{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "エジプト中王国", "paragraphs": [ { "context": "エジプト中王国(エジプトちゅうおうこく紀元前2040年頃-紀元前18世紀頃)は、古代エジプト史の時代区分のひとつである。第11王朝の王メンチュヘテプ2世(前2060年-前2010年)によるエジプト統一から、第12王朝の終了、または第13王朝終了(またはその治世の途中)までとする説がある。しかし、第13王朝についての情報が不完全であるため、明確な時代境界線を引くことは難しい。本記事では第11王朝によるエジプト統一から第13王朝の終了までを取り扱うが、この範囲について統一された見解が無い事に注意して頂きたい。", "qas": [ { "question": "エジプト中王国についての様々な説で、共通的にエジプト中王国の始まりと見なしているのは、誰の時代なの?", "id": "de-081-00-000", "answers": [ { "text": "メンチュヘテプ2世", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メンチュヘテプ2世は、第何王朝の王でありますか?", "id": "de-081-00-001", "answers": [ { "text": "第11王朝", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エジプト中王国の終了時点の候補とされるのは、第12王朝の終了時点と第何王朝の終了時点であるか?", "id": "de-081-00-002", "answers": [ { "text": "第13王朝", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エジプトの統一を成し遂げ、エジプト中王国の時代を開いた王は、誰か?", "id": "de-081-00-003", "answers": [ { "text": "メンチュヘテプ2世", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第6王朝末期、メンフィスを拠点とした古王国の権力が失われた後、第1中間期と呼ばれる長い混乱を経て、第11王朝の王メンチュヘテプ2世によって紀元前2040年頃、再びエジプトが統一された。第11王朝は古くからの首都メンフィスではなく、上流のテーベに成立した政権であり、このためテーベのエジプトにおける重要性は高まっていった。", "qas": [ { "question": "エジプト古王国は、どこを拠点としている時代のエジプトを指す表現であるの?", "id": "de-081-01-000", "answers": [ { "text": "メンフィス", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第1中間期と呼ばれる時代がやってきたのは、第何王朝が滅びたあとのことですか?", "id": "de-081-01-001", "answers": [ { "text": "第6王朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第1中間期とは、中王国とどの時代の間に位置する時代のことを指すか?", "id": "de-081-01-002", "answers": [ { "text": "古王国", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中王国の始まりが第11王朝からであると見なされていることを考えると、中王国の中心地域となるのは、どこだと考えられますか?", "id": "de-081-01-003", "answers": [ { "text": "テーベ", "answer_start": 118, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "第11王朝はナイル川上流、上エジプトのテーベ州侯による政権であった。第1中間期、周辺の州侯との戦いに勝利を収めつつ勢力を拡大し、北のヘラクリオポリスに拠点を置く第10王朝とエジプトを南北に二分した。第11王朝のメンチュヘテプ2世の時、ヘラクレオポリスを占領して再びエジプトを統一した。この統一以降が中王国に分類される。しかしメンチュヘテプ2世の死後間もなく、政権は第12王朝に移った。", "qas": [ { "question": "第10王朝は、どこを中心に成立されていた王朝であるの?", "id": "de-081-02-000", "answers": [ { "text": "ヘラクリオポリス", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第1中間期には、第何王朝と第11王朝により、エジプトが二分されていましたか?", "id": "de-081-02-001", "answers": [ { "text": "第10王朝", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第1中間期を終え、エジプトを統一した人物は、誰か?", "id": "de-081-02-002", "answers": [ { "text": "メンチュヘテプ2世", "answer_start": 105, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第1中間期の主要勢力と言える二つの王朝のうち、均衡を破り、統一を成し遂げたのは、どの王朝か?", "id": "de-081-02-003", "answers": [ { "text": "第11王朝", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アメンエムハト1世により第12王朝が開かれた。彼は第11王朝の宰相アメンエムハトであり、王位を簒奪したと一般に考えられている。第12王朝は政権を安定させることに成功し官僚制を整備、ファイユーム地方での干拓事業によってこの地をエジプト有数の穀倉地帯とし、対外的にはシリアとの貿易を拡大させる一方、南のヌビアを征服して領土を拡大した。", "qas": [ { "question": "第12王朝を成立させたのは、誰なの?", "id": "de-081-03-000", "answers": [ { "text": "アメンエムハト1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第11王朝でとの官職についていた人が、第12王朝を成立させましたか?", "id": "de-081-03-001", "answers": [ { "text": "宰相", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書の説明によると、第12王朝はどの地域との貿易拡大に力を入れたか?", "id": "de-081-03-002", "answers": [ { "text": "シリア", "answer_start": 131, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書の説明によると、第12王朝はどの地域を拠点とする勢力との戦いに力を入れたか?", "id": "de-081-03-003", "answers": [ { "text": "ヌビア", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第12王朝末期に王位継承の混乱の後、女王セベクネフェルが即位した。その後まもなく第13王朝が成立した。第13王朝は王権が弱く、数多く知られている王達の在位中の治績はほとんど不明である。また、第13王朝の王達は同一の家系にも属していなかった。しかし、整備された官僚制と官職を世襲する官僚達、そして統括者である宰相を中心に国家機構は正常に運営された。後半には下エジプト地方で、アジア系と見られる首長達が独自の政権(第14、15王朝))を築きエジプトの統一は崩れた。", "qas": [ { "question": "第12王朝の最後の王は、誰なの?", "id": "de-081-04-000", "answers": [ { "text": "セベクネフェル", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第何王朝の時代に下エジプト地方で、独自の政権が現れ、エジプトの統一が崩れたか?", "id": "de-081-04-001", "answers": [ { "text": "第13王朝", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第1中間期の長い混乱を経て統一された中王国では、大規模な建設事業や様々な文学が花開いた。文学分野では文章語、標準語としての中エジプト語の確立と共に古代エジプト文学における古典ともいえる作品がこの時代に生み出されたと見られている。建築では国力の増大に伴い、巨大な王墓建築が復活した他、第1中間期に勢力を拡大した各地の州侯の墳墓も数多く確認されている。第1中間期の葬祭の「民主化」は人々の信仰に変化をもたらし、葬祭慣行にも影響を及ぼした。", "qas": [ { "question": "エジプトが中王国として統一される前の混乱期を何と呼びますか?", "id": "de-081-05-000", "answers": [ { "text": "第1中間期", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第1中間期になると、どの建築が復活したか?", "id": "de-081-05-001", "answers": [ { "text": "王墓建築", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第1中間期に王墓建築が復活したのは、何が強くなったことの結果の一つであるか?", "id": "de-081-05-002", "answers": [ { "text": "国力", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中王国時代には古代エジプト文学を代表する古典が次々と生み出された。これらの作品は当時の政治や社会、宗教を色濃く映し出しており、文学作品を通じて中王国の社会や政策を知ることができる。", "qas": [ { "question": "古代エジプト文学を代表する古典が多く生み出された時期は?", "id": "de-081-06-000", "answers": [ { "text": "中王国時代", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中王国時代の文学作品には、当時の政治と社会、そして何が強く反映されていますか?", "id": "de-081-06-001", "answers": [ { "text": "宗教", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "古代エジプト語はその変化に基づいて古エジプト語、中エジプト語、新エジプト語、デモティック、コプト語の5つに分類されている。古エジプト語とよばれるのは初期王朝時代から第1中間期前半(第8王朝)時代頃までのエジプト語である。中エジプト語は、第1中間期から新王国時代までのエジプト語である。中エジプト語は古エジプト語に比べ細かいニュアンスなどの表現が可能になっており、文章語としてほぼ完成された物であった。そして第1中間期の後半から中王国時代にかけて、この中エジプト語を用いてエジプト文学の古典が次々と生み出されていくのである。", "qas": [ { "question": "古代エジプト語における最古の分類は、何か?", "id": "de-081-07-000", "answers": [ { "text": "古エジプト語", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "古代エジプト語を5つに分類した時、最も近い時代のものとされるのは何か?", "id": "de-081-07-001", "answers": [ { "text": "コプト語", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "古代エジプト語の5つの分類のうち、「語」という表現が付けられないのは、何か?", "id": "de-081-07-002", "answers": [ { "text": "デモティック", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "古エジプト語と中エジプト語、新エジプト語のうち、第1中間期に使われていなかったのは、どちらか?", "id": "de-081-07-003", "answers": [ { "text": "新エジプト語", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "古代エジプトの文学作品は古王国時代の物は基本的に知られておらず、その末期頃になるとピラミッド・テキストや墓に書かれる自伝など葬祭文書が現れるようになる。第1中間期になると当時の世相を反映した文学作品が中エジプト語で残されるようになり、次第に文学が隆盛していく様が見て取れる。古王国時代に成立したと思われる文学作品でも現存するものは中エジプト語のバージョンである場合も多い。", "qas": [ { "question": "古王国時代と中王国時代のうち、文学作品がより少なく発見されたのは、どちらの時代なの?", "id": "de-081-08-000", "answers": [ { "text": "古王国時代", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第1中間期のものと考えられ、当時の世相を反映した文学作品は、どの言語で書かれていますか?", "id": "de-081-08-001", "answers": [ { "text": "中エジプト語", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第1中間期には統一政府の崩壊に伴って統一的な文字教育が失われた。第1中間期に記述されたヒエラティックと呼ばれる草書体の文字は地域的な変形が見受けられている。しかし統一政権が成立すると、政府は官僚機構の運営にあたる書記を養成するために書記養成学校を築いた。主として中王国時代の文学を担ったのはここで文字を学んだ書記たちであった。", "qas": [ { "question": "統一政府が崩れたのは、どの時期のことか?", "id": "de-081-09-000", "answers": [ { "text": "第1中間期", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "この文書では、第1中間期に統一的な文学教育が失われたのは、何が崩れたからであると説明しているか?", "id": "de-081-09-001", "answers": [ { "text": "統一政府", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "酵素", "paragraphs": [ { "context": "酵素(こうそ、英:enzyme)とは、生体で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子である。\n酵素によって触媒される反応を“酵素的”反応という。\nこのことについて酵素の構造や反応機構を研究する古典的な学問領域が、酵素学(こうそがく、英:enzymology)である。\n酵素は生物が物質を消化する段階から吸収・分布・代謝・排泄に至るまでのあらゆる過程(ADME)に関与しており、生体が物質を変化させて利用するのに欠かせない。\nしたがって、酵素は生化学研究における一大分野であり、早い段階から研究対象になっている。\n多くの酵素は生体内で作り出されるタンパク質を基にして構成されている。\nしたがって、生体内での生成や分布の特性、熱やpHによって変性して活性を失う(失活)といった特性などは、他のタンパク質と同様である。", "qas": [ { "question": "酵素を英語表記するとどうなりますか?", "id": "de-082-00-000", "answers": [ { "text": "enzyme", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "生体で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子のことを何と言いますか?", "id": "de-082-00-001", "answers": [ { "text": "酵素", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "酵素を構成している成分は何という栄養素ですか?", "id": "de-082-00-002", "answers": [ { "text": "タンパク質", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "酵素の構造や反応機構を研究する古典的な学問領域を指すものは何ですか?", "id": "de-082-00-003", "answers": [ { "text": "酵素学", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "生体を機関に例えると、核酸塩基配列が表すゲノムが設計図に相当するのに対して、生体内における酵素は組立て工具に相当する。\n酵素の特徴である作用する物質(基質)をえり好みする性質(基質特異性)と目的の反応だけを進行させる性質(反応選択性)などによって、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こさせるのである。\n古来から人類は発酵という形で酵素を利用してきた。\n今日では、酵素の利用は食品製造だけにとどまらず、化学工業製品の製造や日用品の機能向上、医療など広い分野に応用されている。\n医療では消化酵素を消化酵素剤として利用したり、疾患により増減する酵素量を検査することで診断に利用されている。\nまたほとんどの医薬品は酵素作用を調節することで機能しているなど、酵素は医療に深くかかわっている。", "qas": [ { "question": "生体を機関に例えると、生体内における酵素は何に相当すると言えますか?", "id": "de-082-01-000", "answers": [ { "text": "組立て工具", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "目的の反応だけを進行させる酵素の性質を何というの?", "id": "de-082-01-001", "answers": [ { "text": "反応選択性", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "人類が古来から酵素を利用してきた方法は何ですか?", "id": "de-082-01-002", "answers": [ { "text": "発酵", "answer_start": 160, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "様々な化学変化を起こす酵素は幅広い分野で利用されているが、食品、化学工業製品以外で何の分野と深く関わっていますか?", "id": "de-082-01-003", "answers": [ { "text": "医療", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "生体内での酵素の役割は、生命を構成する有機化合物や無機化合物を取り込み、必要な化学反応を引き起こすことにある。\n生命現象は多くの代謝経路を含み、それぞれの代謝経路は多段階の化学反応からなっている。\n細胞内では、その中で起こるさまざまな化学反応を担当する形で多種多様な酵素がはたらいている。\nそれぞれの酵素は自分の形に合った特定の原料化合物(基質)を外から取り込み、担当する化学反応を触媒し、生成物を外へと放出する。\nそして再び次の反応のために基質を取り込み、目的の物質を生成しつづける。\nここで放出された生成物は、別の化学反応を担当する酵素の作用を受けて、さらに別の生体物質へと代謝されていく。\nこのような酵素の触媒反応の繰返しで必要な物質の生成や不必要な物質の分解が進行し、生命活動が維持されていく。", "qas": [ { "question": "生命を構成している化合物は有機化合物と何でしょう?", "id": "de-082-02-000", "answers": [ { "text": "無機化合物", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "生命現象に多く含まれるもので、多段階の化学反応から成っている経路は何ですか?", "id": "de-082-02-001", "answers": [ { "text": "代謝経路", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "必要な物質の生成や不必要な物質の分解が進行し、生命活動が維持されていくのは酵素の何反応が繰り返されて成されるのですか?", "id": "de-082-02-002", "answers": [ { "text": "触媒反応", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "生体内では化学工業のプラントのように基質と生成物の容器が隔てられているわけではなく、さまざまな物質が渾然一体となって存在している。\nしかし、生命現象をつくる代謝経路でいろいろな化合物が無秩序に反応してしまっては生命活動は維持できない。\nしたがって酵素は、生体内の物質の中から作用するべき物を選び出さなければならない。\nまた、反応で余分な物を作り出してしまうと周囲に悪影響を及ぼしかねないので、ある基質に対して起こす反応は決まっていなければならない。\n酵素は生体内の化学反応を秩序立てて進めるために、このように高度な基質選択性と反応選択性を持つ。\nさらにアロステリズム、阻害などによって化学反応の進行を周りから制御される機構を備えた酵素もある。\nそれらの選択性や制御性を持つことで、酵素は渾然とした細胞内で必要なときに必要な原料を選択し、目的の生成物だけを産生するのである。\nこのように、細胞よりも小さいスケールで組織的な作用をするのが酵素の役割である。\n人間が有史以前から利用していた発酵も細胞内外で起こる酵素反応によって行われる。", "qas": [ { "question": "生命現象をつくる代謝経路でいろいろな化合物が無秩序に反応してしまっては生命活動は維持できないので、酵素は生体内の物質の中から作用するべき物を選び出さなければならない。このような酵素の特徴を何と言いますか?", "id": "de-082-03-000", "answers": [ { "text": "基質選択性", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "酵素が生体内の物質の中から作用するべき物を選び出すが、その化学反応で余分な物を作り出してしまうと周囲に悪影響を及ぼしかねないので、ある基質に対して起こす反応は決まっていなければならない。このような酵素の特徴を何と言いますか?", "id": "de-082-03-001", "answers": [ { "text": "反応選択性", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "酵素は細胞よりも小さい規模でどういった作用をする役割をしているの?", "id": "de-082-03-002", "answers": [ { "text": "組織的な作用", "answer_start": 406, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "最初に発見された酵素はジアスターゼ(アミラーゼ)であり、1833年にA・パヤンとJ・F・ペルソ(JeanFrancoisPersoz)によるものである。\n彼らは麦芽の無細胞抽出液によるでんぷんの糖化を発見し、生命(細胞)が存在しなくても、発酵のプロセスの一部が進行することを初めて発見した。\n酵素の命名法の一部である語尾の「-ase」はジアスターゼ(diastase)が由来となっている。\nまた、1836年にはT・シュワンによって、胃液中からタンパク質分解酵素のペプシンが発見・命名されている。\nこの頃の酵素は生体から抽出されたまま、実体不明の因子として分離・発見されている。\n「酵素(enzyme)」という語は酵母の中(inyeast)という意味のギリシア語の\"ενζυμη\"(enzymi)に由来し、1876年にドイツのウィルヘルム・キューネによって命名された。", "qas": [ { "question": "A・パヤンとJ・F・ペルソが麦芽の無細胞抽出液によるでんぷんの糖化を発見し、生命(細胞)が存在しなくても、発酵のプロセスの一部が進行することを初めて発見した。この時見つかった最初の酵素は何?", "id": "de-082-04-000", "answers": [ { "text": "ジアスターゼ", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジアスターゼ(アミラーゼ)が発見された3年後にペプシンが発見されました。見つけたのは誰ですか?", "id": "de-082-04-001", "answers": [ { "text": "T・シュワン", "answer_start": 205, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「酵素(enzyme)」という名前を考え出した人は誰?", "id": "de-082-04-002", "answers": [ { "text": "ウィルヘルム・キューネ", "answer_start": 362, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2番目に発見された酵素は何ですか?", "id": "de-082-04-003", "answers": [ { "text": "ペプシン", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "しかし、酵素は生物から抽出するしか方法がなく、微生物と同様に加熱すると失活する性質を持っていたので、その現象は酵素が引き起こしているのか、それとも目に見えない生命(細胞)が混入して引き起こしているのかを区別することは困難であった。\nしたがって、酵素が生化学反応を起こすという考え方はすぐには受け入れられなかった。\n当時のヨーロッパの学会では、酵素の存在を否定するパスツールらの生気説派と酵素の存在を認めるユストゥス・フォン・リービッヒらの発酵素説派とに分かれて論争が続いた。\n最終的には、1896年にエドゥアルト・ブフナーが酵母の無細胞抽出物を用いてアルコール発酵を達成したことによって生気説は完全に否定され、酵素の存在が認知された。", "qas": [ { "question": "酵素の性質は微生物と同様にどうすると失活してしまうの?", "id": "de-082-05-000", "answers": [ { "text": "加熱", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "後に完全に否定されることになる生気説派の代表的な人物の名前は何?", "id": "de-082-05-001", "answers": [ { "text": "パスツール", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時のヨーロッパの学会では、酵素の存在有無をめぐって生気説派と発酵素説派の論争が続いていたが、最終的に認知されたのはどちらですか?", "id": "de-082-05-002", "answers": [ { "text": "発酵素説派", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エドゥアルト・ブフナーが酵母の無細胞抽出物を用いてアルコール発酵を達成したのは何年の事ですか?", "id": "de-082-05-003", "answers": [ { "text": "1896年", "answer_start": 244, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "上述したように、19世紀後半にはまだ酵素は生物から抽出される実体不明の因子と考えられていたが、酵素の性質に関する研究は進んだ。\nその研究の早い段階で、酵素の特徴として基質特異性と反応特異性が認識されていた。\nこれを概念モデルとして集大成したのが、1894年にドイツのエミール・フィッシャーが発表した鍵と鍵穴説である。\nこれは、基質の形状と酵素のある部分の形状が鍵と鍵穴の関係にあり、形の似ていない物質は触媒されない、と酵素の特徴を概念的に表した説である。\n現在でも酵素の反応素過程のモデルとして十分に通用する。\nただし、フィッシャーはこのモデルの実体が何であるかについては科学的な実証を行っていない。", "qas": [ { "question": "酵素の特徴である基質特異性と反応特異性を概念モデルとして集大成したものを何説と言いますか?", "id": "de-082-06-000", "answers": [ { "text": "鍵と鍵穴説", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "鍵と鍵穴説が発表されたのはいつ?", "id": "de-082-06-001", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "基質の形状と酵素のある部分の形状が鍵と鍵穴の関係にあり、形の似ていない物質は触媒されない、と酵素の特徴を概念的に表した説を発表したのは誰でしょう?", "id": "de-082-06-002", "answers": [ { "text": "エミール・フィッシャー", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1926年にジェームズ・サムナーがナタマメウレアーゼの結晶化に成功し、初めて酵素の実体を発見した。\nサムナーは自らが発見した酵素ウレアーゼはタンパク質であると実験結果と共に提唱したが、当時サムナーが研究後進国の米国で研究していたこともあり、酵素の実体がタンパク質であるという事実はなかなか認められなかった。\nその後、タンパク質からなる酵素の存在がジョン・ノースロップとウェンデル・スタンレーによって証明され、酵素の実体がタンパク質であるということが広く認められるようになった。", "qas": [ { "question": "初めて酵素の実体を発見できたのは、何の結晶化に成功したから?", "id": "de-082-07-000", "answers": [ { "text": "ナタマメウレアーゼ", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "酵素の実体がタンパク質であると最も早く提唱した人物は誰でしょう?", "id": "de-082-07-001", "answers": [ { "text": "サムナー", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "タンパク質からなる酵素の存在を証明した人物が2人います。\nウェンデル・スタンレーともう1人は何と言う名の人物ですか?", "id": "de-082-07-002", "answers": [ { "text": "ジョン・ノースロップ", "answer_start": 173, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "20世紀後半になると、X線回折を初めとした生体分子の分離・分析技術が向上し、生命現象を分子の構造が引き起す機能として理解する分子生物学と、細胞内の現象を細胞小器官の機能とそれに関係する生体分子の挙動として理解する細胞生物学が成立した。\nこれらの学問によってさらに酵素研究が進展する。\nすなわち、酵素の機能や性質が、酵素や酵素を形成するタンパク質の構造やそのコンホメーション変化によって説明付けられるようになった。", "qas": [ { "question": "酵素研究を進展させた学問は分子生物学ともう1つは何?", "id": "de-082-08-000", "answers": [ { "text": "細胞生物学", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "生命現象を分子の構造が引き起す機能として理解する学問名は何なの?", "id": "de-082-08-001", "answers": [ { "text": "分子生物学", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "酵素の機能がタンパク質の構造に起因するものであれば、何らかの酵素に適した構造をもつものは酵素としての機能を発現しうると考えることができる。\n実際に、1986年にはトーマス・チェックらが、タンパク質以外で初めて酵素作用を示す物質(リボザイム)を発見している。\n今日においては、この酵素の構造論と機能論に基づいて人工的な触媒作用を持つ超分子(人工酵素)を設計し開発する研究も進められている。", "qas": [ { "question": "タンパク質以外で酵素作用を示す物質を初めて発見したのはいつですか?", "id": "de-082-09-000", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リボザイムを発見したのは誰だといわれていますか?", "id": "de-082-09-001", "answers": [ { "text": "トーマス・チェック", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "酵素の構造論と機能論に基づく人工的な触媒作用を持つ超分子を何と言うの?", "id": "de-082-09-002", "answers": [ { "text": "人工酵素", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "RNAを除いて、酵素はタンパク質から構成されるが、タンパク質だけで構成される場合もあれば、非タンパク質性の構成要素(補因子)を含む場合(複合タンパク質)もある。\n酵素が複合タンパク質の場合、補因子と結合していないと活性が発現しない。\nこのとき、補因子と結合していないタンパク質をアポ酵素、アポ酵素と補因子とが結合した酵素をホロ酵素という。\n以下では、特に断らない限り、タンパク質以外の、金属を組み込んでいない有機化合物を単に有機化合物と呼称する。", "qas": [ { "question": "酵素の中で、タンパク質以外の構成要素を含む場合のタンパク質を何と呼んでいるか?", "id": "de-082-10-000", "answers": [ { "text": "複合タンパク質", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "非タンパク質性の構成要素である補因子と結合していないタンパク質を何と言うの?", "id": "de-082-10-001", "answers": [ { "text": "アポ酵素", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ホロ酵素はアポ酵素と何が結合した酵素のことを指しますか?", "id": "de-082-10-002", "answers": [ { "text": "補因子", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "酵素は実生活の色々な場面で応用されている。\n1つは酵素自体を利用するもので、代表的な分野として食品加工業が挙げられる。\nもう1つは生体がもつ酵素を観測・制御するもので、代表的な分野として医療・製薬業が挙げられる。\n人間は有史以前から、保存食などを作り出すために発酵を利用してきた。\nたとえば、味噌や醤油、酒などの発酵食品の製造には、伝統的に麹や麦芽などの生物を利用してきた。\n蒸米や蒸麦に種麹を与え、40時間ほどおくと麹菌が増殖し、米麹や麦麹となるが、こうした麹には各種の酵素、プロテアーゼ、アミラーゼ、リパーゼなどが蓄積される。\n発酵とは、これらの酵素が、食品中のタンパク質をペプチドやアミノ酸へと分解して旨味となり、炭水化物を乳酸菌や酵母が利用できる糖へと分解し甘味となり、独特の風味となっていく。", "qas": [ { "question": "生体がもつ酵素を観測・制御することを実生活で応用した分野は何ですか?", "id": "de-082-11-000", "answers": [ { "text": "医療・製薬業", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "酵素自体を利用し保存食等を作るのに用いられている方法は何?", "id": "de-082-11-001", "answers": [ { "text": "発酵", "answer_start": 130, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蒸米や蒸麦に種麹を与えた後、麹菌が増えてくるのには何時間ほどかかるの?", "id": "de-082-11-002", "answers": [ { "text": "40時間ほど", "answer_start": 200, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "発酵させることで食品に旨味や甘味が出て独特の風味が生じる食品を何と言いますか?", "id": "de-082-11-003", "answers": [ { "text": "発酵食品", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "今日では、酵素の実体や機能の詳細が判明したので、発酵食品であっても生物を使わずに酵素自体を作用させて製造することもあり、酵素を使って食品の性質を意図したように変化させることが可能になっている。\n酵素反応は、一般に流通している加工食品の多くにおいて製造工程中に利用されているほか、でん粉を原料とした各種糖類の製造にも用いられている。\nまた、果汁の清澄化や苦味除去、肉の軟化といった品質改良や、リゾチームによる日持ち向上などにも用いられている。\n最初に発見された酵素であるジアスターゼはアミラーゼの一種であり、消化剤として用いられる。", "qas": [ { "question": "発酵食品以外で酵素反応を取り入れている食品は何ですか?", "id": "de-082-12-000", "answers": [ { "text": "加工食品", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "加工食品の日持ちを向上させるのに利用されている酵素は何ですか?", "id": "de-082-12-001", "answers": [ { "text": "リゾチーム", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "消化剤に利用されている酵素は何?", "id": "de-082-12-002", "answers": [ { "text": "ジアスターゼ", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "加工食品における酵素反応の利用で、果汁においては甘味を強化させるためにどうしていますか?", "id": "de-082-12-003", "answers": [ { "text": "苦味除去", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "パンクレアチンは牛や豚の膵臓から、キモトリプシンとトリプシン(牛)、パンクレリパーゼ(豚)は医薬品として、ブロメライン(パイナップル)やパパイン(パパイヤ)はタンパク質消化を助ける健康食品としてよく用いられる。\n酵素を含む消化酵素剤が、指定医薬部外品や第2類医薬品として販売されている。\n高峰譲吉が小麦の皮フスマから発酵培養させたデンプン分解酵素のタカヂアスターゼも、配合される酵素のひとつである。\n消化酵素剤が病院で処方されることもあり、体内の消化酵素不足による消化器症状や血流、皮膚症状を起こしている状態を改善することが目的である。\n消化酵素剤は膵臓の病気による酵素不足のために医療として用いられ有効である。\n一方では、NIKKEISTYLEに掲載された近畿大学農学部准教授の有路昌彦の意見では、経口で酵素を摂取しても消化されるので効能が得られる科学的根拠はない。", "qas": [ { "question": "タンパク質消化を助ける健康食品としてよく用いられる酵素で、パパイヤに含まれているものは何?", "id": "de-082-13-000", "answers": [ { "text": "パパイン", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "医薬品に利用される酵素の中で、豚に含まれているものは何?", "id": "de-082-13-001", "answers": [ { "text": "パンクレリパーゼ", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "消化酵素剤に配合される酵素の1つで、高峰譲吉が培養させた酵素は何かな?", "id": "de-082-13-002", "answers": [ { "text": "タカヂアスターゼ", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "消化酵素剤が医療で必要となるのは、何の病気によって酵素不足が生じるためでしょうか?", "id": "de-082-13-003", "answers": [ { "text": "膵臓", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "今日では、洗剤や化粧品などの日用品に高い付加価値を付けるために酵素が利用される場合が多い。\nたとえば洗濯の場合、汗しみや食べ物しみは石鹸だけでは落としにくい。\n単純な油しみと違って固形物であるタンパク質を含んでおり、しみ成分が固形分と絡まって衣類の繊維に強く接着しているので、界面活性剤だけで洗濯しても汚れを落としきれない。\nそこで、タンパク質を分解する酵素であるプロテアーゼを含んだ酵素入り洗剤が広く利用されている。\nただし、通常のプロテアーゼは石鹸が溶けたアルカリ性領域では作用しないので、アルカリ性領域で良好に作用する(至適pHを持つ)アルカリプロテアーゼが利用されている。\nアルカリプロテアーゼは、1947年にオッテセン(M.Ottesen)らが好アルカリ菌から発見した。\n今日ではアルカリプロテアーゼは酵素入り洗剤用に大量生産されており、工業製品として生産されるプロテアーゼの60%以上を占めるようになっている。", "qas": [ { "question": "アルカリ性領域で良好に作用するタンパク質分解酵素は何ですか?", "id": "de-082-14-000", "answers": [ { "text": "アルカリプロテアーゼ", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "工業製品として生産されるプロテアーゼの中で最も多くの含有率を占める酵素は何?", "id": "de-082-14-001", "answers": [ { "text": "アルカリプロテアーゼ", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "小辺路", "paragraphs": [ { "context": "小辺路(こへち)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつである。\n高野山(和歌山県伊都郡高野町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)を結び、紀伊山地を南北に縦走する。", "qas": [ { "question": "熊野古道のひとつで高野山と熊野本宮大社を結ぶ道を何と言いますか?", "id": "de-083-00-000", "answers": [ { "text": "小辺路", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小辺路が南北に縦走しているのはどこの山地でしょう?", "id": "de-083-00-001", "answers": [ { "text": "紀伊山地", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高野山と熊野本宮大社は共に何県に所在しているの?", "id": "de-083-00-002", "answers": [ { "text": "和歌山県", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "小辺路は弘法大師によって開かれた密教の聖地である高野山と、熊野三山の一角である熊野本宮大社とを結ぶ道である。\n熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70キロメートル)で結び、奥高野から果無山脈にかけての紀伊山地西部の東西方向に走向する地質構造を縦断してゆく。\nそのため、大峯奥駈道を除けば最も厳しいルートである。", "qas": [ { "question": "密教の聖地とされる山は何なの?", "id": "de-083-01-000", "answers": [ { "text": "高野山", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "弘法大師が開いた仏教を何と言うの?", "id": "de-083-01-001", "answers": [ { "text": "密教", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "熊野古道の中で2番目に険しいルートである道は何ですか?", "id": "de-083-01-002", "answers": [ { "text": "小辺路", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "熊野古道の中で小辺路よりも厳しいルートである道は何?", "id": "de-083-01-003", "answers": [ { "text": "大峯奥駈道", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "近世以前の小辺路は紀伊山地山中の住人の生活道路であり、20世紀になって山中に自動車の通行できる道路が開通してからも、おおよそ昭和30年代までは使用され続けていた。\nそうした生活道路が、熊野と高野山を結ぶ参詣道として利用されるようになったのは近世以後のことであり、小辺路の名も近世初期に初出する。\n小辺路を通行しての熊野ないし高野山への参詣記録は近世以降のものが大半を占め、近世以前の記録もいくつか確認されているが少数である。", "qas": [ { "question": "小辺路という名が出始めたのはいつからか?", "id": "de-083-02-000", "answers": [ { "text": "近世初期", "answer_start": 137, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小辺路は近世以後は生活道路としてでなく、どういう道として利用され始めましたか?", "id": "de-083-02-001", "answers": [ { "text": "参詣道", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "熊野や高野山へ行くために小辺路を通ったという記録は、近世以前と近世以降のどちらに多くみられますか?", "id": "de-083-02-002", "answers": [ { "text": "近世以降", "answer_start": 172, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "高野山(和歌山県伊都郡高野町)を出発した小辺路はすぐに奈良県に入り、吉野郡野迫川村・十津川村を通って柳本(十津川村)付近で十津川(熊野川)に出会う。\n柳本を発って果無山脈東端にある果無峠を越えると和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着く。\nここからしばらくは熊野川沿いに国道168号線をたどり中辺路に合流し、熊野本宮大社に至る。", "qas": [ { "question": "小辺路が通る県は和歌山県と何県ですか?", "id": "de-083-03-000", "answers": [ { "text": "奈良県", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小辺路が奈良県に入って出会う川の名前は何?", "id": "de-083-03-001", "answers": [ { "text": "十津川", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古人のなかには全ルートをわずか2日で踏破したという記録もあるが、現在では2泊3日または3泊4日の行程とするのが一般的である。\n日本二百名山に数えられる伯母子岳が単独で、または護摩壇山の関連ルートとして歩かれている他は交通至難であることも手伝って歩く人も少なく、静謐な雰囲気が保たれている。", "qas": [ { "question": "小辺路の全ルートを最速で踏破した記録は何日となっていますか?", "id": "de-083-04-000", "answers": [ { "text": "2日", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ただ、全ルートの踏破には1000メートル級の峠3つを越えなければならず、一度山道に入ると長時間にわたって集落と行き合うことがないため、本格的な登山の準備が必要で、冬季には積雪が見られるため、不用意なアプローチは危険と言われている。\n高野山では町石道、黒河道、京大坂道、女人道、大峰道、有田・龍神道、相ノ浦道の高野参詣道と繋がる。", "qas": [ { "question": "小辺路には1000メートル級の峠がいくつあるの?", "id": "de-083-05-000", "answers": [ { "text": "3つ", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小辺路は高野山で7つの高野参詣道と繋がります。\n町石道、黒河道、京大坂道、大峰道、有田・龍神道、相ノ浦道とあともう1つは何ですか?", "id": "de-083-05-001", "answers": [ { "text": "女人道", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから、小辺路は『修験の道』としての性格をも帯びており、修験宿跡や廻峰記念額も残されていると伝えられている。\nしかし、小辺路の起源は、もともと紀伊山地山中の住人の生活道路として大和・高野・熊野を結ぶ山岳交通路が開かれていたものが畿内近国と高野山・熊野を結ぶ参詣道として利用され始めたことにあると考えられている。", "qas": [ { "question": "修験宿跡や廻峰記念額が残されていると伝えられていることから、小辺路はどのような性格を帯びていたか?", "id": "de-083-06-000", "answers": [ { "text": "『修験の道』", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小辺路が結ぶ聖地は熊野とどこ?", "id": "de-083-06-001", "answers": [ { "text": "高野", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小辺路はもともと紀伊山地山中の住人にとってどんな道だったの?", "id": "de-083-06-002", "answers": [ { "text": "生活道路", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "小辺路の生活道路としての形成時期ははっきりしないが、小辺路が通行する十津川村・野迫川村の領域に関係する史料には8世紀に遡るものが見られ、また、周辺に介在する遺跡・史資料などから少なくとも平安期には開創されていたと考えられている。\nこのことを裏付ける傍証として第21代熊野別当であった湛増が高野山往生院に住房を構えていた史実や、現在も小辺路からの下山口である八木尾口(田辺市本宮町)に正慶元年(1332年)に関所が設けられたことを伝える史料の記述(『紀伊続風土記』)がある。\nさらに正保3年(1646年)付の『里程大和著聞記』は郡山藩主本多内記と高取藩主上村出羽守が幕命を受けて紀和国境のルートを調査した文書だが、この中には「中道筋」なる名で小辺路がとり上げられている。", "qas": [ { "question": "小辺路が生活道路として開創されたのは平安期だと言われているが、その証の1つとして熊野別当により高野山往生院に住房を構えていた史実がある。当時の熊野別当は誰であったか?", "id": "de-083-07-000", "answers": [ { "text": "湛増", "answer_start": 141, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小辺路に関所が設けられたと記述してある史料名は何でしょう?", "id": "de-083-07-001", "answers": [ { "text": "『紀伊続風土記』", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『里程大和著聞記』を作成したのは2人の藩主ですが、その内高取藩主を務めていたのは誰ですか?", "id": "de-083-07-002", "answers": [ { "text": "上村出羽守", "answer_start": 276, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『里程大和著聞記』の中で小辺路は何と言う名でとり上げられていましたか?", "id": "de-083-07-003", "answers": [ { "text": "「中道筋」", "answer_start": 311, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『里程大和著聞記』の記述には「道幅一尺」「難所」「牛馬常通不申」といった表現が繰り返し見られ、険しい峰道か峠道、あるいは獣道程度の道でしかなく、困難な道であったことが分かる。\nまた小辺路で最も南にある峠である果無峠は果無山脈東端の峠であることから、果無山脈伝いに龍神方面(田辺市龍神村)からの往来があったという。\nこの道を龍神街道果無越といい、龍神方面と吉野・熊野および高野山とを果無峠および本宮(田辺市本宮町)を経由して結び、修験者や大峯参りの人々が行き交ったと伝えられている。", "qas": [ { "question": "小辺路の事を「道幅一尺」「難所」「牛馬常通不申」という表現を使い、とにかく困難な道であったと記した文書は何ですか?", "id": "de-083-08-000", "answers": [ { "text": "『里程大和著聞記』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "果無山脈伝いに龍神方面からの往来があったとされるのは、小辺路に位置する何峠によってそうなりましたか?", "id": "de-083-08-001", "answers": [ { "text": "果無峠", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "龍神方面と吉野・熊野および高野山とを果無峠および本宮を経由して結び、修験者や大峯参りの人々が行き交ったと伝えられている道の名称は何ですか?", "id": "de-083-08-002", "answers": [ { "text": "龍神街道果無越", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この他、特筆すべきものとして木地師や杓子屋の活動の道であることも挙げられよう。\n木地師とは、山で木を採り椀や盆などの木製品に仕上げる職人で、奥高野から吉野にかけての山域には近江国小椋村(滋賀県東近江市)を本拠地とした江州渡(こうしゅうわたり)木地師と呼ばれた人々が大正の頃までいたという。\n近世の参詣記にもこうした木地師がいた事が伝えられている。\n木地師たちの本拠地である小椋村では木地師の免状や鑑札を発行するとともに、各地の木地師のもとに奉納金を集める使者を送り出した。\nその記録として「氏子駈帳」なる文書が残されており、1893年(明治26年)まで250年間に渡って計87冊・3万世帯に及ぶ記録が残されている。\n上に引用した『三熊野参詣道中日記』から10年後にあたる宝暦8年(1758年)付で、3名の木地師の名が記録されている。\nその他にも野迫川村全体で宝永4年(1707年)から慶応3年(1867年)までの160年間の間に32回の氏子駈の記録がある。", "qas": [ { "question": "山で木を採り椀や盆などの木製品に仕上げる職人のことを何と呼びましたか?", "id": "de-083-09-000", "answers": [ { "text": "木地師", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "江州渡(こうしゅうわたり)木地師の本拠地は現在のどこにあたりますか?", "id": "de-083-09-001", "answers": [ { "text": "滋賀県東近江市", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "木地師の本拠地である小椋村から各地の木地師のもとに奉納金を集める使者を送り出した記録のある文書は何ですか?", "id": "de-083-09-002", "answers": [ { "text": "「氏子駈帳」", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "野迫川村全体での氏子駈の記録は、1707年以降160年間の間でどれくらいありましたか?", "id": "de-083-09-003", "answers": [ { "text": "32回", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "皇族や貴人の参詣道として利用された中辺路と異なり、小辺路は生活道としてはともかく参詣道としては近世以降に利用されるようになった道である。\nまた、同じ近世以降の熊野参詣道でも、文人墨客の道として利用された大辺路などと異なり、小辺路はもっぱら庶民の参詣道として用いられた。\nこうした事情から小辺路の記録は潤沢とは言い難い。\n源氏との戦いに敗れた平維盛が密かに逃亡の道としたとする言い伝えがあり、それにちなむ史跡があったほか、野迫川村の平という集落には維盛の落人伝説がある。\nまた元弘の乱(元弘元年〈1331年〉)に際して後醍醐天皇の王子護良親王が鎌倉幕府の追討を逃れて落ちのびた際に利用したとも伝えられる(「大塔宮熊野落ちの事」『太平記』巻第5)。\nしかし、これらはあくまで伝承にとどまる。", "qas": [ { "question": "小辺路、中辺路、大辺路の中で貴族や貴人の参詣道として利用されたのはどれですか?", "id": "de-083-10-000", "answers": [ { "text": "中辺路", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "文人墨客の道として利用された熊野参詣道は何と呼ばれているの?", "id": "de-083-10-001", "answers": [ { "text": "大辺路", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "元弘の乱は西暦何年に起こったの?", "id": "de-083-10-002", "answers": [ { "text": "1331年", "answer_start": 247, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "元弘の乱の時に鎌倉幕府から逃れる際に利用したとされたのは誰のことですか?", "id": "de-083-10-003", "answers": [ { "text": "護良親王", "answer_start": 266, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "確実な参詣の記録として最古のものは16世紀に遡り、伊予国の武将土居清良が戦死した父の菩提を弔うために高野山を経て熊野三山に参詣したとするものである。\n土居清良は伊予国領主の西園寺氏に仕えた西園寺十五将のひとりである。\n土居氏は紀伊国牟婁郡木本土居(三重県熊野市)を発祥とし、熊野三党の一家・鈴木一党を祖とすると伝えられ、熊野三山を篤く信仰していた。\n清良の参詣記は清良の一代記『清良記』巻十七に収められている。\n清良はまず高野山に参詣し、さらに大嶽(大滝)・大股を経て五百瀬(いもぜ)で神納川(かんのがわ)を渡って多量の弓を購入し、矢倉に一泊。\n「柳本(やぎもと)の渡」から「はてなし山」(果無峠)を越えて「焼尾谷」(八木尾)に下り、本宮に参詣したとしている。\nこの後、清良は那智・新宮を巡拝し、先祖の故地である木本土居を訪ね、伊勢に向かっている。", "qas": [ { "question": "小辺路を利用して熊野三山を参詣した最古の記録は何という書物に収められている?", "id": "de-083-11-000", "answers": [ { "text": "『清良記』", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小辺路を利用して熊野三山を参詣した西園寺十五将のひとりは誰なの?", "id": "de-083-11-001", "answers": [ { "text": "土居清良", "answer_start": 75, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "熊野三山を篤く信仰していた土井氏の発祥地はどこですか?", "id": "de-083-11-002", "answers": [ { "text": "紀伊国牟婁郡木本土居", "answer_start": 113, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "次いで天正9年(1581年)には、毛利氏の家臣玉木吉保が京都から伊勢に詣でた後、新宮・那智・本宮を巡拝し、高野山奥ノ院に参詣したことが知られている。\n吉保の参詣記は、一代記『身自鏡』に記されたもので、地名が明言されていないが、7月10日に新宮に到着し、14日に高野山に到るという日程や経路から見て小辺路を利用したことは確実である。", "qas": [ { "question": "小辺路を利用した参詣が記録されている『身自鏡』は誰による一代記ですか?", "id": "de-083-12-000", "answers": [ { "text": "玉木吉保", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "玉木吉保が京都から伊勢に詣でた後、新宮・那智・本宮を巡拝し、高野山奥ノ院に参詣した際に小辺路を利用したのは日本の元号でいつのことですか?", "id": "de-083-12-001", "answers": [ { "text": "天正9年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "このように中世における事例が見られるとはいえ、小辺路が参詣道として確立するのは近世になってのことであり、その呼称の初見も近世初期のことである。\n小辺路の呼称を確認できる最古の史料は、寛永5年(1628年)に編纂された笑話集『醒睡笑』巻一に収められた次の小話で、小辺路の読み方(こへち)の典拠もここである。\n著者である安楽庵策伝は、『醒睡笑』を京都所司代板倉重宗に寛永5年(1628年)に献呈している。\nこの成立年代を考えるならば、小辺路の名は早ければ戦国時代末期から近世初頭には知られていたことが推測できる。", "qas": [ { "question": "小辺路が参詣道として確立したのはいつですか?", "id": "de-083-13-000", "answers": [ { "text": "近世", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小辺路の呼称を確認できる最古の史料は何かな?", "id": "de-083-13-001", "answers": [ { "text": "『醒睡笑』", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『醒睡笑』は小辺路の呼称を確認できる最古の史料で、小辺路の読み方をどう読みましたか?", "id": "de-083-13-002", "answers": [ { "text": "こへち", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小辺路の呼称を確認できる最古の史料『醒睡笑』は誰によって書かれましたか?", "id": "de-083-13-003", "answers": [ { "text": "安楽庵策伝", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "小辺路には始点と終点のそれぞれにちなんだ呼称がいくつも付けられた。\nそれらを一部挙げてみると、高野熊野街道、西熊野街道、熊野街道(『紀伊続風土記』)、高野道ないし熊野道といったものが知られているが、近世の参詣記などでは高野道ないし熊野道と呼ばれる。\nまた、奈良県教育委員会の調査報告によれば、小辺路の名は地元ではあまり用いられず、高野山や熊野に由来する「高野道」「高野街道」(野迫川村内)ないし「熊野道」「熊野街道」(十津川村内)と呼ばれることが多く、高野山ないし大師信仰との結びつきの強さも指摘できよう。\nこうした呼称の違いは、各地域と高野・熊野との結びつきや巡礼等の目的地の違いに依存すると考えられ、「小辺路」は参詣道全体を鳥瞰するような場合に用いられる名なのである。", "qas": [ { "question": "小辺路の呼称はいくつもあり、近世の参詣記では高野道や何と呼ばれていたの?", "id": "de-083-14-000", "answers": [ { "text": "熊野道", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小辺路という名は地元ではあまり用いられないという調査報告をしたのはどこですか?", "id": "de-083-14-001", "answers": [ { "text": "奈良県教育委員会", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17世紀後半以降の近世になると畿内近国の町人たちによる参詣記が見られ、小辺路の詳しい様子を知ることができるようになる。\nまた、東国からの参詣者たちも伊勢・熊野への参詣の後、高野山や畿内へ向かう短絡経路として小辺路をしばしば通行した。\n小辺路の要所に設けられた宿屋・茶店、道標といった交通遺跡が設けられたのも近世のことであり、重要な交通路であったことがわかる。", "qas": [ { "question": "畿内近国の町人たちによる小辺路を利用した参詣記が見られるようになったのは何世紀頃のことですか?", "id": "de-083-15-000", "answers": [ { "text": "17世紀後半以降", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東国からの参詣者が高野山や畿内への近道として通行した道は何ですか?", "id": "de-083-15-001", "answers": [ { "text": "小辺路", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "河内国丹北郡向井村(大阪府松原市)の庄屋で談林派の俳人でもあった寺内安林は『熊野案内記』(以下、『案内記』)と題する紀行文を残している。\n安林は天和2年(1682年)、友人3、4人とともに高野山から小辺路を経て熊野三山に参詣し、那智からは大辺路経由で西国三十三所の札所(紀三井寺から葛井寺まで)を巡拝して帰郷している。\n『案内記』は俳句や狂歌、挿絵を交えた案内記となっている。\n松尾芭蕉の門人である河合曾良は元禄4年(1691年)の3月から7月下旬まで4か月近くにわたって近畿各地を巡遊した際に、小辺路を通行して高野山から本宮へ参詣を果たしている。\n曾良の旅行記『近畿巡遊日記』によれば4月9日に高野山に上り、大又(大股)・長井(永井)に宿をとり、翌々日の4月11日には本宮に到達している。", "qas": [ { "question": "小辺路を経て熊野三山を参詣した記録がある『熊野案内記』の著者は何という俳人ですか?", "id": "de-083-16-000", "answers": [ { "text": "寺内安林", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "寺内安林が小辺路を経て熊野三山を参詣したのは日本の元号でいつのことですか?", "id": "de-083-16-001", "answers": [ { "text": "天和2年", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "松尾芭蕉の門人で『近畿巡遊日記』という旅行記を書いた人物は誰?", "id": "de-083-16-002", "answers": [ { "text": "河合曾良", "answer_start": 199, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "河合曾良が小辺路を通行して参詣したのは日本の元号で何年のことですか?", "id": "de-083-16-003", "answers": [ { "text": "元禄4年", "answer_start": 204, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ウツボ", "paragraphs": [ { "context": "ウツボ(鱓(「魚へん」に「單」))は、ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科(Muraenidae)に分類される魚類の総称。\n日本ではその中の一種Gymnothoraxkidako(TemmincketSchlegel,1846)の標準和名としても使われる。", "qas": [ { "question": "ウツボは何目に属していますか?", "id": "de-084-00-000", "answers": [ { "text": "ウナギ目", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウツボの漢字表記は何ですか?", "id": "de-084-00-001", "answers": [ { "text": "鱓", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "温暖な地域の浅海に生息する海水魚で、鋭い歯と大きな口を持つ大型肉食魚でもある。\n世界中の熱帯・温帯から2亜科・15属・約200種が知られる。\n日本では南西諸島に多くの種類が分布する。\n和名「ウツボ」は、長い体が矢を入れる容器「靫」(うつぼ)に似ているからという説、あるいは岩穴に潜む習性から空洞を意味する古語「うつほら」が転用され「うつほ」を経て「うつぼ」となったという説もある。\n英語では\"Moray\"または\"Morayeel\"と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "Morayeelとは何のことですか?", "id": "de-084-01-000", "answers": [ { "text": "ウツボ", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウツボは世界に何種類いますか?", "id": "de-084-01-001", "answers": [ { "text": "約200種", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウツボと容姿が似ている容器とは何ですか?", "id": "de-084-01-002", "answers": [ { "text": "「靫」", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「うつほら」とはどのような意味ですか?", "id": "de-084-01-003", "answers": [ { "text": "空洞", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "大きさは全長20センチから4メートルまで幅広いが、全長1メートル前後の種類が多い。\n他のウナギ目魚類同様に体は前後に細長い円筒形で、腹鰭が退化し、背鰭・尾鰭・臀鰭が一繋がりになっている。\nただしウツボ類の体はいくらか上下に平たいものが多く、腹鰭のみならず胸鰭も退化している。\n体色は種によって様々で、多くは生息環境に応じた保護色として地味な色をしているが、トラウツボのように単体で見ると派手な紋様をもつものもある。\n中にはハナヒゲウツボのように鮮やかな体色のものもいる。", "qas": [ { "question": "ウツボは全長何メートル前後の種類が多いですか?", "id": "de-084-02-000", "answers": [ { "text": "1メートル", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大きなウツボは全長何メートルありますか?", "id": "de-084-02-001", "answers": [ { "text": "4メートル", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小さなウツボは全長何メートルですか?", "id": "de-084-02-002", "answers": [ { "text": "20センチ", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "口は大きく目の後方まで達し、鋭い歯が発達する。\n種類によっては鼻先が湾曲し、口を完全に閉じることができないものもいる。\nなおウツボ類は獲物を捕えるための口顎の奥に、食べたものを食道に進めるための「咽頭顎」を持っている。\nまた魚の鼻孔は左右に2対あるが、ウツボ類は2対の鼻孔が鼻先と目の近くに離れてついている。\n鼻孔が管状に伸びた種類が多く、ハナヒゲウツボでは花びら状にもなる。\n鰓孔は小さく目立たない。\n皮膚は厚く、体のみならず鰭までも覆う。\n鱗は微小で皮下に埋もれる。", "qas": [ { "question": "ウツボ類についている口顎の奥にある部位は何ですか?", "id": "de-084-03-000", "answers": [ { "text": "「咽頭顎」", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "全てが温暖な地域の浅海に生息し、特にサンゴ礁や岩礁に生息する種類が多い。\n一部の種類はマングローブを含む汽水域や淡水域にも侵入する。\n表皮が湿っていれば粘膜を介した皮膚呼吸によって30分ほどは水中でなくても活動が可能なので(日本に居る種でも)、強力な嗅覚で、潮溜まりに這い上がって小魚を狩ったり、岩場で魚をさばいている釣り人のところへ上がってきたりすることがあり、注意を要する。", "qas": [ { "question": "表皮が湿っている状態で皮膚呼吸できる時間はどれくらいですか?", "id": "de-084-04-000", "answers": [ { "text": "30分ほど", "answer_start": 90, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "基本的には巣穴からあまり動かず、岩陰や洞窟に潜んで獲物を待ち伏せるが、夜になると海底近くを泳ぎ回ることもある。\n食性は肉食性で、魚類・甲殻類・頭足類などの小動物を大きな口で捕食する。\n特にタコ類にとっては有力な天敵の一つとなっている。\nまたテトラポッドや岩礁の食物ピラミッドの頂点である。", "qas": [ { "question": "ウツボの食性は何ですか?", "id": "de-084-05-000", "answers": [ { "text": "肉食性", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "自分より大きな敵が近づいた時は大きな口を開けて威嚇し、それでも敵が去らない場合は咬みつく。\n毒はないが歯は鋭く顎の力も強いので、人間が咬みつかれると深手を負うことになる。\nウツボ類の分布域では、潜水や釣りなどの際に十分な注意が必要である。\nただし見た目のイメージと違い臆病な所もあり、人間の側から無用な攻撃や接近をしない限りは積極的に噛み付いてくることは少ない。\n潜水中にウツボと遭遇した際にはゆっくりと離れれば攻撃を受けることは少ない。\nまたダイバーが魚の切身や魚肉ソーセージ等の餌を見せると、巣穴から出てきてそれに喰らいつくことがある。\nダイバーに慣れたウツボの中には巣穴から出てきて餌をねだったりする行動も見られる。", "qas": [ { "question": "ウツボは体のどの部分を使って威嚇をするの?", "id": "de-084-06-000", "answers": [ { "text": "口", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "他の動物にとっては危険な肉食魚ではあるが、ウツボ類の周囲にはオトヒメエビ、アカシマシラヒゲエビ、ゴンズイの若魚、ホンソメワケベラなどの小動物が見られる。\nこれらはウツボ類の皮膚表面や口の中の寄生虫を掃除することでウツボ類と相利共生しており、ウツボ類もこれらの小動物を捕食することはまずない。\nまた、イセエビ類とも相利共生の関係にあり、この場合は、イセエビは天敵であるタコから守ってもらえ、ウツボの方は大好物のタコがイセエビに吊られて自分から寄ってきてくれるというものとなっている。\nサンゴ礁付近ではハタ類と協力して狩りを行うことも報告されている。\nまたウツボ類の食事のおこぼれにあずかろうと多くの小魚がウツボの採餌についていくといった行動も観察されている。", "qas": [ { "question": "ウツボの大好物は何?", "id": "de-084-07-000", "answers": [ { "text": "タコ", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イセエビの天敵を食べてくれる生物は何ですか?", "id": "de-084-07-001", "answers": [ { "text": "ウツボ", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イセエビの天敵は何ですか?", "id": "de-084-07-002", "answers": [ { "text": "タコ", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウツボとイセエビはどのような関係だといえますか?", "id": "de-084-07-003", "answers": [ { "text": "相利共生", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ナミダカワウツボ(涙河鱓)EchidnarhodochilusBleeker,1863は全長30センチほどの小型種である。\nインド太平洋熱帯域に分布するが、日本では西表島周辺だけで生息が確認されている。\n環境省レッドリストでは、2007年版で絶滅危惧IA類(CR)に指定された。\n成魚は全身が紫褐色だが、生きているときは体表が淡緑色の粘液で覆われる。\n和名は目の下に白い斑点があって涙を流しているように見えることと、汽水域に生息することに由来する。", "qas": [ { "question": "ナミダカワウツボの海外での分布地域はどこですか?", "id": "de-084-08-000", "answers": [ { "text": "インド太平洋熱帯域", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナミダカワウツボの日本での分布地域はどこですか?", "id": "de-084-08-001", "answers": [ { "text": "西表島周辺", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナミダカワウツボの漢字表記は何ですか?", "id": "de-084-08-002", "answers": [ { "text": "涙河鱓", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナミダカワウツボの成魚は何色ですか?", "id": "de-084-08-003", "answers": [ { "text": "紫褐色", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "トラウツボ(虎鱓)Enchelycorepardalis(TemmincketSchlegel,1846)は全長90cmほどである。\n鼻孔が管状に伸びて鼻先と目の上に角のように突き出る。\n顎が上下とも湾曲していて口を完全に閉じられず、鋭い歯を剥き出しにする。\nまた、全身に黒褐色で縁取られた白い斑点があるのも特徴で、ウツボよりも鮮やかな体色をしている。\nインド太平洋の熱帯・温帯域に分布し、日本では本州中部以南に分布するが、沖縄本島以南の琉球列島には分布しない。\n地方によっては食用にする。\n標準和名は高知県での呼び名に由来し、他の地方名としてジャウツボ(高知・和歌山県)、コメウツボ(和歌山県)などがある。", "qas": [ { "question": "ウツボとトラウツボはどちらの方が体色が鮮やかですか?", "id": "de-084-09-000", "answers": [ { "text": "トラウツボ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トラウツボの海外で分布している海域はどこですか?", "id": "de-084-09-001", "answers": [ { "text": "インド太平洋", "answer_start": 177, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トラウツボを漢字表記するとどうなりますか?", "id": "de-084-09-002", "answers": [ { "text": "虎鱓", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コメウツボはどの地域での呼称ですか?", "id": "de-084-09-003", "answers": [ { "text": "和歌山県", "answer_start": 281, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ウツボ(鱓)Gymnothoraxkidako(TemmincketSchlegel,1846)は全長80センチほど。\n全身は黒褐色と黄色のまだら模様だが、全体的に見ると幅の狭い横しま模様となり、日本産ウツボ類の中では最も横しま模様が多い。\nまた、尻鰭の縁が白いことでよく似たミナミウツボG.chilospilusBleeker,1865と区別できる。\n本州中部以南から台湾、南シナ海まで北西太平洋に広く分布するが、奄美大島以南の琉球列島には分布しないとされたが、慶良間諸島にはごく稀だが分布している。\n日本で単に“ウツボ”と呼ぶ場合この種を指すことが一般的で、他の種のウツボが混在して生息・水揚げされる地域では「マウツボ(真鱓)」「ホンウツボ(本鱓)」と呼ばれることもある。\n地方によっては食用にする。\nナマダ(東京)、ジャウナギ(伊豆半島)、ヘンビ(和歌山県)、ヒダコ(愛媛県)、キダカ(鹿児島県)など多くの方言呼称がある。\n種小名\"kidako\"は神奈川県三崎地区や長崎県での呼称「キダコ」に由来する。\nキダカやキダコといった地方名は、気が荒いことを表す「気猛」に由来するとされる。", "qas": [ { "question": "ウツボは東京では何と呼ばれていますか?", "id": "de-084-10-000", "answers": [ { "text": "ナマダ", "answer_start": 353, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウツボの伊豆半島での呼称は何ですか?", "id": "de-084-10-001", "answers": [ { "text": "ジャウナギ", "answer_start": 361, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "和歌山県ではウツボは何と呼ばれていますか?", "id": "de-084-10-002", "answers": [ { "text": "ヘンビ", "answer_start": 373, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鹿児島県でのウツボの呼称は何ですか?", "id": "de-084-10-003", "answers": [ { "text": "キダカ", "answer_start": 392, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ドクウツボ(毒鱓)Gymnothoraxjavanicus(Bleeker,1859)は体長3メートルの記録がある大型種で、鰓孔が黒いことで近縁種と区別できる。\nインド洋と太平洋の熱帯域に広く分布し、日本では琉球列島で見られる。\n食用にもされるが名の通り大型個体はシガテラ毒を持つことがある。", "qas": [ { "question": "ドクウツボは漢字でどう書きますか?", "id": "de-084-11-000", "answers": [ { "text": "毒鱓", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドクウツボの日本での生息域はどこですか?", "id": "de-084-11-001", "answers": [ { "text": "琉球列島", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドクウツボの体長は最大で何メートルですか?", "id": "de-084-11-002", "answers": [ { "text": "3メートル", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ドクウツボはインド洋とどの海域の熱帯域に分布しますか?", "id": "de-084-11-003", "answers": [ { "text": "太平洋", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "モヨウタケウツボ(紋様丈鱓)Pseudechidnabrummeri(Bleeker,1858–59)は全長80cmほどで、他のウツボ類よりも体が非常に細長い。\n頭部に小さな黒点が散らばり、体の割に背鰭が高い。\n西太平洋からインド洋の熱帯域に分布し、日本では琉球列島に分布するが、捕獲例は少ない。", "qas": [ { "question": "紋様丈鱓とは何のことですか?", "id": "de-084-12-000", "answers": [ { "text": "モヨウタケウツボ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モヨウタケウツボが日本で分布している地域はどこですか?", "id": "de-084-12-001", "answers": [ { "text": "琉球列島", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モヨウタケウツボの体の特徴は何ですか?", "id": "de-084-12-002", "answers": [ { "text": "非常に細長い", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モヨウタケウツボはインド洋のどのような区域に生息していますか?", "id": "de-084-12-003", "answers": [ { "text": "熱帯域", "answer_start": 117, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハナヒゲウツボ(花髭鱓)RhinomuraenaquaesitaGarman,1888は全長1.2メートルほどで、他のウツボ類より体が比較的細長い。\n鼻先の鼻孔が花びら状に広がり、さらに下顎にも2本の細い髭状突起を持つ。\n奄美大島以南の西太平洋熱帯域に分布し、サンゴ礁に生息する。\n雄性先熟の性転換をすることも知られ、全身が黒くて背鰭が白い若魚が、体が青く口先と背鰭が黄色のオスに成長し、更に全身黄色のメスに成長する。", "qas": [ { "question": "ハナヒゲウツボの鼻孔はどのような状態で広がっているの?", "id": "de-084-13-000", "answers": [ { "text": "花びら状", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハナヒゲウツボの性転換後の性別は何?", "id": "de-084-13-001", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハナヒゲウツボの性転換前の性別は何?", "id": "de-084-13-002", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハナヒゲウツボは髭状突起をいくつもっていますか?", "id": "de-084-13-003", "answers": [ { "text": "2本", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オナガウツボ(尾長鱓)Strophidonsathete(Hamilton,1822)は体長4メートルの記録があり、ウツボ類最長の種類とされる。\n他のウツボ類よりも体が細長く、体色は淡褐色をしている。\nインド太平洋の熱帯海域に分布し、浅海の砂泥底に生息するが、汽水域や淡水域に侵入することもある。", "qas": [ { "question": "ウツボ類最長の種類とは何ですか?", "id": "de-084-14-000", "answers": [ { "text": "オナガウツボ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オナガウツボの最大記録は何メートルですか?", "id": "de-084-14-001", "answers": [ { "text": "4メートル", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オナガウツボの体色は何ですか?", "id": "de-084-14-002", "answers": [ { "text": "淡褐色", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オナガウツボはどこの熱帯海域に生息していますか?", "id": "de-084-14-003", "answers": [ { "text": "インド太平洋", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "釣りや延縄、各種の網など沿岸漁業で漁獲されることがあるが、鋭い歯で網や釣り糸を切断したり、暴れて網をもつれさせたりする上、水揚げしても咬みついてくる危険が大きいので十分に注意を要する。\n釣り上げた場合には道糸ごと切断して逃がす釣り人もいる。\n生息するほとんどの地域では利用されないが、食用にする地域も各地に点在する。\n日本では南房総・紀伊半島・四国・九州・沖縄、中国では福建省・広東省・海南省などでウツボ漁が行われている。\n多くは長い筒状の筌(うけ)を多数海底に沈めて漁獲し、この中に餌を入れて誘い込む場合もある。\nこれらの筌は地方によって「うつぼ篭」「戻り篭」「もんどり」などと呼ばれる。\n地域によって食用にする種には違いがある。\nウツボ属の魚でも骨などが多く食用に適さない種類やドクウツボのようにシガテラ毒を持つものもおり、大型個体を食用にする際は咬みつきに加え中毒にも注意が必要となる。", "qas": [ { "question": "ウツボ漁に使用される長い筒を何といいますか?", "id": "de-084-15-000", "answers": [ { "text": "筌", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「もんどり」とは何を指した言葉ですか?", "id": "de-084-15-001", "answers": [ { "text": "筌", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドクウツボが持っている毒の名前は何?", "id": "de-084-15-002", "answers": [ { "text": "シガテラ毒", "answer_start": 350, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "厚い皮と小骨があって調理に手間がかかるが、白身で美味とされている。\nハモと同様に骨切りを行うことが多い。\n地方により食べ方も異なる。\n日本ではウツボ、ドクウツボ、トラウツボなどを漁獲し、刺身、湯引き、たたき、干物、蒲焼、煮魚、鍋料理、天ぷら、佃煮などで食用にする。\n千葉県館山市相浜地区では、房州弁で「ナマダ」と呼ばれ、開いてタワシでこすったあと、塩漬けして天日干しにする。\n和歌山県南部では正月料理の食材として珍重される。\nすさみ町ではウツボの干物を千切りにして唐揚げにした後、水飴と醤油のタレを絡ませたウツボの揚げ煮が間食的に食べられているが、サビウツボやワカウツボなど、他の種は小骨が多いなどの理由で食用にされない。\n中国の広東料理ではアセウツボやマメウツボなどを「油追」(ヤウジョイyau4jeui1)と称し、唐揚げやスープなどにする。\n食用以外にも、厚く丈夫な皮膚をなめし、皮革として利用することがある。\nまた、体色が多種多彩なこと、大きな威嚇の動作をすること、共生動物が多いこと、前述したように餌に釣られることなどから、スキューバダイビングなどでは観察や撮影の対象となりやすい。", "qas": [ { "question": "千葉県館山市相浜地区ではウツボは何と呼ばれていますか?", "id": "de-084-16-000", "answers": [ { "text": "「ナマダ」", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ラバウル空襲", "paragraphs": [ { "context": "ラバウル空襲(ラバウルくうしゅう)は、第二次世界大戦中にラバウルで日本軍と連合国軍との戦闘で行われた空襲である。1942年のラバウル攻略時に日本軍が実施した空襲をはじめ、1943年に連合国軍がブーゲンビル島の戦いの援護を目的として実施した大規模な空襲などがある。", "qas": [ { "question": "ラバウル空襲とは、第何次世界大戦中に行われた空襲のことを言うの?", "id": "de-085-00-000", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初の空襲は、どの国の軍により実施されましたか?", "id": "de-085-00-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 70, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最初の空襲が行われたのは、いつのことか?", "id": "de-085-00-002", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 56, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "連合国軍は、どの戦闘の援護を目的として大規模な空襲を実施したか?", "id": "de-085-00-003", "answers": [ { "text": "ブーゲンビル島の戦い", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ラバウルはビスマルク諸島ニューブリテン島の北東に位置するオーストラリア軍が設営した大規模な飛行場と良好な泊地であった。日本は、内南洋方面の守りを固める目的で、陸海軍でオーストラリアの委任統治領であったラバウルとカビエンを攻略することを決め、1942年1月4日、トラックを基地とする第四艦隊所属の第二十四航空戦隊の九六式陸上攻撃機16機が、夜間には九七式飛行艇9機が初めてラバウルの飛行場を爆撃した。6、7、16日にも爆撃を行ったが、敵機の反撃はなかったため、爆撃によって敵機は撃破されたものと思われた。しかし、16日の夜に日本の根拠地になっていたトラックは敵の大型機1機からの爆撃で、軽微な被害を受けた。", "qas": [ { "question": "ラバウルは、どの諸島に位置していたの?", "id": "de-085-01-000", "answers": [ { "text": "ビスマルク諸島", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラバウルは、どの国の軍が設営した大規模な飛行場と良好な泊地でありましたか?", "id": "de-085-01-001", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本は、ラバウルとどこを攻略しようとしたか?", "id": "de-085-01-002", "answers": [ { "text": "カビエン", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラバウルの飛行場への爆撃に、より多く用いられたのは、九六式陸上攻撃機と九七式飛行艇のうち、どちらか?", "id": "de-085-01-003", "answers": [ { "text": "九六式陸上攻撃機", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ラバウルの攻略は主として、陸軍の南海支隊によって実施されたが、海軍の南雲機動部隊(指揮官南雲忠一海軍中将、第一航空艦隊司令長官)は臨時に南洋部隊(指揮官井上成美海軍中将、第四艦隊司令長官)の指揮下に入り、この作戦に協力するように命じられていた。1月20日ニューアイルランド北東海面に進出した空母4隻(第一航空戦隊〈赤城、加賀〉、第五航空戦隊〈瑞鶴、翔鶴〉)から、赤城飛行隊長淵田美津雄中佐を総指揮官とする108機がラバウルを攻撃し、飛行場、海岸砲台を爆撃したほか、敵戦闘機5機の撃墜破を報告し、九七式艦上攻撃機1機が被撃墜された。21日、一航艦の第一航空戦隊52機はカビエンを空襲し、第五航空戦隊の46機はラエ、サラモア、マダンなどを攻撃した。22日、第一航空戦隊の46機が再びラバウル空襲を実施した。23日には零式艦上戦闘機、九九式艦上爆撃機の計48機で陸軍の上陸部隊を支援し、日本はラバウルの攻略に成功したが、その直後から頻繁に敵機が同地に対する空襲を輸送船や地上部隊に行い、陸海軍を悩ませた。", "qas": [ { "question": "ラバウルの攻略には、陸軍の南海支隊のほかに、どの部隊も動員されたの?", "id": "de-085-02-000", "answers": [ { "text": "海軍の南雲機動部隊", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1月21日にカビエンを空襲したのは、どの部隊でしたか?", "id": "de-085-02-001", "answers": [ { "text": "第一航空戦隊", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カビエンとラバウルのうち、日本により空襲された時期がより早いのは、どちらか?", "id": "de-085-02-002", "answers": [ { "text": "カビエン", "answer_start": 283, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カビエンとラバウルのうち、どちらへの空襲に第一航空戦隊の爆撃機がより多く動員されたか?", "id": "de-085-02-003", "answers": [ { "text": "カビエン", "answer_start": 283, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "イギリスやアメリカ、オーストラリアを中心とした連合軍側は日本軍がラバウルを足がかりにニューカレドニアやニューヘブリディーズ諸島へ進撃してくる可能性を念頭に、その出鼻を挫くためANZACへ爆撃機や機動部隊のアメリカ第11任務部隊を派遣した。この時派遣された第11任務部隊司令官ウィルソン・ブラウン中将の提案によりラバウル空襲作戦が計画され、2月21日にラバウル空襲作戦を行う予定であった。しかし、空襲予定日の前日である2月20日に、ラバウルに進出したばかりの第四海軍航空隊の攻撃を受ける(ニューギニア沖海戦)。攻撃自体は日本側の一方的な敗戦に終わったものの、第11任務部隊も回避運動により燃料を大幅に消費したため、ラバウル空襲は断念せざるを得なかった。", "qas": [ { "question": "連合軍の中心となっていたのは、イギリス、アメリカとどの国なの?", "id": "de-085-03-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "連合軍側は、日本軍がニューカレドニアやどこに進撃してくることに備え、爆撃機やアメリカ第11任務部隊をANZACに派遣しましたか?", "id": "de-085-03-001", "answers": [ { "text": "ニューヘブリディーズ諸島", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウィルソン・ブラウンが司令官についていた部隊は、どこに派遣されたか?", "id": "de-085-03-002", "answers": [ { "text": "ANZAC", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラバウル空襲作戦の計画を出したのは、誰か?", "id": "de-085-03-003", "answers": [ { "text": "ウィルソン・ブラウン", "answer_start": 137, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "これ以降、ラバウルの日本軍に対する空襲の主役はポートモレスビーなどを根拠とする連合軍の大型爆撃機に移り、散発的な空襲を繰り返し受けることとなった。空襲は主にB-17が少数単位で時を定めず来襲し、他にはB-26も投入された。1943年に入ってからはB-24も投入され、一連の空襲は「点滴爆撃」とも呼ばれ、被害自体は大したものではなかったものの、来襲高度が高くて容易に撃墜できない上に、頼みのラバウル航空隊も夜間訓練を行っていないので夜間迎撃も上手くいかず、昼夜分かたぬ空襲によりラバウルの日本軍将兵の中には神経が高ぶって眠れなくなる者が現れた。小園安名中佐率いる第二五一海軍航空隊が夜間戦闘機月光(当時は二式陸偵改)とともにラバウルに到着し、B-17を撃墜したのは5月21日の事である。", "qas": [ { "question": "1942年までの連合軍によるラバウルの日本軍に対する空襲には、投入されなかった機種は、何?", "id": "de-085-04-000", "answers": [ { "text": "B-24", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1943年からの連合軍によるラバウルの日本軍に対する空襲に動員された機種は、B-24とB-26のほかに、どれですか?", "id": "de-085-04-001", "answers": [ { "text": "B-17", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "空襲中のB-17が日本軍により撃墜されたのは、いつのことか?", "id": "de-085-04-002", "answers": [ { "text": "5月21日", "answer_start": 331, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本軍がB-17を用いた空襲に対抗し始めたのは、誰がラバウルに到着してからのことか?", "id": "de-085-04-003", "answers": [ { "text": "小園安名", "answer_start": 271, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1943年春にガダルカナル島の戦いに敗れて以降、前線が伸び切った日本軍のソロモン方面での防衛線は徐々にラバウル側へと押し上げられていく。開戦以降の敗退に次ぐ敗退から体勢を立て直した連合国軍との航空戦力の差も数と質の両方の面で広がり、数の方は1943年4月の「い号作戦」に代表されるような母艦航空隊の投入が幾度か行われたが、損害が増すばかりであった。やがてニュージョージア島、コロンバンガラ島、ベララベラ島からの撤退で防衛線はさらに押し上げられ、9月下旬からはブインなどへの空襲が激化し、同方面の零戦隊もラバウルに後退する外なかった。", "qas": [ { "question": "ガダルカナル島の戦いで勝利したのは、どの軍なの?", "id": "de-085-05-000", "answers": [ { "text": "連合国軍", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書では、ガダルカナル島の戦いが終わったのは、いつだとしていますか?", "id": "de-085-05-001", "answers": [ { "text": "1943年春", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "い号作戦が行われたのは、いつのことか?", "id": "de-085-05-002", "answers": [ { "text": "1943年4月", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブインへの空襲が始まったのは、何年の9月下旬のことであるか?", "id": "de-085-05-003", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この時点でソロモン諸島の戦いで勝利を手中に収めつつあった連合国側ではあったが、緒戦で多くの空母を失ったアメリカ軍の機動部隊の中核である空母の配備数は日本軍と拮抗した状態で、多方面から反攻作戦を実施するには戦力不足であった。特に、ソロモン方面の戦闘を担当する第3艦隊(南太平洋部隊。ウィリアム・ハルゼー大将)に至ってはベテランのサラトガ(USSSaratoga,CV-3)しか空母の持ち合わせがなく、もう1隻の手持ち空母だったエンタープライズ(USSEnterprise,CV-6)はオーバーホールのため戦列から下がっていた。", "qas": [ { "question": "この時点でソロモン諸島の戦いで優勢であったのは、どちら側だったの?", "id": "de-085-06-000", "answers": [ { "text": "連合国側", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "連合国側でソロモン方面の戦闘を担当していたのは、どの艦隊ですか?", "id": "de-085-06-001", "answers": [ { "text": "第3艦隊", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "連合国軍の空母陣も、1942年末以降はアメリカ海軍のエセックス(USSEssex,CV-9)、バンカー・ヒル(USSBunkerHill,CV-17)などのエセックス級航空母艦、「インディペンデンス」(USSIndependence,CVL-22)などインディペンデンス級航空母艦が続々と竣工して訓練の後、太平洋艦隊に配備される。特にエセックスの真珠湾到着は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将をして、新しい中部太平洋部隊の編成の第一弾として位置づけられた。8月に入り第5艦隊が編成され、艦隊司令長官にレイモンド・スプルーアンス中将が、指揮下の高速空母任務部隊の司令官にチャールズ・A・パウナル少将がそれぞれ就任した。パウナル少将の高速空母任務部隊は、1943年9月1日に南鳥島を空襲したのを皮切りにして、9月18日と19日にギルバート諸島を、10月に入ってからウェーク島をそれぞれ攻撃して成果を収めた。もっとも、これら新鋭空母の話は全て中部太平洋方面での事であって、ソロモン方面には関係のない話である。しかし、新鋭空母の回航を望んでいたのはハルゼー大将も同じであった。", "qas": [ { "question": "第5艦隊は、いつ編成されたか?", "id": "de-085-07-000", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 233, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第5艦隊の艦隊司令長官には、誰が任命されたか?", "id": "de-085-07-001", "answers": [ { "text": "レイモンド・スプルーアンス", "answer_start": 255, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チャールズ・A・パウナルは、どの部隊の司令官に任命されたか?", "id": "de-085-07-002", "answers": [ { "text": "高速空母任務部隊", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南鳥島とギルバート諸島、ウェーク島のうち、パウナルの率いる高速空母任務部隊により空襲された時期が最も早いのは、どちらか?", "id": "de-085-07-003", "answers": [ { "text": "南鳥島", "answer_start": 340, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ハルゼー大将は7月末にイギリス海軍のヴィクトリアスが転出した後は、サラトガと新鋭空母の組み合わせで空母作戦を行う事を望んでいた。この望みを一度は断ったのはニミッツ大将である。ニミッツ大将の言い分では、続々戦列に加わる新鋭空母の乗員およびパイロットのレベルは高くなく、まずは経験を積ませるために一撃離脱式の攻撃を繰り返す必要があった。また、中部太平洋方面に攻勢をかけたならば、日本軍の注意は中部太平洋に向けられ、ソロモン方面の戦闘は第3艦隊の手持ち部隊だけで対処できると考えていた。第5艦隊は当時、ギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦を控えており、主だった戦闘艦艇は第5艦隊に割り振られていた事情もあった。", "qas": [ { "question": "連合国軍の主な戦闘艦艇が第5艦隊に編成されていたのは、どこを攻略するためであったの?", "id": "de-085-08-000", "answers": [ { "text": "ギルバート諸島", "answer_start": 248, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "連合国軍の主な戦闘艦艇が第5艦隊に編成されていたのは、どの作戦に取り掛かる目前であったからですか?", "id": "de-085-08-001", "answers": [ { "text": "ガルヴァニック作戦", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ソロモン方面の戦闘を担当していた連合国軍の艦隊は、どの艦隊だったか?", "id": "de-085-08-002", "answers": [ { "text": "第3艦隊", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハルゼーの考えに反対したのは、誰か?", "id": "de-085-08-003", "answers": [ { "text": "ニミッツ", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "連合国および南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が1943年4月26日に発令したカートホイール作戦の計画では、強力な日本軍が構えるラバウルを攻略せず避けることがすでに決まっていた。第3艦隊は、ラバウル包囲のためにブーゲンビル島を攻略することまでは決めていた。攻略地点については、ニュージョージア島の戦いにおけるニュージョージア島ムンダ攻防戦の苦い経験から日本軍が集中しているであろうブーゲンビル島ブイン地区とショートランド諸島をパスし、エンプレス・オーガスタ湾に面したタロキナ地区に飛行場適地があったこと、タロキナ方面の日本軍部隊がわずかであるなどの理由により、9月22日にタロキナ地区への上陸に決した。その時点での第3艦隊の兵力といえば、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵中将率いる二個師団とニュージーランド軍一個旅団合わせて約34,000名の陸上部隊に、輸送船12隻と、その護衛にあたる駆逐艦11隻、アーロン・S・メリル少将の第39任務部隊、そして「サラトガ」だけであった。タロキナ地区への上陸作戦を決定した後、ハルゼー大将は真珠湾の太平洋艦隊司令部に向かい、増援を要請する。その結果、新鋭の軽空母プリンストン(USSPrinceton,CVL-23)と巡洋艦群、駆逐群が派遣される事となった。第38任務群は以下の艦艇で構成されることとなった。", "qas": [ { "question": "カートホイール作戦の計画が発令されたのは、いつなの?", "id": "de-085-09-000", "answers": [ { "text": "1943年4月26日", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラバウルを包囲する計画を立てていた第3艦隊は、計画達成のためにどこを攻略すると決めましたか?", "id": "de-085-09-001", "answers": [ { "text": "ブーゲンビル島", "answer_start": 113, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "連合国軍は、いつタロキナ地区に上陸するという計画を立てたか?", "id": "de-085-09-002", "answers": [ { "text": "9月22日", "answer_start": 288, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第3艦隊のブーゲンビル島攻略計画において、その攻略地点は、どこだったか?", "id": "de-085-09-003", "answers": [ { "text": "タロキナ地区", "answer_start": 241, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "10月12日、第5空軍機と同じくケニー少将の指揮下に入っていたオーストラリア空軍機およびニュージーランド空軍機合わせて349機の爆撃機は、ラバウルに対する初の大空襲を敢行する。第一の目標は一式陸上攻撃機が常駐していたラバウル西飛行場であったが、天候に恵まれず思ったほどの成果はあげられなかった。この空襲により駆逐艦太刀風、望月、水無月、給油艦鳴戸などが損傷し、鳴戸では十数名が戦死した。続いて10月18日には約50機のB-25による空襲が行われ、以後6日連続して爆撃を行った。24日にはニューブリテン島南方のジャキノット沖で駆逐艦望月が空襲により撃沈された。", "qas": [ { "question": "10月12日に行われたラバウルに対する初の大空襲には、第5艦隊とオーストラリア空軍のほかに、どの軍も加勢したの?", "id": "de-085-10-000", "answers": [ { "text": "ニュージーランド空軍", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "10月12日に行われたラバウルに対する初の大空襲では、どこを破壊することが第一の目標でありましたか?", "id": "de-085-10-001", "answers": [ { "text": "ラバウル西飛行場", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "10月12日の空襲により損傷を負ったと書かれている軍艦のうち、その軍艦の役割が唯一に異なるのは、どれか?", "id": "de-085-10-002", "answers": [ { "text": "鳴戸", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "10月12日の空襲により損傷を負ったと書かれている軍艦のうち、唯一に犠牲者が出た軍艦は、どれか?", "id": "de-085-10-003", "answers": [ { "text": "鳴戸", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "10月27日、トレジャリー諸島とチョイセル島にアメリカ軍とニュージーランド軍が上陸した。10月28日、ブーゲンビル島方面における連合軍大攻勢を知った連合艦隊(司令長官古賀峯一大将、参謀長福留繁中将)は第一航空戦隊の艦載機投入を決心し、ろ号作戦を発動した。第十戦隊と第二水雷戦隊から一部艦艇を抽出し、航空戦隊の物件輸送を命じる。第十戦隊(阿賀野、初風、若月、長波)は11月1日ラバウルに到着したので南東方面部隊(指揮官草鹿任一中将、南東方面艦隊司令長官)に編入され(電令作第783号)、そのまま連合襲撃部隊(指揮官大森仙太郎少将、第五戦隊司令官)として出撃することになった。", "qas": [ { "question": "トレジャリー諸島とチョイセル島に、アメリカ軍とニュージーランド軍が上陸したのは、いつ?", "id": "de-085-11-000", "answers": [ { "text": "10月27日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ろ号作戦が発動されたのは、いつですか?", "id": "de-085-11-001", "answers": [ { "text": "10月28日", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "航空戦隊の物件輸送に用いられた艦艇は、第十連隊とどの連隊から抽出された艦艇だったか?", "id": "de-085-11-002", "answers": [ { "text": "第二水雷戦隊", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "11月1日早朝、ブーゲンビル島タロキナ地区への上陸作戦が敢行され、上陸作戦から日本軍の注意をそらすために第39任務部隊はブカ島とショートランドに対して艦砲射撃を行った。「プリンストン」が合流した第38任務部隊の艦載機はソロモン方面航空部隊とともにブカ島を爆撃した。日本軍はタロキナ地区への逆上陸を試み、米軍輸送船団撃滅を狙う連合襲撃部隊(第五戦隊〈重巡洋艦妙高、羽黒〉、第十戦隊、第三水雷戦隊)と、船団を護衛する米軍巡洋艦部隊との間で11月2日未明にブーゲンビル島沖海戦が発生した。", "qas": [ { "question": "ブーゲンビル島タロキナ地区への上陸作戦が開始されたのは、いつのこと?", "id": "de-085-12-000", "answers": [ { "text": "11月1日早朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブーゲンビル島タロキナ地区への上陸作戦がばれないように、日本軍がブカ島とショートランドに目を向けるよう艦砲射撃を行った部隊は、どの部隊ですか?", "id": "de-085-12-001", "answers": [ { "text": "第39任務部隊", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブーゲンビル島沖海戦が発生したのは、何月何日のことか?", "id": "de-085-12-002", "answers": [ { "text": "11月2日", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ソロモン方面航空部隊とともにブカ島を爆撃したのは、どの部隊の艦載機か?", "id": "de-085-12-003", "answers": [ { "text": "第38任務部隊", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "食品サンプル", "paragraphs": [ { "context": "食品サンプル(しょくひんサンプル)は、飲食店の店頭あるいは店内に陳列される料理の模型のことである。可塑性のある腐敗しない材料(蝋や合成樹脂など)を主原料として作られ、商品の細部を視覚的に説明するとともに、商品名や価格を同時に提示することによってメニューの一部または全部の役割を果たす。大正時代から昭和初期にかけての日本で考案された表現手法である。業界団体が無く、共通の定義も存在しておらず、「食品サンプル」という呼称は戦後になって業者の自称や他称でそう呼ばれるようになった。料理模型や食品模型とも呼ばれる場合もある。主に業務用として制作されていたが、2010年以降は一般向けにも販売され始めており、模型やアクセサリー等として拡がり始めている。", "qas": [ { "question": "飲食店の店頭あるいは店内に陳列される料理の模型のことをどう呼びますか?", "id": "de-086-00-000", "answers": [ { "text": "食品サンプル", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "食品サンプルの主原料はどういう条件が必要ですか?", "id": "de-086-00-001", "answers": [ { "text": "可塑性のある腐敗しない材料", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本文で食品サンプルの主原料として言及したのは合成樹脂の他何がありましか?", "id": "de-086-00-002", "answers": [ { "text": "蝋", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "初期の食品サンプルは実物を寒天で型取りして蝋を流し込んで作成された。蝋はあらかじめ絵の具を溶かして色付けしたものが用いられ、製品補強を行うために脱脂綿による裏打ちを行った後、表面によりリアルな彩色を施す。こうした一連の作業は手作業で行われているため、実際に飲食店で提供される特徴(皿、盛り付け、量など)に近い個々の食品サンプルの製作が行われた。\n\n食品サンプルが高い集客能力を持ったイメージ喚起のための装置として、一般に広く認知されるようになると、それに伴って食品サンプル生産業者に対する受注が増加した。1970年代頃に入ると原材料は蝋製食品サンプルの持つ溶けやすい、壊れやすいといった欠点が改善された合成樹脂へと変化していき、生産の簡略化を目的とした合成樹脂用の金型などが開発された。これにより、より緻密でリアルな食品サンプルが製作されるようになった。", "qas": [ { "question": "初期の食品サンプル製作過程で、実物の型取り作業に用いられたのは何ですか?", "id": "de-086-01-000", "answers": [ { "text": "寒天", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "初期の食品サンプル製作には寒天で型を取った後、何を入れ込んで作りましたか?", "id": "de-086-01-001", "answers": [ { "text": "蝋", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蝋と合成樹脂を比較すると壊れやすい方はどっちですか?", "id": "de-086-01-002", "answers": [ { "text": "蝋", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "食品サンプルはリアルであると同時に非現実性を兼ね備えている場合がある。いわゆる「瞬間の表現」であり、代表的なものでは土産物店などに見られる饅頭類に切れ込みを入れて中の食材を明確化したもの、麺類を提供する飲食店において麺を箸やフォークで持ち上げて動的表現を加えたものなどがある。\n\n現代は食品売り場や飲食店の販促ツールとしての役目だけでなく、日本国外からの観光客への土産物、芸術品や玩具としての利用も広まっている。キーホルダーや携帯電話のストラップにできる小型版も作られるようになった。東京で飲食店関連用品の販売店が多く集まる合羽橋道具街や東京ソラマチ、横浜市、さらに関西地方などでは、食品サンプルを訪日外国人を含む一般消費者に販売したり、製作を体験させてくれたりする店もある。海外では「フード・サンプル」の他に「フェイク・フード」と呼ばれている。\n\n2010年以降、ネットが普及して情報が集めやすくなったことで、審美的・技巧的な側面から食品サンプルを嗜好する層が現れた。ネット上の通信販売では製作キットの販売なども行われるようになっている。", "qas": [ { "question": "食品サンプルの「瞬間の表現」はリアルさと何が共存する表現ですか?", "id": "de-086-02-000", "answers": [ { "text": "非現実性", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "饅頭類の食品サンプルに切れ込みを入れる理由は何のためですか?", "id": "de-086-02-001", "answers": [ { "text": "中の食材を明確化", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「フード・サンプル」以外の食品サンプルを示す海外の表現には何がありますか?", "id": "de-086-02-002", "answers": [ { "text": "「フェイク・フード」", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "島津製作所に勤め、学校の理科教育用標本の製作などを手がけていた土田兎四郎、西尾惣次郎らは1917年(大正6年)11月保健食料理模型を製作し、衛生試験所などに納めたという記録が西尾製作所の1968年(昭和43年)のパンフレットに残されており、食材が調理され、盛り付けられた状態の模型の記録としては最も古いものである。土田らは寒天で型を取り、蝋を用いてこうした料理模型を作り上げたが、当時の模型の主流は石膏であり、料理模型の製造には不向きであった。西尾の息子にあたる西尾時一は、野瀬のインタビューに対し、「石膏を使う限りにおいてきれいな料理模型を作ることは不可能で、大正時代に料理模型を作っていた、または作ったことがあるという人はいないはず」と述べている。", "qas": [ { "question": "最初の食品サンプルが製作されたのは何年?", "id": "de-086-03-000", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "土田兎四郎とともに最初の食品サンプルを製作した人物は誰ですか?", "id": "de-086-03-001", "answers": [ { "text": "西尾惣次郎", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最初の食品サンプルに関することが記されている記録物は何年のものですか?", "id": "de-086-03-002", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1903年(明治36年)10月1日、日本で最も早く百貨店における食堂を設置した白木屋は、1911年(明治44年)10月のエレベーター設置などの大幅な増改築時に本格的な食堂営業を開始した。その後関東大震災を経て1923年(大正12年)11月1日、茅場町に二階建て食堂を作った際に、食堂としては初めて「店頭に提供する飲食物の見本の陳列」および「店頭での食券販売による取引」を実施した。このときの見本陳列において、実物による展示では変色が激しく、なんとかならないだろうかと相談を持ちかけられ、蝋製の食品サンプルを提供したのが、東京日本橋で人体・生物模型技師をしていた須藤勉であった。須藤はパラフィン、ステアリン、木蝋などを混ぜ合わせ型に入れたものに油絵具で着色して食品サンプルを製作した。", "qas": [ { "question": "日本歴史上、百貨店における最初の食堂は何ですか?", "id": "de-086-04-000", "answers": [ { "text": "白木屋", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白木屋が本格的に食堂営業を開始したのは和暦では何年ですか?", "id": "de-086-04-001", "answers": [ { "text": "明治44年", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本で店頭に提供する飲食物の見本を陳列した最初の食堂の名前は?", "id": "de-086-04-002", "answers": [ { "text": "白木屋", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1932年(昭和7年)6月1日、当時弁当屋を営んでいた岩崎瀧三は大阪市北区老松町に「食品模型岩崎製作所」を創業した。「貸付け」という手法を採用し、食品サンプルを1ヶ月、実物の食品料金の10倍の値段で貸付けることにより顧客開拓に成功、業績を伸ばしていった。食品模型の需要は拡大の一途を辿り、十合デパートが食品サンプルによる提示を始めると他の百貨店からも大量の注文が舞い込むようになった。岩崎は都市部の販売網を確立させるとその販路を東海地方、中国地方などへ広げていき、日本における食品サンプルの定着化を促した。\n1939年(昭和14年)、第二次世界大戦が勃発すると、食品サンプルの原材料であったパラフィンは軍事利用を目的として統制品目となり、民間企業による入手が困難となった。模型製造業者はパラフィンの配給を受けるため「蝋製模型工芸組合」などを結成し企業の存続を図ったが、1943年(昭和18年)には食品模型の陳列が全面禁止となり、都市部での生産は途絶した。業界最大手であった岩崎は故郷の岐阜県郡上八幡へ戻るとパラフィンを節約して模型を製造する研究に着手し、従来のパラフィン使用量を0.05%まで削減した模型の開発に成功した。これにより極端な物資不足の中で、戦死者の葬儀用供物の模型を販売することで生き残った。戦争が終結すると岩崎は1948年(昭和23年)には大阪に戻り、1953年(昭和28年)には東京進出を果たすなど、その地位を不動のものとしていった。\n\n1970年代に入ると合成樹脂による食品サンプルが製造されるようになった。これにより蝋製の食品サンプルが抱えていた熱に弱く、色変わりしやすい点や壊れやすくて運搬しにくい点などが改善され、品質面において大きな躍進を遂げた。", "qas": [ { "question": "「食品模型岩崎製作所」を創業したのは誰?", "id": "de-086-05-000", "answers": [ { "text": "岩崎瀧三", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「食品模型岩崎製作所」で採用した顧客開拓方法とは?", "id": "de-086-05-001", "answers": [ { "text": "「貸付け」", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第二次世界大戦が起きてから手にし難くなった食品サンプルの原材料は何ですか?", "id": "de-086-05-002", "answers": [ { "text": "パラフィン", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "飲食店で提供される料理は同じ料理であっても店によって形状や色、盛り付けが異なるため、食品サンプルは基本的に手作業による製作となる。発注元飲食店の料理の写真や聞き取った仕様に基づいてオーダーメイドで製作される。\n\n製作は型どりによる手法が代表的であるが、食材や料理によって様々な技術が存在する。これらひとつひとつの技術がいつ、誰によって生み出されたかに関する資料は残されておらず、わかっていない。\n\n判明しているものとしては、岩崎が1932年(昭和7年)に確立した紙や綿を用いて裏打ちを行い模型を補強させる手法や、1945年(昭和20年)に生み出した珪藻土にパラフィンを吹き付ける手法、藤田末廣によって1964年(昭和39年)に特許が取得された新しい米の製法、竹内繁春が編み出した宙に浮くスパゲティとフォークなどがある。", "qas": [ { "question": "食品サンプルの基本的製作方式は?", "id": "de-086-06-000", "answers": [ { "text": "手作業", "answer_start": 53, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "食品サンプルの基本的製作方式が手作業である理由は何ですか?", "id": "de-086-06-001", "answers": [ { "text": "同じ料理であっても店によって形状や色、盛り付けが異なるため", "answer_start": 12, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "珪藻土にパラフィンを吹き付ける手法を開発したのは誰なの?", "id": "de-086-06-002", "answers": [ { "text": "岩崎", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "生み出した珪藻土にパラフィンを吹き付ける手法と紙や綿を用いて裏打ちを行い模型を補強させる手法で岩崎が先に開発したのはどっち?", "id": "de-086-06-003", "answers": [ { "text": "紙や綿を用いて裏打ちを行い模型を補強させる手法", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "特に藤田が河原の小石をヒントに考案した米の作り方は画期的で、当時型取りに手間がかかっていたご飯ものの製作時間の大幅削減につながった。この手法は原材料が合成樹脂となった現在でも用いられており、予め準備された樹脂製の米粒にボンドを加えて混ぜ合わせ、適量を皿に盛り付けることで簡易に表現することが可能となっている。\n\nまた、果物や野菜などの生鮮食材を用いるメニューや、副食として添えるような小物食品の場合、多種多様にカッティングされた既製品を組み合わせることで作られることも多く、フェイクスイーツなどとして認知されているデコレーションアートは専らこの手法が取り入れられている。\n\n食品サンプル製造業者の中には、培ったノウハウを活用し、教材や博物館展示用のレプリカ、演劇で使用する特殊小道具の製作に携わっているものもある。", "qas": [ { "question": "藤田が考案した米の作り方は何を参考にして作ったものですか?", "id": "de-086-07-000", "answers": [ { "text": "河原の小石", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "演劇の特殊小道具、博物館展示用のレプリカ以外に食品サンプル製作のノウハウを活かして製作するものには何がありますか?", "id": "de-086-07-001", "answers": [ { "text": "教材", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "模型というカテゴリにおいて食品サンプルと、その他の模型ではその意義に大きな違いが見られる。食品サンプルは拡大や縮小の必要性が無く、等倍であることが求められる。また、生物や人体あるいは化石の模型は対象に忠実であることを目指し、本物に限りなく近付けることが求められるのに対して食品サンプルは提供される料理の概要や組合せ、個々のサイズといった情報が求められるため、厳密には似ているだけで良く、「同一のもの」を目指す必要が無い。そのため、時には食欲を増進させるためのデフォルメや、その店の料理の特徴を強調した表現なども用いられる。\n\nまた、精密模型に比べて再現度を重要視しない背景には、食品サンプル市場に出来上がっている「相場は実物の10倍」というコストの問題もある。", "qas": [ { "question": "食品サンプルがその他の模型とは違うサイズ的違いは?", "id": "de-086-08-000", "answers": [ { "text": "等倍", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "食品サンプルが精密模型と比較して劣える点は何ですか?", "id": "de-086-08-001", "answers": [ { "text": "再現度", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本の飲食店において、食品サンプルを陳列する店、しない店が存在するが、通年でメニューの変動が少ない大衆的な店やチェーン店などに食品サンプルがある場合が多く、逆に高級店舗などは、その日の仕入れや客によってメニューを変えるため、サンプルとして掲示しにくいことから置かない場合が多い。また、パン屋や屋台など、実物を掲示している店や目前で調理を行う店などでは食品サンプルの必要性が薄いため、オブジェとしての用途などを除き、無い場合が多い。近年は写真技術の発展に伴い、食品サンプルを設置せずに、視覚効果の役割を写真で代用している店も増加している。", "qas": [ { "question": "近年、食品サンプルを設置しないお店でその役割を果たすのは何?", "id": "de-086-09-000", "answers": [ { "text": "写真", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "オレゴン州会議事堂", "paragraphs": [ { "context": "オレゴン州会議事堂(オレゴンしゅうかいぎじどう、OregonStateCapitol)は、アメリカ合衆国オレゴン州の州都セーラムに立地する同州議会の議事堂である。庁舎はセーラムのダウンタウン、ウィラメット大学キャンパスの北東隣に建っている。議事堂内にはオレゴン州議会の上下両院の議場のみならず、州知事、州務長官、州財務官の各事務所も置かれている。現在の庁舎は1936年から1938年にかけて中央部分が建設され、1977年に左右両ウイングが増築されたもので、セーラム遷都以来3代目のものとなる。初代の庁舎は1855年に、2代目の庁舎は1935年に焼失した。庁舎の高さはドームを含めて51mである。議事堂の敷地内には芸術作品が展示され、噴水が設けられ、州の木であるベイマツや州の花であるセイヨウヒイラギナンテンをはじめとする様々な花木が植えられている。このアール・デコ調の庁舎はニューヨークの設計事務所、トローブリッジ・アンド・リビングストンがフランシス・キアリーと共に設計したものであった。庁舎には外観・内装とも、大部分に大理石が用いられている。この庁舎は1988年に国家歴史登録財に指定された。この庁舎の中央部分の建設には250万ドル(当時)の費用を要した。その一部は、世界恐慌後のニューディール政策の一環として創設された公共事業局(PublicWorksAdministration)が負担した。後のウイングの増設では1250万ドル(当時)の費用が投じられ、床面積がそれまでの約2倍、約21,720m2に広がった。", "qas": [ { "question": "オレゴン州会議事堂とは、どの都市にあるものか?", "id": "de-087-00-000", "answers": [ { "text": "セーラム", "answer_start": 60, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在のオレゴン州会議事堂は、セーラム遷都以来何代目のものであるか?", "id": "de-087-00-001", "answers": [ { "text": "3代目", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書で、1988年に国家歴史登録財に指定されたと書かれている庁舎とは、どの国にある庁舎であるか?", "id": "de-087-00-002", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1848年にオレゴン準州が成立する以前、1844年6月27日から翌1845年12月19日にかけて開かれたオレゴン・カントリーの暫定政府議会は、オレゴンシティをオレゴン・カントリーの首都に選定した。オレゴン準州が成立すると、オレゴンシティがそのまま準州都になった。従って、オレゴンの最初の議事堂はオレゴンシティに置かれた。暫定政府が使用していた建物のうちの1棟で、ジョン・L・モリソンが1850年に建設したものが、準州都がセーラムに移されるまで議事堂として使用されていた。オレゴンシティが当時の政治の中心になったのは初代オレゴン準州知事ジョセフ・レーンの声明によってのことであった。1850年、準州議会は準州都をセーラムへ移す法案を可決した。しかし、準州知事ジョン・P・ゲインズやオレゴン準州最高裁判所(裁判官オービル・C・プラットを除いて)はセーラムへ移ることを拒み、1852年に連邦議会がセーラム側に有利な形でこの問題を解決するまでオレゴンシティに残った。1855年1月13日、オレゴン準州議会は準州都をセーラムからコーバリスに移す法案を可決させた。しかし、セーラムでは既に多くの公共施設の工事が進んでいたため、準州知事ジョージ・ロウ・カリーをはじめ、多くの者がコーバリスへの遷都に反対した。カリーはこの問題をワシントンD.C.の財務長官に訴えた。財務長官ジェームズ・ガスリーは、遷都は連邦議会によってなされていない限りは無効であると明言した。その後、カリーとオレゴン準州務長官ベンジャミン・ハーディングはセーラムに戻った。同年12月3日には準州都をセーラムに戻すべく、準州議員がコーバリスに招集された。同月15日には準州都をセーラムに戻す法案が可決され、その3日後には準州議員が再び、今度はセーラムに招集された。", "qas": [ { "question": "オレゴン州の州都は、どこからセーラムに移された?", "id": "de-087-01-000", "answers": [ { "text": "オレゴンシティ", "answer_start": 71, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョセフ・レーンがオレゴン州知事に務めていた時には、オレゴン州の州都はどこだったの?", "id": "de-087-01-001", "answers": [ { "text": "オレゴンシティ", "answer_start": 235, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オレゴン準州の準州都はセーラムからどこに移されるところだったが、多くの者からの反対により、再び準州都をセーラムに戻す法案が出されたの?", "id": "de-087-01-002", "answers": [ { "text": "コーバリス", "answer_start": 459, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "初代オレゴン準州知事は、誰?", "id": "de-087-01-003", "answers": [ { "text": "ジョセフ・レーン", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし、同月29日に議事堂が焼失すると、準州都をどこに置くかをめぐって、再び議論が巻き起こった。準州議会は、今度は住民投票でこの問題を解決しようとした。最初の投票は翌1856年6月に行われ、最も得票数の多かった2都市の間で決選投票を行うことになった。その結果、最初はユージーンとコーバリスの間で決選投票が行われることになったが、不正投票が発覚して該当する票が無効とされた結果、決選投票はユージーンとセーラムの間で行われることになった。同年10月に行われた決選投票ではユージーンのほうが得票数が多かったが、投票率の低さを理由として投票結果は無視され、準州都はセーラムに残された。この問題に最終的な決着が付けられたのは1859年にオレゴン準州が州に昇格した後、1864年のことであった。1860年、州議会は州都をどこに置くかについて、再び住民投票を行うことにした。1862年に行われた投票では、どの候補都市も州法で定められた50%以上の票を獲得することができなかった。投票は1864年に再度行われ、その結果、セーラムが79%の票を得て、正式に州都に選定された。オレゴン州憲法では第14条において、州政府をマリオン郡に置くと記されている。セーラムはマリオン郡の郡庁所在地である。", "qas": [ { "question": "準州都をどこに置くかについての最初の住民投票は、いつ行われたの?", "id": "de-087-02-000", "answers": [ { "text": "1856年6月", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "準州都をどこに置くかについての最初の住民投票で、コーバリスが決選投票の対象から外されたのは、何が発覚されたからですか?", "id": "de-087-02-001", "answers": [ { "text": "不正投票", "answer_start": 164, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "決選投票の結果、ユージーンの得票数がより多かったのにも関わず、その結果が無視されたのは、なぜか?", "id": "de-087-02-002", "answers": [ { "text": "投票率の低さ", "answer_start": 252, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "議事堂の建設用地は、この地の開拓者であり、セーラムの創設者でもあるウィリアム・H・ハリソンが州に売却したセーラムのブロック84であった。初代の庁舎の建設はセーラムへの遷都が確定されて間もない1854年に始まった。しかし、翌1855年に準州都がコーバリスに移されると、庁舎の建設は一時中断された。準州都がセーラムに戻されると、議事堂の建設が再開され、1855年後期にほぼ完成した。この庁舎はギリシア復古様式で、幅15m、奥行き23mで、石造のファサードを有し、高さ3mのポルチコが立っていた。。この2階建ての庁舎は地元産の切り石を積んで造られており、外壁は濃い空色から白へのグラデーションで塗られていた。1階は高さ5.8m、2階は高さ4.6mで、その上に高さ2.4mのエンタブラチュアが施されていた。庁舎の正面(西側)はイオニア式の柱4本で装飾されていた。議事堂の1階にはメインホールのほか、連邦地方裁判所、準州知事の事務所、準州議会下院の本会議場が設けられていた。2階には準州議会上院の本会議室と準州図書館に加えて、下院本会議場の傍聴席、委員会室3室、および政府職員の事務所がいくつか設けられていた。1855年12月29日、この初代の庁舎は火事に遭い、庁舎のみならず、準州の公文書の多くが焼失した。未完成であった庁舎北東部から出火したこの火事は、午前0時30分まで発見されなかった。火事の原因として放火が疑われたが、誰も逮捕されることはなかった。庁舎の焼け跡はその後何年も、石積みのまま放置されていた。1859年から1876年までの間、州議会と州の各種機関はセーラムのダウンタウンにあったネスミス・ビルディング(後にホルマン・ビルディングに改名された)の2階と3階を仮庁舎として使用していた。", "qas": [ { "question": "オレゴン準州の初代の庁舎がほぼ終わったのは、何年のこと?", "id": "de-087-03-000", "answers": [ { "text": "1855年", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "州議会と州の各種機関がセーラムのダウンタウンにあったネスミス・ビルディングの2階と3階を仮庁舎として使用したのは、いつ起こった火事によることか?", "id": "de-087-03-001", "answers": [ { "text": "1855年12月29日", "answer_start": 500, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "初代の庁舎は火事に遭う前に、完成していたか、もしくは、未完成だったか?", "id": "de-087-03-002", "answers": [ { "text": "未完成", "answer_start": 549, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1872年、オレゴン州議会は新しい州会議事堂の建設予算として100,000ドル(当時)を計上し、新庁舎の建設計画は実行に移された。セーラム遷都以来2代目となるこの庁舎は1873年から1876年にかけて建設された。この庁舎は地上2階、地下1階の3階層を有していた。この庁舎の建設には325,000ドル(当時)の費用を要した。この庁舎の礎石は1873年10月5日、竣工式の最中に設置された。竣工式では州知事スティーブン・F・チャッドウィックによる演説や、何組かのバンドによる演奏が行われた。この2代目の庁舎は初代の庁舎と同じ敷地内に建設された。建設作業にはオレゴン州刑務所の囚人も動員された。設計にはジャスタス・F・クランベイン・アンド・ギルバート建築事務所が携わった。", "qas": [ { "question": "セーラム遷都以来2代目となる庁舎は、何年に完成したの?", "id": "de-087-04-000", "answers": [ { "text": "1876年", "answer_start": 91, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "石材と500万個のレンガを使用して造られたこの庁舎は幅84m、奥行き41m、高さ55m(ドームを含む)であった。地下1階には州南西部のアムクワ川流域で産出された砂岩が用いられた。内部には高さ16.5mの正方形のロタンダを有し、上下両院の本会議場が置かれていた。2階にはオレゴン州最高裁判所、オレゴン州法図書館、下院本会議場の傍聴席が設けられていた。外観には装飾として付柱が設置され、東西両端に2階層分の高さのポルチコが立てられていた。庁舎内には昼食を出すカウンター席も用意されていた。加えて、この庁舎は方立のついた窓が設けられたウイングを有していた。銅で覆われた大きなドームは鉄や鋼のフレームを用いた構造になっていた。ドームはこの庁舎の他の部分よりも16.5m高い位置に設置され、ドーム自体の高さは30.5mあった。このルネサンス様式の庁舎は連邦議会議事堂を真似て造られ、正面入口にはコリント式の柱が立てられていた。当時、議事堂は西向きに、ウィラメット川に向かうように造られた。州政府はドームが完成する前、1876年8月にこの議事堂を使用し始めた。当初の計画では、ドームの両側に塔が建てられる予定であったが、建設費用を抑えるためにそれらの塔の建設は見送られた。この2代目の庁舎は1935年まで使用された。", "qas": [ { "question": "上下両院の本会議場とオレゴン州最高裁判所のうち、オレゴン州の2代目の庁舎でより上の階に設けられたのは、どちらですか?", "id": "de-087-05-000", "answers": [ { "text": "オレゴン州最高裁判所", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オレゴン州の2代目の庁舎が使用され始めたのは、ドーム完成の前か、もしくは、後か?", "id": "de-087-05-001", "answers": [ { "text": "前", "answer_start": 451, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オレゴン州の2代目の庁舎は、何年まで使用されたの?", "id": "de-087-05-002", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 539, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1935年4月25日午後6時43分、管理技術者がセーラム市消防局に煙の発生を報告した。市民は煙に包まれた庁舎から物品を運び出すのを手伝ったが、消防士が到着したときには、庁舎内から全員退去するように指示された。庁舎は間もなく炎に包まれた。物品の運び出しを手伝った市民の中には、後にオレゴン州知事になった、当時12歳のマーク・ハットフィールド少年もいた。火元は東ウイングの地下1階で、積まれていた古い文書に燃え広がったものと断定された。炎はドームの鉄格子の梁を支えていた中空の柱を伝い、ロタンダから上階へと広がっていった。激しい炎は銅製のドームをも焼き、夜空を照らした。炎は遠くコーバリスからも見えた。ボランティアで消火活動にあたっていたウィラメット大学の学生、フロイド・マクミュレンがその最中に焼死すると、消防士はポートランドからも派遣された。現場にはセーラム市内から7台、さらにポートランドから3台の消防車が駆けつけた。", "qas": [ { "question": "オレゴン州の2代目の庁舎で起こった火事がどれほど大変なことであったのかを見せてくれるのは、どこからも炎が見えたという文章であるか?", "id": "de-087-06-000", "answers": [ { "text": "コーバリス", "answer_start": 287, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オレゴン州の2代目の庁舎で起こった火事の現場には、セーラム市内とポートランドのうち、どこからの消防車がより多く動員されたか?", "id": "de-087-06-001", "answers": [ { "text": "セーラム市内", "answer_start": 375, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "鎮火したときには、残っていたのは庁舎の外壁のみであった。この火事による被害額は約150万ドルと推定された。州政府は保険には入っていなかった。歴代知事の肖像画などの歴史的な物品や、耐火構造になっていなかった地下の金庫に保管されていた、100万ドルを超える株式・債券などの貴重品も失われた。消火作業の最中、消防士は金庫に水を注ぎ、中に保管されている物品が燃えることのないように努めていた。多くの歴史的な文書は火事の前年にポートランドのオレゴン歴史協会に渡され、そこで保管されていたため、この火事による焼失を免れた。オレゴン州最高裁判所は1914年に別の庁舎に移転していたが、州会議事堂とは電気や暖房を供給するための地下トンネルでつながっていた。当時、オレゴン州立図書館は州最高裁判所庁舎の1階と地下のスペースを使っていた。議事堂庁舎の消火活動の際に使用された水が地下トンネルを伝って最高裁判所庁舎に流れ込んできたため、地下に保管されていた多くの蔵書は水浸しになった。議事堂に置かれていた各事務所は、新しい庁舎が建てられるまでの間、他の州政府機関の庁舎や、セーラムのダウンタウンでリースした部屋に移転した。", "qas": [ { "question": "火事に遭ったオレゴン州の2代目の庁舎は、どんな構造物を除いた全てが燃え尽きたの?", "id": "de-087-07-000", "answers": [ { "text": "外壁", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オレゴン州最高裁判所は、何年から他の場所に移されていましたか?", "id": "de-087-07-001", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オレゴン州の2代目の庁舎で起こった火事による被害額は、約何ドルに至るか?", "id": "de-087-07-002", "answers": [ { "text": "約150万ドル", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "3代目となる新しい議事堂は1936年12月4日に建設が始まり、1938年に完成した。議事堂は1938年10月1日に開庁した。開庁式では当時の大統領フランクリン・ルーズベルトをはじめ、レズリー・M・スコット、ロバート・W・ソーヤー、そして州知事チャールズ・ヘンリー・マーティンによる演説が行われた。庁舎のデザインは全米からの公募で123案が集まり、その結果他州の州会議事堂とは一線を画するものに決められた。デザインは古代エジプト建築の質朴さと古代ギリシア建築の精巧さを取り入れつつ、全体的にはアール・デコ調にまとめられた。全米の州会議事堂の中でも、アール・デコ調の建築様式で建てられたのはこの3代目のオレゴン州会議事堂だけである。建設開始前には、マーティンが新庁舎をダウンタウンから南に離れた、高台のキャンデラリア・ハイツ地区に建設する案を出したことに対する批判が出た。また、ウィラメット大学のキャンパスを州が買い上げ、そこに新庁舎を建てるという案もあった。しかし、ダウンタウンの商人たちの力により、結局新庁舎は以前の庁舎と同じ敷地内に建てられることになった。その一方で、新庁舎への「道」を造るために、ダウンタウンにあった何軒かのビクトリア様式の家屋は取り壊された。また、他州の州会議事堂の庁舎によく見られ、2代目の庁舎にもあった伝統的なドームとは異なるこの新庁舎のドームが「ペンキ缶のように見える」という不満も出た。このドームを「荘厳さに欠けるリス籠」とまで呼ぶ者もいた。加えて、ドームの屋上に立てられた、金色に輝くオレゴン・パイオニア像を民衆が称えるようになるまでにも時間がかかった。この像の設置作業は1938年9月17日に始まり、重機を用いて数日間にわたって行われた。", "qas": [ { "question": "アメリカで初めてアール・デコ調の建築様式で建てられ州会議事堂は、どの州の州会議事堂であるの?", "id": "de-087-08-000", "answers": [ { "text": "オレゴン州", "answer_start": 299, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1938年にオレゴン州の州知事に務めていたのは、誰か?", "id": "de-087-08-001", "answers": [ { "text": "チャールズ・ヘンリー・マーティン", "answer_start": 121, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "3代目のオレゴン州会議事堂は、アール・デコ調をベースに古代エジプト建築とどの建築様式のものが加えられたデザインですか?", "id": "de-087-08-002", "answers": [ { "text": "古代ギリシア建築", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この庁舎の建設には250万ドル(当時)の費用を要した。建設費用の45%は公共事業局を通じて連邦政府が負担した。完成当時、庁舎は幅50m、奥行き122m、高さ51mで、有効床面積は約12,240m2であった。外観はバーモント州産の大理石が用いられた。ロビー、ロタンダ、ホールには研磨されたモンタナ州産のばら色の石灰華が並べられた。ロタンダの階段と床にはミズーリ州産のフェニックス・ナポレオン大理石が用いられ、その縁にはバーモント州産のラジオ・ブラック大理石が用いられた。当初の予算は350万ドルであったが、州議会が承認した予算は250万ドルであった。予算がカットされたため、委員会室の設置は建設計画から外された。委員会室は1977年にウイングが増設された際に、増設費用1250万ドルの中に盛り込まれ、設置された。増設されたウイングには議会事務所、聴聞室、サポートサービス、1階のガレリア、および地下駐車場が設けられた。この増設により、庁舎の床面積は増設前に比べて、約2倍に広がった。", "qas": [ { "question": "3代目のオレゴン州会議事堂の建設に用いられた大理石は、バーモント州とどの州から持ち込んだものなの?", "id": "de-087-09-000", "answers": [ { "text": "ミズーリ州", "answer_start": 175, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1997年、「生きた歴史を創り、議事堂の威厳と美観を高め、文化的・教育的な機会を育む」ということを目的として、州議会は非営利のオレゴン州会議事堂財団(OregonStateCapitolFoundation)を創設した。2002年には、130万ドルを投じて改装が行われ、アンティーク調のワイヤー、新しい絨毯や照明装置の敷設など、庁舎の内装がアップグレードされた。同年4月には、全米の州会議事堂としては初めて、このオレゴン州会議事堂に太陽光発電装置が設置された。60枚の太陽電池を用いたこの装置は7.8kWの電力を生み出すことができた。このうち1/3は夜間にオレゴン・パイオニア像をライトアップするのに用いられ、残りの電力は配電網システムに送られた。2007年にはウイングが改装され、備品、配管、および電気システムが交換・アップグレードされた。3400万ドルの費用を投じたこの改装プロジェクトは、2008年にゴードン・スミスとジェフ・マークレーの間で戦われたオレゴン州選出連邦上院議員選挙において争点となった。この選挙戦において、当時現職であったスミスは、この改装プロジェクトが承認されたときにオレゴン州議会下院議長であったマークレーを攻撃する広告で、このプロジェクトの費用を取り上げた。スミスが行った攻撃には、議員用・スタッフ用の新しい机のコストや、それらの机がオレゴン州内の刑務所の囚人によって作られているといったことも含まれていた。その後行われた選挙では、マークレーがスミスを破り、翌2009年に連邦上院議員に就任した。この改装は2008年11月に完了した。", "qas": [ { "question": "オレゴン州会議事堂財団が創設されたのは、いつ?", "id": "de-087-10-000", "answers": [ { "text": "1997年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカで初めて太陽光発電の技術が導入された州会議事堂は、どの州の州会議事堂ですか?", "id": "de-087-10-001", "answers": [ { "text": "オレゴン州", "answer_start": 206, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "3代目のオレゴン州会議事堂の電気システムと庁舎の内装のうち、より早くアップグレードされたのは、どちらか?", "id": "de-087-10-002", "answers": [ { "text": "庁舎の内装", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2007年12月31日には、オレゴン州会議事堂史上初めて、公認の結婚式が執り行われた。新郎の州下院議員トビアス・リードの後押しによって、州議会は年4回まで議事堂で公共のイベントを行うことができるという法案を通した。1993年3月25日に発生した、オレゴン州北西部を震源とするマグニチュード5.6のスコッツ・ミルズ地震ではドームが損傷を受け、修理のために庁舎は一時閉鎖された。特にロタンダの周辺は2年近くにわたって閉鎖された。この地震ではドームにひびが入り、屋上のオレゴン・パイオニア像の位置もずれた。また、庁舎の西端の土地は1m隆起した。庁舎の修理に伴って、コンクリートや鉄筋が加えられるなどの補強もなされた。これらの修理および補強には430万ドルの費用を要した。また、2008年8月30日午前0時30分頃、オレゴン州会議事堂では三たび火事が発生した。しかし、1855年や1935年の火事とは異なり、この火事は庁舎を焼失させるような惨事にはならず、早いうちに鎮火された。この火事で2階の南端にあった知事室は被害を受け、移転を余儀なくされた。オレゴン州知事の公式な仮事務室は、2010年まで通りの向こう側に立地するオレゴン州立図書館内に設けられる予定になっている。", "qas": [ { "question": "1855年と1935年、2008年のうち、その年にあった火事がオレゴン州会議事堂を焼失させるような惨事にはならなかったのは、何年ですか?", "id": "de-087-11-000", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 335, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オレゴン州会議事堂は、火事のほかに、どんな災害により被害を受けたことがあるの?", "id": "de-087-11-001", "answers": [ { "text": "地震", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "議事堂内部中央、ドーム直下のロタンダの床にはアルリック・エラーヒューゼンによって銅版に彫られたオレゴン州章がはめ込まれている。また、ドームの屋上に立つオレゴン・パイオニア像もエラーヒューゼンの手によるものである。州章からドームまでの高さは32.3mである。ドームの内側にはフランク・H・シュワルツによって33個の星が描かれている。この星はオレゴンが連邦33番目の州であることを示している。ロタンダの内壁最上部に描かれている8つの円形飾り模様は、州章に描かれている8つのものをそれぞれ現している。また、ロタンダの内壁にはオレゴンの歴史を描写した4枚の壁画も描かれている。そのうちの1枚はロバート・グレイによる1792年のコロンビア川探検を描いている。もう1枚にはルイス・クラーク探検隊が、そして残りの2枚には開拓時代の幌馬車が描かれている。これら4枚の壁画はシュワルツとバリー・フォークナーによって描かれた。また、ロタンダのウイングの大階段には、その壁に沿ってオレゴン・カントリー暫定政府の鮭と小麦の紋章、およびオレゴン準州の準州章、およびオレゴンの産業に関する壁画などが描かれている。1階のガレリアには聴聞室のほか、展示ケースやビジター・インフォメーション・エリアが設けられている。", "qas": [ { "question": "オレゴン州章とオレゴン・パイオニア像もの製作者は、誰?", "id": "de-087-12-000", "answers": [ { "text": "アルリック・エラーヒューゼン", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドームの内側に、オレゴンが連邦33番目の州であることを示す絵を描いたのは、誰ですか?", "id": "de-087-12-001", "answers": [ { "text": "フランク・H・シュワルツ", "answer_start": 136, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロタンダの内壁の壁画には、開拓時代の幌馬車とルイス・クラーク探検隊のうち、どちらを主題としたものがより多いか?", "id": "de-087-12-002", "answers": [ { "text": "開拓時代の幌馬車", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "オレゴン州議会下院の本会議場の床には特注の絨毯が敷かれている。この絨毯の模様には州の木であるベイマツが描かれ、州の林業を象徴している。場内の備品や羽目板はオーク材の一種であるキプロスイチイガシで造られている。下院議長席の後ろには、オレゴン・カントリー暫定政府の創設に至った1843年のシャンプーイ会議の様子が描かれた、フォークナーの手による壁画が飾られている。州議会上院本会議場の備品や羽目板にはウォールナット材の一種であるクログルミが用いられている。こちらの絨毯も特注のもので、州の漁業と農業を象徴するキングサーモンと小麦が描かれている。上院本会議場に飾られている壁画はシュワルツの手によるもので、オレゴンの州昇格の知らせがセーラムに届いたときの様子が描かれている。上下両院の本会議場の壁にはフリーズが設けられ、オレゴンの歴史上重要な158人の名が刻まれている。2008年に火事に遭う前には、議事堂の2階には知事室が設けられていた。知事室は公式の事務室、および州の最高責任者用の私用の事務室の2部屋からなるスイート(続き部屋)であった。上院本会議場同様、羽目板はクログルミで造られていた。公式の事務室には、フォークナーによる絵画が飾られた暖炉も設けられていた。スイートの応接エリアには、40種の木材を用いたテーブルが置かれていた。このテーブルには2代目のオレゴン州会議事堂庁舎のレプリカ、州の花であるセイヨウヒイラギナンテン、および州の鳥であるニシマキバドリが刻み込まれていた。", "qas": [ { "question": "床に州の漁業と農業を象徴するものが描かれた特注の絨毯が敷かれているのは、下院と上院のうち、どちらの本会議室か?", "id": "de-087-13-000", "answers": [ { "text": "上院", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オレゴン州を象徴する木は、何?", "id": "de-087-13-001", "answers": [ { "text": "ベイマツ", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オレゴン州議会下院の本会議場の床には、州の何を象徴するものが描かれていますか?", "id": "de-087-13-002", "answers": [ { "text": "林業", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何年に火事に遭うまで、議事堂の2階に知事室が設けられていたか?", "id": "de-087-13-003", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 382, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "庁舎の外観にも様々な彫刻が施されている。レオ・フリードランダーは正面入口への階段の両側に置かれた大きなバーモント州産大理石に浮き彫りを施した。左側の大理石にはメリウェザー・ルイス、ウィリアム・クラーク、およびサカガウィアが彫られており、その裏側には彼らの探検隊が辿った道筋を示す地図が描かれている。一方、右側の大理石には開拓者たちと幌馬車が彫られており、その裏側にはオレゴン・トレイルの地図が描かれている。これらの彫刻に加えて、外観にはエラーヒューゼンが制作した大理石の彫刻が5つある。また、正面入口の上部に飾られた6つ(外側と内側に3つずつ)の銅の彫刻もエラーヒューゼンの手によるものである。南側入口の上部には、トム・モランディによる金属の彫刻が飾られている。庁舎は幅211.2m、奥行き79.1mである。ドームを含めた庁舎の高さは51m、中央部分のドームを除いた高さは16.3m、ウイングの高さは20.9mである。庁舎の有効床面積は約21,720m2、容積は約90,600m3である。", "qas": [ { "question": "外観と正面入口の上部のうち、エラーヒューゼンの彫刻がより多く置かれているのは、どちらなの?", "id": "de-087-14-000", "answers": [ { "text": "正面入口の上部", "answer_start": 246, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "外観と正面入口の上部のうち、エラーヒューゼンが石で制作したのは、どちらに置かれた彫刻ですか?", "id": "de-087-14-001", "answers": [ { "text": "外観", "answer_start": 214, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オレゴン州会議事堂の敷地は3ブロックにわたり、キャピトル・パークおよびウィルソン・パークという2つの公園を含んでいる。庁舎の西側入口の近くにはフィラデルフィアの「自由の鐘」のレプリカが置かれている。この鐘はフランスで作られ、アメリカ合衆国連邦政府によって各州に寄贈された53個の等寸大レプリカのうちの1つである。オレゴン州はこのレプリカを1950年の独立記念日に受け取った。敷地内の至るところには、コロラドトウヒ、セイヨウヒイラギナンテン、セコイアデンドロン、セコイア、イロハモミジ、ミズキ属の木、マメナシ、サクラ属の木、セイヨウヒイラギ、ツツジ、モクレン属の木など、この地域でよく見られる植物が植えられている。敷地内に植えられているベイマツの木のうちの1本は、1971年にアポロ14号で月まで運ばれた種から育てられ、1976年にオレゴン州立大学から議事堂の敷地に移植されたものである。", "qas": [ { "question": "庁舎の西側入口の近くに置かれている「自由の鐘」のレプリカは、どの国で作られたの?", "id": "de-087-15-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "庁舎の西側入口の近くに置かれている「自由の鐘」のレプリカは、いつオレゴン州に渡されましたか?", "id": "de-087-15-001", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "庁舎東側はキャピトル・パークになっている。園内にはA・フィミスター・プロクターが制作したメソジスト教会の巡回牧師の像や、ギフォード・プロクターが制作した伝道師ジェイソン・リーの像、およびジョン・マクローリンの像が立てられている。また、2代目の庁舎に用いられていたコリント式の柱の残骸もこの園内に置かれている。リーは後にウィラメット大学となるメソジスト教会の伝道所をこの地に設立した。ハドソン湾会社のマクローリンは「オレゴンの父」と呼ばれている。巡回牧師の像は1924年に初期の伝道者によってこの敷地内にモニュメントとして加えられた。1962年の「コロンブス・デーの嵐」によって像は損傷を受けたが、翌1963年には修復された。また、園内にはオレゴン州出身の名誉勲章受章者の記念碑も立てられている。2004年9月18日に建立されたこの記念碑は御影石で造られており、各受章者の肖像と勲章の引用が刻まれた銅製の銘板がはめ込まれている。", "qas": [ { "question": "庁舎東側のキャピトル・パークに立てられている像のうち、A・フィミスター・プロクターが制作したのは、何か?", "id": "de-087-16-000", "answers": [ { "text": "メソジスト教会の巡回牧師の像", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「オレゴンの父」と呼ばれる人の像を制作したのは、誰か?", "id": "de-087-16-001", "answers": [ { "text": "ギフォード・プロクター", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "庁舎西側はウィルソン・パークになっている。この公園の名はセーラムの創設者であるウィリアム・H・ウィルソンからつけられた。公園の土地は、もともとウィルソンが所有していた土地のちょうど中央部分にあたる。1853年から1965年にかけては、この公園はセーラム市管轄の公園であった。その後公園が州に譲渡されると、ロイド・ボンド・アンド・アソシエイツに公園の再設計が依頼された。園内には2つの噴水、1982年に建てられた見晴台、および1991年に遊び場として設けられた動物のパレードの像がある。ウエイト噴水は1907年にオレゴンの実業家E・M・ウエイトを称えて、ウエイトの妻によって寄贈されたものである。もう1つの噴水、公園の西端に設けられているブレイマン兄弟噴水は、1904年にワーナー、ユージーンのブレイマン兄弟を記念して、ブレイマン家によって寄贈されたものである。もともとは、この噴水は米西戦争の兵士の像で装飾されていた。また、この噴水は街灯柱や馬の水槽としても使われていた。今日では、この噴水からは水が噴き出ることはなく、ときどき花が植えられている。2005年、オレゴン州会議事堂財団はこのウィルソン・パークに全米50州の州旗を立て並べた遊歩道、ウォーク・オブ・ザ・フラッグスを設置した。2009年には、オレゴン州内に居住するネイティブ・アメリカンの9部族の旗がウォーク・オブ・ザ・フラッグスに加えられた。", "qas": [ { "question": "ウィルソン・パークにある、見晴台と動物のパレードの像のうち、より早く造られたのは、どちらか?", "id": "de-087-17-000", "answers": [ { "text": "見晴台", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウィルソン・パークは何年以降から州管轄の公園になったのか?", "id": "de-087-17-001", "answers": [ { "text": "1965年", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "小渋川", "paragraphs": [ { "context": "小渋川(こしぶがわ)は一級河川天竜川の主要支流のひとつだ。\n赤石山脈(南アルプス)の赤石岳山頂付近に発し、源流から天竜川合流までの標高差は2000mに達する。\n約300km2の流域面積をもち、中央構造線など日本列島を構成する地盤の主要部を横断しており、流域には大規模な崩壊地形を数多く持っている。\nそのため天竜川のさまざまな支流の中でも「最も荒れ川」で土砂の量が多いとされていて、その土砂を減らす目的で小渋ダムが建設された。", "qas": [ { "question": "小渋川の流域面積は?", "id": "de-088-00-000", "answers": [ { "text": "約300km2", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小渋川の種類は何ですか?", "id": "de-088-00-001", "answers": [ { "text": "一級河川", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "天竜川の支流の中で最も土砂の量が多い川は何?", "id": "de-088-00-002", "answers": [ { "text": "小渋川", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小渋川の源流はどこの山頂付近になりますか?", "id": "de-088-00-003", "answers": [ { "text": "赤石岳", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "小渋川は天竜川の代表的な支流の一つであり、天竜川からみて「上流域」に相当する。\n小渋川の源流は南アルプスを代表する赤石岳(3120m)、荒川岳(3141m)、大沢岳(2819m)、奥茶臼山(2474m)、烏帽子岳(2726m)、小河内岳(2802m)などにある。", "qas": [ { "question": "奥茶臼山、赤石岳、烏帽子岳、大沢岳、荒川岳、小河内岳の中で最も高い山は何ですか?", "id": "de-088-01-000", "answers": [ { "text": "荒川岳", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "小河内岳、奥茶臼山、赤石岳、烏帽子岳、大沢岳、荒川岳の中で最も低い山は何ですか?", "id": "de-088-01-001", "answers": [ { "text": "奥茶臼山", "answer_start": 90, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "小河内岳、奥茶臼山、赤石岳、烏帽子岳、大沢岳、荒川岳の中で3番目に低い山は何ですか?", "id": "de-088-01-002", "answers": [ { "text": "小河内岳", "answer_start": 114, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "小河内岳、奥茶臼山、赤石岳、烏帽子岳、大沢岳、荒川岳の中で2番目に高い山は何ですか?", "id": "de-088-01-003", "answers": [ { "text": "赤石岳", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "小渋川は日本列島を構成する主要部である中央構造線付近を流れている。\n特に、小渋川の支流である青木川・鹿塩川と、小渋川の中流部は中央構造線の直上を通っており、このあたりには赤石構造線という別の断層も合流している。\n東西に流れる小渋川の本流は腰部断層という断層の直上を流れているほか、南北に走る断層をいくつも横断している。\nこうした地勢上、流域は断層にともなう土砂崩れの多い地域で、数多くの崩壊地形を持っている。\nそのために、土砂の多い天竜川の中でも、その流入がきわめて多い支流で、古くから「小渋の濁流は天竜をも濁らす」と言われてきた。\nそのため、1937年(昭和12年)以来、国によるさまざまな土砂対策が行われている。", "qas": [ { "question": "青木川や鹿塩川の本流は何ですか?", "id": "de-088-02-000", "answers": [ { "text": "小渋川", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小渋川の中流部には、中央構造線と何の断層が通っていますか?", "id": "de-088-02-001", "answers": [ { "text": "赤石構造線", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小渋川の国による土砂対策はいつから行われているの?", "id": "de-088-02-002", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 272, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "小渋川は中央構造線の谷を流れた後、西へ向きを変え、伊那山地を分断する形で大峡谷を築いている。\nこれは伊那山地の隆起が始まるより前から小渋川が流れていた(先行河川)ことで生じた谷であり、この峡谷(小渋峡)に小渋ダムが建設され、砂防、発電、灌漑など多目的に利用されている。\n小渋川の流域の大半は大鹿村に属している。\n伊那地方で「三六災害」と呼ばれる昭和36年(1961年)の集中豪雨では、流域各地で土砂災害が起き、いくつかの集落が消滅した。\nこれによって大鹿村は大きく人口を減らすことになった。", "qas": [ { "question": "小渋川の流域の多くはどの村に属しているの?", "id": "de-088-03-000", "answers": [ { "text": "大鹿村", "answer_start": 145, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大鹿村の人口が大きく減少した原因は何の災害があったからですか?", "id": "de-088-03-001", "answers": [ { "text": "土砂災害", "answer_start": 197, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "古くは、小渋川の上流部は「島川」と呼ばれていた。\n「島川」は南からくる青木川と合流し、そこから下流を「小渋川」と呼んでいた。\nいまは河川名としての「島川」は使用されておらず、上流も含めて「小渋川」と呼ばれている。\n本項では、天竜川への合流点から小渋峡入口(鹿塩川合流点)を「下流」、青木川合流点までを「中流」(かつての「小渋川」はここまで)、小河内沢合流地点までを「上流」(かつての「島川」相当部分)、それより上を「源流」として説明する。", "qas": [ { "question": "小渋川の上流部の昔の呼称は何でしたか?", "id": "de-088-04-000", "answers": [ { "text": "「島川」", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小渋川の中流部で合流する川の名は何ですか?", "id": "de-088-04-001", "answers": [ { "text": "青木川", "answer_start": 141, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "下流部で小渋川が合流する川の名は何ですか?", "id": "de-088-04-002", "answers": [ { "text": "天竜川", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "小渋川の源流は、荒川岳(前岳・3068m)、小赤石岳(3081m)、赤石岳(3120m)、大沢岳(2819m)と連なる赤石山脈の西斜面にある。\n荒川岳(前岳)の山頂付近から南西へ下る「荒川」・「井戸川」、赤石岳の山頂付近から西へ下る「本岳沢」、大沢岳の百聞平付近から北へ下る「福川」「キタ沢」「キタ山沢」などがこれに当たる。", "qas": [ { "question": "前岳、小赤石岳、大沢岳の中で最も標高が高い山はどれ?", "id": "de-088-05-000", "answers": [ { "text": "小赤石岳", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "前岳、小赤石岳、大沢岳の中で2番目に高い山はどれ?", "id": "de-088-05-001", "answers": [ { "text": "前岳", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "前岳、小赤石岳、大沢岳の中で最も低い山はどれ?", "id": "de-088-05-002", "answers": [ { "text": "大沢岳", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "前岳と赤石岳はどちらが低いですか?", "id": "de-088-05-003", "answers": [ { "text": "前岳", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "とくに「荒川」の源流である荒川岳南西斜面の標高3000-2500m一帯は、「荒川大崩壊地」と呼ばれ、天竜川流域を代表する崩壊地である。\nここは3000m級の山頂付近から落差500mにも及ぶ「すさまじい」崩壊地で、いまも豪雨のたびに崩壊を続けている。\n史料によれば、一帯では年貢として木材(榑木)の供出が課されており、江戸時代初頭から100年あまりにわたり木材の伐採が続けられた。\nフォッサマグナと中央構造線の交点付近にあたるこの地域は元来地質が不安定であり、木材の伐採も相まって斜面の崩壊が始まったとされている。", "qas": [ { "question": "「荒川大崩壊地」の標高はどれくらいですか?", "id": "de-088-06-000", "answers": [ { "text": "3000-2500m", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "荒川岳南西斜面の標高3000-2500m一帯はいつの時代から木材の伐採が始まりましたか?", "id": "de-088-06-001", "answers": [ { "text": "江戸時代初頭", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「荒川大崩壊地」の一帯は中央構造線と何という地帯が交わる場所ですか?", "id": "de-088-06-002", "answers": [ { "text": "フォッサマグナ", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "荒川大崩壊地から崩れ出た岩石は標高1600-1300m付近で、幅200-300m、長さ1500mあまりにわたって谷を埋めて「広河原」と呼ばれる緩斜面を形成している。\n史料では広河原は1710-1760年ごろに拡大したと伝えられている。\n広河原では、赤石岳・荒川岳・大沢岳の山頂付近から標高差1500mあまりを一気に下ってきた沢が集まり合流している。\n広河原は登山中継地になっており、標高1440m付近に広河原小屋という山小屋(無人)も設けられている。", "qas": [ { "question": "「広河原」は標高何m付近に形成されているの?", "id": "de-088-07-000", "answers": [ { "text": "1600-1300m付近", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "広河原小屋は標高何mの地点にありますか?", "id": "de-088-07-001", "answers": [ { "text": "1440m付近", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "広河原が拡大した時期はいつですか?", "id": "de-088-07-002", "answers": [ { "text": "1710-1760年ごろ", "answer_start": 91, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "広河原からさらに高山(2293m)の南斜面を下ってきた「高山沢」が「高山ノ滝」を経て合流する。\n板屋岳(2646m)・大日影山(2573m)方面からは、「板屋薙」という崩壊地から来る「板屋沢」が合流してくる。\n奥茶臼山(2474m)の北斜面からは「前茶臼ナギ」という崩壊地に発する「上沢」が合流してくる。", "qas": [ { "question": "高山、板屋岳、大日影山、奥茶臼山の中で最も高いのは何ですか?", "id": "de-088-08-000", "answers": [ { "text": "板屋岳", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "板屋岳、高山、奥茶臼山、大日影山の中で最も低い山は何ですか?", "id": "de-088-08-001", "answers": [ { "text": "高山", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "板屋岳、奥茶臼山、大日影山、高山の中で2番目に低い山は何ですか?", "id": "de-088-08-002", "answers": [ { "text": "奥茶臼山", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "板屋岳、奥茶臼山、大日影山、高山の中で、奥茶臼山の次に高い山は何ですか?", "id": "de-088-08-003", "answers": [ { "text": "大日影山", "answer_start": 59, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "赤石岳・荒川岳を目指す上級者向けの登頂ルートとして、小渋川を遡って西斜面から「大聖寺平」と呼ばれる鞍部を目指すルートがある。\nこのルートでは、現在は標高1000m付近の湯オレ沢付近までしか一般車両は通行できず、そこからは徒歩となる。\n1.5kmほど先の「七釜橋」を渡ると道も途絶え、そこから先、数kmは谷底の小渋川の河原をさかのぼることになる。\nその途中では10数回あまり、橋のない沢を渡渉することになるが、最も水が少ない時期でも水量は腰まで浸かるほど深く、狭い岩場の谷底のため降雨時の増水でも避難する場所もないため危険である。\n「日本アルプスの父」と称される登山家のウォルター・ウェストンもこのコースを通ったことがあり、ウェストンは広河原を経て途中の標高2400m付近にある「船窪」で休息をとったと伝わっている。", "qas": [ { "question": "湯オレ沢は標高何m付近に位置しているの?", "id": "de-088-09-000", "answers": [ { "text": "1000m付近", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「日本アルプスの父」とは誰のことですか?", "id": "de-088-09-001", "answers": [ { "text": "ウォルター・ウェストン", "answer_start": 284, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「船窪」は標高何m付近に位置しているの?", "id": "de-088-09-002", "answers": [ { "text": "2400m付近", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "上沢は小渋川左岸の奥茶臼山と前茶臼山(2331m)から来る支流である。\nその沢筋は両山の斜面でいくつにも分かれているが、そのうち前茶臼山の東斜面の沢は「前茶臼ナギ」と呼ばれる大崩壊地を源にしている。\nこのあたりは、諏訪湖方面から静岡県までを南北に貫いている「戸台構造線」「仏像構造線」、東西に走る「小渋断層」「茶臼断層」が入り乱れており、特に茶臼山はこれらの断層に挟まれた三角地帯に位置している。", "qas": [ { "question": "「前茶臼ナギ」の一帯を南北に貫いている断層は「仏像構造線」と「茶臼断層」のどちらですか?", "id": "de-088-10-000", "answers": [ { "text": "「仏像構造線」", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「前茶臼ナギ」の一帯を東西に走っている断層は「戸台構造線」と「小渋断層」のどちらですか?", "id": "de-088-10-001", "answers": [ { "text": "「小渋断層」", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "このため前茶臼山は山頂から大きく薙ぎ落とされたように崩壊しており、2300m級の山頂から高低差800mほどに及ぶV字型の崩壊地になっている。\nこれを「前茶臼ナギ」と呼ぶ。\n上沢が小渋川に合流する地点の対岸には、旧小渋温泉(小渋の湯跡)がある。\nここはかつてウェストンも入浴したと記録されている。\n1898年(明治31年)7月に前茶臼ナギで大崩壊が起き、小渋温泉は土石流の直撃を受けて温泉経営者を含む10名の犠牲者を出した。\n温泉地はこれによって廃れ、今は下流に新しい小渋温泉が営まれている。\nこの時の水害では後述する鹿塩川方面でも甚大な被害を出しており、製塩工場が廃業となる原因になっている。\n前茶臼ナギでは30年後の1929年(昭和4年)にも大災害を起こしている。", "qas": [ { "question": "ウェストンが入浴した温泉地とはどこ?", "id": "de-088-11-000", "answers": [ { "text": "旧小渋温泉", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1898年7月以降、次は何年後に前茶臼ナギで大災害が起こったの?", "id": "de-088-11-001", "answers": [ { "text": "30年後", "answer_start": 304, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1898年7月に起こった前茶臼ナギの大崩壊では何名が犠牲となりましたか?", "id": "de-088-11-002", "answers": [ { "text": "10名", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一般車の通行はできないものの、七釜橋の先まで道が通じているのは七釜砂防堰堤という砂防ダムが築造されているからである。\n荒川大崩壊地からの膨大な土砂の流入を食い止めるため、仏像構造線という断層直上につくられたもので、1984年(昭和59年)に完成した。\n小渋川の堰堤としてはもっとも上流にあるものである。\n川床は大量の岩石が積み重なっていて、これらを貫く深い基礎を建造するのは困難だった。\nそのため、箱状のコンクリート構造物を地中に埋設する「ケーソン工法」によって建設されたもので、堰堤に採用されるのは全国的にも珍しいものである。\n堰堤は高さ28m、堤長122.5mあり、121万m3の土砂を貯められるように設計されている。", "qas": [ { "question": "七釜砂防堰堤は何年に完成したの?", "id": "de-088-12-000", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小渋川のもっとも上流にある堰堤とは何ですか?", "id": "de-088-12-001", "answers": [ { "text": "七釜砂防堰堤", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "七釜砂防堰堤はどのような方法で建設されたの?", "id": "de-088-12-002", "answers": [ { "text": "「ケーソン工法」", "answer_start": 219, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "七釜砂防堰堤の高さはどれくらいですか?", "id": "de-088-12-003", "answers": [ { "text": "28m", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "小渋川の上流域にあたる大鹿村は、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子宗良親王が30年あまりにわたって暮らした地で、「信濃宮」と呼ばれていた。\n大鹿村は大河原村と鹿塩村が合併してできた村名で、「大河原」(大川原)は宗良親王による史料にしばしば登場し、親王は南朝に与する東国武士をこの地から支え、とくに天竜川西岸を勢力下にしていた。\n小渋川の右岸には小渋温泉があり、これは宗良親王の従者だった渋谷三郎という人物が発見したものと伝えられている。", "qas": [ { "question": "大鹿村の南北朝時代での呼び名は何でしたか?", "id": "de-088-13-000", "answers": [ { "text": "「信濃宮」", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南北朝時代に大鹿村に30年ほど居住した偉人は誰ですか?", "id": "de-088-13-001", "answers": [ { "text": "宗良親王", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "言い伝えでは小渋温泉の発見者は誰ですか?", "id": "de-088-13-002", "answers": [ { "text": "渋谷三郎", "answer_start": 190, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大河原村と鹿塩村が合併して何という村ができましたか?", "id": "de-088-13-003", "answers": [ { "text": "大鹿村", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "小渋川本流沿いの集落としては最も上流にある釜沢地区では、「小河内沢」という支流が北から合流する。\n小河内沢は、烏帽子岳(2726m)・小河内岳(2802m)の西斜面を下ってくる支流である。\n烏帽子岳の山頂直下には「烏帽子岳のナギ」という崩壊地形がある。\n小河内沢は西へ向かっていくつかの沢を集めた後、南東へ向きを転じる。\nそのあたりを「御所平」といい、かつて宗良親王の館があった。\n今は定住者もなく草原と化しているが、その中に何本かの松の古木があるほか、付近の「的場」からは鉄製の矢尻が複数見つかっており、かつて武士の調練場があったと考えられている。\n宗良親王の遺した和歌に「いづかたも山のは近き柴の戸は月見る空やすくなかるらむ」というものがあり、これは御所で詠まれたものだと考えられている。", "qas": [ { "question": "烏帽子岳と小河内岳はどちらが高いですか?", "id": "de-088-14-000", "answers": [ { "text": "小河内岳", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "小渋川本流沿いの最も上流にある集落は何ですか?", "id": "de-088-14-001", "answers": [ { "text": "釜沢地区", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「いづかたも山のは近き柴の戸は月見る空やすくなかるらむ」は誰が詠んだ歌ですか?", "id": "de-088-14-002", "answers": [ { "text": "宗良親王", "answer_start": 276, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、釜沢地区にある宇佐八幡神社の宝篋印塔は宗良親王の墓所と伝えられている。\n釜沢地区からは小渋川の右岸に県道253号が走っており、沿道の小渋温泉や上蔵地区にも宗良親王ゆかりの史跡が散在する。\n小河内沢の標高1100m付近に設けられた砂防ダムには「御所平取水堰」が併設されている。\n小渋川の源流に近い七釜と小河内沢の御所平から取水した水は、下流の大鹿発電所に送られて発電に利用されている。", "qas": [ { "question": "宇佐八幡神社の宝篋印塔は誰が眠る墓所とされていますか?", "id": "de-088-15-000", "answers": [ { "text": "宗良親王", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "頼品ヨ", "paragraphs": [ { "context": "頼品ヨは高校三年の17歳時に『批踢踢(PTT。台湾最大のネット掲示板)』やブログを閲覧しているうちに徐々に社会問題に関心を持ちはじめた。この時期に台北市士林区で市政府が強行した再開発により士林王家の居住地が撤去された事件での反対運動に参加している。卒業後の進路を思案していた時期に興味を抱いたこの問題をきっかけとして、社会に不公正や不義が蔓延ることを感じ取った品妤は社会運動参加への熱意が増大していった。ただし、この時点ではまだ個人的な活動に過ぎなかった。\n\n大学進学後の2012年ごろから多くの学生運動に参加してきた。アップルデイリーで知られる壹伝媒の買収事案が進行しメディア独占反対運動が起きた。運動中は傍観者の一人として沿道から声援を送るにすぎなかったが、運動終結後に居合わせた学生らと「反媒体巨獣青年聯盟」(青盟)メンバーに加入した。じきに青盟Facebookの開設やニュースの整理を手伝うようになり、活動現場で毎回声援を送るようになった。しかし、青盟での声援はメディア露出が低く世間での存在感がなかったため、青盟の動員力は次第に衰退していった。社会運動の仲間たちは品妤の存在を認知すると活動情報を共有するようになり、「黒色島国青年陣線(黒島青)」を結成する。2013年8月に結成されたこの黒島青は品妤が中途ではなく初期から加入した最初の団体であり、幹部としてより積極的な活動をみせるようになった。内部討論に参加するうちに各地の公聴会出席などの事務業務を受け持つようになった。コスプレと社会活動を結びつけたのもこの時期だった。再開発に伴う立ち退きおよび取り壊し問題にはコスプレのパフォーマンスを通じて抗議の意思を示した。このほか、2012年の洪仲丘事件をきっかけに発生した事件真相解明要求かつイデオロギー闘争に明け暮れる国民党と民進党双方に対する抗議表明としての「白シャツ軍運動」や、中国資本が入り対岸寄りの報道が懸念されていた(中天電視などを擁する)旺旺集団への抗議活動「反媒体壟断運動」とそれに伴うパレード、秋闘(秋鬥、秋の労働運動)、反陳徳銘抗議行動、中国国民党第19次全国代表大会への抗議運動へ参加するなど、次第に社会運動にのめり込んでいった。\n\n品妤はこれらの活動を通じて「あなたも一つの集合体に属するようになれば、多方面の議題について関心を持たざるを得ないだろう。自身の過去の価値観に対する影響は確かなもので、例えば自分が過去に見たことのない、より脆弱な人々に遭遇することだってある」と訴えている。", "qas": [ { "question": "頼品ヨは何歳から社会問題に関心を持ちはじめましたか。", "id": "de-089-00-000", "answers": [ { "text": "17歳", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "黒島青が結成されたのはいつなの?", "id": "de-089-00-001", "answers": [ { "text": "2013年8月", "answer_start": 534, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「あなたも一つの集合体に属するようになれば、多方面の議題について関心を持たざるを得ないだろう。自身の過去の価値観に対する影響は確かなもので、例えば自分が過去に見たことのない、より脆弱な人々に遭遇することだってある」と訴えた人は誰ですか。", "id": "de-089-00-002", "answers": [ { "text": "品妤", "answer_start": 932, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "真相解明要求かつイデオロギー闘争が発生したきっかけとなった事件は何ですか。", "id": "de-089-00-003", "answers": [ { "text": "2012年の洪仲丘事件", "answer_start": 719, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "海士町中央図書館", "paragraphs": [ { "context": "海士町中央図書館(あまちょうちゅうおうとしょかん)は、島根県隠岐郡海士町にある公共図書館。\n2010年(平成22年)10月16日、海士町役場に隣接する隠岐開発総合センターの1階に開館した。\n海士町の図書館等施設は、海士町中央図書館に加えて18の図書分館からなる。\n隠岐諸島の島前にある隠岐郡海士町には長らく図書館が存在しなかったが、2002年(平成14年)に就任した山内道雄町長は図書館を街づくりの中核に据えた。\n2007年(平成19年)10月には学校(保育園から高校まで)や公共施設(地区公民館や港)を図書分館と位置付けてネットワーク化し、島全体をひとつの図書館とみなす「島まるごと図書館構想」を策定した。", "qas": [ { "question": "島根県の海士町にある公共図書館の名称は何?", "id": "de-090-00-000", "answers": [ { "text": "海士町中央図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2002年に海士町長に就いた人は誰?", "id": "de-090-00-001", "answers": [ { "text": "山内道雄", "answer_start": 183, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2010年(平成22年)10月16日には構想の中心施設である海士町中央図書館が開館。\n海士町中央図書館は「滞在・交流型図書館」を運営コンセプトとしている。\nその取り組みは「分散型図書館サービスの先駆例」と評価され、2014年(平成26年)には知的資源イニシアティブが主催するLibraryoftheYear優秀賞を受賞した。\n海士町中央図書館には全国から多くの視察者が訪れている。\n2015年末時点の蔵書数は31,012冊、2015年度の貸出数は14,110冊だった。\n2015年度末の海士町の人口は2,344人であるため、住民1人あたり蔵書数は13.2冊、住民1人あたり貸出数は6.0冊だった。\n2015年度の図書購入費と新聞・雑誌購入費の合計は1,617,000円だった。", "qas": [ { "question": "2014年に受賞した賞とは何?", "id": "de-090-01-000", "answers": [ { "text": "LibraryoftheYear優秀賞", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2015年末の海士町の人口は何人だった?", "id": "de-090-01-001", "answers": [ { "text": "2,344人", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "島根県隠岐郡海士町は隠岐諸島の島前にある町であり、中ノ島全域を町域とする1島1町の自治体である。\n島根半島からの距離は約60kmであり、松江市の七類港や鳥取県境港市の境港から高速船で約2時間である。\n海士町の面積は33.46km2、2015年度末の人口は2,344人である。\n住民の約40%が65歳以上と、少子高齢化が進んでいる。\n主産業である漁業の不振から、2000年代前半の海士町は財政破綻寸前の状況に陥っていた。\n2002年(平成14年)に山内道雄が町長に就任すると、山内は「ないものはない」を合言葉に大胆な地域振興策を打ち出し、教育面では公立学習塾「隠岐國学習センター」の設置や、ICTを活用した遠隔授業の採用などを行っている。\n今日の海士町は、地域再生・地域活性化の先進的事例として引き合いに出されることも多い。", "qas": [ { "question": "山内町長によるスローガンは何?", "id": "de-090-02-000", "answers": [ { "text": "「ないものはない」", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "島根半島と海士町は何km離れていますか?", "id": "de-090-02-001", "answers": [ { "text": "約60km", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海士町に住む65歳以上の高齢者の割合は?", "id": "de-090-02-002", "answers": [ { "text": "約40%", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "海士町には長らく図書館がなく、書店は1軒あるのみだった。\n書店の品揃えは雑誌が中心であり、図書は注文しなければ入手できないような状況だった。\n海士町役場に隣接する隠岐開発総合センターに海士町中央公民館図書室があり、2階の図書室と1階の階段脇に置かれた書架からなっていた。\n中央公民館図書室の蔵書に加えて、島根県立図書館からも半年に一度の頻度で約600冊を借りて提供していた。\nただし、中央公民館図書室の蔵書は大人向けの本ばかりであり、また町内に2校ある小学校の図書室は古い本ばかりだった。\n中央公民館図書室は雰囲気の暗さもあって、訪れる住民はまばらだった。\n離島という立地条件のために隣接自治体の図書館を利用するという選択肢がなく、住民の大半が図書館を知らなかった。\n2003年度(平成15年度)の中央公民館図書室の蔵書数は約3,500冊であり、貸出数は1,189冊だった。", "qas": [ { "question": "海士町中央公民館図書室はどこの施設にありましたか?", "id": "de-090-03-000", "answers": [ { "text": "隠岐開発総合センター", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海士町に存在する小学校はいくつでしたか?", "id": "de-090-03-001", "answers": [ { "text": "2校", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2003年度の中央公民館図書室の蔵書は何冊ありましたか?", "id": "de-090-03-002", "answers": [ { "text": "約3,500冊", "answer_start": 362, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "海士町長の山内は将来の人づくり施策として読書を掲げた。\n2007年度と2008年度には文部科学省の「“読む・調べる”習慣の確立に向けた実践研究事業」を受託し、司書や読書推進コーディネーターなど3人の職員を採用。\n2007年(平成19年)10月には「島まるごと図書館構想」を策定して図書館事業をスタートさせた。\n同年11月には海士町内の各学校に対する学校司書の配置を開始し、同時に地区公民館やフェリー乗り場などの公共施設に図書分館の設置を開始した。\n同年12月には海士町中央公民館図書室をリニューアルしており、図書スペースの拡充、図書の新規購入、古い図書の廃棄、蔵書検索機の設置、郷土資料コーナーの設置などを行っている。", "qas": [ { "question": "2007年に始まった図書館事業とは何?", "id": "de-090-04-000", "answers": [ { "text": "「島まるごと図書館構想」", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "海士町中央公民館図書室をリニューアルしたのは何年?", "id": "de-090-04-001", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "島根県は学校司書の配置率が全国1位であり、学校司書の配置に関して海士町は県の支援を受けることができた。\n1人もいなかった学校司書を2人採用し、けいしょう保育園(私立)・海士町立海士小学校・海士町立福井小学校・海士町立海士中学校・島根県立隠岐島前高等学校すべてに司書を配置した。\n3校で年間計50万円だった小中学校の図書購入費を180万円に増やし、古い本は思い切って廃棄処分とした。\n各学校の学校図書館は実質的に会議室として使用されていたが、専用の図書室に改装している。", "qas": [ { "question": "小中学校の図書購入費はいくらに増大されましたか?", "id": "de-090-05-000", "answers": [ { "text": "180万円", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "このようにして学校図書館の環境を充実させたことで、子どもたちの年間の読書量は取り組み開始前の10倍以上に増えた。\n2007年度の学校図書館における総貸出数は760冊だったが、2009年度は約8倍の6,100冊となった。\n3校の総児童数は約100人なので、1人が年間60冊近く借りた計算となる。\nまた、学校図書館を「読書の場」としてだけでなく、「主体的な学びの場」「情報の集まる場」と位置づけたことで、子どもたちは図書館を便利な施設と認識するようになった。\n2009年度(平成21年度)には海士町立海士小学校が「子どもの読書活動優秀実践校」として文部科学大臣表彰を受けた。", "qas": [ { "question": "学校図書館での総貸出数が多かったのは2007年度と2009年度のどちらですか?", "id": "de-090-06-000", "answers": [ { "text": "2009年度", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "海士町立海士小学校が文部科学大臣表彰を受けた理由とは?", "id": "de-090-06-001", "answers": [ { "text": "「子どもの読書活動優秀実践校」", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2009年度の総貸出数は2年前の何倍になりましたか?", "id": "de-090-06-002", "answers": [ { "text": "約8倍", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "海士町役場に隣接する隠岐開発総合センターには、海士町中央公民館や海士町教育委員会事務局が入っている。\n海士町は図書館として使用する木造平屋建の建物(図書館棟)の増築を計画し、2010年(平成22年)3月19日に着工した。\n設計は松江市のIMU建築設計事務所、施工は鴻池組山陰支店。\n増築工事を含む総事業費は2億3049万5000円であり、うち図書館費は4474万2650円である。\n2010年10月16日、隠岐開発総合センターの1階に海士町中央図書館が開館した。\n開館時の蔵書数は9,895冊だった。\n専門書はほとんどなく、住民一人ひとりの要望に応えるのが難しい状況での開館だった。", "qas": [ { "question": "図書館の総事業費はいくらでしたか?", "id": "de-090-07-000", "answers": [ { "text": "2億3049万5000円", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "図書館費はいくらかかりましたか?", "id": "de-090-07-001", "answers": [ { "text": "4474万2650円", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海士町中央図書館の開館時の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "de-090-07-002", "answers": [ { "text": "9,895冊", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2011年(平成23年)10月には公式ウェブサイトを開設し、オンライン蔵書目録(OPAC)を導入した。\n2011年度(平成23年度)には海士町立福井小学校が「子どもの読書活動優秀実践校」として文部科学大臣表彰を受け、2012年度(平成24年度)には海士町中央図書館が「子どもの読書活動優秀実践図書館」として文部科学大臣表彰を受けた。\n「子どもの読書活動優秀実践図書館」として表彰されたことで、過疎地域における図書館振興の先駆的モデルとして全国に知られるようになった。\n子どもにとって身近な学校図書館が充実していることで、休日に海士町中央図書館を訪れる子どもは年々増えている。", "qas": [ { "question": "文部科学大臣表彰を先に受けたのは、海士町中央図書館と海士町立福井小学校のどちらですか?", "id": "de-090-08-000", "answers": [ { "text": "海士町立福井小学校", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "公民館図書室時代の2003年度(平成15年度)と図書館開館後の2013年度(平成25年度)を比較すると、図書の貸出数は8.7倍に増加している。\n2013年度の登録率は32.2%であり、登録者には島外者が759人含まれていた。\n2013年度の住民1人あたり蔵書数は9.8冊、2013年度の住民1人あたり貸出数は4.1冊、2013年度の登録者1人あたりの貸出数は12.8冊だった。\n2017年度の登録率は36.9%(島内のみ)、住民1人あたり蔵書数は15.2冊、住民1人あたり貸出数は5.1冊、登録者1人あたりの貸出数は11.4冊だった。", "qas": [ { "question": "図書の貸出数が多かったのは2003年度と2013年度のどちらですか?", "id": "de-090-09-000", "answers": [ { "text": "2013年度", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "住民1人あたり蔵書数が少なかったのは、2013年度と2017年度のどちらですか?", "id": "de-090-09-001", "answers": [ { "text": "2013年度", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "住民1人あたり貸出数が多かったのは2013年度と2017年度のどちらですか?", "id": "de-090-09-002", "answers": [ { "text": "2017年度", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "登録者1人あたりの貸出数が多かったのは2013年度と2017年度のどちらですか?", "id": "de-090-09-003", "answers": [ { "text": "2013年度", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "海士町は他自治体との合併を選択しない単独町政を決めており、2013年(平成25年)時点の図書購入費は年間約130万円と少額、蔵書数は約18,000冊であり専門書が少なかった。\n2013年5月に海士町を訪れた図書館関係者の話をきっかけとして、2013年10月には図書館と住民有志が協力して、蔵書の充実を目的としてクラウドファンディング「あま図書館応援プロジェクト」を立ち上げた。\n公共図書館としては全国初のクラウドファンディングである。\n目標は100万円だったが、2014年1月までに93人から124万5000円が集まり、住民とともに選書して約300冊を購入した。\n93人の支援者のうち78人は島根県外在住であり、関東地方からの支援金が50%を占めた。\n支援金のほかに図書そのものの寄贈も相次ぎ、2013年度だけで4,000冊以上が寄贈された。", "qas": [ { "question": "日本で初めてクラウドファンディングを行った公共図書館はどこの町にありましたか?", "id": "de-090-10-000", "answers": [ { "text": "海士町", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2014年1月までに集まったクラウドファンディングでの資金はいくらでしたか?", "id": "de-090-10-001", "answers": [ { "text": "124万5000円", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "支援金の半分はどの地方からの支援でしたか?", "id": "de-090-10-002", "answers": [ { "text": "関東地方", "answer_start": 306, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "図書館のクラウドファンディングの目標額はいくらでしたか?", "id": "de-090-10-003", "answers": [ { "text": "100万円", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2014年(平成26年)にはNPO法人知的資源イニシアティブ(IRI)が主催するLibraryoftheYear2014で優秀賞を受賞した。\n同年11月にパシフィコ横浜の図書館総合展で開催された最終選考会において、優秀賞4機関の中で最多の会場票を集めている。\n同年の大賞は京都府立総合資料館である。\n2015年(平成27年)4月12日には「しまとしょサミット2015in海士町」を開催し、離島における図書館などの情報環境についての議論を行った。\n海士町中央図書館司書の磯谷奈緒子が「海士町中央図書館の冒険」と題した基調講演を行い、アカデミック・リソース・ガイドの岡本真が「離島の情報環境-LRG第10号の調査から」と題した事例報告を行っている。", "qas": [ { "question": "LibraryoftheYear2014の大賞を受賞した図書館はどこ?", "id": "de-090-11-000", "answers": [ { "text": "京都府立総合資料館", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "京都府立総合資料室がLibraryoftheYear2014の大賞を受賞したのは何年でしたか?", "id": "de-090-11-001", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "LibraryoftheYearの主催者は?", "id": "de-090-11-002", "answers": [ { "text": "NPO法人知的資源イニシアティブ", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "隠岐総合開発センターに増築した図書館部分の延床面積は272m2。\n蔵書収容能力は一般開架が2万冊である。\nセルフ式のカフェコーナー、図書館北側の川や田んぼを見渡せるテラス席などがある。\n木製の書架は2010年の開館前に住民と図書館が共同で製作したものであり、隠岐産の木材が使用されている。\n児童書エリアにはこたつやソファを置いている。\nこたつは開館当初にはなかったが、「図書館におしゃべりしに来た」住民の要望で、開館後しばらくして設置したのである。\n館内では公衆無線LANを利用できる。", "qas": [ { "question": "一般開架されている蔵書数は?", "id": "de-090-12-000", "answers": [ { "text": "2万冊", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "児童書エリアに先に置かれた家具はこたつとソファのどちら?", "id": "de-090-12-001", "answers": [ { "text": "ソファ", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "こたつの設置を要望した人は誰でしたか?", "id": "de-090-12-002", "answers": [ { "text": "住民", "answer_start": 199, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "海士町の図書館職員は公共図書館と学校図書館を兼務しており、平日の週4-5日の半日は学校へ赴いている。\nそれ以外の時間は公共図書館の業務を行ったり、移動図書館や地域分館の業務で町内を巡回している。\n2013年度(平成25年度)時点では3人の専任職員がおり、いずれも各小中学校の学校司書を兼任していた。\n海士町中央図書館は住民有志と共同で、読書会・映画上映会・図書館の未来を考えるワークショップなどを行っている。\n海士町へのUターン・Iターン者や女性の利用が多く、子どもだけでなく大人の居場所にもなっている。\nまた隠岐諸島外からの旅行者も訪れるコミュニケーションスペースとなっている。\n海士町への移住者からは、「この図書館があるから(移住を)決めた」「図書館があったから冬を過ごせた」などという声も寄せられている。\n2015年時点で月1日は21時まで開館している。", "qas": [ { "question": "海士町の図書館職員が兼務しているのは公共図書館とどこの図書館ですか?", "id": "de-090-13-000", "answers": [ { "text": "学校図書館", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "海士町は以下の18施設に図書分館を設置し、海士町中央図書館も含めた島全体の図書館等施設のネットワーク化を図っている。\n各施設の役割を明確化し、小学校の学校図書館は児童サービスを担う図書館、中学校・高校の学校図書館はヤングアダルトサービスを担う図書館、その他の図書分館や海士町中央図書館はは赤ちゃんから高齢者まで幅広くサービスする図書館と位置付けている。\n海士町立海士小学校・海士町立福井小学校・海士町立海士中学校・島根県立隠岐島前高等学校の4校の学校図書館はそれぞれ7,000冊-10,000冊の蔵書数を有する。\nその他の図書分館の蔵書数は数百冊程度であるが、定期的に蔵書の入れ替えを行っており、また住民から図書の寄贈がなされることもある。", "qas": [ { "question": "島根県立隠岐島前高等学校の蔵書数は何冊ですか?", "id": "de-090-14-000", "answers": [ { "text": "7,000冊-10,000冊", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海士町立海士中学校の蔵書数は何冊ですか?", "id": "de-090-14-001", "answers": [ { "text": "7,000冊-10,000冊", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "中国丹霞", "paragraphs": [ { "context": "中国丹霞(ちゅうごくたんか)は中華人民共和国の世界遺産の一つである。\n「丹霞」は中国南部に残る赤い堆積岩が織り成す地形で、それが顕著に見られる6箇所9件が自然遺産として登録された。\n日本で「丹霞」といえば、夕焼け雲などの意味だが、中国では地理用語として使われる。\n丹霞地形(中国語:丹霞地貌、英語:Danxialandform)とは、中国南部に見られる切り立った断崖などを伴う赤い堆積岩の地形である。\n「丹霞地形」の名前は直接的には丹霞山に由来し、その山々の断崖が丹(あか)い霞のように見えたことによる。\n地理用語としての「丹霞」は、中国では1920年代以降に地質学者たちによって使われるようになったという。", "qas": [ { "question": "中国南部に残る赤い堆積岩が織り成す地形の呼称とは何ですか?", "id": "de-091-00-000", "answers": [ { "text": "「丹霞」", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中国では何件の丹霞地形が世界遺産登録されたの?", "id": "de-091-00-001", "answers": [ { "text": "9件", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「丹霞地形」の名前の由来は何ですか?", "id": "de-091-00-002", "answers": [ { "text": "丹霞山", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本で「丹霞」はどんな意味で認識されているの?", "id": "de-091-00-003", "answers": [ { "text": "夕焼け雲", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "主としてジュラ紀から新第三紀に形成されたもので、それらの地形を形成する砂岩や礫岩は中国南部の亜熱帯性の気候において、雨季に川や湖に流れ込むことで堆積した。\nそして、湿潤多雨な気候による浸食作用や、ヒマラヤ山脈の造山活動を含む大規模な土地の隆起などによって、独特の景観が作り上げられていった。\n丹霞地形は中国全土で780箇所以上存在しており、2010年時点で138件存在している中国ジオパークのうち、14件が丹霞地形に分類されている。\nただし、世界遺産推薦時(2010年)に勧告を行なったIUCNは、国際的に認知されている定義がまだないとも指摘していた。", "qas": [ { "question": "丹霞地形が形成された時期とは?", "id": "de-091-01-000", "answers": [ { "text": "ジュラ紀から新第三紀", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "丹霞地形は中国全土で何箇所存在しているの?", "id": "de-091-01-001", "answers": [ { "text": "780箇所以上", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2010年の時点で中国にはいくつのジオパークがあったの?", "id": "de-091-01-002", "answers": [ { "text": "138件", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "丹霞地形は中国南部に多く残るが、世界遺産に登録されたのは以下の6箇所9件である。\nこれらの丹霞地形は形成期(幼年期、壮年期、老年期)に違いがあり、それぞれの特色をよく表している。\nうち泰寧の丹霞、竜虎山、丹霞山の3箇所は世界ジオパークにもなっている。\n以下は世界遺産登録順であると同時に推薦時に並べられた順番でもあるが、中国政府は幼年期(YoungStage)、壮年期(MatureStage)、老年期(OldStage)の順に2箇所ずつ並ぶように意図していた。", "qas": [ { "question": "世界ジオパークとなっているのは、竜虎山、丹霞山ともう1つはどこですか?", "id": "de-091-02-000", "answers": [ { "text": "丹霞", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "貴州省の赤水市に残る丹霞は、赤水西部(Chishui-WestSection,ID1335-001)と赤水東部(Chishui-EastSection,1335-002)に分けて登録されている。\n前者は赤水風景名勝区(ChishuiNationalPark)の一部で面積は10142ha、後者は赤水杪欏(ヘゴ)国家級自然保護区と浠水亜熱帯常緑樹林国家級自然保護区(XishuiCentralSubtropicalEvergreen-BroadleavedForestNationalNatureReserve)のそれぞれ一部に該当し、面積は17222haである。", "qas": [ { "question": "赤水西部に残る丹霞の面積は?", "id": "de-091-03-000", "answers": [ { "text": "10142ha", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "赤水東部に残る丹霞の面積は?", "id": "de-091-03-001", "answers": [ { "text": "17222ha", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "赤水西部はどこの地区に属しているの?", "id": "de-091-03-002", "answers": [ { "text": "赤水風景名勝区", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "赤水の丹霞を形成する岩には鉄分やマンガンが含まれており、それが丹霞地形の赤色を生み出している。\nしかし、丹霞の多くは緑に覆われており、ところによっては地色の赤が見えにくいほどである。\nそのため、「緑の丹霞」の異名もあるという。\nその緑には、ジュラ紀や白亜紀から残る絶滅危惧種のヘゴ(杪欏)の一種も含まれている。\nヘゴは上で挙げた「赤水杪欏国家級自然保護区」という自然保護区の名前にも使われている。\n赤水の丹霞地形に生育する維管束植物は1964種にも及び、115種がIUCNレッドリストに掲載されている。\n動物相も豊かで、哺乳類72種、鳥類147種、爬虫類37種、両生類31種、魚類117種、昆虫1264種が確認されている。\nうち368種は中国のレッドリストに掲載されている。", "qas": [ { "question": "最も種類の多い動物相は何ですか?", "id": "de-091-04-000", "answers": [ { "text": "昆虫", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "昆虫以外で、最も種類の多い動物相は何ですか?", "id": "de-091-04-001", "answers": [ { "text": "鳥類", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "鳥類の次に種類の多い動物相は何ですか?", "id": "de-091-04-002", "answers": [ { "text": "魚類", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "哺乳類と爬虫類はどちらの方が種類が多いですか?", "id": "de-091-04-003", "answers": [ { "text": "爬虫類", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "赤水の丹霞は標高240mから1750mまでの地形によって成り立っており、1500mを超える高低差は、登録地域の中でも群を抜いている(次に大きい差は江郎山の645m)。\nまた、「千滝の故郷」の異名をとるほどに滝が多く、丹霞地形の滝としては最大の十丈洞滝などが見られる。\n中国の丹霞地形の研究者には、規模、景観美、変化などの面で、赤水丹霞は中国随一の丹霞と評価する者もいる。", "qas": [ { "question": "赤水の丹霞の別名は何ですか?", "id": "de-091-05-000", "answers": [ { "text": "「千滝の故郷」", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "赤水の丹霞の最も高い標高は何mですか?", "id": "de-091-05-001", "answers": [ { "text": "1750m", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "赤水の丹霞の最も低い標高は何mですか?", "id": "de-091-05-002", "answers": [ { "text": "240m", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "丹霞地形による最も多きな滝とは何?", "id": "de-091-05-003", "answers": [ { "text": "十丈洞滝", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "福建省の泰寧県の丹霞は、泰寧北部(Taining-NorthSection,1335-003)と泰寧南部(Taining-SouthSection,1335-004)に分けて登録されている。\n前者は泰寧風景名勝区(TainingNationalPark)の北部と泰寧世界地質公園を含み、面積は5277haである。\n後者は泰寧風景名勝区の南部と国家森林公園(NationalForestParkland)を含み、面積は5810haである。\n674mから200mまでの地形で構成されており、高低差は474mである。", "qas": [ { "question": "丹霞の面積が広いのは、泰寧北部と泰寧南部のどちら?", "id": "de-091-06-000", "answers": [ { "text": "泰寧南部", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "泰寧北部に残る丹霞の面積は?", "id": "de-091-06-001", "answers": [ { "text": "5277ha", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "泰寧何部に残る丹霞の面積は?", "id": "de-091-06-002", "answers": [ { "text": "5810ha", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "泰寧県の丹霞地形の高低差はどれくらいありますか?", "id": "de-091-06-003", "answers": [ { "text": "474m", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "泰寧の丹霞地形は発達の初期段階に属している。\n規模や形状の面でも特徴的な洞窟が多くあることから、「丹霞洞窟博物館」の異名を持つ。\n泰寧世界地質公園は2005年に認定された。\nこれは福建省では初めてのことで、その地域は世界遺産の資産および緩衝地域に含まれている。\n維管束植物は1276種が生育している。\n脊椎動物はハイタカ、カラヤマドリ、センザンコウ、ニシキヘビなど380種が生息し、昆虫も1509種が確認されている。\n泰寧の丹霞にある村落では、鉄分などを多く含む丹霞地形を生かして、茶の木の実からとる高級食用油「茶油」の生産が行なわれてきた。\nその一方で、世界遺産登録を機に観光地化も急速に進められるようになっているという。", "qas": [ { "question": "泰寧の丹霞地形はどのような異名を持つの?", "id": "de-091-07-000", "answers": [ { "text": "「丹霞洞窟博物館」", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "泰寧の丹霞地形に生息する脊椎動物と昆虫は、どちらの方が種類が多いですか?", "id": "de-091-07-001", "answers": [ { "text": "昆虫", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "泰寧の丹霞地形に生息する維管束植物の数はどれくらいですか?", "id": "de-091-07-002", "answers": [ { "text": "1276種", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "泰寧の丹霞地形に生息する昆虫の数はどれくらいですか?", "id": "de-091-07-003", "answers": [ { "text": "1509種", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "崀山(ろうざん/Langshan,1335-005)は湖南省新寧県にある山で世界遺産登録面積は6600haである。\n登録面積の大部分は崀山風景名勝区(LangshanNationalPark)と重なっている。\n最高峰は818mで、最も低い地点が302mである。\n壮年期に位置する丹霞地形が見られ、典型的な「一線天」が複数見られる。\n「一線天」とは、浸食作用によって形成された切り立った崖の幅が狭く、そこを通っている時に空を見上げると細い線にしか見えない地形を指す。\n崀山にはそうした一線天が10ほどあるが、その中でも「天一巷」は最大で1mもない細い道幅の両側に100m以上の高い崖が屹立している。", "qas": [ { "question": "崀山の最高地点は何mですか?", "id": "de-091-08-000", "answers": [ { "text": "818m", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "崀山の最低地点は何mですか?", "id": "de-091-08-001", "answers": [ { "text": "302m", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "崀山の世界遺産登録されている大半の面積はどこの地区と重なっていますか?", "id": "de-091-08-002", "answers": [ { "text": "崀山風景名勝区", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "崀山に10箇所ほどみられる特有の地形とは何ですか?", "id": "de-091-08-003", "answers": [ { "text": "一線天", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "侵食によって生まれた奇観には、「犬の頭」「啄木鳥」「巻貝」などとあだ名のついた巨峰も含まれる。\nまた、アーチ状になった上部だけが残ってしまい、自然の橋のように見える地形もある。\nこの「橋」は全長64m、幅14m、高さ20mという巨大なもので、世界最大級の規模だという。\n辣椒峰も奇観として有名で、辣椒(トウガラシ)が地面に突き刺さったかのような形、つまり赤色で山麓がすぼまり山頂の方が膨らんだ形をしている。\n「スパイダーマン」ことアラン・ロベールが2002年に素手で登頂して話題になった。", "qas": [ { "question": "アラン・ロベールが辣椒峰に登ったのは何年でしたか?", "id": "de-091-09-000", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 224, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アラン・ロベールのニックネームは何ですか?", "id": "de-091-09-001", "answers": [ { "text": "「スパイダーマン」", "answer_start": 204, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界最大規模の「橋」の全長はどれくらいですか?", "id": "de-091-09-002", "answers": [ { "text": "64m", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "辣椒峰を素手で登って話題になった人物とは誰?", "id": "de-091-09-003", "answers": [ { "text": "アラン・ロベール", "answer_start": 215, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "崀山には維管束植物1421種、菌類150種が生育し、固有種も多い。\nうち52種はIUCNのレッドリストに掲載されている。\n動物は哺乳類26種、鳥類94種、爬虫類35種、両生類19種、魚類36種、昆虫819種が確認されており、うちIUCNレッドリストに掲載されているのは2種である。", "qas": [ { "question": "崀山に生息している種類が少ないのは、維管束植物と菌類のどちらですか?", "id": "de-091-10-000", "answers": [ { "text": "菌類", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "崀山に生息している動物相の中で、最も種類が多いのは何ですか?", "id": "de-091-10-001", "answers": [ { "text": "昆虫", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "昆虫を除いて、崀山に生息している動物相の中で、最も種類が多いのは何ですか?", "id": "de-091-10-002", "answers": [ { "text": "鳥類", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "哺乳類、爬虫類、魚類の中で、数が多いのはどれですか?", "id": "de-091-10-003", "answers": [ { "text": "魚類", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "丹霞山(Danxiashan,1335-006)は広東省韶関市仁化県にある山で、世界遺産登録面積は16800haである。\n丹霞地形の名前の由来にもなった山であり、白亜紀に堆積した砂岩や礫岩が新第三紀のヒマラヤ造山運動も含む長期間の上昇運動などの影響を受けて成立した。\n主峰の618mで、380にもなる赤い峰や断崖がひしめき、独特の景観を呈している。\n丹霞山は2004年の第1回国際ユネスコジオパーク会議で世界ジオパークに認定された場所のひとつで、世界遺産登録地域も緩衝地域もその一部である。", "qas": [ { "question": "丹霞山の主峰は何mですか?", "id": "de-091-11-000", "answers": [ { "text": "618m", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "丹霞山はどこの省に位置しているの?", "id": "de-091-11-001", "answers": [ { "text": "広東省", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "景観美にとどまらず、生態系の面でも貴重な動植物が生息している。\n維管束植物は1757種が生育し、うち10種はIUCNレッドリストに掲載されている。\n動物相については、哺乳類88種、鳥類156種、爬虫類41種、両生類37種、魚類100種、昆虫1023種が確認されており、うちIUCNレッドリストに掲載されているのは73種である。\nまた、古人類学の面で馬壩人(まばじん、化石人骨の一種)の頭骨が発見されているほか、新石器時代の石峡文化遺跡が発見されるなど、人類との結びつきが古いことも指摘されている。\n伝説上は舜帝がこの山に登って楽器を奏でたとされる。\n隋の時代以降は清の時代に至るまで、多くの仏教寺院が建てられた。", "qas": [ { "question": "動物相の中で最も種類が多いのは何ですか?", "id": "de-091-12-000", "answers": [ { "text": "昆虫", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "昆虫と鳥類を除いて、最も種類の多い動物相は何ですか?", "id": "de-091-12-001", "answers": [ { "text": "魚類", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "生息している維管束植物のうち、何種がIUCNレッドリストに掲載されているの?", "id": "de-091-12-002", "answers": [ { "text": "10種", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "両生類と爬虫類はどちらの方が種類が多いの?", "id": "de-091-12-003", "answers": [ { "text": "爬虫類", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "竜虎山は江西省貴渓市にある山で、世界遺産登録地域は面積16950haの竜虎山地区(Longhushan:LonghushanSection,1335-007)と面積2740haの亀峰地区(Longhushan:GuifengSection,1335-008)に分かれる。\nこれらは貴渓市の竜虎山風景名勝区と弋陽県の亀峰風景名勝区に含まれている。\n最高峰は401.1mである。\n2008年には竜虎山世界地質公園として、世界ジオパークに認定された。", "qas": [ { "question": "世界遺産登録地域の面積が広いのは、竜虎山地区と亀峰地区のどちらですか?", "id": "de-091-13-000", "answers": [ { "text": "竜虎山地区", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "竜虎山の最高峰は何mですか?", "id": "de-091-13-001", "answers": [ { "text": "401.1m", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "竜虎山が世界ジオパークに認定された年はいつでしたか?", "id": "de-091-13-002", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 188, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "竜虎山は何省に位置しているの?", "id": "de-091-13-003", "answers": [ { "text": "江西省", "answer_start": 4, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "日本の路面標示", "paragraphs": [ { "context": "本項では、日本の路面標示(ろめんひょうじ)について記述する。\n日本では道路上の安全と円滑のために路面標示が設置され、同じ目的で設置される道路標識や交通信号機とは連関が図られる。\n路面標示の様式や設置方法などは道路標識、区画線及び道路標示に関する命令に基づいて定められている。\nこの命令の中で路面標示は都道府県公安委員会が設置する道路標示と道路管理者が設置する区画線に大別され、道路標示はさらに規制標示と指示標示に分けられる。\nなお、この命令では定められていない「法定外表示」が設置されることもある。\n路面標示で用いられる塗料の品質は日本産業規格(JIS)によって定められている。\nそして、実際に設置される道路の状況・環境や使用する材料に応じて路面標示の設置工事が行われる。\n日本では大正時代から路面標示が設置され始め、戦後に全国で統一の様式が定められている。\nそして、国内の道路交通情勢の変化や技術進歩に伴って路面標示に改良が加えられ現在に至る。\nなお、この記事で用いる単位はcm=センチメートル、m=メートル、km/h=キロメートル毎時を表す。", "qas": [ { "question": "道路標示の分類は指示標示と何がある?", "id": "de-092-00-000", "answers": [ { "text": "規制標示", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "路面標示のスタイルや設置方法が決められている国からの命令とは何?", "id": "de-092-00-001", "answers": [ { "text": "道路標識、区画線及び道路標示に関する命令", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "道路標識、区画線及び道路標示に関する命令内では決められていない表示の名称とは何?", "id": "de-092-00-002", "answers": [ { "text": "「法定外表示」", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本で路面標示の設置がスタートしたのはいつからですか?", "id": "de-092-00-003", "answers": [ { "text": "大正時代", "answer_start": 341, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "路面標示は道路交通に対して必要な案内、誘導、警戒、規制、指示などを路面標示用塗料、道路鋲、石などによって行うものである。\n道路標識や交通信号機とともに有機的かつ補完的に設置される交通安全施設という位置付けである。\n安価ではありながらも、交通の流れを整え、運転者の注意を適切な場所に集中させる能力が大きく、交通の安全と円滑の寄与には非常に有効である。\n路面標示は大別して道路標示と区画線から構成され、道路標示は都道府県公安委員会が、区画線は道路管理者が設置することになっている。\n道路標示はさらに規制標示と指示標示に分かれ、規制標示は特定の通行方法を制限または指定する目的で設置され、「転回禁止」「最高速度」など29種類ある。\n指示標示は特定の通行方法ができることや、その区間・場所の道路交通法上の意味、通行すべき道路の部分などを示す目的で設置され、「横断歩道」「停止線」など15種類ある。\n区画線は道路の構造の保全や交通の流れを適切に誘導する目的で設置され、「車道中央線」「車道外側線」など8種類ある。", "qas": [ { "question": "道路標示を設置する権限を持っているのは何ですか?", "id": "de-092-01-000", "answers": [ { "text": "都道府県公安委員会", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "区画線は誰によって設置されるの?", "id": "de-092-01-001", "answers": [ { "text": "道路管理者", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "規制標示と指示標示を比べてみると、どちらの種類が多いですか?", "id": "de-092-01-002", "answers": [ { "text": "規制標示", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "規制標示、指示標示、区画線の中で最も種類が少ないのはどれですか?", "id": "de-092-01-003", "answers": [ { "text": "区画線", "answer_start": 395, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "道路標示は道路標識との関係が深く、道路標示と道路標識をセットで設置するものがある。\nこの道路標示と区画線では意味等が全く同じもの、または類似した形態のものがある。\nそのため、道路交通法第2条第2項により一部の区画線は道路標示とみなすようになっている。\n色彩は区画線は白色のみ、道路標示は白色と黄色が用いられる。\n道路標示・区画線のいずれにも分類されないものを法定外の標示としている。\nまた、NEXCO(旧:日本道路公団)関係では路面標示を「レーンマーク」と称する。", "qas": [ { "question": "区画線と道路標示では、どちらの方が使用する色の数が多いですか?", "id": "de-092-02-000", "answers": [ { "text": "道路標示", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "道路標示と区画線に属さない標示を何といいますか?", "id": "de-092-02-001", "answers": [ { "text": "法定外の標示", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "NEXCO関係では路面標示のことを何と呼んでいるの?", "id": "de-092-02-002", "answers": [ { "text": "「レーンマーク」", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本道路公団の新しい名称は何ですか?", "id": "de-092-02-003", "answers": [ { "text": "NEXCO", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1919年(大正8年)に自動車取締令と道路法が制定されているが、この中で道路通行者は標示に従うよう定められている。\n1920年(大正9年)頃から、警視庁管内では白線2本による「電車線路横断線」が設置されている。\n材料は石灰水で、1930年(昭和5年)までこの材料が用いられていたとされる。\n1926年(大正15年)頃には石材やアルミニウム板が材料として用いられていた。", "qas": [ { "question": "「電車線路横断線」の材料は何?", "id": "de-092-03-000", "answers": [ { "text": "石灰水", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1926年(昭和2年)阪神国道が整備された際に、緩行車線と高速車線を分けるため東亜ペイントのトラフィックペイントが施工された。\nペンキを塗るとアスファルトが溶けて表面にでるため、色は白でなくクリーム色とし、視認性の観点から光沢でなく半光沢とした。\nしかし、ペイントが持たないため道路管理者の大阪府と兵庫県は塗り直し費用がかかるとペイント会社や内務省技師に相談している。\n1929年(昭和4年)には初めて白色の「横断歩道」が施工され、その後、真鍮製の「横断歩道」も施工された。\n1934年(昭和9年)頃、「ペイントは3、4月程度しかもたないため、塗り直しが必要。東京市内では年数回の交通週間に塗っている。台北市は市中全部にトラフィックペイントが塗ってあり、年3、4回塗っている。真鍮の鋲より視認性は良い。阪神では、ペイントの幅は3インチ、長さは2間おきに塗っている。」と報告されている。", "qas": [ { "question": "初めて横断歩道が白色になったのはいつですか?", "id": "de-092-04-000", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 185, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1926年に施工されたトラフィックペイントは何色だったの?", "id": "de-092-04-001", "answers": [ { "text": "クリーム色", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1947年(昭和22年)11月に道路交通取締法が施行され、路面標示は「区画線」として法的な裏付けが行われた。\nまた、1957年(昭和32年)には道路法でも「区画線」が規定された。\nしかし、この頃は路面標示の様式の制定がなく、全国で統一的な運用が行われていなかった。\nその中で、警視庁管内では、アメリカ合衆国における「統一交通管理施設マニュアル」などを参考に、1951年(昭和26年)「交通区画線記号」を制定した。\nこれを各道府県が採用することで全国的に普及・定着が進んだ。\n路面標示用塗料がJISで仕様化されたのは1951年(昭和26年)である。", "qas": [ { "question": "「交通区画線記号」を制定するにあたって警視庁がお手本にした国はどこですか?", "id": "de-092-05-000", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「交通区画線記号」が制定されたのはいつ?", "id": "de-092-05-001", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 179, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1960年(昭和35年)に道路交通法が制定され、公安委員会が設置する路面標示は「区画線」から「道路標示」となった(道路法に基づく「区画線」はそのままの呼称が存続し改名されなかった)。\nまた、同年に標識令が総理府・建設省令として制定され、このとき初めて路面標示(道路標示・区画線)の様式が全国で統一されたものとなった。\n特に必要なものは夜間にも反射するよう設置することが規定され、反射材としてガラスビーズの利用が始まっていた。\nこの頃から路面標示用塗料も溶融式(現在の3種)が用いられはじめ、塗装方法も人力によるもののほかに自走式の機械によるものが広まり始めた。", "qas": [ { "question": "「道路標示」の名称は元々何だった?", "id": "de-092-06-000", "answers": [ { "text": "「区画線」", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "路面標示が夜でも反射してよく見えるように使用された材料は何?", "id": "de-092-06-001", "answers": [ { "text": "ガラスビーズ", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1963年(昭和38年)3月には道路標識の様式が大きく変更されたが、路面標示でも改正が行われ、道路標示も設置数が少ない・必要性が乏しいものは削除し、新たに停止線や進行方向などが追加された。\n同時に、横断歩道では標識と標示の両方を設置しなければならない原則だったが、標識または標示の設置と法的要件が改められた。\n同年5月には名神高速道路の開通に合わせて高速道路用の路面標示が追加された。\n進行方向を示す矢印を一般道路と高速道路で区別するよう様式を追加することが提案されたが、検討の結果見送りされた。\n横断歩道の標示は、ゼブラ式のものは信号機のある交差点では使用しない(すなわち、側線のみのものを使用する)原則を改め、信号機のある交差点および交差点の付近以外の場所でも設置することができるようになった。", "qas": [ { "question": "名神高速道路が開通した年はいつ?", "id": "de-092-07-000", "answers": [ { "text": "1963年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "黄色の路面標示が夜間に白色と誤認されやすくなり、路面標示用塗料を作るメーカーが独自で赤みを付けた塗料を生産していた。\nそのため、全国で異なる黄色が用いられる結果となった。\nそこで、1978年(昭和53年)に路面標示に用いられる黄色の色相の基準となる「路面標示黄色」が定められた。\n1978年6月に警察庁から出された通達により、公安委員会関係が発注する路面標示の工事にはこの黄色を用いるよう指示された。\nそれ以降、路面標示用塗料のメーカーが合同で年に1、2回測色し、基準通りに生産していることを確認している。", "qas": [ { "question": "「路面標示黄色」で決められたことは黄色のどんな基準ですか?", "id": "de-092-08-000", "answers": [ { "text": "色相", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1989年(平成元年)に建設省(現:国土交通省)から雨天(夜間)でも視認が可能な区画線の開発が公募に出された。\nこの時、高視認性路面標示用塗料が開発された。\n2016年(平成28年)からは黄色塗料は鉛・クロムフリーにするよう規定された。\n新たな路面標示の形態として路面に投光する形態のものを導入する試みがある。\n首都高速道路の浜崎橋ジャンクションでは、2017年3月29日に「可変式路面表示」としてLED投光器で矢印を路面上に映し出して車両を誘導する実験が行われた。\nまた、横断歩道の手前で歩行者が安全確認するよう促す標示を映し出す実験が藤枝市で2018年12月から2019年3月まで試験導入された。\n一方で、三菱電機からは車両側から路面に投光するものも提案されている。", "qas": [ { "question": "高視認性路面標示用塗料が開発されたのはいつですか?", "id": "de-092-09-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "夜間でも視認可能に開発された塗料は何ですか?", "id": "de-092-09-001", "answers": [ { "text": "高視認性路面標示用塗料", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "LED投光器を使用して「可変式路面表示」の実験が行われた場所はどこですか?", "id": "de-092-09-002", "answers": [ { "text": "浜崎橋ジャンクション", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "藤枝市で試験導入された実験はいつから開始されたの?", "id": "de-092-09-003", "answers": [ { "text": "2018年12月", "answer_start": 273, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "路面標示は道路交通の安全と円滑のためには重要な交通安全施設であり、設置後に汚れや剥離などによってその効用が損なわれないよう維持管理を充分に行い良好な状態に保たなければならない。\n視認性が良好な道路標示は、道路利用者に道路交通法を遵守させるためにも有効に機能する。\n設置後の維持管理は原則として当初の設置者(警察・道路管理者)によって行われる。\n日本交通科学協議会が1995年(平成7年)度に行ったアンケート調査では、路面標示が鮮明であると運転時に不安が少なく、夜間や雨天時には視認性が大きく低下するため運転時の不安が増大するという結論を得た。\nそして、運転時の快適性や法律遵守性を守るためにも遅くとも12ヶ月以内に路面標示を再施工するのが望ましいとしている。\nただし、摩耗が進んでいても再施工が追い付かない場合はスプレーによって応急補修をする地域もみられる。", "qas": [ { "question": "路面標示が見にくくなる時というのは、雨の日といつですか?", "id": "de-092-10-000", "answers": [ { "text": "夜間", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "路面標示が不鮮明になるほど、運転時の不安はどうなりますか?", "id": "de-092-10-001", "answers": [ { "text": "増大する", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "路面標示の再施工に適した期間は遅くともどれくらいですか?", "id": "de-092-10-002", "answers": [ { "text": "12ヶ月以内", "answer_start": 300, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "路面標示の耐久性は設置時の工法、道路や交通の条件、気象条件などによって左右され、一概に決定することはできない。\n特に積雪が多い地域では劣化が早く進みやすく、融雪後に点検を実施することが望まれる。\nタイヤチェーンによって摩耗することが多いが、スパイクタイヤが廃止されてからは路面標示の減耗が減っている。\n標示の種類による違いとしては、停止線はわだち部分の摩耗が目立つが、車両に踏まれにくい矢印のマークは摩耗が進みにくい。\n舗装の種類による違いとしては、同じ横断歩道でも密粒舗装は間粒舗装と比べて視認性の低下が進みやすい。\nこれは間粒舗装の場合は塗料が内部まで浸透するため、表面が摩耗しても塗料が残るためである(しかし、夜間の視認性は確実に低下している)。\n流入する車両に関しては、大型車混入率が多い道路では摩耗が進行しやすい。", "qas": [ { "question": "路面標示の劣化が進みやすい地域とはどこ?", "id": "de-092-11-000", "answers": [ { "text": "積雪が多い地域", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "停止線と矢印のマークとでは、どちらが摩耗が進みやすいですか?", "id": "de-092-11-001", "answers": [ { "text": "停止線", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "積雪が多い地域で路面標示の摩耗が多く生じる原因とは何ですか?", "id": "de-092-11-002", "answers": [ { "text": "タイヤチェーン", "answer_start": 98, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "視認性の低下が進みにくいのは、密粒舗装と間粒舗装のどちらですか?", "id": "de-092-11-003", "answers": [ { "text": "間粒舗装", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "点検を行う場合、以下の3項目をチェックする。\n1つ目は剥離・汚れなどによる不鮮明部分の有無。\n2つ目は摩耗による不鮮明部分の有無。\n3つ目は夜間視認性の有無である。\nこの点検によって、視認性が低下したと考えられる場合は塗り替えを行う必要がある。\n塗り替えの基準を考えるにあたっては、目視や画像解析によってランク分けをして判断する方法と、測定機器を用いて総合的に判断する方法がある。\n点検を簡易にするため、遠隔地から携帯電話回線を用いてモニタリングする技術も愛知県立大学とキクテックの共同研究で開発されている。\nその他、デジタルカメラで自動的に路面標示を撮影して解析ソフトウェアで数値化・可視化する方法、スマートフォンで撮影した画像より人工知能で自動的に診断して地図上に塗り替えが必要な場所を表示する方法、タブレット端末で撮影した画像を専用のサーバー上でデータ収集・分析する方法などが開発されている。", "qas": [ { "question": "遠隔地から携帯電話回線を用いてモニタリングする技術の研究開発をした大学とはどこですか?", "id": "de-092-12-000", "answers": [ { "text": "愛知県立大学", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "遠隔地から携帯電話回線を用いてモニタリングする技術の研究開発をした企業とはどこですか?", "id": "de-092-12-001", "answers": [ { "text": "キクテック", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "路面標示の設置工事は以下の特殊性がある。\nそれは、道路上を移動しながら連続作業する、加熱した塗料、可燃物、火気などを取り扱う、機敏な機動力を要求される、という以上のような条件で行うため、消防法、高圧ガス保安法、労働安全衛生法などを厳守しつつ、工事従事者に対しての安全教育が怠れない。\n火災供用中の道路上で行われるため、交通事故の危険性が高い。\nそのため、交通量の少ない時間帯に選んで施工するのが良いが、夜間に実施した場合は施工精度の低下や交通事故の恐れのため昼間の施工を原則とする。\nまた、バリケード、セーフティーコーンや道路標識などを設置して安全に作業できる作業帯を確保する。\n場合によっては回転灯付きの作業車を移動させながら作業の安全性を確保することもある。\n日本国内で路面標示を施工するための資格として路面標示施工技能士がある。\n塗装用の機械などの改良は進んでいるが、既設の構造物に合わせてバランスを確認していかなければならず人力による作業は現在でも変わらない。", "qas": [ { "question": "路面標示の設置工事の原則的な時間帯は、夜間と昼間のどちらですか?", "id": "de-092-13-000", "answers": [ { "text": "昼間", "answer_start": 229, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "路面標示を施工するために必要とする資格は何ですか?", "id": "de-092-13-001", "answers": [ { "text": "路面標示施工技能士", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "事前の作業として、塗装する位置や内容の選定が行われる。\nこの作業では道路利用者が充分視認でき、かつ正しく伝わるよう配慮する必要がある。\n測量用具やチョークなどを用いて、路面に罫書きする。\nチョークの粉を付けた糸を張って墨出しをすることもある。\n矢印や数字は既に様式が定められているが、地名に用いる文字はバランスを考えて工事毎にレイアウトが考えられる。\nなお、この罫書きの作業を自動的に行うためのロボットが技工社(鳥取県鳥取市)から開発されており、熟練作業員の手作業に比べおよそ3分の1の時間で完了できるとされる。\n既設の路面標示を補修する場合、塗料と旧塗膜との密着具合を調査し、施工に影響が出る場合は消去する必要がある。\n塗装前は箒やブラシによって路面を充分に清掃しなければならない。\nこの作業が不充分だとプライマーの接着不良が生じ、はがれの原因となる。\nまた、水分は強制的に乾燥するか、乾燥まで待たなければならない。\n路面標示用塗料の3種を施工する場合は掃除・乾燥後はプライマーを必ず塗布する。\nプライマーは塗料と路面との接着を強固にし、路面上の微細な汚れを洗浄する役割を持つ。", "qas": [ { "question": "罫書きの作業を自動的に行うロボットと熟練作業員の手作業を比較すると、どちらの方が時間がかかりますか?", "id": "de-092-14-000", "answers": [ { "text": "熟練作業員の手作業", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "路面標示用塗料による3種の施工後の工程で、必須となる塗料は何?", "id": "de-092-14-001", "answers": [ { "text": "プライマー", "answer_start": 435, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "自動罫書きロボットを開発した県はどこ?", "id": "de-092-14-002", "answers": [ { "text": "鳥取県", "answer_start": 206, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "路面標示用塗料が1種・2種の場合、ラインマーカー(路面標示用塗料を路面に塗装する機械)に付属するスプレーガンで塗料を吹き付ける工法が主流であるが、1種の場合はハンドローラーで塗装することも可能である。\n小規模な工事ではこの工法が採用されることがある。\nスプレーガンを用いる工法はエアレススプレーを用いるもの、エアースプレーを用いるものの2種類があるが、現在は前者を使う工法が主流である。\n一般的に塗装前にプライマーを塗布しないが、路面が新設のコンクリート舗装であり養生材やレイタンスが付着している場合は塗布した方が良い。\n文字や記号を描く場合はラインマーカーの使用が困難なため、代わりにハンドガンを用いて施工する。", "qas": [ { "question": "1種・2種の施工で現在主流となっている工法とは、スプレーガンの中で何を用いていますか?", "id": "de-092-15-000", "answers": [ { "text": "エアレススプレー", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "文字や記号を描く時に使用される工具とは何?", "id": "de-092-15-001", "answers": [ { "text": "ハンドガン", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "路面標示用塗料が3種の場合もラインマーカーを用いるが、工法は「スリット式」「噴射式」「フローコーター式」の3種類に分類される。\n「スリット式」では、ラインマーカーの塗布部が路面と一定の間隔を持つことによって塗料を流下圧着させながら塗膜を形成する工法である。\n機構が簡単で分かりやすく、小回りが利き、交通への支障も比較的小さいため、あらゆる種類の路面標示に適用が可能である。\nそのため、「スリット式」が3種の施工では主流である。\n「噴射式」は「スプレー式」とも呼ばれ、塗料吐出口が路面と一定の間隔を保ちながら塗料を噴射して塗布する工法である。\n塗膜の厚さは一定に保たれ、材料ロスも少なく、作業の安全性が高いメリットがある。\n一方で、規模の小さい工事には向いておらず、機械の整備に手間がかかるというデメリットが存在する。\nラインマーカーは一般的に車載式のものが用いられ、長物(中央線や外側線、はみ禁など)の施工に向いている。\n噴射機構は回転体スプレー式が主流であるが、エアレススプレー式やエアスプレー式のものも存在する。\n「フローコーター式」は塗料吐出口付近に設けられたギアロールを施工速度に合わせて回転させ、塗料をカーテン状に塗布する工法である。\n施工速度とギアロールの回転が連動しているため、適正な塗布量で施工ができ、材料ロスも少なく施工管理が行いやすい。", "qas": [ { "question": "3種の施工で最もよく使用されている工法の種類は何ですか?", "id": "de-092-16-000", "answers": [ { "text": "「スリット式」", "answer_start": 192, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小規模の工事には適さない工法の種類とは何?", "id": "de-092-16-001", "answers": [ { "text": "「噴射式」", "answer_start": 214, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「噴射式」の別名は何?", "id": "de-092-16-002", "answers": [ { "text": "「スプレー式」", "answer_start": 220, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "材料ロスが少なく施工管理が容易な工法の種類とは何ですか?", "id": "de-092-16-003", "answers": [ { "text": "「フローコーター式」", "answer_start": 459, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "施工後は出来高の計測(厚み、寸法、線形など)を行い、その時に過剰に吐出された塗料やガラスビーズは除去して道路の通行の支障にならないようにしなければならない。\nそして、ラインマーカーなどの施工用の機械を整理や写真撮影を行う。\n工事が終了した路面標示が設計書や仕様書に満足しているものかを判定するために検査が行われ、検査に合格することは路面標示が受注者から発注者に引き渡す際に品質保証がなされていることを意味する。\n検査する際は幅、延長、厚さなどの施工量のほかにも線形、レイアウトの全体的な調和も重要である。\nそこで、こうした検査は車両で走行して視認することも効果的である。\n塗膜厚を検査する場合は、一部の路面から供試体を抜き取る形での検査は困難であり、通常は塗布量で確認する方法や、3種(溶融式)の場合はノギスなどで直接的に測定する方法がある。\n黄色の標示の色彩は全国道路標識・標示業協会で発行している「道路標示黄色見本」と見比べて検査する。\nまた、塗料やガラスビーズの品質は、製造者による試験成績表をJIS規格と照合する形で行う。", "qas": [ { "question": "黄色の標示の色彩チェックは、何と照らし合わせて検査しているの?", "id": "de-092-17-000", "answers": [ { "text": "「道路標示黄色見本」", "answer_start": 400, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "道路・交通条件の変化に伴い路面標示を消去しなければならないことがある。\nこの方法は「物理的方法」と「化学的方法」に大別される。\n「物理的方法」には、「塗装処理法」「機械的切削法」「ブラスト工法」「ウォータージェット工法」の4種類がある。\n「塗装処理法」では黒色の路面標示用塗料を既設の路面標示に上書きする工法で、時間の経過とともに既設の路面標示が露出するため暫定的な方法として用いられる。\n「機械的切削法」はカッターブレードによって塗膜を切削する方法であり、作業が早く処理スピードが速いため最も多く採用されている方法である。\n「ブラスト工法」はブラストを吹きかけて塗膜を除去する方法であり、吹付粒子を適切に選定することで路面をほとんど損傷することなく完全に除去できるメリットがあるが、労力を要し経費が割高になるデメリットがある。\n「ウォータージェット工法」は超高圧水を吹きかけて塗膜を除去する方法であり、除去と同時に発生処理剤の吸引回収が可能で比較的早く作業が終えられる工法であるが、比較的大型の設備を用いるため作業に必要な面積が大きくなる欠点がある。\n「化学的方法」には、「化学薬品処理法」と「燃焼法」があるが、現在ではあまり使用しない。\n「化学薬品処理法」は最も簡単な処理法であるが、路面を痛め、塗膜のみを上手く剥離することができない。\n「燃焼法」はバーナーによって加熱溶融して塗膜を取り除く作業であるが、路面を損傷する可能性があり、また燃焼物を取り除く手間が発生するため作業能率が良いとは言えない。\nこの方法を改善したものとしてジェットバーナーを用いた工法もある。\nこの方法は摩耗によって薄くなった標示や他の方法で消去したが消え残った標示に対して適用することが多かった。", "qas": [ { "question": "「物理的方法」と「化学的方法」では、どちらの方が種類が多いの?", "id": "de-092-18-000", "answers": [ { "text": "「物理的方法」", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "路面標示の消去方法で、最も多用されているのは何ですか?", "id": "de-092-18-001", "answers": [ { "text": "「機械的切削法」", "answer_start": 195, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "アヴァ王朝", "paragraphs": [ { "context": "アヴァ王朝は、14世紀半ばから16世紀半ばにかけて現在のミャンマー北部(上ビルマ)に存在したシャン族の国家である(1364年-1555年)。首都はアヴァであり、雅称はパーリ語で「宝石の都」を意味するラタナープラである。日本語ではインワ朝、アワ朝とも表記される。長い間、「アヴァ」という呼称はビルマ全土を指す言葉として使われた。シャン族がビルマに建てた王朝の中では最大のものであるが、実質的に王朝を支えていたのはビルマ族であった。", "qas": [ { "question": "アヴァ王朝とは、現在のどの地域に存在した王家であるの?", "id": "de-093-00-000", "answers": [ { "text": "ミャンマー北部", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アヴァ王朝の首都は、どこでしたか?", "id": "de-093-00-001", "answers": [ { "text": "アヴァ", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アヴァ王朝とは、どの民族の王家であるか?", "id": "de-093-00-002", "answers": [ { "text": "シャン族", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アヴァ王朝の日本語表記には、インワ朝と何があるか?", "id": "de-093-00-003", "answers": [ { "text": "アワ朝", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "パガン朝の没落後、上ビルマを支配したシャン族の国家ピンヤ朝が建国されるにあたって、ピンヤ朝の建国者ティハトゥは王宮の建設地としてミンゲー川(en:MyitngeRiver)とイラワジ川の合流点にあるアヴァを候補に挙げたが、占いの結果アヴァは不吉の地として却下され、ピンヤに王宮が建てられた。ピンヤ王ナラトゥーがピンヤの対岸に存在する分家のサガイン朝(ザガイン朝)を攻撃するために呼び寄せた、モー盆地のマオ・シャン族(麓川、ムンマオ王国)の指導者トー・チー・ボワー(思機発)の侵入によってピンヤとサガインの両方が壊滅した後、サガイン王家の王子タドミンビャがアヴァ周辺の沼沢地を開拓し、1364年にアヴァを首都として王朝を創始した。タドミンビャはタウングー、タウンドゥインヂーといった地方の城市(ビルマ各地に存在した、領主が統治する都市。)の反乱に忙殺され、マグウェ地方遠征の帰途で天然痘に罹り病没した。", "qas": [ { "question": "アヴァは、ミンゲー川とどの川の合流点に位置していたの?", "id": "de-093-01-000", "answers": [ { "text": "アヴァ", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピンヤ朝の王宮の建設地となったのは、どこですか?", "id": "de-093-01-001", "answers": [ { "text": "ピンヤ", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァ王朝の創始者は、誰か?", "id": "de-093-01-002", "answers": [ { "text": "タドミンビャ", "answer_start": 270, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァ王朝は、どの王家の続きともいえるのか?", "id": "de-093-01-003", "answers": [ { "text": "サガイン王家", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "タドミンビャ没後、彼の部下であったナ・ヌーは先王の妃ソウ・ウムマと結婚して王となるが、廷臣には彼ら二人の即位を認めないものは多く、サガインの地方領主であるミンチースワーソーケが二人を追放して即位した。3代国王ミンチースワーソーケの治世では、中央平原地帯の再開発と行政制度の再編が進められた。治世末期よりヤーザディリ王の指導下で勢力を広げる、下ビルマのペグー朝(ハンターワディー朝)との抗争が始まり、抗争は長期間にわたるものとなった。ペグー朝との戦争は、6代国王ミンカウンが没した1422年に終息した。", "qas": [ { "question": "アヴァ王朝の2代国王は、誰なの?", "id": "de-093-02-000", "answers": [ { "text": "ナ・ヌー", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ナ・ヌーの王位を認めず、彼を追放して自分から王となったのは、誰ですか?", "id": "de-093-02-001", "answers": [ { "text": "ミンチースワーソーケ", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァ王朝の初代国王は、誰か?", "id": "de-093-02-002", "answers": [ { "text": "タドミンビャ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アヴァ王朝とペグー朝との戦争は、何代国王の時代から6代国王の時代に渡るまでの長期間の戦争であったか?", "id": "de-093-02-003", "answers": [ { "text": "3代国王", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1401年に即位したミンチースワーソーケの長子タラビャが在位7か月で狂気を理由に部下に殺害された後、もう一人の子ミンカウンが王に推戴される。1404年にアヴァはベンガル湾に面するアラカン王国に侵略行為の報復として軍を送り、1407年にアラカンを従属させ、ペグーとアラカンの支配権をめぐって争った。", "qas": [ { "question": "1401年にアヴァの王に即位したのは、誰なの?", "id": "de-093-03-000", "answers": [ { "text": "タラビャ", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァがアラカン王国遠征を開始したのは、何年のことですか?", "id": "de-093-03-001", "answers": [ { "text": "1404年", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァとアラカン王国の間の戦争では、どの国が戦勝国となったか?", "id": "de-093-03-002", "answers": [ { "text": "アヴァ", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァとアラカンの支配権をめぐって争ったのは、どの国か?", "id": "de-093-03-003", "answers": [ { "text": "ペグー", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "15世紀初頭のミンカウンの治世まで国内は比較的安定していたが、その子ティハトゥの時代になって各地で地方領主が統治する城市の反乱が相次いで起こる。ティハトゥは即位後に父の妃であるシン・ボーメを妃に迎えるが、シン・ボーメはティハトゥを殺害し、ティハトゥの子ミンラ・ゲを擁立する。シン・ボーメはさらにミンラ・ゲを殺害し、1426年にシポー(オンバウン)の城主と共謀してカレチェタウンニョーを王位に据えた。ペグーとの戦争で活躍した領主モーニンタドはカレチェタウンニョーの即位に反対し、カレチェタウンニョーとシン・ボーメを放逐して王位に就く。モーニンタドは即位の正当性を強調するためシン・ボーメと結婚、治世のほとんどは城市の反乱の鎮圧に追われた。", "qas": [ { "question": "誰が死ぬと、各地で地方領主が統治する城市の反乱が相次いで起こったの?", "id": "de-093-04-000", "answers": [ { "text": "ミンカウン", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ティハトゥを殺害し、実権を握ったのは、誰ですか?", "id": "de-093-04-001", "answers": [ { "text": "シン・ボーメ", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シン・ボーメが二番目に殺害した王は、誰か?", "id": "de-093-04-002", "answers": [ { "text": "ミンラ・ゲ", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シン・ボーメにより王位に就いた最初の王は、誰か?", "id": "de-093-04-003", "answers": [ { "text": "ミンラ・ゲ", "answer_start": 126, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "モーニンタドの子ミンレチョースワの治世、中国を支配する明の討伐によって弱体化していたマオ・シャン族を攻撃し、1442年に彼らの指導者トー・ンガン・ボワー(思任発)を捕らえて北方の脅威の一つを取り除くことに成功した。しかし、ミンレチョースワの跡を継いで即位した弟のナラパティは明へのトー・ンガン・ボワーを引き渡しを拒み、また朝貢を拒絶した。そのため1446年に明のより多数の遠征軍が送られ、ナラパティは降伏して自害したトー・ンガン・ボワーの遺体と彼の従者を明軍に引き渡した。", "qas": [ { "question": "マオ・シャン族との戦争が終わったのは、何年なの?", "id": "de-093-05-000", "answers": [ { "text": "1442年", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アヴァがマオ・シャン族との戦争で勝利することができたのは、マオ・シャン族がどの国により弱体化していたからですか?", "id": "de-093-05-001", "answers": [ { "text": "明", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "明がアヴァを侵攻したのは、何年のことか?", "id": "de-093-05-002", "answers": [ { "text": "1446年", "answer_start": 173, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァの王が、誰の引き渡しを拒絶したことがきっかけで、明から侵攻されることになったか?", "id": "de-093-05-003", "answers": [ { "text": "トー・ンガン・ボワー", "answer_start": 140, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1469年に即位したティハトゥラの時代より、城市タウングーが城主シトゥチョウティンの指導下で勢力を拡大、周辺の城市を制圧していく。廷臣たちはタウングーの勢力の拡張を反乱の兆しとしてティハトゥラに警告するが、アヴァの宮廷に赴いたシトゥチョウティンが王への忠誠を宣言したことでタウングーの討伐は実行されなかった。シトゥチョウティンが甥のミンチーニョウに暗殺された後、アヴァ宮廷はタウングーの反抗が止むことを期待してミンチーニョウの即位を認めるが、期待に反してタウングーは頻繁にアヴァの領内に侵入した。", "qas": [ { "question": "ティハトゥラが即位したのは、何年なの?", "id": "de-093-06-000", "answers": [ { "text": "1469年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "誰がティハトゥラへの忠誠を宣言したことにより、タウングーの討伐を巡った論争は一段落したか?", "id": "de-093-06-001", "answers": [ { "text": "シトゥチョウティン", "answer_start": 113, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ティハトゥラへの忠誠を宣言した人物を暗殺し、自分から王位に就いたのは、誰か?", "id": "de-093-06-002", "answers": [ { "text": "ミンチーニョウ", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "誰がタウングーのリーダーとなった時を基点に、一段落したタウングーの討伐を巡った論争が再び起こり始めたと予測できるか?", "id": "de-093-06-003", "answers": [ { "text": "ミンチーニョウ", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "16世紀初頭のシュウェナンチョーシンの時代、北方でソーロン(思倫)を指導者とする城市モーニンの伸張が始まり、他の城市も不服従の意思を顕わにしていた。アヴァに味方する城市はシポーのみであり、各地で起きる反乱をアヴァの力のみで鎮圧することはきわめて困難であるため、シュウェナンチョーシンは自分の政敵を庇護するタウングーに王女と領地を与えて懐柔を図らなければならなかった。1524年にイラワジ川沿岸の城市ピェー(プローム)がモーニンに屈服し、1527年の間にモーニンの攻撃を受けたアヴァは陥落、ソーロンは子のトハンブワ(思洪発)をアヴァの王位に就けた。シュウェナンチョーシンはアヴァ防衛戦で砲撃を受けて戦死、逃げ惑う難民はタウングーに流入し、タウングーの国力はより増していった。", "qas": [ { "question": "モーニンとシポーのうち、アヴァとの対立関係にあったのは、どちらなの?", "id": "de-093-07-000", "answers": [ { "text": "モーニン", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "自分たちの力では各地の反乱を抑えきれにくい状態に陥ったアヴァは、誰に助けを求めようとしましたか?", "id": "de-093-07-001", "answers": [ { "text": "タウングー", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピェーとアヴァのうち、より早く陥落されたのは、どちらか?", "id": "de-093-07-002", "answers": [ { "text": "ピェー", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "何もしなかったにもかかわらず、モーニンとアヴァの戦争が国力の向上に結ぶ付かれたのは、どの国か?", "id": "de-093-07-003", "answers": [ { "text": "タウングー", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "トハンブワの即位後間も無くソーロンは部下によって殺害され、ビルマ族の城市であるタウングーと戦い、1542年にピェーを包囲するタウングー王タビンシュウェティの妹婿バインナウンとの戦いに敗れて没落した。非仏教徒であるトハンブワはビルマ族が信仰する仏教の弾圧、寺社仏塔の破壊、僧侶の殺害、経典の焼却を行って民衆の反感を買い、国内で一定の勢力を保っていた宗教団体のアラニャ僧団も大きな被害を被った。また、トハンブワ即位後の宮廷ではシャン族出身の廷臣が権勢をふるい、ビルマ族は彼らより侮辱を受けるようになる。ビルマ族の廷臣はトハンブワの腹心であるビルマ人軍人ミンチーヤンアウンに非道を訴え、トハンブワはミンチーヤンアウンの手で殺害された。トハンブワの死後、ビルマ族の廷臣はミンチーヤンアウンに即位を乞うが彼はその願いを断り、シポーのシャン族領主コンマインをアヴァの王に推薦して隠棲した。", "qas": [ { "question": "ソーロンが殺害された時点のアヴァの王は、誰だったの?", "id": "de-093-08-000", "answers": [ { "text": "トハンブワ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タウングーとの戦いでは、どの国が勝利しましたか?", "id": "de-093-08-001", "answers": [ { "text": "タウングー", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トハンブワにより弾圧された宗教は、何か?", "id": "de-093-08-002", "answers": [ { "text": "仏教", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トハンブワを殺害したのは、誰か?", "id": "de-093-08-003", "answers": [ { "text": "ミンチーヤンアウン", "answer_start": 274, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "コンマインの子モビー・ナラパティは城市間の争いを統制することができず、1552年にサリンの領主シトゥチョーティンに譲位してタウングーの王となったバインナウンに臣従した。1555年にバインナウンの攻撃によってアヴァは陥落し、王朝は滅亡した。", "qas": [ { "question": "1552年にアヴァの王となったのは、誰なの?", "id": "de-093-09-000", "answers": [ { "text": "シトゥチョーティン", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァ王朝が滅亡したのは、何年のことですか?", "id": "de-093-09-001", "answers": [ { "text": "1555年", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アヴァ王朝を滅ぼしたのは、どの国か?", "id": "de-093-09-002", "answers": [ { "text": "タウングー", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アヴァの最後の王は、誰か?", "id": "de-093-09-003", "answers": [ { "text": "シトゥチョーティン", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アヴァ王室の力は弱いものであったためにパガン朝期のような中央集権体制を布くことはできず、領内の統治は地方行政を中心としていた。行政は城壁に囲まれた地方都市である城市(ミョウ)を基本単位とし、近隣の町や村に支配を及ぼした。城市のほとんどはパガン朝期に建設されたが、当時はそれほど重要な拠点ではなかったが、地方の開発が進むにつれて城市が政治と経済の両方に及ぼす力が相対的に増していき、パガン王室の支配力が弱まると独立性の強い城砦に変化した。", "qas": [ { "question": "城市が独立性の強い城砦に変化した原因となったのは、地方の開発と何の弱化だったの?", "id": "de-093-10-000", "answers": [ { "text": "パガン王室の支配力", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァとパガンのうち、王室の力がより強かったのは、どちらですか?", "id": "de-093-10-001", "answers": [ { "text": "パガン", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アヴァが建国された14世紀半ばよりタウンドゥインヂー、タウングー、ヤメーディーンなどのミョウはすでに軍役と貢納を拒否した半独立の状態にあり、15世紀末にはサリン、ピェー、ニャウンヤンが新たに自立した。1433年から1440年の間に明より東倘長官司に任じられたタウンドゥインヂー、ペグー朝と同盟関係にあったピェーなど、彼らは独自に外交を展開し、自らの勢力の拡張に努めた。", "qas": [ { "question": "アヴァが建国されたのは、何世紀半ばであるか?", "id": "de-093-11-000", "answers": [ { "text": "14世紀", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サリン、ピェー、ニャウンヤンがアヴァから独立したのは、いつのことか?", "id": "de-093-11-001", "answers": [ { "text": "15世紀末", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "建国当時、南方のペグー朝とは友好関係にあり、国境の策定も平和裏に行われた。しかし、ペグー朝でヤーザディリ王が即位した後、アヴァがペグー内のヤーザディリの政敵と結託したことが発端となって両国の間でイラワジ・デルタ地帯を舞台とする戦争が始まった。1407年にアヴァ王ミンカウンが妹をヤーザディリに嫁がせたときに一度は和平が成立するが、翌年にミンカウンがチェンマイと結んでペグーを攻撃しようとしていたことが発覚し、戦争は再開された。", "qas": [ { "question": "ペグー朝との関係が悪化したのは、誰がペグー朝の王に即位してからなの?", "id": "de-093-12-000", "answers": [ { "text": "ヤーザディリ王", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァとペグー朝の間の戦争は、主にどこを戦場としましたか?", "id": "de-093-12-001", "answers": [ { "text": "イラワジ・デルタ地帯", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァとペグー朝の間の戦争が、一度休戦状態に入ったのは、何年のことか?", "id": "de-093-12-002", "answers": [ { "text": "1407年", "answer_start": 121, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴァとペグー朝の間の戦争が再開されたのは、どちらが異心を抱えていたからか?", "id": "de-093-12-003", "answers": [ { "text": "アヴァ", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ペグーとの戦争で特に活躍したのが、ミンカウンの王子ミンレチョースワ(1391年-1417年)である。戦争中に生母がヤーザディリに捕らわれて彼の側室とされたことを知ったミンレチョースワは激怒し、ペグーが支配する下ビルマとアヴァに反逆したアラカンを攻撃した。1415年にはミンレチョースワは下ビルマの西部を制圧し、ヤーザディリに残された都市はペグーとマルタバンだけであった。1417年にミンレチョースワは重傷を負ってヤーザディリの手に落ち、治療を拒否して息絶えた。ミンレチョースワの死によってアヴァの兵士は士気を下げ、ミンカウンも彼の死に落胆し、余生を信仰に奉げた。ミンレチョースワの死後戦闘は沈静化し、ミンカウンの死後に終戦を迎えた。", "qas": [ { "question": "ペグーとの戦争で特に活躍した人物は、何年に死んだの?", "id": "de-093-13-000", "answers": [ { "text": "1417年", "answer_start": 185, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミンレチョースワの率いるアヴァ軍が下ビルマの西部を制圧したのは、何年のことですか?", "id": "de-093-13-001", "answers": [ { "text": "1415年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "長登銅山", "paragraphs": [ { "context": "長登銅山(ながのぼりどうざん)は山口県美祢市の秋吉台南東に隣接する銅鉱山である。\n長登銅山では7世紀末ないし8世紀初頭から銅を中心とした鉱物の採掘が始まり、特に奈良時代には東大寺の大仏に使われた銅の産地であった可能性が高いことで名高い。\nその後も1960年(昭和35年)の閉山まで、断続的に操業が続けられた。\nまた秋吉台の周辺を中心に、長登銅山の近隣には地質学的に良く似た銅などの鉱山が分布しており、それらの鉱山と鉱山に付属する製錬・加工施設についても、必要に応じて説明を加える。", "qas": [ { "question": "長登銅山が完全に閉山したのはいつですか?", "id": "de-094-00-000", "answers": [ { "text": "1960年", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "長登銅山の銅が使用された可能性が高い日本一大きい仏像とは何?", "id": "de-094-00-001", "answers": [ { "text": "東大寺の大仏", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "長登銅山は秋吉台東南に隣接する、銅を中心とした鉱物を産出した鉱山であった。\n操業開始は7世紀末ないし8世紀初頭と考えられており、奈良時代から平安時代にかけて当時の律令国家も大きく関与した長門国直営の鉱山として銅と鉛を産出し、産出された銅や鉛は和同開珎など皇朝十二銭の鋳造や東大寺の大仏といった、国家的事業に用いられたと考えられている。\nまた長登銅山からは採掘や製錬の遺構などとともに、730年前後の木簡など貴重な出土品が多数発見されている。\n長登銅山は12世紀にはいったん稼動が休止されるが、14世紀後半には再開したと考えられ、中世期の銅の製錬について知ることができる貴重な遺構が検出されている。", "qas": [ { "question": "奈良時代から平安時代にかけて長登銅山を治めていた国はどこですか?", "id": "de-094-01-000", "answers": [ { "text": "長門国", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長登銅山から産出された銅や鉛が使用された銭貨は何ですか?", "id": "de-094-01-001", "answers": [ { "text": "和同開珎", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "江戸時代初期には長州藩直営の鉱山として隆盛をみたが、坑内からの出水や当時の技術水準では銅の採掘が困難になったため、江戸時代後半には再び休止状態となった。\nその後も岩絵具の材料として緑青の採掘が続けられ、滝ノ下緑青として全国的に知られていた。\n長登銅山にはそれら江戸期の遺構も遺されている。\n明治時代から昭和時代にかけて長登銅山は再稼動し、銅や日本では珍しいコバルトが採掘された。\n明治後期から大正時代にかけての精錬所である花の山精錬所は日本独自の吹床精錬法の精錬所であり、遺構の保存状況も良く、貴重な近代鉱業遺跡である。", "qas": [ { "question": "長登銅山が2度目の稼働休止となった時期はいつですか?", "id": "de-094-02-000", "answers": [ { "text": "江戸時代後半", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長登銅山は銅だけでなく、何の採掘がなされて全国的に有名でしたか?", "id": "de-094-02-001", "answers": [ { "text": "緑青", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "長登銅山は秋吉台の東南にあって、標高約250~300メートルのなだらかな山と、山に囲まれた160メートルの盆地状の谷の、東西約1.6キロメートル、南北約2.3キロメートルの範囲に、現在のところ16ヵ所の鉱山跡と13ヵ所の製錬所の跡が確認されている。\n銅山の操業開始は7世紀末ないし8世紀初頭と考えられ、その後断続的に1960年の閉山まで操業が続けられた。\n採鉱技術の進歩によって、いったん採掘を中断した鉱脈が再開発された例も多く、異なる時代の遺構が重なり合って検出されるなど、産業遺産の遺跡として複雑な様相を見せている。", "qas": [ { "question": "長登銅山の範囲において、東西と南北ではどちらの距離が長いですか?", "id": "de-094-03-000", "answers": [ { "text": "南北", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "現時点で、長登銅山にある鉱山跡と製錬所の跡の数はどちらが少ないですか?", "id": "de-094-03-001", "answers": [ { "text": "製錬所の跡", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "長登銅山は、奈良時代から平安時代にかけて大切谷(おおぎりだに)という谷間と、大切谷の奥にある榧ヶ葉山(かやがばやま)山を中心に稼動していた。\n榧ヶ葉山山頂付近には古代のものと考えられる露天掘り跡が3ヵ所あり、また山麓にかけて約30ヵ所の坑道入り口が残っている。\n坑道の多くは古代に採掘が行われたものと考えられるが、江戸時代や明治~大正期にも再開発が行われた跡が残っている。\n中世から江戸時代にかけても引き続き大切谷を中心として銅山の稼動が行われていたが、江戸時代には長登銅山周辺でも盛んに銅や鉛の採掘が行われるようになった。\n18世紀後半には鉱山は衰退するが、岩絵具として利用された緑青が採掘された。\nそして明治から昭和にかけては長登周辺の多くの地域で鉱山が開発され、銅をはじめとして鉛、亜鉛、銀、砒素、コバルトなどを産出した。", "qas": [ { "question": "岩絵具の材料として長登銅山で採掘されていた物質は何ですか?", "id": "de-094-04-000", "answers": [ { "text": "緑青", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長登銅山で銅山として中心的に稼働していた谷とはどこですか?", "id": "de-094-04-001", "answers": [ { "text": "大切谷", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "長登銅山は1960年の閉山まで1200年余りに渡って断続的に操業が続けられた。\n中でも奈良時代から平安時代、江戸時代、そして明治から昭和にかけてという三回の隆盛期があり、それぞれの時代の貴重な産業遺産としての遺構が残っている。\n大切谷や後年精錬所が設けられた花の山地区には、製錬によって排出されたスラグが大量に堆積している。\n特に大切谷は約5万平方メートルにわたってスラグが数メートルの深さに堆積しており、現在大切谷の約8割は山林となっていて、わずかに存在する水田は、スラグ上に客土をしている状況である。\nそのため現在もなお遺跡の多くの部分は発掘が行われておらず、全貌は明らかになっていない。", "qas": [ { "question": "長登銅山は閉山するまでの1200年の間、隆盛期が何回ありましたか?", "id": "de-094-05-000", "answers": [ { "text": "三回", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大切谷に堆積しているスラグの面積はどれくらいですか?", "id": "de-094-05-001", "answers": [ { "text": "約5万平方メートル", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "白亜紀から古第三紀にかけて、日本列島に付加体である四万十帯が形成されていくのに伴い、現在の中国地方では火山活動が活発化した。\nその中で約1億年前の白亜紀、秋吉台の石灰岩地帯に深成岩である花崗岩が貫入した。\nそして石灰岩と花崗岩とが接触する部分にカルシウム、鉄、マグネシウム、アルミニウムなどを豊富に含むケイ酸塩鉱物の集合体、すなわちスカルンが形成され、そこに銅や鉛、銀などの金属が凝縮されることにより、接触交代鉱床(スカルン鉱床)である長登銅山が形成された。\n長登銅山の鉱床は秋吉台を形成する石灰岩と白亜紀後期に形成された花崗斑岩との境界、そして石灰岩体の内部に存在する。\n鉱床としては比較的小型で、幅は5-10メートル程度であったが、長さは50-80メートル、そして深さは100メートルに達する鉱床もあるなど、地中深くまでレンズ状ないし板状に続いている特徴がある。\n長登銅山では銅以外にも鉛、亜鉛、銀、砒素、コバルトなどを産し、特にコバルトは日本国内では産出することが少なかったため、貴重な産地として知られていた。\nまた長登銅山の銅鉱石には砒素が多く含まれている特徴があり、奈良時代から平安時代前半にかけての日本の銅製品は砒素の含有量が多いことが知られており、これは長登銅山の銅鉱石が広く用いられていたことを示していると考えられている。", "qas": [ { "question": "長登銅山にはケイ酸塩鉱物の集合体である何という鉱物が形成されていますか?", "id": "de-094-06-000", "answers": [ { "text": "スカルン", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "長登銅山で産出された鉛、コバルト、銀、亜鉛、砒素、銅の中で、日本国内での産出が珍しいものはどれ?", "id": "de-094-06-001", "answers": [ { "text": "コバルト", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長登銅山の銅鉱石は何の元素がたくさん含まれている事が特徴ですか?", "id": "de-094-06-002", "answers": [ { "text": "砒素", "answer_start": 471, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "長登銅山の成因となった貫入した花崗岩は、現在銅山の近隣にある花の山となっているが、花の山を取り囲むようにして大切(おおぎり)、箔鋪(はくしき)、花の山、烏帽子、長登という6つの鉱床が散在している。\nまた花の山西方には梅ヶ窪の鉱床、そして北東方向にも北平鉱床がある。\nまた、山口県内には於福、蔵目喜、玖珂など、福岡県の香春、島根県の都茂鉱山など、中国地方西部から北部九州にかけて白亜紀や古第三紀に形成された、長登銅山と成因を同じくするスカルン鉱床の鉱山が存在し、その多くが古代から採掘が行われてきたものと考えられている。", "qas": [ { "question": "福岡県に形成されたスカルン鉱床の鉱山名は何?", "id": "de-094-07-000", "answers": [ { "text": "香春", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "於福、蔵目喜、玖珂、香春、都茂の鉱山と長登銅山の共通点は何?", "id": "de-094-07-001", "answers": [ { "text": "スカルン鉱床", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1843年(天保14年)頃に長州藩に提出された地誌である『防長風土注進案』では、長登銅山はかつて奈良の大仏を鋳造するための銅を奈良に送ったため、恩賞として「奈良登」という名前を賜り、いつしか奈良登が長登になったとの言い伝えを載せている。\nこのように長登銅山の銅が奈良東大寺の大仏鋳造に関わりがあったとの伝承はあったが、特に根拠があるものとは考えられていなかった。\n1972年(昭和47年)、美東町史編纂の調査時、長登銅山跡から須恵器が採集され、長登銅山が古代に遡る銅山である可能性が認識されるようになった。\n1972年(昭和47年)12月から1974年(昭和49年)4月までの測量調査を経て、1975年(昭和50年)には初めて試掘調査が行われ、1985年(昭和60年)3月の発掘では10世紀後半~11世紀前半の精錬炉跡が検出された。\nそして1985年(昭和60年)6月の集中豪雨時、長登銅山跡に鉄砲水が襲い、鉄砲水の跡から8世紀から9世紀のものと考えられる須恵器が大量に発見された。", "qas": [ { "question": "「奈良登」の名を賜ったことが長登の由来になったとの言い伝えが載っている書物は何?", "id": "de-094-08-000", "answers": [ { "text": "『防長風土注進案』", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長登銅山が古代から銅山として機能していた可能性が高いと認識されるようになったのは、銅山跡から何が採集されたからですか?", "id": "de-094-08-001", "answers": [ { "text": "須恵器", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1985年に大量の須恵器が発見されたのは、6月に何が発生したからですか?", "id": "de-094-08-002", "answers": [ { "text": "集中豪雨", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1988年(昭和63年)3月、橿原考古学研究所が東大寺大仏殿の西廻廊付近から検出された大仏鋳造用の青銅を分析した結果、長登銅山跡から出土したスラグと成分が良く一致し、東大寺の大仏の銅は長登銅山の銅であると発表された。\nそして1988年(昭和63年)8月から9月にかけて、美東町の手によって発掘が行われた。\nこの時の発掘終了後、発掘現場の一部が降雨によって崩壊し、崩壊した場所から発見された須恵器に「大家」との墨書があることがわかり、長登銅山には律令制の官衙があった可能性が指摘され、平成元年度からの国と山口県の補助事業としての本格的発掘が開始されるきっかけの一つとなった。\nそして国と山口県の補助事業として平成元年度から平成3年度を第一期、平成4年度から平成7年度までを第二期、平成8年度から平成10年度までを第三期とする発掘調査が実施され、古代の製錬跡や800点あまりの木簡が検出されるなど貴重な成果を挙げた。\nしかし前述のように長い鉱山稼動によって堆積した厚いスラグ層に阻まれ、これまでのところ古代遺跡の存在が推定される範囲のうちで1パーセント未満の発掘が行われているにすぎない。\nこれまでの発掘によって検出された木簡などの出土品は、2009年(平成21年)4月25日に開館した長登銅山文化交流館で展示されている。", "qas": [ { "question": "東大寺の大仏の銅が長登銅山の銅であると発表がした機関はどこですか?", "id": "de-094-09-000", "answers": [ { "text": "橿原考古学研究所", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "平成元年度からの10年間で検出された木簡の数はいくつですか?", "id": "de-094-09-001", "answers": [ { "text": "800点あまり", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "奈良時代から平安時代にかけての長登銅山の主要な遺跡である大切谷からは、縄文時代の石器や弥生土器が出土しており、古くから人が居住していたことは明らかである。\nしかし銅山がいつ発見され、稼動を開始したのかについては、大切谷を厚く覆うスラグのために遺跡の全貌が明らかになっておらずはっきりしていない。\nしかし大切谷からは7世紀後半台の土器が検出されていて、大切谷は農業に適した場所とは考えにくいため、この頃から銅山の稼動が開始された可能性が指摘されている。\n長登銅山は今のところ7世紀末から8世紀にかけて発見され、稼動が開始されたのではと考えられている。\n長登銅山から見て秋吉台の反対側の旧秋芳町にある中村遺跡と国秀遺跡では、7世紀の遺跡から銅鉱石や銅塊が検出されており、7世紀には長登鉱山近隣で銅の採掘と製錬が始まっていたことが明らかになっている。\nまた美祢市の上ノ山遺跡は於福銅山、旧福栄村にある坂部遺跡は蔵目喜銅山と関連する遺跡と考えられ、ともに8世紀台の製錬関連の遺構が検出されている。\nこれらのことから7世紀末から8世紀にかけて、秋吉台の周辺では長登銅山を始めとした銅山の開発ラッシュがあったと見られている。\nまた国秀遺跡からは新羅製の土器が検出されており、銅山の開発には渡来人の持つ技術が活用されたと考えられている。\nなお、国秀遺跡では8世紀に入ってまもなく銅の生産が中止されており、これは新規に開発された有望鉱山である長登銅山の開発に人員が振り向けられたためとの説もある。", "qas": [ { "question": "現時点で長登銅山が発見されて稼働し始めたのはいつ頃だと言われていますか?", "id": "de-094-10-000", "answers": [ { "text": "7世紀末から8世紀にかけて", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長登鉱山の近くで銅の採掘と製錬が始まったのはいつですか?", "id": "de-094-10-001", "answers": [ { "text": "7世紀", "answer_start": 310, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "検出された800点あまりの木簡からは、長登銅山には銅山経営に携わる官衙があり、長門国直営の銅山であったことが判明した。\nまた木簡からは多くの人々を使役して銅生産を行い、産出された銅を平城京や豊前など、各地に出荷していたこともわかる。\n『日本三代実録』や『類聚三代格』にある「長門国採銅所」、「採長門国銅使」とは、長登銅山のことであると考えられている。\n銅の利用先としては和同開珎を鋳造していた鋳銭司があり、また東大寺の大仏に使用された可能性が極めて高いとされている。", "qas": [ { "question": "大人数によって銅生産を行い、日本各地に銅を出荷していた事を明らかにしてくれたものは何?", "id": "de-094-11-000", "answers": [ { "text": "木簡", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「長門国採銅所」、「採長門国銅使」が指している場所はどこ?", "id": "de-094-11-001", "answers": [ { "text": "長登銅山", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長登銅山で産出された銅の送り先で、当時の都とは何?", "id": "de-094-11-002", "answers": [ { "text": "平城京", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東大寺の文書から、奈良時代の東大寺の大仏建立に用いられていた銅は、長門から運ばれていたことが知られていた。\n『正倉院文書』の中に、造東大寺司が長門国司に対して送付した文書の文面が残っており、これによると約18トンの銅を20名で、片道20日かけて長門から平城京まで運んだことがわかる。\n長門から奈良まで、銅は舟二艘で運搬したと考えられているが、四艘であったとの説もある。\n文書ではさらに長門から運ばれた約18トンの銅について、造東大寺司が長門国司からの送付状と照合しながら銅の量と品質をチェックしたところ、不足分と品質不良が見つかったことが書かれている。\nそして今後は品質が悪い銅ではなく、良質な銅を送るように依頼がなされている。", "qas": [ { "question": "長門から平城京までの銅の運搬状況を具体的に記録した書物は何?", "id": "de-094-12-000", "answers": [ { "text": "『正倉院文書』", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "上記のように『正倉院文書』の内容から、長門から大仏建立のために銅が送られていたことはわかっていたが、長門のどの鉱山の銅であるのかは明らかでなかった。\nそのような中、1988年(昭和63年)に東大寺大仏殿の西廻廊付近から大仏鋳造用の青銅が検出された。\nその青銅を分析した結果、砒素の含有量が多いことや鉛の同位体比が、長登銅山で検出された銅のスラグときわめて良く一致したため、奈良時代の東大寺大仏に長登銅山の銅が使用された可能性がきわめて高いことが明らかになった。\nまた正倉院宝物の銅製品や鉛製品を分析した結果、多くの宝物の銅や鉛に砒素が多く含まれていることが判明しており、正倉院宝物の多くも長登銅山やその近隣の銅山の、銅や鉛を利用した可能性が指摘されている。\n大仏建立に用いられた銅の量は記録によって差異があるが、約500トンと考えられている。\n『東大寺要録』が引用する縁起文によれば、大仏建立に用いた銅は「西海から」集めたとしており、銅のほとんどは長登銅山やその近隣の銅山で産出された銅でまかなわれたことが推察される。\nまた、東大寺大仏殿西廻廊付近から検出された木簡の中には、長登銅山から検出された木簡と類似したものがあり、長登銅山からの銅の送付状であった可能性も指摘されている。", "qas": [ { "question": "大仏鋳造用の青銅、正倉院宝物の銅製品や鉛製品に多く含まれている元素とは何ですか?", "id": "de-094-13-000", "answers": [ { "text": "砒素", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東大寺の大仏に使用されている銅はどれくらいの量ですか?", "id": "de-094-13-001", "answers": [ { "text": "約500トン", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "長登銅山からは木簡が約800点出土している。\n木簡には年号が記載されているものがあり、古いものでは711年(和銅4年)の可能性がある木簡があり、年号が確実なものとしては726年(神亀3年)、そして最も多いものは天平初期である730年(天平2年)から733年(天平5年)にかけてのものである。\n記載内容からも木簡は郷里制が採用されていた717年(霊亀3年/養老元年)から739年(天平11年)にかけてのものと考えられる。", "qas": [ { "question": "長登銅山から出土した最古といわれる木簡はいつのものですか?", "id": "de-094-14-000", "answers": [ { "text": "711年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "木簡の多くは南北方向に伸びる二本の大きな溝の中から検出されている。\n二本の溝の北側には東西方向に伸びる大きな溝があるが、そこからは木簡はほとんど検出されていない。\nこれは南北方向に伸びる二本の溝の南側、現在はため池となっている付近に銅山の管理・運営を担った官衙があり、そこで用いられた木簡を溝に廃棄したため、南北方向の溝から大量の木簡が出土したものと考えられている。\n長登銅山で検出された木簡の特徴としては、荷札として用いられたと考えられるものが多く、木簡使用後に木を削り取って再利用したことを示す削り屑の検出が少ないことが挙げられる。\nこれは銅山という特性上、生産、管理、出荷に重点が置かれていた施設であったことが原因と考えられている。", "qas": [ { "question": "長登銅山から出土した木簡の主な用途は何でしたか?", "id": "de-094-15-000", "answers": [ { "text": "荷札", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "使用した木簡はどこに捨てていたの?", "id": "de-094-15-001", "answers": [ { "text": "溝", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "木簡の内容は、大きく分けて銅生産と管理に関係するものと、長門国が経営を担っていたとされる官衙関係のものに分けられる。\n銅生産と管理に関係する木簡としては、製品化された銅に付けられた木簡、銅の出荷先を記載した木簡、そして銅の製錬に用いる木炭に付けられた木簡がある。\nまず製品化された銅には、銅の生産者である人物の名、生産量、品質、日時を書いた木簡が付けられた。\nまた銅の生産者は製錬用の炉を持ったグループごとに分けられていたと考えられており、木簡に記載された銅の生産者である人物名はグループの代表者であると推察されている。\nなお人物名には渡来系氏族と推定される名前も見られる。\n製品化された銅に付けられた木簡からは銅の出荷先が判明する。\nこれによると長門国司、そして豊前国司のもとに送られたものが目立つ。\n豊前国司に銅が送られた理由は今のところはっきりしないが、九州の入り口にあたる豊前の国司を通じて、大宰府など九州各地に銅が送られたとの説もある。\nまた銅が鋳銭司に送られていたことを示す木簡も検出されており、長登銅山で産出された銅が、当時鋳造されていた和同開珎に使用されていたことがわかる。", "qas": [ { "question": "製品の銅に付けた木簡に記録された人物名は何を表しているの?", "id": "de-094-16-000", "answers": [ { "text": "銅の生産者", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大宰府など九州各地に銅を送る前に、まず連結していた役所はどこ?", "id": "de-094-16-001", "answers": [ { "text": "豊前国司", "answer_start": 352, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "銅は平城京在住の貴族のもとへも送られたと見られている。\n中でも「太政大殿」という送付先は、720年(養老4年)の没後に太政大臣を追贈された藤原不比等家であると考えられる。\n藤原不比等家の資産の多くは娘である光明皇后が伝領したとみられていることから、長登銅山の銅も光明皇后のもとに送付されたことになると考えられている。\n当時、光明皇后は興福寺の堂宇の建立を発願しており、また後日の東大寺大仏建立時に光明皇后から大量の銅の寄付が行われたことなどから、長登銅山の銅が光明皇后の手を経て大仏鋳造に用いられたと推定する研究者もいる。\nまた、「家原殿」と呼ばれる人物にも銅が送られていたことが判明している。\n家原殿は左大臣を勤めた多治比嶋の妻である家原音那との説があり、やはり平城京在住の貴族である可能性が高いとされる。\n光明皇后や家原殿へ送られた銅は、公的な収入の一部としてのものであったのか、それとも私的に購入したものであったのかははっきりとしない。\nしかし木簡の中に「朝庭に申さざる銅」と記述されたものがあるため、基本的には長登銅山で産出された銅の使用先等は中央政府に報告されるようになっていたことが想定される。", "qas": [ { "question": "「太政大殿」とは誰のことだと推察されていますか?", "id": "de-094-17-000", "answers": [ { "text": "藤原不比等家", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「家原殿」と呼ばれる人物は誰である可能性が高いですか?", "id": "de-094-17-001", "answers": [ { "text": "家原音那", "answer_start": 318, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "藤原不比等家も家原音那もどこに在住している貴族ですか?", "id": "de-094-17-002", "answers": [ { "text": "平城京", "answer_start": 332, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "家原音那の夫は誰ですか?", "id": "de-094-17-003", "answers": [ { "text": "多治比嶋", "answer_start": 309, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、馬による銅の運搬に関する木簡も検出されている。\nそれによると馬1頭に対して馬子2名、総勢馬10頭と馬子20名で銅の運搬を行っており、このときの馬子の中に1名、女性がいたことが明らかになっている。\n後述の木炭の生産者の中にも女性の可能性が高い名前が見られ、銅の製錬場面でも女性が就労していたと考えられる木簡が検出されており、奈良時代の長登銅山で女性が働いていたことは注目される。\n木炭に付けられた木簡は、木炭の生産者である人名と炭の納入量を記録している。\n木炭は主として銅の製錬に用いたものと考えられる。", "qas": [ { "question": "銅の運搬に関わっていた動物は何ですか?", "id": "de-094-18-000", "answers": [ { "text": "馬", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "銅の製錬に使っていた燃料は何?", "id": "de-094-18-001", "answers": [ { "text": "木炭", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "馬による銅の運搬に関して、馬子の中に何がいたことが明らかになっていますか?", "id": "de-094-18-002", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "銅山経営を担っていた官衙関係の木簡としては、官衙の文章行政に関する木簡の他に、紙文章の封印として用いられた封緘木簡、そして長登銅山で使用された庸米や調塩に付けられた木簡がある。\nこれらの文書の内容から、長登銅山は長門国が地元の美祢郡衙や隣接する周防国などと協力しながら運営する律令国家の官衙であることが明らかとなった。\n官衙の文章行政に関する木簡としては、近隣から銅山で働く労働者を徴発する内容のものや、銅山で働く労働者の逃亡に関するものなどが発見されている。\n逃亡に関する木簡によれば、78名ないし88名の労働者が逃亡したと解釈され、どのくらいの期間で逃亡したのかは不明であるが、銅山での労働が過酷なため逃亡者が相次いだ可能性が指摘されている。\n封緘木簡はこれまで8点検出されている。\nこれは紙文書の封印として用いられる木簡であり、検出数としてはかなり多い。\n長登銅山の官衙では封印を必要とする文章をかなり頻繁にやりとりしていたことが推察される。", "qas": [ { "question": "逃亡に関する木簡によれば、多くて何名の労働者が逃亡したとされていますか?", "id": "de-094-19-000", "answers": [ { "text": "88名", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "長登銅山の官衙では封印を必要とする文章を高頻度でやりとりしていたとあるが、それはこれまでに封緘木簡がいくつ検出されたことから分かりますか?", "id": "de-094-19-001", "answers": [ { "text": "8点", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "長登銅山は平安時代に入っても稼動を続けた。\n奈良時代の製錬設備があった地域は製錬による大量のスラグが堆積したために、平安時代は大切谷の最奥部に生産の中心地域が移った。\n9世紀に入ると、長登銅山の銅の生産量が低迷するようになったと考えられる。\n『類聚三代格』の840年代の記録には銅の生産低下とそれに伴う銭貨の鋳造量の減少についての記事が見られ、『日本三代実録』に記されている859年(天安3年/貞観元年)の「長門国採銅使」の任命は、これまで長門国が運営していた長登銅山を中央政府直営にして生産強化を図ることにしたと考えられている。\nしかし運営が上手くいかなかったためか、869年(貞観11年)には再び長門国の運営に戻されている。\n銅の生産が落ち込んだ原因の一つは、政府による統制が緩んだことが挙げられ、『類聚三代格』の876年(貞観18年)の記録によれば、個人が採掘した銅で銅器を作り、交易をするようになっていたとの記録が残っている。\n一方長登銅山と長登銅山の南方約2キロメートルのところにある平原第II遺跡からは、9世紀代の鉛の製錬炉の跡が検出されており、発掘調査の結果からも9世紀代になると鉛の生産が中心となっていったことが判明していて、銅の生産量そのものも低下していたと考えられる。\n鉛同位体比の分析によれば長登銅山と平原第II遺跡で生産された鉛は、皇朝十二銭の原料であったことが判明している。", "qas": [ { "question": "長登銅山の銅の生産量が伸び悩み始めたのはいつからですか?", "id": "de-094-20-000", "answers": [ { "text": "9世紀", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長登銅山の生産強化を目的に、一旦運営主体が長門国からどこに移りましたか?", "id": "de-094-20-001", "answers": [ { "text": "中央政府", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "銅の生産低下と銭貨の鋳造量の減少についての記録がある書物とは何ですか?", "id": "de-094-20-002", "answers": [ { "text": "『類聚三代格』", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長登銅山の運営が中央政府直営から長門国に戻ったのはいつですか?", "id": "de-094-20-003", "answers": [ { "text": "869年", "answer_start": 285, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "日本の獣肉食の歴史", "paragraphs": [ { "context": "日本の獣肉食の歴史(にほんのじゅうにくしょくのれきし)では、日本における獣肉食の歴史について述べる。\n日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得たシカやイノシシの肉を食していた。\n仏教伝来以降は、獣肉全般が敬遠されるようになっていったが、日本人の間で全く食べられなくなったという時期は見られない。\n獣肉食に関する嫌悪感も時代とともに変わっていったが、おおむね、狩猟で得た獣肉は良いが家畜を殺した獣肉は駄目、そして足が多いほど駄目(哺乳類>鳥>魚)と考えられることが多かった(タコ・イカは例外)。\n獣肉消費量が魚肉を上回るのは第二次世界大戦後の高度成長期より後のことである。", "qas": [ { "question": "日本で獣肉全般が敬遠されるようになった時期はいつからですか?", "id": "de-095-00-000", "answers": [ { "text": "仏教伝来以降", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "旧石器時代の花泉遺跡からハナイズミモリウシ(野牛)、原牛、ヤベオオツノジカ、ヘラジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウ、ノウサギなどの化石が大量にまとまって発見され、これらの骨には解体痕があり、また骨角器と、敲石と思われる使用痕のある石器も発見された。\nこれらから花泉遺跡は狩猟による動物を解体し食肉を得たキルサイトと考えられている。\nまた長野県の野尻湖立ヶ鼻遺跡も、ナウマンゾウとヤベオオツノジカを主としたキルサイトと考えられている。\n東京都の野川遺跡などからは礫群や配石(置石)が発見されている。\n礫群は焼けたこぶし大の石が数十から百個ほど1か所にまとまったもので、動物質の有機物が付着したものも発見されている。\n礫群は食肉を焼くのに用いたと考えられている。\n当時は更新世の氷期で、日本列島の大部分は亜寒帯性の針葉樹林が広がっていた。\n植物性の食品は乏しく漁撈は未発達なため、ビッグゲームと呼ばれる大型哺乳類の狩猟を主とした食肉に依存する生活と考えられている。", "qas": [ { "question": "野尻湖立ヶ鼻遺跡は何県に位置していますか?", "id": "de-095-01-000", "answers": [ { "text": "長野県", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "野川遺跡が位置している場所はどこですか?", "id": "de-095-01-001", "answers": [ { "text": "東京都", "answer_start": 215, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "縄文時代の貝塚や遺跡からは動物の骨も数多く発掘されている。\nその9割は鹿(ニホンジカ)、猪(ニホンイノシシ)の肉で、その他にクマ、キツネ、サル、ウサギ、タヌキ、ムササビ、カモシカ、クジラなど60種以上の哺乳動物が食べられていたものと見られる。\nその調理法は焼く、あぶる、煮るなどであり、焼けた動物の骨も見つかっている。\nまた、動物の臓器を食べることで有機酸塩やミネラル、ビタミンなどを摂取していた。\n里浜貝塚、大木囲貝塚の糞石から、シカ、イノシシ、オットセイ、アザラシなどが食されたことが分かっている。", "qas": [ { "question": "縄文時代の人々は、動物のどの部分を食してミネラルやビタミンを摂取していましたか?", "id": "de-095-02-000", "answers": [ { "text": "臓器", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "里浜貝塚では、何を分析してオットセイやアザラシなどが食されていたと分かりましたか?", "id": "de-095-02-001", "answers": [ { "text": "糞石", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "続く弥生時代にも、狩猟による猪、鹿が多く食べられ、その他ウサギ、サル、クマなども食べられている。\n農耕時代になると、動物の臓器が食べられることは少なくなり、塩分は海水から取られるようになった。\n縄文時代の遺跡では狩猟獣であるシカ・イノシシがほぼ一対一の比率で出土するのに対し、弥生時代の遺跡では「イノシシ」が増加する。\nこれは西本豊弘により形質的特徴から大陸から導入された家畜としてのブタが混入していたことが指摘され、「弥生ブタ」と称されている。\n弥生時代の社会は家畜の利用を欠いた「欠畜農耕」と考えられていたが、1980年代終盤から「ブタ」や「ニワトリ」の出土事例が相次いでおり、家畜の利用が行われていたと考えられている(「弥生豚」)。", "qas": [ { "question": "イノシシがよく食べられたのは縄文時代と弥生時代のどちらですか?", "id": "de-095-03-000", "answers": [ { "text": "弥生時代", "answer_start": 138, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "農耕時代に人々は何から塩分を摂取するようになりましたか?", "id": "de-095-03-001", "answers": [ { "text": "海水", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "弥生時代に大陸から来た家畜としてのブタを何と言いましたか?", "id": "de-095-03-002", "answers": [ { "text": "「弥生ブタ」", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "文献資料では『魏志倭人伝』(3世紀)には、日本には牛馬がいなかったことが明記されている。\nただし「近親者の死後10日ほどは肉を食べない」ともかかれており、肉食は行われていた。\n中国語では動物全般を「禽獣魚虫」で表すが(「禽」は「鳥」の意味)、日本の古語では鴨などの禽肉を単に「トリ」、獣肉を「シシ」、魚肉を「ウヲ」と呼び、「猪(イ)」の肉を「イノシシ」、「鹿(カ)」の肉を「カノシシ」、また肉だけでなく生体も同じくそのまま呼んだ(このため「禽獣」を「トリシシ」とも読む)。\n「ししおどし」の「しし」は肉ではなく獣のことである。\n後に漢語の呉音由来の「ニク」に代わり、「肉」の異体字の「宍」で宍肉(ししにく)、人名での「シシ」などに語が残っている。\nなお「獅子」はここでの「シシ」とは訓みが偶然一致しているだけで関係はない。\n獣肉は一度に大量に確保できるが、生肉の保存技術が無く、生贄はその場で屠殺して食べられた。\n肉は一般には加熱(直火、煮炊き)して食べられたが、神事では火を使うことは不浄とされ、基本は生肉、あるいは塩、酢などを使った膾(鱠)、干物で食した。\n『日本書紀』の雄略2年10月(旧暦)の条には「置宍人部降問群臣群臣黙然理且難対今貢未晩我為初膳臣長野能作宍膾」と宍人部(食肉に携わる職の家系)の起源伝承が述べられており、生肉を宍膾(ししなます)にして食べられた旨が書かれている。", "qas": [ { "question": "『魏志倭人伝』が書かれたのはいつですか?", "id": "de-095-04-000", "answers": [ { "text": "3世紀", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ウヲ」とは何を指していますか?", "id": "de-095-04-001", "answers": [ { "text": "魚肉", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "古墳時代には薬猟の名で、鹿や猪の狩が年に数回行われ、その肉が滋養の薬として食べられていた。\nまた、古墳時代には大陸から牛と馬が渡来する。\n馬は主に乗馬として用いられたが、牛馬は肉や内臓が食用あるいは薬用にも使われた。\n猪豚は飼育も行われており、『日本書紀』安寧天皇11年(西暦不明)の条には猪使連という専門職が登場する。\n欽明天皇16年(555年)7月(旧暦)には「使于吉備五郡置白猪屯倉」と吉備に白猪屯倉を置くよう命じられており、569年には功あった白猪田部に白猪史の姓が贈られている。", "qas": [ { "question": "猪使連は何の動物を飼育する役職ですか?", "id": "de-095-05-000", "answers": [ { "text": "猪豚", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大陸から牛と馬が日本に入って来たのはいつですか?", "id": "de-095-05-001", "answers": [ { "text": "古墳時代", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "飛鳥時代には典籍や仏教が入り、誰もが食して旨いと知っているもののたとえから、誰もが知っていることを「膾炙」(原義は「なます」と「焙った肉」)という言葉もあるほどだったが、仏教では動物の殺生が禁じられていることから、この影響で肉食もたびたび禁じられるようになった。\n奈良時代になると、貴族食と庶民食が分離するようになった。\n『日本書紀』によると675年、天武天皇は仏教の立場から檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じた。\nまた、農耕期間でもある4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止された。\nしかし、以前より一般的な習慣として食べられていた鹿と猪は獣肉であっても禁じられなかった。\n引き続き猪豚の飼育も行われており、穂積親王が708年に詠んだ歌には「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」とある(猪養は地名でもある)。", "qas": [ { "question": "仏教の立場から狩猟を禁止した天皇は誰ですか?", "id": "de-095-06-000", "answers": [ { "text": "天武天皇", "answer_start": 176, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "貴族食と庶民食が分かれたのはいつからですか?", "id": "de-095-06-001", "answers": [ { "text": "奈良時代", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本に仏教が伝来したのは何時代からですか?", "id": "de-095-06-002", "answers": [ { "text": "飛鳥時代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、718年(養老2年)に亡くなった道首名は筑後守時代に国人に鶏や豚の飼育を奨励しており、『続日本紀』には「下及鶏肫。皆有章程。曲盡事宜」(〈道首名の規則は〉鶏や豚の飼育にも及んでおり、ことごとく詳細で適切であった)と記されている。\n『続日本紀』732年(天平4年)7月6日には聖武天皇が「和買畿内百姓私畜猪四十頭。放於山野令遂性命(畿内の百姓から家畜の猪40頭を買って山に逃がした)」との記載もある。\nだが、罠や狩猟方法に関して禁令がたびたび出され、正月の宮中行事である御薬を供ずる儀でも、獣肉の代わりに鶏肉が供されるようになった。\nさらにこの頃から貴族の間で牛乳や乳製品の摂取が盛んになり、動物性タンパクが補われるようになった。\n奈良時代の肉食禁止令には、家畜を主に食していた渡来系の官吏や貴族を牽制するためとする説もあり、家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えもこれに基づくものである可能性もある。\n奈良時代には前時代から食されていた動物に加えてムササビも食されたが、臭気が強いためにこの他の時代ではあまり例がない。\nまた、酢を使って鹿の内臓を膾にすることも始められた。\n一方で、庶民には仏教がまだまだ浸透せず、禁令の意味も理解されずに肉食は続けられた。", "qas": [ { "question": "天平4年に即位していた天皇はどなたですか?", "id": "de-095-07-000", "answers": [ { "text": "聖武天皇", "answer_start": 140, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "聖武天皇の時代に貴族の間でよく摂取されるようになったものは牛乳と何ですか?", "id": "de-095-07-001", "answers": [ { "text": "乳製品", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "鹿の内臓を膾にする時に使用された調味料は何?", "id": "de-095-07-002", "answers": [ { "text": "酢", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "平安時代にも貴族の間での食肉の禁忌は続いた。\n914年(延喜14年)に出された漢学者三善清行の『意見十二箇条』には、悪僧が腥膻(肉と肝)を食うのを評して「形は沙門に似て、心は屠児の如し」とかかれており、食肉の禁忌があったこと、および一部ではそれを僧でさえ破っていたこと、獣肉を処理する屠児という職業がありそれが差別される存在であったことなどを示している。\n935年(承平5年)に編纂された辞書『和名類聚抄』人倫部第六漁猟類第二十一では、屠児の和名を「えとり」とし、意味は「鷹雞用の餌を取る者」転じて「牛馬を屠って肉を売る者」という意味だと解説しており、獣肉を売る商売があったことが分かる。\nまた『和名類聚抄』には猪、ウサギ、豚などが食されたことも記載されており、これらはハレの日の食膳に出された。\n平安時代には陰陽道が盛んになったこともあり、獣肉食の禁忌は強まり、代わって鳥や魚肉が食されるようになった。\nこれが魚肉の値上がりの原因になり、延喜式に記載された米と鰹節との交換比率は、200年前の大宝令の時と比べて2-3倍に上がっている。\n延喜式には獣肉の記載がほとんどないが、一方で鹿醢(しししおびしお)、兎醢など獣肉の醤油漬けや、宍醤(ししびしお)という獣肉の塩漬けを発酵させた調味料に関する記載が現れる。\n乳製品もさらに多く摂られるようになっている。", "qas": [ { "question": "『意見十二箇条』は誰が書きましたか?", "id": "de-095-08-000", "answers": [ { "text": "三善清行", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "獣肉を処理する屠児の和名は何?", "id": "de-095-08-001", "answers": [ { "text": "「えとり」", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "平安時代と大宝令の時を比べると、どちらの方が米と鰹節の交換比率が高いですか?", "id": "de-095-08-002", "answers": [ { "text": "平安時代", "answer_start": 349, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "平安末期になると孔子に食肉を供えるはずの行事釈奠でも代わりに餅や乾燥棗などが用いられるようになったり、正月の歯固の膳でも鹿の代わりに鴫、猪の代わりにキジが出されるようになった。\nまた、穢れを信じるあまりに馬肉は有毒とまで考えられ、『小右記』の1016年(長和5年)の条には犯罪を犯した男に馬肉を食べさせた旨が記されている。\n当時の医学書『医心方』にしし肉(獣肉)と魚肉の食い合わせが良くないと記されていたり、『今昔物語』には庶民がしし肉を買いに行く場面が出てきたりと、完全に食肉の習慣が無くなったわけではなかった。\n平安時代の古語拾遺には古代のこととして「大地主神、田を営るの日、牛の宍を田人に食はせ」とあり、御歳神に対する神事として農民に牛肉を食わせたことが書かれている。\nただし古語拾遺内の創作であるとする可能性も指摘されている。", "qas": [ { "question": "平安末期に有毒肉の認識があったのは何の肉でしたか?", "id": "de-095-09-000", "answers": [ { "text": "馬肉", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "犯罪者に馬肉を食べさせていた記録のある平安時代の書物とは何?", "id": "de-095-09-001", "answers": [ { "text": "『小右記』", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "平安末期の釈奠では、猪の代わりに何を供えるようになったの?", "id": "de-095-09-002", "answers": [ { "text": "キジ", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鎌倉時代になると、武士が台頭し、再び獣肉に対する禁忌が薄まった。\n武士は狩で得たウサギ、猪、鹿、クマ、狸などの鳥獣を食べた。\n鎌倉時代の当初は公卿は禁忌を続けており、『百錬抄』の1236年(嘉禎2年)の条には武士が寺院で鹿肉を食べて公卿を怒らせる場面が出てくる。\nしかし時代が下ると公卿も密かに獣肉を食べるようになり、『明月記』の1227年(安貞元年)の条には公卿が兎やイノシシを食べたとの噂話が載せられている。\n乳製品は以後明治までほぼ食べられなくなった。\n12世紀後半の『粉河寺縁起絵巻』には、肉をほおばり、干肉を作る猟師の家族が描かれている。\n一方で神社の物忌み期間中の獣食は厳しくなり、平安時代には禁止されていなかった鹿や猪肉までもが禁令に含まれ、その期間も数十日程度にまで長くなっている。", "qas": [ { "question": "鎌倉時代当初にも獣肉への禁忌を継続していた身分は何ですか?", "id": "de-095-10-000", "answers": [ { "text": "公卿", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "乳製品が食されなくなったのは何時代ですか?", "id": "de-095-10-001", "answers": [ { "text": "鎌倉時代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "武士が寺院で鹿肉を食べて公卿を怒らせる場面が出てくる書物とは何ですか?", "id": "de-095-10-002", "answers": [ { "text": "『百錬抄』", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "当時は末法思想が流行し、鎌倉新仏教が勃興しつつあった。\n法然は自身の肉食は忌避してはいたものの、肉食をしても念仏を唱えれば救われると説いた。\n法然の弟子の親鸞は「肉食妻帯」伝説で知られ、『口伝鈔』よると、幼少期の北条時頼の前で僧の象徴である袈裟を着たまま魚を食べたと記されている。\n日蓮は自身が肉食した記録は乏しいが、「末法無戒」を唱えた。\n対して禅宗の影響で、動物性の材料を一切用いない精進料理も発達した。\n精進料理は単なる植物食ではなく、「猪羹」など獣食に見立てた料理もあった。", "qas": [ { "question": "親鸞の師匠は誰ですか?", "id": "de-095-11-000", "answers": [ { "text": "法然", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「末法無戒」を唱えた僧侶は誰ですか?", "id": "de-095-11-001", "answers": [ { "text": "日蓮", "answer_start": 141, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "幼少期の北条時頼の前で、袈裟姿で魚を食べた僧侶とは誰ですか?", "id": "de-095-11-002", "answers": [ { "text": "親鸞", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "南北朝時代の『異制庭訓往来』には、珍味として熊掌、狸沢渡、猿木取などの獣掌や、豕焼皮(脂肪付きのイノシシの皮)を焼いたものなどが掲載されており、『尺素往来』には武士がイノシシ、シカ、カモシカ、クマ、ウサギ、タヌキ、カワウソなどを食べていたことが記されている。\n医学も進歩して『拾芥抄』には2月のウサギ、9月の猪肉を食べないように記載されている。\n僧侶もひそかに肉食をするようになり、特にウサギは鳥と同様の扱いになって、『嘉元記』の1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年)の饗宴記録にもウサギ肉について記載されている。\nたぬき汁が登場する「かちかち山」が成立したのは室町時代後期といわれるが、その時代の料理書「大草家料理書」にはタヌキを蒸し焼きにした後に鍋で煮る「むじな汁」のレシピが記されている。\n当時の評価では同じく肉食対象だったアナグマと比較して、タヌキ料理は不味かったという。", "qas": [ { "question": "9月の猪肉を食べないように記した書物は何でしたか?", "id": "de-095-12-000", "answers": [ { "text": "『拾芥抄』", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「むじな汁」とは何の肉を料理したものですか?", "id": "de-095-12-001", "answers": [ { "text": "タヌキ", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「かちかち山」が成立した時期とはいつ?", "id": "de-095-12-002", "answers": [ { "text": "室町時代後期", "answer_start": 285, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「むじな汁」でのタヌキの調理方法とは?", "id": "de-095-12-003", "answers": [ { "text": "蒸し焼き", "answer_start": 320, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "戦国時代になると、南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化した。\nこの時代には新大陸(南北アメリカ大陸)の食材ももたらされている。\nジャン・クラッセ(JeanCrasset)の『日本西教史』には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれている。\n宣教師ルイス・フロイスの『日欧文化比較』には「ヨーロッパ人は牝鶏や鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」「ヨーロッパ人は犬は食べないで、牛を食べる。日本人は牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」と書かれている。\n宣教師フランシスコ・ザビエルは日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかったが、その後の宣教師は信者にも牛肉を勧め、1557年(弘治3年)の復活祭では買った牝牛を殺して飯に炊き込んで信者に振舞っている。", "qas": [ { "question": "『日本西教史』の著者は誰?", "id": "de-095-13-000", "answers": [ { "text": "ジャン・クラッセ", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『日欧文化比較』の著者は誰?", "id": "de-095-13-001", "answers": [ { "text": "ルイス・フロイス", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本人は家庭薬として犬を食べる、と何の書物に記されていましたか?", "id": "de-095-13-002", "answers": [ { "text": "『日欧文化比較』", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『細川家御家譜』には、キリシタン大名の高山右近が小田原征伐の際、蒲生氏郷や細川忠興に牛肉料理を振る舞ったことが書かれている。\n曲直瀬道三の養子曲直瀬玄朔は医学書『日用食性』の中で、獣肉を羹(具がメインのスープ)、煮物、膾、干し肉として食すればさまざまな病気を治すと解説している。\nただし当時の医学書には中国文献の引き写しも多く、日本では手に入らない食材なども書かれており、実際に行われていたかどうかは明らかではない。\nまた、戦国時代末期の日本語を収録した『日葡辞書』には「Cachoブタ」と記されており、地方によっては豚(家猪)が飼われていたものと見られる。", "qas": [ { "question": "小田原征伐の際に細川忠興に牛肉料理を振る舞った人は誰ですか?", "id": "de-095-14-000", "answers": [ { "text": "高山右近", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "曲直瀬玄朔の養父は誰ですか?", "id": "de-095-14-001", "answers": [ { "text": "曲直瀬道三", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『日葡辞書』におけるブタはアルファベットで何と記載されていましたか?", "id": "de-095-14-002", "answers": [ { "text": "Cacho", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、戦国末期からは阿波などで商業捕鯨が始まっている。\n阿波の三好氏の拠点勝瑞城の館跡地では、牛馬に豚や鶏、鯨、犬や猫などの骨が数多く出土しており、食用だけでなく鷹の餌や、愛玩用として家畜が飼われ、肉が市場に流通していたと考えられている。\n徳島県藍住町教育委員会は、当時の食事を研究し、三好義興が京都で将軍を歓待した時の本膳料理を再現した。\nその時の材料には、ウズラやシャモ、クジラ、サケが使用された。\nただし京などで獣肉が一般的に食されていたとは言えず、例えば秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた際の献立にも入れられていない。\n特に牛馬の肉を食べることは当然の禁忌であり、1587年(天正15年)、秀吉は宣教師ガスパール・コエリョに対して「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」と詰問し、それに対してコエリョは「ポルトガル人は牛は食べるが馬は食べない」と弁明をしている。", "qas": [ { "question": "秀吉が後陽成天皇を招いた邸宅の名前は何?", "id": "de-095-15-000", "answers": [ { "text": "聚楽第", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本で商業捕鯨が始まった時期はいつ?", "id": "de-095-15-001", "answers": [ { "text": "戦国末期", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "秀吉が牛馬を食べた件について詰問した相手とは誰?", "id": "de-095-15-002", "answers": [ { "text": "ガスパール・コエリョ", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "江戸時代には建前としては獣肉食の禁忌が守られた。\n特に上流階級はこの禁忌を守った。\n例えば狸汁は戦国時代には狸を使っていたが、江戸時代にはコンニャク、ごぼう、大根を煮たものに変わっている。\n1613年(慶長18年)、平戸島に商館を開設したイギリスのジョン・セーリスは陸路で大阪(osaca)から駿河(Surunga)に向かう行程で書かれたとみられる日本人の食習慣に関する記述の中で、豚が多く飼育されていることに言及している。\n1643年(寛永20年)の刊行とされる『料理物語』には、鹿、狸、猪、兎、川獺、熊、犬を具とした汁料理や貝焼き、鶏卵料理等が紹介されている。\n1669年(寛文9年)に刊行された料理書『料理食道記』にも獣肉料理が登場する。\n1686年(貞享3年)に刊行された山城国の地理書『雍州府志』には、京都市中に獣肉店があったことが記されている。\n江戸後期の国学者喜多村信節は、著書『嬉遊笑覧』の中で、元禄前の延宝・天和の頃には江戸四ツ谷に獣市が立ったことを述べている。\n1718年(享保3年)には獣肉料理の専門店「豊田屋」が江戸の両国で開業している。", "qas": [ { "question": "『料理食道記』と『料理物語』はどちらが先に刊行されましたか?", "id": "de-095-16-000", "answers": [ { "text": "『料理物語』", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『料理食道記』、『料理物語』、『雍州府志』の中で2番目に早く刊行されたものはどれ?", "id": "de-095-16-001", "answers": [ { "text": "『料理食道記』", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『料理食道記』、『料理物語』、『雍州府志』の中で料理書でないものはどれ?", "id": "de-095-16-002", "answers": [ { "text": "『雍州府志』", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『嬉遊笑覧』の著者は誰?", "id": "de-095-16-003", "answers": [ { "text": "喜多村信節", "answer_start": 387, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "獣肉食の禁忌のピークは、生類憐れみの令などが施された17世紀後半の元禄時代である。\nこの法令自体は徳川綱吉の治世に限られ、影響も一時のもので終った。\nただし特に犬を保護したことについての影響は後世まで残り、中国や朝鮮半島で犬肉が一般的な食材になっている一方で、日本では現代に至るまで犬肉は一般的な食材と看做されなくなった。\n18世紀の書『和漢三才図会』第37「畜類」の冒頭豕(ぶた)の条では育てやすい豚が長崎や江戸で飼育されていることが述べられているが、大坂在住の著者は「本朝肉食を好ま」ないため、近年は稀だとする。\n更に、豚肉を食べた際に生じる影響や豚肉と食べ合わせが悪いとされる食べ物などについても述べられている。\nまた、同じように、豚肉について記したものとしては1695年(元禄八年)に刊行された人見必大の『本朝食鑑』があり、豚肉の効能・害について、または、江戸時代当時の豚の飼育状況についてが書かれている。", "qas": [ { "question": "『本朝食鑑』は何年に刊行されたの?", "id": "de-095-17-000", "answers": [ { "text": "1695年", "answer_start": 334, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『本朝食鑑』の著者は誰?", "id": "de-095-17-001", "answers": [ { "text": "人見必大", "answer_start": 351, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ステンレス鋼の歴史", "paragraphs": [ { "context": "ステンレス鋼とはクロムを含み耐食性の高い鋼の一種である。ステンレス鋼の歴史(ステンレスこうのれきし)は、ステンレス鋼の必須元素であるクロムの発見にさかのぼる。1761年、シベリアの鉱山で赤みがかかったオレンジ色の新種の鉱石が発見された。フランスのルイ=ニコラ・ヴォークランがその鉱石を分析し、未知の金属を発見し、クロムと名付けた。その後、1820年代、イギリスのマイケル・ファラデーの合金鋼研究を経て、フランスのピエール・ベルチェがクロム・鉄合金の研究を行った。ベルチェは初のフェロクロムを作製し、作製したクロム鋼は切れ味に優れることなどを報告した。その後もクロム・鉄合金の研究報告は散発するが、19世紀中に現在認められているようなステンレス鋼の発見・実用化には至ることはなかった。一方で、19世紀後半の金属組織学の成立やテルミット法の発明により、ステンレス鋼誕生の素地は出来上がりつつあった。20世紀に入ると、クロム・鉄合金の基礎研究が深まり、ステンレス鋼の学術的基盤が確立した。現在では、ステンレス鋼は金属組織別にオーステナイト系、マルテンサイト系、フェライト系、オーステナイト・フェライト系、析出硬化系に大別される。1900年代、レオン・ギレが、耐食性については指摘できなかったが、マルテンサイト系、フェライト系、およびオーステナイト系の組織と組成を初めて体系的に明らかにした。また、フィリップ・モンナルツが、クロム・鉄合金の耐食性とその原理について現在でも通じるような優れた知見を報告した。1910年代になると、マルテンサイト系、フェライト系、オーステナイト系ステンレス鋼が実用化され、ステンレス鋼が工業的・商業的に発明された。マルテンサイト系の発明者はハリー・ブレアリーとすることが一般的で、オーステナイト系の発明者はベンノ・シュトラウスとエドゥアルト・マウラーとすることが一般的である。フェライト系の発明者は特定の人物や組織に定め難い。残る2つのオーステナイト・フェライト系と析出硬化系は、1930年代・1940年代に実用化された。", "qas": [ { "question": "ステンレス鋼の必須元素は何?", "id": "de-096-00-000", "answers": [ { "text": "クロム", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステンレス鋼の必須元素が発見されたのは、何年のことですか?", "id": "de-096-00-001", "answers": [ { "text": "1761年", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1910年代になって実用化されたステンレス鋼のうち、発明者を特定の人物や組織に定め難いのは、何系のステンレス鋼であるか?", "id": "de-096-00-002", "answers": [ { "text": "フェライト系", "answer_start": 799, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フェライト系とオーステナイト・フェライト系のうち、実用化された時期がより遅いのは、何系のステンレス鋼であるか?", "id": "de-096-00-003", "answers": [ { "text": "オーステナイト・フェライト系", "answer_start": 829, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "基本鋼種が発明されたステンレス鋼は、利用拡大と技術的発展を遂げる。イギリス、ドイツ、米国、その他諸国で生産され、第二次世界大戦前はカトラリー、建築物の外装や装飾、鉄道車両、ナイフ、タービン翼、航空用エンジンの排気弁、化学プラントなどで使われる。1950年時点、西側世界のステンレス鋼生産量は約100万トンに達していた。量産初期のステンレス鋼は充分な精錬ができなかったため材質のよいものではなかったが、1940年代に酸素脱炭法、1960年代にAOD法・VOD法が実用化され、品質が飛躍的に向上した。さらに、1950年代に連続鋳造法やゼンジミアミルも導入された。これらの生産技術の進歩によって低価格化が進み、ステンレス鋼薄板の使用が耐久消費財でも一般的になっていった。1970年代には高純度フェライト系や耐海水用オーステナイト系などの高性能な鋼種が開発され、現在の日本産業規格には100種類以上のステンレス鋼が登録されている。2018年現在、全世界のステンレス鋼生産量は約5000万トンに達している。", "qas": [ { "question": "酸素脱炭法とAOD法のうち、より早く実用化されたのは、どれ?", "id": "de-096-01-000", "answers": [ { "text": "酸素脱炭法", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "導入された時期がより早いのは、酸素脱炭法と連続鋳造法のうち、どれですか?", "id": "de-096-01-001", "answers": [ { "text": "酸素脱炭法", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ステンレス鋼の歴史は、ステンレス鋼の必須元素であるクロムの発見から始まる。1761年、ヨハン・ゴットロープ・レーマンが、赤みがかかったオレンジ色の鉱石をシベリアの鉱山から入手した。彼はサンクトペテルブルクへそれを持ち帰ると、1766年にその鉱石には鉛が含まれていることを報告した。この鉱石は「シベリアの赤い鉛」と呼ばれるようになり、赤色またはオレンジ色の顔料として重宝された。この鉱石は現代では紅鉛鉱として知られ、クロム酸鉛(PbCrO4)で構成されるものであった。1789年ごろ、この「赤い鉛」の分析の依頼が、フランスの化学者ルイ=ニコラ・ヴォークランが働く研究室へやって来た。ヴォークランは、試行の末に木炭還元処理によって未知の金属を「シベリアの赤い鉛」から発見した。1797年、ヴォークランはこの分析成果の第一報を発表し、この未知の金属を「クロム」と名付けた。また、同時期の1798年に、ドイツの化学者マルティン・ハインリヒ・クラプロートが、ヴォークランとは独立に「シベリアの赤い鉛」に含まれるクロムの発見を報告した。しかし、クロムの金属としての利用に関心が持たれることは、当時はあまりなかった。", "qas": [ { "question": "ステンレス鋼の歴史の始まりと思われる発見とは、何年の発見なの?", "id": "de-096-02-000", "answers": [ { "text": "1761年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1797年、ヴォークランにより名付けられた未知の金属とは、何の必須元素でありますか?", "id": "de-096-02-001", "answers": [ { "text": "ステンレス鋼", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルイ=ニコラ・ヴォークランとマルティン・ハインリヒ・クラプロートのうち、誰がクロムについてより早く報告したか?", "id": "de-096-02-002", "answers": [ { "text": "ルイ=ニコラ・ヴォークラン", "answer_start": 264, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "電磁気学の始祖として知られるイギリスの科学者マイケル・ファラデーは、若かったころには合金鋼の研究を行っており、合金鋼開発黎明期の研究者の一人でもあった。刃物師ジェームス・ストダートからのウーツ鋼の調査依頼をきっかけにして、ファラデーは優れた性質を持つ合金鋼を作る実験を繰り返した。ファラデーは貴金属を含有させることで鋼の性質を改善させるアイデアを思い付き、ニッケル、銀、白金、ロジウム等との鉄合金を作成して1820年に研究成果を発表した。その後、ファラデーとストダートは精力的に試験を繰り返した。彼らの研究成果は先駆的で、今日では合金鋼研究の始まりとも位置付けられる。1820年の研究論文\"Experimentsonthealloysofsteel,madewithaviewtoitsimprovement\"(参考訳:改良の観点から実施された鋼の合金の研究)は「世界初の合金鋼の研究論文」とも評される。この論文では、ニッケルが鋼の耐酸化性を高めることなどを見出している。", "qas": [ { "question": "合金鋼研究の始まりと位置付けられている研究とは、ジェームス・ストダートと誰の研究であるのか?彼のフールネームを述べなさい。", "id": "de-096-03-000", "answers": [ { "text": "マイケル・ファラデー", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界初の合金鋼の研究論文とされる論文は、ジェームス・ストダートと誰が書いたものか?彼のフールネームを述べなさい。", "id": "de-096-03-001", "answers": [ { "text": "マイケル・ファラデー", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ファラデーとストダートの研究成果は、フランスの鉱山技師ピエール・ベルチェの関心を引き付けることとなった。1820年のファラデーとストダートの論文はフランス語にも翻訳され、ベルチェに研究のヒントを与えた。ベルチェは、鋼に金属クロムを添加した合金を作ることを考え付いた。まずベルチェは、この研究の過程でフェロクロムを初めて生み出した。フェロクロムとは鉄とクロムの合金のことで、現在のステンレス鋼製造における主要原料である。ベルチェはクロム鉱石と鉄鉱石の複合酸化物を木炭中で加熱して還元させて、クロムと鉄の合金、すなわちフェロクロムを作製した。ベルチェが作製したフェロクロムは、クロムを17%から60%含むもので、同時に炭素も多量に含んでおり、淡い灰色の結晶だった。作り出されたフェロクロムには、強い酸への耐性があることがわかった。次にベルチェは、作り出したフェロクロムをもとにクロム1%と1.5%含有のクロム鋼を作製した。作製したクロム鋼は切れ味に優れることをベルチェは発見し、腐食させて擦るとダマスク模様が現れること、カトラリーの材料に向いていることなどを報告した。ベルチェは、1821年にフェロクロムとクロム鋼の研究成果を発表した。この論文はファラデーの目にも留まり、ファラデーもクロム鋼を作製した。作製したのは1%と3%のクロム鋼で、充分な試験はできなかったが、ファラデーも見事なダマスク模様が現れることを確認した。このクロム鋼の試作結果は1822年の論文に加えられ、発表された。しかし、ストダートが1823年に急逝すると、共同研究者を失ったファラデーも1824年を最後に合金鋼の研究から去ることとなる。", "qas": [ { "question": "ベルチェが研究の過程で初めて生み出したものとは、鉄と何の合金であるの?", "id": "de-096-04-000", "answers": [ { "text": "クロム", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベルチェが作製した、フェロクロムとクロム鋼のうち、先に作られたのは、どれ?", "id": "de-096-04-001", "answers": [ { "text": "フェロクロム", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クロム鋼をより早く作製したのは、ベルチェとファラデーのうち、誰ですか?", "id": "de-096-04-002", "answers": [ { "text": "ベルチェ", "answer_start": 365, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ファラデーが1824年を最後に合金鋼の研究から手を離したのは、誰が死んだためですか?", "id": "de-096-04-003", "answers": [ { "text": "ストダート", "answer_start": 645, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ファラデーらとベルチェの研究の後、クロムの鉄鋼に対する影響を工業的観点から研究した特筆すべきものは、しばらく現れることはなかった。ステンレス鋼誕生まで、ファラデーらとベルチェの研究から約90年待つこととなる。ただし、クロムを含む鋼がエッチングしにくいことは当時の研究者たちの間でも認識されていた。20世紀になるまで、以下のようなクロム・鉄合金の研究とステンレス鋼誕生に関わる周辺技術の発展があった。1838年、R.マレがクロム・鉄合金あるいはクロム鋼が酸化剤に対する高い耐食性を持つことを報告した。しかしマレは、材料中のクロムは最終的には溶け出してしまい、合金は耐食性がより低い状態となるという結論を示した。おそらくマレは、クロムの役割を電池作用腐食における活性金属の役割と同じと考え、この誤った結論に至ってしまったのではないかと推測される。1863年から1864年にかけて、イギリスのヘンリー・ソルビーは顕微鏡による金属組織の観察を行った。ソルビー以前にも金属を顕微鏡で観察した者はいたが、ソルビーは顕微鏡写真の撮り方や研磨・エッチングの方法を研究し、金属組織観察法の一体系を作り上げた。1868年にはロシアのディミトリ・チェルノフが、1878年にはドイツのアドルフ・マルテンスが金属組織の研究成果を発表した。こうして花開いた金属組織学は、ステンレス鋼にとっても最重要な技術となった。", "qas": [ { "question": "ディミトリ・チェルノフとアドルフ・マルテンスのうち、金属組織の研究成果の発表がより遅かったのは、誰?", "id": "de-096-05-000", "answers": [ { "text": "アドルフ・マルテンス", "answer_start": 530, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ファラデーらとベルチェの研究から約何年たってステンレス鋼が誕生しましたか?", "id": "de-096-05-001", "answers": [ { "text": "約90年", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マレの1838年の報告によると、鉄合金あるいはクロム鋼は何に対する高い耐食性を持っていましたか?", "id": "de-096-05-002", "answers": [ { "text": "酸化剤", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "金属組織観察法の一体系を作り上げた人のフールネームは何か?", "id": "de-096-05-003", "answers": [ { "text": "ヘンリー・ソルビー", "answer_start": 393, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1872年には、イギリスのジョン・ウッズとジョン・クラークが、耐候性と耐酸性のある鉄合金としてクロム30–35%とタングステン2%を含有する鉄合金の特許を取得した。この特許は、ステンレス鋼の最初の特許ともいわれる。ただし、彼らはこの高クロム鉄合金がカトラリーや硬貨、鏡に有用だと指摘したものの、この合金の追加研究の記録は残っていない。この後もイギリスやフランスで、クロム鋼の性質に関する報告がいくつかあり、高クロム鉄合金の耐食性を指摘したものもあった。しかし1892年、高マンガン鋼の発明で知られていたイギリスのロバート・ハドフィールドが、クロムは鋼の耐食性を下げるという報告をした。ハドフィールドが耐食性を試したのは1.18%から9.81%のクロムを含む鉄合金で、50%濃度の硫酸に浸漬させて腐食減量を測定した。その結果は、クロム量が多いほど腐食減量は多くなるというものであった。このような結果になった原因としては、試料の炭素量が高かったこと、高濃度の硫酸を使って耐食性を試したことが推定される。現代のステンレス鋼でも、硫酸に対する耐食性は限られている。高名なハドフィールドの報告の影響は大きく、クロムは耐食性を低下させるという説が広まってしまい、他の研究者たちの高クロム鋼研究への関心を損なうこととなった。", "qas": [ { "question": "ジョン・ウッズとジョン・クラークが特許を取得した、耐候性と耐酸性のある鉄合金には、クロムとタングステンのうち、どれがより多く含有されたの?", "id": "de-096-06-000", "answers": [ { "text": "クロム", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "高クロム鉄合金と高マンガン鋼のうち、より早く発明されたのは、どれですか?", "id": "de-096-06-001", "answers": [ { "text": "高クロム鉄合金", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クロムを含む鉄合金における腐食減量は、含まれるクロム量が多ければ多いほど、多くなるか、少なくなるか?", "id": "de-096-06-002", "answers": [ { "text": "多くなる", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その後1895年、ドイツのハンス・ゴルドシュミットがテルミット法を発明し、これにより、炭素をほとんど含まない純度の高いクロムが工業的に生産可能となった。テルミット法以前のファラデー、ベルチェ、ハドフィールドなどの研究での試料はいずれも炭素濃度が高く、これが現代的なステンレス鋼作製を阻害していた。ヴォークランが単離して発見したクロムも、木炭還元法により多量の炭素を含んでおり、一部は炭化クロムであった可能性がある。ウッズとクラークが特許を取った高クロム合金を実用化できなかったのも、当時の技術ではクロム濃度を上げるほど炭素濃度が上がってしまうことが原因だったと推定される。1898年には、フランスのA.カルノーとE.グータルが、炭素含有量が多いほどクロム鉄合金の耐食性が落ちることを報告した。ゴルドシュミットのテルミット法によって低炭素クロムの生産が容易になり、ステンレス鋼の実現が現実的なものとなった。", "qas": [ { "question": "テルミット法を発明したのは、誰?", "id": "de-096-07-000", "answers": [ { "text": "ハンス・ゴルドシュミット", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステンレス鋼の実現を現実的なものにした人物のフールネームは何ですか?", "id": "de-096-07-001", "answers": [ { "text": "ハンス・ゴルドシュミット", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "20世紀になると、学術的知見がさらに確立し、ステンレス鋼の発明の基盤が出来上がった。19世紀末には、有用な特性を持たせることに成功した合金鋼が、欧米各国で相次いで誕生していた。この動きは、合金鋼の基礎研究に対する科学者たちの関心を高めた。低炭素クロムを利用して、フランスとドイツの科学者たちが高クロム鋼の基礎研究を始めた。フランスのレオン・ギレは、1902年から1906年にかけて精力的に合金鋼の研究を進め、現代におけるステンレス鋼の基本3分類「フェライト系ステンレス鋼」「マルテンサイト系ステンレス鋼」「オーステナイト系ステンレス鋼」に属する組成を体系的に初めて報告した。フェライト系、マルテンサイト系、オーステナイト系とはステンレス鋼を金属組織によって分類したもので、フェライト系がフェライト相を、マルテンサイト系がマルテンサイト相を、オーステナイト系がオーステナイト相を主な金属組織として持つ。ギレはテルミット法で得られるクロムを用いて試料を作製し、クロム含有量を最大32%程度まで、炭素含有量を最大1%程度まで変えた23種類のクロム・鉄合金の研究成果を1904年と1905年に発表した。それらの試料の内、5種類の組成は、現在のマルテンサイト系およびフェライト系に分類されるステンレス鋼と共通している。ギレは、試料の熱処理、機械的性質、金属組織について解説し、それらの金属組織がマルテンサイトまたはフェイライトで構成されていることも特定した。その後1906年、ギレは現在のオーステナイト系に相当する試料の研究成果も発表し、その金属組織がオーステナイトであることも特定した。", "qas": [ { "question": "現代におけるステンレス鋼の基本3分類に属する組成を体系的に初めて報告したのは、誰?", "id": "de-096-08-000", "answers": [ { "text": "レオン・ギレ", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現代におけるステンレス鋼の基本3分類のうち、最も遅く発表されたのは、何系であるか?", "id": "de-096-08-001", "answers": [ { "text": "オーステナイト系ステンレス鋼", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "レオン・ギレは何年から何年にかけて精力的に合金鋼の研究を進めましたか?", "id": "de-096-08-002", "answers": [ { "text": "1902年から1906年", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステンレス鋼の基本3分類とは、ステンレス鋼を何によって分類したものであるか?", "id": "de-096-08-003", "answers": [ { "text": "金属組織", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかしながら、ギレは自身が作製した高クロム鋼の耐食性に気づくことはなかった。高クロム鋼がピクリン酸でエッチングできないことまでは認めていたが、耐食性について報告することはなかった。それでもなお、ステンレス鋼の基本3分類について冶金学観点から体系的な研究成果を最初に報告したギレの功績は特筆される。金属工学者のカール・ザッフェは、ステンレス鋼発明者の筆頭としてギレの名を挙げる。ハロルド・コブも、フェライト系、マルテンサイト系、およびオーステナイト系ステンレス鋼の最初の発見者にギレの名を挙げ、「ステンレス鋼を冶金学的・力学的観点から最初に詳しく調べた者」と評している。ギレの試料は、1906年、後輩のアルバート・ポートヴァンへ引き継がれた。追加の試料と共に、ポートヴァンは電気抵抗、せん断特性に及ぼす金属組織、添加元素、熱処理の影響を明らかにした。1909年にポートヴァンは研究成果をイギリスで発表し、1911年と1912年にはフランスと米国でも発表した。高クロム鋼の耐食性について、クロム含有量が多いほどエッチングしにくくなり、クロム含有量が多いほどエッチング溶液の温度と浸漬時間を増やす必要があることを指摘した。このように、ポートヴァンはエッチングしづらくなることには気づいたが、それらの試料が錆びない耐食性までも備えていることには気づかなかった。しかしながら、ポートヴァンの試料の一つにはクロム17.38%、炭素0.12%の組成からなるものがあり、これは現在のフェライト系標準鋼種である430系そのものであった。", "qas": [ { "question": "ギレを、「ステンレス鋼を冶金学的・力学的観点から最初に詳しく調べた者」と評した人物は、誰か?", "id": "de-096-09-000", "answers": [ { "text": "ハロルド・コブ", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスとフランスのうち、ポートヴァンが自分の研究成果をより早く発表したところは、どこですか?", "id": "de-096-09-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 392, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "現在のフェライト系標準鋼種とは、クロムと炭素のうち、何がより多く含有されているものか?", "id": "de-096-09-002", "answers": [ { "text": "クロム", "answer_start": 597, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポートヴァンは高クロム鋼の耐食性について、何が多いほどエッチング溶液の温度と浸漬時間を増やす必要があると指摘したのか?", "id": "de-096-09-003", "answers": [ { "text": "クロム含有量", "answer_start": 442, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、ドイツでは、グスタフ・タンマンが合金の状態図の研究を進めていた。タンマンは、よく使われていた金属20種類について組成を変えながら組み合わせて1900個もの試料を作製して、合金状態図の全貌を大まかながら明らかにした人物である。1907年、タンマンは初の鉄・クロム系二元状態図を報告した。この状態図は間違いや不完全な点を含んでいたが、初の鉄・クロム系二元状態図として価値あるものであった。タンマンの鉄・クロム系二元状態図の発表は、アーヘン工科大学の教授であったヴィルヘルム・ボルヒャースを触発した。1908年、ボルヒャースは、研究生であったフィリップ・モンナルツに、タンマンの結果の追試と無炭素のクロム・鉄合金の耐酸性と機械的性質の研究を進めさせた。モンナルツは、クロム含有量3.8%から98.2%までの試料を用意した。炭素量は、現在からの推定で0.03%以下であった。タンマンの結果を追試後、モンナルツは塩酸、硫酸、硝酸、混酸、水道水、大気といった環境下で試料の耐食性を試験した。モンナルツの研究成果は、彼の学位論文\"BeitragzumStudiumderEisen-ChromlegierungenunterbesondererBeriicksichtigungderSaurebestandigkeit\"(参考訳:クロム・鉄合金における特に耐酸性に注目した研究への寄与)としてまとめられ、1911年に大学へ提出された。モンナルツの研究成果の驚くべき点は、ステンレス鋼自体の発見に留まらず、ステンレス鋼がなぜ耐酸性を持つのかという原理の発見にも及んでいる点である。この画期的な研究成果は、1911年の3月と4月の2回に分けて学術雑誌にも掲載され、大きな反響があった。ハドフィールドから広まった高クロム鋼の耐食性に関する誤解は払拭され、ステンレス鋼の時代の幕開けとなった。", "qas": [ { "question": "タンマンが初の鉄・クロム系二元状態図を報告したのは、いつ?", "id": "de-096-10-000", "answers": [ { "text": "1907年", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステンレス鋼を発見したのは、誰ですか?", "id": "de-096-10-001", "answers": [ { "text": "モンナルツ", "answer_start": 614, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ステンレス鋼の時代の幕が開いたのは、誰の論文が発表されてからか?", "id": "de-096-10-002", "answers": [ { "text": "モンナルツ", "answer_start": 614, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "モンナルツが、タンマンの結果の追試と無炭素のクロム・鉄合金の耐酸性と機械的性質の研究を進めたのは、誰の指示だったか?", "id": "de-096-10-003", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム・ボルヒャース", "answer_start": 231, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1900年代の学術的基盤をもとに、1910年代になるとステンレス鋼が工業的・商業的な観点から発明、実用化され始める。ステンレス鋼は、主に産業界の研究者たちによって研究が進められることとなった。1910年代の初めに、欧米の研究者たちによってステンレス鋼の基本3鋼種フェライト系ステンレス鋼、マルテンサイト系ステンレス鋼、オーステナイト系ステンレス鋼が確立されるが、誰を「ステンレス鋼の発明者」と呼ぶにふさわしいかは一概には言えない。1900年代の研究者たちも含めて、ステンレス鋼には多くの発見者・発明者が居た。あえて発明者の名を一人だけ挙げる場合は、実用的観点からステンレス鋼の利点を明確にした後述のイギリスのハリー・ブレアリーの名を挙げることが多い。しかし、いずれにしても、ステンレス鋼の発明は一握りの人物や組織によって達成されたものではなく、数多くの研究者たちが蓄積してきた英知と努力の成果である。", "qas": [ { "question": "ステンレス鋼が工業的・商業的な観点から発明、実用化され始めたのは、何年代になってからなの?", "id": "de-096-11-000", "answers": [ { "text": "1910年代", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステンレス鋼の基本3鋼種が確立されたのは、何年代の初めからですか?", "id": "de-096-11-001", "answers": [ { "text": "1910年代", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オーステナイト系ステンレス鋼の発明者には、ドイツのベンノ・シュトラウスとエドゥアルト・マウラーの名が第一に挙げられる。1909年ごろより、フリート・クルップのベンノ・シュトラウスとマウラーは、クロム・ニッケル・鉄合金の研究を進めていた。シュトラウスが熱電対用の耐熱合金を研究しており、1910年に3種類の高クロム鋼、2種類の高クロム・ニッケル鋼を作製した。マウラーが、それら鋼種の1つの耐食性に気づいた。オーステナイト組織の高クロム・ニッケル鋼が硝酸に対して耐性を持つことが追試によって確認され、その成果をもとに1912年にクルップ社から2つの特許が出願された。その内の1つが、\"V2A\"と名付けられた、クロム20%・ニッケル7%・炭素0.25%のオーステナイト系ステンレス鋼であった。クルップ社は、この鋼種について1913年にイギリスで特許登録し、後に米国でも特許登録した。このようにしてオーステナイト系ステンレス鋼を発明したシュトラウスとマウラーであったが、後の1920年代から30年代にかけて、シュトラウスとマウラーの間でどちらが発明者にふさわしいかについて論争が起きている。そのような経緯もあり、オーステナイト系ステンレス鋼の発明はクルップ社という会社の功績と考える見解もある。金属工学者の遅沢浩一郎は、二人の名ではなく、クルップ社の名をオーステナイト系の発明者として挙げる。", "qas": [ { "question": "シュトラウスが1910年に作製した、高クロム鋼と高クロム・ニッケル鋼のうち、その種類がより多いのは、どれ?", "id": "de-096-12-000", "answers": [ { "text": "高クロム鋼", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "V2Aと名付けられたオーステナイト系ステンレス鋼には、クロムとニッケルのうち、どれがより多く含まれていますか?", "id": "de-096-12-001", "answers": [ { "text": "クロム", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ベンノ・シュトラウスとエドゥアルト・マウラーは、どの会社の一員であったか?", "id": "de-096-12-002", "answers": [ { "text": "フリート・クルップ", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クルップ社が1913年にイギリスで特許登録した鋼種とは、何と名付けられたものか?", "id": "de-096-12-003", "answers": [ { "text": "V2A", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マルテンサイト系ステンレス鋼の場合は、その発明者には、イギリスのハリー・ブレアリーの名が第一に挙げられる。シェフィールドにあるブラウン・ファース研究所の初代所長であったブレアリーは、ライフル銃で起きていたエロージョンの調査を1912年に受けた。ブレアリーは対策には高クロム鋼が有効と考え、1913年に試作し、その試料が優れた耐食性を持つことに気づいた。ブレアリーが作製した試料は、クロム12.8%、炭素0.24%、マンガン0.44%、シリコン0.20%という成分から構成されおり、現在の標準的なマルテンサイト系ステンレス鋼の一つに相当するものであった。ブレアリーは、自分が発見した鋼種はナイフやフォークなどのカトラリーに役に立つと考えた。ブレアリーはモズレー商会のアーネスト・スチュアートに協力してもらい、自分が発見した鋼種のナイフを製作して、実際に有用であることを確かめた。ブレアリーは、自分の鋼種を「ラストレススチール(rustlesssteel)」と呼んでいた。現在の「ステンレス鋼(stainlesssteel)」という名称は、スチュアートがブレアリーの鋼を「変色しにくい(stainless)」と評し、\"stainlesssteel\"と呼んだことに由来する。ブラウン・ファース研究所を運営していたトーマス・ファース・アンド・サンズとブレアリーの間でステンレス鋼を巡って軋轢が起こったが、ブレアリーは協力者を得て、1915年にカナダで1916年に米国でブレアリーの高クロム鋼が特許登録された。一方で、前述のドイツのシュトラウスとマウラーが作製した試料にも、マルテンサイト系の鋼種が含まれていた。1912年にクルップ社が特許出願したもう1つの耐食鋼は、\"V1M\"と名付けられたクロム14%・ニッケル2%・炭素0.15%のマルテンサイト系であった。また、後述の米国のエルウッド・ヘインズも、マルテンサイト系の開発において言及されるに値すると評される。", "qas": [ { "question": "ブレアリーが作製した試料には、炭素とマンガンのうち、どの構成成分がより多く含まれているの?", "id": "de-096-13-000", "answers": [ { "text": "マンガン", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クロムと炭素、マンガン、シリコンのうち、ブレアリーが作製した試料に最も多く含まれている構成成分はどれですか?", "id": "de-096-13-001", "answers": [ { "text": "クロム", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カナダと米国のうち、ブレアリーの高クロム鋼がより早く特許登録されたのは、どの国か?", "id": "de-096-13-002", "answers": [ { "text": "カナダ", "answer_start": 617, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "V1Mと名付けられたマルテンサイト系ステンレス鋼には、クロムとニッケルのうち、どれがより多く含まれていますか?", "id": "de-096-13-003", "answers": [ { "text": "クロム", "answer_start": 741, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フェライト系ステンレス鋼の場合、発明者を特定の人物や組織に定めるのは難しい。発明者として挙げられる一人は、前述のフランスのアルバート・ポートヴァンである。彼が1911年に発表した試料の組成は、現在のフェライト系の標準鋼種にほぼ正確に合致する。あるいは、米国のクリスチャン・ダンチゼンも発明者として挙げられる。ダンチゼンが1911年から電球リード線用の研究していた鋼種には、ポートヴァンと同じく、現在のフェライト系の標準鋼種に相当するものが存在していた。そして、米国のエルウッド・ヘインズも、発明者として挙げられる。ヘインズは1911年ごろからクロム・鉄合金の研究を行い、一回却下された後、1915年に再度特許出願した。彼が特許請求した組成の一種は、クロム15–25%、炭素0.07–0.15%を含有する鋼種であった。1910年代、フェライト系に相当する低炭素高クロム鋼の研究や特許取得を行った人物や組織は、他にも複数存在していた。さらに、それらの研究開発はそれぞれ独立に進められたものであった。前述のドイツのモンナルツもそれらの内の一人である。", "qas": [ { "question": "フェライト系ステンレス鋼の発明者として挙げられるアメリカ人のうち、現在のフェライト系の標準鋼種に相当するものに対して電球リード線用の研究を行ったのは、誰?", "id": "de-096-14-000", "answers": [ { "text": "クリスチャン・ダンチゼン", "answer_start": 129, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルバート・ポートヴァンとクリスチャン・ダンチゼン、エルウッド・ヘインズのうち、アメリカ人でないのは、誰ですか?", "id": "de-096-14-001", "answers": [ { "text": "アルバート・ポートヴァン", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハリー・ブレアリーが発明したステンレス鋼は、ファース社によって1914年より販売され始めた。ファース社は\"StainlessSteel\"という名称の商標登録も行い、ステンレス鋼を売り出した。ただし、そのステンレス鋼の発明にブレアリーの存在が無かったかのようにファース社がステンレス鋼を売り出したため、ブレアリーとファース社の間で争いが起こり、ブレアリーは最終的にブラウン・ファース研究所を去ることとなった。ファース社は、ステンレス鋼がエンジンの排気弁材料として有用だと考え、\"FAS\"(Firth'sAeroplaneSteel)という名で航空機用鋼材として売り出した。1914年から始まった第一次世界大戦の中で、耐熱性の高いステンレス鋼は航空機エンジンの排気弁用として理想的であると注目される。イギリス製戦闘機のRAFB.E.2、エアコーDH.2、ソッピースキャメルなどで、ステンレス鋼がエンジンに使われた。FASは、1914年には50トン、1915年と1916年には1000トンが生産され、1918年まで生産された。", "qas": [ { "question": "ハリー・ブレアリーが発明したステンレス鋼は何年から販売され始めたのか?", "id": "de-096-15-000", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1914年と1915年のうち、より多くのFASが生産されたのは、何年か?", "id": "de-096-15-001", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 422, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ヘントの祭壇画", "paragraphs": [ { "context": "『ヘントの祭壇画』または、『神秘の子羊』『神秘の子羊の礼拝』は、複雑な構成で描かれた非常に大規模な多翼祭壇画だ。\n\n板に油彩で描かれた初期フランドル派絵画を代表する作品の一つで、ヘントのシント・バーフ大聖堂が所蔵している。\n\n12枚のパネルで構成されており、そのうち両端の8枚のパネル(翼)が畳んだときに内装を覆い隠すように設計されている。これら8枚のパネルは表面(内装)、裏面(外装)ともに絵画が描かれており、翼を開いたときと畳んだときとで全く異なった外観となって現れる。『ヘントの祭壇画』は、日曜日と祝祭日以外の日には翼が畳まれており、さらに布が掛けられていることも多い。\n\n『ヘントの祭壇画』の制作を開始したのは、その生涯も作品もほとんど伝わっていないフランドルの画家フーベルト・ファン・エイクである。フーベルトが『ヘントの祭壇画』のデザインのほとんどを完成させたと考えられているが、フーベルトは製作途中の1426年に死去してしまう。その後、未完だった『ヘントの祭壇画』の大部分を、1430年から1432年にかけて完成させたのがフーベルトの弟であるヤン・ファン・エイクである。『ヘントの祭壇画』の、どの部分がフーベルトが描いた箇所で、どの部分がヤンが描いた箇所なのかを特定しようという試みが何世紀にもわたって続けられているが、未だに定説となっているものはない。現在もっとも広く受け入れられている説は、全体のデザインと構成はフーベルト、そして個々のパネルを絵画として完成させたのが、外交官として派遣されていたスペインから帰国してきたヤンだとする説である。", "qas": [ { "question": "『神秘の子羊』、『神秘の子羊の礼拝』の別の名称は何ですか。", "id": "de-097-00-000", "answers": [ { "text": "『ヘントの祭壇画』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ヘントの祭壇画』はどこに所蔵されていますか。", "id": "de-097-00-001", "answers": [ { "text": "シント・バーフ大聖堂", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ヘントの祭壇画』の制作を開始したのは誰でしたか。", "id": "de-097-00-002", "answers": [ { "text": "フーベルト・ファン・エイク", "answer_start": 337, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フーベルト・ファン・エイクは何年に亡くなりましたか。", "id": "de-097-00-003", "answers": [ { "text": "1426年", "answer_start": 406, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『ヘントの祭壇画』の制作依頼主で、この祭壇画を教会に寄進したのは、商人、投資家、そして政治家でもあったヨドクス・フィエトで、当時のヘントでは市長に相当するような地位にあった人物である。洗礼者ヨハネ教会の教会区に、ヨドクスとその妻エリザベト・ボルルートが後援者となって建てる新しい礼拝堂用の祭壇画として、フーベルトに『ヘントの祭壇画』の制作を依頼した。完成した『ヘントの祭壇画』がお披露目されたのは1432年5月6日で、ブルゴーニュ公フィリップ3世のために開催された公式行事の一環としてだった。『ヘントの祭壇画』はそのまま予定通りにヨドクスが出資した新築の礼拝堂に飾られていたが、後に保安上の理由から聖堂付属の主礼拝堂へと移設されて、紆余曲折があったものの現在もこの主礼拝堂に展示されている。", "qas": [ { "question": "『ヘントの祭壇画』の制作依頼を受けたのは誰ですか。", "id": "de-097-01-000", "answers": [ { "text": "フーベルト", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ヘントの祭壇画』の制作依頼主は誰なの?", "id": "de-097-01-001", "answers": [ { "text": "ヨドクス・フィエト", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨドクス・フィエトの妻の名前は何ですか。", "id": "de-097-01-002", "answers": [ { "text": "エリザベト・ボルルート", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "完成した『ヘントの祭壇画』がお披露目されたのはいつですか。", "id": "de-097-01-003", "answers": [ { "text": "1432年5月6日", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ヘントの祭壇画』の様式には、国際ゴシックと、伝統的なビザンティン美術、ローマ美術からの影響が見られるが、一方で「美術の新たな概念」が描き出されている。モチーフを理想化して表現する伝統的なそれまでの中世美術ではなく、自然の正確な観察に立脚した写実主義が表現されているのである。オリジナルのフレームに記されていた、現在は失われてしまっている銘文には「比肩できるものは誰もいない」画家フーベルト・ファン・エイクがこの祭壇画を描き始め、「二番目に優れた」画家ヤン・ファン・エイクが1432年に完成させたとあった。オリジナルのフレームは極めて華美なものだったが、宗教改革のさなかに失われてしまっている。このフレームには翼を畳んだり、楽器を奏でることができるぜんまい仕掛けの機能があった。", "qas": [ { "question": "オリジナルのフレームに記されていた銘文には誰が『ヘントの祭壇画』を完成させたとされていますか。", "id": "de-097-02-000", "answers": [ { "text": "ヤン・ファン・エイク", "answer_start": 226, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『ヘントの祭壇画』の外装に描かれている絵画は三段に分かれている。外装中段に描かれているのは聖母マリアの受胎告知である。外装下段は縦四つに仕切られており、内側部分には単色のグリザイユで表現された彫像のような洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネが、外側部分には『ヘントの祭壇画』の制作依頼主であるヨドクス・フィエトと妻エリザベト・ボルルートの肖像が描かれている。内装上段にはイエス・キリスト(異説あり、後述)を中心として聖母マリアと洗礼者ヨハネが描かれている(デイシス)。マリアの左隣のパネルには歌う天使たちが、さらにその左隣のパネルにはアダムが描かれている。洗礼者ヨハネの右隣のパネルには楽器を奏でる天使たちが、さらにその右隣のパネルにはイヴが描かれている。内装下段の中央部分に描かれているのは神の子羊で、その周囲には神の子羊を崇拝するために集った天使、聖人、預言者、聖職者や、聖霊の化身であるハトなどが描かれている。", "qas": [ { "question": "『ヘントの祭壇画』の外装中段に描かれているのは何ですか。", "id": "de-097-03-000", "answers": [ { "text": "聖母マリアの受胎告知", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ヘントの祭壇画』の制作依頼主は誰なの?", "id": "de-097-03-001", "answers": [ { "text": "ヨドクス・フィエト", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エリザベト・ボルルートの夫は誰ですか。", "id": "de-097-03-002", "answers": [ { "text": "ヨドクス・フィエト", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "聖霊の化身は何ですか。", "id": "de-097-03-003", "answers": [ { "text": "ハト", "answer_start": 392, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ヘントの祭壇画』はその制作以来、北方ヨーロッパ絵画の最高傑作のひとつであり、人類の至宝と見なされてきた。宗教改革時に巻き起こった聖像破壊運動では、『ヘントの祭壇画』も破壊されかけたことがある。さらにパネルが裁断されて、売払われたり略奪されたこともあった。第一次世界大戦の終結後に、散逸していた『ヘントの祭壇画』のパネルが元通りシント・バーフ大聖堂に戻された。しかしながら、1934年に左下部の「正しき裁き人」のパネルが盗難に遭い、2013年現在も行方不明のままとなっている。第二次世界大戦ではナチス・ドイツが『ヘントの祭壇画』を略奪し、他の略奪絵画とともにオーストリアの岩塩坑に隠匿していた。終戦後の1945年になってベルギーに返還されたが、『ヘントの祭壇画』の顔料、ワニスが大きな損傷を被っており、全体的な修復が施された。現在の『ヘントの祭壇画』に見られる「正しき裁き人」は、この修復時に制作された複製画である。", "qas": [ { "question": "「正しき裁き人」のパネルは何年に盗まれましたか。", "id": "de-097-04-000", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 187, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナチス・ドイツに略奪された『ヘントの祭壇画』は何年にベルギーに返還されたか。", "id": "de-097-04-001", "answers": [ { "text": "1945年", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ヘントの祭壇画』はどの戦争のとき、ナチス・ドイツに略奪されましたか。", "id": "de-097-04-002", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヨドクス・フィエトは裕福な商人で、過去数世代にわたりヘントに影響力を持つ名家の出身だった。ヨドクスの父ニコラースは、フランドル伯ルイ2世の側近だった人物である。最晩年のヨドクスはヘントの最長老の一人であり、大きな政治力を有していた。ヨドクスはパメレとレデベルフの「領主」の称号で呼ばれ、ブルゴーニュ公フィリップ3世がもっとも信頼する地方有力者の一人となっていった。1398年ごろにヨドクスは、裕福な名家出身のエリザベト・ボルルートと結婚した。子供に恵まれなかったこの夫妻は教会に多額の寄付をし、前代未聞ともいえる大規模な祭壇画の制作を依頼した。『ヘントの祭壇画』を制作させた理由については諸説あるが、遺産を形あるものとして残したかったためだという説が有力となっている。しかしながら美術史家ティル=ヘルガー・ボルシェルトは「自身の社会的地位を今後も安定させるため」とし、ヨドクスのように野心的な政治家にとっては、自身の社会的名声を誇示することが重要だったという説を唱えた。そして「ヘントのあらゆる教会や聖堂のなかでの最高額とはいえないまでも、少なくとも(シント・バーフ大聖堂の前身である)洗礼者ヨハネ教会への献金額としては他人を凌駕しようという自己顕示欲」だと結論付けている。", "qas": [ { "question": "ヨドクスの父は誰の側近だった?", "id": "de-097-05-000", "answers": [ { "text": "フランドル伯ルイ2世", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨドクスは誰と結婚したの?", "id": "de-097-05-001", "answers": [ { "text": "エリザベト・ボルルート", "answer_start": 204, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘントは15世紀を通じて繁栄し続けた都市で、ブルゴーニュ公国からの独立独歩の気風を持つ地方有力者が多く存在した。1430年代初頭に経済的苦境に陥ったブルゴーニュ公フィリップ3世が、ヘントに多額の献金を求めたことがあった。しかしながらヘントの有力者たちの多数派は、これはフィリップ3世からの理不尽な要求であり、経済的にも政治的にもそのような義務はないと突っぱねようとした。このため、ヘントとフィリップ3世との関係は悪化していくことになる。一方でヘントの有力者の中にはフィリップ3世の苦境を助けようとする一派もあったため、フィリップ3世を支持しない多数派との間に不協和音が生じ、ヘントの行政が不安定になっていった。1432年にはこのような権力闘争のなかで、おそらくはフィリップ3世に協力しようとした有力者が多数殺害されている。1433年に政変が起こり、その首謀者たちが処刑されたためにヘントの緊張は最高潮に達した。このような不穏な情勢下でもヨドクスはフィリップ3世への忠誠心を保ち続けていた。洗礼者ヨハネ教会教区参事官というヨドクスの立場は、この教会がヘントで開催されるブルゴーニュ公の公式式典の会場としてよく使用されることが大いに関係していた。『ヘントの祭壇画』が洗礼者ヨハネ教会に奉献された1432年5月6日は、フィリップ3世と公妃イザベル・ド・ポルテュガルとの間に生まれた公子シャルルの洗礼が洗礼者ヨハネ教会で行われた日であり、当時のヨドクスの社会的地位を如実に示しているといえる。", "qas": [ { "question": "ブルゴーニュ公フィリップ3世はいつ経済的苦境に陥ったの?", "id": "de-097-06-000", "answers": [ { "text": "1430年代初頭", "answer_start": 56, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ヘントの祭壇画』が洗礼者ヨハネ教会に奉献されたのはいつですか。", "id": "de-097-06-001", "answers": [ { "text": "1432年5月6日", "answer_start": 545, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フィリップ3世と公妃イザベル・ド・ポルテュガルとの間に生まれた公子シャルルの洗礼はどこで行われましたか。", "id": "de-097-06-002", "answers": [ { "text": "洗礼者ヨハネ教会", "answer_start": 531, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヨドクスは1410年から1420年にわたって洗礼者ヨハネ教会の教区参事官に任命されていた。これは主礼拝堂柱間の改築費用と、新しい礼拝堂の建築費用を寄付したことと大きな関係がある。完成した礼拝堂はヨドクスにちなんだ名前がつけられ、後に代々のヨドクスの子孫が主催するミサの式場として使用されることとなった。このヨドクス一族の新たな礼拝堂に飾るために、異例なまでに大規模で複雑な構成の多翼祭壇画の制作がフーベルト・ファン・エイクに依頼された。この礼拝堂も教会本体と同じく洗礼者ヨハネに捧げられたものであり、『ヘントの祭壇画』の主たるモチーフとなっている「神の子羊」は、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの伝統的象徴でもあった。", "qas": [ { "question": "1410年から1420年にわたって洗礼者ヨハネ教会の教区参事官を務めたのは誰でしたか。", "id": "de-097-07-000", "answers": [ { "text": "ヨドクス", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ヘントの祭壇画』の主たるモチーフは何ですか。", "id": "de-097-07-001", "answers": [ { "text": "「神の子羊」", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ヘントの祭壇画』の作者がフーベルトとヤンのファン・エイク兄弟であることは、現存する制作依頼に関する記録や裏面のヤン自身の手による署名と制作年度の記述によって確実視されている。フーベルトは『ヘントの祭壇画』が最終的に完成する6年前に死去してしまい、後を引き継いだ弟ヤンは兄フーベルトを悼んでこの作品に関する自身の影響度を最小限に抑えようにしたともいわれている。また、「正しき裁き人」のパネルには騎乗する10人の人物が描かれているが、このうち3番目と4番目の人物はファン・エイク兄弟の肖像画ではないかとされている。ラムゼイ・ホーマは「神の子羊」のパネルに、ヤンのさまざまな作品に残るヤンの本名をもじった座右の銘「我に能う限り(ALSIKKAN)」の初期ヴァージョンが記されていると指摘した。銘が記されている箇所は「神の子羊」左前面の群集の後ろに描かれた預言者の頭飾りである。ヘブライ語で記されたこの銘は「Yod,Feh,Aleph」と読むことができ、すなわちヤンの頭文字「JvE」に音訳できるとしている。", "qas": [ { "question": "フーベルトは『ヘントの祭壇画』が最終的に完成する何年前に亡くなりましたか。", "id": "de-097-08-000", "answers": [ { "text": "6年前", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フーベルトの方が年上なの、ヤンの方が年上なの?", "id": "de-097-08-001", "answers": [ { "text": "フーベルト", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「正しき裁き人」のパネルには何人の騎乗する人物が描かれていますか。", "id": "de-097-08-002", "answers": [ { "text": "10人", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤンの頭文字は何ですか。", "id": "de-097-08-003", "answers": [ { "text": "「JvE」", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中央にイエス・キリスト、その左右に聖母マリアと洗礼者ヨハネを配する伝統的な構図をデイシスと呼び、上段中央の三枚のパネルはこのデイシスの構成となっている。玉座に座した三名の頭上には円光がある。左パネルには聖母マリア、右パネルには洗礼者ヨハネが描かれているが、中央パネルに描かれているのがキリストなのかどうかは、研究者の間でも意見が分かれている。聖職服を着用していることから「玉座のキリスト」であるとする説、父なる神という説、父と子と聖霊が一つになった聖三位一体とする説などがある。美術史家エリザベト・ダネンスは、中央パネルの人物像が頭部に着用している三連の宝冠は教皇冠だと長年にわたって考えられてきたと主張している。", "qas": [ { "question": "中央にイエス・キリスト、その左右に聖母マリアと洗礼者ヨハネを配する伝統的な構図を何といいますか。", "id": "de-097-09-000", "answers": [ { "text": "デイシス", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "左側のマリアは緑の布で表装されたガードルブックを読んでいるが、ガードルブックがマリアを象徴するエンブレムとして使用されることはまずない。美術史家オットー・ペヒトはこのことについて、ファン・エイクはロベルト・カンピンの『メロードの祭壇画』(1425年-1428年ごろ)の「受胎告知」パネルを参考にしたのではないかとしている。マリアの宝冠は花と星で装飾されており、ダネンスは花嫁衣装のようだと指摘している。半円状になっているマリアの玉座の背もたれには「彼女は太陽よりも星々よりも美しく、輝いている。彼女の輝きは神の光と鏡に照らし出されている」という意味の銘文が記されている。マリアと同じくヨハネも自身のエンブレムとは無関係な聖書を持つ姿で描かれている。『ヘントの祭壇画』には合計で18冊の書物が描かれている。ヨハネは自身のエンブレムであるラクダの毛衣の上に緑色のマントを羽織り、その視線は中央パネルの人物に向けられている。中央の人物と同じように右手を上に掲げながら、神の子羊についてヨハネが語ったもっとも有名な言葉「見よ、神の子羊(ECCEAGNUSDEI)」(『ヨハネによる福音書』1:29)を口にしている。人物描写には短縮遠近法が使用されている。ヤンはイタリア訪問の経験があり、ルネサンス初期に遠近法を最初に導入したイタリア人芸術家であるドナテッロやマサッチオの作品を目にしていたと考えられている。しかしながら美術史家スージー・ナッシュは、ヤンがイタリア人芸術家に先駆けて遠近法を習得しており、ヤンはドナテッロやマサッチオの「作品がなくとも完璧に(遠近法を使用した)絵画を描くことができた」とし、遠近法は「どちらかに影響を及ぼしたというよりは(イタリアとフランドルの両方で)同時に発生した」表現技法だと主張している。", "qas": [ { "question": "左側のマリアは何を読んでいますか。", "id": "de-097-10-000", "answers": [ { "text": "ガードルブック", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリアが読んでいるガードルブックは何色の布で表装されていますか。", "id": "de-097-10-001", "answers": [ { "text": "緑", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マリアとヨハネの隣の天使たちを描いた、大きさ161cmx69.3cmのパネルはそれぞれ「合唱の天使」「奏楽の天使」と呼ばれている。左のパネルには回転式の木製楽譜台の後ろで歌う天使たちが、右のパネルにはパイプオルガンや弦楽器で伴奏する天使たちが等身大で描かれている。デイシスの隣に歌い奏でる天界の住人を配するという構図は、天界の情景を描き出す際に非常によく用いられていたものだった。15世紀のネーデルラントでも、礼拝服を身に着けた天使たちがラテン語で典礼劇を演じるというモチーフは好んで描かれていた。\n\n天使は諸王の王の従者であり、中央パネルのキリストあるいは父なる神につき従っている。これは15世紀初頭の聖人伝ではごくありふれた内容で、『ヘントの祭壇画』の構成も聖人伝からの影響を受けていると考えられている。『ヘントの祭壇画』の天使たちには、当時のネーデルラント美術で天使を描写するときによく用いられた、天使を特徴付ける事物が一切描かれていない。翼を持たない、顔が理想化されていないなど、当時の作品としては類を見ないほど独特の表現で天使が描写されている。音楽史家スタンレー・ブールマンは『ヘントの祭壇画』の天使たちの描写が非常に俗界的だと指摘し「極めて魅力的な自然主義で描かれているため、鑑賞者たちはこの作品が現代の教会音楽を描写した作品を目にしている気にさせられる」とした。ただしブールマンは「全員を天界に送り返したい」という落ちをつけている。", "qas": [ { "question": "マリアとヨハネの隣の天使たちを描いたパネルはそれぞれ「合唱の天使」と何と呼ばれていますか。", "id": "de-097-11-000", "answers": [ { "text": "「奏楽の天使」", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「合唱の天使」の大きさは?", "id": "de-097-11-001", "answers": [ { "text": "161cmx69.3cm", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パイプオルガンで伴奏する天使が描いてあるのは左のパネルなの、右のパネルなの?", "id": "de-097-11-002", "answers": [ { "text": "右のパネル", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "キリストあるいは父なる神が描いてあるのは右のパネルと左のパネルと中央パネルのうち、どれですか。", "id": "de-097-11-003", "answers": [ { "text": "中央パネル", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "天使たちが立つ床面は、「イエスの御名」のモノグラムである「IHS」や神の子羊などが染め付けされたマヨリカ陶器のタイルが敷き詰められている。「合唱の天使」のパネルのフレームには「神を讃える歌(MELOSDEOLAUS)」と記されており、「奏楽の天使」のパネルのフレームには「弦楽器とオルガンで彼を讃える(LAUDATEEUMINCORDISETORGANO)」と記されている。多くの研究者たちが、パネルが置かれている位置や記録などから描かれている人物像は天使であると見なしている。描かれている天使に性別はなく、その肉付きのよい丸顔は、上段最左端のイヴや外装のエリザベト・ボルルートといった、他のパネルにおける等身大の女性像の写実表現とは対照的である。天使たちが身にまとう赤色や緑色を中心とした豪奢な綾錦は祭壇の前で行われるミサなどの典礼を連想させ、綾錦の織柄のザクロは神の子の母たる聖母マリアに関連付けられる。「合唱の天使」には譜面台を前に神を讃えて歌う、金髪にティアラをつけた8人の天使が描かれている。楽譜が置かれている譜面台に目を向けている天使はおらず、それぞれまったく別の方向に顔を向けている。ファン・エイクは他のパネルに描かれている人物像の多くと同様に、生命感と動きを表現するために口を開けた表情で天使たちを描いた。ボルシェルトは多彩に描き分けられた口を開けた天使について「それぞれの天使が多声音楽のどのパートを担当しているのかをその表情から見極めたくなってしまう。天使たちの舌や歯の位置まで精密に描き分けられている」としている。美術史家エリザベト・ダネンスは「誰がソプラノで、誰がアルトで、誰がテナーで、誰がバスかは一目瞭然」と主張している。", "qas": [ { "question": "「弦楽器とオルガンで彼を讃える(LAUDATEEUMINCORDISETORGANO)」はどのパネルのフレームに書いてありますか。", "id": "de-097-12-000", "answers": [ { "text": "「奏楽の天使」のパネル", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "多くの研究者たちが、パネルが置かれている位置や記録などから描かれている人物像は何だと見なしていますか。", "id": "de-097-12-001", "answers": [ { "text": "天使", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「合唱の天使」には何人の天使が描かれていますか。", "id": "de-097-12-002", "answers": [ { "text": "8人", "answer_start": 438, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「合唱の天使」に対して、「誰がソプラノで、誰がアルトで、誰がテナーで、誰がバスかは一目瞭然」と意見を出した学者は誰ですか。", "id": "de-097-12-003", "answers": [ { "text": "エリザベト・ダネンス", "answer_start": 672, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "多くの学者が歌う天使たちの外貌について研究してきた。肉付きのよい輪郭、波打つ長い髪などは共通だが、天使の顔はファン・エイクが意図的にそれぞれの天使ごとに特徴を描き分けている。4人の天使は眉根を寄せており、うち3人は何かを見つめているかのように目も細めている。同様の表情をした人物像が「神の子羊」の十二使徒にも描かれている。オットー・ペヒトは、ヤンがほかの作品に描いた人物像に比べて天使たちの描写があまりにかけ離れていることから、天使たちの表情にはフーベルトのもともとのデザインが色濃く残っているのではないかと推測している。\n\n「奏楽の天使」のパネルでは、全身像が描かれているのはパイプオルガンを弾く天使ただ一人である。多くの天使たちが楽器を演奏していると考えられているが、実際に画面に描かれているのは他には4人だけで狭い場所に身を寄せ合うように表現されている。オルガン以外の楽器を担当する天使は小さなハープやヴィオラを手にしている。楽器も非常に精緻に描かれており、とくに聖カエキリアが弾くオルガン金属部分の光の反射など、極めて正確に描写されている。管弦楽法が発展し始めたトレチェントの時代まで、音楽を演奏する天使は翼を持ち、弦楽器か管楽器を手にして聖人や神の周囲に浮かんでいるという構図で絵画作品に描かれることがほとんどだった。1400年代初めに制作されたフランスの装飾写本には、テキストに添えられた挿絵の枠外に、浮かんでいる天使が描かれているものが多い。しかしながらペヒトは、これらの天使について「浮かびながら歌い奏でる」役割は与えられておらず、天使が「演奏」し始めたのは「演奏技術が発達し......教会音楽で理想とされたあらゆる約束事がうまく調和するようになって」からのことだと指摘している。", "qas": [ { "question": "眉根を寄せている天使は何人ですか。", "id": "de-097-13-000", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「奏楽の天使」のパネルで全身像が描かれている天使は何人ですか。", "id": "de-097-13-001", "answers": [ { "text": "一人", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「奏楽の天使」のパネルで、全身像が描かれている唯一の天使は何を演奏していますか。", "id": "de-097-13-002", "answers": [ { "text": "パイプオルガン", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "左右両端のパネルには、石造りの壁龕に立つ裸身のアダムとイヴがほぼ等身大で描かれている。初期フランドル派の写実主義で描かれた最初の裸体像であり、ルネサンス初期のイタリア人画家マサッチオが、1425年ごろにフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂ブランカッチ礼拝堂の壁画に描いた革新的な『楽園追放』とほぼ同時代の作品となる。『ヘントの祭壇画』のアダムとイヴの顔は、内側の天使たちとデイシスの方に向けられている。『創世記』に記述されているように、二人とも人目を気にして股間をイチジクの葉で隠していることから、知恵の樹の果実を食べて堕罪した後のアダムとイヴであることがわかる。\n\nイヴが掲げた右手に持っている果実は、伝統的に知恵の樹の果実の描写に用いられていたリンゴでなくシトロンのような小さな柑橘類である。美術史家エルヴィン・パノフスキーはとくにこの果実に着目し、『ヘントの祭壇画』に描かれているエンブレム全てが「偽装」されている可能性があると指摘した。アダムとイヴの視線は伏せられ、絶望しているかのように見える。寂寥感に満ちた両者の描写から、ファン・エイクが何を意図してこのような人物像を描いたのかが美術史家たちの興味をひいてきた。原罪を人類にもたらしたことを恥じているという説、下に向けた視線の先に描かれている現在の世界に失望しているなどといった説がある。", "qas": [ { "question": "『楽園追放』は何年ごろに制作されたか。", "id": "de-097-14-000", "answers": [ { "text": "1425年ごろ", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アダムとイヴはどんな花の葉で股間を隠していますか。", "id": "de-097-14-001", "answers": [ { "text": "イチジクの葉", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イヴが持っている果物はリンゴに近いですか、シトロンに近いですか。", "id": "de-097-14-002", "answers": [ { "text": "シトロン", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "祭壇の上に乗せられた子羊の顔は鑑賞者に正対し、その周りを14名の天使が円形に囲んでいる。子羊が描かれている部分は1822年の火災で損傷し修復を受けている。しかしながらこのときの修復は完全なものではなく、中途半端に放置された箇所もあった。放置された箇所でもっとも目立つのは子羊の下絵が露わになっているところであり、このため現在の『ヘントの祭壇画』の子羊には耳が四つあるように見えている。\n\n子羊の胸には傷があり、この傷口からあふれた血が金の杯に流れ込んでいるが、子羊は聖書の記述どおりに苦悶の様子を見せていない。子羊の周りを囲む14名の天使は鮮やかな色彩に満ちた翼を持ち、棘の冠といったキリストの受難の象徴物を持つ天使や、香炉を振っている天使もいる。子羊が乗せられた祭壇の前飾りの上部には、『ヨハネによる福音書』(1:29)からの「見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ECCEAGNUSDEIQUITOLLITPECCATAMUNDI)」が記されている。前飾りにある二枚の垂れ飾りには「イエスは道である(IHESUSVIA)」「真理であり、命である(VERITASVITA)」と記されている。中央パネルの主題たる神秘の子羊は画面中景に描かれており、この作品の鑑賞者は画面前景の集団越しに神秘の子羊を見るという構図になっている。", "qas": [ { "question": "祭壇の上に乗せられた子羊の周りには何名の天使がいますか。", "id": "de-097-15-000", "answers": [ { "text": "14名", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "子羊が描かれている部分を損傷させた火事は何年にあったのですか。", "id": "de-097-15-001", "answers": [ { "text": "1822年", "answer_start": 56, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「正しき裁き人」のパネルには騎乗する10名の人物が描かれており、そのうち手前から三番目と四番目の人物はフーベルトとヤンの肖像画だとされている。この説の根拠としては、ヤンが1433年に描いた自画像ともいわれる『ターバンの男の肖像』と風貌がよく似ていることが挙げられている。そしてこのヤンの肖像画といわれる人物像と、すぐ近くに描かれている人物の特徴がよく似ていることから、ヤンの兄フーベルトの肖像画ではないかといわれている。『ヘントの祭壇画』と『ターバンの男の肖像』はほぼ同じ時期に完成した作品で、『ヘントの祭壇画』に描かれたヤンといわれる人物像はかなり風貌が若く見えるが、どちらもよく似た被り物を頭に固く巻きつけている「正しき裁き人」のパネルのヤンとフーベルトの肖像画といわれる人物像は、後世にファン・エイク兄弟を描くときの見本となり、16世紀の芸術家ドミニクス・ランプソニウスなど、多くの芸術家の作品に再利用されている。また、描かれているのはファン・エイク兄弟ではなく、手前から順にブルゴーニュ公フィリップ2世、フランドル伯ルイ2世、ブルゴーニュ公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ3世とする説もある。\n\n「キリストの騎士」のパネルには9名の騎士が描かれている。とくに手前で十字旗を持つ武装した3名の騎士は、聖マルティヌス、聖ゲオルギオス、聖セバスティアヌスに擬せられる。さらに9名の騎士のモデルとして、ダヴィデ、アレクサンドロス大王、アーサー王ら中世ヨーロッパで畏敬された「九大英雄」という説や、『ヨハネの黙示録』に記された白馬にまたがる天の軍勢とする説などがある。", "qas": [ { "question": "「正しき裁き人」のパネルには何名の騎乗する人が描いてありますか。", "id": "de-097-16-000", "answers": [ { "text": "10名", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「正しき裁き人」の騎乗する人物のうち、手前から何番目の人がフーベルトであるとされていますか。", "id": "de-097-16-001", "answers": [ { "text": "三番目", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「キリストの騎士」のパネルには何名の騎士が描かれているか。", "id": "de-097-16-002", "answers": [ { "text": "9名", "answer_start": 519, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "テンポイント", "paragraphs": [ { "context": "テンポイント(1973年-1978年)は、日本中央競馬会に登録されていた競走馬。\n1975年8月に競走馬としてデビュー。\n関西のクラシック候補として注目を集め、額の流星と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれた。\n現役時代は鹿戸明を主戦騎手とし、クラシックでは無冠に終わったが、5歳時に天皇賞(春)と有馬記念(第22回有馬記念)を優勝した。\n後者のレースでトウショウボーイと繰り広げたマッチレース(2頭にグリーングラスを加えたTTGの三つ巴の戦いとして取り上げられることもある)は競馬史に残る名勝負のひとつといわれる。\n1978年1月に国外遠征に向けての壮行レース(第25回日本経済新春杯)中に骨折し、43日間におよぶ治療の末に死亡した。\n1975年度優駿賞最優秀3歳牡馬、1977年度年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬である。\n1990年に中央競馬の顕彰馬に選出された。", "qas": [ { "question": "テンポイントが天皇賞(春)と有馬記念(第22回有馬記念)を優勝した時の騎手は誰でしたか?", "id": "de-098-00-000", "answers": [ { "text": "鹿戸明", "answer_start": 116, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トウショウボーイと繰り広げたマッチレースを制してテンポイントが優勝したのは何のレースですか?", "id": "de-098-00-001", "answers": [ { "text": "有馬記念", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1977年にテンポイントが受賞した2つの賞の内、年齢に関係の無い賞は何でしょう?", "id": "de-098-00-002", "answers": [ { "text": "年度代表馬", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "テンポイントが死んだ後に選出されたものは何なの?", "id": "de-098-00-003", "answers": [ { "text": "顕彰馬", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "吉田牧場の関係者によると、幼少期のテンポイントは精神・知能の面では人に逆らわない利口さをもち、常にワカクモに付いて回る甘え性でもあった。\n身体面では追い運動(馬に騎乗した人が仔馬を追いたてることでさせる運動)をさせた時の走りが非常に速かった反面ひ弱さを抱え、2歳時に前脚の膝の骨を痛めるなどあまり丈夫ではなかった。\n幼少期のテンポイントには栄養補給のため牛乳が与えられた。\nテンポイントはこれを好んで飲み、後に1978年の闘病中には吉田牧場の勧めで毎日牛乳が与えられた。", "qas": [ { "question": "幼少期のテンポイントが、非常に速く走ったのは何運動をさせた時だったの?", "id": "de-098-01-000", "answers": [ { "text": "追い運動", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "テンポイントが幼少期から好んでいたもので、後の闘病生活でも飲んでいたものは?", "id": "de-098-01-001", "answers": [ { "text": "牛乳", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "テンポイントは1975年3月に小川厩舎に入厩した。\n8月17日、函館競馬場の新馬戦でデビューした。\n3日前に行われた調教で優れた動きを見せたことが評価され、50%近い単勝支持率を集め1番人気に支持された。\nレースでは好スタートから序盤で先頭に立つとそのまま逃げ2着馬に10馬身の着差をつけてゴールし、優勝した。\n走破タイムは函館競馬場芝1000mのコースレコードを0.5秒更新するものであった。\nこの時のレース内容からテンポイントは「クラシック候補」という評価を受けるようになった。", "qas": [ { "question": "優秀なレース内容から「クラシック候補」という評価を得たテンポイントのデビュー戦はどこであった?", "id": "de-098-02-000", "answers": [ { "text": "函館競馬場", "answer_start": 32, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "テンポイントが新馬戦で優勝した際に、函館競馬場芝1000mのコースレコードを何秒更新したの?", "id": "de-098-02-001", "answers": [ { "text": "0.5秒", "answer_start": 182, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "新馬戦の後、調教師の小川は年内の出走予定を2回と決めた。\n2戦目には当初10月の条件戦りんどう特別が予定されたが発熱したため11月の条件戦もみじ賞に変更となった。\nもみじ賞でテンポイントは2着馬に9馬身の着差をつけて優勝した。\n続いて当時の関西の3歳王者決定戦・阪神3歳ステークスに出走した。\nテンポイントは単勝支持率が50%を超える1番人気に支持された。\nレースでは第3コーナーを過ぎたあたりからハミがかからず3番手から6番手まで後退し(この傾向はその後のレースでもみられた。)、勝利が危ぶまれる場面もあったが、第4コーナーで前方への進出を開始。\n直線の半ばで先頭に立つとそのまま他の馬を引き離してゴール。\n2着馬に7馬身差を付け、同じ日に行われた古馬のオープン競走よりも速い走破タイムを記録して優勝した。\nテンポイントは3戦3勝で1975年のシーズンを終え、この年の優駿賞最優秀3歳牡馬に選出された。", "qas": [ { "question": "新馬戦後に出走した2回のレースの内、1回目の出走は何でしたか?", "id": "de-098-03-000", "answers": [ { "text": "もみじ賞", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "テンポイントが出走した、新馬戦後の年内最後のレースは何でしたか?", "id": "de-098-03-001", "answers": [ { "text": "阪神3歳ステークス", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "阪神3歳ステークスを優勝したことで、テンポイントは名実ともに関西のクラシック候補として認識されるようになった調教師の小川は東京優駿(日本ダービー)に備え早めに東京競馬場のコースを経験させるためにテンポイントを東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走させ、その後中山競馬場に滞在して皐月賞に臨む計画を立てた。\nテンポイントの管理や調教は主戦騎手の鹿戸明と厩務員の山田に任されることになった。", "qas": [ { "question": "テンポイントをまず東京4歳ステークスに出走させようとしたのは、東京競馬場で行われる何のレースへの備えでしたか?", "id": "de-098-04-000", "answers": [ { "text": "東京優駿", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1976年の初戦となった東京4歳ステークスでは直線の坂を登った地点で先頭に立ち優勝したが、それまでと異なり2着のクライムカイザーとは半馬身差の接戦となった。\n続く皐月賞トライアルのスプリングステークスでも優勝したが2着馬とはクビ差の接戦であった。\nこの結果を受けて関東の競馬関係者からは「テンポイントは怪物ではない」という声も上がるようになった。\n鹿戸によるとスプリングステークスでのテンポイントは体重を十分に絞り切れておらず、鹿戸と山田は調教の様子を見に来た小川から叱責を受けた。", "qas": [ { "question": "1976年の東京4歳ステークスでテンポイントに敗れた競走馬は何でしたか?", "id": "de-098-05-000", "answers": [ { "text": "クライムカイザー", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東京4歳ステークス、スプリングステークスでも接戦を制しての優勝であったテンポイントに対して、競馬関係者からどんな声が上がりましたか?", "id": "de-098-05-001", "answers": [ { "text": "「テンポイントは怪物ではない」", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "関東では苦戦が続いたものの、5戦5勝という成績でクラシック一冠目の皐月賞に臨むことになった。\nしかし厩務員の労働組合による春闘の影響でテンポイントの調整に狂いが生じた。\nこの年の春闘はベースアップを巡り労働組合側と日本調教師会とが激しく対立し、厩務員側のストライキによって皐月賞施行予定日である4月18日の競馬開催が中止となる可能性が出た。\nテンポイント陣営はストライキは行われないと予想しレース施行予定日の3日前に強い負荷をかける調教を行ったが、予想に反してストライキが行われ、皐月賞の施行は1週間後25日に順延された。\nその後組合と調教師会の団体交渉は長期化し、25日の開催も危ぶまれるようになった。\n陣営は今度は再度順延になると予想した上で24日に強い負荷をかける調教を行ったが、調教を行った数時間後にクラシックだけは開催することで合意が形成され、ふたたび予想が裏目に出る結果となった。\nこれらの調整の狂いによってテンポイントには疲労が蓄積し、苛立ちを見せるようになった。\nその結果レースでは1番人気に支持されたものの、同じく無敗で臨んでいたトウショウボーイに5馬身差をつけられ2着に敗れた。", "qas": [ { "question": "1週間の延期となった皐月賞で優勝した競走馬は何かな?", "id": "de-098-06-000", "answers": [ { "text": "トウショウボーイ", "answer_start": 474, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "もし労働組合側と日本調教師会との対立による厩務員側のストライキが無かったならば、本来の皐月賞は何月何日に行われていたの?", "id": "de-098-06-001", "answers": [ { "text": "4月18日", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "次走は年初から目標としていた東京優駿となった。\nテンポイントは2番人気に支持されたものの、厩務員の山田によると競走生活においてもっとも体調が悪かった。\n山田は勝つことを「すっかり諦めて、かえって気楽でした」と当時を振り返っている。\nレースでは第3コーナーから思うように加速することができず、7着に敗れた。\nレース後に左前脚の剥離骨折が判明し、治療のため休養に入った。\nなお、5月9日に主戦騎手の鹿戸明が京都競馬場でのレース中に落馬して骨盤を骨折して騎乗が不可能となったため東京優駿では武邦彦が騎乗した。\n鹿戸がテンポイントに騎乗しなかったのはこのレースだけである。", "qas": [ { "question": "テンポイントが唯一鹿戸明以外の騎手を騎乗させたレースは何?", "id": "de-098-07-000", "answers": [ { "text": "東京優駿", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鹿戸明以外でテンポイントに騎乗したことのある人物は誰?", "id": "de-098-07-001", "answers": [ { "text": "武邦彦", "answer_start": 242, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "骨折は程度は軽く7月頃には治り、陣営はクラシック最終戦・菊花賞へ向けて調整を続けた。\n菊花賞のトライアルレースであった神戸新聞杯と京都新聞杯には間に合わず、復帰初戦には京都大賞典が選ばれた。\nテンポイントの調整は調教師の小川がレース前に「やっと出走にこぎつけた」とコメントしたように万全ではなく、人気は6番人気と低かったが優勝馬と0.1秒差の3着に健闘した。\n菊花賞では単枠指定されたトウショウボーイとクライムカイザーに次ぐ3番人気に支持された。\nこのレースで鹿戸はトウショウボーイをマークする形でレースを進め、最後の直線でトウショウボーイを交わして先頭に立った。\nトウショウボーイにはそのまま先着したが内ラチ沿いを伸びてきた12番人気のグリーングラスに交わされ、2馬身半差の2着に終わった。\n当時グリーングラスの勝利はフロック視されており、グリーングラスが勝利した瞬間の京都競馬場は「大レースが終わると必ず同時に湧き上がる喚声もなく、奇妙な静けさすら漂っていた」が、のちに同馬はTTGの一角を形成する実力馬とみなされるようになった。", "qas": [ { "question": "京都大賞典でテンポイントが健闘したと言えるのは、優勝場と0.1秒差で何着だったから?", "id": "de-098-08-000", "answers": [ { "text": "3着", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "菊花賞で3位となったのは何という競走馬?", "id": "de-098-08-001", "answers": [ { "text": "トウショウボーイ", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "菊花賞で優勝した競走馬は何でしたか?", "id": "de-098-08-002", "answers": [ { "text": "グリーングラス", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "菊花賞の後、陣営は有馬記念への出走を決めた。\nレースでテンポイントは5、6番手を進んだが第3コーナーから第4コーナーにかけて馬群の中で前方へ進出するための進路を失い、一度加速を緩め外へ進路をとった後に再度加速したものの直線で先頭に立ったトウショウボーイとの差は詰まらず、1馬身半差の2着に敗れた。", "qas": [ { "question": "有馬記念で優勝した競走馬は何だったの?", "id": "de-098-09-000", "answers": [ { "text": "トウショウボーイ", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "菊花賞、有馬記念と続けて2着に敗れたテンポイントは一部から「悲運の貴公子」と呼ばれるようになった。\n陣営は天皇賞(春)優勝を目標に据え、同レースの前に2回出走させる予定を立てた。\nテンポイントは京都記念(春)、鳴尾記念をともに着差はクビ差ながら連勝し、天皇賞(春)では1番人気に支持された。\nレースでは序盤は5、6番手でレースを進め、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし、初の八大競走制覇を果たした。\n前年の有馬記念のレース後、鹿戸は「なにかひとつ、テンポイントに大きなレースを勝たせてやりたかった。それが心残りだ。しかし、来年になれば、きっと......」とコメントしたが、この言葉は現実のものとなった。", "qas": [ { "question": "テンポイントが有馬記念後に3連続で優勝したが、その3番目に優勝したレースは何?", "id": "de-098-10-000", "answers": [ { "text": "天皇賞(春)", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "天皇賞(春)の優勝により、テンポイントが初めて果たしたものは何か?", "id": "de-098-10-001", "answers": [ { "text": "八大競走制覇", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "天皇賞(春)優勝後、陣営は宝塚記念への出走を決めた。\n同レースには持病の深管骨瘤で天皇賞(春)に出走しなかったトウショウボーイも出走を決めていた。\nトウショウボーイは前年の有馬記念以来5か月のブランクがあり調教の動きが思わしくなく、厩務員が「気合いが全然足りない」とコメントしていたことから人気を落とし、テンポイントが1番人気に支持された。\nしかしレースでは逃げたトウショウボーイを2番手から追走したものの最後まで交わすことができず、2着に敗れた。\nトウショウボーイに騎乗した武邦彦は、「出走頭数が少なくハイレベルの馬が2、3頭に絞られたレースでは先に行った方が有利」という鉄則に従った騎乗をしたと、鹿戸は「相手をトウショウボーイだけに絞りきれなかった。ずっと後ろの馬がいつ来るか警戒していて、トウショウボーイに逃げきられてしまった」、「ぼくのミスです」とそれぞれこのレースを振り返っている。\nこの敗戦により「テンポイントは永久にトウショウボーイには勝てないだろう」という声が上がるようになった。", "qas": [ { "question": "宝塚記念で最も人気があったのは何だったか?", "id": "de-098-11-000", "answers": [ { "text": "テンポイント", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宝塚記念では何という競走馬が1着だった?", "id": "de-098-11-001", "answers": [ { "text": "トウショウボーイ", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "宝塚記念出走後、テンポイントはアメリカで行われるワシントンD.C.インターナショナルへの招待を受けたが陣営はトウショウボーイを倒して日本一の競走馬になるべく、招待を辞退して年末の有馬記念を目標とした。\n小川と鹿戸は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行うようになった。\nこの期間は時に80kgを背負って調教を行っていたこともあり、厩務員の山田によるとこれが功を奏し、9月に入ってテンポイントの馬体重は20kg以上増え、500kg近い筋骨隆々の馬体になった。\nこれによりトウショウボーイに劣る部分がなくなり、「これなら勝てる」という感触を得たと山田は振り返っている。", "qas": [ { "question": "テンポイントが日本一の競走馬になるにあたって、まず勝たなければならなかった相手とは?", "id": "de-098-12-000", "answers": [ { "text": "トウショウボーイ", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "有馬記念を目標として行っていた調教の成果で結果的にテンポイントは何kg近くの馬体となれたか?", "id": "de-098-12-001", "answers": [ { "text": "500kg", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "夏期休養後の京都大賞典で63kgの斤量を背負いながら2着に8馬身の差をつけて逃げきり、続くオープンも逃げ切って優勝。\n第22回有馬記念では1番人気に支持された。\nレースではスタート直後からテンポイントとトウショウボーイが後続を大きく引き離し、マッチレースのような展開でレースを進めた。\n鹿戸は宝塚記念の敗北を踏まえて「少しでも前に行かなければ勝てない」という考えに至っていたが、スタート直後に先頭に立ったトウショウボーイを交わそうとレースを進めるうちに引くに引けない展開にはまり込み、途中で鹿戸は「これで負けたら騎手をやめなけりゃいかんな」と覚悟を決めた。\nそれでも鹿戸は、1周目の直線でトウショウボーイの内にテンポイントを誘導できたことで「活路が見出せた」と振り返っており、鹿戸によると、トウショウボーイに騎乗していた武邦彦は自身の騎乗馬の内側に入ろうとする馬の進路を締める戦法を得意としていたが、このレースでは締め方が完全ではなかった。\n抜きつ抜かれつの展開は最後の直線まで続き、激しい競り合いの末テンポイントが優勝。\nトウショウボーイと対戦したレースで初めて優勝を果たした。\nこのレースは中央競馬史上最高の名勝負のひとつとされている。\nトウショウボーイ鞍上の武邦彦はレース後、3着にグリーングラスが入ったことを聞かされると「3着?グリーングラス?来てたの。知らなかったよ」と答えた。\nこの年、テンポイントは1956年のメイヂヒカリ以来史上2頭目の満票で年度代表馬に選出された。", "qas": [ { "question": "テンポイントがトウショウボーイと対戦したレースで、初めて優勝したのは何のレースだったの?", "id": "de-098-13-000", "answers": [ { "text": "第22回有馬記念", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第22回有馬記念で3着だった競走馬の名は?", "id": "de-098-13-001", "answers": [ { "text": "グリーングラス", "answer_start": 544, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "テンポイント以前に満票で年度代表馬に選出されたことのある競走馬の名は?", "id": "de-098-13-002", "answers": [ { "text": "メイヂヒカリ", "answer_start": 612, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第22回有馬記念で2着に敗れた競走馬は?", "id": "de-098-13-003", "answers": [ { "text": "トウショウボーイ", "answer_start": 462, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "年が明け、テンポイント陣営は海外遠征を行うと発表。\n2月に遠征における本拠地であるイギリスへ向けて出発することになった。\n発表後、関西圏のファンから遠征の前にテンポイントの姿を見たいという要望が馬主の高田や調教師の小川に多数寄せられるようになった。\nこれを受けて小川は壮行レースとして1月22日の日本経済新春杯に出走させることを主張した。\n高田は重い斤量を課されることへの懸念から内心出走させたくなかったものの判断を小川に委ねた。\n小川は67kg以上のハンデキャップを課された場合出走を取り消す予定であったが、発表された斤量は66.5kgであったため出走を決定した。\n一方、馬主の高田、主戦騎手の鹿戸、吉田牧場の吉田重雄は66.5kgの斤量に懸念を抱いた。\nレースでは向こう正面半ばまで先頭を進み、そこからエリモジョージやビクトリアシチーに競りかけられたものの斤量を苦にしている様子はなく、鹿戸は「楽勝だ」と感じていた。\nしかし第4コーナーに差し掛かったところで左後肢を骨折し競走を中止した。\n骨折の瞬間、鹿戸明は「後ろから引っぱられて沈みこむよう」な感覚に襲われたという。", "qas": [ { "question": "テンポイントがレース中に骨折した事により、競争を中止したレースは何でしたか?", "id": "de-098-14-000", "answers": [ { "text": "日本経済新春杯", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本経済新春杯においてテンポイント陣営は、テンポイントのハンディキャップが何kg以下ならば出走可能だと考えていましたか?", "id": "de-098-14-001", "answers": [ { "text": "67kg", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本経済新春杯を終えた後、テンポイントが向かう予定だった国はどこですか?", "id": "de-098-14-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 41, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本経済新春杯でテンポイントに課された斤量はどれくらいの量でしたか?", "id": "de-098-14-003", "answers": [ { "text": "66.5kg", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "骨折の程度は折れた骨(第3中足骨)が皮膚から突き出す(開放骨折)という重度のもので、日本中央競馬会の獣医師は安楽死を勧めたが、高田が了承するのを1日保留している間に同会にはテンポイントの助命を嘆願する電話が数千件寄せられ、電話回線がパンクする寸前になった。\nまた高田・小川には「なんとかテンポイントを種牡馬にしたい」という願いがあり、これを受けて同会は成功の確率を数%と認識しつつテンポイントの手術を行うことを決定した。\nテンポイントの骨折は大きく報道され、一般紙でも1月23日付の朝日新聞の朝刊が三面トップ6段抜きで扱った。\nテンポイントの闘病中もスポーツ新聞では症状が詳細に報じられ、連日厩舎にはファンから千羽鶴や人参などが届けられた。", "qas": [ { "question": "テンポイントの重度の骨折に対して、日本中央競馬会の獣医師が勧めたものとは?", "id": "de-098-15-000", "answers": [ { "text": "安楽死", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "テンポイントの手術が決定したのは、テンポイント陣営の願いとして、テンポイントを何にさせたいという理由からですか?", "id": "de-098-15-001", "answers": [ { "text": "種牡馬", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "テンポイントの骨折を大きく報道した一般紙は何ですか?", "id": "de-098-15-002", "answers": [ { "text": "朝日新聞", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本中央競馬会はテンポイントの手術と治療のために33名の獣医師からなる医師団を結成し、1月23日に手術を行った。\n手術の内容はテンポイントに麻酔をかけて左後脚を切開し、特殊合金製のボルトを使って折れた骨を繋ぎ合わせた後でジュラルミン製のギプスで固定するという内容のものだった。\n手術は一応成功したと思われ、2月12日に医師団は「もう命は大丈夫。生きる見通しが強くなった」と発言した。\nしかし実際にはテンポイントが体重をかけた際にボルトが曲がり、折れた骨がずれたままギプスで固定されてしまっていた。\n2月13日に患部が腐敗して骨が露出しているのが確認され、同月下旬には右後脚に蹄葉炎を発症して鼻血を出すようになるなど症状は悪化の一途をたどった。\n3月3日には事実上治療が断念され、医師団はそれまで行われていた馬体を吊り上げて脚に体重がかからないようにする措置を中止し、テンポイントを横たわらせた。\n3月5日午前8時40分、テンポイントは蹄葉炎により死亡した。\n安楽死は最後まで行われず、自然死であった。\n骨折前に500kg近くあった馬体重は死亡時には400kgとも350kgとも300kgを切るとも推測されるまでに減少し、馬主の高田が大きな犬と思うほどに痩せ衰えた。\nテンポイントの死はNHKが昼のニュース番組でトップニュースとして報道し、この日は日曜日だったため当日のフジテレビの競馬中継では阪神競馬場のスタジオ(関西テレビ)と結んで、杉本清と志摩直人が画面に登場、テンポイントの死亡について語るコーナーを設けるなど、マスコミでも大きく報じられた。", "qas": [ { "question": "テンポイントが手術後に発症し、死亡の原因となった病気は何?", "id": "de-098-16-000", "answers": [ { "text": "蹄葉炎", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "テンポイントが死亡した日時はいつですか?", "id": "de-098-16-001", "answers": [ { "text": "3月5日午前8時40分", "answer_start": 398, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "3月7日、栗東トレーニングセンターでテンポイントの葬儀が営まれた。\n調教師の小川は自らの手でテンポイントを火葬しようと考えたが、滋賀県の条例で競走馬の死体を焼却することが禁止されていたため、テンポイントは冷凍されて北海道へ移送され、吉田牧場に土葬された。\n吉田重雄の頼みで獣医師が装着されたままになっていた左後脚のギプスを外すと異臭が立ち込め、「飛節から下の部分がグニャグニャに腐っていた」という。\n3月10日に吉田牧場でもテンポイントの葬儀が営まれ、競馬関係者やファンなど約400人が参列した。\n2つの葬儀は競走馬として日本初、人間以外では1935年の忠犬ハチ公以来2例目のものとされる。\n吉田牧場の敷地内には馬主の高田が建立したテンポイントの墓があり、多くのファンが献花に訪れている。\nその周りには父のコントライトや近親馬の墓がある。", "qas": [ { "question": "テンポイントの葬儀は合計2回行われたが、2番目の葬儀が行われたのはどこの都道府県ですか?", "id": "de-098-17-000", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 107, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "テンポイントの1回目の葬儀はどこで行われましたか?", "id": "de-098-17-001", "answers": [ { "text": "栗東トレーニングセンター", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本で最初に人間以外の葬儀が行われたのは何年ですか?", "id": "de-098-17-002", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 271, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本で初めて人間以外の葬儀が行われた時の対象物は何でしたか?", "id": "de-098-17-003", "answers": [ { "text": "忠犬ハチ公", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "競馬に造詣の深かった作家寺山修司は『さらば、テンポイント』という詩を記してその死を悼んだ。\nテンポイントの死によって趣旨が変更されて発表された作品もある。\nテンポイントが日本経済新春杯に出走する2日前、詩人の志摩直人は自らの詩を添えたテンポイントの写真集を出版する企画を立てていた。\nテンポイントの死を受けて企画は追悼写真集に変更され、『テンポイント栄光の記録』というタイトルで発売された。\nまた、関西テレビはテンポイントの海外遠征が決定を受けて、遠征の様子を追いかけるドキュメンタリー番組の制作を決定していた。\nしかし日本経済新春杯の事故で番組の内容は闘病生活の様子を伝えるものに変更された。\n制作されたドキュメンタリー(『風花に散った流星-テンポイント物語』)は1978年5月に放送され、後にビデオ化(『もし朝が来たら-テンポイント物語』)された。", "qas": [ { "question": "『風花に散った流星-テンポイント物語』を制作したのはどこですか?", "id": "de-098-18-000", "answers": [ { "text": "関西テレビ", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "追悼写真集に変更された『テンポイント栄光の記録』を企画したのは誰?", "id": "de-098-18-001", "answers": [ { "text": "志摩直人", "answer_start": 104, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "テンポイントの骨折、闘病、死は日本の競馬界に多くの問題を提起した。\n具体的には安楽死の是非、厳冬期に競馬を施行することの是非、重い斤量を課すことの是非などである。\nテンポイントを安楽死させなかったことは馬主の高田夫妻が「生あるものを安楽死させることは忍びない」と考えたからであったが、「結果はテンポイントを苦しくさせただけではなかったか」という批判も起こった。\nテンポイントの骨折事故を受けて、日本中央競馬会ではハンデキャップ競走等の負担重量について再検討がなされ、過度に重い斤量を課す風潮が改められた。", "qas": [ { "question": "テンポイントの死が日本競馬界に提起した問題の中で、競走馬の生死に関わるものとは何か?", "id": "de-098-19-000", "answers": [ { "text": "安楽死の是非", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "テンポイントの死が日本競馬界に提起した問題の中で、再検討された風潮とは何か?", "id": "de-098-19-001", "answers": [ { "text": "過度に重い斤量を課す風潮", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "テンポイントは1990年に顕彰馬に選定された。\n選出の理由は、数字には出てこない部分で日本の競馬に大きな貢献があったというものである。\n1984年に初めて顕彰馬が選定された際には種牡馬実績がなく、競走実績だけをみれば他にも選ばれる馬がいるという理由で選に漏れたが、発表後テンポイントが含まれていないことについて多くの抗議が寄せられた。\n顕彰馬選考委員会のメンバーだった石川喬司によると、「なぜあの馬が入っていないんだ」という趣旨の抗議の中で最も多かったのはテンポイントについてのものであった。", "qas": [ { "question": "顕彰馬の選定に関して、「なぜあの馬が入っていないんだ」という抗議が最も多く寄せられた馬は何か?", "id": "de-098-20-000", "answers": [ { "text": "テンポイント", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最初に顕彰馬が選定された年はいつ?", "id": "de-098-20-001", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 68, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "RobotOperatingSystem", "paragraphs": [ { "context": "RobotOperatingSystem(ROS)とは、ロボット用のソフトウェアプラットフォームである。ROSはその名に「OperatingSystem」を含むが、MicrosoftWindowsやiOSのようなコンピュータのオペレーティングシステム(OS)ではなく、既存のOS上で動くミドルウェアやソフトウェアフレームワークの一種であり、「メタオペレーティングシステム」(meta-operatingsystem)とも説明される。\n\nROSはロボットソフトウェアの共同開発を世界規模で推進することを目指している。スタンフォード大学の学生が開発した「Switchyard」プロジェクトを起源にもち、それを引き継いだアメリカのウィローガレージ社が2007年に本格開発を開始し、2010年に最初のリリース版が公開された。その後、非営利団体「オープンソースロボット財団」が設立され、ROSの開発を主導する役割が引き継がれた。オープンソースソフトウェアとして開発・公開されており、世界中から多くの人々が開発に参加している。", "qas": [ { "question": "「Switchyard」プロジェクトをを開発した学生たちはどの大学の所属なの?", "id": "de-099-00-000", "answers": [ { "text": "スタンフォード大学", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ROSの起源は、アメリカのスタンフォード大学の学生で人工知能研究所のStanfordAIRobot(STAIR)プロジェクトに参加していたモーガン・クィグリーが開発した「Switchyard」システムである。Switchyardは、ロボット用ソフトウェアを開発するためのフレームワークであり、認識・計画・制御といった知能情報処理をロボット内外で分散処理できるよう並列計算を前提とし、各計算プロセスはピア・ツー・ピアネットワークで非同期通信を行う設計であった。複数の研究者による利用を前提としたモジュール性有し、新しいハードウェアへの適用を考えて、ロボットのハードウェアに依存する部分としない部分を明確に分けた設計がされた。また、Switchyardではソースコードの審美性も重要視されたほか、デプロイシステムを導入するなど、のちに繋がるアイディアが含まれていた。", "qas": [ { "question": "「Switchyard」システムを開発したのは誰なの?", "id": "de-099-01-000", "answers": [ { "text": "モーガン・クィグリー", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2007年11月、アメリカのロボット関連民間企業であるウィローガレージ社がSwitchyardの開発を引き継いだ。同社は、パーソナルロボットやサービスロボット産業の育成に取り組み、画像処理分野のオープンソースソフトウェア「OpenCV」などの開発支援も行なった企業である。さらに、のちにROSのネットワークプログラムに大きな影響を与えるPlayer/Stageプロジェクトの開発者であるブライアン・ガ―キーも加わった。彼らによってSwitchyardプロジェクトはROSとして組織化され、ROSがロボット用フレームワークとして多くのユーザを集める最初の転換点となった。\n\nウィローガレージ社は、オープンソースコミュニティを立ち上げてソフトウェアの共有・連携・再利用を促進する枠組みを構築した。そして同社は、学会や技術者・開発者向けイベントへの支援や参加を積極的に行った。また、初めてROSを利用する技術者向けに、ソフトウェアエンジニアではないヒューマンロボットインタラクション(Human-RobotInteraction;HRI)の専門家とともにマニュアル等の文書整備を推進した。\n\n2010年1月22日にウィローガレージ社は「ROS1.0」を発表した。2010年3月には、ROSの最初の公式リリースである「ROSBoxTurtle」が公開された。その後もアップデートが重ねられ、Linuxのようにディストリビューションとしてリリースされた。同年8月に「CTurtle」、そして2011年3月に「Diamondback」が公開された。", "qas": [ { "question": "ウィローガレージ社によって「ROS1.0」が発表されたのはいつですか。", "id": "de-099-02-000", "answers": [ { "text": "2010年1月22日", "answer_start": 493, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「Diamondback」が公開されたのは何年のこと?", "id": "de-099-02-001", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 640, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ROSBoxTurtle」が公開されたのはいつですか。", "id": "de-099-02-002", "answers": [ { "text": "2010年3月", "answer_start": 528, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Player/Stageプロジェクトを開発した人は誰ですか。", "id": "de-099-02-003", "answers": [ { "text": "ブライアン・ガ―キー", "answer_start": 193, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ROS1.0のリリースと並行して、ウィローガレージ社はROSで制御することを前提としたロボット「PR2」を開発・発表した。PR2は2本のロボットアームを備えた自律移動型の研究用ロボットである。そして、ウィローガレージ社はPR2を利用したアプリケーションの開発コンテスト「PR2ベータプログラム」の公募を行なった。78の応募の中からアメリカ、ヨーロッパ、日本を中心とした10の大学機関と民間企業1社が採択され、特に優れた提案に対してはPR2が無償で提供された。2010年9月には、40万ドルでPR2の一般販売も開始されオープンソースコミュニティへの貢献者には12万ドルの割引というインセンティブも与えられた。PR2ベータプログラムが行われた2年間に、ROSで再利用可能なツールやアプリケーションが次々と開発され、全体で2,000以上のROSパッケージがリリースされた。PR2やROSを利用した研究成果を映像化してYouTubeなどに投稿するグループも現れ、メディアの注目を受けたり、そこからROSに興味を持つ研究者が現れたりする好循環が生まれた。これらの施策を通してROSの研究と他のロボット研究とのコラボレーションも進み、ROSの知名度が飛躍的に高められたと評される。\n\n2010年11月には、入門者への敷居を下げてROSの普及を図るため、ロボットキット「TurtleBot」が開発された。TurtleBotは、iRobot社のCreateを利用した車輪式の移動ロボットであり、翌年からウィローガレージ社により発売されたほか、オープンソースハードウェアとして設計データが公開された。", "qas": [ { "question": "ロボットキット「TurtleBot」はいつ開発されたの?", "id": "de-099-03-000", "answers": [ { "text": "2010年11月", "answer_start": 536, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「PR2」を開発・発表したのはどの会社ですか。", "id": "de-099-03-001", "answers": [ { "text": "ウィローガレージ社", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "PR2を利用したアプリケーションの開発コンテスト「PR2ベータプログラム」の公募を主催したのはどの会社ですか。", "id": "de-099-03-002", "answers": [ { "text": "ウィローガレージ社", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「PR2ベータプログラム」の公募は何を用いたアプリケーションの開発コンテストですか。", "id": "de-099-03-003", "answers": [ { "text": "PR2", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ROSは欧米の学術分野を中心に注目を集め、他のロボット用フレームワークに比べて急速にユーザ数を伸ばした。サービスロボットを対象として開発が始まったROSだが、産業用ロボットに利用する動きも見られるようになった。ROS-Industrialプロジェクトが立ち上がり、2012年1月にはROS-Industorialの公開リポジトリが開設された。\n\n一方で、iRobot社のCEOであるコリン・アングルは、ロボットの主要ソフトウェアをオープン化するROSのアプローチは、これまで築き上げてきた重要な知的財産に他国が便乗することを許してしまうと指摘した。彼は、ロボット産業にとってROSは危険な存在で事業の収益化に有害であると批判し、今すぐROSをクローズドにすべきと主張した。同じ頃、ワシントン大学の研究グループがソフトウェアにROSを用いた手術ロボットの研究プラットフォーム「Raven-II」を開発し、他大学の研究者らの利用も始まった。これに対して、インテュイティヴ・サージカル社が開発した手術ロボット「daVinci」の特許に関して法律上の問題が指摘された。\n\nウィローガレージ側は、ロボティクス分野においてもウェブ開発におけるLAMPのような基盤が必要であり、それがROSであると主張した。さらに同社は、Apacheソフトウェア財団のような非営利団体の設立を検討していると表明した。この非営利団体は、寄付を集めて開発者のコミュニティを組織し、独立してROSの管理・維持を行うことを意図したものだった。", "qas": [ { "question": "ROS-Industorialの公開リポジトリはいつ開設されますか。", "id": "de-099-04-000", "answers": [ { "text": "2012年1月", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "テキスト上、iRobot社の最高経営責任者は誰ですか。", "id": "de-099-04-001", "answers": [ { "text": "コリン・アングル", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「Raven-II」を開発したのはどの大学ですか。", "id": "de-099-04-002", "answers": [ { "text": "ワシントン大学", "answer_start": 340, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "手術ロボット「daVinci」を開発したのはどの会社ですか。", "id": "de-099-04-003", "answers": [ { "text": "インテュイティヴ・サージカル社", "answer_start": 425, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2012年4月、ウィローガレージ社からROSプロジェクトがスピンアウトされ、非営利団体のオープンソースロボット財団(OSRF)が設立された。OSRFのコアミッションは「ロボットの研究・教育・製品開発に、オープンソースソフトウェアを使用するための開発・配布・導入の支援」とされた。2013年2月にウィローガレージ社は、オープンソースでのロボットの研究開発を主導する役割を完全にOSRFへ引き継ぐと発表した。\n\n同年9月には、ROSの開発・管理をOSRFが引き継いで最初のディストリビューションとなる「HydroMedusa」がリリースされた。これまでは1年に2回のペースでディストリビューションがリリースされていたが、HydroMedusa以降は、頻繁なアップデートを望まないユーザの意見を取り入れて、1年に1回の公式リリースとなった。この間、2012年5月には、ROSコミュニティの交流や情報共有を促進するための最初の開発者会議「ROSCon」がアメリカ・ミネソタ州のセントポールで開催され、以降、開催地を変えながら毎年開催されている。", "qas": [ { "question": "最初のディストリビューションとなる「HydroMedusa」がリリースされたのは何月のことですか。", "id": "de-099-05-000", "answers": [ { "text": "9月", "answer_start": 206, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初の開発者会議「ROSCon」が開催された地域はどこですか。", "id": "de-099-05-001", "answers": [ { "text": "セントポール", "answer_start": 434, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィローガレージ社がオープンソースでのロボットの研究開発を主導する役割を完全にOSRFへ引き継ぐと公表したのはいつですか。", "id": "de-099-05-002", "answers": [ { "text": "2013年2月", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ROSは大学・研究機関といった学術分野をはじめ、産業界や趣味分野まで幅広く利用されている。ROSの利用は、移動ロボットやロボットアームをはじめ、ヒューマノイド、自動運転車や無人航空機、自律型無人潜水機にも広がっている。ROSの利用を公表しているロボットは、ROSの公式サイトで紹介されている。その他、企業・研究所・大学・個人などが非公開でROSを利用した多くのロボットを開発している。\n\n2015年に実施されたロボット競技大会であるDARPAロボティクス・チャレンジでは、出場した23チームのうち18チームがROSを利用した。公園や遊歩道といった屋外で1キロメートル以上にわたり移動ロボットに自律走行させる「つくばチャレンジ」では、2017年の大会に参加したチームの3分の2以上がROSを利用した。また、ロボカップの一部門であり、家庭環境での課題達成を競う「ロボカップ@ホーム」では、2016年大会において出場24チームのうち23チームがROSを利用した。そのほかには、アメリカ航空宇宙局(NASA)が開発し国際宇宙ステーションで稼働したRobonaut2にもROSが利用されている。\n\nロボットメーカが開発したロボットでROSに対応しているものは、メーカのコントローラにROSから通信できるインタフェースが用意されていることが多い。2018年現在においては、サーボ機構の制御といったロボットの安全性や信頼性に直結する部分についてはロボットメーカが提供するコントローラを用いることが一般的である。", "qas": [ { "question": "DARPAロボティクス・チャレンジはいつ行われましたか。", "id": "de-099-06-000", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2015年のDARPAロボティクス・チャレンジに参加したチームは幾つありましたか。", "id": "de-099-06-001", "answers": [ { "text": "23チーム", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ロボカップ@ホーム」で2016年大会においてROSを利用したチームはいつくありましたか。", "id": "de-099-06-002", "answers": [ { "text": "23チーム", "answer_start": 413, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ROSの入門者向けの標準的なロボットプラットフォームとしてTurtleBotがある。TurtleBotは、教育用プログラミング言語であるLOGOの使用例として制作された亀型ロボットに由来し、ウィローガレージ社の研究者により開発された。ROSWikiで提供されているチュートリアルで登場する「turtlesim」も、Logoのプログラム体系を踏襲している。\n\nTurtleBotはこれまで初代・2代目・3代目と開発されてきた。いずれも車輪式の移動ロボットで、距離センサやラップトップコンピュータないしシングルボードコンピュータを搭載する。初代のTurtleBot1はiRobot社のCreateを利用し、2010年に開発された。2代目のTurtleBot2は2012年に開発され、移動ベースとしてYujinRobot社のiCleboが採用された。3代目のTurtleBot3は、ROBOTIS社のアクチュエータを駆動系に用い、ユーザがパーツを組み替えられるようになっている。TurtleBotはオープンソースハードウェアとして、パーツリストやCADデータが公開されており、ユーザが部品を改良したり3Dプリンタで制作したりできる。", "qas": [ { "question": "TurtleBot1はいつ開発されましたか。", "id": "de-099-07-000", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "TurtleBot2が開発されたのは何年度のことですか。", "id": "de-099-07-001", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 328, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "TurtleBotを開発した研究者はどの会社に所属していましたか。", "id": "de-099-07-002", "answers": [ { "text": "ウィローガレージ社", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ROSは2010年に「ROS1.0」が発表されて以降アップデートを重ねており、特定のバージョンのファイル群をセットにした「ディストリビューション」としてリリースしている。\n\nかつて、ROSのリリース周期は、対応OSであるUbuntuのリリース周期に合わせて、1年に2回であった。しかし、2013年にリリースされた「HydroMedusa」からは、頻繁なアップデートを望まないユーザの意見を取り入れて、公式リリース周期は1年に1回となった。\n\nROSディストリビューションのサポート期間は2種類ある。Ubuntuと同様に長期サポート(LongTermSupport;LTS)の考え方が取り入れられており、偶数年にリリースされるディストーションはLTSとして5年間のサポート、それ以外のサポート期間は2年間である。\n\nROSのディストリビューションは、2番目の「BoxTurtle」以降いずれも亀にちなんでおり、頭文字がアルファベット順になっている。ROSのディストリビューションには、それぞれ亀のアイコンが作成されている。また、ROSのロゴにある9個の点も亀の甲羅に由来している。ROSが亀を象徴としたのは、亀の上に乗った象が大地を支えているとする古代の宇宙観にちなんで、知能ロボットの世界においてROSが亀のような役割を果たすようにとの願いが込められている。", "qas": [ { "question": "「HydroMedusa」はいつリリースされましたか。", "id": "de-099-08-000", "answers": [ { "text": "2013年", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ROSを象徴している動物は何ですか。", "id": "de-099-08-001", "answers": [ { "text": "亀", "answer_start": 493, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ROSのアプリケーションプログラムは「パッケージ」と呼ばれる基本単位で管理される。パッケージは、ROSソフトウェアの基本単位であり、最小実行単位である「ノード」を1つ以上持つか、他のパッケージのノードを実行するための設定ファイルを含む。各パッケージにはパッケージ情報の管理ファイル、ビルドで用いる設定ファイル、ノードのソースコード、ノード間通信のための設定ファイルなどが含まれる。共通の目的のもと複数のパッケージをグループ化した「メタパッケージ」と呼ばれるものもある。\n\nROSのパッケージは公式なものだけでも2,000以上ある。ロボット本体の制御に関するパッケージ、センサに関するパッケージ、駆動部のためのモータ制御に関するパッケージなどがある。センサパッケージはカメラ、深度カメラ、レーザ距離センサ、力/トルクセンサ、音声認識、RFIDなど様々なデバイスに対応したものが公開されている。", "qas": [ { "question": "ROSソフトウェアの最小実行単位は何ですか。", "id": "de-099-09-000", "answers": [ { "text": "「ノード」", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "共通の目的のもと複数のパッケージをグループ化したものを何と呼びますか。", "id": "de-099-09-001", "answers": [ { "text": "「メタパッケージ」", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ROSのファイルシステムは、インストールフォルダとユーザ作業フォルダに分けられる。インストールフォルダには、ROSの中核プログラムである「roscore」を含むコアユーティリティや、ロボット関連ライブラリ、可視化やシミュレーションのための開発支援ツールなどがインストールされる。ユーザ作業フォルダは、ダウンロードしたパッケージやユーザが自作したパッケージを保存して編集したり、実行可能な形式にビルドしたりする作業スペースである。\n\nユーザが利用したい機能に応じて必要なパッケージやツールを追加インストールする。パッケージは、パッケージ管理ツールを利用してインストールするか、リポジトリからソースコードを取得してビルドする。ROSは分散システムとして設計されており、複数のホスト(コンピュータ)に分散してパッケージをインストールすることも可能である。", "qas": [ { "question": "ROSのファイルシステムは、インストールフォルダとまた何に分けられますか。", "id": "de-099-10-000", "answers": [ { "text": "ユーザ作業フォルダ", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ノード間の接続情報を管理するプログラムを「マスタ」と呼び、登録されたノードが他のノードから見えるようにする役割を担う。コアユーティリティに含まれるプログラム「roscore」を実行することでマスタが起動される。各ノードの起動時に、ノード名やURI、ポート番号といった通信に必要な情報がマスタに登録される。マスタはノードから要求があった際に相手先ノードの情報を返し、それを元にノードは相手先ノードとピア・ツー・ピア接続を確立する。ROSシステムを実行するためには、ROSネットワークを構築する何れかのホストでマスタを必ず1つ起動しておく必要がある。マスタは1つのROSネットワークを構築・管理し、同一のROSネットワーク内で複数のroscoreは起動できない。マスタが異なるネットワーク間でノード接続を行う場合は別途通信の仕組みを構築する必要がある。", "qas": [ { "question": "ノード間の接続情報を管理するプログラムは何と呼ばれますか。", "id": "de-099-11-000", "answers": [ { "text": "「マスタ」", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マスタは何を実行することで起動されますか。", "id": "de-099-11-001", "answers": [ { "text": "「roscore」", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ROS-Industorialは、オープンソースプロジェクトとして安川電機、ウィローガレージ社、そしてアメリカの独立非営利機関であるサウスウェスト研究所(SwRI)によって共同で立ち上げられた。2012年1月、ROS-IndustorialのレポジトリがSwRIによってGitHub上に開設された。その後、2013年3月には、ROS-Industrialプロジェクトから発展的にROS-IndustrialConsortiumが設立された。コンソーシアムの中心メンバーは、アメリカではSwRI、ヨーロッパではドイツのフラウンホーファー研究所の生産技術・オートメーション部門、アジア太平洋地域ではシンガポールのアドバンスト・リマニュファクチャリング・アンド・テクノロジー・センター(AdvancedRemanufacturingandTechnologyCentre;ARTC)および南洋理工大学である。2018年10月現在、3M、ボーイング、エアバス、BMW、ボッシュ、シーメンス、ABB、キャタピラー、マイクロソフト、ユニバーサルロボットなどの民間企業のほか、ROS本体の開発を主導する「オープンロボティクス」もコンソーシアムメンバーである。", "qas": [ { "question": "ROS-IndustrialConsortiumが結成されたのはいつですか。", "id": "de-099-12-000", "answers": [ { "text": "2013年3月", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "レオポルド2世(ベルギー王)", "paragraphs": [ { "context": "レオポルド2世は、第2代ベルギー国王だ。\n\n初代ベルギー国王レオポルド1世の王太子として生まれ、1865年に父王の崩御に伴い即位した。レオポルド2世の在位中、1884年までは自由党、それ以降はカトリック党が政権を担当していた。ベルギー経済は父王の代から引き続いて急速に成長を遂げたが、労働者階級の社会不安も増加。在位後半にはベルギー労働党が台頭したことで様々な社会改革が行われた。\n\n即位前から植民地獲得に強い関心を持ち、他の列強の支配が及んでいないコンゴに目を付け、コンゴ国際協会を創設して探検を支援。先住民の部族長と協定を結ぶなどコンゴ支配の既成事実化を進めた。その結果、1884年のベルリン会議にてコンゴを私有地として統治することを列強から認められた。\n\nコンゴにおける治世の初期は、鉄道敷設やアラブ人奴隷商人による奴隷狩りから黒人を守るなど、コンゴの近代化に努める面もあったが、先住民を酷使して天然ゴムの生産増を図り、イギリスなどから先住民に対する残虐行為を批判され、1908年にはコンゴをベルギー国家へ委譲することを余儀なくされた。\n\n1909年に崩御した。嫡出子の男子がなく、甥のアルベール1世が王位を継いだ。", "qas": [ { "question": "初代ベルギー国王は誰?", "id": "de-100-00-000", "answers": [ { "text": "レオポルド1世", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レオポルド2世はいつ即位したの?", "id": "de-100-00-001", "answers": [ { "text": "1865年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レオポルド2世はいつ亡くなったか。", "id": "de-100-00-002", "answers": [ { "text": "1909年", "answer_start": 473, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "レオポルド2世の在位中、1884年まではどの政党が担当していたの?", "id": "de-100-00-003", "answers": [ { "text": "自由党", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "レオポルド王太子は1835年4月9日にベルギー王国の首都ブリュッセルに初代ベルギー王レオポルド1世とその妃ルイーズ=マリー・ドルレアンの間の次男として生まれる。兄ルイ=フィリップは前年に夭折していたため、王太子となった。\n\n弟にフィリップ王子、妹にシャルロット王女がいる。またイギリス女王ヴィクトリアとその王配アルバートとは従姉弟の関係にあたる。\n\n9歳のときにブラバント公に叙された。\n\n1853年8月にオーストリア大公・ハンガリー副王ヨーゼフ・アントンの娘マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌと結婚、彼女との間に3人の女子と1人の男子を儲けたが、男子レオポルドは9歳にして夭折している。当時のベルギーは女子の王位継承を認めていなかったので、長男レオポルドの薨去とともに直系の王位継承者を失った。\n\n1855年に上院議員となり、政界入りした。", "qas": [ { "question": "初代ベルギー王レオポルド1世の妻は誰?", "id": "de-100-01-000", "answers": [ { "text": "ルイーズ=マリー・ドルレアン", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レオポルド王太子とシャルロット王女とフィリップ王子のうち、一番年上は誰なの?", "id": "de-100-01-001", "answers": [ { "text": "レオポルド王太子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "レオポルド王太子は何歳でブラバント公に叙されたか。", "id": "de-100-01-002", "answers": [ { "text": "9歳", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "レオポルド王太子は何年に政界入りしたの?", "id": "de-100-01-003", "answers": [ { "text": "1855年", "answer_start": 357, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベルギーは1830年にオランダから独立したばかりの新興国であったが、父王レオポルド1世の立憲君主の枠を越えた強力な指導の下に、他の国に先駆けて1836年に鉄道を完成させ、飛躍的な経済発展を遂げていた。それでも国土が狭く人口も少ないベルギーは、ヨーロッパの中では小国にすぎなかったが、レオポルド王太子はいつまでもベルギーをその立場に甘んじさせるつもりはなかった。隣国オランダがコーヒーブームに乗って植民地ジャワから莫大な利益を吸い上げているのを見て、ベルギーにも植民地が不可欠であると確信するようになったという。\n\n植民地を物色するために中近東や北アフリカ、セイロン島、清などを旅行してまわった。帰国後、上院において植民地獲得を熱心に訴えたが、植民地に関心を持つ上院議員はあまりいなかったという。グアテマラ植民地化の失敗以来、ベルギー国民も議会も帝国主義政策を支持していなかったのである。\n\nそれでも王太子の植民地への熱意は消えず、1860年には「外に向かって膨張すべき時期が来ている。もはや最良の条件―我が国より冒険的な国々によってすでに奪われてしまった―を待っているべき時ではない。」と語っている。ベルギーが植民地化できる可能性のある場所を手当たり次第に物色し、1865年には「清か日本への遠征が成功すればベルギーは巨大な帝国となるだろう。人間が同じ人間を搾取することは許されないが、ヨーロッパの出現を東洋が救済と考えないと誰が言えるだろうか」と語り、極東の植民地化にも関心を示している。", "qas": [ { "question": "ベルギーは何年にオランダから独立したの?", "id": "de-100-02-000", "answers": [ { "text": "1830年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }