{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "ユナイテッド航空232便不時着事故", "paragraphs": [ { "context": "中部夏時間14時09分、当該機はステープルトン国際空港を離陸した。副操縦士の操縦により、予定の巡航高度37,000フィート(約11,300メートル)まで平常通り上昇した。オートパイロットが作動され、指示対気速度270ノット(約時速500キロメートル)に飛行速度を維持するモードが使用された。飛行計画ではマッハ数0.83で巡航することになっていた。離陸から約1時間7分後の15時16分10秒、大きな爆発音が発生し続いて機体が激しく振動し始めた。乗員はエンジン計器を点検し、尾部にある第2エンジンに異常が発生したと特定した。ただちにオートパイロットが解除され、機長の指示でエンジン停止時のチェックリストが開始された。リストの最初の項目はエンジン停止であったが、第2エンジンのスロットルが動かなくなっていた。次の項目は燃料の供給停止だったが、燃料レバーも動かなくなっていた。ここで航空機関士が防火バルブを閉じるよう提案し、ようやく第2エンジンを停止できた。異常発生からここまで約14秒だった。", "qas": [ { "question": "オートパイロットが作動される前に予定の巡航高度まで航空機を操縦したのは、どんな人なの?", "id": "tr-024-00-000", "answers": [ { "text": "副操縦士", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エンジン停止時のチェックリストの最初の項目は何か?", "id": "tr-024-00-001", "answers": [ { "text": "エンジン停止", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第2エンジン停止できたのは、何時何分ですか?", "id": "tr-024-00-002", "answers": [ { "text": "15時16分", "answer_start": 185, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "誰の提案のおかげで、異常発生時の対応がうまく行ったの?", "id": "tr-024-00-003", "answers": [ { "text": "航空機関士", "answer_start": 387, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "さらにチェックリストを続ける中で、航空機関士は機体の3系統あるすべての油圧系統の圧力計と油量系がいずれもゼロを指していることに気づいた。副操縦士は、機体が右旋回で降下しており制御不能であると報告した。機長が操縦を交代して機体が操縦操作に反応しないことを確認した。機長は左翼にある第1エンジンの推力を減らし、機体は左右の水平を取り戻し始めた。機長は、風力駆動の発電機を展開した。この発電機から予備の油圧ポンプに給電される仕組みだったが、ポンプのスイッチを入れても油圧は回復しなかった。この時点で3系統ある油圧系統が全て機能しなくなっていた。事故後の調査で明らかになることだが、第2エンジンの破損により3系統あるすべての油圧配管が切断されたためであった。15時20分、乗員はミネアポリスの航空路交通管制センター(AirRouteTrafficControlCenter)に無線連絡し、緊急援助と最も近い飛行場への進路誘導を要請した。この時、管制センターは、デモイン国際空港へ向かうことを提案した。デモインはアイオワ州の州都で、デンバーとシカゴを結ぶ線上にあたる。15時22分、管制官は乗員にUAL232便がスーシティの方角へ飛行していると知らせた。そして、管制官はスーシティに向かうか尋ね、乗員はそうすると回答した。UAL232便がスーシティのスー・ゲートウェイ空港に針路をとるよう、航空交通管制のレーダー誘導が始まった。この間の15時21分、乗員は、ユナイテッド航空の運航管理部門にACARS(航空機と地上を結ぶ文字データを中心とした無線データ通信システム)でメッセージを送信した。そして無線交信を要請し、2分後に交信に成功した。15時25分、乗員は運航管理部門との交信において同航空の整備施設に直ちに繋いでほしいと要請し、同時に救難信号の「メーデー」を発信した。", "qas": [ { "question": "デモイン国際空港へ向かうことを提案したのは、どこの管制センターなの?", "id": "tr-024-01-000", "answers": [ { "text": "ミネアポリス", "answer_start": 335, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "3系統ある油圧系統が全て機能しなくなっていたのは、何の故障による影響でのことだったか?", "id": "tr-024-01-001", "answers": [ { "text": "第2エンジン", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユナイテッド航空の運航管理部門とのメッセージ送受信に使われたシステムとは何か?", "id": "tr-024-01-002", "answers": [ { "text": "ACARS", "answer_start": 640, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第2エンジンの異常発生時、客室では食事用トレーの片付け中だった。エンジンの爆発音があり、やがて機長による機内アナウンスが流れて、第2エンジンの停止が乗客に知らされた。先任客室乗務員がコックピットに呼ばれ、状況説明を受けて緊急着陸に備えるよう指示された。その際の緊迫した様子を彼女は「焼却炉のドアを開けて熱風が吹いてくるような感じ」だったと証言している。客室に戻った彼女は、乗客を刺激するのを避けるべく、客室乗務員を一か所に集めることはせず、一人ずつ状況説明をして緊急着陸に備えるよう伝えた。客室乗務員たちは動揺を隠し平静さを保つよう努め、乗客に緊急時の準備をさせた。問題発生より約10分後の15時26分42秒から、コックピットボイスレコーダー(CVR)の録音が残っている。その時、スー・ゲートウェイ空港の管制官(以下、進入管制官と呼ぶ)と交信中で状況説明を行っていた。15時27分、サンフランシスコの整備施設と最初の交信が行われた。パイロットは整備施設に全油圧システムが停止して油量も失われた旨を伝え、支援を要請した。しかしこの後、事故機と整備施設の間で断続的に交信があったが、整備施設から乗員へ何か指示できることはなかった。", "qas": [ { "question": "サンフランシスコの整備施設と最初の交信が行われたのは、いつか?", "id": "tr-024-02-000", "answers": [ { "text": "15時27分", "answer_start": 384, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コックピットボイスレコーダーの録音が残っているのは、いつからか?", "id": "tr-024-02-001", "answers": [ { "text": "15時26分42秒", "answer_start": 295, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "15時26分42秒から残っているコックピットボイスレコーダーの録音によると、事故機はどの空港の管制官と交信中でしたか?", "id": "tr-024-02-002", "answers": [ { "text": "スー・ゲートウェイ空港", "answer_start": 340, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コックピットボイスレコーダーの録音が残っているのは、どこに異常が発生してから10分後からか?", "id": "tr-024-02-003", "answers": [ { "text": "第2エンジン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "非番で搭乗していたTCA機長は、ユナイテッド航空の乗員訓練を信頼しており、当初は協力を申し出るのを遠慮していた。しかし、エンジン1基停止時の飛行手順と異なる飛行状況だったことや、先任客室乗務員から深刻な状況であることを聞き、手助けを申し出た。15時29分、先任客室乗務員がコックピットに入り、DC-10型機のTCA機長が搭乗していること、そして彼が協力の意思があることを伝えた。機長は直ちにTCA機長をコックピットに招くよう指示をした。それから30秒も経たないうちに、TCA機長はコックピットに入った。TCA機長が到着した時、機長と副操縦士は精一杯の力で操縦桿を左に切っていたが、機体は右旋回をしていた。コックピット内は緊迫しており、機長が挨拶し乗員を紹介したが、その間、誰もTCA機長の方を向く余裕もなかった。機長はTCA機長に状況を説明し機体の制御手段が全くないと伝えた。機長は、客室の窓から外部の損傷がないか、そして操縦翼面が操作に反応しているか確認するようTCA機長に依頼した。外観確認を終えたTCA機長はコックピットに戻り、内側エルロンは無傷だが僅かに上向きで固定されていたことと、スポイラーが下げ位置でロックされていることを報告した。主操縦翼面は動作していなかった。機長は、TCA機長にエンジンのスロットルの制御を指示した。これにより、機長と副操縦士が他の操作や管制塔との通信などに専念できるようになった。スロットルは機長席と副操縦士席の間のペデスタル(中央制御卓)にある。TCA機長はペデスタルの後ろにひざまずいてスロットル・レバーの調整を担った。TCA機長はエンジン出力でピッチとロールを制御しようと試みた。機体は常に右旋回する傾向があったほか、安定したピッチ姿勢を維持するのが難しくなっていた。TCA機長は第1エンジン(左翼側)と第3エンジン(右翼側)の推力を対称にできないと考え、両手でそれぞれのレバーを操作した。", "qas": [ { "question": "事故機に搭乗していた人で、深刻な状況であることを認識してから手助けしようとしたのは、誰なの?", "id": "tr-024-03-000", "answers": [ { "text": "TCA機長", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "事故機に搭乗していた人で、深刻な状況であることを認識してから手助けしようとしたのは、どのような航空機の機長であるか?", "id": "tr-024-03-001", "answers": [ { "text": "DC-10型機", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "TCA機長による外観確認の結果、異常があると確認されたのは、内側エルロンと何か?", "id": "tr-024-03-002", "answers": [ { "text": "スポイラー", "answer_start": 496, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "機長と副操縦士が、エンジンのスロットルの制御以外の操作や管制塔との通信などに集中できるように手伝ってくれたのは、誰ですか?", "id": "tr-024-03-003", "answers": [ { "text": "TCA機長", "answer_start": 543, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "15時32分、TCA機長が客室乗務員達はゆっくり準備をしていたと伝えた。これを受けて機長は不時着の可能性を示唆し、備えを急いだ方が良いと答えた。間もなく、機長はスー・ゲートウェイ空港の進入管制官に、油圧の作動液を失い昇降舵を制御できないこと、そして滑走路にたどり着けず不時着する可能性があることを伝えた。ユナイテッド航空の運航管理部門も直接スー・ゲートウェイ空港の管制塔に連絡し、緊急着陸、消火、救命の準備を要請していた。15時34分、機長はスー・ゲートウェイ空港に着陸を試みる決断をした。機長は、航空機関士に高揚力装置を使用せず着陸する場合の情報を求め、進入管制官に計器着陸装置の周波数および滑走路の方向と長さを問い合わせた。管制官は周波数を回答し、UAL232便の現在地と進路、そして滑走路31の長さを伝えた。この時、UAL232便はスー・ゲートウェイ空港から北東約35マイル(約65km)の地点にいた。15時35分、機長は急速投棄で燃料を放出するよう航空機関士に指示した。燃料は自動投棄の下限である33,500ポンド(約15トン)まで放出された。15時38分、乗員の一人が「クリーン形態(高揚力装置と降着装置を格納した状態)の進入操作速度は200ノット(時速約370km)だろう」と発言した。副操縦士が、機長に200と185にバグ(速度計の縁にある可動式の目盛り)をセットするよう求めた。", "qas": [ { "question": "UAL232便はどの空港に着陸する準備をしたのか?", "id": "tr-024-04-000", "answers": [ { "text": "スー・ゲートウェイ空港", "answer_start": 221, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユナイテッド航空の運航管理部門が直接スー・ゲートウェイ空港の管制塔まで連絡し、緊急着陸、消火、救命の準備を要請したのは、事故機の何に備えるためだったか?", "id": "tr-024-04-001", "answers": [ { "text": "不時着", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "事故機と該当の航空機が属する航空会社の両方とも交信を行った管制塔は、どの空港の管制塔ですか?", "id": "tr-024-04-002", "answers": [ { "text": "スー・ゲートウェイ空港", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "UAL232便はどの航空会社の航空機ですか?", "id": "tr-024-04-003", "answers": [ { "text": "ユナイテッド航空", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "15時40分、機長は先任客室乗務員に、客室は全員準備できているか尋ねた。機長は、この乗務員に油圧系統の喪失により機体をほとんど操縦できないことと、スーシティに向かっていることを伝えた。続けて、難しい着陸で結果がどうなるかわからない、そして脱出を成功させられるかもわからないとも述べた。機長は、着陸へ備える時になったら客室へ警報放送「ブレース、ブレース、ブレース」を流すと伝えた。「ブレース」とは、衝撃を低減するために体を前に折り曲げる不時着時の姿勢のことである。15時41分、空港の進入管制官からUAL232便に、非常用設備は待機中だと連絡が入る。続いて、翼の損傷を目撃した客室乗務員がいると航空機関士が報告した。航空機関士は後部に確認に行くか尋ね、これを機長が許可した。航空機関士はコックピットを離れ約2分半後に戻った。彼は機体の尾部に損傷があると報告し、機長は「それこそ私が考えていたことだ」と言った。15時48分、降着装置(ギア)が降ろされた。油圧が使えないため、重力を利用する予備(alternate)の方法でギアが降ろされたとパイロット同士が会話している。15時49分、機長はパイロットたちに座席のベルトをしっかり締め、周囲を片付けるよう指示した。TCA機長は航空機関士席でベルトを締め、スロットルの操作を続けた。", "qas": [ { "question": "不時着時の姿勢を何と言うか?", "id": "tr-024-05-000", "answers": [ { "text": "ブレース", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "航空機関士が機体の損傷を確認した時、機体のどちらに損傷があったか?", "id": "tr-024-05-001", "answers": [ { "text": "尾部", "answer_start": 366, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "15時40分の客室への警報放送の準備、15時48分のパイロットおよびTCA機長がベルトを締めるなどの行動は、何に備えるための対策であったか?", "id": "tr-024-05-002", "answers": [ { "text": "不時着", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "UAL232便はどこに向かっていましたか?", "id": "tr-024-05-003", "answers": [ { "text": "スーシティ", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "15時51分、管制官は、UAL232便が空港の北21マイル(約39キロメートル)の地点にいると知らせた。続けて、旋回を少し広げて経路を左へ向けることを求めた。これは、UAL232便が最終進入経路に入るためであり、当該機を市街地から遠ざける狙いもあった。これに対し機長は、何であれ当該機を市街地から離して欲しいと応答した。数秒後、管制官はUAL232便に方位180度へ旋回するよう求めた。15時52分には進行方向右側に高さ約100メートル前後の障害物があると注意喚起した。続けて、管制官は、どの程度急な右旋回が可能か質問した。機長は、バンク角30度を試みていると答えたが、乗員の1人はそんな急バンクはできないと発言している。15時55分ごろ、機長は「放送して彼らにあと4分と伝えよ」と指示した。副操縦士が管制官に「あと3、4分で到着」と通信したが、機長はすぐに「放送、放送。乗客に伝えよ」と正した。これを受けて航空機関士が「あと4分で着陸」と機内放送した。当初、進入管制官は滑走路31に着陸させようとしていた。「あと4分」と機内放送されたころ、UAL232便は、空港の北西約18マイル(約33キロメートル)の地点を飛行していた。機長は、ここから滑走路31に回り込むことは困難と判断し、ほぼ直線上に位置していた滑走路22への着陸を決めた。", "qas": [ { "question": "「あと4分で着陸」との機内放送が流れたのは、いつか?", "id": "tr-024-06-000", "answers": [ { "text": "15時55分ごろ", "answer_start": 311, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "管制官が方位180度へ旋回するよう求めたのは、該当の航空機がどこから離れるためだったか?", "id": "tr-024-06-001", "answers": [ { "text": "市街地", "answer_start": 143, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "機長がバンク角30度を試みていると答えたのは、何との衝突を避けるためだったの?", "id": "tr-024-06-002", "answers": [ { "text": "障害物", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "15時51分の時点でUAL232便は空港からどれぐらい離れていましたか?", "id": "tr-024-06-003", "answers": [ { "text": "21マイル", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "15時59分時点におけるスー・ゲートウェイ空港の天候は、一部曇りで周囲には積雲があった。視程は15マイル(24キロメートル)、風は360度の方角から風速14ノット(約26キロメートル毎時)だった。進入中、高揚力装置は格納されたままだった。TCA機長は、副操縦士の速度計と機外を見ながら、第1、第3エンジンのスロットルレバーを操作していた。TCA機長は、高揚力装置を使用しない進入の経験から、降下を制御するためには推力を用いる必要があることを知っていた。TCA機長の証言によると、彼は進入中にスロットルを一定にすることはなく、常に調整し続けた。15時59分44秒から8秒間、対地接近警報装置が、降下率が大きいことを警告した。着地までの20秒間、事故機は対気速度が215ノット(時速約398キロメートル)、降下率が毎分1620フィート(約494メートル)で飛行した。ピッチとロールの緩やかな振動が続いていたが、着地寸前に右主翼が急激に下がった。この時、地上100フィート(約30メートル)で、ほぼ同時に機首が下がり始めたと機長は証言している。機体は滑走路22の終端、センターラインのやや左側に着地した。右主翼の翼端が地面に接触し、続いて右エンジンと右主脚が接地した。右エンジンは接地してすぐ爆発炎上した。機体は滑走路右側に横滑りし、右主翼と機体尾部が分離した。残りの機体も火の車のように横転しながら分解、炎上しつつ滑走路17を横切って停止した。裏返しになった胴体中央部は、最初の着地点から3,700フィート(約1キロメートル)離れたトウモロコシ畑で停止した。機体は衝撃と火災で破壊された。", "qas": [ { "question": "滑走路22の終端と胴体中央部が停止したトウモロコシ畑との距離はどれぐらいなの?", "id": "tr-024-07-000", "answers": [ { "text": "3,700フィート", "answer_start": 642, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "機長の証言によると、右主翼が急激に下がるのとほぼ同時に下がり始めたのは、機体のどちらですか?", "id": "tr-024-07-001", "answers": [ { "text": "機首", "answer_start": 449, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "着陸寸前に右翼とともに機首が急激に下がり始めたのは、地上約何メートルですか?", "id": "tr-024-07-002", "answers": [ { "text": "約30メートル", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スー・ゲートウェイ空港は軍民共用空港であり、消防救助隊(AircraftrescueandfirefightingARFF)を担当していたのは州兵だった。15時25分ごろ、消防救助隊に緊急事態の通報が入り、部隊の全車両5台が出動した。同空港は普段DC-10型機が就航しておらず、同型機の緊急事態に必要な装備を有していなかった。15時34分に、同空港は最高レベルの緊急事態警報を発令し、ただちに地域緊急対応計画に従いスーシティ消防部の応援車両も加わったほか、スーシティと相互援助協定を結んでいた近隣自治体からの応援も集まった。この間、当該機は空港まで到達できず空港およそ5マイル(約9キロメートル)南に墜落する可能性があることが、管制塔から救助隊に対して伝えられていた。15時47分、UAL232便は空港に向かっており滑走路31に着陸する見込みとの連絡が消防救助隊長に入った。消防救助隊は直ちに滑走路31に沿って配置についた。しかし15時59分になって、DC-10型機は滑走路31ではなく滑走路22に着陸するだろうと管制塔から消防救助隊に連絡が入った。管制塔は消防救助隊に対し、数台の車両が進入経路沿いにいるので直ちに移動するよう指示をした。車両の再配置が完了するより早くUAL232便は空港に到達し、前述の通り着陸を試みたが接地後に横転して分解・炎上した。搭乗者の一部は、衝撃で機外へ放り出された。機体の停止後は、自力で脱出できた人も多かったが、機内に閉じ込められた人も少なくなかった。", "qas": [ { "question": "UAL232便は何型の航空機でしたか?", "id": "tr-024-08-000", "answers": [ { "text": "DC-10型", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "管制塔はUAL232便がどの滑走路に着陸すると予想しましたか?", "id": "tr-024-08-001", "answers": [ { "text": "滑走路22", "answer_start": 443, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スー・ゲートウェイ空港で最高レベルの緊急事態警報が発令されたのは、いつか?", "id": "tr-024-08-002", "answers": [ { "text": "15時34分", "answer_start": 163, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "UAL232便がすべての準備が整える前に空港に到着したのは、全車両がどの滑走路に配置されていたからか?", "id": "tr-024-08-003", "answers": [ { "text": "滑走路31", "answer_start": 358, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "当該機の墜落後、消防救助隊の全車両は滑走路22と滑走路17の交点に急行した。隊長は素早く機体尾部を調査し、16時01分頃、全隊にトウモロコシ畑の機体中央部へ進むよう指示した。最初に現場に到着した車両は、胴体中央部分に向けて消火剤を散布した。16時04分ごろ、この車両は搭載していた水を使い果たしたが、後続の車両が到着して消火活動が続けられた。火は右主翼部で激しく機体内部に広がり、17時ごろまで火勢が強くなり続けた。墜落から2時間ほど火災を制圧できず、小さい火は夜まで続いた。脱出した乗客は「他の乗客がトウモロコシの茎の間にいそうだ」と消防救助隊に伝えた。トウモロコシは約7フィート(約2メートル)の高さがあり、生存者は後に「高いトウモロコシの茎のため方向がわからなかった」と証言した。地代収入を見込んで空港の土地をトウモロコシ畑としてリースしていたが、このトウモロコシは、被害者の捜索・救助活動を困難にした。救助活動に際しトリアージが実施され、救助された人たちは重傷度に応じて搬送された。34台の救急車と9機のヘリコプターが動員され、救助された人々が地元の病院へ搬送された。警察は空港と病院の間の主要高速道路を封鎖し、緊急車両の通行を優先させた。最初の搬送者は事故後16分で病院へ到着した。現場の空港では、1987年10月に、被害者90人を想定した大規模な災害訓練が実施されており、本事故前月の1989年6月にも小規模な訓練が実施されていた。これらの経験は、現場や負傷者を受け入れた病院での救助活動に生かされた。救助活動は、後にアメリカ連邦航空局(FederalAviationAdministration;FAA)により賞賛されたほどの水準だったが、機内に取り残され呼吸困難で亡くなった人も多かった。", "qas": [ { "question": "消防救助隊がトウモロコシ畑の機体中央部に向かい始めたのは、いつか?", "id": "tr-024-09-000", "answers": [ { "text": "16時01分頃", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "被害者の捜索・救助活動が困難だったのは、何のため?", "id": "tr-024-09-001", "answers": [ { "text": "トウモロコシ", "answer_start": 358, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本事故において役に立った訓練とは、前月のいつ行われたものですか?", "id": "tr-024-09-002", "answers": [ { "text": "1989年6月", "answer_start": 598, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "被害者の救助活動においての障害物となったものは、その高さが約何フィートであったか?", "id": "tr-024-09-003", "answers": [ { "text": "約7フィート", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "搭乗者296人のうち乗員1人と乗客110人が死亡した。死因は35パーセントが煙による窒息で、残りは衝撃による外傷だった。犠牲者の中には、右田・小杉・スティルカップリングの発見者である化学者・ジョン・ケネス・スティルがいた。生存者のうち、乗員6人と乗客41人が重傷を負った。重傷の乗客のうち1人は事故の怪我により31日後に亡くなった。残る乗員4人と乗客121人は軽傷で、無傷の乗客も13人いた。コックピット部分は機体から分離して腰高ほどに潰れていたことから、生存者がいるとは思われず、救助隊も後回しにした。しかし、コックピット内の4人は全員生存していた。残骸の窓から航空機関士の手が出ているのが発見され、全員救助された。コックピットの救助活動にはフォークリフトも投入された。4人のパイロット達はそれぞれ、多数の骨折や打撲を伴う重傷だったが、幸いにも回復し全員乗務に復帰した。客室乗務員も1名が亡くなったが、助かった者は後に全員復職した。", "qas": [ { "question": "死亡した搭乗者の死因として挙げられている二つの項目のうち、より多くのパーセントを占めるのは、何か?", "id": "tr-024-10-000", "answers": [ { "text": "外傷", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "生存者の重傷度のうち、最も多くの人が該当するのは何か?", "id": "tr-024-10-001", "answers": [ { "text": "軽傷", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コックピット内の4人はどうなったか?", "id": "tr-024-10-002", "answers": [ { "text": "全員生存", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "死亡した乗客は何人か?", "id": "tr-024-10-003", "answers": [ { "text": "110人", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アメリカの国家運輸安全委員会(NationalTransportationSafetyBoard;NTSB)を中心に事故調査が行われた。本事故の情報は、まだUAL232便が飛行しているうちにFAAとNTSBに伝わり、直ちに調査チームが編成された。調査官らが現場へ向かう飛行機を待っていたところ、テレビで事故機が横転炎上する様子が放映された。現場への移動中に生存者がいるという情報が入り、調査官は驚いたという。事故機の右主翼は接地後すぐに分離したが、胴体中央部と左主翼はほぼ一体のまま滑走路17を横断した先にあった。機首部は接地後早い段階で分離し、滑走路17を横切る直前の場所に転がった。尾部の大部分は滑走路22、滑走路17そして付近の誘導路上にあった。フライトデータレコーダーは損傷もなく回収に成功した。フライトデータレコーダーは不時着時まで正常に稼働しており、事故時のフライトを含む25時間分のデータが、概ね良好な状態で得られた。フライトデータレコーダーの記録から、第2エンジンが損傷したのは15時16分10秒だと分かった。コックピットボイスレコーダーも、15時26分42秒から33分34秒間の音声を良好な状態で記録していた。スー・ゲートウェイ空港への進入中に事故機の写真が撮影されており、事故調査のため分析された。", "qas": [ { "question": "UAL232便がまだ飛行しているうちに事故の情報について伝えた機関で、事故調査の中心となった機関は何なの?", "id": "tr-024-11-000", "answers": [ { "text": "アメリカの国家運輸安全委員会", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第2エンジンが損傷したのは、いつか?", "id": "tr-024-11-001", "answers": [ { "text": "15時16分10秒", "answer_start": 447, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コックピットボイスレコーダーには何分間の音声が記録されていたか?", "id": "tr-024-11-002", "answers": [ { "text": "33分", "answer_start": 490, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "事故機は機体が分離され、分離された部分はそれぞれ別の場所に置かれていたが、それらはどの滑走路の近くに最も多く置かれていましたか?", "id": "tr-024-11-003", "answers": [ { "text": "滑走路17", "answer_start": 241, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "因州和紙", "paragraphs": [ { "context": "因州和紙(いんしゅうわし)は鳥取県東部(旧因幡国)特産の和紙である。\n旧青谷町と旧佐治村(いずれも現在は鳥取市に編入)が生産地で、特に書道や書画・水墨画に用いる画仙紙(因州画仙紙)の生産量は日本全国の6-7割を占め、日本一である。\nほかにも近年は建材や工芸材料など多用途に用いられている。\n和紙としては日本で初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されたほか、生産地の紙漉きの風景は日本の音風景100選(環境庁)に選ばれている。\nまた、「因州佐治みつまた紙」と「因州青谷こうぞ紙」は鳥取県の無形文化財に指定されている。", "qas": [ { "question": "因州和紙は現在のどの地域の特産品ですか?", "id": "tr-025-00-000", "answers": [ { "text": "鳥取県東部", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "画仙紙の生産量が日本一の県はどこですか?", "id": "tr-025-00-001", "answers": [ { "text": "鳥取県", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "因州和紙は、和紙として日本初の何に指定されましたか?", "id": "tr-025-00-002", "answers": [ { "text": "経済産業大臣指定伝統的工芸品", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "因州和紙の生産地の紙漉きの風景が選ばれているものとは何?", "id": "tr-025-00-003", "answers": [ { "text": "日本の音風景100選", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "因幡国での和紙生産は古く、8世紀前半(奈良時代)のものが確認されており、これは日本で最古期のものである。\n江戸時代には藩の輸出品になり、保護策がとられた。\nしかし、現在のように全国的な知名度を確立したのは第二次世界大戦後のことで、西洋紙が普及にともなって全国的に和紙の生産が急速に衰退する中で、新しいタイプの和紙の生産を繰り返してきた結果、全国的なシェアを獲得するに至った。", "qas": [ { "question": "因州和紙の知名度が全国的に広まったのはいつですか?", "id": "tr-025-01-000", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦後", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "因幡国での最古の和紙生産が確認されているのは、何時代のものですか?", "id": "tr-025-01-001", "answers": [ { "text": "奈良時代", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第二次世界大戦後に和紙に替わって普及したものは何ですか?", "id": "tr-025-01-002", "answers": [ { "text": "西洋紙", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "因州和紙が藩の輸出品になったのはいつなの?", "id": "tr-025-01-003", "answers": [ { "text": "江戸時代", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "因幡国の和紙の起源は不詳だが、現存する最古の因幡国産の和紙とされるのは正倉院文書の「因幡国屯倉計帳断簡」(721年-養老5年)である。\nこれは色が悪く、厚みも不均等なものだったために「粗悪」と評価されている。\nこれ以降にもコウゾから漉かれた因幡国産の和紙(『因幡国史牒』(765年-天平神護1年))が収蔵されており、因幡国の印が押されている。\nこれは繊維の叩解がじゅうぶんになされており721年のものよりも品質が向上していた。", "qas": [ { "question": "「因幡国屯倉計帳断簡」で使用された和紙はどのように評価されたの?", "id": "tr-025-02-000", "answers": [ { "text": "「粗悪」", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『因幡国史牒』と「因幡国屯倉計帳断簡」はどちらが早く作られましたか?", "id": "tr-025-02-001", "answers": [ { "text": "「因幡国屯倉計帳断簡」", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「因幡国屯倉計帳断簡」が保管されていた場所はどこですか?", "id": "tr-025-02-002", "answers": [ { "text": "正倉院", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『因幡国史牒』と「因幡国屯倉計帳断簡」で使用された和紙はどちらの品質が良いですか?", "id": "tr-025-02-003", "answers": [ { "text": "『因幡国史牒』", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "平安時代に下ると、延喜式(967年)に、因幡国から朝廷へ和紙70斤が献上された記録がある。\nこれは当時としては平均的な紙の産地であったことを示している。\nこれ以降、因幡の和紙に関する史料・文献は発見されておらず、詳細は不明である。\n次に和紙に関する史料が登場するのは、戦国時代後期の亀井氏に関連する文書(次節)になる。\nこれらの古代の紙と、現在の因州和紙の産地である青谷・佐治を関連づける史料はない。\n青谷・佐治とも、人里が形成されるようになったのは古代よりもずっと後のことと考えられており、これらの地域での紙漉きが始まったのは戦国期より以前には遡らないだろうと考えられている。\n『和紙文化史年表』によれば、青谷や佐治の各地区のさまざまな口伝や古文書は現地での製紙業は江戸時代初期から中期に始まったと伝えている。\nただし、青谷より東の千代川中流域には古代から国府があり、南へ峠を越えた播磨国(現在の兵庫県)の佐用や姫路では紙の生産が行われていたことから、具体的な史料による裏付けはないが、中世には千代川流域で紙漉きが行われていたのではないかと推測するものもいる。", "qas": [ { "question": "平安時代の次に、和紙に関する史料が登場したのはいつですか?", "id": "tr-025-03-000", "answers": [ { "text": "戦国時代後期", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "因幡国が平安時代の平均的な紙の生産地であったことを示したのは、朝廷に何を献上したことから分かりますか?", "id": "tr-025-03-001", "answers": [ { "text": "和紙70斤", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "因幡国の南の峠を越えると何の国がありますか?", "id": "tr-025-03-002", "answers": [ { "text": "播磨国", "answer_start": 392, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中世で紙漉きが行われていたと推測された場所はどこ?", "id": "tr-025-03-003", "answers": [ { "text": "千代川流域", "answer_start": 448, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "戦国時代末期から江戸時代初期にかけて因幡国を支配した亀井茲矩(鹿野藩初代藩主)は、青谷の夏泊港を拓き、朱印船をたてて因州和紙の輸出を行った。\nまた、亀井氏は和紙の原料であるコウゾやガンピの保護策をとった。\nこれは因幡国が諸国とくらべて平野部が少なく、山間地で栽培・生産できる商品が重要であったからである。\n亀井氏はまもなく津和野藩へ転封となるが、かわって因幡全体を治めた鳥取藩でも和紙の保護・奨励策をとり、紙座を設けて需給を統制し、藩の御用紙や庶民の使う紙としても普及した。\n江戸期の逸話として、美濃国から青谷へ紙漉きの技法が伝えられたとか、佐治村の住民が播磨国で和紙の製法を教わったという伝承もある。\n古文書の形で明確に佐治谷での製紙が記録されているものは寛永年間(1623-1643)のものが最古だが、実際には少なくともそれより数百年以上前から紙漉きが行われていたと考えられている。", "qas": [ { "question": "因州和紙の輸出を行った人物は誰?", "id": "tr-025-04-000", "answers": [ { "text": "亀井茲矩", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "因州和紙の輸出に使った船の名前は何?", "id": "tr-025-04-001", "answers": [ { "text": "朱印船", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "亀井氏は因幡国の次にどこへ移りましたか?", "id": "tr-025-04-002", "answers": [ { "text": "津和野藩", "answer_start": 161, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "鳥取藩が紙の需給をコントロールするために設けたものは何?", "id": "tr-025-04-003", "answers": [ { "text": "紙座", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "戦国期に亀井氏に関する文書で登場する最古のものは「杉原紙」という和紙である。\n杉原紙は当時の武家階級で一般的に使用されていたコウゾを原料とする厚手の紙で、播磨国の杉原に起源を持つとされる。\n詳細は不詳だが、亀井氏の文書は因幡国でもこの杉原紙がつくられていたことが記録されている。\n次に伝来したのが「階田紙」の製法で、これは播磨国佐用の階田(皆田、甲斐田、海田などと表記される場合もある)に起源を持ち、コウゾから作られる厚手の紙だった。\n戦国時代から江戸時代初期の青谷では、階田紙が作られるようになっていたが、これらは農家の副業として作られるものであり、良質な紙といえるものではなかった。\nこのあと江戸初期に青谷へ「美濃紙」の製法が伝来した。\n伝来に関する伝承にはいくつものバリエーションがあり定まらないが、大筋では次のようになる。\n美濃国(現在の岐阜県)から流浪してきた者が青谷で行き倒れになり、これを村人が助けた。\n助けられた美濃の者は、美濃国特有の紙漉き技法(美濃紙の製法)を教えた。\nこの者は後に美濃国へ帰ると、門外不出の美濃紙の製法を外に漏らした咎で死罪となった。\nこの伝承が史実であるかどうかはわからない。\n同時期の佐治には、村人が美濃へ赴いて美濃紙の製法を習得して帰り、村で美濃紙の紙漉きを広めたという口伝がある。\nいずれにせよ、この時期を境に、因幡国(青谷・佐治)では美濃紙づくりが始まった。", "qas": [ { "question": "杉原紙の次に伝来したのは、何の製法ですか?", "id": "tr-025-05-000", "answers": [ { "text": "「階田紙」", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "杉原紙の次の次に伝来したのは、何の製法ですか?", "id": "tr-025-05-001", "answers": [ { "text": "「美濃紙」", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "因幡国で美濃紙づくりがスタートしたのはいつからですか?", "id": "tr-025-05-002", "answers": [ { "text": "江戸初期", "answer_start": 298, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「杉原紙」と「階田紙」の共通の原料は何ですか?", "id": "tr-025-05-003", "answers": [ { "text": "コウゾ", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "明治期になって他県との技術の交流が行われるようになると、漂白技術の導入や紙漉き用具の改良が進んだ。\nこれらの新技術を導入して生産方法が合理化されて生産量が増え、最盛期の明治中期には1300以上の工場が稼働した。\n生産された和紙には様々な用途があったが、コウゾを原料とする傘紙、包装や障子に用いる美濃紙などが作られた。\nミツマタを使った和紙づくりが本格化するのは明治期のことである。\nミツマタはもともと観賞用として栽培されていたが、和紙の主要な原料であったガンピは人工的な栽培が困難なことから、江戸時代後期から栽培に適したミツマタのほか、補助的に藁や麻、桑なども和紙の原料として用いる手法が始まっていた。\nまた、鳥取県もミツマタの生産を奨励し、県内の他地区でもミツマタの栽培が行われた。", "qas": [ { "question": "明治中期の鳥取県ではいくつの紙生産の工場がありましたか?", "id": "tr-025-06-000", "answers": [ { "text": "1300以上", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミツマタを原料として用いた和紙づくりはいつから始まっていましたか?", "id": "tr-025-06-001", "answers": [ { "text": "江戸時代後期", "answer_start": 246, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "明治期から本格的に生産が始まったのは、何という植物を使った和紙づくりですか?", "id": "tr-025-06-002", "answers": [ { "text": "ミツマタ", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "和紙の種類の中で包装や障子に用いていたのは何ですか?", "id": "tr-025-06-003", "answers": [ { "text": "美濃紙", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "佐治村では天明期ごろ(1780-1790)にミツマタの観賞用の栽培が始まったが、和紙の材料に用いられるようになったのは天保期ごろ(1830-1840)である。\n明治期にはミツマタだけを原料とする和紙生産が試みられ、「佐治川名産筆きれず」の商品名で全国へ販路を広げることに成功した。\nミツマタだけで漉かれた「筆きれず」の半紙は、筆の運びが滑らかで墨がかすれず長持ちすることから、毛筆による書道・書画に用いられるようになった。\nこの「筆きれず(因州筆切れず)」は後に因州和紙の代名詞となった。\n和紙生産は佐治村の主要な産業のひとつになり、佐治村の和紙製造会社の経営者で佐治村長の上田禮之は、因州和紙や全国の和紙製造業団体の会長を歴任した。", "qas": [ { "question": "「筆きれず」の原料は何?", "id": "tr-025-07-000", "answers": [ { "text": "ミツマタ", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「筆きれず」の商品名は何?", "id": "tr-025-07-001", "answers": [ { "text": "「佐治川名産筆きれず」", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "佐治村の和紙製造会社の経営者でありながら、村の長を務めていた人物の名は何ですか?", "id": "tr-025-07-002", "answers": [ { "text": "上田禮之", "answer_start": 287, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミツマタが和紙の材料として使用されるようになった時期はいつですか?", "id": "tr-025-07-003", "answers": [ { "text": "天保期ごろ", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "青谷では明治に入るとコウゾを原料とする和紙作りがすすめられた。\n明治末期に山陰本線が青谷付近にも開通して青谷駅が開業したが、青谷と浜村の間では長尾鼻の溶岩台地を穿ってトンネルが掘られ、その工事によって大量の湧水が出るようになった。\nやがてこの湧水を利用して製紙を行う集落(赤尾谷地区)が形成された。\n村、製紙家、鉄道会社との間では利水権をめぐる紛争が裁判に発展したが、最終的には鉄道省の所有と判決が出て、水は鉄道省から製紙業者へ分与するかたちになった。\n赤尾谷では匿名組合を設立して大きなボイラーを備えた広い共同乾燥施設を建て、効率的な増産が行われた。\nここでは太平洋戦争後しばらくまで、B4サイズの複写用紙や事務用紙を生産していた。\nそのほか、青谷町では昭和初期に柳宗悦の影響を受けた民芸紙の生産が興り、草木染めによる染色紙が作られるようになった。", "qas": [ { "question": "トンネル工事によって掘り起こされた大量の湧水は、どこが所有しましたか?", "id": "tr-025-08-000", "answers": [ { "text": "鉄道省", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トンネル工事の際に出た大量の湧水を利用して、製紙を行った集落はどこに形成されましたか?", "id": "tr-025-08-001", "answers": [ { "text": "赤尾谷地区", "answer_start": 136, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "製紙業者はどこから湧水を分けてもらって生産活動をしていましたか?", "id": "tr-025-08-002", "answers": [ { "text": "鉄道省", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "青谷町で染色紙が作られるきっかけとなった人物は誰ですか?", "id": "tr-025-08-003", "answers": [ { "text": "柳宗悦", "answer_start": 333, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "かつては日用の様々な部分に和紙が用いられており、印刷や複写紙にも和紙が用いられていた。\n因州和紙の産地でも明治期には生産する工場が1300を数え、大正期までピークが続いた。\nやがて市民生活にも西洋化が浸透するとともに、和紙の原料となるコウゾやミツマタの価格が上がり、手作業で生産される和紙よりも、パルプを原料として工場生産される西洋紙の使用が普及するようになった。\n大正時代には日本全体では西洋紙の生産量が和紙を上回るに至った。\n太平洋戦争期には、因州産のコウゾ紙が気球爆弾の原材料にも用いられた。", "qas": [ { "question": "和紙の生産量が西洋紙の生産量を下回ってしまったのはいつですか?", "id": "tr-025-09-000", "answers": [ { "text": "大正時代", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "工場生産された西洋紙の原料は何だったの?", "id": "tr-025-09-001", "answers": [ { "text": "パルプ", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "気球爆弾の原材料になった紙とは?", "id": "tr-025-09-002", "answers": [ { "text": "コウゾ紙", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "因州和紙の生産ピークが終わったのは何時代ですか?", "id": "tr-025-09-003", "answers": [ { "text": "大正時代", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "戦中や戦後すぐは物資難から和紙も大きな需要があったが、まもなく西洋式の生活スタイルが一般的になり、和紙や障子紙が日用品から姿を消すとともに、事務用の需要もなくなり、和紙製造業は壊滅した。\nそこで因州和紙の生産界では、昭和30年代(1950年代半ばから1960年代半ば)に書道や工芸に用いる画仙紙や工芸紙などの生産をはじめた。\n原材料の一部にパルプを採用したり、製造過程の一部を機械化して機械漉きの和紙製法を導入するなどの改革も行われた。\nこの頃、太平洋戦争後に進駐軍によって廃止されていた学校での書道教育が再開され、毛筆の書に適した因州和紙の半紙は人気を博した。\n機械漉きの安価な学生用半紙と手漉きの高級画仙紙というラインナップを揃えた因州和紙は人気となり、全国的に高い知名度とシェアを得た。\nとはいえ、佐治村では、主要産業としての和紙作りは衰退し、もっぱら伝統工芸として存続するようになった。\n青谷町でも同様で、最盛期に1300を数えた生産業者も、現在は20軒から30軒ほどが残るのみである。\nそれぞれ鳥取県の無形文化財に指定されたほか、1975年(昭和50年)には因州和紙が伝統的工芸品に認定された。\nこれは和紙としては日本全国で初めてのものだった。", "qas": [ { "question": "太平洋戦争後に因州和紙の半紙が知名度を上げたのは、学校で何が再開されたからですか?", "id": "tr-025-10-000", "answers": [ { "text": "書道教育", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "佐治村や青谷町では、現在はどのような形で和紙づくりが存続していますか?", "id": "tr-025-10-001", "answers": [ { "text": "伝統工芸", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "近年は、建材(内外装材)、照明器具のシェードや民芸品に用いられる立体紙(立体漉き)や、光触媒技術を取り入れて有害有機物を分解する空気清浄機能、カニ由来のキチン質を利用して熱湯に耐える和紙など、機能性和紙の開発など新技術を導入している。\n因州和紙の代表的な使用例としては、浅草寺雷門の大提灯や、2002年に完成した新首相官邸の壁紙、鳥取県知事公邸の照明などがあげられる。\n海外にも輸出され、ヨーロッパでは版画や本の装丁に利用されている。\n先端分野では、軽量で丈夫な立体漉きの技術を活用し、宇宙探査車両のタイヤを因州和紙で製造する技術が研究されている。", "qas": [ { "question": "浅草寺雷門の大提灯に使用されている和紙は何ですか?", "id": "tr-025-11-000", "answers": [ { "text": "因州和紙", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "因州和紙を版画や本の装丁に利用している地域はどこですか?", "id": "tr-025-11-001", "answers": [ { "text": "ヨーロッパ", "answer_start": 194, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "先端分野では、宇宙探査車両のどの部位を因州和紙で造ろうと研究が進んでいますか?", "id": "tr-025-11-002", "answers": [ { "text": "タイヤ", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浅草寺の大提灯がある門を何といいますか?", "id": "tr-025-11-003", "answers": [ { "text": "雷門", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "因州和紙の紙漉きは、1996年(平成8年)に環境庁(現在は環境省)による日本の音風景100選に選ばれた。\n「因州和紙の紙すき」は、佐治村や青谷町の民家で行われている紙漉きの工程(流し漉き)で、水に溶かしたミツマタの繊維を漉きあげる際の「ちゃっぽん、ちゃっぽん」という音が伝統的な風物詩として評価されたものである。", "qas": [ { "question": "日本の音風景100選に選ばれた因州和紙の紙漉きの音は、どのように表現されていますか?", "id": "tr-025-12-000", "answers": [ { "text": "「ちゃっぽん、ちゃっぽん」", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "因州和紙の紙漉きが日本の音風景100選に選ばれた年はいつ?", "id": "tr-025-12-001", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "鳥取市を流れる千代川の支流、砂見川の上流に位置する旧岩坪村(2014年現在は鳥取市岩坪地区)は、佐治地区と青谷地区の中間にあり、少なくとも元禄時代には紙漉きが行われていた。\n岩坪地区は川の源流に近い山間部の小盆地で、集落の中心に近い比高数十メートルの山を越えると別の川の源流の高原地帯が広がっている。\nこれらの地域は紙の原料となるコウゾ、ミツマタの栽培に適し、きれいな水にも恵まれていたことから、紙漉きが盛んになった。\n明治時代には岩坪地区で生産される階田紙が高い評価を得て、「岩坪階田」や「岩坪」の呼び名で流通した。\n岩坪地域では、紙漉きは特に冬期の女性の重要な仕事とされ、紙漉きができなければ一人前として認められず嫁にも行けない、とさえ言われていた。\nこの女性たちが一人で紙漉きの過酷な作業を行うために歌った唄として「紙漉き唄」が伝承されている。\nこれが踊りとして発展したのが「紙漉き踊り」である。\n元来は悲壮感のある労働歌だったが、現代では修正の上、保存会によって伝統芸能として伝承されている。", "qas": [ { "question": "「紙漉き唄」はその後何に発展したの?", "id": "tr-025-13-000", "answers": [ { "text": "「紙漉き踊り」", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「紙漉き唄」が伝承されている地域はどこ?", "id": "tr-025-13-001", "answers": [ { "text": "岩坪地域", "answer_start": 260, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ライアン・ゴズリング", "paragraphs": [ { "context": "ライアン・トーマス・ゴズリングは、カナダの俳優・ミュージシャンである。ディズニー・チャンネルで放送された『ミッキーマウス・クラブ』で子役としてキャリアを開始させ、『アー・ユー・アフレイド・オブ・ザ・ダーク?』や『ミステリー・グースバンプス』など子ども向け娯楽番組にいくつか出演した。映画初主演作はユダヤ人のネオナチを演じた『ザ・ビリーヴァー』で、その後も『完全犯罪クラブ』・『スローター・ルール』・『16歳の合衆国』など、自主映画数本に出演した。\n\nゴズリングが注目を集めるようになったきっかけは、商業的に成功したロマンティック・ドラマ『きみに読む物語』への出演である。薬物中毒の教師を演じた2006年の映画『ハーフネルソン』ではアカデミー主演男優賞にノミネートされ、社会に上手くなじめない孤独な主人公を演じた『ラースと、その彼女』ではゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされた。また3年後・2010年に公開された『ブルーバレンタイン』では、2度目のゴールデングローブ賞ノミネートを受けた。2011年には、ロマンティック・コメディ映画『ラブ・アゲイン』、政治ドラマ『スーパー・チューズデー〜正義を売った日〜』、アクション・スリラー『ドライヴ』に出演し、前2作で第69回ゴールデングローブ賞の主演男優賞2部門にノミネートされた。監督デビュー作となる『ロスト・リバー』は2014年に公開されたが酷評された。映画『マネー・ショート華麗なる大逆転』、『ラ・ラ・ランド』での演技は好評を得て、後者ではゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を獲得したほか、2度目のオスカーノミネートを受けた。", "qas": [ { "question": "『ハーフネルソン』と『ミッキーマウス・クラブ』と、どっちの方がもっとあとで上映された?", "id": "tr-026-00-000", "answers": [ { "text": "『ハーフネルソン』", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ゴズリングはどんな作品を通して注目を集めるようになったか。", "id": "tr-026-00-001", "answers": [ { "text": "『きみに読む物語』", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴズリングは2010年に公開された『ブルーバレンタイン』で何度目のゴールデングローブ賞ノミネートを受けたか。", "id": "tr-026-00-002", "answers": [ { "text": "2度目", "answer_start": 435, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ドライヴ』のジャンルは何ですか。", "id": "tr-026-00-003", "answers": [ { "text": "アクション・スリラー", "answer_start": 519, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ゴズリングはオンタリオ州ロンドンで、製紙工場の巡回セールスマンだった父トーマス・レイ・ゴズリングと、秘書でその後高校教師も務めた母ドナの間に生まれた。父トーマスはイングランド系・スコットランド系・フランス系カナダ人のルーツを持っており、ゴズリングの高祖父に当たるジョージ・エドワード・ゴズリングは、イングランド・ロンドンのパディントン出身だった。ゴズリングの両親は末日聖徒イエス・キリスト教会、いわゆるモルモン教の信徒で、信仰は両親の生涯に多面的な影響を与えていると語っている。一方で、モルモン教徒として育ったことの影響は認めつつも、ゴズリング自身は「自分を[モルモン教徒と]考えることはできない」と発言している。ゴズリングは父親の仕事の関係で引っ越しを繰り返しており、オンタリオ州のコーンウォールやバーリントンで暮らした経験がある。両親は彼が13歳の時に離婚し、ゴズリングは姉マンディと共に母親に引き取られ、他に女性の家族しかいない状況は彼に「女の子のように物事を考えさせた」と回想している。", "qas": [ { "question": "ゴズリングはどの州で生まれましたか。", "id": "tr-026-01-000", "answers": [ { "text": "オンタリオ州", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴズリングの両親は彼が何歳のときに離婚しましたか。", "id": "tr-026-01-001", "answers": [ { "text": "13歳", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゴズリングとマンディと、誰が年上なの?", "id": "tr-026-01-002", "answers": [ { "text": "マンディ", "answer_start": 389, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ゴズリングはグラッドストーン・パブリック・スクール、コーンウォール高等職業学校、レスター・B・ピアソン高校に通った。子どもの頃、ゴズリングは『ディック・トレイシー』を観て俳優になろうと志した。ゴズリングはアクション映画『ランボー』に強く影響され、ステーキナイフを学校に持ち込んで、休み時間に他の子どもたちへ投げ付けたこともある。この頃観ていた映画はいわゆる大作がほとんどで、自主映画や芸術映画の類は無かったという。彼は子どもでいることが「大嫌い」で、小学校ではいじめに遭っており、「14歳か15歳になるまで」友人がひとりもできなかった。彼は失読症で、注意欠陥・多動性障害との診断を受け、メチルフェニデートを処方され特殊学級に入れられたこともあった。この後、彼は仕事を辞めた母親から、1年間ホームスクーリングを受けた。ゴズリングは、この経験で「絶対に自分を見失ったりしないという自主性のような感覚」を得られたと語っている。彼は、パフォーマーとして活動していた姉に誘われ、幼少期から大勢の前で演技を行っていた。ゴズリング姉弟は結婚式で一緒に歌ったこともあるほか、彼はおじの組んだエルヴィス・プレスリーのトリビュートバンド「エルヴィス・ペリー」として演奏したり、地元のバレエ団に在籍したりしていた。演技はゴズリングにとって周りから賞賛される唯一の事柄で、これを通じて彼は自信を付けた。また、子どもの頃、カナダのアクセントを「タフ」と感じられなかったため、ゴズリングは特異なアクセントを使って喋るようになった。この時、彼はマーロン・ブランドの喋り方を参考にした。ゴズリングは17歳で高校を中退し、演技の仕事へ打ち込むようになった。", "qas": [ { "question": "子どもの頃、ゴズリングは何を観て俳優になろうと決心しましたか。", "id": "tr-026-02-000", "answers": [ { "text": "『ディック・トレイシー』", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴズリングが高校を中退し、演技の仕事へ打ち込むようになったのは彼が何歳の時のことですか。", "id": "tr-026-02-001", "answers": [ { "text": "17歳", "answer_start": 683, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カナダのアクセントを「タフ」と感じたゴズリングは特異なアクセントを使って喋るために誰の喋り方を参考にしましたか。", "id": "tr-026-02-002", "answers": [ { "text": "マーロン・ブランド", "answer_start": 657, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゴズリングが強い影響を受けたアクション映画のタイトルは何ですか。", "id": "tr-026-02-003", "answers": [ { "text": "『ランボー』", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1993年、12歳のゴズリングはモントリオールに向かい、ディズニー・チャンネルの『ミッキーマウス・クラブ』リバイバルに向けた公開オーディションに参加した。ゴズリングはマウスケティアーとして2年間の契約を行い、フロリダ州オーランドへ移住した。番組では他の子の方が才能があると考えられ、なかなか出演機会に恵まれなかったが、自身では人生最良の2年間だったと振り返っている。この時の共演者には、ジャスティン・ティンバーレイク、ブリトニー・スピアーズ、クリスティーナ・アギレラ、ケリー・ラッセルなどがいる。ティンバーレイクとは特に親しい友人となり、番組の2年目には、6ヶ月同居生活を送っていた。また、母親がカナダへ季節労働に帰った後は、ティンバーレイクの母がゴズリングの法的後見人となった。1995年にこの番組が打ち切られた後ゴズリングはカナダに戻り、『アー・ユー・アフレイド・オブ・ザ・ダーク?』や『ミステリー・グースバンプス』などの子ども向け娯楽番組に出演し、1997年から1998年にかけて放送された『ブレイカー・ハイ』では主役のショーン・ハンロンを演じた。18歳の時、ゴズリングはニュージーランドへ向かい、FoxKidsの冒険シリーズ『ヤング・ヘラクレス』でタイトルロールを演じた。2002年に収録された『ザ・バンクーバー・サン』のインタビューでは、当初番組への出演を楽しんでいたものの、シリーズを必要以上に気にするようになり、仕事が全く楽しくなくなってしまったと語っている。彼はキャラクターと「語ったり」造形を探ったりすることにより時間をかけたり、様々な役柄を演じたりしたいと考えるようになり、テレビ番組の仕事はこれ以上引き受けず、映画俳優になることを決めた。", "qas": [ { "question": "ゴズリングは何年にディズニー・チャンネルの『ミッキーマウス・クラブ』リバイバルに向けた公開オーディションに参加したか。", "id": "tr-026-03-000", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ブレイカー・ハイ』は1997年から何年まで放送されましたか。", "id": "tr-026-03-001", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 434, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴズリングが『ブレイカー・ハイ』で演じた役は何?", "id": "tr-026-03-002", "answers": [ { "text": "ショーン・ハンロン", "answer_start": 463, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "19歳の時、ゴズリングは「真面目な演技」へ軸足を移すことを決意した。エージェントに辞められ、子ども向けテレビ番組のイメージにも苦しんだため、当初は安定した仕事を得られなかった。アメフトを題材にしたドラマ映画『タイタンズを忘れない』で助演した後、ゴズリングは2001年の映画『ザ・ビリーヴァー』で、若いユダヤ人のネオナチ役として主演した。監督のヘンリー・ビーンはゴズリングを配役したことについて、モルモン教徒として育てられた経験が、ユダヤ教徒の孤立を理解する助けになると考えたためと明かしている。『ロサンゼルス・タイムズ』紙のケヴィン・トーマスは、「興奮させ、恐ろしいほど圧倒的な」演技だと賞賛したが、『バラエティ』誌のトッド・マッカーシーは、ゴズリングの演技は「極めて頑強で、これ以上うまく演じることはほとんどできないだろう」と評した。映画はサンダンス映画祭でグランプリを獲得し、後にゴズリングは「今のキャリアを包装して自分にプレゼントしてくれたような映画」だったと語っている。作品の内容は議論が残るものだったため、全国劇場公開に必要な金銭的支援を受けるのは難しく、映画は代わりにショウタイムでテレビ放送された。映画は商業的に失敗し、150万ドルの製作費に対し、わずか416,925ドルの興行収入しか得られなかった。", "qas": [ { "question": "2001年の映画『ザ・ビリーヴァー』の製作費はいくらでしたか。", "id": "tr-026-04-000", "answers": [ { "text": "150万ドル", "answer_start": 517, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2001年の映画『ザ・ビリーヴァー』の興行収入はいくらでしたか。", "id": "tr-026-04-001", "answers": [ { "text": "416,925ドル", "answer_start": 534, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "映画『ザ・ビリーヴァー』でのゴズリングの演技に対して、「興奮させ、恐ろしいほど圧倒的な」演技だと評価した人は誰ですか。", "id": "tr-026-04-002", "answers": [ { "text": "ケヴィン・トーマス", "answer_start": 262, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "映画『ザ・ビリーヴァー』でのゴズリングの演技に対して、「極めて頑強で、これ以上うまく演じることはほとんどできないだろう」と評価した人はだれですか。", "id": "tr-026-04-003", "answers": [ { "text": "トッド・マッカーシー", "answer_start": 309, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ゴズリングは、2002年には、サイコスリラー映画『完全犯罪クラブ』に出演してサンドラ・ブロックやマイケル・ピットと共演し、ピットと共に完全犯罪を企てる高校生を演じた。『エンターテインメント・ウィークリー』のリサ・シュワーズバウムは、「こんなくず[役]でも並外れた才能」だと評したが、『バラエティ』誌のトッド・マッカーシーは、「たくましくてカリスマ的な」若い俳優たちが「シナリオに裏切られた」ように感じたとした。映画は商業的に小規模な成功を収め、製作費5000万ドルに対し、世界中で5671万ドルの興行収入を得た。同じ年には『スローター・ルール』に出演してデヴィッド・モースと共演し、モンタナ州郊外に住むアメフト選手の高校生と、厄介なコーチとの関係を演じた。ゴズリングは、モースとの共演が自身を「より優れた役者」にしたと語っている。『ニューヨーク・タイムズ』紙のスティーヴン・ホールデンは、ゴズリングについて「若かりし日のマット・ディロンを彷彿とさせるような未熟さと強烈さ」を持つ「とてつもない逸材」と述べ、『ロサンゼルス・タイムズ』紙のマノーラ・ダージスは彼の「未熟な才能」に説き伏せられたと述べた。映画はアメリカ合衆国の映画館3館のみで公開され、13,411ドルの興行収入を得た。", "qas": [ { "question": "ゴズリングは何年に『スローター・ルール』に出演しましたか。", "id": "tr-026-05-000", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『完全犯罪クラブ』の製作費はいくらだったか。", "id": "tr-026-05-001", "answers": [ { "text": "5000万ドル", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『完全犯罪クラブ』の興行収入はいくらだったか。", "id": "tr-026-05-002", "answers": [ { "text": "5671万ドル", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『スローター・ルール』の興行収入はいくらだったか。", "id": "tr-026-05-003", "answers": [ { "text": "13,411ドル", "answer_start": 524, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2003年、ゴズリングは『16歳の合衆国』に出演し、障害を持つ男児を殺した罪で服役させられるティーンエイジャーを演じた。彼は、「全編を通して感情的に支離滅裂な」キャラクターを演じる機会はあまりないので、役に引きつけられたと語っている。『シカゴ・サンタイムズ』紙のロジャー・イーバートは、「才能ある役者のライアン・ゴズリングは、リーランド[=ゴズリングの演じた役名]とできることは何でもやっているが、キャラクターは人生からではなく、作家の自尊心から出来上がっているものだ」と評した。また『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは、「彼はリーランドをありきたりの筋だらけのところから救おうと苦労した」と述べた。『バラエティ』のデイヴィッド・ルーニーは、「[彼の]一本調子で完全に動揺した演技には、出世作『ザ・ビリーヴァー』のような魅力的な側面などひとつも無い」と評した。", "qas": [ { "question": "ゴズリングは何年に『16歳の合衆国』に出演したか。", "id": "tr-026-06-000", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『16歳の合衆国』でゴズリングは配役は何でしたか。", "id": "tr-026-06-001", "answers": [ { "text": "ティーンエイジャー", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ゴズリングが大きく注目されるようになったのは、同じくカナダ出身のレイチェル・マクアダムスと共演したロマンティック・ドラマ映画『きみに読む物語』後のことである。作品はニコラス・スパークスの同名作品を映像化したもので、ニック・カサヴェテスが監督した。ゴズリングはノア・カルフーン役を演じ、役について「時代を超えて—1940年から1946年まで—役を演じる機会を得たけれど、それはとても難解で物を作るような作業だった」と述べている。ゴズリングは役柄に「静かな強さ」を吹き込もうとしたほか、共演者のサム・シェパードが『天国の日々』で見せた演技に刺激を受けた。撮影は2002年後半から2003年初頭にかけてサウスカロライナ州チャールストンで行われた。この映画撮影後の2005年にゴズリングとマクアダムスは恋仲となったが、セットでは互いにいがみ合うような関係で交際に発展するとは思えなかったという。ゴズリングはこの時を振り返り、「互いにひどくけしかけ合うような関係だった。恋物語を撮っているのに、共演者と全く仲良くやれないなんて奇妙な経験だったよ」と述べている。撮影中、マクアダムスがあまり協力的でないと感じたゴズリングは、カサヴェテス監督に「自分がカメラに写らないショットでは別人を使ってほしい」と頼み込んだ。", "qas": [ { "question": "レイチェル・マクアダムスはどこの出身ですか。", "id": "tr-026-07-000", "answers": [ { "text": "カナダ", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『きみに読む物語』のジャンルは何?", "id": "tr-026-07-001", "answers": [ { "text": "ロマンティック・ドラマ", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『きみに読む物語』の監督は誰でしたか。", "id": "tr-026-07-002", "answers": [ { "text": "ニック・カサヴェテス", "answer_start": 107, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『きみに読む物語』でゴズリングが演じたキャラクタは何だった?", "id": "tr-026-07-003", "answers": [ { "text": "ノア・カルフーン役", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ゴズリングの次の出演作は2006年の映画『ハーフネルソン』で、若い学生と絆を作る、薬物中毒の中学教師を演じた。役作りのため、ゴズリングは撮影の1ヶ月前にニューヨークへ転居した。彼はブルックリンの小さなアパートに住み、8年生の教師をシャドウイングする生活を行った。『ロサンゼルス・タイムズ』のケネス・テュランは、「催眠術のような演技で、[中略]人物に関する深い理解のようなものを見せており、物に出来る役者はほとんどいない」と評した。『サンフランシスコ・クロニクル』のルース・ステインはマーロン・ブランドとゴズリングを比較し、更に「偉大な演技に関心がある人で、彼の演技を見落とそうとする人などいない」と述べた。ロジャー・イーバートは、「(ゴズリングの演技は)現代映画で働く最も素晴らしい俳優のひとりだと証明した」と評した。この映画により、ゴズリングは史上7番目の若さ(当時)でアカデミー主演男優賞にノミネートされた。2007年には映画芸術科学アカデミーの会員に招待された。", "qas": [ { "question": "ゴズリングはどの映画で薬物中毒の中学教師を演じましたか。", "id": "tr-026-08-000", "answers": [ { "text": "『ハーフネルソン』", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2010年、ゴズリングはミシェル・ウィリアムズと共演し、デレク・シアンフランスの監督デビュー作『ブルーバレンタイン』に出演した。映画は低予算かつ主に即興劇で作られ、ゴズリングは「自分自身で映画を撮ってるんだぞ、と思い出させなくちゃいけないんだ」と語った。『サンフランシスコ・クロニクル』のミック・ラサルは、ゴズリングが「観客へ世間への超自然的な理解を届ける」と評した。『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは、ゴズリングが「歳を取って、疲れ切り絶望的なディーンとしてはもっともらしいが、若いディーンとしてはそうでもないかもしれない」と述べた。『エンターテインメント・ウィークリー』のオーウェン・グレイバーマンは、「辛辣な労働階級の新しがり屋としてディーン役を演じたが、彼の怒りが爆発した時には、その演技は力強いものとなる」と述べた。一方で『ボストン・グローブ』紙のウェスリー・モリスは、彼の演技を「間違った新しがり屋」の一例と評した。ゴズリングはこの作品でゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされた。\n\n2010年には、実話を基にしたミステリードラマ映画『幸せの行方...』にも出演し、キルスティン・ダンストと共演した。ゴズリングの役はニューヨークの不動産王ロバート・ダーストを基にしたもので、ダンスト演じる妻の失踪に嫌疑を掛けられる。ゴズリングは撮影について「陰鬱な体験」だったと語り、映画の宣伝は一切引き受けなかった。映画を誇りに思えるか尋ねられたゴズリングは、代わりに「キルスティンがあの映画でやったことは誇れる」と返している。『ローリング・ストーン』誌のピーター・トラヴァースは、「ゴズリングはキャラクターの内面に深く踏み込んだので、彼の神経終末に触れた気になれる」と書いた。『サンフランシスコ・クロニクル』のミック・ラサルは、「カメレオンのようなゴズリングは、空虚な殻のような人間として完璧に説得力がある」と評した。『ロサンゼルス・タイムズ』のベッツィ・シャーキーは、映画はダンストのものだとしつつも、「(ゴズリング)もまた良い」と述べた。", "qas": [ { "question": "デレク・シアンフランスの監督デビュー作は何ですか。", "id": "tr-026-09-000", "answers": [ { "text": "『ブルーバレンタイン』", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴズリングはいつ『幸せの行方...』に出演したか。", "id": "tr-026-09-001", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 469, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『幸せの行方...』でゴズリングは誰と共演したか。", "id": "tr-026-09-002", "answers": [ { "text": "キルスティン・ダンスト", "answer_start": 510, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ゴズリングはキャラクターの内面に深く踏み込んだので、彼の神経終末に触れた気になれる」と書いのは誰なの?", "id": "tr-026-09-003", "answers": [ { "text": "ピーター・トラヴァース", "answer_start": 698, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2011年にゴズリングが演じた3つの役は、それぞれ異なって注目を集めるものだった。まず、ロマンティック・コメディ映画『ラブ・アゲイン』で初めて喜劇的な役を演じ、スティーヴ・カレルやエマ・ストーンと共演した。ゴズリングは、女性を丸め込む男性を演じるため、ロサンゼルスのバーで開かれたカクテル教室に通った。『ワシントン・ポスト』紙のアン・ホーナデイは、「(彼の)魅惑的な命令の存在は、ジョージ・クルーニーに次ぐ人材を見つけたのかもしれないと思わせる」と評した。ピーター・トラヴァースは「とびきりいかした喜劇人」と述べ、『USAトゥデイ』のクローディア・プイグは「1番驚きなのはゴズリングで、彼はコメディの才能を露わにした」と述べた。彼はこの作品でゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。\n\nゴズリング初のアクション演技は、ジェームズ・サリスの小説を基にした映画『ドライヴ』(2011年)で、逃がし屋(getawaydriver)をしつつハリウッドのカースタントマンとしても働く主人公を演じた。この映画についてゴズリングは「暴力的なジョン・ヒューズ映画」だと述べ、「いつも『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』で頭を殴るシーンがあったら完璧だと思っていたんだ」と語っている。監督を務めたニコラス・ウィンディング・レフンは、ゴズリングとの出会い・関係について次のように述べている。", "qas": [ { "question": "ゴズリングはどの映画で初めて喜劇的な役を演じましたか。", "id": "tr-026-10-000", "answers": [ { "text": "『ラブ・アゲイン』", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ラブ・アゲイン』のジャンルは何なの?", "id": "tr-026-10-001", "answers": [ { "text": "ロマンティック・コメディ", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゴズリングは『ラブ・アゲイン』でどの賞にノミネートされたか。", "id": "tr-026-10-002", "answers": [ { "text": "ゴールデングローブ賞", "answer_start": 321, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ゴズリングは2013年の犯罪スリラー映画『L.A.ギャングストーリー』では、1940年代のロサンゼルス市警察に務め、ギャングのボスであるミッキー・コーエン(演:ショーン・ペン)に勝とうとするジェリー・ウーターズ巡査部長を演じた。この映画で恋仲になる人物を演じたのは、『ラブ・アゲイン』でも共演したエマ・ストーンだった。ストーンはこの映画に関するインタビューで、ゴズリングさえ良ければもっと多くの映画で共演したいと語っている。『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは、キャストへの弁解として、「小金を稼ぐために、おかしな声を使い、彼らが持ち合わせているはずのニュアンスを全て抑圧した(映画)」と評価した。『ボストン・グローブ』のクリスティ・レミアは、ゴズリングの「奇妙なささやき声」と「充分に発展させられていない、一本調子な」人物造型を批判した。一方で『ロサンゼルス・タイムズ』のベッツィ・シャーキーは、ゴズリングとストーンの共演シーンには「魅惑的な力」があるとし、「それでもこの映画の酷いところと同じように、この脚本はたったの半分しか演じられていないのだ」と述べた。", "qas": [ { "question": "『L.A.ギャングストーリー』のジャンルは何ですか。", "id": "tr-026-11-000", "answers": [ { "text": "犯罪スリラー", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『L.A.ギャングストーリー』のジェリー・ウーターズ巡査部長を演じた人は誰ですか。", "id": "tr-026-11-001", "answers": [ { "text": "ゴズリング", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゴズリングの監督デビュー作『ロスト・リバー』は、2014年の第67回カンヌ国際映画祭・ある視点部門に出品された。ゴズリングの執筆した「ファンタジーノワール」には、クリスティーナ・ヘンドリックス、シアーシャ・ローナン、ベン・メンデルソーン、マット・スミスなどが出演した。映画には主に酷評がついて回った。『ガーディアン』のピーター・ブラッドショウは、映画は「我慢できないほど思い上がって」おり、ゴズリングは「調和や謙遜という感覚を全て」失っていると書いた。『バラエティ』のジャスティン・チャンは、「病気持ちの魅惑状態」として退けた。映画は『ドライヴ』『オンリー・ゴッド』を手掛けたニコラス・ウィンディング・レフンのものと酷似していると非難されたが、当のレフンは映画を気に入り、「僕らは双子で、そういう訳で同じ映画を作るんだ。生まれた時に生き別れたけど互いを見つけたんだ」と述べている。", "qas": [ { "question": "ゴズリングの監督デビュー作は何?", "id": "tr-026-12-000", "answers": [ { "text": "『ロスト・リバー』", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ファンタジーノワール」を執筆した人は誰なの?", "id": "tr-026-12-001", "answers": [ { "text": "ゴズリング", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2015年の金融映画『マネー・ショート華麗なる大逆転』で、ゴズリングはボンドトレーダーを演じ、作品は翌年の第88回アカデミー賞でアカデミー作品賞にノミネートされた。『アトランティック』のデイヴィッド・シムズは、ゴズリングは「人に取り入るように面白く、どういうわけかずっとこちらを引きつけ反感を誘う。数年間2流の芸術映画という落とし穴でさまよった後、再び自由になった彼を観るのは素晴らしいことだ」と述べた。『ローリング・ストーン』のピーター・トラヴァースは、「低俗な物言いの名手であるゴズリングは、カメラに向かって真っ直ぐ話しかけ、火山のように凄まじく面白い」と述べた。『エンターテインメント・ウィークリー』のクリス・ナシャワティは、ゴズリングがうぬぼれ屋の魅力を滲み出させていると述べた。一方で『ボストン・グローブ』のピーター・キーオウは、ゴズリングの演技はブラッドリー・クーパーのまがい物に過ぎないと述べた。", "qas": [ { "question": "『マネー・ショート華麗なる大逆転』で、ゴズリングは何を演じたの?", "id": "tr-026-13-000", "answers": [ { "text": "ボンドトレーダー", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴズリングの演技はブラッドリー・クーパーのまがい物に過ぎないと話した人は誰ですか。", "id": "tr-026-13-001", "answers": [ { "text": "ピーター・キーオウ", "answer_start": 359, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゴズリングは雑種犬のジョージと共に、ニューヨーク市に住んでいたことがある。2017年初め頃までは、妻エヴァ・メンデスら家族と共にロサンゼルス・ロス・フェリスに住んでいた。\n\nゴズリングは、カリフォルニア州ビバリーヒルズにあるモロッコ料理屋Tagineの共同オーナーでもある。彼はレストランに「持ち金全て」をはたいて衝動買いし、1年間かけて自分でリノベーションして、現在ではレストランのメニューの監督も行っている。\n\n2015年5月、ゴズリングはスコットランドの映画制作者ライアン・マクヘンリーの死を悼み、自らがシリアルを食べる動画を投稿した。マクヘンリーはゴズリングの出演作品のシーンを繋いで、\"RyanGoslingWon'tEatHisCereal\"(意味:ライアン・ゴズリングがシリアルを食べてくれない)と称したシリーズをVineに投稿していたが、闘病生活の末癌で死亡した人物である。\n\nゴズリングはディズニーランドの熱烈なマニアであり、『ドライヴ』『オンリー・ゴッド』などで共作したニコラス・ウィンディング・レフン監督一家と共に訪れたこともある。\n\nゴズリングは、観ていて感情移入してしまう映画として『ダンボ』や『エレファント・マン』などを挙げている。お気に入りの俳優にはゲイリー・オールドマンを挙げている。", "qas": [ { "question": "ゴズリングのお気に入りの俳優は誰なの?", "id": "tr-026-14-000", "answers": [ { "text": "ゲイリー・オールドマン", "answer_start": 540, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "モロッコ料理屋Tagineはどこに位置しているか。", "id": "tr-026-14-001", "answers": [ { "text": "カリフォルニア州ビバリーヒルズ", "answer_start": 94, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2007年、ゴズリングはソロ曲\"PutMeintheCar\"をインターネット上でダウンロードできるようにした。同じ年、ゴズリングは友人のザック・シールズとインディー・ロックバンド『デッド・マンズ・ボーンズを結成した。ふたりは2005年に出会ったが、これはシールズが当時交際していたケイリーン・マクアダムスが、ゴズリングが交際していたレイチェル・マクアダムスの妹だったという縁からである。両者は当初怪物をテーマにしたミュージカルを構想していたが、舞台制作は高額になるとしてバンド結成へ方向転換した。ゴズリングとシールズは、バンドの名前を冠したアルバムをシルバーレイク音楽学校子ども合唱団と収録し、楽器の演奏法を学んで全て自分たちで演奏した。ゴズリングはボーカルだけでなく、ピアノ・ギター・ベースギター・チェロを演奏した。アルバムはアンタイ・レコードから2009年10月6日に発売された。『ピッチフォーク・メディア』では「独創的で覚えやすく、魅力的に奇妙なレコード」と評され、Prefixでは「駄作ではないし、不適当だなんてあり得ない」と述べられた。一方で、『スピン』では「俳優が宙ぶらりんなポップ・ミュージシャンになるというお決まりを覆していない」と書かれたほか、『エンターテインメント・ウィークリー』はアルバムに「鼻につくゴシック調の気取った感じ」があるとした。", "qas": [ { "question": "\"PutMeintheCar\"は誰の曲なの?", "id": "tr-026-15-000", "answers": [ { "text": "ゴズリング", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴズリングは何年に友人のザック・シールズとインディー・ロックバンド『デッド・マンズ・ボーンズを結成しましたか。", "id": "tr-026-15-001", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2016年には、ラッセル・クロウと共演して探偵を演じたコメディ映画『ナイスガイズ!』、『ムーンライト』と共にこの年の賞レースを席巻した映画『ラ・ラ・ランド』の2本に出演した。前者は映画批評サイトRottenTomatoesで90%以上の評価を得た。『アトランティック』では、「本当の新発見だが、ゴズリングは切れ者の話しぶりと身体を張ったばかなコメディとを交互に見せる」と評された。『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは、「ゴズリング氏の物憂げで鼻声かつ半分酔っ払った話し方は、彼が好むような生真面目な作品よりも、この作品のようにナンセンスな映画の方に合っている」と述べた。", "qas": [ { "question": "ゴズリングの2016年の出演作のうち、RottenTomatoesで90%以上の評価を得た作品は何ですか。", "id": "tr-026-16-000", "answers": [ { "text": "『ナイスガイズ!』", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『ラ・ラ・ランド』でゴズリングの相手役は3度目の共演となるエマ・ストーンで、ストーンの出演決定を聞いて役に飛びついたとの話もある。作品を手掛けたデイミアン・チャゼル監督は、ミュージカル映画の撮影には困難も多かったが「(ゴズリングとストーンは)セットの中でも外でも有機化学的反応を起こしていた」と語ったほか、ゴズリングの過去作品を引きつつ「この映画をやるのに必要な要素を全部持っていた」ともしている。ゴズリングはストーンとのダンス練習と併行してピアノ演奏を学び、劇中の演奏シーンでは自分で演奏した。『ガーディアン』紙のピーター・ブラッドショウは、「ストーンのように元々歌手ではないが、それでも画面にはとても現実的な何かがあり、歌に向き合う生身の人間がいる」と評した。『ローリング・ストーン』のピーター・トラヴァースは、「ゴズリングの映画出演作は[中略]多岐に渡り、いつも彼には何でも出来ると思わされてきたが、今回は完全に納得させられてしまった」と述べた。『シカゴ・トリビューン』紙では、\"ALovelyNight\"のシーンで気後れが見られ、情熱的だったストーンほど多くを伝えられていないと評された。セバスチャンのキャラクターには「白人の救世主」であるという批判もあった。この作品でゴズリングはゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を獲得し、2度目となるアカデミー主演男優賞のノミネートも受けた。2016年12月には、チャゼルとゴズリングが、ニール・アームストロングの伝記『ファーストマン:ニール・アームストロングの人生の映画化作品『ファースト・マン』で再タッグを組むと発表された。", "qas": [ { "question": "『ラ・ラ・ランド』でゴズリングの相手役は誰でしたか。", "id": "tr-026-17-000", "answers": [ { "text": "エマ・ストーン", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴズリングとエマ・ストーンの共演は『ラ・ラ・ランド』で何度目になりますか。", "id": "tr-026-17-001", "answers": [ { "text": "3度目", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ラ・ラ・ランド』の監督は誰ですか。", "id": "tr-026-17-002", "answers": [ { "text": "デイミアン・チャゼル", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ツァボの人食いライオン", "paragraphs": [ { "context": "ツァボの人食いライオン(ツァボのひとくいライオン、英:TsavoMan-Eaters)は、1898年3月から同年12月にかけてイギリス領東アフリカ(現:ケニア)のツァボ川付近で発生した2頭の雄ライオンによる獣害事件である。\nケニア-ウガンダ間のウガンダ鉄道敷設によるツァボ川架橋工事中に人食いライオンが現れ、少なくとも28名の労働者が犠牲になった。\n2頭は鉄道現場総監督のジョン・ヘンリー・パターソン(en)によって射殺され、後に剥製となってシカゴのフィールド自然史博物館に展示された。\nこの事件を題材にして、映画『ゴースト&ダークネス』や戸川幸夫の小説『人喰鉄道』などが作られた。\nパターソン自身も、事件についての実録『TheMan-eatersofTsavo』(en:TheMan-eatersofTsavo)を出版している。\nなお、記事内における固有名詞などの表記は『世界動物文学全集29』(講談社)所収の『ツァボの人食いライオン』(パターソン著、大岩順子訳)に拠った。", "qas": [ { "question": "ツァボの人食いライオンによる獣害事件では、何名が犠牲になりましたか?", "id": "tr-027-00-000", "answers": [ { "text": "28名", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ツァボとは現在のどの国にあたりますか?", "id": "tr-027-00-001", "answers": [ { "text": "ケニア", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ツァボの人食いライオンの事件をモデルとした小説は何ですか?", "id": "tr-027-00-002", "answers": [ { "text": "『人喰鉄道』", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "人食いライオン2頭を射殺した人物は誰?", "id": "tr-027-00-003", "answers": [ { "text": "ジョン・ヘンリー・パターソン", "answer_start": 186, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ウガンダ鉄道の建設は、1896年にイギリスにより植民地政策の一環として計画された。\nインド洋に面するモンバサを起点として工事が始まり、1901年にビクトリア湖畔のキスムまでの線路敷設が完了して1903年に運行が開始された。\n事件の舞台となったのは、海岸から約210キロメートル内陸に入ったツァボであった。\nその地名のもととなったツァボ川は流量が多く流れも速い川で、この川に恒久的な鉄橋を架橋する工事中に事件が起きた。\nジョン・ヘンリー・パターソンは鉄道現場総監督として、ツァボ川の鉄橋建設および川の両岸にそれぞれ50キロメートルほどの区間の付帯工事を完成させることを主な仕事として、1898年にツァボに着任した。\n着任当初はキリンディニ港にある本部から派遣された労働者たちや、道具、物資などが次々と到着した。\nツァボの鉄道現場で働く労働者は、イギリス領インドから来たインド人の季節労働者が主力であった。\n工事は順調に始まったように思われたが、この状態は長続きせず工事は中断せざるを得なくなった。\nそれは、2頭の人食いライオンが出現したためであった。", "qas": [ { "question": "ウガンダ鉄道の起点はどこ?", "id": "tr-027-01-000", "answers": [ { "text": "モンバサ", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウガンダ鉄道が運行開始したのは何年?", "id": "tr-027-01-001", "answers": [ { "text": "1903年", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "パターソンが「凶暴なライオンが付近に現れる」という話を初めて聞いたのは、ツァボに着任してまだ2、3日程度の頃であった。\nその直後に労働者が1人か2人いなくなって、ライオンが夜間にテントから連れ去って食い殺したという話を聞かされたが、パターソンはその話を信じることができなかった。\nパターソンによればその2人は非常に善良な人間であり、2人とも金をかなり蓄えていたためその金目当ての悪人に殺されることもありうると思ったためであった。\nパターソンの疑いは、不幸な形で消えることになった。\n着任して3週間ほどたったある日の朝、パターソンは労働者の頭を務めていたウンガン・シンという名のシーク人が夜間にテント内で襲撃を受け、連れ去られて食われたという知らせを受けた。\nパターソンはテントに急行して現場を調べ、その場に居合わせた他の労働者の証言を聞いた。\n当時テント内にはウンガン・シンの他に6人の労働者が居合わせ、そのうち1人が事件を目の当たりにしていた。\n目撃者は夜間に突然ライオンがテントの入り口から首を突っ込んで、たまたま一番近くにいたウンガン・シンの喉元に食いついたと証言した。\nウンガン・シンは「チョロ(放せ)」と叫んで抵抗し、両腕をライオンの首に回したが間もなくテント内から姿が消えていた。\n他の労働者たちはこの事態に怯えきり、テント外での戦いの気配を聞くほかになす術はなかった。", "qas": [ { "question": "パターソンの着任3週間目にライオンの餌食になった人物とは誰?", "id": "tr-027-02-000", "answers": [ { "text": "ウンガン・シン", "answer_start": 276, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "パターソンはさっそくライオンの追跡に出発し、たまたまツァボに滞在していたハスレム大尉も同行した。\nライオンの通った道にはところどころに血だまりができていたため、追跡は容易だった。\nやがてウンガン・シンの遺体が見つかったが、その状況は凄惨を極めていて、2頭のライオンが遺体を取り合って散々争ったことを示していた。\nパターソンとハスレムはウンガン・シンの遺体を可能な限り集め、その上に石を積み上げた。\nライオンの足跡は、川沿いの岩地で消えていてそれ以上追うことはできなかった。\nウンガン・シンの首はライオンの牙の穴以外は無傷だったが、医務官に鑑定してもらうために持ち帰った。\nその晩パターソンは、ライオンがまた襲撃してくるのに備えて現場近くの樹上で不寝番をした。\n間もなくライオンの唸り声が近づいてきたが、やがて声は止んで1-2時間は静穏な状態が続いた。\nしかしライオンは800メートルほど離れた別のテントを襲い、そこから労働者を1人連れ去っていた。\n翌日パターソンは、そのテントの近くの樹上で不寝番をしたが、ライオンは再びその裏をかいて別のテントから労働者を1人連れ去った。\n当時労働者のキャンプ地は分散していたため、人食いライオンはツァボの周囲に12-13キロメートルほどの行動範囲を持っていた。\nライオンは毎夜違うキャンプ地に侵入する戦術をとっていたため、先回りをするのは困難であった。", "qas": [ { "question": "人食いライオンはツァボの周囲に何キロメートルほどの行動範囲を持っていたの?", "id": "tr-027-03-000", "answers": [ { "text": "12-13キロメートルほど", "answer_start": 523, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "事件発生後もずっと、パターソンのテントは垣根一つない開拓地に張られていた。\nある夜医務官のローズ博士がテントに泊まっていたとき、真夜中に何者かがテントの張り綱につまづく音がして目を覚ましたが、明かりを持って外に出ると何もいなかった。\nしかし朝になってみると、テントの周囲にはライオンの足跡がはっきりと残されていた。\nこれにはパターソンも住居を移さざるを得ず、新たにこの地域の医療を担当するために着任したブロック博士と小屋に共同で住むことにした。\n小屋はかつてパターソンたちが川の東岸に建てておいたもので、シュロの葉と木の枝でできていた。\n周囲にはイバラでできた「ボマ」(en:Boma(enclosure))と呼ばれる垣根が約60-70メートルにわたって張り巡らされていて、パターソンなどの世話をする使用人たちもこの囲いの中に住んで一晩中火を焚き続けていた。\nそれでもパターソンやブロックは用心を怠らず、ベランダで夕涼みをする時などには銃を手元に置いてライオンの接近に警戒していた。\n労働者たちのキャンプ地にもボマが張り巡らされるようになったが、ライオンはボマの弱い部分を突き破ったり飛び越えたりして侵入を敢行した。\nパターソンのもとには、2晩か3晩おきに労働者がライオンにさらわれたという悲しい知らせが届くようになった。\n当事者である労働者たちは、最初のうち仲間の死をそれほど真剣に受け止めていなかったというが、これは2000人から3000人に上る労働者が広い範囲に散らばっていたためで、これだけ大勢の人の中から自分が人食いライオンの犠牲者になる確率は低いと考えていたからであった。", "qas": [ { "question": "「ボマ」は何から出来ていますか?", "id": "tr-027-04-000", "answers": [ { "text": "イバラ", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "工事の進捗に伴い労働者キャンプの本隊が前進するにつれ、事態は切迫していった。\nパターソンは軌道工事の仕上げに取りかかるため、200人から300人程度の労働者とともに残留した。\n残留組となった労働者たちは1か所に集まってキャンプすることになったため、人食いライオンの活動もここに集中した。\n労働者たちは恐慌状態に陥ったため、パターソンは彼らを慰留することに苦心した。\n労働者たちが作業を中止して特別に頑丈で高さのあるボマをキャンプの周囲に築くことを許可することによって、労働者たちは残留することに同意した。\n労働者たちは不寝番を置いて一晩中火を焚き、安全なテント内から長いロープを使って手近な木に吊るした数個の石油の空き缶を鳴らし続けて人食いライオンを追い払おうと試みた。\nそれでもライオンの襲撃を防ぎきれず、労働者たちが1人また1人と姿を消していった。", "qas": [ { "question": "夜には何を置いてライオンの襲撃に備えましたか?", "id": "tr-027-05-000", "answers": [ { "text": "不寝番", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "パターソンは病院キャンプが元あった場所近くの待避線上に、有蓋貨車を1両置いた。\nテント2基をボマの中に残し、数匹の家畜もおとりとして係留しておいた。\nこの日(4月23日)の午後、ライオンの姿が少なくとも3か所の別々の場所で目撃されていたが、襲撃はあったものの人的な被害はなかった。\nパターソンとブロックは、有蓋貨車の中で不寝番にあたるつもりであった。\nパターソンとブロックは夕食後に、小屋から1.5キロメートルほど離れた場所にある貨車に赴いた。\n2人は無事に到着して、10時頃に不寝番を開始した。\n1-2時間ほどは静寂のうちに過ぎていったが、突然枯れ枝が折れる音が聞こえ、動物が動き回っているのがわかった。\nこのときパターソンは、ライオンを狙いやすいようにと貨車を出て近くの地面に腹ばいになって待とうとブロックに提案していた。\nブロックはその提案を退け、「そこにじっとしているように」と説得した。\n数秒後、パターソンはブロックの言葉が正しかったことに感謝した。\nそれは、ライオンのうち1頭が至近距離で2人を狙っていたからであった。\nしっかり閉めるようにと命じていたはずのボマの入り口が完全に閉じていなかったため、ライオンはそこから入り込んでパターソンとブロックの様子を外からうかがっていた。", "qas": [ { "question": "4月23日の夜に有蓋貨車の中で不寝番を行おうとしていたのはパターソンと誰ですか?", "id": "tr-027-06-000", "answers": [ { "text": "ブロック", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "パターソンとブロックが不寝番を開始したのは何時でしたか?", "id": "tr-027-06-001", "answers": [ { "text": "10時頃", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "やがてパターソンは足音を忍ばせて近寄ってくる物影を見たような気がしたが、目の疲れも相まって確信が持てなかった。\n彼はブロックに何か見なかったかと小声で尋ね、同時に暗闇の中にいる「目標」に銃の狙いを定めた。\nブロックはその問いに答えなかったが、後になってブロックは、自分も何か動く物を見たがそう言えばパターソンが発砲しないか、そしてもし何もいなかったということになればその結果がどうなるかを恐れたため、答えるのをためらったと明かした。\n直後に1、2秒間の沈黙が訪れ、突然ライオンが2人をめがけてとびかかってきた。\n「ライオンだ!」とパターソンが叫び、2丁の銃が同時に発射された。\nこの瞬間についてパターソンは「もう一秒遅ければ、ライオンはまちがいなく貨車の中にとび込んでいただろう」と記述している。\nライオンの狙いは外れた。\nそれはおそらく銃の閃光に目がくらんだ上に、2発の銃声の反響に怯えて逃走したものと思われた。\n翌朝、ライオンの足跡のすぐそばでブロックの撃った銃弾が発見された。\nその銃弾は、あと4-5センチメートル程度でライオンに命中するところであった。\nパターソンの撃った銃弾はどこにも見当たらなかった。\n後になって、このときパターソンが撃った銃弾がライオンの牙を1本折っていたことが判明した。\nこれが人食いライオンとパターソンとの直接対決の始まりであった。", "qas": [ { "question": "次の朝発見された銃弾は、誰が撃ったものでしたか?", "id": "tr-027-07-000", "answers": [ { "text": "ブロック", "answer_start": 424, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "人食いライオンの脅威に晒されながらも、鉄道敷設工事は進捗していた。\n川の直前部分に立ちはだかっていた岩の切り通し部分を広げてどんな列車でも問題なく通行できるように掘削する作業や、切り通しとツァボ駅の間にある峡谷にかける陸橋の基礎工事、給水施設などが次々と行われた。\nこの時期は人食いライオンの襲撃が一時的に収まっていたため、野外での昼食や川のイカダ下りなど、パターソンたちにはよい気晴らしになるできごとも時折あった。\nただしパターソンは相変わらず多忙で、日中は作業の監督や雑用に明け暮れ、夜には労働者たちの争いの仲裁や様々な報告や不平を聞き届けたりスワヒリ語の学習に時間をとられたりの日々であった。\nツァボ川での鉄橋架設準備は急速に進み、パターソンは川の水量などの調査や測量などの必要な仕事を一通りやり終え、橋台と橋脚の位置を選定して基礎石を水中に設置する作業が始まった。\nこの工事は非常な難工事であり、いくら掘り続けても堅い基盤に達しなかったためにくい打ちによる工法に切り替えようかと思い始めた時に、運よく堅い岩を掘り当てることができた。\nもう一つの難題は、橋に使う石材に適合する岩石が周囲に見当たらないことであった。\n周辺に岩石は豊富に存在していたが、加工が困難な堅い石ばかりであった。\nパターソンが何日も探したものの見つからなかった石は、ブロックと鳥撃ちに出かけた先で幸運にも見つかり、トロッコを使って現場に運ぶことができた。", "qas": [ { "question": "パターソンが夜に勉強していた語学とは何ですか?", "id": "tr-027-08-000", "answers": [ { "text": "スワヒリ語", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "石を見つけた後、パターソンは石工の増援を本部に依頼した。\n本部から派遣されてきた石工の大部分はパターン人で、熟練工との触れ込みであった。\nしかし本物の石工はその中のごく一部に過ぎず、多くが月給12ルピーの代わりに45ルピーをもらおうと企んだただの労働者に過ぎないことが判明した。\nパターソンはこの事実を確認すると、石工の賃金を出来高払いに改めた。\n能力の高い者には月45ルピーかそれ以上を支給できるようにして、偽の石工たちの賃金を引き下げた。\n人数比では偽の石工たちが多数派だったため、彼らは本物の有能な石工たちを脅して出来高払いの制度をやめさせようとしたが、パターソンにはその手段は通用しなかった。\n労働者たちの仮病騒ぎや喧嘩などは絶え間なく続き、ついに石工たちのサボタージュ騒動にまで発展した。\nこの日パターソンは徹夜でライオンの見張りをした帰路に、ふと思い立って石切り場に立ち寄った。\n石工たちはみな持ち場を離れて木陰で休憩を取り、ある者は昼寝、別の者はトランプなど思い思いに過ごしていた。\nパターソンはこのありさまにあきれ果てたが、彼らの頭上に銃を放って脅かすことを思いついた。\n銃声に驚いた石工たちは慌てて作業を再開したが、彼らはパターソンが遠くにいるものと思い込んでいた。\n騒動の一部始終を見届けたパターソンは居合わせた者全員に罰金を科し、石切り場の責任者を監督不行き届きで即刻格下げ処分とした。\nその直後、労働者のうち2人がパターソンの銃弾が背中に当たったと訴えてきた。\n2人は背中に弾のあとのような穴をあけてそこから血を流していたが、これは仲間を言いくるめてつけさせたものであった。\nただし、パターソンは散弾銃ではなくライフルを持っていたため、彼らの企みはすぐに露見した。\nしかも、2人は衣服に穴を開けることさえ忘れていたため、追加の罰金と仲間たちからの嘲りを得ただけであった。", "qas": [ { "question": "本部から来た石工の大半は何人でしたか?", "id": "tr-027-09-000", "answers": [ { "text": "パターン人", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "労働者を驚かせるためにパターソンが放った銃の種類は何でしたか?", "id": "tr-027-09-001", "answers": [ { "text": "ライフル", "answer_start": 717, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この騒動があって間もなく、労働者たちはパターソンが支払った賃金に見合うだけの労働を求める立場を変えず、いかなる妨害も許さない人物であることを悟った。\n彼らが出した結論は、パターソンを「亡き者」にするということであった。\nある夜、彼らは会合を開き、翌日パターソンが採石場に行ったときに殺害してその遺体を密林の中に投げ込むことに決めた。\nその後「ライオンに食い殺された」ということに話を合わせることにして、この提案に全員が賛成した。\nしかし、会合終了後1時間もしないうちに出席者の1人がパターソンのもとを訪れ、陰謀について警告した。\nパターソンはその警告に感謝したが、翌日は通常どおり採石場に行くことを決めた。\nこの段階ではパターソンは陰謀について半信半疑であり、この出席者が単に彼を脅迫するために派遣されたのではないかとも考えていたからであった。\n翌日(9月6日)の朝、パターソンが採石場に行く途中で、石工頭のヘーラ・シンが藪陰からひそかに声をかけてきた。\nヘーラ・シンはパターソンにこの先に行ってはいけないと警告したため理由を尋ねると、「それは言うわけにはいかないが、石切り場でごたごたが起こりそうなので、自分と他の20人の石工は今日は仕事に出ない」との答えが返ってきた。\nヘーラ・シンは人のよい性格だったためパターソンも昨夜の話はある程度本当だと思ったが、「ごたごたなど起こらないよ」と笑って採石場に歩き続けた。", "qas": [ { "question": "一部の労働者は誰を殺そうとしましたか?", "id": "tr-027-10-000", "answers": [ { "text": "パターソン", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "パターソンにこの先は行ってはいけないと警告した男は誰でしたか?", "id": "tr-027-10-001", "answers": [ { "text": "ヘーラ・シン", "answer_start": 428, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "採石場は表向き平穏で全員が忙しそうに労働についていたが、パターソンは彼らがこっそりと目配せを交わしているのに気づいた。\nやがて言うことを聞かない労働者を説得するという名目で、谷の上に一緒に行ってもらえないかという申し出があった。\nパターソンはこれは自分をおびき寄せるための罠だとすぐに悟ったが、あえて同行することに決めた。\n谷の上に到着したパターソンは、騒ぎを起こしたと名指しされた2人の男の名前を手帳に書きつけ、元来た道を引き返そうとした。\nそのとき、労働者たちが怒号をあげてパターソンに詰め寄ってきた。\n追い詰められたパターソンは、労働者たちの説得にかかった。\n説得の大意は、『私を殺しても大勢が絞首刑になるだろうし、ライオンにさらわれたという作り話も通用しない。\nほんの1人か2人の悪者の扇動によってこの愚挙を犯したこともわかっている。\n計画が成功しても、別の人間が新たに監督にならないという保証があるのか、その人間が私より厳しい監督でないといえるのか、まじめな職人には公正であることを知っているはずだ』というものであった。\nパターソンは続けて、『不満のある者はすぐにモンバサに帰ってよい、そうでない者は仕事に戻って今後このような陰謀を起こさなければ不問にする』と言うと、全員が作業に戻ることを希望した。", "qas": [ { "question": "パターソンは不満のある者はどこに帰ってよいと言いましたか?", "id": "tr-027-11-000", "answers": [ { "text": "モンバサ", "answer_start": 487, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "パターソンはいったん危地を脱したが、陰謀は彼が帰宅の途についた途端に再燃した。\n労働者たちは再度会合を開き、その晩にパターソンを殺す計画を立てた。\n労働時間の記録係をしている男が、この陰謀をパターソンに知らせた。\n記録係は、労働者たちが自分をも殺すと脅しつけているので点呼に行くのが怖いと打ち明けた。\nパターソンは直ちに鉄道警察と地方官のホワイトヘッドに電報を打って急を知らせた。\nその知らせを受けて、ホワイトヘッドと部下が40キロメートルの距離から駆けつけてきた。\nホワイトヘッドの機敏な行動によって、その晩パターソンは襲撃を免れた。\n2-3日後には鉄道警察も到着して、首謀者とその一味を逮捕した。\n首謀者たちはモンバサに連行されて取り調べを受け、やがて1人が口を割ったことによって陰謀のすべてが明らかになった。\n首謀者とその一味は全員有罪となり、さまざまな期間の懲役刑を受けた。\nその後のパターソンは、労働者たちの謀反に悩まされることがなくなった。", "qas": [ { "question": "パターソンが電報を打った地方官の名前は何ですか?", "id": "tr-027-12-000", "answers": [ { "text": "ホワイトヘッド", "answer_start": 169, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "貨車での遭遇以降、しばらくの間人食いライオンはツァボを避けていてパターソンたちを襲うような行動はとらなかった。\nパターソンはこの期間中に、ある考えを思いついた。\nそれは、2-3人の労働者を危険な目には絶対遭わせずに「おとり」に使うような罠を作れば人食いライオンを捕えることができるのでは、というものであった。\nパターソンは早速罠の作成にとりかかった。\n材料となったのは、枕木やトロッコのレール、電線の切れ端や重い鎖などで、彼の考えでは十分に頑丈な出来栄えであった。\n罠はおとりとなる人間用の部屋と、ライオンを閉じ込めるための部屋に分けられ、2つの部屋の間は枕木とレールを利用して作った堅牢な鉄格子がはめ込まれていた。\nライオン用入り口は、ネズミ捕りと同じ要領で餌となるおとりを捕まえなくてもドアが閉まるように工夫されていた。\nパターソンはライオンの目を欺くため、罠の上にテントを張り、さらに周囲を特別に強力なボマで囲んだ。\n最初の2-3日はパターソン自身がおとり役となって罠に入っていたが、なかなか眠れないうえに蚊の襲撃を受けただけで特段の変事はおこらなかった。", "qas": [ { "question": "人食いライオンがしばらく来なかった間にパターソンは何の作成を思いつきましたか?", "id": "tr-027-13-000", "answers": [ { "text": "罠", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "パターソン自身がおとり役となって罠に入っていた期間は?", "id": "tr-027-13-001", "answers": [ { "text": "2-3日", "answer_start": 415, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "11月の最終週には、スワヒリ人の運搬労働者2名が襲われた。\n1人はライオンがすぐに連れ去って食べたが、もう1人はボマのイバラに引っかかったために連れ去りは免れた。\nその労働者は何とか助け出すことができたが、重傷だったため病院に着く前に絶命した。\nその2-3日後には、ツァボ駅からほど近い位置にあった地区で最大級の労働者キャンプが襲撃された。\n2頭のライオンは真夜中にキャンプに押し入り、恐れおののく労働者たちを襲って不幸な犠牲者をさらい、キャンプのすぐそばでむさぼり始めた。\n一連の騒ぎは、かなり離れた距離にあるパターソンのボマからもはっきりと聞き取れた。\n監督官のダルゲヤンズがライオンのいる方向に50発以上発砲したものの、ライオンを追い払うことさえできず、2頭は「食事」が済むまでその場にとどまっていた。\n翌朝になってから、パターソンたちはライオンの追跡を試みた。\n砂上には折れた肢のつま先でつけたような痕跡が残っていたため、ダルゲヤンスはライオンのうち1頭を負傷させたものと確信していた。\n痕跡を追っていくうちに不気味な唸り声が聞こえ、一行はライオンのそばに来ていたことに気づかされた。\n注意深く前進してやぶをかき分けてみると、前夜さらわれた労働者の遺体が残されていた。\n一行がライオンのつま先で付けた痕跡と思い込んでいたのは、引きずられて連れ去られた労働者の指が残したものであった。\nライオンはすでに立ち去っていて、一行は遺体の残骸を葬ってから戻るしかなかった。", "qas": [ { "question": "11月の最終週に襲われた労働者は何名でしたか?", "id": "tr-027-14-000", "answers": [ { "text": "2名", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "11月の最終週に襲われた労働者は何人でしたか?", "id": "tr-027-14-001", "answers": [ { "text": "スワヒリ人", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "連続する惨劇によって、労働者たちは恐慌状態に陥った。\n12月1日の午後、キャンプに戻ったパターソンを待ちうけていたのは作業を放棄した労働者の一団であった。\n彼らはパターソンに『これ以上どんなことがあってもツァボにはとどまらない』と宣言した。\n『政府のために働く約束でインドから来たのであって、ライオンなどの餌食になるために来たのではない』、というのが彼らの主張であった。\n労働者たちは最初に通りかかった汽車を止めて乗り込み、ツァボから逃げ出した。\nこのため、鉄道工事は完全にストップした。\nその後3週間は、ツァボに踏みとどまった労働者たちのために「ライオン対策」を施した小屋を作る以外の作業はできなかった。\n小屋は貯水タンクの上や、屋根、はてはガードの上など、およそ安全であろうと思われる場所にはどこにでも作られた。\nテント内に穴を掘って、重い丸太で上を覆ってからそこで眠る者もいた。\n多くのベッドが手ごろな木に結びつけられたが、ときには木の耐えうる限界以上にまでなった。\nライオンが夜中にキャンプを急襲したとき、たくさんの労働者が1本の木に殺到して逃れようとしたため、その木が折損した。\n木に登った労働者たちはまさにライオンの目前に投げ出される状態となったが、そのときは別の犠牲者を手中にしていたライオンは彼らに興味を示さず、全員が命拾いした。", "qas": [ { "question": "作業を放棄した労働者たちがツァボから逃げ出したのはいつですか?", "id": "tr-027-15-000", "answers": [ { "text": "12月1日の午後", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "多くの労働者が引き上げる少し前に、パターソンは地方官のホワイトヘッドに手紙を書いて救援を要請していた。\nホワイトヘッドはその要請に応えて、12月2日(労働者が引き上げた翌日)の夕食時に待っていてくれと回答してきた。\nホワイトヘッドを乗せた列車は、2日の夕方6時ごろにツァボ駅に到着する予定だった。\nパターソンは使用人に、ホワイトヘッドを駅まで迎えに行くように命じた。\nしかし、使用人は怯えきった状態で間もなく戻ってきた。\nその報告では、駅には汽車も駅員も全く見当たらず、その代わりに1頭の大きなライオンがプラットホームに立っていたということであった。\n最初のうちパターソンはその報告を信じなかったが、翌日になってそれは事実であることが判明した。\n駅長を始め全員が、ライオンを避けて駅舎の中に閉じこもる事態に陥っていたのであった。", "qas": [ { "question": "パターソンからの救援要請を受けたホワイトヘッドは何月何日にツァボに到着しましたか?", "id": "tr-027-16-000", "answers": [ { "text": "12月2日", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "パターソンはホワイトヘッドを待っていたが、結局12月2日のうちに会うことはできなかった。\n日程を1日延ばしたのだろうと考えたパターソンは、1人で食事を済ませた。\n食事中に2回銃声が聞こえたが、特段珍しいことでもないため、パターソンは気にもとめなかった。\nその日の夜更けに、パターソンは日課の見張りに出かけた。\n見張りについて間もなく、パターソンは60メートルほど離れたところでライオンが「食事」をしているのに気づいた。\n周囲のキャンプからは騒ぎが聞こえてこなかったため、パターソンは労働者の誰かではなく現地人がこの夜の犠牲になったのであろうと結論づけた。\n翌朝、パターソンはライオンがいた付近の様子を確かめに出かけた。\nその途中で、パターソンはホワイトヘッドに出会った。\nホワイトヘッドは疲労困憊の様子で顔色が悪く、服装も乱れていた。\nホワイトヘッドは「きみのところのあのひどいライオンが、ゆうべもう少しでぼくを殺すところだったよ」と言い、驚愕するパターソンに自分の背中を見せた。\nホワイトヘッドの着衣は襟首から下へ大きく引き裂かれた状態で、背中には4つの爪痕が赤く腫れているのが見て取れた。\nパターソンは取り急ぎホワイトヘッドを自分のテントに連れ帰り、傷の手当などを行った。\nホワイトヘッドの具合がよくなったところで、パターソンは昨日以来彼の身に起こったできごとを聞き取った。", "qas": [ { "question": "ホワイトヘッドの背中につけられた爪痕はいくつありましたか?", "id": "tr-027-17-000", "answers": [ { "text": "4つ", "answer_start": 475, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ホワイトヘッドを乗せた汽車は定刻を大幅に過ぎてツァボ駅に到着したため、あたりは暗くなっていた。\nホワイトヘッドはアブドゥラという名の現地人の軍曹を伴って、パターソンのキャンプへの道を歩み始めた。\nキャンプまでのトロッコ道は、途中狭くなった切り通しの部分を通っていた。\nホワイトヘッドが先に歩き、アブドゥラはランプを持ってその後ろを歩いていた。\n途中までは何事もなかったが、切り通し部分の中ほどまで来たとき突然土手の上から1頭のライオンが2人をめがけて飛びかかってきた。\nホワイトヘッドの背中の傷は、このときつけられたものであった。\nカービン銃を持っていたホワイトヘッドはすぐさま発砲し、銃声と閃光がライオンをひるませた。\nしかし次の瞬間、ライオンはアブドゥラに飛びかかって彼をくわえて逃走した。\n「おお、ブワナ(だんな様)、シンバ!(ライオンだ!)」というのがアブドゥラの最期の言葉になった。\nライオンが土手の上にアブドゥラを引きずり上げているときにホワイトヘッドは再度発砲したが、これも徒労に終わった。\nホワイトヘッドの話を聞いたパターソンは、昨夜見たあの「食事」はアブドゥラだったのかと合点がいった。\nホワイトヘッドの負傷は軽度だったため、後遺症もほとんどなく回復した。", "qas": [ { "question": "ホワイトヘッドとアブドゥラを襲ったライオンは何頭でしたか?", "id": "tr-027-18-000", "answers": [ { "text": "1頭", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "パターソンが昨晩見たライオンの食事とは誰を食べていたのですか?", "id": "tr-027-18-001", "answers": [ { "text": "アブドゥラ", "answer_start": 484, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "12月3日には警察長官のファーカーがインド兵20名を引率して、海岸からツァボに到着した。\nライオンの噂は遠くまで広まっていたため、インド兵たちはすべてのキャンプそばの適当な木の上に周到に配置された。\nその他に、数名の役人が警戒に加わった。\nパターソンが以前作っていた罠もこの警戒で使用されることになり、おとりとして2名のインド兵が中に入った。\nその日の日没までに警戒の準備は完了し、全員が所定の位置でライオンを待ち受けた。\n夜9時頃までは平穏に過ぎていったが、その平穏を破ったのは罠のドアがカタンと落ちる音であった。\n「ついに、1頭やっつけた」とパターソンは一瞬喜んだが、その結果は惨憺たるものであった。", "qas": [ { "question": "12月3日にツァボに到着したインド兵は何名でしたか?", "id": "tr-027-19-000", "answers": [ { "text": "20名", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "20人のインド兵を引き連れて来たのは誰ですか?", "id": "tr-027-19-001", "answers": [ { "text": "ファーカー", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ホワイトヘッドやファーカーなどが帰って1-2日後の12月9日の明け方、パターソンがボマから出ようとしているところに「シンバ!シンバ!(ライオンだ!ライオンだ!)」と叫び声をあげて1人のスワヒリ人が走ってきた。\n彼の報告によると、ライオンが川のそばにあるキャンプから労働者をさらおうとして失敗し、かわりにロバを1頭襲って殺していた。\nライオンは今、そのロバをすぐそこで食べているというものだった。\nパターソンはただちにキャンプに戻って、ファーカーが万一の備えにと残してくれていた連発銃で武装し、案内役となったスワヒリ人の後に続いた。\nライオンがその場にとどまっていることを願いながら近づくと、やぶの向こうにライオンの姿が認められるところまで行くことができた。\nしかし、案内役のスワヒリ人が枯れ枝を折る音を立て、それに気づいたライオンは唸り声をあげて近くの密林に逃げ込んだ。\nまた逃げられると思ったパターソンは急いでキャンプに引き返し、その場にいた労働者たちを集めた。\nパターソンは太鼓やブリキ缶などの鳴り物を手当たり次第に持参するよう命じ、ライオンの潜んでいる茂みを半円形に取り巻くように労働者を配置した。\nパターソンが茂みの向こう側に回り込んだところで鳴り物を一斉に打ち鳴らすように労働者の頭に言い含め、彼は単独で茂みを巡ってアリ塚のそばに身を潜めた。", "qas": [ { "question": "12月9日の明け方、ライオンは労働者の代わりに何を襲いましたか?", "id": "tr-027-20-000", "answers": [ { "text": "ロバ", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "労働者たちは包囲の円を少しずつ縮めて前進し、その音はパターソンの耳にも届いた。\nそのとき、たてがみのない巨大なライオンが獣道まで出てきた。\nライオンはゆっくりと歩き2、3秒ごとに周囲の様子をうかがっていたが、労働者たちが立てる騒音に気をとられてパターソンの存在に気づかなかった。\nパターソンはライオンが14-15メートルの距離に近づくまで待ち、銃の狙いを定めた。\nライオンはようやくパターソンの存在に気づいて、唸り声を上げた。\nパターソンはライオンの頭部に狙いをつけて銃の引き金を引いたが、手ごたえがなく不発であった。\nこの事態にうろたえたパターソンは、左の銃身から発砲することを失念した。\nライオンはまだ労働者たちが立てている騒音に動揺していたため、パターソンを襲うことはせずに道路わきの密林に逃げ込もうと跳躍した。\n落ち着きを取り戻したパターソンは、左の銃身から発砲し、それはライオンに当たっていたが、ライオンはそれでも逃げ切り、後を追ったパターソンはやがて足跡を見失った。\n度重なる不運の連続は、さすがにパターソンを意気消沈させた。\nインド人たちは、ライオンがいかなる武器をも寄せつけない「悪霊」だといっそう強く信じ込むようになっていた。", "qas": [ { "question": "インド人たちはライオンのことを何だと信じ込みましたか?", "id": "tr-027-21-000", "answers": [ { "text": "「悪霊」", "answer_start": 497, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "パターソンはキャンプに戻る前に、死んだロバの状態を確かめてみた。\nロバは臀部をわずかに食害されているのみだったため、パターソンはライオンが再びここに戻ってくるという確信を持った。\n手近には立ち木がなかったため、パターソンはロバのところから3メートルほど離れたところに3.5メートルぐらいの足場を作らせてそこに陣取ることにした。\nロバは近くの切り株に丈夫な針金を使ってしっかりとつなぎ、銃撃の前にライオンが奪っていかないように対策をとった。\nパターソンは日没後、ただ1人でこの足場に登った。\n使用人である鉄砲持ちのマヒナは、単独行動に難色を示したが、それを押し切った。\nパターソンも実は彼を連れていきたいと考えていたが、マヒナはその日ひどく咳をしていたため、声や音などで台無しにされるのを恐れたのであった。\n宵闇は暗く深く、周囲は完全な静寂に包まれていた。\nパターソンは緊張して待機していたが、やがて半分眠った状態になった。\nパターソンの意識を覚醒させたのは、小枝が折れる音であった。\nパターソンが周囲の気配に意識を集中したところ、大きな動物がやぶの中を逃げるような気がしたため「人食いライオンだ」と判断した。\nライオンは明らかに空腹であることを示す深く長いため息をつくと、やぶの中を注意深く進み始めた。\n間もなくライオンはパターソンの存在に気づき、怒ったような唸り声を上げた。", "qas": [ { "question": "パターソンの使用人の名前は何?", "id": "tr-027-22-000", "answers": [ { "text": "マヒナ", "answer_start": 256, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また逃げられるのかとパターソンは心配になったが、ライオンは逃げる代わりにパターソンを攻撃することを選んだ。\nライオンはパターソンのいる足場の周囲を、2時間ほどかけてゆっくりとはい回って彼を怯えさせた。\n急ごしらえの足場の脚部が折れたら、もしくはライオンがパターソンのいる地上3メートル付近まで跳躍してきたら、などという恐ろしい考えがパターソンを後悔させた。\n切迫した状況に耐えながら、パターソンはできるだけ不動の姿勢を保つように注意を払った。\n真夜中ごろに何かが飛んできて、パターソンの後頭部を直撃した。\n一瞬ライオンの攻撃かと動揺したパターソンは足場から落ちそうになったが、その正体はフクロウであることがわかった。\n一連の行動でパターソンが体を動かしたため、ライオンは唸り声を返した。\nライオンは少しずつ忍び足で近寄り、パターソンとの距離を縮めてきていた。\nライオンは下草の中に身を潜めていたが、パターソンはおおよその見当をつけることができた。\nライオンがそれ以上近づいてこないうちに、パターソンは狙いを定めて銃の引き金を引いた。\n直後にライオンは恐ろしい唸り声を上げ、のたうち回る音がパターソンの耳に届いた。\nライオンの姿自体は見えなかったが、パターソンはライオンが逃れた方向に向けて発砲を続けた。\n大きい唸り声を上げた後、ライオンの声は苦痛のあまり深い喘ぎ声に変わって、やがて声自体がやんだ。", "qas": [ { "question": "ライオンはパターソンのいる足場の周囲をどれくらいの時間をかけてはい回りましたか?", "id": "tr-027-23-000", "answers": [ { "text": "2時間ほど", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "真夜中ごろにパターソンの後頭部を直撃した正体は何でしたか?", "id": "tr-027-23-001", "answers": [ { "text": "フクロウ", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "パターソンが人食いライオンのうち1頭を倒したという知らせは、瞬く間に周囲のキャンプ一帯に広まった。\nキャンプにいた人々は歓喜してパターソンのいる足場を取り囲み、「マバラク!マバラク!」(神様、あるいは救世主という意味)と叫んで地面にひれ伏した。\nその夜、慎重を期したパターソンはライオンの死骸を探しに行くのはやめさせて、人々とともにキャンプに引き上げ、そこで夜通し盛大な祝宴が開かれた。\n夜明けを待って、パターソンは昨夜の場所へ向かった。\n何度もパターソンから逃れてきたライオンがまた消え失せなどしていたらと不安だったというが、ライオンは間違いなく死んでいた。\n従ってきた人々は、パターソンを肩上に担ぎ上げてライオンの周りをまわるなど大喜びしていた。\nパターソンがライオンを調べると、2発の銃弾が命中していた。\n1発は左肩後ろから心臓を貫通し、別の1発は右後ろ脚に当たっていた。\nこのライオンは鼻先から尾の先端までの長さが2メートル90センチ、立ったときの高さは1メートル15センチを測り、8人がかりでキャンプまで運ぶことになった。\nただし、何度もイバラだらけのボマを突破して人々を襲っていたため、その毛皮は傷だらけになっていた。\nさらに、以前有蓋貨車で撃った弾丸がこのライオンの牙を欠損させていたことも判明した。\n人食いライオンのうち1頭が死んだというニュースは、ほどなくして国中にも知れ渡った。\n多くの祝電が届き、各地から人食いライオンの毛皮を見るためにたくさんの人々がツァボを訪問した。", "qas": [ { "question": "死んだライオンは何人で運ばれましたか?", "id": "tr-027-24-000", "answers": [ { "text": "8人", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "歓喜した人々は何と叫んでパターソンの足場を取り囲みましたか?", "id": "tr-027-24-001", "answers": [ { "text": "「マバラク!マバラク!」", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1頭が死んでも、人食いライオンはもう1頭残っていた。\n1頭目が死んでほんの2、3日後に、ライオンは鉄道監督官を狙った。\nライオンは監督官のいるバンガローの階段を上り、ベランダを徘徊していたが監督官はその物音を酔っぱらった労働者の立てるものと思い込んで、「あっちへ行け!」と怒鳴りつけた。\n監督官を襲うのに失敗したライオンは、その代わりにヤギ2頭を襲ってその場で空腹を満たした。\nこの話を聞いたパターソンは、次の日の夜に監督官の住まいのそばで見張りをすることに決めた。\n近くには無人の鉄製の小屋があり、銃を発砲するのに適したのぞき穴も備わっていた。\n小屋の外には3頭のヤギをおとりとしておき、重量が110キログラムほどもある鉄製のレールにつないだ。\n夜明けの直前までは、平穏に過ぎていった。\nライオンはそのときに現れて、ヤギのうち1頭にとびかかり、他の2頭もろともレールごと引きずっていった。\nパターソンはライオンのいる方向に向けて数回発砲したが、真っ暗だったためライオンではなくヤギのうち1頭に当たったのみであった。", "qas": [ { "question": "2頭目のライオンのおとりに使ったヤギは何頭でしたか?", "id": "tr-027-25-000", "answers": [ { "text": "3頭", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "朝になって、パターソンはキャンプから来た数名の者とともにライオンの追跡を敢行した。\nヤギとレールが残した跡はすぐにわかり、400メートルほど先でライオンがヤギをむさぼっている場面に遭遇した。\nパターソンたちが近づく音に気づいたライオンは茂みに身を隠し、腹立たしげな唸り声を上げた。\nさらに近づいたところ、ライオンは茂みを突き抜けて攻勢に転じたため、ほとんどの者が手近な木に急いで登り難を逃れた。\nパターソンと助手のウインクラーのみがその場に残った。\nライオンは結局襲ってこず、ひそかにその場を逃れていた。\n茂みの中には、ほとんど手をつけられていないヤギの死骸のみが残されていた。\nパターソンはライオンがいつもどおり、もう1度獲物を食べに来ることは間違いないと踏んで近くに頑丈な足場を組み立てて、日暮れ前にその上に登った。\nパターソンは連日の追跡や夜の不寝番などで疲労が蓄積していたため、鉄砲持ちのマヒナを交代要員として伴っていた。\nパターソンが寝入っているときに突然マヒナが腕をつかんで、「シャー(ヒンズー語でライオンを意味する)」とただ一言伝えてきた。\n早速パターソンは自分の2連銃を装備し、ライオンの出現を待ち受けた。", "qas": [ { "question": "パターソンの助手の名前は?", "id": "tr-027-26-000", "answers": [ { "text": "ウインクラー", "answer_start": 207, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シャーとはライオンを意味しますが、それは何語ですか?", "id": "tr-027-26-001", "answers": [ { "text": "ヒンズー語", "answer_start": 449, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ライオンはやがて姿を現し、忍び足でパターソンたちがいる地点のすぐ下を通った。\nパターソンはすかさず、両方の銃身からライオンの両肩を狙って発砲した。\nライオンはこの攻撃を受けてよろめいたため、パターソンは別の連発銃を装備した。\nしかし発砲の前にライオンはやぶの中に逃れ、その方向をめがけて撃ちまくるしかなかった。\n夜が明けると、パターソンはライオンの後を追った。\n2キロメートルくらいの距離は、ライオンの血痕をたどるのは容易だった上に何回も休んだ痕跡が見受けられたので、相当な負傷をしていることは明らかだった。\n結局ライオンは見つからず、岩だらけの場所で後を追うのが難しくなったためパターソンはそれ以上の追跡を断念した。\nこの時期に、元国営鉄道でインド政府付き顧問技師を務めていたリチャード・モールワースが、視察旅行の途上でツァボを訪問した。\nモールワースは鉄橋などの工事を調査してその成果に満足したことを伝え、写真をたくさん撮影した。\nモールワースは、ライオンの襲撃などの試練についてパターソンに大いに同情した。\n2頭目のライオンをそのうちやっつけるつもりかと質問を受けたパターソンは「近日中にやっつけます」と自信をもって答えたが、モールワースは半信半疑の様子であったという。", "qas": [ { "question": "視察旅行の途上でツァボを訪問した人物は誰ですか?", "id": "tr-027-27-000", "answers": [ { "text": "リチャード・モールワース", "answer_start": 339, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ライオンはその後10日ほど姿を見せなかったので、パターソンたちはあのときの傷がもとになって死んだものと思い始めた。\nただし、夜の警戒は怠らずに続けたため、結果的にそれ以上の犠牲者を増やさずに済んだ。\n12月27日の夜、パターソンはトロッコ係の作業員たちの怯えた叫び声で目を覚ました。\n作業員たちはボマのすぐ外側にある木の上で睡眠をとっていたが、ライオンがそこを狙っていた。\n雲に隠されて月の見えない暗夜だったため外へ出ることはできず、パターソンは2、3発発砲してライオンを追い払った。\n翌朝、ライオンがそれぞれのテントまで入り込んだり、木の周りを輪になって巡ったりした痕跡が発見された。\n翌日パターソンは、作業員たちがいた木の上に陣取ってライオンを待つことにした。\n幸先の悪いことに、パターソンが木に登るときに手をかけようとした枝には毒蛇が巻き付いていた。\nパターソンが慌てて木から降りると、その事態に気づいた部下の1人が長い棒を使って毒蛇を木から引きはがすことに成功した。\nその晩は明るい月夜で、見通しもよかった。\nパターソンはマヒナと一緒に待機し、午前2時まで見張りをした後でマヒナと交代した。\n1時間ほど睡眠をとった後、パターソンは異様なものを感じて突然目を覚ました。\n見張りを続けていたマヒナの方では特段気がついたことはなく、パターソンも周囲を見回したものの異変は発見できなかった。\nパターソンが再び休息をとろうとしたとき、少し離れたところで何かが動く気配がした。\nその場所に注意を払ってよく見ると、まぎれもなくあのライオンがいた。", "qas": [ { "question": "ライオンが再び現れたのはいつの夜でしたか?", "id": "tr-027-28-000", "answers": [ { "text": "12月27日", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "パターソンが登った木に何がいましたか?", "id": "tr-027-28-001", "answers": [ { "text": "毒蛇", "answer_start": 367, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "木の周囲には、ところどころに小さな草むらがあるのみで見通しはかなり良かったが、ライオンはその草むらを巧妙に利用しながらじわじわと距離を詰めてきていた。\nパターソンは逃げられることを防ぐために、ライオンがさらに近づくのを待ち受けた。\nライオンが20メートル以内に距離を縮めたのを見計らって、パターソンはその胸部を狙い撃ちした。\n弾はライオンに命中したものの、撃ち倒すまでには至らなかった。\nライオンは唸り声を上げて方向転換し、大きく跳び上がって逃れようとしたが、パターソンはすかさず連発銃で3発撃ちこんだ。\nライオンがまた唸り声を上げたため、この射撃も命中したことがわかった。\n夜が明け始めてから間もなく、パターソンとマヒナは現地人の追跡者を伴ってライオン追跡に出発した。\nライオンは多量に出血したまま逃げていたため、追跡は容易なことであった。\n一行が林の中を400メートル足らず進んだところで、突然ライオンの唸り声がすぐ前方で聞こえた。\nやぶの向こうに、ライオンが牙をむいて一行をにらみつけ、唸りながら威嚇しているのが見えた。\nパターソンが狙いを定めて発砲したところ、ライオンは跳び上がって逆襲を仕掛けてきた。\nパターソンはもう1発発砲して1度ライオンは倒れたが、すぐさま立ち上がって片足をひきずりながらも再度立ち向かおうとした。", "qas": [ { "question": "パターソンの最初の発砲は、ライオンのどの部分に当たりましたか?", "id": "tr-027-29-000", "answers": [ { "text": "胸部", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "銃声を耳にしたキャンプの労働者たちは、全員パターソンの一行のところまでやってきた。\n2頭目のライオンがパターソンによって倒されたことを知った彼らは大いに喜んだが、同時にたくさんの仲間が殺された恨みも募っていたため、死骸を八つ裂きにしようとするのをやっとの思いで押しとどめねばならなかった。\n労働者たちや現地人の歓呼の中で、パターソンはライオンを自分のボマまで運搬させた。\nライオンには6個以上の弾痕があり、背中には10日以上前にパターソンが撃ち込んだ散弾が肉の中まで浅く入り込んでいた。\n全長は2メートル85センチで高さは1メートル19センチを測ったが、このライオンも最初の1頭と同様にボマのイバラに引っかかるなどして毛皮のあちこちに深い傷がついていた。", "qas": [ { "question": "2頭目のライオンには何個以上の弾痕がありましたか?", "id": "tr-027-30-000", "answers": [ { "text": "6個以上", "answer_start": 192, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2頭目のライオンの全長は何センチでしたか?", "id": "tr-027-30-001", "answers": [ { "text": "2メートル85センチ", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2頭目のライオンの高さはどれくらいでしたか?", "id": "tr-027-30-002", "answers": [ { "text": "1メートル19センチ", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2頭目のライオンの死の知らせも、間もなく各地に広まった。\n現地人が各地から汽車でやってきて、戦利品となったライオンと「悪魔殺し」の英雄となったパターソンを見に訪れた。\nパターソンにとって何よりもよかったのは、以前ツァボを逃亡した労働者たちが一斉に戻ってきてくれたことであった。\n工事は再び始まり、二度とライオンの被害に遭うこともなかった。\n2頭のライオンを倒したのち、労働者たちのパターソンに対する態度は一変していた。\n以前はパターソンを殺したいとたくらんでいた彼らは、その代わりに「英雄」として深い尊敬と感謝の念を表すまでになっていた。\n彼らはそのしるしとしてパターソンに美しい銀杯を贈り、パターソンが受けた試練と苦闘の末に勝ち取った勝利についてやや古風で荘重な筆致で称賛したヒンズー語の長編詩を添えた。\nパターソンは大いに喜んで、彼らの好意を受け取った。", "qas": [ { "question": "労働者たちがパターソンに贈ったものとは何ですか?", "id": "tr-027-31-000", "answers": [ { "text": "銀杯", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "人食いライオンの脅威が去ると、作業は順調に進捗した。\nツァボ川の鉄橋工事は1899年2月に完成し、線路が敷設されて汽車も通るようになった。\n鉄橋が完成し仮橋脚を撤去してから2、3日後に猛烈な豪雨がツァボを襲ったが、トロッコ用の仮橋2つは流失したものの鉄橋はびくともしなかった。", "qas": [ { "question": "ツァボ川の鉄橋工事はいつ完成しましたか?", "id": "tr-027-32-000", "answers": [ { "text": "1899年2月", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "マダガスカル", "paragraphs": [ { "context": "マダガスカル共和国(マダガスカルきょうわこく)、通称マダガスカルは、アフリカ大陸の南東海岸部から沖へ約400キロメートル離れた西インド洋にあるマダガスカル島および周辺の島々からなる島国である。\nマダガスカル島は、日本の国土面積の約1.6倍の広さを持つ、世界で4番目に大きな島である。\n先史時代にゴンドワナ超大陸の分裂に伴いアフリカ大陸から分かれ、さらにその後の8800万年前ごろにインド亜大陸とも分離して形成された。\n他の大陸と生物種の往来が少ない孤立した状態が長く保たれたため、島内の生態系を構成する各生物種が独特の進化を遂げた。\n21世紀現在でも野生生物種の90パーセント以上が固有種という、生物多様性にとって重要な場所である。\nところが、かようにユニークな生態系が、特に20世紀に入って以降、急速な人口増加と無秩序な開発に伴う環境破壊により失われ始め、21世紀現在も深刻な危機に直面している。", "qas": [ { "question": "マダガスカルの正式名称は何?", "id": "tr-028-00-000", "answers": [ { "text": "マダガスカル共和国", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マダガスカル島と日本の国土は、どちらが面積が広いですか?", "id": "tr-028-00-001", "answers": [ { "text": "マダガスカル島", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マダガスカル島の生態系が大きく崩れ始めたのはいつからですか?", "id": "tr-028-00-002", "answers": [ { "text": "20世紀", "answer_start": 338, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "マダガスカルに人類が居住し始めたのがいつか、また、それがどのような人々であったのかという問題については諸説あり、議論に決着を見ていない。\n通説では、紀元前350年から紀元後550年の間にオーストロネシア系の人々が稲作の技術を携えて、アウトリガーカヌーに乗ってボルネオ島南部からやってきたと考えられている。\nマダガスカル語はオーストロネシア語族に属し、マレー語などに近い。\nさらにその後、10世紀までの間にバントゥー系の人々が東アフリカからコブウシとともにモザンビーク海峡を渡って移住したと見られる。\nこの東南アジアと東アフリカ、それぞれにルーツを持つ集団を基礎に、その他にも、長い歴史の中でさまざまな民族集団の移住・定住の波が繰り返し到来して、現在マダガスカル人と呼ばれる民族集団が形成された。\n彼らをいくつかのサブグループに分割して捉える考え方もあり、その場合、最大多数派は中央高地に住むメリナ人である。", "qas": [ { "question": "マダガスカル人の中で人数が多い民族とは?", "id": "tr-028-01-000", "answers": [ { "text": "メリナ人", "answer_start": 395, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マダガスカル語は何の言語に近いの?", "id": "tr-028-01-001", "answers": [ { "text": "マレー語", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ボルネオ島南部からマダガスカルにやってきた人々の移動手段は何だったの?", "id": "tr-028-01-002", "answers": [ { "text": "アウトリガーカヌー", "answer_start": 116, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "19世紀に至るまでマダガスカル島全土に広域的な支配を確立した政権は存在しなかったが、メリナ人の貴族階層を中心にした政権が19世紀前半に灌漑耕作技術の進展に伴い強勢となり、島の大部分を統一した。\nしかし、このマダガスカル王国はフランスとの戦争に敗北して崩壊し、1897年にフランス植民地帝国に吸収された。\n60年以上に及ぶ植民地時代にはサトウキビのプランテーションや黒鉛の採掘が行われ、モノカルチャー経済化が進展、フランスへの原料供給地かつフランスの工業製品の消費地として位置づけられた。\n「アフリカの年」1960年に共和制の主権国家として一応の独立を回復するものの政治、経済、軍事、教育などの面で実質的にフランスに依存し従属する体制であった。", "qas": [ { "question": "マダガスカル王国はどこの植民地でしたか?", "id": "tr-028-02-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マダガスカル王国が独立した年はいつ?", "id": "tr-028-02-001", "answers": [ { "text": "1960年", "answer_start": 252, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マダガスカル王国がフランスの植民地支配を受けるようになったのは何年から?", "id": "tr-028-02-002", "answers": [ { "text": "1897年", "answer_start": 129, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1970年代に成立した社会主義政権下ではCFAフラン圏からの離脱、駐留フランス軍の撤退などフランス依存からの脱却が目指されたが、その代償として国際収支の悪化や経済の低迷を経験した。\n1980年代には早くも社会主義路線から方針転換を行い、国際通貨基金(IMF)の援助を受けて経済再建と構造調整に取り組んだ。\nその後も複数回の政治危機が起きた。\n直近に起きた2009年の政治危機では、憲法に基づいた手続きを経ない政権交代が行われ、観光業の不振など経済の低迷と国際的孤立を招いた。\n目下のところマダガスカルは、人口が2012年時点でちょうど2,200万人を超えたあたりと推定されており、そのうち90パーセントが1日あたり2ドル以下で生活している。\n「後発開発途上国」に分類される。\n2015年の経済成長率は年率3.1パーセントで、人口増加率をかろうじて上回ったにすぎなかった。\n国際社会の中におけるマダガスカルは、国際連合、アフリカ連合、世界貿易機関(WTO)、南部アフリカ開発共同体(SADC)などの加盟国である。", "qas": [ { "question": "マダガスカルの人口が2,200万人を超えたのは何年ですか?", "id": "tr-028-03-000", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 255, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マダガスカル語によるマダガスカルの最も標準的なエンドニム(endonym;自称詞、内名)は、Madagasikara[madaɡasjˈkjarə̥]である。\nこれはエクソニム(exonym;他称詞、外名)のMadagascarに由来する。\nこのエクソニムは、13世紀の旅行者マルコ・ポーロの有名な旅行記に記載されているMadageiscarという地名から転訛したものである。\nポーロ自身はMadageiscarに行ったことはなく、紅海の南にモガディシュという場所があると伝え聞いたにすぎないが、このときに耳で聞いた音を転写する際に誤りが生じた。\nさらにポーロはこの港を島であると勘違いしていた。\nポーロの誤伝に基づく名前が普及するまでには、1500年の聖ラウレンティウス殉教の日(8月10日)に、ポルトガルの冒険者ディオゴ・ディアスが海上からこの島を目視し(「上陸した」は誤り)、「サン・ロレンソ」(SãoLourenço)と名付けたこともあった。\nしかしながら、ルネサンス期の世界図にはポーロの誤伝に基づく名前の方が好まれ、普及した。", "qas": [ { "question": "マダガスカルはマルコ・ポーロの旅行記にどのように記載されていましたか?", "id": "tr-028-04-000", "answers": [ { "text": "Madageiscar", "answer_start": 160, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「サン・ロレンソ」と名付けた人は誰?", "id": "tr-028-04-001", "answers": [ { "text": "ディオゴ・ディアス", "answer_start": 358, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ディオゴ・ディアスがマダガスカルの島を発見したのは何年?", "id": "tr-028-04-002", "answers": [ { "text": "1500年", "answer_start": 321, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "島の住民がこの島全体を指して呼ぶ呼び名でMadagasikaraより古い言葉は存在しないが、自分たちが居住する地域を越えない範囲でその土地の呼び名を持っていた民族グループは存在する。\nまた、マダガスカル語で「先祖の土地」を意味する「タニンヂャザナ」はマダガスカルに対する美称として好んで用いられている。\nフランス語でマダガスカルを指す言葉としてMalgacheもある。\n日常的には「大きい島」を意味するlaGrandeÎleも極めてよく使われる。", "qas": [ { "question": "「タニンヂャザナ」は現地の言葉でどんな意味ですか?", "id": "tr-028-05-000", "answers": [ { "text": "「先祖の土地」", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "laGrandeÎleの意味は何?", "id": "tr-028-05-001", "answers": [ { "text": "「大きい島」", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マダガスカル島(本島およびまたは周辺の島嶼を指す。以下、本節において同じ)は、地質学的な時間の尺度(geologictimescale)で見ると、今からおよそ1億3000万年前ごろ(130Ma)に、インド亜大陸、南極、オーストラリア大陸とともに超大陸ゴンドワナから分かれ、その後、南極とオーストラリア大陸のブロックと分かれた後、今からおよそ9000万年前ごろ(90Ma)にインド亜大陸とも分裂した。\nこのようにマダガスカル島は、他の大陸から孤立してからの時間が非常に長く、その結果、地球上の他の土地では見つけることができない植物や動物の豊富な生育地・生息地となった。", "qas": [ { "question": "マダガスカル島がインド亜大陸から分裂したのは何年前ですか?", "id": "tr-028-06-000", "answers": [ { "text": "およそ9000万年前ごろ", "answer_start": 167, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "国土総面積592,800平方キロメートルを有するマダガスカル共和国は、世界で46番目に広い国である。\n国土の主要部分を占めるマダガスカル島は、世界で4番目に大きい島である。\n国土はおおむね、南緯12度から26度、東経43度から51度の間に位置する。\n隣国としては、インド洋に浮かぶ周囲の島々に、フランス領レユニオン、モーリシャス共和国、セーシェル共和国、コモロ連合、フランス領マヨットなどがある。\nまた、モザンビーク海峡を挟んで対岸のアフリカ大陸側にはモザンビーク共和国がある。", "qas": [ { "question": "マダガスカルのアフリカ大陸側の隣国はどこになりますか?", "id": "tr-028-07-000", "answers": [ { "text": "モザンビーク共和国", "answer_start": 226, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マダガスカル島においては、一直線に伸びる東海岸に沿って、狭く急激にせり上がるエスカープメント(断崖地形)が形成されており、ここにマダガスカル独特の低地熱帯雨林が残されている。\n断崖の稜線を超えて西、島の中央部には、海抜750メートルから1,500メートルの標高のプラトーがある。\nここがメリナ族の故地、「中央高地」と呼ばれる地方で、首都のアンタナナリヴもここに所在する。\n中央高地はマダガスカル島で最も人口稠密な地域であり、草で覆われた丘とまばらに点在する半湿潤林の間を縫って、米が育つ階段状の渓谷が走るという自然景観に特徴づけられる地方である。\nなお、この半湿潤林はかつては中央高地全体を覆っていたが、15世紀ごろから始まる人間活動により縮退したものと考えられている。\n中央高地から西へ向かうにつれ、乾燥した土地が増えつつなだらかにモザンビーク海峡へと下る。\n海岸沿いの塩性湿地にはマングローブが茂る。", "qas": [ { "question": "マダガスカルの首都は?", "id": "tr-028-08-000", "answers": [ { "text": "アンタナナリヴ", "answer_start": 169, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マダガスカルに熱帯雨林があるのは東西どちらの海岸ですか?", "id": "tr-028-08-001", "answers": [ { "text": "東", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マダガスカル島で最も標高の高い三峰は、同島の脊梁山脈に聳える。\nツァラタナナ山脈のマルムクチュ山(Maromokotro、2,876メートル)は最も標高が高く、次にアンヂンギチャ山脈のボビー峰(BobyPeak、2,658メートル)と、アンカラチャ山脈のツィアファザヴナ山(Tsiafajavona、2,643メートル)が続く。\n島の東側にある「パンガラヌ運河」は、フランス植民地当局が人造湖と自然湖を繋いで建設した運河で、トゥアマシナから東海岸に沿って南方に、海岸線と平行に600キロメートルにわたって延びる。\n島の南西側は中央高地の雨陰となるため降雨が少なく、落葉樹林、有刺林叢、乾燥疎灌叢の生育地である。\n南西部の乾燥落葉樹林は、当地の人口が少ないため、東部の熱帯雨林や中央高地に本来あったはずの森林と比較すると、よく保存されている。\n西海岸沿いには波風を避けるのに適した港が多数あるが、泥砂の堆積が目下大きな問題となっている。\nこれは内陸で高い水準の土壌浸食が起き、河川により広い西部平野を抜けてもたらされたものである。", "qas": [ { "question": "マルムクチュ山、ボビー峰、ツィアファザヴナ山の中で2番目に標高が高いのはどれ?", "id": "tr-028-09-000", "answers": [ { "text": "ボビー峰", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マルムクチュ山とツィアファザヴナ山はどちらが低いですか?", "id": "tr-028-09-001", "answers": [ { "text": "ツィアファザヴナ山", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "マダガスカル島は南北に細長い形であるが、その気候は南北の差異よりも東西の差異の方が大きい。\nマダガスカルの気候は、南東貿易風と北西モンスーンの影響を強く受け、これら勢力の組み合わせにより季節が移り変わる。\n気温が高く降雨量が多い雨季(11月から4月まで)と、比較的低温で乾燥する乾季(5月から10月まで)がある。\n雨季には頻繁に破壊的なサイクロンが襲来する。\nインド洋上で発生する雨雲は、島の東海岸部上空で蓄えた水分の多くを放出する。\nそのため当該地域の降雨量は非常に多く、熱帯雨林の生態系の形成に寄与している。\n中央高地は東海岸部よりも乾燥し、気温も低い。\n西部はさらに乾燥しており、島の南西部と南部の内陸は、半砂漠気候(ステップ気候)が広がる。\n熱帯性低気圧は毎年定期的に、インフラストラクチャーと地域経済に損害を与え、家を失う人を出す。\n1848年から1970年までの122年間で155回のサイクロンに見舞われたという記録があり、年平均1.27回のサイクロンがあったことになる。", "qas": [ { "question": "マダガスカルの雨季は何月から何月までですか?", "id": "tr-028-10-000", "answers": [ { "text": "11月から4月まで", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マダガスカルの乾季は何月から何月までですか?", "id": "tr-028-10-001", "answers": [ { "text": "5月から10月まで", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東海岸部、中央高地、西部の中で最も乾燥している地域はどこ?", "id": "tr-028-10-002", "answers": [ { "text": "西部", "answer_start": 280, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "18世紀の自然学者フィリベール・コメルソンは論文に「マダガスカルこそが自然学者にとっての『約束の地』である」と書いた。\nマダガスカルで見出すことのできるすべての動植物種のおよそ90パーセントが固有種である。\n特色ある生物相ゆえに、マダガスカルはしばしば「大陸のミニチュア」あるいは「第8番目の大陸」と形容される。\n「自然学者にとっての約束の地」の森林は、生物多様性保全の上で重要な存在であるが20世紀末の時点で90パーセントが失われたと推定されている。\n国際自然保護NPOコンサベーション・インターナショナルは、マダガスカルを「生物多様性ホットスポット」と呼び、環境保護を訴えている。", "qas": [ { "question": "マダガスカルで生息する動植物のうち、およそ何パーセントが固有種ですか?", "id": "tr-028-11-000", "answers": [ { "text": "およそ90パーセント", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マダガスカルの環境保護を訴えている団体はどこですか?", "id": "tr-028-11-001", "answers": [ { "text": "コンサベーション・インターナショナル", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マダガスカルにおける1万4,883種に及ぶ植物種のうち、80パーセント以上が固有種である。\nこの中には、科レベルで固有の植物群、5科が含まれる。\nそのような固有科の1つであるディディエレア科は4属11種からなり、全世界でもマダガスカル島南西部の有刺林のみに生育する。\nキョウチクトウ科のパキポディウム属の仲間のうち、全世界に存在する種の5分の4が本島に固有の種である。\nマダガスカルに生息するラン科の種は全部で860種とされるが、そのうち4分の3がここだけで見られる種である。\n世界に9種あるバオバブ属のうち6種がマダガスカルの固有種である。\nマダガスカルに生育するヤシは全部で170種で、これはアフリカ全体の種数の3倍の多様さであり、しかもそのうち165種が固有種である。\n東部雨林の数多い固有種の中でも、タビビトノキは、マダガスカルという国の象徴ともいえるものであり、これを図案化したものが国章や国営航空会社のロゴのデザインに用いられている。\nなお、タビビトノキは現地の言葉では「ラヴィナラ(ravinala)」という名前で知られる。\nマダガスカルの植物の中には、さまざまな苦痛を取り除く薬草として用いることができるものも多い。\nホジキンリンパ腫や白血病、その他の癌の治療に用いられるビンブラスチンとビンクリスチンという薬は、マダガスカルの固有種、ニチニチソウ(Catharanthusroseus)から抽出されたものである。", "qas": [ { "question": "生息するヤシの種類は、マダガスカルとアフリカ全体のどちらが多いですか?", "id": "tr-028-12-000", "answers": [ { "text": "マダガスカル", "answer_start": 272, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界に9種あるバオバブ属のうち、マダガスカルにしかないのは何種ですか?", "id": "tr-028-12-001", "answers": [ { "text": "6種", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "世界に生育するバオバオ属のうち、最も多くの種類が生育している国はどこですか?", "id": "tr-028-12-002", "answers": [ { "text": "マダガスカル", "answer_start": 257, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "マダガスカルの動物相が多様性に富み、固有種率が高いことは、その植物相に似る。\nフランス語やマダガスカル語で「レミュール」と総称されるキツネザル、アイアイ、ロリスなどの原猿類は、マダガスカルを代表する哺乳類とされている。\nマダガスカルには他の大陸とは違い、レミュール以外のサルなどの他の競合がいなかったため、この霊長類は環境に適応して多様化した。\n2012年時点で公式に103種がリストアップされており(Listoflemurspecies)、そのうちの39種は2000年から2008年の間に動物学者らにより他種から分離されたものである。\nこれらの原猿類は、ほとんどすべてが、希少であるか、脆弱であるか、絶滅の危機に瀕している種にカテゴライズされる。\n人類のマダガスカル到来以来、少なくとも17種の原猿類が絶滅した。\n絶滅した種はすべて、生き残った原猿類の種よりも大型であった。", "qas": [ { "question": "キツネザル、アイアイなどの原猿類は、マダガスカル語で何と総称されていますか?", "id": "tr-028-13-000", "answers": [ { "text": "「レミュール」", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "絶滅した原猿類と生き残った原猿類は、どちらが小型ですか?", "id": "tr-028-13-001", "answers": [ { "text": "生き残った原猿類", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マダガスカルに人間が入って来てから、何種の原猿類が絶滅したの?", "id": "tr-028-13-002", "answers": [ { "text": "17種", "answer_start": 344, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "原猿類のほかにも、マダガスカルの固有種であるような哺乳類が、たとえばネコに似た動物フォッサのように多数いる。\nまた、マダガスカルに生息する300種を超える鳥類のうち、約60パーセント(このうち、科レベルでは4科、属レベルでは42属)が固有種である。\n爬虫類に関しては、マダガスカルにやってきた科や属の種類こそ少ないが、それらが当地で260種以上に適応放散した。\nその90パーセント以上(このうち、科レベルでは1科)が固有種である。\nマダガスカルは世界中のカメレオンのうち、3分の2の種の生息地である。\n世界最小の爬虫類として知られるミクロヒメカメレオンもマダガスカルの固有種である。\nカメレオンの進化と種の分化に関して過去の通説では、カメレオンが他の大陸からマダガスカルに渡ってきたのち適応放散するモデルが考えられたが、近年の分子遺伝学的アプローチによると、カメレオンはマダガスカルで独特の進化を遂げたトカゲであり、マダガスカルこそがカメレオン科に属するすべての種の原産地と考えられている。", "qas": [ { "question": "マダガスカルに生息する鳥類のうち、固有種の割合はどれくらいですか?", "id": "tr-028-14-000", "answers": [ { "text": "約60パーセント", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マダガスカルに生息する爬虫類のうち、固有種の割合はどれくらいですか?", "id": "tr-028-14-001", "answers": [ { "text": "90パーセント以上", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界で最も小さい爬虫類は何ですか?", "id": "tr-028-14-002", "answers": [ { "text": "ミクロヒメカメレオン", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "世界で最もカメレオンの種が多く生息している地はどこですか?", "id": "tr-028-14-003", "answers": [ { "text": "マダガスカル", "answer_start": 216, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "魚類においては、2科15属、100種以上の固有種がある。\n主として内陸の淡水の湖や川に棲息している。\nマダガスカルの無脊椎動物についての研究はあまりなされていないのが現状であるが、存在が確認されている種に占める固有種の率が非常に高いことがわかっている。\nたとえば、チョウ目やコガネムシ科、アミメカゲロウ目、トンボ、クモなどに多い。\nとりわけ、陸生貝類は685種が知られており、その98パーセントが固有種である。\nさらに調査が進めば、倍の種が見つかるであろうと予想されている。\nその大半はゴンドワナ超大陸に起源を持つ古い系統である。", "qas": [ { "question": "マダガスカルに生息している陸生貝類の種類はいくつですか?", "id": "tr-028-15-000", "answers": [ { "text": "685種", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マダガスカルに生息している魚類の固有種の数はいくつですか?", "id": "tr-028-15-001", "answers": [ { "text": "100種以上", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マダガスカルの多様性に富む生物相は、人間の活動により危機に瀕している。\n人類がおよそ2350年前にマダガスカルに初めてわたったときから、そこにもともとあった森林は失われ始め、今ではその90パーセント以上を喪失した。\nこの森林喪失を大きく加速させているのが、マダガスカルに最も早くから住み着いた人々が持ち込んだタヴィ(tavy)と呼ばれる焼畑である。\n農民たちはこの農法を、利益が出るという理由だけでなく、繁栄、健康、尊ばれてきた先祖伝来の慣習(フンバ・マラガシ、fombamalagasy)と文化的に結びつくために取り入れ、恒常化させている。", "qas": [ { "question": "マダガスカルに初めて人類が入ったのは何年前ですか?", "id": "tr-028-16-000", "answers": [ { "text": "およそ2350年前", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マダガスカルの森林喪失を大きく加速させている原因は何ですか?", "id": "tr-028-16-001", "answers": [ { "text": "タヴィ", "answer_start": 154, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タヴィはどういった農法ですか?", "id": "tr-028-16-002", "answers": [ { "text": "焼畑", "answer_start": 168, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "島内の人口密度が上がり、森林喪失が加速度的に早まったのが今から1400年前ごろである。\nマダガスカルに定住し始めた人類は、最初、沿岸部にあった雨林を耕作地に変えた。\n彼らは、大型のレミュール類、エピオルニス類、ジャイアントフォッサなどが闊歩するマダガスカルの豊かなメガファウナに出会った。\nそして狩猟と生息地破壊を通じてそれらの大型の動物群を絶滅に追いやった。\n中央高地を覆っていた森林の開墾は、遅くとも西暦600年までには始まっていた。\n16世紀には、中央高地にもともとあった森林のかなりの部分が消え去ってしまっていた。\nさらに時が下ると、今から1000年前ごろから群れで家畜を飼う牧畜が始まった。\n調理の際に使う燃料としての木炭への依存も始まった。\n過去数世紀の間には商品作物として台頭したコーヒーの作付けも行われた。\nこれらが森林規模の縮小につながった。", "qas": [ { "question": "森林喪失の速度がいっそう早まったのはいつ頃からですか?", "id": "tr-028-17-000", "answers": [ { "text": "1400年前ごろ", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中央高地の森林の大半が消失したのはいつですか?", "id": "tr-028-17-001", "answers": [ { "text": "16世紀", "answer_start": 220, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "マダガスカル島を覆う森林は1950年代から2000年の間に、その面積の約40パーセントが失われたと推定されるが、この推定はそれでも控えめな見積もりである。\n残された森林地域でも、その80パーセントで間伐が行われている。\n野生生物保護の障害となっているのは、伝統的農耕もさることながら、保護林の不法伐採である。\nさらに、国立公園における希少木の伐採を国家が容認することも障害となっている。\nたとえば、国立公園で希少木材を伐採することは2000年から2009年までの間、ラヴァルマナナ政権下では禁止されていたが、2009年1月に少量であれば認めることとなった。\nこの再認可はラヴァルマナナ追放後における支援者への見返りに当てるため、国家歳入源の切り札として、ラズエリナが認めたものであった。\nマダガスカル島の雨林のすべてが、保護区や分水嶺の東側に位置する急斜面に存在するものを除いて、2025年までに消滅してしまうと予想されている。", "qas": [ { "question": "2000年から2009年の間にマダガスカルの政権を握っていた人は誰ですか?", "id": "tr-028-18-000", "answers": [ { "text": "ラヴァルマナナ", "answer_start": 233, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1950年代から2000年の間になくなった森林面積の割合はどれ程でしたか?", "id": "tr-028-18-001", "answers": [ { "text": "約40パーセント", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2003年にラヴァルマナナが表明した「ダーバン・ヴィジョン」では、自然保護区の面積を3倍以上に増やして、総面積で6万平方キロメートル、あるいは、国土面積の10パーセント以上にすることが謳われた。\n2011年時点で国家による保護を受けているエリアは、厳正自然保護区(StrictNatureReserves/RéservesNaturellesIntégrales)5か所、野生生物保護区(WildlifeReserves/RéservesSpéciales)21か所、国立公園(NationalParks/ParcsNationaux)21か所にすぎない。\n2007年には国立公園6か所(マルジェジ、マスアラ、ラヌマファナ、ザハメナ、アンドゥハヘラ、アンヂンギチャ)がまとめて「アツィナナナの雨林」の名前でユネスコにより「世界遺産である」と宣言された。\nその一方、マルジェジ国立公園においては、公園内の保護雨林から希少種のローズウッドが切り出され、国外流出しているのが現実である。\n違法伐採木材の密輸先はほとんどが中国であり、用途は高級家具や楽器である。", "qas": [ { "question": "2011年に国家による保護を受けたエリアの中で、最も数が少なかったのはどこですか?", "id": "tr-028-19-000", "answers": [ { "text": "厳正自然保護区", "answer_start": 124, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "厳正自然保護区と国立公園では、2011年に国家による保護を受けた数が多いのはどちらですか?", "id": "tr-028-19-001", "answers": [ { "text": "国立公園", "answer_start": 234, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マルジェジ、マスアラ、ラヌマファナ、ザハメナ、アンドゥハヘラ、アンヂンギチャの森林の総称は何ですか?", "id": "tr-028-19-002", "answers": [ { "text": "「アツィナナナの雨林」", "answer_start": 338, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "違法伐採木材の大半はどこに密輸されているの?", "id": "tr-028-19-003", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 457, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "生息域破壊と狩猟は、マダガスカルの固有種の多くを脅かし、絶滅の危機へと追いやった。\n大型のダチョウ目に属したエピオルニスは17世紀以前に絶滅したが、その原因はおそらく人間により成鳥が捕獲されたことと、大きな卵が食料にするため乱獲されたためであるとされる。\nまた、島に残された骨の研究から、人類が島に到来すると同時に多くの大型のレミュール類の種が地上から消え去り、その他の種も何世紀かかけて絶滅への道を歩んだ。\nこれは、人類の人口が増えるにつれレミュールの棲息域に大きな圧力がかかったり、レミュールを狩って食料にした者たちがいたりしたためである。\n2012年7月に行われた環境評価によると、2009年のクーデター事件以来行われている天然資源の採掘により、野生生物の生態系が差し迫った危険にさらされる結果がもたらされていることがわかった。\n90パーセントのレミュールが絶滅の危機にあることが判明し、その割合はどの哺乳類よりも高い割合であった。\nそのうち23種は「絶滅寸前(criticallyendangered)」に分類される。\n2008年に行われた前回の研究では対照的に、絶滅の危機にさらされているレミュール類は38パーセントに過ぎなかった。", "qas": [ { "question": "2012年と2008年に行われた環境評価で、絶滅の危機にさらされているレミュール類の割合が多かったのはどちらですか?", "id": "tr-028-20-000", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 273, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "アメリカン航空191便墜落事故", "paragraphs": [ { "context": "アメリカン航空191便墜落事故(アメリカンこうくう191びんついらくじこ、英語:AmericanAirlinesFlight191)とは、1979年5月25日、アメリカン航空が運航するDC-10型機が墜落した航空事故である。191便はアメリカ合衆国のシカゴ・オヘア国際空港発、ロサンゼルス国際空港行きの定期旅客便であり、オヘア国際空港を離陸した直後に墜落した。搭乗者全員の271人と地上で巻き込まれた2人が死亡し、2018年現在、テロ事件を除く航空事故のなかでアメリカ航空史上最大の犠牲者数を出した。", "qas": [ { "question": "アメリカン航空191便墜落事故とは、どの空港の近くで起こった事故であるか?", "id": "tr-029-00-000", "answers": [ { "text": "オヘア国際空港", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2018年の時点でテロ事件を除く航空事故のなかでアメリカ航空史上最大の犠牲者数を出した事故とは、何か?", "id": "tr-029-00-001", "answers": [ { "text": "アメリカン航空191便墜落事故", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "事故のきっかけは、離陸のための機首上げ操作中に左主翼下の第1エンジンとパイロンが機体から脱落したことであった。これにより油圧系統が損傷して左翼のスラットが意図せず格納されてしまい、左翼だけが低速で失速しやすい状態となった。さらに、第1エンジンからの給電も無くなったことで警報装置の一部が機能しなくなり、機体が意図しない空気力学特性となったことをパイロットは認識できなかった。パイロットはエンジン停止時の緊急時の手順通りに離陸・上昇を継続したが、その手順では飛行速度を落とすことになっていた。これにより左翼のみ失速域に入ってしまい、機体が急激に左に傾き始めた。さらに左旋回と機首下げも発生して制御不能に陥り、離陸からわずか30秒で空港近郊に墜落した。当初は事故原因として設計不良が疑われ、アメリカ連邦航空局(FederalAviationAdministration)はDC-10型機の型式証明の効力を停止した。この措置はアメリカ国外にも波及し、世間からDC-10型機の安全性に厳しい目が向けられた。詳細な調査の結果、エンジンとパイロンが機体から分離した原因は、航空会社の不適切な整備手順であることが判明した。事故調査報告書の発行後、連邦航空局による整備手順の監督体制が強化されたほか、機体の安全性を向上するための設計変更命令が発行され、エンジン停止時の飛行速度も見直された。2011年に遺族らの活動により墜落地点の近くに追悼施設が建設された。", "qas": [ { "question": "事故のきっかけとなった操作とは、どんな操作なの?", "id": "tr-029-01-000", "answers": [ { "text": "機首上げ操作", "answer_start": 15, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "事故機が機首上げ操作中であった時に、機体の左主翼下から脱落した部品は、第1エンジンと何ですか?", "id": "tr-029-01-001", "answers": [ { "text": "パイロン", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "事故があった当時、アメリカ連邦航空局がDC-10型機の型式証明の効力を停止したのは、事故原因として何が疑われたからか?", "id": "tr-029-01-002", "answers": [ { "text": "設計不良", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最終的に事故原因は、何だと判明されたか?", "id": "tr-029-01-003", "answers": [ { "text": "航空会社の不適切な整備手順", "answer_start": 480, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アメリカン航空191便はアメリカ合衆国の国内定期便で、イリノイ州シカゴのオヘア国際空港発でカリフォルニア州ロサンゼルスのロサンゼルス国際空港行きであった。1979年5月25日の便には乗客258人と乗員13人の計271人が搭乗していた。使用機材はDC-10-10型機であった。DC-10型機は左右の主翼下と垂直尾翼の付け根に1基ずつの計3基のターボファンエンジンを備えた旅客機である。機体記号は「N110AA」であり、エンジンはゼネラル・エレクトリック社のCF6-6Dだった。1972年2月25日にアメリカン航空に納入され、事故までの7年間の飛行時間は20,000時間弱であった。飛行記録やメンテナンス記録には事故前日の1979年5月24日までの機械的不具合は記録されていなかった。事故当日の記録は機体のログブックに綴じられており事故によって喪失した。", "qas": [ { "question": "乗客と乗員のうち、1979年5月25日の便に搭乗した人数がより多かったのは、どちらなの?", "id": "tr-029-02-000", "answers": [ { "text": "乗客", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "事故になったアメリカン航空191便の機体記号は、何ですか?", "id": "tr-029-02-001", "answers": [ { "text": "「N110AA」", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカン航空191便は事故に遭うまで、何年間運用されたか?", "id": "tr-029-02-002", "answers": [ { "text": "7年間", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "事故当日の191便の機長は1950年にアメリカン航空に入社した。彼はコンベア240、コンベア990、ロッキードL-188、ボーイング727、707、ダグラスDC-6、DC-7などの運航資格を有し、1971年12月にDC-10型機の運航資格を取得した。総飛行時間は22,500時間で、そのうちDC-10型機の機長としての飛行経験は3,000時間であった副操縦士は49歳で1966年にアメリカン航空に入社し、1977年7月にDC-10型機の運航資格を取得した。9,275時間の飛行時間を有し、そのうち1,080時間がDC-10型機によるものだった。航空機関士は56歳で1955年にアメリカン航空へ入社し、1971年9月にDC-10型機の運航資格を取得した。航空機関士としての飛行時間は約15,000時間で、DC-10型機での飛行は750時間であった。客室乗務員は10名で全員DC-10型機の乗務に必要な要件を満たしていた。", "qas": [ { "question": "事故当日のアメリカン航空191便の機長が、当便の使用機材の運航資格を取得したのは、いつなの?", "id": "tr-029-03-000", "answers": [ { "text": "1971年12月", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "事故機の機長と副操縦士、航空機関士の経歴を比較した時、DC-10型機の運航資格を最も早く取得したのは、誰ですか?", "id": "tr-029-03-001", "answers": [ { "text": "航空機関士", "answer_start": 272, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "事故機の機長と副操縦士、航空機関士の経歴を比較した時、アメリカン航空に最も早く入社したのは、誰ですか?", "id": "tr-029-03-002", "answers": [ { "text": "機長", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "事故機の機長と副操縦士、航空機関士の経歴を比較した時、自分の職務としてのDC-10型機での飛行時間が最も短いのは、誰ですか?", "id": "tr-029-03-003", "answers": [ { "text": "航空機関士", "answer_start": 272, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アメリカ中部夏時間14時59分、オヘア国際空港のゲートから滑走路22Rまで地上滑走した。エンジン始動からプッシュバックと地上滑走の開始までを見守っていた整備員は特に異常を感じることはなかった。当時の天候は晴れで視程は15マイル(24キロメートル)、地上付近は風速22ノット(25マイル毎時;41キロメートル毎時)の北西の風が吹いていた。15時02分、191便は離陸許可を得て滑走路32Rにて離陸滑走を開始した。コックピットボイスレコーダには、V1(離陸決心速度)、VR(引き起こし速度)を読み上げる声が記録されていた。ここまで順調に離陸滑走が続いたが、浮揚のための機首上げ操作時に、左翼から第1エンジンがパイロン(エンジンを翼下に吊り下げる構造部)とともに分離した。パイロンとエンジンは翼の前方上側に巻き上がり、翼の上を通過して滑走路に落下した。さらに、左翼の前縁部0.9メートルも脱落した。第1エンジンのパイロンが外れた辺りから白煙または霧状ものが出ているのも目撃されている。エンジン分離を目の当たりにした管制官は、直ちに「アメリカン航空191便、引き返したいか?どの滑走路か?(Alright,American191heavy--doyouwanttocomebackandtowhatrunway?)」と無線で尋ねたが返答はなかった。", "qas": [ { "question": "アメリカン航空191便が離陸許可を得て離陸滑走を開始したのは、どこにてなの?", "id": "tr-029-04-000", "answers": [ { "text": "滑走路32R", "answer_start": 187, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "順調に離陸滑走を続けていたアメリカン航空191便が、浮揚のための機首上げ操作に入ると、どこから第1エンジンとパイロンが分離しましたか?", "id": "tr-029-04-001", "answers": [ { "text": "左翼", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "左翼から第1エンジンとパイロンが分離するのを目撃した管制官の交信に対し、事故機からは返信があったか?", "id": "tr-029-04-002", "answers": [ { "text": "なかった", "answer_start": 565, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "191便は離陸を継続し、アメリカン航空が定めたエンジン停止時の緊急手順に従ってパイロットは飛行速度を調整した。機体が地面から140フィート(43メートル)まで上昇した時点で、速度は172ノット(319キロメートル毎時)に達していた。機体は上昇を続けたが、ここから減速し始めて325フィート(99メートル)まで上昇したところで速度は159ノット(294キロメートル毎時)となった。ここで機体が左へ傾きだし、毎秒4度以上の急激なロールが始まった。続いて急激に左への機首振り(ヨー運動)が始まり、さらに機首が下がって降下しだした。ロール運動は垂直を超えるまで続き、15時04分頃、左翼と機首を下げた姿勢で墜落した。", "qas": [ { "question": "アメリカン航空191便が墜落したのは、何時何分頃だったの?", "id": "tr-029-05-000", "answers": [ { "text": "15時04分頃", "answer_start": 279, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカン航空191便は、どのような姿勢で墜落しましたか?", "id": "tr-029-05-001", "answers": [ { "text": "左翼と機首を下げた姿勢", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "墜落地点は、滑走路32Rの離陸側終端から北西に約4,600フィート(1,400メートル)にある開けた土地だった。機体は爆発し、墜落の衝撃と火災で破壊された。残骸は墜落地点とその隣にあったトレーラー・パークに飛散した。この火災によって、倉庫として使用されていた古い格納庫など墜落地点付近の6棟が全焼し、トレーラーハウスも5棟が全半焼した。墜落地点から約100メートルの場所にいた目撃者は「見上げると炎の雨が降ってきた」と述べている。搭乗者271人は全員死亡し、地上にいた2人も巻き込まれて死亡、2人が火傷を負った。犠牲者の遺体は墜落の衝撃と火災で激しく離断・損傷して散乱し、現場に駆けつけた消防士は「遺体が男性か女性か、あるいは大人か子供かも判らない状況だった」と証言している。シカゴのクック郡病院では事故の知らせを受けて、ただちに災害対応の緊急体制が敷かれた。しかし、1時間も経たないうちに生存者がいないとの連絡とともに体制が解除され、病院職員たちは衝撃を受けた。", "qas": [ { "question": "墜落以降、事故機の機体が破壊されたのは、墜落により衝撃のほか、何によることだったか?", "id": "tr-029-06-000", "answers": [ { "text": "火災", "answer_start": 69, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本事故から生き残った人はいるか?", "id": "tr-029-06-001", "answers": [ { "text": "いない", "answer_start": 399, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アメリカの国家運輸安全委員会(NationalTransportationSafetyBoard;NTSB)が事故調査を行った。墜落地点の機体の残骸は、激しく分解して散乱しており、それらからは有益な情報をほとんど得られなかった。しかし、フライトデータレコーダとボイスレコーダは火災や熱を免れ回収に成功した。構造的な損傷により2か所で計6秒分のデータが欠落したが、大部分のデータは復元された。フライトデータレコーダは離陸滑走中のデータを50秒間、空中でのデータを31秒間記録していた。一方、コックピットボイスレコーダは第1エンジンの分離とほぼ同時に機能停止していた。これは、コックピットボイスレコーダの電力を第1エンジンの発電機から得ていたため、エンジン分離により給電が停止したためであった。コックピットボイスレコーダに最後に残された音声は\"Damn!\"(畜生!の意)であった。また、フライトデータレコーダでも、第1エンジンから電源を得ていたデータだけ同じタイミングで記録が途絶えていた。", "qas": [ { "question": "本事故に対する事故調査は、誰が行ったの?", "id": "tr-029-07-000", "answers": [ { "text": "アメリカの国家運輸安全委員会", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フライトデータレコーダと何が事故機から回収にできた唯一の資料でありますか?", "id": "tr-029-07-001", "answers": [ { "text": "ボイスレコーダ", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フライトデータレコーダとボイスレコーダのうち、記録されている時間がより長いのは、どちらか?", "id": "tr-029-07-002", "answers": [ { "text": "フライトデータレコーダ", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コックピットボイスレコーダに最後に残された音声は、日本語で何の意味であるか?", "id": "tr-029-07-003", "answers": [ { "text": "畜生!", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "浄ノ池特有魚類生息地", "paragraphs": [ { "context": "浄ノ池特有魚類生息地(じょうのいけとくゆうぎょるいせいそくち)とは、静岡県伊東市和田1丁目にかつて存在した、国の天然記念物に指定されていた小さな池である。\n水面面積わずか15坪のこの池は、池底より温泉が常に湧出していたため、水温が年間を通じ摂氏約26°Cから28°Cの微温湯に保たれており、淡水であるにもかかわらず複数種の南方系海水魚・汽水魚が生息していたことから、特有の魚類生息地として1922年(大正11年)に国の天然記念物に指定された。\nしかし1958年(昭和33年)の狩野川台風の影響および温泉湧出の停止等、生息域環境の変化により特有の魚類は見られなくなり、1982年(昭和57年)に天然記念物の指定が解除された。", "qas": [ { "question": "浄ノ池特有魚類生息地は何県に位置しているの?", "id": "tr-030-00-000", "answers": [ { "text": "静岡県", "answer_start": 34, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浄ノ池特有魚類生息地の水面面積は?", "id": "tr-030-00-001", "answers": [ { "text": "15坪", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "浄ノ池特有魚類生息地が国の天然記念物に指定されたのは何年?", "id": "tr-030-00-002", "answers": [ { "text": "1922年", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "浄ノ池特有魚類生息地が国の天然記念物でなくなったのは何年からですか", "id": "tr-030-00-003", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 283, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "浄ノ池(以下、浄の池と記述する)は指定解除後に埋め立てられ池自体が消滅しており、2020年現在、跡地には民間病院が建てられ往時を偲ぶものは残されていない。\nしかし、かつて浄の池は家屋の密集する市街地に位置する交通の便の良い珍しい天然記念物であったことから、温泉都市伊東温泉における代表的な名所として大正期から昭和中期にかけ多くの観光客が訪れる場所であった。\n人々は池に閉じ込められた南海産の珍奇な魚類を眺め、天然のビオトープとも言える小さな水中の不思議な生物相に想いを巡らせた。", "qas": [ { "question": "浄ノ池の跡地は現在何が建設されていますか?", "id": "tr-030-01-000", "answers": [ { "text": "民間病院", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浄ノ池に観光客が多く訪れていたのは大正期からいつにかけてでしたか?", "id": "tr-030-01-001", "answers": [ { "text": "昭和中期", "answer_start": 154, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "浄の池(じょうのいけ)の所在地は、静岡県旧田方郡伊東町玖須美(くすみ)区井戸川466番地の3(現:伊東市和田1-4-20)、2019年現在の医療法人社団望洋会横山医院の建つ場所であり、今日の伊東駅、伊東市役所、伊東港の3点を囲んだ伊東市街地中央の住宅密集地に位置していた。\n浄の池の所有者は、この池より東南東へ約300メートル離れた場所に所在する浄土宗寺院浄円寺(旧字表記は淨圓寺。伊東町玖須美区179、現:伊東市和田2-3-1・地図)であり、浄の池は同寺院の所有地であった。\n浄円寺は古くは伊豆半島中央部の賀茂郡冷川村(現:伊豆市東部)にあり、天正年間に伊豆東岸の岡村(現:伊東市内の岡地区)へ移転された。\nしかし当地が狭隘であったことから寛永元年に再度、岡村より海寄りの和田村へ移転し、和田村の多くの土地を寺領とした。", "qas": [ { "question": "浄の池の跡地に建った病院の正式名称は何?", "id": "tr-030-02-000", "answers": [ { "text": "医療法人社団望洋会横山医院", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "浄の池を所有していたのはどこ?", "id": "tr-030-02-001", "answers": [ { "text": "浄土宗寺院浄円寺", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浄の池があった場所の現住所は?", "id": "tr-030-02-002", "answers": [ { "text": "伊東市和田1-4-20", "answer_start": 49, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この和田村が浄の池の所在していた現:伊東市和田地区であるが、この付近一帯は当時、田畑もない荒れ果てた土地であった。\nそこに自然の池、もしくは微温湯の湧出する水溜りがあったのかは不明であり、浄の池の成因由来についてははっきりしていない。\n以下に示す文書は浄の池一帯の土地にまつわる浄円寺に残されている古文書の文面である。\n古文書の内容は、浄円寺が和田地区への移転を希望する旨の願い出に対する、三島代官・駿府町奉行の井出志摩守(井出正次)側からの許可返答である。\nまた花押にある金吾惣左衛門とは、井出正次の家臣である。\nこのような経緯により、浄の池周辺の和田地区一帯は17世紀前半に浄円寺の寺領となり、当地に寺院が移転造営された。", "qas": [ { "question": "金吾惣左衛門は誰に仕えていたの?", "id": "tr-030-03-000", "answers": [ { "text": "井出正次", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし元禄16年11月23日(1703年12月31日)に発生した元禄関東地震の海嘯(津波)により、庫裏以外の堂宇を流失してしまったため、八世観誉によって少し山側へ寺院が再建された。\nこれが今日の浄円寺の位置である。\n流失した堂宇のあった境内一帯は、その後幕末の頃まで荒れるがままに放置されていたという。\n幕末頃より当地周辺に民家が建ち始め、荒れ果てた旧浄円寺の境内にあった池は誰ともなくこの頃より浄の池と呼ばれるようになった。\n浄の池の名称の由来はこのように「浄円寺の池」の意味である。\nだが、前述の経緯により池の所在地(旧境内域)と再建された寺院の境内は直接隣接しておらず、かつ両者の間は明治期以降急速に家屋が立ち並び住宅密集地となったため、一見しただけでは当寺院と当池との関連性は分かり難いものであった。", "qas": [ { "question": "元禄関東地震が発生したのは西暦でいつ?", "id": "tr-030-04-000", "answers": [ { "text": "1703年12月31日", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "浄の池の名称の由来は?", "id": "tr-030-04-001", "answers": [ { "text": "「浄円寺の池」", "answer_start": 229, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "元禄関東地震が発生したのは和暦でいつ?", "id": "tr-030-04-002", "answers": [ { "text": "元禄16年11月23日", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "浄の池に珍しい魚が棲んでいる、海の魚が池に棲んでいるという話は、幕末から明治の初期頃にかけ伊東周辺の人々に知られるようになり、特に蛇鰻(じゃうなぎ)、毒魚(どくぎょ)と呼ばれていた珍しい魚が居る池として珍重された。\nこの2種以外にも当時の伊東周辺ではあまり見られない複数種の魚が棲みついており、人々はこれらの魚をまとめて異魚(いぎょ)と呼んでいた。\nこれらの異魚がどのような経緯で、いつから浄の池に生息するようになったのかはまったく不明である。\n風説として、江戸期に鎖国の禁を破り、伊豆各地の金山で産出した金を密かに外国に持ち出す等、南洋地方とも盛んに交易していた関係で、その地に産する異魚を誰かが持ち帰り、この池に移したという話もあるが、文献も資料も無く真偽の程は不明である。", "qas": [ { "question": "浄の池に生息している珍しい魚類を総じて人々は何と呼びましたか?", "id": "tr-030-05-000", "answers": [ { "text": "異魚", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "異魚の中で特に珍しがられたものは毒魚と何ですか?", "id": "tr-030-05-001", "answers": [ { "text": "蛇鰻", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、小説の一節ではあるが、村松梢風が1953年(昭和28年)に発表した長編小説『東海美女伝』の中には、大久保長安が海賊船の「お万」と取引した際に、「お万」は南方で捕らえてきた熱帯魚を大久保長安に贈り、「浄の池」という名の池にこの魚を放すという一節がある。\nだが、村松梢風が何を題材にこのエピソードを創作したのかは定かでない。\n浄の池に関係する最も古い記録が見られる史料文献は、寛政12年(1800年)に刊行された地誌『豆州志稿』である。\n豆州志稿は伊豆半島一帯の地理を総体的にまとめた江戸後期の地誌であり、山岳、河川、湖沼等毎に分類して記載されている。\nその文中の「池溏部」には浄の池という名称の記載はないものの、「川渓部」に唐人川(とうじんがわ)として次の記述がある。", "qas": [ { "question": "『東海美女伝』の作者は誰?", "id": "tr-030-06-000", "answers": [ { "text": "村松梢風", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "浄の池関連の最古の文献は何?", "id": "tr-030-06-001", "answers": [ { "text": "『豆州志稿』", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『東海美女伝』の中で、浄の池に放たれたものはどんな魚だったの?", "id": "tr-030-06-002", "answers": [ { "text": "熱帯魚", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "唐人川とは浄の池の水が流出入していた極めて小規模な河川であり、2020年現在も当池からおよそ1キロ下流の伊東大川(通称:松川)河口付近で合流し、相模灘(伊東港)に注いでいる。\n豆州志稿の唐人川の記述に、細流なれども異魚を産す。\nと、記述があることから、唐人川の上流部にあたる浄の池には、この頃(1800年頃)すでに異魚が生息していたものと考えられている。", "qas": [ { "question": "唐人川は最終的にどこに注いでいるの?", "id": "tr-030-07-000", "answers": [ { "text": "相模灘", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "推測では、何年頃には浄の池に異魚が住んでいたとされている?", "id": "tr-030-07-001", "answers": [ { "text": "1800年頃", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この唐人川の名前の由来については諸説あり、はっきりとはしていない。\n江戸期の和田村の商家である、幸手屋(さったや)の第7代当主浜野建雄は、江戸時代後期に著した地誌『伊東誌』の中で、此川を唐人川という事いかなる故にや知がたれど、と断った上で、里人が伝えて言うのには、むかし異国の船がこの浜に漂着して、いろいろな異魚を放したから唐人川の名が出たとのこと。\nしかし、里人の言う異国船漂着の説は、どうも受入がたい。\n異魚を産するから、唐人川の名がでたのではないかという見解を示している。\nいずれにしても江戸後期から末期の頃には、唐人川(上流部の浄の池を含む)には見慣れない魚が棲んでいたことは間違いが無い。", "qas": [ { "question": "『伊東誌』の著者は誰?", "id": "tr-030-08-000", "answers": [ { "text": "浜野建雄", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "浜野建雄はどこの主人だったの?", "id": "tr-030-08-001", "answers": [ { "text": "幸手屋", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "異魚と呼ばれた複数魚類の具体的な魚種が確認出来るのは明治期に入ってからのことである。\n浄の池は明治30年代(1900年頃)以前には、当地(玖須美)在住の山田藤右衛門という人物が、使用目的等の詳しい経緯は不明であるが浄円寺より浄の池を借用しており、山田家では浄の池に生息する異魚5種類の写生画を所蔵していることが、後述する内務省史蹟名勝天然紀念物調査会考査員、黒田長礼により大正10年(1921年)に確認されている。\nこれらの写生画がいつ誰によって描かれたものか明らかではない。\nしかし、山田家が所蔵していた写生画に描かれた異魚5種とは、当地伊東の方言名で次の5種の魚であった。", "qas": [ { "question": "1900年頃以前に浄の池を借用地としていた人は誰?", "id": "tr-030-09-000", "answers": [ { "text": "山田藤右衛門", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "山田家が所蔵していた異魚の写生画は何種類あったの?", "id": "tr-030-09-001", "answers": [ { "text": "5種類", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明治の初め頃には、長さ6-7尺、胴回り2尺ほどの蛇鰻20尾余りが、のろのろと遊泳し、毒魚も大小30尾くらい生息していたとの古老の話があり、また、毒魚は餌を食べる時に全身が赤色になり、迅奈良は背びれにある棘を使って他の魚を刺し殺し、投網などで捕獲し水中から出すと異様な鳴き声を発した等の話が喧伝されていた。\n明治後期から大正の初期頃になると、浄の池近隣の温泉宿に逗留する人々が浴衣姿下駄履きで見学に訪れるようになり、池の畔には茶屋が設けられ、各種異魚の写真や写生図、池の全景写真などの絵葉書が茶屋によって作成され来訪者へ販売されるようになるなど、浄の池は温泉街の名所として多くの人々に知られるようになった。", "qas": [ { "question": "明治の初め頃に生息していた数が多かったのは、蛇鰻と毒魚のどちらですか?", "id": "tr-030-10-000", "answers": [ { "text": "毒魚", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "伊豆伊東に珍しい魚の棲む池があることが知られ始めると、これを学術的に調査し、価値のあるものならば天然記念物に指定し保護対象とするべきではないかと生物学者らが考え始めた。\n日本における天然記念物制度は1919年(大正8年)に制定された史蹟名勝天然紀念物保存法により発足し、日本各地に点在する生物、植物、地質鉱物等が調査され始めていた。\n指定制度発足当時の天然記念物を指定管理する省庁は内務省であり、内務省より依頼を受けた複数の学者が日本各地を巡り調査を行っていた。\nその一環として浄の池の異魚も調査が行われることとなった。\n調査が行われたのは指定制度発足からわずか2年後の1921年(大正10年)であり、調査時期の最も早い天然記念物指定候補対象のひとつであった。", "qas": [ { "question": "天然記念物の指定制度は何年に制定されたの?", "id": "tr-030-11-000", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 99, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "天然記念物に指定するための調査が浄の池で行われたのはいつ?", "id": "tr-030-11-001", "answers": [ { "text": "1921年", "answer_start": 285, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "天然記念物の候補として浄の池の調査を行ったのは鳥類学者で貴族院議員、侯爵でもあった黒田長礼(旧字表記は黑田長禮)である。\n鳥類学研究で知られる黒田は、魚類に関する研究論文も複数あり、特に駿河湾での魚類調査論文を多数発表している。\nまた同時期には長崎県対馬における哺乳動物に関する天然記念物調査報告も黒田が担当し作成している。", "qas": [ { "question": "天然記念物の候補として浄の池の調査を行った人とは?", "id": "tr-030-12-000", "answers": [ { "text": "黒田長礼", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "黒田長礼の肩書は貴族院議員、侯爵ともう1つは何?", "id": "tr-030-12-001", "answers": [ { "text": "鳥類学者", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "内務省による史蹟名勝天然紀念物調査会考査員として伊東を訪れた黒田は、伊東町在住の次の5氏に協力を仰いでいる。\nすなわち、伊東町町長の鈴木藤左衛門、伊東町小学校校長の勝呂廣吉、伊東町書記の稲葉廣一、浄円寺住職の石黒學音、浄の池に類似した生態系をもつ唐人川沿いの別候補の池の所有者の千葉殉事である。\n黒田は調査報告書の末尾で以上の5名に対し深謝の意を表している。\nこうして作成された、『史蹟名勝天然紀念物調査報告』第26号「静岡県伊東町「浄の池」ノ魚類ニ関スルモノ」が準拠となり、浄の池は天然記念物に指定されることとなった。", "qas": [ { "question": "黒田の調査に協力した当時の伊東町町長とは誰?", "id": "tr-030-13-000", "answers": [ { "text": "鈴木藤左衛門", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "黒田の調査に協力した当時の伊東町小学校校長とは誰?", "id": "tr-030-13-001", "answers": [ { "text": "勝呂廣吉", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "黒田の調査に協力した当時の浄円寺住職とは誰?", "id": "tr-030-13-002", "answers": [ { "text": "稲葉廣一", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "黒田が作成した何という報告書を元に浄の池が天然記念物に指定されたの?", "id": "tr-030-13-003", "answers": [ { "text": "『史蹟名勝天然紀念物調査報告』第26号「静岡県伊東町「浄の池」ノ魚類ニ関スルモノ」", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "黒田が調査を行った1921年(大正10年)当時の浄の池は、水表面積わずか9坪という極めて小さな池であった。\n幕末から明治初期頃までは数倍ほど大きな池であったという。\nそれが次第に埋め立てられ徐々に狭められ小さな池になり、池畔は多少手入れが加えられていた。\nつまり調査時には、池の周囲に岩石が並べ廻らされるなど、元々自然の池だった浄の池は、人手も加わった半人工的な池になっていたのである。\n池の水は隣接する唐人川と小孔(水門)を介して流出入していた。\nただし、この唐人川は川とはいえ1間(約1.8m)幅程度の小さな溝に過ぎず、池の水とは辛うじて繋がっている状態であった。\n池の水量はほぼ一定しており増減することは少なく、深さはおよそ2尺5寸(約75cm)、池の底より微温湯が湧出しており、水面からは白い湯気が立ち昇っていた。\nまた、朝から午前にかけた時間帯は池の水が澄んでいて、午後になると多少濁ることが常であったという。", "qas": [ { "question": "明治初期頃と大正10年当時の浄の池を比較すると、水表面積が大きかったのはいつ?", "id": "tr-030-14-000", "answers": [ { "text": "明治初期頃", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "浄の池の水が澄んでいるのは午前と午後のどちらですか?", "id": "tr-030-14-001", "answers": [ { "text": "午前", "answer_start": 368, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "浄の池の水深は何cmですか?", "id": "tr-030-14-002", "answers": [ { "text": "約75cm", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "水温および水質について黒田は伊東町の薬剤師徳永静馬に調査を依頼し、1921年3月27日に測定された。\n外気温のまだ低い3月下旬に水温が一定して26°Cであり、池底より常に温泉が湧出していることが示された。\n徳永は水温以外にも、水質は中性であり、無色透明無味無臭である旨を報告している。", "qas": [ { "question": "1921年3月27日に浄の池の水温・水質調査をした人は誰ですか?", "id": "tr-030-15-000", "answers": [ { "text": "徳永静馬", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1921年3月27日の調査では、浄の池の水温は何°Cでしたか?", "id": "tr-030-15-001", "answers": [ { "text": "26°C", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "上記のデータは1930年(昭和5年)9月7日から10日の4日間にかけ、伊東町の薬剤師福本熊治により測定されたものである。\n池の面積が以前の9坪から15坪へと拡大しているのは、1923年(大正12年)の関東大震災により埋没等の被害を受けた池を、関係者の尽力により再度整備されたことによるものである。\nまた、水温を26.6°C、約28°Cとする資料も複数存在する。", "qas": [ { "question": "1930年9月7日から10日まで浄の池を測定した人は誰ですか?", "id": "tr-030-16-000", "answers": [ { "text": "福本熊治", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "福本熊治が池の測定をした際に、面積は何坪に増えていたの?", "id": "tr-030-16-001", "answers": [ { "text": "15坪", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "浄の池の異魚と呼ばれていた魚類は、オオウナギのように今日でも生息地が天然記念物に指定されているものもあれば、他所の海域や汽水域で普遍的に見られるものも含まれている。\nしかし通常は亜熱帯から熱帯を主な生息域とするこれら複数種の魚類個体群が、浄の池のような極めて狭い淡水域に生物群集を形成していたことは珍しいことであり、それに加え当池が個人所有地(浄円寺所有)でもあったことから今後の土地利用改変を抑止する意味も含め、調査を担当した黒田は天然記念物指定の必要性を報告書で述べている。\n「浄の池の異魚」と呼ばれた5種の魚類について下記で解説する。\nここでの記述は当時の生物学調査の研究史的な意味として捉え、1921年(大正10年)に作成された調査報告書を元に記述を行う。\nしたがって今日の生物分類、魚類学観点とは異なるものも含まれている。\n各種毎冒頭で太字で示した、学名、和名、方言名は原文ママとし、本文中の読み仮名の一部は現代仮名遣いで表記した。\nなお、異魚5種のモノクロ写生図(各2点)およびモノクロ写真(各1点)は、当時の浄の池(茶屋)が発行した絵葉書の画像である。", "qas": [ { "question": "当時の浄の池が発行した絵葉書の中で、モノクロ写生図とモノクロ写真の数が多いのはどちら?", "id": "tr-030-17-000", "answers": [ { "text": "モノクロ写生図", "answer_start": 430, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "オオウナギ(英:Giantmottledeel)はウナギ目ウナギ科ウナギ属に属する魚であり、学名Anguillamarmorata(QuoyandGaimard,1824)、標準和名はオオウナギ(大鰻)である。\n熱帯性の魚類であり、日本国内では利根川河口以南(以西)の太平洋沿岸、長崎県以南の東シナ海沿岸を生息地とする。\nその数は少なく、国、県、市町村単位の天然記念物に指定された生息地が関東から九州地方にかけた各地に点在する。\n当地の方言名で蛇鰻と呼ばれたオオウナギは、黒田が調査を行った時点で浄の池には大小わずか2尾が生息するのみであった。\n大きい方は全長5尺5寸(約1.6m)、重量は当時の伊東小学校が計測した値として5-6貫匁(約20kg)であったという。\n小さい方は全長4尺(約1.2m)。\n隣接する唐人川にも小型の個体が確認されている。\n浄の池ではかつて20尾ほど生息していたが徐々に数が減り、普段は水中の穴に潜り込み姿を見せることが少なく、人目にはあまりつかないようであった。\n黒田も調査3日目にしてようやく姿を観察することが出来たようで、余も3日目に始めて観察するを得たり體肥大なるを以て遊泳極めて悠然なり、と報告書には記載されている。\n浄の池では餌として主にイワシ、マアジを時々与えていたという。\nまた、明治から昭和初期にかけて水産学者の倉場富三郎(トーマス・アルバート・グラバー)が長崎近海の水産動物を編纂した図譜、『グラバー図譜』のオオウナギの解説には、本種の生息北限地として韓国済州島と並び「浄の池」の名前が記載されている。", "qas": [ { "question": "オオウナギの方言名は何?", "id": "tr-030-18-000", "answers": [ { "text": "蛇鰻", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "浄の池に生息していた蛇鰻のうち、大きい方は何mあったの?", "id": "tr-030-18-001", "answers": [ { "text": "約1.6m", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "浄の池に生息していた蛇鰻のうち、小きい方は何mあったの?", "id": "tr-030-18-002", "answers": [ { "text": "約1.2m", "answer_start": 343, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "浄の池に生息していた蛇鰻のうち、大きい方は何kgあったの?", "id": "tr-030-18-003", "answers": [ { "text": "約20kg", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オキフエダイ(仏:Lutjanusfulvus、英:blacktailsnapper)はスズキ目フエダイ科フエダイ属に属する魚であり、学名Lutjanusfulvus(Forster,1801)、標準和名はオキフエダイ(沖笛鯛)である。\n毒魚という方言名の由来ははっきりしていない。\nだが、1936年(昭和11年)に浄の池が発行した『浄の池異魚絵葉書』解説書によれば、形状は黒鯛に似て、歯が極めて鋭く、口の中は鮮やかな赤色で、いかにも毒々しいと表現されている。\n黒田の報告書では、側線より上部は濃い橄欖色(かんらんしょく、オリーブ色の意味)、側線より下部は美しい葡萄色(えびいろ)を帯び、腹面が特に美しいと記されている。\n体長は大型のもので1尺3寸から4寸(約40cm)、高さ4寸(約12cm)、習性は獰猛攻撃的で他の魚に噛み付くため、浄の池では適宜間引いていたという。\nその影響により黒田が調査した時点で浄の池に生息するオキフエダイはわずか3尾(いずれも大型の個体)であった。\nまた当地の人物からの話として魚肉は非常に美味であると調査書に記されている。\nなお、隣接する唐人川でオキフエダイの小型の個体が見られ、後述する唐人川沿いにあった千葉殉事という人物が所有する池において、4尾のオキフエダイが生息するのを黒田は確認している。", "qas": [ { "question": "オキフエダイを漢字表記するとどうなるの?", "id": "tr-030-19-000", "answers": [ { "text": "沖笛鯛", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オキフエダイは大きいもので長さが何cmになりますか?", "id": "tr-030-19-001", "answers": [ { "text": "約40cm", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オキフエダイは大きいもので高さが何cmになりますか?", "id": "tr-030-19-002", "answers": [ { "text": "約12cm", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "黒田が調査した時に確認できたオキフエダイは何尾でしたか?", "id": "tr-030-19-003", "answers": [ { "text": "3尾", "answer_start": 421, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "アロサウルス", "paragraphs": [ { "context": "アロサウルス(Allosaurus、“異なるトカゲ”の意、かつての和名は異竜)とは、中生代ジュラ紀後期(約1億5,500万-1億5,000万年前)の北アメリカに生息していた大型肉食獣脚類に属する恐竜である。\n1877年にアメリカ合衆国の古生物学者オスニエル・チャールズ・マーシュがこの種を定義づける化石を初めて報告した。\n肉食恐竜としてはティラノサウルスと共に恐竜研究の興隆期からよく知られたものの1つであり、古生物学を専業とする人々以外にも映画やドキュメンタリーを通して有名な存在である。\nまた日本では、国内で最初の恐竜の骨格標本展示として1964年に国立科学博物館で標本が公開された。\nのち、2015年7月の地球館展示リニューアルに伴って1階に常設展示が始まった。", "qas": [ { "question": "アロサウルスの生息地はどこでしたか?", "id": "tr-031-00-000", "answers": [ { "text": "北アメリカ", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本で最初に恐竜の骨格標本展示として公開されたものとは何?", "id": "tr-031-00-001", "answers": [ { "text": "アロサウルス", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本でアロサウルスの骨格標本が初めて公開されたのはいつ?", "id": "tr-031-00-002", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 271, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アロサウルスという種類を定義づける化石を報告した人は誰ですか?", "id": "tr-031-00-003", "answers": [ { "text": "オスニエル・チャールズ・マーシュ", "answer_start": 123, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アロサウルスは二足歩行性で、鋭く大きな歯を多数備えた巨大な頭骨を持つ捕食者であった。\n平均的な全長(頭から尻尾の先端までの長さ)は8.5mで、12mに達したと推定される個体の化石の断片も発見されている。\n大きく強力な後肢(脚)と、それに比して小さな3本指を備えた前肢(腕)を持ち、長く重厚な尻尾で体のバランスを取っていた。", "qas": [ { "question": "アロサウルスの一般的な全長は何mでしたか?", "id": "tr-031-01-000", "answers": [ { "text": "8.5m", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アロサウルスは大きいもので何mありましたか?", "id": "tr-031-01-001", "answers": [ { "text": "12m", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アロサウルスの前肢に指は何本ありますか?", "id": "tr-031-01-002", "answers": [ { "text": "3本", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「アロサウルス」という名称は分類学的には属名と科名(上科を含む)に現れるが、特に断りがない場合は属名を示す(ちなみにアルファベットでの綴りは科名がAllosauridae、上科名がAllosauroidea)。\nいわゆる恐竜の中でも竜盤目・獣脚亜目(以下、獣脚類)・テタヌラ下目・カルノサウルス類のアロサウルス科に属し、マーシュの命名した最も著名な種はアロサウルス・フラギリス(A.fragilis、ラテン語で“脆いもの”の意)である。\nこの他にもアロサウルス科には数種が属するとされるが、分類の妥当性に関して議論中のものが多く、正確な数は一概には言えない。\nアロサウルスの化石の多くは北アメリカ大陸のモリソン層(en:MorrisonFormation)産だが、ヨーロッパ大陸のポルトガルからも産出している。\nまたアロサウルスの一種である可能性のある化石がアフリカ大陸のタンザニアでも発見されている。\n20世紀にはアントロデムス(Antrodemus)という学名で呼ばれた時期もあったが、クリーブランド・ロイド発掘地(en:ClevelandLloydDinosaurQuarry)で発見された大量の化石の研究により、アロサウルスの学名が妥当であることが認められ、著名な恐竜の一つとして一般に知られることになった。", "qas": [ { "question": "アロサウルスの化石が見つかったヨーロッパの国はどこですか?", "id": "tr-031-02-000", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 340, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アロサウルスが20世紀に呼ばれていた名前は何でしたか?", "id": "tr-031-02-001", "answers": [ { "text": "アントロデムス", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アロサウルスの化石の多くはどこから産出されていますか?", "id": "tr-031-02-002", "answers": [ { "text": "北アメリカ大陸", "answer_start": 293, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この「Allosaurus」の読み方であるが、多くは子音を一つ省いてアロサウルスと読まれる。\nまた子音を発音してアルロサウルス、llにアクセントを置きアッロサウルスとされる場合もある。\nアロサウルスはかつてモリソン層が形成された時代の食物連鎖の頂点であり、同時代に存在していた草食恐竜(ステゴサウルス等の鳥盤類、アパトサウルス等の竜脚類)を捕食していたと考えられている。\nしかし、狩猟方法に関しては解明されていない点が多く、研究が続けられている。\n竜脚類の大型草食恐竜を集団で狩猟していたかのような想像図が描かれることがあるが、一方で共食いしていた跡が見つかっており、アロサウルスが社会性を持っていたかどうかは議論の焦点となっている。\n狩猟における襲撃方法の通説は、茂みで待ち伏せし、その大きな上顎を振りかぶって奇襲を行っていたというものである。", "qas": [ { "question": "アロサウルスが捕食していた鳥盤類の恐竜とは何ですか?", "id": "tr-031-03-000", "answers": [ { "text": "ステゴサウルス", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アロサウルスが捕食していた竜脚類の恐竜とは何ですか?", "id": "tr-031-03-001", "answers": [ { "text": "アパトサウルス", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アロサウルスは大きな頭、短く太い首、長く重厚な尾、後肢に比べて短い上肢といった特徴を持つ典型的な大型獣脚類である。\n最も著名な種であるアロサウルス・フラギリスの平均的な全長は8.5mで、最大級のアロサウルスの標本(標本番号:AMNH680)の推定全長は9.7mと考えられている。\nアロサウルスの権威ともいえる古生物学者ジェームズ・マドセン(JamesMadsen)が1976年にまとめたモノグラフでは、骨の大きさの範囲から考えて体長は最大12m〜13mになったのではないかと推測されている。\n体重に関しては様々な意見があるが、1980年頃より出された見解はいずれもおよそ1トン〜4トンの範囲内に位置しており、2トン前後としている文献が多い。", "qas": [ { "question": "最も大きいとされるアロサウルスの標本番号は何?", "id": "tr-031-04-000", "answers": [ { "text": "AMNH680", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アロサウルスの体重はどれくらいと推定している文献が多いの?", "id": "tr-031-04-001", "answers": [ { "text": "2トン前後", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジェームス・マドセンは何年にアロサウルスのモノグラフをまとめましたか?", "id": "tr-031-04-002", "answers": [ { "text": "1976年", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明確な同定を行えないいくつかの大型化石がアロサウルスのものとされてきたことがあり、それらを含めると体の大きさに関する見解は少し複雑になる。\n例えばアロサウルスの近縁種と見られるサウロファガナクス(標本番号:OMNH1708)は体長が10.9mに達し、'アロサウルス・マキシマス(A.maximus、“最大のアロサウルス”の意)としてアロサウルス属に含められることがある。\nただし20世紀末の研究ではアロサウルスとサウロファガナクスは互いに別属であることが支持されている。\nまた、体長が12.1mに達するエパンテリアス(標本番号:AMNH5767)もアロサウルス属の一種と考えている研究者がいる。", "qas": [ { "question": "体長を比較して大きいのはエパンテリアスとサウロファガナクスのどちらですか?", "id": "tr-031-05-000", "answers": [ { "text": "エパンテリアス", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アロサウルスの仲間だと考えられているのは、エパンテリアスとサウロファガナクスのどちらですか?", "id": "tr-031-05-001", "answers": [ { "text": "エパンテリアス", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "標本番号OMNH1708のサウロファガナクスは全長何mですか?", "id": "tr-031-05-002", "answers": [ { "text": "10.9m", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "標本番号AMNH5767のエパンテリアスは全長何mですか?", "id": "tr-031-05-003", "answers": [ { "text": "12.1m", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アロサウルスの頭骨と歯は同サイズの獣脚類に比すると控え目な大きさであった。\n古生物学者グレゴリー・S・ポールの報告によると、体長7.9mと推定される化石の頭骨長が845mmであった。\n頭骨に穿たれた各孔は広く、大きさの割に軽量であったと考えられる。\n各前上顎骨(上顎口端を形成する一組の骨)はD字形断面の5本の歯を持ち、各上顎骨からは14本〜17本の歯が生えていた(歯の数は骨の大きさと必ずしも一致しない)。\n一方、各下顎骨には14本〜17本、平均16本の歯が生えていた。\n歯は口内にいくほど狭小でより湾曲したものになっており、歯の縁にはティラノサウルス等の獣脚類でも確認されている鋸歯状の凹凸があった。\n歯単体の化石がよく見つかるが、これは歯が頻繁に抜け落ち、新しいものと生え替わっていたからだと説明される。", "qas": [ { "question": "グレゴリー・S・ポールは推定体長7.9mの化石の頭骨長がどれくらいあると報告しましたか?", "id": "tr-031-06-000", "answers": [ { "text": "845mm", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アロサウルスの頭骨の眼孔上部には一組の角があった。\nこの角は涙骨が延長したもので、標本によって形や大きさが異なっている。\nまた鼻骨の先端から角にかけて一組の低いひだ状の張り出しが走っていた。\nこの角はケラチンで覆われていたと考えられ、目に対する日除け、力を誇示する装飾、あるいは種族内での争いに用いられたという意見がある(ただし角自体の構造は脆かった)。\n頭骨後方の上部中央には筋肉が付着するための小さい突出部があったが、これはティラノサウルスにも見られる構造である。", "qas": [ { "question": "アロサウルスの角を覆っていたものは何ですか?", "id": "tr-031-07-000", "answers": [ { "text": "ケラチン", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アロサウルスの角は何の骨が延長してつくられたものですか?", "id": "tr-031-07-001", "answers": [ { "text": "涙骨", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アロサウルスの目にとって角はどのような役割を果たしていますか?", "id": "tr-031-07-002", "answers": [ { "text": "日除け", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アロサウルスの力を誇示する装飾の役割をもっていた部位は何ですか?", "id": "tr-031-07-003", "answers": [ { "text": "角", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "涙骨内には腺(特に塩類腺)が通っていたと思われる窪みがある。\n上顎洞(鼻腔と繋がり空気を滞留させる空間)はより原始的な獣脚類であるケラトサウルスやマルショサウルス(en:Marshosaurus)に比べると発達していた。\n上顎洞の発達はすなわち鋤鼻器(ヤコブソン器官)のような嗅覚と関連する器官の発達を意味する。\n脳を収める頭蓋上部の殻は薄くなっているが、これは脳の温度調節を容易にするためだと考えられている。\n上顎と下顎は後部で関節により結び付けられていた。\nまた下顎の前部と後部の間にも結合部があり、その部分が若干可動することで口を外側により大きく開くことが可能であった。\n頭蓋(頭骨後部)と前頭骨もおそらく同様の結合部を有していたであろうと考えられている。", "qas": [ { "question": "上顎洞が発達していなかったのは本種とケラトサウルスのどちらですか?", "id": "tr-031-08-000", "answers": [ { "text": "ケラトサウルス", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アロサウルスは、首に9個、背中に14個、腰部(仙骨)に5個の椎骨を持っていた。\n尾部の椎骨の数ははっきりせず、個体によっても異なるようである。ジェームズ・マドセンは50個、グレゴリー・S・ポールは45個かそれより少ないと推測している。\n首部の椎骨には空隙があり、そこには現生の鳥類と同様に呼吸用の気嚢があったと考えられている。", "qas": [ { "question": "アロサウルスの椎骨の数が最も多い箇所はどこですか?", "id": "tr-031-09-000", "answers": [ { "text": "背中", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "椎骨の数が多いのは首と腰部のどちらですか?", "id": "tr-031-09-001", "answers": [ { "text": "首", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "尾部の椎骨の数を多く推測したのはグレゴリー・S・ポールとジェームズ・マドセンのどちらですか?", "id": "tr-031-09-002", "answers": [ { "text": "ジェームズ・マドセン", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アロサウルスの椎骨の数が最も少ない箇所はどこですか?", "id": "tr-031-09-003", "answers": [ { "text": "腰部", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アロサウルスの肋骨の広がりは大きく、ケラトサウルスのようなより原始的な獣脚類よりも太い胴体を持っていた。\nまた標本数は少ないが腹肋骨(腹側を覆う骨)を持っていたと考えられており、それは完全には骨化していなかった。\n1996年には叉骨の存在も確認されている(ただしそれまで腹肋骨と混同されていた場合も多い)。\n腰部を形成する腸骨は強固で、恥骨は竜盤目特有の体前下方へ大きく突出する構造であったが、それは筋肉の接着部であると同時に地上へ体を下ろして休息する際の支えとして働いた。\nマドセンはクリーブランド・ロイド発掘地で見つかった約半数の個体の恥骨先端が、体の大きさに関わらず融着していないことを発見した。\nマドセンはこれを性差を示すものとし、恥骨先端が分離しているのは雌で、産卵しやすい骨格構造になっていると主張した。\nしかし、この仮説はあまり顧みられていない。", "qas": [ { "question": "腹側を覆う骨のことを何といいますか?", "id": "tr-031-10-000", "answers": [ { "text": "腹肋骨", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アロサウルスの又骨が確認されたのはいつ?", "id": "tr-031-10-001", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アロサウルスの恥骨先端が分離しているのが雌で、産卵しやすい骨格構造になっていると主張した人は誰?", "id": "tr-031-10-002", "answers": [ { "text": "マドセン", "answer_start": 302, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アロサウルスの前肢は後肢に比べて短く、成体では後肢の約35%である。\n手にはそれぞれ3本の指があり、その先には湾曲した大きな爪が付いていた。\n腕は強力で前腕は上腕に比べていくらか短かった(尺骨と上腕骨の比は1:1.2)。\n手首の手根骨は半月状であり、これは鳥類を含む小型獣脚類グループ(マニラプトル類)に見られるものと同様であった。\n3指は親指に当るものが最も太くて大きい。\n脚はケラトサウルスのような同時代の大型獣脚類に比べると長いが、後の時代のティラノサウルスほど長くはなく、移動速度はそれよりも低かったと考えられている。\nまた足先の爪はそれほど発達しておらず、初期の獣脚類よりも蹄に近いものであった。\n各足には接地点を持つ3本の指があり、そのやや上部内側に1本の母趾(狼爪)がある(マドセンはこの母趾は幼獣を掴むために使用していたという説を唱えた)。\nまたこれらの指を構成する4本の中足骨の内側には5本目のものがあるが、これはアキレス腱を伸縮させるための一種のレバーとして機能したのではないかと解釈されている。", "qas": [ { "question": "アロサウルスの前肢と後肢はどちらが長いですか?", "id": "tr-031-11-000", "answers": [ { "text": "後肢", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最も長い脚をもつのは、アロサウルス、ティラノサウルス、ケラトサウルスの中でどれですか?", "id": "tr-031-11-001", "answers": [ { "text": "ティラノサウルス", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アロサウルスの前腕と上腕はどちらが長かったですか?", "id": "tr-031-11-002", "answers": [ { "text": "上腕", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アロサウルス(属)は、分類学的には大型獣脚類カルノサウルス類に属するアロサウルス科の一つに位置付けられている。\nアロサウルス科は1878年にオスニエル・チャールズ・マーシュによって創設されたが、1970年代まではメガロサウルス科(en:Megalosaurid)(メガロサウルスをはじめとする獣脚類が属するとされた旧分類)というタクソンの方が好んで使用された。\nまた1930年頃〜1980年頃には属名としてアロサウルスの代わりにアントロデムスが使用され、アロサウルスという学名を復権した1976年のジェームズ・マドセンのモノグラフ以前の出版物を読む場合は注意が必要である。\nアロサウルス科の代わりにメガロサウルス科を記載している著名な刊行物はチャールズ・W・ギルモアの1920年の論文、フリードリヒ・フォン・ヒューネの1926年の論文、アルフレッド・シャーウッド・ローマーの1956年と1966年の論文、R・スティール(R.Steel)の1970年の論文、アリック・ウォーカー(en:AlickWalker)の1964年の論文である。", "qas": [ { "question": "アロサウルス科の創設者は誰?", "id": "tr-031-12-000", "answers": [ { "text": "オスニエル・チャールズ・マーシュ", "answer_start": 70, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メガロサウルス科を記載している論文を早く出した人はチャールズ・W・ギルモアとフリードリヒ・フォン・ヒューネのどちらですか?", "id": "tr-031-12-001", "answers": [ { "text": "チャールズ・W・ギルモア", "answer_start": 321, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "チャールズ・W・ギルモア、フリードリヒ・フォン・ヒューネ、R・スティール、アリック・ウォーカーの中でメガロサウルス科を記載した論文を最も遅く出した人は誰?", "id": "tr-031-12-002", "answers": [ { "text": "R・スティール", "answer_start": 402, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フリードリヒ・フォン・ヒューネ、アルフレッド・シャーウッド・ローマー、アリック・ウォーカーの中でメガロサウルス科を記載した論文を最も早く出した人は誰?", "id": "tr-031-12-003", "answers": [ { "text": "フリードリヒ・フォン・ヒューネ", "answer_start": 343, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1976年のマドセンのモノグラフの影響により、獣脚類恐竜をアロサウルス科へ再分類する動きが生じた。\nこの再分類は必ずしも厳密な検証を行っていない場合もあり、定義そのものにも曖昧さがあるが、結果的に科名として一般化的に使用されるようになった。\n再分類の過程でアロサウルスとの系統的な関連が考えられた属としてインドサウルス、ピアトニツキーサウルス、ピヴェテアウサウルス、ヤンチュアノサウルス、アクロカントサウルス、キランタイサウルス、コンプソスクス(en:Compsosuchus)、ストケソサウルス(en:Stokesosaurus)、スゼチュアノサウルス(en:Szechuanosaurus)が挙げられる。\nしかし、21世紀初頭の獣脚類の進化・系統に関する研究によれば、上記の属はいずれもアロサウルス科には含まれていない。\nただしアクロカントサウルスやヤンチュアノサウルス等はアロサウルスの近縁属であると考えられている。", "qas": [ { "question": "獣脚類恐竜をアロサウルス科へ再分類する動きが生じたのは何年でしたか?", "id": "tr-031-13-000", "answers": [ { "text": "1976年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アロサウルス科はカルカロドントサウルス科(代表属:カルカロドントサウルス)、シンラプトル科(代表属:シンラプトル)と共にカルノサウルス類を構成する一つの系統(アロサウルス上科(en:Allosauroidea))を作る(ただし議論中のベックレスピナクス科(en:Becklespinax)は除く)。\nアロサウルス科はカルノサウルス類の中では属の数が少なく、20世紀末のレビュー(研究分野の動向をまとめた論文)ではサウロファガナクスとフランスで発見された化石種のみがアロサウルスと共に同科を構成する属であるとされていた。\nまた、従来エパンテリアスもアロサウルス科の属の候補として扱われてきたが、いくつかの証拠からサウロファガナクスやエパンテリアスはアロサウルスの大型の個体ではないかと疑う意見も多くなっている。\n21世紀初頭の論文ではサウロファガナクスを一つの属として扱い、エパンテリアスをアロサウルスの一種としているものが多い。\nかつてアロサウルス科はティラノサウルス科の先祖的タクソン(側系統群)に位置すると考えられたことがあり、1980年代にはグレゴリー・S・ポールが著作中でそのような主張を行っている。\nしかし90年代にはその説は否定され、ティラノサウルス科はコエルロサウルス類に属するものとされた。", "qas": [ { "question": "著作の中でアロサウルス科はティラノサウルス科の先祖的タクソンであると主張した人は誰?", "id": "tr-031-14-000", "answers": [ { "text": "グレゴリー・S・ポール", "answer_start": 474, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アロサウルス科はティラノサウルス科の先祖的タクソンであるという説が否定されたのは何年代?", "id": "tr-031-14-001", "answers": [ { "text": "90年代", "answer_start": 508, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アロサウルス属にいくつの種が属すのかははっきりしていない。\n1988年以来アロサウルス属としてある程度の妥当性が認められてきたものには、フラギリス(A.fragilis基準標本)、アンプレクサス(A.amplexus)、アトロクス(A.atrox)、エウロパエウス(A.europaeus)、ジムマドセニ(A.jimmadseniただし正式には記載されていない)、マキシマス(A.maximus)、テンダグレンシス(A.tendagurensis)の合計7種がある。\nこの中には骨の欠片しか見つかっていないようなものもある。\nまた、これまでの歴史の中で少なくとも10種の恐竜がアロサウルスと同一種であったり、アロサウルスと混同されたりしてきた経緯がある。\n原初的なテタヌラ類に関する21世紀初頭のレビューによると、フラギリス、ジムマドセニ、テンダグレンシスのみが妥当な種として受け入れられており、アンプレクサスとアトロクスはフラギリスに編入され、エウロパエウスはまだ種として提唱されておらず、マキシマスはサウロファガナクスと同一であると言及されている。", "qas": [ { "question": "アロサウルス属として認められているものは全部で何種ありますか?", "id": "tr-031-15-000", "answers": [ { "text": "7種", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アンプレクサス、アトロクス、フラギリス、ジムマドセニ、マキシマスはいずれもアメリカのコロラド州、モンタナ州、ニューメキシコ州、オクラホマ州、サウスダコタ州、ユタ州、ワイオミング州にかけてのジュラ紀後期のキメリジアン期(en:Kimmeridgian)からティトニアン期(en:Tithonian)に属するモリソン層から発見されている。\nこの中でフラギリスは発掘数が最も多く(最低60個体)、研究も進んでいる。\nこの次によく知られているのはアトロクスであり、1980年代からフラギリスとアトロクスが同種か否かについての議論が行われてきた。\n前述のように21世紀初頭ではそれらは同一種であるとする見方が一般的で、モリソン層の局地的な形成過程や組成の違いが両者の化石の差異として現れているに過ぎないと考えられている。\nエウロパエウスはジュラ紀後期キメリジアン期に形成されたポルトガルのロウリニャン層(en:LourinhãFormation)に属する発掘地から1999年に見つかった新しい標本だが、フラギリスと同種であろうという意見も存在している。\nテンダグレンシスはタンザニアムトワラ州のキメリジアン期の層から発見された。\n21世紀初頭のレビューではテンダグレンシスをアロサウルスの一種として認めているものの、より原初的なテタヌラ類か既に登録済みの別の獣脚類である可能性も高いとされる。\n正体がはっきりしないテンダグレンシスであるが、体長は10mに達し、体重は2.5トンになる大型獣脚類であったと推定されている。", "qas": [ { "question": "アンプレクサス、アトロクス、フラギリス、ジムマドセニ、マキシマスの中で最も発掘数が多い場所はどこ?", "id": "tr-031-16-000", "answers": [ { "text": "フラギリス", "answer_start": 172, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "テンダグレンシスの体長はどれくらいですか?", "id": "tr-031-16-001", "answers": [ { "text": "10m", "answer_start": 618, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "テンダグレンシスの体重はどれくらいありますか?", "id": "tr-031-16-002", "answers": [ { "text": "2.5トン", "answer_start": 628, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フラギリスの次に知名度が高い発掘場所はどこ?", "id": "tr-031-16-003", "answers": [ { "text": "アトロクス", "answer_start": 219, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "結果的にアロサウルスと学名が重複してしまった属にアントロデムス、クレオサウルス、ラブロサウルスがある。\nこれらの標本の多くは現在はフラギリスであると考えられているが、骨格の一部しか発見されていない場合が多く、分類の妥当性に関して曖昧な部分も残っている。\nところでこの内、1884年にマーシュが命名したラブロサウルス・フェロックスはその標本が特徴的であった。\n下顎の一部が発見されていたのだが、その口先の歯列には特徴的な隙間があり、標本の後部は大きく肥大して反り返っていた。\n後の研究によるとその一部は感染症の跡であり、後部の異常な形状は石膏型を作る段階で生じたものであろうと推測された。\n21世紀初頭ではこの標本はフラギリスのものとみなされている。\nこの他、アロサウルスと関連すると考えられた化石はオーストラリア、シベリア、スイス等世界各地で見つかってきたが、多くはアロサウルスと違う恐竜だと結論付けられている。", "qas": [ { "question": "ラブロサウルス・フェロックスという名前を付けた人は誰ですか?", "id": "tr-031-17-000", "answers": [ { "text": "マーシュ", "answer_start": 141, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アントロデムス、クレオサウルス、ラブロサウルスの標本の多くはどこであると考えられていますか?", "id": "tr-031-17-001", "answers": [ { "text": "フラギリス", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ビルマの戦い", "paragraphs": [ { "context": "ビルマの戦い(ビルマのたたかい、BurmaCampaign)は、第二次世界大戦(大東亜戦争)の局面の1つである。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中華民国国民党軍とが戦った。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続いた。", "qas": [ { "question": "ビルマの戦いとは、どの戦争中に行われた戦闘のことであるの?", "id": "tr-032-00-000", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマの戦いにおいて、日本軍・ビルマ国民軍の側で戦ったのは、どの軍ですか?", "id": "tr-032-00-001", "answers": [ { "text": "インド国民軍", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマの戦いにおいて、イギリス軍・アメリカ軍の側で戦ったのは、どの軍か?", "id": "tr-032-00-002", "answers": [ { "text": "中華民国国民党軍", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマの戦いは、1941年から何年まで続いたか?", "id": "tr-032-00-003", "answers": [ { "text": "1945年", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ビルマは19世紀以来イギリスが植民地支配していた。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍は援蒋ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧した。連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蒋ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。", "qas": [ { "question": "ビルマの戦いとは、どの国の侵攻から始まった戦闘のことなの?", "id": "tr-032-01-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本がビルマを侵攻したのは、どの戦争において連合国軍からの援助を遮断するためだったか?", "id": "tr-032-01-001", "answers": [ { "text": "太平洋戦争", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本軍によるビルマ占領後、イギリスは何を目的に、連合国軍のビルマ奪還のための戦闘に参加したか?", "id": "tr-032-01-002", "answers": [ { "text": "アジアにおける植民地の確保", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本人の戦没者は18万名に達した。勝利したイギリスとアメリカはそれぞれの目的を達成したが、最終的にはイギリスはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失った。ビルマは1948年に独立を達成した。", "qas": [ { "question": "ビルマの戦いで敗れたのは、どの国の軍なの?", "id": "tr-032-02-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマは、何年になってようやく独立を果たせましたか?", "id": "tr-032-02-001", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマの戦いでは勝ったものの、最終的にアジアから撤退せざるを得なかったのは、どの国か?", "id": "tr-032-02-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマの戦いの戦勝国のうち、最終的には中国における足場を失ったのは、どの国か?", "id": "tr-032-02-003", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ビルマ(現在のミャンマー、漢字表記では「緬甸」)は、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接している。南北の最長距離は約2,000キロ、東西の最長距離は約1,000キロ、国土面積は68万平方キロである。南側はベンガル湾に面し、東部、北部および西部国境はいずれも峻険な山脈によって囲まれている。中央部は平原地帯であり、大河イラワジ川(現在のエーヤワディー川)が流れている。支流チンドウィン川を含むイラワジ川、シッタウン川(現在のシッタン川)、タンルウィン川(現在のサルウィン川)がビルマの三大河川をなしている。", "qas": [ { "question": "ビルマと国境を接している国には、インド、バングラデシュ、中国、タイのほかに、どの国があるの?", "id": "tr-032-03-000", "answers": [ { "text": "ラオス", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマにおいて、南北と東西のうち、その最長距離がより長いのは、どちらですか?", "id": "tr-032-03-001", "answers": [ { "text": "南北", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イラワジ川、シッタウン川とともにビルマの三大河川を構成するのは、どの川か?", "id": "tr-032-03-002", "answers": [ { "text": "タンルウィン川", "answer_start": 226, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東西南北のうち、国境が山脈に接していない方向は、どちらか?", "id": "tr-032-03-003", "answers": [ { "text": "南", "answer_start": 107, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ビルマは1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。1935年ビルマ統治法が制定され、1937年その発効により、ビルマはインドから分離し、進歩穏健派のバー・モウを首班とする内閣と議会が設置された。しかしイギリス人総督の拒否権はほとんど統治全般に及び、自治権は完全には程遠く、ビルマは植民地と自治領との中間的状態に留め置かれた。議会における自治権拡大運動は、イギリスの行った小党分立政策のため勢力を持つには至らなかった。", "qas": [ { "question": "英緬戦争は、何年に始まった戦争なの?", "id": "tr-032-04-000", "answers": [ { "text": "1824年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビルマがイギリス領インド帝国の一州に編入されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-032-04-001", "answers": [ { "text": "1886年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビルマは、1886年から何年までイギリス領インド帝国の一週に編入されていたか?", "id": "tr-032-04-002", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマがインドから分離されたのは、何年に制定された法の発効によることか?", "id": "tr-032-04-003", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ビルマ独立運動は1930年代に活発化した。運動の前衛は1930年に結成された「タキン党」だった。タキン党にはラングーン大学の学生が数多く参加しており、学生運動のリーダーとして活躍したのがタキン・オンサン(アウン・サン)やウ・ヌーらである。第二次世界大戦が勃発すると、タキン党はバー・モウの「シンエタ党」(貧民党)などと共に「自由ブロック」を結成した。", "qas": [ { "question": "ビルマ独立運動が活発に行われたのは、何年代のことなの?", "id": "tr-032-05-000", "answers": [ { "text": "1930年代", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマ独立運動の主軸となったのは、ウ・ヌーと誰ですか?", "id": "tr-032-05-001", "answers": [ { "text": "タキン・オンサン", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビルマ独立運動の主軸となったタキン党とは、何年に結成されたものか?", "id": "tr-032-05-002", "answers": [ { "text": "1930年", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バー・モウのシンエタ党とともに、自由ブロックを構成したのは、タキン・オンサンのどの党か?", "id": "tr-032-05-003", "answers": [ { "text": "タキン党", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ビルマ民族主義者の中には議会を通じた穏健な運動を目指す者もいたものの、タキン党は対英非協力と武装蜂起を掲げ、インド国民会議派、中国国民党、中国共産党、日本など、いずれの外国勢力からの援助でも受け入れる考えを持っていた。1940年に入ると、イギリスは自由ブロックに対して弾圧を加えた。バー・モウら首脳陣が相次いで投獄される中、オンサンは同志ラミヤンとともに、外国勢力からの援助を求めるために苦力に変装して密出国した。", "qas": [ { "question": "ビルマ民族主義者の中で議会を通じた穏健な運動を目指さなかった組織として挙げられているのは、どれなの?", "id": "tr-032-06-000", "answers": [ { "text": "タキン党", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスが自由ブロックに対し、弾圧を行い始めたのは、何年のことですか?", "id": "tr-032-06-001", "answers": [ { "text": "1940年", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バー・モウら首脳陣の逮捕につれて、外国勢力からの援助を求め、密出国したのは、オンサンと誰か?", "id": "tr-032-06-002", "answers": [ { "text": "ラミヤン", "answer_start": 169, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オンサンとともに、外国勢力からの援助でも受け入れる考えを持っていた、自由ブロックの構成員は、どの党か?", "id": "tr-032-06-003", "answers": [ { "text": "タキン党", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本と中国とは1937年に勃発した日中戦争の最中にあった。日本軍は沿岸部の主要都市を占領したが、中国の蒋介石政府は重慶へと後退し頑強に抗戦を続けていた。日中両国とも国際社会に対しては「これは戦争ではない」との立場をとったため、アメリカ政府は交戦国への軍需物資の輸出を禁止する「中立法」を発動しなかった。軍需物資の多くを輸入に頼っていた日本はこれにより恩恵を受けていたが、中国へのアメリカやイギリスからの援助も妨げることはできなかった。", "qas": [ { "question": "日中戦争は、何年から始まったの?", "id": "tr-032-07-000", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アメリカから日中両国に対する軍需物資の輸出が可能だったのは、日中両国が何と言う立場をとったからですか?", "id": "tr-032-07-001", "answers": [ { "text": "「これは戦争ではない」", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本はアメリカから軍需物資を調達していたことに対し、中国はアメリカだけでなく、どの国からも援助を受けていたか?", "id": "tr-032-07-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 194, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカ政府により制定された、交戦国への軍需物資の輸出を禁止する法案は、何か?", "id": "tr-032-07-003", "answers": [ { "text": "中立法", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ビルマルートとは、ラングーンの港からマンダレー経由でラシオ(現在のラーショー)までの鉄道路「ビルマ鉄道」と、ラシオから山岳地帯を越えて雲南省昆明に至る自動車道路「ビルマ公路」とを接続した、全長2,300キロの軍需物資の輸送ルートの呼称である。蒋介石政府はトラックがどうにか通れるだけの山越えの道路を1938年7月に完成させていた。", "qas": [ { "question": "ビルマルートとは、ビルマ鉄道と何を接続した、軍需物資の輸送ルートの呼称であるの?", "id": "tr-032-08-000", "answers": [ { "text": "ビルマ公路", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビルマ鉄道は、ラングーンの港とどこを結ぶ鉄道路でありますか?", "id": "tr-032-08-001", "answers": [ { "text": "ラシオ", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルマ鉄道は、どこを経由するラングーンの港からラシオまでの鉄道路であるか?", "id": "tr-032-08-002", "answers": [ { "text": "マンダレー", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビルマ公路は、何年に完工された道路であるか?", "id": "tr-032-08-003", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 149, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1940年6月、ドイツ軍のパリ占領を機に、日本政府はイギリス政府に対して申し入れを行い、ビルマおよび香港を経由する蒋介石政府への物資輸送を閉鎖させた。さらに日本は9月の北部仏印進駐により仏印ルートをも遮断した。しかしビルマルートの閉鎖はアメリカの反発により3か月間にとどまった。再開されたビルマルートを遮断するため、日本軍航空部隊は雲南省内の怒江(サルウィン川の中国名)にかかる「恵通橋」と瀾滄江(メコン川上流部の中国名)にかかる「功果橋」を爆撃したが、橋を破壊するまでには至らなかった。", "qas": [ { "question": "日本が仏印ルートを遮断したのは、何年のこと?", "id": "tr-032-09-000", "answers": [ { "text": "1940年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イギリスからの蒋介石政府への物資輸送が閉鎖されたことと同じ年に、日本により遮断されたルートは、何ですか?", "id": "tr-032-09-001", "answers": [ { "text": "仏印ルート", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本がビルマルートの閉鎖を図ることに反発したのは、どの国か?", "id": "tr-032-09-002", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 118, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本はビルマルートを遮断するため、恵通橋とどの橋に対する爆撃を行ったか?", "id": "tr-032-09-003", "answers": [ { "text": "功果橋", "answer_start": 216, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アメリカとしては、ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、蒋介石政府の戦争からの脱落を防ぎ、100万の日本軍支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせ、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻勢を行えないような状況を作ることが必要だった。蒋介石政府への軍事援助は、1941年3月以降は「レンドリース法」に基づいて行われるようになった。さらにアメリカは、志願兵という形を取って、クレア・リー・シェンノートが指揮する航空部隊「フライング・タイガース」をビルマへ進出させた。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパでの戦局を有利に導きたがっていたアメリカにとっては、日本が太平洋とどこにおいて大規模な攻勢を行えないようにする必要あったの?", "id": "tr-032-10-000", "answers": [ { "text": "インド", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "蒋介石政府への軍事援助は、いつ以降から行われるようになりましたか?", "id": "tr-032-10-001", "answers": [ { "text": "1941年3月", "answer_start": 125, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカがビルマに進出させた航空部隊は、何か?", "id": "tr-032-10-002", "answers": [ { "text": "クレア・リー・シェンノート", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカがビルマに進出させた航空部隊は、誰が率いていたか?", "id": "tr-032-10-003", "answers": [ { "text": "フライング・タイガース", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1940年3月、日本の大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。", "qas": [ { "question": "日本の大本営陸軍部が、鈴木敬司大佐にビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えたのは、いつのこと?", "id": "tr-032-11-000", "answers": [ { "text": "1940年3月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鈴木は、タキン党を中核とする独立運動が何に発展すると、ビルマルート遮断を達成できると考えましたか?", "id": "tr-032-11-001", "answers": [ { "text": "武装蜂起", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "鈴木は「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り、タキン党員と接触した。そこで鈴木はオンサンたちがアモイに潜伏していることを知り、彼らを日本に招くことを決意する。オンサンたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に到着した。これを契機に陸海軍は協力して対ビルマ工作を推進することを決定し、1941年2月1日、鈴木を機関長とする大本営直属の特務機関「南機関」が発足した。", "qas": [ { "question": "南機関が発足したのは、いつのことか?", "id": "tr-032-12-000", "answers": [ { "text": "1941年2月1日", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鈴木がタキン党員と接触したのは、どこでか?", "id": "tr-032-12-001", "answers": [ { "text": "ラングーン", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南機関は、ビルマ独立運動家の青年30名を国外へ脱出させ、軍事訓練を施し、ビルマへ再潜入させて1941年の夏頃に武装蜂起させるという計画を立てていた。1941年2月から6月までの間に、脱出したビルマ青年は予定の30名に達し、ビルマ青年たちは海南島で軍事訓練を受けた。しかし1941年の夏には、ドイツ軍のソ連進攻や、日本の南部仏印進駐とこれに対するアメリカの対日石油禁輸など、国際情勢の緊迫の度は深まっていった。このような情勢下、ビルマでの武装蜂起の計画にも軍中央から待ったがかけられた。", "qas": [ { "question": "南機関は、国外へ脱出させ、軍事訓練を受けさせた、ビルマ独立運動家の青年30名に、何年の夏頃から武装蜂起を起こさせる計画を立てていましたか?", "id": "tr-032-13-000", "answers": [ { "text": "1941年", "answer_start": 46, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南機関により、国外に脱出したビルマ独立運動家の青年30名は、どこで軍事訓練を受けたの?", "id": "tr-032-13-001", "answers": [ { "text": "海南島", "answer_start": 119, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "立憲民主党(ロシア)", "paragraphs": [ { "context": "ロシア帝国末期になると、皇帝専制体制のもとで急激な経済成長が進められる一方で、経済成長によって生じた問題への不満から大衆運動が活発化した。こうしたなか、地主貴族を含む地方議員や中産階級の専門職層からなる自由主義知識人たちの政治的結集が進む。1903年7月に政治団体「解放同盟(ロシア語版)」が結成されると、パーヴェル・ミリュコーフら自由主義知識人はこの団体のもとで憲法制定や皇帝専制打倒を訴える政治運動を行った。1905年に第一次ロシア革命が起き、皇帝ニコライ2世は国家ドゥーマ(国会)を設置することを同年2月18日の勅書において約束した。これを受けて、ロシアの自由主義勢力のあいだでは、将来の国会開設に備えて政党の結成の動きが加速化する。しかし、国会が立法権を持たない単なる諮問機関となることが明らかになると、自由主義勢力の多数がこれに反発した。", "qas": [ { "question": "1905年ニコライ2世により国家ドゥーマの設置が決定され、将来の国会開設に備えて政党の結成の動きが加速化したのは、何主義の勢力の間でのことですか?", "id": "tr-033-00-000", "answers": [ { "text": "自由主義", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "解放同盟という団体の構成員には、地主貴族を含む地方議員のほかに、どんな人々がいるの?", "id": "tr-033-00-001", "answers": [ { "text": "中産階級の専門職層", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1905年ニコライ2世により設置が決定された国会は、立法権を持つか、もしくは、持たないか?", "id": "tr-033-00-002", "answers": [ { "text": "持たない", "answer_start": 331, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロシア帝国末期に政治的結集や政党の結成の動きの活発化など、政治的な関心が高まったのは、何があったからか?", "id": "tr-033-00-003", "answers": [ { "text": "急激な経済成長", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "専門職業家同盟(英語版)(大学教授や医師などの職業団体の連合体)も国会選挙のボイコットを決定した。しかし、ミリュコーフは専門職業家同盟の議長であったが、国会を政治闘争の手段として利用できると考えて選挙ボイコットに反対し、専門職業家同盟を脱退して独自に政党結成を模索することとなった。また立憲派の地方議員を中心とする「ゼムストヴォ・市会議員大会」も国会の内部からの民主化を目指し、選挙に参加することを決めた。こうしてミリュコーフを事実上の指導者として、解放同盟とゼムストヴォ立憲派同盟が統合し、立憲民主党(カデット)が結成された。そして、同年10月12日から18日にかけて結党大会が行われた。この大会のさなかの10月17日、国会の立法権などを認める十月詔書が発布されている。しかし、ケレンスキーの回想によれば、カデットはこの十月詔書を不十分なものだとして拒絶しており、ミリュコーフも「何も変わっていない。戦いは続く」と演説した。こうした急進的な自由主義者で形成されたカデットに対し、より穏健的な自由主義者は政党「10月17日同盟」(十月党、オクチャブリスト)を結成した。", "qas": [ { "question": "専門職業家同盟の議長であるが、独自に政党結成を行おうとしたのは、誰なの?", "id": "tr-033-01-000", "answers": [ { "text": "ミリュコーフ", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "専門職業家同盟のリーダから立憲民主党のリーダになった人は?", "id": "tr-033-01-001", "answers": [ { "text": "ミリュコーフ", "answer_start": 207, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミリュコーフが中心である政党とは性格が違う自由主義者らが作った政党は何ですか?", "id": "tr-033-01-002", "answers": [ { "text": "10月17日同盟", "answer_start": 455, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ミリュコーフはどのような政治的性格を持った自由主義者だったか?", "id": "tr-033-01-003", "answers": [ { "text": "急進的", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同年12月までは政治活動の明確な方針は定まらなかったが、翌年の1906年1月の第2回党大会でミリュコーフが「我が党はすぐれて議会政党である」と演説し、綱領には立憲君主制・議会制を掲げることとなった。この大会において党中央委員会のメンバーが確定しており、この当時の党の主な指導者にはミリュコーフをはじめ、ストルーヴェ、コリューバキン、ロジチェフ(ロシア語版)、ゲッセン(ロシア語版)、ペトルンケヴィチ(ロシア語版)といった人物がいた。党員数は10万人を数えたという。同年に行われた第1国会の選挙は、労働者にも選挙権を与えていたものの、土地所有者の1票が都市民2票・農民15票・労働者45票に相当するという極めて不平等な選挙制度であった。そして、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、社会革命党といった社会主義政党は選挙をボイコットした。一方で小規模な土地所有者が選挙に強い影響力を有しており、都市中間層もカデットについた。こうした条件下でカデットは圧勝し、約150から180議席程度を得て第一党となった。国会議長もカデット出身の法学者セルゲイ・ムーロムツェフ(ロシア語版、英語版)となっている。", "qas": [ { "question": "第1国会の選挙で最も影響力のある1票は、どんな人の1票だった?", "id": "tr-033-02-000", "answers": [ { "text": "土地所有者", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第1国会の選挙でどんな1票の影響力が最も小さかったのは、どんな人々だったの?", "id": "tr-033-02-001", "answers": [ { "text": "労働者", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "立憲民主党が第一党になれたのは、どんな人々からの支持があったからか?", "id": "tr-033-02-002", "answers": [ { "text": "小規模な土地所有者", "answer_start": 367, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "立憲民主党が立憲君主制・議会制を掲げたのは、何年のことか?", "id": "tr-033-02-003", "answers": [ { "text": "1906年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方で、第1国会開催を目前にして、同年4月21日から25日にかけて第3回党大会が開かれた。大会では、帝政政府の発表した憲法草案はまったく不十分であると非難する決議がなされ、また、国会に提出するための土地問題法案「四十二人法案」(後述)が計画された。さらに地方党員はより急進的な活動方針を取るべきだと訴え、ミリュコーフら中央委員会を激しく批判したが、これについては、あくまで合法的な議会闘争を行うという方針が採用された。第1国会が開かれると、各種の自由権や法の下の平等などを求める法案を提出したが、かなり穏健な内容であったにもかかわらず、これは廃案となった。また、穏健な農民派政党トルドヴィキ(英語版)らとともに土地問題の審議を望み、私有地を一部、有償ながらも強制収用すべきとする四十二人法案を提出した(#土地問題)。一方で、トルドヴィキは全土地の収用を求めた。", "qas": [ { "question": "カデットの中でより急進的な活動方針を取るべきだと訴えたのは、どんな人々なの?", "id": "tr-033-03-000", "answers": [ { "text": "地方党員", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時に提出された法案で、土地の強制収用に関する法案は、何ですか?", "id": "tr-033-03-001", "answers": [ { "text": "四十二人法案", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "四十二人法案が提出される前に開かれ、帝政政府の憲法草案を非難する決議がなされた党大会は、第何回だったか?", "id": "tr-033-03-002", "answers": [ { "text": "第3回", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "全土地の収用を求めた政党の主な構成員は、どんな人々?", "id": "tr-033-03-003", "answers": [ { "text": "農民", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "このような国会の動きに対して、帝政政府は強硬に反対したため、国会と政府のあいだには鋭い対立が生じた。やがて、こうした状況下において、帝政内にはカデットと妥協して、首相ムーロムツェフ、外相ミリュコーフからなる内閣を作るという構想が持ち上がった。内相ピョートル・ストルイピンらは国会の強制解散による混乱を恐れており、カデットも議院内閣制を目標としていたから、当初、両者の交渉は順調に進んだ。しかし、トルドヴィキとの提携の是非や土地の強制収用といった問題で合意に至らず、交渉は決裂する。そして、7月9日についに国会は強制的に解散させられた。第1国会解散と同日に、カデットの党中央委員会が開かれ、ペトルンケヴィチが国会解散への抗議として納税・徴兵の拒否を宣言することを提案した。カデットの呼びかけにより、カデット、トルドヴィキなどの178名の議員がフィンランドのヴィボルグに集まり、政府を批判する「ヴィボルグの檄」を発した。これは国会の再召集まで税を納めず徴兵にも応じないという運動を行うことを訴えた文書だった。しかし、この運動は成果を挙げることができなかったばかりか、政府の反撃を受け、およそ120人のカデット党員の国会選挙への参加資格が剥奪されるという結果に終わった。フョードル・ココシキンやウラジーミル・ナボコフといった党所属の国会議員も、選挙参加資格を奪われた上、投獄されている。党は動揺し、党内左派がより急進的な非合法政党として分離し、党内右派がオクチャブリストに合流しようとしていると取り沙汰され、解党の危機に見舞われた。解党は免れたものの、結局、カデットは同年9月の党大会でこの文書の路線を現実的でないとして放棄した。", "qas": [ { "question": "7月9日、国会が強制解散されたのは、カデットと誰の交渉が決裂したからか?", "id": "tr-033-04-000", "answers": [ { "text": "ピョートル・ストルイピン", "answer_start": 123, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "178名の議員がヴィボルグで政府を批判したのは、どんな出来事があったからなの?", "id": "tr-033-04-001", "answers": [ { "text": "第1国会解散", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第1国会解散に対する抗議として、178名の議員が発した文書の主な内容について初めて発言したカデットの党中央委員会の人は誰か?", "id": "tr-033-04-002", "answers": [ { "text": "ペトルンケヴィチ", "answer_start": 294, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カデットが国会解散に対する抗議として発した文書が放棄されたのは、何月か?", "id": "tr-033-04-003", "answers": [ { "text": "9月", "answer_start": 683, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1907年1月から国会選挙が再び行われ、この選挙において、カデットは、社会革命党・メンシェビキ・人民社会党(英語版)(エヌエス)とのあいだで選挙協力を行おうとした。しかし、カデットは自らが指導的な立場となることを主張したため反発を招き、この交渉は失敗に終わったという。結局、社会革命党などの選挙参加の影響を受け、カデットは勢力を後退させ98議席を得るに終る。同年2月20日に開かれた第2国会において、カデットはより穏健な土地法案を提出したが、その一方で政府に責任内閣制を要求した。しかし、この国会が思い通りにならないと見た首相ストルイピンはこれを6月3日には解散させた(「6月3日クーデター(英語版)」)。11月1日に第3国会が開かれた時、カデットはさらに勢力を後退させ、53議席を得るに留まった。この第3国会の選挙は政府に有利になるように改正された選挙法のもとで行われており、政府に協力的なオクチャブリストが第一党となった。第3国会においてストルイピンは農業改革法案を審議にかけ、カデットはそれに一応は反対したものの、自身の土地法案においても明確な差異を打ち出すことはできなかった。その背景には、土地の強制収用に否定的な声が党内にも多くなったという事情があったという。そのため、農民運動において指導的立場を社会主義政党に奪われることとなった。また、1908年1月時点で、党員数は3万人以下へと激減していた。", "qas": [ { "question": "カデットが第2国会で政府に要求したのは何か?", "id": "tr-033-05-000", "answers": [ { "text": "責任内閣制", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "首相ストルイピンにより6月3日に解散された国会で、カデットはいくつの議席を得たか?", "id": "tr-033-05-001", "answers": [ { "text": "98議席", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カデットがより多い議席を確保したのは、第2国会と第3国会のうち、どちらか?", "id": "tr-033-05-002", "answers": [ { "text": "第2国会", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カデットが農民運動においての指導的立場を奪われたのは、どのような政党からか?", "id": "tr-033-05-003", "answers": [ { "text": "社会主義政党", "answer_start": 554, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "政治的影響力を低下させたカデットの党内では、ストルーヴェ派(ヴェーヒ派、道標派)とミリュコーフ派による抗争が起きた。ストルーヴェ派はストルイピンの改革に肯定的であり、より保守的な路線をとろうとした。彼らは土地の強制収用にも反対していた。一方、ミリュコーフ派は新たな革命運動の主導権を握ろうとする立場をとったという。その結果、1909年11月になると、カデットは「平行運動」戦術という新たな方針を採用した。これはオクチャブリストの助けを借りながら国会内において政府との交渉を継続する一方、メンシェビキの指導する労働運動とも手を組もうとするものであった。党内両派の対立の理論的な側面は、論集『道標(英語版)』(ヴェーヒ)に関する論争に現れた。当時のほぼすべてのロシア知識人が読んだと言われる『道標』は、ストルーヴェ派のカデット党員たちが執筆した論集だった。この『道標』は、宗教や道徳といった古い価値観の意義を強調し、これまでのロシア知識人の在り方を否定する内容のものであった。ミリュコーフは、この論集を反動的なものだとして強く批判したという。別の党中央委員シャホフスコーイ(ロシア語版、英語版)も同様に『道標』を批判した。道標に批判的なカデット機関紙『レーチ』紙と、道標派の日刊紙・週刊誌とのあいだでも論争が繰り広げられたが、やがて後者は論争に敗れて次々と廃刊に追い込まれていき、道標派はその影響力を失っていった。", "qas": [ { "question": "『道標』を執筆した党員側と対立していた党員らの指導者は誰か?", "id": "tr-033-06-000", "answers": [ { "text": "ミリュコーフ", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『レーチ』紙との論争に負けて廃刊した日刊紙・週刊誌を出した派の首長は誰なの?", "id": "tr-033-06-001", "answers": [ { "text": "ストルーヴェ", "answer_start": 349, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "道標を反動的なものだとして強く批判した人が率いる派で執筆した機関紙は何ですか?", "id": "tr-033-06-002", "answers": [ { "text": "『レーチ』紙", "answer_start": 523, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "これまでロシア知識人の在り方を否定する内容のものは、何ですか?", "id": "tr-033-06-003", "answers": [ { "text": "道標", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1912年の第4国会選挙ではオクチャブリストが議席を減らし、右翼勢力や進歩党(ロシア語版、英語版)などが躍進したため、政局が不安定化した。こうしたなか、党首ミリュコーフは党内の多数の支持を得て、政府に対してより急進的な要求を行うことを決めた。同年11月15日に開かれた国会において、カデットは普通選挙権や出版・結社・人身の自由を定めた法案を提出した。さらに翌年の1913年1月末には、民主化の実現まで、「権力にたいして和解しがたい反対派」となるべきであるというミリュコーフの演説が行われている。この頃、カデット右派の指導者ヴァシーリー・マクラコフ(ロシア語版、英語版)は、左派オクチャブリスト・進歩党との連携によって国会内に「進歩ブロック」という大勢力を形成することを模索した。この構想は1913年時点では実現しなかった。また、1914年の第一次世界大戦の開戦とともに、カデットは国内政治よりも戦争を優先する立場をとって政府批判を緩め、また帝政政府による動員体制の構築に協力している。", "qas": [ { "question": "カデットが政府批判を緩めたのは、どんな出来事があったからなの?", "id": "tr-033-07-000", "answers": [ { "text": "第一次世界大戦", "answer_start": 370, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国会内に「進歩ブロック」という大勢力を形成しようとしたカデット右派の指導者は、誰ですか?", "id": "tr-033-07-001", "answers": [ { "text": "ヴァシーリー・マクラコフ", "answer_start": 261, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第4国会で党内の多数の支持を得て、普通選挙権や出版・結社・人身の自由を定めた法案を提出した人は誰か?", "id": "tr-033-07-002", "answers": [ { "text": "ミリュコーフ", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カデットが普通選挙権や出版・結社・人身の自由を定めた法案を提出したのは、第何国会でか?", "id": "tr-033-07-003", "answers": [ { "text": "第4国会", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ところが、政府はますます国会を軽視するようになり、これに対する反発から国会内ではふたたび自由主義勢力の結集が進んだ。そして、1915年8月25日にカデット・オクチャブリストその他の諸勢力からなる「進歩ブロック」が実現した。これには全国会議員422人中、325人の議員が参加したという。この「進歩ブロック」においては、オクチャブリストの分裂の影響で、カデットが主導権を握ることに成功した。進歩ブロックの実質的な指導者もカデットの党首ミリュコーフとなった。進歩ブロックは政府に国会との協調を求め、国民の信任を得られる内閣(信任内閣)の実現を要請した。しかし、帝政政府は国会の無期限停会をもってこれに応えた。党内の左派は進歩ブロックからの脱退と左翼政党との提携を主張したが、これは少数意見にとどまった。カデットは進歩ブロックに留まったまま、政府が国会を再開するのを待った。しかし、マンデリュシュタム(ロシア語版)やオブニンスキーらモスクワの党グループ左派は、ミリュコーフに対して待機戦術を放棄し、より急進的な闘争を選ぶように強く迫った。", "qas": [ { "question": "国会内で再び自由主義勢力の結集が進んだのは、政府が国会に対してどんな態度を取ったからか?", "id": "tr-033-08-000", "answers": [ { "text": "軽視", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1915年8月25日に実現したブロックにおいて主導権を握っていたのは、どんな政党でありますか?", "id": "tr-033-08-001", "answers": [ { "text": "カデット", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "国会との協調と信任内閣の実現に対する進歩ブロックの要請に、政府は何をもって応じえたか?", "id": "tr-033-08-002", "answers": [ { "text": "国会の無期限停会", "answer_start": 282, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1915年8月25日に実現したブロックには、何人の議員が参加したか?", "id": "tr-033-08-003", "answers": [ { "text": "325人", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1916年2月18日から21日にかけて、第6回党大会が開かれた。国内では第一次世界大戦におけるロシアの敗勢や皇帝の不合理な統治の継続などの問題が生じており、党大会では左派と右派がさらに激しく争った。ミリュコーフら党の主流派は、政変が戦争に悪影響を及ぼすことを懸念し、政府との全面対決には消極的であった。その一方で、党幹部のアンドレイ・シンガリョフ(ロシア語版、英語版)が「国民の気分は近い将来を考えるのがこわいくらいのものである。国民の苦悩と憤懣は限界に来ている。(中略)われわれは極左派と完全に遊離するところまでゆくべきではない」と演説した。この演説の結果、左翼政党との連携も視野に入れつつ、政府との闘争を続けるという方針が決議される。その後、カデットは政府との対決姿勢を強め、同年11月に開かれた国会において、ついにミリュコーフはいわゆる「爆弾演説」を行い、政府を公然と批判した。この演説において、ミリュコーフはボリス・スチュルメル首相や怪僧ラスプーチンらをドイツの手先だとして激しく非難した。そして、政府の数々の失策について「これは愚かさか、または裏切りか?」と他の議員たちに問いかけたという。議員たちは「愚行だ!」「裏切りだ!」「その両方だ!」と応じた。演説の内容は全ロシアに広まり、反政府運動の活発化に大きな役割を果たしたとされる。", "qas": [ { "question": "政府との全面対決に消極的であった党の主流派が考え直すようになったのは、誰の演説があってからですか?", "id": "tr-033-09-000", "answers": [ { "text": "アンドレイ・シンガリョフ", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "反政府運動の活発化に大きな役割を果たしたとされる演説は、誰の演説か?", "id": "tr-033-09-001", "answers": [ { "text": "ミリュコーフ", "answer_start": 360, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミリュコーフが政府への強い批判を込めた爆弾演説を行ったのは、誰の影響を受けたからか?", "id": "tr-033-09-002", "answers": [ { "text": "アンドレイ・シンガリョフ", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミリュコーフの爆弾演説により活発化した運動は何か?", "id": "tr-033-09-003", "answers": [ { "text": "反政府運動", "answer_start": 546, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "翌年の1917年に二月革命が起きると、13名の国会議員から構成される国会臨時委員会(英語版)が組織され、国家権力を掌握した。この臨時委員会には、カデットからはミリュコーフと国会副議長ニコライ・ネクラーソフが参加した。臨時委員会において、君主制を維持するべきかどうかという議論が生じると、党内左派に位置するネクラーソフは君主制の放棄を支持する一方、ミリュコーフは君主制の維持を訴えた。そのため、両者のあいだで対立が生じたが、最終的に皇帝候補のミハイル大公自身が帝位を拒絶した。その後に成立した第一次臨時政府では、外相にミリュコーフ、運輸相にネクラーソフ、農相にシンガリョフが就任するなど5つの閣僚ポストを得ており、この政府はカデットを中心としていた。一方、社会革命党やメンシェビキといった社会主義政党は、ペトログラード・ソビエト(英語版)を通して労働者・兵士を掌握し、臨時政府を外部から監督するという立場をとった。", "qas": [ { "question": "ミリュコーフと国会副議長ニコライ・ネクラーソフが参加した臨時委員会は、何名の国会議員から構成されたの?", "id": "tr-033-10-000", "answers": [ { "text": "13名", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミリュコーフと君主制を維持するかどうかで対立したのは、誰か?", "id": "tr-033-10-001", "answers": [ { "text": "ネクラーソフ", "answer_start": 152, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第一次臨時政府は、主にどの政党により構成されていたか?", "id": "tr-033-10-002", "answers": [ { "text": "カデット", "answer_start": 311, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "3月に行われた第7回党大会では、党の綱領を立憲君主制から民主共和制に変更することが決定された。その一方で、党の幹部ココシキンが「われわれは、いつも市民的権利と国民の平等の原則の不可侵を擁護してきたし、今後もかわらず擁護するだろう」と演説し、自由と平等の擁護、国民主権の原則、社会的公正の実現といった党の目標は不変であることを確認した。また、同大会では、ココシキンの報告に基づいて、現在の臨時政府はあくまで暫定政権にすぎず、できるかぎり早い時期に憲法制定会議(英語版、ロシア語版)を召集して新たな国家体制を決定するべきだという原則が決議された。しかし、4月、ミリュコーフが外相として戦争継続を約束する外交文書「ミリュコーフ通牒」を作成すると、これがペトログラード・ソビエトの反発を招き、さらに兵士たちの抗議デモを引き起こす事態となった。カデットの中央委員会も対抗して「ミリュコーフ信任」および「臨時政府万歳」と主張するデモを組織したものの、結局この政府危機「4月危機」によってミリュコーフは辞任を余儀なくされた。", "qas": [ { "question": "4月危機によって辞任された人は、何を約束する外交文書を作成したの?", "id": "tr-033-11-000", "answers": [ { "text": "戦争継続", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミリュコーフが辞任するきっかけとなった文書とは、何か?", "id": "tr-033-11-001", "answers": [ { "text": "「ミリュコーフ通牒」", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "臨時政府の外相はどの政党の者ですか?", "id": "tr-033-11-002", "answers": [ { "text": "カデット", "answer_start": 367, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "4月危機とは、どんな文書への反発から起こった事件なの?", "id": "tr-033-11-003", "answers": [ { "text": "「ミリュコーフ通牒」", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ゲルニカ_(絵画)", "paragraphs": [ { "context": "『ゲルニカ』(Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画である。\nドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。\n20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある。\n発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。ゲルニカは「偉大な神が降りた」とも言われる。", "qas": [ { "question": "『ゲルニカ』を描いた人は?", "id": "tr-034-00-000", "answers": [ { "text": "パブロ・ピカソ", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゲルニカ爆撃をテーマとした絵画のタイトルは何?", "id": "tr-034-00-001", "answers": [ { "text": "『ゲルニカ』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "20世紀を象徴すると言われている絵画とは何?", "id": "tr-034-00-002", "answers": [ { "text": "『ゲルニカ』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ゲルニカ』は何年に製作されたの?", "id": "tr-034-00-003", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 41, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1936年7月には第二共和政期のスペインでスペイン内戦が勃発し、マヌエル・アサーニャ率いる共和国軍とフランシスコ・フランコを中心とした反乱軍が争った。\n1934年にスペインを離れてフランス・パリに在住していたスペイン人画家パブロ・ピカソは共和国政府を支持しており、1937年1月にはフランコを風刺する内容の詩『フランコの夢と嘘』を著し、後には詩に添える銅版画を製作していた。\nこの銅版画でフランコは怪物の姿として描かれており、売られた絵葉書の収益は共和国政府の救援資金となった。\nスペイン内戦中の1937年1月、共和国政府は在フランスのスペイン大使館を経由してピカソにパリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画の製作依頼を行った。\nピカソは依頼に対して明確な返事をしなかったが、スペイン内戦とは無関係のシュルレアリスム風の壁画を制作する予定だったとされている。\n1980年頃にパリのピカソ美術館で発見されたスケッチによれば、この構想は画家やモデルが登場する個人的な世界の描写だったが、後の『ゲルニカ』に含まれる太陽や女のイメージは既に存在していた。\n4月半ばにはこの個人的世界の絵画に対して、鉛筆とインクによる素描を仕上げていた。\n1937年4月26日にビスカヤ県のゲルニカがナチスドイツ軍によって都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を受けると、27日には数紙の夕刊にゲルニカ爆撃の短報が掲載された。\n28日朝にはジョージ・スティアによる長い記事が『タイムズ』に掲載され、この記事は世界各国の新聞に転載された。\nピカソはこれらの過程でゲルニカ爆撃を知り、パリ万博で展示する壁画の主題に選んだ。\nこの絵画の製作に先立つ数年間、ピカソは女性関係に翻弄されてほとんど絵を描かなかったが、この絵画では熱心に作業を行った。", "qas": [ { "question": "『フランコの夢と嘘』の著者は誰?", "id": "tr-034-01-000", "answers": [ { "text": "パブロ・ピカソ", "answer_start": 111, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲルニカ爆撃が起こったのはいつ?", "id": "tr-034-01-001", "answers": [ { "text": "1937年4月26日", "answer_start": 513, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピカソが支持したのは共和国軍と反乱軍のどちら?", "id": "tr-034-01-002", "answers": [ { "text": "共和国軍", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゲルニカを爆撃したのはどこの軍隊ですか?", "id": "tr-034-01-003", "answers": [ { "text": "ナチスドイツ軍", "answer_start": 535, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この絵画では習作を計45枚描くが、1枚を除いて日付や制作順を表す番号が添えられ、全45枚が保存されている。\n5月1日の午後に習作の製作を開始し、初日には青色のデッサン用紙に鉛筆で6枚の習作を描いたが、初日の習作にはすでに、傷ついた馬、超然とした牡牛、灯火を持つ女などの主要な要素が登場している。\nまた、戦争画には戦い、爆弾、殺戮者などがつきものだが、習作から壁画の完成までこのような加害者はついに登場することはなかった。\n5月2日はカトリックの安息日である日曜日であり、普段なら娘のマヤと出かける曜日だったが、マヤのことも忘れて作業に没頭した。\nこの日は苦悶する馬の表情を集中的に描き、それまでの14枚の習作は紙に鉛筆で描いていたが、初めてキャンバスに油絵具で習作を描いた。\n前日の習作では構成要素がほぼ静止していたのに対して、この日の習作では喘いだ馬が頭を折り曲げ、女は驚愕の表情を浮かべるという具合に変化した。\nこの日までに構図がほぼ固まったが、ゲルニカ爆撃を直接的に示す要素は何ひとつなく、あくまでも絵画は爆撃の隠喩という意味合いが強かった。\nわずか2日間で絵画製作は大きな進展を見せ、その後の1週間はほとんど何もせずに放置したが、メーデーの数日後には「スペイン軍部への嫌悪の意味を込めた『ゲルニカ』を製作中である」とする声明を発表した。\nスペイン内戦開戦当初はピカソが反乱軍の味方であるという噂が広まっていたため、自身の立場を明らかにする意味合いもあった。", "qas": [ { "question": "5月1日に描かれた習作は何枚だったの?", "id": "tr-034-02-000", "answers": [ { "text": "6枚", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "描かれた習作の枚数が多かったのは5月1日と5月2日のどちら?", "id": "tr-034-02-001", "answers": [ { "text": "5月2日", "answer_start": 211, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ピカソが初めて油絵による習作を描いたのはいつですか?", "id": "tr-034-02-002", "answers": [ { "text": "5月2日", "answer_start": 211, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゲルニカの習作は何枚描かれたの?", "id": "tr-034-02-003", "answers": [ { "text": "45枚", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "5月11日の朝、パリ6区のグラン・ゾーギュスタンにあるアトリエで縦349cm×横777cmのキャンバスに向かいはじめた。\nそれまでピカソはモデル以外とは製作過程を共有せず、製作途中の作品を撮影したことはなかったが、助手役を務めたドラ・マールは様々な段階でキャンバスの写真を8枚撮影し、時には製作中のピカソもカメラに収めた。\n11日に撮られた1枚目の写真では、習作の段階で右端にいた女は左端に移され、右半分には3人の女が加えられ、この日のうちに巨大なキャンバスはある程度要素で埋め尽くされた。\n巨大なキャンバスに向かいながらも、習作を描くことも続けていた。\n特に女の頭部と牡牛を頻繁に描いており、女の頭部は1937年10月26日に完成する『泣く女』に結実しているとされる。\n助手はドラひとりだったが、アトリエを訪ねてきたマリー=テレーズとドラが鉢合わせし、口論や小突き合いをしたこともあった。\n5月13日に撮られた2枚目の写真では、太陽に似た形象が出現し、画面が黒く塗られ始めた。", "qas": [ { "question": "ゲルニカの製作途中のキャンバスをカメラに収めた人物は誰?", "id": "tr-034-03-000", "answers": [ { "text": "ドラ・マール", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゲルニカが製作されたアトリエはどこに位置していたの?", "id": "tr-034-03-001", "answers": [ { "text": "グラン・ゾーギュスタン", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1937年10月26日に完成したピカソの代表作とは何?", "id": "tr-034-03-002", "answers": [ { "text": "『泣く女』", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "5月16日-19日頃に撮られた3枚目の写真では、馬の顔や兵士の向きが変更され、前景の人間は女と兵士の屍のみに整理され、戦士の拳の位置にも変化が加えられた。\n当時は「突きあげた拳」がファシストに対する反戦のシンボルとして世界に広まっており、当初は戦士が右腕を突き上げていたが、政治色を弱めるためか体の横に伸ばされた。\n太陽のような形象は押しつぶされてアーモンド型になり、牡牛の目の前に三日月に似た形象が出現した。\n5月20日-24日頃に撮られた4枚目の写真では、それまで頭を垂れていた馬が頭を起こし、鼻孔を開いて豪気を示した。\n三日月に似た形象は消え去って時間帯が曖昧となり、色や模様のあるコラージュが貼り付けられた。\n5月27日頃に撮られた5枚目の写真ではコラージュが取り去られたが、6月1日頃に撮られた6枚目の写真では再びコラージュが試みられた。\n6月4日頃に撮られた7枚目の写真では再びコラージュが剥がされ、兵士の人間性が失われて石膏像のようになった。\n完成時に撮られた8枚目の写真ではアーモンド型の光源の中に電球が描かれた。", "qas": [ { "question": "5枚目の写真はいつ撮影されたの?", "id": "tr-034-04-000", "answers": [ { "text": "5月27日頃", "answer_start": 309, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "6枚目の写真はいつ撮影されたの?", "id": "tr-034-04-001", "answers": [ { "text": "6月1日頃", "answer_start": 342, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ピカソは絵画をスペイン共和国に無償で寄贈する予定だったが、5月28日には在フランスのスペイン大使館員が来訪し、材料費という名目で15万フランを受け取った。\n製作末期の作業過程は判然としておらず、何度も背景の色調の修正、灰色の上塗り、馬の体への線の書きいれなど細部の修正を行った。\nこの際にはドラの手を借りているが、ピカソの作品に本人以外の手が加わったのはこの絵画が初めてだとされる。\n仕上げとして右端に半開きの扉を描いたが、それ以降も微修正を続けた。\n6月4日頃には絵画がほぼ完成したとされ、6月6日にはスペイン人詩人のホセ・ベルガミン、スペイン人学者のフアン・ラレーラ、スイス人彫刻家のアルベルト・ジャコメッティ、ドイツ人画家のマックス・エルンスト、フランス人詩人のポール・エリュアールとアンドレ・ブルトン、イギリス人画家のローランド・ペンローズ、彫刻家のヘンリー・ムーアがアトリエに来訪し、ドラ以外に初めて絵画を披露した。", "qas": [ { "question": "ゲルニカの材料費でもらった金額は?", "id": "tr-034-05-000", "answers": [ { "text": "15万フラン", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "細部の修正の際に手を借りた人物とは?", "id": "tr-034-05-001", "answers": [ { "text": "ドラ", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "絵画がアトリエから万博会場に搬入された日付は不明だが、1937年6月末にはスペイン館に絵画が運ばれ、入口から見て右手の壁面全体に絵画が掛けられた。\nなお、スペイン館の3階には破壊されたゲルニカの写真が展示され、またフランス人詩人のポール・エリュアールによる『ゲルニカの勝利』という詩が掲げられた。\n写実的な絵画を期待していた関係者の中には、より目立たない位置に移すことを計画した人々もいたが、ピカソの名声を考慮して万博閉幕まで入口ホールに掲げられた。\n7月12日にはスペイン館の完成披露宴でこの絵画が公開された。\n前衛芸術家や一部の知識人を除けば絵画の評判はいま一つであり、「深刻化するスペインの危機を視覚的に表現していない」「ナチスの酷い犯罪の真相をだれにでもすぐにわかるように描いていない」などの批判が聞かれ、新聞などで絵画が取り上げられることはなかった。\nスペイン館の開館がパリ万博自体の開会より遅れたこともあって、公式パンフレットにこの絵画が記載されることもなかった。\nしかし、スペイン人美術評論家のジャン・カスーはとてもスペイン的な絵画であると評価し、スペイン人詩人のホセ・ベルガミンは祖国の本質を反映して体現していると評価した。\nクリスチャン・ゼルヴォスは『カイエ・ダール』誌の丸々一冊をこの絵画の特集に当て、ドラの記録写真とともに取り上げた。", "qas": [ { "question": "スペイン館に絵画が入ったのはいつ?", "id": "tr-034-06-000", "answers": [ { "text": "1937年6月末", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ゲルニカの勝利』の詩を詠った人は?", "id": "tr-034-06-001", "answers": [ { "text": "ポール・エリュアール", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "絵画の公開日はいつだった?", "id": "tr-034-06-002", "answers": [ { "text": "7月12日", "answer_start": 226, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "絵画が展示された建物は何?", "id": "tr-034-06-003", "answers": [ { "text": "スペイン館", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "万博閉幕後の12月にはフランス人建築家のル・コルビュジエが「ピカソの壁画は醜いばかりで、観る者の心を萎えさせる」と、政治的な理由ではなく美学的な理由で絵画を批判した。\n閉幕後には展示品の大半が海路でバレンシアに送られたが、共和国政府は反乱軍の攻撃に対する対応で手一杯であり、ジョアン・ミロの絵画、アルベルト・サンチェス・ペレスの彫刻など、積み荷となった美術品の多くが紛失した。\n共和国政府の所有物であるはずのこの絵画はなぜかスペインに送られることはなく、アレクサンダー・カルダーやジュリオ・ゴンザレスなどパリ在住の他の芸術家の作品同様に、パリにあるピカソのアトリエに送り返された。\n1938年1月にはスカンディナビア半島で開催された四人展に絵画を出展したが、ここでは称賛の対象にも侮蔑の対象にもならなかった。\n1938年10月にはロンドンの展覧会に出展し、収益をスペイン共和国政府に送金した。\n美術評論家のロジャー・ヒンクスはピカソが絵画に知的遊戯や当世風ガラクタを持ち込んだと異議を唱え、美術史家のアンソニー・ブラントはピカソがスペイン内戦の複雑な真相を理解できていないと批判した。\nスティーヴン・スペンダーや美術批評家のハーバート・リードは批判者に反論し、スペンダーはこの絵画が「傑作かもしれない」と指摘した初の人物である。\nこの頃には共和国軍の敗戦が濃厚となっており、年を越した1939年3月31日にはフランコ独裁政権が誕生した。", "qas": [ { "question": "絵画を先に出展したのはロンドンの展覧会と四人展のどちら?", "id": "tr-034-07-000", "answers": [ { "text": "四人展", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "最初にゲルニカを傑作だと指摘した人は誰?", "id": "tr-034-07-001", "answers": [ { "text": "スティーヴン・スペンダー", "answer_start": 493, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1937年12月、アメリカ芸術家会議は共和国支援のために『ゲルニカ展』を企画し、この展覧会は約1年半後に実現した。\n1939年5月には絵画がアメリカ合衆国に送られ、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴでの展覧会に出展された。\nすでにスペイン内戦が終結していたこともあり、アメリカでは内戦の悲劇の象徴ではなく一枚の現代美術作品と捉えられた。\nゲルニカ展のオープニングにはエレノア・ルーズヴェルト(ファーストレディ)、サイモン・グッゲンハイム(実業家)、W・アヴェレル・ハリマン(政治家)、ジョージア・オキーフ(芸術家)、ソーントン・ワイルダー(劇作家)などが出席した。\n美術評論家のエリザベス・マコースランドはピカソが孤立から社会との連帯に転じたことを象徴する絵であるとしたが、美術記者のエドウィン・オールデン・ジュエルは現代美術に侵入しつつある異質な意図の典型だとした。\n鑑賞者の賛否は分かれ、スペインの孤児を救援するための収益は少額にとどまった。\n1939年9月には第二次世界大戦が勃発したため、ピカソは絵画を戦場に近いフランスに戻すことを躊躇し、そのままアメリカ合衆国のニューヨーク近代美術館(MoMA)に保管された。\n1940年から1942年にはピカソの回顧展がシカゴを筆頭にアメリカ合衆国内の10か所で開催され、展示作品には必ずこの絵画が含まれた。", "qas": [ { "question": "『ゲルニカ展』が企画されたのはいつ?", "id": "tr-034-08-000", "answers": [ { "text": "1937年12月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "絵画がアメリカ合衆国に渡ったのはいつ?", "id": "tr-034-08-001", "answers": [ { "text": "1939年5月", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "絵画がニューヨーク近代美術館に保管されたのは何が起こったからですか?", "id": "tr-034-08-002", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 442, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1953年には第二次大戦開戦後初めて絵画がヨーロッパに戻され、ミラノで開催されたピカソの回顧展に出展され、反戦平和のシンボルとして『朝鮮戦争の虐殺』(1951年)とともに並べられた。\n1954年にはブラジルのサンパウロ近代美術館の回顧展に、1955年夏には18年ぶりにパリに戻って回顧展に出展された。\n1937年の初公開時とは異なり、回顧展の最重要作品としてパリ市民に称えられた。\nピカソ自身は1955年の夏中ずっとニースに滞在しており、このパリでの回顧展の際も、また死去するまでにも再び絵画を間近で見ることはなかった。\n1955年秋から1956年にはブリュッセルとストックホルムに加え、ドイツのミュンヘン、ケルン、ハンブルクで展示された。\nドイツ国民は主題の奥に潜むドイツ空軍を意識することなく、現代アートの傑作として鑑賞した。", "qas": [ { "question": "ピカソの回顧展で反戦平和の象徴として、自身の作品とともに並べられた絵画は何?", "id": "tr-034-09-000", "answers": [ { "text": "『朝鮮戦争の虐殺』", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第二次大戦後、2番目にピカソの回顧展を開いた都市はミラノ、パリ、サンパウロのどこ?", "id": "tr-034-09-001", "answers": [ { "text": "サンパウロ", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1955年の夏、ピカソはどこに滞在していたの?", "id": "tr-034-09-002", "answers": [ { "text": "ニース", "answer_start": 208, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1957年には再びアメリカ合衆国に戻ると、3か所で展示された後にニューヨーク近代美術館に戻り、1958年以後には幾度もの修復作業がなされた。\n1968年にはフランコ政権で副首相を務めるルイス・カレーロ・ブランコが美術庁長官に手紙を送り、絵画がスペインの財産であること、スペインへの返還をニューヨーク近代美術館に申し立てるよう求めた。\n1969年には美術庁長官が絵画のスペインへの返還を求める声明を出し、フランコ自身がそれを望んでいると付け加えた。\nニューヨーク近代美術館はピカソの意思を尊重するとし、ピカソ本人は現時点では絵画がニューヨークにとどまること、スペイン人民の自由が確立した時点でスペイン政府に返還することを希望した。\n1950-1960年代のスペインでは、独裁政権に対する抵抗の印としてこの絵画の複製を飾る家庭が多く、バスク地方ではそれが特に顕著だった。", "qas": [ { "question": "絵画の修復作業が行われたのは何年以後ですか?", "id": "tr-034-10-000", "answers": [ { "text": "1958年以後", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "絵画のスペイン返還を求め、ニューヨーク近代美術館に手紙を送った人物とは?", "id": "tr-034-10-001", "answers": [ { "text": "ルイス・カレーロ・ブランコ", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "この絵画の複製を飾る家が特に多かったのはどこの地域でしたか?", "id": "tr-034-10-002", "answers": [ { "text": "バスク地方", "answer_start": 365, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1960年代後半のアメリカ合衆国でベトナム戦争参戦が誤りだったという論調が趨勢を占めると、改めてこの絵画の様式が注目されるようになり、反戦のシンボルとしてデモなどに使用された。\nアメリカ軍によるベトナムでの残虐な軍事行動が報じられると、一部の美術家や著作家たちは自国が絵画を手元に置いておく権利がないと考え、1967年には約400人の美術家・著作家が、1970年には256人の美術家・著作家がピカソに対して絵画の撤去を要請する運動を行った。\n1973年4月8日、ピカソはフランスのムージャンにある自宅で死去した。\n1974年2月にはアーティストのトニー・シャフラジが赤色のスプレー缶で落書きを行う事件が起こり、これ以後の展示中は常に絵画のそばに監視員が配備された。", "qas": [ { "question": "ピカソへの絵画の撤去要請運動に参加した人数が多かったのは、1967年と1970年のどちらですか?", "id": "tr-034-11-000", "answers": [ { "text": "1967年", "answer_start": 154, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ピカソが亡くなった地はどこ?", "id": "tr-034-11-001", "answers": [ { "text": "ムージャン", "answer_start": 240, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "絵画落書き事件の犯人は誰?", "id": "tr-034-11-002", "answers": [ { "text": "トニー・シャフラジ", "answer_start": 273, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1975年11月20日にフランコが死去し、フアン・カルロス1世が国王に就任して民主化への移行期を迎えると、絵画のスペイン返還を求める声が高まった。\n1977年には民主化後初の総選挙が行われ、その後成立したスペイン国会では絵画の返還を求める決議案が可決された。\n1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館、絵画の主題の対象地となったゲルニカ、ピカソの出生地のマラガ、ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先に手を挙げた。\nマドリード、マラガ、ゲルニカの各市長とバルセロナのピカソ美術館館長をゲストに行われたテレビの討論番組では、絵画の受け入れ先をめぐって白熱した議論が繰り広げられた。", "qas": [ { "question": "フランコの死後、スペイン国王に就いた人は誰?", "id": "tr-034-12-000", "answers": [ { "text": "フアン・カルロス1世", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピカソが名誉館長を務めた美術館とは?", "id": "tr-034-12-001", "answers": [ { "text": "プラド美術館", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "政治状況の不安定さに加え、遺産相続者間の係争も問題だったが、1981年にはようやく絵画のスペイン返還が決定した。\n特にバスク地方ではこの絵画をバスクの受難と解放のシンボルとみなし、バスク州は熱心に絵画の展示を希望したが、9月10日にマドリードのプラド美術館別館(カソン・デル・ブエン・レティーロ)に運び込まれた。\nスペインでこの絵画は「故国の土を踏んだ最後の亡命者」とされており、もっとも保守的でフランコ独裁政権との親和性が強かったABC紙でさえも、社説で同様の論調を示した。\n西側諸国では絵画のスペイン帰還が大きく報じられ、日本では朝日新聞が5段抜きの見出しでもっとも大きく取り上げた。\n絵画の搬入に合わせ、別館は温度・湿度管理装置、爆発物検知装置、ラジオとテレビによる監視システムなど、様々なテロ対策設備が加えられ、さらに直接攻撃を防ぐために絵画は防弾ガラスで覆われた。\n絵画は展示室の中にある密封状態に近い小部屋に設置され、磁気読み取りの保安カードを持った人間のみが小部屋に入ることができた。\nプラド美術館のホセ・マヌエル・ピタ・アンドラーデ館長は本館での展示を希望していたため、スペイン政府がこのような形態での保管を支持したことに不満を示し、ただちに館長を辞任した。\n10月25日、ピカソの生誕100周年記念日に一般公開され、45枚の習作すべてもプラド美術館で展示された。", "qas": [ { "question": "絵画のスペイン返還が決まったのはいつ?", "id": "tr-034-13-000", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "絵画のスペイン返還を最も大きく取り上げた日本の新聞社はどこ?", "id": "tr-034-13-001", "answers": [ { "text": "朝日新聞", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "絵画が展示されたのはプラド美術館のどこ?", "id": "tr-034-13-002", "answers": [ { "text": "別館", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。\n10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った。\n10年前に絵画の受け入れを希望したバスク地方はこのマドリード市内での移動に不満を示した。\nプラド美術館でもソフィア王妃芸術センターでも絵画の破壊行為が起こったことはなく、1995年には防弾ガラスが取り除かれた。\n同時に展示室内から展示室の側壁に移されたため、鑑賞者が正面から絵画全体を観ることはできなくなったが、展示室内に鑑賞者があふれて身動きが取れなくなることは避けられた。\n絵画の両脇には非武装の警備員が配備されているが、絵画まで4mの距離まで近づくことができる。\n1992年の開館当初のソフィア王妃芸術センターは、この絵画を除けば凡庸なコレクションであるとされたが、1997年にはプラド美術館の入館者数を上回り、スペインでもっとも入館者数の多い美術館となった。", "qas": [ { "question": "プラド美術館の次に絵画が展示された施設はどこ?", "id": "tr-034-14-000", "answers": [ { "text": "ソフィア王妃芸術センター", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1997年にスペインで最も入館者数が多かった美術館はどこ?", "id": "tr-034-14-001", "answers": [ { "text": "ソフィア王妃芸術センター", "answer_start": 410, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "絵画から防弾ガラスが外されたのはいつ?", "id": "tr-034-14-002", "answers": [ { "text": "1995年", "answer_start": 249, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1992年にはバルセロナオリンピックに合わせた文化行事のためにバルセロナが、1995年には第二次世界大戦終戦50周年にちなんで日本政府が、1996年にはピカソの大回顧展を開催するフランス政府が、1997年にはゲルニカに近いビルバオに開館したビルバオ・グッゲンハイム美術館が、2000年には数十年に渡って絵画を管理していたニューヨーク近代美術館が絵画の貸与を希望したが、ソフィア王妃芸術センターはすべての打診を拒否した。\n1995年から1996年にかけて、日本の京都国立近代美術館と東武美術館で「ピカソ、愛と苦悩-『ゲルニカ』への道」と題したピカソ展が行われた。\nこの絵画に関連する「闘牛」「磔刑」「ミノタウロス」「女」「アトリエ」の5本柱で構成され、この絵画に関しては原寸大のポラロイド写真複製が展示された。\n1997年10月、グッゲンハイム美術館開館記念式典にフアン・カルロス1世国王夫妻が来賓した折、建物を設計したアメリカ人建築家のフランク・ゲーリーは、絵画が本来あるべき場所がグッゲンハイム美術館であることを国王夫妻に示唆した。", "qas": [ { "question": "日本政府、フランス政府、ニューヨーク近代美術館の中で、2番目に早く絵画の貸与を希望したのはどこ?", "id": "tr-034-15-000", "answers": [ { "text": "フランス政府", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "京都国立近代美術館と東武美術館で開催されたピカソ展のタイトルは何だったの?", "id": "tr-034-15-001", "answers": [ { "text": "「ピカソ、愛と苦悩-『ゲルニカ』への道」", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "パリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画を意図して製作されたこともあり、絵画は縦349cm×横777cmの横長の大作である。\nキャンバスに工業用絵具ペンキで描かれ、ペンキは油絵具よりも乾きが速く作業効率が高いため、1か月弱と大作にしては短期間で描ききることができた。\nペンキの使用は後に傷みの要因となっている。\n当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれているが、各部分の習作や後のタペストリー作品は彩色が施されている。\nピカソはこの絵画の製作と並行して何枚もの習作を描いており、泣き叫ぶ女だけを独立した作品にした『泣く女』という絵がある。\n第二次世界大戦後、ピカソはこの絵画と同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、ニューヨークにある国際連合本部の国際連合安全保障理事会議場前とフランスウンターリンデン美術館と日本の群馬県立近代美術館に展示されている。\n日本の徳島県鳴門市にある大塚国際美術館には絵画の実物大のレプリカが置かれている。\nなお、丸の内オアゾ1階には、ピカソの遺族の承諾を得て作成されたセラミック製の複製が掲示されている。", "qas": [ { "question": "絵画は縦と横どちらの方が長い?", "id": "tr-034-16-000", "answers": [ { "text": "横", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "絵画は何の行事のために製作されたの?", "id": "tr-034-16-001", "answers": [ { "text": "パリ万国博覧会", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "絵画の製作期間はどれくらいだったの?", "id": "tr-034-16-002", "answers": [ { "text": "1か月弱", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ヴァンダル戦争", "paragraphs": [ { "context": "ヴァンダル戦争(ヴァンダルせんそう、533年-534年)は、北アフリカ(現在のチュニジアとアルジェリア東部)において東ローマ帝国とヴァンダル王国との間で行われた戦争である。この戦争はユスティニアヌス1世による西方再征服戦争の最初の戦いであり、東ローマ帝国軍の速やかなる勝利に終わった。ヴァンダル王国は滅亡し、北アフリカにおけるローマ帝国の支配が再建された。", "qas": [ { "question": "ヴァンダル戦争の主な戦場は、どの地域だった?", "id": "tr-035-00-000", "answers": [ { "text": "北アフリカ", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァンダル戦争は、ヴァンダル王国とどの国の間で行われた戦争ですか?", "id": "tr-035-00-001", "answers": [ { "text": "東ローマ帝国", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "戦争の結果、滅亡にまで至った国は、どの国か?", "id": "tr-035-00-002", "answers": [ { "text": "ヴァンダル王国", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "5世紀の西ローマ帝国騒乱期にヴァンダル族はライン川を渡ってガリアに入り、さらに同盟部族のアラン族とともにイベリア半島にまで侵入していた。429年、ヴァンダル王ガイセリックは皇帝と反目していたアフリカ総督(vicarius)ボニファティウスの招きに応じて、彼の民とともに海峡を越えて北アフリカに進出した。現地のローマ軍はボニファティウスの反乱と432年の彼の死によって弱体化しており、ヴァンダル族は容易くローマ領を占拠できた。439年にカルタゴが占領され、続く20年間のうちにガイセリックはアフリカ管区だけでなく、強力な海軍を用いてシチリア、サルデーニャ、コルシカそしてバレアレス諸島をも手中に収めた。続く数十年間、熟練したヴァンダル海軍は地中海全域を跳梁し、455年にローマ劫掠を行い、そして468年にはバシリスクス率いる東ローマ艦隊を撃滅している。", "qas": [ { "question": "ヴァンダル族が北アフリカに進出できたのは、誰のおかげなの?", "id": "tr-035-01-000", "answers": [ { "text": "ボニファティウス", "answer_start": 111, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ボニファティウスが死んだのは、何年ですか?", "id": "tr-035-01-001", "answers": [ { "text": "432年", "answer_start": 171, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴァンダル族により、カルタゴが占領されたのは、何年のことか?", "id": "tr-035-01-002", "answers": [ { "text": "439年", "answer_start": 212, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァンダル族が北アフリカ管区を超え、シチリアなどのところまで進出できたのは、何を持っていたからか?", "id": "tr-035-01-003", "answers": [ { "text": "強力な海軍", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この状況は西方領土回復を望むユスティニアヌス1世が即位することにより変わることになる。当初、ユスティニアヌス帝はペルシアとのイベリア戦争に忙殺されており、一方、ヴァンダル王国でもカトリックに寛容で親ローマ派のヒルデリック(母は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の皇女(長女)エウドキア(439年-467年/474年?))が523年に即位しており、東ローマ帝国との友好的な関係を築いていた。だが、彼の政策はヴァンダル族の中から反発を受けており、ムーア人との戦いに敗れたことで、530年にクーデターが起き彼の従甥のゲリメルによって廃位されてしまう。ユスティニアヌス帝はヒルデリックの復位を要求したが、ゲリメルはこれを拒絶した。", "qas": [ { "question": "東ローマ帝国とヴァンダル王国の間での状況は、誰が皇帝に即位したことで変わったの?", "id": "tr-035-02-000", "answers": [ { "text": "ユスティニアヌス1世", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "532年に即位し、東ローマ帝国と友好的な関係を築いたヴァンダル王国の王は、誰か?", "id": "tr-035-02-001", "answers": [ { "text": "ヒルデリック", "answer_start": 104, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒルデリックを廃位させた反乱は、何年に起こったか?", "id": "tr-035-02-002", "answers": [ { "text": "530年", "answer_start": 238, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ユスティニアヌス帝は最も信頼し、かつ有能な将軍であるベリサリウスを遠征軍の司令官に任命し、参謀として宦官のソロモンを付けた。ベリサリウスの顧問にはカイサリア(パレスチナの古代都市)出身のプロコピオスがおり、後に彼がこの戦争の記録を二巻の本にまとめることになる。プロコピオスの記述によれば、人々の間には468年の破局の記憶が残っており、東方道管区長官のカッパドキアのヨハネスを含む大臣たちの多くが遠征に反対し、ユスティニアヌス帝を説得しようとしたという。一方で、ヴァンダル族を異端と考える聖職者たちはこの遠征を熱心に支持した。", "qas": [ { "question": "ユスティニアヌス帝は、誰を遠征軍の司令官に任命したの?", "id": "tr-035-03-000", "answers": [ { "text": "ベリサリウス", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プロコピオスはどこ出身の者ですか?", "id": "tr-035-03-001", "answers": [ { "text": "カイサリア", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヴァンダル族戦士の勇猛さを恐れる世評にも関わらず、遠征軍は驚くほど小規模だった。5万人の兵力を有し、動員時には16万人にもなるヴァンダル軍に対して、東ローマ帝国の遠征軍はローマ人歩兵10,000と同盟部族の騎兵5,000からなる15,000に過ぎず、これにはベリサリウスの私兵であるブケライオス軍(bucellarii)のローマ人および同盟部族の騎兵3,000そしてフン族400人とヘルール族600人の騎馬弓兵が含まれている。遠征軍は92隻の戦艦(デュロモイ)に護衛された500隻の船団で輸送される。", "qas": [ { "question": "ローマ人歩兵と同盟部族の騎兵のうち、東ローマ帝国の遠征軍の構成において、どちらの人数がより多かったの?", "id": "tr-035-04-000", "answers": [ { "text": "同盟部族の騎兵", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "東ローマ帝国の遠征軍の構成においては、フン族とヘルール族のうち、どちらの部族からの騎馬弓兵がより多かったですか?", "id": "tr-035-04-001", "answers": [ { "text": "ヘルール族", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヴァンダル軍は、最大何万人に至るほどの大軍だったか?", "id": "tr-035-04-002", "answers": [ { "text": "16万人", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東ローマ帝国の遠征軍は、総何人程度の構成であったか?", "id": "tr-035-04-003", "answers": [ { "text": "15,000", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この時のヴァンダル王国はトリポリタニアとサルデーニャでの反乱に直面していた。トリポリタニアの反乱は東ローマ軍に支援されており、アフリカにおける東ローマ軍の橋頭堡になる恐れがあったが、恐らくは遠隔地であったため、ゲリメルはこれに対する十分な対処をしなかった。ゲリメルは王弟ツァツォンに120隻の艦隊と兵5,000を与えサルデーニャ長官ゴダスの反乱を鎮圧するために派遣した。", "qas": [ { "question": "東ローマ帝国が戦争を準備していた時のヴァンダル王国は、トリポリタニアとどこでの反乱に直面していたの?", "id": "tr-035-05-000", "answers": [ { "text": "サルデーニャ", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東ローマ帝国が戦争を準備していた時のヴァンダル王国が直面していた反乱のうち、東ローマ帝国からの支援を受けなかったのは、どこでの反乱ですか?", "id": "tr-035-05-001", "answers": [ { "text": "サルデーニャ", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東ローマ帝国が戦争を準備していた時のヴァンダル王国が直面していた反乱のうち、鎮圧のためにツァツォンが派遣されたのは、どこでの反乱か?", "id": "tr-035-05-002", "answers": [ { "text": "サルデーニャ", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サルデーニャでの反乱を鎮圧するために出航した艦隊は、何隻で構成されていたか?", "id": "tr-035-05-003", "answers": [ { "text": "120隻", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東ローマ艦隊の出帆の前に、ユスティニアヌス帝はイタリアの東ゴート王国の女王アマラスンタからの協力を取り付け、シチリアの港の利用を許可させた。遠征艦隊は6月にコンスタンティノープルを出港し、時間をかけて航海をした。艦隊がシチリアに到着した時、ローマ人たちにとって非常に幸いなことに、ヴァンダル海軍の主力がサルデーニャへ去っていたことが判明したとプロコピオスは述べている。", "qas": [ { "question": "シチリアは、どの国の領土なの?", "id": "tr-035-06-000", "answers": [ { "text": "東ゴート王国", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東ローマ帝国の遠征艦隊は、何月にコンスタンティノープルから出港しましたか?", "id": "tr-035-06-001", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東ローマ帝国の遠征艦隊がシチリアに到着した時、ヴァンダル海軍の主力はどこを向かい出航していたか?", "id": "tr-035-06-002", "answers": [ { "text": "サルデーニャ", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書は、誰の記述をもとにしているか?", "id": "tr-035-06-003", "answers": [ { "text": "プロコピオス", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "9月上旬、東ローマ艦隊は抵抗を受けることなくアフリカ沿岸へ進み、9月9日にヴァダ岬(現代のカブジア岬)に上陸した。ここからベリサリウスは軍を北へ向け、艦隊と並行して、海岸に沿って首都カルタゴへと兵を進めた。この進軍中、ベリサリウスは住民を敵に回さぬよう兵の規律を厳格にしている。ゲリメルは東ローマ軍を迎え撃つべく準備した。彼は前王ヒルデリックを殺害した上で兵を召集してカルタゴの南方10マイルの位置にあるアド・デキムムで敵を待ち伏せた。", "qas": [ { "question": "東ローマ艦隊がヴァダ岬に上陸したのは、いつのこと?", "id": "tr-035-07-000", "answers": [ { "text": "9月9日", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲリメルが王である王国の首都は、どこですか?", "id": "tr-035-07-001", "answers": [ { "text": "カルタゴ", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゲリメルは東ローマ軍からの攻撃をどこで防衛する計画を立てていたか?", "id": "tr-035-07-002", "answers": [ { "text": "アド・デキムム", "answer_start": 202, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東ローマ軍は、誰が率いたか?", "id": "tr-035-07-003", "answers": [ { "text": "ベリサリウス", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ここで彼は東ローマ軍を襲撃し、包囲殲滅する作戦を立てている。王弟アマタスが東ローマ軍の進軍を阻止し、甥のギバモンドスが兵2,000を率いて左側面を攻撃、そしてゲリメル自身が率いる主力軍が背後から攻撃して敵を包囲殲滅するものであった。だが、実際にはヴァンダル軍の三つの部隊はこの分進合撃作戦を実行できなかった。", "qas": [ { "question": "ゲリメルの包囲殲滅の作戦は、彼自身とアマタス、そして誰が各部隊の司令官となり、三方面から攻撃する作戦だった?", "id": "tr-035-08-000", "answers": [ { "text": "ギバモンドス", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲリメルの作戦は、実際に実行できましたか?", "id": "tr-035-08-001", "answers": [ { "text": "実行できなかった", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "9月13日、早く戦場に到着したアマタスは小部隊を率いて偵察に出た際に東ローマ軍後衛部隊からの攻撃を受けて戦死してしまう。ギバモンドスの部隊はブルガール族騎兵600の迎撃を受けて壊滅した。友軍の敗北を知らないゲリメルは主力軍とともに前進し、アド・デキムムで東ローマ軍を敗走させるが、弟の死を知って驚愕した彼は号泣して弟の葬儀をとり行い、戦闘を停止してしまう。ベリサリウスはこの時間を利用して兵を再編し、まとまりを欠いたヴァンダル軍を撃破した。", "qas": [ { "question": "アマタスが死んだのは、いつか?", "id": "tr-035-09-000", "answers": [ { "text": "9月13日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベリサリウスとゲリメルのうち、最終的には誰が勝者となったか?", "id": "tr-035-09-001", "answers": [ { "text": "ベリサリウス", "answer_start": 178, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "敗北を悟ったゲリメルは首都のカルタゴの守備隊が少なく、また城壁も損壊していたため、残余部隊とともにヌミディアへ向けて西へ逃亡した。ベリサリウスは丸1日の休養を兵士たちに与えた後に進軍を再開して、9月19日に市民の大歓声を受けつつカルタゴに入城を果たした。ベリサリウスの厳命により、軍の規律は守られ、略奪は行われなかった。ヴァンダル王国の王宮に本営を置いたベリサリウスはゲリメルの反攻を予測して城壁の修復を行わせた。", "qas": [ { "question": "ゲリメルは、どこに向けて西に逃げたの?", "id": "tr-035-10-000", "answers": [ { "text": "ヌミディア", "answer_start": 49, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ベリサリウスの率いる軍は、いつカルタゴに入城しましたか?", "id": "tr-035-10-001", "answers": [ { "text": "9月19日", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベリサリウスは、彼の率いる兵士たちが何をしないよう、規律を厳格にしていたか?", "id": "tr-035-10-002", "answers": [ { "text": "略奪", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァンダル王国の王宮は、どの都市に建てられていたか?", "id": "tr-035-10-003", "answers": [ { "text": "カルタゴ", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "実際、ブラ・レジアに逃れたヴァンダル王は直ちに王弟ツァツォンをサルデーニャから呼び戻していた。ツァツォンは反乱を起こしたゴダスを簡単に討ち取り反乱を鎮圧していたが、急ぎアフリカへ帰還した。ツァツォンと合流したゲリメルはカルタゴに向けて兵を進め、町への水の供給を遮断した。また、彼は市内に工作員を送り込み、ベリサリウスのフン族部隊を買収しようとさえしている。", "qas": [ { "question": "ヴァンダル王がブラ・レジアに到着していた時、ツァツォンはどこにいたの?", "id": "tr-035-11-000", "answers": [ { "text": "サルデーニャ", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲリメルがカルタゴ市内に工作員を送り込んだのは、誰を買収するためでしたか?", "id": "tr-035-11-001", "answers": [ { "text": "フン族部隊", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲリメルは、誰の到着に伴い、カルタゴへと再進軍したか?", "id": "tr-035-11-002", "answers": [ { "text": "ツァツォン", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ツァツォンは誰の反乱を鎮圧するために、サルデーニャに派遣されていたか?", "id": "tr-035-11-003", "answers": [ { "text": "ゴダス", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "裏切りによってヴァンダル軍が市内に侵入することを危惧したベリサリウスは出戦を決意する。12月中旬に両軍はヴァンダル軍の野営地から近いトリカマルムで相対した。東ローマ軍歩兵はこの日遅くまで到着せず、会戦はほぼ騎兵のみで行われた。東ローマ軍は繰り返しヴァンダル軍に突撃し、ツァツォンを戦死させた。アド・デキムムの際と同じく、ゲリメルは戦意を失ってしまい、ヴァンダル軍は総崩れになった。数日後、ベリサリウスはヒッポーネでヴァンダル王国の財宝を接収した。", "qas": [ { "question": "ベリサリウスの率いる軍とヴァンダル軍が相対したのは、どこでなの?", "id": "tr-035-12-000", "answers": [ { "text": "トリカマルム", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "誰の死により、ヴァンダル軍が総崩れになりましたか?", "id": "tr-035-12-001", "answers": [ { "text": "ツァツォン", "answer_start": 134, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トリカマルムでの戦闘では、何軍が勝者となったか?", "id": "tr-035-12-002", "answers": [ { "text": "東ローマ軍", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トリカマルムでの戦闘は、いつ頃勃発したか?", "id": "tr-035-12-003", "answers": [ { "text": "12月中旬", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ゲリメルはムーア人の助けを受けてヌミディアのパップア山に立て籠もった。ベリサリウスはヘルール族にこれを包囲させ、3ヶ月の包囲戦の末に飢えに苦しんだゲリメルは534年3月に東ローマ軍に降伏した。ゲリメルの降伏以前に東ローマ軍はサルデーニャ、コルシカそしてバレアレス諸島、マウレタニアとジブラルタル海峡の対岸にあるセプティムを制圧している。この年の夏にベリサリウスはゲリメルとヴァンダル王国の財宝を伴ってアフリカを出立しており、この中にはエルサレム第二神殿の燭台(メノーラー)をはじめ、80年前のローマ略奪の際に持ち去られたものも多く含まれていた。ユスティニアヌス帝は過去のローマ帝国の栄光を意識し、古に倣いベリサリウスに凱旋式の挙行を許可した。皇帝以外の市民による凱旋式は紀元前19年のルキウス・コルネリウス・バルブス以来のことであり、同時にベリサリウスが最後となった。凱旋式の最中、満面の栄誉に浴している皇帝の姿を見たゲリメルはコヘレトの言葉を引いて「空の空。すべて空」と呟いたという。ゲリメルは皇帝から所領を与えられて引退し、捕虜となったヴァンダル兵は対ペルシャ戦線へ送られた。", "qas": [ { "question": "ゲリメルはどの山に立て籠もったの?", "id": "tr-035-13-000", "answers": [ { "text": "パップア山", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲリメルが東ローマ帝国に降伏したのは、いつのことですか?", "id": "tr-035-13-001", "answers": [ { "text": "534年3月", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベリサリウスがゲリメルとヴァンダル王国の財宝を伴ってアフリカを出立したのは、何年のことか?", "id": "tr-035-13-002", "answers": [ { "text": "534年", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇帝以外の市民による凱旋式は、ベリサリウスを除けば、誰が最後であったか?", "id": "tr-035-13-003", "answers": [ { "text": "ルキウス・コルネリウス・バルブス", "answer_start": 342, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "鹿島清兵衛", "paragraphs": [ { "context": "鹿嶋清兵衛(かじませいべい、1866年(慶応2年)-1924年(大正13年)8月6日)は、明治期の写真家である。\n豪商の跡取り養子だったが、新橋の人気芸者・ぽん太を身請けしたことから家を出て、趣味の写真を本業とした。\n撮影中の事故で負傷し、その後は能の笛方になった。\n妻・ぽん太も唄や踊りで暮らしを支え、その献身的な姿が貞女としてもてはやされた。\n清兵衛の型破りな生き方は、森鷗外の小説『百物語』のモデルにもなった。\n昭和30年代に、清兵衛が隠したと思われる埋蔵金が見つかり、再び世間を賑わせた。", "qas": [ { "question": "ぽん太の夫は誰?", "id": "tr-036-00-000", "answers": [ { "text": "鹿嶋清兵衛", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『百物語』のモデルになった人物とは?", "id": "tr-036-00-001", "answers": [ { "text": "清兵衛", "answer_start": 174, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "清兵衛が亡くなったのは何年ですか?", "id": "tr-036-00-002", "answers": [ { "text": "1924年", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1866年(慶応2年)、大坂天満北富田町の酒問屋「鹿嶋」当主・鹿嶋清右衛門の次男・政之助として生まれる。\n4歳のときに、東京の霊巌島四日市町(現・新川)にあった同族の鹿嶋本店(ほんだな)の養子になる。\n当家には乃婦(のぶ)という名の跡取り娘がおり、清兵衛はその夫となるべくして育てられた。\n鹿嶋家は江戸きっての下り酒問屋で、明治になると貸地・貸家業を始めて大いに栄えた指折りの豪商だった。", "qas": [ { "question": "清兵衛の父親の名前は?", "id": "tr-036-01-000", "answers": [ { "text": "鹿嶋清右衛門", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "清兵衛が生まれた地域名は?", "id": "tr-036-01-001", "answers": [ { "text": "大坂天満北富田町", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "清兵衛は何歳で養子に出た?", "id": "tr-036-01-002", "answers": [ { "text": "4歳", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "幼少期に決まっていた清兵衛の許嫁とは誰?", "id": "tr-036-01-003", "answers": [ { "text": "乃婦", "answer_start": 105, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "成人後、乃婦と結婚し、8代目鹿嶋清兵衛となる。\n大阪の両親を引き取ったところ、家内に悶着が起こり、その憂さ晴らしに蒔絵や漆画などの趣味を始める。\n河鍋暁斎と知り合い、入門したのもこの頃で、暁雨という画号を授かっている。\nさらに、長男政之助が5歳で亡くなり意気消沈していた際に、先代が持っていた写真機を蔵で見つけ、写真を始める。\n写真に関しては、趣味というだけでなく、明治維新によって酒問屋の将来性に不安が見えてきたため、写真を通して時の権力者たちと近づきになろうという意図もあったと見られている。", "qas": [ { "question": "河鍋暁斎は清兵衛に何という画号を授けたの?", "id": "tr-036-02-000", "answers": [ { "text": "暁雨", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "清兵衛の長男の名前は?", "id": "tr-036-02-001", "answers": [ { "text": "政之助", "answer_start": 116, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "清兵衛は何を経営していたの?", "id": "tr-036-02-002", "answers": [ { "text": "酒問屋", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "清兵衛は誰に入門したの?", "id": "tr-036-02-003", "answers": [ { "text": "河鍋暁斎", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1885年(明治18年)に写真家の江崎礼二に個人レッスンを頼み、1年半の間、江崎の助手(浅草松林堂の今津政二郎?)を1日おきに招き、熱心に写真を学んだ。\n1889年5月には写真家の江崎、小川一真、小倉倹司や、菊池大麓、石川巌、中島精一、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、また1887年に来日したイギリス人技師で写真家のウィリアム・K・バートンらとともに「日本寫眞會」を発足する。\nバートンは日本の写真家として小川と清兵衛をイギリスの雑誌などで紹介した。", "qas": [ { "question": "清兵衛は誰に写真の個人授業を頼んだ?", "id": "tr-036-03-000", "answers": [ { "text": "江崎礼二", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "清兵衛はどれくらいの期間熱心に写真を勉強したの?", "id": "tr-036-03-001", "answers": [ { "text": "1年半の間", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「日本寫眞會」が作られたのは何年?", "id": "tr-036-03-002", "answers": [ { "text": "1889年", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウィリアム・K・バートンの祖国はどこ?", "id": "tr-036-03-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 211, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "清兵衛はスタジオを造り、欲しい機材は金に糸目なく輸入し、海外の写真家の展覧会を開催するなど、相当の金額を写真につぎ込んだ。\n1890年の内国博覧会には、自ら撮影した大型写真作品を出品。\nまた、明治屋の磯野計の依頼で、ぽん太をモデルにビール広告用のポスターも撮影し、明治屋はこれを内国博覧会に出品した。\n1895年には木挽町五丁目(現・銀座六丁目)に実弟・清三郎名義で2階建ての西洋館の写真スタジオ「玄鹿館」をオープンさせた。\n玄鹿館は間口10間、奥行15間、建坪150坪からなる劇場のような豪華な写真館で、エレベーター設備や回り舞台もあり、夜間撮影も可能な2500燭光のアーク燈も備えられていた。\n加えて、清三郎を写真の勉強のためにロンドンに留学させた。", "qas": [ { "question": "清兵衛が弟名義で建てた写真スタジオの名前は何?", "id": "tr-036-04-000", "answers": [ { "text": "「玄鹿館」", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "玄鹿館の間口と奥行はどちらが長かったですか?", "id": "tr-036-04-001", "answers": [ { "text": "奥行", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "明治屋がビール広告のモデルに起用した人物とは誰?", "id": "tr-036-04-002", "answers": [ { "text": "ぽん太", "answer_start": 108, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "清兵衛の実弟の名前は?", "id": "tr-036-04-003", "answers": [ { "text": "清三郎", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "写真をはじめ、清兵衛の道楽は桁外れで、その豪遊ぶりから「今紀文」や「写真大尽」などと呼ばれた。\nたとえば、大日本写真品評会会長の徳川篤敬の日清戦争凱旋を祝うために、列車を1両買い取って座敷列車に仕立て直し、ぽん太ら芸者や芸人を多数連れて京都へ漫遊したこともあり、当時の取巻きの一人だった三遊亭円右はこのときの模様を「鹿嶋大尽栄華噺し」として高座の1つ話にしていた。\n1896年(明治29年)には、鴎外がのちに小説にした「百物語」を隅田川船上で開催している。", "qas": [ { "question": "「百物語」を開催したのはどこの川ですか?", "id": "tr-036-05-000", "answers": [ { "text": "隅田川", "answer_start": 215, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、大日本写真品評会会長を務めていた人は誰ですか?", "id": "tr-036-05-001", "answers": [ { "text": "徳川篤敬", "answer_start": 64, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "清兵衛の京都漫遊の様子を高座にした人は誰?", "id": "tr-036-05-002", "answers": [ { "text": "三遊亭円右", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そうした中、清兵衛と乃婦の夫婦仲は次第に冷えていった。\n清兵衛は横浜の外国人がぽん太を狙っていると耳にするとぽん太を別宅に住まわせ、これがさらに乃婦を硬化させ、乃婦は子供を連れて親戚の家へ身を寄せた。\nぽん太が妊娠したこともあり、清兵衛は新川の実家を捨てて、ぽん太と暮らし始め、1897年ころ、ついには鹿嶋家とは離縁となった。\n清兵衛のお大尽生活は約4年で終止符となり、「玄鹿館」も閉鎖された。\n大阪で再起を図ったがうまくいかず、再び東京に戻って1907年(明治40年)に本郷座の前に「春木館」という小さな写真館を開店した。", "qas": [ { "question": "「玄鹿館」の閉鎖後に開いた写真館の名前は?", "id": "tr-036-06-000", "answers": [ { "text": "「春木館」", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "清兵衛が鹿嶋家と離別したのはいつ?", "id": "tr-036-06-001", "answers": [ { "text": "1897年ころ", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「春木館」がオープンしたのは何年ですか?", "id": "tr-036-06-002", "answers": [ { "text": "1907年", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日露戦争の戦勝気分にあった1905年(明治38年)、本郷座で戦争をテーマにした芝居を上演することになった。\n舞台効果を頼まれた清兵衛は火薬の調合を間違えて大やけどを負い、親指を切断する。\nその後写真館を閉め、大阪時代に覚えた森田流の笛を本業とし、三木助月の芸名で活動した。\n妻の恵津(ぽん太)も唄や踊りを再開し、公演料や教授料で生活を支えた。\n1923年(大正12年)の関東大震災後、吹きさらしの能舞台に体の不調を押して出演したのがもとで、翌1924年(大正13年)、58歳で死去。\n翌1925年(大正14年)には、妻の恵津も跡を追うように病死した。", "qas": [ { "question": "親指の切断後、清兵衛が本業としたものは何?", "id": "tr-036-07-000", "answers": [ { "text": "森田流の笛", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ぽん太の本名は?", "id": "tr-036-07-001", "answers": [ { "text": "恵津", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "清兵衛と恵津はどちらが先に亡くなった?", "id": "tr-036-07-002", "answers": [ { "text": "清兵衛", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "笛を本業とした清兵衛の芸名は何?", "id": "tr-036-07-003", "answers": [ { "text": "三木助月", "answer_start": 123, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "実弟・清三郎の手記によると、乃婦が1919年(大正8年)に亡くなった際、乃婦の元に残してきた子供たちと清兵衛を会わせようとしたが、鹿嶋家が許さず、仕送り打ち切りの通告もあった。\nこれを聞いた長谷川時雨は鹿嶋家の報復的態度に憤慨し、『近代美人論』の中で批判した。\n恵津との間に生まれた子らには、清兵衛の死後、各20円が鹿島家より養育費として渡された。", "qas": [ { "question": "『近代美人論』の中で鹿嶋家を批判した人物は誰?", "id": "tr-036-08-000", "answers": [ { "text": "長谷川時雨", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "乃婦が死去したのは何年?", "id": "tr-036-08-001", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "恵津と清兵衛の子供たちに渡された養育費の金額は?", "id": "tr-036-08-002", "answers": [ { "text": "各20円", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長谷川時雨が鹿嶋家の批判を書いたのは何という書籍?", "id": "tr-036-08-003", "answers": [ { "text": "『近代美人論』", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "豊富な資金力をバックに、バートンらを通じてヨーロッパの最新の写真機材や撮影技術を日本に導入し、周囲の写真家仲間たちの支援もよくした。\nアーク燈を使った夜間撮影を始めたほか、引き伸ばし技術が未熟だったこの時代に大判の写真を次々と制作し、国内のみならず、乾板の注文を受けたフランスの会社をも驚かせた。\n玄鹿舘の広告によると、八尺四方まで可能とある。\nまた、輸入した機材を貸し出してX線の実験にも寄与した。\n玄鹿舘を閉める際には、写真家たちに撮影機材や備品などを好きなだけ持っていかせたという。", "qas": [ { "question": "清兵衛は誰を通してヨーロッパからの写真機材や撮影技術を日本に取り入れた?", "id": "tr-036-09-000", "answers": [ { "text": "バートン", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "夜間撮影し使用した証明道具は何?", "id": "tr-036-09-001", "answers": [ { "text": "アーク燈", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1963年(昭和38年)、中央区新川の日清製油(現:日清Oillio)本社ビルの建設現場から大量の小判が発見された。\n当時の時価で6000万円と言われた。\nそこは鹿嶋家の屋敷跡であり、写真の現像液を入れるガラス容器3本に小判が入っていたため、清兵衛の埋蔵金と騒がれた。\n鹿嶋家は終戦の年に空襲で焼き出されていたが、大宮に住んでいた10代目に当たる当主が所有権の名乗りを上げた。\n清兵衛の実弟・清三郎が兄の7回忌の記念にまとめた冊子『亡兄を追憶して』に「古金の発見」という項があり、それによると、「幕末から明治に変わるころ、幕府の人間が絶えず鹿島家に御用金の取り立てに来たが、断ると嫌がらせをされるため、小判を床下に埋めた。そのまま忘れていたのを清三郎が13歳のときに一度掘り起こし、家族で小判を数えた」といった内容の記述であった。\nこれによって、発見された埋蔵金は鹿嶋家の子孫に返還された。", "qas": [ { "question": "清兵衛の埋蔵金は当時の金額でいくらでしたか?", "id": "tr-036-10-000", "answers": [ { "text": "6000万円", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『亡兄を追憶して』を書いた人は誰?", "id": "tr-036-10-001", "answers": [ { "text": "清三郎", "answer_start": 196, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "清兵衛の埋蔵金が発見されたのは何年でしたか?", "id": "tr-036-10-002", "answers": [ { "text": "1963年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "清兵衛の埋蔵金が発見された場所は?", "id": "tr-036-10-003", "answers": [ { "text": "中央区新川", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "鹿島家は、摂津国東多田村(現兵庫県川西市)の地方三役を勤める長谷川党の一員である牛谷三家、理右衛門家・重冶郎家・清七家の一つ清七家出身の三男であった牛谷弥兵衛(1649生)が始まりである。\n牛谷弥兵衛【鹿島不休】は、当時伊丹で酒造業を始めていた清酒白雪の薬屋小西新右衛門【小西不遊】と昵懇となり、その清酒販売のために江戸芝(現在の三田駅近く)に出た。\n現在も港区芝4丁目にある御穂鹿島神社に因んでその屋号を『鹿島』と名のった。\nその後、牛谷弥兵衛は、清七家の甥二人、兄清右衛門と弟清兵衛(共に初代)を呼び寄せ、(当初は多田屋として)江戸での売り捌きを任せ、自身は、大阪天満今井町(今井町・谷町店)で清酒製造を始めた。", "qas": [ { "question": "鹿島家の始まりとなる人物は?", "id": "tr-036-11-000", "answers": [ { "text": "牛谷弥兵衛", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "御穂鹿島神社がある場所はどこ?", "id": "tr-036-11-001", "answers": [ { "text": "港区芝4丁目", "answer_start": 179, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "兄清右衛門と弟清兵衛は牛谷弥兵衛にとってどういう続柄になりますか?", "id": "tr-036-11-002", "answers": [ { "text": "甥", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その後、清右衛門家天満店は荷捌き手配を、清兵衛家江戸店は江戸での売り捌き、弥兵衛家は清酒製造と役割を固定。\n各々2代目までは順調であった。\n3代目清右衛門は小西新右衛門家からの養子であり、3代目清兵衛(浄慶)は、母親が東多田村清七家出身の縁で(池田市)東山、自家の寺、大谷(東本願寺)派円成寺を擁する山脇家の出身であった。\nその後、3代目清兵衛(浄慶)は、3代目清右衛門の三男四男を養子に迎えた、江戸本店4代目清兵衛と中店利右衛門である。\n一方、弥兵衛家は、子孫は絶えなかったが、直系の子は、清酒造りに失敗、不行跡があったとされ孫は安兵衛家となった。\n弥兵衛家(今井町・谷町店)の名跡は、3代目清右衛門の子(末弟)が継ぎ伊丹に住することになった。", "qas": [ { "question": "弥兵衛家が担った事業は何?", "id": "tr-036-12-000", "answers": [ { "text": "清酒製造", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "清右衛門家が担った事業とは?", "id": "tr-036-12-001", "answers": [ { "text": "荷捌き手配", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "清兵衛家が担った事業とは何?", "id": "tr-036-12-002", "answers": [ { "text": "売り捌き", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東京の新川に分家していった一族だが、相続人が絶えた際に、深川で隠居していた鹿嶋家の子供たちが各家へ養子に行った。\n清兵衛の父・清右衛門はこのとき大阪の養子となった。\n清兵衛が東京の鹿嶋本店へ養子に入ったのちに、男子の実子が誕生したが、家督は清兵衛が継ぎ、実子の長男は別家し、次男は蔵前の札差の株を買って独立した。\n最初の妻、乃婦(1867-1919)との間に、長男・政之助(夭折)、長女・時、次女・袖。\n三女に才。\n後妻の恵津(1880-1925)との間に、鶴子、国子(坪内逍遥の養女となり、飯塚くにになる)、しげ子(人形町紙問屋伊勢吉の養女になる)、正雄、美智子など、12人の子(うち二人は夭折)。\n実弟・清三郎は玄鹿館を手伝うために1895年(明治28年)より6年間にわたって英仏で写真技術を研究し、帰国。\nその後木炭車の開発に従事し、その燃料であるニセアカシア樹の研究を行なった。\nその息子・大治(画家)の子に桃山晴衣。", "qas": [ { "question": "乃婦と恵津はどちらがたくさん清兵衛との子供を産みましたか?", "id": "tr-036-13-000", "answers": [ { "text": "恵津", "answer_start": 211, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "桃山晴衣の父方の祖父にあたる人は誰ですか", "id": "tr-036-13-001", "answers": [ { "text": "清三郎", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大治の父親の名前は?", "id": "tr-036-13-002", "answers": [ { "text": "清三郎", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "清三郎が海外で写真技術を研究した期間は?", "id": "tr-036-13-003", "answers": [ { "text": "6年間", "answer_start": 332, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "榎本三恵子", "paragraphs": [ { "context": "榎本三恵子は、田中角栄元総理大臣の筆頭秘書官、榎本敏夫の元妻、元タレントだ。旧姓、細田三恵子である。長男は東京都北区議会自民党議員の榎本はじめだ。\n\n1981年10月28日、東京地方裁判所で開かれた戦後最大の疑獄事件と言われるロッキード裁判丸紅ルート公判で検察側の証人として出廷、田中角栄被告の5億円受領を決定的に裏付ける内容の証言を行い、日本中を騒然とさせた。また記者会見でのマスコミとのやりとりから出てきた「ハチの一刺し」という表現が話題になり流行語にもなった。その後、突然雑誌に自身のヌード写真を披露したり、タレントや女優に転身してバラエティ番組やテレビドラマに出演したりと様々な話題を提供した。身長は171センチの長身でその美貌も当時、話題となった。", "qas": [ { "question": "榎本三恵子の元夫は誰なの?", "id": "tr-037-00-000", "answers": [ { "text": "榎本敏夫", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "榎本三恵子の結婚前の名前は何?", "id": "tr-037-00-001", "answers": [ { "text": "細田三恵子", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "榎本三恵子の名前は何?", "id": "tr-037-00-002", "answers": [ { "text": "榎本はじめ", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "榎本三恵子の身長は何センチ?", "id": "tr-037-00-003", "answers": [ { "text": "171センチ", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "榎本三恵子は1948年7月4日、富山県滑川市に兄一人、姉一人の末っ子として生まれる。生家である細田家は二代続いた薬の配置販売業を営んでおり、顧客の家庭を回って薬箱に使用された分の薬を補給して歩く、いわゆる富山の薬売りであった。祖父が一代で築いたという売薬業は滑川では五本の指に入る大きさであったが、父の代から配置売薬というシステムが徐々に崩れ始め、薬販売の近代化路線に取って代わられ、一家の事業は縮小を余儀なくされる。\n\n1955年4月、滑川市立寺家小学校へ入学、同校卒業後は母親と二人で富山市内に住み、1961年4月、富山県内でも名門として知られた富山市立芝園中学校に入学、水泳と陸上に夢中になるが二年の時、胸部疾患で三ヵ月入院、治療を含めて一年間休学する。三年の頃には病弱だった父を亡くし、一家の暮らしは母親が支えることになる。中学卒業後、1965年4月、富山県立女子高等学校商業科へ入学するが、一年二学期の終わりに扁桃炎を手術、経過がよくなく欠席日数が多く二年に中退する。その年の1966年9月、18歳で上京、姉の夫の姉が銀座で経営している高級クラブ『かみしま』で、レジ係やおしぼり作りなどをして働き始める。", "qas": [ { "question": "榎本三恵子には兄が何人いたか。", "id": "tr-037-01-000", "answers": [ { "text": "一人", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "榎本三恵子はいつ生まれたの?", "id": "tr-037-01-001", "answers": [ { "text": "1948年7月4日", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "榎本三恵子が1955年に入学した学校は?", "id": "tr-037-01-002", "answers": [ { "text": "滑川市立寺家小学校", "answer_start": 219, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "榎本三恵子は何年に中学生になったの?", "id": "tr-037-01-003", "answers": [ { "text": "1961年", "answer_start": 252, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1966年の秋、榎本三恵子は店の裏通りのラーメン屋で一人食事をしていた時に、当時自民党幹事長だった田中角栄の秘書の榎本敏夫に見初められる。店は『来々軒』で、食べ終わって店を出ると連れの一人が追いかけてきて、働いている店名を聞かれたという。榎本敏夫を見た第一印象は「ちっちゃい人だなあ」というものだった。「君は背が大きい。僕はちっちゃい。だから相性が合うんだ」と言われた。一度の離婚歴があった榎本敏夫は、翌日から店に通い始めてカウンターで水割りを二、三杯飲んでいくのが日課になり、ある日、店に名刺を置いていった。その名刺の肩書には『自由民主党幹事長田中角栄第一秘書官』と書かれており店内が一気にどよめいた。そして後日、榎本敏夫は三恵子に「僕の秘書にならないか」と突然持ち掛け、履歴書を書くように言いつけ、てっきり就職のためと思い込んだ三恵子が榎本宅へ履歴書を届けに行ったところ、いきなり向こうの両親に引き合わされ、結婚のための面談となる。その時、榎本敏夫は40歳、三恵子は18歳で22歳も年の離れているということで結婚は家族から猛反対されるが、榎本の「田中先生を総理大臣にする」という熱意に三恵子は打たれて結婚に踏み切る。また、中学生のころに父を亡くしていた三恵子は、「自分は父性愛に飢えていたから」と、年の差のある夫に惹かれたことの理由として上げている。式はその年の12月9日、田中角栄の仲人で、ホテルニューオータニで行われ、籍は14日に入れたが、その入籍の日まで榎本敏夫は三恵子の18歳という年を知らなかったという。\n\n1968年8月に長男、1971年5月に次男、1973年1月に三男を出産する。", "qas": [ { "question": "榎本三恵子と榎本敏夫の結婚式はどこで行われたの?", "id": "tr-037-02-000", "answers": [ { "text": "ホテルニューオータニ", "answer_start": 598, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1972年7月5日、田中角栄が自由民主党総裁に当選し、総理大臣筆頭秘書官の妻となった三恵子は電話で報告を受け、涙を流した。そして陳情に来る人物や財界の頂点にいる側近などに対して、夫と共に接触して付き合っても問題ないかどうかなどを忠告するなどの役目を負う。後に丸紅ルートと言われ、裁判でも大きな焦点となる5億円の受け渡しを行った、大手総合商社の丸紅のIに関しては、付き合いは止めて欲しいとの忠告はその時すでにしていた。その時の榎本敏夫の返事は「君がそう思うなら間違いないだろう」というもので、それ以来、Iからの電話は家へかかって来なくなった。", "qas": [ { "question": "田中角栄はいつ自由民主党総裁に当選したか。", "id": "tr-037-03-000", "answers": [ { "text": "1972年7月5日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし1976年2月5日、ロッキード事件が発覚して、報道には頻繁にIの名前が出るようになる。自分の忠告通り榎本敏夫とIとは関係が絶たれていると思って三恵子は安堵していたが、事件の発覚以降それまで途絶えていたIから毎朝、電話がかかってくるようになる。そして後の裁判で行った証言の核心部分でもある、夫の5億円授受を肯定したという車の中での会話の後、榎本敏夫の日程表の焼却等の証拠隠滅を行った。後にマスコミから批判されるこの時の行動を「榎本家の財産を国税局に洗われて、追徴金で持っていかれるのが怖かった。三人の子供がいて何をするにもお金がいる。法に触れるのは確かだが、わが家を維持していくという使命とは別物[3]」と語っている。その時すでに離婚の意志を固めていた三恵子は、焼却炉の煙突から登る煙を見ながら『これが私のしてあげる最後のご奉公、これからは一人で戦ってください』と思ったという。", "qas": [ { "question": "ロッキード事件はいつ発覚されたの?", "id": "tr-037-04-000", "answers": [ { "text": "1976年2月5日", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "7月27日に田中角栄と共に榎本敏夫が東京地検特捜部に外為法で逮捕される。高血圧を理由に病院にいた夫の元に検事が来た時、三恵子はその場に立ち会っており、あらかじめ子供達のために何もしゃべらなければ父親としては立派だし、もう一度やり直してもいいと夫に言い含めていた。\n\n「口を割ったら子供たちの人生も狂う。逮捕されても絶対しゃべってはだめ。一言も言わないで出て来てくれたら、私は家に帰ります。公判とかマスコミ対策は一緒に戦いますから」\nと夫をいさめていたものの、逮捕二日後に榎本敏夫は五億円の授受を自白してしまう。翌日そのことを砂防会館内で弁護士から聞かされた三恵子は裏切られたという気になり、離婚の意志を確固としたものにする。そして小菅の東京拘置所に毎日のように通うが、面会は許されなかった。私が小菅に通っているとこを夫が目にすれば、喋ってはだめという約束事の無言の意思表示になると思ったと手記には書かれている。\n\n8月17日、田中角栄と共に保釈された夫と三週間ぶりに病院で対面し、「君の言うとおりだった。もう一度一緒にやり直したい」と土下座までして離婚は考え直すように懇願されるが、拘置所では絶対にしゃべらないという約束を反故にされたことから、三恵子は「もう手遅れでしょう」と拒絶した。", "qas": [ { "question": "田中角栄と榎本敏夫が東京地検特捜部に外為法で逮捕されたのはいつですか。", "id": "tr-037-05-000", "answers": [ { "text": "7月27日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "三恵子は元代議士秘書がやっていた会社に一週間ほど勤めたのち、1977年5月から再び義姉の店、『かみしま』で今度はレジ係ではなくホステスとして働き始める。1979年1月からクラブ『エルマーナ』に移り、2月にはクラブ『セビアン』にスカウトされる。この店で後に再婚することになる5歳年下のFと知り合った。Fとは元俳優で、『ケーキ屋ケンちゃん』(TBS)にジャンボという名前の出前持ちの役柄で出演しており、身長183センチ、体重は130キロはあると思われる巨体の持ち主で、私生活でもジャンボと呼ばれている男である。Fは劇団いろはに所属していた経歴があり、当時は北海道の実家で鰻の養殖業を営んでいたという肩書であった。特撮番組、『ダイヤモンド・アイ』にもレギュラー出演している。三恵子は後に胸にジャンボの頭文字であるJの文字の入ったペンダントを絶えず身に着けるようになる。店では源氏名は使わず榎本三恵子の名で通した。\n\n1980年1月から再びスカウトされて、クラブ『エミール』で30人余りのホステスを取り仕切る雇われママとして働くなど、銀座を転々としていたが、6月末には店を辞め港区でFと同棲生活に入る。", "qas": [ { "question": "三恵子は1979年1月からどこで働き始めたの?", "id": "tr-037-06-000", "answers": [ { "text": "クラブ『エルマーナ』", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三恵子の再婚相手の身長は何センチ?", "id": "tr-037-06-001", "answers": [ { "text": "183センチ", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三恵子の再婚相手は『ケーキ屋ケンちゃん』に出演した時、何という名前の役を演じたか。", "id": "tr-037-06-002", "answers": [ { "text": "ジャンボ", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三恵子とジャンボの同棲生活は何月末から始まったの?", "id": "tr-037-06-003", "answers": [ { "text": "6月末", "answer_start": 475, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1981年5月6日、榎本三恵子は初めてロッキード事件に関して検察側の事情聴取を受け、以後、証言台に立つ前日の10月27日まで9回にわたって呼び出される。最初の2回は三恵子は検察に対しては非協力的で、代理人を通して榎本側に「今、検事の取り調べを受けているが、そちらが誠意ある姿勢を示せば有利になるような返答をするが、さもなければ洗いざらい話してしまいます」と伝えている。その田中角栄に出した直訴状の返答待ちなので、田中側と不利な争いは避けたかったからだが、納得する返事がもらえなかったのと、検事から「田中角栄という人の功績なり努力は認めるが、やはりしてはいけないことはある。ここでハッキリと白黒つけないと司法というものは成り立たず、今後一切、政界には手が出せないという、何をしてもまかり通る世の中になってしまう」と言われ、大きく心変わりをした。そして次第に事件の核心にかかわる供述をし、必要とあらば法廷に出て証言してもいいのではと思い始める。その時に「榎本の家から何か証拠物件が出てきたのか?」という三恵子の問いに、検察からは何も出ないと言われると「私自身が罪に問われるかもしれないが、私が全て始末しました」と告白する。子供も榎本側にいるし元夫婦という立場を考えると、証人になってもらうのは忍びないという検察に「法廷に出させて下さい。決心した以上、不発にはしないで下さい」と自ら陳情する。ただし裁判では榎本止まりにして、田中先生にまで累が及ばないようにして欲しいというのが条件だった。政界やマスコミには次第に、検察はすごい隠し玉を持っているとの噂が流れ始め、その正体が榎本三恵子の証言ということが10月28日の法廷で明かされた。", "qas": [ { "question": "榎本三恵子が検察側の事情聴取のため、10月27日まで9回にわたって呼び出されたのはどの事件のせいでしたか。", "id": "tr-037-07-000", "answers": [ { "text": "ロッキード事件", "answer_start": 19, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "榎本三恵子が初めてロッキード事件に関して検察側の事情聴取を受けたのはいつでしたか。", "id": "tr-037-07-001", "answers": [ { "text": "1981年5月6日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "翌日の日本の大手新聞である朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、産経新聞、東京新聞は皆榎本三恵子の証言と記者会見を一面トップで扱い、駅の売店では新聞が飛ぶように売れ、その衝撃は日本中を駆け巡った。\n\n野党各党は「5億円受け取りの防御ラインは崩れた。田中側の証人に立った国会議員の姿勢が問われる」(社会党)、「衝撃的な証言だ。裁判全体の流れを変えるのではないか」(公明党)、「証言は田中元首相のシロ説が急転直下、クロ説に変わる重大な意味を持つ」(民社党)、「これで榎本アリバイは完全に崩壊した」(共産党)と一斉に三恵子証言を支持した。\n\nマスコミには「日本女性がかくも強くなったか、とてもうれしい」「勇気ある証言に拍手」「庶民が汚職を追いつめた」「告発理由は正義以外何物でもない」「従来の女性観を変えるほど清新なものに映った」という称賛の電話が多数寄せられたが、そのほとんどが女性からである。男の感想としては「女は怖い」「長年連れ添って来た仲なのに」「お互いに身辺はきれいにしないといけないな」と困惑したものが多かった。", "qas": [ { "question": "榎本三恵子の証言に対して肯定的な反応を見せたのは女性でしたか、男性でしたか。", "id": "tr-037-08-000", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "その後、手記を出版するために熱海市の旅館に缶詰となる。その本は3人の子供たちに捧げられており、『遺しておきたいこと-女・愛・生・死-』(青春出版社)として出版され、13万5千部を売るベストセラーとなった。\n\n『報道特集』のインタビューを収録したきっかけで知り合ったTBSテレビのディレクターへ「ニュージーランドでFと結婚式を挙げるため、こっそり日本を出たいので協力して欲しい」と相談を持ち掛け、三恵子とFは12月1日、TBSのスタッフと極秘にニュージーランドに到着、翌々日にクライストチャーチ市のセント・バルナバス教会で新郎新婦の二人だけの式を挙げた。ところが帰国する段階になって三恵子は「この国が気に入ったので、しばらく滞在したい」と言い出し、テレビクルーだけが日本に帰ることになった。日本では榎本三恵子が結婚するというニュースがすでに公になっており、成田空港には二人の到着を待つ他のテレビ局が出動する騒ぎになったが空振りに終わった。その結婚式の模様は『報道特集』(1981年12月12日)で放送された。", "qas": [ { "question": "『遺しておきたいこと-女・愛・生・死-』は当時何部売れたか。", "id": "tr-037-09-000", "answers": [ { "text": "13万5千部", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三恵子とFは12月1日、どこに到着したか。", "id": "tr-037-09-001", "answers": [ { "text": "ニュージーランド", "answer_start": 147, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三恵子とFの結婚式はどこで行われたか。", "id": "tr-037-09-002", "answers": [ { "text": "クライストチャーチ市のセント・バルナバス教会", "answer_start": 237, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "フォッケウルフFw190", "paragraphs": [ { "context": "Fw190ヴュルガー(Focke-WulfFw190Würger)は、ドイツのフォッケ・ヴルフ社が開発し、第二次世界大戦時にドイツ空軍などで運用された戦闘機である。愛称の「ヴュルガー(Würger)」は百舌(鳥)を意味する。設計責任者はクルト・タンクで、メッサーシュミット社が開発したBf109戦闘機とともに第二次世界大戦におけるドイツ航空戦力の主力を担った。本機は「液冷王国」であった当時のドイツ空軍にあって、初期型が唯一強力な空冷エンジンを搭載した主力戦闘機として優れた飛行性能を見せたほか、機体が頑丈で発展性に余裕があり、戦闘爆撃機型や対爆撃機型、高速偵察機型など様々な派生型が生産され、また機体の整備・運用の手間に要するコストも比較的少なく、第一次世界大戦への従軍経験のあるタンクの設計コンセプトが具現化し、よく過酷な戦場に耐えて大戦を戦い抜いた。1944年には不足していた高高度性能を改善するため、エンジンを液冷エンジンのJumo213Aに換装したFw190D-9型が登場した。大戦末期に開発されたさらなる改良型は、設計者であるタンクの名称を取ってTa152と命名された。シリーズの総生産数は20,000機以上であり、うち、戦闘爆撃機型は6,600機強である。", "qas": [ { "question": "Fw190ヴュルガーを開発した会社は?", "id": "tr-038-00-000", "answers": [ { "text": "フォッケ・ヴルフ社", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ航空戦力の主力を担ったのは、Bf109戦闘機のほかに、どの戦闘機であるか?", "id": "tr-038-00-001", "answers": [ { "text": "Fw190ヴュルガー", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "空冷エンジンと液冷エンジンのうち、どちらのエンジンを搭載した機体がより早く開発されましたか?", "id": "tr-038-00-002", "answers": [ { "text": "空冷エンジン", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Fw190ヴュルガーの派生型のうち、6,600機強が生産されたのは、何か?", "id": "tr-038-00-003", "answers": [ { "text": "戦闘爆撃機型", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ナチス・ドイツ政権の大軍拡政策によって、ドイツ空軍は戦闘機の近代化を強力に推し進めた。ところが、主力戦闘機Bf109は高性能ではあったものの、狭い操縦席によって操縦が新任搭乗員にとっては難しく、また主脚が外側へ引き込む方式で脚間のスパンが短く構造も脆弱であったため、着陸事故が多かった。また搭載エンジンであるDB601は生産性に難があり供給数量に限界があった。その事故率の高さと生産性の問題に不安を感じたドイツ空軍上層部は、1938年、フォッケウルフ社に対し、補助戦闘機の開発を依頼した。次に想定される戦争は必ずしも長期戦が想定されていたわけでもなく、当時のドイツが補助戦闘機にまでリソースを回せる国力があるとも限らなかったことから、実際に採用されるかはよくわからない状況であったとも言われるが、フォッケウルフ社ではこれを受けて、クルト・タンク技師およびブラーザー主任技師を中心としたわずか12名のチームで開発を進め、1939年6月1日に初飛行に成功した。", "qas": [ { "question": "Bf109には、どんなエンジンが搭載されたの?", "id": "tr-038-01-000", "answers": [ { "text": "DB601", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドイツ空軍上層部の依頼によりフォッケウルフ社が開発した補助戦闘機は、いつ初飛行を果たしましたか?", "id": "tr-038-01-001", "answers": [ { "text": "1939年6月1日", "answer_start": 409, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ空軍上層部は、どの戦闘機に対して不安を感じ、フォッケウルフ社に新たな補助戦闘機の開発を依頼しましたか?", "id": "tr-038-01-002", "answers": [ { "text": "Bf109", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "タンク技師は、第一次世界大戦に歩兵および騎兵として従軍、大学では第一志望の航空力学の講義が禁止されたため電気工学を専攻、在学中はグライダー研究会でグライダーの設計、製作、飛行までを行い、その後飛行機の操縦ライセンスを取得し、大学卒業後は教授の推薦により入社した飛行艇専門メーカーであるロールバッハ金属飛行機ではエンジニア兼テストパイロットを務めるという異色の経歴を持っていた。タンク技師はFw190開発にあたり軍務とパイロットの経験から、Bf109のような「速いだけが取り柄のひ弱なサラブレッド」ではなく、過酷な戦場での使用に耐える「騎兵の馬」をコンセプトとして開発を進めた。完成したFw190は強力な武装・良好な空戦性能を持ち、操縦しやすく、最前線でも容易に修理が可能、さらに大量生産しやすい構造という、実用的な兵器であった。当時、戦闘機に使用するエンジンとして液冷エンジンが有利とされていた。液冷エンジンは前面投影面積が小さく、空気抵抗が少なくなるが、Fw190は当時使用可能だった唯一の1,500馬力級空冷星形エンジンBMW139(離昇出力1,550馬力)を使って開発された。これは液冷のDB601系エンジン(離昇出力1,075馬力)がBf109その他の機体に採用され、工場側の生産と供給の能力が手一杯であることから、別のエンジンを使用するよう空軍当局が指示したともされ、また同時にJumo211系も主に爆撃機に供給されていたため選択の余地がなかった、または不本意な選択だったともされる。しかし別の説ではエンジンの指定その他の要求はほとんど無かったともされ、タンク自身は後に、その馬力の大きさと被弾への強さから敢えて空冷エンジンを選んだとしている。", "qas": [ { "question": "タンク技師は何をコンセプトとしてFw190の開発を進めた?日本語だけで答えて。", "id": "tr-038-02-000", "answers": [ { "text": "騎兵の馬", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "他の機体に採用されていたことにより工場での生産拡大が難しかったため、Fw190には採用されなかったエンジンは、何ですか?", "id": "tr-038-02-001", "answers": [ { "text": "液冷のDB601系エンジン", "answer_start": 494, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Fw190が開発される時点で唯一に使用可能だった1,500馬力級空冷星形エンジンであったため、Fw190のエンジンとして採用されたエンジンは、何か?", "id": "tr-038-02-002", "answers": [ { "text": "BMW139", "answer_start": 462, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書では、Fw190との比較において、Bf109を何と表現しているの?", "id": "tr-038-02-003", "answers": [ { "text": "速いだけが取り柄のひ弱なサラブレッド", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "これによりFw190は液冷王国ドイツにおける唯一の空冷エンジン単座戦闘機となったのであるが、エンジンの出力が高いほか、カウリングの直径をぎりぎりまで絞った上にオイルクーラーやオイルタンクをエンジンの前面に搭載、単排気管の推力で速度を稼ぐと言う、タンクの先進的な設計もあり、試作段階より既にBf109Eを凌駕する速度を発揮していた。量産型ではのちに搭載エンジンを、BMW社が開発に成功した、より高出力のBMW801シリーズへと換装した。なお開発時および実戦配備初期には空冷エンジンの冷却不良・過熱や、エンジンの自動制御装置の不良などが問題視されていた。本機は、Bf109がヨーロッパ最強を誇っていた第二次世界大戦の緒戦ではあまり注目を浴びなかったが、スピットファイアMk.V等、連合国の新型戦闘機に対抗する高性能機として1941年から実戦配備が始まった。最初の配備型Fw190Aは英国のスピットファイアMk.Vを実戦で圧倒し、強力な新型戦闘機の登場という混乱を連合国に与えた。本機の活躍によりドーバー海峡上の制空権はドイツ空軍の手中に収められ、この状況は半年後のイギリス空軍のスピットファイアMk.IXの出現まで継続した。Fw190Aは搭載するBMW801エンジンの特性上高度おおよそ6,000m-7000m以上で急激に出力が落ちるため高高度性能が不足していたが(後述)、しかし大戦前半ではそれは問題とならず中低高度で高性能を遺憾なく発揮し、その後も改良が続けられ、Bf109と共にドイツ空軍を支えた。", "qas": [ { "question": "ドイツにおける初めての空冷エンジン単座戦闘機は、何か?", "id": "tr-038-03-000", "answers": [ { "text": "Fw190", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "試作段階ですでにBf109Eを凌駕する速度を発揮した戦闘機は、何か?", "id": "tr-038-03-001", "answers": [ { "text": "Fw190", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "初めて実戦配備されたFw190は、ドイツがどこにおいての制空権を握るのに寄与したのか?", "id": "tr-038-03-002", "answers": [ { "text": "ドーバー海峡", "answer_start": 445, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Fw190Aが戦場に登場したのは、何年からか?", "id": "tr-038-03-003", "answers": [ { "text": "1941年", "answer_start": 359, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "Fw190は低高度での高性能に加えて、広く安定した車輪間隔や余裕ある設計や頑丈な機体という特長があったため、これを生かして戦闘爆撃機や偵察仕様などは様々な改修キットが作られた。これは工場での改修型のU仕様、戦地改修キットのR仕様があり、「Fw190A-3/U2」などと表記された。後には戦闘機としてのA型のほかに戦闘爆撃機型のF型、長距離戦闘爆撃機型のG型など多様な種類が作られた。青木(1995)では、爆撃任務を行うF、G型にはBf109の護衛がつく事があったが、爆弾を積まない状態ではFw190Fの方が低空性能に優れていたため、護衛を行うBf109のパイロットらは馬鹿らしい任務であると考えていたとの逸話が紹介されている。また、Fw190FがFw190Fの護衛を行なったような例もある。実際に東部戦線では地上攻撃航空団が撃墜戦果を挙げることは希ではなく、クリミア方面では第2地上攻撃航空団第II飛行隊が半年で247機もの戦果をあげている。", "qas": [ { "question": "戦闘爆撃機型のFw190は、何型と名付けられた?", "id": "tr-038-04-000", "answers": [ { "text": "F型", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "U仕様とR仕様のうち、工場で改修されたのは、何か?", "id": "tr-038-04-001", "answers": [ { "text": "U仕様", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "Fw190は、高々度より進入する連合軍の重爆撃機や、それを護衛する戦闘機との戦いに必要な高々度性能が不足しており、またBMW801エンジンでは高々度性能の向上が難しかったため、これを液冷エンジンJumo213に換装した改良型、Fw190D-9型が設計配備された(詳しくは後述)。だがD-9型が配備され始めた1944年晩夏の頃にはすでにドイツ軍全体が燃料欠乏に悩まされていた。加えてベテランの喪失によるパイロット全体の質の低下、さらに数的劣勢が加わってドイツ空軍にはD-9型を有効に駆使し、その高い機体性能に見合った戦果を得るだけの能力は残っていなかった。D-9型は約700機が生産された。もうひとつはタンク技師の本命であり最終開発タイプとなったTa152(機体に個人のイニシャルを冠する栄誉を得た)であったが、こちらは60機強の生産に過ぎず本格的な配備には到らなかった。Fw190シリーズは、最終的には20,000機あまり(修理再生も含む)が生産された。坂本(2002)によれば、そのうち戦闘機型は13,369機、戦闘爆撃機型は6,634機(合計20,003機)とされている。", "qas": [ { "question": "坂本によれば、Fw190シリーズにおける戦闘機型と戦闘爆撃機型の生産機数を比較した時、その数がより多いのは、どちらか?", "id": "tr-038-05-000", "answers": [ { "text": "戦闘機型", "answer_start": 444, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Fw190D-9型は、従来のFw190から何を変えた改良型でありますか?", "id": "tr-038-05-001", "answers": [ { "text": "エンジン", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "液冷エンジンJumo213を搭載したFw190の改良型が配備され始めたのは、何年のこと?", "id": "tr-038-05-002", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "枢軸国各国及び一部の中立国や連合国でも多く使用されたBf109と違い、Fw190は主としてドイツ空軍で運用された。また、日本は参考のためにA-5型をドイツより有償供与され、1943年に海軍の潜水艦で輸送された。この機は陸軍航空総監部で、技術的な分析ののち飛行テストがなされた。その結果はメーカーの技術者も参照でき、五式戦闘機のエンジン排気の空力処理などの参考にされた。第二次大戦後、Fw190の性能を調査した連合軍側は、「第二次世界大戦におけるドイツ最良の戦闘機」という評価を与えている。", "qas": [ { "question": "第二次大戦後、連合軍側から「第二次世界大戦におけるドイツ最良の戦闘機」と評されたのは、どの戦闘機ですか?", "id": "tr-038-06-000", "answers": [ { "text": "Fw190", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "開発初期のFw190にはBMW139(1,550馬力)が用いられていた。さらにこのエンジンは改修され、当時ドイツで最大の出力を誇ったBMW801エンジンに発展した。これは二重星型14気筒の空冷エンジンであり、これは定速3.3mプロペラが装備された。A-2型まで搭載されていたBMW801Cは離昇出力1,600馬力、A-3型以降のBMW801D-2は1,700馬力へと出力が増強された。これらは、Bf109EのDB601A(離昇出力1,100馬力)やBf109FのDB601E(1,350馬力)と比較して明らかに強力である。空冷星形エンジンは液冷エンジンに比べ前面投影面積が大きい点で不利である。そこでエンジンカウル内に空気抵抗の大きい突起物を全て納めるなどの設計で、十分な空気抵抗上の性能を確保した。Fw190は、Bf109と比べ翼面荷重が大きく、水平面での旋回半径こそ比較的大きいものの、動作は軽快で扱いやすくより運動性に優れた。特に補助翼の効きに優れており、射撃時の安定性も良かったため、操縦がしやすい機体であった。その性能の高さゆえ連合軍の一線級戦闘機とも互角以上に渡り合うことができ、初期には英国機を圧倒し、その性能の高さに英空軍を驚愕させた。運動性にも優れる本機であったが、上昇力を生かした降下&ズーム上昇での一撃離脱戦法にも適性を示した。", "qas": [ { "question": "Bf109EとBf109Fより、強力なエンジンが搭載された戦闘機は、何か?", "id": "tr-038-07-000", "answers": [ { "text": "Fw190", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Fw190が戦場に登場したばかりの時、Fw190により圧倒された空軍とは、連合軍側のどの国の空軍であると書かれているか?", "id": "tr-038-07-001", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 500, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Bf109EとBf109Fのうち、より高出力のエンジンが搭載されたのは、どちらか?", "id": "tr-038-07-002", "answers": [ { "text": "Bf109F", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "開発初期のFw190のエンジンとBf109Fのエンジンの出力を比べた時、より優れた出力を有するのはどちらであるか、エンジンの名称で答えなさい。", "id": "tr-038-07-003", "answers": [ { "text": "BMW139", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ただしBMW801は、高度6,000-7,000mを超えると出力が急激に低下した。このため1942年以降、特に高空において2段2速過給器やターボチャージャーを装備した連合軍の新型戦闘機に苦戦することとなり、液冷エンジンに換装するなどして性能の改善がはかられた。またFw190には、脚やフラップを降ろさない状態で、速度が175km/h程度に低下した時、振動などの前触れ無く突如失速状態に陥り、左翼が下がり自転から錐揉みに至る弱点があり、格闘戦が不向きな要因の一つであった。これは急激なロールの切り返しで、より高速度でも意図的に発生させることもでき、敵機に追尾されている状態からの離脱に用いることができたとされる。ウィール(2001)によればこれはA-3型での報告であるが、後の型で改良されているのかについては定かではない。", "qas": [ { "question": "BMW801の出力が急激に低下し始める最大高度は、何mであったの?", "id": "tr-038-08-000", "answers": [ { "text": "7,000m", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Fw190に対敵するだけでなく、しかもFw190を圧倒した連合軍側の新型戦闘機には、2段2速過給器と何が装備されていましたか?", "id": "tr-038-08-001", "answers": [ { "text": "ターボチャージャー", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "Fw190ではダイレクトな操縦感覚を求めて補助翼の操作にはワイヤーではなく伸び縮みしないロッドを用い、速度差による違和感については、リンク機構を工夫することで解消していた(高速時に舵面にかかる風圧が大きくなると、それに応じてリンク機構の支点位置も移動するので、操縦桿と舵面の動きが非直線となり、違和感が解消できる)。操縦に要する力もできるだけ少なく抑え、コックピットの設計にも気を配るなど、パイロットが疲労しないように配慮がなされた。また、燃料タンクや機関砲など、使用することによって重量が変化するものは機の重心付近に集中して設置し、トリム調整も最小限に済むようにされていた。その他、誤操作をなくすため、スイッチの配置に人間工学的な配慮がされていたり、作動状態の確認はランプではなくメカ方式が使われるなど、パイロットが短期間で習熟できるように配慮がなされていた。", "qas": [ { "question": "燃料タンクや機関砲などが機の重心付近に集中して設置されたのは、何を最小限に済むようにするためだったの?", "id": "tr-038-09-000", "answers": [ { "text": "トリム調整", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "作動状態の確認には、どのような方式が使用されましたか?", "id": "tr-038-09-001", "answers": [ { "text": "メカ方式", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、BMW801エンジンには、「コマンドゲレート」(指令機材の意味)と呼ばれる自動制御装置、機械式アナログコンピュータが組み込まれていた。当時の他の航空機用エンジンは、速度や高度に応じてエンジンを細かく調整する必要があったのだが、この自動制御装置は、パイロットがスロットルレバーを操作するだけで、プロペラピッチ、2段スーパーチャージャーの切り替え、点火時期調整、混合気濃度などが自動調整されるようになっていた。余分な負担が減ってパイロットは戦闘に集中することができ、未熟なパイロットでも十分に扱うことができた。もっともこれは同時に、パイロットの手による微妙な調整ができないことも意味したが、Fw190のコックピットにはエンジンの燃焼をコントロールするインタフェイスは用意されていない。なお後述するように全面的に電動方式を採用したため、コンソールはすっきりしたものになっている。なお、プロペラピッチだけはスロットルレバーについたボタンでパイロットが手動操作できるとしている文献もある。", "qas": [ { "question": "Fw190のパイロットが他より感じる負担が少なかったのは、そのエンジンに日本語で何と呼ばれる自動制御装置が組み込まれていたからか?", "id": "tr-038-10-000", "answers": [ { "text": "コマンドゲレート", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "BMW801エンジンに組み込まれていた自動制御装置の日本語名称は?", "id": "tr-038-10-001", "answers": [ { "text": "コマンドゲレート", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コマンドゲレートがエンジンに組み込まれていたことの短所としては、何ができないということが挙げられていますか?", "id": "tr-038-10-002", "answers": [ { "text": "パイロットの手による微妙な調整", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "前述の通り本機は戦場での過酷な使用に耐えることをコンセプトの一つとして開発された。主力戦闘機メッサーシュミットBf109(当時引き込み式主脚の間隔の短さや強度不足などから着陸事故が多発していた)に対して、Fw190では主脚の間隔を3.5mと十分広く取り、さらに秒速5.0m(垂直方向;通常求められる数値の2倍)での着地に耐えるように設計され、パイロットが最も神経を使う着陸時に、多少ラフな操作をしても壊れない強度が持たせられていた。その他の部分にも十分な余裕を見込んだ設計がなされ、これらが後に戦闘爆撃機型、突撃型などの様々な発展型の実現に寄与した。渡辺(1999)によれば、955km/hで降下してもびくともしないと言う。主要部分には防弾鋼板が張られている(A-8型で総計136-166kg)。例としては座席後方に12mmないし5mmの防弾鋼板が装備された。またキャノピー正面の防弾ガラスの厚さは50mmである。オイル系統も装甲された上で2重の冗長性を持ち、被弾時の生残性が高められていた。", "qas": [ { "question": "主脚の間隔がより広いのは、Fw190とBf109のうち、どの機種か?", "id": "tr-038-11-000", "answers": [ { "text": "Fw190", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Fw190の機体の主要部分には何を張り、機体の強度を高めたか?", "id": "tr-038-11-001", "answers": [ { "text": "防弾鋼板", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Fw190の座席後方とキャノピー正面には、どのような性能を持った資材が用いられたか?", "id": "tr-038-11-002", "answers": [ { "text": "防弾", "answer_start": 369, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、空冷エンジンは液冷エンジンと比較して耐弾性に優れる。液冷エンジンであれば冷却水漏れを起こすような損傷でも無事に帰還する場合があり、さらにエンジンブロックは、パイロットにとり前方からの射撃に対する装甲としても機能した。ただし損傷によりエンジンが停止した時、本機の滑空性能は良好ではなかった。これは一撃離脱戦法を重視し、ロール性能を向上させた結果として翼面荷重が高いためである。不時着時、主脚を用いての着陸は比較的困難だった。主脚を出すことで空気抵抗が増し、低速域での揚力不足による失速を招いたと推測される。そこで脱出または胴体着陸が推奨されていた。主翼は上下に分割した状態で作成され、それをフローティング・リブと言う小骨で接続接合する頑丈なものだった。なおFw190は、開発段階では全長8.85m、全幅9.5mと、小型と評価されるBf109と大差のない機体サイズで、武装もさほど強力なものではなかった。だがその後においては単発戦闘機における世界最強クラスの武装を備える機体となり、後述する突撃型においては防御力も傑出したものとなった。", "qas": [ { "question": "損傷によりエンジンが停止した時、Fw190の滑空性能は良好ではなかった理由は、何を重視し、ロール性能を向上させた結果、翼面荷重が高いためであったか?", "id": "tr-038-12-000", "answers": [ { "text": "一撃離脱戦法", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "空冷エンジンと液冷エンジンのうち、弾に耐える性能がより優れているのは、どちらか?", "id": "tr-038-12-001", "answers": [ { "text": "空冷エンジン", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "防御力も攻撃力も優れており、特に攻撃力においては、単発戦闘機における世界最強クラスの武装を備える機体とされた戦闘機は、何か?", "id": "tr-038-12-002", "answers": [ { "text": "Fw190", "answer_start": 330, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フォッケウルフ社は会社の規模が小さく、部品製作を下請けメーカーに依存していたため、大量生産しやすいように機体をいくつかのコンポーネントに分割する一方、その構成部品も円筒のような単純な2次元曲面を多用し、球形のような複雑な3次元曲面の部品は最小限にしていた。例えば、エンジン・カウリングは板を曲げただけの単純な形状であり、カウリング前面の3次元曲面を構成する部品は、オイルタンクとオイルクーラーが一体化した部品を兼ねている、というように、複雑な形状を持つ部品の機能を融合することで部品数が減らされていた。また、Fw190はアラド、フィーゼラー、AGOなどフォッケウルフ社以外でも量産されていた(ただしFw190の生産性が高いためであることが理由であるかは不明)。ある簡素な製造ラインでは、ベルリンが占領される直前までFw190を生産し続けていたとされる。", "qas": [ { "question": "ベルリンが占領される直前までFw190を生産し続けていた、フォッケウルフ社以外の会社としては、アラドとフィーゼラー、そして、どの会社があると書かれているか?", "id": "tr-038-13-000", "answers": [ { "text": "AGO", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Fw190を開発した会社は、どの会社か?", "id": "tr-038-13-001", "answers": [ { "text": "フォッケウルフ社", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "上述の様にFw190は、各部がコンポーネント化されていたため、壊れた部品はユニットごと交換するだけで簡単に修理できるようになっていた。そして点検用のハッチは大面積のものが用いられ、整備を容易にし、さらに一部のものはパネルに強度を持たせてあり、これを解放しての整備時に整備員が足場として利用できる様に配慮がなされていた。タンクは大学時代に専攻していた電気工学の知識を活かし、機体各部の作動機構には車輪の油圧ドラムブレーキ以外をモーターによる電動式とした。外部のバッテリーから電気を供給すれば動作させることが出来るため、エンジンを停止したままや下ろした状態でも動作チェックが可能となり、前線での点検整備・交換が簡単に行えるようになった。また電線を接続するコネクターはすべて形状が異っており、目的通りの接続でなければコネクターがつながれずに誤接続を防ぐなど、整備面に対する人間工学的な配慮もなされていた。その他、胴体後部に機体を左右に貫通する小さな穴が開けられており、ここに鋼管を差し込みジャッキアップできるといったようなメカニズムもあった。", "qas": [ { "question": "Fw190の機体各部の作動機構のうち、モーターによる電動式になっていなかったのは?", "id": "tr-038-14-000", "answers": [ { "text": "車輪の油圧ドラムブレーキ", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タンクは大学時代に何を専攻していましたか?", "id": "tr-038-14-001", "answers": [ { "text": "電気工学", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前線でのFw190の点検整備・交換が簡単に行えるように設計を行った人は、誰か?", "id": "tr-038-14-002", "answers": [ { "text": "タンク", "answer_start": 159, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "Bf109やスピットファイアなどにみられた、キャノピー後部が胴体と一体化したファストバック型は空力的には有利であるが、代償として後方視界が良くない。Fw190では視界の良いスライド型のものが用いられた。Fw190は一見前方視界が悪いように見え、またやはり良好とも言い難いものであったようだが、通常時はいくぶん機首を下げた状態で飛行するため、飛行時については劣悪という訳ではなかった。また地上滑走時の前方視界に問題はあったものの、尾輪式の単発レシプロ戦闘機であれば、持ち上げられたエンジン部分により正面などは見えないものである。むしろFw190は前下方の視界がキャノピー側面の胴体への食い込みで確保されているため、視界良好な部類であったとする評価もある。また日本へ輸入されたA-5型を操縦した大日本帝国陸軍パイロットは、機体への切れ込みがあり前下方の視界は良好で、接地の寸前まで良好な着陸視界を得ることができると評価している。鹵獲機体を試験飛行させたイギリス空軍パイロットは、前方視界はBf109、スピットファイア、マスタングよりも良好であったと評価した。キャノピーは後方にスライドさせて開く形式であったが、飛行時に人力で開く事が非常に困難でありパイロットの脱出に支障をきたしたため、20mm機関砲の薬莢の火薬を用いてキャノピーを脱落させる機能が付与された。また、後期の型には高さを増し視界を向上させた「ガーラント・ハウベ」(Galland-Haube)と呼ばれる形状のものを装備している。本機の航続距離はBf109より多少長い。燃料搭載容量は前部胴体タンクが232リットル、後部胴体タンクが292リットル、予備タンク115リットルである。この状況で航続距離は通常800km程度、さらに300リットルの増槽を付けた場合は1,400km程度だった。予備タンク内の燃料は出力増強装置などに用いられる場合もあり、その場合は航続距離はより少なくなった。", "qas": [ { "question": "Bf109とFw190のうち、より視界の良い形式のキャノピーが用いられたのは、どちらなの?", "id": "tr-038-15-000", "answers": [ { "text": "Fw190", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Fw190で最も多い燃料が搭載されていたタンクは、どれか?", "id": "tr-038-15-001", "answers": [ { "text": "後部胴体タンク", "answer_start": 687, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Fw190の航続距離がBf109のものより長かったのは、何をより多く搭載できたからでありますか?", "id": "tr-038-15-002", "answers": [ { "text": "燃料", "answer_start": 779, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ガーラント・ハウベ」と呼ばれる形状のキャノピーが登場する前には、視界の良さにおいて何型のキャノピーが優れていると評されたか?", "id": "tr-038-15-003", "answers": [ { "text": "スライド型", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1942年、Fw190の出現により劣勢に立ったイギリス空軍は、Fw190の秘密解明のため特殊部隊を使ってFw190を盗み出す、というエアシーフ(空の泥棒)作戦を立案した。この作戦は、決行直前の6月23日、ベンブレイの英空軍基地へ1機のFw190が誤って着陸したことで中止された。搭乗していたのは、ドイツ第2戦闘航空団所属のファーベル大尉であった。投降説もあるが、着陸前に戦果を示すダイブをしている事から方向を見誤りフランスのドイツ基地と誤認したのだろうといわれている。本機は、生産されたばかりの真新しい機体であったという。この時、鹵獲されたFw190を調査した英空軍は、その行き届いた設計やコマンドゲレートに感心し、開発中の新型戦闘機ホーカーシーフューリーに対していくつかの設計変更を行った。小規模飛行機メーカーのわずか12人のエンジニアが作り出した戦闘機は、敵国の戦闘機開発にまで影響を与えたのである。このA-3型を鹵獲したイギリス軍は半年にわたってそれをテストしたが、視界は良好でありコックピット内の配置は合理的、またスピットファイアMk.Vと比較すると、高度7600m以下では常にFw190の方が優速であり、上昇性能、降下性能共に勝っており、加速力、横転速度も良く、スピットファイアが勝るところは旋回性能だけであったという。ただし新型のスピットファイアMk.IXではその差は縮まっているか、あるいは対等に戦える事が確認された", "qas": [ { "question": "Fw190の秘密解明のためにエアシーフ作戦を立案したのは、どの国の空軍か?", "id": "tr-038-16-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エアシーフ作戦も行わずにイギリス空軍が1機のFw190を手に入れたのは、誰が方向を見誤り、イギリスの空軍基地に着陸したからか?名前だけで答えなさい。", "id": "tr-038-16-001", "answers": [ { "text": "ファーベル", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Fw190は何人だけのエンジニアが作り出した戦闘機なの?", "id": "tr-038-16-002", "answers": [ { "text": "12人", "answer_start": 360, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "イレーヌ・ジョリオ=キュリー", "paragraphs": [ { "context": "イレーヌ・ジョリオ=キュリーは、フランスの原子物理学者である。父はピエール・キュリー、母はマリー・キュリーだ。妹はエーヴ・キュリーだ。\n\nパリに生まれ、パリ大学でポロニウムのアルファ線に関する研究で学位を取得した。1926年、母マリーの助手だったフレデリック・ジョリオと結婚した。1934年に30Pを合成し、1935年、「人工放射性元素の研究」で、夫フレデリックと共にノーベル化学賞を受賞した。", "qas": [ { "question": "イレーヌ・ジョリオ=キュリーのお父さんは誰なの?", "id": "tr-039-00-000", "answers": [ { "text": "ピエール・キュリー", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イレーヌ・ジョリオ=キュリーの妹は誰なの?", "id": "tr-039-00-001", "answers": [ { "text": "エーヴ・キュリー", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イレーヌ・ジョリオ=キュリーが生まれた都市はどこなの?", "id": "tr-039-00-002", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イレーヌ・ジョリオ=キュリーはいつ結婚したの?", "id": "tr-039-00-003", "answers": [ { "text": "1926年", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イレーヌは1897年、父ピエール・キュリー、母マリー・キュリーの長女として、パリで生まれた。当時、両親は放射性元素の発見に取り組んでいる最中であり、イレーヌが生まれたのは2人がラジウムを発見する前年のことであった。イレーヌ誕生後、両親は夜になるとイレーヌにつきっきりとなり、マリーは娘の成長を日記につづった。しかし日中はマリーもピエールも実験で忙しかったため、3人が一緒に過ごす時間は限られた。そのためイレーヌは、同居していたピエールの父親である医師のウジェーヌ・キュリーと過ごすことが多かった。\n\n幼い頃のイレーヌは、父ピエールを「ペ(Pé)」、母マリーを「メ(Mé)」と呼び、母親に対する独占欲が強かった。その当時にキュリー家を訪れた知人は、マリーやピエールと話をしていると、イレーヌが、自分のこともかまって欲しいとたびたび主張してきたことを述懐している。また警戒心が強く、他人とはあまり打ち解けない性格だった。\n\n1903年、両親がノーベル化学賞を受賞し、時の人となった。家には連日取材陣が押し寄せ、当時6歳だったイレーヌも取材の対象になることがあった。1904年、妹のエーヴが生まれた。", "qas": [ { "question": "イレーヌはいつ生まれましたか。", "id": "tr-039-01-000", "answers": [ { "text": "1897年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イレーヌの祖父は誰でしたか。", "id": "tr-039-01-001", "answers": [ { "text": "ウジェーヌ・キュリー", "answer_start": 226, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イレーヌの両親がノーベル賞を受賞した1903年、イレーヌは何歳でしたか。", "id": "tr-039-01-002", "answers": [ { "text": "6歳", "answer_start": 455, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イレーヌの妹はいつ生まれたの?", "id": "tr-039-01-003", "answers": [ { "text": "1904年", "answer_start": 480, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1906年4月19日、8歳の時、イレーヌの父ピエールは馬車に轢かれて死亡した。イレーヌはマリーから、父は頭にけがをしたから会うことはできない、と告げられた。イレーヌははじめ、その意味することがのみこめなかったが、やがて理解し、泣きながら母親のもとへと駆け寄った。\n\nピエールの死によってマリーは非常に大きなショックを受け、しばらく立ち直ることができなかった。その年の秋、マリーは、ピエールの思い出が残る家に住み続けることはできないとして、娘2人と義父ウジェーヌと共に、ソーへと引っ越した。なおイレーヌ自身は後年、幼い頃のことはよく覚えておらず、両親と一緒の生活についてもほとんど記憶に無いと述べている。", "qas": [ { "question": "お父さんが死んだとき、イレーヌは何歳だった?", "id": "tr-039-02-000", "answers": [ { "text": "8歳", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリーと娘2人と義父ウジェーヌはどこへ引っ越しましたか。", "id": "tr-039-02-001", "answers": [ { "text": "ソー", "answer_start": 234, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1906年11月、マリーはピエールの後を継ぎ、ソルボンヌ大学の講師となった。初回の講義にはイレーヌも見学に訪れた。\n\nイレーヌは、パリ天文台近くにある私立学校に通っていた。しかしマリーはフランスの中等教育に不満を持っていたため、イレーヌを中学に入学させなかった。そのためイレーヌは家で祖父ウジェーヌの教育を受け、特にヴィクトル・ユーゴーなどの文学について多くを学んだ。ウジェーヌはその後のイレーヌが抱くことになる政治的な思想などの面で大きな影響を与えている。また、一時期はポーランド人の家庭教師がつけられ、妹エーヴと一緒にポーランド語を学んだ。\n\nさらにイレーヌは、10人ほどの生徒と一緒に、組合学校と呼ばれる授業に参加した。これはマリーが知り合いの学者と協力して作り上げた教育方法で、学者自身が先生となって、それぞれの好みに合わせた教科を教えるというものである。物理はマリー・キュリー、化学はジャン・ペラン、数学はポール・ランジュバンが担当し、生徒たちはそれぞれの家や研究所を移動しながら授業を受けた。この組合学校は2年ほど続いた。", "qas": [ { "question": "1906年11月、マリーはどの大学の講師となりましたか。", "id": "tr-039-03-000", "answers": [ { "text": "ソルボンヌ大学", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イレーヌは中学に入学する代わりに、誰から教育を受けましたか。", "id": "tr-039-03-001", "answers": [ { "text": "祖父ウジェーヌ", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "組合学校で物理を担当した人は誰なの?", "id": "tr-039-03-002", "answers": [ { "text": "マリー・キュリー", "answer_start": 385, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "組合学校は何年ほど続きましたか。", "id": "tr-039-03-003", "answers": [ { "text": "2年ほど", "answer_start": 459, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方でマリーは、教育において体育を重視すべきだという考えを持ち、娘たちに水泳、自転車、乗馬、登山などを体験させ、当時珍しかったスキーも体験させた。イレーヌは、私はフランスで一番古い女性スキーヤーだったと述べている。\n\n旅行などで母親と離れているときは、手紙によって交流した。1907年にイレーヌが出した手紙には、すでに数学の問題に関する記述があり、母と娘の数学への意識の高さがうかがえる。また、祖父ウジェーヌとも手紙をやりとりした。1909年に出した手紙で、イレーヌが「あなたの小さなつまらないイレーヌ」と署名すると、ウジェーヌは、お前はつまらない小さなイレーヌではない、私の大きなイレーヌだ、と返している。ウジェーヌは1910年2月、闘病生活の末に82歳で亡くなった。\n\n組合学校を終えたイレーヌは、大学入学資格試験の2年前になって、セヴィーニ学院に入学した。この学校を選んだのは母マリーの意向で、講義が少なく自由が多いことと、近代的な教育がなされていたことが選んだ理由になっている。学校では数学と物理で特に優れた成績を収めていたため、同級生に対して授業することが許されていた。\n\n1910年から1911年にかけて、マリーはフランス科学アカデミーの会員選挙にあたって、反対派から中傷記事を書かれるなどの被害を受けた。さらに1911年、マリーとポール・ランジュバンとの男女関係が取りざたされ、週刊誌などでマリーを非難する記事が次々に書かれた。こうした報道は、マリーはもとより、イレーヌの心をも苦しめた。一方、同じ1911年にマリーは2度目のノーベル賞を受賞した。スウェーデンで開かれた受賞講演にはイレーヌも同行した。ここでイレーヌは、他の科学者から敬意と称賛を受けるマリーの姿を見て、母の権威や知名度、科学の価値を知った。", "qas": [ { "question": "イレーヌの祖父は何歳のとき死亡したか。", "id": "tr-039-04-000", "answers": [ { "text": "82歳", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1911年、マリーが受賞したノーベル賞は彼女の何度目のノーベル賞でしたか。", "id": "tr-039-04-001", "answers": [ { "text": "2度目", "answer_start": 666, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イレーヌは組合学校を終えた後、どの学校に入学したか。", "id": "tr-039-04-002", "answers": [ { "text": "セヴィーニ学院", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1914年夏、ヨーロッパの情勢が悪化してくると、マリーはイレーヌとエーヴをブルターニュ北部のラルクウェストへと送った。その後まもなく第一次世界大戦が開戦した。イレーヌはパリに残った母親と手紙でやり取りしていたが、数週間後、パリへの侵攻がなさそうだいうことが分かると、マリーは娘たちにパリに戻る許可を与えた。\n\n大戦中、マリーは負傷者を治療するため、放射線治療車を用意して各地を回っていた。イレーヌもパリに戻ると放射線治療の方法を学び、1914年11月からマリーの助手として治療にあたった。このとき、イレーヌは17歳だった。人材不足だったこともあって、イレーヌはやがて1人でX線検査の仕事を任されるようになった。また、イレーヌはマリーとともに、X線撮影技師を養成するための任務にもついた。さらにこれらの仕事の合間をぬって、学士号取得の準備をした。", "qas": [ { "question": "1914年11月、イレーヌは何歳でしたか。", "id": "tr-039-05-000", "answers": [ { "text": "17歳", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1918年、第一次大戦が終わると、イレーヌはマリーの研究所に、マリーの助手として入った。イレーヌはそこではじめに、鉱物中の塩素の原子量を求める実験に取り組んだ。イレーヌは研究所の中でも数学や物理の知識については目立ったものがあり、その落ち着き払った性格や、つねに所長であるマリーのそばにいて優遇されていたこともあって、同僚からは王女と呼ばれたりもした。\n\n当時、研究所には放射性物質であるラジウムが1グラムしかなく、マリーはその不足に頭を抱えていた。しかしアメリカの人々による募金によって、ラジウムが無償提供されることになり、1921年、マリーはイレーヌとエーヴを連れて渡米した。そしてアメリカでマリーは大歓迎を受けたが、連日の歓迎行事にマリーは疲れ、体調が悪化してしまった。そのためイレーヌやエーヴがたびたび代理で出席してあいさつなどをした。イレーヌはこのアメリカ旅行で、ニューヨークの光景やグランド・キャニオンなどを見て感銘を受けた。\n\n帰国後、イレーヌはマリーとともに研究を続けながら学位取得のための準備をして、1925年3月に試験を受けて学位を得た。このとき発表した内容はポロニウムのアルファ線についての研究で、会場となったソルボンヌ大学の講堂には1,000人もの聴衆が訪れた。有名なマリー・キュリーの娘であるイレーヌの学位取得は大きな話題となり、フランスのメディアのほか、アメリカのニューヨーク・タイムズなどでも報じられた。このとき、科学の道を進むことは女性にとって負担にならないかと記者に問われ、それに対して、自分は科学への適性について男女に差は無いと思っている、と答えている。取材が相次いだため、マリーはイレーヌを連れて一時アルジェリアへと旅行に出かけた。", "qas": [ { "question": "イレーヌはマリーの研究所の同僚から何と呼ばれたりしましたか。", "id": "tr-039-06-000", "answers": [ { "text": "王女", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1925年、マリーの研究所に助手としてフレデリック・ジョリオが雇われた。これはポール・ランジュバンの推薦によるもので、当時フレデリックは25歳だった。イレーヌとフレデリックはやがて親密になり、1926年10月に結婚した。結婚の儀式はせず、2人とそれぞれの家族は証人と一緒に昼食を食べ、午後からは通常通り仕事に戻った。\n\nイレーヌはやがて妊娠したため、診察を受けに行くと、医者から肺結核の症状が出ていると告げられた。これは母マリーがイレーヌを産むときに診断されたのと同じ病気だった。\n\nイレーヌは1927年9月17日、長女のエレーヌを産んだ。イレーヌは後にこの出来事について、「わたしにもこんな素晴らしい体験ができるのに、もしこの世に子供を送り出していなかったとしたら、こういう体験をしなかったことを一生悔やむでしょうね」と述べている。医者はイレーヌに、肺の状態が悪いので、静養して、もう子供は産まないように、と告げたが、イレーヌは育児のかたわら仕事にも復帰し、1932年には長男のピエールを産んだ。", "qas": [ { "question": "マリーの研究所に助手としてフレデリック・ジョリオが雇われたのはいつなの?", "id": "tr-039-07-000", "answers": [ { "text": "1925年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フレデリック・ジョリオがマリーの研究所の助手として雇われたとき、彼は何歳でしたか。", "id": "tr-039-07-001", "answers": [ { "text": "25歳", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イレーヌとフレデリックはいつ結婚したの?", "id": "tr-039-07-002", "answers": [ { "text": "1926年10月", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イレーヌの息子の名前は何?", "id": "tr-039-07-003", "answers": [ { "text": "ピエール", "answer_start": 440, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "結婚後、イレーヌとフレデリックはジョリオ=キュリーという姓を用い、共同で研究成果を発表していった。2人の研究はフランス国内外から注目されるようになり、1933年にはソルベー会議に出席して発表した。\n\n1934年1月、2人はアルミニウムの薄片にアルファ粒子を衝突させる実験において、アルファ粒子の発生源を取り去った後でも、引き続きガイガーカウンターが反応することを発見した。すなわち2人は初めて人工的に放射能を作りだしたことになる。2人は早速マリーに電話した。数時間後、マリーは証人役のランジュバンと共に実験室にやってきてこの現象を観察し、大いに喜んだ。\n\n翌1935年、この研究によってイレーヌはフレデリックと共にノーベル化学賞を受賞した。しかしマリーはこの受賞を見ることなく、前年の7月に亡くなっていた。また、イレーヌ自身も1934年から、肺結核の治療のため、毎年一定期間は山で静養することを強いられるようになった。", "qas": [ { "question": "結婚後、イレーヌの姓は何になりましたか。", "id": "tr-039-08-000", "answers": [ { "text": "ジョリオ=キュリー", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イレーヌとフレデリックはいつ、アルファ粒子の発生源を取り去った後でも、引き続きガイガーカウンターが反応することを発見したの?", "id": "tr-039-08-001", "answers": [ { "text": "1934年1月", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イレーヌとフレデリックがノーベル化学賞を受賞したのはいつなの?", "id": "tr-039-08-002", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 279, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリーは何年に死亡しましたか。", "id": "tr-039-08-003", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マリーは生前、自分用とジョリオ=キュリー家用の2軒の家を建てる目的で、アントニーに土地を取得していた。イレーヌとフレデリックはノーベル賞受賞後、その土地に家を建て、マリーが住むつもりだった土地はテニスコートとして使った。\n\n1934年ごろ、イレーヌはフレデリックと同じく、反ファシズムのデモに参加した。マリーの死後は、さらに政治活動に積極的になり、1936年にレオン・ブルム内閣が誕生すると、ブルムからの依頼により、科学担当国務次官に就任した。フランスにおいては初めての女性閣僚だった。ただしイレーヌは、この地位に就くことで研究に割く時間がほとんど無くなってしまうことを危惧して、当初から期間限定という条件でこの職を引き受けており、実際、就任から数か月後に辞任した。\n\n研究面においては、ノーベル賞受賞後にフレデリックとの共同研究は終了し、1936年、母の後任としてパリ大学ソルボンヌ校教授に就任した。イレーヌはそこで講義をするかたわら、引き続きラジウム研究所でも研究を続け、核分裂に関わる研究に取り組んだ。一方でフレデリックはコレージュ・ド・フランスの教授になった。", "qas": [ { "question": "イレーヌが反ファシズムのデモに参加したのはいつごろなの?", "id": "tr-039-09-000", "answers": [ { "text": "1934年ごろ", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランスにおいては初めての女性閣僚は誰でしたか。", "id": "tr-039-09-001", "answers": [ { "text": "マリー", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イレーヌが母の後任としてパリ大学ソルボンヌ校教授に就任したのはいつですか。", "id": "tr-039-09-002", "answers": [ { "text": "1936年", "answer_start": 370, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1939年、第二次世界大戦が開戦し、1940年、パリはドイツ軍に占領された。イレーヌはフレデリックと共にフランスに留まり、レジスタンス運動に参加した。フレデリックはさらにフランス共産党にも入り、一度は逮捕された。戦争中は食糧不足などが響いてイレーヌの結核は悪化していった。そのため、毎年のサナトリウムでの生活も次第に長引くようになってきた。政治状態が安定しない中で夫や子供と離れることになるサナトリウム生活はイレーヌを不安にさせた。\n\n1944年、フレデリックはレジスタンスグループである大学人国民戦線の責任者になった。このことによって身の危険が大きくなったフレデリックは、イレーヌと子供2人をスイスに逃亡させることにした。イレーヌは、長女エレーヌのバカロレア二次試験があることを理由に反対した。そのため、イレーヌと子供2人はいったんモンベリアルまで行き、そこからエレーヌが国境近くの村まで行って試験を受け、その後国境を越えてスイスに入った。国境を越えた日はちょうどノルマンディー上陸作戦が決行された6月6日であった。スイスでは、事前にフレデリックの協力によって逃亡していたポール・ランジュバンと再会した。", "qas": [ { "question": "第二次世界大戦中、パリがドイツ軍に占領されたのはいつですか。", "id": "tr-039-10-000", "answers": [ { "text": "1940年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フレデリックは何年に大学人国民戦線の責任者になったか。", "id": "tr-039-10-001", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノルマンディー上陸作戦は何月何日に決行されましたか。", "id": "tr-039-10-002", "answers": [ { "text": "6月6日", "answer_start": 450, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "戦後、イレーヌは子供たちとフランスに戻り、アントニーの家で再びフレデリックと暮らすようになった。\n\nイレーヌは研究を続け、宇宙から降り注ぐ高エネルギー粒子の問題に特に深い関心を示した。また、1946年にはアンドレ・ドゥビエルヌの後を継いで、ラジウム研究所の所長になった。一方で女性の権利拡大についても活動し、雑誌にコメントを寄せたり、集会で発表したりした。さらに、1945年12月にはフランス原子力委員会の化学部門の責任者となった。委員会では、委員長となったフレデリックと共に、核の平和利用を説き、フランス初の原子炉となるZOEの開発にも携わった。結核については、ストレプトマイシンの効果により改善し、健康状態は以前と比べると良くなった。\n\n1948年、イレーヌはニューヨークに出かけた際、入国管理局に止められ、エリス島の拘留所に一晩拘留された。夫のフレデリックが共産党員だからという理由である。有名人であるイレーヌの拘留はフランス国内で大きな話題となり、フランス当局は拘留に対して異議を申し立てた。翌日解放されたイレーヌは、ユーモアを交えながら報道陣の質問に答え、自分は共産党員ではないと主張し、さらに、「ここでは共産党よりまだナチスやファシストの方がましだと思うらしいですからね」と言った。\n\n一方、共産党員であるフレデリックの立場は、フランス国内でも悪くなっていった。フレデリックは1950年、フランス原子力委員会の委員長を解任された。イレーヌもその2か月後、契約が更改されず、委員から外された。\n\n1950年、ソ連はフレデリックに対して、第1回国際平和賞を与えた。そのためイレーヌはフレデリックと共にソ連へ行き、クレムリンでの式に出席した。そしてこの旅行が原因で、イレーヌは数か月後にイギリスに行こうとしたときに、ビザを拒否された。", "qas": [ { "question": "アンドレ・ドゥビエルヌの後を継いで、ラジウム研究所の所長になった人は誰か。", "id": "tr-039-11-000", "answers": [ { "text": "イレーヌ", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イレーヌがフランス原子力委員会の化学部門の責任者になったのはいつですか。", "id": "tr-039-11-001", "answers": [ { "text": "1945年12月", "answer_start": 182, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フレデリックがフランス原子力委員会の委員長を解任されたのはいつなの?", "id": "tr-039-11-002", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 594, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ソ連がフレデリックに第1回国際平和賞を与えたのはいつですか。", "id": "tr-039-11-003", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 653, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イレーヌは1950年代、数度にわたり科学アカデミーの委員に立候補した。これは、かつて母のマリーが立候補し、そして落選した地位であった。イレーヌはあいさつ回りなどもしたが、結果的に落選し、委員になることはできなかった。さらに、アメリカ化学学会にも入会を申し込んだが拒否された。\n\nイレーヌはオルセーに新しい研究所を造ることに決めた。さらに、ソルボンヌとラジウム研究所での講義も続けた。体調は、肺結核こそ改善したものの、長年の放射能研究により、つねに疲労を感じ、見た目にも顔色の悪さが現れてきた。\n\n1955年、イレーヌはフレデリックとの共同論文を書いた後、年末にクールシュヴェルへ出かけた。クールシュヴェルでは娘のエレーヌとその夫、息子のピエールらと過ごしたが、やがて体調が悪くなり、自宅のあるアントニーに戻り、そのままラジウム研究所近くのキュリー病院に入院した。イレーヌは急性白血病と診断された。\n\n入院後、イレーヌは徐々に衰弱していった。また夫のフレデリックもこのとき体調が悪化しており、病院に見舞いに来ても、長い時間とどまることはできなかった。\n\nイレーヌは病院で古くからの友人に、「死ぬことは怖くないわ。こんなに夢中で送った人生だもの!」と言った。そして1956年3月17日、白血病により58歳の生涯を終えた。イレーヌは国葬により葬られた。また、イレーヌの死の2年後には、フレデリックも肝臓病により死亡した。", "qas": [ { "question": "イレーヌが生涯を終えたとき、彼女は何歳でしたか。", "id": "tr-039-12-000", "answers": [ { "text": "58歳", "answer_start": 547, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イレーヌの死亡から何年経って、フレデリックも死亡しましたか。", "id": "tr-039-12-001", "answers": [ { "text": "2年", "answer_start": 583, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イレーヌの死亡原因は何でしたか。", "id": "tr-039-12-002", "answers": [ { "text": "白血病", "answer_start": 541, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イレーヌは子供のころから社交的ではなく、その点においては妹のエーヴと対照的であった。服装や化粧に気を使わず、ノーベル賞の式典でも、周りの女性が着飾っている中で、宝石や装飾品を一切つけずに参加した。また、他人には笑顔を見せず、ぶっきらぼうな態度や言葉づかいで、人と話をしているときにスカートの中からハンカチを取り出して鼻をかむ、などといった行動は、研究所を訪れた人たちを驚かせた。ただし家族や親しい友人のいるときにはくつろいだ表情をみせた。リーゼ・マイトナーは、「イレーヌは、一見したところ無愛想といってもいいくらいだったので、気持ちの暖かさを理解できた人はごくわずかでした」と語っている。ラジウム研究所の研究員は、イレーヌに話があるときは、面会の約束をしなくても、いつでもどんなときでも会ってくれたと証言している。妹のエーヴも、姉は「落ち着いて、いつも機嫌が良い人でした」と述べている。", "qas": [ { "question": "イレーヌとエーヴと、より社交的な性格だったのは誰なの?", "id": "tr-039-13-000", "answers": [ { "text": "エーヴ", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イレーヌのことを、一見したところ無愛想といってもいいくらいだったので、気持ちの暖かさを理解できた人はごくわずかだったと評価した人は誰ですか。", "id": "tr-039-13-001", "answers": [ { "text": "リーゼ・マイトナー", "answer_start": 219, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イレーヌのことを「落ち着いて、いつも機嫌が良い人でした」と述べた人は誰なの?", "id": "tr-039-13-002", "answers": [ { "text": "エーヴ", "answer_start": 359, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エーヴの姉は誰ですか。", "id": "tr-039-13-003", "answers": [ { "text": "イレーヌ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "またイレーヌは、自分は母マリーよりも父ピエールに似ていて、だからこそ母と良い関係でいられたのだと述べている。フレデリックは、ピエールについての話を人から聞いたり文章で読んだりした上で、イレーヌは純粋さ、良識、落ち着きなどの点で、「父親の生き写しである」と判断している。\n\n母マリーの教育方針もあって、幼いころからスポーツとは身近だったが、その中でもハイキングや水泳を好み、近所の子供たちに泳ぎ方を教えることもあった。\n\nフレデリックのもとで研究していた物理学者の湯浅年子は、イレーヌについて、「感情を外にあらわすことを極端にきらわれ、一見冷たいように見えるが、うちには大変繊細で豊かな感情をもっておられる」と述べている。", "qas": [ { "question": "イレーヌ自身の判断によりますと、彼女は母に似ていましたか、父に似ていましたか。", "id": "tr-039-14-000", "answers": [ { "text": "父", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イレーヌについて、「感情を外にあらわすことを極端にきらわれ、一見冷たいように見えるが、うちには大変繊細で豊かな感情をもっておられる」と言ったのは誰でしたか。", "id": "tr-039-14-001", "answers": [ { "text": "湯浅年子", "answer_start": 231, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1930年代後半、科学者の間では中性子を使って新たな元素を作り出す研究が始まっていた。きっかけとなったのはイタリアのエンリコ・フェルミによる実験であり、その後、ドイツのリーゼ・マイトナーも、同僚のオットー・ハーン、フリッツ・シュトラスマンと共同でこの研究を始めた。イレーヌもこの研究に取り組み、1937年、ウランから半減期3.5時間の新たな放射性物質を発見した。イレーヌと、共同研究者であるパヴェル・サヴィッチは、この物質はトリウムの同位体であると発表した。\n\nマイトナーはこの結果に疑問を抱き、追試して、この放射性物質は存在しないことを確かめた。マイトナーはこのことを手紙に記し、イレーヌに送った。またハーンもイレーヌの実験を評価せず、学会でフレデリックに会ったとき、君の妻を批判することは許されないのだが、しかし間違っている、彼女にそう言ってくれ、と伝えた。\n\nイレーヌはいったんこの説を取り下げたが、1938年、この物質はランタンに近い性質をもつとあらためて発表した。このとき、マイトナーはナチスから逃れるために亡命していた。ドイツに残っていたハーンは、イレーヌの論文に興味を示さなかった。しかしシュトラスマンは論文を読み、イレーヌが新しい発見をしたことに気付いた。こうしてマイトナー、ハーン、シュトラスマンの3人はこの件に関して研究することにして、その結果、ウランの核分裂についての理論を打ち立てることになる。またもあと一歩のところで栄誉を逃したイレーヌは、ハーンとシュトラスマンの論文を読んで、「私たちはなんて馬鹿だったの!」と言い、フレデリックと共同研究しなかったことを悔やんだという。", "qas": [ { "question": "イレーヌは何年にウランから半減期3.5時間の新たな放射性物質を発見したの?", "id": "tr-039-15-000", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イレーヌと夫フレデリックは、マリー・キュリーが発見した元素であるポロニウムを抽出し、この試料を使って様々な実験に取り組んだ。\n\n1930年、ヴァルター・ボーテとヘルベルト・ベッカーは、ポロニウムから放出されるアルファ粒子がベリリウムと衝突すると、ベリリウムは非常に貫通度の高い放射線を出すと発表した。この論文を読んだイレーヌとフレデリックは、さっそくこの事実を実験により確かめ、そして、この放射線は水素を含む物体から陽子を追い出すと発表した。\n\nしかしジェームズ・チャドウィックは2人の発表に疑問を抱き、追試して、追い出されるのは陽子ではなく中性子であると主張した。このチャドウィックの主張は他の物理学者によって確かめられ、チャドウィックは後に中性子の発見によってノーベル物理学賞を受賞した。結果としてイレーヌとフレデリックはあと一歩のところで、大きな業績を逃すことになった。", "qas": [ { "question": "チャドウィックは何を発見してノーベル物理学賞を受賞したの?", "id": "tr-039-16-000", "answers": [ { "text": "中性子", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1930年、ヴァルター・ボーテとヘルベルト・ベッカーは、何から放出されるアルファ粒子がベリリウムと衝突すると、ベリリウムは非常に貫通度の高い放射線を出すと発表したか。", "id": "tr-039-16-001", "answers": [ { "text": "ポロニウム", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1930年、ポロニウムから放出されるアルファ粒子がベリリウムと衝突すると、ベリリウムは非常に貫通度の高い放射線を出すと発表したのはヴァルター・ボーテとまた誰ですか。", "id": "tr-039-16-002", "answers": [ { "text": "ヘルベルト・ベッカー", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "飛鳥寺", "paragraphs": [ { "context": "飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。\n現在は安居院という。\n蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。\n本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。\n山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。\n現在の宗派は真言宗豊山派。\n新西国三十三箇所第9番札所。", "qas": [ { "question": "飛鳥寺の現在の名前は何ですか?", "id": "tr-040-00-000", "answers": [ { "text": "安居院", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飛鳥寺にある有名は仏像の通称は何?", "id": "tr-040-00-001", "answers": [ { "text": "「飛鳥大仏」", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飛鳥寺の創立者は誰?", "id": "tr-040-00-002", "answers": [ { "text": "蘇我馬子", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新西国三十三箇所第9番札所となっているお寺は何ですか?", "id": "tr-040-00-003", "answers": [ { "text": "飛鳥寺", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "飛鳥寺には複数の呼称がある。\n法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。\n一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)である。\n『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。\n古代の寺院には「飛鳥寺」「山田寺」「岡寺」「橘寺」のような和風の寺号と、「法興寺」「浄土寺」「龍蓋寺」のような漢風寺号(法号)とがあるが、福山敏男は、法号の使用は天武天皇8年(679年)の「諸寺の名を定む」の命以降であるとしている。\n「法興」とは「仏法興隆」の意であり、隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連も指摘されている。\nまた『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に引用される「露盤銘」には「建通寺」と記されているが、これは後世の偽法号とする説もある。\n本項では馬子が建立した寺院と、その法灯を継いで飛鳥に現存する寺院「安居院」とを含め「飛鳥寺」と呼称する。\nなお、国の史跡の指定名称は「飛鳥寺跡」である。", "qas": [ { "question": "「法興」の意味は何?", "id": "tr-040-01-000", "answers": [ { "text": "「仏法興隆」", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "飛鳥寺が国の史跡に指定された時の名称は何?", "id": "tr-040-01-001", "answers": [ { "text": "「飛鳥寺跡」", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "飛鳥寺(法興寺)は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。\n発願から創建に至る経緯は『日本書紀』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(醍醐寺本『諸寺縁起集』所収、以下『元興寺縁起』という)、ならびに同縁起に引用されている「露盤銘」と「丈六光銘」に記載がある。\n福山敏男は、『元興寺縁起』の本文には潤色があり史料価値が劣るとする一方で、「露盤銘」は縁起本文よりも古い史料であり信頼が置けるとしている。", "qas": [ { "question": "飛鳥寺は誰の氏寺でしたか?", "id": "tr-040-02-000", "answers": [ { "text": "蘇我氏", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本で最初に創建された仏教寺院とは何?", "id": "tr-040-02-001", "answers": [ { "text": "飛鳥寺", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものである。\n馬子は排仏派の物部守屋と対立していた。\n馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。\n岸俊男によると、古代の「飛鳥」の地とは、飛鳥川の右岸(東岸)の、現在の飛鳥寺境内を中心とする狭い区域を指していた。", "qas": [ { "question": "飛鳥寺建立を発願した人は誰?", "id": "tr-040-03-000", "answers": [ { "text": "蘇我馬子", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "馬子が対立していた人物とは?", "id": "tr-040-03-001", "answers": [ { "text": "物部守屋", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は「丁未年」(587年)とし、発願の年自体は『書紀』と同じながら内容の異なる記載がある。\n『元興寺縁起』によると丁未年、三尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)は百済に渡航して受戒せんと欲していたが、「百済の客」が言うには、この国(当時の日本)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。\nそこで用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。\n当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。", "qas": [ { "question": "発願の年は西暦で何年との記載がありますか?", "id": "tr-040-04-000", "answers": [ { "text": "587年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "用明天皇が寺を建てるべき土地を検討させた人物は推古天皇と誰だった?", "id": "tr-040-04-001", "answers": [ { "text": "聖徳太子", "answer_start": 217, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『書紀』によれば翌崇峻天皇元年(588年)、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された。\nこのうち、鑢盤博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人とみられる。\n同じ崇峻天皇元年、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこのおやこのは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。\n『書紀』の崇峻天皇3年(590年)10月条には「山に入りて(法興)寺の材を取る」とあり、同5年(592年)10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。\nこの「起つ」の語義については、かつては「(金堂と回廊が)完成した」の意に解釈されていたが、後述のような発掘調査や研究の進展に伴い、「起つ」は起工の意で、この年に整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったと解釈されている。", "qas": [ { "question": "百済から日本へ派遣された技術者の中で、最も人数が多かったものは何だった?", "id": "tr-040-05-000", "answers": [ { "text": "瓦博士", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "百済から日本へ派遣された技術者の中で、2番目に人数が多かったものは何だった?", "id": "tr-040-05-001", "answers": [ { "text": "寺工", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "法興寺の造営地には元々誰の邸宅があったの?", "id": "tr-040-05-002", "answers": [ { "text": "飛鳥衣縫造祖樹葉", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。\n『書紀』は続けて、馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。\n『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあたる。\nしかし、後述のように、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立が発願されたのはそれから9年後の推古天皇13年(605年)、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったということになる。\nこの点については研究者によってさまざまな解釈がある。\n毛利久は、現存の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、推古天皇4年に渡来系の工人によって造立されたもので、推古天皇13年から造られ始めたのは東金堂と中金堂の本尊であったとする、二期造営説を唱えた。\nこれとは別に、久野健、松木裕美らが唱えた本尊交代説もある。\nすなわち、蘇我馬子が所持していた弥勒石像が当初の中金堂本尊であったが、後に鞍作止利作の釈迦三尊像が本尊になったとする。\nこの弥勒石像は敏達天皇13年(584年)鹿深臣(かふかのおみ)が百済から将来し、馬子が「宅の東の仏殿」に安置礼拝していたものである。\n久野説では、飛鳥寺中金堂跡に現存する本尊台座が石造であり、この台座が創建時から動いていないことから、その上に安置されていた仏像も石造であったと推定する。\nこれに対し、町田甲一、大橋一章らは一期造営説を取り、中金堂本尊は交代していないとの立場を取る。\nこの説では、推古天皇4年の「法興寺を造り竟りぬ」は、『書紀』編者が塔の完成を寺全体の完成と誤認したものとみなし、寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔がまず完成し、他の堂宇は長い年月をかけて徐々に完成したとみる。\n今日では、この説が有力となっている。", "qas": [ { "question": "善徳の父親は誰?", "id": "tr-040-06-000", "answers": [ { "text": "馬子", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "二期造営説を唱えた人は誰?", "id": "tr-040-06-001", "answers": [ { "text": "毛利久", "answer_start": 287, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "久野健と松木裕美が唱えた説とは何?", "id": "tr-040-06-002", "answers": [ { "text": "本尊交代説", "answer_start": 400, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『書紀』によれば、推古天皇13年(605年)、天皇は皇太子(聖徳太子)、大臣(馬子)、諸王、諸臣に詔して、銅(あかがね)と繡(ぬいもの)の「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、鞍作鳥(止利)を造仏工とした。\nそして、これを聞いた高麗国の大興王から黄金三百両が貢上されたという。\n『書紀』によれば、銅と繡の「丈六仏像」は翌推古天皇14年(606年)完成。\n丈六銅像を元興寺金堂に安置しようとしたところ、像高が金堂の戸よりも高くて入らないので、戸を壊そうと相談していたところ、鞍作鳥の工夫によって、戸を壊さずに安置することができたという挿話が記述されている。\n一方、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(推古天皇13年、605年)に銅と繡の釈迦像と挟侍を「敬造」したとあり、造像開始の年は一致しているが、挟侍(脇侍)の存在を明記していること、大興王からの黄金が三百二十両であることなど、細部には相違がある。\n「丈六光銘」によれば、戊辰年(608年)に隋の使者裴世清らが来日して黄金を奉り、「明年」の己巳年(609年)に仏像を造り終えたという。\nつまり、『書紀』と「丈六光銘」とでは、銅造の本尊(飛鳥大仏)の完成年次について3年の差がある。\n福山敏男は、仏像の完成年は裴世清らの来日の「明年」であるところ、『書紀』の編者が発願の「明年」と誤認したため、このような違いが生じたものと考証した。\n当時の技術水準で、丈六の銅仏が1年足らずで完成するとは考えにくい点などから、福山の言うように、本尊(飛鳥大仏)の完成は609年とするのが通説となっている。", "qas": [ { "question": "『書紀』では「丈六仏像」の完成は西暦何年となっていますか?", "id": "tr-040-07-000", "answers": [ { "text": "606年", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛鳥大仏の完成は一般的に何年とされていますか?", "id": "tr-040-07-001", "answers": [ { "text": "609年", "answer_start": 670, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "貞観4年(862年)の太政官符で「聖教最初之地也」と評されるように、飛鳥寺は蘇我氏の氏寺に留まらず仏教隆昌の中心地になっていった。\n推古天皇17年(609年)には漂流した百済僧道欣ら11人が、同33年には高句麗僧の慧灌が、ついで呉人の僧福亮、智蔵が相次いで入寺している。\n飛鳥白鳳期にあっては彼ら渡来僧が学問仏教の先駆をなし、特に恵慈、慧灌、福亮、智蔵は三論宗を学んだとされ、飛鳥寺はその教学の中心にあったといえる。\n一方で法相宗の祖といわれる道昭も飛鳥寺で得度したのち唐に渡り玄奘に師事。\nその後、帰国した道昭は飛鳥寺に禅院を建て、唐から持ち帰った経典の数々や弟子の学僧と共に居住した。\n以上のように同寺は当時の日本における仏教教学の研究機関としての機能を有した唯一の寺院であり、やがて朝廷からの庇護を受けるようになったと考えられる。", "qas": [ { "question": "先に入寺したのは慧灌と道欣のどちらですか?", "id": "tr-040-08-000", "answers": [ { "text": "道欣", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "飛鳥白鳳期の飛鳥寺での中心的教えとは何でしたか?", "id": "tr-040-08-001", "answers": [ { "text": "三論宗", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "皇極天皇4年(645年)に乙巳の変で蘇我本家が滅亡するが、飛鳥寺は中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場や蘇我氏討伐の本陣になるなど、朝廷との強い関係性がうかがえる。\n飛鳥寺はこの頃までには蘇我氏の氏寺の域を超えて国家の寺としての実力を備えていたと考えられる。\n天武天皇の時代には官が作った寺院(官寺)と同等に扱うようにとする勅が出され、文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。\nこれに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池工房遺跡からは大量の富本銭が発見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われている。", "qas": [ { "question": "蘇我本家が滅亡した政変を何といいますか?", "id": "tr-040-09-000", "answers": [ { "text": "乙巳の変", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛鳥寺が官寺並みに朝廷の保護を受けるようになったのはどの天皇の時代だったか?", "id": "tr-040-09-001", "answers": [ { "text": "文武天皇", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となった。\n『続日本紀』には霊亀2年(716年)に元興寺を左京六条四坊に移すとあり、養老2年(718年)条にも法興寺を新京へ移すとあって記述が重複している。\nこのうち前者の「左京六条四坊」は大安寺の場所にあたることから、霊亀2年の記事は大安寺(大官大寺)の移転のことが誤記されたもので、飛鳥寺(元興寺)の移転は養老2年のことと考えられている。", "qas": [ { "question": "飛鳥寺は奈良市に移転後、何という名前になりましたか?", "id": "tr-040-10-000", "answers": [ { "text": "元興寺", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "霊亀2年の元興寺を左京六条四坊に移したという記事は、実際は何の寺と間違えて表記されたの?", "id": "tr-040-10-001", "answers": [ { "text": "大安寺", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "馬子が飛鳥に建てた元の寺も本元興寺と称して存続し、平安時代にいたっても朝廷から南都七大寺に次ぐ扱いを受けていたことが記録に残る。\n江戸時代著された『本元興寺縁起』に、仁和3年(887年)に焼失したとあるが、他の記録には残っていない。", "qas": [ { "question": "『本元興寺縁起』はいつの時代に書かれた書物なの?", "id": "tr-040-11-000", "answers": [ { "text": "江戸時代", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "11世紀ごろになると衰運に見舞われる。\n『上宮太子拾遺記』には保元3年(1158年)の記として飢饉に窮して百済伝来の弥勒菩薩石像を多武峰山妙楽寺(現在の談山神社)に売り払ったと記録されている。\nまた、建久7年(1196年)には雷火で塔と金堂を焼失した。\n以後寺勢は衰えて室町時代以降は廃寺同然となってしまった。\n法隆寺僧・訓海の『太子伝玉林抄』によれば、文安4年(1447年)の時点で飛鳥寺の本尊は露坐であったことが分かっている。", "qas": [ { "question": "1196年に塔と金堂が焼失された原因は何でしたか?", "id": "tr-040-12-000", "answers": [ { "text": "雷火", "answer_start": 113, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『太子伝玉林抄』を書いた人は誰?", "id": "tr-040-12-001", "answers": [ { "text": "訓海", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1447年時の飛鳥寺の本尊は何だったの?", "id": "tr-040-12-002", "answers": [ { "text": "露坐", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "以降200年あまりの歴史は定かではない。\n『元興寺安居院縁起』(1699年)には、江戸時代の寛永9年(1632年)に今井の篤志家によって仮堂が建てられ、ついで天和元年(1681年)に僧・秀意が草庵をつくり安居院と号し、傷んだ釈迦如来像を補修したとある。\n江戸時代中期の学者・本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772年)に飛鳥を訪ねた時の様子が書かれているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったという。\nしかし、近世中頃から名所記や地誌に名が挙げられ、延享2年(1745年)には梵鐘を鋳造(昭和に軍に供出され現存せず)、寛政4年(1792年)に参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑、文政9年(1826年)に大坂の篤志家の援助で現本堂の再建など法灯を守る努力が重ねられてきた。", "qas": [ { "question": "先に建てられたのは草庵と仮堂のどちらですか?", "id": "tr-040-13-000", "answers": [ { "text": "仮堂", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『菅笠日記』を書いた人は誰ですか?", "id": "tr-040-13-001", "answers": [ { "text": "本居宣長", "answer_start": 137, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本居宣長は西暦何年に飛鳥を訪問したの?", "id": "tr-040-13-002", "answers": [ { "text": "1772年", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また昭和31年(1956年)からの発掘調査によって、創建当初の伽藍が明らかになった。\n現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく馬子の建てた飛鳥寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は補修が甚だしいとはいえ飛鳥時代と同じ場所に安置されていることが分かり、昭和41年(1966年)には飛鳥寺跡として特別史跡に指定された。\nなお、当寺の西には蘇我入鹿の首塚がある。", "qas": [ { "question": "飛鳥寺が特別史跡に指定されたのは西暦何年?", "id": "tr-040-14-000", "answers": [ { "text": "1966年", "answer_start": 136, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛鳥寺の西にあるのは誰の首塚?", "id": "tr-040-14-001", "answers": [ { "text": "蘇我入鹿", "answer_start": 172, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "飛鳥寺の伽藍は、往時は塔(五重塔)を中心とし、その北に中金堂、塔の東西に東金堂・西金堂が建つ、一塔三金堂式伽藍配置という方式の伽藍の配置がされていた。\nこれらの1塔、3金堂を回廊が囲み、回廊の南正面に中門があった。\n講堂は回廊外の北側にあった。\n四天王寺式伽藍配置では講堂の左右に回廊が取り付くのに対し、飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物を明確に区切っていたことが窺われる。\n以上を囲むように築地塀が回り、中門のすぐ南には南門、西側には西門があったことも発掘調査で判明している。", "qas": [ { "question": "中金堂はどの方角に建っているの?", "id": "tr-040-15-000", "answers": [ { "text": "北", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛鳥寺の伽藍は何という配置方式を採用していたの?", "id": "tr-040-15-001", "answers": [ { "text": "一塔三金堂式伽藍配置", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛鳥寺の伽藍の中心にあるものは何?", "id": "tr-040-15-002", "answers": [ { "text": "塔", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "塔跡は、壇上積基壇(切石を組み立てた、格の高い基壇)、階段、周囲の石敷、地下式の心礎などが残っていたが、心礎以外の礎石は残っていなかった。\n心礎は地下2.7メートルに据えられ、中央の四角い孔の東壁に舎利納入孔が設けられていた。\n舎利容器は建久7年(1196年)の火災後に取り出されて再埋納されており、当初の舎利容器は残っていないが、発掘調査時に玉類、金環、金銀延板、挂甲、刀子などが出土した。\n出土品からは、この寺が古墳時代と飛鳥時代の境界に位置することが窺える。\n心礎の加工跡より、心柱は一辺が約1.5mの角柱であったと考えられる。", "qas": [ { "question": "塔の心柱は一辺がどれくらいの長さの角柱だったの?", "id": "tr-040-16-000", "answers": [ { "text": "約1.5m", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中金堂跡は、壇上積基壇跡が残るが、基壇上の礎石は残っていなかった。\n『護国寺本諸寺縁起集』によれば、中金堂は「三間四面二階在裳階」の建物で、身舎(内陣)の柱間が正面3間、側面2間、その周囲に庇(外陣)が廻り(建物の外側から見ると正面5間、側面4間)、重層の建物であったとみられる。\n裳階(もこし、本来の屋根の下に設けた屋根)は当初からあったものかどうか不明である。\n東西金堂跡の基壇は下成(かせい)基壇上に玉石を並べた上成(じょうせい)基壇を築いた二重基壇で、塔・中金堂の壇上積基壇よりは格の下がるものである。\n二重基壇のうち上成基壇の礎石は失われ、下成基壇には小礎石が並んでいた。\nこの小礎石がどのように用いられたかは不明であるが、深い軒の出を支えるための小柱が並んでいたものと推定される。\n『七大寺巡礼私記』には東金堂には百済伝来の弥勒菩薩石造、西金堂には金銅像とともに作られた繡仏を祀っていたと記されている。", "qas": [ { "question": "東金堂に祀られていたものは何だったの?", "id": "tr-040-17-000", "answers": [ { "text": "弥勒菩薩石造", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中門は礎石の残りがよく、正面3間、奥行3間で、法隆寺中門のような重層の門であったと推定される。\n奥行が深い(3間)のが上代寺院の中門の特色である。\n南門も礎石の残りがよく、正面3間、奥行2間で、切妻造の八脚門であったと推定される。\n1977年(昭和52年)の調査で、寺域北限の掘立柱塀と石組の溝が検出された。\n1982年(昭和57年)の調査では、寺域北側を区切る塀が南方に折れ曲がる地点、すなわち、寺域の北東隅が確認された。\nこの結果、飛鳥寺の寺域は従来推定されていたより広く、南北が324メートルに達することが分かった。\n東西の幅については、寺域北端の塀の長さは約210メートルであるが、この塀の東端は南方へ直角に折れるのではなく、南東方向へ鈍角に折れており、寺域は南側がやや広い台形状になっている。\n主要伽藍はこの寺地の中央ではなく南東寄りに建てられており、寺域の東部と北部にはさまざまな附属建物が存在したと推定される。\n寺の西側には槻の木の広場に関係すると思われる石敷遺構が見つかり、これに面する西門は南門よりも規模が大きいことも分かった。\nまた、寺内の東に飛鳥池工房遺跡が発見された。", "qas": [ { "question": "寺域の南北の距離はどれくらいありますか?", "id": "tr-040-18-000", "answers": [ { "text": "324メートル", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『書紀』によれば推古天皇元年(593年)、飛鳥寺の塔心礎(塔の心柱の礎石)に仏舎利が埋納された。\n後世の仏塔では地表に心礎を据えるが、飛鳥寺の塔心礎は地下式で、大きさは東西2.6メートル、南北2.4メートルを計る。\n飛鳥寺の塔は建久7年(1196年)に落雷で焼失した。\n翌建久8年(1197年)に東大寺の僧・弁暁が記した『本元興寺塔下堀出御舎利縁起』によれば、弁暁は焼失した飛鳥寺の塔の心礎から仏舎利と荘厳具を取り出し、再び埋納したという。\nこれらの埋納物は、1957年(昭和32年)の発掘調査で心礎周辺から出土した。\n出土品には、挂甲(上古のよろいの一種)、馬鈴、刀子、玉類など、古墳の副葬品に共通するものが多い一方で、金銀の延板など奈良時代の寺院の鎮壇具に共通するものも含まれており、古墳時代と飛鳥時代の両方の特色をもっている。\nこれら出土品は日本最古の仏塔の心礎に埋納された遺物として貴重なものである。\nなお、心礎の2メートルほど上方で出土した金銅製(銅に金メッキ)の舎利容器と、これを入れていたヒノキ材製の外箱は鎌倉時代の再埋納時に新たに作られたものであり、創建当初の舎利埋納状況は明らかではない。", "qas": [ { "question": "飛鳥寺の塔心礎の大きさが長いのは東西と南北のどちらですか?", "id": "tr-040-19-000", "answers": [ { "text": "東西", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『本元興寺塔下堀出御舎利縁起』を書いた人は誰?", "id": "tr-040-19-001", "answers": [ { "text": "弁暁", "answer_start": 154, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "弁暁が埋納した物は何年の発掘で出土したの?", "id": "tr-040-19-002", "answers": [ { "text": "1957年", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "なお、塔跡出土品の再整理の際、従来材質不明とされていたものの中に真珠の小玉14点が含まれていることが奈良文化財研究所の調査で判明し、同研究所の2017年版紀要で調査結果が公表された。\nこれらの小玉は直径1.5から2ミリメートルの微細なものであるが、穿孔されている。\n蛍光X線分析で主成分がカルシウムであると判明したこと、電子顕微鏡による観察で層状の構造が確認できたことから、これらの小玉は真珠であると判断された。", "qas": [ { "question": "小玉の主成分は何でしたか?", "id": "tr-040-20-000", "answers": [ { "text": "カルシウム", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『日本書紀』や『元興寺資材帳』からは、崇峻天皇元年(588年)、百済から四種の技術分野の八名の技術者が渡来したことが知られる。\n彼らが渡来してから建築用材調達が行われる同三年(591年)までに造営技術者や工人の養育養成が行われ、造瓦分野においては須恵器の青海波紋作りに用いる当て道具の使用痕跡が認められることから、須恵器作りの工人が動員されていると考えられている。", "qas": [ { "question": "588年に百済から渡来した技術者は何名でしたか?", "id": "tr-040-21-000", "answers": [ { "text": "八名", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "これらの瓦博士、またはその指導を受けた工人の製作したものと思われる7世紀前半期の瓦が飛鳥寺の寺域から出土しているが、これらは瓦当(軒丸瓦の先端の円形部分)の素弁蓮華文の文様から2系統に分類され、それぞれ「花組」「星組」と通称されている。\nこのうち「花組」は各弁の先端部分に小さな切り込みを入れて立体感を出している。\n一方、「星組」は各弁の先端部分に1個の珠点を表す。\n「花組」と「星組」の瓦は瓦当裏面の仕上げや、瓦当と丸瓦の接合方法にも差がみられる。\n「星組」が玉縁式(有段式)の丸瓦を用い、瓦当裏面は「なで調整」を行うのに対し、「花組」は丸瓦に行基瓦(無段式)を用い、瓦当裏面の仕上げにあまり意を用いていない。\n以上のことは、飛鳥寺創建期の瓦を製作した工人集団には2つの系統があったことを意味している。", "qas": [ { "question": "有段式の丸瓦を用いたのは何組?", "id": "tr-040-22-000", "answers": [ { "text": "「花組」", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "無段式の行基瓦を用いたのは何組?", "id": "tr-040-22-001", "answers": [ { "text": "「星組」", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "火消", "paragraphs": [ { "context": "消防組織としての火消は、江戸においては江戸幕府により、頻発する火事に対応する防火・消火制度として定められた。武士によって組織された武家火消と、町人によって組織された町火消に大別される。武家火消は幕府直轄で旗本が担当した定火消と、大名に課役として命じられた大名火消に分けて制度化されたため、合わせて3系統の消防組織が存在していた。\n\n江戸時代初期には火消の制度が定められておらず、度重なる大火を契機にまず武家火消が制度化され、発達していった。江戸時代中期に入ると、享保の改革によって町火消が制度化される。そののち、江戸時代後期から幕末にかけては、町火消が武家火消に代わって江戸の消防活動の中核を担うようになっていった。江戸以外の大都市や各藩の城下町などでも、それぞれ火消の制度が定められていた。これらの消防組織は、明治維新後に廃止・改編されるが、その系譜は現代の消防署・消防団へと繋がっている。", "qas": [ { "question": "火消は武家火消とまた何に大別されましたか。", "id": "tr-041-00-000", "answers": [ { "text": "町火消", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "定火消は武家火消に属しますか、町火消に属しますか。", "id": "tr-041-00-001", "answers": [ { "text": "武家火消", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "町人により組織された火消としては、享保7年(1722年)に成立した橋火消もあげられる。これは橋台で商売をしていた髪結床に、橋梁の消防を命じたものである。橋の付近に多く設けられていた髪結床の店は、粗末なものが多く火事の際に飛び火の危険があるため、撤去するか地代を徴収して橋の防火費用に充てることが検討されていた。これに対し髪結床の職人たちは、自身で火消道具を揃え橋の防火を担当したいと申し出る。町奉行大岡忠相はこの申し出を認め、髪結床による橋火消が成立した。また、近くに橋のない山の手の髪結床は、火事が起きたら南北の町奉行所に駆けつけることが命じられた。\n\n享保20年(1735年)、橋の防火担当は町火消へと変わり、火事の場合髪結床の職人はすべて町奉行所に駆けつけることとなった。のちに天保13年(1842年)、天保の改革により髪結床組合が解散すると、町奉行所への駆けつけは名主たちに命じられている。", "qas": [ { "question": "橋火消が成立されたのはいつですか。", "id": "tr-041-01-000", "answers": [ { "text": "享保7年(1722年)", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明暦3年(1657年)正月、本郷から発生した火事は、江戸の歴史上最悪の被害となった。明暦の大火と呼ばれるこの火事のため、江戸城天守閣は焼失し、江戸市中で約68000人ともされる犠牲者を出した。\n\n明暦の大火により、従来の方法では大火に対処できないことが明らかになったため、以後の江戸幕府は消防制度の確立に力を注いだ。江戸市中の再建では、大名屋敷・旗本屋敷や寺社の一部を郊外に移転させ、延焼を防ぐための火除地を確保した。また、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築を奨励し、火事に強い町づくりを目指した。そして、新たな消防組織である方角火消・定火消を編成している。", "qas": [ { "question": "明暦の大火が起こったのはいつですか。", "id": "tr-041-02-000", "answers": [ { "text": "明暦3年(1657年)正月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "明暦3年(1657年)正月、本郷から発生した火事による犠牲者は約何人ですか。", "id": "tr-041-02-001", "answers": [ { "text": "約68000人", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ネリー・ブライ", "paragraphs": [ { "context": "ネリー・ブライは、アメリカ合衆国のジャーナリスト。本名エリザベス・ジェーン・コクランだ。\n\n最初期の調査ジャーナリストであり、暴露報道の開拓者としてニューヨーク・ワールド紙などで記事を執筆した。1889年から1890年にかけて、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をモデルとして実際にリポーターを世界一周させるという企画のリポーターを担当した。", "qas": [ { "question": "ネリー・ブライの本名は何?", "id": "tr-042-00-000", "answers": [ { "text": "エリザベス・ジェーン・コクラン", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『八十日間世界一周』は誰が書いた?", "id": "tr-042-00-001", "answers": [ { "text": "ジュール・ヴェルヌ", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ネリー・ブライはペンシルベニア州コクランズ・ミルズで、1864年5月5日にエリザベス・ジェーン・コクランとして生まれた。父は、地名の由来ともなっているマイケル・コクランだ。製粉所の経営者で、後には郡の陪席判事となった。母のメアリー・ジェーン・コクランは、マイケルにとって2人目の妻である。2人の間には5人の子が生まれた。ネリー・ブライは長女で、上に2人の兄がいた。ブライは、母親が好んで桃色の服を着せていたことから、近所では「ピンク(Pink)」の愛称で呼ばれるようになった。", "qas": [ { "question": "ネリー・ブライはどこで生まれたか。", "id": "tr-042-01-000", "answers": [ { "text": "ペンシルベニア州コクランズ・ミルズ", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ネリー・ブライはいつ生まれたか。", "id": "tr-042-01-001", "answers": [ { "text": "1864年5月5日", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ネリー・ブライの父は誰?", "id": "tr-042-01-002", "answers": [ { "text": "マイケル・コクラン", "answer_start": 75, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ネリー・ブライの母は誰?", "id": "tr-042-01-003", "answers": [ { "text": "メアリー・ジェーン・コクラン", "answer_start": 111, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ネリー・ブライの一家は父親が成した財産によって裕福に暮らしていた。しかし、ブライが6歳の時、父マイケルが病死したことにより生活は一変した。急な死であったため遺言は無く、当時の慣習に基づいた財産分与の結果、母メアリーには家具と馬と馬車、そして週16ドル程の手当が残された。一家はそれまで住んでいた大邸宅から、2階建て5部屋の家に引っ越した。幼少期のブライは、近所の小学校に通っていた。並外れた秀才というわけではなかったが、本を読むこと、物語を書くことは好きだったという。1873年1月、マイケルの死からおよそ2年半後に、メアリーは再婚した。しかし、この再婚相手は大酒飲みなうえに家庭内暴力をふるうような人物であったため、メアリーは離婚訴訟を提起した。このときは、当時14歳だったブライも、母の証人となり法廷で暴力について証言した。そして1879年6月に離婚は認められた。", "qas": [ { "question": "ネリー・ブライの父は彼女が何歳の時亡くなりましたか。", "id": "tr-042-02-000", "answers": [ { "text": "6歳", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ネリー・ブライの父が亡くなって、母メアリーには週いくらの手当が残されたか。", "id": "tr-042-02-001", "answers": [ { "text": "週16ドル", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ネリー・ブライの母はいつ再婚したか。", "id": "tr-042-02-002", "answers": [ { "text": "1873年1月", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "母の離婚のため、証人として法廷で暴力について証言したブライは、当時何歳でしたか。", "id": "tr-042-02-003", "answers": [ { "text": "14歳", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブライはこれまでの経験から、女性が経済的に自立することの重要性を感じた。そして母親の離婚の翌年、15歳のブライは教師を目指すべく、全寮制の師範学校に入学した。さらにこの頃から、自分の名前に発音しないeをつけ、Cochraneと綴るようになった。離婚した継父との歴史を忘れて再出発する意味がこめられていると推定される。ブライの学費は、父マイケルの遺産を管理していた後見人によって捻出されていた。しかし、最初の学年の1学期が終わるころ、ブライは退学した。退学の理由について、ブライ自身は後年、心臓病のためだと説明している。しかし、この理由については疑いがもたれており、実際は資金不足のためではないかと推測されている。\n\n1880年、一家はピッツバーグへと移り住んだ。工業都市であった当時のピッツバーグで、ブライは様々な仕事で家計を助けた。仕事の内容としては、厨房の手伝いや、子守、家政婦、家庭教師などであったと推測されている。", "qas": [ { "question": "ブライは何歳いのとき教師を目指すようになったの?", "id": "tr-042-03-000", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブライは後年、何のために師範大学を退学したと述べましたか。", "id": "tr-042-03-001", "answers": [ { "text": "心臓病", "answer_start": 244, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1880年、ブライはどこへ引っ越したか。", "id": "tr-042-03-002", "answers": [ { "text": "ピッツバーグ", "answer_start": 317, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1880年のピッツバーグはどんな都市だった?", "id": "tr-042-03-003", "answers": [ { "text": "工業都市", "answer_start": 331, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブライが暮らしていたころのピッツバーグは新聞産業も盛んで、複数の日刊紙が発行されていた。そのうちの1紙であるピッツバーグ・ディスパッチ紙には、エラスムス・ウィルソンによって書かれた社説に相当するコラム「静かに観察(QuietObservation)」が掲載されていた。1885年1月の同コラムでは、一部の女性の間で職業に就く動きがあることは嘆かわしい、これによって女性が家庭から離れることは女性の使命を忘れさせて社会組織を破壊することだ、女性の本分は家庭である、と書かれていた。ディスパッチ紙の読者であったブライはこの記事を読んで、記者は何も分かっていないと思った。そこで編集長あてに反論の手紙を書いて投函した。手紙では、女性も男性と同じだけの知性も能力もあること、アメリカでは市民の持つ才能を求めていること、女性もこの世界において進出し正しい地位を獲得すべきであることを主張した。差出人の名前は「LonelyOrphanGirl(内気な孤児の少女)」とした。", "qas": [ { "question": "「一部の女性の間で職業に就く動きがあることは嘆かわしい、これによって女性が家庭から離れることは女性の使命を忘れさせて社会組織を破壊することだ」という内容などのコラムに書かれていたものですか。", "id": "tr-042-04-000", "answers": [ { "text": "「静かに観察(QuietObservation)」", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「LonelyOrphanGirl(内気な孤児の少女)」って誰なの?", "id": "tr-042-04-001", "answers": [ { "text": "ブライ", "answer_start": 253, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブライの手紙は、編集長であるジョージ・マドゥンの目に留まった。投稿の質は高く、手紙を読んだマドゥンは、この差出人はディスパッチ紙に新機軸をもたらしうる存在であると感じた。そこで同紙に、名前と連絡先を教えてほしいと伝える記事を掲載した。ブライはこれを読んで会社を訪れ、マドゥンと対面した。マドゥンはブライに、離婚についての記事を書くよう依頼し、ブライはそれに応じた。そして書かれた記事の内容はマドゥンを感心させた。マドゥンはこの記事を新聞に掲載するとともに、ブライを正社員として採用することにした。ブライは当時職を探しており、その依頼を引き受けることとなった。給料は週に5ドルだった。さらに、記事を掲載するにあたって、マドゥンは「ネリー・ブライ」というペンネームを与えた。当時、女性記者は本名で記事を書くことははしたないという風潮があったため、ペンネームをつけることが一般的であったためである。ペンネームの由来はスティーブン・フォスターのヒット曲中のタイトル・キャラクター、ネリー・ブライ(NellyBly)である。ただし、ネリーの綴りは曲(Nelly)とペンネーム(Nellie)で異なっている。", "qas": [ { "question": "ブライの手紙を気に入っていた人は誰?", "id": "tr-042-05-000", "answers": [ { "text": "ジョージ・マドゥン", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ネリー・ブライ」というペンネームは誰の曲から由来したの?", "id": "tr-042-05-001", "answers": [ { "text": "スティーブン・フォスター", "answer_start": 405, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "正社員になったブライは週にいくらを給料としてもらいましたか。", "id": "tr-042-05-002", "answers": [ { "text": "5ドル", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ネリー・ブライ」というペンネームは誰がつけたの?", "id": "tr-042-05-003", "answers": [ { "text": "マドゥン", "answer_start": 308, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ブライは同紙でいくつかの調査記事を執筆した。主に、工場で働く人々を主題とした。ブライが取材した工場では、劣悪な環境の中で女工たちが立ったまま、手に傷を負いながら、長時間働いていた。ブライは従業員に話を聞き、時には実際に作業も体験した。さらにブライは、工場で働く子供の住む貧民街も訪れ、家族が狭い一部屋で暖もなく暮らしている様子や、子供が学校にも行けずに10歳ぐらいで工場に駆り出される状況を確認した。\n\nこうしたブライの体験に基づいて書かれた一連の記事は反響を呼んだ。社会改革運動の指導者、女性参政権論者、組合指導者、教育者、牧師からは励ましの言葉を受けた。しかし、工場主、地主、実業家からは批判された。実業家たちは、以後こうした記事を掲載したら広告を取りやめると編集長のマドゥンに告げ、マドゥンはこの意見に従うことになった。\n\nこれ以後ブライの担当は変わり、1886年1月からは、演劇や音楽会、オペラ、美術展などの記事を書くようになった。これらの記事も質は水準以上で、読者に好評だった。給料も週15ドルに上がった。しかし、このような記事を書き続けることはブライにとって退屈だった。数か月後、ブライはメキシコへの半年間の取材旅行に出かけることにした。マドゥンは治安を理由に反対したが、それを押し切り、メキシコへと出発した。この旅行には母も同行した。", "qas": [ { "question": "ブライはいつから演劇や音楽会、オペラ、美術展などの記事を書くようになった?", "id": "tr-042-06-000", "answers": [ { "text": "1886年1月", "answer_start": 380, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブライは半年間のメキシコへの取材旅行を誰と同行したか。", "id": "tr-042-06-001", "answers": [ { "text": "母", "answer_start": 567, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "演劇や音楽会、オペラの記事が好評をもらってから、ブライの給料は週いくらに上がったか。", "id": "tr-042-06-002", "answers": [ { "text": "15ドル", "answer_start": 448, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "メキシコでは、ブライは主にメキシコ人の日常生活についての記事を執筆した。そして、アメリカ人が思っているようなステレオタイプなメキシコ像を改めようと、日々取材に赴いた。治安については、「女性は――こんなふうに書くのは残念ですが――アメリカよりこちらにいるほうが安全です」と書いている。\n\nしかしある日ブライは、メキシコ政府によって逮捕される危険性があると警告を受けた。きっかけは1886年3月22日にブライが書いた記事で、そこではメキシコ政府を批判したことによって逮捕された記者を取材した内容が書かれていた。当時のメキシコ憲法33条では、外国人がメキシコの政治に言及することを禁止していたのである。そのためブライは予定を早めて帰国した。帰国後ブライはメキシコの政治的腐敗について批判した。\n\n帰国したブライは、再び劇場や芸術関連の記事を担当した。しかし、このような仕事に嫌気がさし、1887年の春、ニューヨークへ行くとの書き置きを残し、ディスパッチ社に出社しなくなった。", "qas": [ { "question": "ブライは女性への治安に対して、アメリカとメキシコとどっちの方が安全であると書きましたか。", "id": "tr-042-07-000", "answers": [ { "text": "メキシコ", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブライがメキシコ政府によって逮捕される危険性があると警告を受けたのはいつ書いた記事のせいでしたか。", "id": "tr-042-07-001", "answers": [ { "text": "1886年3月22日", "answer_start": 188, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブライはいつからディスパッチ社に出社しなくなった?", "id": "tr-042-07-002", "answers": [ { "text": "1887年の春", "answer_start": 390, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時、外国人がメキシコの政治に言及することを禁止していたのはメキシコ憲法何条によるのでしたか。", "id": "tr-042-07-003", "answers": [ { "text": "33条", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "当時のニューヨークでは、タイムズ、トリビューン、サン、ワールド、テレグラムの5大新聞社があった。ニューヨークに着いたブライは、ピッツバーグ時代に得たつてを頼りに各社を回ったが、相手にされなかった。その間はフリーランスの記者としてディスパッチ紙にニューヨークの記事を書いて食いつないでいたが、貯金は減る一方だった。ブライは一計を案じ、ディスパッチ紙のニューヨーク特派員を名乗って、新聞社での女性の活用法について各紙の編集長やデスクに話を聞くことにした。しかし、取材に応じた会社からの返答はいずれも、「女性は役に立たない」というものであった。さらに、全財産の入った財布をすられてしまった。\n\nブライは最終手段として、ワールド紙の本社に乗り込み、自分を採用するよう直談判することにした。特ダネがあるなどと言って編集局長ジョン・コクリルとの面談を半ば強引に取り付けたブライは、コクリルに会うと、自分の実績や、今後書きたい記事を説明した。今後書きたい記事としては、欧州からアメリカに向かう船の三等船室に乗船して乗客である移民の実態を探る案、精神病棟に病人を装って潜入し病棟の様子を記事にする案などを出した。\n\nブライに興味を持ったコクリルは、ブライにとりあえず25ドルを渡したうえで帰し、社長であるジョーゼフ・ピューリツァーと協議した。ピューリツァーは、乗船による移民取材は不採用としたが、精神病棟の案は採用し、ブライの取材を認めた。", "qas": [ { "question": "当時、ニューヨークの5大新聞社には、タイムズ、トリビューン、サン、ワールド、そして何がありましたか。", "id": "tr-042-08-000", "answers": [ { "text": "テレグラム", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時のワールド紙の社長は誰だった?", "id": "tr-042-08-001", "answers": [ { "text": "ジョーゼフ・ピューリツァー", "answer_start": 544, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ピューリツァーが精神病院の取材を認めた背景には、ブライがワールド社を訪れる少し前に、ワールド社あてに病院職員からの内部告発の手紙が届いていたことがある。ブラックウェル島にあるこの病院では、患者への虐待が相次いでいるとの内容であった。病院については各紙ですでに記事にもなっていたが、病院の内部に入ることはできず、医師や看護師も話を拒んでいたため、実態については不透明だった。\n\nブライは会社の指示で、患者を装って病院に潜入することとなった。指示を受けたブライは「できます」と答えたが、潜入後に救出される確かな見込みはなく、不安を感じた。\n\n「ネリー・ブラウン」という偽名を使い、キューバ人を装ったブライは、まずマンハッタンの女子臨時宿泊所を訪れた。ここは、身寄りのない女性が数日間宿泊できる場所である。当時は貧困と疲労によって精神を病むキューバからの女性移民がおり、その結果、キューバの女性は精神を病みやすいという噂が流れていた。", "qas": [ { "question": "ブライが潜入することになった精神病院はどの島に位置していたか。", "id": "tr-042-09-000", "answers": [ { "text": "ブラックウェル島", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブライは精神病院に潜入するため、どんな名前を使いましたか。", "id": "tr-042-09-001", "answers": [ { "text": "「ネリー・ブラウン」", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブライは宿泊所の休憩室で誰とも話さずに虚空を見つめ、そうかと思うと奇声を発し、ここにいる人間はみんな頭がおかしいといったようなことを叫んだ。この様子を見た他の寄宿者はブライを恐れて宿泊所を出ようとしたため、管理人は警察に対応をゆだねた。ブライはトランクがないなどと言って退去を拒んだが、警察に連れて行かれ、裁判所で精神鑑定を受けた。この場で精神異常を装ったブライは医師による診断を勝ち得て、ブラックウェル島に送られた。\n\n精神病院での生活は、朝は全員で散歩、その後は部屋で一日中座った状態で過ごさせ、他の人と話したり姿勢を変えたりすることは許されなかった。食事は満足に与えられず、看護師による患者への折檻が絶えなかった。週に一度水風呂に入り、そこでは頭から冷水をバケツでかけられた。\n\nブライはここでは病人を装わず、自分は健常だと主張したが、認めてもらえなかった。院内での生活を経験し、さらに他の患者から、患者に対する暴力行為の話を聞いたブライは、ここで生活すると精神を病むことになると感じた。入院10日後、ワールド社の弁護士による交渉の結果、ブライは病院から出ることができた。", "qas": [ { "question": "精神病院では、朝、全員で何をしましたか。", "id": "tr-042-10-000", "answers": [ { "text": "散歩", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブライは精神病院に入ってから何日後、病院から出られましたか。", "id": "tr-042-10-001", "answers": [ { "text": "10日後", "answer_start": 449, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "病院を出たブライは、病院の内実を記した連載記事を書き、それは退院からおよそ1週間後の10月9日からワールド紙に大々的に掲載された。ブライの暴露記事は全米に広がり、話題を呼んだ。この記事は後に『精神病院での10日間』という本にまとめられた。\n\nブライの記事を受け、ニューヨークの地区検察局は大陪審を招集した。ブライも証言台に立ち、ブラックウェル島への視察にも同行した。精神病院はブライがいた時とは様変わりしており、住環境はきれいになり、食事も改善していた。ワールド紙は10月28日、「ネリー・ブライの記事市営精神病院を救う」と題した記事を掲載した。市はブラックウェル島の予算を増額し、他市の市営精神病院も追加予算を計上した。\n\n秘密を調査し暴露するという手法は彼女のトレードマークとなった。病院や工場に潜入したり、公園で女性が連れ去られる事件では自らが実験台となった。政治家の収賄を暴いたこともあった。\n\n一方でブライはバレエを習い舞台にも出演し、その様子を体験記として記事にしたりもした。ブライは有名人となり、新聞には「ネリー・ブライ空を飛ぶ」「ネリー・ブライ催眠術師になる」「ネリー・ブライ囚人になる」といった見出しが躍るようになった。ブライあての手紙も多く届けられた。内容はプロポーズ、脅迫のほか、「私たちのことを新聞に書いてください」と助けを求めるものもあった。", "qas": [ { "question": "『精神病院での10日間』は誰が書いた記事をまとめた本なの?", "id": "tr-042-11-000", "answers": [ { "text": "ブライ", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ネリー・ブライの記事市営精神病院を救う」という記事はどの新聞に掲載されたか。", "id": "tr-042-11-001", "answers": [ { "text": "ワールド紙", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1888年に、ブライはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をモデルとして実際にリポーターを世界一周させるという企画を提案した。しかしこのときワールド紙は、女性の一人旅は危険だとしてブライの提案を認めず、代わりに男性記者を世界一周させる案を進めようとした。これに対してブライは、「男性を出発させたら、私は他の新聞社と契約して同じ日に出発し、その男を負かす」と言った。この時は結局企画自体が流れたが、それから約1年後の1889年、ブライの企画が採用され、ブライがそのリポーターに決定した。ワールド紙が企画を採用した背景には、当時部数が減少傾向にあり、注目されるイベントを起こす必要があったことが挙げられる。\n\nブライが企画の採用を告げられたのは1889年11月11日の午後で、出発は11月14日であった。3日間でブライは旅行用の服を用意し、支度を調えた。また、ブライはパスポートを持っていなかったため、ワールド社の社員が国務長官ジェームズ・G・ブレインに直接依頼し、出発までに仮パスポートを入手した。", "qas": [ { "question": "1888年に、ブライはジュール・ヴェルヌのどの本をモデルとして実際にリポーターを世界一周させるという企画を提案したか。", "id": "tr-042-12-000", "answers": [ { "text": "『八十日間世界一周』", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『八十日間世界一周』の著者は誰?", "id": "tr-042-12-001", "answers": [ { "text": "ジュール・ヴェルヌ", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブライが1888年に提案した企画は、何年に採用されたか。", "id": "tr-042-12-002", "answers": [ { "text": "1889年", "answer_start": 209, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブライはパスポートを持っていなかったため、ワールド社の社員は誰に依頼をしましたか。", "id": "tr-042-12-003", "answers": [ { "text": "国務長官ジェームズ・G・ブレイン", "answer_start": 410, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1889年11月14日に、当時25歳のブライはニューヨークを出発し、24,899マイルの旅に出た。まずはフェリーでニュージャージー州ホーボーケンへと向かい、ホーボーケンでイギリス行きのアウグスタ・ヴィクトリア号に乗った。母を含め15人ほどの見送りの中、船は9時40分に出発した。\n\nこの世界一周企画は出発した14日のワールド紙1面で大々的に報告された。同記事では、工程を記した地図とともに、ブライは史上最速となる75日で地球を一周すると書かれていた。この記事を読んだ雑誌コスモポリタンの編集者は刺激を受け、やはり女性記者のエリザベス・ビスランドをブライと同日に世界一周旅行に派遣した。こうしてブライとビスランドは競争する立場となったが、ブライ自身はこのことについて旅の間もしばらくは知らされなかった。", "qas": [ { "question": "1889年11月14日に、ブライは何歳でしたか。", "id": "tr-042-13-000", "answers": [ { "text": "25歳", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブライと同じ日に世界一周旅行に派遣された女性記者は誰?", "id": "tr-042-13-001", "answers": [ { "text": "エリザベス・ビスランド", "answer_start": 261, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エリザベス・ビスランドは何月何日に世界一周旅行に派遣されたか。", "id": "tr-042-13-002", "answers": [ { "text": "11月14日", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブライは11月22日にイギリスのサウサンプトンに着いた。ここでブライは、ジュール・ヴェルヌ夫妻から、自宅への招待の手紙が来ていることを知り、予定を変更して会いに行くことにした。ブライは大急ぎでロンドンに行き、アメリカ公使館の二等書記官の自宅で正式なパスポートを発行してもらい、用事を済ませるとすぐにサウサンプトンに戻って、ヴェルヌ夫妻の住むフランスのアミアンへと向かった。そして22日の夜にヴェルヌ夫妻と対面した。ブライとヴェルヌはフランス、アメリカのこと、ヴェルヌの著書のこと、今回の旅行のことなどについて話し、ブライはヴェルヌの書斎を見せてもらった。ヴェルヌと会ったことはフランスをはじめとして世界中で話題となり、この旅行に一層の注目を集めることになった。\n\nヴェルヌと別れたブライは、カレーからインド郵便列車でイタリアのブリンディジに行き、11月25日にアウグスタ・ヴィクトリア号でスエズ運河を越え、セイロン島のコロンボに着いた。船の中では知り合いが増え、求婚されたりもした。一方、本国のアメリカでは12月1日からワールド紙でネリー・ブライ・レースが始まった。これは、ブライがニューヨークに着く日を秒単位で当てる企画で、新聞の日曜版についているクーポンに記入することで参加できる。1人何回でも応募できて、一等はファーストクラスでのヨーロッパ周遊旅行だった。この企画は応募が殺到し、ワールド紙の部数は前の週と比べて30万部増加した。", "qas": [ { "question": "ブライは11月22日、イギリスのどこに着いた?", "id": "tr-042-14-000", "answers": [ { "text": "サウサンプトン", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジュール・ヴェルヌ夫妻はどの国に住んでる?", "id": "tr-042-14-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 170, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ネリー・ブライ・レースでいっとうした人は何をもらえた?", "id": "tr-042-14-002", "answers": [ { "text": "ヨーロッパ周遊旅行", "answer_start": 568, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ネリー・ブライ・レースのおかげで、ワールド紙の部数は前の週と比べて何部増加したか。", "id": "tr-042-14-003", "answers": [ { "text": "30万部", "answer_start": 609, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブライはコロンボでカレーや人力車を初めて体験し、好感を持った。コロンボでは2日間過ごす予定だったが、次に乗る舟の出発が遅れたため、5日間滞在することとなった。当初の予定よりも遅れることになったブライは、目標である75日以内での世界一周が果たせなくなるのではと不安になり、苛立ちを見せるようになった。\n\n12月13日、ブライはオリエンタル号に乗ってセイロン島を離れ、17日にシンガポールに着いた。シンガポールでは町に出かけて葬式を見物し、帰りに1匹のマカクザルを購入した。これは、この旅における数少ない大きな買い物で、後にマスコミではブライの旅のシンボルの1つとして扱われるようになった。\n\n12月23日、オリエンタル号は香港に着いた。航海は順調で、コロンボでの遅れを取り戻していた。この場所でブライは、もう1人の女性(エリザベス・ビスランド)も世界一周に挑戦していることを初めて聞かされ、しかも、ビスランドはすでにここを出発しておりブライは負けることになるだろうと告げられた。香港では船の都合で5日間滞在し、その間に広州へと出かけたり、ヴィクトリア・ピークに登ったりした。そののちに日本に5日間滞在し、横浜、東京、鎌倉などを観光した。日本の印象はすこぶるよかったようで、帰国後に出版した旅行記の中で、日本のことを「愛と美と詩と清潔の国(thelandoflove-beauty-poetry-cleanliness)」と評し、見聞きしたことや人々にいかに魅了されたかを綴っている。\n\n日本滞在後は、横浜から出発する蒸気船オセアニック号に乗りサンフランシスコを目指した。航海中は暴風雨に見舞われた。船上では、嵐の原因はブライの持ち込んだサルではないかという説が出たが、航海士の協力もあってサルは手放さずに済んだ。", "qas": [ { "question": "ブライがシンガポールで購入した動物は何でしたか。", "id": "tr-042-15-000", "answers": [ { "text": "マカクザル", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブライは何に乗って香港に行った?", "id": "tr-042-15-001", "answers": [ { "text": "オリエンタル号", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブライは日本のことを何と評価したか。", "id": "tr-042-15-002", "answers": [ { "text": "「愛と美と詩と清潔の国(thelandoflove-beauty-poetry-cleanliness)」", "answer_start": 556, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブライはサンフランシスコに行く時、何に乗ったの?", "id": "tr-042-15-003", "answers": [ { "text": "蒸気船オセアニック号", "answer_start": 657, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "オオカミの再導入", "paragraphs": [ { "context": "オオカミの再導入(オオカミのさいどうにゅう)とは、オオカミが絶滅した地域に、人為的にオオカミの群れを再び作り上げることである。\nオオカミにとって適した自然環境が広い範囲で残っており、同時に獲物となる生物が十分にいる地域である場合に限って検討される。\n以下、この記事中では単に「再導入」と表記する。", "qas": [ { "question": "オオカミが絶滅した地域に、人為的にオオカミの群れを再び作り上げることを何と言いますか?", "id": "tr-043-00-000", "answers": [ { "text": "オオカミの再導入", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オオカミの再導入では、オオカミの何を再び作り上げることが目標となっていますか?", "id": "tr-043-00-001", "answers": [ { "text": "群れ", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アメリカ合衆国のロッキー山脈の北部に位置するイエローストーン国立公園(ワイオミング州)とアイダホ州では、約30年間の計画の見直しと関係者の話し合いを行った後、オオカミの再導入を行い、オオカミの群れを回復することに成功した。\nアメリカ合衆国の別の2-3の地域やヨーロッパの国々でも、再導入は検討され続けている。\n過去の例でも現在検討中のものでも、対象地域の人々は、家畜の敵である肉食動物(捕食者)の再導入に、反対することが多い。\nしかしながら、欧米では、オオカミや他の捕食者への見方は、過去のものから変わってきている。\nつまり、捕食者が生態系に存在することで環境が維持されることに対して、理解を示すようになってきている。\n再導入を成功させた2つの地域では、この理解の広がったことが、再導入を開始するために最も重要であった。\nアリゾナ州とニューメキシコ州でも、北部とは別の亜種・メキシコオオカミの再導入が1998年から始まっている。\n日本においても再導入を提唱する人々がいる。\n生息域の確保の問題、人間と接触する可能性などが指摘されており、2017年時点では多数意見ではない。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国でオオカミの再導入が成功した州はアイダホ州と何州ですか?", "id": "tr-043-01-000", "answers": [ { "text": "ワイオミング州", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワイオミング州とアイダホ州で行われたオオカミの再導入に当たって、計画された年数はどれくらいでしたか?", "id": "tr-043-01-001", "answers": [ { "text": "約30年間", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アリゾナ州で再導入されているオオカミの種類は何ですか?", "id": "tr-043-01-002", "answers": [ { "text": "メキシコオオカミ", "answer_start": 387, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニューメキシコ州では何年からオオカミの再導入がスタートしましたか?", "id": "tr-043-01-003", "answers": [ { "text": "1998年から", "answer_start": 400, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イエローストーン国立公園とアイダホ州で再導入が開始されたのは1995年である。\nイエローストーン国立公園で野生のオオカミが殺された最後の公式記録は1926年であった。\nその後、オオカミの獲物となっていたワピチ(アメリカアカシカCervuscanadensis)や他の動物が増加し、その結果、植生に被害が出た。\nオオカミが果たしていた捕食者としての役割の一部はコヨーテが果たすことになったが、成獣のワピチはコヨーテの捕食対象にはならない。", "qas": [ { "question": "イエローストーン国立公園で再導入がスタートしたのはいつですか?", "id": "tr-043-02-000", "answers": [ { "text": "1995年", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イエローストーン国立公園で野生のオオカミが最後に殺されたのは何年?", "id": "tr-043-02-001", "answers": [ { "text": "1926年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オオカミ不在のエローストーン国立公園で、増加した動物とは何?", "id": "tr-043-02-002", "answers": [ { "text": "ワピチ", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オオカミの代わりに捕食者としての役割を担った動物とは?", "id": "tr-043-02-003", "answers": [ { "text": "コヨーテ", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "またオオカミと並びイエローストーンの生態系の頂点を成していたハイイログマは雑食性であり、ワピチを捕食する割合は低く、いずれもワピチの増加を制御できなかった。\nさらには、コヨーテの個体数が増加したことによって、コヨーテより小さな動物、特にアカギツネが減少してしまった。\n1978年に生物学者ジョン・ウィーバーはイエローストーンのオオカミは絶滅したと結論した。\n地元牧場主たちと環境保護団体は、再導入について何年も討論を続けてきた。\n生物学者によって再導入のアイデアが議会に最初に提出されたのは1966年である。\nそれらの生物学者は、イエローストーンのワピチが危機的状況まで増加していると心配していた。\nしかしながら、牧場主たちは、家畜が襲われることの問題をオオカミを疫病に喩えて、再導入に強く反対した。", "qas": [ { "question": "イエローストーンの生態系のトップを成していた動物は何ですか?", "id": "tr-043-03-000", "answers": [ { "text": "ハイイログマ", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コヨーテが増加した反面、減少した動物は何ですか?", "id": "tr-043-03-001", "answers": [ { "text": "アカギツネ", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョン・ウィーバーがイエローストーンのオオカミは絶滅したと結論付けたのは何年でしたか?", "id": "tr-043-03-002", "answers": [ { "text": "1978年", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "はじめてオオカミ再導入の案が議会に提出されたのはいつですか?", "id": "tr-043-03-003", "answers": [ { "text": "1966年", "answer_start": 245, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "合衆国政府は、妥協案の作成・条件整備・実行について責任を負い、妥協点を探し出すのに約20年間をかけて努力を続けた。\n1974年にオオカミ回復チームが任命され、1982年には意見を集めるために最初の公式の回復計画(RecoveryPlan)を公表した。\nオオカミ再導入に対する一般的な不安があったため、州政府および地方政府の判断を加えやすくするように、魚類野生生物局は計画を変更した。\nそのようにして、意見を集めるための2番目の回復計画が1985年に公表された。\n同じ年に行われたイエローストーン国立公園の訪問者へのアンケートでは、74%の人がオオカミが公園の改善に必要かもしれないと回答し、60%の人が再導入に賛成した。\n再導入に承認を与える前の最終段階として、実施した場合の影響の事前評価(環境アセスメント)があった。\n連邦議会は、環境アセスメントへの支出をする前に更に研究が必要であるとして、計画を差し止めた。", "qas": [ { "question": "最初の回復計画は何年に公表されたの?", "id": "tr-043-04-000", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2番目の回復計画が公表されたのはいつ?", "id": "tr-043-04-001", "answers": [ { "text": "1985年", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オオカミ回復チームが任命されたのはいつ?", "id": "tr-043-04-002", "answers": [ { "text": "1974年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1987年に牧場主たちは、再導入提案者に経済的負担に対する補償を要求した。\nそれに対してDefendersofWildlife(アメリカ合衆国の自然保護団体)は、オオカミによる被害で失われる家畜の市場価格を牧場主たちに補償するために、「オオカミ補償基金」を準備した。\nその同じ年、最終的な回復計画が発表された。\nその後、研究・公的な教育・意見募集を行い、公開検討を加えるために1993年に環境影響評価書(環境アセスメントの結果報告書:EnvironmentalImpactStatement)の草稿が発表された。\nこの環境影響評価書には15万以上の意見が寄せられ、1994年5月に成立した。\n元の計画には3つの回復地域(イエローストーン国立公園含むワイオミング州・アイダホ州・モンタナ州)が含まれていたが、モンタナ州は北西部に小さいながら繁殖している群れが確認されたので回復地域から外された。\n現在は再導入されたオオカミ群はモンタナ州とも往来しているため、モンタナを含む3州が回復地域として設定され、モニタリングされている。\n回復地域に再導入されるオオカミは、絶滅危惧種法に規定する「実験的な個体群」分類に区分されている。", "qas": [ { "question": "「オオカミ補償基金」を準備した団体名は?", "id": "tr-043-05-000", "answers": [ { "text": "DefendersofWildlife", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最終的な回復計画が発表されたのは何年でしたか?", "id": "tr-043-05-001", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "環境影響評価書に寄せられた意見の数はどれくらいでしたか?", "id": "tr-043-05-002", "answers": [ { "text": "15万以上", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "環境影響評価書が成立したのはいつ?", "id": "tr-043-05-003", "answers": [ { "text": "1994年5月", "answer_start": 282, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1994年の後半の2つの民事訴訟によって、回復計画は危機にさらされた。\n1つはワイオミング州農業局連盟(FarmBureau)による提訴であったが、1995年1月3日に棄却された。\nもう片方は環境保護団体の連合体による提訴であった。\n内容は未確認の目撃情報を元に、北側からイエローストーンにオオカミが既に移住している証拠があり、同じ地域に実験的な群れを再導入するのは既存のオオカミにとって脅威となると主張していたが、訴えは退けられた。\nこれらの訴訟があったものの再導入の障害とはなっておらず、1995年1月から再導入が開始された。", "qas": [ { "question": "回復計画に対する2つの民事訴訟は何年にありましたか?", "id": "tr-043-06-000", "answers": [ { "text": "1994年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ワイオミング州農業局連盟による提訴はいつ棄却されたの?", "id": "tr-043-06-001", "answers": [ { "text": "1995年1月3日", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワイオミング州農業局連盟を英語表記するとどうなりますか?", "id": "tr-043-06-002", "answers": [ { "text": "FarmBureau", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "再導入は1995年の何月から始まりましたか?", "id": "tr-043-06-003", "answers": [ { "text": "1月", "answer_start": 251, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1995年1月連邦政府は、カナダアルバータ州から野生のオオカミの輸送を始めた。\nしかしながら、1月9日にFarmBureauから差し止め請求があったため、それが同年3月19日に棄却されるまでオオカミを放すことができなかった。\nそして3月21日、オオカミの檻の扉は開けられた。\nまた1996年1月にも追加のオオカミが放された。\n再導入されたオオカミは順調に増え、2009年末にはアイダホ州、ワイオミング州、モンタナ州の3州の個体数は約1700頭になり、そのうちイエローストーン国立公園には約100頭が生息している。\nこの頭数は、当初の計画が予定していたものを上回って推移している。\n現在、「十分に個体数が回復したので絶滅危惧種法の対象から外すべきだ」という議論が起きている。\n2009年に一度外されて狩猟が解禁されたものの、「同法の対象からまだ外すべきではない」という訴訟が起こり、2010年8月の判決によって再び絶滅危惧種法の保護対象となり狩猟禁止に戻った。", "qas": [ { "question": "連邦政府はどこから野生のオオカミを入れようとしましたか?", "id": "tr-043-07-000", "answers": [ { "text": "カナダアルバータ州", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最初に再導入されたオオカミはいつ放されましたか?", "id": "tr-043-07-001", "answers": [ { "text": "3月21日", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "再導入されたオオカミは2009年末の時点で何頭まで増えましたか?", "id": "tr-043-07-002", "answers": [ { "text": "約1700頭", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オオカミの狩猟禁止が一時的に解かれたのはいつですか?", "id": "tr-043-07-003", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 337, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イエローストーン国立公園では、再導入によって生物多様性が増えたことが報告されている。\nそれはワピチの個体数の減少によって植生が増えたためであると考えられ、アカギツネや公園内では絶滅状態であったビーバーの個体数の増加が観察された。\nこの動物相の変化は、オオカミがコヨーテの個体数を制御しているためであろうと考えられる。\nなお再導入後に、オオカミが家畜を襲う事件と、人がオオカミを殺傷する事件が起きるようになった。\n家畜被害のうちオオカミによることが確認されたものについては、政府および前述の「オオカミ補償基金」によって補償されている。", "qas": [ { "question": "再導入の効果で、絶滅状態だった何の動物が増えましたか?", "id": "tr-043-08-000", "answers": [ { "text": "ビーバー", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オオカミが関わった家畜被害は、何によって補償されていますか?", "id": "tr-043-08-001", "answers": [ { "text": "「オオカミ補償基金」", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コヨーテの個体数を制御している動物は何ですか?", "id": "tr-043-08-002", "answers": [ { "text": "オオカミ", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "再導入の効果で増加したキツネの種類とは何ですか?", "id": "tr-043-08-003", "answers": [ { "text": "アカギツネ", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "メキシコオオカミ(メキシコハイイロオオカミ)は、アリゾナ州・ニューメキシコ州・テキサス州およびメキシコに分布していた。\nかつては懸賞金が掛けられるなど駆除の対象となっており、1970年代初めにはほぼ野生絶滅の状態であった。\nしかしながら、1976年にアメリカ合衆国で絶滅危惧種に指定され、メキシコオオカミに対する評価が変わった。\nこのような背景の下、メキシコとアメリカ合衆国の間で保護繁殖に関する2国間協定が結ばれた。\n1977年から1980年にかけて、野生に残っていた全ての個体が捕獲され、既に動物園で飼育されていた個体とともに繁殖プログラムが開始された。\n一方、1982年には野生回復計画が作成され、少なくとも100個体のメキシコオオカミの自立した野生個体群を作り上げることが目標になった。", "qas": [ { "question": "メキシコオオカミがほぼ野生絶滅状態だったのはいつ頃のことですか?", "id": "tr-043-09-000", "answers": [ { "text": "1970年代初め", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メキシコオオカミの繁殖プログラムが開始されたのは何年ですか?", "id": "tr-043-09-001", "answers": [ { "text": "1977年", "answer_start": 210, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メキシコオオカミが絶滅危惧種に指定されたのはいつですか?", "id": "tr-043-09-002", "answers": [ { "text": "1976年", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1982年の野生回復計画では、何個体のメキシコオオカミ作りを目標としましたか?", "id": "tr-043-09-003", "answers": [ { "text": "100個体", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1980年代を通して再導入の準備が続けられ、最終的な環境影響評価書が完成したのは1996年である。\nこの時、東アリゾナのアパッチ国有林と西ニューメキシコのヒラ国有林が再導入に適切な地域として選定された(二つの国有林を総称して'BlueRangeWolfRecoveryArea'という)。\nまた、北ロッキー山脈地域と同様に、再導入されるオオカミは「実験的個体群」と規定された。\n1998年3月29日、11頭のメキシコオオカミがBlueRangeWolfRecoveryAreaに放された。\nその後も再導入が続けられており、2010年にはこの地域で50頭のメキシコオオカミの生息が確認されている。\nさまざまな要因で計画通りに回復が進んでおらず(当初計画では2006年に100頭を達成する目標だった)、2010年から手続きの見直しが行われた。\n現在、繁殖プログラムによって動物園や保護施設で飼育されているメキシコオオカミは300頭以上である。", "qas": [ { "question": "再導入に適切な地域として選ばれたのは、東アリゾナのどこですか?", "id": "tr-043-10-000", "answers": [ { "text": "アパッチ国有林", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アパッチ国有林とヒラ国有林を合わせて何といいますか?", "id": "tr-043-10-001", "answers": [ { "text": "BlueRangeWolfRecoveryArea'", "answer_start": 113, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2010年にBlueRangeWolfRecoveryAreaで確認されたメキシコオオカミの数は?", "id": "tr-043-10-002", "answers": [ { "text": "50頭", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "BlueRangeWolfRecoveryAreaに最初に放されたメキシコオオカミは何頭でしたか?", "id": "tr-043-10-003", "answers": [ { "text": "11頭", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オオカミが絶滅したと考えられるいくつかの地域で、再導入が検討されている。\nデンマーク、ドイツ、イタリア、およびスコットランドなどのヨーロッパ各国の非政府組織は、田舎の森林地帯に再導入することを提唱している。\n提案者達は「再導入は観光や生物多様性に利益がある」と主張するが、一方で再導入による家畜の損失を恐れる意見がある。\nいくつかの国では非政府組織から、アメリカ合衆国で実施されているのと同様の補償が提案されている。", "qas": [ { "question": "再導入が検討されている国はデンマーク、ドイツ、イタリアとどの国ですか?", "id": "tr-043-11-000", "answers": [ { "text": "スコットランド", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "再導入が検討されている国はデンマーク、ドイツ、スコットランドとどの国ですか?", "id": "tr-043-11-001", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "再導入が検討されている国はデンマーク、イタリア、スコットランドとどの国ですか?", "id": "tr-043-11-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 43, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "再導入が検討されている国はドイツ、イタリア、スコットランドとどの国ですか?", "id": "tr-043-11-003", "answers": [ { "text": "デンマーク", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本ではエゾオオカミやニホンオオカミが生息していたが、両種とも明治時代に絶滅した。\n他方で、昭和時代末期より山間部においてはニホンジカやイノシシなどによる農作物や樹皮の食害などの獣害が恒常的な問題となっている。\n大分県豊後大野市が害獣駆除を目的として、オオカミの再導入を提案しており、遺伝的にニホンオオカミに近いとされるハイイロオオカミが候補に挙がっている。\n猟友会会員の高齢化・会員数減少が進む中での有害鳥獣の駆除効果が期待される反面、沖縄でのマングースの例のように生態系に悪影響を及ぼしたり、オオカミが家畜や人間などを襲ったりする危険性も指摘されている。\n日本へのオオカミ再導入を目指す日本オオカミ協会は、元来日本に生息していたニホンオオカミはハイイロオオカミの一亜種にすぎないため、ハイイロオオカミの導入はマングースなど外来種の例とは異なり、生態系への悪影響は全く考えられないと主張している。\nむしろニホンオオカミ絶滅によって頂点が空位となった現在の日本の生態系こそが極めて異常な状態なのだとしている。\n日本においてオオカミは特定動物指定を受けており、現行法ではオオカミを許可なく扱うことはできない。", "qas": [ { "question": "エゾオオカミとニホンオオカミは何時代に絶滅したの?", "id": "tr-043-12-000", "answers": [ { "text": "明治時代", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本でオオカミの再導入を提案しているのはどこ?", "id": "tr-043-12-001", "answers": [ { "text": "大分県豊後大野市", "answer_start": 106, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何を目的として大分県ではオオカミの再導入を提案していますか?", "id": "tr-043-12-002", "answers": [ { "text": "害獣駆除", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在の日本において、オオカミは何の指定を受けていますか?", "id": "tr-043-12-003", "answers": [ { "text": "特定動物指定", "answer_start": 466, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "市川雷蔵(8代目)", "paragraphs": [ { "context": "生後6か月のときに三代目市川九團次の養子となり、15歳のとき市川莚蔵を名乗って歌舞伎役者として初舞台を踏む。1951年(昭和26年)に三代目市川壽海の養子となり八代目市川雷蔵を襲名。1954年(昭和29年)に映画俳優に転身した。1959年(昭和34年)の映画『炎上』での演技が評価され、キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。1960年代には勝新太郎とともに大映の二枚看板(カツライス)として活躍した。ファンから「雷(らい)さま」と親しまれた。1968年(昭和43年)6月に直腸癌を患っていることがわかり、手術を受けるが肝臓に転移、翌年7月17日に死去した。", "qas": [ { "question": "八代目市川雷蔵が三代目市川九團次の養子となったとき、彼の年齢は?", "id": "tr-044-00-000", "answers": [ { "text": "生後6か月", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "八代目市川雷蔵が初めて舞台で演じたのは彼が何歳だった時ですか?", "id": "tr-044-00-001", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "市川雷蔵が映画俳優になったのは和暦でいつですか?", "id": "tr-044-00-002", "answers": [ { "text": "昭和29年", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "市川雷蔵は1931年(昭和6年)8月29日、京都府京都市中京区西木屋町神屋町で誕生した。出生時の名は亀崎章雄といった。生後6か月の時に伯父で歌舞伎役者の三代目市川九團次の養子となり、本名を竹内嘉男と改名した。\n\n映画評論家の田山力哉によると、雷蔵が養子に出された経緯は次のとおりである。雷蔵の父は母が雷蔵を妊娠中に陸軍幹部候補生として奈良に移り、母は父の生家に留まった。しかし母は父の親族のいじめに遭い、母は父に助けを求めたが無視されたため、たまりかねて実家に戻って雷蔵を出産。その時までに両親の仲は決裂しており、母は1人で雷蔵を育てるつもりだったが、間もなく父の義兄にあたる三代目九團次が雷蔵を養子として引き取ると申し出た。母ははじめこの申し出を断ったが最終的に同意、雷蔵は九團次の養子となった。雷蔵自身が九團次の養子であることを知ったのは16歳の時、実母との対面を果たしたのは30歳を過ぎてからのことだった。", "qas": [ { "question": "雷蔵の名前が「亀崎章雄」だったのは彼が何歳だった頃までか?", "id": "tr-044-01-000", "answers": [ { "text": "生後6か月", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "雷蔵の育て親と雷蔵の関係は?", "id": "tr-044-01-001", "answers": [ { "text": "父の義兄", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "三代目九團次の養子となってからおよそ2年が過ぎた1934年、雷蔵は京都から大阪へ移った。九團次は幼少期の雷蔵に歌舞伎役者の修行をさせなかったが、1946年、3年生の時に大阪府立天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)を退学して歌舞伎役者になる道を選んだ。\n\n1946年11月、15歳の時に大阪歌舞伎座で催された東西合同大歌舞伎の『中山七里』の娘おはなで市川莚蔵(いちかわえんぞう、養父・三代目市川九團次の前名)を二代目として名乗り初舞台を踏んだ。初舞台から2年余りが経った1949年5月には嵐鯉昇(後の八代目嵐吉三郎、映画俳優・北上弥太郎)や二代目中村太郎らとともに若手による勉強会「つくし会」を立ち上げ、稽古に励んだ。しかし養父の九團次は京都市会議員の子で、歌舞伎役者に憧れて二代目市川左團次に弟子入りした、門弟あがりの役者だった。権門の出ではない九團次は上方歌舞伎における脇役専門の役者に過ぎず、雷蔵はその息子であることに苦しみ続けることになる。", "qas": [ { "question": "雷蔵が通っていた中学校は?", "id": "tr-044-02-000", "answers": [ { "text": "大阪府立天王寺中学校", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "雷蔵の初舞台は何ですか?", "id": "tr-044-02-001", "answers": [ { "text": "『中山七里』", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "勉強会「つくし会」を雷蔵、二代目中村太郎と共に設立した役者の当時の名は?", "id": "tr-044-02-002", "answers": [ { "text": "嵐鯉昇", "answer_start": 247, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1949年に雷蔵が「つくし会」を立ち上げたのと同じ時期に、演出家の武智鉄二は筋の良い若手歌舞伎役者を起用して、後に「武智歌舞伎」と呼ばれるようになる正統派歌舞伎を上演するようになった。「つくし会」が武智歌舞伎に参加したことがきっかけで雷蔵を知った武智は、雷蔵の役者としての資質を高く評価したが、九團次の子のままでは権門が幅を利かせる梨園では日の目を見ずに埋もれてしまうことを案じた。そこで武智は、四半世紀もその名が絶えていた上方歌舞伎の大名跡「中村雀右衛門」を継がせようと考えたが、雷蔵が梨園の権門の出でないことを嫌った三代目中村雀右衛門の未亡人に断られてしまう。", "qas": [ { "question": "武智鉄二と雷蔵が出会ったのは何年ですか?", "id": "tr-044-03-000", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "武智鉄二が九團次の名と雷蔵の役者としての資質で高く評価したのはどちらですか?", "id": "tr-044-03-001", "answers": [ { "text": "雷蔵の役者としての資質", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "武智鉄二が雷蔵に継がせようとした権門は?", "id": "tr-044-03-002", "answers": [ { "text": "「中村雀右衛門」", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後武智は、子がなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知る。1950年12月、三代目市川壽海は「つくし会」に審査員として立ち会い、『修禅寺物語』の源頼家を演じた雷蔵に高評価を与えていた。壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無縁の出自を抱えながら、苦労の末に戦中から戦後にかけての関西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには関西歌舞伎俳優協会会長の要職を担う重鎮となっていた。さらに七代目團十郎と九代目團十郎が俳名に使っていた「壽海」を名跡として名乗ることを許され、加えて「成田屋」と「壽海老」という、通常ならば市川宗家の者が使用する屋号と定紋を許されてもいた。そこで武智は関係者に働きかけ、この養子縁組を取りまとめることに成功する。壽海は雷蔵に、自身と同じような市川宗家ゆかりの由緒ある名跡である「市川新蔵」を継がせたいと願ったが、これには当時東京で市川宗家の番頭格としてこれを代表する立場にあった二代目市川猿之助(初代猿翁)が「どこの馬の骨とも知れない役者に新蔵の名跡はやれない」と猛反対、交渉の結果「市川雷蔵」の名跡を継ぐことで決着した。養子縁組は1951年4月に成立。同年6月には大阪歌舞伎座で雷蔵襲名披露が行われた。なお、映画監督の池広一夫によると三代目市川壽海について、雷蔵の実父ではないかという噂があったという。\n\n養子縁組を受けて、雷蔵は後半生の本名・太田吉哉に改名した。この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった。ちなみに大映京都撮影所所長だった鈴木晰也によると雷蔵は周囲にも盛んに改名を勧め、大映の関係者の中には雷蔵の勧めで改名した者が20〜30人はいたという。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している。", "qas": [ { "question": "雷蔵が三代目市川壽海と1950年、対面した時演じた劇は何ですか?", "id": "tr-044-04-000", "answers": [ { "text": "『修禅寺物語』", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "壽海は雷蔵に継がせたかった名前は何でしたか?", "id": "tr-044-04-001", "answers": [ { "text": "「市川新蔵」", "answer_start": 363, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "雷蔵が市川新蔵の名を継ぐことに反対した人物は誰ですか?", "id": "tr-044-04-002", "answers": [ { "text": "二代目市川猿之助", "answer_start": 414, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "雷蔵が壽海の養子に入って改名した名前は何ですか?", "id": "tr-044-04-003", "answers": [ { "text": "太田吉哉", "answer_start": 598, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1951年に壽海の養子となった雷蔵だったが、若いうちから大役を与えないという壽海の方針もあって、さして良い役は与えられず、楽屋には大部屋があてがわれるという扱いを受けた。そんな中、雷蔵は1954年に大映所属の映画俳優に転身した。\n\n動機について雷蔵自身は日和見的・試験的に映画に出てみようと思ったと述べているが、田山力哉によると雷蔵は以前から自分に対する処遇に強い不満を感じていたところ、1954年に大阪歌舞伎座で催された六月大歌舞伎『高野聖』において、台詞がひとつもない白痴の役が割り当てられたことに憤激し、梨園と縁を切ることを決意、かねてから雷蔵を時代劇のスターとして売り出そうとしていた大映の誘いに応じ、映画俳優に転身したという。なお映画俳優転身後に雷蔵がつとめた歌舞伎は1964年1月、前年に落成したばかりの日生劇場で上演された武智鉄二演出『勧進帳』の富樫左衛門のみである。雷蔵はこの時「歌舞伎は年を取ってからでないとだめだが、映画は年を取ったらだめ。若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」と語っている。映画俳優になることを決めた後、雷蔵は映画館に足繁く通って東映の時代劇スター中村錦之助の演技を研究した。\n\n雷蔵は1954年8月25日公開の『花の白虎隊』で映画俳優としてデビューした。権門の出ではない雷蔵の出自は歌舞伎界では出世の妨げとなったが、関西歌舞伎の重鎮・市川壽海の子である雷蔵は映画界では貴種として扱われた。大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、デビュー作の『花の白虎隊』の後5作目の『潮来出島美男剣法』(1954年12月22日公開)、6作目の『次男坊鴉』(1955年1月29日公開)と立て続けに主役に抜擢した。", "qas": [ { "question": "雷蔵が映画俳優に転身するように決意させた劇は何ですか?", "id": "tr-044-05-000", "answers": [ { "text": "『高野聖』", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "雷蔵が映画俳優として初めて演じた作品は何ですか?", "id": "tr-044-05-001", "answers": [ { "text": "『花の白虎隊』", "answer_start": 540, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "雷蔵が主役として演じたデビュー作以降六作目の映画の公開はいつでしたか?", "id": "tr-044-05-002", "answers": [ { "text": "1955年1月29日", "answer_start": 722, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "デビュー2年目の1955年、雷蔵は『新・平家物語』(1955年9月21日公開)の平清盛役でスターとして注目を集めるようになった。\n雷蔵の映画を16本監督した田中徳三は、当初雷蔵の俳優としての大成は難しいと感じていたが、『新・平家物語』で印象が一変したと述べている。\nまた雷蔵の映画を16本監督した池広一夫は、それまで長谷川一夫の亜流のようなことをやっていたのが、じわじわと役者根性が出てきたと評している。\n映画評論家の佐藤忠男は、『新・平家物語』を境に「長谷川一夫の後を追うように、もっぱらやさ男の美男の侍ややくざを演じた」雷蔵が、「通俗的なチャンバラ映画だけではなく、しばしば格調の高い悲劇も鮮やかに演じるすぐれた俳優になっていった」と評している。\n雷蔵は足腰が弱く、立ち回りの時にふらつく癖があった。\n元大映企画部長の土田正義によると、立ち回りに不安のある雷蔵に「天下を制した青年清盛」を演じさせるのは大変な冒険だったという。\n雷蔵も自身の足腰の弱さを自覚しており、同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行ったが改善されず、撮影時にスタッフは足腰の弱さが画面に表れないよう配慮する必要があった。\n雷蔵の映画を18本監督した三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉体的欠陥を受けいれた上で、それを乗り越えようとする姿勢をとるようになったという。\n『新・平家物語』を境に雷蔵は、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった。", "qas": [ { "question": "雷蔵を人気映画俳優にした彼の作品は何年に公開されましたか?", "id": "tr-044-06-000", "answers": [ { "text": "1955年", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "池広一夫が監督した雷蔵出演の映画は何本ですか?", "id": "tr-044-06-001", "answers": [ { "text": "16本", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "雷蔵を「通俗的なチャンバラ映画だけではなく、しばしば格調の高い悲劇も鮮やかに演じるすぐれた俳優になっていった」と評した人物は何者ですか?", "id": "tr-044-06-002", "answers": [ { "text": "佐藤忠男", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1958年(昭和33年)、市川崑は『炎上』(同年8月19日公開。原作は三島由紀夫の小説『金閣寺』)の主役に雷蔵を抜擢した。市川によると、はじめは川口浩を起用しようとしたが、大映社長の永田雅一に反対され、そこで直感的に雷蔵を指名したという。この役は吃音症に劣等感を持つ暗い学生僧で、大映社内にはそれまで二枚目の役ばかりを演じてきた雷蔵の起用を疑問視したり反対する意見もあったが、「俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ雷蔵はこの役を好演した。市川は雷蔵の演技を「百点満点つけていいと思います。もう何もいうことないですよ」と評した。『炎上』での演技はしばしば、雷蔵自身の生い立ちが反映していると評される。市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か...(中略)...彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している。田中徳三は雷蔵の複雑な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している。池広一夫は、生い立ちにまつわる「人生の隠された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷蔵だからこそできた表現と評している。なお、大映企画部だった辻久一が雷蔵自身の生い立ちが『炎上』での演技に影響しているのではないかと問うたところ、雷蔵はこれを否定しなかった。『炎上』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞した。雷蔵はトップスターとしての地位を確立した。", "qas": [ { "question": "市川崑の『炎上』の主役は雷蔵が抜擢される前に候補にいたのは誰ですか?", "id": "tr-044-07-000", "answers": [ { "text": "川口浩", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "雷蔵の『炎上』での演技を雷蔵の複雑な生い立ちが役と重なり合ったと評した人は誰?", "id": "tr-044-07-001", "answers": [ { "text": "田中徳三", "answer_start": 410, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『炎上』が公開されたのは何年ですか?", "id": "tr-044-07-002", "answers": [ { "text": "1958年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "雷蔵がブルーリボン賞男優主演賞を受賞した作品のタイトルは?", "id": "tr-044-07-003", "answers": [ { "text": "『炎上』", "answer_start": 592, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1963年(昭和38年)に始まった『眠狂四郎』シリーズは、雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。\n田中徳三によると、雷蔵は当初主人公・眠狂四郎を演じることに苦戦した。\n雷蔵自身も1作目の『眠狂四郎殺法帖』(1963年(昭和38年)11月2日公開)について、「狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていない」と述べ、失敗作だったことを認めているものの、4作目の『眠狂四郎女妖剣』(1964年(昭和39年)10月17日公開)で虚無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した。\n『眠狂四郎』シリーズにおける雷蔵の演技について勝新太郎は、「眠狂四郎をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな。人間、死ぬ時の顔だね、あれは」「立ち回りなんかも、雷ちゃん、顔で斬ってたね。剣で斬らないで顔で斬ってた」と述懐、「雷ちゃんは、眠狂四郎を殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだとおれは思うよ」と評している。\n池広一夫は「何も言わないで、表情もなしで、ただ歩いている姿だけで、背負っている過去みたいなものを表現した」と評している。\n『眠狂四郎多情剣』の監督を務めた井上昭は、雷蔵以外にも眠狂四郎を演じた役者はいるが、精神性において雷蔵にはかなわなかったと述べている。\n雷蔵が主演したシリーズの作品数は12本に及び、雷蔵が主演した作品の中で最も多いものとなった。", "qas": [ { "question": "勝新太郎が評した『眠狂四郎』シリーズでの雷蔵の演技の花は何ですか?", "id": "tr-044-08-000", "answers": [ { "text": "顔", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "勝新太郎は雷蔵をどう呼びますか?", "id": "tr-044-08-001", "answers": [ { "text": "雷ちゃん", "answer_start": 376, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "雷蔵自身が自分の演技が失敗だと認めた『眠狂四郎』のシリーズのタイトルは何ですか?", "id": "tr-044-08-002", "answers": [ { "text": "『眠狂四郎殺法帖』", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『眠狂四郎』のシリーズ第四作目のタイトルは何?", "id": "tr-044-08-003", "answers": [ { "text": "『眠狂四郎女妖剣』", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "池広一夫によると、雷蔵は俳優としてキャリアを重ねるにつれ、監督として映画製作に携わることを希望するようになっていったという。\n池広は雷蔵に対し、監督ではなくプロデューサーとして題材、脚本家、監督、出演者をすべて決める方がよいとアドバイスした。\n1968年(昭和43年)1月、雷蔵は「今まで見たこともない新しい演劇をこしらえたい」という決意の下、劇団「テアトロ鏑矢」を設立しプロデューサーとしての活動を始めようとしたが、その直後に病に冒され、劇団が活動することはなかった。\n雷蔵の作品14本の脚本を担当した星川清司によると、雷蔵は星川と三隅研次に「映画というのはそう長くないかもしれないなあ。いつか3人で芝居をやろう。新しい仕事をやってみよう」、「黙阿弥の作品を現代的な目でとらえてやってみようよ」と語ったこともあったという。", "qas": [ { "question": "雷蔵が劇団「テアトロ鏑矢」を設立したのは何年ですか?", "id": "tr-044-09-000", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic 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"tr-044-10-001", "answers": [ { "text": "『沓掛時次郎』の撮影", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "昭和43年、雷蔵が診断された病は何ですか?", "id": "tr-044-10-002", "answers": [ { "text": "直腸癌", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "退院後、雷蔵は『眠狂四郎悪女狩り』(1969年1月11日公開)『博徒一代血祭り不動』(1969年(昭和44年)2月12日公開)の撮影を行ったが、体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた。\n1969年(昭和44年)2月に体調不良を訴え再入院。\n2度目の手術を受けた雷蔵は、スープも喉を通らなくなるほど衰弱していたが、『あゝ海軍』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、関係者と打ち合わせを行っていた。\nしかし復帰がクランクインに間に合わず、大映は代役に二代目中村吉右衛門を立てて撮影することを決定。\nそのことを新聞を読んで知って以来、雷蔵は仕事の話を一切しなくなったという。\n7月17日、転移性肝がんのため死去した。\n37歳で没した。\n葬儀は7月23日に大田区の池上本門寺で行われた。\n戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。\n墓所もかつては同寺にあったが、現在は久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)に移転している。", "qas": [ { "question": "雷蔵さんが死亡したのは彼が何歳だった時ですか?", "id": "tr-044-11-000", "answers": [ { "text": "37歳", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "雷蔵が彼が死ぬまで仕事の話を一切しなくなったきっかけとなった作品名は?", "id": "tr-044-11-001", "answers": [ { "text": "『あゝ海軍』", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "雷蔵の死因は何ですか?", "id": "tr-044-11-002", "answers": [ { "text": "転移性肝がん", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "死の間際、雷蔵は混濁した意識の中で自分の死に顔を誰にも見せないよう何度も懇願したといわれているが、妻の太田雅子はこれを否定し、「雷蔵は最後まで復帰をあきらめておらず、遺言は一切なかった」と述べている。死後、雷蔵の顔には白布が二重に巻かれ、火葬されるまで解かれることはなかった。雅子によると、本人の「痩せてしまった姿を誰にも見せたくない」という遺志から、死に顔を見たのは養父の壽海と社長の永田だけであったという。\n\n最後の出演作品となったのは『博徒一代血祭り不動』(1969年(昭和44年)2月12日公開)で、当時人気を博していた東映の任侠路線を明らかに意識した作品だった。雷蔵は「鶴田浩二の二番煎じをやらすんかい」と出演を渋ったが、土田正義が「次はやりたい作品に出演させる」と説得し、出演が決まった経緯があった。しかし、土田は後年に本人が乗り気でなかった作品が遺作になったことについて、後悔の念を述べている。死から2年後の1971年(昭和46年)に大映は倒産したが、星川清司は「雷蔵の死は、大映の倒産を象徴する出来事だった」と回顧している。", "qas": [ { "question": "雷蔵の最後の出演作品は何ですか?", "id": "tr-044-12-000", "answers": [ { "text": "『博徒一代血祭り不動』", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『博徒一代血祭り不動』の出演に乗る気が無かった雷蔵を説得した人物は一体何者ですか?", "id": "tr-044-12-001", "answers": [ { "text": "土田正義", "answer_start": 316, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "雷蔵が死亡したのは何年の出来事ですか?", "id": "tr-044-12-002", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 232, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "死から5年後の1974年、ファンクラブ「朗雷会」が発足、2019年現在も活動を続けている。大映京都撮影所で製作部長を務めた松原正樹によると、雷蔵のファン層はその演技や人間性に惹かれたと思われるインテリの女性が多いところに特徴があり、「キャーキャーとさわぐようなタイプなど見当たらなかった」という。また京都では、雷蔵の命日にあたる7月17日に行われる「市川雷蔵映画祭」で主演作品を上映することが夏の恒例行事となっている。2009年12月から2011年5月まで雷蔵の出演作品を上映する『没後40年特別企画大雷蔵祭』が開催された。\n\n2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の6位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第7位になった。2014年発表の『キネマ旬報』による『オールタイム・ベスト日本映画男優・女優』では日本男優3位となった。\n\nなお、市川雷蔵の名跡に関しては、十一代目市川海老蔵が2014年9月に自身のブログにて預かっていることを示唆していることから、八代目没後に遺族から市川宗家に返上されたものと見られる。", "qas": [ { "question": "雷蔵が死亡した日付けは何月何日か?", "id": "tr-044-13-000", "answers": [ { "text": "7月17日", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」と同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」で、雷蔵のランキングでどっちが上でしたか?", "id": "tr-044-13-001", "answers": [ { "text": "「20世紀の映画スター・男優編」", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ウルム戦役", "paragraphs": [ { "context": "ウルム戦役(ウルムせんえき、英語:UlmCampaign)は、第三次対仏大同盟中の1805年にフランス帝国とバイエルン軍が軍事的な機動によってオーストリア軍を捕らえた戦役である。この戦役はシュヴァーベンの都市ウルム近郊で生じた。", "qas": [ { "question": "ウルム戦役とは、何年にフランス帝国とバイエルン軍が、オーストリア軍を捕らえた戦役のことをいうの?", "id": "tr-045-00-000", "answers": [ { "text": "1805年", "answer_start": 41, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルム戦役とは、1805年にどの国とバイエルン軍が、オーストリア軍を捕らえた戦役のことをいいますか?", "id": "tr-045-00-001", "answers": [ { "text": "フランス帝国", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルム戦役とは、1805年にフランス帝国とバイエルン軍が、どの国の軍を捕らえた戦役のことを指すか?", "id": "tr-045-00-002", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 71, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルム戦役は、どこで生じたか?", "id": "tr-045-00-003", "answers": [ { "text": "シュヴァーベンの都市ウルム近郊", "answer_start": 94, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト率いる大陸軍は210,000人から成る7個軍を保有しており、ロシア軍の増援が来る前にドナウ川のオーストリア軍を撃滅することを狙っていた。10月20日、ナポレオンは迅速な行軍によりマック将軍率いる23,000人のオーストリア軍をウルムで降伏させることに成功し、この戦役を通して60,000人のオーストリア軍を捕虜とした。一般的にこの戦役は戦略上最も偉大な勝利であると考えられており、19世紀末のシュリーフェン・プランに大きな影響を与えた。", "qas": [ { "question": "当時のフランス帝国の帝位には、誰が就いていたの?", "id": "tr-045-01-000", "answers": [ { "text": "ナポレオン・ボナパルト", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナポレオンがオーストリア軍をウルムで降伏させたのは、いつのことですか?", "id": "tr-045-01-001", "answers": [ { "text": "10月20日", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "10月20日の降伏により、捕虜となったオーストリア軍は、何人に至ったか?", "id": "tr-045-01-002", "answers": [ { "text": "60,000人", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "10月20日、オーストリアは、どの国に降伏したか?", "id": "tr-045-01-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "このウルム戦役によって戦いは終わったわけではなく、まだウィーンの近くにはミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が控えていた。ロシア軍はオーストリア軍の生き残りと合流するために北東に撤退した。フランス軍は11月12日にウィーンを占領した。12月2日にアウステルリッツの戦いでフランスは決定的な勝利を得て、オーストリアはこの戦争から離脱した。12月の終わりに、プレスブルクの和約により、第三次対仏大同盟は崩壊し、フランスの覇権は中央ヨーロッパにまで及んだため、翌年、プロイセンとロシアによる第四次対仏大同盟が結成された。", "qas": [ { "question": "フランス軍がウィーンを占領したのは、いつのことなの?", "id": "tr-045-02-000", "answers": [ { "text": "11月12日", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アウステルリッツの戦いは、何月何日に行われた戦闘でありますか?", "id": "tr-045-02-001", "answers": [ { "text": "12月2日", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランスがオーストリア軍に対し、勝利を固めた戦闘は、どの戦闘か?", "id": "tr-045-02-002", "answers": [ { "text": "アウステルリッツの戦い", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストリアがこの戦争から離脱したのは、いつのことか?", "id": "tr-045-02-003", "answers": [ { "text": "12月2日", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1792年よりヨーロッパはフランス革命戦争に巻き込まれた。5年の戦いの後の1797年に、フランスは第一次対仏大同盟を崩壊させた。", "qas": [ { "question": "フランス革命戦争が始まったのは、何年なの?", "id": "tr-045-03-000", "answers": [ { "text": "1792年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランスが第一次対仏大同盟を崩壊させたのは、何年のことですか?", "id": "tr-045-03-001", "answers": [ { "text": "1797年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランス革命戦争が始まってから何年後、第一次対仏大同盟が崩れたか?", "id": "tr-045-03-002", "answers": [ { "text": "5年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランス革命戦争は、フランスとどの同盟との間で行われた戦争であるか?", "id": "tr-045-03-003", "answers": [ { "text": "第一次対仏大同盟", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1797年に第二次対仏大同盟が結成されたが、1801年には崩壊した。イギリスだけがフランスの統領政府に敵対し続けたが、1802年3月にフランスとイギリスはアミアンの和約によって講和した。", "qas": [ { "question": "第二次対仏大同盟の結成は、何年に果たされたの?", "id": "tr-045-04-000", "answers": [ { "text": "1797年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第二次対仏大同盟が崩れたのは、何年のことですか?", "id": "tr-045-04-001", "answers": [ { "text": "1801年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "同盟が崩れた後も、フランスと敵対し続けたのは、どの国か?", "id": "tr-045-04-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 34, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランスとイギリスの間でアミアンの和約が結ばれたのは、いつのことか?", "id": "tr-045-04-003", "answers": [ { "text": "1802年3月", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イギリスは1793年以来の植民地の征服に反発し、フランスはマルタ島からイギリスが撤退しないことに反発していた。ナポレオンがハイチ革命を終結させるために遠征軍を送ると両国の関係はさらに悪化し、1803年、イギリスは再びフランスに宣戦布告した。", "qas": [ { "question": "フランスは、イギリスがどこから撤退しないことに反発したの?", "id": "tr-045-05-000", "answers": [ { "text": "マルタ島", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書では、フランスとどの国の対立について語っていますか?", "id": "tr-045-05-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナポレオンがどの革命を終わらせるために遠征軍を送ったことにより、イギリスとの対立が深化したか?", "id": "tr-045-05-002", "answers": [ { "text": "ハイチ革命", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスが、フランスに対し、再び宣戦布告したのは、何年のことか?", "id": "tr-045-05-003", "answers": [ { "text": "1803年", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1804年12月にイギリスとスウェーデンは第三次対仏大同盟の結成に同意した。1804年から1805年にかけて、イギリス首相のウィリアム・ピットはフランスに対する新たな同盟の形成を目指して奔走した。イギリスとロシアが互いに抱いていた不信感はフランスの政治的失策によって弱まり、両国は1805年4月に同盟を結ぶに至った。フランスに2度の敗北を味わわされた記憶がまだ新しいオーストリアは、報復を果たそうと数ヶ月後れで第三次対仏大同盟に加入した。", "qas": [ { "question": "イギリスとスウェーデンが、第三次対仏大同盟の結成に同意したのは、いつか?", "id": "tr-045-06-000", "answers": [ { "text": "1804年12月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第三次対仏大同盟の結成メンバーは、イギリスとどの国か?", "id": "tr-045-06-001", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のイギリス首相は、誰だったか?", "id": "tr-045-06-002", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ピット", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスとロシアの間で同盟が結ばれたのは、いつのことか?", "id": "tr-045-06-003", "answers": [ { "text": "1805年4月", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第三次対仏大同盟の結成前に、ナポレオンはイギリスへの侵攻軍を編成し、北フランスのブローニュに6つの野営地を設けた。この侵攻軍がイギリスに上陸することはなかったが、ナポレオンの軍はあらゆる可能性に備えて、軍事的な作戦の訓練を行っていた。侵攻軍の間では早くも訓練に退屈する気配はあったが、ナポレオンは何度も出向いて豪華なパレードを行う事で、士気を維持していた。", "qas": [ { "question": "第三次対仏大同盟が結成される前に、ナポレオンは、何を計画していたの?", "id": "tr-045-07-000", "answers": [ { "text": "イギリスへの侵攻", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナポレオンが、イギリスへの侵攻のための拠点としたのは、どこですか?", "id": "tr-045-07-001", "answers": [ { "text": "ブローニュ", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブローニュには、いくつの野営地が設けられたか?", "id": "tr-045-07-002", "answers": [ { "text": "6つ", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書では、ナポレオンがどの国への攻撃を準備していたことについて説明しているか?", "id": "tr-045-07-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マック将軍はオーストリアの安全保障がフランス革命戦争中に多くの戦いが行われてきた南ドイツのシュヴァルツヴァルト一帯の隙間を埋める事にかかっていると考えていた。ドイツ中部では何の軍事的行動も起きないと考えたマックは、ウルムを防衛戦略の中心に据えることにした。そのためには、ミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が到着してナポレオンに対する勝算が増すまで、フランス軍を食い止める必要があった。要塞化されたミヒェルスベルクの高地に守られているため、ウルムは事実上外からの攻撃によって陥落できない都市であるという印象をマックは持っていた。", "qas": [ { "question": "マック将軍はオーストリアの安全保障がどこ一帯の隙間を埋める事にかかっていると考えていたの?", "id": "tr-045-08-000", "answers": [ { "text": "シュヴァルツヴァルト", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランス革命戦争の主な戦場となったのは、どこ一帯だった書かれていますか?", "id": "tr-045-08-001", "answers": [ { "text": "シュヴァルツヴァルト", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストリアは、フランスとの戦いにおいてどの国に援助を求めたか?", "id": "tr-045-08-002", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストリアへの援軍を指揮していたのは、誰か?", "id": "tr-045-08-003", "answers": [ { "text": "ミハイル・クトゥーゾフ", "answer_start": 135, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "致命的な事に、宮廷評議会はハプスブルク家にとっての主戦場を北イタリアとすることを決定した。95,000名の軍を率いることとなったカール大公は、アディジェ川を渡り、マントヴァ、ペスキエーラ・デル・ガルダ、ミラノを主な目標とした。ウルムのオーストリア軍は72,000名程で構成されていた。建前上はフェルディナント大公によってオーストリア軍は指揮されていたが、実際の権限はマックが保有していた。オーストリアの戦略ではヨハン大公の23,000名の軍に、ティロルを防衛し、カール大公の軍とフェルディナントの軍との連携を保つことを求めた。またオーストリアは、ポンメルンのスウェーデン軍とナポリのイギリス軍を支援するために独立した軍団を送ったが、それらはフランス軍を混乱させ、兵力を転用させることを目的としていたものであった。", "qas": [ { "question": "宮廷評議会はハプスブルク家にとっての主戦場をどこにすると決定したの?", "id": "tr-045-09-000", "answers": [ { "text": "北イタリア", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カール大公は、何名にも至る大軍の指揮をとりましたか?", "id": "tr-045-09-001", "answers": [ { "text": "95,000名", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルムのオーストリア軍は、何名程で構成されていたか?", "id": "tr-045-09-002", "answers": [ { "text": "72,000名", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カール大公軍とウルムのオーストリア軍のうち、その兵力がより少なかったのは、どちらか?", "id": "tr-045-09-003", "answers": [ { "text": "ウルムのオーストリア軍", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1796年と1800年の戦役では、いずれもドナウ川周辺がフランス軍の戦闘の中心地になるとナポレオンが考えたにもかかわらず、イタリアが最も重要な舞台となった。宮廷評議会はナポレオンがイタリアを再び攻撃すると考えたが、ナポレオンには別の目的があった。210,000のフランス軍はブローニュの野営地から東に向かい、もしオーストリア軍がシュヴァルツヴァルトに向かって行軍を続けるなら、マック将軍のオーストリア軍を包囲するつもりだった", "qas": [ { "question": "1796年と1800年の戦役では、どこが最も重要な戦場となったの?", "id": "tr-045-10-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナポレオンは、1796年と1800年の戦役の最も重要な戦場は、どこになると予測していましたか?", "id": "tr-045-10-001", "answers": [ { "text": "ドナウ川周辺", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮廷評議会は、ナポレオンがどこへの攻撃を目的としていると予測したか?", "id": "tr-045-10-002", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 90, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランス軍の兵力は、何名にも至ったか?", "id": "tr-045-10-003", "answers": [ { "text": "210,000", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方、ジョアシャン・ミュラはフランス軍が西から東へと直接行軍しているとオーストリア軍に思わせる囮となるため、部隊をシュヴァルツヴァルトを通り抜けさせた。ドイツでの主軍の攻撃は他の戦域でのフランスの攻撃によって援護される予定だった。アンドレ・マッセナはイタリアにて50,000名の兵を率いて、カール大公のイタリア軍と対峙しており、ローラン・グーヴィオン=サン=シールは20,000人の兵士と共にナポリに向かい、ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌはイギリスの侵攻に備えて、ブローニュを警備していた。", "qas": [ { "question": "ジョアシャン・ミュラはオーストリア軍をだますために、部隊をどこを通り抜けさせたの?", "id": "tr-045-11-000", "answers": [ { "text": "シュヴァルツヴァルト", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンドレ・マッセナは、何人にも至る兵力の指揮をとっていましたか?", "id": "tr-045-11-001", "answers": [ { "text": "50,000名", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンドレ・マッセナ率いるフランス軍と対峙していたのは、誰が率いる部隊だったか?", "id": "tr-045-11-002", "answers": [ { "text": "カール大公", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書で登場するフランス軍の指揮者には、ジョアシャン・ミュラとアンドレ・マッセナ、ローラン・グーヴィオン=サン=シールのほかに、誰がいるか?", "id": "tr-045-11-003", "answers": [ { "text": "ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌ", "answer_start": 204, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミュラとアンリ・ガティアン・ベルトランはティロルとマイン川に参謀のアンヌ・ジャン・サヴァリを偵察として送り込み、ライン川とドナウ川の間の地域の詳細な道路の調査を作成した。", "qas": [ { "question": "ティロルとマイン川に偵察として送られたのは、誰なの?", "id": "tr-045-12-000", "answers": [ { "text": "アンヌ・ジャン・サヴァリ", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミュラとアンリ・ガティアン・ベルトランは、ライン川とどの川の間の地域の詳細な道路の調査を行おうとしましたか?", "id": "tr-045-12-001", "answers": [ { "text": "ドナウ川", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "クマのプーさん", "paragraphs": [ { "context": "『クマのプーさん』(英:Winnie-the-Pooh)は、1926年に発表されたA・A・ミルンの児童小説である。\nクマのぬいぐるみでハチミツ好きの「プー」と、森の仲間たちとの日常が10のエピソードによって描かれている。\n1928年には同様の構成をもつ続編『プー横丁にたった家』も発表された。\n『クマのプーさん』のシリーズはこの二つの物語集と、その前後に発表された二つの童謡集『ぼくたちがとてもちいさかったころ』『ぼくたちは六歳』の計4冊からなっており、挿絵はいずれもE.H.シェパードが手がけている。", "qas": [ { "question": "『クマのプーさん』の作者は誰だい?", "id": "tr-046-00-000", "answers": [ { "text": "A・A・ミルン", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『クマのプーさん』の続編のタイトルは?", "id": "tr-046-00-001", "answers": [ { "text": "『プー横丁にたった家』", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『クマのプーさん』シリーズの挿絵は誰が担当したの?", "id": "tr-046-00-002", "answers": [ { "text": "E.H.シェパード", "answer_start": 234, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A.A.ミルンはこの作品を自身の息子クリストファー・ロビン・ミルンが持っていたテディ・ベアから着想した。\nこの児童小説とそのキャラクターは発表当時からひろく人気を集め、多数の言語に翻訳されて、いまなお世界中で読み継がれている。\n1960年代からはディズニーによって一連のくまのプーさんシリーズのアニメーションが作られ、原作の知名度に大きく貢献した。\nディズニー版では「WinniethePooh」とハイフンが脱落した表記が使われており、日本では「くまのプーさん」の表記が作品・キャラクター双方で用いられている。", "qas": [ { "question": "『クマのプーさん』のモデルは何だったの?", "id": "tr-046-01-000", "answers": [ { "text": "テディ・ベア", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "くまのプーさんのアニメーションを製作した会社は?", "id": "tr-046-01-001", "answers": [ { "text": "ディズニー", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "A.A.ミルンの子女の名は?", "id": "tr-046-01-002", "answers": [ { "text": "クリストファー・ロビン・ミルン", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『クマのプーさん』は1926年、作者A.A.ミルンが40代のときに刊行された。\nミルンはすでに風刺雑誌『パンチ』の副編集長および同誌で活躍するユーモア作家としてのキャリアを経ており、1924年に子供向けの著作としてはじめて手がけた童謡集『ぼくたちがとてもちいさかったころ』(WhenWeWereVeryYoung)が高い評価を受けていた。\nこの童謡集は当時3歳だった自分の息子クリストファー・ロビン・ミルンのためにつくった童謡をあつめたもので、のちに「プー」となる彼のテディベアも「エドワード・ベア」の名称で「テディ・ベア」という詩のなかで顔を見せている(この詩の初出は『パンチ』1924年2月号)。\nクリストファーがもう少し成長すると、ミルンは息子のために彼の持つぬいぐるみたちが活躍する物語を構想し、これが『クマのプーさん』のかたちをとった。", "qas": [ { "question": "『クマのプーさん』の刊行時、作者はいくつでしたか?", "id": "tr-046-02-000", "answers": [ { "text": "40代", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "A.A.ミルン著作の初めての童謡集とは?", "id": "tr-046-02-001", "answers": [ { "text": "『ぼくたちがとてもちいさかったころ』", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ぼくたちがとてもちいさかったころ』を発表した時の作者の息子はいくつでしたか?", "id": "tr-046-02-002", "answers": [ { "text": "3歳", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミルン家のテディベアは、もともとベア、テディ、エドワード・ベア、ビッグ・ベアなどさまざまな呼ばれ方がされていたが、これがさらに「ウィニー・ザ・プー」という名称を持つに至ったいきさつは本作品の序文に書かれている。\nまず「ウィニー」は、当時ロンドン動物園で公開され人気を集めていたカナダマニトバ州ウィニペグから来た雌のクロクマにちなんでいる。\nもともとは女性名であり、物語の冒頭では語り手がクリストファー・ロビンに“ButIthoughthewasaboy?”(彼は男の子だと思ってたんだが)と問いかけるシーンがある。\n「プー」のほうは、もともとはミルン親子がたびたび訪れていたウェスト・サセックスのポーリングにいた白鳥につけられていた名前であった。\nこの白鳥の「プー」も『ぼくたちがとても小さかったころ』の中の詩「かがみ」にその名前で登場している。", "qas": [ { "question": "「ウィニー」の由来となったクマはどこにいましたか?", "id": "tr-046-03-000", "answers": [ { "text": "ロンドン動物園", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ぼくたちがとても小さかったころ』に登場する白鳥の名前は何?", "id": "tr-046-03-001", "answers": [ { "text": "「かがみ」", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "のちに「プー」となるこのファーネル社製のテディ・ベアは、1921年、クリストファーが1歳のときに誕生日プレゼントとしてハロッズで購入されたものであった。\n他のキャラクターのうち、ロバのイーヨーは同年のクリスマスプレゼントとして、子豚のピグレットは隣人からプレゼントされてクリストファーに与えられていた。\n執筆が進むと、ミルンは物語に登場させるために新たにカンガルーの親子カンガとルー、トラの子供ティガーのぬいぐるみをハロッズで購入した。\n登場キャラクターのうち特定のモデルが存在しないのはフクロウのオウルとウサギのラビットだけである。\nキャラクターのモデルとなったこれらのぬいぐるみは、ミルンによる「出生証明書」付きで、アメリカ合衆国で長年のあいだ巡回展示が行われたのち、1987年よりニューヨーク公共図書館にて展示保存されている。", "qas": [ { "question": "クリストファーが1歳のバースデープレゼントでもらったものとは何?", "id": "tr-046-04-000", "answers": [ { "text": "テディ・ベア", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1921年のクリスマスプレゼントとしてクリストファーがもらったものは何のぬいぐるみだったの?", "id": "tr-046-04-001", "answers": [ { "text": "ロバ", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "テディ・ベア、ティガーのぬいぐるみはどこで購入されたの?", "id": "tr-046-04-002", "answers": [ { "text": "ハロッズ", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これらのぬいぐるみたちに声と性格を与えたのは、ミルンの妻、すなわちクリストファーの母親、ダフネであった。\nぬいぐるみたちと一人遊びをするクリストファーに母親が加わることによって、ぬいぐるみたちに生命が吹き込まれていった。\nミルンは自分はこうして生み出されたキャラクターをありのまま描写しただけだと記している。\n物語の舞台は、サセックス州に実在する田園地帯アッシュダウンの森をモデルにして描かれている。\nミルンは1924年夏、息子が4歳のときに、この地の北のハートフィールド近郊に建てられていた古農家コッチフォード・ファームを買い取って別荘とした。\nそして改修が済んだ1925年以降、毎週末や復活祭、夏季休暇などのたびに妻子と乳母の4人でこの地を訪れており、クリストファーはいつもぬいぐるみたちを連れてきていた。\n作品が有名になって以降、アッシュダウンの森は『プーさん』の愛読者が訪れて物語を追体験する観光地となっている。", "qas": [ { "question": "クリストファーのお母さんの名前は何?", "id": "tr-046-05-000", "answers": [ { "text": "ダフネ", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アッシュダウンの森は何州に位置しているの?", "id": "tr-046-05-001", "answers": [ { "text": "サセックス州", "answer_start": 162, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "作品のモデルとなった森の名前は何ですか?", "id": "tr-046-05-002", "answers": [ { "text": "アッシュダウンの森", "answer_start": 177, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『クマのプーさん』シリーズの挿絵は、ミルンの古巣である『パンチ』の画家E.H.シェパードが手がけている(ただし、シェパードが『パンチ』に描くようになったのはが『パンチ』を抜けてからである)。\n最初にシェパードがミルンの挿絵を手がけたのは、『ぼくたちがとてもちいさかったころ』の出版に先立ち、そのうちの数編が『パンチ』に掲載されたときで、この際にシェパードが挿絵画家として抜擢されることになった。\nミルン自身はもっと名のある画家に頼みたいと思っていたため、当初はこの決定に不満を持っていたが、出来上がった挿絵を見て、自分の作品に挿絵を描いて成功する者はシェパードをおいて他にないと確信したという。\n実際シェパードの挿絵は、『プーさん』の物語世界と非常に合ったものとして、現在では『不思議の国のアリス』のために描かれたジョン・テニエルの挿絵と並ぶ評価を受けている。", "qas": [ { "question": "『不思議の国のアリス』の挿絵担当者は誰だったの?", "id": "tr-046-06-000", "answers": [ { "text": "ジョン・テニエル", "answer_start": 357, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "E.H.シェパードは何という雑誌の画家でしたか?", "id": "tr-046-06-001", "answers": [ { "text": "『パンチ』", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『クマのプーさん』出版の際には、シェパードはミルンの家に招かれ、キャラクターのモデルとなったぬいぐるみたちをさまざまな角度から丁寧にスケッチして挿絵の準備をしている。\nただし「プー」だけは、ミルン家のテディベアのスケッチも取っていたものの、結局描きなれていた自分の息子グレアム所有のよりずんぐりした体型のテディベア「グロウラー(うなりや)・ベア」のほうをモデルにして描くことになった。\n「グロウラー」はおそらくシュタイフ社製で、『ぼくたちがまだとてもちいさかったころ』の挿絵のほか、それ以前のシェパードによる『パンチ』寄稿作品にも何度か登場している。\nシェパードはまたミルンの別荘コッチフォード・ファームにも家族ぐるみで招かれ、この地を散策して物語の舞台のスケッチを取った。\nこれらのシェパードのスケッチの大部分は、1969年にロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に寄贈されている。\n後年、シェパードは『クマのプーさん』『プー横丁にたった家』の自身の挿絵に彩色をほどこしている。\nこの彩色版は1973年に出版され、その後ひろく使用されるようになった。\nまたシェパードは、もとの挿絵ほどの評価は受けていないものの、1950年代の終わりに絵柄を変えて描いた別の彩色版『プーさん』も手がけている。", "qas": [ { "question": "グレアム所有のテディベアは何製のものといわれていますか?", "id": "tr-046-07-000", "answers": [ { "text": "シュタイフ社製", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シェパードの息子の名前は何ですか?", "id": "tr-046-07-001", "answers": [ { "text": "グレアム", "answer_start": 134, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミルン家のテディベアと「グロウラー・ベア」はどちらの方が体型がスマートですか?", "id": "tr-046-07-002", "answers": [ { "text": "ミルン家のテディベア", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シェパードのスケッチが寄贈されている施設はどこですか?", "id": "tr-046-07-003", "answers": [ { "text": "ヴィクトリア&アルバート博物館", "answer_start": 369, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『クマのプーさん』(1926年)は前書きと10編のエピソードで構成されている。\n前書きでは前著『ぼくたちがとても小さかったころ』に触れられるとともに、前述した「ウィニー・ザ・プー」の名の由来や、前作には登場しなかったピグレットについて書かれている。\n本編の始まりと終わりをはじめ、物語のいくつかの部分で語り手が息子のクリストファー・ロビンに物語を聞かせている場面が挿入されており、これらの場面では「プー」たちは話したり動いたりしない、普通のぬいぐるみとして描かれている。\n本編はまず、プーが樹の上の蜜蜂の巣からハチミツを獲ろうとするエピソードからはじまる。\nプーはクリストファー・ロビンから風船を借り、それに捉まって樹の上まで浮かび上がるが、蜜蜂ではなかったことに気づき、クリストファー・ロビンに鉄砲で風船を撃ってもらい地面にもどってくる。\n第2章では、プーがラビットの家を訪問してパンをごちそうになるが、お腹が膨れたために出口の穴につっかえてしまい、その穴にはまったまま1週間を過ごすという失敗談が語られる。\n第3章からは、プーの親友である子豚のピグレットが登場する。\nこの章では、ふたりはプーが雪の中で見つけた謎の足跡をいっしょになって追跡するが、実は自分たちの足跡を追って樹の周りをぐるぐる回っていただけだったことが判明する。\nプーとピグレットの冒険は第5章でも語られ、ここでは「ヘファランプ」という謎の生き物を捕まえるために、二人で落とし穴を掘るが、その翌日、穴の底に設置したハチミツの壷の誘惑に耐え切れずに自ら罠にはまってしまったプーがピグレットたちによって発見される。", "qas": [ { "question": "『クマのプーさん』でピグレットが初登場するのは第何章からですか?", "id": "tr-046-08-000", "answers": [ { "text": "第3章", "answer_start": 456, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最初のエピソードでは、プーが何を獲ろうとしていましたか?", "id": "tr-046-08-001", "answers": [ { "text": "ハチミツ", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『クマのプーさん』が発表された年は?", "id": "tr-046-08-002", "answers": [ { "text": "1926年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "前後の第4章、第6章では、陰気なロバのイーヨーが話題の中心となる。\n第4章のイーヨーは自分の尻尾をどこかに無くして気を落としており、プーはあちこち探し回った挙句、それがオウルの家の玄関の鈴ひもになっているのを発見する。\n第6章のイーヨーは、誕生日であるにもかかわらず誰からも祝われないことで気を落としており、プーは中身をすっかり食べてしまったハチミツの壷を、ピグレットは持ってくる途中で割ってしまった風船をプレゼントするが、イーヨーは壷の中に割れた風船が入ることに喜んでプレゼントに夢中になる(その後、語り手はクリストファー・ロビンが誕生日パーティを開いてあげたことを彼に語る)。\n第7章では新たなキャラクター、カンガルーの親子のカンガとルーが森にやってきたエピソードが語られる。\n知らないうちに森に移り住んだ彼らにラビットは反感を持ち、プーとピグレットを説得して、まだ幼いルーを連れ去る計画に参加させる。\nしかしルーの身代わりになったピグレットがカンガによって水風呂に入れられたり、ラビットが連れ去ってきたルーに情が移ってしまうなどして計画は失敗に終わる。", "qas": [ { "question": "第4章と第6章で物語の中心となるキャラクターは何ですか?", "id": "tr-046-09-000", "answers": [ { "text": "イーヨー", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カンガとルーはどちらが子供ですか?", "id": "tr-046-09-001", "answers": [ { "text": "ルー", "answer_start": 387, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第8章では、彼らを含めた森の仲間たちを大勢ひきつれて、クリストファー・ロビンが南極(ノース・ポール)探検と称するピクニックに出かけ、そこでプーは「南極」(と称する棒(ポール))を発見しクリストファー・ロビンたちから褒め称えられる。\n第9章ではプーの大きなさらに活躍が語られる。\n大雨によって洪水が起こった森のなかで、ピグレットは恐怖に駆られて、投瓶通信で救援を頼み、その瓶をプーが偶然拾う。\n字が読めないプーは、水の上に浮かべた壷に乗ってクリストファー・ロビンのところまで行き、彼に手紙を読んでもらうことでピグレットの窮地を知る。\nそしてプーのとっさの機転で、クリストファー・ロビンのこうもり傘を逆さにして舟にすることを思いつき、これに乗ってふたりでピグレットのもとに駆けつける。\n最後の第10章では、このプーの活躍を讃えるためにクリストファー・ロビンが祝賀会を開き、プーに鉛筆のセットをプレゼントする。\nそして夕日に向かってプーとピグレットがいっしょに帰っていく様子が語られて幕となる。", "qas": [ { "question": "第8章でプーが発見したものとは何?", "id": "tr-046-10-000", "answers": [ { "text": "「南極」", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第10章でプーがプレゼントされた物とは何ですか?", "id": "tr-046-10-001", "answers": [ { "text": "鉛筆のセット", "answer_start": 387, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プーがピグレットを救出する時に利用したクリストファーの私物とは何ですか?", "id": "tr-046-10-002", "answers": [ { "text": "こうもり傘", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『プー横丁にたった家』(1928年)は、『クマのプーさん』と同じく前書きにあたる文章と10編のエピソードから構成されている。\n前書きにあたる部分は「コントラディクション」と題されており、本文では今作で物語が終わりになることが示唆されている。\n今作では『クマのプーさん』とは異なり、語り手とクリストファー・ロビンが語り合う場面は描かれていない。\n表題の『プー横丁にたった家』は、本編の最初のエピソードに由来している。\nこの章では雪の降る寒い日に、プーとピグレットはイーヨーのために「プー横丁」と名付けた場所に家を建ててやろうとするが、その家を建てるために使った材料は、イーヨーがすでに自分で建てた家であった。\nしかし「プー横丁」のほうが場所柄がよかったために、イーヨーは不審に思いながらも満足する。", "qas": [ { "question": "『プー横丁にたった家』が発表された年はいつ?", "id": "tr-046-11-000", "answers": [ { "text": "1928年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『プー横丁にたった家』は、プーとピグレットが誰のために家を建ててあげた話ですか?", "id": "tr-046-11-001", "answers": [ { "text": "イーヨー", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "今作の第2章からは、新たなキャラクターとして虎の子供のティガーが登場する。\n夜中にプーの家の前に迷い込んできたティガーに、プーはなにか食べ物を与えようとするが、自分のハチミツをあげても、森の仲間たちを訪ね歩いていろいろなものを与えてもどれもティガーの気に入らない。\nしかし最後に幼いルーが食べていた麦芽エキスが好物だったと判明する。\n第4章では、ティガーは見得をはってルーとともに木の上に登ったところ降りられなくなってしまう。\n2匹はクリストファー・ロビンの機転によって、みんなで広げた彼の上着の上に着地することで助けられるが、イーヨーはティガーの下敷きになってしまう。\n第6章では、イーヨーは川を流れてきて、ティガーから跳ね飛ばされて川に落ちたと主張する。\n言い合いになった彼らに対して、クリストファー・ロビンはプーが発明した「プー棒投げ」という棒流し遊びをみんなですることを提案し、この遊びを通じて事態は丸く収められる。\nしかしこのようなティガーの「はねっかえり」な態度が目に余ったラビットは第7章において、彼の態度を正すために、プーたちといっしょに森の中に誘い込んでそこにティガーを置き去りにするという計画をたてる。\nしかしその過程で自分たちが森の中で迷子になってしまい、ラビットは逆にティガーによって助け出されることになる。", "qas": [ { "question": "第2章で初登場するキャラクターの名前は何ですか?", "id": "tr-046-12-000", "answers": [ { "text": "ティガー", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ティガーの好物は何だったの?", "id": "tr-046-12-001", "answers": [ { "text": "麦芽エキス", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プーが編み出した遊びは何ですか?", "id": "tr-046-12-002", "answers": [ { "text": "「プー棒投げ」", "answer_start": 364, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "今作ではまた前作とつながりのあるエピソードが第3章に置かれている。\nここではプーとピグレットは、前作中で「ヘファランプ」を捉えるために自分たちで掘った落とし穴の中に誤って落ちてしまう。\nピグレットは穴の外から声をかけてきたクリストファー・ロビンを「ヘファランプ」と勘違いしておびえ、そのために恥じ入るが、しかし行方不明になっていたラビットの親戚(カブトムシ)をプーの背中に発見して面目を保つ。\n後半の第8章はピグレットのより大きな活躍が語られている。\nここではプーとピグレットは、オウルの家を訪問中、大風によってその家が倒壊したために家の中に閉じ込められてしまう。\nしかしピグレットは、プーに鼓舞されながらひもを伝って郵便受けから脱出し、プーたちのために救援を呼ぶことに成功する。\n続く第9章では、家をなくしてしまったオウルのために皆で新しい家を探すが、イーヨーがピグレットの家を空き家と勘違いして報告しにくると、ピグレットは勇気を出してオウルにその家を譲り、以降はプーといっしょの家に住むことに決める。", "qas": [ { "question": "第9章でピグレットは誰との同居を決めましたか?", "id": "tr-046-13-000", "answers": [ { "text": "プー", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第3章ではプーとピグレットは誰を捕まえようとしましたか?", "id": "tr-046-13-001", "answers": [ { "text": "「ヘファランプ」", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、中盤の第5章には、クリストファー・ロビンが成長しつつあることを示唆するエピソードが置かれている。\nここでは森の仲間たちは、クリストファー・ロビンの家の前に張られていた謎の張り紙に困惑するが、後日正しく綴られた張り紙が貼られたことによって、クリストファー・ロビンが午前中勉強をしに出かけているのだということが判明する。\nやがてクリストファー・ロビンとの別れが近づいていることを感じ取った森の仲間たちは、第10章において会議を開き、クリストファー・ロビンにあてた別れの挨拶として「決議文」を作って彼に渡し、そして彼がそれを読んでいる間に次々と立ち去っていく。\n残されたプーとクリストファー・ロビンは連れ立って魔法の場所である「ギャレオンくぼ地」に行き、そこでクリストファー・ロビンはプーに世の中の様々なことを話しあう。\n騎士の話に引かれたプーは、彼に頼んで自分を騎士に叙してもらう。\nそれからクリストファー・ロビンはプーに、自分はもう「なにもしない」をすることができなくなってしまったと告げる。\nそしてこの場所で再会することを誓いあうと、ふたりはまたどこかへと出かけていく。", "qas": [ { "question": "森の仲間たちがクリストファー・ロビンに渡した別れの挨拶とは何ですか?", "id": "tr-046-14-000", "answers": [ { "text": "「決議文」", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クリストファー・ロビンとプーの再会の地となる場所はどこですか?", "id": "tr-046-14-001", "answers": [ { "text": "「ギャレオンくぼ地」", "answer_start": 313, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『クマのプーさん』の物語はまず1925年12月24日、『イヴニング・ニュース』紙のクリスマス特集号に短編作品として掲載された。\nこれは『クマのプーさん』の第一章にあたる作品で、このときだけは挿絵をJ.H.ダウドがつけている。\nその後作品10話と挿絵が整い、刊行に先駆けて「イーヨーの誕生日」のエピソードが1926年8月に『ロイヤルマガジン』に、同年10月9日に『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』紙に掲載されたあと、同年10月14日にロンドンで(メシュエン社)、21日にニューヨークで(ダットン社)『クマのプーさん』が刊行された。\n前著『ぼくたちがとてもちいさかったころ』がすでに大きな成功を収めていたこともあり、イギリスでは初版は前著の7倍に当たる3万5000部が刷られた。\n他方のアメリカでもその年の終わりまでに15万部を売り上げている。\nただし依然として人気のあった前著を売り上げで追い越すには数年の時間を要した。", "qas": [ { "question": "『ぼくたちがとてもちいさかったころ』と『クマのプーさん』のイギリスでの初版の出版数が多かったのはどちらですか?", "id": "tr-046-15-000", "answers": [ { "text": "『クマのプーさん』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『クマのプーさん』の第一章にあたる作品は、いつ掲載されましたか?", "id": "tr-046-15-001", "answers": [ { "text": "1925年12月24日", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『クマのプーさん』はどこに初掲載されましたか?", "id": "tr-046-15-002", "answers": [ { "text": "『イヴニング・ニュース』", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『イヴニング・ニュース』に掲載された時の『クマのプーさん』に挿絵をつけたのは誰ですか?", "id": "tr-046-15-003", "answers": [ { "text": "J.H.ダウド", "answer_start": 98, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『プーさん』の人気を受けて、ミルンは1927年に刊行されたシリーズ3作目にあたる童謡集『ぼくたちは六歳』(NowWeAreSix)でも、歴史的人物などとともに『プーさん』のキャラクターをあちこちに登場させた。\n1928年に『プー横丁にたった家』(ThehouseatPoohCorner)が刊行されると、『プーさん』の続編としてロンドン、ニューヨークで爆発的な人気を博した。\n人気キャラクターであるティガーや「プー棒投げ」のエピソードが登場する『プー横丁』は、今日ではシリーズ4作のうちでもっとも人気のある作品となっている。\nこれらの『クマのプーさん』のシリーズは、刊行当時から種々の限定版を含めさまざまな種類の版が現在と同じように作られ、コレクターによる収集の的となった。\n前述のように、後年にはシェパード自身の手による2種類の彩色版も作られている。", "qas": [ { "question": "シリーズ4作の中で最も人気のある作品の正式タイトルは何?", "id": "tr-046-16-000", "answers": [ { "text": "『プー横丁にたった家』", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ぼくたちは六歳』が刊行された年はいつ?", "id": "tr-046-16-001", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "シリーズの出版に加えて、物語のなかにしばしば登場するプーの詩(鼻歌)は、フレーザー・シムソンによって曲が付けられ、1929年に『プーの鼻歌』としてミルンの序文つきで出版されている。\nシムソンはチェルシーでのミルン家の隣人であり、『ぼくたちがとてもちいさかったころ』『ぼくたちは六歳』の詩にもそれぞれ曲をつけている。\nこれらの詩や鼻歌は、高名なバリトン歌手であったディル・スミスをはじめ、ヴェラ・リン、ロバート・ティアーなど様々なプロの歌手がレコードやテープに吹き込んだ。\nプーの物語ははじめから朗読されることを意識して書かれていたということもあり、『クマのプーさん』の出版前にドナルド・カスロップがラジオで朗読したのをはじめとして、物語の朗読レコードやテープも数多く作られた。\nA.A.ミルン自身の朗読レコードも作られたが、クリストファー・ミルンは父の朗読を「一本調子」と評している。\nBBCのラジオ放送ではノーマン・シェリーがプーの役を演じたが、A.A.ミルンは彼の演技を高く評価し、ミルンの葬儀では彼によるミルンの詩の朗読・歌唱が行われた。", "qas": [ { "question": "プーの詩にメロディーをつけた人は誰ですか?", "id": "tr-046-17-000", "answers": [ { "text": "フレーザー・シムソン", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『プーの鼻歌』が出版された年はいつ?", "id": "tr-046-17-001", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }