{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "矢作水力", "paragraphs": [ { "context": "矢作水力株式会社(やはぎすいりょくかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。\n愛知県名古屋市に本社を置き、中部地方一帯で事業を展開した。\n矢作川水系における電源開発と愛知県内への電力供給を目的として1919年(大正8年)に設立。\n実業家福澤桃介が関わる会社の一つで、1930年代初頭に福澤系企業2社を相次いで合併し規模を拡大、矢作川のみならず天竜川水系や北陸の九頭竜川水系・手取川水系でも発電所を運営した。\nまた余剰電力の活用を目的とするアンモニア化学工業部門を持った。\n戦時下における電力国家管理により1942年(昭和17年)に解散した。\n解散直前に分社化された化学部門は東亞合成の前身にあたる。", "qas": [ { "question": "矢作水力株式会社が一番最初に電源開発に活用した川は何ですか?", "id": "de-055-00-000", "answers": [ { "text": "矢作川", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "矢作水力株式会社が解散したのはいつですか?", "id": "de-055-00-001", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 270, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "矢作水力株式会社は、戦前期の電力業界において東邦電力・大同電力といった業界最大手「五大電力」に次ぐ規模を持っていた中堅電力会社の一つである。\n社名が示す通り岐阜・愛知両県にまたがる矢作川水系での水力発電所建設を目的として設立された。\n設立は第一次世界大戦終戦直後、新興の電力会社が相次いで発足した1919年(大正8年)。\n創業者には大同電力の社長や東邦電力の前身名古屋電灯の社長を務めるなど、中部地方で複数の電力会社に関与した実業家福澤桃介が名を連ねる(矢作水力では相談役に就任)。\n本社は愛知県名古屋市に構えた。", "qas": [ { "question": "矢作水力株式会社の発足年はいつなの?", "id": "de-055-01-000", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 148, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "矢作水力株式会社の創業者は誰?", "id": "de-055-01-001", "answers": [ { "text": "福澤桃介", "answer_start": 216, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "矢作水力株式会社の本社がある県はどこ?", "id": "de-055-01-002", "answers": [ { "text": "愛知県", "answer_start": 245, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1920年代を通じて矢作川水系の開発を推進し、それが一段落すると1931年(昭和6年)に天竜川電力、1933年(昭和8年)には白山水力という、同じ福澤系の電力会社2社を合併して事業規模を拡大、矢作川のほか天竜川・九頭竜川・手取川各水系にも進出した。\n最終的には岐阜・愛知・長野・福井・石川の5県で水力発電所19か所・火力発電所1か所を運営するに至る。\nそれらの電源を元に、東邦電力・大同電力をはじめとする他の電気事業者や大型工場への電力供給を積極的に展開した。\nその反面、一般需要家に電灯を供給する供給区域は発電所周辺を中心とする小区域に留まった。", "qas": [ { "question": "矢作水力が運営した水力発電所と火力発電所の数はどちらが多いですか?", "id": "de-055-02-000", "answers": [ { "text": "水力発電所", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "白山水力と天竜川電力はどちらが先に合併されましたか?", "id": "de-055-02-001", "answers": [ { "text": "天竜川電力", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "電気事業以外では、会社設立翌年に軌道事業者岩村電気軌道を合併したことで、現在の岐阜県恵那市にあった電気軌道、通称「岩村電車」を経営した。\n矢作川開発の資材輸送体制の強化を目的とした電車直営化であったが、矢作川開発終了後、並行する国有鉄道路線が開通したため路線は1934年(昭和9年)に休止、翌年に廃止された。\nまた同地域で路線バスを経営していた時期もある。\nこれら交通事業以外の兼業には、余剰電力の消化を目的としたアンモニア化学工業部門が大規模化した。\n1931年に起業を決定し、工場建設中の1933年に子会社矢作工業として分社化していたが、1940年(昭和15年)に同社を合併して矢作水力の直営としたもの。\n同事業では硫酸アンモニウム(硫安)や硝酸などの製造・販売にあたった。", "qas": [ { "question": "矢作水力が経営した電気軌道会社は何ですか?", "id": "de-055-03-000", "answers": [ { "text": "岩村電気軌道", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「岩村電車」が路線休止となったのはいつですか?", "id": "de-055-03-001", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 130, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "矢作工業合併を挟む1939年(昭和14年)から1942年(昭和17年)にかけて、電気事業に対する戦時統制、いわゆる電力国家管理が進展すると、矢作水力では3度にわけて発電所19か所全部と主要送電線・変電所を国策電力会社日本発送電へと出資した。\n加えて1942年には配電統制に従い残余の送電線・変電所と配電関連設備を中部配電へと出資した。\nこうして電気事業を喪失した矢作水力は、化学部門も矢作工業を再設立(第二次矢作工業)して分社化した上で解散した。\n矢作水力が持っていた発電所や供給区域は、太平洋戦争の電気事業再編成により主として中部電力に、福井・石川両県の部分については北陸電力にそれぞれ継承されている。\nまた化学事業を引き継いだ第二次矢作工業は1944年(昭和19年)に同じ福澤系のソーダ会社を合併し、アンモニア工業とソーダ工業の両部門を持つ化学メーカー東亞合成化学工業、現在の東亞合成となった。", "qas": [ { "question": "矢作水力が持っていた発電所や供給区域の大部分は、どこの会社が継承しましたか?", "id": "de-055-04-000", "answers": [ { "text": "中部電力", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "矢作水力の発電所や供給区域は、中部電力以外でどこの会社が引き継ぎましたか?", "id": "de-055-04-001", "answers": [ { "text": "北陸電力", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1912年(大正元年)9月、水力発電事業の調査研究を目的に「大正企業組合」という組合が設立された。\nこれが矢作水力の母体にあたり、設立主唱者・組合委員長は各地で電気事業に携わる実業家福澤桃介であった。\n元々相場師として知られていた福澤は、明治末期から九州や愛知県豊橋市の豊橋電気に参加するなど電気事業での投資を広げ、1910年(明治43年)には名古屋市の電力会社名古屋電灯(後の東邦電力)の筆頭株主となっていた。\n大正企業組合設立後の1913年(大正2年)1月に福澤は同社常務に再就任し、翌年12月には社長に就いている。", "qas": [ { "question": "矢作水力の母体となった組織の名前は何ですか?", "id": "de-055-05-000", "answers": [ { "text": "「大正企業組合」", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大正企業組合は初め25名の組合員を得て2万5千円の資金を集め、手取川・由良川・矢作川・十津川・櫛田川などに技術員を派遣して水力発電のための調査研究を進めた。\n1919年(大正8年)3月の解散までに得た水利権は17地点8万馬力に及び、そのうち矢作川における4か所の水利権を元に矢作水力(発起当初の社名は「中央電力」)を設立することとなった。\n1918年(大正7年)7月に2か所の水利権許可を得たのを機に創立事務に着手、資本金を500万円として関係者の間のみで募集した。\nそして創立総会を1919年3月3日に開催、12日に電気事業経営許可を得て、20日登記を完了して会社設立を終えた。\n設立時の役員は、取締役社長井上角五郎、専務取締役杉山栄(大正企業組合嘱託技師)、取締役寒川恒貞(大正企業組合常務委員)・青木信光・大岩勇夫・大口喜六ほか3名、監査役加藤重三郎ほか4名で、福澤自身は相談役に回った。\nこのうち社長となった井上は、福澤が北海道炭礦汽船に在籍していた当時の上司にあたり、福澤の依頼で大正企業組合の組合員となり、福澤の推薦で社長となった。", "qas": [ { "question": "矢作水力の設立時の取締役社長は誰が務めましたか?", "id": "de-055-06-000", "answers": [ { "text": "井上角五郎", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "矢作水力の設立時の取締役と監査役はどちらが人数が多かったですか?", "id": "de-055-06-001", "answers": [ { "text": "取締役", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "矢作水力の社長に就任した井上角五郎の推薦人は誰?", "id": "de-055-06-002", "answers": [ { "text": "福澤", "answer_start": 412, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大正企業組合の調査の結果、愛知県と岐阜県にまたがる矢作川水系の河川にて水利権を申請し、まず1918年(大正7年)7月に岐阜県側、上村川の「第三水力」「第四水力」について許可を得た。\n続いて1919年(大正8年)3月には愛知県側、名倉川の「第一水力」および根羽川(矢作川上流部)の「第二水力」についても許可が下りた。\nさらに1920年(大正9年)4月には、追加出願していた上村川支流飯田洞川の「第六水力」についても許可されている。\nこれら許可地点は矢作川水系の最上流部にあたり、下流側の第一水力(真弓発電所)は名古屋電灯が直接水利権を取得して串原発電所を開発した地点に隣接する。\nこれら矢作川水系の水力開発を実行するにあたり、当時の鉄道路線の終端である岐阜県岩村町(現・恵那市)と発電所建設地の上村(同左)の間にある木ノ実峠が資材輸送上の隘路となると予想されたため、峠越え区間に約8.9キロメートルの索道を通すこととなり、約13万6000円を投じて1919年11月にこれを完成させた。\n完成後、同年12月26日に資本金25万円(うち半額出資)で矢作索道株式会社を設立し、索道設備を同社へ譲渡している。", "qas": [ { "question": "「第二水力」、「第四水力」、「第六水力」の中で、2番目に早く水利権の許可が下りたところはどれですか?", "id": "de-055-07-000", "answers": [ { "text": "「第二水力」", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "矢作水力が約13万6000円をつぎ込んで設けたものとは何?", "id": "de-055-07-001", "answers": [ { "text": "索道", "answer_start": 399, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、岩村町までは中央本線大井駅(現・恵那駅)とを結ぶ岩村電気軌道経営の電気軌道(岩村電車)が存在したが、資材輸送を行うには電力や貨車など設備が不十分であった。\n同社は当時資本金30万円(払込額18万7500円)であり、10万円以上に及ぶ輸送力増強費の調達は困難なため、矢作水力は路線の直営化を決めた。\n両社間の合併契約は1919年11月12日に締結され、手続きを経て翌1920年3月3日に合併報告総会が完了した。\n合併に伴う矢作水力の増資は75万円(払込額30万円)である。\n合併後、矢作水力では1935年(昭和10年)まで軌道路線の経営を続けた。", "qas": [ { "question": "矢作水力による岩村電気軌道の路線経営はいつまで続きましたか?", "id": "de-055-08-000", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 249, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "矢作水力と岩村電気軌道の合併契約はいつ交わされましたか?", "id": "de-055-08-001", "answers": [ { "text": "1919年11月12日", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "矢作水力が最初に建設した発電所は上村川の下村発電所である。\n「第四水力」として水利権を得た地点にあたり、1919年8月1日着工、1920年12月8日に竣工した。\n発電所は上村川左岸、岐阜県恵那郡下原田村(現・恵那市上矢作町下)に位置し、上流側の恵那郡上村(現・恵那市上矢作町)にて堰堤を築き取水する。\n主要設備は電業社製フランシス水車および芝浦製作所製2,100キロワット発電機各2台で、発生電力は最大4,200キロワット・常時2,100キロワットである。\n発電所完成とともに愛知県側の豊川・岡崎の2か所に変電所が完成し、発電所から豊川変電所を回って岡崎変電所へ至る35キロボルト送電線が架設された。\nまた大同電力との連絡線として釜井開閉所(大同電力串原発電所に近接)とを結ぶ送電線も建設されている。", "qas": [ { "question": "下村発電所の着工日はいつ?", "id": "de-055-09-000", "answers": [ { "text": "1919年8月1日", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「第四水力」として水利権を得た地点に建てられた発電所とは何?", "id": "de-055-09-001", "answers": [ { "text": "下村発電所", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "下村発電所に続いて上村川支流飯田洞川にて飯田洞発電所の建設が始まった。\n1920年4月に「第六水力」として水利権を得た地点にあたり、年内に着工、翌1921年(大正10年)10月1日に竣工した。\n発電所は飯田洞川左岸、恵那郡上村に位置する。\n主要設備はフランシス水車および640キロワット発電機各1台(製造者は下村発電所に同じ)で、発電所出力は最大630キロワット・常時360キロワットであった。\n送電線は下村発電所との間に建設されたが、後年上村発電所へと送電するよう改められた。", "qas": [ { "question": "飯田洞発電所の常時出力はいくらですか?", "id": "de-055-10-000", "answers": [ { "text": "360キロワット", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飯田洞発電所が所在している村はどこですか?", "id": "de-055-10-001", "answers": [ { "text": "恵那郡上村", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "愛知県側で最初の発電所は押山発電所である。\n「第二水力」として水利権を得た地点にあたり、1921年10月4日着工、翌1922年(大正11年)6月20日に竣工した。\n発電所は根羽川左岸、愛知県北設楽郡稲橋村大字押山(現・豊田市押山町)に位置し、上流側の大字大野瀬(現・同市大野瀬町)において堰堤にて取水する。\n完成後の1924年(大正13年)9月に取水量を当初の1.3倍に増加する許可を得ている。\n主要設備はフランシス水車および3,600キロワット発電機各1台(製造者は下村発電所に同じ)を備える。\n発電所出力は当初2,500キロワットであったが、1924年11月に3,200キロワットへと引き上げられた。\n発電所竣工と同時に下村発電所・釜井開閉所間の既設送電線が延長され、押山発電所から岡崎変電所へ至る77キロボルト送電線として整備された。\nさらに1922年8月には、岡崎変電所から名古屋市南区笠寺町の名古屋変電所へ至る33キロボルト送電線も完成している。", "qas": [ { "question": "押山発電所の出力は、1922年6月と1924年11月の時を比べると、どちらの時期が大きいですか?", "id": "de-055-11-000", "answers": [ { "text": "1924年11月", "answer_start": 273, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "押山発電所付近に流れている川の名は何ですか?", "id": "de-055-11-001", "answers": [ { "text": "根羽川", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "愛知県側2番目の発電所は真弓発電所である。\n「第一水力」として水利権を得た地点にあたり、1922年1月21日着工、水車・発電機2台のうち1台が1923年(大正12年)4月4日に竣工し、同年6月13日に残りも完成した。\n発電所は矢作川本流左岸、愛知県北設楽郡武節村大字川手(現・豊田市川手町)に位置する。\n取水堰堤は武節村大字桑原(現・同市桑原町)にあり、本流ではなく名倉川から取水している。\n主要設備はフォイト製ペルトン水車およびシーメンス製2,550キロワット発電機各2台で、発電所出力は最大5,100キロワット・常時2,200キロワットである。\n発生電力は押山岡崎間77キロボルト送電線によって送電される。\nまた一部完成と同時に押山岡崎間の途中にあたる松平開閉所から名古屋変電所へ至る77キロボルト送電線が新設された。", "qas": [ { "question": "真弓発電所が取水を行っている川は何ですか?", "id": "de-055-12-000", "answers": [ { "text": "名倉川", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "真弓発電所で使用されている水車は何製ですか?", "id": "de-055-12-001", "answers": [ { "text": "フォイト製", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "矢作水力が矢作川水系に設置した発電所の中で最大のものが上村発電所である。\n「第三水力」として水利権を得た地点にあたり、当初計画では下村発電所に続き着工される予定であったが、鉄価高騰や戦後恐慌などの影響で後回しとなり、1922年6月に準備工事着手、1925年(大正14年)11月26日竣工となった。\n発電所は上村川右岸、岐阜県恵那郡上村に位置する。\n取水口から発電所までの間のうち、水路終端付近と上部水槽の部分が拡大され調整池兼用となっており、渇水時における発電力調節に用いられる。\n発電所は主要設備はボービング(スウェーデン)製ペルトン水車およびゼネラル・エレクトリック製4,800キロワット発電機各2台であった。\n発電所出力は当初8,600キロワット、1930年(昭和5年)9月以降は9,600キロワットである。\n送電線は下村発電所との間を連絡する77キロボルト送電線が建設された\n資金面では、真弓発電所までの建設で会社設立時に設定された資本金の払込金徴収が全額完了していたことから、上村発電所以降の建設のため1923年12月26日の株主総会で625万円の増資を決議し資本金を1200万円としている。", "qas": [ { "question": "上村発電所にある主要設備のうち、ヨーロッパ製の設備機器とは何ですか?", "id": "de-055-13-000", "answers": [ { "text": "ペルトン水車", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1918年に「第六水力」とともに水利権を追加出願した上村川の「第五水力」は、設計変更のため手間取り1925年12月にようやく水利権許可を得た。\nこれを開発したのが島発電所で、1927年(昭和2年)3月着工、同年11月24日に竣工した。\n発電所は上村川左岸、恵那郡上村に位置する。\n取水位置は上村発電所の約220メートル下流、発電所は下村発電所取水口の約270メートル上流にある。\n運転操作を上村発電所にて行う自動式発電所で、主要設備は日立製作所製のフランシス水車および1,600キロワット発電機各1台を備える。\n出力は最大1,600キロワット・常時450キロワットで、発生電力は一旦上村発電所へ送電される。\n矢作水力では、名倉川支流黒田川を愛知県北設楽郡武節村大字黒田(現・豊田市黒田町)においてせき止めて貯水池を設ける計画を立て、1925年6月に貯水池設置を出願、1929年(昭和4年)3月認可を得た。\nこの貯水池は冬季・夏季の渇水時に放水し、下流にある真弓発電所の水量を補充することを目的とする。\n黒田川をせき止める黒田ダムは1932年(昭和7年)4月に着工され、翌1933年(昭和8年)9月に竣工した。\n基礎岩盤上高さ(頂高)35メートル、頂長150メートルの重力式コンクリートダムであり、総貯水量450万立方メートルの渇水補給用貯水池を形成する。\n黒田ダムからの放水は、下流の取水堰で改めて取水され黒田発電所へと送られる。\n同発電所はダム完成に続いて1934年(昭和9年)7月に運転を開始した。\n発電所出力は3,100キロワット。\n発電設備として電業社製ペルトン水車・芝浦製作所製発電機各1台を備える。", "qas": [ { "question": "島発電所と黒田発電所は、どちらが発電所出力が小さいですか?", "id": "de-055-14-000", "answers": [ { "text": "島発電所", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "黒田発電所建設にあたって前もって建設されたものとは何?", "id": "de-055-14-001", "answers": [ { "text": "黒田ダム", "answer_start": 460, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "設立以来矢作川での水力開発にあたってきた矢作水力であったが、水力に傾注した開発の結果、発電力の季節変動という問題を抱えた。\nそのため渇水期には大同電力からの受電で補給して季節変動を一部は抑えていたが、1920年代後半になると季節変動の差分(特殊電力)をそのまま販売するのが困難になった。\n季節変動をすべて解消するには補給電力の増強が必要であるため、物価低落の折でもあることから自社での補給用発電所を検討するに至る。\n水力・火力検討の結果、名古屋港埋立地である名古屋市港区昭和町における火力発電所新設を決定した。\nこの名古屋火力発電所は1927年(昭和2年)8月に起工され、翌1928年(昭和3年)11月18日に竣工した。\n発電所出力は1万4,000キロワット。\n三菱重工業神戸造船所の蒸気タービン1台に三菱電機製の発電機を2台直結した形の7,000キロワットタービン発電機を2組備える。\n送電線は名古屋変電所との間に繋いでいる。\n運転開始以後、名古屋火力発電所の出力は1万4,000キロワットから増加することなく推移した。\nただし火力電源の増強自体は、中部地方の主要電力会社の連合で1936年に設立された中部共同火力発電に矢作水力も出資し、1939年(昭和14年)1月港区に同社の名港火力発電所が完成するとその発生電力を一部引き受ける、という形でその後も実施されている。", "qas": [ { "question": "名古屋火力発電所に備えられている蒸気タービンとタービン発電機の数は、どちらが多いですか?", "id": "de-055-15-000", "answers": [ { "text": "タービン発電機", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "名古屋火力発電所の出力は、変わることなく何キロワットで保っていましたか?", "id": "de-055-15-001", "answers": [ { "text": "1万4,000キロワット", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "矢作水力では、矢作川水系と分水嶺を挟んで向かい合う天竜川水系和知野川とその支流売木川に目をつけて1919年に水利権を申請していたが、その北方にある天竜川水系阿知川にても南信電力株式会社を通じて開発を図った。\nこの南信電力は「南信電気工業」の名で発起され、1917年(大正6年)3月に阿知川で最も有利な長野県下伊那郡三穂村大字立石(現・飯田市立石)に位置する立石地点の水利権を申請。\n1922年(大正11年)11月その水利権を得たことから、翌1923年(大正12年)5月18日に南信電力株式会社の設立に至った。\n資本金100万円のうち3分の1を矢作水力が出資し、工事の実施・設計も矢作水力に委任されるなど設立時から密接な関係を持った。\nその後合併の話がまとまり、1927年(昭和2年)10月1日付で合併が成立、「立石水力」の水利権も矢作水力に引き継がれた。\nなお合併に伴い矢作水力の資本金は90万円増加し1290万円となっている。\nそして立石発電所は1930年(昭和5年)3月に運転開始に至った。\n発電所出力は5,400キロワット(1937年6月以降は6,000キロワット)。\n発電設備は日立製作所製のフランシス水車・発電機各2台で、送電線は上村発電所との間を連絡する77キロボルト線が建設された。", "qas": [ { "question": "南信電力株式会社との合併の際に、矢作水力の資本金はいくらになりましたか?", "id": "de-055-16-000", "answers": [ { "text": "1290万円", "answer_start": 401, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "長野県の立石地点に設立された発電所は何ですか?", "id": "de-055-16-001", "answers": [ { "text": "立石発電所", "answer_start": 418, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1928年(昭和3年)4月、矢作水力では初代社長の井上角五郎が引退し、相談役福澤桃介の長男で1922年4月から副社長を務めていた福澤駒吉が2代目社長に就任していた。\n駒吉の社長昇格と、阿知川での電源開発参入を機に、同じく駒吉が社長を務め、天竜川本流での電源開発を手掛ける天竜川電力株式会社との合併計画が浮上する。\n同社は大手電力会社大同電力の関係会社であり、天竜川開発を目的に1926年3月資本金5000万円で設立。\n大久保・南向両発電所(長野県)を建設し、大同電力へ送電していた。\n1931年(昭和6年)3月、矢作水力と天竜川電力との間で合併契約が締結された。\n矢作水力の資本金1290万円に対し、天竜川電力は資本金5000万円であり、公称資本金の額では天竜川電力が勝っていたが、合併比率は1対1(対等合併)、存続会社は矢作水力側とされた。\nまた合併と同時に矢作水力は8月末時点の株主に対し持株2株につき1株の割合で優先株式(12年間年率12パーセントを配当)を交付する、という形の増資も実施し、資本金を6935万円(2701万2500円払込)に引き上げている。\nこの優先株式発行は、矢作水力の方が会社内容で優れていたが合併比率は1対1となったので、これによって生ずる矢作水力側の株主の不利を補うためのものであった。\n両社の合併は同年11月に成立した。\n南向発電所は送電電圧154キロボルトの大同電力東京送電線の起点(終点は横浜市内の東京変電所)であり、矢作水力への合併後も引き続き大同電力への供給が続いた。\n南向発電所における大同電力への供給は、1937年末時点で2万5,520キロワットであった。", "qas": [ { "question": "1931年3月当時の矢作水力と天竜川電力の資本金は、どちらが低額でしたか?", "id": "de-055-17-000", "answers": [ { "text": "矢作水力", "answer_start": 282, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "福澤駒吉の父親名は何ですか?", "id": "de-055-17-001", "answers": [ { "text": "福澤桃介", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "泰阜発電所の運転開始後、矢作水力では同じ長野県内にて立て続けに水力発電所を完成させた。\n1936年12月に豊発電所(出力1万3,600キロワット)、翌1937年(昭和12年)12月に和合発電所(出力3,000キロワット)、1939年(昭和14年)12月に和知野発電所(出力6,400キロワット)がそれぞれ運転を開始したのである。", "qas": [ { "question": "豊発電所完成の約1年後に完成した発電所は何ですか?", "id": "de-055-18-000", "answers": [ { "text": "和合発電所", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "豊発電所、和合発電所、和知野発電所の中で出力が一番大きいのはどれですか?", "id": "de-055-18-001", "answers": [ { "text": "豊発電所", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "和知野発電所、和合発電所、豊発電所の中で2番目に完成した発電所はどれですか?", "id": "de-055-18-002", "answers": [ { "text": "和合発電所", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "和知野発電所、和合発電所、豊発電所の中で最も遅く完成したのはどれですか?", "id": "de-055-18-003", "answers": [ { "text": "和知野発電所", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "3か所とも天竜川水系和知野川の発電所であり、上流側から和合発電所・豊発電所・和知野発電所の順に建設された。\n最上流の和合発電所は下伊那郡浪合村(現・阿智村浪合)にて取水し、約3.7キロメートルの導水路を経て豊村和合(現・阿南町和合)にて発電する。\n豊発電所も和合地内にあり、支流売木川との合流点の上流側にて売木川からの取水もあわせて発電する。\n最下流の和知野発電所では売木川合流点に取水堰を設け、約3.4キロメートルの水路で大下条村(現・阿南町南條)の発電所へ導水して発電する。\n発電設備は日立製作所製で揃えられており、和知野はフランシス水車・発電機各1台、豊はペルトン水車・発電機各2台、和合はペルトン水車・発電機各1台をそれぞれ備えた。", "qas": [ { "question": "和知野発電所、和合発電所、豊発電所の中で最も下流側に位置しているのはどれ?", "id": "de-055-19-000", "answers": [ { "text": "和知野発電所", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "和合発電所と和知野発電所がそれぞれ設置した、導水路の距離が長いのはどちらですか?", "id": "de-055-19-001", "answers": [ { "text": "和合発電所", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1933年(昭和8年)2月28日、矢作水力は白山水力株式会社を合併した。\nこの白山水力は1919年(大正8年)6月に発足した電力会社で、同時期設立の矢作水力と同様、福澤桃介が相談役に座る福澤系の会社であった。\n社名にある白山を水源とする河川での電源開発、すなわち北陸地方での発電所建設を目的としており、1923年(大正12年)から1928年(昭和3年)にかけて、九頭竜川(福井県)に2か所、手取川水系(石川県)に2か所の水力発電所を完成させていた。\nこれらの発生電力は主として東海地方の東邦電力へと供給された。\n合併時、白山水力の資本金は2000万円(うち1250万円払込)であったが、矢作水力との合併比率は白山水力10株につき矢作水力新株7.5株とされたため、矢作水力側の増資幅は1500万円に抑えられ合併後の資本金は8435万円(うち3735万5000円払込)となった。\n合併時白山水力の社長であった成瀬正忠(銀行家成瀬正恭の弟)は矢作水力の副社長に転じ、その後1940年(昭和15年)10月になって第2代社長の福澤駒吉が会長に昇格すると第3代社長に就任している。", "qas": [ { "question": "矢作水力と白山水力の合併比率が有利だったのはどちらですか?", "id": "de-055-20-000", "answers": [ { "text": "白山水力", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "矢作水力の第3代社長を務めた人は誰ですか?", "id": "de-055-20-001", "answers": [ { "text": "成瀬正忠", "answer_start": 402, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical 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"コソボ紛争の二つの戦闘のうち、より早く発生した戦闘は、いつから始まりましたか?", "id": "de-056-00-001", "answers": [ { "text": "1998年2月", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1998年2月から1999年3月にかけて行われた戦闘では、ユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力と、どの勢力が対立したか?", "id": "de-056-00-002", "answers": [ { "text": "コソボ解放軍", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アライド・フォース作戦は、誰により行われたか?", "id": "de-056-00-003", "answers": [ { "text": "北大西洋条約機構", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "セルビア人、アルバニア人の間には20世紀を通して常に民族間の対立があり、大規模な暴力行為へと頻繁に結びついた。特に第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期には頻発した。第二次世界大戦後、社会主義体制をとるヨシップ・ブロズ・チトーの政府はユーゴスラビア社会主義連邦共和国全域において民族主義者の活動を体系的に抑止し、ユーゴスラビアのいかなる構成国も、ヘゲモニー(覇権)となってユーゴスラビアを牛耳ることのないように努めた。特に、セルビアは、ユーゴスラビアの中で最大で、最も多くの人口を抱えていた。そのため、セルビアの影響力を制限するために、セルビア北部のヴォイヴォディナと南部のコソボ・メトヒヤはそれぞれヴォイヴォディナ自治州、コソボ・メトヒヤ自治州としてセルビア本体から切り離された。コソボの国境はユーゴスラビアにおけるアルバニア人の居住地域の境と完全には一致していなかった。多数のアルバニア人住民はコソボ域外のマケドニア、モンテネグロ、セルビア本体に残された一方、コソボの北部には多くのセルビア人が住む地域が含まれた。いずれにしても、新設されたコソボの領域全体では、ユーゴスラビア王国時代の1921年の段階でアルバニア人が多数派であった。", "qas": [ { "question": "セルビア人とどの人々の間には20世紀を通して常に民族間の対立があったの?", "id": "de-056-01-000", "answers": [ { "text": "アルバニア人", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第二世界大戦後、ヨシップ・ブロズ・チトーの政府は、どのような体制を採りましたか?", "id": "de-056-01-001", "answers": [ { "text": "社会主義体制", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユーゴスラビアの中で人口の最も多い国は、どの国か?", "id": "de-056-01-002", "answers": [ { "text": "セルビア", "answer_start": 212, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユーゴスラビアの中で影響力の最も強い国は、どの国か?", "id": "de-056-01-003", "answers": [ { "text": "セルビア", "answer_start": 212, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "コソボの公的な自治は1945年にユーゴスラビア憲法によって定められ、大きな自治権は与えられなかった。チトーの秘密警察(UDBA)は民族主義者を厳しく弾圧した。1956年には、多くのアルバニア人がコソボにおいて国家転覆の企てとスパイの容疑で訴追された。分離主義による脅威は実際にはそれほど大きなものではなく、少数の地下活動組織がアルバニアへの統合を求めて活動しているのみであり、政治的には大きな影響力を持ち得なかった。しかしながら彼らの活動のもたらす長期的な影響は小さくなく、アデム・デマツィ(AdemDemaci)によって組織されたアルバニア人統一革命運動は、後のコソボ解放軍(UshtriaÇlirimtareeKosovës;UÇK)の政治的中核となっていった。デマツィ自身は1964年に他の賛同者らとともに投獄されている。", "qas": [ { "question": "コソボの公的な自治は、どの法によって定められたの?", "id": "de-056-02-000", "answers": [ { "text": "ユーゴスラビア憲法", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "民族主義者の弾圧に用いられた政府組織は、何ですか?", "id": "de-056-02-001", "answers": [ { "text": "秘密警察", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルバニア人統一革命運動を組織した人物は、誰か?", "id": "de-056-02-002", "answers": [ { "text": "アデム・デマツィ", "answer_start": 237, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "誰が組織した団体が、のちにコソボ解放軍の政治的中核を形成するようになったか?", "id": "de-056-02-003", "answers": [ { "text": "アデム・デマツィ", "answer_start": 237, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ユーゴスラビアでは1969年、政府による大規模な経済再建プログラムによって豊かな北西部と貧しい南部の地域の間で貧富の差が拡大し、政治的・経済的な危機を迎えていた。しかしながら、ユーゴスラビアおよびセルビアにおける真のアルバニア人の代表の設置を求め、アルバニア語の地位向上を求める学生らの要求に、チトーは応じることになった。1970年には、ベオグラード大学の下部組織であったプリシュティナ大学が独立の教育機関として設置された。コソボにおける教育のアルバニア語化は、ユーゴスラビア国内でのアルバニア語教材の不足により困難となったが、アルバニア人自身が教材を用意することで合意された。", "qas": [ { "question": "ユーゴスラビアの北西部と南部の地域間において貧富の差が拡大したのは、政府のどんな政策によることなの?", "id": "de-056-03-000", "answers": [ { "text": "大規模な経済再建プログラム", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1970年以前、プリシュティナ大学の上部組織であったのは、何ですか?", "id": "de-056-03-001", "answers": [ { "text": "ベオグラード大学", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プリシュティナ大学が独立の教育機関となったのは、何年のことか?", "id": "de-056-03-002", "answers": [ { "text": "1970年", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チトーの政府が大規模な経済再建プログラムを進め、北西部と南部の地域間において貧富の差が拡大したのは、何年のことか?", "id": "de-056-03-003", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1974年、コソボの政治的地位はユーゴスラビアの憲法改正に伴って大きく向上し、コソボの政治的権利は拡大された。ヴォイヴォディナとともに、コソボは他のユーゴスラビア構成国と多くの面において同等の地位を持つコソボ社会主義自治州となった。政治権力は依然として共産主義者同盟が独占していたものの、独自のコソボ共産主義者同盟がその中核を担うようになった。", "qas": [ { "question": "コソボの政治的地位が大きく向上し、政治的権利も拡大されたのは、何年のこと?", "id": "de-056-04-000", "answers": [ { "text": "1974年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コソボにおける政治的地位の大幅の向上と、政治的権利の拡大が果たされたのは、何によることですか?", "id": "de-056-04-001", "answers": [ { "text": "ユーゴスラビアの憲法改正", "answer_start": 16, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1974年のユーゴスラビアの憲法改正の結果、コソボの政治的地位の向上と、コソボにおける何の拡大まで果たされたか?", "id": "de-056-04-002", "answers": [ { "text": "政治的権利", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コソボがコソボ社会主義自治州と発展したのは、何による結果であるか?", "id": "de-056-04-003", "answers": [ { "text": "ユーゴスラビアの憲法改正", "answer_start": 16, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1980年5月4日のチトーの死によって、長期間にわたる政治的不安定が始まり、経済危機と民族主義者の台頭によって状況は次第に悪化していった。コソボで最初に発生した大規模な衝突は1981年3月、アルバニア人の学生が、売店の前の長い行列に対して暴徒化した。これは小規模な衝突であったが、やがてこれが引き金となってコソボ全土に急速に拡大し、各地で大規模なデモが発生するなど、国家的反乱の様相を呈した。抗議者らはコソボをユーゴスラビアの7番目の構成共和国とすることを求めた。しかしながら、この要求はセルビアおよびマケドニアには受け入れられるものではなかった。多くのセルビア人たち、そしてアルバニア人民族主義者ら自身も、この要求は大アルバニア主義への始まりと見ていた。大アルバニア主義はコソボ全土とモンテネグロ、マケドニアの一部をアルバニアへと組み込むことを目的としている。ユーゴスラビアの共産主義政府は非常事態を宣言し、軍や警察を大量投入して反乱を鎮圧した。しかし、このことによってセルビアの共産主義者らが要求していたコソボの自治権廃止には至らなかった。ユーゴスラビアの新聞は、11人が死亡し、4,200人が投獄されたと発表した。別の者は、この騒動での死者は1000人を超えると主張している。", "qas": [ { "question": "チトーが死亡したのは、いつなの?", "id": "de-056-05-000", "answers": [ { "text": "1980年5月4日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "いつを基点に、長期間にわたる政治的不安定が始まり、経済危機と民族主義者の台頭によって状況が次第に悪化していきましたか?", "id": "de-056-05-001", "answers": [ { "text": "1980年5月4日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "抗議者らの要求は、どの主義への始まりとされたか?", "id": "de-056-05-002", "answers": [ { "text": "大アルバニア主義", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コソボにおける最初の大規模な衝突は、いつ起こったことか?", "id": "de-056-05-003", "answers": [ { "text": "1981年3月", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "コソボ共産主義者同盟の間にも粛清が行われ、その党首をはじめ重要人物らが追放された。あらゆる種類の民族主義に対して強硬路線が採られ、セルビア人、アルバニア人双方の民族主義者らに対する取締りが行われた。コソボには大量の秘密警察が配置され、当局に認められていないセルビア人、アルバニア人双方の民族主義の活動を厳しく弾圧した。マーク・トンプソン(MarkThompson)の報告によると、コソボの住民580,000人が逮捕され、尋問され、拘留され、あるいは懲戒された。数千人が職を失い、あるいは教育機関から追放された。", "qas": [ { "question": "この文章では、コソボでどんなものたちが弾圧されたことについて説明しているの?", "id": "de-056-06-000", "answers": [ { "text": "民族主義者", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マーク・トンプソンは、何人のコソボの住民が逮捕され、尋問され、拘留され、あるいは懲戒されたと述べましたか?", "id": "de-056-06-001", "answers": [ { "text": "580,000人", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この間、アルバニア人とセルビア人の共産主義者の間の緊張は高まり続けていた。1969年、セルビア正教会はその主教に対してコソボでセルビア人に対して起こっている問題に関する資料収集を命じ、ベオグラードの政府に対してセルビア人の立場を守るよう圧力をかけることを模索した。1982年2月、セルビア本国からセルビア人の神品(聖職者)らの集団が「なぜセルビア正教会は沈黙しているのか、なぜ進行中のコソボの聖堂に対する破壊行為、放火、冒涜行為に対して抗議活動をしないのか」と求めた。このような懸念はベオグラードの政府の関心をひきつけた。コソボにおいてセルビア人やモンテネグロ人が迫害を受けているとする多くの話が日々紹介された。恐怖と不安定化を招く重大な事実として、コソボのアルバニア人マフィアによる麻薬取引の話があった。", "qas": [ { "question": "セルビア正教会がコソボでセルビア人に対して起こっている問題に関する資料収集を行おうとし、政府に対してセルビア人の立場を守るよう圧力をかけることを模索したのは、何年のことか?", "id": "de-056-07-000", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "セルビア本国でセルビア正教会が何もせず沈黙しているとの、批判の声が出てきたのは、いつのことか?", "id": "de-056-07-001", "answers": [ { "text": "1982年2月", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1982年2月にセルビア正教会に対し、批判の声を上げたセルビア本国の集団は、誰か?", "id": "de-056-07-002", "answers": [ { "text": "神品", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文章では、セルビア人とどの人々との対立について取り上げているか?", "id": "de-056-07-003", "answers": [ { "text": "アルバニア人", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "これらに加えて、コソボの経済状態の悪化が不安定化に拍車をかける要因となった。コソボの経済状態の悪化によってコソボのセルビア人は同地で職にありつく機会は失われていった。アルバニア人、セルビア人ともに、新しく労働者を採用する際には同じ民族の者を優遇したが、求職の数そのものが人口に対して極端に少ない状態となった。終局には、アルバニア人を自称している者の中に多くのイスラム教の信仰を持つようになったロマが含まれていると信じられるに至った。コソボはユーゴスラビアの中で最も貧しく、1979年の時点で一人当たりGDPは795ドルであった。これに対してユーゴスラビア全土での平均は2635ドル、最も豊かなスロベニアでは5315ドルであった。", "qas": [ { "question": "ユーゴスラビアの中で最も貧しかったのは、どこ?", "id": "de-056-08-000", "answers": [ { "text": "コソボ", "answer_start": 216, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1979年のコソボの一人当たりGDPは、何ドルでしたか?", "id": "de-056-08-001", "answers": [ { "text": "795ドル", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユーゴスラビアの中で最も豊かだったのは、どこか?", "id": "de-056-08-002", "answers": [ { "text": "スロベニア", "answer_start": 296, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コソボ、スロベニア、ユーゴスラビア全土のうち、一人当たりGDPが最も高いのは、どちらか?", "id": "de-056-08-003", "answers": [ { "text": "スロベニア", "answer_start": 296, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "コソボでは、アルバニア人の民族主義が拡大し、分離主義によってアルバニア人とセルビア人の民族間の緊張は高まっていった。有害な雰囲気が拡大し、危険な噂が蔓延し、小規模な衝突の数は増大していった。セルビア正教会の修道院・聖堂等へのアルバニア人による破壊行為、聖職者や修道士への暴行、修道女の強姦なども増え、後にセルビア総主教となった主教パヴレも、1989年にアルバニア人の若者グループに襲われ、全治3ヶ月の重傷を負った。", "qas": [ { "question": "コソボでは、誰の民族主義が拡大したの?", "id": "de-056-09-000", "answers": [ { "text": "アルバニア人", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書ではどの主義が、コソボでアルバニア人とセルビア人の間の緊張が高まった理由であるとしていますか?", "id": "de-056-09-001", "answers": [ { "text": "分離主義", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルバニア人は、どの正教会に関係のある建物や人々に対し、破壊、暴力などの行為を尽くし、ひどい打撃を与えたか?", "id": "de-056-09-002", "answers": [ { "text": "セルビア正教会", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パヴレは、何年にアルバニア人の群れにやられ、全治3ヶ月の重傷まで負ったか?", "id": "de-056-09-003", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 170, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "セルビア科学芸術アカデミー(SANU)が1985年から1986年にコソボを去ったセルビア人について調査したのは、このような緊張関係に対してのものであった。報告では、この期間にコソボを去ったセルビア人の少なからざる部分は、アルバニア人による追放圧力によるものであると結論した。", "qas": [ { "question": "セルビア科学芸術アカデミーは、何年から何年の間にコソボを去ったセルビア人について調査したの?", "id": "de-056-10-000", "answers": [ { "text": "1985年から1986年", "answer_start": 20, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1985年から1986年にコソボを去ったセルビア人は、誰から追放圧力をかけられ、コソボから離れなければならなかったか?", "id": "de-056-10-001", "answers": [ { "text": "アルバニア人", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1985年から1986年の間にコソボを去ったセルビア人について調査したのは、どの機関ですか?", "id": "de-056-10-002", "answers": [ { "text": "セルビア科学芸術アカデミー", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1985年から1986年の間、セルビア人は、何のためにコソボから離れなければならなかったか?", "id": "de-056-10-003", "answers": [ { "text": "アルバニア人による追放圧力", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "メモランダムはコソボに特に高い関心を寄せ、「コソボにおけるセルビア人が物理的、政治的、法的、文化的ジェノサイドの対象とされており、1981年以降は全面戦争が進行中である」と論じた。このメモランダムでは、1986年時点でのコソボのセルビア人の地位は、セルビアがオスマン帝国から解放された1804年以降で最悪となっており、ナチス・ドイツの占領下にあった第二次世界大戦時や、オーストリア=ハンガリー帝国と戦った第一次世界大戦時よりも悪いとした。メモランダムの著者らは、この20年間で20万人のセルビア人がコソボを去ったと主張し、急進的な改革がなければまもなくコソボからセルビア人はいなくなる、と警告した。メモランダムでは、その対処法として、「治安、およびコソボ・メトヒヤに住む全ての人々の明白な平等を保障すること」、そして「コソボを離れたセルビア人のコソボへの帰還を可能とする、永続的で実効性のある環境を作り出すこと」であるとした。メモランダムは「セルビアは、過去に見られたような、受身の姿勢で他者が何を言うかを待ってはならないとしている。", "qas": [ { "question": "セルビアがオスマン帝国から解放された以降で、コソボのセルビア人の地位が最悪となったのは、何年の時点なの?", "id": "de-056-11-000", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セルビアのオスマン帝国からの解放以降、1986年の時点がコソボのセルビア人の地位が最悪となった時期であることを説明するために、この文書では、第一次世界大戦時やいつと比較しているか?", "id": "de-056-11-001", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦時", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コソボからセルビア人が完全にいなくなることを防ぐためには、何が必要だと、メモランダムの著者らは主張していましたか?", "id": "de-056-11-002", "answers": [ { "text": "急進的な改革", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セルビアがオスマン帝国から解放されたのは、何年のことか?", "id": "de-056-11-003", "answers": [ { "text": "1804年", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "SANUメモランダムに対しては様々な反応があった。アルバニア人らは、これをコソボにおけるセルビア人優越主義を喚起するものであるとした。彼らは、コソボを去った全てのセルビア人は、単に経済的理由であると主張した。その他のユーゴスラビアの民族主義者、特にスロベニア人やクロアチア人は、セルビアの拡張主義の伸張であるとみた。セルビア人自身の見解は割れていた。多くのセルビア人らはこのメモランダムを歓迎した一方、古くからの共産主義の守護者らはこれを激しく非難した。メモランダムを非難したセルビア共産主義者同盟の指導者の一人に、スロボダン・ミロシェヴィッチの名があった。", "qas": [ { "question": "コソボのアルバニア人は、セルビア人がコソボを立ち去った理由を何だとしていたの?", "id": "de-056-12-000", "answers": [ { "text": "経済的理由", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スロベニア人とクロアチア人は、セルビア人がコソボを立ち去った理由を、何の伸張だとしていましたか?", "id": "de-056-12-001", "answers": [ { "text": "セルビアの拡張主義", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "小田急3000形電車(初代)", "paragraphs": [ { "context": "小田急3000形電車(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、1957年から1992年まで小田急電鉄において運用された特急用車両(ロマンスカー)である。\n\n新宿と小田原との間を60分で結ぶことを目指した「画期的な軽量高性能新特急車」として計画され、開発に際して日本国有鉄道(国鉄)の鉄道技術研究所より技術協力が得られたことから、日本の鉄道車両において初の導入となる新技術がいくつか盛り込まれた車両であり、それらの中には国鉄の新幹線に発展的に引き継がれた技術も存在し、「新幹線のルーツ」や「超高速鉄道のパイオニア」ともいわれている。\"SuperExpress\"(略して「SE」)という愛称が設定されたが、「SE」という略称には\"SuperElectriccar\"という意味も含ませている。\n\n本項では大井川鉄道(当時)に譲渡された車両についても本項目で記述する。\n\n本項においては、本形式3000形は「SE車」、3100形は「NSE車」、7000形は「LSE車」、10000形は「HiSE車」、20000形は「RSE車」、50000形は「VSE車」、60000形は「MSE車」、鉄道省・運輸通信省・運輸省および日本国有鉄道が運営していた国有鉄道事業は「国鉄」、鉄道技術研究所は「研究所」、箱根登山鉄道箱根湯本駅へ乗り入れる特急列車については「箱根特急」と表記する。また、小田急が編成表記の際に「新宿寄り先頭車両の車両番号(新宿方の車号)×両数」という表記を使用していることに倣い、特定の編成を表記する際には「3011×8」「3021×5」のように表記する。", "qas": [ { "question": "小田急3000形電車が運用され始めたのは何年ですか?", "id": "de-057-00-000", "answers": [ { "text": "1957年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "新宿と小田原との間を60分で結ぶことを目指した企画の名は?", "id": "de-057-00-001", "answers": [ { "text": "「画期的な軽量高性能新特急車」", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "特定の編成を表記する際には「3011×8」と表記するとき、8が意味するのは?", "id": "de-057-00-002", "answers": [ { "text": "両数", "answer_start": 616, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "東京急行電鉄(大東急)から分離発足した小田急では「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標を設定し、軽量・高性能な車両の開発が進められていた。折りしも国鉄の研究所では航空技術を鉄道に応用した超高速車両の研究が行われていたが、この構想に小田急が着目し、小田急と国鉄の共同開発として開発が開始された車両である。\n\n登場した1957年に行われた東海道本線での高速試験において、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録となる145km/hを樹立、その後の国鉄の電車特急開発にデータを提供した。また、本形式の登場がきっかけとなって鉄道友の会ではブルーリボン賞の制度が創設され、1958年には第1回ブルーリボン賞を授与された。\n\n当初は8両連接車として登場したが、1968年以降は御殿場線乗り入れのため編成を5両連接車に短縮し、\"ShortSuperExpress\"(略して「SSE」)とも称されるようになった。1991年に20000形(RSE車)が登場するまで運用され、1992年に全車両が廃車となった。", "qas": [ { "question": "国鉄とともに、本車両の開発を担当したのはどの組織か?", "id": "de-057-01-000", "answers": [ { "text": "小田急", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブルーリボン賞を初めて授与した年は何年だったか?", "id": "de-057-01-001", "answers": [ { "text": "1958年", "answer_start": 283, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本車両が運用されたのは何年までだった?", "id": "de-057-01-002", "answers": [ { "text": "1991年", "answer_start": 400, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1948年6月1日に小田急が大東急から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した山本利三郎は、学生時代にその存在を知って以来連接車に関心を抱き、スペインで開発された連接車であるタルゴの存在を知ってからは「あれを電車でやれないか」と考えていたという。国鉄東京鉄道局に在籍していた1935年には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出した。これは、「関節車(連接車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を流線形にし、駆動方式も吊り掛け駆動方式から改良して騒音を低減した高速電車を東京と沼津の間で走らせる」という内容であった。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかったが、山本はその後も連接車の導入に関心を持ちつづけ、1948年冬には当時まだ新入社員であった生方良雄とともに、当時既に連接車として運用されていた西日本鉄道500形の構造や保守について視察した。", "qas": [ { "question": "山本利三郎が取締役兼運輸担当として就任したのはいつですか?", "id": "de-057-02-000", "answers": [ { "text": "1948年6月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "一九四八年、取締役兼運輸担当として就任した人物が一九三五年国鉄東京鉄道局に提出した業務研究資料のお題は?", "id": "de-057-02-001", "answers": [ { "text": "「関節式新電車ニ就イテ」", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "利三郎とともに1948年、西日本鉄道500形の構造や保守について視察した人物の名前は?", "id": "de-057-02-002", "answers": [ { "text": "生方良雄", "answer_start": 352, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方、分離発足後の小田急では、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として設置された輸送改善委員会が、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標を設定した。この目標値は、戦前に阪和電気鉄道が阪和天王寺と東和歌山の間61.2kmを45分で結び、表定速度は81.6km/hに達していたことを意識したもので、この表定速度であれば、新宿と小田原の間82.8km(当時)は60分で走破できると考えたのである。大阪出身である山本は、日ごろから阪和電気鉄道を引き合いに出していたという。この目標は、単に阪和電気鉄道の記録を破ることを目的にしていたわけではなく、速度向上によって車両の回転率を高めることによって経営効率の向上を図ることも目的としていた。", "qas": [ { "question": "「新宿と小田原を60分で結ぶ」という目標値の経営効率の向上以外の目的は何ですか?", "id": "de-057-03-000", "answers": [ { "text": "阪和電気鉄道の記録を破ること", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "阪和電気鉄道で阪和天王寺と東和歌山の間61.2kmを45分で結んだ鉄道の表定速度では1時間に何キロいけますか?", "id": "de-057-03-001", "answers": [ { "text": "81.6km", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "当時は「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行うことはできなかった。また、当時導入された国鉄モハ63形の改造車である1800形の乗り心地が悪く、保線部門から「線路を壊す車両」として嫌われたという事実もあった。このため、軌道や変電所などの投資を極力抑える一方で、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた。この方針に従い、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり、研究や試験などを繰り返していた。\n\n1954年に登場した2100形では車体の軽量化が実現、駆動方式についても同年に登場した2200形ではカルダン駆動方式が実用化された。また、この年の9月11日には新型特急車両の開発が正式に決定した。", "qas": [ { "question": "2200形の登場で実用化された駆動方式は何ですか?", "id": "de-057-04-000", "answers": [ { "text": "カルダン駆動方式", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "車体の軽量化という目標を実現したモデルは?", "id": "de-057-04-001", "answers": [ { "text": "2100形", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "新型特急車両開発の正式決定は何年の出来事ですか?", "id": "de-057-04-002", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 292, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この頃、国鉄でも高速車両の研究を進めていた。1946年には山本の友人である島秀雄が、日本海軍航空技術廠にいた三木忠直や松平精などを研究所に招き、「高速台車振動研究会」を設立して研究を行った。航空技術廠から研究所に移った研究者たちは航空機の技術を導入した鉄道の高速化を研究し、台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった。\n\nそれまでの研究所は、開発よりは試験を行うことが多い研究機関であったが、1949年9月に大塚誠之が所長として着任すると、大塚は研究者に自由な研究を奨励し、研究成果の発表も積極的に行うように指導した。また、外部からの研究受託や設計も積極的に受けるようにした。\n\nこの方針を受けて、1953年9月に三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160km/h・平均125km/hで走行が可能で、東京と大阪を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった。ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計を採用する一方で、電車方式(動力分散方式)ではなく1,200馬力の電気機関車牽引による7両編成の客車列車(動力集中方式)とする構想であった。", "qas": [ { "question": "島秀雄、三木忠直などが設立した高速車両の研究のための組織は?", "id": "de-057-05-000", "answers": [ { "text": "「高速台車振動研究会」", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "台車の振動問題を解決した研究は誰の物だったのかその人物の名をフルネームで答えなさい。", "id": "de-057-05-001", "answers": [ { "text": "松平精", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東京と大阪を4時間45分で結ぶことも可能であるとの研究成果を発表したものをフルネームで答えてください。", "id": "de-057-05-002", "answers": [ { "text": "三木忠直", "answer_start": 54, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この構想は、国鉄本社から「これは本社が考えるべきことである」と批判を受けたが、運輸省は逆に「研究補助金を出すので申請するように」と通告した。そこで、日本鉄道車両工業協会で研究を受託するために「超高速車両委員会」が発足した。研究を重ねた後の1954年9月には「全長100.9mの7両連接車、自重113.3t、電動機出力は110kWが8台、定員224名、最高速度は150km/h」を目標にした車両構想が打ち出された。\n\n山本はこの研究発表に着目し、1954年10月19日に研究所に対して「特急車両として世界的水準を抜くものにしたい」と、新型特急車両の企画・設計全般について技術指導を依頼した。\n\n小田急と国鉄は東京と小田原の間で旅客数を争うライバル関係にあり、現実に国鉄の80系電車運行に対して小田急が反対していた経緯もあるので、この依頼は非常識にさえ見えた。しかし、この当時、島は桜木町事故の後に国鉄を退職していたものの、腹心の部下だった者を通じた影響力を行使できる立場にあった。国鉄内部でも当時既に高速電車の計画はあったが、大組織の国鉄ではなかなか理解が得られなかった。島は「私鉄が導入して成功すれば、国鉄も高速電車の導入に踏み切るだろう」と考えた。また、研究所側でも「小田急の構想に乗ることで研究成果の確認が可能になる」と考えた。研究所では小田急の要請に全面的に応じることとし、1954年10月25日から研究所が小田急の研究を受託するという形式で新型特急車両の共同開発が開始された。", "qas": [ { "question": "研究補助金を出すと言った政府機関はどこですか?", "id": "de-057-06-000", "answers": [ { "text": "運輸省", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "山本が研究所に対し新型特急車両の企画・設計全般について技術指導を依頼したのはいつですか?", "id": "de-057-06-001", "answers": [ { "text": "1954年10月19日", "answer_start": 222, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時国鉄のものではないが、国鉄に影響力を行使できた人物は誰ですか?", "id": "de-057-06-002", "answers": [ { "text": "島", "answer_start": 387, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "基本構想の策定を行う研究会は、1954年11月から1955年1月までに合計8回行われた。1955年1月25日には基本構想が策定されたが、この時点では小田急の最長編成は17m車4両編成であったことから、全長70mの5両連接車という内容であった。1955年1月16日には共同設計者として日本車輌製造・川崎車輛(当時)・近畿車輛・東洋電機製造・東京芝浦電気(当時)・三菱電機が参画し、研究所の指導の下に具体的な設計に入った。小田急では創業当時から電装品は三菱電機、台車は住友金属工業の製品を採用しており、特に三菱グループとは主力取引銀行としての関係もあったが、新型特急車両の設計参画メーカーの決定に際しては純粋に技術的見地から決定され、どうしても優劣がつけがたく決定できない場合に限って、過去の小田急との取引を考慮して決定した。", "qas": [ { "question": "基本構想の策定を行う研究会は1954年11月から3ヶ月の間合計何回行われましたか?", "id": "de-057-07-000", "answers": [ { "text": "8回", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小田急と電装品の取引をしてきて、1955年共同設計者として参加した企業は何か?", "id": "de-057-07-001", "answers": [ { "text": "三菱電機", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小田急で開業当初から使ってきた住友金属工業の製品とは?", "id": "de-057-07-002", "answers": [ { "text": "台車", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "山本は「1gでも軽い部品を採用する」と公言し、1mあたりの重量を1tとすることを目標として、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追及されたほか、将来の格下げを考えずにあくまで特急専用として考えられた。さらに、「特急車は10年もすれば陳腐化する」「丈夫に長く使える車両と考えるから鉄道車両の進歩が遅れる」という山本の考えにより、耐用年数は10年と考えることになった。\n\n前頭部の形状の決定に際して、東京大学航空研究所の風洞を使用して、日本の鉄道車両設計の歴史上初めてとなる本格的な風洞実験が行われたほか、ディスクブレーキの試験も行われた。また、高速運転に伴って踏切事故などを防止するために補助警報器(特殊警笛)の現車試験なども行われた。