{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "能動的三分間", "paragraphs": [ { "context": "「能動的三分間」は、東京事変の4作目のスタジオ・アルバム『スポーツ』からの先行シングルとしてリリースされた。バンドとしては椎名のソロ活動を挟んで約2年ぶりのリリースとなる。\n\n表題曲「能動的三分間」は、バンドのボーカリスト・椎名林檎がイメージ・キャラクターに起用され、テレビCMにも出演した江崎グリコ「ウォータリングキスミント」のCMソングとして使用されている。この楽曲のシングル化の経緯について、椎名は単純にこの楽曲がタイアップ曲に選ばれたためだと語っている。\n\n2007年のアルバム『娯楽(バラエティ)』では椎名は作詞と歌唱に専念していたため、2006年の『大人(アダルト)』以来3年ぶりに椎名がバンドの作曲クレジットに名を連ねた楽曲となっている。リリースが『娯楽(バラエティ)』から約2年の期間が空いたことについて椎名は、\"本当はすぐに詰めていきたかったのですが、私がソロ10周年という、これまでの音楽活動を振り返らなければならない時期を迎えたこともあって。期間が開くな、もうちょっと劇的な成長を聴いてもらいたいと思うようになったんです。事変については特に勉強したいことが増えたので、一年間ほどお休みをいただきたいと申し出たんです。その結果、リリースまでに倍ぐらいの期間が空いてしまったという感じです。\"と述べた。", "qas": [ { "question": "「能動的三分間」は誰のシングルなの?", "id": "tr-092-00-000", "answers": [ { "text": "東京事変", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『娯楽(バラエティ)』は何年のアルバムなの?", "id": "tr-092-00-001", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 233, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ウォータリングキスミント」のCMソングとして使用された曲は何?", "id": "tr-092-00-002", "answers": [ { "text": "「能動的三分間」", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "表題曲「能動的三分間」は、主に打ち込みのグルーヴによって生み出されるファンクやヒップホップにも通じるダンサブルなサウンドが特徴の音楽ジャンル・ニュージャックスウィングの楽曲を楽器で生演奏したらどうなるかということにバンドで挑戦した楽曲。\n\n「\"ポップスのヒットチューンは三分\"という黄金律で東京事変が曲を作ればこんなに格好よくなり、しかも売れる」というユーモアをまじえたコンセプトに基づき、楽曲制作はまず収録時間を3分間に決めることから始めた。BPMは椎名がいつも最初のセッティングをそうしてしまうという癖から120に決まり、「BPM=120というテンポなら1小節2秒×90小節演奏するとちょうど3分間になる」という計算で作られた。収録時間やBPM以外にもテーマの多い曲で、他にも「16分音符がシャッフルしていると速く、あるいは躍動して聴こえるか」「ムーンウォークの練習をするための曲」などの理屈が椎名の頭にはあった。ムーンウォークのきっかけは、楽曲制作当時に亡くなったマイケル・ジャクソンの映像を見たこと。椎名はニュージャックスウィングのスタイルを確立したテディ・ライリーのファンで、彼がプロデュースしたマイケルの『デンジャラス』もリアルタイムで聴いていたが、パフォーマンスの方はあまり見ていなかった。そこで改めて映像を見直したところ、バンド内でブームとなった。\n\n作詞・作曲はバンドのボーカリストである椎名林檎が手掛け、編曲・プロデュースをバンドメンバー全員で行っている。歌詞は英語詞と日本語詞が入り混じる構成となっている。", "qas": [ { "question": "「能動的三分間」の作曲は誰がやった?", "id": "tr-092-01-000", "answers": [ { "text": "椎名林檎", "answer_start": 603, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「能動的三分間」のサビ部分ではバンドメンバーの浮雲と伊澤一葉によりコーラスが歌われている。もともとコーラスとシンセサイザーありきの曲で、椎名のデモ段階から決まり事として入れられていた。女声側としてはキーをあと4つほど高くしたかったが、浮雲の声のスイートスポットにキー設定を合わせている。また前作まではピアノに拘っていた伊澤がシンセサイザーを弾いている。\n椎名の中ではバンドが次のステップに進むための練習曲のような意味合いがあり、自身を除く4人に演奏する際に出して欲しいノリを体得してもらうために作った曲。そのノリについてはなかなか全員での共通認識を持ってもらえず、これは生でやるから意味があるのであってそのノリを体現できないなら今録音する必要はないということを「それが出来ないんだったら全部打ち込みにするよ」と口にするほどの勢いで伝えた。もしCMタイアップが決まっていなければ先送りされただろうとも椎名は語っている。\n\nレコーディング前に腱鞘炎を悪化させてしまったベーシストの亀田誠治は、それまでの120%、200%の力を込めて弾くやり方を改め、80%の力の入れ具合をキープして弾く新しい演奏方法を試している。\n\nカップリング曲の「我慢」は作詞を椎名、作曲を伊澤が手掛けている。伊澤曰く「反射神経で書いた曲」で、歌詞が関西弁なのは椎名の関西弁が聞きたいという伊澤からのリクエストによるもの。", "qas": [ { "question": "「能動的三分間」のサビ部分では浮雲とまた誰がコーラスを担当したの?", "id": "tr-092-02-000", "answers": [ { "text": "伊澤一葉", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「我慢」の作曲を担当したのは誰?", "id": "tr-092-02-001", "answers": [ { "text": "伊澤", "answer_start": 529, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「我慢の歌詞はどの方言でなっているの?", "id": "tr-092-02-002", "answers": [ { "text": "関西弁", "answer_start": 559, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「能動的三分間」は日本レコード協会による公式DLチャートRIAJ有料音楽配信チャートでは最高位7位を記録しており、JapanHot100並びに日本のCDシングルチャートでもバンド初となるシングルチャート首位を獲得した。なお、2009年にオリコンシングルチャートで1位を獲得した日本のバンドのシングルはこれが唯一だ。「能動的三分間」は2009年11月24日付の日本レコード協会による着うたフルのダウンロード数を集計したRIAJ有料音楽配信チャートにて、18位でチャート・デビューしている。チャート2週目となる2009年12月1日付のチャートでは、この楽曲は前週よりランクを11上げ一気に7位までジャンプアップした。フィジカルでは日本で発売1週目に45,000枚を売り上げ、オリコン週間CDシングルチャートで1位を獲得している。シングルチャートにおける1位獲得はバンド史上初で、トップ5入りは通算6曲目となった。JapanHot100には、「能動的三分間」は2009年11月30日付のチャートでエアプレイポイントのみで27位に初登場した。チャートイン2週目となる2009年12月7日付のチャートでは、3ランクを上げ24位まで上昇した。セールスポイントが加算されたチャートイン3週目の2009年12月14日付のチャートでは一気に1位までジャンプアップ、JapanHot100での1位獲得はバンドにとって初の出来事となった。更にこの週、楽曲はJapanHot100以外にもJapanHot100Airplay、JapanHotSinglesSales、JapanAdultContemporaryAirplayといったビルボード・チャート全ての主要シングルチャートでも同時1位獲得を果たしている。台湾のG-MusicJ-Popチャートには、2009年第49週付のチャートにて16位でチャート・デビューしている。", "qas": [ { "question": "「能動的三分間」は日本レコード協会による公式DLチャートRIAJ有料音楽配信チャートで最高位何位を記録したか。", "id": "tr-092-03-000", "answers": [ { "text": "7位", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2009年にオリコンシングルチャートで1位を獲得した日本バンドの唯一のシングルは何ですか。", "id": "tr-092-03-001", "answers": [ { "text": "「能動的三分間」", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「能動的三分間」は2009年11月24日付の日本レコード協会による着うたフルのダウンロード数を集計したRIAJ有料音楽配信チャートにて、何位でチャート・デビューしたか。", "id": "tr-092-03-002", "answers": [ { "text": "18位", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「能動的三分間」は、台湾のG-MusicJ-Popチャートには、2009年第49週付のチャートにて何位でチャート・デビューしたか。", "id": "tr-092-03-003", "answers": [ { "text": "16位", "answer_start": 783, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「能動的三分間」のミュージック・ビデオは、児玉裕一が監督を務めている。児玉はミュージック・ビデオとともに、椎名が出演したガムのコマーシャルにおいても演出を務めている。ミュージック・ビデオは、2009年11月17日に東京事変の公式サイトにて先行公開された。\n\nビデオは曲のタイトルにもなっている\"3分間\"がフィーチャーされている。映像は、椎名を中心に姿をそのままに周りの風景や人物のみが変化し切り替わるという構成による映像手法がとられており、ビデオ中ではボーカルの椎名とバンドメンバーのギタリスト浮雲、キーボーディスト伊澤一葉、ベーシスト亀田誠治、ドラマー刄田綴色がそれぞれ2人ずつで、異なる空間においてスタンドマイクで歌う椎名と共に自らのバンドにおける担当楽器を演奏する場面も登場する。ビデオでは、椎名が歌う楽曲歌詞の英語詞に対して日本語訳詞もあてられている。このビデオは椎名が出演したテレビ・コマーシャルとも関連性を持っており、コマーシャル内で椎名が披露したマイケル・ジャクソンのパフォーマンスとしても著名なムーンウォークがビデオ内でも披露されている。このムーンウォークはコマーシャルの撮影においてコマーシャル監督が椎名に「何かインパクトのある面白いポーズがないか」と提案したのを受け椎名が発案し、採用されたもので、このパフォーマンスがビデオにも転用されている。ビデオ内では、椎名のほかにもバンドメンバー全員がムーンウォークを行っている。", "qas": [ { "question": "「能動的三分間」のミュージック・ビデオの監督は誰?", "id": "tr-092-04-000", "answers": [ { "text": "児玉裕一", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「能動的三分間」のミュージック・ビデオはいつ東京事変の公式サイトにて先行公開されたか。", "id": "tr-092-04-001", "answers": [ { "text": "2009年11月17日", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バントのキーボーディストは誰?", "id": "tr-092-04-002", "answers": [ { "text": "伊澤一葉", "answer_start": 258, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「能動的三分間」は多くの批評家から、概ね肯定的な反応を得ている。HotExpressの武川春奈は、\"聴き手を良い意味で裏切ってくれた\"と語った。更に\"ここまで直感的、本能的な音楽を届けてくるとは思わなかったし、それによって事変ファン以外でも耳にしやすくなった気がする。\"とコメントしている。リッスン・ジャパンの批評家の青雪吉木は楽曲の音楽性について\"音も官能的かつストイックなアーバン・ファンク・チューン\"とコメントした。更に2007年発表の前作『娯楽(バラエティ)』とも対比し、\"『娯楽(バラエティ)』では作詞と歌唱に徹していた椎名林檎が作曲にも復帰し、そうしたシステムに乗らずとも東京事変において自らを相対化できると証明するような高品位サウンドだ。\"と語った。続けて、\"『三文ゴシップ』に通じる解放的かつ意味深なヴォーカルを聴かせるばかりか、この曲をバックに自ら出演したCMでムーンウォークをキメ、先鋭的ながら文字通り三分間ポップスとして成立させる椎名林檎の才覚もまた確かだ。\"と批評した。『WHAT'sIN?』の批評家柳沢幹夫は楽曲を\"清艶ファンク\"と表現した。更に音楽性については\"ソリッドなギターとスムースに絡み合うコーラスが、聴く者を静かに覚醒する。\"と続け批評した。『ロッキング・オン』の小池宏和は楽曲の音楽性について\"曲の展開やコーラスの重ね方など、わざとらしいぐらいに型に嵌っていて、その中に込められた歌詞は《三分間でさようならはじめまして》や《格付(ランキング)のイノチは短い》といったポップ・ソングの刹那と永遠性を歌い込んだものだ\"とコメントの上批評した。更に彼はこれらについて「確信犯」だと言い切っている。", "qas": [ { "question": "「能動的三分間」は多くの批評家から、肯定的な反応を得たか、否定的な反応を得たか。", "id": "tr-092-05-000", "answers": [ { "text": "肯定的", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「能動的三分間」に対して\"聴き手を良い意味で裏切ってくれた\"と評価した人の名前は何?", "id": "tr-092-05-001", "answers": [ { "text": "武川春奈", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街", "paragraphs": [ { "context": "ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街(ハンブルクのそうこがいとチリハウスをふくむしょうかんがい)はドイツの世界遺産の一つであり、ハンブルクが世界屈指の国際商業都市として急成長を遂げた19世紀後半から20世紀初頭の様子を伝える倉庫街(シュパイヒャーシュタット)と商館街(コントーアハウス地区)を対象としている。\n登録名にあるように、後者にはフリッツ・ヘーガーによる表現主義建築の傑作チリハウスが含まれる。", "qas": [ { "question": "ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街はどこの国に存在しているの?", "id": "tr-093-00-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 52, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チリハウスの建築様式は何?", "id": "tr-093-00-001", "answers": [ { "text": "表現主義建築", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツにある世界屈指の国際商業都市とはどこ?", "id": "tr-093-00-002", "answers": [ { "text": "ハンブルク", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ハンブルクはかつてハンザ同盟の主要都市として栄えた。\nしかしながら、現代のハンブルクの街並みには、そのころの面影は乏しい。\nその一因は、ダイヒ通りが火元となったハンブルク大火(1842年)による焼失である。\n17世紀以降、ハンザ同盟は衰退に向かった。\nしかし、18世紀以降のハンブルクは、アメリカ合衆国の独立やラテンアメリカ諸国の相次ぐ独立に後押しされ、ハンブルク・アメリカ郵船会社が急成長を遂げたことをはじめ、経済的に最盛期を迎えた。", "qas": [ { "question": "ハンブルク大火は何年に発生したの?", "id": "tr-093-01-000", "answers": [ { "text": "1842年", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハンブルク大火の出火場所はどこだったの?", "id": "tr-093-01-001", "answers": [ { "text": "ダイヒ通り", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハンブルクが経済的ピークを迎えた時期はいつでしたか?", "id": "tr-093-01-002", "answers": [ { "text": "18世紀以降", "answer_start": 130, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "昔の古い町並みが残っていない原因の1つとは何?", "id": "tr-093-01-003", "answers": [ { "text": "ハンブルク大火", "answer_start": 80, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハンブルクは中世以来、経済的独立性を保ち、ドイツ関税同盟(1834年)が成立した後も加わることはなかったが、1871年のドイツ帝国成立で情勢が変化した。\n首相オットー・フォン・ビスマルクがハンブルクをドイツ関税同盟に組み込むことを決め、その旨を1880年に通告したのである。\nそれに対し、ハンブルクの商人団はビスマルクと交渉し、自由港地区は残すことと、1881年から1888年を移行期間とした上での加入とすることを承認させた。\nハンブルクはこの移行期間中にハンブルク港を整備したが、その際には2万人以上の住民を立ち退かせ、既存の建物もことごとく撤去し、まったく新しい港へと生まれ変わらせた。\n世界遺産に登録されたシュパイヒャーシュタットの倉庫群も、このときに形成され始めたのである。", "qas": [ { "question": "シュパイヒャーシュタットの倉庫群が形成された時期は何年から何年の間でしたか?", "id": "tr-093-02-000", "answers": [ { "text": "1881年から1888年", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ帝国成立と共に首相となった人は誰?", "id": "tr-093-02-001", "answers": [ { "text": "オットー・フォン・ビスマルク", "answer_start": 79, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドイツ関税同盟にハンブルクを入れると決めた人は誰ですか?", "id": "tr-093-02-002", "answers": [ { "text": "オットー・フォン・ビスマルク", "answer_start": 79, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハンブルク港を整備する際に、立ち退かせた住民の人数はどれくらいでしたか?", "id": "tr-093-02-003", "answers": [ { "text": "2万人以上", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ビスマルクとの合意通り、1888年には関税同盟に加入し、ハンブルク港に自由港が改めて公式に開かれた。\n19世紀前半に5万人に過ぎなかった人口も急増し、20世紀初頭のハンブルクは百万都市となった。\nさて、その頃、すなわち1896年(大不況の終わった年)から1913年(第一次世界大戦前年)の世界経済はというと、重化学工業を中心に工業生産が急伸しており、1873年(大不況の始期)からでは、実に約4倍の伸びを見せていた。\nそれに伴い、世界の貿易総額は、第一次産品も第二次産品も約3倍に成長しており、ドイツはその中にあって世界2位の貿易額を占めていた。\nドイツの場合、貿易の成長は工業発展に裏打ちされており、イギリスがなおも繊維品が首位を占めていたのと異なり、鉄鋼(12.5%)を皮切りに重化学工業の品々が輸出の4割近くを占め、その7割以上が欧州市場向けとなっていた。\n他方で輸入は、アメリカ合衆国やアルゼンチンなどをはじめとする国々からの工業原料や食料品が主であった。", "qas": [ { "question": "19世紀前半と20世紀初頭を比べると、どちらの時期がハンブルクの人口が多かったですか?", "id": "tr-093-03-000", "answers": [ { "text": "20世紀初頭", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1896年から1913年の間に急成長を遂げた産業分野は何ですか?", "id": "tr-093-03-001", "answers": [ { "text": "重化学工業", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "貿易総額が2番目に高かった国はどこでしたか?", "id": "tr-093-03-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 247, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハンブルクが百万都市となった時期はいつでしたか?", "id": "tr-093-03-003", "answers": [ { "text": "20世紀初頭", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このような環境の中、第一次世界大戦直前にはハンブルク・アメリカ郵船会社は海運会社として世界最大となり、第二次世界大戦前には国際貿易港としてのハンブルクは世界4位にまで成長していた。\n第二次世界大戦で半分以上が破壊されたものの、その後再建され、現代のハンブルクはドイツ最大の貿易港であるとともに、2010年代半ばにはロッテルダム港に次ぐ欧州第2位の貿易港の地位を占めている。\n2017年にG20首脳会議開催地となった際には、歴史的に自由貿易を象徴する都市として、反保護主義のメッセージを発するのに好適な場所などといわれた。", "qas": [ { "question": "2010年代半ば時点で、欧州で最大の貿易港だったのはどこ?", "id": "tr-093-04-000", "answers": [ { "text": "ロッテルダム港", "answer_start": 157, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第一次世界大戦直前に世界最大の海運会社に成長したのはどこ?", "id": "tr-093-04-001", "answers": [ { "text": "ハンブルク・アメリカ郵船会社", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2017年のG20首脳会議の開催地はどこだった?", "id": "tr-093-04-002", "answers": [ { "text": "ハンブルク", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2010年代半ばに欧州第1位となった貿易港はどこ?", "id": "tr-093-04-003", "answers": [ { "text": "ロッテルダム港", "answer_start": 157, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "世界遺産の登録対象は、19世紀後半から20世紀初期に、それまであった建物群を取り壊して新たに形成された街区である。\nその時期は、前述のように国際的にも貿易が急成長していた時期と重なっており、そのような国際貿易の急成長が都市計画にもたらした影響を伝えるものとして、評価されたのである。\nシュパイヒャーシュタット(Speicherstadt)はエルベ川の中洲に、19世紀以降発達した倉庫の建ち並ぶ地区である。\n自由港に形成された倉庫群で、19世紀末の時点では倉庫街として世界最大規模だった。\nその延べ床面積30万平方メートルは、まとまった倉庫群の規模としては、現代においても世界最大級である。", "qas": [ { "question": "シュパイヒャーシュタットが位置している川の名前は?", "id": "tr-093-05-000", "answers": [ { "text": "エルベ川", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エルベ川の中州に倉庫が立ち並んでいる地区の名前は何?", "id": "tr-093-05-001", "answers": [ { "text": "シュパイヒャーシュタット", "answer_start": 142, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "19世紀末の時点で倉庫街として世界最大規模だったのはどこ?", "id": "tr-093-05-002", "answers": [ { "text": "シュパイヒャーシュタット", "answer_start": 142, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シュパイヒャーシュタットの倉庫群の延床面積は?", "id": "tr-093-05-003", "answers": [ { "text": "30万平方メートル", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "シュパイヒャーシュタットはドイツ関税同盟に組み込まれる前の移行期間中に建てられ始めた。\n1881年に持ち上がった計画が1883年にビスマルクの許可を得た後、1885年設立のハンブルク自由港倉庫建築組合によって実現した。\nその実現に大きな影響力を持ったのが、1872年にハンブルク建設局の主任技師に就任したフランツ・アンドレアス・マイヤーである。\nマイヤーはハンブルク出身だが、ハノーファーで建築を学んだため、歴史主義建築の中でも当時「ハノーファー派」と呼ばれたレンガ造りのネオ・ゴシック様式の影響を強く受けた。\nその結果できあがったネオ・ゴシック様式の倉庫群の重厚な外観などは、城に例えられることもある。\nその倉庫群は、レンガ造りの7階建てで、上部には軒蛇腹、階段状の張り出し切妻といった装飾要素がいくらか存在する。", "qas": [ { "question": "フランツ・アンドレアス・マイヤーの出身地はどこ?", "id": "tr-093-06-000", "answers": [ { "text": "ハンブルク", "answer_start": 178, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マイヤーはどこで建築を勉強したの?", "id": "tr-093-06-001", "answers": [ { "text": "ハノーファー", "answer_start": 188, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マイヤーが影響を受けた建築様式とは?", "id": "tr-093-06-002", "answers": [ { "text": "ネオ・ゴシック様式", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハンブルク自由港倉庫建築組合は何年に設立したの?", "id": "tr-093-06-003", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "倉庫はいくつもの区画(ブロック)に分けられており、その建築は1885年から1927年まで、以下の3段階に分けられる。\n第1期(1885年-1888年)はブロックAからOまで(FとIは欠番)。\n第2期(1891年-1896年)はブロックPおよびブロックQ/R。\n普通、ブロックは運河などで隔てられるが、QとRは連続している。\n第3期(1899年-1927年)はブロックSからXまで。\nただし、ほとんどは1912年までには完成しており、専門家には全計画の終了時期を1912年としている文献もある。\n第3期にハンブルクの建築で中心的地位を占めたのはフリッツ・シューマッハーで、彼はコントーアハウス地区の商館建築ではハノーファー派に批判的な立場をとるのだが、倉庫群については第2期までのハノーファー派の様式を踏襲した。\nなお、ブロックA,B,C,J,K,MおよびOの東部は第二次世界大戦時に全壊しており、そのうち、いくつかの再建されなかった(または全く別の建物が建てられた)ブロックは世界遺産の対象からは除外されている。\n倉庫群は関税運河(Zollkanal)などに面しており、船から直接荷揚げできるようになっている。\n荷揚げする際には屋根から下がる滑車を利用したが、その中には世界遺産登録時点でも稼動しているものもある。\n19世紀の主な取扱商品はタバコ、生糸、香料などで、特にカカオ豆、コーヒー、絨毯の取扱量は世界最大だったとされる。", "qas": [ { "question": "期間が最も長いのは、第1期、第2期、第3期のどれですか?", "id": "tr-093-07-000", "answers": [ { "text": "第3期", "answer_start": 162, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブロックの数が最も多く建築されたのは、第1期、第2期、第3期の中でいつでしたか?", "id": "tr-093-07-001", "answers": [ { "text": "第1期", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第3期にハンブルクの建築で中心的地位を占めた人物は誰ですか?", "id": "tr-093-07-002", "answers": [ { "text": "フリッツ・シューマッハー", "answer_start": 271, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "自由港地区が形成された当初は居住に使うことは認められていなかったが、このルールは1997年に改正された。\n一帯は、大規模なウォーターフロント再開発の一端として、いわゆる「ハーフェンシティ」に含まれているが、シュパイヒャーシュタットは可能な限り、修復・保存する方針が採用された。\nただ、シェンゲン協定の広まりにともなって自由港としての意義が薄れた結果、使用されなくなった倉庫の中には、IT企業などが入って再利用している事例もある。\n世界遺産には、当時の姿をとどめる15のブロックと、関連する6つの旧施設、すなわち旧ボイラー棟(BoilerHouse)、旧中央動力棟(CentralPowerHouse)、旧コーヒー取引所(CoffeeExchange)、旧有人火災報知棟(MannedFireAlarmStation)、旧巻き揚げ機操縦士棟(WinchOperator’sHouse)、旧税関(CustomsBuildings)が含まれる。", "qas": [ { "question": "未使用の倉庫を再利用したのはどんな企業でしたか?", "id": "tr-093-08-000", "answers": [ { "text": "IT企業", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "自由港としての意義が薄れたのは何の協定が影響したから?", "id": "tr-093-08-001", "answers": [ { "text": "シェンゲン協定", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "コントーアハウス地区(Kontorhausviertel)は、シュパイヒャーシュタットに隣接するオフィスビル街である。\n19世紀後半から20世紀初頭に形成された一連のオフィスビルはコントーアハウス(Kontorhaus)と呼ばれ、日本では「商館(建築)」などと訳出される。\nそれらは倉庫街の形成と急速な経済発展に対応して求められるようになったものだが、19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツで見られた故郷保護運動およびそれに基づく故郷保護建築・故郷様式の影響を受けた。\nそれらの運動や様式は工業化や合理主義化への反動という側面を持ち、アイデンティティを伝統の中に求めることを志向していたので、ハンブルクにおいても北ドイツの伝統的様式が再評価された。\nそして、ハンブルクにおいてどのような商館が望ましいかという議論になった際には、シカゴ流の合理性最優先の高層建築は拒絶され、歴史的価値や建築的価値を尊重する観点から、7階建てから11階建てまでとすることが決められた。", "qas": [ { "question": "「商館」とは何のことですか?", "id": "tr-093-09-000", "answers": [ { "text": "コントーアハウス", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シュパイヒャーシュタッットの隣にあるオフィス街の名前は何?", "id": "tr-093-09-001", "answers": [ { "text": "コントーアハウス地区", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この商館建築の躯体は鉄骨鉄筋コンクリート構造で作られていた。\n外装材は、19世紀末の時点までは、主に漆喰によりネオ・ルネッサンス様式の仕上げが採用されていたが、故郷保護運動のイデオロギーにより故郷性(Heimatlichkeit)が重視され、北ドイツでの伝統的素材であるレンガが注目された。\nもともと北ドイツでは石材の調達が難しいこともあり、12世紀頃からレンガ建築が広まっていたのである。\n19世紀末以降、レンガの中でも色彩、硬度、対候性に優れたクリンカー煉瓦が普及したことも、これを後押しした。", "qas": [ { "question": "コントーアハウス地区の建築外装に使用された素材は何?", "id": "tr-093-10-000", "answers": [ { "text": "レンガ", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ハンブルクの故郷保護運動の中心人物は、ハンブルク美術館館長のアルフレート・リヒトヴァルクで、その理念の下で建築を進めたのがハンブルク市建築監理長官アルバート・エルベであった。\nレンガの商館建築では、当初彼らの影響が大きかったが、大きな画期となったのはフリッツ・シューマッハーであった。\n1909年にハンブルクの都市建築主監として招かれたシューマッハーはブレーメン出身で、ドレスデン工科大学教授となったあと、ドイツ工作連盟結成にも参加した。\nシューマッハーは、ハンブルクに招聘されたあと、その地の伝統の影響を受け、建材にレンガを取り入れるようになり、「急勾配の屋根、三角形の妻壁の強調、白い格子状の窓の建具」などの伝統を尊重した様式を採用した。\nのみならず、後にはハンブルクで確立した様式を、積極的に他の地域にも広めていくようになった。", "qas": [ { "question": "ハンブルクの故郷保護運動の中心的存在は誰でしたか?", "id": "tr-093-11-000", "answers": [ { "text": "アルフレート・リヒトヴァルク", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルフレート・リヒトヴァルクが務めていた役職とは何でしたか?", "id": "tr-093-11-001", "answers": [ { "text": "ハンブルク美術館館長", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シューマッハーの出身地はどこでしたか?", "id": "tr-093-11-002", "answers": [ { "text": "ブレーメン", "answer_start": 176, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "シューマッハーはその著書『現代煉瓦建築の本質』(1917年)で、自然と人間の統一を志向し、それを具現する材質としてのレンガの特性と優位性とを詳しく論じた。\nしかし、レンガが伝統的な建材だからといって、ハノーファー派のような過去の様式への回帰は拒絶し、レンガを駆使した表現主義建築という、新たな様式が発展する基盤となった。\nこのシューマッハーの影響により、ヘルマン・ディステル、ゲルソン兄弟(Hans_und_Oskar_Gerson)、フリッツ・ヘーガーおよびその弟ヘルマン・ヘーガーなどが、レンガによる商館建築を手がけていった。", "qas": [ { "question": "シューマッハーがレンガについて詳しく述べた著書とは何?", "id": "tr-093-12-000", "answers": [ { "text": "『現代煉瓦建築の本質』", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『現代煉瓦建築の本質』の著者は誰?", "id": "tr-093-12-001", "answers": [ { "text": "シューマッハー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その中でも最高傑作とされるのがチリハウスだが、これは次節に別記する。\n他の商館建築としては、7階建てのミラマール=ハウス(Miramar-Haus,1921年-1922年)、10階建てのメースベルクホーフ(Messberghof,1922年-1924年)、9階建てのモンタンホーフ(Montanhof,1924年-1926年)、8階建て及び9階建てのシュプリンケンホーフ(Sprinkenhof,1927年-1932年)などがある。\n北ドイツ表現主義建築について博士論文をまとめた長谷川章は、これらを手がけた表現主義建築家たちの共通点を「ぎざぎざの形態の多用」「クリスタルや星形のモチーフ」「3角形の窓・柱・プラン」「煉瓦の多用」「外観の垂直性の強調」「平滑な壁面のテキスタイル状の装飾」「セラミックの彫刻」「白い梯子状の桟の窓」とまとめ、ベルリンなどの表現主義建築にも共通する要素と、北ドイツの伝統的な要素との融合が見られるとした。", "qas": [ { "question": "シュプリンケンホーフ、モンタンホーフ、ミラマール=ハウスの中で、最も階数の少ない建築物は何?", "id": "tr-093-13-000", "answers": [ { "text": "ミラマール=ハウス", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シュプリンケンホーフ、モンタンホーフ、ミラマール=ハウスの中で最も遅く建築されたものはどれですか?", "id": "tr-093-13-001", "answers": [ { "text": "シュプリンケンホーフ", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "メースベルクホーク、モンタンホーフ、ミラマール=ハウスの中で最も早く建築された建物は何ですか?", "id": "tr-093-13-002", "answers": [ { "text": "ミラマール=ハウス", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ドイツの表現主義建築は、いくつかの傾向に分けることができ、その一つに、北ドイツの伝統的な建材であるレンガを使った造形があった。\nそうしたレンガを駆使した表現主義建築をよく体現しているのが、フリッツ・ヘーガーの代表作、チリハウス(Chilehaus)である。\n1922年着工、1924年4月竣工。\n面積5,950m2、延べ床面積36,000m2。\n10階建てで、中はテナントが自由に利用しやすいように、垂直の動線を中央に集め、仕切り壁などは設けなかった。\nチリハウスの名は、チリ硝石の取り扱いで財を築いたハンブルクの富豪ヘンリー・ブラレンス・スローマンに由来する。", "qas": [ { "question": "チリハウスの建築者は誰?", "id": "tr-093-14-000", "answers": [ { "text": "フリッツ・ヘーガー", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チリハウスの外装に使用された素材は何?", "id": "tr-093-14-001", "answers": [ { "text": "レンガ", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チリハウスは何階建てですか?", "id": "tr-093-14-002", "answers": [ { "text": "10階建て", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チリハウスの面積は?", "id": "tr-093-14-003", "answers": [ { "text": "5,950m2", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "チリハウスもコンクリート構造の建物ではあるが、外装材にはレンガ(クリンカー煉瓦)が用いられた。\nヘーガーは自然や風土と一体化する建築を目指し、それを体現するものとしてレンガを評価し、「建築の宝石」と称えていた。\n他方で、当時広まりつつあったインターナショナル・スタイルには強い嫌悪感を表明していた。\nチリハウスにおけるレンガは構造の重量を支える必要が無い分、ヘーガーは自由なデザインでもって貼り付けていった。\nその数は実に480万個にもなるという。", "qas": [ { "question": "チリハウスの外装に使用されたレンガの数はいくつ?", "id": "tr-093-15-000", "answers": [ { "text": "480万個", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "マクドネル・ダグラスMD-90", "paragraphs": [ { "context": "マクドネル・ダグラスMD-90(McDonnellDouglasMD-90)は、アメリカ合衆国のマクドネル・ダグラスが開発・製造した、小型双発ジェット旅客機である。ダグラスDC-9の発展型であるマクドネル・ダグラスMD-80をベースにさらに近代化したナローボディ機で、新型エンジンの採用により低騒音・低排気ガスを実現した。低翼配置の後退翼にリア・マウントのエンジン、T字尾翼という特徴がDC-9から引き継がれている。MD-90の巡航速度はマッハ0.76、全長は46.50メートル、全幅は32.87メートル、最大離陸重量はオプション採用時の最大値が76.2トン、標準座席数は2クラスで153席、1クラスで172席、降着装置は前輪式配置である。", "qas": [ { "question": "マクドネル・ダグラスMD-90がベースにしている機種は、どの機種の発展型であるの?", "id": "tr-094-00-000", "answers": [ { "text": "ダグラスDC-9", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "MD-90は、2クラスと1クラスのうち、何クラスであるときに標準座席数がより多いですか?", "id": "tr-094-00-001", "answers": [ { "text": "1クラス", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "MD-90は1989年11月に正式開発が決定され、1993年2月に初飛行、1995年4月にデルタ航空により初就航した。MD-90の総生産数は116機で、2000年10月に納入された機体を最後に生産を終えた。日本では日本エアシステムが1996年からMD-90を導入し、映画監督の黒澤明がデザインした7種類の虹の機体塗装が話題となった。日本エアシステムでは最終的に16機を導入し、後の日本航空との経営統合後も全機引き継がれたが、2013年3月末までに全機引退した。MD-90は、日本の航空会社が運航した最後のダグラス製旅客機であった。2017年7月現在、64機のMD-90が就航しており運用者はデルタ航空のみである。2017年10月までに、MD-90に関する航空事故および事件は3件発生しており、機体損失事故は2件、その内の1件で1名が死亡している。", "qas": [ { "question": "MD-90の初就航は、どの航空会社により行われたのか?", "id": "tr-094-01-000", "answers": [ { "text": "デルタ航空", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "MD-90の最後の納入は、いつだったか?", "id": "tr-094-01-001", "answers": [ { "text": "2000年10月", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2017年7月時点で唯一のMD-90運用者は、どの航空会社か?", "id": "tr-094-01-002", "answers": [ { "text": "デルタ航空", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "米国のダグラスは、同社で最初のジェット旅客機となるDC-8を開発した後、プロペラ機が担っていた小型旅客機市場に向けて、短距離用の小型ジェット旅客機のDC-9を開発した。DC-9シリーズで最初のモデルとなったのはDC-9-10で、1965年12月8日に初就航した。DC-9はエンジンを胴体尾部に左右1発ずつ配置したリア・マウント方式を採用し、T字型の尾翼を持ち、客席の通路が1本のナローボディ機であった。ダグラスはDC-9-10をベースに胴体延長型や最大離陸重量増加型といった派生型を開発してDC-9シリーズのラインナップを拡充した。1967年4月、ダグラスは同じ米国の航空機メーカーのマクドネルと合併してマクドネル・ダグラスとなった。1970年代の中頃になると、150席級の旅客機の需要が高まると考えられるようになり、マクドネル・ダグラスはDC-9のさらなる胴体延長型を開発して対応しようとした。また、胴体延長と合わせて主翼の設計変更やエンジン更新も行うことになり、1977年10月14日に正式開発が決定し、DC-9スーパー80と呼ばれた。DC-9スーパー80の最初のモデルは1980年8月25日に型式証明を取得し、その年の10月に路線就航を開始した。1983年7月、マクドネル・ダグラスは製品名の変更を発表し、DC-9スーパー80はMD-80シリーズと呼ばれることとなった。MD-80シリーズでも胴体長や航続距離性能が異なるシリーズ機が開発されたが、いずれもDC-9と同じ胴体断面を用い、リア・マウント方式のエンジン配置とT字尾翼という特徴もDC-9から引き継がれた。", "qas": [ { "question": "ダグラスがDC-8の次に開発した、短距離用の小型ジェット旅客機シリーズの最初のモデルが初就航したのは、いつ?", "id": "tr-094-02-000", "answers": [ { "text": "1965年12月8日", "answer_start": 114, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダグラスとどの会社の合併により、DC-9スーパー80がMD-80シリーズと改称されたましたか?", "id": "tr-094-02-001", "answers": [ { "text": "マクドネル", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "MD-80シリーズの最初のモデルが型式証明を取得したのは、いつか?", "id": "tr-094-02-002", "answers": [ { "text": "1980年8月25日", "answer_start": 488, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エンジンを胴体尾部に左右1発ずつ配置する方式を、何と呼ぶか?", "id": "tr-094-02-003", "answers": [ { "text": "リア・マウント方式", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1984年3月なると、欧州のエアバスが完全に新設計となるA320の開発を決定し、150席級のジェット旅客機市場へ参入を決めた。また、1981年3月にはボーイングも737の発展型(737-300)の開発を決定しており、さらに後継機となる新型小型機の研究を進めていた。DC-9/MD-80シリーズは一定の市場シェアを獲得していたが、マクドネル・ダグラスはこれら競合他社の動きへの対応が必要となった。また、1973年の第1次オイルショックにより石油価格の高騰が予想され、旅客機も燃費向上が最重要課題となっていた。マクドネル・ダグラスは、MD-80のエンジンを超高バイパス比で大幅な燃料節約効果が期待されていたプロップファンに換装する機体案の検討を進め、この計画はMD-90と呼ばれた。1987年から1989年にかけて、エンジンメーカーの実証プロップファンエンジンをMD-80の試験機に搭載し、飛行試験や展示飛行が行われた。プロップファンは実用化に向けて着々と開発が進められたが、航空会社からの反応は否定的であった。石油危機が過ぎ去り燃料価格が安定したことに加え、信頼性や騒音が心配されたことなどから、結局プロップファンを装備する計画は中止された。", "qas": [ { "question": "A320と737-300のうち、どれがより早く開発決定された?", "id": "tr-094-03-000", "answers": [ { "text": "737-300", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MD-90の計画が登場したのは、どの事件により燃料節約が重大事項になったからですか?", "id": "tr-094-03-001", "answers": [ { "text": "第1次オイルショック", "answer_start": 206, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "燃費向上のために採用され、飛行試験や展示飛行にも用いられたが結局MD-90に搭載されなくなったエンジンは、何か?", "id": "tr-094-03-002", "answers": [ { "text": "プロップファンエンジン", "answer_start": 367, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方、A320は先進的な操縦システムを実用化し、1987年2月に初飛行に成功、1988年には型式証明を取得し航空会社への引き渡しが開始されていた。MD-80のJT8Dエンジンは基本設計が1950年代のものであり、マクドネル・ダグラスは、改めてMD-80のエンジン換装の検討を行った。候補となったエンジンは2種類あり、CFMインターナショナルのCFM56と、英米日独伊5か国のエンジンメーカーの国際合弁会社であるインターナショナル・エアロ・エンジンズ社のV2500であった。CFM56は既に十分な実績があったが、マクドネル・ダグラスは、新規開発で将来性があり出力増強型の開発が進行していたV2500エンジンを採用した。V2500を装備した機体計画はMD-90Vと名付けられ、1989年6月のパリ航空ショーで発表された。その後モデル名や細かい機体案が修正され、座席数153席で、航続距離が4,200キロメートルのMD-90-30と、燃料搭載量を増やして航続距離を5,600キロメートルに延ばすMD-90-50を開発する計画となった。1989年11月14日、マクドネル・ダグラスはMD-90の正式開発を決定したが、この時点では確定受注は得ていなかった。DC-9やMD-80の実績から、開発を進めれば受注が付くとの判断による決定であった。実際に翌年までにデルタ航空、日本エアシステム、アラスカ航空から受注を獲得し、この3社がローンチカスタマーとなった。", "qas": [ { "question": "MD-90-30とMD-90-50のうち、航続距離がより長いのは、どれ?", "id": "tr-094-04-000", "answers": [ { "text": "MD-90-50", "answer_start": 444, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MD-90-30とMD-90-50のうち、より多くの燃料が搭載できるのは、どれですか?", "id": "tr-094-04-001", "answers": [ { "text": "MD-90-50", "answer_start": 444, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MD-90のローンチカスタマーの3社のうち、日本の会社はどの会社か?", "id": "tr-094-04-002", "answers": [ { "text": "日本エアシステム", "answer_start": 579, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MD-90Vという機体計画は、どこで発表されたか?", "id": "tr-094-04-003", "answers": [ { "text": "パリ航空ショー", "answer_start": 344, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "MD-90-30の最大離陸重量は70,760キログラム(156,000ポンド)を予定したため、同72,575キログラム(160,000ポンド)のMD-83がMD-90のベース機となった。マクドネル・ダグラスが航空会社に提示したMD-90の基本仕様は、「エンジンはV2500-D5を採用、胴体はDC-9/MD-80と同じ断面を用いつつMD-83比で前方胴体を1.45メートル延長、MD-81と同様の操縦特性を持たせるため、エンジンの出力強化に伴い昇降舵を手動式から油圧式に変更、そして、MD-88のコックピットを採用することでMD-88と同一の操縦資格を実現、飛行管理装置、慣性航法装置、エンジン制御の自動化(FADEC)の導入により自動化を促進、また、キャビン内装や機器を近代化」とのことであった。これらに対し、欧州の航空会社を中心とした多くの航空会社から、「6面のディスプレイを横一列に配置した最新式コックピット、航続距離の増加、最大離陸重量(搭載量)の増加、貨物の搭載作業を容易にするため、床下貨物室に動く床(ムービング・カーペット)を設置」との要求が寄せられた。マクドネル・ダグラスは、これらの要求に応えてMD-90欧州域内仕様を設定したが、当面はMD-88仕様のコックピットで開発作業を一本化し、発展型はその後に検討することとなった。コックピットはスイッチやコンポーネント類は新しいものが取り入れられているが、乗員からの見た目などはMD-80やDC-9から変わらないように、取り付け位置や機能などが設計された。パイロットの視界を広げるため、操縦室の風防の一部が設計変更され、窓面が大型化された。", "qas": [ { "question": "MD-90-30は何をベースに最大離陸重量を増加させた機種であるの?", "id": "tr-094-05-000", "answers": [ { "text": "MD-83", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MD-90-30とMD-83のうち、どの機種の最大離陸重量の値がより大きいですか?", "id": "tr-094-05-001", "answers": [ { "text": "MD-83", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マクドネル・ダグラスが提示したMD-90の基本仕様に対し、欧州の航空会社は、最大離陸重量のほか、何の項目を変更してほしいと要求したのか?", "id": "tr-094-05-002", "answers": [ { "text": "コックピット", "answer_start": 401, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "MD-90の胴体は、MD-83との比較で主翼前方のみ1.45メートル(57インチ)延長された。この胴体延長の主な目的は、エンジン換装による尾部の重量増加に対して主翼前後の重量バランスをとることであったが、10席弱の座席数増加にもつながった。胴体延長に伴い、緊急時の脱出に関する米国連邦航空局(FederalAviationAdministration、以下FAA)の規制要求へ対応するため、主翼上に片側2か所ずつある非常口のうち前方のものが1フレーム(窓1つ)分前方に移された。主翼はMD-83のものが流用され、内部の構造や前縁、後縁、動翼などをMD-83のままとし、上面と下面の外板が強化された。垂直尾翼はMD-87のものを先端を延長して流用し、胴体の結合部などが強化された。水平尾翼は基本的にMD-83と同じだが前縁はMD-87のものが用いられた。機体構造の疲労寿命のなかには「デザイン・サービス・ライフ」というものがあり、設計上の目標に用いられる。これは、特に問題となるような構造上の欠陥を生ずることなく運航できる寿命であり、飛行時間と着陸回数で表される。MD-90のデザイン・サービス・ライフは、表2に示すように、原型とされたMD-83よりも飛躍的に高い値が設定された。デザイン・サービス・ライフは目標値であり、これを超えると構造上の故障が多発するというわけではなく、実際にはこの値を超えた実績を記録している機体が存在している。マクドネル・ダグラスでは、66,500回の飛行を行ったDC-9を1981年に買い戻して疲労強度の実証試験を実施していた。この試験により、強化が必要な部分と余裕がある部分を確認され、設計や寿命の見直しを行われ、その結果がMD-90の機体構造に反映された。", "qas": [ { "question": "MD-90とMD-83の胴体長を比較したとき、どの部分の長さだけが異なるか?", "id": "tr-094-06-000", "answers": [ { "text": "主翼前方", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "MD-90において、主翼と垂直尾翼、水平尾翼のうち、MD-87のものが全く用いられなかったのは、何か?", "id": "tr-094-06-001", "answers": [ { "text": "主翼", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「デザイン・サービス・ライフ」とは、飛行時間と何で表されるものですか?", "id": "tr-094-06-002", "answers": [ { "text": "着陸回数", "answer_start": 471, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "MD-90の主翼と水平尾翼には、どの機種のものが用いられたのか?", "id": "tr-094-06-003", "answers": [ { "text": "MD-83", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "客室の内装は一新され、座席上の手荷物入れ(オーバーヘッド・ストウェッジ)が大きくなり、ストウェッジ下部には通路を移動する人のための手すりが追加された。また、デジタル式の空調システムが導入された。MD-90のエンジンは前述のとおりIAE社のV2500ターボファンエンジンが採用され、リア・マウント方式で取り付けられるよう、パイロンは新規設計された。パイロンはその後部に操縦舵面が新設され、エンジンの噴出口の後方まで延びた大型のものとなった降着装置は、前脚、主脚ともにMD-83のものを強化して流用された。ブレーキは新たにカーボンブレーキとなり、デジタル式のアンチスキッドブレーキシステムが導入された。その他、新しくなった装備品には、補助動力装置や不定速/定周波発電システムなどがある。", "qas": [ { "question": "MD-90のエンジンには、どの会社の製品が搭載されたのか?", "id": "tr-094-07-000", "answers": [ { "text": "IAE社", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "MD-90のブレーキとして採用されたのは、何か?", "id": "tr-094-07-001", "answers": [ { "text": "カーボンブレーキ", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "MD-90の最終組み立ては、カリフォルニア州・ロングビーチにあるマクドネル・ダグラスの工場で行われた。1993年2月22日、MD-90は初飛行に成功し、ロングビーチ空港を離陸した初号機は5時間の飛行後、モハーヴェ空港に着陸した。初飛行において、基本的な耐空性の確認、各種操縦設定における操縦性の初期評価、そして運航速度と高度に関する飛行可能領域の拡大にむけた作業の3点を主眼とした機上作業が行われたが、初飛行でこのような高度かつ広範な試験を行うのは希なことであった。2年弱かけて型式証明取得のための試験が実施され、1994年11月4日、FAAによってMD-90の型式証明が交付された。翌1995年2月24日、最初の顧客であるデルタ航空に対して初引き渡しが行われた。また、1996年9月20日には、欧州の合同航空当局(JointAviationAuthorities)からもMD-90の型式証明が交付された。1995年4月2日、デルタ航空によってMD-90は商業運航を開始し、ダラス・フォートワース国際空港を拠点とした路線に就航した。1996年5月までに、デルタ航空に加えて米国のリノ・エアと日本エアシステムにも機体引き渡しが行われ、計17機のMD-90が就航し、出発信頼度は98.7パーセントであった。就航当初は不定速/定周波発電システムの信頼性など電気系統に関する問題があったが、マクドネル・ダグラスが対策を行い出発信頼度の向上が図られたほか、航空会社によっては発電システムを他機種と同様のものに改修するところもあった。", "qas": [ { "question": "FAAと欧州の合同航空当局のうち、MD-90はどこから型式証明をより早く取得したの?", "id": "tr-094-08-000", "answers": [ { "text": "FAA", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "デルタ航空とリノ・エアのうち、マクドネル・ダグラスからMD-90をより早く引き渡されたのは、どちらか?", "id": "tr-094-08-001", "answers": [ { "text": "デルタ航空", "answer_start": 312, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MD-90における初めての商業運航は、いつか?", "id": "tr-094-08-002", "answers": [ { "text": "1995年4月2日", "answer_start": 403, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "MD-90における初めての離陸は、どの空港で行われましたか?", "id": "tr-094-08-003", "answers": [ { "text": "ロングビーチ空港", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "MD-90は、1995年7月の時点で74機のバックオーダーがあったが、受注活動は順調ではなかった。マクドネル・ダグラスは、旅客機市場からの引き合いが続く限りMD-80も生産を継続しようと考え、MD-80とMD-90の製造コストを低減するため、両機の生産ラインが共通化された。胴体の製造方法や工程を改善し、胴体の組み立てはロングビーチからユタ州のソルトレイクシティに設立された工場に移された。また、設計管理や製品の構成管理を電子化し、生産や部品調達の効率化が図られたが、原型機から引き継がれた古い設計図や設備類、従来の生産プロセスなどを電子化するのは容易ではなかった。MD-90の発展型の開発も計画されていた。MD-90-30の最大離陸重量を増加して航続距離を伸ばしたのがMD-90-30ERである。MD-90-30ERでは降着装置や主翼が強化され、最大離陸重量が標準型より10,000ポンド引き上げられて75,298キログラム(166,000ポンド)となり、航続距離が441海里(817キロメートル)程度延長された。ただしその後、重量増加型は基本型のオプションとなり、MD-90-30ERの名前は使われなくなった。", "qas": [ { "question": "MD-90の胴体の組み立てはロングビーチの工場からどの都市にある工場に移されたか?", "id": "tr-094-09-000", "answers": [ { "text": "ソルトレイクシティ", "answer_start": 172, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "MD-90-30の重量増加型の名称だったが、のちにはそれが基本型とされ、使われなくなった名称とは、何?", "id": "tr-094-09-001", "answers": [ { "text": "MD-90-30ER", "answer_start": 484, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "MD-90-30ERの航続距離からMD-90-30のものを引いたら、何海里が残るか?", "id": "tr-094-09-002", "answers": [ { "text": "441海里", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中華人民共和国の国内線向けにMD-90-30の派生型も計画された。もともと、中華人民共和国の国内線用機材としてMD-82が選定され、中華人民共和国でのノックダウン生産が行われていた。1994年11月4日に締結された契約では、中華人民共和国は米国製のMD-80とMD-90-30を計20機購入し、国内で専用型を20機生産することとなった。この計画は「トランクライナー計画」と呼ばれ、中華人民共和国国内で生産する機体はMD-90-30T(Tはトランクライナーの頭文字)と呼ばれた。MD-90トランクライナーでは、中華人民共和国国内の滑走路や誘導路の強度が低い空港へも就航できるように、主脚を4輪式に改修して地面にかかる荷重を分散させることとなった。新しい主脚の設計は、マクドネル・ダグラスと中華人民共和国の上海航空機製造の共同で行われ、組み立ても上海航空機製造で行われた。しかし、この計画は後に大幅に見直され、導入機はMD-90-30に一本化されてMD-90-30Tは生産されないこととなり、中華人民共和国での生産も2機に終わった。この時の生産治具は、後に中国商用飛機が開発したARJ21の胴体生産に流用されている。MD-90-30と同じ座席数で、航続力を強化するタイプとしてMD-90-50の計画もあった。MD-90-50ではエンジン出力を強化するとともに、最大離陸重量の引き上げて燃料搭載量を増やし、オプションで追加燃料タンクも設定し、乗客と貨物の満載時で航続距離を5,593キロメートル(3,020海里)とする構想だった。また、MD-90-50の前部胴体に非常口を左右1か所ずつ増設し、最大座席数203席を可能とする機体案がMD-90-55であった。胴体長はMD-90-30と変わらないが、機内設備を簡略化することで収容力を増加させる構想であった。しかし、MD-90-50とMD-90-55は、開発・生産には至らなかった。MD-90の短胴型としてMD-90-10という機体案もあったが、この案は練り直され、1995年10月にMD-95として正式開発が決定された。", "qas": [ { "question": "MD-90-30Tとは、どのような生産方式により誕生したものなの?", "id": "tr-094-10-000", "answers": [ { "text": "ノックダウン生産", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "MD-90-55とは、MD-90-50の計画から非常口の増設のほかに、何を増加させる機種計画でありましたか?", "id": "tr-094-10-001", "answers": [ { "text": "最大座席数", "answer_start": 694, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "MD-90-55の計画がベースにしている機種計画とは、どの機種をベースに発展させる計画であったか?", "id": "tr-094-10-002", "answers": [ { "text": "MD-90-30", "answer_start": 506, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "MD-90-55の計画とは、胴体長がMD-90-30と同じであるものの、何の簡略化により収容力の増加を図った計画なのか?", "id": "tr-094-10-003", "answers": [ { "text": "機内設備", "answer_start": 746, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "MD-90の販売は順調ではなかった。エアバスはA320のファミリー化を進め、1994年2月には長胴型のA321、1996年4月には短胴型のA319の納入が始まっていた。また、ボーイングは737をさらに発展させることとし、1993年11月に次世代型737シリーズ(737NG)の開発を正式決定していた。マクドネル・ダグラスのシェアは、主にエアバスに奪われる状態になっており、1996年8月の時点の受注残数は、A320ファミリーが270機、ボーイングの737(737NGを含む)が390機であったのに対し、マクドネル・ダグラスはMD-80とMD-90を合わせても120機という状態だった。", "qas": [ { "question": "A320とA321、A319のうち、胴体が最も長いのは、どの機種?", "id": "tr-094-11-000", "answers": [ { "text": "A321", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マクドネル・ダグラスとエアバス、ボーイングの3社における1996年8月の時点の受注残数を比較した時、その数が最も少ないのは、どの会社ですか?", "id": "tr-094-11-001", "answers": [ { "text": "マクドネル・ダグラス", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また、DC-10の次世代型として開発されたMD-11も期待したほどの受注を得られず、マクドネル・ダグラスの経営は次第に苦しくなった。マクドネル・ダグラスは、ボーイングに吸収合併されることとなり、1997年8月4日、合併作業が完了した。MD-90は、ボーイングの既存製品である737NGと客席数や航続距離性能が完全に重複していたため、製造機種を737NGに一本化することとなった。1997年10月、新生ボーイングは、MD-90の新規受注を停止して製造を終了することを発表した。2000年10月23日、MD-90の最終生産機がサウジアラビア航空(現・サウディア)に納入されて生産終了となった。MD-90は正式開発の決定から約10年で生産終了を迎え、総生産数は116機であった。MD-90は、そのルーツとなったDC-9の時点から保守的な機体であり、ダグラスらしいと評される堅実な設計ではあったが、先進技術を積極的に採用したA320が登場すると、古さが目立つようになった。また、737やA320では胴体延長により200席級の派生型が開発されたが、DC-9由来のMD-90の胴体はA320や737より座席1つ分細いことに加え、エンジンをリア・マウントしたことによる制約もあり、大型化の余地が少なかった。ボーイングとの合併、そして737NGへの製品一本化によりMD-90の生産期間が短くなったのは確実だが、マクドネル・ダグラスの経営は悪化しており、旅客機の販売力も大幅に低下していた。仮にマクドネル・ダグラスが合併せずにMD-90の生産が継続されたとしても、競合機ほどの受注機数は得られなかったであろうという見方もある。", "qas": [ { "question": "マクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併されることにより、737NGに一本化されたマクドネル・ダグラス制の機種は何か?", "id": "tr-094-12-000", "answers": [ { "text": "MD-90", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "MD-90の製造修了の発表はいつなされましたか?", "id": "tr-094-12-001", "answers": [ { "text": "1997年10月", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "MD-90における最後の納入は、いつ行われたの?", "id": "tr-094-12-002", "answers": [ { "text": "2000年10月23日", "answer_start": 237, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "116機のMD-90は、約何年にかけて生産されたか?", "id": "tr-094-12-003", "answers": [ { "text": "約10年", "answer_start": 309, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "MD-90は客室に1本の通路を持つナローボディ機で、片持ち式の低翼の主翼を持つ単葉機である。エンジンは胴体尾部に左右1発ずつ配置したリア・マウント方式であり、垂直尾翼の上端部に水平尾翼を配したT字尾翼機である。胴体断面はDC-9から引き継がれたもので、2つの円を組み合わせたダルマを逆さにしたような断面を持ち、最大幅が3.34メートル、胴体長は43.03メートルである。MD-90の主翼はテーパーがついた後退翼で、内部の構造や前縁、後縁、動翼などをMD-83のままとし、上面と下面の外板が強化された。主翼の平面形は、翼幅が32.87メートル、翼面積は112.4平方メートル、25パーセント翼弦の後退角は24.5度である。主翼には動翼として、エルロン、スポイラー、高揚力装置が配置されている。エルロンは後縁の最も外側にあり、トリム・タブとコントロール・タブと呼ばれる小板を有する。エルロンの操縦は油圧を用いない手動式で、コックピットの操縦桿でコントロール・タブを動かし、タブにあたる空気の力でタブの変位と反対方向にエルロンを動かす仕組みである。高揚力装置は前縁にスラット、後縁にフラップを備える。スラットは翼幅全長にわたって配置され6枚構成、フラップは内舷部と外弦部の2枚構成である(いずれも片翼あたりの枚数)。フラップはベーン付きのダブル・スロッテッド・フラップで油圧駆動式である。スポイラーは片翼あたり3枚で、内側の1枚がグラウンド・スポイラー、外側の2枚がフライト・スポイラーである。フライト・スポイラーは、飛行中にスピード・ブレーキとして働くほか、エルロンの補助としても用いられる。着陸時の接地後と離陸中止の停止時には全てのスポイラーが直立し、主翼の揚力を減殺すると同時にスピード・ブレーキとしても働く。", "qas": [ { "question": "MD-90において、動翼として主翼に配置されたもので、後縁の最も外側にあるのは、何?", "id": "tr-094-13-000", "answers": [ { "text": "エルロン", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "MD-90において、片翼あたり6枚ずつ翼幅全長にわたって配置される高揚力装置とは、前縁と後縁のうち、どちらに備えられたものですか?", "id": "tr-094-13-001", "answers": [ { "text": "前縁", "answer_start": 477, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飛行中にスピード・ブレーキとして働くほか、エルロンの補助としても用いられたものとは、翼の内側に配置されたか、もしくは、外側に配置されたか?", "id": "tr-094-13-002", "answers": [ { "text": "外側", "answer_start": 624, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "MD-90の主翼の内部構造や前縁、後縁、動翼は、どの機種から引き継がれたものか?", "id": "tr-094-13-003", "answers": [ { "text": "MD-83", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "MD-90の尾翼は、MD-80シリーズのものをベースに改良が加えられた。水平尾翼は翼幅が12.25メートルで、左右の水平安定板に昇降舵と3種類のタブ(コントロール・タブ、ギアード・タブ、アンチフロート・タブ)が1枚ずつ付いている。昇降舵の操作は、MD-80シリーズではコントロール・タブを用いた手動式であったが、MD-90では油圧式となった。昇降舵を作動させるアクチュエータは片側あたり2個、油圧源も2系統である。コントロール・タブは油圧系統の故障に備えたバックアップであり、油圧駆動時には固定される。残り2枚のタブのうち、ギアード・タブは、コントロール・タブによる操舵力を補助するものであり、アンチフロート・タブは昇降舵の角度が大きくなりすぎないように動きを抑制する役割を持つ。昇降舵にはトリム・タブはなく、電気モータにより水平安定板全体の取付角を変化させて縦方向のトリムをとる。垂直尾翼は垂直安定板、方向舵、コントロール・タブの各1枚で構成される。方向舵の操作も油圧式であるが、油圧系統の故障時、またはパイロットが意図的に切り替えた場合、コントロール・タブによる手動式となる。油圧での操縦時には、コントロール・タブは固定され、方向舵の中立位置を調整することでトリム調整が行われる。エンジンパイロンはMD-90で新規設計されたもので、後縁がエンジンの噴出口よりもかなり後ろまで延ばされ、後端部にパイロン・フラップを備える。T字尾翼機では、舵が効かなくなり失速状態から抜け出せなくなるディープストールと呼ばれる状態に陥る場合がある。パイロン・フラップは操縦桿の操作により作動し、尾部の揚力を高め、ディープストール発生時の機体姿勢の操作をバックアップするためのものである。", "qas": [ { "question": "MD-90の尾翼は、どんな機種シリーズのものを改良したものなの?", "id": "tr-094-14-000", "answers": [ { "text": "MD-80シリーズ", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "MD-90では、何の方式で昇降舵を操作しましたか?", "id": "tr-094-14-001", "answers": [ { "text": "油圧式", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "MD-90の垂直尾翼は何枚の垂直安定板を有しているか?", "id": "tr-094-14-002", "answers": [ { "text": "1枚", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "油圧式である方向舵の操作がコントロール・タブによる手動式に変わる場合として、この文書に書かれているのは、パイロットが意図的に切り替えた場合と、何が故障した場合か?", "id": "tr-094-14-003", "answers": [ { "text": "油圧系統", "answer_start": 441, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "少年保護手続", "paragraphs": [ { "context": "少年保護手続(しょうねんほごてつづき)とは、日本における刑事司法制度の一つであり、家庭裁判所が少年法第2章の規定に従って非行少年の性格の矯正及び環境の調整に関する措置(同法1条参照)を行う手続をいう。\n\n少年保護手続は、非行少年の再非行の抑止や更生を目的としており、決定までの過程として、「非行事実を家庭裁判所に送致・通告-家庭裁判所調査官(以下「調査官」と略称する)等による調査-調査結果をふまえた審判-必要に応じて保護的措置あるいは保護処分を決定」という流れを経るのが通例である。", "qas": [ { "question": "少年保護手続は誰を対象に取っていますか?", "id": "tr-095-00-000", "answers": [ { "text": "非行少年", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "少年保護手続の第3段階の手続きは何すか?", "id": "tr-095-00-001", "answers": [ { "text": "調査結果をふまえた審判", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "福祉的機能とは、少年の健全な育成を期する(少年法1条)という機能である。すなわち、少年保護手続は、非行に陥った少年に教育・保護を加えてその将来の自力改善・更生を促すことを直接の目的としており、過去の非行に対する非難(責任非難)は、要保護性の一要素として位置付けられる(多数説)。\n\n福祉的機能は、処遇選択に当たり非行事実の軽重よりも要保護性の大小を重視するという個別処遇主義、非行のある少年に対しては刑事処分以外の措置を優先するという保護優先主義、厳格な手続的規整を置かずに家庭裁判所の能動的・裁量的手続運営を許容するという職権主義、捜査機関に送致・不送致の裁量を与えないという全件送致主義を支える理念である。これらの主義は、刑事処分における応報主義、当事者主義、起訴便宜主義(刑事訴訟法246条但し書、248条)と対照をなす少年保護手続の特色である。", "qas": [ { "question": "福祉的機能を支える理念では処遇選択に当たり非行事実の軽重よりも重視すべきものは何か?", "id": "tr-095-01-000", "answers": [ { "text": "要保護性の大小", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "厳格な手続的規整を置かずに家庭裁判所の能動的・裁量的手続運営を許容する理念は何ですか?", "id": "tr-095-01-001", "answers": [ { "text": "職権主義", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "司法的機能とは、非行のある少年、すなわち、法秩序を破壊しあるいは破壊するおそれがある少年に対し、「法律の定める手続により」(憲法31条)、法秩序の回復・保全のために必要な措置を採るという機能である。換言すれば、少年保護手続は一方で法秩序の回復・維持による社会防衛を目的とする刑事政策の一環という側面を持ちつつ、他方で少年の適正な手続を受ける権利(手続的権利)を保障するという側面も持つ。この司法的機能は、前述した福祉的機能を補完する原理として位置付けられる。\n\n司法的機能を強調する立場には、適正手続論と威嚇抑止論(いわゆる厳罰化論)という2つの系統がある。適正手続論とは、保護的措置が公権力による強制力を用いた(あるいは強制力を背景とした)働き掛けである以上は、特に非行事実を認定する際には少年に対する十分な告知(家庭裁判所の認定の説明)、聴聞(家庭裁判所の認定に対する少年の弁解の聴取)、合理的な範囲・限度・方法による証拠調べが必要であるし(従来からの適正手続論、最高裁昭和58(1983)年10月26日決定・刑集37巻8号1260頁(流山中央高等学校事件)参照)、逆に、少年の弁解を無批判に受け入れずに適切な認定資料に基づいて判断すべきでもある(最高裁平成17(2005)年3月30日決定・刑集59巻2号79頁参照)という立場である。これに対して、威嚇抑止論とは、罰則による威嚇が犯罪を抑止するのであり、少年保護手続による教育や保護は非行少年の甘やかしでしかないという立場である。威嚇抑止論は、少年保護手続の適用範囲縮小・廃止を唱える立法論であると同時に、不処分優先主義とすら評されるほど保護優先主義に忠実な運用の実情に対する批判でもある。", "qas": [ { "question": "威嚇抑止論が主張するものは何ですか?", "id": "tr-095-02-000", "answers": [ { "text": "少年保護手続の適用範囲縮小・廃止", "answer_start": 650, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "威嚇抑止論によると犯罪を抑止するものは何ですか?", "id": "tr-095-02-001", "answers": [ { "text": "罰則による威嚇", "answer_start": 585, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "非行事実を認定する際に、合理的な範囲・限度・方法による証拠調べが必要であると唱える立法論は?", "id": "tr-095-02-002", "answers": [ { "text": "適正手続論", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "少年とは、20歳に満たない者をいう(少年法2条1項)。20歳という年齢設定の適否については、諸外国の動向(16歳から21歳程度まで幅があるが、18歳が大勢を占める。)や被害者感情、若年者の政治的権利の拡大といった問題意識をも背景に、議論がなされている。\n\n非行少年とは、犯罪少年、触法少年及び虞犯少年の総称であり、「審判に付すべき少年」(同法3条見出し、6条1項など)ともいう。少年保護手続は、非行少年を主たる対象とする手続である。また、非行事実とは、犯罪少年の犯罪行為、触法少年の触法行為及び虞犯少年の虞犯事実の総称である。\n\n家庭裁判所の新受人員でいえば、非行少年のほとんどを犯罪少年が占めており、虞犯少年がこれに続き、触法少年はまれである。これは、虞犯事由のある少年の大多数と触法少年のほとんどは、警察官・少年補導職員による補導や、児童相談所長による児童福祉法に基づく措置がなされるにとどまるからである。それだけに、虞犯少年として家庭裁判所に送致・通告される者は、補導等のいわば穏和な措置では非行性の深化を阻止することが困難とみられることが多いということになり、実際にも緊急の保護を要するとして観護措置がとられる比率が高い。また、触法少年として家庭裁判所に送致される少年は、非行事実が重大な場合か、緊急の保護が不可欠な場合が多い。", "qas": [ { "question": "日本に置いて少年の基準年齢は何歳ですか?", "id": "tr-095-03-000", "answers": [ { "text": "20歳", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "犯罪少年、触法少年及び虞犯少年の総称は何ですか?", "id": "tr-095-03-001", "answers": [ { "text": "非行少年", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "家庭裁判所の新受人員の非行少年の分類で3番目に多いのは?", "id": "tr-095-03-002", "answers": [ { "text": "触法少年", "answer_start": 312, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "犯罪少年とは、罪を犯した少年(少年法3条1項1号)をいう。\n\n刑法学において「罪」(犯罪)とは、構成要件(刑罰法令が規定する、ある行為を犯罪と評価するための条件)に該当し、違法かつ有責な行為をいう。そこで、犯罪少年と評価するためには、その少年の行為が構成要件に該当し、違法でなければならない。しかし、その少年がその行為について有責であることまで要するかについては、裁判例や学説が分かれている。\n\n他方、処罰阻却事由があったり、訴訟条件を欠いたり(東京家裁平成12(2000)年6月20日決定・家月52巻12号78頁)しても、犯罪少年と評価することができると解されている。\n\n触法少年とは、14歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年(少年法3条1項2号)をいう。触法少年と評価するための要件は、行為時の年齢を除けば犯罪少年と同一である。\n\n年齢に下限の定めはないが、極端に低年齢の行為者には構成要件としての故意・過失や事理弁識能力(自己の行為の社会的意味を理解する能力)が認められないことから、実務上は10歳前後が限界とされているようである。事理弁識能力が問われるのは「意味も分からずにした行為を理由に処罰をしても、行為者の改善・更生には役立たないし、社会に対する示しにもならない」という考えに基づくものであり、刑法学の基本的概念である。", "qas": [ { "question": "刑罰法令に規定された、ある行為を犯罪と評価するための条件をどう呼びますか?", "id": "tr-095-04-000", "answers": [ { "text": "構成要件", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "犯罪少年と評価するに当たって、意見が分けられている項目の該否ですか?", "id": "tr-095-04-001", "answers": [ { "text": "有責", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "触法少年の対象になる年齢制限はいくつですか?", "id": "tr-095-04-002", "answers": [ { "text": "14歳", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "13歳の少年が構成要件に該当し、違法にあった場合にどこに分類されますか?", "id": "tr-095-04-003", "answers": [ { "text": "触法少年", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "虞犯少年とは、一定の不良行状(虞犯事由)があって、かつその性格または環境に照らして、罪を犯しまたは触法行為をするおそれ(虞犯性)がある少年(少年法3条1項3号)をいう。虞犯事由と虞犯性とをあわせて、虞犯事実という。\n\n成人とは異なり少年については、犯罪行為をしていなくても保護的措置を採ったり保護処分に付することが可能とされている。これは、非行のある少年を早期に発見し、少年保護手続の枠組の中で更生を促し、それによって社会防衛を効果的に達成することを目的としている。しかし、虞犯事由は評価的・価値的な表現を多く用いて定義されているため、その存否は、判断者の価値観や事実評価に大きく左右される危険をはらむ。このため、虞犯少年を非行少年から外し、不良行為少年(少年警察活動規則2条6号)として補導(同規則13条、8条2項)や児童福祉法に基づく措置をとるに止めるべきであるとの立法論もある。", "qas": [ { "question": "成人の場合、保護的措置を採ったり保護処分に付するため必須不可欠なものは何ですか?", "id": "tr-095-05-000", "answers": [ { "text": "犯罪行為", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "虞犯少年を判断する2つの根拠は虞犯事由と残り1つは何ですか?", "id": "tr-095-05-001", "answers": [ { "text": "虞犯性", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "虞犯事由があっても虞犯性がなければ、虞犯少年には当たらない。ある少年が犯罪行為や触法行為をする可能性を否定できないという程度では、虞犯性があるとはいえない。虞犯性があるというためには、少年の性格または環境に関する具体的事実から推し量って、犯罪行為や触法行為をなす可能性が相当高いといえる必要がある。\n\nすなわち、単に保護者に反抗するとか、家出をしたまま帰宅しないというだけで、犯罪行為をなすおそれを窺わせるような事情が見当たらない少年を、少年法に基づいて少年鑑別所や少年院に収容することはできない。少年保護手続は躾を代行する制度ではないからである。\n\nこのほか、虞犯性を巡っては、少年がなすおそれのある犯罪行為や触法行為をどこまで特定する必要があるか、虞犯性と要保護性との関係といった問題が議論されている。また、虞犯事実と犯罪事実との関係についても議論されている。", "qas": [ { "question": "虞犯少年に判断するためになくてはならないものは何ですか?", "id": "tr-095-06-000", "answers": [ { "text": "虞犯性", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "少年の被疑事件について捜査した結果、犯罪の嫌疑があると思われるときは、司法警察員(その犯罪が法定刑に禁錮以上の刑(死刑、懲役または禁錮)を含まない場合に限る。法定刑にこれを含む場合は、検察官に送致する。)または検察官は、これを家庭裁判所に送致しなければならない(少年法41条本文、42条本文、犯罪捜査規範210条1項)。すなわち、捜査機関には微罪処分(刑事訴訟法246条但し書、犯罪捜査規範198条)や起訴猶予(刑事訴訟法248条)に相応する裁量がない。これを全件送致主義という(非行事実は軽微でも、要保護性の大きい事案が存在し得るからである。)。ただし、全件送致主義といっても、捜査の対象となった全ての事件を送致することを意味するのではなく、犯罪の嫌疑がない場合、嫌疑が不十分な場合、その他審判条件が不存在の場合は、ぐ犯送致をする場合を除いて、家庭裁判所に事件を送致することなく、検察官は不起訴処分をすることになるので、司法警察員が捜査した事件については微罪処分の要件を満たす場合その他法律上特別の定めがある場合を除いて、すべて検察官に送致しなければならないこととされている(刑訴法246条)とは意味合いが異なる。", "qas": [ { "question": "少年の被疑事件について捜査した結果、犯罪の嫌疑があると思われる際には、どこに送致しなければならないんですか?", "id": "tr-095-07-000", "answers": [ { "text": "家庭裁判所", "answer_start": 113, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "少年の犯罪の嫌疑があると思われる時には家庭裁判所に送致しなければならない法原理は何ですか?", "id": "tr-095-07-001", "answers": [ { "text": "全件送致主義", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "”検察官または司法警察員が事件を家庭裁判所に送致する場合において、書類、証拠物その他参考となる資料があるときは、併せて送付しなければならない(少年審判規則8条2項;伝聞法則の適用はない。)。すなわち、家庭裁判所は、事件が送致された当初から、送致官署が収集した資料(一件記録)全てを自ら検討して少年の弁解や保護環境上の問題点を把握し、観護措置の必要性の有無や審理計画を見立てることができる。このように初期段階から資料が充実していることが、少年保護手続における家庭裁判所の能動的・裁量的手続運営(職権主義)を支える重要な基盤ともなっており、刑事訴訟法が当事者主義を基調とし、起訴状一本主義(刑事訴訟法256条6項)を採用していることと対照をなしている。\n\nもっとも、一定の軽微事件については、司法警察員及び検察官は、送致書のみを家庭裁判所に送付して事件を送致することが許されており(犯罪捜査規範214条)、これを実務上、簡易送致という。簡易送致事件については、社会調査を経ないで事案軽微による審判不開始の決定がなされる例が多い。\n\n送致書には、少年の処遇に関する意見を付けることができる(同規則8条3項)。この意見は、社会調査を経ていない段階のものであるため、公判における求刑とは異なり、家庭裁判所の処遇決定への影響力は大きくない。", "qas": [ { "question": "軽微事件について送致書のみを家庭裁判所に送付して事件を送致することをどう呼びますか?", "id": "tr-095-08-000", "answers": [ { "text": "簡易送致", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "送致書には、少年の処遇に関する意見を付けることができると書いてある法はなんですか?", "id": "tr-095-08-001", "answers": [ { "text": "犯罪捜査規範", "answer_start": 389, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "少年の被疑者については、なるべく身柄の拘束を避けなければならない(犯罪捜査規範208条)。\n\n少年の被疑事件において身柄の拘束が必要なときは、検察官は、所属の官公署の所在地を管轄する地方裁判所または簡易裁判所の裁判官に対して、勾留の請求に代え、観護の措置を請求することができる(少年法43条1項本文、2項、刑事訴訟規則299条本文)。これを勾留に代わる観護措置といい、少年保護事件が家庭裁判所に係属した後に採られることがある観護措置と区別する。勾留に代わる観護措置の効力は、その請求をした日から10日であり(同法44条3項)、勾留延長(刑事訴訟法208条)に対応する制度はない。\n\nやむを得ない場合には、少年を勾留することができ(少年法43条3項、48条1項)、この場合には、少年鑑別所にこれを拘禁することができる(同法48条2項)。しかし、この「やむを得ない場合」を検察官や裁判官が安易に認め、さらに、勾留の場所を代用刑事施設とする例が多すぎるという批判が絶えない。", "qas": [ { "question": "裁判官に対して、勾留の請求に代え、観護の措置を請求することができるがこれをどう呼びますか?", "id": "tr-095-09-000", "answers": [ { "text": "勾留に代わる観護措置", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "勾留に代わる観護措置の有効期間は何日ですか?", "id": "tr-095-09-001", "answers": [ { "text": "10日", "answer_start": 247, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "仕方ない状況下で少年を勾留することができと記されている法は何ですか?", "id": "tr-095-09-002", "answers": [ { "text": "少年法", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "触法少年の存在は被害者や保護者が警察官に相談することで、虞犯少年の存在は学校や保護者が警察官や児童相談所に相談することで、それぞれ認知されることが多い。\n\n警察官は、客観的な事情から合理的に判断して、触法少年であると疑うに足りる相当の理由のある者を発見した場合において、必要があると認めるときは、事件について調査をすることができる(少年法6条の2第1項)。警察官は、少年、保護者または参考人を呼び出し、質問することができるし(同法6条の4第1項)、押収、捜索、検証、鑑定の嘱託をすることができる(同法6条の5第1項。したがって、令状を請求することもできる。)。警察官は、被疑者が触法少年であることが明らかとなった場合において、保護者の適切な監護がないときは、児童福祉機関(児童相談所または福祉事務所)に通告する(犯罪捜査規範215条。触法行為が重大であるとき等には、児童相談所長への送致が義務づけられている。同法6条の6第1項)。", "qas": [ { "question": "主に被害者や保護者が警察官に相談することで認知される非行少年は何ですか?", "id": "tr-095-10-000", "answers": [ { "text": "触法少年", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "被疑者が触法少年であることが明らかとなった場合、触法行為が重大であるときには誰に送致しなきゃならないんすか?", "id": "tr-095-10-001", "answers": [ { "text": "児童相談所長", "answer_start": 383, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "保護者とは、少年に対して法律上監護教育の義務ある者(親権者、未成年後見人など)及び少年を現に監護する者をいう(少年法2条2項)。このうち、前者の「少年に対して法律上監護教育の義務ある者」を法律上の保護者といい、後者の「少年を現に監護する者」を事実上の保護者という。\n\n保護者には、付添人選任権(同法10条1項)、観護措置決定またはその更新決定に対する異議申立権(同法17条の2第1項本文)、審判出席権などを有し、少年の権利・利益を守るために少年保護手続に主体的に関わるという側面(主体的地位)がある。また、保護者には、家庭裁判所の調査や保護的措置(同法25条の2)の対象となるという側面(客体的地位)もある。", "qas": [ { "question": "少年に対して法律上監護教育の義務ある者をどう呼びますか?", "id": "tr-095-11-000", "answers": [ { "text": "法律上の保護者", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "少年法2条2項に記されている条件の保護者をどう呼びますか?", "id": "tr-095-11-001", "answers": [ { "text": "事実上の保護者", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "非行少年の親に行われる家庭裁判所の調査や保護的措置は保護者のどういう立場を根拠に行われますか?", "id": "tr-095-11-002", "answers": [ { "text": "客体的地位", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "観護措置とは、少年の移動の自由を制限する旨の裁判、あるいはその裁判に基づいて少年の移動の自由を制限する(身柄を確保する)ことをいう。\n\n観護措置には、調査官の観護に付す場合(1号観護措置)と少年鑑別所に送致する場合(2号観護措置)との2種類があるが、調査官の観護といっても、大ざっぱにいえば、無断で住居を離れないよう少年に約束させるだけであり、実際に少年の身柄を確保する効果が乏しい。それゆえ、実務上は、観護措置といえば少年鑑別所に送致することを意味している(本稿でも、「観護措置」というときは、特に断らない限り少年鑑別所に送致することを指している。)。観護措置がとられた事件を身柄事件(みがらじけん)という。\n\n家庭裁判所は、審判を行うため必要があるときは、決定をもって、観護措置をとることができる(同条1項)。「審判を行うため必要があるとき」とはいかなる場合かについては、明文の規定はないが、(1)勾留の理由があるとき、(2)少年が緊急の保護を要するときまたは(3)少年を収容して心身鑑別を行う必要があるときを指すというのが、家庭裁判所に定着した実務である。ここにいう「緊急の保護」とは、少年の移動の自由を制限して、少年に生命、身体、情操の損傷をもたらす要因(児童虐待や児童福祉犯罪の被害、自傷・自殺企図など)や非行化をもたらす環境的要因から遮断し、少年の安全を確保し、その非行化の進展を食い止めることをいうと考えればよい。また、非行に対する単なる制裁として観護措置をとることは許されないが(通説)、落ち着いた生活環境の中で少年が内省を深めることができるかどうかを観察し、処遇選択の資料とするという趣旨であれば、ここにいう「緊急の保護」または「収容して心身鑑別を行う」ことに当たると考えられている。", "qas": [ { "question": "実務上は、観護措置というのは観護措置1号か、2号か?", "id": "tr-095-12-000", "answers": [ { "text": "2号", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "少年鑑別所に送致された事件をどう呼びますか?", "id": "tr-095-12-001", "answers": [ { "text": "身柄事件", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "落ち着いた生活環境の中で少年が内省を深めることができるかどうかを観察し、処遇選択の資料とするという趣旨の場合、適用されない「審判を行うため必要があるとき」の条件は?", "id": "tr-095-12-002", "answers": [ { "text": "勾留の理由があるとき", "answer_start": 401, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "観護措置は、事件が係属している間、いつでも採ることができる。司法警察員や検察官から身柄付きで送致された事件について、受理時に観護措置をとる場合が多いが(少年法17条2項後段参照)、その他にも、調査・審判の結果必要があると認めて観護措置をとる場合も少なくない。\n\n観護措置決定手続は、勾留質問とほぼ同様である(少年審判規則19条の3)。裁判官が勾留に代わる観護措置(同法43条1項、17条1項1号、2号)をとった場合において、事件が家庭裁判所に送致されたときは、その措置は、観護措置とみなされる(同条6項、7項前段)。観護措置をとった旨は、速やかに保護者及び付添人のうち適当と認める者に通知しなければならない(同規則22条。同条には「それぞれ」とあるが、1人に通知すれば足りると解されている)。\n\n少年鑑別所に収容する期間は、入所の日(勾留に代わる観護措置をとられている少年については、家庭裁判所への送致の日)も含めて2週間を超えることができないが、特に継続の必要があるときは、決定をもって、これを更新することができる(同法17条3項、4項本文、7項後段)。実務上は、少年鑑別所の鑑別に必要な期間(諸検査及び行動観察のために2週間程度、判定に1週間程度の、合計3週間程度)を確保するため、特に継続の必要があるとして、観護措置が更新されるのが通常である。", "qas": [ { "question": "少年鑑別所に収容する期間は原則上どれくらいですか?", "id": "tr-095-13-000", "answers": [ { "text": "2週間", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "事件が家庭裁判所に送致されたとき、その措置が観護措置とみなされるのはどういう措置が行われた場合ですか?", "id": "tr-095-13-001", "answers": [ { "text": "勾留に代わる観護措置", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "法定刑に禁錮以上の刑を含む罪を非行事実とする犯罪少年の事件について、その非行事実の認定に関し証人尋問、鑑定若しくは検証を行うことを決定したときまたはこれを行った場合において、その少年を収容しなければ審判に著しい支障が生じるおそれがあると認めるに足りる相当な理由があるときは、さらに2回を限度として(すなわち、合計8週間を限度として)、観護措置を更新することができる(同条4項ただし書)。\n\n少年、その法定代理人または付添人は、観護措置またはその更新決定に対して、少年保護事件の係属する家庭裁判所に異議の申立てをすることができる(同法17条の2第1項、17条1項2号、3項ただし書)。家庭裁判所は、異議の申立てについて、原決定に関与した裁判官を除く合議体で決定をする(同法17条の2第3項)。異議の申立ては、審判に付すべき事由(非行事実)がないことを理由としてすることはできない(同条2項)。これは、非行事実の認定については専ら本案(本体の少年保護事件)を審理する裁判体(審理を担当する裁判官または合議体)の判断に委ねる趣旨であるが、少年の人権保障の観点からこの立法趣旨そのものを批判する見解も根強い。", "qas": [ { "question": "観護措置を更新できるチャンスは何回ですか?", "id": "tr-095-14-000", "answers": [ { "text": "2回", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "観護措置に対する異議の申立の権利を有しているものは少年の付添人以外に誰がありますか?", "id": "tr-095-14-001", "answers": [ { "text": "法定代理人", "answer_start": 200, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "少年鑑別所は、家庭裁判所の調査及び審判に資するため、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的知識に基づいて、少年の資質の鑑別を行う(少年院法16条)。鑑別は心理学の専門知識を持つ法務技官がおもに行う。具体的には、身体検査、知能検査、心理検査などの検査を実施すること、作文や役割演技(ロールプレイ)、運動などの課題を与えたときの少年の反応、保護者らとの面会や職員・調査官との面接の状況、日常の起臥寝食等を観察すること(行動観察)などを通じて少年の素質、経歴、環境及び人格並びにそれらの相互の関係を明らかにし(少年鑑別所処遇規則17条)、保護処分決定の資料となるべき事項や監護処遇の方針に関する事項等を判定する(同規則21条)。鑑別の結果は、鑑別結果通知書と呼ばれる書面にまとめられ、少年鑑別所内での判定会議を経た後、処遇意見を付して家庭裁判所に送付される(同規則22条参照)。\n\n調査官の社会調査も少年鑑別所の鑑別も、少年の資質を調査する点では共通しているが、前者が生活環境内における少年の行動傾向を重視し、それゆえに少年の生活環境の調整をも視野にいれたものであるのに対して、後者は社会から切り離した一個の人間としての少年の行動傾向を重視する点に違いがあるといえよう。両者は、相互にその成果を活用しあうものとされている(少年法9条、同規則20条2項)。\n\n鑑別の対象となる少年は観護措置をとられた者に限られないが、実務上は、観護措置をとられた少年がほとんどである。", "qas": [ { "question": "鑑別の結果はどういう文書で家庭裁判所に送付されますか?", "id": "tr-095-15-000", "answers": [ { "text": "鑑別結果通知書", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "社会から切り離した一個の人間としての少年の行動傾向を重視する調査はどっちですか?", "id": "tr-095-15-001", "answers": [ { "text": "少年鑑別所の鑑別", "answer_start": 399, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "家庭裁判所は、調査の結果、審判に付することができず、または審判に付するのが相当でないと認めるときは、審判を開始しない旨の決定(審判不開始の決定)をしなければならない(少年法19条1項)。こうした審判不開始の理由がない事件については、審判を開始する旨の決定(審判開始の決定)がなされる(同法21条)。\n\n後述する18条決定は、法文上は審判を経ずにすることができるが、実務上は審判を経てするのが通例である。そこで、18条決定が相当と認められる事件についても、審判開始の決定がなされることになる。\n\nやはり後述する20条検送も、法文上は審判を経ずにすることができるが、実務上は、運転免許を保有する少年による大幅な最高速度違反(道路交通法118条1項1号、2項、22条1項)のように、悪質ではあるが非行事実も非行化の要因も単純な事案に限って、審判を経ずに検察官送致の決定がなされているようである。", "qas": [ { "question": "家庭裁判所が調査の結果、審判に付することができず、または審判に付するのが相当でないと認める際、審判を開始しない旨の決定することをどう呼びます?", "id": "tr-095-16-000", "answers": [ { "text": "審判不開始の決定", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "審判不開始の決定の根拠になる法条項は?", "id": "tr-095-16-001", "answers": [ { "text": "少年法19条1項", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "審判不開始の決定の逆の概念で、審判不開始の決定の理由がない事件について審判を開始することを何と呼びますか?", "id": "tr-095-16-002", "answers": [ { "text": "審判開始の決定", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "実務上は、「審判に付することができないとき」には、審判条件不存在、非行なし、事実上審判不可能という3類型がある。\n\n審判条件とは、審判の手続が適法であるための要件をいう。審判条件が存在しない場合としては、少年の死亡、少年が裁判権の免除を享有するとき(外交関係に関するウィーン条約37条1項、2項、31条1項前段等)、適法な送致・通告手続を欠くとき(司法警察員が法定刑に禁錮以上の刑を含む罪を非行事実とする犯罪少年の事件を家庭裁判所に直接送致したとき等)、一事不再理効(少年法46条1項、2項)に抵触するときなどが考えられる。\n\n家庭裁判所は、事件がその管轄に属しないと認めるときは、決定をもって、これを管轄家庭裁判所に移送しなければならない(同法5条3項)し、犯罪事件の本人が20歳以上であるときは検察官送致の決定をしなければならない(同法19条2項)。したがって、これらの場合には、審判不開始の決定はなされない。\n\n非行なしとは、少年に非行事実が認められない場合をいい、この場合には少年を審判に付することができないから(少年法1条、3条1項参照)、審判不開始の決定をなすことになる。これを実務上、非行なしによる審判不開始という。非行事実の認定については後述するが、審判を開始するために必要な非行事実の心証の程度は、保護処分をするために必要な程度よりも低く、「一件記録からは非行事実の存在は証明されているが、審判における少年の弁解や反証次第では覆る可能性も残る」という程度(蓋然的心証)で足りる。", "qas": [ { "question": "審判不開始の決定がなされるケースは何通りありますか?", "id": "tr-095-17-000", "answers": [ { "text": "3類型", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "被疑者の年齢が23歳である時、家庭裁判所に送致された事件になされる決定は何ですか?", "id": "tr-095-17-001", "answers": [ { "text": "審判不開始の決定", "answer_start": 392, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "審判を開始するために必要な非行事実の心証の程度と保護処分をするために必要な程度で高いのはどっちですか?", "id": "tr-095-17-002", "answers": [ { "text": "保護処分をするために必要な程度", "answer_start": 558, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "事実上審判が不可能な場合としては、少年が所在不明のとき、審判能力を欠くときなどが考えられる。\n\n少年が所在不明のときは、審判期日の呼出ができないから、審判不開始の決定をせざるを得ない。これを実務上、所在不明による審判不開始という。所在不明による審判不開始の決定には一事不再理効はないので、所在が判明すれば、調査官の報告(少年法7条1項)により改めて立件して、少年保護手続を開始することになる(再起)。\n\n審判能力とは、少年保護手続の意味を理解する能力をいい、審判能力を欠く少年については、所在不明のときに準じて審判不開始の決定がなされる。", "qas": [ { "question": "所在不明により審判期日の呼出ができない場合、なされるのは?", "id": "tr-095-18-000", "answers": [ { "text": "審判不開始", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "蓬莱社", "paragraphs": [ { "context": "蓬莱社(ほうらいしゃ)は1873年(明治6年)2月(設立年月には異説あり)征韓論を主張して敗れ下野した後藤象二郎を中心に士族たち、島田組・鴻池組などの関西商人、上杉・蜂須賀などの旧大名らなど後藤象二郎の幅広い人脈によって設立された会社である。\n金融・為替業および高島炭鉱経営の他、海運業、洋紙製紙業、近代的機械精糖業、神岡鉱山経営などと幅広く業務を手がけたが、経営は不振で1876年(明治9年)8月わずか3年半ほどの期間で倒産している。\n後藤の経営は大隈重信の言葉によると「士族の商売」であり、前時代的であり過ぎたが、資本の有限責任性や持分資本家と機能資本家の分離など時代の先を行く面もあり、また洋紙製紙業、近代的機械精糖業は結果的には事業に失敗したとはいえ、それぞれ日本における嚆矢であり時代的意義は大きい。\n後藤は蓬莱社の事業失敗で巨大な借金をかかえるが、その後も政界で活躍する。\n銀座汐留にかかっていた木橋は蓬莱社の資金で石橋に架け替えられたため蓬莱橋と名付けられ、現代に蓬莱橋交差点としてその社名を残している。", "qas": [ { "question": "蓬莱社は誰が中心となって設立されましたか?", "id": "tr-096-00-000", "answers": [ { "text": "後藤象二郎", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "蓬莱社はどれくらいの期間活動したの?", "id": "tr-096-00-001", "answers": [ { "text": "3年半ほど", "answer_start": 202, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蓬莱社が架け替えた石橋は何と呼ばれた?", "id": "tr-096-00-002", "answers": [ { "text": "蓬莱橋", "answer_start": 426, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蓬莱社が倒産したのは明治何年になりますか?", "id": "tr-096-00-003", "answers": [ { "text": "明治9年", "answer_start": 192, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大阪商人の思惑としては、まず明治政府は通商司の管理下で通商・為替会社を置き、全国的商品流通機構の再編を目指していた。\nこれらの通商・為替会社は中央銀行以下近代的な銀行が整備された将来には役割を終えるものと考えられていたが、明治初頭の時期では大阪商人たちが再編の波に乗る機会でもあった。\n通商・為替会社の傘下の機能を持つ三陸商社や三越商社、先収会社などの商社が設立されたのもこの時期である。\nまた、農民からの年貢米を換金し流通させる貢米買受業務とそれから派生する公金取り扱い業務(為替方)は三井組・小野組・島田組などが扱っていた。\n貢米買受業務および無利子で巨額の公金を扱う為替方のメリットは大きかったが、その業務に参加するには巨額の資本と米穀流通や為替に関する知識も必要であった。\n鴻池などの大阪商人たちもこれらの業務に携われるだけの条件を備えており、大阪商人たちは共同で会社を作りそれによって貢米買受業務や為替方業務を担うことを期待していた。\nさらに、鴻池らの大阪商人たちは江戸時代、大名家に多額の貸し付けをしていたが、明治維新によって幕藩体制が崩れても各大名家への膨大な貸し付け(旧藩債)は残っていた。\n大阪商人たちはその旧大名たちの債務を新政府が引き受けることを期待し、明治元年-2年大阪府知事を務め接触のあった後藤象二郎にそれを頼み、代わりに旧大名たちの債務を引き受けた新政府が払った資金を後藤の設立する会社に出資することを約束した。", "qas": [ { "question": "農民からの年貢米を換金し流通させる業務を何というの?", "id": "tr-096-01-000", "answers": [ { "text": "貢米買受業務", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大阪商人たちが、旧大名たちの債務を新政府が引き受けてくれるように頼んだ相手は誰?", "id": "tr-096-01-001", "answers": [ { "text": "後藤象二郎", "answer_start": 559, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "後藤は薩長が権力をふるう政府を見て、薩長を抑制するために民間の勢力を養成し下から薩長藩閥政府を打破して国民政府を作らねばならないと考えていた。\n後藤は自ら野に下り商人となって商業を興し、ひいては一般国民の力を盛り上げようと考えた。\n後藤自身は実務に暗いので、後藤よりは実務に明るい大隈重信に賛助を求めた。\nしかし、大隈からは後藤や自分では「士族の商法」で失敗すると反対された。\n大隈からは反対されたものの後藤は会社設立に突き進む。\n後藤は会社設立の動きを進めながらも、政府内では西郷、板垣、江藤、副島らと共に征韓論を唱える。\nしかし1873年(明治6年)10月征韓論者は敗れ野に下る。\n後藤も同じく参議を辞職し蓬莱社経営に専念することになる。", "qas": [ { "question": "後藤が自ら商業を興した際に、実務面で賛助を求めた人物とは誰?", "id": "tr-096-02-000", "answers": [ { "text": "大隈重信", "answer_start": 140, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "明治政府内で、後藤、西郷、板垣らが中心となって唱えたものは何論と言われますか?", "id": "tr-096-02-001", "answers": [ { "text": "征韓論", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "後藤が参議を辞職したのは何年ですか?", "id": "tr-096-02-002", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "前節で述べたそれぞれの思惑、つまり、旧大名家への貸し付け(旧藩債)が焦付くことを恐れ、また新しい通商・為替会社の必要を感じた大阪商人は後藤象二郎の政治力によって旧藩債を明治政府の国債として回収することを期待し、それを後藤の会社に投資することで貢米買受業務および為替方に参加する一石二鳥を考え、後藤も多額の資金を自分の会社に導入できるというメリットがあり両者の利害が一致し会社設立計画は進む。\n1873年(明治6年)3月の蓬莱社出資計画では鴻池善右衛門の120万円、長田作兵衛(加嶋屋)71万円、和田久左衛門(辰巳屋)50万円、高木五兵衛(平野屋)49万円、石崎喜兵衛(米屋)30万円など大阪商人から340万円(ほとんどが現金ではなく大名貸付を転換した国債にての出資)と旧大名である上杉斉憲と蜂須賀茂韶からの105万円計445万円を予定していた。\nしかし、この計画はもろくも崩れる。\n蓬莱社参加予定者だった長田作兵衛と高木五兵衛の分家の百武安兵衛は蓬莱社が扱うはずの広島県の公金を流用してしまい、その穴埋めを蓬莱社に参加する大阪商人たちがさせられたのである。\nさらに大阪商人たちの旧藩債は大幅に減額され、鴻池は120万円の大名貸債権が30万円しか回収できなかった。\nこれらのことによって大阪商人たちは蓬莱社への参加・出資を取りやめる意向に変化した。\n後藤の慰留により大阪商人たちは名目上は蓬莱社に残るものの事実上の出資は行われず、後藤は蓬莱社の計画を大幅に見直さなければならなかったのである。", "qas": [ { "question": "蓬莱社出資計画で大阪商人からの出資予定金額が最も多かったのは誰でしたか?", "id": "tr-096-03-000", "answers": [ { "text": "鴻池善右衛門", "answer_start": 219, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "蓬莱社出資計画で大阪商人からの出資予定金額が2番目に少なかったのは誰ですか?", "id": "tr-096-03-001", "answers": [ { "text": "高木五兵衛", "answer_start": 263, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "蓬莱社が扱うはずだった広島県の公金を流用した男は誰?", "id": "tr-096-03-002", "answers": [ { "text": "百武安兵衛", "answer_start": 417, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "百武安兵衛が行った公金流用の代償を支払わされたのは誰ですか?", "id": "tr-096-03-003", "answers": [ { "text": "大阪商人たち", "answer_start": 461, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1874年(明治7年)8月、後藤らは大阪商人らと協議し、改めて規約を制定する。\n1874年の新たな出資予定では上杉斉憲26万円、蜂須賀茂韶24万円、後藤と親しかった京都の豪商島田八郎左衛門25万円、同じく島田善右衛門25万円、後藤象二郎8万円以下合計で250万円と大きく出資者を変え金額も減り、大阪商人たちは一応名前だけは残すものの出資金額は未定となっていた。\nつまり当初の大阪商人と後藤の会社の予定が、まったく異なってしまったのである。\nしかも新たな出資予定の250万円も全額が出資されたわけではなく、現実に払われた資本金は少なかった。\n大町桂月の後藤象二郎伝記ではわずか十数万円程度とさえされている。\nこのように最初から予定外の船出であったが、にもかかわらず後藤は様々な事業に手を染めていくのである。", "qas": [ { "question": "1874年の新たな出資予定で、最高額を出資した人は誰ですか?", "id": "tr-096-04-000", "answers": [ { "text": "上杉斉憲", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1874年の新たな出資予定で、最低額の出資をした人は誰だったの?", "id": "tr-096-04-001", "answers": [ { "text": "後藤象二郎", "answer_start": 113, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1874年の新たな出資予定で、3番目に多く出資した人は誰?", "id": "tr-096-04-002", "answers": [ { "text": "蜂須賀茂韶", "answer_start": 64, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新たな出資予定は250万円であったが、実際に払われた資本金はわずかいくらだったとされているの?", "id": "tr-096-04-003", "answers": [ { "text": "十数万円程度", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "蓬莱社の正式な発足の前、1872年(明治5年)にすでに大阪商人たちの連名で三潴県・小倉県・福岡県・名東県・岡山県・東肥県(白川県・八代県)の6県(いずれも明治初頭の旧制度の県)で年貢米買請業務引き受けを申請し許可されている。\n蓬莱社の正式な発足前なのでこれは蓬莱社の前身の六海社としての受けたと思われている。\n蓬莱社がこれを引き継いだのは確実である。", "qas": [ { "question": "蓬莱社の前身会社が6つの県で年貢米買請業務の引き受けを申請し許可された年はいつでしたか?", "id": "tr-096-05-000", "answers": [ { "text": "1872年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蓬莱社の前は何という会社名でしたか?", "id": "tr-096-05-001", "answers": [ { "text": "六海社", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "蓬莱社は広島県と三潴県および陸軍省の公金を取り扱っている。\nまた史料は残っていないが、前述した年貢米買請業務を担当した小倉県・福岡県・名東県・岡山県・東肥県(白川県・八代県)でも年貢米買請業務と関連した公金取り扱い業務を行っていた可能性は高い。", "qas": [ { "question": "蓬莱社は、小倉県・福岡県・名東県・岡山県・東肥県でも年貢米買請業務と関連した何の業務を行った可能性が高かったですか?", "id": "tr-096-06-000", "answers": [ { "text": "公金取り扱い業務", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "蓬莱社では商品取引に対する貸し付け業務も行っている。\nしかし、生産以前の商品に対する貸し付けは行わず、船や不動産、畜類、銃弾などの取引に対しても貸し付けは行わなかった。\nまた旧藩札の交換業務も行っていた。\n旧藩札の交換業務では交換手数料のほか相場変動に応じた取引での売買で利潤も上げていたとみられる。", "qas": [ { "question": "旧藩札の交換業務で蓬莱社が利益を上げていたのは相場変動に応じた取引での売買と、もう1つは何でしたか?", "id": "tr-096-07-000", "answers": [ { "text": "交換手数料", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "後藤象二郎は蓬莱社の名前で1874年(明治7年)11月55万円(内20万円は即納)にて高島炭鉱の払い下げを受けている。\n高島炭鉱は蓬莱社の経営というよりも後藤個人の経営という面が強かったが、後藤は代金の即納分20万円を用意できずジャーディン・マセソン商会から20万ドル(西南戦争までは1ドル=1円)借り受けている。\nさらに1875年(明治8年)3月ジャーディン・マセソン商会から40万ドルを借りて排水ポンプや巻揚機械を装備している。\n炭鉱はある程度順調に出炭するものの工夫48人が死亡するガス爆発事故や他にも火災事故、コレラ発生などがあり、炭鉱事業で特に利益を上げることもできず、蓬莱社の負債を炭鉱事業で穴埋めすることはできなかった。\n蓬莱社倒産後も後藤はしばらく高島炭鉱を所持し続けるが、結局高島炭鉱経営で後藤が負ったジャーディン・マセソン商会からの総額100万ドルの負債はまったく返せなないままだった。\n1881年(明治14年)1月、ジャーディン・マセソン商会は後藤に対する利子込の債権110万ドルを放棄、20万ドルの返済で合意し、高島炭鉱はその20万ドルを立て替えた三菱の手に渡る。\n三菱高島炭鉱の始まりである。", "qas": [ { "question": "後藤象二郎がジャーディン・マセソン商会から借金をした金額が少なかったのは、1874年と1875年のどちらですか?", "id": "tr-096-08-000", "answers": [ { "text": "1874年", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "後藤が高島炭鉱を払い下げする際に、即納金をどこから借りましたか?", "id": "tr-096-08-001", "answers": [ { "text": "ジャーディン・マセソン商会", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蓬莱社の次にどこが高島炭鉱の経営をしましたか?", "id": "tr-096-08-002", "answers": [ { "text": "三菱", "answer_start": 486, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "後藤が負ったジャーディン・マセソン商会からの負債は、結局いくらの返済で合意となりましたか?", "id": "tr-096-08-003", "answers": [ { "text": "20万ドル", "answer_start": 455, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大町桂月の伝記『伯爵後藤象二郎』によれば蓬莱社は蒸気船5隻を持っていたとのことである。\n北海道や九州などとの海運業に加え貿易業(ジャーディン・マセソン商会との事業)にも携わったとされるが、大町桂月の伝記以外の史料は乏しく詳細は不明である。", "qas": [ { "question": "『伯爵後藤象二郎』の著者は誰でしょうか?", "id": "tr-096-09-000", "answers": [ { "text": "大町桂月", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『伯爵後藤象二郎』によると蓬莱社は蒸気船を何隻所有していましたか?", "id": "tr-096-09-001", "answers": [ { "text": "5隻", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蓬莱社は北はどの地域まで海運業を行っていましたか?", "id": "tr-096-09-002", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "蓬莱社では正式な設立後まもなく製糖事業を計画している。\n商人・士族らの会社である蓬莱社がなぜ工場経営に手を出そうと考えたのかについては不明だが、1873年(明治6年)3月蓬莱社の資本家の一人島田八郎左衛門は大阪在留のイギリス商人キルビーにイギリス製の搾汁機と精製機を注文している。\n搾汁機はサトウキビを搾って白下糖(粗糖)を作り、精製機はそれを精製して精製糖(白砂糖)にする機械である。\nそれらの製糖機を動かすためイギリス人技師を招聘し、また工場経営の実務に当たる英語に堪能な実業家として真島襄一郎を招聘した。\n工場敷地は大阪中之島の官有地の払い下げを受け、機械とイギリス人技師は1874年(明治7年)に到着し工場建設が開始された。\nしかし、機械とイギリス人技師が到着したころではすでに蓬莱社の経営は苦しく機械・建物を担保にして大阪府から借金し、1874年(明治7年)11月工場は完成する。\nしかしイギリス人技師の技術は未熟で砂糖の生産にこぎつけないうちに蓬莱社の経営は立ち行かなくなり、1876年(明治9年)4月中之島工場の機械・建物・設備および債務・債権の一切を蓬莱社は真島襄一郎に譲渡する。", "qas": [ { "question": "製糖事業を始めるに当たって蓬莱社が招いた実業家は誰でしょう?", "id": "tr-096-10-000", "answers": [ { "text": "真島襄一郎", "answer_start": 244, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蓬莱社からイギリス製の搾汁機と精製機の注文を受けた商人は誰だったの?", "id": "tr-096-10-001", "answers": [ { "text": "キルビー", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "蓬莱社の製糖事業を行う工場は、どこに建設されたの?", "id": "tr-096-10-002", "answers": [ { "text": "大阪中之島", "answer_start": 261, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蓬莱社は中之島工場の全てを誰に譲渡したの?", "id": "tr-096-10-003", "answers": [ { "text": "真島襄一郎", "answer_start": 487, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "真島襄一郎はその後なんとか少量の砂糖の生産にこぎつけ、1880年(明治13年)には年に200トンあまりの砂糖を生産するが経営は依然として困難で、圧搾はやめ精製のみ行ったりしたが、結局は1882年(明治15年)、機械・工場を他人に売り渡す。\nしかし、他人の手に渡った後も大阪中之島での製糖業は成功することはなかった。\n結局は失敗したとはいえ、それまでは在来型の製糖法しかなかった日本において蓬莱社の近代的機械製糖業は草分け的存在ではあった。", "qas": [ { "question": "1880年、中之島工場で生産出来た砂糖の量はどれくらいありましたか?", "id": "tr-096-11-000", "answers": [ { "text": "200トンあまり", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蓬莱社の中之島での工場経営は日本においてどのような事業としてパイオニアとなりましたか?", "id": "tr-096-11-001", "answers": [ { "text": "近代的機械製糖業", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大阪商人高木五兵衛(平野屋)の分家である百武安兵衛は1870年(明治3年)、伊藤博文に同行してアメリカに渡ったが、アメリカで視察した製紙工場の先進性を見て関心を持ち、自分も日本で洋紙製造にあたろうと考えた。\n百武は当初アメリカ製製紙機械を購入しようとしたが交渉は上手くいかず、代わりにイギリス製製紙機械を発注する。\nしかし、イギリス製製紙機械が日本に到着する前に百武安兵衛も本家の平野屋も経営が苦しくなり、発注済の製紙機械を蓬莱社に引き取ってくれるよう依頼した。\n蓬莱社は躊躇するものの結局明治6年10月機械を引き取ることにした。\n蓬莱社では大阪府から融資を受けたうえで、ほぼ同時に進行していた製糖事業と同所大阪中之島の工場にこれを設置した。\n1874年(明治7年)末に完成した工場にはイギリス人製紙技師を雇い、製紙工場の経営は製糖工場と並行して真島襄一郎が担当した。\n1875年(明治8年)2月には製紙機械の試運転を開始するまでになった。\n中之島工場で上手くいかなかった製糖業とは違い、製紙業は1876年(明治9年)には3万円以上の売り上げを達成し事業は緒に就いたが、蓬莱社本体の経営不振で、1876年(明治9年)4月大阪中之島工場の製紙業・製糖業設備機械すべての債務債権の一切を真島襄一郎に譲渡し蓬莱社としての製紙・製糖業は終了する。", "qas": [ { "question": "日本で洋紙製造をしようと外国から製紙機械を発注した人は誰ですか?", "id": "tr-096-12-000", "answers": [ { "text": "百武安兵衛", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "百武は初めどこの国の製紙機械を購入する予定でしたか?", "id": "tr-096-12-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 109, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "製糖工場と同時進行で製紙工場の経営を任された人は誰?", "id": "tr-096-12-002", "answers": [ { "text": "真島襄一郎", "answer_start": 373, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中之島工場の製紙業が3万円以上の売り上げを達成したのはいつでしたか?", "id": "tr-096-12-003", "answers": [ { "text": "1876年", "answer_start": 448, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "蓬莱社の大阪中之島工場の製紙・製糖業の一切を譲り受けた真島襄一郎はこれを大阪紙砂糖製造所と称して経営を始めるが、前述のとおり製糖業は失敗し、製紙工場も一時は好況であったが、後に不況となり1882年(明治15年)以降経営者がたびたび替り、紆余曲折を経て樺太工業に吸収され、樺太工業も1932年(昭和7年)、王子製紙に吸収合併される。\n真島襄一郎は旧蓬莱社の製紙工場を手放したのちも製紙業界にとどまり、明治の製紙業で名を残す。\nなお、蓬莱社は旧大名浅野長勲の有恒社の1874年(明治7年)に次いで日本で二番目に早い洋紙製造開始であった。\n王子製紙の前身である抄紙会社の洋紙製造開始はわずかに蓬莱社より後になる。", "qas": [ { "question": "樺太工業を吸収合併した製紙工場は何ですか?", "id": "tr-096-13-000", "answers": [ { "text": "王子製紙", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "有恒社の設立者は誰ですか?", "id": "tr-096-13-001", "answers": [ { "text": "浅野長勲", "answer_start": 222, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本初の洋紙製造を開始した会社は何ですか?", "id": "tr-096-13-002", "answers": [ { "text": "有恒社", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "蓬莱社の次に洋紙製造を開始した会社は何ですか?", "id": "tr-096-13-003", "answers": [ { "text": "抄紙会社", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "蓬莱社は飛騨高山に営業所(高山分局)を設け、神岡鉱山事業にも手を伸ばしている。\n蓬莱社は高山の地元商人などに出資を求め、その出資金の10倍の貸付金を用意した。\nこれはもしも損失を出したときに地元資本に負担させる意図であった。\n蓬莱社は神岡の諸鉱山のうち鹿間鉱山・前平鉱山に貸し付けを行う。\nしかし、これらの鉱山の経営は順調ではなく、蓬莱社高山分局は漆山鉱山と高山鎔製所を買収して自ら直接鉱山経営に当たろうとまでした。\n本社から了解をとって交渉したものの、実際の契約時には蓬莱社本社の資金繰りは苦しく高山に買収資金は届かず、結局は違約金を払う羽目にすらなって、その業務を停止した。", "qas": [ { "question": "神岡鉱山事業をする際に、蓬莱社はどこに営業所を作りましたか?", "id": "tr-096-14-000", "answers": [ { "text": "飛騨高山", "answer_start": 4, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "蓬莱社の資本形態は日本初ではないものの、資本金に対して株券を発行したことと、今でいう「優先株式」「劣後債」に近い概念を導入したこと、株主の有限責任制を導入したこと、資本と経営の分離を考えていたことなどで明治初頭としては先進的な形態を持っていた。\n日本では日本国郵便蒸気船会社などはすでに出資資本金に対して株券を発行し株式譲渡の自由性を確保していたが、明治初頭には株券を発行し株式譲渡の自由性を確保することはまだ一般的とは言えなかった。\n蓬莱社では1株を100円とし株券を発行していた。", "qas": [ { "question": "蓬莱社は資本と何を分離して考えていましたか?", "id": "tr-096-15-000", "answers": [ { "text": "経営", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "蓬莱社よりも早い段階から出資資本金に対して株券を発行していた会社はどこですか?", "id": "tr-096-15-001", "answers": [ { "text": "日本国郵便蒸気船会社", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蓬莱社では1株いくらの株券を発行していたの?", "id": "tr-096-15-002", "answers": [ { "text": "100円", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "蓬莱社では出資金250万円の半分を分益券、残り半分を保安券としていた。\n分益券は出資に対して利子を保証せず営業利益から配当を行ったものである。\nそれに対して保安券は営業利益に関わらず年に8%の配当は約束するが、営業利益からの配当は分益券の半分で、つまり保安券は会社が利益を上げられなくとも最低限8%の配当は期待できるものの、会社が大きな利益を上げても分益券ほどの高配当は得られないものであった。\n逆に分益券は営業利益がなければ配当はないものが、営業利益が大きければ大きな配当を得られたものであった。\n保安券はまた会社解散に当たっても元本を保証されていた。いわば、分益券はハイリスク・ハイリターン、保安券はローリスク・ローリターンに近いものであったと思われる。", "qas": [ { "question": "営業利益が大きければ大きいほど、それ相応の配当を得られるものを何券というの?", "id": "tr-096-16-000", "answers": [ { "text": "分益券", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "保安券は会社に利益がなくても最低限何%の配当が期待できるものでしたか?", "id": "tr-096-16-001", "answers": [ { "text": "8%", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "蓬莱社では出資金250万円の半分を分益券、残り半分を何券としていたの?", "id": "tr-096-16-002", "answers": [ { "text": "保安券", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "損失を被る危険性が低いが、高収益を得ることも少ないのは何券?", "id": "tr-096-16-003", "answers": [ { "text": "保安券", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "プレスター・ジョン", "paragraphs": [ { "context": "プレスター・ジョンは、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王である。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスターは聖職者を意味する。", "qas": [ { "question": "プレスター・ジョンのプレスターは何を意味しますか。", "id": "tr-097-00-000", "answers": [ { "text": "聖職者", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1122年にインド大司教ヨハネと称する人物がローマを訪れ、教皇カリストゥス2世に対して自分の職権の承認を求めた。ヨハネは教皇に対してピション川の側に立つフルナという大都市のキリスト教徒、郊外の修道院と聖トマスの名前を冠する大教会について語ったことがランス僧院長のオドらによって記録されているが、このインド大司教を称する人物は教皇の権威を利用しようとした詐欺師の類だと考えられている。このインド大司教ヨハネのローマ訪問の記録は、しばしば後世に成立するプレスター・ジョンの伝説と混同して語られる。\n\n12世紀のドイツで記された、オットー・フォン・フライズィングの年代記内の1145年の条が、プレスター・ジョンに関する最古の記録と考えられている。1145年にシリアのガバラ司教ユーグは教皇エウゲニウス3世に謁見し、中東のキリスト教勢力がイスラーム勢力との戦闘で苦境に陥っている戦況と共に東方に現れたプレスター・ジョンの情報を伝え、謁見の場に居合わせたオットーはユーグの言葉を書き残した。ペルシア、アルメニアの東方に存在する広大な国の王プレスター・ジョンがメディア、ペルシアを支配するサミアルドスを破り、メディアの首都エクバタナを占領したことが、オットーによって記されている。エルサレムに向かったプレスター・ジョンは道中でチグリス川に行く手を阻まれた。チグリス川の北では水が凍結すると聞いたプレスター・ジョンは北進するが川は凍結せず、やむなく帰国したと伝えられている。オットーは戦況の報告に続けて、プレスター・ジョンが新約聖書に登場する東方三博士の子孫であり、エメラルド製の笏を用いているという伝聞を付記している。", "qas": [ { "question": "1122年の時、教皇は誰でしたか。", "id": "tr-097-01-000", "answers": [ { "text": "カリストゥス2世", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "プレスター・ジョンに関する最も古い記録は何世紀のものですか。", "id": "tr-097-01-001", "answers": [ { "text": "12世紀", "answer_start": 248, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カリストゥス2世とエウゲニウス3世と、誰の方が先代の教皇なの?", "id": "tr-097-01-002", "answers": [ { "text": "カリストゥス2世", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "プレスター・ジョンが新約聖書に登場する東方三博士の子孫であり、エメラルド製の笏を用いていると記録した人は誰ですか。", "id": "tr-097-01-003", "answers": [ { "text": "オットー", "answer_start": 630, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "12世紀前半のインド大司教ヨハネのローマ来訪、オットー・フォン・フライズィングのプレスター・ジョンに関する最古の記録は、大きな反響を呼ばなかった[16]。しかし、プレスター・ジョンの書簡の写しとされるものがヨーロッパ中に流布し、プレスター・ジョンの使者が現れたという噂も広まっていく。\n\n1165年頃、東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスの元にプレスター・ジョンを差出人とする書簡が届けられる。マヌエル1世の元に届けられた書簡にはアレクサンドロス3世の英雄譚や布教のためにインドへ赴いた聖トマスの伝承が組み込まれており、62の国を従えた「3つのインドの王」プレスター・ジョンと彼の王国の栄華、不老泉などの王国の自然、インドに住む様々な怪物が記されていた。同様の手紙は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、教皇アレクサンデル3世、フランス王ルイ7世、ポルトガル王アフォンソ1世の元にも届けられ、吟遊詩人、放浪の楽士を介してプレスター・ジョン伝説はヨーロッパに広まった。ラテン語による書簡の原文は1150年から1160年の間に作成されたと考えられており、120以上存在する書簡の写本は様々な言語に訳されている。写本作家によって記述は脚色され、版によってはアマゾン族、インドのバラモン、ゴグとマゴグ、イスラエルの十支族など様々なアジアの伝承が取り入れられている。書簡の作者は判明しておらず、制作の意図も諸説ある。当時の人々の願望を反映した理想郷、放浪の詩人が仲間を楽しませるために様々な逸話を組み合わせて作ったものなどが動機に挙げられ、ネストリウス派のキリスト教徒によって作成されたとする意見もある。歴史家レオナルド・オルスキーは神権政治の理想を説いたものだと解釈し、バーナード・ハミルトンは聖職者が世俗の支配者に服従する世界の有様を説こうとした神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が作成に関与したと考えた。1220年ごろにバイエルンのヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハによって書かれた叙事詩『パルチヴァール』にはプレスター・ジョンの伝説も織り込まれ、『東方旅行記』の著者として知られる14世紀のイギリスの騎士ジョン・マンデヴィルは書簡の写本を元にプレスター・ジョンの国の見聞録を書き上げた。", "qas": [ { "question": "プレスター・ジョンの書簡の原文は何語で書かれましたか。", "id": "tr-097-02-000", "answers": [ { "text": "ラテン語", "answer_start": 429, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『東方旅行記』を書いた人は誰なの?", "id": "tr-097-02-001", "answers": [ { "text": "ジョン・マンデヴィル", "answer_start": 897, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プレスター・ジョンの書簡に対して、聖職者が世俗の支配者に服従する世界の有様を説こうとした神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が作成に関与したものだと主張した人は誰ですか。", "id": "tr-097-02-002", "answers": [ { "text": "バーナード・ハミルトン", "answer_start": 727, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プレスター・ジョンの書簡に対して、神権政治の理想を説いたものだと解釈した人は誰ですか。", "id": "tr-097-02-003", "answers": [ { "text": "レオナルド・オルスキー", "answer_start": 696, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1237年にルーシに侵入したバトゥの率いるモンゴル軍はヨーロッパに強い衝撃を与え、現実離れしたプレスター・ジョンへの期待は薄れていった。しかし、モンゴル帝国の襲来後もプレスター・ジョンの国を探し当てる試みはなおも続けられ、13世紀のヨーロッパでは、プレスター・ジョンの国をモンゴルの支配下に入ったキリスト教徒の国とする傾向が主流になる。\n\n1248年12月、キプロス島で第7回十字軍の準備を進めるフランス王ルイ9世の元にモンゴルの西アジア方面の司令官イルヂギデイから派遣された使者を自称する、ダヴィデとマルコと名乗る2人組が現れる。彼らはエルサレムの奪取を図るイルヂギデイがフランスと同盟してイスラーム勢力を攻撃することを望んでいること、モンゴルの皇帝グユクとイルヂギデイがキリスト教に改宗し、さらにグユクの母はプレスター・ジョンの娘であると述べ立てた。使者の言伝に強い興味を持ったルイ9世は、ロンジュモーのアンドルーら3人のドミニコ会の修道士をモンゴルの宮廷に派遣した。しかし、アンドルーがモンゴルに到着したときにグユクは没しており、グユクの皇后オグルガイミシュが摂政として政務を執っていた。1251年にオグルガイミシュからの返書がルイ9世の元に届けられたが、返書はフランス国王自らのモンゴルの宮廷への貢納を要求するもので、キリスト教への改宗、同盟の締結について触れられていなかった。", "qas": [ { "question": "1248年のとき、フランスの王は誰でしたか。", "id": "tr-097-03-000", "answers": [ { "text": "ルイ9世", "answer_start": 203, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ダヴィデとマルコと名乗る2人組によると、グユクの祖父は誰ですか。", "id": "tr-097-03-001", "answers": [ { "text": "プレスター・ジョン", "answer_start": 356, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ダヴィデとマルコと名乗る2人組によると、グユクとプレスター・ジョンと、より年上なのは誰だと推測されますか。", "id": "tr-097-03-002", "answers": [ { "text": "プレスター・ジョン", "answer_start": 356, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1245年から1247年にかけてモンゴル帝国の宮廷を訪れたプラノ・カルピニはプレスター・ジョンと呼ばれる大インドの王がタルタル人の軍隊を破った報告を記したが、プラノ・カルピニの記したプレスター・ジョンはモンゴルに抵抗したホラズム・シャー朝の君主ジャラールッディーン・メングベルディーだと考えられている。1253年にモンゴル帝国の宮廷に派遣されたフランシスコ会修道士ウィリアム・ルブルックは、カラ・キタイの王位を簒奪したナイマン部族の指導者がジョン王と称せられていたことを報告した。ルブルックのいうジョンは西遼(カラ・キタイ)の帝位を簒奪したナイマンの王子クチュルクがモデルになっていると考えられているが、クチュルクは西遼の帝位に就いた当時はネストリウス派から仏教に改宗していた。また、ルブルックはジョン王には「ウンク」という名前の非キリスト教徒の兄弟がいたことを記しているが、「ウンク」はケレイトの指導者オン・カンを混同したものだと考えられている。シリア正教会の大主教バル・ヘブラエウスはルブルックの記録に現れるウンクをプレスター・ジョンと同一視し、配下であるチンギス・カンの殺害を企てたが逆襲を受けて戦死したと『シリア年代記』に記した。ヘブラエウスは『シリア年代記』でウンクがキリスト教から異教に改宗し、ユダヤ教国からクァラカタという妃を迎えたことも伝えている。", "qas": [ { "question": "『シリア年代記』を書いた人は誰なの?", "id": "tr-097-04-000", "answers": [ { "text": "バル・ヘブラエウス", "answer_start": 434, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シリア正教会の大主教バル・ヘブラエウスはプレスター・ジョンが誰と同じ人物だと判断しましたか。", "id": "tr-097-04-001", "answers": [ { "text": "ウンク", "answer_start": 456, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クチュルクが西遼の帝位に就いた当時、彼の宗教はネストリウス派だったの、仏教だったの?", "id": "tr-097-04-002", "answers": [ { "text": "仏教", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "元を訪れたイタリアの旅行家マルコ・ポーロは『東方見聞録』において、ユヌ・カンと呼ばれる遊牧民の指導者がプレスター・ジョンで、チンギス・カンとの戦闘で落命したことを記した。マルコ・ポーロの伝えたプレスター・ジョン像は過去に伝えられた大国の君主ではなく、チンギス・カンとの戦闘で不名誉な戦死を遂げた一指導者として書かれており、『東方見聞録』で述べられているプレスター・ジョンはケレイトのオン・カンに比定されている。ケレイト部はチンギス一門の姻族とされ、モンゴル遊牧部族連合の有力部族のひとつとして存続した。チンギスの4男トルイの夫人でカアン(大ハーン)のモンケ、クビライの母となったソルコクタニ・ベキはジャカ・ガンボの娘で、オン・カンの姪にあたる。イルハン朝の開祖フレグ・ハンの正妻もケレイト出身のドクズ・ハトゥンで、イルハン朝下の西アジアで時期によってはキリスト教徒が優遇されるなどモンゴル王家のキリスト教徒に対する好意的な姿勢は、ケレイトの王族・貴族を通じてモンゴル帝国の王族・貴族に数多くのキリスト教徒が含まれていたことと無関係ではないと言われている。\n\nやがて、カトリックの宣教師たちはプレスター・ジョン、彼の王国の実在性を疑問視するようになる。14世紀初頭に中国を訪れたポルデノーネのオドリコはキタイから西に50日進んだ場所にあるプレスター・ジョンの国の情報を書き残し、これがアジアにおけるプレスター・ジョンの国についての最後の報告となった。プレスター・ジョンの国に着いたオドリコは住民からの情報を集め、ジョンにまつわる噂は真実ではないと断定した。14世紀後半に元が衰退し、ティムール朝という中央・西アジアにまたがるイスラーム教国が現れると、アジアに存在するといわれるプレスター・ジョンの国を探す試みはされなくなる[4]。それでもなお、ジョン、ダヴィデなどの東方のキリスト教徒の王の伝説は大航海時代の後までヨーロッパの人々に幻想的な憧れを抱かせた。", "qas": [ { "question": "マルコ・ポーロによると、プレスター・ジョンとチンギス・カンとの戦闘で勝った人は誰なの?", "id": "tr-097-05-000", "answers": [ { "text": "チンギス・カン", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『東方見聞録』の著者は誰でしょうか。", "id": "tr-097-05-001", "answers": [ { "text": "マルコ・ポーロ", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アジアにおけるプレスター・ジョンの国についての最後の報告は誰によるものか。", "id": "tr-097-05-002", "answers": [ { "text": "オドリコ", "answer_start": 545, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "15世紀から16世紀にかけては、アフリカのキリスト教国であるエチオピア帝国がプレスター・ジョンの国と見なされるようになる。13世紀にプレスター・ジョンの情報を伝えたプラノ・カルピニやマルコ・ポーロは旅行記の中で「中央インド」に存在する黒人が住むキリスト教国「ハバシャ(アビシニア)」に言及し、いずれの旅行記でもハバシャがプレスター・ジョンの国であることは否定されていたが、彼らの記録はヨーロッパ世界のエチオピアへの関心を引き付けたとも考えられる。13世紀末にジェノヴァのウゴリーノとヴァディーノはジブラルタル海峡を抜け、アフリカ大陸南端を経由してインドに向かう航海に出たが行方不明になった。彼らは予想外に敵対的なプレスター・ジョンに捕らえられたのだという噂が広まった。", "qas": [ { "question": "15世紀から16世紀の間、エチオピア帝国の国教は何でしたか。", "id": "tr-097-06-000", "answers": [ { "text": "キリスト教", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "噂によると、行方不明になったウゴリーノとヴァディーノは誰に捕らえられましたか。", "id": "tr-097-06-001", "answers": [ { "text": "プレスター・ジョン", "answer_start": 306, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アクスム王国などのエチオピアの国家はイスラーム勢力との戦いでしばしば東ローマ帝国やポルトガルと同盟を結んでおり、ソロモン朝のダウィト1世が最も早くプレスター・ジョンと見なされたエチオピアの王だと考えられている。1321年に布教のために西インドを訪れたドミニコ会士のヨルダヌスは報告書の中でプレスター・ジョンはエチオピアにいると述べており、ヨルダヌスのこの記述がエチオピアとプレスター・ジョンを結びつけた最古の記録だと考えられている。1400年までにエチオピアをプレスター・ジョンの国とする仮定は多くの人々に受け入れられ、イギリスのヘンリー4世はエチオピアのプレスター・ジョンに宛てた手紙を送付した。1411年から1415年にかけてヴェネツィアのアルベルティヌス・デ・ヴィルガによって作成された世界地図には、エチオピアが「プレスター・ジョンの国」として記されていた。", "qas": [ { "question": "エチオピアとプレスター・ジョンを結びつけた記録のうち、最も古いのは誰によるものですか。", "id": "tr-097-07-000", "answers": [ { "text": "ヨルダヌス", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヴェネツィアのアルベルティヌス・デ・ヴィルガによって作成された世界地図は何年度に完成されましたか。", "id": "tr-097-07-001", "answers": [ { "text": "1415年", "answer_start": 306, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "イヌの起源", "paragraphs": [ { "context": "イヌの起源(イヌのきげん)では、イヌ科の家畜種であるイエイヌ(学名CanisfamiliarisまたはCanislupusfamiliaris、以下イヌ)の起源、すなわち、イヌがその祖先となった動物から、いつ、どこで、どのようにして分かれ、イヌとなったかについて解説する。\nイヌは、リンネ(1758年)以来、伝統的に独立種Canisfamiliarisとされてきたが、D.E.WilsonandD.A.M.ReederのMammalSpeciesoftheWorld:ATaxonomicandGeographicReference(1993年版)において、その分類上の位置づけはタイリクオオカミ(Canislupus、以下オオカミ)の亜種とされ、学名もC.lupusfamiliarisに改められた。\n最近ではこの分類と学名が受容されつつあるが、依然、独立種C.familiarisとしている研究者も少なくない。", "qas": [ { "question": "Canislupusfamiliarisとは何の学名ですか?", "id": "tr-098-00-000", "answers": [ { "text": "イエイヌ", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イヌは誰によって独立種とされてきたの?", "id": "tr-098-00-001", "answers": [ { "text": "リンネ", "answer_start": 141, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イヌの学名はCanisfamiliarisから何に変わりましたか?", "id": "tr-098-00-002", "answers": [ { "text": "C.lupusfamiliaris", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イヌは独立種ではなく、何の亜種だとされましたか?", "id": "tr-098-00-003", "answers": [ { "text": "タイリクオオカミ", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イヌの直接の祖先が現生のどの動物であるかという説は、後述するとおり複数のものがあった。\n1990年代以降に急速に発展した分子系統学の知見に基づき、2000年代の時点では、イヌの祖先はオオカミとする説が一般的である。\nつまり、人間がオオカミを家畜化(=馴化)し、人間の好む性質を持つ個体を人為的選択することで、イヌという動物が成立したと考えられている。\nイヌ属にはイヌ・オオカミ(C.lupus)の他に、野生化したイヌであるディンゴ(C.lupusdingo)、独立種として複数のジャッカル(C.aureus,C.mesomelas,C.simensis)とコヨーテ(C.latrans)、交雑種アメリカアカオオカミ(C.lupus×latrans)が含まれる。\nこれらの間には地理的あるいは生態的な要因によって生殖的隔離が見られるが、人為的には相互に交雑が可能であり、子孫も繁殖力を持つ。", "qas": [ { "question": "イヌの祖先はオオカミとする説が一般的になったのは何年代ですか?", "id": "tr-098-01-000", "answers": [ { "text": "2000年代", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イヌ属に含まれる野生化したイヌとは何ですか?", "id": "tr-098-01-001", "answers": [ { "text": "ディンゴ", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イヌ属に含まれる交雑種とは何ですか?", "id": "tr-098-01-002", "answers": [ { "text": "アメリカアカオオカミ", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イヌ属に含まれる独立種とはコヨーテと何ですか?", "id": "tr-098-01-003", "answers": [ { "text": "ジャッカル", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このことから、かつてはオオカミ起原説のほかに、オオカミとジャッカル(あるいはコヨーテ)が混じっているとする説や、イヌの祖先として(すでに絶滅したパリア犬や、オーストラリアに現生するディンゴのような)「野生犬」の存在を仮定する説などがあった。\nチャールズ・ダーウィンも、これら複数のイヌ属動物にイヌの祖先を求めたが、確定することはできなかった。\nしかしながら、2000年代までの分子系統学・動物行動学など生物学緒分野の発展は、オオカミ以外のイヌ属動物の遺伝子の関与は小さく、イヌの祖先はオオカミであるという説を支持する結果をもたらしている。", "qas": [ { "question": "イヌの祖先として仮説に挙げられていた絶滅犬とは何?", "id": "tr-098-02-000", "answers": [ { "text": "パリア犬", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イヌなどの食肉目(ネコ目)の祖先として、現生のイタチやテンのような形態のミアキスが出現したのは、6000万年前ごろとされる。\n3800万年前のヘスペロキオン(en:Hesperocyon)を経て、約1500万年前には北米にトマークタス(en:Tomarctus)が出現し、これがイヌ科の直接の祖先であると考えられている。\n他のイヌ科動物とイヌ属が分岐したのは、約700万年前であると見積もられている。", "qas": [ { "question": "ミアキスの出現はいつごろですか?", "id": "tr-098-03-000", "answers": [ { "text": "6000万年前ごろ", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "6000万年前ごろに出現したイヌやネコの祖先とは何?", "id": "tr-098-03-001", "answers": [ { "text": "ミアキス", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘスペロキオンは何年前に出現した?", "id": "tr-098-03-002", "answers": [ { "text": "3800万年前", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トマークタスが出現した場所とは?", "id": "tr-098-03-003", "answers": [ { "text": "北米", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "Wayneら(1993年)は、イヌ科動物を、ミトコンドリアDNA(mtDNA:ミトコンドリアタンパク質をコードするDNA)の2,001bp塩基対の配列によって比較した。\nその結果、イヌはオオカミと最も近縁であり、コヨーテやジャッカルとは少し離れていた。\nVilàら(1997年)は、世界の27か所から集めたオオカミ162頭と、67品種(犬種)140頭のイヌを用いて、同じくミトコンドリアDNAのうち、region1と呼ばれる、変異の大きな領域の塩基配列を比較した。\nその結果、イヌとオオカミの配列に大きな違いはなかった。\nVilàらやTsudaら(1997年)による、ミトコンドリアDNAの塩基配列の分析からは、イヌとオオカミははっきり分けられるものではなく、系統樹を描くと、さまざまなオオカミの亜種やイヌの犬種が入り交じって出現する。\nVilàらやTsudaらの分子系統学的研究と、イヌとオオカミがお互いの子を作ることが可能であり、両者の間にできた子供も生殖可能である事実を考え併せると、イヌとオオカミは近縁種であると考えられる。", "qas": [ { "question": "ミトコンドリアDNAの比較から、イヌと最も近いのはオオカミ、コヨーテ、ジャッカルの中でどれですか?", "id": "tr-098-04-000", "answers": [ { "text": "オオカミ", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Vilàが集めたオオカミとイヌの数はどちらが多かったですか?", "id": "tr-098-04-001", "answers": [ { "text": "オオカミ", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イヌの近縁はオオカミであると分かったのは誰の比較結果によりますか?", "id": "tr-098-04-002", "answers": [ { "text": "Wayne", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イヌとオオカミは、何という塩基配列に大きな違いが無かったのですか?", "id": "tr-098-04-003", "answers": [ { "text": "region1", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オオカミには生息する地域によっていくつかの亜種があるが、イヌが具体的にどの地域で、どの亜種から分岐したものであるかについては定説はない。\nかつては、他の多くの家畜動物と同様、西アジアで家畜化されたのではないかとも考えられていた。\nまた、前述のVilàら(1997年)の研究は、イヌの祖先が特定のオオカミの亜種に由来せず、さまざまな場所で家畜化が行われたか、あるいはイヌの系統がさまざまな種類のオオカミから遺伝的な影響を受けたことを示唆していた。", "qas": [ { "question": "イヌが家畜化された地域はどこだと考えられていましたか?", "id": "tr-098-05-000", "answers": [ { "text": "西アジア", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これに対して、Savolainenら(2002年)はイヌの起源を新たに東アジアに求め、今日ではこの説が有力となりつつある。\nSavolainenらは、ユーラシアの38匹のオオカミと、アジア、ヨーロッパ、アフリカおよび北極アメリカ(=アラスカ)から集められた654匹のイヌから採取したミトコンドリアDNAを調査した。\nその結果、南西アジアやヨーロッパのイヌに比べて、東アジアのイヌには、より大きな遺伝的多様性が見られ、それらがより古い起源をもつこと、すなわち、イヌは東アジアに起源を持つことが示唆された。", "qas": [ { "question": "イヌの起源を東アジアに求めた人は誰ですか?", "id": "tr-098-06-000", "answers": [ { "text": "Savolainen", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Savolainenが集めたオオカミとイヌの数はどちらが少なかったですか?", "id": "tr-098-06-001", "answers": [ { "text": "オオカミ", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Savolainenが集めたオオカミとイヌは、どちらがより多様な地域から集められましたか?", "id": "tr-098-06-002", "answers": [ { "text": "イヌ", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Savolainenは、集めたオオカミとイヌから何を採取して調査しましたか?", "id": "tr-098-06-003", "answers": [ { "text": "ミトコンドリアDNA", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このことから、すべてのイヌは、約1万5千年前あるいはそれ以前に、東アジアに生息するオオカミから家畜化されたものを祖先とし、これが人の移動に伴って世界各地に広がったものと考えられる。\nただし、その過程で、ユーラシア大陸に分布する複数のオオカミ亜種(ヨーロッパオオカミ、インドオオカミ、アラビアオオカミなど)との混血が(さらに、限られた地域では、コヨーテやジャッカルとの多少の混血も)あったと推測される。\nなお、Savolainenらに先行する日本のTsudaら(1997年)の研究でも、イヌの原種はチュウゴクオオカミと考えられるという結論が導かれている(チュウゴクオオカミCanislupuschancoは一般にチベットオオカミCanislupuslanigerのシノニムとされることが多く、ヨーロッパオオカミCanislupuslupusに含める研究者もある)。\n一方、2010年にUCLAの研究チームはネイチャー誌において、遺伝子の研究から犬は中東が起源である可能性が高く、考古学的記録もそれを裏付けているとする論文を発表している。", "qas": [ { "question": "SavolainenとTsudaはどちらが先にイヌの起源における研究結果を出しましたか?", "id": "tr-098-07-000", "answers": [ { "text": "Tsuda", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Tsudaはイヌの原種は何だと結論付けましたか?", "id": "tr-098-07-001", "answers": [ { "text": "チュウゴクオオカミ", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2010年の遺伝子研究では、可能性の高いイヌの起源はどこの地域だとしましたか?", "id": "tr-098-07-002", "answers": [ { "text": "中東", "answer_start": 423, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ユーラシア大陸に分布する複数のオオカミ亜種はヨーロッパオオカミとインドオオカミの他に何が含まれますか?", "id": "tr-098-07-003", "answers": [ { "text": "アラビアオオカミ", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イヌがオオカミから分岐した(イヌが人間によって最初に家畜化された)時期については、異なった見解が並立している。\nVilàらは、イヌの塩基配列に見られる変異が生じるために必要な時間として、13万5千年という数字を算出している。\nこの「遺伝子時計」が示す数字が正しいとすれば、考古学的な証拠から確認されるよりもはるかに長い時間である。\nこの時期の違いについては、初期のイヌの形態がオオカミとほとんど変わらず、化石からは識別できなかったのだと考えることもできる。\nしかし、WayneandOstranderやSavolainenらによる報告では、「イヌのDNAの塩基配列に見られる変異が1匹のオオカミのみに由来する場合はイヌの家畜化は約4万年前」「複数のオオカミがイヌの系統に関わっている場合は約1万5千年前」という見解が提示されている。\n田名部(2007年)は、アフォンドバ遺跡(約2万年前、ムスティエ文化)で発見された犬の骨に基づいて、この時期にオオカミとイヌが分化したことを支持している。\nなお、現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカ大陸からユーラシアに進出したのは7~5万年前のことであり、一方、約20万年前に出現し、現生人類と共存していたネアンデルタール人の分布域は、ヨーロッパから中央アジアまでである。\nこのことからも、オオカミの家畜化が東アジアで起こったものだとすれば、ホモ・サピエンス出現より前の10万年以上前に、ネアンデルタール人が存在しなかった東アジアでオオカミを馴化することは不可能である。", "qas": [ { "question": "Vilàが計算した、イヌの塩基配列に見られる変異が生じるために必要な時間とは?", "id": "tr-098-08-000", "answers": [ { "text": "13万5千年", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "約2万年前にオオカミとイヌが分化したと述べているのは誰ですか?", "id": "tr-098-08-001", "answers": [ { "text": "田名部", "answer_start": 367, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ネアンデルタール人が出現したのはどれくらい前ですか?", "id": "tr-098-08-002", "answers": [ { "text": "約20万年前", "answer_start": 499, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "現生人類のことを何といいますか?", "id": "tr-098-08-003", "answers": [ { "text": "ホモ・サピエンス", "answer_start": 453, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "Tanabeら(1999年)の研究では、とりわけ東アジアのイヌの血統にチュウゴクオオカミとの関わりが強いことが示唆されている。\nParkerら(2004年)は、細胞核のマイクロサテライトDNA(付属DNA)の96座位について、オオカミと85品種(414頭)の犬を比較した。", "qas": [ { "question": "ParkerがマイクロサテライトDNAの96座位を比較するのに犬を何頭調査しましたか?", "id": "tr-098-09-000", "answers": [ { "text": "414頭", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ParkerがマイクロサテライトDNAの96座位を比較するのに何品種の犬を調査対象にしましたか?", "id": "tr-098-09-001", "answers": [ { "text": "85品種", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東アジアのイヌの血統にチュウゴクオオカミが深く関係していると分かったのは誰の研究によりますか?", "id": "tr-098-09-002", "answers": [ { "text": "Tanabe", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ParkerらのマイクロサテライトDNAの96座位における比較研究はいつ行われましたか?", "id": "tr-098-09-003", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その結果、古代に起源をもつ数種、すなわち、中国犬(チャイニーズ・シャー・ペイ、チャウチャウ)と日本犬(柴犬、秋田犬)、コンゴ共和国のバセンジー、アラスカのシベリアン・ハスキーとアラスカン・マラミュートの3グループが比較的オオカミに近かったのに対して、ヨーロッパに起源をもつその他の多くの品種は相互に近く、比較的新しく分岐したものであることがわかった。\nこの研究は、イヌの家畜化は東アジアのオオカミからなされたとしたSavolainenら(2002年)の結論を支持する結果となった。\nなお、現在のイヌの品種の大部分を占めるヨーロッパ系のイヌの品種が人為的に作られ始めたのは8世紀ごろとされるが、品種として増加したのは、18世紀以降のことと考えられる。", "qas": [ { "question": "古代に起源をもつ中国犬はチャウチャウと何ですか?", "id": "tr-098-10-000", "answers": [ { "text": "チャイニーズ・シャー・ペイ", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨーロッパ系のイヌの品種が増加したのはいつ以降ですか?", "id": "tr-098-10-001", "answers": [ { "text": "18世紀以降", "answer_start": 308, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "古代に起源をもつ日本犬とは秋田犬と何ですか?", "id": "tr-098-10-002", "answers": [ { "text": "柴犬", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "古代に起源をもつコンゴ共和国の犬とは何ですか?", "id": "tr-098-10-003", "answers": [ { "text": "バセンジー", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イヌが最初の馴化(家畜化)動物であることは、考古学的遺物からも間違いない。\n最古のイエイヌの骨であるかもしれないものとして、以下のものが挙げられる。\nシリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタール人の住居遺跡(約3万5千年前?、ムスティエ文化(ムスティリアン文化))から発掘されたイヌ科動物の下顎骨は埴原和郎らが発掘。\nオオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古のイエイヌとする説がある。\nウクライナ・マルタ遺跡などで出土した、イヌ科動物の骨はオオカミにしては小型。\n同じくウクライナのメジン遺跡(約3万年前)でもイヌの骨が出土している。\nロシア・ウラル山脈の東に位置するアフォンドバ遺跡(約2万年前、ムスティエ文化)で発見された犬の骨。\nアラスカ・ユーコン地方で発掘されたイヌの骨は少なくとも2万年以上前のものと見られる。\nまた、同じアラスカのオールドクロウ川沿岸で、1万8千~2千年前のものと推測されるイヌの骨が発見されている。\nただし、(これと同じものについてのものかどうかは不明だが、)ポーキュパイン川沿岸の洞窟で発見された「イヌ科動物の折られた歯」は、実はクマの歯であった、とする論文もある。", "qas": [ { "question": "世界最古のイエイヌとされる骨はどこで発掘されたの?", "id": "tr-098-11-000", "answers": [ { "text": "シリア・ドゥアラ洞窟", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シリア・ドゥアラ洞窟でイヌ科動物の下顎骨を発掘した人は誰?", "id": "tr-098-11-001", "answers": [ { "text": "埴原和郎", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メジン遺跡とアフォンドバ遺跡で発見された犬の骨は、どちらの方が古いですか?", "id": "tr-098-11-002", "answers": [ { "text": "メジン遺跡", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "メジン遺跡はどこの国にありますか?", "id": "tr-098-11-003", "answers": [ { "text": "ウクライナ", "answer_start": 237, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ドイツ・オーバーカッセル遺跡(Oberkassel,約1万4千年前)から発見された、イヌまたは馴化されたオオカミの骨。\nイスラエルのアイン・マラッハ遺跡(EinMallaha/AinMallaha/Eynan,約1万2千年前)で発見されたイヌ科の若獣(子犬?)の骨と同じ場所で発見された高齢の女性の遺体は、左手をこの4~5月齢の子犬の体にかけた形で埋葬されていた。\n同じイスラエルのハヨニム洞窟遺跡(HayonimCave,約1万2千年前)からも、イヌまたは馴化されたオオカミの骨が発見されている。\nイラク・パレガウラ洞窟遺跡(PalegawraCave,約1万2千年前)から出土したイヌの骨は歯が詰まった小さな下あごや、小さな鼓室胞など、イヌの明瞭な特徴が認められる。\n一般的には、アイン・マラッハ遺跡など、前1万2千年ごろの西アジアのもの、あるいは前1万4千年ごろのオーバーカッセル遺跡のものを「最古のイヌ」として挙げる資料が多い。\n前1万2千年ごろは、中石器時代のナトゥーフ文化Natufianculture初期に当たり、主要な狩猟具が石斧から細石器(小さな石のやじり)へと移行した時期である。\n狩猟の形態の変化が、イヌの利用と何らかの関わりをもつ可能性もある。", "qas": [ { "question": "オーバーカッセル遺跡はどこの国にありますか?", "id": "tr-098-12-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アイン・マラッハ遺跡はどこの国にありますか?", "id": "tr-098-12-001", "answers": [ { "text": "イスラエル", "answer_start": 60, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パレガウラ洞窟遺跡はどこの国にありますか?", "id": "tr-098-12-002", "answers": [ { "text": "イラク", "answer_start": 250, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アイン・マラッハ遺跡とハヨニム洞窟遺跡はどこの国にありますか?", "id": "tr-098-12-003", "answers": [ { "text": "イスラエル", "answer_start": 60, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イヌがなぜ、どのようにして家畜化されたのかについては、明確には分かっていない。\n従来はイヌの家畜化は東アジアまたは中東で農業の勃興と関係して行われたと考えられていたが、イヌの家畜化はヨーロッパで狩猟採集民によって行われたとする論文が2013年にサイエンス誌で発表された。\nこの論文によれば、イヌの直接の先祖はヨーロッパの古代オオカミであることがDNA分析の結果明らかだという。\nオオカミとヒト属動物(人類)とは数十万年にわたり、共通の地理的分布域および生活環境で生活しており、互いに頻繁に遭遇していたと考えられる。\nオオカミの骨は更新世の中期以降の人類の遺跡、たとえばイギリスのボックスグローブ遺跡(約40万年前、旧石器時代前期)、中国の周口店遺跡(約30万年前、旧石器時代前期)、フランスのラザレ洞窟(約15万年前、旧石器時代中期)などから発掘されている。\nこの「ゆるやかな接触の時期」に、オオカミのうちのあるものが人間の宿営地近くに出没し、人に近づくようになり、やがてその中からイヌの祖先となるものが現れた可能性が考えられている。\nオオカミの成獣を人に馴れさせるのはほとんど不可能に近いが、子供のうちに群れから離され、人間の中で育てられたオオカミは、かなり人に馴れることが知られている。\nそれでも時に突然危険な行動をとるようなことがあるため、馴化して家畜として利用することは難しいと言われる。\n「ゆるやかな接触の時期」には、オオカミが人の捨てた食べ残しをあさるため人の宿営地に近づくようになり、何らかの淘汰圧が働いて次第にイヌ化したのではないかとの意見がある。\n現在のイヌ・オオカミの遺伝子分析の結果から、オオカミとイヌの攻撃性の違いが、遺伝的背景と関連を持つ可能性が報告されている。", "qas": [ { "question": "イヌの家畜化は誰によって行われたと論じられましたか?", "id": "tr-098-13-000", "answers": [ { "text": "狩猟採集民", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ボックスグローブ遺跡、周口店遺跡、ラザレ洞窟の中で最も古い遺跡はどこですか?", "id": "tr-098-13-001", "answers": [ { "text": "ボックスグローブ遺跡", "answer_start": 289, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "周口店遺跡とラザレ洞窟はどちらが古いですか?", "id": "tr-098-13-002", "answers": [ { "text": "周口店遺跡", "answer_start": 319, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ラザレ洞窟はどこの国にありますか?", "id": "tr-098-13-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 341, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "高句麗", "paragraphs": [ { "context": "高句麗(こうくり、コグリョ、朝:고구려、紀元前1世紀頃-668年)または高麗(こうらい、こま、コリョ、朝:고려)は、現在の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国北部から中国東北部(満洲)の南部にかけての地域に存在した国家。最盛期には中国東北地方南部、ロシア沿海地方の一部、および朝鮮半島の大部分を支配した。朝鮮史の枠組みでは同時期に朝鮮半島南部に存在した百済・新羅とともに三国時代を形成した一国とされる。", "qas": [ { "question": "高句麗は、朝鮮史においてどんな時代に存在した国であるの?", "id": "tr-099-00-000", "answers": [ { "text": "三国時代", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高句麗と同じ時代に存在した国は、百済とどの国ですか?", "id": "tr-099-00-001", "answers": [ { "text": "新羅", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "朝鮮半島において、高句麗、百済、新羅の三国が存在した時代を何と呼ぶか?", "id": "tr-099-00-002", "answers": [ { "text": "三国時代", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『三国史記』の伝説によれば、初代王の朱蒙(東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建てたとされるが、文献史学的にも考古学的にも高句麗の登場はこれよりもやや古いと見られている。漢の支配から自立し、3世紀以降、魏晋南北朝時代の中国歴代王朝や夫余(扶余)、靺鞨、百済、新羅、倭など周辺諸国と攻防を繰り広げ、5世紀には最盛期を迎えた。高句麗は東アジアで大きな影響力をもったが、589年に中国が統一され南北朝時代が終焉を迎えると、統一王朝の隋・唐から繰り返し攻撃を受けた。高句麗は長らくこれに耐えたが、660年には百済が唐に滅ぼされ、新羅も唐と結んだことで南北から挟まれた。そして国内の内紛に乗じた唐・新羅の挟撃によって668年に滅ぼされ、唐に吸収されて安東都護府が設置された。", "qas": [ { "question": "高句麗の初代王は、誰なの?", "id": "tr-099-01-000", "answers": [ { "text": "朱蒙", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高句麗の建国年度は何年だとされているか?", "id": "tr-099-01-001", "answers": [ { "text": "紀元前37年", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高句麗の最盛期は、何世紀だとされますか?", "id": "tr-099-01-002", "answers": [ { "text": "5世紀", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高句麗を南北の両方から圧迫した国は、国か?", "id": "tr-099-01-003", "answers": [ { "text": "唐", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『三国史記』「高句麗本紀」冒頭の神話によれば、高句麗は朱蒙(東明聖王)により建てられたという。朱蒙は河神の娘である柳花の息子であるとされる。その神話では顛末は以下のようなものである。夫余王の金蛙が大白山(白頭山)の南の優渤水で柳花に出会い話しかけると、彼女は天帝の子と称する解慕漱と愛し合ったが、解慕漱はどこかへいなくなってしまい、父母は媒酌人もなく人に従ったことを責め、彼女を幽閉したと言った。金蛙がこの話を不思議に思って家に柳花を閉じ込めると、日光が彼女を照らし彼女は身籠った。そして大きな卵を産み、やがて中から男の子が生まれた。これが朱蒙である。幼少より卓越した才能を見せた朱蒙は、夫余の王子たちの誰よりも優れていた。不安を覚えた夫余の王子たちは朱蒙を除くように主張したが聞き入れられず、最終的に暗殺を試みたが、危険を察知した母柳花の助言によって朱蒙は国外へ脱出し、卒本川に至って建国した。なお、「高句麗本紀」の分注異伝では、朱蒙が卒本夫余に来た時、男子のいなかった夫余王が朱蒙の才を見て王女と結婚させ、後に朱蒙が王になったとする。そして国号を高句麗としたので高を氏の名前としたという。『三国史記』に従うならば、この建国は前漢の元帝建昭2年のことであり、西暦に直すと前37年となる。", "qas": [ { "question": "朱蒙は誰の孫だとされるの?", "id": "tr-099-02-000", "answers": [ { "text": "河神", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "朱蒙の母はどの国の王の娘ですか?", "id": "tr-099-02-001", "answers": [ { "text": "夫余", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "朱蒙はどの国の基で育ったか?", "id": "tr-099-02-002", "answers": [ { "text": "夫余", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "朱蒙はどこにおいて高句麗を建国したか?", "id": "tr-099-02-003", "answers": [ { "text": "卒本川", "answer_start": 386, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "漢は日本海側へ続く流通路(玄菟回廊)を確保すべく濊貊の地に玄菟郡を設置した。これを第一玄菟郡と呼ぶ。最初に郡治が置かれた場所は、現在の北朝鮮の咸鏡南道咸興地方であると考えられている。この時周辺地域を統治するために高句麗人の居住地を含む複数の地域に県城が置かれた。後に高句麗の首都が置かれる現在の中国領吉林省集安では、高句麗時代の王城の地下に土塁が確認されており、恐らくは高句麗県城であると考えられている。同じく後に高句麗の首都がおかれる遼寧省桓仁にも、土城が確認されており、こちらも玄菟郡の県城であると考えられている。この様に、漢は当初高句麗人の郡県統治を目指した。だが、高句麗人は容易に服属しなかったと見られ、前75年には郡治を桓仁西北の永陵鎮に遷した。これが第二玄菟郡である。玄菟郡は旧来の高句麗県を廃止し、新たな郡治に高句麗県の名前を残した。文献史学的には高句麗の興隆はこの前107年から前75年の間、概ね前1世紀前半頃であると考えられる。一方、考古学見地からは高句麗の故地における新しい墓形式である積石塚の登場をもって高句麗のはじまりとするのが一般的となる。積石塚とは、各種の石を積み上げ、中央に埋葬主体を儲ける形式の古墳であり、しばしば平面プランは方形となるものである。具体的な年代割り当ては諸説あり、最も原始的な形態である無基壇式石槨積石塚のうち、あるものは紀元前3世紀に遡るとする説もあるがはっきりしない。この形式の積石塚の中には五銖銭が出土しているものがあることから、紀元前後の時期までは遡ると思われる。", "qas": [ { "question": "漢により設置されて最初の郡治は、どこに置かれたと考えられているの?", "id": "tr-099-03-000", "answers": [ { "text": "咸鏡南道咸興地方", "answer_start": 71, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "考古学見地からは、何の登場をもって高句麗の始まりとするのが一般的でありますか?", "id": "tr-099-03-001", "answers": [ { "text": "積石塚", "answer_start": 453, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "各種の石を積み上げ、中央に埋葬主体を儲ける形式の古墳は、何か?", "id": "tr-099-03-002", "answers": [ { "text": "積石塚", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "高句麗の最初期の中心地は卒本(忽本とも、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)のある渾江流域から集安のある鴨緑江流域にかけての地域であった。高句麗人たちは那、または奴とよばれる多数の地縁的政治集団を形成し、各那集団には大加、諸加とよばれる首長層がいた。こうした那集団は首長連合を形成していたと考えられ、『三国志』「魏志」や『魏略』など中国の史書は有力な那集団として桓奴部、絶奴部、消奴部、灌奴部、桂婁部と言う五族(五部)の存在を伝えている。", "qas": [ { "question": "高句麗の最初期の中心地は、どの流域から鴨緑江流域にかけての地域だったの?", "id": "tr-099-04-000", "answers": [ { "text": "渾江流域", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初期の高句麗には、那、または何とよばれる地縁的政治集団が形成されていましたか?", "id": "tr-099-04-001", "answers": [ { "text": "奴", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "奴とよばれる集団の首長層を呼ぶ呼称には、大加のほかに、何があったか?", "id": "tr-099-04-002", "answers": [ { "text": "諸加", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "那集団の連合体であったと考えられる高句麗は、漢の郡県と抗争を繰り返した。興隆期の高句麗の動向は主に中国の史料によって伝わる。西暦8年に漢の平帝を殺害し帝位を簒奪して新たに新王朝を開いた王莽は、高句麗を含む東夷諸族に新たな印綬を配布した。この時従来まで王を名乗っていた高句麗の君主は高句麗候へと格下げされた。西暦12年に王莽が匈奴出兵のために高句麗侯騶(すう)に出兵を命じた際には、騶がこれに応じなかったために捕らえられて処刑されたという。更に王莽は高句麗の国名を「下句麗」として卑しめた。この騶が名前と具体的な行動が伝わる最古の高句麗の人物である。王莽が倒され光武帝によって後漢が開かれると、「下句麗」侯は西暦32年にこれに朝貢し、高句麗王へと戻された。", "qas": [ { "question": "初期の高句麗は何の連合体であったと考えられるの?", "id": "tr-099-05-000", "answers": [ { "text": "那集団", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "興隆期の高句麗の動向については、どの国の史料に主に記されていますか?", "id": "tr-099-05-001", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 49, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "漢の平帝が死んだのは、何年のことか?", "id": "tr-099-05-002", "answers": [ { "text": "8年", "answer_start": 64, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "誰が高句麗の国名を「下句麗」として卑しめたか?", "id": "tr-099-05-003", "answers": [ { "text": "王莽", "answer_start": 221, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後、高句麗の勢力は拡張し、これに圧迫された漢の玄菟郡は再び後方へと移転した。これを第三玄菟郡と言うが、具体的な移転先についての記録はない。ただし、現代の研究によって移転は105年から106年頃、移転先は遼寧省撫順にある永安台古城とするのが定説となっている。この移転の後も、1世紀ほどの期間にわたり、高句麗王の宮(太祖大王)、遂成(次大王)、伯固(新大王)らが繰り返し遼東、玄菟などを襲撃し続けた。", "qas": [ { "question": "高句麗の勢力拡張に伴い、漢の玄菟郡が後方へと移転し成立されたのを、何と呼ぶ?", "id": "tr-099-06-000", "answers": [ { "text": "第三玄菟郡", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第三玄菟郡については、漢の玄菟郡の移転先がどこであるとするのが、現在定説とされていますか?", "id": "tr-099-06-001", "answers": [ { "text": "永安台古城", "answer_start": 111, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2世紀末の黄巾の乱とその後の中央政府の統制力の低下によって後漢が分裂状態に陥ると、遼東地方では公孫度によって公孫氏政権が打ち立てられた。一方の高句麗では高句麗王伯固の死後、その息子延優(山上王、在位:197年-227年)が即位したが、これに反発した兄の発岐は公孫氏を頼って延優に対抗し、卒本に息子を残して自らは遼東へ移り住んだ。延優は公孫氏と発岐から逃れて南に移動し、古くからの重要拠点である国内城(集安)で「新国」を建てた。この「新国」がその後の高句麗の歴史を担うことになり、国内城は高句麗の王都となった。国内城は旧高句麗県の県城を居城として転用したもので、背後の山には緊急用の大規模な山城(丸都城、山城子山域)が築かれた。山城の丸都城と平城の国内城とは一体となって王都を構成した。その後の発岐とその息子の動向は不明である。", "qas": [ { "question": "黄巾の乱は、何世紀末の出来事なの?", "id": "tr-099-07-000", "answers": [ { "text": "2世紀末", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "伯固の跡を継いだ高句麗王は、誰ですか?", "id": "tr-099-07-001", "answers": [ { "text": "延優", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "延優と王位を巡って争ったのは、誰か?", "id": "tr-099-07-002", "answers": [ { "text": "発岐", "answer_start": 126, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "発岐は延優との王位争奪において、誰の力を貸したか?", "id": "tr-099-07-003", "answers": [ { "text": "公孫氏", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "高句麗は漢の滅亡の後に中原を支配した魏と結び、司馬懿率いる魏軍が公孫氏を討伐する際には援兵も出したが、公孫氏滅亡後間もない242年には延優の跡を継いだ憂位居(東川王)が西安平を寇掠し魏と衝突するようになった。魏は将軍毌丘倹の指揮の下で数度に渡り高句麗への遠征を行った。『三国志』「魏志」の記載によれば1回目の侵攻は244年に行われたが、20世紀に発見された碑文の記録を信ずるならば242年中に既に出陣していた可能性もある。東川王は20,000の兵を率いて迎え撃ったが敗退し、丸都城を落とされ1,000人が斬首された。毌丘倹は将兵に墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、魏は245年に再び侵攻した。今度はより広範囲が戦場となり、高句麗は南北の2方向から侵攻した魏軍との激しい戦いの末に敗れた。東川王は沃沮・不耐の故地にまで逃がれて魏軍の追撃から身を隠した。", "qas": [ { "question": "高句麗と魏の関係が悪化したのは、誰の時代なの?", "id": "tr-099-08-000", "answers": [ { "text": "憂位居", "answer_start": 75, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "高句麗がどこを寇掠したことで、魏との関係が悪化しましたか?", "id": "tr-099-08-001", "answers": [ { "text": "西安平", "answer_start": 84, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『三国志』と20世紀に発見された碑文の記録のうち、魏における最初の高句麗出兵について、その年度をより早いものだとしているのは、どちらか?", "id": "tr-099-08-002", "answers": [ { "text": "『三国志』", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "魏における2回目の高句麗出兵は、何年に行われたか?", "id": "tr-099-08-003", "answers": [ { "text": "245年", "answer_start": 294, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一連の戦いで丸都城は蹂躙され高句麗は多大な損害を受けたが、東川王は魏の攻撃が一段落した後、間もなく復興に手を付けた。『三国史記』「東川王紀」は丸都城が破壊されたために新たに平壌城を築いて新たに首都としたと伝える。だが、実際にこの頃に高句麗が遷都を行った形跡はなく、仮に実施されていたとしてもこれは後世に高句麗が都を置いた平壌城とは異なる。この遷都についての記録は、後世の平壌を神聖視する観念を反映して後に挿入された挿話であるか、または丸都城の別名か集安市付近の域名であると考えられる。", "qas": [ { "question": "高句麗は、どの国の攻撃により多大な損害を受けたの?", "id": "tr-099-09-000", "answers": [ { "text": "魏", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高句麗は、どの王の時代に魏から攻撃を受けましたか?", "id": "tr-099-09-001", "answers": [ { "text": "東川王", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『三国史記』によると、魏の攻撃を受けた高句麗は、どの城を立て直し、新たに首都としたとされているか?", "id": "tr-099-09-002", "answers": [ { "text": "平壌城", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "高句麗はこの戦争の敗北から立ち直り、美川王(乙弗、在位:300年-331年)が即位したころには、従来からの五部体制を維持しつつも国王権力の集中が推し進められ官位制度が整備されるなど内政面の強化が行われた。そして対外的には、中国を統一した西晋で発生した八王の乱やその後の分裂などの混乱に乗じて遼東地方への進出を図った。311年には丹東を攻略して朝鮮半島の郡県を中国本国から切り離し、盛んに楽浪郡や帯方郡を攻撃した。313年にはこれに耐えられなくなった楽浪郡の郡民の多くが鮮卑の慕容氏の下へ移住し、楽浪・帯方両郡は行政機能を事実上喪失した。同年中に高句麗は楽浪郡を占領し朝鮮半島北部の支配を確立した。それでも楽浪郡の故地には多くの漢人が残留し、新たに中国の戦乱を逃れて流入した漢人もこれに加わった。彼らは南北に分裂しつつあった中国の正統王朝として東晋を支持し、その年号を使用し続けるなど回帰の願望を持っていた。高句麗は平壌を新たな拠点として確保する一方で、彼ら漢人に対しては緩やかな支配で臨んだ。更に北方では夫余を攻撃してその本拠地を支配下に置いた。", "qas": [ { "question": "官位制度の整備や王権強化など、内政面における強化を行った高句麗王は、誰?", "id": "tr-099-10-000", "answers": [ { "text": "美川王", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "美川王は311年に、どこを攻略して朝鮮半島の郡県を中国本国から切り離しましたか?", "id": "tr-099-10-001", "answers": [ { "text": "丹東", "answer_start": 164, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "丹東攻略後、高句麗は楽浪郡とどの郡を攻撃したか?", "id": "tr-099-10-002", "answers": [ { "text": "帯方郡", "answer_start": 197, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高句麗が楽浪郡を占領したのは、何年のことか?", "id": "tr-099-10-003", "answers": [ { "text": "313年", "answer_start": 206, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同時期に勢力を大幅に強めていた鮮卑の慕容氏もまた、319年には晋の平州刺史崔毖を破って遼東に勢力を拡張し高句麗と直接対峙するようになった。高句麗は撫順に移転していた玄菟郡を倒し、その地に新城(高爾山城)を築いて西方の拠点とした。しかし、慕容氏の慕容皝は337年に燕王(前燕)を称し、342年には大軍をもって高句麗に侵攻した。高句麗はこの戦いに敗れ丸都城が再び失陥した。高句麗王釗(しょう、故国原王。在位:331年-371年)は翌年、前燕に臣下の礼を取り王弟を入朝させることによって難局を乗り切ったが、高句麗は大きな打撃を受けた。350年代には前燕に人質を入れて戦争中に捕らわれていた王母を取りもどし、征東大将軍・営州刺史・楽浪公として冊封された。この頃、朝鮮半島中央部で新たに馬韓諸国が統合して形成されていた百済の近肖古王によって旧帯方地域が奪われた。故国原王は369年に百済攻撃に乗り出したが敗退し、371年にも大同江を越えて再び百済を攻撃したがこれにも敗れ、逆に平壌を攻撃した百済軍との戦いで流れ矢にあたり戦死した。", "qas": [ { "question": "342年に大軍を連れて高句麗を襲ってきたのは、誰なの?", "id": "tr-099-11-000", "answers": [ { "text": "慕容皝", "answer_start": 122, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "百済の近肖古王は、高句麗のどの地域を攻撃しましたか?", "id": "tr-099-11-001", "answers": [ { "text": "旧帯方地域", "answer_start": 365, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "馬韓諸国が統合して誕生した国は、どの国か?", "id": "tr-099-11-002", "answers": [ { "text": "百済", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "故国原王が死去したのは、何年か?", "id": "tr-099-11-003", "answers": [ { "text": "371年", "answer_start": 401, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "国王戦死によって高句麗は混乱し、跡を継いだ小獣林王(在位:371年-384年)と故国壌王(在位:384年-391年)の兄弟は国制の立て直しに邁進しなければならなかった。小獣林王は前燕を滅ぼした前秦との関係強化に努めた。372年に秦王苻堅(在位:357年-385年)から僧順道や仏典・仏像が贈られ、375年には寺院が建立された。これが高句麗への仏教公伝である。また同じ年には教育機関として太学(大学)が設けられ、具体的な内容は伝わらないものの律令が制定されたという。更に故国壌王時代には国社・宗廟、礼制の整備が行われた。こうした積極的な国内政策を通じて国力の回復が図られた。", "qas": [ { "question": "小獣林王の跡を継いだのは、誰なの?", "id": "tr-099-12-000", "answers": [ { "text": "故国壌王", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "小獣林王は、どの国との関係を深めたとの業績を残しましたか?", "id": "tr-099-12-001", "answers": [ { "text": "前秦", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高句麗が仏教を受け入れたのは、誰の時代のことか?", "id": "tr-099-12-002", "answers": [ { "text": "小獣林王", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書では、小獣林王とどの王の時代における高句麗の動向について説明しているか?", "id": "tr-099-12-003", "answers": [ { "text": "故国壌王", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "391年に即位した広開土王(好太王、在位:391年-412年)はいわゆる広開土王碑を残したことで名高い。この碑文は彼の死後にその功績を称揚する目的で建立されたものであり、4世紀末から5世紀初頭における東アジア史の重要史料となっている。彼の諡号である広開土王(広く領土を開いた王)の名は彼が各方面で大きな戦果を挙げ領土を拡大した事に因んでいる。彼は395年には北西の稗麗(契丹の部族)を撃破し、翌396年には朝鮮半島中部の百済へ親征してその王都漢城に迫った。これによって百済王を臣従させ58城邑の700村を奪取した。398年には東北の粛慎を攻撃して朝貢させ、また誓約を破って倭と和通した百済を再度攻撃するため平壌まで進軍した。そこで倭の攻撃を受けていた新羅が救援を求めてきたため、400年に新羅領へ出兵しその王都を制圧していた倭軍を駆逐した。更に敗走する倭軍を追って朝鮮半島南端部にあたる任那加羅まで進み、倭人と共にいた安羅兵も討ったという。404年には倭が海路で帯方地方に侵入したがこれも撃退した。407年にも百済へ侵攻して6城を奪い、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った。このような征服活動についての記録は前述の通り主に広開土王碑文の情報に基づいている。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、重要性の高い同時代史料として現代では高く評価される傾向にある。", "qas": [ { "question": "広開土王が即位したのは、何年のこと?", "id": "tr-099-13-000", "answers": [ { "text": "391年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "広開土王の功績が記録されている碑文は、いつからいつまでの東アジア史における重要史料とされますか?", "id": "tr-099-13-001", "answers": [ { "text": "4世紀末から5世紀初頭", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "新羅からの救援要請に伴い、400年に高句麗が新羅の領土から追い出したのは、どの国の軍か?", "id": "tr-099-13-002", "answers": [ { "text": "倭", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "広開土王の時代の高句麗は、倭とどの国の間で形成された勢力の駆逐に力を入れたか?", "id": "tr-099-13-003", "answers": [ { "text": "百済", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "マラッカ海峡", "paragraphs": [ { "context": "マラッカ海峡(マラッカかいきょう、英語:StraitofMalacca、マレー語:SelatMelaka)は、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡。\n南東端で接続しているシンガポール海峡とあわせて太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝となっている。\n2005年における年間の通過船舶数は9万隻を超えており、タンカー、コンテナ船などの経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行き交っている。\nそのことからオイルロードと呼ばれることもある。\n経済的・戦略的にみて、世界のシーレーンの中でもスエズ運河、パナマ運河、ホルムズ海峡にならび重要な航路の一つである。", "qas": [ { "question": "オイルロードとはどこを指しているの?", "id": "tr-100-00-000", "answers": [ { "text": "マラッカ海峡", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マラッカ海峡が南東端で繋がっている海峡はどこですか?", "id": "tr-100-00-001", "answers": [ { "text": "シンガポール海峡", "answer_start": 92, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "全長は約900キロメートル、幅は65キロメートルないし70キロメートル(北西側の海峡入口付近では約250キロメートルに広がる)ほどの北西方向から南東方向へとつながる細長い海峡であり、スンダ陸棚上にあるために平均水深は約25メートルと浅く、岩礁や小さな島、浅瀬が多い。\nこのため、大型船舶の可航幅がわずか数キロメートルの箇所もある。\n世界で最も船舶航行の多い海域の一つであり、太平洋の付属海である南シナ海とインド洋の一部であるアンダマン海を最短距離で結ぶ主要航路となっている。\n通過する貨物で最も多いのは、中東産の石油および石油製品である。\nしかし、シンガポール付近のフィリップス水路(PhillipsChannel)は幅が2.8キロメートルと非常に狭く、水深も23メートルしかないため、世界の航路のなかでも有数のボトルネックとなっている。\nこの海峡を通過できる船の最大のサイズはマラッカマックス(Malaccamax)と呼ばれており、大型タンカーの巨大化を制限する要因の一つとなっている。", "qas": [ { "question": "マラッカ海峡の全長はどれくらいの距離ですか?", "id": "tr-100-01-000", "answers": [ { "text": "約900キロメートル", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ケッペンの気候区分では、海域と両岸のほぼ全域が熱帯雨林気候(Af)に属する。\n海流は年間を通して南東から北西へ向かって流れる。\n通常は波が穏やかであるが、北東季節風が発達する季節には海流が速度を増す。\nマラッカ海峡に流れ出すおもな河川にはスマトラ島のカンパル川、アサハン川がある。", "qas": [ { "question": "マラッカ海峡の気候区分は何?", "id": "tr-100-02-000", "answers": [ { "text": "熱帯雨林気候", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "沿岸国は、インドネシア共和国、マレーシアおよびシンガポール共和国であり、タイ王国を沿岸国に含める場合もある。\n海運業界では、この海峡付近を「海峡地」と一括して呼称することがあり、主な貿易港にマレー半島側のペナン(ジョージタウン、ペナン州)、ムラカ(英名マラッカ、ムラカ州)、ポートケラン(旧名ポートスウェッテナム、セランゴール州)、シンガポール、スマトラ島側にドゥマイ(リアウ州)などがあり、現代における最大の港湾都市はシンガポールである。", "qas": [ { "question": "海峡付近での最大の港湾都市はどこ?", "id": "tr-100-03-000", "answers": [ { "text": "シンガポール", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "海峡の両岸では、天然ゴムの栽培がさかんであり、世界的な産地となっている。\n海峡に臨むマレー半島側の主要都市として、上述の諸都市のほかペナン島のジョージタウン、ペラ州のタイピンなどがあり、インドネシア側にはスマトラ島最大の都市メダン(北スマトラ州)のほか、ドゥマイ、アチェ州のランサ、北スマトラ州のタンジュンバライなどの諸都市がある。\nまた、マラッカ海峡を臨むタイのプーケット島、マレーシアのペナン島は世界的なリゾート地として知られる。", "qas": [ { "question": "海峡の両岸で盛んに栽培されている天然資源とは何ですか?", "id": "tr-100-04-000", "answers": [ { "text": "天然ゴム", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マラッカ海峡に面するタイのリゾート地とはどこ?", "id": "tr-100-04-001", "answers": [ { "text": "プーケット島", "answer_start": 182, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マラッカ海峡に面するマレーシアのリゾート地とはどこ?", "id": "tr-100-04-002", "answers": [ { "text": "ペナン島", "answer_start": 195, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "西暦166年の「大秦王安敦の使者」や4世紀末から5世紀初頭にかけての東晋(中国南北朝時代)の法顕、7世紀後半の義浄、14世紀のイブン・バットゥータ、15世紀の明の鄭和の大遠征など、いずれもこの海峡を利用した。\nまた、13世紀末の『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロもこの海峡を利用し、風待ちのためスマトラ北端のペルラクに5ヶ月間滞在している。", "qas": [ { "question": "イブン・バットゥータ、鄭和、義浄の中で、最も先にこの海峡を利用した人は誰?", "id": "tr-100-05-000", "answers": [ { "text": "義浄", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イブン・バットゥータ、鄭和、マルコ・ポーロ、義浄の中で、2番目に早くこの海峡を利用した人は誰?", "id": "tr-100-05-001", "answers": [ { "text": "マルコ・ポーロ", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ユーラシア大陸の東西をむすぶ「インド洋ネットワーク」は、当初マレー半島をクラ地峡で横断するルートが主流であったため、東南アジアの物産は扶南やチャンパ王国を最大の集散地としたが、その後、7世紀から8世紀にかけてムスリム商人が来航するようになると、マラッカ海峡を経由するルートに変わった。\n西アジアの船は広州や泉州など中国南部に訪れ、これらの港町にはアラブ人やペルシャ人の居留地があったという。", "qas": [ { "question": "マラッカ海峡経由のルートが主流となった背景に、関係していた人々とは誰?", "id": "tr-100-06-000", "answers": [ { "text": "ムスリム商人", "answer_start": 104, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうして、マラッカ海峡は太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要路となり、海峡沿岸に興った国家のなかには海峡の両側を領域支配することによって貿易を通じて富強をはかる勢力も、歴史上何度か現れた。\n7世紀にスマトラ島南部に興った港市国家、シュリーヴィジャヤ王国もそのひとつである。\n唐の義浄は、インドへの留学の前に5ヶ月、留学を終えてインドからの帰途には10年もの間シュリーヴィジャヤに滞留し、サンスクリット語の仏典の筆写と漢訳を行った。\n帰国後に彼が著した『南海寄帰内法伝』には、シュリーヴィジャヤには1,000人余りの仏僧がいて、仏教学のレベルもインドのそれに劣らないと記している。\n義浄は復路、クダ(マレーシア・クダ州)からシュリーヴィジャヤの首都に入ったが、首都は現在のパレンバン(インドネシア・南スマトラ州)の辺りにあった。", "qas": [ { "question": "義浄がシュリーヴィジャヤにより長く滞在したのは、インドへの留学の前と留学を終えてインドからの帰途のどちらでしたか?", "id": "tr-100-07-000", "answers": [ { "text": "留学を終えてインドからの帰途", "answer_start": 156, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『南海奇帰内法伝』の著者は誰?", "id": "tr-100-07-001", "answers": [ { "text": "義浄", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "義浄の留学先はどこでしたか?", "id": "tr-100-07-002", "answers": [ { "text": "インド", "answer_start": 142, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "シュリーヴィジャヤは、一時、ジャワ島を本拠とするシャイレーンドラ朝の勢力におされて衰退したが、政争に敗れて亡命したシャイレーンドラ王家のパーラプトラを王として迎え、勢力を盛り返した。\n唐が衰えると、陸上の「オアシスの道」「草原の道」の通行は決して安全なものとはいえなくなったが、そのことは逆に「海の道」への依存を飛躍的に増大させることとなり、シュリーヴィジャヤの隆盛に拍車をかけることとなった。\n五代十国を経て宋建国に至る10世紀の前半から中葉にかけては、イブヌル・ファキーフやアブー・ザイドなどアラブ人の書いた旅行記にはシュリーヴィジャヤの繁栄が記され、そこでは「ザーパク」と呼称されている。", "qas": [ { "question": "イブヌル・ファキーフが書いた旅行記では、シュリーヴィジャヤのことを何と記していましたか?", "id": "tr-100-08-000", "answers": [ { "text": "「ザーパク」", "answer_start": 282, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アブー・ザイドが書いた旅行記には、シュリーヴィジャヤは何と表記されていましたか?", "id": "tr-100-08-001", "answers": [ { "text": "「ザーパク」", "answer_start": 282, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「草原の道」に替わって通行の依存度が増したのは何でしたか?", "id": "tr-100-08-002", "answers": [ { "text": "「海の道」", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、宋代には中国人もさかんに南海貿易に進出するようになり、周去非『嶺外代答』や趙汝适『諸蕃志』などのすぐれた書籍も現れた。\nこれらによれば、東はジャワ島、西はアラビア半島や南インドなどの各地から来航する船舶でこの海峡を利用しない船はなく、もし、入港しないで通過しようとする商船があれば、シュリーヴィジャヤの王国は水軍を出して攻撃を加えたこと、またパレンバンの港には鉄鎖があり、海賊の来航には鎖を閉じ、商船の来航にはこれを開いて迎えたことなどを記している。\nシュリーヴィジャヤは、10世紀から11世紀にかけてジャワに本拠を置くクディリ王国やインド南部のチョーラ朝の攻撃を受けたが、これは、王国がマラッカ海峡の貿易を独占し、それによる富を集積していたためであった。\n14世紀には、ジャワ島に本拠を置くヒンドゥー教国、マジャパヒト王国からの征服を受けている。\nマジャパヒト王国は14世紀にガジャ・マダが現れて、一時、マレー半島からスマトラ・ジャワの両島、さらにカリマンタン島の南岸を支配する広大な海洋帝国を建設した。", "qas": [ { "question": "『嶺外代答』の著者は誰?", "id": "tr-100-09-000", "answers": [ { "text": "周去非", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『諸蕃志』の著者は誰?", "id": "tr-100-09-001", "answers": [ { "text": "趙汝适", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マジャパヒト王国とクディリ王国はどちらが先にジャワ島を本拠地としましたか?", "id": "tr-100-09-002", "answers": [ { "text": "クディリ王国", "answer_start": 263, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "広大な海洋帝国を建設した人は誰?", "id": "tr-100-09-003", "answers": [ { "text": "ガジャ・マダ", "answer_start": 392, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その一方で、13世紀以降、スマトラ島北部やマレー半島の住民のムスリム化が進行している。\n13世紀末に当地に滞留したマルコ・ポーロは、北スマトラの人々がさかんにイスラーム教に改宗していることを『東方見聞録』のなかに書き残している。\nアラブ人の来航やイスラーム教の伝来から数世紀経過した13世紀という時期にムスリム化が急速に進展した理由として、インドでの目覚ましいイスラーム化の進展がみられたのがやはり13世紀であり、インド文化の影響の受けやすい東南アジアへはインド系のムスリム商人がもたらしたと考えられること、また、この時代にさかんだったのはイスラームのなかでも布教に熱心だった神秘主義教団スーフィーだったことなどが挙げられる。\nそして、14世紀末から15世紀初頭にかけてムスリム政権としてマレー半島北西部にマラッカ王国が成立し、シュリーヴィジャヤとマジャパヒトの両勢力を抑えてマラッカ海峡の両岸を支配し、海洋国家を築いたのである。", "qas": [ { "question": "北スマトラの人々のイスラーム教への改宗について記されている書物とは何?", "id": "tr-100-10-000", "answers": [ { "text": "『東方見聞録』", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "13世紀にイスラームの中で隆盛を極めていたものとは何?", "id": "tr-100-10-001", "answers": [ { "text": "スーフィー", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "帆船の時代にあっては、古代エジプト、古代ローマ、アラビア、アフリカ、トルコ、ペルシャ、インドなど、海峡西方の諸国からの物資を運んできた貿易船は、現在のマレーシア西海岸のクダの港やムラカ(マラッカ)を利用した。\n古代にあっては、夏季(6月-11月)に吹くモンスーン(貿易風)に乗って西からの貿易船がクダなどに着き、冬季(12月-3月)に反対方向の風を用いて帰航するというケースが一般的であった。\n6世紀ころ著名な港湾として繁栄していたクダには、はしけ、人足、ゾウ、税関などが整備されており、ここに着いた荷物は一旦陸揚げされて、マレー半島東海岸のクランタン州周辺まで陸上輸送され、中国などの東方へ輸出する場合はさらにクランタンなどの港から荷物を積み出していた。", "qas": [ { "question": "古代の貿易船が利用していた風の通称は何ですか?", "id": "tr-100-11-000", "answers": [ { "text": "モンスーン", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "12世紀から13世紀にかけて、東南アジアでは中国とインド・西アジア間の中継貿易のための港市が発達する。\nこれは、モンスーン(季節風)の関係で、インド洋海域と東アジア地域との間を往復するには2年の歳月を必要としたが、東南アジアの港市との間を往復するだけであれば、その半分以下の時間しか掛からなかったからである。", "qas": [ { "question": "東南アジアでは、どのような貿易形態が盛んになったために、港市が発達したの?", "id": "tr-100-12-000", "answers": [ { "text": "中継貿易", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "15世紀における海峡最大の貿易港はムラカ(マラッカ)であり、中継貿易で繁栄した港市国家マラッカ王国の主要港としてにぎわった。\nムラカの港務長官は4人おり、第一長官はインド西海岸のグジャラート州、第二長官は南インド、ベンガル州およびビルマ(ミャンマー)、第三長官は東南アジアの島嶼部、第四長官は中国(明)、琉球王国、チャンパーをそれぞれ担当地域とした。\nムラカは、商人や船員、通訳、港湾労働者、人や物流を管理する吏員、船乗りや商人の相手をする遊女などでにぎわった。", "qas": [ { "question": "15世紀に海峡で最も規模の大きい貿易港はどこだったの?", "id": "tr-100-13-000", "answers": [ { "text": "ムラカ", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "琉球王国を担当地域にもっていたのは誰ですか?", "id": "tr-100-13-001", "answers": [ { "text": "第四長官", "answer_start": 141, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "16世紀初頭、ポルトガル人トメ・ピレスの『東方諸国記』によれば、ムラカの港市には、カイロ・メッカ・アデンのムスリム、アビシニア人(エチオピア人)、キルワやマリンディなどアフリカ大陸東岸の人びと、ペルシャ湾沿岸のホルムズの人、ペルシャ人、ルーム人(ギリシャ人)などを列挙したうえで、「62の国からの商人が集まり、84もの言葉が話されている」と記している。\nこうした繁栄を知ったポルトガル人は1511年、16隻の軍艦でこの町を攻撃、占領してポルトガル海上帝国の主要拠点のひとつとした。\n1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を「発見」してから15年足らずのことであった。", "qas": [ { "question": "『東方諸国記』の著者は誰?", "id": "tr-100-14-000", "answers": [ { "text": "トメ・ピレス", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムラカの港市を攻撃し、占領したのはどこの国人々でしたか?", "id": "tr-100-14-001", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 187, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インド航路を見つけた人は誰?", "id": "tr-100-14-002", "answers": [ { "text": "ヴァスコ・ダ・ガマ", "answer_start": 247, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その後、マラッカ海峡の両岸は、ポルトガルとスマトラ島北端部のアチェ王国、マレー半島南部とリアウ諸島に基盤を置くジョホール王国の三者が合従連衡を繰り返してマラッカ海峡の交易の利を独占しようとし(「三角戦争」)、17世紀前半にはアチェ王国が優位に立ってアチェ全盛時代を築いたが、最終的には、新規参入者であったオランダとマラッカ王国の末裔であったジョホール王国とが連合し、1641年にポルトガル勢力を駆逐し、ムラカはオランダの占領するところとなった。\nしかし、ムラカ(マラッカ)は貿易港としては衰退し、17世紀後半には海上民を統制し。\nオランダ・アチェとも良好な関係を構築したジョホール王国がジャンビ王国と抗争しながらも全盛期をむかえ、東西交易の中継として繁栄した。", "qas": [ { "question": "三角戦争の初期から参加していた欧州の国とはどこ?", "id": "tr-100-15-000", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三角戦争の末、優位に立った国はどこ?", "id": "tr-100-15-001", "answers": [ { "text": "アチェ王国", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三角戦争に新規加入した欧州の国はどこ?", "id": "tr-100-15-002", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 152, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "先に三角戦争に参加していたのはポルトガルとオランダのどちら?", "id": "tr-100-15-003", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "海峡地帯にはマレー人はじめスマトラ内陸部ミナンカバウ人やスラウェシ島南部のブギス人など東南アジア各地の諸民族、中国人、インド人、アラビア人、ペルシア人、ヨーロッパ人、日本人など数多くの人種・民族が住んだ。\nムラカはその後、19世紀初頭のナポレオン戦争の際にはイギリスによって占領された。\nムラカはいったんオランダに返還されたが、1824年、イギリスはオランダとのあいだに英蘭協約を結んで、マレー半島側をイギリスの勢力圏、スマトラ島側をオランダの勢力圏とした。\n1869年のスエズ運河の開通後は、それまでスマトラ島・ジャワ島間のスンダ海峡を利用していた船舶も、その多くがマラッカ海峡を利用するようになり、いっそう重要性を増した。\nまた、特にマレー半島側の鉱業・農業における大規模開発を促し、ペナン、シンガポールの両港の発展がもたらされた。", "qas": [ { "question": "ナポレオン戦争の際にムラカを占領した国とはどこ?", "id": "tr-100-16-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マレー半島側は、どこの国の勢力圏とされたの?", "id": "tr-100-16-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 170, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スマトラ島側は、どこの国の勢力圏とされたの?", "id": "tr-100-16-002", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 152, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その一方で、オランダ東インド政庁は1871年のスマトラ条約によってイギリスの干渉を排除し、1873年、海峡の安全確保を名目にアチェ王国の保護領化を企図して王国への侵攻を開始した。\nこれがアチェ戦争であるが、アチェの人々の頑強な抵抗により、オランダ軍がスマトラ全土を制圧したのは1912年を待たなければならなかった。\nこれにより現在のインドネシア全域がオランダの植民地となった。\nいっぽう、現在のマレーシアに相当する英領マレー連合州が成立したのは1896年のことである。", "qas": [ { "question": "アチェ戦争は何年に始まった?", "id": "tr-100-17-000", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第二次世界大戦時にイギリス軍が日本軍に放逐され、終戦に至るまで日本軍の占領下におかれた。\n終戦後にイギリスやオランダの国力が低下したことを受け、インドネシアはオランダ領、マレー連合州はマラヤ連合(のちマレーシア連邦、現在のマレーシア)としてイギリス領からそれぞれ独立した。\n海峡沿岸国の領海は3海里から12海里に拡大され、かつて公海として自由な航行に供されてきた海峡も現在は領海化されている。\nマラッカ海峡は、1994年に発効した国連海洋法条約における「国際海峡」に該当するとされており、外国の艦船や航空機は、国際法上の取り決めと沿岸国の法令にしたがうことを条件として、海峡通過のための通航権が認められ、沿岸諸国は現在、航路帯および分離通航帯を設定し、通航船舶にその遵守を求めている。", "qas": [ { "question": "海峡沿岸国の領海は元々何海里でしたか?", "id": "tr-100-18-000", "answers": [ { "text": "3海里", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "国連海洋法条約は何年に発効されたの?", "id": "tr-100-18-001", "answers": [ { "text": "1994年", "answer_start": 205, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "長狭なマラッカ海峡の中でもワン・ファザム堆からシンガポール海峡までの約400キロメートルは特に狭い上に浅瀬が多く、大型船は特に航行に困難をともなう。\n海賊多発地域としても知られ、気象の変化が著しいことから突然襲うスコールが視界を妨げることも多い。\nまた、くびれた地勢を示すマラッカ海峡では、潮汐により強い潮流が発生し、さらに、この強い潮流が「サンドウェーブ」と呼ばれる波紋状の砂州を形成するため、水深が頻繁に変化する危険がある。\n南シナ海域で多くみられる北東季節風が発達する季節には、東方向からの強い海流も加わり、この海峡で航行の安全を保持し続けることは必ずしも容易なことではない。", "qas": [ { "question": "ワン・ファザム堆からシンガポール海峡までの距離はどれくらいありますか?", "id": "tr-100-19-000", "answers": [ { "text": "約400キロメートル", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マラッカ海峡に多く出没する犯罪集団の通称は何ですか?", "id": "tr-100-19-001", "answers": [ { "text": "海賊", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "近代以降、マラッカ海峡は東アジアと中東・ヨーロッパなどを行き交う各国船舶にとって死活的に重要な航路となっているが、近年、海峡を利用する商船に対する海賊行為が横行している。\n1994年に25件だった船舶襲撃は、2000年には220件に激増し、2003年には150件以上、2005年でも世界全体の約37パーセントにあたる102件の海賊事件が発生した。", "qas": [ { "question": "海賊による船舶襲撃の件数が多かった年は1994年と2000年のどちらですか?", "id": "tr-100-20-000", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "海賊による船舶襲撃の件数が多かった年は2000年と2005年のどちらですか?", "id": "tr-100-20-001", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2005年(平成17年)3月14日、現地で日本籍のタグボート「韋駄天」が襲撃され、日本人船長と機関長、フィリピン人船員3名を連れ去り、拉致事件が発生した(同3月21日に解放)。\nまた、1999年(平成11年)にも同様に日本の船が海賊に襲われるという事件が起こっている。\n船に対する危険は海賊だけでなく、浅瀬などでの難破もある。\n海峡内には1880年代以来の難破して沈んだ船が少なくとも34隻あるとみられており、航路の障害となっている。", "qas": [ { "question": "2005年3月に起きた海賊による拉致事件の際に、襲撃されたボートの名前は何でしたか?", "id": "tr-100-21-000", "answers": [ { "text": "「韋駄天」", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、スマトラ島では生活における失火や焼畑農業を原因として森林火災が毎年のように発生し、立ち上る煙はヘイズと呼ばれマラッカ海峡を越えてマレーシアにまで達している。\n濃い煙が流れてくると、海上はわずか200メートルほど先しか見えなくなり、船は速度を落として運航せざるを得ない状況にある。", "qas": [ { "question": "スマトラ島で毎年のように発生している災害とは何?", "id": "tr-100-22-000", "answers": [ { "text": "森林火災", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1960年代以降、中東-東アジア間の大型タンカーの航行量が増大した。\nしかし、当海域は航行支援設備が不足し、海図の整備も不十分だったため、しばしば座礁事故が発生した。\nそのため、沿岸各国と日本が協力して、1960年代後半より航行支援設備や海図の整備を行っており、この協力関係は現在も継続中である。\nまた、座礁事故防止のため、マラッカ海峡では船底と海底のあいだを一定の距離に保つUKC方式(UnderKeepingClearance)が採用されている。", "qas": [ { "question": "座礁防止のためにマラッカ海峡で採用されている方式とは何?", "id": "tr-100-23-000", "answers": [ { "text": "UKC方式", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2005年12月、日本とインドネシア、マレーシア、シンガポールの国際協力により、マラッカ海峡とシンガポール海峡の電子海図が完成した。\n2006年には、日本はインドネシアに対し政府開発援助の一環として円借款を行い、海難事故や海賊対策のため沿岸無線局を33局、船舶自動識別装置を備えた無線局を4局設置した。\n同年には無償資金協力として19億2100万円を供与し、巡視船3艇を供与してインドネシアの巡視船艇建造計画を支援した。\nなお、現在、日本財団が中心となり、利用者が安全確保のための費用負担を分担するための基金の設立を提案している。", "qas": [ { "question": "日本が無償資金協力として19億2100万円を供与したのは何年でしたか?", "id": "tr-100-24-000", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "彗星", "paragraphs": [ { "context": "彗星は、尾が伸びた姿から日本語では箒星(ほうきぼし、彗星、帚星)とも呼ばれる。英語ではコメット(comet)と呼ばれる。天体写真が似るため流星と混同されがちであるが、天体観望における見かけの移動速度は大きく異なり、肉眼による彗星の見かけ移動は日周運動にほぼ等しいため、流星と違い尾を引いたまま天空に留まって見える。彗星と小惑星とは、コマや尾の有無で形態的に区別するため、太陽から遠方にあるうちは、彗星は小惑星と区別が付かない。彗星は、太陽からおおよそ3AU(天文単位)以内の距離に近づいてから、コマや尾が観測されることが多い。その位置は火星軌道と木星軌道のほぼ中間に当たる。太陽に近づく周期(公転周期)は、約3年から数百万年以上まで大きな幅があり、中には2度と近づかないものもある。軌道による分類の節を参照のこと。", "qas": [ { "question": "彗星と小惑星が太陽から遠方にあるうちに区分しにくいのは、何の識別が難しいからか?", "id": "tr-101-00-000", "answers": [ { "text": "コマや尾の有無", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "彗星とよく混同されるのは、何?", "id": "tr-101-00-001", "answers": [ { "text": "流星", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "彗星を流星や小惑星と区分する主な基準となる部分は、どこか?", "id": "tr-101-00-002", "answers": [ { "text": "尾", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "彗星の大きな特徴となるのは、何か?", "id": "tr-101-00-003", "answers": [ { "text": "尾", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "彗星が太陽に近づいた時に放出された塵は流星の元となる塵の供給源となっている。彗星の中には肉眼でもはっきり見えるほど明るくなるものもあり、不吉なことの前兆と考えられるなど、古くから人類の関心の的となってきた。いくつかの明るい彗星の出現の記録は、古文献などに残っている。古代ギリシアの時代から長い間、彗星は大気圏内の現象だと考えられてきたが、16世紀になって、宇宙空間にあることが証明された。彗星の性質などには未だに不明な点も多く、また近年は太陽系生成論の方面からも大きな関心が寄せられ、彗星の核に探査機が送り込まれるなど、研究・観測が活発に続けられている。彗星には、発見報告順に最大3人まで発見者(個人またはチーム、プロジェクト)の名前が付けられる。彗星を熱心に捜索する「コメットハンター」と呼ばれる天文家もいるが、20世紀末以降は多くの彗星が自動捜索プロジェクトによって発見されるようになっている。2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合(IAU)総会での決議により、彗星は小惑星とともにsmallsolarsystembodies(SSSB)のカテゴリーに包括することが決定された。これを受け、日本学術会議は2007年4月9日の対外報告(第一報告)において、2007年現在使われている「彗星」「小惑星」等の用語との関係については将来的に整理されることを前提とした上で、smallsolarsystembodiesの訳語として「太陽系小天体」の使用を推奨した。", "qas": [ { "question": "流星は何からの塵で形成されるの?", "id": "tr-101-01-000", "answers": [ { "text": "彗星", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "彗星が大気圏内の現象だと考えられたのは、何世紀になる前までのことですか?", "id": "tr-101-01-001", "answers": [ { "text": "16世紀", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "彗星に対する研究・観測が活発に続けられているのは、どの時代の考えが間違っていたという証明がなされたからか?", "id": "tr-101-01-002", "answers": [ { "text": "古代ギリシア", "answer_start": 133, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2006年8月にプラハで開かれた総会では、彗星と小惑星をあるカテゴリーに分類すると決定したが、そのカテゴリーを日本語では何と言うか?", "id": "tr-101-01-003", "answers": [ { "text": "太陽系小天体", "answer_start": 617, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "彗星の本体は核と呼ばれる。核は純粋な氷ではなく、岩石質および有機質の塵を含んでいる。このことから、彗星の核はよく「汚れた雪玉」に喩えられる。核の標準的な直径は1-10km程度で、小さく暗いものでは数十m、非常に大きいものでは稀に50kmほどに達する。質量は、大きさによってかなり異なってくるが、直径1km程度の彗星で数十億トン単位、10km程度の彗星で数兆トン単位であると考えられる。これは、地球の山1つ分ほどに相当する。自らの重力で球形になるには質量が足りないため、彗星の核は不規則な形をしている。氷の構成成分を分子数で見ると、たとえばハレー彗星の場合、80%近くは水(H2O)で、以下量の多い順に一酸化炭素(CO)、二酸化炭素(CO2)、アンモニア(NH3)、メタン(CH4)と続き、微量成分としてメタノール(CH3OH)、シアン化水素(HCN)、ホルムアルデヒド(CH2O)、エタノール(C2H5OH)、エタン(C2H6)などが含まれる。さらに鎖の長い炭化水素やアミノ酸などのより複雑な分子が含まれる可能性もある。双眼鏡や望遠鏡で見た時に青緑色に見えるのは、これらの微量成分が太陽光で解離してできるC2(炭素が2つ繋がったもの)やCNなどのラジカルの輝線スペクトルが強いためである。2009年には、NASAの探査機スターダストによるミッションで回収された彗星の塵から、アミノ酸のグリシンが発見されたことが確認された。", "qas": [ { "question": "彗星の本体は何によく喩えられるの?", "id": "tr-101-02-000", "answers": [ { "text": "汚れた雪玉", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハレー彗星の氷の構成成分を分子数で見たとき、水の次に量が多いのは何ですか?", "id": "tr-101-02-001", "answers": [ { "text": "一酸化炭素", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical 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"tr-101-03-000", "answers": [ { "text": "ジオット", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "各探査によると、ハレー彗星とボレリー彗星とうち、どの彗星のアルベドがより高かったか?", "id": "tr-101-03-001", "answers": [ { "text": "ハレー彗星", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "彗星が黒いのは、ある性質を持った化合物が高温の影響を受けるからであるが、その性質とは何か?", "id": "tr-101-03-002", "answers": [ { "text": "揮発性", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "探査機ジオットはハレー彗星に、探査機ディープ・スペース1号はボレリー彗星に接近して観測を行ったが、それは何を測るためだったの?", "id": "tr-101-03-003", "answers": [ { "text": "アルベド", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "太陽から遠い所では、低温のため核は全て凍りついており、地球上から見てもただの恒星状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。それに伴って発生したガスや塵は、非常に大きく、極めて希薄な大気となって核の周りを球状に覆う。これはコマと呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。コマの最外層は水素のガス雲となっており、水素コロナと呼ばれる。そして、太陽からの放射圧と太陽風により、太陽と反対側の方向に尾が形成される。尾には、ダストテイル(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、イオンテイル(イオンの尾)またはプラズマテイルという、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる。これには、核から放出された塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けていたりするためなどの理由がある。2007年のマックノート彗星や歴史上の大彗星のいくつかでは、何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えた。これに対し、イオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、尾の一部が見かけ上太陽の方向に伸びているように見えることがあり、アンチテイルと呼ばれる(アラン・ローラン彗星(C/1956R1)のアンチテイルは殊に有名である)。実際には太陽に向かって尾が伸びているわけではなく、あくまでも視覚上の錯覚である。アンチテイルの観測は太陽風の発見に大きく貢献した。", "qas": [ { "question": "彗星にコマや尾が形成されるか、されないかを決定する条件とは、何からの遠近であるか?", "id": "tr-101-04-000", "answers": [ { "text": "太陽", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "彗星の尾の種類の中、曲線状となるものは塵と何によって構成されているのか?", "id": "tr-101-04-001", "answers": [ { "text": "金属", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "彗星の尾が基本的に太陽の反対側に形成されるとされているのは、放射圧と何の影響でありますか?", "id": "tr-101-04-002", "answers": [ { "text": "太陽風", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンチテイルは地球が彗星の何を通過するときに見られるの?", "id": "tr-101-04-003", "answers": [ { "text": "軌道面", "answer_start": 663, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "コマや尾は、核に比べて非常に規模が大きくなる。コマは水素コロナを含めると、時には太陽(直径約139万km)よりも大きくなることがある。また、尾も1天文単位以上の長さになることがある。1996年春に明るくなり、観測史上最も尾が長く伸びた百武彗星では、尾の実長は実に3.8天文単位(5億7000万km)にも達した。コマと尾はどちらも太陽に照らされ、太陽系の内側に入り込んでくると地球から肉眼で見えるようになることもある。塵は太陽の光を直接反射し、ガスはイオン化されるため明るく輝く。ほとんどの彗星は暗すぎて望遠鏡が無ければ見ることができないが、10年に数個ほどは、肉眼でも充分見えるほどに明るくなる。1996年、百武彗星の観測から彗星がX線を放射していることが発見された。彗星がX線を放射していることはそれまで予測されていなかったため、この発見は研究者たちを驚かせた。このX線は彗星と太陽風との相互作用により生じると考えられている。イオンが急速に彗星の大気に突入すると、イオンと彗星の原子や分子が衝突する。この衝突により、イオンは1つか複数の電子を捕獲し、それがX線や遠紫外線の光子の放出に繋がると考えられている。", "qas": [ { "question": "彗星がX線を放射するのは、何からの影響を受けるからか?", "id": "tr-101-05-000", "answers": [ { "text": "太陽風", "answer_start": 390, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "観測史上最も尾が長く伸びた彗星の観測により分かったのは、彗星が何を放射するということか?", "id": "tr-101-05-001", "answers": [ { "text": "X線", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ほとんどの彗星が望遠鏡が無ければ見ることができないのは、なぜか?", "id": "tr-101-05-002", "answers": [ { "text": "暗すぎて", "answer_start": 247, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ほとんどの彗星を見るためには、何が必要であるか?", "id": "tr-101-05-003", "answers": [ { "text": "望遠鏡", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "彗星は、太陽を焦点の一つとする楕円、放物線あるいは双曲線の軌道をとり、軌道によって分類される。離心率が1より小さい楕円軌道を持つ彗星は、太陽を周期的に周回するもので、周期彗星と呼ばれる。周期彗星が太陽の近くへ戻ってくることを、「回帰」という。離心率が1である放物線軌道、あるいは離心率が1より大きい双曲線軌道を持つ彗星は、二度と戻って来ないと考えられ、非周期彗星と呼ばれる。ただ、惑星や近傍恒星の重力や、非重力効果により、実際の彗星の軌道は不安定である。特に、周期数百年以上の彗星の楕円軌道は、わずかな軌道の変化で周期が大きく変わるので、周期どおりに戻ってくるとは限らない。また、後述する通り、起源や特性からも、周期の長い周期彗星は非周期彗星に近い。このような理由により、彗星を、周期彗星と非周期彗星ではなく、公転周期200年未満の短周期彗星と、200年以上の長周期彗星に分けることが多い。その場合、「周期彗星」という言葉は、短周期彗星と長周期彗星の両方を指す場合もあるが、特に短周期彗星のみを指して用いられる場合もある。周期彗星、長周期彗星、非周期彗星の3つに分けることもある。21世紀初頭では別の種類として、小惑星帯上にありながら彗星として活動する彗星が発見されており、メインベルト彗星と呼ばれている。これは小惑星と彗星の分類に見直しを迫ることになるかもしれない。他にも、特徴的な軌道を持つ彗星として、近日点が太陽に極めて近いサングレーザーがある(後述)。", "qas": [ { "question": "周期彗星か、非周期彗星かを決める尺度となるのは、何か?", "id": "tr-101-06-000", "answers": [ { "text": "離心率", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "短周期彗星、長周期彗星と分ける基準となる公転周期年数は、いくつなの?", "id": "tr-101-06-001", "answers": [ { "text": "200年", "answer_start": 359, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "離心率が1より小さい彗星が、太陽に再び近づいてくることを何と言いますか?", "id": "tr-101-06-002", "answers": [ { "text": "回帰", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "近日点が太陽に極めて近いという特徴的な軌道を持つ彗星を何と呼ぶか?", "id": "tr-101-06-003", "answers": [ { "text": "サングレーザー", "answer_start": 615, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "短周期彗星はエッジワース・カイパーベルト、またはそれに隣接する散乱円盤天体を起源に持つと考えられ、ハレー彗星以外に大型の彗星は少ない。一方、長周期彗星の起源はオールトの雲にあると考えられ、大彗星になるものが多い。特に、以前の観測記録が無い大型の彗星は、太陽系の起源を知る上で重要な手掛かりとなると考えられている。小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多い(軌道の離心率の値が大きい)。彗星がなぜ極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、様々な説が提唱されてきた。有名なものとして、銀河系の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲を含む太陽系外縁天体の軌道が掻き乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説や、ネメシスという太陽の連星、あるいは未知の惑星Xの存在を仮定して、その重力的影響によるものだとする説などがある。", "qas": [ { "question": "大型の彗星が多いのは、短周期彗星と長周期彗星のうち、どれですか?", "id": "tr-101-07-000", "answers": [ { "text": "長周期彗星", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小惑星と彗星のうち、どれの軌道の離心率の値がより大きいの?", "id": "tr-101-07-001", "answers": [ { "text": "彗星", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハレー彗星は、短周期彗星と長周期彗星のうち、どれに属するものか?", "id": "tr-101-07-002", "answers": [ { "text": "短周期彗星", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハレー彗星は大型の彗星に分類されるか、もしくは、小型の彗星に分類されるか?", "id": "tr-101-07-003", "answers": [ { "text": "大型の彗星", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1950年、天文学者のヤン・オールトは、長周期彗星の軌道計算を行い、遠日点が太陽から1万天文単位-10万天文単位(約0.1光年-1光年)の距離のものが多いことを発見した。そこでオールトは、小天体が多く集まるオールトの雲と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱した。この仮説は広く受け入れられ、それ以後彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになった。オールトの雲に存在する天体は、時々お互いに重力的相互作用(摂動)を起こし、一部が太陽の引力に捉えられて極端な楕円軌道を描くようになり、太陽に非常に接近するようになる。オールトの雲とエッジワース・カイパーベルトはいずれも、太陽系の形成と進化の過程において原始惑星系円盤で形成された微惑星、または微惑星が集まった原始惑星が残っていると考えられている領域である。太陽から3AU以遠では比較的凝固点の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回るため、微惑星の主成分は氷になる。オールトの雲は、主として木星や土星が形成される付近の軌道にあった氷小天体が、形成後の木星や土星に弾き飛ばされたものと考えられ、太陽系を球殻状に取り巻いている。エッジワース・カイパーベルトは太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものと考えられており、黄道面を取り巻くようにして環状に広がっている。したがって、オールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられている。", "qas": [ { "question": "オールトは何の計算を元に、オールトの雲と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱したの?", "id": "tr-101-08-000", "answers": [ { "text": "長周期彗星の軌道計算", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "彗星の起源がオールトの雲だと考えられるようになったのは、オールトの何の計算が行われてからか?", "id": "tr-101-08-001", "answers": [ { "text": "長周期彗星の軌道計算", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "温度が徐々に高くなる環境では、オールト雲起源の彗星とエッジワース・カイパーベルト起源の彗星のうち、どれがより遅く形成されるのか?", "id": "tr-101-08-002", "answers": [ { "text": "オールト雲起源の彗星", "answer_start": 583, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "長周期彗星の起源となると考えられるものに対する仮設を提唱したのは、誰か?", "id": "tr-101-08-003", "answers": [ { "text": "ヤン・オールト", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2009年11月の時点までで、3,648個の彗星が知られており、そのうち約1,500個がクロイツ群の彗星、約400個が短周期彗星である。この数は増え続けているが、本当に存在するはずの彗星のうちのごく一部である。太陽系外部に存在する彗星の元になる天体はおよそ1兆個存在するかもしれない。地上から肉眼で見えるようになる彗星の数はおおまかには1年に1個程度だが、その大部分は暗く目立たない。歴史上、非常に明るく肉眼でもはっきり見え、多くの人に目撃されたような彗星は大彗星と呼ばれることがある。彗星は質量が小さく、軌道が楕円であるため、周期的に巨大な惑星に接近し、その度に彗星の軌道は摂動を受け変わる。短周期彗星は、遠日点までの距離が、巨大な惑星の軌道半径と同じになるような強い傾向が見られる。これらはその惑星の名を取って木星族、土星族、天王星族、海王星族の彗星などと呼ばれる。その中でも、木星の軌道付近に遠日点を持つ木星族の彗星が特に多い。オールトの雲からやってきた彗星は、しばしば巨大な惑星に接近し、重力の強い影響を受ける。特に木星は、他の惑星を全て合計したより2倍以上大きな質量を持っているため、非常に大きな摂動を彗星に与える。なお、もし木星や土星のような巨大惑星がなければ、現実より多くの彗星が太陽系中心部に侵入し、一部は地球と衝突していただろう、という説がある(惑星の居住可能性#グッド・ジュピターも参照)。", "qas": [ { "question": "2009年11月の時点まで知られていた、クロイツ群の彗星と短周期彗星のうち、どれの個数がより多いですか?", "id": "tr-101-09-000", "answers": [ { "text": "クロイツ群の彗星", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "土星の軌道付近に遠日点を持つ短周期彗星のことを、何の彗星と呼びますか?", "id": "tr-101-09-001", "answers": [ { "text": "土星族", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "木星と土星、天王星、海王星の4つの惑星のうち、該当の惑星の軌道付近に遠日点を持つ彗星が最も多いのは、どれなの?", "id": "tr-101-09-002", "answers": [ { "text": "木星", "answer_start": 391, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "木星と土星、天王星、海王星の4つの惑星のうち、長周期彗星に最も強い重力の影響を与えるのは、どれなの?", "id": "tr-101-09-003", "answers": [ { "text": "木星", "answer_start": 462, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、重力的な相互作用により軌道が変わったため、過去数十年や数世紀の間に発見された周期彗星のうち、その彗星が将来どこに現れるか予測できるほど良く軌道が定まっていなかったいくつかが見失われている。しかし、時折、「新」彗星の過去の軌道を遡ることにより、古い「見失われた」彗星と同一だと判明することがある。その例として、テンペル・スイフト・LINEAR彗星(11P)が挙げられる。この彗星は1869年に発見され、「テンペル・スイフト彗星」と命名されたが、木星の摂動により軌道が変わり、1908年以降見失われていた。しかし、2001年、LINEARが偶然発見した「LINEAR彗星」(C/2001X3)が、発見後しばらくしてテンペル・スイフト彗星と同一の天体だと判明し、93年ぶりの再発見が認定されるとともに、名前がテンペル・スイフト・LINEAR彗星に変更されることとなった。", "qas": [ { "question": "新しく発見された彗星と思ったものの、それが昔に発見されたが軌道が変わり見失った彗星であった事例として、ここで取り扱われているのは、どれなの?", "id": "tr-101-10-000", "answers": [ { "text": "テンペル・スイフト・LINEAR彗星", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2001年、LINEARは、1869年に発見された彗星がどの惑星により軌道が変わったのを再発見しましたか?", "id": "tr-101-10-001", "answers": [ { "text": "木星", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "テンペル・スイフト彗星が再発見されたのは、何年か?", "id": "tr-101-10-002", "answers": [ { "text": "2001年", "answer_start": 258, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2001年、LINEARにより発見された彗星が最初に発見されたのは、何年か?", "id": "tr-101-10-003", "answers": [ { "text": "1869年", "answer_start": 192, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "彗星の軌道に関する特徴の1つとして、軌道面の傾き(軌道傾斜角)が非常に大きいものが多いということが挙げられる。太陽系の惑星は、軌道傾斜角は概ね数度程度、大きくても10度以内に収まっている。また、小惑星も、20度から30度程度まで傾いているものは多いが、軌道傾斜角がある程度小さいものが多い傾向はある。短周期彗星も、惑星の摂動により軌道を変えられた影響もあって、軌道傾斜角が小さいものが大半を占める。しかし、長周期彗星は、黄道面とほとんど垂直な軌道を持ったもの(軌道傾斜角が90度前後)や、惑星や大半の彗星、小惑星と逆向きに公転しているもの(軌道傾斜角が180度であるとも見なせる)も多く、ほとんどランダムに空のどこからでも現れるように見える。これは、オールトの雲の分布が球殻状であると推定する根拠になっている。", "qas": [ { "question": "太陽系の惑星と小惑星のうち、どちらの軌道傾斜角の最大値がより大きいですか?", "id": "tr-101-11-000", "answers": [ { "text": "小惑星", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "短周期彗星と長周期彗星のうち、どちらの軌道傾斜角がより大きいですか?", "id": "tr-101-11-001", "answers": [ { "text": "短周期彗星", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "小惑星の軌道傾斜角の最大値は?", "id": "tr-101-11-002", "answers": [ { "text": "30度", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "太陽系の惑星の軌道傾斜角の最大値は、いくらか?", "id": "tr-101-11-003", "answers": [ { "text": "10度", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ミシェル・ノストラダムス師の予言集", "paragraphs": [ { "context": "『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、フランスの占星術師ノストラダムスの主著である。四行詩集を主体とするこの著作の中には、現在「ノストラダムスの予言」として引用される詩句・散文のほとんどが収められている。『諸世紀』と呼ばれることもあるが、後述するようにこの訳語は不適切である。\n\nかつてはオカルト関連書としてしか扱われていなかったが、20世紀以降、フランス・ルネサンス期の他の詩作品との関連が検討されるなど、文学作品としての評価・検討の対象にもなっている。\n\n以下、この記事中では『予言集』と略記する。", "qas": [ { "question": "『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の著者は誰ですか。", "id": "tr-102-00-000", "answers": [ { "text": "ノストラダムス", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "生前に刊行されていた予言集のメインタイトルは、いずれも『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』であった。日本では一般に五島勉の著書名によって「ノストラダムスの大予言」という言い方が定着しているが、19世紀末までに出された130以上の予言集の古い版の中で「大予言」と訳せるタイトルを持つものは、1588年から1590年に3種出された『ミシェル・ノストラダムス師の驚異の大予言』しかなかった。\n\n予言集のタイトルは、出版地によって異なることがあった。初版を出版した地であるリヨンでは、ほぼ一貫して『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』だったが、パリやルーアンなど一部の北仏の都市やフランス以外の都市では、それ以外のタイトルが用いられることもしばしばであった。17世紀末までに出された『予言集』諸版のメインタイトルを、出版地で分類すると次のようになる。", "qas": [ { "question": "予言集の初版の出版地はどこですか。", "id": "tr-102-01-000", "answers": [ { "text": "リヨン", "answer_start": 233, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「レ・サンチュリ」は現在ではノストラダムスの『予言集』の通称として流布しているが、ノストラダムス自身がそのような通称を用いていた形跡は今のところ見つかっていない。\n\n書誌学者アントワーヌ・デュ・ヴェルディエは、1585年に出版した書誌のなかで、ジャン・ドラがノストラダムスに心酔していたことを記した際に「ノストラダムスのレ・サンチュリの」(descenturiesdeNostrdamus)という表現を用いているが、これなどはかなり早い時期の用例である。また、書名として「レ・サンチュリ」を用いた最古の例は、ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの『故ミシェル・ド・ノストラダムス師のレ・サンチュリと占筮に関するボーヌのド・シャヴィニー殿の注釈』(1596)とみなされている。\n\nなお、『予言集』そのもののタイトルとして「サンチュリ」が用いられた最古の例は、ルーアン高等法院が1611年2月9日に出版販売許可を与えた『ミシェル・ノストラダムス師のレ・サンチュリと驚異の予言』である。また、19世紀末までに出された130種以上の版の中で「サンチュリ」とだけ書かれている『予言集』の版は、『ミシェル・ノストラダムス師の真のサンチュリ』だけである。", "qas": [ { "question": "『故ミシェル・ド・ノストラダムス師のレ・サンチュリと占筮に関するボーヌのド・シャヴィニー殿の注釈』と『ミシェル・ノストラダムス師のレ・サンチュリと驚異の予言』と『ミシェル・ノストラダムス師の真のサンチュリ』の中で、最も古いのは何?", "id": "tr-102-02-000", "answers": [ { "text": "『故ミシェル・ド・ノストラダムス師のレ・サンチュリと占筮に関するボーヌのド・シャヴィニー殿の注釈』(1596)", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "いわゆる「セザールへの手紙」。ノストラダムスが息子セザール・ド・ノートルダム(1553年-1630年?)にあてた書簡の形式をとって、自身の世界観や未来観を開陳している。この文書には、クリニトゥスの『栄えある学識について』(1504年)、およびジロラモ・サヴォナローラの『天啓大要』(1498年)から着想を得たと思われる箇所、あるいはそれらをフランス語に訳した上でほぼそのまま借用している箇所などが少なくないと指摘されている。\n\nなお、末尾には1555年3月1日の日付があり、この時点ではセザールは1歳3ヶ月半ほどの赤子に過ぎなかったため、ここで宛名となっている「セザール」は未来においてノストラダムスの予言を正しく解読することになる人物を表している、とする説をとなえる信奉者も少なくない。他方で、ノストラダムスはセザールの年齢と初版の詩篇数(353篇)の合計によって、354年4ヶ月(各惑星が世界を支配する周期、後述)をあらわしたのだ、とする説もある。", "qas": [ { "question": "セザール・ド・ノートルダムのお父さんは誰なの?", "id": "tr-102-03-000", "answers": [ { "text": "ノストラダムス", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ノストラダムスとセザール・ド・ノートルダムと誰がもっと年上なの?", "id": "tr-102-03-001", "answers": [ { "text": "ノストラダムス", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『栄えある学識について』と『天啓大要』とどっちの方が先に書かれたかな?", "id": "tr-102-03-002", "answers": [ { "text": "『天啓大要』(1498年)", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "当時の詩人たち、特にプレイヤード派の詩人たちは、優れた詩は神懸かった状態で語られるものであるとし、詩と予言を近しいものと捉えていた。他方で、詩神の祝福を受けるためには、膨大な知の蓄積が必要とされ、即興的に言葉を紡ぐような姿勢とは全く異なるものであった。いわば後の時代でいう百科全書的精神に基づいて、自然や宇宙について詩をもって語るのである。こうした「科学詩」としては、ロンサール『讃歌集』(1555年)、ポンチュス・ド・チヤール『マンチース、別題占星術による占いの真実を論ず』(1558年)、レミ・ベロー『宝石鐘愛集』(1576年)などを挙げることが出来る。ノストラダムスもまた、自らの知識を背景として世界像を語ったと捉えることが可能である。なお、ノストラダムスは異端審問などを恐れてあのような不明瞭な語り口を採用したと主張されることがままあるが、同様の語り口は当時の科学詩には普通に見られたものである。また、「聖書と占星術に基づいて終末が近いことを語る」としたリシャール・ルーサらは散文で未来を語っており、当時の「予言者」の中で詩を以て語ったのはノストラダムス一人である。", "qas": [ { "question": "『讃歌集』と『マンチース、別題占星術による占いの真実を論ず』と『宝石鐘愛集』のうち、何が一番古いの?", "id": "tr-102-04-000", "answers": [ { "text": "ロンサール『讃歌集』(1555年)", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また、『予言集』には造語の多さがしばしば指摘されるが、これは当時俗語とされていたフランス語の地位を高めようとした『フランス語の擁護と顕揚』(1549年)に触発された可能性が指摘されている。同時に、ラテン語ではなくあえてフランス語を用いたことは、言葉が変化すれば読まれなくなることを織り込んでいるという点で、『予言集』が決して未来に向けて書かれたのではなく、同時代の知識人に向けて書かれたことを示している。", "qas": [ { "question": "『予言集』の読者は未来の知識人を想定していますか、同時代の知識人を想定していますか。", "id": "tr-102-05-000", "answers": [ { "text": "同時代の知識人", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "当時の謎めいた詩の代表格といえばセーヴの『デリー』(1544年)、ジョアシャン・デュ・ベレーの『夢』(1557年)などを挙げることができ、既に見たようにこれらと『予言集』の関連性を示唆する見解もあるが、他方でクレマン・マロとの関連も指摘されている。第10巻80番の一行目\"Auregnegranddugrandregneregnant\"(王国を統べる偉人の偉大な王国にて)に顕著な、音韻を駆使した言葉遊びやアナグラムの多用が、マロにしばしば見られた軽妙な詩文に通じる要素を持つということである。そのほか、ルネサンス期にはメラン・ド・サン=ジュレらが得意とした、晦渋な寓意を駆使する謎詩が流行していた背景も指摘されている。", "qas": [ { "question": "『デリー』と『夢』と、どっちの方が古いの?", "id": "tr-102-06-000", "answers": [ { "text": "『デリー』(1544年)", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "インディアン戦争", "paragraphs": [ { "context": "インディアン戦争(インディアンせんそう、英:IndianWars)は、1622年から1890年の間の、アメリカ合衆国における白人入植者(インディアンが呼ぶところのwhiteman)によるインディアンの征服戦争の総称である。初期のころからインディアンと入植者の小競り合いが続いていたが、移住者の増加とともに列強による植民地戦争とも絡みながら、大規模化していった北米植民地戦争、民族浄化、集団殺害である。", "qas": [ { "question": "インディアン戦争の始まりとされるのは、何年なの?", "id": "tr-103-00-000", "answers": [ { "text": "1622年", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インディアン戦争は、現在のどの国において、発生したことですか?", "id": "tr-103-00-001", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "そもそもの白人とインディアンとの戦争は、クリストファー・コロンブスの上陸に始まるものである。コロンブスは中米のインディアン諸部族を艦隊を率いて数年にわたり虐殺し、その人口を激減させた。インディアンたちを黄金採集のために奴隷化し、生活権を奪ったためにインディアンたちは飢餓に陥り、疫病が蔓延し、その数をさらに減らした。白人のもたらした疫病が中米のインディアンを減らしたのではない。コロンブスによる大量虐殺が、疫病によるインディアンの激減を招いたのである。", "qas": [ { "question": "白人とインディアンの間の戦争は、誰が上陸してきたことがきっかけで発生したか?", "id": "tr-103-01-000", "answers": [ { "text": "クリストファー・コロンブス", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コロンブスによる虐殺で人口が激減されたインディアンだったが、その人口数がさらに減少していったのは、奴隷化や飢饉のほかに、何が問題となったからか?", "id": "tr-103-01-001", "answers": [ { "text": "疫病", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インディアンの激減をもたらした疫病は、何によることだったか?", "id": "tr-103-01-002", "answers": [ { "text": "コロンブスによる大量虐殺", "answer_start": 189, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "つまり、インディアンの激減の根本的な原因は、誰におるのか?", "id": "tr-103-01-003", "answers": [ { "text": "クリストファー・コロンブス", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アメリカ独立戦争以後、「豊かで安い土地」を求めて白人入植者が西進するようになると、当然そこに住むインディアンは邪魔者となり、これを排除しようとする合衆国政府とインディアンの撲滅戦争と化した。インディアンは領土を追われ、連邦政府が信託保留する土地、「保留地(Reservation)」に押し込められることを強要され、激しく抵抗するようになる。", "qas": [ { "question": "アメリカ独立戦争以後、インディアンと対立したのは、誰なの?", "id": "tr-103-02-000", "answers": [ { "text": "合衆国政府", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "豊かで安い土地を求めて西進してきた白人入植者に、インディアンはどう見られていましたか?", "id": "tr-103-02-001", "answers": [ { "text": "邪魔者", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イギリスがアメリカへの入植を始めた1610年代や1620年代は平穏に過ぎたが、ピクォート戦争の起こった1637年頃から、入植地の安全を図るためと、さらなる入植地の拡大のために、植民白人はインディアン部族間の争いを利用し、代理戦争を行わせるようになった。この戦争は17世紀(フィリップ王戦争、ウィリアム王戦争および18世紀初頭のアン女王戦争)からウンデット・ニーの虐殺で1890年にアメリカの辺境が「消滅」するまで、インディアンの土地を白人入植者のために没収し、インディアンを征服して白人に同化させると同時に、インディアン保留地へ強制移住させる、という結果になっていった。", "qas": [ { "question": "イギリス人がアメリカに移住し始めたのは、1610年代から何年代にかけてのことか?", "id": "tr-103-03-000", "answers": [ { "text": "1620年代", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピクォート戦争は、いつ発生した戦争のことか?", "id": "tr-103-03-001", "answers": [ { "text": "1637年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "入植してきたイギリス人は、入植地の安全かつ拡大のため、何を利用しようとしたか?", "id": "tr-103-03-002", "answers": [ { "text": "インディアン部族間の争い", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウンデット・ニーの虐殺が発生したのは、何年か?", "id": "tr-103-03-003", "answers": [ { "text": "1890年", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "これらの戦争でアメリカ側とインディアン側の受けた損失については様々な統計が示されてきた。最も信頼に足る数字はグレゴリー・ミクノなどによる交戦記録を厳密に照合したものであり、1850年から1890年の間だけで、21,586人の市民と兵士が死亡、負傷、または捕虜になったとしている。他の数字としては、ラッセル・ソーントンなどのやや大雑把で関係性の薄い政府の資料から外挿したもので、45,000人のインディアンと19,000人の白人が殺されたとしている。この後者の推定値の中には、辺境の虐殺によって非戦闘員がしばしば殺されたので、双方の女性子供の犠牲者も含まれている。その他にも様々な著者が、少ない者では5,000人、多い者では50万人という数字を上げている。ここでの議論に含まれていないのは、双方の残虐さである。インディアンはその残酷な戦い方で、アメリカは破壊的な作戦実行で示した残虐さは、毎年のように新聞、記録保管所、外交記録およびアメリカ独立宣言(...(イギリスは)辺境の住人、戦い方を知っている残酷なインディアンに、年齢、性別や状態に拘わらず見境無い破壊を奨励している)の中で指摘されてきた。", "qas": [ { "question": "1850年から1890年の間、戦争によりアメリカ側とインディアン側が負った損失は、市民と兵士の死亡、負傷、または捕虜となった人数を全部合わせて、何人にも至ったの?", "id": "tr-103-04-000", "answers": [ { "text": "21,586人", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インディアンが45,000人も殺害されたとされている資料では、白人の死亡者は何人に至ったとされていますか?", "id": "tr-103-04-001", "answers": [ { "text": "19,000人", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "インディアン戦争は小さな戦争の連続であった。インディアンはそれぞれの歴史を持つ様々な集団であった。戦争の間を通じて、インディアンは「白人」のように一括りで呼べるような単一の民族では無かった。様々なやり方で築かれた社会に住み、地域的なレベルで戦争と和平の決断を下した。ただし、イロコイ連邦や、スー族とシャイアン族、アラパホー族の三部族同盟、またテカムセのような調停者によって実現した一時的な同盟のように、公式の同盟を組んで共闘することが多数見られた。", "qas": [ { "question": "シャイアン族、アラパホー族との三部族同盟に加盟していたのは、どの部族か?", "id": "tr-103-05-000", "answers": [ { "text": "スー族", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "それぞれの歴史を持ち、様々なやり方で社会を築いてきたインディアン同士で一時的な同盟を果たせたのは、誰のような調停者がいたからか?", "id": "tr-103-05-001", "answers": [ { "text": "テカムセ", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "それぞれの歴史を持ち、様々なやり方で社会を築いてきたインディアンが、部族同士に同盟を組んだ例としては、三部族同盟とどの連邦が挙げられるか?", "id": "tr-103-05-002", "answers": [ { "text": "イロコイ連邦", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スー族とシャイアン族、アラパホー族の間で結成された同盟は、何か?", "id": "tr-103-05-003", "answers": [ { "text": "三部族同盟", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "クレイジー・ホースらが参加した、インディアンの連合軍がカスター中佐の第7騎兵隊を撃退全滅させるなどの戦果もあったが、ジェロニモの降伏やウンデット・ニーの虐殺以降、インディアンによる軍事的な反乱はなくなった。代って、20世紀になってからの「レッド・パワー運動」に代表される、権利回復要求運動が現代のインディアン戦争となった。黄金に代わってウラニウムや石炭、水といった保留地の地下資源が、合衆国の収奪対象となった。現代の「インディアン戦争」は、地下資源の収奪と環境汚染、そして「西部劇映画」や「インディアン・マスコット」問題に象徴されるメディアやスポーツにおける歪曲された民族イメージの概念固定化が大きな問題となっている。", "qas": [ { "question": "インディアンの連合軍により、全滅された第7騎兵隊は、誰が率いていたの?", "id": "tr-103-06-000", "answers": [ { "text": "カスター", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インディアンによる軍事的な反乱がなくなったのは、誰が降伏したことからも影響がありましたか?", "id": "tr-103-06-001", "answers": [ { "text": "ジェロニモ", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "20世紀になってからのインディアン戦争を代表する運動としては、何が挙げられているか?", "id": "tr-103-06-002", "answers": [ { "text": "レッド・パワー運動", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現代のインディアン戦争は、どのような運動の性格を持っているか?", "id": "tr-103-06-003", "answers": [ { "text": "権利回復要求運動", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1973年にスー族保留地内の「ウンデット・ニー」で、オグララ・スー族と「アメリカインディアン運動(AIM)」が同地を占拠し、「オグララ国」の独立宣言を行った「ウンデッド・ニー占拠抗議」(のちの連邦裁判で無罪判決を受けた)では、全米からインディアンが応援参加し、非武装のインディアンたちに対して合衆国とサウスダコタ州が戦車や戦闘ヘリを投入した武力鎮圧となった。", "qas": [ { "question": "ウンデッド・ニー占拠抗議に対し、合衆国とサウスダコタ州は、どのような鎮圧方法をとったの?", "id": "tr-103-07-000", "answers": [ { "text": "武力鎮圧", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インディアンたちが集まり、オグララ国の独立を宣言したのを、何と呼びますか?", "id": "tr-103-07-001", "answers": [ { "text": "ウンデッド・ニー占拠抗議", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウンデッド・ニー占拠抗議は、何年に行われたものか?", "id": "tr-103-07-002", "answers": [ { "text": "1973年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウンデッド・ニー占拠抗議は、どこで行われたか?", "id": "tr-103-07-003", "answers": [ { "text": "ウンデット・ニー", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2003年、100年近くに及ぶインディアンたちの要求運動によって、「リトルビッグホーンの戦い」の主戦場が「カスター国立記念戦場」から「リトルビッグホーン国立記念戦場」に名称変更された。同時に「インディアン戦争」を戦ったインディアンたちの「インディアン記念碑」が建立され、地図と解説の書かれた石壁が設置された。", "qas": [ { "question": "リトルビッグホーンの戦いの主戦場が、カスター国立記念戦場からリトルビッグホーン国立記念戦場に名称変更されたのは、何年のことなの?", "id": "tr-103-08-000", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リトルビッグホーンの戦いの主戦場にリトルビッグホーン国立記念戦場との名称がつけられたのは、何年のことですか?", "id": "tr-103-08-001", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "コロンブスの上陸以来、白人たちはインディアン部族が、アフリカの部族社会のような「酋長が支配する首長制の部族社会である」と勘違いしていた。実際にはインディアンの社会は完全合議制の民主的社会であり、「王」や「首長」のような個人の権力者は存在しない。「大いなる神秘」のもと、人と動物すら明確に区分されず、平等に共有されるのがインディアンの社会であり、まして大地は誰のものでもなかった。", "qas": [ { "question": "アフリカの部族社会とインディアンの社会の違いは、後者には何が存在しないとのことか?", "id": "tr-103-09-000", "answers": [ { "text": "個人の権力者", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アフリカの部族社会は首長制であることに対し、インディアンの社会は、どのような体制の社会であったか?", "id": "tr-103-09-001", "answers": [ { "text": "完全合議制", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "合衆国は植民化を進めるにあたり、まずインディアンから領土を「購入」しようとし、「物品」と引き換えにこれを行った(つもりだった)。しかしこれは、インディアンの共同体から見れば「白人が贈り物をして、ここに住まわせてくれと言って来た」ということである。白人は「ここから出て行ってくれ」と言ったつもりだが、インディアンはこれを理解していない。彼らに「土地を売り買いする」という文化習慣が無いからである。", "qas": [ { "question": "白人とインディアンの間で誤解が生じたのは、インディアンには、どのような文化習慣が存在しなかったからであるの?", "id": "tr-103-10-000", "answers": [ { "text": "「土地を売り買いする」という文化習慣", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白人が「ここから出て行ってくれ」との意味で土地の購入を行おうとすることを、インディアンは、どう理解していましたか?", "id": "tr-103-10-001", "answers": [ { "text": "「白人が贈り物をして、ここに住まわせてくれと言って来た」", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インディアンは、白人が土地購入のため、彼らに送った物品を、何と理解したか?", "id": "tr-103-10-002", "answers": [ { "text": "贈り物", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書で紹介している、白人とインディアンの間の誤解とは、インディアンが、何の概念を知らないことにより生じたことか?", "id": "tr-103-10-003", "answers": [ { "text": "購入", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1620年にピルグリム・ファーザーズがアメリカ東海岸のプリマス植民地に到着した頃は、インディアンと白人の友好関係があった。厳しい冬を越すために、むしろインディアンに助けられて入植者が定着できたという面もあった。ただし、全ての地域でインディアンが友好的に白人を迎えたわけではなく、インディアンに様々な部族があったように、白人を迎えるインディアンの対応は様々であり、16世紀前半のフロリダのように有無を言わせず退去させられた例もあった。17世紀前半のフランスの場合は、敵対するインディアンの一方に荷担して、まだ銃火器を持たないインディアンを圧倒するようなことがあった。", "qas": [ { "question": "ピルグリム・ファーザーズがアメリカ東海岸のプリマス植民地に到着したのは、何年?", "id": "tr-103-11-000", "answers": [ { "text": "1620年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "白人に対し、プリマス植民地とは異なる反応を見せた例としては、何世紀前半のフロリダが挙げられていますか?", "id": "tr-103-11-001", "answers": [ { "text": "16世紀前半", "answer_start": 181, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1620年にプリマス植民地に到着したのは、誰か?", "id": "tr-103-11-002", "answers": [ { "text": "ピルグリム・ファーザーズ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1620年のプリマス植民地のインディアンは、白人とどのような関係を築いていたか?", "id": "tr-103-11-003", "answers": [ { "text": "友好関係", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "インディアンは、その狩猟生活に貴重な道具となった銃を供給してくれ、かつ様々な商品を交易したり贈り物を届けてくれる白人とは友好的な関係を保った。しかし、いち早く銃を持った部族は他の部族を圧倒する力を持つようになった。17世紀前半のイロコイ連邦がまさにこの典型的な例であり、アメリカ北東部のかなり広い範囲を勢力下に収めることになった。", "qas": [ { "question": "白人からもらった銃を狩猟生活ではなく、他の部族との戦いに用いた典型的な例としては、17世紀前半の誰が挙げられるの?", "id": "tr-103-12-000", "answers": [ { "text": "イロコイ連邦", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "白人の登場により、インディアン部族間の戦いにおいて、重要な物資となったのは、何ですか?", "id": "tr-103-12-001", "answers": [ { "text": "銃", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジェームズタウンとイギリス人が名付けた最初期の植民地では、植民請負人ジョン・スミスが、飢えた入植者の食料確保のために、各地のインディアンの村を襲い、酋長を人質にとり、物品・食料を強奪した。スミスはポウハタン酋長を「ポウハタン族の皇帝である」と大英帝国に出鱈目な報告を行い、対インディアン政策を誤解のもとに進めさせるきっかけを作っている。", "qas": [ { "question": "アメリカにおけるイギリスの最初の植民地には、何という名称がつけられたか?", "id": "tr-103-13-000", "answers": [ { "text": "ジェームズタウン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジェームズタウンの建設者は、誰か?", "id": "tr-103-13-001", "answers": [ { "text": "ジョン・スミス", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジョン・スミスが、インディアンの村を襲撃、物品・食料などを強奪するなどの暴力的な方法をとったのは、何のためだったか?", "id": "tr-103-13-002", "answers": [ { "text": "飢えた入植者の食料確保", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インディアンと白人の関係が悪化していったのは、誰のせいか?", "id": "tr-103-13-003", "answers": [ { "text": "ジョン・スミス", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1610年代から様々な理由で、多くの小競り合いが入植者とインディアンの間で行なわれた。最初の抗争がどの戦闘であるかは諸説あるが、ジェームズタウンの虐殺がよく知られている。1622年3月22日、アルゴンキンのポウハタン族のオプチャンカノフがバージニア植民地を攻撃し、ジェームズタウンで347人が死亡した。", "qas": [ { "question": "様々な理由で、入植者とインディアンの間で多くの小競り合いが行なわれ始めたのは、何年代なの?", "id": "tr-103-14-000", "answers": [ { "text": "1610年代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初の抗争としてよく知られているのは、何ですか?", "id": "tr-103-14-001", "answers": [ { "text": "ジェームズタウンの虐殺", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジェームズタウンの虐殺はいつ発生したか?", "id": "tr-103-14-002", "answers": [ { "text": "1622年3月22日", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最初の抗争としてよく知られているのは、いつ発生したものか?", "id": "tr-103-14-003", "answers": [ { "text": "1622年3月22日", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "インディアンと白人の間で大規模な抗争に発展した最も初期のものは、1637年のピクォート戦争が挙げられる。この戦争は、イギリス人交易業者の1隊が殺されたことに端を発し、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地の白人が、ピクォート族と敵対していたモヘガン族を利用してピクォート族を殲滅するという結果になった。入植初期のピルグリム・ファーザーズは、インディアンから土地を購入するという形を採っていたが、この頃から清教徒が大挙して入植するようになり、入植者が勝手にインディアンの土地に入り込むというような形態が生まれた。", "qas": [ { "question": "インディアンと白人の間で初めて、大規模な抗争に発展したものとしては、何が挙げられるの?", "id": "tr-103-15-000", "answers": [ { "text": "ピクォート戦争", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピクォート戦争が発生したのは、何年ですか?", "id": "tr-103-15-001", "answers": [ { "text": "1637年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ドイツ共産党", "paragraphs": [ { "context": "ドイツ共産党は、かつて存在したドイツの共産主義政党である。第一次世界大戦中の非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。ドイツ革命直後の頃に結党され、ヴァイマル共和政期に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)とドイツ社会民主党(SPD)に次ぐ第三党まで上り詰めたが、1933年にナチ党が政権を獲得すると国会議事堂放火事件を口実に禁止された。第二次世界大戦後に西ドイツでも東ドイツでも再興したが、西ドイツでは1956年に戦う民主主義を理由に禁止され、東ドイツでは1946年に社民党を強制合併してドイツ社会主義統一党(SED)となり、東欧革命で倒されるまで一党独裁制を敷いた。", "qas": [ { "question": "ドイツ共産党は、どの組織を起源とするの?", "id": "tr-104-00-000", "answers": [ { "text": "スパルタクス団", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ共産党は、どの革命の直後に結成されましたか?", "id": "tr-104-00-001", "answers": [ { "text": "ドイツ革命", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナチ党が政権を獲得したのは、何年のことか?", "id": "tr-104-00-002", "answers": [ { "text": "1933年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "西ドイツと東ドイツのうち、1956年以降にもドイツ共産党の勢力が存在したのは、どちらか?", "id": "tr-104-00-003", "answers": [ { "text": "東ドイツ", "answer_start": 191, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "第一次世界大戦中、ドイツ社会民主党(SPD)の戦争支持の方針に反発した急進左派カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクらが創設した非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。ドイツ革命でスパルタクス団指導者たちが釈放されるとスパルタクス団は十月革命に倣った革命扇動を開始したが、反革命化を強めていた社民党政権と対立を深めた。1918年12月30日から1919年1月1日にかけての創立大会で「ドイツ共産党・スパルタクス団」を結成し、直後の1919年1月にスパルタクス団蜂起を起こすも社民党政権が出動させた義勇軍に殲滅されて失敗。", "qas": [ { "question": "スパルタクス団は、どの政党の方針に反発した者らが集まり誕生したの?", "id": "tr-104-01-000", "answers": [ { "text": "ドイツ社会民主党", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スパルタクス団が創設されたのは、どの戦争が行われていた時期ですか?", "id": "tr-104-01-001", "answers": [ { "text": "第一次世界大戦", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スパルタクス団は、どの革命に倣った革命扇動を開始したか?", "id": "tr-104-01-002", "answers": [ { "text": "十月革命", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スパルタクス団が十月革命に倣った革命扇動を開始したことにより、誰との関係がより悪化したか?", "id": "tr-104-01-003", "answers": [ { "text": "社民党政権", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "リープクネヒトとルクセンブルクが義勇軍に虐殺されたので、代わってパウル・レヴィが党の指導者となる。1919年にはコミンテルンに加盟し、1920年7月にはコミンテルン参加に賛成するドイツ独立社会民主党左派と合同してドイツ統一共産党(VKPD)と改名した(翌1921年に「ドイツ共産党」の党名に戻る)。蜂起失敗の反省からレヴィは一揆主義者の追放を断行し、社民党や労働組合の中の反指導部層との共闘を図るという「統一戦線戦術」を推し進めたが、コミンテルンの方針に異を唱えたことからコミンテルンの不興を買って1921年2月に失脚した。", "qas": [ { "question": "リープクネヒトとルクセンブルクの跡を継いだのは、誰?", "id": "tr-104-02-000", "answers": [ { "text": "パウル・レヴィ", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ独立社会民主党とコミンテルンのうち、パウル・レヴィらの行動により早く参加したのは、どちらですか?", "id": "tr-104-02-001", "answers": [ { "text": "コミンテルン", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コミンテルンがパウル・レヴィらと行動をともにすることになったのは、何年のことか?", "id": "tr-104-02-002", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ統一共産党が結成されたのは、いつのことか?", "id": "tr-104-02-003", "answers": [ { "text": "1920年7月", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "代わってハインリヒ・ブランドラーが党の指導者となる。1921年3月、ソ連の国内事情からドイツ革命を欲したコミンテルンの指示を受けてマンスフェルトで武装蜂起を起こしたが、中央政府が派遣してきた軍に鎮圧されて失敗した。", "qas": [ { "question": "1921年3月にマンスフェルトで武装蜂起を起こしたのは、誰の率いる勢力だったの?", "id": "tr-104-03-000", "answers": [ { "text": "ハインリヒ・ブランドラー", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1921年3月のマンスフェルトでの武装蜂起は、成功しましたか?", "id": "tr-104-03-001", "answers": [ { "text": "失敗した", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1914年8月1日にドイツはロシアに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦した。ドイツ社会民主党(SPD)は党派争い停止(「城内平和」)を求める政府の呼びかけに応じて戦争を支持した。しかしこの戦争を「帝国主義戦争」と捉えていたローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒト、フランツ・メーリング、クララ・ツェトキンら党内の急進左派は反発し、1914年9月10日にもスイスで発行していた社民党系新聞紙上において党の戦争支持方針への公然たる反対声明を出した。この社民党急進左派勢力がドイツ共産党の源流となる。", "qas": [ { "question": "ドイツが第一次世界大戦に参戦したのは、いつのことか?", "id": "tr-104-04-000", "answers": [ { "text": "1914年8月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ社会民主党内の急進左派は、第一次世界大戦のことを何ととらえていたか?", "id": "tr-104-04-001", "answers": [ { "text": "帝国主義戦争", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ社会民主党内の急進左派が、スイスで発行していた社民党系新聞紙上において党の戦争支持方針への公然たる反対声明を出したのは、いつのことか?", "id": "tr-104-04-002", "answers": [ { "text": "1914年9月10日", "answer_start": 167, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ共産党の源流となる人物には、ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒト、フランツ・メーリングのほかに、誰がいるか?", "id": "tr-104-04-003", "answers": [ { "text": "クララ・ツェトキン", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "反戦運動を行う非合法結社の創設を目指す急進左派勢力は、1916年1月1日にリープクネヒトの事務所に集まって全国協議会を開き、当時投獄されていたルクセンブルクが獄中からひそかに送った指針(戦争を支持したドイツ社民党、フランス社会党およびイギリス労働党は国際社会主義・労働者運動の裏切者であり、新しい労働者インターナショナルの創設が必要とする指針)を運動方針として採択するとともに『スパルタクス』という非合法書簡を発行することを決議した。この書簡ははじめ複写で広められたが、1916年9月からはレオ・ヨギヘスが警察の目を掻い潜りながら印刷で流布するようになった。この書簡の名から、この非合法結社は「スパルタクスロイテ」と呼ばれるようになった。", "qas": [ { "question": "『スパルタクス』という非合法書簡を発行することが決議されたのは、いつのこと?", "id": "tr-104-05-000", "answers": [ { "text": "1916年1月1日", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『スパルタクス』という非合法書簡を発行することを、1916年1月1日に決議したのは、どの勢力ですか?", "id": "tr-104-05-001", "answers": [ { "text": "急進左派勢力", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1916年1月1日より急進左派勢力の反戦運動の運動方針となったのは、誰の指針か?", "id": "tr-104-05-002", "answers": [ { "text": "ルクセンブルク", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『スパルタクス』を発行した非合法結社は、何と呼ばれたか?", "id": "tr-104-05-003", "answers": [ { "text": "スパルタクスロイテ", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかしリープクネヒトは1916年4月のデモで戦争反対を宣言して逮捕され、1年の懲役を終えて出獄していたルクセンブルクも7月に再び逮捕され、8月にはメーリングも逮捕された(ツェトキンはこの前年に逮捕)。主要指導者が軒並み逮捕されたことでスパルタクスの運動は停滞した。", "qas": [ { "question": "リープクネヒトは、いつ行われたデモでの戦争反対宣言により、逮捕されたの?", "id": "tr-104-06-000", "answers": [ { "text": "1916年4月", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リープクネヒトとメーリングのうち、より早く逮捕されたのは、誰ですか?", "id": "tr-104-06-001", "answers": [ { "text": "リープクネヒト", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "リープクネヒトとルクセンブルク、メーリングのうち、最も早く逮捕されたのは、誰ですか?", "id": "tr-104-06-002", "answers": [ { "text": "リープクネヒト", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一方、社民党の主流派閥である「中央派」の中にも「城内平和」に否定的な者が徐々に増えていき、社民党の共同党首フーゴー・ハーゼを中心に平和主義的中央派「ハーゼ・グループ」が形成されるようになった。1915年春に戦争目的論争が勃発するとカール・カウツキーやエドゥアルト・ベルンシュタインら党の長老がハーゼを支持するようになり「ハーゼ・グループ」が勢いを増した。", "qas": [ { "question": "フーゴー・ハーゼを中心に形成された平和主義的中央派のことを何と呼ぶの?", "id": "tr-104-07-000", "answers": [ { "text": "ハーゼ・グループ", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1915年春の戦争目的論争でハーゼを支持するとの意思を表した党の長老としては、カール・カウツキーと誰が挙げられていますか?", "id": "tr-104-07-001", "answers": [ { "text": "エドゥアルト・ベルンシュタイン", "answer_start": 125, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1915年春の戦争目的論争の結果、より影響力の強い組織となったのは、誰を中心とする組織か?", "id": "tr-104-07-002", "answers": [ { "text": "フーゴー・ハーゼ", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "いつ勃発した戦争目的論争の結果、フーゴー・ハーゼを中心とする勢力がより影響力の強い組織となったか?", "id": "tr-104-07-003", "answers": [ { "text": "1915年春", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この亀裂は帝国議会本会議における戦時公債の採決での社民党議員団の分裂という形で現れるようになり、1917年4月に潜水艦作戦とロマノフ帝政崩壊後のロシアに関する論争が起きたことで分裂は決定的となり、ハーゼを党首とする独立社会民主党(USPD)が分党した。スパルタクス団はこの新党についても批判を加えていたが、一応参加することになった。その理由についてリープクネヒトは「我々が独立社民党に参加したのは同党を前進させ、同党を我々の鞭の届く範囲におき、最善の分子を同党から引き抜くためであった」と後に語っている。", "qas": [ { "question": "独立社会民主党は、どの政党から分党した政党なの?", "id": "tr-104-08-000", "answers": [ { "text": "社民党", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書で取り上げられているスパルタクス団の指導者のひとりは、誰ですか?", "id": "tr-104-08-001", "answers": [ { "text": "リープクネヒト", "answer_start": 174, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スパルタクス団は、どの政党に参加したか?", "id": "tr-104-08-002", "answers": [ { "text": "独立社民党", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「スパルタクス団」と並ぶ急進左派勢力として「革命的オプロイテ」がある。これはリヒャルト・ミュラーとエミール・バルトが指導するベルリンの金属労働組合の代表者の集まりであり、組合の公式の指導部に造反して軍需工場内において抵抗運動を拡大させ、1916年以降ドイツ全土にその組織を広げていた勢力である。1916年のリープクネヒトの判決の際にはストライキを組織し、1917年と1918年のストライキも彼らが主導した。", "qas": [ { "question": "「スパルタクス団」と並ぶ急進左派勢力としては、どの勢力があげられるの?", "id": "tr-104-09-000", "answers": [ { "text": "革命的オプロイテ", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "革命的オプロイテの指導者は、リヒャルト・ミュラーと誰ですか?", "id": "tr-104-09-001", "answers": [ { "text": "エミール・バルト", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リープクネヒトの判決に対し、1916年、1917年、1918年の3年にかけたストライキを組織・主導したのは、その勢力か?", "id": "tr-104-09-002", "answers": [ { "text": "革命的オプロイテ", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "革命的オプロイテが組織・主導したストライキのうち、最も遅かったのは、何年のことか?", "id": "tr-104-09-003", "answers": [ { "text": "1918年", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "スパルタクス団がマルクス主義理論家集団でしかなく、労働者大衆と直接結びついていなかったのに対し、革命的オプロイテは多数の労働者大衆を掌握しているという特徴があった。そのためスパルタクス団は宣伝を専らとしてアジテーションで民衆を街頭に駆り立てようとするが、オプロイテは秘密裏に革命計画を推進しようとする違いがあり、スパルタクス団の派手な宣伝活動はオプロイテにとっては迷惑だった(計画が熟しないうちに警察に発見されて摘発される恐れがあるので)。オプロイテはスパルタクス団を「一揆主義者」と批判し、スパルタクス団の方はオプロイテを「臆病者」と批判し合っていた。", "qas": [ { "question": "スパルタクス団と革命的オプロイテのうち、多数の労働者大衆を掌握していたのは、どちらか?", "id": "tr-104-10-000", "answers": [ { "text": "革命的オプロイテ", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スパルタクス団と革命的オプロイテのうち、革命推進において、秘密に行おうとする性格を持った組織は、どちらか?", "id": "tr-104-10-001", "answers": [ { "text": "革命的オプロイテ", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "革命的オプロイテはスパルタクス団のことを、何と非難したか?", "id": "tr-104-10-002", "answers": [ { "text": "一揆主義者", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スパルタクス団は革命的オプロイテのことを、何と非難したか?", "id": "tr-104-10-003", "answers": [ { "text": "臆病者", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "急進左派勢力としてもう一つ重要な勢力にブレーメン左派があった。彼らは機関紙の名前から『労働者政策』グループとも呼ばれた。ヨハン・クニーフとパウル・フレーリヒが『労働者政策』の編集員を務めていたが、その理論的立場はロシアのボルシェヴィキ指導者、ウラジーミル・レーニン、ニコライ・ブハーリン、そしてとりわけカール・ラデックから広範な指示を受けていた。この派の影響力は専らブレーメンとハンブルクに限られ、独立社民党には当初から参加しなかった。1918年11月には「ドイツ国際共産主義(IKD)」と改名した。", "qas": [ { "question": "ブレーメン左派の別称は、何?", "id": "tr-104-11-000", "answers": [ { "text": "労働者政策", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブレーメン左派の影響力は、ブレーメンとどこに限られていましたか?", "id": "tr-104-11-001", "answers": [ { "text": "ハンブルク", "answer_start": 189, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ国際共産主義は、もともと何という別称を持っていた組織か?", "id": "tr-104-11-002", "answers": [ { "text": "労働者政策", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブレーメン左派が、ドイツ国際共産主義と改名したのは、いつか?", "id": "tr-104-11-003", "answers": [ { "text": "1918年11月", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1918年10月4日に連合国との講和を目的とするバーデン大公子マクシミリアン内閣が発足し、社民党と中央党と進歩人民党が政権に参加した。マクシミリアンはアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが主張した「ドイツ軍部や王朝的専制君主は交渉相手とは認めない」という交渉資格の要求をクリアーするために議院内閣制導入など様々な改革を実施した。その一環で政治犯釈放が行われ、リープクネヒトやルクセンブルクなど反戦運動で投獄されていた急進左派人士が続々と釈放された。彼らは釈放後、前年に起きた十月革命を模範とした革命扇動を開始した。", "qas": [ { "question": "マクシミリアン内閣が発足したのは、いつのこと?", "id": "tr-104-12-000", "answers": [ { "text": "1918年10月4日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マクシミリアンは、どの国との交渉資格を満たすために、様々な改革を実施しましたか?", "id": "tr-104-12-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "投獄されていたリープクネヒトやルクセンブルクが釈放されたのは、誰の時代のことか?", "id": "tr-104-12-002", "answers": [ { "text": "マクシミリアン", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1918年の時点のアメリカ大統領は、誰か?", "id": "tr-104-12-003", "answers": [ { "text": "ウッドロウ・ウィルソン", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "11月3日から4日にかけて、無謀な作戦への動員を命じられたキール軍港の水兵たちが反乱をおこし、労働者がこれに加わって大勢力となり、キールは「レーテ」(労兵評議会)により実効支配された。他の主要都市でも次々と蜂起が起き、レーテが各主要都市を掌握するに至った。この「ドイツ革命」と呼ばれる反乱は兵士と労働者による自然発生的な大衆革命運動であり、スパルタクス団や革命的オプロイテなど急進左派勢力が組織したものではないが、レーテはロシア革命のソヴィエト(評議会)に酷似していたため、急進左派勢力は大いに沸き、これを推進すべくますます激しい革命扇動を行うようになった。", "qas": [ { "question": "11月3日から4日に起きた反乱のことを、何と呼ぶの?", "id": "tr-104-13-000", "answers": [ { "text": "ドイツ革命", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "マヨルカ島", "paragraphs": [ { "context": "マヨルカ島(マヨルカとう、カタルーニャ語:Mallorca、[məˈʎɔrkə]、スペイン語:Mallorca、[maˈʎorka]))は、地中海西部のバレアレス海に浮かぶ島。\nバレアレス諸島最大の島であり、メノルカ島とともにバレアレス諸島北東部のジムネジアス群島を構成している。\nマジョルカ島やマリョルカ島とも表記される。\n1983年にスペインの自治州としてバレアレス諸島州が成立すると、マヨルカ島のパルマ・デ・マヨルカが州都となった。\nメノルカ島やイビサ島などバレアレス諸島の他島と同様に人気のある観光地であり、特にドイツとイギリスからの観光客が多い。", "qas": [ { "question": "バレアレス諸島で最も大きい島とは?", "id": "tr-105-00-000", "answers": [ { "text": "マヨルカ島", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マヨルカ島が位置しているのはどこの海?", "id": "tr-105-00-001", "answers": [ { "text": "バレアレス海", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マヨルカ島に所在するバレアレス諸島州の州都とは?", "id": "tr-105-00-002", "answers": [ { "text": "パルマ・デ・マヨルカ", "answer_start": 201, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "名称はラテン語で「大きな島」を意味するinsulamaiorに由来し、後に「大きなほう」を意味するMaioricaとなった。\nさらにカタルーニャ語でMaiorca、Mayorcaとなったが、イェイスムという発音現象によってMallorcaと綴りが変わって現在に至る。\n一方で、メノルカ島の名称はマヨルカ島と比較して「小さなほう」を意味するMinorcaに由来する。\n英語ではMajorca(マジョルカ,[məˈjɔːrkə]または[-ˈdʒɔːr-])、イタリア語ではMaiorca(マヨルカ)、フランス語ではMajorque(マジョルク)。\n古称はマヨール島(Major)。\nマヨネーズの語源という説もある。", "qas": [ { "question": "MaiorcaとMinorcaはどちらが小さいほうを意味しているの?", "id": "tr-105-01-000", "answers": [ { "text": "Minorca", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マヨルカ島を語源とする食品とは?", "id": "tr-105-01-001", "answers": [ { "text": "マヨネーズ", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メノルカ島とマヨルカ島はどちらが小さいのですか?", "id": "tr-105-01-002", "answers": [ { "text": "メノルカ島", "answer_start": 138, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マヨルカ島は地中海西部のバレアレス海にあるバレアレス諸島を構成する島であり、スペイン本土から見て東側に位置している。\n面積は3,640.11km2であり、バレアレス諸島ではもっとも大きく、日本の沖縄本島の約3倍である。\n2012年の人口は869,000人である。\n地中海の島嶼の中では面積は中規模であるとされるが、地中海における面積第3位のキプロス島に匹敵する人口を持つ。\n地中海の主要な島嶼の中ではひときわ人口密度が高く、人口第1位のシチリア島よりも高い人口密度を有する。", "qas": [ { "question": "マヨルカ島と沖縄本島はどちらが小さいですか?", "id": "tr-105-02-000", "answers": [ { "text": "沖縄本島", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "人口が多いのはマヨルカ島とシチリア島のどちらですか?", "id": "tr-105-02-001", "answers": [ { "text": "シチリア島", "answer_start": 218, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マヨルカ島の面積は?", "id": "tr-105-02-002", "answers": [ { "text": "3,640.11km2", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東西幅は96km、南北長は78kmであり、海岸線の長さは554kmである。\nバルセロナから見て約210km南、バレンシアから見て約240km東にある。\nフランスのマルセイユからパルマ・デ・マヨルカまでの距離は460km、アルジェリアのアルジェからパルマまでの距離は340kmである。\n地理学者のオノフラ・ルリャン(OnofreRullan)は、マヨルカ島を山地と平地、内陸部と沿岸部、パルマとパルマ外という3つの軸によって8つの地域に分けている。", "qas": [ { "question": "東西幅と南北長はどちらが距離が長いの?", "id": "tr-105-03-000", "answers": [ { "text": "東西幅", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マルセイユからパルマ・デ・マヨルカまでの距離と、アルジェからパルマまでの距離はどちらが長いの?", "id": "tr-105-03-001", "answers": [ { "text": "マルセイユからパルマ・デ・マヨルカまでの距離", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マヨルカ島に近いのはバルセロナとバレンシアのどちら?", "id": "tr-105-03-002", "answers": [ { "text": "バルセロナ", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "北西部のトラムンターナ山脈と南東部のリェバン山地という2本の山脈がマヨルカ島内を走っている。\nリェバン山地は標高約500mと比較的低い山地であり、美しい農村景観を持つことからトレッキングに人気がある。\nトラムンターナ山脈は南西岸から北岸にかけて90kmに渡って伸びており、1,067km2の面積を持つ。\nイベリア半島南東部のベティコ山系と連続性を持ち、北にむかうほど急峻になる。\n海に向かって劇的に標高が落ちるため、海岸には崖が形成されている。\nトラムンターナ山脈にはマヨルカ島最高峰のプッジ・マジョー(1445m)があるが、プッジ・マジョーの頂上は軍用ゾーンとなっており、民間人がアクセスできるマヨルカ島の最高地点はプッジ・ダ・マッサネーリャ(1364m)である。", "qas": [ { "question": "リェバン山地とプッジ・マジョーはどちらの標高が高いの?", "id": "tr-105-04-000", "answers": [ { "text": "プッジ・マジョー", "answer_start": 243, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "プッジ・マジョーの中で民間人がたどり着ける最高地点はどこ?", "id": "tr-105-04-001", "answers": [ { "text": "プッジ・ダ・マッサネーリャ", "answer_start": 309, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "トラムンターナ山脈内の道路状況は貧弱であるが、山脈内の村から村に渡るための多くのハイキングコースを持ち、その他には登山、ノルディックウォーキング、急流下りなどのスポーツを行うことができる。\n山脈内の多くの地域は保護地域となっており、2011年には「トラムンターナ山脈の文化的景観」がユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。\n山脈は石灰岩で構成されており、その浸食作用によって洞窟、湧き水、急流を形成、約700の湧水場がある。", "qas": [ { "question": "トラムンターナ山脈に存在する湧水場はいくつくらいあるの?", "id": "tr-105-05-000", "answers": [ { "text": "約700", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マヨルカ島北東部にはポリェンサ湾とアルクーディア湾があり、南西部にはパルマ湾がある。\nポリェンサ湾はトラムンターナ山脈の北端部に囲まれており、アルクーディア湾はリェバン山地の北端部の先にある。\n洞窟や小規模な入江はマヨルカ島の観光資源であり、それらは主に東岸に位置している。\nマヨルカ島の中央部には肥沃なマヨルカ平原が広がっており、動植物の豊かさで知られている。\n典型的な植物はマツ、トキワガシ、キャロブなどの樹木である。\nアーモンドやオリーブの栽培など、島の農業の大部分はこの平原で行われている。\n南岸はマヨルカ島の中でも乾燥して岩がちな地域であり、エス・ミグジョルンと呼ばれている。\nエス・ミグジョルンと2つの山地は島の中央部にある肥沃なマヨルカ平原を取り囲んでいる。\nマヨルカ島の沖合にあるすべての小島は行政的にパルマに属している。\n東南岸にある無人島のカブレラ島はカブレラ群島マリティメ=テレストリアル国立公園に指定されており、西岸にある無人島のドラゴネーラ島も保護地域となっている。\nマヨルカ島にあるその他の特徴的な地形には、アルファビア山地、アス・クルナドルス、フルマントール岬などがある。", "qas": [ { "question": "マヨルカ島の東南岸にある無人島とは何?", "id": "tr-105-06-000", "answers": [ { "text": "カブレラ島", "answer_start": 380, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マヨルカ島の西岸にある無人島とは何?", "id": "tr-105-06-001", "answers": [ { "text": "ドラゴネーラ島", "answer_start": 427, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イベリア半島とバレアレス諸島の間の海域はバレアレス海と呼ばれ、その最大水深は2,065mである。\nカステリョン・デ・ラ・プラナの沖合約50km、バレアレス海南西部には無人島のコルンブレテス諸島があるものの、その他に島や浅瀬は存在しない。\nイベリア半島の沿岸部から20-65kmの範囲に大陸棚が広がり、水深がもっとも深いのは中央部である。\nバレアレス海の主要な港湾都市はスペイン本土のバルセロナやバレンシア、マヨルカ島のパルマなどである。\n地中海西部には長さ900km、幅200kmに渡って平坦な海底があり、この平均水深2,000-3,000m、最大水深3,150mの海底はバレアレス深海平原と呼ばれる。\nその東端はフランスのコルシカ島とイタリアのサルデーニャ島、南端はアフリカ大陸のアルジェリア、北西端はスペインのバレアレス諸島であり、フランス本土の沖合はバレアレス深海平原には含まれない。\nフランスのローヌ川やアルジェリア北岸の海底谷から多くの堆積物が供給される。", "qas": [ { "question": "バレアレス海の最も深い地点は水深何mあるの?", "id": "tr-105-07-000", "answers": [ { "text": "2,065m", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バレアレス深海平原の最大水深は?", "id": "tr-105-07-001", "answers": [ { "text": "3,150m", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バレアレス深海平原の南端にある国とは?", "id": "tr-105-07-002", "answers": [ { "text": "アルジェリア", "answer_start": 341, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マヨルカ島の平原や山地は主に新第三紀後期(鮮新世)に形成されたとされ、バレアレス諸島は150万年前(更新世)に形成されたとされる。\nこの平原や山地は南西から北東方向に連続性を持ち、イベリア半島南東部のベティコ山系と連続性を持つ。\nマヨルカ島の地質はほぼ完全に石灰岩からなり、石灰岩は強力な浸食作用で峡谷や洞窟を形成している。\nもともと降水量に乏しい地中海性気候に高透過性の石灰岩が組み合わさっているため、大半の河川はすぐに水流が途絶える。\nマヨルカ島内には一年を通じて水を湛えている河川は存在せず、淡水資源の大部分は地下水が占めている。\n雨水は石灰岩を透過して地下水となるため、マヨルカ島に池や湖は少ない。\n地下水に極度に依存しているという点で特筆すべき地中海地域の島嶼であるとされる。", "qas": [ { "question": "マヨルカ島の地質はほぼ100%何ですか?", "id": "tr-105-08-000", "answers": [ { "text": "石灰岩", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バレアレス諸島が形成された年代はいつ?", "id": "tr-105-08-001", "answers": [ { "text": "更新世", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マヨルカ島の気候は典型的な地中海性気候であり、ケッペンの気候区分ではCsaに分類される。\n特に降水は季節性が顕著である。\n冬季には低気圧の中緯度偏西風ベルトの影響で大雨が降ることもあり、偏西風ベルトが高緯度に移動する夏季には高気圧の亜熱帯ベルトの影響を強く受け、乾燥した暑い気候となる。\nこの結果、年降水量の大半は秋季と冬季に集中し、もっとも降水量の多い時期は10月から12月である。\n年降水量は地域的な差異が大きく、南東部ではわずか300mmであるのに対して、そこから100kmも離れていない北西部のトラムンターナ山脈では1,200mmとなる。\n平原は暑い夏季と穏やかで涼しい冬季を持つが、冬季のトラムンターナ山脈は平原より温度が低くなり、しばしば降雪も見られる。", "qas": [ { "question": "マヨルカ島の南東部と北西部のトラムンターナ山脈を比べると、年降水量が多いのはどちらの地域?", "id": "tr-105-09-000", "answers": [ { "text": "北西部のトラムンターナ山脈", "answer_start": 247, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "冬場の平原とトラムンターナ山脈はどちらが寒い?", "id": "tr-105-09-001", "answers": [ { "text": "トラムンターナ山脈", "answer_start": 299, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "平地では年間300日以上が好天日とされており、古くから「地中海の楽園」と呼ばれる。\n冬季の日中の気温は摂氏10-15度と穏やかであるが、夜間には摂氏10-5度まで下がる。\n夏季の気温は摂氏約27度であり、最高気温は摂氏30-32度である。\nパルマの年平均気温(摂氏17.9度)は日本の鹿児島市とほぼ等しいが、年間の気温較差は鹿児島市と比較して遥かに少ない。\n海水の温度は夏季の8月が摂氏25度、冬季の1月・2月が摂氏16度である。\n冬季から春季には強風が吹く。\n南東風のシロッコはアフリカ大陸の砂漠からマヨルカ島に赤砂を運ぶ。\nトラムンターナ山脈はマヨルカ島を北風から守っており、マヨルカ島の気候を決定づけている。", "qas": [ { "question": "パルマの年平均気温は日本のどこの都市とほぼ同じなの?", "id": "tr-105-10-000", "answers": [ { "text": "鹿児島市", "answer_start": 142, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マヨルカ島を北風から守っている山脈とは?", "id": "tr-105-10-001", "answers": [ { "text": "トラムンターナ山脈", "answer_start": 264, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海水の温度が高いのは夏季と冬季のどちら?", "id": "tr-105-10-002", "answers": [ { "text": "夏季", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1965年のマヨルカ島の人口は40万6000人、人口密度は112人/km2であり、スペインの中でも人口密度の高い地域だった。\nマヨルカ島を含むジムネジアス群島は集居人口が多く、イビサ島などのピティウザス群島は散居人口が多かった。\nマヨルカ島の2006年の人口は790,763人、2012年の人口は869,000人であり、今日でも早いペースで人口が増加している。\nカナリア諸島のテネリフェ島とグラン・カナリア島、バレアレス諸島のマヨルカ島と、スペインには3つの規模が大きな島があり、それぞれ80-90万人の人口を有している。\nマヨルカ島はバレアレス諸島でもっとも人口が多い島である。\nバレアレス諸島全体の面積は4,992km、2007年のバレアレス諸島全体の人口は103万人であり、マヨルカ島はその面積で諸島全体の72.5%を、人口で諸島全体の78.6%を占めている。\nマヨルカ島内でもっとも人口が多い自治体はパルマ・デ・マヨルカであり、パルマに隣接するカルビア、東部の中心都市であるマナコールがパルマに続いている。\nパルマ・デ・マヨルカ都市圏はパルマを中心とする9自治体で構成されており、マヨルカ島の人口の50%以上がパルマ・デ・マヨルカ都市圏に住んでいる。", "qas": [ { "question": "マヨルカ島の人口は2006年と2012年を比較するとどちらが多いの?", "id": "tr-105-11-000", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "バレアレス諸島全体の約8割の人口を占めている島はどこ?", "id": "tr-105-11-001", "answers": [ { "text": "マヨルカ島", "answer_start": 340, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マヨルカ島の人口の約半数が居住している都市はどこ?", "id": "tr-105-11-002", "answers": [ { "text": "パルマ・デ・マヨルカ都市圏", "answer_start": 458, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マヨルカ島の人口は1965年と2006年を比較するとどちらが少ないの?", "id": "tr-105-11-003", "answers": [ { "text": "1965年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "マヨルカ島の主都であるパルマ・デ・マヨルカは、先史時代の集落の遺跡(タライオット)の上にローマ人が築いた野営地が基礎になっている。\nローマ人はその集落を「パルマリア」と呼んだ。\n西ローマ帝国の崩壊時にはヴァンダル族がパルマリアに何度も略奪行為を加えた。\nパルマリアの支配者はその後、ビザンツ帝国、後ウマイヤ朝、ムラービト朝、ムワッヒド朝、アラゴン王国などと変遷した。\nスペインの民主化後の1983年にバレアレス諸島自治州が設置されると、パルマが自治州都となった。\nマヨルカ島の南東沖にあるカブレラ島(無人島)も行政的にはマヨルカ島評議会の一部であり、パルマの自治体域に含まれている。", "qas": [ { "question": "パルマ・デ・マヨルカは元々ローマ人から何と呼ばれていたの?", "id": "tr-105-12-000", "answers": [ { "text": "「パルマリア」", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1857年時点ではスペイン第9位の4.3万人の人口を有していた。\n1887年には6.0万人(11位)、1920年には7.7万人(12位)、1950年には13.7万人(13位)、1970年には23.4万人(12位)と堅実な伸びを見せ、スペインの50県都の中でも常に上位に位置した。\n1991年には308,616人、2011年には405,318人となっている。\n夏季には各国から観光客が集まることから、「地中海の夏の首都」と呼ばれることもある。\n2008年時点ではパルマの人口の19.5%に相当する77,330人がスペイン以外の国籍であり、これはスペイン平均よりも高い比率である。\n国籍別の内訳は、アルゼンチンが5,682人、ボリビアが5,541人、ブルガリアが5,293人、コロンビアが5,200人、イタリアが5,142人、ドイツが4,724人、モロッコが3,397人などだった。", "qas": [ { "question": "2008年時点でのスペイン以外の国籍の人口が最も多いのはどこの国?", "id": "tr-105-13-000", "answers": [ { "text": "アルゼンチン", "answer_start": 297, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2008年時点でのスペイン以外の国籍の人口が最も少ないのはどこの国?", "id": "tr-105-13-001", "answers": [ { "text": "モロッコ", "answer_start": 372, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "パルマの人口は、1991年と2011年を比較するとどちらが少ないの?", "id": "tr-105-13-002", "answers": [ { "text": "1991年", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペインの50県都の中でパルマの人口順位が最も良かったのは1887年、1920年、1950年のうちのどれ?", "id": "tr-105-13-003", "answers": [ { "text": "1887年", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "初めてマヨルカ島に植民を行ったのは、紀元前8世紀頃にレバント(東部地中海沿岸地方)からやってきて多数のコロニーを築いた航海民族のフェニキア人であり、マヨルカ島は主要なフェニキア都市となっていた北アフリカのカルタゴの統制下に入った。\n紀元前700年から紀元前145年のバレアレス諸島はフェニキア人によって支配され、マヨルカ島にやってきたフェニキア人は地中海西部で精力的に交易活動を行った。\nフェニキア人の時代にバレアレス諸島の商業中心地となったのはイビサ島のエイビッサであり、マヨルカ島はわずかな役割を果たしたに過ぎなかったが、ポエニ戦争で投石手としてカルタゴのために戦ったマヨルカ人の存在が文献に記載されている。\nバレアレス諸島の名称は「投石」を意味するギリシア語の「ballerin」に由来すると指摘する歴史学者もいる。\n侵略者から領土を守る唯一の防衛手段が投石だったため、マヨルカ人投石手は優れた投石技術でよく知られている。", "qas": [ { "question": "初めてマヨルカ島に植民を行った民族は?", "id": "tr-105-14-000", "answers": [ { "text": "フェニキア人", "answer_start": 64, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェニキア人はどこからやって来てマヨルカ島に住み始めたの?", "id": "tr-105-14-001", "answers": [ { "text": "レバント", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "バレアレス諸島地域からやってくる海賊との戦いに疲れたローマ人は、紀元前123年にクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス率いる軍隊を送ってマヨルカ島を征服し、約550年に渡るローマ時代が幕を開けた。\nバレアレス諸島がキリスト教化されたのはこの2世紀のことである。\nローマ時代には北岸のポリェンティア(現在のアルクーディアの近く)と南岸のパルマリア(現・パルマ・デ・マヨルカ)という2つの都市があったとされている。\n加えて、建設がローマ以前に遡る北部のボッチョリスの町は、古代ローマの連合市となった。\nローマ時代にはオリーブやブドウの栽培、岩塩の採掘などがマヨルカ島の経済を支えていた。\nマヨルカ人兵士は投石の技術がローマ帝国内で評価された。", "qas": [ { "question": "バレアレス諸島がキリスト教化されたのはいつ?", "id": "tr-105-15-000", "answers": [ { "text": "2世紀", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ローマ時代に北岸にあった都市とは?", "id": "tr-105-15-001", "answers": [ { "text": "ポリェンティア", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古代ローマ文明を終わらせた原因については諸説あるが、5世紀の小氷期が引き金になったという説がある。\nグンデリック王が率いるヴァンダル族は、406年に凍結したライン川を渡り、409年にはピレネー山脈を越え、419年にはイベリア半島西部に国を建てた。\n425年には当時ヒスパリスと呼ばれたセビージャとカルタゴの間で、西ローマ帝国の目を盗んで密貿易を行い、427年にバレアレス諸島を荒掠した。\nグンデリックの息子ゲイセリックは地中海においてカルタゴ、シチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島、バレアレス諸島に版図を築き、イタリア半島の沿岸集落と密貿易したり海賊行為をしたりする際の基地としてマヨルカ島を利用した。\nヴァンダル族はキリスト教徒を迫害した。", "qas": [ { "question": "ゲイセリックの父親の名は?", "id": "tr-105-16-000", "answers": [ { "text": "グンデリック", "answer_start": 194, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァンダル族の王は誰だったの?", "id": "tr-105-16-001", "answers": [ { "text": "グンデリック", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァンダル族はどこの地域に国を建てた?", "id": "tr-105-16-002", "answers": [ { "text": "イベリア半島西部", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "地中海世界の中世は、信仰を統治原理にした3勢力、ギリシア正教/イスラーム/カトリックのめまぐるしい交替劇に彩られる。\nマヨルカ島もこの例に漏れないが、少なくとも中世の前半期は、いずれの勢力が支配した場合であっても島には半独立的な地位が認められた。\nヴァンダル王国を討った将軍フラビオス・ベリサリオスは、配下のアッポロニオスをバレアレス諸島に派遣し、534年前後にマヨルカ島をビザンツ帝国の版図に入れた(cf.ヴァンダル戦争)。\n以後、10世紀初頭に至るまでの500年間弱、島は名目上ビザンツ帝国領になったが、中核的な先住島民へのギリシア正教の影響は限定的であった。\nビザンツ人はバレアレス諸島の各島にギリシア正教の教会を建て、それぞれに司祭を派遣したが、先住島民の教化は非常にゆっくりしたものであったと見られる。\nマヨルカ島と似たシチュエーションにあったコルシカ島とサルデーニャ島ではビザンチン時代の終わりごろでもまだ、伝統宗教(ペイガニズム)の信仰が強く残っていた。\n20世紀末から実施されるようになったビザンツ時代のギリシア正教の教会址の考古学的調査によれば、タライオット集落、ローマ人の植民市、ヴァンダル族の集落のいずれとも重ならない位置に立地しており、先住島民とのつながりが希薄であった可能性が示唆される。", "qas": [ { "question": "ヴァンダル王国を討った将軍とは?", "id": "tr-105-17-000", "answers": [ { "text": "フラビオス・ベリサリオス", "answer_start": 137, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バレアレス諸島の各島にギリシア正教の教会を建てた民族とは?", "id": "tr-105-17-001", "answers": [ { "text": "ビザンツ人", "answer_start": 283, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "かつてマウレタニアと呼ばれた北アフリカのマグリブで遊牧生活を営んでいたベルベル人は、8世紀より前はキリスト教などを信仰していたようであるが東方から来たウマイヤ朝によるマグリブの征服後、イスラームを受容した。\nイスラーム化及びアラブ化したベルベル人であるムーア人とウマイヤ朝軍はイベリア半島を征服した。\nバレアレス諸島にも707年にムスリム軍が来襲し、地元の首長が何人かダマスカスまで捕虜として連行された。\nムスリム軍は一時期南仏まで攻めたが、789年ごろにはフランク王シャルルマーニュにピレネー山脈まで押し戻された。\nフランク王国の年代記には、セプティマニアを手に入れたシャルルマーニュの宮廷に、バレアレス諸島が海賊の来襲を受けているという知らせが入ったと記されている。\n798年にマヨルカ島のキリスト教の修道会士からもたらされたこの知らせにおいて、海賊は「サラセン人とムーア人」であるとされている。", "qas": [ { "question": "ベルベル人は元々何を信仰していたの?", "id": "tr-105-18-000", "answers": [ { "text": "キリスト教", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マグリブの征服後、ベルベル人は何を信仰し始めたの?", "id": "tr-105-18-001", "answers": [ { "text": "イスラーム", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ベルベル人の元々の生活圏はどこだったの?", "id": "tr-105-18-002", "answers": [ { "text": "マグリブ", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イスラーム化したムーア人とウマイヤ朝軍が征服した地とは?", "id": "tr-105-18-003", "answers": [ { "text": "イベリア半島", "answer_start": 138, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "アドルフ・ヒトラーの死", "paragraphs": [ { "context": "アドルフ・ヒトラーの死の項目では、1945年4月30日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが総統地下壕の一室で、夫人のエーファ・ブラウンとともに自殺を遂げた経緯について記述する。\n\n自殺の手段は、拳銃と劇薬であるシアン化物を複合的に用いたものとされている。ヒトラーの生前の意向に従い、夫妻の死体はガソリンをかけて燃やされたが、その残骸は赤軍により発見、回収された。ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨された。これらの情報は、冷戦終結後の1992年に旧ソ連のKGBと後継組織であるロシアのFSBに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。", "qas": [ { "question": "ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが自殺を遂げたのはいつですか。", "id": "tr-106-00-000", "answers": [ { "text": "1945年4月30日", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アドルフ・ヒトラーの自殺の手段はシアン化物と何だったか。", "id": "tr-106-00-001", "answers": [ { "text": "拳銃", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1970年、完全に焼却されたヒトラーの死体はどの川に散骨されましたか。", "id": "tr-106-00-002", "answers": [ { "text": "エルベ川", "answer_start": 231, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "戦況の悪化を受け、ヒトラーは1945年1月16日から総統地下壕に居を移しており、以降ここから統括を行っていた。ドイツ指導部は、ベルリンの戦いがヨーロッパ戦線における最後の戦いとなることを認識していた。3月中旬、ハンガリーの油田確保の名目で行われた春の目覚め作戦では、赤軍の反撃によりドイツ軍はオーストリアまで潰走し、大規模な反攻作戦はここに全て終わった。アメリカ軍は4月11日までにベルリンの西方100キロに位置するエルベ川を渡った。4月18日にはルール地方のB軍集団の32万5,000人もの将兵が降伏し、捕虜となった。この降伏により、アメリカ軍がベルリンに進撃することが可能となった。東部戦線では4月16日、赤軍がオーダー川を渡り、ベルリンを守る最終防衛線であるゼーロウ高地を突破するための戦いを開始していた。4月19日までにはドイツ軍がゼーロウ高地から全面撤退し、ベルリン東方の防衛線は消滅した。ヒトラー56歳の誕生日である4月20日、ベルリンが初めて赤軍による砲撃を受けた。4月21日の夜までには、ベルリンの郊外に赤軍の戦車部隊が到達した。側近や国防軍首脳部の一部は、ヒトラーに南部のベルヒテスガーデンへの疎開を進言したが、彼はそれを拒否した。", "qas": [ { "question": "ヒトラーの誕生日はいつですか。", "id": "tr-106-01-000", "answers": [ { "text": "4月20日", "answer_start": 414, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "戦況の悪化によって、ヒトラーが総統地下壕に居を移したのはいつからですか。", "id": "tr-106-01-001", "answers": [ { "text": "1945年1月16日", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "4月22日午後の軍事情勢会議においてヒトラーは、フェリックス・シュタイナーSS大将が率いる「シュタイナー軍集団」が、前日にヒトラーから与えられたベルリン救援のための攻撃命令を実行していないと知らされたことで、明らかな神経衰弱に陥った。ヒトラーは感情を抑えられなくなり、ドイツ軍司令官たちの不忠と無能さを怒りに任せて非難し、ついには戦争に敗北したことを初めて認めるに至った。さらに自分はあくまでもベルリンにとどまり、最後には銃で自決すると宣言した。ヒトラーはその後、軍医であったヴェルナー・ハーゼSS中佐に、確実な自殺方法を教えてほしいと依頼した。ハーゼは「ピストルと毒」による自殺を提案し、シアン化物の服用と、頭に銃弾を撃ち込むことの併用を勧めた。ヒトラーが自殺を決めたことを知ったヘルマン・ゲーリング国家元帥は、自身を後継者に指名した1941年の総統布告に基づいて、国家指揮権を自身に移譲するよう求める電報をヒトラーに送った。この電報を受けた官房長のマルティン・ボルマンは、ゲーリングがクーデターを企てているとヒトラーに説き、彼もゲーリングの反逆を確信した。ヒトラーはゲーリングに返信し、全官職を辞さない限り処刑されることになると伝えた。同日、ヒトラーは彼をすべての官職から解任したうえで逮捕令を出した。", "qas": [ { "question": "「シュタイナー軍集団」を率いたのは誰ですか。", "id": "tr-106-02-000", "answers": [ { "text": "フェリックス・シュタイナーSS大将", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒトラー誰に確実な自殺方法を教えてほしいと依頼したの?", "id": "tr-106-02-001", "answers": [ { "text": "ヴェルナー・ハーゼSS中佐", "answer_start": 238, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴェルナー・ハーゼSS中佐がヒトラーに提案した自殺方法はどんな毒を用いることでしたか。", "id": "tr-106-02-002", "answers": [ { "text": "「ピストルと毒」", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "4月30日の昼、ヒトラーは秘書官ユンゲとゲルダ・クリスティアン、専属料理人のコンスタンツェ・マンツィアーリーの4人で最後の食事となる昼食をとった。献立は野菜のスープとマッシュポテトであったとも、ラビオリであったとも言われている。食事を終えたヒトラーとエーファは、地下壕のスタッフや、ゲッベルス一家やマルティン・ボルマン一家、秘書官や国防軍の将校らに最後の別れを告げた。14時30分ごろ、ヒトラーとエーファは執務室の奥にある居間に入っていった。「15時30分ごろに大きな銃声を聞いた」と、複数の証人がのちに伝えている。数分待って、ヒトラーの世話係であった総統護衛部隊のハインツ・リンゲSS中佐が、ボルマンの立ち合いのもと居間のドアを開けた。すぐに焦げたアーモンドの匂いに気付いたと、リンゲはのちに証言している。これは青酸(シアン化水素水溶液)の一般的な特徴として知られている。ヒトラーの副官のオットー・ギュンシェSS少佐が居間に入り、ソファに腰かけた2人の死体を確認した。エーファの死体はヒトラーの左手にあり、膝を胸に抱え込んだ姿勢で、彼から遠ざかるように倒れていた。ヒトラーの死体の状態についてギュンシェは「ぐったりと座っており、右のこめかみからは血が滴っていた。彼はワルサーPPK7.65で自らを撃ったのだ」と述べた。今日では、ヒトラーはまずシアン化物のカプセルを噛み砕き、すぐに右のこめかみをピストルで撃ったものと考えられている。\n\n自殺に使われたピストルはヒトラーの足元に落ちていた。彼の頭から滴った血が、居間の床に血だまりをつくっていた。総統護衛部隊員のローフス・ミシュSS曹長によれば、ヒトラーの頭部は前方のテーブルの上に横たわっていたという。リンゲの証言では、エヴァの死体には外傷が見当たらず、その顔からはシアン化物を用いて服毒自殺したことが見て取れた。", "qas": [ { "question": "ヒトラーが秘書官ユンゲとゲルダ・クリスティアン、専属料理人のコンスタンツェ・マンツィアーリーの4人で最後の食事をとったのはいつですか。", "id": "tr-106-03-000", "answers": [ { "text": "4月30日の昼", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ぐったりと座っており、右のこめかみからは血が滴っていた。彼はワルサーPPK7.65で自らを撃ったのだ」と発言した人は誰ですか。", "id": "tr-106-03-001", "answers": [ { "text": "ギュンシェ", "answer_start": 497, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヒトラーの専属料理人は誰なの?", "id": "tr-106-03-002", "answers": [ { "text": "コンスタンツェ・マンツィアーリー", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "5月4日、スメルシの指揮官イワン・クリメンコにより、ヒトラーとエーファ、そして犬2匹(ブロンディとその子ヴルフと考えられている)のひどく焼けた死体が発見された。ヒトラーらの亡骸は砲弾のクレーターに埋もれており、翌日に掘り起こされた。スターリンはヒトラーの死を確信するのに慎重を期しており、その情報を公に発表することを禁止した。1945年5月11日までに、ヒトラーの歯科医フーゴ・ブラシュケ、歯科助手のケーテ・ホイザーマン、歯科技師のフリッツ・エヒトマンらにより、クレーターから回収された歯の残骸がヒトラーとエヴァのものであることが確認され、回収された下顎が、ヒトラーのものであることが証明された。公式な検死報告書には、銃弾によるヒトラーの頭蓋骨の損傷、口腔内のガラス破片の両方について記録されており、スターリン自身が1945年に認可したが、彼は大敵の死を容易には信じようとしなかった。ヒトラーとエヴァの遺骸は、スメルシによって埋めたり掘り出されたりを繰り返した。ヒトラーらの遺骸は当初、1945年6月上旬にベルリン西方の森に墓標なしで埋められたが、その後再び掘り出され、最初の埋葬から8か月後、マクデブルクの赤軍駐屯地に秘密裏に埋葬された。", "qas": [ { "question": "ヒトラーの死体を発見した人は誰ですか。", "id": "tr-106-04-000", "answers": [ { "text": "イワン・クリメンコ", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒトラーの死体が発見されたのは何月何日ですか。", "id": "tr-106-04-001", "answers": [ { "text": "5月4日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒトラーの歯科医は誰でしたか。", "id": "tr-106-04-002", "answers": [ { "text": "フーゴ・ブラシュケ", "answer_start": 185, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒトラーの遺骸は最初の埋葬から何ヶ月後、マクデブルクの赤軍駐屯地に秘密裏に埋葬されたか。", "id": "tr-106-04-003", "answers": [ { "text": "8か月後", "answer_start": 492, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "政治的な目的から、ソ連はヒトラーの運命について諸説を発表した。1945年以降の数年間、ソ連はヒトラーが逃走して生存しており、西側諸国によって保護されていると主張していた。このようなソ連の策略により、西側関係者の間にもヒトラーの生死について一時的な混乱がもたらされた。ニュルンベルク裁判におけるアメリカの検事トーマス・J・ドッドは、「ヒトラーが死んだと言い切ることは誰にもできない」と述べた。ポツダム会談中の1945年8月、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはスターリンに「本当にヒトラーは死んだのか」と質問したが、彼はぶっきらぼうに「ノー」とだけ返答した。1945年11月、ベルリンのイギリス占領地区における防諜部門のトップであったディック・ホワイトは、部下のヒュー・トレヴァー=ローパーにヒトラーの死についての調査を行うよう命令し、ソ連のヒトラーが西側で生存しているという主張への反証を試みた。トレヴァー=ローパーによる調査の成果は1947年に本として出版された。\n\nなおドイツの同盟国であった日本は、先に死去したアメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の死去に際しては、外交儀礼に則り鈴木貫太郎首相の名で正式に弔意を示す声明を発表したものの、ヒトラー自殺の報に際しては、声明の発表や半旗の掲揚は行わなかった。駐日ドイツ大使館は、判明している限りでは世界の公的機関で唯一ヒトラーの追悼式を行ったが、日本政府は外務省の儀典課長を参列させただけであった。『朝日新聞』は訃報に「ヒ総統薨去」の見出しを用い、外務省政務局の「世界情勢ノ動向」においても「『ヒットラー』総統薨去」の表現を用いている。", "qas": [ { "question": "「ヒトラーが死んだと言い切ることは誰にもできない」と発言したのは誰か。", "id": "tr-106-05-000", "answers": [ { "text": "トーマス・J・ドッド", "answer_start": 153, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トレヴァー=ローパーによる調査の成果はいつ本として出版されましたか。", "id": "tr-106-05-001", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 418, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1970年には、スメルシの施設はKGBのコントロール下、東ドイツ政府に移譲される予定だった。ヒトラーの埋葬場所がネオナチの聖地になることを恐れ、KGB議長のユーリ・アンドロポフは部隊に遺骸を破壊する許可を与えた。ソビエトのKGBチームは詳細な埋葬場所を指示され、1970年4月4日秘かに10体の遺骸を掘り出し完全に焼却して灰をエルベ川に散骨した。\n\nこの1年前の1969年にソビエトのジャーナリスト、レヴ・ベジメンスキー(LevBezymensky)が、スメルシの検視レポートに基づき西側で本を出版した。しかし初期の情報攪乱のため、歴史家はその情報の信頼性に疑いを持つ場合がある。\n\nしかしソ連崩壊後の1993年に、KGB(FSB)が、KGBの元メンバーによる公的検死記録その他の報告書を公表した。これらにより歴史家は、ヒトラーとエヴァの死体のその後について見解の一致に達した。また、これによりトレヴァー=ローパーの1947年の著書『TheLastDaysofHitler』で示されたヒトラーの死についての見解が裏付けられた。", "qas": [ { "question": "『TheLastDaysofHitler』の著者は誰ですか。", "id": "tr-106-06-000", "answers": [ { "text": "トレヴァー=ローパー", "answer_start": 397, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "伊那市立図書館", "paragraphs": [ { "context": "伊那市立図書館(いなしりつとしょかん)は、長野県伊那市の公共図書館。\n2006年(平成18年)には旧伊那市、上伊那郡高遠町、上伊那郡長谷村の1市1町1村が合併して新伊那市が発足した。\n伊那市立図書館は旧伊那市域にある伊那図書館と旧高遠町域にある高遠町図書館の2館に加えて公民館図書室6室からなる。", "qas": [ { "question": "伊那市立図書館の所在している県はどこ?", "id": "tr-107-00-000", "answers": [ { "text": "長野県", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "伊那市立図書館に属している図書館は伊那図書館と何?", "id": "tr-107-00-001", "answers": [ { "text": "高遠町図書館", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "館長には教員経験者などを起用していたが、2007年には長野県の公立図書館として初めて館長を全国公募した。\n東京で法務・経営企画マネージャーなどを務め、2002年に伊那市に移住していた平賀研也が館長に就任。\n平賀は「“伊那谷の屋根のない博物館”の“屋根のある広場”」を目標に掲げている。\n平賀の後には、2013年度までに軽井沢町立図書館(軽井沢町)、塩尻市立図書館、小布施町立図書館、佐久市立図書館(佐久市)、市立大町図書館でも公募館長または招聘館長が就任している。\n2010年時点の年間予算は1億円強。\n入館者の18%は伊那市以外の自治体在住者である。", "qas": [ { "question": "2007年の全国公募の中から館長に選ばれた人は誰?", "id": "tr-107-01-000", "answers": [ { "text": "平賀研也", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "図書館の枠組みを超えた発信によって図書館の可能性を広げる活動が評価され、2013年10月には第15回図書館総合展で最終選考会が行われたLibraryoftheYearの大賞を受賞した。\nLibraryoftheYearは知的資源イニシアティブが主催し、図書館にかかわる先進的な取り組みを顕彰するものである。\n長野県の図書館としては、2年前の2011年に小布施町立図書館まちとしょテラソが大賞を受賞している。", "qas": [ { "question": "2013年10月には何の大賞を受賞したの?", "id": "tr-107-02-000", "answers": [ { "text": "LibraryoftheYear", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "伊那市立図書館よりも以前にLibraryoftheYearの大賞を受賞した施設はどこ?", "id": "tr-107-02-001", "answers": [ { "text": "小布施町立図書館まちとしょテラソ", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "伊那市立図書館を除く2013年の優秀賞は千代田区立日比谷図書文化館、長崎市立図書館、まち塾@まちライブラリーだったが、伊那市立図書館は審査員票のほとんどを獲得した。\n川口市メディアセブンでディレクターを務める氏原茂将は、伊那市立図書館が「今後の図書館のあり方」について他に先んじていると評価した。\n図書館が住民と協同で知識や情報を発掘し、図書館の新たな機能を見出しているとしている。\n審査員を務めた情報学者の高野明彦は、対照的なコンセプトを持つ伊那市立図書館とまちライブラリーのアプローチが重なる場所に新たな図書館が生まれるのではないかと指摘している。", "qas": [ { "question": "伊那市立図書館と長崎市立図書館はどちらの方が審査員票を多く獲得しましたか?", "id": "tr-107-03-000", "answers": [ { "text": "伊那市立図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2009年(平成21年)には図書館地域通貨「りぶら」を用いたイベント「ぶら・りぶら」を初開催し、2015年まで毎年開催している。\nこの地域通貨は上伊那図書館から生まれた除籍本の引換券、一棚古本市の割引券、商店街での割引券などとして使用することができる。\n参加者は軒先に書棚が置かれた商店街を歩き回り、図書館通貨を除籍本や古本と交換する過程で、地域と図書館の関係を再発見する。", "qas": [ { "question": "「りぶら」とは何?", "id": "tr-107-04-000", "answers": [ { "text": "図書館地域通貨", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ぶら・りぶら」が初めて行われた年はいつ?", "id": "tr-107-04-001", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「高遠ぶらり」はiPadやスマートフォンで地図を閲覧するアプリケーションであり、GPSを用いて古地図や絵図に現在地を表示したり、古地図や絵図と現代の地図を切り替えながら街歩きを行うことができる。\n図書館がプロジェクトオーナーとなった政策委員会方式でアプリの開発やワークショップの開催を行い、図書館職員のほかには観光ガイド、郷土史家、デザイナー、エンジニア、学生などさまざまな属性の市民が参加者に名を連ねている。\n街歩きワークショップや観光客向けウォークラリーを行い、年2回のアップデートで掲載する地図を増やしている。\nデジタル化した情報を再び街歩きに活かし、地域住民による能動的な情報収集・発信を支援している。\n高遠藩内藤家の下屋敷が新宿御苑にあった縁で、2013年には新宿御苑周辺もアプリに加えられ、新宿区立四谷図書館が街歩きイベントなどに活用している。", "qas": [ { "question": "高遠町の地図をiPadやスマートフォンで閲覧できるアプリケーションの名前は何?", "id": "tr-107-05-000", "answers": [ { "text": "「高遠ぶらり」", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "伊那市ふるさと大使の田畑貞寿と森田芳夫から寄贈された専門書を軸にして、関係する図書や資料に加えて地域活動の情報も収集したのが「伊那谷自然環境ライブラリー」である。\n地域の自然・歴史・文化を「屋根のない博物館」ととらえ、地域の発展を考えたエコミュージアム構想を提言。このコーナーには情報の窓口としての役割を持たせた。\n新刊書コーナーに次いで回転率が良いという。\n2009年(平成21年)7月には図書に加えて家具や昆虫標本なども展示した「自然がくらしをささえ、くらしが自然をつくる」を開催し、シンポジウムも行った。\n2010年夏には伊那市内の平地林で「森をきく、森にかたる」を開催し、詩や短歌の発表、火起こし体験、建築士を招いてのワークショップなどを行った。", "qas": [ { "question": "田畑貞寿と森田芳夫の伊那市での肩書は何ですか?", "id": "tr-107-06-000", "answers": [ { "text": "伊那市ふるさと大使", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「自然がくらしをささえ、くらしが自然をつくる」が開催された年はいつでしたか?", "id": "tr-107-06-001", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 180, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2009年8月29日・30日には斉木博司や北尾トロなどが高遠で営業していた古本屋「本の家」などが主体となって、高遠ブックフェスティバルが開催された。\n古書で町おこしを図ったイギリスのヘイ・オン・ワイを目標に掲げ、「本の町」高遠のアピールを狙った。\n長野県内外の古書店を招待して町中に本棚を置き、角田光代、いしいしんじ、熊田俊郎、都築響一、飯沢耕太郎などを招いてトークイベントやシンポジウムを行った。\n高遠町図書館はこのイベントに除籍本を提供し、イベントのひとつとして百人一首大会を手掛けた。\n2010年9月18日から23日には第2回高遠ブックフェスティバルが開催され、高遠町図書館は独自のプログラムを展開した。\n2011年には「高遠・週末本の町」に名称を変更。\n斉木や北尾はこの年限りで高遠から「本の家」を引き上げたが、町民がイベントの主体となることで高遠町図書館の重要性が増し、2012年には大掛かりなイベントではなく古書の販売会などを中心とした第4回高遠ブックフェスティバルを開催した。\n2013年以後も高遠ブックフェスティバルは毎年開催されている。", "qas": [ { "question": "高遠ブックフェスティバルが開催された年はいつでしたか?", "id": "tr-107-07-000", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "製糸業の実業家である武井覚太郎はヨーロッパを視察する中で図書館の必要性を実感し、十数万円を投じて上伊那図書館を建設して上伊那教育会に寄贈した。\n1930年12月17日には財団立の上伊那図書館が開館。\n武井は片倉製糸の常務や上伊那銀行の頭取を務めたほか、長野県上伊那郡組合立伊北農蚕学校の設置に尽力し、上伊那郡伊那富村(現・辰野町)の村長、長野県議会議員、貴族院議員として政界でも活躍している。\n建物の玄関脇には武井の胸像が建っている。", "qas": [ { "question": "上伊那図書館の建設者は誰でしたか?", "id": "tr-107-08-000", "answers": [ { "text": "武井覚太郎", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "武井はどこの地域を視察した事をふまえて、図書館の必要性を実感したの?", "id": "tr-107-08-001", "answers": [ { "text": "ヨーロッパ", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "上伊那図書館が開館した年はいつ?", "id": "tr-107-08-002", "answers": [ { "text": "1930年", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "上伊那図書館は伊那市唯一の洋館であり、外装にはレンガが用いられているほか、スチーム暖房を備えている。\n開館時には伊那町図書館の蔵書全433冊が寄贈されている。\n開館当日の信濃毎日新聞は「壮麗完備天下に誇る」と伝え、上伊那図書館はその後の約70年間にわたって上伊那地方の教育・文化の中心であり続けた。\n戦前の長野県は図書館活動が盛んであり、特に青年団が運営する私立図書館が多かった。", "qas": [ { "question": "伊那町立図書館は上伊那図書館に何冊の蔵書を寄贈したの?", "id": "tr-107-09-000", "answers": [ { "text": "433冊", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1936年(昭和11年)の「日本帝国文部省年報」によると、長野県には全国第1位の343館の図書館があり、私立館(252館)の数は他県を圧倒していた。\n太平洋戦争中の上伊那図書館は名古屋市蓬左文庫の図書や徳川美術館の美術品などの疎開先となり、戦後には進駐軍に接収された時期もあった。\n戦後の長野県は1949年まで占領軍の指令下に置かれたため、軍国主義的図書を閲覧禁止とする措置などが採られた。", "qas": [ { "question": "1936年当時、長野県の図書館と私立館の数はどちらが多かったの?", "id": "tr-107-10-000", "answers": [ { "text": "図書館", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1950年(昭和25年)には図書館法が施行され、青年団図書館や私立図書館の多くは自治体の公民館図書部に吸収されたが、上伊那図書館は県下15館の法定図書館のうちわずか2館の私立図書館のひとつとして残った。\n1960年時点の上伊那図書館の蔵書数は25,829冊である。\n『昭和54年度長野県公共図書館概況』によると、1979年の長野県には32館の法定図書館があったが、うち31館は市町村立図書館であり、上伊那図書館は長野県にただ一つ残る財団立図書館だった。", "qas": [ { "question": "長野県で唯一の財団立図書館は何ですか?", "id": "tr-107-11-000", "answers": [ { "text": "上伊那図書館", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "図書館法の施行年はいつでしたか?", "id": "tr-107-11-001", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1994年(平成6年)に公立の伊那市立図書館が開館すると、財団立の上伊那図書館は2003年に閉館となり、2004年には管理が伊那市に移管されている。\n伊那市は合併特例債やまちづくり交付金を活用し、9億6000万円を投じて本館の改修と収蔵庫の新設を行った。\n2010年5月24日に伊那市創造館として開館し、神子柴遺跡から出土した石器、顔面付釣手形土器(いずれも重要文化財)などが常設展示されている。", "qas": [ { "question": "伊那市が上伊那図書館の改修と収蔵庫の新設にかけた金額はどれくらいでしたか?", "id": "tr-107-12-000", "answers": [ { "text": "9億6000万円", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1977年の第17回上伊那母親大会を契機として、伊那市の6か所に地域文庫が誕生した。\n1978年10月には教育委員会によってこれらの地域文庫に図書購入費が付けられ、地域文庫はさらに数を増やしている。\n伊那地域文庫連絡会は児童文学者・絵本作家・絵本画家などを招いた講演会を開催し、田島征三、いわむらかずお、古田足日、神沢利子などが伊那市で講演を行っている。\n名古屋市鶴舞中央図書館の見学ツアーなどを開催するなどする中で、1985年4月には「伊那図書館を考える会」に発展した。", "qas": [ { "question": "伊那市に地域文庫が生まれたのは何年ですか?", "id": "tr-107-13-000", "answers": [ { "text": "1977年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1989年時点の長野県内17市の中で、市立図書館を持たないのは伊那市だけだった。\n伊那市は1989年に図書館建設基本計画を策定。\n建設地は上伊那図書館の用地が有力であり、上伊那図書館は用地を無償で貸与する意向を示していたが、敷地面積確保や文化財保護の観点から上伊那図書館の用地は困難となり、1991年12月には建設地を伊那市営中央駐車場の一角とすることを決定した。\n市営中央駐車場の東側半分に建物を建設し、西側半分は駐車場として使用している。", "qas": [ { "question": "長野県内で唯一、市立図書館がなかった市はどこでしたか?", "id": "tr-107-14-000", "answers": [ { "text": "伊那市", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1992年10月31日に着工し、1993年12月28日に竣工。\n1994年1月25日に竣工式が行われ、1月31日には図書館より一足早く市民サービスコーナーを開設した。\n4月には貸出カードの受付を開始し、7月1日に伊那市立図書館が開館した。\n総工費は13億3436万5000円。\n建物は鉄筋コンクリート造3階建であり、延床面積は3,079.33m2である。\n1999年7月、伊那市役所ウェブサイト内で伊那市立図書館の蔵書検索サービスを開始した。", "qas": [ { "question": "伊那市立図書館の総工費はいくらでしたか?", "id": "tr-107-15-000", "answers": [ { "text": "13億3436万5000円", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "伊那市立図書館の延床面積は?", "id": "tr-107-15-001", "answers": [ { "text": "3,079.33m2", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "伊那市立図書館の建物は何階建てですか?", "id": "tr-107-15-002", "answers": [ { "text": "3階", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "伊那市立図書館の竣工式はいつ行われましたか?", "id": "tr-107-15-003", "answers": [ { "text": "1994年1月25日", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1階は児童図書室や視聴覚室などであり、児童図書室は2万冊を収納できる。\n2階は一般図書室やレファレンス室(郷土資料)などであり、一般図書室は6万冊を、レファレンス室は2万冊を収納できる。\n3階の書庫は10万冊を収容可能。\n館全体で計20万冊の蔵書能力を持つ。\n『長野県の公共図書館』によると、1995年当時の蔵書数は66,293冊、雑誌294冊、新聞29紙、視聴覚1,816タイトルだった。", "qas": [ { "question": "児童図書室、一般図書室、レファレンス室の中で収納冊数が最も多いのはどこ?", "id": "tr-107-16-000", "answers": [ { "text": "一般図書室", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "児童図書室、一般図書室、レファレンス室の中で収納冊数が同じなのはレファレンス室とどこ?", "id": "tr-107-16-001", "answers": [ { "text": "児童図書室", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2階の中で収納冊数が最も多い部屋はどこ?", "id": "tr-107-16-002", "answers": [ { "text": "一般図書室", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1995年当時の雑誌の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "tr-107-16-003", "answers": [ { "text": "294冊", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1996年には東春近分館(春近郷ふれ愛館図書室)を開設、1999年には富県分館(富県ふるさと館図書室)を開設、2001年には手良図書室を開設している。\n2006年には旧伊那市・高遠町・長谷村が合併して新伊那市が発足した。\n合併にともなって、伊那市立図書館は伊那市立伊那図書館に改称している。\n2007年には旧長谷村域に長谷分館(長谷公民館図書室)が設置され、2008年には美篶分館(美篶きらめき館図書室)が設置され、2014年には西箕輪分館(西箕輪公民館)が設置された。", "qas": [ { "question": "最も開設が早かったのは、手良図書室、東春近分館、富県分館のどれですか?", "id": "tr-107-17-000", "answers": [ { "text": "東春近分館", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "西箕輪分館、長谷分館、美篶分館の中で一番遅く設置されたのはどこ?", "id": "tr-107-17-001", "answers": [ { "text": "西箕輪分館", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "長谷分館と美篶分館はどちらが先に設置されたの?", "id": "tr-107-17-002", "answers": [ { "text": "長谷分館", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新伊那市に合併された村はどこですか?", "id": "tr-107-17-003", "answers": [ { "text": "長谷村", "answer_start": 92, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "高遠藩の藩儒である中村元恒と、鉾持神社の神官であり国学者でもある井岡良古は、収集した書物を失うことを憂慮していた。\n文政13年(1830年)には中村と井岡が共同で、漢籍を中心とする鉾持文庫を鉾持神社に設置。\n下野国足利荘(現・栃木県)の足利学校に倣って史書・経典・小説などを収集し、学者の研究に提供した。\n蔵書は学者からの寄付や藩主の後援によって収集されている。\n鉾持文庫は後に高遠文庫と改称し、進徳館設置の折には蔵書すべてが寄贈されている。\n高遠文庫は書物を収集・保存・利用した伊那谷初の施設だった。", "qas": [ { "question": "鉾持神社の井岡良古は神官でありながら何の肩書を持っていましたか?", "id": "tr-107-18-000", "answers": [ { "text": "国学者", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鉾持文庫はどこに設置されたの?", "id": "tr-107-18-001", "answers": [ { "text": "鉾持神社", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鉾持文庫が設置されたのは西暦何年?", "id": "tr-107-18-002", "answers": [ { "text": "1830年", "answer_start": 64, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "万延元年(1860年)、高遠藩第8代(最後)藩主の内藤頼直は高遠藩の藩校として高遠藩学問所(進徳館)を開き、館内に進徳館文庫を設置した。\n内藤頼直は高遠文庫から寄贈された660部・3,388冊を進徳館文庫に交付し、さらには江戸の藩邸から1,300冊を送付。\nその後も毎年交付を行い、1869年(明治2年)の版籍奉還の際には978部・7,113冊となっていた。\n個人では入手が困難な文献もあり、進徳館文庫には文庫司(司書)もいたようである。\n進徳館文庫の中身は進徳館が流れを受けている陽明学の図書が多い。\nこの中には中国・明の時代に印刷された『文献通考』(80冊)などもあり、日本で欠本なしに所蔵しているのは進徳館文庫だけであるという。\n1871年(明治4年)の廃藩置県で進徳館は閉鎖された。", "qas": [ { "question": "進徳館文庫の設置者は誰ですか?", "id": "tr-107-19-000", "answers": [ { "text": "内藤頼直", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "内藤は江戸から何冊の本を進徳館文庫に送りましたか?", "id": "tr-107-19-001", "answers": [ { "text": "3,388冊", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "内藤が交付した文庫の数が多かったのは1860年と1869年のどちらでしたか?", "id": "tr-107-19-002", "answers": [ { "text": "1869年", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1869年に交付した文庫の数は何冊でしたか?", "id": "tr-107-19-003", "answers": [ { "text": "7,113冊", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "廃藩置県後には上屋敷のあった東高遠の人口や財力が急落し、商人が多かった西高遠の人口や財力が相対的に強まった。\n進徳館は東高遠にあったが、筑摩県は学校の設置場所を西高遠としたため、1872年(明治5年)に学制が公布されると東高遠と西高遠の間で対立が起こった。\nこの騒動で進徳館文庫4,473冊は筑摩県預かりとなり、1874年(明治7年)1月には書籍が馬の背に乗せられて松本に送られた。\n進徳館文庫は筑摩県から長野県に引き継がれ、その後長野師範学校に移された。\n筑摩県に送られる際に使用中だった書籍2,071冊は高遠が「借用」している。", "qas": [ { "question": "学制公布の際に東高遠と対立したのは?", "id": "tr-107-20-000", "answers": [ { "text": "西高遠", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "書籍を松本へ移動させる際に使用した運搬手段とは?", "id": "tr-107-20-001", "answers": [ { "text": "馬", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "青年会や学校教員などが協力して、1908年(明治41年)5月3日には会費制の図書館活動である高遠図書館が創立された。\nこの団体は文芸欄や新着図書欄を持つ「図書館月報」を発行し、巡回文庫(移動図書館)の規定を設けて町民に読書を奨励。\nこの巡回文庫は20冊程度の図書を入れた箱を会員間で巡回させるものである。\n月1回の例会、年3回の大会を開催し、大会ではレコード鑑賞、講演、研究発表・弁論、運動会などを行った。\n1914年(大正3年)には活動が評価されて長野県知事表彰を受けている。\n同年から1915年(大正4年)には寄付金を募って書庫を建設した。\n書庫建設後には図書館の建設を模索したが、進徳図書館及美術館の構想が具体化したために凍結された。", "qas": [ { "question": "1年間で開催数が多いのは例会と大会のどちらですか?", "id": "tr-107-21-000", "answers": [ { "text": "例会", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "高遠図書館の創立年はいつ?", "id": "tr-107-21-001", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "長野県内務部学務課が行った「図書館文庫ニ関スル調査」によると、1916年時点で上伊那郡には30の図書館があり、その中で高遠図書館は佳良図書館に挙げられている。\n4,000冊以上の蔵書を持つ図書館は長野県に6館だけであり、約25,600冊を持つ長野市の信濃教育会信濃図書館(現・県立長野図書館)と約17,500冊を持つ松本市の松本開智図書館(現・松本市図書館)を除けば、6,944冊の高遠図書館を筆頭に4館すべてが上伊那郡内にあった。", "qas": [ { "question": "蔵書数が多いのは、信濃教育会信濃図書館と松本開智図書館のどちらですか?", "id": "tr-107-22-000", "answers": [ { "text": "信濃教育会信濃図書館", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "最も蔵書数が少ないのは、高遠図書館、信濃教育会信濃図書館、松本開智図書館のどれですか?", "id": "tr-107-22-001", "answers": [ { "text": "高遠図書館", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "高遠町出身の伊沢修二は故郷に図書館を建設するべく、1912年(大正元年)に進徳図書館及美術館の建設委員会を設置。\n1916年(大正5年)9月23日には建物の開館式が行われた。\n建設資金は伊沢や中村弥六などの高遠町出身者が供出し、建物は建設後に高遠町に寄付された。\n建物は2階建であり、延床面積は25坪だった。\n小学校の教員が中心となって運営されている。\n建設過程においては伊沢と中村の間に意見の対立があり、また経営は順調とはいえなかった。", "qas": [ { "question": "進徳図書館及美術館の建物は何階ありますか?", "id": "tr-107-23-000", "answers": [ { "text": "2階", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "進徳図書館及美術館の延床面積は?", "id": "tr-107-23-001", "answers": [ { "text": "25坪", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "進徳図書館及美術館の運営は誰が中心となっていますか?", "id": "tr-107-23-002", "answers": [ { "text": "小学校の教員", "answer_start": 155, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "オキチモズク", "paragraphs": [ { "context": "オキチモズク(学名:Nemalionopsistortuosa)は、チスジノリ科オキチモズク属に属する淡水産紅藻の一種である。\n藻体は暗紅褐色のひも状で多数分枝し、10-40センチメートルまで成長するものが多い。\n1938年(昭和13年)に愛媛県温泉郡川上村(現:東温市)のお吉泉周辺で初めて発見され、その後、九州・沖縄の20数か所で確認されたが、発生がみられなくなり絶滅したと考えられているところも多い。", "qas": [ { "question": "オキチモズクは一般的に何色とされているの?", "id": "tr-108-00-000", "answers": [ { "text": "暗紅褐色", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オキチモズクが最初に発見されたのは何年でしたか?", "id": "tr-108-00-001", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オキチモズクは何県で最初に発見されたの?", "id": "tr-108-00-002", "answers": [ { "text": "愛媛県", "answer_start": 120, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "長らくお吉泉を生育北限とする日本固有種とされていたが、台湾や東京都立川市でも発見された。\nお吉泉周辺、熊本県南小国町の志津川、長崎県国見町の土黒川の3か所の発生地は国の天然記念物に指定されている。\nまた、環境省のレッドデータブックでは「絶滅の危機に瀕している種」に指定されている。\nなお、オキチモズク属の種分類については混乱が見られ、本種について、同じオキチモズク属に属するNemalionopsisshawiiと同種であるとされることもある。", "qas": [ { "question": "日本以外でオキチモズクが発見された場所はどこ?", "id": "tr-108-01-000", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "志津川は何県に流れているの?", "id": "tr-108-01-001", "answers": [ { "text": "熊本県", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "土黒川は何県に流れているの?", "id": "tr-108-01-002", "answers": [ { "text": "長崎県", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "国の天然記念物に指定されているオキチモズクの発生地は、お吉泉周辺と土黒川ともう1箇所はどこですか?", "id": "tr-108-01-003", "answers": [ { "text": "志津川", "answer_start": 59, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "河川上流や湧水などからの清澄な小川の半日陰となる場所で生育する。\n一般的には秋から初冬にかけて発生して冬から春にかけて生長し、4月から5月に繁茂して夏には消失するが、発生地や年による差異も大きい。\n体長は10-40センチメートルのものが多く、まれに90-100センチメートル近くまで成長する。", "qas": [ { "question": "オキチモズクが消失する季節はいつ?", "id": "tr-108-02-000", "answers": [ { "text": "夏", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オキチモズクは最大どれくらいまで成長しますか?", "id": "tr-108-02-001", "answers": [ { "text": "90-100センチメートル", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1938年(昭和13年)、愛媛県師範学校教諭であった八木繁一によって、愛媛県温泉郡川上村吉久のお吉泉で最初に発見され、1940年(昭和15年)にチスジノリ科の新種として発表・命名された。\nその後、チスジノリと思われていた長崎県南高来郡国見町(現:雲仙市)の土黒川の紅藻が本種であることが確認され、さらに、熊本県阿蘇郡南小国町の志津川でも確認された。\nこれら3か所は、世界的に希少で学術上も貴重な種として、それぞれ「オキチモズク発生地」「土黒川のオキチモズク発生地」「志津川のオキチモズク発生地」として国の天然記念物に指定されている。\nこのうち土黒川は1924年(大正13年)に「チスジノリ発生地」としてすでに天然記念物に指定されていたため、いったん指定が解除された後に改めて指定された。", "qas": [ { "question": "最初の発見者は誰?", "id": "tr-108-03-000", "answers": [ { "text": "八木繁一", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "土黒川は1924年にどんな名称で天然記念物に登録されたの?", "id": "tr-108-03-001", "answers": [ { "text": "「チスジノリ発生地」", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "八木繁一はどこの学校に務めていたの?", "id": "tr-108-03-002", "answers": [ { "text": "愛媛県師範学校", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その後、これら3か所も含めて四国・九州・沖縄の計20数か所での発生が記録されている。\n長らくお吉泉を生育北限とする日本固有種とされてきたが、2013年(平成25年)には東京都立川市で発生が確認されたほか、台湾でも発見されている。\nしかし、多くの生育地で生育量の減少や絶滅が報告されており、環境省のレッドデータブックで「絶滅の危機に瀕している種」(絶滅危惧I類)に指定されている。\n同じオキチモズク属に属するNemalionopsisshawiiとは藻体の長さが異なることなどで区別されるが、品種レベルの違いに過ぎないとしてN.shawiiと同種であるとする見解も出されている。", "qas": [ { "question": "日本でのオモチモズクの発生記録は全部で何か所ですか?", "id": "tr-108-04-000", "answers": [ { "text": "20数か所", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東京の立川市でオキチモズクが見つかったのは何年でしたか?", "id": "tr-108-04-001", "answers": [ { "text": "2013年", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "河川の上流や湧水からの流れなど清澄な小川でのみ生育し、周囲を樹木や山などに囲まれて半日陰となる場所を好む。\nただし、強光下でも光合成速度はさほど低下しないとの報告もあり、日照の良好な場所での繁茂の例もあることから、水草との競合の結果によるとも考えられている。\n円盤状の付着部で岩や小石に付着して生育するが、コンクリートやビニールなどの人工物や大型の水生植物にも着生することが知られている。\n生育適温は15-20°Cと考えられており、冬期でも水温が10°C以上で夏期にも25°C以下を保つ場所で生育する。", "qas": [ { "question": "生育する際に最も適した水温は何°Cですか?", "id": "tr-108-05-000", "answers": [ { "text": "15-20°C", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "冬場でも水温が何°C以上であれば生育可能ですか?", "id": "tr-108-05-001", "answers": [ { "text": "10°C以上", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "夏は何°C以下を保つ場所であれば生育可能なの?", "id": "tr-108-05-002", "answers": [ { "text": "25°C以下", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "暗紅褐色の柔らかなひも状で粘質に富み、1本の主軸から大小多数の側枝が互生または偏生し、枝の先端は徐々に細くなる。\n老熟すると色は徐々に黄緑色になっていき、粘りも少なくなる。\n乾燥させるとほぼ黒色になるが、わずかに紙に付着する程度の粘性は残る。\n主軸の太さは0.4-0.9ミリメートルであり、体長は10-40センチメートルのものが多く、まれに90-100センチメートル近くまで成長する。\n多くの場合多数の株が集まってふき状に生育する。", "qas": [ { "question": "老熟すると何色に変わっていきますか?", "id": "tr-108-06-000", "answers": [ { "text": "黄緑色", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "主軸はどれくらいの太さですか?", "id": "tr-108-06-001", "answers": [ { "text": "0.4-0.9ミリメートル", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "水分が無くなると何色になりますか?", "id": "tr-108-06-002", "answers": [ { "text": "黒色", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "藻体は髄層部と皮層部からなる。\n髄層は、太さ約3-7マイクロメートル・長さ約12-100マイクロメートルの糸状の髄層糸の集まりであり、髄層全体では太さは約450マイクロメートルになる。\n皮層は同化糸からなり、同化糸は太さ約4-7マイクロメートル、長さ約60-170マイクロメートルで二股に多数分枝し、先端は太さ3-7マイクロメートル・長さ3-16マイクロメートルの卵形ないし洋梨形の細胞となっている。\n同化糸は髄層部から生じており、その基部細胞は太さ約3.6-9マイクロメートル・長さ約3-25マイクロメートルの円柱状である。", "qas": [ { "question": "藻体を構成しているのは皮層部と何ですか?", "id": "tr-108-07-000", "answers": [ { "text": "髄層部", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一般的には秋から初冬にかけて直立幼体が発生して冬から春にかけて生長し、4月から5月に最も繁茂して夏には消失する。\nただし、発生時期は発生地や年によって差異があり、水量や日照・水温などに左右されると考えられている。\n長崎県の神代川や湯江川や福岡県朝倉市などの生育地では一年中藻体が見られることが知られている。", "qas": [ { "question": "直立幼体が発生し始める季節はいつからですか?", "id": "tr-108-08-000", "answers": [ { "text": "秋", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "一年中藻体が見られる生育地があるのは長崎県と何県ですか?", "id": "tr-108-08-001", "answers": [ { "text": "福岡県", "answer_start": 119, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2004年(平成16年)になって有性生殖器官が発見されたものの、有性生殖の時期等の詳細は不明であり、生殖は主に単胞子による無性生殖によっていると考えられている。\n単胞子は太さ5-12マイクロメートル・長さ6.5-18マイクロメートルの卵形または楕円形で、同化糸の先端部に単独または房状に形成される。\n単胞子は直立藻体が存在する期間を通じて見られるが、特に春から初夏にかけて多く形成される。\n単胞子は、基物に付着すると直ちに発芽して盤状体・糸状体となり、その後、叢状のチャントランシア期に生育する。\nそこから直立体が発達し、互いに絡み合って髄層と同化糸による皮層を形成して噴水型の藻体に成長する。", "qas": [ { "question": "単胞子が多く形成され始める時期はいつの季節からですか?", "id": "tr-108-09-000", "answers": [ { "text": "春", "answer_start": 177, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "藻体はどのような方法で生殖しますか?", "id": "tr-108-09-001", "answers": [ { "text": "無性生殖", "answer_start": 61, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "単胞子の太さはどれくらいですか?", "id": "tr-108-09-002", "answers": [ { "text": "5-12マイクロメートル", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "単胞子の長さはどれくらいですか?", "id": "tr-108-09-003", "answers": [ { "text": "6.5-18マイクロメートル", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本国内では、四国・九州など温暖な地方で、冬季の水温が周囲より比較的高い小川で生育する。\n以前は愛媛県、長崎県、福岡県、熊本県、鹿児島県、沖縄県でのみ発生が知られており、日本固有種でお吉泉が生育北限であるとされてきたが、新たに台湾や東京都立川市でも生育が確認されている。\n近年になって確認された発生地については、本種やチスジノリなどではわずかな細胞片からでも容易に藻体が再生するため、水鳥に付着したり摂食したものが未消化で排出されたりすることで拡散しているのではないかと考えられている。\n2013年(平成25年)に確認された東京都立川市の生育地についても、これまで知られていた生育地から離れているため、鳥類などに付着した藻体が移入したか、あるいは改修造成の際に人為的に移入された可能性が指摘されている。", "qas": [ { "question": "東京都立川市で本種の生育が確認される前は、どの地域が生育北限でしたか?", "id": "tr-108-10-000", "answers": [ { "text": "お吉泉", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本種は環境の変化に非常に敏感であり、生育地周辺の水質の悪化や水量の減少、日陰を作る樹木の伐採や水草の繁茂などによって、多くの生育地で生育量の減少や絶滅が報告されている。\n天然記念物に指定されている3か所うち、土黒川では1985年頃から見られなくなり、志津川でも急速に生育量が減少しつつある。\nお吉泉でも1973年頃から見られなくなり、一時は絶滅したものと考えられていたが、その後の日照調整や流路改修などの保護対策によって2001年(平成13年)以降発生が再確認された。\nただしこれは熊本県からの移植された藻体が定着したものではないかと考えられている。\nこのような状況から、現在オキチモズクは環境省のレッドデータブックで「絶滅の危機に瀕している種」(絶滅危惧I類)に指定されている。", "qas": [ { "question": "土黒川で藻体が見られなくなり始めた時期は何年からですか?", "id": "tr-108-11-000", "answers": [ { "text": "1985年頃", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "お吉泉で藻体が一時的に見られなくなったのは何年頃でしたか?", "id": "tr-108-11-001", "answers": [ { "text": "1973年", "answer_start": 151, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オキチモズクは環境省のレッドデータブックからどのように指定されていますか?", "id": "tr-108-11-002", "answers": [ { "text": "「絶滅の危機に瀕している種」", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "昔は熊本県や長崎県で食用に利用されていたと思われるが、現在ではそれらの産地が天然記念物に指定されていることや生育量が少ないことから、少なくとも漁業の対象とはなっていない。\nオキチモズク属には、本種の他にNemalionopsisshawiiとその種内変異による別品種としてN.shawiif.calorinianaが知られている。", "qas": [ { "question": "かつてオキチモズクを食用としていた地域は長崎県とどこでしたか?", "id": "tr-108-12-000", "answers": [ { "text": "熊本県", "answer_start": 2, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Nemalionopsisshawiiは何属に含まれていますか?", "id": "tr-108-12-001", "answers": [ { "text": "オキチモズク属", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "N.shawiif.calorinianaは何属に含まれていますか?", "id": "tr-108-12-002", "answers": [ { "text": "オキチモズク属", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "かつてオキチモズクを食用としていた地域は熊本県とどこでしたか?", "id": "tr-108-12-003", "answers": [ { "text": "長崎県", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "N.shawiiは、フィリピンのバターン州に分布するオキチモズク属の基準種であり、本種と同じく髄層部と同化糸で形成される皮層部からなる粘性のある藻体を持つが、長さは約6.5センチメートルと短く分枝もまばらであるなどの形態的な違いによって区別される。\nほかにも、同化糸の細胞がオキチモズクではシリンダー型であるのに対してN.shawiiでは樽型であること、同化糸の長さもN.shawiiでは145-400マイクロメートルと長い点でも異なるとされてきた。\nただし、オキチモズクはN.shawiiの品種レベルでの違いに過ぎないとする見解も早い段階から出され、この見解を支持する立場から、1979年(昭和54年)にアメリカのノースカロライナ州ウェイク郡の河川で発見されたオキチモズク属の紅藻はN.shawiiの1品種N.shawiif.calorinianaとして報告された。", "qas": [ { "question": "N.shawiiはどれくらいの長さですか?", "id": "tr-108-13-000", "answers": [ { "text": "約6.5センチメートル", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "N.shawiiの同化系はどのような形をしているの?", "id": "tr-108-13-001", "answers": [ { "text": "樽型", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オキチモズクの同化系はどのような形をしているの?", "id": "tr-108-13-002", "answers": [ { "text": "シリンダー型", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "N.shawiiの同化系の長さはどれくらいですか?", "id": "tr-108-13-003", "answers": [ { "text": "145-400マイクロメートル", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "これに対して、1993年(平成5年)にRobertG.Sheathらは各種標本を用いて形態形質や計数形態形質による分枝分類学的解析を行い、N.shawiif.calorinianaについてはオキチモズクの同物異名であり、N.shawiiとオキチモズクは別種であると結論付けた。\n一方、2002年(平成14年)にはMartinK.MüllerらがN.shawiif.calorinianaとオキチモズクを用いて遺伝子塩基配列による分子遺伝学的形態解析を行い、18SrRNAとrbcL遺伝子の塩基の総和あたり2.88%相違があると報告した。\nこれはN.shawiif.calorinianaとオキチモズクが別種であることを示唆するものであり、Sheathらの分枝分類学的解析と矛盾する結果となった。", "qas": [ { "question": "N.shawiiとオキチモズクは別種であると結論を出した研究者は誰ですか?", "id": "tr-108-14-000", "answers": [ { "text": "RobertG.Sheath", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "N.shawiif.calorinianaとオキチモズクを用いて遺伝子塩基配列による分子遺伝学的形態解析を行った研究者は誰ですか?", "id": "tr-108-14-001", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "さらに、2008年(平成20年)には須田彰一郎らが沖縄県内で採取したオキチモズク属の藻体を用いた形態観察と形態学的計数形質を計測して文献との比較を行った結果として、N.shawiiとオキチモズクの明瞭な違いと考えられていた同化糸の長さをはじめ、他の形態形質でもN.shawiiとオキチモズクの中間的な形質を示し、オキチモズクともN.shawiiとも同定できなかったと報告された。\nこのように、オキチモズク属の種分類については混乱があり、確定させるために各種標本等のさらなる解析の必要性が指摘されている。\n同じチスジノリ科のチスジノリThoreaokadaeとは体構造も類似している。\nチスジノリもオキチモズクと同じく髄層部と皮層部からなるが、皮層部の同化糸がオキチモズクでは先端で多く分枝し先端に単胞子を形成するのに対して、チスジノリでは同化糸が基部で疎らに分枝して基部に果胞子を形成する点で区別できる。", "qas": [ { "question": "須田彰一郎はどこで採取したオキチモズクを用いましたか?", "id": "tr-108-15-000", "answers": [ { "text": "沖縄県内", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オキチモズクと体構造が類似している種類は何?", "id": "tr-108-15-001", "answers": [ { "text": "チスジノリ", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チスジノリは髄層部と何から構成されていますか?", "id": "tr-108-15-002", "answers": [ { "text": "皮層部", "answer_start": 312, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "基部に果胞子を形成するものは何ですか?", "id": "tr-108-15-003", "answers": [ { "text": "チスジノリ", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "東欧諸国のビザンティン建築", "paragraphs": [ { "context": "東欧諸国のビザンティン建築(とうおうしょこくのビザンティンけんちく)では、ブルガリアやロシア、ルーマニアに伝播したビザンティン建築を便宜的にまとめる。東ローマ帝国の1000年以上もの長期に渡る歴史は一様ではなく、その支配領域は絶えず変化し続けた。周辺地域へのビザンティン建築の影響について考えるとき、必ず直面するのがこの問題であり、バルカン半島南部とアナトリア半島以外の建築物であっても、ある時期のある地域の建築物は、ビザンティン建築の項で取り上げられたとしても不思議ではなく、その逆も考えられる。また、特定の建築的伝統を保持した勢力がビザンティン建築を採用した場合は、その形態は折衷的なものになるが、アルメニア建築のように、ビザンティン建築そのものに影響を与えるような場合もあった。しかし、これはビザンティン建築のなかで取り上げるにはあまりに複雑な背景を持つため、本項ではビザンティン建築とは別に、東欧諸国へ波及していったビザンティン建築の影響について解説する。", "qas": [ { "question": "東欧諸国のビザンティン建築で、東欧諸国とは、ブルガリアとロシア、そしてどの国を指す言葉であるの?", "id": "tr-109-00-000", "answers": [ { "text": "ルーマニア", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "特定の建築的伝統を保持した勢力がビザンティン建築を採用し、ビザンティン建築そのものに影響を与えるようなケースの建築様式としては、どんなものが書かれているの?", "id": "tr-109-00-001", "answers": [ { "text": "アルメニア建築", "answer_start": 301, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中世にビザンティン文化の影響下に入った東欧諸国は、正教とその建築を受け入れ、多くの場合、東ローマ帝国が滅びた後もその伝統を守り続けた。しかし、長い歴史を紐解くと、東欧の諸民族と東ローマ帝国との接触は決して和やかなものでも、安定したものでもなく、実際には熾烈な衝突を繰り返した。東ローマ帝国の文献には、北方からやってくるアヴァール人やマジャル人、ブルガール人といった敵対していた民族との戦いが数多くつづられている。彼らのような異民族のなかで、600年頃にドナウ川を渡って南下したスラヴ人の一部はバルカン半島に定住したが、彼らは初期の段階ではローマ帝国に対抗しうる文化は持たず、ローマの建築を取り入れるような素地は全く持ち合わせていなかった。スラヴ人は7世紀にブルガール人のブルガリア帝国、9世紀頃にはヴァリャーグのキエフ・ルーシに組み込まれるなど、どちらかというと被支配層に甘んじていたが、その圧倒的な数の多さと素早く異文化を吸収する能力でこれらの非スラヴ系民族を同化していき、バルカン半島では10世紀までに最も数の多い民族となっていた。", "qas": [ { "question": "600年頃にドナウ川を渡って南下してバルカン半島にやってきた異民族は、7世紀にどの民族の国に組み込まれましたか?", "id": "tr-109-01-000", "answers": [ { "text": "ブルガール人", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "9世紀頃にヴァリャーグのキエフ・ルーシに組み込まれた民族は、何年頃にバルカン半島にやってきた民族でありますか?", "id": "tr-109-01-001", "answers": [ { "text": "600年頃", "answer_start": 220, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東ローマ帝国にとって最初の脅威となったブルガリア帝国は、首都コンスタンティノポリスに近く、またその侵攻を遮るもののない場所に成立した勢力であった。一時的にフランク王国とも結ばれ、東ローマ帝国を大いに悩ませたが、9世紀にイスラームに対して軍事的優位に立ち、東方の脅威を取り除いた東ローマは、フランク王国に対抗すべくスラヴ人をキリスト教化していった。聖キュリロスと聖メトディオスの使節団によるモラヴィア王国の布教活動と、その後の聖メトディオスによるパンノニア、ブルガリアの布教活動によって、ブルガリア帝国はキリスト教を受け入れることとなり、建築についての知識をもたなかったこの地域は、東ローマ帝国の施工技術や知識を積極的に取り入れることになる。", "qas": [ { "question": "東ローマ帝国にとって最初の脅威となった帝国は、どの王国と一時的に手を組み、東ローマ帝国を大いに悩ませたか?", "id": "tr-109-02-000", "answers": [ { "text": "フランク王国", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "モラヴィア王国の布教活動を行った二人のうち、ブルガリアの布教活動には参加しなかったのは、誰か?", "id": "tr-109-02-001", "answers": [ { "text": "聖キュリロス", "answer_start": 173, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モラヴィア王国とパンノニア、ブルガリアの3つもなる地域において、布教活動を行ったのは、誰か?", "id": "tr-109-02-002", "answers": [ { "text": "聖メトディオス", "answer_start": 180, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東ローマ帝国にとって最初の脅威であったが、東ローマ帝国からキリスト教と施工技術、知識を積極的に取り入れたのは、どの国か?", "id": "tr-109-02-003", "answers": [ { "text": "ブルガリア帝国", "answer_start": 243, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東ローマ帝国にとって最初の脅威となったブルガリア帝国の次には、ルーシ(ロシア)が脅威となった。中世にはヨーロッパ屈指の勢力を誇っており、9世紀から10世紀にかけて、艦隊を伴ってコンスタンティノポリスを包囲するほどの軍事能力を備えていた。東ローマ帝国のキリスト教の伝道師は7世紀には派遣されたが、北欧の神々を信仰する彼らの改宗についてはかなりの時間を要し、ウラジーミル1世がキリスト教を国教と定めたのは、ようやく10世紀末のことであった。しかし、ブルガリア帝国を牽制したい東ローマ帝国はルーシ(キエフ大公国)を懐柔することを望んだため、両者の交流は10世紀末から急速に親密となった。この時期、ブルガリア帝国は皇帝バシレイオス2世によって瓦解寸前にあり、スラヴ人のキリスト教文化は、彼らルーシによって継承されることとなった。セルビア人がキリスト教に改宗したのは、ブルガリアとほぼ時を同じくすると考えられている。しかし、当初はブルガリア帝国に隣接するこの地域はあまり重要視されておらず、ブルガリア帝国と東ローマ帝国の勢力範囲にも組み込まれることがあった。旧ユーゴスラヴィア圏において、セルビア人による強力な国家が誕生するのはようやく12世紀になってからであり、経済的には西欧諸国との結びつきも強く、その歴史はたいへん複雑である。", "qas": [ { "question": "東ローマ帝国にとって二番目の脅威となったのは、どの国なの?", "id": "tr-109-03-000", "answers": [ { "text": "ルーシ", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東ローマ帝国とルーシの交流が10世紀末から急速に親密となったのは、東ローマ帝国がどの国を牽制したがっていたからなの?", "id": "tr-109-03-001", "answers": [ { "text": "ブルガリア帝国", "answer_start": 222, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "東ローマ帝国にとって最初に脅威となったブルガリア帝国の歴史は、不連続である。彼らは680年頃からバルカン半島北部に定住するようになった、軍事的によく組織された勢力であった。800年前後には早くも東ローマ帝国に圧力を加え、813年にはコンスタンティノポリスを包囲するまでになるが、864年にボリス1世がキリスト教に改宗し、ビザンティン文化を取り入れるようになった。ただし、東ローマ帝国との関係はその後も安定せず、927年には最盛期の王シメオン1世が皇帝を称して東ローマ帝国に敵対するとともに、コンスタンティノポリスから独立したブルガリア正教会を設立する。しかし、その後を継いだペタル1世の治世に急速に衰退し、皇帝サムイルの時代である1018年にバシレイオス2世によって東ローマ帝国に併合されている。その後200年間、ブルガリア帝国は姿を消すが、東ローマ帝国が解体されはじめると反乱を起こし、イヴァン・アセン1世によって独立を勝ち取った。ラテン帝国に対抗し、イヴァン・アセン2世の時代には帝国の領土は最大となるが、モンゴル帝国との戦争によって国土が荒廃、ニカイア帝国との戦争にも破れ、1396年にオスマン帝国に占拠されるまで、細々と存続した。", "qas": [ { "question": "680年頃からバルカン半島北部に定住するようになった、軍事的によく組織された勢力とは、どの国を指していますか?", "id": "tr-109-04-000", "answers": [ { "text": "ブルガリア帝国", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東ローマ帝国にとって最初に脅威となった国がキリスト教を受け入れたのは、何年のことですか?", "id": "tr-109-04-001", "answers": [ { "text": "864年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence 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"question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブルガリア帝国によって建設された教会堂は、どのような建築様式から影響を受けたと考えられるか?", "id": "tr-109-05-001", "answers": [ { "text": "ビザンティン建築", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "誰が死んだ後、ブルガリア帝国は滅びたか?", "id": "tr-109-05-002", "answers": [ { "text": "シメオン", "answer_start": 424, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ブルガリアが東ローマ帝国領となると、地方貴族らによって多くの教会堂が建設された。多くは木造天井のバシリカ教会堂だったが、ドーム・バシリカの教会堂も建設されている。この時代の建築物としては、11世紀後半に東ローマ帝国の将軍グリゴリオス・パクリアノスによって創建されたバチュコヴォ修道院がある。当時の規律書(ティピコン)も伝えられているこの修道院の建物の多くはポスト・ビザンティン建築(東ローマ帝国滅亡後の建築)のものであるが、11世紀に建設された墓所聖堂、および12世紀に創建されたアルヒアンゲロス聖堂が残っている。12世紀に、コンスタンティノポリスの画家ヨアンニス・イヴィロプロスによって作成された美しいフレスコ画が残る墓所聖堂は、単廊式二層構造の教会堂であるが、墓所となる聖堂に2層形式を採用することは、以後のブルガリア・ビザンティン建築の一般的な形態となっている。フレスコ画の美しさから世界遺産にも登録されているボヤナの聖ニコラと聖パンテレイモン聖堂は、11世紀ないしは12世紀に創建されたもので、ビザンティン建築ではリヴァイヴァルとなるクロス・ドーム形式の平面を持つ教会堂が主聖堂となっている。1259年に、この教会堂の西側にカロヤンなる人物によって墓所聖堂が増築されたが、これも上下2層式で、上階は墓、下階は礼拝堂として使用された。", "qas": [ { "question": "11世紀後半にバチュコヴォ修道院を創建した人物の名前は何?", "id": "tr-109-06-000", "answers": [ { "text": "グリゴリオス・パクリアノス", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨアンニス・イヴィロプロスによって作成された美しいフレスコ画が残っている建築物は、何世紀に建設されたの?", "id": "tr-109-06-001", "answers": [ { "text": "11世紀", "answer_start": 212, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東ローマ帝国領となったブルガリアには、木造天井のバシリカ教会堂とドーム・バシリカの教会堂のうち、どちらがより多く建設されたの?", "id": "tr-109-06-002", "answers": [ { "text": "木造天井のバシリカ教会堂", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヨアンニス・イヴィロプロスによって作成された美しいフレスコ画が残っている建築物は、どんな構造の教会堂であるの?", "id": "tr-109-06-003", "answers": [ { "text": "単廊式二層構造", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "12世紀に再び独立したブルガリア帝国は、東ローマ帝国の衰退に乗じて瞬く間に領土を拡大した。新たに帝国の首都となったヴェリコ・タルノヴォ周辺には、イヴァン・アセン2世の手によって多くの教会堂が建設されたことが知られている。これらはほとんどが地震被害によってダメージを受け、廃墟と化しているが、彼の治世の教会堂は、内部がフレスコ画に覆われた内接十字型平面が一般的であったことが分かっている。", "qas": [ { "question": "12世紀に再び独立したブルガリア帝国の首都はどこだったか?", "id": "tr-109-07-000", "answers": [ { "text": "ヴェリコ・タルノヴォ", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "メッセンブリア(現ネセバル)は、黒海貿易の重要拠点として、14世紀に最盛期を迎えた都市で、しばしば「ブルガリアのラヴェンナ」と呼ばれる。短期間ブルガリア帝国が支配した時期もあるが、中世のほとんどの時期は東ローマ帝国の勢力下におかれていた。14世紀以前の建築物は、6世紀に建設された旧大主教座教会堂(現在は廃墟)と、10世紀ないしは11世紀に建設されたアギオス・ヨアンニス・プロドロモス聖堂のみが残る。後者は、粗石を積んだだけの無装飾な外壁を持つ内接十字型平面の教会堂で、ドームの高い鼓胴壁を特徴とするが、これは後の時代の増築によるものと考えられる。14世紀以降に建設された教会堂は、アギオス・ヨアンニスのような粗野なものではなく、外壁に対しても装飾が施された豪華なものであった。内接十字型のアギオス・ヨアンニス・アレイトルゲス聖堂(下部構造のみが残る)、全能者ハリストス聖堂(キリスト・パントクラトール聖堂)、アギオス・テオドロス聖堂といった諸教会堂には、外壁に市松模様やジグザクの模様積みが施され、ビザンティン建築後期の特徴である外壁の装飾に対する意識の向上を窺わせる。全能者ハリストス聖堂では、ロマネスク建築の影響と思われる持ち送り棚の装飾が施され、ナルテクス上部に方形の鐘楼が建設されているが、これは黒海貿易がジェノヴァの支援を受けたものであったこと、セルビアを経由して西方の建築がもたらされたことに関連するらしい。", "qas": [ { "question": "中世に、より長くメッセンブリアを勢力下に置いた国は、ブルガリア帝国と東ローマ帝国のうち、どの国か?", "id": "tr-109-08-000", "answers": [ { "text": "東ローマ帝国", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "旧大主教座教会堂とアギオス・ヨアンニス・プロドロモス聖堂のうち、より遅く建設されたのは、どちらか?", "id": "tr-109-08-001", "answers": [ { "text": "アギオス・ヨアンニス・プロドロモス聖堂", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アギオス・ヨアンニス・プロドロモス聖堂とアギオス・ヨアンニス・アレイトルゲス聖堂、アギオス・テオドロス聖堂のうち、14世紀以降の建築物ではないのは、何か?", "id": "tr-109-08-002", "answers": [ { "text": "アギオス・ヨアンニス・プロドロモス聖堂", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "黒海貿易の重要拠点として、14世紀に最盛期を迎えた都市は、中世のほとんどの時期にどの国の勢力下に置かれていたか?", "id": "tr-109-08-003", "answers": [ { "text": "東ローマ帝国", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブルガリアでおそらく最も有名なビザンティン建築であるリラ修道院は、10世紀にリラの聖イヴァンによって創建された。ただし、世界遺産にも登録されている現在の僧院は、創建当時の僧院とは違う場所に存在するポスト・ビザンティン建築である。この修道院は、ブルガリア帝国の皇帝や貴族からの寄進を受けて発展し、東ローマ帝国の援助や支援をほとんど受けることがなかったので、純粋なブルガリア建築と言える。東ローマ帝国のあった時代に建設されたものは1335年に建設されたフレリョの塔のみで、最上階の礼拝堂には14世紀のフレスコ画が残っている。", "qas": [ { "question": "ブルガリアで最も有名なビザンティン建築であるのは、何世紀に創建されたの?", "id": "tr-109-09-000", "answers": [ { "text": "10世紀", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "旧ユーゴスラヴィア圏は、勢力域の変動が極めて大きい。初期の時代は東ローマ帝国領であったが、6世紀にはスラヴ人の居留地となり、一部はブルガリア帝国領となった。バシレイオス2世の時代には再び全域が東ローマ帝国領となるが、11世紀からゆっくりとその領土から切り離され、第二次ブルガリア帝国、次いで12世紀に成立したネマニッチ朝セルビア王国が広い地域を占拠した。このような歴史的変遷を経ているため、この地域の建築の歴史もまた複雑である。マケドニアには、パレオロゴス朝のビザンティン建築と密接不可分な建築物、例えば世界遺産に登録されているオフリドの聖ソフィア聖堂(スヴェタ・ソフィア聖堂)や聖クレメンテ聖堂(スヴェティ・クレメンテ聖堂)、ネレズィの聖パンテレイモン修道院(スヴェティ・パンテレイモン修道院)中央聖堂といった建築物が数多く残る。一方で、12世紀以降のネマニッチ朝の建築のように、ビザンティン建築とは異なった歴史を保持したものも混在しており、両者の違いをはっきりと区別する必要がある。", "qas": [ { "question": "旧ユーゴスラヴィア圏を勢力下に置いたことのある国や民族として紹介されているのは、東ローマ帝国とスラヴ人のほかに、どの国か?", "id": "tr-109-10-000", "answers": [ { "text": "ブルガリア帝国", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バシレイオス2世の時代の東ローマ帝国を旧ユーゴスラヴィア圏を勢力下に置いた最初の国と捉えるとしたら、当地域を占拠した3番目の国は、どの国ですか?", "id": "tr-109-10-001", "answers": [ { "text": "セルビア王国", "answer_start": 160, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "旧ユーゴスラヴィア圏を勢力下に置いていた時期がより早い国は、第二次ブルガリア帝国とセルビア王国のうち、どちらの国なの?", "id": "tr-109-10-002", "answers": [ { "text": "第二次ブルガリア帝国", "answer_start": 131, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "セルビアの教会堂建築は、主に3つの時代に分類される。第1は、ステファン・ネマニャによって創始されたネマニッチ朝初期の時代で、1170年から1282年までの間を指し、修道院が多く建設されたラシュカ地方の名をとってラシュカ派、あるいは古セルビア派などと呼ばれる。正教会を奉じたセルビア王国はビザンティン文化の影響下にあったが、この時期の王国はアドリア海のラグーザ(現ドゥブロヴニク)やカタロ(現コトル)などを通じて西ヨーロッパとの交易が盛んであった。加えて、第4回十字軍の派遣によって東ローマ帝国の影響力が著しく低下したこともあって、西欧の影響を強く受けた独特の建築を生み出すことになる。", "qas": [ { "question": "建築物から見ると、セルビア王国はビザンティン文化のほかに、どの地域の文化からの影響も受けたことがみられるの?", "id": "tr-109-11-000", "answers": [ { "text": "西ヨーロッパ", "answer_start": 205, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東ローマ帝国の影響力が著しく低下した理由となるのは、どんな事件なの?", "id": "tr-109-11-001", "answers": [ { "text": "第4回十字軍の派遣", "answer_start": 227, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1168年にステファン・ネマニャが設立したクルシュムリャの聖ニコラ聖堂(スヴェティ・ニコラ聖堂、現在は廃墟)は、内陣の左右に脇玄関を設けるなど、後のセルビア建築で一般的となる特質も見られるが、厚目地の煉瓦積み工法を備えた末期ビザンティンの特徴をおさえている。しかし、1183年頃に建設されたストゥデニツァ修道院の生神女聖堂(ボゴロディツァ聖堂)になると、聖ニコラ聖堂と同じ単一ドーム形式の平面と左右に脇玄関を備えるものの、構造は切石造となり、扉口や外部の持ち送り棚など、立面は完全にロマネスク建築の意匠に準拠している。全体の構成もロマネスク建築のように細長く、ドームを高く造るようになっており、どちらかというとずんぐりした印象のビザンツ的な意匠ではない。13世紀にラテン帝国が成立したことにより、西欧の影響が著しく大きくなると、ラシュカ派の建築は、さらに端正なプロポーションを表現することとなる。ステファン・ウロシュ1世の寄進により、1250年に建設されたソポチャニ修道院中央聖堂や、1290年から1307年にかけて建立されたアリリエ修道院において実現された。ステファン・ウロシュ3世デチャンスキのために1335年に建設されたデチャニ修道院中央聖堂は、ラシュカ派末期の作品で、傑作と呼ぶに値する。正教会によるものではなく、フランチェスコ会修道士コトルのヴィトゥスが設立した教会堂で、入口を彫刻で縁取る意匠、窓、持送り棚などは、やはりロマネスク建築の特徴であるが、外壁の2色の大理石を交互に積んでいく手法は特に北イタリア独特のものであり、この建物がいかに西洋的であるかということをたいへん良く示している。", "qas": [ { "question": "聖ニコラ聖堂から見られる末期ビザンティンの特徴を有するとともに、ロマネスク建築の特徴も多数含んでいる聖堂は、何年頃に建設されましたか?", "id": "tr-109-12-000", "answers": [ { "text": "1183年頃", "answer_start": 133, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アリリエ修道院とソポチャニ修道院中央聖堂のうち、より早く建設されたのは、どちらですか?", "id": "tr-109-12-001", "answers": [ { "text": "ソポチャニ修道院中央聖堂", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ステファン・ウロシュ3世デチャンスキのために、コトルのヴィトゥスが設立した教会堂は、何か?", "id": "tr-109-12-002", "answers": [ { "text": "デチャニ修道院中央聖堂", "answer_start": 513, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロマネスク建築の特徴を有しながらも、西洋的な特徴、特に北イタリア独特のものがよく見られる、セルビア王国により建設されたのは、何か?", "id": "tr-109-12-003", "answers": [ { "text": "デチャニ修道院中央聖堂", "answer_start": 513, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "デチャニ修道院中央聖堂はロマネスクの影響の強い建築物であるが、実際には、当時のセルビア王国は、皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの娘シモニスを娶ったステファン・ウロシュ2世ミルティンによってかなりビザンツ化しつつあった。これがセルビアのビザンティン建築の第2段階で、セルビア・ビザンティン建築が確立された時期であると言ってよい。ミルティン王から、皇帝を称したステファン・ウロシュ4世ドゥシャンまでの間に、セルビア王国はバルカン半島の東ローマ帝国領を軍事制圧し、占領地から東ローマ帝国の建築家や技師を雇って、多くの修道院を建立した。ミルティン王は、ステファン・ネマニャによって開かれたアトス山のヒランダル修道院に、中央聖堂を建立した。1303年に建設されたこの聖堂は、まだ充分に研究された建築物ではないが、純粋なビザンティン建築で、テッサロニキ、あるいはコンスタンティノポリスの建築家が施工したものと考えられる。身廊の四隅に円柱を備える伝統的な四葉形であるが、独創的な点として2つのドームを持つ奥行きの深いナルテクスが付属する。アトス山でも重要な役割を担う修道院の中央聖堂として、この構成はセルビアの教会堂建築にかなり大きな影響を与えた。", "qas": [ { "question": "誰が進めたビザンツ化により、セルビアのビザンティン建築の第2段階が幕を開いた?", "id": "tr-109-13-000", "answers": [ { "text": "ステファン・ウロシュ2世ミルティン", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミルティン王は、誰が開いた修道院に中央聖堂を建立したか?", "id": "tr-109-13-001", "answers": [ { "text": "ステファン・ネマニャ", "answer_start": 273, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セルビア・ビザンティン建築が確立された時期とは、誰の時代のことを指しますか?", "id": "tr-109-13-002", "answers": [ { "text": "ステファン・ウロシュ2世ミルティン", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミルティン王から誰までの間に、セルビア王国はバルカン半島の東ローマ帝国領を軍事制圧したか?", "id": "tr-109-13-003", "answers": [ { "text": "ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン", "answer_start": 179, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1307年に建設されたプリズレンのリェヴィシャの生神女教会は、かなり変わった建築である。既存の3廊式バシリカの中に、中央ドームを頂くややクロス・ドーム・バシリカに近い平面の教会堂がはめ込まれており、このため身廊の部分が3廊で構成される。ドームは中央のほか四隅にも設けられているが、内部空間を特徴づけるものではない。外観を特徴づける1基の鐘楼は外ナルテクスの中央に据えられる。スタロ・ナゴリチノの聖ジョルジェ聖堂(スヴェティ・ジョルジェ聖堂)も、既存の建築物の内部に増築されたもので、中央に大型のドームと、四隅に小型のドームを設ける。煉瓦と石を交互に積層し、クロワゾネを形成する手法は中央ギリシアのビザンティン建築に類似している第2期末の最も重要な聖堂となるのが、セルビアの教会堂の女王と呼ばれるグラチャニツァ修道院の付属聖堂である。この聖堂の平面は基本的には内接十字型であるが、トンネル・ヴォールトで構成された十字の上に、それより短い十字平面の構造が載り、さらにその上に十字型構造が載る3層構造となっている。壁面は中央ギリシアのビザンティン建築と同じように石と犬歯飾りを繰り返すが、全体としては垂直性を強く意識したものとなっており、ラシュカ派の伝統を強く意識したものになっている。", "qas": [ { "question": "リェヴィシャの生神女教会が建設されたのは、何年のこと?", "id": "tr-109-14-000", "answers": [ { "text": "1307年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セルビアにおけるビザンティン建築の第2期末の最も重要な聖堂は、どの聖堂ですか?", "id": "tr-109-14-001", "answers": [ { "text": "グラチャニツァ修道院の付属聖堂", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "セルビアのビザンティン建築の第3の段階は、ドゥシャン王の死後、オスマン帝国に滅ぼされるまでの、政治的に不安定な時期である。分裂したセルビア王国は急速に衰退し、ステファン・ラザレヴィチがオスマン帝国に降伏したことで、その属国となった。オスマン帝国は、セルビアに圧力を与えていたが、セルビア北部のモラヴァ川流域は経済的繁栄を続けており、セルビアのビザンティン文化を守っていた。この時期に建立された建築群を、地名を採ってモラヴァ派と呼んでいる。モラヴァ派の主要な特徴は、それまでの建築にない外部装飾の自由さであるが、アトス山にあるヒランダル修道院の三葉形の平面形式と、グラチャニツァ修道院の垂直性の高い立面を組み合わせた造形は保守的で、第2期建築の延長上にある。", "qas": [ { "question": "セルビア王国を滅ぼしたのは、どの国か?", "id": "tr-109-15-000", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "分裂により急速に衰退したセルビア王国がオスマン帝国の属国となった環境の中でも、経済的繁栄を続けていた地域は、どこか?", "id": "tr-109-15-001", "answers": [ { "text": "セルビア北部のモラヴァ川流域", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "それまでの建築にない外部装飾の自由さを持っているが、保守的性格も見られ、セルビアの第2期ビザンティン建築の延長上にある派は、どの地域を中心に出来上がったか?", "id": "tr-109-15-002", "answers": [ { "text": "セルビア北部のモラヴァ川流域", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オスマン帝国の属国となったセルビア王国であったが、ビザンティン文化を守り続けていた地域とは、どの地域か?", "id": "tr-109-15-003", "answers": [ { "text": "セルビア北部のモラヴァ川流域", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ラザル・フレベリャノヴィチの墓所として1375年に建設されたラヴァニツァの修道院付属ヴォズネセーニェ聖堂は、ドームを4本の柱によって支える三葉型平面で、外壁はネセバルにある聖堂群に見られる横縞、市松模様の模様積みのほか、窓に額縁や板石をくり抜いたバラ窓の装飾が施されている。同じくラザルにより1378年に創建された、クルシェヴァツの宮廷礼拝堂(ラザリツァ聖堂)になると、外部装飾はさらに洗練され、ますます華やかなものとなった。しかし、平面はドームを支持する柱こそないものの、ラヴァニツァと同じく三葉型で、セルビアにおけるアトス山修道院の権威の高さを物語っている。王女ミリツァにより、1417年に建設されたカレニチの生神女聖堂(ボゴロディツァ聖堂)はモラヴァ派末期の傑作であるが、モラヴァ派によるこうした装飾の起源はあまりよく分かっていない。マナシア修道院中央聖堂は、ステファン・ラザレヴィチにより1419年に建立された。この教会堂の平面は三葉型だが、それまでのラシュカ派の教会堂と異なり、教会堂の装飾性はほとんどない。外観は無装飾だが、城塞的な性格はこの教会堂に強い記念性を持たせている。", "qas": [ { "question": "ラヴァニツァと同じく三葉型平面でありながらも、ドームを支持する柱はない建築物とは、いつ創建されたものなの?", "id": "tr-109-16-000", "answers": [ { "text": "1378年", "answer_start": 146, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カレニチの生神女聖堂とマナシア修道院中央聖堂のうち、どちらがより早く建設されたものですか?", "id": "tr-109-16-001", "answers": [ { "text": "カレニチの生神女聖堂", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "平面がラヴァニツァと同じ形式であり、教会堂の装飾性はほとんどない建築物は、何か?", "id": "tr-109-16-002", "answers": [ { "text": "マナシア修道院中央聖堂", "answer_start": 370, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "富山市立図書館", "paragraphs": [ { "context": "富山市立図書館(とやましりつとしょかん)は、富山県富山市の公共図書館である。\nTOYAMAキラリにある本館、6地域館、16分館、とやま駅南図書館・こども図書館、移動図書館3台、配本車1台からなる。", "qas": [ { "question": "富山市立図書館の分館と地域館はどちらの数が多いですか?", "id": "tr-110-00-000", "answers": [ { "text": "分館", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "富山市立図書館の移動図書館と配本車の台数はどちらが少ないですか?", "id": "tr-110-00-001", "answers": [ { "text": "配本車", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "富山市立図書館の本館はどこの施設に入っていますか?", "id": "tr-110-00-002", "answers": [ { "text": "TOYAMAキラリ", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "富山県では東礪波郡井波町の北越井波書籍館(1884年-1886年)、中新川郡砂子坂村の真理館(1885年-1899年)、富山市の富山循環書院(1888年6月-????年)、氷見郡氷見町の枇杷籛太郎文庫(1892年-1900年)、下新川郡入善町の米沢図書館(1910年-1937年)など、明治時代に民間が運営する小図書館がいくつも設立されては消えていった。\n1902年(明治35年)11月18日には富山県初の公立図書館として、下新川郡三日市町に下新川郡立図書館が設立された。", "qas": [ { "question": "富山県初の公立図書館の名前は何でしたか?", "id": "tr-110-01-000", "answers": [ { "text": "下新川郡立図書館", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "真理館、富山循環書院、米沢図書館の中で2番目に早く設立されたものはどれですか?", "id": "tr-110-01-001", "answers": [ { "text": "富山循環書院", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "枇杷籛太郎文庫、富山循環書院、真理館の中で閉館した年が不明なのはどれですか?", "id": "tr-110-01-002", "answers": [ { "text": "富山循環書院", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "富山県で最初に設立された民間運営の小図書館とは何ですか?", "id": "tr-110-01-003", "answers": [ { "text": "北越井波書籍館", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1909年(明治42年)10月1日、皇太子(後の大正天皇)の富山行啓を記念して富山市立図書館が設置された。\n下新川郡立図書館についで富山県2番目の公立図書館であり、富山県内初の市立図書館である。\nなお、翌年の1910年(明治43年)7月5日には高岡市立図書館が設置されている。\n設立当初は富山市役所の一部を用いていたが、1910年10月1日には富山税務署跡地に移転している。\n1912年(大正元年)12月7日には富山公園内に辰野金吾が設計した新館に移転した。", "qas": [ { "question": "富山市立図書館の次に設置された市立図書館とは何ですか?", "id": "tr-110-02-000", "answers": [ { "text": "高岡市立図書館", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "富山市立図書館の新館設計者は誰ですか?", "id": "tr-110-02-001", "answers": [ { "text": "辰野金吾", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1931年(昭和6年)11月29日には富山県図書館協会が設立され、図書館令の改正によって1934年(昭和9年)5月1日には「富山県中央図書館」に指定された。\n1936年(昭和11年)9月には山崎定義富山市長によって、富山市立図書館を計画中の県立図書館に移管する旨が土岐銀次郎富山県知事に上申された。\n1940年(昭和15年)4月1日に紀元二千六百年記念行事として総曲輪の大正会館に富山県立図書館が設置されると、同年6月には「富山県中央図書館」が富山県立図書館に変更された。", "qas": [ { "question": "富山市立図書館が1934年5月1日に指定されたものとは何?", "id": "tr-110-03-000", "answers": [ { "text": "「富山県中央図書館」", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1936年9月の時点で富山市長に就いていた人は誰ですか?", "id": "tr-110-03-001", "answers": [ { "text": "山崎定義", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1936年9月の時点で富山県知事を務めていたのは誰ですか?", "id": "tr-110-03-002", "answers": [ { "text": "土岐銀次郎", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1943年(昭和18年)2月には富山市議会で富山市立図書館の富山県立図書館への移管が可決され、4月1日には富山市立図書館が富山県立図書館に併合された。\nこれにともなって富山県立図書館は旧富山市立図書館の建物に移転している。\nなお、戦中には堀川町や山室町が富山市に合併されており、1942年5月には堀川町立図書館が富山市立堀川図書館に、山室町立図書館が富山市立山室図書館となっている。", "qas": [ { "question": "富山市立山室図書館の元々の名前は何でしたか?", "id": "tr-110-04-000", "answers": [ { "text": "山室町立図書館", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "富山市立堀川図書館の元々の名称は何でしたか?", "id": "tr-110-04-001", "answers": [ { "text": "堀川町立図書館", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "富山市立図書館と富山県立図書館が統合された日は何日でしたか?", "id": "tr-110-04-002", "answers": [ { "text": "4月1日", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1969年(昭和44年)には富山県立図書館が呉羽山西麓の茶屋町に移転した。\n富山市は市制80周年記念事業として、富山県立図書館から分離する形で丸の内の富山城址公園内の北西部に新館の建設を計画。\n設計は日新建築設計事務所であり、施工は佐藤工業。\n1968年(昭和43年)10月2日に着工し、1970年(昭和45年)4月30日に竣工。\n1970年6月に富山市立図書館が開館した。\n鉄骨鉄筋コンクリート構造、地上7階・地下1階建であり、延床面積は6,961.74m2、富山市産業奨励館が同居する複合施設である。\n建設費は4億7574万円、総工費は5億4480万円であった。\nこの際にはコクヨ創業者の黒田善太郎(富山市出身)が寄付による「黒田文庫」や、救心製薬社長の堀正由(富山出身)の寄付による「堀文庫」、著作家の翁久允(富山県上新川郡東谷村出身)が渡米中に収集した文献を基にして寄贈した「翁文庫」が設置された。", "qas": [ { "question": "富山市立図書館の新館がオープンしたのはいつですか?", "id": "tr-110-05-000", "answers": [ { "text": "1970年6月", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "富山市立図書館は、地上と地下のどちらの階数が少ないですか?", "id": "tr-110-05-001", "answers": [ { "text": "地下", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "富山市立図書館の新館の総工費はいくらでしたか?", "id": "tr-110-05-002", "answers": [ { "text": "5億4480万円", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コクヨの創業者は誰ですか?", "id": "tr-110-05-003", "answers": [ { "text": "黒田善太郎", "answer_start": 296, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1971年(昭和46年)10月には移動図書館(自動車文庫)の巡回サービスを開始した。\n1972年(昭和47年)9月には第1号分館として水橋分館を開設し、以後は2000年(平成12年)に第15号分館として東部分館を開設するまで、旧富山市内で分館の整備を進めた。\n障害者向けのサービスとして、1973年(昭和48年)11月には録音図書の郵送サービスを開始し、1979年(昭和54年)5月には書籍小包郵送のサービスを開始している。", "qas": [ { "question": "最も早く開始された障害者向けのサービスとは、どんなサービスでしたか?", "id": "tr-110-06-000", "answers": [ { "text": "録音図書の郵送サービス", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "録音図書の郵送サービスと書籍小包郵送のサービスは、どちらが後で開始されましたか?", "id": "tr-110-06-001", "answers": [ { "text": "書籍小包郵送のサービス", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "富山市立図書館の第15号分館となるのはどこですか?", "id": "tr-110-06-002", "answers": [ { "text": "東部分館", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2005年(平成17年)3月には岩瀬公民館の移転にともない、岩瀬分館を岩瀬小学校図書館と統合して移設した。\n2005年4月には旧富山市が上新川郡大沢野町、大山町、婦負郡八尾町、婦中町、山田村、細入村と合併して新富山市が誕生した。\n合併前の6町村には移動図書館サービスが存在せず、また八尾町以外の5町村は図書館が1館しかなかったため、図書館の利用者が図書館周辺の住民に偏る傾向があった。\n合併後の富山市は旧6町村に計18か所の巡回場所を設置。\n合併から2006年(平成18年)1月末までに旧6町村で14,688冊を貸し出しており、旧6町村に限れば移動図書館の貸出冊数は年平均15冊に達している。", "qas": [ { "question": "岩瀬分館はどこの施設と統合しましたか?", "id": "tr-110-07-000", "answers": [ { "text": "岩瀬小学校図書館", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "旧6町村における移動図書館の年平均の貸出冊数は何冊ですか?", "id": "tr-110-07-001", "answers": [ { "text": "15冊", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "新富山市に合併された町村は、町と村どちらの数が多いですか?", "id": "tr-110-07-002", "answers": [ { "text": "町", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "新富山市が誕生したのはいつですか?", "id": "tr-110-07-003", "answers": [ { "text": "2005年4月", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2006年度から2年間かけて、旧富山市と旧6町村の図書館で異なっていた電算システムの統合を行った。\n蔵書データの移行作業が必要なため、旧6町村それぞれの館では2週間から1か月程度臨時休館して移行作業を行っている。\n2006年6月14日午後3時頃、2階ベランダの外壁に張られていた大理石の化粧板1枚が落下し、通路に駐車していた乗用車に直撃して屋根に50センチの穴が開く事故が起こった。\nこの事故による負傷者はいない。\nその日は通常通り午後7時まで開館したが、富山市長の指示により翌日からは2週間ほど臨時休館して原因の解明にあたった。\n6月27日には補強工事に着手し、化粧板228枚をボルトで留めた上でステンレス製の網をかぶせ、8月10日に工事を終了した。\n図書館自体は工事中の7月4日に再開館している。", "qas": [ { "question": "旧富山市と旧6町村の図書館で異なっていた電算システムの統合を行うのに、どれくらいの期間が必要でしたか?", "id": "tr-110-08-000", "answers": [ { "text": "2年間", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2008年(平成20年)2月から6月には、本館各階の天井に使用されていたアスベスト(石綿)を除去する作業のために長期休館した。\n1970年に開館してから初の長期休館であり、この間の予約図書の受取や返却は地域館や分館が肩代わりしたほか、本館が購入している雑誌や新聞は富山駅前CiCビルのとやま市民交流館が肩代わりした。\n本館のTOYAMAキラリ移転を1年後に控えた2014年4月には、全館で利用者カードをバーコード式から磁気式に変更した。\n2016年(平成28年)1月19日からは、利用者のお勧めコメントをそのまま推薦本の帯に巻いた本の展示と貸出を開始した。\n2015年7月22日には本館がTOYAMAキラリに移転した。\n移転時には旧館より約7万冊多い約45万冊を所蔵する。", "qas": [ { "question": "磁気式の利用者カードは、変更前はどのような方法でしたか?", "id": "tr-110-09-000", "answers": [ { "text": "バーコード式", "answer_start": 201, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本館と旧館はどちらの所蔵数が多いですか?", "id": "tr-110-09-001", "answers": [ { "text": "本館", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "本館がTOYAMAキラリに移転したのはいつですか?", "id": "tr-110-09-002", "answers": [ { "text": "2015年7月22日", "answer_start": 279, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "磁気式の利用者カードになったのはいつからですか?", "id": "tr-110-09-003", "answers": [ { "text": "2014年4月", "answer_start": 181, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2015年(平成27年)5月6日には移転前準備のために丸の内の本館が閉館。\n8月22日、西町の富山大和跡地に建設完工したTOYAMAキラリ内に移転開館した。\n図書館は建物2階から6階の北側にあり、同一フロアの南側には富山市が新たに設置した富山市ガラス美術館が入居する。\nTOYAMAキラリには富山県産スギ材がふんだんに使用されており、図書館の書架も木材を使用している。\n本館にはガラス美術館が同居することから、図書館では2015年(平成27年)8月の開館時にガラス工芸の入門書・専門書・作品集など数百冊をそろえている。\n2016年(平成28年)6月1日には視聴覚資料の貸出を停止し、視聴覚サービスを館内視聴のみに縮小した。", "qas": [ { "question": "TOYAMAキラリの施設に大量に使用されているものは何?", "id": "tr-110-10-000", "answers": [ { "text": "富山県産スギ材", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "図書館は、TOYAMAキラリ内のどちら側の方向に位置しているの?", "id": "tr-110-10-001", "answers": [ { "text": "北側", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "TOYAMAキラリの2階から6階の南側には何が入っているの?", "id": "tr-110-10-002", "answers": [ { "text": "富山市ガラス美術館", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "人気作家の本でも複本は3冊程度に抑えており、人気本では予約から2-3年待ちとなることもある。\nこのことに対する苦情は少なくないが、タイトル数を充実させることで利用促進に努めている。\n2015年のTOYAMAキラリへの移転を契機に、講演会やバックヤードツアーなどの企画に力を入れている。\n1970年(昭和45年)に富山市立図書館として独立した際には、富山県新川郡東谷村出身の小説家・ジャーナリストである翁久允から蔵書約2,700点(洋装和書約2,000冊、洋書269冊、雑誌201種、和装本181点)を寄贈され、翁文庫を整備した。", "qas": [ { "question": "翁久允から寄贈された蔵書の中で、最も数が多かったのは何の種類ですか?", "id": "tr-110-11-000", "answers": [ { "text": "洋装和書", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "翁久允から寄贈された蔵書の中で、最も数が少なかったのは何の種類ですか?", "id": "tr-110-11-001", "answers": [ { "text": "和装本", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "富山県新川郡東谷村出身の小説家とは誰ですか?", "id": "tr-110-11-002", "answers": [ { "text": "翁久允", "answer_start": 200, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1996年度(平成8年度)には元成城大学学長の山田俊雄(山田孝雄の三男)から、富山市総曲輪生まれの国語学者・山田孝雄の蔵書約10,000点が寄贈された。\n寄贈されたのは書籍・漢籍・拓本などであり、その分野は言語学・文学・歴史学・宗教学など多岐にわたる。\n1999年(平成11年)11月5日には本館6階に約18,000点の山田孝雄文庫が開設された。", "qas": [ { "question": "開設当初の山田孝雄文庫はいくつありましたか?", "id": "tr-110-12-000", "answers": [ { "text": "約18,000点", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "山田俊雄の父親は誰ですか?", "id": "tr-110-12-001", "answers": [ { "text": "山田孝雄", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "山田俊雄は、父親の蔵書をいくつ寄贈しましたか?", "id": "tr-110-12-002", "answers": [ { "text": "約10,000点", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2003年(平成15年)には小説家の岩倉政治の遺族から蔵書や原稿など約6,300点を寄贈された。\n岩倉は富山県東砺波郡高瀬村(現・南砺市高瀬)出身だが、戦後には富山市に在住して創作活動を行っている。\n2010年(平成22年)11月3日には本館6階にある専用室に岩倉政治文庫が設置された。\n岩倉政治文庫は岩倉の著作約480冊を含む約2,000冊の蔵書、未発表作品を含む原稿、書簡など約4,300点であり、この中には単行本に収録されていない雑誌掲載作品も多い。", "qas": [ { "question": "岩倉政治が創作活動を行った都市はどこ?", "id": "tr-110-13-000", "answers": [ { "text": "富山市", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "岩倉政治文庫の中で、本人の著作となる本はいくつありますか?", "id": "tr-110-13-001", "answers": [ { "text": "約480冊", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2016年(平成28年)8月にはソニー創業者の一人盛田昭夫の遺族より、盛田昭夫が会長室に並べていた所蔵509冊が寄贈された。\n盛田の長女がYOYAMAキラリ内の美術館と、新しくなった図書館の組み合わせに興味を持ったことがきっかけで、役立ててほしいと寄贈された。\n書籍は政治経済・経営に関するものから、自然科学、幼児教育など多岐にわたる。\nまた一部書籍には本人による書き込みや下線などが引かれているものもある。\nこれらの書籍は、同年12月16日より5階フロアにて盛田昭夫文庫を開設し貸出しされる。\n路面電車コーナーは、富山市の富山地方鉄道富山軌道線と富山港線が、2019年度末に富山駅で結ばれる(路面電車南北接続)ことに先がけ、2018年9月7日に開設された。\n富山県や日本・世界各地の路面電車に関連した本など約200冊を集め常設される。", "qas": [ { "question": "盛田昭夫の遺族から寄贈された書籍は何冊ありましたか?", "id": "tr-110-14-000", "answers": [ { "text": "509冊", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "盛田昭夫文庫は、TOYAMAキラリ内の何階で開設されましたか?", "id": "tr-110-14-001", "answers": [ { "text": "5階", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "路面電車コーナーでは何冊の書籍が備えられていますか?", "id": "tr-110-14-002", "answers": [ { "text": "約200冊", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "路面電車コーナーはいつ開設された?", "id": "tr-110-14-003", "answers": [ { "text": "2018年9月7日", "answer_start": 313, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "富山駅南口のCiCビルにはとやま駅南図書館・子ども図書館がある。\n2003年冬、CiCビル3階に富山市民交流館図書コーナーとして開設され、2006年に施設を拡張。\n延床面積は222m2となり、年間来館者数は5万人台で推移した。\n富山駅前という好立地に加え、21時まで開館している利便性などから、高校生の利用が増加した。\n3階の学習室を臨時開放するなどの対応を行っていた。", "qas": [ { "question": "とやま駅南図書館・子ども図書館の閉館時間は何時?", "id": "tr-110-15-000", "answers": [ { "text": "21時", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "グレート・バリア・リーフ", "paragraphs": [ { "context": "グレート・バリア・リーフ(英:GreatBarrierReef)は、オーストラリア北東岸に広がる世界最大のサンゴ礁地帯。\n漢字表記は大堡礁(だいほしょう)。\n南緯10度から24度にかけて広がり、2600km(1,600マイル)を超える長さに2,900以上の暗礁群と約900の島を持ち、総面積は344,400km2以上となる。\n地理的な位置は、クイーンズランド州沿岸の珊瑚海に存在する。", "qas": [ { "question": "グレート・バリア・リーフの総面積は?", "id": "tr-111-00-000", "answers": [ { "text": "344,400km2以上", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グレート・バリア・リーフにある島の数は?", "id": "tr-111-00-001", "answers": [ { "text": "約900", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グレート・バリア・リーフを漢字表記すると?", "id": "tr-111-00-002", "answers": [ { "text": "大堡礁", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グレート・バリア・リーフは宇宙空間からも確認できるほど広大であり、生物が作り出した単一の構造物としては世界最大である。\nしかし、その生物とは微小なサンゴやポリプ等の有機体であり、これらが数十億集まって形成しているサンゴ礁。\nそして、この暗礁は生物多様性を支える重要な役目を持ち、1981年に世界遺産(自然遺産)に登録された。\n1997年、CNNはグレート・バリア・リーフを「7大世界の驚異」自然部門のひとつに挙げ、クイーンズランド州のナショナル・トラストは州を代表する象徴に認定した。\n暗礁のかなりの部分はグレート・バリア・リーフ海洋公園に指定され、漁業や観光など人間の行為が及ぼす影響を制限している。\nただし、表面流出や気象変動によるサンゴの白化現象、オニヒトデの異常繁殖など、生態系に打撃を与える環境変化が発生している。\nこれらへの対策も取り組まれており、その統合沿岸管理(ICM)は先端的な事例にも挙げられる。", "qas": [ { "question": "グレート・バリア・リーフが世界遺産に登録されたのは何年?", "id": "tr-111-01-000", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナショナル・トラストがクイーンズランド州の象徴として認定した自然遺産とは何?", "id": "tr-111-01-001", "answers": [ { "text": "グレート・バリア・リーフ", "answer_start": 173, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オーストラリア先住民のアボリジニやトレス海峡諸島民たちは1万5千年前から長くグレート・バリア・リーフと共生を続け、彼らの文化や精神に多大な影響を与えてきた。\nヨーロッパ人移住後は1770年のジェームズ・クックなど探検や調査が進んだ。\n1960年代にはグレート・バリア・リーフ内での石油掘削が認められたことを契機に賛否の論争が起こり、1970年代からは保護に向けた検討が始まった。\n近年は観光地としても著名となり、特にウィッツサンデー諸島やケアンズ地区が知られる。\n観光収入は年10億オーストラリアドルに上り、重要な経済要素となっている。", "qas": [ { "question": "グレート・バリア・リーフの年間観光収入の金額は?", "id": "tr-111-02-000", "answers": [ { "text": "10億オーストラリアドル", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1770年にグレート・バリア・リーフを調査した人とは?", "id": "tr-111-02-001", "answers": [ { "text": "ジェームズ・クック", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グレート・バリア・リーフはグレートディヴァイディング山脈地域の顕著な特徴となっている。\n小さなマレー島をその中に含んでいる。\n最北端の島であるブランブル・ケイとパプアニューギニア南海岸の間のトレス海峡から、最南端のレディーエリオット島とフレーザー島の間の名も無き海峡まで続いている。\nレディーエリオット島はブランブル・ケイから南東に直線距離で1,915km(1,190mi)の位置にある。\n約900の島のうち、600は大陸起源、300はサンゴ礁を起源とする。", "qas": [ { "question": "ブランブル・ケイとレディーエリオット島の間はどれくらいの距離があるの?", "id": "tr-111-03-000", "answers": [ { "text": "1,915km", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グレート・バリア・リーフの島のうち、大陸起源とサンゴ礁を起源とする数はどちらが多いですか?", "id": "tr-111-03-001", "answers": [ { "text": "大陸起源", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グレート・バリア・リーフの島のうち、最北端の島となるのは何?", "id": "tr-111-03-002", "answers": [ { "text": "ブランブル・ケイ", "answer_start": 71, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "新生代以降、オーストラリア大陸は年間7cmの速度で北へ移動している。\n大陸東部は隆起を続けた時期があり、クイーンズランド州に長さ400kmにわたる分水界を形成した。\nこの時期、活発な火山活動や玄武岩流が続き、花崗岩が露出した部分によっていくつかの島が形成された。\nそして構造盆地が形成されると、ここにサンゴが進出し始め、後の珊瑚海となった。\nしかし約2500万年前頃までクイーンズランド北部は温帯水域であったため、サンゴが繁殖するには海水は冷たかった。\nここから、グレート・バリア・リーフの形成は複雑な経路をたどる。\nやがてクイーンズランド水域の気候は熱帯へと変わるが、同時に海深の変化も起こりサンゴ礁の成長と衰退に影響を与えた。\n珊瑚は直径で年間1-3cm成長するが、垂直方向の成長は年1-25cmにもなる。\nしかしこれには日光が欠かせず、そのために深度150m以上の場所では成長は難しい。\nクイーンズランドの海岸が2400万年前に熱帯気候となった頃、一部に珊瑚の成長が始まったが、グレートディバイディング山脈の浸食によって堆積作用が始まり、三角州や海盆域およびタービダイトが形成され、それらはサンゴの繁殖には阻害要因となった。\n1000万年前には蓄積した堆砂が水深を下げ、さらにサンゴの成長を邪魔する土砂がかぶりにくい沖まで堆積が進んだ。\nただし暗礁となるには基盤となる部分へのさらなる堆積が必要だった。\n40万年前には間氷期が訪れ、浅い海の海水温度は一時的に4°Cほど上昇した。", "qas": [ { "question": "珊瑚は直径と垂直方向、どちらの方がより大きく成長しますか?", "id": "tr-111-04-000", "answers": [ { "text": "垂直方向", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "珊瑚の成長に不可欠の要素とは何?", "id": "tr-111-04-001", "answers": [ { "text": "日光", "answer_start": 363, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "珊瑚は何m以上の深度だと成長するのが困難ですか?", "id": "tr-111-04-002", "answers": [ { "text": "150m以上", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "現在のグレート・バリア・リーフを形作る基盤となる地層は、古い暗礁や火山の名残りなどを含む海丘の上にグレートディバイディング山脈からの堆積物が重なった開析海岸平野である。\n協同リサーチセンター(CRC)内のサンゴ礁リサーチセンターは、50万年前のサンゴ骨格による鉱床を発見した。\nグレート・バリア・リーフ海洋公園管理局(GBRMPA)は、初期の暗礁は60万年前頃から形成が始まったという見解を述べ、現在生育しているサンゴ群はその上に、約2万年前から成長を始めたと考察している。\nオーストラリア海洋科学研究所もこれに同意し、成長開始の時期は最終氷期最盛期に当たり、海深も現在より120mほど浅かったと述べている。", "qas": [ { "question": "初期の暗礁は何年前頃から形成が始まったとされていますか?", "id": "tr-111-05-000", "answers": [ { "text": "60万年前頃", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在生育しているサンゴ群の成長は何年前から始まったとされていますか?", "id": "tr-111-05-001", "answers": [ { "text": "約2万年前", "answer_start": 216, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2万年前から6000年前にかけて海水準変動によって海面は上昇した。\nこれに伴い、サンゴは海岸平野上でより高く成長した。\n1万3千年前の頃、海面は現在よりも60m程低く、その頃には海岸平野の丘状部は大陸島となり、サンゴの繁殖はその周囲で起こった。\n海面が上昇に転じると大陸島は水没し、サンゴは海丘上全体で成長するようになり、現在の小島や暗礁へと成長した。\n約6000年前から今日にかけての期間、グレート・バリア・リーフ周辺では海面上昇は起こっていない。\nCRCサンゴ礁リサーチセンターは、現在生育しているサンゴは8000-6000年前にサンゴ礁を形成したものが絶滅せずに繁殖しているとの見解を述べた。\nリーフ形成当初のサンゴ礁と似た古代の堡礁は、西オーストラリア北部のキンバリー地域で見ることができる。", "qas": [ { "question": "現在生育しているサンゴは何年前にサンゴ礁を形成したの?", "id": "tr-111-06-000", "answers": [ { "text": "8000-6000年前", "answer_start": 255, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "世界遺産に登録されたグレート・バリア・リーフの地域は70のエコリージョンに分けられ、うち30はサンゴ礁のエコリージョンである。\n北部にはリボンリーフや三角州堆積礁が形成されているが、それ以外の地域には同種のものは見られず、環礁は存在しない。\nまた、サンゴ礁がオーストラリア大陸と接触している部分もほとんど無い。\n裾礁は広く見られ、特にウィッツサンデー諸島のような島と接触して形成されたものが南域で特に顕著である。\n礁湖を伴うサンゴ礁も南部で多く、北部でもプリンセスシャロット湾沖などで発達している。\n中部域で最も一般的な形態は、リザード島周辺などのような三日月礁であり、グレート・バリア・リーフ海洋公園最北部や南緯20-22度のスウェイン礁などでも確認される。\n面状礁はヨーク岬半島およびプリンセスシャロット湾からケアンズまで広く分布し、リーフ内の多くの島で発達している。", "qas": [ { "question": "北部にだけ形成されているのは三角州堆積礁と何ですか?", "id": "tr-111-07-000", "answers": [ { "text": "リボンリーフ", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "グレート・バリア・リーフは、危急種や絶滅危惧種などに相当する固有種等、多くの生命にとって安住の地でもある。\nクジラやイルカなど30種がグレート・バリア・リーフで確認され、その中にはネズミイルカ科、ミンククジラ、ウスイロイルカ属、ザトウクジラ等も含まれる。\nジュゴンの個体数も多い。\nウミガメの仲間は6種類。\nアオウミガメ、オサガメ、タイマイ、アカウミガメ、ヒラタウミガメ、ヒメウミガメが見つかっている。\nアオウミガメは集団遺伝学見地から2種類に分けられ、暗礁の北部と南部にそれぞれ生育している。\n海草は15種あり、魚類の生息域となり、ジュゴンや亀を引き寄せる。\n最もよく見られる海草の属はハロフィラとウミジグサ属である。", "qas": [ { "question": "グレート・バリア・リーフで確認されているウミガメの種類はいくつですか?", "id": "tr-111-08-000", "answers": [ { "text": "6種類", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グレート・バリア・リーフで確認されている海草の種類はいくつですか?", "id": "tr-111-08-001", "answers": [ { "text": "15種", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "暗礁近郊の海岸線にあるマングローブや塩沼では、イリエワニが生息する。\n巣についての報告は無く、海洋公園では海生ワニは広範囲に生息するが、各個体は孤立気味である。\nサメ、アカエイ科、ガンギエイ、ギンザメ目は125種が暗礁で確認されている。\n軟体動物は5000種近くが確認されており、オオシャコガイや多様なウミウシ、イモガイ科などがいる。\nイシヨウジは49種、タツノオトシゴは9種が確認された。\n島部では少なくとも7種のカエルが生息する。", "qas": [ { "question": "暗礁近郊の海岸線に生息する大型爬虫類とは?", "id": "tr-111-09-000", "answers": [ { "text": "イリエワニ", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "暗礁で確認されている軟体動物は何種?", "id": "tr-111-09-001", "answers": [ { "text": "5000種近く", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イシヨウジ、タツノオトシゴ、カエルの中で確認された種類が最も多いのはどれ?", "id": "tr-111-09-002", "answers": [ { "text": "イシヨウジ", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イシヨウジ、タツノオトシゴ、カエルの中で確認された種類が2番目に多いのはどれ?", "id": "tr-111-09-003", "answers": [ { "text": "タツノオトシゴ", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "鳥は215種、この中には22種の海鳥と32種の海岸線に棲む鳥を含み、暗礁を巣やねぐらの場にしている。\nその中にはシロハラウミワシやベニアジサシも見られる。\nほとんどの営巣は北部または南部の島で行われ、140から170万羽が繁殖する。\nまた、グレート・バリア・リーフの島々は知られているだけで2195種にものぼる植物の生育地となっており、固有種も3種が見つかっている。\n北部の島々に繁る300から350種の植物は樹木が多く、南部の200種は草本中心という傾向がある。\nウィットサンデー地区は最も植生が豊かな場所で、1141種が根付く。\n植物の伝播には鳥が貢献している。", "qas": [ { "question": "海鳥と海岸線に棲む鳥はどちらの方が種類が多いですか?", "id": "tr-111-10-000", "answers": [ { "text": "海岸線に棲む鳥", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グレート・バリア・リーフに生息する鳥は何種ですか?", "id": "tr-111-10-001", "answers": [ { "text": "215種", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グレート・バリア・リーフの中で最も植生が豊富な地域はどこ?", "id": "tr-111-10-002", "answers": [ { "text": "ウィットサンデー地区", "answer_start": 233, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ウミヘビ科は17種が水深50m未満の暖かい海水の領域に住み、北部よりも南部でよく見られる。\n世界遺産登録区域のウミヘビには固有種は見つかっておらず、絶滅の危惧も無い。\n魚は1500種以上が暗礁で生活し、クマノミやバラフエダイ、レッドスロートエンペラー、数種のフエダイ科やコーラルトラウトなどが知られる。\n49種が固まりで産卵するが、他の84種は放卵を行う。\nホヤのなかまは少なくとも330種が水深1-10cmの暗礁に生存しており、外肛動物は300から500種がいる。", "qas": [ { "question": "ウミヘビ科が多く住んでいるのは北部と南部のどちら?", "id": "tr-111-11-000", "answers": [ { "text": "南部", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "暗礁で生息する魚の種類のうち、卵を産む方法が多いのは産卵と放卵のどちらですか?", "id": "tr-111-11-001", "answers": [ { "text": "放卵", "answer_start": 172, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ホヤのなかまと外肛動物はどちらの種類が多いですか?", "id": "tr-111-11-002", "answers": [ { "text": "外肛動物", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "サンゴは約71属400種。\nイシサンゴの仲間もウミトサカの仲間も見られる。\nほとんどが配偶子で生殖する種類であり、春や夏の水温上昇や月齢、および日周期の影響を受けて配偶子を一斉に放つ行動を取る。\nグレート・バリア・リーフでは10月に、満月の後の週にこれらが見られ、礁の外では11月や12月に行われることもある。\n通常のウミトサカは36種が生息する。\n海草や海藻は500種が暗礁で生育し、その中には石灰質上に長さ100mにもなる群をつくり、その様子が多雨林にも比されるハリメダ13種もある。", "qas": [ { "question": "サンゴが配偶子を一斉に放つ行動が早く行われる地域は、グレート・バリア・リーフと礁の外のどちらですか?", "id": "tr-111-12-000", "answers": [ { "text": "グレート・バリア・リーフ", "answer_start": 98, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウミトサカは何種類生息しているの?", "id": "tr-111-12-001", "answers": [ { "text": "36種", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "気候変動、公害、オニヒトデの繁殖、漁業がグレート・バリア・リーフの健全な状態に与える脅威は大きい。\n他にも、海難事故、石油流出や台風も無視できない。\n原生動物が引き起こすサンゴの骨格を侵す骨侵食バンド症や汚染へ影響する珊瑚感受性は、31種のサンゴに影響を及ぼしている。\nサンゴ礁研究のためのARCセンターの報告書によれば、現在、北部地域でサンゴの67%がサンゴ礁の最悪の被害を受けて死亡したことが明らかになった。", "qas": [ { "question": "現在、北部地域で死亡したサンゴの割合はどれくらいですか?", "id": "tr-111-13-000", "answers": [ { "text": "67%", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "グレート・バリア・リーフ海洋公園管理局は、リーフにかかる最大の脅威はサンゴの白化現象を引き起こす気候変動だと捉えている。\n1998年、2002年および2006年の夏に海洋温度が上昇して大規模なサンゴ白化現象が生じたが、このような事態は毎年起こりうるものと予想されている。\n気候変動の影響はこれらに止まらず、魚が生息区域を変えてしまい、その結果として捕食性海鳥の雛の死亡率が上昇するような問題も生じる。\nまた、生息数の変化はウミガメの生態域にも変化を及ぼす。", "qas": [ { "question": "グレート・バリア・リーフの最大の脅威は何?", "id": "tr-111-14-000", "answers": [ { "text": "気候変動", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サンゴの白化現象を引き起こす原因は何?", "id": "tr-111-14-001", "answers": [ { "text": "気候変動", "answer_start": 48, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オニヒトデはサンゴのポリプを餌とする。\nこれらのヒトデの数が多いと、サンゴ礁は荒らされることになる。\n2000年に起こった大発生では、RRC(ReefsResearchCentre.)の研究で調査されたサンゴ礁の66%が失われていた。\nこのような大発生は、水質低下やヒトデの天敵を乱獲したために、自然のサイクルが狂わされて起こると考えられている。", "qas": [ { "question": "オニヒトデは何を食べて生きていますか?", "id": "tr-111-15-000", "answers": [ { "text": "ポリプ", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オニヒトデが大発生した年はいつ?", "id": "tr-111-15-001", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2000年にサンゴ礁の半分以上を死に追いやった生物とは何?", "id": "tr-111-15-002", "answers": [ { "text": "オニヒトデ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グレート・バリア・リーフを航行する船舶が起こす事故は差し迫った事態である。\n暗礁内を通過する航行は簡単ではないが、船が不調を来しているような際、修理をするまではリーフ内を通る方が安全と考える操船者は多い。\nこのような要因から、判明しているだけでも1600隻以上の船がグレート・バリア・リーフで座礁などを起こしている。\n2010年4月3日には、石炭専用船『深能一号』がダグラス浜沖の浅瀬に座礁し、最大4トンの油が流出してサンゴ礁に損害を与える事故が発生した。\nこれは、制限海域内であるにも関わらず最高速度で浅瀬に衝突して座礁したもので、4日未明に燃料油約950tの一部が流出する事態となった。\nこれにより海洋汚染やサンゴ礁を損壊する恐れが懸念された、中和剤の散布により重油の被害自体は最小限に食い止めたものの、珊瑚礁には幅250m、長さ3kmに渡って引き摺られたような傷が残った他、海洋生物付着防止用の有害塗料が剥れ珊瑚に付着しているのも確認された。\nこの事故で4月14日には船長と一等航海士が連邦警察に逮捕されている。", "qas": [ { "question": "『深能一号』の座礁事故によって流れ出た油は最大どれくらいでしたか?", "id": "tr-111-16-000", "answers": [ { "text": "4トン", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "珊瑚礁に幅250m、長さ3kmに渡る傷をつけた船の名前は何?", "id": "tr-111-16-001", "answers": [ { "text": "『深能一号』", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グレート・バリア・リーフを古くから知っていたアボリジニやトレス海峡諸島民は、長く利用してきた。\nアボリジニはこの地域に約4万年前から、トレス海峡諸島民は約1万年前からこの地域に居住し、70程の部族を形成した彼らにとってリーフは文化を特徴づけるものとなっていた。\n1768年、ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルは探検の最中にグレート・バリア・リーフを発見したが、特にフランスの領有を主張することは無かった。\n1770年6月11日、艦長・ジェームズ・クック率いるエンデバー号がリーフで座礁する事件を起こした。\n船は大損害を被ったが、満ち潮に合わせて引き揚げに成功し、最終的に脱出した。\nリーフで起こった最も有名な海難事故のひとつに、1791年8月29日のパンドラ(帆走フリゲート)難破沈没があり、この時は35人が犠牲となった。\n1983年以来、パンドラはクイーンズランド博物館で展示されている。\nグレート・バリア・リーフには環礁が全く無かったため、その全貌は19世紀までほとんど知られていなかった。\nこの期間、いくつかの島でグアノの堆積物の採掘が行われ、レイン島のように作業を行うための標識として灯台が建設された。\n初期の暗礁研究は、1922年のグレート・バリア・リーフ委員会によって開始された。", "qas": [ { "question": "アボリジニとトレス海峡諸島民はどちらが先にグレート・バリア・リーフの地域に居住し始めたの?", "id": "tr-111-17-000", "answers": [ { "text": "アボリジニ", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エンデバー号の艦長は誰だったの?", "id": "tr-111-17-001", "answers": [ { "text": "ジェームズ・クック", "answer_start": 219, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パンドラ難破沈没での犠牲者は何人だったの?", "id": "tr-111-17-002", "answers": [ { "text": "35人", "answer_start": 352, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "王立委員会がリーフでの石油採掘を禁じ、1975年にオーストラリア政府はグレート・バリア・リーフ海洋公園を定めて各種の経済活動を制限したが、それは全地域を包括してはいない。\n公園はクイーンズランド州政府との協力の下、公園管理局が継続的に保てる節度を持った利用を保証する。\nそのために、ゾーニング、管理計画、認可、教育、エコツーリズム証明などの奨励を組み合わせて、サンゴ礁の維持管理に努めている。", "qas": [ { "question": "グレート・バリア・リーフ海洋公園が定められたのは何年?", "id": "tr-111-18-000", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "類稀な生物多様性を持つ上に、暖かくライブアボード等を用いた利便性が高い海域でもあるため、グレート・バリア・リーフは非常に人気がある観光地であり、特にスクーバダイビングは好まれる。\n観光拠点は、それぞれにプランを提供する便利なウィットサンデーやケアンズになり、この地域は海洋公園の7%に相当する。\nクイーンズランド州沿岸では日帰りのボートツアーを企画する都市も多い。\nまた、リゾートを提供する場所は、初期に開かれたレディーエリオット島など27の島(1996年現在)や沿岸がある。", "qas": [ { "question": "グレート・バリア・リーフで特に好まれているマリンレジャーとは何?", "id": "tr-111-19-000", "answers": [ { "text": "スクーバダイビング", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "早い段階からリゾート提供した島はどこ?", "id": "tr-111-19-001", "answers": [ { "text": "レディーエリオット島", "answer_start": 206, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "国内旅行では1996年の時点でほとんどを取り込み、特に冬の時期に人気を博した。\n1年当たりの観光収入は7億7600万AU$に達した。\n2003年には40億AU$、2005年には51億AU$となった観光収入は同地区最大の産業となり、毎年200万人が訪れるようになった。\nしかし、これら観光事業がグレート・バリア・リーフに悪影響を与えているのではという懸念もある。", "qas": [ { "question": "観光収入が多かったのは2003年と2005年のどちら?", "id": "tr-111-20-000", "answers": [ { "text": "2005年", "answer_start": 81, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1996年の観光収入はいくらでしたか?", "id": "tr-111-20-001", "answers": [ { "text": "7億7600万AU$", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "毎年リーフに訪れる観光客数はどれくらい?", "id": "tr-111-20-002", "answers": [ { "text": "200万人", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ボートツアーやクルージングが多く行われ、その期間も1日から数日間をかけるもの、船舶もディンギーからスーパーヨットまで多様である。\nグラスボートや海中天文台もあり、ヘリコプター飛行も行われる。\nしかし断然の人気を誇るものはシュノーケリングとスクーバダイビングである。\nこれらは平底のボートを使い、潜る場所は網で囲われる。\n水質がきれいなリーフの外側が特に好まれる。\n観光事業は持続可能性に配慮して管理される。\n観光料金にはグレート・バリア・リーフの研究に使われる費用が加味されており、GBRMPA総収入の20%がこれから賄われている。\nリーフの通行において、クルーズ客船や裸傭船契約また投錨には制限が掛けられている。", "qas": [ { "question": "リーフの外側で行うのが好まれているのはスクーバダイビングと何ですか?", "id": "tr-111-21-000", "answers": [ { "text": "シュノーケリング", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "コーヒーの歴史", "paragraphs": [ { "context": "コーヒーの歴史ではコーヒーノキの利用と栽培、およびコーヒー飲用の歴史について述べる。\nコーヒーの起源にはいくつもの伝説があるが、その内容は3つに大別できる。\n1つ目は、9世紀のエチオピアで、ヤギ飼いの少年カルディが、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいて修道僧に相談したところ、山腹の木に実る赤い実が原因と判り、その後修道院の夜業で眠気覚ましに利用されるようになった。\nこの話の原典とされるのは、レバノンのキリスト教徒ファウスト・ナイロニ(FaustusNairon)の著書『コーヒー論:その特質と効用』(1671年)に登場する「眠りを知らない修道院」のエピソードだが、実際には時代も場所も分からないオリエントの伝承として記されていた。\nこの話がヨーロッパで紹介されると、コーヒーの流行に合わせて装飾が進み、舞台は原産地エチオピアに設定され、ヤギ飼いの少年にはKaldiというアラブ風の名が与えられた。", "qas": [ { "question": "コーヒーの起源は、大きく分けていくつに分類出来ますか?", "id": "tr-112-00-000", "answers": [ { "text": "3つ", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『コーヒー論:その特質と効用』の著者は誰ですか?", "id": "tr-112-00-001", "answers": [ { "text": "ファウスト・ナイロニ", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ファウスト・ナイロニはどこの国のキリスト教徒ですか?", "id": "tr-112-00-002", "answers": [ { "text": "レバノン", "answer_start": 198, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2つ目は、13世紀のモカで、イスラム神秘主義修道者(スーフィー)のシェイク・オマール(SheikhOmar)が、不祥事(王女に恋心を抱いた疑い)で街を追放されていた時に山中で鳥に導かれて赤い実を見つけ、許されて戻った後にその効用を広めた。\n原典は、アブドゥル・カーディル・アル=ジャジーリーの著書『コーヒーの合理性の擁護』(1587年)写本で、千夜一夜物語をヨーロッパに紹介したアントワーヌ・ガラン(AntoineGalland)の著書『コーヒーの起源と伝播』(1699年)によってヨーロッパに紹介された。\nオマールの没後早い時期に書かれた歴史書にはオマールがコーヒーを発見した記述は存在せず、東アフリカを原産地とするコーヒーノキがイエメンの山中に自生している点から信憑性には疑問が呈され、モカのコーヒー産業が発達した後に創造された逸話だと考えられている。", "qas": [ { "question": "『コーヒーの合理性の擁護』の著者は誰ですか?", "id": "tr-112-01-000", "answers": [ { "text": "アブドゥル・カーディル・アル=ジャジーリー", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "千夜一夜物語は誰によってヨーロッパに広まりましたか?", "id": "tr-112-01-001", "answers": [ { "text": "アントワーヌ・ガラン", "answer_start": 189, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『コーヒーの起源と伝播』の著者は誰ですか?", "id": "tr-112-01-002", "answers": [ { "text": "アントワーヌ・ガラン", "answer_start": 189, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "3つ目は、15世紀のアデンで、イスラム律法学者のゲマレディン(ザブハーニー)(Gemaleddin)が体調を崩した時、以前エチオピアを旅したときに知ったコーヒーの効用を確かめ、その後、眠気覚ましとして修道者たちに勧めた。\nさらに学者や職人、夜に旅する商人へと広まっていった。\nシェイク・オマールの逸話と同じく『コーヒーの合理性の擁護』が原典だとされている。\nヨーロッパの人間の記録の中には、1454年にゲマレディンがコーヒーを認めるファトワーを出したとする伝承が紹介されている。\n『コーヒーの合理性の擁護』では、ザブハーニーが飲用していた液体はコーヒーではなくカートだとする別の記録が紹介されている。\nウィリアム・H・ユーカーズ(WilliamH.Ukers)の著書『オール・アバウト・コーヒー』(1935年)では、信憑性の高い伝承として取り上げられている。", "qas": [ { "question": "アデンでのコーヒーの起源にまつわる話の原典は何ですか?", "id": "tr-112-02-000", "answers": [ { "text": "『コーヒーの合理性の擁護』", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『オール・アバウト・コーヒー』の著者は誰?", "id": "tr-112-02-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・H・ユーカーズ", "answer_start": 301, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲマレディンの職業は何だったの?", "id": "tr-112-02-002", "answers": [ { "text": "イスラム律法学者", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "エチオピアでは高原地帯に自生するコーヒーノキの果実の種子が古くから食用にされ、現地の人間はボン(コーヒー豆)を煮て食べていたと考えられている。\nエチオピアの奥地ではボンを煮て食べる習慣が長く残り、エチオピア南西部の奥地に住むオロモ族の間には子供や家畜の誕生を祝ってコーヒーと大麦をバターで炒める「コーヒーつぶし」の儀式が残る。\nまた、エチオピアでは乾燥させたコーヒーの葉で淹れた「アメルタッサ」、炒ったコーヒーの葉で淹れた「カティ」という飲み物も愛飲されている。\n古代ギリシャや古代ローマでコーヒーが食用にされていた、あるいは取引の対象になっていたことを示す確たる史料は無く、古代エチオピアに成立したアクスム王国でコーヒーの利用・取引が行われていたことを証明する発見はされていない。\n17世紀初頭、イタリア人ペトロ・デッラ・ヴァッレによって、ホメロスの『オデュッセイア』に登場するネペンテスという飲み物がコーヒーに相当する説が唱えられたが、後の時代ではデッラ・ヴァッレの説は否定的に受け止められている。\n他にも17-18世紀のヨーロッパでは、スパルタの人間はコーヒーを愛飲していた、『旧約聖書』にコーヒーに関する記述が存在する、といった説が持ち上がった。\n17世紀初頭のイスラーム世界の年代記作家アブー・アッタイイブ・アルガッズィーは、ソロモン王によって初めてコーヒーが入れられたと記している。", "qas": [ { "question": "オロモ族は子供の誕生祝いに何をしますか?", "id": "tr-112-03-000", "answers": [ { "text": "「コーヒーつぶし」", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "炒ったコーヒーの葉で淹れた飲み物の、エチオピアでの呼び名は何ですか?", "id": "tr-112-03-001", "answers": [ { "text": "「カティ」", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イスラーム世界では、誰が最初にコーヒーを入れたと記されていますか?", "id": "tr-112-03-002", "answers": [ { "text": "ソロモン王", "answer_start": 568, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "やがてボンはアラビア半島に伝わり、アラビア語で「バン」と呼ばれるようになる。\nコーヒー豆から抽出した飲料について、9世紀のイランの哲学者であり医学者でもあったアル・ラーズィー(ラーゼス)が、自著でコーヒー豆を指す「バン」とその煮汁「バンカム」について記述している。\nバンカムは乾燥させたバンを臼ですり潰して熱湯に入れて煮出した飲み物であり、コーヒーの原型と考えられているが、まだ豆は焙煎されていなかった。\nバンカムの入れ方については、イスラーム世界の学者イブン・スィーナーも詳しい記述を残している。\nしかし、ラーズィーとイブン・スィーナーによるバンカムの解説には、コーヒーに含まれるカフェインが神経系統に及ぼす影響について述べられてはいない。", "qas": [ { "question": "ボンはアラビア語で何と言いますか?", "id": "tr-112-04-000", "answers": [ { "text": "「バン」", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "乾燥させたコーヒー豆による煮汁は何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-112-04-001", "answers": [ { "text": "「バンカム」", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バンカムに関する記述を残したのはラーズィーと誰ですか?", "id": "tr-112-04-002", "answers": [ { "text": "イブン・スィーナー", "answer_start": 260, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "バンカムはイスラーム世界の寺院で秘薬として飲まれ、当初は一般の人間が口にする機会は無かった。\nバンカムはイスラム神秘主義(スーフィズム)の修道者(スーフィー)によって愛飲され、コーヒーの起源にまつわる3つの伝説にはいずれもスーフィーが関与している。\nスーフィーたちは徹夜で行う瞑想や祈りのときの眠気覚ましとしてバンカムを用い、宗教活動の中で飲用されるバンは彼らから神聖視された。\nやがてバンカムは「カフワ(欲望を減退させる飲料。ワインの別名)」と呼ばれるようになる。\nスーフィーたちは夜の礼拝の時にカフワを飲用し、マジュールというボウルにカフワを入れて仲間内で回し飲みをしていた。", "qas": [ { "question": "イスラーム世界でバンカムを愛飲していたのはどういった人達でしたか?", "id": "tr-112-05-000", "answers": [ { "text": "スーフィー", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "13世紀に入ってコーヒー豆が炒られるようになると、香りと風味が付加された飲料は多くの人間に好まれるようになった。\n豆が焙煎されるようになった経緯は不確かであるが、偶然起きた何らかの事故で豆が焼かれた時に出た芳香がきっかけになったと考えられている。\nトルコ、イラン、エジプトでは、豆の焙煎に使われた1400年代の道具が発掘されている。\nまた、コーヒーの一般への普及に伴って、マジュールを製造していた陶工たちはコーヒーカップに相当する器の製造も手掛けるようになった。", "qas": [ { "question": "コーヒー豆が炒られるようになったのはいつからですか?", "id": "tr-112-06-000", "answers": [ { "text": "13世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "15世紀以後に「カフワ」はイエメンからイスラーム世界に広まる。\nイエメンの古都ザビードでは、1450年頃にスーフィーによってコーヒーが飲まれていたことを証拠づける考古学的資料が発掘されている。\n16世紀初頭には、カイロのアズハル大学でもコーヒーが飲まれていた。\n16世紀初頭のメッカ、メディナ、あるいはカイロのモスクではコーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーの姿が多く見られたが、同時にコーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった。\n1511年にはメッカで高官ハーイル・ベイ・ミマルによってコーヒー飲用の是非が諮られた後、メッカ内のコーヒー豆が焼かれ、コーヒーを売買した者や飲用した者は鞭打ちに処されるコーヒーの弾圧事件が起きる。\n翌年にカイロから「コーヒーの飲用に随伴する反宗教的行為の取り締まり」のみを許可する通達が出され、ハーイル・ベイ・ミマルは職を解任された。\n1525年/26年には風紀を乱すとしてメッカ内のコーヒーハウスの閉鎖が命じられたが、コーヒー自体の飲用は禁止されなかった。", "qas": [ { "question": "16世紀初頭にカイロでコーヒーが飲まれていた教育機関とはどこですか?", "id": "tr-112-07-000", "answers": [ { "text": "アズハル大学", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1525年から1526年にかけて、メッカ内のコーヒーハウスはどうなりましたか?", "id": "tr-112-07-001", "answers": [ { "text": "閉鎖", "answer_start": 419, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メッカ内でコーヒー弾圧の事件が起こったのはいつですか?", "id": "tr-112-07-002", "answers": [ { "text": "1511年", "answer_start": 219, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "だが、コーラン(クルアーン)では炭の食用が禁じられており、煎ったコーヒー豆が炭に酷似している点から、コーヒーの飲用がシャリーア(イスラーム法)に抵触している疑義、あるいはコーヒー自体がビドア(宗教的逸脱)に該当する懸念のため、コーヒーの飲用に対する反対意見はなおも出続ける。\nまた、コーヒーを供する店が政治的な活動の場、もしくは賭博や売春の場となりえたために国家から嫌悪される。\nコーヒー弾圧の後もカイロやメッカではしばしばコーヒーの禁止令が出され、コーヒー店が襲撃される事件も起きる。\nコーヒーの産地であるイエメンでは、コーヒーとカートに互いの正統性について論争をさせる文学が現れた。\n1517年、オスマン皇帝セリム1世によるエジプト遠征の際にコーヒーがオスマン帝国に伝わったと言われている。\nアラビア語の「カフワ」がトルコ語に転訛して、トルコに入ったコーヒーは「カフヴェ」と呼ばれるようになった。\nトルコに伝わったコーヒーは、炒って砕いた豆を泡立つように煮出して飲まれ、トルココーヒーの名前で知られるようになった。\nオスマン帝国がコーヒーの産地であるイエメン、エチオピア沿岸部を支配下に収めるとコーヒーの普及はより進み、サファヴィー朝が統治するイラン、ムガル帝国が統治するインドにも伝播した。", "qas": [ { "question": "コーヒーがオスマン帝国に伝わった時のオスマン皇帝は誰でしたか?", "id": "tr-112-08-000", "answers": [ { "text": "セリム1世", "answer_start": 306, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「カフワ」はトルコでは何と変化しましたか?", "id": "tr-112-08-001", "answers": [ { "text": "「カフヴェ」", "answer_start": 382, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トルコに伝わったコーヒーは、その後何と呼ばれてるようになりましたか?", "id": "tr-112-08-002", "answers": [ { "text": "トルココーヒー", "answer_start": 437, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "コーヒーがもたらすであろう利益に着目した商人はイエメンの外に大量のコーヒーを持ち出し、小規模のスタンドや店舗でコーヒーを販売し、飲み物の宣伝を行った。\n1530年代にオスマン帝国の支配下に置かれていた北シリアのダマスカス、アレッポにコーヒー店が開かれる。\n1550年代にはイスタンブールにもコーヒーを供する店舗が開かれ、皇帝セリム2世の時代(1566年-1574年)にはイスタンブール内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた。\nこのような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まった。\nしかし、地方のカフヴェハーネはならず者のたまり場となり、1570年に学者たちはイスタンブールのカフヴェハーネを非難した。\nまた、カフヴェハーネでは政治的な議論の場にもなり、時には権力者から弾圧を受けることもあった。\n1580年にコーヒーがワインと同種の飲み物であると公式に分類された後も、オスマン帝国内のコーヒーの消費は増え続ける。", "qas": [ { "question": "カフヴェハーネとは何を意味していますか?", "id": "tr-112-09-000", "answers": [ { "text": "「コーヒー・ハウス」", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "セリム2世の在位期間は何年から何年でしたか?", "id": "tr-112-09-001", "answers": [ { "text": "1566年-1574年", "answer_start": 171, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セリム2世の在位期間中に、イスタンブール内では何軒以上のカフヴェハーネがありましたか?", "id": "tr-112-09-002", "answers": [ { "text": "600軒", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オスマン皇帝アフメト1世の治世(1603年-1617年)に「コーヒー豆は炭になるほど強く火にかけられていない」という見解が出され、コーヒーはイスラーム世界で公的に認可された飲み物となる。\nメッカにおいては、コーヒーはザムザムの泉の水と同じ効力のある「黒いザムザムの水」として飲まれ、巡礼者たちはコーヒー豆を故郷に持ち帰った。\nまた、オスマン帝国の貴族・高官の間には、コーヒーを供するにあたって厳格な作法が成立していた。", "qas": [ { "question": "イスラーム世界でコーヒーを公的に認可した人は誰ですか?", "id": "tr-112-10-000", "answers": [ { "text": "アフメト1世", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メッカでコーヒーは何と呼ばれて飲用されていましたか?", "id": "tr-112-10-001", "answers": [ { "text": "「黒いザムザムの水」", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アフメト1世の在位期間は?", "id": "tr-112-10-002", "answers": [ { "text": "1603年-1617年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "初期のイスラーム世界のコーヒー店ではコーヒーは大鍋に入れて温められ、小さな容器に移して客に供されていたと考えられている。\nイスラーム世界ではコーヒーに砂糖と牛乳を入れることはほとんどなく、調味には主にカルダモンが使われていた。\nまた、牛乳を入れたコーヒーはハンセン病の原因になるという迷信が存在していた。\n1600年頃のカイロでコーヒーに砂糖が入れられ始められ、1660年頃に中国に滞在していたオランダ大使ニイホフがコーヒーに牛乳を加える飲み方を始めたと言われている。\n17世紀のカイロを訪れたヨーロッパ人ヴェスリンギウスはコーヒーの苦みを無くすために砂糖を入れる人間が現れていたことを記し、トルコでは「コーヒーは甘くなくてはならない」という格言が生まれた。", "qas": [ { "question": "イスラーム世界で使われていたコーヒーの調味とは何でしたか?", "id": "tr-112-11-000", "answers": [ { "text": "カルダモン", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コーヒーに砂糖を入れるようになったのはいつからですか?", "id": "tr-112-11-001", "answers": [ { "text": "1600年頃", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コーヒーに牛乳を入れる飲み方をした人は誰ですか?", "id": "tr-112-11-002", "answers": [ { "text": "ニイホフ", "answer_start": 203, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オスマン帝国を訪れたヨーロッパの商人たちはコーヒーを好奇の目で見、旅行記などで故郷の人間にコーヒーの存在を伝えた。\nヨーロッパ世界でもコーヒーハウスが建つようになるとコーヒーの需要は増加するが、供給源はイエメンに限られていた。\nヨーロッパの商人に対抗できる商品を探していたカイロのイスラーム商人たちはイエメンのコーヒーに着目し、コーヒー交易を独占した。\nトルコ革命を経て成立したトルコ共和国ではコーヒーは生産されておらず、消費量も少ない。\nだが、茶がトルコの主要な飲み物となった後も、トルコでは茶はあくまでも略式の飲み物であり、コーヒーが正式な場で出される飲み物だととらえられている。\nかつてオスマン帝国の支配下に置かれていたこともあるヨーロッパのバルカン半島でも、セルビア風の煮出しコーヒーとともにトルココーヒーが飲まれている。", "qas": [ { "question": "今でもヨーロッパのある地域ではトルココーヒーが飲まれているが、それはどこですか?", "id": "tr-112-12-000", "answers": [ { "text": "バルカン半島", "answer_start": 324, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トルコ革命後にトルコで主要な飲み物となったのは何ですか?", "id": "tr-112-12-001", "answers": [ { "text": "茶", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヨーロッパ世界にコーヒーは普及するが、その供給源はどこでしたか?", "id": "tr-112-12-002", "answers": [ { "text": "イエメン", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "インドコーヒーのルーツは1600年代に遡る。\nコーヒーはイエメンのイスラーム教寺院で栽培され、厳重な監視下の中、持ち出しは一切禁止されていたが、イスラム教の聖者ババ・ブーダンは、イスラムのメッカ南イエメンで巡礼を終えるとインドを目指して帰国するとき密かにコーヒーの種を7粒持ち出し、マイソール(現カルナタカ州)の標高1829mのチャンドラヒルに植え、その中の1粒が成長し、実をつけたと言われ、その後、インドネシア、オランダを通じて世界中に伝播、アラビカ種の原種の一つであるティピカ種のルーツとなったと言われているが、ババ・ブーダンにまつわる逸話の信憑性には疑問が呈されている。", "qas": [ { "question": "イエメンからインドにコーヒーを持ち帰った人は誰だとされていますか?", "id": "tr-112-13-000", "answers": [ { "text": "ババ・ブーダン", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ババ・ブーダンが持ち出したコーヒーの種はいくつでしたか?", "id": "tr-112-13-001", "answers": [ { "text": "7粒", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17世紀初頭のヨーロッパではコーヒーはまだ珍奇な飲料であり、植物学者や医学者以外の人間にはほとんど知られていなかった。\n1596年にフランスの医師・植物学者のカロルス・クルシウスが、イタリアの植物学者ベッルスからコーヒー豆と豆の調理法に言及した書簡を送られた記録が残る。", "qas": [ { "question": "カロルス・クルシウスは医師でありながら、何を専門とする学者でしたか?", "id": "tr-112-14-000", "answers": [ { "text": "植物", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カロルス・クルシウスは誰からコーヒー豆に関する書簡をもらいましたか?", "id": "tr-112-14-001", "answers": [ { "text": "ベッルス", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「キリスト教徒の聖なる飲み物であるワインをイスラム教徒は飲めないため、悪魔からコーヒーを与えられる罰を受けている」として、「悪魔の飲み物」にあたるコーヒーの飲用に反対する人間もおり、ローマ教皇はコーヒーに対する教会の見解を出すように求められた。\n1600年頃に当時のローマ教皇クレメンス8世はコーヒーを裁判にかけるべく、自ら味見をした。\nクレメンス8世はこの時にコーヒーの香りと味に魅了されたと言われ、クレメンス8世は悪魔の飲み物であるコーヒーに洗礼を施してキリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認した。\n研究者の中には、クレメンス8世は彼が裁判の前からコーヒーを愛飲しており、自身の経験からコーヒー飲用の禁止の徹底が困難であると考えて公認したと推測する意見もある。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパで「悪魔の飲み物」に該当していたのは何でしたか?", "id": "tr-112-15-000", "answers": [ { "text": "コーヒー", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "キリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認した人は誰?", "id": "tr-112-15-001", "answers": [ { "text": "クレメンス8世", "answer_start": 169, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キリスト教徒にとって聖なる飲み物とは何だったの?", "id": "tr-112-15-002", "answers": [ { "text": "ワイン", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クレメンス8世がコーヒーを公認したのはいつ頃でしたか?", "id": "tr-112-15-003", "answers": [ { "text": "1600年頃", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "17世紀前半、地中海貿易において主導的な役割を果たしていたヴェネツィアの商人を介してコーヒーはヨーロッパ各地に広まっていく。\n17世紀のヨーロッパ社会において、コーヒーはアルコール度数の低いビールやワインに代わる、衛生的な飲料として受け入れられた。\nまた、コーヒーがもたらす覚醒作用も好意的に捉えられ、コーヒーはアルコール飲料と逆の性質のものと見なされるようになった。\n時にコーヒーは万能薬のように紹介され、イスラーム世界の「コーヒーと牛乳を一緒に飲むとハンセン病の原因になる」迷信も伝えられた。\n17世紀末からヨーロッパでは、コーヒーの淹れ方を教授する書籍が盛んに出版される。", "qas": [ { "question": "地中海貿易をリードしていたのは誰でしたか?", "id": "tr-112-16-000", "answers": [ { "text": "ヴェネツィアの商人", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨーロッパにコーヒーを普及させた人は誰ですか?", "id": "tr-112-16-001", "answers": [ { "text": "ヴェネツィアの商人", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イギリスでは1650年/51年にオックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業した。\n最初はイギリスの人間にとってもコーヒーは馴染みのない飲み物であり、コーヒー・ハウスの近隣の住民が、コーヒーの「悪魔の匂い」の対処を訴え出た記録が残っている。", "qas": [ { "question": "コーヒー・ハウスを先にオープンしたのはオックスフォードとロンドンのどちらの都市ですか?", "id": "tr-112-17-000", "answers": [ { "text": "オックスフォード", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "初期の反発にもかかわらずコーヒー・ハウスは順調に数を増やしていき、1666年に起きたロンドン大火で多くのコーヒーハウスが焼失したものの、17世紀末には数100軒から3,000軒にのぼるコーヒーハウスが存在していた。\nコーヒーハウスの拡大を受けて、1674年に夫がコーヒーハウスに入り浸っていることを非難し、コーヒーが性的不能の原因となることを主張する、「ロンドンの家庭の主婦」による声明文が発表される。\nそして、コーヒーの有害性を非難する「ロンドンの家庭の主婦」に対して、男性たちのコーヒーへの弁護も公開された。\nコーヒー・ハウスはロンドンにおける社交・商取引の場として多くの客に利用されたが、18世紀半ばからロンドンのコーヒー・ハウスの数は減少していく。\nコーヒー・ハウスに代わる社交場として、クラブ、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭には紅茶が定着する。", "qas": [ { "question": "ロンドン大火はいつ起きましたか?", "id": "tr-112-18-000", "answers": [ { "text": "1666年", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "18世紀半ばからイギリスの家庭に定着した飲み物は何ですか?", "id": "tr-112-18-001", "answers": [ { "text": "紅茶", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フランスでは、1669年にオスマン皇帝メフメト4世によって派遣された使節スレイマン・アガ(ソリマン・アガ)がルイ14世にコーヒーを献上したことをきっかけに上流階級にコーヒーが広まった。\n1671年にマルセイユにフランス最初のコーヒー・ハウスが開業した時、商売敵のワイン商たちから強い反発を受けた。\nワイン商の要求を受けた医師がコーヒーが健康に及ぼす悪影響を主張したにもかかわらず、コーヒーはフランスで人気を得ていった。\n1672年にアルメニア人商人パスカルによってパリ最初のコーヒー・ハウスが開かれ、エスファハーン出身のイラン人グレゴワールは劇場に集まる俳優や批評家を対象としたコーヒー・ハウスを開いて成功を収める。\n1686年にはカフェ・プロコープが開店し、文人や政治家などの多くの人間が議論を交わした。\nまた、かつてのフランスではコーヒーが心身に悪影響を及ぼすという迷信が広く知られており、「コーヒーの毒性」を消すためにコーヒーに牛乳を入れるカフェ・オ・レが考案された。", "qas": [ { "question": "カフェ・オ・レが誕生した国はどこですか?", "id": "tr-112-19-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 361, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "富岡製糸場", "paragraphs": [ { "context": "富岡製糸場(とみおかせいしじょう、TomiokaSilkMill)は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸の工場である。\n1872年(明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。\n日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。\nまた、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録された。\n時期によって「富岡製糸場」(1872年から)、「富岡製糸所」(1876年から)、「原富岡製糸所」(1902年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年から)とたびたび名称を変更している。\n史跡、国宝、重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は「富岡製糸場」である。", "qas": [ { "question": "1872年の開業から1946年の「片倉工業株式会社富岡工場」と名称が変更するまでの期間の中で、最も長く使用された名称は何でしたか?", "id": "tr-113-00-000", "answers": [ { "text": "「原富岡製糸所」", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界遺産委員会に正式登録した際の名称は何?", "id": "tr-113-00-001", "answers": [ { "text": "「富岡製糸場」", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。\nそのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。\n富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。\nそこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。\n1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能し続けた。", "qas": [ { "question": "富岡製糸場は、開業開始から経営母体が変わっても最後まで何工場として機能を貫いたのか?", "id": "tr-113-01-000", "answers": [ { "text": "製糸工場", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "富岡製糸場はどこの国の技術を取り入れて設立されたの?", "id": "tr-113-01-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "富岡製糸場は、開業から操業停止までの間に経営母体がいくつも変わったが、その中で最も長期間経営した母体は何?", "id": "tr-113-01-002", "answers": [ { "text": "片倉製糸紡績会社", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "片倉製糸紡績会社(現片倉工業)の前に富岡製糸場を経営していた会社は何?", "id": "tr-113-01-003", "answers": [ { "text": "原合名会社", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。\n2005年に敷地全体が国の史跡に、2006年に初期の主要建造物(建築物7棟、貯水槽1基、排水溝1所)が重要文化財の指定を受け、2007年には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。\n2014年6月に世界遺産登録の可否が審議され、6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。", "qas": [ { "question": "最初に国の史跡に指定された場所はどこ?", "id": "tr-113-02-000", "answers": [ { "text": "敷地全体", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "敷地全体が国の史跡に指定された2年後、何のリストに記載されたの?", "id": "tr-113-02-001", "answers": [ { "text": "世界遺産の暫定リスト", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった建物は何?", "id": "tr-113-02-002", "answers": [ { "text": "富岡製糸場", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "重要文化財の指定を受けた初期の主要建造物の中で最も多かった対象物は何?", "id": "tr-113-02-003", "answers": [ { "text": "建築物", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "開国直後の日本では、生糸、蚕種、茶などの輸出が急速に伸びた。\nことに生糸の輸出拡大の背景には、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランス、イタリアで微粒子病という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや、太平天国の乱によって清の生糸輸出が振るわなくなっていたことなどが背景にあった。\nその結果、1862年(文久2年)には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めるまでになったが、急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価の低落につながった。\nまた、イタリアの製糸業の回復も日本にとっては向かい風になり、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じた。", "qas": [ { "question": "開国直後の日本で急速に伸びた輸出品の中で、食品に分類できるのは何?", "id": "tr-113-03-000", "answers": [ { "text": "茶", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本の開国直後にフランスやイタリアで流行っていた蚕の病気とは?", "id": "tr-113-03-001", "answers": [ { "text": "微粒子病", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "生糸と蚕種の急激な需要増大によって日本国内では何を引き起こしてしまったの?", "id": "tr-113-03-002", "answers": [ { "text": "粗製濫造", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本製生糸の価格が下降し始めたのは何年から?", "id": "tr-113-03-003", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 284, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治政府には、外国商人などから器械製糸場建設の要望が出されており、エシュト・リリアンタール商会からは資金提供の申し出まであった。\nこれが直接的な引き金となって器械製糸工場建設が実現に向かうが、政府内では外国資本を入れず、むしろ国策として器械製糸工場を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年(明治3年)2月に器械製糸の官営模範工場建設が決定した。\nこれは粗製濫造問題への対応というよりも、従来の座繰りによる製糸では太さが揃わなかったために、経糸(たていと)よりも安価で取引される緯糸(よこいと)として使われることが多かった実態を踏まえ、その改良を志向した側面があったとも言われている。", "qas": [ { "question": "経糸(たていと)と緯糸(よこいと)はどちらが高いの?", "id": "tr-113-04-000", "answers": [ { "text": "経糸", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "器械製糸工場の建設が現実的なものとなった直接的な引き金は、どこからの資金提供の申し出によりますか?", "id": "tr-113-04-001", "answers": [ { "text": "エシュト・リリアンタール商会", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同時に政府は器械製糸技術の導入を奨励しており、前橋藩では速水堅曹らが同じ年に藩営前橋製糸所を設立した。\nこれは日本初の器械製糸工場と見なされているが、イタリアで製糸業に従事した経験を持つスイス人ミュラーを雇い入れ、イタリア式の製糸器械を導入したものであり、当初は6人繰り、次いで12人繰りという小規模なものにとどまった。\n大隈重信、伊藤博文と渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館通訳アルベール・シャルル・デュ・ブスケおよびエシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマー(F.Geisenheimer)に、いわゆるお雇い外国人として適任者を紹介するように要請したところ、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していたポール・ブリューナ(PaulBrunat)の名が挙がった。\n明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ。", "qas": [ { "question": "前橋藩に設立された日本初と見なされている器械製糸工場の名前は?", "id": "tr-113-05-000", "answers": [ { "text": "藩営前橋製糸所", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルベール・シャルル・デュ・ブスケとガイゼンハイマーが大隈重信らに工場の適任者として紹介した人物は誰?", "id": "tr-113-05-001", "answers": [ { "text": "ポール・ブリューナ", "answer_start": 329, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブリューナが明治政府と仮契約を結んだ当時、何という店で勤務していたの?", "id": "tr-113-05-002", "answers": [ { "text": "エシュト・リリアンタール商会横浜支店", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ブリューナは仮契約後すぐに尾高惇忠らを伴って、長野県、群馬県、埼玉県などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。\nそして、明治3年閏10月7日に民部大輔らと正式な雇用契約を取り交わすと、同月17日には富岡を建設地とすることを最終決定している。\nこの決定は、周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、建設予定地周辺の土質が悪く、農業には不向きな土地であること、水や石炭などの製糸に必要な資源の調達が可能であること、全町民が建設に同意したこと、元和年間に富岡を拓いた代官中野七蔵が代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残されており、それを工場用地の一部に当てられることなど、様々な要件が考慮された結果であった。", "qas": [ { "question": "製糸場の建設地となる富岡が位置する群馬県以外で、予定地として視察された県は長野県とどこ?", "id": "tr-113-06-000", "answers": [ { "text": "埼玉県", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "富岡の周辺では何業が盛んだったの?", "id": "tr-113-06-001", "answers": [ { "text": "養蚕業", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "製糸場の用地の一部に当てられたのは、何という代官の屋敷だったの?", "id": "tr-113-06-002", "answers": [ { "text": "中野七蔵", "answer_start": 238, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ブリューナは製糸場の設計のために、横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼し、設計図を作成させた。\nバスチャンは明治3年11月初旬に依頼を受けると、同年12月26日(1871年2月15日)に完成させた。\n彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造の横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている。\nブリューナは設計図の完成を踏まえ、翌月22日(1871年3月12日)に器械購入と技術者雇用のためにフランスに帰国した。\nブリューナは建設予定地調査の折に、地元工女に在来の手法で糸を繰らせて日本的な特徴を把握しており、それを踏まえて製糸場用の器械は特別注文した。\n目的を達したブリューナはその年の内、すなわち明治4年11月8日(1871年12月19日)に妻らとともに再来日を果たすことになる。", "qas": [ { "question": "バスチャンは富岡製糸場を設計した際に、以前に何の建物を設計した経験を活かせたのですか?", "id": "tr-113-07-000", "answers": [ { "text": "横須賀製鉄所", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブリューナが器械購入と技術者雇用のためにフランスに帰国した後、妻とともに日本に再来日したのは日本の年号でいつですか?", "id": "tr-113-07-001", "answers": [ { "text": "明治4年11月8日", "answer_start": 343, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バスチャンが設計した横須賀製鉄所はどのような造りでしたか?", "id": "tr-113-07-002", "answers": [ { "text": "木骨レンガ造", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "他方で、ブリューナが日本を発ったのと同じ月には、尾高惇忠が日本側の責任者となって資材の調達に着手し、1871年(明治4年)3月には着工にこぎつけていた。\n建築資材のうち、石材、木材、レンガ、漆喰などは周辺地域で調達した。\nなお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、明戸村(現埼玉県深谷市)からも瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する福島村(現甘楽町福島)に設置した窯で焼き上げた。\nこの時期、民部省庶務司から大蔵省勧業司へと所管が変わった(明治4年7月24日)。", "qas": [ { "question": "製糸場の建築素材の1つであるレンガは、どこで焼き上げたものを使用していたの?", "id": "tr-113-08-000", "answers": [ { "text": "福島村", "answer_start": 164, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "建設を進めることと並行し、明治5年(1872年)2月12日に政府から工女募集の布達が出された。\nしかし、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから、思うように集まらず、政府は生き血を取られるという話を打ち消すとともに、富岡製糸場の意義やそこで技術を習得した工女の重要性などを説く布告をたびたび出した。\nこのような状況の中で尾高は、噂を払拭する狙いで娘の勇(ゆう)を最初の工女として入場させた。\n富岡製糸場は、1872年7月に主要部分の建設工事が終わるのに合わせて開業される予定だったが、予定よりも遅れた。\nその理由の一つには、この工女不足の問題があったと推測されている。", "qas": [ { "question": "富岡製糸場の開業が、予定よりも遅れた理由の1つとして推測されたのはどんな問題?", "id": "tr-113-09-000", "answers": [ { "text": "工女不足の問題", "answer_start": 287, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "政府からの工女募集の際に、世間で広まった噂話とは何?", "id": "tr-113-09-001", "answers": [ { "text": "「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "工女募集の際に流れたデマを払拭するために最初の工女として入った尾高の娘の名は?", "id": "tr-113-09-002", "answers": [ { "text": "勇", "answer_start": 198, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "富岡製糸場は、明治5年10月4日(1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。\nただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった。\n翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた。\n同年4月に就業していた工女は556人となり、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)も含まれていた。", "qas": [ { "question": "富岡製糸場の開業当初の工女の人数はどれくらいだった?", "id": "tr-113-10-000", "answers": [ { "text": "210人あまり", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "明治6年4月には何人まで工女が増えたの?", "id": "tr-113-10-001", "answers": [ { "text": "556人", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "4月に入場した556人のうちの1人が『富岡日記』の著者となる誰だったの?", "id": "tr-113-10-002", "answers": [ { "text": "和田英", "answer_start": 183, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた。\nまた、特徴的なのは揚返器156窓も備えていたことである。\n揚返(あげかえし)は再繰ともいい、小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本の気候の場合、一度巻き取っただけではセリシン(生糸を繭として固めていた成分)の作用で再膠着する恐れがあり、それを防ぐために欠かせなかった。\nこれに対し、ヨーロッパの場合はこの工程を省く直繰式が一般的で、前出の前橋製糸所が導入した器械も直繰式であった。\n前出の通り、ブリューナは富岡製糸場のための器械を特注していたが、その一つはこの日本の気候に合わせて再繰式を導入する点にあった。\nなお、特別注文したほかの点には、日本人女性の体格に合わせて高さの調整をしたことなどが挙げられる。", "qas": [ { "question": "日本の気候に合わせて再繰式を導入したとあるが、他の国に比べて日本は何が高い気候だったの?", "id": "tr-113-11-000", "answers": [ { "text": "湿度", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本の再繰式導入に対して、ヨーロッパではどのような工程が一般的でしたか?", "id": "tr-113-11-001", "answers": [ { "text": "直繰式", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "揚返の別名は何?", "id": "tr-113-11-002", "answers": [ { "text": "再繰", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "工女たちの労働環境は充実していた。\n当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された。\n群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された。\nしかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかった。\nそのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、その入れ替わりの頻繁さから不熟練工を多く抱え、赤字経営を生む一因となった。\nまた、様々な身分の若い女性が同じ場所で生活していたことから、上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も少なくなく、出入りしていた呉服商・小間物商から月賦払いで服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見られた。", "qas": [ { "question": "製糸場の工女の満期の期間はどれくらいあるの?", "id": "tr-113-12-000", "answers": [ { "text": "1年から3年", "answer_start": 300, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "群馬県で工女余暇学校の制度を取り入れた県令は誰?", "id": "tr-113-12-001", "answers": [ { "text": "楫取素彦", "answer_start": 104, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "工女たちは熟練度によって等級に分けられていた。\n開業当初は一等から三等および等外からなっていたが、1873年には等外上等および一等から七等の8階級に変わった。\n工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学び、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞した。\nこれは品質面の評価よりも、近代化されたことに対する評価だったという指摘もあるが、開業間もない富岡製糸場の評価を高めたことに変わりはなく、リヨンやミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる。\n工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。\n和田英や春日蝶が1874年7月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たるためであった。\nなお、初期には人数は少なかったが、蒸気機関の扱いなどを学ぶための工男たちも受け入れており、西条製糸場の設立にも、そうした工男が貢献している。", "qas": [ { "question": "工女たちの等級は、開業から1年後にはいくつに増えましたか?", "id": "tr-113-13-000", "answers": [ { "text": "8階級", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウィーン万国博覧会で富岡製糸場の生糸が受賞したことが契機となり、ヨーロッパのどの地域の絹織物に富岡製の生糸が使われるようになりましたか?", "id": "tr-113-13-001", "answers": [ { "text": "リヨンやミラノ", "answer_start": 239, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本各地に建設された製糸工場での指導にあたった工女の中で、代表的は人物には和田英の他に誰がいますか?", "id": "tr-113-13-002", "answers": [ { "text": "春日蝶", "answer_start": 322, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "初期の富岡製糸場は初代所長(場長)尾高惇忠、首長ポール・ブリューナを中心に運営されたが、前述の不熟練工の問題やブリューナ以下フランス人教婦、検査人などのお雇い外国人たちに支払う高額の俸給、さらに官営ならではの非効率さなどの理由から大幅な赤字が続いていた。\n契約満了につきブリューナとフランス人医師が去った1875年(明治8年)12月31日をもって、富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなった。\n日本人のみの経営となった最初の年度、明治9年度には大幅な黒字に転じた。\nこの理由としては、お雇い外国人への支出がなくなったことのほか、所長の尾高の大胆な繭の思惑買いなどが奏功したことが挙げられる。\nしかし、尾高の思惑買いは、彼が当時政府が認めていなかった秋蚕の導入に積極的だったことなどと併せ、政府との対立を生む原因になり、尾高は富岡製糸場が富岡製糸所と改称された翌月に当たる1876年(明治9年)11月に所長を退いた。\n翌年度には、従来、エシュト・リリアンタール社を経てリヨンに輸出されていた生糸が、三井物産によってリヨンへ直輸出されるようにもなり、日本人による直輸出が始まった。", "qas": [ { "question": "富岡製糸場は明治9年度は大幅な黒字だったが、前年まではどうだったの?", "id": "tr-113-14-000", "answers": [ { "text": "大幅な赤字", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "内務省の官吏だった速水堅曹はかねてから民営化も含めた抜本改革を提言していたが、西南戦争(1877年)の勃発によって一時的に棚上げされた。\nしかし、1878年(明治11年)にパリ万国博覧会に赴いていた松方正義(当時は勧農局長)が富岡の生糸の質の低下を指摘されたことから、速水が富岡製糸所の改革を任されることになる。\n速水は、尾高の後任だった山田令行が改革を阻害しているとして更迭を進言し、これを実現させた。\n松方は後任として速水を第3代所長に任命したが、民営化を主張する速水は1880年(明治13年)11月5日の「官営工場払下概則」制定と前後して、富岡製糸所の生糸の直輸出を一手に担う横浜同伸会社設立に関わり所長を辞任、かわって同伸会社の社長に就任した。\nこの時点では、民間人となった速水が富岡製糸所を5年間借り受けるという話が、松方との間で事実上内定していたが、群馬県令の反対などもあって、政府は最終的にこれを認めなかった。\n他方で、ほかに払い下げを希望する民間人は現れなかった。\n富岡製糸所の巨大さが、当時の民間資本では手に余る存在だったからと言われている。\n「官営工場払下概則」が結果的に払い下げを促進することにはならずに1884年に廃止されると、官営工場の払い下げは急速に進んだが、富岡製糸場は払い下げの見通しが立たないまま、官営の時期がなおも続いた。", "qas": [ { "question": "速水堅曹が提言した民営化を含む抜本改革は、何の勃発によって保留になったの?", "id": "tr-113-15-000", "answers": [ { "text": "西南戦争", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "西南戦争後に富岡製糸所の第3代所長を務めた人物の名は?", "id": "tr-113-15-001", "answers": [ { "text": "速水堅曹", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "速水堅曹は富岡製糸所の所長を辞めた代わりに何の社長になりましたか?", "id": "tr-113-15-002", "answers": [ { "text": "同伸会社", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「官営工場払下概則」の廃止後、富岡製糸場は官営か民営、どちらになった?", "id": "tr-113-15-003", "answers": [ { "text": "官営", "answer_start": 482, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第4代所長の岡野朝治の時期は、度々の糸価下落などの影響を受け、経営的に厳しい時期にあたっていた。\nそうした状況を受け、1885年(明治18年)には速水が第5代所長として復帰した。\n速水は同伸会社社長時代に、一手に輸出を引き受けていた富岡製糸所の生糸を、リヨン以外にニューヨークにも輸出するようになっていた。\n彼は製糸所所長として改革を進める一方で、アメリカ向けの輸出も増やし、米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めた。\n他方で速水は民営化を引き続いて主張していたが、それは1890年代になってようやく実現することになる。", "qas": [ { "question": "岡野朝治の次に富岡製糸所の所長に就任した人は誰?", "id": "tr-113-16-000", "answers": [ { "text": "速水", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めたのは誰?", "id": "tr-113-16-001", "answers": [ { "text": "速水", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "速水が2度目の富岡製糸所の所長に就いたのは第何代の時?", "id": "tr-113-16-002", "answers": [ { "text": "第5代", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "速水が主張していた民営化はいつ実現できたの?", "id": "tr-113-16-003", "answers": [ { "text": "1890年代", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "不思議の国のアリスの挿絵", "paragraphs": [ { "context": "ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)とその続編『鏡の国のアリス』(1871年)は、いずれもジョン・テニエルの挿絵をつけて刊行された。\n『不思議の国のアリス』の刊行当時、キャロルが作家として無名に等しかったのに対し、テニエルは風刺漫画誌『パンチ』のトップ・イラストレーターであり、『アリス』の普及の少なくともその初期にあってはテニエルの知名度が大きく貢献したと考えられる。", "qas": [ { "question": "『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』はどちらが遅く刊行されたの?", "id": "tr-114-00-000", "answers": [ { "text": "『鏡の国のアリス』", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の両方の挿絵を担当した人は誰?", "id": "tr-114-00-001", "answers": [ { "text": "ジョン・テニエル", "answer_start": 54, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の作者は誰ですか?", "id": "tr-114-00-002", "answers": [ { "text": "ルイス・キャロル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "テニエルは何の漫画雑誌のイラストレーターでしたか?", "id": "tr-114-00-003", "answers": [ { "text": "『パンチ』", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アリスの物語が刊行された1860年代は、イギリスでは書籍・雑誌の挿絵の黄金時代にあたり、二つのアリスの本は当時とりたてて重要視されたわけではなかったが、今日では19世紀以来受け継がれてきた挿絵本のなかでもっとも人気のある作品となっている。\nアリスの物語は旧弊な教訓話から児童文学を解放したこととともに、児童書における物語と絵との調和の重要性をはっきりと示した作品としても評価されている。\nそれは挿絵に対してつよいこだわりを持っていたキャロルと、自身の仕事に対してはっきりとした矜持を持っていたテニエルとの共同作業の結果であった。\nテニエルの挿絵はアリスの物語のイメージ形成に欠かせないものとみなされ、今日においてもよく親しまれているが、それにもかかわらず後世の多くの挿絵画家がこの物語の挿絵に挑戦しつづけている。", "qas": [ { "question": "キャロルは何に対してのこだわりが強かったですか?", "id": "tr-114-01-000", "answers": [ { "text": "挿絵", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アリスの物語に最初に挿絵をつけたのはルイス・キャロル自身であった。\n1864年にアリス・リデルにプレゼントした手書き本『地下の国のアリス』に、キャロルは37点の自筆による挿絵をつけている。\nキャロルは家庭内回覧雑誌などで絵を描いた経験はあったものの、このときの挿絵の作業にはかなり苦痛を覚え、同時に自身の画力に限界を感じたらしく、アリスの物語を『不思議の国のアリス』として正式に出版する際にはプロの画家への依頼を決めることになる。", "qas": [ { "question": "『地下の国のアリス』の挿絵を描いたのは誰?", "id": "tr-114-02-000", "answers": [ { "text": "キャロル", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "キャロルが『地下の国のアリス』をあげた人とは?", "id": "tr-114-02-001", "answers": [ { "text": "アリス・リデル", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "キャロルは『地下の国のアリス』での自分のイラストを何点としたの?", "id": "tr-114-02-002", "answers": [ { "text": "37点", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "キャロルの挿絵は、白ウサギがネズミにしか見えなかったり、人体のバランスがおかしかったり、立体感がなかったりと、テニエルのそれと比べればむろん稚拙なものではあったが、その素朴なタッチが洗練された効果を挙げている場面もあり、素人らしい絵が非現実的な世界の視覚化にかえってうまく働いているとの評価もある。\n例えばアリスが巨大化して部屋に閉じ込められる場面は、キャロルの挿絵では絵のフレームそのものを部屋の壁のように利用して描かれており、育ちすぎた胎児が抱くであろうような恐怖感を喚起させるという点においては、テニエルの同じ場面の絵よりも優れているとも言われている。", "qas": [ { "question": "キャロルが白ウサギとして描いたものが周囲には何に見えましたか?", "id": "tr-114-03-000", "answers": [ { "text": "ネズミ", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "キャロルの伝記作者ファルコナー・マダンの意見によって、従来キャロルによるこれらの挿絵はテニエルの挿絵にさほど影響を与えていないというのが通説となっていた。\nしかし『アリスとテニエル』(原著1990年)の著者マイケル・ハンチャーは、両者の挿絵の著しい類似を検証し、キャロルがテニエルに細かい指示を出していたことを差し引いても、テニエルがキャロルの挿絵を参考にしていたことは間違いないとしている。\nまたテニエルが『地下の国のアリス』の挿絵をもとにして挿絵を描いていたという、アリス・リデルによる証言もある。", "qas": [ { "question": "『アリスとテニエル』を書いた人は誰ですか?", "id": "tr-114-04-000", "answers": [ { "text": "マイケル・ハンチャー", "answer_start": 103, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "キャロルの伝記作者とは誰ですか?", "id": "tr-114-04-001", "answers": [ { "text": "ファルコナー・マダン", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『不思議の国のアリス』の出版にあたり、キャロルは『パンチ』の看板画家ジョン・テニエルにその挿絵を依頼した。\nテニエルを紹介したのは同誌の編集者トム・テイラーであったが、テニエルに依頼するよう勧めたのはキャロルの友人ロビンソン・ダックワースであったらしい。\n挿絵の依頼料を含め出版費用をすべて自費でまかなっていたキャロルは、挿絵を自分のイメージに限りなく近いものにするために細かな指示を行いテニエルを閉口させた。\n彼らの間のやりとりを示す書簡は残っていないが、大まかな経緯はキャロルの日記から知ることができる。\n日記の記述によると、キャロルは『不思議の国のアリス』の、挿絵をつけたい部分のゲラ刷りができるといち早くテニエルのもとに送っていた(つまりテニエルは手書き本『地下の国のアリス』ではなく、はじめから『不思議の国のアリス』のテキストを参照していたらしい)。\nまた本の版形が途中段階で変更になった際には、キャロルはテニエルを訪問して変更の了解を得ており、キャロルがテニエルに対して一方的に指示を与えるだけでなく、その仕事を尊敬し進んで忠告を受けようとしていたことがわかる。\nしかしテニエルは引き受けた仕事をなかなか始めようとしなかった。\n挿絵の遅延が原因で、もともと1864年のクリスマスでの出版をもくろんでいた『不思議の国のアリス』が、実際に印刷に回されるのは翌年の7月のことになった。\nさらにこのときの印刷状態の悪さをテニエルが気にしたために、この最初に印刷された版は発行停止・回収することになり、これによって『アリス』の出版はさらに5ヶ月遅延した。", "qas": [ { "question": "『不思議の国のアリス』の元々の出版予定は何年のクリスマスでしたか?", "id": "tr-114-05-000", "answers": [ { "text": "1864年", "answer_start": 534, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『パンチ』の編集者は誰でしたか?", "id": "tr-114-05-001", "answers": [ { "text": "トム・テイラー", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "6年後に出版された続編『鏡の国のアリス』においても、キャロルははじめからテニエルに挿絵を依頼したが、テニエルは当初多忙を理由に断り、リチャード・ドイルやジョゼフ・ノエル・ペイトンなど他の画家をキャロルに紹介している。\nしかし前者は最近の絵がキャロルの気に入らなかったためにキャロルから見限り、後者は病気で仕事ができない状態で、手詰まりになったキャロルは最終的に、テニエルに仕事を依頼している出版社への違約金を向こう5ヶ月分払うという条件で(さらに「暇をみつけては」というテニエルからの条件もつけて)、テニエルに挿絵を引き受けてもらうことになった(このようにしぶしぶながらに引き受けられた『鏡の国のアリス』の挿絵の仕事は、皮肉なことに今日ではテニエルの最高傑作として認識されている)。\n『鏡の国』は前著よりも二人のやりとりの内容がはっきりとわかっており、例えばキャロルは、女王となったアリスのスカートにクリノリンが使われていることに強く抗議し、すでに出来上がっていたいくつかの版を没にし描き直させている。\nもっとも白の騎士(これはキャロル自身をなかばモデルにしたキャラクターであった)を老人として描かないでくれという頼みのほうは聞き入れられず、結局白髪の老人の姿のままで出版されることになった。", "qas": [ { "question": "テニエルがキャロルに紹介した画家とは、ジョゼフ・ノエル・ペイトンや誰ですか?", "id": "tr-114-06-000", "answers": [ { "text": "リチャード・ドイル", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "絵を気に入られることが出来ず、キャロルから見限られた画家は誰ですか?", "id": "tr-114-06-001", "answers": [ { "text": "リチャード・ドイル", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "またテニエルもキャロルの指示ばかり受けていたわけではなく、逆に本文に文句をつけていくつかの文章を変更させている。\n例えば「セイウチと大工」の歌の部分では、テニエルはセイウチと大工という組み合わせがおかしいとして抗議していた。\nこの組み合わせ自体は最終的にこのままとなったが、テニエルはこの歌の一節でもともと「手に手をとって歩いておった」という部分を「肩を並べて歩いておった」に変更させている(テニエルの絵ではセイウチに手があるようには見えなかったためか)。\nさらに重要なのは、テニエルがもともと『鏡の国のアリス』にあった「カツラを被ったスズメバチ」というものに関する一挿話をまるまる削除させていることである。\nそんなものをどう描けばいいのか見当がつかない、というのがその理由であったが、また挿話としてもおもしろいとは思えないと言い添えており、キャロルもこの忠告を受け入れて削除に応じたらしい。\nこの挿話を書いたゲラ刷りは1977年になって発見されたが、たしかにこの挿話は精彩を欠いており、テニエルの批評眼とキャロルの判断が正しかったことが確認できる。", "qas": [ { "question": "テニエルがキャロルに強く抗議した部分とはどこですか?", "id": "tr-114-07-000", "answers": [ { "text": "「セイウチと大工」", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「カツラを被ったスズメバチ」のゲラ刷りが見つかったのは何年でしたか?", "id": "tr-114-07-001", "answers": [ { "text": "1977年", "answer_start": 410, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "しかしこの2冊の本でのキャロルとの共同作業は、テニエルをすっかり疲弊させてしまった。\n後年、キャロルがあらたな著作(どれかはわかっていない)の挿絵をテニエルに依頼したとき、テニエルは「奇妙なことに、『鏡の国のアリス』の仕事を仕上げて以来、私から本の挿絵を描く能力がなくなってしまったようです」と述べて依頼を断っている。\n実際、それまで多くの挿絵本を手がけていたテニエルは、『鏡の国のアリス』を仕上げた1871年以降、その種の仕事にほとんど手をつけていない。", "qas": [ { "question": "テニエルが本の挿絵を描く仕事をしなくなったのは何年以降ですか?", "id": "tr-114-08-000", "answers": [ { "text": "1871年以降", "answer_start": 200, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "テニエルによる『アリス』の挿絵は、いずれも木口木版(こぐちもくはん)によって作られた木版画である。\n木材を輪切りにした断面に彫りつけるこの方法は、木材を縦に挽き割った断面を用いる板目木版(いためもくはん、浮世絵などはこちらを使用する)よりも緻密な描写が可能であり、銅版画のように原版の扱いが難しくないうえ、エレクトロタイプによって容易に原版を複製することもできたので、当時のイギリスの挿絵のほとんどはこの方法で刷られていた。\nこのような木版では、ふつう挿絵画家は描きたい絵を原版に左右逆にして直接描き付け(コントラストを強めるために、版には「のろ」と呼ばれる、石灰水とでんぷん・糊を混ぜた液体が塗られた)、それを専門の彫版師が、何も描かれていない部分を削って線を浮き立たせるようにして彫ることによって凸版を作った。\n不規則な描線やクロスハッチ(ハッチング、斜線を複数方向にいくつも重ねて陰影をつける方法)をも再現しなければならないため、彫版師には何時間にもおよぶ緻密な手作業が要求されたが、『アリス』の挿絵がこのような職人作業のうえで成り立っていることに思いを馳せるものは当時も今日もほとんどいない。", "qas": [ { "question": "『アリス』の挿絵はどのような技法で制作されましたか?", "id": "tr-114-09-000", "answers": [ { "text": "木口木版", "answer_start": 21, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "木口木版と板目木版は、どちらがより細かい描写が可能ですか?", "id": "tr-114-09-001", "answers": [ { "text": "木口木版", "answer_start": 21, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時のイギリスの挿絵の大半は、どのような技法で刷られていましたか?", "id": "tr-114-09-002", "answers": [ { "text": "木口木版", "answer_start": 21, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "テニエルによる二つのアリス物語の挿絵の彫りを担当したのは、当時この分野でもっとも名高かったダルジール兄弟であった。\n彼らはジョージとエドワードの兄弟で、さらに二人の弟と妹、それに何人かの職人たちの協力のもとで彫版工房を経営しており、時には挿絵本のプロデュースや印刷を手がけることもあった。\n兄弟はのちに、両『アリス』の挿絵について、キャロルがテニエルの線描画にも木版画にも繰り返しクレームを入れたと回想しているが、最終的にはキャロルの側に後にひくような不満は残らなかったようである。\nキャロルは製版・印刷に細かく注文をつけるにあたり、挿絵と本文との対応関係にも非常に注意深く気を配った。\nキャロルが監督した初期の『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の版では、本文で言及されたものの絵が必ずそのすぐ横にくるように配置されており、また叙述の瞬間と挿絵の瞬間がどこでもほぼ一致するように配慮され、いくつかのページではちょうど本文が挿絵のキャプションとしても機能するようになっている。\nしかし普及版をはじめとする後年の版では、こうしたもとの配慮が失われて挿絵のインパクトが減じられているものが少なくない。", "qas": [ { "question": "アリス物語の挿絵を彫ったのは誰でしたか?", "id": "tr-114-10-000", "answers": [ { "text": "ダルジール兄弟", "answer_start": 45, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダルジール兄弟とはジョージと誰ですか?", "id": "tr-114-10-001", "answers": [ { "text": "エドワード", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『アリス』の挿絵を描くにあたってテニエルがとった戦略は、アリスとその世界を『パンチ』の風刺画の中に置いてみるということであった。\nテニエルや彼の同僚が『パンチ』で描いていた(擬人化された動物がしばしば登場する)風刺画は、それらを見慣れていた当時の中流階級の人々にとって『アリス』の一種の予告編となり、その世界に親近感を抱かせたと考えられる。\nまた修行時代の一時期を除いてモデルを使用しなかったテニエルの『アリス』は、結果として『パンチ』で確立されたイメージ群の更新にほかならないものであった。\nテニエルの挿絵が作り出したイメージは今日アリスの世界と切り離せないほど親しまれており、後世の挿絵画家が新たにつけた挿絵でもテニエルのイメージを完全に払拭しているものは少ない。\nただしテニエルの挿絵についても、線が硬い、絵に冷たさがある、アリスの表情が紋切型であるというふうに批判がないわけではない。", "qas": [ { "question": "テニエルの挿絵批判の1つに、アリスの表情はどんな型であると言われていましたか?", "id": "tr-114-11-000", "answers": [ { "text": "紋切型", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "現在アリスのイメージとしてもっとも親しまれている、テニエルが描いたブロンド・長髪で額を出したアリスは、黒髪でおかっぱ頭であった実在のアリス・リデルとはまったく異なる姿で描かれている。\nこれについてはキャロルの推薦でメアリー・ヒルトン・パドコックという少女の写真をモデルにしたという説がしばしば唱えられてきた。\nこれはもともと成人したパドコックとその夫がキャロルの伝記作者に提供した情報であったが、しかしキャロルがパドコックの写真を購入したとされる1865年1月には、すでにテニエルは12点の『アリス』の挿絵を仕上げている。\n当のパドコックの写真も、ブロンドの長髪という点以外にはテニエルのアリスに似ているところはない。\nまたパドコック説に対抗して、テニエルは『パンチ』の初代編集長マーク・レイモンの娘をモデルにしたのだという主張が、その娘(レイモンの孫娘)によってなされたことがある。\nしかしいずれも第三者の証言や資料はなく、またそもそもキャロルの書簡のなかに、テニエルがモデルを使わないことを嘆いているくだりがあるため、どちらの説もあまり信憑性はないと考えられる。", "qas": [ { "question": "アリス・リデルは黒髪でどんなヘアスタイルでしたか?", "id": "tr-114-12-000", "answers": [ { "text": "おかっぱ頭", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一説にあるアリスのモデルになった少女とは誰ですか?", "id": "tr-114-12-001", "answers": [ { "text": "メアリー・ヒルトン・パドコック", "answer_start": 107, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "マイケル・ハンチャーは、テニエルの挿絵に原型があるとすれば、それはキャロルが手書き本に描いたアリスだろうとしている。\nキャロルが描いたアリスはラファエル前派特有の女性美を強く表しており、その豊かな髪のラファエル前派風のウェーブは、かなりやわらげられてはいるもののテニエルのアリスにも受け継がれている。\nアリスのほとんど不機嫌といってもいい落ち着いた表情も、キャロルから受け継がれたラファエル前派の特徴であると考えられる。\nまた海野弘は、キャロルのラファエル前派的な少女趣味と、ラファエル前派よりも旧世代に属するテニエルのスタイルとのずれが、かえってテニエルの挿絵を成功に導いたと分析している。", "qas": [ { "question": "キャロルが描いたアリスは、何の特徴が醸し出されていますか?", "id": "tr-114-13-000", "answers": [ { "text": "ラファエル前派", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当時の著作権法の規定によって、イギリスでは1907年まで『不思議の国のアリス』の著作権が存在したが、しかしアメリカでは自由にイギリスの本を出版することができた。\nこのためテニエル以外の挿絵による『アリス』はイギリスより前にアメリカ合衆国で出版されており、1907年までに少なくとも4人の挿絵画家が『アリス』に挿絵をつけている。\nそのうちの一人ペーター・ニューエル(1901年刊)は、テニエルとは違いキャラクターを写実的で表情豊かに描いており、近年になって再評価をうけている。\nまたブランチ・マクマナスによるもの(1896年)は1907年にイギリスでも出版された。", "qas": [ { "question": "『アリス』の挿絵を担当したペーター・ニューエル、ブランチ・マクマナスのうち、どちらの本が先に刊行されましたか?", "id": "tr-114-14-000", "answers": [ { "text": "ペーター・ニューエル", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イギリスでは何年まで『不思議の国のアリス』の著作権があったの?", "id": "tr-114-14-001", "answers": [ { "text": "1907年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ペーター・ニューエルが挿絵をつけた『アリス』は何年に刊行されたの?", "id": "tr-114-14-002", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 182, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブランチ・マクマナスが挿絵をつけた『アリス』は何年に刊行されたの?", "id": "tr-114-14-003", "answers": [ { "text": "1907年", "answer_start": 263, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1907年に作品の著作権が切れると、イギリスの出版社はいっせいに新しい挿絵による『不思議の国のアリス』を出版した。\n1907年には8種、翌8年には7種の新たな挿絵本が出され、以後ほぼ毎年途切れることなく新しい挿絵による『アリス』が出版されている。\n1907年に出たものでは、特にアーサー・ラッカムのものとチャールズ・ロビンソンのものが傑出している。\n挿絵画家は著者と召使ではなくパートナーであるべきだと主張したラッカムは、茶色と灰色を基調とした水彩画とペン画でまったく独自の『アリス』を描いた。\nラッカムによる挿絵はデッサンや画面構成などもテニエルに比してすぐれており、アリスの肢体もずっとしなやかに描かれ、現在でもテニエルの挿絵に次いで人気が高い。\nしかし出版当時はそれまでの作品のイメージを損なったという悪評にさらされ、そのためにラッカムは続編『鏡の国のアリス』への挿絵の仕事を頑として受けなかった。", "qas": [ { "question": "新たな挿絵で出版された『アリス』は、1907年と翌8年ではどちらの方が種類が多いですか?", "id": "tr-114-15-000", "answers": [ { "text": "1907年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アーサー・ラッカムは茶色と何色を基調として『アリス』の挿絵を描きましたか?", "id": "tr-114-15-001", "answers": [ { "text": "灰色", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラッカムによる挿絵とテニエルによる挿絵は、どちらの方がデッサン、画面構成などが優れていますか?", "id": "tr-114-15-002", "answers": [ { "text": "ラッカムによる挿絵", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "現在最も人気の高い『アリス』の挿絵は、誰によるものですか?", "id": "tr-114-15-003", "answers": [ { "text": "テニエル", "answer_start": 270, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "チャールズ・ロビンソンは、ペン画と水彩画ですべてのページに挿絵をつけた。\nロビンソンはテニエルが描いたものではなく、実在のアリス・リデルの姿をモデルにしておかっぱ頭のアリスを描いた最初の画家であり、以後『アリス』の挿絵は、テニエルの描いた金髪のアリスと並んでアリス・リデル風のアリスもしばしば描かれている。\nなおチャールズの実兄トマス・ヒース・ロビンソンも1908年にアリスの挿絵本を出しており、こちらはオーブリー・ビアズリーの影響を受けつつ、子供向けに白を基調としたモノクロ画となっている。", "qas": [ { "question": "アリス・リデルをモデルとしておかっぱ頭のアリスを描いた画家のフルネームは何?", "id": "tr-114-16-000", "answers": [ { "text": "チャールズ・ロビンソン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チャールズのお兄さんの名前は?", "id": "tr-114-16-001", "answers": [ { "text": "トマス・ヒース・ロビンソン", "answer_start": 164, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トマス・ヒース・ロビンソンは、誰の影響を受けたアリスを描いていますか?", "id": "tr-114-16-002", "answers": [ { "text": "オーブリー・ビアズリー", "answer_start": 202, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1907年にはまた、当時の理想の子供像を反映したものかブロンドの少女人形のようにアリスを描いたベッシー・ガットマンによる挿絵本がアメリカ合衆国で出版されている。\n1910年にはのちにグリーティングカードの絵でも有名になるメイベル・アトウェルが、独特の丸っこいえくぼ顔のキャラクターで挿絵を描いた。\nそのほか当時アメリカ合衆国でボビィソクサーと呼ばれた、ボビィソックスをはいて芸能人の追っかけをする10代少女の流行を反映させたウィリー・ポガニー(1929年刊)など、作家の個性や流行、時代背景などによって様々な種類の挿絵本が、しばしば続編の『鏡の国のアリス』と併せて作られていった。\n1930年にはマリー・ローランサンによる挿絵本も出ている。\nこれは淡い色彩を使ったリトグラフによるもので、物語の挿絵というよりはアリスのイメージ画に近いものである。\n1899年(明治32年)に初めて『アリス』が翻訳された日本では、欧米のイラストレーションを学んだ岡本帰一、清水良雄などによる挿絵本が大正時代に現われている。", "qas": [ { "question": "ベッシー・ガットマンによる挿絵本とメイベル・アトウェルによる挿絵本は、どちらが先に出版されましたか?", "id": "tr-114-17-000", "answers": [ { "text": "ベッシー・ガットマンによる挿絵本", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ベッシー・ガットマンによる挿絵本とマリー・ローランサンによる挿絵本は、どちらが遅く出版されましたか?", "id": "tr-114-17-001", "answers": [ { "text": "マリー・ローランサンによる挿絵本", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "翻訳された『アリス』が日本で出版されたのは何年ですか?", "id": "tr-114-17-002", "answers": [ { "text": "1899年", "answer_start": 374, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メイベル・アトウェルによる挿絵本は何年に出版されましたか?", "id": "tr-114-17-003", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 81, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第二次大戦後は児童書の出版がより盛んになり、新しい『アリス』の挿絵本も次々と出版された。\n先陣を切った画家のひとりで自身も作家・詩人であったマービン・ピークは、墨汁を使った密度の高いモノクロ画によって、友人グレアム・グリーンからテニエル以来のアリスの挿絵画家として賞賛された。\n戦前の『アリス』の挿絵が、総じてアリスを可愛らしい少女のイメージで捉えつつも、絵の構図や他のキャラクターの捉え方という点においてテニエルのそれを踏襲していたのに対し、ピーク以降は画家が自らのイメージするアリスとその世界を強く押し出す傾向が現われ始める。\nまた1951年にはディズニーによるアニメ映画『ふしぎの国のアリス』が公開されたが、この動画を利用した絵本が刊行されると、色合いのけばけばしさや画面の不統一性が原作の芸術性を損なっているとして批判を受けた。", "qas": [ { "question": "ディズニー映画の『ふしぎの国のアリス』が公開されたのはいつでしたか?", "id": "tr-114-18-000", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 268, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1966年にはトーベ・ヤンソンが、自身の代表作『ムーミン』を思わせる世界観で『アリス』の挿絵を描いている。\n1967年には、ドイツ表現主義の画家ゲオルグ・クロスやアメリカの風刺漫画家ソール・スタインバーグの影響を受けたラルフ・ステッドマンによる風刺性の強い挿絵本が出され、この本はテニエルのイメージを初めて完全に打ち砕いたとしてフランシス・ウィリアム・イラストレーション賞を受賞した。\n1969年にはシュルレアリストのサルバドール・ダリが、1970年にはマックス・エルンストが、それぞれリトグラフによる挿絵を制作している。", "qas": [ { "question": "『ムーミン』の原作者は誰ですか?", "id": "tr-114-19-000", "answers": [ { "text": "トーベ・ヤンソン", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トーベ・ヤンソンが『アリス』の挿絵を描いたのは何年ですか?", "id": "tr-114-19-001", "answers": [ { "text": "1966年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サルバドール・ダリとマックス・エルンストはどちらが先に挿絵を制作しましたか?", "id": "tr-114-19-002", "answers": [ { "text": "サルバドール・ダリ", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アリスの挿絵が評価され、フランシス・ウィリアム・イラストレーション賞を受賞したのは誰ですか?", "id": "tr-114-19-003", "answers": [ { "text": "ラルフ・ステッドマン", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "以降も、単色木口木版によって、アリス自身の姿はほとんど描かずにアリスの視点から悪夢的な世界を描き出し、1982年にアメリカン・ブック・アワードを受賞したバリー・モーザー、短髪のアリスを色彩豊かな画面で描いて1983年にブラスチラバの国際的絵本賞BIBのグランプリを受賞したドゥシャン・カーライ、繊細な筆使いで幻想的な世界を再現し1984年にボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞したマルケータ・ブラチャティカ、アニメーションのこま絵のように連続する絵でアリスや登場人物の変身・変化を表現したアンソニー・ブラウン(1988年)、落ち着いた色彩で不条理な世界を再現したリスベート・ツヴェルガー(1999年)など、テニエルや既存の挿絵のイメージを更新する様々な挿絵が描かれている。\n2006年には、アリスを題材として人形アニメーション作品『アリス』(1988年)を制作したヤン・シュヴァンクマイエルによる、イラストや写真のコラージュで独特の不気味な世界を表現した挿絵本が刊行された。", "qas": [ { "question": "ドゥシャン・カーライが描いたアリスはどんなヘアスタイルでしたか?", "id": "tr-114-20-000", "answers": [ { "text": "短髪", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンソニー・ブラウンとリスベート・ツヴェルガーはどちらが先にアリスの挿絵を描きましたか?", "id": "tr-114-20-001", "answers": [ { "text": "アンソニー・ブラウン", "answer_start": 249, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アリスの挿絵を描いてアメリカン・ブック・アワードを受賞した人は誰ですか?", "id": "tr-114-20-002", "answers": [ { "text": "バリー・モーザー", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "東京うど", "paragraphs": [ { "context": "東京うど(とうきょううど)は、東京都内で生産される野菜(うど)である。\nもともとは山野に自生していたうどが尾張国で栽培されるようになったといわれ、その後江戸時代後期の文化年間(1804年から1818年まで)に江戸にも広まったと伝えられる。\n第2次世界大戦中に穴蔵での栽培法が試みられ、終戦後に穴蔵軟化法による軟白栽培法が確立した。\n当初は上井草村(現在の杉並区西荻北及び善福寺付近)と吉祥寺村(現在の武蔵野市の一部)及び現在の練馬区西部が一大産地であった。\nその後北多摩方面に主要産地を移して、東京特産の「東京うど」として「江戸東京野菜」に認定されている。", "qas": [ { "question": "上井草村や吉祥寺村、また、現在の練馬区西部から後に北多摩方面に主要産地を移した東京都内で生産される野菜は何?", "id": "tr-115-00-000", "answers": [ { "text": "東京うど", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "うどが江戸に広がる前に栽培されていた場所はどこだったの?", "id": "tr-115-00-001", "answers": [ { "text": "尾張国", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "終戦後に穴蔵軟化法による軟白栽培法が確立し、「江戸東京野菜」に認定されている野菜は何でしょうか?", "id": "tr-115-00-002", "answers": [ { "text": "東京うど", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東京都内で生産されているうどが「江戸東京野菜」に認定された時の正式名称は何?", "id": "tr-115-00-003", "answers": [ { "text": "「東京うど」", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "うどは東洋原産で、ウコギ科タラノキ属に属する多年草である。\nうどは、フキやワサビなどとともに日本原産である数少ない野菜とされる。\n北海道から九州に至る日本各地に自生し、中国や朝鮮にも広く分布する。\n日本では古代から自生のものが山菜として食されていたが、栽培されるようになった経緯は明らかではない。\n一説には、10世紀頃からすでに栽培が始まっていたともいわれる。\n最も古い栽培の記録は尾張国のもので、その後江戸時代後期に江戸に移入された。\nうどはアワ、ヒエ、ソバ、ムギ、サツマイモ、ラッキョウなどとともに、武蔵野台地の水の乏しい乾燥した畑作地で多く栽培された。", "qas": [ { "question": "うどの栽培はいつ頃から開始されたの?", "id": "tr-115-01-000", "answers": [ { "text": "10世紀頃", "answer_start": 154, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "うどやフキ以外で日本原産の野菜は何があるの?", "id": "tr-115-01-001", "answers": [ { "text": "ワサビ", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "江戸時代以降、うどが多く栽培された土地の名前は何?", "id": "tr-115-01-002", "answers": [ { "text": "武蔵野台地", "answer_start": 252, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "うどが日本で分布する最北の都道府県はどこ?", "id": "tr-115-01-003", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1924年(大正13年)の『東京府農会報』では、菱山萬三郎という人物が「豊多摩郡に於ける土当帰(うど)の栽培起源は文化年間の頃より栽培せられしも、確然たるは今より百年前(注:1824年)井荻村大字上井草、古谷岩右衛門氏尾張付近より此の方法を習い、其の後優良なる結果を得、爾来各町村に伝播し、今や郡内特産物の一となるに至れり」と記述した。\n『東京府農会報』より100年以上前の1820年(文政3年)に植田孟縉が著した『武蔵名勝図会』では、「野方領の村々にても出し、武蔵野新田にも作る」との記述があった。\n当初は上井草村、吉祥寺村及び現在の練馬区西部が一大産地であり、産地の名をとって「井荻うど」、「吉祥寺うど」と呼ばれていた。", "qas": [ { "question": "江戸方面でのうどの栽培起源について記述した人は誰?", "id": "tr-115-02-000", "answers": [ { "text": "菱山萬三郎", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「吉祥寺うど」という名称はどこの山地に由来しているの?", "id": "tr-115-02-001", "answers": [ { "text": "吉祥寺村", "answer_start": 259, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『東京府農会報』と『武蔵名勝図会』はどちらが遅く著されたの?", "id": "tr-115-02-002", "answers": [ { "text": "『武蔵名勝図会』", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『武蔵名勝図会』の著者は誰?", "id": "tr-115-02-003", "answers": [ { "text": "植田孟縉", "answer_start": 199, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "初期の産地の1つである吉祥寺村では、西に約10キロメートル離れた所沢(現在の所沢市北原地区)からうどの実生苗を毎年買い付け、天秤棒や馬で運搬して村へ持ち帰っていた。\n苗は4月に畑に植え付け、11月に葉や茎が全部枯れた頃を見計らって根株を掘り出した。\n掘り出した根株は幅と深さがそれぞれ60センチメートルほどの溝穴中にすき間なく並べて、その上から土をかぶせた。\nこの方法で光を当てずに茎を白く伸ばしたうどを栽培し、「もやしうど」(軟化うど)を作り出した。\nこの方法で栽培されたうどは、初物を粋と考えた江戸の人々に喜ばれて俳句や川柳の題材にもなった。\nこのうどの品種は「所沢うど」と呼ばれ、幕末から明治中期が最盛期であった。", "qas": [ { "question": "俳句や川柳の題材にもなったうどの品種名は何?", "id": "tr-115-03-000", "answers": [ { "text": "「所沢うど」", "answer_start": 282, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「もやしうど」(軟化うど)を作る時に根株を植えた箇所をどうすることで光を遮っていたの?", "id": "tr-115-03-001", "answers": [ { "text": "土をかぶせた", "answer_start": 172, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "うどの苗を植え付けたあと、約半年後には何を掘り出したの?", "id": "tr-115-03-002", "answers": [ { "text": "根株", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "所沢うどに続いて主力品種となったのは、「寒うど」と呼ばれる品種である。\n寒うどは、1960年代の半ばまで栽培されていた。\n第2次世界大戦に突入して食糧事情が悪化するにつれて、うどの栽培は一時期途絶えた。\nただし、武蔵野市でうど栽培を手がけていた高橋米太郎はひそかに栽培を続けていた。\n高橋はもし戦争に勝利したならば、祝賀会への需要でうどは高く売れるに違いないと考えて種株を残していた。\n1943年(昭和18年)に高橋は人目を避けてうどの軟化を試みるために、屋敷内にあったクワの葉の貯蔵用の穴蔵を用いた。\nその結果、良いできばえのうどを収穫することに成功した。", "qas": [ { "question": "所沢うどの次に主力品種となったうどの名称は何?", "id": "tr-115-04-000", "answers": [ { "text": "「寒うど」", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第2次世界大戦の影響でうどの栽培が一時的に途絶えた中、ひそかにうどの栽培を続けていた人物は誰ですか?", "id": "tr-115-04-001", "answers": [ { "text": "高橋米太郎", "answer_start": 122, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高橋が良いできばえのうどを収穫できたのは、自身の屋敷内にあった何を用いたからですか?", "id": "tr-115-04-002", "answers": [ { "text": "クワの葉の貯蔵用の穴蔵", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第2次世界大戦終戦後の1948年(昭和23年)から、高橋は横穴を掘って穴蔵でのうど軟化法の研究に本腰を入れて取り組んだ。\n1951年(昭和26年)の1月になって、軟化うど560キログラムを今までより1月も早く市場に出荷した。\n高橋の出荷した軟化うどは全く土がついておらずまっすぐに育っていて、そのできばえの良さに卸売りの業者たちは高い評価を与えたという。\n高橋の考案したうど軟化法は北多摩地域に広まり、1955年(昭和30年)に実用新案を申請し、1960年(昭和35年)に「軟白野菜促成穴蔵」として認可を受けた。\nこの軟化法は他の産地にない独特のもので、軟化うどは日本料理向けの高級食材として受け入れられた。", "qas": [ { "question": "高橋が研究した穴蔵でのうど軟化法は、後に正式に何という名称で認可を受けましたか?", "id": "tr-115-05-000", "answers": [ { "text": "「軟白野菜促成穴蔵」", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「軟白野菜促成穴蔵」は主にどこの地域に広まったの?", "id": "tr-115-05-001", "answers": [ { "text": "北多摩地域", "answer_start": 191, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "都市化が進んでうどの産地が西へと移り始めた1951年(昭和26年)、高橋遼吉(高橋米太郎の親戚筋にあたる)が春うどを年末の高値で取引できる時期に出荷する方法を発案した。\nそれは寒い時期が早く来る高冷地で種株を栽培すれば、休眠時期が早くなるためその終わりも出荷も早くなるということであった。\nこの発案は翌年実行に移され、群馬県の嬬恋村で「愛知坊主」という種類の種株が委託栽培され、成長したうどを東京に持ち帰って穴蔵で軟化栽培した。\n高橋遼吉の発案は成功し、出荷時期を約1か月早めることができた。\nこの発案はうど生産組合や農地の減少に悩んでいた北多摩地域の農家がただちに取り入れ、嬬恋村のような高冷地で種株を栽培してから平地にある穴蔵に植え替えて軟化する「リレー栽培」が確立した。\nこのリレー栽培は北多摩地域の農家はもとより、長野や群馬などの高冷地の農家においても有利な農業経営ができるという大きな利点があった。", "qas": [ { "question": "うどのリレー栽培の発案者は誰ですか?", "id": "tr-115-06-000", "answers": [ { "text": "高橋遼吉", "answer_start": 215, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "寒い時期が早く来る高冷地で種株を栽培すれば、休眠時期が早くなるためその終わりも出荷も早くなるという方法を基にして確立された栽培方法は何?", "id": "tr-115-06-001", "answers": [ { "text": "「リレー栽培」", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "リレー栽培では、うどを平地の穴蔵に植え替えて軟化させる前に、どういった土地で種株を栽培するのですか?", "id": "tr-115-06-002", "answers": [ { "text": "高冷地", "answer_start": 295, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高橋の発案を実行した際に、東京での穴蔵で軟化栽培をする前にうどの種株を委託栽培した村はどこか?", "id": "tr-115-06-003", "answers": [ { "text": "嬬恋村", "answer_start": 163, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "リレー栽培の普及については北多摩地域を担当していた農業改良普及員の貢献も大きく、長野・群馬・山梨・栃木・福島の高冷地での種株委託栽培のとりまとめにも功績があった。\nリレー栽培以外でも寒うどに替わる優良品種(愛知県原産の愛知紫系統)の導入や穴蔵軟化法の改良と普及、夏うどの大阪市場への販路拡大などに幅広い情報を駆使して行動した。\nまた、1961年(昭和36年)頃からジベレリン(植物ホルモン剤)処理による休眠短縮の技術が開発され、12月から1月の出荷が可能になった。", "qas": [ { "question": "ジベレリン(植物ホルモン剤)処理をする目的は何なの?", "id": "tr-115-07-000", "answers": [ { "text": "休眠短縮", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1958年(昭和33年)、立川市砂川の高橋正直と山本一男が畑でのうど根株掘り取り機を発明した。\nうどは夏場には葉茎を大きく広げる植物の上、連作障害を起こしやすいために畑には広大な面積が必要である。\n秋冬にその広大な畑を鍬で掘り返して根株を掘り取るのは重労働であり、そのため農家はうどの作付面積を制限せざるを得なかった。\n2人の発明したうど根株掘り取り機は耕運機を改良したもので、これによって作付面積の問題は解決を見た。\n第2次世界大戦終戦後に、東京都内のうど生産者組合が1950年(昭和25年)から5年ほどの間に各市町別に設立された。\n武蔵野市東京うど組合を始めとして、各生産者組合は種苗の共同購入や栽培出荷についての研究、品評会、リレー栽培委託や共販等の事業に取り組んだ。\n1954年(昭和29年)に、各組合は規格統一や販売面での体制強化などをめざして「東京うど生産組合連合会」を結成した。", "qas": [ { "question": "高橋正直と山本一男が耕運機を改良して発明したものは何?", "id": "tr-115-08-000", "answers": [ { "text": "うど根株掘り取り機", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1950年から1955年にかけて各市町別に設立された組合は何?", "id": "tr-115-08-001", "answers": [ { "text": "うど生産者組合", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「東京うど生産組合連合会」が結成されたのは昭和何年?", "id": "tr-115-08-002", "answers": [ { "text": "昭和29年", "answer_start": 344, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "江戸時代後期に始まったうど栽培は、多くの関係者の品種改良や栽培技術改善にかける努力によって北多摩地域を品質・生産量ともに日本一のうど産地とした。\n高度成長期には高級食材として高値で取引され、「うどで蔵が建つ」といわれるほどであった。\nしかし、うどの栽培地は農地の宅地化や都市化の進行によって栽培面積の減少が進んだ。\nさらには長年の連作で畑の生産力が低下したことや、地球温暖化の影響で寒暖の差が小さくなったこと、天井が低く、階段の昇降をも伴う穴蔵での重労働や生産の担い手である農家の高齢化の進行など、複数の要因が重なって栽培の継続が困難になっていった。\n消費者の嗜好の変化(日本料理から洋風料理への需要の移行)もあって、うど自体の価格も下落した。\n栽培初期からの産地であった杉並区上井草付近では1975年(昭和50年)頃を境に栽培が見られなくなり、武蔵野や練馬周辺にかつては100軒ほどあった栽培農家も、2014年(平成26年)の時点では5軒ほどに減ってしまった。", "qas": [ { "question": "うど栽培の継続が困難になった原因の1つで、天候に関係する要因とは何ですか?", "id": "tr-115-09-000", "answers": [ { "text": "地球温暖化", "answer_start": 182, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "武蔵野や練馬周辺では、2014年の時点でいくつの栽培農家が残っていますか?", "id": "tr-115-09-001", "answers": [ { "text": "5軒ほど", "answer_start": 418, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "うどの価格が下落した要因として消費者の嗜好の変化が挙げられるが、日本料理よりも何の需要が高まったの?", "id": "tr-115-09-002", "answers": [ { "text": "洋風料理", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2011年(平成23年)に、JA東京中央会は「江戸東京野菜」を商標登録した。\n東京都内で生産されるうどは江戸東京野菜の1種として「東京うど」の名で呼ばれるようになり、特産野菜としてその知名度を高めた。\n東京うどは東京うど生産組合連合会によって規格が統一され、規定の箱に入れる出荷の目安は約80センチメートルである。\n穴蔵軟化法によって白く育った姿と歯ざわりと香りのよさなどが評価され、日本料理向けの高級食材として利用される他に、洋風料理や中華料理などにも合う。\n東京うどは江戸東京野菜普及推進連絡協議会により江戸東京野菜として認定され、旬の野菜を食べるイベントで使われたり、都市農業の活性化を目指すNPO法人によってセミナーの題材として取り上げられたりしている。\n東京うどの産地の1つである立川市では、うどによる「街おこし」をめざして「うどラーメン」、「うどパイ」、「うどせんべい」などを開発している。", "qas": [ { "question": "JA東京中央会が商標登録した「江戸東京野菜」の中で、うどはどのような名称で知名度を上げましたか?", "id": "tr-115-10-000", "answers": [ { "text": "「東京うど」", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「うどラーメン」、「うどパイ」、「うどせんべい」といった立川市が開発したうどの商品の中で、お菓子類に分類されないのはどれ?", "id": "tr-115-10-001", "answers": [ { "text": "「うどラーメン」", "answer_start": 367, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東京うど生産組合連合会が規格したうどの長さの目安はいくつ?", "id": "tr-115-10-002", "answers": [ { "text": "約80センチメートル", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1965年(昭和40年)、武蔵野市境地区を流れる玉川上水に橋がかかった。\nその名を「うどばし」といい、橋の脇の「うどばし子供遊園地」には「うど記念碑」がある。\nこの橋をかけた6人の地主のうちの1人が、穴蔵軟化法を考案した高橋米太郎であった。\nこのうど記念碑は、武蔵野のうどの記念となるものを残したいという高橋の想いが実現したものであった。\nこの「うど記念碑」の他に、JA東京グループが杉並区善福寺の井草八幡宮に「井荻うど」、武蔵野市吉祥寺東町の武蔵野八幡宮には「吉祥寺うど」の屋外説明板を設置している。", "qas": [ { "question": "武蔵野市境地区を流れる玉川上水にかかった橋の名前は?", "id": "tr-115-11-000", "answers": [ { "text": "「うどばし」", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「うどばし」をかけた地主の1人であり、穴蔵軟化法も考案した人物とは?", "id": "tr-115-11-001", "answers": [ { "text": "高橋米太郎", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「うどばし」の下を流れる川の名は?", "id": "tr-115-11-002", "answers": [ { "text": "玉川上水", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "最初期の栽培品種である所沢うどは、実生での繁殖のため生育こそ不ぞろいだったが正月出荷が可能な早生の品種であった。\nただし品質は悪く、手(葉柄)ばかり出すために「乞食うど」とも呼ばれたという。\n所沢うどに続いて主力品種となったのは、「寒うど」と呼ばれる品種である。\n原産地は北海道といわれ、「赤芽種」、「白芽種」、「ローソク」という3種に大別された。\nこの3種の中では、安行村から導入された赤芽種が最も古くから栽培されていた。\n赤芽種は極早生種で品質は柔らかくて良いが、収量が少なかった。\n白芽種は下総から伝えられたといい、こちらも品質は良かった。\nローソクは白芽種から出たものと推定され、品質は寒うどの中では最高級と評価されていた。\n寒うどの他には、晩生種で品質は中の上だが収量の多い「愛知坊主」(愛知県原産、大正末期から武蔵野、保谷、小平、練馬で栽培が始まり第2次世界大戦前に普及が進んだ)や、中晩生種で品質が極上の「伊勢白」(三重県原産、昭和初期に武蔵野、保谷、田無、練馬に入って普及が進んだ)、「愛知紫」(愛知県原産、昭和10年代の初めに武蔵野や国分寺で栽培が始まったが導入が遅かったためにあまり普及が進まなかった)などが第2次世界大戦前の主な栽培品種であった。", "qas": [ { "question": "赤芽種、白芽種、ローソクの3つの寒ウドの中で、最も品質が良いのはどれ?", "id": "tr-115-12-000", "answers": [ { "text": "ローソク", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "所沢うどの品質の悪さを由来とする別名は何?", "id": "tr-115-12-001", "answers": [ { "text": "「乞食うど」", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "遅くに導入されたことからあまり普及しなかったという愛知県原産のうどの品種は何?", "id": "tr-115-12-002", "answers": [ { "text": "「愛知紫」", "answer_start": 450, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東京うどの栽培は、春、晩秋及びその後の3つの段階に大別される。\n春は、群馬などの高冷地にある畑でまず種株の植え付けを行う。\n芽のついたうどの種株を3つから4つに分割して畑に植え付けて成長させる。\nうどは成長旺盛な植物のため、夏には高さ約2メートルにも育つ。\n東京うどの栽培では、高冷地の寒暖差を利用して早く地上部を枯らすことが重要となる。\n地上部が枯れると根株が休眠状態に入るため、晩秋の11月から12月頃に根株を掘り取って東京に運搬する。\n根株を植えこむ穴蔵は、クワの葉の貯蔵用の穴蔵を転用したものの他に、他の野菜貯蔵用の穴蔵を利用したものや、関東ローム層の土壌に横穴を新しく掘ったものも存在する。\nこれらの穴蔵は、年間を通して16度前後の室温が保たれている。\n根株を穴蔵に入れて成長させる「伏せこみ」という作業には、約30日から40日を要する。\n東京うどは、毎年12月から翌年の10月初めにかけてが出荷時期である。\n冬場に出荷する分は、休眠を打破して成長を促すためにジベレリンを利用する。\n立春の頃に、掘り取った根株のうち畑に埋めておいた分を掘り出して保冷庫に移しておく。\n保冷庫に移した根株は、休眠期を調節した上で春季から秋季にかけての出荷分として穴蔵に植え込む。\n育ったうどは70センチメートルから80センチメートルのところで刈り取り、規定の箱に入れて出荷される。", "qas": [ { "question": "うどは、夏場ではどれくらいの高さまで成長しますか?", "id": "tr-115-13-000", "answers": [ { "text": "約2メートル", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東京うどの出荷がスタートする月はいつですか?", "id": "tr-115-13-001", "answers": [ { "text": "12月", "answer_start": 383, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東京うどの栽培で、根株を掘り取って東京に運搬するのは何月頃なの?", "id": "tr-115-13-002", "answers": [ { "text": "11月から12月頃", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "うどの根株を穴蔵に入れて成長させる作業を何と言いますか?", "id": "tr-115-13-003", "answers": [ { "text": "「伏せこみ」", "answer_start": 346, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "うどは約95パーセントが水分であるが、ビタミンB群(チアミン、リボフラビン)やビタミンCを含み、アミノ酸(アスパラギン酸など)が比較的に多い低カロリーの野菜である。\nその芳香と淡白な味わいで、消化器を刺激して食欲を増進させるといわれる。\n江戸時代の1805年(文化2年)に刊行された『素人庖丁二編』という料理書には「うどの葛だまりがけ」(だし汁で煮込んだうどに葛粉を使ったあんをかけたもの)、「うどの焚き出し」(適度な長さに切ったうどの皮を剥いて酒と醤油で煮たもの)が紹介されていた。\n酢水にさらしたうどを酢味噌和えや天ぷらなどとして食すほかに、サラダや炒め物など、洋風や中華風の料理の食材にもよく合う。\n2014年(平成26年)3月には、東京うどをテーマとしたイベントが中野区内で開催された。\nこのとき提供された料理は、和え物などの定番料理ではなくハムとうどを一緒に挟んだサンドイッチや羊羹などであり、「意外だけど、歯ごたえや風味が楽しめた」と参加者に好評を持って迎えられた。", "qas": [ { "question": "うどに含まれる成分の中で、半分以上の割合を占めるものは何?", "id": "tr-115-14-000", "answers": [ { "text": "水分", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "うどに含まれるアミノ酸の中で代表的なものは何?", "id": "tr-115-14-001", "answers": [ { "text": "アスパラギン酸", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2014年(平成26年)3月で開催された東京うどのイベントで、提供された料理は何だったの?", "id": "tr-115-14-002", "answers": [ { "text": "サンドイッチや羊羹", "answer_start": 387, "answer_type": 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