{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "京子", "paragraphs": [ { "context": "京子(きょうこ、1917年9月-1945年4月24日)は、恩賜上野動物園で飼育されていたメスのカバである。\n1919年(大正8年)に京城(現在のソウル特別市)から上野動物園に来園し、後に同じく京城から来園したオスの「大太郎」(1944年死亡)との間に子カバの「マル」(オス)をもうけた。\nしかし、戦争によるエサ不足を理由に絶食による処分が決められ、マルとともに死亡している。\n作家の早乙女勝元は、京子たちを題材として童話『さようならカバくん』を1988年(昭和63年)に発表している。", "qas": [ { "question": "京子が出生したのはいつ?", "id": "tr-195-00-000", "answers": [ { "text": "1917年9月", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "京子の性別は?", "id": "tr-195-00-001", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "京子はどこから上野動物園に入ったの?", "id": "tr-195-00-002", "answers": [ { "text": "京城", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "京子の子は何という名前だったの?", "id": "tr-195-00-003", "answers": [ { "text": "「マル」", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "上野動物園でのカバ飼育の始まりは、1911年(明治44年)にさかのぼる。\n最初に来園した子カバは、1907年(明治40年)まで上野動物園の監督(最高責任者)を務めていた動物学者の石川千代松とドイツの動物商カール・ハーゲンベックとの通算6回目で最後となる取引によって購入されたもので、カバとしては日本への初渡来となる個体であった。\n子カバは生後1年半のオスで、当時の巡査の初任給が12円から13円だった時代においての値段は5,401円4銭で、運賃や保険料などを含めると約7,000円の費用がかかった。\n子カバは2月23日に上野動物園に到着した。\nただし、飼育と展示だけではなく繁殖までを視野に入れていた石川の意図にもかかわらず、つがいではなくオスの子カバを1頭しか購入できなかった。\nただしこの子カバは、狭い運動場や2間四方(3.6メートル四方)と小さい上に浅いプールという劣悪な飼育環境の上に、本来群れで生活するカバの習性に反して孤独な状態におかれたことなどが重なって、1912年(大正元年)11月21日にわずか3歳で死亡した。", "qas": [ { "question": "上野動物園で最初にカバが来園したのはいつですか?", "id": "tr-195-01-000", "answers": [ { "text": "1911年", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "子カバの取引にかかった費用は全部でいくらでしたか?", "id": "tr-195-01-001", "answers": [ { "text": "約7,000円", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "子カバの取引をした日本人は誰ですか?", "id": "tr-195-01-002", "answers": [ { "text": "石川千代松", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "子カバは何歳で死にましたか?", "id": "tr-195-01-003", "answers": [ { "text": "3歳", "answer_start": 456, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1919年(大正8年)、2番目のカバが京城の昌慶苑動物園から来園することになった。\n当時の上野動物園は宮内省の所管だったため、同じく宮内省所管の昌慶苑動物園からカバを「贈呈」というかたちで移動させる話が進んだ。\n昌慶苑動物園では、上野動物園より1年遅れの1912年にハーゲンベックからカバをつがいで購入した。\nこのカバのつがいは1914年から第2次世界大戦中に至る30年ほどの間に、12頭以上の子をもうけていた。\n贈呈されることになったカバはメスで、1917年9月生まれの子であった。", "qas": [ { "question": "2番目のカバはどこの動物園から来園することになりましたか?", "id": "tr-195-02-000", "answers": [ { "text": "昌慶苑動物園", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "昌慶苑動物園はどこにあったの?", "id": "tr-195-02-001", "answers": [ { "text": "京城", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "昌慶苑動物園は誰からカバのつがいを買ったの?", "id": "tr-195-02-002", "answers": [ { "text": "ハーゲンベック", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1919年当時の上野動物園はどこの管轄下に置かれていたの?", "id": "tr-195-02-003", "answers": [ { "text": "宮内省", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1919年(大正8年)7月末、上野動物園の黒川義太郎は、新橋の運送業者と運搬の手はずを整えた上でカバを受け取るために京城まで赴いた。\nしかし、黒川が8月1日に昌慶苑動物園に到着してみると、カバの脱出騒動が起こっていた。\n騒動の原因となったのは上野動物園に運搬予定のカバの母親で、当時妊娠中だったために気が荒くなっていたという。\nこの騒動は夜中になってやっと収まり、母カバはもとのプールに戻った。\n実はこのとき、東京で手配し船便で仁川経由で運搬していたカバ用輸送箱が予定の日時までに京城に到着しなかったため、黒川は昌慶苑動物園側への言い訳を考えながらカバ受け取りに赴いていたという。\n後に黒川は自著で「脱出事件で、ボロも出ないで済んだ」と述べている。", "qas": [ { "question": "カバを受け取りに京城に行った日本人は誰だったの?", "id": "tr-195-03-000", "answers": [ { "text": "黒川義太郎", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "昌慶苑動物園では何の脱出騒動があったの?", "id": "tr-195-03-001", "answers": [ { "text": "カバ", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "黒川義太郎が昌慶苑動物園に着いたのはいつですか?", "id": "tr-195-03-002", "answers": [ { "text": "8月1日", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "8月2日にカバは上野行きの輸送箱に収容され、8月7日に京城を出発した。\n運搬は鉄道と関釜連絡船によって行われ、8月13日に上野動物園に到着した。\nこのカバは京城の1字をとって「京子」と命名された。\n京子は健康な個体で、順調に成長していった。\n1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生して東京は甚大な被害を受けた。\n上野恩賜公園は被災した市民たちの避難場所となり、上野動物園も即日閉園せざるを得なかった。\n上野動物園自体の被害は少なく、動物たちも来園者たちも直接負傷するようなことはなかった。\nただし、臆病な性格の京子は怯えきってプールの底に潜ったままになってしまい、ときおり呼吸のために水面から鼻面を出す以外は全く姿を見せなくなった。\n飼育担当者たちがこのまま餓死してしまうのではないかと気をもんでいたところ、京子は大震災発生から3日後の朝に水面から顔を出して、ようやくエサを食べて無事な姿を見せた。", "qas": [ { "question": "京城から来たカバの名前は何になったの?", "id": "tr-195-04-000", "answers": [ { "text": "「京子」", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「京子」という名前の由来となる地はどこですか?", "id": "tr-195-04-001", "answers": [ { "text": "京城", "answer_start": 78, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カバが上野動物園に到着したのはいつですか?", "id": "tr-195-04-002", "answers": [ { "text": "8月13日", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "京子は大地震発生から何日後にやっと顔を出したの?", "id": "tr-195-04-003", "answers": [ { "text": "3日後", "answer_start": 370, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1927年(昭和2年)、新しいカバが上野動物園に来園することになった。\n飼育係の高橋峯吉は、京子の「お婿さん」になるオスカバが来るという知らせを聞いて「そりゃあよかったですね。ハーゲンベックからですか」と黒川に質問している。\n高橋のこの質問について『物語上野動物園の歴史』の著者、小宮輝之(元上野動物園園長)は、「ハーゲンベックの名が出たのは、カバの将来のために京子との血縁のないオスを迎えたいという気持ちが思わず言葉に出たものであろう」と推測している。\nしかし、来園が決まったのは京子と同じく昌慶苑動物園生まれで、1925年(大正14年)5月生まれの京子の弟にあたる個体であった。\n京子のときには同じ宮内省所管の動物園ということで輸送料などの実費を除いて無償譲渡のかたちであったが、今回については上野動物園がすでに東京市の所管となっていたため、李王職から1頭7,000円で購入することになった。", "qas": [ { "question": "京子の次に来園したカバはいくらで購入されたのですか?", "id": "tr-195-05-000", "answers": [ { "text": "7,000円", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1927年当時の上野動物園はどこか所管していましたか?", "id": "tr-195-05-001", "answers": [ { "text": "東京市", "answer_start": 358, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新しく来園するオスカバは、京子にとってどのような血縁関係となっていますか?", "id": "tr-195-05-002", "answers": [ { "text": "弟", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新しいオスカバの出生地はどこですか?", "id": "tr-195-05-003", "answers": [ { "text": "昌慶苑動物園", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1927年(昭和2年)8月9日、東京市の主任技師となっていた黒川は飼育係の高橋とともに東京から京城に出張した。\n8月14日に内法で長さ7尺4寸、高さ4尺、幅3尺(約220×120×90センチメートル)の輸送箱をカバ舎に据え付けて馴らし始め、22日に子カバを輸送箱内に収容し、25日に昌慶苑動物園を出発して南大門駅で貨車に積み込み、翌日釜山に到着した。\n釜山で関釜連絡船「昌慶丸」の甲板に積み込み、27日の朝に下関港に到着した。\n下関からは急行貨物列車で27日午後10時45分に出発し、4日目の30日午前0時20分に東京の汐留駅に到着した。\n当時の下関で鉄道省の責任者として業務にあたったのは、後に総理大臣となる佐藤栄作であった。\n佐藤はカバの付添人の便利を考慮して荷物室に車掌室が付属した貨物緩急車を準備し、夏場で水を大量に必要とするカバの輸送のために、水桶2個を一緒に積み込んだ上で途中停車する13の駅では給水の準備を指示するという用意周到で行き届いた配慮を見せている。\n上野動物園に到着したカバは、当時の京子に比べてあまりにも小さかったので、最初のうち「小僧」と呼ばれていた。\nしかし「小僧」の成長はめざましく、やがて京子よりも大きくなったため名を「大太郎」と改めた。", "qas": [ { "question": "子カバは何日に下関に着きましたか?", "id": "tr-195-06-000", "answers": [ { "text": "27日", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "来園したばかりのカバは何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-195-06-001", "answers": [ { "text": "「小僧」", "answer_start": 478, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「小僧」はその後何と改名しましたか?", "id": "tr-195-06-002", "answers": [ { "text": "「大太郎」", "answer_start": 526, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1927年当時の下関で鉄道省の責任者だったのは誰ですか?", "id": "tr-195-06-003", "answers": [ { "text": "佐藤栄作", "answer_start": 305, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1929年(昭和4年)、新しいカバ室が完成した。\n新しいカバ室のプールは広く深く設計され、広い運動場が左右に2部屋設置されてカバの妊娠や分娩の際にはメスとオスが分離できるように配慮されていた。\n5月19日に一度引っ越しを試みたものの、京子が怖気づいて暴れたため、中止せざるを得ず、しかも5月31日には初めての子を流産していた。\n7月と8月に改めて行われた京子と大太郎の新カバ室への引っ越しの指揮は、病気がちになっていた黒川に代わって前年に動物園に入ったばかりの古賀忠道が執った。\n2回目の引っ越しの際も京子は暴れたが、何とか新しいカバ室に移すことができた。\nようやくのことで新しいカバ室に着いた京子は暴れすぎた反動でへたり込み、プールに入ったままで2週間もの間新設された運動場に出ることがなかった。\nそれに比べて大太郎の引っ越しは何の苦労もなく、作業にあたった人々が拍子抜けするほどであった。\n後に高橋は自著『動物たちと五十年』に「やっぱり、オスは度胸がいいんだね、と私たちは語りあった」と記述している。", "qas": [ { "question": "新しいカバ室が完成したのはいつですか?", "id": "tr-195-07-000", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "黒川に代わって2頭のカバの引っ越しを指揮した人は誰?", "id": "tr-195-07-001", "answers": [ { "text": "古賀忠道", "answer_start": 230, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カバの最初の引っ越しはいつ行われましたか?", "id": "tr-195-07-002", "answers": [ { "text": "5月19日", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "京子が流産したのはいつ?", "id": "tr-195-07-003", "answers": [ { "text": "5月31日", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "京子が弟の大太郎とつがいにされたのは、当時の動物園関係者の間に広がっていた「因習」が原因となっていた。\nまず子を産ませることが優先され、近親交配による弊害は軽視された。\nさらにカバなどの偶蹄目は、近親交配に「強い」とされてきたことも理由の1つであった。\n京子と大太郎は、1928年(昭和3年)10月12日に交尾が確認されていた。\nその後京子の妊娠が確認されたため、新しいカバ室への移動を急ぐ必要があったが、新築工事はなかなかはかどらなかった。\n1度引っ越しに失敗した後、京子は1929年(昭和4年)5月31日に流産した。\n翌日プールの底から子が収容されたが、すでに死んでいた。\n剖検の結果、この子は京子の体内で数日前に死亡していたことが判明した。\n次の出産は1936年(昭和11年)7月8日で、そのときの子はわずか8日間生存したのみであった。", "qas": [ { "question": "カバは近親交配に強いか弱いか?", "id": "tr-195-08-000", "answers": [ { "text": "強い", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1936年7月8日に生まれた赤ちゃんカバは何日間生きたの?", "id": "tr-195-08-001", "answers": [ { "text": "8日間", "answer_start": 357, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "3度目の出産は、1938年(昭和13年)5月27日のことであった。\n3度目の子はオスで元気に育ち、「マル」と名付けられた。\n6月10日にはガラス越しに公開し、6月21日には通常公開とした。\nその後京子は1942年(昭和17年)8月3日に4番目の子を流産していて、結局無事に育ったのはマルのみであった。\n時代は戦争の影が次第に濃くなっていった。\n日中戦争が始まった1937年(昭和12年)夏から1940年(昭和15年)頃までは、戦場で荷物運搬などで使役された動物たちが「戦功動物」として動物園で飼育展示されたり、行事に参加したりすることがある種の「流行」となっていた。\n上野動物園でも、盧溝橋事件で「戦功」を挙げ、第2次世界大戦後に「入れ歯をはめたロバ」として有名になる一文字号などが来園したのはこの時期であった。\nこの時期の上野動物園では公式に園長という職名はなく、最高責任者は「主任技師」という職名であった。\n1936年(昭和11年)7月25日に発生したクロヒョウ脱走事件を契機に、危険な動物を飼育している動物園としては責任体制が不明確だと報道関係者などから問題視する声が上がった。\nそれに応えて上野動物園に正式な園長制度を設けることになり、1937年(昭和12年)3月1日、当時34歳の古賀が「東京市保健局公園課上野恩賜動物園長」に任命され、副園長格の「飼育掛主任」には技師の福田三郎が任命された。", "qas": [ { "question": "戦場で荷物運搬などで使役された動物たちのことを何と言いますか?", "id": "tr-195-09-000", "answers": [ { "text": "「戦功動物」", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "一文字号が戦功を挙げた歴史的事件とは何ですか?", "id": "tr-195-09-001", "answers": [ { "text": "盧溝橋事件", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「東京市保健局公園課上野恩賜動物園長」に任命された時の古賀はいくつでしたか?", "id": "tr-195-09-002", "answers": [ { "text": "34歳", "answer_start": 541, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "クロヒョウ脱走事件の発生を受けて、各地の動物園では空襲と危険な動物の脱走などの非常事態に備えた訓練が実施され始めた。\n1937年(昭和12年)9月18日、上野動物園では緊急猛獣脱出対策演習が行われた。\nクロヒョウ脱走事件のちょうど2年後にあたる1938年(昭和13年)7月25日には動物脱出捕獲演習が行われ、同年9月12日には動物園内の5つの場所に避難所を設けて「防空演習」を実施している。\n戦局は悪化の一途をたどり、人間の食糧事情が悪化するとともに動物たちのエサも不足し始めた。\n1937年(昭和12年)9月には、ライオン、トラ、ヒョウなどの肉食獣にエサとして魚肉を与える実験が行われた。\n草食動物の飼料の調達も困難になっていき、1941年(昭和16年)になると草食動物の飼料に茶殻を集めたり、公園の樹木や街路樹などの剪定があったときはその枝葉を貰い受けたりしていた。\n肉食獣向けの飼料には、ニワトリの頭が主力となり、1941年(昭和16年)11月にはネズミの肉なども使用した。\nエサの調達に苦心する上野動物園では、草食獣の中で同じ種がたくさんいるものについては「整理」することとした。\n1941年(昭和16年)2月18日にはヒマラヤグマ3頭とニホンツキノワグマ1頭が銃殺された他、ヤギなどが「整理」の対象となって、その肉が肉食獣のエサとなった。", "qas": [ { "question": "緊急猛獣脱出対策演習が行われるきっかけとなった事件は何ですか?", "id": "tr-195-10-000", "answers": [ { "text": "クロヒョウ脱走事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒマラヤグマとニホンツキノワグマはどちらが多く銃殺されましたか?", "id": "tr-195-10-001", "answers": [ { "text": "ヒマラヤグマ", "answer_start": 514, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ニワトリの頭とネズミの肉はどちらが先に肉食獣向けの飼料になりましたか?", "id": "tr-195-10-002", "answers": [ { "text": "ニワトリの頭", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "上野動物園では1941年(昭和16年)7月29日に園長の古賀が応召し、8月1日に福田が園長代理となった。\n福田は陸軍の東部軍司令部獣医部から。\n非常時における動物園の対策についての文書提出を求められた。\n福田はその求めに応じて『動物園非常処置要綱』を提出した要綱では飼育動物を「危険度」に応じて4段階に分類していた。\n最も危険な「第1種危険動物」にはライオン、トラ、ヒョウなどの肉食獣の他に草食獣のカバまでが含まれていた。\n1943年(昭和18年)7月、東京市は「帝都防衛の強化」を理由として東京府に併合され、東京都が発足した。\n8月16日、福田は古賀(南方での1年余りの勤務を経て世田谷の陸軍獣医学校に勤務し、週2回ほど上野動物園に応援獣医として出向していた)とともに呼び出された。\n2人は井下清公園課長から「1か月以内にゾウと猛獣類を射殺せよ」との東京都長官大達茂雄からの命令を伝達された。\n射殺の命令は、周囲の住民に動揺を与えるとの理由で「毒殺」に変更された。\n井下、古賀、福田は大達の命令には従わざるを得ないものの、せめてゾウのうち2頭と猛獣たちの助命はできないものかと話し合った。\n仙台市の動物園からはゾウのメス「トンキー」と生後間もないヒョウの子を引き受けるという回答があったが、その話を知った大達は激怒したといい、結局2頭の仙台行きは叶わなかった。", "qas": [ { "question": "射殺の命令はその後何に変更されましたか?", "id": "tr-195-11-000", "answers": [ { "text": "毒殺", "answer_start": 423, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「第1種危険動物」に含まれていた草食獣とは何?", "id": "tr-195-11-001", "answers": [ { "text": "カバ", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "動物たちの「処分」は、8月17日のホクマンヒグマ1頭と別のクマのオス1頭から始まった。\nホクマンヒグマの方は、1940年7月に高松宮から下賜された個体であった。\nその後も薬殺や絶食などによる「処分」は続き、9月23日のトンキーの死で14種27頭の「処分」が終了した。\nカバたちは、この「処分」対象からは外れていた。\nしかしエサ不足が深刻になっていく中で、大太郎は胃腸炎に罹患して1944年(昭和19年)3月18日に19歳で死亡した。\n京子とマルは生き延びたが、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲後は飼料の確保がさらに困難になり、絶食による「処分」が決められた。\nまず、3月19日午前10時にプールから水が抜かれた。\n同日からはエサが与えられなくなり、4月1日にマルが死亡した。\n京子はいくらか残っていたプールの水をなめるなどして生き延びたが、絶食から36日目にあたる4月24日に力尽きた。\n京子の死亡日と同日に、上野動物園に久々に干し草やわらなどの飼料を積んだトラックが到着したが、すでに遅かった。\n母子のカバは、動物慰霊碑から20メートルほど離れたところに埋められた。\n後に母子の骨は、1987年(昭和62年)の上野動物園百年記念行事にかかる植栽工事の際に掘り出された。", "qas": [ { "question": "大太郎、マル、京子の中で最後に死んだのはどれですか?", "id": "tr-195-12-000", "answers": [ { "text": "京子", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マルと京子にエサが与えられなくなった日はいつですか?", "id": "tr-195-12-001", "answers": [ { "text": "3月19日", "answer_start": 290, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "作家の早乙女勝元は、京子たちを題材として、童話『さようならカバくん』を1988年(昭和63年)に発表した。\nこの作品は、空襲で避難した先の動物園でカバの京子と大太郎の2頭と仲良くなった少年の物語である。\n成長して小学校の教師となった少年が、2頭のたどった悲しい運命を教え子たちに語るという構成であった。\nこの作品にはマルは登場せず、大太郎が大空襲後も生き残っているなど、いくつか史実との差異がある。\n『さようならカバくん』は1995年(平成7年)にアニメ映画となり、子供たちのための人権教育教材として活用されている。", "qas": [ { "question": "『さようならカバくん』の作者は誰ですか?", "id": "tr-195-13-000", "answers": [ { "text": "早乙女勝元", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『さようならカバくん』は何年にアニメ映画となりましたか?", "id": "tr-195-13-001", "answers": [ { "text": "1995年", "answer_start": 212, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "京子たちをモデルとした童話のタイトルは何ですか?", "id": "tr-195-13-002", "answers": [ { "text": "『さようならカバくん』", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "エルヴィン・ロンメル", "paragraphs": [ { "context": "エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルは、ドイツの陸軍軍人である。最終階級は陸軍元帥。\n\n第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。広大な砂漠に展開されたアフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた。アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名で世界的に知られた。\n\n貴族出身では無い、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動と多才な人柄で悲劇的な最期をとげたがSSではなく国防軍の所属であった。\n\n1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着しており、日本でもほぼ同様の評価が行われてきた。しかし、1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再度検証されるようになった。", "qas": [ { "question": "英首相チャーチルが言う「ナポレオン以来の戦術家」とは誰のことですか。", "id": "tr-196-00-000", "answers": [ { "text": "エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルはSS所属でしたか、国防軍所属でしたか。", "id": "tr-196-00-001", "answers": [ { "text": "国防軍", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エルヴィン・ロンメルは、1891年11月15日の日曜日の正午、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツにおいて生まれた。この町はウルム郊外の町である。\n\n父エルヴィンは、ハイデンハイムの実科ギムナジウムの数学教師である。また、祖父も教師だった。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり、地元ハイデンハイムでは、かなり尊敬されていた人物であった。\n\n母ヘレーネは、ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である。\n\n父母ともにプロテスタントだった。\n\n兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた。兄のマンフレートは幼いころに死去した。\n\n父が若いころに砲兵隊にいたことを除いて、ロンメル家は軍隊とほとんど関係しておらず、軍部への有力な縁故もなかった。また、教養市民階級出身という彼の出自は、貴族主義的なドイツ陸軍において、決して有利であったとはいえない。", "qas": [ { "question": "エルヴィン・ロンメルは何年生まれですか。", "id": "tr-196-01-000", "answers": [ { "text": "1891年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘレーネの夫の名前は何?", "id": "tr-196-01-001", "answers": [ { "text": "エルヴィン", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘレーネの父の名前は何?", "id": "tr-196-01-002", "answers": [ { "text": "カール・フォン・ルッツ", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マンフレートとゲルハルトと、誰の方がもっと年が多い?", "id": "tr-196-01-003", "answers": [ { "text": "マンフレート", "answer_start": 268, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "子供の頃のロンメルは、病気がちで大人しい少年だったという。姉ヘレーネによると、ロンメルは、色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていた。しかし、ロンメル本人は、人事記録の中に挟んだ覚書の中で、「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している。\n\n1898年、父がアーレンの実科ギムナジウムの校長となったことで、一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校(Volksschule)がなかったため、ギムナジウムに入学するまでの間、ロンメルは家庭教師から授業を受けていた。そして、1900年には、父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した。当初、ギムナジウムでは劣等生であり、怠け者で注意散漫だったという。あるとき、勉学に不熱心だったロンメルに勉強させるため、教師が「書き取りテストで間違いしなければ、楽隊と一緒に遠足に出かけよう」と彼に言うと、ロンメルは、これを真に受けて必死に書き取りの勉強をして、テストで間違いをしなかったが、約束の遠足につれて行ってもらえなかったので、また勉強をしない生徒に戻ってしまったという。読書にも運動にも興味がない子供だったが、10代になると突然活発になった。数学の成績が良くなり、スポーツにも関心を持つようになった。また、飛行機の研究に夢中になり、14歳の頃には親友と二人で実物大のグライダーを作成した。結局、まともには飛ぶことはなかったが、ヨーロッパでは1906年に初めて動力を備えた飛行機が飛行したばかりであった。\n\nロンメルは、航空機関連のエンジニアになることを希望していたが、父親がそれに反対したため、ヴュルテンベルク王国軍に入隊することになった。軍に入ることについて、本人はあまり乗り気でなかったらしい。", "qas": [ { "question": "ロンメルの方が年上なの、ヘレーネの方が年上なの?", "id": "tr-196-02-000", "answers": [ { "text": "ヘレーネ", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "家族がつけたロンメルのあだ名は何でしたか。", "id": "tr-196-02-001", "answers": [ { "text": "「白熊ちゃん」", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンメルの父はいつギムナジウムの校長になった?", "id": "tr-196-02-002", "answers": [ { "text": "1898年", "answer_start": 159, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンメルは何歳で親友と二人で実物大のグライダーを作成したか。", "id": "tr-196-02-003", "answers": [ { "text": "14歳", "answer_start": 578, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ロンメルは1910年7月19日にヴァインガルテンに駐留するヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ・ヴィルヘルム1世」に下級士官候補生として入隊した。下士官として半年の部隊勤務を経た後、1911年3月にプロイセン王国ダンツィヒの王立士官学校に進んだ。士官学校在学中には、当時ダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーツィエ・マリア・モーリンと出会った。士官学校卒業後もルーツィエと手紙で連絡を取り合い、二人は1916年に結婚した。\n\n1912年1月27日に少尉に任官し、第124歩兵連隊に戻った。ロンメルは、新兵の訓練を担当した。この頃から、ロンメルは自分のカリスマ性を存分に発揮している。\n\n1913年12月8日、ヴァルブルガ・シュテマーとの間に私生児の娘ゲルトルートをもうけ、生活費を送る代わりに表沙汰にしないことで合意した。しかし、シュテマーは、1928年に肺炎もしくは自殺で死去した。ロンメルは、後に妻のルーツィエにゲルトルートの存在を打ち明け、彼女はロンメルの「親類」として戦中から戦後まで一家と親しく付き合った。事情を教えられていなかった息子のマンフレート・ロンメルは、ゲルトルートを「従姉妹」と呼んでいた。\n\n1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下であるウルム駐留のヴュルテンベルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊に転属となった。しかし、第一次世界大戦の開戦により第124歩兵連隊に復帰し、同歩兵連隊隷下の第2大隊第7中隊に所属する小隊の小隊長に就任した。", "qas": [ { "question": "ロンメルはいつヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊に入隊したの?", "id": "tr-196-03-000", "answers": [ { "text": "1910年7月19日", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンメルはいつ結婚したの?", "id": "tr-196-03-001", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 204, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴァルブルガ・シュテマーはいつ亡くなったか。", "id": "tr-196-03-002", "answers": [ { "text": "1928年", "answer_start": 376, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロンメルの息子の名前は何?", "id": "tr-196-03-003", "answers": [ { "text": "マンフレート・ロンメル", "answer_start": 478, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1914年7月末から8月初めにかけて、第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は、1914年8月3日に開戦した。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された。\n\nロンメルがはじめて実戦に参加したのは、8月22日午前5時頃、ベルギー南部のフランス国境付近の村ブレドだった。この時のロンメルは、前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊であり、また胃痛も発症していた。しかし、実戦を前に逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で、上官にはそのことを黙っていた。\n\n銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊は、ブレド村に近づき、少数で村の中に偵察に入ってフランス軍に攻撃を仕掛けるも失敗し、村の外で待機していた小隊主力と合流した。ロンメルは、自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃を仕掛け、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した。続いて他の建物にも次々と火を放っていった。しかし、フランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。また、ロンメルが作戦中に疲労と胃痛でしばしば意識を失ったので、副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがあった。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことで、ブレド村のフランス軍は投降した。\n\n戦闘が終わった後のブレド村は、兵士たちや巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという。", "qas": [ { "question": "ドイツ軍とフランス軍はいつ開戦したの?", "id": "tr-196-04-000", "answers": [ { "text": "1914年8月3日", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンメルがはじめて実戦に参加したのはどの村ででしたか。", "id": "tr-196-04-001", "answers": [ { "text": "ブレド", "answer_start": 180, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ロンメルは1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰した。この頃から、ドイツ軍もフランス軍も、自分から攻撃するより相手が攻撃してきたところを返り討ちにする方が打撃を与えやすいと判断して、大規模な攻撃には出なくなった。そのため、西部戦線は、塹壕戦による消耗戦の様相を呈していた。第124歩兵連隊もアルゴンヌの森の西部で塹壕戦を展開していた。ロンメルは、第2大隊隷下の第9中隊長に任じられた。\n\nロンメルは、中隊を率いて匍匐前進しながらフランス軍の築いた有刺鉄線の鉄条網を隙間を通り抜けて進み、フランス軍主陣地に突入し、掩蔽部4か所を占領した。取り戻そうと襲撃してきたフランス軍の反撃を一度は退けたが、結局、新しい攻撃を受けるのを避けるため、自軍の陣地に後退するのを余儀なくされた。しかし、ロンメルは、その後退を12人足らずの損害で達成した。ロンメルは、この際の勇戦ぶりを評価されて、1915年3月22日に一級鉄十字章を授与された。第124歩兵連隊の中尉・少尉階級の者の中では、初めての受章だった。\n\n第124歩兵連隊は、その後もアルゴンヌに留まったままフランス軍と消耗戦を続けた。7月にロンメルは向こう脛に砲弾の破片を受け、二度目の負傷をした。", "qas": [ { "question": "1915年1月13日、ロンメルはにどの連隊に復帰したか。", "id": "tr-196-05-000", "answers": [ { "text": "第124歩兵連隊", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンメルはいつ一級鉄十字章を貰ったの?", "id": "tr-196-05-001", "answers": [ { "text": "1915年3月22日", "answer_start": 391, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1916年10月末、山岳兵大隊はルーマニア戦線に転戦した。同大隊は11月11日にレスルイ山の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日にダンツィヒにおいてルーツィエと簡易な結婚式をあげた。ハネムーンなどはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊はガジェシュチ村で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした。\n\n1917年1月中旬に山岳兵大隊は、ルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし、7月末には再びルーマニア戦線に送られた。コスナ山に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をしたが、彼は構わず戦闘に参加し続けた。傷口を放置したせいで高熱にうかされたが、ロンメルはベッドの中から命令を発し続けたという。ロンメルを初めとして、山岳兵大隊は奮戦したが、結局コスナ山を占領することはできず、8月25日に山岳兵大隊は第11予備歩兵連隊と交替することとなり、後方に下げられた。\n\n負傷した腕の治療のため一月ほど休養に入り、その間は妻ルーツィエと一緒に過ごした。", "qas": [ { "question": "ロンメルとルーツィエとの結婚式はいつ行われましたか。", "id": "tr-196-06-000", "answers": [ { "text": "1916年11月27日", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1917年1月中旬に山岳兵大隊はどこの軍と戦ったか。", "id": "tr-196-06-001", "answers": [ { "text": "フランス軍", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部イタリア戦線に動員された。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰し、山岳三個中隊と機関銃一個中隊からなる任務部隊司令官に任じられた。\n\nカポレットの戦いにおいてドイツ第14軍司令官オットー・フォン・ベロウは戦略的要衝であるマタイユール山やコロヴラト山脈の1114高地を最初に占領した部隊の指揮官にはプール・ル・メリット勲章を与えると布告した。これは1667年制定の由緒ある戦功勲章でドイツ帝国一般軍人の事実上の最高武勲であった。これにより各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになった。ロンメルは自分の名誉欲で部下を犠牲にするような男ではなかったが、名誉に関心がないわけでもなく、ロンメルの部隊もこれらの要衝の占領を目指すことにした。", "qas": [ { "question": "ロンメルは何年に任務部隊司令官に任じられたか。", "id": "tr-196-07-000", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ第14軍司令官オットー・フォン・ベロウは戦略的要衝であるマタイユール山やコロヴラト山脈の1114高地を最初に占領した部隊の指揮官に何を与えると布告したか。", "id": "tr-196-07-001", "answers": [ { "text": "プール・ル・メリット勲章", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。ロンメルは1918年10月18日に大尉に昇進した。\n\n1918年11月初めにキールの水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり、カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日にオランダへ亡命、翌11日にはドイツ社会民主党の主導する新ドイツ共和国政府がパリのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定の調印を行った。第一次世界大戦はここに終結した。", "qas": [ { "question": "ロンメルは1918年10月18日、何に昇進したの?", "id": "tr-196-08-000", "answers": [ { "text": "大尉", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カイザー・ヴィルヘルム2世は1918年11月10日、どこへ亡命したの?", "id": "tr-196-08-001", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 170, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結されたヴェルサイユ条約によって天文学的賠償金が課せられた。また国境付近のドイツ領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツ領土は大きく縮小した。軍については陸軍兵力を小国並みの10万人に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有を全て禁止された。1919年7月31日にはヴァイマルで開かれた国会でヴァイマル憲法が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「ヴァイマル共和国」の時代が始まった。\n\nちなみに将校4000人という制限は、軍に残る事を希望するドイツ帝国将校6人のうち1人だけがヴァイマル共和国陸軍に残れるという倍率をもたらした。そしてロンメルはヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の1人であった。\n\nこの後、ロンメルは9年ほどシュトゥットガルトの第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月に長男のマンフレートが生まれている。彼は戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めている。\n\n1929年10月1日にドレスデン歩兵学校の教官に任じられた。多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという。", "qas": [ { "question": "ヴェルサイユ条約はいつ締結されたの?", "id": "tr-196-09-000", "answers": [ { "text": "1919年6月28日", "answer_start": 20, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンメルは何年ほどシュトゥットガルトの第13歩兵連隊に所属していたか。", "id": "tr-196-09-001", "answers": [ { "text": "9年ほど", "answer_start": 358, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンメルの長男の名前は何?", "id": "tr-196-09-002", "answers": [ { "text": "マンフレート", "answer_start": 439, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンメルはいつドレスデン歩兵学校の教官になったの?", "id": "tr-196-09-003", "answers": [ { "text": "1929年10月1日", "answer_start": 480, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1933年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが、他の多くの軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の反共主義と再軍備の政策を歓迎した。\n\n1933年10月10日に少佐に昇進するとともにゴスラーに駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた。1934年9月30日に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える儀仗兵の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐってSSと揉めたとされ、「閲兵式においても警護のためSS部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒し、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と応酬して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという。", "qas": [ { "question": "アドルフ・ヒトラーをドイツ国首相に任命したのは誰?", "id": "tr-196-10-000", "answers": [ { "text": "パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンメルはいつ少佐に昇進したの?", "id": "tr-196-10-001", "answers": [ { "text": "1933年10月10日", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ロンメルは1935年3月1日に中佐に昇進した。1935年10月15日に新設されたポツダム歩兵学校の教官に任じられた。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという。\n\n1936年9月のニュルンベルク党大会で総統護衛大隊の指揮官に任じられた。この時にロンメルは「私の後続の車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部らの車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという。", "qas": [ { "question": "ロンメルはいつ中佐に昇進したか。", "id": "tr-196-11-000", "answers": [ { "text": "1935年3月1日", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポツダム歩兵学校はいつ設立されたの?", "id": "tr-196-11-001", "answers": [ { "text": "1935年10月15日", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロンメルはいつ総統護衛大隊の指揮官に任命されたか。", "id": "tr-196-11-002", "answers": [ { "text": "1936年9月", "answer_start": 91, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルがフォッゲンライター出版社から『歩兵攻撃(Infanteriegreiftan)ISBN978-1-85367-707-6』を出版したことだった。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた。この本は50万部を売り切るベストセラーとなり、各方面からの高評価を受け、当時、歩兵だったヒトラーも自身の経験に照らし合わせてこの本を激賞した。なおロンメルはこの本の印税に関してフォッゲンライター出版社と結託して脱税をした。ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の印税を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000ライヒスマルクだけを自分に支払わせ、残りは銀行預金にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した。", "qas": [ { "question": "ロンメルがフォッゲンライター出版社から出版した本のタイトルは何?", "id": "tr-196-12-000", "answers": [ { "text": "『歩兵攻撃(Infanteriegreiftan)ISBN978-1-85367-707-6』", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ファットマン", "paragraphs": [ { "context": "ファットマン(英語:FatMan、「太った男」の意味)は、第二次世界大戦末期にアメリカ合衆国で開発された原子爆弾である。\n\nアメリカ軍の分類番号はMk.3であり、大戦後も製造が継続された。最初の一発は1945年8月9日に長崎市に投下され、実戦使用された核兵器であり、この長崎に投下された原子爆弾、「インプロージョン方式プルトニウム活性実弾F31」だけを指すこともある。\n\nMark2(ThinMan)というガンバレル型プルトニウム型爆弾が開発中止され、インプロージョン型原爆であるファットマンへと移行した。", "qas": [ { "question": "ファットマンが開発されたのはいつですか?", "id": "tr-197-00-000", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦末期", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファットマンはどこで開発が行われましたか?", "id": "tr-197-00-001", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファットマンが最初にどこに投下されましたか?", "id": "tr-197-00-002", "answers": [ { "text": "長崎市", "answer_start": 110, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ThinManの代わりに開発されたインプロージョン型原爆を英語で答えて下さい。", "id": "tr-197-00-003", "answers": [ { "text": "FatMan", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ファットマンはマンハッタン計画の一部としてロスアラモス国立研究所で作られた核兵器である。リトルボーイ(Mark1)が高濃縮ウランを用いたガンバレル型の原子爆弾であるのに対して、ファットマンはプルトニウムを用いたインプロージョン方式の原子爆弾である。\n\n1945年8月9日に実戦使用されており、長崎県長崎市の北部(現在の松山町)の上空550メートルで炸裂した。長崎市への原子爆弾投下を行ったのは、B-29ボックスカー(機長:チャールズ・スウィーニー少佐)である。爆弾の威力は8月6日に広島県広島市に投下されたリトルボーイより若干強いが、長崎市は起伏に富んだ地形で、平坦な広島市に比べて威力が減殺された。破壊の度合いは広島市に比べると小さいものの、死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積6.7km2、全焼全壊計約1万2,900棟という甚大な被害をもたらした。\n\n第二次世界大戦終結後も製造が続けられ、1940年代のアメリカ軍の核戦力を担った。", "qas": [ { "question": "ファットマンがプルトニウムを使用することに対し、リトルボーイが使うものは何ですか?", "id": "tr-197-01-000", "answers": [ { "text": "高濃縮ウラン", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ファットマンの投下に使用された飛行機名は?", "id": "tr-197-01-001", "answers": [ { "text": "B-29ボックスカー", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "長崎市より先に核兵器が投下された場所はどこですか?", "id": "tr-197-01-002", "answers": [ { "text": "広島県広島市", "answer_start": 241, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ファットマンの投下により発生した被害は死者と負傷者を比べ、その数が多かったのはどっちですか?", "id": "tr-197-01-003", "answers": [ { "text": "負傷者", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アメリカ合衆国では1941年よりマンハッタン計画として核兵器の開発を行っていた。ウランを用いた核兵器の開発(Mark1=リトルボーイ)は進んでいたものの、プルトニウムを用いた核兵器の開発には障害があり、1943年にガンバレル型(Mark2=シンマン)とインプロージョン方式(implosion、爆縮)(Mark3=ファットマン)の両方の開発が進められることとなった。1944年にガンバレル型(Mark2)は放棄され、インプロージョン方式で開発が継続されることとなった。\n\n核物質にはプルトニウム239を用いている。核出力はTNT換算21キロトンを記録した。インプロージョン方式で用いられている爆縮レンズはジョン・フォン・ノイマンらによって完成した技術である。\n\n使用されたプルトニウムはワシントン州ハンフォードにあるハンフォード・サイトのB原子炉で製造された。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国で核兵器の開発を行い始めたのは何年か?", "id": "tr-197-02-000", "answers": [ { "text": "1941年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マンハッタン計画下で開発されたMark1〜3で実際に開発されなかったのはどれですか?", "id": "tr-197-02-001", "answers": [ { "text": "Mark2", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Mark3で利用した核物質は何ですか?", "id": "tr-197-02-002", "answers": [ { "text": "プルトニウム239", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インプロージョン方式で使用される爆縮レンズを開発したのは誰ですか?", "id": "tr-197-02-003", "answers": [ { "text": "ジョン・フォン・ノイマン", "answer_start": 302, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "プルトニウム型原爆(インプロージョン方式)の実証のため、1945年7月16日にアメリカ合衆国は、ニューメキシコ州アラモゴード砂漠にあるホワイトサンズ射爆場でファットマンのプロトタイプであるガジェットを用いて人類史上初の核実験であるトリニティ実験を実行した。\n\nファットマンの特異な形状の空中挙動を確かめるため、通常爆薬を装填した同形・同重量の模擬弾「パンプキン」が作られ、投下訓練の一環として日本に対して実戦投入された。\n\nファットマン型の原爆はまず3発が製造され、1発が長崎へ投下されたほか、核実験のクロスロード作戦(1946年)で使用された。", "qas": [ { "question": "人類史上初の核実験を実行したのはどこですか?", "id": "tr-197-03-000", "answers": [ { "text": "ホワイトサンズ射爆場", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "人類歴史上初めての核実験の名称は何ですか?", "id": "tr-197-03-001", "answers": [ { "text": "トリニティ実験", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ファットマンと同形・同重量の通常爆薬の訓練用模擬爆弾として日本に投下された爆弾は何ですか?", "id": "tr-197-03-002", "answers": [ { "text": "「パンプキン」", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファットマン型の原爆が長崎以外に使われたのはいつですか?", "id": "tr-197-03-003", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 260, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1945年7月、ヘンリー・スティムソン陸軍長官にファットマン型原爆は毎月1個の生産が可能だと報告されたが、1945年8月15日に戦争が終結し、原爆製造の優先順位が引き下げられたため、生産量は縮小された。ハンフォードのプルトニウム生産炉も中性子照射による損傷で稼動に耐えなくなったため1946年に生産を停止した。\n\nファットマン自体は戦後も生産が継続され、1947年にはロスアラモス国立研究所にファットマン60発分の部品が備蓄され、アメリカ兵器廠には使用可能なファットマン型原爆13発が備蓄されていた。1948年までには50発が生産され、1949年までに120発が生産された。改良型のMark4の生産は1949年からのことである。", "qas": [ { "question": "終戦はいつでしたか?", "id": "tr-197-04-000", "answers": [ { "text": "1945年8月15日", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1948年まで生産されたファットマンの数は?", "id": "tr-197-04-001", "answers": [ { "text": "50発", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ファットマン50発が生産されてその1年後まで生産されたファットマンは全部何発ですか?", "id": "tr-197-04-002", "answers": [ { "text": "120発", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ファットマンの改良型が生産され始めたのはいつからか?", "id": "tr-197-04-003", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 300, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ガンバレル方式・インプロージョン方式のプルトニウム原子爆弾にはそれぞれ「シンマン」「ファットマン」とのコードネームが与えられた。これらの命名を行った人物は、ロバート・オッペンハイマーのかつての教え子で、自らもマンハッタン計画に参加したロバート・サーバー(en:RobertSerber)だった。サーバーはそれぞれの爆弾の外観に基づいて名前を選んだ。Mark2は細長い形状であったため、ダシール・ハメットの探偵小説『影なき男(原題:TheThinMan)』とその映画化作品から着想を得て、「シンマン(痩せ男)」と命名された。Mark3は丸くずんぐりした形状であったため、『マルタの鷹』(ハメットの同名探偵小説の1941年の映画化作品)にて、シドニー・グリーンストリート(英語版)が演じたキャラクター「カスパー・ガットマン」から着想を得て、「ファットマン(太った男)」と命名された。\n\nなお、イギリス保守党の政治家であるチャーチル首相にちなんだものとする俗説がある。", "qas": [ { "question": "「ファットマン」の名付け親は誰ですか?", "id": "tr-197-05-000", "answers": [ { "text": "ロバート・サーバー", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『影なき男』の著者は誰ですか?", "id": "tr-197-05-001", "answers": [ { "text": "ダシール・ハメット", "answer_start": 192, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Mark2が「シンマン」と名付けられたのはどの小説が元ネタなのか、その小説のタイトルを英語で答えて下さい。", "id": "tr-197-05-002", "answers": [ { "text": "TheThinMan", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Mark3が「ファットマン」と名付けられたのは『マルタの鷹』のどのキャラからとったものですか?", "id": "tr-197-05-003", "answers": [ { "text": "「カスパー・ガットマン」", "answer_start": 348, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "爆縮レンズには合計で2,500キログラムもの爆薬が使用されている。その内部にそれぞれ120キログラムのアルミニウム合金製プッシャーと天然ウラン球があり、中心には6.2キログラムのδ相プルトニウム合金が収められている。ファットマンの重量の半分以上を爆縮レンズの爆薬が占め、直径は137.8センチメートルもありファットマン(ふとっちょ)という名前の由来にもなっていた。これは当時の技術水準では必要な圧力を得るためにこれだけの分量が必要だったためである。コンポジションB/アルミニウム合金製プッシャー/天然ウラン中性子反射器/プルトニウム核の順番に、密度比が1.65/2.71/19.05/19.8となっている。\n\n後年では爆薬部分の密度を上げたり副臨界系を小さくすることで急速に小型化が行われ、最終的には100キロトンクラスの核兵器でも直径30センチメートル程度にまで小型化された。", "qas": [ { "question": "爆縮レンズに使用された爆薬の量はどれくらいですか?", "id": "tr-197-06-000", "answers": [ { "text": "2,500キログラム", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "天然ウラン球の中心にあるδ相プルトニウム合金の量はどれくらいですか?", "id": "tr-197-06-001", "answers": [ { "text": "6.2キログラム", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コンポジションB/アルミニウム合金製プッシャー/天然ウラン中性子反射器/プルトニウム核のなかで密度比が一番高いのはどれですか?", "id": "tr-197-06-002", "answers": [ { "text": "プルトニウム核", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コンポジションB/アルミニウム合金製プッシャー/天然ウラン中性子反射器/プルトニウム核のなかで密度比が高い順で並べた時、三番目に来るものはどれですか?", "id": "tr-197-06-003", "answers": [ { "text": "アルミニウム合金製プッシャー", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "衝撃波は1ミリ秒につき8メートルも進むため、32個の雷管が点火するタイミングの許容誤差は0.1マイクロ秒以下になる。このため原爆用に新しい原理の雷管が新規に開発された。それが起爆電橋線型雷管である。\n\n起爆電源のために、5キロボルト1,000アンペアの大型の高圧オイルコンデンサが必要で、0.1マイクロ秒以下の誤差で作動させるために1マイクロファラッドの低キャパシタンスのスイッチ機構が必要である。これに電力を供給するための新型電池が開発された。コンデンサと電池だけで1トン近い重量があり、爆縮レンズの爆薬に次いで重量を占めている部品である。", "qas": [ { "question": "原爆の衝撃波が一ミリセカンドの間進む距離は?", "id": "tr-197-07-000", "answers": [ { "text": "8メートル", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "32個の雷管が点火するタイミングの許容誤差は0.1マイクロ秒以下にするために原爆用に開発された新しい原理の雷管は何ですか?", "id": "tr-197-07-001", "answers": [ { "text": "起爆電橋線型雷管", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "起爆電源のために必要なものは何ですか?", "id": "tr-197-07-002", "answers": [ { "text": "5キロボルト1,000アンペアの大型の高圧オイルコンデンサ", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "0.1マイクロ秒以下の誤差で起爆させるため必要なものは何ですか?", "id": "tr-197-07-003", "answers": [ { "text": "1マイクロファラッドの低キャパシタンスのスイッチ機構", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "爆縮レンズは爆薬だけで2.5トンもあり、ファットマンの重量と体積の半分以上を占めている最大の部品である。\n\n爆薬と天然ウラン、プルトニウムの間の密度差があまりにも大きいため、爆縮による衝撃波の反射波が大きくなる。するとレイリー・テイラー不安定性などの流体力学的不安定性が大きくなって衝撃波の高い球対称性が崩れてしまうため、いったんアルミニウム合金製プッシャーで衝撃波を受け止めるようになっている。レイリー・テイラー不安定性が大きくなるとレイリー・テイラー波が発生して圧力が低下するのを防ぐ目的もある。", "qas": [ { "question": "ファットマンを構成するものの中で、一番の重量と体積を占めている部品は何ですか?", "id": "tr-197-08-000", "answers": [ { "text": "爆縮レンズ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "爆縮レンズの爆薬の量はどれくらいですか?", "id": "tr-197-08-001", "answers": [ { "text": "2.5トン", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "爆縮による衝撃波の反射波が大きい理由は何ですか?", "id": "tr-197-08-002", "answers": [ { "text": "爆薬と天然ウラン、プルトニウムの間の密度差があまりにも大きいため", "answer_start": 54, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "爆薬と天然ウラン、プルトニウムの間の密度差大きさ故発生した衝撃波を受け止める役割を持っている部品は?", "id": "tr-197-08-003", "answers": [ { "text": "アルミニウム合金製プッシャー", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "核分裂物質から発生した中性子が外部に逃げてしまって連鎖反応が止まらないようにするため、中性子反射体が必要である。ファットマンでは天然ウランを用いており、中性子反射体としては厚さ3センチメートルで十分であるが、1ナノ秒の間に80回の連鎖反応を繰り返すまでは核分裂物質を一か所に留めておく必要がある。この押さえがタンパーである。核分裂物質を1ナノ秒間押さえ込むためにタンパーにはある程度の慣性質量が必要で、これを兼ねるために7センチメートルの厚さになった。\n後年の研究では、熱量の20パーセントは天然ウランによる副臨界系から発生したと言われている。", "qas": [ { "question": "連鎖反応が止まる自体を防ぐため何が要りますか?", "id": "tr-197-09-000", "answers": [ { "text": "中性子反射体", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ファットマンの天然ウランの連鎖反応が止まらないようにするため必要な中性子反射体は太さ何センチですか?", "id": "tr-197-09-001", "answers": [ { "text": "3センチメートル", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1ナノセカンドの間に80回の連鎖反応を繰り返すまでは核分裂物質を一か所に留めておくために必要なものは何ですか?", "id": "tr-197-09-002", "answers": [ { "text": "タンパー", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "タンパーを支えるために必要となる中性子反射体の太さは?", "id": "tr-197-09-003", "answers": [ { "text": "7センチメートル", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中性子点火器は、プルトニウムが核分裂反応を起こすために必要な最初の中性子線を出すための装置である。点火器という名称は燃焼(核分裂反応)を始めるために必要な火種となる中性子を出すための装置であることに由来している。\n構造は重量7グラムのベリリウム球の表面に楔形の溝15本を掘り込んで厚さ0.1ミリメートルの金メッキを施し、さらに11ミリグラムのポロニウム210をメッキしたものである。爆縮によって急速にベリリウムとポロニウムが混合されると、ポロニウムが放射したアルファ粒子がベリリウム原子に衝突し、束縛から解き放たれた中性子を放射する。", "qas": [ { "question": "プルトニウムが核分裂反応を起こすために必要な最初の中性子線を出すための装置の名前は?", "id": "tr-197-10-000", "answers": [ { "text": "中性子点火器", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "核分裂反応を引き起こす火種となる物質は何ですか?", "id": "tr-197-10-001", "answers": [ { "text": "中性子", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中性子点火器の最深部にある物質は何ですか?", "id": "tr-197-10-002", "answers": [ { "text": "ベリリウム", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中性子点火器のを最深部にある物質から並べた時、二番目に来るものは何ですか?", "id": "tr-197-10-003", "answers": [ { "text": "金", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ファットマンは、通常は最終段階の組み立てを行う前の状態で保管され、使用する直前になって組立作業を行う。これには2つの理由がある。\n安全上の理由は完成状態では火災や搭載機の墜落などの事故により爆縮レンズが起爆すると核爆発が起こってしまうため、設計上の理由は起爆装置には極めて大きな電源が必要であり、完成状態では電池が数日で劣化してしまうためである。", "qas": [ { "question": "ファットマンはどういう状態で保管されますか?", "id": "tr-197-11-000", "answers": [ { "text": "組み立てを行う前の状態", "answer_start": 16, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファットマンが組み立てを行う前の状態で保管される理由は何個ありますか?", "id": "tr-197-11-001", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "保管状態では「前部外殻」「後部外殻」「プルトニウムと爆縮レンズの塊」「電源装置」「中性子点火器」の5つのパーツに分解されている。中性子発生器を抜き取った空洞には小さな鉄球が詰め込まれている。これは爆縮レンズが起爆してプルトニウムが爆縮されても中心に鉄の塊が入っていればそれが邪魔をして爆縮が進まず、核分裂が起きなくなるからである。\n\n組立作業には48時間を要する。組み立てたままの状態では電池が数日で劣化するため、48時間以内に使用されなかった場合は再び分解して電池を交換する必要がある。", "qas": [ { "question": "ファットマンの保管状態では何個のパーツで保管されますか?", "id": "tr-197-12-000", "answers": [ { "text": "5つ", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファットマンの保管状態で中性子発生器が抜き取られているいちに代わりにあるものは?", "id": "tr-197-12-001", "answers": [ { "text": "鉄球", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "組立作業に消耗する時間はどれくらいですか?", "id": "tr-197-12-002", "answers": [ { "text": "48時間", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "保管の時、爆縮レンズが起爆してプルトニウムが爆縮されても核分裂が起きなくするため中に入れるものは何ですか?", "id": "tr-197-12-003", "answers": [ { "text": "鉄球", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ロンドン自然史博物館", "paragraphs": [ { "context": "ロンドン自然史博物館は、イギリスのロンドン・サウスケンジントンにある博物館だ。大英自然史博物館、英国自然史博物館などとも呼ばれ、自然史系博物館としてはイギリス最大であるのみならず、世界でもトップクラスである。大英博物館の一部として始まり、比較的最近まで正式名称に大英博物館(BritishMuseum)と冠していたため、自然科学分野で単に大英博物館といった場合、ブルームズベリーにある本来の大英博物館ではなくこの博物館のことを指していることがある。\n\n最寄り駅はロンドン地下鉄のサウス・ケンジントン駅で、駅からはエキシビション・ロードの入口のすぐ近くまで地下道が延びている。全館入場料無料である。", "qas": [ { "question": "大英自然史博物館、英国自然史博物館などとも呼ばれ、自然史系博物館としてはイギリス最大のものは何ですか。", "id": "tr-198-00-000", "answers": [ { "text": "ロンドン自然史博物館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロンドン自然史博物館の入場料はいくらなの?", "id": "tr-198-00-001", "answers": [ { "text": "無料", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この博物館は元々大英博物館の一部門として始まっている。大英博物館自体は、1753年にアイルランドの医師ハンス・スローン卿から英国政府に遺贈された彼のコレクションを、ブルームズベリーのモンタギュー・ハウスに収めたことに始まる。このコレクションには、書籍・コインなどに加えて動物・植物・鉱物のコレクションも含まれていた。既に大英博物館の成立時に自然史博物館としてのスタートは切られていたのである。\n\nしかしながら、およそ一世紀も経つと、モンタギュー・ハウスに収蔵するには標本・資料類が膨大になってきた。そこで、大英博物館の自然史関係標本のために新しく別館を建てるべきであると強固に主張したのが、1856年から大英博物館の自然史部門長を務めていたリチャード・オーウェンである。オーウェンの主張は程なく受け入れられ1860年に新館の建築と自然史関係標本の移動が決定し、サウスケンジントンで1862年に開催されたロンドン万国博覧会跡地が新しい博物館のために購入された。", "qas": [ { "question": "1753年、アイルランドの医師ハンス・スローン卿は彼のコレクションをどこに遺贈したか。", "id": "tr-198-01-000", "answers": [ { "text": "英国政府", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1856年から大英博物館の自然史部門長を務めていたのは誰ですか。", "id": "tr-198-01-001", "answers": [ { "text": "リチャード・オーウェン", "answer_start": 320, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大英博物館の自然史関係標本のために新しく別館を建てるべきだと強く主張した人の名前は何ですか。", "id": "tr-198-01-002", "answers": [ { "text": "リチャード・オーウェン", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1881年4月18日、復活祭の翌日の月曜日、日本語では大英自然史博物館などと訳されるBritishMuseumが開館した。しかし収蔵標本は膨大だったため、旧博物館から新館への物品移動作業自体は1883年まで続いた。移動が完了した後の1884年、悲願を成就したオーウェンはその職を辞している。\n\n旧英名のBritishMuseum(NaturalHistory)が示すように、元来ここは公式には大英博物館の一部門であり、科学文献などで略記される場合にはB.M.(N.H.)などのように記述された。標本番号も、\"BMNH○○○○\"という形式になっている場合がある。1963年、BritishMuseumAct1963によりこの博物館は独自の評議委員会を持つ独立した博物館となり、大英博物館の分館扱いではなくなった。しかしながら、この博物館の正式名称がBritishMuseum(NaturalHistory)から、元は通称だったTheNaturalHistoryMuseumに公式に変わったのは、theMuseumsandGalleriesActof1992が成立してからのことである。", "qas": [ { "question": "BritishMuseumはいつ開館したの?", "id": "tr-198-02-000", "answers": [ { "text": "1881年4月18日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ニーマン・ピック病", "paragraphs": [ { "context": "ニーマン・ピック病は、先天的な遺伝子の変異によって引き起こされる酵素の異常によって、本来分解されるはずの不溶性の代謝物が細胞内に蓄積する先天性代謝異常症である。常染色体劣性遺伝の遺伝形式をとる。\n\n分類によって発症メカニズム・症状・予後などが大きく異なる疾患であり、ニーマン・ピック病A型およびB型は、細胞内の酸性スフィンゴミエリナーゼの異常によって起こるスフィンゴミエリンの蓄積が原因とされ、内臓腫大等の症状を生じる。ニーマン・ピック病C型は脂肪輸送の欠陥によって、細胞内にコレステロールが蓄積し、小児期に運動失調やその他の神経症状を生じる。", "qas": [ { "question": "先天的な遺伝子の変異によって引き起こされる酵素の異常によって、本来分解されるはずの不溶性の代謝物が細胞内に蓄積する先天性代謝異常症を何といいますか。", "id": "tr-199-00-000", "answers": [ { "text": "ニーマン・ピック病", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニーマン・ピック病A型およびB型は何の蓄積が原因ですか。", "id": "tr-199-00-001", "answers": [ { "text": "スフィンゴミエリン", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニーマン・ピック病C型は何の欠陥によって、細胞内にコレステロールが蓄積し、小児期に運動失調やその他の神経症状を生じるのですか。", "id": "tr-199-00-002", "answers": [ { "text": "脂肪輸送", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ニーマン・ピック病は常染色体劣性遺伝の遺伝形式をとる先天性遺伝子疾患である。\n\n細胞小器官の一つであるリソソームは、体内のさまざまな物質を加水分解酵素で分解する役割を持つ。この酵素に先天的な遺伝子の変異が生じると、酵素によって本来分解されるべき代謝物が分解されず、細胞内に蓄積してしまい異常が生じる。このような疾患をライソゾーム病と呼び、ニーマン・ピック病もこの一種である。\n\n変異する遺伝子によって大きく二つに分類され、SMPD1と呼ばれる遺伝子の変異によって生じるものをニーマン・ピック病A型・B型、NPCと呼ばれる遺伝子の変異で生じるものをニーマン・ピック病C型と呼ぶ。蓄積する代謝物はA型・B型とC型とでやや異なり、A型・B型ではスフィンゴ脂質の一種であるスフィンゴミエリンが、C型ではコレステロールがおもに蓄積する。ニーマン・ピック病の他にも、スフィンゴミエリンとは異なるスフィンゴ脂質が蓄積するライソゾーム病は複数あり、これらを総称してスフィンゴリピドーシスと呼ぶ。", "qas": [ { "question": "ニーマン・ピック病は先天性ですか、後天性ですか。", "id": "tr-199-01-000", "answers": [ { "text": "先天性", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "体内のさまざまな物質を加水分解酵素で分解する役割の細胞小器官を何といいますか。", "id": "tr-199-01-001", "answers": [ { "text": "リソソーム", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニーマン・ピック病はどの質病の一種ですか。", "id": "tr-199-01-002", "answers": [ { "text": "ライソゾーム病", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニーマン・ピック病は変異する遺伝子によって大きくいくつに分類されますか。", "id": "tr-199-01-003", "answers": [ { "text": "二つ", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ニーマンピック病が最初に報告されたのは、1914年である。ドイツの小児科医、アルベルト・ニーマンが、ユダヤ人幼児において神経症状が急速に進む症例を報告した。このとき彼はこの症例を、ゴーシェ病と似ているが神経症状がゴーシェ病とは一致しない、と評価した。その後、1926年にドイツの科学者ルートヴィヒ・ピックが、アルベルト・ニーマンの報告した症例は、ゴーシェ病とは組織学的に異なるものであることを示した。以後、彼らの名前をとって「ニーマン・ピック病」と呼ばれることになる。\n\nその後、1961年にクロッカーによって、A型からD型までの4つに分類される。さらにこれに追加して、1967年にリンとテリーによって、成人のニーマン・ピック病がE型と分類された。また、シュナイダーらによって神経症状が異なる患者が1978年に報告され、F型と分類された。ただし、現在ではD型はC型として論じられることが多く、E型やF型には明確な定義はないとされており、主にA型・B型、C型の分類が多く用いられている。", "qas": [ { "question": "ニーマンピック病の最初の報告は何年にありましたか。", "id": "tr-199-02-000", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 20, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニーマンピック病のことをゴーシェ病と似ているが神経症状がゴーシェ病とは一致しないと評価した人は誰ですか。", "id": "tr-199-02-001", "answers": [ { "text": "アルベルト・ニーマン", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ニーマン・ピック病」という名称はアルベルト・ニーマンと誰の名前からできたのですか。", "id": "tr-199-02-002", "answers": [ { "text": "ルートヴィヒ・ピック", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ニーマン・ピック病」をA型からD型までの4つに分類したのは誰ですか。", "id": "tr-199-02-003", "answers": [ { "text": "クロッカー", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "分類が進むとともに、病因の解析も進められた。1934年には、クレンクが患者組織に蓄積している物質をスフィンゴミエリンと同定した。1966年には、ブラディによって、スフィンゴミエリンを分解する酵素である酸性スフィンゴミエリナーゼが患者組織において欠損していることが示された。さらに、Levranらによって、遺伝子SMPD1の変異が1991年に発見され、1992年には秋田大学の高橋勉らによって、ニーマン・ピック病A型およびB型がこのSMPD1の変異により生じると報告された。C型についても、1997年に、Carsteaらによって、症例の90%以上に特徴的な遺伝子が同定され、NPC-1と命名されている。さらに2000年には、Naureckieneらによって、C型における別の原因遺伝子NPC2が報告されている。\n\n治療法としては、EUにおいてニーマン・ピック病C型の治療薬ミグルスタットが2009年に承認され、日本においても2012年に承認されている。", "qas": [ { "question": "ニーマン・ピック病A型およびB型がSMPD1の変異により生じると報告した学者はどの学校所属なの?", "id": "tr-199-03-000", "answers": [ { "text": "秋田大学", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "C型における別の原因遺伝子NPC2を報告したのは誰?", "id": "tr-199-03-001", "answers": [ { "text": "Naureckiene", "answer_start": 311, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニーマン・ピック病C型の治療薬ミグルスタットは日本において何年に承認されたか。", "id": "tr-199-03-002", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 411, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "A型およびB型は、神経組織の細胞膜を構成するリン脂質であるスフィンゴミエリンが蓄積することによって生じる。\n\n神経線維は、細胞体と軸索によって構成されている。軸索にはミエリンと呼ばれる絶縁性のリン脂質が存在しており、これによってヒトは中枢神経系などを保護し、伝導速度を確保している。このミエリンを構成するのがスフィンゴミエリンであり、その量のバランスを合成経路と分解経路によって保っている。スフィンゴミエリンの代謝経路では、細胞内のリソソームに存在する加水分解酵素の一つである酸性スフィンゴミエリナーゼ(ASM、あるいはスフィンゴミエリン・ホスホジエステラーゼ;SMPD)が重要な役割を果たしている。酸性スフィンゴミエリナーゼはホスホリパーゼCの一種であり、スフィンゴミエリンの一部を除去しセラミドへと分解する。", "qas": [ { "question": "A型およびB型は、何が蓄積することによって生じますか。", "id": "tr-199-04-000", "answers": [ { "text": "スフィンゴミエリン", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミエリンは何で構成されていますか。", "id": "tr-199-04-001", "answers": [ { "text": "スフィンゴミエリン", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "酸性スフィンゴミエリナーゼは何の一種ですか。", "id": "tr-199-04-002", "answers": [ { "text": "ホスホリパーゼC", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ニーマン・ピック病A型,B型の原因は、遺伝子異常によって酸性スフィンゴミエリナーゼが欠損することである。代謝されずに残ったスフィンゴミエリンが、神経細胞や除去しようと集まったマクロファージに蓄積する。集まったマクロファージは脂質の小滴や粒子であふれ、細胞質内に細かい空胞や泡沫が形成される。このような泡沫が形成されたを細胞をニーマン・ピック細胞と呼ぶ。また、スフィンゴミエリンが分解されないため、分解産物であるセラミドも生じない。セラミドとセラミドをさらに分解してできるスフィンゴシンは、アポトーシス促進作用がある。そのため、ニーマン・ピック病の患者にはアポトーシス耐性をもつ細胞も生じる。", "qas": [ { "question": "ニーマン・ピック病A型,B型の原因は、遺伝子異常によって何が欠損することですか。", "id": "tr-199-05-000", "answers": [ { "text": "酸性スフィンゴミエリナーゼ", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "泡沫が形成されたを細胞を何といいますか。", "id": "tr-199-05-001", "answers": [ { "text": "ニーマン・ピック細胞", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "C型は、A型およびB型とは病態が異なるとされる。肝臓や脾臓においてスフィンゴミエリンのほかに、コレステロールやその他の糖脂質などが蓄積し、脳ではとくにGM2,GM3ガングリオシドと呼ばれる糖脂質の蓄積がみられる。\n\nC型の原因を述べる上で重要なのがコレステロールの代謝経路である。体内に吸収されたコレステロールは、さまざまな種類のリポタンパク質とよばれる状態で存在する。リポタンパク質のうちコレステロールの占める割合の大きいLDLは、LDL受容体を介して肝臓などの細胞中に吸収される。この吸収はエンドサイトーシスとよばれる方法で行われ、その際吸収されたLDLはエンドソームという小胞を形成し、この小胞はリソソーム内の酵素によって分解される。このとき、ニーマン・ピック病C型では遺伝子異常によってリソソームからコレステロールを排出できないため、コレステロールは分解されずに細胞質内に蓄積する。つまり、細胞内にコレステロールが取り込まれたのちの反応が起こらないことがC型の特徴である。A型やB型と同様に、骨髄中にニーマン・ピック細胞の存在が認められる。", "qas": [ { "question": "C型の原因を述べる上で重要なのは何ですか。", "id": "tr-199-06-000", "answers": [ { "text": "コレステロールの代謝経路", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニーマン・ピック病C型では遺伝子異常によってリソソームから何を排出できなくなりますか。", "id": "tr-199-06-001", "answers": [ { "text": "コレステロール", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "原因遺伝子はニーマンピック病C型からNPC1およびNPC2と名付けられており、多くの症例はNPC1の変異が占めている。NPC1遺伝子は18番染色体長腕q11-q12に存在し、ミスセンス突然変異、挿入、欠失、重複など240以上の変異が報告されている。NPC2遺伝子は、14番染色体長腕q24.3に存在する。\n\n1980年代後半ごろから原因遺伝子の検索がおこなわれ、1991年に、C型の大部分に特徴的な遺伝子が同定され、NPC-1と命名された。遺伝子NPC1によるタンパク質NPC1はリソソームおよび後期のエンドソームに存在する膜タンパク質であり、コレステロールの恒常性維持に関与すると考えられている。細胞内コレステロール輸送の重要分子と考えられているが、病態への関与のメカニズムには不明な点が多い。\n\nNPC2はリソソーム内のコレステロール結合タンパク質であり、NPC1と相補的に機能していると考えられている。NPC2は、ヒト精巣上体分泌タンパク質であるHE1を産生する遺伝子であり、2000年にニーマン・ピック病C型の少数型において変異が認められると報告された。リソソーム内のコレステロールはまずこのHE1と結合し、次に膜タンパク質であるNPC1に受け渡され、リソソームの外へ運ばれているのではないかと予想されている。NPC1とNPC2には重複する働きはないとされているが、それぞれの正確な機能は十分には明らかになっていない。", "qas": [ { "question": "18番染色体長腕q11-q12に存在し、ミスセンス突然変異、挿入、欠失、重複など240以上の変異が報告されている遺伝子は何ですか。", "id": "tr-199-07-000", "answers": [ { "text": "NPC1遺伝子", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ニーマンピック病の発症に男女差はない。日本では、ライソゾーム病の一つとして特定疾患に指定されているため、一定の認定基準のもとで治療費は公費で負担される。また、C型に関しては、患者や家族への情報発信、専門研究機関への治療・研究等の要請や啓発活動を目的とした「ニーマン・ピック病C型患者家族の会」が患者家族によって設立されている。\n\nA型およびB型の発症率はおおむね10万人に1人だ。すべての人種に見られるが、A型は特に東欧系ユダヤ人に多いとされ、その割合はおおむね4万人に1人である。原因遺伝子であるSMPD1の変異はユダヤ人に高頻度に存在している。発症頻度の少ないユダヤ人以外の人種においては、B型の遺伝子変異の一部が高頻度に存在している。日本人においては、高頻度の遺伝子異常は見出されておらず、日本においてニーマン・ピック病がきわめて稀な疾患であることを物語っている。\n\nC型は、欧米では12万人に1人の頻度と考えられており、日本人における頻度は明確ではないが、欧米とほぼ同じと考えられている。", "qas": [ { "question": "C型に関して、患者や家族への情報発信、専門研究機関への治療・研究等の要請や啓発活動のために何が設立されましたか。", "id": "tr-199-08-000", "answers": [ { "text": "「ニーマン・ピック病C型患者家族の会」", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "A型とB型の発症率は大体10万人に何人ですか。", "id": "tr-199-08-001", "answers": [ { "text": "1人", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "A型の発症が多いとされている人種は何ですか。", "id": "tr-199-08-002", "answers": [ { "text": "東欧系ユダヤ人", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "C型は、欧米では何人に1人の頻度で発症すると考えられていますか。", "id": "tr-199-08-003", "answers": [ { "text": "12万人", "answer_start": 395, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "A型患者の脳は全体的に小さく、特に小脳の障害が強い。一部の神経細胞は膨化し、その内部には大きな封入体がみられることもある。また、神経細胞の髄鞘形成不全を認めることもあり、脱髄を示す。B型においては神経異常はほとんど見られない。脾臓は10倍近くに腫大、肝臓は2倍近くに腫大する。\n\n発症要因が同じであるため、A型とB型は症状が似ているが、より重症で急速に進むのがA型である。そのためA型は急性神経型と呼ばれる。A型は、生後数か月で肝臓や脾臓の腫大から発症することが多い。次いで神経症状として哺乳障害がおこり、この頃に筋緊張低下が生じる。また、反復性の嘔吐がみられるようになり、さらに骨髄や神経節を含むすべての中枢神経系が影響を受けるため、重篤な神経学的異常が生じる。生後6ヶ月以降、運動発達遅滞が明らかとなり、進行すると筋緊張によって生じる痙縮と固縮が著明になる。筋緊張の低下によって、座れるようになってから以降の発達は見られることはなく、首が座るなどのすでにできるようになっていたことも徐々にできなくなっていく。腱反射は弱くなるか、消失することが多い。眼底にはチェリーレッド斑と呼ばれる黄斑が赤く見える症状が約半数の患者で現れる。進行すると、やせて手足が細くなり、腹部だけが目立つようになる。痙性などの症状も現れ、周囲への反応もなくなる。皮膚が黄色や黄土色を呈し、黄色腫が生じる場合もある。通常、生後3年程度で死に至る。", "qas": [ { "question": "A型患者の脳とA型患者でない人の脳と、どっちの方が小さいですか。", "id": "tr-199-09-000", "answers": [ { "text": "A型患者の脳", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A型とB型と、どっちの方がもっと重症で急速に進むの?", "id": "tr-199-09-001", "answers": [ { "text": "A型", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "鹿島神宮", "paragraphs": [ { "context": "鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。\n式内社(名神大社)、常陸国一宮。\n旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。\n全国にある鹿島神社の総本社。\n千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。\nまた、宮中の四方拝で遥拝される一社である。", "qas": [ { "question": "全国にある鹿島神社の総本山は何ですか?", "id": "tr-200-00-000", "answers": [ { "text": "鹿島神宮", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "鹿島神宮の所在地はどこ?", "id": "tr-200-00-001", "answers": [ { "text": "茨城県鹿嶋市宮中", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。\n古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。\n古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。\nその神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。\n現在も武道では篤く信仰される神社である。\n文化財のうちでは、「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀が国宝に指定されている。\nまた境内が国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されているほか、多くの文化財を現在に伝えている。\n鹿を神使とすることでも知られる。", "qas": [ { "question": "鹿島神宮で祭られている神様は何?", "id": "tr-200-01-000", "answers": [ { "text": "武甕槌神", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鹿島神宮は何氏から氏神として敬われてきたの?", "id": "tr-200-01-001", "answers": [ { "text": "藤原氏", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鹿島神宮では何の動物を神の使いとしているの?", "id": "tr-200-01-002", "answers": [ { "text": "鹿", "answer_start": 324, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "神宮は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「カシマ」は、『常陸国風土記』では「香島」と記載される。\n風土記の中で、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明されている。\n「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年(723年)であり、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称されたと見られている。\nこの変化の理由は史書からは明らかでないが、神宮側では神使の鹿に由来すると説明する。\nこの「カシマ」の由来には諸説がある。\nなお、神宮では現在社名に「島」の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」の字が使用される。", "qas": [ { "question": "「香島」から「鹿島」の字を使用するようになったのはいつから?", "id": "tr-200-02-000", "answers": [ { "text": "8世紀初頭", "answer_start": 130, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "茨城県鹿嶋市はどこの地域との区別を明確にするために「嶋」の字を使っているの?", "id": "tr-200-02-001", "answers": [ { "text": "佐賀県鹿島市", "answer_start": 259, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "上記のように、鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)であるとされる。\nタケミカヅチの出自について、『古事記』では、伊邪那岐命(伊弉諾尊)が火之迦具土神(軻遇突智)の首を切り落とし、剣についた血が岩に飛び散って生まれた3神のうちの1神とする(日本書紀ではここでタケミカヅチ祖のミカハヤヒが生まれたとする)。\nまた、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、アメノトリフネ(天鳥船神:古事記)または経津主神(日本書紀)とともに活躍したという。\nその後、神武東征に際してタケミカヅチは伊波礼毘古(神武天皇)に神剣(布都御魂)を授けた。\nただし『古事記』・『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかでない。", "qas": [ { "question": "神武天皇に神剣を授けた神様は誰ですか?", "id": "tr-200-03-000", "answers": [ { "text": "タケミカヅチ", "answer_start": 236, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "火之迦具土神の首が切り落とされた際、飛び散った血からタケミカヅチが生まれたと記した書物は何?", "id": "tr-200-03-001", "answers": [ { "text": "『古事記』", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、『常陸国風土記』では鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す。\nしかしながら、風土記にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない。\n神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺』(807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述である。\nただし、『延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」においても「鹿島坐健御賀豆智命」と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲2年(768年)までさかのぼるという説がある。\n以上に基づき、8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある。", "qas": [ { "question": "鹿島神宮で祭られている神様を「香島の天の大神」と記した書物は何?", "id": "tr-200-04-000", "answers": [ { "text": "『常陸国風土記』", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」の記述のある文献名は何?", "id": "tr-200-04-001", "answers": [ { "text": "『古語拾遺』", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "成立年が早いのは『古語拾遺』と『延喜式』のどちら?", "id": "tr-200-04-002", "answers": [ { "text": "『古語拾遺』", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "春日大社が創建されたのは日本の元号で何年?", "id": "tr-200-04-003", "answers": [ { "text": "神護景雲2年", "answer_start": 258, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "神宮の祭神は、タケミカヅチが国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという風土記の説話から、武神・軍神の性格を持つと見なされている。\n特に別称「タケフツ」や「トヨフツ」に関して、「フツ」という呼称は神剣のフツノミタマ(布都御魂/韴霊)の名に見えるように「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神とする説もある。\n鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては、『梁塵秘抄』(平安時代末期)の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」という歌が知られる。\n一方、船を納めさせたという風土記の記述から航海神としての一面や、祭祀集団の卜氏が井を掘ったという風土記の記述から農耕神としての一面の指摘もある。\n以上を俯瞰して、軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたとする説もある。\n一方でタケミカヅチと中臣氏の遠祖である天児屋命を繋ぐ系図が存在し、中臣氏歴代にも津速産霊命、市千魂命、伊香津臣命、雷大臣命など「雷」に関係した神名・人名が見られ、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)や天雷命など雷に関わる神名が見られることから、雷神としてのタケミカヅチを中臣氏本来の神と見る説もある。", "qas": [ { "question": "鹿島神宮は軍神という認識以外に、農耕神と何の側面がありますか?", "id": "tr-200-05-000", "answers": [ { "text": "航海神", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」の歌は何に集録されているの?", "id": "tr-200-05-001", "answers": [ { "text": "『梁塵秘抄』", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鹿島神宮は、下総国一宮の香取神宮(千葉県香取市、位置)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。\n鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。\nその神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある。\n古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。\nこの香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。\n鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる。", "qas": [ { "question": "鹿島神宮が古くから深い関係を結んできた神社とはどこ?", "id": "tr-200-06-000", "answers": [ { "text": "香取神宮", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鹿島神宮と香取神宮は何の神様として信仰されてきたの?", "id": "tr-200-06-001", "answers": [ { "text": "軍神", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鹿島神宮の社殿が向いている方角とはどこ?", "id": "tr-200-06-002", "answers": [ { "text": "北", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、藤原氏からの崇敬も特徴の1つである。\n鹿島には藤原氏前身の中臣氏に関する伝承が多く残るが、藤原氏祖の藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、『常陸国風土記』によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。\nまた『大鏡』(平安時代後期)を初見として鎌足の常陸国出生説もあり、神宮境外末社の津東西社跡近くに鎮座する鎌足神社はその出生地と伝えられる。\n藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられたが、天児屋根命の父を建御雷神とする説があり、それに従えば建御雷神は中臣氏の上祖となる。\nその後、中世に武家の世に入ってからも両神宮は武神を祀る神社として武家から信仰された。\n現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」・「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。", "qas": [ { "question": "鎌足が常陸国出生だと記述した書物は何?", "id": "tr-200-07-000", "answers": [ { "text": "『大鏡』", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "春日大社はどこに創建されたの?", "id": "tr-200-07-001", "answers": [ { "text": "奈良", "answer_start": 194, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "春日大社を氏神とした一族は何?", "id": "tr-200-07-002", "answers": [ { "text": "藤原氏", "answer_start": 180, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "創建について、鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』(鎌倉時代)や古文書(応永32年(1425年)の目安)では神武天皇元年に初めて宮柱を建てたといい、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている。\n一方『常陸国風土記』にも神宮の由緒が記載されており、「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている。\nまた、この「香島の天の大神」は天の大神の社(現・鹿島神宮)、坂戸の社(現・摂社坂戸神社)、沼尾の社(現・摂社沼尾神社)の3社の総称であるともする。\nその後第10代崇神天皇の代には、大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつ)が大坂山で鹿島神から神託を受け、天皇は武器・馬具等を献じたという。\nさらに第12代景行天皇の代には、中臣臣狭山命が天の大神の神託により舟3隻を奉献したといい、これが御船祭(式年大祭)の起源であるとされる。\n臣狭山命は倭建命の東征活動に参加しており、陸奥地方に多く見える鹿島神、鹿島御子神の分布は中臣氏の先祖や部民関係者が東征活動に随行、従事したことによるものと見られる。\nなお、風土記に見える舟の奉献は実際には倭建命の東征にあたって献上したものと見る説もある。", "qas": [ { "question": "天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社の3社の総称は何?", "id": "tr-200-08-000", "answers": [ { "text": "「香島の天の大神」", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "先に天皇に就いたのは崇神天皇と景行天皇のどちらですか?", "id": "tr-200-08-001", "answers": [ { "text": "崇神天皇", "answer_start": 234, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中臣臣狭山命は誰による東征活動に参加したの?", "id": "tr-200-08-002", "answers": [ { "text": "倭建命", "answer_start": 372, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『常陸国風土記』には鹿島社に多くの神戸、すなわち祭祀維持のための付属の民戸が設置されたことが見える。\nまた風土記では、大化5年(649年)に神郡として香島郡(鹿島郡)が成立し、天智天皇年間(668年-672年)には初めて使いが遣わされて造営のことがあったと記す。\n以上の背景としては大化の改新後の新政による朝廷の東国経営強化が考えられ、改新を契機として朝廷は鹿島社とつながりを深め、天智朝の社殿造営を大きな画期としたと見られている。", "qas": [ { "question": "天智天皇の即位年間は?", "id": "tr-200-09-000", "answers": [ { "text": "668年-672年", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "このような朝廷との結びつきには、中臣氏の存在が背景にあったと指摘される。\n中臣氏は6世紀後半から7世紀初頭に祭祀制度の再編を行なっており、これに伴って東国に中臣部や卜部といった部民を定め、一地方神であった鹿島社の祭祀を掌握したと見られている。\n実際、史料には鹿島郡司や社の神職に中臣姓の人物が多く存在する。\nそして、大化の改新後に中臣氏は政治的に躍進し、鹿島社も朝廷との関係を深めたという。\n中臣氏進出以前の祭祀氏族については諸説あるが、明らかではない。", "qas": [ { "question": "鹿島社が朝廷と深い関係があったのは誰の存在が関係していたからですか?", "id": "tr-200-10-000", "answers": [ { "text": "中臣氏", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中臣氏が政治的躍進を遂げたのはいつ以降でしたか?", "id": "tr-200-10-001", "answers": [ { "text": "大化の改新後", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "奈良時代には、史書に多数の神戸の記事が載る。\nまたこの時代、鹿島社は藤原氏から氏神として特に崇敬された。\n神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が創建されたといい、鹿島から武甕槌神(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請された。\nこれら4柱のうち特に鹿島神が主神で、春日社の元々の祭祀も鹿島社の遥拝に発したと見られている。\nその後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年(777年)の藤原良継の病の際には「氏神」の鹿島社に対して正三位の神階が奉叙されている。", "qas": [ { "question": "鹿島社が藤原氏から氏神として最も崇敬されていたのは何時代でしたか?", "id": "tr-200-11-000", "answers": [ { "text": "奈良時代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第四殿に勧請された神様は何ですか?", "id": "tr-200-11-001", "answers": [ { "text": "比売神", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "平安時代以降の神階としては、承和3年(836年)に正二位勲一等、承和6年(839年)に従一位勲一等の記事が見える。\n嘉祥3年(850年)には、春日社の建御賀豆智命は正一位に達した(勧請元の鹿島社も同時に叙せられたという見方もある)。\n延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では常陸国鹿島郡に「鹿島神宮名神大月次新嘗」と記載されて式内社(名神大社)に列したほか、月次祭・新嘗祭では幣帛に預かっていた。\nなお、神名帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、大神宮(伊勢神宮)・香取神宮と鹿島神宮の三社のみであった。\nまた、常陸国内では一宮に位置づけられるようになっていった。", "qas": [ { "question": "先に位に就いたのは、従一位勲一等と正二位勲一等のどちらですか?", "id": "tr-200-12-000", "answers": [ { "text": "正二位勲一等", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『延喜式』神名帳において、神宮の称号で記載されていたのは鹿島神宮、香取神宮ともう1つは何ですか?", "id": "tr-200-12-001", "answers": [ { "text": "大神宮", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鹿島神宮は武神を祀るため、中世の武家の世にも神威は維持され、歴代の武家政権や大名から崇敬を受けた。\n源頼朝から多くの社領が寄せられたように、神宮には武家からの奉幣や所領の寄進が多く確認される。\nその反面、武家による神宮神職への進出や神領侵犯も度々行われており、頼朝により武家の鹿島氏(常陸大掾氏一族)が惣追捕使に任命されて神宮経営に入り込んだことを発端として、藤原氏の影響下からは離れていった。\n室町時代には、武家政権の神領寄進に平行して在地勢力による侵犯が進み、社殿造営費用にも欠く状態であったという。\n江戸時代には江戸幕府からの崇敬を受け、慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿(現・摂社奥宮の社殿)が造営された。\n元和5年(1619年)には徳川秀忠により現在の社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された。", "qas": [ { "question": "中世の時代に鹿島神宮に多くの社領を寄せた人物は誰?", "id": "tr-200-13-000", "answers": [ { "text": "源頼朝", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "先に造営されたのは、楼門と社殿一式のどちらですか?", "id": "tr-200-13-001", "answers": [ { "text": "社殿一式", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "本殿の造営を命じたのは誰?", "id": "tr-200-13-002", "answers": [ { "text": "徳川家康", "answer_start": 286, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "社殿一式の造営を命じたのは誰?", "id": "tr-200-13-003", "answers": [ { "text": "徳川秀忠", "answer_start": 327, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において官幣大社に列した。\n戦後は神社本庁の別表神社に列している。\n昭和43年(1968年)には、明治維新後百年の記念として茨城県笠間市産の御影石を用いて大鳥居(二の鳥居)が建て替えられた。\n昭和61年(1986年)には、境内が国の史跡に指定された。\n平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震およびその余震により、石造の大鳥居(二の鳥居)と御手洗池の鳥居が倒壊し、境内の石灯籠64基も崩れたほか、本殿の千木も被害を受け、被害総額は1億700万円に上った。\nその後、境内の杉を用いて大鳥居が再建され、平成26年(2014年)6月に竣工祭が執り行われている。\nなお平成23年度には、境内北西辺の祈祷殿・社務所の建て替えに伴い、境内で初めての大規模な発掘調査が実施された。\nこの時には奈良時代に遡る鍛冶関連を始めとする遺構・遺物のほか、時代ごとに幾度も整地がなされた様子が認められた。", "qas": [ { "question": "明治維新100年を記念して建て替えられたものは何ですか?", "id": "tr-200-14-000", "answers": [ { "text": "大鳥居", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東北地方太平洋沖地震による鹿島神宮の被害総額はいくらでしたか?", "id": "tr-200-14-001", "answers": [ { "text": "1億700万円", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2011年に境内の石灯篭が64基も崩れた原因とは何でしたか?", "id": "tr-200-14-002", "answers": [ { "text": "東北地方太平洋沖地震", "answer_start": 172, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『常陸国風土記』にも見えるように、古代常陸には中臣部・卜部が多く住んでおり、神職を兼ねる者も多かったとされる。\n天平18年(746年)には、これら当地に住む中臣部20烟・卜部5烟に「中臣鹿島連」姓が下賜されている。\n以後の神宮の主な神職は、この在地の中臣鹿島氏(中臣氏)と中央の大中臣氏が担っていった。\n職制について延長5年(927年)成立の『延喜式』では、神宮の職制は宮司1人、禰宜1人、祝1人、物忌1人からなるとし、宮司は従八位に準じるとしている。", "qas": [ { "question": "天平18年当時に「中臣鹿島連」姓が下賜された数が多かったのは、中臣部と卜部のどちらですか?", "id": "tr-200-15-000", "answers": [ { "text": "中臣部", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "宮司、禰宜、祝、物忌などの職制は共通して何人からなっていましたか?", "id": "tr-200-15-001", "answers": [ { "text": "1人", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "鎌倉時代に入り、源頼朝により常陸大掾氏一族の鹿島氏が惣大行事に任じられた。\nそれまで神職の補任権は基本的に藤原氏が担っていたが、この武家の進出によりその影響下からは離れることとなった。\n文永3年(1266年)の「諸神官補任之記」によれば、当時の神宮の神職には大宮司を筆頭として、大禰宜、物忌及びその父(千富禰宜)、惣大行事、検非違使・惣追捕使・押領使、宮介・権禰宜・和田権祝・益田祝・惣申権祝・田所権祝、案主3人その他、神夫・郷長・判官など、50人は軽く超える数がいたという。", "qas": [ { "question": "鹿島氏は誰によって惣大行事に任名されたの?", "id": "tr-200-16-000", "answers": [ { "text": "源頼朝", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "主な職は次の通り。\n大宮司とは「だいぐうじ」のことである。\n神宮の最高責任者。\n古くは中央の大中臣氏から補任されていたが、長元年間(1028年-1037年)から大中臣氏と中臣氏(中臣鹿島氏)が交互に務めるようになり、建長年間(1249年-1256年)以後は中臣氏が世襲した(近世に塙氏を称する)。", "qas": [ { "question": "神宮の最高責任者は何ですか?", "id": "tr-200-17-000", "answers": [ { "text": "大宮司", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "建長年間以後、大宮司を代々継いだ一族は誰ですか?", "id": "tr-200-17-001", "answers": [ { "text": "中臣氏", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大禰宜とは「おおねぎ」のことである。\n庶務をすべ、神体奉戴や献饌も行なった。\n貞観8年(866年)には禰宜が確認され、承安年間(1171年-1175年)を大禰宜の初めとして、以後中臣氏が世襲した(近世に羽生氏を称する)。\n一時期に鹿島氏(常陸大掾氏)も担っていた。\n中世以後は大宮司よりも多くの所領を有しており、神宮で実質的に最も実力を持った。", "qas": [ { "question": "庶務や神体奉戴を行った職とは何?", "id": "tr-200-18-000", "answers": [ { "text": "大禰宜", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "神宮で実質的最高実力者とは何の職だったの?", "id": "tr-200-18-001", "answers": [ { "text": "大禰宜", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "承安年間以後、大禰宜を代々継いだ一族は何でしたか?", "id": "tr-200-18-002", "answers": [ { "text": "中臣氏", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "物忌とは「ものいみ」のことである。\n本殿内陣奉仕役。\n古くは神職の未婚の娘から卜定され、中世末からは当禰宜(千富禰宜・物忌代とも)の女が選ばれた。\n当禰宜(物忌の父)は本来中臣氏であったが、中世末に千葉氏流の東氏が継ぎ、物忌の後見役として重きをなした。\n物忌は人目に触れるべきでない存在で、数ある神宮の祭事の中でも、本宮祭(御戸開き神事)、奥宮祭、流鏑馬祭、大宮祭、将軍祭、大生宮祭の年6回しか出輿しなかったという。\n初代物忌は神功皇后の娘の普雷女(あまくらめ)であると伝えられ、終身職であったため、明治の廃絶までで総勢27人を数えるのみであったという。\nかつて物忌が住した物忌館(ものいみやかた)は、跡宮(境外摂社)の傍とされる。", "qas": [ { "question": "本殿内陣奉仕役の職名は何?", "id": "tr-200-19-000", "answers": [ { "text": "物忌", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "初代物忌は誰であったと伝えられているの?", "id": "tr-200-19-001", "answers": [ { "text": "普雷女", "answer_start": 221, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "四候会議", "paragraphs": [ { "context": "四侯会議(しこうかいぎ)は、慶応3年(1867年)5月京都において設置された諸侯会議である。\n有力な大名経験者3名と実質上の藩の最高権力者1名からなる合議体制で、将軍徳川慶喜や摂政二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。\n幕末に流行した公議政体論の流れの中で、薩摩藩の主導のもとに成立した会議であり、朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。\n薩摩藩はこれを機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、慶喜との政局に敗れ、ごく短期間で挫折した。\nこの結果、薩摩藩は完全に倒幕に舵を切ることとなる。\n\n※本項における日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。", "qas": [ { "question": "四候会議が行われたのは何年?", "id": "tr-201-00-000", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "四候会議を主導した藩はどこ?", "id": "tr-201-00-001", "answers": [ { "text": "薩摩藩", "answer_start": 131, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "四候会議に参加した将軍は誰?", "id": "tr-201-00-002", "answers": [ { "text": "徳川慶喜", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "四候会議が設置された場所は?", "id": "tr-201-00-003", "answers": [ { "text": "京都", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次長州征討の最中、14代将軍徳川家茂が大坂城で急死した後、後継者と見なされた徳川慶喜は徳川宗家の継承のみ承諾したが、将軍襲職は固辞した。\n周囲から推され、それを断り切れずに就任する形式をとろうとしたためと言われる。\n5ヶ月後の12月5日、ようやく慶喜は征夷大将軍に就任する。\nしかし、同月に孝明天皇が突然崩御。\n慶喜は治世序盤にして大きな後ろ盾を失うこととなった。\n新将軍徳川慶喜にとっての大きな課題は、前将軍急死に伴って停戦したとはいえ未だ表向きは朝敵であった長州藩への処分問題と、諸外国と約束したものの孝明天皇の強い反対によって実現しなかった兵庫港(神戸)の開港問題であった。\n慶喜は、第二次長州征伐に失敗するなど、権威が失墜していた幕府を、幕府を中心とした朝廷との公武合体によって権威を回復し、政治の主導権を握りたいと考えていた。", "qas": [ { "question": "慶喜の前は誰が将軍でしたか?", "id": "tr-201-01-000", "answers": [ { "text": "徳川家茂", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "孝明天皇が死去したのは何月でしたか?", "id": "tr-201-01-001", "answers": [ { "text": "12月", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "家茂はどこで死去しましたか?", "id": "tr-201-01-002", "answers": [ { "text": "大坂城", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "慶喜が征夷大将軍に就いたのはいつでしたか?", "id": "tr-201-01-003", "answers": [ { "text": "12月5日", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "兵庫港は安政5年(1858年)に締結された日米修好通商条約およびその他諸国との条約により、西暦1863年からの開港が予定されていたが、異人嫌いで知られた孝明天皇が京都に近い兵庫の開港に断固反対し、また条約そのものの勅許を出さなかったため、開港計画は頓挫していた。\nこの状況に業を煮やした諸外国が慶応元年(1865年)9月13日、イギリス公使ハリー・パークスの呼びかけにより、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ連合艦隊が紀淡海峡を突破して兵庫沖に停泊し、開港を迫る事件が起きていた。\n幕府が新たに結んだロンドン覚書では開港が5年延期され、西暦1868年1月1日(和暦では慶応3年12月7日)をもって兵庫開港の期日としていたため、慶喜の将軍就任時点では、あと1年しか残されていなかった。", "qas": [ { "question": "外国人が嫌いだった天皇は誰でしたか?", "id": "tr-201-02-000", "answers": [ { "text": "孝明天皇", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "兵庫港の開港予定年はいつでしたか?", "id": "tr-201-02-001", "answers": [ { "text": "1863年", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "兵庫港の開港を反対していた天皇は誰でしたか?", "id": "tr-201-02-002", "answers": [ { "text": "孝明天皇", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロンドン覚書では、兵庫港の開港期日はいつだとされていましたか?", "id": "tr-201-02-003", "answers": [ { "text": "1868年1月1日", "answer_start": 272, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フランス公使レオン・ロッシュは、早速2月6日大坂城で慶喜と会見し、兵庫開港の履行を求めている。\nこれを受け3月5日、慶喜は朝廷に兵庫開港の勅許を奏請したが、容れる所とならず、22日に再度上表。\nこれも不許可とされる。\n諸外国からは開港半年前(6月7日)までに国内にその旨を告知することが求められており、何としても5月中の勅許が必要であったため、慶喜は諦めることなく三度上表文を提出する。\nその一方、3月中旬に慶喜は各国公使を大坂城にて公式に引見し、将軍の責任をもって兵庫開港を断行すると宣言。\n薩摩藩など幕府権威の低下を図る勢力を牽制し、幕府が日本を代表する政府であること、外交の主導権が厳然として幕府にあることを明示した恰好となった。\nすなわち兵庫開港は外交問題でありながら、国内の政局問題と強く連動していたのである。", "qas": [ { "question": "大坂城で慶喜と会見したフランス公使は誰でしたか?", "id": "tr-201-03-000", "answers": [ { "text": "レオン・ロッシュ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "慶喜に兵庫開港の履行を求めたフランス人は誰?", "id": "tr-201-03-001", "answers": [ { "text": "レオン・ロッシュ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "慶喜が朝廷に2度目の兵庫開港の勅許を奏請したのは何日だった?", "id": "tr-201-03-002", "answers": [ { "text": "22日", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方、慶応2年(1866年)に薩長同盟を締結した薩摩藩は、長州藩の名誉回復に尽力するとともに、幕府主導の政局を牽制し、列侯会議路線を進め、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革したいと考えていた。\nそこで薩摩藩在京首脳の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らは雄藩諸侯らを上京させて、長州問題・兵庫開港問題などの国事を議する会議を画策する。\n2月1日には島津久光(藩主島津茂久の父)に上京を促すため、西郷が鹿児島へ帰国。\n久光の賛同を得た西郷は、そのまま久光の命で伊達宗城(前宇和島藩主)・山内豊信(容堂)(前土佐藩主)の誘い出しに赴く。\n一方、京都では小松が在京中の松平慶永(春嶽)(前越前藩主)を説得。\n3月25日には久光が7000人と号する藩兵(実際は700程度か)を引き連れて鹿児島を出発(4月12日に入京)。\n続いて4月15日に伊達宗城も入京。\n5月1日には山内容堂も入洛し、四賢侯が揃った。\nなお、慶喜の再三にわたる兵庫開港の上奏を受けた朝廷は3月24日に全国25藩に対し、慶喜上表文に対する意見具申と藩主上京を求めていたため、これら諸侯の上京も結果的に朝命となった。", "qas": [ { "question": "薩長同盟とは薩摩藩とどこの藩が手を組んだ同盟でしたか?", "id": "tr-201-04-000", "answers": [ { "text": "長州藩", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "島津茂久の父親の名前は?", "id": "tr-201-04-001", "answers": [ { "text": "島津久光", "answer_start": 175, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "先に京都に入ったのは伊達宗城と島津久光のどちらですか?", "id": "tr-201-04-002", "answers": [ { "text": "島津久光", "answer_start": 175, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "四候会議の構成員の中で最後に京都に入ったのは誰でしたか?", "id": "tr-201-04-003", "answers": [ { "text": "山内容堂", "answer_start": 382, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "四侯会議序盤の議題は朝廷の人事で、当時欠員となっていた議奏の補充を巡り、親幕府派の二条摂政と久光との間に激論が交わされた。\n久光は以前から懇意の大原重徳・中御門経之を推したが、二条摂政は何かにつけて「先帝の叡慮(孝明天皇は尊王攘夷派の過激公卿を嫌っていた)」を持ち出して難色を示したため、久光が「それならば先帝の叡慮に従い、慶喜が要求する兵庫開港も断然拒否なさるか」と詰め寄り、二条が「暴論なるべし」と激怒し、久光も「暴論とはいかなる趣意か」と応ずる緊迫した場面となった。\n結局、議奏人事は押し切られ長谷信篤・正親町三条実愛が任じられることになった。", "qas": [ { "question": "四候会議の序盤の議題は何について話し合われましたか?", "id": "tr-201-05-000", "answers": [ { "text": "朝廷の人事", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "議奏人事に任じられたのは長谷信篤と誰でしたか?", "id": "tr-201-05-001", "answers": [ { "text": "正親町三条実愛", "answer_start": 255, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "5月14日、慶喜は四侯を引見して国事を議するが、長州問題と兵庫開港問題のどちらを優先するかが、まず対立点となった。\n久光は長州寛典論(藩主毛利敬親が世子広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)を唱え、兵庫問題よりも先にこれを決定すべきであると主張し、伊達宗城が同調した。\nしかし慶喜は、長州寛典は幕府の非を認めることになる上、会議が薩摩主導の流れになってしまうことを恐れ、これに反対。\n兵庫開港の期日が迫ってきていることを理由に、あくまでこちらを優先すべきと立場を崩さず、3年半前の参預会議と同様、慶喜と久光の対立で会議は頓挫してしまう(ただし参預会議の際には、久光が長州即時懲罰を主張し、慶喜が横浜鎖港を主張するという全く逆の展開であった)。\n結局妥協が見られぬままこの日は、慶喜の提案により諸侯との記念写真を撮影しただけで散会となり、四侯側が慶喜から上手くあしらわれた恰好となった。", "qas": [ { "question": "兵庫開港問題の優先を主張した人は誰でしたか?", "id": "tr-201-06-000", "answers": [ { "text": "慶喜", "answer_start": 258, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長州問題を優先を主張した人は誰だったの?", "id": "tr-201-06-001", "answers": [ { "text": "久光", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "久光の主張に同調した人は誰だったの?", "id": "tr-201-06-002", "answers": [ { "text": "伊達宗城", "answer_start": 134, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "19日には病欠と称した容堂を除く3人が、老中板倉勝静(備中松山藩主)・稲葉正邦(淀藩主)に談判するが納れられず、松平春嶽は両件同時奏請を提案して妥協を試みる。\nしかし慶喜の政局主導を阻止したい大久保利通は越前藩邸へ出向いて説得(小松も伊達宗城を説得)。\n結局23日にいたって四侯は、連名で長州問題先議を建議書にして提出するにとどまった。", "qas": [ { "question": "19日の会議に欠席した人は誰でしたか?", "id": "tr-201-07-000", "answers": [ { "text": "容堂", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "慶喜の政局主導を阻止したかった人は誰でしたか?", "id": "tr-201-07-001", "answers": [ { "text": "大久保利通", "answer_start": 96, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "伊達宗城を説得したのは小松と誰でしたか?", "id": "tr-201-07-002", "answers": [ { "text": "大久保利通", "answer_start": 96, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この5月23日、タイムリミットの迫った慶喜は決死の覚悟をもって朝議に臨んだ。\n本来朝命によって召集されたはずの四侯も全員が列席すべき立場であったが、すでに半ば諦め気味の雰囲気が漂い、結局松平春嶽・伊達宗城の2人が参席したのみである。\n慶喜の意気込みにもかかわらず朝廷側の抵抗も激しく、「先帝の御遺志」を盾に兵庫開港許可を拒んだ。\n板挟みにあった二条摂政は結論の先延ばしを図る。\nしかし、夜半の休憩中にも慶喜は春嶽に「今回ばかりは議決するまで何昼夜かかっても退去しない覚悟である。さもなくば必ず(大久保・西郷らの)工作が再開されてしまう」と述べ、驚異的な粘りを見せた。", "qas": [ { "question": "5月23日の会議に参席した人は慶喜、伊達宗城ともう1人は誰でしたか?", "id": "tr-201-08-000", "answers": [ { "text": "松平春嶽", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "板挟みの立場にあったのは何でしたか?", "id": "tr-201-08-001", "answers": [ { "text": "二条摂政", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "翌日未明に至り、あまりの会議の長さに散会しようとした二条に対して、大納言鷹司輔政が「天皇も将軍も良しとする勅許をこの会議で決められないようでは天下は乱れ、朝廷も今日限りである」と発言。\n父の輔煕にたしなめられるが、これを機に朝臣らも二条摂政の優柔不断を責める流れとなり、ついに明け方摂政が折れ、兵庫開港および長州寛典論を奏請し、明治天皇の勅許を得ることが決定した。\n慶喜が主導して徹夜の朝議で勅許を勝ち取ったことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議側の敗北を意味した。", "qas": [ { "question": "大納言鷹司輔政の父親の名前は何でしたか?", "id": "tr-201-09-000", "answers": [ { "text": "輔煕", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "四候会議での勝者は誰でしたか?", "id": "tr-201-09-001", "answers": [ { "text": "慶喜", "answer_start": 183, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "薩摩藩の西郷・大久保らは四侯会議の失敗を受け、戦略の変更を余儀なくされる。\n慶応3年(1867年)5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、西郷、小松帯刀らは土佐藩の討幕派の重鎮・乾退助、谷干城らと薩土討幕の密約を締結し、5月25日、薩摩藩邸で重臣会議が開かれ、武力討幕に舵を切ることが確認された。\nすなわち、もはや列侯会議で幕府(および慶喜)を牽制するのは不可能であるとして、斉彬以来維持してきた公議路線を放棄し、武力倒幕路線を指向することとなる。\n軍役奉行伊地知正治はこの倒幕の方針を久光に伝え、これに久光も半ば同意した。\n(久光は武力による倒幕は諸外国の介入を招く恐れがあると懸念をもっていた)薩摩藩は秘かに岩倉具視と結び、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之らの協力を得て倒幕の密勅降命に向け、工作することとなる。", "qas": [ { "question": "乾退助は何藩出身ですか?", "id": "tr-201-10-000", "answers": [ { "text": "土佐藩", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "薩土討幕の密約を締結させた仲介者は誰でしたか?", "id": "tr-201-10-001", "answers": [ { "text": "中岡慎太郎", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "薩土討幕の密約が締結したのは西暦何年でしたか?", "id": "tr-201-10-002", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "岩倉具視が秘かにどこの藩とつながって倒幕工作を考えていたの?", "id": "tr-201-10-003", "answers": [ { "text": "薩摩藩", "answer_start": 298, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方四侯会議の途中から欠席するなど薩摩と距離を置き始めた山内容堂は、むしろこの後徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めていく。\n同年6月坂本龍馬から大政奉還を含む船中八策を聞いた土佐藩の後藤象二郎は、容堂にこれを進言する。\n徳川家存続の妙策と考えた容堂は、慶喜に大政奉還を建白した。\nその結果、薩摩側の倒幕の密勅工作の機先を制し、10月14日大政奉還が実行されることとなる。", "qas": [ { "question": "慶喜に大政奉還を意見した人は誰でしたか?", "id": "tr-201-11-000", "answers": [ { "text": "容堂", "answer_start": 119, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "容堂に船中八策を進言した人物とは誰ですか?", "id": "tr-201-11-001", "answers": [ { "text": "後藤象二郎", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大政奉還が行われたのはいつでしたか?", "id": "tr-201-11-002", "answers": [ { "text": "10月14日", "answer_start": 160, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ボーイング757", "paragraphs": [ { "context": "ボーイング757(Boeing757)は、アメリカのボーイングが開発・製造した中型の双発ジェット旅客機である。ボーイング727の後継機として短・中距離路線向けに開発された。ボーイングが開発したナローボディ機の中で最も大きく、座席数は200から289席、航続距離は3,150から4,100海里(5,830から7,590キロメートル)である。2人乗務のグラスコックピットとターボファンエンジンを備え、空力抵抗を抑制できるスーパークリティカル翼型の設計が採用された。開発はワイドボディ双発機のボーイング767と同時並行で行われ、757と767でシステム及び操縦資格の共通化が図られた。757シリーズには胴体長が異なる2つのモデル、757-200と757-300が存在する。最初に開発されたのは旅客型の757-200で、1983年に引き渡しが開始された。貨物専用型757-200PFと貨客混載型757-200Mは、757-200と共通の胴体を持ち、1980年代後半に登場した。1999年に初就航した胴体延長型の757-300は、史上最も長い胴体を持つナローボディ双発ジェット機となった。旅客型の757-200からは貨物専用機への改造も行われたほか、米国のC-32のような要人輸送機や多目的機などの軍用の派生型、さらにはプライベート機や政府専用機なども作られ、輸送用途や研究用途に用いられた。装備するエンジンは、ロールス・ロイス製RB211シリーズまたはプラット・アンド・ホイットニー製PW2000シリーズのいずれかであった。", "qas": [ { "question": "ボーイングが開発したナローボディ機の中で最も大きいのは、何?", "id": "tr-202-00-000", "answers": [ { "text": "ボーイング757", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初に開発された757シリーズの機が初めて引き渡されたのは、何年ですか?", "id": "tr-202-00-001", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 356, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "757-200と757-300のうち、胴体がより長いのは、どれか?", "id": "tr-202-00-002", "answers": [ { "text": "757-300", "answer_start": 451, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "757-200と757-200PF、757-200Mのうち、旅客用として用いられないのは、何か?", "id": "tr-202-00-003", "answers": [ { "text": "757-200PF", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "757はイースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズによって1983年に就航した。旧式のナローボディ機を置き換え、米国の短中距離国内線やシャトル便、大陸横断路線などで一般的に使われる旅客機となった。1986年にはETOPSと呼ばれる双発機の長距離飛行に関する緩和要件が適用され、大陸間路線にも就航するようになった。主な運航者は米国の大手航空会社、欧州のチャーター便航空会社、貨物航空会社である。2014年10月までに757の機体損失事故は8件発生しており、うち7件は死亡事故である。757シリーズは54の顧客向けに総計1,050機が製造され、2004年10月28日に生産が終了した。シリーズ中では757-200が圧倒的に多く913機が製造された。やがて旅客機需要の中心が小型機に移り757の販売が縮小したため、ボーイングは小型の737シリーズに力を入れ、757の生産終了時に直接的な後継機は開発されなかった。最終機は2005年4月26日に上海航空に引き渡された。757が生産されていた当時、日本の航空会社はボーイング機を好んで使う傾向にあったが、757に関しては登場から生産終了までに1機も購入・使用されることはなかった。2018年7月の時点で666機が就航しており、最大の運用者は旅客型がデルタ航空、貨物型がフェデックス・エクスプレスである。", "qas": [ { "question": "2014年10月までの757の機体損失事故の中で、死亡事故と死亡事故でない事故を比較した時、その件数がより多いのは、どちらか?", "id": "tr-202-01-000", "answers": [ { "text": "死亡事故", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "757シリーズの中でその製造機数が最も多かったのは、何?", "id": "tr-202-01-001", "answers": [ { "text": "757-200", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "757シリーズにおける最後の引き渡しはいつですか?", "id": "tr-202-01-002", "answers": [ { "text": "2005年4月26日", "answer_start": 408, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "旅客型の757シリーズの最大の利用者は、どの航空会社か?", "id": "tr-202-01-003", "answers": [ { "text": "デルタ航空", "answer_start": 545, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ボーイングでは、1963年に短中距離向けのナローボディの3発ジェット機として727を初飛行させていた。727はジェット旅客機としては好調な売れ行きを記録し、胴体延長型の727-200も含めて最終的には1,832機の販売実績を有するベストセラーとなるが、より小型だが運航乗務員が2人で済み、さらに双発エンジンのため燃費にも優れる737-200やマクドネル・ダグラスDC-9-40/50シリーズとの競合もあり1974年頃には売れ行きは鈍化していた。ボーイングは727を改良することでさらに販売機数を伸ばせると考え、改良型として727-300の開発に着手した。この727-300は、胴体を延長した上でエンジンを低騒音化し、降着装置も4輪式にするなどの改良が加えられる計画で、これにより、座席あたりの燃費を13パーセント低減すると同時に、年ごとに厳しくなる騒音規制をクリアすることができると考えられた。ボーイングでは727-300の開発に強い意欲を示し、原寸大の金属製モックアップの製作を進めていたが、1975年に入り、ユナイテッド航空などのアメリカ国内の航空会社は727-300構想に対して、「その程度の燃費改善では、新機材導入のコストをカバーするには不十分であり、騒音規制への対応にも一時的にしか対応できず、長く使い続けることのできる機体ではない」という考えを示した。ボーイングは、727-300構想に既に5000万ドルの資金を投入しており、モックアップも作成していたが、航空会社が727-300を好まないのであれば、この計画を破棄した上で、全く新しい機体を開発する方が将来的にもメリットが大きいと考えた。このような事情から、727-300開発計画は1975年8月には正式に破棄されることになった。", "qas": [ { "question": "727の初飛行は何年のこと?", "id": "tr-202-02-000", "answers": [ { "text": "1963年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "727-300の計画によると、727と727-300のうち、座席あたりの燃費がより良いのは、どれですか?", "id": "tr-202-02-001", "answers": [ { "text": "727-300", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "727-300開発計画が破棄されたのはいつか?", "id": "tr-202-02-002", "answers": [ { "text": "1975年8月", "answer_start": 723, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "727の売れ行きが1974年頃から鈍化していったのは、自社製品の以外に、どの会社の製品との競合が原因となったのか?", "id": "tr-202-02-003", "answers": [ { "text": "マクドネル・ダグラス", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方で、当時、ボーイングではワイドボディジェット旅客機として、250席程度の座席数を持つ「7X7」(後の767)の開発構想を進めていたが、これと同時に、将来にわたって長く販売を続けることが可能で、7X7よりは座席数の少ない新型ナローボディ旅客機を並行開発するという発想が生まれた。この構想は「7N7」と呼ばれることになり、1976年1月から7N7計画の調査と研究が開始された。コンチネンタル航空は、当初727-300の設計にフィードバックを行っていたが、7N7の研究が始まると727-300への興味を失ってしまった。727-300案を提示された他の航空会社も、同案に大きな興味を示すことはなかった。一方で、7N7案に盛り込まれた高バイパス比のターボファンエンジン、新しいコックピット、軽量化された機体、空力特性の向上、低運用コストという特徴に航空会社は関心をよせた。これら7N7の新しい特徴は7X7との並行開発によって得られるものもあり、7N7は7X7とともにボーイングの将来を担う重要なプロジェクトとして扱われることになった。", "qas": [ { "question": "7X7と7N7の並行開発に関する調査と研究が開始されたのは、いつからなの?", "id": "tr-202-03-000", "answers": [ { "text": "1976年1月", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "7N7の研究が始まると同時に、何の開発計画に対する自社および航空会社らからの興味がなくなりましたか?", "id": "tr-202-03-001", "answers": [ { "text": "727-300", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "開発計画によると、有する座席数がより少ないのは、7X7と7N7のうち、どちらか?", "id": "tr-202-03-002", "answers": [ { "text": "7N7", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "7N7では727の胴体設計を継承するものの、新設計の主翼と高バイパス比のエンジンを採用することになった。まず最初にまとめられたデザイン案は、164席の客席を有する「モデル761-161」と呼ばれるもので、これは「工具まで同じものが使用可能」という在来機種との共通性を重視した結果、胴体は707・727・737と同じ構造とされた。ただし、エンジンは双発とされ、胴体尾部に3発のエンジンを装備する727と比較するとスマートなデザインとなった。また、エンジンと主翼以外にも、垂直尾翼や降着装置などに新技術が採用されていた。1978年1月に、ボーイングはイースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズに対して、この「モデル761-161」の構想を説明した。この2社は、かねてから727の発展型となる機体に関心を示していたのである。ところが、この2社の要求はそれぞれ異なる内容であった。具体的には、イースタン航空が2クラスで165席クラスの機体を求めていたのに対し、ブリティッシュ・エアウェイズは単一クラスで190席クラスの機体を希望したのである。ブリティッシュ・エアウェイズはイギリス政府との結びつきが強い航空会社であり、かつヨーロッパの航空会社であることからエアバスの旅客機を購入することが求められていた。ボーイングもその事情を把握していたため、ブリティッシュ・エアウェイズの要望には特別な配慮を行なっていた。ボーイングでは、できるだけこの2社の要求に応えるべく、デザインの見直しを行い、2クラスで165席から175席、単一クラスで190席設置できるようなサイズに改めたのである。さらにこの頃のアメリカの大手航空会社は、航空旅客数の増加に確信を持っており、アメリカ航空業界では「機体は大きければ大きいほどいい」という考え方が一般化していた。", "qas": [ { "question": "イースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズの「モデル761-161」の構想に対する要請を比べた時、より多くの座席数を求めた航空会社はどちらですか?", "id": "tr-202-04-000", "answers": [ { "text": "ブリティッシュ・エアウェイズ", "answer_start": 427, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズの「モデル761-161」の構想に対する要請を比べた時、より多くのクラスを求めた航空会社はどちらですか?", "id": "tr-202-04-001", "answers": [ { "text": "イースタン航空", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブリティッシュ・エアウェイズはどの国の航空会社か?", "id": "tr-202-04-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 483, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヨーロッパでは、どの会社の旅客機を購入することが求められていたの?", "id": "tr-202-04-003", "answers": [ { "text": "エアバス", "answer_start": 525, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "そこで、ボーイングはさらに胴体を延長した上で、180席を標準座席数とするデザイン案「モデル761-177」をまとめた。最終的にはこのデザイン案が開発のベースとなることになるが、提案当時は水平尾翼を垂直尾翼の上部に配置する「T字尾翼」となっていた。これは、727の尾翼部分の設計を一部流用することを考えていたためである。1978年には、機体サイズが160席の短胴型7N7-100と180席以上の長胴型7N7-200の2種類に絞りこまれた。同年8月31日に、イースタン航空から確定21機(オプション24機)、ブリティッシュ・エアウェイズからは確定19機(オプション12機)の7N7-200を受注したことが発表された。これらの注文は1979年3月23日に調印が行われ、ボーイングは7N7を「757」と命名することを公表して正式に開発を開始した。発注を受けてから開発開始までの期間が長かったのは、767の開発を並行して進めるため、開発作業のタイミングをずらす意図があったとされている。また、計画当初は757-100を最初に開発する予定だったが、航空会社からの受注が得られず開発が中止された。", "qas": [ { "question": "「モデル761-177」は何席を標準座席数としていたの?", "id": "tr-202-05-000", "answers": [ { "text": "180席", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "7N7-100と7N7-200のうち、座席数がより多いのは、どれですか?", "id": "tr-202-05-001", "answers": [ { "text": "7N7-200", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "7N7-100と7N7-200のうち、胴体がより長いのは、どれか?", "id": "tr-202-05-002", "answers": [ { "text": "7N7-200", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "757は在来機の727よりも高い収容能力と優れた経済性を持つ機体を目指して設計された。1973年の第四次中東戦争をきっかけに燃料価格が高騰し、運用コストの上昇を懸念していた航空会社は燃費性能の向上を求めた。設計目標の中には燃料消費量の削減が掲げられ、削減方法と目標値(従来機比)は新エンジンの採用により20パーセント、航空力学面での改善により10パーセントとされた。より軽い材料と新しい主翼の採用も燃費性能を向上させると期待された。最大離陸重量(MTOW)は727よりも4,540キログラム大きい99,800キログラムに設定された。高い気温と高度のために離陸性能が低下する高温・高地環境のために、ペイロード容量を向上させた重量型がオプション設定された。エンジン数は3発または4発の場合と比べて燃費性能面で有利だという理由から双発とされた。ローンチカスタマーのイースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズは推力166キロニュートンのロールス・ロイス(R-R)製RB211-535Cターボファンエンジンを選択した。ボーイングの旅客機ではこれまで米国製以外のエンジンを採用したローンチが無く、今回のロールス・ロイス製エンジン搭載仕様の受注によるローンチが初めてのケースとなった。後に、米国のエンジン製造企業であるプラット・アンド・ホイットニーは170キロニュートンの推力を持つPW2000型を実用化し、デルタ航空が1980年11月に発注した60機に搭載された。開発プログラムの初期にはゼネラル・エレクトリック社のCF6-32の搭載も検討されたが需要が無く実現しなかった。", "qas": [ { "question": "757と727のうち、座席数がより多いのは、どれ?", "id": "tr-202-06-000", "answers": [ { "text": "757", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "何がきっかけで、航空会社は1973年から燃費性能の向上に焦点を当てるようになりましたか?", "id": "tr-202-06-001", "answers": [ { "text": "第四次中東戦争", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "757と727のうち、最大離陸重量がより大きいのは、どれか?", "id": "tr-202-06-002", "answers": [ { "text": "757", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "燃費性能が最も良いエンジン数は、双発と3発、4発のうち、どちらか?", "id": "tr-202-06-003", "answers": [ { "text": "双発", "answer_start": 362, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "757は727の後継機と考えられており、当初は727との共通性が重視されたが、いずれ退役することが見込まれる727よりも、同時進行で開発中の767との共通性を高めた方が良いと考えられるようになった。ボーイングはリスクを低減するため、そして開発費を節約するために両機の設計作業を統合し、結果として両機種は搭載機器や取扱上の特性などが共通化された。767で採用されたコンピュータを用いた設計手法(CAD)が757の設計でも取り入れられ、全体の3分の1を超える設計図がCADで作成された。1979年の前半には757と767のコックピットが共通化され、両機で同じ計器類やアビオニクス、飛行管理システムが採用された。従来の機械式計器類の代わりに合計6個のカラーCRTを配置して操縦士が把握しやすい情報提示を行うとともに、コンピュータによる自動化を進めることで、操縦士の作業負荷の低減やヒューマンエラーの防止が図られた。まだグラスコックピットという言葉もない時代であったが、この新しいコックピットシステムは、それまで操縦士2人と航空機関士の計3人で乗務する必要があったものを、操縦士2人のみで運航できるように設計された。757と767のコックピットの共通化はパイロットの操縦資格まで共通化することを視野に入れていた。通常、旅客機の操縦資格は機種ごとに取得することになるが、1つの操縦資格で2機種に乗務できることになれば、ボーイングの顧客となる航空会社側でも操縦士の勤務割り当ての自由度が増すことになり、メリットは大きくなる。この共通資格認定は1983年7月22日に認められ、地上での数時間の教習によって757と767の相違について学習することにより、双方の機種への乗務が認められることになった。", "qas": [ { "question": "CADとは、何を用いた設計手法であるの?", "id": "tr-202-07-000", "answers": [ { "text": "コンピュータ", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "757と767で初めて採用された新しいコクピットシステムは、のちに何と呼ばれるようになりましたか?", "id": "tr-202-07-001", "answers": [ { "text": "グラスコックピット", "answer_start": 406, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "757と767における共通操縦資格認定が認められたのは、いつか?", "id": "tr-202-07-002", "answers": [ { "text": "1983年7月22日", "answer_start": 665, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "757と767で初めてグラスコクピットが採用される前は、操縦士のほかに、どのような役職の者が必要だったか?", "id": "tr-202-07-003", "answers": [ { "text": "航空機関士", "answer_start": 458, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "757の主翼はスーパークリティカル翼を元に開発され、翼の上面のほぼ全域で揚力を発生できる新しい翼型が採用された。この主翼には767の主翼と共通の設計技術が用いられ、従来機より抗力が低減されたほか、燃料タンク容量を増やすことができた。また、727よりも大きくなった翼幅によって誘導抗力の発生が少なくなり、主翼の付け根部分が大きくなって主脚の格納スペースが拡大したことで後に胴体延長型を開発する際に役立った。1979年の中頃になると727の面影を残す特徴であったT字尾翼を取り止めて胴体尾部に水平尾翼を装備するデザインに変更された。この変更は、ディープストールと呼ばれる空力学的状態に陥るリスクを避けるとともに、胴体後部の絞り込みを小さくして客室容量を増やす目的で行われた。757-200の全長は47.32メートルで727-200から64センチメートル長くなったが、尾部のエンジンがなくなったことで客室に割り当てられるスペースはずっと大きくなり座席数は727から50席増えて239席となった。これで、727から757に引き継がれた主要な特徴は胴体断面だけとなった。一時は開発をワイドボディの7X7計画に一本化することも考えられたが、結局ワイドボディ機とナローボディ機の両方を開発することになった。757をナローボディとしたのは主には抗力を減らすためで、イースタン航空とブリティッシュ・エアウェイズがナローボディ機の方が経済的だと主張したほか、イースタン航空がシャトル便を多数運航していたニューヨークのラガーディア空港は単通路機の乗り入れしか認められていなかったこともあり、ボーイングが予測した民間航空機市場においてナローボディ機の需要があると判断したことによる。", "qas": [ { "question": "727-200と757-200のうち、収容能力がより高いのは、何?", "id": "tr-202-08-000", "answers": [ { "text": "757-200", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "757-200の全長は、727-200のものに比べてどのぐらい長いですか?", "id": "tr-202-08-001", "answers": [ { "text": "64センチメートル", "answer_start": 365, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "757をナローボディとするのに影響を及ばした航空会社には、イースタン航空のほかに、どの航空会社があるのか?", "id": "tr-202-08-002", "answers": [ { "text": "ブリティッシュ・エアウェイズ", "answer_start": 582, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラガーディア空港はどの都市にある空港であるか?", "id": "tr-202-08-003", "answers": [ { "text": "ニューヨーク", "answer_start": 641, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ボーイングは757の最終組み立てラインを707、727、737を生産していたワシントンのレントン工場に設けた。開発プログラムの初期にボーイングとブリティッシュ・エアウェイズ、ロールス・ロイスの3社は英国の航空機メーカーにも757の主翼の生産に参加するよう働きかけたが、話はまとまらなかった。結局、主翼、機首部、尾翼を含む機体の約半分がボーイングの自社設備で生産され、残りの部分は主に米国を拠点とする下請け企業によって生産された。フェアチャイルド社は前縁スラット、グラマン社はフラップ、ロックウェル・インターナショナル社は主胴体を生産・供給した。この新しいナローボディ機の生産立ち上げは、在来機種である727の生産縮小と歩調を合わせて行われ、1981年1月に初号機の最終組み立てが開始された。757のプロトタイプは1982年1月13日にレントン工場にてロールアウトした。この機体はRB211-535Cエンジンを装備し、計画よりも1週間前倒しされ1982年2月19日に初飛行が行われた。この初飛行では油圧低下の表示に続いてエンジンストールが発生した。ボーイングのテストパイロットはシステムによる診断内容を確認してからエンジンの再始動に成功し、以降は正常に飛行した。その後、この初号機は週7日のスケジュールで試験飛行を行った。この時までに、エア・フロリダ、アメリカン航空、ブリティッシュ・エアウェイズ、デルタ航空、イースタン航空、モナーク航空、トランス・ブラジル航空の7社から計136機の受注を獲得していた。", "qas": [ { "question": "ボーイングは757の最終組み立てラインを、どの都市にある工場に設けたの?", "id": "tr-202-09-000", "answers": [ { "text": "ワシントン", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "機体のそれぞれの部分の生産において、どこでの生産が最も大きい割合を占めますか?", "id": "tr-202-09-001", "answers": [ { "text": "ボーイングの自社設備", "answer_start": 167, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "757の初号機の最終組み立てが開始されたのは、いつか?", "id": "tr-202-09-002", "answers": [ { "text": "1981年1月", "answer_start": 320, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボーイングが757の最終組み立てラインを設けた工場では、707と727のほかに、何が生産されていたのか?", "id": "tr-202-09-003", "answers": [ { "text": "737", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "7か月におよぶ757の試験飛行には初号機から5号機までの5機が投入された。試験内容には飛行システム・推進システムの試験、高温・低温気象下での試験、路線実証飛行が含まれた。767の開発過程で得られたデータも活用された。設計上の問題点が洗い出された後、757の非常口ドアには取り扱いを簡単にするために2重ばね構造が採用されたほか、バードストライクに備えて胴体が強化された。実際に製造された機体は、当初の計画値よりも重量が1,630キログラム軽くなったほか、燃料消費率が3パーセント向上した。このことにより航続距離が200海里(370キロメートル)延び、ボーイングは、ますます757の経済性を宣伝するようになった。1,380時間の試験飛行の後、1982年12月21日にRB211エンジン搭載仕様の757に対して米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration)の型式証明が交付され、続く1983年1月14日には英国の民間航空局(CivilAviationAuthority)の型式証明を取得した。最初の引き渡しはローンチカスタマーのイースタン航空に対して1982年12月22日に行われた。これは767の初引き渡しの約6か月後のことであった。PW2037エンジン仕様の最初の757は約1年後にロールアウトし、1984年11月5日にデルタ航空に対して引き渡された。", "qas": [ { "question": "実際に製造された757の機体における各数値と当初の計画での数値を比較した時、燃料消費率と航続距離、重量のうち、どの数値において減少が見られたの?", "id": "tr-202-10-000", "answers": [ { "text": "重量", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "米国と英国のうち、RB211エンジン搭載仕様の757に対し、ボーイングに型式証明を交付した時期がより遅いのは、どの国の航空局ですか?", "id": "tr-202-10-001", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 416, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "767とPW2037エンジン仕様の757のうち、どれの初引き渡しがより早かったか?", "id": "tr-202-10-002", "answers": [ { "text": "767", "answer_start": 508, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "イースタン航空は757の初の商業運航を1983年1月1日にアトランタ-タンパ線で行った。1983年2月9日にはブリティッシュ・エアウェイズがロンドン-ベルファスト間のシャトル便に757を就航させ、3発旅客機であるホーカー・シドレートライデントを置き換えた。チャーター便を運航しているモナーク航空とエア・ヨーロッパもこの年の後半に757の運用を開始した。早くから757を就航させた航空会社では、従来のジェット旅客機と比べて757は信頼性と静粛性能が向上していると評した。従来機種からの転換訓練によって、パイロットがCRTを用いた新しいコックピットに対応するのを助けられ、大きな技術的問題が起きることもなかった。イースタン航空は、757は従来機よりもペイロード容量が大きく、燃料消費が少なく、また、運航乗務員が2人で済むことから運用コストが低減されることを認めた。757の座席当たりの燃料消費は、特に典型的な中距離フライトでは、707よりも42パーセント、727よりも40パーセント少なく済んだ。", "qas": [ { "question": "イースタン航空とエア・ヨーロッパのうち、757の初の商業運航がより早かったのは、どの航空会社なの?", "id": "tr-202-11-000", "answers": [ { "text": "イースタン航空", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "707と727のうち、座席当たりの燃料消費がより少ないのはどれですか?", "id": "tr-202-11-001", "answers": [ { "text": "727", "answer_start": 426, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "757のデビューは成功したものの、米国の航空自由化により需要が小型機に移ったことに加え、燃料価格が下落した結果、1980年代の大半で販売が伸び悩んだ。直接的な競合機種は存在しなかったが、マクドネル・ダグラスMD-80などの150席級のナローボディ機は機体価格が低く、757の座席配置によってはほぼ同数の乗客を乗せることができた。全く売れない期間が3年間続いたが、1983年11月にノースウエスト航空から20機の注文を受けたことで、生産ペースを下げずに済んだ。1985年12月には貨物型の757-200PFが発表されUPS航空から20機受注したほか、1986年2月には貨客混載型の757-200Mがローンチされロイヤル・ネパール航空から1機受注した。貨物型はメインデッキ(旅客型で客席が設けられる部分)を貨物室としたタイプであり、1987年9月にUPS航空によって初就航した。貨客混載型はメインデッキに乗客と貨物を収容できるモデルで、1988年9月にロイヤル・ネパール航空によって就航した。", "qas": [ { "question": "1983年11月から1985年12月にかけて757シリーズに対する受注がより多かったのは、ノースウエスト航空とUPS航空のうち、どの航空会社か?", "id": "tr-202-12-000", "answers": [ { "text": "ノースウエスト航空", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "757-200PFと757-200Mのうち、そのローンチがより遅かったのは、どれか?", "id": "tr-202-12-001", "answers": [ { "text": "757-200M", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1980年代後半になると、ハブ空港への路線集中が進み、米国で空港の騒音規制が始まったこともあり757の販売が好転した。1988年から1989年の間に合計322機の受注を獲得し、そのうちの合わせて160機はアメリカン航空とユナイテッド航空からの受注であった。このときまでに、米国の短距離国内路線と大陸横断路線では757が当たり前のように見られるようになり、老朽化した707や727、ダグラスDC-8、マクドネル・ダグラスDC-9を置き換えた。757-200の最大航続距離は3,900海里(7,220キロメートル)と727の1.5倍を超える長さとなり、航空会社は無着陸でより長い距離の路線に就航させることができた。さらに、757は厳しい騒音規制が課せられた空港(カリフォルニア州のジョン・ウェイン空港など)や、機体サイズに制限があった空港(ワシントンD.C.のビジネス街に近いワシントン・ナショナル空港(当時)など)からも飛び立つことが出来た。最終的に、デルタ航空とアメリカン航空は、それぞれ100機以上の757を就航させ、米国で最大の757運用者となった。", "qas": [ { "question": "1988年から1989年の間の757に対する受注の約半分を占めたのは、アメリカン航空とどの航空会社からの受注であったの?", "id": "tr-202-13-000", "answers": [ { "text": "ユナイテッド航空", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "最終的に100機以上の757を就航させ、米国で最大の757運用者となった航空会社には、アメリカン航空のほかに、どの航空会社がありますか?", "id": "tr-202-13-001", "answers": [ { "text": "デルタ航空", "answer_start": 425, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "欧州では、ブリティッシュ・エアウェイズ、イベリア航空、アイスランド航空が757の主要なユーザーとなった一方で、ルフトハンザドイツ航空など他の航空会社はナローボディ機のニーズに対して757は大きすぎると考えた。1980年代の後半には、欧州の多くのチャーター便航空会社(エア2000、エア・ホラント、LTU国際航空など)が757を採用してパッケージ旅行向けなどの便に使用した。アジアでは旅客数の多さから757より大きな機体が好まれたため、受注数は少なかった。1982年における757の販売実績は、潜在的顧客であった日本航空に発注を促すほどのものではなかった。シンガポール航空はアジア初の757ユーザとなり、インドネシアとマレーシアの路線に757を就航させたが、ちょうど5年後の1989年には、保有機種を240席のワイドボディ機であるA310に統一するため、4機の757を売却してしまった。757は中華人民共和国では比較的受け入れられ、1987年に中国民用航空局が最初の発注を行った。中国での受注数は59機まで増えてアジアで最大の市場となった。中国南方航空、中国西南航空、上海航空、厦門航空、中国新疆航空ら中国の航空会社は757を中距離国内線で使用した。", "qas": [ { "question": "アジア初の757ユーザであった航空会社が4機の757を売却したのは、何年のことか?", "id": "tr-202-14-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 336, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中国の航空会社は757を何線で使用したか?", "id": "tr-202-14-001", "answers": [ { "text": "中距離国内線", "answer_start": 512, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "エアバスA300", "paragraphs": [ { "context": "エアバスA300(AirbusA300)は、エアバス・インダストリー(後のエアバス)が開発・製造した双発ジェット旅客機である。世界初の双発ワイドボディ旅客機であり、エアバス社設立のきっかけとなった。機種名のA300は、エアバスのAと初期構想の座席数300席にちなむ。A300は2つの世代に分けることができ、第1世代はA300Bとも呼ばれる。新技術の採用でグラスコックピット化された次世代型はA300-600と呼ばれる。本項ではA300第1世代を中心に説明する(A300-600シリーズについては当該ページを参照)。本格的なジェット旅客機の時代を迎えた1960年代、バスのように気軽に乗れる大型旅客機「エアバス」が待望された。当時、欧州の航空機メーカーは単独で「エアバス」を事業化する体力が無かったため、国際共同開発体制によりA300構想が推進された。紆余曲折を経てフランスと西ドイツ(当時)政府が中心となって企業連合エアバス・インダストリーが設立されA300が開発された。", "qas": [ { "question": "エアバス・インダストリーが開発・製造した旅客機であり、エアバス社設立のきっかけでもあるのは、何なの?", "id": "tr-203-00-000", "answers": [ { "text": "エアバスA300", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A300BとA300-600のうち、より早く開発・製造されたのは、どれか?", "id": "tr-203-00-001", "answers": [ { "text": "A300B", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランスとどの国の政府が中心になって、エアバスA300を開発した会社を設立したか?", "id": "tr-203-00-002", "answers": [ { "text": "西ドイツ", "answer_start": 387, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A300は低翼配置の主翼下に左右1発ずつターボファンエンジンを装備し、尾翼は低翼配置、降着装置は前輪配置である。A300第1世代の全長は53.62メートル、全幅は44.84メートル、最大離陸重量は116.5トンから165トンで、最大巡航速度はマッハ0.82から0.84である。当初、A300は欧州域内の短距離機として開発されたが、後に離着陸性能や航続距離性能を強化した派生型が開発され、一部の海上ルートを含む中距離路線にも進出した。旅客型だけでなく貨客転換型や貨物専用型も開発された。貨物型は新造のほか旅客型からの改造も行われており、2017年現在では貨物機としての運航が中心である。A300第1世代は1974年にエールフランスにより初就航し、A300-600は1984年にサウジアラビア航空により初就航した。役目を終えた第1世代は1985年に生産を終了し、A300-600シリーズは2007年まで生産された。総生産数はA300第1世代が250機、A300-600シリーズは317機であった。2017年1月現在、A300の関係した機体損失事故が34件、ハイジャックが30件起きている。死者を伴う事件・事故は15件発生しており、合わせて1,435人が亡くなっている。以下、本項ではジェット旅客機については社名を省略して英数字のみで表記する。例えば、「エアバスA300」であれば「A300」、「ボーイング747」であれば「747」、「ダグラスDC-10」はDC-10、「ロッキードL-1011」はL-1011とする。", "qas": [ { "question": "A300第1世代は最大何トンまで積んで離陸できますか?", "id": "tr-203-01-000", "answers": [ { "text": "165トン", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A300第1世代とA300-600のうち、初就航がより早かったのはどれか?", "id": "tr-203-01-001", "answers": [ { "text": "A300第1世代", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A300第1世代とA300-600のうち、生産された飛行機の総数がより多いのはどれか?", "id": "tr-203-01-002", "answers": [ { "text": "A300-600", "answer_start": 424, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A300と関係した事故類型である、機体損失事故とハイジャックのうち、2017年1月までより多く発生したのはどれですか?", "id": "tr-203-01-003", "answers": [ { "text": "機体損失事故", "answer_start": 465, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「エアバス」という言葉は、もともと特定の機種名や企業名を指すものではなく、「中短距離用の大型ワイドボディ旅客機」という意味合いで使われ、その語源は1960年代の欧州の大型機構想にある。1950年代終盤に707とDC-8が相次いで就航すると、本格的なジェット旅客機の時代が到来した。航空旅客は爆発的に増加し、1960年代の中盤になると旅客機の大型化が望まれるようになった。空港に行けばいつでも飛行機に乗れる時代が到来すると予想され、バスのように気軽に乗れる飛行機として「空のバス」すなわち「エアバス」という言葉が生まれた。1964年にイギリスでは王立航空研究所の主導でメーカーや航空会社も参加した委員会が開かれ、今後の欧州には大量輸送用に経済的な短距離輸送機が必要になるとの考えから様々な機体案が検討された。フランスでも1961年から1962年頃にエールフランスがカラベルの後継となる大型短距離旅客機の開発を求めており、1963年から1965年にかけてシュド、ノール、ブレゲーらのメーカーが200席から250席級の旅客機構想を相次いで発表した。同じ頃、ドイツ(西ドイツ)の航空機メーカーは小規模だったため、1960年にメッサーシュミット、ベルコウ(英語版)、ジーベル(英語版)、ドルニエ、VFWなどの各社が集まりエアバス検討グループが立ち上げられ、後のドイチェ・エアバスの前身となった。", "qas": [ { "question": "本格的なジェット旅客機の時代は、何年代終盤に到来したの?", "id": "tr-203-02-000", "answers": [ { "text": "1950年代", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "後のドイチェ・エアバスの前身となるグループが立ち上げられたのは、何年か?", "id": "tr-203-02-001", "answers": [ { "text": "1960年", "answer_start": 502, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大型短距離旅客機の開発への意思をより早く表したのは、イギリスとフランスのうち、どの国ですか?", "id": "tr-203-02-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 353, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エアバスとは、何のように気軽に利用できる飛行機という考えから生じた言葉ですか?", "id": "tr-203-02-003", "answers": [ { "text": "バス", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうして「エアバス」への関心が西欧全体で高まり、1965年のパリ航空ショーの頃からドイツ・フランス間、あるいはフランス・イギリス間などでメーカー間の相談も始まるようになった。1965年10月20日から21日にかけて、英国欧州航空主催によるエアバスシンポジウムが開かれた。この会議に西欧各国の航空会社やメーカーが集まり、200ないし250席で新しい大型エンジンを備えた双発機というエアバス像が練られた。これに沿って1965年11月にはイギリス・フランス両政府のワーキンググループが欧州エアバスの概要仕様をまとめた。その概要仕様とは、座席数は200-225席(座席間隔34インチの1クラス)で、航続距離は1,500キロメートル(810海里)、離陸滑走距離は2,000メートル、着陸滑走距離は1,800メートルである。その他、1座席を1マイル飛ばすためのコストは727-100より30パーセント低く、在来機よりも低騒音、自動着陸を可能とすることなども要求に盛り込まれた。一方、米国でも1960年代中頃に大型旅客機を求める動きが盛り上がっていた。1965年秋に米空軍の大型輸送機CX-HLSの受注に失敗したボーイングは、その設計チームと培われた技術をもって超大型機747を開発することを決定した。これはパンアメリカン航空がメーカーに開発を呼びかけていた機材でもあった。また、1966年3月にはアメリカン航空が米国内幹線に適した「大型双発機」の要求仕様を発表し、メーカーに開発を促していた。これら米国の大型旅客機計画と比べると、欧州エアバスの要求仕様は特に航続距離が短く、欧州域内の輸送に適した旅客機を目指している点が特徴だった。", "qas": [ { "question": "欧州エアバスの概要仕様を見ると、着陸と離陸のうち、滑走距離がより長いのは?", "id": "tr-203-03-000", "answers": [ { "text": "離陸", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "米国の大型旅客機計画と欧州エアバスの要求仕様を比べた時、航続距離が短かったのは、どちらか?", "id": "tr-203-03-001", "answers": [ { "text": "欧州エアバスの要求仕様", "answer_start": 659, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1960年代に、イギリスとフランス、そして、ドイツのほかに、大型旅客機の開発に興味を持っていたのは、どの国か?", "id": "tr-203-03-002", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 435, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "欧州エアバス構想は欧州のメーカーが開発経験のない大型旅客機であり開発費も高額になると見込まれた。当時欧州の航空機メーカーは、米国のボーイングやダグラスに販売機数で大きな差をつけられており、1社単独では巨額の開発費を賄うことは困難視され、現実策として複数メーカーでの共同開発が模索された。1966年7月にエアバス計画の担当企業としてイギリス政府がホーカー・シドレーを、フランス政府がシュドを指名し、これにドイツのエアバス検討グループが加わり共同プロジェクトとしてヨーロピアン・エアバスを開発することに合意した。同年10月15日にプロジェクト参加企業はそれぞれの政府に対して計画への助成申請を行ったほか、機体仕様のとりまとめも進行して1967年2月に初期仕様書が発行された。その後、ヨーロピアン・エアバスは、より広い旅客機市場に対応できるよう最大離陸重量が120トンに引き上げられ機体サイズが300席級に大型化した。この機体案はエアバス(Airbus)の\"A\"と座席数の\"300\"を組み合わせてA300と呼ばれるようになった。1966年7月にボーイングが正式開発を決定していた747との共通性を重視するよう仕様が変更され、胴体直径は747とほぼ同じ6.4メートル、搭載できる貨物コンテナや床面地上高も747と同じとされた。また、エンジンも航空会社は747と同じプラット・アンド・ホイットニー(以下、P&W)社のJT9Dを装備するよう要請していた。しかし、イギリスは自国のロールス・ロイス(以下、R-R)が計画していた新エンジン「RB207」の採用を強硬に主張し、英仏独政府間の調整により機体の取りまとめをフランスが担当するかわりとしてエンジンはR-R製RB207双発のみとなった。1967年9月4日には西ドイツにおけるエアバス事業の受け皿として、MBBとVFWの合弁によりドイチェ・エアバス社が設立された。こうして着々と準備が進められ、1967年9月26日に英仏独3か国政府でA300プロジェクトの了解覚書が取り交わされた。", "qas": [ { "question": "複数メーカーでの共同開発が模索されたのは、1社単独では何が負担になるからであるか?", "id": "tr-203-04-000", "answers": [ { "text": "巨額の開発費", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨーロピアン・エアバス開発共同プロジェクトの初期仕様書が発行されたのは、いつなの?", "id": "tr-203-04-001", "answers": [ { "text": "1967年2月", "answer_start": 315, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A300の仕様変更のモデルとなった旅客機が正式開発されると決定されたのは、いつですか?", "id": "tr-203-04-002", "answers": [ { "text": "1966年7月", "answer_start": 461, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1967年9月4日から西ドイツにおけるA300プロジェクトの担当会社となったのは、どの会社か?", "id": "tr-203-04-003", "answers": [ { "text": "ドイチェ・エアバス社", "answer_start": 784, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "華やかにスタートしたエアバス計画だったが1年後には雲行きが怪しくなった。1967年から1968年にかけて風洞試験や構造の設計が進んだが、米国のダグラスやロッキードも「エアバス」機体案を練っており、それに対抗してA300の設計案はさらに大型化した。航空会社側の意見を入れて胴体直径は5.94メートルに縮小されたものの、最大離陸重量は138.5トンまで増加し、RB207エンジンの推力増強が必要になった。開発費の見積もりも機体が2.1億ポンド、エンジンは7000万ポンドまで膨らんだ。航空会社側は大きすぎると難色を示し、1968年7月31日の期限になっても1機の発注もなかった。経済が停滞していたイギリスでは政府が支出を切り詰めようとしており、A300反対論が台頭した。さらに決定的だったのは、A300計画がもたついている間に米国の「エアバス」構想が具体化し、1968年4月にロッキードとダグラスがそれぞれL-1011とDC-10の生産に着手したことだった。これで、A300が見込んでいた市場が奪われてしまうだけでなく、R-RがL-1011向けに新型エンジンRB211の開発を受注したことで、R-Rおよびイギリス政府は販売数が期待されたRB211の開発を優先してA300向けRB207エンジンには積極的でなくなった。このような状況でA300プロジェクトは機体の小型化を検討した。エンジンは747、DC-10、L-1011と同じエンジンを流用することになり、ゼネラル・エレクトリック(以下、GE)製CF6、P&W製JT9D、あるいはRB211のどれでも装備可能な双発機とし、それに適するよう最大離陸重量は125トンに抑えられた。胴体直径は5.54メートルと一段と細くなり、座席数を約50席減らして252席(座席間隔34インチの1クラスの場合)となった。この小型化した機体案はA300Bと呼ばれ、航空会社の要望にも沿ったものであったが、まだ受注獲得には至らなかった。この間、イギリスでは機体担当のホーカー・シドレー社を除いて計画への熱意がますます冷めていき、ついに1969年4月10日、イギリス政府はこれ以上の財政負担はできないとして計画からの脱退を発表した。イギリス政府はR-Rによるエンジン独占がなくなった上、A300Bは事業的成功に懐疑的になったと判断した。", "qas": [ { "question": "開発期限になっても1機の発注もできなかったため、ある国の政府は支出を減らそうとし、A300反対論が台頭したが、ここである国とはどの国ですか?", "id": "tr-203-05-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 296, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "A300の設計案がさらに大型化したのは、どの国のメーカーの旅客機により市場が奪われてしまうことを恐れたからか?", "id": "tr-203-05-001", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300より早く生産に着手したのは、どの国のメーカーだったか?", "id": "tr-203-05-002", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 361, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A300とA300Bのうち、最大離陸重量がより軽いのはどれなの?", "id": "tr-203-05-003", "answers": [ { "text": "A300B", "answer_start": 784, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "最初の先導役だったイギリスが離脱したが、フランス・ドイツ両政府は2国だけでもエアバス計画を続行することを決定した。1969年5月29日、パリ航空ショーに出展していたA300Bの客室モックアップの中で、仏独両政府の民間航空担当大臣により計画の正式決定の調印式が行われた。この時点での受注数は未だゼロだったが、初飛行を1972年、型式証明の取得を1973年春の予定で計画が進められることとなった。フランスとドイツの両政府が開発資金を融資し、シュドとドイチェ・エアバスが継続してそれぞれの国の事業担当となった。イギリス政府は計画から離脱したことで、主翼開発に参画していたホーカー・シドレーが窮地に立った。ホーカー・シドレーは民間企業としてプロジェクト参加継続を希望したが、政府の援助なしには主翼開発が難しかった。主翼を開発できる代替企業もなかったことから、開発費の一部をドイツ政府が援助する条件でホーカー・シドレーは自社資金でプロジェクトに残ることになり、1969年6月にシュドおよびドイチェ・エアバスに対して参加契約を締結した。また、同年11月にはオランダのフォッカーもプロジェクトに加わった。1970年1月にはフランスでシュドとノールが合併してアエロスパシアルとなりエアバス担当企業の座を引き継いだ。フランス・ドイツ両政府の積極的な支援のもと計画は前進し、1970年12月18日、共同事業を取りまとめるため企業連合「エアバス・インダストリー」が設立された。エアバス・インダストリーはフランス商法に基づく経済利益団体(英語版)(GIE)で、単独法人ではなく参加企業が共同で責任を持つ特殊会社であった。設立時はアエロスパシアルとドイチェ・エアバスが50対50で出資し、1971年12月23日にはスペインのCASA(英語版)もメンバーに加わり出資比率にも変動があった。ホーカー・シドレーとフォッカーは協力会社として開発や生産を分担した。開発費は参加企業だけでなく各社を抱える各国政府による分担もあった。", "qas": [ { "question": "イギリス政府の離脱により経済的な負担を感じていたホーカー・シドレーがプロジェクトに残ったのは、どの国の政府からの援助があったからか?", "id": "tr-203-06-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 382, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オランダとスペインのうち、どの国の企業がより早くプロジェクトに参加したの?", "id": "tr-203-06-001", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 472, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "プロジェクトに参加した企業らが共同で責任を持つ特殊な会社が設立されたのは、いつですか?", "id": "tr-203-06-002", "answers": [ { "text": "1970年12月18日", "answer_start": 577, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1970年1月からのフランスにおけるプロジェクト担当企業は、どの企業か?", "id": "tr-203-06-003", "answers": [ { "text": "アエロスパシアル", "answer_start": 521, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この間1970年6月にはエールフランスがA300Bの発注の意向を示していたが、同社はパリとロンドン、ジュネーヴ、コルシカ島などを結ぶ高需要路線に適した機材を求めており、A300の座席数をもう少し増やすよう要求した。そこで、A300Bの胴体を5フレーム(2.65メートル)延長したモデルを用意することとなり、A300Bの2番目のタイプということでA300B2と名付けられた。そして1971年11月3日、エールフランスはA300B2を正式に発注した。これがA300の初受注となり、注文数は確定6機、オプション10機であった。これにより原型機はA300B1と呼ばれるようになったほか、後に基本名称がA300BからA300に戻され、旅客型をA300Bとして貨客転換型をA300C、貨物型をA300Fとする型式名の整理が行われている。1972年2月にはスペインのイベリア航空から確定4機、オプション8機の受注を獲得した。イベリア航空は4,000キロメートル以上の航続距離性能を求めていたが、A300B2の航続距離は3,430キロメートルだったため、航続距離延長型としてA300B4を開発することになった。", "qas": [ { "question": "A300B2の開発がなされたのは、どの航空会社の要求があったからか?", "id": "tr-203-07-000", "answers": [ { "text": "エールフランス", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300の初発注社は、どの航空会社だったの?", "id": "tr-203-07-001", "answers": [ { "text": "エールフランス", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イベリア航空とエールフランスのうち、より多くの飛行機を発注したのは、どちらか?", "id": "tr-203-07-002", "answers": [ { "text": "エールフランス", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A300B4が開発されることになったのは、どの航空会社の要求のためか?", "id": "tr-203-07-003", "answers": [ { "text": "イベリア航空", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A300の設計は計画が紆余曲折していた間も進行しており、生産設計と治具類の設計・制作は1969年5月の計画の正式決定とほぼ同時に開始されていた。西欧では1950年代後期以降、C-160輸送機やアトランティックなどで航空機の共同開発経験が蓄積されており、予想以上にスムーズに開発が進んだ。1971年の春には設計の90パーセントが完了し、ピーク時には総計3000人の技術者がA300に携わったと言われる。A300の空力設計は、全体のまとめと機首形状をアエロスパシアル、主翼とエンジン取り付け部をホーカー・シドレー、胴体後部と尾翼をドイチェ・エアバスが担当した。A300の材料やプロセスは無理に統一規格を作らず、コンポーネントを担当した各国の規格で設計・生産され、1つの図面の中に英語、フランス語、ドイツ語が混在して使用されることもあった。イギリス政府が離脱したことでR-R製エンジンにこだわる必要が無くなったことから、当時欧州の主要航空会社が発注していたDC-10-30と同じGE製のCF6エンジンが採用された。また、エンジン本体だけでなくエンジンポッドや補助動力装置、エアコン装置などもDC-10と同じものが用いられた。", "qas": [ { "question": "A300の開発が予想以上にスムーズに進んだのは、どんな経験が蓄積されていたからなの?", "id": "tr-203-08-000", "answers": [ { "text": "航空機の共同開発経験", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスとフランス、ドイツのうち、1971年の時点でA300の共同開発に参加していなかったのは、どの国の政府か?", "id": "tr-203-08-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 367, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アエロスパシアルとホーカー・シドレー、ドイチェ・エアバスのうち、翼の設計・開発に携わっていなかったのは、どの会社か?", "id": "tr-203-08-002", "answers": [ { "text": "アエロスパシアル", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "西欧でA300の前に共同開発を行ったものとしてこの文書で紹介されているのは、C-160輸送機のほかに、何がありますか?", "id": "tr-203-08-003", "answers": [ { "text": "アトランティック", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "A300の胴体断面は外径5.64メートルの真円形となった。この胴体径は、必要な座席数を満たしつつ床下貨物室にLD-3航空貨物コンテナを左右並列に搭載できる寸法として決定された。構想初期には747の胴体幅に迫る6.4メートルという外径から始まったが、客席数の変更などに合わせて修正が重ねられて最終的に外径5.64メートルに落ち着いた。A300の空力学的特性は、欧州域内を結ぶ短中距離路線で最適となる飛行速度と経済性を目指して設計された。A300の主翼の翼型にはホーカー・シドレーがトライデントやHS.125、HS.681などの研究開発を通して10年以上練り上げてきた「リア・ローディング翼型」が採用された。この翼型は翼後方の下面がえぐられたような形状を持ち、翼の後半で多くの揚力を得ることができ、遷音速での巡航時に翼表面の流速が部分的に音速を超えても抵抗が急増しないという特徴を持つ。当時最先端の技術であり、注目を浴びた。この翼型の特性は、1960年代にアメリカ航空宇宙局(NASA)が開発したスーパークリティカル翼型と基本的に同じであるが、翼を設計したホーカー・シドレーは、NASAとは独立にリア・ローディング翼型の開発に至ったとして、決してスーパークリティカル翼型の一種とは認めなかった。リア・ローディング翼型は衝撃波の発生を遅らせ揚力係数を増加できることから、後退角と翼厚比を同じくした場合に従来の翼型よりも高速で飛行できる。しかし、A300は短中距離路線に適した旅客機を目指していたことから高い巡航速度は不要とされ、リア・ローディング翼型の特色を翼厚を増やして後退角を減らすよう振り向けられた。後退角は25パーセント翼弦で28度と浅くなり低速時の操縦性に有利になったほか、翼厚比の増加は強度面に有利に働き、構造重量は従来の翼厚比の主翼と比べて同一翼面積で1トン以上の軽量化に成功した。", "qas": [ { "question": "A300の主翼の翼型として採用されたのは、何なの?", "id": "tr-203-09-000", "answers": [ { "text": "リア・ローディング翼型", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ホーカー・シドレーが開発した翼型の特性と基本的に同じである翼型を開発したのは、どこですか?", "id": "tr-203-09-001", "answers": [ { "text": "アメリカ航空宇宙局", "answer_start": 426, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300はどこを結ぶ短中距離路線に最適したものとして、設計・開発されたか?", "id": "tr-203-09-002", "answers": [ { "text": "欧州域内", "answer_start": 179, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホーカー・シドレーが開発した翼型の特性と基本的に同じである翼型が開発されたのは、何年代か?", "id": "tr-203-09-003", "answers": [ { "text": "1960年代", "answer_start": 419, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A300の主翼は、断面の変化とねじり下げにより翼幅方向にほぼ一様の圧力分布を持つように設計された。それに伴いA300の主翼表面は翼根と翼端で異なる曲面を持つことになった。主翼の製造を担当したホーカー・シドレーは、当時このような二重曲率の外板を製造できる設備をもっていなかったため、エンジンパイロンのやや外側を境として翼を外側と内側に2分割して製造し、継ぎ手で繋ぐ構造が採用された。主翼には高揚力装置として前縁にスラット、後縁にフラップが設けられた。スラットは主翼のほぼ全幅にわたり配置され、エンジンパイロンの付け根で他機ではスラットが途切れる部分にも、パイロンを避ける切り欠きを入れることでスラットを通し揚力を稼いだ。フラップはタブ付きのダブルスロット型ファウラーフラップが採用され、後縁翼幅の84パーセントにわたる当時の大型民間機では例のない大きさとなった(フラップの詳細は形状・構造節参照)。主翼のエルロンは片翼あたり2枚で、外翼部に低速度エルロン、エンジン後方部に全速度エルロンが配置された。エルロンを2枚持つのは当時の大型ジェット旅客機としては一般的ではあったが、28度という浅い後退角の翼では珍しかった。また、ロール方向の操縦にはエルロンだけでなく、スポイラーも用いるよう設計された。", "qas": [ { "question": "高揚力装置として主翼の前縁に設けられたのは、何?", "id": "tr-203-10-000", "answers": [ { "text": "スラット", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タブ付きのダブルスロット型ファウラーフラップは主翼のどこに設けられたか?", "id": "tr-203-10-001", "answers": [ { "text": "後縁", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300はロール方向の操縦時にエルロンのほかに、何を用いるよう設計されたのか?", "id": "tr-203-10-002", "answers": [ { "text": "スポイラー", "answer_start": 530, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "全速度エルロンが配置されたのは、どの部分にか?", "id": "tr-203-10-003", "answers": [ { "text": "エンジン後方部", "answer_start": 427, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "A300が設計された当時はまだグラスコックピットやフライ・バイ・ワイヤ技術が確立しておらず、コックピットや飛行システムは従来の機械式で計器類も機械電気式であるが、アビオニクスの技術進歩に対しても対応できるよう、機器類の搭載スペースや冷却能力には余裕をもたされた。特にブラウン管(CRT)を利用したディスプレイの搭載や計器類の増設、そして電気信号を介して動翼を操縦するフライ・バイ・ワイヤの導入にも備えた設計がなされた。運航に必要な操縦士は機長、副操縦士、航空機関士の3人であり、エアバス・インダストリーが開発した旅客機で唯一の3人乗務機となった。航続距離延長型となるA300B4では、中央翼(主翼が胴体内を貫通する部分)内にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やした。また、最大離陸重量をA300B2の137トンから150トンに引き上げ、これによる離着陸性能の低下を補うため主翼前縁の翼根部にクルーガー・フラップ(高揚力装置の一種)が追加された。", "qas": [ { "question": "エアバス・インダストリーが開発した旅客機の中、唯一の3人乗務機とは、何なの?", "id": "tr-203-11-000", "answers": [ { "text": "A300", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300のディスプレイには何が利用されましたか?", "id": "tr-203-11-001", "answers": [ { "text": "ブラウン管", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A300はどの会社が開発したのか?", "id": "tr-203-11-002", "answers": [ { "text": "エアバス・インダストリー", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300の機器類の搭載スペースや冷却能力に余裕がもたされたのは、何の技術進歩にも対応するためか?", "id": "tr-203-11-003", "answers": [ { "text": "アビオニクス", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "火星の生命", "paragraphs": [ { "context": "17世紀中盤には火星の極冠が確認されており、18世紀後半にはウィリアム・ハーシェルによって、夏と冬で成長したり縮んだりすることが観測された。19世紀中盤までには、火星の1日は地球とほぼ同じ長さである等、地球と様々な似た面を持つことが知られるようになった。また、赤道傾斜角が地球と近く、これは四季があることを示すが、一年の長さが長いため、その期間は地球の倍近くになる。これらの観測から、アルベドの小さい部分は水であり、大きい部分は陸であるという推測が強くなっていった。このように、火星に何らかの生命が存在するというのは自然に受け入れられていった。\n\n1854年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのフェローで、「科学者(scientist)」という言葉を一般に広めたウィリアム・ハーシェルは、火星には海と陸があり、生命が存在するという仮説を立てた(しかしハーシェルは、太陽にさえ生命と文明が存在すると考えた)。火星に生命がいるという推測は、19世紀後半に望遠鏡による観測で、「火星の運河」が観測されると、一躍脚光を浴びることになったが、すぐに光の錯覚であったことが判明した。これにかかわらず、1895年にアメリカ合衆国の天文学者パーシヴァル・ローウェルは著書『火星(Mars)』を、1906年には続いて『火星と運河(MarsanditsCanals)』を出版し、運河は大昔の文明の遺物であるという説を唱えた。このアイデアを元に、イギリスの作家ハーバート・ジョージ・ウェルズは、1897年に小説『宇宙戦争(TheWaroftheWorlds)』を執筆し、惑星の乾燥から避難してきた火星人が地球を侵略する様子を描いた。\n\n火星の大気の分光法による分析が1894年初頭から始まり、アメリカ合衆国の天文学者ウィリアム・キャンベルは、火星の大気には水も酸素も存在しないと発表した。1909年には、1877年以来の近日点の衝が生じて望遠鏡による精度のよい観測が可能になり、運河説には終止符が打たれた。", "qas": [ { "question": "火星の極冠が夏と冬で成長したり縮んだりすることを観測したのは誰ですか。", "id": "tr-204-00-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ハーシェル", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「科学者(scientist)」という言葉を一般に広めた人の名前は何?", "id": "tr-204-00-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ハーシェル", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『火星(Mars)』は誰が書いたの?", "id": "tr-204-00-002", "answers": [ { "text": "パーシヴァル・ローウェル", "answer_start": 514, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『火星(Mars)』と『火星と運河(MarsanditsCanals)』と、どっちの方が先に出版されたの?", "id": "tr-204-00-003", "answers": [ { "text": "『火星(Mars)』", "answer_start": 529, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "土佐のほっぱん", "paragraphs": [ { "context": "土佐のほっぱんとは、高知県南西部の太平洋沿岸に面した地区にかつて存在した風土病である。「ほっぱん」とは当該地域における赤い発疹の方言名だ。1951年にトサツツガムシが媒介するツツガムシ病であると判明した。本項では、同じ病因で発症する香川県の馬宿病についても言及するが、双方を合わせて「四国型ツツガムシ病」とも呼ばれる。", "qas": [ { "question": "「ほっぱん」とは当該地域で何を意味する方言名ですか。", "id": "tr-205-00-000", "answers": [ { "text": "赤い発疹", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "土佐のほっぱんは何を媒介にする質病ですか。", "id": "tr-205-00-001", "answers": [ { "text": "トサツツガムシ", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "馬宿病と土佐のほっぱんを合わせて何と呼びますか。", "id": "tr-205-00-002", "answers": [ { "text": "「四国型ツツガムシ病」", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "土佐のほっぱんは夏の限られた期間に発生する不明発熱性発疹性疾患であり、100戸程度の伊田地区という極めて狭いエリア特有の疾患であったため、記録に残る患者総数は少ない。病状経過は、前兆もなく突然原因不明の高熱を発症し、やがて赤色や紫色の発疹が全身に多数現れ、発病からわずか数週間のうちに、その半数以上が死亡するというものであった。死亡率の高さと原因不明の発熱発疹の奇怪な症状から、古くより当地の人々の間では名主の祟りと信じられ恐れられていた。\n\n「土佐のほっぱん」の正体は、寄生虫学者の佐々学が1951年に行った現地調査により、新種のツツガムシによって媒介される新型のツツガムシ病であると解明された。同じ頃、その他複数の「新型ツツガムシ病」と考えられる事例が日本各地で報告され始めていたが、それまでの日本の医学界では、死者を出すツツガムシ病は秋田県・山形県・新潟県3県特有の風土病と考えられていた。従来の流行地から遠く離れた四国の太平洋沿岸で死者を出すツツガムシ病が確認されたことにより、各地に生息する未確認のツツガムシの生態調査研究が進められ、その結果、それまで日本各地で原因不明の熱病とされていた複数の風土病が、新型のツツガムシ病であることが判明した。\n\n今日、日本国内のツツガムシ病は、アカツツガムシLeptotrombidiumakamushiを媒介者とする秋田・山形・新潟各県のものを古典型ツツガムシ病、それ以外の地域の別種のツツガムシを媒介者とするものを新型ツツガムシ病として分類している。なお、「土佐のほっぱん」と呼ばれたトサツツガムシを媒介者とする「四国型ツツガムシ病」は1980年頃以降、新たな発生は確認されていない。", "qas": [ { "question": "土佐のほっぱんはどの季節にだけ発生しますか。", "id": "tr-205-01-000", "answers": [ { "text": "夏", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "死亡率の高さと原因不明の発熱発疹の奇怪な症状から、古くより当地の人々の間で名主の祟りと信じられ恐れられていた質病は何ですか。", "id": "tr-205-01-001", "answers": [ { "text": "土佐のほっぱん", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「土佐のほっぱん」が新種のツツガムシによって媒介される新型のツツガムシ病であると解明したのは誰ですか。", "id": "tr-205-01-002", "answers": [ { "text": "佐々学", "answer_start": 242, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "秋田・山形・新潟各県のものを古典型ツツガムシ病は何を媒介者としますか。", "id": "tr-205-01-003", "answers": [ { "text": "アカツツガムシLeptotrombidiumakamushi", "answer_start": 545, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1951年6月、東京大学助教授で伝染病研究所主任であった寄生虫学者の佐々学は、高知県から公衆衛生に関する一般向けの講演を依頼され高知県庁を訪れた。以前より佐々は高知県下に原因不明の熱病が存在することを田宮猛雄から聞き及んでおり、その他の様々な情報から、この熱病が未確認のツツガムシ病の可能性があるのではないかと気になっており、今回の高知県への出張のおりに現地を訪れ調査することを思い立った。病気が報告されていたのは高知県南西部の幡多郡白田川村の伊田という海沿いに位置する小規模な集落で、現地では「ほっぱん」と呼ばれる発疹を伴う熱病である。「ほっぱん」とは発斑あるいは発疹の方言名だという。", "qas": [ { "question": "1951年6月、東京大学の伝染病研究所主任は誰でしたか。", "id": "tr-205-02-000", "answers": [ { "text": "佐々学", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "発斑あるいは発疹の方言名は何ですか。", "id": "tr-205-02-001", "answers": [ { "text": "「ほっぱん」", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "東京から高知への移動は当時、東京駅を夜21時半に出発する夜行列車を乗り継いで、翌日の午前に岡山県の宇野駅に到着。宇高連絡船に乗船し高松駅、そして高知駅には夕方の19時半に到着するという大変な長旅であった。\n\n高知県庁での講演を終えた佐々は翌日の同年6月29日早朝、高知県庁職員および、高知県医師会や高知大学の関係者数名とともに、県が用意した大型のジープへ医療検査器具を携え乗車し、高知市から伊田地区へ向かった。なお、土讃本線全線開通以前の1951年6月当時、高知県南西部方面への鉄道は仁井田村の影野駅までしか通じていなかったため、車による移動であったが、当時の道路事情は悪く、高知市から目的地の伊田まで6時間を要している。\n\n高知県の海岸沿いにある広い平地は高知平野ぐらいで、他の海岸線は山地が海の近くまで迫っており、高知市から伊田地区へ向かう国道は当時、いくつもの峠の上り下りを繰り返す難路であった。ようやく到着した目的地の伊田地区も、山地と海に挟まれたわずかな平地に100軒ほどの民家がある小さな集落で、海に注ぐ小規模な河川と民家の周囲は芋畑という場所であった。ここまでの道中と伊田地区の様子を目にした佐々は、「このような場所に死者を出すほどのツツガムシ病が本当にあるのだろうか」と疑念を抱いたという。", "qas": [ { "question": "佐々は高知市から伊田まで行くのに何時間かかったでしょうか。", "id": "tr-205-03-000", "answers": [ { "text": "6時間", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "伊田地区に到着した佐々たちは、当地の人々が「ほっぱん」と呼ぶ熱病に罹患したことのある経験者に話を聞こうと考え、伊田地区の顔役である沢田文五郎という古老を紹介され沢田家を訪ねた。佐々らが挨拶と訪問の目的を伝えると、沢田は「正確な時代は不詳ながら」と断わったうえで、伊田地区に伝わる「名主の祟り」の伝承を語った。\n\nその昔、この伊田の村に掛川信吉という名主がいた。ある時、お上が所有する材木を、伊田の村人たちがお上のものとは知らずに使ってしまった。\nそれに逆鱗したお上は名主の掛川信吉に自害を命じ、名主掛川信吉は切腹して果てた。「ほっぱん」は、村人の不注意で命を奪われた名主の、お上と村人に対する恨み祟りである。佐々学『日本の風土病』小林照幸『死の虫』より、一部改変引用", "qas": [ { "question": "伊田の名主の名前は何ですか。", "id": "tr-205-04-000", "answers": [ { "text": "掛川信吉", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、伊田地区の顔役は誰でしたか。", "id": "tr-205-04-001", "answers": [ { "text": "沢田文五郎", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "沢田は伊田地区の「ほっぱん」に昔から深い関心を持ち、患者の記録を可能な限り書き残していると言い、次のように語った。明治維新以前のことは分からないが、土佐のほっぱんは明治初年からあって、1882年、1883年頃には子供から年寄りまで多数の発症者や死者が出たという。伊田の人々は古くから、この名主の祟りによって「ほっぱん」という奇妙な疫病の流行が起き始めたと聞かされている。また病気は突然発病し、その半数以上が助からずに死亡することから、人身御供の白羽の矢が前ぶれもなく立つようなものだと恐れているという。\n\nここまでの話を聞いた佐々は、不気味な話ではあるが、「ツツガムシ病と考えたのは早計だったかもしれない」と、東京から高知へ、さらに高知市から長い道程を経て調査に来たことを後悔し始めていたという。すると沢田が家の奥からこまごまと多くのメモが書かれた古い手帳を取り出してきた。これが後に「沢田メモ」と呼ばれることになる貴重な記録であった。", "qas": [ { "question": "沢田によると、土佐のほっぱんはいつからありましたか。", "id": "tr-205-05-000", "answers": [ { "text": "明治初年", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "沢田のメモ書きには、1919年から1948年までの約30年間に、伊田地区で発生した10例の「ほっぱん」の記録が記されており、それぞれ発症もしくは死亡した年月、発症者の年齢性別、病気の経過などが書かれていた。\n\nメモに書かれていたのはこの10例であるが、これ以外にも複数の発症事例があったという。また、メモにはいくつかの補足が記載されており、1925年の40歳男性の事例では、当時の幡多病院の橋本久博士がこれを見て「ツツガムシ病」らしいと言ったが、橋本博士はすぐに札幌へ転任したという。さらに1928年の70歳女性事例でも、これを検診した丹治医師は「ツツガムシ病」ではないかと言ったという。1932年に海岸沿いの藪を伐採してから一時発症者が減った。また、1942年の同時に発生した3事例では、地区内を流れる伊田川下流の堤防工事に携わった3名の女性が発病し、そのうち2名が死亡、一番若かった25歳の1名だけが助かったという。", "qas": [ { "question": "沢田のメモ書きには「ほっぱん」のいくつの例が記録されていますか。", "id": "tr-205-06-000", "answers": [ { "text": "10例", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "沢田のメモによると、1925年の40歳男性の事例で、当時の幡多病院の橋本久博士がこれを見てどんな質病らしいと言いましたか。", "id": "tr-205-06-001", "answers": [ { "text": "「ツツガムシ病」", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1942年に発生した3事例で、伊田川下流の堤防工事に携わり「ほっぱん」に罹った3名の女性のうち、生き残ったのは何名でしたか。", "id": "tr-205-06-002", "answers": [ { "text": "1名", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1942年、伊田川下流の堤防工事に携わり「ほっぱん」に罹った3名の女性のうち、最も若かった女性は何歳でしたか。", "id": "tr-205-06-003", "answers": [ { "text": "25歳", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「ほっぱん」の発症者総数は少ないとはいえ半数以上が死亡しており、助かった者も高熱が1か月ほど続いて生死の境をさまよい、回復するのに半年かかるケースもある。いずれも7月から8月の夏季に発症している。沢田は発症者が出るとその都度見舞いに訪れ、その症状をつぶさに観察し、「ほっぱん」には共通する症状があるのを何度も見てきたといい、次のような重要な話を佐々たちに語った。\n\n共通するのは、いずれも急に寒気に襲われて高熱がはじまり、1週間ほどすると全身に赤い発疹が現れる。この発疹が赤い色をしているうちはいいが、内出血して紫色になると大抵は助からない。そして体のどこか1ケ所に小豆ほどの大きさのかさぶたができているが、あまり痛みがないらしく、本人は気づかない場合が多い。高熱が出て2、3週間もすると意識が朦朧とし、死への恐怖からうわ言を口走るようになり意識不明となって死亡する。助かった者は、かさぶたが塞がった痕が残る。", "qas": [ { "question": "「ほっぱん」の発症者の体には、何カ所にかさぶたが発見されますか。", "id": "tr-205-07-000", "answers": [ { "text": "1ケ所", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ほっぱん」から助かった人の体にはどんな痕が残っていますか。", "id": "tr-205-07-001", "answers": [ { "text": "かさぶたが塞がった痕", "answer_start": 391, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "かさぶた、塞がった痕と聞いた佐々たちは、ツツガムシ病特有の所見に間違いなさそうだと確信した。\n\n\nダニの一種であるツツガムシの幼虫は、その生涯で一度だけヒトなどの哺乳類の皮膚に吸着して組織液を吸う習性を持つ。この幼虫の0.1〜3%の個体がツツガムシ病リケッチアを保菌しており、これに吸着されることでツツガムシ病に感染する。ツツガムシ病の大きな特徴は、この吸着時に刺された刺し口と呼ばれる痕跡が残ることである。\n\n医学を学んだ経験が無いのにも関わらず、30年近くにおよぶこれらの記録や、症状の経過や特徴を的確に捉えていた古老の観察眼に、佐々は非常に感心したという。", "qas": [ { "question": "ツツガムシの幼虫に刺されてできた痕跡を何と呼びますか。", "id": "tr-205-08-000", "answers": [ { "text": "刺し口", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ツツガムシの幼虫は、生涯で何度、哺乳類の皮膚に吸着して組織液を吸う習性を持っていますか。", "id": "tr-205-08-001", "answers": [ { "text": "一度", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "佐々たちは沢田古老の案内で、以前に「ほっぱん」に罹ったという伊田地区内の女性を訪ねた。1942年の堤防工事で罹患した3名の女性のうち、たった1人助かった女性である。刺し口の痕を調べると彼女のへそには明らかな「刺し口」の痕跡が残っていた。\n\nもう1人は「沢田メモ」には記載されていない事例であったが、15歳の少年が3年ほど前に罹患し助かったケースである。調べてみると彼の左腋近くの胸部付近に見事な痕跡が残っていた。\n\nここまでの臨床所見があればツツガムシ病にまず間違いないと考えられるが、研究者としては確実なデータを確保する必要があった。\n\nツツガムシ病の存在を証明するためには、1.生存者の血清からツツガムシ病の抗体を確認すること、2.地区内でツツガムシが生息するのを確認し、かつそのツツガムシの個体がリケッチアを保有していること、この2点の確認が必要であった。", "qas": [ { "question": "1942年の堤防工事で罹患した3名の女性のうち、たった1人助かった女性の刺し口の痕跡はどこに残っていましたか。", "id": "tr-205-09-000", "answers": [ { "text": "へそ", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ツツガムシ病の存在を証明するためには、生存者の血清から何を確認しないといけませんか。", "id": "tr-205-09-001", "answers": [ { "text": "ツツガムシ病の抗体", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ツツガムシ病の存在を証明するためには、何点の確認が要りますか。", "id": "tr-205-09-002", "answers": [ { "text": "2点", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "翌朝6月30日、仕掛けられた複数の罠のうち集落内と畑のものからドブネズミ3頭、裏山からアカネズミ1頭、および調査の目的を知り賛同した伊田地区の有志によって生け捕りにされた3頭のドブネズミが捕獲された。これらのネズミがリケッチアを保有するツツガムシに寄生されているか否か、この段階では確認できていないが、リケッチアは極めて危険な病原体であり、過去の日本国内におけるツツガムシ病研究では、研究施設内でのリケッチア感染により研究者が殉職する事故が数件発生していた。万一のため、ネズミの取扱には細心の注意が払われた。\n\n捕獲したネズミを慎重に調べると、うすピンク色のツツガムシが数匹、ドブネズミの耳の中に吸い付いているのが肉眼で確認できた。佐々たちは驚きの歓声を上げるが、伊田地区の人たちはネズミの耳についたダニの意味するところが分からず、キツネにつままれたような表情であったという。こうして捕獲されたネズミのうち、合計6頭のドブネズミから合わせて112匹のツツガムシが採取された。\n\nところが持参した顕微鏡でこのツツガムシを調べると、佐々をはじめ同行した県医師会、高知大学の専門家たちも初めて目にするツツガムシであった。その後の調べにより、これまで日本で報告されたことのない、新種のツツガムシであると判明し、佐々により、トサツツガムシと命名された。\n\n新種のツツガムシを発見したものの、このツツガムシがリケッチアを保有していなければ単なるダニである。ツツガムシ病(ここでは「ほっぱん」)の媒介者であることを証明するには、このツツガムシがリケッチアを持っていることが確認されなければならない。しかしリケッチア保有の有無の確認には研究施設等での詳細な検証検査が必要とされる。したがって現場での検証は困難であり、まして即日に検証結果を出すことは不可能である。\n\n佐々はトサツツガムシに寄生されたドブネズミを現地で解剖し、その脾臓をつぶして東京から持参したマウスに注射した。こうして伊田地区での調査は終了し、佐々は発見したトサツツガムシの幼虫、実験用マウスなどのサンプルを持って東京へ戻った。", "qas": [ { "question": "捕獲されたネズミのうち、合計6頭のドブネズミから合わせて何匹のツツガムシが採取されたか。", "id": "tr-205-10-000", "answers": [ { "text": "112匹", "answer_start": 420, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トサツツガムシという名称は誰が作ったの?", "id": "tr-205-10-001", "answers": [ { "text": "佐々", "answer_start": 551, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東京へ戻った佐々は、伊田地区で採取したサンプルを伝染病研究所のリケッチア研究者である川村明義に渡して検証を依頼した。川村明義は日本のツツガムシ病研究で知られる川村麟也の三男である。4年前に他界した父・麟也と同じ研究を志した明義は、千葉医科大学を卒業後、伝染病研究所に入りリケッチアの研究を行い、自らもリケッチアに感染したが幸いにも治癒することのできた経歴を持つ、当時の日本のリケッチア研究の最前線にいた人物であった。\n\n佐々が持ち帰ったサンプルは川村によって綿密な検証が行われ、トサツツガムシの幼虫からリケッチアの検出に成功し、「土佐のほっぱん」の正体はツツガムシ病であることが特定された。\n\n伊田地区訪問から2ヵ月後の1951年8月、佐々たちは再び高知県を訪れ、足摺岬から室戸岬までの長い海岸線を何日もかけ、ノネズミを捕獲しツツガムシを探し、その結果トサツツガムシは高知県海岸部の各所に散在して生息していることが分かった。また、新たに2種のツツガムシが発見されたが、ツツガムシ病の発生事例は伊田地区以外にはどうしても見つからなかった。", "qas": [ { "question": "川村明義の父の名前は何?", "id": "tr-205-11-000", "answers": [ { "text": "川村麟也", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「土佐のほっぱん」の正体は何ですか。", "id": "tr-205-11-001", "answers": [ { "text": "ツツガムシ病", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "オーストラリアの動物相", "paragraphs": [ { "context": "オーストラリアの動物相(オーストラリアのどうぶつそう、英語:FaunaofAustralia)は、膨大な種類の固有の動物群で構成される。\nオーストラリア大陸に分布する哺乳類の83%、爬虫類の89%、魚類の90%、昆虫類の90%、両生類の93%は固有種である。\nこの高い水準を持つオーストラリアの動物の固有性は、大陸の長い期間の地理的隔離、地殻構造上の安定性、地質年代を超えた土壌と植物相上の風変わりなパターンに起因しているといえる。\nオーストラリアの動物相の独特の特徴は、オーストラリア以外で主要なニッチを占める胎盤を持つ哺乳類(有胎盤類)との相対的な希少性である。\nつまりカンガルー類やコアラ、ポッサムが属する双前歯目、そしてタスマニアデビルが属するフクロネコ目のように有袋類―育児嚢で未熟な乳仔を育てる一群の哺乳類―がニッチの多くを占める。\nオーストラリアは単孔類(カモノハシ目)の5つの現存している種のうちの2つの生息地である。\nまた多数の有毒な種、たとえばカモノハシの他、クモ、サソリ、ヒョウモンダコなどの軟体動物、クラゲ、オニダルマオコゼとアカエイ科などが分布している。\nオーストラリアは他の地域と比べて有毒ヘビが無毒ヘビより多い。", "qas": [ { "question": "オーストラリア大陸に分布する哺乳類、爬虫類、魚類、昆虫類、両生類の中で最も固有種の割合が多いのは何ですか?", "id": "tr-206-00-000", "answers": [ { "text": "両生類", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストラリア大陸に分布する哺乳類、爬虫類、魚類、昆虫類、両生類の中で最も固有種の割合が少ないのは何ですか?", "id": "tr-206-00-001", "answers": [ { "text": "哺乳類", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストラリアは有毒ヘビと無毒ヘビのどちらが多いですか?", "id": "tr-206-00-002", "answers": [ { "text": "有毒ヘビ", "answer_start": 507, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カンガルーとコアラは何目に属しているの?", "id": "tr-206-00-003", "answers": [ { "text": "双前歯目", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "4万年以上前からのアボリジニ、そして1788年からのヨーロッパ人のオーストラリアへの移民は動物相に著しい影響を及ぼした。\n狩猟、外来種の導入、そして固有種の生息地破壊につながる土地開発は、多数の種の絶滅につながった。\nいくつかの例ではゴクラクインコ、ブタアシバンディクート、ヒロガオネズミカンガルーが挙げられる。\n持続可能ではない開発により、未だに多くの種の生存が脅かされている。\nその動物相の生存に対する脅威に対処するために、オーストラリアは広範囲に及ぶ連邦政府および州政府の法を可決し、多数の保護地域を設けた。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパ人がオーストラリアへ移動し始めたのは何年からですか?", "id": "tr-206-01-000", "answers": [ { "text": "1788年から", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アボリジニは何年前からいましたか?", "id": "tr-206-01-001", "answers": [ { "text": "4万年以上前", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "地質学的かつ気候的な現象は、オーストラリアの動物相を特有のものにする一つの要因となった。\nオーストラリアはかつて、南の超大陸であるゴンドワナ大陸の一部であった。\nゴンドワナ大陸には現在の南アメリカ大陸やアフリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸などが含まれた。\nゴンドワナ大陸は1億4000万年前に分裂し始め、5000万年前にオーストラリア大陸は南極大陸と分離した。\n530万年前、中新世の時代にアジアでインド・オーストラリアプレートの衝突が起こるまで、比較的孤立していた。\n現代オーストラリアの動物相の確立と進化は、明らかに大陸の固有の気候と地質によって形づくられた。\nオーストラリア大陸は移動していたため、ある程度、世界的な気候変動の影響から隔絶された。", "qas": [ { "question": "オーストラリア大陸と南極大陸が分離したのは何年前ですか?", "id": "tr-206-02-000", "answers": [ { "text": "5000万年前", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーストラリアは元々何大陸の一部でしたか?", "id": "tr-206-02-001", "answers": [ { "text": "ゴンドワナ大陸", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中新世の後、ゴンドワナ起源の固有の動物相(たとえば有袋類)はオーストラリアで生き残り、適応した。\nウォレス線―アジアとオーストララシアの生物地理区を分離している分布境界線―は、ユーラシアとインド・オーストラリアプレートの間で、地殻構造上の境界線を印づけている。\nこの大陸境界線は陸橋の形成を妨げ、わずかな共通部分を除き、アジアとオーストラリアの鳥類を除く動物相の、明確な生物学的分布区域をもたらした。\n漸新世中期(約1500万年前)の南極海流出現の後、オーストラリアの気候は次第に乾燥していき、乾燥に適応した生物の多様性を発達させ、またそれと同時に湿潤熱帯地域や季節的な湿潤地域においても、それぞれに適応した独自の種を発展させていった。\nそのような地域においてはクイーンズランドの湿潤熱帯地域やオーストラリアのゴンドワナ多雨林群のように世界遺産に登録されている地域もある。", "qas": [ { "question": "アジアとオーストララシアの生物地理区を分離している分布境界線を何といいますか?", "id": "tr-206-03-000", "answers": [ { "text": "ウォレス線", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オーストラリアは、現存する哺乳類の多様性と同じように、有袋類によって占められる多くの化石記録が存在する。\n化石記録によると、単孔類が1億4500万-9900万年前の白亜紀早期にはオーストラリアに存在し、そして有袋類と有胎盤類の歴史は、現代の哺乳類が化石記録に最初に現れた5600万年前-3400万年前、すなわち始新世から始まる。\n有袋類と有胎盤類が始新世には共存していたが、有袋類だけが現在まで生き残っていた。\n有胎盤類は中新世にオーストラリアがインドネシアに近づいたときに再び現れ、コウモリ目とネズミ目が化石記録として確かに残っている。\n有袋類は特定のニッチを満たすように進化し、そして多くの場合、その進化は、ユーラシアや北アメリカなどで類似したニッチを占める有胎盤類と身体的な類似がみられる。\nこの現象は収斂進化として知られている。\n例えばオーストラリア最大の捕食動物として知られたフクロオオカミ(絶滅)はオオカミのようなイヌ科動物に著しくて似ていた。\nまたフクロモモンガ科の動物とモモンガは樹上の生活様式を可能にしている類似した適応器官、つまり飛膜を持っている。\nフクロアリクイとアリクイは、ともにシロアリを捕食する食虫動物である。", "qas": [ { "question": "化石記録から、単孔類と有袋類はどちらが先に存在していたと分かりますか?", "id": "tr-206-04-000", "answers": [ { "text": "単孔類", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "有袋類と有胎盤類のうち、どちらが先に絶滅しましたか?", "id": "tr-206-04-001", "answers": [ { "text": "有胎盤類", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストラリア最大の捕食動物、かつ絶滅動物は何ですか?", "id": "tr-206-04-002", "answers": [ { "text": "フクロオオカミ", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "野生の犬ディンゴは一説によると、50,000-30,000年前に当時東南アジアから陸続きであったニューギニア島を経て、アボリジニが連れてきたものが野生化したとされる。\nまた「およそ4,000年前に東南アジアの海上交易人か漁師が連れて来た」とする説もある。\nいずれにせよ、ディンゴはオーストラリアの地に適応し、フクロオオカミの絶滅の原因になったとも考えられている。", "qas": [ { "question": "フクロオオカミの絶滅の原因になった動物とは何?", "id": "tr-206-05-000", "answers": [ { "text": "ディンゴ", "answer_start": 135, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ディンゴをオーストラリアに入れたのは誰?", "id": "tr-206-05-001", "answers": [ { "text": "アボリジニ", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、海に目を向けるとそこにはクジラたちがいる。\n世界のクジラ類の60%がオーストラリア近海に分布する。\nこの海で見られる45種のクジラ類のうち、最も一般的なのはミナミセミクジラ、ザトウクジラ、ピグミーシロナガスクジラ、ドワーフミンククジラ、シャチ、ハンドウイルカ、マイルカなどである。\nミナミセミクジラとザトウクジラに歯はなく、代わりに角質で出来た「クジラのひげ」をもつ。\n対してシャチには鋭い歯がある。\nこれは食性の違いによる。\nこれらすべてのクジラ類は1999年環境・生物多様性保護法によってすべての水域が連邦政府の保護下にある。\n絶滅の危機に瀕した、またはその恐れのある5種のクジラ(シロナガスクジラ、ミナミセミクジラ、イワシクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラ)に対し、個体数回復計画が実行されている。", "qas": [ { "question": "世界のクジラ類の半分以上が生息している海はどこ?", "id": "tr-206-06-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア近海", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ザトウクジラ、ドワーフミンククジラ、シャチ、ハンドウイルカの中で、絶滅の危機の恐れのあるクジラ類はどれですか?", "id": "tr-206-06-001", "answers": [ { "text": "ザトウクジラ", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミナミセミクジラ、ザトウクジラ、シャチの中で歯があるのはどれですか?", "id": "tr-206-06-002", "answers": [ { "text": "シャチ", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ジュゴンは背びれがなく、足ひれの大きな灰褐色のふっくらとした海生哺乳類である。\n彼らもまた歯の代わりに上あごに弾力のある角質の「クジラのひげ」をもっている。\nオーストラリアにおける生息域はクイーンズランド州南部のモートン湾から北部オーストラリアを横切って西オーストラリア州のシャーク湾にまで、弧状に分布している。\nジュゴンは州政府と連邦政府によって保護されているため、オーストラリアの水域では個体数は比較的良好に保たれていると思われる。\nただ世界的に見れば個体数はそれほど多くなく、国際自然保護連合(IUCN)の絶滅危惧種に指定されている。", "qas": [ { "question": "ジュゴンは歯の代わりに何がありますか?", "id": "tr-206-07-000", "answers": [ { "text": "「クジラのひげ」", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オーストラリアは800種以上の鳥類が生息する。\nこれらのうちのおよそ350種は、オーストラリア、ニュージーランド、ニューギニア島において固有種である。\nオーストラリアの鳥類の化石記録は不連続であるが、漸新世後期という早い時期に、現生種の原種の記録がある。\nゴンドワナ大陸に起源をもつ鳥は飛べない鳥であるヒクイドリ科(エミューとヒクイドリ)、ツカツクリ科(クサムラツカツクリとヤブツカツクリ)、オウム目、スズメ目の一部などがある。\nこのうちオウム類は世界のオウム類の6分の1を構成している。\n独特の人の笑い声のような鳴き声で鳴くことが知られるワライカワセミはカワセミ科の中でもっとも大きな種である。", "qas": [ { "question": "オーストラリアに生息する800種以上の鳥類のうち、およそ何種が固有種ですか?", "id": "tr-206-08-000", "answers": [ { "text": "350種", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エミューは何科の鳥ですか?", "id": "tr-206-08-001", "answers": [ { "text": "ヒクイドリ科", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ユーラシアを起源にする鳥類にはツバメ科、ヒバリ科、ツグミ科、セッカ属、タイヨウチョウ亜科、そしてタカ目を含む(オーストラリア最大の猛禽類であるオナガイヌワシを含む)。\nこれには、人間によって移入されたイエスズメ、インドハッカのような鳥類を含み、例えばゴシキヒワとアオカワラヒワのようにオーストラリアの固有種とうまく共存したものもあれば、ホシムクドリやクロウタドリ、イエスズメ、インドハッカなどのように、オーストラリアの固有種の生態系を脅かしている種もある。", "qas": [ { "question": "オーストラリアの固有種とうまく共存した鳥類はアオカワラヒワと何ですか?", "id": "tr-206-09-000", "answers": [ { "text": "ゴシキヒワ", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オーストラリアの沿岸には約200種の海鳥が生息し、その中には渡りをおこなう鳥も多い。\nオーストラリアは渡り鳥にとって、東アジア-オーストララシア間の経路の南端にある。\nその渡りの経路は極東ロシアとアラスカから、東南アジアを経由し、オーストラリアやニュージーランドまでに及ぶ。\nおよそ200万羽の鳥が毎年オーストラリアまでこのルートを飛翔する。\nコシグロペリカンはごく普通に見られる大きな水鳥であり、オーストラリアの多くの水域で見かることができる。\nペンギン目がオーストラリア南部に生息し、特にコガタペンギンはオーストラリア大陸で繁殖を行う唯一のペンギンである。", "qas": [ { "question": "オーストラリア大陸に生息する唯一のペンギンとは何?", "id": "tr-206-10-000", "answers": [ { "text": "コガタペンギン", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "爬虫類は、16科約850種が分布する。\nカメ目では主に淡水域に分布するのは曲頸亜目のヘビクビガメ科で、ゴンドワナ大陸に由来すると考えられている。\n潜頸亜目に含まれる淡水域に分布するカメはスッポンモドキのみが北部に自然分布する。\n有鱗目ではヒレアシトカゲ科、ヤモリ科(イシヤモリ亜科〈イシヤモリ亜科はヒレアシトカゲ科に近縁とする説もある〉)、アガマ科が分布し、これらの分類群はゴンドワナ大陸に由来すると考えられている。\nオオトカゲ科、トカゲ科、ナミヘビ科、ニシキヘビ科、イシヤモリ亜科を除いたヤモリ科も分布するがこれらは東洋区から侵入したと考えられている。\nヘビ亜目は分布する構成種の大半をコブラ科が占める。", "qas": [ { "question": "ヘビ亜目のほとんどは何科ですか?", "id": "tr-206-11-000", "answers": [ { "text": "コブラ科", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ワニ目は海産と淡水産の両方のワニが分布する、海産では世界最大の爬虫類であるイリエワニがいて、全長7m、重量1,200kgに達するが、5mを超えることは稀である。\nこのどう猛なワニは魚、爬虫類、鳥と哺乳類を食べるが、時として人を襲うことがある。\n彼らは河口から上流100kmの内陸の淡水域まで広範囲で見つかる。\n分布域はクイーンズランド州、ノーザンテリトリー、西オーストラリア州の熱帯地域である。\nイリエワニは海水に対する耐性が強い事から、比較的新しい時代に東洋区から海伝いに侵入したと考えられている。\nイリエワニはその皮革からハンドバッグ、帽子、財布、財布とベルトを得るために養殖が行われている。\nそしてその肉はグルメ御用達である。\n一方淡水産のワニであるオーストラリアワニは湖、沼、分流と小さな川の上流に生息していて、体長は雄で3m、雌で2mになる。\n彼らは通常攻撃的ではない。", "qas": [ { "question": "オーストラリアに生息する海産と淡水産のワニはどちらが大きいですか?", "id": "tr-206-12-000", "answers": [ { "text": "海産", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストラリアワニの体長は、雄と雌のどちらが小さいですか?", "id": "tr-206-12-001", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イリエワニとオーストラリアワニはどちらが攻撃的ですか?", "id": "tr-206-12-002", "answers": [ { "text": "イリエワニ", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オーストラリアにはトカゲの科が5つあり、そして世界の他のどの地域よりも多くのトカゲが分布している。\nペレンティーオオトカゲはオーストラリア最大のトカゲで体長2m以上に達する。\n分布はクイーンズランド州から西オーストラリア州の岩がむき出している乾燥地帯である。\n彼らは活発な捕食者であって、カメの卵、昆虫、鳥、他の爬虫類、哺乳類と時に死肉をむさぼる。\nオーストラリアの海岸にはウミガメの7つの種のうち6つの種が訪れる。\nヒラタウミガメ、アオウミガメ、タイマイ、ヒメウミガメ、アカウミガメ、そしてオサガメである。\nすべての種が州法と連邦政府の1999年環境・生物多様性保護法の保護下にある。\nオーストラリアはリクガメなど陸生種のカメがいない地域である。", "qas": [ { "question": "オーストラリア最大のトカゲは何?", "id": "tr-206-13-000", "answers": [ { "text": "ペレンティーオオトカゲ", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ペレンティーオオトカゲが生息している地域はどのような地帯ですか?", "id": "tr-206-13-001", "answers": [ { "text": "乾燥地帯", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "両生類は、5科約200種(全世界に分布する両生綱の構成種のうち約5%)が分布する。\n大陸の大部分を乾燥域が占めるため面積あたりの種数は多いとはいえない。(例として面積は日本の20倍以上だが、一定の面積あたりに分布する種数は日本の1/5以下)\n現生の両生類では無尾目のみが分布する。\n主にカメガエル科やアマガエル科(アメガエル亜科)が分布する。\nこれらにはアオガエル科やアカガエル科、ヒキガエル科に類似した形態を持つ種もいて、他地域における他科のニッチを占めている。\n他大陸および隣接する東洋区に多く分布するアオガエル科やヒキガエル科は自然分布せず、アカガエル科は1種のみ自然分布する。\n有尾目や無足目は分布しない。", "qas": [ { "question": "一定の面積あたりに分布する両生類の種数が多いのは日本とオーストラリアのどちら?", "id": "tr-206-14-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 84, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "カメガエル科は大きなグループで22属約120種を数え、オーストラリアのカエル相の57%を占める。\nこのグループの注目に値する種として、カラフルで、そして絶滅の危機に瀕しているコロボリーヒキガエルモドキ(en)がある。\nアマガエル科はオーストラリアに3属70種以上を数える。\nオーストラリアのカエルの中でもっとも小さな種(ScantyFrog)はヒメアマガエル科に属する。", "qas": [ { "question": "オーストラリアの半数以上を占めているカエル相は何科ですか?", "id": "tr-206-15-000", "answers": [ { "text": "カメガエル科", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オーストラリアに生息するカメガエル科とアマガエル科の種類はどちらが多いですか?", "id": "tr-206-15-001", "answers": [ { "text": "カメガエル科", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "近年オーストラリアのカエル個体数の急激な低下があった。\n低下の原因は不確かであるが、両生類を死に至らしめる真菌(ツボカビ門)の病気カエルツボカビ症が少なくとも部分的に関与していると見られる。\nカエルツボカビ症は両生類にとって致命的な疾患である。\nこの感染症はオーストラリア固有ではなく、1970年代のアフリカツメガエルの輸入によるものと見られている。\nカエルツボカビ症は49種の両生類に感染していることが確認された。\nそのうち1種は外来種であるオオヒキガエルであるので、固有種としては48種である。\nこの感染症はオーストラリアの4つの地域で見つかっている。\nクイーンズランド州クックタウンの北からメルボルンに及ぶ広大な東部海岸地帯、タスマニア、南オーストラリア州アデレード周辺、西オーストラリア州のパースを含む大部分の南西部である。\nタスマニアでは2004年に感染が確認されたのみである。\nノーザンテリトリーは感染の記録のない唯一の州である。\n両生類のいくつかの種はこの感染症によって絶滅に追いやられた。\nこの感染症は東海岸において、1978年12月に最初に確認された。", "qas": [ { "question": "カエルツボカビ症が最初に確認されたのはいつですか?", "id": "tr-206-16-000", "answers": [ { "text": "1978年12月", "answer_start": 467, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カエルツボカビ症がオーストラリアに入ってきたのは、何の輸入によるものですか?", "id": "tr-206-16-001", "answers": [ { "text": "アフリカツメガエル", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "魚類の4,400以上の種が、オーストラリアの水域に生息している。\nこれらのうち、90%は固有種である。\nしかしながら、淡水の水域が比較的少ないオーストラリアでは、淡水魚は170種に限られる。\nオーストラリアの淡水魚のうち、二つの科は太古の昔に起源を求めることができる。\nそれらはすなわちアロワナとオーストラリアハイギョである。\nオーストラリアハイギョはハイギョのうちもっとも原始的な姿をとどめている。\nそしてオーストラリアがゴンドワナ大陸と分離する前に進化した。\n西オーストラリア州南西部固有の、もっとも小さな淡水魚の一種はサラマンダーフィッシュである。\nこの種は泥に穴を掘って中にこもることで、乾期の乾燥から生き残ることができる。\nミナミキュウリウオ科、ガラクシアス科、アプロキトヌス科とペルキクティス科はゴンドワナ起源の種である。\n古代の淡水魚は別として、オーストラリアの淡水魚の70%には、淡水域に適応した熱帯インド-太平洋の海水魚種との類似性がある。\nしかし化石の形跡からは、これらの淡水の種の多くが起源が古代にあったことが示されている。\nこれらの種は淡水性のヤツメウナギ、ニシン、ナマズ、レインボーフィッシュ、それにカワアナゴ科の50の種を含む。\n淡水におけるゲームフィッシュ(スポーツとしての釣りの対象種)は、バラマンディ、マーレーコッドとゴールデンパーチなどである。\n絶滅の危機に瀕している2種の淡水性のサメは、ノーザンテリトリーに分布している。", "qas": [ { "question": "オーストラリアに生息する淡水魚は何種ですか?", "id": "tr-206-17-000", "answers": [ { "text": "170種", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "西オーストラリア州南西部に生息する最小の淡水魚は何ですか?", "id": "tr-206-17-001", "answers": [ { "text": "サラマンダーフィッシュ", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ブラウントラウト、カワマス、ニジマス、タイセイヨウサケ、マスノスケ、ヨーロピアンパーチ、コイとカダヤシを含むいくつかの外来種の淡水の魚種がオーストラリアの水域に移入された。\nカダヤシは他の魚のひれをかみ切ることで知られる攻撃的な種である。\nカダヤシは数種の固有の小型魚種の生息数の低下や、局所的な絶滅に関連がある。\n移入されたマス類は、SpottedTreeFrog(en)(アマガエル科の一種)のような他の高地の動物相や、トラウトコッド、マッコリーパーチ、マウンテンガラクシアスを含むいくつかの高地の固有の魚種への重大な悪影響を与えた。\nコイは、オーストラリア南東部のマレー・ダーリング流域で、水草の劇的な減少、小型固有魚種の減少と、汚濁の安定した高いレベルに強く関係している。", "qas": [ { "question": "外来種の淡水魚の中で攻撃的な性格のものは何ですか?", "id": "tr-206-18-000", "answers": [ { "text": "カダヤシ", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大部分のオーストラリアの魚類は海産である。\n興味深いグループとしてウツボやイットウダイのほか、オスが持つ特化した育児嚢でパートナーの卵を抱くヨウジウオ、タツノオトシゴがあげられる。\nハタ類の80種がオーストラリアの海域に分布している。\nその中には世界最大の硬骨魚類であるタマカイも含まれる。\nタマカイは体長2.7m、体重400kgになることがある。\nアジ(ロウニンアジなどの大型種も含む)-銀の群れをなす一群の魚-の50種とフエダイは、商業的釣りにおいて人気がある種である。\nグレート・バリア・リーフは、スズメダイ、チョウチョウウオ、エンゼルフィッシュ、ハゼ、テンジクダイ、ベラ、モンガラカワハギとニザダイを含む巨大な種類の、小規模から中規模の礁魚の生息地となっている。\nオニダルマオコゼとフグ、そしてハナミノカサゴは有毒であり、毒性は人間をも死に至らしめる程である。\nアカエイ科には11種に有毒種がいる。\nそのうち最大のものはショートテイルスティングレイである(全長最大4.3m)。\nバラクーダは礁に棲む最大の種の一つである。\nしかし大きな個体はシガテラ中毒の恐れがあるため食べるべきではない。", "qas": [ { "question": "世界最大の硬骨魚類とは何ですか?", "id": "tr-206-19-000", "answers": [ { "text": "タマカイ", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アカエイ科の有毒種の中で最も大きいものは何ですか?", "id": "tr-206-19-001", "answers": [ { "text": "ショートテイルスティングレイ", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サメはオーストラリア近海と河口に分布している。\nメジロザメ科の30種、トラザメ科の32種、オオセ科の6種、ツノザメ科の40種を含む166種が含まれる。\nネコザメ科からはポートジャクソンシャーク、シマネコザメ、クレステッドブルヘッドシャークの3種が分布する。\n2004年には12件のサメによる人間への死傷事故があり、そのうち2件は死者がでた。\nサメのうち、特にオオメジロザメ、イタチザメ、ホホジロザメの3種がときおり人間に対する重大な脅威をもたらすことで知られている。\nクイーンズランド州とニューサウスウェールズ州のいくつかの人気のあるビーチでは、サメよけ網によって危険なサメから保護されている。\nサメの乱獲による個体数減少はオーストラリアでも例外ではなく、いくつかの種は現在絶滅の危機に瀕している。\n1988年にパースの海岸でメガマウスが発見された。\nメガマウスの生態についてはごく僅かのことしか解っていない。\nしかしこの発見はオーストラリア近海にメガマウスが生息していることを示しているかもしれない。", "qas": [ { "question": "メジロザメ科、トラザメ科、オオセ科、ツノザメ科の中で種類が最多なのはどれですか?", "id": "tr-206-20-000", "answers": [ { "text": "ツノザメ科", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "メジロザメ科、トラザメ科、オオセ科、ツノザメ科の中で種類が最少なのはどれですか?", "id": "tr-206-20-001", "answers": [ { "text": "オオセ科", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2004年のオーストラリアでサメによって死者が発生した事件は何件あったの?", "id": "tr-206-20-002", "answers": [ { "text": "2件", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オーストラリアの約20万の動物種のうち、およそ96%は無脊椎動物である。\n無脊椎動物の多様性の上限が不確かであるが、90%の昆虫と軟体動物は固有種であると考えられている。\n無脊椎動物は多くのニッチを占め、分解者や授粉者、被食者としてすべての生態系の中で重要である。\n無脊椎動物で最も大きなグループは昆虫である。\n昆虫類は、オーストラリアの既知の動物種の約75%を構成する。\n最も多様な昆虫の種類はカブトムシやゾウムシなどを含むコウチュウ目であり、約28,200種が生息する。\nチョウとガを含む20,816の種によるチョウ目、アリやハチ、スズメバチ科を含むハチ目の12,781の種で、ハエやカなどのハエ目は7,786種、カメムシやアブラムシ、ヨコバイを含むカメムシ目は5,650種、そしてバッタ、コオロギとキリギリスを含むバッタ目の2,827種が生息する。\n固有種に対する重大な脅威をもたらす外来種として、オーストラリア固有の種と種間競争を行うセイヨウクロスズメバチやセイヨウミツバチ、アカヒアリ、アシナガキアリとなどが移入された。", "qas": [ { "question": "ハエ目、ハチ目、チョウ目、バッタ目、カメムシ目の中で最も数が多いのはどれですか?", "id": "tr-206-21-000", "answers": [ { "text": "チョウ目", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハチ目とハエ目はどちらの方が数が多いですか?", "id": "tr-206-21-001", "answers": [ { "text": "ハチ目", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハエ目、バッタ目、カメムシ目の中で2番目に数が多いのはどれですか?", "id": "tr-206-21-002", "answers": [ { "text": "カメムシ目", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "バッタ目、ハチ目、チョウ目、ハエ目、カメムシ目の中で4番目に数が多いのはどれですか?", "id": "tr-206-21-003", "answers": [ { "text": "カメムシ目", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "オーストラリアには、よく知られた135種を含む多種多様なクモ綱が分布する。\n咬傷により時に命に関わる、悪名高いシドニージョウゴグモやセアカゴケグモを含む多数の非常に危険な種が生息する。\nダニ目には数千種のダニとマダニが属する。\nまた8種のカニムシ目と9種のサソリ目が分布している。\n環形動物の貧毛綱には多数の水生あるいは陸生のワームが見られる。\nヒメミミズ科、ムカシフトミミズ科、フタツイミミズ科とフトミミズ科などである。\nフトミミズ科に属する世界最大のミミズであるメガスコリデス・アウストラリス(Megascolidesaustralis)がビクトリア州ギプスランドにのみ分布している。\nこの種は平均で全長80cmになり、最大で3.7mにも達する。", "qas": [ { "question": "カニムシ目とサソリ目はどちらの方が種類が多いですか?", "id": "tr-206-22-000", "answers": [ { "text": "サソリ目", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "メガスコリデス・アウストラリスの最大の全長は何mになりますか?", "id": "tr-206-22-001", "answers": [ { "text": "3.7m", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メガスコリデス・アウストラリスの平均の長さはどれくらいですか?", "id": "tr-206-22-002", "answers": [ { "text": "80cm", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ヘビの鱗", "paragraphs": [ { "context": "ヘビの鱗(ヘビのうろこ、英語:Snakescale)は、爬虫類有鱗目に属するヘビ(ヘビ亜目)が持つ鱗である。\n魚類の鱗が生きた組織に覆われ、そのまま成長するのに対し、爬虫類の鱗は表皮起源であり、細胞としては既に死んだものが強化・硬化したものである。\n爬虫類ではしたがって、鱗の下にだけ生きた組織があるため、皮下で周期的に新しい角質が生成され、外側の古くなった部分は新しい角質層との間の層で剥がれて脱落する(脱皮)。\n脱皮には、摩耗した部分の交換や寄生虫の排除だけでなく、身体の成長にも関わると考えられている。\nまた、鱗の配列は種の識別に用いられる。", "qas": [ { "question": "へびの鱗を英語表記するとどうなりますか?", "id": "tr-207-00-000", "answers": [ { "text": "Snakescale", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "外側の古くなった皮が剥がれ落ちて新しい角質層が出てくる事を何と言いますか?", "id": "tr-207-00-001", "answers": [ { "text": "脱皮", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "他の爬虫類と同様、ヘビ亜目には鱗で覆われた皮膚がある。\nヘビは全身が様々な形状や大きさの鱗甲で覆われており、その集合体は蛇革として知られている。\n鱗はヘビの身体を防護し、移動を行い、水分を体内に留めることができ、凹凸など表面特性を変えることでカモフラージュに役立つばかりではなく、ヤスリヘビなどでは獲物の捕獲にも役立っている。\n鱗の色彩パターンには単純なものと複雑なものがあり、いずれも鱗より内側の層によっており、カモフラージュや捕食者に対する警告として機能する。\nまた、発達した筋肉を用いて皮膚を縮め、鱗を重ねることによって鱗と鱗の間の皮膚を隠しておくことができ、皮膚を急に広げて明るい色を露わにすることで捕食者を驚かせることもできる。", "qas": [ { "question": "獲物の捕獲に鱗が役立っているというへびの種類は何?", "id": "tr-207-01-000", "answers": [ { "text": "ヤスリヘビ", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鱗の役割は捕食者に対する警告やどのような機能を果たしていますか?", "id": "tr-207-01-001", "answers": [ { "text": "カモフラージュ", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "皮膚を縮める時に使う部位は何?", "id": "tr-207-01-002", "answers": [ { "text": "筋肉", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一部の鱗は長い時を経て、「まつげ」にあたる眼の縁や眼球そのものを保護被覆するといった別の機能を果たすべく変化している。\n最も特徴的な例に北米産ガラガラヘビの尾の「ラトル」がある。\nこれは、危険を感じたとき、脱皮殻の積み重なった尾を激しく振るわせて音を出して警告を発するというものである。\nヘビの鱗は特に、「はう」というヘビに特徴的な運動に大きくかかわっている。\n「はう」という運動も陸上でのほかの移動方法(歩く、走る、ジャンプする)と原理的には同じであり、地面を後方に押し出すことによる前進運動である。\n他の「はう」動物、たとえばミミズは剛毛と呼ばれるかたいトゲがあり、これを地面にひっかけて進み、カタツムリは「足」の裏から分泌される粘液を用いる。", "qas": [ { "question": "ラトルを持つヘビの種類は何?", "id": "tr-207-02-000", "answers": [ { "text": "ガラガラヘビ", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘビの特徴的な運動とは?", "id": "tr-207-02-001", "answers": [ { "text": "「はう」", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミミズにあるかたいトゲの呼称は何?", "id": "tr-207-02-002", "answers": [ { "text": "剛毛", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「はう」動物にはヘビの他にカタツムリや何がある?", "id": "tr-207-02-003", "answers": [ { "text": "ミミズ", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヘビの鱗は背中側と腹側は形状が異なり、腹側の板状を呈する長方形の鱗は「腹板」と呼ばれ、断面形状がフック(鉤)状になっており、これを地面にひっかけることによって蛇行を可能にしていると考えられる。\nすなわち、腹板と地面との摩擦によって前進しているのである。\n近年、カリフォルニアキングヘビの脱皮殻の詳細な調査より、ヘビの鱗はきわめて薄い脂質の層により被覆されていることが確認され、その脂質層は背中側よりも腹側の方が緻密な層を形成し、蛇行の際の潤滑油の役割を果たしていることが判明した。", "qas": [ { "question": "ヘビの腹側の鱗の呼び名は何?", "id": "tr-207-03-000", "answers": [ { "text": "「腹板」", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鱗が薄い脂質の層で覆われているという事実は、何を調査したことによって明らかになりましたか?", "id": "tr-207-03-001", "answers": [ { "text": "カリフォルニアキングヘビ", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "脂質層がより緻密に形成されているのは背中側と腹側のどちらですか?", "id": "tr-207-03-002", "answers": [ { "text": "腹側", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "蛇行をスムーズにさせている部位とは何?", "id": "tr-207-03-003", "answers": [ { "text": "脂質層", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヘビは独特の形状や運動、生態から、民族を超え、古来、芸術・文学といった文化面で取り上げられることが多く、世界的に信仰の対象となっており、ヘビの鱗もまた、小説、芸術、映画のモチーフとしてしばしば取り上げられる。\n日本では、縄文時代の遺跡からもヘビをかたどった土偶が出土している。\nヘビは、日本では古来より、ネズミを捕食するところから穀物神、それが転じて田の神、ヘビと龍との習合から水神、さらに財宝をつかさどる弁財天の表象・化身ないし神使として神聖視されてきた。\nまた、蛇が脱皮して成長するところから「不老不死」がイメージされ、ヘビの脱皮殻は、常に成長を繰り返す存在、運気を浄化して良い運気を取り入れる存在として古くから縁起物と考えられ、財布などに入れておくと財産運や金運が開けると信じられてきた。\n世界的には、色鮮やかな鱗の模様は初期の芸術にも大きな影響を与えたと考えられている。\n現在、蛇革の財布、衣服、その他小物への利用はヘビの大量殺害に繋がっており、人工蛇革の使用が提唱されている。", "qas": [ { "question": "日本において、古くから穀物神や田の神とされてきた動物とは何?", "id": "tr-207-04-000", "answers": [ { "text": "ヘビ", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蛇が脱皮して大きくなっていく様はどのようにイメージ化されていますか?", "id": "tr-207-04-001", "answers": [ { "text": "「不老不死」", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘビをモチーフとした土偶は何時代の遺跡から出土したの?", "id": "tr-207-04-002", "answers": [ { "text": "縄文時代", "answer_start": 110, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "上述したように、ヘビの鱗は「這(は)う」という移動方法を支えている。\n地面を後ろに押し出して進むためには、地面に引っかかるような器官が必要であり、それが腹側の、断面が鈎状になっている大型の板状の鱗(腹板)である。\n脊椎動物であるヘビは蠕虫のような流体骨格ではないので、ミミズのように大幅に身体を伸び縮みさせることはできない。\nしかし、発達した筋肉によって全身をくねらせ、そうすることで頭と尾の間の距離をうまく縮め、同様の効果を上げている。\n身体のくねりが大きければ大きいほど、地面と身体の接触する面積が広くなり、それだけ動く速度も速くなる。\n同時に筋肉がうろこを立てて、身体を押し当てている面との摩擦を大きくしているのである。\nまた、身体をくねらせることにより、水中を「泳ぐ」ことも可能になったのである。", "qas": [ { "question": "ヘビが移動する際に必要不可欠な部位とは何?", "id": "tr-207-05-000", "answers": [ { "text": "鱗", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "爬虫類は両生類のうち、水中生活から陸上生活に移行したものから進化した。\n両生類の皮膚は柔らかく潤っているが、爬虫類の皮膚は水分の損失を防ぐためにそうした性質を失っている。\nまた、多層の脂肪をともなった分厚い角質が発達しており、皮膚に不透水性を与え、紫外線を防ぐのに役立っている。\n進化の過程で、爬虫類の皮膚細胞は非常に角質化した、頑強で乾燥したものとなった。\n全ての爬虫類において、鱗を含め表皮は一続きのシート状になっており、ヘビが全身を脱皮する際にはそれがよく現れる。\nヘビの鱗は、他の生物における毛髪や爪などと同様、基本的には硬質タンパクのケラチンを主体とした角質で構成されているため「角鱗」と呼ばれる。\n触るとひんやりしていて乾燥している。", "qas": [ { "question": "ヘビの鱗を構成している角質の主な要素とは何?", "id": "tr-207-06-000", "answers": [ { "text": "ケラチン", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘビと両生類の皮膚はどちらがより乾燥しているの?", "id": "tr-207-06-001", "answers": [ { "text": "ヘビ", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "多くの有鱗目では、鱗は互いに重なり合い、外側から見える部分は硬いβケラチンで覆われ、鱗の付け根の部分はやわらかいαケラチンで覆われている。\nまた、付け根部分の、隣の鱗との連結部はヒンジ状の構造になっていて、柔軟性を高めている。\nヘビは、きわめて柔軟な体を持ち、大きな獲物を飲み込めるように皮膚を伸縮させることができるが、このため、鱗同士は強固に連結せず、一つ一つの鱗が先端は重なり合いながらも、基部は独立して皮膚に癒着している。\n皮膚を伸ばしたときには鱗同士の間隔が広がり、柔軟な皮膚が露出する。\n皮膚を縮めると鱗同士はもとどおりにすき間なく重なり合う。", "qas": [ { "question": "αケラチンとβケラチンはどちらがやわらかいの?", "id": "tr-207-07-000", "answers": [ { "text": "αケラチン", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "外側から見える部分を覆っている成分は何ですか?", "id": "tr-207-07-001", "answers": [ { "text": "βケラチン", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鱗の付け根部分を覆っている成分は何?", "id": "tr-207-07-002", "answers": [ { "text": "αケラチン", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "足もないのに木に登ったり、砂漠を走ったり、泳いだり、また、木から木へ飛び移ったりできるヘビの多様な運動能力については長年にわたって謎とされてきた。\nまた、そうした激しい運動にかかわらず鱗が落剝することがほとんどないことも不思議とされてきた。\nさらに、腹側の鱗が背中側の鱗よりもはるかにすべすべしており、滑らかなのは一目瞭然であるにもかかわらず、それがどうしてなのかは従来説明がつかなかったのである。", "qas": [ { "question": "すべすべしている鱗があるのは腹側の鱗と背中側の鱗のどちら?", "id": "tr-207-08-000", "answers": [ { "text": "腹側の鱗", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2015年12月9日の\"JournaloftheRoyalSocietyInterface\"は、ヘビの鱗の表面がわずか数ナノメートルというきわめて薄い潤滑油でコーティングされているという新発見の事実を発表した。\nオレゴン州立大学の化学工学者ジョー・バイオとドイツのマックス・プランク高分子研究所のトビアス・ヴァイドナーが共同研究チームをつくり、カリフォルニアキングヘビ(Lampropeltiscaliforniae)の脱皮殻にレーザーを照射し、鱗の表面分子がレーザー光線をどのように反射・散乱するかを調べたことにより得られた知見であり、その結果、ヘビの鱗が極薄の脂質(生体内で脂肪の形で存在する炭化水素鎖)の層によってコーティングされていること、さらに腹側が背中側よりはるかに滑らかで整然とした層をかたちづくっていることが判明したのである。", "qas": [ { "question": "ジョー・バイオは誰と手を組んでカリフォルニアキングヘビの調査研究をしましたか?", "id": "tr-207-09-000", "answers": [ { "text": "トビアス・ヴァイドナー", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トビアス・ヴァイドナーは誰と共同研究チームを作ったの?", "id": "tr-207-09-001", "answers": [ { "text": "ジョー・バイオ", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘビの鱗は、皮膚の表皮の分化によって形成される。\n鱗にはそれぞれ外表面と内表面がある。\n前の鱗と次の鱗の基部との間には空間があり、前の鱗の内表面からは皮膚が出て繋がっている。\nヘビの鱗の数は孵化した時から定まっており、加齢による増減はないが、成長して大きさを増し、脱皮の前後で形状が変わる場合もある。\n口の周囲と胴体側面の鱗は小さく、口や胴体を広げるられるようになっており、自分自身より遥かに大きな獲物を飲み込むことが可能な場合もある。", "qas": [ { "question": "鱗が小さいのは口の周囲とどこの部位ですか?", "id": "tr-207-10-000", "answers": [ { "text": "胴体側面", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヘビの鱗の形状や大きさは様々である。\n鱗はザラザラの場合もあるし、滑らかであったり、縦方向の筋状突起(リッジやキールと呼ばれる)がある場合もある。\n多くの場合、鱗には肉眼または顕微鏡で視認可能な鱗孔、結節、その他の微細構造がある。\nヘビの鱗は、ブッシュバイパー属のAtherisceratophoraのようにフリンジ状に変化したり、北米にいるガラガラヘビの尾のようにラトルに変化している場合もある。\nボア属やニシキヘビ属といった原始的なヘビや、クサリヘビ属のような派生的なヘビの中には、頭部に小さな鱗が不規則に並ぶものもある。\nより派生的なヘビの頭部には、英語圏で「シールド」や「プレート」と呼ばれる大きな対称形の特殊な鱗がある。", "qas": [ { "question": "大きな対称形の特殊な鱗の英語圏での呼称は「プレート」と何ですか?", "id": "tr-207-11-000", "answers": [ { "text": "「シールド」", "answer_start": 282, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "頭部に小さな鱗が不規則に並んでいるのはクサリヘビ属、ボア属の他に何がありますか?", "id": "tr-207-11-001", "answers": [ { "text": "ニシキヘビ属", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヘビの鱗には様々な形状がある。\nメクラヘビ科では時に円形で、ハナナガムチヘビでは長くて先端が尖った先細り形、シロクチアオハブでは幅広な木の葉形、またナンダなどのネズミヘビ(ナミヘビ科)では鱗が幅広で長い。\n時にはキスジヒバァのように、大なり小なりの筋状突起(キール)が見られる場合もある。\nユウダ属の一部の種では、時に先端に2つの歯状突起がみられる(bidentate)。\nトゲウミヘビ等では並列した棘状の鱗を持っている場合があり、一方でミツウロコヘビ(ドラゴンスネーク)のように重なり合わない大きな突起(knob)になった鱗をもつ場合もある。\n特殊化した鱗の例としては、ヘビの眼球を覆うブリル(brille)と呼ばれる透明な鱗が挙げられる。\nこれは脱皮の際には古い皮膚の一部として脱落する。\n英語圏では、ブリルはしばしば癒合したまぶた(fusedeyelid)と呼ばれることがある。", "qas": [ { "question": "ネズミヘビは何科に分類されていますか?", "id": "tr-207-12-000", "answers": [ { "text": "ナミヘビ科", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "癒合したまぶたとは何のことですか?", "id": "tr-207-12-001", "answers": [ { "text": "ブリル", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘビの眼球を覆う透明な鱗の名前は何?", "id": "tr-207-12-002", "answers": [ { "text": "ブリル", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メクラヘビ科の鱗は時々どのような形状になりますか?", "id": "tr-207-12-003", "answers": [ { "text": "円形", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヘビの鱗で最も特殊化した例は、ガラガラヘビ属やヒメガラガラヘビ属などのガラガラヘビ類にある「ラトル(rattle)」である。\nラトルは、連動する複数の空洞が節状にゆるく繋がった構造をしており、基部だけが尾の先端に強固に付いている。\nこれを振ると、互いに振動し擦り合うことで、ガラガラヘビ特有の警戒音を発する。\n孵化したてのガラガラヘビの尾の先端には、小さなボタン状の「ラトル原基」だけが強固に付着している。\n最初の節は、幼体が初めて脱皮した時に付加され、脱皮のたびに更に節が付加されて、ラトルが形成される。\nこのようにラトルは加齢と共に成長するものの、節自体が分離しやすいため、ラトルの長さでヘビの年齢を推定するのは不確実である。", "qas": [ { "question": "ガラガラヘビの警戒音を出す鱗とは何?", "id": "tr-207-13-000", "answers": [ { "text": "ラトル", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヘビの鱗は透明な硬いベータケラチンでほとんど構成されている。\n青や緑を除いて、鱗の色は全て皮膚内側層の色素に起因するもので、鱗の成分や構造自体によるものではないが、青色は鱗自体の微細構造が光の回折によって生じ、緑色や玉虫色はこの仕組みによる青色と皮膚内側に由来する黄色が重なることで生じる。\n一部のヘビは鱗の色をゆっくり変化させる能力を持っており、典型例は体色が季節変化と共に明るくなったり暗くなったりするものである。\n同様の変化が昼と夜の間で起こる例もある。", "qas": [ { "question": "ヘビの鱗を構成しているベータケラチンは何色をしているの?", "id": "tr-207-14-000", "answers": [ { "text": "透明", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "鱗を含む外皮が剥落することを脱皮という。\nヘビの場合、皮膚の外側の層全体が1つの層を形成する。\nヘビの鱗はこの表皮の延長であるため別々に剥落せず、皮膚の外側の層が完全に繋がったものの一部であり、この皮は脱皮の際に靴下が裏返されるように脱ぎ捨てられる。\n脱皮は多くの役目を果たしている。\n第一に摩耗した皮膚を交換し、第二にダニ類などの寄生虫を除去する。\n脱皮による皮膚の更新は、昆虫などでは体の成長に必須のものとなっているが、ヘビにも当てはまるかについては議論が続いている。", "qas": [ { "question": "脱皮の第一の役割は何?", "id": "tr-207-15-000", "answers": [ { "text": "摩耗した皮膚を交換", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "脱皮はヘビの生涯にわたって定期的に繰り返される。\n脱皮の前になると、ヘビは摂食を控え、隠れるか安全な場所に移動する。\n脱皮の直前には、皮膚は色がくすんで乾いた外観になり、目は曇るか青みがかる。\n古い表皮の内側は溶けており、新しい表皮から分離する。\n数日後、澄んだ目をしたヘビが古い皮膚から現れる。\n古い皮膚は口の付近で破れ、ヘビは周りの粗い表面に身を擦り付けるようにして身をよじらせながら脱ぎ進める。\n多くの場合、脱け殻は古い靴下のように一連なりになり、頭から尾まで全身が裏返しになっている。\n脱皮するより先に、より大きく明るい新しい皮膚が形成されている。\n老齢のヘビは年に1-2回しか脱皮しないこともあるが、若齢で成長途上のヘビは年に最大4回まで脱皮する場合がある。\n脱皮して残された皮には鱗の配列が完全に保存されているため、ほぼ完全で無傷な抜け殻であれば、通常はそれで種を識別できる。", "qas": [ { "question": "年寄りのヘビは1年にどれくらいの頻度で脱皮しますか?", "id": "tr-207-16-000", "answers": [ { "text": "1-2回", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "若いヘビは1年に最大何回まで脱皮しますか?", "id": "tr-207-16-001", "answers": [ { "text": "4回", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鱗の配列は、分類学的な有用性のみならず、法医学や種の保全においても重要である。\n頭部を除き、ヘビは瓦重ね状の鱗を有する。\nヘビには体に沿って全身または一部に鱗列があり、頭部などの部位に特殊な鱗が多くあり、それらは単一ないし左右一対である。\nヘビの体躯にある体鱗(bodyscale,dorsalscale)は、胴に沿って列を作る。\n隣り合う体鱗列は互いに斜め方向へと列をなす。\n大半のヘビでは体鱗列は奇数だが、カサントウ属などでは偶数になっている。\n一部の水生・海生ヘビでは鱗が粒状になっており、列を数えることはできない。", "qas": [ { "question": "体鱗列が偶数であるのは何属のヘビですか?", "id": "tr-207-17-000", "answers": [ { "text": "カサントウ属", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "瓦重ね状の鱗がない部位とはどこ?", "id": "tr-207-17-001", "answers": [ { "text": "頭部", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "体鱗列数の幅は広く、フミキリヘビで10、キノボリアトバ属、スベハダヘビ属、ヒメヘビ属、ワモンベニヘビで13、日本に生息するアカマタで17、アオダイショウでは23や25である。\n大きなものだとニシキヘビ属で65から75、オオアタマウミヘビ属で74から93、ヤスリヘビ属で130から150ある。\nヘビの大部分を占めるナミヘビ科は15、17、19の鱗列を持つ。\n列は胴体中央で最も数が多く、頭・尾に向かうほど数が減る。", "qas": [ { "question": "体鱗列数が多いのはアオダイショウとフミキリヘビのどちらですか?", "id": "tr-207-18-000", "answers": [ { "text": "アオダイショウ", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "体鱗列数が最も多いのはオオアタマウミヘビ属、ヤスリヘビ属、ニシキヘビ属の中でどれですか?", "id": "tr-207-18-001", "answers": [ { "text": "ヤスリヘビ属", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "体鱗列数が最も少ないのはオオアタマウミヘビ属、ヒメヘビ属、ニシキヘビ属の中でどれですか?", "id": "tr-207-18-002", "answers": [ { "text": "ヒメヘビ属", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ヘビの頭部および体にある様々な鱗を以下に示す。\n右の写真は南アジアの一般的な草むらに生息するナミヘビ科のキスジヒバァ(Amphiesmastolatum)の鱗の名称。\n頭部の鱗の識別は、鼻孔を基準に考えるのが最も分かりやすい。\n1つの鼻孔は2つの鱗に囲まれており、鼻板(nasals)と呼ばれる。\nナミヘビ科では鼻孔が前後の鼻板の間に位置するが、クサリヘビ科では鼻板が単一で、その中央に位置する。\n前後の鼻板はそれぞれ前鼻板(prenasal)、後鼻板(postnasal)と呼ばれる。\n左右両側の鼻板をつなぐ鱗にも名将があり、上側で繋ぐものを鼻間板(internasals)、前方で2つの前鼻板を繋ぐものを吻端板(rostral)と呼ぶ。", "qas": [ { "question": "鼻孔を囲んでいる鱗の呼び名は何?", "id": "tr-207-19-000", "answers": [ { "text": "鼻板", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "眼窩の鱗(circumorbitalやocular)には、日本では定訳がみられない。\nこの鱗は眼球をカバーする透明なもので、英語圏ではブリル(brille)、スペクタクル(spectacle)、アイキャップ(eyecap)などと呼ばれる。\n眼窩を囲む鱗のうち、前方のものを眼前板(preocular)と、後方のものを眼後板(postocular)、上側(背側)のものは眼上板(supraocular)と呼ばれる。\nまた、眼窩下側(腹側)も囲むように鱗がある場合があり、眼下板(subocular)と呼ばれる。\n眼前板と後鼻板の間には、頬板(loreal)と呼ばれる鱗が1-2個ある。\nコブラ科には頬板がない。", "qas": [ { "question": "頬板がないのは何科のヘビですか?", "id": "tr-207-20-000", "answers": [ { "text": "コブラ科", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "眼窩の鱗は何色?", "id": "tr-207-20-001", "answers": [ { "text": "透明", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スぺクタルやアイキャップとはどこを覆っている鱗のことですか?", "id": "tr-207-20-002", "answers": [ { "text": "眼球", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヘビの唇沿いにある鱗は唇板(labials)と呼ばれる。\n上唇にあるものは上唇板(supralabialsやupperlabials)、下唇にあるものは下唇板(infralabialsやlowerlabials)と呼ばれる。\n頭頂部と目の間で、左右の眼上板に隣接するのが1枚の額板(frontal)である。\n額板の前方には2枚の前額板(prefrontal)が接しており、これはさらに前方で鼻孔間板とも接している。\n2つの前額板の間にもう1枚鱗がある場合もある。\n頭頂部の後部には額板に接する鱗が2枚あり、頭頂板(parietal)と呼ばれる。\n後頭部の側面で頭頂板と上唇板の間にあるものは側頭板(temporal)と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "上唇にある鱗の名称は何?", "id": "tr-207-21-000", "answers": [ { "text": "上唇板", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "下唇にある鱗の名称は何?", "id": "tr-207-21-001", "answers": [ { "text": "下唇板", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "フランツ・ヨーゼフ1世", "paragraphs": [ { "context": "フランツ・ヨーゼフ1世(ドイツ語:FranzJosephI.、1830年8月18日-1916年11月21日)は、オーストリア皇帝(在位:1848年-1916年)である。ハンガリー国王などを兼ねた。", "qas": [ { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世は、どの国の皇帝だったの?", "id": "tr-208-00-000", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世は、どの国の王も兼任したと書かれているか?", "id": "tr-208-00-001", "answers": [ { "text": "ハンガリー", "answer_start": 84, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ1世は68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛から、オーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の「国父」とも称された。晩年は「不死鳥」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在でもあった。皇后は美貌で知られるエリーザベトである。後継者となった最後の皇帝カール1世は統治期間が2年に満たなかったため、しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "オーストリア帝国の国父とされるのは、誰?", "id": "tr-208-01-000", "answers": [ { "text": "フランツ・ヨーゼフ1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世は、何年にも至る長い在位期間から帝国の国父とされますか?", "id": "tr-208-01-001", "answers": [ { "text": "68年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "実際にオーストラリア帝国を統治した最後の皇帝は、誰か?", "id": "tr-208-01-002", "answers": [ { "text": "カール1世", "answer_start": 137, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストリア帝国の実質的な最後の皇帝とされるのは、誰か?", "id": "tr-208-01-003", "answers": [ { "text": "フランツ・ヨーゼフ1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ1世は3月革命によって伯父のオーストリア皇帝フェルディナント1世が退位したため、18歳の若さで即位する。", "qas": [ { "question": "フェルディナント1世の後を継いだのは、誰なの?", "id": "tr-208-02-000", "answers": [ { "text": "フランツ・ヨーゼフ1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フェルディナント1世を退位させた事件とは、何ですか?", "id": "tr-208-02-001", "answers": [ { "text": "3月革命", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世が皇帝に即位するきっかけとなった事件は、何か?", "id": "tr-208-02-002", "answers": [ { "text": "3月革命", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ1世の治世当初は首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵に補佐され、北イタリア(ロンバルド=ヴェネト王国)とハンガリーの独立運動を抑圧、革命を鎮圧した。", "qas": [ { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世が即位したばかりのころ、彼を補佐したのは、誰だったの?", "id": "tr-208-03-000", "answers": [ { "text": "フェリックス・シュヴァルツェンベルク", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世が即位したばかりのころ、彼に反旗を挙げる運動が展開されたのは、北イタリアとどこでしたか?", "id": "tr-208-03-001", "answers": [ { "text": "ハンガリー", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世が即位したばかりのころ、北イタリアとハンガリーでは、独立運動のほかに、どのような動きが見られたか?", "id": "tr-208-03-002", "answers": [ { "text": "革命", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世の即位とほぼ同じ頃に、革命と独立運動が展開されたのは、北イタリアとどこだったか?", "id": "tr-208-03-003", "answers": [ { "text": "ハンガリー", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない人物であり、自由主義、国民主義の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルティスムス)と称する絶対主義的統治の維持を図った。", "qas": [ { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世は、君主は誰から受け取った権力をもとに国家を統治すると信じるものだったの?", "id": "tr-208-04-000", "answers": [ { "text": "神", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世は、どの説をもとに国を統治していこうとしましたか?", "id": "tr-208-04-001", "answers": [ { "text": "王権神授説", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世の治世中、展開された統治は、何主義的な統治と呼ばれるか?", "id": "tr-208-04-002", "answers": [ { "text": "新絶対主義", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世の治世中、弾圧され続けた主義とは、自由主義と何主義か?", "id": "tr-208-04-003", "answers": [ { "text": "国民主義", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ1世の治世中、イタリア統一戦争に敗北し、北イタリアの帝国領ロンバルディアを1859年に、ヴェネトを1866年に相次いで失う。", "qas": [ { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世の治世中、ロンバルディアとヴェネトを奪われた戦争は、何だったの?", "id": "tr-208-05-000", "answers": [ { "text": "イタリア統一戦争", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世がイタリア統一戦争により奪われた地域である、ロンバルディアとヴェネトのうち、より早く統治権を失った地域は、どこですか?", "id": "tr-208-05-001", "answers": [ { "text": "ロンバルディア", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1865年の時点でオーストラリア帝国は、誰が統治していたか?", "id": "tr-208-05-002", "answers": [ { "text": "フランツ・ヨーゼフ1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストラリア帝国がヴェネトにおける統治権を失ったのは、いつのことか?", "id": "tr-208-05-003", "answers": [ { "text": "1866年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "さらに、ドイツ統一に燃えるプロイセン王国首相のビスマルクの罠にかかり、1866年の普墺戦争では、消極的な自軍指揮官に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。このような対外的な動きに押される形で、国内では1861年、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。", "qas": [ { "question": "普墺戦争は、オーストラリアとどの国の間で行われた戦争であるの?", "id": "tr-208-06-000", "answers": [ { "text": "プロイセン王国", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "普墺戦争が勃発したのは、何年のことですか?", "id": "tr-208-06-001", "answers": [ { "text": "1866年", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ケーニヒグレーツの戦いは、オーストラリアとどの国の間で行われた戦闘か?", "id": "tr-208-06-002", "answers": [ { "text": "プロイセン王国", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ケーニヒグレーツの戦いで優勢にあったのは、どの国か?", "id": "tr-208-06-003", "answers": [ { "text": "プロイセン王国", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1867年、ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。これにより、ハプスブルク帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。", "qas": [ { "question": "オーストリア=ハンガリー二重君主国が建国されたのは、何年のことなの?", "id": "tr-208-07-000", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オーストリア=ハンガリー二重君主国の体制およびその国自体を指す言葉は、何ですか?", "id": "tr-208-07-001", "answers": [ { "text": "二重帝国", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーストリア=ハンガリー二重君主国の中央官庁として設置されたのは、共同外務省と何だったか?", "id": "tr-208-07-002", "answers": [ { "text": "共同財務省", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "二重帝国が指す国とは、何年に建国された国か?", "id": "tr-208-07-003", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ1世は、1830年8月18日、オーストリア皇帝フランツ1世の三男フランツ・カール大公とバイエルン王女であるゾフィー大公妃の長男として生まれる。この出産は公開され、宮廷に出入りできる者なら誰でも見ることができた。", "qas": [ { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世の出生日は、いつなの?", "id": "tr-208-08-000", "answers": [ { "text": "1830年8月18日", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・カールの初子が生まれたのは、いつのことですか?", "id": "tr-208-08-001", "answers": [ { "text": "1830年8月18日", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世の祖父は、誰か?", "id": "tr-208-08-002", "answers": [ { "text": "フランツ1世", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世が生まれたばかりのころ、彼の父親は、どの地位にあったものだったか?", "id": "tr-208-08-003", "answers": [ { "text": "大公", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ1世の洗礼の際には祖父フランツ1世が代父を務め、洗礼名は「フランツ・ヨーゼフ・カール」と定められた。今日「フランツ・ヨーゼフ1世」として知られるが、即位するまでは複合名は用いられず、幼少期には「フランツィ」と愛称で呼ばれていた。", "qas": [ { "question": "幼少期のフランツ・ヨーゼフ1世は、ふつう何と呼ばれたの?", "id": "tr-208-09-000", "answers": [ { "text": "フランツィ", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世の洗礼の際、誰が代父を務めましたか?", "id": "tr-208-09-001", "answers": [ { "text": "フランツ1世", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世の洗礼名は、何だったか?", "id": "tr-208-09-002", "answers": [ { "text": "フランツ・ヨーゼフ・カール", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "当時オーストリア皇太子の地位にあったフェルディナントは生来の病弱であり、子孫を儲けることは不可能だと考えられていた。その弟である父フランツ・カール大公は政治に関心がなく、(強制される可能性はあったが)即位しない意志をすでに表明していた。よって、生まれたばかりのフランツ・ヨーゼフ1世が将来的に帝位を継ぐことはほぼ確定しており、皇帝となることを予期して育てられた。", "qas": [ { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世が生まれたばかりのころ、皇太子の地位にあったのは、誰だったの?", "id": "tr-208-10-000", "answers": [ { "text": "フェルディナント", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世の父は、誰ですか?", "id": "tr-208-10-001", "answers": [ { "text": "フランツ・カール", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フェルディナントとフランツ・カールの2人のうち、年上の人は、だれか?", "id": "tr-208-10-002", "answers": [ { "text": "フェルディナント", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フランス王国で発生した2月革命がヨーロッパ中に飛び火して、オーストリア帝国では3月革命が発生した。ウィーンでは、およそ27年にわたって帝国宰相を務めていたメッテルニヒの罷免を求める声が、学生や労働者を中心に高まった。", "qas": [ { "question": "2月革命と3月革命のうち、より早く勃発した事件は、何?", "id": "tr-208-11-000", "answers": [ { "text": "2月革命", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "3月革命のきっかけとなった事件は、何ですか?", "id": "tr-208-11-001", "answers": [ { "text": "2月革命", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランス王国とオーストラリア帝国のうち、革命がより早く勃発したのは、どの国か?", "id": "tr-208-11-002", "answers": [ { "text": "フランス王国", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨーロッパ全域に革命の風を呼んできたのは、どの国で発生した革命だったか?", "id": "tr-208-11-003", "answers": [ { "text": "フランス王国", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "3月13日に群衆がシェーンブルン宮殿前の下オーストリア領邦議会議事堂に殺到し、検閲の廃止、出版の自由や自主憲法の制定を要求した。翌14日にメッテルニヒが職を辞してウィーンから逃亡すると、メッテルニヒを悪政の象徴とみなしていた民衆は歓喜した。", "qas": [ { "question": "オーストリア帝国の群衆が、検閲の廃止、出版の自由や自主憲法の制定を要求して来たのは、いつのことなの?", "id": "tr-208-12-000", "answers": [ { "text": "3月13日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、民衆から悪政の象徴とみなされていたのは、誰ですか?", "id": "tr-208-12-001", "answers": [ { "text": "メッテルニヒ", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ1世は、1848年12月2日、オルミュッツの大司教館・玉座の間にて、伯父フェルディナント帝から譲位された。傍系のオーストリア大公は20歳が成人年齢とされていたが、フランツは特例として18歳で成人と認められた。", "qas": [ { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世が皇帝に即位したのは、いつのことか?", "id": "tr-208-13-000", "answers": [ { "text": "1848年12月2日", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ1世に帝位を譲位したのは、誰か?", "id": "tr-208-13-001", "answers": [ { "text": "フェルディナント", "answer_start": 45, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェルディナントの後を継いだのは、誰か?", "id": "tr-208-13-002", "answers": [ { "text": "フランツ・ヨーゼフ1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "もともとオーストリア大公の年齢制限は、何歳とされていたか?", "id": "tr-208-13-003", "answers": [ { "text": "20歳", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "マイン川", "paragraphs": [ { "context": "マイン川(マインがわ、Main)は、ドイツを流れる河川の1つである。\nバイエルン州に水源があり、ドイツ国内を東からフランケン地方を抜けて西に横断し、ヘッセン州を抜けたあとマインツでライン川に合流する。\n全長は524キロ。\nライン川右岸の支流中、最長の川である(マース川を除く全支流中ではモーゼル川に次いで2番目)。\n流路は、中央ヨーロッパの大きな河川としては珍しく東から西に向かって流れる。\n川筋に沿ってフランケンの中低山地、歴史的な小都市、ヴュルツブルクの独特なシルエット、フランケンワインの産地が点在する。\n河口のすぐ上流には、多くの橋が架かり、フランクフルトの中心街を結んでいる。\nマインツ旧市街の向かい側、ヴィースバーデンのマインツ=コストハイム地区でライン川に合流する。", "qas": [ { "question": "マイン川の全長は?", "id": "tr-209-00-000", "answers": [ { "text": "524キロ", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マイン川はどこの国の河川ですか?", "id": "tr-209-00-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マイン川はどこの都市でライン川と合流するの?", "id": "tr-209-00-002", "answers": [ { "text": "マインツ", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モーゼル川の次に長い川は何?", "id": "tr-209-00-003", "answers": [ { "text": "マイン川", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マイン川はバイエルン州とヘッセン州を流れ下る。\nヴェルトハイム付近では、約25kmの間バイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州との州境をなしている。\nこの他のドイツを流れるマイン川よりも長い川、たとえばドナウ川、ライン川、エルベ川、オーダー川、モーゼル川は、いずれも水源または河口がドイツの国外にあり、純粋な国内河川ではない。\nこのため、マイン川は「ドイツ国内最長の川」と呼ばれることがある。\nこの呼称は間違いではないものの、注意が必要である。\nヴェーザー川は、一般にヴェラ川とフルダ川が合流した後の452kmを指し、マイン川の長さ524kmには及ばない。\nしかし、ヴェラ川もフルダ川もどちらもドイツ国内を水源としドイツ国内を流れる川である。\nより長いヴェラ川を計算に入れると湧水地点から河口までは、長さ744kmの国内河川となる。\n一方、マイン川は、同様に、より長い経路となるレグニッツ川およびペグニッツ川を合計しても、その総距離は567kmであり、ヴェラ川-ヴェーザー川には及ばない。", "qas": [ { "question": "マイン川、ドナウ川、エルベ川の中で、水源及び河口がドイツ国内にある川はどれですか?", "id": "tr-209-01-000", "answers": [ { "text": "マイン川", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "川の長さがより長いのは、マイン川とヴェーザー川のどちら?", "id": "tr-209-01-001", "answers": [ { "text": "マイン川", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "マイン川は、ヴァルテ川とその支流ネッツェ川とならび、東から西へ流れる中央ヨーロッパには希な河川である。\n中央ヨーロッパの大部分の川は北に向かって流れ、ドナウ川だけが西から東へと流れる。\nマイン川とその支流の流域面積は、27,292km2で、フランケン地方の広い地域、バーデン地方北東部、ヘッセン南部が含まれる。\n南部はドナウ川の流域となっている。\n両者の境界はヨーロッパの主要分水界である。\n白マイン川の数百m南にはフィヒテルナーブ川の水源がある。\nこの川はナーブ川を経てドナウ川に注ぎ、黒海へと下って行く。\nマイン川の平均水流は195m3/s(フランクフルト水位計)で、アーレ川(590m3/s)、モーゼル川(290m3/s)に次ぎ、ライン川支流中3位の流量である。\nマイン川は、バンベルクから388kmが航行可能で、さらにライン・マイン・ドナウ運河でエルランゲン・ニュルンベルクを経由し、分水嶺を越えて、ケールハイムでドナウ川に接続している。\n特に、フランクフルト周辺のライン=マイン産業集中地域には多くの大規模な河川港がある。\nマイン川に沿って、マイン遊歩道やマイン自転車道が走っている。", "qas": [ { "question": "平均水流が多いのは、マイン川とアーレ川のどちらですか?", "id": "tr-209-02-000", "answers": [ { "text": "アーレ川", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マイン川、ドナウ川、ネッツェ川の中で、西から東へ流れる川はどれですか?", "id": "tr-209-02-001", "answers": [ { "text": "ドナウ川", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ライン川の支流中、2番目に水流が多い川は何ですか?", "id": "tr-209-02-002", "answers": [ { "text": "モーゼル川", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「マイン」という名前はケルト語起源である。\nこの川は、MoinまたはMoginと呼ばれていた。\n紀元前1世紀にやって来たローマ人は、たとえば大プリニウスの『博物誌』やタキトゥスのゲルマニアには、ラテン語化したMoenusという名前で、記述している。\n似たような名前の川は、アイルランド(Maoin)やイギリス(Meon、ラテン語でmaionus)にある。\n名前の起源には多くの説がある。\n一つは、インド・ヨーロッパ語族の古語で「水」を意味するmeiに由来するというものである。\n同様の例としては、「沼地」を意味するラトヴィア語のmaina、リトアニア語のmaivaがある。\n別の説は、壁や柵を意味するというものである。\nラテン語でmoeniaは「円形の壁」を意味する。\n中世には、多くはMoynまたはMoyneと記録されている。\nMeynという名前が初めて表れるのは14世紀である。", "qas": [ { "question": "記述された時代が早かったのは、MoenusとMeynのどちらでしたか?", "id": "tr-209-03-000", "answers": [ { "text": "Moenus", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「マイン」の起源となる言語は何でしたか?", "id": "tr-209-03-001", "answers": [ { "text": "ケルト語", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マイン川は緩やかに蛇行を繰り返しながら東から西に向かって、オーバーフランケン、ウンターフランケン、ヘッセン南部を流れ下り、バイロイト(赤マイン川)、クルムバッハ、バンベルク、シュヴァインフルト、ヴュルツブルク、アシャッフェンブルク、フランクフルト・アム・マインといった都市を通って、マインツ近郊のマインシュピッツェでライン川に注ぐ。\nマイン川は特にウンターフランケンでは人口密集地を流れるが、アシャッフェンブルクから河口までのウンターマイン平野はほぼ完全に産業集中地帯および交通路ライン=マイン地域を形成している。", "qas": [ { "question": "マイン川が流れる地域の中で、人口密度の高い都市はどこですか?", "id": "tr-209-04-000", "answers": [ { "text": "ウンターフランケン", "answer_start": 174, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "マイン川には、2本の短い源流、白マイン川と赤マイン川がある。\n長さ41kmの白マイン川は、マイン川右岸、すなわち北側の源流である。\nこの川は、バイロイトから北東に直線距離で20km、フィヒテルベルク北西のフィヒテル山地に湧出する。\n標高1,024mのオクゼンコプフ山の東斜面、海抜887mの地点に花崗岩で造られた水源がある。\n標高679mに位置するビショフスグリュンが、白マイン川が初めて通過する町である。\nこの生まれたての川は、薬泉のベルネックやシトー会修道院で知られるヒンメルクロンを抜け、プラッセンブルク城を戴くビール町クルムバッハに至る。", "qas": [ { "question": "標高が高いのはビショフスグリュンとオクゼンコプフ山のどちらですか?", "id": "tr-209-05-000", "answers": [ { "text": "オクゼンコプフ山", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "白マイン川の長さは?", "id": "tr-209-05-001", "answers": [ { "text": "41km", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "白マイン川の水源地域は白みがかった花崗岩から成っており、このため水が白っぽく見えることから、この名が付いた。\n全長73kmの赤マイン川はマイン川左岸、すなわち南側の源流である。\nこの川は、バイロイトの南10km、クロイセンの西5kmのフレンキシェ・アルプに湧出する。\nその水源(木製の筒なのだが)は、ヘルラスロイト(クロイセンの一地区)からわずか2km北西のリンデンハルトの森の中にある。\nこの生まれたての川が流れる堆積岩でできたローム質の土壌が水に赤い色を付け、川の名前の由来となった。\nヘルラスロイトが赤マイン川が初めて出会う小集落で、クロイセンは初めて出会うより大きな町である。\n赤マイン川はこの後、オーバーフランケンの中心都市で、リヒャルト・ワーグナー祝祭音楽祭で世界的に知られるバイロイトまで北に向かって流れる。\n川筋は何度も蛇行しながら、狭い谷を北西に向かって進む。\n2つの源流は、クルムバッハの西の外れにあるシュタイネンハウゼン城付近で合流する。\nここがマイン川の出発点である。\nただし、他の多くの川と同じく、川の距離のカウントはここが出発点ではなく、ここがゴールとなる(ライン川などは例外的な川である)。\nマイン川の里程は河口から遡って計測、表示される。", "qas": [ { "question": "白マイン川の水源地域には、何の岩石が広がっているのか?", "id": "tr-209-06-000", "answers": [ { "text": "花崗岩", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "赤マイン川の土壌はどんな性質なの?", "id": "tr-209-06-001", "answers": [ { "text": "ローム質", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リヒャルト・ワーグナー祝祭音楽祭の開催地はどこ?", "id": "tr-209-06-002", "answers": [ { "text": "バイロイト", "answer_start": 344, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白マイン川と赤マイン川の合流地点はどこ?", "id": "tr-209-06-003", "answers": [ { "text": "シュタイネンハウゼン城付近", "answer_start": 411, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "水源からバンベルクまではオーバーマインラントと呼ばれる。\n2つの源流がクルムバッハのシュタイネンハウゼン城付近で合流して誕生したマイン川は、フレンキシェ・アルプ北辺の狭い谷を西に向かって流れる。\n源流沿いのバイロイトやクルムバッハを別にして、マイン川はこの行程で初めて、よく保存された歴史的なたたずまいを持ついくつもの小都市に出会う。\nカロリング朝の城をもつブルククンシュタットや町の防衛施設の一部が遺るリヒテンフェルスなどである。\nブルククンシュタットで左岸から合流してくる支流は、名前をヴァイスマイン川(Weismain)という。\n白マイン川(WeißerMainまたはWeißmain)と混同しやすく注意が必要である。", "qas": [ { "question": "ヴァイスマイン川の本流は何ですか?", "id": "tr-209-07-000", "answers": [ { "text": "マイン川", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2つの源流が合流したマイン川が通る歴史的な小都市とは、リヒテンフェルスとどこですか?", "id": "tr-209-07-001", "answers": [ { "text": "ブルククンシュタット", "answer_start": 179, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "リヒテンフェルスと川沿いの次の町であるバート・シュタッフェルシュタインとの間の左岸の丘陵上にドイツ・バロック様式の最も重要な建築物の一つである十四聖人聖堂が建っている。\nこの建物はバルタザール・ノイマン設計の建築である。\nマイン川流域の、特にヴュルツブルク周辺にはノイマンの作品がしばしば現れる。\n十四聖人聖堂のマイン川を挟んだ真向かい、右岸沿いの丘陵に11世紀に創設されたベネディクト会のバンツ修道院の豪壮な建築がある。", "qas": [ { "question": "十四聖人聖堂の建築様式は何ですか?", "id": "tr-209-08-000", "answers": [ { "text": "ドイツ・バロック様式", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "十四聖人聖堂の建築者は誰ですか?", "id": "tr-209-08-001", "answers": [ { "text": "バルタザール・ノイマン", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バンツ修道院はいつ創設されたの?", "id": "tr-209-08-002", "answers": [ { "text": "11世紀", "answer_start": 177, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バート・シュタッフェルシュタインは、その上流地域の極端に豊かな文化財の他にも、歴史的な町並みや17世紀から建設された大規模な木組み建築を見ることができる。\nまた、標高540mのシュタッフェルベルクは、その岩だらけの山頂平面部分に石器時代から人が住んでいたことが知られており、紀元前30年に放棄されたケルトの都市とギリシアの地理学者クラウディオス・プトレマイオスが記録しているMenosgadaがここであると推定されている。\nバート・シュタッフェルシュタインを過ぎると川は南に向きを変える。\n多くの川がマインに注ぎ込み氾濫原を形成する。\nブライテンギュスバッハ付近で右岸からイッツ川が注ぎ込むと、その数km後には、マイン川沿いの文化的白眉バンベルクへ至る。", "qas": [ { "question": "プトレマイオスが推定したMenosgadaの地とはどこですか?", "id": "tr-209-09-000", "answers": [ { "text": "シュタッフェルベルク", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "無傷で遺されたものとしてはドイツ最大の旧市街を有するこの都市は、1993年にユネスコ世界遺産に登録され、一般に知られている。\nそびえ立つ巨大なロマネスク建築の大聖堂を中心に、都市を形成する核となる建築が、マイン川の支流であるレグニッツ川の両岸と中州に点在して広がっている。\nその中でも15世紀に建てられた旧市庁舎は、レグニッツ川の真ん中に建てられているほどである。\nレグニッツ川は、この街の郊外でマイン川に合流する。\nマイン川は、しかし、この都市の中心部を流れているのではなく、街の北郊を流れている。\nマイン川にとってバンベルクが重要なのは、その歴史的・文化的背景の重要性のみではなく、ここにライン・マイン・ドナウ運河の北端が通じていることにある。\nこの運河は、かなりの距離をレグニッツ川と共有しておりビシュベルク付近でマイン川に接続する共通の河口を有している。\nこの河口近くのマイン川の河岸には、新しい港が設けられている。", "qas": [ { "question": "レグニッツ川の本流は何?", "id": "tr-209-10-000", "answers": [ { "text": "マイン川", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マイン川とドナウ川の間の運河は、1843年にはすでにルートヴィヒ運河が開通していた。\nこの運河もやはりバンベルクでマイン川に接続していたのだが、運河の川筋に沿って曳舟道があり、幅の狭い運河を馬が船を引いて往き来していた。\nこの運河は、技術的に時代遅れになっていたことや第二次世界大戦で被害を受けたことから、1950年に廃止された。\n近代的な運河掘削の計画は1920年からすでにあった。\n1960年にバンベルク側で工事が始まり、1972年に、まずはニュルンベルクまでの区間が開通した。\nこれにより、人口100万人を数えるニュルンベルク工業地域がマイン川の内陸航行システムに結びつくこととなり、交通状況の改善を印象づけた。\n1992年に運河は、ドナウ川沿岸のケルハイムまで完成し、両河川間の交通が接続された。", "qas": [ { "question": "ルートヴィヒ運河が廃止された年はいつ?", "id": "tr-209-11-000", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バンベルクとニュンベルク間の運河が開通したのは何年でしたか?", "id": "tr-209-11-001", "answers": [ { "text": "1972年", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "船での交通が可能となったマイン川は、バンベルクから西に向かって流れてゆく。\nシュヴァインフルトまでの間は、比較的直線的な行程である。\nここでも、城下町エルトマン、木組み建築とマルクト広場が印象的なツァイル、マリアブルクハウゼン修道院の町ハースフルトといったロマンティックな小都市が沿岸に並ぶ。\nリムバッハ(エルトマン市内)とツァイルには、それぞれ有名な巡礼教会がある。\nマイン川の右岸はハース山地、左岸はシュタイガーヴァルトである。\nハースフルトから約20kmでシュヴァインフルトに到着し、ここから『マインドライエック』(マインの三角)と呼ばれる区間に入る。", "qas": [ { "question": "ハースフルトとシュヴァインフルトは何km離れていますか?", "id": "tr-209-12-000", "answers": [ { "text": "約20km", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『マインドライエック』とは何ですか?", "id": "tr-209-12-001", "answers": [ { "text": "マインの三角", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マイン川の行程には、それぞれマインドライエック(マインの三角)、マインフィーアエック(マインの四角)と呼ばれる、目立った特徴がある。\nマインドライエックとは、シュヴァインフルト、オクゼンフルト、ゲミュンデン・アム・マイン間のマイン川を指す。\nこの区間を地図で見ると、頂点を下に、上に開いた逆三角形を描いているのが分かる。", "qas": [ { "question": "マインフィーアエックとは何のことですか?", "id": "tr-209-13-000", "answers": [ { "text": "マインの四角", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マインの三角とはどのような形の三角形をしているの?", "id": "tr-209-13-001", "answers": [ { "text": "逆三角形", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "シュヴァインフルト付近まで東から西に流れてきた川は、南に流れの向きを変える。\n三角形の一番南のポイントはマルクトブライトとオクゼンフルトの間である。\nこの間、マイン川は数km西に向かい、再び北向きに、これまでと逆行するかのように進路を変える。\nゲミュンデン・アム・マインからは再び西向きに流れる。\nマインドライエックは、特にワインづくりで有名である。\nフランケンワインの生産地の多くが、マインドライエックに直接面しているか、あるいはその周辺に位置している。", "qas": [ { "question": "フランケンワインの生産地の多くはどこ?", "id": "tr-209-14-000", "answers": [ { "text": "マインドライエック", "answer_start": 193, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マインドライエックの起点であるシュヴァインフルトは、かつての帝国自由都市で、後にボールベアリング生産の中心地となった。\nこのため、第二次世界大戦中には激しい空爆を受けた(ダブル・ストライク作戦と呼ばれる)。\nシュヴァインフルトの最も重要な保護文化財である旧ラートハウス(1572年建造)は、南ドイツのルネサンス建築中、最もすばらしいものの一つである。\nシュヴァインフルトの数km下流の左岸にグラーフェンラインフェルト原子力発電所がある。\nこの発電所の、それぞれ143mの高さがある2本の冷却塔は、数kmの範囲のどこからでも目に付くランドマークである。", "qas": [ { "question": "旧ラートハウスはどこの都市にありますか?", "id": "tr-209-15-000", "answers": [ { "text": "シュヴァインフルト", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ダブル・ストライク作戦で激しい空爆を受けた都市はどこですか?", "id": "tr-209-15-001", "answers": [ { "text": "シュヴァインフルト", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グラーフェンラインフェルト原子力発電所にある冷却塔の高さは?", "id": "tr-209-15-002", "answers": [ { "text": "143m", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ここから20kmほど下った蛇行部の頂点にフォルカハがある。\nこの町は、ワインづくりと、町はずれにある「ブドウ畑のマリア巡礼教会」で有名な小都市である。\nマイン川は、ゆったりと蛇行し、山を取り囲むように流れている。\nここにあったフォーゲルブルク城はかつて、河川の航行を取り仕切っていた。蛇行部は途中から船の航行に便利なように運河が設けられショートカットされている。\nこれによってできた運河と本流に挟まれた島を、ワイン島と呼ぶ。", "qas": [ { "question": "「ブドウ畑のマリア巡礼教会」で有名な小都市とは?", "id": "tr-209-16-000", "answers": [ { "text": "フォルカハ", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "運河と本流に挟まれた島を何と呼んでいますか?", "id": "tr-209-16-001", "answers": [ { "text": "ワイン島", "answer_start": 204, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "10kmほど下った左岸に、ベネディクト会ミュンスターシュヴァルツァハ修道院の修道院教会がある。\nそれに続いて右岸に現れるのが、市壁を含め中世風の佇まいを残すワイン町デッテルベルクである。\n歴史的なワイン取引の町キツィンゲン(中世のマイン川の橋、ファルター塔)、小都市マルクトブライト(ルネサンス様式のラートハウス、バロック様式のワイン商人の館)、豪奢なオクゼンフルト(ゴシック様式のラートハウス、一部が遺された1519年製のマイン川の橋)が、マインドライエックの南の頂点部分、すなわちマイン川の行程中最も南に並ぶ。", "qas": [ { "question": "マインドライエックの南の頂点部分に並ぶ、歴史的なワイン取引の町とは?", "id": "tr-209-17-000", "answers": [ { "text": "キツィンゲン", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この後すぐ下流がマインドライエックの変曲点である。\nヴィンターハウゼン、ゾンマーハウゼンを過ぎると、ヴュルツブルクである。\nヴュルツブルクは、フランケン地方で2番目に大きな都市で、世界遺産に数えられる歴史的な街並み、ロマネスク様式の大聖堂、マリエンベルク城塞、バロック様式のレジデンツなど建築文化史上国際的にも重要な建造物群を有している。\n衛星都市であるファイツヘーヒハイムには、有名なロココ庭園やヴュルツブルクの司教領主の夏の離宮がある。\nこれらの城館施設は、既述のバルタザール・ノイマンの作品である。\nマインドライエックの西側の行程は人口密度の低い地域である。\nヴュルツブルクと北西の角までの間には、カールシュタットと、2、3の小都市があるだけである。\nゲミュンデン・アム・マインから、マインフィーアエックに入る。", "qas": [ { "question": "マリエンベルク城塞がある都市はどこ?", "id": "tr-209-18-000", "answers": [ { "text": "ヴュルツブルク", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マインフィーアエックの起点となる都市はどこですか?", "id": "tr-209-18-001", "answers": [ { "text": "ゲミュンデン・アム・マイン", "answer_start": 329, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "マインフィーアエック(マインの四角)は、マインドライエックに隣接する。\n北に開いた四角形の角には、ゲミュンデン・アム・マイン、ヴェルトハイム、ミルテンベルク、アシャッフェンブルクがそれぞれ相当する。\nマイン川は、シュペッサルト山地の南部を約100kmにわたって取り囲んでいる。", "qas": [ { "question": "マイン川は、シュペッサルト山地の南部を何kmにわたって取り囲んでいるの?", "id": "tr-209-19-000", "answers": [ { "text": "約100km", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゲミュンデン・アム・マインで、シュペッサルト山地がマイン川の行く手に立ちはだかり、川は南西に向きを変える。\nロール・アム・マインでロール川が合流する辺りから狭く森の豊かな渓谷を南に向かって流れてゆく。\nローテンフェルス城の上流側に同名のごく小さな町がある。\nこの町、ローテンフェルスは人口約1,000人の、バイエルン州で最も小さな市である。\nマインフィーアエックの南東角に、2つの小都市、マルクトハイデンフェルトとヴェルトハイムがある。\nこの両都市の間でマイン川は小さな尾根の周りを回るように蛇行する。\nこの蛇行の開始点と終了点の間はわずか数百mだが、9kmの行程を要する。\nこの蛇行は“Himmelreich”(「神の国」)と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "ローテンフェルスの居住者は何人?", "id": "tr-209-20-000", "answers": [ { "text": "約1,000人", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バイエルン州で最小の市はどこ?", "id": "tr-209-20-001", "answers": [ { "text": "ローテンフェルス", "answer_start": 133, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "“Himmelreich”とは何の意味ですか?", "id": "tr-209-20-002", "answers": [ { "text": "「神の国」", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヴェルトハイムでタウバー川がマイン川に合流する。\nこの町の中世の街並みと城址は、ロマンティックな小都市に恵まれたマイン渓谷の中でも、最も見事な街の一つである。\nヴェルトハイムからマイン川は蛇行しながら西に向かう。\nこの辺りでは、マイン川がバイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州の州境をなしている。\nマイン川左岸のヴェルトハイムはバーデンに属していたため、右岸のクロイツヴェルトハイムはバイエルン州だが、主要部分の旧市街はバーデン=ヴュルテンベルク州に属している。\nこの付近の風景は、マインフィーアエックの東側に似ている。\n城を戴く2つの小都市シュタットプロツェルテンとフロイデンベルク、この地域では最も古い都市のドルフプロツェルテンの他にはほとんど町はなく、シュペッサルト山地南部の森に覆われた山のために川は蛇行を繰り返しながらのたうつように進んで行く。", "qas": [ { "question": "バイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州の間に流れている川は何?", "id": "tr-209-21-000", "answers": [ { "text": "マイン川", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "マインフィーアエックの南西の角は、ムト川の河口に面したミルテンベルクである。\nこの歴史的小都市は、その石切場で知られている。\nフランケンフルトやマインツの大規模な中世の教会は、ミルテンベルクのブンテル砂岩で造られている。\nマイン川の船舶交通を利用してこの石切場から建設現場まで運ばれたのであった。", "qas": [ { "question": "マインフィーアエックの南西の角にある都市は何?", "id": "tr-209-22-000", "answers": [ { "text": "ミルテンベルク", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "石切場として知名度のあるマインフィーアエック内にある都市とは?", "id": "tr-209-22-001", "answers": [ { "text": "ミルテンベルク", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この町の下流で川は方向を北に転じ、右手にシュペッサルト山地、左手にオーデンヴァルトの両中低山地に挟まれた狭い谷を抜けて行く。\nクリンゲンベルク・アム・マインやオーベルンブルク・アム・マインといった、よく保存された旧市街を有する小都市がここに点在する。\nマイン川沿いの人口密度は明らかに増大して行く。\nここまで来れば、ライン=マイン産業密集地域は間近である。\n最後にアシャッフェンブルクに到着する。\nこの、かつてのマインツ選帝侯の宮廷都市は、すでにフランクフルト・アム・マインを中心とするドイツ第2の大都市圏の一部である。\nアシャッフェンブルクの象徴的建造物であるルネサンス様式の城館ヨハンニスブルク城がマイン川を睥睨している。", "qas": [ { "question": "アシャッフェンブルクのシンボルともいえる建造物とは何?", "id": "tr-209-23-000", "answers": [ { "text": "ヨハンニスブルク城", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "コレステロール", "paragraphs": [ { "context": "コレステロール(英:cholesterol)とは、ステロイドに分類され、その中でもステロールと呼ばれるサブグループに属する有機化合物の一種である。1784年に胆石からコレステロールが初めて単離された。室温で単離された場合は白色ないしは微黄色の固体である。生体内ではスクアレンからラノステロールを経て生合成される。コレステロール分子自体は、動物細胞にとっては生体膜の構成物質であったり、さまざまな生命現象に関わる重要な化合物である。よって生体において広く分布しており、主要な生体分子といえる。精製物は、化粧品・医薬品・液晶の原材料など工業原料としても利用される。いわゆる「善玉/悪玉コレステロール」と呼ばれる物は、コレステロールが血管中を輸送される際のコレステロールとリポタンパク質が作る複合体を示し、コレステロール分子自体を指すものではない。善玉と悪玉の違いは複合体を作るリポタンパク質の違いであり、これにより血管内での振る舞いが変わることに由来する。これらのコレステロールを原料とする複合体分子が血液の状態を計る血液検査の指標となっている。名称は1784年に研究者が胆石からコレステロールの固体を初めて同定した際、ギリシア語のchole-(胆汁)とstereos(固体)からコレステリン(cholesterin)と命名されていたが、その後化学構造がアルコール体であるため、化学命名接尾辞\"-ol\"が付けられて現在の名称となっている。ヒトのあらゆる組織の細胞膜に見出される脂質である。ヒトを始めとした哺乳類においては、コレステロールの大部分は食事に由来するのではなく、体内で合成され、血漿に含まれるリポタンパク質と呼ばれる粒子を媒体として輸送される。コレステロールはそれを生産する臓器や細胞膜や小胞体のような膜組織が密集している細胞で構成される臓器、たとえば肝臓、脊髄、脳に高濃度に分布している。成人の体内コレステロール量である100-150gのうち約1/4が脳に集中し、約1/3が脳を含めた神経系に集中している。動脈硬化叢に形成されるアテローム(血管の内側に詰まるカスのようなもの)にも高濃度で存在する。また、コレステロールが胆汁中で結晶化すると胆石の原因となる。植物の細胞膜においてはわずかな量のコレステロールが認められるに過ぎず、他の種類のステロイド(フィトステロールもしくは植物ステロールと呼ばれる)が同様の役目を担う。", "qas": [ { "question": "胆石からコレステロールが初めて単離されたのは、何年のこと?", "id": "tr-210-00-000", "answers": [ { "text": "1784年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何の違いによって、善玉と悪玉に区別されますか?", "id": "tr-210-00-001", "answers": [ { "text": "リポタンパク質", "answer_start": 386, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コレステロールと何の複合体分子が、血液検査の指標となっているのか?", "id": "tr-210-00-002", "answers": [ { "text": "リポタンパク質", "answer_start": 386, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "わずかな量のコレステロールしか持たない植物の細胞膜において、コレステロールと同じ役目を担っているのは、何か?", "id": "tr-210-00-003", "answers": [ { "text": "ステロイド", "answer_start": 973, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "コレステロールは工業製品原料として化粧品・医薬品・液晶などに利用される。これらは全て天然物から精製し原料に供される。コレステロールを多く含む高等動物の組織、あるいはイカの内臓からも抽出され、工業原料として利用される。コレステロールを多く含む天然物から抽出すると、ヒドロキシ基(OH基)の部分に脂肪酸が結合したエステル体であるアシルコレステロール、さらに他のステロイド(コレスタノールや7-デヒドロコレステロール)のアシル体などが含まれる粗精製物が得られる。この混合物から純粋なコレステロールを取り出すには、脂肪酸を鹸化して取り除いたあと、鹸化されない分画を抽出し、アセトンあるいはアルコールを用いて再結晶する。二重結合を持たないコレスタノールや7-デヒドロコレステロールなどを取り除くために、臭素付加してコレステロールの二臭素体とすることがある。二臭素体は難溶性を示すので再結晶などで容易に精製することが可能であり、そのあと二臭化物を脱臭素化してコレステロールに戻すことにより、純粋なコレステロールを得る。", "qas": [ { "question": "コレステロールが工業製品原料として使われるためには、どんな過程を経なければいけないの?", "id": "tr-210-01-000", "answers": [ { "text": "精製", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書では、工業製品原料として使われるコレステロールはどの動物の内臓から抽出されると書かれていますか?", "id": "tr-210-01-001", "answers": [ { "text": "イカ", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "コレステロール脂質を含むいくつかのコレステロール誘導体はある種の液晶として知られており、この分子はコレステリック液晶と呼ばれる配向状態をとる。コレステリック液晶はネマティック液晶の一種であり、ネマティック液晶のダイレクタ(分子集合体の向き)が空間的に歳差運動のようにねじれながら回転していき、らせん状に配向する性質を持つ。これはコレステリック液晶分子がキラリティを有することに起因している(下図参照)。コレステリック液晶はキラルネマティック相とも呼ばれる。コレステリック相のらせんピッチは可視光線の波長と同程度であることが多く、このとき選択反射という現象が観察されて色が見える。刺身から緑色の反射光が見えることがあるのはこのためである。らせんピッチは微小な温度変化に応答するため、温度によって色彩が変化する。それゆえ、コレステロール誘導体は液晶温度計や温度応答性インキとして利用される。カナブンや玉虫のようなメタリックな色彩を示す甲虫の一部の構造色はこれによると考えられている。コレステリック液晶は表示の書き換え時にのみ電圧印加が必要となるだけで、透過状態でも反射状態でも電気を消費しない。低い電圧で横向きらせん姿勢をとるため透過状態となり、通常は背面の黒を表示する。より高い電圧を加えれば縦向きらせん姿勢をとるため反射状態となる。コレステリック液晶は色彩を反射するのでバックライトが不要であるという長所の一方、単色では1層の表示構造で済むが、擬似フルカラーでは少なくともRGBのような3層分を積層する必要があり、透過時の光損失によって表示が暗くなるという短所がある。2005年には日本の家電メーカーがコレステリック液晶の試作品を製作した。コレステリック液晶を液晶ディスプレイとして用いたChLCD(英語版)の研究は1989年よりケント州立大学やアメリカ国立科学財団などでも行われており、その研究者たちによってKentDisplays社が創立された。同社のChLCDを用いた商品にはブギーボード(英語版)があり、米国の小学校などでも使われている。日本ではキングジムから発売されている。", "qas": [ { "question": "刺身から緑色の反射光が見えるのは、どんな現象によることなの?", "id": "tr-210-02-000", "answers": [ { "text": "選択反射", "answer_start": 268, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何が変化することにつれて、らせんピッチの色彩も変化しますか?", "id": "tr-210-02-001", "answers": [ { "text": "温度", "answer_start": 328, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コレステリック液晶の長所は、何が不要であるということか?", "id": "tr-210-02-002", "answers": [ { "text": "バックライト", "answer_start": 585, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本ではどの会社がChLCDを用いた商品を発売しましたか?", "id": "tr-210-02-003", "answers": [ { "text": "キングジム", "answer_start": 877, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "コレステロールは生体内の代謝過程において主要な役割を果たしている。まず多くの動物でステロイド合成の出発物質となっている。また動物細胞においては、脂質二重層構造を持つ生体膜(細胞膜)の重要な構成物質である。人間では肝臓および皮膚で生合成される。肝臓で合成されたコレステロールは脂肪酸エステル体に変換され血液中のリポタンパク質により全身に輸送される。コレステロールが生命維持に必須な役割を果たす物質であるという事実は、科学者以外にはあまり知られていない。むしろ、一般社会には健康を蝕む物質として認知されていることが多い。すなわち、様々なリポタンパク質コレステロール複合体の血液中でのあり方が、脂質異常症など循環器疾患の一因になるとの認識が強い。たとえば、医者が患者に対してコレステロールの健康上の懸念がある場合には、悪玉コレステロール(LDLコレステロール:lowdensitylipoproteincholesterol、いわゆるbadcholesterol)の危険性を訴える。一方、悪玉コレステロールの対極には善玉コレステロール(HDLコレステロール:highdensitylipoproteincholesterol、いわゆるgoodcholesterol)が存在する。この両者の違いはコレステロールを体内輸送する際における、コレステロールと複合体を作るリポタンパク質の種類によるものであり、コレステロール分子自体の違いではない。詳細は、体内輸送およびリポタンパク質、変性LDLの項を参照のこと。", "qas": [ { "question": "コレステロールは何において主要な役割を果たしているの?", "id": "tr-210-03-000", "answers": [ { "text": "生体内の代謝過程", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コレステロールとリポタンパク質の複合体が循環器疾患の原因となった場合、それを何と呼びますか?", "id": "tr-210-03-001", "answers": [ { "text": "悪玉コレステロール", "answer_start": 356, 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"text": "オットー・ディールス", "answer_start": 101, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オットー・ディールスがコレステロールのステロイド骨格の構造に関する研究に利用した反応とは何か?", "id": "tr-210-04-001", "answers": [ { "text": "脱水素反応", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コレステロールの立体構造を最終的に決定したのは、誰か?", "id": "tr-210-04-002", "answers": [ { "text": "E・J・コーリー", "answer_start": 503, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "コーリーの見つけ出したステロイド骨格(ラノステロール)の構築反応は、生体内で生じる生化学反応のなかでも非常にエレガントなものの一つである。メバロン酸経路やゲラニルリン酸経路を経て生合成されるスクアレンの2,3-位が酵素的にエポキシ化されると、逐次閉環反応が進行するのではなく、一気にラノステロールが生成する。酵素によりエポキシ酸素がプロトネーションされるのをきっかけに、4つの二重結合のπ電子がドミノ倒しのように倒れこんでσ結合となりステロイドのA,B,C,D環が一度に形成される。それだけでなく、ステロイドの20位炭素上に発生したカルボカチオンを埋めるように、2つの水素(ヒドリド)とメチル基がそれぞれステロイド環平面を横切ることなく1つずつ隣りの炭素に転位することで、熱力学的安定配座となりラノステロールが生成する。他の生物種では同じスクアレンエポキシダーゼによりスクアレン2,3-エポキシドからテルペノイドであるβ-アミリンを生成する生合成経路も知られているので、このステロイド構築反応はスクアレンエポキシダーゼ固有の反応というわけではない。ラノステロールからさらに先はリダクターゼとP450酵素によるメチル基の酸化が繰り返されて適用される。その結果、3つのメチル基が二酸化炭素として切断される酸化的脱メチル化によって(ラノステロールから17段階で)コレステロールが生成する。", "qas": [ { "question": "ラノステロールは、何が酵素的にエポキシ化されることで生成されるものか?", "id": "tr-210-05-000", "answers": [ { "text": "スクアレンの2,3-位", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "3つのメチル基が二酸化炭素として切断されることを、何と呼びますか?", "id": "tr-210-05-001", "answers": [ { "text": "酸化的脱メチル化", "answer_start": 550, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スクアレンの2,3-位は、メバロン酸経路や何を経て生合成されるのか?", "id": "tr-210-05-002", "answers": [ { "text": "ゲラニルリン酸経路", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "リン脂質から人工的に製造した脂質2分子膜は電気容量、屈折率、水との界面張力が実際の生体膜とよく類似するが、生体膜と異なり相転移温度Tcを持つ。すなわちTc以上では流動性を示すが、Tc以下では硬くなり流動性を失う。これに30–50mol%のコレステロールを加えると流動性はさらに増し、しかもTcが消滅することが知られている。脂質2分子膜上では次のように埋め込まれる。すなわち、親水性を示すコレステロールのヒドロキシ基は外向きに配置されリン脂質の燐酸基部分と水素結合する。そして嵩高いステロイド骨格と炭化水素側鎖は内側のリン脂質の脂肪酸鎖の間に埋め込まれる。コレステロールは高等動物の細胞膜の必須成分であるが、植物細胞の細胞膜には別のステロールであるフィトステロール類(シトステロール、スチグマステロール、フコステロール、スピナステロール、ブラシカステロールなど)も含まれ、真菌では別のステロールであるエルゴステロールも含まれる。一方細菌の細胞膜にはコレステロールは含まれない。", "qas": [ { "question": "脂質2分子膜が生体膜と異なる点は、何を持つとのことか?", "id": "tr-210-06-000", "answers": [ { "text": "相転移温度Tc", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高等動物の細胞膜の必須成分であるものが含まれないのは、何の細胞膜なの?", "id": "tr-210-06-001", "answers": [ { "text": "細菌", "answer_start": 415, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "コレステロールは生体の細胞膜の必須成分であり、また動脈硬化症の危険因子として、ヒトにおけるコレステロールの生理学は注目を集めている。まず、コレステロールが含有することでリン脂質より構成される脂質二重膜は、生体膜特有のしなやかさを発現する。そして、コレステロールから代謝産生されるステロイドホルモン類は、細胞核内の受容体タンパク質と結合して転写因子となり遺伝子の発現を制御する。複雑な体制を持つ多細胞動物の体内では、コレステロールは胆汁酸、リポタンパク質など輸送分子と共に複合体を形成して移送される。そして、どの輸送分子と組み合わされているかによって、どの組織からどの組織へ移送されるのかが制御されている。コレステロールに関する研究ではコンラート・ブロッホ、フェオドル・リュネンがコレステロールと脂肪酸代謝の調節機序を解明した功績で1964年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。", "qas": [ { "question": "多細胞動物の体内でコレステロールが移送されるためには、何とともに複合体を形成しなければなりませんか?", "id": "tr-210-07-000", "answers": [ { "text": "輸送分子", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コレステロールに関する研究を行った人々が、ノーベル賞を受賞したのは、何年か?", "id": "tr-210-07-001", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 365, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "コレステロールは細胞膜の構築や維持に必要で、広範囲の温度帯で膜の流動性(粘性度)を安定にする働きがある。いくつかの研究によるとコレステロールは抗酸化剤としての作用を持っている。コレステロールは(脂肪の消化を助ける)胆汁酸の産生も助けている。胆汁酸は、肝臓にてチトクロムP450の作用でコレステロールを酸化することにより産生される。胆汁酸は、タウリン、アミノ酸であるグリシンと結び付いて、あるいは硫酸塩、グルクロン酸と抱合して、脱水により塩にまで濃縮されて胆嚢に蓄えられる。人においては、コレステロール7-α-水酸化酵素により、ステロイド環の7の位置にヒドロキシ基(水酸基)が付加され7α-ヒドロキシコレステロールが合成される反応が律速反応となっている。胆汁酸の生合成は、コレステロールの代謝によるものが一般的である。人体では1日あたり800mgのコレステロールを産生し、その半分は胆汁酸の新たな生成に使用されている。毎日、合計で20-30gの胆汁酸が腸内に分泌されている。分泌される胆汁酸の90%は回腸で能動輸送され再吸収され再利用され、腸管から肝臓や胆嚢に抱合胆汁酸が移動することを、腸肝循環と呼んでいる。ビタミンA、D、EおよびKなど脂溶性ビタミンの代謝にも重要な役割を果たしている。ビタミンDは、コレステロールが7-デヒドロコレステロールに変化し、これに紫外線が当たることによって生成される。", "qas": [ { "question": "腸内に分泌される胆汁酸の移動および作用のうち、最も多い割合を占めるのは、何か?", "id": "tr-210-08-000", "answers": [ { "text": "腸肝循環", "answer_start": 493, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "7-デヒドロコレステロールとは、何からなるものですか?", "id": "tr-210-08-001", "answers": [ { "text": "コレステロール", "answer_start": 551, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビタミンA、D、EおよびKは、どのようなビタミンに分類されますか?", "id": "tr-210-08-002", "answers": [ { "text": "脂溶性ビタミン", "answer_start": 519, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "そしてコレステロールはビタミン以外にも色々なステロイドホルモン(コルチゾール、アルドステロンなど副腎皮質ホルモンやプロゲステロン、エストロゲン、テストステロンや誘導体など性ホルモン)の合成の主要な前駆体である。最近、コレステロールが細胞シグナル伝達に関与していることが発見された。それによると、原形質膜で脂質輸送の役割を果たし、原形質膜の水素イオンやナトリウムイオンの透過性を下げる働きがあることが示唆されている。脳、神経系にコレステロール全量の1/3も多く含まれているのは、神経細胞から伸びた神経伝達を司っている軸索を覆っているミエリン鞘にコレステロールが大量に含まれているためである。コレステロールは、ミエリン鞘の絶縁性を保持する役割を果たしている。絶縁されたミエリン鞘の切れ目であるランヴィエの絞輪ごとでの跳躍伝導により高速の神経信号伝達に寄与している。実際、哺乳類である豚や牛などでは脳総重量の2-3%がコレステロールで占められている。脳の灰白質は、中枢神経系の神経組織のうち、神経細胞の細胞体が存在している部位のことである。これに対し、神経細胞体がなく、神経線維ばかりの部位を白質と呼ぶ。白質は明るく光るような白色をしているのに対し、灰白質は、白質よりも色が濃く、灰色がかって見えることによる。これは、有髄神経線維のミエリン鞘の主成分として大量に存在しているコレステロールやミエリンが白い色をしているためで、白質には、灰白質に比べて、有髄神経線維が多いからと考えられている。カベオラ依存エンドサイトーシスやクラスリン依存エンドサイトーシスにおいて、カベオラやクラスリン被覆ピットを構成したり陥入する作用にコレステロールは必須である。これらのエンドサイトーシスにおけるコレステロールの役割は、コレステロール欠損原形質膜とメチルベータシクロデキストリン(MβCD)とを使って研究されている。", "qas": [ { "question": "コレステロールがビタミンやステロイドホルモンの合成以外に関与するのは、何?", "id": "tr-210-09-000", "answers": [ { "text": "細胞シグナル伝達", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "脳の部位の中、灰白質と白質の区分は、何の存在有無によるか?", "id": "tr-210-09-001", "answers": [ { "text": "神経細胞体", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "脳の灰白質と白質のうち、コレステロールをより多く含んでいるのは、どのような色をしていますか?", "id": "tr-210-09-002", "answers": [ { "text": "白色", "answer_start": 510, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "有髄神経線維は何色をしていますか?", "id": "tr-210-09-003", "answers": [ { "text": "白色", "answer_start": 510, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "コレステロールは哺乳類の細胞膜において正常な細胞機能を発現するために必要であり、コレステロールはいくつかの細胞や組織でアセチルCoAを出発原料として細胞内の小胞体で合成されるか、食事から取り込まれ、コレステロールのアシルエステルはLDLにより血流を介して輸送される。そして、受容体関与エンドサイトーシスによりクラスリン被覆ピットから細胞内に取り込まれ、リソゾームで加水分解される。まず、コレステロールの供給については胆汁酸と複合体を形成して腸管より吸収される外因性コレステロールと、主に肝臓において、アセチルCoAからメバロン酸、スクアレンを経由して生合成される内因性コレステロールとに大別される。その生合成量は外因性コレステロール量の変動を吸収するように調節されている。外因性コレステロールは1,200–1,300mgが吸収されるが、食事由来のものは200–300mgほどであり、他は肝臓から胆汁に分泌されたものの再吸収である。したがって、体内で循環しているコレステロールの50%ほどが血流中に存在していることになる。ヒトで体内の全コレステロール量はおよそ100-150gほどである。殆どが細胞膜に取り込まれたものであるが一部が代謝循環している。すなわち内因性コレステロールの生産量は低コレステロール食摂取時にはおよそ800mg/日程度であることがしられており、体内を循環するコレステロールのおよそ20%–25%が肝臓で合成される。皮膚においても肝臓に次ぐ量のコレステロールが産生されており、皮膚で7-デヒドロコレステロールからビタミンD3が光化学的に生成される。7-デヒドロコレステロールは、ヒトを含むほとんどの脊椎動物の皮膚中で大量に生成される。ビタミンD3は、肝臓でC25の位置でヒドロキシ化の代謝を受け25-ヒドロキシコレカルシフェロール(別名25(OH)D3、カルシジオール)へと変化し肝細胞に貯えられ、必要なときにα-グロブリンと結合しリンパ液中に放出される。", "qas": [ { "question": "コレステロールは供給方法において、内因性コレステロールと何に大別されるの?", "id": "tr-210-10-000", "answers": [ { "text": "外因性コレステロール", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一度分泌されたものの再吸収と食事のうち、どちらから吸収される外因性コレステロールの量がより少ないですか?", "id": "tr-210-10-001", "answers": [ { "text": "食事", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "7-デヒドロコレステロールはどこで産生されるか?", "id": "tr-210-10-002", "answers": [ { "text": "皮膚", "answer_start": 713, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "皮膚で産生されるコレステロールは、何へと変化するのか?", "id": "tr-210-10-003", "answers": [ { "text": "ビタミンD3", "answer_start": 665, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヒトを含む哺乳類においては、皮膚以外の組織で必要とされるコレステロールあるいはステロイドホルモンなどコレステロール誘導体は生合成されるのではなく、肝臓から血漿中を輸送されるコレステロールエステルを含むリン脂質複合体を利用するデノボ合成により産生される。また体内における貯蔵について述べると、コレステロールを貯蔵するための特別な形態は存在しない。たとえばブドウ糖はグリコーゲンへ、アセチルCoAはトリグリセリドへと転換されることで蓄積される。しかし、コレステロールはそうではない。このため輸送途中のリポタンパク質(LDLコレステロール)などは体内におけるコレステロールのリザーバーとしての役割もある。末梢組織にリン脂質とともに運ばれたコレステロールエステルはリソゾームで加水分解を受けてコレステロールに戻り、さらに利用される。このような動態を持つためコレステロールの食事からの吸収や肝臓での生合成は必須である一方、コレステロールの過剰による脂質異常症も問題となる場合も多い。脂質異常症は、食事による外因性コレステロールの増大だけでなく、末梢組織でのLDLコレステロール受容体機能の抑制も大きな因子である。家族性高コレステロール血症では遺伝的に末梢組織のLDL受容体が変成することで、結果として末梢でのコレステロール取り込みが減り、脂質異常症が発生する。また、先天的要因だけでなく後天的に脂質代謝異常も発現していると考えられ、そういった糖・脂質の複合的な代謝異常という意味でメタボリックシンドロームが注目を集めている。なお、植物油に含まれるフィトステロールがコレステロールの吸収を減少させる作用を有する(詳細はフィトステロール#コレステロールの低減を参照)。フィトステロールは小腸の粘膜細胞において一旦は吸収されるが、能動輸送によってフィトステロールが細胞外に排泄される。この時、コレステロールも一緒に排泄されるので摂取したコレステロールの吸収が減少することになる。", "qas": [ { "question": "ヒトを含む哺乳類において、コレステロール誘導体を生合成する組織はどこですか?", "id": "tr-210-11-000", "answers": [ { "text": "皮膚", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "摂取したコレステロールの吸収を減らす作用をするのは、何か?", "id": "tr-210-11-001", "answers": [ { "text": "フィトステロール", "answer_start": 727, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フィトステロールが吸収される臓器はどこなの?", "id": "tr-210-11-002", "answers": [ { "text": "小腸", "answer_start": 736, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "食事からの吸収や肝臓での生合成は必須だが、過度な量を含んでいると脂質異常症になりうるのは、何か?", "id": "tr-210-11-003", "answers": [ { "text": "コレステロール", "answer_start": 374, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヒトにおけるコレステロールの排泄は、肝臓でコレステロールが水酸化されて胆汁酸を生成し、胆嚢からビリルビンとともに胆汁として分泌される。その際にコレステロールの一部が胆汁酸と複合体を形成して十二指腸に排泄される。胆汁の中のコレステロールは胆汁酸により分散安定化されているが、胆嚢で胆汁が濃縮される際に何らかの原因で遊離しコレステロールの結晶が成長すると、胆嚢あるいは胆管においてコレステロール胆石症の原因となる場合もある。胆石の他の原因であるレシチンやビリルビンによる結石は稀である。胆汁は胆管を経由して、十二指腸で腸管内に分泌排泄される。しかし大部分は小腸において再吸収されることになる。食物繊維を多く含む食事は食物繊維が胆汁酸を吸着するのでコレステロールや他の脂質も巻き込んで排泄される。それゆえ、脂質吸収を抑制するのに役立つと考えられている。また、皮膚あるいは髪の毛など上皮細胞が脱落するとその細胞膜のコレステロールも失われることになる。", "qas": [ { "question": "コレステロールの結晶の成長のほかに、胆石症の原因となるのは、レシチンと何なの?", "id": "tr-210-12-000", "answers": [ { "text": "ビリルビン", "answer_start": 225, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "十二指腸で腸管内に分泌排泄されたほとんどの胆汁は、どこで再吸収されるのか?", "id": "tr-210-12-001", "answers": [ { "text": "小腸", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "昆虫では体内で必要とするコレステロール合成ができないため、肉食性の昆虫では食物からすべてのコレステロールを得ている。草食性の昆虫では食物となる植物細胞の構成要素となるステロールの主体がシトステロールなどであり、コレステロールの量がわずかであるため必要量を満たせない。そのためシトステロールを体内でコレステロールに変換していることが知られている。(教科書を含む)多くの書籍では植物にはコレステロールが含まれないという誤った記述が見られる。この誤解の多くは、米国の食品医薬品局が食品中のコレステロール含有量が一回の食事当り2mg以下の場合にラベル表示をしなくても良いとしていることに起因する。植物性食品にも多少のコレステロールは含まれる(ベールマン(Behrman)とゴパラン(Gopalan)によると動物性食品では5g/kgなのに対し、植物性食品では総脂質のうち50mg/kgがコレステロールであると指摘している)。", "qas": [ { "question": "肉食性の昆虫と草食性の昆虫のうち、体内でコレステロール合成はもちろん、ほかの物質をコレステロールに変換することすらできないのは、どちらですか?", "id": "tr-210-13-000", "answers": [ { "text": "肉食性の昆虫", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "昆虫のうち、食物だけに依存してコレステロールを摂取しているのは、肉食性か、もしくは、草食性か?", "id": "tr-210-13-001", "answers": [ { "text": "肉食性", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "食物由来のコレステロールのほとんどは動物性食品に由来する。卵黄に多量に含まれる。そのため卵の摂取量はしばしば研究の対象となる。植物のフィトステロールは血漿中のコレステロール量を下げるとされる。コレステロールは動物の生理過程において不可欠の物質であるが、血液中をリポタンパク質によって循環する量が過剰となることで高脂血症を引き起こし、血管障害を中心とする生活習慣病の因子となることが知られてきた。よく血液検査でコレステロールが調べられるが、TCまたはT-CHOの略号で血液中の総コレステロール、LDLCまたはLDL-Cでの略号でいわゆる「悪玉コレステロール」、HDLCまたはHDL-Cの略号でいわゆる「善玉コレステロール」を表すことが多い。なお、国際的な観点ではLDL-Cは日本でのみ用いられているスクリーニング指標で測定精度には疑義が出されている。", "qas": [ { "question": "コレステロールの過剰による健康上の問題とは、何なの?", "id": "tr-210-14-000", "answers": [ { "text": "高脂血症", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高脂血症を予防するためには、何を摂取すべきなのか?", "id": "tr-210-14-001", "answers": [ { "text": "フィトステロール", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "人間の体内にあるコレステロールのうち、およそ7割前後は肝臓で合成されている。コレステロールを多く含む食事の摂取が増えても、生体には恒常性を保つ調節機構があり、健康な人間であれば体内におけるコレステロール量は一定に保たれている。しかし、生合成の出発点となるスクアレンはアセチルCoAから合成されるため、食事からコレステロールを取らなかったとしても脂肪や炭水化物を摂取すれば体内でコレステロールに転換されることになる。従来はリノール酸はコレステロールを下げる働きがあるとされていたが長期的にはTC(総コレステロール)値に変化がないとの結果が出ている。臨床検査分野における標準となるLDL測定法はアメリカ疾病予防管理センターのベータ測定法であるが、コスト上の問題で、一般には血中LDL値はフリードワルドの公式で算出することがある。その式は、LDL値=総コレステロール値−総HDL値−中性脂肪値の20%である。この計算式の基となる理論は総コレステロール値がHDL、LDLおよびVLDLの合計で定義されることを利用する。この理論に基づき、実際に測定する総コレステロールから測定するHDL値と中性脂肪値から導き出されるVLDL値を差し引くのである。そしてVLDL値はおよそ中性脂肪値の5分の1であることが経験的に知られている。このような背景から特に次の点に留意すべきである。コレステロール値とことなり中性脂肪値は直近の食物の摂取や内容により大きく変動する。そのため、血液検査前は最低8–12時間、完全に影響を排除するには12–16時間の絶食が必要である。臨床事例増加により分かったことは、直接LDLとHDLの濃度とサイズとを測定する方法に比べて、総コレステロールとHDLコレステロールとを測定し式より導かれる値でLDLの決定する方法は実際に直接LDLを測定する方法に比べLDL値が大きな値を推定することが示されている。", "qas": [ { "question": "人間の体内にあるコレステロールのうち、最も多くの量が合成されるのは、どこでか?", "id": "tr-210-15-000", "answers": [ { "text": "肝臓", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "食事からコレステロールを取らなかったときには、体内で脂肪と何がコレステロールに転換されるの?", "id": "tr-210-15-001", "answers": [ { "text": "炭水化物", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コレステロール値と中性脂肪値のうち、直近の食物の摂取や内容から影響を受けやすいのは何か?", "id": "tr-210-15-002", "answers": [ { "text": "中性脂肪値", "answer_start": 594, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中性脂肪値を測るときには、血液検査の前に何をする必要がありますか?", "id": "tr-210-15-003", "answers": [ { "text": "絶食", "answer_start": 662, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "皇居の生物相", "paragraphs": [ { "context": "皇居の生物相(こうきょのせいぶつそう)では、東京都千代田区にある皇居内で、特に豊かな自然環境が見られる吹上御苑を中心に、皇居の生物相について説明する。\nまた東京23区内には皇居以外にも緑地が点在しているが、この項では適宜皇居以外の東京23区内にある緑地の生物相についても触れていく。\n文中の年代については、主な参考文献である生物学御研究所(1989)、国立科学博物館皇居調査グループ(2001)が、ともに和暦に西暦を併記する形式であるため、基本的に和暦に西暦を併記する形式に統一して記述した。", "qas": [ { "question": "皇居は東京都内のどこに位置していますか?", "id": "tr-211-00-000", "answers": [ { "text": "千代田区", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "皇居は東京都千代田区のほぼ中央に位置している。\n面積は約115ヘクタールあり、周囲は濠に囲まれている。\n皇居は乾濠、蓮池濠によって東と西に分けられる。\n東はかつて江戸城の本丸、二の丸、三の丸があった場所で、現在皇居東御苑となっている。\n西側は御所などがある吹上御苑、宮殿、宮内庁などがあり、中でも現在豊かな自然環境が見られるのは吹上御苑である。\n皇居は北側の荒川、入間川水系、南側の多摩川水系に挟まれた武蔵野台地の先端部にあたる比較的平坦な淀橋台の北東部に位置しており、場所によっては標高30mを越えており、かつて都内の高層の建物が発達していなかった頃は東京都東部や千葉県方面を望むことができた。\nまた皇居の吹上御苑内で最も標高が低いのは下道灌濠であり標高約8mである。\n皇居の周囲は濠に囲まれており、西側と北側は濠によって武蔵野台地の先端部にあたる淀橋台から切り離されている。\nまた皇居の東部は濠を挟んで低地帯と接している。\nまた皇居内にも道灌濠などの濠が存在する。\nいずれの濠も自然地形ではなく人工的に構築されたものと考えられ、濠の建設に使用された外部から移入された大量の石材が確認できる。\n皇居の隣にある気象庁での気象観測によれば、皇居付近の年平均気温は約15度で比較的温暖な気候であるといえるが、夏季の最高気温と冬季の最低気温との寒暖の差は約30度あり、寒暖の差も比較的大きい。\nまた降水量は夏季から秋季にかけて多く、冬季には少ない。", "qas": [ { "question": "皇居の東には、かつてどのような建造物が建っていましたか?", "id": "tr-211-01-000", "answers": [ { "text": "江戸城", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇居の面積は?", "id": "tr-211-01-001", "answers": [ { "text": "約115ヘクタール", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇居は何に囲まれていますか?", "id": "tr-211-01-002", "answers": [ { "text": "濠", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "皇居からは縄文土器が採集されたことがあり、また皇居東御苑のかつて天守台があった付近には、昭和30年代まで貝塚があったことなどから、縄文時代には現在の皇居付近には人が居住していたものと考えられている。\n平安時代末期には江戸氏が江戸に居館を定めたと伝えられているが、現在の皇居がある地に居館があったかどうかは明らかになっていない。\n室町時代の康正2年(1456年)、太田道灌が江戸城の築城を開始し、翌長禄元年(1457年)に完成したと伝えられている。\nその後大永4年(1524年)になって北条氏綱が江戸城を落城させた後は北条氏の家臣である遠山氏が城主となっていた。\n北条氏滅亡後、徳川家康が天正18年(1590年)に江戸城に入城し、家康の本拠地となった。\n家康入城当時の江戸城は土塁のみで石垣は無く、また江戸城東側の日比谷付近まで海(日比谷入江)であった。\n現在の西の丸付近は山王社があって地域の信仰や行楽地であったといい、また現在の吹上御苑付近には局沢と呼ばれ、各宗派の16もの寺があった。\nこれは江戸城の寺町としての機能があったものと考えられている。", "qas": [ { "question": "江戸城を築城した武将とは誰?", "id": "tr-211-02-000", "answers": [ { "text": "太田道灌", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "江戸城が完成した年はいつ?", "id": "tr-211-02-001", "answers": [ { "text": "1457年", "answer_start": 203, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1590年に江戸城に入城した武将は誰?", "id": "tr-211-02-002", "answers": [ { "text": "徳川家康", "answer_start": 288, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "天正18年の入城当初は、江戸城の改築は小規模なものを行ったのみであったが、文禄元年(1592年)より西の丸の築造を開始し、その後慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府が開かれた後は、全国の諸大名を動員して大規模な江戸城拡張工事が行われることになった。\n江戸城拡張工事の中で、西の丸の地にあった山王社は移転され、吹上御苑の地にあった16の寺も移転された。\n寺が移転されたのち、家康は跡地を代官や年寄(後の老中)などの邸とし、その後1610年代半ばの慶長末期から元和年間にかけて、尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家、駿河徳川家、越前松平家などの親藩を中心とした約20家あまりの大名家の邸宅も立ち並ぶようになった。\nこの時点で現在の吹上御苑の多くはいったん宅地化したものと考えられている。\nなお現在の吹上御苑という江戸城本体に極めて近い場所に親藩などの邸宅が建設された理由としては、江戸城の防御面から考えて重要である現在の吹上御苑の地に親藩などの邸を建設することによって防御を固めたとの説が出されている。", "qas": [ { "question": "吹上御苑の地には、かつていくつの大名家の邸宅が建っていましたか?", "id": "tr-211-03-000", "answers": [ { "text": "約20家あまり", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "江戸城内では天守や多くの殿舎、そして多くの濠が造られた。\n建設に用いられた多くの石材は主に伊豆半島から切り出されて運ばれ、現在の青梅市からは大量の石灰が運ばれ白壁が作られるなど、各地から建築材料が運び込まれた。\nなお濠の中で道灌濠については太田道灌の築城時に造られたとの説もある。\n結局寛永13年(1636年)から寛永15年(1638年)にかけて行われた外濠の築造によって江戸城は完成することになる。\n明暦3年(1657年)の明暦の大火によって大きな被害を蒙った江戸城は、出火対策などの改造が実施されることになった。\nまず幕府の支配体制が安定した時代には不要不急のものとされた天守の再建が断念された。\n続いてやはり安定した時代となって江戸城本体にほど近い現在の吹上御苑の地に親藩などの邸がある必要性が薄れ、その上城本体の北西にあたる吹上御苑の地は冬の北西方向の季節風から城を守るためにも防火地とすることが望ましいとされ、まず明暦の大火後徳川御三家の邸などが移転され、その後順次幕臣の邸も移転されて、17世紀末から18世紀初めの元禄、宝永年間には現在の吹上御苑の地は庭園化されることになった。", "qas": [ { "question": "江戸城建設に使用された石材の大半はどこから持ち運ばれていましたか?", "id": "tr-211-04-000", "answers": [ { "text": "伊豆半島", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "明暦3年に起こった大規模な火事の名称は何ですか?", "id": "tr-211-04-001", "answers": [ { "text": "明暦の大火", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "吹上御苑は徳川家宣の代になって、全国の諸大名から珍石、名木を蒐集し、また大名たちに工事を請け負わせ、庭園施設の整備などが進められほぼ完成した。\nこのときの工事によって現在も吹上御苑内にある約1ヘクタールの大きさの大池や、大滝と滝下の流れが造られたと考えられている。\nそしてこの頃以降、現在の吹上御苑付近は田地、広芝、新構の3地区に分けて呼ばれるようになった。\n新構は南側の地域に当たり、現在は生物学御研究所、賢所、桑畑などがある地域である。\n田地は北部の比較的標高が低い場所で、名前の通り江戸時代には一部地域が水田とされ、毎年約米10俵の収穫があったという。\n広芝は新構と田地の中間に位置し、やはり名前の通り広い芝地が中央にあって、将軍の武術鍛錬や閲兵などに使用されていた。\n徳川吉宗の時代となると、実用主義を重んじた吉宗の考えにより、多くの庭園設備は壊され、学問所や天文所、馬場や鉄砲所、そして酒や砂糖などの食品製造施設などが建てられ、クリ、ハゼノキ、サツマイモなど商品作物を植えられた。\nいったん装いを新たにした吹上御苑であったが、吉宗の建設した実用的な施設はやがて廃絶した。\n化政文化で知られる徳川家斉の時代には再び庭園としての整備が大規模に進められ、更には全国から名所の松の苗木を40本取り寄せて、山吹の流れ沿いに植えるなどした。\nその後江戸時代末期にかけては吹上御苑を手入れする余裕もなかったらしく、大きな変化は無かったとされる。", "qas": [ { "question": "吹上御苑の整備が完成した時の将軍は誰でしたか?", "id": "tr-211-05-000", "answers": [ { "text": "徳川家宣", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "庭園設備を壊して学問所や鉄砲所を建てた将軍は誰でしたか?", "id": "tr-211-05-001", "answers": [ { "text": "徳川吉宗", "answer_start": 338, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クリやサツマイモを植えさせた将軍は誰でしたか?", "id": "tr-211-05-002", "answers": [ { "text": "徳川吉宗", "answer_start": 338, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "明治維新前後の吹上御苑は手入れが行き届かず荒廃が目立ったが、明治17年(1884年)からは皇居造営が開始され、それに伴い賢所がかつての新構と呼ばれた地区に建設され、広芝には馬場や温室などが設けられ、更にはかつての田地にあった田は埋め立てられて植樹が行われる等の整備がなされた。\nその後昭和3年(1928年)には、昭和天皇と香淳皇后が赤坂離宮から皇居内に引越を行うのに伴い、広芝にあった馬場と温室を移転し、跡地に小さなゴルフ場が建設された。\n昭和天皇と香淳皇后は休日には吹上御苑内のゴルフ場でゴルフを楽しんだが、昭和12年(1937年)に昭和天皇がゴルフを止めることを宣言し、その後芝生の管理も中止された。\nそして昭和14、15年頃(1939年から1940年頃)からは一部を除き吹上御苑内の庭園としての管理も中止され、基本的に自然の成り行きに任せるようになった。\nそして武蔵野の自然の復活を求めた昭和天皇の希望によって、昭和23年(1948年)以降、自然状態の武蔵野に生育する植物の移植が実施された。\n1930年代後半から70年あまり庭園としての管理が行われなくなった上に野生種の移植が進められた結果、皇居の吹上御苑には野生種の植物が繁茂するようになり、武蔵野の自然を思わせる光景が広がるようになった。", "qas": [ { "question": "皇居内に武蔵野に生育する植物の移植が実施されたのは何年以降ですか?", "id": "tr-211-06-000", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 415, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇居内に武蔵野の自然の復活を求めた天皇は誰でしたか?", "id": "tr-211-06-001", "answers": [ { "text": "昭和天皇", "answer_start": 397, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "皇居内の生物相については、大正10年(1921年)に皇居内の植物について行われた調査をまとめた「宮城風致考」が最初の調査と考えられる。\nその後昭和54年(1979年)から昭和56年(1981年)にかけては皇居内各地の樹木についての調査が行われ、昭和62年(1987年)から昭和63年(1988年)にかけて皇居内の濠や池の生物についての調査が実施された。\nいずれの調査も宮内庁(大正時代の調査は宮内省)の内部調査であった。\n平成元年(1989年)8月には、これまでの皇居内の植物調査についてまとめた、昭和天皇も執筆に参加した生物学御研究所編の「皇居の植物」が刊行された。\nそして国立科学博物館によって昭和42年(1967年)より始められた、日本全体の自然史学的総合研究が終盤に差し掛かった平成6年(1990年)に、明仁天皇が東京の都心部にありながら、動植物が多く棲息する皇居内の生物についての科学的な総合調査を行うことが望ましいとの意向を示したことがきっかけとなって、平成8年度(1996年度)から平成11年度(1999年度)にかけて皇居内の生物相についての本格的な調査、そして平成12年度(2000年度)には補足調査が行われた。\n平成12年(2000年)12月には調査結果がまとめられ、その後も更に皇居内の動植物のモニタリング調査が継続され、平成18年(2006年)には継続調査の結果が公表された。\nなお平成21年(2009年)から平成24年度(2012年度)までの予定で、第二期の皇居の生物相調査が実施されている。", "qas": [ { "question": "樹木についての調査と濠や池の生物についての調査は、どちらが先に実施されましたか?", "id": "tr-211-07-000", "answers": [ { "text": "樹木についての調査", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「宮城風致考」と「皇居の植物」はどちらが後でまとめられましたか?", "id": "tr-211-07-001", "answers": [ { "text": "「皇居の植物」", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「皇居の植物」の執筆に参加した天皇は誰ですか?", "id": "tr-211-07-002", "answers": [ { "text": "昭和天皇", "answer_start": 249, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第一期の皇居の生物相調査が実施されたのは何年度からですか?", "id": "tr-211-07-003", "answers": [ { "text": "1996年度", "answer_start": 439, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "皇居周辺は天正18年(1590年)の徳川家康入城前は海が迫り、クロマツ林が広がっていたとされる。\nその後江戸初期には親藩、譜代大名などの屋敷となり、17世紀後半からは庭園化され、昭和初期にはゴルフ場の造成が行われ、その後昭和12年(1937年)以降、庭園的な管理が中断されるという経緯を辿っている。\nまた武蔵野の自然の復活を求めた昭和天皇の希望によって、昭和23年(1948年)以降、自然状態の武蔵野に生育する植物の移植が実施された。\n現在の吹上御苑を中心とする皇居の植物相は、このような皇居の歴史を反映したものとなっている。", "qas": [ { "question": "1590年以前の皇居周辺に広がっていた樹木は何?", "id": "tr-211-08-000", "answers": [ { "text": "クロマツ", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "現在の吹上御苑内の植生は、一部に建物、果樹園や田畑、バラ園、桑畑などが存在するが、大部分は深い森となっている。\n平成8年度(1996年度)から平成11年度(1999年度)にかけての調査によれば、道灌濠の斜面など主に吹上御苑の周辺部に広がるモチノキ、スダジイ、タブノキなどから構成される常緑広葉樹の森、またかつて広場があった御苑の中央部などに広がるクヌギを中心とした落葉広葉樹の森が見られることが明らかとなった。\n宮内庁庭園課が枯れた木々や不要な樹木の最小限の伐採を常に行っており、原生林的な森林であるとは言えないが、常緑広葉樹林は自然林に近い種構成と構造をしている。\n一方落葉広葉樹林は庭園の樹木として植えられた人工的な植生である。\n常緑広葉樹林も落葉広葉樹林も土壌が良く発達しており、樹木の生育に適した環境を備えていた。\nこのような豊かな森林と果樹園、田畑、桑畑など里山的な要素が広がる吹上御苑では、昆虫類などの生物多様性が高くなることも明らかとなった。", "qas": [ { "question": "モチノキはどのような樹木の種類に分類されますか?", "id": "tr-211-09-000", "answers": [ { "text": "常緑広葉樹", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クヌギはどのような樹木の種類に分類されますか?", "id": "tr-211-09-001", "answers": [ { "text": "落葉広葉樹", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "またよく発達した吹上御苑内の森林内は、夏季は皇居に近い気象庁よりも約2度気温が低いが、湿度はほぼ常時90パーセントに達する。\n皇居の森によって冷やされた大気が皇居東側の日比谷、銀座などに流れていることも確認されており、皇居の森の存在が東京都心部のヒートアイランド現象の軽減化につながっていることが明らかとなった。\n皇居内にはかつて江戸時代の名残も残っている。\nまず吹上御苑内には巨木からなるケヤキ並木が見られる。\nこの並木の起源は明らかになっていないが、1970年代に並木の中で周囲3.3mあったケヤキの風倒木の年輪を確認したところ、元禄時代の植栽と考えられることが明らかとなった。\nケヤキの数は大正時代以降、枯死によって減少していることが明らかとなっている上に、並木の中で最も太い樹木は周囲が4.77mに達するため、並木の成立が元禄時代以前に遡る可能性もあり、徳川家康入城以前、吹上御苑が江戸城の寺町であった時代に寺院の境界として植えられたとの説もある。\nまた吹上御苑北東部の山吹の流れには、徳川家斉が全国から名所の松の苗木40本を集めて植栽したが、大正10年(1921年)には17本程度残っていたものが、昭和61年(1986年)には植え替えた松を含めても5本にまで減少してしまった。", "qas": [ { "question": "徳川家斉が植栽した松の苗木は、1921年と1986年を比較するとどちらが数が少ないですか?", "id": "tr-211-10-000", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 510, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "皇居と気象庁の夏季の気温はどちらが高いですか?", "id": "tr-211-10-001", "answers": [ { "text": "気象庁", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "吹上御苑内にある巨木とは何?", "id": "tr-211-10-002", "answers": [ { "text": "ケヤキ", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、かつて吹上御苑内には数百本のモミが茂っていたが、明治38年(1905年)頃から枯死が目立つようになり、クロマツやスギの巨木も多く枯死した。\nモミやスギは大正時代に改めて植えられたが、大気汚染の深刻化などでなかなか生育できず、平成13年(2001年)には皇居内のモミは8本となっている。\n吹上御苑では東京都内では初めて記録されたタシロランのような珍しい植物も見られる。\n吹上御苑でタシロランが発見されたのは平成6年(1994年)7月のことであるが、天皇、皇后が散策の折、変わった植物を見つけたことが発見のきっかけとなった。\n一方、平成元年(1989年)に発表された「皇居の植物」に記載されている植物で、平成8年度(1996年度)から平成11年度(1999年度)の調査では確認できなかった種が55種あったが、その多くが日差しが強い環境で成長する種であるため、森林が深くなった現在の吹上御苑では生育が困難になったものと考えられている。", "qas": [ { "question": "数百本あったモミは2001年には何本になりましたか?", "id": "tr-211-11-000", "answers": [ { "text": "8本", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "吹上御苑でタシロランが発見されたのは何年?", "id": "tr-211-11-001", "answers": [ { "text": "1994年", "answer_start": 210, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "皇居内のコケ類の調査では、蘚類77種、苔類29種、ツノゴケ類1種の計107種が確認された。\nこれまで都内で最も多くのコケ類が確認されているのは自然教育園の52種で、東京都区内で皇居のみで見つかっているコケ類は蘚類14種、苔類9種の23種に及び、皇居のコケ類が生物多様性に富んでいることがわかる。\nまた絶滅危惧種であるコウライイチイゴケ、ヤワラゼニゴケが生育しているなど貴重な種が見られ、人家の周辺などに見られ都市化の指標とされるヒョウタンゴケ、ゼニゴケなどが生育しないといった特色も見られる。\n地衣類の調査でも57種の地衣類が確認され、うち3属、5種は日本で初めて見つかった地衣類であった。\nその大部分は木陰や岩の上に飼育するものであった。\n他方で大気汚染に対する耐性が低いウメノキゴケ、アカサルオガセなどの大型の地衣類は皇居内では生育しておらず、大都市東京の中心部にある皇居の環境を表している。", "qas": [ { "question": "皇居内で確認されたコケ類の蘚類と苔類は、どちらの種類が多かったですか?", "id": "tr-211-12-000", "answers": [ { "text": "蘚類", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "皇居内と自然教育園で確認されたコケの種類はどちらが多いですか?", "id": "tr-211-12-001", "answers": [ { "text": "皇居内", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "皇居内で確認され地衣類はいくつでしたか?", "id": "tr-211-12-002", "answers": [ { "text": "57種", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "皇居内の濠や水流などで行われた藻類の調査では、日本で初めて見つかった11種の藍藻類をはじめ、156種(変種・品種を含む)の珪藻類、58種の緑藻類(クロロコックム目およびツヅミモ科)、その他6植物門11綱におよぶ多くの藻類が確認された。\n吹上御苑内の流水域からは山間部の渓流に産するとされる紅藻のベニマダラの生育が確認されるなど、興味深い種も確認された。\n珪藻類の出現状況からは、吹上御苑内の水質汚濁度が低いことが示唆された。\nしかし藻類全体では関東近郊の湖沼に分布する一般的なもの、あるいは世界的に分布する普遍種の出現が多く、希少種や特筆すべき分布を示す種は見られなかった。", "qas": [ { "question": "皇居内で確認された藻類の中で、最も数が多かった種類は何ですか?", "id": "tr-211-13-000", "answers": [ { "text": "珪藻類", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "皇居内で確認された珪藻類と緑藻類は、どちらの方が種類が少なかったですか?", "id": "tr-211-13-001", "answers": [ { "text": "緑藻類", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "キノコやカビなどの菌類の調査では、合計368種の菌類が確認された。\nこれまで日本では発見されていない種が8種確認された他、オガサワラカミコウヤクタケのようにこれまで小笠原諸島のみで確認されていた2種と、日本では小笠原諸島のみで確認されていた種が一つ、吹上御苑内から確認された。\nこれは現在の皇居の環境が暖地性の菌類に適したものとなっていることを示していると考えられる。\nまた子嚢菌類のボタンタケの一種は、吹上御苑のマテバシイの倒木や枯れ枝に多く見られ、同じ都内にある自然教育園のスダジイの倒木でも見ることができる種であるが、同属の別種で伊豆諸島の御蔵島のみで確認されている種はあるものの、現在のところ他の産地が知られておらず東京都区内の吹上御苑と自然教育園の固有種である可能性が指摘されている。\n変形菌については昭和天皇が若い頃から高い関心を持っていたこともあり、調査の過程で主に昭和3年(1928年)から昭和5年(1930年)にかけて皇居で昭和天皇や側近が採集したものと判断される標本の存在が明らかとなり、64種類の変形菌が確認された。\n平成8年度(1996年度)から平成11年度(1999年度)にかけての調査では98種の変形菌が確認されたが、昭和初期に確認された種の中で19種は確認されなかった。", "qas": [ { "question": "菌類は全部で何種類見つかりましたか?", "id": "tr-211-14-000", "answers": [ { "text": "368種", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "368種の菌類のうち、何種類が日本で初めて発見されたものですか?", "id": "tr-211-14-001", "answers": [ { "text": "8種", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "皇居内で確認されている哺乳類としてはまずタヌキとハクビシンが挙げられる。\nともにいつ頃から皇居内に住みだしたのかは不明であり、ペットとして飼われていた個体が逃げ出して繁殖した可能性もあるが、町田付近など東京近郊の里山ではタヌキやハクビシンの生息が確認されており、皇居まで分布を広げた可能性もある。\nまた1950年代の記録に皇居にタヌキがいるとの説が載せられていることから、タヌキについてはかなり以前から生息し続けている可能性もある。\nタヌキとハクビシンについては赤坂御用地内でも生息しており、特にタヌキが多く生息している。", "qas": [ { "question": "タヌキとハクビシンはどちらの方が先に皇居内に住みだしたと言われていますか?", "id": "tr-211-15-000", "answers": [ { "text": "タヌキ", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "赤坂御用地内で生息しているタヌキとハクビシンはどちらの方が少ないですか?", "id": "tr-211-15-001", "answers": [ { "text": "ハクビシン", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その他皇居内で生息が確認されている哺乳類としてはアブラコウモリとアズマモグラがある。\n皇居内に生息する哺乳類の中で自然分布と考えられるのはアブラコウモリとアズマモグラのみである。\nアブラコウモリについては皇居内で確認されているものの数は少ない、これは現在の皇居内がかなり深い森となっていて、高木が多いためアブラコウモリが餌を獲るために必要な開けた場所に乏しいことや、皇居内には夜の明かりが少ないためアブラコウモリの餌となる小型の昆虫が集まってこないことが原因であると考えられる。\nアズマモグラは本州の東部に分布し、東京23区内でも畑が残っている場所の多くで生息が確認できるが、市街化が進むと姿を消してしまうために山手線内側ではほとんど見ることが出来ない。\n皇居内では多くのアズマモグラの生息が確認されているが、遅くとも皇居周囲の濠が完成した1630年代には皇居のアズマモグラは周囲の環境から遮断され、その後は皇居内で生息を続けてきたものと考えられている。\nしかしDNAの塩基配列を調べたところ、現在皇居に生息するアズマモグラは東京都日野市に生息するアズマモグラと高い同一性を示し、関東地方に生息するアズマモグラと種として同一のものとみて良いことがわかった。", "qas": [ { "question": "皇居内で生息が確認されているモグラの種類は何ですか?", "id": "tr-211-16-000", "answers": [ { "text": "アズマモグラ", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "皇居内で生息が確認されているコウモリの種類は何ですか?", "id": "tr-211-16-001", "answers": [ { "text": "アブラコウモリ", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "皇居内で確認された爬虫類はカメ目のクサガメ、アカミミガメ、スッポン、トカゲ亜目のヤモリ、トカゲ、カナヘビ、ヘビ亜目のアオダイショウ、シマヘビ、ヒバカリである。\nまたカメ目のイシガメ、ヘビ亜目のジムグリはかつての目撃例などから生息している可能性があるとされる。\nまた皇居内の環境はヤマカガシの生息環境として適していると見られるが、これまで確認されていない。\nこれは後述のウシガエルによってヤマカガシの子ヘビが捕食されつくした結果である可能性が指摘されている。\nまた爬虫類はカナヘビやシマヘビのように極めて確認された数が少ないものがある。", "qas": [ { "question": "アオダイショウ、ヤマカガシ、シマヘビの中でこれまで皇居内で確認されていないものはどれ?", "id": "tr-211-17-000", "answers": [ { "text": "ヤマカガシ", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヤマカガシの子ヘビを捕食するカエルとは何?", "id": "tr-211-17-001", "answers": [ { "text": "ウシガエル", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "皇居内の両生類の分布は爬虫類以上に特徴的である。\n皇居内ではサンショウウオ目の生育は確認されず、カエル目でもアズマヒキガエル、アマガエル、ウシガエルの3種しか確認されず、生育しておかしくないニホンアカガエル、トウキョウダルマガエル、ツチガエルは見られない。\nまたウシガエルは皇居内各地で極めて多くの個体が確認されるが、アズマヒキガエルとアマガエルの個体数はウシガエルと比べて多くない。\nこれは明らかにウシガエルが在来種のカエルの生育を強く圧迫した結果と考えられ、皇居内のニホンアカガエル、トウキョウダルマガエル、ツチガエルはウシガエルによって絶滅に追いやられたものと考えられる。\nまたウシガエルの大繁殖は皇居内の昆虫類の生育にも大きな影響を与えている可能性が高い。\n在来種の爬虫類、両生類の中で欠けた種が見られる原因はウシガエルの大繁殖によるものと考えられるが、皇居内で何らかの理由でいったん数が減少していく種が現れた場合、濠に囲まれた皇居という閉ざされた環境では、周囲から新たな個体が入り込むことが非常に困難であるため、絶滅を防ぐことが困難であることを示している。", "qas": [ { "question": "トウキョウダルマガエル、アズマヒキガエル、ニホンアカガエルの中で皇居内で確認されたものはどれですか?", "id": "tr-211-18-000", "answers": [ { "text": "アズマヒキガエル", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "皇居内にいたニホンアカガエル、トウキョウダルマガエル、ツチガエルを絶滅に追いやった品種とは何?", "id": "tr-211-18-001", "answers": [ { "text": "ウシガエル", "answer_start": 200, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "皇居内のアズマヒキガエルとウシガエルはどちらが個体数が多いの?", "id": "tr-211-18-002", "answers": [ { "text": "ウシガエル", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "皇居内では昭和25年(1950年)頃から野鳥の調査が断続的に続けられてきた。\nその中で皇居の鳥類相が常に変化をし続けていることが明らかとなっている。\n変化の中には1950年代に皇居内の樹木を傷めるという理由から追い払われたサギ類のように、人為的な理由で分布が変化した鳥もあるが、自然環境の変化によって大きな変化を見せた種も多い。\n環境変化によって分布が大きく変化したことが明らかなのは、冬季に越冬を行うカモ類やオシドリなどが昭和50年(1975年)頃と比べて激減したことである。\nこれはかつて皇居内で見られなかった猛禽類のオオタカやノスリが住み着くようになったため、カモ類やオシドリが激減したものと考えられている。\nなおオオタカはカモ類の次にサギ類などを捕食するようになったが、猛禽類の存在によって皇居内から多くの鳥類が減少するとやがて主にハシブトガラスを捕食するようになり、東京都内で数の増加が目立つハシブトガラスも、皇居内では数の増加が抑えられるようになった。", "qas": [ { "question": "サギ類とカモ類のうち、人為的でない理由で減少したのはどちら?", "id": "tr-211-19-000", "answers": [ { "text": "カモ類", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また昭和50年(1975年)頃には冬鳥ないし稀に観察される冬鳥であったカワセミ、コゲラ、ハクセキレイ、ヒヨドリがほぼ一年中見られる留鳥となった点が大きな変化として挙げられる。\nカワセミなどの鳥類が東京都区内など都市部に進出していることは鳥類の都市化現象として知られており、皇居の鳥類相も鳥類の都市化現象が現れているといえる。\nまた皇居や赤坂御用地内のカワセミについては、東京都区内の緑地を経由して南関東各地に移動していることが明らかになりつつある。\n昭和50年(1975年)頃以降、サギ類とカワウのコロニーが皇居内から消滅したことも大きな変化の一つとして挙げられる。\n前述のようにサギ類は1950年代に人為的に皇居から追われ、その後も猛禽類の皇居内定着による捕食の増加といった事情は認められるが、各地でサギ類が多く生息する鷺山の消滅が伝えられるなど、生育環境の悪化などによってサギ類自体も減少している可能性が指摘されている。", "qas": [ { "question": "鳥類の都市化現象として知られている鳥は何?", "id": "tr-211-20-000", "answers": [ { "text": "カワセミ", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "皇居内の道灌濠からは、コイ、ゲンゴロウブナ、ギンブナ、ドジョウ、モツゴなど一般的な淡水魚10種が確認された。\nまた蓮池濠からはカムルチーが確認された。\n道灌濠、蓮池濠からは皇居外濠で見られる外来魚のブラックバスやブルーギルは確認されなかった。\nまた皇居内のギンブナの遺伝子を確認したところ、全て三倍体ないし四倍体の雌であり、皇居内のギンブナと遺伝的に全く同一のギンブナが広島県の河川に生息していること、また皇居の内濠の中で上道灌濠にはギンブナ以外のコイ、フナ類の生息が確認されていないため、上道灌濠のギンブナがどうやって繁殖しているのか明らかになっていないという興味深い謎が残っている。", "qas": [ { "question": "ギンブナ、コイ、カムルチーの中で、蓮池濠から確認されたものはどれ?", "id": "tr-211-21-000", "answers": [ { "text": "カムルチー", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カムルチー、ブラックバス、モツゴの中で道灌濠から確認されたものはどれ?", "id": "tr-211-21-001", "answers": [ { "text": "モツゴ", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "皇居の内濠にはスジエビ、テナガエビ、ヌカエビ、アメリカザリガニの4種のエビ類の生息が確認された。\n4種とも低地の静水域に生息するエビ類であり、テナガエビの採集された数は少ないものの、他の3種については多くの数が採集された。\nしかし道灌濠の中で最も自然度が高いと考えられる上道灌濠からはアメリカザリガニの生息は確認されなかった。\nカニ類については皇居東御苑でサワガニの生息が確認された。\nそして内濠に生息するモツゴ、ギンブナ、ゲンゴロウブナ、エビ類からは寄生性の甲殻類が4種見つかった。", "qas": [ { "question": "スジエビ、テナガエビ、ヌカエビ、アメリカザリガニの中で採集された数が少なかったものはどれ?", "id": "tr-211-22-000", "answers": [ { "text": "テナガエビ", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "テナガエビ、アメリカザリガニ、ヌカエビの中で上道灌濠から生息の確認がされなかったものはどれ?", "id": "tr-211-22-001", "answers": [ { "text": "アメリカザリガニ", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ルイ14世(フランス王)", "paragraphs": [ { "context": "ルイ14世は、ブルボン朝第3代のフランス王国国王である。ナバラ王国国王としてはルイス3世である。ルイ13世の長子であり、妃はスペイン国王であるフェリペ4世の娘マリー・テレーズ・ドートリッシュである。王朝の最盛期を築き、ルイ大王(LouisleGrand)、太陽王と呼ばれた。\n\n父の死により、4歳で即位し、宰相ジュール・マザランの補佐を得てフロンドの乱を鎮圧した。1661年に親政を開始するとジャン=バティスト・コルベールを登用して中央集権と重商主義政策を推進した。対外戦争を積極的に行い、帰属戦争、仏蘭戦争で領土を拡張して権威を高めると、ジャック=ベニーニュ・ボシュエの唱える王権神授説・ガリカニスムを掲げ、絶対君主制を確立した。さらにミディ運河とヴェルサイユ宮殿を建設した。治世後半のアウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争では苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥った。", "qas": [ { "question": "ブルボン朝第3代のフランス王国国王は誰ですか。", "id": "tr-212-00-000", "answers": [ { "text": "ルイ14世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ14世はナバラ王国国王としては何と呼ばれますか。", "id": "tr-212-00-001", "answers": [ { "text": "ルイス3世", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルイ大王(LouisleGrand)、太陽王は誰を指すのですか。", "id": "tr-212-00-002", "answers": [ { "text": "ルイ14世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルイ14世は何歳に即位したか。", "id": "tr-212-00-003", "answers": [ { "text": "4歳", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ルイ14世の72年もの在位期間はフランス史上最長であり、18世紀の啓蒙主義思想家ヴォルテールはルイ14世の治世を「大世紀」(グラン・シエクルGrandSiècle)と称えている。また、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されている。\n\nまた、メヌエットを宮廷舞踊に取り入れ、メヌエットを最初に踊った人と言われ、その時、太陽神アポロンに変装して踊った姿から「太陽王」と言う諢名がついたとも言われる。", "qas": [ { "question": "フランス史上最長の即位期間を誇る人物は誰か。", "id": "tr-212-01-000", "answers": [ { "text": "ルイ14世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「大世紀」は誰の治世を指すのですか。", "id": "tr-212-01-001", "answers": [ { "text": "ルイ14世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「太陽王」とは誰のことですか。", "id": "tr-212-01-002", "answers": [ { "text": "ルイ14世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブルボン家はカペー朝のルイ9世の血統の有力家門であり、ルイ14世の曾祖父に当たるアントワーヌ・ド・ブルボンがナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚したことでブルボン家はナバラ王位と結びつく。ジャンヌ・ダルブレが熱心なプロテスタントであったことから、その子のアンリ・ド・ブルボンはフランス宗教戦争(ユグノー戦争)におけるユグノー(フランスのプロテスタント)陣営の盟主となる。1589年にアンリ3世が暗殺されたことによってヴァロワ朝が断絶すると筆頭王位継承権者だったナバラ王アンリ(アンリ・ド・ブルボン)が即位し、新たにブルボン朝が開かれた(アンリ4世)。アンリ4世はカトリックに改宗して国内の支持を固め、その一方でナント勅令を出してプロテスタント信仰の自由を(制限付きながら)認め、長期にわたる内戦を終わらせた。1610年にアンリ4世が暗殺されると嫡男のルイ13世が即位した。ルイ13世は有能なリシュリュー枢機卿を宰相に起用し、フランスにおける絶対王権の基礎を固めた。", "qas": [ { "question": "アンリ3世は何年に亡くなったか。", "id": "tr-212-02-000", "answers": [ { "text": "1589年", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アンリ4世は何年に亡くなったか。", "id": "tr-212-02-001", "answers": [ { "text": "1610年", "answer_start": 353, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アンリ4世の次に即位したのは誰?", "id": "tr-212-02-002", "answers": [ { "text": "ルイ13世", "answer_start": 374, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "有能なリシュリュー枢機卿を宰相に起用し、フランスにおける絶対王権の基礎を固めた人物は誰ですか。", "id": "tr-212-02-003", "answers": [ { "text": "ルイ13世", "answer_start": 385, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1638年9月5日にルイ14世がサン=ジェルマン=アン=レーで生まれた時、ブルボン王家の男子はルイ13世の弟オルレアン公ジャン・バティスト・ガストンのみであり、ブルボン家はルイ14世の誕生で辛うじて命脈をつないだ。両親であるルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュは不仲で23年間子が生まれることがなかったため、国王も国民も待望の王位継承者の誕生を大いに祝福した。一方で、この子の本当の父親はルイ13世ではないと一部で様々な噂も広まった。\n\nルイ14世は多彩な文化的背景の生まれで、父方の祖父母はアンリ4世とフィレンツェ出身のマリー・ド・メディシス、母方の祖父母はスペイン王のフェリペ3世とオーストリア出身のマルガレーテ・フォン・エスターライヒである。彼は「ルイ・デュードネ」の洗礼名を授かった。そして、「フランスの長男」及び、より伝統的なドーファンの称号を受けた。", "qas": [ { "question": "ルイ14世はいつ誕生したか。", "id": "tr-212-03-000", "answers": [ { "text": "1638年9月5日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルイ14世の母は誰ですか。", "id": "tr-212-03-001", "answers": [ { "text": "アンヌ・ドートリッシュ", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルイ14世の洗礼名は何?", "id": "tr-212-03-002", "answers": [ { "text": "「ルイ・デュードネ」", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ルイ13世とアンヌは1640年にもう一人の男子フィリップをもうけている。だが、ルイ13世は王妃を信用しておらず、自らの死後に王妃が国政に影響力を持つことを防ごうとして、摂政諮問会議の設置を遺言した。1643年5月13日にルイ13世が41歳で死去すると、僅か4歳のルイ14世が即位して母后アンヌが摂政となった。だが、摂政アンヌとマザランはパリ高等法院の支持を受け、ルイ13世の遺言を破棄して摂政諮問会議を廃止してしまう。アンヌはマザランを摂政会議の座長に抜擢して全権を委ねた。マザランは有能な政治家ではあったが、一方で貪欲なまでに私財を蓄える癖があり、財政逼迫によって苦しめられていたフランスの民衆も貴族もスペイン人の摂政太后とイタリア人の枢機卿を憎んでいた。", "qas": [ { "question": "ルイ13世はいつ死んだか。", "id": "tr-212-04-000", "answers": [ { "text": "1643年5月13日", "answer_start": 99, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "和平交渉が大詰めとなった1648年にフロンドの乱が勃発する。7月、政府が新税の導入を図ると、これに反対するパリ高等法院が他の高等諸院と合同してアンタンダン(地方監察官)の廃止を含む27カ条の要求書を出した。マザランは一旦は譲歩の姿勢を示すが、8月に入ると首謀者を逮捕する。これに反発したパリの民衆がバリケードを築き蜂起した。パリ高等法院の法服貴族と民衆が結びついてパリは無政府状態に陥り、ルイ14世と摂政アンヌはパリを脱出する。それから程なくしてヴェストファーレン条約が締結されて三十年戦争が終結すると、コンデ公率いるフランス軍が国王を助けるために帰還した。1649年1月にコンデ公はパリを包囲する。3月にリュイユ和議が締結され、乱はひとまず収まった。\n\n王室はパリに戻ったが、乱平定の功績者コンデ公とマザランが対立して貴族のフロンドが勃発する。マザランに対する貴族と民衆の不満から反乱軍の勢力は強く、マザランは一時亡命を余儀なくされ、ルイ14世は再びパリから逃れざるを得なくなった。パリに入城したコンデ公が優位に立つが、1652年に満13歳を迎えたルイ14世が成人を宣言するとパリ高等法院は王権側に付き、コンデ公はパリからの退去を余儀なくされてフロンドは分裂した。1652年に優位に立った王太后がマザランをフランスに呼び戻すと高等法院は再び王権に背き、コンデ公がパリに舞い戻った。だが、コンデ公はパリ市民の支持を受けられず、混乱の長期化に疲弊したフロンド派が相次いで脱落し、1653年にコンデ公はスペイン領ネーデルラントへ亡命し、ルイ14世はパリへ帰還して乱は終結した。", "qas": [ { "question": "フロンドの乱は何年に勃発したか。", "id": "tr-212-05-000", "answers": [ { "text": "1648年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "どんな条約が結ばれて三十年戦争が終わりましたか。", "id": "tr-212-05-001", "answers": [ { "text": "ヴェストファーレン条約", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コンデ公は何年にネーデルラントへ亡命したか。", "id": "tr-212-05-002", "answers": [ { "text": "1653年", "answer_start": 638, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "三十年戦争は終わったが、フランスはスペインとの戦争を継続しており、テュレンヌがフランス軍司令官としてスペイン軍に属したコンデ公とネーデルラントで戦った(フランス・スペイン戦争)。フランスはイングランドから軍事支援を受け、1658年のダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟は勝利した。翌1659年に結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈を境界とするフランスとスペインの国境を確定、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサと婚約した。\n\nこの頃、ルイ14世はマザランの姪マリー・マンチーニと恋仲になっておりスペイン王女との結婚を拒絶したが、事は国益の問題であり、マザランはルイ14世とマリーを無理やり別れさせている。また、この条約でコンデ公は罪を許されフランスへ帰国、以後はフランスのために戦うことになる。", "qas": [ { "question": "フランス・スペイン戦争と三十年戦争と、もっと先に終結した戦争などっちなの?", "id": "tr-212-06-000", "answers": [ { "text": "三十年戦争", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ピレネー条約は何年に締結されたか。", "id": "tr-212-06-001", "answers": [ { "text": "1659年", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピレネー条約に基づくと、フランスとスペインの国境は何を境にしますか。", "id": "tr-212-06-002", "answers": [ { "text": "ピレネー山脈", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コンデ公が罪を許されフランスへ帰国したのはどの条約のおかげでしたか。", "id": "tr-212-06-003", "answers": [ { "text": "ピレネー条約", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1661年3月にマザランが死去するとルイ14世は親政を開始し、以後は宰相を置かないことを宣言する。親政期に行政機構の整備が行われ、ルイ14世は国の最高機関である国務会議から王太后や王族・大貴族を排除し、国務会議の出席者及び各部門の責任者に法服貴族を登用するなどして大貴族の権威を低下させ、新興貴族層やブルジョワ階層の登用で王権を強化した。ルイ14世の最高国務会議の出席者は3~5名程度のごく少数であり、長い治世を通しても全部で17名、その内の帯剣貴族は3名に過ぎない。サン=シモン公はルイ14世の時代を「いやしいブルジョワどもの長い治世」と評している。また、1667年と1673年の王令で高等法院から建言権を取り上げ、高等法院の抵抗を排除した。\n\n地方には父の代から行われているアンタンダン派遣を続け、司法・財政・治安維持の権限を与え、時と共に人数を増大させて地方総督の大貴族や自治都市の権限を縮小させた。一方で地方の名士を監察官の補佐として登用させ、監察官の組織も整備、依然として勢力を持つ地方との折り合いも付けて支配の安定を図っている。\n\n親政開始の象徴的事件が大蔵卿ニコラ・フーケの断罪である。フーケはマザランの腹心の一人で有能な人物ではあったが、職権を利用して莫大な私財を蓄えていた。これを知ったルイ14世は激怒してフーケを逮捕し、投獄した。", "qas": [ { "question": "マザランはいつ亡くなったか。", "id": "tr-212-07-000", "answers": [ { "text": "1661年3月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "親政開始の象徴的事件は何ですか。", "id": "tr-212-07-001", "answers": [ { "text": "大蔵卿ニコラ・フーケの断罪", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1659年のピレネー条約によってスペインの弱体化が決定的となり、フランス優位の時代に入った。ルイ14世は「盟主政策」と呼ばれるフランス王権を中心としたヨーロッパ体制の構築を企図しており、その最大の障害は疲弊したスペインではなく、海外貿易で莫大な富を築いていた新興勢力のオランダ(ネーデルラント連邦共和国)であると考えられた。オランダ内での議会派(都市商人)と総督派(封建貴族と農民)との内紛がルイ14世の企図を助けていた。当時のオランダは議会派のヨハン・デ・ウィットが指導者となっており、古くからの大貴族である総督派のオラニエ公ウィレム3世が巻き返しを図ることを恐れていた。", "qas": [ { "question": "ピレネー条約以降、優位にいたのはフランスなの、スペインなの?", "id": "tr-212-08-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "没落したスペインがルイ14世の最初の標的となった。ルイ14世はスペイン植民地に対する野心を持つイギリス、さらには神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結んでスペイン帝国の分割を交渉する。オランダとも防御・通商同盟を結び来たるべき対スペイン戦争に備えた。\n\n1665年にルイ14世の義父であるスペイン王フェリペ4世が死去すると、後妻が生んだ王太子が即位してカルロス2世となった。王妃マリー・テレーズの持参金がスペインからまったく支払われていない上にフェリペ4世の遺言ではカルロス2世が死去した場合、神聖ローマ皇帝レオポルド1世の婚約者マルガリータ・テレサがスペイン領を相続することになっており、ルイ14世を苛立たせた。これに対してルイ14世はブラバントはカルロス2世の異母姉である王妃マリー・テレーズが継承するべきものであるといわゆる「王妃の権利論」を掲げて領土の割譲をスペインに要求した。", "qas": [ { "question": "ルイ14世の最初の標的となった国はどこですか。", "id": "tr-212-09-000", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペイン王フェリペ4世は何年に亡くなったか。", "id": "tr-212-09-001", "answers": [ { "text": "1665年", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "王妃マリー・テレーズの父は誰なの?", "id": "tr-212-09-002", "answers": [ { "text": "スペイン王フェリペ4世", "answer_start": 141, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「王妃の権利論」に基づくと、ブラバントは誰が継承すべきものですか。", "id": "tr-212-09-003", "answers": [ { "text": "王妃マリー・テレーズ", "answer_start": 335, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1667年に帰属戦争(フランドル戦争)が勃発すると、ルイ14世は自ら軍を率いて戦った。兵数と装備で圧倒するフランス軍はフランドル国境地帯の要衝を容易に奪い取り、スペイン軍を後退させた。これに危機感を持ったオランダのウィットはこれ以上のフランスからの侵略を防ぐために、イギリスの外交官ウィリアム・テンプルと交渉をし、1668年にイギリスそしてスウェーデンとの三国同盟を結成した。イギリス・オランダといった海軍・通商の二大勢力の圧力を前にルイ14世は和平へと動いたが、フランシュ=コンテは断固として征服させた。結局、ルイ14世はアーヘンの和約の締結を余儀なくされ、フランスはフランドルの12の都市は確保したものの、フランシュ=コンテはスペインに返還している。アーヘンの和約はフランスにとって満足すべきものではなく、またルイ14世はオランダをひどく憎んだ。\n\n三国同盟は長続きしなかった。1670年、イギリス王チャールズ2世はドーヴァー秘密条約を結んでフランスとの同盟に加わり、オランダと絶縁した。次にルイ14世は、イギリスと同様な同盟条約を結んでいたスウェーデンに参戦を促した。しかしスウェーデンの参戦は、オランダと結んだデンマークとブランデンブルク=プロイセンの参戦を招き、戦線がオランダから離れてしまうことになる。", "qas": [ { "question": "帰属戦争は何年に始まったか。", "id": "tr-212-10-000", "answers": [ { "text": "1667年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリス、スウェーデン、オランダの三国同盟は何年に結成したか。", "id": "tr-212-10-001", "answers": [ { "text": "1668年", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1680年代始めにルイ14世の影響力は大いに高まった。この時期がルイ14世の絶頂期とされる。\n\n1681年に始まったヴェルサイユ宮殿の造営事業には建築家のル・ヴォー、造園家のル・ノートルそして画家・室内装飾家のシャルル・ルブランがあたった。財務総監のコルベールは巨費を要する新宮殿の造営には消極的だったが、ルイ14世自身の強い意向でもあり従わざるをえなかった。工事は困難を極め、数万の人夫が工事に従事し、多数が死亡している。ルイ14世はこの新宮殿の造営に熱中した。戦時以外はひんぱんに工事中の宮殿に赴いて細事に渡るまで指図し、気に入らない箇所があれば何度でも工事をやり直させた。", "qas": [ { "question": "ヴェルサイユ宮殿の造営事業は何年に開始しましたか。", "id": "tr-212-11-000", "answers": [ { "text": "1681年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1683年、王妃マリー・テレーズが死去した。それから程なくしてルイ14世は最も愛した寵姫マントノン侯爵夫人と秘密結婚をする。ルイ14世とマントノン侯爵夫人との結婚は公的な記録を残さない、あくまでも私人としての結婚であり、彼女は王妃ではなかったが、ルイ14世はしばしば顧問会議を彼女の部屋で催し、慎重な助言者として国王の意思決定に影響を与えた。\n\nハプスブルク家との戦争を繰り返すうちにルイ14世はこれまでのガリカニスム(フランス教会自立主義)擁護から「カトリック教会の守護者」へとスタンスを移し、ローマ教皇との結びつきを強めるようになった。王は国内のカトリック信仰の強化を目指し、ローマ教皇と連携してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)を弾圧した。そして、ユグノー(フランス・プロテスタント)の弾圧に着手する。ユグノー戦争の結果、アンリ4世のナント勅令によって政治的・軍事的特権を与えられたユグノーも、ルイ13世の時代にリシュリュー枢機卿に敗れ政治勢力としては没落して少数派となり、信仰の自由だけが僅かながら保証されていた。ルイ14世は官職からユグノーを締め出し、職業を制限し、亡命まで禁じる勅令を次々と出した。兵士をユグノーの家々に送り込んで改宗を強要することまでした(竜騎兵の迫害)。", "qas": [ { "question": "王妃マリー・テレーズは何年に亡くなったか。", "id": "tr-212-12-000", "answers": [ { "text": "1683年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "王妃マリー・テレーズの死去後、ルイ14世は誰と秘密結婚しますか。", "id": "tr-212-12-001", "answers": [ { "text": "マントノン侯爵夫人", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ルイ14世の晩年には多年の戦争による莫大な戦費のためにフランスの財政は破綻しかかっており、重税のためにフランスの民衆は困窮しきっていた。1709年にはかつて革命を起こして王政を打倒したことのある「イギリス人を見習え」と謡う小唄が流行したほどだった。\n\nルイ14世の家庭でも不幸が続き、彼の嫡出子のほとんどが幼少期に死んでおり、唯一成年に達した王太子ルイも1711年に死去してしまう。彼は3人の息子を残していたが長男のブルゴーニュ公ルイも翌年の1712年に天然痘で急逝し、そして同年、同じ病で次男のブルターニュ公ルイ[要リンク修正]までもが夭逝してしまった。そのため、ブルゴーニュ公の男子で唯一生き残った幼い三男のアンジュー公が王太子となった。\n\n1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前にルイ14世は壊疽の悪化により死去した。彼は死の床に幼い王太子を呼び「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない」と訓戒したという。彼の遺体はパリ近郊のサン=ドニ大聖堂に埋葬されたが、民衆は老王の死を歓喜し、葬列に罵声を浴びせた。", "qas": [ { "question": "ルイ14世はいつ亡くなりましたか。", "id": "tr-212-13-000", "answers": [ { "text": "1715年9月1日", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルイ14世の死因は何?", "id": "tr-212-13-001", "answers": [ { "text": "壊疽の悪化", "answer_start": 351, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルイ14世の遺体はどこに埋葬されたか。", "id": "tr-212-13-002", "answers": [ { "text": "サン=ドニ大聖堂", "answer_start": 423, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "5歳の王太子がルイ15世として即位する。法に従えばルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世が幼少のルイ15世の摂政を務めることになるが、オルレアン公には放蕩者の評判があり、生前のルイ14世は彼の権力を制限しようとした。摂政は置かずにモンテスパン侯爵夫人との庶子のメーヌ公ルイ・オーギュストをメンバーに含む摂政会議を設置し、オルレアン公はその座長に留めるよう遺言していた。だが、オルレアン公は高等法院に働きかけてルイ14世の遺言を破棄してしまう。オルレアン公はメーヌ公の王族称号(princedusang)と近衛隊司令官職を奪い取って投獄して、単独の摂政となった。\n\nルイ14世と同じく幼くして即位したルイ15世も60年近い長い治世となった。ルイ15世は曽祖父の遺言に従わず再び数々の戦争を行い、1774年に彼が死去した時にはフランスの財政は破綻状態となり、そしてアンシャン・レジームの社会矛盾が表面化しつつあった。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切ることができず、1789年のフランス革命を迎えることになる。", "qas": [ { "question": "ルイ15世は何歳に即位したか。", "id": "tr-212-14-000", "answers": [ { "text": "5歳", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ15世は何年近く即位していましたか。", "id": "tr-212-14-001", "answers": [ { "text": "60年", "answer_start": 307, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ルイ14世は「官僚王」と呼ばれるほど非常に政務に精励な国王だった。その生活は規則正しく、サン=シモン公は『回想録』で「暦と時計があれば、遠く離れていても王が何をしているか言える」と述べている。身体強健であり、しばしば戦争に出陣した王の馬上姿は颯爽たるもので、自身も野戦攻城戦や閲兵式を好んだ。狩猟、祝祭そして恋愛といった何事にも精力的に打ち込み、一日中活動しても倦むことはなく、また他人にも同じことを強いた。名誉心が強く、彼の回想録には臣下はもちろん先王たちの名もほとんど登場せず、業績のことごとくが自らのものであったの如く書かれており、その態度をある歴史家は「ファラオ的傲慢」と評した。回想録で国王と議会との妥協によって運営されるイギリス政治を批判し、「決定は頭首のみに帰属し、肢体の役目は命令を執行することに過ぎない」と述べている。", "qas": [ { "question": "ルイ14世は非常に政務に精励な国王であったことから、何と呼ばれましたか。", "id": "tr-212-15-000", "answers": [ { "text": "「官僚王」", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ14世に対して、「暦と時計があれば、遠く離れていても王が何をしているか言える」と述べた人物は誰ですか。", "id": "tr-212-15-001", "answers": [ { "text": "サン=シモン公", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1679年からルイ14世はマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュを寵愛するようになった。彼女は若く美しい女性だったが知性には欠けていた。彼女は1680年に子を生み、フォンタンジュ公爵夫人の称号を与えられるが産後は体調を崩してしまう。ルイ14世の寵愛がマントノン夫人に移ったこともあり、宮廷を辞して修道院に入り1681年に20歳の若さで死去している。\n\nこれ以前の1679年に黒ミサ事件が世を騒がせていた。毒殺事件に関与したとして堕胎や媚薬の販売を行なっていた魔術師ラ・ヴォアザンが逮捕され、彼女のもとで「黒ミサ」と呼ばれる奇怪な儀式が行われていたことが明らかになった。多くの貴族が彼女の顧客となり、その中にはモンテスパン侯爵夫人もおり、支配階級にも及ぶ大醜聞事件となった。フォンタンジュ公爵夫人の急死はモンテスパン侯爵夫人の毒殺によるものとの噂が立てられ、さらにはラ・ヴォアザンの娘がモンテスパン侯爵夫人はフォンタンジュ公爵夫人だけではなく国王の毒殺まで謀っていたと証言する。検察が早々に裁判を打ち切ってことは止み沙汰になったが、これを期にルイ14世はモンテスパン侯爵夫人を遠ざけるようになり、無視と軽蔑に耐えながらなお数年間宮廷にとどまっていた彼女が遂に修道院入りを決意すると王は喜んで彼女を送り出したという。", "qas": [ { "question": "マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュは何歳に亡くなるか。", "id": "tr-212-16-000", "answers": [ { "text": "20歳", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "黒ミサ事件は何年にあった事件ですか。", "id": "tr-212-16-001", "answers": [ { "text": "1679年", "answer_start": 182, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マントノン夫人は詩人ポール・スカロンの未亡人であり、モンテスパン侯爵夫人の子供たちの養育係を務めていた。美人ではないが教養のある知識人で控えめな女性だった彼女にルイ14世は関心を持ち寵愛するようになり、侯爵夫人の称号を与えた。1683年7月30日に王妃マリー・テレーズが世を去り、それから程ない同年10月9日頃にルイ14世はマントノン侯爵夫人と秘密結婚をした。この時、ルイ14世は46歳、マントノン侯爵夫人は3歳年上の49歳であり、王は若さや美しさとは別の点で彼女を愛していたと考えられ、この後、王の女性遍歴は止むことになった。", "qas": [ { "question": "ルイ14世とマントノン侯爵夫人との秘密結婚は何年に行われましたか。", "id": "tr-212-17-000", "answers": [ { "text": "1683年", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ14世とマントノン侯爵夫人と、どっちの方が年上?", "id": "tr-212-17-001", "answers": [ { "text": "マントノン侯爵夫人", "answer_start": 194, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フランスには、1533年にイタリアからカトリーヌ・ド・メディシスによりバレエが持ち込まれ、宮廷において盛んに上演された。ルイ14世が5歳で即位した時にも、5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世自らも出演した。ルイ14世はバレエに魅せられ、バレエを奨励していた。本人も1651年に15歳で舞台デビューし、王立舞踏アカデミーを創立した。バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、彼の時代の功績である。「太陽王」の異名も、元はバレエで太陽(太陽神)に扮したことから生まれた。ルイ14世は高いヒール靴を好み、奨励したことでも知られる。美しい脚線美を維持するためにヒール靴を着用している様子は、彼の全身を描いた肖像画にも描かれている(その後、きついバレエシューズによって小さくなった足が貴族の証とされていくようになる。アレクサンドル・デュマの『三銃士』にも、それが描写されている場面がある)。ルイ14世は1670年に舞台を引退した。\n\n1698年にルイ14世が導入したダンサーの年金制度は、フランス最古の年金制度の一つであり、2019年現在もなお存続している。", "qas": [ { "question": "ダンサーの年金制度を初めて導入したのは誰?", "id": "tr-212-18-000", "answers": [ { "text": "ルイ14世", "answer_start": 427, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランスにバレエが持ち込まれたのは誰によるのでしたか。", "id": "tr-212-18-001", "answers": [ { "text": "カトリーヌ・ド・メディシス", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ14世は何歳で即位したの?", "id": "tr-212-18-002", "answers": [ { "text": "5歳", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ14世は何歳で舞台デビューしたか。", "id": "tr-212-18-003", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バロック・ロココ時代のヨーロッパの王侯貴族たちの間でのかつらを着用する習慣があり、1658年に病のために毛髪の大部分を失ったルイ14世もこれを着用するようになった。これには背丈を水増しする効果もあった。ルイ14世の身長は160センチ程度しかなく、王としての威厳を演出するためにも背を高く見せようとした。そのため上述のようにハイヒールを好んだのだが、それでも十分ではなくかつらで髪を盛り上げ大きな姿を演出した。", "qas": [ { "question": "ルイ14世の身長は何センチ程度でしたか。", "id": "tr-212-19-000", "answers": [ { "text": "160センチ", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "中川の箒スギ", "paragraphs": [ { "context": "中川の箒スギ(なかがわのほうきスギ)は、神奈川県足柄上郡山北町の中川地区に生育しているスギの巨木である。\n推定の樹齢は2000年以上といわれ、1934年(昭和9年)3月26日に国の天然記念物に指定された(指定名称は箒スギ)。\n関東地方では、千葉県鴨川市の「清澄の大スギ」(国の天然記念物)と並ぶスギの巨木といわれる。\nこの名木は、大火と土砂崩れという2度の災害から付近の住民を守った経緯があり、地元の人々から崇敬の念を集めている。", "qas": [ { "question": "中川の箒スギの推定樹齢は?", "id": "tr-213-00-000", "answers": [ { "text": "2000年以上", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中川の箒スギ以外で、関東でのスギの巨木と言えば何?", "id": "tr-213-00-001", "answers": [ { "text": "「清澄の大スギ」", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「清澄の大スギ」は何県に存在しているの?", "id": "tr-213-00-002", "answers": [ { "text": "千葉県", "answer_start": 120, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中川の箒スギは、山梨県との県境にほど近い中川地区の「箒沢」(ほうきざわ)集落入り口付近の日当たりが良い傾斜地に生育している。\n2007年(平成19年)7月5日に日本樹木医会神奈川県支部(かながわ樹木医会)が調査したところによると、主幹の胸高は11.09メートル、根元の周囲は11.9メートル、樹高は42.5メートルあり、神奈川県下だけではなく、関東地方でも有数のスギ巨木である。", "qas": [ { "question": "中川の箒スギの樹高は何メートルですか?", "id": "tr-213-01-000", "answers": [ { "text": "42.5メートル", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中川の箒スギの主幹の胸高は何メートルですか?", "id": "tr-213-01-001", "answers": [ { "text": "11.09メートル", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中川の箒スギの根元の周囲は何メートルですか?", "id": "tr-213-01-002", "answers": [ { "text": "11.9メートル", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中川の箒スギの主幹の胸高と根元の周囲はどちらが長いですか?", "id": "tr-213-01-003", "answers": [ { "text": "根元の周囲", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "箒スギという名称のいわれは、かつてこの地が「宝木沢」(ほうきざわ)と呼ばれていたのが転じたとも、樹形が「箒」に似ていたことから呼ばれるようになったともいわれる。\n江戸時代、この地は禁令によって、スギ・ヒノキ・ケヤキ・モミ・ツガ・カヤの6種の木の伐採が禁じられていた。\n幕藩体制の瓦解後、箒スギの周囲にあった木は伐採されて、茶畑に変わってしまった。", "qas": [ { "question": "箒スギのある地のかつての地名は何でしたか?", "id": "tr-213-02-000", "answers": [ { "text": "「宝木沢」", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "江戸時代に禁令によって伐採が禁じられていた6種とはケヤキ、モミ、ヒノキ、ツガ、スギとあと1つは何ですか?", "id": "tr-213-02-001", "answers": [ { "text": "カヤ", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "禁令によって6種の木の伐採が禁じられていた時代はいつでしたか?", "id": "tr-213-02-002", "answers": [ { "text": "江戸時代", "answer_start": 81, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "集落入り口付近に一本だけ残された形になった箒スギは、明治と昭和の2回、付近を襲った災害から住民を守った。\n最初は1904年(明治37年)に大火に見舞われた際のことで、箒スギが火の手を阻んだために集落は全滅を免れている。\nそのため箒スギの樹皮には、このとき焼損した痕跡が見受けられる。\n2度目の災害は、1972年(昭和47年)に起きた丹沢集中豪雨のときだった。\n箒スギの上部から土砂崩れが発生して箒スギを直撃したが、土砂の流れはこの木によって二手に分断される形になった。\n民家数軒が土砂に流されてしまったものの、箒スギがなければ被害はさらに甚大だったため、住民はこの木への崇敬の念をさらに深くしている。\n箒スギの根元には集落の守り神として「須賀神社」の祠が祀られており、かつて集中豪雨が発生した7月12日と、秋祭りの10月13日には地区の人々が参拝している。\n地区の老人会は、毎月1日に箒スギや神社の周囲を定期的に清掃して、感謝の念を表している。", "qas": [ { "question": "箒スギの周辺を襲った最初の災害は何年にありましたか?", "id": "tr-213-03-000", "answers": [ { "text": "1904年", "answer_start": 56, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "箒スギの周辺を襲った2回目の災害は何年にありましたか?", "id": "tr-213-03-001", "answers": [ { "text": "1972年", "answer_start": 150, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "箒スギの周辺を襲った2回目の災害は何でしたか?", "id": "tr-213-03-002", "answers": [ { "text": "集中豪雨", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "箒スギの周辺を襲った1回目の災害は何だったの?", "id": "tr-213-03-003", "answers": [ { "text": "大火", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "箒スギは2003年(平成15年)夏の台風被害によって、根元付近から伸びていた大きな枝が折損して主幹を削るような形で損傷してしまった。\n樹形は多少損なわれたものの、樹木医の治療などによって樹勢に影響は出ていない。\n箒スギは、「目通幹圍約一〇メートル直幹屹立杉ノ巨樹トシテ有數ノモノナリ」との理由で1934年(昭和9年)3月26日に国の天然記念物となった。\nその他に、1984年(昭和59年)に「かながわの名木100選」、1990年(平成2年)には同年の「国際花と緑の博覧会」開催に合わせて企画された「新日本名木100選」にも選出されている。\n2001年には、神奈川県と神奈川新聞社の共催で実施された「かながわ未来遺産100」にも選定された。", "qas": [ { "question": "箒スギが先に選出されたのは「かながわの名木100選」と「新日本名木100選」のどちらですか?", "id": "tr-213-04-000", "answers": [ { "text": "「かながわの名木100選」", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "箒スギが「かながわ未来遺産100」に選ばれたのは何年でしたか?", "id": "tr-213-04-001", "answers": [ { "text": "2001年", "answer_start": 270, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "箒スギの所在地は神奈川県足柄上郡山北町中川702。\n交通情報は小田急小田原線・新松田駅から富士急湘南バス<松62>西丹沢自然教室行で「箒沢」下車、またはJR御殿場線・谷峨駅から富士急湘南バス<松62,谷57>西丹沢自然教室行で「箒沢」下車。", "qas": [ { "question": "箒スギの所在地はどこ?", "id": "tr-213-05-000", "answers": [ { "text": "神奈川県足柄上郡山北町中川702", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "箒スギへ行くのに、小田急小田原線での最寄り駅はどこになりますか?", "id": "tr-213-05-001", "answers": [ { "text": "新松田駅", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "箒スギへ行くにあたって、JR御殿場線での最寄り駅はどこになりますか?", "id": "tr-213-05-002", "answers": [ { "text": "谷峨駅", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "松橋事件", "paragraphs": [ { "context": "松橋事件は、1985年1月、熊本県下益城郡松橋町で発生した殺人事件である。将棋仲間の男性が逮捕・起訴され、懲役13年の有罪判決が言い渡され確定したものの、服役後の再審で無罪が言い渡され確定した。事件発生・逮捕から再審での無罪確定まで34年を要した。\n\n日本弁護士連合会が支援する再審事件の一つである。", "qas": [ { "question": "松橋事件はどこで発生した殺人事件ですか。", "id": "tr-214-00-000", "answers": [ { "text": "熊本県下益城郡松橋町", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松橋事件のことで有罪判決を受けた男性は、事件発生・逮捕から再審での無罪確定まで何年かかりましたか。", "id": "tr-214-00-001", "answers": [ { "text": "34年", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1985年1月8日、熊本県下益城郡松橋町の町営住宅の一室で、同室に一人で住む59歳の男性の遺体が発見された。警察は、1月5日夜に被害者と激しく口論をしていた将棋仲間の男Aの事情聴取を続け、同月20日になって犯行を自白したため逮捕した。2月14日に起訴した。\n\nAは一審の途中から自白を翻して犯行を否認し無罪を主張したが、一審熊本地方裁判所は自白の任意性・信用性を認めて懲役13年の判決を下した。Aは控訴・上告して争ったものの、福岡高等裁判所・最高裁判所ともに棄却して確定した。Aは服役し、1999年に仮釈放された。", "qas": [ { "question": "1985年1月8日、熊本県下益城郡松橋町の町営住宅の一室で発見された遺体の性別は何でしたか。", "id": "tr-214-01-000", "answers": [ { "text": "男性", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "男Aは何日に逮捕されたか。", "id": "tr-214-01-001", "answers": [ { "text": "20日", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aは一審で懲役何年の判決を受けたか。", "id": "tr-214-01-002", "answers": [ { "text": "13年", "answer_start": 186, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aは何年に仮釈放されたの?", "id": "tr-214-01-003", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 244, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "確定審の上告審から国選弁護人についた齊藤誠弁護士を中心に再審に向けた検討が続けられ、熊本地方検察庁が保管していた証拠物の中にAが自供の中で「犯行時に凶器に巻き付けて使用し犯行後に燃やした」と話していた布片が見つかり、さらに被害者の傷はAが自供した凶器では成傷しえないとする法医学鑑定が得られた。日本弁護士連合会は、2011年8月11日の理事会で再審に対する支援を決定した。\n\n2012年、燃やしたとされた布片や法医学鑑定などを新証拠として、認知症となっていたAに代わってAの成年後見人が再審を請求。熊本地裁は、凶器やその使用方法などといった自白の核心部分と矛盾する新証拠が示されたと判断し、もはや自白には有罪と認定し得るだけの信用性は失われているとして再審開始を決定した。検察側は即時抗告・特別抗告をしたが、福岡高裁・最高裁も地裁決定を支持して再審開始が確定した。", "qas": [ { "question": "日本弁護士連合会は、いつAの再審に対する支援を決定したか。", "id": "tr-214-02-000", "answers": [ { "text": "2011年8月11日", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1985年1月8日9時30分ごろ、熊本県下益城郡松橋町の町営住宅の一室で、男性の遺体が発見された。被害者は同室に一人で住む59歳の男性であった。司法解剖の結果、死後2日から4日が経過していると推定された。遺体には頚部を中心に15の創傷があり、死因は刃物で頸部を刺されたことによる失血死であった。", "qas": [ { "question": "1985年1月8日9時30分ごろ、熊本県下益城郡松橋町の町営住宅の一室で発見された遺体は男性でしたか、女性でしたか。", "id": "tr-214-03-000", "answers": [ { "text": "男性", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1985年1月8日9時30分ごろ、熊本県下益城郡松橋町の町営住宅の一室で発見された遺体は何歳の男性でしたか。", "id": "tr-214-03-001", "answers": [ { "text": "59歳", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1985年1月8日9時30分ごろ、熊本県下益城郡松橋町の町営住宅の一室で発見された遺体の死因は何でしたか。", "id": "tr-214-03-002", "answers": [ { "text": "失血死", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "捜査が始まると、被疑者はすぐに浮上した。1月5日夜、被害者宅で将棋仲間4名による宴会が行われており、その席で些細なことから被害者と将棋仲間Aとの間で激しい口論となった末にAが被害者宅を追い出されていたことが判明したのである。そして、6日以降、被害者を見かけた者はいなかった。\n\n警察は遺体が発見された8日夜からAの事情聴取を始めた。Aは被害者と口論になったことは認めたが、そのまま帰宅しただけだとして事件への関与を否定した。Aへの事情聴取は同月11日を除いて14日まで連日のように行われた。18日にはポリグラフ検査で陽性反応が出たことで追及を強めたが、Aは追い詰められたような態度になったものの否認を続けていた。しかし、19日には殺害について曖昧な供述をするようになり、「否認したまま逮捕してくれ」などと訴えた。そして20日は見たいテレビ番組があると出頭を拒否したAに対して、警察の提案にAも同意したため自宅での取り調べを行うことになった。その20日の自宅での取り調べでAはついに犯行を自白し、犯行に使った凶器として切り出し小刀を提出した。同日逮捕された。翌21日付の熊本日日新聞には、取調室と思われる場所で逮捕状を執行される瞬間のAの写真が掲載された。", "qas": [ { "question": "1月5日夜、被害者と激しい口論をした人は誰でしたか。", "id": "tr-214-04-000", "answers": [ { "text": "A", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aは何日に犯行を自白しましたか。", "id": "tr-214-04-001", "answers": [ { "text": "20日", "answer_start": 422, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aは何日に逮捕されたか。", "id": "tr-214-04-002", "answers": [ { "text": "20日", "answer_start": 422, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "取調室と思われる場所で逮捕状を執行される瞬間のAの写真は何日の新聞に掲載されたか。", "id": "tr-214-04-003", "answers": [ { "text": "21日", "answer_start": 479, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "スコモローフ", "paragraphs": [ { "context": "スコモローフは、中世ロシアで活動した芸能人の呼び名である。複数形でスコモローヒとも言う。日本語での翻訳として「放浪芸人」、「漂泊楽師」などがある。\n\nおよそ11世紀から17世紀にかけて、ロシアの民衆の宴会や婚礼、埋葬式などの際に歌や舞踊、楽器演奏、人形劇などの芸によって娯楽を提供したのがスコモローフである。これらによってスコモローフは、伝統的な民衆劇や儀礼をはじめとしたロシアの民俗に決定的な役割を果たした。\n\nとりわけ音楽面においては、スコモローフは古代から中世にかけてのロシア歌唱芸術の中心的な担い手であった。彼らが伝承し民衆の中でその血肉となった民族音楽は、近代・現代のロシア芸術音楽の最大の源泉となった。また、スコモローフはロシアの口承叙事詩ブィリーナの作者かつ語り手であったとも考えられている。\n\nスコモローフは18世紀以降衰退したが、彼らの民俗・文化は、例えば見世物小屋の呼び込みや大道芸、サーカスなど後世の都市フォークロア、あるいは都市の下層民や職人のもたらす文化へとつながっている。ベラルーシやスモレンスク地方では、現在でもフォーク・ヴァイオリン弾きをスコモローフと呼ぶ。", "qas": [ { "question": "スコモローフの複数形は何ですか。", "id": "tr-215-00-000", "answers": [ { "text": "スコモローヒ", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スコモローフは中世時代、どこで活動した芸能人の呼び名ですか。", "id": "tr-215-00-001", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "11世紀に建設されたキエフの聖ソフィア大聖堂に6人の楽師たちを描いた壁画があり、スコモローフを描いたものとしては最も古いものである。聖堂内の絵であることから、彼らはビザンチン文化の流入に伴って移ってきたギリシャ系の芸人ではないかとする説が有力である。一方で、キリスト教以前のロシアで宗教的儀礼を司ったのがスコモローフの前身だともいわれている。このことから、スコモローフの音楽は、古代スラヴ人の民族的な歌謡をもとにしつつ、ビザンチンの正教奉神礼の影響を受けながら発展したと考えられている。\n\n「スコモローフ」の呼び名は、ロシア語文献では原初年代記の1068年の記述に現れている。古代スラヴ文献の中では、10世紀にブルガリアで用いられたのが最初と見られる。この呼び名は13世紀末までは広く用いられておらず、彼らの個々の芸に相当する「踊り手」、「笛吹き」、「ひょうきん者」、「俳優」、「おふざけ屋」、「遍歴楽師」などといった表現が並行して使われていた。「スコモローフ」が定着したのは16-17世紀とされる。なお、「スコモローフ」の語源そのものは不明である。現代ロシア語の辞書で「スコモローフ」は吟遊詩人あるいは放浪芸人をさすとされるが、後述するように、実際には都市に定住するスコモローフもいた。", "qas": [ { "question": "キエフの聖ソフィア大聖堂は何世紀に建設されたものなの?", "id": "tr-215-01-000", "answers": [ { "text": "11世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「スコモローフ」と言う呼称は、ロシア語文献では原初年代記の何年の記述に現れているか。", "id": "tr-215-01-001", "answers": [ { "text": "1068年", "answer_start": 273, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「スコモローフ」が定着したのはいつだとされるか。", "id": "tr-215-01-002", "answers": [ { "text": "16-17世紀", "answer_start": 438, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17世紀に入ると、ロシアでは農奴制が完成するとともに都市を中心とした貨幣経済の浸透が始まった。社会的矛盾の拡大と封建的な圧政から、たびたび民衆蜂起が起きるようになると、スコモローフはこれに直接関わった。旅のスコモローフ一座の中には、強盗に早変わりする者もあった。スコモローフの芸もまた、一般大衆の支持を受けるために次第に風刺的な内容が増えていき、聖職者や権力者を面白おかしく採り上げるようになったことで、教会に加えてツァーリや貴族からの迫害も招いた。\n\nロシア正教会の攻勢は強まり、政権に対してスコモローフのいっそうの弾圧を求めるようになった。のちに古儀式派の指導者となった長司祭アヴァクーム(1621年?-1682年)は、自伝で次のように述べている。", "qas": [ { "question": "ロシアで農奴制が完成したのは何世紀のことですか。", "id": "tr-215-02-000", "answers": [ { "text": "17世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1648年、モスクワ大公アレクセイの勅令「モラルの匡正と迷信の根絶について」によって、スコモローフの演技や楽器演奏が禁止された。法的基盤を失ったスコモローフはロシアの中央地域から追放され、ウラル、シベリア、ヴォルガ川の中下流の左岸など辺境の地に移り住んだ。\n\n都会を追われ、あるいは追及を逃れて地方へ向かったスコモローフも、地方では演技を生業としていくことは困難であり、楽器演奏家や民衆劇の役者として一部が残ったほかはやがて姿を消していった。このような過程で、ブィリーナがスコモローフから地方の農民などに伝えられて残ったのではないかと推定されている。\n\nとはいえ、その後も各種史料にスコモローフの名は登場し、18世紀に活動したスコモローフとされるキルシャ・ダニーロフの曲集が出版されたのは、19世紀に入ってのことである。スコモローフ衰退の要因として、直接的には政権や教会の弾圧が挙げられるものの、むしろ決定的だったのは、都市に劇場を建てさせた時代の流れといえる。", "qas": [ { "question": "スコモローフの演技や楽器演奏が禁止されたのは誰の勅令のせいでしたか。", "id": "tr-215-03-000", "answers": [ { "text": "モスクワ大公アレクセイ", "answer_start": 6, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "都市に何が建てられたことでスコモローフが衰退したとされていますか。", "id": "tr-215-03-001", "answers": [ { "text": "劇場", "answer_start": 413, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スコモローフの音楽は、古代スラヴ人の宗教儀式や民族的歌謡から生まれ、11世紀ごろからはビザンチンの正教奉神礼の影響を受けながら発展したと考えられている。\n\n16世紀には、モスクワに娯楽宮殿が造られ、才能あるスコモローフの音楽家や作家が招かれた。楽師たちによって多くの楽器が作られ、改良され、アンサンブル演奏が育った。\n\n1818年、キルシャ・ダニーロフの『古代ロシア詩集』が出版された。ダニーロフは、1760年代にウラルまたは西シベリア地方で活動したスコモローフといわれる。この曲集には楽譜付きの全71曲が収録されており、古代スラヴ音楽の最初の楽譜本かつ本格的なブィリーナ集でもあった。\n\nダニーロフの曲集は、ルーシの生活風俗やエピソードを表現する合唱曲や器楽作品に役立つことになった。例えば、ブィリーナを題材にしたニコライ・リムスキー=コルサコフのオペラ『サトコ』第4場で義勇兵士の歌「高く、高く、天高く」はこの曲集から採られたものである。", "qas": [ { "question": "スコモローフの音楽は、11世紀ごろから何の影響を受けながら発展したと考えられているか。", "id": "tr-215-04-000", "answers": [ { "text": "ビザンチンの正教奉神礼", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キルシャ・ダニーロフの『古代ロシア詩集』はいつ出版されたの?", "id": "tr-215-04-001", "answers": [ { "text": "1818年", "answer_start": 160, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "古代スラヴ音楽の最初の楽譜本かつ本格的なブィリーナ集は何ですか。", "id": "tr-215-04-002", "answers": [ { "text": "『古代ロシア詩集』", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニコライ・リムスキー=コルサコフのオペラ『サトコ』は何を題材にして制作されたか。", "id": "tr-215-04-003", "answers": [ { "text": "ブィリーナ", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "グドークはスコモローフが最初に手にしたと考えられている弦楽器である。楕円型あるいは梨型の胴と平らな共鳴板を持ち、3弦であった。1951年-1963年の発掘調査で12世紀のものと思われるグドークが見つかっている。16世紀には種類が増え、グドーチェク、グディーシチェといったバリエーションが誕生した。\n\nグースリはキエフのスコモローフたちがもっとも多用したと考えられている楽器である。初期のものは、翼の形をした木製の小型の胴から「翼型」と呼ばれた。ノヴゴロドで1951-1962年にかけての考古学的な発掘調査によって13世紀の翼型グースリが発見されている。この型のグースリの弦は4-9本であった。14-15世紀には翼型の改良版として兜型グースリが登場した。弦の数は11-30本に増えている。16世紀になると、箱形グースリが製作された。", "qas": [ { "question": "スコモローフが最初に手にしたと考えられている弦楽器は何ですか。", "id": "tr-215-05-000", "answers": [ { "text": "グドーク", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1951年-1963年の発掘調査で発見されたグドークはいつのものだと思われていますか。", "id": "tr-215-05-001", "answers": [ { "text": "12世紀", "answer_start": 80, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "初期のグースリは、翼の形をした木製の小型の胴から何と呼ばれたか。", "id": "tr-215-05-002", "answers": [ { "text": "「翼型」", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "14-15世紀に翼型の改良版として登場した兜型グースリは何本の弦を持っていましたか。", "id": "tr-215-05-003", "answers": [ { "text": "11-30本", "answer_start": 330, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ドムラは14世紀末から15世紀にかけて、ノヴゴロドのスコモローフたちの音楽が開花した時期に登場した楽器がドムラである。半球形の胴、短いネック、2弦を持つこの楽器は当時の実物が発見されていない。16世紀には、ドムリーシカ、バスドムラも現れた。\n\nバラライカは1688年のモスクワで親衛従兵の命令記録に、スコモローフがバラライカを弾いて歌っていたことが記されている。歴史上にバラライカが登場したもっとも早い時期の記録である。\nこのほか、フルートやソペリ・スヴィストコーヴァヤ、パンフルート、ヴォリンカ(バグパイプ)などの管楽器やブーベン(タンブリン)、ブリャチャーロ(小型のシンバル)などの打楽器も用いられ、11世紀には、すでにアンサンブルが生まれていた。キエフ大公スヴャトスラフ・ヤロスラヴィチの宮殿では、定期的に大編成の器楽アンサンブルが民謡を題材としたレパートリーとされた。\n19世紀末から20世紀にかけて、ワシーリー・アンドレーエフはこれらの楽器を復元・改良し、「大ロシア・オーケストラ」を組織した。", "qas": [ { "question": "ドムリーシカ、バスドムラが現れたのは何世紀のことですか。", "id": "tr-215-06-000", "answers": [ { "text": "16世紀", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「大ロシア・オーケストラ」を組織した人は誰ですか。", "id": "tr-215-06-001", "answers": [ { "text": "ワシーリー・アンドレーエフ", "answer_start": 405, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "イリオモテヤマネコ", "paragraphs": [ { "context": "イリオモテヤマネコ(西表山猫、Prionailurusbengalensisiriomotensis)は、ネコ科ベンガルヤマネコ属に分類される、ベンガルヤマネコの亜種である。\n1965年、八重山列島の西表島で発見された。\n20世紀に入って発見された中型以上の哺乳類は稀有であり、また当初はネコ類でも原始的な形質を有する新属・新種と発表されたこともあってその発見は大きく取り上げられた。\nしかし、現在は遺伝情報の分析により、独立種ではなく、アジア東部に生息するベンガルヤマネコの亜種に分類されている(ベンガルヤマネコに似ていること自体は、当初から指摘されていた)。\n国の特別天然記念物。", "qas": [ { "question": "イリオモテヤマネコが発見されたのは何年ですか?", "id": "tr-216-00-000", "answers": [ { "text": "1965年", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イリオモテヤマネコが生息している場所はどこですか?", "id": "tr-216-00-001", "answers": [ { "text": "西表島", "answer_start": 100, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イリオモテヤマネコは何の亜種ですか?", "id": "tr-216-00-002", "answers": [ { "text": "ベンガルヤマネコ", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "西表島に生息する国の特別天然記念物となっているネコの名前は?", "id": "tr-216-00-003", "answers": [ { "text": "イリオモテヤマネコ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本(西表島)の固有亜種。\n西表島は面積が290平方キロメートルほどで、これはヤマネコの住む島としては(またヤマネコの生息域としても)世界最小。\n分布域内では、主に標高200メートル以下にあるスダジイやカシからなる亜熱帯もしくは暖帯の森林に生息する。\n河川の周辺や低湿原、林縁などを好む。", "qas": [ { "question": "西表島の面積は?", "id": "tr-216-01-000", "answers": [ { "text": "290平方キロメートルほど", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤマネコの生息域として世界最小となる島とは?", "id": "tr-216-01-001", "answers": [ { "text": "西表島", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "体長はオス55-60センチメートル、メス50-55センチメートル、体重はオスで3.5-5キログラム、メスで3-3.5キログラムとオスの方がメスよりやや大きい。\n尾は先端まで太く、尾長は23-24センチメートル。\n胴が長く、四肢は太く短い。\n全身の地色は暗灰色や淡褐色で、腹部や四肢の内側はより淡く、あごは白色である。\n頭部の暗褐色の斑は頬に左右に2本ずつあり、他のベンガルヤマネコのように額から背面にかけて5-7本の縞模様が入るが、他のベンガルヤマネコとは違い肩の手前で途切れる。\n体側面には暗褐色の斑点、胸部には不規則に3-4本の帯模様が入る。\n尾全体は暗褐色であり、尾背面には不規則に暗褐色の斑点が入るが、尾腹面に斑紋が入らず、先端は暗色である。", "qas": [ { "question": "イリオモテヤマネコのオスとメスはどちらの方が小さいですか?", "id": "tr-216-02-000", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イリオモテヤマネコのあごは何色ですか?", "id": "tr-216-02-001", "answers": [ { "text": "白色", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イリオモテヤマネコのオスとメスはどちらの方が体重が重いですか?", "id": "tr-216-02-002", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イリオモテヤマネコのオスとメスはどちらの方が体長が大きいですか?", "id": "tr-216-02-003", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "耳介の先端は丸く黒色の毛で縁取られ、先端の体毛は房状に伸長しない。\nまた成獣の耳の背面は白濁色の虎耳状斑とよばれる斑紋がある。\nこの虎耳状斑は、他のベンガルヤマネコは幼獣の時から小さな白濁した斑があり、成長するにつれ白色になるが、イリオモテヤマネコは幼獣にはこの虎耳状斑は無く、成長しても白色にはならない。\n虹彩は淡い琥珀色である。\n吻端の体毛で被われない板状の皮膚(鼻鏡)は淡赤褐色をしており、大型で、鼻面も太い。\n肉球の幅はイエネコの24-30ミリメートルより大きく、29-37ミリメートルである。\n頭骨はイエネコに比べて細長いが、他のベンガルヤマネコとは大きな違いはない。\nしかし、他のベンガルヤマネコよりも頭骨が厚く、その分脳の容量も小さく、脳の重量は他のベンガルヤマネコのオスの42グラムに対して、イリオモテヤマネコのオスは30グラムと小型である。\n後頭骨の突起と聴胞が接しない。\n下顎の縫合部が短い。\n歯列は門歯が上下6本、犬歯が上下2本、小臼歯が上下4本、大臼歯が上下2本の計28本で、ヤマネコなどのネコ類より上顎前臼歯が1対少ない。\n亜熱帯に生息する哺乳類には珍しく、歯に年輪ができることが確認され、これにより年齢別での行動分析などができるようになると期待されている。\n臭腺(肛門腺)は他のベンガルヤマネコを含む他のネコ類は肛門内にあるのに対し、イリオモテヤマネコは肛門を取り囲むように存在する。\n遺伝的な差異がわずかであるにもかかわらず、このように形態的な差異が大きいことから、発見当時は新属新種とされた。", "qas": [ { "question": "イリオモテヤマネコとイエネコの肉球の幅はどちらが大きいですか?", "id": "tr-216-03-000", "answers": [ { "text": "イリオモテヤマネコ", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ベンガルヤマネコのオスとイリオモテヤマネコのオスの脳の重量はどちらが重いですか?", "id": "tr-216-03-001", "answers": [ { "text": "ベンガルヤマネコのオス", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イリオモテヤマネコの歯の種類の中で一番数が多いものは何ですか?", "id": "tr-216-03-002", "answers": [ { "text": "門歯", "answer_start": 410, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イリオモテヤマネコとベンガルヤマネコを比較して、頭骨が薄いのはどちらですか?", "id": "tr-216-03-003", "answers": [ { "text": "ベンガルヤマネコ", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1967年の学会発表時には、イリオモテヤマネコは食肉目ネコ科の新属イリオモテヤマネコ属の1属1種Mayailurusiriomotensisとされた。\n今泉は世界のヤマネコの中でも特に原始的な特徴を形態に残すものと指摘、その点から約1000万年前の中新世から、約300万年前の鮮新世前期に出現した、化石群メタイルルス属Metailurusと近縁な原始的な特徴を残した種であるとした。\nそういった観点から、イリオモテヤマネコの祖先は約300万年前に大陸から西表島などに分布域を広げたとした。\n一方で、他の専門家からはそれほど特殊なものではないとの見方が当初から強かった。\nそれでも形態的差異の大きさから、遺伝子解析の技術が確立されるまでは、独立種と考えられていた。", "qas": [ { "question": "今泉はイリオモテヤマネコの祖先は何年前に大陸から西表島に来たとしましたか?", "id": "tr-216-04-000", "answers": [ { "text": "約300万年前", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "遺伝子解析による分子系統学の研究からは、独立種ではなくベンガルヤマネコの亜種とされている。\n核型や核内のリボソームRNAの制限酵素断片長、ミトコンドリアDNA内の12SリボソームRNAおよびチトクロムbの分子系統学的解析はベンガルヤマネコと一致あるいはほぼ一致し、非常に近縁(ネコ科他種における種内変異あるいは個体変異の範疇)と推定されている。\nチトクロムbの塩基置換速度および多様度からベンガルヤマネコの他亜種とは18-20万年前に分化したと推定され、海洋地質学でも2万-24万年前には琉球諸島および大陸間に断続的な陸橋があったと推定されていることからこの時期に侵入したと推定されている。\n本亜種内の遺伝的多様性は乏しいと推定されている。\nさらにベンガルヤマネコ全体の遺伝的多様性を評価し12亜種を4亜種に整理するべきとする提案が2017年になされ、そこではイリオモテヤマネコはツシマヤマネコと同じP.bengalensiseuptilurusにまとめられている。\nこれに基づき、レッドリストの作成にあたる国際自然保護連合種保存委員会(IUCNSSC)の専門家委員会は、イリオモテヤマネコを暫定的にP.b.euptilurusのシノニムとしている。", "qas": [ { "question": "ベンガルヤマネコの他亜種と分化した時期はいつだと推定されていますか?", "id": "tr-216-05-000", "answers": [ { "text": "18-20万年前", "answer_start": 208, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イリオモテヤマネコが西表島に侵入した時期はいつだと推定されていますか?", "id": "tr-216-05-001", "answers": [ { "text": "2万-24万年前", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "夜行性で、特に薄明薄暮時に活動する。\n昼間は樹洞や岩穴などで休む。\n1-7平方キロメートルの行動圏内で生活する。\n行動圏内にある石や切り株、藪などに糞尿をかけて縄張りを主張する。\n地表性だが、樹上に登ったり、水に入ったり、潜水することもある。", "qas": [ { "question": "イリオモテヤマネコの生活行動範囲はどれくらいですか?", "id": "tr-216-06-000", "answers": [ { "text": "1-7平方キロメートル", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "食性は動物食で、哺乳類や鳥類、爬虫類、両生類、魚類、甲殻類などを、日に400-600グラムを捕食する。\n他のヤマネコ類はネズミ類やウサギなどの小型哺乳類が主要な餌であるのに対し、西表島にはネズミ類やウサギなどの小型哺乳類が元来生息していない上にイリオモテヤマネコと競合するような肉食哺乳類が他には生息しておらず、生息環境や餌資源などの棲み分けが必要ないために、様々な生物を幅広く餌としている。\n哺乳類ではクマネズミ、クビワオオコウモリ、リュウキュウイノシシの幼獣などを、鳥類ではカルガモ、オオクイナ、コノハズク、シロハラ、シロハラクイナ、爬虫類ではヘビ類や、キシノウエトカゲ、両生類ではサキシマヌマガエルなどを、その他、マダラコオロギ、カニなどを食べる。\nツグミより大きい鳥を捕食する際、他のネコ類は羽毛をむしって食べるが、イリオモテヤマネコは大きな鳥類でも羽毛をむしらず丸ごと食べる。\n他の多くのネコ類のように脊髄を破壊して獲物をすぐに仕留めることはせず、動かなくなるまで咥え続ける。\n狩り場の中心は湿地や水辺であり、水に入って泳いだり潜水して水鳥や魚、テナガエビ類などを捕らえることもある。", "qas": [ { "question": "イリオモテヤマネコの1日の捕食量はどれくらいですか?", "id": "tr-216-07-000", "answers": [ { "text": "400-600グラム", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イリオモテヤマネコの食性は何ですか?", "id": "tr-216-07-001", "answers": [ { "text": "動物食", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "糞分析の結果では、食料の中で出現率が多いのは、鳥類が約60%、クマネズミが約30%、昆虫類が約30%などであり、トカゲ類やカエル類は15-20%程度で、クビワオオコウモリの出現率は3-17%、リュウキュウイノシシなどの出現率は1%弱ほどである。\nその他の魚類や甲殻類の出現率は3-4%程度である。\n推定重量に対する出現率が多いのは水鳥類であり年間を通して60%前後、次いでクマネズミが年間を通して10-30%ほどを占める。\n食性には季節による変化も見られ、クマネズミやカエル類は年間を通して捕食され、春から夏にかけてはトカゲ類、秋から冬にかけてはマダラコオロギやクビワオオコウモリが多くなる傾向にある。", "qas": [ { "question": "食料の中で出現率が最も多いのは何ですか?", "id": "tr-216-08-000", "answers": [ { "text": "鳥類", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "食料の中で出現率が最も少ないものは何ですか?", "id": "tr-216-08-001", "answers": [ { "text": "リュウキュウイノシシ", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1年間の推定重量に対する出現率が半数以上を占める種類は何ですか?", "id": "tr-216-08-002", "answers": [ { "text": "水鳥類", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "春から夏にかけて多く捕食される生物の種類は何ですか?", "id": "tr-216-08-003", "answers": [ { "text": "トカゲ類", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "普段は夜行性もしくは薄明薄暮性であるが、繁殖期には日中も活動するようになる。\n繁殖期以外は単独で行動するが、繁殖期中の交尾期になるとつがいで行動するようになる。\n繁殖期は12月から3月にかけてであり、メスは繁殖期中に発情を何回か繰り返すが、発情のピークは1-2月頃である。\n2月下旬になると2週間程度の絶食期があり、その間はメスの発情が特にピークを迎え、オスとメスは常時行動を共にするようになり、この間に妊娠をすると考えられている。\n繁殖形態は胎生で、4-6月に樹洞や洞窟などで1回に1-3匹の幼獣を産む。\nこの出産や育児用の樹洞は、風通しがよく、乾燥した場所が選ばれる。\n生まれた子供は約11ヶ月の間、メスに育てられる。\n幼獣は秋から冬にかけて独立し始めるが、数ヶ月から最大で数年の間、母親の行動圏にとどまる。\n生後20ヶ月で性成熟する。", "qas": [ { "question": "イリオモテヤマネコが日中も活動する時期はいつですか?", "id": "tr-216-09-000", "answers": [ { "text": "繁殖期", "answer_start": 20, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メスは1回の出産で何匹産みますか?", "id": "tr-216-09-001", "answers": [ { "text": "1-3匹", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イリオモテヤマネコの行動圏の面積は季節的な変化や個体差、地域差は見られるものの繁殖期には行動圏が狭くなり、平均的な行動圏はオスで1.5-4.9平方キロメートル、メスで0.85-2.75平方キロメートルである。\nこの行動圏は他の個体の侵入を許さないことから、縄張りとほぼ同一と考えられている。\nオスとメスの行動圏は重複しており、オスの行動圏内に1-2匹のメスが生息している。\n通常は同じ性同士の行動圏は大きくは重複しないが、一部重複していることがある。\nこの行動圏の重なりが占める場所は、狩り場となる場所が大きい。\nこの行動圏内を狩りやマーキングをしながら、3-4日間かけて巡回していると考えられている。\n若いオスや一部のオスは行動圏を持たず、島内を放浪しながら縄張りが空くのを待ち、定住しているオスがいない場所を見つけると、そこを縄張りとする。\nメスは幼獣を自分の縄張りに残し、次の繁殖期を迎えると新しく縄張りを形成する。", "qas": [ { "question": "オスとメスの行動圏はどちらが広いですか?", "id": "tr-216-10-000", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "野生下での寿命は推定で7-8年、飼育下の寿命は8-9年である。\nしかし今泉(1994)は交通事故死や罠などによる人為的な影響を考え合わせると、4-5歳であるかもしれないとしている。\n1979年6月14日に親ネコとはぐれて生後約5週齢で保護されたオスの個体「ケイ太」は、沖縄こどもの国動物園で飼育され、老衰で死ぬまで13年間生き、推定年齢は13年2ヶ月とされる。\n国立科学博物館で飼育されたメスの個体の年齢は推定で9歳7ヶ月と見られる。\n1996年8月6日に交通事故に遭い保護されたオスの個体「よん」は、環境省西表野生生物保護センターで飼育期間最長となる14年8ヶ月飼育され、推定年齢は最高齢となる15歳1ヶ月とみられる。", "qas": [ { "question": "野生下での寿命と飼育下の寿命ではどちらが期間が長いですか?", "id": "tr-216-11-000", "answers": [ { "text": "飼育下の寿命", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ケイ太」と「よん」を比べると推定年齢が短いのはどちらですか?", "id": "tr-216-11-001", "answers": [ { "text": "「ケイ太」", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「よん」が飼育された場所はどこですか?", "id": "tr-216-11-002", "answers": [ { "text": "環境省西表野生生物保護センター", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "沖縄こどもの国動物園で飼育されたオスネコの名前は何ですか?", "id": "tr-216-11-003", "answers": [ { "text": "「ケイ太」", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イリオモテヤマネコの発見は1965年の戸川幸夫、記載は1967年に当時の国立科学博物館動物部長であった今泉吉典による。\n西表島に野生ネコがいることは以前から現地では知られており、「ヤママヤー」(山にいるネコ)、「ヤマピカリャー」(山で光るもの)、「メーピスカリャー」(目がぴかっと光るもの)などと呼称して、「ピンギマヤー」と呼ぶ野良猫や、単に「マヤー」やあるいは「マヤグヮー」と呼ぶ飼い猫とは区別していた。\n一方で、飼い猫が野生化した野猫ではないかとも考えられていた。\n沖縄がアメリカの占領下にあった頃に、アメリカの大学による総合調査が行われたが、その時もイリオモテヤマネコの発見には至らなかった。", "qas": [ { "question": "「ヤママヤー」、「ヤマピカリャー」とは何を指した呼称ですか?", "id": "tr-216-12-000", "answers": [ { "text": "イリオモテヤマネコ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イリオモテヤマネコの発見者は誰ですか?", "id": "tr-216-12-001", "answers": [ { "text": "戸川幸夫", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1962年にこれらの情報を基に琉球大学の高良鉄夫が幼獣を捕獲したが、成獣の標本は入手できなかった。\n1964年には早稲田大学探検部の高野凱夫がヤマネコが生息しているという噂を今泉らに伝えた。\n沖縄の本土復帰に先立つ1965年2月、八重山を訪れることになった動物文学作家の戸川幸夫が、那覇市で琉球新報の記者から「西表島ではヤマネコがいるという噂がある」ことを聞いた。\n戸川はこれをよくあるヤマイヌ(ニホンオオカミ)発見談のようなものであり、飼い猫が野生化したものであると考えたが、知人であった高良に相談したところ、彼はその噂を知っており、しかも一定の信頼性が感じられることを説明した上で、戸川に証拠集めを依頼した。\n戸川は当時担当していた記事の取材を兼ね西表島に渡り、ヤマネコの情報の入手や標本の収集に奔走した。\nしかし西表島では食糧不足のため捕獲されたヤマネコは焼いて汁にして食べるか、捨てていたためにヤマネコの標本の入手は容易ではなかった。\nその後、島の西部にある網取部落を訪れた際に、高良に師事していた中学校の教師が、イノシシ用の罠で捕獲されたヤマネコの死体を入手し、皮を高良に送り、その他は埋めたことを聞きつけ、戸川らはこれを掘り起こし、頭骨を入手した。\nまた網取部落付近で手に入れた2個の糞を発見している。\n同時に、浦内川沿いにあるイナバ部落の漁師が皮を保管しており、これも手に入れた。\nこの3つの標本を手に再び琉球大学の高良のもとを訪れ、網取部落の中学校教師が高良に送ったヤマネコの皮を入手し、これらの標本を国立科学博物館の今泉のもとに送り、日本哺乳動物学会に鑑定を依頼した。\n1965年3月14日に日本哺乳動物学会において、これらの標本の鑑定がなされた。\n鑑定の結果、新種もしくは新亜種らしいということにはなったが、標本が足りなく、完全な標本もしくは生体の入手が求められた。\nこの発表の後も、哺乳動物学会員の中には、単なる奇形であるか、もしくは過去に船乗りが海外産のヤマネコを西表島に放したものであると考えるものもいた。", "qas": [ { "question": "戸川幸夫の職業は何ですか?", "id": "tr-216-13-000", "answers": [ { "text": "動物文学作家", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "西表島でヤマネコの標本収集に奔走した人は誰?", "id": "tr-216-13-001", "answers": [ { "text": "戸川", "answer_start": 307, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1965年6月に戸川は、生態情報の収集や、完全な標本の入手、生け捕りを目標とし、再び高良とともに西表島を訪れた。\nこの時に戸川らは、生け捕りをするために箱罠やマタタビを持ち込んでいる。\nしかし、猟師によって捕らえられるのは多くて年に1、2頭であったことや、生息個体数がさほど多くはないと推定していたため、戸川はヤマネコを生け捕りできることには期待はしていなかった。\nこれに先立つ1965年5月5日に、島南部の南風見田の浜にある、通称“マーレー”と呼ばれる小さな滝の下で、遠足にきていた大原中学校の生徒がけがをして弱っているオスを発見し、引率の教諭が捕獲した。\n別の教諭がこの個体の皮をホルマリン標本に、頭骨や骨格を木箱に入れ学校の裏に埋め、後に戸川らにより掘り起こされ、この個体がイリオモテヤマネコのタイプ標本となった。\nその後も、由布島で砕けた幼獣の頭骨を手に入れ、今泉により復元されている。\nまた、戸川はこの調査時に、イリオモテヤマネコよりも大きいオオヤマネコの噂を聞きつけ、調査を行っている。\n戸川は帰京前に、ヤマネコに生体は100ドル、死体は30ドルなどと懸賞金をかけ、竹富町長や八重山毎日新聞の協力を得て、西表島の掲示板などで告知した。\nなおこの時、オオヤマネコにも生体には200ドル、死体には100ドルの懸賞金をかけている。\nこの調査では、2体分の全身骨格、頭骨2つ、毛皮3枚などを持ち帰った。\nこの毛皮の内1枚は大原中学校の学生らが捕獲した個体のもので、ヤマネコのものと鑑定されたが、由布島で手に入れたものは標本が小さく鑑定は保留され、残りの石垣島で手に入れた1枚はイエネコのものと鑑定された。", "qas": [ { "question": "懸賞金をかけられたヤマネコとオオヤマネコはどちらが高額でしたか?", "id": "tr-216-14-000", "answers": [ { "text": "オオヤマネコ", "answer_start": 530, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヤマネコとオオヤマネコの死体にかけられた懸賞金が低額なのはどちらですか?", "id": "tr-216-14-001", "answers": [ { "text": "ヤマネコ", "answer_start": 458, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "タイプ標本となったイリオモテヤマネコはオスかメスかどちらでしたか?", "id": "tr-216-14-002", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マーレーでオスを発見したのはいつでしたか?", "id": "tr-216-14-003", "answers": [ { "text": "1965年5月5日", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1966年1月に仲間川流域でイノシシ罠で捕獲されたヤマネコの死体が、琉球大学の高良のもとに送られているが、その後しばらくは捕獲されたという情報は入らなかった。\n1966年12月に仲間川中流域で猟師である黒島宏により、オスの成獣が生け捕られたが、これは直後に逃げられた。\nしかし、そのすぐ後に再び黒島が別のオスを捕獲した。\n同年1月15日には、仲間山付近でメスの若い個体が捕獲された。\n報奨金については国立科学博物館の庭園の修繕費を回すことになったが、捕獲した猟師や地元の人々は1頭に付き1000-3000ドル程度を期待していた。\nしかし、営林署長の説得により、日当及び礼金として予算内での謝礼金を支払っている。\n一方、時の竹富町長は日本政府南方連絡事務所や琉球政府に掛け合い、天皇へこの2頭のヤマネコを献上し、西表島の名を広めかつ、産業開発の促進をすることを目的に、那覇市へと渡った。\nと同時に、竹富町役場は、琉球政府から飼育許可を得ていることを理由に、国立科学博物館職員の手からヤマネコを取り上げ、役場へと持ち帰った。\n結局、戸川の新聞社への働きかけや、今泉の文部省(当時)を通じた琉球政府や南方連絡事務所への働きかけにより、南方連絡事務所は天皇への献上手続きを拒否し、琉球政府は竹富町長を説得し、最終的に国立科学博物館へと運ばれることが決定した。", "qas": [ { "question": "メスの若い個体が捕獲されたのは1966年のいつですか?", "id": "tr-216-15-000", "answers": [ { "text": "1月15日", "answer_start": 163, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "竹富町長は誰に2頭のヤマネコを献上しようとしましたか?", "id": "tr-216-15-001", "answers": [ { "text": "天皇", "answer_start": 338, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この2頭は、1967年3月20日に東京・羽田空港へと空輸された。\n翌日には今泉吉典宅にしばらく飼育され、発見者である戸川幸夫宅で国立科学博物館の委託を受け約2年間飼育され、生態が観察された。\nその後、国立科学博物館に移され生態が観察され、オスは1973年4月25日に、メスは1975年12月13日に死亡した。\nオスの皮は仮剥製に、血は染色体研究用に、その他の体は液浸標本に、メスは本剥製にされ、展示されている。\n1967年5月に発行された哺乳類動物学雑誌の第3号・第4号で、ネコ科内でも原始的な分類群であるメタイルルス属Metailurusに近縁な新属新種として英文で発表された。\n旧属名Mayailurusは、前半のmayaは生息地である西表島での方言でネコを意味し、-ailurusは古代ギリシャ語でネコを意味する。\niriomotensisは「西表の」という意味である。\n和名は、今泉は発見者の戸川の名を取って、トガワヤマネコと名付けるよう提案したが、戸川はこれを辞退し、ツシマヤマネコに倣い発見地の西表島の名前を取って名付けるよう提案をし、高良の賛成もあって、イリオモテヤマネコと名付けられた。", "qas": [ { "question": "約2年間飼育されたオスとメスはどちらが長生きしましたか?", "id": "tr-216-16-000", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "トガワヤマネコという名前の提案者は誰ですか?", "id": "tr-216-16-001", "answers": [ { "text": "今泉", "answer_start": 393, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヤマネコの和名の第一候補は何でしたか?", "id": "tr-216-16-002", "answers": [ { "text": "トガワヤマネコ", "answer_start": 409, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一般には、現地でヤマピカリャーなどと呼ばれてきたネコ科動物は、イリオモテヤマネコであったと考えられている。\nしかし体長がイエネコの倍ほど、尾が約60センチメートルほどで、イリオモテヤマネコとは模様の違う大型のネコ科動物が現地の人によって幾度か目撃されている。\nこの“大ヤマネコ”はヤマピッカリャー(新城島)、クンズマヤー(祖納地区)、トウトウヤー(古見地区)などと呼ばれて、イリオモテヤマネコやイエネコ(野良猫)とは区別されてきた。\n1965年には戸川が地元猟師の話を受け、猟師が数ヶ月前に虎毛のオオヤマネコを殺し、死体を捨てたという南風見を調査している。\n10日前までは白骨化してそこにあったと言うが、折からの雨により流失していた。\nその猟師は寸法を計測しており、肩高は大人の膝くらい、尾長は約60センチメートル、全長はイエネコの2倍ほどであり、イリオモテヤマネコのようなヒョウ柄ではなく、緑がかった虎毛であったという。", "qas": [ { "question": "大ヤマネコは祖納地区では何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-216-17-000", "answers": [ { "text": "クンズマヤー", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大ヤマネコは古見地区では何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-216-17-001", "answers": [ { "text": "トウトウヤー", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大ヤマネコは新城島では何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-216-17-002", "answers": [ { "text": "ヤマピッカリャー", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "開発による生息地の破壊、イヌによる捕食、交通事故、イノシシ用の罠やカニ罠による混獲などにより生息数は減少している。\n第2次調査(1982-84年)における生息数は83-108匹で、第3次調査(1992-93年)では99-110匹、第4次調査(2005-07年)では100-109匹と推定されている。\n第3次調査時における推定個体数は、第4次調査と同じ推定方法を用いると108-118匹と推定され、個体数は減少していると考えられている。", "qas": [ { "question": "第2次調査と第3次調査における推定生息数はどちらの調査が少ないですか?", "id": "tr-216-18-000", "answers": [ { "text": "第2次調査", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第2次調査、第3次調査、第4次調査の中で最も推定生息数が多いのは第何次調査ですか?", "id": "tr-216-18-001", "answers": [ { "text": "第3次調査", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第4次調査では推定生息数は何匹ですか?", "id": "tr-216-18-002", "answers": [ { "text": "100-109匹", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "掃除魚", "paragraphs": [ { "context": "掃除魚(そうじうお、Cleanerfishes)とは、他種の魚の死んだ皮膚組織や外部寄生虫を食べる習性をもつ魚類の総称。\nこれは双方が利益を得る生態学的相互作用、すなわち相利共生の一例として理解されている。\nベラ・ハゼ・シクリッド・ナマズなど、さまざまな魚が掃除行動をすることが知られている。\nまた魚ではないが、エビ類にも同様の掃除行動をとる種が多くいる。", "qas": [ { "question": "他種の魚の死んだ皮膚組織や外部寄生虫を食べる習性をもつ魚類を総じて何と言うの?", "id": "tr-217-00-000", "answers": [ { "text": "掃除魚", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "相利共生の一例として理解できる魚類とは何?", "id": "tr-217-00-001", "answers": [ { "text": "掃除魚", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "魚類以外に掃除行動をとる種類とは何?", "id": "tr-217-00-002", "answers": [ { "text": "エビ類", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "掃除魚が食べる生物とは?", "id": "tr-217-00-003", "answers": [ { "text": "外部寄生虫", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "少なくとも29科、111種の魚類が掃除行動をとることが知られている。\n掃除魚はほとんどすべての環境に分布するが、熱帯のサンゴ礁における多様性が最も顕著である。\nジャイアントケルプが繁茂するカリフォルニアの沿岸にも、18種の掃除魚が生息している。", "qas": [ { "question": "掃除魚の種類は何種いますか?", "id": "tr-217-01-000", "answers": [ { "text": "111種", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "多様な掃除魚が生息している地域はどこですか?", "id": "tr-217-01-001", "answers": [ { "text": "熱帯", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "多様な掃除魚が生息しているのは熱帯のどういった地形ですか?", "id": "tr-217-01-002", "answers": [ { "text": "サンゴ礁", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カリフォルニアの沿岸に生い茂っている海藻とは何?", "id": "tr-217-01-003", "answers": [ { "text": "ジャイアントケルプ", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "もっとも有名な掃除魚はホンソメワケベラなど、インド洋・太平洋のサンゴ礁に分布するソメワケベラ属のベラ類や、コバンザメの仲間である。\nベラ類は個体ごとにクリーニング・ステーションと呼ばれる縄張りをもち、掃除を受けにやってくる魚(ホストと呼ばれる)を待ち受けている。\nステーションに近づいたホストは体を斜めに傾けたり、口を開けたりといった特定の遊泳行動をとることで掃除魚を呼び寄せる。\n掃除魚はホストの体表全体、ときには口や鰓の中までクリーニングする。\nホストが身震いや口の開け閉めを始めたときが、掃除行動終了のシグナルとなる。", "qas": [ { "question": "掃除を受けにやってくる魚を何といいますか?", "id": "tr-217-02-000", "answers": [ { "text": "ホスト", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "掃除をする縄張りのことを何といいますか?", "id": "tr-217-02-001", "answers": [ { "text": "クリーニング・ステーション", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ホストが掃除魚を呼び寄せる時に行う行動を何というの?", "id": "tr-217-02-002", "answers": [ { "text": "遊泳行動", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "掃除魚の中で代表的な種類とは何?", "id": "tr-217-02-003", "answers": [ { "text": "ホンソメワケベラ", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "驚くべきことに、通常は掃除魚ぐらいの小さな魚を食べるような大型の捕食魚を掃除する場合でも、掃除魚が捕食されることはない。\nソメワケベラ類はほとんどの栄養を掃除から得ているらしく、水槽での飼育下では充分な餌を得られずに短期間で死んでしまうことが多い。\nこれに対しコバンザメの仲間は、常に頭の吸盤でホストの体に張り付いて行動を共にしてスタンバイし、寄生虫を見つけ次第クリーニングを行い、時にはホストの食べ残しも貰う。", "qas": [ { "question": "ソメワケベラ類は、栄養の大半を何から得ていますか?", "id": "tr-217-03-000", "answers": [ { "text": "掃除", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "頭に吸盤がある魚の名前は?", "id": "tr-217-03-001", "answers": [ { "text": "コバンザメ", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "掃除行動はほかにもさまざまな分類群の魚でみられる。\nGobiosoma属やElacatinus属などのハゼ類は、西部大西洋でソメワケベラ類と同じような掃除行動を行っており、これは見事な収斂進化の一例である。\nただしベラと違って、掃除だけでなくさまざまな小型生物を捕食することからも栄養を得ているため、一般に飼育しやすい。\nこのようなハゼの一種Elacatinusevelynaeは、外部寄生虫が乏しいとホストの鱗や粘液を食べることがあるので、この関係は完全に相利的とはいえないものになっている。\nそれでもこの共生関係が崩れないのは、寄生虫の数が季節や場所によって大きく異なり、大きな魚にとっての正味の利益が掃除魚のずるによる損失を上回るためである。", "qas": [ { "question": "ハゼ類とベラ類はどちらの方が一般飼育が容易ですか?", "id": "tr-217-04-000", "answers": [ { "text": "ハゼ類", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Gobiosoma属やElacatinus属は何類に分類されますか?", "id": "tr-217-04-001", "answers": [ { "text": "ハゼ類", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハゼ類が掃除行動を行っている水域はどこ?", "id": "tr-217-04-002", "answers": [ { "text": "西部大西洋", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Elacatinusevelynaeは何類に分類されるの?", "id": "tr-217-04-003", "answers": [ { "text": "ハゼ類", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "汽水魚は掃除共生の興味深い例として、南アジアの汽水域にすむ2種のEtroplus属のシクリッドが挙げられる。\nこのうち小さいほうのE.maculatusが掃除魚であり、それよりずっと大きいE.suratensisがホストとして掃除される。\n淡水魚は海水魚と比較し、淡水魚には掃除魚が少ない。\n一例としては、ナマズの一種であるホワイトライン・トーキングキャット(ドラス科)が魚食性のカラシンの一種Hopliascf.malabaricusを掃除することが知られている。", "qas": [ { "question": "E.maculatusとE.suratensisはどちらが小さいですか?", "id": "tr-217-05-000", "answers": [ { "text": "E.maculatus", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "E.maculatusとE.suratensisはどちらが掃除魚ですか?", "id": "tr-217-05-001", "answers": [ { "text": "E.maculatus", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "掃除魚が多いのは淡水魚と海水魚のどちらですか?", "id": "tr-217-05-002", "answers": [ { "text": "海水魚", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホワイトライン・トーキングキャットとHopliascf.malabaricusはどちらがホストですか?", "id": "tr-217-05-003", "answers": [ { "text": "Hopliascf.malabaricus", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "掃除魚の存在が生態系に与える影響の程度は、個々の環境によって異なると考えられている。\n主に熱帯のサンゴ礁域において、掃除魚を一時的に環境から取り除く、あるいは新たに追加することで、魚類の行動や多様性に生じる変化を観察する実験が行われているが、その結果はさまざまである。\nカリブ海で実施された掃除魚の除去実験では、ホストとなる魚類の減少と寄生虫感染の増加が認められた。\n一方、ハワイでの同種の実験ではそのような変化はみられず、グレート・バリア・リーフでの6ヶ月にわたる実験でも、魚の数や種類に影響は観察されなかった。\nしかし、紅海およびオーストラリアの小規模なサンゴ礁においては、短期的な変動こそなかったが、18-20ヶ月後には魚類の多様性が著しく低下することが示されている。\n紅海とオーストラリアでの長期実験で最も強く影響を受けていたのは、サンゴ礁の多数の生物に影響を与えるであろう大型の遊泳性魚類であった。\n掃除魚はサンゴ礁に大型魚を呼び寄せ、それに伴う多様な生態系を維持するためのキーストーン種として機能し得ることをこの結果は示している。", "qas": [ { "question": "カリブ海とハワイで行われた掃除魚の除去実験で、ホストの魚類が減少したのはどちらですか?", "id": "tr-217-06-000", "answers": [ { "text": "カリブ海", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カリブ海、グレート・バリア・リーフ、ハワイで行われた掃除魚の除去実験で、寄生虫感染が増加したのはどこですか?", "id": "tr-217-06-001", "answers": [ { "text": "カリブ海", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "掃除魚はサンゴ礁に何を呼び寄せる役割を担っているの?", "id": "tr-217-06-002", "answers": [ { "text": "大型魚", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イソギンポ科のニセクロスジギンポAspidontustaeniatusやミナミギンポPlagiotremusrhinorhynchosのように、掃除魚に擬態することで利益を得る魚類も知られている。\nこれら2種は掃除魚ではないが、その形態はホンソメワケベラによく似ており、クリニーングを受けようと近づいたホストの健康な皮膚や鱗を齧り取って逃走する。\nただしこれは飼育下で観察された行動に基づく考えであり、野外調査によればニセクロスジギンポの主な餌は魚の鱗や皮膚ではなく魚卵やゴカイ類であることから、基本的には単に捕食を逃れるための擬態とみなすべきであるという意見もある。", "qas": [ { "question": "ニセクロスジギンポは何科の魚ですか?", "id": "tr-217-07-000", "answers": [ { "text": "イソギンポ科", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミナミギンポは何科の魚ですか?", "id": "tr-217-07-001", "answers": [ { "text": "イソギンポ科", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニセクロスジギンポとミナミギンポは何の魚に類似していますか?", "id": "tr-217-07-002", "answers": [ { "text": "ホンソメワケベラ", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "掃除魚でないのはニセクロスジギンポとホンソメワケベラのどちらですか?", "id": "tr-217-07-003", "answers": [ { "text": "ニセクロスジギンポ", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "宇宙ステーション補給機", "paragraphs": [ { "context": "宇宙ステーション補給機(うちゅうステーションほきゅうき、H-IITransferVehicle、略称:HTV)は、国際宇宙ステーション(ISS)へ食料・水などの物資や機材を届ける日本の無人宇宙補給機であり、愛称はこうのとり(KOUNOTORI)である。宇宙開発事業団(NASDA)と後継法人の宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発し、三菱重工業や三菱電機、IHIエアロスペースなどの大小100社程度の企業が製造した。H-IIBロケットに搭載されて種子島宇宙センターから打ち上げられ、高度約400キロメートル上空の軌道上を周回する国際宇宙ステーション(ISS)へ食糧や衣類、各種実験装置などの最大6.2トンの補給物資を送り届ける。その後、使わなくなった実験機器や使用後の衣類などを積み込み、大気圏に再突入させて断熱圧縮によって焼却する。ISSとの接続にはハーモニー付近に設置されたロボットアームで掴んでハーモニーの下部の共通結合機構(CBM)に結合させる方法が採られる。初号機以降、主要機器の国産化が進められたことにより3号機でHTVの開発は完了し、4号機以降は運用機として量産が行われている。三菱重工業はプライムメーカーとして開発に携わり、全部で約350社の企業が開発に参画している。", "qas": [ { "question": "宇宙ステーション補給機は、どの国で開発・製造したものであるか?", "id": "tr-218-00-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宇宙ステーション補給機には、最大何トンまでの補給物資を、搭載できるの?", "id": "tr-218-00-001", "answers": [ { "text": "6.2トン", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "HTVの愛称は何ですか?", "id": "tr-218-00-002", "answers": [ { "text": "こうのとり", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "HTVの開発に参画した企業は、約何社か?", "id": "tr-218-00-003", "answers": [ { "text": "約350社", "answer_start": 523, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1988年、日本、カナダ、アメリカ合衆国、および欧州宇宙機関(ESA)加盟国の政府間で宇宙基地協力協定(IGA)が署名された。1993年にロシア連邦も加わり、1994年に現在の国際宇宙ステーション計画が誕生した。こうした中で、1994年7月の宇宙ステーション計画の了解覚書協議において、アメリカ航空宇宙局(NASA)は宇宙ステーションへの輸送を、国際パートナーがスペースシャトルでの輸送経費を実費負担する方式から、各パートナーごとが輸送能力を提供することを原則とする方式への変更を提案した。これを受け、日本の宇宙開発事業団(NASDA)は1995年に宇宙ステーション補給機の概念設計を開始し、1997年にHTV開発に着手した。1998年2月24日に署名された宇宙基地了解覚書(MOU)においては、日本が国際宇宙ステーションへの補給義務を負うことが国際的に約束された。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国とロシア連邦のうち、IGAにより遅く参加してのは、どの国?", "id": "tr-218-01-000", "answers": [ { "text": "ロシア連邦", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロシア連邦がIGAに参加したのは、いつですか?", "id": "tr-218-01-001", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1998年2月24日に何が署名されたことにより、日本が国際宇宙ステーションへの補給義務を負うことが国際的に約束されたか?", "id": "tr-218-01-002", "answers": [ { "text": "宇宙基地了解覚書", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その後、2003年のコロンビア号空中分解事故によってスペースシャトル退役への流れが加速したことにより、HTVを含めた無人宇宙補給機の重要性が高まっていった。当初、人工衛星基準の設計・製作経験しかない日本がHTVをISSへ全自動ランデブーさせる構想を提案したことに対し、NASA側は難色を示して拒絶したという。ちなみに、当初HTVはH-IIAロケットに液体ロケットブースター(LRB)1基を追加した212型で打ち上げる前提で開発が進められていた。しかし再検討の結果、LRBを追加するより、1段目を大型化する方が経済性、確実性、輸送能力などの点でより優れていると判断され、H-IIBロケットの開発が決定した。なお、日本ではHTVの前に再使用型宇宙往還機であるHOPE(ホープ、H-IIOrbitingPlane)の開発が進められていた。HOPEはISSの輸送用途にも考えられていたが、再利用型より使い捨て型のHTVでの輸送の方が費用対効果が優れているということで、結局HOPEが採用されることはなかった。なお後にHOPEは開発自体が凍結されている。", "qas": [ { "question": "日本でHTVの前に開発が進められていた再使用型宇宙往還機は、何と呼ばれたの?", "id": "tr-218-02-000", "answers": [ { "text": "HOPE", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "無人宇宙補給機の重要性が上昇につながった、2003年の事故は、何ですか?", "id": "tr-218-02-001", "answers": [ { "text": "コロンビア号空中分解事故", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "開発が始まったばかりの時のHTVは、H-IIAロケットに何を1基追加した212型で打ち上げる前提で開発が進められていたか?", "id": "tr-218-02-002", "answers": [ { "text": "液体ロケットブースター", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "技術実証機の建造費約200億円を含んだ総開発費は677億円、2号機以降の1機あたり建造費は約140億円である。1機目のHTV技術実証機には、「おおすみ」や「はやぶさ」のような他の国産宇宙機に付けられる愛称がつけられなかった。これは、補給機を再利用せず使い捨てにする用途のためであったが、2号機以降はより親しみを持ってもらうために2010年8月27日から9月30日までの期間に愛称が一般公募され、同年11月11日に「こうのとり」という愛称が発表された。選定理由は赤ん坊や幸せといった大切なものを運ぶコウノトリのイメージが、HTVのミッション内容を的確に表しているから、というものであった(愛称決定後、技術実証機を便宜上「こうのとり1号機」と呼ぶこともある)。なお、有効応募総数は17,026件、「こうのとり」の提案者数は217名で、提案者には特典として認定書・記念品が届けられ、抽選で選ばれた6組が、2号機から7号機まで毎回1組ずつ、名付け親の代表として種子島宇宙センターでの打上げを見守る。", "qas": [ { "question": "HTVの技術実証機と2号機のうち、建造費がより多くかかったのは、どちらですか?", "id": "tr-218-03-000", "answers": [ { "text": "技術実証機", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「こうのとり」という愛称は、いつからいつまでの一般公募により決まったのか?", "id": "tr-218-03-001", "answers": [ { "text": "2010年8月27日から9月30日", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "HTVの愛称が決まったのは、2010年何月何日なの?", "id": "tr-218-03-002", "answers": [ { "text": "11月11日", "answer_start": 199, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "HTVは当初から補給キャリアの組み替えにより様々な輸送需要に対応したり、将来は有人宇宙船や軌道間輸送機に発展させることを容易にしたりするため、モジュール設計が行われている。当初は、与圧短型、与圧長型、与圧・非与圧混載型の3形態が考えられたが、その全てに対応したものを開発すると開発費が高騰してしまい、日本が独自の新輸送機開発を行う根拠としてスペースシャトルより費用対効果があることを示す必要があったため、与圧物資と非与圧物資を搭載する「混載型」のみが開発された。そのため、組み替え形態の開発は将来構想となったが、モジュール単位で開発して後で組み合わせることが可能になり、開発の効率化にも役立った。大きく分けると、前側2/3程度が補給キャリア、後側1/3程度が電気・推進モジュールである。HTVの総部品点数は約120万点に上り、H-IIBロケットの約100万点よりも多く、打ち上げ時にかかる3.2Gの加速圧と振動に耐えられる強度を持っている。", "qas": [ { "question": "HTVを前側と後側に大きく分けた時、前側で最も多くの部分を占めるのは、何か?", "id": "tr-218-04-000", "answers": [ { "text": "補給キャリア", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "当初のHTVにおいては、いくつの形態が考えられていましたか?", "id": "tr-218-04-001", "answers": [ { "text": "3形態", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当初、考えられていた3形態のうち、結局開発に至ったのは、どの形態だけか?", "id": "tr-218-04-002", "answers": [ { "text": "混載型", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "HTVは宇宙空間での有人使用に対応するため、通常の人工衛星やロケットと違い、故障や誤操作が1つ起きても任務が継続できる1フェイルオペレーティブ(Failoperative)、故障や誤操作が2つ起きても有人安全に影響を及ぼさない2フェイルセーフ(Failsafe)の耐故障設計を行っている。これは「きぼう」と同じ設計思想だが、HTV固有の安全設計もなされており、各開発フェーズ(基本設計段階・フェーズ1、詳細設計段階・フェーズ2、システム試験後評価段階・フェーズ3)ごとに行われる安全審査でメーカー安全審査、JAXA安全審査を受審し、NASA安全審査に至っては計6回受審している。また、HTVがISSに接近している段階で緊急事態が生じた場合、ISS搭乗員によるHTV運用にかかる緊急コマンドの送信端末であるHTV専用コマンド端末(HCP:ハードウェアコマンドパネル)がある。地上側が事態を把握し支援するのが間に合わなくても、搭乗員が端末を使って緊急操作することが可能になっている。この端末は6号機まで使用され、7号機以降の緊急操作端末はNASAのISS搭載可搬型パソコン(PCS)に変更されている。", "qas": [ { "question": "1フェイルオペレーティブと2フェイルセーフのうち、より多くの故障および誤操作に耐性を持つ設計は、どれか?", "id": "tr-218-05-000", "answers": [ { "text": "2フェイルセーフ", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "HTVでは、何と同じ設計思想をもとにHTV固有の安全設計もなされましたか?", "id": "tr-218-05-001", "answers": [ { "text": "「きぼう」", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "HTVの6号機では使用されたが、7号機以降では使用されなくなった緊急操作端末は、何?", "id": "tr-218-05-002", "answers": [ { "text": "HTV専用コマンド端末", "answer_start": 352, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "補給キャリアには、国際宇宙ステーション(ISS)に補給する物資を搭載する。与圧部と非与圧部からなる。ISSに補給品を送り届けた後、不要品を搭載して大気圏に突入し、焼却処分する役割も持つ。なお、開発初期段階では非与圧部がなく与圧部を大きくした構成も発表されていた。最近の構想図でも、与圧部のみの構成や非与圧部のみの構成が掲載されているが、将来このような様々な構成を使用する予定があるのかは未公表である。以下、混載型の補給キャリアについて解説する。補給キャリア与圧部には、国際宇宙ステーション(ISS)の船内用補給品を搭載する。国際標準実験ラック(ISPR)またはHTV補給ラック(HRR)を合計8個搭載することができる。HRRは飲料水、食料、衣類等を輸送する際に用いるラックで、物資は物資輸送用バッグ(CargoTransferBag:CTB)と呼ばれるISS標準のバッグでHRRに収められる。また5号機からは与圧部の底面の空間を利用した新たな補給ラック(HRRType-D)が搭載可能となっている。搭載可能なCTBの数は、初号機では標準サイズ換算で208個だったが、2号機では230個に、5号機では242個に、6号機からは248個に増えている。", "qas": [ { "question": "2号機と5号機のうち、搭載可能なCTBの数がより多いのは、どれ?", "id": "tr-218-06-000", "answers": [ { "text": "5号機", "answer_start": 494, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CTBは、ISPRとHRRのうち、どこに収められますか?", "id": "tr-218-06-001", "answers": [ { "text": "HRR", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国際宇宙ステーション(ISS)の船内用補給品を搭載するHTVの部分を、何と言うか?", "id": "tr-218-06-002", "answers": [ { "text": "補給キャリア与圧部", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "飲料水、食料、衣類等の補給品は、HTVの補給キャリア与圧部の中で、どこに搭載されるか?", "id": "tr-218-06-003", "answers": [ { "text": "HRR", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、レイトアクセス(速達サービス、打上げ10日前から80時間前までの積み込み)対応可能なのは初号機では標準サイズ換算で4個だったが、2号機では30個に、3号機では80個に、5号機からは92個に増えている。レイトアクセスでは、4号機以降は標準サイズCTBの約4倍の体積のM02バッグを搭載できるようになり、バッグへ搭載可能な質量も5号機からは、それまでの20kgから70kgへ引き上げられるなど様々な改善が施されている。輸送する物資は種子島宇宙センターにて、重量・寸法を測定し、寸法が規定値外であれば所有者に規定値内に収めるよう要請し、小さすぎる場合は隙間材であるスペーサーを入れ固定される。これらの搭載される物資は、こうのとりの重心が規定の範囲内に収まるように、搭載レイアウトの計算に基づいて組み替えて積み込まれる。補給品はISS乗員が乗り込んで搬出するため、内部はISSと同じ1気圧の環境に保たれるほか、単独飛行中も気温は一定に制御される。ISSを離れる際には、ISSの不要品(使用済みラック等の廃棄物)を積み込み、HTVごと大気圏に突入して廃棄される。補給キャリア与圧部は、HTVとISSの結合部でもある。先端部分には共通結合機構(CBM)を装備しており、ISSのモジュールに結合することができる。通常、HTVはハーモニー(ノード2)の地球側結合部に接続される。「きぼう」では空気循環用ファンは海外メーカーのファンを使用していたが、HTVでは初号機から国産の低騒音ファンを用いている。", "qas": [ { "question": "2号機と3号機におけるレイトアクセス対応可能なCBTの数を比べた時、その個数がより多いのは、どちらなの?", "id": "tr-218-07-000", "answers": [ { "text": "3号機", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "HTVとISSの結合部は、どこですか?", "id": "tr-218-07-001", "answers": [ { "text": "補給キャリア与圧部", "answer_start": 479, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "きぼうとHTVのうち、国産の低騒音ファンを用いたものは、どれか?", "id": "tr-218-07-002", "answers": [ { "text": "HTV", "answer_start": 619, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ISS内で発生した廃棄物は、HTVがどこに突入すると廃棄されるか?", "id": "tr-218-07-003", "answers": [ { "text": "大気圏", "answer_start": 465, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "補給キャリア非与圧部には、国際宇宙ステーション(ISS)の船外の宇宙空間に設置される材料曝露実験装置や予備部品を搭載する。過去の宇宙機では実績のない2.7m×2.5mという大開口部を有しており、その中に曝露パレットを収納することができる。曝露パレット(ExposedPallet:EP)は、「きぼう」船外実験プラットフォーム係留専用型と、多目的曝露パレット型の2タイプが用意されている。また、非与圧部の搭載能力は5号機までは1.2トンであったが、6号機からはISS用新型リチウムイオンバッテリ6台を一度に打ち上げるため、搭載能力が1.9トン(カーゴ搭載用の棚構造の質量を含む)に増強されている。「きぼう」船外実験プラットフォーム係留専用型(I型)は、「きぼう」の船外実験プラットフォーム(EF)に取り付ける曝露実験装置を2-3個搭載する。HTVがISSに接続されると、パレットはカナダアーム2で把持されて補給キャリア非与圧部から引き出され、きぼうのロボットアーム(JEMRMS)に受渡した後、EFの先端に仮置きされる。HTV技術実証機ではこのタイプが使用され、日米の曝露実験装置2個を搭載した。HTV2号機では米国の曝露機器2台を運搬したが、このI型が使われた。多目的曝露パレット型(EP-MP型)は、カナダアーム2により引き出された後、ISSのトラス上のモービル・ベース・システム(MobileBaseSystem:MBS)に仮置きするタイプと、I型と同様にEFに仮置きするタイプの2つがある。ORUには様々なものがあるが、ISSのバッテリORU(軌道上交換ユニット)の場合は6個搭載することができる。EP-MP型は、HTV3号機から使われる。", "qas": [ { "question": "補給キャリア非与圧部には、ISSの船外の宇宙空間に設置される材料曝露実験装置と何を搭載するの?", "id": "tr-218-08-000", "answers": [ { "text": "予備部品", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "5号機と6号機における非与圧部の搭載能力を比較した時、搭載能力がより優れているのは、どちらですか?", "id": "tr-218-08-001", "answers": [ { "text": "6号機", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "I型とEP-MP型のうち、より早く使われ始めたのは、何か?", "id": "tr-218-08-002", "answers": [ { "text": "I型", "answer_start": 523, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "曝露パレットとしては、I型と何型が用意されているか?", "id": "tr-218-08-003", "answers": [ { "text": "EP-MP型", "answer_start": 702, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "電気モジュールには、誘導制御系・電力供給系・通信データ処理系・通信系の電子機器を搭載する。なお、太陽電池はプログレスやATVと異なり、パドル形ではなく、電気モジュールや補給キャリアの外面に取り付けられる。これはHTVがプログレスやATVのような自動ドッキングではなく、共通結合機構(CBM)を用いての接続のため、カナダアーム2による把持(キャプチャ)させるためにはパドルがあると邪魔になるからである。しかし、HTVと同じ結合方式となる米国の商業補給機ドラゴンとシグナスは太陽電池パドルを使う方式を採用しており、設計次第ではどちらでも可能である。太陽電池パネルは「こうのとり」の外壁に、4号機では55枚、5号機で49枚、6号機と7号機は48枚搭載されており、6号機以降では補給キャリア与圧部の外壁に20枚、非与圧部の外壁に20枚、電気モジュールの外壁に8枚、推進モジュールの外壁に0枚(初号機では6枚あり、段階的に減らして6号機以降は0枚となっている。)という内訳となっている。", "qas": [ { "question": "HTVがプログレスやATVと異なる点とは、プログレスやATVがどんな結合方式であるとのことなの?", "id": "tr-218-09-000", "answers": [ { "text": "自動ドッキング", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "HTVと同じ結合方式の補給機として、この文書で紹介されているのは、両方ともどの国が開発したか?", "id": "tr-218-09-001", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 217, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "4号機から7号機までの中で、その外壁に太陽電池パネルが最も多く搭載されているのは、どれか?", "id": "tr-218-09-002", "answers": [ { "text": "4号機", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "推進モジュールには、軌道変更や姿勢制御のための推進装置を装備する。燃料(MMH:モノメチルヒドラジン)タンク2基、酸化剤(MON3:窒素添加四酸化二窒素)タンク2基、軌道変換用メインエンジン4基、姿勢制御用RCSスラスタ28基を装備する。実証機と2号機と4号機のメインエンジン(R-4D)とRCSスラスタ(R-1E)は、米エアロジェット社製であるが、3号機と5号機以降はIHIエアロスペース社製の国産品(メインエンジンはHBT-5、RCSスラスタはHBT-1)に置き換えられる。この国産エンジンへの切り替えにより、今まで使っていたエンジンとは特性が異なるのに対応するため、こうのとりのISSへの接近運用が多少変更されており、改めてNASAの安全審査を一部受審している。フェアリングは本来、H-IIBロケットに含まれる部分であるが、HTV打ち上げ時には専用の5S-H型を使用する。通常の5S型フェアリングより全長が長く、上部に1.4m四方のハッチがあり、HTVをフェアリングに収めた後も補給キャリアに入室でき、搭載試料や生鮮食料品などを打ち上げ直前にも搬入することができる(レイトアクセス)。レイトアクセスで搭載できるCTBの数は5号機で92個にまで増加し、他国の輸送船と比較してもHTVが最大の能力となっている。", "qas": [ { "question": "軌道変換用メインエンジンと姿勢制御用RCSスラスタのうち、推進モジュールに装備される基数がより多いのは、どれですか?", "id": "tr-218-10-000", "answers": [ { "text": "姿勢制御用RCSスラスタ", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "推進モジュールに装備される基数が最も多い推進装置は、何?", "id": "tr-218-10-001", "answers": [ { "text": "姿勢制御用RCSスラスタ", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "HTVのメインエンジンとRCSスラスタとして初めて採用された時期がより遅いのは、エアロジェットとIHIエアロスペースのうち、どの会社の製品か?", "id": "tr-218-10-002", "answers": [ { "text": "IHIエアロスペース", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "HTVの3号機では、メインエンジンがR-4Dから何に置き換えられたのか?", "id": "tr-218-10-003", "answers": [ { "text": "HBT-5", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "HTVの運用管制は筑波宇宙センターの宇宙ステーション運用棟内にあるHTV運用管制室(HTVMCR)で行われており、HTVがISSの後方5kmに到達する90分前からはNASAのジョンソン宇宙センター(JSC)にあるミッションコントロールセンター(MCC-H)との統合運用が行われる。運用管制の訓練、打ち合わせは打ち上げの1年以上前から行われており、HTV運用管制チーム(HTVFCT)は、3交代の24時間体制で常時約20名が運用を行っている。運用管制要員のHTV1での認定者は67名、HTV2での認定者は76名となっている。HTVの手順書は1,800種類以上あり、NASAとの手順書も数百種類ある。また、2011年のこうのとり2号機ではミッション中に起きた東北地方太平洋沖地震により、一時的に宇宙ステーション運用棟の管制設備が使えず、NASAの管制センターに管制官を派遣して対応した。この一件により、筑波宇宙センター内の別の建物内にHTVの予備管制センターが設置されている。", "qas": [ { "question": "HTVがISSの後方5kmに到達するまで90分以上残っていれば、誰によるHTVの運用管制は行われないの?", "id": "tr-218-11-000", "answers": [ { "text": "ミッションコントロールセンター", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "HTV1とHTV2のうち、どちらにおける運用管制要員の認定者がより多いか?", "id": "tr-218-11-001", "answers": [ { "text": "HTV2", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "H-IIBロケットで高度200km/300kmの楕円軌道に打ち上げられたHTVは、NASAの追跡・データ中継衛星TDRSとの通信を開始し、筑波宇宙センターにあるHTV管制センター(HTV-CC)の管制を受ける。HTVが正常であることが確認されると、約3日間掛けて国際宇宙ステーション(ISS)から23kmの位置まで接近する。この距離では、「きぼう」に設置された近傍域通信システム(ProximityCommunicationSystem:PROX)との通信が可能になる。きぼうに搭載されているGPS受信機を利用したGPS相対航法(RGPS)により、ISSと同じ高度で、ISSの5km後方の接近開始点(AI点(ApproachInitiationPoint))に投入される。AI点まで正常な状態が確認できれば、AIマニューバ(AIManeuver)により接近を継続する。何らかの理由で接近を中断したい場合は、AI点にて相対的に停止(ISSと一定の位置関係を保持)する。", "qas": [ { "question": "HTVがHTV管制センターの管制を受けるためには、どの機関の追跡・データ中継衛星との通信を経なければいけないか?", "id": "tr-218-12-000", "answers": [ { "text": "NASA", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "HTVが「きぼう」に設置された近傍域通信システムと通信を行うためには、国際宇宙ステーションから何kmの位置まで接近しなければならないんだ?", "id": "tr-218-12-001", "answers": [ { "text": "23km", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "まず、RGPSによりISSの下方500mのRバー開始点(R-barInitiation:RI)に接近する。きぼう(JEM)の下部には反射板(コーナーキューブリフレクタ)が取り付けられており、これにレーザーを当てて正確な位置を測定しながら、ゆっくりと接近する(ランデブセンサ航法)。接近速度は毎分1-10mで、ISSもしくは地上から接近の一時停止や一旦後退、中止などの操作ができる。途中300mの位置で一旦停止し、ヨーマニューバを実施してヨー姿勢を0°に戻し、接近を再開する。最終的に、きぼう(JEM)の下方約10mの把持点(BP(BerthingPoint))で、HTVは停止する。プログレス補給船や欧州補給機(ATV)と異なり、HTVは自動ドッキングは行わない。他のCBMを使用するモジュールと同様、HTVはカナダアーム2で握持されて手動操作で結合する。まず、HTVは安全確保のため全てのスラスタを停止して待機する。次に、カナダアーム2がHTVを握持し、ハーモニーの地球側結合部に取り付ける。プログレスやATV(ロシア側のアンドロジナスドッキング機構を採用)と異なり、手動での結合方式を採用したが、それは結合に利用するISSの共通結合機構(CBM)が、自動ドッキングを行う設計ではない(ターゲットマーカーが無い、ドッキング時の衝撃負荷に耐えられない等)からである。これは自動ドッキングより大型の荷物の輸送を優先したためである。この接続方式の採用により、ハッチが1.2×1.2mの正方形(プログレスやATVのハッチは内径80cmの円形)となり、プログレスやATVと比べてより大きな物資の搬出が可能となった。", "qas": [ { "question": "プログレス補給船や欧州補給機と異なり、HTVがISSに結合するのには何が使用されるか?", "id": "tr-218-13-000", "answers": [ { "text": "CBM", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "HTVに手動での結合方式を採用したのは、自動ドッキングより何の輸送を優先したためでありますか?", "id": "tr-218-13-001", "answers": [ { "text": "大型の荷物", "answer_start": 595, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プログレスと同じく自動ドッキングの結合方式を採用し、ハッチが内径80cmの円形になっている補給機は、何か?", "id": "tr-218-13-002", "answers": [ { "text": "欧州補給機", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "HTVがドッキングするハーモニーはISSの最前部であり、HTVを使用してISSのリブーストを行うことはない。前述の通り、補給キャリアから補給品の取り出しと不要品の積み込みが行われると、HTVはISSから離脱する。HTVの係留中にスペースシャトルがドッキングする場合は、HTVのすぐ隣にシャトルのペイロードベイが位置してしまい、物資搬出に支障を来す。特に多目的補給モジュール(MPLM)を輸送するミッションの場合、MPLMが結合に使用するハーモニーの地球側結合部をHTVが塞ぐことになる。このような場合は、あらかじめHTVをハーモニーの天頂側結合部に移しておく必要がある。実際に、HTV2号機では、STS-133の到着に備えて、HTV2をハーモニーの天頂側結合部に移動させた。ハーモニー天頂側はセントリフュージが使用する予定だったが、セントリフュージの計画中止で空いており、過去にはきぼう船内保管室の仮設置に使われた。CBMから分離すると、HTVはカナダアーム2でISSから離れた場所まで移動した後、把持を開放して放出され、ISSから遠ざかる。軌道離脱の噴射を行い、通常は南太平洋、場合によってはインド洋に向けて再突入させる。再突入時に発生する1000度以上の高温に耐えられる耐熱金属等でできた一部の部品(噴射ノズルやタンク等)を除き、確実に燃え尽きるように設計されており、アルミニウム合金や特殊樹脂などでできた本体、廃棄された不要品ともども大部分が燃え尽きその任を終える。燃え尽きなかったごくわずかの部品は南太平洋、またはインド洋の海中へと没する。", "qas": [ { "question": "HTV2号機では、何の到着に備えて、HTV2をハーモニーの天頂側結合部に移動させたの?", "id": "tr-218-14-000", "answers": [ { "text": "STS-133", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ISSから離れ、軌道離脱の噴射を行ったHTVは、通常、どこを向けて再突入しますか?", "id": "tr-218-14-001", "answers": [ { "text": "南太平洋", "answer_start": 485, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "噴射ノズルは、何度以上の高温にも耐えられる耐熱金属でできているか?", "id": "tr-218-14-002", "answers": [ { "text": "1000度以上", "answer_start": 521, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ISSへの物資補給の任を終えたHTVは、南太平洋のほかに、どこに向けて地球へと再突入しますか?", "id": "tr-218-14-003", "answers": [ { "text": "インド洋", "answer_start": 497, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "毛皮のマリー", "paragraphs": [ { "context": "『毛皮のマリー』は、寺山修司による戯曲である。1967年に丸山明宏主演で初演された。主役である男娼マリーは男優が女装して演じるのがふつうで、女装劇と称される。1幕物であり、5場に分かれている。寺山修司が主宰していた劇団である天井棧敷の3作目であり、丸山を主演に迎えることを想定して描かれた作品である。寺山は前作『青森県のせむし男』で丸山を起用し、引き続き本作も丸山を主演とした。寺山が生まれ育った世界の中にあるものを出そうとしていたと述べている。美女の亡霊役としてはゲイバーのママが起用されたが、これは寺山がサンフランシスコで行われているアマチュアのバーレスク公演の話をヒントに思いついたアイディアだという。", "qas": [ { "question": "『毛皮のマリー』が初演されたとき、主演は誰だったか。", "id": "tr-219-00-000", "answers": [ { "text": "丸山明宏", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『毛皮のマリーは何場に分かれていますか。", "id": "tr-219-00-001", "answers": [ { "text": "5場", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『毛皮のマリー』のマリーは女優が演じましか、男優が演じますか。", "id": "tr-219-00-002", "answers": [ { "text": "男優", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『青森県のせむし男』と『毛皮のマリー』と、どっちの方がもっとあとの作品なの?", "id": "tr-219-00-003", "answers": [ { "text": "『毛皮のマリー』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "『毛皮のマリー』の執筆にあたって影響を与えた作品がいくつか指摘されている。タイトルはフランスのシャンソン「毛皮のマリー」(\"LaMarie-Vision\")からとられており、初演でもイヴ・モンタンが歌うこの曲が使用されたという。冒頭から「白雪姫」の童話の引用があり、「鏡よ、鏡よ、鏡さん」という台詞が多少の変化はありつつも4回用いられている。また、1960年にアメリカ合衆国の劇作家アーサー・L・コピットが書いた戯曲『ああ父さん、かわいそうな父さん、母さんがあんたを洋服だんすの中にぶら下げてるのだものねぼくはほんとに悲しいよーまがいもののフランス的伝統にもとづく擬古典的悲笑劇』の影響が指摘されている。", "qas": [ { "question": "『毛皮のマリー』のタイトルに影響を与えたフランスのシャンソンは何ですか。", "id": "tr-219-01-000", "answers": [ { "text": "「毛皮のマリー」(\"LaMarie-Vision\")", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ああ父さん、かわいそうな父さん、母さんがあんたを洋服だんすの中にぶら下げてるのだものねぼくはほんとに悲しいよーまがいもののフランス的伝統にもとづく擬古典的悲笑劇』は誰が書いたの?", "id": "tr-219-01-001", "answers": [ { "text": "アーサー・L・コピット", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『毛皮のマリー』は1967年9月、寺山が主宰する劇団天井棧敷により、寺山修司演出、丸山明宏がマリー役、萩原朔美が欣也役で、アートシアター新宿文化で9月に初演されたのち、10月に再演された。当初は東由多加が演出をつとめる予定であったが、辞退してしまったため劇作家の寺山が演出もつとめた。また、横尾忠則が美術を担当するはずだったが、これも結局寺山が担当することとなった。こうしたスタッフ変更については、『天井桟敷新聞』昭和42年10月9日号にて、美術については横尾のセットが「期日の都合」で間に合わなかったため、また演出については主演のマリー役がなかなか決まらず、東が予定した演出プランのままでの上演が困難になったため、どちらも寺山が担当することになったという説明を劇団が発表している。", "qas": [ { "question": "『毛皮のマリー』が初演された場所はどこ?", "id": "tr-219-02-000", "answers": [ { "text": "アートシアター新宿文化", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『毛皮のマリー』の演出は誰が担当したか。", "id": "tr-219-02-001", "answers": [ { "text": "寺山修司", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『毛皮のマリー』は1969年6月3日〜4日に、西ドイツのフランクフルトの国際実験演劇祭にて、ATA劇場で演出萩原朔美、出演演劇実験室・天井棧敷により上演された。1969年11月には西ドイツのエッセン市立劇場演出にて、演出は寺山修司及びクラウス・ライニンガーで、現地のドイツ人俳優を起用して上演され、ロングランヒットとなった。1970年7月にはロックフェラー財団の招聘事業として、アメリカのニューヨーク・ラ・ママシアターにて、演出は寺山修司、出演は現地のアメリカ人俳優により上演され、好評を博した。1971年には天井棧敷が海外巡業を行い、フランスのレアール市場でも上演されている。", "qas": [ { "question": "『毛皮のマリー』は1969年6月3日〜4日に、西ドイツのどの劇場で上演されたか。", "id": "tr-219-03-000", "answers": [ { "text": "ATA劇場", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『毛皮のマリー』は1970年7月に、アメリカのどの劇場で上演されたか。", "id": "tr-219-03-001", "answers": [ { "text": "ニューヨーク・ラ・ママシアター", "answer_start": 194, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『毛皮のマリー』は1971年、どの国で上演されましたか。", "id": "tr-219-03-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 268, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1983年6月10日〜29日に寺山修司追悼公演が西武劇場で上演された。演出は鈴木完一郎、出演は美輪明宏が毛皮のマリー役、井浦秀智が美少年・欣也役であった。再演が決まった時にはまだ寺山は存命であったが既に体調が悪く、稽古が始まった後に亡くなった。\n\n寺山の死去後も、美輪明宏によるマリー役でパルコ劇場を中心に何度か再演されている。\n\n1994年10月4日〜30日にパルコ劇場にて演出がハンス・ペーター・クロス、美輪明宏が毛皮のマリー役、いしだ壱成が美少年・欣也役で上演された。少女紋白役は池田有希子、下男役は麿赤児。この時はワダエミが衣装を担当している。美術はジャン・ハース、照明はジャン・カルマン。チケットは発売とほぼ同時に売り切れたという。11月には、川口、名古屋、静岡、大阪、相模原でも上演された。\n\n1996年1月12日〜2月4日に同キャストで同じパルコ劇場にて再演されている。\n\n2001年3月24日〜4月22日には演出・美術・音楽・主演(マリー役)が美輪明宏、美少年・欣也役が及川光博で、パルコ劇場で上演された。その後、各地を巡業した。", "qas": [ { "question": "1983年6月10日〜29日に寺山修司追悼公演が西武劇場で上演されたとき、演出は誰の担当でしたか。", "id": "tr-219-04-000", "answers": [ { "text": "鈴木完一郎", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1994年10月4日〜30日の上演のときは、誰が毛皮のマリー役を演じましたか。", "id": "tr-219-04-001", "answers": [ { "text": "美輪明宏", "answer_start": 204, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1996年1月12日〜2月4日上演のときは、誰が毛皮のマリー役を演じましたか。", "id": "tr-219-04-002", "answers": [ { "text": "美輪明宏", "answer_start": 204, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2001年3月24日〜4月22日の上演はどの劇場で行われたか。", "id": "tr-219-04-003", "answers": [ { "text": "パルコ劇場", "answer_start": 449, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "人形劇俳優である平常が2003年に人形劇版の『毛皮のマリー』を制作し、日本人形劇大賞銀賞を受賞している。手作りの人形を用いて、台詞や人形の操作などすべてをひとりでこなすスタイルの作品である。13体をひとりで遣い、「15歳未満お断り」を掲げる。静岡芸術劇場や新国立劇場などでたびたび再演されている。2003年当時の公演では、観客が3人という回もあったが、観客が観客を呼び、楽日近くには立ち見が出るまでになったという。", "qas": [ { "question": "『毛皮のマリー』の人形劇版を制作した人は誰なの?", "id": "tr-219-05-000", "answers": [ { "text": "平常", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『毛皮のマリー』は初演時から人気のある作品であった。アートシアター新宿文化で大ヒットとなったため、「伝説の舞台」などと言われることもある。三島由紀夫は本作に感銘を受け、美輪明宏に『黒蜥蜴』の主演を強く依頼したという。一方で、新宿のゲイバーのママたちが大挙して出演し、スキャンダラスな物語を演じる様子は顰蹙も買ったと言われている。\n\n寺山修司の芝居としては最も上演回数が多いと言われている。マリーが養子である欣也に執着する様子を描いたこの物語は、母性にもとづく「日本社会の血縁体的な風土」を描いた作品として評価が高く、寺山修司の「母恋いの初期代表作」などと呼ばれることもある。寺山と美輪の美学が前面に出た「キッチュで濃厚な味わいが特徴と言われる。一方で美輪明宏のスタイルの影響力があまりにも強くなったため、その「規範化」を批判的にとらえて新しい演出を求める動きもある。\n\n毛皮のマリーズのメンバーである志磨遼平は『毛皮のマリー』が気に入っており、バンド名をここからとった。", "qas": [ { "question": "アートシアター新宿文化で大ヒットとなったため、「伝説の舞台」などと言われた作品は何ですか。", "id": "tr-219-06-000", "answers": [ { "text": "『毛皮のマリー』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三島由紀夫はどの作品に感銘を受け、美輪明宏に『黒蜥蜴』の主演を強く依頼したといわれていますか。", "id": "tr-219-06-001", "answers": [ { "text": "『毛皮のマリー』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "寺山修司の芝居の中で、最も上演回数が多いと言われている作品は何ですか。", "id": "tr-219-06-002", "answers": [ { "text": "『毛皮のマリー』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『毛皮のマリー』が気に入っており、バンド名をここからとった人は誰なの?", "id": "tr-219-06-003", "answers": [ { "text": "志磨遼平", "answer_start": 400, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ヒヴァ・ハン国", "paragraphs": [ { "context": "ヒヴァ・ハン国(ヒヴァ・ハンこく、ウズベク語:XivaXonligi)は、1512年から1920年にかけて、アムダリヤの下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝である。シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属する王朝である。建国当初はクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)を首都としていたが、17世紀前半からヒヴァに遷都し、遷都後の首都の名前に由来する「ヒヴァ・ハン国」の名称で呼ばれる。クフナ・ウルゲンチを首都に定めていた政権は「ウルゲンチ・ハン国」と呼ばれることもある。", "qas": [ { "question": "ヒヴァ・ハン国は、何年から何年にかけて存在した王朝であるの?", "id": "tr-220-00-000", "answers": [ { "text": "1512年から1920年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒヴァ・ハン国は、どの川流域に存在した王朝でありますか?", "id": "tr-220-00-001", "answers": [ { "text": "アムダリヤ", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属する王朝は、どの国か?", "id": "tr-220-00-002", "answers": [ { "text": "ヒヴァ・ハン国", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒヴァ・ハン国の首都はクフナ・ウルゲンチからどこに変わったか?", "id": "tr-220-00-003", "answers": [ { "text": "ヒヴァ", "answer_start": 169, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヒヴァ・ハン国の建国者イルバルスは、ウズベク国家のブハラ・ハン国(シャイバーニー朝)の創始者アブル=ハイルと別の家系に属する。イルバルスの一族はアブル=ハイル家と敵対関係にあり、1500年にシャイバーニー朝のハンに即位したムハンマド・シャイバーニー・ハンの遠征事業にもイルバルスの一族は参加しなかった。", "qas": [ { "question": "ヒヴァ・ハン国の創始者は、誰なの?", "id": "tr-220-01-000", "answers": [ { "text": "イルバルス", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブハラ・ハン国の建国者は、誰ですか?", "id": "tr-220-01-001", "answers": [ { "text": "アブル=ハイル", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" 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"answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャイバーニー・ハンは、どの王朝との戦いに負け、死んでしまいましたか?", "id": "tr-220-02-001", "answers": [ { "text": "サファヴィー朝", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャイバーニー・ハンが死去したのは、何年のことか?", "id": "tr-220-02-002", "answers": [ { "text": "1510年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1509年までホラズム地方は、どの王朝の領域だったか?", "id": "tr-220-02-003", "answers": [ { "text": "シャイバーニー朝", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "17世紀前半にはカザフやオイラト(カルムィク)といった遊牧民の侵入と王室の内訌に苦しみ、イランの王朝やブハラ・ハン国との抗争で内情は不安定な状態に置かれていた。1593年(1594年)にホラズム地方はブハラ・ハン国によって一時的に占領される。", "qas": [ { "question": "カザフやオイラトからの侵入があったのは、いつのことなの?", "id": "tr-220-03-000", "answers": [ { "text": "17世紀前半", "answer_start": 0, 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"クフナ・ウルゲンチが衰退していったのは、何年代のことなの?", "id": "tr-220-04-000", "answers": [ { "text": "1570年代", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クフナ・ウルゲンチの衰退の原因は、何でしたか?", "id": "tr-220-04-001", "answers": [ { "text": "アムダリヤの水路の変化", "answer_start": 10, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "誰の治世の末期にヒヴァへの遷都が行われたか?", "id": "tr-220-04-002", "answers": [ { "text": "アラブ・ムハンマド", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラブ・ムハンマドが廃位されたのは、何年のことか?", "id": "tr-220-04-003", "answers": [ { "text": "1621年", "answer_start": 118, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17世紀半ばに即位したアブル=ガーズィー(在位:1644年-1663年)、アヌーシャ(在位:1663年-1685年)親子の治世にハンの権力は強化され、積極的な灌漑事業、都市建設、軍事遠征が実施された。1643年に即位したアブル=ガーズィーは1645年に国内のトルクメンを虐殺し、彼らに代わってウズベク族出身のアミール(軍事貴族)を要職につけて国内を安定させる。アブル=ガーズィーは内紛で混乱するブハラ・ハン国に7回の遠征を行い、ロシアなどの近隣の国家と通交した。1646年/47年に荒廃したウルゲンチの住民のために新たなウルゲンチが建設され、アヌーシャの在位中にはハン国内部にベシュ・カラと呼ばれる灌漑網が整備される。二人の在位中にハン国南部に建設されたウルゲンチなどの都市と運河は19世紀以降も主要都市、幹線運河の地位を保ち続ける。アブル=ガーズィー、アヌーシャの軍事遠征に疲弊したアミールたちはアヌーシャを廃位し、その後およそ30年の間に10人以上の王族がハンが即位するが、王族の出自は一部の人物を除いて不明な点が多い。", "qas": [ { "question": "アブル=ガーズィーが即位したのは、何年なの?", "id": "tr-220-05-000", "answers": [ { "text": "1643年", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アブル=ガーズィーによる国内のトルクメン虐殺は、何年に起こった事件でありますか?", "id": "tr-220-05-001", "answers": [ { "text": "1645年", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アミールは、どの部族出身であるか?", "id": "tr-220-05-002", "answers": [ { "text": "ウズベク族", "answer_start": 146, 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"1714年からロシア帝国のピョートル1世の命令を受けたチェルケス人将校ベコヴィチ・チェルカスキー(デヴレト・ギレイ)が、中央アジアのカスピ海東岸地域を調査し、現地に要塞を建設していた。1717年にベコヴィチがヒヴァ遠征を行った際、当時のハン・シール・ガーズィーはベコヴィチを欺いてロシア軍を壊滅させ、彼を殺害した。1720年にシール・ガーズィーはロシアに謝罪の使者を送るが、使者はサンクトペテルブルクの牢に幽閉され、獄死した。", "qas": [ { "question": "カスピ海東岸地域の調査と要塞建設を命じられたのは、誰だったか?", "id": "tr-220-07-000", "answers": [ { "text": "ベコヴィチ・チェルカスキー", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カスピ海東岸地域の調査と要塞建設の命を下したのは、どの国の皇帝だったか?", "id": "tr-220-07-001", "answers": [ { "text": "ピョートル1世", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1717年にロシア軍をだましてベコヴィチを殺したのは、誰か?", "id": "tr-220-07-002", "answers": [ { "text": "シール・ガーズィー", "answer_start": 121, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1720年にシール・ガーズィーがロシアに使者を送ったのは、誰を殺したことを謝罪するためだったか?", "id": "tr-220-07-003", "answers": [ { "text": "ベコヴィチ", "answer_start": 98, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1728年に、創始者のイルバルスとは別の家系の出身であるカザフ族のイルバルス2世がハンに選出される。1720年代末からイランで台頭したアフシャール朝のナーディル・シャーの攻撃に対して、ブハラとは反対にヒヴァは激しく抗戦した。1736年にアフシャール朝の王子レザー・クリーが中央アジアに侵入すると、イルバルス2世はブハラの軍と連合して勝利を収める。ブハラがナーディル・シャーに降伏した後、ヒヴァの宮廷に降伏を勧告する使者が送られると、イルバルス2世は使者を処刑して拒絶の意思を示した。しかし、1740年にヒヴァはナーディル・シャーに占領され、イルバルス2世は処刑された。1740年から1747年までの間、ハン国はアフシャール朝に従属する。", "qas": [ { "question": "イルバルス2世はどの部族出身であるの?", "id": "tr-220-08-000", "answers": [ { "text": "カザフ族", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イルバルス2世がハンに選出されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-220-08-001", "answers": [ { "text": "1728年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レザー・クリーが中央アジアに侵入してきたのは、何年のことか?", "id": "tr-220-08-002", "answers": [ { "text": "1736年", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "侵入してきたレザー・クリー軍を撃退したのは、ブハラと誰の連合軍であったか?", "id": "tr-220-08-003", "answers": [ { "text": "イルバルス2世", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1763年からは、コンギラト族出身のイナク(宰相)のムハンマド・アミーンが実権を握った。1770年にヒヴァの町はヨムド部族によって占領・略奪され、さらにハン国南部で発生した飢饉のために住民はブハラ方面に移住する。同1770年にムハンマド・アミーンはブハラに亡命し、ブハラのダーニヤール・ビーの支援を受けてヨムド部族からヒヴァを奪回した。国政を掌握したムハンマド・アミーンは自らハン位に就かず、傀儡のハンを立てて他のアミールと争った。ヒヴァの歴史家たちは、ムハンマド・アミーンの勝利がハン国の復興の転機となったと考えた。", "qas": [ { "question": "ムハンマド・アミーンが実権を握ったのは、何年からのことなの?", "id": "tr-220-09-000", "answers": [ { "text": "1763年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド・アミーンは、どの部族出身でありますか?", "id": "tr-220-09-001", "answers": [ { "text": "コンギラト族", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1770年にヒヴァの町を占領・略奪したのは、どの部族か?", "id": "tr-220-09-002", "answers": [ { "text": "ヨムド部族", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド・アミーンのヒヴァ奪回を支援したのは、誰か?", "id": "tr-220-09-003", "answers": [ { "text": "ダーニヤール・ビー", "answer_start": 136, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ハン国の実権を握るイナクたちは北方に居住するチンギス・ハーンの子孫を代々傀儡のハンとして擁立した。が、1804年にムハンマド・アミーンの孫イルテュゼル(イルタザル)はアブル・ガーズィー5世を廃位し、チンギス裔をハンとしないイナク朝を創始した。イルテュゼルの簒奪に反対したウイグル族の長アタリク・ベク・プラドは殺害され、アタリクの一族はブハラに亡命する。イルテュゼルに対するウイグルの抵抗は、次代のムハンマド・ラヒームの治世まで続いた。", "qas": [ { "question": "イナク朝の建国年度は、何年なの?", "id": "tr-220-10-000", "answers": [ { "text": "1804年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イナク朝の建国者は、誰ですか?", "id": "tr-220-10-001", "answers": [ { "text": "イルテュゼル", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アタリク・ベク・プラドを殺害したのは、誰か?", "id": "tr-220-10-002", "answers": [ { "text": "イルテュゼル", "answer_start": 121, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1806年にイルテュゼルがブハラとの抗争で戦死すると、彼の弟のムハンマド・ラヒームが跡を継いだ。ムハンマド・ラヒームはアブル・ガーズィー5世を復位させるが、1806年末に再び彼を廃位し、あらためてハンとなった。ムハンマド・ラヒームはカラカルパク人を服属させ、ホラーサーン遠征を成功させた。1821年にブハラとの戦争が再開され、1825年に結ばれた和議ではヒヴァのトルクメニア支配が強化された。次代のアッラーフ・クリの時代にも領土の拡張は続いた。18世紀半ばまでヒヴァ、ブハラ、イランのカージャール朝がトルクメニアの支配権を巡って争い、現地のトルクメンは状況に応じて同盟者を変えた。", "qas": [ { "question": "イルテュゼルが死去したのは、何年のことなの?", "id": "tr-220-11-000", "answers": [ { "text": "1806年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イルテュゼルの後を継いだのは、誰ですか?", "id": "tr-220-11-001", "answers": [ { "text": "ムハンマド・ラヒーム", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド・ラヒームが実権を握ったのは、何年からのことか?", "id": "tr-220-11-002", "answers": [ { "text": "1806年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "何年にブハラとの間で結ばれた和議でヒヴァのトルクメニア支配が強化されたか?", "id": "tr-220-11-003", "answers": [ { "text": "1821年", "answer_start": 144, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ブハラやトルクメンとの抗争で国力は衰退し、軍事力を背景としたロシア帝国からの要求に従わざるをえなくなった。1868年のブハラのロシアへの降伏はハン国全体にロシアに対する警戒心を引き起こし、1870年にハン国からロシアへの穀物の輸出が禁止された。1873年にハン国はコンスタンティン・フォン・カウフマンが率いるロシア軍の攻撃を受け(ヒヴァ戦争)、ヒヴァは陥落する。ハンのムハンマド・ラヒームは陥落前にヒヴァから脱出しており、7年間幽閉されていたムハンマドの兄弟アタジャーンがヒヴァの人間によってハンに擁立されていた。カウフマンはアタジャーンをハンとすることを認めず、ムハンマドを召還してハンの地位を返還した。", "qas": [ { "question": "ブハラがロシアに降伏したのは、何年のことなの?", "id": "tr-220-12-000", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハン国からロシアへの穀物の輸出が禁止されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-220-12-001", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1873年にハン国を侵攻したロシア軍の指揮者は、誰だったか?", "id": "tr-220-12-002", "answers": [ { "text": "コンスタンティン・フォン・カウフマン", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1873年のロシアの侵入により、陥落されたのは、どこか?", "id": "tr-220-12-003", "answers": [ { "text": "ヒヴァ", "answer_start": 165, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "南下政策に対するイギリスの批判を抑えるとともに現地のムスリムの反乱を防ごうとするロシアの思惑によりハン国は保護国とされ、領土を縮小された。ムハンマドとカウフマンの会見は1873年6月2日から開始され、同年8月12日にハン国をロシアの保護国とする条約が締結された。ハン国は保護国化とともに2,200,000ルーブルという巨額の賠償金、外交権の放棄、ロシア船舶のアムダリヤの優先通行権という条件を呑まなければならなかった。また、ヒヴァはブハラと同様に奴隷制度が廃止され、40,000人におよぶイラン人の捕虜が解放された。奴隷制度の廃止と共に、長らく行われてきた酷刑も廃止された。国の行政はロシアの司令官の管理下に置かれ、外政はトルキスタン総督府とサンクトペテルブルクの外務大臣を通さなければならなかった。", "qas": [ { "question": "ハン国をロシアの保護国とする条約が締結されたのは、何年のことか?", "id": "tr-220-13-000", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "根府川駅列車転落事故", "paragraphs": [ { "context": "根府川駅列車転落事故は、1923年9月1日に発生した列車脱線事故である。\n\n神奈川県足柄下郡片浦村の根府川駅付近で、東京発真鶴行普通第109列車が、熱海線根府川駅のホームに入線しかけたところで大正関東地震によって引き起こされた地滑りによる土石流に遭遇し、根府川駅の駅舎やホームなどの構造物もろとも海側に脱線転覆して最後部の客車2両を残して全てが海中に没してしまった。\n\nこの事故に遭遇した列車の乗員乗客と根府川駅にいた乗客及び駅勤務職員のうち、112人が死亡、13人が負傷した。事故であるとともに関東大震災に含まれる災害でもある。", "qas": [ { "question": "根府川駅列車転落事故はいつあったの?", "id": "tr-221-00-000", "answers": [ { "text": "1923年9月1日", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "根府川駅列車転落事故によって何人の人が死亡したか。", "id": "tr-221-00-001", "answers": [ { "text": "112人", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "根府川駅列車転落事故によって何人の人が負傷したか。", "id": "tr-221-00-002", "answers": [ { "text": "13人", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東海道本線は、明治時代末期から昭和初期にかけては国府津駅から箱根の外輪山を迂回する「函嶺越え」のルートをとって沼津へと抜ける現在の御殿場線が本線であった。現在根府川駅を通っている東海道本線に該当する部分は当時は「熱海線」と呼ばれていて、1922年12月21日には真鶴駅まで延伸開業していた。\n\n9月1日午前9時5分、真鶴行の普通第109列車は、定刻通りに東京駅を発車した。新橋駅、品川駅、横浜駅、保土ケ谷駅、戸塚駅の順に停車し、10時15分に大船駅に到着した。大船駅では9時30分に東京駅を発車した特急第1列車の通過待ちをし、10時27分に発車した。第109列車は国府津駅、小田原駅にも定時に発着した。", "qas": [ { "question": "真鶴行の普通第109列車は何時何分に大船駅へ到着しましたか。", "id": "tr-221-01-000", "answers": [ { "text": "10時15分", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "特急第1列車はいつ東京駅を発車したか。", "id": "tr-221-01-001", "answers": [ { "text": "9時30分", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "市営基町高層アパート", "paragraphs": [ { "context": "市営基町高層アパート(しえいもとまちこうそうアパート)は、広島県広島市中区基町にある大規模集合住宅・住宅団地である。基町不良住宅街(原爆スラム)解消を目的に造成された。本項では、同様の目的で同時に計画され、同様の構造を持つ、県営長寿園高層アパート、高層アパート建設以前に建てられた基町の中層アパート群についても合わせて扱う。独特な構造や規模などより、現代建築としても評価され、建築の教科書にも掲載されている。2013年(平成25年)度のDOCOMOMOJAPAN選定日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選出された。", "qas": [ { "question": "市営基町高層アパートは何県にあるか。", "id": "tr-222-00-000", "answers": [ { "text": "広島県", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "江戸時代は、現在の旧太田川まで広島城の外堀内だった。1887年(明治20年)に、『広島開墾の地』を意味する基町の地名が付いた。第二次世界大戦まで広島は軍都で、1945年(昭和20年)の広島市への原子爆弾投下時点で、広島市には第5師団が置かれ、西部総軍司令部、歩兵・輜重・砲兵部隊、陸軍病院、幼年学校などが設けられ、基町高層アパートがあるあたりには第二次世界大戦当時、広島陸軍病院が置かれていた。それらの施設は、原爆投下により壊滅した。", "qas": [ { "question": "第二次世界大戦当時にあった広島陸軍病院は何によって破壊されたか。", "id": "tr-222-01-000", "answers": [ { "text": "原爆投下", "answer_start": 205, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1946年(昭和21年)の都市計画で、当地を含めた基町の西半分を「中央公園予定地」とすることを決定した。また、1951年(昭和26年)の丹下健三による広島平和記念公園構想案では、現在の広島市中央公園や当アパートのあたりを含め、平和公園として構想されていた。そのため旧軍用地は、1949年(昭和24年)の広島平和記念都市建設法成立により、正式に都市整備に利用できるようになった。しかし現実は、第二次世界大戦終戦後の1946年(昭和21年)6月より、広島市の緊急住宅対策として「十軒長屋」と呼ばれる住宅を建設した。広島市・広島県を合わせて、1815軒の住宅を建築した。また、1947年(昭和22年)頃より、基町地区にバラックの不法住宅が建ち始めた。当初は、被爆前から住んでいた住民のみだったが、他地区の再開発などによる立ち退きで基町周辺に集結し、1960年(昭和35年)頃には900軒の不法建築が建っていた。", "qas": [ { "question": "当地を含めた基町の西半分を「中央公園予定地」とすることはいつ決まったの?", "id": "tr-222-02-000", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "広島平和記念公園構想案を作った人は?", "id": "tr-222-02-001", "answers": [ { "text": "丹下健三", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "広島市の緊急住宅対策として建てられた住宅は何と呼ばれたか。", "id": "tr-222-02-002", "answers": [ { "text": "「十軒長屋」", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そのような経緯で原爆スラムと呼ばれる住宅密集地、基町不良住宅街が誕生した。多くの火災が発生し、路地が細くて消防車が入りにくいことにより、大火事に発展しやすい地域になった。とくに1967年(昭和42年)7月27日に発生した火災の被害は大きく、焼失家屋93戸・焼失面積4,085m2に及ぶ火災になり、その火災では道具を取りに戻った1人の老女が焼死した。最終的に、1961年(昭和36年)から1976年(昭和51年)までに、計14回の火災が起き、403戸が焼失した。1955年(昭和30年)の広島市長選で、中央公園に住宅を建てる公約で渡辺忠雄が当選した。1956年(昭和31年)11月に、公園予定地の一部を公営住宅用地として用途変更し、中層住宅を1,894戸建設する計画を決定。実際に、1955年(昭和30年)頃から1968年(昭和43年)までに、県と市が中層アパートを930戸(市17棟(630戸)・県13棟(300戸))供給したが、まだ地域内には約2,600戸の不良住宅があり、住宅不足の解消には至らなかった。1967年(昭和42年)の火災当時、原爆スラムの扱いについても、県が住宅地区改良法による解消を目指すのに対し、市は特別立法による解消を目指し、方向性の食い違いにより進展していなかった。県と市の足並みがそろわずなかなか計画が進まなかったが、ようやく1968年(昭和43年)5月に『基町地区再開発促進協議会』を設置した。翌1969年(昭和44年)3月に、基町地区の約33,600m2が住宅改良地区として国の指定を受け、3月20日に必要な入札が行われ、翌4月より着工した。不良住宅の一掃に加え、広島市中央公園や護岸緑地の整備など、日本初の大規模高層高密度再開発になった。", "qas": [ { "question": "1967年7月27日、焼失家屋93戸・焼失面積4,085m2に及ぶ火災になり、1人の老女が焼死した火事は何と呼ばれるところで発生したか。", "id": "tr-222-03-000", "answers": [ { "text": "原爆スラム", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1956年の広島市長は誰だと推定できるか。", "id": "tr-222-03-001", "answers": [ { "text": "渡辺忠雄", "answer_start": 264, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『基町地区再開発促進協議会』ができたのは何年度のことなの?", "id": "tr-222-03-002", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 577, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "シュレージエン戦争", "paragraphs": [ { "context": "シュレージエン戦争(シュレージエンせんそう、ドイツ語:SchlesischeKriege)は、18世紀中ごろにマリア・テレジアを君主に戴くハプスブルク帝国(オーストリア)とフリードリヒ2世を君主に戴くプロイセン王国が中央ヨーロッパのシュレージエン地方(現ポーランド南西部)の帰属を巡って戦った3度の戦争の総称である。うち、第一次戦争(1740年–1742年)と第二次戦争(1744年–1745年)はオーストリア継承戦争の局地戦であり、プロイセンはオーストリアの分割を目指す同盟の一員として参戦した。第三次戦争(1756年–1763年)は七年戦争の局地戦であり、オーストリア率いる同盟がプロイセン領の奪取を目指した。英語読みでシレジア戦争(シレジアせんそう、SilesianWars)とも呼ぶ。", "qas": [ { "question": "シュレージエン戦争は、ハプスブルク帝国とどの国の間で行われた戦争なの?", "id": "tr-223-00-000", "answers": [ { "text": "プロイセン王国", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シュレージエン戦争は、どの地方の帰属を巡って行われた戦争ですか?", "id": "tr-223-00-001", "answers": [ { "text": "シュレージエン地方", "answer_start": 116, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "3度に渡って行われたシュレージエン戦争のうち、唯一に関連のある戦争が異なるのは、第何次戦争であるか?", "id": "tr-223-00-002", "answers": [ { "text": "第三次戦争", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "3度に渡って行われたシュレージエン戦争のうち、唯一にプロイセンが襲われる形で行われた戦争は、第何次戦争であるか?", "id": "tr-223-00-003", "answers": [ { "text": "第三次戦争", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プロイセンは第一次シュレージエン戦争の開戦事由に数世紀前からのシュレージエンの一部への領土主張を挙げたが、戦争勃発にはレアルポリティークと地政戦略上の影響もみられる。女性であるマリア・テレジアが1713年の国事詔書に基づきハプスブルク帝国を継承することに各国から異議が唱えられたため、プロイセンがザクセン選帝侯領やバイエルン選帝侯領を出し抜いて勢力を増す機会となった。", "qas": [ { "question": "誰がハプスブルク帝国を継承することに各国から異議が唱えられたの?", "id": "tr-223-01-000", "answers": [ { "text": "マリア・テレジア", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリア・テレジアがハプスブルク帝国を継承するとのことが書かれていたのは、何ですか?", "id": "tr-223-01-001", "answers": [ { "text": "国事詔書", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "国事詔書が発布されたのは、いつのことか?", "id": "tr-223-01-002", "answers": [ { "text": "1713年", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プロイセンは、第一次シュレージエン戦争の開戦事由に数世紀前からのどこの一部への領土主張を挙げたか?", "id": "tr-223-01-003", "answers": [ { "text": "シュレージエン", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "3度の戦争とも概ねプロイセンの勝利に終わり、オーストリアはシュレージエンの大半をプロイセンに割譲した(後のプロイセン領シュレージエン州)。このときオーストリアに残された領域をオーストリア領シュレージエンといい、後のチェコ領スレスコとなった。", "qas": [ { "question": "3度のシュレージエン戦争の結果、戦勝国となったのは、どの国なの?", "id": "tr-223-02-000", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "3度のシュレージエン戦争の結果、シュレージエンの大半がプロイセンに割譲され、オーストリアの領域として残された一部は、何と呼ばれましたか?", "id": "tr-223-02-001", "answers": [ { "text": "オーストリア領シュレージエン", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストリア領シュレージエンは、のちに何と呼ばれるようになる地域か?", "id": "tr-223-02-002", "answers": [ { "text": "チェコ領スレスコ", "answer_start": 107, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プロイセン領シュレージエン州とオーストリア領シュレージエンのうち、その面積がより広いのは、どちらか?", "id": "tr-223-02-003", "answers": [ { "text": "プロイセン領シュレージエン州", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "大国オーストリアと比べて小国であるプロイセンがオーストリアに打ち勝ったことにより、プロイセンは列強入りを果たした上、ドイツにおけるプロテスタント諸国の盟主という地位に上り詰め、一方カトリック国家であるオーストリアはその敗北により名声を大きく損なった。シュレージエン戦争は普墺角逐の始まりとされ、このことは1866年の普墺戦争にいたるまで1世紀以上のドイツ史に大きな影響を与えることとなった。", "qas": [ { "question": "プロイセンが列強入りを果たせたのは、どの国との戦争で勝利したからなの?", "id": "tr-223-03-000", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 2, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "3度のシュレージエン戦争の結果、その勢力が弱まったのは、どの国ですか?", "id": "tr-223-03-001", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 2, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プロイセンがドイツにおけるプロテスタント諸国の盟主という地位に上り詰めることができたのは、どの国に打ち勝ったためか?", "id": "tr-223-03-002", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 2, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シュレージエン戦争が始まる前には、オーストリアとプロイセンのうち、どちらの国の勢力がより強かったか?", "id": "tr-223-03-003", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 2, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "シロンスク・ピャスト家のレグニツァ公フリデリク2世とホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世ヘクトルは1537年に継承条約を締結し、シロンスク・ピャスト家が断絶した場合にはホーエンツォレルン家がレグニツァ公国、ブジェク公国、ヴォウフを継承することを定めた。しかし、シロンスク諸公国の宗主であるボヘミア王はハプスブルク家のフェルディナント1世であり、彼は条約を拒絶し、ホーエンツォレルン家に圧力をかけて条約を拒否させた。1603年、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒは親族のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒからクルノフ公国(ドイツ語でイェーゲルンドルフ公国。シロンスク諸公国の1つ)を継承し、次男ヨハン・ゲオルクに公位を譲った。", "qas": [ { "question": "フリデリク2世は、どの家の者なの?", "id": "tr-223-04-000", "answers": [ { "text": "シロンスク・ピャスト家", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レグニツァ公国、ブジェク公国、ヴォウフの支配権は、どの家が握っていましたか?", "id": "tr-223-04-001", "answers": [ { "text": "シロンスク・ピャスト家", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フリデリク2世とヨアヒム2世ヘクトルの間で締結された継承条約を拒否し、ヨアヒム2世ヘクトルに圧力をかけたのは、誰か?", "id": "tr-223-04-002", "answers": [ { "text": "フェルディナント1世", 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"シュヴィーブス", "answer_start": 111, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フリードリヒ・ヴィルヘルムを継ぎ、ブランデンブルク選帝侯になったのは、誰ですか?", "id": "tr-223-06-001", "answers": [ { "text": "フリードリヒ3世", "answer_start": 153, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーストリアがシュヴィーブスの支配権を再び握ったのは、誰がブランデンブルク選帝侯であった時のことか?", "id": "tr-223-06-002", "answers": [ { "text": "フリードリヒ3世", "answer_start": 153, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レオポルト1世がブランデンブルクにシュヴィーブスを割譲したのは、オーストリアがどの戦争に力を入れていた時のことか?", "id": "tr-223-06-003", "answers": [ { "text": "大トルコ戦争", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "時代を下って1740年5月、即位したばかりのプロイセン王フリードリヒ2世は再びシュレージエンの領有を目指した。彼はシュレージエンへの請求が正当であると考え、また父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世からよく訓練された大軍であるプロイセン陸軍を継承し、国庫の状態も健全だった。一方、オーストリアは財政状況が悪く、軍も直近のオーストリア・ロシア・トルコ戦争で不名誉な敗北を喫したにもかかわらず増強も改革もなされなかった。ヨーロッパの情勢もプロイセンの先制攻撃に有利だった。グレートブリテン王国とフランス王国はお互いに注目していてヨーロッパ全体を見ておらず、ロシア帝国とスウェーデン王国はハット党戦争で戦っており、バイエルン選帝侯領とザクセン選帝侯領はオーストリアへの継承権を主張できる立場にあるため攻撃に参加する可能性があった。ホーエンツォレルン家による請求権は法律上の開戦事由になったが、実際にはレアルポリティークと地政戦略上の理由が戦争勃発の主因である。", "qas": [ { "question": "当時、プロイセンとオーストリアのうち、どの国の力がより弱まっていたの?", "id": "tr-223-07-000", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 137, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストリアの国力が弱まっていたのは、どの戦争を経ていたからですか?", "id": "tr-223-07-001", "answers": [ { "text": "オーストリア・ロシア・トルコ戦争", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハット党戦争は、ロシア帝国とどの国の間で行われた戦争であるか?", "id": "tr-223-07-002", "answers": [ { "text": "スウェーデン王国", "answer_start": 279, 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"tr-223-09-001", "answers": [ { "text": "フリードリヒ2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトとザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はそれぞれカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘と結婚しており、この結婚をハプスブルク家領への請求の根拠とした。中でもフリードリヒ・アウグスト2世はアウグスト3世としてポーランド・リトアニア共和国の国王にも就任しており、シュレージエンを領有することで自領であるザクセンとポーランドが一続きになる(同時にブランデンブルクをほぼ包囲する形になる)。この最悪の結果を防ぐためにも、プロイセンは急いで行動を起こさなければならなかった。", "qas": [ { "question": "カール・アルブレヒトとフリードリヒ・アウグスト2世の両社とも、誰の娘と結婚したか?", "id": "tr-223-10-000", "answers": [ { "text": "ヨーゼフ1世", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポーランド・リトアニア共和国の国王に就いていたのは、どの選帝侯だったか?", "id": "tr-223-10-001", "answers": [ { "text": "ザクセン選帝侯", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1740年10月20日にカール6世が死去すると、フリードリヒ2世はすぐに先制攻撃を決めて11月8日にプロイセン陸軍の動員を命じ、12月11日にマリア・テレジアに最後通牒を突き付けてシュレージエンの割譲を要求した。シュレージエン割譲の代償として、フリードリヒ2世はそれ以外のハプスブルク家領への攻撃を防ぐこと、多額の賠償金を支払うこと、国事詔書を承認することと、神聖ローマ皇帝選挙でブランデンブルク選帝侯としての票をマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンに投じることを提案した。", "qas": [ { "question": "カール6世が死去したのは、いつなの?", "id": "tr-223-11-000", "answers": [ { "text": "1740年10月20日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリードリヒ2世は、何年にオーストリアへの先制攻撃を決めましたか?", "id": "tr-223-11-001", "answers": [ { "text": "1740年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フリードリヒ2世は返事を待たず、12月16日にプロイセン軍を率いて、宣戦布告せずに国境を越えてシュレージエンに侵入した。以降1741年1月末までにシュレージエンのほぼ全域を占領し、残るグローガウ、ブリーク、ナイセのオーストリア3拠点を包囲した。オーストリア軍は3月末にナイセの包囲を解いたが、4月10日のモルヴィッツの戦いでプロイセン本軍に敗北したため、プロイセンのシュレージエン支配は揺るぎないものとなった。", "qas": [ { "question": "フリードリヒ2世がシュレージエンに侵入したのは、いつのことか?", "id": "tr-223-12-000", "answers": [ { "text": "12月16日", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モルヴィッツの戦いで勝利したのは、どの国か?", "id": "tr-223-12-001", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヨーロッパ諸国はオーストリアがモルヴィッツの戦いで敗れ、プロイセン軍の侵攻を阻止できなかったことに勇気づけられ、オーストリアへの攻撃に踏み切った。これにより戦争は単なるシュレージエンをめぐる紛争にとどまらずオーストリア継承戦争に発展し、以降数か月の間、バイエルン、ザクセン、フランス、ナポリ、スペインが各地でオーストリア領を攻撃するが、フリードリヒ2世はイギリスの催促と仲介もあってマリア・テレジアとの秘密講和交渉を開始、10月9日にクラインシュネレンドルフの密約と呼ばれる秘密停戦協定を締結した。この密約により、オーストリアは講和の代償として、来たる講和条約で下シュレージエンを割譲することに同意した。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパ諸国がシュレージエン戦争に次々と参戦してきたことにより、どの戦争へと発展したの?", "id": "tr-223-13-000", "answers": [ { "text": "オーストリア継承戦争", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クラインシュネレンドルフの密約は、フリードリヒ2世と誰の間で結ばれた秘密停戦協定でありますか?", "id": "tr-223-13-001", "answers": [ { "text": "マリア・テレジア", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーストリアが下シュレージエンをプロイセンに割譲する内容が書かれている密約は、何か?", "id": "tr-223-13-002", "answers": [ { "text": "クラインシュネレンドルフの密約", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーストリアがプロイセンとの戦闘で敗れたら、すぐオーストリアを侵攻してきた国々には、バイエルンとザクセン、フランス、ナポリのほかに、どの国があるか?", "id": "tr-223-13-003", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オーストリアが自軍を他の敵軍への対処にあて、失地を回復し始めると、フリードリヒ2世はオーストリアに密約を履行してシュレージエンの割譲に応じるつもりがないと判断し、協定の無効を宣言して進軍を再開した。1741年12月、プロイセン軍はモラヴィアに進軍して首府オルミュッツを占領、ボヘミア辺境のグラーツ要塞を包囲した。1742年1月、皇帝選挙が行われ、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが(カール7世として)神聖ローマ皇帝に当選した。2月、フリードリヒ2世はザクセン軍とフランス軍とともにモラヴィアを経由してウィーンへの進軍をはじめたが、フランス軍が非協力的な態度をとったためウィーンへの進軍の計画は4月に放棄され、プロイセン軍はボヘミアと上シュレージエンへ撤退した。", "qas": [ { "question": "プロイセン軍がオルミュッツを占領したのは、いつのこと?", "id": "tr-223-14-000", "answers": [ { "text": "1741年12月", "answer_start": 99, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カール・アルブレヒトが神聖ローマ皇帝に当選したのは、いつの選挙でですか?", "id": "tr-223-14-001", "answers": [ { "text": "1742年1月", "answer_start": 156, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }