{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "アレッポ城", "paragraphs": [ { "context": "アレッポ城は、シリア北部に位置する都市アレッポの旧市街の中心にある大規模な中世の要塞である。この建造物は世界で最古かつ最大の城の1つであると見なされている。城塞の丘の利用は、少なくとも紀元前3千年紀中頃にさかのぼる。その後、ギリシアや東ローマ帝国(ビザンティン帝国)、アイユーブ朝、マムルーク朝など多くの文明国によって占拠され、今日にあるその構造物の大部分は、アイユーブ朝時代に起源があると考えられる。大規模な保存事業が2000年代、アレッポ考古学協会とともにアガ・カーン・トラスト・フォー・カルチャーにより行なわれた。都市を見下ろす城塞は、1986年、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録された古代都市アレッポの一部である。城塞は、シリア内戦により大きな損傷を受けている。", "qas": [ { "question": "アレッポ市はどこに位置していますか。", "id": "tr-682-00-000", "answers": [ { "text": "シリア北部", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "20世紀後半に発見された嵐の神ハダドの古代神殿は、エブラおよびマリの楔形文字の文書に記されており、丘の利用は紀元前3千年記の中頃にさかのぼる。神殿は、ドイツの考古学者カイ・コールマイヤーらによる発掘と、そのなかで発見されたレリーフからも明らかなように、紀元前3千年記中頃から、少なくとも紀元前9世紀まで使われ続けていた。その都は紀元前2千年紀前半にヤムハドの首都となり、「ハダドの都」として知られていた。\n\n預言者アブラハムは城塞の丘の上で彼の羊の乳を絞ったといわれる。アレッポを中心とした新ヒッタイト衰退の後、アッシリアがその区域を支配し、それに新バビロニアおよびペルシア帝国が続いた。", "qas": [ { "question": "嵐の神ハダドの古代神殿はいつ発見されましか。", "id": "tr-682-01-000", "answers": [ { "text": "20世紀後半", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "嵐の神ハダドの古代神殿を発掘する時中心となった人は誰なの?", "id": "tr-682-01-001", "answers": [ { "text": "カイ・コールマイヤー", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ローマが紀元前64年にセレウコス朝を退けた後も、城塞の丘は宗教的意義を持ち続けていた。神ハダドはゼウスと同一視された。皇帝ユリアヌスは西暦363年にアレッポを訪れ、「私は一日そこに滞在し、アクロポリスを訪れて帝の習わしによりゼウスに白い牡牛を捧げ、神々の崇拝について町議会と短い話をした」と記している。城塞においてローマ期の物的な遺構はほとんど発見されていない。\n\nローマ帝国は395年、東西2つの部分に分割された。アレッポは東半分の東ローマ帝国にあった。7世紀のサーサーン朝の王ホスロー2世との衝突時には、都市の防壁がひどい状態にあったため、アレッポの住民が城塞に避難してきたといわれる。現在、東ローマ帝国時代からの遺構は城塞の丘でほとんど見られない。城塞内にある2つのモスクは、東ローマ帝国時代に当初建てられた教会から転換されたことが知られている。", "qas": [ { "question": "ローマ帝国はいつ東西2つの部分に分割しましたか。", "id": "tr-682-02-000", "answers": [ { "text": "395年", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "城塞は11世紀末の近東における十字軍駐留以降の時代にその重要度が頂点に達した。ザンギー朝の支配者イマード・アッ=ディーン・ザンギーと、それに続く息子のヌール・アッ=ディーンはアレッポとダマスカスの統合に成功し、都市への攻撃を繰り返した十字軍を押しとどめた。数名の名高い十字軍兵士が城塞に投獄され、そのなかにはそこで死亡したエデッサ伯国のジョスリン2世のほか、ルノー・ド・シャティヨン、それに2年間拘留されたエルサレムの王ボードゥアン2世がいる。アレッポとダマスカス双方における彼の多くの業績に加えて、ヌール・アッ=ディーンは都市アレッポの壁を再建し、城塞を強化した。アラブの資料は、彼が同様に、高い煉瓦壁の入口の傾斜路、宮殿、それにおそらく草に覆われた競馬場など、ほかにいくつか整備を行なったことを報告している。ヌール・アッ=ディーンはさらに2つのモスクを修復もしくは再建し、そしてアブラハムのモスクに精巧な木製のミフラーブ(聖龕)を捧げた。そのミフラーブはフランス委任統治の間に消失した。", "qas": [ { "question": "ヌール・アッ=ディーンのお父さんは誰なの?", "id": "tr-682-03-000", "answers": [ { "text": "イマード・アッ=ディーン・ザンギー", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "サラディンの息子アル=ザーヒル・アル=ガーズィーは、1193-1215年の間アレッポを統治した。この時代に城塞は、主要な再建と要塞化、それに今日、現在の城塞の複合体を構成する新たな構造物の追加を経ていった。君主(スルターン)ガーズィーは、上部の城壁を強化し、その露出した表面を平らに整え、入口付近の斜面の区域を石材で覆った。堀の深さは22メートルと、水路に繫がることでさらに増し、今日も城塞の入口としての役割をする高い陸橋である橋梁が架けられた。13世紀初頭の10年間に、城塞は、居住(宮殿や浴場)、宗教(モスクや聖堂)、軍事設備(兵器庫、訓練場、防衛塔、城門)、支持基盤(貯水槽や穀物倉)などの機能をもつ壮麗な都市へと発展した。最も顕著な改修は1213年に再建された城門である。君主ガーズィーはまた、城塞の2つのモスクを修復し、そして南および東の郊外など都市の防壁を拡大するとともに、その壁以上に防備の中心である城塞を整備した。", "qas": [ { "question": "アル=ザーヒル・アル=ガーズィーの父は誰か。", "id": "tr-682-04-000", "answers": [ { "text": "サラディン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アル=ザーヒル・アル=ガーズィーがアレッポを統治していたのは1193年からいつまででしたか。", "id": "tr-682-04-001", "answers": [ { "text": "1215年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ヘリコバクター・ピロリ", "paragraphs": [ { "context": "ヘリコバクター・ピロリ(Helicobacterpylori)とは、ヒトなどの胃に生息するらせん型のグラム陰性微好気性細菌である。単にピロリ菌(ピロリきん)と呼ばれることもある。ヘリコバクテル・ピロリと表記されることもある。1983年にオーストラリアのロビン・ウォレンとバリー・マーシャルにより発見された。\n\n胃の内部は胃液に含まれる塩酸によって強酸性であるため、従来は細菌が生息できない環境だと考えられていた。しかし、ヘリコバクター・ピロリはウレアーゼと呼ばれる酵素を産生しており、この酵素で胃粘液中の尿素をアンモニアと二酸化炭素に分解し、生じたアンモニアで、局所的に胃酸を中和することによって胃へ定着(感染)している。この菌の発見により動物の胃に適応して生息する細菌が存在することが明らかにされた。\n\nヘリコバクター・ピロリの感染は、慢性胃炎、胃潰瘍や十二指腸潰瘍のみならず、胃癌やMALTリンパ腫やびまん性大細胞型B細胞性リンパ腫などの発生に繋がることが報告されているほか、特発性血小板減少性紫斑病、小児の鉄欠乏性貧血、慢性蕁麻疹などの胃外性疾患の原因となることが明らかとなっている。細菌の中でヒト悪性腫瘍の原因となり得ることが明らかになっている病原体のひとつである。ピロリ菌検査で陰性でも胃炎など胃疾患が続く場合は、ヘリコバクター・ハイルマニイの感染が疑われることがある。\n\n世界人口の50%以上は、消化器にピロリ菌が感染している。とりわけ先進国よりも開発途上国のほうが感染率が高い。", "qas": [ { "question": "ヘリコバクター・ピロリが生息する器官はどこですか?", "id": "tr-683-00-000", "answers": [ { "text": "胃", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウレアーゼは胃粘液中の尿素を分解し、胃酸を中和するのに使う成分は何ですか?", "id": "tr-683-00-001", "answers": [ { "text": "アンモニア", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピロリ菌の感染者が多い国は先進国か、開発途上国か?", "id": "tr-683-00-002", "answers": [ { "text": "開発途上国", "answer_start": 630, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリが発見されたのはいつですか?", "id": "tr-683-00-003", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "グラム陰性で、直径約0.5μm、長さ2.5-5μmである。2-3回ねじれたらせん菌の形状を持ち、顕微鏡下ではS字状、あるいはカモメ状と呼ばれる曲がりくねった形態として観察される。長軸の両端(極)に、それぞれ4-8本の鞭毛(極鞭毛とよばれる)を持ち、この鞭毛の回転運動によって、溶液内や粘液中を遊泳して移動することが可能である。微好気性で栄養要求性も厳しいため、分離や培養が難しい部類の細菌であり、酸素濃度5%、二酸化炭素濃度5-10%の雰囲気で専用の培地を用いることで培養可能となる。\n\nヘリコバクター・ピロリは自然環境においては動物の胃内だけで増殖可能であり、それ以外の場所では、生きたらせん菌の形では長時間生残することはできない。しかし、患者の胃生検組織、唾液あるいは糞便中からcoccoidformと呼ばれる球菌様の形態に変化したものが分離されることがある。Coccoidformは一種のVNC状態だと考えられており、この形態では増殖はできないものの、一部のcoccoidformが再びヒトの体内に入って蘇生する可能性が示唆されているため、この性状も本菌の感染に関与しているのではないかという説も提唱されている。", "qas": [ { "question": "ピロリ菌の長さはどれくらいですか?", "id": "tr-683-01-000", "answers": [ { "text": "2.5-5μm", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピロリ菌が粘液中を遊泳して移動できるのは何のおかげですか?", "id": "tr-683-01-001", "answers": [ { "text": "鞭毛", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリの通常形態は?", "id": "tr-683-01-002", "answers": [ { "text": "せん菌の形", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "胃内から分離されたときピロリ菌はどういう形態に変化しますか?", "id": "tr-683-01-003", "answers": [ { "text": "coccoidform", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘリコバクター・ピロリはヒトおよびサル、ネコ、ブタ、イヌの胃内に感染することが明らかになっている。また、さまざまな動物の胃にもそれぞれ、他のヘリコバクター属細菌が定着している。ヘリコバクター・ピロリは、中性と酸性領域の2つの至適pHを持つウレアーゼを産生し、この酵素が本菌の胃内への定着と病原性に大きく関与している。ヘリコバクター属は2007年の時点で30種に分類されているが、ピロリに類似したウレアーゼを持つH.mustelaeやH.felisなどは動物の胃内に定着可能であり、一方、ウレアーゼを持たないものや酸性条件下では働かないウレアーゼを産生するものは、胃内には定着せずに腸内に寄生している。", "qas": [ { "question": "ヘリコバクター・ピロリが胃内で定着可能にする酵素は何ですか?", "id": "tr-683-02-000", "answers": [ { "text": "ウレアーゼ", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2007の時点で分類されたヘリコバクター属は何種類ありますか?", "id": "tr-683-02-001", "answers": [ { "text": "30種", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "戦前は世界中ほとんど全ての人が保菌していたが、先進工業国では衛生管理の徹底によって、この菌を持たない人が増えてきている。2005年現在、世界人口の40-50%程度がヘリコバクター・ピロリの保菌者だと考えられている。日本は1992年の時点で20歳代の感染率は25%程度と低率であるが、40歳以上では7割を超えており発展途上国並に高い。日本のこの極端な二相性には、戦後急速に進んだ生活環境の改善が背景にあるものと考えられている。ABO式血液型と潰瘍発症率には差があり、O型はA型B型よりも1.5倍から2倍高いと報告されているが、これはヘリコバクター・ピロリが粘膜に取り付く際に作用するレセプターが血液型O抗原であるためと説明されている。\n\n本菌の感染経路は不明であるが、胃内に定着することから経口感染すると考えられており、口-口および糞-口感染が想定されている。保菌している親との小児期の濃密な接触(離乳食の口移しなど)、あるいは糞便に汚染された水・食品を介した感染経路が有力視されている。飼いネコやハエによる媒介感染、上部消化管内視鏡を通じた医原性感染の可能性も考えられるが、どの程度強く関与しているかの統一見解は得られていない。", "qas": [ { "question": "1992年の時点で日本の20歳代のヘリコバクター・ピロリの感染率は?", "id": "tr-683-03-000", "answers": [ { "text": "25%程度", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "血液型別潰瘍発症率が一番高いのはどの型ですか?", "id": "tr-683-03-001", "answers": [ { "text": "O型", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリの感染経路は何だと予想されていますか?", "id": "tr-683-03-002", "answers": [ { "text": "経口感染", "answer_start": 344, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヘリコバクター・ピロリには多くの病原因子が存在する。特にウレアーゼは本菌の胃内定着に必須であるとともに、走化性や粘膜傷害にも大きく関与する。これ以外にも、本菌に特異的な外毒素(菌体外に分泌される毒素)である細胞空胞化毒素(VacA;VacuolatingtoxinA)や、ムチナーゼやプロテアーゼなどの分泌酵素群が、粘膜および胃上皮細胞の傷害に直接関与すると考えられている。またグラム陰性菌の最外殻に存在するリポ多糖などによって起きる、好中球などの遊走によっても炎症が引き起こされる。また本菌は線毛に類似したIV型分泌装置と呼ばれる構造を有しており、これによって宿主細胞に直接注入されるエフェクター分子(CagAなど)は宿主細胞のIL-8産生を誘導して炎症反応を惹起するほか、アクチン再構築や細胞増殖の亢進、アポトーシスの阻害など多様な反応を引き起こし、これが癌の発生に繋がるとも考えられている。このほか、鞭毛は本菌が感染部位となる胃粘膜に遊泳して到達するために、また外膜タンパク質の一種は本菌が上皮細胞に接着するために必要であることが知られている。\n\nこれらの病原因子はすべて本菌による感染や胃粘膜傷害に関与するが、このうち本菌に特異的なVacAやCagAについて研究が進んでいる。その結果、同じヘリコバクター・ピロリでも、VacAやCagAを持つ菌株と持たない菌株が存在することが明らかになった。これらを持つ菌株は毒性が強く、これらの強毒株こそが慢性胃炎や消化器潰瘍、胃がんの本当の病原体で、弱毒株の方はあまり害のない一種の常在菌なのでないか、という仮説も提唱されている。", "qas": [ { "question": "走化性や粘膜傷害にも大きく関与している酵素は何ですか?", "id": "tr-683-04-000", "answers": [ { "text": "ウレアーゼ", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エフェクター分子によって作られ炎症反応を引き起こすものは何ですか?", "id": "tr-683-04-001", "answers": [ { "text": "IL-8", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宿主細胞にエフェクター分子を直接注入するヘリコバクター・ピロリの構造は?", "id": "tr-683-04-002", "answers": [ { "text": "IV型分泌装置", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘリコバクター・ピロリの持つウレアーゼは細胞の表層部に局在しており、中性および酸性領域の2種類の至適pHを持つため、胃内部の酸性条件下でも尿素からのアンモニア産生が可能である。ウレアーゼによって作られたアンモニアは局所的に胃液を中和するため、その部分にヘリコバクター・ピロリが定着可能となって感染が成立する。アンモニアはまた、ヘリコバクター・ピロリに対して走化性因子としても作用し、胃内にいる他のヘリコバクター・ピロリが鞭毛により遊泳して感染部位に集合しやすくなる。さらに細菌感染に対して動員された白血球が産生する過酸化水素と、その過酸化水素からさらに生成する活性酸素や次亜塩素酸がアンモニアと反応すると、モノクロラミンなどの組織障害性が強いフリーラジカルが生成されて、胃粘膜傷害がさらに進行する。", "qas": [ { "question": "アンモニアと反応し、モノクロラミンなどのフリーラジカルを生成する成分を作るのは誰だ?", "id": "tr-683-05-000", "answers": [ { "text": "白血球", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリが酸性条件下で生き残るのはウレアーゼのどの特性のおかげなのか?", "id": "tr-683-05-001", "answers": [ { "text": "2種類の至適pH", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "細菌感染に対して過酸化水素を生産する体内細胞の名称は?", "id": "tr-683-05-002", "answers": [ { "text": "白血球", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘリコバクター・ピロリのゲノム中には、「cagpathogenicityisland」と呼ばれる領域があり、IV型分泌装置関連遺伝子など30種余りの遺伝子がこの領域に含まれている。英語:Cytoxin-associatedgeneAantigen(CagA)はこの領域に含まれる遺伝子の一つ、cagA遺伝子(cytotoxin-associatedgeneA)から産生されるタンパク質である。cagA遺伝子を持つピロリ菌株に感染した場合、持たない菌株の感染よりも消化性潰瘍や胃癌になるリスクが高い。東アジア型の菌株の大半がcagA遺伝子を持つ一方で、西洋型菌のCagA保有率は50%程度であり、胃癌発生率の地域差と相関している。\n\n胃の粘膜に取り付いたヘリコバクター・ピロリは、IV型分泌装置を通してCagA蛋白を細胞内に注入する。注入されたCagAは宿主細胞内でリン酸化を受け、これまでに少なくとも細胞分裂と細胞接着に影響を及ぼすことが分かっている。", "qas": [ { "question": "IV型分泌装置関連遺伝子など30種余りの遺伝子が含まれたヘリコバクター・ピロリのゲノム内の領域はどこですか?", "id": "tr-683-06-000", "answers": [ { "text": "「cagpathogenicityisland」", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリがCagA蛋白を細胞内に注入する際に使うものは何でしょう?", "id": "tr-683-06-001", "answers": [ { "text": "IV型分泌装置", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヘリコバクター・ピロリは、ヒトの萎縮性胃炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍などの炎症性の疾患、胃癌やMALTリンパ腫(粘膜関連リンパ組織に生じるBリンパ腫。MALT:Mucosa-Associated-Lymphoid-Tissue)、びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫などのがんの発症と密接に関連した病原細菌である。国際がん研究機関が発表しているIARC発がん性リスク一覧では、グループI(発がん性がある)に分類されている。ただし疾患が現れるのは、保菌者の約3割程度であり、残りの7割の人は持続感染しながらも症状が現れない健康保菌者(無症候キャリア)だと言われている。\n\nまた反対に、人体におけるヘリコバクター・ピロリの存在メリットについての研究もなされており、小児ぜんそく、アレルギー性鼻炎、皮膚アレルギーなどの疾患リスクがヘリコバクター・ピロリの感染者の方が低いと言う報告もある。", "qas": [ { "question": "ヘリコバクター・ピロリ保菌者の症状がでる人とでない人で多い方の割合は?", "id": "tr-683-07-000", "answers": [ { "text": "7割", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "IARC発がん性リスク一覧でヘリコバクター・ピロリはどこに分類されますか?", "id": "tr-683-07-001", "answers": [ { "text": "グループI", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘリコバクター・ピロリが、宿主であるヒトの胃に感染した場合、それが初感染のときには急性の胃炎や下痢を起こす。ほとんどの場合はそのまま菌が排除されることなく胃内に定着し、宿主の終生にわたって持続感染を起こす。持続感染したヒトでは萎縮性胃炎・胃潰瘍・十二指腸潰瘍のリスクが上昇する。\n\n胃の表面では粘膜上皮細胞を1mm程度の厚さで粘液層が覆っており、これが胃液に含まれる胃酸や、ペプシンなどのタンパク質分解酵素から上皮細胞を守る役割を担っている。胃内に侵入したヘリコバクター・ピロリは、鞭毛を使ってこの粘液層内部に泳いで移動し、菌体の表層にあるリポ多糖や外膜タンパク質などの分子の働きによって上皮細胞の表面に付着する。この粘液層の内部もまた酸性度の高い環境であるため、通常の細菌はそこに定着することはできないが、ヘリコバクター・ピロリの持つウレアーゼは粘液中の尿素を二酸化炭素とアンモニアに分解し、生じたアンモニアが粘液中の胃酸を中和することで酸による殺菌を免れる。殺菌を逃れた菌は粘液層で増殖する。また尿素から生じたアンモニアなどは尿素やヘミンなどの生体分子とともに、走化性因子として周囲の菌を呼び寄せ、粘液下層にヘリコバクター・ピロリの感染巣が形成される。この感染巣の部分で、ヘリコバクター・ピロリが作るさまざまな分解酵素の働きによって粘液層が破壊され、粘膜による保護を失った上皮細胞が傷害されて炎症が起きる。また菌が分泌するVacAなどの毒素やIV型分泌装置で上皮細胞に注入するCagAなどのエフェクター分子による上皮細胞の直接的な傷害や、細菌の感染に対して動員された好中球などの白血球による組織傷害なども加わって、炎症を増悪させる。", "qas": [ { "question": "ヘリコバクター・ピロリが胃内の移動経路として使われるものは、胃酸やタンパク質分解酵素から何を守るためのものですか?", "id": "tr-683-08-000", "answers": [ { "text": "上皮細胞", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリの感染巣が形成されるのはどこですか?", "id": "tr-683-08-001", "answers": [ { "text": "粘液下層", "answer_start": 501, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリの感染の時、組織傷害を起こす細胞は何ですか?", "id": "tr-683-08-002", "answers": [ { "text": "白血球", "answer_start": 691, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "またこれらの炎症性疾患が慢性化すると、胃癌や、MALTリンパ腫、びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫が発生するリスクも上昇する。炎症に続いて起こる組織修復が繰り返されることによって、細胞がん化のリスクが上昇することが、癌の発生原因の一つであると考えられている。また、ヘリコバクター・ピロリが産生するCagAなどの病原因子が、宿主細胞増殖を促進したり、アポトーシスを抑制することで、宿主細胞のがん化に関与している可能性も指摘されている。\n\nヘリコバクター・ピロリ菌の陽性者では、陰性者と比較して胃癌の発生のリスクは5倍となる。さらに、胃の萎縮の程度が進むと胃癌リスクも上昇し、ヘリコバクター・ピロリ菌感染陽性でかつ、萎縮性胃炎ありのグループでは、陰性で萎縮なしのグループと比較して胃癌の発生リスクは10倍となっている。\n\nヘリコバクター・ピロリ感染症とビタミンB12欠乏症の直接的な関連があり,除菌により血清ビタミンB12値が正常化することが知られている。", "qas": [ { "question": "組織修復が繰り返されることが発生原因となる病は何ですか?", "id": "tr-683-09-000", "answers": [ { "text": "癌", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリ菌の陽性者は陰性者と比較して胃がんの発生リスクは何倍ですか?", "id": "tr-683-09-001", "answers": [ { "text": "5倍", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリ菌と共に胃がんのリスクを高める要因は何ですか?", "id": "tr-683-09-002", "answers": [ { "text": "萎縮性胃炎", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "胃炎治療のために除菌治療を行った人の一部で逆流性食道炎の発生や、それに伴う食道がんのリスクが増加する可能性が報告されている。しかし、多施設二重盲検無作為コントロール試験による最近の調査ではリスク増加が否定されるなど、この現象についてはまだ一致した見解が得られていない。\n\n胃内にヘリコバクター・ピロリを持たない人や除菌治療を行った人では、胃酸の分泌が過剰となって胃内の酸性度が増し、逆流した胃液が食道組織を傷害して、一過性の逆流性食道炎やバレット食道を生じることがある。バレット食道は食道腺癌の前段階の病変として現れることも知られている。ただし、この逆流性食道炎は一過性のもので、生涯にわたって増悪するかどうかについては否定的な専門家が多い。また除菌時にみられるバレット食道の多くは病変が短いタイプのもの(SSBE;ShortSegmentBarrettEsophagus)であり、このタイプの発生と食道腺癌発生のリスクについても統一した見解は得られていない。\n\n食道に対する知見から、ヘリコバクター・ピロリの持続感染は、胃がんとは逆に、食道がんのリスクを低下させているのではないかという考えも提唱された。本菌はもともと宿主と共生関係にある常在細菌の一種であり、胃酸分泌のコントロールによって食道の疾患予防に貢献していると考えている研究者も存在する。人間の胃内のpH調整機構そのものが、本来常在細菌であったヘリコバクター・ピロリによる胃酸中和の存在を前提とした形で進化を遂げているのだと主張している。", "qas": [ { "question": "多施設二重盲検無作為コントロール試験によりリスク増加が否定された病名は何ですか?", "id": "tr-683-10-000", "answers": [ { "text": "食道がん", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリに対し除菌治療を受けて人から食道組織を傷害を起こすのは何ですか?", "id": "tr-683-10-001", "answers": [ { "text": "胃液", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "13C-尿素を含んだ検査薬を内服し、服用前後で呼気に含まれる13C-二酸化炭素の量を比較する。本菌に感染していると、そのウレアーゼによって胃内で尿素がアンモニアと二酸化炭素に分解されて、呼気中の二酸化炭素における13Cの含有量が、非感染時より大きく増加するため、間接的な診断ができる。検査薬服用の20分後の13C-二酸化炭素の上昇が2.4パーミル以上の場合に、本菌による感染があるものとするなどの基準値が設けられている。通常、除菌治療の効果判定の目的に施行されている場合が多い。\n\nヘリコバクター・ピロリが感染すると、本菌に対する抗体が患者の血液中に産生される。血液や尿を用いてこの抗体の量を測定し、ヘリコバクター・ピロリ抗体(血清Hp抗体)が高値であれば本菌に感染していることが認められ、ヘリコバクター・ピロリ感染の有無を検索するスクリーニング検査として簡便であるため、現在広く行われている方法である。尿を検体とする場合は判定が迅速で20分程度で判定が可能である。しかし、除菌後の抗体価低下には時間が掛かるため除菌後の検査や、一過性の感染既往による偽陽性が出やすい。\n閾値である10U/mLに近い陰性例(抗体価が3U/mL≦かつ<10U/mL)には、2割弱の偽陰性感染者が含まれることが明らかになってきており、日本ヘリコバクター学会が注意喚起を行っている。\n\n診断や研究用途に作られたヘリコバクター・ピロリに対する抗体を用いた抗原抗体反応による検査。この抗体が、生きた菌だけでなく死菌なども抗原(H.pylori抗原)として認識し、特異的に反応することを利用し、糞便中H.pylori抗原の有無を判定する。非侵襲的に本菌の存在を判定できるという長所がある。", "qas": [ { "question": "検査薬を用いて検査する場合、陽性判断の基準になる成分は?", "id": "tr-683-11-000", "answers": [ { "text": "3C-二酸化炭素", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "血液や尿を用いる検査で測るのは何の量ですか?", "id": "tr-683-11-001", "answers": [ { "text": "ヘリコバクター・ピロリ抗体", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "非侵襲的にヘリコバクター・ピロリを検査する検査法では何の有無によって判定しますか?", "id": "tr-683-11-002", "answers": [ { "text": "H.pylori抗原", "answer_start": 649, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "尿素とpH指示薬が混入された検査試薬内に、内視鏡的に採取した胃粘膜生検組織を入れる。胃生検組織中にヘリコバクター・ピロリが存在する場合には、本菌が有するウレアーゼにより尿素が分解されてアンモニアが生じる。これに伴う検査薬のpHの上昇の有無を、pH指示薬の色調変化で確認する。この検査によって本菌の存在が間接的に診断できる。\n\n組織切片をHE(ヘマトキシリン-エオジン)染色あるいはギムザ染色により染色し、顕微鏡で観察する。直接観察することによりヘリコバクター・ピロリの存在を診断できる。また、培養不能でウレアーゼ活性ももたないcoccoidformの状態でも診断できるという長所がある。\n\n胃生検切片からの菌の分離培養によって、ヘリコバクター・ピロリの存在を確認する。この検査法の長所は菌株を純培養し入手できる点であり、この菌株を薬剤感受性(MIC)測定や遺伝子診断など他の検査に利用することができる。欠点は、本菌は増殖速度が遅いために培養には3日から7日を要するため、この検査法をとると時間が掛かる点である。", "qas": [ { "question": "アンモニアの発生によりpHの上昇はあるか、ないか?", "id": "tr-683-12-000", "answers": [ { "text": "有", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヘリコバクター・ピロリ保菌者から、検査試薬を利用する検査法で菌が発見できない場合、菌はどんな状態だと予測されますか?", "id": "tr-683-12-001", "answers": [ { "text": "coccoidform", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "胃生検切片からの菌の分離培養し菌を確認する方法はどれくらいの時間がかかりますか?", "id": "tr-683-12-002", "answers": [ { "text": "3日から7日", "answer_start": 422, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヘリコバクター・ピロリの除菌は、発見と同時に始まっており、分離培養に初めて成功したマーシャルは、ただちに除菌治療に有効な薬剤の検討を開始している。初期にはビスマス製剤による除菌が試みられたが、単剤では効果が低かったため、アモキシシリンやチニダゾールといった抗生物質を組み合わせた2剤併用。さらにはメトロニダゾールを加えた抗生物質3剤による方法が開発された。この方法は古典的3剤併用療法と呼ばれ、改良を加えながら高い除菌率を得ることに成功したが、一方で副作用の問題が残された。\n\n初期のビスマス製剤を軸にした除菌療法は、抗生物質の種類を増やし、効果の上昇を狙ったものだった。抗生物質の活性は一般的にpH中性環境で最も高いため、プロトンポンプ阻害薬(PPI)などの酸分泌抑制薬を併用し、胃内環境を中性に近づける試みが行われた。この方法は一過性の胃酸過多による副作用を抑えられるという利点もあり、その後クラリスロマイシンの併用を加え、90%超という除菌率を達成した。これが新3剤併用療法であり、1週間という短期間の服用で高い効果を得られることから、現在の除菌療法のスタンダードとなっている。", "qas": [ { "question": "ヘリコバクター・ピロリを発見したのは誰ですか?", "id": "tr-683-13-000", "answers": [ { "text": "マーシャル", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マーシャルが開発した抗生物質3剤による除菌方法の名称は?", "id": "tr-683-13-001", "answers": [ { "text": "古典的3剤併用療法", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新3剤併用療法と古典的3剤併用療法の違いは何を併用することにありますか?", "id": "tr-683-13-002", "answers": [ { "text": "酸分泌抑制薬", "answer_start": 330, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "現在、日本で認可されている保険診療の対象となっている除菌療法は、カリウムイオン競合型アシッドブロッカー(P-CAB)またはプロトンポンプ阻害薬(PPI)と抗生物質2剤(アモキシシリン(AMPC)+クラリスロマイシン(CAM))を組み合わせた「(P-CABorPPI)+AMPC+CAM」の3剤併用療法で、3剤を7日間服用する。\n当初はプロトンポンプ阻害薬としてランソプラゾールのみが指定された。\nオメプラゾールとラベプラゾール、ボノプラザンも順次保険診療の対象となった。\nこの方法による除菌の成功率は80%程度とされてきたが、近年クラリスロマイシン耐性菌株が増え、除菌率が70%程度まで低下との報告もある。\nボノプラザン併用療法では、胃内pHをより高く維持できるため、一次除菌92.6%,二次除菌98.0%と既存PPIに比べ高率に除菌できた。\nクラリスロマイシン耐性菌株に対しては、ヨーグルトを併用し除菌の成功率が向上したとの報告がある。\nクラリスロマイシンは呼吸器感染症の治療に用いられることから、小児の耐性菌保有も見られる。\n前述の一次除菌療法にて除菌が失敗した場合、クラリスロマイシンをメトロニダゾール(MNZ)に変更し「(P-CABorPPI)+AMPC+MNZ」の3剤併用療法による二次除菌療法まで保険適応となっている。", "qas": [ { "question": "「(P-CABorPPI)+AMPC+CAM」3剤併用療法のPPIに日本で初めて認定された薬物は何ですか?", "id": "tr-683-14-000", "answers": [ { "text": "ランソプラゾール", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クラリスロマイシン耐性菌株に対して除菌成功率に効くものは何ですか?", "id": "tr-683-14-001", "answers": [ { "text": "ヨーグルト", "answer_start": 391, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一次除菌と二次除菌の間の期間については、一次除菌と二次除菌の期間の違いによる除菌成功率の差異の報告はないため、早く二次除菌を行おうとして一次除菌の結果判定を急ぐと、偽陰性や偽陽性が多くなり、不成功者を成功者と、成功者を不成功者などと判断してしまう恐れがある。除菌終了から1年以上経過した検査で陰性であったものが数年後に陽性になった場合は再感染を検討するが、再感染は稀であるため、基本的に除菌不成功者として二次除菌を行う。\n\nまた、二次除菌療法でも除菌が失敗した場合、三次除菌療法がいくつか提唱されている。「(P-CABorPPI)+AMPC+MNZ」の倍量投与・倍期間投与等や、またシタフロキサシン(STFX)、レボフロキサシン(LVFX)等を組み合わせた「(P-CABorPPI)+AMPC+STFX」「(P-CABorPPI)+AMPC+LVFX」の3剤併用療法等が行われたりするが、これらは保険診療の適応にはならない。\n\n一方で、小児に対する治療は、除菌後の再感染のリスクを考慮して除菌対象年齢を5歳以上としている。しかし、蛋白漏出性胃症や消化性潰瘍を反復するなど除菌治療が必要と判断された場合では5歳未満でも除菌治療が行われている。ただし、除菌治療に関する添付文書では「小児等への投与:小児等に対する安全性は確立されていない(使用経験が少ない)」となっており、治療が必要な場合には保護者に充分な説明を行い同意を得る必要がある。原則として年齢上限は定められていない。", "qas": [ { "question": "保険診療の適応は何次除菌までですか?", "id": "tr-683-15-000", "answers": [ { "text": "二次除菌", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "除菌対象年齢下限は何歳ですか?", "id": "tr-683-15-001", "answers": [ { "text": "5歳", "answer_start": 451, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "10.8決戦", "paragraphs": [ { "context": "10.8決戦(じってんはちけっせん)は、1994年10月8日に日本の愛知県名古屋市中川区のナゴヤ球場で行われた、日本野球機構セントラル・リーグ(以下「セ・リーグ」と表記)の中日ドラゴンズ(以下「中日」と表記)対読売ジャイアンツ(以下「巨人」と表記)第26回戦を指す通称である。\n日本プロ野球史上初めて「リーグ戦(公式戦・レギュラーシーズン)最終戦時の勝率が同率首位で並んだチーム同士の直接対決」という優勝決定戦であり、巨人が勝利しリーグ優勝を果たした。\n後述するように、日本社会の広い範囲から注目された事象である。", "qas": [ { "question": "10.8決戦で勝利したチーム名は何?", "id": "tr-684-00-000", "answers": [ { "text": "巨人", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "10.8決戦の数字の意味は何でしょうか?", "id": "tr-684-00-001", "answers": [ { "text": "10月8日", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本プロ野球史上初めて「リーグ戦(公式戦・レギュラーシーズン)最終戦時の勝率が同率首位で並んだチーム同士の直接対決」となった優勝決定戦で、対戦したのは巨人とどのチームですか?", "id": "tr-684-00-002", "answers": [ { "text": "中日ドラゴンズ", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1994年当時、セ・リーグ公式戦は各チーム26回戦総当りの130試合制で行われていた。\n同年の巨人は序盤から首位を快走していたが、8月25日から9月3日にかけて8連敗を喫するなどして勢いを落とす。\n対照的に中日は、優勝経験のある星野仙一を翌季から監督へ復帰させるプランが球団内部で台頭していたことから、前年2位で迎えた同年もAクラス(リーグ6球団中、上位3位以内)を維持していたシーズン中にもかかわらず、当時の監督である高木守道に「来季の契約をしない」旨を内示していた。\nこの件が却って監督・選手ともに「最後の花道を優勝で飾ろう」と一丸となって巻き返しに出た。\n9月18日から10月2日にかけては9連勝を記録し、試合終了時間の関係で「単独首位」の形となったこともあるなど、巨人を猛然と追い上げた。\n巨人と中日は9月27日と28日にナゴヤ球場でこのシーズン最後の対戦が組まれていたが、27日の試合は日本列島に接近していた台風の影響による悪天候で中止となり、予備日となっていた29日に順延となったが、その29日も今度は台風本体が東海地方に接近してまたも中止となり、結局同リーグは翌30日に29日に中止された両チームの第26回戦を10月8日(土曜日)に組み込むことを含めた「追加日程」を発表し、ここに「10.8」の試合が日程上登場したことから、この事象が始まった。\nなお、この時点で巨人と中日は66勝59敗0分(残り5試合)で並んでいた。", "qas": [ { "question": "高木守道の次に中日の監督にしようと名前が挙げられていた人物は誰?", "id": "tr-684-01-000", "answers": [ { "text": "星野仙一", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "台風で中止にならなければ、シーズン最後の巨人対中日はいつ行われる予定だったの?", "id": "tr-684-01-001", "answers": [ { "text": "9月27日", "answer_start": 355, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「10.8」の試合日程が発表された時点での巨人と中日の勝率はいくつでしたか?", "id": "tr-684-01-002", "answers": [ { "text": "66勝59敗0分", "answer_start": 594, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "巨人対中日のシーズン最終戦が2度も中止となった原因は何?", "id": "tr-684-01-003", "answers": [ { "text": "台風", "answer_start": 409, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "上記の追加日程発表後、巨人は3勝、中日は2勝1敗で10月6日を迎えた。\n巨人が明治神宮野球場でヤクルトスワローズ(以下「ヤクルト」)と、中日がナゴヤ球場で阪神タイガースとそれぞれシーズン129試合目を戦ったが、試合前時点では巨人が1ゲーム差の首位で、巨人の勝利・中日の敗北で巨人の優勝決定となる状況にあった。\n中日(対阪神)では、先発投手・山本昌の19勝目となる好投もあり、10-2と快勝であった。\n中日の大量リードのまま終盤にさしかかった際、下記のヤクルト対巨人の試合経過について、球場内に報じられる前にラジオ等で状況を把握した観客を中心におおいに沸き上がったという。\n巨人(対ヤクルト)では、「先発三本柱」のうち斎藤雅樹を先発、槙原寛己をリリーフに起用したが、7回に槙原が秦真司に3点本塁打を浴びるなどヤクルトに4得点を許し、6-2と逆転負けした。\nエース・岡林洋一を先発に立てたヤクルト側には「痛くもない腹を探られたくない」という事情もあった。\n同チーム選手会長であった秦は「(4日は)中日に勝ったのに、巨人に4連敗では野球ファンに申し訳ない。(中略)あとは8日に両チームに頑張ってもらうだけです」とコメントを残している。", "qas": [ { "question": "追加日程発表後、勝利の回数が最も多い状態で10月6日を迎えたチームはどこですか?", "id": "tr-684-02-000", "answers": [ { "text": "巨人", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シーズン129試合目の対戦で、阪神タイガースに勝利したのはどこのチーム?", "id": "tr-684-02-001", "answers": [ { "text": "中日", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "129試合目となる対戦で、4得点差で負けたチームはどこですか?", "id": "tr-684-02-002", "answers": [ { "text": "巨人", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "6日の試合が終了した時点で巨人・中日の両チームはともに129試合を消化し、勝敗数が69勝60敗で並んだ。\n両チームともに残り試合は10月8日の直接対決のみとなり、この試合に勝利したチームがセ・リーグ優勝を決定することになった。\n同率で並んだ2チームがレギュラーシーズン最終戦で直接対戦してリーグ優勝・日本シリーズ出場権を決めるケースはプロ野球史上初の出来事であり、現在もレギュラーシーズン公式戦(クライマックスシリーズなどのプレーオフは除く)でこのような状況は発生していない。\n当時の規則では引き分け再試合制を採用していたため、この試合が引き分けに終わった場合は再度の直接対決によってリーグ優勝を決定することになっていた。", "qas": [ { "question": "巨人と中日の130試合目となる試合日はいつ?", "id": "tr-684-03-000", "answers": [ { "text": "10月8日", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "10月8日直前の時点で、巨人と中日の勝敗数はいくつだったの?", "id": "tr-684-03-001", "answers": [ { "text": "69勝60敗", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1994年当時、試合が引き分けになった場合に採用されていた制度は何?", "id": "tr-684-03-002", "answers": [ { "text": "引き分け再試合制", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ホームチームで「追いついた」側の中日は監督の高木以下、当日も変わらず「ここまできたら勝つ」というように、普段通りの姿勢で臨むことを決めていた。\nビジターチームで「追いつかれた」側の巨人は、球場入りを控えた当日昼に宿舎にて行ったミーティングが、監督(当時)の長嶋茂雄が選手に対して「俺たちは勝つ」を連呼するという異例のものであった。\nさらに、中日の先発が予想された今中慎二を同シーズン唯一攻略した試合のビデオを前日に名古屋入りしてから繰り返し見せ、選手たちにイメージを植え付けた(今中は、同季ここまでの対巨人戦が5勝2敗1セーブポイント・防御率2.45、地元の対巨人戦では11連勝中であり「巨人キラー」と呼ばれた)。\nチーム内の雰囲気について松井秀喜は後年「覚えているのは僕から見て、落合さんや原さんの方が、もの凄く張り詰めた空気を持っていたことですね。(中略)(ミーティング後)みんな、凄く高揚してバスに乗り込んだんです」と述べている。\nなお、松井が述べた球場に行くバスに乗り込む際は、報道陣やファンが多く集まり、「(人並みを)かきわけるようにして」という状態であった。", "qas": [ { "question": "中日の先発として予想されていた選手は誰でしたか?", "id": "tr-684-04-000", "answers": [ { "text": "今中慎二", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "10月8日の巨人対中日の試合が行われた都市はどこだったの?", "id": "tr-684-04-001", "answers": [ { "text": "名古屋", "answer_start": 207, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "10.8決戦で巨人の監督を務めていたのは誰?", "id": "tr-684-04-002", "answers": [ { "text": "長嶋茂雄", "answer_start": 128, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "長嶋が「国民的行事」と呼んだ試合の盛り上がりは、取材に訪れた報道陣の多さや警備の厳重さにも表れた。\n報道陣について今中は後年、見覚えのない顔が多く、報道陣そのものの多さに驚いたこと、さらにその接し方も取材という感じではなく、「『頑張ってね、応援してるから』まるで一人のファンのように、話しかけられる」と述べている。\n球審を務めた小林毅二も、後年に報道陣の多さについて述べている。\n警備体制は過去の事例を踏まえ、巨人が試合に勝った場合等の中日ファンの乱入に備えた厳重なものであった。\n両チームが試合前練習を終えたグラウンドでは、試合開始までの間に9月の月間MVPに選出された大豊泰昭、山本昌の表彰が行われ、18:00の試合開始となった。", "qas": [ { "question": "試合開始前に大豊泰昭と山本昌が表彰されたものは何?", "id": "tr-684-05-000", "answers": [ { "text": "9月の月間MVP", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小林毅二は10.8決戦において何の役割を務めましたか?", "id": "tr-684-05-001", "answers": [ { "text": "球審", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中日の先発投手は、上記の巨人側、さらに上記引用10月8日付日経などの新聞の多くが「今中先発」を前提に分析・予想していたが、それが的中する形となった。\n巨人は槙原が先発した。\n1回裏に中日は先頭打者の清水雅治が右中間に二塁打を放つが、続く小森哲也が送りバントを試みるも空振りし、その際に二塁走者の清水が飛び出して巨人の捕手・村田真一の送球でタッチアウトした(記録は盗塁死)。\nその後小森が右前安打、3番の立浪和義が死球で一死一・二塁とチャンスを作るが、4番の大豊が二塁ゴロ併殺で無得点となった。\n大豊の打球はマウンドの槙原の横を速い球足で抜けるいわゆる「ピッチャー返し」の打球だったが、二塁ベース寄りに守っていた巨人の二塁手・元木大介がこれを正面で捕球し併殺とした。\nプルヒッターである大豊の打席時に一・二塁間を詰めて守るチームが多い中で敢えて二塁ベース寄りの位置で守った元木を当日のテレビ中継の解説をしていた達川光男と鈴木孝政は激賞した。\nこの日実況を担当した吉村功(東海テレビアナウンサー)は後に著書の中で「中日の1回裏の攻撃がすべてのような気がする」と語っている。", "qas": [ { "question": "1回表での先発は誰でしたか?", "id": "tr-684-06-000", "answers": [ { "text": "槙原", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1回裏での2番打者は誰だったの?", "id": "tr-684-06-001", "answers": [ { "text": "小森哲也", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "4番の大豊が打った球を捕えて無得点におさえた選手は誰ですか?", "id": "tr-684-06-002", "answers": [ { "text": "元木大介", "answer_start": 312, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2回表に巨人が落合博満のソロ本塁打と槙原の内野ゴロの間の三塁走者生還で2点を先制したが、その裏に中日は槙原に対して、4連続安打と外野手ダン・グラッデンの失策により同点に追いついた。\n巨人は、これを受けて投手を斎藤に交代した。\nこの時、地元・中日ファンの多いスタンドは総立ちとなった。\n斎藤はさらに続く無死走者一、二塁というピンチを今中のバント失敗(三塁封殺、記録は投手ゴロ)、一塁走者中村武志の走塁死(アウトカウントを間違えたという等で切り抜け、その後も変化球を低めに集めて打たせてとる投球で5回を1失点に抑えた。\nなお、ここで中村を刺す牽制球を投じた捕手の村田は前記の通り1回裏も小森のバントの動きで飛び出してしまった二塁走者清水を送球でアウトとし、ピンチ脱出に貢献している。", "qas": [ { "question": "2回裏では中日は何点を取得したか?", "id": "tr-684-07-000", "answers": [ { "text": "2点", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1回裏と2回裏で巨人のピンチを救った捕手は誰?", "id": "tr-684-07-001", "answers": [ { "text": "村田", "answer_start": 279, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2回裏の時点で槇原から交代した投手は誰?", "id": "tr-684-07-002", "answers": [ { "text": "斎藤", "answer_start": 104, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "3回表、巨人は松井のバントで二塁に送った走者を落合の適時打で還して1点を勝ち越した。\n今中は、味方が同点に追いついた直後に落合にこの適時打を打たれたショックが点差、イニングにかかわらず大きかった旨を述べている。\nなお、落合は3回裏に立浪のゴロを捕球の際に足を滑らせ、この回終了後負傷退場している。\nさらに巨人は、4回表に村田、ヘンリー・コトーの本塁打で2点を追加し、3点の点差をつけた。\n今中は4回裏の打順で代打を送られ降板した。\n中日の試合ぶりについて、原辰徳は「(試合が始まり)『これはいつものドラゴンズじゃないな』とすぐにわかった。彼らもプレッシャーを感じていたんですね」と、川相昌弘も「試合前、笑顔も見られた中日ナインでしたが、いざ試合が始まってみると緊張に縛られていたのはドラゴンズのほうでした」と振り返っている。\n10月12日付東京新聞(中日系列)19面12版のコラム「デスク発」は「ミスがあれだけ出れば大試合には勝てない」と評した。", "qas": [ { "question": "3回表と4回表で巨人は合計何点を取得しましたか?", "id": "tr-684-08-000", "answers": [ { "text": "3点", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "4回裏の時点で巨人は何点リードしていたの?", "id": "tr-684-08-001", "answers": [ { "text": "3点", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "3回裏で負傷退場してしまった選手は誰?", "id": "tr-684-08-002", "answers": [ { "text": "落合", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "5回表に巨人は松井の本塁打で1点を追加した。\nこれに対し中日は6回裏に彦野利勝の適時打で1点を返し、3点差のまま試合は終盤に入った。\n巨人は7回裏から桑田真澄を投入した。\n8回裏、中日は先頭打者の立浪が一塁にヘッドスライディングして出塁(内野安打)したものの、左肩を脱臼して負傷退場した(球団史上の位置づけ等)。\n走者を2人塁上に置いて「本塁打が出れば同点」という場面を作ったが無得点に終わった。\n9回表、巨人は先頭打者川相のバックスクリーン前への打球が本塁打と認められず、三塁打となり長嶋監督が抗議する場面があったが、すぐに切り上げ、結局追加点はなかった。", "qas": [ { "question": "松井がホームランを打ったのは何回の時だった?", "id": "tr-684-09-000", "answers": [ { "text": "5回表", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長嶋監督が抗議の対象とした三塁打を打ったのは誰?", "id": "tr-684-09-001", "answers": [ { "text": "川相", "answer_start": 210, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "8回裏の巨人の得点状況はどうだった?", "id": "tr-684-09-002", "answers": [ { "text": "無得点", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "9回裏二死後、小森が空振り三振に倒れて中日最後の打者となって、6-3で巨人の勝利で試合終了、リーグ優勝が決定した。\nニッカンによると、時刻は21時22分35秒であった(中断があったため、試合時間は3時間14分)。\n巨人側は、プロ野球の優勝決定に際してよく見られるように、マウンド付近で監督の長嶋を胴上げした後、グラウンドをまわった。\n中日側は、2006年刊行の『中日ドラゴンズ70年史』で、「この史上初の歴史的ゲームに参加する喜びに選手たちは燃え、全国のファンは堪能した」と位置づけている。\nなお、同書p.128「巨人戦名勝負編」にはこの試合については掲載されていない。", "qas": [ { "question": "巨人対中日の試合結果は何でしたか?", "id": "tr-684-10-000", "answers": [ { "text": "6-3", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "10.8決戦の試合時間はどれくらいありましたか?", "id": "tr-684-10-001", "answers": [ { "text": "3時間14分", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "当時巨人の「先発三本柱」と称された3人は、前述10月6日の試合で斎藤が先発で6イニング、槙原が0イニングを投げ、残る桑田は5日の試合に先発登板して8イニングを投げていた。\nこのうち斎藤、桑田については後述のように8日の時点で疲労が残っており、巨人の投手起用に注目が集まったが、巨人は「先発三本柱」を槙原-斎藤-桑田の順で継投させる総力戦で臨んだ。\nこれに対し中日は今中降板後、山本昌ら投手陣の「切り札」を温存する起用法をとった。\n落合は著書『プロフェッショナル』の中でこれを「意気込みの違い」と評しているが、山本昌は「(控え投手には)源治さんも佐藤もいる(注:佐藤は登板した)」「僕も(ブルペンで投球練習もしたし)投げたくなかったわけじゃありません」と述べている。", "qas": [ { "question": "巨人の「先発三本柱」と言われる3人の中で、5日と6日の二日間で最も多くの回を投げた選手は誰?", "id": "tr-684-11-000", "answers": [ { "text": "桑田", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "8日に臨んだ巨人の「先発三本柱」の順番で、2番目の投手は誰だった?", "id": "tr-684-11-001", "answers": [ { "text": "斎藤", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "なお、中日側から見た巨人の投手起用について、シーズンオフに中日の選手たちの話を聞いた山際淳司は「ドラゴンズ側にとっての問題は、どこで桑田が登板するか、ということだった。ドラゴンズの選手たちにいわせると、抑えの切り札として、桑田が最後にマウンドに上がってくるのがいやだった、という。(中略)点差はともあれ、ゲーム終盤の、集中力を要求される場面で桑田が本来の力を発揮したとき、攻めづらくなる......。」というエピソードを記している。\n前述のように斎藤は中1日、桑田は中2日での登板となった。\n登板を告げられた時の心境について斎藤は「中1日だったし、出番はないと思っていたけど、ブルペンで(中略)コーチが『おい、斎藤』と。思わず聞こえないフリをした」と述べている。\n桑田は試合前夜、長嶋監督から呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」といわれていたという。\n5日の前回登板時(先発)は、チームの指示で8日に備えるため、完封のかかった9回を回避、降板していた。\nただ、桑田は、後日、「(登板の準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)正直にいうと、怖かった。(中略)体は、疲れでバリバリ」と述べている。", "qas": [ { "question": "10.8決戦において、ドラゴンズ側が要注目していた巨人の投手は誰でしたか?", "id": "tr-684-12-000", "answers": [ { "text": "桑田", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当初、東海テレビは10月6日から9日まで同局主催で行われるゴルフトーナメントの東海クラシックの中継に人員を割くため、10月8日の試合は録画中継で対応する予定であったが、この試合に勝ったチームが優勝という状況となった10月6日の夕方に急遽生中継が決定した。\n吉村は東海クラシックでは10月8日の3日目と9日の最終日の実況を担当する予定であったが、3日目の実況を後輩の植木圭一と交代して「10.8決戦」の実況に臨んだ。\nただ、最終日の実況は当初の予定通り吉村が担当したため、吉村は野球とゴルフの両方の実況準備の為、生中継が決まった6日から2日間ほとんど睡眠がとれず、また8日の午前中も東海クラシックの会場である三好カントリー倶楽部で取材をした後で14時過ぎにナゴヤ球場に入ったという。\nさらに吉村は「10.8決戦」の実況を終えた後も名古屋市内のホテルで翌日の東海クラシックの実況の準備をしていたが、そのホテルが巨人の名古屋遠征時の定宿のホテルであったため、祝勝会の様子を見に降りていくとそこで落合と遭遇。\n吉村の部屋の番号を聞いた落合は祝勝会終了後に吉村の部屋を訪れて30分ほど2人で飲んだといい、その去り際に「勝ってよかった。もし、負けていたら俺は巨人を辞めるつもりだった。勝って本当に良かった。明日頑張って。」と言い残したという。\nこの中継に対応するため、フジテレビでは、当初この時間に放送する予定だった『幽☆遊☆白書』#101を10月15日、『平成教育委員会・北野先生も知らぬ(秘)奥の手下克上スペシャル!!』を10月29日の放送とした。", "qas": [ { "question": "10.8決戦は2日前に急遽生中継に決まったとされるが、本来はどのような対応をする予定だった?", "id": "tr-684-13-000", "answers": [ { "text": "録画中継", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "吉村が東海クラシックの3日目の実況を後輩と交代したのは、その日に何の実況を担当しなけらばならなかったからですか?", "id": "tr-684-13-001", "answers": [ { "text": "「10.8決戦」", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "10月6日の試合の通り、10月4日の中日戦、6日の巨人戦に勝ったヤクルトは8日の広島東洋カープ戦にも勝利し、横浜ベイスターズと同率5位(同率最下位)となった。これによりヤクルトと横浜が最下位を確定する最終直接対戦に臨んだ。\nこの試合は10.8決戦と同様に、9月30日にセ・リーグから発表された「追加日程」に含まれていたもので、同年のリーグ公式戦最終試合でもあった。\n10月9日に神宮球場で行われたヤクルト対横浜戦はヤクルトが2-1でサヨナラ勝ちした。\nこれによりヤクルトは阪神と並んで同率4位となり、横浜の最下位が確定した。\nなお、優勝した巨人と最下位横浜のゲーム差は9.0であった。", "qas": [ { "question": "同率5位でヤクルトと横浜が最下位争いをした試合はいつありましたか?", "id": "tr-684-14-000", "answers": [ { "text": "10月9日", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヤクルト対横浜戦の日程が発表されたのはいつですか?", "id": "tr-684-14-001", "answers": [ { "text": "9月30日", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1994年のリーグ公式戦最終試合は何対何戦でしたか?", "id": "tr-684-14-002", "answers": [ { "text": "ヤクルト対横浜戦", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1994年のセ・リーグ最下位のチームはどこですか?", "id": "tr-684-14-003", "answers": [ { "text": "横浜", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "監督の去就について、中日は最終戦の日程決定のとおりの事情があったが、中日スポーツの1面に高木監督の続投決定が掲載され、この試合終了までの時点までには、球団側は高木の慰留に努める旨表明していた。\nただ、一度は球団側が解任を通告した経緯もあり、辞意が固い旨報じられていた。\nなお、巨人についても、試合結果を報じる10月9日付ニッカンが長嶋の留任が確定的となった旨を書くなど、試合直前の時点では流動的な要素があった。\n高木は、上記ニッカン等でも報じられた予定のとおりに10月11日に球団側にシーズンの報告を行った際にオーナー(当時)の加藤巳一郎らからあらためて慰留を受け、13日に同オーナーとあらためて面会して留任が決まった。\n高木は、その間に選手会長(当時)の川又米利に電話する等して選手側の気持ちも確認したという。", "qas": [ { "question": "10.8決戦後、中日の監督は誰になると掲載されましたか?", "id": "tr-684-15-000", "answers": [ { "text": "高木", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "10.8決戦後、巨人の監督は誰になると報じられましたか?", "id": "tr-684-15-001", "answers": [ { "text": "長嶋", "answer_start": 165, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "夏のない年", "paragraphs": [ { "context": "夏のない年(なつのないとし、英:YearWithoutaSummer)とは、1816年に北ヨーロッパ、アメリカ合衆国北東部およびカナダ東部にて起こった、夏の異常気象(冷夏)により農作物が壊滅的な被害を受けた現象のことである。\nこの年の気候異常は太陽活動の低下と前年までの数年間、大火山の噴火が続いたことによる火山の冬の組み合わせにより引き起こされたと見る向きが大多数である。\n1815年のインドネシア中南部、スンバワ島に位置するタンボラ山の噴火は過去1600年間で最大規模である。\n歴史家のジョン・デクスター・ポストは「夏のない年」を「西洋において最後で最大の危機」と呼んだ。", "qas": [ { "question": "夏のない年とは何年に起こった現象を指していますか?", "id": "tr-685-00-000", "answers": [ { "text": "1816年", "answer_start": 38, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タンボラ山の噴火は何年に起こりましたか?", "id": "tr-685-00-001", "answers": [ { "text": "1815年", "answer_start": 188, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タンボラ山が位置する島は何ですか?", "id": "tr-685-00-002", "answers": [ { "text": "スンバワ島", "answer_start": 204, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タンボラ山が位置する国はどこですか?", "id": "tr-685-00-003", "answers": [ { "text": "インドネシア", "answer_start": 194, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1816年の気候異常はアメリカ北東部、カナダ東部および北ヨーロッパにおいて多大な影響を及ぼすことになった。\nアメリカ北東部やカナダ南東部は春から夏にかけての気候は比較的安定している。\n平均気温は20°Cから25°Cほどであり、気温が5°Cを下回ることは稀である。\n夏に雪が降ることは極めて稀であるが、5月に吹雪が起こることはある。\n1816年5月、霜が発生したため農作物の大部分が壊滅的な被害を受けた。\n6月にはカナダ東部およびニューイングランドにおいて、2つの大きな吹雪により多数の死者が出た。\n6月初めにはケベックにおいて30cmもの積雪が観測され、農作物が被害を受けた。\n夏に栽培される植物の大部分は霜がわずかに発生しただけでも細胞壁が破壊されてしまい、まして土壌が雪で覆われてしまえばなおさらである。\nこの結果、この地域では飢餓や伝染病が発生し死亡率が上昇した。", "qas": [ { "question": "アメリカ北東部の夏の平均気温はどれくらいですか?", "id": "tr-685-01-000", "answers": [ { "text": "20°Cから25°Cほど", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1816年6月にカナダ東部とニューイングランドで多数の死者が出た原因は何でしたか?", "id": "tr-685-01-001", "answers": [ { "text": "吹雪", "answer_start": 234, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1816年の6月初めに30cmも雪が積もったのはどこですか?", "id": "tr-685-01-002", "answers": [ { "text": "ケベック", "answer_start": 255, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1816年の6月初めにケベックでは何cmの雪が積もりましたか?", "id": "tr-685-01-003", "answers": [ { "text": "30cm", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "7月と8月にはペンシルベニア州の南にて湖や河川の凍結が観測された。\n気温の急激な変化が頻発し、わずか数時間で平年以上の気温である35°Cあたりから氷結するほどまで気温が低下することもあった。\nニューイングランド南部においては農作物はある程度は成長したが、トウモロコシや穀物の価格が急騰した。\n例えば、エンバクの価格は前年は1m3あたり3.4ドルだったが、これが1m3あたり26ドルまで上昇した。\n清(中国)においては特に北部で、寒さのために木々が枯れ、稲作や水牛も被害を受けた。\n残りの多くの農作物についても洪水によって壊滅した。\nタンボラ山の噴火によって季節風の流れが変化したため、長江で破滅的な大洪水が発生したのである。\nムガル帝国(インド)においては、夏の季節風の遅れにより季節外れの激しい雨に見舞われ、コレラが蔓延した。", "qas": [ { "question": "エンバクの価格は前年に比べていくらまで高騰しましたか?", "id": "tr-685-02-000", "answers": [ { "text": "26ドル", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タンボラ山の噴火により、何の流れが変化しましたか?", "id": "tr-685-02-001", "answers": [ { "text": "季節風", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前年のエンバクの価格は1m3あたりいくらでしたか?", "id": "tr-685-02-002", "answers": [ { "text": "3.4ドル", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムガル帝国に夏の季節風の遅れが原因で蔓延した疫病とは何ですか?", "id": "tr-685-02-003", "answers": [ { "text": "コレラ", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "徳川家斉の治世下にあった日本では、この年(文化13年)は江戸四大飢饉に匹敵する程の大規模な飢饉を引き起こす事態が発生しなかった為、一般には「夏のない年」の日本に与えた影響は小さかったとされており、時に「影響は存在しなかった」とさえ言われる場合もあるが、歴史的事実としては全国的には冷夏が記録され、9月に四国・東海・関東で暴風雨と洪水が頻発し、東北地方は凶作、静岡(遠江国、駿河国、伊豆国)は不作となった。\n静岡における記録では小田原藩の本領地(相模国、伊豆国、駿河国)ではこの年のみ年貢米の収量が激減しており、新城や島田では不作に伴う年貢米減免を訴える一揆や強訴が発生している。\n影響は広範囲に及び、翌年以降も続いた。\n1817年の冬は特に厳しく、気温が-32°Cまで低下したこともあった。\nアッパー・ニューヨーク湾は凍結し、ブルックリン区からガバナーズ・アイランドまで馬そりで渡ることができた。\n日本でもこの年(文化14年)も8月に九州で暴風雨と高潮、関東で干魃による凶作、冬は関東と甲府で降雪率(冬季全体日数に対する雪日数の比率)が江戸期で最大の値を記録する(ただし、弘前では減少に転じる等地域差が見られた)等、各地で異常気象が相次いだ。\nしかし、前年の凶作や異常気象も含めて大規模な飢饉に発展しなかったのは、天明の飢饉を教訓としたサツマイモをはじめとする救荒食の普及が各地で進んでいた事や、松平定信が寛政の改革で提示した藩政改革が各地の藩に広まっていた事の二点が功を奏した結果と考えられている。", "qas": [ { "question": "日本の文化13年は誰が治めていましたか?", "id": "tr-685-03-000", "answers": [ { "text": "徳川家斉", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "寛政の改革を行った人は誰?", "id": "tr-685-03-001", "answers": [ { "text": "松平定信", "answer_start": 598, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1817年の冬、ニューヨークでは何°Cまで気温が下がりましたか?", "id": "tr-685-03-002", "answers": [ { "text": "-32°C", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1817年代に日本で普及が広がっていた救荒食とは何でしたか?", "id": "tr-685-03-003", "answers": [ { "text": "サツマイモ", "answer_start": 568, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "現在では一般的に、1816年の気候異常は前年5月5日から同月15日までのタンボラ山の噴火により引き起こされたと考えられている。\n過去1600年間で最大規模の噴火であり、火山爆発指数ではVEI=7に分類されている。\n噴火により莫大な量の火山灰が大気中に放出された。\nタンボラ山の噴火が起こった時期が、太陽活動が低かったダルトン極小期(1790年-1830年)であったことも重要である。\n同時期に発生した大規模な噴火は以下の通り。\n1812年にカリブ海セントビンセント島のスフリエール山が噴火した。\n1812年にインドネシアサンギヘ諸島のアウ火山が噴火した。\n1813年に現在の鹿児島県鹿児島郡十島村の諏訪之瀬島が噴火した。\n1814年にフィリピンルソン島のマヨン山が噴火した。\nこれらの噴火により既に相当量の火山灰が大気中に放出されていた。\nこれにタンボラ山の噴火が加わり、大量の火山灰により太陽光が遮られたため世界的な気温の低下が引き起こされた。", "qas": [ { "question": "1815年に噴火したタンボラ山の火山爆発指数は何でしたか?", "id": "tr-685-04-000", "answers": [ { "text": "VEI=7", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アウ火山とマヨン山はどちらが後で噴火しましたか?", "id": "tr-685-04-001", "answers": [ { "text": "マヨン山", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スフリエール山と諏訪之瀬島はどちらが先に噴火しましたか?", "id": "tr-685-04-002", "answers": [ { "text": "スフリエール山", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アウ火山、諏訪之瀬島、マヨン山の中で真っ先に噴火したのはどれですか?", "id": "tr-685-04-003", "answers": [ { "text": "アウ火山", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "火山の噴火が続いたことにより、農作物の不作が数年間続いた。\nアメリカでは、「夏のない年」によってニューヨーク中部や中西部、西部への移住が進んだと多くの歴史家は見ている。\nヨーロッパでは、ナポレオン戦争が終結しつつあったが、今度は農作物の不作による食糧不足に苦しめられることになった。\nイギリスやフランスでは食料をめぐって暴動が発生し、倉庫から食料が略奪された。\nスイスでは暴動があまりにひどく、政府が非常事態宣言を発令するに至った。\n食糧不足の原因は、ライン川を始めとするヨーロッパにおける主要な河川の洪水をもたらした異常な降雨であり、1816年の8月には霜が発生した。\n2005年5月にBBCTwo(英国放送協会)で放送されたドキュメンタリーでは、スイスにおける1816年の死亡率は平年の2倍だったと推定しており、ヨーロッパ全体ではおよそ20万人もの死者が出たとしている。", "qas": [ { "question": "「夏のない年」によってヨーロッパ全体では何人もの死亡者が出ましたか?", "id": "tr-685-05-000", "answers": [ { "text": "およそ20万人", "answer_start": 367, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「夏のない年」によるスイスの1816年の死亡率は前年の何倍でしたか?", "id": "tr-685-05-001", "answers": [ { "text": "2倍", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "タンボラ山の噴火はハンガリーに茶色の雪を降らせた。\nイタリアでも同様で、1年を通して赤い雪が降った。\nこれらは噴火により大気中に放出された火山灰が雪に含まれたためと考えられている。\n清では、夏の異常な低気温により雲南省では稲作が壊滅的な被害を受け、広範囲にわたって飢餓が発生した。\n黒竜江省では、霜によって畑が壊滅的な被害が発生したことが報告され、徴兵から逃れる者もいた。\n国内でも南部に位置する江西省や安徽省においても夏に雪が降ったことが報告されている。\n台湾においても、新竹市や苗栗市で雪が降り、彰化市では霜が報告された。", "qas": [ { "question": "タンボラ山噴火の影響で、赤い雪が降った国はどこですか?", "id": "tr-685-06-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "清で夏でも雪が降ったのは江西省とどこですか?", "id": "tr-685-06-001", "answers": [ { "text": "安徽省", "answer_start": 202, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "タンボラ山噴火の影響で、茶色の雪が降った国はどこですか?", "id": "tr-685-06-002", "answers": [ { "text": "ハンガリー", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "新竹市、苗栗市、彰化市のある島はどこですか?", "id": "tr-685-06-003", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 229, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "噴火により大量の火山灰が大気中に放出されたことにより、この時期には壮大な夕暮れを見ることができた。\nジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの『チチェスター運河』(1828年)にも、この時期の薄い黄色の夕焼けが描かれており、有名である。\n似た現象は1883年のインドネシアクラカタウのラカタ島の噴火の後にも観測されており、1991年のフィリピンのピナトゥボ山の噴火の後にアメリカ西海岸においても、同様の現象が観測されている。\n馬の飼料として利用されるエンバクの不足により、ドイツ人の発明家のカール・フォン・ドライスは馬を使用しない新しい輸送方法を研究することになり、軌道自転車やベロシペードが発明されるに至った。\nこれらの乗り物は現代の自転車の原型である。", "qas": [ { "question": "『チチェスター運河』は誰による作品ですか?", "id": "tr-685-07-000", "answers": [ { "text": "ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベロシペードは現代の何という移動手段の原型となりますか?", "id": "tr-685-07-001", "answers": [ { "text": "自転車", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラカタ島とピナトゥボ山はどちらが先に噴火しましたか?", "id": "tr-685-07-002", "answers": [ { "text": "ラカタ島", "answer_start": 142, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『チチェスター運河』の見どころは何ですか?", "id": "tr-685-07-003", "answers": [ { "text": "夕焼け", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "農作物の不作により、ジョセフ・スミス・ジュニア一家はバーモント州ウィンザー郡シャロンからニューヨーク州ウェイン郡パルマイラへ移住せざるを得なかった。\nジョセフ・スミスはモルモン書を出版し、末日聖徒イエス・キリスト教会を設立することになる。\n1816年の7月、イギリスの小説家のメアリー・シェリーはジョン・ポリドリら友人とスイスで休暇をとっていたが、絶え間なく降り続く雨のため屋内にいることが多かった。\n一人一作ずつ怪談を書くことが提案され、シェリーが書いた作品は後に『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメシュース』(Frankenstein,orTheModernPrometheus)として発表された。\nポリドイが書いた作品は『ヴァンパイア』(TheVampyre)として発表されている(ディオダティ荘の怪奇談義)。\n詩人ジョージ・ゴードン・バイロンは夏のない年に触発されて詩『暗闇』を書いている。\nドイツの化学者のユストゥス・フォン・リービッヒは、子供の頃にダルムシュタットで飢餓を経験した。\nリービッヒは後に植物の栄養素について研究し、化学肥料を開発することになる。", "qas": [ { "question": "『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメシュース』の作者のフルネームは何?", "id": "tr-685-08-000", "answers": [ { "text": "メアリー・シェリー", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョージ・ゴードン・バイロンは何に影響されて『暗闇』を書きましたか?", "id": "tr-685-08-001", "answers": [ { "text": "夏のない年", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ヴァンパイア』の作者は誰ですか?", "id": "tr-685-08-002", "answers": [ { "text": "ポリドイ", "answer_start": 306, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『暗闇』の作者は誰ですか?", "id": "tr-685-08-003", "answers": [ { "text": "ジョージ・ゴードン・バイロン", "answer_start": 365, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2億5100万年前、最後のペルム紀(Permian)と中生代最初の三畳紀(Triassic)の間に、大量絶滅が起こった(P-T境界)。\n6550万年前、メキシコのユカタン半島付近に直径約10kmの巨大隕石が落下し、大量絶滅が起こった(K-T境界)。\n2700万年前、サン・フアン火山群(ラ・ガリータ・カルデラ)が大爆発を起こした。\n200万年前、イエローストーン(IslandParkCaldera、ハックルベリーリッジ・タフ)が大爆発を起こした。\n130万年前、イエローストーン(Henry'sForkCaldera、メサフォールズ・タフ)が大爆発を起こした。\n64万年前、イエローストーン(YellowstoneCaldera、ラヴァクリーク・タフ)が大爆発を起こした。", "qas": [ { "question": "サン・フアン火山群とイエローストーンはどちらが先に大爆発しましたか?", "id": "tr-685-09-000", "answers": [ { "text": "サン・フアン火山群", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イエローストーンが2回目に大爆発したのは何年前ですか?", "id": "tr-685-09-001", "answers": [ { "text": "130万年前", "answer_start": 225, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イエローストーンが最初に大爆発したのは何年前ですか?", "id": "tr-685-09-002", "answers": [ { "text": "200万年前", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イエローストーンが3回目に大爆発したのは何年前ですか?", "id": "tr-685-09-003", "answers": [ { "text": "64万年前", "answer_start": 282, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "9万年前、阿蘇山が大爆発(Aso4)を起こした。\n7万年前から7万5千年前にインドネシア・トバ湖の大噴火により気候が寒冷化し、ヴュルム氷期(7万年前-1万年前)へと突入したために総人口が激減した(トバ・カタストロフ理論)。\n2.6万年前、ニュージーランド・タウポ火山で大爆発を起こした(Oruanuieruption)。\n紀元前3123年、アルプス上空にアテン型小惑星が落下。\n破片が地中海一帯降り注ぎ、急激な気温の低下を引き起こした。\nこの時期には、シュメール文明でジェムデト・ナスル期が始まり、エジプトでもエジプト初期王朝時代が始まった。\n両地域で青銅合金の製造法が発見され、シナイ半島の銅山はエジプト王家の独占とされた。\nシュメールへの銅の供給地はバット遺跡である。\n紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動は、ギリシャ・サントリーニ島(Santorinicaldera)の大噴火が原因と考えられている(ミノア噴火)。", "qas": [ { "question": "トバ・カタストロフ理論では、何が原因で総人口が激減しましたか?", "id": "tr-685-10-000", "answers": [ { "text": "ヴュルム氷期", "answer_start": 63, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルプス上空にアテン型小惑星が落下したのはいつですか?", "id": "tr-685-10-001", "answers": [ { "text": "紀元前3123年", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "阿蘇山が大爆発したのはいつですか?", "id": "tr-685-10-002", "answers": [ { "text": "9万年前", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シュメールへの銅の供給地はどこでしたか?", "id": "tr-685-10-003", "answers": [ { "text": "バット遺跡", "answer_start": 327, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中国では二里頭文化(夏王朝)から二里岡文化(殷)に移行した(鳴条の戦い)。\n紀元前1200年の前1200年のカタストロフは、アイスランド・ヘクラ山の大噴火が原因と考えられている(Hekla3eruption)。\n535年から536年にかけての535年から536年の異常気象現象はインドネシア・クラカタウの大噴火と関連していると考えられている。\nヴァンダル戦争直後の異常気象。\n以後、東ローマ帝国と東ゴート王国が18年間に渡って戦争を行い、東ゴート王国が滅びたものの東ローマ帝国も国力を使い果たし、ランゴバルド人がイタリア半島を征服しランゴバルド王国を建国した。\n800年頃、パプアニューギニアのニューブリテン島・Dakatauaの噴火による影響でモンゴル高原では異常気象が頻発し、モンゴル高原は諸部族が割拠する時代に入り、モンゴル帝国が登場する舞台となった。\n9世紀に白頭山で噴火があったことが明らかになり、渤海滅亡との因果関係が指摘されている。\n915年(延喜15年)に十和田湖も過去2000年間で日本国内最大級の噴火をした。\n日本では承平天慶の乱が起こった。\n10世紀(969年±20年)に再び白頭山の天池(HeavenLake)は過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こし、火山灰は偏西風に乗って日本の東北地方にも降り注ぎ、白頭山苫小牧テフラ(B-Tm))として現在も確認出来る。\n1257年5月から10月にかけて、インドネシアのサマラス山で過去3700年間で最大規模(1883年に起きたクラカタウの噴火の8倍、1815年に起きたタンボラ山の噴火の約2倍)と推定される噴火が発生。\n中世ヨーロッパの記録文書によると、この噴火の翌年にあたる1258年の夏は異常低温で、大雨による洪水が頻発したことにより農作物が不作だったという記述が残されている。", "qas": [ { "question": "東ゴート王国を滅ぼしたのは何ですか?", "id": "tr-685-11-000", "answers": [ { "text": "東ローマ帝国", "answer_start": 191, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"1315年から1317年にかけてのヨーロッパでの大飢饉(1315年–1317年)はニュージーランド・タラウェラ山の五年間続いた火山活動(カハロア噴火)が引き起こしたと考えられている。\n1452年から1453年にかけてバヌアツの海底火山クワエの大噴火が複数回あり、1453年の5月にはコンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が滅亡した。\n日本では長禄・寛正の飢饉から応仁の乱に繋がり、戦国時代を迎えた。\n1600年2月19日にペルーのワイナプチナが噴火し、日本では9月15日に関ヶ原の戦いが起こった(慶長地震がこの前後に多発した)。\n翌1601年は、北半球で過去六百年間で最も寒冷化し、ロシアではロシア大飢饉が起こり動乱時代につながった。\n1783年から1784年にかけてアイスランドのラキ火山とグリムスヴォトンが噴火し、ヨーロッパに大きな災害をもたらし、フランス革命を引き起こした。\n日本では浅間山の噴火と天明の大飢饉が起こった。\n1945年、カムチャツカ半島のアヴァチン火山が大爆発した。\n1991年のピナトゥボ山の噴火はアメリカ、特に中西部や北東部で気象傾向に変調をもたらした。\n1993年の冬は異常に暖かかったが夏は涼しかった。", "qas": [ { "question": "1600年に日本で起こった戦は何ですか?", "id": "tr-685-12-000", "answers": [ { "text": "関ヶ原の戦い", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アヴァチン火山が位置する地理的場所はどこですか?", "id": "tr-685-12-001", "answers": [ { "text": "カムチャツカ半島", "answer_start": 424, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピナトゥボ山はいつ噴火しましたか?", "id": "tr-685-12-002", "answers": [ { "text": "1991年", "answer_start": 448, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラキ火山とグリムスヴォトンの噴火が引き起こした革命とは何ですか?", "id": "tr-685-12-003", "answers": [ { "text": "フランス革命", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "境界性パーソナリティ障害", "paragraphs": [ { "context": "境界性パーソナリティ障害は、境界型パーソナリティ障害、情緒不安定パーソナリティ障害とも呼ばれ、不安定な自己-他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害である。一般では英名からボーダーライン、ボーダーと呼称されることもある。旧来の疾患概念である境界例と混同されやすい。\n\n症状は青年期または成人初期から多く生じ、30代頃には軽減してくる傾向がある。自傷行動、自殺、薬物乱用リスクの高いグループである。治療は精神療法(心理療法)を主とし、薬物療法は補助的に位置づけられ副作用と薬物乱用に注意し慎重に用いられる必要がある。", "qas": [ { "question": "境界型パーソナリティ障害、情緒不安定パーソナリティ障害とも呼ばれ、不安定な自己-他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害は何ですか。", "id": "tr-686-00-000", "answers": [ { "text": "境界性パーソナリティ障害", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "境界型パーソナリティ障害の治療は何を主としていますか。", "id": "tr-686-00-001", "answers": [ { "text": "精神療法(心理療法)", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "境界型パーソナリティ障害の治療において、精神療法(心理療法)と薬物療法とどっちの方がメインなの?", "id": "tr-686-00-002", "answers": [ { "text": "精神療法(心理療法)", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "自傷行為の多くは心理的苦しみを軽減するために行われるが、自傷行為が発展し実際に自殺を招くこともあり、イギリスではBPD患者の60-70%が人生のある時点で自殺を試みると推計されている。アメリカの調査では、BPD全体での自殺完遂率は9-10%と極めて高いものとなっており、東京都立松沢病院の調査では、入院していた患者の退院後2年以内の自殺企図率は、うつ病や統合失調症の人が35%なのに対し、BPDでは67%と約2倍高いという結果であった。", "qas": [ { "question": "イギリスではBPD患者の何%が人生のある時点で自殺を試みると推計されているか。", "id": "tr-686-01-000", "answers": [ { "text": "60-70%", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカの調査では、BPD全体での自殺完遂率は何%に至るか。", "id": "tr-686-01-001", "answers": [ { "text": "9-10%", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東京都立松沢病院の調査では、入院していた患者の退院後2年以内の自殺企図率はうつ病とBPDとどちらの方がより高いか。", "id": "tr-686-01-002", "answers": [ { "text": "BPD", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "BPD患者の自殺企図の多くは大量服薬によるものである。他の精神疾患の患者の自殺企図でも、大量服薬のケースは55.4%と比較的多いのだが、自殺企図の動機として、他の精神疾患の患者が「重篤な幻覚や妄想」「社会適応上の悩み」「人生の破綻による自暴自棄」などであったのに対し、BPDでは「近親者とのトラブル、裏切りによるうつ状態」「居場所が無く追い詰められた危機感」などの対人面での“見捨てられ感”から行われるという違いがある。", "qas": [ { "question": "BPD患者の自殺企図の多くは何によるものか。", "id": "tr-686-02-000", "answers": [ { "text": "大量服薬", "answer_start": 14, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本での報告でも、BPDの患者の約50%はうつ病を併存しているという。しかしパーソナリティ障害を併存していない、単独のうつ病でも情緒の不安定さはみられる。通常BPDでの抑うつ症状は、大うつ病性障害の抑うつ症状とは異なるとされるが、対象飢餓、対人依存、傷つきやすい自己評価、無価値感・絶望感など共通点も多い。しかし単独のうつ病の場合、情緒の不安定さが最小のサポートで機能できるとされ、境界性パーソナリティ障害の基準にそぐわない部分も多い。\nまた若年期で発症したうつ病は、成人ほど良好な治療結果が得られないことが多く、軽度から中度のうつ病に関しては海外では精神療法が第一選択となっている。抑うつなどの症状に薬剤が著功しないからといってすぐに「パーソナリティ障害である」と結論づけることはできない。\nまた単極性うつ病の併病としてのパーソナリティ障害は、回避性、依存性、強迫性が多く境界性は少ないのだが、入院患者に限っては53%が境界性パーソナリティ障害と診断されたデータもある。入院環境での退行が関係し、うつ病患者が境界性パーソナリティ障害と誤診されているケースもあるとみられる。", "qas": [ { "question": "日本の報告では、BPDの患者の約何%がうつ病を併存しているといっていますか。", "id": "tr-686-03-000", "answers": [ { "text": "約50%", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "BPDは双極性障害との併存率が高い。特に双極I型障害に関しては約30%ほどと見られている。双極性障害(躁うつ病)の軽躁ないし躁状態の時は行動化が激しく、衝動性、気分の易変性、自殺企図の繰り返し、対人障害など症状も類似する。双極II型障害の場合はさらに鑑別がつきにくい。双極性障害の研究者アキスカルは、双極性障害の患者がしばしば境界性パーソナリティ障害と誤診されていると指摘した。近年BPDとの鑑別が困難な非定型の双極性障害が増加傾向にあり、それらの鑑別方法についても議論される処となっている。\n併存している場合でも、現在の状態が双極性障害に傾いているか、パーソナリティ障害に傾いているのか十分認識しておく必要がある。またアメリカの双極性障害研究者・臨床家達の間では、BPDを人格の問題ととらえ精神療法のみを行うべきではなく、気分障害ととらえ、精神療法と合わせ気分安定薬を使うべきという意見が大半をしめている。", "qas": [ { "question": "BPDと双極I型障害との併存率は約何%ですか。", "id": "tr-686-04-000", "answers": [ { "text": "約30%", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "皇太子裕仁親王の欧州訪問", "paragraphs": [ { "context": "皇太子裕仁親王の欧州訪問(こうたいしひろひとしんのうのおうしゅうほうもん)\nこの項目では、1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの6ヶ月間、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪を扱う。\n日本の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことであり、日本国内でも大きな話題となった。", "qas": [ { "question": "日本の皇太子が初めてヨーロッパ訪問をしたのは何年のことですか?", "id": "tr-687-00-000", "answers": [ { "text": "1921年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇太子裕仁親王は後の何天皇となりましたか?", "id": "tr-687-00-001", "answers": [ { "text": "昭和天皇", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇太子裕仁親王はどれくらいの期間欧州訪問しましたか?", "id": "tr-687-00-002", "answers": [ { "text": "6ヶ月間", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇太子裕仁親王は何月何日からヨーロッパ訪問をしましたか?", "id": "tr-687-00-003", "answers": [ { "text": "3月3日", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "明治期には皇族の外国留学や外遊が行われるようになり、「皇族が見聞を広めるため外遊を行うことが好ましい」とされた。\n皇太子嘉仁親王(大正天皇)は皇太子時代の当時に国内の行啓を数多く行い、韓国併合の3年前の1907年(明治40年)10月には皇太子の初の海外行啓となる韓国(大韓帝国)行啓を行った。\n皇太子嘉仁親王は欧米外遊を希望する詩作を行っており渡欧を希望していたが、韓国からの帰国後も新聞社説で皇太子外遊を歓迎する報道もなされたが、父親の明治天皇の反対により実現されなかった。\n裕仁親王をヨーロッパに外遊させるという計画は、1919年(大正8年)の秋頃から検討され始めた。\n裕仁親王は将来の天皇となる身であり、病身である父親の大正天皇の摂政となる可能性も高いと見られていた。\n裕仁親王に君主制各国の王室との交友を深めてもらい、見聞を広めてもらうという元老山縣有朋が提案したこの計画に、元老松方正義や西園寺公望、原敬首相も賛意を示した。", "qas": [ { "question": "皇太子嘉仁親王の初の海外行啓先はどこの国でしたか?", "id": "tr-687-01-000", "answers": [ { "text": "韓国", "answer_start": 92, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "皇太子嘉仁親王が初めて韓国に行ったのは何年ですか?", "id": "tr-687-01-001", "answers": [ { "text": "1907年", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "裕仁親王の父親は誰ですか?", "id": "tr-687-01-002", "answers": [ { "text": "大正天皇", "answer_start": 313, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "皇太子嘉仁親王の父親は誰ですか?", "id": "tr-687-01-003", "answers": [ { "text": "明治天皇", "answer_start": 219, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ところが一部では「父母在せば遠くに遊ばず」という『論語』の文句を引用して外遊に反対する動きがあった。\nまた大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬であるとの声や、長期に渡る旅行による裕仁親王の体への負担を懸念する向きや、さらに反日朝鮮人の襲撃を懸念する声もあった。\n1920年(大正9年)になると、母親である貞明皇后も洋行に懸念を示すようになった。\n節子皇后は女子教育の先覚者下田歌子を通じて祈祷師飯野吉三郎に、裕仁親王の洋行に関する「霊旨」への伺いを立てるほどであった。\nその後宮内大臣中村雄次郎が「洋行を行うべき」と進言し、8月4日には原首相が節子皇后に拝謁し、「一度は御洋行ありて各国の情況を御視察ある事尤も然るべし」という意見を伝えるとともに、「裕仁親王が父帝の名代を務めることが多くなってきたことが、洋行の際にはどうなるか」という懸念を伝えた。\n元老山縣は10月中の出発を考えていたが、宮中での協議は難航し、節子皇后の許可もなかなか下りなかった。\n節子皇后は下田を通じて原首相に懸念を伝えたが、その内容は「天皇(大正天皇)の病態が洋行中に急変するのではないか」ということであった。\n下田は節子皇后の不安を解消するためには侍医の「急変の心配がない」という診断が必要であると伝え、原首相もこの旨を元老山縣に伝達した。", "qas": [ { "question": "裕仁親王のは母親は誰ですか?", "id": "tr-687-02-000", "answers": [ { "text": "貞明皇后", "answer_start": 152, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「父母在せば遠くに遊ばず」という文句は何の書物に記されていますか?", "id": "tr-687-02-001", "answers": [ { "text": "『論語』", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "裕仁親王の洋行を行うべきだと進言した宮内大臣は誰ですか?", "id": "tr-687-02-002", "answers": [ { "text": "中村雄次郎", "answer_start": 242, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ところが東宮大夫濱尾新が洋行反対のための活動を開始した。\n浜尾は東宮御学問所総裁東郷平八郎元帥の反対意見を節子皇后に伝達し、盛んに宮中での運動を行った。\n元老らは節子皇后を説得したが許可は得られず、伏見宮貞愛親王に説得を依頼したが、元老で許可されないことを自分が申し上げても許可されないと断られた。\n元老松方は直接大正天皇を説得することも考えたが、大正天皇が風邪で病臥中であったため実現できなかった。\nまた、おりしも皇太子裕仁親王妃に皇族の久邇宮良子女王(香淳皇后)が内定したが、久邇宮家の色弱遺伝が判明した。\n元老山縣は皇太子妃内定の取り消しに動いたが、これも洋行問題とともに右派や反山縣派の憤激を買い、洋行反対と皇太子妃内定不変更が彼らの運動の旗印となった。\n1921年(大正10年)1月16日、中村宮相と松方元老は葉山御用邸で大正天皇に拝謁し、皇太子裕仁親王洋行の裁可を得た。\n中村宮相はその後沼津御用邸の裕仁親王を訪ね、親王も許可を喜んだ。\n原首相は内田康哉外相と加藤友三郎海軍大臣と協議し、2月中旬から下旬まで、軍艦に乗ってイギリスを経由してアメリカ合衆国に向かうという計画を中村宮相に伝えた。\nしかしこの頃から皇太子妃問題が表面化し、山縣元老や中村宮相に対する非難の声が高まっていた。\n2月10日には「皇太子妃は内定通り変更がない」という声明が行われたが(宮中某重大事件)、無所属の衆議院議員押川方義が「東宮御訪欧に就ての建議案」を提出する動きを見せた。\n原首相はこの動きを止めようとしたが、押川は説得に応じなかった。\nこの頃には洋行反対運動も表面化しており、黒龍会と浪人会を率いる内田良平や玄洋社の頭山満も反対者であった。\n2月11日には立憲政友会の田中善立衆議院議員を中心とする皇国青年会その他200人の「国民祈願式挙行団」が婚約の不変更と洋行延期の祈願式を行った。\n在野や議会内の反対派は活発な行動を行い、議会運営にも支障が出る状況となった。", "qas": [ { "question": "皇太子裕仁親王の婚約者として内定していた女性は誰ですか?", "id": "tr-687-03-000", "answers": [ { "text": "久邇宮良子女王", "answer_start": 220, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "欧州訪問の移動手段は何でしたか?", "id": "tr-687-03-001", "answers": [ { "text": "軍艦", "answer_start": 461, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1921年1月の時点で日本の首相だったのは誰ですか?", "id": "tr-687-03-002", "answers": [ { "text": "原", "answer_start": 425, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2月15日、宮内省告示第二号によって皇太子裕仁親王が3月3日から、ヨーロッパに外遊することが正式に公表され、随員も発表された。\n同日には赤坂氷川神社で「東宮殿下御外遊御延期祈願式」が行われ、代議士や内田らが参列した。\n2月17日、内田・頭山は元東京帝国大学(現東京大学)教授寺尾亨とともに宮内省を訪れ、洋行延期を奏上しようとしたが係員に受領を拒否された。\n同日、衆議院では押川や大竹貫一が皇太子洋行問題に関する秘密会を開催するよう各派と交渉を行ったが、各党各会派ともこの要求を拒否した。\n2月27日には西園寺公望元老の嗣子で、随員の一人と発表されていた西園寺八郎邸が洋行延期を唱える「抹殺社」を名乗る6人に襲撃され、八郎は軽傷を負った。\nこの日には東京大神宮で民労会による「東宮殿下御渡欧平安祈願式」、続いて黒竜会ら三千人による「聖上御平癒・東宮殿下御外遊延期祈願式」が開催された。\n内田はこれが最後の祈願式であると述べ、事実上延期運動を断念したものと受け止められたが、個人レベルでの洋行反対の動きは継続され、警視庁は各方面の警戒を行っていた。\n3月1日には浪人会が「御治定動かし難し」と決議し、延期運動から外遊時の平安を祈る動きに切り替えた。", "qas": [ { "question": "「東宮殿下御外遊御延期祈願式」はいつ行われましたか?", "id": "tr-687-04-000", "answers": [ { "text": "2月15日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「東宮殿下御外遊御延期祈願式」はどこで行われましたか?", "id": "tr-687-04-001", "answers": [ { "text": "赤坂氷川神社", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "西園寺八郎が軽傷を負った原因は、何者による襲撃を受けたからですか?", "id": "tr-687-04-002", "answers": [ { "text": "「抹殺社」", "answer_start": 291, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "外遊費用の総額は公表されなかったが、香取と鹿島の派遣費用として442万3000円が帝国議会の可決の元支出された。\n旅費については東京朝日新聞(現在の朝日新聞の前身)が「寄付金やレセプション代込みで総計1000万円以上になる」などと独自の推計を発表しているが、宮内省(現在の宮内庁)は「総体にて100万円」を出ないとこれを否定した。\nしかし東京朝日新聞はかえって「五大国の一たる日本帝国皇太子殿下の破天荒の御外遊には1000万円の費用は当然だ」とかえって宮内省を激励する報道を行った。\nさらに旅行先で叙勲するための勲章500個、贈答用の美術品300点も携行していた。", "qas": [ { "question": "旅行先で叙勲するため準備した勲章と美術品はどちらの方が数が多かったですか?", "id": "tr-687-05-000", "answers": [ { "text": "勲章", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "旅費についての発表をした新聞社はどこですか?", "id": "tr-687-05-001", "answers": [ { "text": "東京朝日新聞", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "予定では、警備や国際上の均衡などの配慮から、裕仁親王の公式訪問先はイギリスとフランスの2カ国のみとする予定であった。\nしかし在外公館や各国王室から訪問の要請が相次ぎ、出発後にも協議が行われていた。\n4月28日、宮内大臣牧野伸顕は内田外相に予定変更が困難であると回答し、訪問を要請していたベルギーへの通達を行ったが、ベルギー側はなおも訪問の要請を行った。\n5月9日には供奉長の珍田捨巳伯爵からもベルギー、オランダ、イタリアへの訪問を許可するよう要請があり、バッキンガム宮殿の歓迎会では駐英ベルギー大使が裕仁親王にベルギー訪問を直接要請することもあった。\nこれを受けて宮内省も予定変更に動き、5月17日には珍田伯爵がベルギー訪問決定を大使に伝えている。\nその後オランダ、イタリアへの訪問の予定が調整された。", "qas": [ { "question": "予定では何ヶ国のみの訪問予定でしたか?", "id": "tr-687-06-000", "answers": [ { "text": "2カ国", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベルギー、フランス、オランダの中で、最初から訪問予定だった国はどこですか?", "id": "tr-687-06-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イギリス、フランス、イタリアの中で、後日追加訪問となった国はどこですか?", "id": "tr-687-06-002", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 206, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2月18日、東宮御学問所は日程を繰り上げて終業式を挙行、この日をもって閉鎖される。\n22日より25日にかけて、巡遊奉告のため行啓し、伊勢神宮、神武天皇陵、橿原神宮、明治天皇陵、昭憲皇太后陵を参拝。\n3月1日には、宮中三殿参拝と、葉山御用邸滞在中の両親である大正天皇・貞明皇后への挨拶を済ませる。\n3月3日、横浜港において原首相、原内閣閣僚ら参列のもと出発式が行われ、午前11時30分に裕仁親王御召艦香取と供奉艦で旗艦鹿島による遣欧艦隊が出港した。\n両親の大正天皇と貞明皇后は小磯浜に出御し、出港を見送った。\n福井静夫は、この時国産戦艦を使用せずわざわざイギリスで建造した2戦艦によったのは日英同盟とイギリス王室、イギリス海軍に対するこの上ない好誼の現れであった旨を指摘している。\n浪人会は赤坂氷川神社で外遊平安祈願式を行い、代表が各神社に参拝して平安を祈願した。", "qas": [ { "question": "欧州訪問の移動に使用した軍艦はどこの国で建造されたものでしたか?", "id": "tr-687-07-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 276, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリス産の軍艦使用に対して指摘した人物は誰ですか?", "id": "tr-687-07-001", "answers": [ { "text": "福井静夫", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一行の艦隊は6日午前9時15分には最初の寄港地である沖縄県の中城湾に到着した。\n裕仁親王は与那原から那覇、首里を訪れ、さらに尚典侯爵邸で中学校生徒の唐手の演武を見学した。\nここで裕仁親王は沖縄県特産の「エラブウナギ(エラブウミヘビ)」に興味を示しており、同県出身の漢那憲和香取艦長に食べてみたいと話していた。\n漢那艦長は沖縄県知事川越壮介に連絡を取り、「エラブウナギ」を取り寄せて食卓に供した。\n裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。\n午後6時には中城湾を出港した。\n沖縄での滞在時間はほんの半日足らずであったが、昭和天皇の生涯にとってこの時が最初で最後の沖縄県訪問となった。\n艦内で裕仁親王は規則正しい生活を送り、御用掛山本信次郎海軍大佐にフランス語の教授を受け、空いた時間には甲板でゴルフや相撲に興じた。\n一方で山本大佐は、裕仁親王が西洋式のテーブルマナーを身につけておらず、音を立ててスープをすすったりナイフやフォークもうまく使えていないことに気がついた。\n山本大佐はフランス語授業の時間を利用して裕仁親王にテーブルマナーを教授し、裕仁親王もそれに素直に従った。", "qas": [ { "question": "最初の寄港地は何県にありましたか?", "id": "tr-687-08-000", "answers": [ { "text": "沖縄県", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "裕仁親王に西洋式のテーブルマナーを教えた人は誰ですか?", "id": "tr-687-08-001", "answers": [ { "text": "山本大佐", "answer_start": 442, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "裕仁親王にフランス語を教えていた人は誰ですか?", "id": "tr-687-08-002", "answers": [ { "text": "山本信次郎", "answer_start": 321, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "10日午前8時、裕仁親王の一行はイギリス領の香港に到着した。\n裕仁親王はレジナルド・スタッブス香港総督と香取艦上で会見し、その後イギリスの巡洋艦におもむき答礼を行った。\nこの香港が裕仁親王にとって最初の外国訪問となった。\n11日には閑院宮、総督とともに平服で香港島を巡遊し、午後には鹿島艦上に在留邦人を招いて余興が行われた。\n翌12日には青洲(英語名グリーン島)を自動車で巡遊した。\n13日に香取は香港を出発した。\n18日午前8時、一行は英領シンガポールに到着し、ローレンス・ギルマードシンガポール総督の歓迎を受けた。\n19日には市内を見学し、20日にはラッフルズ博物館(現在のシンガポール国立博物館)を訪れた。\n21日にはヨットでシンガポール島を一周している。\n22日午前9時にシンガポールを出港した。\n28日、一行はセイロン島(現:スリランカ)のコロンボに到着、初めて公式に上陸した。\n29日には特別列車で旧都キャンディを訪問し、寺院跡や博物館を訪れている。\n31日には海岸までのドライブやゴルフを楽しんでいる。\n4月1日午前9時、コロンボを出港した。", "qas": [ { "question": "香港の次に訪問した地はどこですか?", "id": "tr-687-09-000", "answers": [ { "text": "シンガポール", "answer_start": 221, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "一行が公式上陸した島はどこですか?", "id": "tr-687-09-001", "answers": [ { "text": "セイロン島", "answer_start": 360, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "3日には鹿島の機関室で汽罐が破裂する事故が発生し、機関兵3名が死亡した。\n殉難者1人あたり500円を遺族に送ることなり、4日午前9時、裕仁親王は水葬礼を起立して見送った。\n7日には香取でも汽罐破裂事故が発生し、機関兵2人が死亡し、2人が重傷を負った。\n8日午後2時半、水葬で送られる。\n裕仁親王は現場に行くと主張し、漢那艦長や鈴木美三機関長をあわてさせた。\n12日午前、兵員用の作業服で香取の事故現場を視察する。\n赤道付近の航海は両艦の配管に負担をかけ、さらに熱による火薬暴発の危険もあったため、漢那艦長は爆薬や砲弾の炸薬を海中投棄させた。\nまた侍医の高田寿は暑熱で体調を崩し、ポートサイド入港とともに船を降り、帰国途中のインド洋上で死亡した。\nしかし裕仁親王自身は扇風機や氷も使わず至って壮健であった。\n山本大佐や西園寺八郎は親王と相撲を取って幾度も親王を投げ飛ばしたものの、何度も立ち上がる親王にスタミナ負けするほどであった。\n15日、一行はイギリス領エジプトのポートサイドに到着した。\n16日、スエズ運河航行中に先行の鹿島が座礁し、離脱するまで5時間待機する。\n18日にはカイロに到着し、イギリスの特別高等弁務官エドモンド・アレンビー元帥の歓迎を受けた。\n裕仁親王はアレンビー元帥の案内により、ピラミッドの見物やムハンマド・アリー朝のスルタン・フアード1世との非公式会談を行っている。\n21日、カイロを発つ。", "qas": [ { "question": "3日と7日に起こった汽罐破裂事故で、より多くの死亡者が出たのはいつですか?", "id": "tr-687-10-000", "answers": [ { "text": "3日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "高田寿が体調を崩した原因は何ですか?", "id": "tr-687-10-001", "answers": [ { "text": "暑熱", "answer_start": 280, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "裕仁親王のピラミッドの見物案内を務めたのは誰?", "id": "tr-687-10-002", "answers": [ { "text": "アレンビー元帥", "answer_start": 536, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "24日、一行はマルタ島に到着した。\nマルタ島では当時海軍士官として勤務していたケント公ジョージとも面会し、夜には総督ハーバート・プルーマーの案内でオペラ「オテロ」を観劇している。\n25日、かつて地中海の闘いで戦没した第二特務艦隊隊員の墓を拝礼する。\n26日正午、マルタ発。\n30日、一行はジブラルタルに到着した。\n同地では寄港していたアメリカ海軍の司令官アルバート・パーカー・ニブラック中将の訪問を受け、海軍工廠の見学を行った。\nまたジブラルタル総督ホレイショ・スミス=ドリエン、ニブラック中将とともにノース・フロントの競馬場を訪れた。\nニブラック中将は親王らに馬の番号を書いた手製の馬券を渡し、裕仁親王に渡した番号の馬が一着になると、「正式ではないがとにかく賞金」として数枚のペニー銅貨を手渡した。\n裕仁親王が金銭を手にしたのはこのときが初めてであり、対処に困った親王は第三艦隊司令小栗孝三郎中将に銅貨を渡し、「こまったよ...あとでニブラック中将に返すように」と告げた。\n5月3日午前10時、ジブラルタル発。\nジブラルタル出航後は正式行事に出席することも増加するため、山本大佐と西園寺のマナー教授はいわば「特訓」ともいえるほどのものとなった。\nそのかいもあって裕仁親王は両名が安心するほどのマナーを身につけた。", "qas": [ { "question": "24日の夜に観劇したオペラの題目は何ですか?", "id": "tr-687-11-000", "answers": [ { "text": "「オテロ」", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マルタ島の次に訪問した地はどこ?", "id": "tr-687-11-001", "answers": [ { "text": "ジブラルタル", "answer_start": 144, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジブラルタルに寄港していたアメリカ海軍の司令官は誰でしたか?", "id": "tr-687-11-002", "answers": [ { "text": "アルバート・パーカー・ニブラック", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "5月7日午前11時10分、一行はイギリス本国のポーツマス近くのワイト島に到着し、駐英大使林権助や大西洋艦隊司令長官チャールズ・マッデン大将らの出迎えを受けた。\n一行はここで正式な上陸式典の行われる5月9日まで待つこととなった。\n翌5月8日、裕仁親王はマッデン大将の旗艦クイーン・エリザベスでの昼食会に招かれ、第一次世界大戦でドイツ海軍が降伏文書に調印した部屋などを案内された。\n9日午前8時50分、香取と鹿島はポーツマス軍港に到着し、午前10時10分にプリンス・オブ・ウェールズエドワード王太子(後のエドワード8世国王)が香取に乗船した。\n午前10時27分、裕仁親王とエドワード王子らは連れだって埠頭に上陸し、イギリス首都ロンドンに向かう宮廷列車に乗り込んだ。\n午後12時40分にロンドンのヴィクトリア駅に降り立った。\n駅ではヨーク公ジョージ(後のジョージ6世国王)やコノート公アーサー、首相代理などの政軍高官が出迎えた。\n儀仗兵閲兵の後、裕仁親王、閑院宮、珍田はヨーク公とともに宿舎であるバッキンガム宮殿に向かった。\n王妃メアリーとの面会の後、国王ジョージ5世との昼食会に出席した。\n歓迎行事は午後11時30分まで続いた。\n裕仁親王はこの際に国王に対する答辞を日本語で行ったが、「東京朝日新聞」が「殿下には最も大胆なる大声をもって」と評するほど大きな声であったという。", "qas": [ { "question": "一行がイギリス本国に到着したのは何月何日でしたか?", "id": "tr-687-12-000", "answers": [ { "text": "5月7日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エドワード8世国王の王太子の時の名前は?", "id": "tr-687-12-001", "answers": [ { "text": "プリンス・オブ・ウェールズエドワード", "answer_start": 226, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "王妃メアリーと面会した建物はどこですか?", "id": "tr-687-12-002", "answers": [ { "text": "バッキンガム宮殿", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "10日にはウィンザー城で歓迎行事が行われ、裕仁親王がヴィクトリア女王やエドワード7世国王の墓に献花を行った。\nその後裕仁親王はバッキンガム宮殿に戻ったが、部屋で休息していると突然国王王妃夫妻が訪れ、1時間ほど打ち解けて歓談するという一幕もあった。\n11日、ロンドン市による歓迎行事に出席する。\n裕仁親王はイギリス滞在中、最初の3日間はイギリス王室の賓客、続く5日間はイギリス政府の賓客、その後は非公式滞在という扱いであった。\n12日、裕仁親王はバッキンガム宮殿からウェストミンスターのチェスターフィールドハウスに移り、午後2時半にはナショナル・ギャラリーを観覧し、その後英国議会を訪れて、下院庶民院の議事と上院貴族院の儀礼を見学した。\n5月13日には在英邦人代表と面会し、その後大英博物館やイングランド銀行、ロンドン塔等を訪れた。\n裕仁親王はロンドン塔では武器類に興味を示したという。\nその後テムズ川を船でさかのぼってウェストミンスターに戻り、午後8時半からは日本大使館で裕仁親王主催、プリンス・オブ・ウェールズエドワード王太子を主賓とする晩餐会が開かれ、500名の貴賓が参列した。\n14日、裕仁親王ら一行は特別列車でオックスフォード大学に向かった。\nオックスフォードでは学内の見学を行った後、留学生から本の献上を受け、ボート競争を見学した後ロンドンに戻った。\n6時20分からはデイリーズシアターで『シビル』を観劇した。\nこの予定が告知されていたこともあり、観衆の3分の1が日本人であった。\n5月15日午前にはクランフォードでボーイスカウトの歓迎を受けた。\n午後にはデビッド・ロイド・ジョージ首相と官用別荘で昼食会を行い、午後のお茶の時間まで歓談を行った。\n16日には王立ケンリー基地を訪れ、ヨーク公とともに飛行ショーを観覧した。\n午後にはグリニッジ天文台や王立医学校の訪問を行った。\n17日にはオールダーショットの陸軍基地を訪問し、午後はサンドハースト王立陸軍士官学校や参謀大学を訪問し、陸軍参謀総長ヘンリー・ウィルソン元帥の歓待を受けた。\n裕仁親王は士官学校での中隊対抗試合のために優勝カップを贈呈し、裕仁親王の即位後には「日本天皇杯」と呼ばれた。", "qas": [ { "question": "イギリス王室の賓客とイギリス政府の賓客はどちらの方が期間が長かったですか?", "id": "tr-687-13-000", "answers": [ { "text": "イギリス王室の賓客", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "裕仁親王ら一行は14日の夜に何を観劇しましたか?", "id": "tr-687-13-001", "answers": [ { "text": "『シビル』", "answer_start": 599, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "裕仁親王はバッキンガム宮殿からどこの建物に移動しましたか?", "id": "tr-687-13-002", "answers": [ { "text": "チェスターフィールドハウス", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "14日に上映された『シビル』の観劇者の3分の1は何人でしたか?", "id": "tr-687-13-003", "answers": [ { "text": "日本人", "answer_start": 637, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "17日で公式日程は終了し、18日、裕仁親王の一行は特別列車でキングストン駅からスコットランドに向かった。\nイギリス政府はスコットランドの風物が裕仁親王にとって安らぎになると考え、またスコットランドの大貴族アソール公爵ジョン・スチュアート=マレーに裕仁親王の接遇を依頼することで、親王にイギリス貴族を知ってもらう機会になると考えていた。\n当初アソール公爵は日本人をよく知らないとして裕仁親王の接遇に難色を示していたが、ロイド・ジョージ首相の再三の説得もあり、この役目を引き受けた。\nなお、一部の供奉員は宿泊所の都合上同行せず、ロンドンに待機する。\n18日、ケンブリッジ大学に立ち寄る(政府国賓としての最後の行事)。\nジョセフ・タナー教授の「国王と臣民との関係」という講義を受け、名誉法学博士の学位を贈られる。\nトリニティ・カレッジで晩餐会の後、午後11時にケンブリッジを出発した。", "qas": [ { "question": "公式日程終了後、一行が向かった先はどこですか?", "id": "tr-687-14-000", "answers": [ { "text": "スコットランド", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "裕仁親王が欧州訪問した際のイギリス首相は誰でしたか?", "id": "tr-687-14-001", "answers": [ { "text": "ロイド・ジョージ", "answer_start": 208, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "18日のディナーはどこで行われましたか?", "id": "tr-687-14-002", "answers": [ { "text": "トリニティ・カレッジ", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "19日午前9時28分、エディンバラ着。\n公立慈善病院や王立高等学校を訪れた。\n王立高等学校でも名誉法学博士の称号を受けるなど歓迎された(20日)。\n裕仁親王は挨拶の最後に「もし校則が許すなら、今日の記念として次の月曜日(23日)を休校にして生徒達を喜ばせてほしい」と付け加え、校長が承諾すると、生徒達は帽子をとばすなどして歓呼の声を上げた。\nその後、エディンバラ大学においても名誉法学博士号が贈られる。\n5月21日、エディンバラ市でボーイスカウトの集会に参加した後、裕仁親王らはパース駅に向かった。\nパース駅ではアソール公爵が私兵や市民を動員して歓迎式典を行った。\n裕仁親王はパース駅からアソール公が保有するブレア城まで自動車で向かったが、村人の相次ぐ歓迎によって30マイル進むのに3時間もかかった。\n裕仁親王の寝室にブレア城の「赤の間」が用意され、アソール公爵家の領地でとれた産品が振る舞われた。\n5月23日に行われた別離の舞踏会は領内の村人達が普段着姿で参加し、公爵夫妻とステップを踏むという牧歌的なものであった。\n宴の最後には一同でスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(蛍の光)が歌われた。\n裕仁親王はアソール公爵家と領民の関係に強い印象を受け、二荒芳徳伯爵を通じて「時事新報」の後藤武男記者に次のような談話を伝えた。\n「私は今度の旅で、非常に感銘をうけたものが多かった。アソール公爵夫妻は実に立派な方々で...(中略)私は日本の華族や富豪たちが、アソール公爵のやり方をまねたならば、日本には過激思想などおこらないと思う。私のこの感想は、新聞電報でうってもかまいません。」。", "qas": [ { "question": "「オールド・ラング・サイン」は、日本では何という曲目として有名ですか?", "id": "tr-687-15-000", "answers": [ { "text": "蛍の光", "answer_start": 493, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "帰途、裕仁親王の一行はマンチェスターで市長主催昼食会に招かれた(25日)。\nこの席で裕仁親王は炭坑ストライキに同情をこめたスピーチをアドリブで行い、周囲を驚かせた。\n26日午後7時10分、裕仁親王の一行はロンドンに帰着した。\nそのままホテル・セシルで開催されたロンドン日本協会(ジャパン・ソサエティ)の奉祝会に参加した。\nこの会にはプリンス・オブ・ウェールズやヨーク公、閣僚や各国大使も参列した大規模なものだった。\n27日にはイートンを遊覧した後、バッキンガム宮殿で国王王妃夫妻との別れの午餐会に出席した。\nその後海軍記念日の行事やリージェンツ・パークでの在留邦人の祝賀会に参加した後、在英日本大使館で裕仁親王主催で晩餐会を開いた。\n28日、裕仁親王らは軍事参議院代表の祝辞を受けた後、日本人の祝賀会に出席し、翌日未明まで歓談に及ぶ。\n29日、オーガスタス・ジョン(王立肖像画家協会会頭)のアトリエにて肖像画を作成。\nサリーでゴルフプレイを観戦する。\n午後2時半には国王王妃夫妻らに見送られ、ヴィクトリア駅からロンドンを発って再びポーツマスに向かった。\n30日、香取と鹿島はポーツマスを出港し、フランスに向かった。", "qas": [ { "question": "市長主催昼食会はどこで行われましたか?", "id": "tr-687-16-000", "answers": [ { "text": "マンチェスター", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "裕仁親王の一行は何時にロンドンに帰って来ましたか?", "id": "tr-687-16-001", "answers": [ { "text": "午後7時10分", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サリーでゴルフプレイを観戦したのは何日のことでしたか?", "id": "tr-687-16-002", "answers": [ { "text": "29日", "answer_start": 368, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ノストラダムス", "paragraphs": [ { "context": "ミシェル・ノストラダムス(MichelNostradamus、1503年12月14日-1566年7月2日)は、ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人である。\nまた料理研究の著作も著している。\n日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。\n彼の予言は、現在に至るまで非常に多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしてきた。\n本名はミシェル・ド・ノートルダム(MicheldeNostredame)で、これはフランス語による。\nよく知られるノストラダムスの名は、姓をラテン語風に綴ったものである。\nしばしば、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもあるが、後述するように適切なものではない。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスが著した詩集は、日本では何と呼ばれている?", "id": "tr-688-00-000", "answers": [ { "text": "「ノストラダムスの大予言」", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノストラダムスの出身はどこの国?", "id": "tr-688-00-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503年にプロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学で教養科目を、モンペリエ大学では医学を、それぞれ学んだ。\n南仏でのペスト流行時には積極的に治療にあたり、後年にその時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム論』などを著した。\n他方で、1550年頃から占星術師としての執筆活動も始め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』などを著し、当時大いにもてはやされた。\n王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者たちの中にも彼の予言を賛嘆する者が現れ、1564年には、国王シャルル9世より「常任侍医兼顧問」に任命された。\nその2年後、病気により62歳で没した。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスが積極的にペストの治療にあたった場所はどこになりますか?", "id": "tr-688-01-000", "answers": [ { "text": "南仏", "answer_start": 78, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノストラダムスが国王シャルル9世から任命されたものは何?", "id": "tr-688-01-001", "answers": [ { "text": "「常任侍医兼顧問」", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノストラダムスが医学を学んだのは何大学?", "id": "tr-688-01-002", "answers": [ { "text": "モンペリエ大学", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノストラダムスが亡くなった原因は?", "id": "tr-688-01-003", "answers": [ { "text": "病気", "answer_start": 288, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ、翌年には3人の囚人の診察をした記録がある。\nそして、1546年に同じ南仏の都市エクスでペストが流行した時には、治療のために同市へと赴いた。\nこれについてノストラダムス自身は、エクスの議会(senat)と現地住民からペストの根絶を要請されたと語っている。\nそして、エクスの古文書館には、1546年6月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載された、エクス市の出納係ポール・ボナンの会計簿と、その際のノストラダムスの契約書が残されている。\n伝説では、この時ノストラダムスは、鼠がペストを媒介することに気付き、直ちに鼠退治を命じたという。\nまた、伝統的な治療法である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスが師事した医師は誰ですか?", "id": "tr-688-02-000", "answers": [ { "text": "ルイ・セール", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノストラダムスはペストが媒介する原因が何だと気付きましたか?", "id": "tr-688-02-001", "answers": [ { "text": "鼠", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エクス市の出納係とノストラダムスとの契約が記録された年は何年ですか?", "id": "tr-688-02-002", "answers": [ { "text": "1546年", "answer_start": 188, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その後ノストラダムスは、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス、以下「サロン」と略記)に落ち着き、1547年11月11日にこの地で未亡人のアンヌ・ポンサルドと再婚した。\nノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスが終生過ごした街の場所はどこ?", "id": "tr-688-03-000", "answers": [ { "text": "プロヴァンス州サロン・ド・クロー", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ノストラダムスの2回目の結婚相手は誰?", "id": "tr-688-03-001", "answers": [ { "text": "アンヌ・ポンサルド", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の開削事業に出資したりするようになる。\nこうした活動と並行して、翌1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。\n暦書は大変な評判となり、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手する。\n1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされている。\nそのわずか2か月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。\n『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされることが多いが、暦書の評判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もある。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスが開削事業に出資したのは何という運河ですか?", "id": "tr-688-04-000", "answers": [ { "text": "クラポンヌ運河", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の完全版は何巻まであるの?", "id": "tr-688-04-001", "answers": [ { "text": "10巻", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノストラダムスがサロンの名士としての活動と並行して、預言者として本格的に活動し始めたのは何?", "id": "tr-688-04-002", "answers": [ { "text": "著述活動", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1555年にノストラダムスを招待したのは国王アンリ2世ともう1人は誰?", "id": "tr-688-04-003", "answers": [ { "text": "カトリーヌ・ド・メディシス", "answer_start": 306, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、その会見内容は不明である。翌年にノストラダムスが書いたものをもとに、むしろ会見では予言能力を疑われるような不手際があったのではないかという指摘もある。\nカトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで自身の子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。\n四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。\nこの場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。\nしかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない。\nこの件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスはカトリーヌの四人の息子に対して四人の御子息はみな王になるという予言をしたが、その予言が当たらなかったとされる息子の名前は何?", "id": "tr-688-05-000", "answers": [ { "text": "エルキュール", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "三男アンリが初めて王になったのはどこの国でしたか?", "id": "tr-688-05-001", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 253, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮廷でのノストラダムスの予言の噂は、誰がまとめた報告書に書いてある?", "id": "tr-688-05-002", "answers": [ { "text": "ジョヴァンニ・ミキエリ", "answer_start": 297, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョヴァンニ・ミキエリは何年に報告書を完成させた?", "id": "tr-688-05-003", "answers": [ { "text": "1561年", "answer_start": 309, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1557年には『ガレノスの釈義』(後述)を出版した。\nノストラダムスは医師としての活動を縮小していたようだが、1559年の処方箋も現存している。\n1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。\n現代では、しばしばこれがノストラダムスの予言通りであったとして大いに話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった。\nなお、ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれしたため、1557年向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年を「世界的な平和(lapaixuniverselle)」の年と予言していた。", "qas": [ { "question": "アンリ2世が亡くなった年はいつ?", "id": "tr-688-06-000", "answers": [ { "text": "1559年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アンリ2世がノストラダムスの予言の通りに死んだと話題になったのは、実際いつだったか?", "id": "tr-688-06-001", "answers": [ { "text": "17世紀", "answer_start": 253, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アンリ2世が致命傷を負った馬上槍試合は、命を落とす約10日前の何月何日に行われた?", "id": "tr-688-06-002", "answers": [ { "text": "6月30日", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "医師活動を縮小していた時にノストラダムスが残した処方箋は何年のものですか?", "id": "tr-688-06-003", "answers": [ { "text": "1559年", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アンリ2世亡き後に王位に就いたフランソワ2世は病弱で、早くも1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。\n実際にフランソワ2世はこの年のうちに没し、ノストラダムスの名声は更に高まったようである。\nこのエピソードは、ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャーノやトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニらの外交書簡にも記載があるので、史実だったと考えられる。\nただし、この噂話についても、かなり尾ひれがついていたという指摘はある。\nなお、この頃のノストラダムス本人は、王侯貴族などの有力者を相手に占星術師として相談に乗っていたことが、現存する往復書簡からは明らかになっている。\n事実、1564年に依頼されて作成した、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子ルドルフのホロスコープも現存している。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスの予言で、1560年以内に死ぬと噂されていた王の名は?", "id": "tr-688-07-000", "answers": [ { "text": "フランソワ2世", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ノストラダムスがフランソワ2世の死を予言したことを記載したミケーレ・スリャーノはどこの大使だった?", "id": "tr-688-07-001", "answers": [ { "text": "ヴェネツィア", "answer_start": 134, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ノストラダムスが占星術としての依頼を受けて1564年に作成したのは誰のホロスコープですか?", "id": "tr-688-07-002", "answers": [ { "text": "ルドルフ", "answer_start": 346, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルドルフの父親の名前は何?", "id": "tr-688-07-003", "answers": [ { "text": "マクシミリアン2世", "answer_start": 335, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうした予言に対しては、前出のカトリーヌのように心酔していた有力者もいた。\n彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アラバの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる。\nしかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになっている。\nときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。", "qas": [ { "question": "シャルル9世の兄で王位に就いたの人の名前は?", "id": "tr-688-08-000", "answers": [ { "text": "フランソワ2世", "answer_start": 204, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使の名前は何かな?", "id": "tr-688-08-001", "answers": [ { "text": "ドン・フランセス・デ・アラバ", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランソワ2世の後を継いだ国王の名は?", "id": "tr-688-08-002", "answers": [ { "text": "シャルル9世", "answer_start": 221, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ノストラダムスは国王親子とサロンのランペリ城で会見をした。\nカトリーヌがモンモランシー公に宛てた書簡で言及しているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっている。\nそれによればノストラダムスは、モンモランシー公が90歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生きすることを予言したという(前者は3年後に公が75歳で没したことで外れ、後者はシャルルが10年後に23歳で没したことで外れた)。\n他方、ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行していた少年に関心を示し、国王親子のいないところで、その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲を当惑させたというエピソードもある。\nこの少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ4世としてフランス王位に就くことになった。\nこのエピソードが史実かどうかは定かでないが、パリ市民ピエール・ド・レトワルの日記(1589年)にも見出すことができる。", "qas": [ { "question": "モンモランシー公は、実際何歳まで生きましたか?", "id": "tr-688-09-000", "answers": [ { "text": "75歳", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "のちにフランス王位に就くとノストラダムスからの予言を受けた少年の名は何?", "id": "tr-688-09-001", "answers": [ { "text": "アンリ", "answer_start": 299, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ノストラダムスがシャルルに、モンモランシー公と同じだけ長生きすると予言した歳はいくつ?", "id": "tr-688-09-002", "answers": [ { "text": "90歳", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "13歳の時にノストラダムスから90歳まで生きると予言されたのは誰?", "id": "tr-688-09-003", "answers": [ { "text": "シャルル", "answer_start": 121, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医兼顧問」の称号を下賜したようである。\nなお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではない。\nまた、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これが唯一である。\n後にノストラダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エメ・ド・シャヴィニーが「アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世の顧問兼医師」と誇張して紹介していたこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮廷に出仕していたかの如くに書かれることもあるが、事実に反する。\n\n\nその後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようであり、1565年12月13日付の私信では、リウマチの症状のせいで21日も眠れないと述べている。\nただし、後述する『王太后への書簡』が1565年12月22日付なので、少なくともその時点では、手紙を書ける程度に症状が改善していたと推測されている。", "qas": [ { "question": "ジャン=エメ・ド・シャヴィニーは、ノストラダムスの何を務めていたか?", "id": "tr-688-10-000", "answers": [ { "text": "秘書", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ノストラダムスが顧問兼医師を務めたアンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世の中で、ノストラダムスに「常任侍医兼顧問」の称号を下賜したのは誰でしょう?", "id": "tr-688-10-001", "answers": [ { "text": "シャルル9世", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ノストラダムスが苦しんだ症状の中で、眠りを妨げたものは何ですか?", "id": "tr-688-10-002", "answers": [ { "text": "リウマチ", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "痛風とリウマチがある程度回復した時に書いた手紙は何と呼ばれている?", "id": "tr-688-10-003", "answers": [ { "text": "『王太后への書簡』", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。\n7月1日夜には秘書シャヴィニーに、「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる。\nノストラダムスは予兆詩で、自身がベッドと長椅子との間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りにベッドと長椅子の間で倒れているのを発見されたというエピソードが有名である。\nしかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、彼がベッドと長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、死んだノストラダムスを最初に確認したとされる長男セザールもそのようなことは語っていない。\nそもそも、当該の予兆詩は出版当時の文献が残っておらず、同年のイタリア語訳版との対照をもとに、現在知られている詩篇が大幅に改竄されている可能性まで指摘されている。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスが遺言書を書いたのはいつのこですか?", "id": "tr-688-11-000", "answers": [ { "text": "1566年6月", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ノストラダムスの死を一番始めに目撃したのは誰?", "id": "tr-688-11-001", "answers": [ { "text": "セザール", "answer_start": 258, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ノストラダムスが「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と話した相手は誰?", "id": "tr-688-11-002", "answers": [ { "text": "シャヴィニー", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノストラダムスが自身の死を予言した詩は何という詩?", "id": "tr-688-11-003", "answers": [ { "text": "予兆詩", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ノストラダムスは遺言書において、サロン市のフランシスコ会修道院付属聖堂の中でも、大扉と祭壇の間の壁面に葬られることを希望した。\n1582年に妻アンヌが亡くなった時にも、同じ場所に葬られたという。\n当時、教会などの建物に埋葬されることは珍しくはなかったが、他人から踏まれる床に葬られることで自身の謙譲さを示すという立場をとらなかったため、壁が選ばれたと指摘されている。\n当時、ノストラダムスは立った姿勢で葬られたという説もあるが、ノストラダムスの遺言書などにはそのような指示はなく、現在確認できる根拠からそれを裏付けることは出来ない。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスと同じ場所に葬られた妻の名は?", "id": "tr-688-12-000", "answers": [ { "text": "アンヌ", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ノストラダムス夫妻が葬られている建物は何?", "id": "tr-688-12-001", "answers": [ { "text": "フランシスコ会修道院付属聖堂", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランシスコ会修道院付属聖堂はどこに位置している?", "id": "tr-688-12-002", "answers": [ { "text": "サロン市", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後、フランス革命最中の1793年頃に墓は暴かれた。\n暴いたのはマルセイユ連盟兵で、当時、ノストラダムスの墓を暴くと不幸が訪れるという、ある種の都市伝説が存在していたことについて、好奇心から詮索しようとしたのだという。\n伝説ではノストラダムスの遺骸の首には、墓暴きのあった年の書かれたメダルが掛けられていたなどと言われるが、史実としての裏付はない。\nこの種の伝説の原型は、17世紀には既に登場していたという指摘もある。\nまた、それから半世紀と経たないうちに、暴いた者がエクスの暴動に巻き込まれ、死体が街灯に吊るされたという話が出回るようになったが、実態は不明である。", "qas": [ { "question": "ノストラダムスの墓を暴いたのは何者?", "id": "tr-688-13-000", "answers": [ { "text": "マルセイユ連盟兵", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノストラダムスの墓が暴かれた時に、フランスでは何が起こっていた?", "id": "tr-688-13-001", "answers": [ { "text": "フランス革命", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マルセイユ連盟兵がノストラダムスの墓を暴いたのはいつのことですか?", "id": "tr-688-13-002", "answers": [ { "text": "1793年頃", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後、19世紀初頭に当時のサロン市長のダヴィドが中心となって、ノストラダムスの遺骨が集められたが、あまり多くは集められなかったらしい。\nその後遺骨は市内のサン=ローラン参事会管理聖堂(LaCollégialeSaint-Laurent)の聖処女礼拝堂に改葬された。\nなお、ノストラダムスの遺言書でフランシスコ会修道院付属聖堂を埋葬場所に指定した箇所は、当初サン=ローラン参事会管理教会のノートルダム礼拝堂と書いた後で訂正されたものだった。\n現在もその礼拝堂は残っており、ノストラダムスの骨は壁の奥の壺に収められているというが、それが本当にノストラダムスの骨なのかどうか、疑問視する見解もある。", "qas": [ { "question": "19世紀初めにサロン市長を務めた人物は誰か?", "id": "tr-688-14-000", "answers": [ { "text": "ダヴィド", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "芥川龍之介", "paragraphs": [ { "context": "芥川龍之介は、日本の小説家だ。本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。\n\nその作品の多くは短編小説である。また、『芋粥』『藪の中』『地獄変』など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。『蜘蛛の糸』『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。\n\n東京市京橋区入船町8丁目(現・東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。\n\n生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町(現・東京都墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に叔父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族である芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていた。", "qas": [ { "question": "芥川龍之介の多くの小説は長編ですか、短編ですか。", "id": "tr-689-00-000", "answers": [ { "text": "短編", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『蜘蛛の糸』は誰が書きましたか。", "id": "tr-689-00-001", "answers": [ { "text": "芥川龍之介", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芥川が何歳の時、彼の母親が亡くなりましたか。", "id": "tr-689-00-002", "answers": [ { "text": "11歳", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "なお、「龍之介」の名前は、芥川が辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来すると言われているが、出生時刻については資料がないため不明である。戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。\n\n1898年、芥川は江東尋常小学校入学した。東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優等者」の賞状を受け、第一高等学校第一部乙類に入学した。1910年に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入る。同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭、土屋文明、渋沢秀雄らがいた。2年生になり一高の全寮主義のため寄宿寮に入るが、芥川は順応することはなかったという。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は第一高等学校一覧によると、1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている。1913年、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学した。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。", "qas": [ { "question": "芥川は「龍之助」と「龍之介」と、どっちの表記をより好みましたか。", "id": "tr-689-01-000", "answers": [ { "text": "「龍之介」", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "芥川は何年に東京帝国大学文科大学英文学科へ進学しましたか。", "id": "tr-689-01-001", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 407, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芥川はどの学校を卒業する時、「多年成績優等者」の賞状を受けましたか。", "id": "tr-689-01-002", "answers": [ { "text": "東京府立第三中学校", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東京帝大在学中の1914年2月、芥川は一高同期の菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』を刊行した。まず「柳川隆之助」の筆名でアナトール・フランスの『バルタザアル』、イエーツの『春の心臓』の和訳を寄稿したあと、10月に『新思潮』が廃刊にいたるまでに同誌上に処女小説『老年』を発表した。作家活動の始まりとなった。このころ、青山女学院英文科卒の吉田弥生という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。1915年10月、代表作の1つとなる『羅生門』を「芥川龍之介」名で『帝国文学』に発表した。", "qas": [ { "question": "同人誌『新思潮』は何年に刊行されたか。", "id": "tr-689-02-000", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "芥川の処女小説のタイトルは何ですか。", "id": "tr-689-02-001", "answers": [ { "text": "『老年』", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『羅生門』はいつ発表された作品ですか。", "id": "tr-689-02-002", "answers": [ { "text": "1915年10月", "answer_start": 208, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『羅生門』と『老年』と、どっちの方が先に発表されたの?", "id": "tr-689-02-003", "answers": [ { "text": "『老年』", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "芥川は、1916年には第4次『新思潮』を発刊したが、その創刊号に掲載した『鼻』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業した。卒論は「ウィリアム・モリス研究」だ。同年12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新宗教「大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する。そこで畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦(内田百閒によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。\n\n1918年の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)と澤木四方吉(『三田文学』主幹で西洋美術史家)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった。1919年(大正8年)3月、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年、同じように朝日新聞社に入社している。", "qas": [ { "question": "芥川の『鼻』を絶賛したのは誰?", "id": "tr-689-03-000", "answers": [ { "text": "漱石", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "芥川は何年に東京帝国大学文科大学英文学科を卒業したか。", "id": "tr-689-03-001", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芥川の卒論は何?", "id": "tr-689-03-002", "answers": [ { "text": "「ウィリアム・モリス研究」", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芥川の第二短編集は何?", "id": "tr-689-03-003", "answers": [ { "text": "『煙草と悪魔』", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1919年3月12日、芥川は友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文と結婚した。1921年2月、横須賀海軍大学校を退職し、菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となり、鎌倉から東京府北豊島郡滝野川町に戻る。同年5月には菊池とともに長崎旅行を行い、友人の日本画家・近藤浩一路から永見徳太郎を紹介されている。\n\n1921年には海外視察員として中国を訪れ、北京を訪れた折には胡適に会っている。胡適と検閲の問題などについて語り合いなどを行い、7月帰国。『上海遊記』以下の紀行文を著した。\n\nこの旅行後から次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを患う。1923年には湯河原町へ湯治に赴いている。作品数は減っていくが、このころからいわゆる「保吉もの」など私小説的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の『歯車』『河童』などへとつながっていく。\n\n1923年9月1日に関東大震災が発生し、各地で自警団が形成された。芥川も町会の自警団に、世間体もあり病身を押して参加した。随筆『大震雑記』やアフォリズム『或自警団員の言葉』に自警が言及される。また震災後の吉原遊廓付近へ芥川と一緒に死骸を見物しに出かけた川端康成によると、芥川は悲惨な光景のなかを快活に飛ぶように歩いていたという。", "qas": [ { "question": "芥川の妻の名前は何?", "id": "tr-689-04-000", "answers": [ { "text": "塚本文", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "芥川はいつ結婚したの?", "id": "tr-689-04-001", "answers": [ { "text": "1919年3月12日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "芥川はいつ横須賀海軍大学校を退職したの?", "id": "tr-689-04-002", "answers": [ { "text": "1921年2月", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "関東大震災はいつありましたか。", "id": "tr-689-04-003", "answers": [ { "text": "1923年9月1日", "answer_start": 361, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "芥川は1925年ごろから文化学院文学部講師に就任した。1926年、胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が高じ、ふたたび湯河原で療養した。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲の療養のため鵠沼の実家別荘に移住。2月22日、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せる。7月20日には東屋の貸別荘「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。夏休みに入り、比呂志、多加志も来る。7月下旬、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品『家を借りてから』『鵠沼雑記』、さらに『点鬼簿』を脱稿。堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山に通院する。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品『悠々荘』を脱稿。これは、震災前に岸田劉生が住み、震災後に建て直されて国木田虎雄が借りていた貸別荘を視察したときの経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。また、この間、斎藤茂吉、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寛らの訪問を受けている。元号が昭和に変わってから、妻子は田端に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の葛巻義敏と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている。", "qas": [ { "question": "芥川はいつから文化学院文学部講師に就任したの?", "id": "tr-689-05-000", "answers": [ { "text": "1925年ごろ", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1926年、芥川は胃潰瘍、神経衰弱、不眠症がひどくなったことで、どこで療養したの?", "id": "tr-689-05-001", "answers": [ { "text": "湯河原", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1927年1月、義兄の西川豊が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「物語の面白さ」を主張する谷崎潤一郎に対して、『文芸的な、余りに文芸的な』で「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話のない」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。このころ、芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている。\n\n芥川は7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。享年36〈数え年〉、満35歳没。服用した薬には異説があり、たとえば山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。同日朝、文夫人が「お父さん、よかったですね」と彼に語りかけたという話もある。戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。", "qas": [ { "question": "西川豊は何年に亡くなったか。", "id": "tr-689-06-000", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "西川豊の死因は何?", "id": "tr-689-06-001", "answers": [ { "text": "鉄道自殺", "answer_start": 32, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "芥川が書いた最後の作品のタイトルは何ですか。", "id": "tr-689-06-002", "answers": [ { "text": "『続西方の人』", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "芥川の命日・7月24日は河童忌と呼ばれる。当初は遺族と生前親交のあった文学者たちが集まる法要だったが、1930年の四回忌から「河童忌記念帖」として文藝春秋誌上で紹介され、この呼び名が定着した。以後17回忌まで毎年行われていたが、戦争のため中断する。戦後、再開されたが詳しい記録は残っていない。\n\n1976年の50回忌は巣鴨の慈眼寺で墓前祭、丸の内の東京会館で偲ぶ会が催された。この日は第75回芥川賞の贈呈式で、受賞した村上龍も花を手向けにきた。没後90年にあたる2017年からは田端文士村記念館が世話役となり、「河童忌」イベントを開催している。", "qas": [ { "question": "芥川の命日は何と呼ばれますか。", "id": "tr-689-07-000", "answers": [ { "text": "河童忌", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ジョゼフ・プリーストリー", "paragraphs": [ { "context": "ジョゼフ・プリーストリーは、18世紀イギリスの自然哲学者、教育者、神学者、非国教徒の聖職者、政治哲学者で、150以上の著作を出版した。気相の酸素の単離に成功したことから一般に酸素の発見者とされているが、カール・ヴィルヘルム・シェーレとアントワーヌ・ラヴォアジエも酸素の発見者とされることがある。その生涯における主な科学的業績として、炭酸水の発明、電気についての著作、いくつかの気体(アンモニア、塩化水素、一酸化窒素、二酸化窒素、二酸化硫黄)の発見などがあるが、最大の功績は「脱フロギストン空気」(酸素)の命名である。1774年夏、酸化第二水銀を加熱することによって、得られる気体が燃焼を激しくすることを発見し、その気体の中でネズミが長生きすることを発見した。当時フロギストン(燃素)説の時代であったので、「脱フロギストン空気」と考え、同年ラヴォアジエに話した。この気体が酸素である。この実験を追実験することによってラヴォアジエは燃焼の化学的プロセスを解明することになった。しかしプリーストリー自身はフロギストン説に固執し、化学革命を拒否したため、科学界で孤立することになった。", "qas": [ { "question": "ジョゼフ・プリーストリーの母国はどこなの?", "id": "tr-690-00-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「脱フロギストン空気」とは何を指すのですか。", "id": "tr-690-00-001", "answers": [ { "text": "酸素", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プリーストリーにとって科学は神学に不可欠な要素であり、一貫して啓蒙合理主義とキリスト教の融合を心がけていた。哲学的著作では有神論、唯物論、決定論の融合を試み、それを\"audaciousandoriginal\"(大胆で独創的)と称した。彼は自然界を正しく理解することで人類の進歩が促進され、キリスト教的千年王国が到来すると信じていた。言論の自由を強く信じ、宗教的寛容と非国教徒の平等な権利を主張、イングランドにおけるユニテリアン主義の確立に関与した。物議を醸す著作『誤りと迷信という古い建物を爆破して』を出版しフランス革命支持を表明したことで、政治的疑惑を引き起こした。国教会に扇動された群衆が彼の家と教会に押し寄せ火を放ったため、1791年にはロンドンに逃げ、さらにアメリカ合衆国への移住を余儀なくされた。晩年の10年間はペンシルベニア州ノーサンバーランド郡で過ごした。\n\n生涯を通じて学者であり教育者だった。教育学における貢献として、英文法に関する重要な著作を出版。歴史についての本では初期の年表を記載し、後世に影響を与えた。こういった教育目的の著作が最も出版部数が多かった。しかし、後々に長く影響を与えたのは哲学的著作である。影響を受けた哲学者としてジェレミ・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサーらがおり、彼らは一般に功利主義者と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "有神論、唯物論、決定論の融合を試み、それを\"audaciousandoriginal\"と称した学者は誰ですか。", "id": "tr-690-01-000", "answers": [ { "text": "プリーストリー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プリーストリーは晩年の10年間、どこで過ごしたか。", "id": "tr-690-01-001", "answers": [ { "text": "ペンシルベニア州ノーサンバーランド郡", "answer_start": 361, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プリーストリーの著作物のうち、一番多かったのはどの目的で書かれたものですか。", "id": "tr-690-01-002", "answers": [ { "text": "教育目的", "answer_start": 469, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プリーストリーはリーズ近郊のバーストールで、非国教徒の一家に生まれる。6人兄弟の長子で、父は布地の仕上げを仕事にしていた。母親の負担を軽くするため、1歳になったころに祖父に預けられたが、5年後に母が亡くなると、実家に戻された。父は1741年に再婚した。プリーストリーは子供ができないでいた裕福な叔父夫婦に育てられることになった。早熟であり、ウェストミンスター小教理問答の107の問答を4歳で全て暗唱してみせた。叔母は聖職者に向いていると考え、最良の教育を受けさせる方法を捜した。幼いころは地元の学校でギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語を学んだ。\n\n1749年ごろ重病を患い、一時は死を覚悟した。信心深いカルヴァン主義者として育ち、救済には回心体験が必須だと信じていたが、自分にそれがあったかという点では疑問を持っていた。この精神的苦痛からこれまでの信仰に疑問を持ち、神の選びを拒絶して万人救済主義を受け入れるようになった。そのため、一家の教会(IndependentUpperChapelofHeckmondwicke)の正会員となることを断わられた。\n\nその病気の後遺症で生涯「吃り(どもり)」が残った。そのため、聖職者となることを一旦は完全に諦めた。リスボンで貿易商を営む親戚に身を寄せることになり、フランス語、イタリア語、ドイツ語など様々な言語を学んだ。牧師GeorgeHaggerstoneに個人指導を受け、高等数学、自然哲学、論理学、形而上学を学んだ。教科書としてアイザック・ウォッツの著作、ヴィレム・スフラーフェサンデの著作、ジョン・ロックの著作を使ったという。", "qas": [ { "question": "プリーストリーの父は何年に再婚したか。", "id": "tr-690-02-000", "answers": [ { "text": "1741年", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プリーストリーの母は、彼が祖父に預けられてから何年後亡くなりましたか。", "id": "tr-690-02-001", "answers": [ { "text": "5年後", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プリーストリーが重病を患ったのはいつ頃ですか。", "id": "tr-690-02-002", "answers": [ { "text": "1749年ごろ", "answer_start": 273, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プリーストリーに高等数学、自然哲学、論理学、形而上学を教えた牧師の名前は何ですか。", "id": "tr-690-02-003", "answers": [ { "text": "GeorgeHaggerstone", "answer_start": 581, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プリーストリーは結局、神学の道に戻ることを決め、1752年にダヴェントリーの非国教徒向けアカデミーに入学した。既にかなりの書物を読破していたため、2学年を飛び越して進級することになる。猛勉強を続け、学校の寛大な雰囲気もあって、左翼よりの神学者となっていき、合理的非国教徒となっていった。教義や宗教的神秘主義を嫌い、自然界と聖書の合理的分析を信条とするのが合理的非国教徒である。\n\n後にこの点に関して最も影響を受けた著書としてデイヴィッド・ハートリーのObservationsonManを挙げている。これは心理学的、哲学的、神学的な論文であり、心の哲学を扱っている。ハートレーは宗教的「事実」や道徳的「事実」を科学的に証明することを目標としており、プリーストリーも同じことを生涯の目標とした。ダヴェントリーでの3年目、「あらゆる職業の中で最も高貴だ」とする聖職者になることを決意した。", "qas": [ { "question": "プリーストリーが1752年にダヴェントリーの非国教徒向けアカデミーに入学したのは何を勉強するためでしたか。", "id": "tr-690-03-000", "answers": [ { "text": "神学", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プリーストリーが合理的非国教徒になったことに最も大きい影響を与えた著書のタイトルは何ですか。", "id": "tr-690-03-001", "answers": [ { "text": "ObservationsonMan", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ObservationsonManを書いた人は誰なの?", "id": "tr-690-03-002", "answers": [ { "text": "デイヴィッド・ハートリー", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダヴェントリーでの3年目、プリーストリーは何になることを決意しましたか。", "id": "tr-690-03-003", "answers": [ { "text": "聖職者", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プリーストリーの伝記を書いたロバート・スコフィールドによれば、聖職者としての最初の任地はサフォーク州ニーダムマーケットだったが、これは本人にとっても会衆にとっても不幸なことだった。プリーストリーは都会生活と神学的討論に憧れたのに対して、ニーダムマーケットは単なる田舎町で神学討論などできるはずもなかった。彼の異端性が明らかになると、会衆は寄り付かなくなり、寄付も急落した。叔母は彼が聖職者になったら援助することを約束していたが、カルヴァン主義者でなくなってしまったことを知ると、援助することを断わるようになった。収入を得るため、学校を開設することを提案したが、地元民は彼の学校に子供を通わせるわけにはいかないと断わった。そこで\"UseoftheGlobes\"と題した一連の科学的講演を行って糊口をしのいだ。\n\nダヴェントリー時代の友人らの尽力もあり、1758年にチェシャー州ナントウィッチに移ることになり、以前よりは幸せになった。会衆は彼の異端性をそれほど気にせず、首尾よく学校を開設できた。当時の他の教師とは異なり、生徒に自然哲学を教え、実験器具まで買い揃えた。当時入手可能だった英文法の教科書の質に失望し、自らTheRudimentsofEnglishGrammarを書いた。独創的な英文法の説明(特にラテン語の文法と切り離した点が重要)により、20世紀の学者に「当時の最も偉大な文法家の1人」と評されることになった。その文法書を出版し、学校も成功すると、1761年、ウォリントン・アカデミー(WarringtonAcademy)から教師として招かれることになった。", "qas": [ { "question": "プリーストリーの伝記は誰によって書かれましたか。", "id": "tr-690-04-000", "answers": [ { "text": "ロバート・スコフィールド", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "TheRudimentsofEnglishGrammarの著者は誰なの?", "id": "tr-690-04-001", "answers": [ { "text": "プリーストリー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プリーストリーはニーダムマーケットからどこへ移りましたか。", "id": "tr-690-04-002", "answers": [ { "text": "チェシャー州ナントウィッチ", "answer_start": 381, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プリーストリーの任地はどこですか。", "id": "tr-690-04-003", "answers": [ { "text": "チェシャー州ナントウィッチ", "answer_start": 381, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1761年、プリーストリーはウォリントンに引越し、そこの非国教徒向けアカデミーで現代言語と修辞学の講師を務めるようになったが、好んで数学や自然哲学も教えた。ウォリントンにはすぐ馴染み、友人もできた。1762年6月23日、メアリー・ウィルキンソンと結婚した。1763年4月17日、娘が生まれ、叔母の名をとってサラと名付けた。\nウォリントン時代に出版した本は全て歴史関連である。彼は歴史を学ぶことが世俗的成功にも宗教的成長にも必須だと考えていた。科学とキリスト教の歴史を描くことで、人間性の進歩を明らかにすると同時に、逆説的に「原始キリスト教」が変質していった様を明らかにしようとした。", "qas": [ { "question": "プリーストリーがウォリントンに引越したのは何年のことですか。", "id": "tr-690-05-000", "answers": [ { "text": "1761年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プリーストリーの結婚相手は誰なの?", "id": "tr-690-05-001", "answers": [ { "text": "メアリー・ウィルキンソン", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プリーストリーの娘サラは何年生まれなの?", "id": "tr-690-05-002", "answers": [ { "text": "1763年", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プリーストリーが世俗的成功にも宗教的成長にも必須だと考えていた学問は何ですか。", "id": "tr-690-05-003", "answers": [ { "text": "歴史", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プリーストリーはEssayonaCourseofLiberalEducationforCivilandActiveLife(1765年、市民の積極的生活のための一般教育コースについて)やLecturesonHistoryandGeneralPolicy(1788年、歴史と政策についての講義)といった著作で、若者の教育が将来の実用的必要性を予期してなされるべきだと主張した。この考え方により、ウォリントンの向上心に燃える中流の生徒達に慣習に従わない教科課程の選択をさせるようになった。彼は古典言語よりも現代言語を推奨し、古代史よりも現代史を推奨した。歴史の講義は特に革命的だった。歴史を神の摂理として説く面と自然主義的に説く面を併せ持ち、歴史の研究が神の自然法の理解を促進したと主張した。さらにその千年王国的史観は、科学の発展と人間性の改善についての楽観主義と強く結びついていた。時代の変遷と共に世の中がよくなっていると信じており、歴史を学ぶことでそれを感じ、その進歩を進めることが可能になると考えていた。歴史の勉強は道徳的にも必須だと考えていたため、中流の女性の教育にも熱心だったが、これは当時としては非常に珍しいことだった。教育学者の中には、17世紀のジョン・ロックと19世紀のハーバート・スペンサーの間で最も重要なイギリスの教育作家としてプリーストリーを挙げる者もいる。", "qas": [ { "question": "EssayonaCourseofLiberalEducationforCivilandActiveLifeとLecturesonHistoryandGeneralPolicyとどっちの方が先に出版されたの?", "id": "tr-690-06-000", "answers": [ { "text": "EssayonaCourseofLiberalEducationforCivilandActiveLife", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "18世紀のウォリントンは知的刺激に満ちていて「北のアテナイ」とも呼ばれた。そんな中でプリーストリーも自然哲学への関心を深めていった。同じウォリントンの講師で友人のジョン・セドン(JohnSeddon)と共に、解剖学の講義をしたり温度についての実験を行ったりした。講師として多忙を極める中、電気学の歴史について執筆することを決意。友人からイギリスの主な電気研究者ジョン・カントン(JohnCanton)とウィリアム・ワトソン(WilliamWatson)を紹介され、当時イギリスを訪れていたベンジャミン・フランクリンにも会った。そして電気の歴史に含めたい実験を自分でやってみるよう勧められた。他者の実験を再現するうちに、さまざまな疑問がわき上がってきて興味をかきたてられ、結局自分でも新たな実験を考案することになった。なお、カントン、ワトソン、フランクリンとリチャード・プライス(RichardPrice)はプリーストリーの年表と電気の歴史の原稿に感銘を受け、彼を王立協会フェローに推薦。1766年にフェローとなった。", "qas": [ { "question": "「北のアテナイ」とはどこを指しますか。", "id": "tr-690-07-000", "answers": [ { "text": "18世紀のウォリントン", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1767年、700頁のTheHistoryandPresentStateofElectricityを出版し、高評価を得た。前半は1766年までの電気研究史で、後半は当時の様々な理論を解説し、今後の研究の方向性を示唆している。この後半部分には自身が新たに発見したことも書いており、木炭その他の電気伝導率を調べ、導体と不導体の間に中間の物質があることを示した。この発見はそれまで電気を通すのは水と金属だけだとされていた通説を覆すものだった。このような物質の電気的特性についての実験や化学変化における電気の効果についての実験は、プリーストリーが化学物質と電気の関係に興味を持っていたことを示している。帯電球を使った実験で、電気の力が万有引力のように逆2乗の法則に従うということを最初に提唱した。ただし、それを一般化したり発展させることはなく、フランスの物理学者シャルル・ド・クーロンが1780年代にクーロンの法則を定式化することになった。\n\nプリーストリーの自然哲学者としての強みは定量的なものよりも定性的な部分であり、電気を流した2つの点の間に「本当の空気の流れ」が生じるという観察を行ったがそれ以上定量的に実験することはなく、後に電磁気学を確立させることになるマイケル・ファラデーやジェームズ・クラーク・マクスウェルがその記述に興味を持つことになった。著書は電気の歴史についての定番として1世紀以上に渡って読まれた。電池を発明したアレッサンドロ・ボルタも、赤外線を発見したウィリアム・ハーシェルも、水素を発見したヘンリー・キャヴェンディッシュもプリーストリーのこの著書を読んでいる。HistoryofElectricityの一般大衆向けの版AFamiliarIntroductiontotheStudyofElectricity(1768)も出版した。", "qas": [ { "question": "TheHistoryandPresentStateofElectricityとAFamiliarIntroductiontotheStudyofElectricity、どっちの方が先に出版されたの?", "id": "tr-690-08-000", "answers": [ { "text": "TheHistoryandPresentStateofElectricity", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "プリーストリーの自然哲学者としての強みは定量的に近かったですか、定性的に近かったですか。", "id": "tr-690-08-001", "answers": [ { "text": "定性的", "answer_start": 447, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "理由は不明だが1767年、プリーストリーは一家でウォリントンからリーズに引越し、ミルヒル礼拝堂の聖職者となった。リーズで息子が2人生まれている。リーズでの数少ない友人として、ノース・ヨークシャーのキャッタリックで教区牧師をしていたテオフィルス・リンゼイ(TheophilusLindsey)がいる。後に「彼に相談せずに神学についての本を出版したことはない」と語っている。リーズ周辺には親戚もいたが、交流は見られない。Schofieldは彼が親戚から異端視されていたためではないかと推測している。この時期は毎年ロンドンに出かけて友人に会ったり、出版者のジョゼフ・ジョンソンに会ったり、王立協会の会合に参加したりしている。", "qas": [ { "question": "プリーストリーは何年にウォリントンからリーズに引越しましたか。", "id": "tr-690-09-000", "answers": [ { "text": "1767年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プリーストリーが一家でウォリントンからリーズに引越した理由は何ですか。", "id": "tr-690-09-001", "answers": [ { "text": "不明", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }