{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "写真花嫁", "paragraphs": [ { "context": "写真花嫁(しゃしんはなよめ、英語:picturebride)とは、日本からハワイ(王国・準州)またはアメリカ合衆国に移住した男性と写真・履歴書などを交換するだけで実際に会うことなく、代理による結婚式を行い、入籍によって査証を発給され、渡航した女性であり、また、この習慣を指す場合もある。\n1907年から1908年にかけて成立した日米紳士協約によって再渡航・家族呼び寄せ以外の日本人の移民が禁止された後、現地の日系社会の存続・発展のために取られた措置であり、1924年の排日移民法の成立までの間に20,000人以上の写真花嫁が渡航した。\nただし、米国では、個人の意思や感情を無視した野蛮な習慣であり、紳士協定に違反するとして、排日論者のさらなる反感を買ったため、1920年、日本政府は、旅券発給を妻が夫とともに渡航する場合にのみ限定し、事実上、この時点で写真花嫁の習慣は廃止された。\nまた、韓国人女性も1910年から1924年までの間に約1,000人が写真花嫁として渡米した。", "qas": [ { "question": "写真花嫁が廃止された年はいつ?", "id": "tr-613-00-000", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 330, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1924年までに写真花嫁として渡航した日本人女性は何人ですか?", "id": "tr-613-00-001", "answers": [ { "text": "20,000人以上", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "再渡航・家族呼び寄せ以外の日本人の移民が禁止された協約とは何?", "id": "tr-613-00-002", "answers": [ { "text": "日米紳士協約", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "排日移民法が成立されたのはいつですか?", "id": "tr-613-00-003", "answers": [ { "text": "1924年", "answer_start": 228, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "写真花嫁の渡航は、事実上、1908年から1920年までの間に限定される。\n1885年、サトウキビの栽培や製糖業の発展に伴い、日本とハワイ王国との間で日本人の労働移民に関する日布移民条約が締結され、ハワイへの移民が正式に許可されることになった。\nこれ以後、日本人のハワイへの移民は、1885年2月から1894年6月まで同条約により政府が斡旋した官約移民、1894年7月から1900年6月まで民間企業の斡旋により渡航した私約移民、その後1908年1月に一般の移民が禁止されるまで契約によらずに渡航した自由渡航移民に分けられる。\nただし、1898年にアメリカ合衆国がハワイ共和国を併合し、ハワイ準州となった後、1924年7月1日に施行された排日移民法により日本からの移民が禁止されるまでは、再渡航および家族呼び寄せは許可されていた。", "qas": [ { "question": "日布移民条約の布とはどこの国を指していますか?", "id": "tr-613-01-000", "answers": [ { "text": "ハワイ王国", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本人のハワイへの移民が許されたのは何年でした?", "id": "tr-613-01-001", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "官約移民と私約移民はどちらの方が許可された渡航期間が長かったかな?", "id": "tr-613-01-002", "answers": [ { "text": "官約移民", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハワイ共和国は併合後、どのような名称となったの?", "id": "tr-613-01-003", "answers": [ { "text": "ハワイ準州", "answer_start": 291, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1885年2月8日に、主に広島県、山口県、熊本県、沖縄県出身の943人の最初の官約移民がホノルル港に到着したとき、カラカウア王が自ら出迎え、盛大な儀式が行われた。\n以後、ハワイの日本人移民の数は1888年の6,420人から、1890年に12,360人、1896年には24,407人と急激に増加し、1900年には61,111人に達し、ハワイの人口(154,001人)の約40%を占めることになった。\n1908年の移民禁止は、1907年11月から1908年2月までの間に林董外相とトーマス・J・オブライエン駐日米国大使との間で交わされた7通の書簡・覚書によって成立した日米紳士協定に基づくものであり、排日運動の激化を受けての対応であった。", "qas": [ { "question": "1888年、1890年、1896年の中でハワイへの日本人の移民数が最も多かった年はいつ?", "id": "tr-613-02-000", "answers": [ { "text": "1896年", "answer_start": 126, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1890年と1896年のハワイへの日本人の移民数が少ない年はどちらですか?", "id": "tr-613-02-001", "answers": [ { "text": "1890年", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "最初の官約移民は何人でしたか?", "id": "tr-613-02-002", "answers": [ { "text": "943人", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1900年のハワイの人口の約4割を占めたのはどこの国の人達ですか?", "id": "tr-613-02-003", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "農業労働者として移住した多くの日本人は、もともと衣錦還郷を夢見て、一定期間滞在するつもりであったが、一日50セントの低賃金では財産を築くことができず、貧しい生活を余儀なくされた。\n「恥」の意識が強い当時の日本人男性には、失敗者として故郷に帰ることなど考えられず、やがて現地で結婚して家庭を築き、定住・永住することに希望を見出すようになった。\nアメリカ西海岸に移住した日本人も多かったが、いずれにせよ、日系一世は1790年の帰化法により市民権取得資格がなく、異人種間の結婚も禁止されていた。\n加えて、1908年から一般の移民が禁止され、両親や妻子の呼び寄せのみが許可されると、米国で家庭を築き、日系社会を存続させるためには、写真花嫁に頼る以外に方法がなかった。\n当時、ハワイでは男性447人に対して女性100人の割合であったが、呼び寄せ時代と呼ばれた1911年から1919年までの間にハワイに渡航した写真花嫁の数は9,500人、米国では、1900年に男性24人に対して女性1人の割合であったのが、写真花嫁の渡米によって1910年から1920年の間に、女性の人口が9,087人から38,303人に急増し、男性2人に対して女性1人の割合になった。\n1908年から1924年までの間に渡航した写真花嫁の数は20,000人以上である。", "qas": [ { "question": "1908年当時のハワイでは、日本人の男性と女性はどちらが多かったですか?", "id": "tr-613-03-000", "answers": [ { "text": "男性", "answer_start": 338, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "米国での日本人女性の人数は、1900年と1920年を比べるとどちらの年が多いですか?", "id": "tr-613-03-001", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 465, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日系一世は何の権利がなかったの?", "id": "tr-613-03-002", "answers": [ { "text": "市民権", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1911年から1919年までの間にハワイに渡航した写真花嫁の数は?", "id": "tr-613-03-003", "answers": [ { "text": "9,500人", "answer_start": 406, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "未婚男性で経済的余裕のある者は一時帰国し、結婚して妻を連れ帰ったが、渡航費や時間的余裕がなければ、日本に住む家族や親戚に頼むしかなかった。\n当時の日本では結婚は個人ではなく家族(主に家長)が決めることであり、見合い結婚が一般的であったため、仲人を介して写真・履歴書等を交換し、結婚を取り決めることに何の問題もなく、面識のない男女が結婚することも珍しくなかった。\n写真花嫁の場合は、結婚が正式に決まると、花婿本人が不在のまま代理人を立てて結婚式を行い、入籍を済ませる。\nその後2年ほど文通をする場合もあるが、夫による呼び寄せとして査証が発給されたら、他の写真花嫁と一緒に同じ船に乗って渡航する。\n一か月もかかる船旅の後、移民管理局に着いたら入国手続きを済ませ、ここで初めて夫に会う。\n移民局で数日待たされることもあり、夫が現れない場合も、また、現れても、花嫁を見て連れ帰るのを拒否する場合もあった。\n移民局の職員が気の毒に思って連れ帰り、後に結婚させることもあった。", "qas": [ { "question": "当時の日本で一般的だった結婚形式は何?", "id": "tr-613-04-000", "answers": [ { "text": "見合い結婚", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日系二世の作家ヨシコ・ウチダが1987年に発表した小説『写真花嫁』の主人公ハナはこのような女性であり、実際、労働目的で移住した男性の多くが日本であまり教育を受けていないのに対して、女性の場合は、平均以上の教育を受けた者が多かった。\nヨシコ・ウチダの母イクも同志社大学を卒業し、恩師の紹介でサンフランシスコに住む日系一世と結婚した写真花嫁である。", "qas": [ { "question": "『写真花嫁』の作者は誰ですか?", "id": "tr-613-05-000", "answers": [ { "text": "ヨシコ・ウチダ", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小説『写真花嫁』の主人公女性の名前は?", "id": "tr-613-05-001", "answers": [ { "text": "ハナ", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨシコ・ウチダの母は何大学の出身ですか?", "id": "tr-613-05-002", "answers": [ { "text": "同志社大学", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小説『写真花嫁』はいつ発表されたの?", "id": "tr-613-05-003", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "最後に、8.悪い噂や秘密、暗い過去、偏見その他の理由で、日本で結婚できない場合もあった。\n写真花嫁としてハワイに渡った祖母の実話に基づくカヨ・マタノ・ハッタ監督の映画『ピクチャーブライド』の主人公カヨは、両親を結核で失い、身寄りもなく、また当時、結核が遺伝性という風説のために日本で結婚できなかったために写真花嫁の道を選んだという設定である。\nまた、日系二世の作家ヒサエ・ヤマモトの代表作である短編小説『十七文字』のウメ・ハナゾノは、日本で結婚を考えていた男性と身分の違いのために結婚できず、死産の経験のある女性であり、同じく二世の作家ワカコ・ヤマウチの代表作である短編小説『そして心は踊る』のオカ夫人も夫に「愚かにも評判の悪い男に引っかかって、少しお古の花嫁だが、仕方なくもらってやった」と侮られる。", "qas": [ { "question": "『ピクチャーブライド』で監督を務めたのは誰?", "id": "tr-613-06-000", "answers": [ { "text": "カヨ・マタノ・ハッタ", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『十七文字』の作者は誰?", "id": "tr-613-06-001", "answers": [ { "text": "ヒサエ・ヤマモト", "answer_start": 182, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『そして心は踊る』の作者は誰?", "id": "tr-613-06-002", "answers": [ { "text": "ワカコ・ヤマウチ", "answer_start": 268, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウメ・ハナゾノは何の小説の主人公ですか?", "id": "tr-613-06-003", "answers": [ { "text": "『十七文字』", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "小説『写真花嫁』、映画『ピクチャーブライド』の場合と同様に、多くの写真花嫁は初めて会った夫に失望した。\n通常、男性は女性より10~15歳もしくはそれ以上年上であり、見合い写真と似ても似つかない場合も少なくなかった。\n16歳のカヨの夫マツジは43歳であった。\n写真はたいてい若い頃のものや友人の写真、修整された写真であった。\n一張羅を着て、友人が雑役夫として働いていた白人の瀟洒な邸宅の前で撮った写真などもあった。\n男性からは写真を送らない場合すらあり、花嫁は移民局で夫に見つけてもらうまで待つしかなかった。\nまた、通常は、仲人(ハワイでは「シンパイ(心配)」と呼ばれていた)から男性の家系、財産、教育、健康状態について知らされていたが、こうした情報も、その多くが偽りであった。\n農場主というのは嘘で小作農であったり、商人と言っても日系人相手の貧相な店であったり、履歴書にはエレベーター技師と書かれていても実はホテルのベルボーイであったり、運転手が歯医者と偽ったり、鉄道工夫が社長と偽ったりと、その多くが虚偽や誇張であった。\nしかも、花嫁は1か月の長旅の疲れを癒す間もなく、早速サトウキビ畑やパイナップル畑で農作業に取りかからなければならなかった。", "qas": [ { "question": "マツジの妻の名は?", "id": "tr-613-07-000", "answers": [ { "text": "カヨ", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マツジが43歳の時、妻は何歳だった?", "id": "tr-613-07-001", "answers": [ { "text": "16歳", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "写真花嫁に限らず、移民が新しい環境に適応するためには、習慣の違い、言語障壁など克服しなければならない困難がたくさんあったが、写真花嫁の場合は、このような仲人・身内の言葉、履歴書そして期待と現実との乖離に驚き、ショックを受け、夫と対面するなり泣き出す女性もあり、多くの花嫁が日本に帰りたいと思い、実際に帰ってしまった女性もいる。\nこうした女性に対して、移民局の職員は、「せっかくハワイに来たのだからしばらく滞在してみて、どうしても嫌だったら帰ればいい。独身男性はたくさんいるのだから、別の男性に出会う機会があるかもしれない」と説得した。\nまた米国のリトル・トーキョーでは、日系人指導者らがこうした女性のための相談・紹介サービスを提供する協会を設立した。", "qas": [ { "question": "移民女性のための相談・紹介サービスを提供する協会はどこで設立されたの?", "id": "tr-613-08-000", "answers": [ { "text": "リトル・トーキョー", "answer_start": 273, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リトル・トーキョーはどこの国に位置していたの?", "id": "tr-613-08-001", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 270, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "だが、日本に帰りたくても渡航費がなく、しばらく夫と暮らした後に家出する女性、駆け落ちする女性もあった。\n夫は妻を連れ戻すために、情報提供者に謝礼をするという広告や駆け落ちの顛末を語る記事を邦字新聞に掲載したが、これはむしろ社会的制裁であった。\n強い絆で結ばれた日系社会でこのような情報が流布されると、もはや日系社会に住むことができなくなるからである。\nこのことをよくわかっている女性たちは、深い失望や貧困、重労働にもかかわらず、現地に留まるしかなかった。\n彼女たちはみな、日本人のメンタリティ(精神性)である「我慢(忍耐)」、「仕方がない」という言葉を口にした。\n親に対する忠誠、義理、恥、恩といった封建的な価値観を持っている女性も多かった。\nロサンゼルスの「ケイロウ(敬老)」介護施設に暮らすヒサノ・アカギは、「日本に戻りたかったが、見合い結婚は取り消すことができない」、「家族に(彼女を)写真花嫁として嫁がせた理由を尋ねたことはないが、日本に帰りたくても親に歯向かうことなど考えられなかった」と言う。\n「アメリカで裕福な生活ができると思ったが、相手は11歳年上で、写真と違う顔だった」と言うセツ・クスモトは、米国は豊かな国だと聞かされて写真花嫁になる道を選んだが、失望したときにも「(渡米など考えた)自分が悪かったのだ」と考え、農作業や家事労働に雇われて苦しい生活を強いられても「仕方がない」と考えた。\nまた、「好きも嫌いもなく、親が決めたことだから」と言う女性もいれば、「いつも、子供が一人前になるまでは、という思いで生きてきた」と言う女性もいる。\n女性にとって最も重要なのは「結婚して子供を育てること」と教えられて育った女性たちは「子供のために」、「家族のために」という責任感で夫との関係を維持していた。\n一世の女性タカエ・ワシズは、「当時は夫を捨てる妻がたくさんいて、新聞に妻を探すための広告がたくさん掲載された。私も、夫が年を取りすぎているし、料簡が狭すぎるので話が合わなくて逃げ出したかったけれど、子供を捨てるわけにはいかなかった。夫に子育てを任せることはできなかったし、それに、私には行く場所がなかった。ひたすら我慢して、子供たちの明るい将来を夢見ていた」と述懐している。", "qas": [ { "question": "セツ・クスモトの夫は何歳年上だったの?", "id": "tr-613-09-000", "answers": [ { "text": "11歳年上", "answer_start": 477, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1921年に熊本県で生まれ、オアフ島(ハワイ)のサトウキビ農園で育ったバーバラ・カワカミは、仕立屋・家政婦として働いた後、50歳を過ぎて高校進学を決意し、さらに理学士号とアジア学の文学修士号を取得。\n父親は母親より24歳年上で、彼女が6歳で、母が9人目の子を妊娠しているときに63歳で死去した。\n女手一つで9人の子を育てたカワカミの母親の仕事は、フィリピン人鉄道工夫の作業服を洗濯することであった。\n幼い頃、丸一日かけて洗った作業服にアイロンをかけながら、静かに泣いている母を見た。\n彼女は1979年から30年間にわたって日系一世250人のインタビューを行い、映画『ピクチャーブライド』で衣装など時代背景に関する情報を提供し、2016年には『写真花嫁の物語』を発表した。\n本書は、写真花嫁たちがいかに日系社会の存続と発展に貢献したかを示すオーラル・ヒストリーである。", "qas": [ { "question": "バーバラ・カワカミの出生地はどこ?", "id": "tr-613-10-000", "answers": [ { "text": "熊本県", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バーバラ・カワカミは何歳過ぎで高校進学を決めたの?", "id": "tr-613-10-001", "answers": [ { "text": "50歳", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『写真花嫁の物語』の作者は誰?", "id": "tr-613-10-002", "answers": [ { "text": "バーバラ・カワカミ", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『写真花嫁の物語』は何年に発表されたの?", "id": "tr-613-10-003", "answers": [ { "text": "2016年", "answer_start": 313, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "だが、米国の排日論者は、写真花嫁の習慣は個人の意思や感情を無視した後進国日本の野蛮な習慣であり、米国のキリスト教の倫理観からすると非道徳的であると批判した。\nさらに、1.日本人移民女性は出生率が高く、「同化しない日本人」を増やしている、2.長時間・低賃金労働者であり、白人労働者と競合する、3.このような移民を送り込む日本政府は、移民制限を目的とした紳士協定に違反していると論じた。\nこの結果、日本政府は1920年に写真花嫁への旅券発給を差し止め、妻が夫とともに渡航する場合にのみ限定した。\nこの取り決めは紳士協定に倣って淑女協定と呼ばれる。\n1924年の移民法(排日移民法)により、日本人を含むアジア人の移民は全面的に禁止された。", "qas": [ { "question": "写真花嫁の習慣を批判した者は誰ですか?", "id": "tr-613-11-000", "answers": [ { "text": "米国の排日論者", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "淑女協定はいつ結ばれましたか?", "id": "tr-613-11-001", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 202, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "他国については、小規模だが、韓国からの移民においても写真花嫁の習慣があった。\n韓国からの移民は、1882年にアメリカ合衆国と李氏朝鮮の間で締結された米朝修好通商条約により始まったが、1905年の第二次日韓協約によって大日本帝国が大韓帝国の外交権を接収すると、米国への移民が制限された。\n1903年から1905年までの間に米国に移住した韓国人の数は7,500人で、そのほとんどがサトウキビ畑で働く男性労働者であったため、1910年から1924年までの間に約1,000人の女性が写真花嫁として渡米した。\n写真花嫁の側の理由も日本人の場合とほぼ同じだが、1910年に大日本帝国が大韓帝国を併合(韓国併合ニ関スル条約を締結)した後の写真花嫁のなかには、「日本統治下の韓国から逃れるため」という理由を挙げる者もあった。\n渡米後の(特に写真と実物の違いによる)女性の失望も同様だが、日本人女性と違って離婚する女性が多く、この時期の離婚の90%が女性からの要求によるものであった。\nこの他、特殊な例として、1915年にオスマン帝国で起こったアルメニア人虐殺後、米国に移住したアルメニア人男性がオスマン帝国からアルメニア人女性を写真花嫁として迎え入れたという報告がある。", "qas": [ { "question": "1910年から1924年までの間に韓国からの写真花嫁は何人渡米して来ましたか?", "id": "tr-613-12-000", "answers": [ { "text": "約1,000人", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "離婚するケースが少なかったのは日本人女性か韓国人女性のどちらでしたか?", "id": "tr-613-12-001", "answers": [ { "text": "日本人女性", "answer_start": 385, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1903年から1905年までの間に米国に移住した韓国人の数は何人?", "id": "tr-613-12-002", "answers": [ { "text": "7,500人", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ニューアーク方式", "paragraphs": [ { "context": "ニューアーク方式(英:Newarkchargingsystem)は図書館における図書の貸出方式の一つ。\nアメリカ合衆国ニュージャージー州のニューアーク公共図書館の館長であったジョン・コットン・デイナ(1856年-1929年)が考案したとされており、ニューアーク方式の名はニューアーク公共図書館による。\n日本においては、第二次世界大戦後、連合国軍総司令部民間情報教育局によって開館されたCIE図書館が導入を推進したこともあり、一時は急速に普及するが、プライバシーを守れないなどの欠点を抱えていたために後にブラウン方式に置き換えられた。\nニューアーク方式と似た貸出方式で、個人カードを併用するツーカード方式や、一部業務を機械に行わせるゲイロード方式についても本項で述べる。", "qas": [ { "question": "ニューアーク方式の考案者は誰?", "id": "tr-614-00-000", "answers": [ { "text": "ジョン・コットン・デイナ", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョン・コットン・デイナの死没年はいつ?", "id": "tr-614-00-001", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニューアーク方式の名前の由来となった機関とは?", "id": "tr-614-00-002", "answers": [ { "text": "ニューアーク公共図書館", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プライバシーを守るためにニューアーク方式から置き換えられた貸出方式とは?", "id": "tr-614-00-003", "answers": [ { "text": "ブラウン方式", "answer_start": 251, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "貸出方式は図書館によって千差万別であり、全く同じ方式を採用している図書館は一つとして存在しないと言われているが、各種文献によれば概ね次のように貸出・返却・督促・予約業務がされていたようである。\n予め、1冊の貸出図書につき一枚の請求番号・書名・著者名・図書の受入番号などのうちいくらかが書き込まれたカード状のブックカード、ブックカードを本に保持させるための上部が開かれた袋状のブックポケット、貸出図書の返却期限を貸出図書と関連付けて記入するためのデートスリップ、貸出券の4つを用意する。\nブックポケットを図書の表紙裏(または裏表紙裏)に貼り付け、ブックポケットの中にブックカードを挿入する。\nデートスリップはブックポケットと向かい合うように見開きに貼り付け、貸出券は利用者の貸出申込に応じてあらかじめ発行する。", "qas": [ { "question": "ブックポケットに入れるものとは何?", "id": "tr-614-01-000", "answers": [ { "text": "ブックカード", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "貸出図書の返却期限を記入するためのものは何?", "id": "tr-614-01-001", "answers": [ { "text": "デートスリップ", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブックポケットは本のどこの場所に取り付けられるの?", "id": "tr-614-01-002", "answers": [ { "text": "表紙裏", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブックポケットと向い合せになるように貼り付けられるものとは?", "id": "tr-614-01-003", "answers": [ { "text": "デートスリップ", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "利用者は貸出を受けるときに、図書と貸出券を図書館員へ提出する。\n図書館員は、図書のブックポケットからブックカードを抜き出し、貸出券に記載されている氏名、もしくは登録番号を記入する。\nその後、ブックカード・デートスリップ・貸出券のすべてに返却期限日、または貸出日を押印し、ブックカードを返却日別の図書分類順、あるいは登録番号順に並べて保管する。\n本は利用者に貸し出す。\n利用者から図書の返却を受けたときは、図書館員はデートスリップの返却日やブックカード記載の分類番号等を頼りにブックカードを探し、探し当てたブックカードに返却日を押印。\nブックカードを図書のブックスリップへ戻す。\n図書の延滞は、図書館が保管するブックカードでわかり、ブックカードの情報を元に督促はがきなどを送付する。\n予約方法は、図書の分類番号で予約図書のブックカードを探し、クリップで挟むなどして他のブックカードと見分けが付くようにすればよい。\n貸出者が返却に来た際に、予約者に連絡する。", "qas": [ { "question": "利用者の貸出時に、図書と共に提出されるアイテムとは何?", "id": "tr-614-02-000", "answers": [ { "text": "貸出券", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "図書の延滞が生じた場合、利用者へ催促する手段として何を送りますか?", "id": "tr-614-02-001", "answers": [ { "text": "督促はがき", "answer_start": 327, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "以上が日本の文献で紹介される貸出処理だが、アメリカの文献では、図書館員が貸出手続きを行う“staff-charge”の他に、利用者自身が貸出手続きを行う“self-charge”の2種類が確認できる。\nstaff-chargeは利用者情報の記入に人員を割かねばならないため、self-chargeよりも人件費がかかる。\nself-chargeでの貸出手順は、利用者は図書のブックポケットからブックカードを取り出し、自身の氏名、もしくは登録番号、その他必要な情報を記入する。\nブックカードへの記入が済んだら、図書とブックカードを図書館員へ提出し、返却期限日を図書、ブックカードの両方に押印してもらう。\n図書館員は必要に応じて身分証明を求め、問題なければ、ブックカードを返却期限日、もしくは利用者の電話番号順や図書の著者順に並べて保管する。", "qas": [ { "question": "アメリカでは、利用者自身が貸出手続きを行うことを何と言っていますか?", "id": "tr-614-03-000", "answers": [ { "text": "“self-charge”", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "staff-chargeとself-chargeで、人件費がかからないのはどっち?", "id": "tr-614-03-001", "answers": [ { "text": "self-charge", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカでは、図書館員が貸出手続きを行う業務の事を何と言っているの?", "id": "tr-614-03-002", "answers": [ { "text": "“staff-charge”", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "返却業務を後回しにできる、貸出時に行われる利用者番号の記入や日付印の押印といった作業は比較的速く行える、延滞している本のブックカードは収納容器の前(または)後ろに押し出されるため督促がしやすい、貸出制限を作らない等の長所を持つが、大量の貸出処理への対処が困難、図書の返却後もブックカードに貸出記録を残してしまうという問題を抱えており、利用者のプライバシーを守ることができない。\nまた、貸出の度にブックカードへの記入を要し、混雑時などは誤記のおそれがある。", "qas": [ { "question": "ニューアーク方式は、利用者のプライバシーを守ることができるか、できないか?", "id": "tr-614-04-000", "answers": [ { "text": "できない", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1900年頃にアメリカのニューアーク公共図書館の館長であったデイナが考案したとされており、アメリカでは本方式を導入する図書館が急速に増え、最も広く用いられた。\n日本では、第二次世界大戦後にCIE図書館が具体的な方法を示したことで、開架式の導入に合わせて多くの図書館が採用し、昭和40年代に最盛期を迎える。\nまた、日本図書館協会が1960年に発行した『図書館ハンドブック増訂版』では、ブラウン方式を「他にブラウン方式があるが実用の点からいうとはるかにおとる」、その他貸出方式についても「機械化したものとして、Photochargingsystemその他があるが、わが国の図書館では、貸出記録の量からいって、これらの採用はまだ早い」と評しており、ニューアーク方式の採用を勧める記述がされていた。\nしかし、ブックカードに利用者の貸出記録が残る欠点から次第にブラウン方式へ転換した。", "qas": [ { "question": "ニューアーク方式が考案されたのはいつ頃と言われているの?", "id": "tr-614-05-000", "answers": [ { "text": "1900年頃", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本でニューアーク方式が最も多く採用された時期はいつ?", "id": "tr-614-05-001", "answers": [ { "text": "昭和40年代", "answer_start": 137, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ニューアーク方式から徐々に切り替わっていった貸出方式とは?", "id": "tr-614-05-002", "answers": [ { "text": "ブラウン方式", "answer_start": 375, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本でニューアーク方式が導入されるきっかけとなった図書館とは何?", "id": "tr-614-05-003", "answers": [ { "text": "CIE図書館", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "学校図書館における貸出方式は、「児童・生徒1人一人の図書の利用状況を把握すること指導に効果的である」とする思想が帳簿式からニューアーク方式への変更に影響を与え、宮雄司1983,p.19で「現在の学校図書館の貸出方式は,そのほとんどがニュアーク式」と記されるまでとなった。\n前述のとおり、利用者の秘密を守るという点で欠陥のあるニューアーク方式であるが、学校図書館においては教育的観点から有用であるとされ、採用されてきた。\nまた、その他にも「貸出の指導や督促をするのに都合がよい」「貸出冊数制限の超過を監視しやすい」などの利点が語られることがある。", "qas": [ { "question": "ニューアーク方式を積極的に取り入れていた機関はどこでしたか?", "id": "tr-614-06-000", "answers": [ { "text": "学校図書館", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本のアニメーション映画作品である『耳をすませば』(1995年)(原作は1989年)は、図書館の蔵書のブックカードに書き込まれた「ある一人の名前」を主人公が気にするところから物語が展開していく作品であり、本作品中に登場する図書館は、ニューアーク方式を採用していた。\n日本図書館協会は上映当時時点および作中における時代で使用されていない古い貸出方式での描写を行ったことを理由に抗議し、DVD版ではこの抗議に起因するテロップが挿入されることとなった。\nこれは、当初、重大なプライバシーに関する案件でなく、実在の図書館を挙げているわけでもなかったため、スタジオジブリ側への交渉の考えを示していなかったものに対して、理事懇談会が本件の対応を求めたことから、1995年5月25日に図書館の自由に関する調査委員会・関東地区小委員会らが改善に向けて働きかけることを決定したものである。\nまた、主人公の父親が「わが館もついにバーコード化するんだよ」と話すシーンを追加することとなった。\nそのほか、実写映画『LoveLetter』(1995年)やテレビドラマ『ビューティフルライフ』(2000年)でもニューアーク方式と思わしき貸出方式が物語上重要な役割を果している。\n音楽においては、ニューアーク方式の導入を前提とした図書館に関する歌詞「図書館で借りた空の写真集カードにつよくてきれいなあなたの名前がある」が挿入された、DREAMSCOMETRUEのアルバム『TheSwingingStar』(1992年)の収録曲「眼鏡越しの空」を挙げることができる。", "qas": [ { "question": "ニューアーク方式の描写がある日本のアニメーション映画のタイトルとは?", "id": "tr-614-07-000", "answers": [ { "text": "『耳をすませば』", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ビューティフルライフ』が放映された年はいつ?", "id": "tr-614-07-001", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 483, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『耳をすませば』のニューアーク方式の描写を巡って、スタジオジブリに抗議した団体はどこ?", "id": "tr-614-07-002", "answers": [ { "text": "日本図書館協会", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「眼鏡越しの空」の楽曲を手掛けたアーティストグループとは?", "id": "tr-614-07-003", "answers": [ { "text": "DREAMSCOMETRUE", "answer_start": 601, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ブックカードと個人カード(貸出券とは別のもの)の両方を使う方式は、しばしばニューアーク方式として紹介されるが、より正確にはツーカード方式と言うべきものである。\n日本には1911年発行の『図書館管理法』や1915年発行の『図書館小識(としょかんしょうしき)』で紹介される。\n日本の学校図書館で採用されることがあり、学校図書館問題研究会の集まりでは、「個人カードの記入欄が埋まっていくのを楽しみにしている生徒が複数いる」との意見が寄せられた。\nまた、個人カードを成績をつける際の参考にしたり、読書指導に使用する教員が存在するとの声もある。", "qas": [ { "question": "ブックカードと個人カードを併用する貸出方式は何と言いますか?", "id": "tr-614-08-000", "answers": [ { "text": "ツーカード方式", "answer_start": 61, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『図書館管理法』は何年に発行された?", "id": "tr-614-08-001", "answers": [ { "text": "1911年", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『図書館小識』が発行された年はいつ?", "id": "tr-614-08-002", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "利用者情報の記入を人間の代わりに機械が行う、ニューアーク方式の変形方式は、利用する機械の製造社名をとって、ゲイロード方式(英:Gaylordchargingsystem)と呼ばれる。\n初めて貸出処理に機械を導入したゲイロード方式では、利用者・図書館員のどちらも利用者情報の記入という時間を消費する作業から解放されることとなり、記録された文字の可読性も上がった。\n1931年のLibraryJournal誌でゲイロードブラザーズ(GaylordBrothers)による貸出機発明が取り上げられ、1950年から利用されるようになった。", "qas": [ { "question": "利用者情報の記入を機械が行う貸出方式の呼称は何ですか?", "id": "tr-614-09-000", "answers": [ { "text": "ゲイロード方式", "answer_start": 53, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲイロード方式の利用が始まったのはいつから?", "id": "tr-614-09-001", "answers": [ { "text": "1950年から", "answer_start": 246, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゲイロード方式で利用する機会の製造社とは?", "id": "tr-614-09-002", "answers": [ { "text": "ゲイロードブラザーズ", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "芋焼酎", "paragraphs": [ { "context": "芋焼酎(いもしょうちゅう、いもじょうちゅう)は、サツマイモを主原料とした焼酎のことである。\n甘藷焼酎とも呼ばれる。\nサツマイモを原料とした大衆的な酒は、世界的に見ても珍しい。\n柔らかで上品な甘みと特有の香りが特長とされる。\n奄美群島を除く鹿児島県、宮崎県の平野部、および伊豆諸島などで製造されている。", "qas": [ { "question": "甘藷焼酎のポピュラーな呼称は何ですか?", "id": "tr-615-00-000", "answers": [ { "text": "芋焼酎", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芋焼酎の原材料は何?", "id": "tr-615-00-001", "answers": [ { "text": "サツマイモ", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芋焼酎の、九州地方以外での製造地はどこ?", "id": "tr-615-00-002", "answers": [ { "text": "伊豆諸島", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "芋焼酎特有の香りは長所となる一方で、好き嫌いが分かれる。\n香りは以下のような成分で構成される。\nモノテルペンアルコールはマスカットやライチに近い、主たる香りをしている。\nα-テルピネオールはライラックの香りをしている。\nβ-ダマセノンは甘い香りをしている。\nグアイアコールは消毒薬のような香りをしている。\nファルネソールは柑橘系の香りをしている。\nこのうちα-テルピネオールとグアイアコールは、他の焼酎にはみられない特に固有の揮発性成分となっている。\nモノテルペンアルコールはサツマイモの皮や両端に多く含まれるモノテルペンアルコール配糖体が麹によって分解されて生じるため、原料処理や酵素の活性によって香りが変化する。\nまた、黒麹菌は白麹菌よりもこの分解活性が高い。\nこれ以外の成分はサツマイモ由来ではなく、常圧蒸留の際に醪が加熱されて生じる副生成物が多い。", "qas": [ { "question": "芋焼酎の主たる香りを放つ構成成分の名前は何?", "id": "tr-615-01-000", "answers": [ { "text": "モノテルペンアルコール", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芋焼酎の構成成分で消毒薬のような香りをしているものは何?", "id": "tr-615-01-001", "answers": [ { "text": "グアイアコール", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2017年度の九州における課税移出数量は202,337キロリットルと、同地域で単式蒸留焼酎のうち53.4%を占め最大である。\n県別にみると宮崎県が117,367キロリットルで58%、鹿児島県が80,994キロリットルで40%となっており、この2県で九州全体の98%を占めている。\n鹿児島県は奄美群島では黒糖焼酎が作られるが、それ以外の地域は主に芋焼酎を作り薩摩焼酎という地理的表示に登録されている。\n伝統的な杜氏としては薩摩半島の中央西側にあたる旧笠沙町黒瀬の黒瀬杜氏、旧金峰町阿多の阿多杜氏があり、両者ともに早期米の収穫後の農閑期となる8-2月に、鹿児島・宮崎を中心とした九州一帯で芋焼酎や穀類焼酎の仕込みにあたっていた。", "qas": [ { "question": "2017年度の九州の芋焼酎課税移出数量が最も多い県はどこですか?", "id": "tr-615-02-000", "answers": [ { "text": "宮崎県", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2017年度の九州の芋焼酎課税移出数量が2番目に多い県はどこですか?", "id": "tr-615-02-001", "answers": [ { "text": "鹿児島県", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2017年度の九州における課税移出数量が最も多い焼酎の種類は何ですか?", "id": "tr-615-02-002", "answers": [ { "text": "芋焼酎", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "奄美群島以外で作られている鹿児島県内の芋焼酎は何と名付けられていますか?", "id": "tr-615-02-003", "answers": [ { "text": "薩摩焼酎", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鹿児島県および隣接する串間市、えびの市ではアルコール度数25度の、都城市から宮崎県の県央では20度の芋焼酎がそれぞれ好まれる。\n前者は水割りやお湯割り、後者はオン・ザ・ロックなどで飲まれることが多く、燗をすると香りと甘みが特に引き立てられる。\nまた、鹿児島県や宮崎県ではなんこをして負けた側が飲む、という文化もある。", "qas": [ { "question": "えびの市と宮崎県の県央では、好まれている芋焼酎のアルコール度数が高いのはどちらですか?", "id": "tr-615-03-000", "answers": [ { "text": "えびの市", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2004年に報告された宮崎県内の本格(乙類)焼酎の銘柄別消費割合では、霧島酒造の芋焼酎・霧島が県全体の62.7%ものシェアを占めている。\n一方で、松の露酒造の松の霧が日南市で76%、近隣の北郷町で75%、井上酒造の飫肥杉は南郷町で90%、明石酒造の明月がえびの市で78%、松露酒造の松露が串間市で50%、とそれぞれ本社周辺の地域で高いシェアを占めている芋焼酎の銘柄もめずらしくない。\nまた、西米良村で球磨焼酎、五ヶ瀬町や綾町では蕎麦焼酎がそれぞれ70%以上のシェアを有する。", "qas": [ { "question": "2004年の宮崎県内の本格(乙類)焼酎の銘柄別消費割合で、最も多く消費されている銘柄は何ですか?", "id": "tr-615-04-000", "answers": [ { "text": "霧島", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日南市と北郷町を比較すると、松の霧の消費が多いのはどちら?", "id": "tr-615-04-001", "answers": [ { "text": "日南市", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南郷町でナンバーワンの消費率を占める芋焼酎の銘柄は何ですか?", "id": "tr-615-04-002", "answers": [ { "text": "飫肥杉", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "明月の酒造業者はどこですか?", "id": "tr-615-04-003", "answers": [ { "text": "明石酒造", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "酒の原料として見た時、サツマイモには下記のような難点がある。\n穀類原料ではデンプン含量が約70%なのに対してサツマイモは約25-30%と低く、アルコールの生産効率が悪い。\n収穫に季節性があり、長期貯蔵が難しい。\n生のままではポリフェノールオキシダーゼなどの酵素によって変質しやすい。\n蒸すと甘くなり雑菌が繁殖しやすい。\n仕込みを行うと吸水してドロドロの醪となり、高い粘度で作業性を低下させる。", "qas": [ { "question": "サツマイモと他の穀類原料を比較すると、デンプン含量が少ないのはどちらですか?", "id": "tr-615-05-000", "answers": [ { "text": "サツマイモ", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サツマイモがアルコール生産の効率が悪い理由として、何の成分含量が低いことがあげられますか?", "id": "tr-615-05-001", "answers": [ { "text": "デンプン", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "これに対して、以下のような点が近世の鹿児島における芋焼酎の誕生を支えた。\n年貢となる米が貴重なため、サツマイモを酒の原料とするモチベーションが相対的に高かった。\n世界的に珍しい原料を蒸す製酒方法が日本では一般的であり、酵素を失活させることができた。\n蒸したサツマイモの糖化に適した麹があった。\n鹿児島は温暖で醸造酒造りに不向きなため蒸留技術が普及し、高粘性の醪からアルコールを回収できた。\nまた、クエン酸によって腐敗を防ぐ黒麹、サツマイモ由来の糖分を急速にアルコールに変える二次仕込み法がそれぞれ後に導入され、安定した生産が可能になった。", "qas": [ { "question": "鹿児島は温暖のため醸造酒造りに不向きであったことから、どのような技術が一般化しましたか?", "id": "tr-615-06-000", "answers": [ { "text": "蒸留技術", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2017年度に日本国内で生産されたサツマイモは80万7,100トンあり、そのうち25%ほどにあたる約20万トンが焼酎の原料となっている。\n特に宮崎県では生産量の66%にあたる5.6万トン、鹿児島県では同48%にあたる14.3万トンがそれぞれ焼酎原料として消費されている。", "qas": [ { "question": "2017年度に日本国内で生産されたサツマイモのうち、4分の1が何の原料となっていますか?", "id": "tr-615-07-000", "answers": [ { "text": "焼酎", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮崎県でのサツマイモの生産量のうち、半分以上の割合を占め、消費されている原料は何?", "id": "tr-615-07-001", "answers": [ { "text": "焼酎原料", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "明治は源氏など、第二次世界大戦以降は農林2号など農林系の品種がそれぞれ主流だったが、1980年代半ばからは風味や甘みが評価されてコガネセンガンが芋焼酎原料の中心となった。\nのちにコガネセンガンの貯蔵性や害虫耐性などの弱点を改善し、さらに多様な酒質を実現するために品種開発が進められ、ジョイホワイトやときまさりなどが誕生した。\n生産性を高める観点から、直播栽培適性のあるムラサキアカリ、スズコガネなども開発されている。\n汎用的な芋焼酎の原料として宮崎県でコガネマサリ、鹿児島県でサツママサリがそれぞれ普及しつつある。\nサツマイモは自動イモ洗い機で洗浄したのち、両端部を切り落として酒質低下の原因となる病痕部を取り除く。\n香りに影響する皮をむく場合もある。\n次の工程で内部まで十分に加熱されるよう、大きいイモはカットされる。\n続いて蒸煮缶や連続イモ蒸し器で60分間イモを蒸し、デンプンをα化および糖化させるとともに、表面の微生物を殺菌してヤニも取り除く。\n蒸すのが不十分だと生のサツマイモの匂いが焼酎に出てしまう。\n蒸したサツマイモは送風によって冷却され、もろみとして糖化が進みやすいように破砕機にかけられる。\n糖化を促進するβ-アミラーゼが豊富な品種は1センチメートル程度に粗く、少ない品種は細かく粉砕する。", "qas": [ { "question": "汎用性が高い芋焼酎の原料として、鹿児島で広がりつつあるのは何ですか?", "id": "tr-615-08-000", "answers": [ { "text": "サツママサリ", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1980年代半ばからの芋焼酎の原材料となった品種名は何ですか?", "id": "tr-615-08-001", "answers": [ { "text": "コガネセンガン", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "麹用の米はコスト低減のため伝統的に安価なものが選ばれる傾向があり、20世紀半ばまでは外米、1971年からは古々米のそれぞれ破砕米が使用されていた。\nその後、1985年から他用途利用米、米不足となった1993年からはタイのインディカ米の破砕米、ならびに特定米穀が主に用いられている。\n破砕米は表面積が大きく吸水しやすいので短時間浸漬法を用い、逆に吸水しにくいインディカ米については2度蒸しなどを行い、ともに蒸し米中の水分が36-37%となるようにする。\nなお標準的な芋焼酎において米麹は原料中の1/6程度だが、デンプン量で換算すると約40%を占めており、香気などへの影響は大きい。", "qas": [ { "question": "麹用の米にインディカ米を用いられるようになったのは、その当時に何が起きたからですか?", "id": "tr-615-09-000", "answers": [ { "text": "米不足", "answer_start": 92, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "白麹菌がもっとも広く使用され、黒麹菌および黄麹菌も個性を打ち出すために用いられる。\n白麹菌および黒麹菌はクエン酸を生成して腐敗を防ぐとともに、耐酸性の糖化系酵素を生成できるという特徴がある。\nなおクエン酸は蒸留の際に蒸発せず回収されないため、味に余計な影響を与えることもない。\nイモを蒸す際にも糖化が進むため米や麦の焼酎ほどの糖化力は必要ないが、アミノ酸やビタミンなどを供給して発酵をすすめるとともに風味を生む酵素反応が麹には求められる。\n芋焼酎の産地は宮崎県や鹿児島県など気温の高い地方が中心のため、酵母には耐熱性とクエン酸に対する「耐酸性とが求められる。\n主に鹿児島県酒造組合連合会の鹿児島酵母、および宮崎県食品開発センターの宮崎酵母が用いられ、それぞれの中でさらにいくつかの種類がある。", "qas": [ { "question": "芋焼酎の腐敗を防ぐ役割を果たす物質とは何ですか?", "id": "tr-615-10-000", "answers": [ { "text": "クエン酸", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "20世紀末の標準的な例では、下記のような配合で醪を2段階に分ける二次仕込みを行っている。\nサツマイモはデンプン含量が25-30%と穀類の半分以下のため、麹歩合が20%と低い。\n米:サツマイモ=1:5となっており、サツマイモに少ない脂質を米が補うことでコクや旨味を与えている。", "qas": [ { "question": "芋焼酎の麹歩合を見ると、米とサツマイモではどちらの歩合が少ないですか?", "id": "tr-615-11-000", "answers": [ { "text": "米", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "明治までは伝統的な穀類焼酎と同様、黄麹菌によって米の麹を作り蒸したサツマイモと水をまとめて加えて発酵させる、どんぶり仕込みと呼ばれる方法が使われていた。\nしかしサツマイモは米や麦と異なり、蒸して粉砕すると水を吸って醪がドロドロになって流動性が失われる上に糖分が一度に供給されてしまう。\nさらに黄麹菌ではクエン酸が生成されないこともあり、どんぶり仕込みでは酵母が増殖せずアルコール発酵が完了する前に腐造することが多く、品質の向上は難しかった。\n明治後半になると日本酒のような二段仕込みが試されたが、米焼酎と異なり芋焼酎では腐造の抑制などの効果はみられなかった。\nそこから試行を重ね、最初に米麹と水だけで1次醪を作ることで酵母の増殖を容易にし、その後に水と蒸したサツマイモを加えて2次醪を加え、安定した発酵を行う二次仕込み法が開発された。\n大正に入ると泡盛製造に使われていた黒麹菌が導入され、クエン酸の生成によって腐造が抑制されるようになった。", "qas": [ { "question": "明治までに行われていた芋焼酎の伝統的な仕込み方法は何でしたか?", "id": "tr-615-12-000", "answers": [ { "text": "どんぶり仕込み", "answer_start": 54, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "明治後半に開発された安定した発酵方法とは何?", "id": "tr-615-12-001", "answers": [ { "text": "二次仕込み法", "answer_start": 354, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "20世紀末には、主に白麹菌を用いて回転ドラム・通風法により製麹が行われるようになっている。\n3回程度に分けて種麹をドラム内に入れて十分に混ぜたのち、約35°Cで蒸し米を投入して38-39°Cで1-3回切り返しを行う。\nその後、36-37°Cの棚に8時間ほど保持すると菌糸がはっきり伸びてくるので、手入れをして34-35°Cで低温経過して出麹を待つ。\n低温経過の間にクエン酸が生成される。\n近年ではサツマイモによる麹作りも行われている。\n蒸したサツマイモは水分が多く製麹の際に崩れやすいため、サイコロ状に切って熱風処理したり、同様に切って蒸した後に乾燥させて再度蒸す、などの方法でサツマイモ麹が作られる。\nサツマイモ麹100%の場合は米麹に比べて香気成分が3-6倍になったという報告があり、香気の生成阻害やマスキングを抑制する効果があるとみられる。\nまた、伊豆諸島では主に麦によって麹を作る。", "qas": [ { "question": "クエン酸が生成される低温経過の時の温度はどれくらいですか?", "id": "tr-615-13-000", "answers": [ { "text": "34-35°C", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "34-35°Cの低温経過の際に作られる生成物は何ですか?", "id": "tr-615-13-001", "answers": [ { "text": "クエン酸", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1-3回切り返しを行う過程と低温経過ではどちらが温度が低いですか?", "id": "tr-615-13-002", "answers": [ { "text": "低温経過", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1次醪は麹米に対して水120%の汲水歩合とし、20-30°Cで仕込む。\n酵母培養液:麹=1:500の重量比となるよう酵母を加え、この際に最初の数回は純粋酵母を用いるが、以降は3-4日目の1次醪を種酵母として植え継ぐ「差しモト」と呼ばれる手法をとる。\n3日目頃に最も温度が上がるので1日2-3回櫂入れを行い30°Cを超えないようにし、同時に浮いている麹を沈めて好気性菌の繁殖による香りの悪化を防ぐ。\n通常は5-7日程度、暖季は9日目まで熟成させる。\nサツマイモをすぐに加えないことで粘性が低く抑えられ、酵母密度(約2×108個/ml)とアルコール濃度(約15%)、糖濃度が全て高い状態で安定した一次醪が得られる。", "qas": [ { "question": "酵母培養液と麹の重量比が大きいのはどちらですか?", "id": "tr-615-14-000", "answers": [ { "text": "麹", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "熟成させる期間が長いのは通常と暖季のどちらの時期ですか?", "id": "tr-615-14-001", "answers": [ { "text": "暖季", "answer_start": 209, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "3-4日目の1次醪を種酵母として植え継ぐ手法は何と呼ばれていますか?", "id": "tr-615-14-002", "answers": [ { "text": "「差しモト」", "answer_start": 107, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サツマイモの少ないデンプン量で醪のアルコール濃度を高く保つため、2次仕込みで汲水歩合は65-70%と穀類の焼酎に比べてかなり低い水準に抑えられている。\nサツマイモを1次醪に加える際、粒度が粗いとデンプンが十分に溶解せずアルコール収率が低下してしまうが、最初に潰しても発酵が十分進まずやはり収量が低下する。\nこのため蒸したサツマイモは潰さず1センチメートルほどの厚さにして、水とともに1次醪に攪拌しながら凝集を防ぎつつ加えて25°C程度で仕込む。\n蒸したサツマイモからは大量の糖分が供給されるが、1次醪にある高濃度のアルコールが腐敗を防ぎ、さらに高密度に蓄えられた酵母がアルコール発酵を進めて急速に糖分を消化していく。\nこれによって粘性が低下し、同時に炭酸ガスが発生するため醪が攪拌されて溶解が進み、2日目には30°Cを超える。\n36°C以上では酵母が死滅し、逆に低温では発酵が長引くため、30-35°Cに温度を保ちながら7-10日間おく。", "qas": [ { "question": "何°C以上の時に酵母が死に絶えるの?", "id": "tr-615-15-000", "answers": [ { "text": "36°C以上", "answer_start": 364, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "何°Cで2次仕込みを開始するの?", "id": "tr-615-15-001", "answers": [ { "text": "25°C程度", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2次醪は粘性が高いため生蒸気を直接吹き込む形式の常圧蒸留が一般的に用いられるが、減圧蒸留や両者のブレンドも一部で行われている。\n単式蒸留器の缶体はステンレスや琺瑯で作られており、数本の管で蒸気が吹き込まれて、醪が流動しながら全体が加熱されるように設計されている。\n缶容量の半分程度の醪を投入し、蒸気を吹き込んで30-50分で蒸留液が垂れ始め、そこから150-180分で蒸留が完了する。\n蒸留直後の原酒はホルムアルデヒドなどのガスや、油臭の原因となるパルミチン酸、オレイン酸、リノール酸などのエチルエステル成分が含まれる。\nこのため開放状態で1か月ほど貯蔵するか移し替えなどを行ってガスを抜き、ろ過をしてエチルエステルを除去する。\n高級脂肪酸がエタノールと醪中で反応して生成したエチルエステルは重要な香味成分でもあるため、除去しすぎると焼酎のバランスが崩れる。\nまた、エチルエステルが空気と反応して酸化分解すると油臭の原因となるため、表面に浮かないようアルコール度数を30%以上に保ち、反応を抑制するよう低温で暗所に貯蔵する。", "qas": [ { "question": "蒸留後の貯蔵の条件として、アルコール度数はどれくらいで維持されますか?", "id": "tr-615-16-000", "answers": [ { "text": "30%以上", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『三国名勝図会』によると焼酎の製法は中国から琉球王国経由で薩摩国に伝わり、1546年にジョルジ・アルヴァレスが記した『日本の諸事に関する報告』では薩摩の山川付近で米焼酎が飲まれていると記されている。\n宝永2年(1705年)に琉球から薩摩の山川にサツマイモが伝わると、水はけが良くて稲作には適さないシラス台地での栽培が急速に広まり、18世紀前半までには薩摩藩内で芋焼酎が作られるようになった。\nさらに18世紀中盤には薩摩藩内の都城や佐土原藩などにも芋焼酎の製法が伝えられ、さらに飫肥藩や高鍋藩にも伝播して、日向国中南部に普及していった。\nまた、19世紀半ばに八丈島に流罪となった丹宗庄右衛門によって三宅島や八丈島に芋焼酎の製法が伝わっている。", "qas": [ { "question": "焼酎の製法は、中国からどこの国を介して薩摩国に伝わりましたか?", "id": "tr-615-17-000", "answers": [ { "text": "琉球王国", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "薩摩の山川にサツマイモが伝来したのはいつですか?", "id": "tr-615-17-001", "answers": [ { "text": "1705年", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『日本の諸事に関する報告』を書いた外国人は誰ですか?", "id": "tr-615-17-002", "answers": [ { "text": "ジョルジ・アルヴァレス", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "八丈島に芋焼酎の製法を伝えた人物は誰ですか?", "id": "tr-615-17-003", "answers": [ { "text": "丹宗庄右衛門", "answer_start": 288, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明治に入ると1871年に酒造株が廃止されて届出制で自由に酒造ができるようになり、鹿児島県内には一時はおよそ3万軒の自家用焼酎生産者がいたとみられる。\nしかし黄麹菌とどんぶり仕込みを用いていたため腐造が多く、当時の芋焼酎は大衆的だが米焼酎より品質的に劣るものとされていた。\n1898年に自家用焼酎の製造が禁止され、この前後に薩摩半島で阿多杜氏および黒瀬杜氏が誕生したとみられる。\n日露戦争後の好景気で焼酎は特に生産が増加し、1907年には全国の焼酎生産量174,782石(31,529キロリットル)のうち、鹿児島県産の芋焼酎だけで32,278石(5,823キロリットル)と18%を占めていた。\n一方で急速に生産量が増えたことで市場は混乱したため、1909年でも鹿児島内で約3,000軒あった免許製造者は企業整理によって1911年には485軒まで減少させられている。", "qas": [ { "question": "鹿児島内の芋焼酎の免許製造者は、1909年と1911年ではどちらの年が数が多いですか?", "id": "tr-615-18-000", "answers": [ { "text": "1909年", "answer_start": 322, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "鹿児島県内の自家用焼酎生産者は、多い時で何軒ありましたか?", "id": "tr-615-18-001", "answers": [ { "text": "およそ3万軒", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "焼酎の生産が大幅に増大したのは、何戦争後の好景気によりますか?", "id": "tr-615-18-002", "answers": [ { "text": "日露戦争後", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "企業整理にともなって酒造業者ごとの生産数量は増加する一方で、沖縄から伝わった黒麹菌や、2段仕込みなどの技術が導入され、前者は急速に鹿児島県内で普及した。\nまた鹿児島で使用されていた麹用の外砕米が宮崎県でも用いられるようになりコスト低減が進められた。\n当時の酒価は資本力の大きい仲買業者が決定権を握っており、これに対抗する生産者の組織として1913年に鹿児島県酒造組合連合会が結成された。\n同年の芋焼酎はアルコール度数40度で1升(1.8リットル)あたり72銭程度であり、1916年の鹿児島県と宮崎県の年間焼酎消費量はそれぞれ11,725キロリットルと5,051キロリットル、1人当たりでは4.3升(7.8リットル)および5.9升(10.6リットル)であった。", "qas": [ { "question": "1916年の鹿児島県と宮崎県の年間焼酎消費量が多いのはどちらの県ですか?", "id": "tr-615-19-000", "answers": [ { "text": "鹿児島県", "answer_start": 241, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1916年の鹿児島県と宮崎県の1人当たりの年間焼酎消費量が多いのはどちらの県ですか?", "id": "tr-615-19-001", "answers": [ { "text": "宮崎県", "answer_start": 246, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "資本力の大きい仲買業者に対抗して結成された組織とは何ですか?", "id": "tr-615-19-002", "answers": [ { "text": "鹿児島県酒造組合連合会", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "関東大震災などもあって酒価の低迷が続いたことを受け、翌1924年には鹿児島県で焼酎の製造期間を10-4月に限定する自主規制が設けられ、これは後に蒸留期間の制限となった。\nまた、同年には黒瀬と阿多の杜氏が合同で加世田酒造杜氏組合を結成している。\n1930年には鹿児島・宮崎の両県で芋焼酎の最低価格を1升あたり2.15銭/度としたが、この協定が必ずしも順守されなかったため、1932年には直近3年間の生産量をもとに生産量の制限を行っている。\n1942年には食糧管理法が制定され、米およびサツマイモの供給が同法により統制されるようになった。", "qas": [ { "question": "加世田酒造杜氏組合が結成された年はいつですか?", "id": "tr-615-20-000", "answers": [ { "text": "1924年", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1950年にサツマイモの統制が解除されると生産が増加したが、競争激化を受けて1954年に鹿児島県、1956年には宮崎県で、それぞれ製造数量の自主規制が始まり1968年まで続いている。\n1970年代に入ると第1次焼酎ブームが起き、薩摩酒造のさつま白波を中心に、福岡市をはじめとする北部九州の中核都市で芋焼酎の消費が広がっていった。\n1980年代には第2次焼酎ブームが起きるが、その中心は大分麦焼酎や混和焼酎などすっきりした商品であり、芋焼酎の伸びは大きくなかった。\n2000年代の第3次焼酎ブームでは大都市圏で焼酎の消費量が急増し、東京・関信越では2000年から2004年にかけて本格焼酎の消費数量が約60,000キロリットルから約115,000キロリットルまで2倍近くに急増して南九州4県の消費量を上回るようになった。\nこの第3次ブームの中心となったのは芋焼酎で、2000年から2005年にかけて課税移出数量は67,509キロリットルから164,666キロリットルまで2倍以上に増加している。\nまた、2005年には鹿児島県で製造される芋焼酎が薩摩焼酎として国税庁の地理的表示に登録されている。\n2008年には年間の課税移出数量が20万キロリットルを超え、2010年には麦焼酎を抜いて原料別の課税移出数量で1位となった。", "qas": [ { "question": "鹿児島県と宮崎県はどちらが早く製造数量の自主規制を始めましたか?", "id": "tr-615-21-000", "answers": [ { "text": "鹿児島県", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第3次焼酎ブームを牽引した焼酎の種類は何ですか?", "id": "tr-615-21-001", "answers": [ { "text": "芋焼酎", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "芋焼酎が原料別の課税移出数量で1位となったのはいつですか?", "id": "tr-615-21-002", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 527, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "プランバナン寺院群", "paragraphs": [ { "context": "プランバナン寺院群(プランバナンじいんぐん、英:PrambananTempleCompounds)は、インドネシアのジャワ島中部にある9世紀のヒンドゥー教寺院のプランバナン寺院(チャンディ・プランバナン、ジャワ語:ꦕꦤ꧀ꦝꦶꦥꦿꦩ꧀ꦧꦤꦤ꧀,CandhiPrambanan、尼:CandiPrambanan)、別名ロロ・ジョングラン寺院(チャンディ・ロロ・ジョングラン、ジャワ語:ꦫꦫꦗꦺꦴꦁꦒꦿꦁ、尼:CandiRoroJonggrang〈CandiRaraJonggrang〉)を中心とした遺跡群である。\n地区名であるプランバナンは、ジョグジャカルタ特別州の州都ジョグジャカルタ市の東約17キロメートル(11mi)の中部ジャワ州との境界に位置する。", "qas": [ { "question": "プランバナン寺院群が存在する国はどこ?", "id": "tr-616-00-000", "answers": [ { "text": "インドネシア", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プランバナンとジョグジャカルタ市間はどれくらいの距離で離れていますか?", "id": "tr-616-00-001", "answers": [ { "text": "約17キロメートル", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヒンドゥー教寺院と仏教寺院からなるプランバナン寺院群は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されており、これらの寺院遺跡はジャワ語およびインドネシア語でチャンディ(ジャワ語:Candhi、尼:Candi)として知られる。\nその中心となるプランバナン寺院はインドネシア最大のヒンドゥー教寺院である。\nプランバナン寺院は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの三大神を三神一体とするトリムルティ(Trimurti〈トリムールティ、梵:Trimūrti〉)に捧げられ、ヒンドゥー教建築における高いピラミッド状の尖塔と各祠堂による一大複合体のなかにそびえ立つ、高さ47メートル(154ft)の中央の祠堂建築により特徴づけられる。", "qas": [ { "question": "インドネシアで最も大きいヒンドゥー教寺院とは?", "id": "tr-616-01-000", "answers": [ { "text": "プランバナン寺院", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プランバナン寺院をインドネシア語で何と言いますか?", "id": "tr-616-01-001", "answers": [ { "text": "チャンディ", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "寺院群のなかで中心的構造物であるプランバナン寺院は、古マタラム王国(サンジャヤ王統、8-10世紀初頭)の時代に建立された。\nその後、16世紀の大地震で多くが崩壊し、その存在はほとんど忘れ去られていたが、再発見の後、19世紀には発掘が始まり、20世紀になると遺跡の修復作業が開始された。\nこのプランバナン寺院はインドネシア最大級であり、仏教遺跡のボロブドゥール寺院とともにジャワ建築の最高作の1つとされる。", "qas": [ { "question": "プランバナン寺院は何世紀に建てられましたか?", "id": "tr-616-02-000", "answers": [ { "text": "8-10世紀初頭", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "16世紀にプランバナン寺院の多くが崩壊した原因は何でしたか?", "id": "tr-616-02-001", "answers": [ { "text": "大地震", "answer_start": 71, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プランバナン寺院の遺跡修復作業が開始されたのはいつでしたか?", "id": "tr-616-02-002", "answers": [ { "text": "20世紀", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジャワ建築としての最高建築物はプランバナン寺院と何ですか?", "id": "tr-616-02-003", "answers": [ { "text": "ボロブドゥール寺院", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "プランバナン寺院は、古代ジャワ最大のヒンドゥー教寺院であるが、創建の年代については諸説あり一定していない。\nその着工は8世紀末までさかのぼるとする説があり、この説によれば、プランバナン寺院は大乗仏教を奉ずるシャイレーンドラ朝のボロブドゥール寺院や地理的にプランバナン寺院に近いセウ寺院(チャンディ・セウ、尼:CandiSewu)と同時期に、ヒンドゥー教を奉ずるサンジャヤ王統により造営されたことになり、ボロブドゥールと年代的に並行関係が成立する。\n後の時代とするものとしては、プランバナン寺院を完成したとされる王バリトゥン(898-910年頃)または王ダクサ(913-915年頃)によって造営が開始されたという旧説がある。", "qas": [ { "question": "王バリトゥンと王ダクサはどちらが先に王位に就きましたか?", "id": "tr-616-03-000", "answers": [ { "text": "王バリトゥン", "answer_start": 255, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "王位の就任期間が長かったのは、王バリトゥンと王ダクサのどちらですか?", "id": "tr-616-03-001", "answers": [ { "text": "王バリトゥン", "answer_start": 255, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "碑文によれば当初の建造物は9世紀中頃に完成したとされている。\nこれはシャイレーンドラ朝のサマラトゥンガ王の王女プラモーダワルダニー(スリ・プラモダワルダニ〈SriPramowardani〉〉、別名ラクリヤン・サンジワナ〈RjakriyanSanjiwana〉)と婚姻関係を結んだサンジャヤ王統の王ラカイ・ピカタン(842年頃-856年)により着工が始まったとする年代にあたる。\nこの説によれば、835-856年がその創建年代となる。", "qas": [ { "question": "プラモーダワルダニーの結婚相手は誰ですか?", "id": "tr-616-04-000", "answers": [ { "text": "ラカイ・ピカタン", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "刻文史料の解釈により、おそらくサンジャヤ王統は第2代王ラカイ・パナンカラン(760-780年頃)の時代より、仏教のシャイレーンドラ朝の支配のもとにあったが、第6代王ピカタンの時代に中部ジャワの支配権を回復したとされる。\nこれによれば、巨大なヒンドゥー教寺院の建設は、マタラム王統がシャイレーンドラ朝勢力から自立したことを象徴する記念物の意味を有することとなる。", "qas": [ { "question": "サンジャヤ王統の2代目に就いた王は誰ですか?", "id": "tr-616-05-000", "answers": [ { "text": "ラカイ・パナンカラン", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ラカイ・パナンカランの時代は、どこの支配下にありましたか?", "id": "tr-616-05-001", "answers": [ { "text": "シャイレーンドラ朝", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "西暦856年のシワグルハ碑文(尼:PrasastiSiwagrha)によると、この寺院はシヴァ(シワ、尼:Siwa)に捧げられ、当初はシワグルハ(尼:Siwagrha、梵:Shiva-grha、「シヴァの家」)またはシワラヤ(尼:Siwalaya、梵:Shiva-laya、「シヴァの地」)と称された。\nこの碑文によれば、プランバナン寺院付近の川の流路を変える工事が、寺院の建設のうちに着手された。\nオパック川として知られるこの川は、今日、プランバナン寺院の西側を南北に流れるが、かつての川は、より東の寺苑内を流れていたものと考えられる。\nこの造成において、プランバナン寺院の外壁の南北軸に流れる川はせき止められ、かつての川の流路は寺院拡張による広い敷地を設けるために埋め慣らされて、後に小祠堂のプルワラ(尼:Perwara)が並ぶ寺苑となった。", "qas": [ { "question": "現在、プランバナン寺院の西に流れる川とは何ですか?", "id": "tr-616-06-000", "answers": [ { "text": "オパック川", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "プランバナン寺院の主祠堂中央の聖室(ガルバグリハ〈Garbhagriha〉)に安置されるシヴァ像は、王ピカタンの肖像であるとされ、王の遺骨が台座の9メートル下に納められたといわれるほか、像は王バリトゥンをかたどるもので、王の死後、自身を神格化する肖像としての役割を果たしたともされる。\n寺苑は、王ダクサやトゥロドン(919-921年頃)など歴代のマタラム王により拡張され、主要な祠堂の周囲に何百基もの小祠堂が追加された。\nそびえ立つ中央の主祠堂は高さ47メートルであり、広大な周壁に囲まれる240基の構造物からなる寺院複合体において、トリムルティのシヴァ祠堂(チャンディ・シワ、尼:CandiSiwa)は、当時、最も高く壮大なものであった。\nプランバナン寺院はマタラム王国の王室寺院としての役割を果たし、宗教儀式や供犠のほとんどはここで行われた。\n王国の最盛期には、寺院の外壁内に何百人ものバラモンが弟子とともに住んでいたと推定されている。", "qas": [ { "question": "シヴァ像は誰の肖像だとされていますか?", "id": "tr-616-07-000", "answers": [ { "text": "ピカタン", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中央の主祠堂の高さはどれくらいありますか?", "id": "tr-616-07-001", "answers": [ { "text": "47メートル", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古マタラム王国の都の位置は不明であるが、都の中心地およびマタラムの王宮(クラトン)は、およそケウ平原(プランバナン平野)辺りであったと考えられており、平野部に突き出たラトゥボコ(尼:RatuBoko〈RatuBaka〉)の丘に残るボコ遺跡(尼:CandiBoko)が、9世紀後半頃の王宮の跡であるとされる。", "qas": [ { "question": "9世紀後半頃の王宮の跡地は何と呼ばれていますか?", "id": "tr-616-08-000", "answers": [ { "text": "ボコ遺跡", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "10世紀前半の928-929年頃に、都はイーシャーナ王朝(クディリ朝)を創設したムプ・シンドク(929-948年頃)により東ジャワに移された。\nその遷都の理由には諸説あるが、中部ジャワのプランバナンの北に位置するムラピ山の噴火や宗教的対立などにより東遷におよんだものと考えられている。\nそれによりプランバナン寺院群の衰退がもたらされ、寺院はやがて見捨てられ荒廃していった。", "qas": [ { "question": "都はどこに移動したの?", "id": "tr-616-09-000", "answers": [ { "text": "東ジャワ", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "寺院群は1600年頃(1549年)の大地震により崩壊した。\n寺院はもはや崇拝における中心的要地ではなかったが、一帯に点在する遺構がなおも認められ、後世の地元のジャワ人に知られていた。\nその遺構や彫像は、ロロ・ジョングラン伝説の主題や発想の源となった。\n周囲のジャワの村民は、正式に再発見される以前より寺院の遺構について知っていたが、それらがいつの王朝の支配期のものか、いずれの王がその記念碑的建造を命じたかなどの歴史的背景については認識していなかった。\nそれにより地元の住人は、大男と呪われた王女の神話を取り入れて、寺院の由緒を説く物語や伝説を創作し、プランバナン寺院およびセウ寺院に見事な由緒を与えた。\nその王女ロロ・ジョングラン(「痩身の処女」の意)の伝説によると、これらの寺院はバンドゥン・ボンドウォソ(BandungBondowoso)のもと、多くの精霊により一夜のうちに建造されたといわれる。", "qas": [ { "question": "ロロ・ジョングラン伝説では、寺院の創建者は誰だとされていますか?", "id": "tr-616-10-000", "answers": [ { "text": "精霊", "answer_start": 379, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "プランバナン寺院の存在は、1733年、オランダ東インド会社(オランダ語:VerenigdeOost-IndischeCompagnie、略称:VOC)のロンス(CorneliusAntonieLons)により初めて報告された。\n1755年のマタラム王国(新マタラム王国)分割の後、寺院の遺構とオパック川は、ジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の王家の境域を画定するために用いられ、ジョグジャカルタと中部ジャワ間の現在の境界として選定された。", "qas": [ { "question": "プランバナン寺院の存在を報告をした人は誰?", "id": "tr-616-11-000", "answers": [ { "text": "ロンス", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プランバナン寺院の存在が報告されたのは何年でしたか?", "id": "tr-616-11-001", "answers": [ { "text": "1733年", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "プランバナン寺院は、19世紀初頭に国際的に注目されるようになった。\n1811年、短いオランダ領東インドのイギリスの占領時代に、スタンフォード・ラッフルズのもと、調査員であったコリン・マッケンジーがたまたま寺院に行き当たった。\n次いでラッフルズは遺跡の全面調査を命じている。\nその後、ラッフルズは、『ジャワ誌』(“TheHistoryofJava”、1817年)において、「それらは石材が崩れた塊からなる大きな塚のように見え、多量のさまざまの種類の樹木や草で覆われている。現在の荒廃した状態において、これらの尊い建物の正確な計画図あるいはもとの配置とか大きさ、また数や形を得ることは非常に困難である」と記している。\nそれらは数十年にわたって放置されたままであった。\nオランダ人居住者は装飾品として彫刻を持ち去り、また土地の住人らは建設資材にその礎石を使用していた。\n1885年よりアイゼルマン(JanWillemIJzerman)が考古学的調査を開始したが、その緩慢な発掘により略奪を容易にした。", "qas": [ { "question": "コリン・マッケンジーの上司は誰でしたか?", "id": "tr-616-12-000", "answers": [ { "text": "スタンフォード・ラッフルズ", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1885年からプランバナン寺院の考古学調査を始めた人は誰ですか?", "id": "tr-616-12-001", "answers": [ { "text": "アイゼルマン", "answer_start": 389, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プランバナン寺院を偶然見つけた人は誰ですか?", "id": "tr-616-12-002", "answers": [ { "text": "コリン・マッケンジー", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "20世紀になって、ファン・エルプやドゥ・ハーン(DeHaan)らによる研究がなされた。\n1918年にオランダ植民地政府はシヴァ祠堂の修復に着手し、1930年には相応の修復が開始され、1937年よりオランダ領東インド考古局のもとで着工された本格的な修復工事は、その後、大東亜戦争による1943-1945年の日本の軍政期を経て継続された。\n中央のシヴァ祠堂の修復は、インドネシアが独立し、スカルノ大統領就任後の1953年になって完成した。\nもとの石積みの多くは盗まれ、遠方の建築地で再利用されていたことから、修復はかなり妨げられた。\nインドネシア政府は寺院複合体の規模を考慮し、もとの石積みの少なくとも75パーセントが利用できる場合のみ寺院遺跡を再構するという決定をした。", "qas": [ { "question": "インドネシア独立時の大統領は誰でしたか?", "id": "tr-616-13-000", "answers": [ { "text": "スカルノ", "answer_start": 192, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シヴァ祠堂の修復が完成したのは何年でしたか?", "id": "tr-616-13-001", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 203, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "政府により、1977-1987年にブラフマー祠堂(チャンディ・ブラフマ〈ブラーマ〉、尼:CandiBrahma)が修復され、1982-1991年にヴィシュヌ祠堂(チャンディ・ウィスヌ、尼:CandiWishnu)が修復された。\nその後、1991-1993年にかけて、ヴァーハナ(尼:Wahana)のナンディ祠堂(チャンディ・ナンディ、尼:CandiNandi)、ガルーダ祠堂(チャンディ・ガルーダ、尼:CandiGaruda〈チャンディ・A〉)、ハンサ祠堂(チャンディ・ハンサ、尼:CandiHamsa〈チャンディ・B〉)が修復された。\n修復の取り組みは今日もなお続いている。\nしかし、現在もほとんどの小祠堂はそれらの基礎が認められるのみである。", "qas": [ { "question": "ヴィシュヌ祠堂とブラフマー祠堂はどちらが先に修復されたの?", "id": "tr-616-14-000", "answers": [ { "text": "ブラフマー祠堂", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ナンディ祠堂、ヴィシュヌ祠堂、ブラフマー祠堂の中で2番目に早く修復されたのはどれ?", "id": "tr-616-14-001", "answers": [ { "text": "ヴィシュヌ祠堂", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハンサ祠堂と同じ時期に修復されたのはヴィシュヌ祠堂とガルーダ祠堂のどちら?", "id": "tr-616-14-002", "answers": [ { "text": "ガルーダ祠堂", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1990年代初頭、政府は寺院の近くにできた市場を移転させ、遺跡公園として周囲の村落や水田を再開発した。\n公園は、南の幹線道路(ジョグジャカルタ-ソロ〈スラカンタ〉)からプランバナン寺院複合体の全体、ルンブン寺院(チャンディ・ルンブン、尼:CandiLumbung)やブブラ寺院(チャンディ・ブブラ、尼:CandiBubrah)の遺跡、さらに北側のセウ寺院を取り囲む広い地域におよんでいる。\nそして1991年、プランバナン寺院群として国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された。\n1992年にインドネシア政府は「ボロブドゥール・プランバナン・ラトゥボコ遺跡観光公園有限会社」(“PTTamanWisataCandiBorobudur,Prambanan,danRatuBoko”)という国有有限責任企業(ペルセロ、Persero)を設立した。\nこの事業体は、インドネシアにおいて人気の高い観光名所であるボロブドゥール、プランバナン、ラトゥボコとその周辺地域の公園を管理する機関である。", "qas": [ { "question": "「ボロブドゥール・プランバナン・ラトゥボコ遺跡観光公園有限会社」の設立者となる機関は何ですか?", "id": "tr-616-15-000", "answers": [ { "text": "インドネシア政府", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユネスコに世界遺産登録されたのは何年ですか?", "id": "tr-616-15-001", "answers": [ { "text": "1991年", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2006年5月27日に起きたジャワ島中部地震においては、プランバナンも甚大な被害を受けた。\n寺院複合体は構造的に大きく損なわれることはなかったが、祠堂の小塔部の落下および石積みの亀裂や歪みなどの損傷が多く認められ、彫刻を含む大きな破片が地面に散乱していた。\n数週間後のうちに訪問者の苑内への入場は再開されたが、寺院の祠堂などは損傷部位の安全性が確保されるまで閉鎖された。", "qas": [ { "question": "ジャワ島中部地震はいつ発生したの?", "id": "tr-616-16-000", "answers": [ { "text": "2006年5月27日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "地震発生よりおよそ2か月後には、インドネシア政府の要請により日本からの調査団が派遣された。\n日本の第2次調査団が派遣された2007年より修復作業が開始され、同年3月には、プランバナン遺跡の修復専門機関であるジョクジャカルタ特別州考古学局に対し、日本からも修復機材を購入するための補助資金が供与された。", "qas": [ { "question": "地震後にインドネシア政府はどこの国に調査団の派遣を要請したの?", "id": "tr-616-17-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プランバナンの修復作業がスタートしたのは何年から?", "id": "tr-616-17-001", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2009年1月にはナンディ祠堂の修復が完了した。\nその後、2012年に「中部ジャワ古代遺物保存局」(BalaiPelestarianPeninggalanPurbakalaJawaTengah〈BP3〉、英:CentralJavaHeritagePreservationAuthority)は、プランバナンおよび周辺地域を保護区とするように提案した。\n挙げられた地域は、プランバナン、ラトゥボコ、カラサン、サリ、プラオサンなど地域の主要な寺院があるスレマン県とクラテン県にまたがる30平方キロメートルのケウ平原(プランバナン平野)に位置する。\nこの保護区においては、多くの新たな建造物、特に複数階建ての建築物をなくすよう求められた。", "qas": [ { "question": "ナンディ祠堂の修復作業が終わったのはいつでしたか?", "id": "tr-616-18-000", "answers": [ { "text": "2009年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2014年2月14日、ボロブドゥール、プランバナン、ラトゥボコなど、ジョグジャカルタおよび中部ジャワの主な観光名所は、前夜に噴火したジョグジャカルタの東方約200キロメートルに位置する東ジャワのケルート山の火山灰により、深刻な影響を受けて閉鎖された。\nその後、ボロブドゥールは2月26日より、プランバナン、ラトゥボコなどの訪問も28日には再開された。\nその4年前の2010年、ボロブドゥールに影響を与えたムラピ山の噴火における火山灰においては、風や降灰の方向が西向きであったため、プランバナンは影響を免れていた。", "qas": [ { "question": "2014年2月に噴火した山は何?", "id": "tr-616-19-000", "answers": [ { "text": "ケルート山", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "訪問再開が早かったのは、ラトゥボコとボロブドゥールのどちらですか?", "id": "tr-616-19-001", "answers": [ { "text": "ボロブドゥール", "answer_start": 130, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "先に噴火したのはムラピ山とケルート山のどちらですか?", "id": "tr-616-19-002", "answers": [ { "text": "ムラピ山", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "プランバナンは、インドネシアにおいて最も訪問される観光名所の1つである。\nオパック川を渡った寺院西側の屋外(ラーマヤナ野外劇場)および屋内(トリムルティ屋内劇場)の舞台は、伝統的な叙事詩『ラーマーヤナ』の舞踏(ラーマヤナ舞踏、尼:SendratariRamayana、英:RamayanaBallet)を上演するために建設された。\nラーマヤナ野外劇場は乾季(5-10月)に使用され、雨季(11-4月)にはトリムルティ屋内劇場において上演される。\nこの『ラーマーヤナ』のジャワ舞踊、ワヤン・オラン(Wayangorang、ワヤン・ウォン〈Wayangwong〉)は、何世紀にもわたるジャワ宮廷の舞踏であり、プランバナンでは、1960年代より満月の夜ごとに上演されてきた。\n以来、プランバナンはインドネシアにおける主要な考古学的、文化的観光名所となっている。", "qas": [ { "question": "ラーマヤナ野外劇場とトリムルティ屋内劇場は何の舞踏を上演するために造られたの?", "id": "tr-616-20-000", "answers": [ { "text": "『ラーマーヤナ』", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジャワ宮廷の舞踏の呼称とは何?", "id": "tr-616-20-001", "answers": [ { "text": "ワヤン・オラン", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "雨季に『ラーマーヤナ』が上演される劇場はどこ?", "id": "tr-616-20-002", "answers": [ { "text": "トリムルティ屋内劇場", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2019年11月9日から12日にかけて、本寺院の苑内で盛大なアビシェーカ(Abhiṣeka、灌頂)という宗教的儀式が催された。\nこのヒンドゥー教の儀式は、プランバナン寺院が創建されたシワグルハ碑文の856年から、1163年の時を経て初めて開催された。\nアビシェーカの式典は、寺院を祓い、清め、浄化することを意図したものであり、このようにプランバナン寺院は、単に考古学や観光の場所ではなく、ヒンドゥー教の宗教活動の拠点としての当初の機能の回復を示している。\nこのアビシェーカの式典により、インドネシアのヒンドゥー教においては、寺院内を再び聖別し、プランバナン寺院の霊力復興の節目を迎えたと捉えられている。", "qas": [ { "question": "1163年の時を経て開催されたヒンドゥー教の儀式とは何?", "id": "tr-616-21-000", "answers": [ { "text": "アビシェーカ", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プランバナン寺院複合体は、ロロ・ジョングランの有名な伝説にちなんで名付けられたロロ・ジョングラン複合体としても知られる。\nこのシヴァ派寺院群には、大小240基の祠堂があった。\n現在、内苑にある8基の主要な祠堂および8基の小祠堂はすべて修復されているが、かつてあった224基のプルワラ小祠堂(チャンディ・プルワラ、尼:CandiPerwara)は、そのうち3基が修復されているのみであり、大部分は崩壊して散在した石材だけが残る。", "qas": [ { "question": "シヴァ派寺院群には元々大小何基の祠堂があったの?", "id": "tr-616-22-000", "answers": [ { "text": "240基", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プルワラ小祠堂は元々何基が存在していましたか?", "id": "tr-616-22-001", "answers": [ { "text": "224基", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "プランバナン寺院複合体は3重の寺苑により構成され、最初に外苑、次に数百基の小祠堂のある中苑、そして最後に主要な祠堂8基および小祠堂8基などがある最も神聖な内苑がある。\nプランバナンのヒンドゥー寺院複合体は、この全部で3重の寺苑を含めて正方形の配置に基づき、それぞれの寺苑は4つの塔門(ゴープラ)により通じる四方の周壁に囲まれている。\n外苑は、長大な周壁に囲まれた大空間である。\nもともと一辺およそ390メートルあった最も外側の周壁は、北東方向にずれ、約10数度傾いて配置されていた。\nしかし、南の門を除いて、この囲い地にあったほとんどは今日に残っていない。\nその外苑のかつての機能は不明であるが、そこは聖地であり僧院(アシュラム、Ashram)があったとも考えられる。\nしかし、寺院複合体の二次的構造物は有機素材で造られていたため、その遺構は残存しない。", "qas": [ { "question": "プランバナン寺院複合体は何重の寺の庭から成っていますか?", "id": "tr-616-23-000", "answers": [ { "text": "3重", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "主要な祠堂と小祠堂は共に何基ありますか?", "id": "tr-616-23-001", "answers": [ { "text": "8基", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "大明東町", "paragraphs": [ { "context": "大明東町(おあきひがしまち)は、三重県鳥羽市の町だ。\n加茂川河口を干拓して造成した土地で、鳥羽中央公園や鳥羽市立図書館などが立地する、鳥羽市の新市街地を成す。\n住民基本台帳に基づく2019年(令和元年)10月31日現在の人口は553人、2015年(平成27年)10月1日現在の面積は0.281651049km2だ。\n郵便番号は517-0022である。", "qas": [ { "question": "鳥羽市立図書館が立地している町はどこ?", "id": "tr-617-00-000", "answers": [ { "text": "大明東町", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大明東町は2019年10月31日時点で人口が何人でしたか?", "id": "tr-617-00-001", "answers": [ { "text": "553人", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大明東町の郵便番号は何?", "id": "tr-617-00-002", "answers": [ { "text": "517-0022", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "鳥羽中央公園が立地している町はどこ?", "id": "tr-617-00-003", "answers": [ { "text": "大明東町", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "鳥羽市の中部、加茂地区の北部に位置する。\n干拓地であり、加茂川河口の右岸に位置する。\n町域の3分の2ほどを占める北西部には市民の森公園や鳥羽中央公園が立地し、残る南東部は市営住宅やビレッジハウス(旧雇用促進住宅)などの住宅団地となっている。", "qas": [ { "question": "大明東町は何市の町ですか?", "id": "tr-617-01-000", "answers": [ { "text": "鳥羽市", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大明東町はどのような土地ですか?", "id": "tr-617-01-001", "answers": [ { "text": "干拓地", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北側を加茂川が流れ、安楽島大橋で鳥羽四丁目と結ばれている。\n港湾法に基づく運輸大臣の認可により、加茂川最下流道路橋(=安楽島大橋)下流の河川水面は鳥羽港の港湾区域に含まれるため、大明東町の加茂川水面は鳥羽港の一部である。\n東から南にかけては安楽島町、西は大明西町と接する。\n大明西町との境界を三重県道750号阿児磯部鳥羽線が通る。", "qas": [ { "question": "大明東町の北側に流れている川は何?", "id": "tr-617-02-000", "answers": [ { "text": "加茂川", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大明東町の西隣りにある町は何?", "id": "tr-617-02-001", "answers": [ { "text": "大明西町", "answer_start": 127, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大明西町との境を通っている県道の名称は何?", "id": "tr-617-02-002", "answers": [ { "text": "三重県道750号阿児磯部鳥羽線", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大明東町・大明西町(大明地区)は加茂川河口の湾曲部に当たり、起伏に富んだ基盤となる岩盤の上に、軟弱な粘性土層(シルトや砂)が厚く堆積した地層をしている。\nその上から盛土を行って土地を造成した。\n1971年(昭和46年)の造成開始時の干拓地の平均標高は+2.33mで、その上に2.5mの盛土を行ったので、完成当時の大明地区の平均標高は+4.83mだったが、2008年(平成20年)12月に三菱電機が移動体三次元形状計測車両を用いて計測した結果、平均標高は+1.6〜1.7mほどと平均約3mの地盤沈下が発生していることが明らかになった。\n(ただし盛土の完了後に建物の建設や追加の盛土が実行されたため、沈下量はあくまでも参考値である。)", "qas": [ { "question": "造成開始時の干拓地の平均標高はどれくらいでしたか?", "id": "tr-617-03-000", "answers": [ { "text": "+2.33m", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1971年に土を盛ったのは何mでしたか?", "id": "tr-617-03-001", "answers": [ { "text": "2.5m", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "干拓地の平均標高が高かったのは1971年と2008年のどちらでしたか?", "id": "tr-617-03-002", "answers": [ { "text": "1971年", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2008年に何mの地盤沈下が発生していましたか?", "id": "tr-617-03-003", "answers": [ { "text": "約3m", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "軟弱地盤の上に盛土したため、大明地区では広範囲にわたって地盤沈下を引き起こしている。\n大明地区の建築物は、建設時点から地盤沈下を見越して杭基礎を施しているので建物そのものは沈下の被害は軽微であるが、杭を打っていない道路や駐車場は大きく沈下している。\n沈下速度は2008年(平成20年)時点では粘性土層の厚さが25m前後の地点で最大となっているが、粘性土層の圧密が完了するとシミュレートされている2128年には粘性土層の厚さが40mの地点(粘性土層が最も厚い地点)の沈下量が最大となるという解析結果が出ている。\nまた標高が低く、河口部に位置するため、津波や高潮による浸水被害や、軟弱地盤による地震時の激しい揺れが懸念されている。", "qas": [ { "question": "大明地区の地盤はどれくらいの強度ですか?", "id": "tr-617-04-000", "answers": [ { "text": "軟弱", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "地震時の激しい揺れが心配されているのは大明地区の地盤がどのような地盤だからですか?", "id": "tr-617-04-001", "answers": [ { "text": "軟弱地盤", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "粘性土層の厚さが40mの地点の沈下量が最大となるのは何年であると推定されていますか?", "id": "tr-617-04-002", "answers": [ { "text": "2128年", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2008年時点では粘性土層の厚さが何m前後の地点の沈下速度が最大となっていますか?", "id": "tr-617-04-003", "answers": [ { "text": "25m", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "市域の86.5%を山林原野が占め、平地がごく限られる鳥羽市では、埋め立てや干拓によって面積を拡大していった。\n特に志摩郡鳥羽町に隣接する加茂川河口部の加茂村北部は明治時代から注目されていた。", "qas": [ { "question": "鳥羽市が行った面積の拡大方法は、埋め立てと何でしたか?", "id": "tr-617-05-000", "answers": [ { "text": "干拓", "answer_start": 37, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鳥羽市にはどれくらいの割合で山林原野が存在していますか?", "id": "tr-617-05-001", "answers": [ { "text": "86.5%", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "加茂村北部はいつの時代から目を着けられていたの?", "id": "tr-617-05-002", "answers": [ { "text": "明治時代", "answer_start": 81, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "最初に事業を企てたのは、東京市で緒明造船所を経営する緒明菊三郎(おあき〔おあけ〕きくさぶろう)であった。\n菊三郎は東京から鳥羽へ造船所を移すために干拓によって土地を造成し、7,000-8,000t級の船を4-5隻係留できる岸壁、ドック、倉庫を建設、さらに鳥羽駅から参宮線を延長して干拓地に引き込む計画を1903年(明治36年)に打ち出した。\nこの計画は造船所の整備を通して鳥羽港を商業・軍事両面から重要な拠点とし、陸海の交通結節点にする壮大なものであった。\n計画のみならず、1904年(明治37年)から実際に干拓事業に着手し、その築堤に並んだ松の木が天橋立のような景観を生み出した。\n当時の資料『三重県案内』には「現に工事中に属す、今や湾内の浚渫及埋立を企て大船渠数個を設け倉庫を建設し(中略)資を投すること百数十万」という記述があり、多額の私財を投じて工事を進めていたことが分かる。\nしかし、当時の土木技術の水準では非常な難工事であり、1909年(明治42年)に菊三郎が亡くなると事業は停止した。", "qas": [ { "question": "緒明菊三郎は東京で何を経営していたの?", "id": "tr-617-06-000", "answers": [ { "text": "緒明造船所", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "緒明は何年から干拓事業を始めたの?", "id": "tr-617-06-001", "answers": [ { "text": "1904年", "answer_start": 237, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最初に鳥羽港で事業を企てた人は誰?", "id": "tr-617-06-002", "answers": [ { "text": "緒明菊三郎", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "緒明菊三郎は何年に死去したの?", "id": "tr-617-06-003", "answers": [ { "text": "1909年", "answer_start": 419, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "次に、菊三郎の娘婿である緒明圭造が1918年(大正7年)に12万坪(≒40ha)の埋め立てを企図したが、石積みの護岸工事に着手しただけで、完工を見なかった。\n続いて昭和戦前期に、神戸製鋼所が埋め立てに乗り出したが、太平洋戦争に突入したため、中止となった。", "qas": [ { "question": "菊三郎の娘婿の名前は?", "id": "tr-617-07-000", "answers": [ { "text": "緒明圭造", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "緒明圭造はどれくらいの面積を埋め立てようと計画したの?", "id": "tr-617-07-001", "answers": [ { "text": "12万坪", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "緒明圭造が12万坪を埋め立てようと計画したのは何年だったの?", "id": "tr-617-07-002", "answers": [ { "text": "1918年", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "緒明圭造の次に埋め立てを行おうとしたのは何でしたか?", "id": "tr-617-07-003", "answers": [ { "text": "神戸製鋼所", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "3度の頓挫を経て、1951年(昭和26年)に農林省は食糧増産を目的に干拓計画を立案し、1954年(昭和29年)に着工した。\n1961年(昭和36年)1月8日に潮止式を執り行い、1964年(昭和39年)に55町歩(≒54.5ha)を干拓して事業を終了した。\n菊三郎の計画から61年後、農林省による着工から10年後の出来事であり、完成した土地は「加茂干拓地」と呼ばれた。\nしかし、この頃には食糧事情は改善していたため、農林省は農地として利用する計画を中止し、土地は放置同然となった。", "qas": [ { "question": "農林省が立案した干拓計画の目的は何でしたか?", "id": "tr-617-08-000", "answers": [ { "text": "食糧増産", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "干拓事業が終わったのは何年でしたか?", "id": "tr-617-08-001", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "農林省が事業を行った干拓地の呼称は何ですか?", "id": "tr-617-08-002", "answers": [ { "text": "「加茂干拓地」", "answer_start": 170, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "農林省による干拓事業は何年に着工したの?", "id": "tr-617-08-003", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中心市街地まで山地が迫り来る地形に長年悩んでいた鳥羽市当局は、加茂干拓地を多目的に活用しようと考え、農林省に払い下げを申請し、1970年(昭和45年)に鳥羽市開発公社が44.5577haを取得した。\nこの頃より加茂干拓地は緒明菊三郎の名にちなんで大明(おあき)と通称されるようになった。\n公社は1971年(昭和46年)5月、「加茂干拓地総合開発事業」を開始し、安楽島町細田(現・高丘町)の民有地約88aを買収して切土を行い、そこで発生した土砂を干拓地へ一様に約2.5m盛土した。\n1974年(昭和49年)5月に盛土を終えると、体育館・公園・図書館などの公共用地開発と公営住宅・分譲住宅の宅地開発に乗り出した。\n運動公園である鳥羽中央公園は1973年(昭和47年)4月14日の鳥羽市民体育館の開館を皮切りに順次施設整備が進み、1987年(昭和62年)6月28日の水泳プールの竣工により、全施設の建設が終了した。", "qas": [ { "question": "大明(おあき)とは誰の名前が由来となっているの?", "id": "tr-617-09-000", "answers": [ { "text": "緒明菊三郎", "answer_start": 111, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1970年頃から加茂干拓地は何と呼ばれ始めましたか?", "id": "tr-617-09-001", "answers": [ { "text": "大明", "answer_start": 123, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鳥羽中央公園の中で最後に建設された施設とは何だったの?", "id": "tr-617-09-002", "answers": [ { "text": "水泳プール", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical 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"text": "鳥羽市保健福祉センター「ひだまり」", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「大明東町」の名前が使われたのは何年からですか?", "id": "tr-617-10-003", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「大明」は干拓を計画した緒明菊三郎の姓に由来し、「大きく明けゆくように」との願いを込めて大明の文字を充てたものである。\n「東町」は大明西町と対になるように命名された。\n大明という地名は、鳥羽市開発公社が農林省から加茂干拓地の払い下げを受けた1970年(昭和45年)頃より使われ始め、1981年(昭和56年)に正式な地名として採用された。", "qas": [ { "question": "「大明」にはどのような願いが込められているの?", "id": "tr-617-11-000", "answers": [ { "text": "「大きく明けゆくように」", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「大明」が正式な地名になったのは何年から?", "id": "tr-617-11-001", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大明東町とペアで命名された地名は何?", "id": "tr-617-11-002", "answers": [ { "text": "大明西町", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2015年(平成27年)の国勢調査による15歳以上の就業者数は292人で、第一次産業(全員漁業)が5人(1.7%)、第二次産業が68人(23.3%)、第三次産業が219人(75.0%)となっており、産業別では多い順に宿泊業・飲食サービス業(59人・20.2%)、卸売業・小売業(49人・16.3%)、製造業(40人・13.7%)、医療・福祉(31人・10.6%)、建設業(28人・9.6%)の順になる。", "qas": [ { "question": "第一次産業、第二次産業、第三次産業の中で、2015年当時最も人数が少なかったのはどれ?", "id": "tr-617-12-000", "answers": [ { "text": "第一次産業", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第一次産業、第二次産業、第三次産業の中で、2015年当時最も就業者数が多かったのはどれ?", "id": "tr-617-12-001", "answers": [ { "text": "第三次産業", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2015年当時の国勢調査において、就業者数が最も多かった産業は何?", "id": "tr-617-12-002", "answers": [ { "text": "宿泊業・飲食サービス業", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2015年当時の国勢調査において、就業者数が最も少なかった産業は何?", "id": "tr-617-12-003", "answers": [ { "text": "建設業", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2014年(平成26年)の経済センサスによると、大明東町の全事業所数は48事業所、従業者数は332人である。\n具体的には宿泊業・飲食サービス業が10、卸売業・小売業が7、生活関連サービス業・娯楽業、サービス業(他に分類されないもの)が各6、建設業と医療・福祉が各4、運輸業、地方公務が各2、製造業、水道業、通信業、保険業、物品賃貸業、技術サービス業、教育・学習支援業が各1事業所となっている。\n全48事業所のうち30事業所が従業員4人以下の小規模事業所である。", "qas": [ { "question": "2014年に事業所数が最も多かった産業は何でしたか?", "id": "tr-617-13-000", "answers": [ { "text": "宿泊業・飲食サービス業", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2014年に卸売業・小売業と技術サービス業の事業所数が少なかったのはどちら?", "id": "tr-617-13-001", "answers": [ { "text": "技術サービス業", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2014年に事業所数が多かったのは医療・福祉と保険業のどちらですか?", "id": "tr-617-13-002", "answers": [ { "text": "医療・福祉", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "五稜郭", "paragraphs": [ { "context": "五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府により新しく開港され防備の必要となった蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された稜堡式の城郭である。同時期に築城された長野県佐久市の龍岡城も稜堡式城郭であり「五稜郭」と呼ばれるが、単に「五稜郭」といえば函館の城郭とする場合も多い。予算書時点から五稜郭の名称は用いられていた。ただし、築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。", "qas": [ { "question": "五稜郭は、築造中、亀田役所土塁または何と呼ばれたか。", "id": "tr-618-00-000", "answers": [ { "text": "亀田御役所土塁", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "亀田役所土塁、亀田御役所土塁、柳野城は全部何を指すのか。", "id": "tr-618-00-001", "answers": [ { "text": "五稜郭", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "五稜郭は、ネコヤナギが多く生えていた土地であることから何という別称を持っているか。", "id": "tr-618-00-002", "answers": [ { "text": "柳野城", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊した。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。現在残る星形の遺構から外側100~350メートルには、北と北西を除いて外郭の土塁がかつて存在したが、現在では国有保安林となっている箇所以外、面影は失われている。国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している。", "qas": [ { "question": "江戸幕府が崩壊したのか、五稜郭の完成から何年後のことか。", "id": "tr-618-01-000", "answers": [ { "text": "2年後", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "五稜郭が旧幕府軍に占領され、その本拠となったのはどんな戦争の結果なの?", "id": "tr-618-01-001", "answers": [ { "text": "箱館戦争", "answer_start": 88, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1854年(安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府は松前藩領だった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置した。箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(現在の元町公園。当時は松前藩の箱館奉行詰役所があった)に置かれた。初代奉行の竹内保徳は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内の箱館山に登れば奉行所を眼下に見下ろすことができるので防御に適さず、亀田方面への移転が必要だと上申。そして竹内と堀は江戸に戻ると、箱館湾内からの艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を老中・阿部正弘に出した。これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した。併せて、矢不来(やぎらい、現在の北斗市矢不来(やふらい))・押付・山背泊(やませどまり)・弁天岬・立待岬・築島・沖の口番所の7か所の台場の新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿部はこれらを同時に築造するのは困難なので、まず弁天岬(弁天台場)と築島(着工されず)に着手するよう指示している。", "qas": [ { "question": "1854年(安政元年)3月、箱館開港が決定されたのは何によってなのか。", "id": "tr-618-02-000", "answers": [ { "text": "日米和親条約の締結", "answer_start": 14, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "江戸幕府が箱館奉行を再置したのは何年?", "id": "tr-618-02-001", "answers": [ { "text": "1854年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "竹内保徳の次に奉行として働いた人は誰?", "id": "tr-618-02-002", "answers": [ { "text": "堀利煕", "answer_start": 185, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "押付、山背泊、弁天岬、立待岬のうち、最も早く着手すると予想されるのは文脈によると何か。", "id": "tr-618-02-003", "answers": [ { "text": "弁天岬", "answer_start": 419, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦「コンスタンティーヌ号」が箱館に入港した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された。当初は工期20年の計画だったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。", "qas": [ { "question": "五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された時、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた人は誰?", "id": "tr-618-03-000", "answers": [ { "text": "武田斐三郎", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "松前藩、津軽藩、南部藩、仙台藩、五稜郭のうち完成が最も遅いのは?", "id": "tr-618-03-001", "answers": [ { "text": "五稜郭", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1856年(安政3年)11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎らを台場並亀田役所土塁普請掛に任命し、1857年(安政4年)7月に五稜郭の築造を開始。建物については、1856年(安政5年)から郭外北側に役宅を建設、1861年(文久元年)に奉行所庁舎建設を開始した。施工は土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人中川伝蔵が請け負った。当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画だったが、この地は地盤が脆弱で冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた。", "qas": [ { "question": "郭外北側の役宅と奉行所庁舎、どちらがより遅く建設が始まったか。", "id": "tr-618-04-000", "answers": [ { "text": "奉行所庁舎", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "工事の際、掘割と土塁工事、建物工事、石垣工事の中、何が最も先に行われたか。", "id": "tr-618-04-001", "answers": [ { "text": "石垣工事", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "工事が行われたときの季節は?", "id": "tr-618-04-002", "answers": [ { "text": "冬季", "answer_start": 264, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1864年(元治元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・小出秀実が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や付帯施設の工事も行われ、1866年(慶応2年)に全ての工事が完了した。五稜郭の総工費は10万4090両(予算14万3千両)、その内訳は堀割・土塁・石垣などの土木工事に5万3144両(予算9万8千両)、建物の建築工事に4万4854両(予算2万5千両)、水道の敷設工事に6092両(予算2万両)というもので、これとは別に弁天台場が10万7277両(予算10万両)を費やして築かれた。この大事業に最繁期で5〜6千人の人夫が使われたといわれ、箱館には人が満ちて街は大いに潤った。", "qas": [ { "question": "五稜郭の総工費はいくらだったか。", "id": "tr-618-05-000", "answers": [ { "text": "10万4090両", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "土木工事、建物の建築工事、水道の敷設工事の中、工費がかかったのは?", "id": "tr-618-05-001", "answers": [ { "text": "土木工事", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "土木工事、建物の建築工事、水道の敷設工事の中、工費の予算を超えたのは?", "id": "tr-618-05-002", "answers": [ { "text": "建物の建築工事", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの、各地で敗北。10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は大鳥圭介によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態だったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた。", "qas": [ { "question": "榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木に上陸したのは何年度のことか。", "id": "tr-618-06-000", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "10月26日、五稜郭を征服したのは?", "id": "tr-618-06-001", "answers": [ { "text": "松岡四郎次郎隊", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "旧幕府軍が堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行った時の季節は?", "id": "tr-618-06-002", "answers": [ { "text": "冬", "answer_start": 281, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1913年(大正2年)、函館区長・北守政直が陸軍大臣に、五稜郭を公園として無償貸与して欲しいとの請願を行った。陸軍から、使用許可時点の状態を変更することは認めない、最小限の便益施設の設置や新たな樹木の植栽は全て函館要塞司令部の許可が必要である、かつ借用期間中の土地建物等の保存責任と費用負担は函館区が負う、などの条件付きで使用許可が出され、翌年五稜郭公園(ごりょうかくこうえん)として一般開放された。また、『函館毎日新聞』が発行1万号を記念して、1913年から10年かけて数千本のソメイヨシノを植樹した。この桜は現在も約1,600本が残っており、北海道内有数の花見の名所となっている。", "qas": [ { "question": "また、『函館毎日新聞』が発行1万号を記念して、1913年から10年かけて植樹した桜の名前は?", "id": "tr-618-07-000", "answers": [ { "text": "ソメイヨシノ", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1954年(昭和29年)には、函館で開催された北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)の第2会場となった。北洋博で「観光館・お菓子デパート」として用いられた建物は、翌1955年(昭和30年)から市立函館博物館五稜郭分館となり、奉行所の復元工事に伴い、2007年(平成19年)11月に閉館するまで箱館戦争関連の品々を展示していた。また、発掘調査・復元工事が行われる以前には中央部の広場で地元の運動会や夏季の林間学校などが行われ、堀も水質が良好だった時代にはプールやスケートリンクとして使用されていた。", "qas": [ { "question": "函館で開催された北洋漁業再開記念北海道大博覧会はいつ行われたか。", "id": "tr-618-08-000", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1964年(昭和39年)、五稜郭築城100年を記念して、南隣に高さ60メートルの五稜郭タワーが開業。1970年(昭和45年)からは毎年5月に「箱館五稜郭祭」が開催され、箱館戦争の旧幕府軍・新政府軍に扮した「維新パレード」、土方歳三の物まねを競う「土方歳三コンテスト」などが行われている。そのほか、1988年(昭和63年)から五稜郭の土手や堀を舞台に市民ボランティアが函館の歴史を演じる「市民創作函館野外劇」や、1989年(平成元年)からは、冬の夜間に五稜郭のライトアップを行う「五稜星の夢」が始まり、現在まで続いている。近年では、2006年(平成18年)に五稜郭タワーが高さ107メートルの新タワーに改築された。五稜郭は、2004年(平成16年)に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されたほか、観光地の評価としては、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、「五稜郭跡」、「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得している。", "qas": [ { "question": "五稜郭タワーの高さは?", "id": "tr-618-09-000", "answers": [ { "text": "107メートル", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "五稜郭タワーが建て直されたのはいつ?", "id": "tr-618-09-001", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 265, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "冬の夜間に五稜郭のライトアップを行う「五稜星の夢」はいつ開始したのか。", "id": "tr-618-09-002", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 205, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "奉行所は郭内中心部に建てられた。規模は東西約97メートル、南北約59メートルで、建物面積は約2,685平方メートルである。一部2階建であり、西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた。また役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていた。正面玄関を入った先に高さ約16.5メートルの太鼓櫓が設けられたが、箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際に、その照準となっていると考えた旧幕府軍が慌てて切り倒している。奉行所の復元に際し、当初、函館市は奉行所の建物全体の復元を計画したが、建築基準法では1,000平方メートルごとに防火壁を設置しなければならず、復元と防火壁の両立を文化庁と協議した結果、景観上芳しくないこともあり断念し、約1,000平方メートル以内の復元に留めることとなった。当時と同じ材料、同じ工法で、奉行所の南棟と中央棟部分が復元され、復元された奉行所は、平成23年度の北海道赤レンガ建築賞を受賞している。", "qas": [ { "question": "奉行所は、平成23年度にどんな賞をもらいましたか。", "id": "tr-618-10-000", "answers": [ { "text": "北海道赤レンガ建築賞", "answer_start": 432, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "マリア・ニコラエヴナ(ニコライ2世皇女)", "paragraphs": [ { "context": "マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァは、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第三皇女である。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害が実行され、家族や従者とともに19歳の若さで銃殺された。2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された。\n\n第一次世界大戦中には2人の姉のように赤十字の看護師になるにはまだ若過ぎたため、その代わりに病院の後援者となって負傷した兵士たちを見舞った。生涯を通じてロシア軍の兵士に強い関心を持ち、兵士と結婚して大家族を持つことを夢見ていた。1991年にエカテリンブルク近郊の森林で殺害された皇帝一家の遺骨が発掘されたが、欠落していた大公女の遺骨は彼女のものであるかもしれないことが示唆された。しかしながら、2007年に別の場所で欠落していた大公女の遺骨も発見され、DNA鑑定によって1918年に皇帝一家全員がエカテリンブルクで殺害され、一人も生存していなかったことが証明された。", "qas": [ { "question": "ロシア最後の皇帝は誰なの?", "id": "tr-619-00-000", "answers": [ { "text": "ニコライ2世", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第三皇女、ロシア大公女マリア・ニコラエヴナは1899年6月14日に皇室が例年夏の時期を過ごすペテルゴフにあるアレクサンドリアの離宮で誕生した。妊娠中のアレクサンドラは数回気絶を経験し、車椅子生活を余儀なくされていた。ニコライ2世は「幸せな一日:主(キリスト)は私達に三女を授けて下さった。マリー、12時10分に無事に生まれた!アリックスはほとんど一晩中寝れず、朝になると痛みが強くなった。程なくして何もかもが終わったことを神に感謝!私の最愛の人は終日、体調が良好な様子で、赤ちゃんに母乳を与えた」と日記に書いた。ニコライ2世の上の妹のクセニア・アレクサンドロヴナ大公女もこのイベントに関心を示し、「すべてが無事に終了し、待つ身の不安が遂に終わったことの嬉しさ!けれど、息子ではなかったという失望。可愛そうなアリックス!私達はもちろん、男の子でも女の子でもどちらでも喜んではいるのだけど」と書いている。\n\nニコライ2世の家族の絆は強かったと言われている。4人姉妹はいつも仲良しで、マリアは特に妹のアナスタシアと仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。姉のオリガとタチアナも2人で1つの寝室を共用しており、彼女らが「大きなペア」と呼ばれていたのに対し、下の2人は「小さなペア」と呼ばれていた。4人はOTMAという合同のサインを結束の象徴として使用していた。", "qas": [ { "question": "マリア・ニコラエヴナはいつ生まれましたか。", "id": "tr-619-01-000", "answers": [ { "text": "1899年6月14日", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリア・ニコラエヴのお父さんは誰なの?", "id": "tr-619-01-001", "answers": [ { "text": "ニコライ2世", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第三皇女は誰ですか。", "id": "tr-619-01-002", "answers": [ { "text": "マリア・ニコラエヴナ", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "4人姉妹のうち、マリアと特に中がよかったのは誰なの?", "id": "tr-619-01-003", "answers": [ { "text": "アナスタシア", "answer_start": 469, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "4姉妹は刺繍や編み物を教わり、チャリティーバザーに出品するための作品を準備することが求められた。また、祖父であるアレクサンドル3世の代からの質素な生活スタイルの影響を受けて厳しく育てられ、病気の時以外は枕無しで固い簡易型ベッドで眠り、朝に冷水浴をした。大きくなると、簡易ベッドは変わらぬものの、部屋の壁にはイコンや絵画や写真が飾られ、豪華な化粧台や、白や緑の刺繍を置いたクッションなどが入り、大きな部屋をカーテンで仕切って浴室兼化粧室として4人共同で使用した。10代になると、冷水浴をやめて夜にフランソワ・コティの香水の入った温水のバスを使用するようになったが、マリアは色々な香水を試した末に「リラ」を常時使用するようになった。4姉妹は簡易ベッドを流刑地まで持って行き、最後の夜もこのベッドの上で過ごすことになった。\n\n1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローにある離宮アレクサンドロフスキー宮殿に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方もあった。ニコライ2世一家が揃って公的の場に現れることは稀だったが、皇室内での出来事はすべて詳細に公表されており、特にマリアの弟のアレクセイが誕生して以降、一家の注目度は高まった。公的な活動や発言はすぐに写真入りの雑誌や新聞やニュース映画で報道され、その肖像入りの葉書、額縁、飾り皿は世界的なベストセラー商品となった。", "qas": [ { "question": "マリアが常時使用するようになった香水は何?", "id": "tr-619-02-000", "answers": [ { "text": "「リラ」", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マリアは母親と同じく血友病の遺伝子の保因者であった説が指摘されている。もし保因者であった場合には、次の世代に血友病患者が出た可能性が少なからずある。イギリス女王ヴィクトリアの5人の娘のうち、次女のアリス王女(アレクサンドラの母親)と五女のベアトリス王女が保因者であった。そして、マリアの弟のアレクセイが診断される前からアレクサンドラの母方の叔父のオールバニ公レオポルド王子、アレクサンドラの兄のフリードリヒ、アレクサンドラの甥のヴァルデマールとハインリヒが既に血友病を発症していた。\n\nオリガ・アレクサンドロヴナは晩年にインタビューを受け、マリアが1914年12月に扁桃腺の切除手術を行おうとした時の状況を話している。あまりの激しい出血に、アレクサンドラから手術の続行を命じられた担当医師もひどく取り乱してしまったほどであった。姪が4人とも通常の人間よりも激しく出血したので、4人全員が母親と同様に血友病の遺伝子を保因していたと考えているという見解を示している。メンデルの法則の伴性劣性遺伝に従って血友病は女性によって遺伝されるが、稀な例外を除いて女性は基本的に罹病しない。血友病の無症候性キャリアの女性でも血液凝固障害を引き起こすことがあり、それが出産や扁桃腺切除などの外科的な処置を行う際に大量出血を引き起こす原因になる。\n\n皇帝一家の遺骨のDNA鑑定によって2009年にマリアの弟のアレクセイが稀なタイプ(血友病の約20%にも満たない)の血友病Bを発症していたことと、彼の母親と4人の姉のうちの1人が血友病の遺伝子を保因していたことも証明された。それまでその症状からヴィクトリア女王の子孫の何人かは血友病に苦しんできたと結論付けられていたが、具体的な証拠が無かった。「王家の病」の発症者で最後に存命していたのは1945年に亡くなったヴァルデマールであった。ロシアの専門家は血友病の遺伝子を保因していた大公女をアナスタシアだと推定したが、アメリカ合衆国の専門家はその遺骨をマリアのものと推定しており、どちらの主張が正しいかは未だに謎のままである。", "qas": [ { "question": "マリアはいつ扁桃腺の切除手術を受けたか。", "id": "tr-619-03-000", "answers": [ { "text": "1914年12月", "answer_start": 274, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "血友病の遺伝子を保因していた大公女をアナスタシアだと推定したのはロシアの専門家ですか、アメリカ合衆国の専門家ですか。", "id": "tr-619-03-001", "answers": [ { "text": "ロシアの専門家", "answer_start": 781, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イギリス女王ヴィクトリアの5人の娘のうち、次女のアリス王女と五女のベアトリス王女はどんな遺伝子の保因者だったの?", "id": "tr-619-03-002", "answers": [ { "text": "血友病", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1917年2月23日に首都ペトログラードにおいて二月革命が勃発した。この前日にニコライ2世は最高司令官の職務を果たすべくモギリョフにあるスタフカに向かうために首都を離れたばかりだった。この大混乱のさなかにニコライ2世の5人の子供全員がはしかに襲われた。5人の子供の中で最も健康で、最後に罹患したマリアは皇室に忠誠を尽くすよう兵士達に嘆願するために2月28日(グレゴリオ暦で3月13日)夜にアレクサンドラと一緒に外に出た。まもなく病気になり、瀕死の状態になった。彼女は回復の兆しを見せるまで父親が退位したことを知らされなかった。このはしかが治った後、マリアは非常に細身の体型になった。アレクサンドラから退位を知らされた時の様子をマリアは「ママは嘆き悲しみました。私も泣きました。でも、その後のお茶の時にはみんなで笑おうと努めました」とアンナ・ヴィルボヴァに語っている。", "qas": [ { "question": "二月革命はいつ勃発したか。", "id": "tr-619-04-000", "answers": [ { "text": "1917年2月23日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "イェーガン", "paragraphs": [ { "context": "イェーガンは、オーストラリア先住民族の一部族ヌンガー族の戦士だ。パースに入植しその地を支配したヨーロッパ人に対するアボリジニの抵抗運動において、彼は重要な役割を担った。入植者を何度も襲撃したイェーガンには生死を問わない懸賞金がかけられ、最終的にヨーロッパ人の若者に射殺された。西オーストラリアにおいて彼の死は、入植した者たちが先住民族に為した不正や、時に野蛮きわまりない処遇をなした象徴として伝承されている。そしてイェーガンは、ヌンガー族の勇者としてオーストラリア中に知られている。\n\nイェーガンの首級はロンドンに送られ、「人類学上の珍品」として一世紀以上博物館に展示された。この首は1964年に無縁墓地に埋められ忘れ去られたが、1993年に場所が特定されると4年後に掘り返され、オーストラリアに返還された。以後、彼を再埋葬する方法についてパースの先住民族間で長く大きな議論と衝突が生じた。", "qas": [ { "question": "イェーガンの首級は何年に無縁墓地に埋められたか。", "id": "tr-620-00-000", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 292, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イェーガンはどの部族の人なの?", "id": "tr-620-00-001", "answers": [ { "text": "ヌンガー族", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イェーガンは、西オーストラリアに居住していたWhadjuk派ヌンガー族の、60人ほどの部族に生まれた。当時の開拓者のひとりロバート・リオンによると、その部族はBeeliarと呼ばれていたという。ただし今日では、ジャーナリストのデイジャ・ベイツがいうように、Beeliarと呼ばれた部族よりも大きい規模のグループに属す一集団だったという説が主流である。リオンは、Beeliar族はスワン川とカニング川の南岸に接する地域からマングルス湾の南までを領土としていたと説明している。その一方でモンガー湖やヘレーナ川北東にまで及ぶより広い地域を支配していた可能性を示唆する証拠も存在する。さらに、血縁や婚姻を通じて周辺の他部族とも親しいつながりを持ち、彼らは想像を上回る広域に影響力を及ぼしていた。\n\nイェーガンが生まれたのは1795年前後だと考えられている。彼の父親MidgegoorooはBeeliar族の長老であり、おそらく二人の妻を娶っていたものと思われている。イェーガンはヌンガー族で「Ballaroke」の階級にあった。ネヴィル・グリーンは、彼には妻と二人の子供がいたと唱えているが、多くの検証では彼は独身であったと結論づけている。印象的なたくましい体躯と平均以上の身の丈を持ち、イェーガンは「部族の法によって認められた優れた男」を示す入れ墨を右肩に入れていた。彼はまた、部族内で最も力持ちとしても知られていた。", "qas": [ { "question": "開拓者ロバート・リオンによると、ヌンガー族は何と呼ばれていましたか。", "id": "tr-620-01-000", "answers": [ { "text": "Beeliar", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イェーガンは何年生まれだと考えられていますか。", "id": "tr-620-01-001", "answers": [ { "text": "1795年前後", "answer_start": 357, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Beeliar族はスワン川とカニング川の南岸に接する地域からマングルス湾の南までを領土としていたと説明した人の名前は何ですか。フルネームで答えなさい。", "id": "tr-620-01-002", "answers": [ { "text": "ロバート・リオン", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イェーガンの階級は何でしたか。", "id": "tr-620-01-003", "answers": [ { "text": "「Ballaroke」", "answer_start": 441, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "石炭", "paragraphs": [ { "context": "石炭(せきたん、英語:coal)とは、古代(数千万年~数億年前)の植物が完全に腐敗分解する前に地中に埋もれ、そこで長い期間地熱や地圧を受けて変質(石炭化)したことにより生成した物質の総称。\n見方を変えれば植物化石でもある。\n石炭は古くから、産業革命以後20世紀初頭まで最重要の燃料として、また化学工業や都市ガスの原料として使われてきた。\n第一次世界大戦前後から、艦船の燃料が石炭の2倍のエネルギーを持つ石油に切り替わり始めた。\n戦間期から中東での油田開発が進み、第二次世界大戦後に大量の石油が採掘されて1バレル1ドルの時代を迎えると産業分野でも石油の導入が進み(エネルギー革命)、西側先進国で採掘条件の悪い坑内掘り炭鉱は廃れた。", "qas": [ { "question": "石炭が主要燃料として多く利用されていた時期は、産業革命以後からいつ頃までの間ですか?", "id": "tr-621-00-000", "answers": [ { "text": "20世紀初頭まで", "answer_start": 126, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "艦船の燃料が石炭から石油に移行し始めたのはいつからですか?", "id": "tr-621-00-001", "answers": [ { "text": "第一次世界大戦前後から", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "石油の2分の1のエネルギーである資源は何ですか?", "id": "tr-621-00-002", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "産業分野で石油の導入が進んだ時、1バレルいくらでしたか?", "id": "tr-621-00-003", "answers": [ { "text": "1ドル", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし1970年代に二度の石油危機で石油がバレルあたり12ドルになると、産業燃料や発電燃料は再び石炭に戻ったが、日本国内で炭鉱が復活することは無かった。\n豪州の露天掘りなど、採掘条件の良い海外鉱山で機械化採炭された、安価な海外炭に切り替わっていたからである。\n海上荷動きも原油に次いで石炭と鉄鉱石が多く、30万トンの大型石炭船も就役している。\n他の化石燃料である石油や天然ガス等と比べても、燃焼した際の二酸化炭素(CO2)や硫黄酸化物(SOx)などの有害物質の排出量が多く、地球温暖化、大気汚染の主な原因の一つとなっている。\n日本では、一般的に石炭(せきたん)と呼ばれるようになったのは、明治初年に西欧の採炭技術が入って、特にドイツ語Steinkolenを和訳したものとされる。\nそれ以前は地方によって、五平太(ごへいだ)、石炭(いしずみ)、岩木(いわき)、燃石(もえいし)、烏丹(うに)、烏朱(うし)などと様々に呼称されていた。", "qas": [ { "question": "日本に入ってきた安価な石炭は主にどこの国からのものですか?", "id": "tr-621-01-000", "answers": [ { "text": "豪州", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "石炭をどうすると大量の有害物質を排出させてしまうの?", "id": "tr-621-01-001", "answers": [ { "text": "燃焼", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "五平太や烏朱とは何を指しているのですか?", "id": "tr-621-01-002", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "石炭の由来となる単語は何?", "id": "tr-621-01-003", "answers": [ { "text": "Steinkolen", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "現在の地球上では、枯れた樹木は時間とともに大半が菌類(カビ・キノコ等)、細菌、昆虫(シロアリ等)などによって分解されてしまうが、石炭ができるためには完全に分解される前に地中に埋没することが必要である。\n特に古生代においてはそれら分解者が、まだ出現していなかったり少数派であったため大量の植物群が分解前に埋没していた。\n植物の遺体が分解されずに堆積する場所として湿原や湿地帯が挙げられる。\nこれらの場所においては植物の死体は酸素の少ない水中に沈むことによって生物による分解が十分進まず、分解されずに残った組織が泥炭となって堆積する。\n泥炭は植物が石炭になる入り口とされている。\n他の成因として大規模な洪水で大量の樹木が湖底等の低地に流れ込んで土砂に埋まることも考えられる。\n地中に埋まった植物は年代を経るに従って泥炭→褐炭→歴青炭→無煙炭に変わってゆく。\nこの変化を石炭化と呼ぶ。", "qas": [ { "question": "枯れた樹木を分解する主な昆虫は何ですか?", "id": "tr-621-02-000", "answers": [ { "text": "シロアリ", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "未分解の植物の遺体が堆積する場所は湿原とどこですか?", "id": "tr-621-02-001", "answers": [ { "text": "湿地帯", "answer_start": 183, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "地中に埋まった植物が地圧や地熱を受けて石炭になる変化を総称して石炭化と呼ぶ。\nこれは多様な化学反応を伴った変化である。\nセルロースやリグニンを構成する元素は炭素、酸素、水素であるが、石炭化が進むに従って酸素や水素が減って炭素濃度が上がってゆき、外観は褐色から黒色に変わり、固くなってゆく。\n炭素の含有量は泥炭の70%以下から順次上昇して無煙炭の炭素濃度は90%以上に達する。\n化学的には植物生体由来の脂肪族炭化水素が脱水反応により泥炭・褐炭になり、次に脱炭酸反応により瀝青炭となり、最後に脱メタン反応により芳香族炭化水素主体の無煙炭に変わってゆく。\n植物が石炭化する速度は地中での圧力や温度の影響を受ける。\n日本は環太平洋造山帯に位置し地殻変動が盛んなため、諸外国の産地よりも高温・高圧にさらされて石炭化の進行が早いとする説もある。", "qas": [ { "question": "泥炭の状態と無煙炭の状態とでは、炭素濃度が低いのはどちらの状態ですか?", "id": "tr-621-03-000", "answers": [ { "text": "泥炭", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本と諸外国を比べると、どちらの方が石炭化の進行が早いとされていますか?", "id": "tr-621-03-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 304, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "石炭化が進むにつれて濃度が高くなる元素は何?", "id": "tr-621-03-002", "answers": [ { "text": "炭素", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "石炭化する速度は地中での圧力と何の影響によって変わりますか?", "id": "tr-621-03-003", "answers": [ { "text": "温度", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "石炭は元となった植物が繁茂していた時代に相当する地層から産出される。\n古生代の地層は石炭が産出する地層としては最も古く、産出は無煙炭が主体。\n古生代に繁茂していた植物は現在のシダ類やトクサ類の祖先に相当するが、当時の代表的な植物であるリンボクは高さ30メートルになる大木で、大森林を形成していたと考えられている。\n中生代はソテツやイチョウなどの裸子植物が優勢となった。\nこの時代の地層から産出する石炭は海外ではほとんど瀝青炭だが、日本で産出するのは無煙炭が主体である。\n新生代第三紀(7~2千万年前)の植物は、現在に近い樹種が主体である。\n産出する石炭は、外国では石炭化の低い褐炭が主体だが、日本の炭鉱では瀝青炭が産出される。", "qas": [ { "question": "中生代の地層から産出する石炭で、日本での主な産出は何ですか?", "id": "tr-621-04-000", "answers": [ { "text": "無煙炭", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "新生代第三紀の地層から産出される日本での主な石炭は何ですか?", "id": "tr-621-04-001", "answers": [ { "text": "瀝青炭", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "石炭が産出する最古の地層はいつの時代のものですか?", "id": "tr-621-04-002", "answers": [ { "text": "古生代", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古生代の代表的な植物は何ですか?", "id": "tr-621-04-003", "answers": [ { "text": "リンボク", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "植物の体はセルロース、リグニン、タンパク質、樹脂などなどで構成されている。\nこのうち古生代に繁茂したシダ類ではセルロースが40~50%リグニンが20~30%であり、中生代以後に主体となる針葉樹類ではセルロースが50%以上リグニンが30%である(何れも現生種のデータ)。\nこれらの生体物質を元にして石炭が形成された。", "qas": [ { "question": "古生代に繁茂したシダ類の構成成分の内訳で、最も多く占めているのは何の成分ですか?", "id": "tr-621-05-000", "answers": [ { "text": "セルロース", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中生代以降の針葉樹類の構成成分で2番目に多く占めているのは何の成分?", "id": "tr-621-05-001", "answers": [ { "text": "リグニン", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シダ類と針葉樹類の構成成分を比較すると、どちらの方がセルロースを多く含んでいますか?", "id": "tr-621-05-002", "answers": [ { "text": "針葉樹類", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "シルル紀後期にリグニンを有した植物が登場した。\n歴史上上陸した植物が立ち上がるためにはセルロース、ヘミセルロースを固めるためのリグニンが必要であった。\nリグニンを分解できる微生物がその当時はいなかったので植物は腐りにくいまま地表に蓄えられていった。\nこれが石炭の由来となる。\n石炭紀に石炭になった植物はフウインボク、リンボク、ロボクなどであり、大量の植物が腐らないまま積み重なり、良質の無煙炭となった。\n石炭紀以降も石炭が生成されたが時代を下るに従って生成される石炭の量も質も低下することとなった。\n白色腐朽菌は、地球上で唯一リグニンを含む木材を完全分解できる生物で、リグニン分解能を獲得したのは古生代石炭紀末期頃(約2億9千万年前)であると分子時計から推定された。\n石炭紀からペルム紀にかけて起こった有機炭素貯蔵量の急激な減少は白色腐朽菌のリグニン分解能力の獲得によるものと考えられている。", "qas": [ { "question": "上陸した植物が立ち上がるために必要不可欠な成分は何ですか?", "id": "tr-621-06-000", "answers": [ { "text": "リグニン", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "良質の無煙炭が産出したのはいつの時代の地層からですか?", "id": "tr-621-06-001", "answers": [ { "text": "石炭紀", "answer_start": 138, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "地球上で唯一リグニンを含む木材を完全分解できる生物の名前は何?", "id": "tr-621-06-002", "answers": [ { "text": "白色腐朽菌", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フウインボク、リンボク、ロボクが石炭になった時代はいつ?", "id": "tr-621-06-003", "answers": [ { "text": "石炭紀", "answer_start": 138, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "石炭は燃料としては最も埋蔵量が多い地下資源である。\n石油が安価だった時代、重油製鉄も検討されたが、製鉄における石炭の優位は崩せなかった。\n重油ボイラーを比較的簡単に微粉炭ボイラー(石炭を粉にして吹き込む)に改造できたため、第二次石油危機後の1980年代にほとんどの発電燃料・産業燃料が値段の安い石炭に回帰するか天然ガスに切り替わった。\n発電燃料・産業燃料においても微粉炭ボイラーが開発され手作業給炭は過去のものとなった。\n日本国内炭は一般的に炭層が薄くて傾斜しておりロングウォールに向かず、採炭コストでは海外炭に太刀打ちできなかった(釧路炭田は水平に厚く石炭層が形成されているために例外的に存続できた)。\n自動車の普及した先進国では石油の占める割合が高いが、エネルギー消費の過半数を占める発電燃料・産業燃料では、コスト優位により石炭が未だに少なくない割合を占めている国もある。\nアメリカも発電燃料は31%と天然ガスと同じぐらいである。\n中国は自動車の普及で石油輸入量が急増し日本を追い抜いたが、依然として全エネルギーのうち5割以上を石炭が占めている。\n石油・ガスのような流体ではないことや、核燃料のようにコンパクトではないことは、輸送のコストを押し上げる要因ではあるが、一方では輸送や貯蔵に際しての事故やテロによる被害の規模を抑制する要因でもある。", "qas": [ { "question": "全エネルギーのうち半分以上を石炭が占めているという国はどこ?", "id": "tr-621-07-000", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 418, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アメリカでは石炭は何の燃料と同じくらい使用されているの?", "id": "tr-621-07-001", "answers": [ { "text": "天然ガス", "answer_start": 403, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本国内炭が採炭コストにおいて、打ち勝つことができない対象とは何?", "id": "tr-621-07-002", "answers": [ { "text": "海外炭", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "石油、ガス、石炭、核燃料の中で事故やテロによる被害を抑制できるものは何?", "id": "tr-621-07-003", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "石炭は他の燃料に比べて埋蔵量が多く、かつ石油のような一地域への偏在がなく、全世界で幅広く採掘が可能なエネルギー資源である。\n50年で枯渇が懸念されている石油に対し、石炭は153年の採掘が可能と考えられている。\n2017年の世界の消費は約75億t、2017年時点では総一次エネルギー消費の23%を占める。\n確認可採埋蔵量は、世界で約1兆35億t(2017年)(BP統計2005年版では約9091億t)。\n1990年のデータではウランを含む燃料資源を石油に換算した確認可採埋蔵量の比率は石炭が61.9%に達し、オイルサンド類の16.1%、石油の10.8%、天然ガスの9.7%に比べて圧倒的に多い。\nまた石油が世界の埋蔵量のうち中東地区に約48%が偏在したり(2016年のデータ)、天然ガスがヨーロッパ及旧ソ連と中東で70%以上の埋蔵量を占有する状況である(2016年のデータ)のに比べて石炭はアメリカ(22.1%)、中国(21.4%)、ロシア(14.1%)、オーストラリア(12.7%)、インド(8.3%)、ドイツ(3.2%)と政情の安定している国の埋蔵量が大きいことが特徴である(2016年のデータ)。", "qas": [ { "question": "石油と石炭では、どちらが採掘年数が短いですか?", "id": "tr-621-08-000", "answers": [ { "text": "石油", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1990年でのデータで確認可採埋蔵量の比率が最も少ないものは何ですか?", "id": "tr-621-08-001", "answers": [ { "text": "天然ガス", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ドイツ、中国、ロシア、アメリカ、インド、オーストラリアの中で、石炭の埋蔵量が最も多い国はどこ?", "id": "tr-621-08-002", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 394, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロシア、インド、ドイツ、アメリカ、オーストラリア、中国の中で、石炭の埋蔵量が3番目に少ない国はどこ?", "id": "tr-621-08-003", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 427, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "鉄鉱石とは錆びた鉄・酸化鉄と脈石の塊であり、製鉄とは還元反応である。\n現在の高炉法は粘結炭(瀝青炭)を蒸し焼きにしたコークスと塊状鉄鉱石を円筒形の高炉に積み上げ、下から空気を吹き込んで発生する一酸化炭素で銑鉄を作るので、石炭(特に粘結炭)が不可欠である。\n天然ガスでも還元できるが温度が上げにくいので、産油国のような石油採掘の時に随伴ガスとして出てきてしまう天然ガスを無駄に燃やしている国以外では、石炭のほうが優位である。", "qas": [ { "question": "現在の高炉法で必須資源となるのは何?", "id": "tr-621-09-000", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "石炭を燃料として使用すると、健康障害や死亡の原因になる。\n1952年12月5日から9日にかけてロンドンで発生した「ロンドンスモッグ」は、主に石炭の大量使用によって引き起こされ、合計1万2000人の犠牲者を出し大気汚染としては史上最悪規模の公害となった。\n世界的に石炭は、毎年80万人の早死を引き起こすと推定されている。\n石炭の燃焼は二酸化硫黄(SO2)の主な排出源であり、窒素成分も他のエネルギー源より多く、酸性雨や大気汚染の最も危険な形態であるPM2.5粒子状物質を生成する。\n煙突からの排出物は、喘息、脳卒中、知的障害、動脈閉塞、心臓発作、うっ血性心不全、不整脈、水銀中毒、狭窄症、肺がんを引き起こす。\n石炭を使用して発電することによるヨーロッパの年間医療費は、最大430億ユーロと見積もられている。\n他の燃料に比べて煤塵発生も多く、労働者の塵肺を引き起こす。\nこの影響で、米国だけでも石炭産業の元従業員1,500人が毎年死亡すると推定されている。\n石炭を使用すると、毎年数億トンの灰やその他の廃棄物が発生し、これらには、フライアッシュ、ボトムアッシュ、および排煙脱硫スラッジが含まれ、これらには、セレンなどの非金属とともに、水銀、ウラン、トリウム、ヒ素、およびその他の重金属が含まれている。\n1990年代におけるアメリカ地質調査所の推計によると、アメリカ人は平均して石炭由来の放射線を自然放射線量の0.1%程度、石炭火力発電所から1kmの場所に住んでいる場合は最大で5%を追加で被曝しているとされる。", "qas": [ { "question": "「ロンドンスモッグ」で犠牲になった人は何人いましたか?", "id": "tr-621-10-000", "answers": [ { "text": "1万2000人", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "石炭の燃焼によって何という危険物質が生成されますか?", "id": "tr-621-10-001", "answers": [ { "text": "PM2.5粒子状物質", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ロンドンスモッグ」の原因は何でしたか?", "id": "tr-621-10-002", "answers": [ { "text": "石炭の大量使用", "answer_start": 70, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "煤塵発生が多く、労働者の塵肺を引き起こしやすい燃料は何ですか?", "id": "tr-621-10-003", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "石炭使用の最大かつ最も長期的な影響は、気候変動と地球温暖化に強い影響を与える物質である温室効果ガスである二酸化炭素(CO2)の放出である。\n石炭は、2017年時点で世界の一次エネルギーの4分の1を供給し、石炭火力発電は、2018年の世界のCO2排出量増加の最大の要因であり、化石燃料からの温室効果ガス総排出量の40%となっている。\n石炭採掘は、別の温室効果ガスであるメタンを放出する。\n石炭は高品位になるほど炭素含有量が増えて水素・酸素が減ってゆき、無煙炭の炭素含有量は90%以上に達する。\n他の燃料を燃焼すると二酸化炭素と水ができるが、高品位の石炭を燃やすと燃焼生成物の大部分が二酸化炭素となる。\n硫黄酸化物除去は実用化されており、二酸化炭素は地中処分が検討されているが、日本では貯留層に70年分の容量しかないといい、既存石炭火力発電所を寿命まで使い切って次世代発電所にバトンタッチする繋ぎ技術と目されている。", "qas": [ { "question": "石炭を使用する際に放出される温室効果ガスとは何?", "id": "tr-621-11-000", "answers": [ { "text": "二酸化炭素", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "化石燃料からの温室効果ガス総排出量の4割を占めている資源とは何?", "id": "tr-621-11-001", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "石炭採掘の際に放出される温室効果ガスとは何?", "id": "tr-621-11-002", "answers": [ { "text": "メタン", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "石炭も微粉炭にして酸素吹き込みで燃やせば高温の一酸化炭素・二酸化炭素が発生するので、ガスタービンを回したあとの数百°Cの熱排気でボイラーを熱して蒸気タービンを回すコンバインドサイクルは可能で研究も進んではいる。\nただし石炭に含まれる灰分が溶けてタービン翼に障害を与えるのを「低コストで」処理するのが難しい。\nそのためカロリーあたりでは石炭のほうが安くても、天然ガスコンバインドサイクル発電所のほうが石炭火力発電より燃料消費が少ないので、ドイツのような隣国からパイプラインで購入している国の場合は天然ガス発電所が増えている。\n日本やイタリアのように液化天然ガスで輸入している国は天然ガスを-160°Cで液化するコストが掛かっているので、どちらが有利か試算者によって結論が異なる。", "qas": [ { "question": "日本以外で液化天然ガスを輸入している国はどこ?", "id": "tr-621-12-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 265, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "燃料消費が多いのは天然ガスと石炭のどちら?", "id": "tr-621-12-001", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "石炭は蒸気ボイラー用燃料として発電・製鉄所・各種工場燃料に使われるほか、途上国では鉄道・船舶暖房や煮炊きに使われる場合もある。\nまた日本のセメント工業の燃料としては石油よりも多く使われている。\n製鉄所では瀝青炭を乾留したコークスが大量に使用されている。\n乾留の際の副生成物であるコールタールは化学薬品などの原料として重要であり、同じ副生成物のコークス炉ガスは過去に都市ガスとして使用された。\nまた固体燃料の取り扱いの不便さ改善のために石油と混合して液体燃料化したCOMや、水と混合した液体燃料CWMも実用化されている。\nまた石炭を化学的に液化(石炭液化)して人造石油を合成する方法として水素添加法や、石炭をガス化した一酸化炭素と水素を元にフィッシャー・トロプシュ反応により炭化水素を合成する方法(南アフリカで実用化)などが工業化、第二次大戦ではドイツは人造石油で軍用燃料をまかなっている。", "qas": [ { "question": "日本のセメント工業の燃料として石油よりも多く使われているものは何?", "id": "tr-621-13-000", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "瀝青炭を乾留する際に副生成され、化学薬品の原料となる物質は何?", "id": "tr-621-13-001", "answers": [ { "text": "コールタール", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "瀝青炭を乾留する際にコールタール以外に副生成される物質は何?", "id": "tr-621-13-002", "answers": [ { "text": "コークス炉ガス", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第二次大戦時に既に人造石油を使用していた国はどこ?", "id": "tr-621-13-003", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 372, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "古代ギリシアのテオプラストスの記録(紀元前315年)に石炭が鍛冶屋の燃料として使われたと書かれている。\nほぼ同年代の中国戦国時代でも石炭を使用した遺跡が見つかっている。\nかつて中国華北で宋代に用いられたとされ、同時代の江南では木炭、四川では竹炭を利用していた。\n日本での工業使用は、江戸時代で筑豊炭田の石炭が瀬戸内海の製塩に用いられた記録がある。\n元禄年間に貝原益軒が著した『筑前国続風土記』によれば、日本の筑前では山野に露出した石炭を『燃石』と称して、庶民が薪の代用燃料としていたようで、風呂や煮炊き用に火持ちの良い燃石を用いたと著されている。\nイギリスは国内に豊富な石炭資源を有し、一部は地表に露出していたため700年以上前から燃料として使われていた。\n18世紀にイギリスで産業革命が始まり、製鉄業をはじめとした工業が大規模化した。\n燃料消費量が増え従来の薪や木炭を使用した工業システムでは森林資源の回復が追いつかなくなる問題が持ち上がり、工業用燃料として石炭が注目され始めた。", "qas": [ { "question": "庶民の生活で石炭を使用していた事が書かれた書物は何?", "id": "tr-621-14-000", "answers": [ { "text": "『筑前国続風土記』", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "アイユーブ朝", "paragraphs": [ { "context": "アイユーブ朝は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配したスンナ派のイスラーム王朝である。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。", "qas": [ { "question": "アイユーブ朝は、何派のイスラーム王朝であるの?", "id": "tr-622-00-000", "answers": [ { "text": "スンナ派", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アイユーブ朝は、何世紀から何世紀にかけて存在したスンナ派のイスラーム王朝でありますか?", "id": "tr-622-00-001", "answers": [ { "text": "12世紀から13世紀", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラーフッディーンが創始した王朝は、何か?", "id": "tr-622-00-002", "answers": [ { "text": "アイユーブ朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アイユーブ朝の支配地域として挙げられているのは、エジプト、シリアとどこか?", "id": "tr-622-00-003", "answers": [ { "text": "イエメン", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1169年にエジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する。サラディンはアッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカス、アレッポ、ディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した。アル=アーディル、アル=カーミル、アッ=サーリフら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らはカイロで政務を執った。1250年にマムルーク(軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出したモンゴル帝国とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。", "qas": [ { "question": "1169年にファーティマ朝の宰相に就任したのは、誰なの?", "id": "tr-622-01-000", "answers": [ { "text": "サラディン", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "誰がファーティマ朝における実権を握った年が、アイユーブ朝が創始された年と見なされますか?", "id": "tr-622-01-001", "answers": [ { "text": "サラディン", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サラディンが死ぬと、半独立的な地方政権が樹立された地域には、ダマスカスとアレッポのほかに、どの地域が含まれるか?", "id": "tr-622-01-002", "answers": [ { "text": "ディヤルバクル", "answer_start": 228, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アイユーブ朝が滅ぼされたのは、何年のことか?", "id": "tr-622-01-003", "answers": [ { "text": "1250年", "answer_start": 312, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "12世紀前半、アルメニアに居住していたクルド人のシャージーはナジムッディーン・アイユーブとシールクーフを連れてイラクに移住し、セルジューク朝の下でバグダードの軍事長官を務めるビフルーズに仕官した。シャージーはティクリートの城主に任じられ、彼の死後はアイユーブがティクリートの城主の地位を継承した。", "qas": [ { "question": "シャージーとナジムッディーン・アイユーブ、シールクーフは、12世紀前半、どこからイラクへと移住してきたの?", "id": "tr-622-02-000", "answers": [ { "text": "アルメニア", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シャージーの後を継ぎ、ティクリートの城主になった人のフールネームを答えてなさい。", "id": "tr-622-02-001", "answers": [ { "text": "ナジムッディーン・アイユーブ", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "12世紀前半、イラクを支配していたのは、どの王朝でありますか?", "id": "tr-622-02-002", "answers": [ { "text": "セルジューク朝", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "12世紀前半にアルメニアからイラクに移住してきた3人のうち、バグダードの軍事長官を務めるようになったのは、誰か?", "id": "tr-622-02-003", "answers": [ { "text": "シャージー", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1131年にセルジューク朝のスルターン・マフムード2世が没した後に王位を巡る内戦が起こり、この戦争の中でアイユーブは敗走するモースルの領主イマードゥッディーン・ザンギーに助けを与えた。1137年/38年にアイユーブはビフルーズの命令でティクリートを追われるが、城を失った日の夜にアイユーブの妻は男児を生み、生まれた子供はユースフ(後のサラディン)と名付けられた。ティクリートを失ったアイユーブは弟のシールクーフとともにモースルのザンギーの元に逃れ、ザンギーから迎え入れられた。アイユーブはシールクーフとともにザンギー配下の軍団の司令官に命じられ、1139年にはバールベックの知事に任命された。", "qas": [ { "question": "マフムード2世が死んだのは、何年なの?", "id": "tr-622-03-000", "answers": [ { "text": "1131年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "王位を巡ったセルジューク朝における内戦は、何年から始まりましたか?", "id": "tr-622-03-001", "answers": [ { "text": "1131年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ユースフと名付けられた子の父親は、誰か?", "id": "tr-622-03-002", "answers": [ { "text": "アイユーブ", "answer_start": 102, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユースフの出生年度ははっきりされていないが、おおよそ1138年や何年と予測されるか?", "id": "tr-622-03-003", "answers": [ { "text": "1137年", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1146年にザンギーが没した後にバールベックはセルジューク朝のダマスカス総督の攻撃を受け、アイユーブは現金・領地と引き換えに降伏した。1152年に14歳になったサラディンはアイユーブの元を離れ、ザンギーの子でアレッポを支配するヌールッディーン・マフムードに仕官する。サラディンはヌールッディーンからイクター(封土)を与えられ、彼に近侍した。ヌールッディーンがダマスカスへの進出を試みたとき、ダマスカスに居住していたアイユーブはヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取りあい、1154年にヌールッディーンはダマスカスの無血開城に成功した。ダマスカスの開城後、アイユーブはヌールッディーンに協力したことを評価されてイクターとダマスカスの支配権を与えられ、引き続きダマスカスに留まった。", "qas": [ { "question": "サラディンが父親から離れ、独立したのは、彼が何歳だった時なの?", "id": "tr-622-04-000", "answers": [ { "text": "14歳", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラディンがヌールッディーン・マフムードのもとに入ったのは、何年のことですか?", "id": "tr-622-04-001", "answers": [ { "text": "1152年", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ダマスカスの開城前からヌールッディーン・マフムードに仕えていたのは、シールクーフと誰か?", "id": "tr-622-04-002", "answers": [ { "text": "サラディン", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サラディンとアイユーブのうち、ヌールッディーンからイクターを与えられた時期がより早いのは、誰か?", "id": "tr-622-04-003", "answers": [ { "text": "サラディン", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1163年、エジプトを支配するシーア派の国家ファーティマ朝の宰相シャーワルは政敵のディルガームとの戦いを有利に進めるためにザンギー朝に援助を求めた。翌1164年4月にヌールッディーンはシールクーフを司令官とする遠征軍を派遣し、遠征軍の幕僚にサラディンが付けられた。シールクーフはビルベイスでディルガムに勝利し、シャーワルを宰相に復職させた。だが、シールクーフを恐れるシャーワルは彼にエジプトからの撤退を求め、十字軍国家エルサレム王国のアモーリー1世に援助を求めた。8月からシールクーフの立て籠もるビルベイスはエルサレム軍とエジプト軍の包囲を受け、11月に和議が成立し、シールクーフとアモーリー1世はエジプトから撤退した。1167年にシールクーフとサラディンは再びエジプト遠征を行うが不成功に終わり、同年8月に和議を結んで撤兵する。", "qas": [ { "question": "1164年4月、どの国への援助としてシールクーフが率いる遠征軍が派遣されたの?", "id": "tr-622-05-000", "answers": [ { "text": "ファーティマ朝", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時のザンギー朝の統治者は、誰でしたか?", "id": "tr-622-05-001", "answers": [ { "text": "ヌールッディーン", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エルサレム王国とザンギー朝のうち、シャーワルから援助を求められた時期がより早いのは、どちらの国か?", "id": "tr-622-05-002", "answers": [ { "text": "ザンギー朝", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シールクーフとサラディンは、誰に仕えていたか?", "id": "tr-622-05-003", "answers": [ { "text": "ヌールッディーン", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1167年の和議に際してシャーワルはエルサレム王国に貢納と引き換えに援助の約束を取り付けるが、ファーティマ朝のカリフ・アーディドや民衆はシャーワルの方針に不満を抱き、シャーワルを排除する計画が巡らされた。さらにエジプトは十字軍の攻撃を受け、フスタートが十字軍によって制圧されることを恐れたシャーワルはフスタートに火を放ち、フスタートは焦土となった。シャーワルと敵対する派閥の人間はヌールッディーンに支援を求めた。1168年12月にシールクーフとサラディンはアレッポを発って3度目のエジプト遠征を行い、シールクーフの進軍を知ったアモーリー1世はパレスチナに撤退する。翌1169年1月にシールクーフ軍はカイロに入城し、シャーワルはアーディドの命令によって処刑される。シールクーフはシャーワルに代わるファーティマ朝のワズィール(宰相)・軍司令官に就任するが、1169年3月にシールクーフは急死し、サラディンが宰相職を継承した。宰相に就任した後、サラディンは「マリク・アル=ナースィル(勝利の王)」の称号を使用する。", "qas": [ { "question": "1167年の時点で、ファーティマ朝のカリフは、誰だったの?", "id": "tr-622-06-000", "answers": [ { "text": "アーディド", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヌールッディーンは、誰と対立する勢力から応援を求められましたか?", "id": "tr-622-06-001", "answers": [ { "text": "シャーワル", "answer_start": 174, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シールクーフとサラディンによる3度目のエジプト遠征は、いつから行われたか?", "id": "tr-622-06-002", "answers": [ { "text": "1168年12月", "answer_start": 206, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シールクーフ軍がカイロに入城したのは、いつのことか?", "id": "tr-622-06-003", "answers": [ { "text": "1169年1月", "answer_start": 283, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、ヌールッディーンはサラディンがエジプトで半ば独立した政権を樹立したことに大きな衝撃を受け、エジプトのアミール(軍司令官)の中にもヌールッディーンの呼びかけに応じてシリアに帰国した者以外に、サラディンに従ってエジプトに留まるものが現れる。ヌールッディーンはエジプトでスンナ派の様式に則った礼拝を行うよう求めていたが、サラディンはシーア派に対して慎重な姿勢を取っていたため、ヌールッディーンの猜疑心をかきたてたと言われている。サラディンはエジプトに留まった兵士の中からクルド人とトルコ系のマムルークを選抜し、サラディンの名前にちなんでサラーヒーヤと呼ばれる軍団を新たに編成した。ファーティマ朝に仕える黒人宦官のムータミン・アル=フィラーハはサラディンがファーティマ朝の軍人から没収した土地を自身の配下に授与していることを危ぶみ、十字軍勢力と結託して反乱を企てたが、陰謀を察知したサラディンは事前にムータミンを処刑した。1169年8月、ムータミンの処置に反発したファーティマ朝のザンジュ(黒人奴隷兵)はカイロ市内で蜂起し、サラディンはザンジュの反乱を鎮圧し、彼らの勢力を一掃する。サラディンはエジプトの大カーディー(大判事)からシーア派の人間を外してスンナ派のイブン・アルダルバスを抜擢し、エジプト各地のカーディーをシーア派からスンナ派の人間に入れ替えた。", "qas": [ { "question": "この文書を見ると、サラディンは元々誰のもとで活動していたことが予測できるか?", "id": "tr-622-07-000", "answers": [ { "text": "ヌールッディーン", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サラーヒーヤと呼ばれる軍団を編成したのは、誰ですか?", "id": "tr-622-07-001", "answers": [ { "text": "サラディン", "answer_start": 214, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サラーヒーヤにはトルコ系のマムルークとどのような人々が選ばれたか?", "id": "tr-622-07-002", "answers": [ { "text": "クルド人", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1169年8月にカイロ市内で起きた蜂起は、誰の処刑に反発する者らによる蜂起だったか?", "id": "tr-622-07-003", "answers": [ { "text": "ムータミン", "answer_start": 418, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1171年9月4日、サラディンはフスタートのモスクで行われる金曜礼拝でフトバ(説教)からアーディドの名前を削ってアッバース朝のカリフ・ムスタディーの名前を入れることを命じ、エジプトにおけるスンナ派の復活を表明した。9月10日にはカイロの金曜礼拝でも同様のフトバが読み上げられ、エジプト各地でスンナ派の復権は受け入れられた。同年9月15日に病床にあったアーディドは没し、ファーティマ朝は滅亡する。サラディンの下でファーティマ朝時代に課されていたマクス(市場税、巡礼者の通行税など)は撤廃され、民衆からの支持を集める。また、イスマーイール派の教育・研究機関を排除するために、ファーティマ朝のカリフ・ハーキムによって建設された図書館(ダール・アル=イルム)に収蔵されていた書物が売却された。", "qas": [ { "question": "サラディンがエジプトにおけるスンナ派の復活を表明したのは、いつのことなの?", "id": "tr-622-08-000", "answers": [ { "text": "1171年9月4日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モスクとカイロのうち、サラディンが、どちらの地域で行われた金曜礼拝でエジプトにおけるスンナ派の復活を表明ようなフトバを読み上げたのがより早かったか?", "id": "tr-622-08-001", "answers": [ { "text": "モスク", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ファーティマ朝が滅ぼされたのは、何年のことですか?", "id": "tr-622-08-002", "answers": [ { "text": "1171年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ファーティマ朝の最後のカリフは、誰か?", "id": "tr-622-08-003", "answers": [ { "text": "アーディド", "answer_start": 175, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "サラディンは兄弟のトゥーラーン・シャーを司令官とする遠征軍を近隣の地域に派遣し、1173年にヌビア、1174年にイエメンを征服して支配領域を拡大する。1174年5月にトゥーラーン・シャーの軍隊はザビードに到達し、翌6月に国際貿易の拠点となっていたアデンを占領した。イエメン遠征が実施された理由には諸説あり、ヌールッディーンのエジプト攻撃に備えた土地の確保、紅海貿易の拠点の確保などが挙げられている。ファーティマ朝の残党はエジプトの兵士の一部がイエメン遠征に従軍し、サラディン配下の騎士が徴税のために自分たちのイクターに戻る機会に乗じて反乱を企てたが計画は事前に露見し、1174年5月に反乱者は逮捕・処刑された。また、1174年5月にはヌールッディーンが没し、サラディンとヌールッディーンの衝突は未然に終わる。", "qas": [ { "question": "ヌビアとイエメンのうち、トゥーラーン・シャーの率いる遠征軍により占領された時期がより早いのは、どちらなの?", "id": "tr-622-09-000", "answers": [ { "text": "ヌビア", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヌビアとイエメンを征服した遠征軍の司令官は、誰でしたか?", "id": "tr-622-09-001", "answers": [ { "text": "トゥーラーン・シャー", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ザビードとアデンのうち、トゥーラーン・シャーの率いる遠征軍により占領された時期がより早いのは、どちらか?", "id": "tr-622-09-002", "answers": [ { "text": "ザビード", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヌビアとイエメン、ザビード、アデンのうち、トゥーラーン・シャーの遠征軍が最も早く占領したのは、どちらの地域か?", "id": "tr-622-09-003", "answers": [ { "text": "ヌビア", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "サラディンは表面上はヌールッディーンの跡を継いだサーリフの宗主権を認め、シリアに残ったザンギー朝の領土の併合に取り掛かる。1174年10月末、サラディンはザンギー朝の宰相アル=ムカッダムの招聘を受けてダマスカスへの無血入城を果たし、市民から歓迎を受けた。一方、アレッポではサーリフを擁する将軍グムシュテギーンがサラディンに敵対する人間を糾合しており、11月にサラディンはアレッポに向けて進軍する。サラディンはザンギー朝の王族と十字軍勢力両方からの攻撃に苦戦するが、1175年春にエジプトからの援軍と合流し、ザンギー軍に勝利を収めた。同時にバグダードのムスタディーからサラディンのエジプト・シリア支配を承認する文書が届き、サラディンはフトバと貨幣からサーリフの名前を除き、代わりに自身の名前を入れてザンギー朝からの自立の意思を公にする。1176年9月にサラディンはダマスカスでヌールッディーンの寡婦イスマト・アッディーンとの結婚式を挙げるが、この婚姻にはザンギー朝の正統な後継者であることを示す意図があったと考えられている。結婚式を終えたサラディンはカイロに戻り、エジプトの統治に取り掛かった。", "qas": [ { "question": "サラディンがダマスカスに入城したのは、いつのことなの?", "id": "tr-622-10-000", "answers": [ { "text": "1174年10月末", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サラディンをダマスカスに呼び寄せたのは、誰ですか?", "id": "tr-622-10-001", "answers": [ { "text": "アル=ムカッダム", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1174年11月、サラディンは誰をリーダーとする勢力を制圧するために進軍したか?", "id": "tr-622-10-002", "answers": [ { "text": "グムシュテギーン", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラディンは、誰とザンギー朝の王族、そして十字軍勢力と戦ったか?", "id": "tr-622-10-003", "answers": [ { "text": "グムシュテギーン", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1178年にサラディンはザンギー朝に領土の返還を要求するルーム・セルジューク朝の軍を破って南進政策を押し、北方からの脅威を絶った。サラディンは十字軍勢力の支配下にあるサイダ、ベイルート、キリキア・アルメニア王国を攻撃し、アッバース朝のカリフからザンギー朝の王族が拠るモースルの支配権を承認された。十字軍との戦争に備えた艦船が増強と兵力の点検の後、1182年5月にサラディンはエジプトを発ってシリアに進軍する。", "qas": [ { "question": "サラディンが攻撃した十字軍勢力の支配地域は、サイダとベイルートのほかに、どこなの?", "id": "tr-622-11-000", "answers": [ { "text": "キリキア・アルメニア王国", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1178年、ルーム・セルジューク朝は、誰の勢力に敗れたか?", "id": "tr-622-11-001", "answers": [ { "text": "サラディン", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サラディンがシリアへの進軍を開始したのは、何年のことですか?", "id": "tr-622-11-002", "answers": [ { "text": "1182年", "answer_start": 173, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラディンのモースルにおける支配権を承認したのは、どの王朝のカリフだったか?", "id": "tr-622-11-003", "answers": [ { "text": "アッバース朝", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1182年9月にジャズィーラ(北イラク)に到着したサラディンは現地の領主に帰順を進める手紙を送り、モースルのザンギー朝の支配下にあった領主は次々にサラディンに降伏した。しかし、モースルを支配するザンギー朝の王族マスウードにアイユーブ朝の主権と対十字軍戦への参加を認めさせることはできなかった。1183年6月にアレッポがアイユーブ朝の支配下に入ったことでシリア内陸部が統一され、1186年にマスウードがアイユーブ朝への臣従を受け入れたことでモースルの併合が達成された。", "qas": [ { "question": "サラディンがジャズィーラに到着したのは、いつのことなの?", "id": "tr-622-12-000", "answers": [ { "text": "1182年9月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1186年にアイユーブ朝への臣従を受け入れたのは、どこを支配するザンギー朝の王族でしたか?", "id": "tr-622-12-001", "answers": [ { "text": "モースル", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "シャープゲンゴロウモドキ", "paragraphs": [ { "context": "シャープゲンゴロウモドキ(シャープ擬源五郎・シャープ擬竜蝨、Dytiscussharpi)は、コウチュウ目オサムシ亜目ゲンゴロウ科ゲンゴロウ亜科ゲンゴロウモドキ属に分類される水生昆虫の一種。\n日本固有種とされる。\n本種は1960年代に石川県で採集されて以降記録が途絶えたため絶滅したと考えられていたが、1984年11月中旬に千葉県で再発見された。\nしかし21世紀に入ってからも確実に生息が確認されている地域は千葉・石川の両県のみで、絶滅危惧IA類(CR)(環境省レッドリスト)・国内希少野生動植物種(種の保存法)に指定されている。", "qas": [ { "question": "シャープゲンゴロウモドキはどこで再発見されましたか?", "id": "tr-623-00-000", "answers": [ { "text": "千葉県", "answer_start": 162, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シャープゲンゴロウモドキはいつ再発見されましたか?", "id": "tr-623-00-001", "answers": [ { "text": "1984年11月中旬", "answer_start": 151, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "現在シャープゲンゴロウモドキが確実に生息している地域は千葉とどこですか?", "id": "tr-623-00-002", "answers": [ { "text": "石川", "answer_start": 207, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シャープゲンゴロウモドキは何目に分類されるの?", "id": "tr-623-00-003", "answers": [ { "text": "コウチュウ目", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "本種を含むゲンゴロウモドキ属は和名に反しれっきとしたゲンゴロウ科に属する昆虫ではあるが、ゲンゴロウ(ナミゲンゴロウ、ゲンゴロウ属)に命名上先を越されたため「ゲンゴロウに似ているがゲンゴロウではない」という意味で「ゲンゴロウモドキ」という和名が与えられた。\nまた和名の「シャープ」および学名の「sharpi」はイギリスの昆虫学者デイヴィッド・シャープ(Sharp)に由来する。", "qas": [ { "question": "「シャープ」は誰の名前からとられたの?", "id": "tr-623-01-000", "answers": [ { "text": "デイヴィッド・シャープ", "answer_start": 163, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゲンゴロウとゲンゴロウモドキはどちらが早く命名されたの?", "id": "tr-623-01-001", "answers": [ { "text": "ゲンゴロウ", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本種が属するゲンゴロウモドキ属はユーラシア大陸(旧北区)-北アメリカ(新北区)にかけての全北区に広く分布する北方系の種のグループである。\n中でもシャープゲンゴロウモドキはアジアでは最も南に分布する種で、ゲンゴロウモドキの仲間が寒冷期(氷期)に本州に進出した種の生き残り(遺存種)と考えられる。\n本来は日本・本州の十数都府県(日本海側および関東地方-近畿地方)に分布していたが多くの都府県で絶滅した。", "qas": [ { "question": "アジアで最南に分布するゲンゴロウモドキ属の種とは何?", "id": "tr-623-02-000", "answers": [ { "text": "シャープゲンゴロウモドキ", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "新北区とはどこを指していますか?", "id": "tr-623-02-001", "answers": [ { "text": "北アメリカ", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "旧北区とは何を指していますか?", "id": "tr-623-02-002", "answers": [ { "text": "ユーラシア大陸", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本種は環境省によりDytiscussharpi1種として記載されている一方、かつては後述する経緯により東日本・西日本それぞれの個体群がアズマゲンゴロウモドキ・コゲンゴロウモドキの2種に分類されていた。\nアズマゲンゴロウモドキ・コゲンゴロウモドキの両種(両亜種、ないし両個体群)は分布記録からそれぞれ地理的隔離が認められ、遺伝的にも区別できることが知られるが、両亜種間とも生体・形態面に差異は認められず、特にオス個体は外見上で判別することは困難である。\nそのため2009年時点で両種は同一種とみなされているが、メスの上翅の縦溝の長さに差異があるため2種をそれぞれ亜種として認める見解も存在し、分類学的な位置づけは確定していない。\n都築裕一(2003)は「本種は2亜種とも日本固有種かつゲンゴロウモドキ属の中でも桁外れに希少であるため『幻の水生昆虫』と呼ばれ、タガメですら比較にならないほどの珍種だ」と述べているほか、森文俊(2014)は「2個体群両方の実物を見れば分類学的な知見以上の違いを感じることは間違いない」と述べている。", "qas": [ { "question": "本種とタガメはどちらが珍しいですか?", "id": "tr-623-03-000", "answers": [ { "text": "本種", "answer_start": 326, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種はゲンゴロウモドキ属の中でも桁外れに希少であると述べた人は誰ですか?", "id": "tr-623-03-001", "answers": [ { "text": "都築裕一", "answer_start": 314, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "本種の初記録はWehnckeがThoreyから受け取った日本産(おそらく関東地方周辺産)のタイプ標本(1ペア)に基づき1875年に新種記載したもので、シャープ(Sharp)は1884年にLewisが東京都上野で採集した個体の標本(1880年)を基に本種を再記載した。\nこの関東地方に生息する個体群はアズマゲンゴロウモドキ(D.sharpisharp)として後述の西日本産個体群(コゲンゴロウモドキ)とは別種として区別、もしくは亜種として分類する見解が存在し、2個体群を同一種として扱う場合でも本個体群を「関東産」「関東型」などと呼称して区別する場合がある。", "qas": [ { "question": "本種が初めて記載されたのは何年でしたか?", "id": "tr-623-04-000", "answers": [ { "text": "1875年", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種を再度記載した人は誰でしたか?", "id": "tr-623-04-001", "answers": [ { "text": "シャープ", "answer_start": 75, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "西日本に生息しているのはコゲンゴロウモドキとアズマゲンゴロウモドキのどちらですか?", "id": "tr-623-04-002", "answers": [ { "text": "コゲンゴロウモドキ", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャープはどこで採集された本種の標本を基に再記載しましたか?", "id": "tr-623-04-003", "answers": [ { "text": "東京都上野", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "本個体群のメス成虫前翅(上翅)には縦溝がほとんどないか、あっても薄い点でコゲンゴロウモドキと区別される。\n第二次世界大戦前は東京都・神奈川県・千葉県(南関東)に生息しており東京近郊でも記録されていたが、その時点でも生息地が限定され希少種とみなされていた。\n1937年(千葉県山武郡成東町、現:山武市)を最後に記録が途絶えたため、戦後は絶滅したと考えられていた。\nその後、1984年11月中旬に千葉県富津市で再発見されたが、2019年現在もなお危機的な状況にある。", "qas": [ { "question": "本種が再発見された場所はどこでしたか?", "id": "tr-623-05-000", "answers": [ { "text": "千葉県富津市", "answer_start": 196, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "戦前における本種の最後の記録は何年でしたか?", "id": "tr-623-05-001", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "戦前に本種が最後に確認されたのはどこでしたか?", "id": "tr-623-05-002", "answers": [ { "text": "千葉県山武郡成東町", "answer_start": 134, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東日本(関東地方)産の個体群が記録されてから遅れて1889年にはRegimbartが滋賀県長浜市産個体(採集者:Leech)の標本に基づきD.validusを新種として記載し、それら西日本産の個体群はコゲンゴロウモドキとして前述の東日本産個体群(アズマゲンゴロウモドキ)とは別種もしくは亜種として分類される場合がある。\nまた同一種として扱う場合でも本個体群を「北陸産」「関西型」などと呼称して区別する場合がある。\n本個体群はアズマゲンゴロウモドキと異なりメスの上翅に上翅中央にまで達する深く長い縦溝がある。\n戦前は中部地方-西日本(新潟県・富山県・石川県・福井県・愛知県・滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・島根県)にかけて生息していたが、戦後は石川県珠洲郡松波町(→内浦町/現:能登町)を除き記録がなく、絶滅したと考えられていた。\n千葉県における再発見をきっかけに再調査したところ石川県でも生息が確認されたが、本種もアズマゲンゴロウモドキと同様にかなり危機的な状況にある。", "qas": [ { "question": "D.validusはどこで見つかった個体の標本に基づいて新種記載されたの?", "id": "tr-623-06-000", "answers": [ { "text": "滋賀県長浜市", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "成虫は体長28-33ミリメートル(mm)、もしくは28-32ミリメートル。\n体重は約1.7グラム(g)で、オスの方がメスより体長・体幅が若干大きいほか、雌雄で体型が若干異なる(オスは長卵型・メスは卵型)。\nゲンゴロウ科の代表種であるゲンゴロウ(ナミゲンゴロウ)よりやや小型である。\n背面はわずかに緑色を帯びた黒褐色だが頭楯・上唇・触角・口枝・前胸背板・上翅の両側側縁部は黄色-淡い黄褐色である。", "qas": [ { "question": "体長が大きいのはオスとメスのどちら?", "id": "tr-623-07-000", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "長卵型の体型をしているのはオスとメスのどちら?", "id": "tr-623-07-001", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "成虫の体重は?", "id": "tr-623-07-002", "answers": [ { "text": "約1.7グラム", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "体の幅が大きいのはオスとメスのどちら?", "id": "tr-623-07-003", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ゲンゴロウモドキ属共通の特徴として前頭中央後方には暗赤色の三角形の紋があるほか、前頭両側の黄色部の内側には点刻を有する浅い凹みがあり、上唇前縁は弓状に湾入する。\n前胸背板の前縁付近には不規則で粗い点刻列を持ち、オスでは光沢があるが、メスでは細かい点刻列があり光沢を欠く。\nオスの上翅には強い光沢と各2条の点刻列があり、後方にも粗い点刻が散在するが、メスの上翅にはオスより強い点刻が散在し前半に各10個の縦溝を持つ。\nこの縦溝は西日本産個体群(コゲンゴロウモドキ)の場合は明瞭な一方、東日本産個体群(アズマゲンゴロウモドキ)では薄いかほとんどないため、前者はメスの上翅に深く長い縦溝がある点で容易に雌雄を区別できるが、後者は他のゲンゴロウ類と同様に前脚の吸盤の有無(オスにのみ吸盤がある)で区別する。", "qas": [ { "question": "背部に光沢がないのはオスとメスのどちら?", "id": "tr-623-08-000", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "西日本産個体群と東日本産個体群のうち、縦溝が薄いのはどちら?", "id": "tr-623-08-001", "answers": [ { "text": "東日本産個体群", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東日本産個体群のうち吸盤があるのはオスとメスのどちら?", "id": "tr-623-08-002", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "腹面は光沢の強い暗赤褐色・前胸両側は黄褐色で、前胸腹板突起・後胸腹板内方・後基節内方はより暗い色となる。\n腹部第4・5節には両側に赤褐色の長い紋があるがあまり目立たない。\n脚は黄褐色ないし赤褐色で、中・後脚の脛節・跗節には雌雄ともに長い遊泳毛を持つほか、オスの前・中脚は跗節の基方3節が広がり吸盤となっている。\nゲンゴロウモドキ属共通の特徴としてオスの吸盤は前脚だけでなく中脚にもあるが、中脚の吸盤は前脚ほど顕著に発達していないため、雌雄判別の指標とすることは難しい。", "qas": [ { "question": "光沢の強い暗赤褐色をしている部位はどこ?", "id": "tr-623-09-000", "answers": [ { "text": "腹面", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "前胸両側はどのような色をしているの?", "id": "tr-623-09-001", "answers": [ { "text": "黄褐色", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "吸盤がより発達しているのは中脚と前脚のどちら?", "id": "tr-623-09-002", "answers": [ { "text": "前脚", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "孵化直後の1齢幼虫は体長約16ミリメートルで白い体色だが、孵化から約半日で茶褐色になる。\n3齢幼虫はゲンゴロウモドキ・エゾゲンゴロウモドキよりやや小型となる体長43.4-55.4ミリメートルで、背面は灰褐色もしくは黄褐色から暗褐色だがゲンゴロウモドキに比べてより淡色である。\n側面・腹面は白色もしくは灰白色だが頭部・前胸、腹部第7・8節の硬化した部分は黄褐色-暗褐色を帯びる。\n脚は黄褐色・頭部は亜方形で大腮の湾曲はゲンゴロウモドキ・エゾゲンゴロウモドキより弱い。", "qas": [ { "question": "孵化直後の1齢幼虫の体は何色?", "id": "tr-623-10-000", "answers": [ { "text": "白", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "孵化から約半日で幼虫の体液は白色から何色に変わるの?", "id": "tr-623-10-001", "answers": [ { "text": "茶褐色", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "3齢幼虫の体長はどれくらいですか?", "id": "tr-623-10-002", "answers": [ { "text": "43.4-55.4ミリメートル", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "単眼は小さく7節の触角(第2節が最長で第7節が最短)を持ち、子顎の外葉は細長く上端に小突起・7節の小顎髭(第3節が最長で第2・4・6節がそれぞれ最短)を持つ。\n下唇側面には4節の下唇髭(第2・4節が最長、第1・3節が最短)を含め多くの短毛を持つ一方で唇舌を欠き、前胸腹板は腎臓形で幅は長さの2.32倍になり、前方の縁は明瞭に切れ込む。\n跗節前方腹面縁に3-7本の二次毛を持つほか、ゲンゴロウなどゲンゴロウ属の幼虫とは異なり本種の幼虫には尾端に2本の突起があるが、尾突起は腹部第8節の半分程度と短い。\n各脚の腿節・脛節・跗節、腹部第7・8節、尾突起に遊泳毛を持つ。", "qas": [ { "question": "7節の触角の中で最も長い部分はどこ?", "id": "tr-623-11-000", "answers": [ { "text": "第2節", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "7節の触角の中で最も短い部分はどこ?", "id": "tr-623-11-001", "answers": [ { "text": "第7節", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "7節の小顎髭の中で最も長い部分はどこ?", "id": "tr-623-11-002", "answers": [ { "text": "第3節", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種の幼虫の尾端には何本の突起があるの?", "id": "tr-623-11-003", "answers": [ { "text": "2本", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同属のゲンゴロウモドキ・エゾゲンゴロウモドキが池沼などある程度水深のある水域に生息する一方、本種は水深が浅い一時的な止水域を好む。\n特に生息に適した環境は樹林に囲まれ、水生植物(水草)・餌となる小動物が豊富で適度な日当たり・柔らかい土の岸辺・水温の安定した湧水・深い泥質層を有し、侵略的外来生物(アメリカザリガニ・オオクチバスなど)が侵入していない水域で、冬季湛水された水田や休耕田・放棄水田、湧水により安定した小規模なため池などがそれに該当する。\nかつては河川の氾濫原・後背湿地や中山間地の自然の池沼などに生息していたが、それらの環境が様々な開発により消失したため里山環境へ生息環境を移すようになった。", "qas": [ { "question": "水深の浅い水域を好まないのは、本種とゲンゴロウモドキのどちら?", "id": "tr-623-12-000", "answers": [ { "text": "ゲンゴロウモドキ", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "水質面では「やや酸性で透明度が高く、農薬など化学物質で汚染されていない清澄な水」が好条件である。\nまた本種(ゲンゴロウ類)を含め水生甲虫類は蛹化する場所として土の陸上部分が必要で、コンクリート護岸・ゴムシート張りのため池など(土の岸がない水辺)では仮に汚染されていない水・豊富な餌があっても繁殖できない。\n以上のような条件を満たす水域は現代では希少で、丘陵地の浅い湿地などに細々と生息しているが、そのような環境は雨が少なかったり湧水が断たれたりすると消滅しやすい。\nまた本種の個体群はいずれも局所的・小規模であるため、生息地の豪雨による決壊・夏季の異常高気温による水温上昇など自然的要因により消失する危険性もあるほか、本種の生息に適した谷戸田(谷津田)を有していた丘陵地自体が開発されて本種の生息地が破壊される場合もある。\nそれらのような環境の変化が起きると本種やその餌となる水生生物が生息できる環境ではなくなるため、都築(2003)は「このようにわずかな環境変化の影響を大きく受けやすいことが本種の個体数増加を妨げているのだろう」と考察している。\nまた過疎化・高齢化や減反政策により耕作放棄された休耕田・放棄水田は水捌けが悪い場所を除き短期間で乾燥してしまうため、水辺環境の減少につながる。", "qas": [ { "question": "本種はどのような性質の水場が好条件となるの?", "id": "tr-623-13-000", "answers": [ { "text": "やや酸性", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本種は成虫・幼虫とも呼吸のため水面に浮上するが、基本的に夜行性で、通常は水草の間・根際に身を潜めている。\n本種は水生昆虫であるがゲンゴロウほど活発に泳ぎ回らず、水に潜ることは苦手である。\n一方で湿地などを歩行することは得意で、自然界では水草を利用して水底まで移動する姿も観察されている。\nまた驚くと泥・水草の茂み近くに潜り込むため、自然界で観察することは非常に困難である。\n千葉県における再発見直後の1984年11月下旬に生息状況を調査した佐藤正孝は「再発見直後は『普段は水草の根などにしがみつき、冬季に交尾・産卵する』ということが知られておらず、それまでの記録から生息環境を想定しつつ歩き回ってもなかなか採集できなかったが、水たまりに何となく網を入れたら偶然採集できた」と述べているほか、都築(2003)は「本種の自然下における生態などは不明点が多く、子供向けの昆虫図鑑では紹介されていない場合も多い。\n特にアズマゲンゴロウモドキはコゲンゴロウモドキに比べて生息地が限定されており個体数も圧倒的に少ないため、生活様式を熟知していないと採集は不可能に近く『何日も採集に出かけたが1頭も見つけられなかった』という話もよく耳にするほどだ」と述べている。", "qas": [ { "question": "本種はどのような生活習性ですか?", "id": "tr-623-14-000", "answers": [ { "text": "夜行性", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種が水面に浮き上がって来るのは何をするためですか?", "id": "tr-623-14-001", "answers": [ { "text": "呼吸", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種の交尾と産卵時期はいつですか?", "id": "tr-623-14-002", "answers": [ { "text": "冬季", "answer_start": 249, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また成虫は飛翔して移動することができるが、陸上における幼虫の移動能力は極めて低く、幼虫はコンクリートなどの護岸上を移動することはできない。\nそのため止水域間の移動は成虫の飛翔に限られる。\n飛翔距離については一部個体が夏-秋にかけて数百メートルから3-4キロメートル(km)移動した記録があるが、移動する個体の数は限定的で、良好な生息環境の場合はほとんどの個体は生息地を移動しない。\nそのため多くの生息地が消失し、残されている生息地も互いに距離が離れている現状からは「生息地間の遺伝的交流も少ない」と考えられており、遺伝的多様性の劣化・局所個体群の維持が困難になることが懸念されている。", "qas": [ { "question": "成虫のみ行える移動手段は何ですか?", "id": "tr-623-15-000", "answers": [ { "text": "飛翔", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "野外個体の成虫の食性観察は困難だが、肉食性でオタマジャクシ・小魚などを捕食したり死んだ動物の肉を漁ったりすることが確認されている。\n成虫はゲンゴロウと同様に強力な顎で肉質を齧り取って食べるが、本種はゲンゴロウより脚が長く、オタマジャクシ・小魚などを捕獲する行為はゲンゴロウより器用である。\n本種は獲物を捕食する際には前脚・中脚で餌を掴み、後脚は遊泳用に用いる。\n幼虫の摂餌形態は顎の先から消化液を注入して液化した餌を吸汁する体外消化で、成虫は餌を顎で齧る体内消化である。", "qas": [ { "question": "オタマジャクシの捕獲行為が器用なのはゲンゴロウと本種のどちらですか?", "id": "tr-623-16-000", "answers": [ { "text": "本種", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本種は北方系の種であるため寒さには極めて強く、水中で越冬して寒さが厳しくなると水草・泥の中に潜り込んでいることが多いが、真冬でも活動が鈍る程度で明確な冬眠状態にはならない。\n一方で成虫・幼虫とも高水温への耐性は低く、水温30°Cほどで死亡する。\n本種は比較的水温の低い時期に幼虫時代を過ごし、初夏までには新成虫になる。\nそのため、特に室内で飼育する場合は暖房器具・直射日光の影響などがもたらす水温上昇に注意し25°C以下の水温を維持する必要がある。", "qas": [ { "question": "本種は水温が何°Cになると死んでしまうの?", "id": "tr-623-17-000", "answers": [ { "text": "30°Cほど", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種は暑さと寒さのどちらに強い?", "id": "tr-623-17-001", "answers": [ { "text": "寒さ", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "水田で産卵する大型ゲンゴロウ類を含め、水生昆虫の多くは田植え後に産卵するが、本種はそれらとは違い冬に繁殖する独特の生態を持つ。\n本種は北方系の種で高水温に弱いが、特に受精卵-1齢幼虫初期は温度感受性が高く、15°Cを超える水温では卵発生・幼虫の発育に悪影響が発生する。\nまた本種幼虫は同じ北方系の種であるニホンアカガエル・ヤマアカガエルのオタマジャクシを主な餌としているが、それらのオタマジャクシも高水温(30°C以上)に弱い。\n以上の理由から本種は温暖な日本の気候に対応するため、晩秋に交配して早春に孵化するものと考えられている。\n田植え前に繁殖できる条件を満たす水田は丘陵地の谷戸田(谷津田)など水捌けが悪く冬季も水が涸れない「湿田」で、近年は湿田が減少していることが本種の減少に大きく影響している。\n生殖休眠解除(=生殖活動開始)は日照時間の長さに関係なく温度により2段階で解除される可能性が示唆されている。", "qas": [ { "question": "水温が何°Cを超えると本種の幼虫の発育に悪影響を与えますか?", "id": "tr-623-18-000", "answers": [ { "text": "15°C", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "成虫は自然下で10月ごろから交尾を開始し、交尾は翌年3月ごろにかけて続くが、特に産卵直前の3月に最も活発に交尾する。\n飼育下では野生個体と同様に3月-4月にかけて産卵するが、繁殖期はゲンゴロウと比較すると非常に早く、かつ期間も短い。\n交尾時はオスがメスの背後から肩に乗り前脚・中脚の吸盤でメスを捕らえ、白色半透明な交尾器を伸ばして交尾する。\n交尾行動は2-4時間におよぶが、実際に交尾している時間は3,4分程度と考えられている。", "qas": [ { "question": "本種が最も活発に交尾を行う月は?", "id": "tr-623-19-000", "answers": [ { "text": "3月", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "繁殖期の期間が長いのはゲンゴロウと本種のどちら?", "id": "tr-623-19-001", "answers": [ { "text": "ゲンゴロウ", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "繁殖期が遅いのはゲンゴロウと本種のどちら?", "id": "tr-623-19-002", "answers": [ { "text": "ゲンゴロウ", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "実際の交尾時間はどれくらいですか?", "id": "tr-623-19-003", "answers": [ { "text": "3,4分程度", "answer_start": 199, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ハイチ革命", "paragraphs": [ { "context": "ハイチ革命(ハイチかくめい、仏:Révolutionhaïtienne,1791年-1804年)は、西半球で起こったアフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功した革命。これにより、自由黒人の共和国としてハイチが建国された。革命が起こった時、ハイチはサン=ドマングと呼ばれるフランスの植民地であった。この革命によって、アフリカ人とアフリカ人を先祖に持つ人々がフランスの植民地統治から解放されただけでなく、奴隷状態からも解放された。奴隷が世界中で使われていた時代に多くの奴隷の反乱が起こったが、サン=ドマングの反乱だけが成功し、全土を恒久的に解放できた。", "qas": [ { "question": "ハイチ革命により、建国された国は?", "id": "tr-624-00-000", "answers": [ { "text": "ハイチ", "answer_start": 98, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハイチが建国される前に、その地域を支配していたのは、どの国ですか?", "id": "tr-624-00-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 133, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハイチは、もともと何と呼ばれていたか?", "id": "tr-624-00-002", "answers": [ { "text": "サン=ドマング", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アフリカ人奴隷の反乱のうち、唯一に成功したのは、どこでの反乱か?", "id": "tr-624-00-003", "answers": [ { "text": "サン=ドマング", "answer_start": 242, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ハイチは近代史の中で初めての黒人の共和国であり、フランスの植民地から直接自治に移行し、今日まで続いている。革命前は、奴隷所有者たちが作り上げた仕組みが多数派を支配する時における暴力と軍事力の有効性を示していた。この仕組みが革命後も生き残り、誕生したばかりの黒人共和国でも続いた。多数派の黒人農民に対し、肌の色の薄いムラートなどの少数派エリートが政治力も経済力も支配した。", "qas": [ { "question": "近代史の中で初めての黒人の共和国は、どの国なの?", "id": "tr-624-01-000", "answers": [ { "text": "ハイチ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハイチは元々どの国の植民地であった地域ですか?", "id": "tr-624-01-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 24, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "歴史家は、1791年8月にボア・カイマンで、ブードゥー教の高僧デュティ・ブークマンによって行われた特別の儀式が革命の触媒になったと指摘している。しかし、実際には多くの複雑な出来事が起こり、それがアフリカ人奴隷の歴史において最も意義深い革命に繋がる舞台を用意した。", "qas": [ { "question": "デュティ・ブークマンによって行われた特別の儀式がハイチ革命の触媒になったと述べた歴史家は、誰か?", "id": "tr-624-02-000", "answers": [ { "text": "ボア・カイマン", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボア・カイマンは、誰によって行われた特別の儀式がハイチ革命の触媒になったと述べたか?", "id": "tr-624-02-001", "answers": [ { "text": "デュティ・ブークマン", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カリブ海の富裕層はヨーロッパで増大しつつある砂糖の嗜好に頼っており、プランテーションの所有者は北アメリカからの食料とヨーロッパからの加工製品を砂糖と交換していた。1730年代からフランスの技師はサトウキビの生産を上げるため複雑な灌漑設備を造り上げた。1740年代までにサン=ドマングはジャマイカと共に、世界の砂糖の主要な供給源となった。砂糖の生産は、厳格に統制されたハイチの植民地プランテーション経済において、大量の黒人奴隷によって行われる困難な肉体労働を必要としていた。砂糖の輸出で富を築いた白人の農園主は、圧倒的に多い奴隷に囲まれて絶えず奴隷の反乱に神経を尖らせていた。", "qas": [ { "question": "プランテーションの所有者が北アメリカの食料とヨーロッパの加工製品との取引に使ったのは、何?", "id": "tr-624-03-000", "answers": [ { "text": "砂糖", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1740年代に世界の砂糖の主要な供給源とされたのは、サン=ドマングとどこですか?", "id": "tr-624-03-001", "answers": [ { "text": "ジャマイカ", "answer_start": 142, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サン=ドマングやジャマイカで大量の黒人奴隷が必要とされたのは、何の生産のためか?", "id": "tr-624-03-002", "answers": [ { "text": "砂糖", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サン=ドマングにおいて、1730年代から複雑な灌漑設備が造られ始めたのは、何の生産のためだったか?", "id": "tr-624-03-003", "answers": [ { "text": "サトウキビ", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1758年、白人の土地所有者は有色人種と階級の権利を制限し、厳格な階級制度を造り上げるために法律を定め始めた。多くの歴史家が当時の生活者を3つの階級に区分している。1番目の階級は白人植民者であり、フランス語でblancsと呼ばれた。2番目の階級は自由黒人(大抵はムラート、ヨーロッパ系とアフリカ系の混血)であり、フランス語ではgensdecouleur(ジャン・ド・クルール、有色人)と呼ばれた。3番目が数の上では他を10対1の比率で圧倒するほとんどがアフリカ生まれの黒人奴隷であり、フランス語訛りの西アフリカ語、いわゆるクレオール言語を話した。", "qas": [ { "question": "1758年から作られ始めた法律では、どのような人々を一番下の階級としていたの?", "id": "tr-624-04-000", "answers": [ { "text": "アフリカ生まれの黒人奴隷", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1758年から作られ始めた法律により定められた三つの階級のうち、最も数の多かった階級とは、何番目の階級でありましたか?", "id": "tr-624-04-001", "answers": [ { "text": "3番目", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "白人植民者、自由黒人、アフリカ生まれの黒人奴隷の順に階級を区分する法律は、何年から定められ始めたか?", "id": "tr-624-04-002", "answers": [ { "text": "1758年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1758年から作られ始めた法律により、一番下の階級とされた階級は、どの言語を使っていたか?", "id": "tr-624-04-003", "answers": [ { "text": "クレオール言語", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "白人植民者と黒人奴隷の間には度々暴力的な紛争が続いた。マルーンと呼ばれる逃亡奴隷の集団は森の中に隠れ住み、内陸の砂糖やコーヒーのプランテーションにしばしば暴力的かつ残酷な襲撃を掛けた。これらの攻撃の成功は、ハイチ国内で政治に対する暴力や虐待行為で解決を図るという素地を作り出す要因と考えられている[6]。このような集団の数は増えていった(時には数千人にもなった)ものの、まともな教育など与えられなかった黒人奴隷は、通常は指導者と戦略に欠けており、兵の質も雑多であり、さらには言語すら満足に通じない者も珍しくなかったため、大規模な反乱を起こすまでには至らなかった。", "qas": [ { "question": "森の中に隠れ住み、白人植民者に暴力的な方法で被害を与えようとした、逃亡黒人奴隷の集団は、何と呼ばれたの?", "id": "tr-624-05-000", "answers": [ { "text": "マルーン", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "誰の襲撃の成功により、政治に対して暴力行為で解決しようとする動きがハイチ国内に蔓延するようになりましたか?", "id": "tr-624-05-001", "answers": [ { "text": "マルーン", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "最初に現れたマルーンの際立った指導者は、ブードゥー教のカリスマ性のある「ウンガン」(フォン語:hùngan、英語:Houngan)と呼ばれる司祭のフランソワ・マッカンダルであり、黒人の抵抗集団を纏め上げることに成功した。マッカンダルは、アフリカの伝統と宗教に配下の者を惹き付けることで集団を鼓舞した。集団を連携させただけでなく、プランテーションの奴隷の中に秘密の情報組織を造り上げた。マッカンダルは1751年から1757年にかけて、部下の黒人を率いて反乱を指揮した。マッカンダルは1758年にフランス軍に捕縛され、火炙りにされたが、多くの武装したマルーン集団は、マッカンダルの死後も襲撃や示威行為を続けた。", "qas": [ { "question": "最初に現れたマルーンの際立った指導者は、誰なの?", "id": "tr-624-06-000", "answers": [ { "text": "フランソワ・マッカンダル", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初に現れたマルーンの際立った指導者は、何と呼ばれるものでしたか?", "id": "tr-624-06-001", "answers": [ { "text": "「ウンガン」", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初のマルーンの際立った指導者とされる者が逮捕されたのは、何年のことか?", "id": "tr-624-06-002", "answers": [ { "text": "1758年", "answer_start": 240, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最初のマルーンの際立った指導者とされる者は、何年から何年にかけて、部下の黒人を率いて反乱を指揮したか?", "id": "tr-624-06-003", "answers": [ { "text": "1751年から1757年", "answer_start": 199, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1789年、フランス領サン=ドマング植民地は世界の砂糖の40%を生産しており、地球上でも最も価値ある植民地となっていた。社会の最下層にいる奴隷の数は、この時でも8対1の比率で白人とムラートの数を上回っていた。島にいる黒人奴隷の人口はこの時少なくとも50万人であり、カリブ海地域にいた奴隷100万人のおよそ半分であった。彼らはほとんどがアフリカ生まれであり、奴隷制度の厳しさ故に出生率よりも死亡率の方が高かった。重労働と不適切な食糧、住まい、衣類、医療、および男女間の構成差のために、奴隷人口は毎年2%から5%で減少した。奴隷の中には都市の家事奉公人として、プランテーション所有者の料理人、従僕、および職人として働き、いわばエリート階級の中に所属する者もいた。この比較的特権階級に属する者はほとんどがアメリカ生まれであり、アフリカ生まれの階級は厳しい労働と過酷な条件の下で生きた。", "qas": [ { "question": "1789年の時点で世界中にある砂糖の40%を生産していたのは、どこだったの?", "id": "tr-624-07-000", "answers": [ { "text": "フランス領サン=ドマング植民地", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランス領サン=ドマング植民地における三つの階級のうち、その数が最も多かったのは、どのような人々が含まれる階級でしたか?", "id": "tr-624-07-001", "answers": [ { "text": "奴隷", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカ生まれとアフリカ生まれのうち、どちらに当たる黒人奴隷がより高い階級とされたか?", "id": "tr-624-07-002", "answers": [ { "text": "アメリカ生まれ", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "島の北海岸にある北部平原と呼ばれる地域が最も土地の肥えた所であり、大きな砂糖プランテーションがあった。