\n\nまた、前述の通り、連接車に強い関心を抱いていた山本の主張によって、新型特急車両には連接構造が採用されることになった。三木は連接車に賛成していたが、研究所では保守上の不便を心配していたという。しかし、山本は「保守・整備は小田急が考えればいい話」と主張し、連接車導入と決まった。この時期の経堂工場は、17.5m車の4両編成すらもまとめて入庫できるような設備ではなかったので、小田急社内でも連接車の整備については「経堂工場で整備できるか自信が持てない」という意見があったという。", "qas": [ { "question": "本車両の耐用年数は何年とかがえて製作されましたか?", "id": "de-057-08-000", "answers": [ { "text": "10年", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前頭部の形状の決定する実験のとき使った器具はどう呼びますか?", "id": "de-057-08-001", "answers": [ { "text": "風洞", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "山本の強い要望により新型特急車両採用された構造は何ですか?", "id": "de-057-08-002", "answers": [ { "text": "連接構造", "answer_start": 364, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1956年5月には仕様が決定し、同年6月末から製作が開始されることになった。当初は前述の通り全長70mの5両連接車で計画されていたが、1957年5月から小田急で全長105mの6両編成による運転が開始されることになっていたため、1956年5月7日に全長108mの8両連接車に計画が変更された。経験・実績に乏しい方式だったにもかかわらず8両連接車を採用したのは、当時としては大英断であったと評されている。運転台を2階に上げて展望席を設置する案や、二等車等の優等車両を設ける案もあったが、最終的にはこれらの案は採用されなかった。\n\n車両の調達に際しては、小田急・日本車輌製造・川崎車輛・住友信託銀行の4社で車両信託制度という新しい制度が設けられた。これはアメリカ合衆国のフィラデルフィアプランと呼ばれる制度に倣ったもので、新型特急車両は日本で初めて車両信託制度が適用された車両となった。\n\nこうして、「画期的な軽量高性能新特急車」として登場したのがSE車である。", "qas": [ { "question": "車両信託制度のモデルとなったアメリカの制度は?", "id": "de-057-09-000", "answers": [ { "text": "フィラデルフィアプラン", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本初の車両信託制度の適用車両は何ですか?", "id": "de-057-09-001", "answers": [ { "text": "新型特急車両", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "車両信託制度は何社で設けられた制度ですか?", "id": "de-057-09-002", "answers": [ { "text": "4社", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。更新による変更については沿革で後述する。\n\nSE車は8両連接の固定編成で、先頭車が制御電動車、中間車は全て電動車で、形式はいずれもデハ3000形である。編成については、巻末の編成表を参照のこと。なお、閑散期には5両連接車としての運用も可能で、この場合は1・2・3・7・8号車の5両か、1・2・6・7・8号車の5両のいずれかとなるが、5両連接車とした場合は3両目が両側とも電動機を装着しない付随台車となる。ただし、ほとんど編成短縮の機会がないことから、回路の簡略化を図るため、1959年3月に製造された編成(3031×8)では永久8両連接の回路設定とした。それまでの日本の連接車では車体数に関わらず1編成単位で1つの車両番号であったが、SE車では車体ごとに車両番号を附番している。", "qas": [ { "question": "SE車の先頭車の形式は?", "id": "de-057-10-000", "answers": [ { "text": "デハ3000形", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「3031×8」の編成で永久に8両連接となったのはいつなのか?", "id": "de-057-10-001", "answers": [ { "text": "1959年3月", "answer_start": 274, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "車体については、日本車輌・川崎車輛が担当することになり、研究所側は三木が主任担当者となった。\n\n先頭車は車体長15,750mm・全長15,950mm、中間車は車体長12,300mm・全長12,700mmで、車体幅は2,800mmである。", "qas": [ { "question": "中間車の車体幅は?", "id": "de-057-11-000", "answers": [ { "text": "2,800mm", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "先頭車と中間車の大きさを比較すると、車体長が大きいのはどっち?", "id": "de-057-11-001", "answers": [ { "text": "先頭車", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "研究所サイドで車体を担当したものは誰ですか?", "id": "de-057-11-002", "answers": [ { "text": "三木", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "それまでの特急車両では、格下げを考慮して車体の強度を定員の250%の荷重として計算していたが、SE車では将来の格下げは考えず、定員の130%として荷重を計算した上で航空機の技術を取り入れ、各部にわたって徹底的な軽量化を図った。\n\n車体構造は強度部材の軽量化のために張殻構造とし、車体外板はそれまでの車両よりも半分近い厚さ1.2mmの耐蝕鋼板を採用し、バックリング防止のため125mm間隔でリブを入れることによって強度を補う構造とした。この耐蝕鋼板は日本鋼管に開発を依頼したもので、銅とリンを加えたものである。当初計画では車体に軽合金を使用する予定であったが、車両メーカー側で軽合金車両の製造経験がなかったことと、価格が高いという理由により鋼板を使用している。\n\n車体断面は下部を半径4,000mmの緩いカーブで絞り込み、側面上部を4度の傾斜角で内傾させた形状とすることで、横風に対する安定度を確保し、風圧の影響を減少させることを図った。低重心化のため台車間の床面を低くし、軌条上面から床面までの寸法は、台車の上では1,000mmで車体中央部では875mmとなった。台枠部は航空機の主翼構造を応用し、それまでの鉄道車両には存在した中梁を廃した上で、波板が縦方向の圧縮強度も担うようにしたほか、横方向の梁には航空機と同様に重量軽減孔を開けることで軽量化を図った。床板にも航空機の技術を応用し、ハニカム構造が採用された。", "qas": [ { "question": "車体の強度を定員の250%の荷重として計算しなかった初めての特急車両は何ですか?", "id": "de-057-12-000", "answers": [ { "text": "SE車", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "車体外板に使われた1.2mmの耐蝕鋼板の開発を担当したのはどこですか?", "id": "de-057-12-001", "answers": [ { "text": "日本鋼管", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "こうした工夫の結果、構体重量は従来車が1mあたり500kgだったものが、SE車では1mあたり370kgにまで軽量化され、2300形が全長70mの4両編成で135t(1mあたり1.93t)であったのに対して、SE車では全長108mの8両連接車でありながら147t(1mあたり1.36t)と、大幅な軽量化を実現した。\n\nなお、製造時にはそれまでの鉄道車両ではあまり行われていなかった荷重試験が行われ、構体の175箇所に対してねじれや圧縮などの力を加えた測定が行われた。荷重試験については、島も「国鉄車両の車体構造の設計に役立った」と評価しており、これ以後は国鉄・私鉄を問わず、新設計の車両では必ず荷重試験が行われるようになった。", "qas": [ { "question": "SE車の1mあたりの構体重量は何キロですか?", "id": "de-057-13-000", "answers": [ { "text": "370kg", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "SE車の8両連接車の全体の重さは?", "id": "de-057-13-001", "answers": [ { "text": "147t", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "先頭部の形状は流線形で、模型を作成した上で風洞実験を繰り返し、さらにその結果を基にしてモックアップ(実物大模型)を作成した上で細部に検討を加えて決定された。これにより、形状抵抗係数は国鉄80系電車の0.64に対して、SE車では0.25にまで減少した。本来はもう少し上部を絞り込めば空気抵抗が減少するところだったが、当時の日本のガラス製造技術では円錐曲面のガラスが製造できず、円筒曲面ガラスを使用することを前提とした形状になった。\n\n前照灯は日本の鉄道車両では初めてシールドビームが採用されたが、当時はまだ鉄道車両用のシールドビームが開発されていなかったため、自動車用の24V仕様のものを使用した。前照灯の配置は空気抵抗から流線形の頂点に配置するようにしたことと、左右に分けた場合には「1灯が故障した時に列車の位置が分からなくなる」という理由によって、2灯を前面中央部に並べた。また、対向する列車の運転士にとっては眩し過ぎることから、運転席には足踏み式減光スイッチを設けている。先頭部には異常時に使用する格納式簡易連結器が収納された。\n\nまた、先頭下部には車両が空力的に浮き上がらないように、排障器も兼ねたスカートが設置された。3031×8では正面のスカートの開口部が楕円形から真円形に変更されたのが外観上の識別点である。", "qas": [ { "question": "SE車の形状抵抗係数が0.25にまで減少したのはSE車のどのパートのおかげですか?", "id": "de-057-14-000", "answers": [ { "text": "先頭部", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "前照灯に使用したシールドビームは本来何向けの物ですか?", "id": "de-057-14-001", "answers": [ { "text": "自動車用", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "SE車の形状抵抗係数は?", "id": "de-057-14-002", "answers": [ { "text": "0.25", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "側面客用扉は車体断面に合わせた高さ1,770mm・幅800mmの手動式内開き戸を中間車に1箇所ずつ配置した。扉を内開き戸にしたのは車体を極力平滑にするためで、当時まだプラグドアという発想はなく、航空機と同様の扉を採用すると却って重量が嵩むことから、この構造が採用された。側面窓は700mm四方の1段上昇窓を、窓柱の幅を300mmとして配置した。乗務員室の扉は高さ1,400mm・幅600mmである。車両間の貫通路は車内の見通しを良くする目的で広幅とし、仕切り扉は一切設けていない。\n\n屋根はファンデリアの外気取り入れ口を設けた二重構造とし、先頭車の最前部には補助警報器のスピーカーを内蔵させた。\n\n塗装デザインについては、「それまでの車両と同じ色で」という意見もあったが、「まったく新しい電車なのだから新しい色にすべきだ」と決まり、小田急の宣伝ポスター作成を手がけたこともある縁で、二紀会の宮永岳彦が色彩設計を担当、バーミリオンオレンジを基調にホワイト・グレーの帯が入る、警戒色となるような明るい色とした。このデザインは、その後NSE車・LSE車にも継承され、バーミリオンオレンジについてはVSE車とMSE車にも継承された。", "qas": [ { "question": "扉を内開き戸にした理由は何ですか?", "id": "de-057-15-000", "answers": [ { "text": "車体を極力平滑にするため", "answer_start": 65, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "先頭車に内蔵されているスピーカーの役割は何ですか?", "id": "de-057-15-001", "answers": [ { "text": "補助警報器", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本車両の色彩設計を担当したのは誰ですか?", "id": "de-057-15-002", "answers": [ { "text": "宮永岳彦", "answer_start": 395, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "車体の節で記述したように車体中央部を低床化しているが、台車上と車両中央部の床の高さの差は客室両端部の通路に傾斜をつけて解決した。座席については、回転式クロスシートを採用し、シートピッチ1,000mmで配置した。この座席は、DC-4型旅客機の座席を参考にし、ねじの頭を削るなど細かいところまで重量軽減にこだわった。軽量化を優先したためリクライニング機構の導入は見送られたものの、それまでの同種の座席の重量が60kgだったところを33kgにまで軽量化した。座席の回転方法は座席下のペダルを踏み込んでから回転させる方式である。ただし、車端部の座席はスペースに余裕がないことから回転しない。床に段差があることから、段差の上段になる座席では床面から座面の上面までを340mmに、それ以外の座席では床面から座面の上面までを400mmとして、着座位置を極力揃えるようにしている。窓の下には各座席ごとに引き出して使用する折畳みテーブルを設置した。", "qas": [ { "question": "本車両が採用した座席のタイプは?", "id": "de-057-16-000", "answers": [ { "text": "回転式クロスシート", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "従来の回転式クロスシートの重量は?", "id": "de-057-16-001", "answers": [ { "text": "60kg", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "室内の配色は、天井を白、壁面は明るい色のデコラ張りとして、窓上カーテンキセ上部に赤い帯を入れた。座席は濃い青色の表地を採用した。\n\n3号車の新宿寄り海側出入台脇と6号車の小田原寄り海側出入台脇には喫茶カウンター(売店)を設置した。2号車の新宿寄り海側出入台脇と7号車の小田原寄り海側出入台脇には男女共用和式トイレ・化粧室を配置した。喫茶カウンター・トイレとも、通路を挟んだ反対側は通常の座席である。\n\n客室と乗務員室の仕切り扉は両ヒンジ式で、左右どちら側にでも開けるようにした。これは、乗務員から緊急時の脱出について意見があったためで、運転士が使用する際には乗務員室側から見て左ヒンジ、車掌が使用する際には右ヒンジとして開閉できるようにした。", "qas": [ { "question": "3号車に配置された喫茶カウンターはどこにありますか?", "id": "de-057-17-000", "answers": [ { "text": "新宿寄り海側出入台脇", "answer_start": 70, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2・3・6号の中で売店が設置されていない車両は何号車ですか?", "id": "de-057-17-001", "answers": [ { "text": "2号車", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵)", "paragraphs": [ { "context": "初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトン(英語:SpencerCompton,1stEarlofWilmingtonKGPC、1674年-1743年7月2日)は、イギリスの政治家、貴族である。", "qas": [ { "question": "スペンサー・コンプトンは、どの国の者なの?", "id": "de-058-00-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペンサー・コンプトンは、どの身分に属するものですか?", "id": "de-058-00-001", "answers": [ { "text": "貴族", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "初めてウィルミントン伯爵の爵位を取得したのは、誰か?", "id": "de-058-00-002", "answers": [ { "text": "スペンサー・コンプトン", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1674年頃、スペンサー・コンプトンは第3代ノーサンプトン伯爵ジェイムズ・コンプトンの第3子として、コンプトン・ウィンエッツで生まれる。母は第3代キャンプデン子爵バプティスト・ノエルの娘メアリー(1719年没)である。", "qas": [ { "question": "スペンサー・コンプトンは、何年生まれなの?", "id": "de-058-01-000", "answers": [ { "text": "1674年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペンサー・コンプトンはどこで生まれましたか?", "id": "de-058-01-001", "answers": [ { "text": "コンプトン・ウィンエッツ", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペンサー・コンプトンの父親には、何の称号が付けられていたか?", "id": "de-058-01-002", "answers": [ { "text": "第3代ノーサンプトン伯爵", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペンサー・コンプトンの母方の祖父には、何の称号が付けられていたか?", "id": "de-058-01-003", "answers": [ { "text": "第3代キャンプデン子爵", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペンサー・コンプトンはセント・ポールズ・スクールを経て1687年にミドル・テンプルに入学、1690年2月28日にはオックスフォード大学トリニティ・カレッジに進学した。", "qas": [ { "question": "セント・ポールズ・スクールとミドル・テンプルのうち、スペンサー・コンプトンがより早く通ったのは、どちらなの?", "id": "de-058-02-000", "answers": [ { "text": "セント・ポールズ・スクール", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペンサー・コンプトンがミドル・テンプルに入学したのは、何年でしたか?", "id": "de-058-02-001", "answers": [ { "text": "1687年", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペンサー・コンプトンがオックスフォード大学に入学したのは、何年でしたか?", "id": "de-058-02-002", "answers": [ { "text": "1690年", "answer_start": 46, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミドル・テンプルとオックスフォード大学のうち、スペンサー・コンプトンがより早く通ったのは、どちらか?", "id": "de-058-02-003", "answers": [ { "text": "ミドル・テンプル", "answer_start": 34, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "スペンサー・コンプトンは1695年イングランド総選挙でイースト・グリンステッド選挙区から出馬して敗れた後、1698年6月にアイ選挙区から選出されてホイッグ党所属の庶民院議員となる。", "qas": [ { "question": "スペンサー・コンプトンが初めて政界入りに挑戦したのは、何年なの?", "id": "de-058-03-000", "answers": [ { "text": "1695年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペンサー・コンプトンが初めて政界入りに挑戦したのは、どの選挙区においてでしたか?", "id": "de-058-03-001", "answers": [ { "text": "イースト・グリンステッド選挙区", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イースト・グリンステッド選挙区とアイ選挙区のうち、スペンサー・コンプトンがより早く出馬した選挙区は、どちらか?", "id": "de-058-03-002", "answers": [ { "text": "イースト・グリンステッド選挙区", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペンサー・コンプトンが初めて政界入りを果たしたのは、何年だったか?", "id": "de-058-03-003", "answers": [ { "text": "1698年", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "スペンサー・コンプトンの家は代々トーリー党であったが、彼自身は兄ジョージ(第4代ノーサンプトン伯爵)との個人的確執もあってホイッグ党に転じ、1698年に作成された議員リストではコート派(宮廷派)とされ、1701年にロバート・ハーレーが作成した議員リストではホイッグ党とされた。", "qas": [ { "question": "スペンサー・コンプトンの家は代々、どの党の支持者であったの?", "id": "de-058-04-000", "answers": [ { "text": "トーリー党", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペンサー・コンプトンは、トーリー党からどの党に転じましたか?", "id": "de-058-04-001", "answers": [ { "text": "ホイッグ党", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コート派とホイッグ党のうち、スペンサー・コンプトンをどちらとする議員リストがより早く作製されたか?", "id": "de-058-04-002", "answers": [ { "text": "コート派", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書では、誰の政治的性向の変化について説明しているか?", "id": "de-058-04-003", "answers": [ { "text": "スペンサー・コンプトン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペンサー・コンプトンは1704年1月に酒税法案に反対する演説を行うなど経験を積み、ジョン・スミス、ハーティントン侯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(後の第2代デヴォンシャー公爵)、ロバート・ウォルポールなど政治盟友を増やしてホイッグ党内の重鎮になった。1704年10月には会期開始間近にもかかわらずウォルポールが遅々として地方からロンドンに戻らなかったため、業を煮やして「ハーティントン卿が引き続き痛風を患っており、スミス氏がカタル性炎症で眼を患っている状況でウォルポール氏が欠席したら、哀れなホイッグ党は指導者の不在で全ての優勢を失う」とウォルポールに登院を促す手紙を出し、ウォルポールを議会の開会に間に合わせた。", "qas": [ { "question": "スペンサー・コンプトンが1704年1月に行った演説は、どの法案に反対する内容のものだったの?", "id": "de-058-05-000", "answers": [ { "text": "酒税法案", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペンサー・コンプトンは、どの党に属する者でしたか?", "id": "de-058-05-001", "answers": [ { "text": "ホイッグ党", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1704年の酒税法案に反対する演説を行ったスペンサー・コンプトンが、そのあと良い関係を築くようになった人物としては、ジョン・スミス、ウィリアム・キャヴェンディッシュのほかに、誰が挙げられているか?", "id": "de-058-05-002", "answers": [ { "text": "ロバート・ウォルポール", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペンサー・コンプトンがホイッグ党内の重鎮となるきっかけともなった演説とは、いつ行われた演説のことを指すか?", "id": "de-058-05-003", "answers": [ { "text": "1704年1月", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペンサー・コンプトンは1705年10月25日の庶民院議長選挙でホイッグ党候補のジョン・スミスに投票した後、11月7日の選挙委員会議長選挙でホイッグ党の候補として出馬、トーリー党の初代準男爵サー・ギルバート・ドルベンに勝利した。", "qas": [ { "question": "この文書で挙げられている人物のうち、ホイッグ党に属するものではないのは、誰なの?", "id": "de-058-06-000", "answers": [ { "text": "サー・ギルバート・ドルベン", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペンサー・コンプトン、ジョン・スミス、サー・ギルバート・ドルベンのうち、同じ政党に属しないのは、どちらの者ですか?", "id": "de-058-06-001", "answers": [ { "text": "サー・ギルバート・ドルベン", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペンサー・コンプトンが選挙委員会議長に当選したのは、いつの選挙でか?", "id": "de-058-06-002", "answers": [ { "text": "11月7日", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペンサー・コンプトン、ジョン・スミス、サー・ギルバート・ドルベンのうち、同じ選挙に出馬したものではないのは、どちらか?", "id": "de-058-06-003", "answers": [ { "text": "ジョン・スミス", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "その後もスペンサー・コンプトンは政府を支持、1707年にはスコットランドとの合同法を通過させることに貢献した。この頃にはスミスが議長を退任した場合の後釜として挙げられるほどの名声を得ており、1707年3月に年金主計官に任命されたほか、1708年2月にハーレーの派閥が官職を辞任すると戦時大臣への就任が噂され、続いて11月にホイッグ党の候補として庶民院議長選挙に出馬するとの噂が流れた。", "qas": [ { "question": "スコットランドとの合同法が通過したのは、何年のことなの?", "id": "de-058-07-000", "answers": [ { "text": "1707年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この頃、スミスが辞任した場合の後任として名が挙げられたのは、誰ですか?", "id": "de-058-07-001", "answers": [ { "text": "スペンサー・コンプトン", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スペンサー・コンプトンが年金主計官に任命されたのは、いつのことか?", "id": "de-058-07-002", "answers": [ { "text": "1707年3月", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペンサー・コンプトンがホイッグ党の候補として庶民院議長選挙に出馬するとの噂が流れたのは、何年のことか?", "id": "de-058-07-003", "answers": [ { "text": "1708年", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし一方でスペンサー・コンプトンは1707年に大蔵卿ゴドルフィン伯爵を支持して一時はジャントーと対立、1708年に和解したものの1710年イギリス総選挙で後援者のコーンウォリス男爵に外される一因となった(1710年の情勢がホイッグ党に不利だったことも関係した)。", "qas": [ { "question": "1707年にスペンサー・コンプトンは、誰を支持する旨を示したの?", "id": "de-058-08-000", "answers": [ { "text": "ゴドルフィン伯爵", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1707年にスペンサー・コンプトンと対立した勢力は、何ですか?", "id": "de-058-08-001", "answers": [ { "text": "ジャントー", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コーンウォリス男爵はどの勢力に属するものだったと予測できますか?", "id": "de-058-08-002", "answers": [ { "text": "ジャントー", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "何年のスペンサー・コンプトンの行動が、1710年のイギリス総選挙に悪影響を及ぶ結果をもたらしたか?", "id": "de-058-08-003", "answers": [ { "text": "1707年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その結果、コンプトンは1710年の選挙ではコーンウォリス男爵の支持を受けられず、同年のヘンリー・サシェヴェレル弾劾裁判で人気を失ったため、ほかの選挙区で出馬することを選ばず議員を退任した。選挙の後に成立したハーレー内閣では年金主計官に留任したほか1711年1月に400ポンドの年金を与えられたが、1713年夏に年金を放棄、その直後に年金主計官を解任された。", "qas": [ { "question": "コンプトンが属する党の有力者は、誰だったの?", "id": "de-058-09-000", "answers": [ { "text": "コーンウォリス男爵", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コンプトンがその名声を失うきっかけとなった事件は、何でしたか?", "id": "de-058-09-001", "answers": [ { "text": "ヘンリー・サシェヴェレル弾劾裁判", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘンリー・サシェヴェレル弾劾裁判は、何年に行われたか?", "id": "de-058-09-002", "answers": [ { "text": "1710年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コンプトンにハーレー内閣から任せられた役とは、何だったか?", "id": "de-058-09-003", "answers": [ { "text": "年金主計官", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1727年5月にジョージ1世が死去して、王太子ジョージがジョージ2世として即位すると、ジョージ2世はウォルポールに対し、コンプトンから指示を仰ぐよう命じた。", "qas": [ { "question": "ジョージ1世が死去したのは、いつだったの?", "id": "de-058-10-000", "answers": [ { "text": "1727年5月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョージ1世の後を継いだのは、誰ですか?", "id": "de-058-10-001", "answers": [ { "text": "ジョージ2世", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジョージ2世が即位したのは、何年か?", "id": "de-058-10-002", "answers": [ { "text": "1727年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1737年にシャーロット王妃が死去した後、ウィルミントン伯爵は再び首相就任への野望を燃やした。", "qas": [ { "question": "シャーロット王妃が死去したのは、何年のことなの?", "id": "de-058-11-000", "answers": [ { "text": "1737年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィルミントン伯爵が再び首相就任への野望を燃やしたのは、何年のことですか?", "id": "de-058-11-001", "answers": [ { "text": "1737年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "誰が死ぬと、ウィルミントン伯爵は再び首相就任への野望を燃やしたか?", "id": "de-058-11-002", "answers": [ { "text": "シャーロット王妃", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "例えば、1739年に対スペイン戦争をめぐって内閣が分裂したとき、ウィルミントンは国王の意見に同調して開戦を強く支持し、1741年2月に第2代カートレット男爵ジョン・カートレット(後の第2代グランヴィル伯爵)がウォルポールの不信任決議案を提出したときは閣僚にもかかわらず反対票を投じなかった。", "qas": [ { "question": "対スペイン戦争においてウィルミントンは、どのような意見を支持したの?", "id": "de-058-12-000", "answers": [ { "text": "開戦", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスで対スペイン戦争に対する論争があったのは、何年のことですか?", "id": "de-058-12-001", "answers": [ { "text": "1739年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジョン・カートレットがウォルポールの不信任決議案を提出したのは、いつのことか?", "id": "de-058-12-002", "answers": [ { "text": "1741年2月", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1741年2月にウォルポールの不信任決議案を提出したのは、誰か?", "id": "de-058-12-003", "answers": [ { "text": "ジョン・カートレット", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)", "paragraphs": [ { "context": "第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(英語:CharlesGrey,2ndEarlGrey,KG,PC、1764年3月13日-1845年7月17日)は、イギリスの政治家、貴族である。", "qas": [ { "question": "チャールズ・グレイは、第何代グレイ伯爵なの?", "id": "de-059-00-000", "answers": [ { "text": "第2代", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャールズ・グレイは、どの国の者ですか?", "id": "de-059-00-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャールズ・グレイの職業としては、何が挙げられているか?", "id": "de-059-00-002", "answers": [ { "text": "政治家", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チャールズ・グレイは、どの身分に当たるものだったか?", "id": "de-059-00-003", "answers": [ { "text": "貴族", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "チャールズ・グレイは1764年3月13日に陸軍将校チャールズ・グレイ(のちの初代グレイ伯爵)の息子としてノーサンバーランド・ファラドンに生まれる。母はエリザベス・グレイ(ジョージ・グレイの娘)である。", "qas": [ { "question": "チャールズ・グレイはいつ生まれたの?", "id": "de-059-01-000", "answers": [ { "text": "1764年3月13日", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャールズ・グレイの父親は、誰でしたか?", "id": "de-059-01-001", "answers": [ { "text": "チャールズ・グレイ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャールズ・グレイはどこで生まれたか?", "id": "de-059-01-002", "answers": [ { "text": "ノーサンバーランド・ファラドン", "answer_start": 52, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャールズ・グレイの母親は、誰か?", "id": "de-059-01-003", "answers": [ { "text": "エリザベス・グレイ", "answer_start": 75, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "チャールズ・グレイはイートン・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。大学を出た後、ミドル・テンプルで学ぶ。", "qas": [ { "question": "イートン・カレッジとケンブリッジ大学のうち、チャールズ・グレイはどちらに、より早く通ったの?", "id": "de-059-02-000", "answers": [ { "text": "イートン・カレッジ", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イートン・カレッジとケンブリッジ大学、ミドル・テンプルのうち、チャールズ・グレイはどちらに、最も早く通ったの?", "id": "de-059-02-001", "answers": [ { "text": "イートン・カレッジ", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "チャールズ・グレイはケンブリッジ大学を卒業した後、どこに進学したか?", "id": "de-059-02-002", "answers": [ { "text": "ミドル・テンプル", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チャールズ・グレイの最終学歴は、どこに通ったことか?", "id": "de-059-02-003", "answers": [ { "text": "ミドル・テンプル", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "チャールズ・グレイは1786年にノーザンバーランド選挙区からホイッグ党候補として立候補し、庶民院議員に当選した(1807年までこの選挙区から当選し、ついで1807年5月から6月までウェストモーランド州アップルビー選挙区から、同年6月から爵位を継承する11月までデヴォン州タヴィストック選挙区から選出される)。ホイッグ党内では改革派のチャールズ・ジェームズ・フォックスの派閥に属した。グレイはフォックス派の中でも特に将来有望な若手議員であり、早いうちに同派の指導的地位に昇りつめた。", "qas": [ { "question": "チャールズ・グレイが初めて政界入りを果たしたのは、いつのことなの?", "id": "de-059-03-000", "answers": [ { "text": "1786年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "チャールズ・グレイにとって初政界入りとは、どの選挙区から当選したことですか?", "id": "de-059-03-001", "answers": [ { "text": "ノーザンバーランド選挙区", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "チャールズ・グレイはどの党所属だったか?", "id": "de-059-03-002", "answers": [ { "text": "ホイッグ党", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホイッグ党でチャールズ・グレイは、誰を指導者とする派閥に属していたか?", "id": "de-059-03-003", "answers": [ { "text": "チャールズ・ジェームズ・フォックス", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "グレイは1792年4月に他のフォックス派議員27人とともに「国民の友協会」を結成した。同組織は目的として「選挙の自由と議会における国民のより平等な代表の復活」「国民の選挙権のより頻繁な行使」を掲げていた。こうした改革を行うことによって国民が共和政革命を起こさないようにすることを狙いとしていた。", "qas": [ { "question": "「国民の友協会」が結成されたのは、いつのことなの?", "id": "de-059-04-000", "answers": [ { "text": "1792年4月", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「国民の友協会」は、どの派の者らにより結成された組織ですか?", "id": "de-059-04-001", "answers": [ { "text": "フォックス派", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「国民の友協会」は、グレイと何人の議員で結成された組織か?", "id": "de-059-04-002", "answers": [ { "text": "27人", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「国民の友協会」が目的として揚げていたのは、「選挙の自由と議会における国民のより平等な代表の復活」と何だったか?", "id": "de-059-04-003", "answers": [ { "text": "「国民の選挙権のより頻繁な行使」", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "18世紀の党派は党首個人の人脈の集まりという要素が強かったので、党首が死ぬと解散してしまう傾向があったが、イデオロギー的・精神的結合を確立していたフォックス派はフォックスの死後も消滅せず、グレイを中心にして結束を維持した。", "qas": [ { "question": "18世紀のイギリスの党派は、どんな性格の強いものだったの?", "id": "de-059-05-000", "answers": [ { "text": "党首個人の人脈の集まり", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "18世紀のイギリスの党派としては珍しい性格を見せた党派としては、どの派が挙げられていますか?", "id": "de-059-05-001", "answers": [ { "text": "フォックス派", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フォックス派の中心となる役割は、フォックスが死ぬとともに誰に移ったか?", "id": "de-059-05-002", "answers": [ { "text": "グレイ", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "18世紀のイギリスの党派の性格は持っていたものの、党首が死んだ後の動きにおいて異なる様子を見せたのは、どの派か?", "id": "de-059-05-003", "answers": [ { "text": "フォックス派", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "グレンヴィル男爵内閣の後を受けたトーリー党政権ポートランド公爵内閣はすぐにも解散総選挙に踏み切った。この総選挙でトーリー、ホイッグの政党名が復活し、国王が大権でグランヴィル男爵内閣を更迭したことを支持する者をトーリー、支持しない者をホイッグと呼ぶようになった。選挙結果はトーリー党政権の勝利に終わり、これによりトーリー長期政権の基盤ができた。", "qas": [ { "question": "グレンヴィル男爵とポートランド公爵のうち、より早くイギリス首相についたのは、誰だったの?", "id": "de-059-06-000", "answers": [ { "text": "グレンヴィル男爵", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポートランド公爵は、どの党に属するものでしたか?", "id": "de-059-06-001", "answers": [ { "text": "トーリー党", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "誰が首相になった時点からトーリー党の長期集権が始まったか?", "id": "de-059-06-002", "answers": [ { "text": "ポートランド公爵", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "国王の意見に同調しない勢力のことを何と呼んだか?", "id": "de-059-06-003", "answers": [ { "text": "ホイッグ", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "またグレイ伯爵とホイッグ党は国王ジョージ4世から嫌われていたため、彼の治世中には組閣の大命を受けられる見込みがなかった。結局グレイ伯爵率いるホイッグ党は、1830年までの長期に渡って野党に甘んじることになった。", "qas": [ { "question": "当時、イギリスの王座には誰が座っていたの?", "id": "de-059-07-000", "answers": [ { "text": "ジョージ4世", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、ホイッグ党の首長は誰でしたか?", "id": "de-059-07-001", "answers": [ { "text": "グレイ伯爵", "answer_start": 2, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホイッグ党が長い間、野党に甘んじることになったのは、誰から嫌われていたからか?", "id": "de-059-07-002", "answers": [ { "text": "ジョージ4世", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ホイッグ党が野党の立場から脱出できたのは、何年以降のことか?", "id": "de-059-07-003", "answers": [ { "text": "1830年", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1828年1月に成立したウェリントン公爵内閣(トーリー党政権)はカトリック解放問題や選挙法改正問題をめぐって内部分裂を起こし、カニング派やウルトラ・トーリーの政権離反を招いた。一方グレイ伯爵はカトリック解放・選挙法改正の実現を目標を掲げることでホイッグ党内の各派閥を一致団結させることに成功した。", "qas": [ { "question": "ウェリントン公爵が首相になったのは、いつのことなの?", "id": "de-059-08-000", "answers": [ { "text": "1828年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウェリントン公爵内閣が組閣されたのは、いつのことですか?", "id": "de-059-08-001", "answers": [ { "text": "1828年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウェリントン公爵内閣の分裂原因となったのは、カトリック解放問題とどの問題を巡った意見対立だったか?", "id": "de-059-08-002", "answers": [ { "text": "選挙法改正問題", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、ホイッグ党の指導者であったのは、誰か?", "id": "de-059-08-003", "answers": [ { "text": "グレイ伯爵", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1830年6月にはホイッグ嫌いのジョージ4世が崩御し、グレイ伯爵の友人だったウィリアム4世が国王に即位した。当時の慣例であった国王即位に伴う解散総選挙はトーリー党政権が多数を得たものの、グレイ伯爵はカニング派やウルトラ・トーリーなど他の野党勢力との連携を深めていき、1830年11月にも王室費に関する政府法案に反対する動議を233対204の僅差で可決させた。これによりウェリントン公爵内閣は総辞職に追い込まれた。", "qas": [ { "question": "ジョージ4世が死去したのは、いつなの?", "id": "de-059-09-000", "answers": [ { "text": "1830年6月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョージ4世の後を継ぎ、イギリス王になったのは、誰ですか?", "id": "de-059-09-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム4世", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィリアム4世が即したのは、何年のことか?", "id": "de-059-09-002", "answers": [ { "text": "1830年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウェリントン公爵内閣を総辞職に追い込めたのは、誰を筆頭とする野党勢力だったか?", "id": "de-059-09-003", "answers": [ { "text": "グレイ伯爵", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "国王ウィリアム4世より組閣の大命を受け、1830年11月22日にグレイ伯爵内閣が組閣された。同内閣はホイッグ党、カニング派、ウルトラ・トーリーの連立政権であった。閣僚の面子は全体的には貴族主義的だったが、ダーラム伯爵やジョン・ラッセル卿ら改革派も閣僚に登用されていた。", "qas": [ { "question": "ウィリアム4世は、誰に組閣の大命を下したの?", "id": "de-059-10-000", "answers": [ { "text": "グレイ伯爵", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "グレイ伯爵内閣が組閣されたのは、いつですか?", "id": "de-059-10-001", "answers": [ { "text": "1830年11月22日", "answer_start": 20, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グレイ伯爵がイギリス首相となったのは、いつか?", "id": "de-059-10-002", "answers": [ { "text": "1830年11月22日", "answer_start": 20, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "グレイ伯爵がイギリス首相となった時、イギリスの王座には誰が座っていたか?", "id": "de-059-10-003", "answers": [ { "text": "ウィリアム4世", "answer_start": 2, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "政界引退後、チャールズ・グレイは再びノーサンバーランドで田園生活を送ることが多くなった。1834年11月14日、ラッセルらホイッグ左派を閣僚に入れる人事案をめぐって新首相メルバーン子爵と対立を深めていた国王は内閣更迭に踏み切り、短期間の保守党(旧トーリー党)政権を誕生させたが、1835年4月9日にも保守党政権はアイルランド教会税法案の採決に敗れて倒閣された。", "qas": [ { "question": "チャールズ・グレイは、政界引退した後、どこで生活を送ったの?", "id": "de-059-11-000", "answers": [ { "text": "ノーサンバーランド", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メルバーン子爵内閣が解散されるようになったのは、何年のことですか?", "id": "de-059-11-001", "answers": [ { "text": "1834年", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メルバーン子爵内閣が更迭された後、政権を握ったのは、どの党だったか?", "id": "de-059-11-002", "answers": [ { "text": "保守党", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "保守党が政権を失ったのは、何年のことか?", "id": "de-059-11-003", "answers": [ { "text": "1835年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1837年に即位したヴィクトリア女王からも政界の長老として厚い信頼を寄せられたが、彼女にとっては現役首相メルバーン子爵が最も信頼できる相談役であったので、彼女のもとではグレイ伯爵が相談に与る事は少なかった。", "qas": [ { "question": "ヴィクトリア女王が即位したのは、何年なの?", "id": "de-059-12-000", "answers": [ { "text": "1837年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1837年の時点でイギリス首相には誰がついていましたか?", "id": "de-059-12-001", "answers": [ { "text": "メルバーン子爵", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "水琴窟", "paragraphs": [ { "context": "水琴窟(すいきんくつ)は、日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する機能をもつ。\n水琴窟という名称の由来は不明である。\n同系統もしくは同義の言葉に洞水門(とうすいもん)がある。\n伏鉢水門、伏瓶水門ともいう。", "qas": [ { "question": "洞水門(とうすいもん)、伏鉢水門、伏瓶水門といくつかの名称がある日本庭園の装飾の1つは何?", "id": "de-060-00-000", "answers": [ { "text": "水琴窟", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『桜山一有筆記』には、小堀政一が18歳の時に以下のような水琴窟を造り、古田重然を驚かせたという逸話が登場する。\n『桜山一有筆記』には、「洞水門、摺鉢水門は遠州より初まりし事也」と記されている。\n江戸時代に庭園の設備として用いられるようになり、明治時代には盛んに用いられたが次第に廃れていった。\n1980年代に新聞やテレビ番組で取り上げられたことをきっかけにその存在が広く知られるようになった。", "qas": [ { "question": "水琴窟が庭園の設備として用いられ始めた時代はいつ?", "id": "de-060-01-000", "answers": [ { "text": "江戸時代", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "水琴窟が使用が途絶え始めたのはいつの時代?", "id": "de-060-01-001", "answers": [ { "text": "明治時代", "answer_start": 121, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "水琴窟が再び脚光を浴び始めたのはいつから?", "id": "de-060-01-002", "answers": [ { "text": "1980年代", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小堀政一が水琴窟のことを”洞水門”と記した書物は何?", "id": "de-060-01-003", "answers": [ { "text": "『桜山一有筆記』", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "水琴窟は手水鉢の近くに設けられた地中の空洞の中に手水鉢の排水を落とし、その音が地上に聞こえるように設計される。\nこの時、排水は滴水化して落とす。\n具体的な過程としては、縦穴を伝って流れ落ちた水が水滴となって空洞の底面に溜まった水に落ち、その際に発せられた音がヘルムホルツ共鳴によって増幅され、縦穴を通して外部に漏れる。", "qas": [ { "question": "水琴窟の音は、何という仕組みによって増幅されるのかな?", "id": "de-060-02-000", "answers": [ { "text": "ヘルムホルツ共鳴", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "多くの場合、空洞は瓶を逆さにして地中に埋めることによって作りだされる。\n空洞の形状には吊鐘形(円柱形、上部は半球形)、銅壺形(角柱形、上部は水平もしくは若干反った形)、龕灯形(円柱形、上部はが大きく反った形)がある。\n東京農業大学教授の平山勝蔵によると、音響面の効果は吊鐘形が最も大きい。\nより大きな効果を得るための方法としては吊鐘形の空洞を二重に設ける、空洞の側壁の裏側に隙間を造り出すといった方法がある。\n空洞の幅と深さの関係のバランスによって音の質に違いが生じる。\n空洞の側面および上部は石・陶器・金属などによって造られ、側面には土留が設置される。\n底部は丸小石、割石、煉瓦、瓦などによって造られる。\n滴音の反響を大きくするには底部に水を溜める工夫をする必要がある。\n空洞の上部には水を落とし、さらに音を空洞の外部に漏らすための縦穴をあける。\n平山はこの縦穴の寸法について、「内法3cm、深さ3cm」が最適としている。\n水が空洞の壁を伝って流れ落ちないようにするため、縦穴の下端には水切りを用意する必要がある。\n縦穴の上部は方形または円形かつすり鉢状に整形される。\nこの部分は流れ落ちる水の量および勢いが必要以上のものとなることを防ぐための堤防の機能をもち、滴音が一定に保たれる。", "qas": [ { "question": "空洞の形状の種類の中で、音響面の効果が最も大きいのは何形ですか?", "id": "de-060-03-000", "answers": [ { "text": "吊鐘形", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "空洞の外部に音を漏らすためにあける縦穴の最適寸法は何ですか?", "id": "de-060-03-001", "answers": [ { "text": "「内法3cm、深さ3cm」", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "空洞の形状の種類のうち、円柱形を伴っていないものは何ですか?", "id": "de-060-03-002", "answers": [ { "text": "銅壺形", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "伝統的な水琴窟は茶室前の蹲踞(つくばい)に併設されることが多い。\n空洞の中に溜まる水の量を一定に保つ(溜まり過ぎた水を排出する)ため、底には排水管が設けられる。\n瓶を使用する場合、その底(空洞の頂上部)には穴が開けられ、地上から水を導くための管が取り付けられる。", "qas": [ { "question": "伝統的な水琴窟は、茶室前の何に付け加えて設置されることが多いの?", "id": "de-060-04-000", "answers": [ { "text": "蹲踞", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "現代における瓶を用いた構築方法の一例について述べると、まず、瓶の底に穴を開ける。\n次に逆さにして地中に埋めた際に水が溜まるよう、瓶の口を塞ぐ。\n方法は8分目まで砂を入れ、その上にモルタルを流し込み、それが固まった後で水を注いで砂を流しだす。\nその際に排水管も取り付ける。\nなおモルタルで口を塞がない場合については#穴の中に瓶を入れるの節で述べる。\n次に瓶を埋めるための穴を掘る。\n一般に、穴の底には排水管を通して流れてきた水を自然排水するための層(排水層)を作る。\n具体的には一番下に栗石(川原などの石)などを敷き、その上に砂を入れる。\n砕石や瓦を入れてもよい。\nその上に瓶を置くため、砂の層は水平にする。\n別途排水設備を備え付ける場合には排水層を設けず、直接瓶を逆さにして入れてもよい。\nなお、掘った穴が崩れるのを防ぐため、井戸枠を入れる場合もある。\n井戸枠と穴の壁との間の隙間は土などを入れて突き固める。", "qas": [ { "question": "水琴窟を構築する際に使用する瓶はどのような向きで地中に埋められるの?", "id": "de-060-05-000", "answers": [ { "text": "逆さ", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "瓶を加工する際に8分目まで砂を入れた後、何を流し込むの?", "id": "de-060-05-001", "answers": [ { "text": "モルタル", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "次いで穴の中に瓶を逆さに入れる。\nこの時、砂の中に瓶が埋まらないように、砂の上にコンクリートブロックなどを置き、その上に瓶を乗せるようにする。\n瓶を置いた後は、瓶と穴の壁(もしくは井戸枠)の隙間に砕石を入れる。\n砕石は瓶の底(空洞の天井部)と同じ高さまで入れる。\nその後はネットを引きその上に砂利を敷く。\nこの際、瓶の底の穴管を通すなど、排水が水滴となって瓶の中へ落ちるための工夫を施す。\n工夫を施さない場合、水は瓶の側面を伝うだけで水滴とならない場合がある。\nまた、砂利などが穴の中に落ちないようする。\nちなみに瓶の口をモルタルで塞いでいない場合の瓶の置き方には以下のようなものがある。\nそれは、瓶の口を直接土に触れる形で逆さに置く方法、穴の底に受け皿を敷いてその上に瓶を逆さに乗せる方法、瓶の上に別の瓶を逆さに乗せることで蓋をする方法である。\nこの後、手水鉢を設置する。\n水琴窟に流れ込む排水の量が多すぎると良い音が出ない場合があるので、水琴窟の口とは別の排水口も設置する。", "qas": [ { "question": "穴の中に瓶を入れた後に設置するものは何?", "id": "de-060-06-000", "answers": [ { "text": "手水鉢", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水琴窟に流れ込む排水の量が多すぎると良い音が出ない場合があるので、それを回避するために設置するものとは何?", "id": "de-060-06-001", "answers": [ { "text": "別の排水口", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "水琴窟の音は、地中に作りだされた小さな空洞の中に水滴を落とした際に発生する音で、音を空洞内で反響させ、地上に漏らしたものである。\n音が小さい場合、聞くための竹筒などを設置してある場合もある。\n平山勝蔵によると、水琴窟の音は底部に溜まった水の深さに影響される。\n平山は深さが深ければ「静的な深みのある音」が、浅ければ「騒的な軽い音」が出、水琴窟内部の空洞の高さの1/10ほど水が溜まった際に「清楚にして中和せる」、最良の音が出る。\nまた、水滴が底部の中心部に落ちると「正確にして且豊か」で、中心から外れるほど「繁雑にしてかつ貧しきものとなる」。", "qas": [ { "question": "水琴窟の底部に溜まった水の深さが深ければどのような音がなると平山は言っていますか?", "id": "de-060-07-000", "answers": [ { "text": "「静的な深みのある音」", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水琴窟の底部に溜まった水の深さが浅ければどのような音がなると平山は言っていますか?", "id": "de-060-07-001", "answers": [ { "text": "「騒的な軽い音」", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水琴窟の最良の音が出るのは、水琴窟内部の空洞にどれくらいの水が溜まる時なのか?", "id": "de-060-07-002", "answers": [ { "text": "空洞の高さの1/10ほど", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "瓶を用いる場合、天井入り口周辺の裏側にわざと規則的に凹凸を作ることによって、より大きな水滴ができる。\n大きな水滴が落ちる時に生じる、従水という「小さな水滴」が「大きな水滴」に追随して共に落ちていく事で、大きな水滴が水面に生んだ椀状ドームの中に小さな水滴が落ちて、ドームと瓶の中で音が反響し、より綺麗な音が鳴るとされている。\n水滴の落ち方にはいくつかの種類がある。\nまず、間欠的な落ち方と連続的な落ち方があり、間欠的な落ち方には滴水の間隔が1秒ほどのもの(短間欠的点滴)と2秒以上のもの(長間欠的点滴)とがある。\nまた、水滴が1箇所から落ちる場合(一条点滴)と2箇所または3箇所から落ちる場合(二条点滴、三条点滴)とがある。\nこれらは水量で調整される。\n水琴窟の音は「極めて静穏な庭園」において、縦穴の上部から半径2m以内の地点で明瞭に、半径4m以内の地点で比較的明瞭に聞き取ることができる。", "qas": [ { "question": "短間欠的点滴と長間欠的点滴のうち、落ちる滴水の間隔時間が長いのはどちら?", "id": "de-060-08-000", "answers": [ { "text": "長間欠的点滴", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "短間欠的点滴と長間欠的点滴のうち、落ちる滴水の間隔時間が短いのはどちら?", "id": "de-060-08-001", "answers": [ { "text": "短間欠的点滴", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "一条点滴、二条点滴、三条点滴の中で、水滴が落ちる箇所が最も少ないのはどれ?", "id": "de-060-08-002", "answers": [ { "text": "一条点滴", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "一条点滴、二条点滴、三条点滴の中で、水滴が落ちる箇所が最も多いのはどれ?", "id": "de-060-08-003", "answers": [ { "text": "三条点滴", "answer_start": 301, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "現代では、伝統にこだわらず、様々なバリエーションの水琴窟の制作が試みられている。\nたとえば以下のような例がある。\n手水鉢が併設されていない、あるいは日本庭園にはない、水がとぎれることなく連続的に流れるような工夫がされている、陶器の代りに金属の瓶が用いられている、地面ではなく彫刻などの一部として設置されている、屋内での設置、音が聞こえやすいように電子的に増幅され、スピーカで流される、内部のメンテナンスができるように設計されたもの、といったものである。\n上記のいくつかを兼ね備えた例として京都駅ビルにあった水琴モニュメント「火の鳥水時計」や名古屋駅ビル12階にある水琴モニュメント、洲本市民広場にあるモニュメント「くにうみの刻」が挙げられる。", "qas": [ { "question": "洲本市民広場に設置された現代風の水琴窟とは何を指しているの?", "id": "de-060-09-000", "answers": [ { "text": "「くにうみの刻」", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "京都駅ビルにある現代風の水琴モニュメントは何?", "id": "de-060-09-001", "answers": [ { "text": "「火の鳥水時計」", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "陳朝", "paragraphs": [ { "context": "陳朝(チャンちょう、ちんちょう、ベトナム語:NhàTrần/家陳、ベトナム語:Trầntriều/陳朝)は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝である。国号は大越であり、首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)である。", "qas": [ { "question": "陳朝は、現在のどの地域を支配していた王朝なの?", "id": "de-061-00-000", "answers": [ { "text": "ベトナム北部", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "陳朝が滅びたのは、何年のことですか?", "id": "de-061-00-001", "answers": [ { "text": "1400年", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陳朝の首都は、どこだったか?", "id": "de-061-00-002", "answers": [ { "text": "昇龍", "answer_start": 100, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1225年から1400年までベトナム北部を支配していた王朝は、何か?", "id": "de-061-00-003", "answers": [ { "text": "陳朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "皇族である陳氏の祖先は福建、もしくは桂林からの移住民であり、現在のナムディン省とタイビン省一帯を根拠地とし、一族は漁業と水運業で生計を立てていた。また、漁業と水運業の傍らで海賊業を行っていた伝承も存在する。", "qas": [ { "question": "陳氏の祖先は、福建やどこからの移民だったの?", "id": "de-061-01-000", "answers": [ { "text": "桂林", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "陳氏の祖先は、現在のどことタイビン省一帯を根拠地としていましたか?", "id": "de-061-01-001", "answers": [ { "text": "ナムディン省", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "李朝支配下の北ベトナムでは12世紀末より政権の腐敗が甚だしく、天災による飢饉によって民衆は窮乏し、治安は悪化していた。乂安(ゲアン)、清化(タインホア)、寧平(ニンビン)では民衆の反乱が起こり、各地の豪族の中にも朝廷に反逆する者が現れる。1208年に乂安の反乱を鎮圧するために招集した軍隊が昇龍で反乱を起こすと、皇帝・高宗ら李朝の皇族は昇龍から放逐され、反乱の鎮圧に陳氏の力を借りることになる。1209年、陳氏の長であった陳李は高宗たちを保護するが翌年盗賊に討たれ、代わって次男の陳嗣慶(チャン・トゥ・カイン)を中心とする陳氏は高宗を擁して昇龍に入城し、以降朝廷で陳氏の勢力が台頭してゆくこととなる。", "qas": [ { "question": "李朝支配下の北ベトナムは、何世紀末から、色々の場面において、悪い状況に陥ていたか?", "id": "de-061-02-000", "answers": [ { "text": "12世紀末", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1208年の昇龍で起きた反乱の主体は、どこの反乱鎮圧のために集結した軍隊だったか?", "id": "de-061-02-001", "answers": [ { "text": "乂安", "answer_start": 125, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陳氏の勢力が台頭するのは、何年に起きた反乱の鎮圧の時か?", "id": "de-061-02-002", "answers": [ { "text": "1208年", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "昇龍での反乱の鎮圧を成し遂げたのは、誰の率いる陳氏の勢力だったか?", "id": "de-061-02-003", "answers": [ { "text": "陳嗣慶", "answer_start": 240, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "乱の鎮圧中に陳李によって擁立された皇子・李旵が即位する(恵宗)と、陳李の次男である陳嗣慶の妹・仲女を恵宗の后に、恵宗の母である譚氏を太后として、陳氏と譚太后の共同統治が行われる。やがて陳嗣慶と譚太后の間に対立が起きるが、陳嗣慶は恵宗の支持を得て、譚太后一派との政争に勝利し、宮廷内での地位を確立した。内乱の鎮圧にあたって陳嗣慶は兄の陳承、従弟の陳守度(チャン・トゥ・ド)ら一族と連携し、陳嗣慶の死後は殿前指揮使の高位に就いていた陳守度が陳氏の中心人物となった。", "qas": [ { "question": "恵宗の后になった人物は、誰の娘だったの?", "id": "de-061-03-000", "answers": [ { "text": "陳李", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "乱が鎮圧されると、恵宗の母である譚氏と何の氏の家による共同政治が行われましたか?", "id": "de-061-03-001", "answers": [ { "text": "陳氏", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陳嗣慶と譚太后の対立は、誰の勝利で終わったか?", "id": "de-061-03-002", "answers": [ { "text": "陳嗣慶", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陳承の父親は、誰か?", "id": "de-061-03-003", "answers": [ { "text": "陳李", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1224年に陳守度は恵宗を退位させて7歳の次女である李仏金(リ・パット・キム)を皇帝に擁立し(昭皇)、恵宗を寺院に隠棲させた。陳守度は8歳の従甥・陳煚(チャン・カイン)を昭皇の遊び相手とした後、陳煚と昭皇を結婚させる。1225年に昭皇から陳煚への譲位が行われ、陳煚を皇帝(太宗)、陳煚の父である陳承を上皇とする陳朝が成立する。陳朝成立後に陳守度は李旵を隠棲先の寺で自害させ、李朝再興の芽を摘むために李旵の葬儀に集まった李氏の一族を殺害するとともに、李氏の女子たちを紅河デルタ周辺の部族勢力に嫁がせ、彼らとの修好を図った。", "qas": [ { "question": "陳守度により、退位させられたのは、誰なの?", "id": "de-061-04-000", "answers": [ { "text": "恵宗", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "李仏金が皇帝に即位したのは、何年のことですか?", "id": "de-061-04-001", "answers": [ { "text": "1224年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "陳煚が皇帝に即位したのは、何年のことか?", "id": "de-061-04-002", "answers": [ { "text": "1225年", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "陳朝が成立したのは、何年のことか?", "id": "de-061-04-003", "answers": [ { "text": "1225年", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "太宗の治世初期では陳守度が皇帝を輔弼して王朝の基礎を固め、李朝末期より発生していた反乱も鎮圧された。1237年に太宗は陳守度の進言によって、子のなかった昭聖皇后(仏金)に代えて、兄の陳柳の妻である李氏罃を妊娠中にもかかわらず奪って皇后とした。妻を奪われた陳柳は反乱を起こし、一時は太宗が安子山に隠遁する事態に至る。結局騒動は陳守度によって収拾され、陳守度との抗争に敗れた陳柳は安生王として紅河デルタの東端(現在のクアンニン省)に封じられた。太宗の親政が始まった1240年代より官・軍・法の各種制度の制定が実施され、1242年に国内を12の路に分けての行政区画と戸籍の整備が行われた。1248年には治水に携わる新たな官職として河堤使が設置され、「水源から海に至る」と言われた、総延長200キロメートルにも及ぶ大堤防「鼎耳防」の建設令が出された。", "qas": [ { "question": "1237年に皇后になった人物は、誰の妻だったの?", "id": "de-061-05-000", "answers": [ { "text": "陳柳", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "陳柳が起こした乱は、誰により鎮圧されましたか?", "id": "de-061-05-001", "answers": [ { "text": "陳守度", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陳柳は、何年の出来事を理由に乱を起こしたか?", "id": "de-061-05-002", "answers": [ { "text": "1237年", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "太宗の治世で実権を握っていたのは、誰か?", "id": "de-061-05-003", "answers": [ { "text": "陳守度", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "太宗の治世の末期である1257年から、雲南を占領したモンゴル軍によるベトナム侵攻が始まる。1257年末にモンゴルのウリヤンカダイ率いる軍隊が北方の国境地帯に現れ、太宗にモンゴルへの従属を求める使者を送った。3度送られたモンゴルの使者はいずれも太宗の命令で投獄され、大越ではモンゴルの侵入に備えて軍備が整えられた。同年末に使者が帰還しないことに業を煮やしたウリヤンカダイの攻撃が始まった。モンゴル軍は紅河を渡河して昇龍を略奪し、太宗は昇龍を放棄して陳守度と共に南方の天幕(ティエンマク、現在のハナム省ズイティエン)に退避した。モンゴル軍が北方に引き返すと太宗は次男の陳晃(聖宗)に譲位し、使節をウリヤンカダイの軍隊に同行させて大ハーン・モンケの宮廷に派遣した。", "qas": [ { "question": "モンゴル軍によるベトナム侵攻が始まったのは、何年からなの?", "id": "de-061-06-000", "answers": [ { "text": "1257年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1257年末、誰が率いるモンゴル軍が北方の国境地帯に現れましたか?", "id": "de-061-06-001", "answers": [ { "text": "ウリヤンカダイ", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1257年末にモンゴル軍は、北方の国境地帯に現れたのは、何の要求が目的であったか?", "id": "de-061-06-002", "answers": [ { "text": "モンゴルへの従属", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウリヤンカダイの率いるモンゴル軍が攻撃してきたのは、何年末のことか?", "id": "de-061-06-003", "answers": [ { "text": "1257年末", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "モンケの没後にクビライが大ハーンに即位して元が成立した後も、聖宗はモンゴルへの臣従政策を維持する。1262年に聖宗は元に一定額の金銀宝石、医薬品、象牙、犀角を3年に1度貢納すること(三年一貢)を約したが、1267年に大越にいくつかの条件が新たに課される。その条件とは、国王自身の来朝、人質として王子を差し出すこと、戸籍簿の提出、兵力の提供、租税の納付、元から派遣された代官(ダルガチ)の駐屯といったものであった。元が課した要求は過大な貢物と国王の入朝が要求される反面、元の軍事作戦が成功すればその恩恵に与ることができるという、中央アジアなどの他国家に課せられていたものだった。だが、大越は元からの要求に抵抗を示した。", "qas": [ { "question": "1262年、聖宗は元に、何年に一度、一定額の金銀宝石、医薬品、象牙、犀角を貢納することを約束したの?", "id": "de-061-07-000", "answers": [ { "text": "3年", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "元から大越に新たな条件が課されたのは、何年のことですか?", "id": "de-061-07-001", "answers": [ { "text": "1267年", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1267年に元から新たに課された条件には、誰を人質として差し出すとの条項もあったか?", "id": "de-061-07-002", "answers": [ { "text": "王子", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1267年に元から求められたあらゆる条項に対して、大越はどのように対応したか?", "id": "de-061-07-003", "answers": [ { "text": "抵抗を示した", "answer_start": 301, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1257年に大越に侵入したモンゴル軍の目的はあくまでも宋を南から攻撃することであり、大越を征服する意思は無かった。しかし、1280年代より大越の従属を目的とした本格的な攻撃が開始される。1277年に上皇として政務を執っていた太宗が没し、翌1278年に聖宗は子の陳昑(仁宗)に譲位する。", "qas": [ { "question": "モンゴルが1257年に大越に侵入した理由は、どこを南から圧迫するためだったの?", "id": "de-061-08-000", "answers": [ { "text": "宋", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "モンゴルの大越侵攻の目的の性格が変わったのは、何年代に入ってのことですか?", "id": "de-061-08-001", "answers": [ { "text": "1280年代", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "仁宗が即位したのは、何年か?", "id": "de-061-08-002", "answers": [ { "text": "1278年", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1277年の時点で大越の皇帝は、誰だったか?", "id": "de-061-08-003", "answers": [ { "text": "聖宗", "answer_start": 125, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1282年より元はベトナム南中部のチャンパ王国への遠征を行っており、海路からのチャンパ侵攻に失敗した元軍は大越の領土を通過して陸路よりチャンパを攻撃しようとしていた。平灘(ビンタン、現在のハイズオン省チーリン)で開かれた会議で王侯、官吏らは領土を通過しようとする元軍への対策を話し合い、陳柳の子である興道王・陳国峻(チャン・クォック・トアン、「陳興道」の名でも知られる)が対モンゴル戦の総指揮官に選ばれる。クビライの皇子トガン率いる元軍が通過の途上で食料の供給を要求すると、以前から元軍の過大な徴発に不満を抱いていた仁宗はトガンの要求をなかなか実行に移そうとはしなかった。1285年初頭に各地の長老たちを招集しての延洪会議が開かれ、元軍に対して軍事行動を起こすことで全員の意見が一致した。かくして敵意を抱く大越を服従させるためにトガンは大越を攻撃の標的とし、1285年1月より元軍の大越攻撃が開始される。", "qas": [ { "question": "元がチャンパ王国遠征を開始したのは、何年からなの?", "id": "de-061-09-000", "answers": [ { "text": "1282年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "元の2回目のチャンパ王国遠征は、海路と陸路のうち、どちらのルートでの遠征でしたか?", "id": "de-061-09-001", "answers": [ { "text": "陸路", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "元軍の大越攻撃が始まったのは、いつのことか?", "id": "de-061-09-002", "answers": [ { "text": "1285年1月", "answer_start": 379, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チャンパ王国遠征に出かけた元軍は、誰が率いていたか?", "id": "de-061-09-003", "answers": [ { "text": "トガン", "answer_start": 210, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "元軍の攻撃は苛烈を極めるものであった。陳国峻は軍を後退せざるを得なくなり、大越内に投降者が続出する。首都の昇龍は元軍に占領され、皇族の中にも太宗の五男であった昭国王陳益稷(チャン・イック・タック)のように元軍に降伏する者が現れる。相次ぐ敗戦に仁宗は降伏を考えるが、陳国峻の叱咤によって翻意し、抗戦を続けることを決意した。陳国峻は元軍の戦力が各地に分散していることを見て取ると、ジャングル、山岳地帯などの険阻な地形を利用してのゲリラ戦を展開して元軍に打撃を与え、また官民による「清野(財産や食糧を隠す)」策によって元軍の食糧調達を妨げた。紅河デルタ地帯での大越軍の奮戦、不慣れな南方の気候と疫病によって元軍は北に後退し、大越軍は昇龍を奪還した後、追撃戦で勝利を収めた。1285年6月に戦争は一旦終息し、翌1286年に大越は元軍の捕虜を返還した。", "qas": [ { "question": "元軍に降伏した皇族としては、誰が挙げられているの?", "id": "de-061-10-000", "answers": [ { "text": "陳益稷", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "相次ぐ敗戦により降伏を考えるようになった仁宗に、抗戦を続けるよう説得したのは、誰でしたか?", "id": "de-061-10-001", "answers": [ { "text": "陳国峻", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陳国峻は、何を利用したゲリの戦で元軍に立ち向かったか?", "id": "de-061-10-002", "answers": [ { "text": "地形", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大越に捕らえられていた元軍の捕虜が返還されたのは、いつのことか?", "id": "de-061-10-003", "answers": [ { "text": "1286年", "answer_start": 351, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "戦後、再度の元軍の侵入に備えて陳国峻は兵士の訓練に励み、武器と艦船の増産を指示した。一方の元も過去の戦争で食料確保に苦しんだ失敗を踏まえ、艦船による食糧の輸送体勢を整える。1287年12月より元軍は大越に侵入し、元軍は長期戦に備えて万劫(ヴァンキュプ、現在のハイズオン省)に城砦を築いた。仁宗は昇龍を脱出し、紅河デルタで元軍が築いた拠点を巡っての大越軍と元軍の戦闘が展開される。戦況が変化するのは、雲屯(ヴァンドン、現在のクアンニン省ハロン市)で聖宗の養子陳慶余(チャン・カイン・ズ)の率いる部隊が物資を搭載した元の補給艦隊を破った時であった。食料の確保と拠点の防衛に支障をきたした元軍は陸路と海路の二手に分かれて撤退を開始するが、陳国峻は将軍・范五老を諒山(ランソン)に派遣し、范五老の率いる伏兵によって陸からの退路を絶った。1288年3月にベトナム軍は白藤江(バクダン江)を下ろうとする元軍に勝利し(白藤江の戦い(1288年))、さらに諒山で待ち伏せていた范五老の軍が退却中のトゴンの軍に打撃を与える。", "qas": [ { "question": "この前の戦争で食糧不足の問題を抱えていた元は、その解決方法として何による食糧調達の体制を整えたの?", "id": "de-061-11-000", "answers": [ { "text": "艦船", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "元軍が大越に再び侵攻してきたのは、いつのことですか?", "id": "de-061-11-001", "answers": [ { "text": "1287年12月", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "元は、どの国との戦争で、食糧不足の問題を抱えていたため、その解決方法の工夫をしたか?", "id": "de-061-11-002", "answers": [ { "text": "大越", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "誰が元の補給艦隊を襲ったことにより、戦況が変わったか?", "id": "de-061-11-003", "answers": [ { "text": "陳慶余", "answer_start": 228, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "13世紀以前、陳朝や李朝など大越とチャンパ王国の間では軍事衝突が続いていた。元の侵入の際に大越とチャンパ王国は共通の敵に対して協力関係を築き、戦後も上皇となった仁宗がチャンパを訪問していた。仁宗の働きかけによって、1306年に仁宗の娘玄珍公主(フイエン・チャン・コン・チュア)とチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世の結婚が成立する。国内の文人官僚たちは漢の王昭君の故事を持ち出して婚姻に反対すると、仁宗と皇帝・英宗は反対派を鎮めるためにチャンパに烏里二州(現在のクアンビン省南部からトゥアティエン=フエ省にかけての地域)を割譲させ、それぞれ順州・化州として行政区画に編入した。ジャヤ・シンハヴァルマン3世の没後に大越とチャンパの関係は悪化し、玄珍公主は大越に戻った。1312年に英宗はチャンパに親征し、チャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン4世を捕らえ、その弟であるジャヤ・シンハヴァルマン5世を王に擁立した。14世紀半ばまで大越はチャンパに対して優位に立つが、その衰退に伴って両国の力関係は逆転する。", "qas": [ { "question": "チャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世と結婚した人の父親は、誰なの?", "id": "de-061-12-000", "answers": [ { "text": "仁宗", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大越と結婚を通じた協力関係を結んだのは、どの国ですか?", "id": "de-061-12-001", "answers": [ { "text": "チャンパ王国", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "誰の死を基点に、大越とチャンパ王国の関係が悪化し始めたか?", "id": "de-061-12-002", "answers": [ { "text": "ジャヤ・シンハヴァルマン3世", "answer_start": 289, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "英宗により、チャンパ王国の王位に就いたのは、誰か?", "id": "de-061-12-003", "answers": [ { "text": "ジャヤ・シンハヴァルマン5世", "answer_start": 382, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "アレクサンドリア(ルイジアナ州)", "paragraphs": [ { "context": "アレクサンドリアは、アメリカ合衆国ルイジアナ州中央部に位置する都市。州都バトンルージュの北西約170kmに位置する。州の地理重心の近くに位置し、市域はレッド川の南西岸に広がっている。人口は47,723人で州内第10位、人口の比較的希薄な州中央部では最大で、その中心となる都市である。都市圏はアレクサンドリアに郡庁を置くラピッズ郡、およびその北に隣接するグラント郡の2郡にまたがり、153,922人の人口を抱えている。\n\n今日のアレクサンドリア市があるこの地は、1785年に、ペンシルベニア州出身の商人アレクサンダー・フルトンが、当時ルイジアナを統治していたスペインから付与された土地であった。その後フルトンは自分の店を通じて、この地に住みついていたネイティブ・アメリカンのチョクトー族、テンサス族、アパラチー族、およびパスカグーラ族から土地を購入した。やがてアメリカ合衆国によるルイジアナ買収後の1805年、フルトンはアレクサンドリアの町を創設し、区画した。このアレクサンドリアという名の由来については、フルトン自身に因んだとする説と、フルトンが幼くして亡くした娘の名に因んだとする説がある。", "qas": [ { "question": "アレクサンドリアの人口は何人ですか。", "id": "de-062-00-000", "answers": [ { "text": "47,723人", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アレクサンドリアは1819年に正式な町として法人化し、1832年にルイジアナ州議会から正式な憲章を与えられた。アレクサンドリアのすぐ上流にはレッド川の滝があり、1年の半分はこの滝を越えての航行が不能となるため、アレクサンドリアは船荷の積み替え地となった。また、周辺の土地は肥沃で、アレクサンドリアはプランテーションに囲まれていた。こうした立地条件から、この頃のアレクサンドリアは農業と商業の中心地として発展した。当初は、これらのプランテーションでは藍やタバコが生産されていたが、やがて綿花やサトウキビに取って代わられていった。1860年には、ルイジアナ州は全米で生産される綿花の約1/6、アメリカ合衆国から(主にイギリスやフランスへ)輸出される綿花の約1/3を、また全米で消費される砂糖の約1/4-1/2を生産した。", "qas": [ { "question": "アレクサンドリアは何年に正式な町として法人化したか。", "id": "de-062-01-000", "answers": [ { "text": "1819年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アレクサンドリアは北緯31度18分44秒西経92度26分45秒に位置している。州都バトンルージュからは北西へ約170km、シュリーブポートからは南東へ約200km、ニューオーリンズからは北西へ約300km、ヒューストンからは北東へ約330kmに位置する。州の地理重心からは北西へ約50kmである。\n\nアメリカ合衆国国勢調査局によると、アレクサンドリア市は総面積69.9km2である。そのうち68.4km2が陸地で1.5km2が水域である。総面積の2.15%が水域となっている。アレクサンドリア都市圏はラピッズ郡およびグラント郡の2郡にまたがり、その面積は5,079km2である。", "qas": [ { "question": "アレクサンドリア市の総面積は何km2なの?", "id": "de-062-02-000", "answers": [ { "text": "69.9km2", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクサンドリアの総面積69.9km2のうち、陸地は何km2ですか。", "id": "de-062-02-001", "answers": [ { "text": "68.4km2", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アレクサンドリアの気候は、ケッペンの気候区分でこそアメリカ合衆国東海岸や南部に広く分布している温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、実際には蒸し暑い夏と温暖で過ごしやすい冬に特徴付けられる、亜熱帯性に近い気候である。ただし、ニューオーリンズ等沿岸部に比べると、冬は若干内陸性の影響を受ける。最も暑い7月の平均気温は約27°C、最高気温の平均は約33°Cで、日中は月の2/3以上の日が32°Cを超える。最も寒い1月でも平均気温は8°C、最低気温の平均は2°Cで、気温が氷点下に下がることは平年で月12日程度である。降水量は1年を通じてほぼ一定して多く、月間100-160mm、年間1,510mm程度である。冬季の降雪はまれである。アレクサンドリアにおける最多降雪記録は、1960年2月12-13日にかけて記録した23.1cmである。", "qas": [ { "question": "アレクサンドリアの7月の平均気温は何度?", "id": "de-062-03-000", "answers": [ { "text": "約27°C", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレクサンドリアの1月の平均気温は何度?", "id": "de-062-03-001", "answers": [ { "text": "8°C", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレクサンドリアにおける最多降雪記録は何cm?", "id": "de-062-03-002", "answers": [ { "text": "23.1cm", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アレクサンドリアの文化施設はダウンタウンの文化芸術地区に集中している。市庁舎から2ndストリートをまたいだ北東側にはアレクサンドリア美術館が立地する。同館はもともと1898年に建てられ、1980年に国家歴史登録財に登録されたラピッズ・バンク・ビルディングを転用し、1998年に開館したものである。同館は特にルイジアナ州や南部出身の芸術家、南部文化を反映した作品を制作した芸術家、南部に大きな影響を与えた、もしくは南部から大きな影響を受けた芸術家による、20-21世紀の作品に注力しており、約800点を常設展示物として収蔵している。同じくダウンタウンの文化芸術地区、ワシントン・ストリートと5thストリートの南角には、アレクサンドリアおよびルイジアナ州の歴史に関する事物を収蔵・展示するルイジアナ歴史博物館が立地している。同館は1907年に建てられ、1989年に国家歴史登録財に登録された旧アレクサンドリア図書館本館を転用したものである。", "qas": [ { "question": "旧アレクサンドリア図書館本館は何年に国家歴史登録財に登録されたの?", "id": "de-062-04-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 374, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラピッズ・バンク・ビルディングは何年に国家歴史登録財に登録されたの?", "id": "de-062-04-001", "answers": [ { "text": "1980年", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラピッズ・バンク・ビルディングと旧アレクサンドリア図書館本館と、どっちの方が先に国家歴史登録財に登録されたの?", "id": "de-062-04-002", "answers": [ { "text": "ラピッズ・バンク・ビルディング", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "プロクター・アンド・ギャンブルは1968年からパインビル市北東部にアレクサンドリア工場を置いている。この工場では、タイド(Tide)をはじめとする同社の洗濯用洗剤を生産してきた。また、同じくパインビルには、同市で1935年に創業し、州中央部に電力を供給する中央ルイジアナ電力会社(Cleco)が現在も本社を置いている。\n\n1994年にイングランド空軍基地は閉鎖されたが、その跡地はアレクサンドリア国際空港およびイングランド工業団地になっている。イングランド工業団地内に工場を置いている企業の1つに、シカゴに本社を置くタンク車メーカーのユニオン・タンク・カー・カンパニー(UTLX)がある。また、コロラド州ロングモントに本社を置くバイオ燃料ベンチャーのサンドロップ・フューエルズは、イングランド工業団地の西側に1,200エーカーの用地を購入し、同社のバイオガソリン製造工場の建設を進めている。\n\nそして、アレクサンドリアはその初期から、レッド川の港を中心として発展してきた河港都市である。19世紀初頭には、アレクサンドリア港に入港する船は各地からの物資を町にもたらし、出港する船には綿花をはじめとする、この地の農産品が積み込まれ、各地へと送られた。現在、中央ルイジアナ地域港はダウンタウンの北約4km、蛇行するレッド川の流路が造り出した半円形の半島状の土地に立地している。1995年から整備が進められた200エーカーの敷地には、40tクレーンや岸壁、倉庫といった港湾施設のほか、肥料ドームや貯油タンクが備えられている。", "qas": [ { "question": "プロクター・アンド・ギャンブルは何年からパインビル市北東部にアレクサンドリア工場を置いている?", "id": "de-062-05-000", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "日立鉱山", "paragraphs": [ { "context": "日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった鉱山で、主に銅と硫化鉄鉱を産出した。\n1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、同年久原房之助が経営に乗り出し、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された。\n久原の経営開始以後大きく発展し、1905年(明治38年)から閉山となった1981年(昭和56年)までの76年間に、約3000万トンの粗鉱を採掘し、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つとなった。\n日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成され、また日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から日立製作所が誕生しており、日立鉱山は日本の近代産業史に大きな足跡を残している。\n日立鉱山の南隣には硫化鉄鉱を主に産出した諏訪鉱山があり、1917年(大正6年)に久原鉱業によって買収された後は日立鉱山の支山となり、1965年(昭和40年)の閉山まで稼動が続けられた。\nここでは日立鉱山とともに諏訪鉱山についても説明を行う。", "qas": [ { "question": "日立鉱山の改名前の名前は何?", "id": "de-063-00-000", "answers": [ { "text": "赤沢銅山", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日立鉱山と諏訪鉱山はどちらが早く閉山したの?", "id": "de-063-00-001", "answers": [ { "text": "諏訪鉱山", "answer_start": 348, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "赤沢銅山があった場所はどこ?", "id": "de-063-00-002", "answers": [ { "text": "茨城県日立市", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日立鉱山の発展に貢献し、久原財閥を設立した人のフルネームは何?", "id": "de-063-00-003", "answers": [ { "text": "久原房之助", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日立鉱山は宮城県南部から福島県東部、そして茨城県の太平洋側に沿って広がる阿武隈山地の南端部に位置している。\n日立鉱山がある付近の阿武隈山地は、高いところでも標高600メートル程度のなだらかな山地である。\n鉱山は宮田川の上流部に当たる赤沢谷に沿って開発が開始され、1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた。\n宮田川は源流から太平洋に注ぐ河口まで約8キロという短い河川で、日本の多くの鉱山が交通の不便な山地深くに位置しているのに比べて、日立鉱山は恵まれた場所に存在していた。\n事実、日立鉱山の開発が本格化する以前の1897年(明治30年)には、日本鉄道によって常磐線が水戸駅から平駅まで延伸されており、また日立港も1967年(昭和42年)に重要港湾に指定されるなど鉱山に比較的近接した場所に整備され、交通の便の良さは日立鉱山の歴史に大きな影響を与えることになる。\nしかし鉱山の中心部は小河川である宮田川上流部の標高約300メートルの谷間にあり、精錬などの鉱山経営や鉱山で働く人々が使用する水の確保には苦労し、宮田川の支流などから貯水池に導水したり、鉱山内から湧出する水を浄化して用いるなどの対策を行った。", "qas": [ { "question": "日立鉱山の近くにあるなだらかな山地は何?", "id": "de-063-01-000", "answers": [ { "text": "阿武隈山地", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日立鉱山が赤沢銅山と呼ばれていたのは明治何年以前のことですか?", "id": "de-063-01-001", "answers": [ { "text": "明治38年", "answer_start": 137, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日立鉱山の中心部に流れている川の名は何?", "id": "de-063-01-002", "answers": [ { "text": "宮田川", "answer_start": 402, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日立港は昭和何年に重要港湾に指定されたの?", "id": "de-063-01-003", "answers": [ { "text": "昭和42年", "answer_start": 317, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日立鉱山の鉱床はキースラーガー(層状含銅硫化鉄鉱床)で、日本国内のキースラーガーでは別子銅山、柵原鉱山とともに大規模な鉱床として知られている。\nキースラーガーとは、大陸縁海や背孤で熱水が海底に流出することにより、塩基性ないし中性の火山岩とともに層状ないしレンズ状の鉱床を形成するタイプの鉱床で、日立鉱山の場合、島孤の背孤海盆の拡大時に発生した珪長質ないし安山岩質の火山活動に伴う熱水溶液によって形成されたと考えられている。\n鉱床は石炭紀からペルム紀にかけての化石を含む、日立変成岩の中に分布している。\n日立鉱山の鉱床形成時期については、後期石炭紀であるとの説と白亜紀との説があって確定していない。\n鉱床を構成するのは主に黄鉄鉱、黄銅鉱であり、閃亜鉛鉱や方鉛鉱なども産出したが、熱による変成作用を受けており、一般のキースラーガーには見られないスカルン鉱物を伴う部分もあった。\nキースラーガーの特徴として鉱床内に断層が存在することが多く、日本の多くのキースラーガーでは鉱床内の断層によって、断層の先の鉱床が深部に存在したり鉱床の状況が悪化するなどの理由で、経済的に鉱山の経営が困難になった例が多く見られるが、日立鉱山でも1905年(明治38年)の創業直後、鉱床内の断層が鉱山経営の障害となった。", "qas": [ { "question": "日本国内にある規模の大きいキースラーガーがあるのは、日立鉱山と柵原鉱山とあと一つは何?", "id": "de-063-02-000", "answers": [ { "text": "別子銅山", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "時に鉱山経営の障害ともなるキースラーガーの特徴とは、鉱床内に何が多く存在していることですか?", "id": "de-063-02-001", "answers": [ { "text": "断層", "answer_start": 404, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鉱床を構成する主要鉱物は黄銅鉱と何ですか?", "id": "de-063-02-002", "answers": [ { "text": "黄鉄鉱", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日立鉱山は10以上の鉱床から構成されており、地層の層位的に新しい赤沢層上部から大雄院層にかけて分布する不動滝鉱床群と、層位的に古い赤沢層中部に分布する藤見鉱床群に大別される。\n日立変成岩は地殻変動の影響で古い地層は西側に、新しい地層は東側に分布しており、不動滝鉱床群は日立鉱山全体の東側、藤見鉱床群は西側に分布している。\n不動滝鉱床群には大雄、不動滝、諏訪などの鉱床がある。\n主な鉱床は藤見鉱床群に属しており、延長3000メートル以上の長さにわたって、褶曲構造に沿って北西から南東方向に向かって、入四間(いりしけん)、藤見、笹目、中盛、神峰(かみね)、本坑、赤沢、高鈴の8つの鉱床が島状に分布している。\n鉱床は厚い場所では80メートルに達し、傾斜延長は長い場所で1000メートルを超える。\n鉱床全体の埋蔵量は3480万トンであり、銅の品位は平均1.35パーセントであった。\nその他、日立鉱山から採掘される主要鉱石である含銅硫化鉄鉱は、日本の主要銅鉱山の中で最も塩基性が高いという特徴を持っていた、また他の主要銅鉱山よりも銅鉱石の品位が低かった。\nこれらの特徴は日立鉱山の歴史に少なからぬ影響を与えることになる。", "qas": [ { "question": "不動滝鉱床群と藤見鉱床群はどちらが新しい地層ですか?", "id": "de-063-03-000", "answers": [ { "text": "藤見鉱床群", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "不動滝鉱床群と藤見鉱床群はどちらが鉱床の数が少ないですか?", "id": "de-063-03-001", "answers": [ { "text": "不動滝鉱床群", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日立鉱山から採掘され、日本で一番塩基性が高い鉱石は何ですか?", "id": "de-063-03-002", "answers": [ { "text": "含銅硫化鉄鉱", "answer_start": 409, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "常陸の戦国大名であった佐竹氏は、16世紀末には常陸の統一をほぼ成し遂げ、領内の鉱山開発を進めた。\n1592年(文禄元年)の文書には、現日立市内の大久保で金を採掘した記録が残っている。\n大久保の金山は佐竹領内でも主要金山であったと考えられており、日立鉱山の前身に当たる赤沢鉱山でも16世紀末から金の採掘を開始したとの説がある。\nこれは日立鉱山の赤沢鉱床に佐竹坑と呼ばれる坑道が残っていることや、大久保という地名は16世紀の末頃、かなりの広さを持った地域を指していたと推定されることなどから唱えられている説である。\nしかし資料の上からは16世紀末に日立鉱山の操業が開始されたことは確認されていない。\n佐竹氏は領内の鉱山開発に積極的であったが、関ヶ原の戦いの結果、1602年(慶長7年)に秋田へ転封となった。\nその結果、常陸から鉱山の経営主体であった佐竹氏がいなくなったのみならず、鉱山開発と経営を担っていた技術者たちも移動してしまった。\n後述のように水戸藩が領内の鉱山経営に積極的に乗り出すのは1620年代の寛永年間以降であり、佐竹氏の転封から寛永年間までの間に鉱山は衰えていたと考えられる。", "qas": [ { "question": "佐竹氏は秋田に移動する前はどの地域を治めていましたか?", "id": "de-063-04-000", "answers": [ { "text": "常陸", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "佐竹氏が秋田に移転するきっかけとなった戦は何ですか?", "id": "de-063-04-001", "answers": [ { "text": "関ヶ原の戦い", "answer_start": 319, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "常陸の鉱山開発を進めた人は誰ですか?", "id": "de-063-04-002", "answers": [ { "text": "佐竹氏", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "佐竹氏の次に鉱山経営を進めたのは何ですか?", "id": "de-063-04-003", "answers": [ { "text": "水戸藩", "answer_start": 423, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1609年(慶長14年)からは水戸徳川家(水戸藩)の統治が始まった。\n現在の日立市内では水戸藩時代も金山の採掘は断続的に続けられたが、18世紀末にはほぼ休止状態となった。\n1620年代の寛永年間に入り、水戸藩は領内の鉱山開発に積極性を見せるようになる。\nこれは寛永年間には水戸藩の領国支配も安定し、1625年(寛永2年)には水戸城の修築と拡張を始めるなど、領国経営に本格的に乗り出せる状況が整ったことによる。\nそのような中、1625年(寛永2年)頃から赤沢銅山で銅の採掘が行われるようになった。\n1626年(寛永3年)には水戸で寛永通宝の鋳造が開始されるが、赤沢銅山で採掘された銅が寛永通宝の鋳造に用いられたとの説もある。\n1639年(寛永16年)には赤沢銅山に銅山奉行が設置されるが、その後まもなく銅の採掘は中止に追い込まれる。\nまた寛永年間からの赤沢銅山の稼動によって、近隣の農村は鉱毒水による大きな被害を受けたものと考えられる。\nこのことは江戸時代の赤沢銅山の稼動が困難となる要因となった。", "qas": [ { "question": "水戸藩で鋳造が始まった銭貨とは何?", "id": "de-063-05-000", "answers": [ { "text": "寛永通宝", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "水戸藩の統治中に赤沢銅山で始まったのは何の採掘ですか?", "id": "de-063-05-001", "answers": [ { "text": "銅", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1640年(寛永17年)、戦国時代に甲斐の黒川金山(甲州市塩山)の採掘に従事した金山衆の子孫である永田氏の当主である永田茂衛門が水戸藩に来て、治水や鉱山の開発に従事するようになった。\n永田茂衛門とその息子である永田勘衛門は17世紀後半、水戸藩内で鉱山開発を盛んに行うことになる。\n17世紀後半に入ると水戸藩は財政的に苦しくなってきており、鉱山開発を行うことにより藩の財政を好転させるもくろみがあった。\n1692年(元禄5年)に永田勘衛門が水戸藩内の鉱山の調査結果と開発策をまとめた「御領内御金山一巻」という文書によれば、永田茂衛門と永田勘衛門は3度に渡って赤沢銅山の開発に乗り出したことがわかる。\nしかし赤沢銅山には銅の鉱脈が豊富に存在するものの、採掘によって発生した鉱毒によって再び周辺の水田に被害が発生したことに加えて、銅の価格の低下と精錬用の炭の価格が高騰して採算が取れないため、最終的に開発は断念された。", "qas": [ { "question": "永田勘衛門の父親の名前は?", "id": "de-063-06-000", "answers": [ { "text": "永田茂衛門", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "水戸藩の財政難を好転させる目的で行ったことは何?", "id": "de-063-06-001", "answers": [ { "text": "鉱山開発", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "永田茂衛門の先祖は元々どの地域の金山採掘に従事していましたか?", "id": "de-063-06-002", "answers": [ { "text": "甲斐", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "18世紀に入り、宝永年間に赤沢銅山の再開発を行い、赤沢銅山で産出された銅で貨幣の鋳造を行う計画が立てられた。\nこの計画は江戸幕府の認可を受けることに成功し、江戸の商人から資金の提供を受けて事業が開始された。\n豪商であった紀伊國屋文左衛門もこの事業に参画したと考えられるが、やはり鉱害が発生して周辺の水田に害をもたらしたことと、利益を挙げることが出来なかったために短期間のうちに事業中止に追い込まれた。\nまた当時農村地帯であった赤沢銅山周辺に生活習慣の異なる鉱山労働者たちが集まったことによって、住民と鉱山労働者との間に摩擦も発生した。\nその後18世紀後半に2回、赤沢銅山の採掘が計画されたが、いずれも鉱害問題から許可を受けられなかった。\nまたやや確実性に欠ける資料であるが、1773年(安永2年)に幕府の許可を受けて赤沢銅山の採掘を再開したが、鉱石の質が悪くて採算が取れず、4年で中止となったとの記録も残っている。\nいずれにしても赤沢銅山が江戸時代には採算が取れなかったことと、鉱山操業時に発生した鉱毒被害のために開発が規制される傾向にあったことが、赤沢銅山が江戸時代に大きく発展することがなかった理由と考えられる。", "qas": [ { "question": "江戸商人から資金提供を受けて、赤沢銅山で産出された銅で貨幣の鋳造を行う計画と事業に参画した男は誰?", "id": "de-063-07-000", "answers": [ { "text": "紀伊國屋文左衛門", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1773年に再開した赤沢銅山の採掘は、何年で中止となりましたか?", "id": "de-063-07-001", "answers": [ { "text": "4年", "answer_start": 387, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "幕末の1861年(文久元年)、多賀郡の大塚源吾衛門が水戸藩に赤沢銅山の開発許可を申請した。\n1858年(安政5年)には日米修好通商条約が締結され、銅は日本からの主要輸出品の一つとなっていた当時の状況から、水戸藩は大塚の申請を許可した。\nこの時も鉱害被害の発生を懸念した近隣住民から鉱山再開発に反対する声が上がったが、水戸藩は以前よりも技術が進歩していることを説明し、更に鉱害が発生した場合には大塚源吾衛門に補償させるとして住民を説得した。\n大塚の赤沢銅山の経営は比較的順調で、「銅山会所」「大塚会所」などと呼ばれるようになった。\nこれは赤沢銅山で産出される銅を水戸藩の専売品とするばかりではなく、銅の生産そのものを藩の統制下に置くために会所という組織を取らせることになったものと考えられる。\nしかし1864年(元治元年)に発生した水戸藩内の内紛である天狗党の乱の際、天狗党の田中愿蔵が逃亡途中に赤沢銅山会所に食料の援助を要請したところ大塚源吾衛門が拒否したため、田中愿蔵は鉱山の生産設備を破壊した上に火を放ったため、赤沢銅山の経営は中断された。", "qas": [ { "question": "幕末期に赤沢銅山の経営を中断させた犯人となる人物は誰?", "id": "de-063-08-000", "answers": [ { "text": "田中愿蔵", "answer_start": 387, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "幕末期に赤沢銅山を経営した人の名前は?", "id": "de-063-08-001", "answers": [ { "text": "大塚源吾衛門", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "元治元年に水戸藩内で起こった内部抗争とは何?", "id": "de-063-08-002", "answers": [ { "text": "天狗党の乱", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治時代に入り、赤沢銅山の経営に最初に乗り出したのは佐賀県出身の副田欣一であった。\n副田は1873年(明治6年)に太政官布告によって公布された日本坑法に基づき赤沢銅山の鉱業権を取得し、赤沢銅山の経営に乗り出した。\n1874年(明治7年)には、茨城県庁に赤沢の立ち木を坑内の支柱や銅の精錬用の薪炭とするために払い下げをするよう申請するが、水源林であることを理由に申請は却下された。\nそのためもあって1875年(明治8年)には銅山の経営は行き詰まり、休業に追い込まれた。\nなお、副田は赤沢銅山の他に足尾銅山の経営権も取得したことで知られている。", "qas": [ { "question": "副田欣一が赤沢銅山以外に経営権を取得したはどこの鉱山ですか?", "id": "de-063-09-000", "answers": [ { "text": "足尾銅山", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "副田は1873年に赤沢銅山の経営を始めたが、2年後には休業している。それは明治何年?", "id": "de-063-09-001", "answers": [ { "text": "明治8年", "answer_start": 204, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "続いて赤沢から峠を越えた場所にある入四間村で、1879年(明治12年)から銅の採掘が開始された。\nしかし経営は上手くいかず大幅な赤字を計上する状態であり、まもなく休山になったものと考えられる。\n1882年(明治15年)には副田欣一から長山万之助が赤沢銅山の経営権の譲渡を受ける。\nしかし長山は鉱山の経営に乗り出すことなく1884年(明治17年)、荒井常蔵に経営権を売却する。\n荒井もまた鉱山経営を行わずして1886年(明治19年)に経営権を中山芳兵衛に譲渡したが、中山芳兵衛も鉱業権を所持するのみで鉱山経営は行わなかった。\n1892年(明治25年)になると、平野良三が中山が持つ鉱区の隣に新たな鉱区を申請し、許可を得た。\n平野は実際に鉱山の経営を行う意欲を見せ、地元の日立村との間に銅山経営に関する取り決めを結んだ。\nしかし平野もやはり鉱山経営に乗り出すことが出来ず、結局1894年(明治27年)に、中山芳兵衛が持つ鉱区と平野良三が持つ鉱区は、ともに高橋元永と城野琢磨の両名が入手することになった。", "qas": [ { "question": "副田欣一から数えて4番目に赤沢銅山の経営権が渡った人は誰ですか?", "id": "de-063-10-000", "answers": [ { "text": "中山芳兵衛", "answer_start": 220, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "荒井常蔵に経営権を売り払った男は誰ですか?", "id": "de-063-10-001", "answers": [ { "text": "長山", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中山芳兵衛と平野良三が持つ各鉱区を入手したのは城野琢磨ともう1人は誰ですか?", "id": "de-063-10-002", "answers": [ { "text": "高橋元永", "answer_start": 425, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1894年(明治27年)に赤沢銅山の鉱業権を入手した高橋元永と城野琢磨は、副田欣一以来久しぶりに実際の鉱山経営に乗り出した。\n時代はちょうど日清戦争の最中であり、銅の需要が高まりつつあって高橋と城野の赤沢銅山経営は順調に進展した。\nそこで1896年(明治29年)に鉱区の増区を申請したところ、鉱害被害の拡大を恐れる地元住民の強硬な反対に直面することになる。\nまず計画を知った日立村は反対を表明。\nすると東京鉱山監督署の監督官が現地調査を行い、「鉱区を増区しても鉱害問題は発生しない」との復命書を提出した。\nしかし日立村はその復命書に対して極めて厳しい内容の反駁を行い、増区の計画は全く進展しなかった。\n結局1898年(明治31年)に、高橋と城野は14ヵ条の鉱毒予防策を盛り込んだ計画書を提出した。\n日立村は、宮田川を飲料水として用いている地区に井戸を新設すること、水田に被害が発生した場合には地主に損害賠償を行うことを条件に新たな計画を認め、最初の鉱区増区の出願から2年半を経過した1899年(明治32年)に増区はようやく認められた。\nしかし14ヵ条の鉱害防止策を実行に移す資金力がなかった高橋と城野は、1900年(明治33年)には赤沢銅山の経営を断念して松村常蔵と小林啓助の二名に鉱業権を譲渡した。\nしかし松村と小林ともやはり資金不足のために赤沢銅山を積極的に開発することが出来ず、横浜在住のドイツ人、リヒャルト・ボイエスが経営するボイエス商会が1901年(明治34年)に鉱業権を取得した。\nボイエス商会は赤沢鉱業合資会社を設立し、初めて本格的かつ近代的な鉱山経営が行われることになった。", "qas": [ { "question": "副田欣一以来久方ぶりに赤沢銅山の経営がなされたのは何年ですか?", "id": "de-063-11-000", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1894年頃に銅の需要が高かったのは、何戦争があったからですか?", "id": "de-063-11-001", "answers": [ { "text": "日清戦争", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "高橋と城野から赤沢銅山の鉱業権を譲り受けたのは小林啓助と誰ですか?", "id": "de-063-11-002", "answers": [ { "text": "松村常蔵", "answer_start": 528, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "赤沢銅山の近代的な鉱山経営を行った会社はどこですか?", "id": "de-063-11-003", "answers": [ { "text": "ボイエス商会", "answer_start": 647, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1900年(明治33年)に鉱業条例が一部改正され、外国人でも法律に従って設立された法人ならば日本国内で鉱業権を取得し、鉱山経営が可能となった。\n条例改正後早々に外国資本によって経営されるようになった鉱山があったが、赤沢銅山も1901年(明治34年)からボイエス商会が経営を担い、現場責任者としてノルウェー人技術者であるシー・オルセンが任命され、オルセンは精力的に鉱山開発に取り組んだ。\nしかし明治36(1903)年度の記録では、赤沢鉱業合資会社は従業員163名を数え、年間約78.5トンの銅を生産したが、経営は3500円の赤字となっており、鉱山経営は依然厳しいものがあった。", "qas": [ { "question": "赤沢銅山が外国資本によって経営が始まったのはいつからですか?", "id": "de-063-12-000", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "赤沢銅山の現場責任を務めた外国人男性は誰ですか?", "id": "de-063-12-001", "answers": [ { "text": "シー・オルセン", "answer_start": 159, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そのような中、赤沢銅山の経営に大橋真六と松村清吉、松村常二の親子が参画するようになる。\n1904年(明治37年)の文書には大橋が鉱山の総代理人と記されており、また後述の鉱毒防止命令が1904年(明治37年)に7月に、鉱業人の変更を理由の一つとして再度の命令が下された経緯から、同年に大橋と松村が赤沢銅山の経営を担うようになったと考えられ、1905年(明治38年)12月の久原房之助の鉱山買収時には、赤沢銅山は資金の出資者である松村親子と鉱山経営者の大橋真二によって経営されていた。", "qas": [ { "question": "大橋と松村が赤沢銅山の経営を担うようになったのは何年ですか?", "id": "de-063-13-000", "answers": [ { "text": "1904年", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大橋と松村が赤沢銅山の経営を担った1年後に鉱山を買収した人は誰ですか?", "id": "de-063-13-001", "answers": [ { "text": "久原房之助", "answer_start": 185, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大橋真六は古河市兵衛のもと長年足尾銅山で鉱山開発に従事した経験があり、鉱山経営に精通した人物であった。\nボイエス商会とそれに続く大橋の手によって、赤沢銅山は初めて本格的かつ近代的な開発、経営がなされるようになった。\nまず常磐線の助川駅から鉱山までの道路の修繕が行われ、1904年(明治37年)には鉱山事務所など3ヵ所への電話敷設を行った。\nまた同年には水力発電所である陰作発電所の使用認可を受け、運輸、通信、電力といった近代的な鉱山経営に欠かすことが出来ないインフラ整備が行われた。\nその結果、赤沢銅山の生産量は増加し、1905年(明治38年)には251.2トンの銅の生産を挙げるに至った。\nしかし経営規模の拡張に伴い経営内容が悪化し、採掘される銅鉱石の品位も低下していた。\nまた後述する鉱害問題や鉱山周辺の立ち木の伐採問題で近隣住民との対立は激化しており、大橋真六と松村清吉、常二親子は赤沢銅山の経営に意欲を失っていき、1905年(明治38年)12月に久原房之助に鉱山を売却することになる。", "qas": [ { "question": "大橋真六が長年勤務していた鉱山とはどこですか?", "id": "de-063-14-000", "answers": [ { "text": "足尾銅山", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "赤沢銅山のインフラ整備が行われたのはいつですか?", "id": "de-063-14-001", "answers": [ { "text": "1904年", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "鉱山開発の進展に伴い、鉱害の発生が深刻化していた。\n高橋元永と城野琢磨が1898年(明治31年)に立案した14ヵ条の鉱害防止案は実現されることなく、鉱山の規模のみが拡大していた。\nそのため地元住民は鉱山の操業停止要求を掲げ、1904年(明治37年)7月には赤沢鉱業合資会社の事務所に押しかけるに至った。\n地元住民から操業停止要求が出される前の1903年(明治36年)、赤沢鉱業合資会社に対して鉱害予防命令が出されていたが、地元住民が鉱山事務所に押しかけた直後、鉱業人の変更と鉱毒防止設備の不備を理由として再度の予防命令が出された。\nそして1905年(明治38年)1月には鉱毒予防設備が完成したが、内容的に不十分なもので鉱害防止にはほとんど役に立たなかった。\nまた赤沢銅山時代、銅の精錬は旧来の吹床精錬法を用いていた。\n吹床精錬法では精錬時に大量の薪炭が必要であり、また鉱山の経営規模拡大のためにも赤沢鉱業合資会社は鉱山周辺の立ち木を購入して伐採することを計画した。\n地元住民は伐採計画の中止を求めて各所に請願を繰り返し、一方、鉱山側も立ち木の伐採実現のために陳情を行った。\n結局1905年(明治38年)12月、茨城県に設置された森林会は地元住民から出されていた赤沢銅山周辺の森林についての保安林指定申請を許可し、森林はいったん保全されることになった。", "qas": [ { "question": "鉱害発生が深刻化し、鉱山の操業停止要求を掲げたのは誰ですか?", "id": "de-063-15-000", "answers": [ { "text": "地元住民", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "吹床精錬法で大量に必要となるものは何ですか?", "id": "de-063-15-001", "answers": [ { "text": "薪炭", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "久原房之助は1869年(明治2年)山口県萩市に久原庄三郎の三男として生まれた。\n久原庄三郎は藤田組の創始者である藤田伝三郎の実兄で、藤田伝三郎と久原庄三郎、そして二人の実兄である藤田鹿太郎の兄弟3人が出費して1881年(明治14年)に設立された藤田組は、軍用物資の調達や土木建築業から1884年(明治17年)には小坂鉱山の払い下げを受け、その後鉱山業を中心として多角的な事業展開を行う財閥へと成長した。\n久原房之助は1891年(明治24年)に小坂鉱山に赴任し、精鉱課長や坑業課長など主に採鉱や精錬の現場で実績を積み、1900年(明治33年)に小坂鉱山の所長に就任した。\n当時、小坂鉱山は日本有数の銀の産出量を挙げていた鉱山であったが、銀の価格の低落と生産コストの増大で次第に経営が困難になっていき、その上、1897年(明治30年)の金本位制の復帰によって銀の価格は更に低落し、小坂鉱山は閉山の危機を迎えていた。", "qas": [ { "question": "久原庄三郎の弟の名前は何?", "id": "de-063-16-000", "answers": [ { "text": "藤田伝三郎", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "藤田組が多角的な事業展開をするのに中心となった鉱山は何ですか?", "id": "de-063-16-001", "answers": [ { "text": "小坂鉱山", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小坂鉱山は何の産出量が多くて有名でしたか?", "id": "de-063-16-002", "answers": [ { "text": "銀", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "久原は当時、組成が複雑であるために精錬が困難で利用されずに放置されていた黒鉱に着目した。\n後に日立鉱山でも久原を助けることになる竹内維彦を招聘し、黒鉱の精錬法の研究を重ねた結果、1900年(明治33年)黒鉱から銅を精錬することに成功し、小坂鉱山は銀山から日本有数の銅山として蘇った。\nなお久原房之助のもと、小坂鉱山で働いた人物としては、竹内以外にも後に日立製作所を創立する小平浪平などがおり、多くの有能な人材が日立鉱山の創成期に活躍することになる。\n小坂鉱山の再建に成功した久原房之助は、1904年(明治37年)に小坂鉱山から大阪の藤田組本社に戻り、翌1905年(明治38年)3月には父、庄三郎が隠居をしたため久原家の家督を引き継ぎ、藤田組の取締に就任する。\nしかし叔父である藤田伝三郎と藤田組の後継問題を巡り対立し、もともと独立して事業を興す機会を窺っていた久原は分与金の配分を受けて藤田組を退社することになり、1905年(明治38年)12月10日、正式に退社した。", "qas": [ { "question": "再建に成功した時の小坂鉱山は、銀ではなく何の金属で有名になりましたか?", "id": "de-063-17-000", "answers": [ { "text": "銅", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "久原は誰と対立したために藤田組を退社したのですか?", "id": "de-063-17-001", "answers": [ { "text": "藤田伝三郎", "answer_start": 338, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "松竹歌劇団", "paragraphs": [ { "context": "松竹歌劇団は、1928年から1996年まで日本に存在したレビューおよびミュージカル劇団だ。\n\n出演者が女性で占められる「少女歌劇」の系譜に属する。松竹を母体として東京・浅草に本拠を置き、1930年代には東京一のレビュー劇団として、兵庫県宝塚市を本拠とする宝塚少女歌劇と人気を競った。太平洋戦争を経て、戦後は本拠地・国際劇場の大舞台を活かした「グランド・レビュー」を売りに人気を保ったが、1960年代ごろより徐々に低迷、1990年代にはミュージカル劇団へ転向するも定着せず、1996年をもって解散した。「ShouchikuKagekiDan」の頭文字をとったSKDの通称でも知られた。大阪府に現存するOSK日本歌劇団は姉妹劇団である。", "qas": [ { "question": "松竹歌劇団は1928年から何年まで存在していたの?", "id": "de-064-00-000", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松竹歌劇団は何年に解散したか。", "id": "de-064-00-001", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "SKDは何の頭文字をとったものですか。", "id": "de-064-00-002", "answers": [ { "text": "「ShouchikuKagekiDan」", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1914年、阪急グループ創業者・小林一三により、兵庫県宝塚市の宝塚新温泉パラダイス劇場に宝塚少女歌劇団が結成され、日本における「少女歌劇」の歴史が始まった。1918年には広島県広島市に羽田少女歌劇団、1919年には大阪府大阪市に琵琶少女歌劇団、1921年同じく大阪市に浪華少女歌劇団が結成され、少女歌劇の波は徐々に拡大していった。\n\n1921年、宝塚音楽歌劇学校の講師であった楳茂都陸平が宝塚公会堂で舞踊『春から秋へ』を上演、ときの大阪松竹社長・白井松次郎がこれを観賞し、松竹版少女歌劇・「松竹楽劇部」設立への大きな影響を受ける。1922年4月、白井は宝塚から楳茂都や作曲家の原田潤らを招き、天下茶屋の松竹合名会社分室内に「松竹楽劇部生徒養成所」を創設。夏までに30名ほどの生徒が集まり、12月に試演ともいうべき『時の踊り』を上演。翌1923年より道頓堀松竹座を拠点に短期公演を中心とした興行をはじめた。当初はお荷物扱いであったものの、1926年4月に上演した『春のおどり』が大好評を博したことにより、以後興行的な軌道に乗った。『春のおどり』は花街風の演し物をレビューにアレンジしたものだったが、1927年、宝塚少女歌劇がフランス式の豪華なレビュー『モン・パリ』を上演すると、松竹楽劇部でも洋舞が大きく取り入れられるようになる。1928年に上演された『松竹座ダンス』において、映画的なテンポ、エロティシズム、巧妙な場面転換といった、「松竹レビュー」の基礎となる要素が確立された。", "qas": [ { "question": "日本における「少女歌劇」の歴史は誰によって始まったか。", "id": "de-064-01-000", "answers": [ { "text": "小林一三", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "阪急グループ創業者は誰の?", "id": "de-064-01-001", "answers": [ { "text": "小林一三", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1921年、楳茂都陸平はどの学校に勤めていたか。", "id": "de-064-01-002", "answers": [ { "text": "宝塚音楽歌劇学校", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宝塚少女歌劇は何年に『モン・パリ』を上演したか。", "id": "de-064-01-003", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 498, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "松竹楽劇部公演は、映画上映に併設されたアトラクションという形で上演されていた。1928年8月31日、浅草松竹座が開場した際にも、松竹楽劇部が大阪から上京して公演を行った。この公演『虹のおどり』は東京でも好評を博し、松竹楽劇部支配人・蒲生重右衛門が、白井と大谷竹次郎に対し、東京を本拠とする新たな楽劇部設立を直訴する。これが容れられると蒲生は直ちに東京府下の新聞に新楽劇部の生徒募集広告を出し、これに応じて受験、合格した生徒14名を擁して「東京松竹楽劇部」が発足した。\n\n12月には上京してきた大阪松竹の応援という形で、昭和天皇即位にあわせて上演された『奉祝行列』で初舞台を踏む。稽古開始からわずか2カ月であった東京松竹の出演は第一景とフィナーレのみで、いずれもその他大勢の扱いであった。翌年もしばらく応援出演が続いたが、11月末より『松竹座フォーリィズ』で初の東京松竹単独公演を果たす。さらに12月には『松竹座ダンス』を単独上演し、以後東京松竹は大阪松竹から自立していった。", "qas": [ { "question": "浅草松竹座は何年に開場したか。", "id": "de-064-02-000", "answers": [ { "text": "1928年8月31日", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1930年、第1期生の水の江瀧子が少女歌劇の生徒としてはじめて男性風に断髪し、以後「男装の麗人」として人気が急上昇する。レビュー人気が高まる一方、いたずらに扇情的であるとして警察から演出内容の指導通達も受けたが、翌1931年には歌舞伎座において、『ラーマーヤナ』を脚色した『奪われし我が愛しの妻よ』をもって、来日中のタイ国王・ラーマ7世の台覧に供され、社会的信用を高めた。楽劇部長である蒲生重右衛門による積極的な運営もあり、東京松竹楽劇部は東京名物といわれる一大劇団となり、本拠の浅草松竹座のみならず、歌舞伎座、東京劇場等でも優秀な興行成績を挙げた。\n\n1932年10月、東京進出を図る宝塚少女歌劇が新橋演舞場で『ブーケ・ダムール』公演をはじめ、これに対抗した東京松竹も築地川をはさんだ対岸の東京劇場で大作『らぶ・ぱれいど』を上演した。築地川両岸で松竹と宝塚による集客競争・通称「レビュー合戦」がはじまった。両者は「踊る松竹、歌う宝塚」と対比され、この争いは宝塚が東京における新拠点・東京宝塚劇場へ移るまで続いた。なお、『らぶ・ぱれいど』の頃に、東京松竹楽劇部は名称を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めた。", "qas": [ { "question": "少女歌劇の生徒としてはじめて男性風に断髪したのは誰?", "id": "de-064-03-000", "answers": [ { "text": "水の江瀧子", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東京松竹楽劇部の本拠はどこ?", "id": "de-064-03-001", "answers": [ { "text": "浅草松竹座", "answer_start": 240, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『らぶ・ぱれいど』は何に対抗して上演されたの?", "id": "de-064-03-002", "answers": [ { "text": "『ブーケ・ダムール』", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『らぶ・ぱれいど』の頃、東京松竹楽劇部は名称を何に変えたの?", "id": "de-064-03-003", "answers": [ { "text": "「松竹少女歌劇部(SSK)」", "answer_start": 484, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東京宝塚劇場の出現以来、松竹少女歌劇は積極攻勢を図り、『タンゴ・ローザ』以降は関西、中国、九州各地方へも巡業、先輩格の大阪松竹を本拠地に押し込める形になりつつも、全国的人気を獲得した。このころの松竹少女歌劇は水の江瀧子とオリエ津阪を二枚看板としていたが、とくに「ターキー」の愛称で知られるようになった水の江は、「レビュー界空前の人気を独占し」、「ターキー時代を現出している」と評されるほどの高い人気を誇った。またスタッフでは演出の青山杉作、振付の青山圭男、装置の三林亮太郎を三本柱として、「レビューの王様」とも呼ばれた名演出家・白井鐵造を擁する宝塚と互角の争いを演じた。\n\n当時は各スターの私設後援会が林立し、会員2万人を擁した「水の江会」を筆頭に、各後援会が競い合ってスターに声援を送り、舞台へテープや花束を投げ、またスターもこれに呼応して、劇場内は異常な興奮状態を示していた。しかし1937年、定員3600人を誇り「マンモス劇場」とも呼ばれた新本拠地・国際劇場が開場されると、その巨大さゆえに従来の松竹少女歌劇を支えた「スターとファンとの間の交歓」という魅力は失われていくことになる。", "qas": [ { "question": "水の江瀧子の愛称は何?", "id": "de-064-04-000", "answers": [ { "text": "「ターキー」", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松竹少女歌劇の二枚看板は水の江瀧子とまだ誰なの?", "id": "de-064-04-001", "answers": [ { "text": "オリエ津阪", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国際劇場は何年に開場したか。", "id": "de-064-04-002", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 393, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1938年3月、松竹本社の機構改革が行われて新たに「歌劇部」が発足し、東京・大阪の両少女歌劇が一元管理されることになった。歌劇部長の大谷博は両劇団を積極的に交流させたが、時局の戦時色が強まったこともあり本格公演は少なくなっていき、少女歌劇人気は低落傾向を示していった。作品も時局が反映されたものが作られはじめ、日支事変を題材とした『ますらを』が上演されたのち、翌1938年の『東京踊り』には「さくらかちどき」という副題が付けられ、「祖国のために」というバレエも併演された。1939年には『防共の誓い』を上演した。そして同年9月の『ぶるう・むうん』をもって少女歌劇の単独公演はいったん休止されることになる。\n\n以後はかつてのごとく映画上映に併演されるアトラクションを建前として公演を続けたが、1941年末に太平洋戦争が勃発すると、上演内容についての制限も強化されていった。翌1942年にはフィリピン方面の将兵慰問興行を3カ月にわたり行った。同年にはオリエ津阪、1943年には水の江瀧子と、全盛期を支えた男役スターが相次いで退団した。1944年3月には決戦非常措置要項により国際劇場が閉鎖され、風船爆弾の製造工場として転用された。ここまでに退団者も相次いでいたことから、同31日をもって松竹少女歌劇団はいったん解散。慰問興行を目的とした「松竹芸能本部女子挺身隊」に改められ、内外で慰問興行を打った。1945年には「松竹舞踊隊」として活動、8月に大船新生劇団と邦楽座で興行中に終戦を迎えた。", "qas": [ { "question": "『防共の誓い』は何年に上演されたの?", "id": "de-064-05-000", "answers": [ { "text": "1939年", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オリエ津阪と水の江瀧子と、誰の方が引退tが早かった?", "id": "de-064-05-001", "answers": [ { "text": "オリエ津阪", "answer_start": 423, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オリエ津阪は何年に引退したか。", "id": "de-064-05-002", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 386, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "終戦後の10月、松竹舞踊隊は30名の団員を擁して「松竹歌劇団」として再出発した。同時に新団員の募集も行い、11月には戦後第1期生となる34名が新入団した。翌1946年より、水の江などかつての関係者が所属する劇団との合同という形をとりながら公演を再開し、7月には戦後初の単独公演を行い、立ち直りへ向かった。1947年秋には東京大空襲で損壊していた国際劇場が修築され、復興記念公演を行った。1948年にはかつて毎年恒例となっていた『東京踊り』を復活させた。1949年ごろからはその人気が再燃、ブロマイド販売の最大手として知られた浅草マルベル堂においては、川路龍子、小月冴子、曙ゆりといったスターの品が100万枚以上を売り上げた。", "qas": [ { "question": "11月には松竹舞踊隊に何人の戦後第1期生が入団したか。", "id": "de-064-06-000", "answers": [ { "text": "34名", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『東京踊り』はいつ復活されたか。", "id": "de-064-06-001", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 193, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "オグリキャップ", "paragraphs": [ { "context": "オグリキャップ(OguriCap、1985年3月27日-2010年7月3日)は、日本の競走馬、種牡馬である。\n1987年5月に岐阜県の地方競馬・笠松競馬場でデビュー。\n8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。\n中央競馬時代はスーパークリーク、イナリワンの二頭とともに「平成三強」と総称され、自身と武豊の活躍を中心として起こった第二次競馬ブーム期において、第一次競馬ブームの立役者とされるハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。\n1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。\n1991年、JRA顕彰馬に選出。\n愛称は「オグリ」、「芦毛の怪物」など多数。\n競走馬引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となったが、産駒から中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、2007年に種牡馬を引退した。\n種牡馬引退後は優駿スタリオンステーションで功労馬として繋養されていたが、2010年7月3日に右後肢脛骨を骨折し、安楽死の処置が執られた。", "qas": [ { "question": "「平成三強」と総称されのはスーパークリーク、イナリワンともう一頭の名前は?", "id": "de-065-00-000", "answers": [ { "text": "オグリキャップ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オグリキャップは2007年に種牡馬を引退した後、功労馬としてどこにいましたか?", "id": "de-065-00-001", "answers": [ { "text": "優駿スタリオンステーション", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第二次競馬ブーム期に活躍した中心的人物は?", "id": "de-065-00-002", "answers": [ { "text": "武豊", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オグリキャップは、第一次競馬ブームの立役者である何という競走馬に匹敵するほど高い評価を得ましたか?", "id": "de-065-00-003", "answers": [ { "text": "ハイセイコー", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オグリキャップの母・ホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。\nホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。\n1984年のホワイトナルビーの交配相手には、小栗の意向により笠松競馬で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップが選ばれた。\n鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、最終的に提案が実現した。\nなお、オグリキャップは仔分けの馬で、出生後に小栗が稲葉牧場に対してセリ市に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。\nオグリキャップについて小栗が支払った額は250万円とも500万円ともされる。", "qas": [ { "question": "オグリキャップの父親の名は?", "id": "de-065-01-000", "answers": [ { "text": "ダンシングキャップ", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ホワイトナルビーの競走馬時代からの所有者で、繁殖牝馬となった後もその産駒の競走馬を所有した人物は誰でしょうか?", "id": "de-065-01-001", "answers": [ { "text": "小栗孝一", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1987年1月に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。\n登録馬名は「オグリキヤツプ」。\nダート800mで行われた能力試験を51.1秒で走り合格した。\n5月19日のデビュー戦では能力試験で記録したタイムが評価されて2番人気に支持されたが、3コーナーで他馬に大きく外に振られる不利を受け、最後の直線でマーチトウショウにクビ差で追い込んだものの2着に敗れた。\nしかし調教師の鷲見はオグリキャップの走りが速い馬によく見られる重心の低い走りであることと、その後2連勝から実戦経験を積めば速くなる馬と考え、短いときは2週間間隔でレースに起用した。\n結局デビュー4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れたものの、5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した。", "qas": [ { "question": "オグリキャップのデビュー戦で優勝した競走馬は?", "id": "de-065-02-000", "answers": [ { "text": "マーチトウショウ", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オグリキャップがマーチトウショウを打ち破って優勝したのはデビュー何戦目?", "id": "de-065-02-001", "answers": [ { "text": "5戦目", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "前述のようにオグリキャップはデビュー戦と4戦目の2度にわたってマーチトウショウに敗れている。\n敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れ(スタート時にゲートを出るタイミングが遅れること)をした。\n一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、オグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、マーチトウショウは「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」という。\nまた、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替しているが、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップの蹄は蹄叉腐乱(ひづめの内側が腐る疾病)を起こしていた。\n川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している。", "qas": [ { "question": "川瀬友光が、オグリキャップの競争能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測したのは、オグリキャップが何を患っていたからか?", "id": "de-065-03-000", "answers": [ { "text": "蹄叉腐乱", "answer_start": 298, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オグリキャップと比較して、マーチトウショウの方が短距離に合っていたと言った騎手は誰ですか?", "id": "de-065-03-001", "answers": [ { "text": "原隆男", "answer_start": 153, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。\nオグリキャップが活躍を続けるなかで同馬を購入したいという申し込みは多数あり、とくに中京競馬場(当時は地方と中央の共同使用)の芝コースで行われた8戦目の中京盃を優勝して以降は申込みが殺到した。\nまた、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た。\nしかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信念を持っていたため、すべて断っていた。\nこれに対し最も熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した。\nまた、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した。", "qas": [ { "question": "オグリキャップが中央競馬へ移籍する際に、馬主に対して熱心に移籍交渉を勧めた人物は誰でしょうか?", "id": "de-065-04-000", "answers": [ { "text": "佐橋五十雄", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オグリキャップ購入希望の申し込みが殺到したのは何のレースに優勝した後からですか?", "id": "de-065-04-001", "answers": [ { "text": "中京盃", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中央競馬移籍後のオグリキャップは栗東トレーニングセンターの調教師瀬戸口勉の厩舎で管理されることが決まり、1月28日に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された。\nオグリキャップの中央移籍後の初戦にはペガサスステークスが選ばれ、鞍上は佐橋の希望により河内洋に決まった。\n地方での快進撃は知られていたものの、単勝オッズは2番人気であった。\nレースでは序盤は後方に控え、第3コーナーから馬群の外を通って前方へ進出を開始。\n第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。\n出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく、優勝は予想を上回る結果だった。\nこのレースで実況を担当した杉本清は「これは噂にたがわない強さだ」と実況した。", "qas": [ { "question": "オグリキャップの中央移籍後の初戦であるペガサスステークスの結果はどうでしたか?", "id": "de-065-05-000", "answers": [ { "text": "優勝", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ペガサスステークスでオグリキャップに騎乗した人は誰ですか?", "id": "de-065-05-001", "answers": [ { "text": "河内洋", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "移籍2戦目には毎日杯が選ばれた。\nこのレースでは馬場状態が追い込み馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった。\nオグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。\n河内はレース後のインタビューで「2着馬との差はクビでしたけれど、着差以上に強い勝ち方をしたと思います。まあ、距離の2000mもこなしましたが、この馬に一番の似合いの距離は、前走のペガサスステークスのような1600メートル戦じゃないかな」と答えた。\nオグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、前哨戦である毎日杯を優勝して本賞金額では優位に立ったものの皐月賞に登録できず、代わりに京都4歳特別に出走した。\nこのレースでは後に主戦騎手となる南井克巳が鞍上を務め、オグリキャップ一頭だけが58キロの斤量を背負ったが第3コーナーで後方からまくりをかけ、優勝した。", "qas": [ { "question": "オグリキャップの移籍3戦目となるレースは何ですか?", "id": "de-065-06-000", "answers": [ { "text": "京都4歳特別", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "京都4歳特別でオグリキャップに騎乗した人は誰?", "id": "de-065-06-001", "answers": [ { "text": "南井克巳", "answer_start": 363, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "京都4歳特別は何のレース登録が出来なかったために出走することになったのですか?", "id": "de-065-06-002", "answers": [ { "text": "皐月賞", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1988年の京都4歳特別で唯一斤量を背負った競走馬は何?", "id": "de-065-06-003", "answers": [ { "text": "オグリキャップ", "answer_start": 374, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "クラシック登録をしていないオグリキャップは東京優駿(日本ダービー)にも出走することができず、代わりにニュージーランドトロフィー4歳ステークスに鞍上に河内が復帰して出走した。\nこの時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていたが、レースでは序盤は最後方に位置したが向こう正面で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。\nこのレースでのオグリキャップの走破タイムはニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレースレコードであったにもかかわらず、騎乗していた河内はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった。\nこのレースでのオグリキャップの走破タイムは、同じ東京競馬場芝1600mで行われた古馬GIの安田記念よりも速かった。", "qas": [ { "question": "ニュージーランドトロフィー4歳ステークスは何のレースの代理として出走しましたか?", "id": "de-065-07-000", "answers": [ { "text": "東京優駿", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オグリキャップがクラシック登録をしていたならば、ニュージーランドトロフィー4歳ステークスではなく何のレースに出走していましたか?", "id": "de-065-07-001", "answers": [ { "text": "東京優駿", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初の古馬との対戦、特に重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となったランドヒリュウとの対戦にファンの注目が集まった。\nレースではランドヒリュウが先頭に立って逃げたのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始する。\n第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウをかわし、中京競馬場芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。\nこの勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝を達成した。", "qas": [ { "question": "高松宮杯ではオグリキャップが優勝し、何という競走馬が2着だったの?", "id": "de-065-08-000", "answers": [ { "text": "ランドヒリュウ", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高松宮杯での優勝により、オグリキャップは地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録の何連勝を達成したの?", "id": "de-065-08-001", "answers": [ { "text": "5連勝", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。\nこの勝利により、当時のJRA重賞連勝記録である6連勝を達成した(メジロラモーヌと並ぶタイ記録)。\n当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、オグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した。\n毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた。", "qas": [ { "question": "オグリキャップの毎日王冠での優勝により、当時のJRA重賞連勝記録である6連勝を達成しました。この記録に並ぶタイ記録を保持している競走馬な何ですか?", "id": "de-065-09-000", "answers": [ { "text": "メジロラモーヌ", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オグリキャップの毎日王冠での走りを見て、怪物だと評したのは誰ですか?", "id": "de-065-09-001", "answers": [ { "text": "大橋巨泉", "answer_start": 105, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "続く天皇賞(秋)では、前年秋から7連勝中であった古馬のタマモクロスを凌いで1番人気に支持された。\nレースでは馬群のやや後方につけて追い込みを図り、出走馬中最も速い上がりを記録したものの、2番手を先行し直線で先頭になったタマモクロスを抜くことができず、2着に敗れた。\n天皇賞(秋)の結果を受け、馬主の佐橋がタマモクロスにリベンジを果たしたいという思いを強く抱いたことからオグリキャップの次走にはタマモクロスが出走を決めていたジャパンカップが選ばれ、オグリキャップは引き続き東京競馬場で調整された。\nレースでは天皇賞(秋)の騎乗について佐橋が「もう少し積極的に行ってほしかった」と不満を表したことを受けて河内は瀬戸口と相談の上で先行策をとり、序盤は3、4番手に位置した。\nしかし向こう正面で折り合いを欠いて後方へ下がり、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められる形となった。\n第4コーナーから進路を確保しつつ前方への進出を開始したがペイザバトラーとタマモクロスを抜けず3着に敗れた。\nレース後、佐橋の意向から瀬戸口を通じて岡部幸雄に騎乗依頼が出されたものの、岡部は「西(栗東)の馬はよくわからないから」と婉曲に断った。\nしかし瀬戸口がその後も粘り強く交渉を続けた結果、岡部は「一回だけ」という条件付きで依頼を引き受けた。", "qas": [ { "question": "天皇賞(秋)で1着だったのは何ですか?", "id": "de-065-10-000", "answers": [ { "text": "タマモクロス", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "馬主の佐橋がジャパンカップでリベンジを果たしたいと思っていた競走馬は何?", "id": "de-065-10-001", "answers": [ { "text": "タマモクロス", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャパンカップでオグリキャップに勝った馬で、オグリキャップのリベンジの対象でなかった競走馬の名前は?", "id": "de-065-10-002", "answers": [ { "text": "ペイザバトラー", "answer_start": 412, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「一回だけ」という条件でオグリキャップの騎乗依頼を引き受けた人は誰なの?", "id": "de-065-10-003", "answers": [ { "text": "岡部幸雄", "answer_start": 457, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "有馬記念までの間は美浦トレーニングセンターで調整を行うこととなった。\n瀬戸口はオグリキャップを血統からマイラーと見ていたため「2500mは長いのではないか」と感じていたが、岡部は「充分にこなせる」と手応えを感じた。\nタマモクロスはファン投票1位、当日の単勝オッズも2.4倍で1番人気で、オグリキャップはタマモクロスに次ぐファン投票2位、単勝も3.7倍で2番人気での出走となった。\n瀬戸口はレース前に岡部に「4コーナーあたりで、前の馬との差を1、2馬身に持っていって、勝負に出てほしいんや」と指示し、レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。\nGI競走初制覇を達成し、同年のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出された。\nタマモクロスを担当した調教助手の井高淳一と、オグリキャップの調教助手であった辻本は仲が良く、麻雀仲間でもあったが、天皇賞後に井高はオグリキャップの飼い葉桶を覗き「こんなもんを食わせていたんじゃ、オグリはずっとタマモに勝てへんで。」と声を掛けた。\n当時オグリキャップに与えられていた飼い葉の中に、レースに使っている馬には必要がない体を太らせるための成分が含まれており、指摘を受けた辻本はすぐにその配合を取り止めた。\n有馬記念終了後に、井高は「俺は結果的に、敵に塩を送る事になったんだな。」と苦笑した。", "qas": [ { "question": "オグリキャップがGI競走初制覇を達成したレースは何?", "id": "de-065-11-000", "answers": [ { "text": "有馬記念", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "有馬記念ではオグリキャップが優勝したが、この時最も人気があった馬は何?", "id": "de-065-11-001", "answers": [ { "text": "タマモクロス", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "前述のように、オグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。\nオグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、中央競馬を主催する日本中央競馬会(JRA)に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こったが、実現しなかった。\nこのことからクラシックに出走できなかったオグリキャップはマルゼンスキー以来となる「幻のダービー馬」と呼ばれた。\n調教師の瀬戸口は後に「ダービーに出ていれば勝っていたと思いませんか」という問いに対し「そうやろね」と答え、また「もしクラシックに出られたら、中央競馬クラシック三冠を獲っていただろう」とも述べている。\n一方、毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった。\nなお、前述のように1992年から、中央競馬はクラシックの追加登録制度(事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度)を導入した。", "qas": [ { "question": "毎日杯で4着だったヤエノムテキが後に優勝したクラシックレースは何か?", "id": "de-065-12-000", "answers": [ { "text": "皐月賞", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オグリキャップが「幻のダービー馬」と呼ばれるようになったのは、何のレースに出走できなかったことに由来していますか?", "id": "de-065-12-001", "answers": [ { "text": "中央競馬クラシック三冠競走", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クラシックの追加登録制度が中央競馬に導入されたのはいつからなの?", "id": "de-065-12-002", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 425, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄に脱税容疑がかかり、将来馬主登録を抹消される可能性が出た。\nこれを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に佐橋は翌1989年2月22日、近藤俊典へオグリキャップを売却した。\n売却額については当初、1年あたり3億であったとされたが、後に近藤は2年間の総額が5億5000万円であったと明かしている。\nただしこの契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後には所有権を佐橋に戻すという条件が付けられており、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた。\nまた、売却価格の高さも指摘された。\nオグリキャップ売却と同時に佐橋の馬主登録は抹消されたが、近藤は自らの勝負服の色と柄を、佐橋が用いていたものと全く同じものに変更した。", "qas": [ { "question": "オグリキャップが近藤俊典に売却される原因となったのは、2代目馬主に何の容疑がかかったから?", "id": "de-065-13-000", "answers": [ { "text": "脱税", "answer_start": 32, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "佐橋と近藤が結んだオグリキャップ売却の契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後にどのような条件が付いていたの?", "id": "de-065-13-001", "answers": [ { "text": "所有権を佐橋に戻す", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節(人のかかとにあたる部分)を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。\nさらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。\n前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。\n療養施設へは厩務員の池江敏郎が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療が行われた。\nオグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた。\n\nオグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し、9月のオールカマーで復帰した。\n鞍上には4歳時の京都4歳特別に騎乗した南井克巳が選ばれ、以後1989年の全レースに騎乗した。\n同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。\nここから、4か月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「\"怪物伝説\"を決定的にする過酷なローテーション」が始まった。", "qas": [ { "question": "1989年にオグリキャップが出走した最初のレースは何?", "id": "de-065-14-000", "answers": [ { "text": "オールカマー", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オグリキャップの1989年前半の出走プランとして、3番目のレースに上がっていたものは何ですか?", "id": "de-065-14-001", "answers": [ { "text": "安田記念", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1989年前半に度重なるケガをしたオグリキャップは療養施設にて治療を行い、運動はどこで行っていたの?", "id": "de-065-14-002", "answers": [ { "text": "プール", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ケガから復帰したオグリキャップが4か月の間に重賞6戦を記録した中で、重賞1戦目は何のレースとなりますか?", "id": "de-065-14-003", "answers": [ { "text": "オールカマー", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された。\n移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した。\nレースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。\n残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。\n写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。\nこのレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる。", "qas": [ { "question": "毎日王冠で写真判定によりオグリキャップに負けて2着となった馬は何?", "id": "de-065-15-000", "answers": [ { "text": "イナリワン", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「オグリキャップのベストバトル」や「1989年のベストマッチ」と言われたレースは何を指しているの?", "id": "de-065-15-001", "answers": [ { "text": "毎日王冠", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オグリキャップが天皇賞(秋)の前に出走したレースは何?", "id": "de-065-15-002", "answers": [ { "text": "毎日王冠", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。\n南井は、自身がオグリキャップ騎乗した中で「勝てたのに負けたレース」であるこのレースが最も印象に残っていると述べている。", "qas": [ { "question": "オグリキャップの騎手を務めた南井が「勝てたのに負けたレース」と印象を述べたレースは何?", "id": "de-065-16-000", "answers": [ { "text": "天皇賞(秋)", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "天皇賞(秋)で優勝した馬は何?", "id": "de-065-16-001", "answers": [ { "text": "スーパークリーク", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間に「届かない」、「届くはずがない」と思わせる差が生まれた。\nしかし直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。\n写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。\n南井は天皇賞(秋)を自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は勝たないといけない」という決意でレースに臨んでいた。\n勝利によって「オグリキャップに救われた」と感じた南井は勝利騎手インタビューで涙を流した。", "qas": [ { "question": "マイルチャンピオンシップでオグリキャップとほぼ同時にゴールした競走馬は何?", "id": "de-065-17-000", "answers": [ { "text": "バンブーメモリー", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マイルチャンピオンシップでハナ差でオグリキャップに負けた馬は何?", "id": "de-065-17-001", "answers": [ { "text": "バンブーメモリー", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "連闘で臨んだ翌週のジャパンカップでは、非常に早いペース(逃げたイブンベイの1800mの通過タイムが当時の芝1800mの日本レコードを上回る1分45秒8)でレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコードである2分22秒2で走破したもののホーリックスの2着に敗れた。\n陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で顎を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された。\nレースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。\nレース後、関係者の多くは疲れがあったことを認めた。", "qas": [ { "question": "ジャパンカップと有馬記念では、オグリキャップの成績が良かったのはどちらですか?", "id": "de-065-18-000", "answers": [ { "text": "ジャパンカップ", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジャパンカップで1着だったのは何だったの?", "id": "de-065-18-001", "answers": [ { "text": "ホーリックス", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一時は1989年一杯で競走馬を引退すると報道されたオグリキャップであったが、1990年も現役を続行することになった。\nこれは、日本中央競馬会がオーナー側に現役続行を働きかけたためともいわれている。\n有馬記念出走後、オグリキャップはその日のうちに、休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された。\nオグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にアメリカで行われるGI競走アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。\nその背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった。", "qas": [ { "question": "1990年前半のオグリキャップのローテーションの中に含まれていた海外のレースは何?", "id": "de-065-19-000", "answers": [ { "text": "GI競走アーリントンミリオンステークス", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。\n当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、安田記念に変更された。\nこの競走では武豊が初めて騎乗した。\nレースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。\nなお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった。", "qas": [ { "question": "武豊が初めてオグリキャップに騎乗したレースは何?", "id": "de-065-20-000", "answers": [ { "text": "安田記念", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "川端康成", "paragraphs": [ { "context": "川端康成(かわばたやすなり、1899年(明治32年)6月14日-1972年(昭和47年)4月16日)は、日本の小説家、文芸評論家である。\n大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。\n1968年、ノーベル文学賞受賞。\n大阪府出身である。\n東京帝国大学国文学科卒業の学歴を持つ。\n大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊した。\n西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。\nその後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた。\n日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。", "qas": [ { "question": "1968年の日本のノーベル文学賞受賞者は誰ですか?", "id": "de-066-00-000", "answers": [ { "text": "川端康成", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "川端康成の出身地はどこですか?", "id": "de-066-00-001", "answers": [ { "text": "大阪府", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "川端康成はどこの大学を卒業したの?", "id": "de-066-00-002", "answers": [ { "text": "東京帝国大学", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "川端が大学時代に創刊した同人誌の名前は?", "id": "de-066-00-003", "answers": [ { "text": "『文藝時代』", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。\n初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。\nそのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている。\n川端は新人発掘の名人としても知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎、武田麟太郎、藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる。\nまた、その鋭い審美眼で数々の茶器や陶器、仏像や埴輪、俳画や日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い。\n多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した。\nなお、遺書はなかった。", "qas": [ { "question": "川端は何歳で亡くなりましたか?", "id": "de-066-01-000", "answers": [ { "text": "72歳", "answer_start": 437, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "川端は何年にこの世を去りましたか?", "id": "de-066-01-001", "answers": [ { "text": "1972年", "answer_start": 418, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生した(川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた)。\n7か月の早産だった。\n4歳上には姉・芳子がいた。\n父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱であった。\nまた、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学や書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった。\n蔵書には、ドイツ語の小説や近松、西鶴などの本もあった。", "qas": [ { "question": "川端自身は、自分の誕生日をいつだと思い込んでいましたか?", "id": "de-066-02-000", "answers": [ { "text": "6月11日", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "川端の父の職業は何でしたか?", "id": "de-066-02-001", "answers": [ { "text": "医師", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転移し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)。\n栄吉は瀕死の床で、「要耐忍為康成書」という書を遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記した。\n2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった。\nところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。\n幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(のちの大阪府茨木市大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った。", "qas": [ { "question": "栄吉とゲンはどちらが先に亡くなりましたか?", "id": "de-066-03-000", "answers": [ { "text": "栄吉", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "栄吉とゲンはどちらが若くして亡くなりましたか?", "id": "de-066-03-001", "answers": [ { "text": "栄吉", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "康成のおばあちゃんの名前は何ですか?", "id": "de-066-03-002", "answers": [ { "text": "カネ", "answer_start": 398, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "両親の死後、康成が移り住んだのはどこでしたか?", "id": "de-066-03-003", "answers": [ { "text": "大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷", "answer_start": 411, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた。\n三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った。\nその際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった。\nタニの夫・秋岡義一は当時衆議院議員をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした。", "qas": [ { "question": "康成の姉は何家に預けられたの?", "id": "de-066-04-000", "answers": [ { "text": "秋岡家", "answer_start": 218, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "康成と祖父母の1か月の生活費はいくらでしたか?", "id": "de-066-04-001", "answers": [ { "text": "金23円", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "川端の家系は北条泰時から700年続き、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)。\n道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった。\n川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる。\n祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母と姪の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった。\n父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる。", "qas": [ { "question": "川端家の祖先は誰ですか?", "id": "de-066-05-000", "answers": [ { "text": "川端舎人助道政", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "道政の祖父は誰になりますか?", "id": "de-066-05-001", "answers": [ { "text": "北条泰時", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし、便利がられ、「神童」と呼ばれることもあった。\nまた、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈真綿にくるむやう〉に育てられていた。\n1906年(明治39年)4月、三島郡豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた。", "qas": [ { "question": "幼少期の康成に備わっていたとされる能力とは何ですか?", "id": "de-066-06-000", "answers": [ { "text": "予知能力", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "康成が入学した小学校の名前は何?", "id": "de-066-06-001", "answers": [ { "text": "三島郡豊川尋常高等小学校", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)、しばらくは近所の百姓女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた。\n小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという。\n小学校に上がる前から祖母に、〈うんと醤油をふくませたかつを節を入れて巻いた、からい海苔巻〉を食べさせてもらいながら、〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している。\nなお、笹川良一とは小学の同級生であった。\n祖父同士が囲碁仲間で、笹川の父・鶴吉も、易学に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという。", "qas": [ { "question": "1年生の時の授業日数は何日ありましたか?", "id": "de-066-07-000", "answers": [ { "text": "258日", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "笹川良一の父親の名前は何?", "id": "de-066-07-001", "answers": [ { "text": "鶴吉", "answer_start": 293, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。\n別居していた姉・芳子も翌1909年(明治42年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した。\n川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという。\n熱病に倒れた芳子の危篤を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身を易で占った。\n10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた。\nこれまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ。\n女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった。\n小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「甲」であった。\n康成は絵が得意であったため、文人画をたしなんでいた祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった。\n康成は毎日のように庭の木斛の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み、講談や戦記物、史伝をはじめ、立川文庫の冒険小説家・押川春浪に親しんだ。", "qas": [ { "question": "芳子の死因は何でしたか?", "id": "de-066-08-000", "answers": [ { "text": "熱病", "answer_start": 154, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "康成の姉は何歳でこの世を去りましたか?", "id": "de-066-08-001", "answers": [ { "text": "13歳", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。\n茨木中学校は質実剛健の校風で体操や教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。\n登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた。\n康成は学校まで約一里半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった。\nしかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。\nそして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった。\nこの当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている。", "qas": [ { "question": "康成の虚弱体質が改善されたのは毎日何キロメートルの徒歩通学をしていたおかげですか?", "id": "de-066-09-000", "answers": [ { "text": "約6キロメートル", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小学校卒業後、康成はどこに入りましたか?", "id": "de-066-09-001", "answers": [ { "text": "大阪府立茨木中学校", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "康成は中学2年頃から作家になることを志し、『新潮』『新小説』『文章世界』『中央公論』など文芸雑誌を読み始めた。\n亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった。\n学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。\n祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。\n〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。\n祖父が死んだ後の借金には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している。\nそのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは汁物と梅干ばかりであった。\n徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる。", "qas": [ { "question": "康成が作家を目指すようになったのはいつからですか?", "id": "de-066-10-000", "answers": [ { "text": "中学2年頃から", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中学3年となった1914年(大正3年)5月25日未明(午前2時)、寝たきりとなっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。\n祖父は家相学や漢方薬の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった。\nこの時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表される。\n川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障で盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている。\n祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、孤児となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした。\n祖父の骨揚げの日のことを康成は、以下のように綴っている。", "qas": [ { "question": "康成の祖父は何歳で亡くなりましたか?", "id": "de-066-11-000", "answers": [ { "text": "73歳", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「霊魂」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた。\n親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ。\nそして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる。\n8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったが、康成が本屋で買う本代がかさむために翌年3月から寄宿舎に行くことになった。", "qas": [ { "question": "祖父の死後、康成は誰に引き取られましたか?", "id": "de-066-12-000", "answers": [ { "text": "秀太郎", "answer_start": 317, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを活字にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに短歌を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた。\nこの頃の日記には、〈英語ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など外国語で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でもノベル賞を思はぬまでもない〉と強い決意を記している。\n意を決し、1916年(大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった。\n4月には、寄宿舎の室長となった。\nこの寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に無垢な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの同性愛的な恋慕を抱き(肉体関係はない)、〈小笠原はこんな女を妻にしてもよからうと思ふ位柔和な本当に純な少年だ〉と日記に綴っている。", "qas": [ { "question": "『京阪新報』に作品が掲載したという康成の同級生は誰?", "id": "de-066-13-000", "answers": [ { "text": "清水正光", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『京阪新報』を訪問した際に出会った若い記者とは誰のことですか?", "id": "de-066-13-001", "answers": [ { "text": "小林", "answer_start": 290, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "川端は、〈受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している。\n小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも文通し、一高と帝国大学入学後も小笠原の実家を訪ねている。\n康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と書き送っている。\n小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた。\n川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている。\nこの年の9月には、康成と同じ歳の中条百合子が坪内逍遥の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった。\nまた同年には、康成の作家志望を応援していた母方の従兄・秋岡義愛の紹介で、義愛の友人であった『三田文学』の新進作家の南部修太郎と文通が始まった。\nなお、この年の秋には、祖父と暮らした豊川村大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎(川端松太郎の妹の婿)に売られた。", "qas": [ { "question": "康成の初恋相手は誰でしたか?", "id": "de-066-14-000", "answers": [ { "text": "小笠原義人", "answer_start": 45, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "康成に南部修太郎を紹介した人は誰ですか?", "id": "de-066-14-001", "answers": [ { "text": "秋岡義愛", "answer_start": 429, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1917年(大正6年)1月29日に急死した英語の倉崎先生のことを書いた「生徒の肩に柩を載せて」が、国語教師・山脇成吉(のち満井)の紹介により、3月に雑誌『団欒』に掲載され、発行者の石丸悟平(山脇の同級)から、感動したという返事をもらう。\n3月、康成は茨木中学校を卒業した。\nこの学校の卒業者は、ほぼ学校の先生か役場に就職し、末は町村長になる者が多く、少数の成績優秀者は京都の三高に進学していた。\nその雰囲気の中、康成は行く末は〈三田か早稲田の文科〉に行くつもりだったが、首席で入学以来どんどん席順の下がったことへの屈辱や、〈肉体的にも学力的にも劣者と私を蔑視した教師と生徒への報復の念が主な原因〉で、〈突如として帝大が浮び〉、一高への進学を決意した。", "qas": [ { "question": "「生徒の肩に柩を載せて」が掲載された雑誌は何ですか?", "id": "de-066-15-000", "answers": [ { "text": "『団欒』", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "教師や校長は、「成績をよく考へ大それたことをするな。お前の学力では師範の二部が適当だ」と忠告するが、康成は教師らの反対を押し切り、すぐ3月21日に上京して、最初に上村龍之助(祖母の妹・トミの長男)を訪ね、その後浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)にいる従兄・田中岩太郎と伯母・ソノ(母の異母姉)の暮らす家に居候しながら、日土講習会や駿河台の明治大学の予備校に通い始めた。\nこの田中ソノ親子に川端は恩義を感じ、〈息子は苦学をしたほどだから、余裕のない暮しで、私のために質屋通ひもしてくれた。伯母は息子にさへかくして、私に小遣銭をくれた。それが伯母にとつてどんな金か私にはよく分つてゐた〉と語っている。\n康成は、浅草公園などにもよく出かけ、上京一番に麻布区新龍土町12番地(現・港区六本木7丁目)にいる文通相手の南部修太郎宅も訪ねた。\n南部宅へはその後一高入学後も何度か通った。", "qas": [ { "question": "上京した康成が居候した家の住所地は?", "id": "de-066-16-000", "answers": [ { "text": "浅草区浅草森田町11番地", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南部修太郎の自宅の住所地は?", "id": "de-066-16-001", "answers": [ { "text": "麻布区新龍土町12番地", "answer_start": 328, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "9月に第一高等学校の文科第一部乙類(英文科)に入学した(茨木中学出身の同級では康成だけ)。\n同級には石濱金作、酒井真人、鈴木彦次郎、三明永無、守随憲治、池田虎雄、片岡義雄、辻直四郎らがいた。\n一高時代は3年間寮生活となる。\n初め寮で隣室となった石濱は、予備校でも康成を一度見かけていて、その時の強い印象を忘れられていなかったという。\n川端は石濱の影響で、菊池寛、芥川龍之介、志賀直哉、ロシア文学をよく読んだ。\n浅草オペラなどによく一緒に行き、オペラ小屋で谷崎潤一郎を見かけたこともあった。\n授業中、教科書の影に隠れてドストエフスキーをこっそりと読んでいる小柄で瘦せっぽちの康成の存在に、2学期頃から気づいた鈴木彦次郎は、康成が教室であてられると、いかにも読書を中断させられ迷惑そうな顔で嫌々ながら立ち上がる「ニヒルなところ」が印象的で興味を持った。\nある日鈴木は思いきって、取っつきの悪い神経質そうな康成に話しかけてみると、同じく文学志望だと知って親しみを感じ、その後だんだんと交際が深まっていった。", "qas": [ { "question": "康成が浅草オペラに一緒に行っていた同級生の氏名は?", "id": "de-066-17-000", "answers": [ { "text": "石濱金作", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "文学志望が共通点となって親交が深まった同級生の氏名は?", "id": "de-066-17-001", "answers": [ { "text": "鈴木彦次郎", "answer_start": 303, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "石濱金作、鈴木彦次郎と寮の同室となった翌1918年(大正7年)秋、康成は寮の仲間の誰にも告げずに初めての伊豆への旅に向かった。\n中学時代の寮生活と〈勝手がちがつた〉高校の寮生活が1、2年の間〈ひどく嫌だつた〉ことと、〈私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた〉康成は、10月30日から11月7日までの約8日間、修善寺から下田街道を湯ヶ島へ旅した。\nこの時に岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会った。\n下田港からの帰京の賀茂丸では、受験生・後藤孟と乗り合わせた。\n彼らの善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放した。\n彼らとのやりとりは、その後の草稿『湯ヶ島での思ひ出』、小説『伊豆の踊子』で描かれることになる。\nこの旅以来、湯ヶ島は川端にとって〈第二の故郷〉となり、宿泊した湯ヶ島湯本館(田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地)へ毎年10年間通うようになる。\n幼い時の眼底結核により右目が見えにくく、右半身も時々しびれる持病があった康成には、湯治をも兼ねていた。", "qas": [ { "question": "康成が初めての伊豆旅行で出会った、旅芸人とのやり取りが描かれた小説のタイトルは何ですか?", "id": "de-066-18-000", "answers": [ { "text": "『伊豆の踊子』", "answer_start": 382, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "初めての伊豆旅行で康成が出会った幼い踊り子とは誰ですか?", "id": "de-066-18-001", "answers": [ { "text": "加藤たみ", "answer_start": 255, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "川端の第二の故郷とはどこですか?", "id": "de-066-18-002", "answers": [ { "text": "湯ヶ島", "answer_start": 407, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "伊豆旅行から帰った後から、康成は寮の級友たちともなじむようになり、一緒に白木屋食堂などに行った。\n三明永無と白木屋の女給・山本ちよを張ったりすることもあった。\n1919年(大正8年)、池田虎雄を通じて、池田の神戸一中時代の友人・今文武の兄・今東光と知り合い、本郷区西片町(現・文京区西片1丁目12-13)に住んでいた今宅へ寄宿舎からよく遊びに行き、今東光の父・武平(元郵船会社欧州航路の船長)から霊智学(心霊学)、神智学の話に耳を傾けた。\n康成は、今東光、今日出海兄弟の母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた。\n6月には、友人で文芸部の氷室吉平から何か書いてみないかと勧められて、一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との体験と絡めて、〈ちよ〉という名の3人の少女(白木屋の女給、親戚の娘、伊豆の踊子)にまつわる奇妙な話を描いた「ちよ」を発表した。\nこの作品も川端は処女作としている。", "qas": [ { "question": "「ちよ」が発表された年はいつ?", "id": "de-066-19-000", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 80, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "康成は酒が飲めない性質であったが、石濱、鈴木、三無らとカフェや飲食店によく出かけ、この年の秋頃、本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)にあるカフェ・エランで、またしても「ちよ」(通称)と呼ばれる可憐な少女女給・伊藤初代と出会った。\n伊藤初代は、岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区岩谷堂)の農家出身の父・忠吉の長女として1906年(明治39年)に福島県で生れ、幼くして母と死別し父とも離れ、叔母や他人の家を転々として育ち、上京しカフェ・エランのマダム(平出修の義理の甥の元妻)の養女(正式ではない)となっていた13歳の少女であった。\nしかしマダムの台湾行に伴い店を閉め、初代は翌年9月にマダムの親戚の岐阜県稲葉郡加納町6番地(現・岐阜市加納)の浄土宗西方寺に預けられて行った。\nなお、この当時東京帝国大学法学部の学生であった平岡梓は、ある冬の日、帝大正門前の道で同級生の三輪寿壮が川端(まだ一高生)と一緒にいるのに出くわしたという。\n平岡梓は肉でも食べようと湯島の牛肉屋「江知勝」に三輪を誘うが、今日は連れがいるから駄目だと、少し離れたところに立っている「弊衣破帽で色褪せたぼろぼろのマント」を羽織って、「目玉ばっかりバカでかい貧弱な一高生」を三輪は指さした。\nそしてその数日後、三輪が平岡の家に遊びに来た時、その一高生・川端のことが話題となり、紹介すると言われたが断わったという。", "qas": [ { "question": "康成と初対面した時の伊藤初代は何歳でしたか?", "id": "de-066-20-000", "answers": [ { "text": "13歳", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "康成が伊藤初代と初めて会ったお店はどこでしたか?", "id": "de-066-20-001", "answers": [ { "text": "カフェ・エラン", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "伊藤初代の出身県はどこですか?", "id": "de-066-20-002", "answers": [ { "text": "岩手県", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1920年(大正9年)7月に第一高等学校を卒業し、9月に東京帝国大学文学部英文学科に入学。\n同級に北村喜八、本多顕彰、鈴木彦次郎、石濱金作がいた。\nしばらくは、東京府豊多摩郡大久保町東大久保181(現・新宿区新宿7丁目13)の中西方に下宿している鈴木彦次郎の部屋に同居した。\n同年、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、今東光と共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画し、先輩の菊池寛に同名の誌名を継承することの諒解を得た。\n当時、小石川区小石川中富坂17番地(現・文京区小石川2-4)に住んでいた菊池寛を訪問し、これ以降、川端は菊池を通じ芥川龍之介、久米正雄らとも面識を持ち、長く菊池の恩顧を受けることとなる。\nなお当初、菊池は今東光を同人に入れることに反対したが、川端は今東光を入れないのなら、自分も同人にならないと言ったとされる。\n11月から川端は、東京市浅草区浅草小島町13の高橋竹次郎方(帽子洗濯修繕屋)の二階に下宿した。", "qas": [ { "question": "康成は大学入学当初、誰の部屋で同居していましたか?", "id": "de-066-21-000", "answers": [ { "text": "鈴木彦次郎", "answer_start": 123, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "康成の大学入学当時、菊池寛はどこに住んでいましたか?", "id": "de-066-21-001", "answers": [ { "text": "小石川区小石川中富坂17番地", "answer_start": 214, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "翌1921年2月に第6次『新思潮』を創刊し、「ある婚約」を掲載した。\n4月の第2号には、靖国神社の招魂祭での17歳の曲馬娘〈お光〉を軸に寸景を描いた小説「招魂祭一景」を発表し、菊池寛から〈ヴイジユアリゼイシヨンの力〉を褒められた。\n久米正雄、水守亀之助、加藤武雄、南部修太郎、中村星湖、小島政二郎、佐佐木茂索、加島正之助、『萬朝報』からも高く評価され、この「招魂祭一景」が、商業雑誌からも原稿依頼を受けるきっかけとなる。\n5月に浅草小島町72の坂光子方に下宿先を転居した。\n下宿先はその後、本郷区の根津西須賀町13(現・文京区向丘2丁目)の戸沢常松方、駒込林町227(現・千駄木5-32)の佐々木方、同町11(現・千駄木5-2-3)の永宮志計里方、千駄木町38(現・千駄木1-22)の牧瀬方などに数か月ごとに転々とする。\nこの頃の川端は、菊池寛からプロットの一点書きにしたものを貰い、菊池の『慈悲心鳥』などの作品を手伝っていたとされる。\n7月の『新思潮』第2号には、父母の死後について描いた自伝的作品「油」を発表した。", "qas": [ { "question": "駒込林町227の佐々木方の前に住んでいた住所地はどこですか?", "id": "de-066-22-000", "answers": [ { "text": "本郷区の根津西須賀町13", "answer_start": 245, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ある婚約」が掲載されたのはいつでしたか?", "id": "de-066-22-001", "answers": [ { "text": "1921年2月", "answer_start": 1, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この年の夏休みが終わり、康成は9月16日に上京の途上、三明永無と京都駅で落ち合い、岐阜駅で途中下車して2人で伊藤初代(当時15歳)のいる岐阜県を訪ねた。\n初代と親しくなれた康成は秋に結婚を決意し、10月8日に再び三明永無と共に岐阜に赴き、初代のいる西方寺を訪問して長良川湖畔の宿で初代と結婚の約束を果たし、翌日、岐阜県今沢町9番地の瀬古写真館で婚約記念の写真を撮った。\n帰京後、川端は初代との婚約を石濱金作ら同人に報告し、「独身送別会」を開いてもらい、友人たちの友情に感涙していたという。\nその後10月末に、石濱、鈴木、三明と共に岩手県岩谷堂字上堰で小学校の小使いをしている父親・忠吉と学校の宿直室と宿で面会し、初代の婚約記念写真を見て泣いている忠吉から承諾をとった。", "qas": [ { "question": "康成が結婚しようとした相手女性は誰でしたか?", "id": "de-066-23-000", "answers": [ { "text": "初代", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "夏休みに康成は何県を訪問しましたか?", "id": "de-066-23-001", "answers": [ { "text": "岐阜県", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "海辺の生と死(映画)", "paragraphs": [ { "context": "『海辺の生と死』は2017年7月29日に公開された日本の映画だ。太平洋戦争末期の奄美群島・加計呂麻島で出会った島尾ミホ・島尾敏雄夫妻をモデルにしている。作品名は島尾ミホの同名小説から取られており、島尾敏雄の『島の果て』なども原作とされている。監督は越川道夫、満島ひかりは4年ぶりの単独主演となった。キャッチコピーには「ついていけないでしょうかたとえこの身がこわれても取り乱したりいたしません」の文章が用いられた。", "qas": [ { "question": "『海辺の生と死』はいつ公開されたの?", "id": "de-067-00-000", "answers": [ { "text": "2017年7月29日", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『海辺の生と死』の監督は誰?", "id": "de-067-00-001", "answers": [ { "text": "越川道夫", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『海辺の生と死』の単特主演は誰?", "id": "de-067-00-002", "answers": [ { "text": "満島ひかり", "answer_start": 129, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『海辺の生と死』のキャッチコピーに使われた文章は何?", "id": "de-067-00-003", "answers": [ { "text": "「ついていけないでしょうかたとえこの身がこわれても取り乱したりいたしません」", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大平トエはカゲロウ島で生まれ育ち、現在は国民学校の代用教員を務めている。朔が父の蔵書を借りに来たことがきっかけで出会い、島唄を覚えたがる彼の人柄に惹かれていく。海女だった母は潜水中に心臓発作を起こして亡くなり、父と二人暮らししている。\nモデルは島尾ミホで、「大平」はミホの旧姓、「トエ」との名前は敏雄の小説『島の果て』に準じたものである。", "qas": [ { "question": "大平トエが生まれ育った島はどこなの?", "id": "de-067-01-000", "answers": [ { "text": "カゲロウ島", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大平トエの母は何をする人だったの?", "id": "de-067-01-001", "answers": [ { "text": "海女", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大平トエのモデルは誰なの?", "id": "de-067-01-002", "answers": [ { "text": "島尾ミホ", "answer_start": 122, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "島尾ミホの旧姓は何?", "id": "de-067-01-003", "answers": [ { "text": "「大平」", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "海辺の生と死の公開は2017年7月であると同年2月に発表された。これに際して満島はコメントを出し、「なんにせよ、一生抱えていかなきゃいけない作品になったと思います」と述べた。正式な封切り日は翌3月に2017年7月29日と発表され、合わせて満島以外の4俳優の出演が発表された。映倫での指定はG指定となり、同年4月には劇中写真、5月には予告編が公開された。また公開直前の7月には、本編冒頭映像、メイキング映像が続けて公開された。公開日の初日舞台挨拶、先立つ6月27日に行われた完成披露舞台挨拶は、どちらもテアトル新宿で行われた。なお6月の完成披露舞台挨拶は、交際が報じられていた満島と永山が公の場に揃って登場する初の機会となった。", "qas": [ { "question": "海辺の生と死は何年に発表された。", "id": "de-067-02-000", "answers": [ { "text": "2017年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2015年10月に撮影が完了した後、同月下旬から11月にかけて編集が行われた。編集技師は菊井貴繁が担当した。10月下旬には3時間半のバージョンが完成したが、満島はこのバージョンが最も好きだという。テープ出しは2016年2月に完了し、そこから約1年をかけてポストプロダクション作業が進められた。越川は、このテープ出し初号試写の際に、両親に関するものは全く見ないと公言している島尾伸三が訪れて好意的な感想を残したことが心に残っているとしている。作品は2017年1月27日に完成試写を迎えた。\n\n最終的に作品は2時間35分の大作となったが、越川は全ての歌詞が「1番」である奄美の島唄に倣い、「全部をシーン1として撮るという試みであり、それが1本のまとまりとして散逸していかないギリギリのところで成立する」のがこの長さだと振り返っている。", "qas": [ { "question": "撮影はいつ完了したか。", "id": "de-067-03-000", "answers": [ { "text": "2015年10月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "編集技師は誰が担当した?", "id": "de-067-03-001", "answers": [ { "text": "菊井貴繁", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "10月下旬に完成されたのは何時間バージョンだったか。", "id": "de-067-03-002", "answers": [ { "text": "3時間半", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最終的に作品は何時間のものになったか。", "id": "de-067-03-003", "answers": [ { "text": "2時間35分", "answer_start": 252, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "スタンリー・ボールドウィン", "paragraphs": [ { "context": "ビュードリーの初代ボールドウィン伯爵スタンリー・ボールドウィン(英:StanleyBaldwin,1stEarlBaldwinofBewdley,KG,PC,PC,JP,FRS、1867年8月3日-1947年12月14日)は、イギリスの政治家、実業家、貴族である。", "qas": [ { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、どの国の者なの?", "id": "de-068-00-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 113, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "初めてボールドウィン伯爵の爵位を取得したのは、誰ですか?", "id": "de-068-00-001", "answers": [ { "text": "スタンリー・ボールドウィン", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、どの階層に属するものだったか?", "id": "de-068-00-002", "answers": [ { "text": "貴族", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンの職業としては、政治家のほかに、何が挙げられているか?", "id": "de-068-00-003", "answers": [ { "text": "実業家", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スタンリー・ボールドウィンは1867年に中規模の鋳鉄業者の息子として生まれた。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだ後、父の会社に入社した。", "qas": [ { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、何年に生まれたの?", "id": "de-068-01-000", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンの父親は、どの産業に従事していましたか?", "id": "de-068-01-001", "answers": [ { "text": "鋳鉄業", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、どの大学出身であるか?", "id": "de-068-01-002", "answers": [ { "text": "ケンブリッジ大学", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、大学を卒業してからどの産業に従事したか?", "id": "de-068-01-003", "answers": [ { "text": "鋳鉄業", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1908年2月に父が死去し、スタンリー・ボールドウィンは父が議席を持っていたビュードリー選挙区から保守党庶民院議員となる。", "qas": [ { "question": "スタンリー・ボールドウィンの父親が死亡したのは、何年だったの?", "id": "de-068-02-000", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンの父親は、生涯末期、どの選挙区から議員に選出されていたか?", "id": "de-068-02-001", "answers": [ { "text": "ビュードリー選挙区", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、どの選挙区から政界進出に成功したか?", "id": "de-068-02-002", "answers": [ { "text": "ビュードリー選挙区", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、どの党所属でしたか?", "id": "de-068-02-003", "answers": [ { "text": "保守党", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スタンリー・ボールドウィンは1917年にロイド・ジョージ挙国一致内閣で財務担当政務次官、1921年から商務庁長官に就任した。しかし大連立解消に主導的役割を果たした。", "qas": [ { "question": "財務担当政務次官と商務庁長官のうち、スタンリー・ボールドウィンはどちらの職務により早く就いたの?", "id": "de-068-03-000", "answers": [ { "text": "財務担当政務次官", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、誰が首相についていた時に財務担当政務次官の役を果たしましたか?", "id": "de-068-03-001", "answers": [ { "text": "ロイド・ジョージ", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンが首相ロイド・ジョージから財務担当政務次官に任命されたのは、何年のことか?", "id": "de-068-03-002", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、ロイド・ジョージの内閣のことを何と表現しているか?", "id": "de-068-03-003", "answers": [ { "text": "挙国一致内閣", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1867年8月3日、スタンリー・ボールドウィンはイングランド・ウスターシャー・ビュードリーで鋳鉄業者アルフレッド・ボールドウィンとその妻ルイーザ・ボールドウィン(旧姓マクドナルド)(LouisaMacdonald)の間の一人息子として生まれた。", "qas": [ { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、いつ生まれたの?", "id": "de-068-04-000", "answers": [ { "text": "1867年8月3日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、どこで生まれましたか?", "id": "de-068-04-001", "answers": [ { "text": "イングランド・ウスターシャー・ビュードリー", "answer_start": 24, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンの父親の職業は、何だったか?", "id": "de-068-04-002", "answers": [ { "text": "鋳鉄業者", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルフレッド・ボールドウィンには、子が何人いたか?", "id": "de-068-04-003", "answers": [ { "text": "一人", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1900年にはウスターシャー州議会議員となる。スタンリー・ボールドウィンは地方議員としては平凡だったという。", "qas": [ { "question": "スタンリー・ボールドウィンがウスターシャー州議会議員になったのは、何年のことか?", "id": "de-068-05-000", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウスターシャー州議会議員を指す他の言葉を、この文書から取り出しなさい。", "id": "de-068-05-001", "answers": [ { "text": "地方議員", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンが地方議員になったのは、何年のことなの?", "id": "de-068-05-002", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "スタンリー・ボールドウィンは1906年1月の総選挙でキンダーミンスター選挙区から保守党候補として庶民院議員に立候補するも落選した。1908年2月に父が死去すると父が議席をもっていたビュードリー選挙区から立候補した。自由党が候補を立てなかったため、無投票で当選して保守党所属の庶民院議員となった。", "qas": [ { "question": "スタンリー・ボールドウィンは1906年1月の総選挙で、どの選挙区から立候補したが落選したの?", "id": "de-068-06-000", "answers": [ { "text": "キンダーミンスター選挙区", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1906年1月の総選挙でスタンリー・ボールドウィンは、どうなりましたか?", "id": "de-068-06-001", "answers": [ { "text": "落選", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンは、父親が死ぬとどの選挙区から立候補したか?", "id": "de-068-06-002", "answers": [ { "text": "ビュードリー選挙区", "answer_start": 90, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1917年には財務大臣だったボナー・ローの推挙で自由党のロイド・ジョージを首相とする挙国一致内閣の財務担当政務次官に就任した。1921年まで務めた。この人事はボールドウィンの亡父に対するボナー・ローの友情からだったという。", "qas": [ { "question": "スタンリー・ボールドウィンが財務担当政務次官に就任したのは、何年のことなの?", "id": "de-068-07-000", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンを財務担当政務次官に推薦したのは、誰ですか?", "id": "de-068-07-001", "answers": [ { "text": "ボナー・ロー", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スタンリー・ボールドウィンが財務担当政務次官の職を辞任したのは、何年のことか?", "id": "de-068-07-002", "answers": [ { "text": "1921年", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1917年の時点でイギリス首相を務めていたのは、誰か?", "id": "de-068-07-003", "answers": [ { "text": "ロイド・ジョージ", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1923年5月22日に国王に召集されて組閣の大命を受けた。1923年は戦間期を通じて就職できない労働人口10%(「手におえない100万人」と呼ばれた)が大量に発生した時期だった。ボールドウィンは失業者救済の核心部分は英国産業の保護にあると信じた。もともとボールドウィンは1903年以来ジョゼフ・チェンバレンの帝国特恵関税制度(保護貿易的な関税改革論)の支持者だった。", "qas": [ { "question": "国王がスタンリー・ボールドウィンに組閣の大命を下したのは、いつのことなの?", "id": "de-068-08-000", "answers": [ { "text": "1923年5月22日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "就職できない労働人口10%が大量に発生した時期に、国王はスタンリー・ボールドウィンに何の大命を下しましたか?", "id": "de-068-08-001", "answers": [ { "text": "組閣", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "失業者救済の核心部分は英国産業の保護にあると信じていたのは、誰だったか?", "id": "de-068-08-002", "answers": [ { "text": "ボールドウィン", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "帝国特恵関税制度論を創始したのは、誰か?", "id": "de-068-08-003", "answers": [ { "text": "ジョゼフ・チェンバレン", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1924年1月にマクドナルドに政権を譲った後、ボールドウィンは野党党首になった。ボールドウィンは労働党の漸進的な社会改良主義と共産主義は分けて考えており、労働党を全否定はしていなかった。特に首相マクドナルドの外交観はボールドウィンとそれほど差はなかったため、ボールドウィンはマクドナルドに信頼感を持っていた。そのことについて国王側近の初代スタンフォーダム男爵アーサー・ビッゲは、「ボールドウィンは首相マクドナルドを好み、信頼している。彼はしばしば首相と興味のある話をしていた。彼は首相が共産主義に対して冷静に断固として反対するであろうと考えていた」と評している。", "qas": [ { "question": "マクドナルドが政権を握ったのは、いつのことなの?", "id": "de-068-09-000", "answers": [ { "text": "1924年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マクドナルド内閣が組閣されたのは、いつのことですか?", "id": "de-068-09-001", "answers": [ { "text": "1924年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1924年のイギリスではどの党が政権を握ったか?", "id": "de-068-09-002", "answers": [ { "text": "労働党", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マクドナルドは、どの党所属だったか?", "id": "de-068-09-003", "answers": [ { "text": "労働党", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ところが、マクドナルド労働党政権は、1924年2月にソ連と外交関係を樹立し、4月14日から対ソ一般条約締結を目的とした交渉をロンドンで開始した。8月5日まで続いたこの交渉自体はイギリス人財産賠償問題を巡って決裂したのだが、その直後に労働党左派議員が非公式に調停者になってイギリスとソ連の仲立ちをして8月8日には対ソ一般条約が締結された。", "qas": [ { "question": "マクドナルド労働党政権は、1924年4月14日からどの国と条約を締結しようとしたの?", "id": "de-068-10-000", "answers": [ { "text": "ソ連", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "対ソ一般条約締結を目的とした交渉が始まったのは、いつだったか?", "id": "de-068-10-001", "answers": [ { "text": "4月14日", "answer_start": 38, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1924年4月14日からソ連との条約締結を進めたイギリスの政権は、誰が指導者であったか?", "id": "de-068-10-002", "answers": [ { "text": "マクドナルド", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1924年4月14日から始まった交渉は、いつ終わったか?", "id": "de-068-10-003", "answers": [ { "text": "8月5日", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1925年4月には財務大臣ウィンストン・チャーチルの主導で戦前レートによる金本位制復帰が行われたが、これはポンドの過大評価であり、これにより石炭輸出価格が沸騰し、石炭の海外販路はさらに大打撃を受けた。その結果、坑夫の失業率は急速に増大した。", "qas": [ { "question": "1925年4月に戦前レートによる金本位制復帰を主導したのは、誰だったの?", "id": "de-068-11-000", "answers": [ { "text": "ウィンストン・チャーチル", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "坑夫の失業率の急増を生み出した政策は、誰の主導で行われたものでしたか?", "id": "de-068-11-001", "answers": [ { "text": "ウィンストン・チャーチル", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "石炭輸出価格の沸騰の結果を生み出した政策は、誰の主導で行われたか?", "id": "de-068-11-002", "answers": [ { "text": "ウィンストン・チャーチル", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィンストン・チャーチルが戦前レートによる金本位制復帰を進めたのは、いつのことか?", "id": "de-068-11-003", "answers": [ { "text": "1925年4月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1929年6月4日に労働党政権の第2次マクドナルド内閣が発足したが、同年10月末にはアメリカ・ウォール街の株式暴落に端を発する世界恐慌が発生した。", "qas": [ { "question": "1929年のイギリスで政権を握ったのは、どの党だったの?", "id": "de-068-12-000", "answers": [ { "text": "労働党", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1929年のイギリスで政権を握ったのは、誰を指導者とする党だったの?", "id": "de-068-12-001", "answers": [ { "text": "マクドナルド", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1929年に組閣された内閣は、第何次マクドナルド内閣だったか?", "id": "de-068-12-002", "answers": [ { "text": "第2次", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界恐慌が発生したしたのは、何年のことか?", "id": "de-068-12-003", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "アポロ17号", "paragraphs": [ { "context": "アポロ17号は、アメリカ合衆国のアポロ計画における最後の飛行である。2019年現在、史上6度目にして最後の有人月面着陸を行い、また地球周回低軌道を越えて人類が宇宙を飛行した最後の例となっている。また、アポロ宇宙船を月面着陸という本来の目的で使用する最後の飛行ともなった。同宇宙船がこの後に使われたのは、スカイラブ計画とアポロ・ソユーズテスト計画のみであった。船長ユージン・サーナン(EugeneCernan)、司令船操縦士ロナルド・エヴァンス(RonaldEvans)、月着陸船操縦士ハリソン・シュミット(HarrisonSchmitt)の3名を乗せて1972年12月7日にフロリダ州ケープ・カナベラルのケネディ宇宙センターから打ち上げられた。", "qas": [ { "question": "アポロ計画の最後の飛行は何?", "id": "de-069-00-000", "answers": [ { "text": "アポロ17号", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2019年時点で最後に人が月に到着した例は何ですか?", "id": "de-069-00-001", "answers": [ { "text": "アポロ17号", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アポロ17号の船長を務めたのは誰だ?", "id": "de-069-00-002", "answers": [ { "text": "ユージン・サーナン", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "17号は、アメリカの有人宇宙船としては初めて夜間に発射された。またサターン5型ロケットを有人飛行に使用するのは、これが最後のこととなった。この飛行はアポロ計画の中ではJ計画に分類されるものであり、3日間の月面滞在の間に月面車を使用して広範な科学的探査を行った。サーナンとシュミットはタウルス・リットロウ(Taurus–Littrow)渓谷で3度の船外活動を行い、サンプルを採集してアポロ月面実験装置群(ApolloLunarSurfaceExperimentsPackage,ALSEP)を設置した。一方この間エヴァンスは司令・機械船に乗り、月周回軌道にとどまった。3人の飛行士は12月19日、約12日間の飛行を終えて地球に帰還した。", "qas": [ { "question": "アメリカの有人宇宙船が夜中に発射された最初の例は何ですか?", "id": "de-069-01-000", "answers": [ { "text": "17号", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アポロ17号を最後に有人飛行に使われなくなったのは何ですか?", "id": "de-069-01-001", "answers": [ { "text": "サターン5型ロケット", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "17号が月に到着し月を調査するのに使った車って何の名前?", "id": "de-069-01-002", "answers": [ { "text": "月面車", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "タウルス・リットロウ渓谷への着陸は、17号の本来の目的を念頭に置いて決定された。その目的とは即ち、(1)雨の海を形成した巨大隕石の衝突よりも古い月の高地の資料を採集すること。(2)比較的新しい火山活動が周辺であった可能性について調査すること、であった。谷の北部と南部にある岸壁では高地のサンプルを採集できることが期待され、また谷の周辺にある暗い物質に囲まれたいくつかのクレーターでは火山活動の痕跡を発見できる可能性があったため、この地が着陸地点に選ばれた。\n\n17号はまた、(1)最も長く宇宙に滞在し(当時)、(2)最も長く月面活動を行い、(3)最も大量に月面からサンプルを持ち帰り、(4)最も長く月周回軌道に滞在した、などのいくつかの記録を打ち立てた。", "qas": [ { "question": "17号の到着地点はどこですか?", "id": "de-069-02-000", "answers": [ { "text": "タウルス・リットロウ渓谷", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古い月の高地の資料を採集すること以外の17号の本来の目的とは?", "id": "de-069-02-001", "answers": [ { "text": "比較的新しい火山活動が周辺であった可能性について調査すること", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "(1)〜(4)の17号の記録のなかで、今は破られている記録は何番ですか?", "id": "de-069-02-002", "answers": [ { "text": "(1)", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "17号の搭乗員には、本来はサーナン、エバンスおよびジョー・アングル(JoeEngle)が指名されるはずであった。この3名は、アポロ14号で予備搭乗員を務めていた。アングルは極超音速実験機X-15のパイロットとして16回飛行し、最高時速7,272キロメートル、最高到達高度85.5キロメートルの記録を打ち立てたことのある人物だった。一方でシュミットは、アポロ15号の予備搭乗員を務めていた。アポロ計画の飛行士のローテーションでは、予備搭乗員はその3つあとの飛行で本搭乗員を務めるという規定があり、これに従えばシュミットはアポロ18号で月着陸船操縦士を務めることになっていたのだが、18号(さらに19号、20号)は1970年9月に中止が決定された。この決定を受け、科学者らの協会は17号では宇宙飛行士に訓練で地質学を学ばせるのではなく、地質学者そのものを月面に赴かせるようNASAに圧力をかけた。この科学者からの要望を考慮して、地質学の専門学者であるシュミットが着陸船操縦士に指名された。\n\nこの変更を受け、17号の残りの搭乗員には誰を指名するかという問題が発生した。15号の予備搭乗員であったリチャード・ゴードン(RichardF.Gordon,Jr.)、ヴァンス・ブランド(VanceD.Brand)をシュミットとともにスライドさせるのか、もしくは14号のサーナンとエヴァンスをそのまま搭乗させるのかという選択に迫られたが、NASAの飛行人事部長だったドナルド・スレイトン(DekeSlayton)は最終的にサーナンとエヴァンスを指名した。", "qas": [ { "question": "ジョー・アングルが保有していた極超音速実験機X-15での最高到達高度は何キロ?", "id": "de-069-03-000", "answers": [ { "text": "85.5キロメートル", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1970年前までシュミットがもともと搭乗するはずだったアポロ号は?", "id": "de-069-03-001", "answers": [ { "text": "アポロ18号", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アポロ16号の予備搭乗員がいるとしたら、彼らが搭乗するアポロは何号ですか?", "id": "de-069-03-002", "answers": [ { "text": "19号", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シュミットとともにアポロ18号に搭乗したのは何号の予備搭乗員だったか?", "id": "de-069-03-003", "answers": [ { "text": "14号", "answer_start": 574, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "記章の中で最も特徴的なのは、ギリシャ神話の太陽神アポロンと、背景に描かれたアメリカを象徴する鳥ハクトウワシである。ワシの中には星条旗を表す赤い横線が引かれ、その上の3つの星は宇宙飛行士を象徴している。背景には月と土星そして銀河が描かれ、さらにワシの羽根の一部は月にかかっていて、人類がそこに降り立ったことを示唆している。アポロンとワシの視線が外宇宙に向けられているのは、人類の宇宙開発の目的地がそこであることを表している。\n\n記章の色には、星条旗を構成する色である赤・白・青とともに、17号から始まるであろう宇宙飛行の「黄金時代」を象徴する金色が含まれている。太陽神の顔は、「ベルヴェデーレのアポロン(ApolloBelvedere)」と呼ばれる彫刻が元になっている。この記章は、飛行士たちの意見を元にイラストレーターのロバート・マッコール(RobertMcCall)がデザインした。", "qas": [ { "question": "記章に描かれているギリシャ神話の神は何ですか?", "id": "de-069-04-000", "answers": [ { "text": "アポロン", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "記章に描かれているアメリカを象徴は何ですか?", "id": "de-069-04-001", "answers": [ { "text": "ハクトウワシ", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17号はその前の15号や16号と同様に、月面に3日間滞在し月面車を使って科学的探査の能力を向上させた「J計画」に分類されるものであった。アポロ計画では最後の飛行となるため、着陸地点の選択においては、いまだ訪れたことがないような場所であることが最重要項目として挙げられた。第一の候補であったコペルニクスクレーターは、12号がすでにその場所が形成されたときの隕石衝突の生成物を持ち帰ってきており、また他の飛行でも雨の海周辺のサンプルは得られているという理由で除外された。月の高地にあるティコクレーターも考慮されたが、地形が荒く着陸には適さないという理由ではじかれた。また月の裏側にあるツィオルコフスキークレーターは、技術的な問題や月面活動をする際の地球との通信にかかる費用の点などが考慮され除かれた。さらに危難の海の南西部は、ソ連の宇宙船でも容易に接近できるという理由で候補から外れた。事実、17号の着陸地点が決定した直後に無人探査機ルナ20号がその場所に降り立ち、30gのサンプルを持ち帰ってきたのである。", "qas": [ { "question": "アポロ17号が着陸地点を選ぶ時真っ先に考慮された場所はどこですか?", "id": "de-069-05-000", "answers": [ { "text": "コペルニクスクレーター", "answer_start": 144, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ティコクレーターが着陸地候補から排除された理由は何ですか?", "id": "de-069-05-001", "answers": [ { "text": "地形が荒く着陸には適さない", "answer_start": 256, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "無人探査機ルナ20号が月面着陸した地点はどこですか?", "id": "de-069-05-002", "answers": [ { "text": "危難の海の南西部", "answer_start": 351, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "こうしていくつかの候補が除外された後、最終的にアルフォンサス(Alphonsus)クレーター、ガセンディ(Gassendi)クレーター、タウルス・リットロウ渓谷の3つが残った。最終決定をするにあたって考慮に入れられたのは、17号の根本的な飛行目的だった。その目的とは、(1)雨の海から相当程度離れている月の高地のサンプルを採集すること(2)若い(たとえば30億年以前)火山活動の生成物を採集すること(3)司令船が月周回軌道上から月面を観測する際、その領域が15号や16号のものとはあまり重ならず、なるべく新しいデータを得られるようにすること、であった。\n\nタウルス・リットロウが選ばれたのは、谷の南壁で起こった地滑りの残余物から古い高地の物質のサンプルを得られるかもしれないと予測されたことや、その地域で比較的新しい時代に噴火活動が起こった可能性があったからだった。リットロウは15号の着陸地点と同様に月の海の周辺に位置していたが、その利点は欠点を上回ると考えられたため、17号の目的地と決定した。", "qas": [ { "question": "最後に残った三つのアポロ17号が着陸地点候補地のなかで17号の根本的な飛行目的に一番適していたのはどこですか?", "id": "de-069-06-000", "answers": [ { "text": "タウルス・リットロウ渓谷", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アポロ17号が着陸地点候補地の最終決定の際に考慮したものは何ですか?", "id": "de-069-06-001", "answers": [ { "text": "17号の根本的な飛行目的", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17号では、アポロ計画で唯一「横断重力計実験(TraverseGravimeterExperiment,TGE)」が行われた。この装置は飛行士が船外活動をしながら着陸地点周辺の様々な場所の相対重力を測定するよう、マサチューセッツ工科大学のドレイパー研究所によって作られたものだった。科学者らはこの装置で得られたデータを、着陸地点と周辺地域の地質学的構造に関する情報を集めるために使うことになっていた。\n\nそれ以前の飛行と同様、飛行士らは月面でのサンプル収集・宇宙服の使用方法・月面車の操作・地質学の学習・サバイバル訓練・地球への帰還時の海上からヘリコプターへの回収・機器の操作など、広範な訓練を行った。", "qas": [ { "question": "アポロ計画でTGEが行われたのは何号ですか?", "id": "de-069-07-000", "answers": [ { "text": "17号", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "TGEに使われた装置の開発はどこで行われましたか?", "id": "de-069-07-001", "answers": [ { "text": "マサチューセッツ工科大学のドレイパー研究所", "answer_start": 106, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "前述のとおり、横断重力計実験(TGE)はアポロ計画の中では17号でのみ行われたものだった。重力法は地球での地質学調査で有用であることが証明されており、この実験の目的は、同じ技術を月の内部構造を探るために使うことが可能であるかを検証することだった。この計測器を使って、着陸船の近辺および探査ルートの様々な位置で測定値が得られた。TGEは月面車に搭載され、月面車が動いていない時か、または計測器が月面に置かれている時に飛行士がデータを測定した。\n\n計測は3回の月面活動の中で合計26回行われ、満足な結果が得られた。一方でALSEP(月面実験装置群)の中にも重力計があり、月面に設置されたが、こちらのほうはついにうまく機能することはなかった。", "qas": [ { "question": "TGEの目的は月の内部構造を調査するためある調査法が有効かどうかを判別することであったが、その調査法とは?", "id": "de-069-08-000", "answers": [ { "text": "重力法", "answer_start": 45, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "月での探査のためTGEが載せられたのはどこですか?", "id": "de-069-08-001", "answers": [ { "text": "月面車", "answer_start": 167, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "TGEを使った測定は全部で何回行われましたか?", "id": "de-069-08-002", "answers": [ { "text": "26回", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "機械船内部は中心から六つに当分割されており、その中の第1区画が科学機器搭載区画(ScientificInstrumentModule,SIM)に割り当てられていた。SIMは月面電磁サウンダー、赤外放射計、紫外線分光器という3つの主要な実験装置から成り立っており、また地図作成用カメラ、パノラマカメラ、レーザー高度計なども搭載されていた。\n\n月面電磁サウンダーは月の表面に向けて電磁波のパルスを放射し、地下1.3キロメートルまでの月の内部構造に関する地質学的データを得るものであった。\n\n赤外放射計は、月の表面の温度分布図を作成し、岩場・地殻の構造差・火山活動の痕跡などの特徴を明らかにする目的で設計された。\n\n遠紫外線分光器は、月の組成や密度および月の大気のデータを取得するために使用された。また、この分光器は、太陽から放射され月面で反射した遠紫外線も検出するように設計された。\n\nレーザー高度計は宇宙船の高度を誤差2メートル以内で測定し、そのデータをパノラマカメラと地図作成用カメラに送信するように設計された。", "qas": [ { "question": "機械船内部の区画はいくつに分類されていますか?", "id": "de-069-09-000", "answers": [ { "text": "六つ", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本機械船の第1区画の英語の略語は何ですか?", "id": "de-069-09-001", "answers": [ { "text": "SIM", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "月面電磁サウンダーでデータを取れる範囲は?", "id": "de-069-09-002", "answers": [ { "text": "地下1.3キロメートル", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "月の組成や密度・月の大気のデータを取るための実験装置の名は?", "id": "de-069-09-003", "answers": [ { "text": "遠紫外線分光器", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アポロ計画の宇宙飛行士たちは、飛行中にまぶたを閉じていても閃光が目の前を走るのを目撃していた。「稲妻(streaks)」「光点(specks)」などと呼ばれたこの光は、宇宙船内の光量が落とされた睡眠時間中によく観測された。その頻度は1分間に2回ほどで、月に向かう軌道上、月を周回する軌道上、月から帰還する軌道上で発生したが、なぜか月面では観測されなかった。\n\nこの現象は宇宙線と関連するものと見られており、それを検証すべくNASAとヒューストン大学の共同で実験が行われた。16号でも実施されたこの実験では、飛行士の1人が測定器を身につけ、装置を貫通した高エネルギー素粒子の時間・強度・軌跡などが記録された。分析結果は、この閃光現象が荷電粒子が網膜を通過することにより発生するのではないかとする仮説を支持するものであった。", "qas": [ { "question": "飛行中にまぶたを閉じていても閃光が目の前を走る現象について、NASAとともに実験したのはどこですか?", "id": "de-069-10-000", "answers": [ { "text": "ヒューストン大学", "answer_start": 216, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "NASAとヒューストン大学の実験の仮説によると、アポロ計画の宇宙飛行士たち見たという閃光の正体は何が網膜を通過することで発生するものですか?", "id": "de-069-10-001", "answers": [ { "text": "荷電粒子", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "17号で唯一行われた実験の中に、月面電気特性(SurfaceElectricalProperties,SEP)実験があった。この実験機器は2つの装置で構成されており、1つは着陸船の近くに設置される送信アンテナ、もう1つは月面車に搭載されている受信アンテナである。送信アンテナからは、電気信号が発信される。信号は地中を伝わり、着陸船から離れた場所を移動している月面車がそれを受信する。発信された信号と受信された信号を比較することにより、月の土壌の電気的特性を解明することが可能になる。実験の結果は月の石の組成とも矛盾せず、月の地層の表面2キロメートルは極めて乾燥していることを示すものだった。", "qas": [ { "question": "SEP実験で電気信号を受信するアンテナはどこについていますか?", "id": "de-069-11-000", "answers": [ { "text": "月面車", "answer_start": 110, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "SEP実験の結果、分かったこととは何ですか?", "id": "de-069-11-001", "answers": [ { "text": "月の地層の表面2キロメートルは極めて乾燥していること", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "17号では、15、16号に続いて月面車(LunarRovingVehicle,LRV)が使用された。月面車はステーション(観測地点)の間を単に移動するだけでなく、月面探査のための道具や通信機器、採集したサンプルなどを運んだ。また17号のLRVには横断重力計や月面電気特性の受信機などが搭載されていた。17号の月面車の総走行距離は約35.9キロメートル(22.3マイル)、総走行時間は約4時間26分だった。サーナンとハリソンは、着陸船から最大で7.6キロメートル(4.7マイル)離れた。", "qas": [ { "question": "17号の月面車が月面で走った距離は合計何キロですか?", "id": "de-069-12-000", "answers": [ { "text": "約35.9キロメートル", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "17号の月面車が月面で走った時間の合計は?", "id": "de-069-12-001", "answers": [ { "text": "約4時間26分", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "17号では、宇宙線が生体に与える影響を調査するための動物実験(biologicalcosmicrayexperiment,BIOCORE)が行われた。この実験では頭皮の下に放射線測定器が埋め込まれた5匹のポケット・マウス(学名Perognathuslongimembris)が宇宙に連れて行かれた。\n\nこのネズミが選ばれたのは、観察が容易で、身体が小さくて体重も軽く、隔離された状況(飛行中に水を与える必要がなく、汚物が充満したような状況にも耐えることができた)に保つことができ、環境的なストレスに耐える能力があったからである。飛行終了までに4匹が生き残ったが、1匹については死因は不明である。\n\n4匹は後の研究で頭皮と肝臓に病変があるのが発見されたが、双方に関連性は見られず、宇宙線の影響によるものではないと考えられた。また網膜と内臓には何の異常も見られなかった。脳については17号の科学的中間報告書が発表されたときはまだ解剖されていなかったが、その後の研究では特に影響は見られなかった。", "qas": [ { "question": "17号のBIOCOREの対象となった生物種は何?", "id": "de-069-13-000", "answers": [ { "text": "ポケット・マウス", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "BIOCOREのためポケット・マウスの頭皮の下に埋め込まれたものは何ですか?", "id": "de-069-13-001", "answers": [ { "text": "放射線測定器", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "17号が地球に帰る前に死んだネズミは全部何匹ですか?", "id": "de-069-13-002", "answers": [ { "text": "1匹", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "17号は1972年12月7日午前0時33分(米東部標準時)、ケネディ宇宙センター39A発射台から打ち上げられた。サターン5型ロケットで有人飛行を行うのはこれが最後のことであり、またアポロ計画では唯一、夜間に打ち上げが実行された。発射30秒前に自動停止装置が作動したことにより予定が2時間40分遅れたが、原因は小さなエラーであることがすぐに突き止められた。技術者が対処し、秒読みは打ち上げ22分前の状態から再開したが、ハードウェアの故障で打ち上げが遅れたのはアポロ計画ではこれが唯一の事例であった。発射は成功し、宇宙船は正常に地球周回軌道に乗った。\n\n深夜であるのにもかかわらず、センター周辺にはおよそ50万人の見物人が訪れたものと見られた。ロケットの炎は800キロメートル彼方からも確認され、マイアミでは北の夜空を赤い光跡が横切るのが目撃された。\n\n午前3時46分(東部標準時)、第3段S-IVBのエンジンが再点火され、宇宙船は速度を増し月への軌道へと投入された。\n\n12月10日、機械船の主エンジン(ServicePropulsionSystem,SPS)を点火し、宇宙船は月周回軌道に進入した。安定した軌道に乗ると、飛行士らはタウルス・リットロウ渓谷(英語版)への着陸の準備を開始した。", "qas": [ { "question": "17号が発射されたのは米東部標準時基準にいつなのか分単位まで答えてください。", "id": "de-069-14-000", "answers": [ { "text": "1972年12月7日午前0時33分", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "17号はどこで発射されましたか?", "id": "de-069-14-001", "answers": [ { "text": "ケネディ宇宙センター39A発射台", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宇宙船が月への軌道へと投入されたいつですか?", "id": "de-069-14-002", "answers": [ { "text": "午前3時46分", "answer_start": 375, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "着陸船「チャレンジャー」を司令・機械船から切り離した後、サーナンとシュミットは軌道を修正し、タウルス・リットロウへの降下の準備を始めた。一方その間、司令船操縦士のエヴァンスは軌道上に残り、月面の観察や実験を行い、数日後の仲間の帰還を待った。\n\n準備完了後、ただちに降下が開始された。数分後、着陸船は姿勢を月面に対して垂直にし、飛行士らは目標地点を目視することが可能になった。サーナンが理想的な着陸地点を探す一方で、シュミットはコンピューターからのデータを読み上げた。12月11日午後2時55分(東部標準時)、チャレンジャーは月面に着陸した。2人の飛行士はただちに船内を月面滞在モードに設定し、第1回船外活動の準備を開始した。", "qas": [ { "question": "「チャレンジャー」に搭乗しなかったアポロ17号搭乗員は誰ですか?", "id": "de-069-15-000", "answers": [ { "text": "エヴァンス", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「チャレンジャー」の着陸時の月面との角度はどれくらいでしたか?", "id": "de-069-15-001", "answers": [ { "text": "垂直", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チャレンジャーは月面に着いたのはいつなのか日単位まで答えて。", "id": "de-069-15-002", "answers": [ { "text": "12月11日", "answer_start": 233, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第1回船外活動は、着陸からおよそ4時間後の12月11日午後6時55分に始まった。飛行士らの最初の任務は、月面車やその他の機器を着陸船の格納庫から下ろすことだった。月面車を組み立てているとき、サーナンは誤ってハンマーをひっかけて右後部のフェンダーを破損させてしまった。同じことは16号でもヤング船長がやっており、さして深刻な問題とは言えなかったものの、このおかげでサーナンとシュミットは走行中に月面からはね上げられる砂埃にまみれることになってしまった。ダクトテープで折れたフェンダーを貼りつけようとしたがうまくいかず、計画終了までテープは砂埃に耐えることはできなかった。その後飛行士らは、ALSEP(アポロ月面実験装置群)を着陸地点のすぐ西に設置した。作業終了後、両名は最初の地質学的探査に出発し、14キログラムの資料を採取した。また7箇所で重力計の測定をし、2箇所に爆薬をセットした。これは後に地上からの遠隔操作で爆破され、その振動を17号以前の飛行で月面に設置された換振器(geophone)や地震計が感知した。船外活動は7時間12分で終了した。\n\n12月12日午後6時28分(東部標準時)、サーナンとシュミットは第2回船外活動を開始した。この日の最初の任務は、前日破損させてしまった月面車の右後輪のフェンダーを修理することだった。クロノパック(cronopaque)という4枚の地図をダクトテープで貼り合わせ、走行中に砂が降りかからないよう後輪フェンダーに固定した。今回は峡谷で、オレンジ色の土壌を含むいくつかの異なる種類の資料が発見された。7時間37分の活動の間に34キログラムのサンプルを採集し、ALSEPで3つの機器を設置し、7箇所で重力計の測定をした。\n\nアポロ計画において最後のものとなる第3回船外活動は、12月13日午後5時26分(東部標準時)に開始された。今回は66キログラムのサンプルが採取され、9箇所で重力計測定が行われた。活動終了前に飛行士は角礫岩を採集し、それをテキサス州ヒューストンの管制センターに当時参加していた複数の国々に捧げた。また着陸船の脚にはめ込まれていた、アポロ計画の業績を称える銘板の覆いが外された。約7時間15分の船外活動を終え、サーナンは着陸船に帰還し、シュミットも後に続いた。", "qas": [ { "question": "月面着陸は第1回船外活動時間の何時間前でしたか?", "id": "de-069-16-000", "answers": [ { "text": "4時間", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "右後部のフェンダーを破損する過ちを犯したのは誰?", "id": "de-069-16-001", "answers": [ { "text": "サーナン", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第1回から第3回船外活動で活動時間がもっとも長かった方の活動時間は?", "id": "de-069-16-002", "answers": [ { "text": "7時間37分", "answer_start": 673, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第1回から第3回船外活動で活動時間が一番短かったのはどれですか?", "id": "de-069-16-003", "answers": [ { "text": "第1回船外活動", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "12月14日午後5時55分(東部標準時)、サーナンとシュミットが乗る上昇段は月面から離陸し、軌道上で待機するエヴァンスが乗る司令・機械船とのランデブーとドッキングに成功した。上昇段は地球に持ち帰る機器やサンプルを移し替えたのち密封され、12月15日午前1時31分に切り離された。その後地上からの遠隔操作で月面に衝突させられ、その衝撃を17号やそれ以前の飛行で月面に設置された地震計が計測した。\n\n12月17日午後3時27分(東部標準時)、地球への帰還途中でエヴァンスは1時間7分の船外活動を行い、機械船の科学機器搭載区画から露光フィルムを回収することに成功した。\n\n12月19日、役目を終えた機械船が切り離された。17号はもはや司令船のみとなり、大気圏再突入に備えた。午後2時25分、17号は太平洋に着水した。回収船タイコンデロガからは6.4キロメートルの地点であった。サーナン、エヴァンス、シュミットらはヘリコプターにホイスト(釣り上げ)され、着水から52分後に艦上の人となった。", "qas": [ { "question": "上昇段が月面から離陸したのはいつですか?", "id": "de-069-17-000", "answers": [ { "text": "12月14日午後5時55分", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "12月17日にエヴァンスはどれほどの間、宇宙に出ていましたか?", "id": "de-069-17-001", "answers": [ { "text": "1時間7分", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "田原市図書館", "paragraphs": [ { "context": "田原市図書館(たはらしとしょかん)は、愛知県田原市の公共図書館。\n渥美郡田原町は2003年に渥美郡赤羽根町を編入して市制施行し、2005年には渥美郡渥美町を編入している。\n合併前の自治体はそれぞれ図書館を設置しており、合併により田原市の設置する図書館となった。\n田原市図書館は、旧田原町域にある中央図書館、旧赤羽根町域にある赤羽根図書館(分館)、旧渥美町域にある渥美図書館(分館)の3館からなり、移動図書館車2台を保有している。", "qas": [ { "question": "田原市図書館の所在地はどこ?", "id": "de-070-00-000", "answers": [ { "text": "愛知県田原市", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "田原市図書館は全部で何館から構成されていますか?", "id": "de-070-00-001", "answers": [ { "text": "3館", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "田原市図書館には何台の移動図書館がありますか?", "id": "de-070-00-002", "answers": [ { "text": "2台", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "渥美郡田原町に編入されたのが早かったのは渥美郡渥美町と渥美郡赤羽根町のどちらですか?", "id": "de-070-00-003", "answers": [ { "text": "渥美郡赤羽根町", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "田原市図書館の休館日は月曜日である。\n2003年度までは国民の休日も閉館としていたが、2004年度からは国民の休日も開館している。\n2006年8月3日からは中央図書館に限り、試験的に木曜日の開館時間を午後8時までとした。\nこの試験的な開館時間の延長は、2020年3月まで続けられた。\n赤羽根図書館はほかの2館よりも開館時間が短い。\n貸出カードの作成可能者は田原市在住者・田原市内在学在勤者に限定しておらず、身分確認ができれば市外在住者でも貸出利用が可能である。\n2011年に発生した東日本大震災の被災者限定ながら、身分証がない場合でも自己申告で貸出利用が可能である。\n中央図書館ではほぼすべての閲覧席に持ち込みパソコン用の電源コンセントを設置している。\n無線LANを導入しており、持ち込みパソコンでのインターネット利用も可能である。", "qas": [ { "question": "田原市図書館が国民の休日も開館とするようになったのは何年度からですか?", "id": "de-070-01-000", "answers": [ { "text": "2004年度", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2006年8月3日から2020年3月までの中央図書館の木曜日の開館時間は何時まででしたか?", "id": "de-070-01-001", "answers": [ { "text": "午後8時まで", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田原市図書館と赤羽根図書館はどちらの開館時間が短いですか?", "id": "de-070-01-002", "answers": [ { "text": "赤羽根図書館", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "新図書館の蔵書用に、1998年度から2001年度までの4年間に1億5,660万3,042円を投じて、6万4,547冊の図書と2,863点の視聴覚資料を購入した。\n開館年を中心とする3年間の図書購入費用は3億6,800万2,956円である。\n開館した2002年度から2004年度までの3年間の図書購入費用は2億1,139万9,914円である。\n2002年度には中央図書館と移動図書館車用の購入費が多く、2003年度と2004年度は赤羽根図書館用の購入費が多かった。", "qas": [ { "question": "図書館購入費用が高かったのは、1998年度から2001年度までと2002年度から2004年度までのどちらですか?", "id": "de-070-02-000", "answers": [ { "text": "2002年度から2004年度まで", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "赤羽根図書館用の購入費が多かったのは2002年度と2004年度のどちらですか?", "id": "de-070-02-001", "answers": [ { "text": "2004年度", "answer_start": 207, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2017年度の蔵書点数は49万8,851点であり、図書が44万4,742点、雑誌が3万4,337点、視聴覚資料が1万9,772点である。\n同年度の購読タイトル数は雑誌が413点、新聞が25点である。\n同年度の予算は当初予算が1億3,826万2,000円である。\n量よりも質を重視した選書を行っており、特に郷土資料・外国語資料・児童書が充実している。\n農業が盛んな田原市には農業に従事する中国人労働者が多いため、中国語の図書が人気だという。\n一般図書以外には録音図書・点字図書・大活字本などが豊富にそろっている。\n雑誌の種類が多いのも特徴であり、2003年度には日本全国の同規模自治体の中で塩尻市立図書館に次ぐ第2位だった。", "qas": [ { "question": "2017年度の蔵書点数が2番目に多かったものは何ですか?", "id": "de-070-03-000", "answers": [ { "text": "雑誌", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2017年度の購読タイトル数が多かったのは雑誌と新聞のどちらですか?", "id": "de-070-03-001", "answers": [ { "text": "雑誌", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2003年度に最も雑誌の種類が多かったのはどこの図書館ですか?", "id": "de-070-03-002", "answers": [ { "text": "塩尻市立図書館", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2017年度の蔵書点数が多かったのは視聴覚資料と雑誌のどちらですか?", "id": "de-070-03-003", "answers": [ { "text": "雑誌", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2002年8月2日に開館してから1年間の入館者数は約43万人、貸出点数は約50万点であり、住民1人あたりの貸出点数は愛知県の自治体中最多だった。\n2003年9月3日時点では1万7,649人が登録しており、うち1万3,021人は田原地区(人口の35.2%)、447人は赤羽根地区、925人は渥美町、2,953人は豊橋市在住者だった。\n2005年6月18日時点の登録者数は1万7,027人が田原市(田原地区と赤羽根地区)、1,510人が渥美町、6,429人が豊橋市在住者であり、隣接自治体の住民にも親しまれている。\n特に女性の利用者が多いという。", "qas": [ { "question": "2003年9月3日時点での登録者数が最も多かった地域はどこですか?", "id": "de-070-04-000", "answers": [ { "text": "田原地区", "answer_start": 113, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2005年6月18日時点で2番目に登録者数が多かったのはどの地域ですか?", "id": "de-070-04-001", "answers": [ { "text": "豊橋市", "answer_start": 227, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2003年9月3日時点での登録者数が最も少なかった地域はどこですか?", "id": "de-070-04-002", "answers": [ { "text": "赤羽根地区", "answer_start": 133, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2005年6月18日時点で登録者数が最も少なかったのはどの地域ですか?", "id": "de-070-04-003", "answers": [ { "text": "渥美町", "answer_start": 216, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2002年度(開館初年度)の1日平均貸出点数は1,601点だったが、2003年度には前年比19.7%増、2004年度には前年比7.5%増、2005年度には前年比8.7%増と数字を伸ばした。\n2003年度の住民1人あたりの年間貸出冊数は14.9冊、2004年度は14.6冊、2005年度は17.6冊だった。\n2004年度の愛知県平均は6.4冊であり、田原市図書館は愛知県の54自治体中最高だった。\n2010年度の住民1人あたりの年間貸出冊数は14.4冊であり、愛知県下第2位、全国の人口同規模自治体中第2位だった。", "qas": [ { "question": "平均貸出点数が最も高かったのは2002年度、2004年度、2005年度の中でいつですか?", "id": "de-070-05-000", "answers": [ { "text": "2005年度", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "住民1人あたりの年間貸出冊数が最も多かったのは2003度、2004年度、2005年度の中でいつですか?", "id": "de-070-05-001", "answers": [ { "text": "2005年度", "answer_start": 136, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2004年度、愛知県の中で1人あたりの年間貸出冊数が最も多かったのはどこの図書館ですか?", "id": "de-070-05-002", "answers": [ { "text": "田原市図書館", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2010年度の住民1人あたりの年間貸出冊数が全国で2番目に良かったのはどこの図書館ですか?", "id": "de-070-05-003", "answers": [ { "text": "田原市図書館", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2003年には愛知県図書館の横断検索システムに加入したために他館への相互貸借が急増。\n国立国会図書館の総合目録ネットワークにも参加した。\n隣接する豊橋市や静岡県西部の住民も田原市図書館を利用しており、2003年度の利用者の3分の1は田原市外在住者だった。\n2004年度の貸出冊数は64万点を超え、土日祝日には1日の貸出冊数が3,000点を超える日も珍しくなくなった。\n相互貸借の冊数も増加し、他館への貸出数が借受数を上回った。\n2005年には文献のリクエスト件数が大幅に増加。\n東海地区図書館協議会に加盟したことで、大学との相互協力の利便性が高まった。\n2003年度までの貸出期間は最大1週間・貸出冊数は最大2点だったが、2004年度には貸出期間を最大2週間・貸出冊数を最大4点に変更し、また視聴覚資料の貸出規則を4点3週間に変更。\n国民の休日も開館としたことで、年間の開館日が増加した。\n2014年11月から12月には改装による休館を控えた渥美図書館で、貸出点数制限を撤廃する試みを行った。\n2016年5月から6月には全館で同様の試みを行った。", "qas": [ { "question": "最大貸出冊数が多いのは2003年度と2004年度のどちらですか?", "id": "de-070-06-000", "answers": [ { "text": "2004年度", "answer_start": 311, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "最大貸出期間が長いのは2003年度と2004年度のどちらですか?", "id": "de-070-06-001", "answers": [ { "text": "2004年度", "answer_start": 311, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2004年度に最も貸出期間が長くなった蔵書の種類は何でしたか?", "id": "de-070-06-002", "answers": [ { "text": "視聴覚資料", "answer_start": 346, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2017年度末時点の職員数は正職員が10人、嘱託員が21人、臨時職員が5人である。\n高水準の図書館サービスを提供するため、職員は正規・非常勤を問わず、全員が司書資格保有者である。\n全職員が業務内容別の担当(庶務、児童、ヤングアダルト、BM、参考郷土、視聴覚資料、逐次刊行物、リクエスト、ハンディキャップ、元気はいたつ便など)を受け持っている。\n地域活性化を目的として、2009年からは予約数の多い書籍などに関して田原市内の書店での購入を積極的に勧めている。\n日本図書館協会によると図書館が書店での図書の購入を斡旋するのは異例の取組みだという。\n2010年に就任した豊田館長は、館長・分館代表・担当責任者による経営会議を毎週開催することで諸問題の解決に取り組んでいる。\n2011年には自治体ではなく図書館員自らが「田原市図書館の目標」を作成し、さまざまな手法を用いて自律的なチーム形成に取り組んでいる。\n2012年度からはガラス張りの館長室を用いて、毎月1回の頻度で市民団体企画などを語り合うサロンを開催している。", "qas": [ { "question": "2017年度末時点で職員数が最も多かったのはどのような職員でしたか?", "id": "de-070-07-000", "answers": [ { "text": "嘱託員", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2017年度末時点の職員数が2番目に多かったのは正職員、嘱託員、臨時職員の中で何ですか", "id": "de-070-07-001", "answers": [ { "text": "正職員", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2012年4月12日には市民団体「田原市図書館サポーターズ・おおきなかぶ」が活動を開始。\n図書館からの除籍本や、受入を行わなかった寄贈本などは、「おおきなかぶ」などが運営するリサイクル・ブック・オフィス内に集められる。\nこれらの書籍は1冊50円で販売され、NPO法人が収益で書籍を購入して田原市図書館に寄贈している。\n2013年10月に豊橋鉄道渥美線三河田原駅の新駅舎が完成すると、11月には田原市の玄関口である三河田原駅交流ひろばに図書の返却ポストが設置された。\n2013年11月16日、17日には「まちほん~田原まちじゅう本想い~」というイベントを開催し、参加者が一箱分の古書を持ち寄る古本市、東三河地方初となるブクブク交換、本好きが集まるトークイベントなどを行った。\n図書館員の私的な交流を発端として、隣接する豊橋市の大清水まなび交流館との連携の動きもみられる。", "qas": [ { "question": "「おおきなかぶ」の正式名称は何?", "id": "de-070-08-000", "answers": [ { "text": "「田原市図書館サポーターズ・おおきなかぶ」", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リサイクル・ブック・オフィス内で販売されている書籍は1冊いくらですか?", "id": "de-070-08-001", "answers": [ { "text": "50円", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "小学校への移動図書館車巡回・おはなし会・こどもブックスフェスタ・読書感想画コンクールなど、子どもを対象にした活動を積極的に行っている。\n2004年8月にはブックスタート制度を開始し、市内在住乳児の4か月児検診の際に絵本などをプレゼントしている。\n同年11月1日には「田原市子ども読書推進計画」を制定した。\n2004年度の小学生1人あたり貸出冊数は31.4冊であり、全国平均の2倍近い数字を記録した。\nこれらの取り組みが評価されて、2007年4月には文部科学大臣表彰を受けた。\n図書館内のコンペで考案された「元気はいたつ便」は田原市議会で承認され、2011年度から市内の巡回を開始した。\n「元気はいたつ便」は高齢者や障害者のための図書資料の配達サービスや団体貸出サービスであり、田原市内の高齢者福祉施設を対象としている。\n2016年には「元気はいたつ便」が厚生労働省の老人保健健康増進等事業内の「認知症の私と輝く」大賞を受賞した。", "qas": [ { "question": "「田原市子ども読書推進計画」が制定された年はいつ?", "id": "de-070-09-000", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 68, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「認知症の私と輝く」大賞と文部科学大臣表彰はどちらの方が遅く受けましたか?", "id": "de-070-09-001", "answers": [ { "text": "「認知症の私と輝く」大賞", "answer_start": 396, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「元気はいたつ便」の対象施設は何ですか?", "id": "de-070-09-002", "answers": [ { "text": "高齢者福祉施設", "answer_start": 343, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "田原市図書館はソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を積極的に用いて市民との交流を行っている。\n開館11周年記念日の2013年8月2日には公式Twitterアカウントを開設し、開設からわずか2か月半で年度目標(フォロー数200人)近くに達した。\n情報発信よりも受信を重視しており、ユルいツイートが好評を博している。\n相互フォローを行っているほか、できる限りの範囲で返信を行っている。\n田原市役所や地元新聞社から得た情報など、図書館以外のイベントや出来事を紹介することも多い。\n2015年4月1日にはエイプリルフールであることを断ったうえで、図書館に「屋外プールと露天風呂を設置することを発表」した。\n2016年のエイプリルフールには『キャベツ図書館』への改名と、豊田館長の辞任・田原市のゆるきゃら「キャベゾウ」新館長の就任が発表されている。\n2015年には男性館員による「男らしさoftheyear」の投票をSNS上で受け付け、2016年3月には田原市図書館Twitterアカウントがキャベゾウとしりとりで対決した。", "qas": [ { "question": "田原市図書館の公式Twitterで重要視しているポイントとは何?", "id": "de-070-10-000", "answers": [ { "text": "受信", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "田原市図書館の公式Twitterはどのような点が好評ですか?", "id": "de-070-10-001", "answers": [ { "text": "ユルいツイート", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Twitterで『キャベツ図書館』への改名を発表したのは何年ですか?", "id": "de-070-10-002", "answers": [ { "text": "2016年", "answer_start": 305, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "田原市中央図書館は田原市中心部の複合施設内にあり、田原文化会館、田原市総合体育館、田原市情報センターと敷地を共有している。\nこの複合施設の東側には汐川が流れており、愛知県道28号を挟んで北側にはイオン田原がある。\nこのように良好な立地条件のために、他施設を利用するついでに図書館を利用する市民が多くみられる。\n豊橋鉄道渥美線三河田原駅から徒歩約15分の場所にあり、田原市ぐるりんバスによって田原市内の主要施設と結ばれている。\n1階の一般開架と2階の開架書庫に20万点、BM書庫に2万点、3階の閉架書庫に13万点の、計35万点の収蔵能力を持つ。", "qas": [ { "question": "BM書庫と閉架書庫はどちらの方が収蔵能力が高いですか?", "id": "de-070-11-000", "answers": [ { "text": "閉架書庫", "answer_start": 246, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "田原市中央図書館は豊橋鉄道渥美線三河田原駅から歩いて何分で到着しますか?", "id": "de-070-11-001", "answers": [ { "text": "約15分", "answer_start": 171, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "田原市中央図書館の近くに流れている川とは何?", "id": "de-070-11-002", "answers": [ { "text": "汐川", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "一般開架と開架書庫、BM書庫、閉架書庫の中で最も蔵書数が少ない箇所はどこ?", "id": "de-070-11-003", "answers": [ { "text": "BM書庫", "answer_start": 234, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "設計は和設計事務所、施工は戸田建設と八木工務店。\n既存の田原文化会館・田原市総合体育館に接する形で図書館を建設し、共有部分を円形の吹き抜け天井(アトリウム)でつないでいる。\n図書館はこの複合施設の核となる存在であり、図書館建設の際には既存施設も大改修を行っている。\nエントランス空間である円形アトリウムから見ると、南側に図書館が、北西側に文化会館が、北東側に総合体育館がある。\n図書館が入居する複合施設はアトリウムと遊歩道(プロムナード)を中心としており、文化会館・体育館に自由にアクセスすることができる。\nこの複合施設は情報センターの機能も有し、住民活動に使用できるフリースペースがある。\n既存施設南側にある東西200メートル×南北45メートルの細長い空間が図書館の建設用地となった。\n図書館は3階建であり、1階が一般開架、2階が開架書庫や会議室、3階が閉架書庫などである。\n1階の一般開架は東西125メートル×南北33メートルであり、横に長い吹き抜け通路(ガレリア)が設けられている。\n建物の南面に壁を設けて直射日光を避けつつ、6つの中庭と3つのテラスを設けて自然光を取り入れている。\n開架棚は間仕切りを少なくし、回遊性を持たせている。\n計400席以上の読書席が配置され、その形態は近くの資料の性質に応じてさまざまである。\n植樹の近くにソファベンチを置き、書架は低くして圧迫感を減らすなどしている。", "qas": [ { "question": "既存施設南側にある細長い空間は、東西と南北どちらが長いですか?", "id": "de-070-12-000", "answers": [ { "text": "東西", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1階の一般開架は東西と南北、どちらの方が長いですか?", "id": "de-070-12-001", "answers": [ { "text": "東西", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "図書館の設計はどの会社が担当したの?", "id": "de-070-12-002", "answers": [ { "text": "和設計事務所", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中庭とテラスはどちらの方が数が多いの?", "id": "de-070-12-003", "answers": [ { "text": "中庭", "answer_start": 469, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1911年7月14日には田原町中部尋常高等小学校に田原町通俗図書館が設置されている(1911年8月設置とする資料もある)。\nその後、同年8月に野田村立通俗図書館が、1916年9月には神戸村立通俗図書館がそれぞれ設置された(野田村・神戸村は、1955年1月に田原町と合併)。\n1983年11月3日には延床面積160m2の田原町文化会館図書室が開館した。\n1986年の第3次田原町総合計画では図書館の建設が構想され、1991年の田原中央地区市街地再開発基本設計には1,300m2という具体的な延床面積が盛り込まれた。\n1996年の第4次田原町総合計画では、蔵書10万冊以上の図書館整備の促進がうたわれ、図書館建設構想委員会が設置された。", "qas": [ { "question": "田原町通俗図書館、神戸村立通俗図書館、野田村立通俗図書館の中で最も遅く設置されたのはどれですか?", "id": "de-070-13-000", "answers": [ { "text": "神戸村立通俗図書館", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "野田村立通俗図書館と田原町通俗図書館はどちらが先に設置されたの?", "id": "de-070-13-001", "answers": [ { "text": "田原町通俗図書館", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "神戸村立通俗図書館と田原町文化会館図書室はどちらが早く開館されたの?", "id": "de-070-13-002", "answers": [ { "text": "神戸村立通俗図書館", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "野田村立通俗図書館の次に設置された図書館は何?", "id": "de-070-13-003", "answers": [ { "text": "神戸村立通俗図書館", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1998年には田原町図書館の建設基本計画が策定された。\n名張市立図書館・天童市立図書館・袖ケ浦市立中央図書館・調布市立図書館などの実績を持つ和設計事務所をプロポーザル方式で選定し、運営方針を設計に反映させた。\n計画当初から基本方針に「住民参加」を掲げ、設計・施工段階で住民や設計・施工業者との間で10回以上の意見交換会「情報広場」を行った。\nこの意見交換会に参加した住民の多くは、田原町図書館開館後にも図書館フレンズたはらやNPOたはら広場の一員として図書館に関わっている。\n2000年11月には22億8,900万円の予算で図書館の建設が開始された。\n2001年7月31日には田原文化会館の改修工事にともなって文化会館図書館が閉館した。", "qas": [ { "question": "田原町図書館の建設が開始されたのはいつでしたか?", "id": "de-070-14-000", "answers": [ { "text": "2000年11月", "answer_start": 238, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田原町図書館はいくらの予算で建設開始されたの?", "id": "de-070-14-001", "answers": [ { "text": "22億8,900万円", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2002年3月15日に新図書館が竣工し、8月2日に田原町図書館が開館した。\n開館時点では図書9万冊、雑誌460種類、新聞24紙を備えていた。\n開館初日は夏休み中ということもあって子どもが多く来館し、8月2日の入館者数は3,082人、貸出点数は3,663点を数えた。\n昭島市民図書館、日野市立図書館で図書館員を経験した森下芳則が初代館長に就任し、開館時には職員の半数以上が20代前半という若い図書館だった。\n2003年には田原町と赤羽根町が合併して田原市となり、8月20日には田原市中央図書館に改称。\n2006年8月3日から試験的に木曜日の開館時間を午後8時までとした(〜2020年3月31日)。\n12月には東三河地方初、また愛知県で3館目となる自動貸出機を導入。\nこの自動貸出機は利用者に好評であり、開始から3か月の間に1日平均50人が利用した。", "qas": [ { "question": "田原町図書館の初代館長は誰が務めましたか?", "id": "de-070-15-000", "answers": [ { "text": "森下芳則", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田原町図書館の改称後の名前は何?", "id": "de-070-15-001", "answers": [ { "text": "田原市中央図書館", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ミネルバ_(ローバー)", "paragraphs": [ { "context": "検討を進めていく中で、ミネルバの移動機構はNASAのローバーが採用した車輪ではなく、ミネルバ内部のモーターが回転することによって生じるトルクを利用して、ホップをしながら小惑星表面を移動する機構が採用された。ミネルバ本体の開発は、限られた開発費用の中、宇宙科学研究所と日産自動車宇宙航空事業部(2000年からはアイ・エイチ・アイ・エアロスペース)と共同開発とし、設計から開発、そして資金面の手配も民間企業との共同で行った。また放射線耐性など試験を行いながら、宇宙用ではない民生品を積極的に採用して経費の節減に努めた。そして地球から遠く離れた小惑星を探査するミネルバにとって必須となる自律機能を持たせるため、様々な工夫を施した。NASAが開発を進めていたMUSES-CNは、2000年11月、開発中止となった。NASAのローバーの計画中止によってミネルバがMUSES-Cに搭載される可能性は著しく高まったが、ミネルバは正式プロジェクトに格上げされることは無く、最後までオプション扱いのままであった。結局2003年2月、直径12センチ、高さ10センチの正16角柱、本体重量は591g、分離機構などを含めても総重量1457gの超小型小惑星探査ローバー、ミネルバが完成した。ミネルバは日本初の宇宙探査用ローバーであり、また世界初の小惑星探査ローバーとなった。", "qas": [ { "question": "NASAのローバーが選択した移動機構は何ですか。", "id": "de-071-00-000", "answers": [ { "text": "車輪", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "世界初の小惑星探査ローバーを作った国は?", "id": "de-071-00-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 537, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミネルバ本体の開発は日産自動車宇宙航空事業部とどことの共同作業でしたか。", "id": "de-071-00-002", "answers": [ { "text": "宇宙科学研究所", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2000年度以前、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースは何と呼ばれましたか。", "id": "de-071-00-003", "answers": [ { "text": "日産自動車宇宙航空事業部", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1995年8月、宇宙開発委員会は小惑星サンプルリターン計画を承認した。MUSES-C計画のスタートである。計画の遂行には惑星探査機となるMUSES-Cとの通信や、地球帰還時のカプセル回収に際してアメリカの協力が不可欠であった。アメリカとの協力関係を固めていく中で、MUSES-CにNASAが開発する超小型ローバー、MUSES-CNを無償で搭載することになった。その一方でプロジェクトマネージャの川口淳一郎は、重量に余裕ができた場合、探査機の重量バランスを補正する重り代わりとして日本製の小惑星ローバーも搭載することを考えるようになった。川口は長年宇宙探査用のローバーを研究していた同僚の中谷一郎に、質量1キロ程度の小惑星探査ローバーを作れないかと声をかけてみた。川口の呼びかけに中谷は応じた。宇宙探査用のローバーを研究している宇宙科学研究所の教授を始め、大学教授、そしてメーカーの技術者らが集まり、1997年の夏、小惑星を探査するローバーの開発が始まった。", "qas": [ { "question": "宇宙開発委員会により小惑星サンプルリターン計画が許可されたのは何年のことですか。", "id": "de-071-01-000", "answers": [ { "text": "1995年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小惑星サンプルリターン計画の遂行において、どの国の協力が不可欠でしたか。", "id": "de-071-01-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "重量に余裕ができた場合、探査機の重量バランスを補正する重り代わりとして日本製の小惑星ローバーも搭載するというアイデアは誰からのものですか。", "id": "de-071-01-002", "answers": [ { "text": "川口淳一郎", "answer_start": 197, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小惑星を探査するローバーの開発が始まった時の季節は?", "id": "de-071-01-003", "answers": [ { "text": "夏", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "小惑星を探査するローバーの開発には、さまざまな困難が立ちはだかった。まず問題となったのが、どのような方法で小惑星上を移動するのかという点であった。MUSES-Cが目的地とする小惑星は大きくても直径数キロ以下であり、表面の重力加速度が極めて小さい。その上、初めて探査機が向かうこととなる小惑星は、重力加速度を確実に予測することが困難であり、ある程度の幅を持った重力加速度に対応できる移動機構が必要とされた。天体表面を移動するローバーの移動メカニズムとしては、まず摩擦力を利用する方法と、利用しない方法に大別できる。摩擦力を利用しない方法としては、ローバーにジェットを搭載し、ジェットを吹かせながら表面を移動する方法、天体が十分小さい場合などでは天体に紐やネットを被せ、紐を伝って移動する方法、さらに天体が強磁性を持つ物質でできている場合、電磁石を用いる方法などが考えられる。しかしジェットを吹かせて移動する機構では天体の表面を汚染するため、小惑星サンプルリターンを目指すMUSES-C計画では採用できず、また電磁石を用いる方法などはどのような小天体でも使えるものではないため、摩擦力を利用した移動方法を採用することになった。摩擦力を利用した移動メカニズムとしては、車輪と天体表面との摩擦力を利用して移動する車輪型移動機構、複数の脚と表面との摩擦力を利用する脚型の移動機構、そしてローバーを表面に押し付けることによって浮上させ、移動する浮上型移動機構などが考えられる。これまで月や火星などで活躍したローバーの多くは、車輪型移動機構を採用していた。これまで多くのローバーで利用されてきた車輪型の移動機構は、天体の重力が十分大きな場合、ローバーと天体間の接触力に対して垂直に働く摩擦力が大きいため、スリップすることなく移動速度を得ることができる。しかしMUSES-Cが目指すような直径数キロ以下の小惑星では重力が小さいため接触力が小さく、そのため摩擦力も小さくなり、ローバーの駆動力が摩擦力を上回るとスリップを繰り返してしまい前進力を得られない。また表面の凹凸によってローバーにわずかな力が加わるだけで、天体表面からたやすくホップしてしまう。ローバーがホップしてしまえば車輪は駆動力を天体表面に伝えられないことになる。また小天体の脱出速度は極めて小さいため、下手をすると表面の凹凸に躓いたら最後、そのまま宇宙空間に放り出され戻ってこない可能性もある。", "qas": [ { "question": "今まで、月や火星などで活躍するローバーは、ほとんどがどのような移動機構を採用しましたか。", "id": "de-071-02-000", "answers": [ { "text": "車輪型移動機構", "answer_start": 656, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "車輪型移動機構、脚型の移動機構、浮上型移動機構などはどんな力を用いた移動方法ですか。", "id": "de-071-02-001", "answers": [ { "text": "摩擦力", "answer_start": 511, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "小天体を探査するローバーに車輪型移動機構を採用した場合、極めて小さな重力のためにローバーがたやすくスリップやホップをしてしまい、思うように移動できないという難点がある。この難点を克服するには車輪の駆動速度を極めて遅くするという方法がある。実際、NASAが開発を進めていたMUSES-Cに搭載する超小型ローバー、MUSES-CNは車輪型の移動機構を用い、移動速度は秒速わずか1.5ミリを予定していた。しかし移動速度があまりにも遅い場合、ローバーが活動できる限られた時間内で移動できる範囲が極めて狭くなってしまい、天体表面を移動しながら探査を行うローバーの特性を生かしきれないことになってしまう。MUSES-Cへの搭載を目指す日本製ローバーの移動機構の検討では、極めて小さな小惑星の重力以外にも検討しなければならない点がいくつかあった。まず先述したように目標天体である小惑星の重力加速度の推定が不確実で、ある程度の幅を持った重力加速度に対応できる移動機構が必要である点、続いて重量に余裕ができた場合、探査機の重量バランスを補正する重り代わりとして搭載されるため、日本製ローバーの重量、大きさの制限が極めて厳しく、探査機MUSES-Cからの分離機構を含めて質量1キロ以下、大きさも十数センチ立方以内を求められていたため、シンプルかつ軽量な移動機構が必要であった。またどのような姿勢で小惑星に着地しても移動できることも重要であった。そして日本製小惑星ローバーの開発関係者の間には、NASAのローバーが採用した車輪型の移動機構とは異なる移動機構にしたいとの意識もあった。結局日本製ローバーの移動機構として、ローバーを表面に押し付けることによって浮上させ移動する浮上型移動機構のひとつである、小惑星表面をホップする方法を採用することになった。ホップしながら天体表面を移動するローバーは、天体表面にローバー自身を押し付けることによって生じる摩擦力で水平方向への速度を得るため、ホップする速さが大きすぎて天体の脱出速度を越えてしまうことに注意すれば、小天体上では極めてゆっくりとしか進み得ない車輪型の移動機構よりもはるかに速く移動することが可能である。", "qas": [ { "question": "MUSES-CN開発の中心となっている団体は?", "id": "de-071-03-000", "answers": [ { "text": "NASA", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小惑星表面をホップする方法は車輪型移動機構に属するか、浮上型移動機構に属するか。", "id": "de-071-03-001", "answers": [ { "text": "浮上型移動機構", "answer_start": 725, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "MUSES-C計画以前、小惑星など太陽系小天体探査用のローバーはほとんど前例がなかった。ただ、1988年7月に打ち上げられたソ連の火星探査機フォボス2号には、火星の衛星であるフォボスを探査するローバーが搭載されていた。このローバーに関する情報は少ないが、質量は約45キロで、バネを利用してホップしながら移動するローバーであったと伝えられている。また先述のように日本製ローバーとともに小惑星を目指すNASAのMUSES-CNは車輪型の移動機構を備えていた。日本製のローバーは小惑星表面をホップしながら移動する移動機構を採用する方針が固まった。その後ローバーの突起で表面を突くことでホップする方法、カエルの脚のような方法でホップするやり方など、ローバーをホップさせる様々な案が出された。ミネルバ開発の中心となる吉光徹雄は、まず三角パックのような形状の四面体の各頂点にハエタタキのような部品を取り付け、モーターで駆動されるハエタタキのような部品が小惑星表面を叩くことによって移動するメカニズムを提案した。議論を進めていくうちにローバー外部に何らかの可動部分を持ち、小惑星表面を叩いたり突くことによってホップする方式では、凹凸が激しい表面の場合叩いたり突いたりできない可能性が指摘され、またローバー外部の可動部分を塵などから保護する必要もあった。結局吉光のアイデアからハエタタキのような部品を取り除き、ローバー内のモーターの回転によって発生したトルクによってローバーを回転させ、小惑星表面との反力でホップするというアイデアが生み出された。この方式ではローバー外部に可動部がないため、小惑星表面にあるといわれていたレゴリス対策が不要となり信頼性が高まる。またホップした後、飛行中のローバーの姿勢制御を移動機構と同じモーターで行える。MUSES-Cが目指す小惑星のような重力の極めて小さな環境では、移動機構がギア無しの小型モーターの回転で良いため軽量化が可能である。モーターの制御を行うことにより小惑星の脱出速度を超えない範囲でローバーのホップする速度を調整することができるため、車輪を用いた移動機構よりも速い移動が可能であるなどの利点があった。1998年、吉光が提案したローバー内部のモーターによって発生するトルクを利用する移動機構が、日本製小惑星探査ローバーの移動機構として採用されることとなった。", "qas": [ { "question": "1988年7月に打ち上げられたソ連の火星探査機フォボス2号に搭載していたローバーの質量は何キロだったと伝われていますか。", "id": "de-071-04-000", "answers": [ { "text": "約45キロ", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミネルバ開発は誰を中心に行われましたか。", "id": "de-071-04-001", "answers": [ { "text": "吉光徹雄", "answer_start": 353, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本製小惑星探査ローバーの移動機構として採用された、ローバー内部のモーターによって発生するトルクを利用する移動機構は誰からの意見でしたか。", "id": "de-071-04-002", "answers": [ { "text": "吉光", "answer_start": 923, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ローバーの移動機構は決まったが、実際のローバー開発は茨の道の連続となった。ミネルバ(MIcro/NanoExperimentalRobotVehicleAsteroid,MINERVA)と呼ばれるようになった計画にまず立ちはだかったのが、このプロジェクト自体が、あくまで小惑星探査機MUSES-Cの重量に余裕ができた場合のオプションという扱いであり、正式のプロジェクトではないということであった。ミネルバの開発には設計段階から日産自動車の宇宙航空事業部(2000年からはアイ・エイチ・アイ・エアロスペース)が参加しており、資金も提供していた。しかし正式プロジェクトではない日本製ローバーの開発に、MUSES-Cの開発を進める宇宙科学研究所もアイ・エイチ・アイ・エアロスペースも多くの資金を投入できるはずもなく、開発当初から資金難の壁にぶつかることになった。資金難の中でまず問題となったのが無重力状態での試験であった。まず試作機の作成予算は何とか確保したが、ローバー内蔵モーターのトルクによる移動機構の確認に不可欠である微小重力状態での実験を行う、岐阜県土岐市にあった日本無重量総合研究所の使用料は一回100万円近い費用がかかった。低予算での開発が宿命づけられていたミネルバで、100万円近い実験費用は極めて厳しかった。", "qas": [ { "question": "日本無重量総合研究所はどこに所在しているか。", "id": "de-071-05-000", "answers": [ { "text": "岐阜県土岐市", "answer_start": 473, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "開発を進めていく中でまず大きな課題となったのが2次電源であった。ローバーを動かす電力は太陽電池によってまかなわれるが、ホップして移動する際やカメラによる写真撮影時には太陽電池で供給される電力だけでは不十分となるため、2次電源によるバックアップが必要となった。このような場合、一般的には化学反応を利用した2次電池を用いることになる。しかしミネルバの場合、2次電池の利用が困難であった。化学反応を利用する2次電池はさまざまな種類があるが、それぞれ利用可能な温度範囲が狭い。小惑星表面では日の当たる昼間は100度以上となり、一方夜にはマイナス100度以下となる。ミネルバは小惑星上で60時間活動することを目標としていたが、60時間使用可能な2次電池は見つからなかった。そこで目をつけたのが電気二重層コンデンサであった。1998年、ミネルバの開発を担当していた日産自動車宇宙航空事業部の技術者は、電源やモーターの総合展示会場でエルナーの担当者に声をかけ、ミネルバの2次電源として電気二重層コンデンサが使えないかと打診した。当時、電気二重層コンデンサの開発が本格化してきており、エルナーは利用範囲の拡大につながる宇宙空間への挑戦に積極的であった。結局、開発成果をエルナー側が利用可能とする条件付きで、ミネルバに搭載される電気二重層コンデンサの開発費用をミネルバ側とエルナーが折半することになり、開発費用の軽減も達成できた。結局、小惑星上の低温時には劣化しないが、130度以上の高温時には少しずつ劣化する電気二重層コンデンサが開発され、ミネルバに搭載されることになった。事前の解析では小惑星(イトカワ)上の三昼夜を経過すると使用できなくなると推定された。電気二重層コンデンサは総合効率では2次電池に劣るものの動作温度が広く、また充放電回路が簡単となるため小型化に有利であるというメリットがあり、ミネルバが世界で初めて宇宙空間で利用することになった。", "qas": [ { "question": "ミネルバは小惑星上で何時間活動することが求められていましたか。", "id": "de-071-06-000", "answers": [ { "text": "60時間", "answer_start": 288, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミネルバに使われる2次電池に求められていた使用可能な時間は?", "id": "de-071-06-001", "answers": [ { "text": "60時間", "answer_start": 288, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミネルバに、2次電池の役割で搭載されたのは何ですか。", "id": "de-071-06-002", "answers": [ { "text": "電気二重層コンデンサ", "answer_start": 646, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "小惑星上をホップしながら移動するミネルバの心臓部ともいえる小型モーターも悩みの種であった。既製の宇宙用のモーターは大きさやコスト面からミネルバに使用できなかった。そこで地上用の民生品を利用する方針となり、複数のメーカーにミネルバ搭載のモーター製作を打診してみたが良い返事は得られなかった。結局スイスの精密機械メーカーのマクソンモーターが協力をすることになった。しかしマクソンモーターはNASAの火星探査機マーズ・パスファインダーに搭載されたローバー、ソジャーナ用のモーターを提供したことがあったが、ソジャーナで要求された温度条件よりもミネルバのそれは高温での動作を要求される厳しいものであった。結局小惑星上で60時間動作するという耐久試験にマクソンモーターのモーターは合格し、ミネルバに使用されることが決まった。ミネルバには小惑星表面を撮像するカメラの搭載を行う予定であった。まずミネルバにも探査機MUSES-C本体が搭載するカメラを利用しようと考えたが、コスト高である上に、カメラ自体もミネルバと同じくらいの重量があるため断念せざるを得なかった。そこで技術者たちは様々なカメラを調べていったが、ミネルバに搭載可能である重量10グラム以下、取り付け高さ15ミリというカメラはなかなか見つからなかった。しかし1998年になってソニーのノートパソコン、VAIOシリーズのPCG-C1に目をつけた。PCG-C1には回転式のCCDカメラが内蔵されており、このカメラならばミネルバに搭載できそうであった。話を持ちかけられたソニー側は協力を了承したが、ミネルバに搭載されたカメラが宇宙空間で不具合を起こしても対応できないことと、カメラ本体の詳細な技術情報の開示は行わないことが条件となった。", "qas": [ { "question": "ミネルバに搭載するカメラはどの会社からのものか。", "id": "de-071-07-000", "answers": [ { "text": "ソニー", "answer_start": 656, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミネルバに用いられるモーターはどの会社からの協力によるものか。", "id": "de-071-07-001", "answers": [ { "text": "マクソンモーター", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ソジャーナとミネルバと、どちらのモーターの方が厳しい温度条件を要するか。", "id": "de-071-07-002", "answers": [ { "text": "ミネルバ", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミネルバに搭載するカメラに求められる重量はどのくらいですか。", "id": "de-071-07-003", "answers": [ { "text": "重量10グラム以下", "answer_start": 510, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ソニーのノートパソコン用カメラの利用が決まった後も、カメラの難題は続いた。最大の問題はソニー製のカメラのインタフェースが独自のものであり、ミネルバのマイコンに接続するための変換回路が必要となったことであった。結局1999年末に、ソニーが新たに開発を行ったUSBをインタフェースとするノートパソコン用の外付けカメラ、PCGA-VC1をミネルバ用カメラとして採用することが決定した。またPCGA-VC1にはカメラモジュール用のドライバがWindows向けしかなく、この後、ミネルバ用のμITRONドライバの開発を行うなど、ミネルバ搭載のカメラ開発を進めていった。しかし試験を進めるうちに低温環境でのカメラ動作に不具合が生じるなど様々な問題が起きた。ミネルバ開発陣はソニーからPCGA-VC1の供給を受けていたが、2000年12月には数が足りなくなってしまったため開発陣はPCGA-VC1を購入したところ、内部のLSIが変更されていてせっかく開発したミネルバ用のμITRONドライバが動かない事態が生じた。ソニー側に確認したところ、すでに以前のタイプの在庫はないとのことで、新たなドライバを開発する時間的な余裕もないため、あわてて中古品を秋葉原でかき集めざるを得ないことになった。民生用の部品は宇宙用部品と比べて製品開発のサイクルがはるかに短いために起こった出来事であった。", "qas": [ { "question": "民生用の部品と宇宙用部品と、どっちの方の製品開発サイクルが短い?", "id": "de-071-08-000", "answers": [ { "text": "民生用の部品", "answer_start": 537, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミネルバの開発陳はどこで中古のソニーカメラを確保しましたか。", "id": "de-071-08-001", "answers": [ { "text": "秋葉原", "answer_start": 516, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2000年12月にミネルバ開発陳が購入したPCGA-VC1は、以前までソニーから供給してもらっていたPCGA-VC1と何が違うの?", "id": "de-071-08-002", "answers": [ { "text": "内部のLSI", "answer_start": 400, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "オプション扱いの低予算での開発が宿命づけられていたミネルバ開発陣は、小型モーター、カメラ以外にも積極的に宇宙用ではない民生品を利用した。もちろん実際に宇宙で使用できるかどうかについて放射線耐性などの試験を行い、合格したものを使用することにしたが、民生品の合格率は当初の予想よりも遥かに高かった。しかしどうしても宇宙用の部品を使用せねばならないものもあった。太陽電池は宇宙用の部品を使用したものの一つであった。わずか十数センチ立方以内というミネルバ表面に貼ることができる太陽電池の面積を考えると、小惑星探査に必要な電力をまかなうために高い変換効率を持つ太陽電池が必要とされたうえに、宇宙空間での劣化に耐えうるものにしなければならないというのが理由であった。しかし宇宙用の高性能太陽電池は極めて高価であり、見積もりで1000万円を越える金額を提示された。これでは太陽電池に開発費用を食われてしまい他の部分の開発ができなくなってしまう。そこで開発陣は、正規の太陽電池製品ではなく、製品製造の際に出るテストピースと呼ばれる切れ端の利用を思いついた。テストピースは性能は正規品と変わらないため、もし使うことができれば価格の低下が期待できた。目論見どおり、テストピースを使った見積もりは正規品の半分から三分の一になった。しかしここで難題が発生した。ミネルバは当初正八角柱の形状を予定していたが、製品の製造過程で出る切れ端であるテストピースは、正規品よりも小さいために正八角柱の表面に効率的に貼ることができなかった。やむをえず2000年夏には、ミネルバは正八角柱からテストピースの太陽電池を効率的に貼り付けられる正十六角柱に変更されることになったが、すでに設計が進み、各種試験も行われていたミネルバの設計、試験を一からやり直さねばならないことになった。", "qas": [ { "question": "太陽電池、小型モーター、カメラのうち、ミネルバの開発において、民生品を使ったものじゃないのは何?", "id": "de-071-09-000", "answers": [ { "text": "太陽電池", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "開発陳は、予算の問題で、正規の太陽電池製品の代わりに何を使うことにしたか。", "id": "de-071-09-001", "answers": [ { "text": "テストピース", "answer_start": 446, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミネルバは正十六角柱になる前、どんな形をしていましたか。", "id": "de-071-09-002", "answers": [ { "text": "正八角柱", "answer_start": 575, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ミネルバの開発が進められていく中で、2000年11月、NASAは開発を進めていたローバー、MUSES-CNの開発中止を決断した。MUSES-CNには約20億円の開発費用が投じられていたが、今後更に費用を要することが見込まれるため計画中止にしたという説明がなされた。NASAのローバーが中止になったことにより、ミネルバがMUSES-Cに搭載される可能性は極めて高くなったものの、ミネルバはオプション扱いのままで正式プロジェクトに格上げされることはなく、完成まで資金難に苦しみ続けることになり、実際にMUSES-Cに搭載されるかについても保証されなかった。一方探査機本体であるMUSES-C自体も開発に際して様々な困難に直面しており、当初2002年1月に予定されていた打ち上げが再三延期され、結局2003年5月9日の打ち上げとなった。資金不足、厳しい重量と大きさの制限という過酷な条件下で開発が進められていたミネルバにとって、MUSES-Cの打ち上げ延期は開発までの時間稼ぎにもなったが、当初の計画ではミネルバは地上からの指示を受けることなく完全自律で動かす予定であったものが、地上からのテレオペレーションでも動かせるように方針が変更されたため通信効率を大幅に上げる必要性が生まれ、通信ソフトウエアを作り替えるなど、新たな要求にも対処せねばならなかった。2000年3月にエンジニアリングモデルが完成したミネルバは、2001年3月にはMUSES-C本体との試験を行うことができるプロトフライトモデルが完成し、2003年2月にミネルバ本体が完成する。ミネルバは日本初の宇宙探査用ローバーであり、また世界初の小惑星探査ローバーとなった。", "qas": [ { "question": "日本初の小惑星探査ローバーは何ですか。", "id": "de-071-10-000", "answers": [ { "text": "ミネルバ", "answer_start": 671, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MUSES−CNの開発が中止になるまで、開発にかかった費用はいくらか。", "id": "de-071-10-001", "answers": [ { "text": "約20億円", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MUSES-Cは結局いつ打ち上げることになったか。", "id": "de-071-10-002", "answers": [ { "text": "2003年5月9日", "answer_start": 346, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2003年5月9日、MUSES-CはM-V5号機によって内之浦宇宙空間観測所から打ち上げられ、はやぶさと命名された。ミネルバははやぶさに搭載されて小惑星イトカワを目指した。イトカワまでの2年余りの道中、ミネルバは時々機器の電源をオンにして状態チェックを受けた。はやぶさ打ち上げ直後のチェックで動作に不安定な面が見つかったが、原因が判明して対策を取ったところ正常に戻った。そしてその後の状態チェックではミネルバは正常に機能した。はやぶさは2005年9月12日、目的地の小惑星イトカワに到着した。到着後、はやぶさはまずイトカワの詳細観測を行い、11月に入るとはやぶさの目的の一つである小惑星のサンプルリターンを目指し、イトカワへの着陸にチャレンジすることになった。しかしはやぶさはイトカワへの着陸チャレンジ前に深刻なトラブルに見舞われていた。姿勢制御を担う3基のリアクションホイールのうち、2基が故障してしまったのである。残り一つのリアクションホイールと化学エンジンの噴射を工夫することによって姿勢制御を行うことにしたのだが、安定した姿勢制御を行うことは困難であった。はやぶさは小惑星イトカワのサンプルリターンを目指しており、イトカワでの任務を終えたら地球へ戻らねばならない。イトカワから地球へ予定通り戻るには11月中にイトカワを出発しなければならず、姿勢制御の問題と時間の制約がのしかかっていた。11月4日の初回の着陸リハーサルは、やはりリアクションホイール故障が大きく影響してイトカワ表面への誘導が想定通り進まず、また着陸を行う方法として考えられた画像処理のデータに基づく着陸試行では、画像処理自体にエラーが出てしまいうまくいかなかった。11月9日に行われた第二回のリハーサルでは、画像処理による着陸を断念し、高度500メートルまではイトカワ表面の地形画像をもとに地上からの指示ではやぶさを誘導するという別の方法を試行した。この二回目の着陸リハーサルは、イトカワ表面への着陸制度という面では精度がまだ足りなかったものの、一回目ではイトカワ表面から700メートルが最接近距離であったものが、70メートルまで接近することができた。", "qas": [ { "question": "ミネルバの目的地である小惑星の名前は何?", "id": "de-071-11-000", "answers": [ { "text": "イトカワ", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "11月4日の初回の着陸リハーサルで、イトカワ表面への誘導が想定通り進まなかった原因は何でしたか。", "id": "de-071-11-001", "answers": [ { "text": "リアクションホイール故障", "answer_start": 618, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "はやぶさは何を目指して小惑星イトカワへ打ち上げられましたか。", "id": "de-071-11-002", "answers": [ { "text": "小惑星イトカワのサンプルリターン", "answer_start": 487, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミネルバが撮影した写真のうち、送信されたのははやぶさの太陽電池パネルが写った一枚のみである。その画像もフルサイズでは160×120ピクセルであったものが、画像下側の三分の一が送信されずに160×80ピクセルのものが送信されてきた。これはミネルバの自律画像判断機能が働いて、写真中で何も写っていない部分を破棄して送信しなかったためである。また送信された写真が一枚だけであった理由も、他の写真が何も写っていない宇宙空間を撮影していたり、もしはやぶさやイトカワが写っていたとしても、とても小さく写っていたために画像が棄却されてしまい送信されなかったためと考えられる。ミネルバははやぶさから分離後、約18時間に渡って通信を継続した。もしミネルバがイトカワに着地すれば、イトカワの自転周期から考えて3時間前後で夜間となっていったん通信が途絶するはずであるが、18時間継続して通信できたことからも、ミネルバはイトカワに着地することなく、人工惑星として宇宙空間を漂っていたことがわかる。ミネルバからは写真は一枚しか送信されてこなかったが、温度データなどは通信継続中は送られ続けた。うち、ミネルバ内部の温度データは放出後ほぼ一定の数値を示しており、これはミネルバは放出後、イトカワ表面からの熱輻射の影響を受けない宇宙空間にあったことを示している。またミネルバが宇宙空間で初めて使用することになった電気二重層コンデンサも正常に動作した。ミネルバの通信途絶直前に送信されてきたデータによれば、ミネルバの機能は完全に正常であった。従って通信途絶はミネルバの故障が原因ではなく、はやぶさのミネルバ通信用アンテナであるOME-Antがカバーできる範囲からミネルバが外れてしまったことにより、通信不能になったためと考えられている。", "qas": [ { "question": "ミネルバからは何枚の写真をもらえたか。", "id": "de-071-12-000", "answers": [ { "text": "一枚", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミネルバが送った写真の画像が160×120ピクセルではなく、160×80ピクセルのものであったのは、ミネルバのどんな機能によるのか。", "id": "de-071-12-001", "answers": [ { "text": "自律画像判断機能", "answer_start": 123, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2018年9月22日、JAXAは小惑星リュウグウの地表に2台のミネルバ2が着地に成功したと発表した。少なくとも1台がリュウグウ地表をジャンプして移動したことも確認された。小惑星上で探査機が着陸、移動、写真撮影に成功したのはいずれも世界初となる。2018年12月13日、JAXAは会見でミネルバII1のステレオ画像を含む新たな画像を公開。また正式名称について1Aが「イブー(HIBOU)」、1Bが「アウル(OWL)」と発表した。いずれも神話でミネルバと関わりのあるフクロウに因む。それぞれ113日と10日の活動が確認されており、その後は日陰に入って休止中と推定された。またその間カメラの画像に全く汚れが確認できなかったことから、リュウグウ表面に砂は無いと結論付けられた。その後、2019年8月2日にアウルから久々にテレメトリが得られている。", "qas": [ { "question": "世界で初めて小惑星での着陸、移動、写真撮影に成功した探査機は何ですか。", "id": "de-071-13-000", "answers": [ { "text": "ミネルバ2", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「イブー」と「アウル」はどんな動物と関係がありますか。", "id": "de-071-13-001", "answers": [ { "text": "フクロウ", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "はやぶさに続いて小惑星を探査するはやぶさ2計画においても、ミネルバの後継機であるミネルバIIの搭載が計画された。結局はやぶさ2に搭載されたミネルバは2機構成のミネルバ-II1と、ミネルバ-II2の合計3機となった。ミネルバ-II1はJAXAと会津大学が開発を担当し、ミネルバ-II2は東北大学、東京電機大学、大阪大学、山形大学、東京理科大学によって構成された大学コンソーシアムによって製作された。ミネルバIIでは、ミネルバが目指した自律的小惑星探査手法の実証、ホップしながら小惑星表面を移動するという小天体用ローバーの移動メカニズムの実証という工学的課題のほか、先述した小惑星上のローバーの位置同定、複数ローバーによるネットワーク探査、搭載コンピュータとしてSOIデバイスの宇宙空間での利用といった新たな工学的チャレンジが提案された。またミネルバ2では、探査目標の小惑星リュウグウの自転軸が不確かで、自転軸が横倒しの場合には日照が長時間連続する可能性があるため、搭載コンピュータの冷却機能の追加や、目標小惑星の公転軌道や探査時期から、1.2天文単位以遠での探査を見据えた大型化などが検討された。", "qas": [ { "question": "会津大学、東北大学、東京電機大学、大阪大学のうち、ミネルバ-II2と関係のない大学は?", "id": "de-071-14-000", "answers": [ { "text": "会津大学", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "藤山一郎", "paragraphs": [ { "context": "藤山一郎(ふじやまいちろう、1911年(明治44年)4月8日-1993年(平成5年)8月21日)は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。\n本名は、増永丈夫(ますながたけお)である。\n本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍した。\n東京府東京市日本橋区蛎殻町(現東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。\n東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を首席で卒業。\n東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論と、ハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。\n1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』など数多くのヒット曲を世に送った。\n理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調高い歌声は「楷書の歌」と評された。\n1992年(平成4年)、国民栄誉賞を受賞した。", "qas": [ { "question": "クラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍した藤山一郎の本名は?", "id": "de-072-00-000", "answers": [ { "text": "増永丈夫", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "藤山一郎が死去する前に受賞した賞は何なの?", "id": "de-072-00-001", "answers": [ { "text": "国民栄誉賞", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "藤山は1911年(明治44年)4月8日、東京府東京市日本橋区蛎殻町(後の東京都中央区日本橋蛎殻町)に、同区長谷川町(後の東京都中央区日本橋堀留町二丁目南部)のモスリン問屋・近江屋の三男(5人きょうだいの末っ子)として生まれた。\n父の信三郎は近江屋の番頭で、母のゆうは店主の養女であった。\n幼少期は、家業が順調であった上、母のゆうが株式投資の収益で日本橋区一帯に借家を建て多額の家賃収入を得ていたことから、経済的に大変恵まれた環境にあった。\nまた、幼少期から音楽家としての資質を育むのに適した環境の下で育った。\n母のゆうは子供にピアノを習わせる教育方針を持っており、藤山も幼少期からピアノを習った。\nさらに通っていた幼稚園が終わると親戚の作曲家・山田源一郎(藤山の姉・恒子の夫は山田の甥)が創立した日本女子音楽学校(後の日本音楽学校)に足繁く通い、賛美歌を歌ったりピアノの弾き方、楽譜の読み方を教わった。\nまた、家族に連れられて隅田川を往復する蒸気船に乗って浅草に遊びに行き、物売りの口上や下町の歯切れの良い発音を耳にした。\n藤山曰く、後年発音の歯切れの良さが評価されたことには幼少期に浅草で経験したことの影響があった。", "qas": [ { "question": "藤山一郎の親戚にある作曲家がいるが、何という名前ですか?", "id": "de-072-01-000", "answers": [ { "text": "山田源一郎", "answer_start": 322, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "藤山一郎が幼い時期から習い始めた楽器は何?", "id": "de-072-01-001", "answers": [ { "text": "ピアノ", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1918年(大正7年)春、慶應義塾幼稚舎に入学した。\nこの時期の藤山は楽譜を読みこなせるようになっており、学内外で童謡の公演に出演した。\n幼稚舎の音楽教師・江沢清太郎の紹介で童謡歌手となり、『春の野』(江沢清太郎作曲)などをレコードに吹き込んだこともある。\nただし江沢は「童謡歌手は大成しない」という考えの持ち主で、その勧めにより在学中の一時期は歌をやめ、楽典・楽譜を読みピアノ・ヴァイオリンを修練することに専念した。\n学業成績を見ると、唱歌が6年間を通して10点中9点以上でその他の教科もすべて7点以上であった。\n1924年(大正13年)春に慶應義塾普通部に進学した藤山は、同校の音楽教師を務めていた弘田龍太郎(東京音楽学校助教授)にピアノを習い課外授業に参加するなど音楽に励む傍ら、ラグビー部に入部して運動にも打ち込んだ。\n3・4年時には、1929年度の全国中等学校蹴球大会で優勝を経験している。\nこの時期の藤山の学業成績を見ると、音楽と体育以外は悪く、卒業時の学内順位は52人中51番であった。\n慶應普通部在籍時の1927年(昭和2年)、慶應の応援歌『若き血』がつくられたとき、早慶戦に向けて普通部に在学中の藤山が学生の歌唱指導にあたった。\n藤山は、上級生でも歌えない者に対してはしごいたため、早慶戦が終わった後、普通部の5年生に呼び出され、脅され殴られた。\nそれ以来、藤山と『若き血』の付き合いは長い。", "qas": [ { "question": "童謡歌手として『春の野』(江沢清太郎作曲)をレコーディングしたのは、藤山がどこの学校に通っていた時なの?", "id": "de-072-02-000", "answers": [ { "text": "慶應義塾幼稚舎", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "慶應義塾幼稚舎の次に藤山が通った学校名は何?", "id": "de-072-02-001", "answers": [ { "text": "慶應義塾普通部", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "藤山が慶應義塾幼稚舎在学中に6年間を通して最も成績が良かった科目は何でしたか?", "id": "de-072-02-002", "answers": [ { "text": "唱歌", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "藤山が中等学校の全国大会で優勝したのは何の球技だった?", "id": "de-072-02-003", "answers": [ { "text": "ラグビー", "answer_start": 343, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "慶應義塾在籍中、藤山は福澤諭吉が説いた奉仕の精神を身につけた。\nこのことは後にロータリークラブやボーイスカウトに協力し、福祉施設に慰問を行うことに繋がった。", "qas": [ { "question": "後に藤山が福祉施設に慰問することになったのは、誰の影響を受けたからですか?", "id": "de-072-03-000", "answers": [ { "text": "福澤諭吉", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "慶應義塾普通部を卒業後の1929年(昭和4年)4月、当時日本で唯一の官立の音楽専門学校であった東京音楽学校予科声楽部(後の東京藝術大学音楽学部)に入学。\n当時は「歌舞音曲は婦女子のもの」という風潮が強く、声楽部に入学した学生の中で男は藤山ただ一人であった。\n入学試験の口頭試問で音楽の道を志す理由について問われた藤山は、「オペラ歌手を目指します」と答えた。\n藤山は予科声楽科で30人中15番の成績を収め、本科に進学した。\n1931年(昭和6年)2月には「学友演奏会」(成績優秀者による演奏会。土曜演奏会とも)に出演し、歌劇『ファウスト』より「此の手を取り手よ」、歌劇『リゴレット』より「美しの乙女よ」の四重唱にバリトンで独唱するなど順風満帆の学生生活を送っていたが、音楽学校生活進学後間もなく世界恐慌の煽りを受けた昭和恐慌の影響で実家のモスリン問屋の経営が傾き、3万8000円の借金を抱え廃業した。\n藤山は家計を助けようと写譜のアルバイトを始めたが収入が少なく、レコードの吹き込みの仕事を始めるようになった。\nこれは校外演奏を禁止した学則58条に違反する行為であったため、「藤山一郎」の変名を用いることにした。\n名前の由来は、上野のパン屋・「永藤」の息子で親友・永藤秀雄(慶応商工)の名を使って藤永にし、一郎と続け、「藤永一郎」としたが、本名である増永の「永」が入ることで正体がばれることを恐れた。\nそこで「富士山」なら日本一でいこうと「永」を「山」にして、芸名を藤山一郎とした。\nこの変名はわずか5分のうちに生まれた。", "qas": [ { "question": "藤山が東京音楽学校予科声楽部(後の東京藝術大学音楽学部)に入学してから、好成績のおかげて次に進学出来たのはどこ?", "id": "de-072-04-000", "answers": [ { "text": "本科", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "実家のモスリン問屋が廃業に追い込まれたのは日本に何が起こったから?", "id": "de-072-04-001", "answers": [ { "text": "昭和恐慌", "answer_start": 357, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「藤山一郎」という芸名を考える際に由来として使った日本の山は何?", "id": "de-072-04-002", "answers": [ { "text": "「富士山」", "answer_start": 603, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹き込んだ。\n代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。\n塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は併合により日本領であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった。\nこの曲の吹き込みで藤山は、声量を抑え美しい共鳴の響きを活かし、声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法を用い、電気吹き込み時代のマイクロフォンの特性を効果的に生かした歌唱によって憂鬱さとモダニズムが同居する世相を反映させようとする古賀の意図を実現させた。\n同じく1931年に発売された古賀作曲の『丘を越えて』もヒットした。\n『丘を越えて』はクルーン唱法ではなく、「マイクから相当離れた位置で、メリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーに、声量を落とさないで、しかも溢れさせないように歌う」歌唱表現で、古賀メロディーの青春を高らかに歌いあげている。\n『丘を越えて』のヒットによって藤山と古賀はスターダムにのし上がった。", "qas": [ { "question": "藤山は1931年から約1年間の間でどれくらいの曲を吹き込んだの?", "id": "de-072-05-000", "answers": [ { "text": "40の曲", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『酒は涙か溜息か』や『丘を越えて』の作曲者の名前は?", "id": "de-072-05-001", "answers": [ { "text": "古賀政男", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "歌のヒットと同時に藤山一郎という歌手への注目が巷間で高まり、世間の関心が集まるようにもなった。\n藤山は学校関係者に歌を聴かれて正体が発覚することを恐れ、アルバイト料が売上に関係なく1曲あたり15円と決められていたことからレコードが売れないよう願ってさえいた。\n古賀と関係の深かった明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にゲスト出演した藤山は舞台の袖から姿を隠して歌い、観客が不満を訴える騒ぎとなったこともある。\nそんな中、東京音楽学校宛に「藤山一郎とは御校の増永丈夫である」という内容の投書が届き、学校当局は藤山を問い質した。\n藤山は「先生は作曲をするなどして学校の外で金を稼いでいるのに、生徒が学費のために内職するのを責めるのは不公平だ」と反発したためあわや退学処分ということになった。\nしかしハイバリトンの声楽家として藤山を評価していたクラウス・プリングスハイムが退学に反対し、慶應義塾普通部時代から藤山をよく知る弘田龍太郎・大塚淳・梁田貞も学業成績の優秀さやアルバイトで得た収入をすべて母親に渡していることを理由に擁護に回った結果、今後のレコード吹き込み禁止と停学1か月の処分に落ち着いた。\nしかも、その1か月は学校の冬休みに当たり、実質的な処分は科されなかった。\nなお、この時藤山はまだ吹き込みを行っていなかった『影を慕いて』を既に吹き込み済みであるとして学校にリストを提出し、発行を可能にした。\n停学が解除されると藤山はレコードの吹き込みを止め、学業に専念した。", "qas": [ { "question": "藤山が自身の正体がバレないように舞台の袖から隠れて歌唱したという定期演奏会はどこで行われましたか?", "id": "de-072-06-000", "answers": [ { "text": "明治大学", "answer_start": 140, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "藤山の退学処分に反対してくれた人物の中で日本人ではない人物は誰?", "id": "de-072-06-001", "answers": [ { "text": "クラウス・プリングスハイム", "answer_start": 369, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。\n『週刊音楽新聞』は卒業演奏における「歌劇『道化師』のアリア」「歌劇『密猟者』より」の独唱を取り上げ、東京音楽学校始まって以来の声楽家になるのではないかと評した。\n藤山はレコード歌手になって実家の借金を返済したいという思いが強く、卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。\nビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた。\n『酒は涙か溜息か』などのヒット曲がコロムビアから発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2%のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた。\nだが、1933年3月、コロムビアから発売されたワーグナーのオペラ『ローエングリン』のレコードには、藤山が本名・増永丈夫で独唱者に名前を連ねている。\n藤山一郎のビクター入社の経緯について菊池清麿は、藤山のビクター入社のきっかけは安藤兵部が獲得に動いたこと、当時ビクターには、橋本國彦、徳山璉、四家文子ら東京音楽学校の先輩が専属におり、クラシックと大衆音楽の両立がしやすい雰囲気があったことを指摘している。\nビクターに藤山を奪われる形となったコロムビアは、作曲家の佐々紅華と作詞家の時雨音羽をビクターから引き抜いた。", "qas": [ { "question": "藤山が東京音楽学校の卒業演奏で独唱したのは「歌劇『密猟者』より」ともう1つは何?", "id": "de-072-07-000", "answers": [ { "text": "「歌劇『道化師』のアリア」", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "藤山が卒業する前から学費援助などを通してコンタクトをとっていた会社はどこか?", "id": "de-072-07-001", "answers": [ { "text": "ビクター", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "藤山を獲得出来なかったコロムビアがビクターから引き抜いた作詞家は誰?", "id": "de-072-07-002", "answers": [ { "text": "時雨音羽", "answer_start": 593, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "入社2年目までの藤山は東京音楽学校に研究科生として在籍してヴーハーぺニッヒの指導を受けており、作曲・編曲・吹き込みなどを行う傍ら学校やヴーハーペニッヒの自宅にも通った。\n1933年4月には読売新聞社主催の新人演奏会に東京音楽学校代表として出演し、同年6月18日には東京音楽学校の定期演奏会(日比谷公会堂)に出演している。\nクラウス・プリングスハイム指揮ベートーヴェンの『第九』をバリトン独唱。\nこの時期の藤山は様々なジャンルの歌を歌っている。\n公演をみると1933年10月に日比谷公会堂で「藤山一郎・増永丈夫の会」を催し、藤山一郎としてジャズと流行歌を、増永丈夫としてクラシックを歌い、美しい響きで声量豊かに独唱する増永丈夫とマイクロフォンを効果的に利用したテナー藤山一郎を演じ分け、双方の分野の音楽的魅力を披露した。\nレコードをみると、流行歌以外にクラシック(ワーグナー、シューマン)やジャズのレコードも出している。\nビクター時代の藤山は『燃える御神火』(売上187,500枚)、『僕の青春』(売上100,500枚)などがヒットしたが音楽学校在校中に吹き込んだ古賀メロディーほどの大ヒット曲には恵まれなかった。\n藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。\nビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットをしのぐことはできなかった。\nその一方、「官学出身者の厭味なアカデミズムを排し、下品な低俗趣味を避けたいとも考えていた。私はみんなが楽しめる音楽の紹介と、そのプレーヤーとして生きる」という思いのもと、「シューマンを歌う。欧米の名曲や民謡を歌う、そして、もちろん、流行歌も歌う」充実した日々であったと述べている。", "qas": [ { "question": "藤山がビクターに所属しながら、ヴーハーぺニッヒの指導を受けるために在籍していた所はどこ?", "id": "de-072-08-000", "answers": [ { "text": "東京音楽学校", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビクター時代の藤山のヒット曲の中で売り上げが最も良かった曲目は何?", "id": "de-072-08-001", "answers": [ { "text": "『燃える御神火』", "answer_start": 420, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ビクターとの契約期間は3年で満了を迎えた。\nビクターは藤山との再契約を望んだが、当時コロムビアからテイチクに移籍していた古賀政男はテイチクへの移籍を促した。\n藤山はテイチクのブランドイメージ(創業者が楠木正成に傾倒し、正成の銅像をレーベルマークにしたり正成にちなんだ芸名を歌手につけたりしていた)に抵抗を感じたものの、生家の経済的事情もあり、最終的には古賀と再びコンビを組むことの魅力のほうが勝った。\n念のためビクターとの契約期間満了から1か月を置いてテイチクへ移籍した。\n契約金は1万円であった(ちなみに、同時期の内閣総理大臣の月給は800円)。", "qas": [ { "question": "ビクターの次に藤山が所属したのはどこのレコード会社ですか?", "id": "de-072-09-000", "answers": [ { "text": "テイチク", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "藤山のテイチクとの契約金はいくらだったの?", "id": "de-072-09-001", "answers": [ { "text": "1万円", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "藤山が、テイチクでまたコンビを組みたいと思った相手は誰?", "id": "de-072-09-002", "answers": [ { "text": "古賀", "answer_start": 176, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "テイチクの創業者が心酔していた歴史上の人物とは?", "id": "de-072-09-003", "answers": [ { "text": "楠木正成", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1936年(昭和11年)、古賀が作曲した『東京ラプソディ』が販売枚数35万枚のヒットとなった。\nこれにより藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金を完済することができた。\nPCLによって『東京ラプソディ』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演した。\n『東京ラプソディ』と同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』、翌年の『青い背広で』『青春日記』もヒットした。\n藤山はこの時期に歌った曲の中から印象に残る曲として、『東京ラプソディ』とともに『夜明けの唄』(大阪中央放送局が1936年に企画した、有名な詩人の作品に歌をつける企画。国民歌謡、国民合唱と呼ばれた)を挙げている。", "qas": [ { "question": "藤山が生家の借金を完済出来たのは、何という曲がヒットしたおかげですか?", "id": "de-072-10-000", "answers": [ { "text": "『東京ラプソディ』", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『東京ラプソディ』『男の純情』『青い背広で』『青春日記』を作曲した人は誰ですか?", "id": "de-072-10-001", "answers": [ { "text": "古賀", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『東京ラプソディ』のB面曲は何?", "id": "de-072-10-002", "answers": [ { "text": "『東京娘』", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『東京ラプソディ』と『東京娘』の歌唱印税はいくらだったの?", "id": "de-072-10-003", "answers": [ { "text": "2万1000円", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1937年(昭和12年)に盧溝橋事件が起こったのをきっかけに国民精神総動員を打ち出した政府は、音楽業界に対し戦意を高揚させる曲の発売を奨励し、ユーモア・恋愛・感傷をテーマとした歌の発売を禁止する指示を出した。\nテイチクはこの方針に従い、藤山も『忠烈!大和魂』・『国家総動員』・『雪の進軍』・『駆けろ荒鷲』・『最後の血戦』・『歩兵の本領』・『愛国行進曲』・『山内中尉の母』といった戦意高揚のための曲を吹き込むようになった。\nテイチク時代の藤山一郎の人気は凄まじく、ポリドールの東海林太郎と並んで「団菊時代」を形成した。\nテイチク時代の藤山はバリトンの声楽家というよりはテナー歌手としての流行歌に重点が置かれている。\nこれについて当時、新聞記者だった音楽評論家の上山敬三は、「愛の古巣に帰ろう男の純情などいう流行歌なんかやめちまえ、声がもったいない、クラシックに帰れ」と提言した。", "qas": [ { "question": "『忠烈!大和魂』・『国家総動員』・『雪の進軍』等の曲が吹き込まれたのは、当時の政府が何の政策を打ち出した事が影響していますか?", "id": "de-072-11-000", "answers": [ { "text": "国民精神総動員", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "戦意高揚のための曲が奨励されるきっかけとなった事件は何ですか?", "id": "de-072-11-001", "answers": [ { "text": "盧溝橋事件", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "藤山と共に「団菊時代」を築いたもう1人の歌手は?", "id": "de-072-11-002", "answers": [ { "text": "東海林太郎", "answer_start": 237, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1939年(昭和14年)にテイチクとの契約期間が満了を迎えた。\nこの時期には古賀とテイチクが方針の違いから対立しており、藤山は古賀とともにコロムビアへ移籍した。\n移籍後藤山は『上海夜曲』や服部良一との初のコンビによる『懐かしのボレロ』を吹き込みヒットさせた。\n1940年には古賀作曲の『なつかしの歌声』もヒットしたが、音楽観の違いから、藤山は古賀と距離を置くようになった。\n声楽家としては1939年に「オール日本新人演奏会10周年記念演奏会」(日比谷公会堂)でヴェルディのアリアをバリトン独唱し、1940年にマンフレート・グルリット指揮のベートーヴェンの『第九』(NHKラジオ放送)をバリトン独唱しテノールの美しさを持つバリトン増永丈夫の健在ぶりを示した。\n増永丈夫の名義では松尾芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天河」という旅の叙情を主題にした国民歌謡『旅愁』の吹き込みを行っている。", "qas": [ { "question": "テイチクとの契約期間満了後、藤山は誰と一緒にコロムビアに移籍したの?", "id": "de-072-12-000", "answers": [ { "text": "古賀", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コロムビア移籍後、藤山が初めてコンビを組んだ相手は誰ですか?", "id": "de-072-12-001", "answers": [ { "text": "服部良一", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1940年頃から藤山と古賀が距離を置くようになった原因は何ですか?", "id": "de-072-12-002", "answers": [ { "text": "音楽観の違い", "answer_start": 159, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国民歌謡『旅愁』は、誰による旅の叙情を主題にした曲なのか?", "id": "de-072-12-003", "answers": [ { "text": "松尾芭蕉", "answer_start": 338, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1941年(昭和16年)に太平洋戦争が開戦した。\n序盤は日本軍が優勢で、軍は新聞社に対し各地に駐屯する将兵に娯楽を与えるため慰問団の結成を要請した。\n読売新聞社が海軍の要請を受けて南方慰問団を結成すると、藤山はこれに参加した。\n藤山には音楽の先進国であるヨーロッパへ渡りたいという思いが強く、ヨーロッパ諸国の植民地であった場所へ行けばヨーロッパの文化に触れることができるかもしれないという思いと、祖国の役に立ちたいという思いからこれに加わった。\n当時日本軍は渡航直前の1943年(昭和18年)2月1日にガダルカナル島から撤退するなど、南方で苦戦を強いられていたが、藤山はそうした情報を正確に把握していなかった。\n藤山は後に、もし戦況を正確に把握できていたら南方慰問には出なかったであろうと述べている。", "qas": [ { "question": "藤山が太平洋戦争の戦地に足を運んだのは何の一員として参加したからですか?", "id": "de-072-13-000", "answers": [ { "text": "南方慰問団", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南方慰問団を結成させたのはどこの新聞社ですか?", "id": "de-072-13-001", "answers": [ { "text": "読売新聞社", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1943年2月、慰問団はボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発。\n途中で寄港した高雄港では敵の潜水艦による魚雷攻撃を受け(かろうじて命中しなかった)、藤山は初めて戦局が内地で宣伝されているよりもはるかに緊迫したものであることを察知することになった。\n3月にボルネオ島(カリマンタン島)バリクパパンに到着した。\nボルネオ島のほかスラウェシ島・ティモール島など、周辺一帯を慰問に回った。\n藤山は持ち歌や軍歌の他、地元の民謡を歌った。\n海軍士官が作った詞に曲を付け、歌ったこともある(『サマリンダ小唄』)。\n藤山は7月に予定されていた慰問を終え、帰国した。", "qas": [ { "question": "南方慰問団が最初に到着した南方の島はどこだった?", "id": "de-072-14-000", "answers": [ { "text": "ボルネオ島", "answer_start": 137, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "藤山は帰国後すぐに海軍より再度南方慰問の要請を受け、11月にスラウェシ島へ向けて出発した。\n藤山はヨーロッパの文化にさらに触れ、現地の民謡を採譜したいという気持ちから要請を承諾した。\n1回目の慰問での扱いは軍属で、藤山はこれに強い不満を覚えていたが、この時は月給1800円の海軍嘱託(奏任官5等・少佐待遇)としての派遣であった。\n藤山の慰問団はスラウェシ島・ボルネオ島・小スンダ列島のバリ島・ロンボク島・スンバワ島・フローレス島・スンバ島・ティモール島などを巡った。\nこのうちスンバ島は多数の敵機が飛び交う最前線の島で、慰問に訪れた芸能人は藤山ただ一人であった。\nなお、小スンダ列島を慰問するにあたり、軽装で着任するよう要請された藤山は、愛用していたイタリア・ダラッペ社製のアコーディオンをスラウェシ島に置いたまま出発したが、同島に戻ることなく敗戦を迎えたため手放す羽目になった。\nこれ以降藤山はジャワ島スラバヤで購入したドイツ・ホーナー社製のアコーディオンを愛用することになる。", "qas": [ { "question": "2度目の南方慰問で最初に行った島はどこ?", "id": "de-072-15-000", "answers": [ { "text": "スラウェシ島", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イタリア・ダラッペ社製のアコーディオンを手放した後に、藤山が愛用したアコーディオンは何製でしたか?", "id": "de-072-15-001", "answers": [ { "text": "ドイツ・ホーナー社製", "answer_start": 411, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "愛用していたアコーディオンをスラウェシ島に置いたまま、藤山が再び取りに帰ることが出来なかった理由とは何ですか?", "id": "de-072-15-002", "answers": [ { "text": "敗戦を迎えたため", "answer_start": 372, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1945年(昭和20年)8月15日、藤山はジャワ島スラバヤをマディウンへ向かい移動する車中で日本の敗戦を知った。\n藤山は独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜となり、ジャワ島中部・ナウイの刑務所に収容され、その後ソロ川中流部にあるマゲタンの刑務所へ移送された。\n1946年(昭和21年)、スカルノの命令によりマラン州プジョンの山村に移動した。\nそこには三菱財閥が運営していた農園があり、旧大日本帝国海軍の将兵が一帯を「鞍馬村」と名づけて自給自足の生活を送っていた。\n鞍馬村滞在中、藤山は休日になると海軍の兵士だった森田正四郎とともに各地の収容所を慰問して回った。\n鞍馬村での生活は数か月で終わりを告げた。\n太平洋戦争終結直後から行われていた独立戦争においてインドネシアとイギリスとの間に一時的な停戦協定が成立し、日本人捕虜を別の場所へ移送した後、帰国させることになったためである。\n藤山はリアウ諸島のレンパン島に移送された。\nこの島で藤山はイギリス軍の用務員とされ、イギリス軍兵士の慰問をして過ごした。\n1946年7月15日、藤山は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。", "qas": [ { "question": "藤山がインドネシア共和国の捕虜となって滞在した3度目の移動先は、何と名付けられた村だったの?", "id": "de-072-16-000", "answers": [ { "text": "「鞍馬村」", "answer_start": 212, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "藤山が捕虜生活の最後に滞在していた島は何島?", "id": "de-072-16-001", "answers": [ { "text": "レンパン島", "answer_start": 404, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "藤山が南方での捕虜生活を終え、日本に帰国したのはいつのことですか?", "id": "de-072-16-002", "answers": [ { "text": "1946年7月15日", "answer_start": 456, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1946年7月25日、葛城は広島県大竹港に到着した。\n東京の自宅に着いて間もなくNHKがインタビューにやって来るなど、藤山の帰国はニュースとなった。\n藤山は8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演したのを皮切りに、早速日本での歌手活動を再開させた。\n1947年(昭和22年)に入ると、戦前派の歌手たちが本格的に復活の狼煙を上げた。\n藤山一郎もラジオ歌謡『三日月娘』、『音楽五人男』の主題歌・『夢淡き東京』、日本歌曲としても音楽的評価の高い『白鳥の歌』などをヒットさせた。\n1949年(昭和24年)、永井隆の随想を元にした『長崎の鐘』がヒット。\nこの歌を主題歌として映画『長崎の鐘』が制作された。", "qas": [ { "question": "『長崎の鐘』を主題歌として制作した映画は何?", "id": "de-072-17-000", "answers": [ { "text": "映画『長崎の鐘』", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "藤山は永井の死から8か月後の1951年(昭和26年)1月3日に行われた『第1回NHK紅白歌合戦』に白組のキャプテンとして出場し、『長崎の鐘』を歌唱し白組トリおよび大トリを務めた。\nちなみに藤山は1951年の第1回から1958年の第8回まで8年連続で出場するなど、歌手として計11回紅白に出場している。\n1949年7月、東宝は石坂洋次郎の小説『青い山脈』を原作にした映画を公開した。\nこの映画の主題歌として同じタイトルの『青い山脈』が作られ、藤山が奈良光枝とデュエットで歌った。\n『青い山脈』は映画・歌ともに大ヒットした。\n歌は長年にわたって世代を問わず支持され、発売から40年経った1989年にNHKが放映した『昭和の歌・心に残る200』においても第1位となっている。\n奈良光枝が1977年に死去すると、『青い山脈』は藤山の持ち歌となった。", "qas": [ { "question": "『第1回NHK紅白歌合戦』で最後に歌唱された曲は何?", "id": "de-072-18-000", "answers": [ { "text": "『長崎の鐘』", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『青い山脈』をデュエットで歌った女性歌手は誰?", "id": "de-072-18-001", "answers": [ { "text": "奈良光枝", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "フレデリック・ディーリアス", "paragraphs": [ { "context": "フレデリック・ディーリアスはイングランド北部の裕福な商人の家庭の生まれであったが、ディーリアスは商売の道に進みたがらなかった。1884年にはオレンジのプランテーションを運営するためにアメリカのフロリダ州に送られるものの、仕事を放棄した彼は黒人音楽に感化されて作曲を行うようになる。1886年からしばらくはドイツで正式な音楽教育を受け、パリに移って職業作曲家としてのキャリアを開始した。その後、遠く離れないグレ=シュル=ロワンに居を構え、その地で妻のイェルカ・ローゼンと共に大戦時を除く生涯を過ごした。\n\nディーリアスが最初に成功を手にしたドイツでは、1890年代終盤からハンス・ハイムをはじめとする指揮者が彼の作品を紹介していた。祖国のイギリスにおいては、トーマス・ビーチャムが作品を取り上げた1907年より、彼の音楽は演奏会のプログラムの常連となった。ビーチャムの貢献は1909年のロンドンにおける「人生のミサ」の前全曲初演(彼は1908年にドイツで第2部の初演も行っている)、1910年のロイヤル・オペラ・ハウスにおけるオペラ「村のロメオとジュリエット」の上演、1929年の6日間にわたるディーリアス音楽祭の開催、また多くのディーリアス作品の蓄音機録音などがある。ディーリアスはパリ時代の初期に梅毒に感染し、1918年からはこの病に苦しめられることになる。彼は身体が麻痺すると共に視力を失ったが、代筆者のエリック・フェンビーの助けを借りて1928年から1932年の後期作品の作曲を行った。", "qas": [ { "question": "1884年、フレデリック・ディーリアスはオレンジのプランテーションを運営するためにどの国へ行きましたか。", "id": "de-073-00-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フレデリック・ディーリアスは何年から正式な音楽教育を受けましたか。", "id": "de-073-00-001", "answers": [ { "text": "1886年", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1929年のディーリアス音楽祭は何日間開催されましたか。", "id": "de-073-00-002", "answers": [ { "text": "6日間", "answer_start": 489, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ディーリアスは、ロンドンの北北西約250kmに位置するヨークシャーのブラッドフォードに生まれた。洗礼名はフリッツ・シーオドア・アルバート・ディーリアスで、彼は40歳になる頃まで使用していた。両親はユリウス・デリウスとエリーゼ・パウリーネで、フレデリックは4男10女の兄妹の次男、4番目であった。彼の両親の生まれはドイツ、ヴェストファーレンのビーレフェルトで、オランダ系の血筋であったが、ドイツ国内のライン川の近くの土地に定着して数世代を経ていた。ユリウスの父のエルンスト・フリードリヒ・デリウスは、ナポレオン戦争時にブリュッヘル元帥の指揮下で従軍していた。ユリウスがイングランドに移り住んだのは羊毛商人として一旗上げるためであり、1850年に帰化してイギリス国籍を取得していた。エリーゼとの結婚は1856年のことである。", "qas": [ { "question": "ヨークシャーのブラッドフォードはロンドンから北北西に約何km離れていますか。", "id": "de-073-01-000", "answers": [ { "text": "約250km", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ディーリアスの洗礼名は何ですか。", "id": "de-073-01-001", "answers": [ { "text": "フリッツ・シーオドア・アルバート・ディーリアス", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ディーリアスの母の名前は何ですか。", "id": "de-073-01-002", "answers": [ { "text": "エリーゼ・パウリーネ", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ユリウス・デリウスとエリーゼ・パウリーネは何年に結婚したか。", "id": "de-073-01-003", "answers": [ { "text": "1856年", "answer_start": 348, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ディーリアス家は音楽一家であり、当時の有名な音楽家であるヨーゼフ・ヨアヒムやカルロ・アルフレード・ピアッティなどが来客として訪れ、演奏を披露したこともあった。ドイツの家系に生まれながらも、幼いディーリアスはドイツ=オーストリア系のモーツァルトやベートーヴェンではなく、ショパンやグリーグらの音楽により強く惹かれており、この好みは生涯にわたって続くこととなった。ディーリアスが受けた最初の音楽教育は、ハレ管弦楽団のバウアーケラーによるヴァイオリンの指導であり、その後リーズのジョージ・ハドックの下でさらに発展的な教育を施された。彼は後年ヴァイオリンの教師として仕事が出来るほどにヴァイオリンの腕を上げていたが、最も楽しみを見出していたのはピアノに向かって即興演奏をすることであり、彼が初めて音楽で我を忘れる体験をしたのはショパンのワルツであった。1874年から1878年にかけて、ディーリアスはブラッドフォード・グラマー・スクールで学んでおり、やや年長の学生にはテノール歌手のジョン・コーテスがいた。その後、彼は1878年から1880年の間にアイザルワースのインターナショナル・カレッジで学んだ。学生としてのディーリアスは利口でも勤勉でもなく、カレッジがロンドンにほどよく近かったためにコンサートやオペラに足を運んでいた。", "qas": [ { "question": "ディーリアスはモーツァルトとショパンと、どちらの音楽をより好みましたか。", "id": "de-073-02-000", "answers": [ { "text": "ショパン", "answer_start": 134, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ディーリアスが初めて音楽で我を忘れる体験をしたのは誰の音楽でしたか。", "id": "de-073-02-001", "answers": [ { "text": "ショパン", "answer_start": 359, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1874年から1878年にかけて、ディーリアスはどの学校で勉強をしましたか。", "id": "de-073-02-002", "answers": [ { "text": "ブラッドフォード・グラマー・スクール", "answer_start": 396, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アメリカ行きというアイデアが、ユリウスのものだったのかフレデリック本人のものだったのかは明らかではない。フロリダの大きな不動産会社は、ブラッドフォードなど英国内にも支社を持っていた。そこで、当時のフロリダで書かれたディーリアスに関する論文において、ウィリアム・ランデルが推測するところでは、父のユリウスがブラッドフォードの事務所を訪れてわがまま息子をオレンジ栽培のために送り出すことを思いついたか、フレデリック本人が実家の羊毛業から逃れる方策にこの案を父に進言したか、両方の可能性が考えられるとしている。ディーリアスがフロリダに滞在していたのは1884年の春から1885年の秋までの期間で、ジャクソンビルに近いセントジョンズ川岸のソラノ・グローヴのプランテーション農場に寝泊りしていた。ここでもやはり彼は音楽に夢中なままで、ジャクソンヴィルで出会ったオルガン奏者のトーマス・ウォードから対位法と作曲などの音楽理論の指導を受けるようになった。後年、ディーリアスは自分が受けた教えの中で有用だったものは、ウォードのものだけだったと述べている。", "qas": [ { "question": "ディーリアスはフロリダに1884年から何年まで滞在していましたか。", "id": "de-073-03-000", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 281, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トーマス・ウォードはどんな楽器を演奏する人でしたか。", "id": "de-073-03-001", "answers": [ { "text": "オルガン", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "フロリダ在住中にディーリアスは最初の作品を出版している。「ZumCarnival」と呼ばれるピアノのためのポルカである。1885年の暮れ、ソラノ・グローヴで任されていた管理人の職を離れ、バージニア州のダンヴィルへと引っ越した。それからは彼は完全に音楽のみに打ち込むことになる。地元の新聞の広告にこういう文言が掲載された。「フリッツ・ディーリアスがまもなくピアノ、ヴァイオリン、音楽理論、作曲の指導を開始します。授業は生徒の家庭で行う予定です。期間は常識的範囲。」ディーリアスはフランス人やドイツ人にもレッスンの呼びかけを行っていた。ダンビルは音楽が栄えた町であり、彼の初期作品もそこで公開演奏されるなどしたのである。", "qas": [ { "question": "ディーリアスが「ZumCarnival」を出版したとき、彼はどこに滞在していたか。", "id": "de-073-04-000", "answers": [ { "text": "フロリダ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1886年になり、父親のユリウスもようやく音楽の道に進みたいという息子の希望に応え、ディーリアスが正式な音楽教育を受けられるよう学費を出した。ダンビルを離れたディーリアスはいくつかレッスンを行うためにしばらくニューヨークに留まった後、ヨーロッパへと戻った。ドイツへ向かった彼はライプツィヒ音楽院へと入学する。音楽の中心都市ライプツィヒでは、ニキシュやマーラーが歌劇場で指揮をし、ブラームスやチャイコフスキーがゲヴァントハウスで自作を披露していた。音楽院でライネッケの下でピアノを学んだものの、あまり進歩のなかったディーリアスであったが、ザーロモン・ヤーダスゾーンは彼の勤勉さと対位法の理解を称賛していた。また、ディーリアスはハンス・ジットからの指導も再び受け始めていた。ディーリアスの早くからの伝記作家であった作曲家のパトリック・ハドリーは、ディーリアスの円熟期の音楽には「一部の弱々しいパッセージを除いて」このようなアカデミックな教育を受けた痕跡は見当たらないと述べている。ディーリアスの成長にとってはるかに重要だったのは、ライプツィヒでグリーグに出会ったことであった。グリーグは先のウォードと同様に、ディーリアスの潜在能力を見抜いていた。1888年春、ジットは3人の聴衆のためにディーリアスの「フロリダ組曲」を演奏した。3人とはグリーグ、シンディング、作曲者自身である。グリーグとシンディングは熱狂し、ディーリアスを親身に支えるようになった。1888年4月のロンドンでの会食の席で、グリーグはユリウスに対しディーリアスが将来音楽で地位を築くと納得させたのである。", "qas": [ { "question": "ディーリアスの父が、ディーリアスの音楽への道を正式に認めたのは何年からです。", "id": "de-073-05-000", "answers": [ { "text": "1886年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1897年、ディーリアスはドイツ人の画家であるイェルカ・ローゼンと出会った。彼女は後に彼の妻となる人物である。プロの絵描きであったイェルカはオーギュスト・ロダンとも親交があり、パリで開催される美術展のアンデパンダン展でも常連であった。彼女はすぐさま若き作曲家の作品への称賛を明らかにし、ドイツの哲学者ニーチェやグリーグの音楽への情熱を共有する2人は惹かれ合っていった。イェルカはパリから64キロ、フォンテーヌブローとの境に地点に位置するグレ=シュル=ロワン村に家を購入した。ディーリアスは彼女を訪ねてその地に向かい、一時フロリダへと戻った後は移り住んで彼女と暮らすようになった。2人は1903年に結婚し、ディーリアスはその後第一次世界大戦中にドイツ兵が進軍してくる危険に見舞われた一時期を除き、生涯をグレで過ごした。ディーリアスはこの頃から英国式にフレデリックと名乗るようになった。彼らの結婚生活は一般的なものではなかった。当初、夫婦の主な収入はイェルカの稼ぎであり、2人には子どもがおらず、さらにディーリアスは夫として信頼の置ける人物ではなかった。イェルカは夫の愛人関係にしばしば頭を悩ませていながらも、その献身的な態度が揺らぐことはなかった。", "qas": [ { "question": "ディーリアスの妻は誰?", "id": "de-073-06-000", "answers": [ { "text": "イェルカ・ローゼン", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ディーリアスとイェルカ・ローゼンは何年に結婚したか。", "id": "de-073-06-001", "answers": [ { "text": "1903年", "answer_start": 292, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "管弦楽曲「パリ:大都会の歌」が1899年に完成し、ハイムに捧げられた。ハイムはこれを1901年12月14日、エルバーフェルトにて初演している。この公演について地元の新聞がいくらか批判的な評価を寄せている。この評によると、ディーリアスは聴衆をバスに乗せてパリの夜の名所へ次々と連れ回すものの「彼は我々が大通りのカフェで豊かなジプシーの音楽を聴くことを許してはくれない。常にシンバルとタンバリンが、大体2つのキャバレーから同時に聞こえてきてしまうのである。」この作品はその後一年経たぬうちに、ベルリンでフェルッチョ・ブゾーニの指揮によって再演されている。\n\nこの時期に行われたディーリアスの作品の初演は、大半がハイムもしくはその仲間のドイツ人指揮者らによって行われた。1904年にはカッシーラーが「コアンガ」を初演、同年にはエルバーフェルトで「ピアノ協奏曲ハ短調」が初演され、デュッセルドルフでは管弦楽曲「生命の踊り」が初演された。デュッセルドルフでは翌年にも「アパラチア」(フロリダで採集したかつての奴隷の歌に基づく、合唱と管弦楽のための変奏曲)の初演が続いた。合唱曲「海流」は1906年のエッセン、オペラ「村のロメオとジュリエット」は1907年のドイツで初演を迎えた。ディーリアスの名声は第一次世界大戦まで衰えることはなかった。1910年には狂詩曲「ブリッグの定期市」が、ドイツの36の異なるオーケストラによって演奏されている。", "qas": [ { "question": "「パリ:大都会の歌」は何年に完成されたか。", "id": "de-073-07-000", "answers": [ { "text": "1899年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「パリ:大都会の歌」はいつ初演されるか。", "id": "de-073-07-001", "answers": [ { "text": "1901年12月14日", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「コアンガ」の初演は何年に行われたか。", "id": "de-073-07-002", "answers": [ { "text": "1904年", "answer_start": 332, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オペラ「村のロメオとジュリエット」の初演はどの国で行われたか。", "id": "de-073-07-003", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 523, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "暗黒時代(古代ギリシア)", "paragraphs": [ { "context": "暗黒時代(あんこくじだい、古希:Γεωμετρικήεποχή)とは、古代ギリシアにおける紀元前1200年から紀元前700年頃までの間における文字資料に乏しい時代のことを言う。ミケーネ文化、前古典期(アーカイック期)の間にあたる。また、この時代のうち前1059年から前700年頃は土器に幾何学文様の描かれたことから幾何学文様期と呼ばれる事がある。", "qas": [ { "question": "暗黒時代とは、いつからいつまでの時代を指すの?", "id": "de-074-00-000", "answers": [ { "text": "紀元前1200年から紀元前700年頃", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "暗黒時代とは、何が乏しい時代のことを指しますか?", "id": "de-074-00-001", "answers": [ { "text": "文字資料", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "幾何学文様期は、何と呼ばれる時代に含まれるか?", "id": "de-074-00-002", "answers": [ { "text": "暗黒時代", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "暗黒時代は、ミケーネ文化とどの時期の間にあたるか?", "id": "de-074-00-003", "answers": [ { "text": "前古典期", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古代ギリシャでミケーネ文化が繁栄していた時代、『前1200年のカタストロフ』をきっかけに文化は崩壊、それまで使用されていた線文字Bも使用されなくなり文字資料が乏しくなった。この状況はギリシャ人とフェニキア人が接触することによりアルファベットが成立してエーゲ海地帯に普及するまで続く。", "qas": [ { "question": "ミケーネ文化が崩れたのは、何がきっかけだったの?", "id": "de-074-01-000", "answers": [ { "text": "『前1200年のカタストロフ』", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古代ギリシャでミケーネ文化が繁栄していた時代には、どのような文字が使われていましたか?", "id": "de-074-01-001", "answers": [ { "text": "線文字B", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "どの文字が使われなくなった時から文字資料が乏しくなったか?", "id": "de-074-01-002", "answers": [ { "text": "線文字B", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どの文化が崩れた時から文字資料が乏しくなったか?", "id": "de-074-01-003", "answers": [ { "text": "ミケーネ文化", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "紀元前1200年頃、環東地中海を『前1200年のカタストロフ』が襲いかかった。このカタストロフによりヒッタイトは崩壊しエジプト新王国は衰退へと向かうことになるが、古代ギリシャにおいてもミケーネ文化が崩壊することとなった。", "qas": [ { "question": "環東地中海を『前1200年のカタストロフ』が襲いかかったのは、何年頃のことなの?", "id": "de-074-02-000", "answers": [ { "text": "紀元前1200年頃", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒッタイトの崩壊、エジプト新王国の衰退、そしてミケーネ文化の崩壊を引き起こした原因とは、何ですか?", "id": "de-074-02-001", "answers": [ { "text": "『前1200年のカタストロフ』", "answer_start": 16, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『前1200年のカタストロフ』の影響としては、ヒッタイトと何の崩壊が挙げられているか?", "id": "de-074-02-002", "answers": [ { "text": "ミケーネ文化", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『前1200年のカタストロフ』により、衰退に向かわれたのは、どの国か?", "id": "de-074-02-003", "answers": [ { "text": "エジプト新王国", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『前1200年のカタストロフ』が到来したことにより、ミケーネでは巨石を使用した巨大な宮殿は姿を消し、金銀で作られた器、象牙細工など豊かさの尺度となるものも姿を消した。この後、ミケーネでは粗末な集落のみが存在しており、それまでに形成された陶器の技術も失われることになった。", "qas": [ { "question": "何の到来が、ミケーネにおいて、何かの制作に使われる材料の変更を引き起こしたの?", "id": "de-074-03-000", "answers": [ { "text": "『前1200年のカタストロフ』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ミケーネにおいて『前1200年のカタストロフ』の到来は、何が巨石の代わりに何かの制作材料として使われるきっかけとなりましたか?", "id": "de-074-03-001", "answers": [ { "text": "金銀", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ミケーネ文化における再分配システムの中心であった各地の宮殿は焼壊したことにより経済システムは崩壊、この再分配システムに使用されていた線文字Bも不要の長物と化し、物資の貯蔵に用いられていた大規模な建築物も消滅することになった。このカタストロフは様々な解釈が存在しておりギリシャ人の一派であるドーリア人の侵入によるもの、地震による崩壊などがあるが、中には暗黒時代の存在を疑問視する声もある。", "qas": [ { "question": "ミケーネ文化において各地の宮殿はどんな役割を果たしていたの?", "id": "de-074-04-000", "answers": [ { "text": "再分配システムの中心", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ミケーネ文化で経済システムの崩壊が起こったのは、何の役割を果たしていた物の消失が原因となりましたか?", "id": "de-074-04-001", "answers": [ { "text": "再分配システムの中心", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "再分配システムに使用されていたが不要の物とされた文字とは、何か?", "id": "de-074-04-002", "answers": [ { "text": "線文字B", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "線文字Bとともに消滅してしまったものとは、何に使われていた大規模な建築物であるか?", "id": "de-074-04-003", "answers": [ { "text": "物資の貯蔵", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ミケーネ文化の崩壊には人口の集中過剰、経済の衰退、飢餓、地震、技術の衰退などが考えられているが、現在主流であるのは海から到来してテッサリアを拠点とした略奪者の為に崩壊したとする説である。しかし、これも確定に至っておらず崩壊の原因については論争が続いている。", "qas": [ { "question": "現在ミケーネ文化の崩壊の有力な原因とされるのは、何なの?", "id": "de-074-05-000", "answers": [ { "text": "テッサリアを拠点とした略奪者", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ミケーネ文化の崩壊の原因としては、外部からの侵略、人口の集中過剰、経済の衰退、飢餓、地震と何が挙げられていますか?", "id": "de-074-05-001", "answers": [ { "text": "技術の衰退", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "現在ミケーネ文化の崩壊の有力な原因とされるのは、外部からの侵略であるが、その侵略とはどこを拠点としていた人々からのことを指すか?", "id": "de-074-05-002", "answers": [ { "text": "テッサリア", "answer_start": 64, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "人口の集中過剰、経済の衰退、飢餓、地震、技術の衰退、外部からの侵略は、すべて何の原因として挙げられているものであるか?", "id": "de-074-05-003", "answers": [ { "text": "ミケーネ文化の崩壊", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ドーリア人の侵入による説には紀元前13世紀末から始まる『海の民』による移動に伴い、ドーリア人がバルカン半島を南下してギリシャに至ってギリシャ本土南部、ペロポネソス半島、クレタ、小アジア南西部に定住したことによりミケーネ文化が崩壊、ミケーネ人がアテナイ、小アジアの中部へ移住したとしている。また、別の説ではギリシャ本土はドーリア人の侵入によるもので、小アジア西部ではフリュギア人と『海の民』の侵入があったとしている。", "qas": [ { "question": "この文書で紹介している二つの説の共通点は、どんな人々によるギリシャ本土侵入が問題だったと指摘していることなの?", "id": "de-074-06-000", "answers": [ { "text": "ドーリア人", "answer_start": 0, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書で紹介している二つの説の共通点は、ドーリア人とどのような人々の侵入を問題だったと指摘していることですか?", "id": "de-074-06-001", "answers": [ { "text": "海の民", "answer_start": 28, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書で紹介している二つの説の共通点は、ギリシャ本土とどこへの侵入について説明していることか?", "id": "de-074-06-002", "answers": [ { "text": "小アジア", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "海の民による移動は、いつから始まったと考えられるか?", "id": "de-074-06-003", "answers": [ { "text": "紀元前13世紀末", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この説は主に19世紀に主張されたものであり、古い文献ではドーリア人らの侵入はローマ帝国へ侵入したゲルマン民族のようにミケーネ文化へ浸透、ドーリア人らはアルゴリス、ラコニヤに定住したとされている。", "qas": [ { "question": "この文書で説明している説では、ドーリア人らのミケーネ文化への侵入を、どのような人々がローマ帝国へ侵入したことに比べているの?", "id": "de-074-07-000", "answers": [ { "text": "ゲルマン民族", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、何世紀に主張された説について説明していますか?", "id": "de-074-07-001", "answers": [ { "text": "19世紀", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドーリア人はどこへ侵入し、アルゴリス、ラコニヤに定住したか?", "id": "de-074-07-002", "answers": [ { "text": "ミケーネ文化", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書で説明している説では、ドーリア人をどのような人々と比較しているか?", "id": "de-074-07-003", "answers": [ { "text": "ゲルマン民族", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、古代ギリシャの文献によれば『ヘラクレスの子孫』であるドーリア人らが正統な継承者を主張して南下したとしており、ヘロドトスの『歴史』やトゥキディデスの『歴史』にも記載されている。そのため、過去にはドーリア人が侵入した事により鉄がギリシャに持ち込まれ器具や武器に革新がもたらされ、さらに土器の様式、葬制の変化(土葬から火葬へ、複葬から個葬へ)などが生まれたとされていた。", "qas": [ { "question": "古代ギリシャの文献とヘロドトスの『歴史』、トゥキディデスの『歴史』によると、ドーリア人らは誰の子孫であることを証拠に南下してきたの?", "id": "de-074-08-000", "answers": [ { "text": "ヘラクレス", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドーリア人らの南下理由がヘラクレスの子孫であることを挙げているのは、古代ギリシャの文献と、何と言う同一な表題を持った2冊の書籍でありますか?", "id": "de-074-08-001", "answers": [ { "text": "歴史", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "歴史という書籍を著した人物としてこの文書に挙げられているのは、ヘロドトスと誰か?", "id": "de-074-08-002", "answers": [ { "text": "トゥキディデス", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、ドーリア人のどのような行動の理由についての説を説明しているか?", "id": "de-074-08-003", "answers": [ { "text": "南下", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "エジプトのアマルナ文書によればシリアのビュブロス、テュロスは青銅器時代後期にエジプトと活発な交易を結んでいた。しかし、『前1200年のカタストロフ』によって最古のアルファベットを考案したウガリットは滅亡した。しかし、ビュブロスなどは早期に復活しており、旧約聖書によればテュロスは前10世紀にヒラム1世の元で復興しており、紅海やインド洋方面へ進出したとされており、北アフリカ地中海側沿岸部にも進出、カルタゴを建設している。", "qas": [ { "question": "アマルナ文書では、青銅器時代後期にエジプトと活発な交易を結んでいたのは、ビュブロスとどの都市だとしているの?", "id": "de-074-09-000", "answers": [ { "text": "テュロス", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アマルナ文書では、エジプトがビュブロス、テュロスと活発な交易を結んでいたのは、どの時代だとしていますか?", "id": "de-074-09-001", "answers": [ { "text": "青銅器時代後期", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "世界で初めてアルファベットを考案した国は、どの国か?", "id": "de-074-09-002", "answers": [ { "text": "ウガリット", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界で初めてアルファベットを考案した国は、何により滅びたか?", "id": "de-074-09-003", "answers": [ { "text": "『前1200年のカタストロフ』", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "特にテュロスはフェニキア人らの活動拠点となっており、前9世紀にはキプロスのキティオン(現在のラルナカ)に植民都市を築いたが、これはキプロスに植民していたギリシャ人らと交流を持つ事になった。その一例としてキティオンにはギリシャの女神アフロディティを祀っていた神殿があったが、これはフェニキア人の神アシュタルテ(ギリシャ神話のアフロディティに相当)を祀る神殿に転用された。", "qas": [ { "question": "フェニキア人らの活動拠点となったのは、どこなの?", "id": "de-074-10-000", "answers": [ { "text": "テュロス", "answer_start": 2, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キティオンに植民都市が築かれたのは、何世紀のことですか?", "id": "de-074-10-001", "answers": [ { "text": "前9世紀", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キティオンに植民都市を築いたのは、どのような人々か?", "id": "de-074-10-002", "answers": [ { "text": "フェニキア人", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キティオンに植民都市を築いたのは、どこを活動拠点としていた人々か?", "id": "de-074-10-003", "answers": [ { "text": "テュロス", "answer_start": 2, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このようにしてフェニキア人らが地中海に交易ルートを確立させると海外進出を再開しつつあったギリシャ人らは彼らと交流を持つ事になった。この交流の中でも最大の賜物がアルファベットの成立であった。アルファベットの成立の過程にはいくつもの説がある。商業活動のためとする説、ホメロスの叙情詩の流行と関係があるとする説、ホメロスの叙情詩を文字で固定するために発明されたとする説などがある。その過程は何にせよ、ホメロスの叙事詩、ヘシオドスの「仕事と日」などが文字化されることになる。", "qas": [ { "question": "フェニキア人らが地中海に交易ルートを確立させると、どんな人々との交流を持つようになったの?", "id": "de-074-11-000", "answers": [ { "text": "ギリシャ人", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フェニキア人とどのような人々の間で行われた交流が、アルファベットの成立という結果を生み出したか?", "id": "de-074-11-001", "answers": [ { "text": "ギリシャ人", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フェニキア人はどこに交易ルートを確立させたか?", "id": "de-074-11-002", "answers": [ { "text": "地中海", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "暗黒時代を通して受け継がれていたミケーネ文化の要素は前8世紀に至り、再び光明を受けることになる。それが英雄祭祀であった。この英雄祭祀はミケーネ時代のトロス墓、岩室墓で行なわれた祭祀であり、1920年代にアルゴス平野の岩室墓でカール・ブレーゲンが調査した結果、注目されることとなった。この英雄祭祀には様々な解釈が存在するがその中でもホメロスの叙事詩とこの英雄祭祀の関連性は古典的な学説として定着している。", "qas": [ { "question": "ミケーネ文化の要素が再び光明を受けたのは、いつのことなの?", "id": "de-074-12-000", "answers": [ { "text": "前8世紀", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前8世紀に光明を受けたミケーネ文化の要素とは、何か?", "id": "de-074-12-001", "answers": [ { "text": "英雄祭祀", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "英雄祭祀が注目されるようになったのは、誰のおかげか?", "id": "de-074-12-002", "answers": [ { "text": "カール・ブレーゲン", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "英雄祭祀が注目されるようになったのは、何年代以来のことか?", "id": "de-074-12-003", "answers": [ { "text": "1920年代", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "キリスト磔刑と最後の審判", "paragraphs": [ { "context": "『キリスト磔刑と最後の審判』は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1430年から1440年ごろに描いたとされる絵画だ。\n\n二枚のパネルから構成されるディプティクで、最終的な仕上げの多くが、後世の画家かファン・エイクの工房によってなされたと考えられている。この作品は初期フランドル派の画家たちが描いた板絵のなかでも傑作の一つとされており、稀に見る構成の複雑さ、詳細に表現された寓意、そして高い絵画技法によって高く評価されている。装飾写本の挿絵であるミニアチュールの制作手法で描かれており、パネルの大きさはそれぞれ56.5cm×19.7cmという小作品で、個人的な祈祷に使用する聖像として依頼、制作されたものだと考えられている。", "qas": [ { "question": "『キリスト磔刑と最後の審判』を描いたのは誰だとされていますか。", "id": "de-075-00-000", "answers": [ { "text": "ヤン・ファン・エイク", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『キリスト磔刑と最後の審判』の左翼に描かれているのはキリスト磔刑である。前景に嘆き悲しむキリストの弟子と親族たち、中景は兵士と処刑の見物人が群れを成し、そして画面上部には磔刑に処せられた三名の身体が描かれている。背景には青い空と彼方のエルサレムの町並みが見える。右翼に描かれているのは最後の審判である。画面下部に地獄の光景、中部には大天使ミカエルと死から甦って審判を待つ人々、そして上部には聖人、預言者、聖職者、聖母マリアらを従えた玉座のキリスト(en:ChristinMajesty)が描かれている。ほかに画面上には、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語で書かれた銘も記されている。完成当時のままの金で箔押しされたフレームには、『旧約聖書』の『イザヤ書』、『申命記』、『黙示録』からの文章が記されている。また、両パネルの裏面には、1867年にこのパネルはカンバスに移植されたという記述がロシア語で記されている。", "qas": [ { "question": "『キリスト磔刑と最後の審判』の左翼に描かれているのは何なの?", "id": "de-075-01-000", "answers": [ { "text": "キリスト磔刑", "answer_start": 1, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『キリスト磔刑と最後の審判』の右翼に描かれているのは何?", "id": "de-075-01-001", "answers": [ { "text": "最後の審判", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『キリスト磔刑と最後の審判』の画面下部には何が描かれているの?", "id": "de-075-01-002", "answers": [ { "text": "地獄の光景", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『キリスト磔刑と最後の審判』の両パネルの裏面に書いてある、1867年にこのパネルはカンバスに移植されたという記述はどんな言語で書いてあるか。", "id": "de-075-01-003", "answers": [ { "text": "ロシア語", "answer_start": 392, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『キリスト磔刑と最後の審判』に関する現存する記録は1841年が最古のもので、当時の研究者たちはこの作品のことを中央パネルが失われた三連祭壇画の両翼だと考えていた。その後、1933年にニューヨークのメトロポリタン美術館が『キリスト磔刑と最後の審判』を購入している。当時はヤン・ファン・エイクの兄フーベルト・ファン・エイクの作品だとみなされていた。これは、複数の画家の手による挿絵が収載されている装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』のうち、当時はフーベルトが描いたとされていた挿絵が、この作品によく似ていたことによる。現在では、その絵画技法と描かれている人物像がまとう衣服の表現から、美術史家のほとんどがヤン・ファン・エイクの後期、おそらくは1430年代から死去する1441年の間に描かれた作品だと見なしている。ただし、制作年については異説もあり、まだヤン・ファン・エイクが若く未熟な1420年代初めごろの作品であると主張する美術史家もいる。", "qas": [ { "question": "『キリスト磔刑と最後の審判』に関する現存する記録は何年のものが一番古いの?", "id": "de-075-02-000", "answers": [ { "text": "1841年", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1933年、どの美術館が『キリスト磔刑と最後の審判』を購入しましたか。", "id": "de-075-02-001", "answers": [ { "text": "メトロポリタン美術館", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤン・ファン・エイクの方が年が多い、フーベルト・ファン・エイクの方が年が多い?", "id": "de-075-02-002", "answers": [ { "text": "フーベルト・ファン・エイク", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヤン・ファン・エイクは何年に亡くなったの?", "id": "de-075-02-003", "answers": [ { "text": "1441年", "answer_start": 329, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ユグノー戦争", "paragraphs": [ { "context": "ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerresdereligion,1562年-1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。", "qas": [ { "question": "ユグノー戦争とは、40年もの間、フランスのカトリックと誰が戦った内戦のことであるの?", "id": "de-076-00-000", "answers": [ { "text": "プロテスタント", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユグノー戦争とは、どの国で起こった内戦のことですか?", "id": "de-076-00-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれた。ユグノーには貴族も加わり、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。", "qas": [ { "question": "ユグノー戦争と名付けられたのは、プロテスタントが誰からユグノーと呼ばれていたからか?", "id": "de-076-01-000", "answers": [ { "text": "カトリック", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァシーでユグノーを虐殺したのは、誰か?", "id": "de-076-01-001", "answers": [ { "text": "ギーズ公", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギーズ公がヴァシーでユグノーを虐殺したのは、何年のことか?", "id": "de-076-01-002", "answers": [ { "text": "1562年", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サン・バルテルミの虐殺が起こったのは、いつか?", "id": "de-076-01-003", "answers": [ { "text": "1572年8月24日", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ユグノー戦争は、宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いでもあった。加えて、この戦争はカトリックのスペイン王フェリペ2世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス1世との代理戦争の性格も有している。1589年にギーズ公アンリ、次いで国王アンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世が即位してブルボン朝が興った。パリではカトリックの勢力が強く、プロテスタントの王を認めなかったため、アンリ4世はカトリックに改宗している。一方でナントの勅令(1598年)を発して、プロテスタントに一定の制限の下ではあるが信仰の自由を認め、戦争は終結した。", "qas": [ { "question": "ユグノー戦争は、宗教上の対立のほか、どんな性格も持っていましたか?", "id": "de-076-02-000", "answers": [ { "text": "フランス貴族間の党派争い", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユグノー戦争は、スペイン王とどの国の王の理戦争の性格も持っていたの?", "id": "de-076-02-001", "answers": [ { "text": "イングランド", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギーズ公と国王は、両者とも、どの王朝の人だったか?", "id": "de-076-02-002", "answers": [ { "text": "ヴァロワ朝", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァロワ朝が断絶され、新たにフランス王国の国王となったのは、どの王朝の者か?", "id": "de-076-02-003", "answers": [ { "text": "ブルボン朝", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ルター思想は1520年代にフランスに伝わり、プロテスタントに対する政策は寛容と弾圧の間で揺れ動いていた。イタリア戦争の渦中にあったフランソワ1世(在位:1515年-1547年)は神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯の反乱を支援しており、フランス国内における信者に対して寛容であった。それ以上にルター派と宮廷内で人気のあった人文主義改革運動との区別が曖昧であり、また国王の姉ナバラ王妃マルグリットはルフェーヴル・デタープルなどの改革者たちを異端の嫌疑から庇護していた。だが、1534年に檄文事件が起こるとフランソワ1世はプロテスタントを脅威と感じ、彼らを弾圧し始める。", "qas": [ { "question": "ルター思想がフランスに伝わったのは、何年代のことなの?", "id": "de-076-03-000", "answers": [ { "text": "1520年代", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯の反乱を支援していたのは、誰ですか?", "id": "de-076-03-001", "answers": [ { "text": "フランソワ1世", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、ナバラ王妃であった人は、誰の姉であるか?", "id": "de-076-03-002", "answers": [ { "text": "フランソワ1世", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時、フランスは、どの戦争に参戦していたか?", "id": "de-076-03-003", "answers": [ { "text": "イタリア戦争", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アンリ2世の治世(1547年-1559年)でも迫害は断続的に続き、治世の終わり頃に異端審問のための新たな法廷が作られ、これはプロテスタントからは火刑法廷(lachambreardente)と呼ばれた。これはこの時期にカルヴァン派がルター派を凌いでフランス国内におけるプロテスタントの主流になり、急速に数を増やしたことの反動と見られる。フランス生まれのジャン・カルヴァンによって作られたカルヴァン主義は、社会階層や職業の違いなく人々を惹きつけ、更には地域差なく広範囲に広まっていた。", "qas": [ { "question": "プロテスタントから火刑法廷と呼ばれた法廷とは、誰の時代に作られたものなの?", "id": "de-076-04-000", "answers": [ { "text": "アンリ2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アンリ2世の時代に、ルター派を凌いでフランス国内におけるプロテスタントの主流になった派とは、誰が作った主義を根幹にしていましたか?", "id": "de-076-04-001", "answers": [ { "text": "ジャン・カルヴァン", "answer_start": 175, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カルヴァン派がルター派を凌いでフランス国内におけるプロテスタントの主流になったのは、誰の時代のことか?", "id": "de-076-04-002", "answers": [ { "text": "アンリ2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジャン・カルヴァンは、どの国出身の者か?", "id": "de-076-04-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 167, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1559年、66のカルヴァン派信徒団の代表が秘密裏にパリに集まって第1回全国教会会議を催し、信仰告白と教会規則を作成した。1560年時点で、カルヴァン派はフランス総人口1800万人の約10%と推定されている。", "qas": [ { "question": "第1回全国教会会議が行われたのは、何年のこと?", "id": "de-076-05-000", "answers": [ { "text": "1559年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第1回全国教会会議は、どこで行われましたか?", "id": "de-076-05-001", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1560年時点で、カルヴァン派はフランス総人口の何%まで至るほどの勢力であったか?", "id": "de-076-05-002", "answers": [ { "text": "約10%", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1559年の第1回全国教会会議では、信仰告白と何を作成したか??", "id": "de-076-05-003", "answers": [ { "text": "教会規則", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1559年のアンリ2世の突発的な事故死は政治的空白を作り出し、フランソワ2世の妃であるスコットランド女王メアリーの母方の親族であるギーズ家が実権を握った。キーズ公フランソワはカレーをイングランドから奪回した英雄であり、その弟のロレーヌ枢機卿はフランス・カトリック教会の首長で、いずれも熱狂的なカトリックだった。一方のプロテスタントはブルボン家当主のナバラ王アントワーヌを盟主に戴いていたが、熱狂的プロテスタントの妻ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレ(ナバラ王妃マルグリットの娘)に主導権を取られる頼りない人物で(戦争中は寝返ってカトリックに改宗している)、後に弟のコンデ公ルイがプロテスタントの中心となる。", "qas": [ { "question": "アンリ2世死んだのは、何年のこと?", "id": "de-076-06-000", "answers": [ { "text": "1559年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンリ2世死んだら、王国の実権を握ったのは、どの家ですか?", "id": "de-076-06-001", "answers": [ { "text": "ギーズ家", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "キーズ公フランソワの業績としては、イングランドからどこを奪回したことが挙げられるか?", "id": "de-076-06-002", "answers": [ { "text": "カレー", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のフランス・カトリック教会の首長の兄は、誰か?", "id": "de-076-06-003", "answers": [ { "text": "キーズ公フランソワ", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1560年3月、プロテスタント貴族ラ・ルノーディを中心とする不平貴族たちがフランソワ2世を誘拐してギーズ家を除こうと謀った。だが陰謀は露見し、数百人の容疑者たちが処刑されてしまう。ギーズ兄弟はブルボン家のコンデ公ルイが黒幕であると疑った。コンデ公は11月に逮捕された。このことにより対立は一層深まった(アンボワーズの陰謀)。", "qas": [ { "question": "ルイが逮捕されたのは、何年11月のことなの?", "id": "de-076-07-000", "answers": [ { "text": "1560年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1560年3月、誰を中心とする不平貴族たちがギーズ家を除くための陰謀を謀っていましたか?", "id": "de-076-07-001", "answers": [ { "text": "ラ・ルノーディ", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギーズ兄弟が、ラ・ルノーディを中心とする不平貴族たちが企てた陰謀の黒幕だと疑い、逮捕したのは、誰か?", "id": "de-076-07-002", "answers": [ { "text": "コンデ公ルイ", "answer_start": 102, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラ・ルノーディを中心とする不平貴族たちは、誰を誘拐し、ギーズ家を除こうと謀ったか?", "id": "de-076-07-003", "answers": [ { "text": "フランソワ2世", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ユグノーによるカトリック教会に対する最初の聖像破壊が1560年にルーアンとラ・ロシェルで発生し、翌年には20の都市に広まった。これに激怒したカトリックの都市住民による流血の報復がサンス、カオール、カルカソンヌ、トゥールその他の都市で行われた。王太后カトリーヌ・ド・メディシスはフォンテーヌブロー諮問会議を召集してカトリックとプロテスタントの融和を図るが、ギーズ家は異端絶滅を計画していた。", "qas": [ { "question": "ユグノーによるカトリック教会に対する最初の聖像破壊は、何年に発生したの?", "id": "de-076-08-000", "answers": [ { "text": "1560年", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユグノーによるカトリック教会に対する最初の聖像破壊は、ルーアンとどこで発生しましたか?", "id": "de-076-08-001", "answers": [ { "text": "ラ・ロシェル", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フォンテーヌブロー諮問会議を召集し、カトリックとプロテスタントの融和を図ったのは、誰か?", "id": "de-076-08-002", "answers": [ { "text": "カトリーヌ・ド・メディシス", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギーズ家がユグノーに対し、異端絶滅を計画していたことから見ると、ギーズ家は、この対立でどちら側の人々であることがわかるか?", "id": "de-076-08-003", "answers": [ { "text": "カトリック", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1560年12月、フランソワ2世が死去し、弟のシャルル9世が即位した。王太后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる。経験不足とヴァロワ・ハプスブルク戦争の借財のため、カトリーヌは強力な私軍を有する貴族たちの激しく対立した利害関係を慎重に舵取りをせねばならないと感じた。彼女は敬虔なカトリックであったが、強大なギーズ家を牽制するために、ユグノーの盟主であるブルボン家を優遇してナバラ王アントワーヌを国王総代官(Lelieutenant-général)となし、コンデ公ルイに特赦を与えた。また、彼女は協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用した。ロピタルは市民の平和のための幾つかの手段を提案し、神聖会議による宗教的解決を主張していた。", "qas": [ { "question": "フランソワ2世の後を継ぎ、即位したのは、誰なの?", "id": "de-076-09-000", "answers": [ { "text": "シャルル9世", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャルル9世が即位したとはいえ、実権を握っていたのは、誰ですか?", "id": "de-076-09-001", "answers": [ { "text": "カトリーヌ・ド・メディシス", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カトリーヌ・ド・メディシスは、ギーズ家とブルボン家のうち、どちらと親密な関係を築こうとしたか?", "id": "de-076-09-002", "answers": [ { "text": "ブルボン家", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アントワーヌは、どの家の者か?", "id": "de-076-09-003", "answers": [ { "text": "ブルボン家", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1561年1月に摂政カトリーヌはオルレアン寛容勅令を出すが、これに反発したギーズ公フランソワがアンヌ・ド・モンモランシー、ジャック・ド・サンタンドレと三頭政治を結成して反動政策に乗り出す。", "qas": [ { "question": "オルレアン寛容勅令が発布されたのは、いつのことなの?", "id": "de-076-10-000", "answers": [ { "text": "1561年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カトリーヌのオルレアン寛容勅令発布に反発し、三頭政治を結成したのは、誰ですか?", "id": "de-076-10-001", "answers": [ { "text": "フランソワ", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1562年の初めに摂政政府は、宮廷内の党派争いに扇動された地方の無秩序を抑えるべく、サン・ジェルマン勅令(1月勅令)を発した。勅令は反乱を回避するためにユグノーに譲歩をし、城壁外および屋内での礼拝を容認していた。だが、3月1日、シャンパーニュのヴァシーでギーズ家の郎党が礼拝をしていたカルヴァン派を襲撃し、虐殺する事件が発生してしまう(ヴァシーの虐殺)。ユグノーのジャン・ド・フォンテーヌは次のように述べている。", "qas": [ { "question": "サン・ジェルマン勅令とは、何年に発布されたものであるか?", "id": "de-076-11-000", "answers": [ { "text": "1562年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シャンパーニュのヴァシーでギーズ家の郎党により、礼拝中のカルヴァン派が襲撃・虐殺されたのは、いつのことか?", "id": "de-076-11-001", "answers": [ { "text": "3月1日", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヴァシーの虐殺は2つの宗派間の抗争を引き起こすことになった。ブルボン家のコンデ公ルイは「悪」の大臣たちから王と摂政を解放すると宣言し、プロテスタント教会を組織化してロワール川沿いの町々を占拠し、軍隊を駐留させた。実際にはユグノーたちはヴァシー事件以前から動員を開始していたが、コンデ公ルイは虐殺を勅命が破られた証拠であるとし、彼の軍事行動の大義名分に用いた。そして、戦闘が起こると実際にこの勅命は、ギーズ家の圧力によって取り消された。ユグノーはイングランド女王エリザベス1世とハンプトン・コート条約を結び、援助の見返りにル・アーヴル、ディエップ、ルーアンを引き渡す約束をする。これに従い、イングランド軍がル・アーヴルに上陸した。", "qas": [ { "question": "ここで説明している2つの宗派間の抗争とは、ブルボン家とどの家を中心に行われたものであるの?", "id": "de-076-12-000", "answers": [ { "text": "ギーズ家", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハンプトン・コート条約は、ユグノーとどの国の間で締結されたものでありますか?", "id": "de-076-12-001", "answers": [ { "text": "イングランド", "answer_start": 222, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ユグノーはイングランドから軍事的支援を受ける代わりに、ル・アーヴル、ディエップとどこをイングランドに引き渡すことを約束したか?", "id": "de-076-12-002", "answers": [ { "text": "ルーアン", "answer_start": 273, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハンプトン・コート条約の締結により、イングランド軍はどこに上陸したか?", "id": "de-076-12-003", "answers": [ { "text": "ル・アーヴル", "answer_start": 302, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "主な戦いはルーアンとドルー、そしてオルレアンで起こっている。ルーアン包囲戦(1562年5月-10月)では国王軍が町を奪回したものの、ナバラ王アントワーヌが戦死した。ドルーの戦い(1562年12月)ではコンデ公ルイがギーズ家の捕虜になったが、ブルボン家も敵の司令官アンヌ・ド・モンモランシーを捕らえている。1563年2月のオルレアン包囲戦において、ギーズ公フランソワがユグノーのポルトロ・ド・メレに銃撃され、その傷が元で死亡した。ギーズ家は暗殺は敵対者のコリニー提督の差し金であると信じた。暗殺によって引き起こされた暴動とオルレアンが陥落しないため、カトリーヌが和平調停を行い、アンボワーズ勅令が発せられた。", "qas": [ { "question": "主に戦場となったのは、ルーアン、ドルーとどこなの?", "id": "de-076-13-000", "answers": [ { "text": "オルレアン", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナバラ王アントワーヌは、どの戦闘において戦死しましたか?", "id": "de-076-13-001", "answers": [ { "text": "ルーアン包囲戦", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コンデ公ルイとアンヌ・ド・モンモランシーのうち、ギーズ家側に立っていたのは、誰か?", "id": "de-076-13-002", "answers": [ { "text": "アンヌ・ド・モンモランシー", "answer_start": 131, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルーアン包囲戦とオルレアン包囲戦のうち、より早く起きた戦闘は、どちらか?", "id": "de-076-13-003", "answers": [ { "text": "ルーアン包囲戦", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "谷田部(つくば市)", "paragraphs": [ { "context": "谷田部(やたべ)は、茨城県つくば市の大字だ。\n旧筑波郡内町村、新町村、台町村。\n郵便番号は305-0861だ。\n「行政区別人口統計表」による2017年5月1日現在の人口は6,945人、2010年10月1日現在の面積は5.608348km2だ。", "qas": [ { "question": "谷田部の郵便番号は何?", "id": "de-077-00-000", "answers": [ { "text": "305-0861", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "谷田部の2017年5月1日時点での人口は何人だったの?", "id": "de-077-00-001", "answers": [ { "text": "6,945人", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "谷田部の2010年10月1日時点での面積はどれくらいだったの?", "id": "de-077-00-002", "answers": [ { "text": "5.608348km2", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "谷田部は何県に所在しているの?", "id": "de-077-00-003", "answers": [ { "text": "茨城県", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸時代には陣屋町として栄え、商業の中心地、交通の結節点としてにぎわった。\nしかし2010年代現在の谷田部は、交通量こそ多いもののシャッターを下ろした店舗が多く、若手の商店主らを中心とした「谷田部タウンネット」が活性化に向けた取り組みを行っている。", "qas": [ { "question": "谷田部は江戸時代にはどのような町として繁栄していたの?", "id": "de-077-01-000", "answers": [ { "text": "陣屋町", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "谷田部の活性化に取り組んでいる組織とは何?", "id": "de-077-01-001", "answers": [ { "text": "「谷田部タウンネット」", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "谷田川(東谷田川)下流の筑波台地(筑波・稲敷台地)から西谷田川中流の低地にかけて広がる地域である。\n筑波研究学園都市建設前からの旧谷田部町の中心市街地である。\n谷田部の中心部は商業地域で、住宅地が取り囲んでいるが、農地も残され、平坦な農村地帯を成す。\n周囲を田に囲まれていたことから、近代には「タニシ町」と呼ばれていた。\n内町、新町、西町、不動町、二の丸など複数の集落から構成されている。", "qas": [ { "question": "谷田部の近代での呼び名は何でしたか?", "id": "de-077-02-000", "answers": [ { "text": "「タニシ町」", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "旧谷田部町の中心市街地がどこだったの?", "id": "de-077-02-001", "answers": [ { "text": "谷田部", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "谷田川の下流地域には何台地がありますか?", "id": "de-077-02-002", "answers": [ { "text": "筑波台地", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "北は島名・大白硲(おおじらはざま)・小白硲(こじらはざま)、東は上横場・台町・観音台・羽成(はなれ)、南は東丸山・房内(ぼうち)・緑が丘・境松、西は境田・飯田・中野・下萱丸・上萱丸・陣場と接する。\n谷田部本体の北西に「みずほ団地」の飛地があり、東と南は陣場、西は真瀬、北は島名と接する他、南端の西にも飛地がある。\n谷田部の中心街には陣屋町の名残である間口が狭く奥行きが長い地割、遠見遮断の目的で造られたクランクのある道路がみられる。", "qas": [ { "question": "谷田部本体の北西にある飛び地は何ですか?", "id": "de-077-03-000", "answers": [ { "text": "「みずほ団地」", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "谷田部本体と接している町が最も多いのは東西南北のうちどの方角ですか?", "id": "de-077-03-001", "answers": [ { "text": "南", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "谷田部本体と接している町が最も少ないのは東西南北のうちどの方角ですか?", "id": "de-077-03-002", "answers": [ { "text": "北", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "市立小・中学校に通う場合、谷田部の学区は以下の通りとなる。\n谷田部小学校・谷田部中学校は谷田部地区にある。\n住宅地の地価は、2017年(平成29年)1月1日の公示地価によれば、谷田部字ダイ町6286番1外の地点で2万8100円/m2となっている。", "qas": [ { "question": "谷田部地区にある小学校の名前は何?", "id": "de-077-04-000", "answers": [ { "text": "谷田部小学校", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "谷田部地区にある中学校の名前は何?", "id": "de-077-04-001", "answers": [ { "text": "谷田部中学校", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2017年1月1日当時の谷田部字ダイ町6286番1外の地価はいくらでしたか?", "id": "de-077-04-002", "answers": [ { "text": "2万8100円/m2", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "谷田部は古くから開けた地域であり、縄文時代の遺跡や古墳が多く発見されている。\n福田坪では数多くの縄文時代の集落跡の遺跡が見つかっており、縄文土器や石斧・石鏃などの石器、土師器が出土している。\n平安時代には『和名抄』に記録のある常陸国河内郡7郷の1つ「八部郷」の一部であり、八部郷は仁徳天皇妃の八田若郎女のために設置された名代だったとされる。\n現在の谷田部は八部郷の中心地であったと言われている。", "qas": [ { "question": "谷田部の中で縄文時代の集落跡や土器が多数見つかっている地域はどこ?", "id": "de-077-05-000", "answers": [ { "text": "福田坪", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『和名抄』はいつ作られた書物ですか?", "id": "de-077-05-001", "answers": [ { "text": "平安時代", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「八部郷」は誰のために設置された名代だったの?", "id": "de-077-05-002", "answers": [ { "text": "八田若郎女", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "戦国時代には田中荘の一部として「やたへ」が登場し、『上杉氏文書』によれば永禄年間(1558年-1570年)には小田氏の盟友・岡見氏の拠点であった。\nそのため、小田氏と敵対した佐竹氏や多賀谷氏によって谷田部侵攻がたびたび行われ、谷田部城をめぐる攻防が繰り返された。\n元亀元年(1563年)、ついに岡見氏の谷田部城は多賀谷政経によって落城、多賀谷氏が慶長6年(1601年)に改易となるまで下妻城主の多賀谷氏配下となった。\n文禄3年(1594年)、太閤検地が実施されたのをきっかけに、筑波郡へ組み込まれた。", "qas": [ { "question": "戦国時代に谷田部を拠点としていたのは誰なの?", "id": "de-077-06-000", "answers": [ { "text": "岡見氏", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "岡見氏の次に谷田部を治めた人は誰?", "id": "de-077-06-001", "answers": [ { "text": "多賀谷政経", "answer_start": 156, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "多賀谷氏は西暦何年まで谷田部を支配していたの?", "id": "de-077-06-002", "answers": [ { "text": "1601年", "answer_start": 178, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "太閤検地が始まったのは西暦何年でしたか?", "id": "de-077-06-003", "answers": [ { "text": "1594年", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "江戸時代には常陸国筑波郡に属し、肥後国熊本の細川氏の分家が谷田部藩を立てて、谷田部陣屋を構え、城下町(陣屋町)を成し、繁栄した。\n城下町は台町村、新町村、内町村の3村に分かれ、内町村が城下の中心であった。\n台町が北・東方向からの道路の集約点、西町が南・西方向からの道路の集約点として機能し、両者を結ぶ街路沿いに内町があった。\n谷田部陣屋は中世の谷田部城とは異なる位置、具体的には谷田部城跡の北の集落に続く低地の明超寺のあったところに築かれた。", "qas": [ { "question": "城下の中心だった村はどこ?", "id": "de-077-07-000", "answers": [ { "text": "内町村", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "明超寺のあったところに何が築かれたの?", "id": "de-077-07-001", "answers": [ { "text": "谷田部陣屋", "answer_start": 163, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "江戸時代に谷田部はどこに属していたの?", "id": "de-077-07-002", "answers": [ { "text": "常陸国筑波郡", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "細川氏は道路整備や不動松並木の植樹、寺院の建立など城下町としての体裁を整えようとしたが、城下町は家臣が75人しかいないため流通・消費の拠点としての発達はなく、藩命で嘉永4年(1851年)から始めた定期市も大して繁盛しなかった。\n近在の宿場町・真瀬村の賑わいには及ばなかったことから、「真瀬のようなる在所があるに、谷田部城下とは気が強い」、「谷田部も城下か、タニシも魚か」と揶揄(やゆ)された。\n小さな城下町ではあったが、民間からは蘭学や絵画で才を発揮した谷田部藩医の広瀬周度(ひろせしゅうたく)や、からくり人形などを発明した名主の飯塚伊賀七という偉大な人物が現れ、不動松並木と合わせて「谷田部に過ぎたるもの三つあり」と言われた。\n飯塚伊賀七の代表作の1つである五角形の建築物「五角堂」が現代に残されている。", "qas": [ { "question": "飯塚伊賀七以外の谷田部の偉人とは誰?", "id": "de-077-08-000", "answers": [ { "text": "広瀬周度", "answer_start": 233, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「五角堂」の設計者は誰?", "id": "de-077-08-001", "answers": [ { "text": "飯塚伊賀七", "answer_start": 315, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飯塚伊賀七の代表作である五角形の建築物とは何?", "id": "de-077-08-002", "answers": [ { "text": "「五角堂」", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "広瀬周度の職業は何でしたか?", "id": "de-077-08-003", "answers": [ { "text": "藩医", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "陣屋は中世に存在した谷田部城とは異なり、東西を谷田川・西谷田川に挟まれた地に置かれ、寛文11年(1671年)には陣屋拡張のために明超寺を移転させた。\n寛政6年(1794年)には文館・武館の2つからなる藩校「弘道館」を設けた谷田部陣屋は、幕末には約120坪(約397m2)の大きさであったとされる。\n藩政は5回もの江戸藩邸の焼失などにより火の車となっており、土地生産性の低い藩領から厳しい年貢を取り立てて農村を荒廃させていた。\nその後、改革に成功した細川氏本家の熊本藩より奥方を迎え、二宮尊徳より指導を受けるなどして、幕末には財政を好転させた。", "qas": [ { "question": "「弘道館」は西暦何年につくられましたか?", "id": "de-077-09-000", "answers": [ { "text": "1794年", "answer_start": 80, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "谷田部藩は誰の指導のおかげで財政を好転させることができましたか?", "id": "de-077-09-001", "answers": [ { "text": "二宮尊徳", "answer_start": 241, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "江戸藩邸は何回の消失に見舞われましたか?", "id": "de-077-09-002", "answers": [ { "text": "5回", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治時代になると、内町村・新町村・台町村が合併し、谷田部町となる。\n陣屋は明治2年(1869年)に谷田部から下野国茂木(現在の栃木県芳賀郡茂木町)に移され、明治4年(1871年)には藩名が茂木藩に改められた。\n近代化も進み、1874年(明治7年)に谷田部郵便局、1875年(明治8年)に谷田部小学校、1876年(明治9年)に谷田部警察出張所(谷田部警察署→筑波学園警察署→つくば中央警察署→つくば北警察署と統合し、現在はつくば警察署)、1878年(明治11年)に筑波郡役所、1887年(明治20年)に土浦区裁判所谷田部出張所、1896年(明治29年)に谷田部税務署が相次いで開設された。\n明治の大合併では周辺13村と合併して新しい谷田部町が発足、谷田部は同町の大字となり、町役場が設置されるなど中心地となった。", "qas": [ { "question": "谷田部小学校と谷田部郵便局はどちらが先に出来ましたか?", "id": "de-077-10-000", "answers": [ { "text": "谷田部郵便局", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "筑波郡役所、谷田部税務署、谷田部警察出張所の中で最後に開設されたのはどれですか?", "id": "de-077-10-001", "answers": [ { "text": "谷田部税務署", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "谷田部郵便局、筑波郡役所、谷田部小学校の中で2番目に早く開設されたものはどれ?", "id": "de-077-10-002", "answers": [ { "text": "谷田部小学校", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "谷田部警察出張所の現在の名称は何ですか?", "id": "de-077-10-003", "answers": [ { "text": "つくば警察署", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1890年(明治23年)には新治郡土浦町(現在の土浦市中心部)と水海道町(現在の常総市中心部)を結ぶ「谷田部街道」が開通、1891年(明治24年)には五十銀行が谷田部支店を設置、1923年(大正12年)には現在の茨城県立つくば工科高等学校の前身である谷田部女子農業補習学校が開校するなど、筑波郡の中心としての機能を強めた。\n常南電気鉄道が土浦と水海道を結ぶ鉄道の建設を計画し、谷田部でも一部線路を建設するための土手が完成していたが、開通には至らなかった。\n1938年(昭和13年)には集中豪雨による谷田川の氾濫で大きな被害が発生するが、翌1939年(昭和14年)には谷田部町内に谷田部海軍航空隊が開隊したことで、休日には軍人が谷田部に来るようになり、商店街は賑わった。\n谷田部には舞妓や芸者のいる旅館、映画館、料亭、雑貨店、薬局などがあり、賑いは戦後しばらくまで続いた。\nこのうち、映画館「玉川館」を運営していた和菓子店の玉川堂は2014年現在も大福などの販売を続けている。", "qas": [ { "question": "「谷田部街道」は水海道町とどの町をつなげる街道でしたか?", "id": "de-077-11-000", "answers": [ { "text": "新治郡土浦町", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "谷田部女子農業補習学校は後に何になりましたか?", "id": "de-077-11-001", "answers": [ { "text": "茨城県立つくば工科高等学校", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "谷田部海軍航空隊が開隊したのは和暦で何年でしたか?", "id": "de-077-11-002", "answers": [ { "text": "昭和14年", "answer_start": 275, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦後は新制中学校である谷田部町立谷田部中学校が1951年に開校、1964年に現在地へ移転した。\n佐藤栄作政権が進めた筑波研究学園都市の建設によって、1970年以降は商工業が活性化し、道路整備や住宅・団地・工場の建設も進み、1975年に新しい谷田部町役場が完成した。\n同年の商店数は92軒を数えた。\n1973年には一部が稲敷郡茎崎村に編入され(現:池の台の一部)、1974年・1977年・1980年には一部が観音台へ、1974年・1977年に高野台へ、1978年に緑が丘へ分割された。\n安定成長期の1984年には、郊外に常磐自動車道谷田部インターチェンジが開設され、谷田部陣屋跡を中心とする谷田部地区への道路アクセスも好転した。", "qas": [ { "question": "1975年の商店数は何軒でしたか?", "id": "de-077-12-000", "answers": [ { "text": "92軒", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "筑波研究学園都市の建設を進めた人は誰でしたか?", "id": "de-077-12-001", "answers": [ { "text": "佐藤栄作", "answer_start": 54, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "谷田部の一部が観音台へ分割された最初の年は何年でしたか?", "id": "de-077-12-002", "answers": [ { "text": "1974年", "answer_start": 187, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "谷田部の一部が観音台へ分割された3度目の年は何年でしたか?", "id": "de-077-12-003", "answers": [ { "text": "1980年", "answer_start": 199, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1987年のつくば市発足後に、町役場は対外的につくば市役所本庁舎(谷田部庁舎)となったが、市役所の機能は合併前の旧町村役場に振り分けられた。\nつくば市成立以後は、つくば市の中心市街地はつくば駅やつくばセンターのある吾妻・竹園へ移り、葛城地区(研究学園など)で副都心の開発も始まり、谷田部の中心地としての機能は低下した。\n2010年5月6日にはつくば市役所が研究学園(旧谷田部町)へ移り、つくば市役所谷田部庁舎は廃止され、新たにつくば市役所谷田部窓口センターが設置された。\n同年8月2日にはつくば市商工会がつくば市の大穂庁舎(つくば市筑穂)へ移転、翌2011年3月31日には同会谷田部支所が他の支所ともに廃止された。", "qas": [ { "question": "つくば市役所谷田部庁舎が廃止されたのは何年でしたか?", "id": "de-077-13-000", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 160, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2011年3月11日に発生した東日本大震災では、市民ホールやたべが地盤沈下し、入居していた谷田部窓口センターが機能しなくなるなど、谷田部でも大きな被害が出た。\nその後、窓口センターは同年7月1日に谷田部交流センター3階に移転、仮復旧した。\n市民ホールやたべ及び谷田部総合体育館の被災による使用不能は、市役所や商工会の移転、大型店の台頭によって減少傾向にあった、谷田部の商店街の来客数を更に減少させることとなった。\n2014年時点の商店数は33軒で、シャッターを下ろした店舗が目立ち、空き地や空き家も多くなっている。\nこれに対してクリスマスイルミネーションの実施(2004年-)、商店主らによる「谷田部タウンネット」の設立(2009年)、谷田部伊賀七音楽祭」の開催(2012年・2013年)などの活性化に向けた活動が展開されている。\n2012年6月1日、谷田部の一部と隣接する上横場の一部より、台町一丁目から三丁目を新設した。\n「谷田部」は、低地に開かれた田を意味する「谷津田」(やつだ)に由来する。", "qas": [ { "question": "2014年時点の谷田部の商店数は何軒でしたか?", "id": "de-077-14-000", "answers": [ { "text": "33軒", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クリスマスイルミネーションは何年から始まりましたか?", "id": "de-077-14-001", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 281, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「谷田部」とは何を由来としているの?", "id": "de-077-14-002", "answers": [ { "text": "「谷津田」", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "谷田部はバス路線網の結節点であり、土浦・常総・牛久・取手の各市と結ばれている。\n1970年頃まで谷田部は土浦や水海道(現:常総市)へ向かうバスの乗り換え地点としての役割を担っており、乗り換え客が時間待ちに谷田部の飲食店やパチンコ店などを利用していたという。\n「谷田部四ツ角」交差点は谷田部町の道路元標のある重要交差点である。\n中心部は陣屋町時代から続くクランクのある道路が東西を貫き、交通量の多さに対して歩道が狭く、歩行者数は少ない。", "qas": [ { "question": "谷田部町の重要な交差点とは何?", "id": "de-077-15-000", "answers": [ { "text": "「谷田部四ツ角」", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "鐘声山寿光院道林寺は西町にある浄土宗の寺院だ。\n現今のつくば市房内に元はあったが、細川氏の菩提寺となったため、谷田部へ移転した。\n藩医の広瀬周伯や発明家の飯塚伊賀七の墓もある。\n仁王門は、享保12年(1727年)に細川氏の寄進によって完成。\n帰命山無量院長徳寺は建治年間(1275年-1278年)創建と伝わる時宗寺院。\n高光山明超寺は徳治2年(1307年)創建とされる浄土真宗大谷派の寺院。\n寛文11年(1671年)に陣屋拡張のため、新町に移された。\n八坂神社は素戔嗚尊を祭神とする江戸時代創建の神社。\n旧社格は村社で、例祭は5月8日だ。\n戦後、谷田部海軍航空隊基地内にあった「航空神社」の焼却を恐れた住民によって一時的に境内に「谷田部神社」が遷座していた。\n谷田部神社は農林研究団地建設が一段落したところで、つくば市上横場の農場集落に移された。\n八幡神社は応神天皇を祭神とする江戸時代創建の神社。", "qas": [ { "question": "広瀬周伯と飯塚伊賀七の墓があるお寺は何ですか?", "id": "de-077-16-000", "answers": [ { "text": "鐘声山寿光院道林寺", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "八坂神社の例祭はいつ行われるの?", "id": "de-077-16-001", "answers": [ { "text": "5月8日", "answer_start": 263, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ネフェルティティの胸像", "paragraphs": [ { "context": "『ネフェルティティの胸像』は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオだったアメンホテプ4世の正妃ネフェルティティをモデルとした彩色石灰岩彫刻である。古代エジプトの芸術作品のうちで多く模倣された作品の一つで、ネフェルティティは女性美の象徴としてもっとも有名な古代の女性のひとりとなった。この胸像は古代エジプトの彫刻家トトメスが紀元前1345年に制作したものとされている。\n\nネフェルティティ(「美しい人の訪れ」を意味する)は、紀元前14世紀の古代エジプトのファラオだったアメンホテプ4世の正妃である。アメンホテプ4世は太陽円盤アテンを唯一神とする新しい一神教を始めた。ネフェルティティについてはほとんど分かっておらず、異国の王女だったという説と、エジプト王家の一人で後にツタンカーメンの後を襲ってファラオになるアイの娘という説がある。ネフェルティティは紀元前1352年から1336年にファラオとして在位したアメンホテプ4世とともにエジプトを統治し、アメンホテプ4世との間に6人の娘を儲けた。そのうちの一人が後にツタンカーメンと結婚して王妃になるアンケセナーメンである。ネフェルティティの記録はアメンホテプ4世の治世中13年で消えている。これがネフェルティティの死によるものか、あるいは改名しており、その名前が現在に伝わっていないだけなのかは分からない。アメンホテプ4世の死後、ネフェルティティが短期間ではあるが王座を継いてエジプトを統治したという説もある。", "qas": [ { "question": "ネフェルティティは誰の王妃なの?", "id": "de-078-00-000", "answers": [ { "text": "アメンホテプ4世", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エジプト新王国時代の第18王朝のファラオは誰でしたか。", "id": "de-078-00-001", "answers": [ { "text": "アメンホテプ4世", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ネフェルティティの胸像』を制作した人は誰だとされているか。", "id": "de-078-00-002", "answers": [ { "text": "トトメス", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメンホテプ4世とネフェルティティの間には、何人の娘がありましたか。", "id": "de-078-00-003", "answers": [ { "text": "6人", "answer_start": 436, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ネフェルティティの胸像はユダヤ系ドイツ人考古学者ルートヴィヒ・ボルヒャルト率いるドイツ・オリエント協会(DeutscheOrient-Gesellschaft、DOG)によって、1912年12月6日にナイル川河畔のアマルナで発掘された。彫刻家トトメスの工房跡で発見され、そこからは他の未完成のネフェルティティの胸像が数点発見されている。ボルヒャルトの日記には出土品のことが「我々は突然とても生き生きとしたエジプトの美術品を手に入れた。とても言葉に出来ず、実際に見るほかない」と書かれている。\n\nDOGの記録から発見された1924年の文書に、1913年1月20日にボルヒャルトとエジプト政府職員とで、1912年に出土した考古学的遺物のドイツとエジプト間の分配について会合が持たれたことが記述されている。その会合に出席し、この文書の記述者でもあった書記官によるとボルヒャルトは「自分たちが胸像を手に入れたい」と考え、そしてボルヒャルト自身は否定したが、胸像の本当の価値を秘密にしていた疑いがもたれている。\n\nこの「見事な腕前」に対して作家フィリップ・ファンデンベルクは「大胆で想像を絶するやり方」と非難し、タイム誌は「略奪された美術品トップ10」にこの胸像をあげた。ボルヒャルトは「ネフェルティティの美しさを写し出していない」胸像の写真をエジプト政府職員に見せた。エジプト側の主席古美術品調査官ギュスターヴ・ルフェーヴルが調査に訪れたときに、この彫像は梱包されて箱に詰められていたのである。さらにこの文書にはボルヒャルトがエジプト政府職員にこの胸像が石膏像であると誤解するように仕向けたことも暴露している。DOGは胸像は交換リストの最初に記載されていたことをあげて、調査官の怠慢であり、取引は公正に行われたと主張している。", "qas": [ { "question": "ネフェルティティの胸像はいつ発見されたの?", "id": "de-078-01-000", "answers": [ { "text": "1912年12月6日", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「見事な腕前」に対して「大胆で想像を絶するやり方」と非難したのは誰?", "id": "de-078-01-001", "answers": [ { "text": "フィリップ・ファンデンベルク", "answer_start": 467, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ネフェルティティの胸像』はベルリンに運ばれ、ユダヤ系ドイツ人の実業家でアマルナ発掘の後援者でもあったジェームズ・ジーモンに寄贈された1913年以来ドイツにある。1913年にはジーモンの邸宅に飾られており、その後ほかのアマルナからの出土品とともにベルリン美術館に貸し出されている。1914年までほかのアマルナ出土品はベルリン美術館に展示されたが、ボルヒャルトの要望で『ネフェルティティの胸像』の存在は秘密にされていた。1918年にベルリン美術館は秘密にしていたこの胸像を一般公開することを検討したが、またもボルヒャルトからの要望で計画は頓挫してしまう。その後胸像は1920年にベルリン美術館に寄贈され、1923年にボルヒャルトの文書でその存在が公となり、1924年後半になってベルリンのエジプト美術館で一般公開された。その後、胸像は博物館島の新博物館で展示されている。第2次世界大戦勃発によりベルリン美術館が所蔵していた古代遺物がすべて安全な場所に移され、ベルリン美術館が閉鎖される1939年までそのまま新博物館に展示されていた。『ネフェルティティの胸像』は当初帝国銀行の地下金庫に保管され、1941年の秋になってベルリンの高射砲塔防空壕に移された。新博物館は1943年のイギリス空軍によるベルリン爆撃によって被害を受けている。さらに1945年5月6日に胸像はテューリンゲン州の岩塩坑に移された。\n1945年5月にアメリカ陸軍が『ネフェルティティの胸像』を発見し、美術品を扱う部局に引き渡された。胸像はフランクフルトに運ばれ、1946年までヴィースバーデンの美術館で公開されている。1956年に胸像が西ベルリンへ返還され、ダーレム美術館に展示された。1946年初頭には東ドイツが『ネフェルティティの胸像』を、第2次世界大戦前に展示されていた博物館島へ返還するよう要求している。1967年にシャルロッテンブルクのエジプト美術館に移され、さらに2005年に旧博物館(AltesMuseum)に移された。そして2009年10月に修復再建された新博物館に戻され、収蔵品の目玉として展示されている。", "qas": [ { "question": "『ネフェルティティの胸像』は1913年、誰に寄贈されましたか。", "id": "de-078-02-000", "answers": [ { "text": "ジェームズ・ジーモン", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ネフェルティティの胸像』は1913年、どこに飾られていたの?", "id": "de-078-02-001", "answers": [ { "text": "ジーモンの邸宅", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ネフェルティティの胸像』はいつベルリン美術館に寄贈されたか。", "id": "de-078-02-002", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 282, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカ陸軍はいつ『ネフェルティティの胸像』を発見しましたか。", "id": "de-078-02-003", "answers": [ { "text": "1945年5月", "answer_start": 599, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1924年にベルリンで『ネフェルティティの胸像』が公開されて以来、エジプト政府は胸像の返還要求を続けている。1925年に胸像を返還しない限りエジプトでのドイツの発掘を禁止すると警告した。1929年にはエジプトから『ネフェルティティの胸像』と他の遺物との交換の申し出があったが、ドイツは応じなかった。1950年代にもエジプトは交渉を試みたが、ドイツからの反応はなかった。ドイツは胸像の返還を強く拒み続けていたが、1933年に当時ナチス・ドイツの航空大臣だったヘルマン・ゲーリングが政治的思惑からエジプト王ファールーク1世への胸像の返還を検討したことがある。しかしアドルフ・ヒトラーはこの考えに反対し、エジプト政府に対して『ネフェルティティの胸像』のために新しくエジプト博物館を建設すると伝え、「この素晴らしい胸像は博物館中央の玉座に置く。女王の頭を放棄することは決してありえない」と語った。\n\n大戦後、胸像がアメリカ軍の保護下にあったとき、エジプトはアメリカに胸像の引渡しを求めている。しかしアメリカは、エジプトは新設されるドイツの関連機関と交渉すべきだとして、引渡しを拒否した。1989年にエジプト大統領ホスニー・ムバーラクはベルリンでこの胸像を見たときに、この胸像は「エジプトにとって最高の駐独大使だ」と語っている。", "qas": [ { "question": "1925年、エジプトは、何を返還しないとエジプトでのドイツの発掘を禁止すると警告したか。", "id": "de-078-03-000", "answers": [ { "text": "『ネフェルティティの胸像』", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1933年、ナチス・ドイツの航空大臣は誰でしたか。", "id": "de-078-03-001", "answers": [ { "text": "ヘルマン・ゲーリング", "answer_start": 228, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1989年のエジプト大統領は誰でしたか。", "id": "de-078-03-002", "answers": [ { "text": "ホスニー・ムバーラク", "answer_start": 502, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ネフェルティティの胸像』は高さ47cm、重さ約20kgほどで、石灰岩を芯として彩色された化粧漆喰が被せられて作られている。完全に左右対称となっているが、右目にある象嵌は左目には施されていない。右目の瞳は黒く塗られた石英がはめ込まれ、蜜蝋で固定されている。眼窩は彩色されていない石灰岩のままとなっている。ネフェルティティは「ネフェルティティの王冠」として知られる独特の王冠を被っている。リボンのように水平に巻かれた金の帯状の飾りが後ろで交差し、眉の上にはエジプト王権を象徴する聖蛇コブラの飾りがあったが損壊しており、耳にも損壊している箇所がある。衣装は襟ぐりが広く、花模様となっている。美術史の文献『Gardner'sArtThroughtheAges』は、「トトメスによるこの優美な胸像の大きな王冠と、まるで蛇のように細長い首の誇張された表現は、細く滑らかな茎に咲く大輪の花をイメージしていたのかも知れない」としている。研究家のデイヴィッド・シルヴァーマンの意見では、胸像は伝統的なエジプト美術の様式で作成されており、アメンホテプ4世治世下の「風変わりな」アマルナ様式の作風にはなっていない。", "qas": [ { "question": "『ネフェルティティの胸像』の重さはどのくらいなの?", "id": "de-078-04-000", "answers": [ { "text": "約20kgほど", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ネフェルティティの胸像』の眉の上にある聖蛇コブラの飾りは何を象徴しますか。", "id": "de-078-04-001", "answers": [ { "text": "エジプト王権", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「トトメスによるこの優美な胸像の大きな王冠と、まるで蛇のように細長い首の誇張された表現は、細く滑らかな茎に咲く大輪の花をイメージしていたのかも知れない」という言葉はどの文献に書かれているか。", "id": "de-078-04-002", "answers": [ { "text": "『Gardner'sArtThroughtheAges』", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ネフェルティティの胸像』が最初にCTスキャンで調査されたのは1992年のことで、このときは5mmごとに断層撮影が行われた。2006年にはエジプト美術館館長ヴィルドゥングが、以前に胸像が展示されていた旧博物館とは異なった照明のもとで、首すじのしわと目の下のたるみが胸像に表現されているのを発見し、胸像の作成者が老化の兆候を表そうとしたのではないかと考えた。このヴィルドゥングの発見はCTスキャンによって確認され、トトメスが彫像を完成させるために後から頬と目に石膏を追加していたことが判明した。\n\nベルリンの画像科学研究所の所長アレクサンダー・フッペルツの指揮で2006年に実施されたCTスキャンでは、ネフェルティティの顔に表現されているしわが胸像内部の石灰岩にも彫りこまれていることが判明しており、このときのCTスキャンの結果が2009年4月の『Radiologyjournal』で公表されている。トトメスは石灰岩の芯の上に何層もの石膏を重ね、胸像の口元、頬、鼻の部分にはしわ状の折り目がつけられており、これらの折り目や石膏の凹凸は化粧漆喰で胸像表面を覆うことで滑らかにされている。フッペルツは「当時の理想美」を表しているのではないかとしている。2006年のCTスキャンは1992年のそれよりもはるかに多くの情報をもたらし、化粧漆喰の1、2mm下の微妙な細部までが明らかになった。", "qas": [ { "question": "『ネフェルティティの胸像』の最初のCTスキャンはいつ行われましたか。", "id": "de-078-05-000", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フランスで出版されたスイス人美術学者アンリ・スティルランの『ネフェルティティの胸像は偽物か?(LeBustedeNefertiti-uneImposturedel'Egyptologie?)』などが、『ネフェルティティの胸像』は現代で作られた偽物だと主張しはじめた。スティルランは、ボルヒャルトは古代に使われていた顔料を試す目的で胸像を作成したとして、ザクセン王子ヨハン・ゲオルクがこの胸像を賞賛したために、ボルヒャルトは王子を怒らせないよう胸像が本物であると見せかけたのだという説を唱えた。スティルランは、片目の胸像は古代エジプトではそもそも不敬であり、発見したとされる年から11年もの間に科学的根拠ある記録がまったく残っていないのは不自然だと主張した。さらに、使用されている顔料は確かに古代エジプトのものかも知れないが、芯に使用されている石灰岩は一度も年代測定されたことがないと指摘している。同じく胸像が偽物であると考えているベルリンの作家・歴史研究家EdroganErcivanも、胸像はボルヒャルトの妻をモデルとして作成されたものだとして、1924年まで公開されなかったのは『ネフェルティティの胸像』が偽物だからであると主張した。このほかにも、現在の胸像はヒトラーの命により1930年代に作成されたもので、オリジナルの胸像は第二次世界大戦で失われたとする説などもある。", "qas": [ { "question": "『ネフェルティティの胸像は偽物か?(LeBustedeNefertiti-uneImposturedel'Egyptologie?)』は誰が書いた?", "id": "de-078-06-000", "answers": [ { "text": "アンリ・スティルラン", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ネフェルティティの胸像』はボルヒャルトの妻をモデルとして作成されたものだと主張した人は誰ですか。", "id": "de-078-06-001", "answers": [ { "text": "EdroganErcivan", "answer_start": 428, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ネフェルティティの胸像』は「古代エジプトの文物のなかで最高に賞賛、模倣されてきたイメージの一つ」で、ベルリン美術館の所蔵品でもっとも集客力のある展示品となっている。「世界的な美の象徴」であり「長い首、優美な弓なりの眉、高い頬骨、細い鼻梁、そして謎めいた微笑を浮かべる赤い唇。この胸像はネフェルティティが古代でもっとも美しい女性の一人であるという名声をもたらした」とも言われている。ツタンカーメンの黄金マスク以外に比べるもののない、世界的に有名な古代美術品である。\n\n『ネフェルティティの胸像』はベルリンの文化的象徴にもなっており、毎年50万人以上の見物客がネフェルティティのもとを訪れる。「古代エジプトの芸術品のなかでもっとも有名な作品で、エジプト以外の古代遺物のなかでも群を抜いている」とも表現された。この胸像はベルリンの絵葉書になっており、1989年には彫刻正面の顔がデザインされた切手も発行されている。", "qas": [ { "question": "『ネフェルティティの胸像』がデザインされた切手は、何年に発行されたか。", "id": "de-078-07-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 373, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ネフェルティティの胸像』を見るために毎年何人以上の見物客が訪れますか。", "id": "de-078-07-001", "answers": [ { "text": "50万人以上", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ギリシャの戦い", "paragraphs": [ { "context": "ギリシャの戦い(ギリシャのたたかい)は、第二次世界大戦中にギリシャおよびアルバニア南部地方で起こった戦いである。戦いは連合国(ギリシャ、イギリス連邦)と枢軸国(ドイツ、イタリア、ブルガリア)の間で行われた。クレタ島の戦い、いくつかの海戦、ギリシャの戦いは第二次世界大戦におけるドイツ軍のバルカン半島、エーゲ海攻略作戦の1つとして考えられており、また、ギリシャの戦いは1940年10月28日より始まったギリシャ・イタリア戦争の延長と考えられている。", "qas": [ { "question": "ギリシャの戦いとは、ギリシャとどこで起こった戦いのことを言うの?", "id": "de-079-00-000", "answers": [ { "text": "アルバニア南部地方", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギリシャの戦いは、どの戦争中に行われた戦闘でありますか?", "id": "de-079-00-001", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギリシャとアルバニア南部地方を戦場に、連合国側と枢軸国側の衝突は、何と呼ばれるか?", "id": "de-079-00-002", "answers": [ { "text": "ギリシャの戦い", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ギリシャ・イタリア戦争が勃発したのは、いつか?", "id": "de-079-00-003", "answers": [ { "text": "1940年10月28日", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "戦争の前半となるギリシャ・イタリア戦争において、イタリア軍はギリシャ軍に1週間で撃退され、反対にアルバニアの南部をギリシャに奪われる形になった。", "qas": [ { "question": "ギリシャ・イタリア戦争において、より優勢であったのは、どの国の軍だったの?", "id": "de-079-01-000", "answers": [ { "text": "ギリシャ", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イタリア軍がギリシャ軍に撃退されたのは、戦争が始まってから何週間たった時点でしたか", "id": "de-079-01-001", "answers": [ { "text": "1週間", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギリシャ・イタリア戦争において、イタリアはどこをギリシャに奪われたか?", "id": "de-079-01-002", "answers": [ { "text": "アルバニアの南部", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書では、どの戦争の大体の状況を説明しているか?", "id": "de-079-01-003", "answers": [ { "text": "ギリシャ・イタリア戦争", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical 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"1941年4月6日、ドイツ軍はブルガリアを経由してギリシャに侵入、ギリシャ侵攻作戦であるマリータ作戦(UnternehmenMarita)が発動された。ギリシャ軍、イギリス連邦軍は粘り強い反撃を行ったが、ドイツ軍の圧倒的な攻勢の前に崩された。", "qas": [ { "question": "ドイツ軍がギリシャに侵攻したのは、いつのことなの?", "id": "de-079-03-000", "answers": [ { "text": "1941年4月6日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マリータ作戦が開始されたのは、いつのことですか?", "id": "de-079-03-001", "answers": [ { "text": "1941年4月6日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マリータ作戦とは、どの国がギリシャに対し行った作戦のことをいうか?", "id": "de-079-03-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ軍のマリータ作戦に対応するために、ギリシャを支援したのは、どの国か?", "id": "de-079-03-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アテネは4月27日に陥落したが、イギリス連邦軍はからくも約50,000名の将兵を脱出させることに成功した。ギリシャ侵攻作戦はペロポネソス地方のカラマタ陥落で素早い進撃を見せたドイツ軍の完勝に終わり、作戦も24日以内で終了した。", "qas": [ { "question": "ドイツ軍のギリシャ侵攻作戦は、何日以内で勝利を収めた作戦だったの?", "id": "de-079-04-000", "answers": [ { "text": "24日", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アテネとカラマタのうち、ドイツ軍からより早く陥落されたのは、とちらですか?", "id": "de-079-04-001", "answers": [ { "text": "アテネ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ギリシャ侵攻作戦の結果、戦勝国となったのは、どの国か?", "id": "de-079-04-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どこが陥落されたことを基点に、ギリシャ侵攻作戦は大成功した作戦として終わったか?", "id": "de-079-04-003", "answers": [ { "text": "カラマタ", "answer_start": 71, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦が勃発すると、ギリシャ首相イオアニス・メタクサスは中立を維持しようとした。しかし、ギリシャはイタリアからの圧力に悩まされており、1940年8月15日、イタリア潜水艦デルフィーノ(Delfino's)がギリシャ巡洋艦エリを魚雷攻撃するまでに至っていた。ここにはイタリア統領ベニート・ムッソリーニがドイツ総統アドルフ・ヒトラーから今後の戦争政策についての相談がなかったため、腹を立てており、ムッソリーニは独自の方針を確立したいという思惑があった。", "qas": [ { "question": "第二次世界大戦が勃発したばかりの頃、ギリシャ首相には誰がついていたの?", "id": "de-079-05-000", "answers": [ { "text": "イオアニス・メタクサス", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イオアニス・メタクサスは、どのような立場で戦争に臨むつもりでしたか?", "id": "de-079-05-001", "answers": [ { "text": "中立", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギリシャに圧力をかけたのは、どの国か?", "id": "de-079-05-002", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中立を守ろうとするギリシャを攻撃したのは、どの国か?", "id": "de-079-05-003", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "10月28日早朝、イタリアのエマニュエル・グラッツィー駐在ギリシャ大使が、メタクサスに最終通告を行い、3時間以内に返事をするよう伝えた。そこにはイタリア軍がまったく明らかでない「ギリシャ国内にあるイタリアの重要な場所」へ向かうために、ギリシャ国内を自由に通行をする権利を求めていた。メタクサスは最終通告を一言「Όχι(No)」で拒絶(後にこの日はΕπέτειοςτουΌχι(参戦記念日)となる)した。", "qas": [ { "question": "イタリアがギリシャに対し、最終通告を行ったのは、何月何日のことなの?", "id": "de-079-06-000", "answers": [ { "text": "10月28日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イタリアは、ギリシャにどのような権利を求めてきましたか?", "id": "de-079-06-001", "answers": [ { "text": "ギリシャ国内を自由に通行をする権利", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "10月28日のイタリアのギリシャに対する要求は、誰を通してギリシャ首相にまで届いたか?", "id": "de-079-06-002", "answers": [ { "text": "エマニュエル・グラッツィー", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "冬の間、何週間も戦闘を重ねた1941年3月9日、イタリア軍は全ての戦線で反撃を開始、当初優勢ではあったものの、最終的には失敗に終わった。12,000名の犠牲者を出した一週間後、ムッソリーニは反撃を終了させ、作戦発動から12日後、アルバニアから脱出した。", "qas": [ { "question": "ギリシャに反撃をゆるしてしまったイタリアは、全戦線において反撃を行うが、それはいつのことでしたか?", "id": "de-079-07-000", "answers": [ { "text": "1941年3月9日", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1941年3月9日のイタリアの総攻勢の結果は、どうなったの?", "id": "de-079-07-001", "answers": [ { "text": "失敗", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1941年3月9日から始まった戦闘で、イタリアから出た犠牲者は何名に至ったか?", "id": "de-079-07-002", "answers": [ { "text": "12,000名", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "12,000名という数値は、戦闘開始からわずか何週間でイタリアから出た犠牲者の人数だったか?", "id": "de-079-07-003", "answers": [ { "text": "一週間", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方、6ヶ月に及ぶ戦いで、ギリシャ軍はモッティ戦術を用いて、イタリア軍を撃破することで、アルバニア南部を占領した。しかし、ギリシャには本格的軍事産業が無く、装備、弾薬の供給は、北アフリカでイギリス軍が撃破し、捕獲したイタリア軍の装備に依存していた。そのため、アルバニアでの戦いを継続するために、ギリシャ軍はマケドニア東部、トラキア西部から撤退せざるを得なかった。", "qas": [ { "question": "ギリシャ軍がアルバニア南部を手に入れるのには、何ヶ月がかかったの?", "id": "de-079-08-000", "answers": [ { "text": "6ヶ月", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギリシャがアルバニア南部の戦いでの勝利のためにあきらめた地域は、マケドニア東部とどの地域ですか?", "id": "de-079-08-001", "answers": [ { "text": "トラキア西部", "answer_start": 161, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギリシャにとってすべての戦線において戦闘を継続するのに無理があったのは、ギリシャには何がなかったためか?", "id": "de-079-08-002", "answers": [ { "text": "本格的軍事産業", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大半のギリシャ軍は、どこにおける戦いでイギリス軍に敗れ、捕まったイタリア軍の装備を使っていたか?", "id": "de-079-08-003", "answers": [ { "text": "北アフリカ", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イギリスがクレタ島とリムノス島に進駐した4日後の1940年11月4日、ヒトラーは介入を決意、ルーマニア、ブルガリアを経由してギリシア北部へ侵攻することを命令した。ヒトラーはこの作戦において、イギリス軍の地中海における足場を奪取する計画の一片を成すように計画した。", "qas": [ { "question": "ヒトラーがギリシャとイタリアの戦闘に介入することを決心したのは、いつのことなの?", "id": "de-079-09-000", "answers": [ { "text": "1940年11月4日", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヒトラーは、ルーマニアとどこを経由してギリシア北部に侵攻することを命令しましたか?", "id": "de-079-09-001", "answers": [ { "text": "ブルガリア", "answer_start": 52, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒトラーは、ギリシャのどの方向から侵攻する計画の実行を命じたか?", "id": "de-079-09-002", "answers": [ { "text": "北部", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒトラーの本当の狙いは、どの国の気勢をくじくことだったか?", "id": "de-079-09-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "11月12日、国防軍最高司令部は指令18号(ジブラルタル、ギリシャ同時攻略を翌年1月に計画していた)を提出した。しかし、1940年12月、スペインのフランシスコ・フランコ総統はジブラルタルへの攻撃を拒否、地中海を制覇するドイツ軍の計画は変更を余儀なくされた。それにより、地中海を制覇する作戦は、ギリシャを攻略することに限られた。", "qas": [ { "question": "国防軍最高司令部が指令18号を提出したのは、何年のことなの?", "id": "de-079-10-000", "answers": [ { "text": "1940年", "answer_start": 60, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "指令18号とは、ドイツとどの国が同時にそれぞれの目的地域を侵攻する計画でありましたか?", "id": "de-079-10-001", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "指令18号によると、スペインはどこを攻撃すべきだったか?", "id": "de-079-10-002", "answers": [ { "text": "ジブラルタル", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "どの国からの拒否により、地中海制覇の夢はかなえられなくなったか?", "id": "de-079-10-003", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "そこで最高司令部は1940年12月13日、指令第20号を提出した。計画は「マリータ作戦」と名付けられ、ギリシャ攻略計画として1941年4月までにエーゲ海北岸をドイツ軍が占領するものであり、必要となれば、ギリシャ全土を占領することも計画されていた。", "qas": [ { "question": "指令第20号が提出されたのは、いつのことなの?", "id": "de-079-11-000", "answers": [ { "text": "1940年12月13日", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリータ作戦は、いつまでにエーゲ海北岸をドイツ軍が占領するよう計画されたものであったか?", "id": "de-079-11-001", "answers": [ { "text": "1941年4月", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし3月27日、ユーゴスラビアで政変が発生、ドイツとの協力を破棄したために、ヒトラーは会議を緊急召集、ギリシャ侵攻計画の変更とユーゴスラビア侵攻を決定、4月6日にギリシャ、ユーゴスラビアを攻撃することとなった。", "qas": [ { "question": "ユーゴスラビアで政変が発生したのは、いつのことなの?", "id": "de-079-12-000", "answers": [ { "text": "3月27日", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギリシャ振興計画とともに、どこへの侵攻計画も実行されることになりましたか?", "id": "de-079-12-001", "answers": [ { "text": "ユーゴスラビア", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギリシャとユーゴスラビアへの攻撃が決定されたのは、いつのことか?", "id": "de-079-12-002", "answers": [ { "text": "4月6日", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)", "paragraphs": [ { "context": "フリードリヒ2世(FriedrichII.,1194年12月26日-1250年12月13日)は中世西欧のローマ皇帝(在位:1220年-1250年12月13日)である。シチリア王(在位:1197年-1250年)、イタリア王(在位:1212年12月5日-1250年)、ローマ王(ドイツ王)(在位:1212年12月9日-1220年)、エルサレム王(在位:1225年-1228年)でもある。ホーエンシュタウフェン朝第3代ローマ皇帝、第2代シチリア王、第5代ローマ王である。イタリア史関係では、イタリア名のフェデリーコ2世(FedericoII)で呼ばれることが多い。", "qas": [ { "question": "フリードリヒ2世は、どの国の皇帝なの?", "id": "de-080-00-000", "answers": [ { "text": "ローマ", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリードリヒ2世は、どの王朝の者ですか?", "id": "de-080-00-001", "answers": [ { "text": "ホーエンシュタウフェン朝", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリードリヒ2世が兼任した王位としては、シチリア王、イタリア王、ローマ王と何があるか?", "id": "de-080-00-002", "answers": [ { "text": "エルサレム王", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ホーエンシュタウフェン朝の者としては、3番目にローマ皇帝となった人物は、誰か?", "id": "de-080-00-003", "answers": [ { "text": "フリードリヒ2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1194年12月26日にフリードリヒ2世はイタリア中部の町イェージで皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェ(イタリア名はコスタンツァ)の間に生まれる。出産の際にイェージの広場には天幕が張られ、その中でコスタンツァは血統の証人となる町の貴婦人たちに見守られながらフリードリヒを産み落とした。", "qas": [ { "question": "フリードリヒ2世の出生日は、いつなの?", "id": "de-080-01-000", "answers": [ { "text": "1194年12月26日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒ2世は、どの町で生まれましたか?", "id": "de-080-01-001", "answers": [ { "text": "イェージ", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリードリヒ2世の母親は、どの国の王女だったか?", "id": "de-080-01-002", "answers": [ { "text": "シチリア", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリードリヒ2世の母親は、誰か?", "id": "de-080-01-003", "answers": [ { "text": "コンスタンツェ", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "生後3か月目にフリードリヒ2世はアッシジで洗礼を受け、ロゲリウス・フリデリクス(フェデリーコ・ルッジェーロ)の洗礼名を与えられる。この名は、父方の祖父フリードリヒ1世と、母方の祖父であるシチリア王国の建国者ルッジェーロ2世の両方の名前にあやかったものである。さらに洗礼名とともにコンスタンティヌスという名前を与えられた伝承も存在するが、真意は不明である。", "qas": [ { "question": "フリードリヒ2世は生まれてから何か月経った時点で洗礼を受けたの?", "id": "de-080-02-000", "answers": [ { "text": "3か月", "answer_start": 2, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒ2世はどこで洗礼を受けましたか?", "id": "de-080-02-001", "answers": [ { "text": "アッシジ", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリードリヒ2世の洗礼名は、何だったか?", "id": "de-080-02-002", "answers": [ { "text": "ロゲリウス・フリデリクス", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリードリヒ2世の洗礼名は、彼の祖父の名前と、誰の名前にあやかったものであったか?", "id": "de-080-02-003", "answers": [ { "text": "ルッジェーロ2世", "answer_start": 103, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フリードリヒ2世の父ハインリヒはコスタンツァと結婚したことで帝位に加えてシチリア王位も手に入れ、地中海からゲルマン海に至る広大な領土を有していた。1197年にハインリヒが遠征中に病没すると、帝国の支配権を欲するフリードリヒの叔父シュヴァーベン公フィリップと、シチリア支配を望むパレルモの廷臣であるラヴェンナ公マルクヴァルトがフリードリヒを傀儡に据えようとする。", "qas": [ { "question": "当時のローマ皇帝は、誰だったの?", "id": "de-080-03-000", "answers": [ { "text": "ハインリヒ", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハインリヒは結婚とともに、どの国の王位継承権を手に入れましたか?", "id": "de-080-03-001", "answers": [ { "text": "シチリア", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハインリヒが死去したのは、何年のことか?", "id": "de-080-03-002", "answers": [ { "text": "1197年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハインリヒの死因は、何だったか?", "id": "de-080-03-003", "answers": [ { "text": "病", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1209年に成年を迎えたフリードリヒは10歳年上のアラゴン王国の王女コスタンツァと婚約し、シチリア王位を望む意思を表明した。コスタンツァは女官、吟遊詩人、騎士団とともにパレルモに入城し、フリードリヒは彼女からプロヴァンス詩と洗練された宮廷生活を教わった。この年フリードリヒが成年に達したため、インノケンティウス3世は後見人の地位から降りなければならなかったが、フリードリヒがローマ王位を継ぐことを恐れたインノケンティウス3世はオットーの戴冠式を強行し、オットーが帝位に就いた。", "qas": [ { "question": "フリードリヒの配偶者は、彼より何歳年上だったの?", "id": "de-080-04-000", "answers": [ { "text": "10歳", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒがコスタンツァと婚約したのは、何年のことですか?", "id": "de-080-04-001", "answers": [ { "text": "1209年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒの配偶者は、どの国の王女だったか?", "id": "de-080-04-002", "answers": [ { "text": "アラゴン王国", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オットーがローマの玉座に座ったのは、何年だったか?", "id": "de-080-04-003", "answers": [ { "text": "1209年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "強引なオットーの即位にホーエンシュタウフェン家が反発したためにホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立が再発し、帝国に内乱が起きる。オットーはイタリアに矛先を向けて教皇領とシチリアに侵攻し、インノケンティウス3世は報復として彼を破門、帝国の反乱を扇動した。", "qas": [ { "question": "オットーは、どの家の者だと予測できるの?", "id": "de-080-05-000", "answers": [ { "text": "ヴェルフ家", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オットーの即位に反発したのは、どの家でしたか?", "id": "de-080-05-001", "answers": [ { "text": "ホーエンシュタウフェン家", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時の教皇は、誰だったと予測できるか?", "id": "de-080-05-002", "answers": [ { "text": "インノケンティウス3世", "answer_start": 96, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "帝国で内乱が起こった原因は、何だったか?", "id": "de-080-05-003", "answers": [ { "text": "オットーの即位", "answer_start": 3, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この処分を受けて1211年に諸侯はニュルンベルクでオットーの廃位とフリードリヒのローマ王選出を決定し、フリードリヒには帝国北部(ドイツ)へ向かうよう要請した。フリードリヒはその前にインノケンティウス3世が出した教皇の宗主権の再確認、生まれたばかりの子ハインリヒへのシチリア王譲位という条件を呑み、1212年にアルプスを越えた。後年フリードリヒはこの激動が続いた時期を、「神によって奇跡的にもたらされたもの」だと述懐した。", "qas": [ { "question": "諸侯たちの間でオットーを帝位から引き下ろすことと、フリードリヒを新たにローマ王に即位させることが決められたのは、何年のことだったの?", "id": "de-080-06-000", "answers": [ { "text": "1211年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1211年の時点でローマ王には、誰がついていたか?", "id": "de-080-06-001", "answers": [ { "text": "オットー", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "インノケンティウス3世がフリードリヒに提案した条件には、誰にシチリア王位を譲位することも含まれていたか?", "id": "de-080-06-002", "answers": [ { "text": "ハインリヒ", "answer_start": 125, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1212年12月5日にフランクフルトでフランス王フィリップ2世と教皇の使者が見届ける中でフリードリヒはローマ王に選出され、12月9日にマインツで戴冠した。フリードリヒはフランスからの援助を受け、諸侯に対しては特許状を発行して支持を集めて吝嗇な性格のオットーに対抗した。", "qas": [ { "question": "当時のフランス王位には、誰がついていたの?", "id": "de-080-07-000", "answers": [ { "text": "フィリップ2世", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒのローマ王位戴冠式は、どこで行われましたか?", "id": "de-080-07-001", "answers": [ { "text": "マインツ", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒがローマ王位についたのは、いつのことか?", "id": "de-080-07-002", "answers": [ { "text": "12月9日", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒがオットーを食い止めるのに手を貸したのは、どの国だったか?", "id": "de-080-07-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 84, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1214年のブーヴィーヌの戦いでの敗北でオットーの没落は決定的になり、フリードリヒは名実共にローマ王として認められた。1215年にフリードリヒはアーヘン大聖堂でローマ王に正式に戴冠され、十字軍の遠征に赴くことを誓約した。", "qas": [ { "question": "ブーヴィーヌの戦いは、何年に行われた戦闘なの?", "id": "de-080-08-000", "answers": [ { "text": "1214年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブーヴィーヌの戦いでは、誰が勝利しましたか?", "id": "de-080-08-001", "answers": [ { "text": "フリードリヒ", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒが正式にローマ王となったのは、何年か?", "id": "de-080-08-002", "answers": [ { "text": "1215年", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒの正式なローマ王位戴冠式は、どこで行われたか?", "id": "de-080-08-003", "answers": [ { "text": "アーヘン大聖堂", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フリードリヒの宣言に満足したインノケンティウス3世はハインリヒが帝国に移ることを認め、翌1216年に没した。帝国滞在中、フリードリヒはエルザス、ライン河畔、ヴォルムス、シュパイアーに滞在し、諸侯に積極的に干渉しようとはしなかった。フリードリヒは帝国の統治において、ハインリヒ6世没後に諸侯が獲得した特権を1213年と1220年の2度にわたって承認し、聖俗両方から支持を獲得した。", "qas": [ { "question": "インノケンティウス3世が死去したのは、何年なの?", "id": "de-080-09-000", "answers": [ { "text": "1216年", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], 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"text": "ルチェーラ", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナポリ大学が設立されたのは、何年のことか?", "id": "de-080-12-002", "answers": [ { "text": "1224年", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }