{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "バリ島", "paragraphs": [ { "context": "紀元前2000年頃には、台湾起源のオーストロネシア語族が居住していたとされ、紀元前1世紀頃から交易を介してインドや中国の影響を受けるようになり、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心とした文明が開けていた。4世紀に入ると、ヒンドゥー教に属するジャワの人々が来住し、ヒンドゥー・ジャワ時代を迎え、その初期からジャワ王の支配下のもとで発展を続けた。そして、西暦913年頃に、ようやく、スリ・クサリ・ワルマデワによって独自のワルマデワ王朝が築かれたとされている。11世紀に入るとバリ島の王朝は東ジャワのクディリ王国との繋がりを強めるようになる。スバックなど21世紀初頭でも続いている伝統的な文化・慣習の起源は少なくともこの頃にまで遡ることができ、例えば、カヤンガン・ティガや家寺院の建立は、この頃にジャワから渡ったヒンドゥーの僧侶クトゥランが広めた慣行とされている。1248年には、クディリ王国を滅ぼしたジャワのシンガサリ王国クルタナガラ王の軍隊によって征服され服属するも、その8年後には、当のシンガサリ王国が新王国マジャパヒトによって滅ぼされたために、再び自由を手にする。しかし、1342年、今度はマジャパヒト王国に侵攻され、ついに400年近く続いたワルマデワ王朝は終焉を迎える。マジャパヒト王国は、クディリ王国末裔ムプ・クレスナ・クパキサンの第四子スリ・クトゥット・クレスナ・クパキサンを遣わしゲルゲル王国を築かせ、バリ島はマジャパヒト王国の間接的な支配下に置かれることとなったのである。しかし、16世紀にマジャパヒト王国がイスラム勢力の侵入により衰亡すると、王国の廷臣、僧侶、工芸師たちがバリに逃れてくるようになる。そして、彼らの影響によって、古典文学や影絵芝居、音楽や彫刻などヒンドゥー・ジャワの影響を受けた文化が花開いた。さらには、ジャワから渡来したヒンドゥーの高僧ダン・ヒャン・ニラルタがタナロット寺院やウルワツ寺院など数々の寺院を建立するなど、宗教面での発展も見られた。", "qas": [ { "question": "オーストロネシア語族とジャワの人々のうち、より早くバリ島に住んでいたのは、どちらか?", "id": "tr-412-00-000", "answers": [ { "text": "オーストロネシア語族", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "バリ島の独自の王朝が築かれたのは、何年頃?", "id": "tr-412-00-001", "answers": [ { "text": "913年頃", "answer_start": 196, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "11世紀に入りバリ島の王朝が強いつながりを持っていた王国は、どの王国により滅ぼされましたか?", "id": "tr-412-00-002", "answers": [ { "text": "シンガサリ王国", "answer_start": 421, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バリ島の王朝を軍隊で征服したのは、どの国?", "id": "tr-412-00-003", "answers": [ { "text": "シンガサリ王国", "answer_start": 421, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バリ島でヒンドゥー・ジャワの影響を受けた文化が花開いたのは、どの王国が滅亡してからか?", "id": "tr-412-00-004", "answers": [ { "text": "マジャパヒト王国", "answer_start": 670, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic 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"しかし、ゲルゲル王国の黄金時代は長くは続かず、1651年、ゲルゲルの王が家臣の謀反をきっかけとしてクルンクン(現在のスマラプラ)に遷都すると、その実権は各地に拠点をおいた貴族家の手に移ってしまう。そして、17世紀から18世紀にかけて、各地の貴族は自らがマジャパヒト征服時の貴族(とりわけ、ヒンドゥー教高僧ワオ・ラオ)の正統な末裔であることを自称するようになり、クルンクン王国のほかに7つの小国(タバナン王国、バドゥン王国、ギアニャール王国、カランガスム王国、バンリ王国、ムンウィ王国)が乱立し、バリ島は群雄割拠の時代を迎えることとなった。17世紀には、オランダ東インド会社を初めとしたヨーロッパ勢力の進出が見られたが、これといった特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配によるバリ人による自治が長く続いた(ちなみに、バリ島に最初に上陸したヨーロッパ人は、1597年のオランダ商船乗組員であった)。このバリの王国の権力構造を分析した人類学者のクリフォード・ギアツは、それを「劇場国家」のメタファーで描き出している。ギアツは、「〔バリの〕国家が常に目指したのは演出(スペクタクル)であり儀式であり、バリ文化の執着する社会的不平等と地位の誇りを公に演劇化することであった。バリの国家は、王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客であるような劇場国家であった。」と言った。こうしたギアツの劇場国家論は、確かに象徴人類学の金字塔であったが、しかし、その後、「洗練された象徴世界の解読は時間なき固定化された世界を描き出し、実践が生み出される歴史過程を喪失」しているとの批判が生まれた。そして、21世紀初頭では、儀礼世界と権力世界との二項対立を乗り越えた分析によって王国の歴史的過程には大きな流動性が存在していたことが明らかにされ、「王国の流動性を制するからこそ王の存在とその力は明らかとなり、その力によって階層秩序が支えられている」ことが描き出されている。", "qas": [ { "question": "バリ島における群雄割拠の時代は、どの国が分割されてからの時代を言うか?", "id": "tr-412-01-000", "answers": [ { "text": "ゲルゲル王国", "answer_start": 4, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配によるバリ人による自治が長く続いていたバリを見て、その王国らを「劇場国家」と言ったのは誰ですか?", "id": "tr-412-01-001", "answers": [ { "text": "クリフォード・ギアツ", "answer_start": 433, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "19世紀末になると当時の帝国主義的風潮の下、オランダ海上帝国がバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下に置き始める。まず1846年にバリ島側の難破船引き上げ要請を口実として、東北部に軍隊を上陸させ、ブレレンとジュンブラナを制圧。その後も徐々に侵攻を進め、1894年にはロンボク戦争でロンボク国とカランガスム王国を獲得した。1908年には、最後に残ったクルンクン王国を滅ぼし、全土をオランダ領東インド領土、植民地とするに至った。しかし、この際にバリ島の王侯貴族らがみせたププタン(無抵抗の大量自決)によってオランダは国際的な非難を浴びることとなり、オランダ植民地政府は現地伝統文化を保全する方針を打ち出すことになった。この伝統文化保護政策にとって大きな影響を与えたのが、1917年のバリ島南部大地震以降の厄災である。この地震による死者・負傷者はそれぞれ1000名を上回り、翌1918年には世界的に流行したインフルエンザがバリにも波及、さらに1919年には南部バリでネズミが大量発生し穀物の収穫量が激減した。こうした災難を当時のバリの人々は、当時の政治的・社会的な混乱の中で神々に対する儀礼をおざなりにしていたことに対する神の怒りとして捉えた。そこで、清浄化のために、バロンの練り歩きやサンヒャン・ドゥダリ(憑依舞踊)が盛んに行われるようになり、呪術的な儀礼、演劇活動がバリ中で活性化することになった。ところが、こうした一時的な現象を、オランダ人たちはバリの伝統文化として理解し表象し、震災復興と共に保護を進めたのである。とりわけ復興計画の中心人物だった建築家のモーエンは、バリの真正な伝統文化の存在を信じ、地震前のバリが中国文化やヨーロッパ文化を移入していたことを問題視して、こうした「あやまち」を復興の過程で排除することを目指したが、結局のところ、彼もまたオリエンタリズムの枠組みから逃れることはできなかったとの評価がされている。以上のようなオランダの文化保護政策を背景として、バリ島は「最後の楽園」のキャッチ・コピーならびに「上半身裸体の婦女」のイメージと共に欧米に紹介され、とりわけグレゴール・クラウゼの写真集『バリ島』に魅せられた欧米の芸術家が来島するようになった(1924年にバタビア-シガラジャ間の定期船の就航が始まっている)。例えば、1932年にバリを訪れたチャールズ・チャップリンは、「バリ行きを決めたのは(兄の)シドニーだった。この島はまだ文明の手が及んでおらず、島の美しいおんなたちは胸もあらわだというのだ。こんな話が僕の興味をかきたてた」と記している(なお、この間の観光客数は、1920年代には年間1,200-3,000人ほどであったが、1930年代中盤には年間3万人に達したとする統計も見られる)。", "qas": [ { "question": "オランダ植民地政府が現地伝統文化を保全する方針を打ち出した理由となるのは、何か?", "id": "tr-412-02-000", "answers": [ { "text": "ププタン", "answer_start": 240, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クルンクン王国とロンボク国、カランガスム王国のうち、最も遅くオランダに征服された国はどちらか?", "id": "tr-412-02-001", "answers": [ { "text": "クルンクン王国", "answer_start": 181, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1917年から1919年にかけての災害をバリの人々は誰の怒りと捉えましたか?", "id": "tr-412-02-002", "answers": [ { "text": "神", "answer_start": 491, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バリの人々が災害を神の怒りと捉え、清浄化のために一時的に行ったあらゆる活動を、オランダは何と理解し保護しようとしたのか?", "id": "tr-412-02-003", "answers": [ { "text": "伝統文化", "answer_start": 633, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうして、彼ら欧米人の影響を受け、1930年代のバリは「バリ・ルネッサンス」の時代を迎え、現在の観光の目玉である音楽(ガムラン等)、舞踏(レゴン、ケチャ等)、絵画の様式が確立することとなった。この中心にいたのは、ウブドの領主であるチョコルダ・スカワティ一族に招待されたドイツ人の画家で音楽家であるヴァルター・シュピースである。彼の家には、メキシコの画家ミゲル・コバルビアスやカナダの音楽研究家コリン・マックフィー、人類学者のマーガレット・ミード、グレゴリー・ベイトソン、オーストリアの作家ヴィッキイ・バウムなどが集った。彼/彼女らは、総じて「真正なバリ」へとそのまなざしを向け、「バリのバリ化」を進めることになった。また、オランダは、カーストの位階秩序を固定化し、各地の王族を通した間接支配を行い、灌漑・道路等農業設備を整理しアヘンやコーヒーといった商品作物の栽培を奨励するとともに、学校の設営、風俗改革(裸身の禁止)等のヨーロッパ的近代化政策も実施した。また、貴族と平民の間の格差が強調される一方で、奴隷制が廃止されるなど平民間の身分間の違いが薄まったことで、「平等的な村落社会」という特質が強化されることにもなった。", "qas": [ { "question": "バリ・ルネッサンスの中心となったいた人物とは、誰なの?", "id": "tr-412-03-000", "answers": [ { "text": "ヴァルター・シュピース", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バリでの文化的成長を主導したのは、どの国の人か?", "id": "tr-412-03-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 134, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バリの近代化を進めた国は、どの国か?", "id": "tr-412-03-002", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 311, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カーストの位階秩序が固定化されていたバリで、身分間の違いが薄まったのは、どの身分か?", "id": "tr-412-03-003", "answers": [ { "text": "平民", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次世界大戦(大東亜戦争)中にバリ島は大日本帝国の占領下に置かれた。1942年2月、日本軍が進出を開始。オランダ軍が駐屯していなかったため、日本軍にはほとんど被害がなく、バリ島沖海戦の勝利を経て、わずか20日でオランダ軍は全面降伏した。現地人は反植民地主義の「解放者」として出迎えるも、同年6月にはオランダと同様の統治体制が敷かれることになった。この際には、戦前からバリ島で商売を営み信望を集めていた民間人・三浦襄が日本軍の民政部顧問として、軍部と現地社会との仲介役、緩衝役となって活躍した。しかし、戦況の悪化に伴い物資、労働の徴集が強圧的に進められるようになると、現地の生活は困窮を極めることとなり、1944年の半ばからはジャワと連携した反日本軍運動も見られるようになった。同年9月、インドネシア独立を容認する小磯声明が出され、1945年4月にはスカルノが来島しインドネシア独立に向けて演説した。民族団結の気運がにわかに高まり、7月に「小スンダ建国同志会」が結成される。三浦は日本人として唯一、この同志会に加わり、事務総長に就任、インドネシア独立に向けて活動した。しかし、まもなく敗戦を迎え、独立計画は頓挫。1945年9月7日、三浦は、バリの人々に対して、日本の国策を押しつけ無理な協力をさせたことを謝罪して自害した。", "qas": [ { "question": "日本がバリをめぐったオランダとの戦争で、オランダ軍を降伏させるのにかかった時間は、わずか何日だったのか?", "id": "tr-412-04-000", "answers": [ { "text": "20日", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バリで反日本軍運動が見られるようになったのは、何年からか?", "id": "tr-412-04-001", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 302, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本軍の民政部顧問として活躍した人は、小スンダ建国同志会ではどんな役に務めていたの?", "id": "tr-412-04-002", "answers": [ { "text": "事務総長", "answer_start": 459, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小スンダ建国同志会の結成のきっかけとなったのは、誰の演説ですか?", "id": "tr-412-04-003", "answers": [ { "text": "スカルノ", "answer_start": 375, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1945年8月17日、ジャカルタでスカルノがインドネシア共和国の独立を宣言。「小スンダ州」とされたバリでは親共和国派による統治体制の確立が画策されていた。しかし、戦前以来の旧体制の切り崩しが進まず、1946年3月には再びオランダが上陸し、親共和国派の企図は失敗に終わる。このオランダ上陸に対しては激しいゲリラ戦が展開され、そのクライマックスである1946年11月20日には、バリ島西部のマルガにて、グスティ・ングラ・ライ中佐が壮烈な戦死を遂げ、彼の率いていたゲリラ部隊も全滅した(しかし、その勇名は今日のバリ島の国際的な玄関口であるングラ・ライ空港(デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめられている。なお、この際には旧日本軍の残留日本兵の加勢がみられ、このこともあってか独立戦争後の現在、バリの人々の対日感情は良好である)。このゲリラ戦を鎮圧したオランダは、1946年12月、バリを親オランダの「東インドネシア国」に帰属する自治地域として宣言し、旧体制を利用したオランダによる間接統治が敷かれることになった。ただし、この中でも共和国派と親オランダ派の抗争は続き、1949年にオランダがインドネシア共和国に主権委譲をした後は共和国派が優勢になり、1950年の独立をもって、ついにバリは共和国に組み込まれることになった。しかし、スカルノ時代のバリ島社会は大いに乱れ、とりわけ国民党と共産党による政治的な対立が地域社会にまで及んだ。1965年の9月30日事件に端を発する共産党狩りの際には、一説によるとバリ島だけで10万人が虐殺された。", "qas": [ { "question": "バリが再びオランダの支配下に置かれたのは、いつからか?", "id": "tr-412-05-000", "answers": [ { "text": "1946年3月", "answer_start": 99, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バリの人々は何をもってオランダに抵抗したか?", "id": "tr-412-05-001", "answers": [ { "text": "ゲリラ戦", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1945年8月17日に独立を宣言した国に、バリが組み込まれるようになったのは、何年のこと?", "id": "tr-412-05-002", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 525, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インドネシア共和国の独立が宣言されたとき、バリでは何による統治体制の確立が画策されていましたか?", "id": "tr-412-05-003", "answers": [ { "text": "親共和国派", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スハルトによる開発独裁の時代に入ると、バリ島はようやく平穏を取り戻す。そして、インドネシア政府の周到な配慮の下、観光による外貨獲得を最大の目的とした観光開発が始まり、1970年代以降、世界的な観光地へと成長することとなった。1963年、日本からの戦争賠償金によりサヌールにバリ・ビーチ・ホテルが建設され、1966年に開業した。1967年にングラ・ライ空港が開港すると、サヌールがバリ島へのマス・ツーリズムの最初のメッカとなった。ただし、当時のサヌールやクタでは無計画な開発が進みインフラ面でも大きな支障が出ていたことから、ジャカルタ中央政府は新たにヌサドゥアをパッケージ型の高級リゾートとして開発することを決定。日本のパシフィックコンサルタンツインターナショナルが具体的な計画策定を担当した。ただし、当時のオイル・ショックなど世界的な経済不況により開発は進まず、1983年になり、わずか450室の客室とともにヌサドゥア・ビーチが開業した。しかし、その後、ヌサドゥアは世界有数のホテルが林立する一大リゾートへと発展していく。このようにバリ島の観光開発は長らく中央政府主導で集権的に進められ、観光関連の税収のほとんども中央に吸い上げられてきた。しかし、現地の人々は、このように中央主導によって「創られた伝統」をそのまま受け止めることはなく、逆に自らの伝統の価値に自覚的な関心を持つようになり、画一的なイメージや「観光のまなざし」と向き合いながら、自身の文化を巧みに鍛え上げることにもなった。1989年に入ると、バリ州政府は、独自に観光開発のマスタープランの見直しを行い、ガジャマダ大学から総合観光村タイプの開発が提唱され、これを採用。ヌサドゥアのような大規模開発とは対極をなす、バリの村の日常的な生活、文化を観光客が体験できるような「観光村」の整備が開始され、2008年現在、プングリプラン、ジャティルイの2村が完成している。", "qas": [ { "question": "バリ島が観光地としての姿を整え始めたのは、誰の時代からですか?", "id": "tr-412-06-000", "answers": [ { "text": "スハルト", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヌサドゥアの開発計画策定を担当していたのは、どの国の会社であるの?", "id": "tr-412-06-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 306, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中央政府の主導で観光開発が行われていたバリ島が、独自的に観光開発を行うようになったのは、何年からか?", "id": "tr-412-06-002", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 643, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プングリプランとジャティルイ、サヌールのうち、観光地としての性格が違うのは、どの地域か?", "id": "tr-412-06-003", "answers": [ { "text": "サヌール", "answer_start": 131, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「神々の島」とも形容されるバリ島では、人々のおよそ90%が、バリ土着の信仰とインド仏教やヒンドゥー教の習合によって成り立つバリ・ヒンドゥーと呼ばれる信仰を奉じている。バリの慣習村(デサ・アダット)では、土地や祖先神への信仰が生きており、人々はデサ・アダットの土地を清浄に保ち、穢れを避ける義務を負っている。このために、古くからの慣習(アダット)もかなり色濃く残されており、店や家の前には毎朝チャナンと呼ばれるお供え物をするなど、宗教的な活動に多くの時間が使われ、したがって、バリ島では毎日、島のどこかで祭りが行われているのである。バリ人は祭りごとが大好きであるとの話がよく耳にされるが、バリ人にとってのお祭り(ウパチャラ)とはあくまで以上のような宗教的な儀式なのである。こうした背景から、バリ人は非常に精神的に満足した者が多いといわれる。また、バリ・ヒンドゥーの世界観は方角によっても支えられている。とりわけ重要なのが「カジャ」(山側)と「クロッド」(海側)の組み合わせである。カジャとクロッドの対比は、上と下、優と劣、清浄と不浄といった象徴的価値観と密接に繋がっており、寺院の位置や葬儀の場所、屋敷の構造などが、この対比に従って決められている。また、この秩序観から、人の頭を触ったり頭の上に手をかざすことや、左手で金銭を扱ったり食事をすることがタブーとされている。このようにバリ島はバリ・ヒンドゥーのコスモロジーに根ざした世界が広がっているが、1990年代以降、ジャワ島を中心として数多くの人々が、観光産業での労働従事を目的として移り住み始めるようになっており、イスラム教徒が急増している。", "qas": [ { "question": "バリ島で最も多くの人々が奉じている宗教は何?", "id": "tr-412-07-000", "answers": [ { "text": "バリ・ヒンドゥー", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "バリ島でイスラム教徒が急増しているのは、何年代以降のことか?", "id": "tr-412-07-001", "answers": [ { "text": "1990年代", "answer_start": 623, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バリ・ヒンドゥーは、バリ土着の信仰とヒンドゥー教、そして、どの宗教の習合によって成り立つものか?", "id": "tr-412-07-002", "answers": [ { "text": "インド仏教", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バリ人にとってのお祭りはどのような意味でありますか?", "id": "tr-412-07-003", "answers": [ { "text": "宗教的な儀式", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "先に見たように島南部を中心として土地が肥沃であったことから、昔からバリの人々は余裕を持った生活を送ることができた。そこで、農民は朝夕それぞれ2、3時間働くと、その日の残りは絵画、彫刻、音楽、ダンスなどの創作活動に当てるなど、美術・芸術活動にも勤しんでいた。バリの美術には、古くからのインド的性格が残存しており、時代が新しくなるにつれ、バリ島独自の土着的な性格が強くなっていく。インド色の濃い遺品として、例えば、ペジュン出土の粘土製の奉納板(8世紀頃)にはインドのパーラ朝美術を思わせる仏教尊像が描かれている。さらにインド・ヒンドゥーの石彫であるドゥルガー像(11世紀頃)が傑作として挙げられる。ただし、今日のバリで見られる、とりわけ観光客向けの芸能・美術のほとんどは、1920年代以降のオランダ植民地時代以降の歴史のなかでバリを訪れた欧米人との共同作業によって構築されたものである。そして、これらの文化芸能は、当時の欧米人によっても、また戦後のインドネシア政府によっても、さらには大衆観光客によっても、バリの「伝統文化」として表象され、「ツーリスト・パフォーマンスが、いまやバリの伝統として認められている」。今日のバリの「伝統文化」は「観光文化」にほかならないのである。さらに、スハルト体制崩壊後は、分権化の流れの中で、地域自治の確立を目指す動きがインドネシア社会全体でみられるようになり、バリでは、その一環として地域文化の振興が掲げられ、『バリポスト』を中心として、バリTVが創設されるなど、アジェグ・バリの運動が起きている。もちろん、現在のバリでも近代的な西洋文化を巧みに取り込み続けており、街では携帯電話を手にメールを打つ姿なども多く見られるし、また、島民の移動手段は主にオートバイとなっている。", "qas": [ { "question": "島南部を中心として土地が肥沃であったバリ島では、どんな部門での発展が見られたの?", "id": "tr-412-08-000", "answers": [ { "text": "美術・芸術", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ペジュン出土の粘土製の奉納板とドゥルガー像のうち、どれがより早く作られたものですか?", "id": "tr-412-08-001", "answers": [ { "text": "ドゥルガー像", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書では、今日のバリの伝統文化を何に過ぎないとしているの?", "id": "tr-412-08-002", "answers": [ { "text": "観光文化", "answer_start": 518, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バリでの文化振興運動を何と呼ぶか?", "id": "tr-412-08-003", "answers": [ { "text": "アジェグ・バリの運動", "answer_start": 647, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "芸能・芸術の島として知られ、かつ、早くからビーチ・リゾートが開発されてきたバリは、世界的な観光地となっており、東南アジア各地のビーチ・リゾートのモデルとなっている。先進国の経済的価値を基準として比較すると物価水準がかなり低廉であり、比較的若年層でも十分楽しめることも人気の一要素である。訪れる観光客で一番多いのは、かつては日本人であったが、現在はオーストラリア人である。したがって、バリ島の貨幣経済は観光収入で成立するものとなっており、財政面でもバリ州の収入の2/3が観光関連によるものとなっている。バリ島は古くから農業中心であったが、バリ州の産業部門別就業人口の推移を見てみると、1971年には農林漁業が66.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が18.8%であり、1980年でも農林漁業が50.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が29.8%であったのが、2004年には農林漁業が35.3%にまで減少し、商業・飲食・ホテル・サービス業が36.4%に達している。農民の平均月収が50ドル(約5,000円)未満であるのに対して、観光業従事者のそれは50-150ドル(約5,000-15,000円)に達する。バリ州全体の域内総生産高でみると、農業はなお全体の20%以上を占め、観光業もバリ州のフォーマルな経済活動の40%を占めるに至っており、また、工芸品の輸出額は年額15億ドル以上に上る。", "qas": [ { "question": "日本人とオーストラリア人のうち、現在バリに訪れる観光客数がより多いのはどちらですか?", "id": "tr-412-09-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア人", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "農林漁業と商業・飲食・ホテル・サービス業の2つの産業部門のうち、1971年により多くの人々が務めていたのは、どちらか?", "id": "tr-412-09-001", "answers": [ { "text": "農林漁業", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1971年と1980年、2004年のうち、農林漁業に務めていた人数が最も多いのは、何年?", "id": "tr-412-09-002", "answers": [ { "text": "1971年", "answer_start": 291, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "先に述べたようにバリ島経済の中心には農業(水田耕作)が伝統的に位置してきたが、世界的な観光地として成長した今でもなお、30%以上が農林漁業に従事している。スハルト体制以来の観光開発が南部バリの一部地域で集中的に行われたためである。水田耕作のほかには、ココナッツやコーヒーの栽培が盛んであり、樹園地ではバナナ、オレンジ、マンゴーが、畑では大豆、サツマイモ、落花生、キャベツ、トマトなどが栽培されている。また、1985年から2004年の間にバリ州における水田の面積は98,830から82,053へと16,741ヘクタールが減少し、その分、屋敷地および建築用地は27,761から45,746へと17,985ヘクタール増加しており、水田の宅地化が進んでいることが分かる(しかし、この間の収穫量は品種改良によって増加している)。こうした中で、土地所有層は地価の上昇による様々な利殖の機会を手にするようになっているが、他方でスバックのメンバーの圧倒的多数を占める小作人にとっては、農地の宅地化、近代化は失業を意味し、深刻な問題となっている。", "qas": [ { "question": "バリ州における、水田と屋敷地および建築用地のうち、1985年から2004年の間の面積変化値がより大きいのは、どれか?", "id": "tr-412-10-000", "answers": [ { "text": "屋敷地および建築用地", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "もともとバリの経済の中心であった産業は?", "id": "tr-412-10-001", "answers": [ { "text": "農業", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バリが観光地として成長した今でも30%以上もなる人が従業している産業は、何ですか?", "id": "tr-412-10-002", "answers": [ { "text": "農林漁業", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "農地の宅地化と近代化により失業に追い込まれているのは、どのような人々か?", "id": "tr-412-10-003", "answers": [ { "text": "小作人", "answer_start": 425, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "既に見たように、バリ島の観光開発は、1969年のデンパサール国際空港の開港によってマス・ツーリズム向けの大規模開発が始まり、当初は、サヌールとクタが観光の目玉となった。1980年代に入ると、ヌサ・ドゥアで高級リゾート向けの計画的な開発が進められ、1990年代に入ると、開発の波はこれらの地域を越えるようになり、主にクタの南北に広がり、スミニャック、レギャン、ジンバランからタンジュン・ブノアに至るまで、沿岸部に広大な観光地帯が形成されるようになった。スミニャックの北部には、タナロット寺院が位置している。サヌールやクタでは、爆弾テロ事件前後から当局と現地社会による治安維持のための取り締まりが進み、屋台なども排除されるようになっている。バリ島は、これら島南部の海岸を舞台としたサーフィンの名所となっており、乾季・雨季を問わず良質な波を求めて世界各国からサーファーが訪れている。サーフポイントも多く波質もさまざまである。最近ではサーフィンで生計を立てている者も多く、サーフショップやサーフガイド、またはサーフィン関連のスポンサーから収入を得ているプロサーファーも多い。", "qas": [ { "question": "バリ島における観光開発のきっかけとなった、デンパサール国際空港の開港は、いつなされたのか?", "id": "tr-412-11-000", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "観光開発の範囲がクタの南北へと広がったのは、何年代に入ってのことなの?", "id": "tr-412-11-001", "answers": [ { "text": "1990年代", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タナロット寺院が位置している地域で観光開発が進められたのは、何年代に入ってのことですか?", "id": "tr-412-11-002", "answers": [ { "text": "1990年代", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サヌールとクタの次に観光開発が行われたのは、どの地域か?", "id": "tr-412-11-003", "answers": [ { "text": "ヌサ・ドゥア", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "変電所", "paragraphs": [ { "context": "変電所(へんでんしょ)は、電力系統中で電気の電圧や周波数の変換(変電)を行い、各系統の接続とその開閉を行って、電力の流れを制御する電力流通の拠点となる施設である。\n英語の\"(electrical)substation\"の文字を取り、SSまたは、S/Sと略される。", "qas": [ { "question": "S/Sとは何の略語?", "id": "tr-413-00-000", "answers": [ { "text": "変電所", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "電気の電圧を変える場所を何といいますか?", "id": "tr-413-00-001", "answers": [ { "text": "変電所", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "電力の流れをうまく調節する施設は何と呼ばれていますか?", "id": "tr-413-00-002", "answers": [ { "text": "変電所", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一般電気事業者(電力会社)の発電所は多くの場合、電力消費地から離れた場所に設置される。\n特に大規模水力発電所の場合はその適所が山間部となり、需要家の多い平野部とは距離がある。\n原子力発電所は水力発電所のような地形的制約は無く、都市部等、人口密集地への設置も可能ではあるが、リスク管理の観点からどの国においても人口密集地からは離れた所に設置される。\n長距離の送電では電力の損失(主にジュール熱)が発生するため、より高電圧かつ低電流に変換して送電ロスを低下させている。\nまた臨海部の火力発電所も発電出力が大きく大容量の送電では送電線の発熱が問題になるため、発電所内の変電所では27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送電されるが、電力の最終需要家までの送電網の途中に変電所が幾つかあり、そこでは段階的に電圧が下げられ(降圧)、一般家庭向けには日本では100ボルトまで変圧される。", "qas": [ { "question": "火力発電所からの送電において、日本の一般家庭には何ボルトまでの電圧が送られているの?", "id": "tr-413-01-000", "answers": [ { "text": "100ボルト", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大規模な水力発電所を設置するのに適した場所はどこですか?", "id": "tr-413-01-001", "answers": [ { "text": "山間部", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "原子力発電所は何を考慮して都市部や人口密集地から離れた場所に設置しているのですか?", "id": "tr-413-01-002", "answers": [ { "text": "リスク管理", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "送電経路の例は以下のようになる。\n発電所の出力は数千から2万ボルトの電圧であり、発電所内または隣接した変電所で27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送り出される。\n超高圧変電所は発電所から最初の変電所で、より電力消費者に近くに立地し、15.4万ボルトへ変電され1次変電所へ送電される。\n1次変電所では一部は15.4万ボルトのまま大工場や鉄道へ電力供給され、また6.6万へと変電され中間変電所へ送電される。\n中間変電所では6.6万ボルトから2.2万ボルトへ変電され、一部は工場へ供給され、残りは配電用変電所へ送電される。\n配電用変電所では2.2万ボルトから6600ボルトへ変電され一部はオフィスや工場へ供給され、残りは柱上変圧器へと送り出される。\n柱上変圧器では100ボルト、200ボルトへ変電され家庭や小規模事業所などへ供給される。", "qas": [ { "question": "発電所から2番目となる変電所は何ですか?", "id": "tr-413-02-000", "answers": [ { "text": "1次変電所", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "企業や工場に電力供給してくれる変電所は何ですか?", "id": "tr-413-02-001", "answers": [ { "text": "配電用変電所", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "送電経路の中で、3番目に変電の電圧が高い変電所はどこですか?", "id": "tr-413-02-002", "answers": [ { "text": "1次変電所", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "送電経路の中で、最も変電の電圧が低い変電所はどこかな?", "id": "tr-413-02-003", "answers": [ { "text": "柱上変圧器", "answer_start": 331, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "電力は電流×電圧で表される。\n電流が流れると送電線の抵抗によりジュール熱として送電したエネルギーが失われ、かつ電圧降下により有効な電圧を送電線の終点のところで受け取ることができなくなる。\n送電中の電力損失は電流の2乗に比例することから、送電線の電圧をできるだけ高く上げ少ない電流で送電することが、低い電圧のまま大きな電流を用いて送電する場合と比較して、同じ電力を送る際の電力損失を減らすことができる。\nしたがって、発電所のそばで高い電圧に上げて、オフィスや一般家庭などの電力消費者のなるべく近くで低い電圧に落として配電することがエネルギーを無駄にしない観点上望ましい。\nこの電圧の変換を行っているのが変電所である。", "qas": [ { "question": "電力はどのようにして求められますか?", "id": "tr-413-03-000", "answers": [ { "text": "電流×電圧", "answer_start": 3, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エネルギーを無駄使いしないように電圧変換の役割をしている施設を何と言いますか?", "id": "tr-413-03-001", "answers": [ { "text": "変電所", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "高い電圧を取り扱う変電所ほど規模が大きくなり、また送電線に関わる施設も大きくなる。\nこうした施設を建設する費用の兼ね合いから電力消費者に近い末端では低い電圧で送る必要があり、発電所に近い側が最も高い電圧で送られ、消費者に近づくにつれて順次電圧が落とされていくようになっている。\nこの電圧が次第に低くなっていく各段階のことを電圧階級と呼んでいる。\n各階級の間にはそれに対応した変電所が設置されている。\nまた電力系統は、発電所から消費者まで一直線になっているわけではなく、電力システムの信頼性を高め故障や補修作業時のバックアップを相互に行うために、複数の発電所からの送電線が集合され、あるいは必要に応じて各所へ分散されていくようになっている。\n変電所はこうした送電系統上の集合・分岐点にもなっており、必要に応じて系統をつないだり切り離したりする役割もしている。\nさらに、送電線に落雷があるなどで一部の区間に障害が発生すると、遮断器を動作させてその区間を送電系統から一旦切り離し、障害の波及を防止し回復を図る役割もしている。\nこの他に、直流送電に関連して交流と直流を変換する交直変換所や、周波数の異なる電源を接続する周波数変換所も変電所の一種である。", "qas": [ { "question": "発電所から段階的に徐々に電圧が低くなって消費者の所に届くことを何と言っていますか?", "id": "tr-413-04-000", "answers": [ { "text": "電圧階級", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "もし送電線の一部区間に障害が発生したら、何を作動させて障害の波及を防いでいますか?", "id": "tr-413-04-001", "answers": [ { "text": "遮断器", "answer_start": 410, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "変電所はまず、送電用変電所と配電用変電所に大きく分類される。\n送電用変電所は、電力系統の途中に配置されて電圧の変換を行っており、大電力が通過する。\nこれに対して配電用変電所は電力系統の末端に近いところに配置されて、送電用変電所から送られてきた高い電圧を消費者に供給する低い電圧に落として地域の配電網に供給する。\n送電用変電所に比べて1つの変電所を通過する電力は小さく、施設の規模も小さくなるが、その数は送電用変電所よりかなり多い。\n配電用変電所の受電電圧は154-22kV程度で、配電網へ送り出す電圧は22-6.6kV程度である。\n送電用変電所の多くは高い電圧を低い電圧に落とすために使われているが、逆に低い電圧を高い電圧に上げるために用いられているものもある。\n電圧を上げる変電所は昇圧用変電所、下げる変電所は降圧用変電所と大きく分類される。\n昇圧用変電所は基本的に発電所に付属して設置されており、電力を発電所から送り出す段階での電圧変換を行っている。", "qas": [ { "question": "送電用変電所と配電用変電所はどちらが通過する電力が大きいですか?", "id": "tr-413-05-000", "answers": [ { "text": "送電用変電所", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高い電圧を低い電圧に下げる役目を果たす変電所は何?", "id": "tr-413-05-001", "answers": [ { "text": "降圧用変電所", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "送電用変電所と配電用変電所はどちらが設置数が少ないですか?", "id": "tr-413-05-002", "answers": [ { "text": "送電用変電所", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "配電用変電所の受電電圧と配電網へ送り出す電圧はどちらが低くないですか?", "id": "tr-413-05-003", "answers": [ { "text": "受電電圧", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "変電所は、電力事業者が所有している電力変電所、大口の電力消費者が設置している自家用変電設備、電気鉄道事業者が設置している電気鉄道用変電所などに分類できる。\n電力変電所は前述したように送電用・配電用の分類と、昇圧用・降圧用の分類がある。\n電気鉄道用の変電所は、直流電化区間では直流への変換機能のある変電所、交流電化区間では交流の降圧のみの変電所となる。\n長距離で大容量の送電を行ったり、海底送電線を使って送電を行ったりする目的で、直流送電を行うことがある。\nこの際には直流送電線の両端に一般の交流送電網と接続するための交直変換所が設置される。\nこの他、日本では東日本が50Hz、西日本が60Hzと周波数が分かれているので、この周波数の境界に周波数変換所が設置されて、東西で電力の融通ができるようになっている。", "qas": [ { "question": "日本では東日本と西日本のどちらが周波数が高いですか?", "id": "tr-413-06-000", "answers": [ { "text": "西日本", "answer_start": 288, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "電気鉄道用の変電所で交流の降圧のみの変電所となるのは何の区間ですか?", "id": "tr-413-06-001", "answers": [ { "text": "交流電化区間", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "変電所の形式としては、屋外式、屋内式、半屋内式、半地下式、地下式、移動式がある。\n屋外式変電所は変圧器や開閉器などの変電所の主要設備の大半を屋外に設置し、配電盤など制御機器のみを屋内またはキュービクルに配置した形式の変電所である。\n他の形式の変電所に比べて敷地面積を最も広く必要とするが、建設費用は安く、全ての機器が平面的に配置されることから運用開始後のメンテナンス性にも優れている。\n屋内式変電所は変圧器や開閉器などの変電所の主要設備の大半を屋内に設置した形式の変電所である。\n屋外式変電所に比べて用地面積を大きく縮小することができるが、建物の建設費が高く付く。\nまた、変電所機器の搬入・設置やメンテナンスにも難がある。\n海岸線に近いところなどで塩害対策を必要とする場合には、この形式の変電所の効果が高い。\n半屋内式変電所は変電所の主要機器の一部を屋内に設置し、残りを屋外に設置した形式の変電所である。\n変圧器のみを屋内に設置した形式は、主に変圧器の騒音対策を目的としている。\n一方、開閉器のみを屋内に設置した形式は、主に塩害対策と建物建設費の削減を目的としている。\n前者を半屋内式、後者を半屋外式と呼んで区別することもある。", "qas": [ { "question": "屋外式変電所と屋内式変電所はどちらが建設費が安いですか?", "id": "tr-413-07-000", "answers": [ { "text": "屋外式変電所", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "屋外式変電所と屋内式変電所ではどちらが管理保全するのが難しい?", "id": "tr-413-07-001", "answers": [ { "text": "屋内式変電所", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "屋内外の両方に変電所の機器を設置する形式は何ですか?", "id": "tr-413-07-002", "answers": [ { "text": "半屋内式変電所", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "広い敷地面積を必要とする変電所は何?", "id": "tr-413-07-003", "answers": [ { "text": "屋外式変電所", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "地下式変電所は建物や公園などの地下に変電所の主要機器を全て収納した形式の変電所である。\n新しい変電所用地の取得が困難な都市部を中心に見られる形式で、各種の変電所の中でも建設費は最も高く付くが、景観対策や防犯対策の面での効果が高い。\nこの形式であっても、変圧器の冷却設備だけは地上に設置する必要がある。\n建物に併設する場合には、その建物に冷却用の水や空気など作動流体が流れる経路を確保しなければならない。\nなお、住宅地における建物の高さ制限などに関連して、変電所の建物に地下室を設けて、一部の設備を地下階に、一部の設備を地上階に設置する、屋内式変電所の全体を掘り下げたような形の半地下式変電所も存在する。\n移動式変電所はトレーラーや鉄道車両の上に変圧器などを設置して、移動可能にした形式の変電所である。\n既存の変電所が故障したり、機器更新のために一時設備の運用を停止したりしたときに、現地に仮設して変電所の容量を補う役割を果たす。", "qas": [ { "question": "多様にある変電所の形式の中で、最も建設コストが高いものは何ですか?", "id": "tr-413-08-000", "answers": [ { "text": "地下式変電所", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "景観対策や防犯対策の面で効果が高い変電所の形式は何ですか?", "id": "tr-413-08-001", "answers": [ { "text": "地下式変電所", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "変電所には、電圧を変換するための変圧器、電源を入り切りするための遮断器、電源が切れている状態で回路を切り離す断路器、落雷時の異常電流を逃がす避雷器、無効電力の調整をする調相設備などがある。\nまた、直流に関連する変電所では整流器やインバータなどが設置されるが、これについては後述する。\n変圧器は、電磁誘導現象を利用して交流の電圧を変換する装置である。\n変電所における最も基本的な装置である。\n変電所で取り扱う電気は通常三相交流であり、変圧器も三相用のものか、あるいは単相用のものを3つ接続して三相交流用に使用している。\n変電所に設置される変圧器は大変大きなもので、工場で製造して搬入することには様々な困難を伴う。\nこのことから、かつては単相交流用のものを3つ搬入することが多かった。\nさらに変圧器の取り扱い電圧が高くなり大容量化すると、それでも搬入が困難なほど巨大化してきたため、工場で生産した部品を搬入して現地で組み立てる方式が一般的となり、三相式の変圧器を用いることが普通になった。\n単相式変圧器を用いた場合に比べて、三相式を用いると同容量で半分程度に面積を縮小することができる。", "qas": [ { "question": "変電所に設置されている、電源をオン・オフする機器は何ですか?", "id": "tr-413-09-000", "answers": [ { "text": "遮断器", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "避雷器は何による異常電流を逃す役割がありますか?", "id": "tr-413-09-001", "answers": [ { "text": "落雷", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "電圧を変えることのできる変電所内の基本装置とは何?", "id": "tr-413-09-002", "answers": [ { "text": "変圧器", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "変圧器は、絶縁と冷却の方式で分類することができる。\n変圧器自体は大変効率の高い設備であるが、それでもわずかながら損失が発生してこれが熱に変わる。\n変電所の変圧器は大電力を取り扱うことから、この放熱が大きな問題となる。\nこの冷却方式は絶縁の方式とも大きく関係している。\n乾式変圧器は、間隔を空けて回路を保持することで空気により絶縁する方式で、小容量のものに用いられる。\n冷却は自然放熱によるか、送風して空気で熱を運び出す方式となる。\n特に耐熱性の高い絶縁材料を使用して送風により冷却をしたものでは、数千kVA程度の容量のものまである。\n変圧器全体の効率的な運転を図るために、変圧器の負荷に応じて送風量を加減する方式もある。\n巻線などをエポキシ樹脂などで固めたモールド変圧器もある。", "qas": [ { "question": "容量が小さいものに使われる変圧器は何?", "id": "tr-413-10-000", "answers": [ { "text": "乾式変圧器", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "モールド変圧器に使用さている樹脂とは?", "id": "tr-413-10-001", "answers": [ { "text": "エポキシ樹脂", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "油入変圧器は油を用いて絶縁と冷却を行う方式であり、広く用いられている。\n初期には鉱物油を用いていたが、火災の危険があるためあまり用いられなくなった。\nまたポリ塩化ビフェニル(PCB)も広く用いられていたが、生物に対する毒性の問題から使用禁止となった。\n現代ではシリコーン油が広く用いられているが、コストが高いという問題がある。\n油入変圧器では油を循環させることで冷却を行っている。\n自然対流によるものと強制循環によるものがある。\nまた放熱器にも送風ファンを取り付けることがある。\nさらに冷却水の配管を油中に通して水冷する方式もある。", "qas": [ { "question": "昨今の油入変圧器で広く使用されている油は何?", "id": "tr-413-11-000", "answers": [ { "text": "シリコーン油", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "かつての油入変圧器でよく使われていたが、生物への害があるという点から使用禁止となった合成物質は何?", "id": "tr-413-11-001", "answers": [ { "text": "ポリ塩化ビフェニル", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "油を用いて絶縁と冷却を行う変圧器は何?", "id": "tr-413-11-002", "answers": [ { "text": "油入変圧器", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ガス絶縁式は、六フッ化硫黄(SF6)ガスで絶縁した方式で、冷却もこのガスを循環させることで行っている。\n負荷の変動に応じて電圧を調整し、また電力系統上の電力の潮流を制御するために、変電所の変圧器には出力電圧を制御するための負荷時電圧調整器(負荷時タップ切換装置)が取り付けられている。\n巻線に設けられたタップ上のある地点をタップ選択器で選ぶことで、変圧器の巻数比をある範囲で変更可能としているものである。\n変圧器では、主に鉄心の磁歪現象により振動と騒音が発生する。\n住宅地に設置される場合などには騒音対策が必要になることがある。", "qas": [ { "question": "ガス絶縁式を用いた変圧器では振動と騒音が発生するが、これはどのような現象にとって引き起こされるのでしょうか?", "id": "tr-413-12-000", "answers": [ { "text": "磁歪現象", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ガス絶縁式を用いた変圧器を住宅地に設置する際にどのような防止策が必要となるのか?", "id": "tr-413-12-001", "answers": [ { "text": "騒音対策", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "遮断器は、電力回路の入り切りを行い、また落雷や短絡などの事故発生時に回路を切り離して安全を保つために用いられる開閉器である。\n事故時の遮断も行うため、通常負荷時に流れている電流よりもはるかに大きな電流であっても遮断できるように設計されている。\n構造としては可動する接触子を接点に接触させたり離したりするものであり、電化製品などで用いられるスイッチと原理的に大きな差はないが、大電力では接点から接触子を外しても接点間にアーク放電が発生して電流が流れ続けてしまう現象があり、これを防ぐために様々な絶縁方式が考えられている。\n油遮断器、磁気遮断器、真空遮断器、空気遮断器、ガス遮断器などがある。", "qas": [ { "question": "電力回路の入り切りを行い、スイッチの役割をしている機器を何と言いますか?", "id": "tr-413-13-000", "answers": [ { "text": "遮断器", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "直流送電を行う場合、その両端に交直変換所が設置される。\nまた、周波数の異なる地域で電力の融通を行う場合、その境界点に周波数変換所が設置される。\n直流送電では直交変換を行う施設と交直変換を行う施設が遠く離れており間に直流送電線があるが、周波数変換所では直交・交直変換設備はすぐそばにあって接続されており、技術的には似たような施設である。\n古くは水銀整流器を用いて交直変換を行っていたが、技術の進歩によりサイリスタ式の変換装置が主流となっている。\nこの交直変換設備に付随して、変換装置の特性に合わせた変圧器、直流の遮断が可能な直流遮断器、直流波形のリプル分を取り除く直流リアクトル、交流波形の高調波を取り除く高調波フィルタ、交直変換装置を通すことによって遅れ力率が発生することに対処する調相設備などが設けられる。", "qas": [ { "question": "現在の主流は何式の変換装置が使われていますか?", "id": "tr-413-14-000", "answers": [ { "text": "サイリスタ式", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "直交変換施設と交直変換施設間の距離が離れている所で行われる送電方式は何?", "id": "tr-413-14-001", "answers": [ { "text": "直流送電", "answer_start": 72, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "直交・交直変換設備のすぐそばで接続されている変換所は何?", "id": "tr-413-14-002", "answers": [ { "text": "周波数変換所", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本には、交直変換所として上北変換所・函館変換所(各600,000kW)・紀北変換所・阿南変換所(各1,400,000kW)・南福光連系所(600,000kW)、周波数変換所として佐久間周波数変換所(300,000kW)・新信濃変電所(600,000kW)・東清水変電所(100,000kW)がある。", "qas": [ { "question": "日本の交直変換所の中で、扱っている電力が同じ変換所は上北変換所、函館変換所ともう1つはどこですか?", "id": "tr-413-15-000", "answers": [ { "text": "南福光連系所", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本の交直変換所の中で、発電所出力が最も高いのは阿南変換所とどこですか?", "id": "tr-413-15-001", "answers": [ { "text": "紀北変換所", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本の周波数変換所の中で、扱っている電力が最も低いのはどこですか?", "id": "tr-413-15-002", "answers": [ { "text": "佐久間周波数変換所", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本の周波数変換所の中で、発電所出力が最も高いのはどこですか?", "id": "tr-413-15-003", "answers": [ { "text": "新信濃変電所", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "世界で最初の商用電力事業は、アメリカ合衆国のニューヨーク・マンハッタンで、トーマス・エジソンが設立したエジソン電灯会社(EELC:EdisonElectricLightCompany)によって1882年9月4日に始められた。\nしかしこの時は直流115-120ボルトで発電所から需要家までを直接結んで配電しており、電圧を変換する機構は入っておらず、したがって変電所もまだ存在しなかった。\n低圧で送配電することに伴う大きな損失を改善するために、様々な工夫が試みられた。\nその中には、高電圧の直流で送電して電動発電機で低圧直流に変換するものや、高圧直流で直列に接続されている蓄電池を充電し並列につなぎ変えて低圧放電させる仕組みなどがあった。\n直流での大規模な送電は、1954年にスウェーデンでゴットランド島への2万kW100kV送電で実用化された。\n水銀整流器を用いたもので、その後1961年には英仏連系にも導入された。\n日本では北海道・本州間連系設備(上北変換所-函館変換所)や紀伊水道直流連系設備(紀北変換所-阿南変換所)で直流送電が行われている。", "qas": [ { "question": "世界で最初の商用電力事業を行った人物は誰ですか?", "id": "tr-413-16-000", "answers": [ { "text": "トーマス・エジソン", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トーマス・エジソンが電力事業を開始したのは何年のこと?", "id": "tr-413-16-001", "answers": [ { "text": "1882年", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "上北変換所と函館変換所の間で行われている送電方式は何?", "id": "tr-413-16-002", "answers": [ { "text": "直流送電", "answer_start": 461, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1950年代に大規模な直流送電が実用化された国はどこ?", "id": "tr-413-16-003", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 336, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本質的に、低圧で送電することによる大きな送電損失を改善するためには高圧で送電するしかなく、そのためには自由に電圧を変換する方法が必要とされた。\n交流の電圧と電流を変換する変圧器は、マイケル・ファラデーが電磁誘導の法則を発見して以来、19世紀を通じて何人かの技術者・発明家によって次第に改良され形作られてきたが、電力網に組み込んで利用するための具体的な形にまとめたのはフランスのルシアン・ゴーラールとイギリスのジョン・ディクソン・ギブスの2人であった。\n彼らは1882年にイギリスで変圧器の特許を出願した。\n1884年にイタリアのトリノで開かれた博覧会で、5,000Vで40kmを送電する実験に成功し、それまで都市内部で蒸気機関で発電してそのすぐ近くで配電する以外の方法が無かった電力事業に対して、山岳地帯で水力発電を行い長距離を送電して都市に配電することを可能にした。", "qas": [ { "question": "1882年にイギリスで変圧器の特許を出願した人の中でフランスの発明家は誰?", "id": "tr-413-17-000", "answers": [ { "text": "ルシアン・ゴーラール", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "電磁誘導の法則の発見者は誰ですか?", "id": "tr-413-17-001", "answers": [ { "text": "マイケル・ファラデー", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "海水魚", "paragraphs": [ { "context": "海水魚(かいすいぎょ、Marinefish)は、海水中で生活する魚類の総称。\n海産魚とも呼ばれる。\n海水魚は2006年の時点でおよそ1万5800種が知られ、現生の魚類2万8000種のうち約56%を占めている。\n海水魚とは海で生活する魚類の総称で、現生魚類のおよそ56%、約1万5800種が含まれる。\n最初期の魚類(無顎類の仲間)は海で進化を遂げ、その後の進化の歴史において海水から淡水へ、淡水から海水への進出と適応が何度も繰り返されてきた。\n現代では海水魚は寒帯から熱帯、沿岸から外洋、表層から深海に至るまで、ほとんどのすべての海域に分布を広げるとともに、漁業資源として世界中で利用される重要な存在となっている。\n海水は体内よりも浸透圧が高いため、海水魚は水分が体外に流出する脱水の危機に常にさらされている。\n最も原始的な脊椎動物であるヌタウナギ類は、体液の一価イオンを海水と同レベルに順応させ、サメ・エイに代表される軟骨魚類は尿素などの窒素代謝物を体内に蓄積し、浸透圧を上昇させることで海水への適応を果たした。\nそして遅れて出現した条鰭綱のグループは、多量の海水を飲むことで、失われる水分を補い、過剰な塩分は塩類細胞と呼ばれる特殊なイオン輸送細胞を通じて排出する機構を発達させ、現代の海洋で最も繁栄する魚類となっている。", "qas": [ { "question": "現生の魚類2万8000種のうち約半数を占めている魚類の総称は何?", "id": "tr-414-00-000", "answers": [ { "text": "海水魚", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "海水魚は2006年の時点で何種類生息しているの?", "id": "tr-414-00-001", "answers": [ { "text": "1万5800種", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヌタウナギ類、軟骨魚類、条鰭綱のグループの中で現在最も繁栄しているものはどれ?", "id": "tr-414-00-002", "answers": [ { "text": "条鰭綱のグループ", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "海水魚は陸に近い沿岸・河口域から遠く離れた外洋、生物量の豊富な藻場・サンゴ礁から岩礁・砂泥地帯にかけて、赤道直下の熱帯域から氷点下の南極海、さらには太陽光に恵まれた表層から暗黒の深海に至るまで、あらゆる海水環境にその分布を広げている。\n成長段階に応じて、または環境や餌生物の季節変動に伴って、それらの間を行き来するものも数多い。\n海水魚はその分布範囲に基づいて、外洋表層性(Epipelagic)、深海漂泳性(Deeppelagic)、深海底生性(Deepbenthic)、および沿岸性(Littoral)、の4種類に大きく分けられる。", "qas": [ { "question": "深海漂泳性を英語表記するとどうなりますか?", "id": "tr-414-01-000", "answers": [ { "text": "Deeppelagic", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Epipelagicとは何の事ですか?", "id": "tr-414-01-001", "answers": [ { "text": "外洋表層性", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "外洋表層性の海水魚は水深200mまでの外洋域で生活するものを指し、その多くが広範で世界的な分布域をもつが、比較的沿岸寄りに暮らす種類は限局的な分布を示す場合もある。\n他のグループに比べ種類は少なく、ニシン目・ダツ目およびスズキ目のアジ科・サバ科など360種程度が知られているに過ぎない。\n深海漂泳魚および底生魚はいわゆる深海魚と総称されるグループで、いずれも水深200m以深の深海に分布する。\n海底から離れた中層を主な生息域とするものを漂泳魚と呼び、海底付近で生活するものが底生魚として扱われる。\n合わせて約3,200種が知られており、漂泳魚は広範な分布を示す一方、底生魚の分布範囲は海底地形によってしばしば隔絶されている。\n沿岸性海水魚は大陸や島嶼の沿岸と、水深200mまでの大陸棚に暮らす魚類が含まれる。\nサンゴ礁や藻場を中心に著しい多様性を示すグループであり、海水魚全体の7割以上にあたる約12,600種がこの区分に該当する。\n沿岸域にはスズキ目・カサゴ目の仲間が特に多く、大陸棚にかけての海底にはカレイ目・タラ目など水産上重要な分類群が分布している。", "qas": [ { "question": "外洋表層性の海水魚と深海魚とではどちらの方が種類が多いですか?", "id": "tr-414-02-000", "answers": [ { "text": "深海魚", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "外洋表層性の海水魚と沿岸性海水魚とではどちらの方が種類が多いですか?", "id": "tr-414-02-001", "answers": [ { "text": "沿岸性海水魚", "answer_start": 313, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "外洋表層性の海水魚の種類はどれくらいいますか?", "id": "tr-414-02-002", "answers": [ { "text": "360種程度", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "外洋表層性の海水魚と沿岸性海水魚は共に水深何mまでの地点で生息していますか?", "id": "tr-414-02-003", "answers": [ { "text": "水深200m", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "隔絶した環境になりやすい淡水域とは異なり、海はひとつながりの水圏を構成している。\nしかし、水温や水圧、塩分濃度などの化学的・物理学的性質によって実際にはいくつかの水塊に分割され、海水魚の分布様式にも影響を与えている。\n餌生物の供給量も重要な要素で、生産性の高い沿岸帯には種類の豊富な魚類相が形成される一方、栄養供給の少ない外洋における魚種は乏しく、特定の種による大きな群れが作られる傾向がある。\n沿岸性海水魚の分布範囲は、インド太平洋・西部大西洋・東部太平洋・東部大西洋の4領域に大きく分けることができる。\nこのほか、地中海と極圏の海を別個の区分として加える場合もある。", "qas": [ { "question": "沿岸帯と外洋とではどちらの方が魚の種類が多いですか?", "id": "tr-414-03-000", "answers": [ { "text": "沿岸帯", "answer_start": 130, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "沿岸帯と外洋とではどちらの方が栄養供給量が多いですか?", "id": "tr-414-03-001", "answers": [ { "text": "沿岸帯", "answer_start": 130, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "インド太平洋は南アフリカと紅海を西端とし、インドネシア・オーストラリアを経て東はハワイ諸島ならびにイースター島に至る広大な海域で、古代のテチス海をその起源としている。\nおよそ3,000種の沿岸魚が生息し、キス科・アイゴ科(スズキ目)はインド太平洋に特産である。\n魚種の豊富さはフィリピン諸島付近で極大となり、マレー半島・スマトラ島近海で第2のピークを示す一方、太平洋プレートの境界を東に超えると多様性は激減する。\n例として、サワラ属(サバ科)18種のうち10種がインド太平洋に分布するが、太平洋プレート上にこれらの種は生息していない。", "qas": [ { "question": "インド太平洋の起源となる海域の名前は何?", "id": "tr-414-04-000", "answers": [ { "text": "テチス海", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インド太平洋の水域の中で最も魚種の数が多く生息する場所はどこ?", "id": "tr-414-04-001", "answers": [ { "text": "フィリピン諸島付近", "answer_start": 138, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サワラ属の種類が最も多く分布する水域はどこ?", "id": "tr-414-04-002", "answers": [ { "text": "インド太平洋", "answer_start": 231, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "西部大西洋は南北アメリカ大陸の東岸からメキシコ湾・カリブ海を含み、アセンション島・セントヘレナ島に至る海域である。\n西インド諸島のサンゴ礁が多様な海洋生物を育み、海水魚は約1,200種が知られている。\nアマゾン川から流入する大量の淡水によって、沿岸のサンゴ礁魚類の分布は南北に分断されている。", "qas": [ { "question": "西部大西洋に生息する海水魚の種類は何種類?", "id": "tr-414-05-000", "answers": [ { "text": "約1,200種", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "西部大西洋に大量の淡水が流入してくるのは何川が存在しているからですか?", "id": "tr-414-05-001", "answers": [ { "text": "アマゾン川", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東部太平洋の魚類相は、西部大平洋と比べ貧弱である。\nアメリカ大陸との間に横たわる広大な外洋が障壁となり、西部太平洋の島嶼に分布する沿岸魚の86%はこの壁を超えることができていない。\n300万年前にパナマ地峡が閉じられるまで大西洋と互いに交流していたため、東部太平洋に分布する沿岸魚はむしろ西部大西洋と共通するものが多い。\n同じグループの魚類が分断後に別個の進化を遂げた例も知られ、ガマアンコウ科(ガマアンコウ目)のイサリビガマアンコウ亜科・フチガマアンコウ亜科は、それぞれ東部太平洋・西部大西洋に特化した一群である。\n現在のパナマ運河は淡水のガトゥン湖を経由するため、後述のスエズ運河とは異なり海水魚の連絡通路としては機能していない。", "qas": [ { "question": "東部太平洋と西部大平洋とでは、どちらの方が魚類相が豊富ですか?", "id": "tr-414-06-000", "answers": [ { "text": "西部大平洋", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パナマ運河が経由している湖とは何?", "id": "tr-414-06-001", "answers": [ { "text": "ガトゥン湖", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "東部大西洋の沿岸性魚類は約500種で、東部太平洋よりもさらに少なく、熱帯性魚類の分布はギニア湾周辺のごく狭い海域に限られる。\nこの地域で多様性を示すグループは、タイ科など数科にとどまる。\nサンゴ礁も非常に少なく、コンゴ川・ニジェール川・ヴォルタ川など複数の大河川から淡水が流入することが一因と考えられている。", "qas": [ { "question": "東部大西洋と東部太平洋とでは、沿岸性魚類の数が多いのはどちらですか?", "id": "tr-414-07-000", "answers": [ { "text": "東部太平洋", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東部大西洋は複数の大河川からの淡水流入により何が少ないですか?", "id": "tr-414-07-001", "answers": [ { "text": "サンゴ礁", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "地中海における沿岸魚の分布は東部大西洋と類似し、およそ540種が知られている。\n600万年前に起きたメッシニアン塩分危機(Messiniansalinitycrisis)における大干ばつにより、地中海の海水魚はほぼ全滅した。\n530万年前には再び大西洋と連絡したが、ジブラルタル海峡の低水温が熱帯性魚類の流入を阻害したものと考えられている。", "qas": [ { "question": "地中海に生息する沿岸魚は何種類ですか?", "id": "tr-414-08-000", "answers": [ { "text": "およそ540種", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何年前に地中海の海水魚がほぼ全滅したの?", "id": "tr-414-08-001", "answers": [ { "text": "600万年前", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "600万年前のメッシニアン塩分危機によって地中海はどうなったの?", "id": "tr-414-08-002", "answers": [ { "text": "大干ばつ", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1869年に開通したスエズ運河は、塩分濃度の高いグレートビター湖によって海水魚の移入を防いでいた。\nしかし同湖の塩分濃度は運河の運用に伴って次第に低下し、1931年には16種、2006年には68種の海水魚が紅海から地中海に流入していることが確認されている。\nこの移入はレセップス移動(Lessepsianmigration)と呼ばれ、基本的には紅海から地中海への一方通行となっている。\n紅海の生物環境は飽和状態で新規参入の余地が少ないこと、広範囲な環境に適応できる魚種が紅海の方に多いことがその理由として挙げられている。", "qas": [ { "question": "地中海に流入した海水魚の種類が多いのは1931年と2006年のどちらですか?", "id": "tr-414-09-000", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "レセップス移動とはどの海から地中海への流入のことをいいますか?", "id": "tr-414-09-001", "answers": [ { "text": "紅海", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "極圏の海は水温が氷点下に達することさえある過酷な環境であるが、北極海および南極海の沿岸・大陸棚にはそれぞれ289種、252種の海水魚が分布している。\n合計72科214属のうち、北極海・南極海の両方に分布するのは10科12属に過ぎず、魚類相の姿は互いに異なっている。", "qas": [ { "question": "海水魚の分布の種類が多いのは北極海と南極海のどちらですか?", "id": "tr-414-10-000", "answers": [ { "text": "北極海", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "北極海と南極海に分布する海水魚の合計は何科何属ですか?", "id": "tr-414-10-001", "answers": [ { "text": "72科214属", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "南北に細長い日本列島周辺の海底地形は極めて複雑で、多様な生息環境を数多くの亜寒帯性・温帯性・亜熱帯性海水魚に提供している。\nまた、太平洋岸の沖合でぶつかり合う二つの海流(親潮と黒潮)は、外洋から多数の回遊魚を迎え入れるとともに、寒帯および熱帯域に住む海水魚の流入をもたらしている。\n日本産の海水魚は3,500種を超えるとみられており、新たな種の報告も年々増加している。\n一方、日本産淡水魚は200種前後が知られ、海産種と比較して著しく少ない。\n南日本に分布する海水魚の多くは、生物地理学的にインド太平洋系の影響を受けている。", "qas": [ { "question": "日本産の海水魚と日本産の淡水魚はどちらの方が種類が多いですか?", "id": "tr-414-11-000", "answers": [ { "text": "日本産の海水魚", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本産淡水魚の種類はどれくらいですか?", "id": "tr-414-11-001", "answers": [ { "text": "200種前後", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "太平洋岸の沖合でぶつかる2つの海流とは黒潮と何ですか?", "id": "tr-414-11-002", "answers": [ { "text": "親潮", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "世界の多くの地域で、海水魚は重要な水産資源として利用される。\n国際連合食糧農業機関(FAO)の統計によれば、世界の魚類総生産量およそ1億トン(2006年)のうち、3分の2以上に当たる約6800万トンが海水魚である。\n特に南北アメリカ・ヨーロッパ・オセアニアの各地域では生産量の大半を海水魚が占め、淡水漁業の10倍以上の規模をもつ。\nアジア・アフリカ地域でも海水魚の漁獲量は淡水魚のそれを上回るが、両地域では大河や大きな湖沼の辺縁で伝統的に淡水漁業が盛んで、近年は内水面養殖業が著しく発達していることもあり、その差は欧米ほど大きくない。", "qas": [ { "question": "南北アメリカで水産資源の生産量が多いのは海水魚と淡水魚のどちらですか?", "id": "tr-414-12-000", "answers": [ { "text": "海水魚", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界の魚類総生産量のうち、生産量が多いのは海水魚と淡水魚のどちらですか?", "id": "tr-414-12-001", "answers": [ { "text": "海水魚", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オセアニアで漁業の規模が大きいのは海水魚と淡水魚のどちらですか?", "id": "tr-414-12-002", "answers": [ { "text": "海水魚", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "日本の魚類生産は圧倒的に海水魚に依存しており、2006年の魚類総生産量377万トンのうち、実に92%に当たる345万トンが海水魚で、淡水魚は8千トン余りに過ぎない。\nこの傾向は1950年代以降一貫して続いている。\n同じアジア地域でも国によって傾向はさまざまで、韓国やフィリピンでは日本と同様に海水魚の生産量が淡水産種を大きく上回る一方、中国やインドでは2000年代以降淡水魚の漁獲の方が多くなっている。", "qas": [ { "question": "日本の魚類生産量は海水魚と淡水魚のどちらが多いですか?", "id": "tr-414-13-000", "answers": [ { "text": "海水魚", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "韓国の魚類生産量は海水魚と淡水魚のどちらが多いですか?", "id": "tr-414-13-001", "answers": [ { "text": "海水魚", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2000年代以降の中国での魚類生産量は海水魚と淡水魚のどちらが多いですか?", "id": "tr-414-13-002", "answers": [ { "text": "淡水魚", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2000年代以降のインドでの魚類生産量は海水魚と淡水魚のどちらが少ないですか?", "id": "tr-414-13-003", "answers": [ { "text": "海水魚", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "魚類の進化の歴史の中で、海水への適応は決して一方通行のものではない。\nカンブリア紀以降、魚類が多様な種分化を遂げる過程で、淡水から海水へ、あるいは逆に海水から淡水への進出・適応が何度も繰り返されてきた。\n現在海水または淡水に限定して分布する種類も、遠い将来には再び異なる環境に適応し得る可能性をもつと考えられている。\nヌタウナギ類は現生の脊椎動物として最も原始的なグループで、その祖先(最初の脊椎動物)は海で進化を遂げたと推測されている。\nやや遅れて出現したヤツメウナギ類は淡水に進出し、現生種は一般的な硬骨魚類と類似した浸透圧調節機構を獲得している。\n古生代デボン紀に淡水域で分化した軟骨魚類は、やがて独自の尿素代謝機構を身につけて海水への適応を果たした。\nその多くはサメ・エイ類として海洋で繁栄した一方、一部の種類は再び淡水での生活に戻っている(いわゆる淡水エイ)。", "qas": [ { "question": "ヌタウナギ類とヤツメウナギ類はどちらが先に出現しましたか?", "id": "tr-414-14-000", "answers": [ { "text": "ヌタウナギ類", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "尿素代謝機構を身につけて海水への適応を果たした魚類は何?", "id": "tr-414-14-001", "answers": [ { "text": "軟骨魚類", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初の脊椎動物が進化を遂げた場所はどこだと言われていますか?", "id": "tr-414-14-002", "answers": [ { "text": "海", "answer_start": 202, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "初期の硬骨魚類は淡水域で進化し、デボン紀には肉鰭類と条鰭類に分かれた。\n前者のうちシーラカンス類は、軟骨魚類と同様の尿素による浸透圧調節機構を得て海水に進出している。\n肉鰭類は多くの四肢動物の祖先と考えられており、尿素を利用した浸透圧調節や水分保持のメカニズムは、その後に出現した多くの陸上脊椎動物にも引き継がれている。\nチョウザメなど初期の条鰭類は淡水で進化したが、遅れて出現した真骨類は塩類細胞と呼ばれる特殊な細胞を分化させることによって海水環境に適応し、中生代ジュラ紀には海に進出している。\n真骨類は白亜紀以降、海水域で急激な種分化を遂げ、現代の水圏で最も繁栄した魚類となっている。", "qas": [ { "question": "硬骨魚類が肉鰭類と条鰭類に分化したの時期はいつですか?", "id": "tr-414-15-000", "answers": [ { "text": "デボン紀", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シーラカンス類は条鰭類と肉鰭類のどちらですか?", "id": "tr-414-15-001", "answers": [ { "text": "肉鰭類", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "条鰭類と真骨類はどちらが先に出現しましたか?", "id": "tr-414-15-002", "answers": [ { "text": "条鰭類", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "真骨類が海に進出した時期はいつ?", "id": "tr-414-15-003", "answers": [ { "text": "中生代ジュラ紀", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "海水には塩化ナトリウムなどの無機塩類がさまざまな濃度で溶け込んでおり、その浸透圧は1,000mOsm(ミリオスモル)に達し、淡水(0.1-1mOsm)よりもはるかに高い。\nこの高浸透圧環境に対し、海水魚は大きく分けて3種類の方法で適応している。\nすなわち、ヌタウナギなどにみられる浸透圧順応型、軟骨魚類・肉鰭類による尿素を利用した浸透圧調節、そして真骨類における塩類細胞を用いたイオン排出機構である。", "qas": [ { "question": "海水と淡水はどちらの方が浸透圧が高いですか?", "id": "tr-414-16-000", "answers": [ { "text": "海水", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "淡水はどれくらいの浸透圧ですか?", "id": "tr-414-16-001", "answers": [ { "text": "0.1-1mOsm", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "塩水に対する魚類の適応範囲はさまざまで、幅広い塩分濃度に対応できる魚類を広塩性魚(euryhalinefishes)、特定の塩濃度環境下でないと生きられないものを狭塩性魚(stenohalinefishes)と呼ぶ。\nウナギ・サケのような回遊魚は広塩性魚の代表であり、河口域など塩分濃度の変化が大きい海域に住む海水魚にも広塩性を示すものが多い。\n狭塩性の海水魚としては、マグロなど外洋性の魚類が多く該当する。\n一部の広塩性魚は塩分を薄めた水に徐々に慣らすことで、淡水魚と同じ水槽で飼育することも可能である。", "qas": [ { "question": "狭塩性魚の代表格は何ですか?", "id": "tr-414-17-000", "answers": [ { "text": "マグロ", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "幅広い塩分濃度に対応できる魚類に属するのはサケとマグロのどちらですか?", "id": "tr-414-17-001", "answers": [ { "text": "サケ", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "特定の塩濃度環境下でないと生きられない魚類を何といいますか?", "id": "tr-414-17-002", "answers": [ { "text": "狭塩性魚", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "0.999...", "paragraphs": [ { "context": "数学における循環十進小数0.999⋯は、\"1\"と同じ数。\n実数として\"0.999⋯\"と「1」は同じ数であると示すことができる。\nこれが等しいことの証明は、実数論の展開、背景にある仮定、歴史的文脈、対象となる聞き手などに合ったレベルで、各種段階の数学的厳密性が相応に考慮された、多様な定式化がある。\n0.999⋯は、省略記号の前の9の個数を多少増減させて0.99999⋯のようにも書くこともある。\n一般に、任意の0でない有限小数(を末尾に無限個の0を付けて無限小数と見たもの)は、末尾に無限個の9が連なる値の等しい双子の表示(例えば8.32と8.31999⋯)を持つ。\nふつうは有限小数表示が好まれることで、それが一意的な表示であるとの誤解に繋がり易い。\n同じ現象は、任意の別の底に関する位取り記数法や、あるいは同様の実数の表示法でも発生する。", "qas": [ { "question": "実数の\"0.999⋯\"と等しい数は何?", "id": "tr-415-00-000", "answers": [ { "text": "「1」", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "0.999⋯の⋯は何と呼ばれていますか?", "id": "tr-415-00-001", "answers": [ { "text": "省略記号", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "0.999⋯と1の等価性は、実数の体系(これは解析学ではもっとも一般的に用いられる体系である)に0でない無限小が存在しないことと深く関係している。\n一方、超実数の体系のように0でない無限小を含む別の数体系もある。\nそのような体系の大半は、標準的な解釈のもとで式0.999⋯の値は1に等しくなるが、一部の体系においては記号\"0.999⋯\"に別の解釈を与えて1よりも無限小だけ小さいようにすることができる。\n等式0.999⋯=1は数学者に長く受け入れられ、一般の数学教育の一部であったにも拘らず、これを十分直観に反するものと見做して、疑念や拒絶反応を示す学徒もいる。\nこのような懐疑論は、「この等式を彼らに納得させることがいかに難しいか」が数学教育の様々な研究の主題となることに正当性を与える程度に当たり前に存在している。", "qas": [ { "question": "0.999⋯と1の等価性を等式で表すとどうなりますか?", "id": "tr-415-01-000", "answers": [ { "text": "0.999⋯=1", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本の数学教育においては、高校数学の数学Iで循環小数の足し算・引き算・10倍が公理として採用されているため、上記の代数的な操作は高校数学の範囲内では正しい証明とされる。", "qas": [ { "question": "循環小数の足し算・引き算・10倍が公理として採用されている教科は何ですか?", "id": "tr-415-02-000", "answers": [ { "text": "数学I", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "0.999⋯という小数点以下の位に無数の9を加えていくという定義自体が解析的である。\nこれが1に等しいことを厳密に証明するには、実解析の手法を必要とする。\n0.999⋯という無限小数を正確にとらえるには、小数部分の位が無数に並ぶことを明確に定義し直すことが必要となる。\n0.999⋯が1に等しいことを証明するには、それらの差が0であることを証明すればよい。\nその分、無数に並ぶ9についての定義はぼやけるが、初等的かつ解析的に導くことができる。", "qas": [ { "question": "0.999⋯が1と等しいことを厳密に証明するために必要とする方法は何ですか?", "id": "tr-415-03-000", "answers": [ { "text": "実解析の手法", "answer_start": 64, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この証明は早くて1770年のレオンハルト・オイラーによるElementsofAlgebraにおいて(実際には9.999⋯=10の証明として)見られる。\n等比級数の公式自体はオイラー以前の成果であるが、18世紀まではその導出がいずれも項別演算を証明なしで行われていた。\n1811年になってやっと、Bonnycastleの教科書AnIntroductiontoAlgebraで等比級数に関する議論を行うことで0.999⋯に関する項別操作を正当化している。\n19世紀には、それまでの自由すぎる無限和の計算に対する反動として、「級数はその部分和の極限として定義される」という、現在の数学でも用いられている定義が生み出された。\nこのころの証明に基づいた微積分学や解析学の入門書においては、関連する定理を証明することによりこの等比級数もはっきりと計算されている。", "qas": [ { "question": "「級数はその部分和の極限として定義される」の定義が生まれたのはいつ?", "id": "tr-415-04-000", "answers": [ { "text": "19世紀", "answer_start": 226, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "AnIntroductiontoAlgebraで等比級数に関する議論を行ったのはいつですか?", "id": "tr-415-04-001", "answers": [ { "text": "1811年", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "公理的集合論を用いて、実数の集合を有理数の集合上で組み立てられたある種の構造として明示的に定義する方法はいくつか存在する。\nまず、自然数とは、ものを数えるときに用いる番号のことであり、0から始めて0,1,2,...と、+1ずつ添加していくことにより得られる。\n自然数を拡張して整数全体を得るには、各自然数の反数を添加すればよい。\nさらにそれらの商を添加すると、有理数全体が得られる。\nこれらの数体系には、加減乗除という四則演算が付随しており、さらに、任意の2数を比較しての大小関係(どちらが大きいか、小さいか、等しいか)という順序をも備えている。", "qas": [ { "question": "ものを数えるときに用いる番号のことを何と言いますか?", "id": "tr-415-05-000", "answers": [ { "text": "自然数", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "各自然数の反数を添加すると、何が得られますか?", "id": "tr-415-05-001", "answers": [ { "text": "整数全体", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "有理数から実数への拡張は(自然数から整数や有理数への拡張と比べて)大きな飛躍である。\nこの拡張の方法は、少なくとも2つの手法がよく知られている。\nともに1872年に発表された有理数の切断によるものとコーシー列によるものである。\nこれらの実数の構成法により0.999⋯=1を証明している実解析の教科書は見られない。\n現代数学では、解析学的に実数を構成し、それが数の公理を満たすかどうかに注意が払われる。\n公理による解析的手法により0.999⋯=1を証明することになるからである。\nしかしながら、実数の構成をより適切に、論理的に行うことにより、0.999⋯=1の証明はもっと直接的になされる(self-contained)と主張する人もいる。", "qas": [ { "question": "1872年に発表された有理数から実数への拡張方法は、有理数の切断によるものと何によるものですか?", "id": "tr-415-06-000", "answers": [ { "text": "コーシー列", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1872年に発表された有理数から実数への拡張方法は、コーシー列によるものと何によるものですか?", "id": "tr-415-06-001", "answers": [ { "text": "有理数の切断", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "デデキント切断による実数の定義は、1872年にリヒャルト・デーデキントによって初めて発表された。\n上記の、実数をそれぞれの小数展開に帰着させる方法は、フレッド・リッチマン(FredRichman)によって雑誌MathematicsMagazineに投稿された\"Is0.999⋯=1?\"という解説論文による説明である。\nこの論文は大学の数学教師とその生徒向けに書かれている。\nリッチマンは、有理数の任意の稠密な部分集合における切断を考えても同様な結果をもたらすことを指摘している。\nその中で彼は、分母が10の冪である分数全体の成す稠密部分集合を用いて、0.999⋯=1の証明をより直接的に与えている。\nまた、x<1となるxは切断を有するが、x≤1となるxは切断をもたないことも指摘し、「これは0.999⋯と1が異なってしまうことを排除するものである。......実数の伝統的な定義の中に、等式0.999⋯=1は最初から組み込まれている」と評した。\nリッチマンは、この手順に修正を加えることで、0.999⋯≠1となる別の構造を導いている。", "qas": [ { "question": "デデキント切断による実数の定義を初めて公にした人は誰ですか?", "id": "tr-415-07-000", "answers": [ { "text": "リヒャルト・デーデキント", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "0.999⋯≠1となる別の構造を導いた人物のフルネームは何ですか?", "id": "tr-415-07-001", "answers": [ { "text": "フレッド・リッチマン", "answer_start": 75, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フレッド・リッチマンが大学の数学教師とその生徒向けに書いた解説論文のタイトルは何?", "id": "tr-415-07-002", "answers": [ { "text": "\"Is0.999⋯=1?\"", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "コーシー列による実数の定義は、最初に(いずれも)1872年にエドゥアルト・ハイネとゲオルク・カントールにより独立に発表された。\n0.999⋯=1の証明を含む、小数展開による上記のアプローチは1970年にグリフィス(Griffiths)とヒルトン(Hilton)の書いた教科書Acomprehensivetextbookofclassicalmathematics:Acontemporaryinterpretation(「古典数学に関する総合教科書:現代的解釈」)に従っている。\nこの教科書は、よく知られた概念について、現代の観点から再検討することを主眼に書かれている。", "qas": [ { "question": "コーシー列による実数の定義が初めて発表された年は?", "id": "tr-415-08-000", "answers": [ { "text": "1872年", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Acomprehensivetextbookofclassicalmathematics:Acontemporaryinterpretationを書いたのはヒルトンと誰ですか?", "id": "tr-415-08-001", "answers": [ { "text": "グリフィス", "answer_start": 101, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コーシー列による実数の定義を発表した人物はゲオルク・カントールともう1人は誰ですか?", "id": "tr-415-08-002", "answers": [ { "text": "エドゥアルト・ハイネ", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "実数は標準的な数体系であるが、\"0.999⋯\"という無数桁の表記がある実数を表すだろうと、我々は自然に考えている。\nウィリアム・ティモシー・ガワーズはMathematics:AVeryShortIntroductionで、等式0.999⋯=1を結論することも同様に『慣習』であると述べている。", "qas": [ { "question": "等式0.999⋯=1を結論することも同様に『慣習』であると述べた人物は誰ですか?", "id": "tr-415-09-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ティモシー・ガワーズ", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "等式0.999⋯=1の証明は直ちに2つの方法で一般化される。\n最初に、まさにその特別な場合において考えられたように、すべての0でない有限小数(すなわち、後に0が限りなく続く)は9が後ろにずっと続く別表現をもっている。\n例えば、0.24999⋯は0.25に等しい。\nこれらは等しい。\n次に、0.999⋯=1に相当する結果を他の基数にも適用することができる。\n例えば二進法では0.111⋯=1であり、三進法では0.222⋯=1である。\n一般に、基数をbとするとき、小数点以下にはb-1が繰り返し並ぶ。\n実解析の教科書は0.999⋯=1の例を飛ばして、これらの一般化のうちの一つか両方を最初から紹介する傾向がある。", "qas": [ { "question": "0.999⋯=1に相当する結果を二進法ではどう表せられますか?", "id": "tr-415-10-000", "answers": [ { "text": "0.111⋯=1", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "0.999⋯=1に相当する結果を三進法ではどのように表記されますか?", "id": "tr-415-10-001", "answers": [ { "text": "0.222⋯=1", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マルコ・ペトカイゼク(MarkoPetkovšek)は、そのように一つの数が複数の方法で表せるということは位取り記数法を用いることの必然的な結果であると述べ、すべての実数を扱う任意の位取り記数法において複数の表現をもつ実数の集合はつねに稠密であることを証明した。\n彼はこの証明を「一般位相空間に関する初級の教育的な練習問題」と呼んだ。\nそれは、位取り記数法の値の集合をStone空間と見ること、その実数表現が連続関数によって与えられることに気づくことを、その証明が含んでいるからである。", "qas": [ { "question": "「一般位相空間に関する初級の教育的な練習問題」と呼んだ人は誰?", "id": "tr-415-11-000", "answers": [ { "text": "マルコ・ペトカイゼク", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミディ(E.Midy)は1836年にこのような分数に関する一般的な結果を証明して、現在はミディの定理と呼ばれている。\nその論文は曖昧であり、彼の証明が直接0.999⋯を含むかどうか定かではない。\nしかし、レーヴィット(W.G.Leavitt)による少なくとも一つの現代的な証明ではそれが含まれている。\nもし、0.b1b2b3⋯という形の小数が正の整数であることを証明できれば、それは0.999⋯に他ならず、それがこの定理において9たちが出現する原因となる。\nこの方向への研究は最大公約数、剰余計算、フェルマー素数、群の元の位数、平方剰余の相互法則などの概念に動機付けを与える。", "qas": [ { "question": "1836年に発表されたミディの証明は、現在何と呼ばれていますか?", "id": "tr-415-12-000", "answers": [ { "text": "ミディの定理", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "TheStraightDopeは「他の掲示板...ほとんどがビデオゲーム」から独立した専用の掲示板で議論を載せている。\n同様の調子で、0.999⋯の問題は、アメリカのゲーム開発会社ブリザード・エンターテイメントのBattle.netフォーラムで最初の7年間にとても一般的な話題であることが分かったため、社長のMikeMorhaimeは2004年4月1日の記者会見で0.999⋯=1であると発表した。\n「我々はこの問題に対しきっぱりと決着をつけることに大変興奮しています。我々は0.999⋯が1に等しいのか等しくないのかについての、心痛や心配に立ち会ってきました。ここに次の証明を提示し、我々の顧客に対して、最終的に断固としてこの問題に対処できることを嬉しく思います。」\n続くプレスリリースで、極限に基づくものと10を掛けるものの2つの証明を提供している。", "qas": [ { "question": "MikeMorhaimeはどこの会社の社長ですか?", "id": "tr-415-13-000", "answers": [ { "text": "ブリザード・エンターテイメント", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "セラム", "paragraphs": [ { "context": "セラム(Selam)ないしディキカ・ベビー(DikikaBaby)は、アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の幼女の化石人骨で、2011年時点で発見されている中ではホミニン最古の幼児化石である。\n2000年12月10日にエチオピアで発見された。\n標本番号はDIK-1-1だが、後述するように、発表当初は「ルーシーの赤ちゃん」(Lucy'sbaby)とも呼ばれていた。\nホミニンの化石人骨は多く見付かっているが、全身骨格となると非常に例が少ない。\nまして幼体は軟骨が多いことから骨が残りにくいにもかかわらず、セラムは全身の骨格が発見された点で高く評価されている。", "qas": [ { "question": "セラムが発見されたのはいつ?", "id": "tr-416-00-000", "answers": [ { "text": "2000年12月10日", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セラムが発見された国はどこ?", "id": "tr-416-00-001", "answers": [ { "text": "エチオピア", "answer_start": 118, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セラムの標本番号は?", "id": "tr-416-00-002", "answers": [ { "text": "DIK-1-1", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セラムの正式な種は何ですか?", "id": "tr-416-00-003", "answers": [ { "text": "アウストラロピテクス・アファレンシス", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "セラムは2000年12月10日に、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所に所属していたエチオピア人の古人類学者ゼレゼネイ・アレムゼゲド(ZeresenayAlemseged)によって発見された。\nエチオピアは重要な化石人骨が多く出土しているが、それらの発見はエチオピア人以外の調査チームによってなされたものばかりであった。\nセラムの発見は、地元エチオピア出身の研究者が初めて達成した業績という点でも特筆に価する。\n発見場所は、アワッシュ川の南に位置する「ディキカ1」(LocalityDikika-1)と呼ばれる地域である。\nエチオピア北東部のこの一帯はその種の人骨が多く発見されてきた場所で、セラムが見付かったのも、アファール猿人の最初の全身骨格であるルーシーが見付かった場所と4kmしか離れていなかった。\nそのため、セラムはしばしば「ルーシーの赤ちゃん」と報道されることになった。\nしかし、ルーシーが生きていたのは318万年前のことなので、実際には332万年前のセラムの方が、15万年近く古い時代を生きていたことになる。", "qas": [ { "question": "セラムの発見者は誰?", "id": "tr-416-01-000", "answers": [ { "text": "ゼレゼネイ・アレムゼゲド", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セラムが発見された地域はどこ?", "id": "tr-416-01-001", "answers": [ { "text": "「ディキカ1」", "answer_start": 228, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルーシーとセラムはどちらが後の時代に生存していましたか?", "id": "tr-416-01-002", "answers": [ { "text": "ルーシー", "answer_start": 399, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "セラムの発見者の出身国はどこ?", "id": "tr-416-01-003", "answers": [ { "text": "エチオピア", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "セラムは、アレムゼゲドの調査隊の一人が、斜面から露出していた頬骨を見つけたことがきっかけとなって発見された。\n残りの部分は砂岩に埋もれており、注意深く砂岩を削って骨格を取り出すのには5年以上を必要とした。\nまた、発表がされた2006年の時点でさえ、まだ全身を取り出せていたわけではなかった。\nこの化石は発見直後にアディスアベバのエチオピア国立博物館(NationalMuseumofEthiopia)に移送され、オリジナルから型取りされた最初の複製も同博物館内の古人類学研究所で作製された。\n残りの骨格を取り出す作業と並行して分析が積み重ねられた。\n2006年9月21日には発見者らによる論文が『ネイチャー』に掲載され、前日にはその発見が公表された。\nそして、関連する記事は『サイエンティフィック・アメリカン』、『ナショナルジオグラフィック』などに順次掲載された。\n日本でも9月21日に全国紙各紙が報じ、前述の『サイエンティフィック・アメリカン』の記事が『日経サイエンス』2007年3月号に、『ナショナルジオグラフィック』の記事が同誌日本版の2006年11月号に、それぞれ訳出された。", "qas": [ { "question": "『サイエンティフィック・アメリカン』と『ナショナルジオグラフィック』に掲載された発見者の論文は、どちらが先に『日経サイエンス』に訳出されましたか?", "id": "tr-416-02-000", "answers": [ { "text": "『ナショナルジオグラフィック』", "answer_start": 446, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "最初に発見されたセラムの化石人骨の部位はどこですか?", "id": "tr-416-02-001", "answers": [ { "text": "頬骨", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セラムの最初の複製はどこの博物館内の研究所で作製されたの?", "id": "tr-416-02-002", "answers": [ { "text": "エチオピア国立博物館", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アレムゼゲドらは公表に合わせてエチオピア国立博物館で記者会見を行なった。\nこれは、エチオピアの文化観光省の指示によるものだった。\nその席上、この化石にもアムハラ語での名前が付けられるべきだという話になった(ルーシーもアムハラ語名「ディンキネシュ」を持っている)。\n「セラム」という名はその席上で聴衆から出され、アレムゼゲドらも賛同したことで付いた名である。\n偶然にも、アレムゼゲド本人の妻の名前も「セラム」だった。\nこれはアムハラ語で「平和」を意味する。\nエチオピアは化石人骨が多く見付かっているが、その一方で民族対立が続いて交戦している地域もある。\nこのセラムが見つかったディキカ周辺もアファール人とイサ人という2つの民族の対立から不安定な状況になっている。\n「セラム」という愛称には、それらの地域に平和がもたらされるようにとの思いが込められているのだという。\nもうひとつの名前「ディキカ・ベビー」は、アファール州のディキカ(Dikika)で発見されたことにちなんでいる。", "qas": [ { "question": "「セラム」とはアムハラ語で何の意味になりますか?", "id": "tr-416-03-000", "answers": [ { "text": "「平和」", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「セラム」の別名は何ですか?", "id": "tr-416-03-001", "answers": [ { "text": "「ディキカ・ベビー」", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ディキカ周辺で対立している民族はイサ人と何ですか?", "id": "tr-416-03-002", "answers": [ { "text": "アファール人", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレムゼゲドの奥さんの名前は?", "id": "tr-416-03-003", "answers": [ { "text": "「セラム」", "answer_start": 198, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "前述の通り、セラムはその発見自体を高く評価する見解がある。\nそれは、セラムの年代の古さ、年齢の幼さ、保存状態の良さの組み合わせに基づくものである。\n年代は、セラムが発見された地層を挟んでいる火山灰層をアルゴン-アルゴン法で測定した結果などから、彼女の年代が見積もられている。\nセラムはおよそ331万年前から335万年前の間に生きており、埋もれている位置からは332万年前とされた。\n前述のように、この年代はルーシーよりも古いものである。", "qas": [ { "question": "セラムが生きていた時期を測定した方法とは何?", "id": "tr-416-04-000", "answers": [ { "text": "アルゴン-アルゴン法", "answer_start": 100, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セラムはどれくらい前に生きていましたか?", "id": "tr-416-04-001", "answers": [ { "text": "332万年前", "answer_start": 179, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「ディキカ・ベビー」や「ルーシーの赤ちゃん」という愛称にも表れているように、この化石人骨は幼女のものであった。\n死亡時の年齢は3歳と見積もられている。\nこの推測は、セラムの乳歯が全て生え揃っている上、生えていない永久歯も顎の中で形成過程にあることなどから導かれたものである。\n性別の判定は、形成されていた永久歯の歯冠部を成体人骨から得られていた計測値と照合し、統計的処理を行うことで導かれた。\nルーシーやAL444-2などの研究から、アファール猿人の性的二形の大きさは知られているが、第二次性徴を迎えておらずそうした特質が表れていない3歳児の性別は、こうした手法によって導く必要があったという。", "qas": [ { "question": "セラムの性別は?", "id": "tr-416-05-000", "answers": [ { "text": "女", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セラムは何歳で死んだとされていますか?", "id": "tr-416-05-001", "answers": [ { "text": "3歳", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "セラムの骨に、動物に襲われたりした傷跡は見られない。\n皮膚は残っていないが、埋没時には皮膚がついたままミイラ化したために、骨が散乱せずに済んだと推測されている。\n死後にも動物に襲われずに済んだ理由については、河川の氾濫によって時間をかけずに土砂に埋もれたことから説明される。\nこのことは、同じ場所で発見された他の動物たちの骨の状態からも裏付けられている。\nアレムゼゲドらは死後まもなく氾濫に呑まれたと推測していた。\nただし、セラムの死因は不明である。\n幼児の骨には軟骨が多いなどの理由で、成人の骨に比べて残りにくい。\nしかし、上記のような好条件に恵まれたことで、良好な保存状態が保たれた。\nなお、セラムの次に古い幼児の骨格はシリアで発見されたネアンデルタール人のもの(約5万年前)で、セラムの古さや保存状態の良さを示すために、しばしば引き合いに出される。", "qas": [ { "question": "セラムの死後すぐに死体が氾濫に呑まれたと推測したのは誰ですか?", "id": "tr-416-06-000", "answers": [ { "text": "アレムゼゲド", "answer_start": 178, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セラムの次に古い幼児の骨格はどこで見つかりましたか?", "id": "tr-416-06-001", "answers": [ { "text": "シリア", "answer_start": 312, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "セラムの次に古い幼児の骨格は、何の種類による化石人類ですか?", "id": "tr-416-06-002", "answers": [ { "text": "ネアンデルタール人", "answer_start": 321, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セラムの次に古い幼児の骨格は何年前のものですか?", "id": "tr-416-06-003", "answers": [ { "text": "約5万年前", "answer_start": 334, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "発見された骨も多い。\n頭骨、胴体、肩甲骨などはほぼ完全で、脚の大部分も保存されており、残存部位は全体の約60%とも推定されている。\n猿人幼児の断片的な頭骨ならば、いわゆる「最初の家族」にも含まれていた。\nしかし、セラムはそれらと異なり、ルーシーでさえ失われていた顔面の骨がきれいに残されており、状態の良い頭骨に下顎骨がくっついたまま発見された。\n後者の発見は、アファール猿人の形態的特質に関して新たな知見を付け加えたと評価された。\nまた、後述するように舌骨や完全な一対の肩甲骨などは、猿人では初めて発見された。", "qas": [ { "question": "ルーシーにはなくてセラムにあった骨とはどこの部位ですか?", "id": "tr-416-07-000", "answers": [ { "text": "顔面", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セラムの残存部位は全体のどれくらいの割合ですか?", "id": "tr-416-07-001", "answers": [ { "text": "約60%", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "セラムの全身骨格は、上半身が類人猿に近く、下半身がヒトに近い。\n彼女の発見は、アファール猿人の歩行に関して既に得られていた知見を裏付けるものであった。\n彼らは直立二足歩行をしてはいたが、体を揺すりながらであり、ずっと直立したまま歩き続けることはできなかった。\nまだ、彼らは樹上での生活に適応しており、普段はそちらでも暮らしていたと分析された。\n現在でこそディキカ周辺は荒涼としているが、沼地、草原、森林が入り混じっていた当時の環境にはよく適合していた。\nただし、こうした分析については、後述するように異論もある。", "qas": [ { "question": "アファール猿人が行っていたのはどんな歩行ですか?", "id": "tr-416-08-000", "answers": [ { "text": "直立二足歩行", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒトの骨格に近いのはどの部分ですか?", "id": "tr-416-08-001", "answers": [ { "text": "下半身", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "類人猿の骨格に近いのはどの部分ですか?", "id": "tr-416-08-002", "answers": [ { "text": "上半身", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "セラムの脳の容量は約330ccである。\nこれは同い年のチンパンジーとあまり変わらないが、成長遅滞が見られる点で重要である。\nセラムの脳は成体のものと比べて65%から88%の大きさで、チンパンジーの脳の成長速度に比べて発達がやや遅い。\nこれは、直立二足歩行をするようになったことで母体の産道がせまくなり、脳の大きな個体を生むことが難しくなっていることに対応したものと考えられている。\nアファール猿人の成体の脳は大きいものでも530ccほどで、まだ脳が大型化しているとはいえないが、セラムによって、その時点ですでに脳の成長遅滞が認められることが明らかになったのである。\n成長が遅い分、赤子は長い期間にわたって母親に掴まっていなければならないが、自分で母体にしがみつけるチンパンジーと異なり、アファール猿人は母親に抱えてもらっていたと推測されている。\n直立二足歩行で両手を使えるようになった母親は、子供を抱えることができるようになった代わりに自分で餌をとることができず、それが社会性を育んだ可能性も指摘されている。\nまた、地面に置いた子供をあやす必要から、言語が発達したという仮説もある。", "qas": [ { "question": "セラムの脳とチンパンジーの脳の成長速度を比較して、速いのはどちら?", "id": "tr-416-09-000", "answers": [ { "text": "チンパンジーの脳", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セラムの脳はどれくらいの容量ですか?", "id": "tr-416-09-001", "answers": [ { "text": "約330cc", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セラムの脳の容量は、同じ年齢の何の動物とほぼ等しいですか?", "id": "tr-416-09-002", "answers": [ { "text": "チンパンジー", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アファール猿人の成体の脳は大きいものでどれほどありますか?", "id": "tr-416-09-003", "answers": [ { "text": "530ccほど", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "セラムには顔の骨も残されており、顔が前に突き出していることや鼻が低いことなど、原始的な要素を備えている。\n他方で、眉の部分が比較的隆起していないことや犬歯が小さめであることなどから、サルの骨と区別することができる。\nセラムの発見も、地表に露出していた頭骨からそれらの特色が読み取れたことによって導かれたものである。\nまた、アウストラロピテクス属の中でA.アフリカヌスではなくA.アファレンシスと確定した根拠として、A.アフリカヌスと比べた場合の鼻骨の小ささと狭さなどが挙げられている。", "qas": [ { "question": "A.アフリカヌスとA.アファレンシスは、どちらが鼻骨が大きいですか?", "id": "tr-416-10-000", "answers": [ { "text": "A.アフリカヌス", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A.アフリカヌスとA.アファレンシスは、どちらが鼻骨が広いですか?", "id": "tr-416-10-001", "answers": [ { "text": "A.アフリカヌス", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セラムの鼻は高いか低いか?", "id": "tr-416-10-002", "answers": [ { "text": "低い", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "セラムの頭骨はCTスキャンにかけられた。\nこの分析は、アディスアベバには適切な機器がなかったため、文化観光省の許可を得た上で、ケニアのナイロビに移送されて行われた。\nそれによってセラムの内耳の三半規管も分析され、それは現代人よりも類人猿のものに近いとされた。\n三半規管は平衡感覚に影響するため、アファール猿人は現代人のように機敏な歩行は難しかったと推測された。", "qas": [ { "question": "セラムの頭骨をCTスキャンしたのはどこの国ですか?", "id": "tr-416-11-000", "answers": [ { "text": "ケニア", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セラムの内耳の三半規管は何によって分析されたの?", "id": "tr-416-11-001", "answers": [ { "text": "CTスキャン", "answer_start": 7, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セラムの三半規管は現代人に近かったのか、それとも類人猿に近かったのか?", "id": "tr-416-11-002", "answers": [ { "text": "類人猿", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セラムの頭骨をCTスキャンしたのはどこの都市ですか?", "id": "tr-416-11-003", "answers": [ { "text": "ナイロビ", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "セラムには現代のゴリラなどに似た舌骨も残っていた。\n舌骨は頭蓋骨に固着していないことから、古い化石人骨で残っていることはほとんどない。\n全身骨格の40%が残っているといわれたルーシーや、66%が残っているトゥルカナ・ボーイにも舌骨は残っておらず、従来の最古記録はイスラエルで発見されたネアンデルタール人骨(約6万年前)であった。\nそのネアンデルタールの舌骨は現代人のものと酷似していたが、それよりも古いホミニンでの構造は不明だった。\n発見者のアレムゼゲドは、彼女の発声はチンパンジーの鳴き声のようなものだったのではないかと推測している。\n舌骨はかつてその個体の言語能力を推測する要素とされていたが、それについては否定的な見解も出されている。\nただ、いずれにしても、舌骨が残っていることは、セラムの保存状態の良さを示す傍証といえる。", "qas": [ { "question": "全身骨格がより多く残っているのはルーシーとトゥルカナ・ボーイのどちらですか?", "id": "tr-416-12-000", "answers": [ { "text": "トゥルカナ・ボーイ", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "セラムの声は何の動物の鳴き声に似ていると推測されましたか?", "id": "tr-416-12-001", "answers": [ { "text": "チンパンジー", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "残っていた全身骨格がより少なかったのはルーシーとトゥルカナ・ボーイのどちらですか?", "id": "tr-416-12-002", "answers": [ { "text": "ルーシー", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "上半身の骨格は比較的良好に保存されており、肋骨も脊柱に沿っており、生前のままのようだった。\nそれらは全体的に類人猿との共通性が認められる。\n残っていた部位で特筆すべきは完全な肩甲骨が残っていたことで、これはアウストラロピテクス属としては初めてだった。\nそれはゴリラのものに似ており、指の長さはチンパンジーに似ていた。\nこれらの特色からは、まだ樹上で枝をつかむことに適していたと判断された。\nただし、この事実をどう評価するかについては、二通りに分かれる。\n一つは、発見者やジョハンソンの立場で、それらの骨格的特長を樹上での生活も行なっていたことの証拠と見るものである。\nもうひとつはオーウェン・ラヴジョイ(OwenLovejoy)らのように、直立二足歩行と関係のない原始的特質が残り続けていただけで、それをもって樹上で生活していたとはいえないとするものである。\n後者の論者の中には、肩甲骨がゴリラに似ているとする解釈自体に異論を唱えるものもいる。\nそれによれば、肩甲棘(肩甲骨の突起部分)の両側にある筋肉がつく窪み部分の面積比は、ゴリラよりもヒトに近いのだという。\nなお、これに関連する点として2011年には、土踏まずの発見を基に、アファール猿人は地上生活に完全に移行していたとする研究も発表された。", "qas": [ { "question": "アファール猿人は樹上生活をしていないと唱えた人は誰?", "id": "tr-416-13-000", "answers": [ { "text": "オーウェン・ラヴジョイ", "answer_start": 290, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アファール猿人の土踏まずが発見されたのは何年でしたか?", "id": "tr-416-13-001", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 496, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アウストラロピテクス属としては初めての発見となる部位とはどこですか?", "id": "tr-416-13-002", "answers": [ { "text": "肩甲骨", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "下半身は、骨盤や股関節のあたりは残っていない。\nただし、大腿骨、脛骨などは大部分保存されており、エンドウ豆やマカデミアナッツに喩えられるような小さなものではあるが膝蓋骨も見られる。\nほかにも、踵の部分の幅広さや、膝から腰にかけての大腿骨の傾きなど、ほかにもヒトに近いとされる特徴は指摘されている。\nこのように下半身は、類人猿に近い上半身と対照的に、現代人のものに近い特徴を示している。\nそのため、直立二足歩行が可能だった。", "qas": [ { "question": "膝蓋骨はエンドウ豆や何に喩えられていますか?", "id": "tr-416-14-000", "answers": [ { "text": "マカデミアナッツ", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "残りにくい幼児人骨のうち、突出して古く保存状態も良かった。\n前述のように、この点を評価する論者は存在しており、日本の新聞で最初に報じられたときにも注目に値する点として、幼児人骨の残りにくさとセラムの完全さを対比する指摘がなされた。\n発見者であるアレムゼゲド自身は、『ナショナルジオグラフィック』において、「一生に一度の大発見です」とコメントしている。\nまた、1974年に最も有名なアファール猿人「ルーシー」を発見したドナルド・ジョハンソン(DonaldJohanson)は、2006年の公表直後に「ルーシーを20世紀最大の発見とすると」「この子はこれまでのところ、21世紀で最大の発見だ」と評した。\n身体的特質を進化の段階とどう結びつけるのかは、上述の通り論者によって差異がある。\nしかし、どう評価するにせよ、キメラ的ともモザイク的とも評される上半身の原始性と下半身の先進性のギャップによって、身体部位ごとに進化の時期が違っていたことが顕著に確認できるという点では、専門家たちも一致している。\nただし、唯一の幼児全身骨格ということは、比較が不可能ということでもある。\nそのため、新たな個体の発見を待たねば、それがアファール猿人の典型的幼児か分からないという指摘も存在する。", "qas": [ { "question": "「一生に一度の大発見です」というコメントが掲載された雑誌名は何?", "id": "tr-416-15-000", "answers": [ { "text": "『ナショナルジオグラフィック』", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ドナルド・ジョハンソンはセラム発見のことをどのように評しましたか?", "id": "tr-416-15-001", "answers": [ { "text": "「この子はこれまでのところ、21世紀で最大の発見だ」", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "セラムが公表されたのは何年?", "id": "tr-416-15-002", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 237, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルーシーとセラムの発見はどちらが先でしたか?", "id": "tr-416-15-003", "answers": [ { "text": "ルーシー", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "小百合葉子", "paragraphs": [ { "context": "小百合葉子は、日本の劇団主宰者、女優だ。児童劇団「劇団たんぽぽ」の創立者、主宰者である。戦前から戦中にかけて舞台、ラジオ、映画などで女優として活躍した。戦後においては、子供たちの笑顔を取り戻し、子供たちに夢と希望を与えるために児童劇団を主宰し、児童演劇に生涯を捧げた。「戦後児童演劇の生き証人」ともいわれる。本名は、山下みゑである。静岡県引佐郡都田村滝沢出身だ。", "qas": [ { "question": "「劇団たんぽぽ」の創立者は誰なの?", "id": "tr-417-00-000", "answers": [ { "text": "小百合葉子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小百合葉子の本名は何?", "id": "tr-417-00-001", "answers": [ { "text": "山下みゑ", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小百合葉子は出身県はどこなの?", "id": "tr-417-00-002", "answers": [ { "text": "静岡県", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "小百合葉子は1901年、静岡県引佐郡都田村滝沢に誕生した。8歳のときに父と死別した。母は実家の川名村へ帰り、葉子は跡取りとして家に残った。大伯父や使用人らに囲まれて不自由ない生活であったが、母恋しさに家を出て、川名の母のもとへ身を寄せた。滝沢と川名は1里程度の距離であったため、葉子は双方の村を行き来して育った。\n\n小学校を卒業後の1914年、浜松市の西園実科高等女学校に入学した。女学校3年の頃、幼少時に孤独感を味わったことから、多くの子供たちを支える職業として、教員を志した。しかし師範学校の受験のために、役所から書類を取り寄せたところ、戸籍上での自分の登録が庶子であることが判明した。父は長男、母も男子のいない家の長女であり、互いに家の跡取り同士のために正式な結婚ができず、母は山下家の籍に入っていなかったのである。このために教員の道を、諦めざるを得なかった。", "qas": [ { "question": "小百合葉子は何年生まれなの?", "id": "tr-417-01-000", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小百合葉子の父は彼女が何歳の時亡くなったか。", "id": "tr-417-01-001", "answers": [ { "text": "8歳", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小百合葉子の母の実家はどこなの?", "id": "tr-417-01-002", "answers": [ { "text": "川名村", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小百合葉子は何年に浜松市の西園実科高等女学校に入学したの?", "id": "tr-417-01-003", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "葉子は失望し、将来を失った自分に勉強は不要として、すぐさま校長室に駆け込み、退学を申し出た。当時の校長である岡本巌が退学後の進路を尋ねると、葉子は「日本一の不良になります」と答えた。岡本は一考して、「卒業だけはしておきなさい。勉強しておけば、日本一どころか、世界一の不良にもなれる」と言った。この岡本校長の気転により葉子は反抗心が氷解し、退学を取消して通学を続けた。\n\nこの女学校在学中に、学校行事の一環で、浜松の歌舞伎座の芝居見物があった。当時の人気役者である川上音二郎らの一座が浜松を訪れており、演目は『桃太郎』であった。劇は子供のために作られたものであり、理解しやすく、面白おかしく作られていた。葉子は舞台に目を奪われ、呼吸すら忘れるほどに演劇の世界に惹きつけられ、劇が終わっても座席で呆然としていたほどであった。\n\n女学校を卒業後、葉子に縁談が持ち上がった。しかし戸籍の問題に加えて、身内にハンセン病患者がおり、当時はハンセン病が遺伝子疾患と誤解されて恐れられていたことから、縁談は破談となってしまった。教員の夢も結婚の話も失った葉子は、自分の人生を自力で切り拓くべく、浜松から都会へ出ることを決心し、大阪へ出て大阪市役所に勤めた。当初は仮採用であったが、その真面目な勤務ぶりが認められ、いずれ正採用にとの話が進んだ。しかし、またも戸籍の問題が理由となり、正採用の話は取り消されてしまった。", "qas": [ { "question": "葉子の大阪市役所での正採用の話が上手く進まなかったのは何が問題だったからでしたか", "id": "tr-417-02-000", "answers": [ { "text": "戸籍", "answer_start": 570, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "葉子は女学校在学中に見た芝居の演目は何?", "id": "tr-417-02-001", "answers": [ { "text": "『桃太郎』", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "葉子の縁談が破談となったのはハンセン病の問題とまたどんな問題のせいでしたか。", "id": "tr-417-02-002", "answers": [ { "text": "戸籍", "answer_start": 386, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1923年、すべてに絶望した葉子は、三重県の四日市へ旅立ち、林の中で睡眠薬のカルモチンを飲んで自殺を図った。しかし死にきれず、通行人に救助され、病院に収容された。\n\nやがて春が訪れ、病院の庭には一面にタンポポの花が咲いていた。子供の頃にもタンポポをよく摘んで遊んでいたものの、殺風景な病室の光景とは対照的に、その庭のタンポポは、太陽の光を受けて星のように輝き、一段と華やいで見えた。葉子は一株のタンポポを病室に飾ろうと、庭で花畑の土を掘った。しかしタンポポの根は予想外に太く長く、掘り起こすことが到底できないことに驚いた。\n\n葉子はこのとき、人に踏まれても力強く育ち、やがて美しい花を咲かせるタンポポのように、自らも苦境に負けず、逞しく生きることを誓った。このエピソードに因んで、後年に俳人の久保田万太郎から「たんぽぽの教えてくれし道の道」の句が葉子に贈られた。", "qas": [ { "question": "1923年、葉子は自殺のために何を飲んだの?", "id": "tr-417-03-000", "answers": [ { "text": "カルモチン", "answer_start": 38, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「たんぽぽの教えてくれし道の道」の句を書いたのは誰?", "id": "tr-417-03-001", "answers": [ { "text": "久保田万太郎", "answer_start": 346, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "葉子は何年に自殺を図ったの?", "id": "tr-417-03-002", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "自殺すら考えるほどの苦境から再起した葉子は、女学校時代に見た川上音二郎らの舞台が心に甦り、演劇を目指した。演劇なら子供たちと共に過ごすことも、子供たちに夢を与えることもできるとの考えであった。1922年、葉子は演劇の勉強のため、東京在住の従兄弟を頼って上京した。当時の東京では大学ごとに演劇勉強会があり、新劇の勉強や合同の公演会が開催されていた。葉子は親戚を頼って住処を決めた後、先述の従兄弟が明治大学の学生であった縁で、明治大学駿台演劇学会に入会し、同会で研究中であった新劇に身を投じた。演劇を勉強しようとする若い女性も女優も少ない時代、同会でも葉子の入会は喜ばれた。\n\n浜松の母から仕送りで、日々の生活費の心配は不要であった。しかし葉子の演劇への志を知った母は、勘当同然の手紙を葉子に送り、仕送りを止めてしまった。当時は役者の職業が世間に理解されず、「河原乞食」と呼ばれて蔑まされていたためである。葉子は仕事を転々とした後、当時の東京ではカフェーが流行し始めたことから、渋谷駅近くのカフェーの女給を経て、新宿三丁目近くのカフェー「まるや・洋食店」で女給として働き始めた。「まるや」には、当時の売出し中の若い作家、画家、音楽家たちが毎日のように訪れており、葉子は彼らと関わりをもった。特に作家の舟橋聖一は葉子の接待ぶりを気に入り、同業だと知って、多方面にわたって葉子を助力した。葉子たちの研究会が舟橋の戯曲の上演を希望すれば、すぐに許可し、ときには自ら演出を引き受けるほどだった。同1923年、芸名の「小百合葉子」が名付けられた。", "qas": [ { "question": "葉子は演劇勉強のために学会に入会したか。", "id": "tr-417-04-000", "answers": [ { "text": "明治大学駿台演劇学会", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、役者の職業が世間に理解されず、何と呼ばれて蔑まされていましたか。", "id": "tr-417-04-001", "answers": [ { "text": "「河原乞食」", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "葉子の芸名が「小百合葉子」に名付けられたのはいつですか。", "id": "tr-417-04-002", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 642, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1929年、劇作家の仲木貞一が、子供を喜ばせる演劇をしたいとの葉子の希望を知り、仲木の師である坪内逍遥に葉子を紹介した。葉子は坪内のもとを訪ねると、坪内の説く児童演劇の大切さ、児童演劇による子供たちの育成に非常に感銘を受け、その日の内に坪内の主宰による早稲田児童演劇研究会に入会した。葉子は坪内を生涯の師と仰ぎ、坪内の没後も、命日の墓参を晩年までほとんど欠かすことは無かった。\n\n翌1930年より、葉子は新劇の舞台を踏み始めた。学生の趣味の範囲の演劇ではなく、本職の者たちによる舞台である。折しも東京ではいくつもの劇団ができ、詩人、劇作家、文学者、画家、音楽家などが多く関る時代であった。その一方で、葉子は坪内との出逢いにより、次第に児童演劇へと傾倒していた。しかし演劇は自分1人ではなく、多くの人々の協力を必要とするため、すぐに実行に移すことはできずにいた。", "qas": [ { "question": "1929年、坪内逍遥に葉子を紹介した人は誰ですか。", "id": "tr-417-05-000", "answers": [ { "text": "仲木貞一", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "葉子は坪内のもとを訪ねて、どんな団体に入会しましたか。", "id": "tr-417-05-001", "answers": [ { "text": "早稲田児童演劇研究会", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "葉子が本職の者たちによる舞台を踏み始めたのは何年からですか。", "id": "tr-417-05-002", "answers": [ { "text": "1930年", "answer_start": 191, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1932年、朝日新聞社の主宰により、故郷の浜松での演劇で、葉子が主演を務めることになった。しかも場所は、かつて葉子が川上音二郎らの劇によりその魅力を知った、あの浜松の歌舞伎座であり、まさに晴れ舞台といえた。しかし葉子の母は依然として役者という職業を理解せず、実娘が浜松で劇をすることを拒み、各団体を困らせていた。そこへ葉子の恩師である母校の岡本校長が乗り出し、母に葉子の現在の職業が決して卑しいものではないことを語って説得し、ようやく母の許可を得ることができた。\n\nまた同1932年には、堀内敬三の指導による『カルメン』において、主役のカルメンを務めた。1934年には真船豊作、久保田万太郎演出の舞台で、脇役ながらも東北弁を巧みに操ることで、一躍にしてその存在を認められるに至った。\n\n葉子は、自分たちの参加している新劇では収入が得られないため、カフェーの女給を続けつつ、様々な演劇の舞台に立った。映画やラジオドラマにも出演した。小柄であったために老女の役も務めた。老女の役を演じれば右に出る者はいないとの声もあった。『西遊記』の三蔵法師の役を務めたこともあった。中でも葉子は最も好んだものが、子供向けのラジオドラマであった。", "qas": [ { "question": "葉子は何年に堀内敬三の指導による『カルメン』に出演したか。", "id": "tr-417-06-000", "answers": [ { "text": "1932年", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1932年、葉子は『カルメン』でどんな役を演じたか。", "id": "tr-417-06-001", "answers": [ { "text": "カルメン", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "葉子は『西遊記』でどんな役を務めたか。", "id": "tr-417-06-002", "answers": [ { "text": "三蔵法師", "answer_start": 465, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この昭和初期から昭和10年代にかけ、葉子は蝙蝠座、さそり座、演技座、創作座などのいくつもの劇団に参加し、活動範囲を広げていった。30歳台を迎えて働き盛りとなった葉子は、映画やラジオの世界でも人気女優となり、新劇の舞台公演にもなくてはならない人材となっていた。1939年から1940年にかけての頃は、主に築地小劇場で多くの舞台に出演し、好評を博していた。葉子の友人でもある著述家の中村チエ子によれば、ドレスや帽子で着飾った葉子が銀座を歩けば、すれ違う人々が「素敵ね、小百合葉子よ」と振り返るほどの人気であったという。私生活では主婦の友社の広告部員の男性と半同棲し、後に結婚した。\n\n1941年に結核を患い、熱海で療養の身となった。そして同年に太平洋戦争が開戦した。多くの若者が出征し、劇団も解散させられ、演劇など不可能な世になりつつあった。葉子も戦争を逃れ、夫の郷里を頼って、長野県松本市笹部へ疎開を強いられた。", "qas": [ { "question": "葉子は何年に結核を患ったか。", "id": "tr-417-07-000", "answers": [ { "text": "1941年", "answer_start": 290, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1945年、太平洋戦争が終結した。日本が無条件降伏し、アメリカ軍に占領されたことで、日本では多くの人々が失望の顔を見せていた。葉子は、こんな時代こそ皆に明るい光を投げかけ、元気をつけさせるべく、女優としての自分が演劇で活動するべきと考えた。同1945年、葉子らの疎開先である長野県更級郡篠ノ井町で、葉子らにより劇団「信濃芸術座」が結成された。後に舞台監督となる水品春樹も、当時の団員の1人であった。\n\n同1945年秋には、信濃芸術座の第1回公演が開催された。敗戦からわずか1か月後であり、まだ演劇を楽しみたいと思うほど心に余裕のある人々は少なかった。葉子は失望せず、「活動を続ければ観劇に来てくれる人は増えるはず」と皆を励ました。その甲斐あり、翌1946年2月2日の第2回公演は大成功を収めた。この公演直前に葉子の母が死去したが、葉子は滅入ることなく、劇団の活動を続けた。葉子は第2回の成功を糧とし、信濃芸術座の長野県の巡業を開始させた。敗戦から立ち直り、芸術や演劇などの美しいものに目を向けようという当時の風潮にあって、信濃芸術座はどこでも拍手喝采を受けた。", "qas": [ { "question": "太平洋戦争は何年に終わったの?", "id": "tr-417-08-000", "answers": [ { "text": "1945年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「信濃芸術座」は何年に結成されたの?", "id": "tr-417-08-001", "answers": [ { "text": "1945年", "answer_start": 121, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "信濃芸術座の第1回公演はいつ開催されたか。", "id": "tr-417-08-002", "answers": [ { "text": "1945年秋", "answer_start": 202, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "信濃芸術座の第2回公演はいつありましたか。", "id": "tr-417-08-003", "answers": [ { "text": "1946年2月2日", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これに気を良くした葉子たちは、東京で演じていた新劇を上演した。しかし東京風の上品な新劇が地方の風潮に馴染みが薄かったことや、敗戦後の人々は芸術性よりも娯楽性を好んでいたことなどが理由で、上演は失敗した。その一方で、村から町へと回って歩く昔ながらの女剣劇は大流行していた。葉子たちは、誰が見ても理解でき、面白い劇をすることに努め、奈良県、広島県、大阪府と巡業の地を広げた。\n\nしかし葉子は、このような商売目的や、単純に人々を楽しませるだけの劇なら、他の一座にもできるとして、芸術座の方向性に疑問を抱いた。かつて坪内逍遥の教わったように、子供を喜ばせる役者を目指すことを考えた。そして葉子は信濃芸術座の解散、劇団の改組を決心した。あちこちで見掛けられた戦災孤児の姿も、葉子の児童演劇への想いを強くした。この最中の1946年、夫の女性問題から離婚した。", "qas": [ { "question": "葉子は何年に離婚したか。", "id": "tr-417-09-000", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 354, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "葉子の離婚は何が原因だったか。", "id": "tr-417-09-001", "answers": [ { "text": "夫の女性問題", "answer_start": 360, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1946年12月26日、葉子たちは巡業を終えて長野に帰り着いた。その年の内に信濃芸術座は解散し、葉子を中心として、児童劇団「劇団たんぽぽ」として再結成された。かつて葉子が入院中に目にしたように、踏まれても枯れず、強く美しく育ち、数々の種を風に乗せて広めてゆく、タンポポのような劇団になりたいと願っての命名である。\n\n翌1947年4月20日、篠ノ井町で、劇団たんぽぽの旗揚げ公演が行われた。演目は小山内薫の翻案によるイギリスの児童劇『そら豆の煮えるまで』、山本有三による『海彦山彦』、そして葉子自身の原作による人形劇『かくれんぼ』であった。客席で身を乗り出し、真剣に見入る子供たちを前にして、葉子は力を込めて、『そら豆の煮えるまで』の主人公の少年を演じきった。", "qas": [ { "question": "信濃芸術座は何年に解散したの?", "id": "tr-417-10-000", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "児童劇団「劇団たんぽぽ」は誰を中心に再結成されたか。", "id": "tr-417-10-001", "answers": [ { "text": "葉子", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1947年4月20日に開かれた劇団たんぽぽの公演には『そら豆の煮えるまで』、『かくれんぼ』、そして何がありましたか。", "id": "tr-417-10-002", "answers": [ { "text": "『海彦山彦』", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "人形劇『かくれんぼ』の原作者は誰?", "id": "tr-417-10-003", "answers": [ { "text": "葉子", "answer_start": 244, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "未だ敗戦の色の残る日本では、母に連れられて劇場に来ることのできない子供も大勢いた。そこで葉子は、自分たちから子供たちのもとへ出向き、方々の学校を借りて劇を演じた。自動車の購入にも不自由する当時、葉子たちは演劇道具の一切をリュックサックに詰め込んで背負い、列車と徒歩だけであちこちの学校を回り、時には講堂で、時には教室で劇を演じた。\n\n興行の資金を得るために、葉子は自分の持ち物で価値のあるものは次々に売り払った。演劇の傍らで、化粧品の行商も行なった。自前の衣服は次々に舞台衣装に仕立て直し、帽子や食器など身の回りのものは何もかもが舞台の小道具となった。母のように一座を支える葉子を、劇団員たちはいつしか「おふくろさん」と呼んで慕うようになった。\n\n葉子たちの苦心しての興業につれ、その評判は次第に広がっていった。長野県内はもちろん、東京、静岡、岐阜などにも呼ばれるようになった。少年院や鑑別所での慰問も多かった。このために少年院や鑑別所を出て、親の手に負えない子供が、葉子のもとに預けられることも多くなった。この子供たちは、劇団内で悪事を働く者も何人かいたものの、多くは劇団の仲間として、生きる希望を見につけていった。当時の葉子は「演劇は面白ければ良いというものではない、子供の心に夢を広げることが大切。そして、この子供たちはいつか大人になるのだから、大人になった時に困らないように、様々なことを教えてあげなければならない」が信念であった。刑務所に講演に行った後、葉子の講演を聞いた受刑者の1人が、出所後にたんぽぽに入団を希望したこともあった。1953年には、活動拠点を長野から葉子の郷里の浜松へと移した。", "qas": [ { "question": "「演劇は面白ければ良いというものではない、子供の心に夢を広げることが大切。そして、この子供たちはいつか大人になるのだから、大人になった時に困らないように、様々なことを教えてあげなければならない」というのは誰の言葉?", "id": "tr-417-11-000", "answers": [ { "text": "葉子", "answer_start": 512, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1953年に、葉子は活動拠点どこに移したか。", "id": "tr-417-11-001", "answers": [ { "text": "浜松", "answer_start": 695, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ありったけの演劇道具を詰めて膨れ上がったリュックを背負い、その姿を露天商の行商と間違われて落胆する劇団員もいたが、葉子は皆を鼓舞して興業を続けた。1956年には、ある人の好意により、劇団たんぽぽはオート三輪を購入することができた。これにより葉子らは、長年のリュックサックを背負っての興行から解放された。\n\n同1956年、長野県山中の小学校での公演中に、葉子は体の不調を訴え、胃癌が発覚した。早期の発見のために手術は成功したが、葉子は自分の命が長くないと思い込み、自分がいなくても劇団に支障が無いよう、道場作りに動き始めた。翌1957年、劇団員たちの宿泊場所兼稽古場として「篠ケ瀬道場」が浜松市篠ケ瀬町に建設され、全国的な活動が開始された。\n\n1960年頃からは、葉子や劇団がテレビや映画に取り上げられ、世間の注目を集めるようになった。同1960年、葉子は日本テレビ『街は明るく-たんぽぽ上京』、フジテレビ『スター千一夜』などにも出演した。\n\n学校では大勢の子供たちが演劇を見に詰めかけ、終演後には「また来てね」と名残惜しそうに、手を振って葉子たちを見送った。葉子は子供たちの祖母ほどの年齢になっても、子供たちにとって人気者であり、舞台の合間の休憩時間には、様々な話を子供たちに聞かせた。かつて自分を再起させたタンポポの花の逞しさを、舞台挨拶で子供たちに説くことも多かった。", "qas": [ { "question": "劇団たんぽぽは何年にオート三輪を購入したか。", "id": "tr-417-12-000", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "葉子の胃癌は何年に発見されたか。", "id": "tr-417-12-001", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 154, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1956年に発見された葉子の胃癌の手術は成功したか、失敗したか。", "id": "tr-417-12-002", "answers": [ { "text": "成功", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "葉子が日本テレビ『街は明るく-たんぽぽ上京』に出演したのは何年のことですか。", "id": "tr-417-12-003", "answers": [ { "text": "1960年", "answer_start": 368, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1962年、静岡県での公演中に、観客の1人に、沖縄から静岡の学校に研修に来ていた教員がいた。その教員は、本土の子供たちが素晴らしい演劇を見ることができることに感動し、未だアメリカによる統治下にある沖縄の子供たちに、劇団たんぽぽの劇を見せることを、葉子に依頼した。葉子は快く、沖縄公演を約束した。時代は沖縄返還の十年前であり、当時はまだ沖縄行きのためにはパスポートが必要で、沖縄公演は容易なことではなかったが、葉子の信念は固かった。\n\n沖縄公演の話が進んでいた矢先の翌1963年、篠ケ瀬道場が火災に遭って全焼した。劇団員たちに被害は無く、知人の好意による仮道場と事務所で劇団活動を続行することができたが、沖縄公演は中止にせざるを得ないとの声が上がった。しかし葉子は、沖縄公演決行の意思を貫き通した。\n\nそんな葉子のもとへは、道場が焼けた後の公演先で多くの子供たちから、見舞いの言葉や金が贈られた。中でも、公演予定の無い遠地からの1通の手紙は一際、葉子の目に留まった。幼い子供からのもので、1枚の50円玉が丁寧に台紙に貼りつけられており、「やっと貯めることができたこの大金を、家を建てたり沖縄に行くのに使ってください」とあった。道場の焼失や多くの見舞いにも泣かずに通した葉子は、この手紙に初めて涙を流した。この子供に留まらず、公演先では同じようなことが続き、「私のお小遣い」といって恥しそうに金を渡す少女、大量の5円玉を紐に通した首輪を葉子の首にかける学校もあり、葉子をさらに涙させた。", "qas": [ { "question": "篠ケ瀬道場が火災に遭って全焼したのは何年のことですか。", "id": "tr-417-13-000", "answers": [ { "text": "1963年", "answer_start": 233, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同1963年、葉子ら数人が沖縄にわたっての事前交渉を経て、劇団たんぽぽ沖縄後援会が発足して、沖縄公演が実現した。同1963年11月11日には当時のNHKの人気番組『私の秘密』に、「沖縄の子供たちへ演劇を運んで行く者」として、葉子が出演した。このときには放送作家の西沢実が沖縄公演を励ますために作った詩『沖縄にとぶたんぽぽ』を、中村メイコが朗読した。\n\n同1963年11月12日、初の沖縄公演が開始された。本土から離れた沖縄では、葉子らは大歓迎され、新聞、テレビ、ラジオでも大きく報道された。同1963年11月21日に那覇市の城北小学校での開催では、開演前まで騒がしかった数百人の小学校たちが、開園後は次第に舞台に吸いつけられ、文字通り劇に溶け込むほどの反応を示した。終演後は喝采が送られ、「面白かった」「楽しかった」など、初めて見る教育劇に話を弾ませていた。", "qas": [ { "question": "『私の秘密』に、「沖縄の子供たちへ演劇を運んで行く者」として、葉子が出演したのはいつですか。", "id": "tr-417-14-000", "answers": [ { "text": "1963年11月11日", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "葉子の初の沖縄公演はいつ始まったか。", "id": "tr-417-14-001", "answers": [ { "text": "1963年11月12日", "answer_start": 177, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "約4か月間にわたって行われた沖縄公演は、教育界に反響を広げた。以後、沖縄公演は劇団たんぽぽの恒例行事となり、葉子の存命中に1966年まで3回にわたって行われ、葉子は沖縄で三度の正月を迎えた。葉子の、地味ではあるが文化的な努力は政府筋からも認められ、40万円の援助金まで支給されるに至った。\n\nこの沖縄公演の最中の1964年1月10日、沖縄本島の南部である与那原町の学校で、劇団たんぽぽの人形劇を見に来ようとした小学生2人が、トラックに轢かれて死亡するという事故が発生した。葉子は心を痛め、子供たちを守るための地蔵を作ることを約束した。同1964年6月、葉子は約束通り地蔵を携えて沖縄を訪れ、死亡した子供たちの生地である南風原村に、山田真山の設計による地蔵堂が建てられた。このことは各メディアで大きく報道された。この事故を起こしたトラックの運転手は、刑期を終えた後、地蔵堂に詣りたいとの思いから、葉子が沖縄を訪れた後、彼女のもとへ駆けつけた。葉子は喜んで、運転手と共に地蔵堂を参った。この運転手が劇団員となったのは、その翌日のことであった。\n\n東海道新幹線が開通し、日本が高度経済成長の波に乗ってもなお、1965年時点で沖縄から静岡への就職者はわずか3人であったが、翌1966年には葉子の信用から、就職者は約百人に登った。葉子はこの信頼に応えるべく、正月も帰郷できない集団就職者たちの支援も行った。\n\n同1966年3月には浜松市民会館で、総理府の主催による「沖縄と浜松を結ぶ集い」が開催された。参会者は県知事以下の名士、約千人に昇った。新聞報道によれば、葉子は「観劇の拍手の渦に取り込まれて立ち往生していた」という。", "qas": [ { "question": "総理府の主催による「沖縄と浜松を結ぶ集い」が開催されたのはいつですか。", "id": "tr-417-15-000", "answers": [ { "text": "1966年3月", "answer_start": 601, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1966年3月の「沖縄と浜松を結ぶ集い」はどこで開催されたか。", "id": "tr-417-15-001", "answers": [ { "text": "浜松市民会館", "answer_start": 610, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "沖縄本島の南部である与那原町の学校で、劇団たんぽぽの人形劇を見に来ようとした小学生2人が、トラックに轢かれて死亡するという事故が発生したのはいつですか。", "id": "tr-417-15-002", "answers": [ { "text": "1964年1月10日", "answer_start": 156, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同1966年、劇団たんぽぽの創立20周年事業の一つとして、日本の児童演劇の質的向上のための活動拠点として、「青少年演劇センター」の建設が計画された。しかし高度成長期の地元経済界、政界の事情、政治的な沖縄問題などの辛味が問題となった。センターは後の1969年に一応完成したものの、最終的には不動産会社の所有となり、葉子には多大な借金のみが残される結果となった。\n\n同1966年、創立20周年記念事業の一環として、劇団たんぽぽの北海道公演が企画された。以来、たんぽぽ北海道事務所が開設されて、北海道教育庁の予算で巡回小劇場が実施された。\n\n翌1967年、葉子は第2回北海道公演の折に、網走刑務所への慰問を申し込んだ。それまで同刑務所での数少ない慰問は高校演劇、民謡、映画などであり、本格的な演劇慰問は劇団たんぽぽが初であったが、刑務所からは「慰問お断り」の連絡が入った。自ら慰問を申し込む者の中には、受刑者と何らかの接触を図る者がおり、今回もその類ではないかと危惧されたことが理由である。葉子は納得できず、自らタクシーを飛ばして刑務所へ向かった。刑務所が葉子の真意と人柄を理解し、疑問は氷解した。慰問の日には、受刑者たちが進んで葉子らの劇の準備を手伝い、劇中では受刑者たちは幼い子供に戻ったかのように大きな反応を見せた。刑務所の係の者が「こんなふうなことは初めて」と言ったほどであった。\n\n翌1968年7月28日、明治百年を記念する祭典として、社団法人日本演劇協会主催による女優祭が、国立劇場で開催された。日本に女優が誕生して以来の、故人を含む1816名の女優の中から、30名のみの表彰者として、田中絹代や山田五十鈴らといった著名な女優たちと共に、葉子も表彰を受けた。\n\n女優祭の表彰式においては、司会者の高橋圭三が「明治百年女優祭に最も相応しい電報」と紹介し、代表の祝電として1通のみ、網走刑務所職員と収容者一同から葉子宛ての祝電を読み上げた。葉子は、他の大女優ら宛ての祝電が読まれるだろうと思っていたところへ、自分あての祝電が紹介され、驚きながらも起立して頭を下げ、大勢の来客から湧き上がる拍手に包まれた。", "qas": [ { "question": "劇団たんぽぽの創立20周年事業の一つとして、日本の児童演劇の質的向上のための活動拠点として、「青少年演劇センター」の建設が計画されたのはいつですか。", "id": "tr-417-16-000", "answers": [ { "text": "1966年", "answer_start": 1, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「青少年演劇センター」が一応完成したのはいつですか。", "id": "tr-417-16-001", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "明治百年を記念する祭典として、社団法人日本演劇協会主催による女優祭が開催されたのはいつですか。", "id": "tr-417-16-002", "answers": [ { "text": "1968年7月28日", "answer_start": 594, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "劇団たんぽぽの北海道公演が企画されたのはいつですか。", "id": "tr-417-16-003", "answers": [ { "text": "1966年", "answer_start": 182, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "バスク州", "paragraphs": [ { "context": "バスク州(バスクしゅう、バスク語:Euskadi[eus̺kadi],スペイン語:PaísVasco[paˈizˈβasko],英語:BasqueCountry,フランス語:PaysBasque)は、スペイン北部にある自治州。\nピレネー山脈の西側に位置し、北側は大西洋のビスケー湾に面している。\nアラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県の3県で構成されている。\nスペイン1978年憲法(現行憲法)によって、バスク州はスペインにおいて強力な自治権を得た。\n行政区分としてのバスク州はゲルニカ憲章(バスク自治憲章:スペイン領バスクに住むバスク人の発展のための枠組みを提供する基本的な法的文書)に基づいているが、バスク人が多く住むナバーラ県はバスク州から除外され、単独でナバーラ州となった。\nバスク州には公式な州都は存在しないが、バスク議会やバスク州政府の本部が置かれるアラバ県のビトリア=ガステイスが事実上の州都である。\n人口が最も多い自治体はビスカヤ県のビルバオである。", "qas": [ { "question": "アラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県の3県で構成されているスペインの自治州とは何?", "id": "tr-418-00-000", "answers": [ { "text": "バスク州", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バスク州の中で人口が最も多い自治体はどこ?", "id": "tr-418-00-001", "answers": [ { "text": "ビルバオ", "answer_start": 423, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バスク州の事実上の州都はどこ?", "id": "tr-418-00-002", "answers": [ { "text": "ビトリア=ガステイス", "answer_start": 384, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バスク人の居住地という文化的領域としてのバスク地方と、行政区分としてのバスク州との混同には注意が必要である。\nバスク地方やバスク州を指す呼称として、バスク語にはエウスカル・エリア(EuskalHerria)とエウスカディ(Euskadi)があるが、この2種類はバスク州のみを指す場合と、バスク地方全体を指す場合があり、個人の立場や政治社会的文脈によって様々である。\nエウスカル・エリアは「バスク語の話されるくに」を意味し、エウスカディはバスク・ナショナリズムの始祖サビノ・アラナの造語である。\nカスティーリャ語でバスク州はパイス・バスコ(PaísVasco)またはエウスカディと呼ばれ、バスク地方全体を指す場合にバスコニア(Vasconia)という単語が使われる場合がある。", "qas": [ { "question": "エウスカル・エリアとエウスカディはどちらの言葉が造語なの?", "id": "tr-418-01-000", "answers": [ { "text": "エウスカディ", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バスク地方全体を指すカスティーリャ語の単語とは何?", "id": "tr-418-01-001", "answers": [ { "text": "バスコニア", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "西はカンタブリア州とカスティーリャ・イ・レオン州、南はラ・リオハ州、東はナバーラ州およびフランスと接しており、北は大西洋のビスケー湾に面している。\nエブロ川がラ・リオハ州との自然州境を形成している。\n東西に並行して走る2本のバスク山脈によって、バスク州は地理的に3地域に分けることができる。\nビスケー湾に面した北部の「大西洋岸」、地中海に流れ込むエブロ川流域にあたる南部の「エブロ谷」、両者の中間部のアラバ盆地と呼ばれる高原地帯である。", "qas": [ { "question": "バスク州の中間部にある盆地の名前は?", "id": "tr-418-02-000", "answers": [ { "text": "アラバ盆地", "answer_start": 200, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バスク地方とラ・リオハ州の州境にあるものは何?", "id": "tr-418-02-001", "answers": [ { "text": "エブロ川", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バスク山脈からビスケー湾に流れ込むネルビオン川、ウロラ川、オリア川、ウルメア川、ビダソア川などの小河川が内陸部に小盆地を形成している。\n海岸部はリアス式海岸が続き、高い崖や小さな入江で構成されていることから、天然の良港を抱える。\n砂浜海岸は少なく、レケイティオやサン・セバスティアンなど一部に限られる。\nビルバオ・アブラ湾、ビルバオ河口、ウルダイバイ河口、フランスとの国境を形成しているチングディ湾などの地形が特徴である。\n海岸部に住むバスク人は捕鯨におけるヨーロッパの先駆者であり、ビスケー湾沿岸にはベルメオ、オンダロア、サラウツ、オンダリビアなど、紋章に鯨の図柄を含む自治体が少なからず存在する。\n協同での捕鯨や遠洋漁業に代表されるように、ビスケー湾岸地域は山間部に比べて集団主義志向であるとされる。", "qas": [ { "question": "ビルバオ・アブラ湾とチングディ湾のうち、フランスとの国境を形成しているのはどちら?", "id": "tr-418-03-000", "answers": [ { "text": "チングディ湾", "answer_start": 193, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヨーロッパにおける捕鯨のパイオニアはどこの民族ですか?", "id": "tr-418-03-001", "answers": [ { "text": "バスク人", "answer_start": 218, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "二つの山脈の間の地域はアラバ盆地と呼ばれる高原があり、アラバ盆地の中央部には州都ビトリア=ガステイスが位置している。\n河川は山地や盆地からエブロ川に向かって流れ、主な河川にはサドーラ川やバジャス川などがある。\n北部と中間部の間にはバスク山脈の一部であるゴルベア山地やウルキージャ山地が横たわっており、アラバ県とギプスコア県の県境にはバスク州の最高峰であるアイスコリ山(1,551m)がある。", "qas": [ { "question": "バスク州の州都は何という盆地に位置しているの?", "id": "tr-418-04-000", "answers": [ { "text": "アラバ盆地", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バスク州で最も高い山は?", "id": "tr-418-04-001", "answers": [ { "text": "アイスコリ山", "answer_start": 177, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "南部のエブロ川流域はリオハ・アラベサと呼ばれ、ラ・リオハ州やアラゴン州などと地中海沿岸的特性を共有している。\nブドウの生産が盛んなリオハ地方はラ・リオハ州だけでなくアラバ県にもまたがっており、この地域で収穫されたブドウからリオハ・ワインとして知られる赤ワインが製造されている。\n中間部と南部を隔てる山地は標高1,000m程度であり、この山地の南側にはカスティーリャ・イ・レオン州の飛地であるトレビニョがある。", "qas": [ { "question": "リオハ・ワインの産地はどこ?", "id": "tr-418-05-000", "answers": [ { "text": "リオハ地方", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トレビニョはどこの飛び領地なの?", "id": "tr-418-05-001", "answers": [ { "text": "カスティーリャ・イ・レオン州", "answer_start": 175, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "バスク山脈は大西洋と地中海に注ぐ河川を隔てる分水嶺であり、バスク山脈を境にバスク州の気候は明確に区分される。\nビスカヤ県やギプスコア県北部の谷、アラバ県のアジャラ谷などはエスパーニャ・ベルデ(スペインの北部大西洋岸地域)の一部であり、湾岸部は西岸海洋性気候(CfB)である。\n一年中湿度が高く、過ごしやすい気温である。\n年間降水量は約1,200mmであり、イベリア半島内で最も降水量が多い地域である。\nビルバオの1日あたり日照時間は最長を記録する7月が6.06時間、最短を記録する12月が2.51時間である。\n年間日照時間は1,584時間であり、エスパーニャ・ベルデを除いたスペインの他地域の半分程度、北ヨーロッパのロンドン(イギリス)やワルシャワ(ポーランド)などと同程度である。\n中央部のアラバ盆地は大陸性気候の影響が大きいが、北部の海洋性気候も混じり合い、乾燥して暖かい夏季と寒く降雪のある冬季をもたらす。\n南部のエブロ谷は純粋な大陸性気候であり、冬季は寒く乾燥し、夏季はとても温かく乾燥する。\n降水量は春季と秋季がピークであるが、希少かつ不規則であり、年間300mm程度の少なさである。", "qas": [ { "question": "バスク州の湾岸部と南部はどちらが年間降水量が多い?", "id": "tr-418-06-000", "answers": [ { "text": "湾岸部", "answer_start": 117, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "湾岸部の年間降水量はどれくらいですか?", "id": "tr-418-06-001", "answers": [ { "text": "約1,200mm", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビルバオの年間日照時間は何時間ですか?", "id": "tr-418-06-002", "answers": [ { "text": "1,584時間", "answer_start": 262, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バスク州はアラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県の3県で構成され、それぞれの県都はビトリア=ガステイス、ビルバオ、サン・セバスティアンである。\n1979年の自治州発足後、全252のムニシピオ(基礎自治体)のうち187のムニシピオが自治体名の改名を行った。\nその多くはスペイン語名をバスク語名に改名したものだが、二言語の名称をハイフンで連結した自治体や、スラッシュで分けた自治体も見られる。\nハイフンで連結された場合には二者択一性は担保されておらず、全体で1つの名称として扱われる。\nスラッシュで分けられた場合は、使用する言語環境によって二者のうちいずれかを選択する。", "qas": [ { "question": "ギプスコア県の県都は?", "id": "tr-418-07-000", "answers": [ { "text": "サン・セバスティアン", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バスク州の人口は約215万人であり、スペインの自治州内における順位は第7位、スペイン全体に占める割合は4.9%である。\nバスク州で人口が最も多い自治体はビルバオであり、州人口の半分の約100万人はビルバオ都市圏に住む。\n人口上位の10自治体のうち、6自治体(ビルバオ、バラカルド、ゲチョ、ポルトゥガレテ、サントゥルツィ、バサウリ)がビルバオ都市圏にある。\nバスク州の人口のうち、28.2%はバスク州外生まれである。", "qas": [ { "question": "バスク州で居住人口が最多の自治体はどこ?", "id": "tr-418-08-000", "answers": [ { "text": "ビルバオ", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "人口上位の10自治体のうち半分以上がビルバオ都市圏にあるというが、それはいくつの自治体か?", "id": "tr-418-08-001", "answers": [ { "text": "6自治体", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バスク州の人口は何人?", "id": "tr-418-08-002", "answers": [ { "text": "約215万人", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "19世紀末には急激な工業化によって人口が大きく増加し、1877年に45万人だった人口は1900年には60万人となった。\n20世紀の100年間を通してスペインの他地域から移住者がやってきており、特にガリシア州とカスティーリャ・イ・レオン州からの移住者が多い。\n1950年代以後の高度経済成長期には大量の労働者が流入し、1950年に104万人だった人口は1975年には約2倍の207万人に達した。\n1970年代半ば以降には技術者や熟練労働者が大量に流出し、1975年から1991年までに13万人以上の社会減を記録した。\n20世紀末にはかなりの人口がスペイン国内の自身の出身地に戻ったが、逆に南アメリカなど国外からの移民は増加している。\nスペインの総人口に占める比率は徐々に低下し、また急速に少子高齢化が進行している。\nホセ・アランダ・アスナールによれば、バスク州の人口の30%は地域外で生まれ、40%はバスク人の親を持っていない。", "qas": [ { "question": "1877年と1900年のバスク州の人口はどちらが多い?", "id": "tr-418-09-000", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1950年と1975年のうち、人口が少ない年はどちら?", "id": "tr-418-09-001", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 129, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1833年に県という枠組みが導入されてから、スペイン1978年憲法制定とバスク州発足まで、アラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県の3県はカスティーリャ語ではプロビンシアス・バスコンガダス(バスクの県)という名称で知られていた。\n1931年にはスペイン第二共和政が成立し、ホセ・アントニオ・アギーレらはエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)を作成したが、この際には共和国政府に容認されず廃案となった。", "qas": [ { "question": "プロビンシアス・バスコンガダスに含まれるのはビスカヤ県とギプスコア県の他に何があるの?", "id": "tr-418-10-000", "answers": [ { "text": "アラバ県", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エステーリャ憲章の作成者は誰?", "id": "tr-418-10-001", "answers": [ { "text": "ホセ・アントニオ・アギーレ", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペイン内戦中の1936年10月1日、バレンシアに移転した共和国議会でバスク自治憲章が成立し、バスク自治法が公布されてバスク自治政府が樹立されたが、この時点でナバーラ県とアラバ県の一部は反乱軍側にあり、共和国側の領域となったのはビスカヤ県の全域とギプスコア県の一部だけだった。\n10月7日には現在のバスク州の前身であるバスク自治政府が発足し、アギーレが初代レンダカリ(首相)に就任した。\nバスク軍警察やバスク大学を創設するなどして自治を行ったが、スペイン内戦では反乱軍の後押しを受けたナチス・ドイツ軍によるゲルニカ爆撃などが行われ、バスク自治政府は支配領域を全て失って亡命政府となった。\nバスク亡命政府はバルセロナ、パリ、ニューヨークと拠点を変え、自治憲章が無効とされたバスク地方ではバスク語文化とそれに結びつく象徴的行為が抑圧された。\nスペイン内戦は反乱軍を率いたフランシス・フランコの勝利に終わり、第二次世界大戦後、1950年代初頭には国際連合やアメリカ合衆国が相次いでフランコ政権との協力体制を構築。\nナチスを想起させるバスク・ナショナリズムは西ヨーロッパ諸国に見限られた。\nこのため1952年には地下組織のEKINが結成され、1959年にはバスク祖国と自由(ETA)に発展した。", "qas": [ { "question": "バスク自治政府の初代首相を務めた人は誰?", "id": "tr-418-11-000", "answers": [ { "text": "アギーレ", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スペイン内戦時の反乱軍のリーダーは誰だったの?", "id": "tr-418-11-001", "answers": [ { "text": "フランシス・フランコ", "answer_start": 383, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "EKINはその後何に発展したの?", "id": "tr-418-11-002", "answers": [ { "text": "バスク祖国と自由", "answer_start": 524, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1950年代にはビスカヤ県とギプスコア県で工業発展が開始され、1960年代にはアラバ県にも工業発展が広がると、近隣諸県から大量に労働者が流入した。\n1960年代以降には外国資本が導入されるようになり、ビスカヤ高炉などの製鉄企業が発展した。\n1960年代にはバスク州の域内総生産はスペイン最大の伸び率を示し、1973年にはスペインの工業生産高の56%を産出していた。\nバスク地方の生活水準は上昇し、1975年にはビスカヤ県の個人所得がスペインの50県中1位となったが、硫黄や塩素などによる生態系への悪影響などが指摘され、また1973年のオイルショックでは経済が大きな打撃を被った。\nまた、都市部への人口集中が顕著になり、経済発展とともにバスク民族意識が薄れ始めた。\n1975年にはフランコが死去し、スペインでは民主化への移行が開始された。", "qas": [ { "question": "ビスカヤ県、ギプスコア県、アラバ県の中で最も遅く工業発展した県はどれ?", "id": "tr-418-12-000", "answers": [ { "text": "アラバ県", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペインで民主化が始まったのは何年からですか?", "id": "tr-418-12-001", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 332, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バスク州の工業経済が大きな打撃を受けたのは何年ですか?", "id": "tr-418-12-002", "answers": [ { "text": "1973年", "answer_start": 261, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "スペイン1978年憲法は自治州の設置を認めており、1979年にはゲルニカ憲章(バスク自治憲章)がスペイン国会で承認された後にバスク地方での住民投票でも承認され、アラバ、ビスカヤ、ギプスコアの歴史的3領域の自治組織としてのバスク州が発足した。\n3県の県境は1833年以前の伝統的境界区分をほぼそのまま踏襲したものである。\nスペイン1978年憲法はフエロなど各地域の歴史的権利を認めており、バスク州は教育・警察・厚生などの分野で大幅な自治権が認められた。\n今日では世界で最も地方分権化が進んだ地域の一つとされ、『ザ・エコノミスト』誌は「ヨーロッパのどこよりも高い自律性を持つ」としている。\nこの時点ではナバーラ県はバスク州には含まれておらず、憲法ではナバーラ県の意思に基づいてバスク州への統合が可能とされたが、結局1982年に単独でナバーラ州に昇格した。\n1980年にはバスク州議会議員選挙が行われ、バスク民族主義党が第一党に、バスク州政府としての初代首相(バスク自治政府時代も含めれば第3代)にカルロス・ガライコエチェアが選出された。", "qas": [ { "question": "『ザ・エコノミスト』誌において、「ヨーロッパのどこよりも高い自律性を持つ」と評価されている州はどこ?", "id": "tr-418-13-000", "answers": [ { "text": "バスク州", "answer_start": 193, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バスク州政府の初代首相を務めた人は誰?", "id": "tr-418-13-001", "answers": [ { "text": "カルロス・ガライコエチェア", "answer_start": 446, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1975年から1985年まで、バスク州の域内総生産はマイナスとなり、1985年にはビスカヤ県で26%、ギプスコア県で22%という高い失業率を記録した。\nバスク州は重工業一極型の産業構造・石油依存社会からの転換を図り、1990年の湾岸危機による石油価格高騰の影響も比較的軽かった。\n1990年頃には第三次産業従事者割合が就業人口の50%を超え、2002年の経済成長率は欧州連合(EU)平均を上回る1.8%、失業率は8.3%にまで回復した。\n3県都の郊外には工業団地が設置されて企業が誘致され、工業都市だったビルバオはビルバオ・グッゲンハイム美術館の開館に象徴されるように文化産業都市としてよみがえった。", "qas": [ { "question": "1985年に記録された失業率が高かったのは、ビスカヤ県とギプスコア県のどちら?", "id": "tr-418-14-000", "answers": [ { "text": "ビスカヤ県", "answer_start": 41, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第三次産業従事者の割合が就業人口の半数を超えたのは何年でしたか?", "id": "tr-418-14-001", "answers": [ { "text": "1990年頃", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "バスク祖国と自由(ETA)はスペインの民主化以後もテロ行為を敢行しており、バスク経済が一定程度回復するとテロリズムの克服が最大の懸念事項となった。\nETAの政治部門はHB(人民統一)、エリ・バタスナ(EH、われらバスク人民)、バタスナなどと名を変えて常にある程度の支持を得ていたが、2002年にホセ・マリア・アスナール政権によって非合法化されると活動拠点をフランス領バスクに移した。\n2004年にはイスラム過激派によるマドリード列車爆破テロが起こったが、スペイン政権与党の国民党(PP)はETAの犯行と即断したことで国民の信頼を失い、スペイン社会労働党(PSOE)が政権与党に返り咲く引き金となった。\nETAは1968年の武力闘争開始以後に800人以上を殺害し、1989年、1996年、1998年9月、2006年3月、2010年には休戦または停戦を宣言してスペイン政府との交渉に臨んだが、いずれの宣言も短期間で破棄して武力闘争を再開した。\n2000年代後半以降にはスペイン当局によって450人以上のメンバーが逮捕され、軍事的・政治的に弱体化したとされている。\nBBCはETAとスペイン政府との衝突を「ヨーロッパ史上もっとも長い戦争」と表現したが、ETAは2011年に再度休戦を宣言した。", "qas": [ { "question": "バスク祖国と自由は2002年から活動拠点をどこに移したの?", "id": "tr-418-15-000", "answers": [ { "text": "フランス領バスク", "answer_start": 178, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2004年に起こったマドリード列車爆破テロの犯行は、PPからどこの組織だと判断されましたか?", "id": "tr-418-15-001", "answers": [ { "text": "ETA", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ETAが1968年の武力闘争開始以後に4度目の休戦または停戦宣言をしたのはいつでしたか?", "id": "tr-418-15-002", "answers": [ { "text": "2006年3月", "answer_start": 351, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2003年にはバスク州首相のフアン・ホセ・イバレチェがゲルニカ憲章改正案(イバレチェ・プラン)が自治州議会に提議した。\nこの改正案ではバスク地方をスペイン連邦国家を構成する一国家のごとく位置づけており、1年以上の議論を経てバスク州議会が承認したが、スペインの不可分一体性を崩しかねないこのプランはスペイン下院に否決された。", "qas": [ { "question": "ゲルニカ憲章改正案を提議した人は誰?", "id": "tr-418-16-000", "answers": [ { "text": "フアン・ホセ・イバレチェ", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バスク州はトレビニョ(カスティーリャ・イ・レオン州・ブルゴス県)とバリェ・デ・ビジャベルデ(カンタブリア州)という二つの他州の飛地を有している。\n人口約2,000人、アラバ県の県都ビトリア=ガステイスの南に隣接するトレビニョは2006年時点で13.5%がバスク語話者であり、バスク州は財政的支援を行っている。\nトレビニョの住民は少なくとも16世紀からアラバ県への編入を望んできたとされ、1940年の住民投票では96%が編入に賛成し、1958年の住民投票でも賛成多数だった。\n1979年の成立したバスク自治憲章ではトレビニョのバスク州への編入の可能性に言及しているが、ブルゴス県は一貫して分離を認めていない。\nビスカヤ県西部にあるビジャベルデは人口400人程度の飛び地であり、やはり住民は1980年代から1990年代にかけてバスク州への編入に熱心だったが、編入は実現していない。", "qas": [ { "question": "トレビニョの居住人口は何人?", "id": "tr-418-17-000", "answers": [ { "text": "約2,000人", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トレビニョとビジャベルデはどちらが人口が多い?", "id": "tr-418-17-001", "answers": [ { "text": "トレビニョ", "answer_start": 107, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1970年代と1980年代の経済危機の時代、製鉄業や造船業などの伝統的な産業は停滞し、かわってハイテク産業が成長した。\n現在、バスク州の工業部門で大きな割合を占めているのは、ビスカヤ県とギプスコア県の盆地に存在する工作機械産業、ビトリア=ガステイスの航空機械工業、ビルバオのエネルギー産業である。\nバスク州に本拠を持つ大企業としては、金融業のビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行(BBVA、本社ビルバオ)、エネルギー業のイベルドローラ(本社ビルバオ)、鉄道車両のCAF(本社ギプスコア県ベアサイン)、モンドラゴン協同組合企業(本社ギプスコア県アラサーテ/モンドラゴン)、風力発電機のシーメンスガメサ・リニューアブル・エナジー(本社ビスカヤ県サムディオ)が挙げられる。", "qas": [ { "question": "ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行の本拠地は何州ですか?", "id": "tr-418-18-000", "answers": [ { "text": "バスク州", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "モンドラゴン協同組合企業の本拠地は何州ですか?", "id": "tr-418-18-001", "answers": [ { "text": "バスク州", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "バスク州の1人あたり所得はスペインの州の中で最も高い。\n2002年時点の1人あたりGDPは、スペインの全17州中でマドリード州とナバーラ州に次ぐ第3位だったが、2006年にはマドリード州に次ぐ第2位となった。\n2010年における1人当たりGDPは31,314ユーロであり、スペインの平均よりも33.8%高く、欧州連合(EU)の平均よりも40%高い。\n2012年におけるバスク州の失業率は約14.56%であり、スペイン全体の失業率(24.6%)を大きく下回っている。\n2013年の、バスク州の公的債務はGDPの13.00%(1人あたり8,825ユーロ)であり、スペイン全体の93.90%(1人あたり960,676ユーロ)を大きく下回った。\n2009年にはバスク州の経済は3.3%縮小したが、スペイン全体の縮小率3.6%を下回った。\n風力発電産業が盛んであり、再生可能エネルギー分野で日本の福島県と協力関係にある。", "qas": [ { "question": "2006年の1人あたりGDPが最も高かった州はどこ?", "id": "tr-418-19-000", "answers": [ { "text": "マドリード州", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2012年のバスク州とスペイン全体では、失業率が高かったのはどちら?", "id": "tr-418-19-001", "answers": [ { "text": "スペイン全体", "answer_start": 204, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2013年のGDPに対する公的債務の割合が低かったのはバスク州とスペイン全体のどちら?", "id": "tr-418-19-002", "answers": [ { "text": "バスク州", "answer_start": 240, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2002年の1人あたりGDPが、スペイン全体の中で3番目に高かったのはどこの州?", "id": "tr-418-19-003", "answers": [ { "text": "バスク州", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "道路交通の大動脈は、ビルバオからサン・セバスティアンを経由してフランス国境までを結ぶAP-8号線と、サン・セバスティアンからビトリア=ガステイスを経由してスペイン中央部までを結ぶA-1号線である。\nこの他の主要な高速道路には、ビルバオとサラゴサを結ぶAP-68号線などがある。", "qas": [ { "question": "ビルバオからフランス国境までを結ぶ道路名は?", "id": "tr-418-20-000", "answers": [ { "text": "AP-8号線", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ナマズ目", "paragraphs": [ { "context": "ナマズ目(学名:Siluriformes、英語名:Catfish)は、硬骨魚類の分類群の一つ。\n35科446属で構成され、ナマズやギバチなど底生生活をする淡水魚を中心に、およそ2,867種が所属する。\n大きくて扁平な頭部と、感覚器官として発達した口ヒゲを特徴とし、食用魚あるいは観賞魚として世界の多くの地域で利用されている。", "qas": [ { "question": "ナマズ目には何種類が属していますか?", "id": "tr-419-00-000", "answers": [ { "text": "2,867種", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ナマズ目には2006年の時点で2,800を超える種が記載され、魚類の目の中ではスズキ目(約1万種)、コイ目(約3,200種)に次いで3番目に大きな一群となっている。\n現生の魚類2万8000種のおよそ1割、淡水産種(1万2400種)に限ればその2割がナマズ目の仲間で占められる。\n流れの緩やかな河川・湖沼から洞窟、山岳地帯の急流にいたるまで、世界中のあらゆる陸水に幅広く分布するとともに、河口・汽水域および沿岸付近で暮らす海産種も含まれる。\n1994年の時点(約2,400種)から10年余りの間に、新たに400種以上が新種記載されるなど、分類の拡大傾向が続いている。\n地球上に存在するすべての水のうち、0.01%にも満たないこれらの陸水域において獲得されたナマズ目の生物多様性を解き明かすことは、生物全体の進化や生態系の成り立ちを理解する手がかりにもなると考えられている。", "qas": [ { "question": "魚類の目の中で最も種類が多いものは何?", "id": "tr-419-01-000", "answers": [ { "text": "スズキ目", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コイ目とナマズ目はどちらが種類が多いですか?", "id": "tr-419-01-001", "answers": [ { "text": "コイ目", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ナマズ目の種類が多いのは1994年と2006年のどちらですか?", "id": "tr-419-01-002", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "淡水産種の中でナマズ目が占める割合はどれくらいですか?", "id": "tr-419-01-003", "answers": [ { "text": "2割", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一般的なナマズ類に共通する形態学的な特徴は、平たくつぶれた大きな頭部と幅広い口、そして感覚器官として発達した長い口ヒゲである。\n世界の多くの地域において、古来より重要な漁業資源として利用された歴史をもち、養殖も盛んに行われている。\n近年では中〜大型種が趣味やスポーツとしての釣りの対象になるほか、コリドラス・シノドンティス・プレコなど観賞魚として親しまれる種類も非常に多く、世界各地の水族館および個人のアクアリウムで飼育されている。\nこのように人間との関わりを深める一方で、移植された外来ナマズが固有の生態系に影響を及ぼすなどの問題も近年各地で発生している。", "qas": [ { "question": "ナマズの特徴となる感覚器官とは何?", "id": "tr-419-02-000", "answers": [ { "text": "口ヒゲ", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南極大陸からの化石種を含めれば、ナマズ目の仲間は地球上の全大陸に分布している。\n所属する2,800種余りのナマズのうち、半数以上の約1,700種が南北アメリカ大陸に分布する。\n他はアフリカ・南アジア・東南アジアの熱帯域に生息する種類が多く、ヨーロッパ・東アジア・オーストラリアにはごく少ない。\nハマギギ科・ゴンズイ科の2科にはおよそ120種の海水魚が含まれるが、その多くは汽水域、ときには淡水にも進出する。\n他の33科はすべて淡水魚のグループである(汽水域に進出する種類を含む)。\n2006年の時点で少なくとも200種の未記載種が知られており、さらに多くの未発見種が存在することも確実視されている。", "qas": [ { "question": "ナマズの種類が最も多く生息している大陸はどこ?", "id": "tr-419-03-000", "answers": [ { "text": "南北アメリカ大陸", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナマズの生息数が多いのは南アジアと東アジアのどちら?", "id": "tr-419-03-001", "answers": [ { "text": "南アジア", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2006年時点で未記載種のナマズは何種ありましたか?", "id": "tr-419-03-002", "answers": [ { "text": "200種", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本では在来のナマズ目魚類は全国各地(沖縄は海産種のみ)に分布するものの、その数は5科11種のみと極めて少ない。\n淡水産種としてはナマズ科ナマズ属の4種(ナマズ、イワトコナマズ、ビワコオオナマズ、タニガワナマズ)、ギギ科の4種(ギギ、ネコギギ、ギバチ、アリアケギバチ)、およびアカザ科のアカザが知られるのみである。\nこのうちイワトコナマズ・ビワコオオナマズ・タニガワナマズ・ギギ科の4種・アカザは日本固有種であり、前二者は琵琶湖水系のみに分布し、タニガワナマズは東海地方に分布する。\n種としてのナマズ(S.asotus)の分布はかつて西日本に限られていたが、江戸時代以降東日本や北海道にも移植され、現在では沖縄を除く日本全国に生息している。", "qas": [ { "question": "イワトコナマズの生息地域はどこ?", "id": "tr-419-04-000", "answers": [ { "text": "琵琶湖水系", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タニガワナマズが分布している地域はどこですか?", "id": "tr-419-04-001", "answers": [ { "text": "東海地方", "answer_start": 231, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本産ナマズ類はいずれも水質や環境の悪化に伴い数を減らしているとみられ、ネコギギ・ギバチ・アリアケギバチ・アカザの4種は、環境省レッドリストにおいて絶滅危惧種、または準絶滅危惧種に指定されている。\n海産種としては、ゴンズイ科・ハマギギ科の3種(ゴンズイ、ミナミゴンズイおよびハマギギ)が、本州から沖縄にかけての沿岸域に分布している。\nゴンズイはスクーバダイビングなどでも頻繁に観察される普通種であるが、ハマギギは東シナ海からインド洋が分布の中心で、日本近海ではごくまれにしか捕れない。", "qas": [ { "question": "日本に生息する海産種のナマズはゴンズイ科と何科ですか?", "id": "tr-419-05-000", "answers": [ { "text": "ハマギギ科", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本の海でよく見られるのはゴンズイとハマギギのどちらですか?", "id": "tr-419-05-001", "answers": [ { "text": "ゴンズイ", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "養殖目的で移入された食用ナマズや、飼育放棄された外来の観賞用ナマズが自然界に定着し、問題となっている例が世界各地で知られる。\n淡水産ナマズ(特に中〜大型種)の多くは生息環境における食物連鎖の上位に位置することが多く、在来の水生生物を根絶やしにするなど生態系への悪影響が懸念される。\nヒレナマズ科のウォーキングキャットフィッシュ(クラリアス・バトラクス、Clariasbatrachus)は、本来は東南アジアに分布する熱帯性のナマズであるが、現在ではアメリカ合衆国南部やハワイなど、世界の多くの地域に帰化している。\n本種は空気呼吸が可能で、陸上を移動する性質があるため容易に分布を広げやすく、国際自然保護連合(IUCN)が指定する「世界の侵略的外来種ワースト100」の一つに選定されている。", "qas": [ { "question": "ウォーキングキャットフィッシュは元々どこの地域に分布するナマズでしたか?", "id": "tr-419-06-000", "answers": [ { "text": "東南アジア", "answer_start": 198, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "外国産ナマズの定着は日本でも問題となっている。\n1981年、霞ヶ浦に食用目的で導入された北アメリカ原産のチャネルキャットフィッシュ(アメリカナマズ、Ictaluruspunctatus)は、1994年以降急激に数を増やしている。\n本種は体長1mを超える大型の捕食魚で他に天敵はおらず、外来生物法における特定外来生物として規制の対象となっている。\nまた、ヨーロッパオオナマズ(ナマズ目中の最大種)・ウォーキングキャットフィッシュの定着が懸念されるほか、マダラロリカリアは既に沖縄への定着が確認されている。\nいずれも在来魚類との競合が心配され、これら3種は環境省が指定する要注意外来生物リストに掲載されている。", "qas": [ { "question": "チャネルキャットフィッシュの導入目的は何でしたか?", "id": "tr-419-07-000", "answers": [ { "text": "食用目的", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャネルキャットフィッシュが日本に導入された年はいつでしたか?", "id": "tr-419-07-001", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナマズ目の中で最も大きい種類は何?", "id": "tr-419-07-002", "answers": [ { "text": "ヨーロッパオオナマズ", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "既に沖縄に定着した外国産のナマズは何?", "id": "tr-419-07-003", "answers": [ { "text": "マダラロリカリア", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ナマズ類の体表面には鱗がなく、一般に滑らかである。\n体は粘液に覆われぬるぬるしていることが多いが、ロリカリア上科とドラス上科の一部では硬い骨板が瓦のように列を成している。\n体は全体的に左右に平べったい(側扁)が、頭部は上下に圧迫されたように平たく(縦扁)、ナマズ目魚類の外見を特徴付けている。\n鼻・上顎・下顎など頭部に最大4対のヒゲをもつことが、ナマズ目魚類の大きな特徴である。\n口ヒゲには味蕾など感覚器官が発達し、移動および餌を探すときにはヒゲを最大限に活用している。\n夜間に活動するものや、視界不良の濁った水域に住む種類では眼が退化的で小さいことが多く、口ヒゲに依存する度合いが大きい。\nヘテロプネウステス科・ヒレナマズ科は空気呼吸のための特殊な器官(上鰓器官)をもち、水の外でもある程度生存が可能となっている。", "qas": [ { "question": "口ヒゲは最大何対ありますか?", "id": "tr-419-08-000", "answers": [ { "text": "4対", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "上鰓器官を持っている種類はヒレナマズ科と何科ですか?", "id": "tr-419-08-001", "answers": [ { "text": "ヘテロプネウステス科", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ナマズ目中最大の魚は、ナマズ科のヨーロッパオオナマズ(Silurusglanis)である。\n本種は体長3mに達することは普通で、最大では5m、体重にして330kgの個体が知られている。\nパンガシウス科(メコンオオナマズなど)・ピメロドゥス科(ピライーバなど)の仲間も非常に大きくなるが、目全体で見ればこれらは例外であり、ほとんどの種類は体長12cm程度の小型の魚である。\nスコロプラクス科には体長2cm程度で成熟する超小型種が所属している。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパオオナマズの全長は通常何mですか?", "id": "tr-419-09-000", "answers": [ { "text": "3m", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヨーロッパオオナマズの最大全長は何m?", "id": "tr-419-09-001", "answers": [ { "text": "5m", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スコロプラクス科の体長はどれくらいですか?", "id": "tr-419-09-002", "answers": [ { "text": "2cm", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨーロッパオオナマズの最大重量は何kgですか?", "id": "tr-419-09-003", "answers": [ { "text": "330kg", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "魚類の重要な分類形質である鰭にも、ナマズ類ならではの特徴がみられる。\nほとんどのナマズは、背鰭と胸鰭の先頭に1本の「棘」(いわゆる棘条とは異なる)をもっている。\nこの棘はしばしば強靭で鋭く、種類によっては毒腺を備える場合もあるなど、外敵に対する強力な防御手段となっている。\n背鰭の棘の前にはさらに小さな棘状の構造があり、この小棘を使って長い棘を機械的に固定することができる。\n強い棘を立てた状態で固定されると、捕食者が飲み込むことは容易ではない。", "qas": [ { "question": "大部分のナマズは何本の棘を持っているの?", "id": "tr-419-10-000", "answers": [ { "text": "1本", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ほとんどのナマズ類は脂鰭(あぶらびれ)をもつ。\n脂鰭は背鰭の後方、尾鰭の近くに位置する肉質の鰭で、サケ目・カラシン目など複数のグループにみられる。\n脂鰭は鰭条を欠くのが普通であるが、サカサナマズ科の一部の種類は脂鰭にも鰭条をもつ。\n淡水魚の一群としてナマズ目と双璧を成すコイ目の仲間には脂鰭はなく、両者の重要な鑑別点の一つとなっている。\nナマズ類の尾鰭の主鰭条は18本以下で、多くの種では17本であるが、アスプレド科(10本以下)などさらに少ない場合もある。\n尾鰭の骨格は6つの分割された下尾骨をもつものから、完全に癒合した種類までさまざまで、科以下の分類形質として利用される。", "qas": [ { "question": "ナマズ目とコイ目の決定的違いとは何?", "id": "tr-419-11-000", "answers": [ { "text": "脂鰭", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナマズ目の他に脂鰭を持つものはサケ目と何?", "id": "tr-419-11-001", "answers": [ { "text": "カラシン目", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アスプレド科の主鰭条はいくつある?", "id": "tr-419-11-002", "answers": [ { "text": "10本以下", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ナマズ目はコイ目やカラシン目などとともに骨鰾上目と呼ばれるグループに属し、この仲間に共通する特徴としてウェーベル氏器官(ウェーバー器官とも)をもつ。\nこの器官は脊椎骨から変化した4つの骨片によって構成され、内耳と浮き袋を連絡し、脳に音を伝える役目を果たしている。\n夜行性で小さな眼しかもたないナマズ類にとっては、口ヒゲと並ぶ重要な感覚器官である。\n浮き袋の形態は球形〜楕円形で、底部にじっとしてあまり遊泳しない生活様式を反映してかやや退化的であり、カプセル状に変形した椎骨によって完全に包まれる種類もある。", "qas": [ { "question": "ナマズ目、コイ目、カラシン目の共通の特徴となる器官は何?", "id": "tr-419-12-000", "answers": [ { "text": "ウェーベル氏器官", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "口ヒゲと並ぶ重要な感覚器官とは何?", "id": "tr-419-12-001", "answers": [ { "text": "ウェーベル氏器官", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2,800種超に及ぶナマズ目魚類はコイ目と並び最も繁栄した淡水魚の一群であり、その生態も極めて多様性に富んでいる。\nナマズ類は基本的に底生性で活発に泳ぎ回ることは少なく、水底を這うようにゆっくりと泳ぐものが多い。\n多くは夜行性で、口ヒゲを活発に動かして周囲を探りながら移動する。\nロリカリア科など流れの速い渓流に分布する科では口が吸盤状に変化していることがあり、岩などに張り付くことで激流をやり過ごす。", "qas": [ { "question": "ナマズの活動時間における習性は何ですか?", "id": "tr-419-13-000", "answers": [ { "text": "夜行性", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナマズの多くは水中でどのような場所にいますか?", "id": "tr-419-13-001", "answers": [ { "text": "水底", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ナマズ目の魚には体内に毒を含むもの、あるいは毒腺を通じて体外に毒液を分泌する種類が知られる。\n毒液は背鰭と胸鰭(多くの場合は後者)の棘から分泌される。\nほとんどの毒ナマズ類にとってこれらの棘は防衛手段であり、積極的に攻撃を行うことは少ない。\nインドに分布するレッドキャット(Heteropneustesfossiles、ヘテロプネウステス科)など一部の種類に限り、毒棘を使って他の魚や人間を襲う習性をもつことが知られる。\n日本沿岸にも分布する海産種のゴンズイ(Plotosuslineatus、ゴンズイ科)がもつ毒は強力で、刺された場合死に至ることもある。", "qas": [ { "question": "毒液が分泌される事が多いのは、背鰭と胸鰭のどちらの棘からですか?", "id": "tr-419-14-000", "answers": [ { "text": "胸鰭", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "強力な毒をもつ海産種のナマズは何という名前ですか?", "id": "tr-419-14-001", "answers": [ { "text": "ゴンズイ", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドラス科やギギ科などのナマズ類には、胸鰭の棘や浮き袋の振動を利用して音を出すことができる種類がある。\n日本を含めた東アジアに分布するギギ(Pelteobagrusnudiceps)は、胸鰭の棘を使って出す威嚇音が和名の由来となっている。\nこれらのナマズ類は漁獲された際にも発音することから、外敵への警告の役割をもつものとみられるが、仲間同士の伝達手段として用いられているかどうかは不明である。", "qas": [ { "question": "音を出すことの出来るナマズの種類はドラス科と何科ですか?", "id": "tr-419-15-000", "answers": [ { "text": "ギギ科", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギギの分布区域はどこですか?", "id": "tr-419-15-001", "answers": [ { "text": "東アジア", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "デンキナマズ科は発電を行う魚類として知られている。\n特にデンキナマズは最大で400ボルトを超える電圧を出すことが可能で、これは魚類としてはデンキウナギ(600ボルトに達する)に次いで高い発電力である。\nデンキナマズ科に限らずナマズ目魚類の多くには、体表(特に吻と頭部背側)に電場を感じ取る受容器があり、水中での電場の変化に敏感に反応していると考えられている。\nナマズ類の電気受容器は、軟骨魚類がもつロレンチーニ器官と似た瓶型の形状をしているが、動毛の有無など細胞レベルでの微細形態に違いがある。\n夜行性の種類が多いナマズ類にとっては、口ヒゲやウェーベル氏器官と並ぶ重要な感覚器として機能するとみられる。", "qas": [ { "question": "デンキウナギとデンキナマズはどちらの方が高い電圧を出せますか?", "id": "tr-419-16-000", "answers": [ { "text": "デンキウナギ", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "デンキナマズは最大でどれくらいの発電が可能ですか?", "id": "tr-419-16-001", "answers": [ { "text": "400ボルト", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ナマズ目魚類の繁殖様式は群によってさまざまな形態をとる。\nほとんどのナマズ類は魚類で一般的な体外受精による繁殖を行うが、アウケーニプテルス科の仲間は雄が交接器をもち、交尾による体内受精をする。\nコリドラス亜科の一部では雌が精子を飲み込み、腸管を経由して体内受精させるという特異な繁殖様式が知られる。\n親魚が卵や稚魚を保護する習性をもつ種類も多く、水底の砂をクレーター状に掘った巣を作るもの、カッリクテュス亜科など水面に泡巣を作るものなどがある。\nまた、海産のハマギギ科の仲間は雄が卵を口の中にくわえて保護する、いわゆるマウスブルーダーとしての子育てを行う。", "qas": [ { "question": "ナマズ類の一般的な繁殖方法は何?", "id": "tr-419-17-000", "answers": [ { "text": "体外受精", "answer_start": 46, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "卵を口の中にくわえて保護する方法を何といいますか?", "id": "tr-419-17-001", "answers": [ { "text": "マウスブルーダー", "answer_start": 259, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海産のハマギギ科の仲間は雄と雌のどちらがマウスブルーダーを行いますか?", "id": "tr-419-17-002", "answers": [ { "text": "雄", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "国際連合食糧農業機関(FAO)の統計によれば、1950年代には10万トン余りであった世界のナマズ目魚類の総漁獲量は年々増加し、1990年代後半には100万トンを超えた。\n2000年代以降も増加の勢いは衰えず、2000年に120万トンだった世界の総漁獲量は、2006年の時点で倍以上の260万トンに達している。\n地域別に見るとアジア・アフリカ地域での伸びが顕著で、特にアジアでは2000〜2006年にかけて約3倍の増加(60万トン→180万トン)を記録している。\n同じ期間において、南北アメリカでは40万トン台、ヨーロッパでは1万トン台で大きな変動もなく推移しており、近年のアジア地域の伸びが突出していることがわかる。", "qas": [ { "question": "世界のナマズ目魚類の総漁獲量が多かったのは1950年代と1990年代後半のどちらでしたか?", "id": "tr-419-18-000", "answers": [ { "text": "1990年代後半", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界のナマズ目魚類の総漁獲量が多かったのは2000年と2006年のどちらでしたか?", "id": "tr-419-18-001", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アジアでのナマズ目魚類の総漁獲量が多かったのは2000年と2006年のどちらでしたか?", "id": "tr-419-18-002", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2000年~2006年間でのナマズ類の総漁獲量が多かったのは南北アメリカとヨーロッパのどちらですか?", "id": "tr-419-18-003", "answers": [ { "text": "南北アメリカ", "answer_start": 240, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2006年の総漁獲量260万トンのうち、養殖ナマズが180万トンを占める。\nアジア・アフリカ両地域での漁獲量増大もまた、内水面での養殖業の発達によって支えられている。\nアジアにおける淡水ナマズ類の養殖による水揚げは、1990年・2000年・2006年の各時点でそれぞれ7万5千トン・24万トン・145万トンと、著しい上昇を示している。\nアフリカでは2000年の時点で7千トン弱であった漁獲量が、2006年には8万トンと10倍以上に増加した。\n生産額の面でも同様の成長がみられており、アジア地域では2006年に16億ドル(2000年時点で3億ドル)に達している。", "qas": [ { "question": "2006年の総漁獲量のうち、半分以上を占めた魚類は何でしたか?", "id": "tr-419-19-000", "answers": [ { "text": "養殖ナマズ", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アジアにおける淡水ナマズ類の養殖による水揚げ量が最も多かったのは1990年、2000年、2006年の中でどの年ですか?", "id": "tr-419-19-001", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アフリカにおけるナマズ類の漁獲量が多かったのは2000年と2006年のどちらですか?", "id": "tr-419-19-002", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アジアでの生産額が多かったのは2000年と2006年のどちらでしたか?", "id": "tr-419-19-003", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 248, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "チューリップ・バブル", "paragraphs": [ { "context": "チューリップ・バブルは、オランダ黄金時代のネーデルラント連邦共和国において、当時オスマン帝国からもたらされたばかりであったチューリップ球根の価格が異常に高騰し、突然に下降した期間を指す。\n\nチューリップ・バブルのピーク時であった1637年3月には、1個当たり、熟練した職人の年収の10倍以上の価格で販売されるチューリップ球根も複数存在した。1619年から1622年にかけて、三十年戦争の戦費調達のためにヨーロッパ全体で行われた貨幣の変造「Kipper-undWipperzeit」にも、バブル経済類似の熱狂が存在したと指摘する研究者もいるものの、チューリップ・バブルは、記録に残された最初の投機バブル(またはバブル経済)であると一般に考えられている。「チューリップ・バブル」という語は、今日では、資産価値がその内在価値を逸脱するような大規模なバブル経済を指してしばしば比喩的に用いられる。", "qas": [ { "question": "オランダ黄金時代のネーデルラント連邦共和国において、当時オスマン帝国からもたらされたばかりであったチューリップ球根の価格が異常に高騰し、突然に下降した期間を何といいますか。", "id": "tr-420-00-000", "answers": [ { "text": "チューリップ・バブル", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "資産価値がその内在価値を逸脱するような大規模なバブル経済を指してしばしば比喩的に用いられる用語は何ですか。", "id": "tr-420-00-001", "answers": [ { "text": "「チューリップ・バブル」", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チューリップ・バブルのピークはいつでしたか。", "id": "tr-420-00-002", "answers": [ { "text": "1637年3月", "answer_start": 114, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1637年の出来事は、1841年に英国のジャーナリスト、チャールズ・マッケイによって著された『ExtraordinaryPopularDelusionsandtheMadnessofCrowds』において、広く知られるようになった。マッケイによれば、ある時には、「SemperAugustus」の球根1個に対し、12エーカー(5ヘクタール)の土地との交換が申し出られたという。マッケイは、このような投資家の多くはチューリップ価格の下落により破産し、オランダの商業は大打撃を受けたと主張する。マッケイの著書は古典ではあるが、その記述には異論もある。現代の研究者の多くは、チューリップに対する熱狂はマッケイが記載したほど異常なものではなく、チューリップ球根に関しバブルが実際に発生したことを証明するのに十分な価格のデータは存在しないと主張している。\n\nチューリップバブルの研究は困難である。1630年代の経済のデータは限られており、その多くはバイアスがかかりまた非常に推測含みの情報源からのものであるためである。現代の経済学者には、チューリップ価格の上昇および下落につき、投機的な熱狂ではなく、合理的な説明を行おうとする者もいる。例えば、ヒヤシンスのような他の花もまた、初めて伝播した時点では高い価格がつけられ、すぐに価格が低下したことから、花の価格にはこのようなボラティリティがあるのだという説明がある。このほか、買い手のリスクを低減させる効果を持つ議会令が発せられるだろうという市場参加者らの期待が、価格の高騰を誘発した可能性があるという説明もある。", "qas": [ { "question": "『ExtraordinaryPopularDelusionsandtheMadnessofCrowds』は誰が書いたの?", "id": "tr-420-01-000", "answers": [ { "text": "チャールズ・マッケイ", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チューリップバブルの研究は困難であるのは、いつの経済のデータが限られているからですか。", "id": "tr-420-01-001", "answers": [ { "text": "1630年代", "answer_start": 393, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "チューリップのヨーロッパへの伝播は、一般的には、フェルディナント1世によりオスマン帝国のスルターンのもとに派遣された大使オージェ・ギスラン・ド・ブスベックによるものといわれている。ブスベックは1554年、オスマン帝国からウィーンに、チューリップの球根と種子を初めて送った。チューリップ球根はすぐに、ウィーンからアウクスブルク、アントウェルペンおよびアムステルダムに広まった。ネーデルラント連邦共和国においてチューリップが人気になり栽培が本格的に開始されたのは、フランドルの植物学者カロルス・クルシウスがライデン大学に着任し、ライデン大学植物園を設立した後の1593年頃であると一般的に考えられている。クルシウスは自らが集めたチューリップ球根を植え、チューリップがネーデルラントの厳しい環境にも耐えうることを発見した。それから間もなく、チューリップの人気が出始めた。", "qas": [ { "question": "チューリップのヨーロッパへの伝播は、一般的に誰によるものだといわれていますか。", "id": "tr-420-02-000", "answers": [ { "text": "オージェ・ギスラン・ド・ブスベック", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブスベックは1554年、どこからウィーンにチューリップの球根と種子を送ったか。", "id": "tr-420-02-001", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 102, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ネーデルラント連邦共和国においてチューリップが人気になり栽培が本格的に開始されたのは、何年ごろだと言われていますか。", "id": "tr-420-02-002", "answers": [ { "text": "1593年頃", "answer_start": 278, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "結果として、チューリップは誰もが欲しがる贅沢品となり、品種が豊富になった。当時のチューリップは、いくつかのグループに分類される。赤色、黄色または白色の単色のチューリップはCouleren、多色のチューリップはRosen、Violettenまたは最も珍しいグループであるBizardenとしてそれぞれ知られている。花弁の、複雑な線や炎のような形の縞模様による多色の効果は、鮮やかで目を見張るものであった。このような効果を有し、多色のチューリップをより異国情緒ある植物に見せるような球根は大人気となった。今日では、このような効果は、チューリップのみに感染するモザイク病であり、1つの花弁の色を2つ以上に分けてしまう「Tulipbreakingvirus」に球根が感染したため生じるものであると知られている。", "qas": [ { "question": "当時のチューリップのうち、一番珍しいグループのものは何でしたか。", "id": "tr-420-03-000", "answers": [ { "text": "Bizarden", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1636年までに、チューリップ球根はオランダにとって、ジン、ニシン、チーズに次いで4番目に取引高の大きな輸出品となった。チューリップ球根の価格は、球根を実際に見たこともない投資家らによる先物取引での投機のために跳ね上がった。多くの者が、一夜のうちに多額の財産を築いたり失ったりした。\n\nチューリップ・バブルは1636年から1637年の冬にピークを迎え、この時には1日に10回も取引された球根もあるほどであった。しかし、これらの契約を履行するための球根の引き渡しは行われなかった。1637年2月、チューリップ球根の価格が急落し、チューリップの貿易が停止したためである。価格の急落はまずハールレムで起こり、買い手が定期的な球根の取引に現れなくなった。これは、ハールレムがペストの大流行のさなかにあったことが原因である可能性がある。ペストの流行により、投機を急拡大させるような、宿命論的なリスク選好文化が形成されたかもしれないが、他方それはバブルの崩壊の原因ともなった可能性がある。", "qas": [ { "question": "ジン、ニシン、チーズ、チューリップ球根のうち、1636年までのオランダにとって取引高が一番小さい輸出品は何でしたか。", "id": "tr-420-04-000", "answers": [ { "text": "チューリップ球根", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "チューリップ・バブルのピークは何年から始まったか。", "id": "tr-420-04-001", "answers": [ { "text": "1636年", "answer_start": 154, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現代におけるチューリップ・バブルの議論は、スコットランドのジャーナリストであるチャールズ・マッケイによって1841年に出版された『ExtraordinaryPopularDelusionsandtheMadnessofCrowds』から始まっている。マッケイは、群衆はしばしば合理的でない行動をすると論じ、チューリップ・バブルは、南海泡沫事件およびミシシッピ計画とともに、その初期の例であるとしている。マッケイの議論の多くは、ヨハン・ベックマンが1797年に著した『AHistoryofInventions,Discoveries,andOrigins』に依拠している。実際は、ベックマンの説明およびそこから派生したマッケイの議論は、1637年に匿名で発行された投機への反対を掲げる3つの小冊子を主な情報源としていた。マッケイの迫真的な本は、以後何世代にも渡り経済学者や株式市場参加者の間で有名だった。チューリップバブルを投機バブルだったとするマッケイの描写は現在でも有名だが、瑕疵があり、1980年以降経済学者によって様々に反駁されている。", "qas": [ { "question": "チャールズ・マッケイによって1841年に出版された本のタイトルは何?", "id": "tr-420-05-000", "answers": [ { "text": "『ExtraordinaryPopularDelusionsandtheMadnessofCrowds』", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『AHistoryofInventions,Discoveries,andOrigins』と『ExtraordinaryPopularDelusionsandtheMadnessofCrowds』と、どっちの方が先に書かれた?", "id": "tr-420-05-001", "answers": [ { "text": "『AHistoryofInventions,Discoveries,andOrigins』", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "マッケイによれば、17世紀初頭におけるチューリップ人気の高まりは、オランダ全体の注目を集め、「最下層民までもがチューリップの取引に手を出すようになった」。1635年までに、ある取引において、40個の球根が100,000ギルダーで購入されたと記録されている。これに対し、バター1トンの価格は約100ギルダーであり、熟練工の年収が約150ギルダーであり、「肥えた豚8頭」の価格は240ギルダーであった。社会史国際研究所によれば、1ギルダーの購買力は2002年時点において10.28ユーロと同等である。\n\n1636年までにはオランダ中の市や町の取引所でチューリップが取引されるようになっていた。これにより社会のあらゆる階層がチューリップ取引に参加するようになった。マッケイは、チューリップに投機するため財産を売却したり交換に出す人々について詳述しているが、中にはSemperAugustusの球根の現物2個のうち1個と12エーカー(49,000m2)の土地の交換を申し出た例や、Viceroyの球根1個を2,500ギルダー相当の財産で購入した例などがある。", "qas": [ { "question": "社会史国際研究所によれば、1ギルダーの購買力は2002年時点において何ユーロと同じですか。", "id": "tr-420-06-000", "answers": [ { "text": "10.28ユーロ", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バター1トンの価格いくらでしたか。", "id": "tr-420-06-001", "answers": [ { "text": "約100ギルダー", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バター1トン、熟練工の年収、「肥えた豚8頭」のうち、一番高いのは何でしたか。", "id": "tr-420-06-002", "answers": [ { "text": "「肥えた豚8頭」", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "下山千歳白菜", "paragraphs": [ { "context": "下山千歳白菜(しもやまちとせはくさい)は、東京都世田谷区近辺で多く栽培される白菜の品種である。\nかつて連作障害に弱いという欠点があった白菜を、世田谷区で農業を営んでいた下山義雄(しもやまよしお)が改良して1953年(昭和28年)に品種として定着させたもので、耐病性があるため他品種の親としても用いられる。\n通常の白菜と比べて2-3倍大きく、大きいものでは重さが10キロ以上に及んだため、核家族化が進むに連れて需要が減り一時は世田谷区内での栽培はほとんど見られなくなったが、約40年の中断を経て1998年(平成10年)に復活している。", "qas": [ { "question": "下山千歳白菜を病気に強くなるように改良した人物は誰かな?", "id": "tr-421-00-000", "answers": [ { "text": "下山義雄", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "下山千歳白菜の栽培が一時中断していた期間はどれくらいあったの?", "id": "tr-421-00-001", "answers": [ { "text": "約40年", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "下山千歳白菜は元々どのような弱点があったの?", "id": "tr-421-00-002", "answers": [ { "text": "連作障害に弱い", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "核家族化が進むに連れて需要が減った白菜の品種名は何?", "id": "tr-421-00-003", "answers": [ { "text": "下山千歳白菜", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本における白菜栽培の歴史は、明治時代初期に始まっている。\n不結球性の白菜については、18世紀末に日本渡来の記録が残っているがこのときは定着せずに消えていった。\n1875年(明治8年)、清から「山東白菜」(さんとうはくさい)という品種が3株、東京市博物館に出品され、そのうち2株が愛知県に払い下げられて試験栽培が始まった。\n白菜は近縁他種の花粉で受粉しやすいという強い交雑性を持つため、形態や品質の保持が困難であり、継続的な種子の採取が難しかった。\nそのため、交雑を防止する目的で松島(宮城県)などの島しょ部で隔離採種が試みられた。\nこの方法が成功して白菜は宮城県や愛知県で栽培されるようになり、日本の気候風土に合わせて「結球白菜」という品種に改良された。", "qas": [ { "question": "日本で白菜栽培が開始された時期はいつ?", "id": "tr-421-01-000", "answers": [ { "text": "明治時代初期", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "白菜の形態や品質の保持、継続的な種子の採取が困難だったのは、白菜のどのような特性が強かったからなの?", "id": "tr-421-01-001", "answers": [ { "text": "交雑性", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "愛知県で試験栽培された白菜の株は元々どこの国から来たの?", "id": "tr-421-01-002", "answers": [ { "text": "清", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "交雑防止を目的に松島(宮城県)などの島しょ部で試みられた隔離採種は成功したのか、失敗したのか?", "id": "tr-421-01-003", "answers": [ { "text": "成功", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東京でも明治から昭和にかけて、世田谷・足立・葛飾・三鷹などの農家が盛んに栽培を手がけた。\nただし、白菜は何年も同じ畑で作付を続けると連作障害による病害を起こすという弱点があった。\nそのために病害が多発し、昭和20年代には白菜栽培は減少していた。\n白菜のかかりやすい病害には、ウイルス病(バイラス病)や軟腐病などがあった。\nウイルス病はアブラムシの媒介による病害で、若い白菜がかかると成長が阻害されるうえに次第に株が小さくなってしまうものであった。\n軟腐病は白菜の株が地面に接するところから病菌が入って株が腐ってしまう病害で、いずれも白菜に大きな被害をもたらすものであった。", "qas": [ { "question": "白菜がウイルス病にかかる原因となる虫は何?", "id": "tr-421-02-000", "answers": [ { "text": "アブラムシ", "answer_start": 167, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "昭和20年代に白菜栽培が減少した原因は何だったの?", "id": "tr-421-02-001", "answers": [ { "text": "病害が多発", "answer_start": 95, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "白菜がかかりやすい病害の1つで、病菌によって株が腐ってしまう病害とは?", "id": "tr-421-02-002", "answers": [ { "text": "軟腐病", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "白菜栽培の衰退を食い止めるために、品種改良の試みが始まった。\n品種改良を手がけた篤農家の中に、世田谷区で農業を営んでいた下山義雄がいた。\n下山は1913年(大正2年)、当時の千歳村に生まれ、1928年(昭和3年)に就農した。\n下山家では1930年(昭和5年)頃からたくさんの白菜の栽培を始め、1935年(昭和10年)くらいから貯蔵した後に売って現金収入を得るようになっていた。\nさらに下山家では、下山の父の代から自家で白菜の採種を行い、希望者には種子を分けていた。\n「芝罘」白菜と「包頭」白菜という品種を交配して栽培し、耐病性に優れた株を選んで栽培を繰り返して独自の品種として育ててきた。\n下山が父とともに交配と栽培を続けて改良した白菜は、通常の白菜と比べると2-3倍の大きさがあった。", "qas": [ { "question": "下山が白菜の品種改良をする上で、交配させた2種類の白菜は「包頭」白菜と何?", "id": "tr-421-03-000", "answers": [ { "text": "「芝罘」白菜", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "下山義雄が品種改良した白菜は、一般の白菜と比較するとどれくらいの大きさだったの?", "id": "tr-421-03-001", "answers": [ { "text": "2-3倍", "answer_start": 330, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "下山義雄が農家の仕事に就いたのはいつのこと?", "id": "tr-421-03-002", "answers": [ { "text": "1928年", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "世相が太平洋戦争開戦へと急速に傾斜していた1940年(昭和15年)頃から白菜は「ぜいたく品」とみなされたため、少しずつ栽培面積を減らさざるを得なくなった。\n戦争が激しくなった1942年(昭和17年)頃には、農薬が入手できなくなった上に化学肥料も単品でしか買えない状態となった。\n1943年(昭和18年)頃には野菜は市場に出さずに買い出し人が来て「闇」で販売するようになり、白菜の栽培面積は3-4反と少なくなったが、下山は耐病性に優れた株の交配と栽培、及び採種を続けた。\n下山は1944年(昭和19年)5月に召集され、ビルマ戦線に従軍した。\n1946年(昭和21年)5月に復員し、体調が回復した後に再び農業に戻った。", "qas": [ { "question": "太平洋戦争において下山が戦地に赴いたのはどこ?", "id": "tr-421-04-000", "answers": [ { "text": "ビルマ", "answer_start": 258, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "下山がビルマ戦線後、何年に農業を再開したの?", "id": "tr-421-04-001", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 270, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白菜の栽培面積が減らされるようになった原因は何という戦争なの?", "id": "tr-421-04-002", "answers": [ { "text": "太平洋戦争", "answer_start": 3, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1949年(昭和24年)3月まで、GHQは農作物にすべて統制を敷き、4月にようやく解除した。\nGHQの占領政策下における日本では、ノミやシラミがたくさんいたためヘリコプターでのDDT空中散布を行っていた。\nそのため畑には害虫はおろか、ハチも蝶もいなかったが、この年は農薬を使わなくとも白菜の出来は大変によく、収量も多かった。\n続く1950年(昭和25年)も、白菜を含めてすべての農作物は豊作であった。\nしかし、1951年(昭和26年)と1952年(昭和27年)は関東地方に白菜の病気が蔓延していたため、出来が非常に悪くなっていた。\nその中で下山の栽培した白菜は病気発生率が約1パーセント程度にとどまり、よい出来栄えであった。", "qas": [ { "question": "農産物に対するGHQの統制が解除された年はいつ?", "id": "tr-421-05-000", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "GHQの農産物への統制が解除され、2年連続で白菜が豊作だったその2年目とは何年のこと?", "id": "tr-421-05-001", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 165, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1951年と1952年に関東地方で白菜の病気が蔓延したにもかかわらず、下山の栽培した白菜は病気発生率が何パーセント程度で済んだの?", "id": "tr-421-05-002", "answers": [ { "text": "約1パーセント程度", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1951年(昭和26年)1月、『農耕と園芸』という雑誌の編集長と馬越種苗という種苗会社の社長が連れだって下山の白菜を見に来た。\n連作によって起きる病害、特に白菜の株が腐る軟腐病やウイルス病に対して耐性があることに着目して、この白菜を新種として登録申請してはどうかという話が進んだ。\n東京都城南農業改良相談所で技師を務めていた植松敬や東京都農業試験場長の松原茂樹などの助力を得て、1952年(昭和27年)1月に新種としての登録を出願した。\nこれを受けて農林省農政局特産課から、白菜の種子60ミリリットルの送付依頼と同時に、一畝以上の白菜を生荷用として栽培しておくことを条件に審査対象となるとの連絡が入った。", "qas": [ { "question": "農林省農政局特産課が下山に送ってほしいと頼んだものは何?", "id": "tr-421-06-000", "answers": [ { "text": "白菜の種子60ミリリットル", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "同年11月中旬、審査が始まった。\n後に下山は「後にも先にもこの年ほど素晴らしい白菜ができたことはありませんでした」と回想している。\n審査に立ち会った千葉大学の教授、藤井健雄や農林省蚕糸園芸局特産課技官の横井宗生などは白菜の出来栄えに感嘆し、「他の畑を見なくともよい」とまで言ったという。\n続く質疑応答の際、藤井は下山に対してどのような方法でこの白菜ができたかという説明を求めた。\n下山は芝罘白菜と包頭白菜の交配比率と種子の収穫方法について説明したが、藤井はその内容と実際の白菜に差があると指摘した。\n下山がこれでは登録は無理かと考えていたところ、12月の初めに藤井から連絡が入った。\nその内容は学生を50名連れて行くので、白菜を100株並べていておいてほしいという要望だった。\n藤井は学生たちを引率して下山の畑を訪れ、すべての白菜の重量を1株ずつ測定した。\n白菜の平均重量は、3.8キログラムあり、測定を終えた藤井は学生たちに「新種として充分の価値あり、新種登録になります」と説明した。", "qas": [ { "question": "白菜の審査に立ち会った藤井健雄は、後に何名の学生を連れて下山の元を訪問しましたか?", "id": "tr-421-07-000", "answers": [ { "text": "50名", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "藤井健雄が率いる学生50人による白菜審査で、100株あった白菜の平均重量はいくらでしたか?", "id": "tr-421-07-001", "answers": [ { "text": "3.8キログラム", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1953年(昭和28年)の1月20日と21日の両日にわたって開催された農業資材審議会種苗部会の結果を伝える通知に、「登録の価値あり」と記載され、種苗連合会発行の『果実の日本』誌上に掲載して90日以内に第三者の異議がないときはこれを確定することに決まった。\n官報に下山の「千歳白菜」の件が掲載されると、すぐに関東近郊の種苗会社が押しかけてきた。\nその会社は「我々にも販売の権利と、採種の権利の一部を出してほしい。認められなければ異議の申し立てをする」と主張した。\nそこで下山は登録までの経緯について説明し、すでに販売と採種の権利の一部を馬越種苗に出してあるので、種苗会社同士でよく話し合ってほしいと返答した。\n結局、異議の申し立てはされずに1953年(昭和28年)7月25日付で千歳白菜の新種登録が決定した(登録番号第65号)。", "qas": [ { "question": "下山の白菜を『果実の日本』に掲載して、何日以内に第三者の異議があったときは、新種登録が不確定となるの?", "id": "tr-421-08-000", "answers": [ { "text": "90日", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2日間において開催された農業資材審議会種苗部会の結果通知には、下山の白菜は何だと書かれてありましたか?", "id": "tr-421-08-001", "answers": [ { "text": "「登録の価値あり」", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "千歳白菜の登録番号が何か知ってる?", "id": "tr-421-08-002", "answers": [ { "text": "登録番号第65号", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "新種登録申請の書類が特許庁に送達されたが、特許庁は「千歳白菜」の「千歳」という名称はすでに北海道の「千歳澱粉」で使われていたため、他の名称に変更せよと伝えてきた。\nしかし馬越種苗ではすでに「新種で耐病性のある千歳白菜」の名称で関東一円に宣伝を打っていた。\nそのため何とか「千歳」の名称を残したいと強い要望があり、横井や藤井などの働きかけによって「下山千歳白菜」という名称での登録が認められた。\n下山千歳白菜の種子の販売権は、下山自身と千歳農業協同組合、そして馬越種苗などが持つことになった。", "qas": [ { "question": "「千歳白菜」の変更後の名前は?", "id": "tr-421-09-000", "answers": [ { "text": "「下山千歳白菜」", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「千歳白菜」以外に「千歳」という名称を使用していた地域はどこ?", "id": "tr-421-09-001", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「千歳」の名称を残したいがために、何の漢字を追加させた?", "id": "tr-421-09-002", "answers": [ { "text": "下山", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この段階で、使われなかった「千歳白菜」の名称について問題が発生した。\n近在の農家がこぞって白菜の種子を採種し「千歳白菜」の名称で販売し始めた。\nこれは馬越種苗や藤井、松原などが懸念していた事態で、本物の下山千歳白菜の何倍もの種子が市場に出回る事態になりかねなかった。\n下山は馬越種苗と相談した上で、当時主流だった枡での種子販売ではなく1合・5勺・1勺の3種類の絵袋入りのみで販売することを決めた。\n1955年(昭和30年)、植松は下山の協力を得て1編のスライドをフルカラーで制作した。\nタイトルは『バイラスにかからない白菜の作り方』というもので、前年の1954年(昭和29年)に記録した映像をとりまとめたものであった。\nスライドの内容は、バイラス病の被害を受けた白菜畑の様子や、耐病性品種の説明、畑の準備から収穫、貯蔵や出荷に至るまでの経過を説明した上で病害を防いで優れた白菜を収穫する方法について説明したものであった。\n下山自身も、1956年(昭和31年)6月に『バイラスにかからない誰でも簡単に作れる白菜の作り方』という冊子を作成している。", "qas": [ { "question": "『バイラスにかからない白菜の作り方』を製作したのは誰?", "id": "tr-421-10-000", "answers": [ { "text": "植松", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "植松のスライド制作後に下山が作成した冊子のタイトルは何?", "id": "tr-421-10-001", "answers": [ { "text": "『バイラスにかからない誰でも簡単に作れる白菜の作り方』", "answer_start": 432, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "植松が制作したスライドは、何年の記録映像をもとにしていますか?", "id": "tr-421-10-002", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 276, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "下山千歳白菜の登録期間は5年であった。\n下山千歳白菜は連作のために年々品質や生産量がともに低下していき、核家族化が進んで需要も減ったため下山は原種を渡して馬越種苗に栽培と採種を委ねた。\nその後下山は1959年(昭和34年)から2年間、人参の栽培に取り組んだ。\nこの人参も出来の良いものであったが、大きすぎて時代に合わないと言われたため、新種としての登録申請は認められなかった。\n1962年(昭和37年)頃からはキャベツやレタスの栽培も手掛けたが、昭和40年代に入ると農業だけでは生活が立ち行かなくなり、土地の売却やアパート経営などに軸足を移した。", "qas": [ { "question": "下山が白菜の次に栽培に取り組んだものは何ですか?", "id": "tr-421-11-000", "answers": [ { "text": "人参", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "下山千歳白菜の需要が減少した後、下山が新たな栽培に取り組んだのは何の野菜ですか?", "id": "tr-421-11-001", "answers": [ { "text": "人参", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1998年(平成10年)、下山は財団法人せたがやトラスト協会と契約を締結し、屋敷林の一部を市民緑地「北烏山九丁目屋敷林市民緑地」として開放した。\nこの市民緑地の一角には、「下山千歳白菜発祥之地」の記念碑が建立されている。\n記念碑の由来は『バイラスにかからない白菜の作り方』のスライドを手がけた植松敬(元東京都農業改良普及員、元東京都労働経済局主幹)の撰文、揮毫は大場啓二(当時の世田谷区長)によるものである。\n長らく栽培の途絶えていた下山千歳白菜は、平成10年(1998年)に復活した。\n「北烏山九丁目屋敷林市民緑地」の契約締結と同じ頃、地元の住民たちが結成した「烏山みずとみどりの会」はこの品種の存在を知り、下山に再度の栽培を依頼した。\nすでに下山の手元には種子が残っていなかったものの、耐病性品種の親として協和種苗(旧・馬越種苗)に残されていた種子100粒を使って栽培を試み、「烏山みずとみどりの会」の会員たちも参加して約40年ぶりに下山千歳白菜が収穫された。", "qas": [ { "question": "「下山千歳白菜発祥之地」の記念碑が建立されている市民緑地の名前は?", "id": "tr-421-12-000", "answers": [ { "text": "「北烏山九丁目屋敷林市民緑地」", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "下山に再度、下山千歳白菜の栽培をお願いした団体の名前は何ですか?", "id": "tr-421-12-001", "answers": [ { "text": "「烏山みずとみどりの会」", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "約40年ぶりに下山千歳白菜が収穫された復活したのは平成何年?", "id": "tr-421-12-002", "answers": [ { "text": "平成10年", "answer_start": 225, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "下山は自身が改良した下山千歳白菜の復活を見届け、2000年(平成12年)に『農に生きる-白菜育成にかけたわが人生』を私家版として出版した。\n後に下山は死去したが、長男が2002年(平成14年)に出版社を退職後に父の後を継いで下山千歳白菜の栽培を手掛けている。\n下山の長男によると、下山自身は復活した下山千歳白菜について「同じではない」と最期まで言い続けていたという。\n下山千歳白菜は、2010年(平成22年)頃から世田谷区の特別養護老人ホームや世田谷区立の小学校の給食に使用されるなど、世田谷の地場野菜として再認識される機会が増えている。\n平成25年度版せたがや農業通信によると、世田谷区内での白菜の作付面積は423アール、収穫量は42トンを記録している。", "qas": [ { "question": "下山の長男は、下山千歳白菜の栽培を受け継ぐ前、どこに務めていたの?", "id": "tr-421-13-000", "answers": [ { "text": "出版社", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "下山千歳白菜は極晩生種で生育の速さこそやや遅いものの、耐病性に優れていた。\n芝罘白菜と包頭白菜の特徴を受け継いで通常の白菜の2-3倍以上の大型に育ち、高さは約50センチメートル、重さは通常で7-8キログラム、外葉を除いても4キログラムほどあり、大きいものでは10キログラムを超えるものもあった。\n「白芯系」と呼ばれる白菜の古い品種にみられる特徴をよく留め、縦半分に切ってみると内側まで身が良く詰まっていて内部の白い部分が多くなっている。\n結球のタイプは一見すると砲弾に類似した形態の「抱合型」といわれる種類で、大きく開いた外側の葉の中心に小さな葉が抱合した状態で発生し、さらにその内側の葉も葉の縁をかぶせあうように分化して結球していく。\n結球する葉の枚数は70枚前後になり、葉1枚ごとの重量は比較的軽く、ほぼ同じ程度の重さを持つ葉が重なり合っている。\n結球の形状と葉の枚数は、ともに芝罘白菜の特徴を受け継いだものである。", "qas": [ { "question": "下山千歳白菜の葉の枚数はどれくらいあるの?", "id": "tr-421-14-000", "answers": [ { "text": "70枚前後", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "下山千歳白菜は大きいもので何キロを超えていたの?", "id": "tr-421-14-001", "answers": [ { "text": "10キログラム", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "生育の速さについては、当初は120日ほどかかったものが改良されて約90日から100日ほどに短縮された。\n品種の発表当時は結球の姿が必ずしも斉一ではなく、「抱合型」以外に結球の頂点が丸みを帯びたものも認められた。\nこのため形状の斉一化を図る目的で、分系や系統間F1を利用した育種が試みられて、山形県農業試験場園芸部が作出した「ざおう」という品種など10種近い品種が育成された。\nその他に早生種に改良した品種がいくらか育成され「早生」千歳群として分類される。\nただしこれらの品種は実用としてあまり利用されなくなり、後にはF1の片親品種として芝罘群などの品種との組み合わせに用いられるようになっている。", "qas": [ { "question": "下山千歳白菜は、改良前は生育に何日かかっていましたか?", "id": "tr-421-15-000", "answers": [ { "text": "120日ほど", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "重量については小型化が試みられて、1969年(昭和44年)に発行された『最新園芸大事典』第2巻では「その後消費の傾向に応じ4kg程度に変わっている。」との記述があった。\n大きく成長する品種のため、株同士の間隔は通常の白菜を栽培する場合の2倍にあたる60センチメートルほど開けて栽培する。\n大型の品種であるが味はよく、和洋中どの用途にも使え、鍋にも漬物にも向いていて旨味も十分にある。\n下山千歳白菜は明治神宮で開催された全国農産物品評会で、1952年(昭和27年)から3年連続で農林大臣賞を受賞した。\n一時期は東京の近郊で開催された秋蔬菜品評会においても、白菜の出品はほとんどこの品種で占められていたほどに普及が進んでいた。\nこの品種における課題は、温暖化の進行による暑さ対策である。\n病害に強い下山千歳白菜は、近年の猛暑や局地豪雨の影響を受けて順調に成育しないときがある。\n2013年(平成25年)には根が腐るなどしたために、播種した種のうち約1割の100株しか収穫できなかった。\n下山の長男は「地域の誇りとおやじへの孝行のため、死ぬまで守りたい」と栽培方法について模索を続けているという。", "qas": [ { "question": "下山千歳白菜は全国農産物品評会において3年連続で農林大臣賞を受賞しているが、その1年目はいつのこと?", "id": "tr-421-16-000", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 219, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "下山千歳白菜の課題とは何?", "id": "tr-421-16-001", "answers": [ { "text": "温暖化の進行による暑さ対策", "answer_start": 324, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "下山千歳白菜は消費者のニーズに合わせてどれくらいの量まで小型化されたの?", "id": "tr-421-16-002", "answers": [ { "text": "4kg程度", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "白菜類は発育が旺盛なため肥沃な畑を好むので、前作にはキュウリ・トマト・スイカ・ジャガイモなどの多肥作物を植え付け、地力を高めておく必要がある。\nまた、他のアブラナ科の作物が1年中栽培されているような地域では、ウイルス病が次々と伝播する可能性があるため播種前に付近から畑を耕したほうがよい。\n雑草にも病原が残っている場合があるから、除草した上で畑全面に石灰を散布する。\n下山千歳白菜は、耐病性があるため早蒔きしてもよく発育する。\n東京近郊で栽培する場合、晩生種であることから生育期間が長くかかるため、8月10日より遅くとも17日頃までに播種する必要がある。\n播種の時期を逃してしまうと、出荷が一番値下がりする12月になるため高値での取引は望めなくなる。\n最初の間引きは本葉が2-3枚出たころに行い、収穫までの間に合計で3回程度に分けて実施する。\n耐病性に優れた品種であっても薬剤の散布は的確に行う必要があり、4-5日おきにパラチオン2000倍液などを散布すればアブラムシの他にシンクイムシ、キスジノミムシなどの防除効果も期待できる。\n追肥を2回行い、10月中旬頃から生育の良いものは出荷可能になるが、この時期のものはまだ結球状態が緩く、葉の軟白状態も十分ではない。\n11月の中旬から下旬になると結球状態が進んでくるため、霜が降り始める頃にそれぞれの株を外側の葉ごと地上から3分の2くらいのところで藁を使って軽く結ぶ。\nこれは霜や風による害を防ぐだけでなく、軟白を早くできるようになる上に、収穫時や間作の麦栽培のためにも都合がよい。\n収穫は結球が堅く、軟白状態の進んだものから始める。\nこの品種の結球は12月上旬頃まで続く上に耐寒性にも優れていて年内いっぱいは畑においておくことが可能なため、値の良い時期に出荷することが可能であった。\n貯蔵性も良好な品種なので、3月か4月頃まで貯蔵して高値で売れる頃合いを見て出荷することもできた。", "qas": [ { "question": "地力を高めるために植え付けるキュウリ・トマト・スイカ・ジャガイモは、どのような作物ですか?", "id": "tr-421-17-000", "answers": [ { "text": "多肥作物", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "白菜の栽培において、アブラムシ等の害虫対策で使用される薬剤は何?", "id": "tr-421-17-001", "answers": [ { "text": "パラチオン", "answer_start": 410, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ネルトリンゲン", "paragraphs": [ { "context": "ネルトリンゲンまたはネルドリンゲンは、ドイツ連邦共和国バイエルン州シュヴァーベン行政管区のドナウ=リース郡に属す大規模郡都市で、かつては帝国自由都市であった。\n\nネルトリンゲンは、1500万年前にシュヴァーベンジュラ山脈に落下した隕石のクレーターであるネルトリンガー・リースに位置する。このクレーターは直径23kmあり、その縁は環状の連丘に見える。リース内をヴェルニッツ川とエーガー川が流れ、この都市の南東約30kmの地点でドナウ川に注ぐ。\n\n隕石が衝突した際、瞬間的に超高温、超高圧にさらされた地表の岩石がスエバイトに変化した。このスエバイトは建築用途に重宝され、現在も同市内の建物で見ることが出来る。\n\nまた、フランケン地方南東部およびシュヴァーベン地方の北部に位置しており、住民の大部分はアレマン語の一方言であるシュヴァーベン語を言語とするアレマン人が多い。", "qas": [ { "question": "ネルトリンゲンの別の名前は何?", "id": "tr-422-00-000", "answers": [ { "text": "ネルドリンゲン", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ネルトリンガー・リースの直径は何kmなの?", "id": "tr-422-00-001", "answers": [ { "text": "23km", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シュヴァーベン語はどの語の方言なの?", "id": "tr-422-00-002", "answers": [ { "text": "アレマン語", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オフネットヘーレンの発掘は、現在のネルトリンゲンの市域には旧石器時代後期から定住者があったことを示している。ネルトリンゲンの市域には、その後のほぼあらゆる前史時代の発掘地が見られる。特に興味深いのはバルディンゲン区の東端近くで、ここには、線帯文土器文化時代、新石器時代、骨壺埋葬文化、ハルシュタット時代、ラ=テーヌ時代の入植者が定住していた。ここには火葬墓地を有するローマ時代の村(Villa)もあった。\n\n西暦85年頃に市の南に入植地(vicus)を有するローマ帝国の城が築かれたが、259年から260年に現在の南ドイツがアレマン人によって征服されたことで零落していった。この入植地の名前は、おそらくSeptemiacumであったと推測される。このラテン名は、TabulaPeutingerianaによって確かな形で伝えられているのだが、このローマ人入植地が現在のネルトリンゲンを指すものであるかどうかは完全に確定できない。ローマ時代の荘園(Villarustica)がホルハイム区で発掘され、見学できる。ローマ時代のネルトリンゲンは全般的に研究がなされている。\n\n6世紀から7世紀のアラマン人入植地が証明されている。この時代の墓地が3カ所ネルトリンゲン市内で発掘されている。", "qas": [ { "question": "ネルトリンゲン市内で発見された6世紀から7世紀の墓地は何カ所ですか。", "id": "tr-422-01-000", "answers": [ { "text": "3カ所", "answer_start": 518, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "\"Nerdilinga\"は898年にカロリング朝の王領として初めて文献に記録されている。レーゲンスブルク司教の統治下でネルトリンゲンは市場町に成長していった。\n\n1215年にネルトリンゲンは皇帝フリードリヒ2世から都市権を与えられ、帝国自由都市となった。この年に最初の市壁が築かれた。その縄張りは現在も街の地図に見て取れる。1219年、ネルトリンゲンの聖霊降臨祭についての最も古い文献上の記録が遺されている。重要な交易路が交差するこの都市は穀物、家畜、織物、毛皮、金属製品の主要な集散地に発展していった。ネルトリンゲンはフランクフルトと並ぶドイツで最も重要な遠距離交易都市の一つとなったのである。", "qas": [ { "question": "\"Nerdilinga\"の最初の記録は何年のものですか。", "id": "tr-422-02-000", "answers": [ { "text": "898年", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1215年にネルトリンゲンは誰から都市権を与えられ、帝国自由都市となったか。", "id": "tr-422-02-001", "answers": [ { "text": "皇帝フリードリヒ2世", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1238年の火災で都市の大部分は焼失したのだが、ただちに復興された。三世代後には市壁の外にも多くの手工業者、特に革なめし工や織工が住み着いていた。そこで1327年に今も遺る市壁が建設された。これにより市壁内の面積は4倍に拡大した。1427年に聖ゲオルク教会の建設も始まった。\n\n1529年のシュパイヤー帝国会議で、この都市はプロテスタントを支持する少数派に属した。市民はプロテスタント信仰の拡大が妨害されないことを要求した。1555年にネルトリンゲンの宗教改革が確定した。\n\nネルトリンゲンでの魔女狩りの歴史は記録がよく遺されている。1589年から1598年までの間に34人の男女が魔法使いとされ、火あぶりで処刑された。", "qas": [ { "question": "聖ゲオルク教会の建設は何年に開始したか。", "id": "tr-422-03-000", "answers": [ { "text": "1427年", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ネルトリンゲンの宗教改革は何年に確定されたか。", "id": "tr-422-03-001", "answers": [ { "text": "1555年", "answer_start": 212, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1589年から1598年まで、ネルトリンゲンで魔法使いとされ処刑された人は何人でしたか。", "id": "tr-422-03-002", "answers": [ { "text": "34人", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "三十年戦争で歴史の転換点となったのがネルトリンゲン包囲戦とそれに続く1634年に起きたネルトリンゲンの戦いである。この戦いでスウェーデン=プロテスタント軍は初めて皇帝=ハプスブルク軍にはっきりとした敗北を喫したのであった。ネルトリンゲンは勝者に城門を開かねばならなかったが、高額の賠償金を支払うことで略奪行為を免れた。しかし、この都市は包囲戦からその後にかけて飢餓や病気で住民の半分以上を失うという被害を受けていた。さらにその後のスペイン継承戦争でも、近くで起こったヘーヒシュタットの戦いによりこの都市は打撃を被っている。", "qas": [ { "question": "ネルトリンゲンの戦いは何年にあったか。", "id": "tr-422-04-000", "answers": [ { "text": "1634年", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三十年戦争で歴史の転換点となったのはネルトリンゲン包囲戦と何?", "id": "tr-422-04-001", "answers": [ { "text": "ネルトリンゲンの戦い", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ネルトリンゲン包囲戦とネルトリンゲンの戦いと、どっちの方が先にあったの?", "id": "tr-422-04-002", "answers": [ { "text": "ネルトリンゲン包囲戦", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1802年にバイエルン選帝侯はネルトリンゲンを併合し、これにより帝国都市の地位も失われた。\n\n1849年5月15日、ルートヴィヒ南北鉄道の操業開始によってネルトリンゲンはバイエルン王立国営鉄道の鉄道網に接続した。1861年7月25日、ヴュルテンベルク王立国営鉄道がカンシュタットからアーレンを経由してネルトリンゲンまで完成した。この路線は1863年に全線開通した。\n\n\n中世からネルトリンゲンにはユダヤ人家族が定住していた。死者はネーアメンミンガー・ヴェクのユダヤ人墓地に葬られ、1885年にはクロイツガッセ1に新しいシナゴーグが建設された。この神殿は1938年11月の迫害運動で親衛隊員に荒らされた。現在のプロテスタント組織事務所に掲げられた記念プレートがこの事件をしのばせる。また、1979年にユダヤ人市民によって屋根が設けられたユダヤ人墓地の記念プレートは、ホロコーストの犠牲者を追悼して建立されたものである。", "qas": [ { "question": "ネルトリンゲンが帝国都市の地位を失ったのは何年のことですか。", "id": "tr-422-05-000", "answers": [ { "text": "1802年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴュルテンベルク王立国営鉄道がカンシュタットからアーレンを経由してネルトリンゲンまで完成したのはいつですか。", "id": "tr-422-05-001", "answers": [ { "text": "1861年7月25日", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1939年になってネルトリンゲンの人口はやっと1618年(すなわち三十年戦争前)の水準に復した。\n\n第二次世界大戦では空爆によって1945年春に33人が命を落とした。駅や多くの住宅が破壊され、聖ゲオルク教会も大きな損傷を被った。しかし歴史的旧市街の遺構はほとんど無傷で遺された。\n\n戦後はアメリカ軍の管理地域に属した。アメリカ軍司令部はDisplacedPerson(DP、旧ドイツ領の東プロイセンやシレジア、チェコ領であったズデーテン地方などから追放された人々)のための難民収容所を設けた。この収容所はUNRRAにより運営され、約500人のDPに宿を提供した。その多くはラトヴィアやリトアニアからの人々であった。\n\n戦後ネルトリンゲンには4500人を超える故郷を失った人々が定住した。\n\nバイエルン州の郡域再編に伴い、1972年7月にネルトリンゲンは郡独立市の地位を失い、新たに創設されたネルトリンゲン=ドナウヴェルト郡に編入された。この郡は1973年5月1日に「ドナウ=リース郡」と改名された。", "qas": [ { "question": "1945年春、第二次世界大戦の空爆によって何人のネルトリンゲンの人が死亡したか。", "id": "tr-422-06-000", "answers": [ { "text": "33人", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "聖ゲオルク教会の北側にはマルクト広場があり、中世には毎年10日間、ここで見本市が開催された。布地の商人達は、ブロート・タンツハウスに商品を展示していた。この建物は1442年から1444年に建設されたもので、上層階は祝祭ホールとして使われていた。この建物と橋でつながっているのが木組み建築のメツィヒである。普段は肉屋(Metzger)の売店が占めているのだが、見本市の時期には売り場が拡張して利用された。さらに1304年の文献にはすでに登場するヘーエ・ハウスもある。\n\n向かい側に立つゲストハウス「ツア・ゾンネ」は1350年に建設され、1405年から領主館として用いられていた。1500年頃には皇帝フリードリヒ3世とマクシミリアン1世、1548年にカール4世、1788年にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがゲストとして宿泊し、1970年にはアポロ月面旅行計画の宇宙飛行士らが宿舎とした。\n\nこの建物のすぐ北隣に市庁舎がある。聖ゲオルク教会や市内の多くの建物同様、ネルトリンガー・リースで産生される多孔性のスーバイトを用いて建設されている。1313年にはすでに販売記録にその名が記されており、当時は市場の販売会場として利用されていることが立証された。1382年に市はこの建物を賃借し、それ以後ずっと市庁舎として使われている。1500年頃に上層階に階段破風が設けられ、建物の張り出し部が取り付けられた。1509年に宝物塔、1618年に印象的なルネサンス様式の階段口が増築された。16世紀にシュヴァーベン同盟の代表者が会した大集会ホール内にはハンス・ショイフェリンの大きくて貴重なフレスコの壁絵がある。", "qas": [ { "question": "聖ゲオルク教会のどの方向にマルクト広場がありますか。", "id": "tr-422-07-000", "answers": [ { "text": "北側", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲストハウス「ツア・ゾンネ」は何年に建てられたか。", "id": "tr-422-07-001", "answers": [ { "text": "1350年", "answer_start": 256, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ハチ(ヒョウ)", "paragraphs": [ { "context": "ハチ(1941年(昭和16年)2月頃-1943年(昭和18年)8月18日)は、恩賜上野動物園で飼育されていたオスのヒョウである。\n日中戦争(支那事変)の最中の1941年(昭和16年)2月28日、中華民国湖北省の山中で日本軍の小隊に保護され、「ハチ」と命名された。\n小隊長の成岡正久(なるおかまさひさ)と小隊の兵士たちはハチを可愛がって育て、ハチも兵士たちを慕うようになった。\n戦局が切迫するにつれて小隊にハチを同行させることが困難になってきたため、成岡は伝手を頼って恩賜上野動物園にハチを引き取ってもらった。\nその後ハチは戦時猛獣処分の対象となって薬殺され、第二次世界大戦終戦後に成岡と再会したときには剥製になっていた。\n成岡は故郷の高知にハチを連れ帰り、晩年になってから高知市子ども科学図書館に寄贈した。\nハチの生涯とエピソードについては成岡自身の著書『豹と兵隊』を始め、宮操子、浜畑賢吉、門田隆将などが本の題材として取り上げている。", "qas": [ { "question": "ハチはどこで保護されたの?", "id": "tr-423-00-000", "answers": [ { "text": "中華民国湖北省", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハチは何の動物ですか?", "id": "tr-423-00-001", "answers": [ { "text": "ヒョウ", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハチの引き取り先は何という動物園ですか?", "id": "tr-423-00-002", "answers": [ { "text": "恩賜上野動物園", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハチを可愛がって育てた小隊長は誰ですか?", "id": "tr-423-00-003", "answers": [ { "text": "成岡正久", "answer_start": 136, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "成岡は高知市出身で、1912年(大正元年)9月28日の生まれだった。\n城東商業から関西学院大学に進み、卒業後に大日本帝国陸軍の第40師団(通称号:鯨兵団)隷下の歩兵第236連隊に応召し、1941年(昭和16年)2月からは第8中隊第3小隊長を務めていた。\n日中戦争時に湖北省付近に展開していた歩兵第236連隊は、通称を「鯨部隊」と呼ばれていた。\n鯨部隊は、1939年(昭和14年)6月の結成から第二次世界大戦の終戦まで中支・南支を転戦して、その移動距離は二千数百キロメートル、戦死者も2,000人余りを数える存在だった。\nその歩兵第236連隊の第8中隊は、中国南東部長江の中流域にあたる湖北省陽新県に1939年(昭和14年)10月から駐屯していた。", "qas": [ { "question": "成岡の出身大学は?", "id": "tr-423-01-000", "answers": [ { "text": "関西学院大学", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "成岡は陣地に設けられた展望台に登って付近の地形を確かめ、敵襲があった際の兵員や火器などの配置について検討していた。\n日が落ちてあたりが暗くなった時分、成岡がふと牛頭山の方角に目をやると、そこには野火が燃え上がっていた。\nしかもその野火は、見る見るうちに牛頭山麓一帯に燃え広がっていった。\n成岡たちは不審に思ったものの、野火の原因については不明だった。\n翌朝成岡は、部下を伴って牛頭山まで野火の原因究明と警備隊の指導に出向いた。\n警備にあたっていた兵士の報告では「異状ありません」とのことであった。\n兵士の案内で山上の監視所に赴いてみると、眼下の集落入り口や小道などのあちこちに火を焚いた跡が残っていて、一見しただけで昨夜見た野火のものであることがわかった。\n成岡は兵士に野火のことについて質問してみたが、兵士も何のための火であるかは全く知らなかった。\nそのとき、1人の若い鉱山技師が大慌てで山頂から駆け下りてきた。\n成岡は彼の様子を不審に思って「どうしましたか!」と問いかけたが、技師はそのまま走り去っていった。\n成岡たちは技師の後を追って麓のテントまで戻り、彼の動揺が治まったところでその理由を尋ねた。\nその答えは「山の上に1頭の大きなヒョウがいて、しかも自分をにらみつけていた」ということであった。\n技師は拳銃を携帯していたものの、あまりの恐ろしさに山頂から逃げ帰ってきたのだった。", "qas": [ { "question": "野火はどこの山の麓で燃えていましたか?", "id": "tr-423-02-000", "answers": [ { "text": "牛頭山", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "技師の話を聞いても、成岡たちは半信半疑であった。\nそこへ鉱山事務所に雇用されている地元の男性が戻ってきた。\n男性は牛頭山には4頭のヒョウがいて、しかも大きさが2.7メートルもあると証言した。\nそのヒョウが毎晩集落に出没して家畜のみならずときには人間さえ襲うため、ヒョウの害を防ぐため野火を焚いていると説明した。\n男性は成岡に「どうかあなたの手で、是非ヒョウを退治してほしい」と頼み込んだ。\n住民や鉱山事務所が受けた被害について話を聞き、成岡はヒョウ退治を決意した。\n成岡が宿舎に戻って「ヒョウ狩りに行く者はおらぬか」と呼びかけると、隊の全員が志願した。\nそこで成岡は射撃に優れた部下を3名選び、自らが指揮を執って牛頭山の登山口に向かった。\n牛頭山は標高こそ100メートル程度であったが、山の全体が岩に覆われている上に山バラが密生して移動がしにくい状態であった。\n山中にはヒョウの足跡が点々と残り、真新しいキジの羽毛やシカの白骨などが散乱していた。\n一行が頂上に近づくにつれてヒョウが食い荒らした鳥獣の残骸が多くなり、その中には人間の衣類とおぼしき切れ端すら混じっていた。\n頂上の大岩にたどり着いて周囲を確認したものの、ヒョウの気配すら感じられないほどに静まり返っていた。", "qas": [ { "question": "成岡とヒョウ退治に同行した部下は何名でしたか?", "id": "tr-423-03-000", "answers": [ { "text": "3名", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一行は引き返すことにして、下山を開始した。\n7合目付近にある大岩にさしかかったとき、不意に大きな唸り声が付近の静寂を破った。\n一行は声の主を探し求めたが、周囲は再び静けさを取り戻していた。\n再び先ほどの大岩にたどり着くと、先ほどよりも大きな唸り声が至近距離から聞こえてきたため、大岩の下にヒョウがいることがわかった。\n大岩の上は3坪ほどの平面になっていたので、一行にとって安全な場所であった。\n大岩の側面に密生している木の根元が深い空洞になっていて、その中をヒョウが根城にしていた。\n一行はヒョウをおびき出す手段として、空洞に火を放つことにした。\n1人が空洞の入り口を見張り、他の3人が付近の枯草を大量にかき集めて火をつけ、入り口から投げ込んだ。\n投げ込んだ火は湿気などのためにすぐに消え、最初の攻撃は失敗した。\n成岡は部下のうち2人を再度頂上まで登らせ、ふもとで待機している警備隊に向かってガソリンを持ってくるように大声で叫ばせた。\nふもとから技師がただ1人、ガソリンの入った一升瓶を手にかけつけてきた。\n成岡たちはそのガソリンを入り口に散布し、枯草に火をつけて投げ入れた。\n火は瞬く間に燃え広がってすぐ消えたため、成岡たちはヒョウが入り口から飛び出してくるのを待ち受けたが、出てきたのは小さなヒョウの子2頭のみであった。", "qas": [ { "question": "火を付けた空洞の入りから出て来たヒョウの子は何頭でしたか?", "id": "tr-423-04-000", "answers": [ { "text": "2頭", "answer_start": 553, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヒョウの子は生後20日ほどで、オスとメスが1頭ずつであった。\nオスの方は右首筋に大きな火傷を負っていたが、メスの方は無傷だった。\n2頭を連れた一行が牛頭山のふもとに戻ると、残留していた成岡の部下、鉱山の技師たち、そして地元の住民多数が歓呼のうちに彼らを出迎えた。\n成岡は白砂舗を去る前に、ヒョウの子たちを「おとり」にして親ヒョウを生け捕ろうと決心していたが、必要な資材が間に合わなかったため断念せざるを得なかった。\n3月3日、成岡たちは白砂舗での警備任務を終えて陽新県に戻ることになった。\n成岡は鉱山技師に預けていたヒョウの子2頭のうち、火傷を負った方の1頭を連れ帰ることにした。", "qas": [ { "question": "ヒョウの子オスとメスのうち、成岡が連れて帰ったのはどちらですか?", "id": "tr-423-05-000", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "成岡たちが陽新県に戻ると、兵士たちが次々と集まってきた。\n彼らのもとには成岡の一行が可愛らしいヒョウの子を連れて戻ってくるという知らせがすでに届いていたため、大喜びで帰還を待ち受けていたのだった。\nまだ歯も生えていないヒョウの子のことで成岡が困ったのが、何を食物として与えるかという問題だった。\nヒョウの子が空腹を訴えて大声で鳴きわめくので、試しに牛乳を与えてみたが徒労に終わった。\nヒョウの子は夜通し鳴き続けていたため、成岡は一睡もできないありさまだった。\n成岡は部下の橋田寛一を呼んで「鳥を取ってきて食わせ」と命じた。\n橋田は成岡の率いる小隊では、一際優れた射撃の腕前の持ち主であった。\n「スズメ撃ちの名人」としても知られていて、実際にスズメ撃ちの腕前を乞われて披露した経験もあった。", "qas": [ { "question": "「スズメ撃ちの名人」だった人物の姓名は何ですか?", "id": "tr-423-06-000", "answers": [ { "text": "橋田寛一", "answer_start": 236, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "橋田によれば、ヒョウの子を初めて見たとき「子猫」にしか見えなかったという。\n食べ物を受けつけようとしないヒョウの子には橋田も困ったが、工夫を重ねて何とか口に入れたら、そのうち食べるようになったという。\nその工夫というのは、軍服の上着の一番上のボタンを外し、そこにヒョウの子を顔だけ出すようにして入れた上で、橋田の食事を噛んで柔らかくしてヒョウの子に与えるというものであった。\nヒョウの子が固形物も食べられるようになると、草原にいるノロジカや鳥を撃ってきて、それを同様に与えた。\nヒョウの子は日中は橋田のもとで過ごし、夜は成岡の部屋で寝ることになった。\nヒョウの子のために巣箱が作られていたが、ヒョウの子は狭苦しい巣箱を嫌って常に部屋の中で過ごしていた。\n最初のうちは目も開かず足取りもおぼつかなかったが、1週間足らずのうちに目が見え始めた。\n成岡が座敷に腰を下ろすと走り寄ってきて膝の上に飛び乗り、彼の手先を嬉しそうになめるようになった。\nヒョウの子は成岡と同様に部隊の兵士たちにも親しみを寄せた。\n兵士たちが部屋に訪れると早速足元に抱きついて愛嬌を振りまき、兵士たちもヒョウの子を抱き上げて頬ずりしたり、いつまでも撫でたりして可愛がっていた。", "qas": [ { "question": "ヒョウの子が固い物でも食すのが可能になった時、餌としてあげたのは鳥や何でしたか?", "id": "tr-423-07-000", "answers": [ { "text": "ノロジカ", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "体が次第に大きくなってもヒョウの子の愛らしさは変わらず、休日には他の部隊の兵士たちがその姿を写真撮影しに来ることも多かった。\nヒョウの子は成岡の部屋で起居を共にし、就寝時には彼の首を枕代わりにして安眠するようになった。\n最初のうち成岡はなかなか寝つけずに困ったというが、ヒョウの子の愛らしい寝姿と安心しきって幸せそうな寝息を聞くと可哀想になって追い払うことはできずにいた。\nヒョウの子は元気に成長し、1月も経たないうちに部隊のマスコットとなった。\n兵士たちが部屋に来ないときには、自分から建物のあちこちを訪れて挨拶代わりに戯れ、外で走り回ったり部屋で紙くずをおもちゃ代わりにもてあそんだりしながら楽しく過ごしていた。\nヒョウの子にはまだ名前がなかったので、成岡は兵士たちのうち十数名を集めて名づけの相談をすることにした。\nこのとき、第8中隊の名を取って「ハチ」と命名することに決定した。\nハチは教練や野外練習にも兵士たちとともに参加し、他の部隊の兵士たちや地元の住民たちもその光景に驚いていたという。", "qas": [ { "question": "「ハチ」の由来は何ですか?", "id": "tr-423-08-000", "answers": [ { "text": "第8中隊", "answer_start": 366, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヒョウの子の名前は何に決まりましたか?", "id": "tr-423-08-001", "answers": [ { "text": "「ハチ」", "answer_start": 376, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハチは人見知りをしない性格で、他の部隊の兵士たちともすぐに仲良しになるほどであった。\nただし成岡と部下の兵士たちは部外者の兵士が誤ってハチを撃ったりしないか常に注意を払い、警戒も怠らなかった。\nやがてハチが第8中隊の一員となって50日ほど過ぎ、4月も半ばとなった。\n日本から将兵慰問のため、宮操子が率いる慰問舞踊団の一行が陽新県の兵営を訪れた。\n宮の舞踊団は、1939年(昭和14年)から1942年(昭和17年)まで中国各地への慰問公演を続けていた。\n舞踊団には若い女性6名も加わっていて、仮設の舞台で様々な踊りを披露して兵士たちを楽しませた。", "qas": [ { "question": "ハチはどんな性格なの?", "id": "tr-423-09-000", "answers": [ { "text": "人見知りをしない性格", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮の舞踊団の中心人物は誰でしたか?", "id": "tr-423-09-001", "answers": [ { "text": "宮操子", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "しかしその日の夕方、宮が高熱を発して倒れ、舞踊団は次の訪問先に移動できない状態に陥った。\n成岡は異国の地で病に侵された宮の心細さと、足止めされた舞踊団の団員たちのことを思って、少しでも慰めになればとハチを抱いて舞踊団の宿舎に出向いた。\n宿舎にいた舞踊団の女性たちはハチを見て最初のうちは驚いていたが、成岡が「コイツは誰とでもすぐ友だちになりますから」との話を聞いてその人懐こさと愛らしさにすぐに心を許し、紙つぶてを投げるなどして遊び始めた。\n病臥中の宮も、成岡の心遣いを大いに喜んだ。\n成岡は宮を始めとした女性たちの希望を容れて、宮の容態が回復するまでハチを宿舎に残すことにした。\n1週間後、舞踊団の一行は次の目的地に向かって出発することになった。\n成岡がハチを迎えに行くと、元気を回復した宮がハチを抱いている姿が目に入った。\n成岡がそっと近づいていくと、ハチはいち早く気づいて宮の腕から成岡の肩に素早く飛び乗り、再会を喜ぶ様子で顔中をなめ回しはじめた。\nいかにも嬉しげなハチの様子に、宮を始めとする舞踊団の女性たちはその背中を撫でて別れを惜しんだ。\n一行が去ってしばらく経ってから、成岡はハチの体から芳香が漂っているのに気づいた。\nそれは舞踊団の女性たちが毎日のようにハチを可愛がっていた際の移り香であった。\nそして女性たちは、美しい花模様入りの首輪をハチに贈っていた。\n成岡は後に自著で「それは可愛いハチにふさわしい贈り物でありました」と述懐していた。", "qas": [ { "question": "舞踊団の女性たちがハチにプレゼントした物とは何ですか?", "id": "tr-423-10-000", "answers": [ { "text": "首輪", "answer_start": 574, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ハチは一時期、体調を崩して起き上がることさえ困難になっていた。\n心配した成岡が大隊本部の獣医官に診察を依頼したところ、「カルシウム欠乏症」に起因するものという診断が下った。\n成岡はその日からハチに骨つきの肉を与えるように努め、郷里の高知から強力な空気銃を送ってもらって周囲に住むスズメやモズなどを撃ってハチの餌に加えた。\nその成果が出てハチは健康を取り戻し始めたものの、5月中旬に成岡は師団対抗剣術大会の審判兼選手として出場を命じられ、部隊を不在にせざるを得なくなった。\n成岡はハチのことが気がかりだったため、留守中のことを部下によく言づけておいた。\n2週間にわたる出張中、ハチの容態が心配でならなかったが、任務を無事に果たすことができた。\n帰路を急いで兵営に戻った成岡に、立哨中の兵士が「ハチは元気になっています」とうれしい知らせを告げた。\n自室に戻ると、ハチはすぐに成岡に飛びついてきて再会の喜びをあらわにした。", "qas": [ { "question": "成岡が2週間も部隊を不在したのは何に参加していたからですか?", "id": "tr-423-11-000", "answers": [ { "text": "師団対抗剣術大会", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハチが体調を崩したのは何に起因するものでしたか?", "id": "tr-423-11-001", "answers": [ { "text": "「カルシウム欠乏症」", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハチは兵士たちの夜間歩哨勤務によく付き合い、兵士たちにも頼りがいのある「相棒」となっていた。\n炊事場では盗み食いを働くネコや野良犬を「退治」したため、盗み食いの被害がなくなった。\n炊事係の兵士たちはハチを「衛兵」と呼ぶようになったが、1つ困った事態が起こり始めていた。\nそれは、炊事場に物を売りに来る地元の住民たちに対してハチが襲いかかるそぶりを見せてしまうため、兵士たちがそばで押さえていなければならないことであった。\n他の分屯隊から陽新県の中隊本部に事務連絡などでやってくる兵士たちは、いずれもその道すがらにハチのために大きなシカや野鳥を射止めて運んできていた。\n獲物を持ち帰ってきた兵士たちは、再会を喜んでじゃれつくハチの愛らしさに疲労も忘れてかわるがわる抱き上げるなどして愛情を示していた。\n兵士たちが再び帰隊するとき、ハチは東門まで必ず見送りに出た。\nその姿が見えなくなるとハチは悄然として戻ってくるため、中隊本部の兵士たちはすぐに鬼ごっこを始めてハチの寂しい気持ちを紛らわせていた。", "qas": [ { "question": "ハチは炊事係の兵士たちから何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-423-12-000", "answers": [ { "text": "「衛兵」", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ハチが生後6か月になる頃には、体長がすでに1.7メートル、体重50キログラム以上にまで成長していた。\nハチと成岡のことは「野生の豹と共に暮らす男」として、戦線にいた各部隊に広く知れ渡り、地元の住民たちからは「豹の大人(たいじん)」と呼ばれるほどであった。\nヒョウは猛獣の中でも最も人に慣れにくいといわれ、それは著名なサーカスの中にライオンやトラの芸があってもヒョウを調教して芸をさせた例がほとんどないことが証明していた。\n成岡もハチがここまで人に慣れ親しみ、愛情に応えるようになるとは思っていなかった。\n成岡はハチが赤ん坊のときはともかく、成長するにつれてどうなるかについては全く自信を持っていなかった。\nハチが他人に危害を加えるような事態が起こればそれは成岡自身の責任であるため、内心少なからず心配をしていた。\n高知にいる成岡の肉親たちも、心配していたという点では同様であった。\n特に成岡の父は「やめてくれ」、「ヒョウを手放せ」などという戒めの手紙を何回も送ってきていた。", "qas": [ { "question": "ライオン、トラ、ヒョウの中で一般的に最も人に慣れにくい猛獣といわれているのはどれ?", "id": "tr-423-13-000", "answers": [ { "text": "ヒョウ", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "生後6か月のハチの体長はどれほどまでに成長しましたか?", "id": "tr-423-13-001", "answers": [ { "text": "1.7メートル", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ハチの飼育については、部隊内の上層部からも強く諫める声が出ていた。\n特に連隊長である亀川良夫から「危険であるから、隊内での飼育は絶対に禁ずる」と再三にわたって注意されていた。\n成岡と部下の兵士たちは困り果てたが、皆が可愛がっているハチをいまさら捨てたりすることなどできずにこっそりと飼い続けることにした。\n成岡たちは兵営への出入りの監視を一層厳重にして、事情を知らない他の隊の兵士などに射殺されないように守るように努めていた。\nハチも兵営を囲む鉄条網の内側が安全であることを判っていたようで、日中に単独で隊の外に出ることを慎んでいた。\nハチの「処分」などできないままに日々が経過し、亀川連隊長が内務巡視に来る当日になった。\nハチをどこかに隠しておくこともできず、成岡たちは亀川の一行を出迎えることになった。\n一行が成岡たちのところまで10メートルほどに近づき、成岡たちが一斉に挙手の敬礼を行ったところで、成岡の足下に座っていたハチがやおら起き上がった。", "qas": [ { "question": "亀川連隊長のフルネームは何?", "id": "tr-423-14-000", "answers": [ { "text": "亀川良夫", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "9月初旬、成岡は悪性の熱帯性マラリアに罹患して臥床を余儀なくされた。\nちょうどその頃、香川県からの慰問団が近日中に訪問してくるという知らせが届いたが、体調の悪い成岡はそれどころではなかった。\nハチは成岡の体調を気づかうように、1日の大部分を彼の枕元で過ごした。\n成岡が高熱に苦しみだすと、その舌で手先や顔をなめ回したり体をすり寄せたりして見守り続けた。\n成岡はハチのいじらしさに涙を流し、体の痛みを忘れてハチを撫でるほどであった。\n数日が過ぎ、成岡の体温はほぼ平熱に戻っていたが、激しい頭痛とめまいが残って体力が弱っていた。\nその朝部下の1人が「大隊長が慰問団を案内してハチを見学に来る」旨を知らせてきた。\n成岡と部下が病気のことなどについていろいろ話し合っていると、中庭の方からにぎやかな声が聞こえてきた。\nその中には若い女性の声も混じっていた。\nハチは成岡の枕元にいて中庭の騒ぎに聞き耳を立てていたが、いきなり声の方向に向かって走り出した。\nとっさのことに成岡は無意識のうちに起き上がってハチの後を追い、ハチが慰問団の一行に飛びかかる寸前で引き留めることに成功した。\n騒ぎに驚いた慰問団の一行が慌てて逃げたため、負傷者は出なかった。\n若い女性が1人失神して倒れていたが、スカートと下着を切り裂かれただけで怪我はなく、応急措置を受けて約30分後には無事に回復した。", "qas": [ { "question": "9月初旬に成岡が患った病とは何だったの?", "id": "tr-423-15-000", "answers": [ { "text": "熱帯性マラリア", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "騒動の終息後、成岡の体調は再び悪化した。\n隊員の助けを借りて自室に戻ってようやく臥床したが、すぐに強烈な震えが起こり始めた。\nハチも再び成岡の枕元に付き添い、彼の苦しみを気づかわしげに見守っていた。\n成岡の体調はなかなか回復せず、臥床する日々が続いていた。\n漢口の日本軍司令部は長沙方面の作戦を展開することになり、連隊は日々出動の準備に多忙をきわめた。\n成岡は療養中の身だったため兵営に残留して、留守中の警戒などを任されることになった。\n成岡の記憶によれば1941年(昭和16年)9月19日、兵営に最小限度の人数を残して、連隊は長沙方面に出動していった。\n連隊は10月下旬にそれぞれの分屯地まで戻ってきた。\n当日連隊を迎えに出た成岡の目に入ったのは、白布にくるまれた8個の包みが兵士たちの胸に抱かれて軍用トラックから降りてくる光景だった。\n元気に出動していった兵士たちがわずか1か月余りで死を迎えたという事実に成岡は暗然としたが、兵営は以前のにぎやかさを取り戻し、ハチも嬉しげに兵士たちの間を駆け回っていた。", "qas": [ { "question": "長沙方面に出動した連隊はいつ戻ってきましたか?", "id": "tr-423-16-000", "answers": [ { "text": "10月下旬", "answer_start": 281, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1941年(昭和16年)日本時間12月8日未明、日本軍は真珠湾攻撃を実行し、アメリカ軍の太平洋艦隊に大きな損害を与えた。\n中隊に属する無線班が特別に設置したラジオからは緒戦の華々しい戦果が次々と報道され、兵営は勝利の喜びに沸き返っていた。\n成岡はその2日後、マラリアを再発させて病臥状態に陥った。\nハチは以前と同じく成岡の枕元に付き添っていたが、成岡の病状はなかなか回復しなかった。\n数日が過ぎて再び連隊は長沙方面への作戦に出動が決まり、成岡を含めてわずか十数名で兵営の留守を守ることになった。\nハチは人数の少なくなった兵営において、警戒中の兵士とともに巡回し、よく任務を助けていた。\n1941年(昭和16年)の年末、大冶にあった留守連隊本部から、戦局に関する情報が伝えられてきた。\nその情報によれば、亀川連隊長の率いる部隊主力は、長沙北方にある大山塘(だいさんとう)付近で数十倍の敵と戦闘し、第二大隊長水沢少佐以下多くの犠牲者が出たということであった。", "qas": [ { "question": "12月10日に成岡が病床に臥せたのは何を患ったから?", "id": "tr-423-17-000", "answers": [ { "text": "マラリア", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "成岡は病臥の身のままで1942年(昭和17年)の新春を迎えることになった。\nその時分から彼の容態は快方に向かいつつあった。\n2月になると、前線に出動していた連隊の主力部隊が任務を果たして引き上げてきた。\n軍用トラックから降りてきた兵士たちは、白布にくるまれた包みを十数個携えていた。\n帰還した兵士たちは疲労の色が濃かったものの、成岡のもとに走り寄って「成岡曹長殿、ご病気はよくなられましたか」と容体を気遣い、成岡もその思いやりに感謝しつつ「ご苦労様でした」と彼らの労をねぎらった。\n成岡は秋田中隊長に「留守中異常ありません」と報告したところ、秋田は成岡の病気全快を喜ぶとともにハチの近況を問いかけてきた。\n成岡は秋田の問いかけを聞いて、ハチの姿が見えないことにようやく気づいた。\n成岡が自室に戻ったところ、ハチは土間の隅にうずくまっていたが、明らかに様子がおかしかった。\n成岡はハチののどに何かが刺さっていることに気づいて、嫌がるハチの体を押さえてのどの中を覗き込もうとした。\n大きく成長したハチは必死に抵抗を続けたため、成岡はそれ以上の処置を断念せざるを得なかった。\nやがてハチは屋外に出て行った。", "qas": [ { "question": "連隊の主力部隊が帰ってきたのは何年の2月でしたか?", "id": "tr-423-18-000", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハチは成岡を始めとする兵士たちと仲良く過ごし、表向きは幸福な日々を送っていた。\nしかし、ハチと兵士たちが別れなければならない日が迫りつつあった。\n1942年(昭和17年)4月18日、アメリカ軍は日本本土に対する初の空襲(ドーリットル空襲)を実行した。\n太平洋側の重工業地帯に対する爆撃が行われたことに日本政府は衝撃を受けた。\n爆撃機が中国の江西省白山や建鳳にある飛行場を着陸地点としていたことが判明したため、大本営はそれらの飛行場を攻撃して日本本土への空襲を実行させないという「浙贛(せっかん)作戦」を発令した。\nこの命令によって、連隊は初年兵とその教育要員を除く全兵力が出動することが決定した。\nしかも、この作戦が終了した後には陽新県には戻らずに武昌の南方にある蒲坅県城付近に移動することとなっていた。\n成岡も中隊の第3小隊長として作戦に参加しなければならなかったが、ハチをどうするかという大きな問題にぶち当たっていた。\n牛頭山の岩穴から連れてきてから1年以上が経過して、幼かったハチは人間でいえば青年期を迎えていた。\nハチは兵士たちと家族同様に暮らしていたため、成岡はハチを見捨てることなどできなかった。\n成岡はいずれハチが成長して一緒に暮らすことが難しくなることを予期していて、故郷である高知県の柳原動物園にハチの引き取りを依頼していたが、食糧難を理由に断られた。\n次いで大阪の天王寺動物園にも照会してみたものの、すでに雌雄のヒョウを2頭飼育中だったため受け入れはできないとの返事であった。", "qas": [ { "question": "天王寺動物園では、既に何頭のヒョウを飼育していましたか?", "id": "tr-423-19-000", "answers": [ { "text": "2頭", "answer_start": 620, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "食糧難を理由にハチの受け入れを拒否した動物園はどこですか?", "id": "tr-423-19-001", "answers": [ { "text": "柳原動物園", "answer_start": 551, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "成岡はかつて幼いハチを可愛がってくれた宮操子に連絡を取って、上野動物園にハチのことを依頼しようと思い立った。\n成岡からの手紙を受け取った宮は、自分の病床に付き添ってくれた可愛らしいハチのことをよく覚えていた。\n宮は何とか成岡とハチの力になりたいと考えたものの、政財界への伝手などはなかった。\n宮はいろいろと思案した上で、朝日新聞の記者を通して上野動物園に話を持ち込むことに成功した。\n当時の上野動物園では1941年(昭和16年)7月29日に園長の古賀忠道が応召していたため、8月1日から福田三郎が園長代理を務めていた。\n福田は1922年(大正11年)に東京農業大学を卒業して以来、上野動物園に勤務していた。\n福田は動物の生態に関する専門家であると同時に、動物たちの飼育に誠実な姿勢で取り組んだ人物としても知られていた。", "qas": [ { "question": "宮操子を通して見つかったハチの引き取り先はどこですか?", "id": "tr-423-20-000", "answers": [ { "text": "上野動物園", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "古賀忠道の代わりに園長代理を務めていた人は誰ですか?", "id": "tr-423-20-001", "answers": [ { "text": "福田三郎", "answer_start": 243, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "福田三郎が卒業した大学はどこ?", "id": "tr-423-20-002", "answers": [ { "text": "東京農業大学", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "上野動物園側がハチの受け入れを正式に決定するまでにはかなりの時間がかかった。\n成岡はハチのことが心配でならず、焦燥の日々を送っていた。\n出動の日が明後日に迫った1942年(昭和17年)5月3日の昼頃、成岡のもとに上野動物園からの返事が航空便で到着した。\n返事には「是非、送っていただきたい。大いに歓迎する」と書かれていて、成岡と部下たちはハチが生き永らえることを心から喜んだ。\n部隊が出動するまでの残りの2日間、成岡と部下たちはハチとの別れを惜しんだ。\n橋田はハチのためにノロジカを仕留め、シカ肉をふるまった。\n成岡や部下たちには、明日の命も知れない自分たちの代わりにせめてハチには生を全うしてもらいたいという思いがあった。\nこのとき、第8中隊の1人から「ハチという軽い名前では可哀想だ」という話が出た。\nせっかくハチが東京まで行くのだから、それにふさわしい名前が必要だという理由であった。\nそこで当時の日本政府が掲げていた「八紘一宇(はっこういちう)」のスローガンから「八紘」の字を充てるのはどうかという意見に賛同者が相次ぎ、ハチは「八紘」と呼ばれることになった。\n成岡はハチを東京に送り出す手順などを残留組の初年兵係教官の三宮少尉に託し、5月5日に江西省九江を目指して部隊とともに出発した。\nこのときの成岡には、これがハチとの永遠の別れとなることなど知る由もなかった。", "qas": [ { "question": "ハチの名前は何に変わりましたか?", "id": "tr-423-21-000", "answers": [ { "text": "「八紘」", "answer_start": 435, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "数日後、ハチは軍用トラックに乗せられて兵営を後にした。\nそのときのハチは、取り残されたのがわかっていたのかしょんぼりしていたという。\nハチの輸送のために大きな竹製の籠が作られて、嫌がるハチをその中に押し入れて約15キロメートル離れた石灰窑(せっかいよう)まで送り届けた。\n石灰窑では同地の憲兵隊長を務めていた赤松大尉の好意によって軍用犬用の檻を借用し、輸送船に積み込んだ。\n積み込みの作業時には、ハチのことを伝え聞いていた同地の警備隊員や在留日本人などがその姿を見ようと埠頭まで見送りに訪れた。\n上海で日本行きの船に乗り換えて、ハチは東京に向かった。\n船中でのハチは船員たちの服装が兵士と同じ国防色の衣服と戦闘帽だったため、始終落ち着いて過ごしていた。\nハチの人懐こさに船員たちも心を開き、上甲板に置かれたハチの檻の扉は開け放たれた。\nハチは船内を存分に駆け回り、甲板や船室だけではなくときには高いマストのてっぺんまでよじ登って大海原を眼下に見るなど、さまざまな冒険に興じていた。", "qas": [ { "question": "ハチが日本行きの船に乗り換えた場所はどこ?", "id": "tr-423-22-000", "answers": [ { "text": "上海", "answer_start": 248, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ハチを乗せた船は、東シナ海を横断して福岡県八幡市(現:北九州市)の日本製鐵の埠頭に到着した。\nここからハチは列車に移され、約800キロメートル離れた東京を目指した。\n5月30日、ハチは汐留駅に到着した。\nハチについては新聞などが報道していたため、注目を集めていた。\n上野動物園にたどり着いたハチは、用意されていた檻を嫌がって移ろうとはしなかった。\n動物園の係員たちがハチのこの様子に困り果てていると、見守っていた群衆の中から1人の兵士が進み出てきて「私にやらせてみてください」と申し出た。\nその兵士は名を吉村重隆といい、かつて成岡の部下として第8中隊でハチとともに過ごしていた人物であった。\n彼は数か月前に陸軍航空隊東部第105部隊に転属していたため、千葉県東葛飾郡田中村(現:柏市)から電車を乗り継いで上野動物園まで駆けつけてきたのだった。\n係員の逡巡をよそに、吉村は「ハチ!」と大声で呼びかけた。\nハチは吉村の姿に気づき、大喜びでじゃれついて再会の喜びをあらわにした。\n吉村はハチを檻へと導き、ハチも素直に従った。\n朝日新聞は1942年(昭和17年)6月2日付の夕刊で、「人間に抱かれる豹戦線の兵隊さんからの贈り物」という表題でハチについて報道した。", "qas": [ { "question": "上野動物園でハチと再会した成岡の部下の名は?", "id": "tr-423-23-000", "answers": [ { "text": "吉村重隆", "answer_start": 252, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "吉村重隆は第8中隊からどこに転属になっていましたか?", "id": "tr-423-23-001", "answers": [ { "text": "陸軍航空隊東部第105部隊", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハチと別れた後の成岡には、「浙贛作戦」遂行中ということもあってハチの動静などはいっさい伝わっていなかった。\n成岡は、ハチのことがずっと気がかりであった。\n浙贛作戦は約3か月後にほぼ終了し、成岡と第8中隊の兵士たちは陽新県からおよそ80キロメートル離れた江西省九江市まで戻ってきた。\n九江には日本人街があり、大阪毎日新聞が支局を置いていた。\n成岡は新聞社に行けばハチのことがわかるかもしれないと考え、支局を訪ねることにした。\n成岡を出迎えた記者は「あなたが、あの豹を上野動物園に贈ったご本人なのですか!」と即座に反応した。\n成岡が記者の反応に驚いていると、記者はハチの記事が載った新聞を探し出してくれた。\n6月2日付の紙面には「中支那の兵隊さんから贈られた豹”八紘”東京上野動物園に無事到着」という大きな見出しでハチの到着が報道されていた。\nこの記事を目にした途端、成岡は感謝と安堵のあまり涙を流していた。\n記者の好意で記事の掲載された新聞をもらい、宿舎に戻ってハチの無事を他の兵士たちにも知らせた。\nその夜、成岡と兵士たちはハチの幸せを祝福して久々に酒を酌み交わし、和やかな時を過ごした。\n戦闘が1つ終わるごとに戦友の数が減っていき、次は我が身かもしれないという境遇にある彼らにとって、ハチが無事であることは何よりの喜びであった。\nやがて成岡のもとに、1通の手紙が届いた。\n手紙の差出人は、ハチを乗せて日本まで行った船の船長だった。\n船長は偶然成岡の居場所を知って、この手紙を書いたのだった。\n「成岡さん、今度のような愉快な航海は今まで一度も味わったことがありません。本当に有難く御礼を申し上げます」\n船長は航海中のハチがどのように過ごしていたかを詳細に記してくれたため、成岡はハチが元気で船旅を楽しんでいたことを知って再度安堵した。", "qas": [ { "question": "九江で成岡が訪問した新聞社は何新聞の支局でしたか?", "id": "tr-423-24-000", "answers": [ { "text": "大阪毎日新聞", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "成岡は何月何日付けのハチの新聞記事を読みましたか?", "id": "tr-423-24-001", "answers": [ { "text": "6月2日付", "answer_start": 302, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "上野動物園でのハチは、園内でも有数の人気者になっていった。\n人懐こくおとなしい性格で、時折寂しげに彼方を見つめるハチには、飼育員を始め動物園の関係者も一様に好意を寄せていた。\nハチの人懐こさは、意外な反響を呼んだ。\n太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦してまもなく1年が経とうとしていた1942年(昭和17年)12月6日、皇太子明仁親王(当時8歳、平成期の天皇)が上野動物園を行啓(訪問)することになった。\n朝8時半に上野動物園に行啓した皇太子には、岸本綾夫東京市長(現在の東京都知事に相当)や宮内省(現在の宮内庁)の傅育官2名が随行し、取材にあたる報道関係者・新聞記者も同行していた。\n園長代理の福田が一行を出迎え、皇太子は福田の説明を聞きながら園内の動物を見学して回った。\nやがて、ハチのいる檻の前に一行が来た。\nするとハチは急に檻の柵まで走り寄って、のどを鳴らしつつ体を柵に擦り付けて甘えるようなしぐさを見せた。\n一行を取材していた新聞記者たちは(こいつ、皇太子殿下であることがわかるのか?)と驚愕した。\n福田には、ハチの行動の理由がすぐにわかった。\nハチは皇太子ではなく、随行の岸本が陸軍の軍服を着用していたためそちらに反応したのだった。\n翌年の春、福田は成岡に宛てて1通の手紙を書いた。\nその文面には、ハチの幸福を伝えて成岡を安心させたいという思いがこもっていた。", "qas": [ { "question": "皇太子明仁親王と随行した東京市長とは誰ですか?", "id": "tr-423-25-000", "answers": [ { "text": "岸本綾夫", "answer_start": 222, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1942年当時の皇太子の年齢はいくつでしたか?", "id": "tr-423-25-001", "answers": [ { "text": "8歳", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハチは皇太子ではなく何に反応したのですか?", "id": "tr-423-25-002", "answers": [ { "text": "陸軍の軍服", "answer_start": 493, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "任天堂", "paragraphs": [ { "context": "任天堂は1889年(明治22年)に創業した老舗企業で、娯楽に関する様々な事業を展開している。創業以来多くの種類の玩具を製作しており、特に花札やトランプは創業初期から現在に至るまで製造・販売を続けている。\n\n1970年代後期からは家庭用や業務用のコンピュータゲーム機の開発を開始した。1983年(昭和58年)発売の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」用ソフトとして1985年(昭和60年)に発売した『スーパーマリオブラザーズ』は世界的にヒットし、任天堂はゲーム機やゲームソフトを開発する会社として広く認知されるようになった。\n\nまた、先述の『スーパーマリオブラザーズ』の主人公「マリオ」など、任天堂のゲームソフトに登場するキャラクターは世界で知られているものが多く、近年は、こうしたキャラクターのゲーム外での活用を進めている。", "qas": [ { "question": "任天堂の設立年度は何年ですか?", "id": "tr-424-00-000", "answers": [ { "text": "1889年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "任天堂が家庭用や業務用のコンピュータゲーム機の開発を開始したのはいつからですか?", "id": "tr-424-00-001", "answers": [ { "text": "1970年代後期", "answer_start": 103, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂が創業初期から現在に至るまで製造・販売を続けているアイテムはトランプと?", "id": "tr-424-00-002", "answers": [ { "text": "花札", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "昭和58年、任天堂から発売された家庭用ゲーム機の名前は?", "id": "tr-424-00-003", "answers": [ { "text": "「ファミリーコンピュータ」", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファミコンソフト、『スーパーマリオブラザーズ』が発売されたのは昭和何年ですか?", "id": "tr-424-00-004", "answers": [ { "text": "昭和60年", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ファミリーコンピュータ」の発売は何年でしたか?", "id": "tr-424-00-005", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1985年発売されたファミリーコンピュータのゲームソフトの名前は?", "id": "tr-424-00-006", "answers": [ { "text": "『スーパーマリオブラザーズ』", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『スーパーマリオブラザーズ』の主人公の名前は?", "id": "tr-424-00-007", "answers": [ { "text": "「マリオ」", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "任天堂はハードウェアとソフトウェアの開発を共に手がけるビジネスを展開している。\n\nハードウェアに関しては、堅牢性と耐久性を重視している。かつてハードウェア開発責任者を務めていた竹田玄洋によると、それは子供ユーザーに配慮したものであり、ゲーム機が壊れてしまった時に「僕が壊した」ではなく「勝手に壊れた」となってしまう事態を見越した上での設計文化が出来上がっているのだという。\n\n任天堂名義の外部向けの開発は行っていないが、電通との合併で外部向けの開発を専業とした子会社である「株式会社マリオ」を設立したことがあり、任天堂の開発スタッフをそのまま利用している。サンリオグループのゲーム会社であるキャラクターソフトの『ハローキティワールド』と、『サンリオカーニバル2』の開発を行っていた。\n\n2000年代中期のニンテンドーDSとWiiの時代からは「ゲーム人口の拡大」を基本戦略とし、幅広い年代を対象としたハードウェアとソフトウェアの開発を行っている。任天堂元社長の岩田聡は、2004年の経営方針説明会の中でユーザーのゲーム離れによるゲーム市場縮小の現状と熟練者・初心者間の意識の乖離について触れ、その打開策として、タッチパネルや音声認識機能を搭載したニンテンドーDSを制作し全員が同じスタートラインに立てることを目指したと語っている。なお、近年は「ゲーム人口の拡大」の定義を広げて「任天堂IPに触れる人口を拡大する」とし、後述のようにIPの活用にも注力している。\n\n任天堂は有料追加コンテンツというビジネスを否定していない。岩田社長の時代では高額課金を誘発する「ガチャ課金」については、一時的に高い収益が得られたとしてもユーザーとの関係が長続きするとは考えていないため行わないとしていた。", "qas": [ { "question": "竹田玄洋が任天堂で務めた仕事は?", "id": "tr-424-01-000", "answers": [ { "text": "ハードウェア開発責任者", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "任天堂がハードウェアに関してもっとも重視している2つの要素は、堅牢性と何ですか?", "id": "tr-424-01-001", "answers": [ { "text": "耐久性", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂のハードウェア開発で、もっとも重視している2点は、耐久性と何ですか?", "id": "tr-424-01-002", "answers": [ { "text": "堅牢性", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂のハードウェアが堅牢性と耐久性を重視しているのはなぜですか?", "id": "tr-424-01-003", "answers": [ { "text": "子供ユーザーに配慮", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「株式会社マリオ」の設立はどの会社との合併で行われましたか?", "id": "tr-424-01-004", "answers": [ { "text": "電通", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "電通との合併で設立された、外部向けの開発を専業とした子会社の社名は?", "id": "tr-424-01-005", "answers": [ { "text": "「株式会社マリオ」", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キャラクターソフトはどのグループのゲーム会社ですか?", "id": "tr-424-01-006", "answers": [ { "text": "サンリオ", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2000年代中期からの任天堂の基本戦略は何ですか?", "id": "tr-424-01-007", "answers": [ { "text": "「ゲーム人口の拡大」", "answer_start": 370, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニンテンドーDSとWiiの時代からの任天堂の基本事業戦略は?", "id": "tr-424-01-008", "answers": [ { "text": "「ゲーム人口の拡大」", "answer_start": 370, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タッチパネルや音声認識機能を搭載したニンテンドーDSで全員が同じスタートラインに立てることを目指した任天堂元社長の名前は何ですか?", "id": "tr-424-01-009", "answers": [ { "text": "岩田聡", "answer_start": 429, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲーマー全員が同じスタートラインに立てることを目指したという経営方針を発表した任天堂社長の名前は?", "id": "tr-424-01-010", "answers": [ { "text": "岩田聡", "answer_start": 429, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical 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"「ガチャ課金」", "answer_start": 677, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "任天堂は自社を娯楽企業であるとしているが、2014年以降は、その娯楽の定義を「QOL(QualityofLife、生活の質)を楽しく向上させるもの」と再定義し事業領域の拡大を目指している。これは、自社内だけで完結するものではなく、アイデアを持っている様々なパートナーが参加できるようにしたいとしている。\n\n事業の第1弾として「健康」をテーマに掲げている。この事業では「QOLセンサー」という装置を用いる。この装置を用いて睡眠や疲労状態に関するデータをクラウドサーバーに送信し、その分析結果に基づいてQOL改善のための提案がなされる。これを日々続けることで傾向を探りQOLの向上を目指すことを目的としている。", "qas": [ { "question": "2014年以降、任天堂は娯楽の定義を何を楽しく向上させるものと定義付けしましたか?", "id": "tr-424-02-000", "answers": [ { "text": "QOL", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "娯楽を「QOLを楽しく向上させるもの」と定義付けしたのは何年以降ですか?", "id": "tr-424-02-001", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "事業の第1弾としてテーマにしているものは何ですか?", "id": "tr-424-02-002", "answers": [ { "text": "「健康」", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「QOLセンサー」は睡眠や疲労状態に関するデータを集め、どこに送りますか?", "id": "tr-424-02-003", "answers": [ { "text": "クラウドサーバー", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2016年配信の『Miitomo』よりスマートデバイス上でのゲームビジネスを展開している。この事業単体での収益化を実現した上でゲーム専用機事業との相乗効果を生み出し、任天堂の事業全体の最大化を目指すとしている。\n\nゲームアプリの販売方式については、「売り切り型」、「アイテム課金型」とあるがゲームの種類によって使い分けていくとしている。なお、「アイテム課金型」のゲームについて一般的には「FreetoPlay」(プレイ無料、無料で遊べる)という言葉が用いられるが、任天堂は、ゲームの価値を維持したいという観点から「FreetoStart」(始めるのは無料)という呼称を用いている。", "qas": [ { "question": "スマートデバイス上でのゲームビジネスとして最初に配信されたゲームは何ですか?", "id": "tr-424-03-000", "answers": [ { "text": "『Miitomo』", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『Miitomo』が配信されたのは何年ですか?", "id": "tr-424-03-001", "answers": [ { "text": "2016年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スマートデバイス上でのゲームビジネスが究極的に目指しているものは何ですか?", "id": "tr-424-03-002", "answers": [ { "text": "任天堂の事業全体の最大化", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂のゲームアプリの販売方式には2種類がありますが、「アイテム課金型」ほかもう一種類は何ですか?", "id": "tr-424-03-003", "answers": [ { "text": "「売り切り型」", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂のゲームアプリの販売方式には2種類がありますが、「売り切り型」と残り一種類は何ですか?", "id": "tr-424-03-004", "answers": [ { "text": "「アイテム課金型」", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「アイテム課金型」のゲームが一般的に用いる言葉は何ですか?", "id": "tr-424-03-005", "answers": [ { "text": "「FreetoPlay」", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂で「アイテム課金型」ゲームで「FreetoPlay」の代わりに用いる名称は?", "id": "tr-424-03-006", "answers": [ { "text": "「FreetoStart」", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "任天堂にとって、世界で支持される豊富なIP(知的財産)を抱えていることは強みの一つである。以前まではそうしたキャラクターIPをゲーム外で用いることに消極的な立場をとっていたが、2014年以降はその方針を転換し、積極的に活用するようになった。\n\n活用例の一つとして、色々なゲームと連動させることができるフィギュア「amiibo」の販売を2014年末より展開している。このamiiboが店頭に並ぶことで任天堂キャラクターの存在感を維持する効果も期待されている。\n\nまた、ユニバーサル・パークス&リゾーツが展開するテーマパークへの登用、映像コンテンツ化、商品化など様々な計画を予定している。\n\n以前には、ウルトラハンド、ウルトラマシン、ラブテスター、光線銃シリーズ、テンビリオンなどの独自製品や、ルーレット、野球盤、ボードゲーム、ツイスター(ライセンス生産)、組立式コースター、組立ブロック、トランシーバー、ラジコンカー、人形といった玩具を製造・販売していた。\n\n玩具以外では、家庭用綿あめ製造機、ベビーカー「ママベリカ」、簡易コピー機「NCMコピラス」、電気時計、電子楽器、無線式簡易掃除機など多種多様な製品の製造、販売、タクシー、食品事業などの経営も行っていた。", "qas": [ { "question": "キャラクターIPを積極的に活用しようと方針転換したのは何年ですか?", "id": "tr-424-04-000", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂IPを用いる色々なゲームと連動させることができるフィギュアの名称は?", "id": "tr-424-04-001", "answers": [ { "text": "「amiibo」", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic 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"1982年に、ユニバーサル・スタジオは、任天堂の『ドンキーコング』が『キングコング』の商標権と著作権を侵害しているとして訴訟を起こした。しかし、1975年のユニバーサル・スタジオと映画会社RKOとの訴訟で『キングコング』のプロットはパブリックドメイン(知的財産権が発生していない状態)にあると判示されていることから、ユニバーサル・スタジオは商標権と著作権を持っていないことが判明。また、消費者が『ドンキーコング』と『キングコング』を混同することもないとして、1984年にアメリカ連邦控訴裁判所は任天堂勝訴の判決を下した。また、任天堂からユニバーサル・スタジオに対する反訴となる損害賠償請求訴訟についても、1986年にアメリカ連邦控訴裁判所が任天堂勝訴の判決を下している。", "qas": [ { "question": "ユニバーサル・スタジオが任天堂に「ドンキーコング」の著作権に関して訴訟を起こしたのは何年ですか?", "id": "tr-424-05-000", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユニバーサル・スタジオが問題とした任天堂のキャラクターは何ですか?", "id": "tr-424-05-001", "answers": [ { "text": "『ドンキーコング』", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユニバーサル・スタジオと映画会社RKOとの訴訟は何年にありましたか?", "id": "tr-424-05-002", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1975年、ユニバーサル・スタジオと映画会社RKOとの訴訟でキングコングはどういう状態にあると判明されましたか?", "id": "tr-424-05-003", "answers": [ { "text": "パブリックドメイン", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1975年、ユニバーサル・スタジオと映画会社RKOとの訴訟でパブリックドメインにあると判決されたキャラクターは何ですか?", "id": "tr-424-05-004", "answers": [ { "text": "『キングコング』", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1982年ユニバーサル・スタジオが起こした訴訟はどういう判決でしたか?", "id": "tr-424-05-005", "answers": [ { "text": "任天堂勝訴", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1982年ユニバーサル・スタジオが起こした訴訟の判決が下されたのは何年ですか?", "id": "tr-424-05-006", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 229, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1982年ユニバーサル・スタジオが起こした訴訟の判決は誰が下しましたか?", "id": "tr-424-05-007", "answers": [ { "text": "アメリカ連邦控訴裁判所", "answer_start": 235, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂からユニバーサル・スタジオに対する反訴の判決が下されたのは何年ですか?", "id": "tr-424-05-008", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 302, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂からの損害賠償請求訴訟の判決結果は?", "id": "tr-424-05-009", "answers": [ { "text": "任天堂勝訴", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂からのユニバーサル・スタジオに対する損害賠償請求訴訟の判決が下されたのはどこですか?", "id": "tr-424-05-010", "answers": [ { "text": "アメリカ連邦控訴裁判所", "answer_start": 308, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "NintendoEntertainmentSystemには、任天堂のライセンスを受けていないソフトウェアの動作を防ぐロックアウト機構が搭載されていたが、1988年に著作権局からソースコードを得たアタリはロックアウト機構のリバースエンジニアリングを行い、ライセンス外のソフトウェアの動作を可能にした。任天堂はアタリの著作権侵害を主張し、アタリはフェアユース(公正な利用)を主張して訴訟を行った。1992年に任天堂の主張が認められ、アメリカ連邦控訴裁判所は任天堂勝訴の判決を下した。", "qas": [ { "question": "NintendoEntertainmentSystemに搭載された、任天堂のライセンスを受けていないソフトウェアの動作を防ぐ機構は何ですか?", "id": "tr-424-06-000", "answers": [ { "text": "ロックアウト機構", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロックアウト機構のリバースエンジニアリングを行い、ライセンス外のソフトウェアの動作を可能にしたのは誰だ?", "id": "tr-424-06-001", "answers": [ { "text": "アタリ", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アタリはリバースエンジニアリングをするためのソースコードをどこで手にしましたか?", "id": "tr-424-06-002", "answers": [ { "text": "著作権局", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アタリがロックアウト機構のリバースエンジニアリングを行い、ライセンス外のソフトウェアの動作を可能にしたのは何年のことですか?", "id": "tr-424-06-003", "answers": [ { "text": "1988年", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂がアタリに主張した罪目は?", "id": "tr-424-06-004", "answers": [ { "text": "著作権侵害", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アタリと任天堂の訴訟の判決の結果はどうでしたか?", "id": "tr-424-06-005", "answers": [ { "text": "任天堂勝訴", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂のアタリとの裁判結果が下されたのは何年ですか?", "id": "tr-424-06-006", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 196, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂とアタリの裁判の判決を下したのはどの裁判所ですか?", "id": "tr-424-06-007", "answers": [ { "text": "アメリカ連邦控訴裁判所", "answer_start": 214, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1983年に、任天堂は、日本国内における1980年から1982年頃の電子玩具の販売活動について独占禁止法違反として公正取引委員会の排除勧告審決を受けた。2002年には、ヨーロッパで任天堂と現地の卸売業7社がゲーム機とゲームソフトの並行輸入を妨害したとして、欧州委員会が任天堂らに対して合計1億6780万ユーロの課徴金の支払いを命じ、首謀者と認定された任天堂は、このうち1億4912万8千ユーロの支払いが課せられた。", "qas": [ { "question": "任天堂が独占禁止法違反として公正取引委員会の排除勧告審決を受けたのは何年ですか?", "id": "tr-424-07-000", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂が公正取引委員会から排除勧告審決を受けた理由は何ですか?", "id": "tr-424-07-001", "answers": [ { "text": "独占禁止法違反", "answer_start": 47, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂に排除勧告審決を下したのはどの機関ですか?", "id": "tr-424-07-002", "answers": [ { "text": "公正取引委員会", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1983年、独占禁止法違反として問題視された任天堂の1980年から1982年頃の行為は?", "id": "tr-424-07-003", "answers": [ { "text": "電子玩具の販売活動", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨーロッパでゲーム機とゲームソフトの並行輸入を妨害した罪目で課徴金が課せられた事件は何年に起きた事件ですか?", "id": "tr-424-07-004", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨーロッパでゲーム機とゲームソフトの並行輸入を妨害した任天堂と組んだ現地の卸売業社は全部で何社ですか?", "id": "tr-424-07-005", "answers": [ { "text": "7社", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "並行輸入を妨害の件で、任天堂らに対して課徴金を課した機関はどこですか?", "id": "tr-424-07-006", "answers": [ { "text": "欧州委員会", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "並行輸入を妨害の件で任天堂と現地の卸売業7社に命じられた課徴金はいくらですか?", "id": "tr-424-07-007", "answers": [ { "text": "1億6780万ユーロ", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "課徴金1億6780万ユーロのうち、任天堂に課せられた金額はいくらですか?", "id": "tr-424-07-008", "answers": [ { "text": "1億4912万8千ユーロ", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "並行輸入を妨害の件で任天堂に命じられた課徴金はいくらですか?", "id": "tr-424-07-009", "answers": [ { "text": "1億4912万8千ユーロ", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1990年にNintendoofAmericaは「NintendoEntertainmentSystem」用のチート機である「ゲームジニー」が任天堂の著作権を侵害しているとして製造元であるLewisGaloobToys,Inc.に販売差し止めを求める訴訟を起こした。アメリカ連邦地裁は仮差し止めを認めたが、1991年に、ゲームジニーは著作権を侵害していないとして仮差し止め命令を破棄した。連邦控訴裁判所も地裁を支持して任天堂の訴えを退けた。また、仮差し止めによる損失の賠償としてLewisGaloobToys,Inc.に対する1500万ドルの支払いを命じられた任天堂は、この金額についても争ったが、連邦控訴裁判所は再び退けた。", "qas": [ { "question": "1990年に販売された「NintendoEntertainmentSystem」用のチート機の名称は何ですか?", "id": "tr-424-08-000", "answers": [ { "text": "「ゲームジニー」", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ゲームジニー」の製造元の会社はどこですか?", "id": "tr-424-08-001", "answers": [ { "text": "LewisGaloobToys,Inc.", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "LewisGaloobToys,Inc.に「ゲームジニー」の件で訴訟を起こした会社は何ですか?", "id": "tr-424-08-002", "answers": [ { "text": "NintendoofAmerica", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1990年の訴訟で、NintendoofAmericaがLewisGaloobToys,Inc.に要求した「ゲームジニー」の処分は何ですか?", "id": "tr-424-08-003", "answers": [ { "text": "販売差し止め", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アメリカ連邦地裁がゲームジニーは著作権を侵害していないとして仮差し止め命令を破棄したのは何年ですか?", "id": "tr-424-08-004", "answers": [ { "text": "1991年", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1991年、ゲームジニーは著作権を侵害していないとして仮差し止め命令を破棄したのはどこですか?", "id": "tr-424-08-005", "answers": [ { "text": "アメリカ連邦地裁", "answer_start": 133, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "仮差し止めによる損失の賠償としてNintendoofAmericaがLewisGaloobToys,Inc.に課せられた金額は?", "id": "tr-424-08-006", "answers": [ { "text": "1500万ドル", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ニンテンドーDS上で不正にプログラムを動作させる「マジコン」と呼ばれる装置について、任天堂及びソフトメーカー49社は販売業者に対して各地で著作権被害を訴えて訴訟を起こした。被害総額は全世界で4兆円近くとも試算されている。2013年7月、東京地裁で任天堂側勝訴の判決が下された。また、2016年1月には最高裁で上告が棄却され、任天堂側の勝訴が確定した。", "qas": [ { "question": "2013年任天堂が訴訟を起こした、ニンテンドーDS上で不正にプログラムを動作させる装置の名称は?", "id": "tr-424-09-000", "answers": [ { "text": "「マジコン」", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「マジコン」に対し、任天堂とともに訴訟を起こしたソフトメーカーは全部何社ですか?", "id": "tr-424-09-001", "answers": [ { "text": "49社", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「マジコン」による、全世界被害総額はいくらですか?", "id": "tr-424-09-002", "answers": [ { "text": "4兆円近く", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「マジコン」に関する訴訟の判決が下されたのはいつですか?", "id": "tr-424-09-003", "answers": [ { "text": "2013年7月", "answer_start": 110, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マジコンに関する裁判の判決はどこで下されましたか?", "id": "tr-424-09-004", "answers": [ { "text": "東京地裁", "answer_start": 118, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マジコンの裁判結果はどうでしたか?", "id": "tr-424-09-005", "answers": [ { "text": "任天堂側勝訴", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マジコン訴訟の最高裁で上告が棄却されたのはいつですか?", "id": "tr-424-09-006", "answers": [ { "text": "2016年1月", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マジコン裁判の最高裁での判決結果は?", "id": "tr-424-09-007", "answers": [ { "text": "任天堂側の勝訴", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2017年2月24日、任天堂は、公道カートのレンタルサービスを行う「株式会社マリカー」(現商号:株式会社MARIモビリティ開発)に対して賠償を求める訴訟を東京地裁に提起した。この中で任天堂は、株式会社マリカーがマリオカートの略称として知られる「マリカー」の標章を会社名に用いていることに加え、マリオ等の衣装の貸与やその衣装の宣伝・営業利用などを任天堂に無断で行っていることが不正競争行為および著作権侵害行為に当たると主張している。2018年9月27日の地裁判決では、被告会社に対しマリオ等の衣装の貸与の禁止など不正競争行為の差止と損害賠償金の支払い等が命じられた。また、2020年1月29日には、知的財産高等裁判所において、5000万円の損害賠償金の支払いと不正競争行為の差止等を被告会社に命じる終局判決が下された。", "qas": [ { "question": "任天堂が「株式会社マリカー」を訴えたのは何年ですか?", "id": "tr-424-10-000", "answers": [ { "text": "2017年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "任天堂から「株式会社マリカー」に訴訟を起こしたのはいつですか?", "id": "tr-424-10-001", "answers": [ { "text": "2017年2月24日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "任天堂から訴えられた「株式会社マリカー」が行ったサービスとは?", "id": "tr-424-10-002", "answers": [ { "text": "公道カートのレンタル", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂が公道カートのレンタルサービスの件で訴えた会社名は何ですか?", "id": "tr-424-10-003", "answers": [ { "text": "「株式会社マリカー」", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「株式会社マリカー」相手に訴訟を提起したのはどこですか?", "id": "tr-424-10-004", "answers": [ { "text": "東京地裁", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリオカートの略称は何ですか?", "id": "tr-424-10-005", "answers": [ { "text": "「マリカー」", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂は「株式会社マリカー」に対して著作権侵害行為と何の罪質で訴えましたか?", "id": "tr-424-10-006", "answers": [ { "text": "不正競争行為", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "地裁判決から「株式会社マリカー」に不正競争行為の差止と損害賠償金の支払いが命じられたのはいつですか?", "id": "tr-424-10-007", "answers": [ { "text": "2018年9月27日", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2018年1月10日、任天堂は、スマートフォンアプリ『白猫プロジェクト』を開発・運営するコロプラに対して「タッチパネル上でジョイスティック操作を行う際に使用される特許技術」等、合計5件の特許侵害があるとして『白猫プロジェクト』のサービス停止と44億円の賠償を求める訴訟を東京地裁に提起した。任天堂は2016年10月に特許侵害を指摘し、交渉していたが決裂したという。", "qas": [ { "question": "コロプラが運営・開発していたスマートフォンゲーム名は何ですか?", "id": "tr-424-11-000", "answers": [ { "text": "『白猫プロジェクト』", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂がコロプラに対し特許侵害で訴訟を提起したのはいつですか?", "id": "tr-424-11-001", "answers": [ { "text": "2018年1月10日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂が主張したコロプラが犯した特許侵害の例と挙げられているのは?", "id": "tr-424-11-002", "answers": [ { "text": "「タッチパネル上でジョイスティック操作を行う際に使用される特許技術」", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コロプラが犯した特許侵害は合計何件ですか?", "id": "tr-424-11-003", "answers": [ { "text": "5件", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コロプラに対し任天堂が求める賠償額はいくらですか?", "id": "tr-424-11-004", "answers": [ { "text": "44億円", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂が訴訟を東京地裁に提起して、賠償金以外にコロプラに求めたものは何ですか?", "id": "tr-424-11-005", "answers": [ { "text": "『白猫プロジェクト』のサービス停止", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂が特許侵害を指摘し、コロプラと交渉したのはいつですか?", "id": "tr-424-11-006", "answers": [ { "text": "2016年10月", "answer_start": 149, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2018年7月19日、任天堂及びNintendoofAmericaは、海外のゲーム用ROM配布サイト「LoveROMS.com」と「LoveRETRO.co」の運営者に対する訴訟をアメリカ・アリゾナ州の合衆国地方裁判所に提起した。当該サイトでは歴代の任天堂ハード用ROMやハードのBIOSを無断で配布しており、任天堂は著作権侵害、商標権侵害、不正競争を提訴の理由に挙げている。侵害されたゲームごとに15万ドル、各商標の侵害にあたり最高200万ドルの賠償金を求めており、損害賠償金は1億ドル規模になると見られている。", "qas": [ { "question": "任天堂が起訴した海外のゲーム用ROM配布サイトは「LoveROMS.com」とどこですか?", "id": "tr-424-12-000", "answers": [ { "text": "「LoveRETRO.co」", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「LoveRETRO.co」の運営者に対する訴訟を提起したのはどこの裁判所ですか?", "id": "tr-424-12-001", "answers": [ { "text": "合衆国地方裁判所", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "合衆国地方裁判所の所在州はどこですか?", "id": "tr-424-12-002", "answers": [ { "text": "アリゾナ州", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "任天堂が「LoveRETRO.co」の運営者に対する訴訟を提起したのはいつですか?", "id": "tr-424-12-003", "answers": [ { "text": "2018年7月19日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂側は侵害されたゲームごとにいくらの賠償額を求めていますか?", "id": "tr-424-12-004", "answers": [ { "text": "15万ドル", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "各商標の侵害にあたり、任天堂が要求する賠償金はいくらですか?", "id": "tr-424-12-005", "answers": [ { "text": "200万ドル", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「LoveRETRO.co」の運営者に対する損害賠償金額は何ドル規模と予想されていますか?", "id": "tr-424-12-006", "answers": [ { "text": "1億ドル", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "任天堂が起訴した海外のゲーム用ROM配布サイトの運営者は「LoveRETRO.co」のほか、どのサイトを運営していますか?", "id": "tr-424-12-007", "answers": [ { "text": "「LoveROMS.com」", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂が「LoveRETRO.co」の運営者に対する訴訟を提起したのは何月何日ですか?", "id": "tr-424-12-008", "answers": [ { "text": "7月19日", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂が「LoveRETRO.co」に対し、挙げている提訴の理由は著作権侵害、不正競争以外の罪目は?", "id": "tr-424-12-009", "answers": [ { "text": "商標権侵害", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "Wii以降の任天堂のゲーム機には、子供にふさわしくないコンテンツの使用を保護者が制限できるペアレンタルコントロール(「保護者による使用制限」)という機能がある。\n\nただ、子供がその機能を設定することなく利用している場合があり、「ニンテンドー3DS」のソフトウェアである『いつの間に交換日記』や『うごくメモ帳3D』において、一部の子供ユーザーがインターネットでフレンドコードを交換して公序良俗に反する画像をやり取りしてしまう問題が発生していた。こうした事態を受けて、任天堂は該当サービスを中止した。\n\n任天堂は、ペアレンタルコントロール機能をユーザーに理解して貰えるよう務めるとして、「Newニンテンドー3DS」と「Newニンテンドー3DSLL」において、子供が安心して利用できるよう最初からフィルタリング機能が有効の状態で販売している。解除には、クレジットカードでの認証と手数料30円(税別)が必要となっている。\n\nまた、2017年3月2日より、NintendoSwitch本体と連動してゲームのプレイ状況を管理できるスマートフォン向けの無料アプリ『NintendoみまもりSwitch』(英名:NintendoSwitchParentalControls)を配信している。", "qas": [ { "question": "任天堂のゲーム機で子供にふさわしくないコンテンツの使用を保護者が制限できる機能の名称は?", "id": "tr-424-13-000", "answers": [ { "text": "ペアレンタルコントロール", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂のゲーム機に設置されている、親が子供にふさわしくないコンテンツを遮断できるシステムの名前は?", "id": "tr-424-13-001", "answers": [ { "text": "ペアレンタルコントロール", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂ゲーム機で、ペアレンタルコントロール機能が追加されたのはいつ以来ですか?", "id": "tr-424-13-002", "answers": [ { "text": "Wii", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂のゲーム機で子供にふさわしくないコンテンツの使用を保護者が制限し始めたのはどのゲーム機ですか?", "id": "tr-424-13-003", "answers": [ { "text": "Wii", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『いつの間に交換日記』や『うごくメモ帳3D』などのソフトウェアが開発されたゲーム機は何ですか?", "id": "tr-424-13-004", "answers": [ { "text": "「ニンテンドー3DS」", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "公序良俗に反する画像をやり取りしてしまう問題が発生したソフトウェアはどのゲーム機のものですか?", "id": "tr-424-13-005", "answers": [ { "text": "「ニンテンドー3DS」", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic 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"30円", "answer_start": 389, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「Newニンテンドー3DSLL」に最初から作動しているフィルタリング機能の解除のための手数料はいくらですか?", "id": "tr-424-13-011", "answers": [ { "text": "30円", "answer_start": 389, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「Newニンテンドー3DS」と「Newニンテンドー3DS」の初期設定されたフィルタリング機能の解除に手数料以外に必要なものは何ですか?", "id": "tr-424-13-012", "answers": [ { "text": "クレジットカードでの認証", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "NintendoSwitch本体と連動してゲームのプレイ状況を管理できるスマートフォン向けの無料アプリ名は?", "id": "tr-424-13-013", "answers": [ { "text": "『NintendoみまもりSwitch』", "answer_start": 474, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『NintendoみまもりSwitch』の配信日はいつですか?", "id": "tr-424-13-014", "answers": [ { "text": "2017年3月2日", "answer_start": 411, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic 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"一部のメディアにより、任天堂が公式に発表したわけではない情報を公式のように報じられたり、関係者の発言を歪めた形で伝えられたりすることがある。こうした状況について任天堂は、全てに反応してしまうとデマの拡散に繋がりかねないため、会社や株主に迷惑がかかると判断した場合に機動的に対応するとしている。また対策として、インターネットプレゼンテーション「NintendoDirect」やTwitterなどで情報を直接発信する取り組みを行っている。\n\n日本経済新聞が報じた2012年2月20日付の記事について、当時の社長・岩田聡はTwitterで「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。このようなことが何度か続いていますが、文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり、事実と憶測を混ぜて書いたり、まるでゴシップ誌のような手法を採られていることに驚いています」と言及している。さらに、日本経済新聞は2012年6月5日にも「『WiiU』にカーナビゲーションや電子書籍などの機能を搭載」という憶測記事を掲載し、任天堂が同日に否定した。\n\n朝日新聞は、2012年6月8日付の記事の中で、社長の岩田がインタビューを受けていないにもかかわらず、任天堂ホームページ上の動画から岩田の発言部分を抜き出しインタビューのように仕立てて掲載、これに対し任天堂は直ちに抗議した。朝日新聞は抗議に対して謝罪したとしているがその時点では記事を訂正せず、2年後の2014年9月14日付の紙面に任天堂と新聞読者に対する謝罪文を掲載した。\n\n任天堂が2016年10月20日に公開したNintendoSwitchの紹介動画の中でベセスダ・ソフトワークス社のソフト『TheElderScrollsV:Skyrim』(スカイリム)の映像を用いた際、既にベセスダ社が公式に歓迎のコメントを出していたにもかかわらず、まとめサイトの一つ「はちま起稿」は、「スカイリム映像、無断使用だった」と報じた。この問題を取り上げたメディア「BuzzFeedJapan」の取材に対し任天堂広報は、「今回の映像で使用されているゲームはすべて許可をとっております」と、はちま起稿の記事を否定している。翌21日に、はちま起稿は捏造を認め記事を訂正した。", "qas": [ { "question": "任天堂の関連情報を直接発信インターネットプレゼンテーションの名称は何ですか?", "id": "tr-424-14-000", "answers": [ { "text": "「NintendoDirect」", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "岩田聡が「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。」と発言したのはいつの記事に対する反応ですか?", "id": "tr-424-14-001", "answers": [ { "text": "2012年2月20日", "answer_start": 229, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "岩田聡が「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。」と言った記事はどこの記事ですか?", "id": "tr-424-14-002", "answers": [ { "text": "日本経済新聞", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2012年2月20日の当時の社長は誰ですか?", "id": "tr-424-14-003", "answers": [ { "text": "岩田聡", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本経済新聞の2012年2月20日の記事について岩田社長が発言したのはどこですか?", "id": "tr-424-14-004", "answers": [ { "text": "Twitter", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。」と発言した人物は誰ですか?", "id": "tr-424-14-005", "answers": [ { "text": "岩田聡", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日経新聞の『WiiU』にカーナビゲーションや電子書籍などの機能を搭載するとの記事はいつ書かれてましたか?", "id": "tr-424-14-006", "answers": [ { "text": "2012年6月5日", "answer_start": 400, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2012年6月5日日本経済新聞の記事は任天堂のどの機器に関する記事でしたか?", "id": "tr-424-14-007", "answers": [ { "text": "『WiiU』", "answer_start": 412, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂ホームページ上の動画から岩田の発言部分を抜き出しインタビューのように仕立てて掲載した新聞社はどこですか?", "id": "tr-424-14-008", "answers": [ { "text": "朝日新聞", "answer_start": 468, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂ホームページの動画の岩田社長の発言部分を編集してインタビューのように仕立てた記事はいつ書かれてますか?", "id": "tr-424-14-009", "answers": [ { "text": "2012年6月8日", "answer_start": 474, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "朝日新聞が2012年6月8日のフェイクニュースについて、任天堂に対する謝罪文を掲載したのはいつですか?", "id": "tr-424-14-010", "answers": [ { "text": "2014年9月14日", "answer_start": 618, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "朝日新聞が任天堂に謝罪文を書いたのは事件発生後、何年後ですか?", "id": "tr-424-14-011", "answers": [ { "text": "2年", "answer_start": 614, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『TheElderScrollsV:Skyrim』はどこの社のものですか?", "id": "tr-424-14-012", "answers": [ { "text": "ベセスダ・ソフトワークス社", "answer_start": 698, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "NintendoSwitchの紹介動画が公開されたのはいつですか?", "id": "tr-424-14-013", "answers": [ { "text": "2016年10月20日", "answer_start": 660, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "NintendoSwitchの紹介動画で使われたスカイリム映像が無断使用だったと報道したのはどこですか?", "id": "tr-424-14-014", "answers": [ { "text": "「はちま起稿」", "answer_start": 797, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "NintendoSwitchの紹介動画で、任天堂のスカイリム映像の無断使用を掲載したサイト名は何ですか?", "id": "tr-424-14-015", "answers": [ { "text": "「はちま起稿」", "answer_start": 797, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2015年1月より、YouTubeにゲーム動画をアップロードした制作者が広告収益を任天堂とシェアできるサービス「NintendoCreatorsProgram」を提供した。それまではYouTube側の規定により任天堂にのみ広告収益が付与されていたが、この仕組みにより動画制作者側も利益が得られるようになる。また、ニコニコ動画における同様のサービス「クリエイター奨励プログラム」にも参加している。OPENREC.tvでも任天堂タイトルの動画配信が可能になっている。\n\n2018年11月、任天堂は「NintendoCreatorsProgram」を終了すると発表した。そして新たな任天堂の著作物の利用に関するガイドラインを発表した。\n\n「NintendoCreatorsProgram」では広告収益を受け取るには動画の審査が必須だったのに対して新ガイドライン「ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」は動画の審査が不要で実況できる任天堂ソフトの制限もなくなった。\n\n新ガイドラインは個人を対象にしているため法人は対象外であるが、YouTuberの事務所(MCN)であるUUUM株式会社のように包括的許諾をとる所もある。またタレント事務所に所属するタレントやMCNに所属するYouTuberなどが個人でやる場合はガイドライン対象となるが業務として投稿する場合はガイドライン対象外となる。", "qas": [ { "question": "YouTubeにゲーム動画をアップロードした制作者が広告収益を任天堂とシェアできるサービス名は何ですか?", "id": "tr-424-15-000", "answers": [ { "text": "「NintendoCreatorsProgram」", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "YouTubeのゲーム実況動画の広告収益を制作者と任天堂がシェアするサービスは何ですか?", "id": "tr-424-15-001", "answers": [ { "text": "「NintendoCreatorsProgram」", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「NintendoCreatorsProgram」が開始されたのはいつですか?", "id": "tr-424-15-002", "answers": [ { "text": "2015年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「NintendoCreatorsProgram」のサービス開始は何年ですか?", "id": "tr-424-15-003", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「NintendoCreatorsProgram」サービス以前に広告収益を得たのはどっち側ですか?", "id": "tr-424-15-004", "answers": [ { "text": "任天堂", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2015年以前に、YouTubeで任天堂ゲーム実況動画の広告収入は誰のものでしたか?", "id": "tr-424-15-005", "answers": [ { "text": "任天堂", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「NintendoCreatorsProgram」が実施された配信サイトはどこですか?", "id": "tr-424-15-006", "answers": [ { "text": "YouTube", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニコニコ動画で実況者と任天堂が映像広告収益をシェアするサービス名は何ですか?", "id": "tr-424-15-007", "answers": [ { "text": "「クリエイター奨励プログラム」", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「クリエイター奨励プログラム」はどこの動画配信サイトのサービスですか?", "id": "tr-424-15-008", "answers": [ { "text": "ニコニコ動画", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「NintendoCreatorsProgram」が終了したのはいつですか?", "id": "tr-424-15-009", "answers": [ { "text": "2018年11月", "answer_start": 233, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「NintendoCreatorsProgram」の終了後、発表された新たなガイドラインの名称は?", "id": "tr-424-15-010", "answers": [ { "text": "「ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」は個人と集団、どっちを対象に取っていましか?", "id": "tr-424-15-011", "answers": [ { "text": "個人", "answer_start": 454, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂の配信に関する新ガイドラインで、例外的に法人が包括的許諾を取った例は?", "id": "tr-424-15-012", "answers": [ { "text": "UUUM株式会社", "answer_start": 497, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "UUUM株式会社はどういう会社なんですか?", "id": "tr-424-15-013", "answers": [ { "text": "YouTuberの事務所", "answer_start": 477, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "MCN所属のYouTuberが新ガイドラインの対象外となるケースはどういう場合ですか?", "id": "tr-424-15-014", "answers": [ { "text": "業務として投稿する場合", "answer_start": 580, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2017年10月、任天堂は海外で盛り上がりを見せているeスポーツの取り組みについて聞かれ、ユーザーの関心が広がっており世界的にも広がりを見せていることは認識している。任天堂のゲームを使って「任天堂らしい」と多くの皆様から感じていただけ、勝った方に喜んでいただける、そんな「ご褒美のようなもの」は一体何なのか?そういう事を考えながらいろんな活動に取り組んできているとしている。現在eスポーツ団体である日本eスポーツ連合(JeSU)には様々なゲームメーカーが加盟して賞金大会を開いているが、任天堂は現時点では加盟していない。だが2018年には日本野球機構(NPB)がeスポーツに参入し第2弾で「NPBeスポーツシリーズスプラトゥーン2」を開催するにあたって任天堂は協力をしている。大会では成績に応じて賞金が貰える大会ではないが一律参稼手当有りである。他には好成績をあげているプロのスマブラプレイヤーを集めた「スマブラSP東西リーグ大会」を任天堂公式大会として毎月開催してWeb番組で配信している。賞金は出ないが一律参稼手当有りである。現状は賞金こそ出ないものの優勝商品や一律参稼手当有りという形でのeスポーツ参加をしている。", "qas": [ { "question": "任天堂が協力した日本野球機構開催のEスポーツ大会名は?", "id": "tr-424-16-000", "answers": [ { "text": "「NPBeスポーツシリーズスプラトゥーン2」", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂公式大会として毎月開催してWeb番組で配信しているスマブラ大会の名は?", "id": "tr-424-16-001", "answers": [ { "text": "「スマブラSP東西リーグ大会」", "answer_start": 401, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本eスポーツ連合に任天堂は加盟しているか否か。", "id": "tr-424-16-002", "answers": [ { "text": "加盟していない", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "任天堂が「NPBeスポーツシリーズスプラトゥーン2」開催に協力したのは何年ですか?", "id": "tr-424-16-003", "answers": [ { "text": "2018年", "answer_start": 262, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "麟_(織田信長の花押)", "paragraphs": [ { "context": "織田信長は、1565年9月頃から文書に麟(りん)の字をかたどった花押を使用するようになった。\nこの花押は伝説上の生物である「麒麟」を意味するとされるが、麒麟は正しい政治が行われている世にしか現れない生物であると中世日本では信じられていた。\nそして、この「麟」字型花押が使われはじめるきっかけとなったのは、室町幕府将軍・足利義輝の非業の死(永禄の政変)であった。\nこのような背景から、この花押は平和社会の実現を目指した信長の理想を示すものだと解釈されている。\n上の解釈は定説となり、織田信長に関する多くの論文で注目されてきた。\nしかし、同説には様々な異論も存在し、例えば、「麟」の字ではなく「信長」の字を表しているとする説、あるいは足利様の花押との連続性があるとする説、平和社会実現の主体を信長自身ではなく足利義昭とみる説などがある。", "qas": [ { "question": "「麟」字型花押を使用した戦国武将といえば?", "id": "tr-425-00-000", "answers": [ { "text": "織田信長", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "永禄の政変で亡くなった将軍は誰ですか?", "id": "tr-425-00-001", "answers": [ { "text": "足利義輝", "answer_start": 159, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "織田信長はいつから「麟」字型花押を使い始めましたか?", "id": "tr-425-00-002", "answers": [ { "text": "1565年9月頃", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「麟」字型花押のモチーフとなっている生物とは何ですか?", "id": "tr-425-00-003", "answers": [ { "text": "「麒麟」", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "花押は、文書において自署の代用として使われる特殊な形状の記号・符号である。\n織田信長は自らの花押の形状をたびたび変更したことで有名であり、細かく分類すれば10種類以上の、大別すれば3種類の花押を使用した。\nすなわち、初期に使用したものは伝統的な足利様の花押であり、この形式は父の織田信秀も使用していた。\n次に天文21年(1552年)から使用した花押は実名「信長」の字を裏返したものである。\nこのときの花押変更の背景には、盗用や偽造を防ぐという実際的な目的があったと考えられている。", "qas": [ { "question": "織田信長が使用した花押の種類は、大きく分けると何種類になりますか?", "id": "tr-425-01-000", "answers": [ { "text": "3種類", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "織田信長が使用した花押の種類は、綿密に分けると何種類ありますか?", "id": "tr-425-01-001", "answers": [ { "text": "10種類以上", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "織田信長の父親は誰ですか?", "id": "tr-425-01-002", "answers": [ { "text": "織田信秀", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "文書において自署の代用として使われるものは何ですか?", "id": "tr-425-01-003", "answers": [ { "text": "花押", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "最後の3種類目の花押が「麟」の字の花押であるが、2012年時点で判明している限りでは、「麟」字型花押が使われた最初の史料は、永禄8年9月の信長の発給文書である。\nそして、同年の花押の一新は、盗用・偽造の防止といった従前の目的からではなく、政治理念の表明というまったく異なった理由によって行われたものであった。\n後述する通り、この「麟」の花押に込められた理念とは、平和社会の実現という信長の理想であると解釈されている。", "qas": [ { "question": "「麟」字型花押が最初に使われた史料とは、信長の何の文書ですか?", "id": "tr-425-02-000", "answers": [ { "text": "発給文書", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「麟」の花押を使用した政治理念の表明には、信長のどんな理想が込められていましたか?", "id": "tr-425-02-001", "answers": [ { "text": "平和社会の実現", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "やがて美濃攻略を達成した信長は、永禄10年(1567年)11月に「天下布武」の印章を使い始めた。\n「麟」字型の花押は「天下布武」印とともに使い続けられたが、同花押は相対的に重要性の高い文書に限定して使われるようになった。\n特に、信長が天正4年(1576年)に本拠を安土城へ移して以降は、発給文書のほとんどに「天下布武」の印章が捺された一方で、花押の使用は他の戦国大名や公家に宛てた特別な文書のみに限られた。", "qas": [ { "question": "信長が「麟」の花押と併用した印章とは何ですか?", "id": "tr-425-03-000", "answers": [ { "text": "「天下布武」", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「天下布武」の印章を使い始める前に、信長が攻略した地域はどこですか?", "id": "tr-425-03-001", "answers": [ { "text": "美濃", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "天正4年に信長の本拠地となった城はどこ?", "id": "tr-425-03-002", "answers": [ { "text": "安土城", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "永禄10年以降、重要で特別な文書に限り使用したものは「麟」字型の花押と「天下布武」の印章のどちらですか?", "id": "tr-425-03-003", "answers": [ { "text": "「麟」字型の花押", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "もともと、この花押が何の文字にあたるのかは研究者の間でも不明であり、日本中世史研究者の佐藤進一も、初めて見たときはこの花押を解読することはできなかったという。\nしかし佐藤は、勝海舟(勝麟太郎)の花押「麟」と比較することで、この信長の花押も「麟」の字をもとにしたものである可能性に気づいた。\n勝海舟の花押「麟」は、「麟」の字の草書体の下半分が左右に開いたものである。\n佐藤によれば、信長の花押「麟」は勝海舟の花押の形と比べてより記号化がなされたものであり、「鹿」の草書体での書き出しの部分と「米」の部分を省いている。", "qas": [ { "question": "信長の花押を「麟」と解読した人は誰ですか?", "id": "tr-425-04-000", "answers": [ { "text": "佐藤進一", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "佐藤は信長の花押を解読するために、誰の花押と比較しましたか?", "id": "tr-425-04-001", "answers": [ { "text": "勝海舟", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長の花押と勝海舟の花押は、どちらがより記号化されたスタイルをしていますか?", "id": "tr-425-04-002", "answers": [ { "text": "信長の花押", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長以外で「麟」の花押を使用した歴史上の人物とは誰ですか?", "id": "tr-425-04-003", "answers": [ { "text": "勝海舟", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「麟」とは中国の伝説上の生物「麒麟」のうち雌を意味する字であるが、中世日本においても、「麒麟」は理想的な政治が行われている社会のみに出現するものだと信じられていた。\nそのため、信長が「麟」の花押を使用したことは、「至治の世、平和の代への願望」の表明であったと佐藤は解釈する。\nそして、断言はできないとしつつも、信長が平和社会の実現を自分自身の力で達成しようという理想が込められている可能性を指摘している。\nこのような願望を伴った花押は信長一人だけが用いたものではなく、竹中半兵衛重治の晩年の花押「千年おゝとり」(鳳凰)も、同様に平和社会への願望が込められている。\nこの花押使用の契機は、少し前に起きた永禄の政変であると考えられる。\n室町幕府将軍の足利義輝が謀反によって殺害されたこの事件の影響によって、信長は「麟」の字の花押を用い、またしばらくして「天下布武」の印章を用いるようになるのである。", "qas": [ { "question": "「麟」は「麒麟」の雄と雌どちらを表していますか?", "id": "tr-425-05-000", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「麒麟」はどの国で伝えられていた架空の生物ですか?", "id": "tr-425-05-001", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長以外で、平和社会への願望を表明した花押を使っていたのは誰ですか?", "id": "tr-425-05-002", "answers": [ { "text": "竹中半兵衛重治", "answer_start": 234, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "竹中半兵衛重治が晩年に使用した花押は、何をモチーフにしていますか?", "id": "tr-425-05-003", "answers": [ { "text": "鳳凰", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "以上の佐藤進一の解釈は定説化したが、以下のような様々な異論もある。\n柴辻俊六や山本浩樹は、そもそもこの花押が「麟」の字であるという見方自体に疑問を呈している。\n柴辻によれば、この花押が何を表しているかを考察することは完全に不可能である。\n一方、山本によれば、この花押は天文21年からの実名「信長」花押と類似しており、同花押のうち「長」の部分を倒置から正置へと変更したものとも解釈できる。\nこれらの見解とは異なり、花押が「麟」の字であることを前提としつつも、その意味の解釈に相違があるのが以下の2説である。", "qas": [ { "question": "佐藤進一の解釈に異論を放ったのは柴辻俊六と誰ですか?", "id": "tr-425-06-000", "answers": [ { "text": "山本浩樹", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長の花押が意味するものは考察不可能と結論付けている人は誰ですか?", "id": "tr-425-06-001", "answers": [ { "text": "柴辻", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "石崎建治はこの花押が「麟」の字であることを認めつつも、伝統的な足利様の花押との連続性を指摘する。\n石崎によれば、「麟」字型花押は、「瓦」字に類似する形状や上端部の横線などに見られるように、足利様花押の構造を踏襲したものだと考えられる。\nそして、最初に信長が用いた足利様花押だけでなく、足利義輝花押などの歴代足利将軍家の花押についても、「麟」字型花押との類似性が認められるという。\n石崎はこの形状の類似を次のように解釈することができるかもしれないと述べている。\nすなわち、この花押は「麟」の字と足利様の融合といえる。\nそのため、室町幕府の政治構造に対して一定の範囲内で敬意を払いつつ、室町幕府を引き継ぐ形で「天下統一」を達成するという信長の意識がこの花押から読み取れる。", "qas": [ { "question": "信長の花押が「麟」の字と足利様の融合と唱えた人は誰ですか?", "id": "tr-425-07-000", "answers": [ { "text": "石崎建治", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "信長の花押は足利様花押の構造を受け継いだものだと考えたのは誰ですか?", "id": "tr-425-07-001", "answers": [ { "text": "石崎", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、佐藤進一は「麟」の花押について信長が「自らの力によって」平和社会を実現しようとしたものである可能性を指摘しているが、この「自らの力によって」という部分に異議を唱えたのが高木叙子である。\n伝説上、麒麟は聖人が現れた際に姿を見せる聖獣であるが、高木によれば、この聖人とは次期将軍候補の足利義昭(義輝の弟)のことを指すという。\nこの高木の解釈は次のようなものである。\n後年に生じた信長と義昭の対立、あるいは信長による覇権の確立といった結末から逆算して、この花押に全国統一の野望のような含意があったと解釈するのは妥当ではない。\nむしろ、信長がこの花押を使用し始めたのは、義昭から上洛支援の要請を受けた直後であるのだから、義昭こそが信長の「待望の聖君」であったと考えるべきである。\nそして、義昭を君主として推戴して室町幕府の政治に関わろうとした信長の意図をこの花押は示しているという。\n近年では信長の印章「天下布武」にも全国統一のような意図はなかったと考えられている(→信長の政権構想)。\nこのような研究の流れを受けて、足利義昭による理想社会の実現という上記の高木説について、金子拓も説得力のあるものだとして支持している。", "qas": [ { "question": "「自らの力によって」の部分を佐藤進一とは異なる解釈をした人は誰ですか?", "id": "tr-425-08-000", "answers": [ { "text": "高木叙子", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "足利義昭の兄の名は何ですか?", "id": "tr-425-08-001", "answers": [ { "text": "義輝", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高木の説では、信長の「待望の聖君」とは誰のことを指していますか?", "id": "tr-425-08-002", "answers": [ { "text": "義昭", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高木叙子が唱えた説を支持する人は誰ですか?", "id": "tr-425-08-003", "answers": [ { "text": "金子拓", "answer_start": 486, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ヤングスタウン(オハイオ州)", "paragraphs": [ { "context": "ヤングスタウンは、アメリカ合衆国オハイオ州北東部に位置する都市だ。同州マホニング郡の郡庁所在地で、マホニング・バレーと呼ばれる地域の中心都市である。市はクリーブランドとピッツバーグの中間点に位置し、そのいずれからも100kmほどの距離である。市の中心部にはオハイオ川の支流の1つであるマホニング川が流れている。\n\n市名は市の創設者であるニューヨーク州出身の開拓者、ジョン・ヤングにちなんでつけられた。20世紀前半には、ヤングスタウンはクリーブランドやピッツバーグと同様に、鉄鋼生産の中心地として栄えた。しかし、1970年代に鉄鋼業が衰退に向かうと、他に主となる産業の無かったヤングスタウンの地域経済は大きな打撃を受け、市は衰退の一途をたどるようになった。2010年の国勢調査では人口66,982人と、全盛期の約2/5にまで減少している。また、治安の悪化や貧困といった問題も抱えるようになってきており、都市圏単位での人口停滞も顕著である。そうした中、市政府は市の再生を図るべく、市民やヤングスタウン州立大学と協同で、「ヤングスタウン2010」という都市再生計画を打ち出した。更に、2012年には国家主導による、3D印刷による新世代ソフトウェア開発拠点に抜擢されたことで、全米から大きく注目を浴びており、変革期を迎えようとしている。", "qas": [ { "question": "ヤングスタウンはアメリカのどの州に属されていますか。", "id": "tr-426-00-000", "answers": [ { "text": "オハイオ州", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヤングスタウンの中心部に流れているオハイオ川の支流である川は何ですか。", "id": "tr-426-00-001", "answers": [ { "text": "マホニング川", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2010年の国勢調査では、ヤングスタウンの人口は何人ですか。", "id": "tr-426-00-002", "answers": [ { "text": "66,982人", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヤングスタウンはいつ3D印刷による新世代ソフトウェア開発拠点に抜擢されましたか。", "id": "tr-426-00-003", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 489, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1796年、ニューヨーク州ユーティカ近郊、ホワイツタウン出身の開拓者ジョン・ヤングはこの地を測量し、その後間もなく入植地を創設した。翌1797年2月9日には、ヤングは西部保留地会社から約63km2のタウンシップを16,085ドルで購入した。ヤングは購入したタウンシップ内を流れているミル・クリークに、この地域で最初の製材所と製粉所を建設した。1802年8月19日には、ヤングスタウンは1797年創設であると公式に記録された。\n\n今日のヤングスタウンがある地は、コネチカット州からの入植者のために確保されていたコネチカット西部保留地の一部であった。コネチカット西部保留地の首都はクリーブランドに置かれていた。この地域への初期の入植者の多くはコネチカット州からの移入者であったが、ヤングスタウンには東隣のペンシルベニア州からも少なくない数のスコットランド系・アイルランド系の移民が移入してきた。この地域への最初のヨーロッパ系定住移民はピッツバーグ出身のジェームズ・ヒルマンとその妻キャサリン・ダファーティであった。1798年頃には、ヤングスタウン地域内のミル・クリークとマホニング川の合流点近くに数家族が集まって住んでいた。", "qas": [ { "question": "ヤングスタウンは1797年創設であると公式に記録されたのはいつですか。", "id": "tr-426-01-000", "answers": [ { "text": "1802年8月19日", "answer_start": 171, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1797年2月9日、ヤングは西部保留地会社から約63km2のタウンシップをいくらで購入しましたか。", "id": "tr-426-01-001", "answers": [ { "text": "16,085ドル", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "開拓者ジョン・ヤングはどこ出身なの?", "id": "tr-426-01-002", "answers": [ { "text": "ホワイツタウン", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "西部保留地の人口が増えるにつれて、行政区分の必要性が明らかになっていった。1800年、西部保留地の知事アーサー・セントクレアは、初代コネチカット州知事ジョンサン・トランブルの名を冠したトランブル郡を創設し、その郡庁をウォーレンに置いた。1813年には、トランブル郡がタウンシップに分割され、そのうちの1つとして後にマホニング郡の一部となるヤングスタウン・タウンシップが創設された。ヤングスタウンは1848年に正式な村となり、1867年には市に昇格した。1876年には、マホニング郡の郡庁が近郊のカンフィールドからヤングスタウンに移された。\n\n1800年代前半にこの地域で発見された石炭資源は、後にオハイオ・アンド・エリー運河に通ずる交通路の確立へとつながった。1835年にはペンシルベニア・アンド・オハイオ運河会社が創設され、1840年にはペンシルベニア州ニューカッスルからマホニング・バレーを通り、アクロンでオハイオ・アンド・エリー運河に合流するペンシルベニア・アンド・オハイオ運河が完成した。後の南北戦争時にオハイオ州知事に就任した地元実業家デイヴィッド・トッドは、エリー湖を通る蒸気船の船主に対し、「もしもクリーブランドとヤングスタウンを結ぶ運河があれば、船の燃料となるマホニング・バレー産の石炭を補給できる」と説得した。1856年にはヤングスタウンに鉄道が開通し、その後の経済発展を促す基盤が確立された。", "qas": [ { "question": "西部保留地の知事アーサー・セントクレアは、何年に初代コネチカット州知事ジョンサン・トランブルの名を冠したトランブル郡を創設しましたか。", "id": "tr-426-02-000", "answers": [ { "text": "1800年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤングスタウンは何年に市に昇格しましたか。", "id": "tr-426-02-001", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 212, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤングスタウンに鉄道が開通されたのは何年ですか。", "id": "tr-426-02-002", "answers": [ { "text": "1856年", "answer_start": 564, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "木炭の原料として必要となる硬木の森林資源のみならず、石炭や鉄鉱石の埋蔵量も豊富であったヤングスタウンは、やがて鉄鋼生産の中心地として栄えていった。1803年、ジェームズ・ヒートンとダニエル・ヒートンは市の東側にこの地域の最初の溶鉱炉を建設した。また、1846年に創設されたヤングスタウン・ローリング・ミル・カンパニーなど、石炭を燃料として用いた工場も建設された。19世紀中盤頃には、ヤングスタウンにはデイヴィッド・トッドが創設したブライアー・ヒル・アイアン・アンド・コール・カンパニーをはじめ、いくつかの製鉄所が存在していた。1890年代にはこの地域の天然資源は枯渇したが、その頃には既に鉄道交通の発達によって石炭や鉄鉱石が周辺諸州から継続的に供給されるようになっていたため、ヤングスタウンにおける鉄鋼業は成長し続けた。", "qas": [ { "question": "ヤングスタウンに最初の溶鉱炉を建設したのはジェームズ・ヒートンと誰なの?", "id": "tr-426-03-000", "answers": [ { "text": "ダニエル・ヒートン", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブライアー・ヒル・アイアン・アンド・コール・カンパニーは誰が創設したの?", "id": "tr-426-03-001", "answers": [ { "text": "デイヴィッド・トッド", "answer_start": 200, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤングスタウン・ローリング・ミル・カンパニーはいつ創設されたの?", "id": "tr-426-03-002", "answers": [ { "text": "1846年", "answer_start": 125, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "20世紀に入ると、全米的に事業を展開する企業がマホニング・バレーに置かれていくようになった産業統合への動きの中で、地元実業家は鉄鋼業に参入していくようになった。1901年には、ヤングスタウンにおける主要な製鉄会社であったナショナル・スチール・カンパニーがカーネギー・スチール・カンパニーやフェデラル・スチール・カンパニーと統合され、USスチールが設立された。しかし、地元の投資家はその前年、1900年に既にこの地域における産業界の所有権を確立していた。地元実業家のジョージ・D・ウィックとジェームズ・A・キャンベルは、1900年にヤングスタウン・シート・アンド・チューブ・カンパニーを設立した。ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはやがて全米有数の製鉄会社へと成長していった。1923年には、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはシカゴのサウス・シカゴ地区とインディアナ州イーストシカゴの2ヶ所の工場を獲得し、事業を大幅に拡大した。1931年には、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはベスレヘム・スチールと合併し、全米第2の製鉄会社になろうとした。しかし、ベスレヘム・スチールの体質強化を恐れたリパブリック・スチールの創設者サイラス・S・イートンの金銭的支援によって、他の地元実業家はこの動きを制止した。", "qas": [ { "question": "ナショナル・スチール・カンパニーがカーネギー・スチール・カンパニーやフェデラル・スチール・カンパニーと統合され、何が設立されましたか。", "id": "tr-426-04-000", "answers": [ { "text": "USスチール", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1931年には、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはどこと合併したか。", "id": "tr-426-04-001", "answers": [ { "text": "ベスレヘム・スチール", "answer_start": 449, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤングスタウン・シート・アンド・チューブがシカゴのサウス・シカゴ地区とインディアナ州イーストシカゴの2ヶ所の工場を獲得したのは何年のことですか。", "id": "tr-426-04-002", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 340, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1937年、ヤングスタウンは「リトル・スチール・ストライキ」と呼ばれる、鉄鋼労働組合が中小鉄鋼会社における労使契約の合意事項を確保するために起こしたストライキの主舞台となった。このストライキにはリパブリック・スチール、ベスレヘム・スチール、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブ、ナショナル・スチール・コーポレーション、インランド・スチール、アメリカン・ローリング・ミルズなどが参加した。この労働組合の創設者の1人であったガス・ホールは、ヤングスタウンやウォーレンでこのストライキを主導した。同年6月21日には、ストライキ関連の暴力沙汰で死者2名、負傷者42名を出した。\n\nヤングスタウンのみならず、遠くシカゴにも及んだこうした暴力的なエピソードがあったにもかかわらず、リトル・スチール・ストライキはアメリカ合衆国における労働運動の歴史の転換点となった。歴史家ウィリアム・ローソンは、このストライキについて、「労働組合をそれまでの基本的に地方的で非効率な組織から、全てを取り巻く、全国的な集団交渉におけるアメリカ合衆国の労働者の代表へと変貌させたものであった」との見解を示している。このストライキの記念碑は、ヤングスタウン産業・労働史センターの敷地内に立てられている。", "qas": [ { "question": "1937年6月21日、ストライキ関連の暴力沙汰で何人の死者が出ましたか。", "id": "tr-426-05-000", "answers": [ { "text": "2名", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヤングスタウンは北緯41度5分47秒西経80度38分57秒に位置している。市はクリーブランドからは南東へ約105km、アクロンからは東へ約75km、ピッツバーグからは北西へ約100kmに位置する。また、市の中心部からペンシルベニア州境までは東へ約16kmである。市の標高は259mである。\n\nアメリカ合衆国統計局によると、ヤングスタウン市は総面積88.7km2である。そのうち87.8km2が陸地で0.9km2が水域である。総面積の1.02%が水域になっている。市域の大部分はマホニング郡内に収まっているが、市北部の一部分がトランブル郡にかかっている。ヤングスタウン・ウォーレン・ボードマン都市圏はマホニング郡を中心に、トランブル郡、およびペンシルベニア州マーサー郡の3郡にまたがっている。ヤングスタウン・ウォーレン広域都市圏はこの都市圏にセーラム小都市圏を加えた4郡からなっている。ヤングスタウンの広域都市圏はクリーブランド・アクロン・カントン、ピッツバーグ・ニューカッスル・ウィアトンの両方の広域都市圏に接している。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国統計局によると、ヤングスタウン市の総面積は何km2ですか。", "id": "tr-426-06-000", "answers": [ { "text": "88.7km2", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤングスタウン市の総面積のうち、陸地は何km2ですか。", "id": "tr-426-06-001", "answers": [ { "text": "87.8km2", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヤングスタウンは陸地と水域とどっちの方が広い?", "id": "tr-426-06-002", "answers": [ { "text": "陸地", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ヤングスタウンの気候は涼しい夏と寒い冬に特徴付けられる。夏季でも30°Cに達することはほとんどなく、最も暑い7月でも平均気温は21.4°C、最高気温の月平均でも27.4°Cである。冬季は晴れる日が少なく、気温が氷点下に下がる日が続く。最も寒い1月の平均気温は-3.4°C、最低気温の月平均は-7.2°C、最高気温の月平均でも0.3°Cである。また、冬のエリー湖南岸は大雪地帯として知られているが、ヤングスタウンはエリー湖から離れているにもかかわらず、湖岸のクリーブランドやエリーなどと同様、冬季の降雪量は多い。12月から3月までの間は月間28-42cmの雪が降り、年間降雪量は160cmに達する。降水量は1年を通じてほぼ一定しており、年間降水量は990mmほどである。ケッペンの気候区分では、ヤングスタウンは亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属する。", "qas": [ { "question": "ヤングスタウンの7月の平均気温は何度ですか。", "id": "tr-426-07-000", "answers": [ { "text": "21.4°C", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヤングスタウンの1月の平均気温は何度なの?", "id": "tr-426-07-001", "answers": [ { "text": "-3.4°C", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヤングスタウンの年間降雪量は何cmなの?", "id": "tr-426-07-002", "answers": [ { "text": "160cm", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ケッペンの気候区分では、ヤングスタウンは何に属するか。", "id": "tr-426-07-003", "answers": [ { "text": "亜寒帯湿潤気候(Dfb)", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヤングスタウンは市長制を採っている。市の条例により、市長の任期は4年で、連続2期が上限と定められている。市長の被選挙権は、ヤングスタウン市内に選挙権有権者として5年以上居住している30歳以上の者に与えられている。地元の労働組合が民主党を支持しているため、1920年代以降、ヤングスタウンは民主党系の市長を選出する傾向がある。\n\n市議会は市議会議長と市議員7名の計8名で構成されている。市は7つの選挙区に分けられ、それぞれの選挙区から1名ずつの市議員が選出される。市議会議長は市議員とは別個に、全市での選挙により選出される。市議員の被選挙権は立候補する選挙区に選挙権有権者として居住している21歳以上の者に与えられている。一方、市議会議長の被選挙権は市長と同様、ヤングスタウン市内に選挙権有権者として5年以上居住している30歳以上の者に与えられている。市議会議長、市議員とも市長と同様、任期は4年で、連続2期が上限と定められている。\n\n管理委員会はヤングスタウン市域内における公共事業を監督する責務を負い、配下にヤングスタウン市警察、ヤングスタウン消防局、公園局、市民サービス局、コミュニティ開発局、保健局、都市計画局、水道局を置いている。財務局は市の財政に関する事項全般に責任を負い、経済開発局と所得税局をその配下に置いている。公共事業局の配下には技術、建造物監視、建築・土木、信号・標識、取り壊し・住宅、ごみ・リサイクル、下水処理を担当する各局が置かれており、公共事業局はこれらの各局に対する監督責任を負っている。法務局は市の法的問題を取り扱い、市の各局に対して法務カウンセラー的な役割を果たす。", "qas": [ { "question": "ヤングスタウンの市長の任期は何年ですか。", "id": "tr-426-08-000", "answers": [ { "text": "4年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤングスタウンの市議会は市議会議長と何人の市議員で構成されますか。", "id": "tr-426-08-001", "answers": [ { "text": "7名", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "市長の被選挙権は、ヤングスタウン市内に選挙権有権者として何年以上居住していないといけませんか。", "id": "tr-426-08-002", "answers": [ { "text": "5年以上", "answer_start": 80, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤングスタウンはいくつの選挙区に分けられますか。", "id": "tr-426-08-003", "answers": [ { "text": "7つ", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1950年代後期から1960年代初頭にかけて、ヤングスタウンはギャングによる殺人の多発都市として全米的に知られていた。地元のギャングはしばしば自動車に爆弾を仕掛けて殺害するという事件を起こしていた。そのため、ヤングスタウンは「殺人の街」と呼ばれ、地元では自動車に爆弾を仕掛けて暗殺することを指してYoungstowntune-upというスラングがよく用いられていた。こうした芳しくないイメージは、ヤングスタウンの都市圏内に5ヶ所の刑務所が立地しているという事実が広く報じられたことによって強まった。\n\nギャング絡みや麻薬絡みの暴力犯罪の増加を重く見た市政府は、ヤングスタウンの市街地に警官を増員した。また、交通法規の施行や逮捕状の発行と並行して、ヤングスタウン市警察・オハイオ州警察は凶悪犯罪者を逮捕してきた。さらに、ヤングスタウンと同様、かつての鉄鋼の街で、犯罪発生率の高さに悩むインディアナ州ゲーリー市の警察と協力し、互いの街を視察して共に犯罪撲滅策を考えるという取り組みもなされている。\n\nしかし、こうした努力にもかかわらず、ヤングスタウンの犯罪発生率、特に殺人発生率は依然として高い。連邦捜査局(FBI)による2007年のデータでは、ヤングスタウンの殺人発生率は人口100,000人あたり51.5件で、デトロイト(45.8件)やクリーブランド(20.5件)よりも高く、全米平均の7倍以上の数値となっていた。また、FBIの2007年のデータを基にした、モーガン・クイットノー社による2008年のレポートでは、ヤングスタウンは全米の人口75,000人以上の都市の中で15番目に危険な都市であると報じられた。", "qas": [ { "question": "ヤングスタウンはギャングによる殺人の多発都市であることから、何と呼ばれましたか。", "id": "tr-426-09-000", "answers": [ { "text": "「殺人の街」", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "FBIの2007年データによると、ヤングスタウンの殺人発生率は人口100,000人あたり何件ですか。", "id": "tr-426-09-001", "answers": [ { "text": "51.5件", "answer_start": 548, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モーガン・クイットノー社による2008年のレポートでは、ヤングスタウンは全米の人口75,000人以上の都市の中で、何番目に危険な都市ですか。", "id": "tr-426-09-002", "answers": [ { "text": "15番目", "answer_start": 685, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヤングスタウン州立大学はダウンタウンの北にキャンパスを構えている。同学は、もともとは地元のYMCAであったが、1908年に大学レベルの講義を開講したのが始まりとなった。その後、同学は1921年にヤングスタウン工科大学に、1928年にヤングスタウン・カレッジに、1955年にヤングスタウン大学に改名し、1967年にオハイオ州の高等教育システムに組み入れられて現在の校名になった。ヤングスタウン州立大学は、かつては地域密着型の大学と考えられていたが、現在では約13,000人の学生を抱え、ヤングスタウン地域以外の出身の学生も数多く在学している。\n\nヤングスタウン州立大学の数ある学部・プログラムの中でも、特に著名なのはダナ音楽学校である。同校は1869年にウォーレンに音楽の専門学校として設立され、1941年にヤングスタウン・カレッジに統合されたもので、ヤングスタウン州立大学よりも長い歴史を持っており、全米でも最も長い歴史を持つ音楽学校の1つである。2004年以降、ダナ音楽学校で用いられているピアノは全てスタインウェイ・アンド・サンズ社製のものである。\n\nまた、ヤングスタウンにはモンテッソーリ教育校も置かれている。1976年に設立されたマホニング・バレー・モンテッソーリ学校は、就学前から8年生までの児童・生徒に、その独特な教育法による教育の機会を与えている。", "qas": [ { "question": "ヤングスタウン州立大学には何年から大学レベルの講義が開講されるようになりましたか。", "id": "tr-426-10-000", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヤングスタウン州立大学の1921年の名前は何でしたか。", "id": "tr-426-10-001", "answers": [ { "text": "ヤングスタウン工科大学", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダナ音楽学校とヤングスタウン州立大学と、どっちの方がもっと長い歴史を持っているの?", "id": "tr-426-10-002", "answers": [ { "text": "ダナ音楽学校", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マホニング・バレー・モンテッソーリ学校はいつ設立されたか。", "id": "tr-426-10-003", "answers": [ { "text": "1976年", "answer_start": 508, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ダウンタウンにはヤングスタウンにおける演技芸術の中心地となっているパワーズ講堂が建っている。この講堂は、もともとは1930年代に建てられた、ワーナー・ブラザースの映画館であった建物を改装して造られたものである。2006年には、この講堂にフォード・リサイタル・ホールが増築された。地元のオーケストラ、ヤングスタウン交響楽団はこのパワーズ講堂を本拠地としている。\n\nヤングスタウン州立大学の北には、国家歴史登録財に指定されているスタンボーグ講堂が立地している。1926年に建てられたこの新古典主義建築の講堂では、前述のブルース・スプリングスティーンのライブを含め、あらゆるジャンルのコンサートが行われてきた。また、この講堂は貸切で私的な行事に利用されることもあった。スタンボーグ・ユース・コンサート・バンドは、このスタンボーグ講堂を本拠地としている。\n\nダウンタウンの南西約3kmに立地するヤングスタウン・プレイハウスは、1927年に建てられた、全米でも最古の部類に入るコミュニティ・シアターで、全盛期にはこの種の劇場としては全米最大の規模を誇った。この劇場からブロードウェイやハリウッドへと巣立って行った俳優・女優もいた。また、ダウンタウンに立地するコミュニティ・シアター、オークランド芸術センターでは、演劇、映画、音楽、ダンスなど様々な演技芸術の公演・上演が行われている。", "qas": [ { "question": "ワーナー・ブラザースの映画館は今は何になっているの?", "id": "tr-426-11-000", "answers": [ { "text": "パワーズ講堂", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スタンボーグ・ユース・コンサート・バンドはどこを本拠地としているの?", "id": "tr-426-11-001", "answers": [ { "text": "スタンボーグ講堂", "answer_start": 355, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤングスタウン・プレイハウスは何年に建てられた?", "id": "tr-426-11-002", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 409, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヤングスタウン州立大学の北東角に立地するバトラー・アメリカ美術館は、1919年に地元実業家ジョセフ・G・バトラー・ジュニアが創設した、アメリカ美術作品を集めた美術館としては全米最古のものである。現在では、この美術館には20,000点を超えるアメリカ美術の作品が展示されている。バトラー・アメリカ美術館の向かい側、ヤングスタウン州立大学のキャンパス内には、同学が所有・運営するマクドノフ美術館が建っている。1991年に建てられたこの美術館は、現代美術作品を展示しているほか、学生に芸術プログラムを提供している。\n\nヤングスタウン州立大学のキャンパス内に建ち、同学の理工学部地学科によって運営されているクラレンス・R・スミス鉱物博物館には、様々な鉱物が展示されている。ヤングスタウン州立大学の北にはアームズ家地域歴史博物館が建っている。マホニング・バレー歴史協会が運営するこの博物館は、もともとは1905年に建てられた地元実業家ウィルフォード・P・アームズとその妻オリーブ・F・A・アームズの豪邸で、当時の家屋、家具、芸術作品、工芸品などを残しながら、この地域の歴史に関連した展示物を展示している。また、ヤングスタウン州立大学のすぐ南、ダウンタウンを見下ろす斜面の上には、ヤングスタウン産業・労働史センターが立地している。オハイオ歴史協会が所有・運営するこの博物館は、マホニング・バレーにおける鉄鋼生産の歴史に特化した展示物を展示している。", "qas": [ { "question": "アメリカ美術作品を集めた美術館として、アメリカで一番古い美術館は何ですか。", "id": "tr-426-12-000", "answers": [ { "text": "バトラー・アメリカ美術館", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マクドノフ美術館は何年に完工されたか。", "id": "tr-426-12-001", "answers": [ { "text": "1991年", "answer_start": 202, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オリーブ・F・A・アームズの夫は誰?", "id": "tr-426-12-002", "answers": [ { "text": "ウィルフォード・P・アームズ", "answer_start": 412, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クラレンス・R・スミス鉱物博物館はどの学科が運営しているか。", "id": "tr-426-12-003", "answers": [ { "text": "理工学部地学科", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヤングスタウンにはメジャーのプロスポーツこそ存在しないものの、下部リーグのチームはいくつか置かれてきた。1902年には、この地にはヤングスタウン・オハイオワークスというチームが創設された。オハイオワークスは1905年に創設されたオハイオ・ペンシルベニアリーグに加入した。オハイオワークスは1905年、翌1906年と連覇を果たしたが、1907年のシーズン前に売却され、ヤングスタウンを去った。その後も、ヤングスタウンにはいくつかのマイナーリーグの野球チームが置かれてきた。現在では、1999年に創設されたクリーブランド・インディアンス傘下のショートシーズンAクラスのチーム、マホニングバレー・スクラッパーズがヤングスタウン北西郊のナイルズに本拠を置いている。スクラッパーズはイーストウッド・モールの裏手に立地するイーストウッド・フィールドを本拠地とし、ニューヨーク・ペンリーグに所属している。", "qas": [ { "question": "ヤングスタウン・オハイオワークスはいつ創設されましたか。", "id": "tr-426-13-000", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オハイオ・ペンシルベニアリーグとヤングスタウン・オハイオワークスと、どっちの方が先に創設された?", "id": "tr-426-13-001", "answers": [ { "text": "ヤングスタウン・オハイオワークス", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "市の南西から流れ、ダウンタウンの西でマホニング川に合流するミル・クリーク沿いには、約8kmにわたってミル・クリーク・パークという公園が広がっている。ワシントンD.C.のロック・クリーク・パークに倣って1891年に整備されたこの公園は、オハイオ州内では最も古い公園地区である。この公園は2005年に国家歴史登録財に指定された。\n\nミル・クリーク・パークの園内にはランターマンズ・ミル、フェローズ・リバーサイド庭園、デービス・ビジター・センター、フォード自然センター、「シンデレラ・ブリッジ」と呼ばれる鉄製の吊り橋などが保存・設置されている。ランターマンズ・ミルは19世紀中盤に建てられた製粉所を修復したものである。この製粉所ではかつてとうもろこし、小麦、蕎麦などが挽かれていた。約48,560m2の広さを持つフェローズ・リバーサイド庭園には四季折々に、様々な花が咲き誇っている。この庭園内に立地するデービス・ビジター・センター内には、ミル・クリーク・パークの歴史的な事物を展示する博物館や、図書館、アートギャラリー、展望台、土産物屋がある。また、デービス・ビジター・センターには講堂、喫茶店、会議室、教室も設けられており、結婚式やパーティー、会議などにも使用することができる。フォード自然センターはオハイオ州北東部の自然に関する事物を展示しているほか、様々な自然教育プログラムを催している。シンデレラ・ブリッジは1895年にミル・クリークの両岸を結ぶために架けられた、園内で最も古い橋である。この橋は2007年に補修された。", "qas": [ { "question": "ミル・クリーク・パークはいつ国家歴史登録財に指定されたの?", "id": "tr-426-14-000", "answers": [ { "text": "2005年", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ランターマンズ・ミルは何を修復したものなの?", "id": "tr-426-14-001", "answers": [ { "text": "製粉所", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミル・クリークの両岸を結ぶために架けられた、園内で最も古い橋は何ですか。", "id": "tr-426-14-002", "answers": [ { "text": "シンデレラ・ブリッジ", "answer_start": 594, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヤングスタウンでは貧困が大きな問題となっている。2000年の国勢調査時、ヤングスタウンにおける世帯収入の中央値は24,201ドル、人口1人あたりの収入は13,293ドルで、いずれもオハイオ州全体の数値を大きく下回っていた。また、市民の約1/4が貧困状態に置かれており、特に18歳未満の年齢層では、貧困率は37.3%に達していた。アメリカ合衆国統計局による2006年の推計では、世帯収入の中央値は2000年の国勢調査時よりもさらに低く、21,850ドルであった。このデータを基にしたCNNマネーの分析では、ヤングスタウンの世帯収入の中央値は全米の人口65,000人以上の都市の中で最も低いと報じられた。", "qas": [ { "question": "2000年の国勢調査によると、ヤングスタウンにおける世帯収入の中央値はいくらですか。", "id": "tr-426-15-000", "answers": [ { "text": "24,201ドル", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2000年の国勢調査によると、ヤングスタウンにおける人口1人あたりの収入はいくらですか。", "id": "tr-426-15-001", "answers": [ { "text": "13,293ドル", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "イスラーム建築", "paragraphs": [ { "context": "イスラーム建築の歴史については、便宜的に次のように区分することができる。つまり、「前古典期」あるいは「形成期」、「古典期」、「ポスト古典期」である。「形成期」は、イスラームが生まれる前の建築を積極的に導入し、同化していった時期で、ウマイヤ朝、アッバース朝、初期ファーティマ朝、後ウマイヤ朝、そしてサーマーン朝、ガズナ朝、初期セルジューク朝の建築がこれにあたる。「古典期」は、ムカルナスと尖頭アーチが普及していった時期で、建築技法や建築形態は、国や民族の壁を超えて自由に交錯した。「ポスト古典期」は、イスラーム建築の(現代イスラーム建築を除く)最後の改変期で、オスマン帝国とサファヴィー朝、そしてムガル朝の建築のことである。これらの巨大勢力の建築は、地理的に隣接しているにもかかわらず相互に全く影響を及ぼさなかった。", "qas": [ { "question": "イスラーム建築の歴史は便宜的に「前古典期」、「古典期」、「ポスト古典期」に区分することができるが、「前古典期」の別の呼び方は何か。", "id": "tr-427-00-000", "answers": [ { "text": "「形成期」", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "イスラーム建築の端緒は、622年のヒジュラの後にマディーナに礼拝所として建設された預言者ムハンマドの邸宅に始まる。記録によると、預言者の家は日干しレンガ(アドベ)で作られ、1辺が100ディラーウ(dhirā')すなわち約50メートル、面積は約2,500平方メートルの広い中庭と、それに接する南北に1列ずつの柱廊を巡らした部屋から成り、壁の高さは2.5メートル程であったという。", "qas": [ { "question": "ヒジュラが起こったのはいつ?", "id": "tr-427-01-000", "answers": [ { "text": "622年", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "預言者ムハンマドの邸宅の面積は?", "id": "tr-427-01-001", "answers": [ { "text": "約2,500平方メート", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これが現在の預言者のモスクであり、その後の全てのモスクの起源、雛形となった。ただし、アッバース朝の歴史家イブン・サアドによるムハンマドの伝記によれば、ムハンマド自身は信者の財産を無駄にするということで、建物の建設を禁じたと伝えている。豪華な建築物の建立と偶像を禁止するという預言者の教えに従い、ムハンマドの存命中と彼の後継者である正統カリフの時代には、イスラーム建築はほとんど発展が望めない状況にあった。しかし、ウマイヤ朝の時代になると、イスラームは芸術に対する関心を示すようになり、これにともなって建築も発達する。ウマイヤ朝からアッバース朝の時代にかけて、イスラーム建築は古代の建築を吸収し、イスラーム特有の建築形態を模索することになるのである。", "qas": [ { "question": "正統カリフの時代とウマイヤ朝の時代、どちらが建築が発達した時期か。", "id": "tr-427-02-000", "answers": [ { "text": "ウマイヤ朝の時代", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "7世紀中に、ムスリムの軍隊は、ペルシャ、シリア、エジプト、マグレブ(そして8世紀にはイベリア半島へも)に領土を拡大し、各地に信仰の拠点となるモスクを整備した。638年、サアド・ブン・アビー=ワッカースはクーファの町を建設し、ここに会衆モスクを建設した。周囲を堀によって一辺約104mの正方形に区切り、キブラに向かって木造屋根を架けた列柱を持つだけの、たいへん簡素なものである。しかし、この単純な建物が最初のイスラーム建築で、635年頃に建設されたバスラの会衆モスクは葦で囲われただけであった。宗教施設と比較すると、世俗建築はより強固な建築であった。635年、バスラに政庁府(ダール・アル・イマーラ)が建設され、638年には、クーファにも政庁府が建設されるが、賊が侵入したことによって、ウマル・イブン=ハッターブはクーファの政庁府をより堅牢なものに建て替えるよう命じている。また、644年から656年の間に、ムアーウィアによってダマスカスの政庁府が建設されている。しかし、やはり建築物には何らの装飾も行われなかったようで、東ローマ帝国の使節はこの政庁府を評して、上は鳥の巣、下はネズミの巣と述べている。", "qas": [ { "question": "バスラの会衆モスク、バラスの政庁府、ダマスカスの政庁府の中、最も新しい建物は?", "id": "tr-427-03-000", "answers": [ { "text": "ダマスカスの政庁府", "answer_start": 413, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "東ローマ帝国の使節が上は鳥の巣、下はネズミの巣評価した建物は何か。", "id": "tr-427-03-001", "answers": [ { "text": "ダマスカスの政庁府", "answer_start": 413, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "それまでの正統カリフの時代に比べると、ウマイヤ朝はイスラームに芸術をもたらすことになるが、その着想はサーサーン朝の装飾やシンボルの影響がたいへん強く、少なくとも芸術分野においては、ウマイヤ朝はサーサーン朝の後継者であった。東ローマ帝国の影響があまり認められないのは、コンスタンティノポリスを攻略できなかったことが大きいと考えられる。建築については、やはりサーサーン朝のペルシャ様式の影響が濃いものの、都がダマスカスにあったこともあって、ローマ建築、古代エジプト、ビザンティン建築の影響も認めることができる。", "qas": [ { "question": "ウマイヤ朝の芸術分野に大きく影響を与えたのは何王期?", "id": "tr-427-04-000", "answers": [ { "text": "サーサーン朝", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウマイヤ朝の建築に大きく影響を与えたのは何様式か。", "id": "tr-427-04-001", "answers": [ { "text": "ペルシャ様式", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ウマイヤ朝による初期のイスラーム建築の傑作は、7世紀末に完成したエルサレムの岩のドームと、8世紀初頭に完成したダマスカスのウマイヤド・モスクである。アル=アクサー・モスクも、現存する建物はワリード1世によって建設されたものが中核となっているが、アッバース朝の時代に大増築され、さらに後の時代になっても度重なる変更が成された。現存する部分では、東側の廊下の一部がワリード1世の時代のものと考えられている。ワリード1世は、706年にモスクにミフラーブを設置することを決めるなど、ウマイヤ朝の建築に大きな足跡を残したカリフで、建物の建設に際してはエジプトのコプト教徒の工匠を雇用し、イスラーム建築の発展に寄与した。", "qas": [ { "question": "エルサレムの岩のドームとダマスカスのウマイヤド・モスク、どっちの方がもっと早く完成した?", "id": "tr-427-05-000", "answers": [ { "text": "エルサレムの岩のドーム", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ワリード1世が706年、モスクに建設することを決めたのは何?", "id": "tr-427-05-001", "answers": [ { "text": "ミフラーブ", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "762年に、アッバース朝第2代カリフのマンスールによって建設が開始されたバグダードは、現在に残る痕跡はまったくないが、同心円状の二重の城壁と四つの門をもった直径2.3kmの円形都市であった。ニネヴェ、ハトラ、ハッラーン、アルダシール1世によって開かれたサーサーン朝の都市フィールーザーバードなども、円形の堀や市壁に囲まれ、等間隔に四つの門が配置された構成であったが、このような円形都市は中央アジアではかなり古くから存在していた。", "qas": [ { "question": "バグダードの建設が始まったのはいつ?", "id": "tr-427-06-000", "answers": [ { "text": "762年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カリフ・マンスールの甥にあたるイーサー・ブン・ムーサーによって764年頃か778年頃に建設されたと思われるウハイディル宮殿は、城壁に囲まれた砂漠の中にある宮殿遺跡であるが、かつては灌漑設備を備えた農地に囲まれていた。東西169メートル・南北179メートルに及ぶ広大な矩形の外壁を有し、さらに東西82メートル・南北112メートルに及ぶ内城壁によって宮殿の建物群が囲われていた。東西南北に四つの城門を持った外城壁は、約10メートル間隔で半円形に突き出た櫓を有し、城壁の上部には矢狭間(やざま)とアーチによって支えられた巡警路が内部に含まれており、城壁も含めて建物全体がレンガ造りではなくモルタルによって固められた石積みという大変に強固な構造である。", "qas": [ { "question": "東西南北に四つの城門を持ったウハイディル宮殿の外城壁は約何メートル間隔で半円形に突き出た櫓を有しているか。", "id": "tr-427-07-000", "answers": [ { "text": "約10メートル", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ムウタスィムはマムルークを保護するため、836年にバグダードの北約100kmに位置するサーマッラーに都を遷した。この都市は、ティグリス川の東岸に位置する長辺35kmの長方形の都市で、市壁などの都市を防衛する機能は何も持っていなかった。ムタワッキルの子ムウタッズの住んだサーマッラーのバルクワーラー宮殿には、「シュレークシュニット」と呼ばれる曲線で構成されたアッバース朝特有のスタッコ装飾が残っている。これはエジプトからトランスオクシアナの広範囲に見られる中央アジアに起源を持つ装飾で、その抽象性は後のイスラーム美術に通じる。", "qas": [ { "question": "ムウタスィムが836年、どこに遷都したか。", "id": "tr-427-08-000", "answers": [ { "text": "サーマッラー", "answer_start": 43, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バルクワーラー宮殿が位置している都市はどこ?", "id": "tr-427-08-001", "answers": [ { "text": "サーマッラー", "answer_start": 134, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "875年にマー・ワラー・アンナフル全域を支配したサーマーン朝は、首都をブハラにおき、その宮廷は10世紀中期まで近世ペルシア語文芸復興の中心地であった。ガズナ朝はサーマーン朝から977年に事実上の独立を果たし、現在のアフガニスタンのガズナを拠点として北インド方面へ盛んに遠征し、最盛期にはホラーサーンからガンジス川流域までの広大な領土を支配した。いずれの王朝も、ゾロアスター教建築に由来すると見られる開放されたパビリオン形式の霊廟と、イーワーンを備えたモスクを形成するなど、イスラーム建築において主要な役割を担ったと思われるが、セルジューク朝以前のイラン建築はほとんど残っておらず、確実なことは言えない。", "qas": [ { "question": "875年にマー・ワラー・アンナフル全域を占領したのは何王朝?", "id": "tr-427-09-000", "answers": [ { "text": "サーマーン朝", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ドームは、墓建築やモスクに用いられた。イスラーム建築において、ドームが利用されるようになったのは、エルサレムの岩のドームをその始まりとする。岩のドームの建築の動機は、預言者ムハンマドの昇天の出発点となるその記念碑的な岩を覆ってムスリムの記念碑を残そうというところにあったと伝えられている。墓建築が重要になったのにはムスリムの死生観が背景にあり、墓は彼らにとって、最後の審判までの待機所であったからである。", "qas": [ { "question": "イスラーム建築において、ドームが利用されるようになったのは何をその始まりとしているか。", "id": "tr-427-10-000", "answers": [ { "text": "エルサレムの岩のドーム", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "馬蹄アーチは、馬の蹄のような形を採った形でシリアが最古の例であるが、マグレブ、アンダルシアで好まれて使われてきた。尖頭アーチは、円弧をつないで、頂部が尖った点となる。円の中心の数によって、二心、三心、四心アーチとなるが、イスラームは四心アーチが主流である。オジー(反転)アーチは、アーチの上部の傾きが逆になって反転する形をとり、16世紀以降のインド・イスラーム建築に多く見られる形態である。多弁アーチは、複数の円弧曲線を花弁状につないだアーチで装飾性が強い。スペイン、北アフリカで好まれ、近世のインドで特に発展した。交差アーチは、アーチを交差させて文様を描く。また、アーケード建築とは、これらのアーチをつないで建設されたものである。", "qas": [ { "question": "スペイン、北アフリカで好まれ、近世のインドで特に発展したアーチは?", "id": "tr-427-11-000", "answers": [ { "text": "多弁アーチ", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "クルアーンでは庭園を楽園のアナロジーとして用いている。そのため、クルアーンの記述はイスラーム建築において多大な影響を与えた。そのため、イスラーム建築には、様々な庭園が建設された。数多くあるイスラーム建築の中で著名な庭園は、世界遺産にも登録されているグラナダのアルハンブラ宮殿、エスファハーンの王のモスクとその広場や、ラホールのシャーラマール庭園、アーグラのタージ・マハルなどが代表である。また、庭園には、イスラーム建築の住宅が中庭を持つ住宅であることが多いことからわかるとおり、それぞれに特色があるが共通点として挙げられるのが、中庭である場合には、ほぼ矩形で中心軸が設定され、周囲に列柱廊が好んで使われることだ。", "qas": [ { "question": "イスラーム建築に様々な庭園が建設されるように、イスラーム建築にたくさんの影響を与えたのは何か。", "id": "tr-427-12-000", "answers": [ { "text": "クルアーン", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミナレットは、もともと、屋根の上で行われた礼拝の際の参加を呼びかけであるアザーンを行う機能を持った。素材は地域により異なるが、多くは煉瓦か石でできており、建築様式や装飾、本数も地域によって様々である。また、イランのミナレット(例えば、エスファハーンの王のモスクなど)はタイルで鮮やかな装飾が施されている場合が多い。", "qas": [ { "question": "ミナレットの素材の多くは?", "id": "tr-427-13-000", "answers": [ { "text": "煉瓦か石", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミフラーブとは、マッカが礼拝(サラー)の方角と決定した時に、ムスリムがマッカの方角がどちらであるかを知るために、モスクに設けられたものである。そのため、マッカのマスジド・ハラームを除き、全てのモスクに備え付けられている。その多くは、アーチ型をしていて、普通は、モスクの最奥の壁に取り付け、あるいは埋め込まれる形でも受けられていて、モスクの核となる装置である。", "qas": [ { "question": "ミフラーブの多くは何型をしている?", "id": "tr-427-14-000", "answers": [ { "text": "アーチ型", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "英語で鍾乳石を意味するスタラクタイト、あるいは蜂の巣天井を意味するハニカム・ヴォールトのことをムカルナス(Muqarnas、مقرنس)と呼ぶ。ドームやミナレットがイスラーム以前の建築様式を受け継いできた歴史を持つのに対し、ムカルナスは、イスラーム建築の中で生まれ愛好されてきた。この技法は、鍾乳石状、蜂の巣状に小さな曲面を集合させて、全体として凹曲面を作り出す建築的な装置である。ムカルナスという語彙自体、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語共通の単語である。1183年のイブン・ジュバイルの旅行記にカルナシという言葉が用いられて、手の込んだ仕事を意味すると同時に、ムカルナス・ドームを著していたのが最古の例であり、中世アラビア語の\"Q-R-N-S\"の配列の第三の意味である「突き出た崖」から派生した言葉という節が有力である。ムカルナスは、装飾的役割を果たすものとして自然発生し、10世紀には、東方イスラーム世界の構造的役割を起源とするものと融合する形で誕生した。その結果、ムカルナス自体は、中世、遅くとも12世紀初頭にはペルシャを中心に活用されてきたことがわかっている。そして、ペルシャや中央アジアといったペルシャ語文化圏のみならず、12世紀半ばには、ダマスカス、フェスまで伝播したことがわかっている。", "qas": [ { "question": "鍾乳石状、蜂の巣状に小さな曲面を集合させて、全体として凹曲面を作り出す建築的な装置のことを何と呼ぶか。", "id": "tr-427-15-000", "answers": [ { "text": "ムカルナス", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "モダニズム建築の影響は、1300年近い伝統を持つイスラーム建築にも大きな影響を与えた。20世紀前半には、西欧の植民地であった北アフリカ、中東、中央アジア、インド、東南アジアは独立を達成していたが、西欧化を標榜していたトルコ、イランにもその影響が広がった。20世紀前半におけるこれらの地域の建築は、駅や市庁舎、銀行、博物館、大学、病院といった近代的システムで運営される建造物がモダン建築の影響を受けて、建設された。しかし、宗教建造物は、伝統的様式に従っていた。", "qas": [ { "question": "モダニズム建築が影響を与えた建造物ではないのは、博物館、銀行、大学、宗教建造物の中、どれか。", "id": "tr-427-16-000", "answers": [ { "text": "宗教建造物", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北アフリカでのイスラームの浸透は、カイロのアズハル大学のように有名なイスラーム建築を生んだ。また、北アフリカからサハラ交易によって、イスラームがサハラ地帯に広がることとなった。サハラ南部におけるイスラーム建築の発展は、ガーナ王国の時代が始まりである。11世紀のガーナ王国時代に、ムラービト朝との間で、岩塩と金の交易が推進され、13世紀のマリ王国時代には、王権自体がイスラーム化した。その後も、在地のイスラーム王国が存亡を繰り返した。", "qas": [ { "question": "サハラ南部におけるイスラーム建築の発展が開始したのは何王国時代のことか。", "id": "tr-427-17-000", "answers": [ { "text": "ガーナ王国", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中国におけるイスラーム建築で最も強調されているのは、対称性である。対象性が、壮大さを暗示している。このことは、全てのモスクに当てはまる。唯一の例外は、庭園である。出来るだけ対称にならないように建築されている。中国の巻物に描かれている絵画のように、庭園の構成要素の基本的な原則は、流れを重視することである。中国におけるイスラーム建築は、赤あるいは灰色の煉瓦で建築されてはいるが、最も重要なのは、木製の構造だということである。木製にすることで、地震に対しての耐性は煉瓦建築よりも確保することが出来るようになったが、火災に関しては脆弱になった。典型的な中国のモスクの屋根は、曲線美を持っている。すなわち、切妻屋根に分類され、ヨーロッパ建築の円柱の様式と比較される。", "qas": [ { "question": "中国におけるイスラーム建築は対称性が最も強調されているが、例外として対象にならないように建築されているのは何?", "id": "tr-427-18-000", "answers": [ { "text": "庭園", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "インドにイスラームが流入したのは、10世紀ごろのことと思われる。アッバース朝が衰退していく過程で、ガズナ朝がインダス川流域に進出を開始した。その後、ゴール朝の支配が展開された。したがって、初期のインドにおけるイスラーム建築は、トルキスタン建築の影響を受けた。その典型例が、現在、デリーに残るクトゥブ・ミナールである。アフガニスタンに建てられたジャームのミナレットの大きな影響を受ける形で、奴隷王朝の創始者であるクトゥブッディーン・アイバクの手によって、1202年にミナレットは建立された。赤砂岩と白大理石を素材として建てられたこの塔の下には、かつて、ヒンドゥー支配者の宮殿や寺院が存在し、寺院から転用された石材で、モスクが構築された。裏を返せば、クトゥブ・ミナールと隣接して建てられたモスクは、厚いアーチ壁を除き、ヒンドゥー建築をそのまま転用したものである。", "qas": [ { "question": "インドのイスラーム建築物の中で、トルキスタン建築の影響を受けた典型例として挙げられている建物は?", "id": "tr-427-19-000", "answers": [ { "text": "クトゥブ・ミナール", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "10世紀に入るとアッバース朝の権威は著しく衰退し、3カリフが鼎立する時代となる。現在のカイロを建設したファーティマ朝は、トゥールーン朝が培ってきた建築手法を用いることで、世界最古の大学であるアズハル大学とそのモスクを作り上げた。また、第6代カリフであるハーキムの建造によるアル・ハーキム・モスクは、ファーティマ建築の傑作であり、ここで、ファーティマ朝のカリフの宗教的、政治的役割を強調する式典が執り行われた。このアル・ハーキム・モスクは、モハンマド・ブルハルッディーンの手によって、修繕されている。また、ファーティマ建築の代表作としてアル・ハーキム・モスクと同様に挙げられるのが、カイロ市街の城門である。", "qas": [ { "question": "世界で最も古い大学は?", "id": "tr-427-20-000", "answers": [ { "text": "アズハル大学", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ベルベル人によって創立したマリーン朝は、1250年にフェスを征服した。これを首都として1269年にマラケシュを陥落させ、ムワッヒド朝を滅ぼした。当時、アンダルシアがキリスト教によって奪還され、そこで活動していた芸術家たちがマリーン朝の領内に退避していたため、マリーン朝は彼らを使って盛んな建築活動を行うことができた。", "qas": [ { "question": "ムワッヒド朝を滅したのは何人?。", "id": "tr-427-21-000", "answers": [ { "text": "ベルベル人", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "チンギス・ハーンと同祖の一族出身のティムールは、サマルカンドを拠点にトランスオクシアナを征服し、1398年にはトゥグルク朝の首都デリーを占拠、1402年にはアナトリアのオスマン帝国を破って広大な領地を手中に収めた。さらに彼は、各地の職人たちをサマルカンドに呼び寄せ、帝国のために様々な建築物の建設にあたらせた。招集された職人の出身地は、遠くバクダード、ダマスカス、モスクワ、デリー、アンカラに及んだ。最終的にはセルジューク朝と同じく分裂・抗争を繰り返して衰退するものの、ティムール朝の王族たちは芸術に対して惜しみないパトロネージを発揮し、その結果、セルジューク朝、イルハン朝の建築を継承したティムール建築は、トランスオクシアナにおけるイスラーム建築を完成の域に到達させ、サファヴィー朝、ムガル朝の建築に絶大な影響力を与えるに至った。", "qas": [ { "question": "サマルカンドを拠点にトランスオクシアナを征服し、1398年にはトゥグルク朝の首都デリーを占拠、1402年にはアナトリアのオスマン帝国を破って広大な領地を手中に収めた人は誰?", "id": "tr-427-22-000", "answers": [ { "text": "ティムール", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サマルカンドにあるティムール一族の廟グーリ・アミールは、ティムールが孫のムハンマド・スルタンのために建設したもので、後にティムール自身もこの霊廟に埋葬され、以後その子孫もこの廟に合葬された。エスファハーンの建築家ムハンマド・ブン・マフムードによって1404年に完成したこの霊廟は、初期ティムール建築を代表するものである。八角形の構造体内に、正方形と十字形を組み合わせた空間が収まり、地階には同形の玄室が設けられた。", "qas": [ { "question": "サムハンマド・スルタンの祖父は誰?", "id": "tr-427-23-000", "answers": [ { "text": "ティムール", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "13世紀になると、モンゴル帝国による侵攻によって中央アジアで急速に領土を拡大していたホラズム・シャー朝は事実上滅亡し、サマルカンド、ブハラをはじめとするこの地域の諸都市はモンゴルとの戦闘や降伏後の処置で城塞や城壁を破壊された。しかし、マー・ワラー・アンナフルを中心とする中央アジアはモンゴル皇帝の直轄領となり、ビシュバリクやブハラは中央アジアに散らばるモンゴル諸王家の采邑を管理する拠点として機能し続けたが、モンゴル軍に攻撃され、その後にその管理から外れたヘラートやメルヴなどの諸都市は荒廃されるままに置かれ、都市機能は完全に停滞する。", "qas": [ { "question": "中央アジアで急速に領土を拡大していたホラズム・シャー朝はどこの侵略によって事実上滅亡したか。", "id": "tr-427-24-000", "answers": [ { "text": "モンゴル帝国", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "セルジューク朝の墓廟建築については、いくつかの注目すべき作品、アルバクのグンバト・イ・アリー(1056年)、ハッラガーンの双塔(1068年と1093年)、およびトゥグリル霊廟(1139年?)、そしてマラーガのグンバト・イ・カブートが残っている。ハッラガーンにおける外部の装飾手法は、サーマーン朝のイスマーイール霊廟と同じく煉瓦積みによるものだが、より繊細で洗練されており、サーマーン朝以来の伝統をセルジューク朝がよく保持していたことが伺える。トゥグリル霊廟は、ゴルガーン州にあるズィヤール朝のグンバト・イ・カーブース(1006年)のデザインを継承しているが、三角状のフランジと上部構造のコーニスを接続する部分にムカルナスを配置しており、グンバト・イ・アリーと同じ措置を行っている。", "qas": [ { "question": "グンバト・イ・アリー、ハッラガーンの双塔、トゥグリル霊廟の中、最も古いのは?", "id": "tr-427-25-000", "answers": [ { "text": "グンバト・イ・アリー", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "セルジューク朝は、ガズナ朝からホラーサーンを奪った11世紀前期から急速にその勢力を拡大し、1071年には東ローマ帝国をマラズギルトの戦いで破り、カラハン朝、ファーティマ朝を駆逐して広大な領土を獲得することに成功した。この王朝はペルシャの伝統を保持し、優れた文化を培っていたが、家督を多くの後継者が引き継ぐという習慣を持っていたため抗争が相次ぎ、分裂状態に陥ったうえ、中央アジアの政権は13世紀のモンゴル帝国と14世紀のティムール朝の侵略によって長期間にわたって存続することができなかった。しかしながら、セルジューク朝は優れた建築を生み出しており、現存するものが多いとは言えないものの、イスラーム建築において多大な功績を残したことが知られる。", "qas": [ { "question": "ペルシャの伝統を保持し、優れた文化を培っていたが、家督を多くの後継者が引き継ぐという習慣を持っていたため抗争が相次ぎ、分裂状態に陥ったうえ、中央アジアの政権は13世紀のモンゴル帝国と14世紀のティムール朝の侵略によって長期間にわたって存続することができなかった王朝は?", "id": "tr-427-26-000", "answers": [ { "text": "セルジューク朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "13世紀にセルジューク朝を侵攻した帝国は?", "id": "tr-427-26-001", "answers": [ { "text": "モンゴル帝国", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ティムール朝がセルジューク朝を侵略したのは何世紀のことか。", "id": "tr-427-26-002", "answers": [ { "text": "14世紀", "answer_start": 204, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ニコライ2世", "paragraphs": [ { "context": "ニコライ2世(ロシア語:НиколайII,ラテン文字転写:NikolaiII、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、ロシア語:НиколайАлександровичРоманов,ラテン文字転写:NikolaiAleksandrovichRomanov、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日)-1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日-1917年3月15日)である。", "qas": [ { "question": "最後のロシア皇帝は、誰なの?", "id": "tr-428-00-000", "answers": [ { "text": "ニコライ2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニコライ2世は、ロマノフ朝の者としては第何代ロシア皇帝でありますか?", "id": "tr-428-00-001", "answers": [ { "text": "第14代", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロマノフ朝が排出した皇帝のうち、最後となるのは、誰か?", "id": "tr-428-00-002", "answers": [ { "text": "ニコライ2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "誰を最後の皇帝にロシア帝国が崩壊されたか?", "id": "tr-428-00-003", "answers": [ { "text": "ニコライ2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ニコライ2世は、1868年5月6日、アレクサンドル皇太子(ロシア皇帝アレクサンドル2世の次男、後の皇帝アレクサンドル3世)とその妃マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第2王女)の間の長男としてロシア帝国首都サンクトペテルブルクに生まれる。", "qas": [ { "question": "ニコライ2世は、いつ生まれたの?", "id": "tr-428-01-000", "answers": [ { "text": "1868年5月6日", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニコライ2世の父親は、誰ですか?", "id": "tr-428-01-001", "answers": [ { "text": "アレクサンドル", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニコライ2世の母親は、どの国の王女だったか?", "id": "tr-428-01-002", "answers": [ { "text": "デンマーク王", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクサンドルにとっての初子は、いつ生まれたか?", "id": "tr-428-01-003", "answers": [ { "text": "1868年5月6日", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ニコライの誕生後、3人の弟としてアレクサンドル(夭折)、ゲオルギー、ミハイル、また2人の妹としてクセニアとオリガが生まれている。", "qas": [ { "question": "ニコライ兄弟の次男は、誰だったの?", "id": "tr-428-02-000", "answers": [ { "text": "アレクサンドル", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オリガとニコライのうち、誰が年上ですか?", "id": "tr-428-02-001", "answers": [ { "text": "ニコライ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ニコライには、弟と妹のうち、どちらがより多かったか?", "id": "tr-428-02-002", "answers": [ { "text": "弟", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ニコライ兄弟の長女は、だれだったか?", "id": "tr-428-02-003", "answers": [ { "text": "クセニア", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "7歳(1875年)から10歳(1878年)まで家庭教師アレクサンドラ・オロングレンに師事した。オロングレンの子ウラジーミルとよく一緒に遊んだ。ウラジーミルによると子供の頃のニコライは「顔や挙動が女の子っぽいときが時々あった」という。父アレクサンドル3世も息子の女々しいところをしばしば心配していたという。", "qas": [ { "question": "7歳から10歳までニコライを教えたのは、誰だったの?", "id": "tr-428-03-000", "answers": [ { "text": "アレクサンドラ・オロングレン", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1878年の時点で、ニコライは何歳でしたか?", "id": "tr-428-03-001", "answers": [ { "text": "10歳", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニコライの家庭教師の子は、誰か?", "id": "tr-428-03-002", "answers": [ { "text": "ウラジーミル", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニコライの父親は、幼いころのニコライのどのようなところを心配していたか?", "id": "tr-428-03-003", "answers": [ { "text": "女々しいところ", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ニコライが10歳の頃から保守的なダニロビッチ将軍が家庭教師となり、彼が選んだ教師によって語学、数学、歴史、地理、科学などを学んだ。とりわけ歴史と語学が得意であり、母語のロシア語に加えて、ロシア帝国首脳部で事実上の公用語であったフランス語、さらに自身の親族が君主として治める地域の言語である英語やドイツ語をも流暢に話せるようになった。", "qas": [ { "question": "ダニロビッチがニコライの家庭教師となったのは、ニコライが何歳のころからだったの?", "id": "tr-428-04-000", "answers": [ { "text": "10歳", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "10歳になったニコライの教育を担当するようになった人は、誰でしたか?", "id": "tr-428-04-001", "answers": [ { "text": "ダニロビッチ", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "10歳になったニコライの教育を担当するようになった人は、どのような性格を持っていたと説明されているか?", "id": "tr-428-04-002", "answers": [ { "text": "保守的", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "10歳の頃のニコライは、語学とどの学問が得意だったか?", "id": "tr-428-04-003", "answers": [ { "text": "歴史", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1891年4月27日にニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港した。以降5月19日まで日本に滞在した。日本政府はこの未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎え、その接待を念入りに準備していた。各休憩所で出される茶菓子の吟味にまで及んでいた。", "qas": [ { "question": "ニコライが訪日したのは、何年のことだったの?", "id": "tr-428-05-000", "answers": [ { "text": "1891年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニコライが本国に戻るために日本から出航したのは、何年のことですか?", "id": "tr-428-05-001", "answers": [ { "text": "1891年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニコライが訪日した時、彼はどこの港に停泊したか?", "id": "tr-428-05-002", "answers": [ { "text": "長崎", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本政府は、ニコライに対し、どのような待遇出迎えたか?", "id": "tr-428-05-003", "answers": [ { "text": "国賓待遇", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ペテルブルクでバレリーナとして活躍していたマチルダ・クシェシンスカヤを愛人としていたニコライ皇太子にはすでに心に決めた人がいた。それはドイツ帝国領邦ヘッセン大公国の大公ルートヴィヒ4世とその妃アリス(ヴィクトリア英女王の次女)の間の末娘アリックスだった。", "qas": [ { "question": "ニコライ皇太子の愛人は、誰だったの?", "id": "tr-428-06-000", "answers": [ { "text": "マチルダ・クシェシンスカヤ", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニコライ皇太子はすでに誰と結婚すると決めていたか?", "id": "tr-428-06-001", "answers": [ { "text": "アリックス", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルートヴィヒ4世の末女は、誰か?", "id": "tr-428-06-002", "answers": [ { "text": "アリックス", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "彼女は母を早期に失ったため、祖母ヴィクトリア英女王の下で育てられた「生粋のイギリス人」であった。ニコライとアリックスは1886年、ニコライの叔父セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公とアリックスの姉エリーザベトの結婚式で初めて知り合い、その後、何度か再会する機会を得て親しくなった。ニコライは1891年12月に日記の中で「ヘッセン家のアリックスと結婚するのが夢だ」と書いている。", "qas": [ { "question": "「生粋のイギリス人」との表現は、誰のことを指しているの?", "id": "tr-428-07-000", "answers": [ { "text": "アリックス", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アリックスは、どの家の者ですか?", "id": "tr-428-07-001", "answers": [ { "text": "ヘッセン家", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アリックスとニコライが初めて出会ったのは、何年のことか?", "id": "tr-428-07-002", "answers": [ { "text": "1886年", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セルゲイ・アレクサンドロヴィチは、誰と結婚したか?", "id": "tr-428-07-003", "answers": [ { "text": "エリーザベト", "answer_start": 97, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ただロシア皇太子妃になるためにはロシア正教に改宗する必要があり、アリックスはそれを拒んでいた。1894年4月にヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(アリックスの兄)とヴィクトリア(ヴィクトリア英女王の次男ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの娘)の結婚式に出席した際、アリックスと二人だけで話す機会に恵まれた。ニコライが熱心に説得した結果、アリックスはロシア正教に改宗して婚約する決意を固めてくれた。", "qas": [ { "question": "アリックスがニコライとの結婚を迷ったのは、どの宗教に改宗したくなかったためだった?", "id": "tr-428-08-000", "answers": [ { "text": "ロシア正教", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アリックスがニコライとの結婚を約束したのは、いつのことですか?", "id": "tr-428-08-001", "answers": [ { "text": "1894年4月", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エルンスト・ルートヴィヒと結婚したのは、誰か?", "id": "tr-428-08-002", "answers": [ { "text": "ヴィクトリア", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アリックスとニコライは、ヴィクトリアと誰の結婚式で結婚を約束したか?", "id": "tr-428-08-003", "answers": [ { "text": "エルンスト・ルートヴィヒ", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1894年初秋に父帝アレクサンドル3世が病に倒れた。10月中旬になるとクリミアで寝たきりになり、ニコライ皇太子が皇帝の公務を代行するようになった。父帝は11月1日に崩御した。ニコライは日記の中で「皆にあれほど愛されたパパは神に召されてしまった。これこそが聖人の死だ。この悲しい時をどう耐えたらいいのだろう。神様、どうぞお助けください」と書いている。", "qas": [ { "question": "ニコライが皇帝の公務を代行するようになったのは、何年のことなの?", "id": "tr-428-09-000", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレクサンドル3世が死去したのは、何年のことですか?", "id": "tr-428-09-001", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレクサンドル3世が死んだ原因となるのは、何か?", "id": "tr-428-09-002", "answers": [ { "text": "病", "answer_start": 20, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニコライがロシア皇帝に即位したのは、何年のことか?", "id": "tr-428-09-003", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "26歳でロシア皇帝に即位することとなったニコライ2世は、なるべく早期にアリックスを皇后に迎えたがり、父の遺体が屋根の下にあるうちに彼女と結婚することを希望したが、叔父たちが皇帝の結婚式は盛大に行われるべきであり、服喪と一緒に行うわけにはいかないと反対したため、断念した。とりあえずアリックスはロシア正教への改宗を行い、以降アレクサンドラ・フョードロヴナと名乗るようになった。結婚式は父帝の大葬から一週間後に挙式されたが、アレクサンドラは「私たちの結婚式は、まるで死者のためのミサの連続のように思えました。違ったのは私が黒い喪服から白いドレスに着替えたことだけです」という感想を書いている。", "qas": [ { "question": "ニコライ2世は、何歳にロシア皇帝に即位したの?", "id": "tr-428-10-000", "answers": [ { "text": "26歳", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロシア正教に改宗したアリックスは、何と名乗るようになりましたか?", "id": "tr-428-10-001", "answers": [ { "text": "アレクサンドラ・フョードロヴナ", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "結婚式と父帝の大葬のうち、どちらがより早く行われたか?", "id": "tr-428-10-002", "answers": [ { "text": "父帝の大葬", "answer_start": 191, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "父帝の大葬が行われてからどのくらい経った時に、ニコライ2世はアリックスとの結婚式を行ったか?", "id": "tr-428-10-003", "answers": [ { "text": "一週間", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1894年の日清戦争で清に勝利した日本は巨額の賠償金と重要な海軍拠点の旅順を含む遼東半島を獲得した。これに対してロシア政府は蔵相ヴィッテの主導で「日本の南満州支配は認められない」という声明を出し、開戦も辞さない態度で日本を脅迫した。さらに外相アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーの主導でフランスやドイツの支持も得て、日本に三国干渉をかけ、遼東半島を清に返還させた。これにより日露関係は急速に悪化した。", "qas": [ { "question": "日清戦争は、何年に行われた戦争なの?", "id": "tr-428-11-000", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日清戦争では、どの国が戦勝国となりましたか?", "id": "tr-428-11-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のロシア外相には、誰がついていたか?", "id": "tr-428-11-002", "answers": [ { "text": "アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー", "answer_start": 121, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日露関係が悪化するきっかけとなったのは、ヴィッテと誰が日本に対し批判的な声を出したからか?", "id": "tr-428-11-003", "answers": [ { "text": "アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー", "answer_start": 121, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1897年11月に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が山東省に派兵し、膠州湾を占領し、そのまま清政府から同地を租借地として獲得した。危機感を抱いたニコライ2世は11月26日にもその対策会議を招集した。", "qas": [ { "question": "1897年でドイツ皇帝には、誰がついていたの?", "id": "tr-428-12-000", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツが膠州湾占領を行うきっかけとなった事件は、何年に発生しましたか?", "id": "tr-428-12-001", "answers": [ { "text": "1897年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "中山トンネル(上越新幹線)", "paragraphs": [ { "context": "中山トンネル(なかやまトンネル)は、上越新幹線の高崎駅-上毛高原駅間にある、総延長14,857mの複線鉄道トンネルである。\n\n高崎方面から進行すると榛名トンネルの次、2番目に通過するトンネルである。建設中に2回の大出水事故を起こして難工事を極め、2回の経路変更によりようやく完成した。経路変更に伴いトンネル内に半径1,500mの曲線が生じたため、営業速度240km/hの新幹線がトンネル内の曲線部分を通過するときには160km/hに減速せざるをえなくなった。\n\n日本において初めて新オーストリアトンネル工法(NATM)が採用されたトンネルである。\n\n当初の予想を大幅に超えた難工事による工期の遅れから、中山トンネルの工事は上越新幹線全体の開業に多大な影響を与えることとなり、事前の地質調査の重要性など、多くの教訓を残すこととなった。", "qas": [ { "question": "新幹線が中山トンネルの曲線部分を通過する際に出せる速度は?", "id": "tr-429-00-000", "answers": [ { "text": "160km/h", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高崎方面から進行するとき最初に通過するトンネルは何ですか?", "id": "tr-429-00-001", "answers": [ { "text": "榛名トンネル", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本で最初に新オーストリアトンネル工法を採用したトンネルは?", "id": "tr-429-00-002", "answers": [ { "text": "中山トンネル", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "先に開通していた東海道新幹線や建設が行われていた山陽新幹線に引き続き、「国土の均衡ある発展を図る」ことを目的として1970年(昭和45年)に全国新幹線鉄道整備法が制定された。これにより東京と新潟を結ぶ高速鉄道として上越新幹線を建設することが決まり、1971年(昭和46年)1月に基本計画決定された。そしてわずか10か月ほどの準備期間を経て同年10月に起工されたが、この準備期間はいささか短すぎるものであった。また準備に際しても、過去に難工事を経験した在来線の上越線用の清水トンネル・新清水トンネルと並行しており、かつ上越新幹線でもっとも長い大清水トンネルに注目が集まり、中山トンネルに対しては十分な準備がなされたとは言えない状況であった。", "qas": [ { "question": "全国新幹線鉄道整備法が制定されたのは何年なのか和暦で答えてください。", "id": "tr-429-01-000", "answers": [ { "text": "昭和45年", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "上越新幹線が起工されたのは何年ですか?", "id": "tr-429-01-001", "answers": [ { "text": "1971年", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "群馬県内における上越新幹線の経路としては、上越線のように利根川に沿う経路ではなく、それより西に寄った月夜野の高原地帯の下をトンネルで貫く経路が選択された。これに関しては、上毛高原駅周辺の土地開発に絡む利権からの決定であるという主張がある。一方、当時計画されていた沼田ダムとの関連を指摘する意見もある。新潟大学名誉教授の大熊孝は「群馬県に計画されていた沼田ダムでの水没予定地を避けて関越自動車道と新幹線の経路が選択されたと理解している」と発言している。\n\n実際に建設された中山トンネルは、小野子山と子持山の間の火山活動でできた高原地帯の下を貫く経路が選択されている。これに関しては、子持山の東側を利根川に沿ってトンネルで貫く経路も検討されていた。実際に採用された経路ではなだらかな高原地帯の下に建設したため、トンネルの建設位置に取り付く経路として斜坑を建設するときわめて長大なものにならざるを得ないことから、鉄道のトンネルとしては前例の少ない立坑を掘らなければならなかったのに対して、子持山東麓経路では利根川沿いからトンネルへ取り付く経路を設定できて施工条件は良いとされた。事前の検討でも子持山東麓経路が本命で直行ルートは当て馬的に考えられていたという証言がある。しかし子持山東麓経路ではその手前で渋川の市街地を長く通過することになって土地買収の困難が予想されたことや、前後の駅設置位置との関係などの問題があった。また当時東北新幹線において水沢や花巻などの中間駅設置の要望が強かったが、国鉄としては新幹線の速達性を損なう中間駅の増設に否定的な立場であった。利根川沿いに北上する経路を採用した場合、渋川と水上に駅を設置することが検討されていたが、このような駅間距離の短い駅の配置を上越新幹線で採用する影響が東北新幹線に波及することを国鉄のトップが恐れたこともあり、最終的に現経路が選択された。", "qas": [ { "question": "上越新幹線の経路はどこの下を貫く経路が選択されましたか?", "id": "tr-429-02-000", "answers": [ { "text": "月夜野の高原地帯", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時東北新幹線において要望が強かったが、速達性を損なう恐れがあったため国鉄としては否定的立場であった案件とは?", "id": "tr-429-02-001", "answers": [ { "text": "中間駅設置", "answer_start": 627, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "上越線が通る経路は?", "id": "tr-429-02-002", "answers": [ { "text": "利根川に沿う経路", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "上越新幹線はそれまでの新幹線と異なり、初めて日本鉄道建設公団(以下、公団と略す)が担当することとされた。このため中山トンネルも公団が担当して建設することになった。公団ではこの上越新幹線の工事にあたり、大宮起点126km330m地点(在来線の水上駅付近)より南側を担当するために東京新幹線建設局を設置した。その下で実際に中山トンネルの建設を担当したのは、高山鉄道建設所である。", "qas": [ { "question": "上越新幹線を担当した組織は?", "id": "tr-429-03-000", "answers": [ { "text": "日本鉄道建設公団", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "上越新幹線建設にあたっては、乗り心地の限界、蛇行動発生の限界、粘着の限界など諸限界を考慮の上で、近い将来に改良して向上できる限界も加味して、計画最高速度を250km/hと設定した。ただし、自動列車制御装置(ATC)によってブレーキが動作する速度(許容最高速度)は260km/hである。実際には開業時には最高速度210km/hで走行し、その後240km/hに高速化し、1990年(平成2年)3月10日のダイヤ改正から下り2本のみ大清水トンネル内の下り勾配を利用して275km/h運転を実現したが、1999年(平成11年)12月ダイヤ改正で275km/h運転は中止され、240km/h運転となっている。", "qas": [ { "question": "上越新幹線の新設当時の最高速度は?", "id": "tr-429-04-000", "answers": [ { "text": "210km/h", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "275km/hで走れるようになったのは何年からですか?", "id": "tr-429-04-001", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "車両限界と建築限界については、東海道・山陽新幹線に比べて縮小することでトンネル断面積の削減を検討したが、将来的な直通運転への対応やサービス向上に対する弾力性などを考慮し、また工事費の節減効果が少ないとされたことから、東海道・山陽新幹線と同じ断面が採用された。軸重は、東海道・山陽新幹線では16tであったが、雪害対策を施したために1t増加して17tとなった。これに合わせて活荷重は新P-17標準活荷重およびN-16標準活荷重を採用している。\n\n最小曲線半径については山陽新幹線の基準を踏襲し、停車場外では4,000m(やむを得ない場合3,500m)と設定されていたが、後述するようにこれは結果的に達成できず、トンネル内に半径1,500mの曲線が設定されることとなった。縦曲線半径は15,000m以上、最急勾配は15パーミル以下、延長10km間平均勾配で12パーミル以下とされた。軌道中心間隔は4.3mで、軌道は全面的にスラブ軌道を採用している。トンネルの断面は、ほぼ山陽新幹線のものを継承している。基面の幅は、レール面の下0.4mの高さ(基面)で直線区間では8.4m、スプリングライン(トンネル側壁から上部の円形部分への接続点)の高さはレール面から2.6m、アーチ(トンネル上部の円形部分)の半径は4.8mである。", "qas": [ { "question": "実際トンネルに配置されてしまった曲線部分の半径は何メートルですか?", "id": "tr-429-05-000", "answers": [ { "text": "1,500m", "answer_start": 311, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "もともと本トンネルが達成すべき最小曲線半径は何メートルでしたか?", "id": "tr-429-05-001", "answers": [ { "text": "4,000m", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スプリングラインの高さはレール面から何メートルですか?", "id": "tr-429-05-002", "answers": [ { "text": "2.6m", "answer_start": 523, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中山トンネルは、大宮起点101km710m地点から116km540m地点に至る区間にある。このためトンネルの長さは14,830mのはずであるが、実際にはトンネル内に2か所の重キロ程(キロ程の重複地点、詳細は後述)があり、27mが加算されて全長は14,857mとなっている。トンネル内での勾配は、大宮方から新潟方へ向けて12パーミルの上り片勾配として計画されていたが、実際に完成したトンネルでは一部に11.9パーミル区間がある。平面線形は、トンネル中間付近で下り列車に対して右へ半径6,000mの曲線と、トンネル出口付近で下り列車に対して左へ半径4,000mの曲線が計画されていた。これは建設中の2回にわたるルート変更により、半径1,500mの曲線が挿入されている。トンネルが通過している地域は子持山と小野子山の間の鞍部にあたり、標高400-650m程度の高原地帯で、土被りは200-400m程度である。", "qas": [ { "question": "中山トンネルの長さは何メートルですか?", "id": "tr-429-06-000", "answers": [ { "text": "14,857m", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中山トンネル内での勾配はもともとは何パーミルで計画されましたか?", "id": "tr-429-06-001", "answers": [ { "text": "12パーミル", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中山トンネル付近では地表付近を火山泥流堆積物が厚く覆っており、また土被りが300-400mにも達することから、地表面からの踏査で地質を調査することは難しかった。そこでボーリングと弾性波探査(人工地震波による調査)による地質調査が実施された。立坑に着手した1971年度(昭和46年度)の時点では12本のボーリングが実施されたが、コアの採取率が悪く詳細な地質は不明のままであった。その後、1972年度(昭和47年度)に追加のボーリング15本と弾性波調査が実施され、1973年度(昭和48年度)に総合解析としてトンネル全区間の地質縦断面図が作成された。\n\nこの当初作成された地質縦断面図では、トンネル本坑周辺のかなり広い範囲で猿ヶ京層群(Gf)という堆積岩が分布していることになっていた。この堆積岩は約3000万年前に堆積して、長い年月の間に岩石化が進行し、湧水のほとんどないよく固結した良好な岩盤であるとされた。実際に中山立坑では工事中の湧水が少なかったこともあり、当初工事が難航していた四方木立坑や小野上北斜坑も、もう少し深く掘り下げれば堆積岩層に入って好転するものと期待されていた。しかし実際にはいつまでたっても良好な岩盤が現れることはなかった。", "qas": [ { "question": "中山トンネルの建設にあたって、地質を調査する方法としてボーリングと使われたのは何ですか?", "id": "tr-429-07-000", "answers": [ { "text": "弾性波探査", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トンネル全区間の地質縦断面図が作成されたのは何年か?", "id": "tr-429-07-001", "answers": [ { "text": "1973年", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1974年(昭和49年)9月に小野上北斜坑において大出水事故が発生し、これを受けて70本以上のボーリング調査が追加実施されて、1976年(昭和51年)に再度地質縦断面図が作成された。これによれば、当初四方木立坑や小野上北斜坑の下部にあるとされていた緑色凝灰岩を中心とした固結した堆積岩は、実際には未固結凝灰角礫岩(八木沢層、Yg)であることが判明した。八木沢層は古く見積もっても数百万年前程度に堆積したもので、ほとんど未固結であり、中山トンネルの工事を難航させた最大の原因となった。\n\nまた、四方木立坑から高山立坑にかけての本坑付近に閃緑岩類(Dp)の存在が確認された。この閃緑岩は固くてトンネルを建設するのに適した地層であるが、中山トンネルにおいてはその上部が不整合面を形成していた。不整合面はかつての地表面で、その上に新たに堆積物が積み重なって地層の境界となっている。このためかつての地表面そのままに境界面に山や谷が形成されていて複雑な起伏があり、地表からのボーリング調査によって構造を正確に把握するのは困難であった。そして、トンネル施工基面がこの不整合面にほぼ一致していたため、本坑付近の地質分布が大変複雑なものとなってしまった。特に問題があったのは、本坑は不整合面の下部の閃緑岩層にあるが、不整合面までの高さが薄くなっている部分で、不整合面の上は20気圧近い水圧のかかった地下水を含む八木沢層であるため、本坑へ水が浸透してくることが問題となった。このため薬液注入を実施して対策を施したが、それでもそうした場所での大出水事故を招くことになった。一方でそうした起伏に富んだ不整合面を把握することで、帯水層までの十分な離隔を置いた位置へのルート変更を行うことが可能となった。", "qas": [ { "question": "1976年以前の地質縦断面図では、未固結凝灰角礫岩がどういう岩石だと書かれていますか?", "id": "tr-429-08-000", "answers": [ { "text": "堆積岩", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "四方木立坑から高山立坑にかけての本坑付近に閃緑岩類の存在が中山トンネル建設に置いて問題となった点は何ですか?", "id": "tr-429-08-001", "answers": [ { "text": "不整合面", "answer_start": 331, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中山トンネル建設中、小野上北斜坑において発生した大出水事故は何年の事ですか?", "id": "tr-429-08-002", "answers": [ { "text": "1974年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1971年(昭和46年)に当初の工事実施計画が認可された時点では、上越新幹線の完成は1976年度(昭和51年度)と設定されていた。約5年の工期は、東海道新幹線や山陽新幹線の実績を考えれば、それほど無謀な設定ではなかった。しかし建設中の1973年(昭和48年)には第一次オイルショックに見舞われ、建設予算の削減や新規発注の凍結が行われ、工事の遅れに直結した。中山トンネルでは、当初完成予定のはずの1976年度の時点で四方木や高山の立坑がようやく完成して本坑の工事に入る段階で、工事が大幅に遅れていることは明らかであった。\n\nこうしたことから、1977年(昭和52年)3月24日の工事実施計画変更申請、同3月30日認可により、完成予定は1980年度(昭和55年度)へと延期となった。しかし出水事故などに見舞われて工期はさらに遅延することになり、1980年(昭和55年)12月24日には1982年(昭和57年)春に東北・上越新幹線を同時開業させる方針が発表された。ところが中山トンネルで2回目の出水事故が発生して、最終的に東北新幹線との同時開業の断念に追い込まれた。結局上越新幹線は1982年(昭和57年)11月15日の開業と決定し、これに間に合わせるべく突貫工事を続け、中山トンネルを同年3月に完成させた。", "qas": [ { "question": "1976年に計画されてた上越新幹線の完成が1980年に延期された原因で、詳しくは建設予算の削減や新規発注の凍結の原因でもある事件とは何だ?", "id": "tr-429-09-000", "answers": [ { "text": "第一次オイルショック", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "上越新幹線が完成されたのは結局、昭和何年だったのか?", "id": "tr-429-09-001", "answers": [ { "text": "57年", "answer_start": 496, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東北・上越新幹線の同時開業が失敗した理由は何ですか?", "id": "tr-429-09-002", "answers": [ { "text": "出水事故", "answer_start": 444, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中山トンネルの完成に上越新幹線全体の開通時期が依存していたこともあり、水没した工区の復旧後は工事が急ピッチで進められた。地質・残工事量・後続作業との兼ね合いなどを検討の上で工区割が再編された。作業員約2,000名が投入され、迂回坑を利用して増やされた本坑掘削現場で24時間3交代制の猛スピードで工事が進められた。四方木工区では、立坑でズリを運ぶ装置の稼働率が93パーセントに達するという記録的な値となった。1981年(昭和56年)8月、上越新幹線の開業予定が翌1982年(昭和57年)の11月と発表された。これに間に合わせるためには、トンネルを3月までに完成させて後工程の軌道工事・電気工事に引き渡す必要があった。", "qas": [ { "question": "中山トンネルの工事に投入された作業員の人数は?", "id": "tr-429-10-000", "answers": [ { "text": "約2,000名", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本坑掘削現場では一日何回交代で作業が勧められましたか?", "id": "tr-429-10-001", "answers": [ { "text": "3交代", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "上越新幹線の開業予定が発表されたのは何年の事ですか?", "id": "tr-429-10-002", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 203, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1981年(昭和56年)10月から12月にかけて、中山工区と高山工区の本坑工事が順次完了していき、残されたのは四方木工区と小野上南工区の境界付近となった。この区間では1981年(昭和56年)7月27日に迂回坑が貫通した。これは、迂回坑ではあったが中山トンネルの全区間が貫通したことを意味し、また四方木・高山の両工区が下流の小野上南工区とつながったことで、水没の恐れがなくなったことも意味した。小野上南工区の本坑工事は11月末まで続けられ、106km430m地点で完了した。これは当初設定の工区では小野上北工区を完全に含み、四方木工区の大宮方130mまでをも含むもので、総延長は4,720mとなった。そして四方木工区側から残り40mの工事が行われ、12月23日に貫通してようやく中山トンネル全区間の本坑が貫通した。", "qas": [ { "question": "中山工区と高山工区の本坑工事が終わったのは1981年の何月ですか?", "id": "tr-429-11-000", "answers": [ { "text": "12月", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中山工区、高山工区、四方木工区、小野上南工区での工事の中で、時間的に最後に完了された工事はどこですか?", "id": "tr-429-11-001", "answers": [ { "text": "四方木工区", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中山トンネルの最後の工区が完成されたのは何月何日ですか?", "id": "tr-429-11-002", "answers": [ { "text": "12月23日", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1982年(昭和57年)3月17日、群馬県知事や近隣町村長、日本鉄道建設公団総裁や請負会社の社長らが臨席して、中山トンネル完成式が行われた。代表者により最後の軌道用コンクリートの打設が行われた。これによりトンネルは土木工事から軌道工事に引き渡された。\n\nトンネルの建設がまだ行われている中でも、既に完成した区間では軌道の敷設が始められていた。引き渡しを受けて最後の区間の工事が進められ、4月に軌道工事が、5月に電気工事が完了した。7月23日に試運転が開始され、11月15日についに開通を迎えることができた。\n\n14,857mのトンネルに、約10年の歳月とのべ230万人の作業員が投入された。中山トンネルのメートル当たりの建設費は約839万円に上り、上越新幹線の全トンネルの平均約330万円を大きく上回った。わけても2回水没し、八木沢層に苦しめられた四方木工区の建設費はメートル当たり3467万円という多額に上った。トンネルの長さ14,857mをかけると、総額は1246億5023万円となる。この他に、渇水対策費として約119億円を費やしている。これだけの難工事であった中山トンネルであるが、上越新幹線全体で72名の殉職者を出しているのに対して、2名(資料によっては4名)の犠牲に留まっている。2回の水没事故も犠牲者を出すことがなかった。このトンネルを、新幹線は約4分で走り抜ける。", "qas": [ { "question": "中山トンネル完成式は何年に行われましたか?", "id": "tr-429-12-000", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中山トンネルでの初の試運転は何年?", "id": "tr-429-12-001", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中山トンネルの電気工事が終わったのは何月ですか?", "id": "tr-429-12-002", "answers": [ { "text": "5月", "answer_start": 202, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中山トンネルのメートルの建設に使った金はどれくらいですか?", "id": "tr-429-12-003", "answers": [ { "text": "約839万円", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "トンネル工事に伴い、地表では渇水の被害が広がった。特に小野上南工区では、坑口からの自然排水によりどんどん水を抜いていたので、その上部にあたる小野上村・子持村において深刻な被害が発生した。沢が1本干上がり、その他の沢も水量が減少し、水道用の揚水井戸では水位が下がってポンプによる汲み出しができなくなった。こうした問題の対処のために給水車が随時出動した。代掻きをする時期には農業用水の不足が問題となり、トンネル湧水や近くの川の水をポンプアップして対応したが、水量の不足に対処するために各農家での代掻きの時期の調整が必要となった。小野上南工区が柱状節理にぶつかって大量の湧水が発生した際には、小野上村の基幹水源地の水源が枯渇し、トンネル湧水を水源地に送る全長約5kmの配管を村道に沿って急遽建設して断水を防いだ。", "qas": [ { "question": "トンネル工事とともに発生した問題は何ですか?", "id": "tr-429-13-000", "answers": [ { "text": "渇水", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小野上南工区での断水を防ぐために急遽建設した配管の規模は?", "id": "tr-429-13-001", "answers": [ { "text": "約5km", "answer_start": 326, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "渇水問題を解決するための策として使われたのは何か?", "id": "tr-429-13-002", "answers": [ { "text": "給水車", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ハイデルベルク城", "paragraphs": [ { "context": "ハイデルベルク城(HeidelbergerSchloss)は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ハイデルベルク市に遺る城趾である。ドイツで最も有名な城趾の一つであり、ハイデルベルクの象徴的建造物となっている。プファルツ継承戦争で破壊されるまで、この城はプファルツ選帝侯の居城であった。1689年にルイ14世の軍によって破壊され、1693年に一部だけが修復された。この城趾はアルプスの北側で最も重要なルネサンス建築の遺構を含んでいる。この城はケーニヒスシュトゥール(「王の椅子」)という山の北斜面、ネッカー川の底から約80mの高さに位置し、旧市街の風景を決定づけている。", "qas": [ { "question": "ドイツで最も有名な城趾の一つであり、ハイデルベルクの象徴的建造物となっている建築物は?", "id": "tr-430-00-000", "answers": [ { "text": "ハイデルベルク城", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1689年にルイ14世の軍によって破壊されたハイデルベルク城はいつその一部が修復されましたか。", "id": "tr-430-00-001", "answers": [ { "text": "1693年", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハイデルベルクは、ライン宮中伯コンラート・デア・シュタウファーの1147年の文書に初めて記録されている。すなわち、父のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世の遺産を異母兄の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と分割し、ラインフランケン地方を得たというものである。コンラートの居館が現在の城山であるイェッテンビュール(山全体はケーニヒシュトゥールという名であるが、その麓部分を特にイェッテンビュールと呼ぶ)にあったとする説は、未だに証明されていない。歴史家でフリードリヒ2世の秘書官であったフーベルトゥス・トマス・レオドシウスが伝える伝承によれば、イェッテンビュールの名前は占い師の老婆イェッタに由来するという。シュリーアバッハ上流域のヴォルフスブルンやネッカー川の対岸にある異教徒の洞穴がこの物語の源泉となったのであろう。しかし実際には、「イェッテンビュール」は「ユンクフィーヒューゲル」(Jungviehhügel=若い家畜の丘)を意味する。ハイデルベルクの城は、1225年に初めて記録されている。ルートヴィヒ1世がヴォルムス司教ハインリヒから、この城をレーエンとして獲得したというものである。1214年にライン宮中伯に叙せられたバイエルン公がこの城の城主となったのである。1294年までハイデルベルクの城が複数あることを示す記述はないが、1303年にハイデルベルクに2つの城があることを示す記述が初めて現れる。現在のモルケンクア近くのクライン・ガイスベルクにあるオベーレ・ブルク(上の城)とイェッテンビュールにあるウンテーレ・ブルク(下の城)である。このため長い間、ウンテーレ・ブルクは1294年から1303年の間に建設されたと考えられていた。さらに19世紀後半に行われた精密な城の測量結果は、この城の成立年代不明の遺構が15世紀以前のものであることを示した。しかし出土した建築の遺構や建築史に基づくその後の研究成果は、ハイデルベルク城の成立を13世紀前半と推定している。1897年にはガラスの広間棟とフリードリヒ館の間の間仕切り壁にふさがれた窓があったことが示された。また、1976年のループレヒト館北東角の掘削研究では、1400年頃の地層に金属片やヴィルデンベルク城のアーチ窓に類似した形の窓の断片と思われるクローバー型の断片が発見された。さらに1999年にルートヴィヒ館付近で行われた考古学研究の結果は、この付近の建設が13世紀前半になされたという説を補強するものであった。ループレヒト1世の時代には名高い宮廷礼拝堂が建てられていたという説もある。", "qas": [ { "question": "ハイデルベルクに対しる最初の記録が残されている記録物は何年度の物か。", "id": "tr-430-01-000", "answers": [ { "text": "1147年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フリードリヒ2世の秘書官として勤めていたのは誰ですか。", "id": "tr-430-01-001", "answers": [ { "text": "フーベルトゥス・トマス・レオドシウス", "answer_start": 239, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1303年にハイデルベルクに2つの城があることを示す記述が初めて現れたが、その二つとはオベーレ・ブルク、そして何?", "id": "tr-430-01-002", "answers": [ { "text": "ウンテーレ・ブルク", "answer_start": 654, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1401年、プファルツ選帝侯ループレヒト3世はローマ王(ドイツ王)になった。城は王の宮廷としては大変に手狭であり、戴冠式の後、ループレヒトはアウグスティン修道院(現在の大学)にまで宮廷を拡張した。それは王の宮廷にふさわしく、多くの官吏が執務するスペースを有するものであり、同時に防衛施設としても機能すべきものであった。1410年にループレヒトが亡くなった後、その支配地は4人の息子達の間で分割された。プファルツの本拠地は長男のルートヴィヒ3世のものとなった。コンスタンツ公会議後、1415年に皇帝ジギスムントの命令により、アイヒェルスハイム城(現在のマンハイム、リンデンホーフ区)にいた元対立教皇ヨハネス23世がこの城に拘禁された。フランスの詩人ヴィクトル・ユーゴーは1838年にハイデルベルクを訪れ、城趾を特に好んで散策した。この取材に基づいて教皇幽閉の歴史を記述している。", "qas": [ { "question": "ループレヒトが死んだ年は?", "id": "tr-430-02-000", "answers": [ { "text": "1410年", "answer_start": 159, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ルートヴィヒ5世の時代にマルティン・ルターが、自らの信仰を説明するためにハイデルベルク城を訪れた(ハイデルベルク信仰問答)。ルートヴィヒ5世の弟である宮中伯ヴォルフガングの案内を受けたルターは後に友人ゲオルク・シュパラティンへの手紙で、城の美しさと戦闘設備の充実を称賛している。三十年戦争で初めて城に砲弾が飛んできた。これによって城建設の歴史は事実上終結した。これ以後、城は破壊と再建を繰り返すことになる。プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は、逡巡しながらもボヘミア王位を受諾し(ボヘミア王フリードリヒ1世)、これにより悲劇を巻き起こした。白山の戦いの後、彼は追放者として逃亡する途中で性急にも軍を解散してしまった。このためバイエルン公マクシミリアン1世(後にバイエルン選帝侯)を首魁とするカトリック連合軍の司令官ティリー伯ヨハン・セルクラエスは防禦の術を失ったプファルツに襲いかかった。1622年8月26日にハイデルベルクへの砲撃が開始され、9月16日に街が、その数日後には城も占領された。1633年5月5日にスウェーデン軍がハイデルベルク市を占領しケーニヒシュトゥールからハイデルベルク城に砲弾を浴びせた。カトリック側の司令官は5月26日に城を明け渡した。しかし翌年には皇帝軍が城を奪回するために再び来襲し、1635年7月に占領され終戦を迎えた。1649年10月7日になってやっと新しい統治者がその家族と共に、この破壊された主城に再び入城した。", "qas": [ { "question": "ルートヴィヒ5世と宮中伯ヴォルフガング、誰がもっと年上なの?", "id": "tr-430-03-000", "answers": [ { "text": "ルートヴィヒ5世", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スウェーデン軍がハイデルベルク市を占拠してケーニヒシュトゥールからハイデルベルク城に砲弾を浴びせたのはいつなの?", "id": "tr-430-03-001", "answers": [ { "text": "1633年5月5日", "answer_start": 445, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マルティン・ルターは何を説明するために、ルートヴィヒ5世の時代にハイデルベルク城を訪れたの?", "id": "tr-430-03-002", "answers": [ { "text": "自らの信仰", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "プファルツ=ジンメルン家の最後の当主、カール2世が1685年に子供のないまま亡くなると、フランス王ルイ14世は、弟であるオルレアン公フィリップ1世の名の下に(オルレアン公フィリップ1世の妃エリーザベト・シャルロッテはカール2世の妹であった)プファルツ領の相続を主張した(プファルツ継承戦争)。1688年9月29日、フランス軍がプファルツ領に進攻すると、新しく選帝侯位を継いだプファルツ=ノイブルク家出身のフィリップ・ヴィルヘルムは10月24日にハイデルベルクを放棄した。フランス軍の軍事会議は、アウクスブルク同盟軍に対抗するために、すべての防衛施設を破壊し国土を荒廃させることで、この地域における反攻の機会を敵から奪うことを決議した。フランス軍は1689年3月2日の退却の際に、城だけでなく都市にも多発同時的に火をかけた。ヨハン・ヴィルヘルムは、破壊されたハイデルベルクに戻るとすぐに市壁と塔の再建を命じた。フランス軍は1691年と1692年に再びハイデルベルクの門前にまで迫ったが、防衛施設が再建され良好な状態にあることを目の当たりにして、攻撃を行わず退却した。しかし1693年5月18日に再び来襲し、5月22日に街を占領した。だが、彼らの作戦は城に拠点を構える事ではなく、町の破壊することで城にダメージを与える事であった。数日後に城の守備隊は降伏し、フランス軍は1689年の退却時の慌ただしさに不完全であった破壊を今度は完遂した。前回は破壊を免れた塔や壁が爆破されたのである。", "qas": [ { "question": "プフランス王ルイ14世とオルレアン公フィリップ1世、誰がもっと年上?", "id": "tr-430-04-000", "answers": [ { "text": "フランス王ルイ14世", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "プファルツ=ジンメルン家の最後の当主であるカール2世とオルレアン公フィリップ1世の妃エリーザベト・シャルロッテ、誰がもっと年上?", "id": "tr-430-04-001", "answers": [ { "text": "カール2世", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1697年、プファルツ継承戦争を終結させたレイスウェイク条約により、ようやくわずかな平安がもたらされた。城を破壊し、まだ使える部分は渓谷に造営する新しい宮殿に利用するという計画が立てられた。しかしこの計画の遂行は困難であるため、城は応急処置的に修復されることとなった。同時にカール3世フィリップは城を完全に立て替える計画も描いたが、資金難のためこの計画は先送りされた。また選帝侯は、聖霊教会をカトリックに転向させたために市のプロテスタント信者と争いになっていた。聖霊教会をカトリックの宮廷教会に変更しようとする彼の計画をプロテスタント教徒らは手を尽くして妨害しようとした。こうしたことから、宮廷をマンハイムに移転する計画が持ち上がり、選帝侯はハイデルベルクに対する興味を失った。1720年4月12日、彼は宮廷をすべての官庁と一緒にマンハイムに移転すると発表した。選帝侯はこの古来の首都を運命の手に委ねるが、「路傍の草に至るまで移転する」つもりだと発言した。後継者のカール・テオドールは一時期、居館をハイデルベルク城に戻す計画を立てた。しかし1764年6月24日、立て続けに2発の稲妻がホールの建物に落ち、城はまたもや炎上した。選帝侯はこれを神の意志と見なし、計画は中止となった。その後何十年もの間、必要な修復を立案する者もあったが、ハイデルベルク城はおおむね廃墟として過ごした。", "qas": [ { "question": "プファルツ継承戦争を終結させた条約はいつ締結されたか。", "id": "tr-430-05-000", "answers": [ { "text": "1697年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カール3世フィリップが城を完全に立て替える計画を描いたのに、計画が保留されたのは何のためだったか。", "id": "tr-430-05-001", "answers": [ { "text": "資金難", "answer_start": 166, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1800年以前に画家やデザイナーらはすでに、この街の城址と山あいの川が織りなすアンサンブルを知っていた。その頂点をなすのが、イギリスの画家ウィリアム・ターナーである。彼は1817年から1844年の間に何度もハイデルベルクに滞在し、ハイデルベルクとその城を描いた作品を何点か制作した。彼やその他のロマン派の画家達の作品は、細部に忠実な建築描写を行ったものではない。絵は城を幾重にも美化された建築として描き出したのである。この城の救い主はフランス人のシャルル・ド・グライムベルクであった。彼は、ハイデルベルク城を「悪趣味な崩れ落ちそうな装飾が施された何重もの古くさい壁」と見なすバーデン政府に対して城趾の維持を主張して戦った。彼は1822年まで自主的に城の監視委員会を運営し、長らく城の中庭を望むことのできるガラス張りのホールのバルコニーで暮らした。ドイツで文化財保護が始まるずっと前に、城の保存と資料整備を彼が初めて訴え、誰も想像しなかったロマン主義の熱狂により崩壊を阻止したのであった。グライムベルクの依頼によりトーマスA.レーガーが初代城趾総裁となった。グライムベルクは城趾の図版を作成し、城趾の知名度を高めて観光客をハイデルベルクに導いた。", "qas": [ { "question": "ハイデルベルク城を「悪趣味な崩れ落ちそうな装飾が施された何重もの古くさい壁」と見なすバーデン政府に対して城趾の維持を主張して戦った人物は誰ですか。", "id": "tr-430-06-000", "answers": [ { "text": "シャルル・ド・グライムベルク", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1817年から1844年の間に何度もハイデルベルクに滞在し、ハイデルベルクとその城を描いた作品を何点か制作した人は誰ですか。", "id": "tr-430-06-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ターナー", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "城を復元するかどうかという問題は長らく議論の対象であった。詩人のヴォルフガング・ミュラー・フォン・ケーニヒスヴィンターは1868年に完全な建て直しを強く主張して激しい反応を巻き起こし、新聞・雑誌や集会で議論がなされた。バーデン大公国政府は1883年にカールスルーエの建築監督ヨーゼフ・ドゥルムをリーダーとし、地方建築監査官ユリウス・コッホと建築家フリッツ・ザイツを顧問とする「シュロスバウビューロ」(城館建築作業局)を設置した。この作業局の使命は可能な限り最新の現状調査を行い、現状維持か復元か主要建築物の処置について提言することであった。作業局の業務は1890年に完了し、ドイツ全土から集められた専門家委員会の検討基盤を作り上げた。専門家委員会は全会一致で、完全であれ部分的であれ復元するという案は考慮に値せず、現在の状態を維持保存することに全努力を傾注するべきであるとの結論を採択した。ただし、火災で内部が破壊されたフリードリヒ館だけは廃墟にはあたらず、復元作業を行うべきであるとした。この復元作業は1897年から1900年にかけて、52万マルクという巨費を投じてカール・シェーファーによって行われた。", "qas": [ { "question": "シュロスバウビューロはいつ業務を完了しましたか。", "id": "tr-430-07-000", "answers": [ { "text": "1890年", "answer_start": 277, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリードリヒ館の復元作業は1897年から何年にかけて行われたか。", "id": "tr-430-07-001", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 459, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリードリヒ館の復元作業に使われた金額はいくらか。", "id": "tr-430-07-002", "answers": [ { "text": "52万マルク", "answer_start": 469, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1465年のハイデルベルクに関する最も古い記述にはすでに、この街は「外国からの訪問者が多い」と記載されている。とはいえ、本来の意味でのこの都市の観光は19世紀初頭に始まった。グライムベルク伯は、この城を描いたスケッチを広く流布させた。これは事実上、絵はがきの先駆けとなった。同じ頃、城ではすでにお土産用のカップも販売された。さらに観光業にとって決定的な一押しとなったのが1840年にハイデルベルクが鉄道網に結ばれたことである。マーク・トウェインは1878年に著書『ヨーロッパ放浪記』でハイデルベルク城について記述している。20世紀にアメリカ人はハイデルベルク伝説を創作して世界中に広めた。その結果、日本人もヨーロッパ旅行の際にハイデルベルク城に立ち寄るようになった。21世紀の初め、ハイデルベルクには年間100万人を超える訪問客があり、約90万人が宿泊する。外国からの観光客の多くはアメリカ人か日本人である。ハイデルベルク大学地理研究所のアンケート調査によれば最も評判が良いのは城の展望テラスである。来訪者センターの新築のために300万ユーロがzweitenKonjunkturpaketdesBundesから提供された。", "qas": [ { "question": "本来の意味でのハイデルベルクの観光は何世紀に始まったか。", "id": "tr-430-08-000", "answers": [ { "text": "19世紀", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グライムベルク伯がハイデルベルクの城を描いたスケッチを広く流布したとき、ハイデルベルクの城ではお土産として何を販売していましたか。", "id": "tr-430-08-001", "answers": [ { "text": "カップ", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハイデルベルクに来る外国の観光客は主にアメリカ人とそして?", "id": "tr-430-08-002", "answers": [ { "text": "日本人", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中世の城塞の外観は判っていない。その城塞は、後に拡張された西側部分(ディッカー塔、北壁(イギリス館)、ロンデル(シュトュックガルテンの半円形の突出部)を含む西壁)を除いた現在の城域、環状壁の内部にあった。環状壁の遺構はルートヴィヒ館の東壁、エコノミー棟の東・南壁、ループレヒト館や夫人棟の西壁にわずかに遺っている。後世の城館は、現在のモルケンクーアの高台にあって1537年に焼失した城塞とともに防衛戦を形成し、これによってネッカー渓谷を制圧することができた。15世紀中頃から、砲撃のための3つの塔や外側の環状壁が建設されることで要塞へと拡充されていった。その後ルートヴィヒ5世は16世紀前半に城域を西に向かってかなり拡張し、新しい防衛施設や居住施設を建設した。さらにその後も引き続いて堂々たる外観の城館に変貌していった。ルートヴィヒの後継者らによって防衛機能は二の次になっていった。世代を経るにつれ、城は徐々に大規模な居館の複合体となっていった。ハイデルベルクの旧市街は随分後になって造られた。最初は斜面沿いの廷吏や官吏のための山の街であった。", "qas": [ { "question": "ルートヴィヒ5世は16世紀前半に城域をどの方向に向かって拡張したか。", "id": "tr-430-09-000", "answers": [ { "text": "西", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ループレヒト館(Ruprechtsbau)はプファルツ選帝侯ループレヒト3世にちなんで名付けられた。ループレヒト3世はプファルツ選帝侯ループレヒト2世の一人息子であった。1398年以降マインツ大司教とともに諸侯筆頭となり、1400年8月20日にドイツ王ヴェンツェルを退位させた。ケルンでの選挙で彼が選出された後、ケルン大司教によって戴冠が執行された。しかし、アーヘンやフランクフルト・アム・マインは彼に門戸を開かず、ドイツ王として承認しなかった。このためループレヒトの活動は狭い範囲に限られた。ループレヒトはハイデルベルク城の現存する最も古い建物を建設した。その後、この建物は、施主の名にちなんでループレヒト館と名付けられた。ハイデルベルク城の現存部分はこれ以降に建設されたものである。彼はこの建物の他、聖霊教会の建設も始めた。", "qas": [ { "question": "ループレヒト館は誰の名前から出てきた名称なのか。", "id": "tr-430-10-000", "answers": [ { "text": "ループレヒト3世", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハイデルベルク城の現存する最も古い建物は何か。", "id": "tr-430-10-001", "answers": [ { "text": "ループレヒト館", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1534年、ルートヴィヒ5世によってループレヒト館に石造の上階が増築された。前面の壁段や建物内の1534という年号は現在でもその改築を伝えている。この建物の入り口の上には天使の像が掲げられている。これは館の主の目印であり、こうした方法で後世の人々にそれを伝えていると推測されている。また、この二人の天使は建設作業中に足場から転落して命を落とした建築家の息子をモデルにしたという伝承がある。このために建築家は憂鬱症となり、建設は行き詰まってしまったという。ループレヒト3世は1400年にドイツ王ループレヒトとして戴冠し、この建物を主たる居館に定めた。このためループレヒト館には帝国鷲の紋章が掲げられ、王の居館であることを示している。ループレヒト館の中にはルネサンス様式の暖炉があるが、これは現存する数少ない内装構造のひとつである。", "qas": [ { "question": "1534年、ループレヒト館に石造の上階を追加的に建築したのは誰によって?", "id": "tr-430-11-000", "answers": [ { "text": "1534年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "フリードリヒ館(Friedrichsbau)はマンハイムの創設者である選帝侯フリードリヒ4世にちなんで名付けられた。フリードリヒ4世は1608年にプロテスタント同盟の盟主となり、これによりカトリック領主とプロテスタント領主の間の対立を激化させた人物である。フリードリヒ4世は、さほど教育を受けなかったにもかかわらず、人文科学に多大な興味を持ち、ハイデルベルク大学に歴史学とオリエント学の講座を開設した。フリードリヒ4世は自分の遊興に多大な富を費やし、国の財政を破綻させた。後にその放埒加減と宿酔は「故人となって初めて完全な正気に戻った」とまで言われた。フリードリヒ4世は1606年から1607年に、後にフリードリヒスブルク要塞と名付けられる施設を建設したことで永遠の重要人物である。この要塞がマンハイムの宮殿と都市の原型となったためである。ハイデルベルク城での主な成果は彼にちなんでフリードリヒ館と呼ばれる建物とバルコニー棟を建設し、東側の3つの塔を拡充したことである。選帝侯フリードリヒ4世は、当時すでに崩れかけていた城内礼拝堂と居館の場所に1601年から1607年にかけてフリードリヒ館を建設した。ヨハネス・ショッホがこの建物の建設を担当した。フリードリヒ館の中庭に向いたファサードには選帝侯の先祖の像が飾られている。これらの像の彫刻はクールのゼバスティアン・ゲッツが作製した。飾られている人物は、左上から順に、以下の通りである。", "qas": [ { "question": "フリードリヒ館は誰の名前からできた名称なんか。", "id": "tr-430-12-000", "answers": [ { "text": "フリードリヒ4世", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "放埒加減と宿酔に対して「故人となって初めて完全な正気に戻った」と言われた人は誰?", "id": "tr-430-12-001", "answers": [ { "text": "フリードリヒ4世", "answer_start": 201, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マンハイムの宮殿と都市の原型となる施設を建設した人は誰か。", "id": "tr-430-12-002", "answers": [ { "text": "フリードリヒ4世", "answer_start": 276, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オットハインリヒ館(Ottoheinrichsbau)はプファルツ選帝侯オットー・ハインリヒにちなんで名付けられた。初代建設責任者はハンス・エンゲルハルト、少なくとも一部はペーター・フレトナーによる。2代目の建設責任者はカスパー・フィッシャーである。オットー・ハインリヒは1557年にプファルツ選帝侯領にプロテスタントの信仰をもたらし、学問を奨励し、新人医師に死体を解剖することを義務づけた。彼の図書館(BibliothecaPalatina)は、この当時の最も重要なものの一つであるが、浪費のかさむ生活態度により彼は破産の危機に瀕していた。一方、祖母ヘドヴィヒの遺産にも借用書があった。ポーランド王カジミェシュ4世が娘ヘドヴィヒ(ヤドヴィガ)とバイエルン=ランツフート公ゲオルクとの結婚の際に作成した32,000グルデン以上の借用書である。この借金はポーランド王室から返済されていなかった。オットー・ハインリヒは利子に利子を加え、その総額を20万グルデンと算出し、1536年に大叔父にあたるポーランド王ジグムント1世のクラクフへ支払いを要求した。3週間にわたる交渉の末、借金は支払うが、利子の支払いは免除することで決着した。オットー・ハインリヒの統治期間はわずか3年であったが、最も重要なプファルツ選帝侯の一人である。彼にちなんでオットハインリヒ館と名付けられたこの城館建築はドイツのルネサンス建築の最も傑出した作例の一つである。オットハインリヒ館は、1556年にプファルツ選帝侯となったオットー・ハインリヒによって建設された。この新しい宮殿はドイツの土地に初めて建設されたルネサンス建築であり、ドイツ・マニエリスムの重要な建築作品である。古い建物はオットハインリヒ館に一部は取り込まれ(グレゼルナー・ザール棟)、あるいは取り壊された(ルートヴィヒ館の北半分)。東部では古い建物や外側の防壁の基礎構造に基づいて建設されている。5階建てのこの建物のファサードは、選帝侯の統治理念を象徴する16体のアレゴリー像で飾られている。これらの像は、後にハプスブルク家のために仕事をすることになるオランダのアレクサンダー・コリンによって創られたものである。オットー・ハインリヒが1559年に亡くなった時点で建設はまだ完了していなかった。三十年戦争前のオットハインリヒ館には、本質的には初期ルネサンス様式によるイタリア風の外観に不調和な2つの巨大な二重破風があったことが、初期の写生画(マテウス・メーリアンの„KurpfälzischesSkizzenbuch“)に示されている。これは明らかに選帝侯フリードリヒ3世が引き起こした設計変更に由来するものであり、元々の建築プランが意図していたものではない。三十年戦争後にオットハインリヒ館は新たに屋根がふき直され、巨大な二重破風は撤去された。", "qas": [ { "question": "オットハインリヒ館は誰の名前からできた名称なのか。", "id": "tr-430-13-000", "answers": [ { "text": "オットー・ハインリヒ", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オットー・ハインリヒのお祖母さんの名前何ですか。", "id": "tr-430-13-001", "answers": [ { "text": "ヘドヴィヒ", "answer_start": 276, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドイツの土地に初めて建設されたルネサンス建築は何ですか。", "id": "tr-430-13-002", "answers": [ { "text": "オットハインリヒ館", "answer_start": 616, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ルートヴィヒ館(Ludwigsbau)は、選帝侯ルートヴィヒ5世にちなんで名付けられた。ルートヴィヒ5世はランツフート継承戦争後の難局を乗り切り、プファルツ選帝侯の権利を回復することに成功した。この過程で、彼はバイエルンの同族と和解している。また、弟のフリードリヒを介してハプスブルク家との友好的接触を行った。1518年に帝国アハト刑が公式に解除され、プファルツ選帝侯の特権を回復した。1519年の皇帝選挙では買収されハプスブルク家のカール5世に投票した。1523年、ルートヴィヒはフランツ・フォン・ジッキンゲンが率いる騎士の叛乱を鎮圧した。ドイツ農民戦争の際には、隷農制廃止の要求を掲げる農民を交渉しようと試みた。しかしその後、暴動が制御不能なまでに拡大したため、農民鎮圧に加わった。ルートヴィヒ5世はハイデルベルク城にとって築城家として重要である。特に重要なのは、西壁やディッケン塔の建設といった防衛機能の拡充であるが、その一方でそれ以外の宮廷の建物を改築してもいる。ルートヴィヒ館は1524年にルートヴィヒ5世によって建設され、居館として用いられた。彼は古い建築を取り壊し、その壁の一部をルートヴィヒ館に転用した。南壁に取りつけられたゴシック様式の段状破風は現存しない。元々彼はルートヴィヒ館をシンメトリックな建築として造営された。ルートヴィヒ館は元々北側に広がっており階段室はその中央前面に位置していたのである。しかし選帝侯オットハインリヒが、オットハインリヒ館を建設するためにルートヴィヒ館の階段室から北側部分を取り壊したのである。その後、ルートヴィヒ館は1764年に火災により焼失した。外側の紋章の下に、綱引きをする2匹の猿が掲げられている。これはルートヴィヒ館の上階に住む貴族の子供たちの力比べを揶揄するものであるとされる。", "qas": [ { "question": "ルートヴィヒ館は誰の名前から付けらっれた名称なのか。", "id": "tr-430-14-000", "answers": [ { "text": "ルートヴィヒ5世", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルートヴィヒ5世とフリードリヒ、誰がもっと年下なの?", "id": "tr-430-14-001", "answers": [ { "text": "フリードリヒ", "answer_start": 126, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ルートヴィヒ館が1764年に何によって消失したか。", "id": "tr-430-14-002", "answers": [ { "text": "火災", "answer_start": 689, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イギリス館(EnglischerBau)は、フリードリヒ5世の妃で冬の王妃とも呼ばれる、イギリス王女エリザベス・ステュアートに由来する。エリザベス・ステュアートは、メアリー・ステュアートの孫で、チャールズ1世の姉にあたる人物である。その美しさから「ブリテンの真珠」あるいは「慈愛の王妃」と呼ばれた。また夫であるフリードリヒ5世のボヘミア王位がきわめて短く名目上のものに過ぎなかったことから「冬の王妃」としても知られている。エリザベスはスコットランド王ジェームズ6世、すなわち後のイングランド王・アイルランド王ジェームズ1世の、成人した唯一の娘である。彼女の名前はイングランド女王エリザベス1世にちなんで名付けられた。1612年にイギリス王への手紙を携えた2人のプファルツ選帝侯の使者が到着した。手紙は両者が望んだ同盟締結の計画であった。その後フリードリヒ5世自身が求婚のためにイングランドを訪れた。王女は初め「選帝侯に過ぎない」フリードリヒ5世との結婚を望んでいなかったが、フリードリヒ5世の容貌はイングランドの人々とまだ16歳であった王女の心を捕らえた。2人は、当時の夢のカップルとなったのである。こうして選帝侯妃となったエリザベスはフリードリヒ5世にベーメン王即位を受諾するよう勧め、結果フリードリヒ5世は白山の戦いで彼女と離ればなれとなり、1632年に亡くなるまで逃亡者としての生活を送ることとなった。彼女自身も親族のイギリス王からの援助はあてにできない状況であった。三十年戦争終結後エリザベスは3男ループレヒトとともにハイデルベルクに戻ろうとしたが、次男である選帝侯カール1世ルートヴィヒに拒絶された。当時のカール1世ルートヴィヒは、そうでなくとも、シャルロッテ・フォン・ヘッセン=カッセルとの結婚、マリー・ルイーゼ・フォン・デーゲンフェルトとのスキャンダル、戦後の侯領再建でひどく混乱した状況にあったためである。この建築の建設には、エリザベスと共にハイデルベルクに来たサロモン・ド・コウやイニゴー・ジョーンズが関わっている。", "qas": [ { "question": "エリザベス・ステュアートのお祖母さんは誰?", "id": "tr-430-15-000", "answers": [ { "text": "メアリー・ステュアート", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エリザベス・ステュアートとチャールズ1世のうち、誰がもっと年上なの?", "id": "tr-430-15-001", "answers": [ { "text": "エリザベス・ステュアート", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エリザベス・ステュアートの名前は誰の名前にちなんで名付けられたか。", "id": "tr-430-15-002", "answers": [ { "text": "エリザベス1世", "answer_start": 289, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ディッカー塔(DickerTurm)はその壁が分厚い(dick)ことから名付けられた。ディッカー塔はルートヴィヒ5世によって建設された防衛施設の一つである。高さ40m、壁の厚さは5mもある堅固なもので、直径は28mである。それでもこの堅固な壁は爆破され、亀裂が入っている。この塔は都市側に向いて威嚇的な姿を見せているが、これは建築家の計画にも盛り込まれていることで、平安伯と呼ばれるルートヴィヒではあるが、平和を維持することの困難さを示したものと考えられる。フリードリヒ5世はこの塔の上階に劇場を造らせた。この劇場は1613年に焼失したロンドンのグローブ座に倣って造られた。選帝侯はこのディッカー塔の劇場でイギリス出身の妻と親交を深め、シェークスピアの演劇の伝統を引き継いだのである。ほぼ円形のこの劇場は直径約28mで85m2の広さがあった。ディッカー塔の銘板には塔の建設者だけでなく、改造した者の名前も記述されている。また、ルートヴィヒ5世とフリードリヒ5世の二人の像が飾られている。1689年に塔の北側一部が爆破され谷に崩れ落ちた。1693年にハイデルベルク市民に対して、この崩落した塔の遺構から石材を切り取り自分の家を建てる資材にしてよいという公式許可が出された。このため、たとえば中将で狩猟区長官のフェンニンゲン男爵フリードリヒは選帝侯許可のディッカー塔の石材で家を建てたと公言している。", "qas": [ { "question": "ディッカー塔の高さは?", "id": "tr-430-16-000", "answers": [ { "text": "40m", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "火薬塔(Krautturm、またはPulverturm)の名前はすでに17世紀から用いられていたことが証明されている。これはこの塔の下層が火薬(Kraut=Pulver)倉庫であったことから、明らかにその用途に応じた名前であった。GesprengterTurm(爆破された塔)という呼び名は後世になってからのものである。この塔はプファルツ継承戦争時の1693年にフランス兵によって爆破された。巨大な壁の断片が現在も塔に寄りかかっている。ところでこの爆破により塔と壁の継ぎ目はブンテル砂岩と同じくらい丈夫であることが証明された。", "qas": [ { "question": "火薬塔の名前はいつから使われていたか。", "id": "tr-430-17-000", "answers": [ { "text": "17世紀", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「アルタン(Altan)」は、古いアラビア語で「赤」を意味する\"Al\"と「朝夕」を意味する\"tan\"が合成されたものである。「選帝侯のバルコニー」と呼ばれるアルタン(現在の見学者テラス)は、ネッカー渓谷、ハイデルベルク市街、対岸の哲学の小径があるハイリゲンベルクが眺められる。アルタンの西端は大樽棟につながっている。アルタンはフリードリヒ館から8m以上の幅を持つスペースで、城の小径を通って市街へと通じている。アルタンの下部は、武器、弾薬、軍支給品の保管庫であり、兵士のシェルターとなっていた。アルタンは直接フリードリヒ館と接してはおらず約8mの隙間がある。この隙間を市街へ向かう「城の小径」が通っている。アルタンの下部、かつての「大砲台」は、人工的に青錆を生じさせた青銅製の砲身が配置されていた。この砲は1794年にフランスのドゥエに運び去られた。", "qas": [ { "question": "「アルタン(Altan)」という言葉は何語から由来しましたか。", "id": "tr-430-18-000", "answers": [ { "text": "アラビア語", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エリーザベト門(Elisabethentor)はイギリス王女のエリザベス・ステュアートに由来する。シュトュックガルテンの入り口はエリーザベト門である。この門の建立はイギリス館やディッカー塔の劇場の改築と同様に、フリードリヒ5世が妻エリザベス・ステュアートの栄誉のために行ったものである。この門は1615年、彼女の20歳の誕生日に若い妻を驚かすために一夜にして建設されたとされるが、これを裏付ける文献上の証拠はない。献呈の辞にはこう書かれている。\n\nFRIDERICVSVELISABETAECONIVGI.CARISS(IMAE)A(NN0).C(HRISTI).MDCXV.F(ACIENDUM).C(URAVIT)\n(フリードリヒ5世が愛する妻エリザベスのために1615年にこの門を造らせた。)\n\nエリーザベト門は凱旋門の様式で造られており、ハイデルベルク城におけるバロック建築のモニュメントである。建築家はエリザベスと一緒にハイデルベルクにやって来た2人の建築家のうちの1人サロモン・ド・コウである。4本の柱は樹木を模しており、それにキヅタが絡む意匠に象られている。葉の間には、カエル、甲虫、カタツムリ、トカゲ、リスなど様々な動物が隠れている。", "qas": [ { "question": "エリーザベト門の元となった名前は?", "id": "tr-430-19-000", "answers": [ { "text": "エリザベス・ステュアート", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エリーザベト門は誰のために建てられたの?", "id": "tr-430-19-001", "answers": [ { "text": "エリザベス", "answer_start": 324, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "日本の高山植物相", "paragraphs": [ { "context": "日本の高山植物相(にほんのこうざんしょくぶつそう)では、地形、地質や気象と植物との関連、植物の起源と変遷について概説し、またヨーロッパアルプスなど他地域と比較してその特徴を説明する。\n日本列島は海洋プレートの収束帯に位置し火山活動が活発なため、狭い地域に多様な地質や地形が発達し、高山では冬季の大雪と強風、他の時期の多雨という気候の影響が加わる。\n結果それぞれの環境で、そこに適応した高山植物を見ることになった。\n日本の高山植物は北極海周辺に由来する種を中心に、千島、カムチャッカ、北米の太平洋沿岸、ヒマラヤ山脈周辺、アルタイ山脈に起源を求められる。\n一方低山帯から高山に進出した種も見られる。\nやって来た時期については、本州中部の高山帯や、石灰岩、またかんらん岩や蛇紋岩などの超塩基性岩のもとでは、最終氷期以前という古い時期に渡来した植物が生き残っている。\n逆に分布を広げている例としては、富士山に、近接する赤石山脈から来たと考えられる植物が生育しているなど、現在も変化の途上にある。\nしかし盗採や開発などの干渉、シカなどの食害、そして地球温暖化によると考えられる気象の変化などの危機下にあることも否めない。", "qas": [ { "question": "日本の高山植物はどの地域から渡来して来た種が多いですか?", "id": "tr-431-00-000", "answers": [ { "text": "北極海周辺", "answer_start": 215, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本の高山植物に食害を与えている動物は何?", "id": "tr-431-00-001", "answers": [ { "text": "シカ", "answer_start": 458, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "高山植物の定義は、一般的には森林限界より高地の、草本を中心とした高山帯に分布する植物のことを指す。\nしかし高山帯の定義については、日本の高山の場合、亜高山針葉樹林帯の上部にハイマツ帯が分布し、ハイマツ帯の上部に草本を中心とした植生が広がる場合が多く、ハイマツ帯を高山帯に含めるか否かについては現在研究者間の説は統一されていない。\nハイマツ帯を高山帯に含めない見解に遵うと、日本では高山帯が高山の極めて狭い範囲に限定されることになる。\nしかし現実の日本の高山では世界各地で高山植物とされる植物の群落が多く観察されており、ハイマツ帯やその周辺でも高山植物の群落が見られる。\nまたハイマツ帯は日本の高山の自然環境についての大きな特徴の一つであるため、高山植物についての専門書においてはハイマツ帯について詳細な説明を加えている。\nこの項でも森林限界より上部の植生だけではなく、ハイマツ帯についても説明を行なう。", "qas": [ { "question": "日本の高山の自然環境において大きな特徴となる植物とは何?", "id": "tr-431-01-000", "answers": [ { "text": "ハイマツ", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また高山植物は森林限界より高所に分布する植物とされているが、実際には高山帯やハイマツ帯にはならない低標高であるのにもかかわらず、高山植物の群落が見られることがある。\n例えばミズゴケを中心とした泥炭が堆積した高層湿原や、地中の冷えた空気が常に流出することによって夏季も寒冷な環境が保たれる風穴、火山活動によって噴出した溶岩や火山灰が降り積もった場所、石灰岩やかんらん岩、蛇紋岩などの特殊な地質を持つ場所などである。\nこれら低標高地でありながら高山植物が生育する場所についても説明をしていく。", "qas": [ { "question": "高層湿原に堆積しているものは主に何ですか?", "id": "tr-431-02-000", "answers": [ { "text": "ミズゴケ", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本列島は大陸プレートであるユーラシアプレートと北米プレートに、海洋プレートである太平洋プレートとフィリピン海プレートが沈み込む場所に位置している関係上、火山活動が活発である。\nそのため日本列島の高山帯は、富士山や大雪山などといった、主に第四紀後期という最新の地質年代の火山活動によって形成された高山帯、南八ヶ岳のように第四紀後期以前の火山活動によって形成された高山帯、赤石山脈、木曽山脈など火山活動以外の理由で形成された高山帯が見られる。\n富士山や大雪山のような新しい火山に比べて、古い火山や火山以外の成因によって形成された高山帯は侵食によって急峻な地形となっているが、日本では非火山の高山帯でも山頂付近に比較的起伏がなだらかな地形が多く見られる。\nこの山頂付近の比較的起伏がなだらかな地形は、隆起前に形成されていた地形が残存しているものと考えられている。\nまたヒマラヤ山脈やアルプス山脈で見られるような極めて急峻な山稜や岩壁は日本の高山帯では多くない。\nこれは日本の高山帯は氷期に氷河による侵食活動の影響が比較的少なかったことと、日本の高山帯がヒマラヤやアルプスなどよりも新しい時代に形成されたためと考えられている。", "qas": [ { "question": "日本列島の下にある大陸プレートは、北米プレートと何ですか?", "id": "tr-431-03-000", "answers": [ { "text": "ユーラシアプレート", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本列島の下にある海洋プレートは、太平洋プレートと何ですか?", "id": "tr-431-03-001", "answers": [ { "text": "フィリピン海プレート", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "火山活動によって形成されたのが早かったのは富士山と南八ヶ岳のどちらですか?", "id": "tr-431-03-002", "answers": [ { "text": "南八ヶ岳", "answer_start": 152, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大雪山、南八ヶ岳、富士山の中で、最も早くに形成された高山帯はどれですか?", "id": "tr-431-03-003", "answers": [ { "text": "南八ヶ岳", "answer_start": 152, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また、日本列島の多くが海洋プレートの沈み込みの際、海洋プレートの堆積物の一部が剥ぎ取られて陸地に付加した、付加体によって形成されている点も日本の高山植物相に大きな影響を与えている。\n付加体の中にはよくメランジュと呼ばれる周囲の地質とは連続性を持たない岩塊層が見られるが、中生代のジュラ紀ないし白亜紀の付加体内にある蛇紋岩質のメランジュである早池峰山、至仏山、同時期と考えられる飛騨山脈の白馬岳や赤石山脈の北岳で見られる石灰岩のメランジュ、そして新生代に形成された日高山脈やその周辺にはかんらん岩、蛇紋岩質のメランジュであるアポイ岳や夕張岳、石灰石のメランジュである崕山など、日本国内には蛇紋岩やかんらん岩、石灰岩という特殊な地質に生育する多くの希少な高山植物で知られる地域がある。", "qas": [ { "question": "飛騨山脈で見られるメランジュの地質は何ですか?", "id": "tr-431-04-000", "answers": [ { "text": "石灰岩", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "早池峰山で見られるメランジュはどのような地質ですか?", "id": "tr-431-04-001", "answers": [ { "text": "蛇紋岩質", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "夕張岳のメランジュはどのような地質なの?", "id": "tr-431-04-002", "answers": [ { "text": "蛇紋岩質", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "崕山のメランジュはどのような地質なの?", "id": "tr-431-04-003", "answers": [ { "text": "石灰石", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "このような成り立ちを経て形成された日本の高山は、様々な性格の地質が比較的狭い地域に存在するという多様性に富んだ特徴を持つようになった。\n例えば飛騨山脈では、白馬岳付近では流紋岩質の岩石とともに海洋プレート沈み込みに伴う付加体起源のメランジュである石灰岩や蛇紋岩が見られ、また比較的新しい火山地形である立山火山、そして日本で最も険しい山体の一つである槍ヶ岳や穂高岳は、主にかつて存在したカルデラ内に約180万年前噴出したとされる穂高安山岩で形成されており、常念岳や野口五郎岳などは花崗岩によって形成されている。\n一方赤石山脈では四万十帯起源の砂岩や泥岩が主体であるが、鳳凰三山や甲斐駒ヶ岳では花崗岩が見られ、北岳には付加体起源のメランジュである石灰岩やチャートがあるという多様性が見られる。\n本州中部の高山など、日本の高山帯はヨーロッパアルプスなどと比べると規模は小さいものの、ヨーロッパアルプスでは一つの山系はおおよそ同一の地質をしており、日本の高山のように狭い地域に様々な地質が存在するのは極めて珍しいことといえる。\nこのような様々な地質の存在が、狭い地域であるにもかかわらず多様性に富んだ日本の高山植物相を育む要因の一つとなった。", "qas": [ { "question": "槍ヶ岳を形成している岩石は何?", "id": "tr-431-05-000", "answers": [ { "text": "穂高安山岩", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "野口五郎岳はどのような岩石から形成されているの?", "id": "tr-431-05-001", "answers": [ { "text": "花崗岩", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "常念岳を形成している岩石は何?", "id": "tr-431-05-002", "answers": [ { "text": "花崗岩", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "穂高岳を形成している岩石は何?", "id": "tr-431-05-003", "answers": [ { "text": "花崗岩", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "地質の違いは植生に大きな影響を与える。\n例えば花崗岩質の場合、節理があまり発達していないことが多く、岩礫地帯となりやすい傾向がある、花崗岩の岩礫地帯にはクロマメノキ、ガンコウランなどが生育する風衝矮低木林などが形成される。\nまた流紋岩質の場合は花崗岩よりも径が小さい岩礫地帯となって、礫の移動が激しいためにそのような環境に適応したコマクサやタカネスミレが生育するようになる。\n一方砂岩や泥岩地帯は土壌を形成しやすいために草原となりやすく、見事な高山植物のお花畑が見られることも多い。\nそして石灰岩地やかんらん岩、蛇紋岩地などの場合は岩に含まれる微量元素の影響などによって、その特殊な環境に適応した高山植物群落が形成されることになる。", "qas": [ { "question": "岩礫地帯となりやすいのはどのような地質ですか?", "id": "tr-431-06-000", "answers": [ { "text": "花崗岩質", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "砂岩や泥岩地帯はどのような植生になりやすいですか?", "id": "tr-431-06-001", "answers": [ { "text": "草原", "answer_start": 210, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本の高山は、本州の標高が高い山でも3000メートル台である。\nこれは夏季の7月から8月にかけての平均気温が10度を下回る、世界的に亜高山針葉樹林の分布限界とされる森林限界は本州中部では約2900メートルとなるが、ハイマツは気温的にはそれよりも高い約3200メートル付近でも生育が可能であり、富士山を除く日本の高山では、気温の面からのみで言えば山頂付近まで亜高山針葉樹林やハイマツ林が分布するはずであり、高山植物が多く生育する草原などは出来ないことになる。\nまた東北地方や北海道では標高2000メートルを越える山も少ないものの、山形県の月山、秋田県の秋田駒ヶ岳、岩手県の早池峰山、北海道のアポイ岳など、標高1000メートル台やそれ以下であっても高山植物が豊富に分布する山が見られる。\n実際、日本の山の森林限界は、夏季の7月から8月にかけての平均気温が11度ないし12度の場所にあり、ヨーロッパや北アメリカなど世界的な基準よりも標高が低い場所であることが明らかになっている。", "qas": [ { "question": "北海道で高山植物が豊富に生息する標高2000メートル以下の山は何ですか?", "id": "tr-431-07-000", "answers": [ { "text": "アポイ岳", "answer_start": 294, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "岩手県の中で高山植物が豊富に生息する標高2000メートル以下の山は何ですか?", "id": "tr-431-07-001", "answers": [ { "text": "早池峰山", "answer_start": 285, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "山形県の中で高山植物が豊富に生息する標高2000メートル以下の山は何ですか?", "id": "tr-431-07-002", "answers": [ { "text": "月山", "answer_start": 268, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "秋田県の中で高山植物が豊富に生息する標高2000メートル以下の山は何ですか?", "id": "tr-431-07-003", "answers": [ { "text": "秋田駒ヶ岳", "answer_start": 275, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本の山の森林限界が低い要因は、まず山頂効果ないし山頂現象と呼ばれる、山の頂上付近では強風などのために森林の形成が困難となる現象が理由として挙げられるが、最も重要な点は、日本の高山帯は冬季には世界一とも言われる強風と多雪に見舞われるためであると考えられている。\n冬季、日本の高山は激しいジェット気流の影響を受け、秒速数十メートルという猛烈な強風下に晒されることもまれではない。\n特に高山の稜線部など、強風が吹きさらしとなる場所は植物の生育に極めて厳しい環境となる。\n一方風が比較的弱い場所には冬季、雪が厚く降り積もり、場所によっては夏季、そして秋季になっても雪が溶けずに残り、植物の生育を阻害することになる。", "qas": [ { "question": "冬場の日本の高山に強風をもたらす原因となる気流は何?", "id": "tr-431-08-000", "answers": [ { "text": "ジェット気流", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大量の積雪は冬季の極寒から植物を保護する役割も果たす。\n10メートル程度の積雪を見る雪田では、雪に閉ざされる晩秋から翌年の春から夏にかけての雪解けまで、深い積雪による断熱効果によって土壌気温はほぼ0度付近に保たれ、土壌の凍結もあまり見られない。\nそして雪田で融雪が本格化する時期は気温が上昇しているため、雪が消えた後には地表温度も上がり、雪解け水で水の供給も潤沢であるため植物の生育には好条件となる。\nそのためチングルマ、アオノツガザクラ、ハクサンコザクラなど雪田で見られる高山植物は他の高山植物よりも耐寒性が低い傾向がある。", "qas": [ { "question": "積雪は土壌の気温を何度に保持してくれますか?", "id": "tr-431-09-000", "answers": [ { "text": "ほぼ0度付近", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アオノツガザクラと他の高山植物を比べると、耐寒性が低い傾向があるのはどちらですか?", "id": "tr-431-09-001", "answers": [ { "text": "アオノツガザクラ", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし雪田の融雪が終わらなければ植物の生育は見込めないため、雪田で見られる高山植物は他の種よりも短い期間で開花から結実を終了しなければならないという、他の高山植物と比較して厳しい生育条件が課せられている。\nまた雪田の融雪時期は場所によって大きく異なり、6月に雪が消える雪田もあれば9月になっても雪が残る雪田もある。\n実際、8月中下旬や9月以降に雪が消える雪田では期間不足が原因で、維管束植物の生育はほぼ不可能になる。\nもう一つ雪田の高山植物の生育に不安定性を増しているのが、年によって降雪量にかなりの差が見られるため、同じ雪田であっても融雪が1-2ヶ月ずれる場合がある点が挙げられる。\nこのため雪田に生育する高山植物の開花時期は比較的長くなっている。\n雪田で見られる植物の中で一年生は極めて少なく、常緑性の葉を持って雪が溶ければいつでも光合成を開始出来る準備をした多年生として生育し、雪解けが遅い年には生長を見送るなど、年による生育条件の変動が著しい雪田という環境下で確実に子孫を残すよう工夫された植物が多い。\nそして雪田で見られる高山植物では、同一種の中でも雪解けが遅い雪田で見られる個体は、雪解けが早い雪田のものよりも寿命が長いといった例も観察されている。", "qas": [ { "question": "雪が消える時期が遅い地域では、どのような植物の生息が不可能となりますか?", "id": "tr-431-10-000", "answers": [ { "text": "維管束植物", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "冬季の強風によって雪が吹き飛ばされる高山の稜線部の環境は、雪田とは違った意味で植物の生育に過酷な地である。\nまず積雪がないため雪による断熱効果がなく、地温がマイナス15度からマイナス20度にまで低下することが明らかになっている。\n冬季の強風と低温から植物体を守るため、高山の稜線部に分布する高山植物は、草本類では冬季は地上部は枯れて地下で生き延び、木本類ではガンコウランやミネズオウ、チョウノスケソウのように背丈が極めて低い低木類となり、ガンコウランやミネズオウは針状の葉となって凍結や強風に耐えるようになり、チョウノスケソウは稜線部という土壌に恵まれない場所で生育するために、外菌根菌との共生によって窒素やリンという必須無機栄養塩を確保していると考えられている。\nまた稜線部や火山帯のガレ場などの直射日光を浴び保水力が低い場所では、夏季に天候が良く雨が降らない状態が続くと、高温や乾燥という事態が高山植物の生育を阻害することも起こる。\nこのように厳しくかつ変動が激しい日本の高山気象の条件下、高山植物は様々な方法を用いながら適応して生育している。", "qas": [ { "question": "高山の稜線部の地温は最低何度にまで低下しますか?", "id": "tr-431-11-000", "answers": [ { "text": "マイナス20度", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チョウノスケソウが共生している生物とは何?", "id": "tr-431-11-001", "answers": [ { "text": "外菌根菌", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チョウノスケソウが必須無機栄養塩を確保するために行っている方法とは何?", "id": "tr-431-11-002", "answers": [ { "text": "外菌根菌との共生", "answer_start": 289, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本が属する北東アジアには、北緯65度から70度以北の寒帯が属する北極及び亜北極植物区系、北緯48度付近から北緯65度から70度付近の北方帯が属するヨーロッパ・シベリア植物区系、北緯30度付近から48度付近までの温帯の植物相に当たる東アジア植物区系などが見られる。\n日本の高山植物は北極及び亜北極植物区系、ヨーロッパ・シベリア植物区系に由来を持つと考えられる北方系の植物が主流であるが、温帯である中国、ヒマラヤなどの東アジア植物区系との関連も強い。\n日本周辺の低山帯の種が高山に適応した例や、中新世以降、最終氷期以前という古い時代から日本の高山帯に生存し続けている遺存種もなども見られる。\nそして日本の高山植物の主流である北方系の植物分布は、最終氷期やそれ以降の気候変動、そして第四紀の火山活動の影響を受けている。\n日本の高山植物は極地やシベリアなど北極及び亜北極や北方帯を起源とする植物に、東アジアの低山帯起源の植物が混在し、氷期や間氷期といった気候変動や火山活動など影響されながら育まれてきた。", "qas": [ { "question": "北緯48度付近から北緯65度から70度付近の気候帯は何ですか?", "id": "tr-431-12-000", "answers": [ { "text": "北方帯", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北緯30度付近から48度付近までの気候帯は何ですか?", "id": "tr-431-12-001", "answers": [ { "text": "温帯", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本列島は周囲を海に囲まれた島孤であり、全体的に湿潤な気候である。\n日本と同じような島弧であるサハリン、千島列島や、周囲を海で囲まれたカムチャッカ半島などもやはり比較的湿潤であり、日本と同じく雪が多い。\nアオノツガザクラ、イワイチョウ、ハクサンコザクラなど、雪田や高層湿原のような湿った環境に生育する高山植物は、サハリン、千島列島、カムチャッカ半島そしてアリューシャン列島を経て北米西部までという太平洋沿岸に分布している種と共通する種が多く、またこれらの種は北海道から本州日本海側の高山という多雪地帯に分布の中心が見られる。\n一方、比較的乾燥した環境である風衝低木林や草原、崩壊地などに生育するイワウメ、エゾツツジ、チシマギキョウ、コマクサ、タカネスミレなどは、サハリンやカムチャッカ半島から東シベリアに分布の中心がある種が多い。\nこれらの種の中にベーリング海峡を越えてアラスカにまで分布を広げている種もあるが、種の分布の中心はサハリン、カムチャッカ半島から東シベリアにかけてである。", "qas": [ { "question": "比較的乾燥した環境に生息しているものはハクサンコザクラ、イワイチョウ、コマクサの中でどれですか?", "id": "tr-431-13-000", "answers": [ { "text": "コマクサ", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "湿った環境に生息しているものはチシマギキョウ、ハクサンコザクラ、タカネスミレの中でどれですか?", "id": "tr-431-13-001", "answers": [ { "text": "ハクサンコザクラ", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本の高山植物の起源で最も多いと考えられるのが、周北極要素と呼ばれる北極及び亜北極植物区系の植物である。\nこれらの種は更新世の寒冷期である氷期に、北極付近から日本列島へ南下してきた種であると考えられ、ムカゴトラノオ、クモマキンポウゲ、ガンコウラン、クロマメノキ、ミネズオウなどがある。\n周北極要素の高山植物には、ガンコウラン、クモマキンポウゲなどのように高緯度では連続分布、低緯度では隔離分布を示す種もあり、更新世の氷河時代に分布を広げ、氷期が終わった完新世となって温暖化するにつれて低緯度では分布が縮小し、隔離分布をするようになったと考えられている。", "qas": [ { "question": "高緯度では連続分布、低緯度では隔離分布をするものはクモマキンポウゲ、クロマメノキ、ムカゴトラノオの中でどれですか?", "id": "tr-431-14-000", "answers": [ { "text": "クモマキンポウゲ", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また主に低山に分布するアキノキリンソウは高山帯ではミヤマアキノキリンソウとなっており、これはもともと温帯である低山の植物であるアキノキリンソウが高地帯にまで分布を拡大したものと考えられている。\n同じような植物としてはタカネマツムシソウ、ハクサンシャジン、タカネビランジなどが挙げられ、皆、東アジア植物区系である低山帯から高山へと分布を拡大したと考えられる。\nそしてシレトコスミレやオゼソウのように、現在のところその起源がはっきりしていない高山植物もある。", "qas": [ { "question": "ミヤマアキノキリンソウが低山で見られる場合、その名前は何になりますか?", "id": "tr-431-15-000", "answers": [ { "text": "アキノキリンソウ", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "起源が不明である高山植物は、オゼソウと何?", "id": "tr-431-15-001", "answers": [ { "text": "シレトコスミレ", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そして日本やその周辺の高山などに隔離分布するキタダケソウ属のように、最終氷期以前という古い時代に日本列島にやって来て、現在まで生き残り続けていると考えられる高山植物もある。\n藤井(2008)などによる最近のDNA解析によれば、本州中部の高山帯に分布するヨツバシオガマなども最終氷期以前の古い時代に日本列島へやって来て、現在まで生き残り続けている遺存種であるとの研究結果が発表されている。", "qas": [ { "question": "キタダケソウ属が日本に入ってきた時期はいつ?", "id": "tr-431-16-000", "answers": [ { "text": "最終氷期以前", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最終氷期以前の古い時代に日本に入ってきて、現在本州中部の高山帯に分布している種類とは何?", "id": "tr-431-16-001", "answers": [ { "text": "ヨツバシオガマ", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本列島に分布する高山植物は、その多くは本州中部の高山帯から北海道の高山帯に至るまで分布しているが、北海道を中心に分布する種や、本州中部に分布が見られるが、東北、北海道には分布しない種もある。\n例えばチョウノスケソウは本州中部と北海道の高山帯には見られるが、東北地方の高山には生育しない。\nまたヒメカラマツは本州中部の高山帯に分布するものの、東北、北海道には分布しない。\nまた日本では飛騨山脈の白馬鑓ヶ岳の石灰岩地にのみ自生するクモマキンポウゲのような種もある。", "qas": [ { "question": "チョウノスケソウが生息しない地域はどこですか?", "id": "tr-431-17-000", "answers": [ { "text": "東北地方", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒメカラマツはどこの高山帯にのみ分布していますか?", "id": "tr-431-17-001", "answers": [ { "text": "本州中部", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "チョウノスケソウ、ヒメカラマツ、クモマキンポウゲとも、現在、北極海周辺を分布の中心とした広範囲に分布している周北極要素の植物である。\nこれらの植物は最終氷期であるヴュルム氷期に日本列島へ南下してきたものと考えられている。\nなお氷期に日本列島を南下していく際、東北地方など高い山がないため南下が困難となる場所もあったと考えられているが、火山活動が活発な日本列島では、火山活動による荒原を伝いながら南下していったと見られている。\nまたツガザクラなど一部の高山植物は、中部地方の高山帯を越え、中国、四国地方の山地、そして九州地方の山地にまで達した種もある。\n中部地方より先まで分布を広げた高山植物が、どのように分布を広げたかについてはまだ明らかになっていない。", "qas": [ { "question": "ヴュルム氷期に日本列島へ南下してきた高山植物はクモマキンポウゲ、ヒメカラマツとあともう1つは何ですか?", "id": "tr-431-18-000", "answers": [ { "text": "チョウノスケソウ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒメカラマツが日本列島に南下してきた時期はいつだったの?", "id": "tr-431-18-001", "answers": [ { "text": "ヴュルム氷期", "answer_start": 81, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "チョウノスケソウなどは、約1万年前に氷期が終わると高山帯に取り残されることになったものと見られている。\nその後、今から約8000年前には暖流である対馬海流が日本海に流入することによって、日本の日本海側山地では現在のような冬季の多雪化が見られるようになった。\nそして約8000年前から5000年前にかけて、日本列島は現在よりも平均気温が約1-2度高い状態となった。\n高温化と多雪の影響で日本列島ではまず亜高山帯の針葉樹林が大きな打撃を蒙り、多雪の影響が比較的少ない太平洋側にわずかに残るのみとなった。\n温暖化は高山植物にも極めて深刻な打撃を与えたものと考えられる。\n標高の高い山が少ない東北地方では温暖化の影響が顕著に現れ、北極海周辺を分布の中心とするチョウノスケソウなど、特に寒冷な気候を好む高山植物が東北の高山から姿を消したものと考えられる。", "qas": [ { "question": "対馬海流が日本海に流入した時期は何年前でしたか?", "id": "tr-431-19-000", "answers": [ { "text": "約8000年前", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "約8000年前から5000年前にかけて、日本列島は平均気温が現在よりも何度高かったですか?", "id": "tr-431-19-001", "answers": [ { "text": "約1-2度", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "約1万年前の最終氷期終了前後の温暖化と約8000年前からの日本列島日本海側の多雪によって、中部地方以北の日本の山岳地帯の多くの場所に高層湿原が発達するようになった。\nこれは温暖化による降水量の増加と多雪によって、山地にある平坦部や緩斜面の水はけが悪化し、植物の死骸の分解状態が悪くなったことによって泥炭の形成が進んだことが原因である。\n例えば尾瀬ヶ原は約9000年前から7000年前に高層湿原の形成が開始されたと考えられており、その他最終氷期終了前後に形成が開始された高層湿原には、北海道の雨竜沼湿原、沼の平湿原、本州の田代山湿原などがある。\n山地に形成された高層湿原には、北極圏周辺の植物である周北極要素の植物が約3割から4割、そして北海道の山地の高層湿原では千島列島、カムチャッカ半島、東シベリア等に起源を持つ植物が約2割から3割とかなり高い割合で分布している。", "qas": [ { "question": "雨竜沼湿原の形成が始まった時期はいつでしたか?", "id": "tr-431-20-000", "answers": [ { "text": "最終氷期終了前後", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "沼の平湿原の形成が始まった時期はいつでしたか?", "id": "tr-431-20-001", "answers": [ { "text": "最終氷期終了前後", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "田代山湿原の形成が始まった時期はいつでしたか?", "id": "tr-431-20-002", "answers": [ { "text": "最終氷期終了前後", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本の高山植物には、北極海周辺以外の地域からやってきたと考えられるものも見られる。\nまず日本では白馬岳のみで見られるタカネキンポウゲや、利尻山のみで見られるボタンキンバイは、それぞれ約4000キロも離れた西シベリアのアルタイ山脈に自生するアルタイキンポウゲ、アルタイキンバイが近縁種であると考えられている。\n本州中央部の高山帯のキンポウゲ属には、その他八ヶ岳の固有種であるヤツガタケキンポウゲと北岳の固有種であるキタダケキンポウゲがある。\nともにヒマラヤ山脈周辺に分布するキンポウゲ科の植物と近縁と考えられ、ヒマラヤ山脈周辺に分布する近縁種の中には、ヤツガタケキンポウゲ、キタダケキンポウゲに類似した特徴を持った個体も確認されている。\nこれらのことから、北極海周辺以外のアルタイ山脈やヒマラヤ周辺から日本列島の高山帯まで分布を広げ、現在は日本の一部の高山帯と、それぞれアルタイ山脈、ヒマラヤ周辺に生き残った種があることがわかる。", "qas": [ { "question": "タカネキンポウゲの生息地はどこですか?", "id": "tr-431-21-000", "answers": [ { "text": "白馬岳", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ボタンキンバイの唯一の生息地はどこですか?", "id": "tr-431-21-001", "answers": [ { "text": "利尻山", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "八ヶ岳に生息するキンポウゲ属の固有種は何ですか?", "id": "tr-431-21-002", "answers": [ { "text": "ヤツガタケキンポウゲ", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "八百屋お七", "paragraphs": [ { "context": "八百屋お七は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。\n\nなお、本項では日付表記は各原典に合わせ、原則は旧暦表記とする。", "qas": [ { "question": "江戸時代前期、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる江戸本郷の八百屋の娘を何と呼びますか。", "id": "tr-432-00-000", "answers": [ { "text": "八百屋お七", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "八百屋お七はどの書籍に取り上げられたことで有名になったか。", "id": "tr-432-00-001", "answers": [ { "text": "『好色五人女』", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『天和笑委集』は、お七の処刑のわずか数年後に出された実録体小説である。相前後してお七処刑の3年後の貞享3年(1686年)には大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』で八百屋お七の物語を取り上げている。西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史史料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。", "qas": [ { "question": "『天和笑委集』が出されたのと、お七の処刑と、どっちの方が先に行われたの?", "id": "tr-432-01-000", "answers": [ { "text": "お七の処刑", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "お七に関するほぼ唯一の歴史史料は何ですか。", "id": "tr-432-01-001", "answers": [ { "text": "『御当代記』", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "貞享3年(1686年)、井原西鶴はどの地域で活動していたか。", "id": "tr-432-01-002", "answers": [ { "text": "大坂", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古来よりお七の実説(実話)として『天和笑委集』と馬場文耕の『近世江戸著聞集』があげられ「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」お七が伝えられていたが、実はお七の史実はほとんどわかっていない。歴史資料として戸田茂睡の『御当代記』の天和3年の記録にわずかに「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されているだけである。お七の時代の江戸幕府の処罰の記録『御仕置裁許帳』には西鶴の好色五人女が書かれた貞享3年(1686年)以前の記録にはお七の名を見つけることができない。お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も事実として知る事はできず、それどころかお七の家が八百屋だったのかすらも、それを裏付ける確実な史料はない。", "qas": [ { "question": "お七に関するほぼ唯一の歴史史料は何ですか。", "id": "tr-432-02-000", "answers": [ { "text": "『御当代記』", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は、天和笑委集や近世江戸著聞集を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の『御当代記』のお七の記述も後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ疑問を呈している。\n\nしかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は『御当代記』は後から書き入れられた注釈を含め戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和3年お七という女が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど江戸で発行された天和笑委集と大阪の西鶴が書いた好色五人女に、違いはあれど八百屋の娘お七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか3年後に出版されている事から少なくともお七のモデルになった人物はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずのお七の事件からわずか3年後の貞享3年にあれほど同情を集めるはずが無いとしている。", "qas": [ { "question": "矢野公和と高橋圭一と、お七の実存に対してより否定的な立場であるのは誰の方ですか?", "id": "tr-432-03-000", "answers": [ { "text": "矢野公和", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "高橋圭一はどの大学所属ですか。", "id": "tr-432-03-001", "answers": [ { "text": "大谷女子大学", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "天和3年の記録に「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されている『御当代記』の著者戸田茂睡は歌学者として知られ「梨本集」などの著作がある。実家は徳川忠長に仕える高禄の武家だったが、忠長の騒動に巻き込まれて取り潰されて大名家預かりの身になり、その後許されて伯父の家300石の養子になって仕官し、1680年ごろに出家して気ままな暮らしに入っている。\n\n御当代記は五代将軍徳川綱吉が新将軍になった延宝8年(1680年)から茂睡が亡くなる4年前の元禄15年(1702年)までの約22年間の綱吉の時代の政治・社会を、自由な身で戸田茂睡自身が見聞したことを記録していったもので、子孫の家に残され発見されたのは天保年間(1830年代)になってからだが、信憑性の高い史料とされている。御当代記は日記のように毎日記録していったものではないが、事実を時間の経過を追って記録しているものである。", "qas": [ { "question": "「梨本集」を書いた人は誰?", "id": "tr-432-04-000", "answers": [ { "text": "戸田茂睡", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "天和笑委集は貞享年間に成立した実録体の小説で、作者は不明だ。西鶴と並んでお七の物語としては最初期、お七の処刑後数年以内に成立し、古来より実説とされてきた。しかし、現代では比較的信憑性は高いものの巷説を含むものとされている。全13章からなり、第1章から第9章はこの時代の火災の記録、第10章から第13章は放火犯の記録となっており、お七の物語は第11章から第13章で語られ、全体の1/5を占めている。第1章から第9章で書かれた火災の記録は史実と照らし合わせると極めて信憑性が高く、またお七とは別の放火犯である赤坂田町の商家に住む「春」という少女が放火の罪で火あぶりになった事件や少年喜三郎が主人の家に放火した事件を書いた第10章の記述が、江戸幕府の記録である『御仕置裁許帳』に記された史実と一部に違いはあるもののほぼ同じであることから人物の記述についても信憑性が高いものとされてきた。しかし現在では天和笑委集は当時の記録に当たって詳細に作られているが、お七の記録に関してだけは著しい誇張や潤色が入っているとされている。例えば天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされるお七は華麗な振袖を着ていることにしているが、放火という大罪を犯して火あぶりになる罪人に華麗な振袖を着せることが許されるはずもないと専門家に指摘されている。", "qas": [ { "question": "天和笑委集は何章で構成されていますか。", "id": "tr-432-05-000", "answers": [ { "text": "13章", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "天和笑委集の全体の1/5を占めている物語は何ですか。", "id": "tr-432-05-001", "answers": [ { "text": "お七の物語", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "井原西鶴『好色五人女』はお七の事件のわずか3年後に出版され、自ら積極的に恋愛行動に移る町娘という、それまでの日本文学史上画期的な女性像を描き、お七の原典として名高い。西鶴の後続への影響は絶大なもので、特に演劇系統は西鶴を下地にした紀海音を基にするものがほとんどであり、西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受け継いでいる作品が大多数を占めることからも西鶴の影響の大きさが推測される。", "qas": [ { "question": "『好色五人女』はお七の事件から何年後出版されたか。", "id": "tr-432-06-000", "answers": [ { "text": "3年後", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『好色五人女』で、お七の恋人の名前は何ですか。", "id": "tr-432-06-001", "answers": [ { "text": "吉三郎", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "現代の「八百屋お七」の物語では落語などを中心に当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだったとし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するものが多い。人情話としては面白いが専門家からは疑問が呈されている設定であり、またこの設定は西鶴などの初期の八百屋お七物語には見られない。\n\n放火犯について15歳以下ならば罪を減じて遠島にする規定が明確に設けられたのはお七の死後40年ほどたった徳川吉宗の時代享保8年(1723年)になってである。ただし、享保8年(1723年)以前にも年少の殺人犯については死罪は避けようという諸規定は存在したが、放火犯については明確な規定は無く、また『天和笑委集』第10章では13歳の放火犯喜三郎が火刑になった記述がある。", "qas": [ { "question": "当時の江戸では、火付け犯が火あぶりになるのは何歳以上からでしたか。", "id": "tr-432-07-000", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "13歳の放火犯喜三郎が火刑になったという記述は『天和笑委集』の何章にありますか。", "id": "tr-432-07-001", "answers": [ { "text": "第10章", "answer_start": 326, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "江戸時代にもインフルエンザの流行は多く、お七が亡くなった1683年以降の100年間に限っても11回の流行があった。お七の死から120年近くたった1802年の流行は漂着した外国人から伝わっていったとされるもので、長崎から九州各地さらに上方に流行の範囲を広め、その外国人の出身地をとった「アンポン風」や流れ着いた地の「さつま風」あるいはそのころお七の小唄が流行っていたので「お七風」とも呼ばれた。上方では病人がいない家はないほど流行したが死者は多くは出なかった流行風邪である。", "qas": [ { "question": "1683年以降の100年間、インフルエンザは何回流行したか。", "id": "tr-432-08-000", "answers": [ { "text": "11回", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ミラビリス・リベル", "paragraphs": [ { "context": "『ミラビリス・リベル』は、1520年代にフランスで刊行された編者不明の予言集である。フランスで最初に出版された予言アンソロジーで、古今の著名な聖人たちの予言を集めたという体裁になっており、実質的に中世のキリスト教的終末論を独自の視点で総括したものになっている。何度も再版され、同時代の占星術師や神秘思想家たちに対し、直接・間接的に少なからぬ影響を及ぼした。\n\nなお、「ミラビリス・リベル」とは「驚異の書」を意味するラテン語であるが、今日の英語圏、仏語圏の関連文献などでも訳出されることはほとんどなく、半ば固有名詞化しているため、ここでもそのように扱う。", "qas": [ { "question": "『ミラビリス・リベル』は、1520年代、どこで刊行されましたか。", "id": "tr-433-00-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ミラビリス・リベル」はどんな意味をもつラテン語ですか。", "id": "tr-433-00-001", "answers": [ { "text": "「驚異の書」", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『ミラビリス・リベル』は古今の予言を集めたアンソロジーである。本来フランソワ1世の神聖ローマ皇帝選挙立候補を支援する目的で作成されたと考えられており、初版の序文にはそれへの直接的な言及がある。編纂者はフランソワ1世を中世以来の世界最終皇帝のモチーフに重ね合わせており、天使教皇にも関心を寄せていることがうかがえる。\n\n本編は2部構成になっており、第1部にあたる第1章から第23章まではラテン語で、第2部にあたる第24章から第33章はフランス語でそれぞれ書かれている。多くの章で出典となる写本や刊本に関する情報が明記されており、編纂者の学究的な自負の表れと見なされている。\n\nその内容は、どの章も「異教徒の脅威」「反キリスト」「世界最終皇帝」「天使教皇」などのうち1つないし複数に関わる文献を集めたものだが、「世界最終皇帝」をフランス王とし、それを補佐する「天使教皇」もリモージュから現われるとする認識が投影されている点で、従来の予言書とは異なっている。\n\nこの予言書は初版から10年と経たないうちに何度も再版され、同じ時代のギヨーム・ポステル、ノストラダムスらに影響を及ぼした。その後、長い間参照されることはなくなったが、フランス革命が起きるとそれを的中させたとして話題になり、18世紀末に再び注目されるようになった。\n\nまた、20世紀末以降にノストラダムスの文学的分析が蓄積されるようになると、その起源に関する情報源として評価されるようになった。", "qas": [ { "question": "『ミラビリス・リベル』の本編は何部構成になっていますか。", "id": "tr-433-01-000", "answers": [ { "text": "2部構成", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ミラビリス・リベル』の本編第2部はどんな言語で書かれているか。", "id": "tr-433-01-001", "answers": [ { "text": "フランス語", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『ミラビリス・リベル』では、中世に生まれた2つの伝説、すなわち「世界最終皇帝」と「天使教皇」が重要な役割を果たしている。そこで、内容の概説に先立ってそれらについて概観しておく。\n\n「世界最終皇帝」(LastWorldEmperor)とは、ローマ皇帝がキリスト教に改宗したよりも後の時代になって、そこに終末論的意義が後付けされた未来の伝説的名君のイメージであり、その具体像は、後述する『ティブルのシビュラ』や『メトディウスの予言書』などによって形成されていった。彼は一度死んだ後、終末に先立って復活し、ゴグとマゴグや異教徒たちを駆逐した後、役割を終えるとエルサレムに赴いて自らその地位を神に返すとされた。カール大帝(シャルルマーニュ)やフリードリヒ2世はこの「世界最終皇帝」と重ねあわされ、死後も再来が期待された。こうした伝説は特に十字軍遠征のときに好まれ、中には自ら「世界最終皇帝」を僭称する者たちも現れた。\n\n「天使教皇」(PapaAngelicus)は終末に先立って天から遣わされる教皇で、「天使牧者」(PastorAngelicus)とも呼ばれる。その伝説は「世界皇帝」と別系統で発生したもので、正確な起源は不明だが、フィオーレのヨアキムの著書にその萌芽が見られ、ヨアキム主義の展開の中で生まれたとされる。ことにフランシスコ会の心霊派に属するヨアキム主義者たちがボニファティウス8世に弾圧されると、前任の清貧で知られたケレスティヌス5世を死後天使教皇に祭り上げようとする言説が活発になった。こうしたイメージは、後述するジャン・ド・ロックタイヤードの予言や『全ての教皇に関する預言』などによって敷衍、宣布されていった。", "qas": [ { "question": "『ミラビリス・リベル』では、中世に生まれたいくつの伝説が重要な役割を果たしていますか。", "id": "tr-433-02-000", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「天使教皇」の異名は何ですか。", "id": "tr-433-02-001", "answers": [ { "text": "「天使牧者」(PastorAngelicus)", "answer_start": 447, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『メトディウスの予言書』は7世紀末のシリアで成立したと考えられており、原本はシリア語版とギリシア語版があったと想定されている。その内容は天地創造から6千年紀の内容を概説した後、同時代から未来の予言に踏み込むものである。その未来図は以下のように展開する。イシュマエルの末裔がイスラーム教徒たちとともにキリスト教徒を脅かし、様々な破壊行為や悪事を働く。それに対し、とうに死んでいた強大な皇帝が復活して彼らを打ち滅ぼすが、ゴグとマゴグの出現によって世界がさらに荒らされる。ゴグとマゴグが神の援軍によって滅ぼされた後、皇帝はゴルゴダの丘に赴いて帝冠を返上し、役割を終える。その後反キリストが現われてなおも世界を荒らすが、キリストの再臨によってこれも滅ぼされ、最後の審判に至る。\n\nこうした内容には、ビザンティン帝国とイスラーム諸勢力の間で帰属が揺れていたシリアにおいて、キリスト教徒たちが不安定な状況に置かれていたことが投影されている。イスラーム勢力はそのすぐ後に西欧諸国も脅かしたため、同じような問題関心によって『メトディウスの予言書』は8世紀初頭に西欧に持ち込まれ、ラテン語訳もされて受け入れられた。これはトゥール・ポワチエ間の戦いとほぼ同じ時期のことであり、そうした時代背景の中、「世界最終皇帝」のモチーフが広められた。『メトディウスの予言書』は流布した範囲と影響力の点で、『ヨハネの黙示録』に次ぐ黙示文書とする評価さえ存在する。", "qas": [ { "question": "『メトディウスの予言書』は7世紀末、どこで成立したと考えらていますか。", "id": "tr-433-03-000", "answers": [ { "text": "シリア", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『メトディウスの予言書』はいつごろ西欧に持ち込まれましたか。", "id": "tr-433-03-001", "answers": [ { "text": "8世紀初頭", "answer_start": 466, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『メトディウスの予言書』の第2章は第4葉の表面途中から第7葉の表面途中までで、「シビュラの予言」と題されている。これは『シビュラの書』や『シビュラの託宣』ではなく『ティブルのシビュラ』(ティブルティナ・シビュラ)の抄録である。題名はティブルにいたとされるシビュラを示すが、予言書としての正式名を持たない。その名の通り、ティブルのシビュラに仮託された予言書だが、作品中ではシビュラの名がティブルティナないしアルブネアとされている。1898年のエルンスト・ザックル(ErnstSackur)の研究以来、4世紀後半にオリジナルのギリシア語版が成立し、11世紀に現在の形のラテン語版が成立したと考えられている。ただし、4世紀後半の原本は発見されていない。ラテン語版と別系統に発達したギリシア語写本については、6世紀初頭のバールベックで成立したと見なして「バールベックの予言」という呼び方をする者もいる。いずれの推定でも真の著者は特定されていない。", "qas": [ { "question": "『メトディウスの予言書』の第2章は何と題されたいますか。", "id": "tr-433-04-000", "answers": [ { "text": "「シビュラの予言」", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギリシア語版とラテン語版と、どっちの方が先に成立したの?", "id": "tr-433-04-001", "answers": [ { "text": "ギリシア語版", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アドソは920年頃にジュラ地方に生まれた聖職者で、修道院改革にも熱心な人物だった。968年にはモンチエ=アン=デルの大修道院長となったが、後にエルサレムへの巡礼の途上で客死した。ゲルベルガによる反キリストや黙示録に関する下問は、西フランク王国や神聖ローマ帝国の政治問題とも結びついており、神聖ローマ帝国寄りの経歴を持つアドソは微妙な立場におかれていた。そのため、答申は同時代的状況を織り込まない曖昧なものになっており、終末の時期についてもまだ先のこととされた。その論拠となったのがテサロニケの信徒への手紙二で、当時、その文中の終末における「離教」がラテン語でdiscessioと訳されていたために「(政治権力の)分離」と混同されていた。アドソはそれをローマ帝国の政治権力が残らず手放される時と解釈し、西フランク王国が滅亡してローマ帝国の権力が全て離散しない限り、それが成就しないと認識していたのである。", "qas": [ { "question": "アドソは何年ごろに生まれたか。", "id": "tr-433-05-000", "answers": [ { "text": "920年頃", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アドソはいつモンチエ=アン=デルの大修道院長となったの?", "id": "tr-433-05-001", "answers": [ { "text": "968年", "answer_start": 41, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第4章は第7葉裏面の残りだけを占めており、聖セウェルスに帰せられた短い予言が収録されている。セウェルスは4世紀初頭に殉教したラヴェンナの聖人で、彼に仮託された予言がいくつも残されている。\n\n『ミラビリス・リベル』に収録されたバージョンは、1516年にヴェネツィアで出版されたものが元になっていると推測され、ライオンやゾウといった象徴を用いて、反キリスト到来まで、キリスト教世界を分裂させずに平和を保つ名君などが描かれている。なお、聖セウェルスに帰せられている予言には、ロマーニャへの強い関心が投影されているという特色があり、『ミラビリス・リベル』でも、ロマーニャがイタリアの首都になるという予言が含まれている。", "qas": [ { "question": "『ミラビリス・リベル』に収録されたバージョンはどこで出版されたものが元になっていると推測されているか。", "id": "tr-433-06-000", "answers": [ { "text": "ヴェネツィア", "answer_start": 125, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "エアバスA310", "paragraphs": [ { "context": "エアバスA310(AirbusA310)はヨーロッパの企業連合であるエアバス・インダストリー(現エアバス)が開発・製造した中型の双発ジェット機である。A310は、エアバスA300の胴体を短縮して座席数を200席強とした旅客機として開発され、ボーイング機と直接的に競合した初めてのエアバス製品となった。システムのデジタル化や自動化を進めつつ、いわゆるグラスコックピットを導入したことで、A310は操縦士2人だけで運航可能なワイドボディ機の先駆けとなった。A310のエンジンはターボファンエンジンで、ゼネラル・エレクトリック社とプラット・アンド・ホイットニー社の製品を装備する仕様がある。A310シリーズには2つの旅客型、貨客コンバーチブル型、旅客型からの改造による貨物専用型、さらに、軍や政府向けの多目的輸送機・空中給油機(エアバスA310MRTT)が存在する。最初に登場したA310-200は短・中距離路線向けに開発された旅客型であり、1983年にルフトハンザドイツ航空とスイス航空によって初就航した。1985年に初就航したA310-300は、機体寸法はA310-200と同じだが複合材料の採用拡大による機体軽量化、水平尾翼内への燃料タンク増設、燃料移送による機体重心制御の導入などにより最大航続距離性能が強化された。", "qas": [ { "question": "ボーイング機と直接的に競合した初めてのエアバス製品とは、どの航空機であるの?", "id": "tr-434-00-000", "answers": [ { "text": "エアバスA310", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボーイング機と直接的に競合した初めてのエアバス製品のエンジンとしては、どのようなエンジンが使われましたか?", "id": "tr-434-00-001", "answers": [ { "text": "ターボファンエンジン", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A310シリーズ全体における最初の就航は、何年に行われたか?", "id": "tr-434-00-002", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 418, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A310の就航当初は、欧州域内を結ぶ路線や欧州と中東・北アフリカを結ぶ路線を中心に用いられた。1980年代後半になると、ETOPSと呼ばれる双発機の長距離飛行に関する緩和要件が認められ、欧州と北米を結ぶ大西洋横断路線や、欧州と日本を結ぶ長距離国際線でも運航されるようになった。冷戦終結後には、旧東側諸国でも採用され、1991年に西側諸国製の旅客機として初めてロシアの型式証明を取得した。1993年には中古のA310を貨物専用機へ改造する事業が始まった。1998年に初飛行した255号機を最後にA310の生産は途絶え、エアバスは2006年に生産終了を正式発表した。2014年4月までに、A310の機体損失事故は12件発生し、その内の8件は死亡事故である。", "qas": [ { "question": "初めてロシアの型式証明を取得した西側諸国製の旅客機とは、何?", "id": "tr-434-01-000", "answers": [ { "text": "A310", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2014年4月までの12件のA310の機体損失事故でより多くを占めるのは、死亡事故と死亡者が出なかった事故のうち、どちらか?", "id": "tr-434-01-001", "answers": [ { "text": "死亡事故", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アメリカのボーイング社やダグラス社(後のマクドネル・ダグラス社)に販売面や資金力で大きく先行されていたヨーロッパの航空機メーカーは、1970年12月に企業連合「エアバス・インダストリー」を設立し、世界初の双発ワイドボディ機となるA300を開発した。A300の納入は1974年5月に始まり、エールフランスによって商業運航が開始された。当初、A300の販売は苦戦したが、1977年に40機の注文を獲得して状況が好転し、翌年にはイースタン航空からの受注により念願の米国進出も果たした。事業存続の見通しが立ったエアバスは、製品ラインナップの拡充を本格的に考え始め、市場調査に取りかかった。1960年代には航空輸送需要は当分拡大し続けるとの見方が一般的だったが、1973年のオイルショックなどをきっかけとして、ジェット旅客機の需要は急減速していた。一方で、1980年代になれば707や727、ダグラスDC-8などの退役が始まり、後継機として座席数200席強の短・中距離路線向けの旅客機需要が高まると予測された。エアバスではA300の発展版としていくつかの機体案を検討していたが、その一つにA300B10と名付けられた胴体短縮型があり、先の市場予測で需要が見込まれる機体サイズに合致するものであった。旅客機の発展型の開発において、胴体延長型の成功例に対して短縮型の事例は少なかったが、エアバスは市場調査の結果を踏まえ、胴体短縮型の開発に乗り出すことにした。", "qas": [ { "question": "A300における初めての商業運航は、どの航空会社によって行われましたか?", "id": "tr-434-02-000", "answers": [ { "text": "エールフランス", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジェット旅客機の需要が急減速していったきっかけとして、この文書に書かれているのは、何か?", "id": "tr-434-02-001", "answers": [ { "text": "1973年のオイルショック", "answer_start": 326, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A300B10とは、どんな旅客機から胴体を短くした発展版であるの?", "id": "tr-434-02-002", "answers": [ { "text": "A300", "answer_start": 456, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イースタン航空はどの国の航空会社でありますか?", "id": "tr-434-02-003", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 229, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A300B10の当初案では、胴体を単純に切り詰めるだけで、開発経費を抑えるために主翼やシステム類はA300のものをそのまま用いるとされた。しかし、当時、A300B10と同じ市場を狙って、ボーイングが全くの新規開発となる双発ワイドボディ機「7X7」(のちの767)の研究を行っており、エアバスはこれに対抗するため、新型機構想にできるだけ新しい技術を盛り込むことにした。短縮される胴体サイズに合わせて主翼を設計し直すとともに、機体システムのデジタル化・自動化を推進することで、ワイドボディ機として世界で初めて操縦士2人での運航を実現する案がまとめられた。この機体案は、A300から胴体を10フレーム短くすることから、A300-(マイナス)10と名付けられ、後に正式名称がA310と決定された。A310案は、ルフトハンザドイツ航空から50機、スイス航空から20機の受注を獲得し、さらにその後、エールフランスとサベナ航空も発注の意向を示した。これを受けてエアバスは、1978年7月7日に、同社の2番目の製品としてA310を開発することを正式決定し、同月13日にはフランスと西ドイツの政府が事業認可を与えた。これは、A310の直接的な競合機とされた767の開発が正式決定される1日前のことだった。また、イギリス政府は、これまでエアバス・インダストリーへの参加を見合わせていたが、同社が徐々に事業を発展させていく様子を見て方針を転換した。1977年4月に、ホーカー・シドレー社を初めとするイギリスの航空機メーカー4社の統合により国有会社のブリティッシュ・エアロスペース社が設立され、BAe社は1979年1月にフル・パートナーとしてエアバス・コンソーシアムに加盟した。", "qas": [ { "question": "A300B10の機体案は、いくつかの修正を経て最終的には何と呼ばれるようになりましたか?", "id": "tr-434-03-000", "answers": [ { "text": "A310", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルフトハンザドイツ航空とスイス航空のうち、どの航空会社からのA310案に対する受注がより多かったの?", "id": "tr-434-03-001", "answers": [ { "text": "ルフトハンザドイツ航空", "answer_start": 351, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イギリス政府が改めてエアバスプロジェクトに参加したのは、いつからですか?", "id": "tr-434-03-002", "answers": [ { "text": "1979年1月", "answer_start": 690, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A310と直接競合した旅客機は、何?", "id": "tr-434-03-003", "answers": [ { "text": "767", "answer_start": 519, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A310のもともとのコンセプトは、A300の胴体を10フレーム短縮するということだったが、具体的な設計を経て、5か所で合計13フレーム分の短縮が行われることになった。キャビン部では、主翼の前方で6フレーム、主翼の付け根にあたる中央胴体で2か所から各1フレーム、主翼後方で3フレーム取り除かれた。さらに、このままでは機体の重心位置から尾翼までの距離が長くなってしまうので、圧力隔壁の後方にあたるテイルコーン部で2フレーム取り除かれ、合わせて尾部の形状をA300よりも急角度で絞り込むように修正された。以上の変更により、全長が6.96メートル短縮された一方で、キャビン長の短縮分は5.91メートルにとどまり、A300と比較して、A310は胴体長に占めるキャビン長の割合が大きい機体となった。", "qas": [ { "question": "A310の胴体はA300より合計13フレーム分短く設計されたが、主翼の前方と後方のうち、どの部分においてより多くのフレーム分の短縮が行われたのか?", "id": "tr-434-04-000", "answers": [ { "text": "前方", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A310はどのような旅客機をもとにして設計されたのか?", "id": "tr-434-04-001", "answers": [ { "text": "A300", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A310の主翼は、7,000キロメートルの航続距離を無理なく実現しつつ、短距離路線での運航経済性を損なわない、という2つの要求を満たすように新たに設計された。翼型は、A300で採用されたリア・ローディング翼型を洗練させ、翼の後半で得られる揚力がさらに大きくなった。翼平面形については、A300の主翼と比べて大きなアスペクト比を持つ細長い翼となり、翼面積で16パーセントほど小型化された。。A300では、主翼の製造において複雑で大掛かりな外板の加工を避けるため、主翼の翼厚比を一定としたシンプルな形状を採用するとともに、外板を翼幅方向で2枚に分けて製造し、継ぎ手でつなぎ合わせていた。これに対してA310の主翼は、翼の付け根を厚く、翼端にいくほど薄くなるように翼厚比が変化する複雑な曲面をもつ設計となった。さらに、生産設備を改修して翼幅方向に継ぎ目のない外板の製造に踏み切り、主翼の構造重量の低減を図りつつ、主翼内に搭載できる燃料を増やした。高揚力装置の構成については、前縁はA300と変わらないが、後縁のフラップはA300よりも簡略化され、フラップを動作させるトラックレールのフェアリングもA300より1つ少なくなった。また、A300の主翼で設けられていた外翼部の低速用エルロンも廃止された。一方で、主翼動翼の操作系には電気的信号を介するいわゆるフライ・バイ・ワイヤ方式を採用し、スポイラーを左右非対称に展開可能にすることでロール運動の制御にも用いるようにした。以上のように洗練されたA310の主翼は、巡航速度域での揚抗比がA300よりも高くなり、大まかに言うと、同じ揚力を得るのに必要とする推力が小さくて済むようになった。尾翼はA300と同じく胴体に直接配置する一般的な構成とし、垂直尾翼はA300のものが流用されたが、水平尾翼は再設計され翼面積が8パーセントほど小さくなった。降着装置も新規に設計されたが、配置や構成はA300と変わらない。", "qas": [ { "question": "A310とA300のうち、翼の後半で得られる揚力がより小さい翼型を採用したのは、何?", "id": "tr-434-05-000", "answers": [ { "text": "A300", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書では、A310の翼をどの旅客機のものと比較していますか?", "id": "tr-434-05-001", "answers": [ { "text": "A300", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書で、A310とA300を比較するために主に取り上げているのとは、飛行機の翼のうち、どの翼であるか?", "id": "tr-434-05-002", "answers": [ { "text": "主翼", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A310の主翼は、巡航速度域での何がA300より高いか?", "id": "tr-434-05-003", "answers": [ { "text": "揚抗比", "answer_start": 658, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "A310の設計当時、ワイドボディ機の運航には、機長、副操縦士、航空機関士の3名の乗務を必要としていたが、A310では機長と副操縦士の2人だけで運航することを前提として設計された。操縦士の作業負担を低減するため、機体のシステムの一部が自動化されたほか、従来の機械式計器に代えて6基のCRTディスプレイに計器情報を統合的に提示するコックピットが開発された。また、電気信号によって指令を送るフライ・バイ・ワイヤによる操縦システムが、先に述べたスポイラーのほかにスラットやフラップにも採用された。操縦システムのデジタル化・自動化といった技術革新は軍用機で先行して行われ、旅客機へも波及し始めた時期であり、エアバスでは2人乗務化を見据えてA300のコックピットの改良を行っていたが、A310では当初から2人乗務が可能なコックピットの開発・試験が行われた。A310と同時期にボーイングが開発を進めていた757/767でも2人乗務のコックピットを準備していたが、大型機の2人乗務化の是非を巡って議論があったことから、3人の乗務を必要とするコックピットに変更して試験が行われていた。しかし、A310が2人乗務で欧州の型式証明を取得出来る見込みがたったことで、ボーイングは対抗するため、急遽、757/767を2人乗務仕様に戻している。エンジンは高バイパス比のターボファンエンジンを採用し、ゼネラル・エレクトリック社のCF6シリーズ、プラット・アンド・ホイットニー社のJT9Dシリーズ、ロールス・ロイス社のRB211シリーズの3種類を装備する仕様が用意された。ローンチカスタマーのルフトハンザ航空はCF61シリーズ、スイス航空はJT9Dシリーズを選択した。R-R社のRB211エンジン装備仕様については、以降も選択する航空会社が現れず、結局生産されなかった。", "qas": [ { "question": "A310と同時期に設計が進み、A310と同じく2人乗務仕様であったボーイングの旅客機は、757と何か?", "id": "tr-434-06-000", "answers": [ { "text": "767", "answer_start": 541, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A310のエンジンとして用意された3種類のエンジンのうち、結局選ばれなかったのは、何?", "id": "tr-434-06-001", "answers": [ { "text": "RB211エンジン", "answer_start": 723, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A310の設計当時、ワイドボディ機の運航には、何名の乗務が必要とされていましたか?", "id": "tr-434-06-002", "answers": [ { "text": "3名", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボーイングは、どんな旅客機を意識し、757/767を改めて2人乗務仕様にしたのか?", "id": "tr-434-06-003", "answers": [ { "text": "A310", "answer_start": 487, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A310の胴体断面はA300と共通であるため、客室内の幅、高さ、そして座席配置なども基本的には変わらず、LD-3航空貨物コンテナを横2列で収納可能な床下の貨物室も引き継がれた。内装ではオーバーヘッド・ビン(座席上の荷物棚)が新しくなり、棚の下端部には通路を移動する乗客のための手すりが設けられた。A310では複合材料の採用範囲が拡大された。A300の設計当時は、ガラス繊維強化プラスチック(GFRP)を除く複合材料は、戦闘機などで採用が始まったばかりであり、A300での複合材料の使用はごく一部にとどまっていた。これが、1970年代末になると炭素繊維強化プラスチック(CFRP)などが民間機でも普及し始めており、A310ではフェアリングなど一部の二次構造部材に採用された。使用された炭素繊維は日本の東レが供給した。当初のA310の開発計画では、航続距離が異なる2つのタイプが検討されていた。A310-100は燃料タンクを主翼のインテグラルタンクのみとした短距離型、A310-200は中央翼内にもタンクを加えて燃料搭載量を増やした中距離型である。A310-100の航続距離は約3,400キロメートルで欧州域内や米国内の路線向け、一方でA310-200は航続距離が6,500キロメートルほどで北米大陸の横断も可能な仕様であった。この2タイプが航空会社に提案されたが、航空会社からの発注はA310-200型に集中し、エアバスではA310-100も受注があれば生産可能としていたが、結局1機も注文がなく製造されなかった。", "qas": [ { "question": "炭素繊維強化プラスチックが民間機でも利用され始めたのは、いつからなの?", "id": "tr-434-07-000", "answers": [ { "text": "1970年代末", "answer_start": 260, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A310でフェアリングなど一部の二次構造部材に採用された複合材料を構成する炭素繊維は、どの会社の製品でありましたか?", "id": "tr-434-07-001", "answers": [ { "text": "東レ", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A310-100とA310-200のうち、より長い距離を飛べた航空機はどれか?", "id": "tr-434-07-002", "answers": [ { "text": "A310-200", "answer_start": 432, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A310シリーズの中で、航続距離が短く、1機も製造されなかったのは、何か?", "id": "tr-434-07-003", "answers": [ { "text": "A310-100", "answer_start": 611, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A310の生産はA300と同じく国際分業体制によって行われ、エアバスへの出資各社の分担は表2の通りに割り当てられた。ベルギーのベルエアバス社もエアバスとの契約に基づきA310の生産に参加したほか、尾部の生産はドイチェ・エアバスの下請けとしてイタリア企業が担当した。最終組み立てと試験飛行は、A300と同様にフランスのトゥールーズで行われた。A310の1号機はA300の162号機を改造して作られ、1982年2月16日にロールアウトし、同年4月3日に初飛行した。A310の1号機はロールアウト時には、ローンチカスタマーとなったスイス航空とルフトハンザ航空の両社に敬意を表して、右半分にスイス航空、左半分にルフトハンザ航空の塗装が施された。A310の1号機と2号機は、P&Wのエンジンを搭載しており、GE製エンジンを装備した最初の機体は3号機で1982年8月5日に初飛行した。型式証明を取得するための試験には、1号機から5号機が投入された。試験は順調に進み、燃費性能や航続距離などで計画値を上回る性能が確認された。1983年3月11日に、フランスと西ドイツの航空当局によってA310の最初の型式証明が発行された。同月29日に、ローンチカスタマーであるルフトハンザ航空とスイス航空への引き渡しセレモニーが執り行われ、納入が始まった。", "qas": [ { "question": "A300の最終組み立てと試験飛行は、どの国で行われたの?", "id": "tr-434-08-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 153, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A310の1号機の初飛行は何年に行われましたか?", "id": "tr-434-08-001", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "P&WのエンジンとGE製エンジンのうち、どのエンジンを装備したA310がより早く製造されたか?", "id": "tr-434-08-002", "answers": [ { "text": "P&Wのエンジン", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A310の最初の型式証明を発行したのは、フランスのほかに、どの国の航空当局であったのか?", "id": "tr-434-08-003", "answers": [ { "text": "西ドイツ", "answer_start": 472, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ルフトハンザ航空は1983年4月10日、フランクフルトからシュトゥットガルトならびにロンドンを結ぶ2路線にA310を就航させた。スイス航空も同月21日にA310の商業運航を開始し、チューリッヒおよびジュネーヴからロンドン、パリ、フランクフルトを結ぶ各線に就航した。ローンチカスタマーの2社では、新型機につきものの小さなトラブルのほか、A310のデジタル化・自動化されたコックピットに関連して、それまで経験したことのない問題への対処が必要となったが、これらは航空会社が予測していたほどではなく、A310への信頼や評判を落とすほどの大きな技術的問題は見られなかった。1週間および1か月あたりの出発信頼度は両社とも97パーセントを超え、数か月の運用経験を経てさらに上昇した。初期の運用で明らかになったインタフェースやソフトウェアなどに関する問題点はエアバスにフィードバックされ、改善策が施された。最初の数か月は、スペアパーツや消耗品が不足したり、装置やソフトウェアの改修に伴う説明書等の供給が遅れたりしたが、メーカー側による改善の努力がなされた。A310の17号機は、最大離陸重量を138,600キログラムに増やした改良型となり、1983年9月にフランスの型式証明を取得し、以降はこのタイプが標準型とされた。", "qas": [ { "question": "ローンチカスタマーの2社のA310に対する1週間および1か月あたりの出発信頼度は、運用経験を重ねる中で上昇したのか、もしくは、減少したのか?", "id": "tr-434-09-000", "answers": [ { "text": "上昇した", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "A310の標準型とされるものとは、開発初期のものから何を増加させた改良型であるの?", "id": "tr-434-09-001", "answers": [ { "text": "最大離陸重量", "answer_start": 481, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルフトハンザ航空とスイス航空のうち、A310の運航開始時期がより遅かったのは、どの航空会社ですか?", "id": "tr-434-09-002", "answers": [ { "text": "スイス航空", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A310は、欧州の航空会社ではルフトハンザ航空とスイス航空のほかにKLM、サベナ航空やエールフランスなどでも採用され、ヨーロッパの各都市を結ぶ路線のほか、ヨーロッパと北アフリカや中東を結ぶ路線にも就航した。欧州以外で最初にA310を導入したのはクウェート航空で、1983年9月に初引き渡しが行われた。また、翌年にはキプロス航空や、アフリカのアルジェリア航空、ナイジェリア航空でもA310の導入が始まり、これらの航空会社では欧州線などに就航させた。アジアで最初にA310を導入したのはシンガポール航空で、同社は1984年11月に最初の機体を受領してアジア路線を中心に就航させ、続いて翌年6月にはアジアで2番目の運航者となった中国民用航空局への引き渡しも行われた。この頃、A310-200をベースに貨客コンバーチブル型のA310-200Cも開発された。A310-200Cは、メインデッキ(機体上半分の客席を設ける部分)に貨物と乗客の両方を収容可能にする設備を有するモデルで、1984年11月27日に型式証明を取得し、同月29日に1号機がマーティンエアーに納入された。さらに、A310-200について、最大離陸重量をもう一段階引き上げたオプションが設定され、1984年11月に型式証明を取得した。米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration)からA310-200の型式証明が交付されたのは、欧州から2年ほど遅れて1985年2月21日であった。同年5月、パンアメリカン航空に対して米国の航空会社として第1号となる引き渡しが行われ、同社は727の後継機としてA310を就航させた。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパ以外でA310が初めて引き渡されたのは、どの航空会社へか?", "id": "tr-434-10-000", "answers": [ { "text": "クウェート航空", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "米国で初めてA310を導入したのは、どの航空会社なの?", "id": "tr-434-10-001", "answers": [ { "text": "パンアメリカン航空", "answer_start": 639, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A310-200をベースにした貨客コンバーチブル型の1号機がカスタマーに納入されたのは、何年何月のことですか?", "id": "tr-434-10-002", "answers": [ { "text": "1984年11月", "answer_start": 435, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A310-200の開発が決定した当時、双発機の飛行ルート設定に際して、安全上の理由により60分以内に着陸可能な飛行場があることが求められ、大陸間路線などの長距離路線には3発機や4発機が用いられていた。しかし、エンジンの信頼性や性能の向上にともない、1980年代に入ると、双発機の飛行経路に関する制限を緩和する検討が本格化した。また、A310-200の納入が始まる頃には、航空会社は、以前よりも機材の航続距離の長さを重視するようになっていた。このような状況下で、エアバスは、A310の航続距離をさらに延ばした発展型として、A310-300を開発することにした。A310-300のローンチカスタマーはスイス航空に決まり、1983年3月29日に行われたA310-200の引き渡しセレモニーの場で発表された。A310-300は機体の寸法はA310-200と変わらず、航続距離を伸ばすために、水平安定板の内部にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やすことになった。また、尾翼と主翼の燃料タンクの間で燃料を移送し、機体の重心位置を制御するシステムが搭載された。このシステムによって機体の姿勢を一定に保つのに必要なトリム抵抗を最小限に抑えられ、運航経済性の向上が図られた。燃料を移動してトリム調整を行う技術は超音速旅客機コンコルドで開拓されたもので、水平尾翼内に燃料タンクを設けて重心の制御を行った旅客機はA310-300が初めてであった。さらに、燃料搭載量を増やすオプションとして、LD-3貨物コンテナ2個分のサイズで貨物室内に取り外しできるようにした補助中央タンク(AuxiliaryCenterTanks)が用意された。", "qas": [ { "question": "水平尾翼内に燃料タンクを設けて重心の制御を行った最初の旅客機は、何?", "id": "tr-434-11-000", "answers": [ { "text": "A310-300", "answer_start": 595, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A310-300はA310-200の仕様から何を増やし、航続距離を伸ばしたモデルであるか?", "id": "tr-434-11-001", "answers": [ { "text": "燃料搭載量", "answer_start": 410, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A310の航続距離をさらに延ばした発展型のローンチカスタマーが発表されたのは、いつですか?", "id": "tr-434-11-002", "answers": [ { "text": "1983年3月29日", "answer_start": 308, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A310-300では尾翼と主翼の燃料タンクの間で燃料を移送し、機体の重心位置を制御することにより、どのような抵抗を最小限に抑えられましたか?", "id": "tr-434-11-003", "answers": [ { "text": "トリム抵抗", "answer_start": 499, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A310-200では二次構造部材として使われていた複合材料の適用範囲がA310-300ではさらに拡大され、量産旅客機として初めて垂直安定板の一次構造部材にもCFRPが用いられ、機体の軽量化が図られた。そのほか、A310-300では、主翼の翼端渦を抑えて揚抗比を向上させるため、翼端にウイングチップ・フェンスと名付けられた矢尻状の板が追加され、後にA310-200でもウイングチップ・フェンス追加改修が行われた。エンジンは、A310-200と同様にR-R社、P&W社、GE社の製品から選択できるようにしたが、R-R社のエンジンを選択した発注はなかった。A310-300の1号機はJT9Dエンジン装備仕様で、1985年7月8日に初飛行した。同年12月5日にA310-300として最初の型式証明を取得、17日にはスイス航空に初引き渡しが行われ、商業運航が開始された。また、A310-300にはP&W社の新型エンジン、PW4000シリーズを装備したモデルも登場し、1987年5月27日に型式証明を取得した。", "qas": [ { "question": "A310-300のエンジン仕様として用意された3つのエンジンの中で、結局使用されなかったのは、どの会社の製品ですか?", "id": "tr-434-12-000", "answers": [ { "text": "R-R社", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "より早く型式証明を取得したA310-300は、JT9DエンジンとPW4000シリーズのうち、どのエンジンを装備したものだったの?", "id": "tr-434-12-001", "answers": [ { "text": "JT9Dエンジン", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A310-300の開発と時期を同じくして、規制当局や機体メーカー、航空会社らによって双発機の長距離運航を認める要件がまとめられ、1985年にETOPSと呼ばれる規格が策定された。当時、ETOPS認証を取得するためには一定時間以上の飛行実績を必要とし、1986年4月10日にA310で初めての120分ETOPS(飛行ルート中に120分以内に着陸可能な空港があれば良い)が認められた。ETOPSはエンジンとの組み合わせで認証されるものであり、各エンジン搭載型の認証日ならびに、後に許容時間が180分に延長された「180分ETOPS」の認証取得日は後述の表3に示した通りである。航続距離が伸びたこととETOPSの要件を満たしたことで、A310は大西洋横断路線のような長距離洋上路線や、アジアとヨーロッパを結ぶ大陸横断路線へも就航可能となった。パンアメリカン航空やオーストリア航空は、欧州と米国を結ぶ北大西洋横断航路にA310を投入した。また、トルコ航空とオーストリア航空はそれぞれトルコ、オーストリアと日本を結ぶ長距離国際線にもA310-300を就航させた。そのほか、1985年6月にはシンガポール航空がA310をシンガポール-モーリシャス線に就航させており、これは4,000海里(約7,400キロメートル)近い飛行ルートの大半が洋上となる路線であった。", "qas": [ { "question": "A310で初めての120分ETOPSが認められたのは、いつか?", "id": "tr-434-13-000", "answers": [ { "text": "1986年4月10日", "answer_start": 125, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1985年6月にシンガポール航空は、A310を本国とどの国を結ぶ路線に就航させたか?", "id": "tr-434-13-001", "answers": [ { "text": "モーリシャス", "answer_start": 511, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation 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"question": "インターフルークにおける最初のワイドボディ機は、何?", "id": "tr-434-14-000", "answers": [ { "text": "A310", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1991年時点でのA310の最大運用者は、誰か?", "id": "tr-434-14-001", "answers": [ { "text": "パンアメリカン航空", "answer_start": 346, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1993年と1994年のうち、A310をより多く納入したのは、いつですか?", "id": "tr-434-14-002", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 452, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "西洋ではどんどん運用されなくなったA310を、1990年代に入ってから導入し始めた国々とは、合わせて何と呼ばれたか?", "id": "tr-434-14-003", "answers": [ { "text": "開発途上国", "answer_start": 602, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] } ] }