宗は御勘気をうけて、三年まえ逼塞に仰せつけられました、当時、私は評定役で、仔細のことは存じませんでしたが、綱宗の不行跡が公辺にまで聞えたとの評に、一門、一家、老臣ども合議のうえ、綱宗に隠居のおゆるしのあるよう願い出ました",
"それがどうした",
"しかし公儀におかれましては、隠居の願いをおききいれがなく、ついに逼塞という重い御処分を、仰せつけられました、また次に亀千代に家督の願いを申上げましたおりにも、御老中より弱年であるという御異議があったとおぼえております",
"それがどうしたというのだ"
],
[
"さればこそ、些細な事までいちいち訴え出て、御裁量を願うのだと存じます",
"おれを恐れるあまりにか",
"いついかなる事で、重きお咎めを蒙るやもしれぬとあれば、一藩の責任を負う者が恐れ惑うのも当然でございましょう、それは厩橋さま御自身がよくおみとおしのことと存じます"
],
[
"どうしてだ、そう思わないという、理由があるのか",
"ございます",
"どういうことだ",
"宇乃どのには、もう心に想う人がいたのです"
],
[
"お出ましでございますか",
"いとまが三日できた、湯島へまいろう"
],
[
"あなたは悪性者でいらっしゃるわ、あんなにいい、お美しい方を離別なすって、またほかから奥さまをおもらいなさるなんて",
"悪性者か",
"あたしなら殺されても離別なんかされやしないのに",
"こんな悪性者でもか"
],
[
"あたし三十一になっただけですわ",
"わかった、風呂へはいろう"
],
[
"あたしこうして死にたい",
"おれの云うことを聞いているのか"
],
[
"宮本の弟が、手先をしたといったな",
"そうです、あの男は新八なら宇乃どのが信用すると思ったのでしょう、新八に対する口のききようも、たしかに手先に使っているという調子でした"
],
[
"では単直に申しましょう、私が妹を酒井家へ入れたのは、一ノ関と雅楽頭との通謀をさぐりだすのが目的です",
"なんのために",
"いまは、原田さんの、ためにです"
],
[
"本当にですか",
"用件はそれだけか"
],
[
"それは、どういう意味です",
"宮本新八、畑姉弟、これらを使ってなにを企んでいるか、ということだ"
],
[
"いや、たくさんだ",
"幼君毒害の計画でも興味がありませんか",
"ないようだな",
"これには毒の加減をする医者や、その一味の奥女中の名も書いてありますよ"
],
[
"そこにどうしたんだ",
"娘がいたんです。十六か七くらいになる、娘が",
"ばかなことを云うな",
"いいえ、そこに坐って、あたしのほうを見ていたんです"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第九巻 樅ノ木は残った(上)」新潮社
1982(昭和57)年11月25日発行
初出:「日本経済新聞」
1954(昭和29)年7月20日~1955(昭和30)年4月21日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:富田晶子
2018年3月10日作成
2018年9月21日修正
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"作品ID": "057785",
"作品名": "樅ノ木は残った",
"作品名読み": "もみノきはのこった",
"ソート用読み": "もみのきはのこつた",
"副題": "02 第二部",
"副題読み": "02 だいにぶ",
"原題": "",
"初出": "「日本経済新聞」1954(昭和29)年7月20日~1955(昭和30)年4月21日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-03-12T00:00:00",
"最終更新日": "2018-09-21T00:00:00",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第九巻 樅ノ木は残った(上)",
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"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年11月25日",
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[
[
"船迫で泊るとはきめていない",
"それなら泊ることにきめるさ、柏屋ではうまい酒を出す、おれが案内するよ"
],
[
"伊東七十郎だ、まさか、知らなかったんじゃないだろうな",
"たしか小野どのの",
"さよう、桃生郡小野の館主、伊東新左衛門の義理の弟だ、正確にいえば新左衛門の妻がおれの姉というわけさ、わかったかね"
],
[
"噂は聞いているようだ",
"噂だけか",
"伊達家の家臣でもないのに、よく藩邸へやって来て、誰の家へも平気で出入りするし、身分の高下を問わず友達あつかいをする、いったいどうして、誰があんな特権を与えたのか、――みんながそう不審しているようだ"
],
[
"そんなことを気にするな",
"どちらの意味だ、友達あつかいか、それとも軽侮か",
"もうひとつべつの意味だ"
],
[
"知っておられたのか",
"小人の万右衛門といえば、あの事件で剛勇の名が高かった、ひとつここへ呼んでいっしょに飲むとしよう"
],
[
"そういう話しは聞きたくない、もしもやめないのなら、私は宿へ戻る",
"事実を知るのが怖ろしいのか",
"風説は事実ではない、そこもとの知っているのは単なる風説だ",
"証明することができるか",
"そちらはどうだ"
],
[
"別れるまえに、もう一つ聞いておこう",
"伊助、酒を注げ",
"私が証人だという意味を聞かせてくれ",
"自分でわかる筈だ",
"そこもとの口から聞きたい"
],
[
"もう充分だ、また会おう",
"たくさんだ、会う必要はない"
],
[
"似ているからどうした",
"ですから、あなたのお話しをうかがっていると、すぐにおじさまのことを思いだしてしまうんです、お声は少し細いようだけれど、お話しぶりはそっくりですわ"
],
[
"宇乃は、わかっているように云うな",
"ええわかっていると思います、わたくしにはよくわかるように思いますわ"
],
[
"わたくしうかがいますわ",
"それが話せなくなった",
"どうしてですの",
"話してもむだだということがわかった、原田家のことを話しているうちに、もう一つのことは話さないほうがいい、ということがわかったのだ"
],
[
"いいよ、なんでもない",
"だってとがめるといけませんもの、ちょっと縛るだけ縛っておきましょう"
],
[
"小野さまは国老になられるのだそうですね",
"よせばいいのに、ばかな人だ"
],
[
"吉岡どのは御罷免ですか",
"正式にはまだ仰せ出されませんが、江戸ではそう決定しているとのことです"
],
[
"私は去年、青根の宿で話しあいました",
"それは知っています",
"そのとき船岡どのは、私の問いに答えてくれませんでした、私はすでに国老就任の交渉を受けており、それをお受けするについて、船岡どのの意向を知りたかったのです、御承知のように痼疾があって、余命のほどもわかりません、私で御奉公のできることなら、この首を賭けてもお役に立ちたい、しんじつそう思って相談にでかけたのです、しかし船岡どのはなにも知らぬ、涌谷、松山との盟約などもない、家中の者は火のない煙を騒ぎたてているのだ、と云うばかりで、まったく相手にならないのです"
],
[
"そのとおりです",
"そうとすれば、一ノ関さまの与党になったと、評の立つことに不審はないでしょう"
],
[
"誰がそう云うのですか",
"涌谷さま、松山どの、その他の者も殆んどそうみております",
"あなたはどうなのですか",
"私は青根で話しあいました",
"それでやはり、あなたも甲斐が不審に思われるのですね"
],
[
"わたくしにはわかりません",
"貴女は御存じの筈です、ほかの母子ならともかく、貴女の船岡どのを見る眼に狂いはない、どうか御母堂の御意見を聞かせて下さい"
],
[
"宗輔は年も不惑をすぎて、もう母親の手の届くところにはおりません、わたくしの手はもうあれには届きませんし、わたくしはただあれを信じているだけです",
"しかし、御母堂にはなにか、うちあけておられるのではありませんか"
],
[
"二心はない、と仰しゃるのですね",
"いいえ、わたくしはあれが、原田甲斐宗輔であることを信じているばかりです"
],
[
"ただ一つだけ申しましょう。こんど孫の帯刀に縁談が起こりました、相手は松山の娘です",
"――松山どのの……"
],
[
"それは、まことでございますか",
"茶が冷えたようですね"
],
[
"采女にも云いおいて来たが、そこもとにも頼んでおきたいことがある",
"躯のぐあいはいいんですか"
],
[
"出府したら、その三カ条を、誓紙として、両後見から取るつもりだ",
"出すと思いますか",
"拒絶すれば、私は国老にはならない"
],
[
"松山へ寄るのか",
"そのつもりです",
"いや、松山へはいい"
],
[
"彼は人が変りましたよ",
"いつか私もそう云った",
"青根の話しのあとです",
"私もそう云ったが、しかし船岡はあれだけの人物だ、そうたやすく心変りをする筈はないと思う",
"で、どうだったんです"
],
[
"最後のですって、――",
"私はもう、いくらも生きられないのだ",
"ばかなことを",
"いや、もう長いいのちではない、それは自分でよく知っている、医者は病気が山を越したと云うし、自分でもときにそうかと思うこともある、だがそうではない、気力の衰えや、躯の芯から精のぬけてゆくことが、自分にははっきりわかる、もう先は短い、ということがわかったから、このいのち一つをお役に立てようと思ったのだ"
],
[
"待たせておけ、おれから屹と申しつかわそう、内膳は、さがってよし",
"隼人、岩沼へ使いにいってくれ、明朝十時、御本家で会いたい、吉岡の処置を決定したいからというのだ"
],
[
"なにか仰しゃいまして",
"いや、なにも云わない"
],
[
"よく眠っていたようだよ",
"起きていらっしゃいましたの",
"寝顔を見ていた",
"あらひどい、悪いかた"
],
[
"女の寝顔を見るのは、罪ですってよ",
"そうか、――",
"どんな顔をしていまして",
"きれいだったよ",
"悪いかた、少しもお眠りにならなかったんですの",
"そうらしいな"
],
[
"知らないね",
"いいえ、ちゃんとみえたんですよ、ですからあたし怖くなって、逃げだしたじゃありませんか"
],
[
"そんな気がしただけさ",
"いいえ慥かに見えたんです"
],
[
"少しはなれないか",
"きっと誰か嫉んでいるのよ",
"暑い、少しはなれてくれ",
"誰かいるのね、そうでしょ"
],
[
"松山さまがみえました",
"――松山だと"
],
[
"根拠はない",
"そこもとの想像か"
],
[
"伊豆守信綱が、去年三月に死んだことを思いだしたときに、こんどの事がすべて計画されたものだ、ということに気がついたのだ",
"もらった手紙には、豆州侯の遺産だと書いてあった",
"伊豆守が計画し、雅楽頭がひき継いだものだ",
"もう少し聞こう",
"まず、伊達六十万石を寸断する密約がある、ということを聞かされたのは松山だ",
"いかにも、私が聞いた",
"知らせたのは誰だ"
],
[
"そのとき侯は、早く陸奥守さまの隠居願いを出すこと、亀千代ぎみ相続の願いを出すことをすすめ、なお、白石(片倉小十郎)は六十万石分割の密約で、直参大名になることを承知しているかもしれないから、彼にはすべて内密にするように、と注意されたと聞いたように思う",
"そのとおりだ",
"さて、そこで考えてみよう、将軍家側衆である侯が、どこで、どうして、雅楽頭と一ノ関との密約を知ったか"
],
[
"私には信じられない、私は久世侯をかなりよく知っている、侯の人と為りからみて、そこまで企むことができるとは思われない",
"私も侯が企んだと云ってはいない、侯はただ石を投じただけだ、仮に、それが好意から出たにもせよ、石が投げられたこと、それがどんな波紋を起こし、どのようにひろがりつつあるかは、松山も現に見ているだろう、繰り返して云うが、侯は石を投じた、侯は将軍家側衆であった、これが事実だ、この事実は動かすことができない",
"すると、久世侯は使嗾されたというのか",
"侯は十善人の一人だという",
"背後に豆州侯がいたというのだな",
"否というより、然りと云うほうが自然だろう、元和このかた、大名取潰しは幕府の根本政策の一つであり、その主脳は伊豆守であった",
"しかし伊達家には、東照公から永代不易の安堵状が渡っている",
"安芸の福島(正則)はそうではなかったろうか、芸州も同じように永代不易の安堵状が渡されていた、しかし、幕府の権威と実力を確立するためには、一枚の紙きれなど反故に等しい、芸州はひと揉みに潰されている"
],
[
"もしうまく伊達家を潰すことができれば、加賀の前田や薩摩の島津へも手が付けられるかもしれない",
"そこまで考えるのは、ゆきすぎではないか"
],
[
"涌谷さまはそれを待てといっておられた",
"なんのために",
"船岡のことだからぬかりはあるまいが、いまはなにごとも大事のうえに大事をとらなければならぬ、帰国のおりじかに会って、よく話しも聞き自分の意見も述べたい、加賀へ呼びかけることはそれまで待つように、と念を押しておられた",
"私の帰国は春になる",
"それなら僅か半年だ"
],
[
"彼に会ったのか",
"小野の留守を預かるのだそうで、仙台の屋敷へ訪ねて来た",
"彼を怒らせるのは辛かった",
"しかし効果は一倍だ",
"彼だけは怒らせたくなかった",
"だがほかの誰よりも効果はあった、七十郎は家臣でもないのに、家中の者に深く信頼され、好かれている、そのうえ、彼が船岡に心からうちこんでいたことを、知らない者はなかったからな"
],
[
"いや、面会の申しこみはあるが、まだ会わない",
"三カ条は取ったそうだな",
"そういうことだ、吉岡の罷免も近いし、小野は国老になるだろう"
],
[
"どうしたんだ",
"放してちょうだい",
"どうしたんだ",
"痛いから放してよ"
],
[
"それで帰ったのか",
"お話しもございます",
"あの件でか――"
],
[
"十一月十日といったな",
"若ぎみのお袴祝いがあるのだそうです",
"十一月十日、間違いないな",
"わたくしはそう聞きました"
],
[
"ほかにはないか",
"はい、ほかにはなにも",
"証文の件はどうだ、一ノ関と証文を取交わしたようだと云ったが、本当に取交わしたようすか",
"それはまだはっきりわかりません",
"ばか者、なんのためにあの邸へはいったか忘れたのか"
],
[
"わたくしはまだ新参のほうですし、勤めには順がありますから、いくら殿さまの御贔屓でも、絶えずお側にいるわけにはまいりませんわ",
"そんな云い訳は三文の役にも立たん、おれが眼と耳をはなすなと云ったら、云われたとおりにすればいいんだ",
"これまでは、そうして来たつもりです",
"褒めろとでも云うのか",
"いいえ、もうこれ限りわたくしの役は堪忍して頂きたいのです"
],
[
"あなたがそう思うのはあなたの勝手です",
"自分に訊いてみろ、おれよりきさま自身がよく知っている筈だ、きさまに限らず、女などというやつはみんな同じだ、おれは知ってるんだ"
],
[
"それは本気で云うのか",
"眼をごらんになって下さい"
],
[
"その話しはまた明日のことにしよう",
"その必要はございません",
"まあいい、明日また話すとしよう"
],
[
"眼をさましてちょうだい",
"眼はさめてるよ",
"お顔を洗っていらっしゃい、まじめに聞いて頂きたいことがあるんです",
"これまではふざけていたっていうわけか",
"そのことも話しましょう、待っていますから、お顔を洗って来て下さい"
],
[
"聞いてるよ",
"あたしいま、兄にも断わって来たの、あたしもう兄とも縁を切るし、この家へも帰らないつもりよ"
],
[
"ええ、そのとおりよ、新さんの見ていたとおりだったわ",
"あのときできたんだな",
"違うわ、それだけは違うわ"
],
[
"いいわ、そう思うなら思ってちょうだい、あたしがそんな女だったということは、自分でも知っているし、そうじゃないなんて云いはしません、けれども、黒田さんはあたしなんかとは人間が違うんです",
"味をみてわかったわけか",
"新さん、あたしはまじめに聞いてちょうだいって云った筈よ"
],
[
"よしてくれ、それだけはまっぴらだ",
"お願いよ、新さん",
"云うことはわかってるんだ",
"ひと言だけ聞いてちょうだい"
],
[
"おれはそれをとやかく云うんじゃあない、おまえのような女が生れ変ろうという、まじめにそうしようとすることは立派だ、しかし、おまえがだめにしてしまったこのおれは、どうもがいてもこの檻からぬけだすことができないんだぞ",
"ですから、あたしはその相談をしようと思って来たんです"
],
[
"おまえは風呂へはいれ",
"待って下さい、兄さん"
],
[
"ああ、それなら聞いたことがあった",
"こちらの小具足を、もっと精妙にした武術、といってもいいだろう、徒手空拳で敵を倒すのだが、その稽古を見ただけでも、おれは無類だと思った"
],
[
"片腕だ、あのとき打ち折られた右手は、治療ができないので、肩の下から切ってしまったということだ",
"その片腕でそんな武術がやれるのか"
],
[
"力ではないな",
"力ではない術だ、そのうえやわらは躰さばきが敏捷で、刀法とはまったく進退動作が違う、確言はできないが、おれの眼で見たとこだと、彼はたぶん柿崎に勝つだろう、十中八九まで勝つだろうと思う"
],
[
"われわれ四人と会って、じかに話したいといって、おれといっしょに来たんだ",
"二人が来ているって",
"夕食をしながら話そうというので、いっしょに来て表てで待っているんだ"
],
[
"貴女もそう思うのですね",
"はい、さもなければみなさんに、もっと御迷惑のかかるときが来る、とさえ思います"
],
[
"さよう、十日に一度ずつ、良源院の住持が来て、講義をされております",
"玄察老ですか",
"――老というと"
],
[
"よほど御昵懇とみえますな",
"私も講義を聴いたほうです",
"やはり華厳ですか"
],
[
"猪ではなく鹿でございます",
"おれは猪だと聞いたぞ",
"くびじろと申す大鹿でございました",
"鹿のほうが姿はよい"
],
[
"隠宅へはまいってもか",
"身の保養も御奉公の一つでございます"
],
[
"それについては、このまえおめどおりのときに、申上げてある筈です",
"いや違う、このまえはすべて事実無根だと申しただけだ",
"ただいまでも、さように申上げるほかはございません"
],
[
"その意見もまえに聞いたぞ",
"六十万石の家中となれば人も多く、ことに、強情と我意の強いのはお国ぶりですから、他の藩中とは違って、些細なことから紛争が起こりがちです、けれども、いざ御家の大事となれば、いずれも身命を賭して御奉公する覚悟にまぎれはありません",
"それは言葉だ、甲斐が当座に云う言葉にすぎない",
"私の申上げることをお聞き下さい"
],
[
"さようなことがあるわけはございません",
"慥かにか",
"慥かに、事実無根でございます",
"証拠をみせろ、事実無根だという証拠があるか"
],
[
"しかし、亀千代さまが御相続あそばされました",
"だからいま、その亀千代を除こうとする、ということは考えられぬか"
],
[
"これは頂戴してまいって、よろしゅうございましょうか",
"手を笑うな",
"頂戴つかまつります"
],
[
"斬れ、おれを斬れ",
"おちついて聞け、私は今夜のことは忘れる、いいか、今夜はなにもなかったことにして、おまえに考える時間をやる"
],
[
"話しが済んでからでよい、まず祝いに一盞するとしよう",
"遣わそう、祝って飲め"
],
[
"実地を検分してもらいたいのです",
"私にですか",
"船岡は帰国されるのでしょう",
"来春は番あけになる筈です",
"番があければ帰国されるでしょう"
],
[
"しかしそう延びることはないでしょう、少なくとも夏までには、帰国されるのではありませんか",
"そうあれば、いいのですが",
"そのときぜひ実地を見てもらいたいのです、ほかの者では涌谷に云い負かされてしまう、ほかの者ではだめです、ぜひ船岡にいって検分してもらいたいんです"
],
[
"私がいきごんでいますか",
"小野は病状が危篤だというだけで、まだ死んではいないし、ことによるともち直して恢復するかもしれない、これは小野に限ったことではなく、人間はみな同じような状態にいるんだ、まぬがれることのできない、生と死のあいだで、そのぎりぎりのところで生きているんだ"
],
[
"月見の宴に召されて、お盃を頂いたあとのことだ",
"貴方に、刺客ですって",
"望岳亭からさがる途中、暗闇からいきなり、抜き討ちをしかけられた"
],
[
"幸い命は助かったが、ほんの一歩ちがえば死ぬところだった、嘘も隠しもない、あとでみると袖と袴が切れていた",
"なに者です、それはなに者ですか"
],
[
"私が貴方を斬るんですって",
"もっと笑ってもいいよ",
"私が原田さんを斬るっていうんですか"
],
[
"よく来てくれた、御用の暇を欠かして済まない",
"寺池さまの、弓のお相手をしていたところだ"
],
[
"ほんとのこと云いなさいよ、そうしたらねかしてあげるよ、云わなきゃこうするから",
"よせ、殴るぞ",
"じゃあ云いなさいよ、でなきゃあたしが当ててみようか、ねえ、あんたはまだ二十まえでしょ",
"ばかを云え"
],
[
"少し黙れ、少し黙ってくれ",
"あたしが当ててやる、十九かな、十八かな、きっと十八だよ"
],
[
"うるさくすると帰るぞ",
"帰すもんかさ"
],
[
"なにかあったんだね、見廻りだよ",
"見廻りってなんだ",
"町方のお調べよ、知ってるくせに"
],
[
"本所のどこです",
"本所の、向島の牛御前の近くです",
"あの辺も本所といいますか",
"そう聞いたようですが"
],
[
"年は、年は十九歳",
"姓名は、――",
"野中、野中、忠之進",
"忠之進だって"
],
[
"どういう理由です",
"住所を偽わり、名をかたり、年不相応な金を遣っている",
"不相応な金だって",
"そうさ、おまえは此処でだいぶ遊んでいるようだ、女は二度ばかりといったが、階下で訊いたらもう五たびも来ている、そんな金をどうして手に入れた"
],
[
"そっちが木戸です",
"この塀は廻ってゆけるか",
"天神のほうへ出られます"
],
[
"三日ばかり風呂を使いませんから、おいやかもしれないけれど、おそばに寝かして頂くだけですから、いいでしょ",
"今夜はだめだ",
"どうしてですの、ただおそばで寝かして頂くだけよ"
],
[
"つまらないこと、せっかく久しぶりでお会いしたのに",
"からだが悪いんだろう",
"病気じゃあないんです",
"顔色もよくないし、痩せたようだぞ"
],
[
"寒いからだ",
"こんなに、ふるえるわ、恥ずかしい",
"寝るほうがいい",
"あたし、臭いかしら"
],
[
"このお肌の匂いを嗅ぐとうっとりするわ、ときどきふっとこの匂いが匂うのよ、いらっしゃらないとき、なにかしていて、急にふっとこの匂いがして、そうすると頭の芯がぼうっとなって、ふふ、いやだわ恥ずかしい",
"寝たほうがいい、さあ、寝かせてやろう"
],
[
"火がないから寒い、さあ、横におなり",
"少しここにいらしって"
],
[
"ちょっと戸惑いをしただけだ",
"おうれしくはないんですか"
],
[
"あとでいらしって",
"今夜は丹三郎といてやると云ったろう",
"では朝になってから"
],
[
"さっきの騒ぎはそのことでしたの",
"そうです、役人に追われて逃げこんで来たのですが、事情のある者なので、こちらへ引取ったのです"
],
[
"いま考えると、ばかなことをしたと思います、逃げてから今日までのことを考えると、いっそあのとき、殺されるなら殺されたほうがよかったと思います",
"柿崎とは、どうして知りあったのだ"
],
[
"渡辺九郎左衛門",
"はい、兄と同じときに上意討になった人です",
"九郎左衛門の側女、それが柿崎の妹だったというのか"
],
[
"むりにとは云わぬぞ",
"会います、会って詫びなければならないこともありますから",
"ではいっしょに食事をしよう"
],
[
"寄れと申すのだ、隼人、襖をはらえ",
"道円、あれから五日になるぞ"
],
[
"仙台さまの御家来でした、御存じの方でしょうか",
"いや、――いや知りません"
],
[
"しかし、兄という人がいるのでしょう",
"兄にもそのことを話しました、もうわたくしを当てにしてくれるなと、はっきり断わりを云いましたの"
],
[
"あるかもしれませんけれど、わたくし逃げようとは思いません、兄の云うことが威しではなく、本当にそうするとしても、わたくしは逃げ隠れはしないつもりです",
"しかし、邸をさげられたらどうします",
"さげられたにしても、もう兄の自由にはなりません"
],
[
"それよりも、もう暫く柿崎さんの云うとおりにしていたらどうでしょう、いったい、柿崎さんはどういうことをさぐれと云うのですか",
"殿さまと伊達兵部さまとで、なにか事を企んでいらっしゃるらしいのです",
"伊達家に関係のあることですね",
"よくはわからないのですが、仙台の六十万石を分割して、兵部さまに三十万石を与える、という約束ができ、その証書をお二人とり交わしたもようなのですが、兄はその証書を盗んで来いと云うんです"
],
[
"証書がとり交わされたことは、わたくしが現に見ていました",
"貴女が、見たんですって",
"一枚は殿さま、一枚は兵部さまが、お互いの手から手へ渡すのを拝見しました",
"人払いもせずにですか",
"殿さまはああいう御気性ですし、わたくしたちはお次におりますから、たいていのことは見えもし聞えもしますの"
],
[
"わたくしに盗めと仰しゃいますの",
"それが柿崎どのの手を逭れる、確実な手段だと思うのです"
],
[
"しかし、ためしてみてもいいでしょう",
"あなたは兄を御存じないからですわ"
],
[
"やって下さる、――",
"うまくゆくかどうかはわかりません、たぶんうまくゆくと思いますけれど、よほどの隙がなければ仕損じますから"
],
[
"慌てなくとも追いつけたさ",
"石巻へなんの用だ",
"里見老はなに用だ",
"なんの用があって石巻などへゆくんだ"
],
[
"なにをばかな",
"ばかなことはないさ、義兄(新左衛門)が死んで以来、休みなしに三人分もはたらいて来た、七十五日の法要が済んで、久方ぶりにいとまが出たから、保養にでかけるんだ"
],
[
"御免を蒙る",
"大事な相談があるんだ",
"相談なら妓楼でもできるさ",
"七十郎、――",
"戻るのは御免だ、石巻ならいっしょにゆくよ、そうするがいい、里見老"
],
[
"突拍子なことを云うな",
"七十郎は御家臣に召し出される、家禄は五百石、これでも石巻へ遊びにゆくか"
],
[
"おれが嘘を云う人間か",
"この七十郎が、――御家臣に召し出される",
"もういちど云うが、家禄は五百石だ"
],
[
"喧嘩を売りたいんだな",
"馬をよこせと云うんだ",
"三人で二頭の馬をどうする",
"どうしようとこっちの勝手だ、文句を云わずにそこをどけ",
"ばかなやつだ",
"なんだと"
],
[
"名をなのれ",
"大藤五郎太、そっちの名も聞こう"
],
[
"おれを追って来たって",
"首を覘っていると直感した",
"この首をか"
],
[
"うん、ないこともない",
"十左は負けない人間だ、不正不義とみれば相手を選ばず噛みついてゆく、ついさきごろも意見書を配ったろう",
"小野へも届けた筈だ",
"おれは見なかったが、義兄から聞いた、その中ではっきり一ノ関を非難していたそうではないか、おい女、酌を忘れるな"
],
[
"会う、この年末に帰国するそうだから、仙台でぜひとも会うつもりだ",
"むずかしいな、一ノ関は会いはしないぞ"
],
[
"一ノ関にか",
"おれを家臣に召し出そうというんだろう、それが事実なら、きっと呼びだしがあるだろうし、訪ねてゆけば会う筈だ",
"会ってどうする"
],
[
"それでもまだ遠慮してあるくらいだ",
"米の買い占めというやつは事実なのか",
"必要なら証人を呼びだすこともできる"
],
[
"事実そうだからな",
"それだけならよかったんだ",
"それだけだったと思うがな",
"おまえは酔っていたようだが、人間というものはその年齢があらわれるのが自然だ、あまり壮健すぎ、年よりも若くみえるような者は、突然ぽっくりとまいるものだ、父上もお気をつけなさい",
"冗談じゃない",
"そのとおり云ったんだ",
"冗談じゃない、おれがそんなことを"
],
[
"熊沢了海どののことはいつか申上げたと思います",
"近江の蕃山どのか",
"いま京におられるのですが、ぜひ会って、御意見を聞きたいことがあるのです、手紙でも再三うかがったのですが、どうしてもいちどじかに会って、直接、御意見を聞きたいのです"
],
[
"それは、仙台の紛争、についてか",
"――そうです"
],
[
"それはそうかもしれませんが",
"おまえには学才もあり兵法にも精しい、親の口からこんなことを云うのは愚かしいかもしれないが、文武の道でりっぱに一家を成すことができる筈だ"
],
[
"そういうことは迷惑だし、滑稽だな",
"迷惑、滑稽、――",
"父上の夢を実現するために、私がなにかするなどということが考えられるかね、私は私だ、私は自分が是なりと信ずるように生きる、他人の希望に順応したり、掣肘されて生きるようなことは、私にはできない",
"つまり好き勝手なことがしたい、というわけか",
"つめて云えば、そうだ"
],
[
"ゆうべの夜なかに立ってまいりました",
"一人でか"
],
[
"与五が伴れて来てくれました",
"与五とは、与五兵衛か"
],
[
"与五と仲よしになったのか",
"与五は鹿の肉をお届けにまいりましたの、ですから宇乃は、おばさまにむりにお願いして、伴れて来てもらいましたのよ"
],
[
"あれは鮠だからだ",
"鮠ではいけませんの"
],
[
"泳ぎもなさいまして",
"泳ぎもした、向うの、あの瀬のあたりでね"
],
[
"お友達と",
"いや独りだった"
],
[
"まあ、主を釣ろうとなさいましたの",
"いや、そうではない、釣りをすれば、主が怒って姿をあらわすだろう、と思ったのだ",
"まあこわいことを"
],
[
"でもおじさま、逃げてしまいますわ",
"逃げてもいいんだ",
"どうしてですの"
],
[
"もう何十年も経つのでしょう",
"私が九つのときだからね",
"まだ生きているでしょうか"
],
[
"いまの鯉は、そのときの主の子供でしょうか",
"どうだかな",
"そうだとようございますわね",
"どうして",
"どうしてでも"
],
[
"七十郎はまだいるか",
"ずっと飲み続けで、だいぶ酔っているようでございます",
"与五が鹿の肉を持って来たそうだが、油焼きにして、少し七十郎に出してやれ"
],
[
"きげんがいいですって",
"江戸でいさましく宣告した筈ではないか、もう原田を訪ねる必要はないって"
],
[
"まあやるがいい",
"七十郎の盃はいやですか",
"私は飲みたいときに飲む",
"いまは飲みたくないんですか",
"用を聞こうか",
"貴方はかなしい人だな"
],
[
"私は聞いているよ",
"そうせかせないでもらいましょう、せっかくの酒が不味くなりますからね"
],
[
"私が一ノ関に呼ばれたことは御存じでしょう",
"いや、知らないね",
"御存じがない、本当ですか",
"知らないようだな"
],
[
"断わりました",
"ほう、五百石では不足か",
"五百石は私には有難い、北村の実家や小野(伊東采女)から小遣をねだっている身の上だから、私にとって五百石はたいまいです、しかし、――それは伊達家から呉れるのではなく、小野の知行から分けるというんです"
],
[
"益もないことを云う",
"益もない、ですって"
],
[
"船岡へはいつごろ来た",
"さようでございます、もはや十年ちかくになりましょうか",
"こんどまいったら館へ寄るがいい、御苦労であった"
],
[
"黄金迫の迫という字と、あの七ツ森というのは覚えにくい、迫というのをいつもさかと読んだり、さかりと読んだりしてしまう",
"迫をばさまと読むのがむりでございますから"
],
[
"あれから七年とすると、貴方はもう",
"二十二歳になります",
"御結婚のことはうかがったようですね",
"去年、長男が生れました"
],
[
"まるで地境の争いを持って生れて来たようだ、などと云って、父は笑っておりましたが",
"境論の起こっているのは、ここから見えますか"
],
[
"今日、そこへ内検分の者が来るのです",
"知らせを受けましたので、涌谷からも人を出してあります、船岡どのもおいでになるのではございませんか",
"私は涌谷さまに申上げたいことがあるのです、検分のほうは名目のようなものです",
"では、――御案内いたしましょう、それとも、もう少しここにいらっしゃいますか"
],
[
"父定宗が白石を攻めたときに着たもので、それまで亘理であったのを、初めて伊達の姓をたまわり、御一門に列した記念のものだ",
"たしか、大貫村の御隠居所(故定宗がいた)で拝見し、そのとき御先代から、お話しをうかがいました"
],
[
"つづめたところ、頼みにはならぬというのか",
"奥村という人物は留守役ですから、彼の意見だけで、加賀藩の意向をきめることは誤りでございましょう、けれども、同じ外様として、幕府の政策にどう対処するかという根本の立場だけは、判断することができると思います"
],
[
"いや、彼にはみすてられましたから",
"十左にみすてられたと"
],
[
"七十郎というと",
"小野の一族で、故新左衛門の義弟に当る者です",
"うん、知っている",
"十左が一ノ関と刺違えるとか申しておりましたが",
"ここへまいったときも、十左はそのように申していた、さようなことをすれば、酒井雅楽頭が黙ってはおるまい、必ず老中を動かして、六十万石に手をつけるであろう、断じてならぬと申しつけておいた",
"一ノ関は用心ぶかい人ですから、刺違えるなどということは、不可能でしょうが、それよりも、十左が諸方へまわしている書状、一ノ関を弾劾した書状のほうが、十左のために案じられるのです",
"一徹な気性で、やむにやまれぬらしい、おれの申すことなども、なかなか承知せぬようだ"
],
[
"寺池さまとの地境の争いですが、これを譲歩して頂きたいのです",
"このまえにも譲歩したぞ"
],
[
"そのことでもあんたに話しがあるの、ちょっとそこまでつきあってちょうだい、いいでしょ",
"うん、――いいよ",
"うれしい、ついそこの池之端なの、あんたすっかりおとなになったわね"
],
[
"さきへいってくれ、並んで歩くと人が見ていけねえ",
"逃げやしないわね"
],
[
"邪険だったなんて、云えた義理じゃないわね、あんたには悪いことばかりして、三年まえにはあんな勝手なまねをして",
"もう済んだことだ",
"勝手なまねだわ、自分で新さんを悪くしておいて、こんどはまじめになれだなんて、自分の都合だけで勝手なことをしていたのよ、ごめんなさい"
],
[
"あれからどうしてたの、あたしずいぶん捜したのよ",
"おれを捜したって",
"あんたをよ、石川さんたちの道場へ三度も五度も訪ねていったわ",
"あそこはあの冬に出てしまったんだ",
"みなさんそう云ってたわ、突然どこかへいってしまったって、それからどうしたの"
],
[
"あんたの声は唄に向いててよ",
"声なんかどっちでもいい、おれはいま新らしい唄をくふうしているんだ",
"新らしい唄ですって"
],
[
"人に逢うの、この隣りへ、あたしに逢う人が来るのよ",
"この隣りだって",
"あたしその人に逢って云うことがあるの、それをあんたに聞いてもらいたいのよ"
],
[
"向島の、あの侍だな",
"ええそう、黒田玄四郎っていう人よ"
],
[
"どうするんです",
"人が待ってますの"
],
[
"私は湯島の家で御厄介になっている者です",
"――湯島の家",
"原田さんの御隠宅です"
],
[
"湯島の家にいるというのは慥かだな",
"いって訊いてみて下さい、名前は新八という者です"
],
[
"なにか話しがあるんだろう",
"飲んでから、あたし今日は酔いつぶれるのよ",
"おれは湯島へ帰らなければならないぜ",
"酔ってからのはなしよ"
],
[
"酒なんかでごまかすより、思いっきり泣くほうが気が晴れるぜ",
"あたしが泣くんですって",
"おまえは黒田という男が好きだった、いまでも好きなんだ、隠してもおれにはわかる、おまえにはあの男を忘れることはできやしないよ"
],
[
"わかった、もうそのくらいでよしにしろ",
"よすもんか、お酒がないじゃないの、新さん",
"それ以上飲むと、苦しくなるぜ"
],
[
"――だろうね、わかるよ",
"わかるでしょ、新さんならわかるわね、あんたはあたしに似ているんだもの、あたしが似さしちゃったんだわね、あんたには悪いと思ってるの、あたし新さんには悪い女だったわ、でも好きだったんだもの、堪忍してね、あたし新さんが好きだったんですもの、ほんとよ、金も物もなしに、しんから好きになったのはあんただけよ、新さん一人っきりよ、わかるわね",
"少し休むほうがいい、少し酒を休んで横になれよ",
"あたしが酔ってると思うの",
"いいから横になれ、横になって話すほうが楽だよ",
"いいわ、云うことをきくわ、その代り膝を貸してね"
],
[
"おい、ちょっと立つぜ",
"どうするの",
"借りて来る物があるんだ、ちょっと頭をどけてくれ"
],
[
"かよたんはね、こんどたあたまのお国へゆくのよ、かあかんといっしょによ、そうですよ、お国へゆくのよ",
"そうか、それはえらいな",
"たあたまのお国は、ええと、ええとね、ええと、かまばっかりなのよ",
"かまばっかりか",
"お山でしょ"
],
[
"おかまばっかりで、かまにはちかがいるのよ、ほんとよ、こーんな大きなちかがいて、ちかもお乳をのむのよ",
"そんなに大きくてもか",
"大きいのはのまないのよ、かあかんが怒るのよ、いけませんって、それでものみたいって云うと、お乳が辛あくなるのよ、それで、ええと、それで、ちかはたあたまを、ええと、ええと、ちかは、云わらいないわ",
"鹿が父さんをいじめるのか",
"ちかは悪いのよ、たあたまをいじめて、悪いちかなのよ"
],
[
"ちかのお話よ",
"こんどは川の話しだ"
],
[
"滝尾は屋敷をさがりました",
"――どういうことだ",
"これを私に渡した日に、そのまま屋敷へは戻らず、ゆくえも知れなくなりました"
],
[
"そういうおそれはないと思います、もし疑われて、事実がわかったとしましても、これがお役に立つとすれば、なに、この命をひとつ投げだせば済むことです",
"女と逢っていたことは、誰かに知られていたか",
"わかりません、侍女たちの中には、知っていた者があったかもしれませんが、私はそういう者がいるとは、聞いたことはございません"
],
[
"私は自分の役目を知っております",
"わかってる、おれはこんどの事で、おまえに万一のことがありはしないか、もしもそうだとすれば、無用の危険は避けるほうがよい、と考えただけだ",
"その点では私よりむしろ滝尾のほうが危険です、滝尾のしてくれたことに対しても、ここで私だけが、身の安全を計るというわけにはまいりません、私は屋敷へ戻ります"
],
[
"東市正になにがあると",
"ただ、ごゆだんなきように、と申上げるほかはございません"
],
[
"聞いたように思う、たしか、品川の屋敷であったとか",
"お下屋敷へ伺候したときのことです、幸い供の者と、良源院どのの機転で、危ういところを逭れましたが、その人間がなぜ私を刺そうとしたか、おわかりでしょうか"
],
[
"なぜ東市正を覘うのだ",
"厩橋侯との契約は、東市正さまとの御縁にある、とかれらは信じております、されば、事の根元が東市正さまにあると思うのはしぜんでございましょう"
],
[
"私が現に、刺客に襲われたことは、御存じの筈です",
"それで、次は東市正だ、というわけか",
"いや、――よくお考え下されば、お屋形さまにも御推察のつくことです、名はあげませぬが、誰それこそ藩家に害をなす人であると、口に、文書に、触れまわっている者があります",
"里見十左衛門だな",
"名はあげません、しかしそれが一人や二人ではないこと、また無思慮な若者どもが、その煽動に乗って、いかなる暴挙に出ようとしているかは、およそ御推察がつくと思います、私だけの臆測ではございません、多くの事実が示しております"
],
[
"ことによるとまにあわぬかもしれぬ、すぐ手配をしてもらいたいが、ことによるともう仕置をしてしまったかもしれぬ",
"と仰せられますと"
],
[
"それが済んだというのか",
"仕置は済みました",
"いつだ",
"今日、いや、もはや昨日になりますか、昨日の夕刻に相済みました"
],
[
"仕置は誰の命令でやった",
"それは、もちろん、御老職からだと思います",
"名を聞こう、誰だ",
"御老職の連署でしたが、なにか御不審があるのですか",
"罪名はなんだ"
],
[
"――なんと仰しゃいます",
"毒を盛ったのではない、罪はまったくべつの事だ",
"私にはわかりません"
],
[
"――ひどく苦しんだか",
"がまん強い子でございましたから、口には少しも出しませんでしたけれども"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十巻 樅ノ木は残った(下)」新潮社
1982(昭和57)年12月25日発行
初出:「日本経済新聞」
1956(昭和31)年3月10日~9月30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「二の矢」と「二ノ矢」の混在は、底本通りです。
※「第三部」「第四部の冒頭のほぼ三章」の初出時の表題は「原田甲斐―続樅の木は残った」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:富田晶子
2018年3月27日作成
2018年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"おまえふじこだな",
"ふじこはわたしですよ",
"初めからふじこか",
"初めからって、どの初めからですか"
],
[
"このくらいの酒でおれは酔やあしない、そんな心配をするな、いまふじこの顔に気がついたので、びっくりしたところだ",
"わたしの顔がどうかしていますか",
"やまが育ちにしてはきれいだ、あんまりきれいなんで、今日が初めてかと思ったんだ",
"ばからしいこと",
"おまえ山そだちだろう",
"お客さんはどうですか"
],
[
"うん、よろしい、きれいだ、おまえ気にいったぞ、いったいどこから来た",
"柴田郡です",
"ふん、柴田郡か、――その年だと、もう亭主も子供もあるんだな",
"あればこんな奉公はしていません"
],
[
"船岡の在、だと",
"そうです、小坂というところで生れて、去年の暮までずっとそこにいたのです"
],
[
"ええ、知ってます",
"会ったことがあるか"
],
[
"友達とは、女どもか",
"やまがの娘たちです、みんな殿さまが好きだし、殿さまもわたしたちを可愛がって下さいましたよ",
"ばかなもんだ",
"なにがですか"
],
[
"お客さんは殿さまを御存じなんですか",
"おまえより古くからだ"
],
[
"気の毒だって",
"お酒を持って来ます",
"待て、気の毒とはどういうことだ"
],
[
"お客さんは、わたしより古くから、殿さまを知っているって仰しゃったけれど、殿さまのことはなにも御存じないようだからです",
"おれがなにを知らないんだ",
"殿さまがわたしたちを可愛がって下さる、って云ったことを勘違いして、殿さまを女にだらしのない人だって仰しゃったでしょう、そうじゃないですか",
"そうだからそうだと云ったまでだ",
"お気の毒ですけれど、殿さまはそんな方じゃありません、お客さんの云うことは、筍笠が冠の悪口を云うようなもんです"
],
[
"久兵衛も同じようなことを云ってましたっけよ",
"久兵衛だって"
],
[
"しんけんだったんだな",
"白痴なだけです"
],
[
"どうもしなかったです",
"捉まらなかったのか"
],
[
"そうかもしれねえです",
"そうかもしれないって",
"わたしたちにはわかるですけれど、殿さまの御性分を知らねえ人にはわからねえようですからね、そうかもしれないって云うよりしようがねえです",
"たくさんだ、原田の話しはやめにしよう",
"お客さんが始めた話しですからね"
],
[
"その裁決は誰がした",
"采女どのが呼ばれて、茂庭主水(周防の子)から申し渡されたということだ"
],
[
"いや、これはまだ江戸だ",
"今年は在国の筈ではないか",
"御用繁多で番が明かないということだ"
],
[
"久兵衛が射ったのはなんだ",
"――なんですか"
],
[
"その話しはやめろと仰しゃったですよ",
"なにを射ったんだ"
],
[
"命を助けられたのに、原田はどうして怒ったのだ",
"殿さまは御自分でくびじろを仕止めるおつもりだったんです、何年も何年も追っていらしって、追っていながら情愛をもつようになられたんです、くびじろには誰も手を出すなって、よくそう仰しゃってましたし、罠や鉄砲なんかでなく、いつも弓で正面から向かっていらしったんです、だから、久兵衛なんぞの鉄砲で殺されたのが、よっぽど哀れに思われたのでしょう、どうしておれを射たなかった、とたいそう大きな声で怒られたそうですけれど、わたしたちはそれを聞いて、すぐに殿さまのお気持がわかったですよ"
],
[
"まだ思案がきまらないのか",
"あぐらをかくがいい、里見老、時間はまだたっぷりある"
],
[
"小野の館には、一ノ関に通謀する者がいるんだ",
"内通者だって、ばかなことを云うな"
],
[
"いつごろからだ",
"わからない、ずっと以前からかもしれないが、おれが気づいたのは義兄の死んだあとだ",
"証拠があるのか",
"一つだけ云えば、両後見から取った三カ条の誓紙を、盗もうとした者があった",
"一ノ関の欲しがっていた、あれをか",
"兵部は義兄の病中から、あの誓紙を返せと云っていた、誓紙の三カ条は、事のあったとき兵部を取って押えることができる、それでしきりに返せと迫っていたのだが、おれはそれを小野の館へ持ち帰った",
"盗もうとしたことは間違いないか",
"しかも、それは奥山か鷺坂か、どちらかでなければ、近よることもできず、そこだという見当もつかない場所だ、内通者がいるという証拠はほかにもあるが、いまそれを教える必要はないだろう"
],
[
"それで、どうする",
"里見老になにか意見があるか",
"涌谷を考えた",
"命乞いか",
"事情をよく話して、涌谷が口をきいてくれれば、――"
],
[
"むろん、これはおれだけの思案だ",
"それはできない、争いの根本は国老の失態だし、直接には一ノ関の手で、今村善太夫が故意にしたことだ、席次のことで恥をかいたうえに、また命乞いをするなどということができるものか",
"ではどうしようというのだ"
],
[
"すでに国老評定の裁決が出ている、采女どのは逼塞、七十郎は預け者と、正式に裁決が出ているのだ",
"呼びつけて詰腹を切らせるつもりだ、と云ったのは里見老ではないか"
],
[
"かれらが詰腹を切らせるつもりだということは慥かだ",
"出頭しないという方法もある"
],
[
"あとでいいが、館の間取を図に書いてくれ",
"一ノ関へゆくのか"
],
[
"兵部らしいな",
"そのときちょうど、おれは十カ条を挙げて兵部を問罪し、仙台では連日にわたって面会を求めた、それを思いだしたのだろう、曲者は里見十左衛門だといきりたって、ただちにおれの動静をさぐりに来た"
],
[
"そんなふうに小心だから、館の警護もつねに厳重だし、ましてこんなときに訪ねても、刺すことはおろか、面会することさえ不可能だと思う",
"それには手がある",
"一ノ関にはいかなる手もきかないんだ"
],
[
"館の図面を頼むぞ",
"詳しくはない、玄関から接待、そして書院までしか知らないが、知っているだけは間違いのないように書こう",
"頼む、それによって手順をきめる"
],
[
"十九歳といえば若すぎる年齢ではない、それに平生おとなしい人間ほど、いざとなると思いきったことをするものだ、ことに、こんどの事の起こりは采女自身なのだから、彼は充分やるに相違ない",
"それが慥かなら、おそらくは仕遂げることができるだろう"
],
[
"そうきまったのですか",
"ほかに手段があるか"
],
[
"里見どのはあのとおり一徹であるし、こなたさまの御気性が御気性ですから、どんなことになるかと思いまして、じつは――",
"じつは、どう思った",
"いや、これでおちつきました、胸のつかえがおりたようでございます"
],
[
"疲れているんだ",
"おれはどうやら、七十郎のあとに残るのが心ぼそいらしい、まるで女のくさったような、みじめな心持だ"
],
[
"そんな必要はない、それでは事を面倒にするばかりだ、明日はここで別れよう",
"おれは小野までゆきたいのだ"
],
[
"抜き身のままのほうがいい、そのほうがすぐにやれる、鞘は無用だ",
"誓紙に巻きましょうか",
"誓紙は持ってはゆかない、あれは涌谷へ送るのだ、短刀はそれらしい奉書にでも巻いてゆこう",
"わかりました",
"いちどためしてみるか"
],
[
"家の子にまで反かれては望みはない、残念だがこれまでだ",
"しかし叔父上",
"これまでだ、運がなかったのだ、諦めよう采女"
],
[
"七十郎どのが死罪になりましたそうで",
"彼らしく死んだようだ"
],
[
"七十郎は七十郎らしく生き、七十郎らしく、あまりにも七十郎らしく死んだ、彼にはほかに生きかたもなく、ほかに死にかたもなかったということを考えたのだ",
"まことにひと筋な、紛れのない方でございました"
],
[
"あとで読んでおくがいい、私は湯島へでかける",
"平六はいかが致しますか",
"話しがあったら聞いておいてくれ、どうやら雨になりそうだ、降りださぬうちにでかけるとしよう"
],
[
"赤ちゃんじゃありません、かよたんは五つですからね",
"そうか、小さい五つか",
"小さくはありませんですよ、大きい五つですからね",
"では抱っこをする五つだな"
],
[
"でも嘘は困りますわ",
"嘘ではない、人を騙そうとするのは嘘だが、自分の感じたことを伝えようとするだけだ、そういうときはあまり咎めだてをしないで、聞きながしてやるほうがいい"
],
[
"お屋敷へあがれないでしょうか",
"かよのことは、もう信助に頼んである",
"一年でも二年でもようございます、お屋敷でいっしょに暮すことはできないでしょうか"
],
[
"あの人たちの、仲のいいところを見たからかもしれません",
"あの人たちとは",
"宮本、いいえ新八さんとおみやさんです"
],
[
"あのお二人は御夫婦になるようです",
"新八と、あの女が",
"二人はいつも逢っているようですし、今日も新八さんといっしょに来ています"
],
[
"二人はいま浅草の誓願寺裏という処に住んでいて、新八さんは唄で稼げるようになったし、おみやさんはその世話をしにかよっているそうですわ",
"まだいっしょではないのか",
"それほどの稼ぎはまだないと云ってます、おみやさんはどこかに奉公していて、ときどき逢いにゆくような話でしたわ",
"それが羨ましかったのか"
],
[
"いや、三十日ほどまえに旅立ちました",
"名はなんといった",
"一玄と申しました"
],
[
"いや、そうではない",
"私は毒死とうかがいましたが"
],
[
"鮎も夜釣りをするんですか",
"船迫の柏屋に伊助という者がいまして、篝釣りというのをやります、淵のところで水の上へ篝火を架けると、魚が火をしたって集まるのです、そこを釣るのですが、蚊も集まって来るので弱りました",
"隼人に断わりましたか"
],
[
"宗輔がどうして面談を避けるか、理由がわかっていると仰しゃったようですね",
"ほぼ推察のつくことであり、おそらく間違いはないと思うのです、と申しますのは"
],
[
"まだ焼きあがってはいなかったのか",
"もう少しというところでございました"
],
[
"ならぬ、と云われるか",
"論に及ばぬことだと思います"
],
[
"理由がありましょうな",
"申すまでもなく、理由ははっきりしております",
"それをうかがいましょう"
],
[
"そのつもりです",
"もしほかに用がなかったら、案内をしてもらいたいところがあるのだが"
],
[
"長徳寺を知っておいでですか",
"川向うですね、知っています"
],
[
"御本心でしょうな",
"自分のことではなく、万治以来の出来事がどういう意味をもっているか、いまそれがどう動いているか、ということを知ってもらいたいのだ"
],
[
"あったのだ",
"よもや風聞ではございますまいな",
"酒井侯と一ノ関とで取交わした証文があり、仔細あってその一通を私が持っている",
"紛れのないものですか"
],
[
"某侯とは誰びとです",
"名は云えない"
],
[
"まえに云ったとおり、仙台六十余万石の改易だ",
"この泰平の世にですか"
],
[
"私は事実から眼をそむけないだけだ",
"しかしそれが単なる推察でないとしたら、どうして早くその事実を告発しなかったのですか、もっと早くそれを告発していたら、これまでに払われた多くの犠牲は避けられたでしょう、七十郎とその一族の無残な最期も、避けられたのではありませんか"
],
[
"一つだけある",
"うかがわせて下さい",
"耐え忍び、耐えぬくことだ",
"なにを、どう耐えぬくのです"
],
[
"もう鮎がくだり始めたのか",
"美しい、みごとな鮎でございますわ",
"帰ったら掴みにゆこう",
"つかみに、ですか",
"淵にある深い岩の隙間などで鰭を休める、それを潜っていって手で掴むのだ、宇乃はまだ見たことがなかったか"
],
[
"いつのことだ",
"昨日でございました"
],
[
"お背中をながしましょう",
"いや、それには及ばない"
],
[
"届いております",
"舎人には久方ぶりであろう、膳の支度をしてここへはこばせてくれ"
],
[
"涌谷さまのお口添えで、山崎どのの役宅におります",
"山崎とは、――",
"郡奉行の山崎平太左衛門どのです"
],
[
"――どういう御思案だろう",
"不都合でもございますか",
"山崎はいま、涌谷と寺池との境論を預かっていて、おそらく一ノ関からきびしく監視されているに相違ない",
"しかし私を知っている者はないと存じますが"
],
[
"失礼ではございますが",
"境論を山崎に預けたのは、山崎が涌谷さまの縁辺に当るからで、そのために山崎が窮地に立たされるだろうということは、涌谷さま自身も知っておられるのだ",
"涌谷さまがですか",
"手紙にもそう書いてあった"
],
[
"私は原田家の家従です、直臣にあげられましてからも、自分ではずっと原田家の家従のつもりでおりました",
"それならなおさら、私の云うことをきけない筈はないだろう、おまえは家禄没収のうえ追放になった、これからは自分の身を立てることだけを考えればいいのだ",
"直臣としては追放になっても、原田家から追放された覚えはございません",
"そういう云いかたを私が好むとでも思うのか"
],
[
"どうしたのだ",
"お庭へ出ていらっしゃいましたので",
"起きていたのか"
],
[
"いや、気にするほどのことではない",
"なにかまた、いやなことでも起こるのではございませんか"
],
[
"船岡がいやになったか",
"いいえ、お側にいたいだけですの"
],
[
"まだそうは経ちません",
"そんな硯洗いなんか、部屋番にやらせればいい、さあ、支度をして来ないか、いっしょにちょっと出よう"
],
[
"外記って、支配の松本さんか",
"そうです、なにがしとかいう高家から借りられた弘安礼節という古写本で、公儀の礼式を書いたものですが、今月いっぱいに写して返さなければいけないんです"
],
[
"それを云うな、黒田は必ず出世をする、勘定方だけではなく、黒田玄四郎の評判はたいへんなものじゃないか、知ってるんだろう",
"冗談を云わないで下さい",
"知らないというなら嘘だ、知らないなんて云わせないぞ、腰元どもが禁を犯して、中の木戸の垣根越しに文を付ける、それも五度や十度ではない、ということをおれはちゃんと知っているんだ、まあ聞けよ、おれはそれを咎めるんじゃない、黒田が相手にしないこともわかっているよ"
],
[
"わたくしだけにでも",
"理由があまりにめめしく、みれんなものですから"
],
[
"いや、知らないのです",
"お国のほうではないんですか",
"せっかくのお訊ねですけれども、この話しには触れないでいただきたいのです"
],
[
"きさまは誰だ、妹のことを知っているのか",
"知っています、まず刀をおさめて下さい、ここを出てから話しましょう"
],
[
"初めに云いますが、私は滝尾どのと密通したことなどはありません、それは貴方の間違いです",
"よし、云うだけ云ってみろ"
],
[
"片腕だって",
"右の腕がないようでした、左手は見えましたが、右の袖は前袴に鋏んだままでした、たしかに片腕だったと覚えています"
],
[
"それはいつのことだ",
"三年まえの夏、六月のことでした",
"それで、――",
"それからまもなく、滝尾どのは屋敷から出てゆかれたようです、私はずっとあとで聞いたのですが、ことによるとそのときそのまま、新八という男と立退いたのかもしれません、詳しいことを訊くわけにはいきませんでしたから"
],
[
"それが本音だ",
"しかし私にはそれは云えない"
],
[
"おれを、憐れんだというのか",
"私は人間を侮辱することは嫌いだ"
],
[
"汁椀をあけろ、それで飲む",
"ではべつのを持って来ます",
"いいからそれをあけろ",
"でもここではあけようがありませんから、ちょっといって持って来ます"
],
[
"ごむりを仰しゃっては困ります、わたしはただ大きいので召上るというので持って来ますと申しているんですから",
"よし、じゃあおれに汁椀をよこせ"
],
[
"用心がいいな",
"気違えに刃物は怖いからな"
],
[
"ちゃんと書けていますよ、お父さま",
"そうかな",
"ちゃんと書けてますからね、ほら"
],
[
"ね、違わないでしょ",
"そうかな、あそしまでいいのかな"
],
[
"うみとんぼとはなんのことだ",
"ばかみたような人のことですって、日本橋のおじさまがそう云ってましたわ",
"日本橋、――雁屋か"
],
[
"あなたは世間の噂をご存じでしょう",
"噂にはもう馴れている筈だ",
"あたしがですか",
"万治の大変があって十年このかた、私についての噂には飽き飽きしている筈だ",
"こんどはそうではございません、そうではないということをご存じでしょう",
"酒がないようだぞ"
],
[
"七十郎はここへ来たのか",
"お国へ帰るとき、ちょっとお寄りになったのです",
"おまえはなにも云わなかった"
],
[
"それは、そのとおりだ",
"ではなぜ、そうして下さらないんですか"
],
[
"いまなん刻ぐらいだ",
"七つ(午後四時)ちょっとまえでしょう"
],
[
"あなたが、おでかけですか",
"いそぐ、と念を押すように云ってくれ",
"あなたがいらっしゃるのですか"
],
[
"その必要はない、残れ",
"どう仰せられようとも、私はお供を致します"
],
[
"申してもむだでございます",
"どうしてだ"
],
[
"新八はなんの用で来た",
"どこへいらしったかも、うかがえないんでしょうか"
],
[
"その別れに来たわけか",
"ひとめおいとま乞いがしたいと申しております"
],
[
"おめにかかりました",
"どこで会った"
],
[
"知っている、それは老中にもうかがって、差支えなしということになったのだ",
"私は存じませんので、その人数にも驚きましたが、涌谷さまはじめお供の人々の、あまりに意気ごみ、緊張していることに吃驚いたしました、まるで、いまにも一と合戦始めようというような感じなのです"
],
[
"供頭の亘理蔵人どのから聞いたのです",
"喜兵衛は蔵人を知っている筈だ",
"涌谷へお供をしたときに対面しております、そこで、中田の宿所に泊った夜、一刻あまりも話したのですが、涌谷さまが毒害をおそれるのは、一ノ関の手が廻っているという注意があったからで、仙台へ出たときにもいっさい他家の招きには応ぜず、ひきこもったきりだったということでございます",
"一ノ関の手が廻っている、などということを信じたのであろうか",
"仙台に滞在ちゅうも、しばしば密告する者があったと、申しておりました"
],
[
"かしこまりました",
"休むがいい、御苦労だった"
],
[
"魚籃の中の魚だからな",
"お帰りになるんですのね"
],
[
"同じく十五日。綱宗さまから涌谷へ、ひそかに書状が遣わされた、ということがわかった。十三日のことだという",
"同じく十六日、幕府申次の大井新右衛門から使者があって、涌谷さまは初めて麻布を出、大井方へ出頭された。そこにはやはり申次の島田出雲、新たに申次となった妻木彦右衛門が同席して、対談一刻に及んだという"
],
[
"その話しはよしましょう",
"いやよしません、米谷どのまでが誤解しているのを知りながら、貴方は自分の立場を少しも釈明なさろうとしない、これはどういうわけなのですか"
],
[
"些か珍らしい物が手にはいりましたので、お笑いぐさに献上かたがた、世間ばなしなどお耳にいれたいと存じまして",
"世間ばなし",
"御身分高き方がたには思いもよらぬような、桁外れな話しが世間にはいろいろとございます、お骨休めにもなればと存じまして、二三御披露つかまつりたいのですが",
"よかろう、が、まず土産を見ようかな"
],
[
"おそれいります、内福どころか家政は火の車、いまにも所帯じまいをしかねないありさまでございます",
"所帯じまい、――",
"もちろん御存じはございますまい、これは下世話の申す言葉で、家計がゆき詰まり家主に追いたてられまして、一家親子がちりぢりに駆け落ち夜逃げなどをすることでこざいます",
"しかも、かようなものを土産にくれるというのか"
],
[
"おそれながら、お側衆の耳には聞き苦しいこともあるかと存ぜられますが",
"人払いが所望か",
"私は構いませぬ、けれども、話しの中にはお側から好ましくないと、お差止めの出るようなものもございますので"
],
[
"これはどういうものだ",
"まず御披見を願います"
],
[
"そのほうがよろしければ",
"実のものに紛れはあるまいな",
"御助力が願えるのですか"
],
[
"よし、とおせ",
"ずっと寄れ、玄蕃、辞儀は無用だ、ずっと寄れ、一つ遣わそう"
],
[
"それには及ばぬ、注げ",
"うん、玄蕃、こうだ、おれは原田がぬかりなくやるだろう、と安堵している、そう申し伝えてくれ"
],
[
"隼人までがそんなことを申すのか",
"隼人、それは事実か",
"もういちど訊くぞ隼人、いま申したことに間違いはないか"
],
[
"首尾はどうあると思う",
"大藩取潰しの手筈をあかしたのですから、仙台六十万石は安泰であろうと思います",
"慥かにそうみるか"
],
[
"酒井侯の立場とは",
"侯はいま天下第一の威勢をもち、将軍家さえも侯を憚られると聞いています、こういうぬきん出た威勢には、必ず対立する勢力が生ずるもので、閣老の中にも酒井侯打倒の機をうかがっている者があるに相違ないと思います"
],
[
"証文は持って来てあるか",
"持ってまいりました"
],
[
"そうだ",
"それならたしか、板倉さまの屋敷でひらかれると聞きましたがね"
],
[
"――伊達家の人たちをですか",
"一人残らずだ"
],
[
"しかし太田さん、貴方は御自分の義弟になろうという者に、手柄を立てさせたいとは思いませんか",
"おれの義弟だって"
],
[
"やってくれますか",
"たぶんだめだろうとは思うが、当るだけは当ってみよう、そこもとは勘定場へあがって、なにか手伝い仕事でもしていてくれ"
],
[
"田村でもやったらいいだろう",
"おれがいって来る"
],
[
"さもなくて、これだけのことはやれません、侯は敗北を認めたのです、これは、六十二万石安堵の代償です",
"それなら惜しくはないぞ"
],
[
"これはなにごとだ、原田、はっきり云え、なにごとがあったのだ",
"私です、私が逆上のあまり"
],
[
"では宇乃どのは、あれから松山(茂庭家)におられたのですか",
"はい、帯刀さまの奥さま嬢さまがたがお預けになりましたとき、おばあさま、――慶月院さまから、付いてゆけと申されましたので",
"船岡ではずっと御隠居の側にいたと聞きましたが"
],
[
"御隠居はそのときもう、死ぬ覚悟でおられたのでしょう、たしか食を断って亡くなられたと聞いたようですが",
"はい、七月二十九日だとうかがいました"
],
[
"こなたは松山へ帰られるか",
"はい、茂庭さまでもぜひ戻って来るようにと仰しゃいますし、松山はおばあさまのお里でございますから"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十巻 樅ノ木は残った(下)」新潮社
1982(昭和57)年12月25日発行
初出:冒頭のほぼ三章「日本経済新聞」
1956(昭和31)年3月10日~9月30日
上記以外「樅の木は残った 下巻」講談社
1958(昭和33)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「第三部」「第四部の冒頭のほぼ三章」の初出時の表題は「原田甲斐―続樅の木は残った」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:富田晶子
2018年3月27日作成
2018年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"いったいいつまでにやればいいんだ",
"無理だろうが明日のひるまでに頼みたいんだ",
"そいつはむつかしいや、明日までというのがまだ此処にこれだけあるんだから、まずできない相談だよ",
"そうだろうけれど、どうしても爺さんの手で研いで貰いたいんだ、そいつを持って旅に出るんだから"
],
[
"江戸にいれば頭梁の家で幸太の下風につくか、とびだしたところで、一生叩き大工で終るよりほかはない、それより上方へいって、みっちり稼いで、頭梁の株を買うだけの金をつかんで帰って来る、知らない土地ならばみえも外聞もなく稼げるし、あっちは諸式がずっと安いそうだから、早ければ三年、おそくっても五年ぐらいで帰れるだろう、おせんちゃん、おまえそれまで待っていて呉れるか",
"待っているって"
],
[
"……どこで、この手紙どこで頼まれたの",
"大阪でひょっくりぶっつかったんだ、そうしたらこれを内証で、おせんに渡して呉れと云われてね、元気でやっているからってさ",
"そう有難う、済みません"
],
[
"たいそうあがったのね、臭いわ",
"水を貰おうかな",
"床がとってありますから横におなりなさいな"
],
[
"それで、お祖父さんは、どう返辞をなすったの",
"おまえには済まないが断わった",
"…………"
],
[
"知っていてよ、それがどうかしたの",
"あんたがその人のお嫁さんになるのだって、みんながその噂ばかりしているのだけれど"
],
[
"どう違うと云うんだね",
"おれは十三で杉田屋へ来た、おせんちゃんとはそのときからの馴染なんだ、爺さんとだって、今さらのつきあいじゃあない、なにも縁談が纏まらなかったからって、つきあいまで断わるということはないと思う、そいつは、あんまりだぜ爺さん",
"つきあいを断わるなんということじゃないのさ、なにしろこっちはこの老ぼれと娘だけの暮しだ、そこへ若頭梁がしげしげ来るというのは人眼につくし、ひょんな噂でも立つと杉田屋さんへおれが申しわけがないからな"
],
[
"そうくるだろうと待ってました、ひとつ北へでもお供をしようじゃあありませんか",
"うわごとを云うな、来いというのは大川端だ、おまえなんぞは隅田川の水が柄相応だぜ、たっぷり呑ませてやるからついて来な",
"若頭梁は口が悪くっていけねえ"
],
[
"さっき状がまわって来て、きょう茶屋町の伊賀屋でなかまの寄合があるというんだ、飯をたべたらちょっといって来るからな",
"帰りはおそくなるんですか",
"ながくったって昏れるまでには帰れるだろう、台所に泥鰌が買ってあるから、晩飯にはあれで味噌汁を拵えておいて呉んな",
"あら泥鰌があったんですか、それじゃあお酒も買っておきましょうね",
"酒は寄合で出るだろうが",
"でも初ものだから無くっては淋しいでしょう"
],
[
"おもんちゃんが、どこで聞いたのかしら",
"また明日来ますとさ、それから晩の支度はここにできているからね、お湯もすぐ沸くからおあがんなさいよ、あたしはちょっと家のほうを片づけて来ますからね"
],
[
"済みません、有難うございました",
"もっと早く来る積りだったんだが、手放せない仕事があったもんでね……たいへんだったな、おせんちゃん",
"ええあんまり思いがけなくって",
"でもまあお爺さんのほうはもうたいしたことはないようだから、そいつはさほど心配しなくてもいいだろうけれど、このままじゃあおせんちゃんが堪らないな、なんとか考えなくっちゃあいけないと思うんだが"
],
[
"よくわかっているわ、でも幸さん、あんた覚えていないかしら、お正月あんたが家へ来て帰るとき、表で山崎屋の権二郎さんに会ったでしょう",
"山崎屋の権に、……そうだったかも知れない、だがもうよく覚えていないよ"
],
[
"冗談じゃあない、あんな酔っぱらいの寝言を、そんなまじめに聞く者があるものか",
"それならよそでも聞いてごらんなさい、世間にはもっとひどいことさえ伝わっているのよ、あんたは男だから、そんな噂もみえの一つかも知れないけれど、おんなのあたしには一生の瑾にもなりかねないことよ"
],
[
"考えてみて頂戴、これまでもそうだったけれど、こんなになったお祖父さんを抱えてやってゆくとすれば、これからはよっぽど身を慎まないかぎり、どんな情けないことを云われるかわからないじゃないの",
"そいつをきれいにする方法はあるんだ、おせんちゃん、おまえさえその気になって呉れれば",
"それはもうはっきりしている筈だわ"
],
[
"そうだったのかい、あたしはまた杉田屋さんでなにもかもして呉れるんだと思って安心していたのだよ、それじゃあなんとか考えなくちゃあいけないね",
"どんな苦労でもするわ、おばさん、あたしよりもっと小さい子だって、もっともっと辛い気の毒な身の上の人がいるんだもの、十八にもなったんだから、たいていのことはやってゆけると思うの"
],
[
"お医者さまがそう云うんですもの、それはあがるほうがよくってよ",
"だがなにしろこんなからだで酒を呑むなんぞは、それこそ罰が当るというもんだからな、みんなおまえの苦労になるんだから",
"いやだわ、また同じことを"
],
[
"もうたくさんよお祖父さん、そんなに気を疲らせては病気に悪いわ、過ぎたことは過ぎたことじゃないの、それよりこれから先のことを考えましょう、あせらずゆっくり養生すれば、お祖父さんだってまた仕事ができるようになってよ、二人で稼げば暮しだって楽になるし、ときにはいっしょに見物あるきだってできるわ、今年は忘れずに染井の菊を見にいきましょうよ",
"ああそうしよう、おせん、見せる見せるといって、ずいぶん前から約束ばかりしていたからな、そうだ今年こそきっと見にいこう"
],
[
"わかってるわお祖父さん、でもあせっちゃあだめよ、ずいぶん焦れったいと思うわ、辛いこともよくわかるわ、でもこの病気はあせるのがいちばん悪いの、がまんして頂戴お祖父さん、もう少しの辛抱だわ",
"そういうことじゃないんだ、おれは決してあせったり焦れたりしやあしない、ただどうにも、どうにも砥石がいじりたくってしようがなかった、鹿礪石のざらりとした肌理、真礪、青砥のなめらかな当り、刃物と石の互いに吸いつくようなしっとりした味が、なんだかもう思いだせなくなったようで、心ぼそくってしようがなかったんだ"
],
[
"近いようじゃないか",
"ちょっと出て見るわ"
],
[
"……まあずいぶんひろがったわね",
"そんなこともないだろうけど、手まわりの物だけでも包んで置くほうがいいね、うちでもとにかくひと片付けしたところだよ、なにしろここにはお祖父さんがいるんだから",
"どうも有難う、そうするわおばさん",
"いざとなったらお祖父さんはうちが負ってゆかあね、それは心配はいらないからね"
],
[
"それじゃあ、あたしもここにいてよ",
"ばかなことを云っちゃあいけない、おれとおまえとは違う、おまえはまだ若いんだ、おまえは、これから生きる人間なんだ、若さというものは、時に定命をひっくり返すこともできる、七十にもなれば、もうじたばたしても追っつかないが、おまえの年ごろにはやるだけやってみなくちゃあいけない、どん詰りまでもういけないというところから三段も五段もやってみるんだ、おせん、おれのことは構わずにゆきな、半刻もすればまた会えるんだから",
"お祖父さん"
],
[
"ええもう包んであるわ",
"じゃちょっと手を貸して爺さんを負わして呉んな、なにか細帯でもあったら結びつけていこう。色消しだがそのほうが楽だ"
],
[
"よかったらゆくぜ、おせんちゃん",
"あたしはこれを持てばいいの、ああいけない火桶に火がいけてあったわ",
"いけてあれば大丈夫だ、そんなものはいいよ"
],
[
"押しちゃあだめだ、戻れもどれ",
"どうしたんだ先へゆかないのか",
"御門が閉った"
],
[
"門を毀せ",
"押しやぶってしまえ"
],
[
"あら、お握りなら持って来てあるのよ",
"そいつはとっとくんだ、明日がどうなるかわからないからな、爺さん一つ喰べておかないか、ちょうどまだ湯が少し温かいんだがな、おせんちゃんもどうだ",
"ええ頂くわ、お祖父さんもそうなさいな",
"なんだか野駆けにでもいったようだな"
],
[
"いいえそんなことはなくってよ幸さん、ここまででも伴れて来られたのはあんたのおかげだわ、お祖父さんはどうしても逃げるのはいやだってきかなかったんですもの",
"おまえの足手まといになると思ったんだ、病気で倒れてっからも、爺さんはおまえの世話になることが辛くって、どんなに気をあせっていたか知れなかった、おれにはよくわかったんだ。他人ぎょうぎじゃあないぜ、爺さんはおまえを可愛がっていた、どんなお祖父さんがどんな孫を可愛がるよりも可愛がっていたんだ、おまえに苦労させるくらいなら、いっそ死ぬほうがいいとさえ……おれにそう云ったことがあるんだ、だからおせんちゃん、薄情なようだが諦めよう、爺さんは楽になったんだ、ながい苦労が終ってもうなにも心配することもなく、安楽におちつくところへおちついたんだ、わかるなおせんちゃん",
"幸さん"
],
[
"なに云うの幸さん、今になってそんなことを",
"いや云わせて呉んな、おれはおまえが欲しかった、おまえを女房に欲しかったんだ、おまえなしには、生きている張合もないほど、おれはおせんちゃんが欲しかったんだ"
],
[
"大丈夫だ、赤ん坊はおれが預かるから、そこへ足を掛けて下りな、落ちても腰っきりだ、よし、こんどはここへ捉まって、ゆっくりしな、そうそう、いいか",
"赤ちゃんを水に浸けていいの",
"焼け死ぬより腹くだしのほうがましだろう、いま上から蒲団を掛けるからな"
],
[
"まあ可哀そうに、こんな若さでねえ、まだ十六七じゃないかね",
"いくら年がいかなくっても、わが腹を痛めた子に乳をやることも知らないなんて、本当に因果なはなしだよねえ"
],
[
"――欠け丼のひとつも持つならいいが、手ぶらで並んでてどうするつもりかさ、可哀そうに赤ん坊が泣きひいってたぜ",
"友さんのところへ乳を貰いにいっといでって出してやったんだよ、そこからいっちまったんだねきっと、あらまあ頭からこんなに濡れてるじゃないか、持ってった傘をどうしたろう",
"いいからあげてやんなよ、傘は友助んとこへでも忘れて来たんだろう、ああ人ごこちがついたら腹が減ってきた、早いとこそいつを温ためて貰うべえ",
"あいよ、さあおまえお掛けな、足を拭いてあげるから"
],
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"ええ違うんです、それは違う人の名なんです、あたしこの子の名は知らないんですもの",
"そんなら人別にそう書いちまったんだからそうして置きな、幸太郎ってちょっとすっきりした男らしい名じゃないの"
],
[
"ええ頭が軽くなったような気がするわ、なんとなくすうっとしてなにもかも思いだせそうになるの、ひょいと誰かの顔がみえるようなこともあるんだけれど",
"あせらないがいいよ、そうやってひととおりなにかが出来るようになったんだから、もう暫く暢気にしているのさ、そのうち本当におちついてくればすっかりわかるようになるからね",
"おばさん本所の牡丹屋敷って知ってて",
"四つ目の牡丹屋敷かい、あたしはいったことはないけど、それがどうかしたのかえ"
],
[
"浅草寺の境内にまたゆき倒れが五人もあったってさ",
"なかに死んだ赤ん坊を負った女がいたそうじゃないの、まだ若いんだって、そばには御亭主も倒れていたけれど、動かせないほどのひどい病人だったって話よ",
"いやだねえ、昨日は御厩河岸に親子の抱き合い心中があがったし、なんて世の中だろう",
"いつになっても泣くのは貧乏人ばかりさ、ひとごとじゃあないよ"
],
[
"このひとを知ってるんですって",
"向う前に住んでたんだ、いま取払いになっちまったが三丁目の中通りで、この娘のうちは研屋、おらあ山崎屋という飛脚屋の若い者で権二郎っていうんだ"
],
[
"いいえ、このひとのなんでしょう、ひきとったときもう抱いてたんですよ",
"へええ、やっぱりね",
"この子の親を知ってるんですか"
],
[
"まったくよ、どんなに小さくとも橋があればあんなにたくさん死なずに済んだんだ、なにしろ浅草橋の御門は閉る、うしろは火で、どうしようもなく此処へ集まっちゃったんだ、見られたありさまじゃなかったぜ",
"橋を架けなくちゃあいけねえ、どうしても此処にあ橋が要るよ",
"そんな話も出ているそうだぜ"
],
[
"――庄さん",
"おせんちゃん、どうしたのさ",
"おばさん、わかってきた、あたしわかってきたわ、庄さん、――と此処で逢った、あのひとは此処から上方へいったのよ"
],
[
"――時が来さえすればよくなるんだから、とにかくいちどに考え過ぎないほうがいいよ、さあ帰りましょうね、幸坊",
"あたしが抱くわ、幸ちゃん、さあいらっちゃい"
],
[
"いやよ幸ちゃん、吃驚するじゃないの、どうして今夜はそうおとなしくないの",
"ああちゃん、ばぶばぶ、いやあよ",
"なあに、なにがいやなの"
],
[
"ほらじゃぶじゃぶ、おもちろいわねえ、じゃぶじゃぶ、みんなしてじゃぶじゃぶ、幸坊も大きくなったらじゃぶじゃぶねえ",
"ああちゃん、ばぶばぶ、おもちよいね、はは"
],
[
"そのひと、おもんちゃん、そのひとどうしたの、あんた会ったの、どこで",
"あらいやだ、知ってるの"
],
[
"そんなことわからないよ、お客で会ったんだもの、どこで聞いたのかあたしがおせんちゃんと仲良しだというんで来たらしいわ、そう、一昨日の晩だったかしら、あたし生き死さえ知らないからそう云ったら、――そうそう、あたしあたまが悪いな、思いだしたよ、そのひと杉田屋の幸太さんのこと云ってたわ",
"幸さんのことを、……なんて、――",
"そんなこと覚えちゃいないさ、半刻ばかりじくじく云って、酒もひと猪口かふた猪口のんだくらいで帰っていったよ、あれ、あんたのなにかなのかい",
"どこにいるか云わなくって、あんたのところへまた来やしない",
"わからない、あたしあなんにも知らない、ただ思いだしたから聞いてみたまでのことさ、でもなにか言伝があるなら云ってあげるよ、たいてい来やしまいと思うけどね"
],
[
"ああおいでよ、うちのがああ云うんだからなんとか出来るさ、でもあのひとあんたとどんなわけがあるの",
"あとで、あとで話すわ、おばさん、あたしすぐいきますからね"
],
[
"そしてもう、ずっとこっちにいるの",
"どうするか考えてるんだ、――もういちど上方へいってもいいし、……こっちにこのままいてもいいし、おんなしこった"
],
[
"そんなことまで云えるのか、おせんちゃん、おれに向って辛いことがあったなんて、それじゃあおれは辛くはないと思うのか",
"どうして、庄さん、どうしてそんな",
"おまえは、あんなに約束した、待っているって、おれの帰るのを待っているって、おれはそれを信じていたぜ、お前の云うことだけは信じられると思って、それこそ冷飯に香こで寝る眼も惜しんで稼いでいたんだぜ",
"だってあたし、どうして、……あたしちゃんと待ったじゃないの"
],
[
"笑うなら笑うがいい、おまえにはさぞおれが馬鹿にみえるだろう",
"あたしが幸さんの子を産んだなんて、あんまりじゃないの、そんなばかな話、まさか本当だなんて思やしないでしょう",
"云いわけは断わると云ってあるぜ、自分で近所まわりを聞いてみるがいい、幸太がおまえの家へいりびたりということは、去年の春あたりもう耳にはいってた、それでもおれは大丈夫まちがいはないと思ってたんだ、――ところがこんどは幸太の子を産んだと云う、そして、おれはこの眼でその子を見たんだ",
"そんな話、どこから、誰がそんなことを云ったの",
"おまえとは筋向いにいた人間さ、始終おまえのようすを見ることのできる者さ、云ってやろうか、……山崎屋の権二郎だよ"
],
[
"それが本当なら、子供を捨ててみな",
"――――",
"実の子でなければなんでもありあしない、今日のうちに捨ててみせて呉れ、明日おれが証拠をみにゆくよ"
],
[
"ああいい子でちゅいい子でちゅ、ああちゃんいい子ね、はい召上れ",
"といで、ね、こうぼといでよ"
],
[
"ごめんなさい、庄さん、あたしゆうべ、捨てにいったのよ",
"――でもそこに負ってるね",
"いちど捨てたんだけれど、可哀そうで、とてもだめだったの、庄さんだって、とても出来ないと思うわ",
"――わかったよ、証拠をみればいいんだ"
],
[
"おせんちゃん、このひとは下総の古河からみえた方でね、お常さんの実の兄さんに当るんですってよ",
"まあおばさんの、――それはまあ……"
],
[
"これは水の晩にあたしがお常さんのおばさんから預かったものですの",
"あらましのことは友助さんに聞いたがね"
],
[
"これで子供に飴でも買ってやるがいい",
"まあそんなことは、いいえどうかそれは",
"厄介をかけた、――じゃ……"
],
[
"この家は友さんという人が、材木の残り木で建てて呉れたものだそうだ、それから水で毀れたのを直して、おまえに住まわせて呉れたものだそうじゃないか、――そうとすればおまえの家だ",
"それじゃ、あの、あたし、いてもいいんですわね"
],
[
"庄さんのためって、だって庄さんが",
"いつだっけかしら、そう、あの人があんたと置場で逢って話をしたわね、あれから十日ばかり経ってだわ、うちのひとが庄吉さんを呼んで此処でお酒をいっしょに飲んだの、そのときあの人はあんたのことを話しだしたのよ、杉田屋にいたじぶんのことから大阪へゆくようになったわけ、そのときおせんちゃんと約束をしたことも云ったわ、固く固く約束したんだって、――大阪へいってから、それこそ血の滲むような苦労をしながら、その約束ひとつを守り本尊にして稼いだって"
],
[
"こっちへ来るといいわ、炭が買えないんで焚きおとしなの、暖たまりあしないから、――さあお当てなさいよ",
"坊やはおねんねだわね、こんど幾つ",
"四つになるのよ"
],
[
"祝う身寄りもなくって寂しいから、こちらで正月をさせて呉れって来たんですって、だいぶいい稼ぎをしたらしいって話でしたよ",
"それじゃあ、あの人、――あれからどこかへいってたんですか"
],
[
"足をどうかなさったんですか",
"冬になると痛むだ、大したことじゃねえ、二三年出なかったっけが、――水のあとの無理が祟ったらしい、死んだ親父もこうだった"
],
[
"お花さんていうひとがいたわねえ、髪の毛の赭い、おでこの、お饒舌りばかりしていつもお師匠さんに叱られていた、――あのひとあんなにがらがらだし、歯を汚なくしていたんであたし嫌いだったけれど、いま思うと悪気のない可愛いひとだったのね",
"それからお喜多さんてひと覚えている、おせんちゃん、意地が悪いのと蔭口ばかりきくのでみんなに厭がられていたでしょう、あたしも、お弁当の中へ虫を入れられたことがあるわ、でも考えてみるとあのひと寂しかったんだわ、誰も親しくして呉れる者がないので、寂しいのと嫉ましいのであんな風になったのよ、あたしたちこそ思い遣りがなかったんだわね",
"おもとさんと絹さん、それからおようちゃんの三人はお嫁にいったの、お絹さんは向う両国の佃煮屋へいって、去年だかもう赤ちゃんができたわ、――みんないい人ばかりだったわねえ、いつかみんなでいっぺん会いたいわねえ、おせんちゃん"
],
[
"庄さんが、お嫁を貰ったんですって",
"放してお呉れな、痛いじゃないかおせんちゃん",
"本当のこと云って頂戴、本当のこと",
"痛いってば、ここをお放しよ"
],
[
"いって自分で訊いてみれば、いいじゃないの、あたしは知ってることしか知っちゃいないよ",
"そらごらんなさい嘘じゃないの"
],
[
"おもんちゃん、あんた済まないけれどそのままでもうちょっと幸坊の相手になって呉れない、あたし急いでいって来るところがあるんだけれど",
"ええいいわよ、このとおり温和しく遊んでるわ",
"ここへ飴を出して置くからぐずったらやって頂戴、すぐ帰って来るわね",
"こっちは構わないわよ、悠くりいってらっしゃいな"
],
[
"――ずいぶんだましたんだけれど、しまいにはああちゃんああちゃんって追ってきかないのよ、頼まれがいもなくって済まなかったわ",
"なんでもないのよ、そばにくっついてばかりいたから……"
],
[
"あんたどこか悪いんじゃなくって、おせんちゃん、それともなにか厭なことでもあったの",
"どうして、――あたしなんでもないわよ"
],
[
"今日は十一日、あさってはお月見よ",
"――そう、九月なのね"
],
[
"いいのいいの、心配しないで頂戴、あたしよくなったのよ",
"――おせんちゃん",
"二三日まえから少しずつはっきりしだしていたの、まだ本当じゃないかと思ってたんだけれど……今日はもう大丈夫だわ、まえにやったことがあるからわかるの、もう大丈夫よ、ながいこと世話をかけて済まなかったわねえ",
"あたしなんにもしやしなくってよ、それより具合がいいのはなによりだから、もう少し暢気にしているんだわね",
"いいえもう本当にいいの、あたしのは病気じゃないとこのまえのでわかっているんだから、あんたこそ休んで頂戴、折角もちなおしたのにまた悪くでもなったら申しわけがないわ、おもんちゃん、さあ、あたしと代ってよ"
],
[
"杉田屋のおじさんが、――おじさんが亡くなったんですって、……",
"いまいる山形屋とは手紙の遣り取りが続いていたんだ、それでおれが名代でくやみにいって来たんだが火事のとき傷めた腰が治らず、そこの骨から余病が出て、とうとういけなくなったということだ",
"おばさんは、お蝶おばさんは",
"お神さんは達者でおいでなすった、ひと晩いろいろ話をしたが、その話で、――すっかりわかったんだよ、すっかり、……幸太とおせんさんとなんでもなかったっていうことが、おまえが幸太をしまいまで嫌いぬいていたということが、お神さんの話でようくわかったんだ、おせんさん",
"いいえ違うわ、それは違ってますよ",
"――違うって、なにがどう違うんだ"
],
[
"――おせんさん",
"いつか貴方の云ったとおりよ、あたし幸さんとわけがあったの、あの子は幸さんとあたしのあいだに出来た子だわ、もしも証拠をごらんになりたければ、ごらんにいれるからあがって下さい"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌
1946(昭和21)年7月
中・後編「新青年」
1949(昭和24)年1月~3月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:Butami
2020年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"すずは細貝家の娘です、わたくしにはこの家のほかにさとなどはございません",
"それはそうですとも、けれど"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「週刊朝日増刊」朝日新聞社
1959(昭和34)年7月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"老人はまるで、眼の中へでも入れたいような可愛がりようさ、それだもんですっかり野放図になってしまった、立ち居ふるまい言葉つきまで男そっくりだよ、いつかなんぞ客のいる部屋の前を風呂からあがった素裸のまま平気で通ったというからな",
"世間の噂は無責任なものだよ",
"然しあの女の場合は噂以上さ、現におれがこの眼で見ているんだから、それに",
"有難う"
],
[
"大丈夫でしょうか、伊吹越えには時どき悪い狐が出るという噂でございますが",
"狐は困るなあ、然し、御用も急ぐからな"
],
[
"話はよくわかった、貴公たちの申し分はよくわかった、それが掟というなら身ぐるみ脱いでゆきたいが、自分は御しゅくんの御用で彦根までまいる途中だ、ここで裸になっては御用をはたすことができない",
"人にはそれぞれ用のあるものだ。これはそんな斟酌をする関ではないぞ"
],
[
"貸して欲しい、それはどういうわけだ",
"御用をはたせばすぐこの道を帰って来る、おそくも明後日の夜には戻って来る、そのとき衣服大小を渡すと約束しよう"
],
[
"やかましい、裸になるかひと戦さか二つに一つだ、文句はぬきだ",
"武士なら武士らしくきっぱりしろ、抜くか、脱ぐか",
"ええ面倒だ片付けてしまえ"
],
[
"いいからみんなちょっと待て、こんなばかげた話は初めてだが、武士に二言はないという言葉が気にいった、それに嘘がないかどうか試してみよう",
"それでは承知して呉れるか",
"待とう、但し断わって置くが、約束を破ったり変なまねをしたりすると、この始終を天下に触れて笑いものにするぞ",
"念のいったことだ"
],
[
"……まさに先夜の御仁だな",
"約束をはたしにまいった。御用が済んだから借りた物を返してゆく、取って呉れ",
"なるほど二言なしという言葉どおりか、よろしい脱いでゆけ"
],
[
"世間の噂があまりひどいのでたしかめに来た。伊吹山で山賊に遭い、手をつかねて身ぐるみ剥がれたというのは事実か、おそらく嘘であろうがどうだ",
"嘘ではございません殆ど事実です"
],
[
"……お上の御用を仰付かってまいる途中のことで、御用をはたすまでは大切な躯ですから、できるだけの争いは避けたいと思いました",
"それが身ぐるみ脱いだ理由か",
"そうです、争いを避けるためには、どうしても衣服大小を渡すと約束しなければなりませんでした",
"それは往きのことであろう、御用をはたした帰りには他にとるべき手段があった筈だ",
"然し帰りには衣服大小すべて渡す約束でしたから"
],
[
"そうかも知れません、けれど私はたとえ相手が山だち強盗でも、武士としていったん約束したことは守るのが当然だと信じます",
"信じたければ信ずるがよい、人間にはそれぞれ考え方のあるものだ、見解の相違を押し付けるわけにもゆくまいからな"
],
[
"お眼にかかってお返しする品があるとか申しております、いいえわたくしもまるで知らないお女中でございます",
"なんだろう、とにかく会ってみようか"
],
[
"さようでございます、あのときお羽折を拝借いたしまして、戻ってまいりましたら貴方さまはもうおいであそばさず、お所もお名前も存じあげませんので、お大切な品を今日までお返し申すこともかなわずまことに申し訳ございませんでした",
"そんなことは構わないでよかったのに"
],
[
"然しあれは戸田老職の家に仕えている筈ではないのか",
"それがお暇になったのだそうでございます。お羽折を拝借しましたとき、お所も名も伺わなかったのが戸田さまのお嬢さまの御きげんを損じ、そのように作法を知らぬ者は使っては置けぬと間もなくお暇が出たのだと申します"
],
[
"それは有難うございます、さぞ娘もよろこぶことでございましょう",
"だが念のために身許などはよくたしかめないといけないな、すべておまえに任せるから頼むぞ"
],
[
"……どうぞそんなことは、どうぞ、お願いでございます",
"だが世間ではみなそう云っている、そしておまえもそれは知っている筈だ、それなのにどうして此家へ住みこむ気になったのか、いやごまかさないで正直なことを聞きたい、なぜだ"
],
[
"聞いたと云えるほどは聞いていません",
"なみはずれた男まさり、気が荒くて、我が儘で、馬を乗りまわし言葉も動作も男そっくりだし、客のいる部屋の前を湯あがりの裸で通る、……こういう評判をお聞きではございませんでしたか"
],
[
"お待ち下さいまし",
"いやいけません、どんな事情があるにせよこのままいて頂くことは"
],
[
"貴公どうするのだ",
"徒士組が出たというのに馬廻りの者が黙ってもいられないだろう、他の場所ならいいけれど追手先だからな",
"然しもうその手配はしたんだし、一人や二人にんずが殖えたところで"
],
[
"赤松と名乗るのはそのほうか",
"赤松六郎左衛門、いかにもおれだ",
"伊吹山の住人と書いてあるがそうか"
],
[
"でそれは、いったいどういうわけだ",
"正しく武士に二言のないという、あのときの純粋な御態度にまいったのです、あのように生きることができたら、いや人間ならあのように生きなくてはならぬ、そう思いました、そしてあなたを捜し当てたうえ、御家来の端に使って頂こうと相談をきめたのです、それだけを目的に今日までお捜し申しました、お願いです、どうかわれわれの望みをお協え下さい、お願いです"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1946(昭和21)年6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057761",
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[
"みぐるしいじゃないか、赤くなっている、どうしたんだ",
"脇田さまと小倉さまでかかってお強いなさるのですもの、それにわたくしも――"
],
[
"わたくし御家名を汚しますでしょうか",
"結婚して間もない妻が自殺をする、理由もなにもわからない、これが梶井の家や私の面目に無関係だと思えるのか"
],
[
"わたくしどう致しましょう――",
"訳を話すがいい、どうしても死ぬ必要のあるものなら止めはしない、理由に依っては死後に名の立たぬくふうもある、話してごらん"
],
[
"榎本良三郎というのはいるよ、然しそれはよしたほうがいいね、あれはだめだ、とても使えるような人間じゃないよ",
"いや使ってみたいんだ、大概なところは知っているが、少し考えることがあるんでね",
"私はすすめないな、無能な許りでなく猜い、人に仕事を押付けておいて自分がしたように拵える、むやみに中傷や誹謗で人を傷つける、不平やごたごたの起こるもとだよ",
"だが人間は使いようがあるからね、とにかく手続きをするから頼むよ"
],
[
"それは私を脅す意味なのか",
"さあどうでしょう、私が残念なのは、或る人の葬式に立会えなかった、ということなんです、立会っていたら、……さよう、私は棺の蓋を明けましたね"
],
[
"では三月にしようか、私はそれでもいいんだが",
"いいえ今日にします、今日のほうが却って、――"
],
[
"然しそのために来たんじゃあないのですか",
"なんのためかといえば生きるためさ、榎本良三郎は生きるんだ、それだけの証拠をおれはみせて貰った、だから此処へ来たんだよ",
"私にはわかりません、どういう訳なんです",
"宜しい、わかるように云おう、だがちょっと待って呉れ"
],
[
"ええ届けてまいりました、お居間に置いてございますわ",
"持って来てごらん"
],
[
"ちょっとそれを肩へ掛けてみないか",
"わたくしがですか"
],
[
"なんてきれいなんでしょう、初めてですわ、こんな美しい模様を拝見するのは、……ごらんなさいましな、この牡丹の花、まるで生きている花のようですわ、あら、これ撫子ですわね",
"無定見なことを云うね、見てごらん、まるで葉が違うじゃないか、それは桔梗だよ",
"でもきれいですわ、どうして染めるのでしょう"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
1983(昭和58)年12月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1948(昭和23)年3月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
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[
[
"もちろん真偽のところはわかりません、おそらく付会したものでしょう、信玄を敬慕する感情からうまれたんでしょうが、とにかく土着民の信玄を崇拝することは、殆んど宗教的といっていいほど、根づよいものです",
"それだけ武田氏の治世が長かったんだね、六百年か七百年は続いたんだろう",
"六百年が少し欠けるくらいでしょうかね"
],
[
"まさかそんなことが、まじめに信じられているのではなかろう",
"それがまじめなんですね"
],
[
"もちろん土地の者はそんなことはしません、その三日三晩は近よりもしない、近よることは厳重に禁じられているんですが",
"狸がほんとにお囃しをしていたの"
],
[
"それに、このあとは七回忌ですからね、三年にはどこでもこのくらいのことはしますよ",
"しかしそれだけの意味じゃないんだから"
],
[
"お友達がいらしったら、みなさんおつれしていらっしゃい、たくさん御馳走しますわ",
"有難う、暑いのにどうも"
],
[
"しばらく、いつ帰ったの",
"今日で七日に、なる、かな"
],
[
"今日のこと、よくわかったね",
"うん、……松室にね、……"
],
[
"いや、とにかくその接待というのが、とてもつきあえるものじゃないし、ほかにちょっとわけもあるんだ",
"理由なんかいいよ、手筈をきめましょう"
],
[
"まるでこの法事の周旋人みたようじゃないか、主人公そっちのけじゃないか、いかなる人物かね",
"つまり今日の主人公さ"
],
[
"松室に会えたのか",
"会えたよ、もう少したってから来る筈だ"
],
[
"そうじゃないでしょう、覚えていらっしゃらなかったんでしょう",
"――どうして",
"どうしてって、私はそう思うんですよ"
],
[
"おなをさんがお待ちかねよ、どうなさいましたの、このごろ",
"いつもの座敷でいいね"
],
[
"とにかく汗を拭かせて貰おう",
"はい奥方にそう申します"
],
[
"どうなさいましたの、暑気に当りでもなすったんですか",
"そんなところだろう、みんなの来るまでひと眠りするよ",
"それならこれでは明るすぎるでしょう、小屏風でも立てましょうか",
"なにこれでいい、ただ呼ぶまで誰も来ないようにして呉れ"
],
[
"あっちへゆかないか、またおいそなんぞにからかわれるぞ",
"あたし、御相談したいことが、あるんですけれど"
],
[
"谷町に捉まりましてね、逃げられなくなってしまったんです、それで私がひと足さきに、そのお知らせを兼ねて来たんですがね",
"それはどうも",
"ほかにちょっとお話もあるもんですから、招かれない席へ失礼だとは思ったんですが、御迷惑じゃありませんか",
"そんなことはない、どうぞ"
],
[
"――――",
"あれですか、みなさんはどういう関係でお知合になられたんですか、学問所ですか",
"話というのはそのことか",
"むろんそうじゃありませんが、ちょっと珍しかったし、この軽薄な、ごまかしだらけの世の中に、どうしてこんな友情が生れたか、ちょっと興味を唆られたんです",
"――空雷かな"
],
[
"私と話すのはおいやらしいですね",
"――どうして",
"ごきげんも斜めのようだし、質問にも答えて下さらない"
],
[
"それはいま始まったことじゃない、貴方がいつも私を避けていらっしゃることは、ずっとまえから知っていました、いくら一つ木のお宅へ伺っても、いちどとして親しく話をして下すったことがない、必ず私を避ける、どうしてなんですか",
"――そんなことはない、それはおそらく偶然だろう"
],
[
"理由はおよそわかってるんです、隠したってだめですよ",
"隠すって、なにを……"
],
[
"――わからないね",
"だめですよ、貴方はいまぎくりとなすったし、私の眼が見られないじゃありませんか、なにもかも知っているということが、お顔にちゃんと書いてありますよ",
"失敬だが帰って呉れないか"
],
[
"――私のような親を持った人間が、どんな気持で生きているか、どんなに辛い、恥ずかしい気持で、毎日、毎日をくらしているか",
"――――",
"貴方は、帰れ、と云うことができる、そして、私が帰れば、それでさっぱりする、まもなくお友達が来るでしょう、お互いが肚の底まで知りあい、信頼しあっている、お友達が",
"――――",
"誰に気兼ねも、遠慮もなく、楽しく酔い、思うままに語りあうことができる、そのときはもう、私のことなど、貴方の頭には影も形もない、もし思いだすとすればですね、私には眼に見えますよ、貴方はふんと鼻をならして、ああ、あのいたずら女の"
],
[
"そんなわけのわからない、不愉快なことを云うのはやめて呉れないか、私には少しも興味がないし、うっとうしくなるばかりだ",
"ほう、うっとうしいですか"
],
[
"この家ではちかごろ、すぐに酒を出すようだが、お父さんの代からの習慣かね",
"いやこのごろだよ、父は酒は嫌いではなかったけれど、特別な客でもない限り、酒を出すようなことはなかった",
"すると、安倍の好みか",
"それもあるが、そればかりでもないんだ"
],
[
"はじめはね、母がおれを一家の主人にしたいという、あまやかした気持があったらしい、こんなふうに構えて、もっともらしく盃など持っていると、ちょっとたのもしくみえるらしいんだな、こっちも酒でも飲むほかに、気のまぎらしようがない状態だから、つい、便乗していたんだが、少しまえから、それとはべつの意味をもちはじめたんだ",
"――というと",
"一種の賄賂というやつさ、はっきり云うとごきげんとりだね",
"――すると"
],
[
"縁談というわけだな、あの法事の日に来ていた人だろう",
"どうして知っている",
"どうしてって、正木の失言で、われわれはこの家へ来ざるを得なくなったじゃないか、あのとき給仕に出たんで、拝見したのさ",
"そんなふうがみえたんだな",
"明らかに、嫁の候補者という、ようすだったね"
],
[
"しかも、みこまれたわけか",
"それもおれの人間をみこんだのではなく、要するに頭数の問題さ、老人は少将(柳沢吉保)にとりいって、自分の勢力を拡張することに狂奔している、おれに娘を呉れて、陣笠の数を殖やそうというつもりなんだ",
"そしてお母さんは、そうなさりたい、というわけか",
"まだあからさまには、云わないがね"
],
[
"なんについて……",
"この縁談さ、谷町の老人は強敵だ、あの人の着物のなかみは人間の躯ではなくて、自信そのものだね、自分がそうしようと思えば、どんな手段をもちいても、必ずやってのける、という人がらだよ、それにあの令嬢までが、じつに父親によく似ている",
"まさしくね",
"安倍と結婚することは、安倍へとつぐことではなくて、庇護者になることだと確信しているよ、親も娘も、仮にもこの縁談を拒絶されようなどとは、思っていないね",
"それは向うの自由さ"
],
[
"事実そうなんだ",
"いやそれ以上なんだよ、頭数、それは老人だけじゃない、少将の帷幄ぜんたいが、そのために今やっきとなっている"
],
[
"柳沢はもう危なくなっている",
"それはずっとまえからさ",
"だがこれまではみな立ち消えになった、なぜだろう、柳沢退陣という情勢は、うわさだけでなく、事実いくたびも、かたちにあらわれたんだよ、それがどうしてうやむやに終ったか、わかるかね",
"まあ聞きましょう",
"つまり、要約すると、殺生禁断さ"
],
[
"あの禁令はむろん柳沢が出したものじゃない、しかし法令を持続させたのは彼だろう、たびたびの反柳沢運動にも拘らず、彼の地位がゆるがず、甲府城主となり、大老などと僣称されるようになったのは、ひとえにそのおかげさ",
"しかしあの狂気じみた禁令は、むしろ彼の首繩になっていると思うがね"
],
[
"――ははあ",
"信じられないか、では訊くけれども、われわれは毎年、猪や兎の肉を喰べるし、鶏はもちろん、牛や豚の肉まで喰べた筈だ"
],
[
"われわれの祖父や、父たちの若いころには、こんなにたびたび、鳥獣の肉を喰べやしなかった、その季節に薬食といって、躯の弱い者が栄養をつける、という名目でたしなむ、という程度だった、そうじゃないか",
"それはまあそうだろうが"
],
[
"しかもそれが、当然のはなしだろうが、みんな隠れたしょうばいだ、日を定め、場所を定め、人数をそろえて、ひどく手のこんだ、ものものしい仕掛けでやる、代価はむろんばかげて高いし、禁令の出たはじめはよく知らないが、近年はまるで組織化しているようなものだ、そして絶対に捉まる心配がない",
"そうらしいな",
"なぜなら、役人は上から下まで、充分に金を握らされ、酒食の餌と、物品の贈与とで骨抜きにされている、それは初めのうち別途の利得であったが、やがて生活のための必要収入になり、それ無しにはやってゆけなくなる、しぜん、かれらは検察官でありながら、庇護者、加担者とならざるを得ない"
],
[
"また一面、こういう秘密な、禁を犯す宴席というものは、公私ともに、不正な取引に利用される、ばかげて高価な支払いが、充分につぐなわれるような取引、……こんなふうに云うだけでは、さしたることもないように思えるだろう、しかし表面にあらわれないで、かげで動く金というやつは、ひじょうにひろく蔓延するし、同じちからで人を毒する",
"それで、それが柳沢とどういう関係にあるというんだ",
"柳沢政治の非をあげてもしようがない、またそんな興味もないが、彼を排斥する動きのあるたびに、彼を支え、逆に彼をふとらせたのは、こういうかげで流通する金のちからなんだ、ひろい範囲の役人どもの生計の出所であり、大きな不正取引の場となっているもの、すなわち、殺生禁断という法令を持続するために、柳沢の地位は支えられて来たのさ",
"いささか春秋の論法だな",
"その証拠を見せるよ",
"まっぴらだね、おれが証拠を見てどうするんだ"
],
[
"それは、柳沢邸へのお成りが、しばしば中止されたことをいうのか",
"今年になってから三度めだ、しかも柳沢少将には、もはやそれを押し切るちからがない",
"そんならもう文句はないだろう",
"うう……"
],
[
"つまりこの際、谷町のお婿さんになるのは、不得策だということなんだが、そのついでにだね、いま云った証拠というのを見せたいんだ",
"なんの証拠をさ",
"柳沢をどういうものが支えているかという、じっさいの情景さ、そして、そのうえで相談もあるんだ",
"なにか曰くありげだね"
],
[
"まさか例のを食いにゆくんじゃあるまいな",
"食ってもいいじゃないか",
"この暑さに、冗談じゃない",
"いやならむりに食うことはないさ、いちど見ておいても損はないけしきだよ"
],
[
"もう一人の男も、柳沢の人間か",
"そうだ、次高来太といって、みじん流の剣術をつかうそうだ、この家の主人が柳沢にとりいってるので、あのれんちゅう、自分たちのいい宿坊のつもりでいるらしい",
"つまらない話だ"
],
[
"これが見せて呉れる証拠というやつか",
"まだまだ、時間はたっぷりあるさ、まず美味い物を食ってからのことだ"
],
[
"丸茂の爺さんは来ているのか",
"はい、いらしってます",
"神田橋のほかに、客は誰だ",
"わたくしの存じあげない方でございます",
"四五人いるらしいな"
],
[
"また酒か",
"まあやってごらんなさい、酒にはちがいないが、ちょっと手にはいらないやつだ"
],
[
"まあそういってもいいけれど、こいつはえびづる草といって、自然に生える山葡萄の実でかもしたんだ、仕込んでから十五年も経つそうで、延命長寿の薬酒だということだ",
"なが生きはごめんだね"
],
[
"先の一人は誰だ",
"侍従だよ",
"――侍従とは",
"吉里さ"
],
[
"あとの二人は水野と大久保だろう",
"そうだ、先客も四人ばかりある、そのなかの一人は右京大夫さ",
"御側用人か"
],
[
"――どうして、また、そんなことを",
"おれなどが、というのか"
],
[
"冗談じゃない、いまじぶん鹿の肉が食えるものか",
"いいえ、冬に獲った若鹿の肉を、雪詰めにして置くのだそうでございます、召上ってみて下さいませ、みなさんたいへん珍重だと仰しゃいますわ",
"仰しゃるかね"
],
[
"もうたくさんだね、飲めそうもないよ",
"肴が変れば結構いけるさ",
"まだなにか食わせるのか",
"見せると云った証拠というやつさ、忘れたのかね"
],
[
"おどろいたね。青山がこんな家を知っているだけでも意外なのに、よっぽど親しくしているらしいじゃないか、いつごろから来ているんだ",
"もう少しすると、もっと驚くよ、まあ坐らないか"
],
[
"いったい、なにを始めようというんだ",
"なに、万一のときの用心さ"
],
[
"見えるだろう、吉里の右にいるのは、土屋だ、老中の土屋相模守だよ",
"だって、土屋は反柳沢の",
"おれにも意外だが……"
],
[
"なんのために、あんなものを見せたんだ",
"反応があるだろう、と思ったんでね",
"それだけではわからない"
],
[
"いや、それより話を聞こう、あとで相談がある、とも云ったようだし、なにか理由があるんじゃないか",
"安倍はむかしから、政治は嫌いだ、と云っていたね",
"今でも嫌いだ",
"それがね、嫌いでは済まなくなるんだ"
],
[
"まず云うが、村田は長崎へいったね、公用を兼ねて、本草関係の資料を集めるために、そして一年ばかりで、このあいだ帰って来た、そうだろう",
"続けていいよ",
"だが長崎へはゆかなかった"
],
[
"どういうことなんだ",
"と云われても、ちょっと困るが、ともかく、失敬したようなことになって、悪かった",
"出ようじゃないか",
"まあ待って呉れ、話も残っているし、すぐに帰るというのはまずいんだ、なに、もう大丈夫だよ"
],
[
"どこまで話したか、ああ、村田は長崎などへゆかなかった、というところまでだな",
"そんな声をだしていいのか",
"もちろんさ"
],
[
"――かれらは、なにも知らないらしいな",
"知る筈がないんだ"
],
[
"つまり、なにかを知ろうとして、さぐりを入れてるんだろうが、少しうるさいから、いちおう出ることにするか",
"二の矢の来ないうちにね"
],
[
"どなたに、どういう用件で、取次ぐのか",
"くにから権之丞がまいったと申せば、わかる筈でございます、早飛脚で手紙がさしあげてあるのですから"
],
[
"百姓のじじいみたようだが、いやに威厳があるじゃないか、ここの女あるじの正躰もわからないし、いったい甘利なんという処は、どこらへんにあるのかな",
"見ず聞かず云わず"
],
[
"和助などは知っておるまい",
"まだ乳を飲んでおりましたそうで、しかし話はずいぶん詳しく聞いております",
"でたらめばかりだ",
"さようでございましょうか"
],
[
"殿さまが鉄炮で仕止めて下さったが、さもなければ、そのときおれは、ずたずたに裂き殺されるところだった",
"さようでございましょうか"
],
[
"ゆるすまで来てはならぬと",
"うけたまわりました、けれどもさきに早飛脚で申上げましたとおり、一刻もゆるがせならぬ用事ではあり、御名代としてまいったのでございます"
],
[
"殿さまは御病気でございます、それでなくとも、江戸の御滞在がながすぎます、一日も早く甘利へお帰りあそばすようにと",
"いいえ、いやです",
"――いや、と仰せられても",
"いやです、帰りません"
],
[
"それはどういうことでございますか",
"武田家御再興の旗挙げです",
"ああ、比女さま"
],
[
"それは狂気の沙汰でございます",
"なにが狂気ですか"
],
[
"恵林寺(信玄)さま御他界から百三十余年、みどうの家はその悲願をはたすために、それだけのために在ったのでしょう、だからこそ一郡の人たちの尊崇もうけ、大名も及ばぬ生活ができたのではないか",
"いいえ、それは違います、みどうのお家は武田家御一族の名門であり、幾百年にわたって善政をお布きなされました、巨摩一郡の尊崇はそのためでございます、御再興のことなど、もはや夢物語も同様、まことと信ずるような者は一人もございません",
"かんば沢のこともですか"
],
[
"かんば沢の伏岩のことも、信じてはいないのですか",
"それは比女さまが御承知の筈でございます",
"ただ奥津城(墓)があるからだというのでしょう、恵林寺さまの、まことの御遺骸をおさめた奥津城が……そのために、ところの者が命を賭けて守るのだと",
"どうしてお笑いなさる",
"この家をごらん"
],
[
"江戸へ来てから三年、登世が巨額な金品を浪費した、とお云いだった、お父さまや権之丞には巨額かもしれないけれど、あのくらいの金では、この家を建てるのがせいぜいでしょう、じっさいには、その十倍も遣っているし、これからも遣うつもりです",
"――比女さま",
"どこからその金が出るか、想像がつきますか、権之丞"
],
[
"夢物語ではありません、伏岩はあるのです、伏岩が、夢物語でないことを、証明して呉れたのです、だから登世は江戸へ出て来たんです",
"では比女さまは、あれだけ厳しく禁じられている伏岩を、ごらんになったのですか",
"登世が初めてではありません、お祖母さまもおあけになっています",
"――よもや",
"慶安の騒動(由井正雪の事件)には、お祖母さまのお手から、軍資が出ていたんです、伏岩の中に、その事実が、お祖母さまのお手で書いて、残っているのです",
"私には信じられません"
],
[
"もしそのような事実があったとしたら、今日まで誰も知らぬということは、ない筈ではございませんか",
"権之丞が知らぬからといって、知っている者がなかったとはいえないでしょう",
"では誰かそれを知っている者が",
"誰かではなく、誰でも、というべきでしょう、甘利一郷の住民は、みどうの者の申しつけには、決して違背したことがない、口外するなと云えば、殺されても口外はしません",
"しかし事とばあいによります",
"そのとおりです、事とばあい、とりわけ御再興にかかわりのあるばあいにはです",
"――――",
"現に、この登世のことがそうでしょう、登世のしていることが、今日まで、お父さまにさえわからなかったではありませんか"
],
[
"これは、お家の御系図ではございませんか",
"始祖のところをあけてごらん"
],
[
"しかしこれは、このような御一族系譜は、これまでついぞ聞いたことがございません",
"その筈です"
],
[
"まさか、比女さまがさようなことを",
"いいではないか、何百年の昔のことを、少しばかり書き替えたところで、誰に迷惑を及ぼすわけではなし、系図の偽作は、このごろの流行といってもいいくらいです",
"それでは柳沢侯を……",
"わかったでしょう、登世が江戸へ出て来たのは、あの方が甲府城主になったからです、百石そこそこの小身から、表高十五万余、松平の御家号と諱字まで頂き、一族みな権勢の座を占めるという、なみはずれた御出世をなされた、……時を得て燃えさかる勢いは、じっさいにもっている力より外へはみ出たがるものです、そして、それは火口さえあればいいのです"
],
[
"算法家は六七十年もさきの、日蝕を数えだすことができるそうです、けれどもそういう算術を知らぬ者は、その日その刻が来るまでは、決して信じはしないでしょう",
"それで比女さまは、そのような無謀な企てにお加わりなさる、おつもりでございますか",
"加わるのではない、登世が采配を振るのです、御再興の兵を挙げるとき、主将はみどう家に定っています",
"そして、もはや、それはぬきさしならぬところまで、……",
"あと五日、七夕会のときに"
],
[
"七夕会のときに、どうあそばすのですか",
"この系図を持って、柳沢家の下屋敷へゆきます、そして、甲斐の古伝の猿楽をごらんにいれ、それをしおに吉保さまとじかにお会いして",
"比女さま……"
],
[
"それでは、乙女さまをお呼びになったのは、その舞をおさせ申すためでございますな",
"登世がしてを舞います"
],
[
"柳沢侯は数寄のお方で、お眼にとまる者は必ずお部屋にお入れなされ、やがて将軍家の伽におすすめなさる、ということではございませんか",
"そうなればなお、強い大きなてづるが掴めるでしょう",
"貴女は狂っておいでなさる、われらにとって、徳川はもと敵ではございませんか、仮に御再興の兵を挙げるとしても、めざす敵はやはり徳川でございましょう、いかに苦肉の策とは申しながら、当の敵に御自分から妹姫をおすすめなさる、さようなことで名分が立ちましょうか、七百年連綿たる、みどう家の誇りをどうなさるおつもりですか",
"恵林寺さまの御遺志は、御再興の事ただ一つです"
],
[
"ひるから海へ、お遊びに出ておいでなされます",
"こちらでのごようすはどんなふうだ",
"山へ帰りたいと、口ぐせのように仰しゃってでございます"
],
[
"おまえも、山へ帰りたいと、申したな",
"――はい",
"和助、こちらへ寄れ"
],
[
"おくにの川とは違います、海は広うございますから、とても魚を掴むなどということはできは致しません",
"舟がついて来るからいけないのよ、舟を停めてお置き、どうしたって一尾は掴まなくちゃ、どうしたってよ",
"乙女さま",
"舟を停めて"
],
[
"まるで鵜のようだ",
"どうもその、どういうことなんだか"
],
[
"上のお嬢さんはばかにしんとして、あっしらなんぞにゃあ、怖いくらいなんだが、こちらはよっぽどおてんばでいらっしゃるんですね、おくにでもこんなですか",
"こっちだ、もう少し左",
"ぜんたい、甘利ってえなあ、どのへんですかね、よっぽど遠いんですか"
],
[
"くやしい、また逃がした",
"ああ、乙女さま、向うに"
],
[
"水の中では舟の影がはっきり見えるから、動いて来ればすぐ逃げてしまうじゃないの",
"乙女さま、これを"
],
[
"乙女は笑われてはいないわ",
"舟をやって呉れ"
],
[
"冗談じゃねえ、どうなさろうてんです",
"ずっとやって呉れ、いやちょっと待て"
],
[
"なにをしているんだ、乙女さまはどうなすった",
"いまおいでなさる"
],
[
"そんなことぐらいで、乙女さまがすなおにお帰りなさると思うなら、お守り役はこれから和助に譲るよ",
"なにを云うんだ、つまらない"
],
[
"こちらは櫓が二挺ですから早うございます、比女さまがお待ちかねでございますから、大助、お召物を",
"ああ面白かった"
],
[
"あら、これが日本橋、あら、ちょっと駕を停めてみせて",
"どうなさるのですか",
"見てみるのよ、日本橋なんですもの"
],
[
"どうなるかね",
"冗談でなく、ぜひたのむよ",
"しかし先方で穏便にさせておかないかもしれないぜ",
"そのときはだね、うう"
],
[
"御薬園の支配方へ出ることになりました",
"わしは大目付へ推挙した、そのことは云ってあった筈だが、忘れたのか",
"うかがったようにも思いますが……",
"ようにも思う",
"そうです、たしか昌雲寺でしたろう、大目付の記録所支配という方から、そのうち空席があったら、という……",
"それがわしの推挙で、その席はもう定っていたのも同様だ、それを承知しながら、断わりもなく他へ転役するというのは、どういうわけだ、わしの推挙が気にいらぬのか",
"むろん、そんなことはございません"
],
[
"御推挙は有難いと思います、けれども、それが決定したこととは存じませんでしたし、御薬園のほうへぜひ、という話があったものですから",
"そのとき一言、わしに断わる必要はなかったのか",
"まことに、どうも"
],
[
"私にはかくべつ才能もございませんし、出世をしたいという欲もございません、薬草をいじるくらいが、ちょうど分相応ではないかと思います",
"それだけですか"
],
[
"そうじゃないでしょう",
"なにが……",
"御役替えの理由ですよ"
],
[
"なんだか、私にはわけがわからないが、役替えの理由とは、どういう意味なんだ",
"それはこっちで訊いてるんですよ、もちろんあらましのところは調べ済みですがね",
"ぜんぜんわからないね、云うことが"
],
[
"私には彼の云うことがさっぱりわかりません、お呼びになった御用がよろしければ、帰らせて頂きます",
"いいだろう、但しひと言、云っておくが"
],
[
"かねて申し入れのあった、佐枝との縁組は、わしも佐枝も不承知だから、ここではっきり断わっておく",
"――はあ",
"それから、いかがわしい人間との往来は慎むがよい、さもないと身の破滅だぞ"
],
[
"私が幸福でいることは、ゆるせない、いつか決闘することになるかもしれない、そう云ったことがある筈だ",
"――――",
"谷町の忠告も、その意味も、よくわからないが、私がもし破滅するとしたら、そっちにとっては本望じゃないのか"
],
[
"それならもう満足したと思うがね",
"なにがです",
"どうやら幸福の位置が、逆になったようだからさ"
],
[
"貴方は侮辱するんですか",
"お祝いを述べているんだ"
],
[
"ひまなもんですから、いろんな物の風入れをしてますの、今日はおつれさまは",
"あとから来るが、いいのか",
"なにがですか",
"休んでるんじゃないのかというのさ",
"どう致しまして、休んでたって一つ木の若さまなら"
],
[
"やっぱり情があるわね、若さまは",
"若さまはよせ、どうしたんだいったい、お嫁にでもゆくのか",
"ええ、ええそうなんです"
],
[
"いろいろと、あったんですけれど、それでいちど御相談したかったんですけれど、でもどうやら話がきまりましたから",
"じゃあお祝言だな",
"もうそれも、ここ四五日のうちですの",
"それはおめでとう"
],
[
"うん知らない、しかしそれは、いい縁じゃないか、同じ家にいたのなら、お互いに気ごころも知れているだろうし",
"ええ、とても温和しい、いい人なんです"
],
[
"ごめんなさい、手放しで若さまにのろけたりして",
"あとでお祝いに、二人で一杯飲んで貰おう、今のうちにその人にそう云っておいて呉れ",
"はい、ぜひ頂きにあがらせますわ"
],
[
"どうした、うまく穏やかに済んだかね",
"どうだかね"
],
[
"忍耐に使ういい話というのを、聞いておけばよかったかもしれない",
"その話はするよ、しかし約束は守って呉れたろうな",
"おれは守ったがね、どうやら守っても守らなくても、同じことらしかったよ",
"というのは……",
"まあ着替えてからにしよう"
],
[
"或る点はむろんそうなんだ、柳沢排斥はなかば公然たるものだからね、しかし私のやっていることや、殊に村田の担当などは、感づくわけがないんだよ",
"それは青山がそう思うだけだろう、隠すよりあらわるるはないというからな",
"だって私は裁判記録の整理をしているんですよ"
],
[
"ひと口に云うと、裁判の成文を作るために、判例の分類をやっているわけなんで、しかも私が受持っているのは、寛永から慶安年代までなんだからね",
"しかし、反柳沢の運動と無関係じゃないだろう",
"具体的にいえばこうなんだ"
],
[
"ただそこに、一つだけ、疑問があるんだ、それは一味の資金関係だ",
"おれが聞いても、興味のあることか",
"聞くだけは聞いても損はないでしょう"
],
[
"規模としては単純なものだが、集まった人間が浪人たちだし、予備行動には相当の費用が使われている、その資金がどこから出ているか、それがはっきりわかっていない",
"しかし、丸橋某という男は、槍の大きな道場のあるじだったんじゃないのか、それにおれなどはまるで知らないが、紀伊家だか尾州侯だかが……",
"いやそんなものじゃない"
],
[
"丸橋はたいした浪費家で、むしろ生活の面倒までみて貰っていたらしい、紀州家の後援というのは、まったく事実無根だし、尾張家は一味が利用しようとしたものだ、というのは、尾張家初代の義直という人が、家光公とよくなかった、いろいろとまずいことがあって、幕府との折り合いもしっくりしない、寛永十四年に亡くなっているけれども、この関係はかなりひろく知られている、そこに正雪が眼をつけたんだ、そして行動を起こすばあいの、道具の二三に尾州家の印を付けたりしたんだが、むろん、その資金は……",
"――では、その資金は……",
"主謀者の正雪が自殺したから、徹底した真相はわからなかったようだ、けれども、私が調べていた記録の中に、その資金の提供者と思われるものが、偶然にみつかったんだ"
],
[
"しかし、これがどうしたというんだ",
"正雪の、隠れた女の家から出た、証拠物件の一つなんだが、それには、富士川を遡行する旅次の記と、或る金額の受取の控えとおぼしき書き物があり、それにこの紋章が捺してあったんだ",
"その金額というのは",
"単位があいまいなんだが、どうやら万以上のものらしい、前後二回くらいに分けて渡されたようで、なおまだ幾らでも引出せるようなことが書いてある",
"ああ、そうだ……"
],
[
"わかったよ、この紋が",
"気がついたかね",
"これは築地の、いつかいった丸茂の家の、釘隠しに付いていた金具と同じだ",
"そのとおりさ",
"それだけじゃない"
],
[
"――というと",
"そのまえにもいちど……"
],
[
"いや、よく思いだせないが、すると、正雪に資金を出したという人間と、丸茂の家と、なにかひっかかりでもあるのか",
"証拠はないけれども、とにかくこの紋が珍しいし、丸茂にいる女主人というのが、どこのなに者かまだ不明で、いつか見たとおり、柳沢系と深い関係がある",
"それはおかしい、その順でゆくと、柳沢も正雪のように、謀反でも企んでいる、ということになりそうじゃないか",
"もしそうだとしたら、どうだ",
"べつにどうということもないさ、おれには縁もないし、興味もないことだ"
],
[
"済まないが簡単にたのむよ",
"むろん要点だけ云うが、かれらの、そういう不法な企てに、丸茂の女主人というのが、相当重要な関係をもっているらしいんだ",
"――なんのために",
"それを知りたいのさ、女主人というのは、ちょっと凄いような美人で、おまけに、日常のくらしぶりや、召使たちに対する態度が、まるで大名の姫にも劣らない権式だそうだ",
"そんなことまで調べたとすると、あのとき給仕に出た女中の一人は……",
"諜者は一人ばかしじゃないさ、が、まあそんなことはいいとして、その女主人の素性というものがわからない、江戸の者でないことは間違いないし、町人や農家の者でもない、おそらく富裕な郷士の娘だろうという推定なんだ、ずいぶん荒っぽく金をばら撒くからね",
"人によっていろいろの道楽があるさ"
],
[
"その宴席では、姉妹してなにか舞ったあと、姉のほうが、柳沢吉保父子と、ながいこと密談をしたそうだ、そのとき、……どういうわけだかわからないけれども、妹のほうは屋敷をぬけだし、そのままどこかへ出奔してしまったらしい、たいへんな騒ぎだったということだ",
"そんな処にまで、諜者が入れてあるとは",
"まあ聞けよ、つまり丸茂の女主人は、そのとき柳沢父子に、なにか積極的な計画をもちだしたと思えるふしがあるんだ"
],
[
"ああ話したよ",
"その探査というのも、青山が今やっているのと、同じようなことなのか、もうひとつ、彼が植物調査といって、しばしば旅をするのにも、そんな意味があったのか",
"こわいような質問だが、そのままでないにしても、そういう意味は無いわけではないらしいな、諸侯に対する隠密は、なにも甲賀者や伊賀者に限らないだろうから"
],
[
"なにもそう言葉尻を取ることはないじゃないか、かれらに知られたということが事実なら、こっちにも方法はあるんだ",
"但しおれを除いてだよ"
],
[
"村田の本草学が、裏にそんな意味をもっているとすると、おれが、彼とつながりのある薬園詰めになることは、谷町などの疑惑をまねくのはわかりきっている、薬園詰めになったことだけだってだ、そのうえもし、なにかおれにさせるつもりなら",
"いや大丈夫、その点は保証しますよ"
],
[
"要約すればですね、村田にはそういう使命もあるが、同時に各地の、植物分布と、薬用草木の調査という仕事がある、それはどこまでも現実にやらなければならない、だから、彼の採集した草木の根や種子を、薬園へ移植し、栽培する者が必要でしょう、なぜなら、ときには珍種と称して送って来るものが、ただの雑草だというばあいもありますからね",
"ははあ……",
"そんなときには、適当に始末する者がいないと、ぐあいが悪いわけですよ"
],
[
"これは安倍だけにしか話せないことなんですがね、ことによると忘れたんじゃないかとも思うが、稲垣のしほという娘のことを覚えていないかね",
"稲垣の、しほ……"
],
[
"ああ覚えているね、主馬の熱烈な恋人だったろう",
"熱烈な恋人はいいけれど、なぜそんな妙な笑いかたをするんです",
"このくらいはしかたがないさ、恋文をみせたり、熱烈なところを聞かせたり、しまいにはあっさり嫁にゆかれて、三銭くらいのねうちしかないようなこころもちになったまで",
"ああ待った、それを"
],
[
"そこまで云うことはない、そういう感想はその場かぎり忘れて呉れるもんですよ",
"それで、そのしほ女がどうかしたのか",
"どうも三銭のねうちというやつを覚えていられると、ちょっと話しにくくなるんだが、ま、思いきって話してしまいますがね、こいつは出鼻を挫かれたかな"
],
[
"まず、ずばりと云うが、そのしほ女が現われたんだ",
"――新町へか",
"さよう、拙者の家へだ"
],
[
"さっき、つい今しがたと云ったようだな",
"ひと足ちがいで帰った",
"それについてふしぎはないと思うがな、彼女は青山家の遠縁に当るんだろう"
],
[
"――ほほう、……",
"彼女は良人に死別して、女の子を二人つれて実家へ戻った、もうなにも二人の仲に障害はないから、貴方の結婚の申し込を承知する、という仰せだ"
],
[
"これには少しの誇張もない、彼女はすこぶる明朗で、無邪気で、塵ほどの汚れもない顔つきで、こんなふうな眼つきをして、しなやかに身をくねらせて云うんだ、自分は貴方ひとりが生涯の良人だと信じていた、死ぬまでそう信ずるであろう、男の子は婚家へ取られたが、女の子二人はどうしても離せない、まわりの反対を押し切って連れ戻った",
"待って呉れ、あれは、嫁にいってからたしか、まだ四年そこそこじゃなかったのか",
"連れ戻った女の子というのは双生児なんだ",
"なんと、それは……",
"その双生児のためにも、貴方は良き父親になって呉れるだろう、と彼女は云ったさ、そう信じて少しも疑わない、なぜなら、貴方は自分を誰よりも愛していて呉れるから……どんなに隠しても、自分にはそれがよくわかる、そう云って、あでやかに身をくねらせ、こんなふうな眼で、私のことを見ました"
],
[
"さあ笑って下さい、こんどこそどんな妙な笑いかたでも甘受しますよ、さあどうぞ",
"――なんと、そこまではねえ"
],
[
"つまりそれで、青山としては、忍耐したわけなんだな",
"どうすることができますか、相手は純情で無邪気で、やましい気持などは爪のさきほどもないんですから、しんそこ、結婚してやろう、というつもりなんだからね"
],
[
"私はまず、初めに喉へこみあげてきたやつを、この手でこう、ぐっと握りつぶし、次にこみあげてきたやつをこっちの手で、そのあとのやつを膝の下へ、満身の力でこう、ぐうっと握りつぶし、押えつけました、そうしておいて、感謝の意を表しました",
"――すると、結婚するわけなのか"
],
[
"この手の中では、まだそいつが、暴れだそうとして、ぐいぐい身もだえをしている、手の平へ噛みつきもする、私はこいつを一生、この両手にぶら下げていなければならないと思う、そのくらいの気持なのに、安倍には私が結婚するように思えるのかね、それほど私は",
"わかったよ、なにもそう眼を剥くことはないさ",
"眼をどうしたって",
"おれの薬園の仕事だって、それとさして違いはしない、さきにわかっていたら断わるんだが、主馬の忍耐につきあって"
],
[
"いそいで来たんだが、木挽橋のところで喧嘩があってね、侍と犬なんだが",
"またばかなことを"
],
[
"今日はわれわれが招待するわけか、それとも安倍の招待か",
"どっちでも同じことだろう、早く汗を拭いて坐るがいい"
],
[
"お武家さまがお三人で、下まで来て頂きたいと仰しゃっています",
"侍が三人、誰だろう"
],
[
"どうしたんだ",
"なんだかわかりませんけれど、いらしった方たちといっしょに、どこかへおでかけのようでございます",
"でかけるって……",
"はい、着替えも此処でしろ、刀も持って来させろって、お三人が青山さまを取巻いて",
"ちょっとみて来る"
],
[
"どうしたんだ、青山",
"なんだかわからない、大目付へすぐ出頭しろというんだ",
"用件はなんだ",
"記録書類がどうとかいうんだが、詳しいことは此処では云えないそうだ",
"おかしいじゃないか"
],
[
"貴方は黙っていたほうがいい、自分に関係のないことには口だしをしないことだ",
"ではそっちはどうだ"
],
[
"いつか丸茂という家で、この顔を覚えておけと云った、みじん流の次高なにがしとかいうそうだが、大目付とどんな関係があるんだ",
"それが気になるかね"
],
[
"心配しなくっていい、かれらには、なにもできやしないんだ",
"しかし村田も帰るほうがいいんじゃないか、家へいってみていないと、かれらはまた此処へ来ると思うが",
"大丈夫だよ"
],
[
"およそこうだろうと、見当はつけて来たんだが、まさかこれほどとは思わなかったね、大山街道だなんて、しゃれたようなことをいって、道もくそもありゃあしない、まるっきり泥の海を泳ぐようなものさ",
"なんだってまたこんな降るなかを",
"悪かったですな、降るなかを来たりなんぞして、まあ足を洗わして貰いましょう"
],
[
"――なをが、どうしたって",
"心中をしたんだよ"
],
[
"おかしなことを云うね、だってあれは、板前のなんとかいう男と、結婚することになっていたんだろう、それであの日は、おれたちが祝儀までやったじゃないか",
"そうなんだがね、じっさいはあのときもう、心中するつもりになっていたらしい"
],
[
"また折をみて来るよ、但し秋晴れになってからだ",
"むりに来ることはないさ",
"むりにも来るよ、こんどは松室もつれてね、ひとつ松茸の汁で栗飯でも食わせて貰おう"
],
[
"新町さまと仰しゃいます",
"ああ、とおして呉れ"
],
[
"手紙は十日に貰いました、しかし今日こっちへ来たのは、いっしょにでかけるためじゃありません",
"――でかけないって"
],
[
"それというのが、なにか感づいたのでしょう、土屋侯が代表でいきり立ちましてね、旗本にして十日以上、江戸を離るる者は、老中連署の認証を要す、などという緊急特令を拵えちまったんです、だから今すぐには動けないし、事情によると無届け脱出ということになるかもしれませんが、とにかくそういうわけで",
"どうしてまた、急にそんなことが……",
"口火になる事があったんです、安倍が出奔しましてね"
],
[
"――安倍が、どうしたって",
"とつぜん出奔したんです、先月の十五六日ごろなんですが、ふいと一つ木の家へ帰って、着替えの物や、金もだいぶ持ったらしいですが、そのまま駒場へは戻らず、どこかへいってしまったというわけです、なんのために、どこへいったんだか、誰にも云わず書置もないんで、しかし金も二百両ちかく持ち出しているし、着替えなんかも持って出たので、まさか自殺の心配はなかろうというんですが"
],
[
"駒場のほうは……",
"あっちもきちんと片つけてあって、用意のうえの出奔だということは明らかだといいます、私はいきませんでしたがね、その祟りがこっちへきて、かなりまずいことになりました"
],
[
"できたら来て貰いたいんですがね",
"その必要はあるまいと思うけれど"
],
[
"御大老が甲府城へわたられてから、御使者や荷駄がこの道を往復しない日はない、といってもいいだろう、まして今年になってからは、お城を修築するために、多くの荷駄が甲府へ送られている、そうではないか",
"自分はこの月こちらへ着任したばかりで、そういうことはまだ知らない"
],
[
"もしこの荷駄に限って、検察せよという命令があったとすれば、それは断じて聞きのがせない、それは政治的な陰謀だ、その命令がどこから、なに者によって出されたか聞かせて貰おう",
"無法なことを云う",
"無法はそっちだ"
],
[
"小仏の関所ではなんの故障もなかった、道中規則はちゃんと守っている、大老柳沢侯の荷駄である、しかもこの関所に至って、急に検察の命令が来たとなると、その理由や出所を訊くのは当然ではないか",
"しかしそれは、この荷駄に限って、というわけではないので"
],
[
"どうしよう、私はあのみじん流に顔を知られている、私ではまずいんだが、あの関守は降参しますよ",
"私が出てみようか"
],
[
"関役人に対しては、言葉を慎んで答えて下さい、そこもとのいう御大老とは、誰びとをさすのですか",
"云うまでもない、柳沢美濃守さまだ",
"それはおかしい、なにかの間違いではないか"
],
[
"誰でも、……というのは",
"誰でもとは誰でもだ、柳沢美濃守さまが御大老だということは、武鑑などにも記載してあるし、世間一般の常識として",
"巷間の板行物や世評を聞いているのではない、改めて申すが、柳沢侯は老中首席であって、大老ではないのだ"
],
[
"自分は柳沢家の家臣である",
"それはわかっています",
"柳沢家の、この荷駄の……"
],
[
"あの駕は",
"病人です"
],
[
"どうしたのだ、なんだ次高",
"なに、もういい"
],
[
"たしかに通ってよいのか",
"念には及ばない"
],
[
"どうしたんです、村田さん、あのままやっちまうつもりじゃないでしょうな",
"――そのほかにどうする",
"どうするって、だってあれだけの鉄炮を押えたのに"
],
[
"へえ、……わかりませんね、なんです",
"あの女だよ"
],
[
"あの女って、あれは築地の丸茂にいたやつでしょう、柳沢一派の秘密な寄り場になっていた……",
"それだけではないだろう、相当に多額な金をばら撒き、柳沢父子ともなにか話しあいをしている筈だ",
"――なるほど",
"――なるほどじゃない、その女が江戸をぬけ出して来たんですよ、さっき青山が云っていたような情勢のなかで、あのれんじゅうといっしょに、あれだけの荷駄を持って、しかも今のあの居直ったようすでは、再び江戸へ帰るつもりはないだろう",
"まあそうでしょうな",
"それならどこへゆくか、かれらと共に甲府城へ入るか、おそらくそうではないだろう、もちろん城と連絡はあるだろうが、どこかほかに自分の根拠をもっているんじゃないか"
],
[
"すると……ことによるとあれが",
"そうみても不自然ではないだろう"
],
[
"青山はすぐ江戸へ帰って、私からの知らせを待っていて呉れ",
"貴方が自分で跟けるんですか"
],
[
"待っていて下すった",
"このとおり"
],
[
"あら、もうさっき申上げたでしょ、甘利山のうしろの、向うにある法王山よ、聞いていらっしゃらなかったのね",
"聞いていましたよ",
"あなたもう甘利山へお登りになって"
],
[
"ねえ、そうでしょう、わたくしの云うこと、そんなに違いはしないでしょ",
"そんなところでしょうね"
],
[
"大名の若殿でもなし、大身の子でもないけれど、遁世して来たということは、貴女の推察どおりです",
"それでたくさん、もうなにも仰しゃらないで"
],
[
"しかし、この土地の人たちは、よそから来た者を、住まわせては呉れないのでしょう",
"いいえ、乙女が付いていれば大丈夫、あたしが付いていさえすれば、誰だって、決して、あなたに指を触れることもできやしないわ、決してよ"
],
[
"でもそれには、あなたが乙女のいうことを聞いて、いけないということを決してなさらなければ、だけれど",
"――たとえば",
"ひと口には云えないわ、此処にもいろいろと、そうね、……いろいろと、そのことに触れたり、見たり聞いたりしてはいけない、場所や出来ごとがあるの、たとえば今日は四月十一日でしょ",
"――だと思いますね",
"これもその一つだけれど、今日は誰も山道へ出たり、そこらを歩きまわったりしてはいけないの、どんなことがあってもよ"
],
[
"あなたも自分の居どころにいて、どんな物音が聞えても、なにか見えるような気がしても、そこを動かないで、じっとしていらっしゃるの",
"ははあ"
],
[
"――それはつまり、亡霊が出る、というわけですね",
"そんなふうにお聞きになってもいけないの、乙女がこう云ったら、そうかといって黙って、そのとおりにしていらっしゃるの、今夜ばかりじゃなく、ほかにもそういうことがいろいろあるけれど、それはそのときそのときに、此処はこれこれ、なにはこれこれとお教えするわ、そうしたら云うとおりになさればいいのよ、わかったでしょ"
],
[
"それは貴女が自分で云いだしたことでしょう、私にはそんな者は一人もいませんよ",
"あらそうだったかしら"
],
[
"わけも教えずにですか",
"いつかお話しますわ、もう少し経ったら、もう少しして、もしかあなたが、……いいえ、あたし帰りまあす"
],
[
"お姉さま、お姉さま、乙女のいうことをきいて、お願いよ",
"いいえ、いや、お帰り",
"お姉さま"
],
[
"あたしの夢はやぶれた、なにもかも、いっぺんに崩れてしまった、みどう一族の守ってきた、再興の望みもこれで終りです、あたしはこの伏岩といっしょに死んで、死霊となって徳川の天下を呪い亡ぼしてやります",
"そんなことを仰しゃらないで、お姉さま"
],
[
"お父さまやわたくしが付いていますわ、いくらだって手の尽しようがありますわ、死ぬなんて仰しゃらないで、お願いよお姉さま、どうぞいちど帰って",
"いいえいや、いやです、放してお呉れ、さもないとあなたもいっしょに死んでよ",
"お姉さま",
"楔の岩を抜けば、この洞窟はいっぺんに崩れる、それでなにもかもきれいになるのよ、あなたは帰って、此処から先へついて来ると、あなたもいっしょに死んでよ",
"待って頂戴、待って"
],
[
"こいつは危ない、こう思ったんです、それで追い込むのをやめて、人数を集めに戻ったんですが、するとあの大崩壊でしょう、……ひと山ぜんぶ崩れたような感じでしたが、じつにどうも、あのときばかりは私も、前兆に対する認識を改めましたね、こいつは安くみつもっても、金二十枚くらいの値打はあると……どこへゆくんですか",
"ちょっと、あの……"
],
[
"つまらない伝説ですよ、本所のおいてけ堀のたぐいで、どこにでもそんな無稽な話はあるもんです、だって",
"――おかしい"
],
[
"いったいどうしたんです、なにがそんなにおかしいんですか",
"――水がね、濁っている"
],
[
"濁ってちゃ悪いんですか",
"――その理由がね"
],
[
"おのれ、どうするのだ、こんな卑劣なまねをして、恥を知れ",
"なにを怒ってるんだ",
"あれです"
],
[
"その罠に踏みこんだのです",
"――なんと"
],
[
"これは神を嘲弄するものであり、人間に対する冒涜です、私にもしも親の仇敵があって、そいつを八つ裂きにしてやりたい、と思うほど憎んでいる、としてもですね、その男をこういう(と彼は来太のほうへ手を振った)こういうざまにはしたくない、こういうざまでは決して見たくない、といったありさまじゃないですか、そう思わないですか",
"――思わないね",
"思わない、思わないですか"
],
[
"へたばったら縛れ、それまで手出しをせずに見ているがいい、もしまた暴れでもするようだったら、棒で叩き伏せてやれ",
"それを待っているか"
],
[
"そこもとは一つ木の安倍の縁者だろう、南部坂の昌雲寺で会ったことがあるぞ",
"それがどうした",
"刀をひけ、われわれは安倍の友人だ"
],
[
"わからない、が、たぶん、此処は地盤がゆるくて、つまり、樹が大きくなると、支えきれなくなる、……というのだろう",
"すると水が濁っていたのは、あのときもう地盤が動きだしていたわけですか",
"かんば沢の崩壊の、影響もあるだろうね",
"ぎょっとしますね"
],
[
"どうしてだかおわかりになって",
"まあ聞かせて下さい",
"わたくしね、あなたに鳥の翼とおんなじ、羽根を付けてあげたいと思いましたの",
"ほう、羽根をねえ",
"鷲のように大きくて強い、そしてきれいな翼をですの、そうすればあなたは、好きなとき空へ舞いあがって、自由自在にどこへでも飛んでゆくことができますわ"
],
[
"あらとつぜんじゃございませんわ、わたくしはただ、あなたがそう思っていらっしゃる、っていうことに気がついただけですわ",
"私がどう思っているんです",
"鳥のような羽根が欲しいって、……どこかへ飛んでいってしまいたいって、ときどきになるとそういうお顔をなさいますわ、それも、おめにかかっているときにはわからないで、家へ帰ってからふっと気がつきますの、ああ、あの方はあんなお顔をなすっていた、どこかへいっておしまいになるのじゃないかしら、どうしよう、……そう思うんです"
],
[
"けれども人間に羽根を付けることはできませんわ、どうしたって、……もしかして、乙女の命でそうすることができるのなら、いつでも命くらい代りに出しますわ、命じゃなく、手か足くらいだともっといいけれど、命だってちっとも怖かありませんわ",
"道はこういっていいんですか、どうやら下りになるようだが"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第五巻 山彦乙女・花も刀も」新潮社
1983(昭和58)年7月25日発行
初出:「夕刊朝日新聞」
1951(昭和26)年6月18日~9月30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※半之助から見た千之助との続柄において「従兄弟《いとこ》」と「従弟《いとこ》」の混在は底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057763",
"作品名": "山彦乙女",
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"初出": "「夕刊朝日新聞」1951(昭和26)年6月18日~9月30日",
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"もう少し大きいのにして下さい、そっちの大輪の菊を入れて、いいえその白いのがいい",
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"わざわざおまいり下さいまして、有難うございます、越後屋さんのお店の方でいらっしゃいますか",
"ええ……そうです"
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"ええ、……そうです、たぶん",
"わたくしおいねの母でございます、このたびはお店の皆さまに、いろいろと御厄介をおかけ致しまして……"
],
[
"お手代の繁二郎さまでございますのね",
"ええ、そうです、……繁二郎ですが",
"やっぱりそうでしたか、いねからお名前だけは伺っておりました、あれは御存じのように口の重いこでございます、詳しいことはなにも申しませんでしたけれど、でも、……病気がいけなくなってから、うわごとによくお名前をお呼び申しておりました"
],
[
"もう少し待てば、店を出して貰えるんです、五年まえから好きあって、末は夫婦と約束をしてからも、二年経ちます",
"まあ、……そんなにまえから",
"あと半年、せいぜい半年もすれば、店が出せる、そうしたらおっ母さんにうちあけよう、私には親きょうだいがありません、祝言をしたらおっ母さんにも来て貰って、三人いっしょに暮そう、そう話しあって、楽しみにしていたんです"
],
[
"な、なんですか、貴方はどなたですか",
"とぼけちゃあいけない"
],
[
"おまえが金次をやりに来たということは、ちゃんと知らせが届いてるんだ、桐生の機屋の店から、といえばわかるだろう",
"なにを、なにを仰しゃるんだか、私にはてんでわかりません"
],
[
"こちらは駿河町の越後屋のお手代で、繁二郎と仰しゃる方です、わたくしは山崎町の藤兵衛店にいる、おかねという者ですが、この方は、死んだわたくしの娘の墓まいりに来て下すったところなんです",
"するとおまえさんは、この男を知っているのかえ",
"存じておりますとも、よけいなことを申上げるようですが、この方と死んだ娘のおいねとは夫婦約束ができていたのですから",
"だが、墓まいりに短刀はおかしかあないか"
],
[
"だがひとつお節介をさせて貰おう、想う娘に死なれたからって、思いつめて死ぬなんざあみれんすぎる、そのくらいなら、こうしてあとに残ったおふくろさんの面倒をみてあげたらどうだ、そのほうが、死んだ娘のためにも功徳になるぜ",
"まあとんでもない、どうかそんな、わたしのような者のことなんぞ",
"なあにこいつはただ云ってみただけのことさ、……迷惑をかけて済まなかった、この危ないものはおれが預かってゆくぜ"
],
[
"あら、それはわたくしが",
"いいえ私が持ちます、ついでにお宅まで送ってゆきますよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1952(昭和27)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057765",
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"作品名読み": "ゆうもやのなか",
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"原題": "",
"初出": "「キング」大日本雄辯會講談社、1952(昭和27)年2月",
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[
[
"なんでえこれあ、妙な者が出て来やがったが、夢かな",
"あアら、うらめしや……くちおしや……なア"
],
[
"へえ本物かい、すると誰のゆうれえだ、お兼か",
"とぼけないでよ"
],
[
"おらあ、辰巳に借りはねえ筈だがね",
"勘定取りに来たわけじゃないよ、ばかばかしい、あたしゃゆうれいだって云ってるじゃないのさ",
"それあわかってるが"
],
[
"そんならよ、辰巳芸妓のゆうれえが、どんな因縁でおれんとこへなんぞ出て来たんだ",
"そこはあたしだって、都合があるじゃないの",
"それあ誰にだって都合はあるだろうが、ほかの事とは違ってゆうれえだからな、そっちの都合ばかりで出るてえのは、おめえ、ちっとばかり勝手すぎやしねえか",
"あんたはわけを知らないから、そんな薄情なことを云うんだわ、男ってみんなそうよ、みんな薄情の不人情のけだものだわ",
"怒ったってしようがねえ、おれに怒ったってよ、……おめえ誰かに騙されたてえわけか",
"騙されたもなにも"
],
[
"それあおめえ、なんだ、そんなに口惜しかったらおめえ、その相手の所へばけて出てよ、そいつをとり殺すなりなんなり",
"やったのよ"
],
[
"そんならなにも、それでいいじゃあねえか、それで文句はねえ筈じゃねえか",
"文句なんかありゃしないわ、文句なんかないけれど、もうとり殺す相手はないし、あたしは怨念のゆうれいだからうかばれないし、宙に迷ってゆきばがなくなっちゃったのよ"
],
[
"なるほどね、へえー、そんなぐあいのもんかね、ふう、そいつはその、ゆきばがないとは、おれも知らなかったなあ",
"あんたは死んだことがないから、そんな暢気なこと云ってるけど、にんげん死んだからって誰も彼もゆくとこへゆけるもんじゃなくってよ、地獄へでも入れて貰えばまだしも、うかばれないで宙に迷ってる者がたくさんいるのよ",
"おどかしちゃいけねえ、へんなこと云いっこなしにしようじゃねえか",
"あら本当よ、嘘じゃなくってよ"
],
[
"なかでも成仏できないのは、人を恨み死にに死んだ者、そういうのは瞋恚といって、どんな名僧知識の供養でもだめなの、極楽はもちろん地獄へもゆけないで、自分の怨念に自分で苦しみながら、未来永劫、宙に迷っていなければならないのよ",
"そいつあひでえ仕掛だ、死んでまでそんな苦労があるたあおどろきだ、そうとすれあ、おれも考えなくちゃあならねえ"
],
[
"どうしたのよ、なにをそんなに見るの",
"へえー、ふーん、こいつあなかなか"
],
[
"あらいやだ、よして頂戴よ、そんな",
"なにそうでねえ、おれも辰巳じゃあ五六遍遊んだことがあるが、おめえみてえな粋な姐さんにゃおめにかかったことがねえ、ゆうれえでなけれあ、唯はおかねえところだ",
"あらあんた、うまいこと云うわねえ"
],
[
"おらあ世辞を云うなあ、嫌いだよ",
"そんならあたしを、おかみさんにしてくれるウ",
"ゆうれえでなけれあな",
"いいじゃないのゆうれいだって、昼間はだめだけれど、夜だけなら煮炊きだって洗濯だって出来るし、そのほかにも世間のおかみさんのすることなら、たいていなことはしてあげるわよ",
"うめえような話だが、まさかね",
"疑うんなら、今夜ためしてみたらいいじゃないの、お酒の支度もしてあげるし、お肴も作ってあげるわ"
],
[
"そいつあいい、が、あいにく米も味噌もきらしてるし、酒もねえし、なにしろ先立つ物がすっからかんときてるんでな",
"しけてるのねえ、あんた"
],
[
"いいわ、今夜のところはあたしがなんとかするわ",
"なんとかって、どうかなるのか"
],
[
"これあおどろきだ、大串のてえした鰻じゃあねえか、ずいぶん久しく食べねえから、見たばかりで腹が鳴りあがる、おっとおれが膳を出そう",
"いいから坐ってらっしゃいよ、そんなことは女房の役、男が手を出すもんじゃないの"
],
[
"はいお一つ、冷でごめんなさい",
"どうもこれあ済まねえが、それじゃあ貰うか",
"遠慮することはなくってよ、おかみさんにしてくれればこのくらいのこと、毎晩だってしてあげるわ",
"それが本当なら願ってもねえが、まあおめえにも一ついこう",
"あら済みません、頂きます",
"思いざしだぜ",
"嬉しいことを云うわねこちら、それじゃあおかみさんにしてくれるの",
"そのつもりでさした盃よ",
"本気にすることよ、よくってこちら"
],
[
"むろんこっちは本気なんだが、こちらてえのは具合が悪いなあ、おらあ弥六ってえ者だ、これからあ、そう呼んで貰えてえ",
"あらいやだ、女房が亭主の名を呼ぶ者があるかしら、御夫婦と定ればあなたアって呼ぶわ、そう呼ばせてくれるウ"
],
[
"おまえでもいいけれど、本名はお染っていうの、あたしお染って呼んで貰いたいわ",
"だっておめえ呼び棄てってわけにあいかねえやな",
"あたしが頼むんだからいいじゃないの、ねえ呼んでエ",
"そうか、それじゃあ、お、お染……さん",
"さんなんて付けちゃだめ、そしてもっときつく、お染ッて呼ぶの、ねえ呼んでみて",
"それじゃあ、その、お染ッ",
"ああ嬉しい、あなアたア、もういちど"
],
[
"あなたア、あたし酔ったわア、酔ってもいいわね、堪忍してくれるわねッ、御夫婦のかための盃ですもの、そうでしょッ",
"そうだとも、うんと酔いねえ、酔ったらおれが介抱してやらあ",
"まあ嬉しいッ、こうなったら側へいくわよ"
],
[
"ねえあなたア、断わっておくけれどあたしとっても嫉妬やきなのよ、もしも浮気なんかしたら、とり殺すことよ、よくって、あなた",
"おどかすなよ、大丈夫、おらあ浮気なんかしねえから",
"おどかしじゃないわ、さっきも話したとおり、あたしあの薄情者をとり殺して、あいつの一家一族ぜんぶとり殺したんだから、とり殺すあてが無くって宙に迷ってるんだから、もしもあんたが浮気なんぞしたら、そのときはあたし"
],
[
"三十間堀の田川から持って来たの",
"持って来たって、そんなことして大丈夫か",
"大丈夫よ、田川くらいの店で、焼き残りに燗ざましの二本や三本なによ、それよりみんな寝ちゃってたから、これを持って出るのに苦労しちゃったわ",
"おめえ隙間から、出入りするじゃねえか",
"あたしは針の穴だってぬけられる、でも岡持だのなんだのはだめ、だってこういう物は、ゆうれいじゃないんですもの",
"なるほど、そういう理窟か"
],
[
"おらあもういい、おらあ強かあねえんだ",
"じゃあ明日の晩として、……ねえ、あなたア、うふン、あたし酔っちゃったわよう、ねえエ、お床敷いてエ"
],
[
"おめえ、……おめえ来てくれたのか",
"いやなことを云うわね、あたしあなたのおかみさんじゃないの、ずっとここでいっしょにいたわよ",
"だっておめえ、おれにあ見えなかったぜ",
"それは初めに云ってあるでしょ、ゆうれいは晩だけ、昼間は見えないの、あんた自分でさっきそ云ってたじゃないの、ああそうそ、さっきで思いだしたけれど、あんた今日たいへんなことをしてくれたわね",
"たいへんなことって、おれがか"
],
[
"そうじゃないの、あれはあたしがしたの",
"おめえがしたって、なにを",
"読めないように邪魔をしたのよ、だってあんたに般若心経なんか読まれたら、あたし成仏しちゃうじゃないの、成仏すればゆくとこへいっちまって、もうあんたに逢えなくなるわ"
],
[
"それでも、あんたが鉦を叩かなかったから、よかったのよ、鉦を叩けば仏さまが出て来るから、そうすればお経の邪魔をすることが出来なかったの、あたし本当にひやひやしたわよ",
"そうか、そういうわけか、そうとは知らねえもんだから、いきなりこりゃこりゃなんてとびだすには、びっくらした",
"これからは気をつけてね、さあ起きて湯へでもいってらっしゃい、あたしそのあいだにここの支度をしとくから……はい手拭"
],
[
"これあどうも、こいつあたいそうな御馳走じゃあねえか、おめえにこんな散財をさせちゃあ済まねえ",
"散財なんかしやしないわ、これみんな金田屋から持って来たのよ",
"えっ、金田屋、……二丁目のか"
],
[
"そのことなら安心しねえ、ゆんべは遠慮があったし、二年ぶりのなんだったからよ、そうわかれあ、へっ自慢じゃあねえけれども、おめえなんざあ十日と経たねえうちにげっそりして、へとへとのゆうれえみてえに……ああいけねえ、おめえは今でもゆうれえだからな、するてえと、どんな寸法になるんだ",
"あたしのことはいいの、あたしはどんなにせえだしたって身にこたえるってことがないんだから、あんたの考えなければならないのは、自分のことよッ",
"おれなら金の草鞋さ、うッ、さすがに金田屋だ、これあ生一本だぜ、まあ一つ",
"はばかりさま、御亭主にお酌さして罰が当りゃしないかしら",
"当ったら、半分はおれが背負わあな",
"ころし文句がうまいのね、その口でさんざ女を騙して来たんでしょッ、もしこれからそんなことしたら"
],
[
"ばかねえあんた、ゆうれいが蚊にくわれるわけがないじゃないの、そんなだったら夏の晩に柳の下なんぞへ出られやしないわ",
"それあまあそうだ、ゆうれえが蚊にくわれて、腿ったぶなんぞぼりぼりひっ掻いてたひにあ、睨みがきかねえからな、世の中なんてものあこれでそつのねえもんだな"
],
[
"おらあこれが勝手なんだ、これが性分なんだからうっちゃっといてくれ、待ってるなんてどこの誰だか知らねえが、自分からおん出ていった者を、可哀そうもへちまもありあしねえ、ふざけたことを云わねえで貰えてえ",
"な、な、なんだと"
],
[
"てめえは底抜けのおたんちんだから、そんなごたくをぬかしてるが、二年このかた米味噌から小遣銭、不自由がちでもともかく生きて来た、いってえそれを誰のおかげだと思ってるんだ",
"それあまあ、それを云われるとなんだが、そこはおれだって大家さんの恩は",
"ざまあみやがれ、てめえの眼はそのくれえのもんだ、ここへ運んで来たなあおれに違えねえ、だが本当の主はお兼さんだぞ、縫い解き洗濯、仕事を選ばず夜も日も稼いで、てめえがまじめになるまではと、……稼ぐだけみんな、てめえに貢いで来たんだ、大家さん、どうかあたしからだとは云わないで下さい、これがわかって、またのんきな気持になられでもしたら、あたしの帰る日が延びるばかりです、お願いですから内証にして下さい、……おらあ涙がこぼれた、ばあさんなんぞ水っ洟あたらして泣いたぞ、……夫婦は二世といってたって、縁が切れれば他人だ、てめえなんぞはのたれ死にをしたっていい人間だ、それをお兼さんはこんなに、こんなにまで蔭で実をつくしてる、……夫婦の情だ、てめえを亭主と思えばこそだ、それをてめえはなんだ、なんてえごたくをつくんだ"
],
[
"まえの女房は追い出した、縁は切れたと云ったじゃないか、それをこの南瓜は",
"縁は切れてるんだ、嘘じゃあねえんだ、おれの知ったこっちゃあねえんだから"
],
[
"そういうことなら、こんどだけは信用してあげるわ、だけど、……大家さんにああ云われてみれば、あたしたちもなんとか考えないといけないわね",
"かんげえるって、なにをよ",
"食べ物くらいは持って来られるけれど、まさかお金まで取るわけにはいかないわ、あんただってあたしに泥棒をさせるつもりはないでしょ、だとすれば店賃やなにか、どうしたって少しはお宝が要るじゃないの"
],
[
"そうだ、いいことがあるわ、あんた",
"断わっとくがおらあ働くのあいやだぜ"
],
[
"ゆうれえを貸すって",
"世の中には、死ぬほど人を怨んでる者がたくさんいるわ、金の恨み恋の恨み、いろんな恨みからいっそ化けて出てやりたい、怨みのほどを思い知らせてやりたい、そう考えてる人がたくさんいるでしょ、そういう人にゆうれいを貸してやるの、借りた人は自分の代りにそのゆうれいを先方へやって、怨みたいだけ怨むことができるわ、これなら自分で死ぬ必要がないし、相手の苦しむのを見ることができるんだから、それこそ一挙両得じゃないの"
],
[
"あたしもやるけれど、それだけじゃだめ、お客が来るとすれば、いろいろ註文があるでしょ。だからもう五六人ゆうれいを伴れて来るわ",
"そう云ったって、そんなにゆう的がいるのかい",
"このあいだそ云ったじゃないの、ゆくとこへゆけなくて宙に迷ってる者が大勢いるって、口をかければ、五人や十人すぐに集まって来るわよ"
],
[
"へえー、そんな連中がまだ宙に迷ってるのか",
"お岩さんなんか、とっても執念ぶかいの、そのうちここへ押掛けて来るかもしれないわ",
"じょ、じょ、冗談じゃあねえ、とんでもねえ、お岩さんなんぞに来られて堪るものか、そいつだけあ断わってくれ、聞いただけでも肝が縮まあ"
],
[
"念を押しておくけれど、こんだ抱えた娘の若いほうね、あの娘にはあんた気をつけて頂戴よ",
"あの娘になにかわけでもあるのか",
"あるのよ、あの娘は前世でたいへんな浮気者だったの、縹緻はそれほどでもないけれど、体や性分がそう生れついたのね、あの若さで三十幾人かの男を騙して、その恨みで男のために殺されたのよ、今だって男のゆうれいさえ見ればくどくんだから、それがまたとっても色っぽくて上手なんだから、いいこと、……気をつけてひっかからないようにしないと、もしあたしに嫉妬をやかせでもしたら、わかってるわね",
"なんだ、そんなことか、それなら念にあ及ばねえ、おめえ一人でもて余してるくれえなんだから、浮気なんてとんでもねえ"
],
[
"当ったなあ、お染、見ろ、もうおめえ三両ちかく儲かったぜ",
"それっぱっちなによ、いまに千両箱を積んでみせるわ"
],
[
"はっきりした阿魔だな、それでどうした",
"どうしたってあなた、まさかこっちはゆうれいですからね、それも前世でかげまかなんかしたってんなら別でやす。それなら尻くれえ見られる咎はあるかしれねえ、けれどもあっしあ、こうなれば云うけれども紙屑買いでやした、まっとうな紙屑買いをしていて、そうして今は仮にもゆうれいであって、それであなた、いかに商売とは言いながら、尻を捲って痣の有る無しを見せる、……ほほほほ",
"ここで泣くこたあねえやな、そんなふてえ阿魔なら、横っ面の一つもはり倒してやるがいいじゃあねえか",
"そう思ったんでやす、けれどもいけやせん、ひどくまた気の荒い女とみえまして、ぽンぽンぽンぽンと早っ口でどなりやした、あんまり早っ口でよくわからねえが、わかるところだけでもこっちの顔が赤くなるような、つまりは男を裸にした嘲弄なんで、あっしゃあここだから云うんでやすが、恥かしさも恥かしいし、だんだん怖くなってきやして",
"ゆうれえのほうで、怖くなっちあしようがねえな"
],
[
"そいつは本当とすれば、ひでえ坊主があったもんだ",
"坊主がこのとおりだとすれば、仏さまはその元締でやすからな、あっしらがどんな扱いを受けているかおわかりでやしょう、……正直者や弱い者やまっとうな人間は、この世でもあの世でも同じこってやす。天道も仏もなんにもしてくれやしねえ、苦しむのはやっぱり貧乏人でやす"
],
[
"いってえどうしたんだ、なにがあったんだ",
"ゼエゼエ、……ゼエゼエ、……ゼエゼエ"
],
[
"死んじまえばおしめえ、なにもかも生きてるうち、そうかもしれねえ",
"なにをそんなに感心してるのよウ、このひと"
],
[
"どうしたんだ、もう済まして来たのか",
"そんなこといいじゃないの、それより、ねえエこのひとウ",
"おう変な声を出すな、そしてそんなに側へ寄っちゃあいけねえ、もっとそっちへいってくれ"
],
[
"とり殺されるってんでしょ、いいじゃないのさア、とり殺されたらされたで、あんな人と別れて、あたしと御夫婦になりましょうよ",
"ひとのことだと思ってよせやい、おらあまだ死にたかあねえ、頼むから勘弁してくれ",
"大丈夫だったら、あの人は朝までは帰って来やしないわよ、ねえン、そんなに薄情にしないでぎゅっと抱いてようン、あの人どんなだか知らないけど、あたしのは万人に一人の別誂らえよ、さあおとなしくして、これをこう、ねえン",
"ひひひ、よしてくれ、ふふふ、擽ぐってえ、へへへへ、待ってくれ"
],
[
"あたしゃ見たよ、この眼でね、ちゃんと見たよ",
"ち、ち、違う、違うんだ、と、とんでもねえ、あれあでたらめだ、嘘っぱちだ",
"あたしのことを、おばあさんだってね、おまえを尻に敷いているってね、とり殺されたらあの娘と夫婦になるってね、おーまーえさーん",
"た、た、た、そいったあれが、あいつが",
"あれがねェ、あれがおまえに抱きついて、手足を絡んで、云ってたーねー"
],
[
"あーらうれしや、これで怨念の相手が出来しぞ、とり殺す相手が出来たるぞ、うれしやうれしや、これよりは九百九十九夜、夜毎日毎に枕辺へあらわれ、塗炭の苦しみを嘗めさせて、うーらーみ……はーらーさーでえ……おーくーべーきい……かー、あーらうらめしやな……",
"助けてくれ、このとおりだ"
],
[
"おらあ死にたくねえ、助けてくれ、死ぬなあいやだ、勘弁してくれ、人殺し",
"弥六、どうした、弥六、しっかりしろ"
],
[
"こんな時刻まで寝こんで、なにをうなされてやがるんだ、ふざけるな、眼をさませ、どうしやがった、弥六",
"はア、……はア、……"
],
[
"大家さんお願えだ、どうかお経を読んでくんなさい、般若経をいちどでいい、あっしを助けると思って",
"読めってえなら読むが、しかし急にどうしたんだ"
],
[
"おめえ、それあ本気で云うのか、まだ寝呆けてるんじゃあねえのか",
"本気にならなけれあとり殺されるんで、いいえ本気です、これから腕っ限り仕事をし、お兼も呼び返して、まじめに精いっぱい稼ぎます、ですからどうか早くお経を",
"それが本心ならめでてえが、なんでまたそのために経を読むんだ",
"それあお染……いいえまあ、それは、おやじにも、おふくろにも、このとおりだというところをみせて、安心してゆくとこへいって貰えてえんです"
],
[
"亡くなった父母に見て貰おうてえのは冗談ごとじゃあねえ、弥六、おめえよくそこに気がついてくれた、おらあ嬉しいぜ",
"あっしのほうが、よっぽど嬉しい",
"これで、弥八もおふくろもうかばれる。お兼さんにもすぐ知らせよう、お兼さんがどんなに喜ぶか、……きっと泣きながらとんで来るぜ、泣きながら"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1950(昭和25)年9月
※初出時の署名は「風々亭一迷」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057766",
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[
[
"近ごろ例の謎の白堊館事件というのが、ばかに新聞で騒がれているが、あれは全体どんな事件だったのだね?",
"ああ、あれですか?"
],
[
"ねえ父様、僕、一昨日と昨日とまる二日、上野の図書館で調べたのですが、それによると、あの博士の殺された白堊館では、今度までにもう八人も人が殺されているんです。あの白堊塗の洋館が建てられたのは、明治三十年ごろのことですが、家が建って半年ばかりの後、その家の主人が行方不明になってしまった。それからというものは、移ってくる人がある度に、必ず怪しいことが起って、殺されるか行方不明になってしまうので、遂には魔の邸といわれて住む人もなくなり、荒れに荒れたまま放られてあったのですが、それを博士が三月前に安く買取って移ったのです",
"八人も同じ邸で殺人事件があったって?",
"そうです。ねえ父様! これで事件はますます面白くなってきたでしょう?",
"うん、しかし、どうもすこし複雑すぎるな、子供のお前には無理な事件だよ!",
"そうでしょうか、けれど、僕はこの事件を解決してみたいと思いますよ"
],
[
"誰だね、訪ねてきたのは?",
"理学士、松川捨三……殺された博士の、そうですね、多分弟か、でなければ従弟くらいのところでしょう"
],
[
"貴方のお力になりましょう。そうですね、僕はさっそく明日の午前十時、白堊館へまいります。又そこでお眼にかかりましょう!",
"何か用意するものがございますか?",
"そうですね、僕ぁ昼飯には厚肉のテキが頂きたいんです、松川さん"
],
[
"ここで兄は殺害されたのです!",
"博士の死んでいたのはこの椅子ですね?",
"そうです、その椅子です",
"まだこの室は掃除してないでしょうね",
"ちっとも手をつけてありません"
],
[
"何か音って……別に",
"いや、たしかに何か音がしたろう、白い幽霊が何かいっていただろう?"
],
[
"その時、私や吃驚してね。なにしろちゃんと閉まってる部屋から白い幽霊がすっと出たんで、胆がでんぐり返ったかと思いやしてね、ぶるぶる顫えながら見てやしたら、その幽霊め(ごろうきたかい)と三度云いやした。そして暗い廊下の隅の方へ消えてしまいましただ……",
"よし結構! もういいから出ておくれ!"
],
[
"それは三年ばかり、以前に、私が南洋から持って帰ったもので、今は馴れていますが非常な猛鳥で、怒ると犬や犢ぐらいは啄き殺します",
"そうですか、怖いですね"
],
[
"伯父さんの家はたしか旧長谷川出羽守侯の藩士でしたねえ",
"そうだよ。何かあるのかね",
"長谷川侯の家老に、たしか勝浜という家老がいたはずですが、明治になってからどうなったか、ご存知ないですか?",
"ああ勝浜か、彼奴は悪者でねえ、藩侯の金を二万両ばかり、どこかに隠匿して逃げてしまったよ。ずいぶん探がしたが行方不明のままだった",
"そうですか、どうも有難うございます",
"なんだね……"
],
[
"おいおい又坊っちゃんていったな、じゃもう友達じゃないぞ、失敬な!",
"やあ、御免なさい、御免なさい、つい忘れちゃったんです、もう云いませんから勘弁してください"
],
[
"よし、じゃあ今度だけ赦してやる、ところでねえ壮太君、実はまた面白い事件で君に頼みたいことがあるんだ",
"やあそいつは素的ですね、どんなことでもやりますよ",
"まあちょっと耳をかしたまえ"
],
[
"ね、分かったろう?",
"ようござんす、幽霊って奴あ私ゃあんまり好きじゃありませんが、坊っ……じゃねえ春田さんと一緒ならやります!",
"じゃ頼んだよ、いいかい、ちょうど八時にだぜ!"
],
[
"これがなんで秘密なんですか?",
"これはね、この邸の敷地のある場所に、莫大な金貨を埋めた秘密の案内図なんです!"
],
[
"そうです、約二万円ばかりの現金です!",
"で、どこに埋まっているか分かったのですか、え、春田君⁉"
],
[
"分かりました。極く簡単なんです、ごらんなさい、クワウコクノコウハイコノイツセンニアリという十九字の中に、ノの字に赤・の打ってあるのがありましょう、つまり十九字の中のノのある場所に、その金が埋まってるんです",
"そりゃ分かっているが、その十九字が何を意味しているんだか分からん"
],
[
"そうです、その十九字が問題です",
"分からないのですか?",
"いや分かりました。つまりそれはこの白堊館の大柱の数なんです!"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年9月
初出:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年9月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
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"作品名": "幽霊屋敷の殺人",
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[
[
"たち昏みのまねをしてみせただけさ",
"どんなふうに……",
"ちょうど伝法院の門のところだったね、お勝ちゃんといっしょにうしろから追いぬいていって、ちょっと立停って、それからふらふらっとお勝ちゃんのほうへ倒れかかったのさ",
"それでたち昏みのように見えるの"
],
[
"それからあたしその人に云ったのさ、東仲町に懇意な茶屋がありますから、済みませんがそこまでお伴れ下さいましって",
"その人お侍だったのね"
],
[
"恰好を見ればわかるのね、ほんとにおしの姐さんが扮ると、どこから見たって立派な大店のお嬢さんだもの",
"おまえさんに褒めてもらったってしようがないよ"
],
[
"その人と、今日まで幾たび逢ったの",
"今日で五たびめさ",
"じゃあもうこっちのものだわね"
],
[
"今日はうまくいきましたよ、姐さん、どこへも寄らずに今日はまっすぐお帰りになりました",
"それで、どうだったの"
],
[
"ちゃんと慥かめたろうね",
"うまく云って御門番に訊きました、小出又左衛門さまのお屋敷で、いま入っていらしったのは御子息の折之助さまだって、お年寄の門番が教えてくれましたわ"
],
[
"有難う、お汁粉でも喰べてちょうだい",
"いやですわ、番たびこんな"
],
[
"その娘の家は商人だって",
"小伝馬町の美濃庄といって、太物問屋では指折りの商人らしい、娘がちょっと立ったとき、お勝という下女がそう云っていた",
"もちろん慥かめやしないだろうな"
],
[
"小出は純真すぎるからな、これまで友達づきあいもあまりしないし、酒も飲まないし、女あそびなんかもしたことがないだろう、学問所では模範生だが武芸は嫌い、――まるっきり世間というものを知らないんだから",
"それとこれとどんな関係があるんだ"
],
[
"小出家は五千石の大身じゃないか、おやじ殿は理財家で、金箱には小判がうなっているというのに、その一人息子がおれなんぞに小遣を借りるなんておかしいぜ",
"済まない、必ずこれは返すから"
],
[
"お願いですからそんなふうに仰しゃらないで",
"だって本当に思いだせないんだよ"
],
[
"苦しむことなんかありゃしない、やがて二人はいっしょになるんじゃないか",
"いいえだめ、そんなことできやしませんわ"
],
[
"それなら証拠をみせて下すって",
"みせられるならもちろんみせるよ"
],
[
"あなたのお盃で頂かせて、ね、いいでしょ",
"いいけれども、大丈夫かな、あんまり酔って、いつかのように気持が悪くなると困るよ",
"あのときはたち昏みですもの、お酒に酔うのとは違いますわ"
],
[
"今日はどうかしているね、なにかわけがあるらしいが、話してしまわないか",
"――いや、もっとあとで",
"同じことじゃないか"
],
[
"だから云ってしまえばいいんだ",
"口では云えないんです"
],
[
"いいえあたし悪い女です、あなたはなにも御存じがないんです、あなたとこんなことになってしまって、あたしとても、生きてはいられませんわ",
"なぜそんなことを云うんだ、二人は必ず結婚できるんだよ、私を信じておくれ、私はきっとうまくやってみせるよ"
],
[
"ばかなことを云うもんじゃない、おしのはなにも騙したりなんかしやしないよ",
"済みません、堪忍して"
],
[
"ええ、たった一つ、あなたが好きだということのほかは",
"私が好きだって"
],
[
"それで親方のほうはどうするんだ",
"あなたに御迷惑はお掛けしません、大丈夫だから心配なさらないで"
],
[
"風邪ぐらいで病気だなんて大袈裟ですよ",
"そういうけれど高い熱が少しもひかないし、今朝っから胸が痛いなんて云ってらっしゃるし、普通の風邪ではないかもしれませんよ"
],
[
"いえそれはいけません、暫く御無沙汰をしておりますし、御病気とあればおみまいも申上げたいし、お手間はとらせませんからどうぞちょっとお待ち下さい",
"しかしその金は、家で入用なのではなく、これからすぐ届ける先があるので、父の親しい知人なのだが、本所のほうの"
],
[
"そうだ、そっくりよこしな",
"だって旦那それじゃあお約束が違いますぜ"
],
[
"あたしがなにが人が悪い",
"てまえが行燈部屋へ入れられる、旦那のところへ使いを出す、旦那が来て下さりゃあいいが、あの野郎もうちっと困らせてやれかなんかで、ねえ、旦那という方はまたやりかねないんだからこれが、そんな人間は知らないよ、なんてことでも云われたひには"
],
[
"それはあんただって同じことじゃないの",
"少しおどおどするくらいうぶで、寝たときなんぞ固くなって震えていたし、まるでなんにも知っちゃいなかったわ"
],
[
"綿入がないっていって来たから",
"そんなこといちいちきいてやることないじゃないの、里扶持をきちんと遣ってあるのにさ、あんたは少し人が好すぎるんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋
1954(昭和29)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057767",
"作品名": "雪と泥",
"作品名読み": "ゆきとどろ",
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"初出": "「オール読物」文藝春秋、1954(昭和29)年1月号",
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[
[
"いつまで遠廻しに云ったってしようがねえ、相手はおめえそらを使ってるんだ、はっきりけじめをつけてやろうじゃあねえか",
"おらあ初めからそう云ってるんだ、仲山と吉田の建場だけでも十八人、指をくわえて見てるこたあねえやな"
],
[
"ええ、私もそう思うんです",
"それじゃあきっと石ころなんでしょう",
"ええそうなんです、石ころなんです"
],
[
"とんでもない、そうではないんです、いま頂いたのが駄賃ではなくあけてみたらこんな物ですから、たぶんなにかの間違いではないかと思いまして",
"間違いって……どういう間違いです",
"つまり貴方が包を間違えて",
"冗談を云っちゃあ困るね、私はおまえさんの眼の前で銭を数えた、駄賃のほかに些少だがこころづけも添えて包んだ、おまえさんそれを見ていた筈じゃあないか",
"ええそうです、慥かに見ていました"
],
[
"この野郎、まだ云いぬけをするつもりか",
"面倒だ、ぶちのめして山犬の餌食にしろ"
],
[
"昨日聞くと、病身の母御がおられるというが、滝沢はなにかと不便でもあろうし、当方でもなるべく道場に住込んで頂きたいので、こちらへお伴れしてはと思うのだが",
"はあそれは、そうしたいですが",
"幸いこの地内に空家がひと棟あります、よかったらそこを使って下すって結構です",
"それは有難いですが、その"
],
[
"初めに駄賃を定めながら、酒手を余分にねだるとはふといやつだ、きさまたちは、いつもそうやって、旅人たちに迷惑をかけているのだろう",
"迷惑なんてとんでもない、酒手というのはわたし共のしきたりで",
"黙れこいつ、酒手を当然のしきたりなどと云うからは、なおさら勘弁ができない、街道往来の諸人のためだ、おのれ斬って呉れるぞ"
],
[
"いま向うで聞いていたんですが、この方たちとなにかゆき違いがあったらしいですね、いったいどうしたんですか",
"へえ、それがその、へえ、その"
],
[
"――刀を差していて弱い者いじめをするなんて、きっと本当の侍じゃなく偽者なんでしょう、それにお金も持っていないのかもしれませんよ",
"無礼者、偽侍と申したな"
],
[
"三沢先生もうひと手お願いします",
"そう詰めてやっても疲れるだけですよ、今日はもう貴方はおあがりなさい",
"いえ大丈夫です、済みませんがもうひと手"
],
[
"宿料のことなんて、そんなばかな",
"いいえ、この家はもともと湯治宿で、客はみな自分で炊事をするのが定りなのです、もう病気は治ったのですから、同じようにしなければ居辛うございますわ",
"では宿を変えましょう"
],
[
"はあ、一両二分ございますわ",
"どういうのでしょうかね、半月とちょっとなんだから、まさか日割りで差引くということはないにしても、約束より多いというのは、もちろん、よもや勘定ちがいはないでしょうし"
],
[
"とにかくこれだけずつ貰えるんだから、この家がそんなわけなら、もう少しましな宿へ変えることにしましょう",
"はあ、それはまた次にでも……"
],
[
"ではまた二十日に来ますからね",
"こちらは大丈夫でございますから、月が変ってからでも結構でございますわ"
],
[
"するとなんですかね、今日はかれらの休み日というわけですかね",
"そんな話は聞いたこともありませんな、馬子や駕籠舁きが揃って休みを取るなんて、幾らなんでもそんなことはないでしょう",
"すると、――なにかわけがあるんですね",
"わけはあるよ"
],
[
"へえ、妙なことになったね、どうしてだい",
"出るとひどいめにあわされるんだよ、箕山のお侍たちにさ、おいらの父も、この吉べえの父も、ほかに三人もひどい目にあって、みんな家で寝ているよ"
],
[
"――小父さんのためなんだ、小父さんは善い人だって、父もみんなもそう云ってた、悪い人じゃないらしいって、でもよけいなことをしてくれたってよ",
"仲山の騒ぎのときのことか",
"いま小父さんが、荷物持ちしていたって云ったから、わかったんだ、騒ぎのときに黙っててくれればよかった、そのときの駄賃は損しても、こんな仇をされることはなかった、でも、小父さんは親切で、してくれたんだろうし、今ではやっぱりお侍だから、捻じ込むわけにもいかないって、そ云ってるんだ"
],
[
"いや済まない、坊やたちにも面目ないが、稼ぎ賃は小父さんが出すし、むろんお医者にもかけてあげるし、もっと大切なことを相談しなければならないからね",
"そんなこと云って、またよけいなまねをするんじゃないのかい"
],
[
"かれらはその日稼ぎで、もっとも貧しい無力な人間です、どこも家族が多くて、子供の荷持ちぐらいでは満足に喰べることもできません、そういう弱い者をですね、幾らなんだからといって、武士たる者があんまりひどいじゃないでしょうか",
"それで、結論としてどうしようというのですか"
],
[
"はあ、結論を申しますと、要するに",
"その人足どもに治療代を遣り、街道の稼ぎを元どおりにすればいいわけですか",
"それはもちろん、それだけは、なんとしても"
],
[
"はあ、それはその、有難いですが、小室先生にそんな御迷惑をかけるのはあれですし、それにまた私としましても、ただ治療代を出す、元どおりに稼げる、というだけでは気が済まないので、ほかのこととは違いますから、どうしても是々非々をはっきりさせ、二度とかようなことのないように、乱暴した者をみんな伴れていって、かれらに謝罪させたいと思うのです",
"かれらに、というと、その人足どもにですか",
"ええそうです、さもなければ私の気が済みません、これは単に金銭の問題ではないと思うんです"
],
[
"貴方は珍しい人だ、初めて峠で会ってから、ずっと日常を見ているが、まことに当代稀なお人柄だと思う、しかし、少しばかり度が過ぎはしないだろうか、……正義感の強いのもいいが、雪の上に霜を加えるような努力は徒労でしょう",
"それは、……どういう意味ですか"
],
[
"あの連中に了解して貰ったのですって、……それはいつのことですか",
"貴方が稽古を始めてから、七日ほど経った頃でしょうか",
"はあ、それは、少しも知りませんでしたが、しかし、どうしてそんなことをなすったのですか"
],
[
"いろいろお話をうかがいましたけれども、まことに僭越でございますけれども、また、申し訳のないところもございますけれども、私は御意見に添うわけにはまいりません",
"どこが不承知ですか",
"全部です、しかし理由は云いません、申してもわかって戴けないでしょう、わかって戴けるように話すこともできないようです、私はおいとまを戴きます",
"――なんですって",
"これだけは良心に咎めるので申上げますけれども、私には妻があるのです"
],
[
"滝沢の宿にいるのは妻です、したがってお嬢さんを戴くわけにはまいらないのです",
"しかし、貴方は、母親であると",
"いいえ申しません、それは貴方がお考え違いをなすっていたのです、おそらく峠の騒ぎのとき私が、病人を抱えていると申したのを誤解なすったのでしょう、もちろん誤解をなすっていることにはあとで気がつきました、そこは相済まないところなのですが、私が病母を抱えているために貴方が世話をして下さるものと思い、あの際は御親切に頼るよりほかなかったものですから、そのうち折をみてと"
],
[
"それなんですがね、ええ、おたよはもう怒らないと思うんだが、いつか許しを得た筈なんだが、だって小室さんへ返すのは一両二分だけれども、けがをして寝ている者がいますからね、五人とも家族が多くて、食うに困ってる状態なんですから、それはおたよもいってみればわかると思うんだが、じつに気の毒で哀れで、なんです、どうして笑うんです",
"仰しゃればよろしいのに、賭け試合をなすったのでしょう"
],
[
"小室さまはお受取りになりまして",
"受取らないというので置いて来ました、食費や世話になった代もありますからね、婿にならない以上、そういうものも払わないと義理が悪いでしょう",
"婿にならないって、なんのことですの"
],
[
"どういう方ですの、そのお嬢さま、おきれいだったんでしょ",
"冗談じゃない、てんで、そんな、……要するにそういうわけで、すぐとびだしてですね、それから夜道をかけて五人の家をまわりました、寝ているのを起こして、金を配りましてね、かれらは泣いていましたよ",
"年はお幾つぐらいですの、そのお嬢さま",
"本当にかれらは泣きましたよ、権六の家では粥を喰べてゆけと云いました、泊ってゆけと云った家もありましたがね、さあ来ました、この茶店でちょっと休みましょう"
],
[
"ばかなことを云わないで下さい、私はまじめです、こんどこそおちつける、条件もいいし自分でも悟るところがあった、こんどこそおちついて、少しはおたよにも楽な生活がさせられると思ったのに、やっぱりだめになってしまって、じつになんとも、面目ないといっていいか済まないといっていいか",
"もうたくさんです、わかっていますわ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「面白倶楽部」光文社
1952(昭和27)年3月~4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年2月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057768",
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"作品名読み": "ゆきのうえのしも",
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"初出": "「面白倶楽部」光文社、1952(昭和27)年3月~4月号",
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[
"べつにむつかしい講議をしているわけでもありません。固苦しくされるとかえって気詰りですから、みなさん火桶の側へ寄って楽にしてください。今宵はまたひどく冷えるようですが、御当地はいつもこういう陽気でございますか",
"御覧のごとく山国でござるから"
],
[
"霜月に入ると寒気が厳しくなります。榛名、赤城と真向から吹颪すのが、俗に上州風と申して凛烈なものでござります。拙者どもは馴れておりますが先生には御迷惑でござりましょう",
"ひどくまた今宵は冷えまするな",
"雪にでもなるか知れませぬ"
],
[
"やあとうとうやってきたな",
"……しかも粉雪だ",
"これは積るぞ"
],
[
"なんだ来ていたのか",
"来たさ、約束だもの",
"待っていたが見えないから、もう来ないものと思っていたよ。初めから聴いていたのか",
"火桶の側へ寄れというところから聴いた"
],
[
"なにしろとまどいをしたよ。国老がいるかと思うと足軽がいる、おまけに女客まで同席ときた。講演者はまた気楽にしろの火桶を抱えろのと如才がない。大弐という先生がどれほどの学者か知らぬが人気とりにかけてはすばらしい気転だぞ",
"悪い癖だ。貴公はどうかするとひどく捻くれた見かたをする",
"そいつは言過ぎだぞ、捻くれた見かたというのは誹謗だ。拙者は真っ正直で口に飾がない。それだけのことだ。心はいつもさっぱりと割切れているんだ。さっきの講演にしても……大弐どのは立派な経綸を吐いているのだろう。なにも寒さに気を使って火桶の心配まですることはないはずだ",
"それが貴公の悪い癖だというのだ",
"またそいつか、癖だと云われてしまえばそれまでさ。しかし道之進"
],
[
"大弐どのは殺されると云ったよ",
"どうして、山県先生がどうして殺されるのだ。誰が殺すと云うのだ",
"誰が殺すかと云えば大弐どのさ",
"……",
"山県大弐は自分で自分を殺すよ"
],
[
"伊兵衛、それは貴公の意見だな",
"これが拙者の悪い癖かも知れぬ。拙者は物ごとを捻くれて見るかも知れぬ。しかし大弐どのの説は叛逆の罪に当るぞ",
"馬鹿なことを"
],
[
"山県先生の説が新奇だということは認める。在来の学者たちがかつて触れたことのない、多くの重要な問題をとりあげているし、その説く方法も型破りな点が多い。けれど先生の論理は非難さるべきいささかの不条理もないはずだ",
"本当にそう思うか、拙者の云うのは言葉じゃないぞ。言葉は人間が拵えたものだ。どうにでも取繕ったりごまかしたりすることができる……しかし言葉の裏にある本心はごまかせない。拙者は大弐の説がなにを暗示しているか見抜いているんだ",
"それはひとつ聞きたいな。貴公が山県説の核心を掴むほど、学識の深い男とは気がつかなかったよ"
],
[
"……拙者の意見など貴公にとって三文の値打もないだろう、拙者も貴公を説得したいと思わぬ。ただ今夜これから帰ってよく考えてみてくれ、大弐の得一篇の説は危い。すくなくとも我々武道を第一とする者にはおそろしく危険だ",
"考えろと云うなら考えてみよう。拙者にはそれほどむつかしい説とは思われぬが"
],
[
"貴公はかなり秀才なくせをして、まるで嘘のように愚鈍なところがあるのを知っているか",
"人の見かたにはいろいろあるよ",
"そう安心していられれば仕合せだ。いい夢を見たまえ"
],
[
"鹿の肉でみんなを呼ぶのも悪くないぞ",
"なにを独言をおっしゃってますの"
],
[
"なんだ、急に大きな声を出しゃあがって、びっくりするじゃないか",
"またそんな下品なお口を"
],
[
"もう母上もおめざめですから",
"おまえが驚かすから悪いんだ。なんでも母上とさえ云えばおれがへこむものときめてる、もうおれだってそんな年齢じゃないぞ",
"……伊兵衛"
],
[
"そんなところでなにを威張っているのです。早く着物を着てお入りなさい。風邪をひいたら外出は禁じますから",
"はい、ただ今あがるところです"
],
[
"悪い日に来た。こんなではないと思ったものだから津田どのの止めるのを振切って来たが、どうもこれではおまえには無理だった",
"もったいない仰せ、わたくしは血気の体でございます。足が遅くて申訳ございませんが、少しも難儀ではございません"
],
[
"意地を張らずに帰れと申したいが、ここまで来てしまってはそうもならぬ。我慢してみるか",
"その御心配では辛うございます"
],
[
"人が尾けてまいります",
"……人が来る",
"どうも気になっていたのですが"
],
[
"先生、その辺にお体を隠す場所はございませんか",
"もう少し先に権現堂が見える",
"それはいけません。林の奥か藪の蔭か足跡を尾けられぬ処へお隠れください",
"杣人か猟人などではないのか",
"違います。わたくしの耳に刻みついている歩きかたです。深谷の駅まで尾けて来て、それ以来聞えなくなったあの歩きぶりです",
"では一人ではあるまい",
"増えております。あのおりは三人でございました。今は五人……ことによるとそれ以上おります。どうぞ早く",
"だがその人数に東寿独りでは",
"先生"
],
[
"どうした",
"獲物か"
],
[
"手負いだな。しかも大物だろう",
"熊だぞこれは",
"そうかも知れない。だが……"
],
[
"おい、なにを考えているんだ",
"早く追っかけよう、どっちへ行けばいいんだ。下か、上か",
"こっちだ、しかし気をつけろ"
],
[
"やっ、人間か",
"斬られている"
],
[
"数馬、数馬だ",
"……貴公、知っているのか",
"知っているとも。江戸屋敷の近習番で、大沢数馬という男だ。おれとは鈴木次郎太夫先生の道場で一緒に剣法を習ったこともある、江戸屋敷では指折りの男だ",
"それはたしかか。江戸藩邸の者がこんな処へ来るのはおかしい",
"いやたしかだ。数馬に相違ない",
"しかし死顔は変るという、よく似た他人はあるものだぞ"
],
[
"おい孫次郎、向うを見よう",
"どうするのだ",
"あの上になにかある。急げ"
],
[
"傷はどこだ",
"ここをやられていた"
],
[
"おかしい、この突き傷にはなんだか覚えがある……みんな一刀ずつ、しかも的確に急所を覘った突は、凡手ではない",
"とにかくこうしていてもしようがない"
],
[
"十郎兵衛、貴公行って目付役に届けて来てくれ。それから死体を運ぶ人手がいる。若い者を五六人と戸板を頼むぞ。ここはおれと斎藤が預るから",
"やれやれ、とんだ獲物になったぞ"
],
[
"なにを……",
"この傷、一刀致命の刺傷、こんなみごとな突をするやつは他にない。あいつだ",
"……誰だ",
"長谷川東寿という、やはり鈴木先生の道場にいた門人で、まだ二十一か二だろう。両眼とも盲いているが技はすばらしかった",
"盲人? 盲人で剣を使うのか",
"使うどころではない、鈴木門中でそいつの突を受けきれる者は一人もなかった……我々は盲無念と呼んでいた",
"盲無念とはどういう意味だ",
"意味は分らぬ。誰が呼ぶとなく、いつかしらそういう名が付いてしまったのだ……いまこの突傷を見ると、歴々と彼の姿が見える。少し前かがみになって、見えない眼を空へ向けながら、小太刀を籠手高に構えた姿が……あいつだ。盲無念の他にこれだけの突をするやつはない"
],
[
"しかし、相手がその男として、この四人とこんな場所で果合いをするような関りがあるのか。四人ともその男に仕止められたとして",
"分らぬ。おれは去年の春、国詰になってこっちへ来た。その後でなにか間違いがあったかも知れない。しかしおれがいた時分にはべつにそれほど深い関係はなかったはずだ",
"いったいその男は何者なんだ",
"その男とは東寿のことか",
"盲人で剣を使うというが、武士なのか町人なのか。なんのために剣を使うんだ",
"そいつも分らん"
],
[
"なんでも父親は浪人だったそうだ。彼は琵琶の師匠が本業なのだが、剣法が好きで道場へ通って来るのだと聞いていた。むろん剣で身を立てるなどという野心はないようすだったし、その独特な突の手を別にすれば、気質の穏かな口数の寡い良い人間だったよ",
"どうも話と事実とがちぐはぐだな。しかし、なにしろ当人たちが死んでしまってるんだから、江戸屋敷の者にでも糺さなくては分るまい"
],
[
"急の御用で江戸表まで行くことになるようです。その支度をしてすぐにでかけたいと思います",
"では支度をいたしましょう"
],
[
"その御用というのは長くかかるようですか",
"この書面だけでは分りませんが、なにか母上の御都合でもございますか",
"功刀の娘のことでねえ"
],
[
"じつは大任を頼みたいのだ",
"拙者に勤まることでございましたら",
"県先生が暴漢に襲われてな",
"……暴漢に"
],
[
"今朝、地理を観るために鬼鉾山へ登られたのだ。この雪だからといちおうはお止め申したが、先を急ぐからとの仰せで、東寿どのとお二人で登って行かれた。すると……権現堂のところで、あとを尾けて来た七人の者が、有無を云わせず斬ってかかったそうだ",
"して先生には!",
"東寿どのは盲人ながら稀代の剣士とみえ、七人のうち四人までその場に討止め、無事に戻ってみえられたが……その暴漢が困ったことに家中の者なのだ"
],
[
"家中と申しても国許の者ではない。みな江戸屋敷の人間で、江戸からずっと先生を尾狙って来たらしい",
"なんのためにさようなことを",
"まだそのもとには知るまいが、江戸の老職吉田玄蕃とわしとの推挙で、県先生をお上の賓師におすすめ申してある。このたび当地へ講演にお招き申したのもその手順の一であるが……江戸表重役のうちに反対する者があってな"
],
[
"それは、ただ県先生を賓師に迎えることに反対するのではなく、御政治向きの反目が根をなしているのだが",
"松原どのでございますか"
],
[
"いましがた、鬼鉾山から四人の死体が運ばれて来た。猟に出ていた功刀伊兵衛と、紙屋十郎兵衛、斎藤孫次郎の三名がみつけたのだ。悪いことに孫次郎は去年の春まで江戸勤番であったから、死んだ四人も見知っている。また七名のうち三人は、手傷を負ってどこかに潜んでいるようすだ",
"孫次郎を黙らせ、表沙汰にならぬよう始末をしませぬと、乗ぜられる口実になりますな",
"それで、そのもとに江戸へ立ってもらいたい",
"御方策がございますか",
"七人の者が当地へまいるについて、国許へは届出が出ておらぬ。これが唯一の材料だ。七人の者を脱藩私闘の名目で、処置してきてくれ",
"それは……大任でございます",
"そうしなくてはならん。ぜひそうしなくてはならんのだ。吉田玄蕃にはべつに書状を書くから、彼と談合してやってくれ",
"松原どのは一筋ならぬ人物、たやすくはまいるまいと存じますが、できるだけ押切って仕ります"
],
[
"それで先生はいかがあそばしました。もう御出立でございますか",
"御出立のはずであったが、まずこの騒ぎの鎮まるまで御滞在を願ってある……というのが、四人を仕止めた相手が東寿どのだということを、やっぱり孫次郎が察しているらしい",
"知合いでございますか",
"江戸で同じ剣法道場で学んだので、東寿どのの太刀筋を見知っているとのことだ……東寿どのが県先生の供をして、当地に来ていることまでは気付かぬらしいが、もしそれが分ったら無事には済むまい。それで当分この屋敷にお匿い申そうと思う"
],
[
"孫次郎を拙者と同道で江戸へやっていただけませぬか、そういたせば東寿どのを見知る者は彼一人ですから、後が安全だと存じます",
"それは妙案だ。すぐそう計らおう"
],
[
"御家老にはただいま御多用で、お会い申す暇がないと申されます",
"しかし手前の用向も同様、今日鬼鉾山で討果された江戸詰家中の者の処置について、ぜひともお訊ね申したいことがあるのです。いまいちおうお取次ぎください",
"他ならぬこなたさまのことゆえ、お会いできるものならお断りはなさいますまい、今日はお帰りを願います",
"……ではひと言、伺っておきたいが"
],
[
"山県大弐どのは御当家にまだ御滞在ですか",
"さあ……それは",
"もう御出立ですか"
],
[
"まだ……さよう、まだ御滞在かと思いますが、あるいは御出立になったかも知れません。わたくし用事にとり紛れて、そのほうのことは存じませぬが",
"……ではいたしかたがない"
],
[
"急の御用で、たったいま、江戸へお立ちなさいました",
"一人でか",
"来栖さまと御一緒だと伺いましたが"
],
[
"やあ、どうした。なにか用か",
"ちょっと話がある。出てくれないか",
"よし、すぐ表から廻って行こう"
],
[
"十郎兵衛、鬼鉾山で斬られていた四人には伴れがあった",
"伴れがあったって?",
"全部で七人いた。あすこに倒れていたのは四人だが、負傷して辛くも生き延びた者が三人ある……いまおれの家へ来ているんだ"
],
[
"二時間ほど前に、裏口からそっとやって来た。三人の中に桃井久馬がいたんだ",
"三年まえに江戸詰めになって行った、あの桃井か",
"そうだ"
],
[
"あの久馬だ。三人とも怪我をしている。大した傷ではないし、世間に知れてはいかんから、いま母と妹に手当をさせているが",
"それでいったい……その七人はどうしたんだ。あんな処でなにをしたんだ。斬った相手というのは何者だ",
"山県大弐だ",
"なに、あの山……",
"手を下したのは大弐じゃない、孫次郎の云ったとおり盲無念というやつだ。七人はお家のために大弐を刺そうとして、ひそかに後を尾けてこの小幡へ来ていた。そして鬼鉾山で追詰めたのだが、盲無念のために、逆に四人斬られ、三人も傷ついてしまったのだ",
"なんのために、しかし、どうして山県大弐をお家のために斬ろうとしたんだ",
"江戸家老、国家老、この両者と重役たちのあいだの相談で、大弐をお上の賓師に迎え、なお藩政の枢機に参与させようということになっているそうだ……ところが、山県大弐の学説は幕府の忌諱に触れる点が多く、おまけに不穏なことを企んでいるなどという噂もあるので、ひそかに探索が廻っているという状態だそうだ",
"そいつは怪しからん。そんな人間をお上の賓師に迎えるなんて、まるで求めて幕府の譴責を待つようなものじゃないか",
"それで、御館の少将さま(信栄)と、御用人松原どのの意見で、禍の根を断つために、七人がやって来たのだ……久馬は云ってるんだ、大弐を斬るのはお家のためだけではない、天下の治安のためだと",
"武士ならそうするはずだ、おれだって!"
],
[
"いや斎藤は江戸へ立ったそうだ",
"江戸へ?……なんのために?",
"来栖と一緒だそうだが、四人の死体の件についての急使だろうと思う。津田どのは七人が大弐を刺そうとした事実から、江戸屋敷へなにか先手を打つつもりに相違ない",
"……分らんなあ"
],
[
"国老はあんな良い人だし、人物も小幡などには惜しいと云われていたくらいなのに、どうしてそう大弐などに迷っているんだろう。大弐が本当に公儀から密偵されているような男だとしたら、国老に分らぬ訳はあるまいが",
"人間には誰しも弱点がある。金に眼が昏むとか、女に迷うとか、権勢に執着するとか、大きい人物は大きいなりに、やっぱり弱点を持っているものだよ",
"国老になにかそんなことがあるのか",
"小幡は小藩でも由緒ある織田の直流だ。この藩政を自分の手に握っているということは、誰にしたってそう不愉快なことじゃないさ"
],
[
"佐和じゃないか、どうしたんだ",
"お捜ししていましたの"
],
[
"兄上さまがおでかけなさるとすぐ、土井さまと山口さまのお二人が",
"二人がどうしたって",
"大弐を斬るとおっしゃって出ていらっしゃいました",
"桃井はどうした。久馬は",
"桃井さまはお足の傷が痛みだして動くことができず、家で臥っておいでなさいます"
],
[
"貴公は妹と一緒に家へ行ってくれ、久馬を頼む",
"貴公どうする",
"二人は津田邸へ斬り込んだ。手後れかも知れんが見て来る。久馬を頼む、誰が来ても渡すんじゃないぞ"
],
[
"数年まえにも二度ばかり通って、案内はよく心得ております。思わぬ御迷惑をかけてなんとも申訳がございません。どうか御心配なくたたせていただきます",
"とにかく峠口までは家の者に……"
],
[
"まだ痛みまして",
"いくらか楽になったようです",
"もう少し冷したほうがようございましょう。そのほうが肉もよく上ると申しますから",
"いや、もうけっこうです"
],
[
"ああ、なつかしい屏風ですね",
"……なんでございますの",
"この屏風です。そっちの端にいる鳥がなんだか分らないので、伊兵衛とよく冗談を云ったものですよ"
],
[
"そうでございました。父はそれを聞くのがいやでしたそうで、ずっと納戸へしまったきり出させませんでしたの……家へ来て絵を描いたかたは、たいていまた、二度め三度めとお寄りなさいましたけれど、この屏風を描いたかただけは、それっきり音沙汰がございませんてしたわ……いまどうしていることでしょう",
"もうずいぶん昔のことですね"
],
[
"どうなさいまして?……痛みますの",
"いや"
],
[
"あの二人はどうしたかと思いましてね",
"兄がすぐまいりましたし、まだ帰って来ないところをみますと、お二人も御無事でいらっしゃるのではないでしょうか……兄は御家老さまとは別懇でございますから"
],
[
"紙屋さま、兄は……",
"国老の屋敷にはいませんでした"
],
[
"いま御母堂にお話し申したのですが、国老の屋敷にはいませんでした。しかし山県大弐が夜道をかけて発足しているので、おそらくそれを追って行ったものと思います。それで我々もあとから追ってみるつもりなんですが",
"あのお二人のようすは分りませんの",
"分りました"
],
[
"降りかかる火は防がなければならぬ。しかしこっちから仕掛けてはならんぞ",
"しかし先生、こやつも刺客の片割れです"
],
[
"許さぬ、刀をひけ東寿",
"…………",
"刀をひけと云うに"
],
[
"さきほどのお言葉について伺いたいことがある。話が済むまではけっして乱暴はしません",
"東寿、退っておれ"
],
[
"御不審があるならお話し申そう。しかし、夜も更けて寒気も厳しく、道の上の立話もなるまい。よろしかったら板鼻の宿まで同道なさらぬか",
"望むところです。御一緒にまいろう",
"笠も合羽もなく、雪まみれでは寒かろう"
],
[
"これでいくらかは凌げるであろう",
"お借り申します"
],
[
"山県どのはさきほど『正しき道』ということを云われた",
"申しました",
"あなたの説かれる『新論』の説が、正しき道だと云うのですか"
],
[
"功刀どのは拙者の新論を読まれましたか",
"読みません。先夜の講演を聴いたのみです",
"それでもけっこう、あれを聴かれたら改めてお訊ねにも及ぶまいと思うが",
"いやお訊ね申さなくてはならぬ"
],
[
"山県どのの説は幕府を誹謗し、名を尊王に托して世人を過つものだと思う。あなたは『得一』の説において禄位二つに別れるは乱世の基なりと云われた",
"お待ちなさい"
],
[
"ここで新論の末節を論じたところでいたしかたはない。そんな議論は措いて、根本のことを考えてみてはどうです",
"根本のこととは",
"我々はいったい何者なのか、我々の立っているこの国土はどういうものなのか、それをまず検めてみましょう……功刀どの、我々は大和の民です。日本という国土に生れ、一天万乗の天皇を戴いている、この点にあなたの御異存がありますか",
"それは山県どののお言葉どおりです",
"ではなんの議論もないはずです……拙者の選した『柳子新論』は、けっきょくそれを明らかにしただけのことです。人間は愚なもので、余りに分りきったことがらは眼に見ず、耳に聞こうとしません。我々が日本人である以上、一君万民の国風が不易であるということは分りきっている。その分りきったことが人々の眼には見えなくなっているのです",
"どう見えなくなっているのです",
"たとえばあなたがそうだ。功刀どの、あなたは小幡の藩士で、代々織田侯に扶持されている。織田侯はまた幕府から領地をもらっている。あなたは小幡藩士として主家にことあるときは一身を賭すであろう。また幕府が軍を催す場合にも命を抛って働くに違いない。しかし……もしことあって朝廷が召されたとして、功刀どのは即座に家を捨て、身を捨ててお召に応ずる覚悟がありますか",
"しかしそのためにこそ、征夷大将として幕府があるではありませんか",
"その幕府が、万一にも朝廷に弓をひくとしたらどうなさる。史書に例のないことではない。もしそうなったらあなたはどうします",
"…………",
"あなたの学んだ武道はどう教えます"
],
[
"おお功刀、無事だったか",
"紙屋か、これはなんの騒ぎだ!",
"貴公がどうしたかと思って追って来たんだ。どうしたあいつは、大弐は斬ったか",
"その話は後でする。まあこっちへ来い",
"斬らんのだな、二階にいるのか",
"話があるんだ、外へ出よう",
"いや放せ"
],
[
"我々が貴公の助勢に来たのは事実だ。しかしそれは第二、目的は山県大弐にある。お家の禍根を断つために彼を斬らなくてはならん",
"それは初めからおれが引受けている。いいからおれに任せろ"
],
[
"我々は貴公が傷つき、雪の上に倒れている姿を想像して来たところが、貴公は宿の丹前を着て納っているし、どうやら大弐を斬る考えも無くなったようすだ……しかし我々は退かんぞ!",
"おれがまるめられたかどうかはべつとして、考えの変ったことだけはたしかだ。とにかくここはいちおう引取ってくれ。仔細はあとで話すから",
"いや退かぬ。貴公こそ退け"
],
[
"山県大弐はお家を危くする、我々はお家の禍を未然に防ぐのだ。邪魔をすると貴公とて容赦はない",
"待て抜くな紙屋"
],
[
"おれと貴公たちとなんの要があって斬合うんだ。山県どのがお家の禍根だと、貴公に云ったのはこの功刀だ。そのおれが改めて云う。山県どのに手を出すな。山県どのを斬るまえにおれの云うことを聞け",
"無用だ。すでに変心した貴公の言葉など聞く要はない。通せ功刀!",
"通さぬ……東寿どの"
],
[
"先生を伴れてお立退きなさい。ここは拙者が引受けます",
"うぬ裏切り者が!"
],
[
"話しても分らぬやつはこっちも容赦はせぬ。だが一言だけ云っておく、おれたちは間違っていたんだ、ひと口には云えない。言葉で説明することはできない、けれども山県どのを乱臣と見たのは拙者の誤りだ。小幡一藩の興廃から見たらあるいは禍根となる人かも知れない。しかしそれは山県どのの乱臣であるためではない。おれはいまそれを説明することができない。おれ自身がもっとよく知りたいんだ",
"問答無用だ。功刀、きさま小幡の藩士として、この刀が受けられるものなら受けてみろ"
],
[
"おれはいま小幡藩士の功刀伊兵衛ではない。もっと大きな、武士が武士として踏むべき道に立っているんだ。一人もここを通さんぞ",
"かかれ! たかが伊兵衛一人、斬って通れ"
],
[
"御苦労であった",
"思わぬことができまして帰国が後れました",
"思わぬこととは、なにか……",
"山県先生はどうなされました"
],
[
"山県先生はあれからすぐ御出立になった。もっともそれについて少し困ったことはできたが",
"なんでございます",
"功刀伊兵衛が紙屋十郎兵衛と若手の者四五人を相手に、板鼻の宿で間違いをしでかしたのだ。仔細はよう分らぬ。十郎兵衛と若手の二人が重傷し、伊兵衛はそのまま立退いてしまったが……人を遣わして調べさせたところによると、伊兵衛は山県先生をお護り申して行ったようすだ",
"伊兵衛が、県先生を……"
],
[
"しかし、それはなにかの間違いではありませんか",
"間違いではない。紙屋たちが山県先生を斬ろうとするのを、伊兵衛が邪魔をしたので間違いができたらしい。どうしてそんなことになったか、わしにもまるで仔細は分らぬが、宿場の噂を集めてみるとそうなるのだ"
],
[
"それで、そのもとの思わぬことができたというのはなんだ",
"江戸の情勢が意外にさし迫りました"
],
[
"県先生に対する幕府の探索は、網の目のように行渉っております。学問の上からは松宮主鈴どのが主となって働き、身辺のことは大目付が八方へ手を廻しているのです……御存じかも知れませんが、先生の御門下に藤井右門と申される御仁がおります",
"評判だけは聴いている",
"その右門どのが江戸新吉原で刃傷沙汰を起され、公儀の手にお召捕りとなりました……幕府が今日まで、大弐どのに手を着けることができなかったのは『尊皇の大義』を説かれるところに在ったのです。この説が根本であるため、京へ憚って手が出せなかったのです。しかし右門どのが刃傷沙汰で召捕られるとともに、幕府は一味捕縛の決心をしたのです",
"なんのために、右門どのの刃傷が先生に累を及ぼすのか",
"理屈はどうにでもつきましょう。要は県先生を奉行所へ曳く口実さえできればよいのです。そしてその手筈はできたもようです"
],
[
"御家老、ことここに及んでは万事休しました。県先生との一切の関りを断つべきです。一刻もなおざりには相成りません。もし処置が後れますと御家老の位置は水泡に帰します",
"わしの位置?……わしの位置などがなんだ",
"江戸表に於ては、少将さまはじめ、松原郡太夫どのらが蹶起しようとしております。ここは先手を打って御家老より県先生を直訴あそばすが必勝の策と存じます",
"道之進、なにを申す"
],
[
"わしに……わしに先生を訴えろと云うのか",
"そのとおりです。少将さま御一党の先手を打つのです。さすれば御家老の御身分は今日よりさらに強固なものとなるは必定です",
"分った。そちの思案はよう分った"
],
[
"そうか、今日までそちが県先生に師事するごとく見せたのは、江戸家老やわしが藩政を執っていたからだな。そちは県先生に師事したのではなくて、藩政を執る権力に追従していたのだな",
"御家老、わたくしはお家のおためを思うばかりです。御家老の御身分が御安泰であることを願っているだけです",
"そのために県先生を幕府へ訴えよと申すのか。さような不義無道を犯してまで、お家を安泰にしおのれの身を全うせよと云うのか……帰れ、もの申すも穢わしい。帰れ道之進"
],
[
"誰だ、呼んだのは拙者か",
"おおやっぱり、旦那さま"
],
[
"やっぱり旦那さまでございましたか、お待ち申しておりました",
"こんな処で待っていたとはなぜだ",
"お留守のあいだに大変なことになりました。大奥さまもお嬢さまも、お屋敷にはいらっしゃいません。旦那さまにも横目役所から手配がきております",
"そうかやはりあれが禍になったか"
],
[
"それで、母上はどうしておられる",
"とりあえずわたくしの実家へお匿い申し上げました",
"おまえの家は日野の在だったな",
"鮎川の向う岸で川治と申すところでございます。ここからは二里あまり、すぐに御案内をいたしましょう",
"いや待て……そこは安全な場所だろうな",
"はい、御領分外でございますから、小幡の小役人ははいれまいと存じます",
"よし、それではおまえ先に帰ってくれ"
],
[
"拙者が無事に帰ったこと、間もなくお眼通りするということをお伝え申すのだ。明日はきっとまいるから",
"でも旦那さま、もしや城下へおいでなさいますのでしたら",
"拙者のことは心配するな。母上への伝言を忘れずに、行け、闇夜で道が危い、くれぐれも注意して行くのだぞ",
"でも……旦那さま"
],
[
"気懸りなのは山県先生のお身上じゃ。先生は御無事か",
"はい、甲斐のお国許まで、無事にお見届け申してまいりました。御家老……拙者板鼻にて家中の者を傷つけましたことは、山県先生をお救い申すためのやむを得ぬ手段でございました",
"それは分っている。しかし、どうして先生をお救い申す気になったのか。聞くところによると、そのもとは先生を乱臣賊子だと申していた一人でなかったのか",
"いま考えますと、まことに身の竦む思いでございますが、甲斐への旅中と、篠原村に滞在するあいだ先生のお教えを受けて、いろいろと発明いたしました……それで"
],
[
"今後は道之進ともよく談合のうえ、微力ながら藩政御改革のために、一身をなげうって御奉公を仕りたいと存じます",
"……なんと申して、その言葉に答えたらいいか"
],
[
"なんと云ったらいいのか、功刀、遅かったぞ。わずかの間になにもかも変った",
"御家老……",
"山県先生が幕府の手にかかるのは時日の問題となった。わしの藩政改革に反対する一味の者は、すでに幕府へ訴状を出してしまった。万事挫折だよ、功刀",
"訴状とはどのような訴状です。先生を訴える理由があるのですか",
"幕府顛覆の謀反ありと称したのだ。この点だけなら先生は弁明をなさるに違いない。しかし当藩へ講演に見えられたとき、兵法問答のうえで江戸城攻略と、碓氷峠を中心にして軍略を述べられたことがある。むろん……これは先生の師事する者だけ集ったおりのことだし、問答の例として述べられたのだが、それを筆記した者があって訴状に精しく認めて出したのだ",
"先生に師事する者だけの集りであったら、外へ洩れるようなことはないと存じますが",
"かつては師事し、先生の思想に傾倒していると見せながら、じつはそうでなく、おのれの出世立身のためそうしていた者があった……その者が事態不利とみて寝返りをうったのだ",
"そんな人間が……いや、いちどでも先生の説明に耳を傾けたことのある人間の中で、そんな卑劣なことのできる者がおりましょうか",
"功刀……そのもとは帰ってすぐここへ来られたのか"
],
[
"は、途中で家僕に出会い、母どもの在所だけ知れましたのでとりあえずここへお伺い申しました",
"では母御にはまだ会っていないのだな",
"まだ会いません",
"じつは来栖からわしのもとへ……"
],
[
"そのもとの妹と道之進との縁談を破約にしてくれと申込んでまいった",
"それは意外な話です"
],
[
"事実でございましょうか、佐和を嫁に欲しいと申込んだのは道之進でございます。母は望まなかったのですが拙者が彼の誠意を認めて婚約を結んだので、いまさら彼から破約を申出るはずはないと思いますが",
"なかだち役を買ったわしにも、こんなことが起ろうとは信じられなかった。しかし功刀……人間が心をむきだしにするときは、善悪にかかわらず恐しい力を現すものだな",
"それはどういう御意でございますか",
"山県先生を幕府へ売るための、訴状を書いたのは道之進だ",
"…………",
"彼は、おのれの立身のために、先生に師事するごとく見せていた。わしの藩政改革が成功するとみて、わしのために働いていた。しかし事態が変り、幕府が、先生に強圧の手をのばし始めると知るや、即座に身を翻してわしから去り、松原郡太夫に一味して先生を売ったのだ……そのもとの妹との縁談を破った理由もそこにある。人間が心をむきだしにする時のすさまじさ、功刀、そのもとはこれをすさまじいと思わぬか"
],
[
"会ったところでどうにもならぬ。ことにそのもとへ追捕の命令が出ている。ことここに及んでは小幡に留っても無益じゃ。県先生によって発明するところがあったなら、その道のために身を捧げるがよい……世中へ出て行け、そして先生の教える正しき道を、少しでも多く世の人々に伝えるがよい",
"拙者は来栖に会います。そのうえで仰せのようにいたします",
"自ら死地に入ると同様だぞ",
"拙者はそうたやすくは死にません。また死ぬことを怖れてもおりません……御家老、また改めて御意を得ます",
"待て。どうしても会いたいならわしが手紙で呼び出してしんぜよう。そのもとは崇福寺の門前で待っているがよい。来栖がそこへ行くよう手配をする",
"しかし、彼が来ましょうか",
"来なかったら押掛けても遅くはないであろう、大丈夫行くと思う",
"ではお願い仕ります"
],
[
"……誰だ、誰だ",
"なにをそんなに驚くんだ。おれだよ",
"……く、功刀……",
"伊兵衛さ、待っていたんだ",
"ではあの手紙は"
],
[
"止せ、逃げようとしても無駄だ。おれは貴公に訊きたいことがあって来てもらったんだ。訊きたいことを訊くまでは放さん",
"そんなら家へ来るがいい。なんのためにこんなことをするんだ",
"おれがいまどんな身上かということは知っているだろう、手間は取らせぬ。まあ、こっちへ来て掛けないか",
"縁談のことなら、拙者は知らんぞ"
],
[
"貴公が知らなくて誰が知っているんだ",
"母だ、母が独りでしたことなんだ",
"理由があるのか"
],
[
"貴公にもこれまで話したことはないが、拙者の母は、拙者の立身出世ということを第一に考えているひとだ。そのためには自分の身を殺すこともいとわぬし、どんなことでもする覚悟でいる",
"佐和を妻にしては立身の妨げになるとでもいうのか",
"打明けて云えばそれだ。母はこの縁談のまえから、江戸詰の年寄役平賀準曹どのの娘と話を進めていたのだ。それがなかなかうまく運ばないうち、拙者のたっての望みで佐和どのとの話をいちおう承知した……ところが、つい最近になって、こんどは平賀のほうからぜひといって話を蒸し返してきたのだという",
"それだけの理由で、佐和との話を破約しようというのか",
"いや、それは母の意志がそうだというだけで、拙者はなにも破約するとはいわぬ",
"しかし、津田どのへ申入れたことは知っているのだろう……知らないのか",
"知っている。母の意志でどうにもしようがなかったのだ。しかし拙者としては、国老なり貴公のほうから拒まれるのは必定と思っていたから、そのうえで母を説得しようと",
"できなかったらどうする。貴公が我々の拒絶を楯に母御を説いて、それでもならぬと云われたらどうするのだ……来栖、だがおれの訊きたいのはそんなことではない",
"……?"
],
[
"貴公はまだ山県先生に心服しているか",
"……それは、どういう意味だ",
"どういう意味でも、あらゆる意味に於てだ。いつか雪の夜、講演のあった帰途に話し合ったことがある。今でも貴公はあのときと同じように先生を尊崇しているか",
"むろん、それは、先生の思想は立派なものだ。しかし拙者は今になって思出すが、貴公があのとき大弐どのは斬られるといった。あの言葉はたしかに一理あると思う",
"おれの言葉などはどうでもいい、貴公の本心が知りたいんだ。本当の考えを聞かしてくれ。貴公はもうあのときほど先生に傾倒していないのではないか",
"先生は今でもけっして",
"ちょっと待て、来栖"
],
[
"おれはこの場かぎりの云い抜けは聞きたくないぞ。貴公は学問がある、機智も豊富だ、伊兵衛などは手もなく云いくるめられると思うかも知れない。しかし、今夜の伊兵衛は少し違うぞ。わずか二十余日のあいだではあるが、おれは世間の嘘実と、人心の表裏とをいろいろと見てきた。言葉の綾や巧みな云い廻しではもうごまかされない。いいか、貴公も武士だ。つまらぬ見栄や外聞を棄てて本心を云ってくれ",
"拙者の……山県先生に対する気持は、以前と少しも変ってはいない。それは、武士の名に賭けて誓う。しかし功刀……いま幕府は先生を捕縛する手段をととのえている。このまま棄てておいてはお家に重大な累を及ぼすのは必定だ",
"それで先生を幕府へ訴えたのか",
"功刀、それは違う。そんなことを、拙者がすると思うか",
"もっとはっきり云え。おれの眼を見ろ、おれの眼を見てはっきり云うんだ",
"拙者は知らん。誰が貴公にそんなことを云ったか知らぬが拙者の知ったことではない。松原郡太夫一味か、少将さまの手で",
"黙れ、黙れ来栖"
],
[
"それなら訊くが、今夜なんの要があってここへ来た。梅叟和尚はかねて松原どのに一味の仁と知っているだろう。その和尚のもとへ、なんのために忍んで来たのだ",
"……それは",
"偽せ手紙と知らずに来た。それがきさまの本心を語っていることに気が付かぬか",
"…………",
"来栖、おれは、きさまを斬るぞ"
],
[
"立て来栖、立って刀を抜け",
"……いやだ"
],
[
"拙者はいやだ、拙者には貴公と斬り合う力はない、それは貴公が知っているはずだ。斬るならこのまま斬ってくれ",
"きさまおれが斬らんとでも思っているか"
],
[
"きさまはまだ自分の陋劣さに気付いていないだろう。ちっぽけな才分に慢じて、おのれの栄達のために山県先生を売り、津田国老を売り、友を売り、婚約をさえ売った……きさまのそのとり澄ましたかっこうや分別のありそうな進退言説は、あるいは人々を瞞着してうまうま出世したかも知れぬ。だが、……いったいどれほど出世ができるんだ、それだけの代価を払ってどれほどの栄達ができるんだ",
"…………",
"仮にきさまが小幡一藩の家老になれたとしよう、しかし高々二万石の家老が、そんな代価を払うほどの栄達だと思うのか、来栖",
"…………",
"人間が生れてくるということはそれだけで壮厳だ。しかしもしその生涯が真実から踏み外れたものなら、その生命は三文の価値もない、狡猾や欺瞞はその時をごまかすことはできても、百年歴史の眼をもってすれば狐の化けたほどにも見えはしないぞ。大臣大将の位に昇るものは星の数ほどあるが、青史に名を残した人物がどれだけあった……来栖、きさまはいくら長生きをしても百年とは生きられないんだぞ。経ってゆく一日一日は取返すことができないんだぞ。そんな卑劣な、醜汚なことをしていて、きさまは人間に生れてきたことを誇れると思うのか"
],
[
"おれはそんなきさまを生かしてはおけぬ。斬ってやる、覚悟しろ、来栖",
"……斬ってくれ"
],
[
"こうなるともう、化けの皮の剥げるまで欺瞞を続けなければならない。しかしいつかはそれが明るみに晒される。いつかは曝露するときがくる。いつくるか、どんなかたちで……拙者の頭にはいつもその恐怖があった、独りになるといつもその恐怖で震えていたんだ",
"拙者は山県先生を売った、津田国老の信頼を裏切った、貴公をも、佐和どのまでも裏切った"
],
[
"おお、旦那さま",
"道が分らなくて少し遅くなった",
"ようまあ、御無事で",
"母上はお眼覚めか",
"はい、いましがた雨戸を繰る音がしたと存じます。御案内いたしましょう"
],
[
"お嬢さま、旦那さまがお着きでござります",
"え、兄上さまが……"
],
[
"母上にお変りはないか",
"はい……ただ兄上さまのことをお案じなされて、ずっと塩断ちをあそばしていました",
"おまえに色々と迷惑をかけたな"
],
[
"桃井はどうした。久馬は",
"紙屋さまがお引取りになりました……お二人ともひどい言をおっしゃって、母上さまをお泣かせ申しました",
"もっと苦しいことがあるぞ"
],
[
"あとで精しく話すが、兄は小幡のお家の臣ではなくなる、扶持も、家名も捨てる。これからは世間全体を敵にして働くんだ。おまえにも母上にも、もっと辛い苦しいことが重ってくるかも知れぬ……佐和、だがどんな苦しいことがあっても、この国の民として正しい生きかたをするという誇りだけはおれたちのものだ。これだけは忘れてくれるな。いいか",
"はい、よう存じております"
],
[
"兄上さまが山県先生をお護りしていらしったと聞きましたときから、母上もわたくしも、覚悟は決めておりました。どうぞわたくしたちのことは御心配なさらず、お望みどおりにお働きくださいまし",
"そうか……そうか。おう母上もそう思っていてくだすったのか、それだけが心懸りだったが、それでおれは肩の荷が下りた。行こう佐和、母上のお顔が見たい"
],
[
"ここへお坐り、母からひと言だけ云っておくことがあります",
"はい"
],
[
"あなたがこれからどういう道へ進んでゆくか、母はよく知っています……けれど、さっきあなたは佐和に『これから世間全体を敵として働く』と云っておいでだった",
"はい、そう申しました",
"違います。それはあなたの考え違いです。母などが云わなくとも知っているでしょう。小幡のお家の御先祖は織田信長公です。信長公は尊王のお志に篤いおかたで、室町幕府の秕政のため、式微にましました禁廷を御造営、また久しく絶えていた欠典をあげ、常職を継ぎ置かれるなど、武家政治はじまって以来、第一に忠臣の誠をお示しあそばしました……お家はこのかたの直流です。あなたはその織田家の臣下なのです。また……今こそ徳川幕府の力が強く、政治の表は江戸に帰していますけれどこの国の民はみな万乗の君を御親と仰ぎ奉っています。一人としてそうでない者はありません……世間はあなたの敵ではなく、みんな同じ志をもつ味方なのです。そう思えませんか"
],
[
"母上、ようお聞かせくださいました。仰せのとおり伊兵衛の考えは狭うございました。伊兵衛は闘うことに心を奪われたあまり、つい偏狂人になろうとしていたようです。いかにも、世間を敵とせず、味方として働きます",
"愚な言葉が少しでも役立ってくれたら嬉しゅう思います。では……お仏壇へ燈明をあげて、父上にしばらくのお暇ごいをなさい"
],
[
"これに金子が百二十両あまりあります",
"それはいけません母上、拙者は",
"いいえなにも云わずに取っておおき"
],
[
"お父上が御倹約あそばしたので、まだ少しは手許にあります。無くなったらいつでも云っておよこしなさい。母にできる限りは送ってあげます",
"しかし母上や佐和に御苦労をかけては相済みません。拙者はどうにかいたしますから",
"わたしや佐和は女です。賃仕事をしても喰べるくらいのことはできます。五郎次がここに置いてくれるそうだから、けっしてわたしたちのことは心配する必要はありません。持っていらっしゃい"
],
[
"では母上、御健固を祈ります",
"……死に場所を誤らぬよう。それだけを母は祈っています",
"五郎次、母上を頼んだぞ",
"……旦那さま"
],
[
"佐和そこまで送らないか",
"はい"
],
[
"さて、お別れだ。佐和",
"はい",
"別れるまえにひと言だけ云っておく",
"…………",
"ゆうべ道之進と会った。あれをおまえの良人に約束したのは兄の鑑識違いだった。精しいことは云えないが、ゆうべは道之進を斬るつもりだった"
],
[
"あいつは、おまえにも顔向けのならぬことをした。けれどもう忘れてやれ、兄も赦したんだ。おまえも忘れてやれ",
"……はい",
"分ったらいい。では……母上を頼むぞ"
],
[
"さらばだ",
"……どうぞ御健固で"
],
[
"佐和どの",
"…………"
],
[
"佐和どの、まだ伊兵衛はおりますか",
"……いいえ",
"もう出立しましたか",
"はい、いまあの道を向うへ",
"そうですか"
],
[
"赦してください佐和どの、道之進はゆうべ生れかわりました。あなたにも、小母上にも合せる顔がありません。先日来のことは、ただお赦しを願うだけです……拙者はお暇をとりました。母も家も捨てました。これから伊兵衛のあとを追って、彼の草鞋の紐を結びます。生命のあるかぎり伊兵衛とともに働きます。どうか道之進の愚かな行為を赦してください",
"そのお言葉で充分でございます"
],
[
"破約のお話がありましたときも、わたくしには来栖さまの他に良人はないと決めておりました。本当に破談になったら、わたくしあなたの前で自害するつもりでいました",
"……では、赦してくれますか",
"たとえあなたがどのようなお身上になろうとも、わたくしは来栖家の妻でございます"
],
[
"あなたの、いまの言葉が、道之進にとってはなによりの餞別です。これでもう、怖れるものはありません……小母上にはお眼にかからずにまいります。どうぞお二人とも御健固でいらしってください",
"はい。来栖さまもどうぞ……鮎川の畔で、いつまでもお待ち申している者のあることを、どうぞお忘れくださいますな",
"帰って来ます"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第一巻 夜明けの辻・新潮記」新潮社
1982(昭和57)年7月25日発行
初出:「新国民」
1940(昭和15)年12月~1941(昭和16)年5月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"君とはいっぺん悠っくり飲もうと思っていたんだ、今日はひとつ楽しくやろう",
"しかし社のほうはいいんですか",
"ああいう特別演出のあった日は休みと定ってるのさ、今日はあのちょび髭で一日じゅうメドウサのごきげんをとり結ばなくちゃならない、われわれがいては却って邪魔になるんだよ"
],
[
"うんそうか、文学をやるのか、よかろう",
"いやそんな、文学なんていう、そんなその",
"てれるなよみっともない、文学なんてそんなにてれるほどたいしたもんじゃない、おれは魚屋をやる、おれは八百屋になる、……おんなじこった、てれたり恥ずかしがったりする意味なんかちっともありやしない、さあ、きみの文学のために乾杯しよう"
],
[
"君はいつからおれだということを見ぬいていたんだ",
"貴方をですか、……それは、見ぬいたといったって",
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],
[
"ぼくは今日は小遣を持っていないんですが",
"なにぼくだって持ってやしないが、勘定のきくところがあるから大丈夫さ、その点はぼくが、これさ"
],
[
"あての金もどせ、どあほ、ぬすとう、ええくやし、あんな小使なんぞに恥かかされて、なにが高級的や、金もどして出ていけ、ぬすとう、ええどうしたろ",
"済まん堪忍して、わいが悪かった、これからあんじょうするよってな、これや"
],
[
"人間があそこまで裸になるということは俳諧的心境ではないんだ、きみは廊下にへいつく這った彼の姿から眼をそむけたが、あの姿に人間ぜんたいの原罪を感ずることができなければとうてい文学をやる資格なんぞありやしないぜ",
"ああ男は哀しい、男は救われることがない"
],
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"こんなぐあいにやっていて大丈夫ですか仲井さん、あんまりなにしてまた……",
"びいさいれんす、きみはまだそんなちっぽけなことを心配しているのか、きみには仲井天青がそのくらいにしきゃみえないのか、……その小賢しい口を閉めろ、そして飲みたまえ、ぼくはぼくの野心のいかなるものかを知っている、計画もみとおしもついている、きみはきみを信じなければいかん、飲みたまえ"
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"きみにも不満はあるかしらんけど、こっちゃにも云いたいことはあるねんけど、わいはよう云わんとくさかい、きみもおとなしく引取っとくなはれ",
"おかしいですね、それはどういう意味ですか"
],
[
"月給だって減らしてもいいんです。酒を節することは断じて約束します、なんだったら禁酒しようかと思っていました、じっさいこれでは自分ながらあいそがつきますから",
"そらあんたの好きにしなはれ、こっちゃはいんで貰いさえしたら酒を飲もうと飲むまいと知ったこっちゃあれへん"
],
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"もうやめときなはれ、ほして今日のうち引取って貰わなあきまへんで",
"待って下さい社長、もうひと言、ぼくはこれまで御厄介になった恩義からしても、このままお別れするには忍びない気持です、まだ御恩返しもしてはいませんですし、社長、お願いします、このとおり"
],
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"やりましたねえ",
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"飲もうきみ、こんな汚ならしい金は一銭も残らず遣い捨ててやるんだ",
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],
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"ぼくが負ってってあげましょう、こんなところでなにしていては風邪をひきますから、ねえ仲井さん立って下さい",
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"女房にはずいぶん苦労や心配をさせて来た、こんどこそ二人で世帯をもち、幾らか楽をさせてやれる、……そう思って手紙を出した、女房はよろこんだ手紙をくれた、そして今月いっぱいで暇をとることにして、蒲団やなにかは二三日まえに着いたんだが、……今朝あれから電報があって、今夜の九時に神戸へ着くといって来たんだよ",
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"ぼくはきみに対しても恥ずかしい、冷汗が出てならない",
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"芸術だとか野心だとか、ひとの作品を罵倒し、ひとを嘲り、笑いとばし、われらの時代だの旗を掲げようだの……嘘っぱちだ、ぼく自身がよく知っている、何もかもでたらめの嘘っぱちだ、ぼくはぼくの才能によって墜ちるところへ墜ちて来たのさ……許してくれたまえきみ、ぼくはいつも恥じていたんだ、ぼくはこれだけの人間なんだよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「苦楽」苦楽社
1949(昭和24)年8月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"わかっている",
"お詫びを申上げて、堪忍して頂きたいんですの"
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"ねえ、怒っていらっしゃるのでしょう",
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"同じことだ、――どうする",
"もちろん断わった",
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"お兄さまあやまって下さい、お兄さまは御存じないのです、どうか主人にすぐあやまって下さい",
"なにをあやまれというんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1954(昭和29)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057781",
"作品名": "四日のあやめ",
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"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1954(昭和29)年7月号",
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} |
[
[
"……あなたはご自分の病状をご存じなんですか",
"ある程度まで知っています"
],
[
"……煙草を喫わせてもらっていいですか",
"ではあちらへゆきましょう"
],
[
"もらい物で失礼ですがおつけください",
"ありがとう"
],
[
"……静かないい部屋ですね",
"少し明るすぎるのでこっちの窓をふさごうかと思っています、父の建てたものなんですが、このままでは眼がちかちかしておちついて本も読めません"
],
[
"ガス壊疽だということは戦地の病院で診断されました、帰還して来て、半年ばかり軍の病院にいたんですが、ご存じのとおり体に違和は感じないし、出征ちゅう放っておいた仕事を早く始めたかったものですから、退院しまして、そう、一年ほどたってからでしょうか、どうもはっきりしないので、親たちが心配して二三カ所で診てもらいました、その当時は膝関節あたりが問題だったようです",
"それはいつごろのことでしたか",
"おと年の冬、いや去年の二月ですね、一人の医者は大腿部から切断するように云いましたが、親たちが嫌いまして、他の医者からずっと治療を受けていました。しかしどうも納得がいかないんです。治療の見込みがないので対症的なことをやっている、そんな感じなんです。それで最近K大学の医科で、母校なもんですから、診てもらったのですが、現在やっている治療でよかろうと云うんですね、親たちはなにか聞いたようですが僕には隠している、たしかにそう思われるもんですから、それであなたのところへ伺ったわけなんです",
"どうして僕をお選びになったのですか",
"実験医学へ発表されたあなたの論文を拝見したんです、ちょうどテーマが同じだし、お書きぶりからみてあなたなら真実が聞けると思ったからです",
"あんな雑誌をごらんになるんですか"
],
[
"それで、あなたのお考えでは、あとどのくらい仕事ができるとお思いですか",
"その質問は医者にとって一種の拷問ですね",
"だがいま云ったとおり知らなくてはならないんです、どうしても、……科学者同士としてだいたいの推定を聞かせてください",
"お仕事の性質にもよりますが",
"実験のほうです、病理組織学のある課題について研究をやっているんです"
],
[
"まあどうなすったの、旅行はおやめ……",
"ただいま、ええ急に村野先生のご都合が悪くなりましたの、お兄さまは",
"まだ研究所のほうよ",
"プレパラートを買って来ましたから、ちょっと置いて来ますわ"
],
[
"……もっと早く帰るはずだったんだけれどね、みんな呑み手がそろっているもんだから",
"お紅茶でもお淹れいたしましょうか"
],
[
"……お隣りの村田さんからレモンをいただいてございますの、噎せそうなくらいよく匂う良いレモンでございますわ",
"じゃあ橋本君といっしょにいただこう、いま研究室にいるの?",
"いいえこのあいだから寝ておりますの、はじめは風邪だと思っていたのですけれど、お医者さまはチフスの疑いがあるとおっしゃったり、今日はまたなんですか、粟粒結核ではないかなんて……"
],
[
"橋本君は僕の研究の犠牲になってくれたんです、だから僕としてはあなたやお子さん達の面倒をみる責任があるんですが、ちょっと事情があって僕にはその責任を果たすことができないんです",
"そんなご心配はなさらないでくださいまし"
],
[
"でもわたくし、そういう話はいちども聞いておりませんですけれど……",
"それは橋本君がこんなに早く死ぬとは考えなかったからでしょう、とにかくお話したようなわけですから、これはあなたにお渡しします、どなたかご親類の方と相談なすって、これを基礎に今後の方針をお建てになってください、まったくご遠慮の必要のないものなんですから"
],
[
"……なんでもお兄さんと相談で、毎月の物の中から掛けていてくだすったのですって、戦争前からだっておっしゃるのよ",
"金高はどのくらいですの",
"それはまだ見ていないの、昌子さんちょっとごらんになって、あたしなんだか怖いようよ"
],
[
"……これは、どういう意味なんですか",
"わたくし、まいりました"
],
[
"……だって、こうしなければならなかったのですもの",
"こうしなければならなかった",
"ええ、どうしても"
],
[
"……昌子もあなたをお愛し申していました、あの日、旅行へ出たらどういうことがあるか、わたくしひとりではなく兄たちも知っていました、いいえあなたご自身よくご存じのはずです、わたくし待っておりました、どんなに苦しい気持でお待ちしていたかおわかりでしょうか、でもあなたは来いとはおっしゃってくださいませんでした、それで、わたくしまいりました",
"あなたは自分がなにしようとしているかわかっていないのだ、こんなことがもし",
"いいえ知っています"
],
[
"……わたくしのこの支度をごらんになればあなたにもおわかりになるはずです。これは亡くなった母が、わたくしの婚礼のときのために作ってくださったものです",
"僕にはこんな問答は耐えられない、お願いです、どうかここから出ていってください",
"わたくしがこれほど申し上げても、やっぱりあなたは真実を隠しとおすおつもりですか、わたくしがなにも知らないと思っていらっしゃるんですか",
"それは、どういう意味です",
"わたくし日記を拝見いたしました",
"……ああ、あなたはそんな",
"わたくしは許していただけると信じました、それはあなたがわたくしを愛してくださり、わたくしがあなたをお愛し申しているからです、信三さま、昌子は日記を拝見いたしました"
],
[
"……わたくしようやくわかりましたのあなたがなぜ昌子を避けるようになったか、新しい研究室を建てるはずの資金の中から、どうしてあんな多額な金を姉にお遣りになったかということが、……あなたはご自分の命が、あと四年きりで終わるということをお聞きになって、研究所の新築も断念なさるし、わたくしとの結婚もおやめなすったのです",
"なんのために、いったいどんな必要があってそんなことを云いだすんですか"
],
[
"……いまからこの仕事は自分個人のアルバイトではなくなった、きちがいじみた破壊と惨虐を償なうために、自分はこの研究を捧げるつもりだ、……そうおっしゃったことはお忘れにはならないと思います、そしてそのお仕事がまだ完成していないということを思いだしていただけないでしょうか",
"僕の仕事は三年や五年で眼鼻のつくものじゃない、十年かかるか二十年かかるか、まだその見当さえついてはないんだ",
"ではなおさら、一日もむだにはできないと思います"
],
[
"……わたくしをひとりになさらないでくださいまし",
"地下室までだよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「新青年」博文館
1946(昭和21)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"やあ驚いた、あの枝はもう咲きますな、さすがにお手入れが良いだけあって、この臘梅はいつも半月早い、――庭木では誰にもひけを取らぬと云う瀬沼老が、この臘梅には音をあげていましたよ。いや実に見事だ",
"えへん、えへん"
],
[
"おやおや、しばらく拝見せぬ内にだいぶ鉢が殖えましたな、あれは何でござるか",
"――――",
"葉の色と云い枝振りと云い、実に風雅なものだが、はてな、――芙蓉かな"
],
[
"すると葉牡丹ですか",
"貴様……この、――"
],
[
"石斛じゃ、石斛というんじゃ、よく見ろこれを、――芙蓉や葉牡丹などとは茎も葉もまるで違うわ、違い過ぎるわ馬鹿馬鹿しい",
"こっちは何ですか"
],
[
"――知らん",
"はて何だろう、――こうっと、ああ分った、これは御自慢の真柏です、今度は当りましたろう",
"それがどうした",
"してみると拙者にも植木の一つや二つは、満更分らぬ事もないと云う訳ですな、はっはっは、――時に、真柏で思い出しましたが、瀬沼老ひどく口惜しがっていましたよ伯父上",
"――何を?……",
"残念だが牧屋には敵わぬ、わしも真柏では苦心をしたが、とても牧屋ほど立派な花は咲かされぬと",
"馬鹿野郎!"
],
[
"そ、それは不思議……",
"貴様の方がよっぽど不思議だ。これ、――こっちへ向いてみろ!"
],
[
"金子を頂こうとは申しません",
"――――?",
"屋敷へ引取って頂きたいのです"
],
[
"屋敷へ引取れ……と云って、その、――相手は何者なんじゃ",
"その穿鑿は後のこと、いまは何より伯父上のお許しが出るか出ぬかが大事なのです、もしここで突放してしまえば、その人物は泥沼の底へ墜ち込んで、あたら一生を地獄の苦患に送らなければなりません。助けてやってください伯父上、人間一人を生かすも殺すも伯父上の方寸にあるのです、それも別に金が要るとか特別の世話をするとか云うのではなく、ただこの屋敷へ引取って、当分のうち面倒をみてくださればいいのです、決して御迷惑はかけませぬから"
],
[
"私の離室が明いております",
"あそこはわしの茶室に使っているではないか",
"なに、もう片付けさせました、お道具は数寄屋へ運んであります",
"そう云う奴だ"
],
[
"御承知くださいますか",
"仕様がないじゃないか、いかんと云えばなんだかわしがその男を泥沼の底へ突落すことにでもなりそうな口振りじゃからの――えへん、だが引取る前に一度呼んでこい、わしがあってから……",
"もう来ております",
"――――",
"お笛どの、こちらへ"
],
[
"な、直次郎!",
"お笛どの御挨拶をなさい"
],
[
"別に私は女でないとは申しませぬ",
"ないと云わんでも女でないと思わせるような風に云い拵えたで――ええ面倒臭い、だいたい未だ妻帯もせぬ身上で、どこの何者とも知れぬ女を",
"いや承知しております"
],
[
"な、な、なに――芸者?",
"芸者は芸者ですが血統は武家の出で、どこへ出しても恥しからぬ",
"この野郎――っ"
],
[
"待ちおれ!",
"どうぞ、お願いです伯父上"
],
[
"う、うるさい",
"水を持って参りましょうか",
"放せ、ひ、水など、要るか"
],
[
"実はそれなんです",
"な、なに――?",
"拙者このたび、殿の御参覲に江戸表へ御供を仰付かりました。ついては一年の在番中お笛をお預けいたしますゆえ、お手許にて篤と性質を御覧くだされ、拙者帰藩のうえ御得心が参りましたら妻に娶って頂きとう存じます",
"む――っ"
],
[
"そんな事をやったことがあるのか",
"いいえ――"
],
[
"したくもない事を、機嫌執りのつもりでするなら止めにせい、わしはおべんちゃらが大嫌いだぞ",
"あのう、ここに真柏の植わっております鉢は、白磁とか申す品でござりますか"
],
[
"白磁とか青磁とか、そう大雑把に云われては敵わん、それは白磁の内でも『饒州の白』と云って唐来の珍物じゃ",
"饒州の白……有難う存じました",
"こっちのを見い、これは古備前物で了心の作と伝えられるが、比べて見ると違いが分るであろう、――どうじゃ",
"拝見仕りまする"
],
[
"やはり饒州の方が、同じ白でも色に深く澄んだところがござりまする",
"それを『白の秘色』と云う",
"肌目の密な、手触りにじっくりと厚味のあるところも、やはり饒州の方が優れているように思われまする"
],
[
"こっちへ参れ、薩摩の青瓷を見せる",
"どうぞお願いいたしまする"
],
[
"お帰り遊ばしませ、お疲れでござりましょう",
"――うん",
"お恥かしゅうござりますが粗茶を淹れました、どうぞお立寄りくださいませ"
],
[
"これは香の物だな",
"はい……"
],
[
"町家は知らぬこと、武家では茶うけに香の物などと云う事はないぞ、他人が見たら牧屋の恥になる、そのくらいの所存はありそうなものではないか",
"心付かぬ事をいたしました、今後は注意仕りますゆえ、どうぞ御免くださりませ",
"折角じゃ、今日は引かずともよい"
],
[
"これはそちが漬けたか",
"はい、ほんの真似事に……"
],
[
"話は違うが、いったいその方は直次郎をどう考えておるのか",
"――と仰せられますと?",
"直次郎はわしにその方を娶ってくれと申した"
],
[
"察してはおろうが、武家と云うものは諸事格式の厳しいものだ。近来は商家から嫁を迎えるものもないではないが、それさえきわめて稀なこと、――ましてその方のように、一度芸妓勤めなどした体では、正式の婚姻などなかなかむずかしい話だ。しかし……それとても神かけてできぬと云う訳ではない、ないけれども――直次郎はわしの跡目を継ぐ体、万一血統でも濁るような事があると先祖に対して申訳けがない",
"血が濁ると仰せられまするは?",
"稼業がらその方の体が、今まで潔白であろうとは思われぬ、と申すのだ",
"――潔白でござります"
],
[
"まあ一杯あいをせい",
"もう頂けませぬ"
],
[
"そう云わずと呑め、わしも久方振りで快く酔ってきた、もう唄は止めにしてこっちへ参れ",
"――はい"
],
[
"芸妓の頃は小笛とか――云ったの",
"はい本名のお笛をそのまま",
"武家風に堅く粧ってこのくらい美しいのだから、その頃はさぞあでやかであったろう。どれ……もっとこっちを向いてみい"
],
[
"二三杯の酒に本性を出しおって、もう言訳は通るまいぞ、どうだ!",
"――――"
],
[
"言訳なら聞くまでもないぞ",
"――ただお聞捨てくださりませ"
],
[
"武士の娘だ、父の名を汚してはならぬ、――どんな必至の場合にもこれだけは忘れず、そのために数えきれぬ苦しさ辛さを味いながら、操だけは汚さずに参りました。――こちらへ引取って頂きました日、お庭で貴方さまにお眼にかかりますると、……どうしてか知らず、不意に貴方さまが父親のように思われ、今日まで良く清浄に身を守ってきたな――褒めてやるぞ……と云われるような気がいたしまして、思わず嬉し涙に咽んだのでござります",
"…………",
"御迷惑とは存じながら、盆栽のお手入れのお邪魔をいたしましたのも粗茶にお出でを願って手作りのお笑草を差上げましたのも、不躾ながら――ひそかに父と存じあげていたしましたこと、できることならお膝に縋って、たった一度でも父上さまと……甘えてみとうござりました。それがつい嗜を忘れさせ、いまのお戯れをそうと知る暇もなく、真の父に手を執られたように覚えて、前後も忘れた嬉しさ、思わず、思わず……"
],
[
"誰、誰ですっ",
"騒ぐな、静かにしろ"
],
[
"ま! 伝吉さん",
"それでも忘れずにいてくれたかい、へっへ……、おらあずいぶん探したぜ"
],
[
"身を剥ごうと爪を剥ごうと貢いだのはそっちの勝手、わたしの知った事ではありませぬ、このまま帰ればともかく、――さもないと人を呼びますよ",
"面白え呼んでくんな"
],
[
"私はその小笛の亭主でございます",
"なに亭主――?",
"亭主と申上げて悪ければ、まあ情人とでも申しましょうか、もう三年このかた夫婦同様の仲でございます、へい",
"嘘、嘘です!"
],
[
"冗談じゃねえ、今更そんな事を云ったって通るものか。現に旦那――こうして寝所へ忍んでくるのも今夜が初めてじゃありやせん、実はこの小笛の手引で三日にあげず逢いにきているのでございますよ",
"まあ、よくもそんな空々しい",
"そういうおめえの方がいけっ太えや。なんだろう――そろそろ金のねえおいらに厭気がさしたので、こっちへ寝返りを打とうと",
"黙れ、黙れ!"
],
[
"お笛、わしはその方を信じている、だが、――この場合はそれだけでは済まぬぞ、その方はやがて直次郎の妻にもなるべき躰じゃ。相手は例え落破戸にもせよ、不義があったと申すからには、武士の妻としてただないとだけでは通らぬ……よく落着いて所存を決めい",
"――はい"
],
[
"それは、わたくしの右の胸の、ちょうど乳房の下のところに腫物がござります、子供の頃から医者も薬も届く限りは手を尽しましたが、どのようにしても治らず、肌着が荒く触れても刺すように痛みまするし、自分にも耐えられぬようなひどい臭みを放ちまする、――そのため今日まで直次郎さまともひとつ閨に臥したことはござりませんでした、ましてこのような人と……",
"へっへへへへ何かと思ったら"
],
[
"何かと思ったら腫物の事かい、そんな事なら改めて聞くまでもねえ、生命までもと惚れ合った仲で、腫物の臭みぐれえが何だ。旦那え――こいつあ大した内証事のように云ってますが、私あ今日までその腫物の薬塗りから、当て綿、巻き木綿の世話までしてきやしたよ",
"嘘です、腫物のある事さえ知る筈のないおまえに、薬の手当ができる訳はありません",
"だって現に世話を焼かしたじゃねえか",
"いいえ嘘です、おまえは愚か直次郎さまにも見せたことのない秘密です、何と云っても嘘に違いありません",
"強情だな、あの臭い膿の始末までさせておいて、今になって嘘はひどかろうぜ、おらにあ着物の上からでも見えるくれえだ"
],
[
"伯父上さま、この男のいまの言葉――確とお耳にお止めくださりましたか",
"それでどういたすのだ",
"――御免くださりませ"
],
[
"御覧くださいませ、女が生涯の良人に捧げる大事な体、蚊にも刺させず大切にしてきました、腫物は愚か針で突いたほどの傷もない筈、――伯父上さま、御得心くださいましたか",
"見届けた、この痴者――"
],
[
"女だてらに肌を顕わし、何とも申訳ござりませぬ、どうぞお忘れ遊ばして――",
"いいとも、外の時ならとにかく、女の操を証す必至の場合、武士なれば腹を賭けるところじゃ、――あいつめ、びっくりして煙のように消えおったわ、もう再び邪魔にはこまい、手柄じゃ手柄じゃ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1937(昭和12)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057656",
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"いや、――"
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"六兵衛さんは詳しいんだな",
"詳しいってわけじゃあねえんだ。おれも、そのちょっとめえから佐渡屋の飯を食うようになったばかりで、古くからのいきさつは知らねえんだが、その騒ぎのときのことはまだ覚えてる。あれあ京伝の旦那の亡くなったすぐあとのこったよ"
],
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"それなのに野郎はずらかったのか",
"ちょうど仕切り前で、旦那が苦しい遣繰りをして金を集めた。無理な遣繰りだったんだろう。そいつが祟って卒中で倒れ、二日めにお亡くんなりなすった。すると高次のやつめ、その旦那の集めた金を掠って消えやがった",
"ひでえ野郎だ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「家の光」
1954(昭和29)年6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057778",
"作品名": "夜の蝶",
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"分類番号": "NDC 913",
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"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-05-20T00:00:00",
"最終更新日": "2022-06-14T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年1月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年1月25日",
"校正に使用した版1": "1985(昭和60)年1月30日2刷",
"底本の親本名1": "",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
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} |
[
[
"自分で云うほうがいいと思うけれど、あまり無作法だし、機会もないだろう。やっぱり、よい折をみて、そこもとから、話してもらうほうが自然ではないだろうか",
"そうかもしれない。いま風邪ぎみで寝ているようだから、起きたら……"
],
[
"……なんとかしなければならない。心から藩家を思う者は、そう考えているのだろう。けれど、こういうおれ自身でさえ、やはり手をつかねているのだから",
"脇屋はそれを見とおしている。刀の柄に手をかけることが自分の存在の強大さだということを、そして、人が暴戻にたいしてたやすく起つものでないということを。――かれは、そこを根にして伸びあがるんだ。悪はそれ自身では、けっして成長しないものだ"
],
[
"そのことばには、なにか意味があるのか",
"かくべつな意味はない。ただ何をするにも、そこもととおれとは、力をあわせなければならない。ふたりがいっしょにいて、かたく手をつないでやれば、たいていな困難は打開できる。しかしひとりではいけない。そう云いたかったのだ"
],
[
"とうとう脇屋をやった",
"どうしたんだ",
"きょう、お城をさがる時、二の丸の枡形で突っかけて来た。石垣を曲るはずみのようにみせて、はげしくからだをぶっつけた。そして言いがかりだ",
"まさか応じはしなかったろうな",
"かれが、どんな雑言を吐きちらしたか想像がつくだろう。初めから謀ってしたことだ。是が非でも、怒らせずにはおかないという態度だった。できるだけ忍ぼうと努めてみたが……",
"あすの御用をひかえているのに、そして、つい先日もおれが云ったのに……",
"あの場にいたら、そこもともわかってくれたろう。おれは決して前後を忘れはしなかった",
"結局、どうしようというのだ"
],
[
"それはことわる。考えてみないか黒沢。決闘となれば、相手を切らなければならない。その結果は自分も切腹だぞ",
"もちろんだ。そして、これは藩家将来のために、だれかが必ずしなければならないことだ。だれかが……",
"ああ平三郎らしい。あまりに平三郎らしい。暴を押えるのに暴をもってするのは、無為というべきだ。そこもとの勝ち気は、こんなことにしか役だたないのか。いけない。断じていけない。そこもとは刻限どおり江戸へ立つんだ",
"だが、武士と武士との約束をどうする。この上おれに恥辱を重ねろと云うのか",
"長山の丘へはおれが行く。そこもとは穏健と笑うけれど、穏健にも一徳のないことはない。藤六のことはおれにまかせてもらう",
"そこもとには、これが、おだやかにおさまると信じられるのか",
"火を消すにも法はいくつかある。やけどにかまわず手でもみ消すのも法だ。しかし水をうちかけてすむのに、手を焦がす必要はない。そこもとが帰るまでには、穏健にけりをつけておこう。あとは引きうけた。安心して行くがよい"
],
[
"あれは、まれな人間だ。お家のためには、けっして欠くことのできない、やがては勝山藩の柱石ともなる人間だ。夫としてはいうまでもない。松子はきっと、しあわせになるよ",
"でもわたくし、黒沢さまの妻として、恥ずかしくない者になれますでしょうか",
"平三郎は松子を愛している。男らしい清明な深い愛だ。それがすべてを生かしてくれる。かれの愛を信じていれば、松子は、しあわせなよい妻になれるよ"
],
[
"……それで、つまり貴公は申しわけの使者というわけか",
"そうではない。黒沢のかわりだ",
"なに、かわりだと……では貴公がおれと果し合いをするつもりか"
],
[
"おれは平三郎に果し状をつけたのだ。貴公との立ち合いはことわると云ったら、どうする",
"そんなことは、ありえないさ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
1983(昭和58)年12月25日発行
初出:「家の光」
1948(昭和23)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057775",
"作品名": "蘭",
"作品名読み": "らん",
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"初出": "「家の光」1948(昭和23)年8月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
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"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年12月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年12月25日",
"校正に使用した版1": "1986(昭和61)年10月10日2刷",
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[
[
"この凪に難波船でも有るまい、何だ",
"流血船の報告です",
"え? ――又か‼"
],
[
"発信はアメリカの豪華船P・F号です、簡単に読みます。……本船は三月二日午前七時十分、東経百五十度、北緯二十度三分の海上に於て、三本帆檣の一漂流船あるを発見せり、依って直ちに船員を派して検分せしに、船内には全く人影無く、船室、甲板、歩廊等、悉く鮮血にまみれ居れり、恐らく大殺人惨劇の行われたるものと思わる。救助すべきもの無きに依り、本船は是を放置せしまま母港に向け進航せり",
"又か、――又か、くそっ!"
],
[
"誰も乗っていない船が、半年間少しも針路を変えずに二千浬以上も同じ方向へ漂流するなんて、そんな馬鹿げた事があるか、――そのうえ鮮血だ、兇悪な殺人だ、惨劇だ、まるで百年も昔の海洋小説のような事を云う、近頃の船乗はみんな頭がどうかしたに違いない",
"でなければ船長が臆病になられたのでしょう",
"な、なんだと⁉",
"失礼――"
],
[
"僕は斯う云いたかったんです、流血船の話は半年も前から聞いています。そして船長は太平洋の鮫と異名のある人です。――どうして噂の実否を確めに行かないのですかと",
"馬鹿な事を、我々には沿海救護という大事な任務がある",
"P・F号の無電に依ると、流血船の位置は領海へ迫ること三百浬ですよ船長、そこに何か惨劇があったとすれば、救護に行くのは我々の任務ではないでしょうか",
"ふうむ、――領海から三百浬か、……"
],
[
"宜し、臆病者と云われては俺の名が廃る。出掛けよう",
"しめたッ",
"直ぐ無電で横浜の本部へ報告しろ、領海附近に漂流船あり、救護のため進路を変更す、と云うんだ、流血船の事には触れるな",
"畏りました、船長"
],
[
"船だ船だ、ゴースタン",
"ゴースタン"
],
[
"うん、だがまだ予定の位置じゃない",
"それに舷灯も点けていません",
"まあ待て"
],
[
"昨日ノ朝、妙ナ船ニ会イマシタ、三本帆檣ノ二千噸バカリノ奴デス。船内ニハ誰モ居ナイ様子デ……何処も彼処モ血ダラケデシタ",
"その船は停っていたか?",
"西ノ方ヘ漂流シテイマシタ。――ソレヨリ、此附近ニ巨キナ海坊主ガ出マスカラ注意シテ下サイ。奴ハ船ヘ襲イ掛ッテ来マス"
],
[
"五週間まえの賭けは忘れないだろうな",
"それがどうした",
"驚くなよ、浦島丸は一昨日から流血船を捜していたんだが、一時間ばかり前に到頭捉えたぞ"
],
[
"おい、それは本当か",
"現に僕の船窓から見えている、いま船員たちが乗込んで行ったところさ、気の毒だが賭けは僕の勝利らしいな、はははは"
],
[
"賭けに負けたのは認めるよ。それより川本、こんな夜の冒険は危い、朝になってからするように云って、早く皆を引揚げさせろ",
"なんだ、君は遠くにいて怯気づいているのか、大丈夫だよ。相手は……"
],
[
"おい川本、どうしたんだ",
"川本、川本、……"
],
[
"う、海坊主が来た、あッ あ――ッ、血みどろの手が……助けて呉れ",
"どうしたんだ、川本ッ",
"殺されるッ、海坊主だ、助けて呉れッ"
],
[
"無電はどうだ――?",
"幾ら呼んでも応答がありません",
"間に合わないかな"
],
[
"船長、三本帆檣ですね",
"――うん",
"今度こそ流血船ですぜ"
],
[
"本船は昨夜、浦島丸から無電を接受した。それに依ると我が友船は、この附近に於て奇怪な事件のため遭難したかに思われる、――その原因は向うに見える船だ。諸君も噂は聞いているだろう、あれこそ流血船だ",
"え、――流血船",
"流血船!"
],
[
"船長、一面に重油が浮かんでいます",
"重油だって?"
],
[
"先任、君は艇に残れ、何か怪しい事があったら拳銃で合図するんだ",
"は、――",
"油断するなよ"
],
[
"や、伊藤、君は一緒に来たのか",
"そんな事より、そら、――"
],
[
"短艇で射っているんです",
"――来いッ"
],
[
"船長、早く来て下さい",
"どうしたんだ、何かあったのか⁉",
"いま本船で銃声と悲鳴が聞えました"
],
[
"やったぞ",
"海坊主を仕止めたぞ"
],
[
"船長、もう一度流血船へ戻って下さい",
"なに? どうするって⁉",
"直ぐ流血船へ踏込むんです、謎は解けました。憎むべき殺人鬼、海坊主の仮面をひん剥いてみせます、流血船のトリックを発いてやるんです。急いで下さい!",
"本当か、大丈夫か⁉",
"瓦斯弾を用意して、早く、直ぐです"
],
[
"鼠でも追出そうと云うのか",
"そう、巨きな鼠が出て来ますぜ、――そらッ"
],
[
"だが夫にしても、――どうして彼の船底に隠れていた事が分ったのかね",
"偶然ですね、全くのところ偶然です"
],
[
"あの海坊主を射った時、ちょっと霧が切れて、流血船が判きり見えたでしょう? 船長、あの時僕は、流血船の吃水がいやに深いのに気がついたんです。荷物も無し人もいないのに、吃水はまるで貨物満載の船ほど深くなっているんです、――それが発見の緒口でした。船内に何もなく、然も船があんなに深く入っているとすれば、船底の下に重量が懸っているに違いないと……",
"偉い、遉に無電技師だけあって観察が細いぞ、遉の俺もそこ迄は気がつかなかった。――今度は全く君に手柄を樹てられたよ"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」博文館
1938(昭和13)年3月
初出:「少年少女譚海」博文館
1938(昭和13)年3月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059569",
"作品名": "流血船西へ行く",
"作品名読み": "りゅうけつせんにしへいく",
"ソート用読み": "りゆうけつせんにしへいく",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「少年少女譚海」博文館、1938(昭和13)年3月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓読み": "やまもと",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚",
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"底本初版発行年1": "2008(平成20)年1月15日",
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"底本の親本名1": "少年少女譚海",
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[
[
"民部はよく知っているな",
"私はお国許で生れ、十歳までこちらで育ったのです、――お口のまわりをどうぞ"
],
[
"どうして、自分の田や畑が、なくなったんだ",
"いま云ったとおり、川辺が鴨猟のお止め場になったからです",
"お止め場とはどういうことだ"
],
[
"おれがうたったか",
"まえから御存じなのですか"
],
[
"はい、節は古くからの野良唄ですけれど、文句は祖父のでたらめでございます",
"妙な文句だと思った",
"頭がおかしくなってからうたいだしたものですから",
"終りがあるのか",
"死ぬまで待ったとて、――というのがおしまいで、またはじめの、三年待ったとてに返りますの"
],
[
"仮名文字だけでございます",
"ではざっと話して聞かそう"
],
[
"それでは他の者にみつかるおそれがあろうし、民部が本心だとすれば無事には済まないことになるぞ",
"おそらく、これをさし入れた者が取戻すと思いますけれど、もし夜明けまでそのままにしてありましたら、わたくしがよいように致します",
"しかし、どうするのだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
1958(昭和33)年5月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057772",
"作品名": "若き日の摂津守",
"作品名読み": "わかきひのせっつのかみ",
"ソート用読み": "わかきひのせつつのかみ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「小説新潮」新潮社、1958(昭和33)年5月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-02-04T00:00:00",
"最終更新日": "2021-01-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57772.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日3刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
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"校正に使用した版2": "",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57772_ruby_72596.zip",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"四斗樽の尻を抜くような法螺をこくでねえ、面あこそ生っ白くて若殿みてえだが、なんかの時にあ折助より下司なもの好みをするだあ、家来持ちが聞いて呆れるだよ、この脚気病みの馬喰め",
"なにを吐かす、うぬこそ裾っぱりで灰汁のえごい、ひっ限りなしで後せがみで、飽くことなしの止すとき知らず、夜昼なしの十二刻あまだ",
"へん憚りさまだよ、女御お姫さまから橋の下の乞食まで女という女はこう出来たもんだ、お蔭でおめえなんぞも気が狂わずに済むだあ、この煮干の首っ括りめ"
],
[
"いいかげんにしろすべた阿魔、恐れながら十八万六千石の御尊体だ。痣でもついたら",
"えへん"
],
[
"黙れ口を閉めろ、そのわっちも唯今から禁ずる、起ち居も動作も、言葉づかいも、予て教えられたとおりにやる、いいか、貴様は馬鹿だ、自分は愚か者だということを毎も肚で考えておれ、おれは馬鹿だ、すべて付いている者のいうままになろう、――常にこう考えるんだ、わかったな",
"けれどもですね、その、わっちは"
],
[
"いやみごと、そのほうちょいといけるな、もう一ついきねえ、いやもう一つ重ねるがよい、かけつけ三杯ということがある",
"若さま、――恐れながら"
],
[
"仰せまでもございませんわ、若さまに万一そんな御不幸がございましたら、わたくし一刻も生きてはおりませんよ",
"へっ、これが本当の殺し文句か、さあ嬉しくなっちゃったぞ、どんどん酒を持って来い、肴もこんな白けたもんじゃあなく、鰯のてんぷらに中とろのぶつ切りといこう、烏賊の黒作りに鰹の塩辛、もつ鍋にどじょう汁でもそ云ってくんねえ、こうなったら無礼講だ、構うこたあねえからじゃんじゃんやれ、ここらで誰か一つとーんとぶっつけて貰いてえな"
],
[
"ちっともお気取りのない竹を割ったような御気性だわ",
"鰯のてんぷらに中とろのぶつ切りですって、よっぽど食通でいらっしゃるのね"
],
[
"だけども紋太さん、上屋敷にも腰元や侍女はいるかね、そうでないとわっちは",
"その口を閉めろ馬鹿者、今日の対面は最初の度胸さだめだ、次には将軍家拝謁という大事がある、肚を据えてやるんだぞ"
],
[
"はい屋島と申します",
"洒落がわからなくちゃあいけねえぞ洒落が、なあ、盃をやるから一杯やんねえ"
],
[
"――増井琴太夫",
"御意にございます、次に大目付小林、中老角田、この三人で宜しゅうございましょう",
"ぬかるな"
],
[
"は、はい、わたくしは、存じませぬ",
"知らぬということがあるか、おまえはどうしてこんな所に隠れていた、なにごとが起ったのだ、お付の者たちはどうした"
],
[
"なにおかくれ、若殿は御死去か",
"いいえ唯のおかくれでございます",
"はっきり申せ、なにがどうしたというのだ"
],
[
"あたしはお中屋敷でちゃんとお約束したんです",
"いいえ、わたしのほうが先です",
"なんというずうずうしい方でしょう、なんという",
"放して下さい、若さまはあたしをお召しなんですから",
"なんというずうずうしい",
"お黙んなさいあたしが",
"いいえ放しません、放すもんか",
"お中屋敷ではこうみえても局持ちだよ、へん",
"畜生、放さないかこのあばずれ",
"まあ呆れた、なんてずうずうしい",
"ええこうしてやる",
"あらおやりあそばしたわね、負けるものか"
],
[
"我ながらこれには呆れた",
"呆れるのはこっちだ、いったいあれだけの人数をどうする積りなんだ",
"どうったってしょうがねえ、ちょいと口を利くと出来ちまうんだ、おらあもううんざりした、みんなおめえに遣るよ紋太夫",
"黙ればか者、それどころではない大事が迫っているんだ、はっきりしろ"
],
[
"下拵らえしてあるんだ、若殿御詰問の儀ありということで、明日の御前会議はもう定っているし、罪条摘発があれば後はわれわれが始末をする、だがしくじったら大変なことになるぞ、もしおまえが下手なまねをすれば",
"縛り首か、大丈夫うまくやるよ、おまえさんたちがあっと云うくらいうまくやってみせらあ、本当だぜ",
"とにかく稽古をつけてやる、そこへ坐れ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1948(昭和23)年2月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057774",
"作品名": "若殿女難記",
"作品名読み": "わかとのじょなんき",
"ソート用読み": "わかとのしよなんき",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談雑誌」博文館 、1948(昭和23)年2月号",
"分類番号": "NDC 913",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
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[
[
"ええ、行ってもいいわ、だけれどもまた此前見たいじゃ………",
"なにね、もう大丈夫よ、病気だってよほどよくなっているんだし、それにあすこには自動車があるしするから………",
"義兄さん、今晩はかえらない"
],
[
"おかえり",
"おかえりなさいまし"
],
[
"明日、閑さんと私を、伊切の浜へ連れて行って下さいね",
"それもいいな、しかしもう日中は少し暑くはないかな……。それは、そうと閑枝、お前弥生軒で写真を写したそうだね",
"ええ、一寸今日、あの前を通ると写して見たくなって……",
"今日電車の中で、弥生軒のおやじに会ったら、『お嬢さんを撮らして貰いました』と云って喜んでいたよ、しかし此辺の写真屋は、とても下手だからなア"
],
[
"お目覚めで御座いますか、只今、あの………旦那様からお電話で御座います",
"そう………"
],
[
"あのう……、如何いたしましょう",
"そうね………"
]
] | 底本:「幻の探偵雑誌6 「猟奇」傑作選」光文社文庫、光文社
2001(平成13)年3月20日初版1刷
初出:「猟奇」
1932(昭和7)年1月
入力:鈴木厚司
校正:noriko saito
2009年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "049701",
"作品名": "仙人掌の花",
"作品名読み": "しゃぼてんのはな",
"ソート用読み": "しやほてんのはな",
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"初出": "「猟奇」1932(昭和7)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓": "山本",
"名": "禾太郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "のぎたろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "のきたろう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Nogitaro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1889-02-28 00:00:00",
"没年月日": "1951-03-16 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "幻の探偵雑誌6 「猟奇」傑作選",
"底本出版社名1": "光文社文庫、光文社",
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} |
[
[
"さきほどの話は、そのことではなかったはずです。",
"では何のことですか。あなたが知ってる事件というのは……",
"私が言ったのはもうひとつの事件です。そのことでも今日パリじゅうが騒いでいます。"
],
[
"ねえ気を悪くしちゃいけませんよ。まあ一服なすって、私を悪く思わないでください。",
"お気づかいにはおよびません。悪く思おうとしても、もう長いことではないでしょうから。"
],
[
"いつ戻ってきたらよろしいですか。",
"私のほうからお知らせしましょう。"
],
[
"どういう条件だ、どういう条件だ。何でも君の望みしだいだ。",
"番号を三つどころか、四つも知らせてやろう。だから、僕と服を取り換えるんだ。"
],
[
"マリー、私にお前の祈りを言っておくれ。",
"だめよ、おじちゃま。お祈りって、昼間言うもんじゃないの。今晩おうちにいらっしゃい。言ってあげるわ。"
],
[
"ああ、おとぎばなしきり読めないの。",
"でも読んでごらん。さあ、お読みよ。"
]
] | 底本:「死刑囚最後の日」岩波文庫、岩波書店
1950(昭和25)年1月30日第1刷発行
1982(昭和57)年6月16日改版第30刷発行
※原題の「LE DERNIER JOUR D'UN 〔CONDAMNE'〕」は、ファイル冒頭ではアクセント符号を略し、「LE DERNIER JOUR D'UN CONDAMNE」としました。
入力:tatsuki
校正:大野晋、小林繁雄、川山隆
2008年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "042610",
"作品名": "死刑囚最後の日",
"作品名読み": "しけいしゅうさいごのひ",
"ソート用読み": "しけいしゆうさいこのひ",
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"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓": "ユゴー",
"名": "ヴィクトル",
"姓読み": "ユゴー",
"名読み": "ヴィクトル",
"姓読みソート用": "ゆこお",
"名読みソート用": "ういくとる",
"姓ローマ字": "Hugo",
"名ローマ字": "Victor",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1802-02-26 00:00:00",
"没年月日": "1885-05-22 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "死刑囚最後の日",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1950(昭和25)年1月30日、1982(昭和57)年6月16日改版",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年6月16日改版第30刷",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年1月20日第31刷",
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"入力者": "tatsuki",
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} |
[
[
"私もそう認めました。",
"室がみな小さすぎます、そして空気がよく通いません。",
"私にもそう見えました。",
"それにまた、日がさしましても、回復しかけた患者たちが散歩するには、庭が小さすぎます。",
"私もそう思いました。",
"今年はチフスがありましたし、二年前には粟粒発疹熱がありましたし、そんな流行病のおりには、時とすると百人もの患者がありますが、実はどうしてよろしいかわからないのです。",
"私もそういう時のことを考えました。"
],
[
"人は同時におのれの重荷たりおのれの誘惑たる肉体を身に有す。人はそれを担い歩きしかしてそれに身を委ぬるなり。",
"人はこの肉体を監視し制御し抑制して、いかんともなす能わざるに至りて初めてそれに屈服すべきなり。かくのごとき屈服においても、なお誤ちのあることあれど、かくてなされたる誤ちは許さるべきものなり。そは一の墜堕なり、しかれども膝を屈するの墜堕にして、祈祷に終わり得べきものなればなり。",
"聖者たるは異例なり、正しき人たるは常則なり。道に迷い、務めを欠き、罪を犯すことはありとも、しかも常に正しき人たれ。",
"能う限り罪の少なからんことこそ、人の法なれ。全く罪の無きは天使の夢想なり。地上に在りと在るものは皆罪を伴う。罪は一の引力なり。"
],
[
"その男と女はどこで裁判されるのですか。",
"重罪裁判所においてです。"
],
[
"そう考えているのです。で私は絶対に憲兵をお断わりします。そして一時間後には出立つするつもりです。",
"御出立つ?",
"出立つします。",
"お一人で?",
"一人で。",
"閣下、そんなことをなされてはいけません。"
],
[
"ですけれども彼らは徒党を組んでいます。狼の群れでございます。",
"村長どの、イエスが私を牧人にされたのは、まさにそれらの群れの牧人にされたのかもわかりません。だれが神の定められた道を知りましょう。",
"閣下、彼らはあなたの持物を奪うでしょう。",
"私は何も持っていません。",
"あなたを殺すかも知れません。",
"他愛もないことをつぶやいて通ってゆく年老いた牧師をですか? ばかな! それが何になるでしょう。",
"ああそれでも、もしお出会いなされたら!",
"私は彼らに貧しい人々のための施しを求めましょう。",
"閣下、どうか行かないで下さい。お命にかかわります。"
],
[
"私はビヤンヴニュ・ミリエルという者です。",
"ビヤンヴニュ・ミリエル! 私はその名前をきいたことがあります。人々がビヤンヴニュ閣下と呼んでいるのはあなたですか。",
"私です。"
],
[
"それではあなたは私の司教ですね。",
"まあいくらか……。",
"おはいり下さい。"
],
[
"錯乱したる喜悦とも言えるでしょう。そして今日、一八一四年と称するあの痛ましい過去の復帰の後に、喜びは消え失せてしまったのです。不幸にも事業は不完全であった。私もそれは認める。われわれは事実のうちにおいて旧制を打破したが、思想のうちにおいてそれをまったく根絶することはできなかったのです。弊風を破る、それだけでは足りない、風潮を変更しなければならない。風車はもはや無くなったが、風はなお残っているのです。",
"あなた方は打破せられた。打破することが有益であることもある。しかし私は憤怒の絡みついた打破には信を置きません。",
"正義にはその憤怒があるものです、そして、正義の憤怒は進歩の一要素です。とまれ何と言われようとも、フランス大革命はキリスト降誕以来、人類の最も力強い一歩です。不完全ではあったでしょう。しかし荘厳なものでした。それは社会上の卑賤な者を解放した。人の精神をやわらげ、それを静め慰め光明を与えた。地上に文明の波を流れさした。りっぱな事業であった。フランス大革命は実に人類を聖めたのです。"
],
[
"どうして! 私が金を払うまいと心配するんですか。前金で払ってほしいんですか。金は持っていると言ってるではないですか。",
"そのことではありません。",
"では、いったい何です。",
"あなたは金を持っている……。"
],
[
"いけません。",
"なぜ?",
"どこにも馬がはいっています。"
],
[
"何もない! そしてあそこのは?",
"あれは約束のものです。",
"だれに?",
"馭者の方たちに。",
"幾人いるんだい。",
"十二人。",
"二十人分くらいはあるじゃないか。",
"すっかり約束なんです、そしてすっかり前金で払ってあるんです。"
],
[
"晩飯と一泊とをお願いしたいんです。",
"よろしい。晩飯と一泊ならここでできる。"
],
[
"ああ、あなたも知っているんですね。",
"そうだ。",
"私はほかの一軒の宿屋からも追い出された。",
"そしてこの宿屋からも追い出されるんだ。",
"では、どこへ行けと言うんです。",
"他の所へ行くがいい。"
],
[
"宿屋に部屋がないんです。",
"なに、そんな事があるものか。今日は市の立つ日でもないし、売り出しの日でもない。ラバールの家に行ってみたかね。",
"行きました。",
"それで?"
],
[
"あなたは軍人だったのですか。",
"そうですよ、軍人です。",
"なぜ宿屋へお出でなさらないのです。",
"金がありませんから。"
],
[
"どの家も尋ねてみたんです。",
"それで?",
"どこからも追い出されたんです。"
],
[
"ええ。",
"あの家を尋ねましたか。",
"いいえ。",
"尋ねてごらんなさい。"
],
[
"百九フラン十五スー。そしてそれを得るのにどれだけかかりました!",
"十九年。",
"十九年!"
],
[
"あなたは大変苦しんだのですね。",
"おお、赤い着物や、足の鉄丸や、板の寝床や、暑さ、寒さ、労働、囚人の群れ、打擲! 何でもないことに二重の鎖で縛られるのです。ちょっと一言間違えばすぐに監禁です。寝ついてる病人にまで鎖がつけられてるんです。犬、そう、犬の方がまだしあわせです! それが十九年間! 私は今四十六歳です。そしてこんどは黄いろい通行券! そういうわけです。"
],
[
"ジャン・ヴァルジャンさん、あなたがこれから行かれるのはポンタルリエですね。",
"そして旅程もちゃんと定められているのです。"
],
[
"錫はにおいがいたします。",
"では鉄の器は?"
],
[
"プティー・ジェルヴェーというんですが。",
"私はだれにも会いませんでしたよ。"
],
[
"司祭さん、これは貧しい人たちに施して下さい。――司祭さん、十歳ばかりの小さい子供です。たしか一匹のモルモットと絞絃琴とを持っています。向こうへ行きました。サヴォアの者です。御存じありませんか。",
"私はその子に会いませんよ。",
"プティー・ジェルヴェーに? この辺の村の者ではありますまい。どうでしょうか。",
"あなたが言うとおりなら、それはこの辺の子供ではありますまい。この地方をそんな人たちが通ることはありますが、どこの者だかだれも知りませんよ。"
],
[
"哲学を論じ合ったんだ。",
"なるほど。",
"デカルトとスピノザと君はどっちが好きなんだ。"
],
[
"トロミエス、君の意見は法則となるんだ。君の好きな作者はだれだ!",
"ベル……。",
"ベル……カンか。"
],
[
"皆様へと言って旦那方が置いてゆかれた書き付けです。",
"なぜすぐに持って来なかったの。"
],
[
"あなたのお子さんの名は?",
"コゼットといいます。"
],
[
"お幾歳ですか。",
"じきに三つになります。",
"うちの上の子と同じですね。"
],
[
"どれくらいかかったらここにきますか。",
"一番近い所へ行っています、フラショーで。そこに鉄工場があります。しかしそれでも十五分くらいはじゅうぶんかかりましょう。"
],
[
"仕方がありません!",
"しかしそれではもう間に合うまい。車はだんだんめいり込んでゆくじゃないか。",
"だと言って!"
],
[
"十フランなら。",
"では切って下さい。"
],
[
"ナポレオン二つだって。",
"では四十フランですね。"
],
[
"では薬がたくさんいるでしょうか。",
"そうですとも、大変な薬が。",
"どうしてそんな病気にかかるんでしょう。",
"すぐにとっつく病気ですよ。",
"では子供にもあるんですね。",
"おもに子供ですよ。",
"その病気で死ぬことがあるんでしょうか。"
],
[
"市長どの、私は一向に了解できません。",
"それではただ私の言に従うので満足なさるがいいでしょう。",
"私は自分の義務に従うのです。私の義務は、この女が六カ月間入牢することを要求します。"
],
[
"しかし、市長どの……",
"不法監禁に関する一七九九年十二月十三日の法律第八十一条を思い出されるがいい。",
"市長どの、どうか……。",
"一言もなりませぬ。",
"しかし……。"
],
[
"あります。",
"では至急お呼びなさるがよろしいでしょう。"
],
[
"はい、市長殿、有罪な行為がなされたのです。",
"どういうことです?",
"下級の一役人が重大な仕方である行政官に敬意を失しました。私は自分の義務としてその事実を報告に参ったのです。"
],
[
"君ですって。",
"私です。",
"そしてその役人に不満なはずの行政官というのはだれです。",
"市長殿、あなたです。"
],
[
"放逐ですって、それもいいでしょう。しかし私にはどうも了解できない。",
"只今説明申します、市長殿。"
],
[
"市長殿、六週間前、あの女の事件後、私は憤慨してあなたを告発しました。",
"告発!",
"パリーの警視庁へ。"
],
[
"警察権を侵害した市長としてですか。",
"前科者としてです。"
],
[
"私はそれを信じていました。長い前からそういう考えをいだいていました。ある類似点、あなたがファヴロールでなされた探索、あなたの腰の力、フォーシュルヴァン老人の事件、あなたの狙撃の巧妙さ、少し引きずり加減のあなたの足、その他種々な下らないことです。そしてついに私はあなたをジャン・ヴァルジャンという男だと信じたのです。",
"え?……何という名前です。",
"ジャン・ヴァルジャンというのです。それは二十年前私がツーロンで副看守をしていた時見たことのある囚人です。徒刑場を出てそのジャン・ヴァルジャンは、ある司教の家で窃盗を働いたらしいのです、それからまた、街道でサヴォアの少年を脅かして何かを強奪したらしいのです。八年前から彼は姿をくらまして、だれもその男がどうなったか知る者はなかったのですが、なお捜索は続けられていました。私は想像をめぐらして……ついにそのことをやってしまったのです。怒りに駆られたのです。私はあなたを警視庁へ告発しました。"
],
[
"そして何という返事がきました。",
"私は気違いであると。",
"そして?",
"そして実際、向こうの方が正当でありました。",
"君がそれを認めたのは幸いです。",
"認めざるを得なかったのです。真のジャン・ヴァルジャンが発見されたのですから。"
],
[
"そしてその男は何と言っていました。",
"いや市長殿、事件は険悪です。彼がジャン・ヴァルジャンであるとすれば、再犯となるのです。塀をのり越え、枝を折り、林檎を盗むくらいは、子供なら悪戯に過ぎず、大人なら軽罪ですみますが、囚人ではりっぱな犯罪です。侵入と窃盗、みな具備することになります。それはもう軽罪裁判の問題でなく重罪裁判の問題です。数日の監禁でなく、終身徒刑です。それからまたサヴォアの少年の事件もあります。それも問題になるべきです。そうなるとじゅうぶん論争するだけのものはありますでしょう。そうです、ジャン・ヴァルジャンでない限り他の者ならそうするところです。しかしジャン・ヴァルジャンは狡猾な奴です。私がにらんだのはまたその点です。他の者なら逆上するところです。きっと、わめき叫ぶでしょう。火の上に沸き立つ鍋のように、自分はジャン・ヴァルジャンではないと言って、騒ぎ出したりするはずです。ところが、彼奴は何もわからないようなふうをして、こう言うだけです。『わしはシャンマティユーというのだ、そのほかの者じゃない!』彼奴はびっくりしたふうをして、ばかをよそおっています。有効なやり方です。なかなか巧妙です。しかし結局は同じです、証拠はじゅうぶんです。四人の人から認定されたのですから、いずれ有罪になるでしょう。アラスの重罪裁判に回されています。私は証人としてそこへ行くことになっています。召喚されたのです。"
],
[
"わかりました、ジャヴェル君。実際それらの詳細は私にあまり関係ないことです。時間をむだにするばかりです。そしてわれわれには他に急ぎの用があります。ジャヴェル君、あのサン・ソールヴ街の角で野菜を売ってるブュゾーピエ婆さんの家へすぐに行ってくれませんか。そして車力のピエール・シェヌロンを訴え出るように言って下さい。あの男は乱暴な奴で、その婆さんと子供とを轢き殺そうとしたのです。処罰しなければいけません。それからまたモントル・ド・シャンピニー街のシャルセレー君の家に行って下さい。隣の家の樋から雨水が流れ込んできて自分の家の土台を揺るがすと言って訴えてきたのです。次に、ギブール街のドリス未亡人とガロー・ブラン街のルネ・ル・ボセ夫人の家とに警察規則違反があると言ってきていますから、それを調べて調書を作ってきて下さい。だがあまり仕事が多すぎますね。君は不在になるんでしたね。一週間か十日かすればあの事件のためにアラスに行くと先刻言いましたね。",
"そんなにゆっくりではありません、市長殿。",
"ではいつです。",
"明日裁判になるので私は今晩駅馬車で出かけることを、先刻申し上げたと思いますが。"
],
[
"そしてその事件はどれくらい続きますか。",
"長くて一日ですむでしょう。遅くとも判決は明晩下されるでしょう。しかし判決はもうわかっていますから、私はそれを待っていないつもりです。自分の供述をすましたらすぐに帰ってくるつもりです。"
],
[
"市長殿、まだ一つ思い出していただきたいことが残っています。",
"何ですか。",
"私が免職されなければならないことです。"
],
[
"さよう。",
"箱馬車をつけてですか。",
"ああ。",
"それだけかけてから後はどのくらい休めます。",
"場合によっては翌日また出立しなければならないんだが。",
"同じ道程をですか。",
"さよう。",
"いやはや! 二十里ですな。"
],
[
"その馬なら今言った旅ができようね。",
"ええ二十里くらいは。かけとおして八時間足らずでやれます。ですが条件付きですよ。",
"どういう?",
"第一に、半分行ったら一時間休まして下さい。その時に食い物をやるんですが、宿の馬丁が麦を盗まないように食ってる間ついていてもらわなければいけません。宿屋では麦は馬に食われるより廐の小僧どもの飲み代になってしまうことを、よく見かけますからな。",
"人をつけておくことにしよう。",
"第二に……馬車は市長さんがお乗りになるんですか。",
"そうだ。",
"馬を使うことを御存じですか。",
"ああ。",
"では馬を軽くしてやるために、荷物を持たないで旦那一人お乗りなすって下さい。",
"よろしい。",
"ですが旦那一人だと、御自分で麦の番をしなければならないでしょう。",
"承知している。",
"それから一日に三十フランいただきたいですな。休む日も勘定に入れて。一文も引けません。それから馬の食い料も旦那の方で持っていただきます。"
],
[
"では二日分前金として。",
"それから第四に、そんな旅には箱馬車はあまり重すぎて馬を疲らすかも知れません。今私の家にある小馬車で我慢していただきたいものですが。",
"よろしい。",
"軽いですが、幌がありませんよ。",
"そんなことはどうでもいい。",
"でも旦那、冬ですよ……。"
],
[
"そうそう。それで?",
"旦那が買い取って下さるんですか。",
"いや。ただ万一のために保証金を出しておくつもりだ。帰ってきたらその金を返してもらうさ。馬車と馬とをいくらに見積るかね。",
"五百フランに、旦那。",
"それだけここに置くよ。"
],
[
"旦那様、もう朝の五時になりますよ。",
"それがどうしたんだ。",
"馬車が参りましたのです。",
"何の馬車が?",
"小馬車でございます。",
"どういう小馬車だ?",
"小馬車をお言いつけなすったのではございませんか。"
],
[
"御者は旦那様の所へ参ったのだと申しておりますが。",
"何という御者だ。",
"スコーフレールさんの家の御者でございます。",
"スコーフレール?"
],
[
"旦那様、どう申したらよろしゅうございましょう。",
"よろしい、今行く、と言ってくれ。"
],
[
"五里向こうから。",
"へえー。",
"へえーってどういうわけだ。"
],
[
"何だって?",
"なあに、旦那も馬もよくまあ往来の溝にもころげ込まねえで、五里もこられたなあ不思議だ。まあ見てごらんなさるがいい。"
],
[
"ありますとも。",
"連れてきてもらえまいかね。",
"すぐ向こうにおるですよ。おーい。ブールガイヤール親方!"
],
[
"すぐにこの車輪を直してもらうことができようか。",
"ええ旦那。",
"いつ頃また出かけられるだろうね。",
"明日ですな。",
"明日!",
"十分一日は手間が取れますよ。旦那は急ぐんですか。",
"大変急ぐんだ。遅くも一時間したらまた出かけなくちゃならないんだ。",
"そいつあだめですぜ旦那。",
"いくらでも金は出すが。",
"だめです。",
"では、二時間したら?",
"今日中はだめです。二本の輻と轂とを直さなきゃあなりません。明日までは出かけられませんぜ。",
"明日までは待てない用なんだ。ではこの車輪を直さないで外のと取り換えたらどうだろう。",
"そんなこたあ……。",
"君は車大工だろう。",
"そうには違いねえんですが。",
"わしに売ってもいい車輪があるだろう。そうすればすぐに発てるんだ。",
"余りの車輪ですか。",
"そうだ。",
"旦那の馬車に合うような車輪はありません。二つずつ対になっていますからな。車輪をいい加減に二つ合わせようたってうまくいくもんじゃありません。",
"それなら、一対売ってくれたらいいだろう。",
"旦那、どの車輪でも同じ心棒に合うもんじゃありません。",
"が、まあやってみてくれないか。",
"むだですよ、旦那。私ん所には荷車の車輪きり売るなあありません。なんにしてもここは田舎のことですからな。",
"ではわしに貸してくれる馬車はないかね。"
],
[
"貸し馬車をそんなに乱暴にされちゃあ! 私んところにあったにしろ旦那には貸せませんな。",
"では売ってくれないか。",
"無えんですよ。",
"なに、一つもない? わしはどんなんでも構わないんだが。"
],
[
"駅の馬を借りることにしよう。",
"旦那はいったいどこへ行くんですかね。",
"アラスへ。",
"そして今日向こうに着きたいというんですな。",
"もちろんだ。",
"駅の馬で?",
"行けないことはなかろう。",
"旦那は明日の朝の四時に向こうに着くんじゃいけませんか。",
"いけないんだ。",
"ちょっと申しておきますがね、駅の馬で……。いったい旦那には通行券はあるんでしょうな。",
"ある。",
"では、駅の馬で、それでも明日しかアラスへは着けませんぜ。ここは横道になってるんです。それで駅次馬は少ししかいないし、馬はみな野良に出てます。ちょうどこれから犂を入れる時だから馬がいるんです。どこの馬も、駅のもなにもかも、そっちに持ってゆかれてるんです。一頭の駅次馬を手に入れるには、まあ三、四時間は待つですな。それに、駆けさせらりゃあしません。上り坂も多いですからな。",
"それでは、わしは乗馬で行こう。馬車をはずしてくれ。この辺に鞍を売ってくれる所はあるだろう。",
"そりゃああります。だがこの馬に鞍が置けますかね。",
"なるほど。そうだった。この馬はだめだ。",
"そこで……。",
"なに村で一頭くらい借りるのがあるだろう。",
"アラスまで乗り通せる馬ですか。",
"そうだ。",
"この辺にあるような馬じゃだめです。第一旦那を知ってる者あねえから、買ってやらなくちゃ無理です。ですが、売るのも貸すのも、五百フラン出したところで千フラン出したところで、見つかりゃあしませんぜ。",
"いったいどうしたらいいんだ。",
"まあ一番いいなあ、私に車を直さして明日出立なさるのですな。",
"明日では遅くなるんだ。",
"ほう!",
"アラスへ行く郵便馬車はないのか。いつここを通るんだ。",
"今晩です。上りも下りも両方とも夜に通るんです。",
"どうしてもこの車を直すには一日かかるのか。",
"一日かかりますとも、十分。",
"二人がかりでやったら?",
"十人がかりでも同じでさ。",
"繩で輻を縛ったら?",
"輻はそれでいいでしょうが、轂はそういきません。その上輞もいたんでます。",
"町に貸し馬車屋はいないのか。",
"いません。",
"ほかに車大工はいないのか。"
],
[
"それで?",
"旦那は何もくれないだもの。"
],
[
"そうだ。",
"そういうふうじゃ、早くは着けませんぜ。"
],
[
"アラスまでまだいかほどあるだろう?",
"まあたっぷり七里かな。",
"どうして? 駅の案内書では五里と四分の一だが。"
],
[
"なるほど。",
"まあ、カランシーへ行く道を左へ取って、川を越すだね。そしてカンブランへ行ったら、右へ曲がるだ。その道がモン・サン・エロアからアラスへ行く往来だ。",
"だが夜にはなるし、道に迷わないとも限らない。",
"お前さんはこの辺の者じゃねえんだな。",
"ああ。"
],
[
"今晩行かなくちゃならないんだ。",
"ではだめだ。それじゃあやはりタンクの宿へ行って、なお一頭馬をかりるだね。そして馬丁に道を案内してもらうだね。"
],
[
"あれは何時だろう。",
"七時です、旦那。八時にはアラスに着けます。もう三里しかありません。"
],
[
"奥様この布で何をこしらえましょう?",
"坊やに着物をこしらえておくれ。"
],
[
"赤ちゃんが見えませぬ。奥様何にいたしましょう?",
"それなら、私を葬る経帷子にしておくれ。"
],
[
"馬は明朝また出立するわけにはゆかないでしょうかね。",
"なかなか旦那、まあ二日くらいは休ませませんでは。"
],
[
"ここは郵便取扱所ではありませんか。",
"はいさようでございます。"
],
[
"失礼ですが、あなたは親戚なんですか。",
"いや私の知ってる者は一人もここにはいません。そして刑に処せられたのですか。",
"無論です。処刑は当然です。",
"徒刑に?……",
"そうです、終身です。"
],
[
"そうですとも。リモザンの娘です。いったい何の事をあなたは言ってるんですか。",
"いや何でもありません。ですが裁判はすんだのに、どうして法廷にはまだ燈火がついてるのですか。",
"次の事件があるからです。もう開廷して二時間ほどになるでしょう。",
"次の事件というのはどういうのです。",
"なにそれも明瞭な事件です。一種の無頼漢で、再犯者で、徒刑囚で、それが窃盗を働いたのです。名前はよく覚えていません。人相の悪い奴です。人相からだけでも徒刑場にやっていい奴です。"
],
[
"どうもむずかしいでしょう。大変な人です。ですがただいま休憩中です。外に出た人もありますから、また初まったら一つ骨折ってごらんなさい。",
"どこからはいるのです。",
"この大きな戸口からです。"
],
[
"しかし扉は開かれません。",
"なぜです。",
"中は満員ですから。",
"何ですって! もう一つの席もないのですか。",
"一つもありません。扉はしまっています。もうだれもはいることはできません。"
],
[
"あのかわいそうな女はどんなあんばいです。",
"ただいまはそう悪くはございません。でも私どもは大変心配いたしました。"
],
[
"あなたに是非一つのお願いがあるのですが……。",
"大声で言えというに。",
"しかしあなただけに聞いてもらいたいのですから……。",
"俺に何だって言うのだ。俺は聞かん!"
]
] | 底本:「レ・ミゼラブル(一)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年4月16日改版第1刷発行
※誤植の確認に「レ・ミゼラブル(一)」岩波文庫、岩波書店1961(昭和36)年3月10日第20刷、「レ・ミゼラブル(二)」岩波文庫、岩波書店1960(昭和35)年12月20日第15刷を用いました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月15日作成
2013年4月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
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"私はあなたと同じようにフランス軍についていた者です。もうお別れしなければなりません。もしつかまったら銃殺されるばかりです。私はあなたの生命を救ってあげた。あとは自分で何とかして下さい。",
"君の階級は何だ。",
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],
[
"それを願いましょう。",
"お乗りなさい。"
],
[
"お前さんはいくつになる?",
"八つ。",
"そしてこんなものを持って遠くからきたのかね。",
"森の中の泉から。",
"そしてこれから行く所は遠いのかね。",
"ここから十五分ばかり。"
],
[
"お前さんはどこに住んでるんだい。",
"モンフェルメイュよ、おじさんは知ってるかどうか……",
"これからそこへ行くんだね。",
"ええ。"
],
[
"いったいだれが今時分森の中まで水をくみにやらしたんだい。",
"テナルディエのお上さんなの。"
],
[
"テナルディエの上さんのうちには女中はいないのかね。",
"いません。",
"お前さん一人なのか。",
"ええ。"
],
[
"でも娘は二人あります。",
"何という娘だい。",
"ポニーヌとゼルマっていうの。"
],
[
"ポニーヌとゼルマというのは、どういう人たちだい。",
"テナルディエのお上さんのお嬢さんなの。まあその娘よ。",
"そして何をしてる、その人たちは。"
],
[
"一日中?",
"ええ",
"そしてお前さんは?",
"私は、働いてるの。",
"一日中?"
],
[
"時々は、用がすんでから、いいって言われる時には、私も遊ぶことがあるの。",
"どうして遊ぶ?",
"勝手なことをして。何でもさしてくれます。けれど私は玩具をあまり持っていないの。ポニーヌとゼルマは私に人形を貸してくれません。私はただ鉛の小さな剣を一つ持ってるきりなの、これくらいの長さの。"
],
[
"おや、市場だね。",
"いいえ、クリスマスよ。"
],
[
"小父さん。",
"なんだい?",
"家の近くにきました。",
"それで?",
"これから私に桶を持たして下さいな。",
"なぜ?",
"ほかの人に桶を持ってもらってるのが見つかると、お上さんに打たれるから。"
],
[
"四十スーですよ。",
"四十スー。承知しました。",
"そんならよござんす。"
],
[
"お上さん、パン屋はしまっていましたの。",
"戸をたたけばいいじゃないか。",
"たたきました。",
"そして?",
"だれもあけてくれません。"
],
[
"どれくらいかかったらあの娘はその靴下を仕上げますか。",
"まだ三四日はたっぷりかかるでしょうよ、なまけものだから。",
"そしてその一足の靴下ができ上がったらいくらくらいになるんです。"
],
[
"どうも、不景気でございますよ。それにこの辺にはお金持ちがあまりありませんのです。田舎なもんですからねえ。時々は旦那のような金のある慈悲深い方がおいで下さいませんではね。入費も多うございますし、まああの小娘を食わしておくのだってたいていではございません。",
"どの娘ですか。",
"あの、御存じの小娘でございますよ、コゼットという。この辺では皆さんにアルーエット(訳者注 ひばり娘の意)と言われていますが。"
],
[
"ではその厄介者を連れていってあげましょうか。",
"だれを、コゼットでございますか。",
"そうです。"
],
[
"まあ旦那、御親切な旦那! あれを引き受けて、引き取って、連れてって、持ってって下さいまし、砂糖づけにして、松露煮にして、飲むなり食うなりして下さいまし。まあ恵みぶかい聖母様、天の神様、何てありがたいことでございましょう。",
"ではそうしましょう。",
"本当ですか、連れてって下さいますか。",
"連れてゆきます。",
"あのすぐに?",
"すぐにです。呼んで下さい。"
],
[
"君がコゼットを、返してもらいたいのですと?",
"はい旦那、返していただきましょう。こういうわけなんです。私はよく考えてみました。実際私は旦那に娘をお渡しする権利はありませんのです。私は正直な人間ですからな。この娘は私のものではなく、その母親のものです。私にこの娘を預けたのは母親ですから、母親にだけしか渡すことはできません。母親は死んでるではないかと旦那はおっしゃるでしょう。ごもっともです。で私はこの場合、この人に子供を渡してくれといったような、何か母親の署名した書き付けを持って参った人にしか、子供を渡すことはできませんのです。明瞭なことなんです。"
],
[
"そして名前は?",
"よくは存じませんが、デュモンとかドーモンとか、何でもそんな名前でしたよ。",
"そしてどういう人です、そのデュモンさんというのは。"
],
[
"ええ、お父さん。",
"ではちょっと待っておいで。すぐに戻ってくるから。"
],
[
"なにね、この家には女ばかりきりいないんです。大勢の若い娘さんたちですよ。私と顔を合わすのが険呑だと見えましてね、鈴で知らしてやるんですよ。私が行くと、皆逃げていきます。",
"これはどういう家かね。",
"ええ! 御存じでしょうがね。",
"いや、知らないんだ。",
"私をここの庭番に世話して下すってながら!",
"まあ何にも知らないものとして教えてくれ。",
"それじゃあね、プティー・ピクプュスの修道院ですよ。"
],
[
"君もここにいるじゃないか。",
"私だけですよ。"
],
[
"それは今に言う。だが君は室を持ってるかね。",
"向こうに一軒建ての小屋を持っています。こわれた元の修道院の後ろで、だれの目にもかからぬ引っ込んだ所ですよ。室は三つあります。"
],
[
"何ですな、市長さん。",
"第一には、君が私の身上について知ってることをだれにも言わないということ。第二には、これ以上何も聞きただそうとしないこと。",
"よろしいですとも。私はあなたが決して間違ったことはなさらぬのを知っていますし、あなたはいつも正しい信仰の方だったのを知っています。それからまた、私をここに入れて下すったのもあなたです。あなたのお考えのままです。私は何でもします。",
"それでいい。では私といっしょにきてくれ。子供を連れに行くんだから。"
],
[
"あの子は何ですか。",
"蜘蛛でございます。",
"なあに! ではあちらのは?",
"蟋蟀でございます。",
"では向こうのは?",
"青虫でございます。",
"なるほど、そしてお前さんは?",
"私は草鞋虫でございます。"
],
[
"娘たちですよ。あなたはすぐに見つかるでしょうよ。娘たちは大きな声を出します、まあ男の人が! って。ですが今日は大丈夫です。今日は休みがありません。一日中祈祷があるはずです。鐘が聞こえるでしょう。私が申したとおり一分に一つずつです。喪の鐘です。",
"わかった、フォーシュルヴァンさん。寄宿者の生徒たちがいるんだね。"
],
[
"出るのが?",
"そうですよ、マドレーヌさん、ここにはいるにはまず出なければなりません。"
],
[
"コゼット。",
"あなたの娘さんですか。まあ言わば、あなたはその祖父さんとでも?",
"そうだ。",
"娘さんの方は、ここから出るのはわけはありません。中庭に私の通用門があるんです。たたけば門番があけてくれます。負いかごを背負って娘さんを中に入れて、そして出ます。フォーシュルヴァン爺さんが負いかごをかついで出かける、ちっとも不思議なことじゃありません。娘さんには静かにしてるように言っといて下さればよろしいです。上に覆いをしておきます。シュマン・ヴェール街に果物屋をしてる婆さんで私がよく知ってる者がありますから、いつでもそこに預けることにしましょう。聾でして、小さな寝床も一つあります。私の姪だが、明日まで預っていてくれ、と耳にどなってやりましょう。そしてまた娘さんはあなたといっしょにここにはいってくるようにしたらいいでしょう。私はあなたがたがここにはいれるように工夫します。ぜひともそうします。ですが、どうしてまずあなたは出たものでしょう。"
],
[
"フォーヴァン爺さん、お前を呼んだのは私ですよ。",
"それで私は参りました。",
"お前に話があります。"
],
[
"ああ何か私の耳に入れたいことがあるんですか。",
"お願いがございますので。",
"では、話してごらんなさい。"
],
[
"今から晩までのうちに、丈夫な鉄の棒を一本手にいれることができるでしょうか。",
"なにになさるのでございますか。",
"物を持ち上げるためです。"
],
[
"フォーヴァン爺さん。",
"長老様。",
"お前は礼拝堂を知っていますね。",
"礼拝堂に私は、弥撒や祭式を聞きます自分の小さな席を持っております。",
"それから用のために歌唱の間へはいったこともありますね。",
"二、三度ございます。",
"あそこの石を一枚上げるのです。",
"あの重い石でございますか。",
"祭壇のわきにある舗石です。",
"窖をふさいでるあの石でございますか。",
"そう。",
"そういうことをいたすにも、二人いた方が便利でございますよ。",
"男のように強いあのアッサンシオン長老がお前に手伝って下さるでしょう",
"女の方と男とは別でございます。",
"お前の手助けといっては、ここには女一人きりおりません。だれでもできる限りのことをするよりほかはありません。マビーヨン師は聖ベルナールの四百十七篇を書かれ、メルロヌス・ホルスティウスはその三百六十七篇しか書かれなかったからといって、私はメルロヌス・ホルスティウスを軽蔑しはしません。",
"さようでございますとも。",
"自分自分の力に応じて働くことが尊いのです。修道院は工場ではありません。",
"そして女は男ではございません。私の弟は強い男でございます。",
"それから槓桿を一つ用意しておきますように。",
"あのような扉に合う鍵といっては槓桿のほかにはありません。",
"石には鉄の輪がついています。",
"槓桿をそれに通しましょう。",
"そして石は軸の上に回るようにしてあります。",
"それはけっこうでございます。窖を開きましょう。",
"そして四人の歌唱の長老たちが立会って下されます。",
"そして窖をあけましてからは?",
"またしめなければなりません。",
"それだけでございますか。",
"いいえ。",
"何でもお言いつけ下さい、長老様。",
"フォーヴァンや、私たちはお前を信用しています。",
"私は何でもいたします。",
"そして何事も黙っていますね。",
"はい、長老様。",
"窖をあけましたらね……。",
"またしめます。",
"でもその前に……。",
"何でございますか、長老様。",
"その中に何か入れるのです。"
],
[
"フォーヴァン爺さん。",
"長老様?",
"お前は今朝一人の長老が亡くなられたのを知っていましょうね。",
"存じません。",
"では鐘を聞きませんでしたか。",
"庭の奥までは何にも聞こえません。",
"ほんとうに?",
"自分の鐘の音もよく聞こえないくらいでございますから。",
"長老は夜の明け方に亡くなられました。",
"それに今朝は、風の向きが私の方へではございませんでしたから。",
"クリュシフィクシオン長老です。聖いお方でした。"
],
[
"三年前ですが、クリュシフィクシオン長老の祈っていられる所を見たばかりで、一人のジャンセニスト派の人が、ベテューヌ夫人が、正教徒になられたことがあります。",
"ああ長老様、今初めて私は喪の鐘が耳にはいりました。",
"長老たちが、会堂に続いている死人の室へ運ばれたのです。",
"わかりました。",
"お前のほかにはだれも男はその室にはいることはできませんし、はいってはならないのです。よく考えてごらん。ありがたいことです、死人の室へ男がはいるのは。",
"もっとたび〳〵!",
"なに?",
"もっとたび〳〵!",
"何を言うのです。",
"もっとたび〳〵と申すのでございます。",
"何よりももっとたび〳〵というのです?",
"長老様、何かよりももっとたび〳〵と申すのではございません。ただもっとたび〳〵と申すのでございます。",
"お前の言うことはわかりませんね。なぜもっとたび〳〵と言うのですか。",
"長老様のように申そうと思ってでございます。",
"けれど私はもっとたび〳〵などとは言いませんでしたよ。",
"おっしゃりはしませんでした。けれども私は、長老様のおっしゃるとおりに申そうと思って、そう申したのでございます。"
],
[
"アーメン。",
"フォーヴァン爺さん、死んだ方のお望みは果してあげなければいけません。"
],
[
"私はこのことについて、教えの道に身をささげてりっぱな効果を上げられている多くの聖職の方々に相談したのです。",
"長老様、庭の中よりここの方がよく喪の鐘が聞こえます。",
"その上、あの方はただ亡くなった人というよりも、聖者と申し上げたいお方です。",
"あなた様のように、長老様。",
"あの方はこの二十年というもの柩の中におやすみになりました、私どもの聖なる父ピウス七世の特別のお許しで。",
"あの冠を授けられた方でございましょう、皇……ブオナパルトに。"
],
[
"フォーヴァン爺さん。",
"長老様?",
"カパドキアの大司教ディオドロス聖者は、地の虫けらという意味のアカロスという、ただ一字を墓石に彫るようにと望まれました、そしてそのとおりにされました。そうではありませんか。",
"はい、長老様。",
"アクイラの修道院長メツォーカネ上人は、絞首台の下に埋めらるるように望まれました。そして、それもそのとおりにされました。",
"さようでございます。",
"チベル河口にあるポールの司教テレンチウス聖者は、通る人々が墓に唾をかけて行くようにと、親殺しの墓につける標を自分の墓石にも彫るように望まれました。そしてそれもそのとおりにされました。死んだ方のお望みには従わなければなりません。",
"さようになりますように。",
"フランスのローシュ・アベイユの近くでお生まれなされたベルナール・ギドニスは、スペインのチュイの司教であられましたけれど、またカスティーユの王様のおぼしめしもありましたけれど、その身体はお望みどおりにフランスのリモージュのドミニック派の会堂に運ばれました。それは嘘だとは申せないでしょう。",
"申せませんとも、長老様。",
"その事実はプランタヴィ・ド・ラ・フォスによって証明されています。"
],
[
"フォーヴァン爺さん、クリュシフィクシオン長老は、二十年の間寝ていられた柩の中に葬られなければなりません。",
"当然のことでございます。",
"それはただお眠りを続けられることです。",
"それで私はそのお柩に釘を打つのでございましょう?",
"ええ。",
"そして葬儀屋の棺はやめにするのでございましょう?",
"そのとおりです。",
"私は組合の方々の御命令どおりに何でもいたします。",
"四人の歌唱の長老たちがお手伝いして下されます。",
"柩に釘を打つのにでございますか。お手伝いはいりません。",
"いいえ。柩をおろすのに。",
"どこへおろします?",
"窖の中へです。",
"どの窖でございますか。",
"祭壇の下の。"
],
[
"祭壇の下の窖。",
"祭壇の下の。",
"けれども……。",
"鉄の棒があるでしょう。",
"ございます。けれども……。",
"お前は鉄の輪に棒を差し入れてその石を起こすのです。",
"けれども……。",
"死んだ方のお望みには従わなければなりません。礼拝堂の祭壇の下の窖の中へ葬られること、汚れた土地の中へ行かないこと、生きてる間祈りをしていた場所に死んでもとどまりたいこと、それがクリュシフィクシオン長老の最後の御希望でありました。あの方はそれを私どもに願われました、云いかえれば、おいいつけなさいました。",
"けれども、それは禁じられてあります。",
"人間によって禁じられていますが、神によって命ぜられているのです。",
"もし知れましたら?",
"私たちはお前を信じています。",
"おお私は、この壁の石と同様口外はいたしません。",
"集会が催されています。私は声の母たちになお相談したのですが、皆評議の上で、クリュシフィクシオン長老は御希望どおりにその柩に納めて祭壇の下に葬ることに、きまったのです。まあ考えてごらん、もしここで奇蹟が行なわれたらどうでしょう! 組合のものにとっては何という神の栄光でしょう! 奇蹟というものは墓から現われて来るものです。",
"けれども、長老様、もし衛生係りの役人が……。",
"聖ベネディクト二世は、墓の事でコンスタンチヌス・ポゴナチウス皇帝と争われました。",
"それでも警察の人が……。",
"コンスタンス皇帝の時に、ゴールにはいってこられた七人のドイツの王様の一人であったコノデメールは、宗門の規定で葬られること、すなわち祭壇の下に葬られることを、修道士たちの権利として特に認可されました。",
"けれども警視庁の検察官が……。",
"世俗のことは十字架に対しては何でもありません。シャルトルーズ派の十一番目の会長であったマルタンは次の箴言をその派に与えられました。世の変転を通じて十字架は立つなり。"
],
[
"フォーヴァン爺さん、わかりましたか。",
"わかりました、長老様。",
"お前をあてにしてよいでしょうね。",
"御命令どおりにいたします。",
"そうです。",
"私はこの修道院に身をささげています。",
"ではそうきめます。お前は柩の蓋をするのです。修道女たちがそれを礼拝堂に持ってゆきます。死の祭式を唱えます。それからみな修道院の方へ帰ります。夜の十一時から十二時までの間に、お前は鉄の棒を持って来るのですよ。万事ごく秘密に行なうのです。礼拝堂の中には四人の歌唱の長老とアッサンシオン長老とお前とのほかはだれもいませんでしょう。",
"それと柱に就かれてる修道女が。",
"それは決してふり向きません。",
"けれども音は聞くでございましょう。",
"いいえ聞こうとはしますまい。それに、修道院の中で知れることも、世間には知れません。"
],
[
"お前はその鈴をはずすがよい。柱に就いてる修道女にお前のきたことを知らせるには及ばないから。",
"長老様。",
"なに? フォーヴァン爺さん。",
"検死のお医者はもうこられましたか。",
"今日の四時にこられるでしょう。お医者を呼びにゆく鐘はもう鳴らされました。お前はそれを少しもききませんでしたか。",
"自分の鐘の音ばかりにしか注意しておりませんので。",
"それでよいのです、フォーヴァン爺さん。",
"長老様、少なくとも六尺くらいの槓桿がいりますでしょう。",
"どこから持ってきます?",
"鉄格子のある所には必ず鉄の棒がございます。庭のすみにも鉄の切れが山ほどございます。",
"十二時より四五十分前がよい。忘れてはなりませんよ。",
"長老様?",
"何です?",
"まだほかにこんな御用がございましたら、ちょうど私の弟が強い力を持っておりますので。トルコ人のように強うございます。",
"できるだけ早くやらなければいけませんよ。",
"そう早くはできませんのです。私は身体がよくききません。それで一人の手助けがいるのでございます。第一跛者でございます。",
"跛者なのは罪ではありません。天のお恵みかも知れません。にせの法王グレゴリウスと戦ってベネディクト八世を立てられた皇帝ハインリッヒ二世も、聖者と跛者という二つの綽名を持っていられます。"
],
[
"フォーヴァン爺さん、一時間くらいはかかるつもりでいます。それくらいはみておかなければなりますまい。十一時には鉄の棒を持って、主祭壇の所へきますようにね。十二時には祭式が初まります。それより十五分くらい前にはすっかり済ましておかなければなりません。",
"何事でも組合の方々のためには一生懸命にいたします。確かにいたします。私は柩に釘を打ちます。十一時きっかりに礼拝堂へ参ります。歌唱の長老たちとアブサンシオン長老とがきていられるのでございますな。なるべくなら男二人の方がよろしゅうございますが、なにかまいません。槓桿を持って参ります。窖を開きまして、柩をおろしまして、そしてまた窖を閉じます。そういたせば何の跡も残りますまい。政府も気づきはしますまい。長老様、それですっかりよろしいんでございますな。",
"いいえ。",
"まだ何かございますか。",
"空の棺が残っています。"
],
[
"フォーヴァン爺さん、棺をどうしたらいいでしょうかね。",
"それは地の中へ埋めましょう。",
"空のままで?"
],
[
"長老様、私が会堂の低い室で棺に釘を打つのでございます。そして私のほかにはだれもそこへははいれません。そして私が棺に喪布を掛けるのでございましょう。",
"そうです。けれども人夫たちは、それを車にのせ、そしてまた墓穴の中にそれをおろすので、中に何もはいっていないことに気づくでしょう。"
],
[
"長老様、私は棺の中に土を入れて置きましょう。そういたせば人がはいっているようになりますでしょう。",
"なるほどね。土は人間と同じものです。ではそうしてお前はからの棺を処分してくれますね。",
"お引き受けいたします。"
],
[
"お前さんが連れ出してくれるんだね。",
"黙っていてくれましょうね。",
"それは受け合うよ。",
"ですがあなたの方は? マドレーヌさん。"
],
[
"役所の棺ですよ。",
"どういう棺で、またどういう役所かね。",
"修道女が死にますと、役所の医者がきて、修道女が死んだと言うんです。すると政府から棺を送ってきます。そして翌日、その棺を墓地に運ぶために、車と人夫とをよこします。ところが人夫がやってきて棺を持ち上げてみると、中には何もはいっていないということになるんです。",
"何か入れたらいいだろう。",
"死人をですか。そんなものはありません。",
"いいや。",
"では何を入れます。",
"生きた人をさ。",
"どんな人をですか。"
],
[
"あなたを!",
"なぜいけないんだ。"
],
[
"ねえ、クリュシフィクシオン長老が死なれたとお前さんが言った時、私はつけ加えて言ったではないか、そしてマドレーヌさんも葬られたと。それはこのことなんだよ。",
"あああなたは笑っていらっしゃる。本気でおっしゃってはいなさらないんですね。",
"本気だとも、ここから出なければならないんだろう。",
"そうですよ。",
"私にもまた負い籠と覆いとを見つけてくれと、言ったじゃないか。",
"それで?",
"その籠は樅の板でできていて、覆いは黒いラシャなんだ。",
"いや第一それは白いラシャですよ。修道女たちは白くして葬られるんです。",
"では白いラシャにするさ。",
"あなたは、マドレーヌさん、ほんとに変わった人です。"
],
[
"人に見つからずにここから出ることが要件なんだ。その一つの方法さ。しかしまず私に様子を知らしてくれ。いったいどういうぐあいにされるのかね。その棺はどこにあるのかね。",
"空の方ですか。",
"そうだ。",
"死人の室と呼ばれてます下の室です。二つの台の上にのっていまして、とむらいのラシャがかぶせてあります。",
"棺の長さはどれくらいある?",
"六尺ばかりです。",
"その死人の室というのはどういう所だ?",
"一階にある室で、庭の方に格子窓がありますが、それは外から板戸でしめてあります。戸口が二つありまして、一つは修道院に、一つは会堂に続いています。",
"会堂というのは?",
"表に続いてる会堂で、だれでもはいれる会堂です。",
"君はその死人の室の二つの戸口の鍵を持ってるかね。",
"いいえ。私はただ修道院へ続いてる戸口の鍵きり持っていません。会堂へ続いてる方の鍵は門番が持っています。",
"門番はいつその戸口を開くのかね。",
"棺を取りにきた人夫どもを通させる時だけしか開きません。棺が出てゆくと、戸はまたしまるんです。",
"棺に釘を打つのはだれだね。",
"私です。",
"棺にラシャをかけるのは?",
"私です。",
"君一人だけで?",
"警察の医者のほかは、だれも死人の室にはいることはできません。壁にもちゃんと書いてあります。",
"今晩、修道院の人たちが寝静まったころ、私をその室に隠してもらえまいかね。",
"それはできません。けれどその死人の室に続いてる小さな暗い物置きにならあなたを隠しておけます。そこは私の埋葬の道具を入れて置く所で、私がその番人で鍵を持っています。",
"明日何時ごろ棺車は棺を迎えに来るのかね。",
"午後の三時ごろです。埋葬はヴォージラールの墓地で行なわれますが、日が暮れる少し前です。すぐ近くじゃありません。",
"では私は君の道具部屋に、夜と朝の間隠れていよう。それから食物は? 腹がすくだろう。",
"私が何か持っていってあげましょう。",
"君は二時には、私を棺の中に釘づけにしにやって来るんだね。"
],
[
"それはどうも、できませんな。",
"なに、金槌を取って板に四五本釘を打つだけだ。"
],
[
"それでも、どうして息ができましょう。",
"息はできるだろう。",
"あの箱の中で! 私なんか思っただけで息がつまるようです。",
"きりがあるだろう。口のあたりに方々小さな穴をあけておいてくれ、そしてまた上の板も、あまりきっかりしまらないように釘を打ってもらおう。",
"よろしゅうござんす。そしてもし咳が出たり、嚔が出たりしましたら。",
"一心に逃げようとする者は、咳や嚔はしないものだ。"
],
[
"墓掘り人だと!",
"そうだ。",
"お前さんが!",
"俺がよ。",
"墓掘り人はメティエンヌ爺さんだ。",
"そうだった。",
"なに、そうだったって?",
"爺さんは死んだよ。"
],
[
"そんなことがあるだろうか。",
"そうなんだよ。"
],
[
"もう近づきになってるよ。君は田舎者で、俺はパリーっ児だ。",
"だがいっしょに酌みかわさないうちはへだてが取れないからな。杯をあける者は心を打ち明けるというものだ。いっしょに飲みにこないかね。断わるもんじゃないよ。",
"仕事が先だ。"
],
[
"金は私が払う。",
"何さ?",
"酒だよ。",
"何の酒だ?",
"アルジャントゥイュだ。",
"アルジャントゥイュってどこにあるんだ。",
"ボン・コアンの家にある。"
],
[
"何の札だ?",
"日が入りかかってるよ。",
"いいさ、おはいんなさいとして置くさ。",
"墓地の門がしまるよ。",
"だから?",
"札は持ってるかと言うんだ。"
],
[
"これから五分間では、この墓穴をいっぱいにするだけの時間はない、ずいぶん深い穴だからな。そして門がしまらないうちに出るだけの時間はない。",
"そのとおりだ。",
"そうすれば十五フランの罰金だ。",
"十五フラン。",
"だがまだ時間はある……。いったいお前さんはどこに住んでるんだ。",
"市門のすぐそばだ。ここから十五分ぐらいかかる。ヴォージラール街八十九番地だ。",
"急げばすぐに門を出るだけの時間はある。",
"そうだ。",
"門を出たら、家に駆けて行って、札を持って帰って来るさ。墓地の門番があけてくれる。札さえあれば、一文も払わなくてすむ。そして死骸を埋めればいいわけだ。死骸が逃げ出さないように、その間私が番をしていてあげよう。",
"それで俺は助かる。"
],
[
"ああ君か。",
"そして明日の朝、墓地の門番の所へ行ってみなさい、お前さんの札があるから。"
],
[
"アミアンの近くのピキニーでございます。",
"年は?"
],
[
"五十歳でございます。",
"職業は?"
],
[
"園丁でございます。",
"りっぱなキリスト信者ですか。"
],
[
"家族の者残らずがそうでございます。",
"この娘はお前のですか。"
],
[
"はい長老様。",
"お前がその父親ですか。"
]
] | 底本:「レ・ミゼラブル(一)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年4月16日改版第1刷発行
「レ・ミゼラブル(二)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年4月16日改版第1刷発行
※誤植の確認に「レ・ミゼラブル(二)」岩波文庫、岩波書店1960(昭和35)年12月20日第15刷、「レ・ミゼラブル(三)」岩波文庫、岩波書店1959(昭和34)年12月10日第14刷を用いました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月15日作成
2013年4月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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"ちょっと通りかかりましたので。",
"まあ初めに……。"
],
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"少なくも一週間くらいは泊まってゆくんでしょうね。",
"いえ、今晩帰ります。",
"そんなことがお前!",
"でもそうなんです。",
"でもテオデュールや、泊まっていっておくれ、お願いだから。",
"私の心ははいと言いますが、命令がいえと言います。ごく簡単な事情です。私どもの兵営が変わって、今までムロンだったのが、ガイヨンになったんです。で元の営所からこんどの営所へ行くには、パリーを通らなければなりません。それで私は、ちょっと伯母さんに会って来ると言ってやってきました。",
"そしてこれはその骨折りのためにね。"
],
[
"でお前は連隊について馬で行くんですか。",
"いいえ伯母さん。あなたにお目にかかりたかったんです。それで特別の許可を受けてきました。従卒が馬をひいていってくれますから、私は駅馬車で行きます。それについて、少しお尋ねしたいことがありますが。",
"何ですか。",
"従弟のマリユス・ポンメルシーも旅行するんですか。"
],
[
"こちらへ着いてから、前部の席を約束しておこうと思って馬車屋へ行きました。",
"すると?",
"するとひとりの客が上部の席を約束していました。私はその名札を見ました。",
"何という名でした。",
"マリユス・ポンメルシーというんです。"
],
[
"私と同じようにですね。",
"いえお前の方は義務ですからね。あれのは無茶なんです。"
],
[
"お前の従弟はお前を知ってるでしょうか。",
"いいえ。私の方は従弟を見たことがあります、けれど向こうでは一度も私に目を向けたことはありません。",
"でお前さんたちはちょうどいっしょに旅するわけですね。",
"ええ、彼は上部の席で、私は前部の席で。",
"その駅馬車はどこへ行くんです。",
"アンドリーへです。",
"ではマリユスはそこへ行くんでしょうね。",
"ええ、私のように途中で降りさえしなければ。私はガイヨンの方へ乗り換えるためにヴェルノンで降ります。私はマリユスがどの方へ行くつもりかは少しも知りません。",
"マリユスって、まあ何て賤しい名でしょうね。どうしてマリユスなんていう名をつけたんでしょう。だけどお前の方はまあ、テオデュールというんですからね。"
],
[
"まあ聞いておくれよ、テオデュール。",
"聞いていますよ、伯母さん。",
"気をつけてですよ。",
"気をつけていますよ。",
"いいですかね。",
"はい。",
"ところで、マリユスはよく家をあけるんですよ。",
"へえー。",
"旅をするんですよ。",
"ははあ。",
"泊まってくるんですよ。",
"ほほう。",
"どうしたわけか知りたいんですがね。"
],
[
"君はマリユス・ポンメルシー君だろう。",
"もちろん。"
],
[
"君は一昨日学校へこなかったね。",
"そうかも知れない。",
"いや確かにそうだ。"
],
[
"何とも申し訳がない。",
"汝の隣人をして再び名を消さるるに至らしむることなかれ。",
"僕は何とも……。"
],
[
"君は何派だと言うんだ。",
"民主的ボナパルト派だ。"
],
[
"名前を第一に見つけようじゃないか。名前が出てくれば事がらも見つかるんだ。",
"よろしい。言いたまえ。僕が書くから。",
"ドリモン君としようか。",
"年金所有者か。",
"もちろん。",
"その娘は、セレスティーヌ。",
"……ティーヌと。それから。",
"サンヴァル大佐。",
"サンヴァルは陳腐だ。僕はヴァルサンと言いたいね。"
],
[
"義理を知らない奴だな。笑う女は非常にいいじゃないか。そして君たちは決してけんかをしたこともなしさ。",
"それは約束によるんだ。僕らはちょっと神聖同盟を結んで互いに国境を定め、それを越えないことにしている。寒風に吹きさらされてる方はヴォーに属し、軟風の方はジェックスに属するというわけだ。そこから平和が生まれるんだ。",
"平和、それは有り難い仕合わせだね。",
"だがね、ジョリリリリー、君はどうしてまた御令嬢とけんかばかりしてるんだ。……御令嬢と言えばわかるだろう。",
"あいつはいつもきまってふくれっ面ばかりしてるんだ。",
"だが君は、かわいいほどやせほおけた色男だね。",
"ああ!",
"僕だったらあの女をうまく扱ってやるがね。",
"言うはやすしさ。",
"行なうもまた同じだ。ムュジシェッタというんだったね。",
"そうだ。だが君、りっぱな女だぜ。非常に文学が好きで、足が小さく手が小さく、着物の着つけもいいし、まっ白で、肉がよくついていて、カルタ占女のような目をしている。僕はすっかり打ち込んじゃった。",
"それじゃあ、ごきげんを取り、上品に振る舞い、膝の骨を働かせなくちゃいかんよ。ストーブの家から毛糸皮のいいズボンを買ってきたまえ。それでうまくいくよ。"
],
[
"クールフェーラックさんが、あなたのことを引き受けて下さるんですね。",
"そうです。",
"ですが私は金がいるんですが。"
],
[
"何をするつもりだい。",
"わからない。",
"金は持ってるのか。",
"十五フランだけだ。",
"では僕に貸せというのか。",
"いや決して。",
"着物はあるのか。",
"あれだけある。",
"何か金目のものでも持ってるのか。",
"時計が一つある。",
"銀か。",
"金だ。このとおり。",
"僕はある古着屋を知っている。君のフロックとズボンを買ってくれるだろう。",
"そいつは好都合だ。",
"ズボンとチョッキと帽子と上衣とを一つずつ残しておけばたくさんだろう。",
"それから靴と。",
"何だって! 跣足で歩くつもりじゃないのか。ぜいたくな奴だね。",
"それだけで足りるだろう。",
"知ってる時計屋もある。君の時計を買ってくれるだろう。",
"それもいいさ。",
"いやあまりよくもない。ところでこれから先君はどうするつもりだ。",
"何でもやる。少なくも悪いことでさえなければ。",
"英語を知ってるか。",
"いや。",
"ドイツ語は?",
"知らない。",
"困ったね。",
"なぜだ?",
"僕の友人に本屋があるんだが、百科辞典のようなものを作るので、ドイツ語か英語かの項でも翻訳すればいいと思ったのさ。あまり報酬はよくないが、食ってはいける。",
"では英語とドイツ語を学ぼう。",
"その間は?",
"その間は着物や時計を食ってゆくさ。"
],
[
"室代を払わないからですよ。二期分もたまっています。",
"いかほどになるんです。"
],
[
"お父さん、今朝テオデュールがごあいさつに参ることになっています。",
"だれだ、テオデュールとは?",
"あなたの甥の子ですよ。"
],
[
"いったいいつですか。",
"昨日です。",
"今どこに住んでいられますか。",
"一向知りません。",
"ではこんどの住所を知らして行かれなかったんですか。",
"そうです。"
],
[
"旦那がよ。",
"あの慈善家か。",
"そうよ。",
"サン・ジャック会堂の?",
"そうよ。",
"あの爺さんか?",
"そうよ。",
"それが来るのか。",
"今あたしのあとから来るのよ。",
"確か。",
"確かよ。",
"では本当にあれが来るのか。",
"辻馬車で来るわ。",
"辻馬車で。ロスチャイルドみたいだな。"
],
[
"それでもどうしてきっと来ることがわかるんだ。",
"馬車がプティー・バンキエ街へ来るのを見たのよ。だから駆けてきたんだわ。",
"どうしてその馬車だってことがわかる?",
"ちゃんと馬車の番号を見といたんだよ。",
"何番だ。",
"四百四十番よ。",
"よしお前は悧巧な娘だ。"
],
[
"今日は寒いか。",
"大変寒いわ。雪が降ってるよ。"
],
[
"ファバントゥー君と、なるほどそうでしたな、ええ覚えています。",
"俳優をしていまして、元はよく当てたこともございますので。"
],
[
"さようでございます、尊い旦那様。八時には家主の所へ持って参らなければなりません。",
"では六時にやってきます、そして六十フラン持ってきましょう。"
],
[
"ええ、あなたがよ。",
"私はどうもしません。",
"いいえ。",
"本当です。",
"いいえきっとそうだわ。",
"かまわないで下さい。"
],
[
"ええ。",
"お前はあの人たちの住所を知ってるのかい。",
"いいえ。",
"それを僕のためにさがし出してくれよ。"
],
[
"ああ。",
"あの人たちを知ってるの。",
"いいや。"
],
[
"それであたしに何をくれるの。",
"何でも望みどおりのものを。",
"あたしの望みどおりのものを?",
"ああ。",
"ではきっとさがし出してくるわ。"
],
[
"でも本当かね、確かかね。",
"確かだ。もう八年になるんだが、俺は見て取ったんだ。奴だと見て取った。一目でわかった。だが、お前にはわからなかったのか。",
"ええ。",
"でも俺が言ったじゃねえか、注意しろって。全く同じかっこうで、同じ顔つきで、年も大して取ってはいねえ。世間にはどうしたわけのものか少しも老けねえ奴がいる。それから声までそっくりだ。ただいい服装をしてるだけのことだ。全く不思議な畜生だが、とうとうとらえてやったというもんだ。"
],
[
"そうだ。",
"幾桝ばかり?",
"二桝もありゃあいい。",
"それだけなら三十スーばかりですむ。残りでごちそうでも買おうよ。",
"そんなことをしちゃいけねえ。",
"なぜさ?",
"大事な五フランをむだにしちゃいけねえ。",
"なぜだよ?",
"俺の方でまだ買うものがあるんだ。",
"何を?",
"ちょっとしたものだ。",
"どれくらいかかるんだよ。",
"どこか近くに金物屋があったね。",
"ムーフタール街にあるよ。",
"そうだ、町角の所に、わかってる。",
"でもその買い物にいくらかかるんだよ。",
"五十スーか……まあ三フランだ。",
"ではごちそうの代はあまり残らないね。",
"今日は食物どころじゃねえ。もっと大事なことがあるんだ。",
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"部長さんは?",
"不在だ。私がその代理をしている。",
"ごく秘密な事件ですが。",
"話してみたまえ。",
"そしてごく急な事件です。",
"では早く話すがいい。"
],
[
"君が見たのは、その髯の男と髪の長い男きりかね。",
"それとパンショーです。",
"その辺をぶらついてるお洒落の小男を見なかったかね。",
"見ません。",
"では植物園にいる象のような大男は?",
"見ません。",
"では昔の手品師のような様子をした悪者は?",
"見ません。",
"四番目に……いやこいつはだれの目にもはいらない、仲間も手下も使われてる奴も、彼を見たことがないんだから、君が見つけなかったからって怪しむに足りん。"
],
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"今そこに持ってるかね。",
"ええ。"
],
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"なぜだ。",
"気を取られてるんだ。",
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"隣にもだれもいねえんだな。",
"一日留守だったよ、それに今は食事の時分じゃないか。",
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"確かだよ。"
],
[
"ねえ、椅子が二ついるだろうね。",
"どうするのに?",
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],
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"だがモンパルナスはどこにおる。",
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],
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"こうなったらほかに仕方はねえ。",
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"そうだ。"
],
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"フォルス監獄だよ。",
"おやあ! じゃあ母親は?",
"サン・ラザール懲治監だよ。",
"なるほど! それから姉たちは?",
"マドロンネット拘禁所だよ。"
]
] | 底本:「レ・ミゼラブル(二)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年4月16日改版第1刷発行
「レ・ミゼラブル(三)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年5月18日改版第1刷発行
※「ジョンドレットの女房が」の段落は、底本では天付きになっています。
※誤植の確認に「レ・ミゼラブル(四)」岩波文庫、岩波書店1959(昭和34)年6月10日第12刷を用いました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月16日作成
2013年4月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042602",
"作品名": "レ・ミゼラブル",
"作品名読み": "レ・ミゼラブル",
"ソート用読み": "れみせらふる",
"副題": "06 第三部 マリユス",
"副題読み": "06 だいさんぶ マリユス",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-03-02T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "001094",
"姓": "ユゴー",
"名": "ヴィクトル",
"姓読み": "ユゴー",
"名読み": "ヴィクトル",
"姓読みソート用": "ゆこお",
"名読みソート用": "ういくとる",
"姓ローマ字": "Hugo",
"名ローマ字": "Victor",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1802-02-26 00:00:00",
"没年月日": "1885-05-22 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "レ・ミゼラブル(三)",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1987(昭和62)年5月18日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年5月18日",
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"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "レ・ミゼラブル(二)",
"底本出版社名2": "岩波書店",
"底本初版発行年2": "1987(昭和62)年4月16日",
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"入力者": "tatsuki",
"校正者": "小林繁雄、門田裕志",
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} |
[
[
"なぜだい。",
"もうすぐに鉄砲を打たなきゃならねえからさ。"
],
[
"俺たちを治めてるなあだれだと思う?",
"フィリップさんさ。",
"いや、中流民たちだ。"
],
[
"お前の首領はだれだったか。",
"首領の名前はいっこう知りませんでした、顔も覚えてやしませんでした。"
],
[
"いや。",
"ではまだ残ってることがあるのか。",
"ごく大事なことが一つ。"
],
[
"君が?",
"僕がだ。",
"君が共和派の者らを教育するって! 君が主義の名において冷えた魂をまた熱せさせるつもりか!",
"どうしていけないんだ。",
"君がいったい何かの役に立つことができるのか。"
],
[
"君は何の信念も持たないじゃないか。",
"君を信仰してるよ。",
"グランテール、君は僕の用をしてくれるか。",
"何でもやる。靴をみがいてもいい。",
"よろしい、それじゃ僕らの仕事に口を出さないでくれ。少し眠ってアブサントの酔いでもさますがいい。",
"君は失敬だ、アンジョーラ。",
"君がメーヌ市門へ行けるかね。君にそれができるかね。",
"できるとも、グレー街をたどって行って、サン・ミシェル広場を通り、ムシュー・ル・プランス街へ斜めにはいり、ヴォージラール街を進み、カルムを通りすぎ、アサス街に曲がり込み、シェルシュ・ミディ街まで行き、参謀本部をあとにし、ヴィエイユ・チュイルリー街をたどり、大通りを横切り、メーヌの大道についてゆき、市門を越え、そしてリシュフーの家へはいるんだ。僕にもそれぐらいのことはできる。僕の靴はそれをりっぱにやってのけるよ。",
"君はリシュフーの家に来る連中を少しは知ってるか。",
"大してよくは知らない。ただ君僕と言いかわしてるだけだ。",
"どんなことをいったい彼らに言うつもりだ。",
"なあに、ロベスピエールのことを言ってやる。ダントンのことを。それから主義のことを。",
"君が!",
"そうだ。だがどうしてそう僕を不当に取り扱うんだ。僕だってその場合になったらすてきなもんだぜ。僕はプリュドンムも読んだ、民約論(ルーソーの)も知ってる、共和二年の憲法も諳んじてる。『人民の自由は他の人民の自由が始まる所に終わる』だ。君は僕を愚図だとするのか。僕は革命時代の古い紙幣も一枚引き出しにしまってる。人間の権利、民衆の大権、そうだ。僕は多少エベール派でさえある。僕はすばらしいことをたっぷり六時間も立て続けにしゃべることができるんだ。"
],
[
"ダブル六。",
"四だ。",
"畜生、もうないや。",
"君は討ち死にだ。二だ。",
"六だ。",
"三だ。",
"一だ。",
"打ち出しは僕だよ。",
"四点。",
"弱ったね。",
"君だよ。",
"大変な失策をしちゃった。",
"なに取り返すさ。",
"十五。",
"それから七。",
"それでは二十二になるわけだね。(考え込んで、)二十二と!",
"君はダブル六に気をつけていなかったんだ。もし僕がそれを初めに打ってたら、あべこべになるところだった。",
"も一度二だ。",
"一だ。",
"一だと! ようし、五だ。",
"僕にはない。",
"打ち出したのは君じゃなかったか。",
"そうだ。",
"空だ。",
"何かあるかな。あああるんだな! (長い沈思。)二だ。",
"一だ。",
"五も一もない。困った奴だな。",
"ドミノ。",
"この野郎!"
],
[
"何が?",
"マリユスさんの住居を教えて下さい。"
],
[
"なに同じことだ……。あなたは悲しそうな様子をしてるわね。あたしあなたのうれしそうな様子が見たいのよ。笑うっていうことだけでいいから約束して下さいね。あなたの笑うところが見たいのよ、そして、ああありがたいっていうのを聞きたいのよ。ねえ、マリユスさん、あなたあたしに約束したでしょう、何でも望み通りなものをやるって……。",
"ああ。だから言ってごらん。"
],
[
"何の居所が?",
"あなたがあたしに頼んだ居所よ。"
],
[
"エポニーヌって! どうしてあなたはあたしがエポニーヌという名だことを知ってるの。",
"今言ったことを僕に約束してくれ。"
],
[
"すぐに?",
"すぐにだよ。"
],
[
"お父様、私あなたのお部屋では大変寒うございますわ。なぜここに絨毯を敷いたりストーブを据えたりなさらないの。",
"でもお前、私よりずっとすぐれた人で身を置く屋根も持たない者がたくさんあるんだからね。",
"ではどうして私の所には、火があったり何でも入用なものがあったりしますの。",
"それはお前が女で子供だからだよ。",
"まあ、それでは男の人は寒くして不自由していなければなりませんの。",
"ある人はだよ。",
"よござんすわ、私しょっちゅうここにきていて火をたかなければならないようにしてあげますから。"
],
[
"お父様、どうしてあなたはそんないやなパンをお食べなさるの。",
"ただ食べていたいからだよ。",
"ではあなたがお食べなさるなら、私もそれを食べますわ。"
],
[
"囚人だ。",
"どこへ行くんでしょう?",
"徒刑場へ。"
],
[
"家主が怒っておりますよ。",
"どうして?",
"三期分たまっていますから。",
"もう三月たつと四期分になるさ。",
"追い出してしまうと言っておりますよ。",
"出てゆくさ。",
"八百屋のお上さんも払ってくれと言っております。もう薪もよこしてくれません。今年の冬は何で火をたきましょう。薪が少しも手にはいりませんよ。",
"太陽があるよ。",
"肉屋も掛け売りをことわって、もう肉をよこそうとしません。",
"それはちょうどいい。わしにはどうも肉はよくこなれない、もたれてね。",
"でも食事にはどうなさいますか。",
"パンだよ。",
"パン屋も勘定をせがんでおります。金がなければパンもないと言います。",
"いいさ。",
"では何を食べますか。",
"この木になる林檎がある。",
"でも旦那様、このようにお金なしでは暮らしていけません。",
"といって一文なしだからね。"
],
[
"お前は幾歳だ。",
"十九。",
"お前は強くて丈夫だ。なぜ働かないのか。",
"いやだからさ。",
"職業は何だ。",
"何にもしないことだ。",
"まじめに口をききなさい。いったい何をしてもらいたいのか。何になりたいのか。",
"泥坊にだ。"
],
[
"お父様はお帰りになって?",
"まだでございますよ、お嬢様。"
],
[
"女じゃねえ、男だ。",
"うむ、バベか。",
"そうだ、あのバベだ。",
"あいつは上げられてると思ったが。"
],
[
"時にね。",
"何だ?",
"この間妙なことがあったよ。まあ俺がある市民に会ったと思うがいい。するとその男が俺にお説教と財布とをくれた。俺はそれをポケットに入れた。ところがすぐあとでポケットを探ると、もう何にもねえんだ。"
],
[
"この子供どもを寝かしに行くんだ。",
"どこだ、寝かすのは。",
"俺の家だ。",
"お前の家って、どこだ。",
"俺の家だ。",
"では家があるのか。",
"うむ、ある。",
"そしてそりゃあどこだ。"
],
[
"どうしてはいるんだ。",
"そりゃあはいれるさ。"
],
[
"うむ。だが人に言っちゃあいけねえよ。前足の間にあるんだ。いぬどもも気がついていないんだ。",
"でお前はそこから上ってゆくのか。なるほどな。",
"かさこそっとやればもう大丈夫、だれの目にもつかねえ。"
],
[
"こわくはない。",
"そうだ。",
"そのとおりやるんだ。",
"そこに足をかけて。",
"こっちにつかまって。",
"しっかり。"
],
[
"そして、夜にふたりっきりでいるのがこわかったんだもの。",
"夜じゃねえ、黒んぼというんだ。"
],
[
"鼠ってどんなの?",
"ちゅうちゅってやつさ。"
],
[
"おじさん。",
"何だ?",
"食われたのはなに?",
"猫よ。",
"猫を食ったのはなに?",
"鼠だ。",
"ちゅうちゅが?",
"うむ、鼠だ。"
],
[
"うむ。",
"いっしょにつぎ合わして、奴に投げてやろう。壁にかけたら、おりられるくらいにはなるだろう。"
],
[
"俺は凍えてる。",
"あたためてやるよ。",
"もう動けねえ。",
"すべりおりろ、受け留めてやるから。",
"手がしびれてる。",
"綱を壁に結びつけるだけだ。",
"できねえ。"
],
[
"どの小僧?",
"壁に上ってお前に綱を渡したあの小僧だ。",
"よかあ見ねえ。",
"俺にもよくわからねえが、何だかお前の息子らしかったぜ。"
],
[
"あなた知っていて? 私はウューフラジーというのよ。",
"ウューフラジー? いやコゼットだよ。",
"でもコゼットというのは、私が小さい時に何でもなくつけられたいやな名前なの。本当の名はウューフラジーというのよ。ウューフラジーという名はおいやなの?",
"好き。……でもコゼットというのも悪かない。",
"ウューフラジーよりそれの方がいいの?",
"でも……ええ。",
"では私もその方がいいわ。そうね、コゼットってかわいい名ね。コゼットと言ってちょうだい。"
],
[
"ああ、あなたですか、エポニーヌ。",
"なぜあなたなんていうの。あたし何か悪いことでもして?"
],
[
"なんだ、この女は?",
"お前の娘だよ。"
],
[
"だが俺たちも生きてゆかなけりゃならねえからな、食ってゆかなけりゃ……。",
"死んでおしまいよ。"
],
[
"今晩どこで寝よう。",
"パリーの下にしよう。",
"テナルディエ、お前、門の鍵は持ってるか。",
"うむ。"
],
[
"そしていつ発つの。",
"いつともおっしゃいませんでした。",
"そしていつ帰って来るの。",
"いつともおっしゃいませんでした。"
],
[
"どこへ?",
"イギリスへ。あなたは行くんですか。",
"なぜそんなよそよそしい言い方をなさるの?",
"あなたが行くかどうか聞いてるんです。"
],
[
"ではあなたは行くんですか。",
"もしお父さんが行かれるなら。",
"あなたは行くんですね。"
],
[
"私たちはほんとにばかだこと。ねえ、私にいい考えがあってよ。",
"どんな?",
"私どもが出立したら、あなたも出立なさいな。行く先をあなたに教えてあげるわ。そして私が行く所にあなたもいらっしゃいね。"
],
[
"なぜ?",
"明後日でなければこないつもりでね。",
"まあ、なぜ?",
"あとでわかるよ。",
"一日あなたに会わずに! いえそんなことできないわ。",
"あるいは一生のためになることだから、一日くらい耐えていよう。"
],
[
"私が? 何も言いはしない。",
"では何を望んでるの。",
"明後日のことにしよう。",
"どうしても?",
"ええ、コゼット。"
],
[
"あなたの考えを言ってちょうだいよ。マリユス、あなたは何か考えてるんだわ。それを私に言ってちょうだい。ねえ、それを聞かして私にうれしい一夜を過ごさして下さらない?",
"私が考えてるのはこうだよ、神様も私たちを引き離そうとはされないに違いないと。明後日私を待ってるんだよ。"
],
[
"一つやってみることがあるんだよ。",
"では私は、あなたが成功するように、それまで、神様にお祈りをし、あなたのことを思っていましょう。もう尋ねないわ、あなたが言いたくないのなら。あなたは私の主人ですもの。私あなたの好きな、それいつかの晩あなたが雨戸の外に聞きにいらした、あのウーリヤントの曲を歌って、明日の晩は過ごすことにするわ。でも明後日は早くからきてちょうだい。日が暮れると待ってるわ。ちょうど九時にね、よくって、ああ、ほんとにいやね、日が長いのは。ねえ、九時が打つと私は庭に出てるわ。",
"その時には私も来る。"
],
[
"では、思うに、女が金持ちだな。",
"私と同じようなものです。",
"なに! 持参金もないのか。",
"ありません。",
"遺産の当てでもあるのか。",
"ありそうもありません。",
"身体だけ! そして父親は何だ。",
"存じません。",
"そして娘の名は何というんだ。",
"フォーシュルヴァン嬢といいます。",
"フォーシュ……何だ。",
"フォーシュルヴァンです。"
],
[
"はっ、はっ、はっ、お前はこんなことを考えたんだろう。なあに、あの旧弊な老耄を、あの訳のわからぬばか爺を、一つ見に行ってやれ。二十五歳になっていないのが残念だ。二十五歳にさえなっていりゃあ、結婚承諾要求書をさしつけてやるんだがな。あんな奴あってもなくてもいいんだがな。でもまあいいや、こう言ってやれ。お爺さん、私に会ってうれしいだろう、私は結婚したいんだよ、何とかいう嬢さんと結婚したいんだ、どこかの男の娘さんだ、私には靴もないし、女にはシャツもない、ちょうど似合ってる、私は仕事も未来も若さも生命も、水にでもぶっ込んでしまいたい、私は女の首っ玉にかじりついて、貧乏の中に飛び込んでしまいたい、それが私の理想だ、お前は是非とも同意しなけりゃいけない。そう言ったらあのひからびた老耄も同意するだろう。そしてこう言うだろう。なるほど、好きなようにするがいい、その石ころを背負い込むがいい、お前のプースルヴァンとかクープルヴァンとかと結婚するがいいとね。――ところがいけない。断じていかん!",
"お父さん!",
"いかん!"
],
[
"マリユスさん、あなたそこにいるの?",
"ええ。"
],
[
"暴動ですよ。",
"なに、暴動?",
"ええ。戦をしています。",
"何でまた戦をするんだ。"
],
[
"どっちの方だ。",
"造兵廠の方です。"
],
[
"それじゃ、お前さんとこの猫はいつも気むずかしいんだね。",
"そうさ、猫はどうせ犬の敵だものね。苦情を言うのは犬の方だよ。",
"それから私たちもさ。",
"だがね、猫の蚤は人間にはたからないっていうじゃないか。",
"犬っていえば、厄介などころか、ほんとにあぶないよ。何でもあまり犬が多くなって新聞に書き立てられた年があったよ。テュイルリーの御殿に大きな羊がいてローマ王(ナポレオン二世)の小さな馬車を引いてた時のことだよ。お前さんはローマ王を覚えてるかい。",
"私はボルドー公が好きだったよ。",
"私はルイ十七世を知っていた。ルイ十七世の方がいいよ。",
"肉がほんとに高いじゃないか、パタゴンさん。",
"ああ、もうそんなことは言いっこなし、私は肉屋が大きらい。身震いが出るよ。この節じゃ骨付きしかくれやしない。"
],
[
"皆さん、商売の方も不景気ですよ。芥溜だってお話になりません。物を捨てる人なんかもうひとりもいません。何でも食べてしまうんですね。",
"でもヴァルグーレームさん、お前さんよりもっと貧乏な人だってあるよ。"
],
[
"また浮浪漢がきた!",
"何の切れ端を持ってるんだい? おやピストル!",
"何だって、乞食の餓鬼が!",
"いつでも政府を倒そうとばかりしてやがる。"
],
[
"下手だったね。落ち方を知らなかった。だから決して落ちたことがなかったよ。",
"りっぱな馬を持っていましたか。定めしりっぱなのがあったでしょうね。",
"わしは勲章をもらった時に、そいつを見たがね、足の早い白い牝馬だったよ。耳が開いており、鞍壺が深く、きれいな頭には黒い星が一つあって、首が長く、足も高く上がり、胸が張っていて、肩には丸みがあり、尻もしっかりしていた。高さは十五手幅の上もあったかな。"
],
[
"踵をね。ラチスボンでだった。わしはその日くらい皇帝がりっぱな服装をしてるのは見たことがなかった。作り立ての貨幣みたいにきれいだった。",
"そして旦那は、定めし幾度も傷を負われたでしょうな。"
],
[
"何だ?",
"大砲の弾です。"
],
[
"マブーフさん、家へお帰りなさい。",
"なぜ?",
"騒ぎが起こりかかっています。",
"それは結構だ。",
"サーベルを振り回したり、鉄砲を打ったりするんですよ、マブーフさん。",
"結構だね。",
"大砲も打つんですよ。",
"結構だ。いったいお前さんたちはどこへ行くのかな。",
"政府を打ち倒しに行くんです。",
"それは結構だ。"
],
[
"知ってるじゃありませんか。門番ですよ、ヴーヴァンですよ。",
"よろしい、お前が僕のことをまだド・クールフェーラックさんというなら、僕はお前をド・ヴーヴァンお上さんと呼んでやる(訳者注 ドは貴族の名前についている分詞)。ところで、何か用か、何だ?",
"あなたに会いたいという人がきています。",
"だれだ?",
"知りません。",
"どこにいる?",
"私の室です。"
],
[
"すみませんが、マリユスさんは?",
"ここにはいない。",
"今晩帰って来るでしょうか。",
"どうだかわからない。"
],
[
"なぜですか。",
"帰らないから帰らないんだ。",
"ではどこへ行くんですか。",
"それが君に何の用があるんだ?",
"その箱を私に持たしてくれませんか。",
"僕は防寨に行くんだぜ。",
"私もあなたといっしょに行きましょう。"
],
[
"いや。",
"ジョリーと僕は、行列の先頭を見てきた。"
],
[
"ばからん。",
"わからない?",
"ばからんというんだ。"
],
[
"僕は君を信頼してるよ。",
"行っちまえ。",
"ここへ寝かしてくれ。"
],
[
"ユシュルーお上さん、こないだジブロットが敷き布を窓からふるったというので、警察から調べられて違警罪に問われたというじゃないですか。",
"そうですよ、クールフェーラックさん。ですがまあ、そのテーブルまであなたは恐ろしい所に持ち出すつもりですか。敷き布のことと、屋根裏から植木鉢を一つ往来に落としたというだけで、百フランの罰金を政府から取られたんですよ。あまりひどいではありませんか。",
"だから、お上さん、われわれがその仇をうってやろうというんです。"
],
[
"あの大僧がわかるかい。",
"それがどうした?",
"あいつは回し者だ。",
"確かか。",
"半月ほど前に、俺がロアイヤル橋の欄干で涼んでると、耳をつかまえて引きおろした奴だ。"
],
[
"わかってる……そのとおりだ!",
"君は間諜なのか。",
"政府の役人だ。",
"名前は?",
"ジャヴェル。"
],
[
"なぜすぐにしない?",
"火薬を倹約するためだ。",
"では刃物でやったらどうだ。"
],
[
"たたいてみようや。",
"たたいたってあけるものか。",
"では扉をぶちこわすばかりだ。"
],
[
"それはできません。",
"是非あけろ。",
"なりません。"
],
[
"さああけるかどうだ。",
"あけられません。",
"あけないというのか。",
"はいあけません、どうか……。"
],
[
"あなたあたしがわかりますか。",
"いいや。",
"エポニーヌですよ。"
],
[
"ええ少し。",
"でも手にさわったばかりだが。"
],
[
"突き通されたのよ。",
"突き通された!",
"ええ。",
"何で?",
"弾で。",
"どうして?",
"あなたをねらった鉄砲があったのを、あなたは見て?",
"見た、それからその銃口を押さえた手も。"
],
[
"あの子供よ。",
"歌を歌ってるあの子供?",
"ええ。"
],
[
"約束して下さい!",
"ああ約束する。",
"あたしが死んだら、あたしの額に接吻してやると、約束して下さい。……死んでもわかるでしょうから。"
],
[
"この手紙だがね。",
"うむ。",
"これを持って、すぐに防寨を出てくれ。(ガヴローシュは不安そうな様子だったが、こんどは耳をかき始めた。)そして明日の朝、あて名の人へ、オンム・アルメ街七番地のフォーシュルヴァン氏方コゼット嬢へ、それを届けてくれ。"
],
[
"だが、その間に防寨は落ちて、俺は間に合わなくなるだろう。",
"防寨は、すべての様子から察すると、夜明けにしか攻撃されない、そして明日の午までは陥落しない。"
],
[
"お前はこの街路の人かい。",
"そうだよ。なぜ?",
"七番地ってのはどこだか教えてくれないか。",
"七番地に何の用があるのかね。"
],
[
"恋文だと思っちゃいけねえ。あて名は女だが、実は人民へあてたものだ。俺たち男どもは戦いをしてるが、婦人は尊敬する。女を食い物にする獅子のような奴がいる上流とはわけが違うんだ。",
"渡してくれ。"
],
[
"早く渡せ。",
"さあ。"
],
[
"君はおとなしい物の言い方をするね、どう見ても君は年齢より若いぜ。その髪の毛を売るといいね、一つかみ百フランはする。すっかりで五百フランにはなるぜ。",
"どこへ行くのか、どこへ行くのか、どこへ行くのかというに、泥坊め。"
]
] | 底本:「レ・ミゼラブル(三)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年5月18日改版第1刷発行
「レ・ミゼラブル(四)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年5月18日改版第1刷発行
※「この半王位を全王位に置換したことが、」の行は底本では2字下げになっています。
※誤植の確認に「レ・ミゼラブル(五)」岩波文庫、岩波書店1961(昭和36)年7月30日第14刷、「レ・ミゼラブル(六)」岩波文庫、岩波書店1960(昭和35)年8月30日第12刷を用いました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年2月4日作成
2013年4月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042603",
"作品名": "レ・ミゼラブル",
"作品名読み": "レ・ミゼラブル",
"ソート用読み": "れみせらふる",
"副題": "07 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌",
"副題読み": "07 だいよんぶ じょじょうしとじょじし プリューメがいのこいうたとサン・ドゥニがいのせんか",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-03-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "001094",
"姓": "ユゴー",
"名": "ヴィクトル",
"姓読み": "ユゴー",
"名読み": "ヴィクトル",
"姓読みソート用": "ゆこお",
"名読みソート用": "ういくとる",
"姓ローマ字": "Hugo",
"名ローマ字": "Victor",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1802-02-26 00:00:00",
"没年月日": "1885-05-22 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
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"底本初版発行年1": "1987(昭和62)年5月18日",
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"待っておれ。今は弾薬の余分がないんだ。"
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[
"お菓子を食べるには何もお腹がすいてなくてもいい。",
"このお菓子はいやだ。固くなってるから。",
"もう欲しくないのか?",
"ええ。"
],
[
"いくつ?",
"普通のが二つと大斧が一つ。",
"よろしい。健全な者が二十六人残っている。銃は何挺あるか。",
"三十四。",
"八つ余分だな。その八梃にも同じく弾をこめて持っていろ。サーベルやピストルは帯にはさめ。二十人は防寨につけ、六人は屋根裏や二階の窓に潜んで、舗石の銃眼から襲撃軍を射撃しろ。ひとりでも手をこまぬいていてはいけない。間もなく襲撃の太鼓が聞こえたら、階下の二十人は防寨に走り出ろ。早い者から勝手にいい場所を占めるんだ。"
],
[
"君は指揮者ですか。",
"そうだ。",
"君はさっき私に礼を言いましたね。",
"共和の名において。防寨はふたりの救い主を持っている、マリユス・ポンメルシーと君だ。",
"私には報酬を求める資格があると思いますか。",
"確かにある。",
"ではそれを一つ求めます。",
"何を?",
"その男を自分で射殺することです。"
],
[
"フォーシュルヴァンと言ったな、オンム・アルメ街で。",
"七番地だ。"
],
[
"アンジョーラ!",
"何だ!",
"あの男の名は何というんだ。",
"どの男?",
"あの警察の男だ。君はその名前を知ってるか。",
"もちろん。自分で名乗ったんだ。",
"何という名だ。",
"ジャヴェル。"
],
[
"目を隠すことは望まないか。",
"いや。",
"砲兵軍曹を殺したのは君か。",
"そうだ。"
],
[
"じゃあ山分けだ。",
"いったい何のことだ?",
"お前はその男をやっつけたんだろう。よろしい。ところで俺の方に鍵があるんだ。"
],
[
"綱を何にするんだ。",
"石もいるだろうが、それは外にある。こわれ物がいっぱい積んであるんだ。",
"石を何にするんだ。",
"ばかだな。お前はそいつを川に投げ込むつもりだろう。すりゃあ石と綱とがいるじゃねえか。そうしなけりゃ水に浮いちまわあな。"
],
[
"何者だ。",
"私だ。",
"いったいだれだ?",
"ジャン・ヴァルジャン。"
],
[
"ジルノルマンという者の家はここか。",
"ここですが、何の御用でしょう?",
"息子を連れ戻してきたのだ。"
],
[
"そうおっしゃれば一つ申したいことがあります。",
"何かね?",
"私は結婚したいのです。"
],
[
"何ですって、わかっていますって?",
"うむ、わかっているよ。あの娘をもらうがいい。"
],
[
"ですがお父さん、もう私は丈夫になっていますから、彼女に会ってもよさそうに思います。",
"それも承知してる。明日会わしてやろう。",
"お父さん!",
"何かね。",
"なぜ今日はいけないんです。",
"では今日、そう今日にしよう。お前は三度お父さんと言ったね、それに免じて許してやろう。わしが引き受ける。お前のそばへ連れてこさせよう。こうなるだろうと思っていた。ちゃんと詩にもなってる。アンドレ・シェニエの病める若者という悲歌の末句だ。九十三年の悪……大人物どもから斬首されたアンドレ・シェニエのね。"
],
[
"だれをでございますか。",
"アンドレ・シェニエをだ!"
],
[
"何です、お父さん。",
"お前には親しい友だちがあったか。",
"ええ、クールフェーラックという者です。",
"今どうしてる?",
"死んでいます。",
"それでいい。"
],
[
"あなたはあの街路をよく御存じでしょうね。",
"どの街路ですか。",
"シャンヴルリー街です。"
],
[
"なあ、おい。",
"なによ、お父さん。",
"あの爺さんが見えるか。",
"どの爺さん?",
"向こうの、婚礼馬車の一番先のに乗ってる、こちら側のさ。",
"黒い布で腕をつってる方の。",
"そうだ。",
"それがどうしたの。",
"どうも確かに見覚えがある。",
"そう。",
"この首を賭けてもいい、この命を賭けてもいい、俺は確かにあのパンタン人(パリー人)を知ってる。"
],
[
"少しかがんだらお前に花嫁が見えやしないか。",
"見えない。",
"花婿の方は?",
"あの馬車には花婿はいないよ。",
"なあに!",
"いないよ、もひとりの爺さんが花婿なら知らないが。",
"とにかくよくかがんで花嫁を見てくれ。",
"見えやしないよ。",
"じゃいいさ。だが手をどうかしてるあの爺さんを、俺は確かに知ってる。",
"爺さんを知ってるったって、それがなにになるんだね。",
"それはわからねえ。だが時には何かになるさ。",
"あたしは爺さんなんかあまり気には止めないよ。",
"俺はあいつを知ってる!",
"勝手に知るがいいよ。",
"どうして婚礼の中に出てきたのかな。",
"よけいなことだよ。",
"あの婚礼はどこから出たのかな。",
"あたしが知るもんかね。",
"まあ聞けよ。",
"なに?",
"ちょっと頼まれてくれ。",
"なにを?",
"馬車からおりてあの婚礼の跡をつけるんだ。",
"どうして?",
"どこへ行くのか、そしてどういう婚礼か、少し知りてえんだ。急いでおりて駆けていけ、お前は若いから。",
"この馬車を離れることはできないよ。",
"なぜだ。",
"雇われているんだからさ。",
"畜生!",
"はすっぱ娘になって警視庁から一日分の給金をもらってるじゃないかね。",
"なるほど。",
"もし馬車から離れて、警視に見つかろうもんなら、すぐにつかまってしまう。よく知ってるくせに。",
"うん、知ってるよ。",
"今日は、あたしはお上から買われた身だよ。",
"それはそうだが、どうもあの爺さんが気になる。",
"爺さんなのが気になるの。若い娘でもないくせにね。",
"一番先の馬車に乗ってる。",
"だから?",
"花嫁の馬車に乗ってる。",
"それで?",
"花嫁の親に違いねえ。",
"それがどうしたのさ。",
"花嫁の親だというんだ。",
"そうさね、ほかに親はいやしない。",
"まあ聞けよ。",
"なんだね?",
"俺は仮面をつけてでなけりゃ外にはあまり出られねえ。こうしてりゃ、顔が隠れてるからだれにもわからねえ。だが明日になったらもう仮面がなくなる。明日は灰の水曜日(四旬節第一日)だ。うっかりすりゃ捕まっちまう。また穴の中に戻らなきゃあならねえ。ところがお前は自由な身体だ。",
"あまり自由でもないよ。",
"でも俺よりは自由だ。",
"だからどうなのよ?",
"あの婚礼がどこへ行くか調べてもらいたいんだ。",
"どこへ行くか?",
"そうだ。",
"それはわかってるよ。",
"なに、どこへ行くんだ?",
"カドラン・ブルーへさ。",
"なにそっちの方面じゃねえ。",
"それじゃ、ラーペへさ。",
"それともほかの方かも知れねえ。",
"それは向こうの勝手さ。婚礼なんてものはどこへ行こうと自由じゃないか。",
"まあそんなことはどうでもいい。とにかく、あの婚礼はどういうもので、あの爺さんはどういう男で、またあの人たちはどこに住んでるか、それを俺に知らしてくれというんだ。",
"いやだよ! ばかばかしい。一週間もたってから、謝肉祭の終わりの火曜日にパリーを通った婚礼がどこへ行ったか調べたって、なかなかわかるもんじゃないよ。藁小屋の中に落ちた針をさがすようなもんだ。わかりっこないよ。",
"でもまあやってみるんだ。いいかね、アゼルマ。"
],
[
"だいぶいい。御主人は起きておいでかね。",
"どちらでございますか、大旦那様と若旦那様と。",
"ポンメルシーさんの方だ。"
],
[
"だれが証明してくれましょう……。",
"私がです。私がそう言う以上は。"
],
[
"僕たちは用談をしているんだから、ねえ、コゼット、ちょっと向こうへ行ってておくれ。数字のことだからお前は退屈するに違いない。",
"まああなたは、今朝きれいな襟飾りをしていらっしゃるのね。ほんとにおしゃれだこと。いえ、数字でも私は退屈しませんわ。",
"きっと退屈するよ。",
"いいえ。なぜって、あなたのお話ですもの。よくはわからないか知れないけれど、おとなしく聞いていますわ。好きな人の声を聞いておれば、その意味はわからなくてもいいんですもの。ただ私はいっしょにいたいのよ。あなたといっしょにいますわ、ねえ。",
"大事なお前のことだけれど、それはいけないんだ。",
"いけないんですって!",
"ああ。"
],
[
"いや、是非ともふたりきりでなければいけないのだ。",
"では私はほかの者だとおっしゃるの?"
],
[
"よくお眠りにならなかったんですか。",
"いいや。",
"何か悲しいことでもおありになるの。",
"いいや。",
"私を接吻して下さいな。どこもお悪くなく、よくお眠りになり、御安心していらっしゃるのなら、私何とも小言は申しません。"
],
[
"コゼット、どうしてもいけないのだ。",
"ああ、あなたは太い声をなさるのね。いいわ、行ってしまいます。お父様も私を助けて下さらないのね。お父様もあなたも、ふたりともあまり圧制です。お祖父様に言いつけてあげます。私がまたじきに戻ってきてつまらないことをするとお思いなすっては、まちがいですよ。私だって矜りは持っています。こんどはあなた方の方からいらっしゃるがいいわ。私がいなけりゃあなた方の方で退屈なさるから、見ててごらんなさい。私は行ってしまいます、ようございます。"
],
[
"もうほとんど万事すんだようです。そして最後にも一つ残っていますが……。",
"何ですか。"
],
[
"そう、私から願ったことだ。",
"そうおっしゃるだろうと思っていました。ようございます。仕返しをしてあげますから。でもまあ最初のことからしましょう。お父様、私を接吻して下さいな。"
],
[
"食事は済んでいる。",
"嘘ですわ。私ジルノルマン様にあなたをしかっていただきますよ。お祖父様ならお父様を少したしなめることができます。さあ、私といっしょに客間にいらっしゃいよ、すぐに。",
"いけない。"
],
[
"どうしてでしょう! 私に会うのに家で一番きたない室をお望みなさるなんて。ここはほんとにひどいではありませんか。",
"お前も知っ……。"
],
[
"あなたは奥さんになることを望んだ。そして今奥さんになっている。",
"でもあなたに対してはそうではありませんわ、お父様。",
"もう私を父と呼んではいけない。",
"まあ何をおっしゃるの?",
"私をジャンさんと呼ばなければいけない、あるいはジャンでもいい。",
"もう父ではないんですって、私はもうコゼットではないんですって、ジャンさんですって。いったいどうしてでしょう。大変な変わりようではありませんか。何か起こったのですか。まあ私の顔を少し見て下さいな。あなたは私どもといっしょに住むのをおきらいなさるのね。私の室をおきらいなさるのね。私あなたに何をしまして! 何をしましたでしょう。何かあるのでございましょう。",
"いや何にも。",
"それで?",
"いつもと少しも変わりはない。",
"ではなぜ名前をお変えなさるの。",
"あなたも変えている。"
],
[
"あなたはポンメルシー夫人となっているし、私はジャンさんとなっても不思議ではない。",
"私にはわけがわかりませんわ。何だかばかげてるわ。あなたをジャンさんと言ってよいか夫に聞いてみましょう。きっと許してはくれないでしょう。あなたはほんとに、大変私に心配をさせなさいますのね。いくら変わった癖があるからといって、この小さなコゼットを苦しめてはいけません。悪いことですわ。あなたは親切な方だから、意地悪をなすってはいけません。"
],
[
"歩いて。",
"そして帰りには?",
"辻馬車で。"
],
[
"ニコレットだけで充分ですから。",
"しかしあなたには小間使いがひとりいるでしょう。",
"マリユスがいてくれますもの。",
"あなた方は自分の家を持ち、自分の召し使いを持ち、馬車を一つ備え、芝居の席も取っておいていいはずです。あなた方には何でもできます。なぜ金持ちのようにしないのですか。金を使えばそれだけ幸福も増すわけです。"
],
[
"では、バスクに火を焚くなとおっしゃったのはあなたですか。",
"ええ。もうすぐ五月です。",
"でも六月までは火を焚くものです。こんな低い室では一年中火がいります。",
"私はもう火はむだだと思ったのです。"
],
[
"主人は昨日変なことを私に言いました。",
"どういうことですか。",
"こうなんです。コゼット、僕たちには三万フランの年金がはいってくる、二万七千はお前の方から、三千はお祖父さんから下さるので、というんです。それで三万ですわと私が答えますと、お前には三千フランで暮らしてゆく勇気があるかってききます。私は、ええあなたといっしょなら一文なしでも、と答えました。それから私は、なぜそんなことをおっしゃるの、と尋ねてみますと、ただ聞いてみたのだ、と答えたのですよ。"
],
[
"持ってゆくように私がバスクに言いました。",
"なぜです。",
"今日はちょっとの間しかいないつもりですから。",
"長くいないからと言って、立ったままでいる理由にはなりません。",
"何でも客間に肱掛け椅子がいるとかバスクが言っていたようです。",
"なぜでしょう。",
"たしか今晩お客があるのでしょう。",
"いえだれもきはしません。"
],
[
"お皿はまだいっぱいですよ。",
"水差しを見てごらん。空になってるから。",
"それは、ただ水を飲んだというだけで、なにも食べたことにはなりません。"
],
[
"それは喉がかわいたというもんです。いっしょに何にも食べなければ、熱ですよ。",
"食べるよ。明日は。",
"それともいつかは、でしょう。なぜ今日召し上がらないんです。明日は食べよう、なんていうことがありますか。私がこしらえてあげたのに手をつけないでおくなんて! この煮物はほんとにおいしかったんですのに!"
],
[
"もし金があれば、医者にかかるさ。金がなければ、医者にかからないさ。医者にかからなければ、死ぬばかりさ。",
"医者にかかったら?"
],
[
"どうでございましょう?",
"病人はだいぶ悪いようだ。",
"どこが悪いんでございましょうか。",
"どこと言って悪い所もないが、全体がよくない。見たところどうも大事な人でも失ったように思われる。そんなことで死ぬ場合もあるものだ。",
"あの人はあなたに何と言いましたか。",
"病気ではないと言っていた。",
"またあなたにきていただけますでしょうか。"
],
[
"こういうことでございます、閣下。私はもう疲れはてた古い外交官であります。古い文明のために力を使い果たしてしまいました。それで一つ野蛮な仕事をやってみようと思っているのでございます。",
"だから?",
"閣下、利己心は世界の大法であります。日傭稼ぎの貧乏な田舎女は、駅馬車が通れば振り返って見ますが、自分の畑の仕事をしてる地主の女は、振り向きもいたしません。貧乏人の犬は金持ちに吠えかかり、金持ちの犬は貧乏人に吠えかかります。みな自分のためばかりです。利益、それが人間の目的であります。金は磁石であります。",
"だから? 結局何ですか。",
"私はジョヤに行って住みたいと思っております。家族は三人で、私の妻に娘、それもごく美しい娘でございます。旅は長くて、金もよほどかかります。私は金が少しいるのでございます。"
],
[
"よろしゅうございます、閣下。要点を申し上げましょう。私は一つ買っていただきたい秘密を手にしております。",
"秘密!",
"秘密でございます。",
"僕に関しての?",
"はい少しばかり。",
"その秘密とはどういうことです?"
],
[
"お話しなさい。",
"閣下、あなたはお邸に盗賊と殺人犯とをおいれになっております。"
],
[
"人殺しでかつ盗賊であります。よくお聞き下さい、閣下。私が今申し上げますのは、古い時期おくれの干からびた事実ではありません。法律に対しては時効のために消され、神に対しては悔悟のために消されたような、そういう事実ではありません。最近の事実、現在の事実、今にまだ法廷から知られていない事実、それを申してるのであります。続けてお話しいたしますが、その男がうまくあなたの信用を得、名前を変えて御家庭にはいり込んでおります。その本名をお知らせ申しましょう。しかもただでお知らせいたしましょう。",
"聞きましょう。",
"ジャン・ヴァルジャンという名でございます。",
"それは知っています。",
"なお私は報酬も願わないで、彼がどういう人物だかを申し上げましょう。",
"お言いなさい。",
"元は徒刑囚だった身の上です。",
"それは知っています。",
"私が申し上げましたからおわかりになりましたのでしょう。",
"いや。前から知っていたのです。"
],
[
"閣下、一万フラン下されば申し上げましょう。",
"繰り返して言うが、君は僕に何も教えるものはないはずです。君が話そうという事柄を僕は皆知っています。"
],
[
"僕も君の非常な秘密を知っています。ジャン・ヴァルジャンの名前を知ってると同様に、君の名前も知っています。",
"私の名前を?",
"そうです。",
"それはわけもないことでしょう、閣下。私はそれを手紙に書いて差し上げましたし、また自分で申し上げました、テナルと。",
"ディエ。",
"へえ!",
"テナルディエ。",
"それはだれのことでございますか。"
],
[
"君はまたそのほか、労働者ジョンドレット、俳優ファバントゥー、詩人ジャンフロー、スペイン人ドン・アルヴァレス、およびバリザールの家内とも言う。",
"何の家内で?",
"なお君は、モンフェルメイュで飲食店をやっていた。",
"飲食店? いえ、どうしまして。",
"そして君の本名はテナルディエというのだ。",
"さようなことはありません。",
"そして君は悪党だ。そら。"
],
[
"いえ、譫言みたいなものです。男爵も打ち明けて言われましたから、私の方でも打ち明けて申しましょう。何よりもまず真実と正義とが第一です。私は不正な罪を被ってる者を見るのを好みません。男爵、ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏のものを盗んではいません。ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルを殺してはいません。",
"何だと! それはどうしてだ?",
"二つの理由からです。",
"どういう理由だ? 言ってみなさい。",
"第一はこうです。彼はマドレーヌ氏のものを盗んだというわけにはなりません、ジャン・ヴァルジャン自身がマドレーヌ氏であるからには。",
"何を言うんだ。",
"そして第二はこうです。彼はジャヴェルを殺したはずはありません、ジャヴェルを殺したのはジャヴェル自身であるからには。",
"と言うと?",
"ジャヴェルは自殺したのです。"
],
[
"警官……ジャヴェルは……ポン・トー・シャンジュの橋の……小船の下に……おぼれて……いました。",
"それを証明してみなさい!"
],
[
"ただ、何ですの?",
"私はもうじきに死ぬ。"
]
] | 底本:「レ・ミゼラブル(四)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年5月18日改版第1刷発行
※「橙花《オレンヂ》と橙花《オレンジ》」、「挺(何挺《なんちょう》)と梃(一梃)」、「大燭台《だいしょくだい》と大燭台《おおしょくだい》」、「イブとイヴ」、「撥条《ばね》と発条《ばね》」の混在は底本通りにしました。
※誤植の確認に「レ・ミゼラブル(六)」岩波文庫、岩波書店1960(昭和35)年8月30日第12刷、「レ・ミゼラブル(七)」岩波文庫、岩波書店1961(昭和36)年12月10日第13刷を用いました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年2月17日作成
2013年4月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"あなたたちはそんな薄い緑色の着物を着て、寒くはありませんか",
"いいえ、ちっとも",
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"花子、玉子と申します",
"どこにいらっしゃるのですか"
]
] | 底本:「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年5月22日第1刷発行
※この作品は初出時に署名「海若藍平《かいじゃくらんぺい》」で発表されたことが解題に記載されています。
入力:柴田卓治
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月19日公開
2003年10月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"神は弱者のためにのみ存在し、弱者は強者のためにのみ汗水を流し、強者は又、悪魔のためにのみ生存せるもの也",
"世界の最初には物質あり。物質以外には何物もなし。物質は慾望と共に在り。慾望は又、悪魔と共に在り。慾望、物質は悪魔の生れ代り也。故に物質と慾望に最忠実なるものは強者となり悪魔となりて栄え、物質と慾望とを最も軽蔑する者は弱者となり、神となりて亡ぶ。故に神と良心を無視し、黄金と肉慾を崇拝する者は地上の強者也。支配者也",
"強者、支配者は地上の錬金術師也。彼等の手を触るる者は悉く黄金となり、黄金となす能わざるものは悉く灰となる",
"黄金を作る者は地上の悪魔也。彼等の触るる異性は悉く肉慾の奴隷と化し、肉慾の奴隷と化し能わざる異性は悉く血泥と化る"
]
] | 底本:「夢野久作怪奇幻想傑作選 あやかしの鼓」角川ホラー文庫、角川書店
1998(平成10)年4月10日初版発行
初出:「サンデー毎日特別号」
1936(昭和11)年3月
入力:林裕司
校正:浜野智
1998年11月10日公開
2019年4月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002382",
"作品名": "悪魔祈祷書",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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} |
[
[
"この間、運動会の前の日まで雨が降っていたでしょう。それに僕がテルテル坊主を作ったら、いいお天気になったでしょう",
"ウン",
"あの時みんなが大変喜びましたから、僕のテルテル坊主がお天気にしたんだって云ったら、皆えらいなあって云いましたよ",
"アハハハハ。そうか。テルテル坊主はお前の云うことをそんなによくきくのか",
"ききますとも。ですから今度は雨ふり坊主を作って、僕が雨を降らせるように頼もうと思うんです",
"アハハハハ。そりゃあみんなよろこぶだろう。やってみろ。雨がふったら御褒美をやるぞ",
"僕はいりませんから、雨降り坊主にやって下さい"
]
] | 底本:「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年5月22日第1刷発行
※この作品は初出時に署名「香倶土三鳥《かぐつちみどり》」で発表されたことが解題に記載されています。
入力:柴田卓治
校正:もりみつじゅんじ
2000年4月4日公開
2003年10月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000914",
"作品名": "雨ふり坊主",
"作品名読み": "あめふりぼうず",
"ソート用読み": "あめふりほうす",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「九州日報」1925(大正14)年9月",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓読み": "ゆめの",
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"姓ローマ字": "Yumeno",
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"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1992(平成4)年5月22日",
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[
[
"僕の好きな鼓がないんです。どの鼓もみんな鳴り過ぎるんです",
"フーン"
],
[
"じゃどんな音色が好きなんだ",
"どの鼓でもポンポンポンって『ン』の字をいうから嫌なんです。ポンポンの『ン』の字をいわない……ポ……ポ……ポ……という響のない……静かな音を出す鼓が欲しいんです",
"……フーム……おれの鼓はどうだえ",
"好きです僕は……。けれどもポオ……ポオ……ポオ……といいます。その『オ』の字も出ない方がいいと思うんです"
],
[
"鶴原様のところに名高い鼓があるそうですが、あれを借りてはいけないでしょうか",
"飛んでもない"
],
[
"ええええ大丈夫です。僕からもお願いしたい位です",
"有り難う御座います。御恩は死んでも忘れません"
],
[
"すみませんが内密で僕にその鼓を見せて頂けないでしょうか",
"……………"
],
[
"あんな伝説なんかみんな迷信ですよ。あの鼓の初めの持ち主の名が綾姫といったもんですから謡曲の『綾の鼓』だの能仮面の『あやかしの面』などと一緒にして捏ち上げた碌でもない伝説なんです。根も葉もないことです",
"そうじゃないように聞いているんですが",
"そうなんです。あの鼓は昔身分のある者のお嫁入りの時に使ったお飾りの道具でね。音が出ないものですから皆怪しんでいろんなことを……"
],
[
"けれども今日は駄目ですよ",
"いつでも結構です",
"その前にお尋ねしたいことがあります",
"ハイ……何でも",
"あなたはもしや音丸という御苗字ではありませんか"
],
[
"……若先生は伯母からあの鼓のことを聞かれたのです。あの鼓はほんのお飾りでホントの調子は出ないものだと或る職人が云ったが、本当でしょうかってね。そうすると若先生は……サア……それを打って見なければわからぬが、とにかく見ましょうということになってね……七年前のしかもきょうなんです……この家へ来られてその鼓を打たれたんです。それからこの家を出られたのですがそのまんま九段へも帰られないのだそうです",
"若先生は生きておられるのですか"
],
[
"……この鼓に呪われて……生きた死骸とおんなじになって……しかしそれを深く恥じながら……自分を知っているものに会わないようにどこにか……姿をかくしておられます",
"あなたはどうしてそれがおわかりになりますか",
"……私は若先生にお眼にかかりました……私にこの事だけ云って行かれたのです。そうして……私の後継ぎにはやはり音丸という子供が来ると……"
],
[
"私はこの事をきくと腹が立ちました。高の知れた鼓一梃が人の一生を葬るような音を立てるなんて怪しからぬ。鼓というものはその人の気持ちによって、いろんな音色を出すもので、鼓の音が人の心を自由にするもんじゃない。どうかしてその鼓を打って見たい。そうしてそのような人を呪うような音色でなく当り前の愉快な調子を打ち出して、若先生の讐を取りたいものだと思っている矢先へ伯母が私を呼び寄せたのです。私は得たり賢しで勉強をやめて此家に来ました",
"……で……その鼓をお打ちになりましたか"
],
[
"伯母は若先生が打たれた『あやかしの鼓』の音をきいてから、自分でもその音が出したくなったのです。そうして音が出るようになったら、それを持ち出して高林家の婦人弟子仲間に見せびらかしてやろうと思っているのです。ですからそれ以来高林へ行かないのです",
"じゃ何故あなたに隠されるのですか"
],
[
"おおかた僕がその鼓を盗みに来たように思っているのでしょう",
"じゃどこに隠してあるかおわかりになりませんか"
],
[
"……伯母は毎日出かけますのでその留守中によく探して見ますけれども、どうしても見当らないのです",
"外へ出るたんびに持って出られるのじゃないですか",
"いいえ絶対に……",
"じゃ伯母さんは……奥さんはいつその鼓を打たれるのですか"
],
[
"私は毎晩不眠症にかかっていますので睡眠薬を服んで寝るのです。その睡眠薬は伯母が調合をして飲ませますので私が睡ったのを見届けてから伯母は寝るのです。その時に打つらしいのです",
"ヘエ……途中で眼のさめるようなことはおありになりませんか",
"ええ。ありません……伯母はだんだん薬を増すのですから……けれどもいつかは利かなくなるだろうと、それを楽しみに待っているのです。もう今年で七年になります"
],
[
"じゃ全くわからないのですね",
"わかりません。わかれば持って逃げます"
],
[
"ええ……みんな逃げて行きます。伯母が八釜しいので……",
"じゃお台所は伯母さんがなさるのですね",
"いいえ。僕です",
"ヘエ。あなたが……",
"僕は鼓よりも料理の方が名人なのですよ。拭き掃除も一切自分でやります。この通りです"
],
[
"イヤ。わかりました。わかりました。あなたがお調べになったのなら間違いありません",
"そうですか……それじゃ箪笥を……",
"もう……もう本当に結構です",
"じゃ御参考に鼓だけお眼にかけておきましょう"
],
[
"私はこの四つの胴と皮とをいろいろにかけ換えてみました。けれどもどれもうまく合いませんでやっぱりもとの通りが一番いい事になります",
"つまりこの通りなんですね",
"そうです",
"みんなよく鳴りますか",
"ええ。みんな伯母が自慢のものです。胴の模様もこの通り春の桜、夏の波、秋の紅葉、冬の雪となっていて、その時候に打つと特別によく鳴るのです。打って御覧なさい",
"伯母さまがお帰りになりはしませんか",
"大丈夫です。今三時ですから。帰るのはいつも五時か六時頃です"
],
[
"この鼓はいつ頃お求めになったのでしょうか",
"サア。よく知りませんが",
"ちょっと胴を拝見してもいいでしょうか"
],
[
"君は失敬ですけれど正直な立派な方です。そうして本当にこの鼓の事を知って来られたんです……",
"それがどうしたんですか"
],
[
"アッ。若先生……",
"…………"
],
[
"それではこの次に君が来られる時自然にわかるようにして上げよう。そうしてこの鼓も正当に君のものになるようにして上げよう",
"エ……僕のものに……",
"ああ。その時に君の手でこの鼓を二度と役に立たないように壊してくれ給え。君の御先祖の遺言通りに……",
"僕の手で……",
"そうだ。僕は精神上肉体上の敗残者なのだ。この鼓の呪いにかかって……痩せ衰えて……壊す力もなくなったのだ"
],
[
"それはどういう……",
"それは私が私の身の上に就て一口申し上ぐれば、おわかりになるので御座います",
"あなたの……",
"ハイ……しかし只今は、わざとそれを申し上げません。押しつけがましゅう御座いますけれども、それは私の生命にも換えられませぬお恥かしい秘密で御座いますから、この四ツの鼓の中から『あやかしの鼓』をお選り出し下すって、物語りに伝わっております通りの音色をお出し下さるのを承わった上で御座いませぬと……まことに相済みませぬが、只今それをお願い申し上げたいので御座いますが……"
],
[
"私こそ……今大路の……綾姫の血すじを……受けましたもので御座います",
"アッ"
],
[
"よくわかりました。サ。お顔をお上げ下さい。つまるところこの三人はこの鼓に呪われたものなのです。呪われてここに集まったものなのです。けれども今日限りその因縁はなくなります。もしあなたがお許し下されば、私はこの鼓を打ち砕いて私たちの先祖の罪と呪いをこの世から消し去ります。そうしてあんな陰気臭い伝説にまつわられない明るい自由な世界に出ようではありませんか",
"ま嬉しい"
],
[
"いいえ……いけません……",
"でもそれは又別に……",
"いいえ……今日只今でなければその時は御座いません……サ……お前早くあれを……"
],
[
"オホ……いけないこと? 弱虫ねあなたは、オホホホ……でもこうなっちゃ駄目よ。どんなにあなたがもがいても云い訳は立たないから。あなたは私と一緒に東京を逃げ出して、どこか遠方へ行って所帯を持つよりほかないわよ……今から……すぐに",
"エッ……"
],
[
"音丸さん。よく気を落ちつけて、まじめにきいて頂戴よ。あなたと私の生命にかかわることなんですから。よござんすか……。あたしね。この間往来でお眼にかかった時にすぐにあなただということがわかったのです。だって若先生の戒名をあなたが落したのを拾ったんですもの。それから妻木を問い訊してあなたと御一緒にお菓子をいただいたあと、それを隠そうとしたことを白状させました。そうしてそれと一緒にあなたのお望みのお話も妻木からきいたんです。ですからあの手紙を書かせたんです。そうしてその時にもう今夜の事を覚悟していました。よござんすか",
"覚悟とは……"
]
] | 底本:「夢野久作怪奇幻想傑作選 あやかしの鼓」角川ホラー文庫、角川書店
1998(平成10)年4月10日初版発行
初出:「新青年」博文館
1926(大正15)年10月
※このファイルは、ディスクマガジン『電脳倶楽部』に収録されたものをもとにしています。
入力:上村光治
校正:浜野智
1998年11月10日公開
2019年4月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000531",
"作品名": "あやかしの鼓",
"作品名読み": "あやかしのつづみ",
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