必然的に経済的にも最も重要な地域であった。ここの奴隷達は、「マッシフ」と呼ばれる高い山脈に隔てられているために、植民地の他の場所とは隔離されている状況だった。この地域はグラン・ブラン(grandblancs、偉大な白人)と呼ばれる富裕な白人植民者の地盤であり、特に経済に関しては大幅な自治権を望んでいたので、好きなように振舞うことができた。", "qas": [ { "question": "島で経済的に最も重要な地域とされたのは、何と呼ばれる地域だった?", "id": "tr-624-08-000", "answers": [ { "text": "北部平原", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北部平原の奴隷たちは、何と呼ばれる高い山脈に隔離されていましたか?", "id": "tr-624-08-001", "answers": [ { "text": "マッシフ", "answer_start": 81, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マッシフは、何と呼ばれる富裕な白人植民者の地盤であったか?", "id": "tr-624-08-002", "answers": [ { "text": "グラン・ブラン", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グラン・ブランと呼ばれる富裕な白人植民者の地盤であった地域は、何と呼ばれたか?", "id": "tr-624-08-003", "answers": [ { "text": "マッシフ", "answer_start": 81, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1789年にはサン=ドマングには4万人のフランス人植民者がいたが、ヨーロッパ生まれのフランス人が行政上の地位を独占していた。砂糖農園主グラン・ブランの多くは少数貴族であった。多くの者は黄熱病を恐れて、できるだけ早くフランスに戻った。貧乏な白人プティ・ブラン(petitblancs)は職人、商店主、奴隷交易者、監督者および日雇い労働者であった。サン=ドマングのムラートは1789年時点で2万8千人を数えた。", "qas": [ { "question": "1789年の時点でサン=ドマングにいるフランス人植民者は、何万人だったの?", "id": "tr-624-09-000", "answers": [ { "text": "4万人", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サン=ドマングにいたフランス人植民者たちが、できるだけ早く本国に戻ろうとしたのは、どの病を恐れていたからですか?", "id": "tr-624-09-001", "answers": [ { "text": "黄熱病", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランス人植民者とムラートのうち、1789年時点で人数がより多かったのは、どちらか?", "id": "tr-624-09-002", "answers": [ { "text": "フランス人植民者", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サン=ドマングに存在した階級制度では、フランス人植民者をグラン・ブランと何に区分していたか?", "id": "tr-624-09-003", "answers": [ { "text": "プティ・ブラン", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "白人、カラードおよびアフリカ生まれの奴隷である多数の黒人の間で、奴隷所有者によって助長された人種間紛争以外にも、島は北部、南部および西部の地域間競争意識によって分裂していた。これに加えて、富裕な白人農園主、貧乏な白人、自由黒人(カラード)および奴隷という階級間紛争と、独立指向者、フランスに忠実な者、スペインの同盟者、およびイギリスの同盟者の間の紛争もあった。フランス本国では、国民議会と呼ばれる諮問機関がフランスの法律を急激に変えており、1789年8月26日に人権宣言を出版して全ての人の自由と平等を宣言した。フランス革命はハイチの抗争にも影響を与え、初めは島中で広く受け入れられた。フランスの指導層には多くの紆余曲折があったが、ハイチ自体でもそれが捻じ曲げられ、様々な階級と党派がその連衡を何度も変えた。", "qas": [ { "question": "サン=ドマングには、独立指向者及び各列強国との同盟者の間での紛争と、どんな紛争が存在していたの?", "id": "tr-624-10-000", "answers": [ { "text": "階級間紛争", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サン=ドマングで独立指向者やフランスに忠実な者ら、スペインの同盟者と争った勢力は、どの国の同盟者でしたか?", "id": "tr-624-10-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 162, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サン=ドマングでは、どのような人々と貧乏な白人、自由黒人、奴隷の順に階級を区分する制度が存在したか?", "id": "tr-624-10-002", "answers": [ { "text": "富裕な白人農園主", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サン=ドマングに存在した階級制では、黒人は、自由黒人とどの階層に該当していたか?", "id": "tr-624-10-003", "answers": [ { "text": "奴隷", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "島のアフリカ人大衆は、島の海外貿易に対するフランス本国の規制を不快に思っていた富裕なヨーロッパ人農園主による独立の扇動について漏れ聞くようになった。この階級はほとんどがフランスの王党派やイギリスに組していた。というのも、もしサン=ドマングの独立が白人奴隷所有者によって成されたときは、プランテーション所有者はフランスの貴族に対して少しの責任も無く好きなように奴隷制度にあたるであろうから、アフリカ人大衆には過酷な待遇と不当な取り扱いが増えると考えられたからである。", "qas": [ { "question": "富裕なヨーロッパ人農園主の階級に当たる人々のほどんどは、王党派のほかに、どの国に属していたの?", "id": "tr-624-11-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "富裕なヨーロッパ人農園主とフランス本国は、何を巡って対立していましたか?", "id": "tr-624-11-001", "answers": [ { "text": "島の海外貿易に対するフランス本国の規制", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サン=ドマングの奴隷制度は、どの国の本国から定められたものだったか?", "id": "tr-624-11-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "もしサン=ドマングの独立が白人奴隷所有者によって成された場合、より苦しむのは、どのような人々だったか?", "id": "tr-624-11-003", "answers": [ { "text": "アフリカ人大衆", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "サン=ドマングのカラードであり最も知られたジュリアン・レイモンは、1780年代以降白人との完全な平等をフランス本国に積極的に訴えていた。ジュリアン・レイモンはフランス革命を利用して、フランス国民議会にこのことを植民地の主要な問題であると投げかけた。1790年10月、植民地の別の富裕なカラードであるヴァンサン・オジェがレイモンと共に働きかけを続けていたパリから島に戻った。フランス国民公会によって成立したあいまいな法律によって、彼自身のような富裕なカラードにも完全な市民権が与えられていることを確信したオジェは参政権を要求した。植民地の知事がこれを拒んだ時、オジェはカプ=フランソワ周辺で短期間の反乱を率いたが、捕まえられ1791年早くに残酷に処刑された。オジェは車輪に縛り付けて体の自由を奪われ、槌で殴打し死ぬまで放置された。オジェは奴隷制に反対して戦ったのではなかったが、この処置が奴隷達に1791年8月の蜂起と植民地人との契約に対する抵抗を決断させる要因の一つとなったと、後に奴隷の反逆者達によって証言された。一般にこの時点までの紛争は白人の党派間、あるいは白人とカラードの間のものであり、黒人奴隷は傍観者の立場にあった。", "qas": [ { "question": "1780年代以降白人との完全な平等をフランス本国に積極的に訴えたサン=ドマングのカラード階層の者として最も知られているのは、誰?", "id": "tr-624-12-000", "answers": [ { "text": "ジュリアン・レイモン", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジュリアン・レイモンとともに、フランス本国に対し、白人との完全な平等を訴えたサン=ドマングのカラード階層の者は、誰ですか?", "id": "tr-624-12-001", "answers": [ { "text": "ヴァンサン・オジェ", "answer_start": 149, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジュリアン・レイモンとともに、フランス本国に対し、白人との完全な平等を訴えたサン=ドマングのカラード階層の者が、パリから戻ってきたのは、いつだったか?", "id": "tr-624-12-002", "answers": [ { "text": "1790年10月", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "植民地の知事に富裕なカラード層の参政権を要求したが拒絶されたのは、誰か?", "id": "tr-624-12-003", "answers": [ { "text": "ヴァンサン・オジェ", "answer_start": 149, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1804年1月1日、1801年の独裁的な憲法下で新しい指導者となったデサリーヌはハイチを自由の共和国と宣言した。かくしてハイチはアメリカ合衆国に続き、西半球で2番目の独立国となり、世界の歴史でも唯一の奴隷の反乱を成功させた。しかし、この国は何年にもわたる戦争で痛めつけられており、農業は疲弊し、正式な商業というものは存在せず、大衆は教育も無くほとんど技術も無かった。", "qas": [ { "question": "ハイチ共和国の独立を成し遂げた指導者は、誰なの?", "id": "tr-624-13-000", "answers": [ { "text": "デサリーヌ", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハイチ共和国が自由を手に入れたのは、いつのことですか?", "id": "tr-624-13-001", "answers": [ { "text": "1804年1月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "西半球における最初の独立国は、どこか?", "id": "tr-624-13-002", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 64, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界史において、初めて奴隷の反乱が成功し、成立した国は、どの国か?", "id": "tr-624-13-003", "answers": [ { "text": "ハイチ", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "エレウシスの秘儀", "paragraphs": [ { "context": "エレウシスの秘儀は、古代ギリシアのエレウシスにおいて、女神デーメーテールとペルセポネー崇拝のために伝承されていた祭儀。エレウシスの密儀、エレウシスの秘教とも。\n\nこの密儀は農業崇拝を基盤とした宗教的実践から成立したと考えられている。紀元前15世紀のミュケナイ期から古代ローマまで約2000年間にわたって伝わり、古代ギリシアの密儀宗教としては最大の尊崇を集めた。主要な祭儀は毎年秋に催され、アテナイの祝祭として取り込まれた後は、春のディオニューシア祭、夏のパンアテナイア祭と並んで「アテナイの三大祭」といわれた。\n\n密儀の主題は、ギリシア神話において穀物と豊穣の女神デーメーテールの娘コレーが冥府の神ハーデースによって誘拐される物語に基づいている。冥府から地上に帰還するペルセポネーは死と再生の神として、世代から世代へと受け継がれる永遠の生命を象徴している。入信者たちはこの密儀によって死後に幸福を得られると信じていた。\n\n儀式の中核部分は公開されず、秘密が厳格に守られたために現代に伝わっていない。しかし、『ホメーロス風讃歌』をはじめとする文献資料のほか、エレウシスの遺跡から出土した絵画や陶器の断片から、その内容についてさまざまな推測や議論がなされている。", "qas": [ { "question": "エレウシスの秘儀は約何年にわたって伝わりましたか。", "id": "tr-625-00-000", "answers": [ { "text": "約2000年間", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コレーのお母さんは誰なの?", "id": "tr-625-00-001", "answers": [ { "text": "女神デーメーテール", "answer_start": 280, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "エレウシスに最初に住んだのはトラキア人だった。地名のエレウシスは、ギリシア神話において死後の楽園を意味するエーリュシオンと関連がある。また、秘儀・密儀の語形は、おそらくはインド・ヨーロッパ語根で口を閉じるmu-に由来するもので、「儀礼的沈黙」を表している。\n\nエレウシスでデーメーテールの名で捧げられた現存する最古の奉納品は紀元前8世紀のものである。ただし、線文字B文書には「ダマテ」という記載があり、これがデーメーテールを意味するとすれば、ミュケナイ期からこの名で礼拝された可能性がある。また、アッティカで発見されたエレウシニオン神殿跡は、それらが古い農耕信仰に基づいていることを示唆している。デーメーテールはもともとギリシアのすべての地方とギリシア植民地で崇拝された女神であり、新石器時代の大地母神の後継者だった。このような農耕信仰に基づいた祭式は、クレタ島のアリアドネー信仰のほか、近東・古代オリエントの宗教社会にも見られることが比較研究によって判明している。そうした例として、古代エジプトのイシスとオシリスの密儀、フェニキアのアドーニス信仰、ペルシアの密儀、フリギアのカベイロスの密儀が挙げられる。", "qas": [ { "question": "エレウシスに初めて住み始めたのは何人なの?", "id": "tr-625-01-000", "answers": [ { "text": "トラキア人", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エレウシスでデーメーテールの名で捧げられた現存する最も古い奉納品はいつのものなの?", "id": "tr-625-01-001", "answers": [ { "text": "紀元前8世紀", "answer_start": 162, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "古代ローマの初代皇帝アウグストゥスは紀元前20年、ギリシアを支配下に置いた。アウグストゥスは、インドの王ポロスからの親善使節がエレウシスの秘儀を見たいと熱望したのに応えて、季節外れだったにもかかわらず臨時に秘儀を催させ、自身もこれに参加したという。また、2世紀前半の皇帝ハドリアヌスは、ギリシア文化への傾倒からエレウシスの秘儀に入信している。\n\n170年にエレウシスはサルマタイによって略奪を受けたが、皇帝マルクス・アウレリウスがこれを修復した。アウレリウスは、テレステリオン内で聖職者しか入れないアナクトロンへの常時入場を認められた唯一の皇帝となった。しかし、4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国でキリスト教の支持が高まると、エレウシスの権威は薄れた。「異教徒皇帝」と呼ばれるユリアヌスがエレウシスの秘儀を復興させた。しかし彼はローマ皇帝として最後の入信者となった。\n\n約30年後の392年、皇帝テオドシウス1世は法令を発してエレウシスの聖域を閉鎖した。396年には西ゴート族の王アラリック1世の襲撃によって、密儀の最後の残滓も一掃され、古代の聖域は荒廃した。", "qas": [ { "question": "紀元前20年、ギリシアをしていた国はどこなの。", "id": "tr-625-02-000", "answers": [ { "text": "古代ローマ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "170年、エレウシスは何に侵略されたの?", "id": "tr-625-02-001", "answers": [ { "text": "サルマタイ", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エレウシスの秘儀の皇帝として最後の入信者は誰なの?", "id": "tr-625-02-002", "answers": [ { "text": "ユリアヌス", "answer_start": 339, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇帝ハドリアヌスの宗教は何だったか。", "id": "tr-625-02-003", "answers": [ { "text": "エレウシスの秘儀", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "エレウシスの祭儀堂テレステリオンの発掘調査により、アテナイ時代の神殿遺構の下からミュケナイ期のメガロンの遺構が出土している。ミュケナイ期のメガロンの長さは9.5メートル、幅5.7メートルで、紀元前1450年から1100年頃まで使用されたと考えられている。このメガロンが王の住居であったのか神殿であったのかについては議論があるが、この遺構に獣を犠牲として焼いた痕跡があることから、最近の研究ではミュケナイ期から聖所としての役割があった可能性が指摘されている。これらにより、密儀が始められたのは紀元前15世紀と見られる。\n\nまた、初期ミュケナイ期以前のギリシア本土では、宗教実践を示す証拠がほとんど見られないことから、おそらくミュケナイ人はミノア文明の信仰を受け容れることでその空白を埋めていたとも推測されている。クレタ島を起源とする出産と助産を司る女神エイレイテュイアは、ラコニアとメッセニアではエリュシアと呼ばれており、「エレウシニオスの月」やエレウシスとの関係が考えられる。さらに、『ホメーロス風讃歌』の「デーメーテール讃歌」123行目にはデーメーテール自身がクレタ島から海を渡ってやってきたという身の上話をする場面がある。ハンガリーの神話学者カール・ケレーニイによれば、デーメーテールはケシの神であり、クレタ島からエレウシスにケシが持ち込まれたという。一方、ルーマニアの宗教学者で『世界宗教史』の著者ミルチャ・エリアーデは、最近の発掘はエレウシスの建造物にクレタからの影響があったという仮説の誤りを示しているとする。", "qas": [ { "question": "ミュケナイ期のメガロンの長さは何メートルなの?", "id": "tr-625-03-000", "answers": [ { "text": "9.5メートル", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミュケナイ期のメガロンの幅は何メートルなの?", "id": "tr-625-03-001", "answers": [ { "text": "5.7メートル", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "神話学者カール・ケレーニイはどこの出身なの?", "id": "tr-625-03-002", "answers": [ { "text": "ハンガリー", "answer_start": 513, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "デーメーテールの神話で最も有名なエピソードは、冥府の王ハーデースによって略奪されたデーメーテールの娘ペルセポネーを探して諸国を放浪するというものである。このエピソードはエレウシスの密儀や農業の起源譚、あるいはデーメーテールの娘でアルカディア地方の密儀の主神であったデスポイナ女神の誕生譚となっている。紀元前4世紀から前5世紀にかけてのアテナイの修辞学者・弁論家イソクラテスは演説『パネギュリコス』の中で、密儀の由来と広がりについて、デーメーテールが放浪中にエレウシスに立ち寄り、穀物の栽培を教えたと語っている。農耕発祥の由来において、二柱の女神に次いで重要な位置を占めているのはトリプトレモスである。彼はエレウシス王ケレオスとその妃メタネイラの子で、デーメーテールは彼の両親から受けた好意に報いて、トリプトレモスに翼ある竜の戦車を与え、麦の栽培を世界の人々に教えるべく旅立たせた。トリプトレモスはまた、アッティカのデーメーテールの祭であるテスモポリア祭の創始者とされる。ところがトリプトレモスはエレウシスの伝承において必ずしも重視されているわけではない。\n\nエレウシスの密儀に関する最も重要な文献は『ホメーロス風讃歌』の第2歌「デーメーテール讃歌」である。これはペルセポネー略奪の物語を伝える最古の詩である。この讃歌においてデーメーテール自身による密儀の伝授と創始が語られていることから、神話と密儀は互いに説明し合う表裏一体の関係にあると考えられている。以下に、「デーメーテール讃歌」の要約を述べる。", "qas": [ { "question": "デーメーテールの娘は誰なの?", "id": "tr-625-04-000", "answers": [ { "text": "ペルセポネー", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "デーメーテールの神話で、ペルセポネーは誰に略奪されたの?", "id": "tr-625-04-001", "answers": [ { "text": "ハーデース", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『パネギュリコス』を演説した人は誰なの?", "id": "tr-625-04-002", "answers": [ { "text": "イソクラテス", "answer_start": 180, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ホメーロス風讃歌』の第2歌「デーメーテール讃歌」は何に関しての文献なの?", "id": "tr-625-04-003", "answers": [ { "text": "エレウシスの密儀", "answer_start": 479, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この物語が示す深い人間的な感情は、文学や宗教の歴史においても巨大な影を投げており、「原体験」あるいは「元型」とも呼ばれる。イギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーは、著書『金枝篇』において、ペルセポネーの神話が冬を地中で越す麦の神話であることを論証している。コレーの運命は、穀物のサイクルを体現している。コレーが冥界にとどまる一季は穀物の種が播かれて目を出すまで、残りの二季は地上に芽を出して生長する。すなわち、ペルセポネーは冬の4ヶ月を地中で過ごし、春の芽吹きとともに地上に戻ってくることになる。讃歌でもペルセポネーの帰還は春だと明言されており、古代以来、これが通説とされてきた。ところが、ギリシャのとりわけアッティカ地方では農耕事情が異なっており、10月に播種すると数週間後に発芽し、3月に結実するため冬季の畑は成長期となる。したがって、ペルセポネーが冥界にいるのは穀物が地下の貯蔵庫に蓄えられている6月から9月だとする解釈が近年唱えられている。", "qas": [ { "question": "『金枝篇』の作者は誰ですか。", "id": "tr-625-05-000", "answers": [ { "text": "ジェームズ・フレイザー", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アッティカ地方では何月に種まきをしますか。", "id": "tr-625-05-001", "answers": [ { "text": "10月", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "讃歌ではペルセポネーが帰還する季節は何だと言い切っていますか。", "id": "tr-625-05-002", "answers": [ { "text": "春", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ケレーニイは、「デーメーテール讃歌」の穀物は消滅と復活を思わせる回帰を象徴すると解釈している。また讃歌の中で子供を不老不死とするために火の中に埋めるという奇妙な行為も穀物の運命を暗示している。穀物はパンとなるためにいったん火によって死ぬが、死を克服して生命の糧となるというものである。ドイツの神話学者ヴァルター・ブルケルトは、デーメーテールがオリュンポスから退去し、再び戻るという点において、デーメーテールもペルセポネーも「どちらも退き、また戻ってくる女神」だとして、役割の二重性を指摘している。\n\nまた、讃歌の中間部では、例えば、羊の皮を掛けた椅子に座り、飲食をせず、イアムベーの冗談に笑い、大麦粉と水とミントを混ぜた飲み物を飲む、など、儀式の所作が集中的に説明されている。このように、「デーメーテール讃歌」には儀式にかかる「縁起」が具体的に織り交ぜられているが、トリプトレモスへの言及はわずかであり、農耕発祥のエピソードやアテナイからエレウシスまで聖具を捧げ持って行進する「聖なる道」など、アテナイに関する事柄には触れていない。これらの事柄はおそらく、エレウシスがアテナイに併合された後、国家の隆盛に伴って自国の偉大さを強調するために生み出されたものだと考えられる。こうした「アテナイ色」の欠如は、この讃歌がエレウシス併合よりも早期に成立したという推定を裏付けるものとなっている。", "qas": [ { "question": "デーメーテールとペルセポネーに対して、「どちらも退き、また戻ってくる女神」だと評価した人は誰ですか。", "id": "tr-625-06-000", "answers": [ { "text": "ヴァルター・ブルケルト", "answer_start": 150, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "修辞学者イソクラテスは、「密儀にあずかる人々は生命の終わりと永遠について喜ばしい希望を持つようになる」と述べている。古代詩人ピンダロスは「(密儀を見たものは)生命の終わりを知り、またその始まりを知る」と謳い、悲劇詩人ソポクレスもまた「これらの密儀を見た者だけが冥府で真の生命を得る」と記している。\n\nエレウシスの秘儀の骨子は、穀物神の復活・蘇生の若々しい生命力を人間の身につけ、循環する生命の永遠性に参与し、死後の魂の幸福を享受しようとする宗教的儀礼だった。大地の豊穣と、生命の誕生と再生という神秘的領域との交感をもたらしてくれる象徴性によって、エレウシスの秘儀は全ギリシアの人々を誘ったと考えられている。", "qas": [ { "question": "「密儀にあずかる人々は生命の終わりと永遠について喜ばしい希望を持つようになる」という言葉を残した人は誰なの?", "id": "tr-625-07-000", "answers": [ { "text": "イソクラテス", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「これらの密儀を見た者だけが冥府で真の生命を得る」という言葉を残した人は誰なの?", "id": "tr-625-07-001", "answers": [ { "text": "ソポクレス", "answer_start": 108, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アテナゴラスやキケロなど古代の著述家は、密儀の内容を漏洩した罪によりメロスのディアゴラスがアテナイで死刑を宣告されたと述べている。エレウシス出身の悲劇詩人アイスキュロスは、劇場で密儀の秘密を明かしたとして審問を受けたが、彼自身が入信者ではないことを示して許されたと伝えられる。エレウシスの遺跡からは密儀の様々な局面を描いた絵画や陶器の破片が多く出土しているが、これらは主に儀式の最初の段階についてのものであり、秘密ではなかったと推測されている。", "qas": [ { "question": "悲劇詩人アイスキュロスはどこの出身なの?", "id": "tr-625-08-000", "answers": [ { "text": "エレウシス", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "小密儀は毎年2月、アッティカ暦のアンテステーリオーンに執り行われた。ケレーニイによると、小密儀は参加者が入信の資格を得るためのもので、デーメーテールとペルセポネーに子豚を犠牲として捧げ、イリソス川で浄めの儀式を行った。小密儀を終えると参加者たちは大密儀に立ち会うにふさわしい「密儀者たち(ミュスタイ)」と見なされた。小密儀に参加した入信者たちは、同じ年の大密儀には参加できず、翌年の大密儀に参加するしきたりとなっていた。\n\n伝説によれば、小密儀はヘーラクレースに課された「12の難行」の最後の冒険と関わっている。ヘーラクレースは冥府の番犬ケルベロスを生け捕ってくることを命じられたが、人間が生きたまま冥府に下るには、エレウシスの秘儀に入信することが必要だった。当時の密儀は他国人にはまだ開かれておらず、ヘーラクレースは最高祭司のエウモルポスを訪ねてピュリオスの養子となり、イリソス川で沐浴してケンタウロス殺戮による「血の穢れ」を浄められたのち、入信を許されたという。", "qas": [ { "question": "小密儀は何月に行われたの?", "id": "tr-625-09-000", "answers": [ { "text": "2月", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「12の難行」は誰を対象に出されましたか。", "id": "tr-625-09-001", "answers": [ { "text": "ヘーラクレース", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "当時のエレウシスの秘儀の最高祭司は誰でしたか。", "id": "tr-625-09-002", "answers": [ { "text": "エウモルポス", "answer_start": 364, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "冥府の番犬は何と呼ばれていますか。", "id": "tr-625-09-003", "answers": [ { "text": "ケルベロス", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大密儀は毎年9月のボエードロミオーンに行われた。4年ごとの大密儀は「ペンテテリス」として特に盛大に祝われた。入信の資格は、年齢、性別、自由人か奴隷かに関係なく認められた。ただし、流血の罪を犯していないことが条件だった。儀式加入のための費用は、紀元前4世紀後半には一人あたり15ドラクマが必要だった。これは当時のおよそ10日分の賃金に当たる。大密儀については、以下概ねブルケルト及びミュロナスに従って記述する。", "qas": [ { "question": "大密儀は何月に執り行われましたか。", "id": "tr-625-10-000", "answers": [ { "text": "9月", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ペンテテリス」は何年ごとに行われますか。", "id": "tr-625-10-001", "answers": [ { "text": "4年", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "紀元前4世紀後半、大密儀の参加費用は一人あたりいくらでしたか。", "id": "tr-625-10-002", "answers": [ { "text": "15ドラクマ", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『ホメーロス風讃歌』の「デーメーテール讃歌」第210行に、デーメーテールがケレオスの館で提供された赤ワインを拒否し、水と大麦、ペニーロイヤルミントから作られたキュケオンを受け入れるという場面がある。ギリシアをはじめとした古代には、魔術や宗教上の目的のために媚薬などの薬を用いることは比較的よく見られた。ケレーニイは、クレタ島でアヘンが生産されていたことは間違いなく、デーメーテール女神の信仰はクレタ島からエレウシスにケシの栽培をもたらしたかもしれないとして、ケシから採取されるオピオイドが密儀に用いられた可能性を指摘している。また、古代ローマの詩人オウィディウスによると、コレーがハーデースにさらわれたときに摘んでいたのはケシの花だったとする。", "qas": [ { "question": "デーメーテールがケレオスの館で提供された赤ワインを拒否し、水と大麦、ペニーロイヤルミントから作られたキュケオンを受け入れるという場面は「デーメーテール讃歌」の何行に出ますか。", "id": "tr-625-11-000", "answers": [ { "text": "第210行", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "リチャード・ホルブルック", "paragraphs": [ { "context": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックは、アメリカ合衆国の外交官だ。ユダヤ系アメリカ人である。また、外交官以外にも文筆家、実業家、投資家などとしての顔も併せ持つ。\n\n1962年に国務省に入省して以来一貫して外交畑を渡り歩き、ジミー・カーター政権下で東アジア・太平洋担当国務次官補、ビル・クリントン政権下でドイツ駐在大使、ヨーロッパ・カナダ担当国務次官補、国連大使などの主要外交ポストを歴任した。特にヨーロッパ・カナダ担当国務次官補在任中には、バルカン半島問題の和平交渉で主導的な役割を担い、1995年のデイトン合意成立の立役者の1人として知られる。\n\n2009年1月20日に発足したバラク・オバマ政権では、アフガニスタン・パキスタン問題担当特使に任命され、長期化するアフガニスタン紛争に関連する外交問題に携わったが、2010年12月13日、特使在任のまま病気のため死去した。", "qas": [ { "question": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックはどこの外交官なの?", "id": "tr-626-00-000", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックはバラク・オバマ政権で何にに任命されたの?", "id": "tr-626-00-001", "answers": [ { "text": "アフガニスタン・パキスタン問題担当特使", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バラク・オバマ政権はいつ発足した?", "id": "tr-626-00-002", "answers": [ { "text": "2009年1月20日", "answer_start": 281, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックはいつ亡くなりましたか。", "id": "tr-626-00-003", "answers": [ { "text": "2010年12月13日", "answer_start": 363, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックは1941年4月24日、ニューヨーク市マンハッタンで、医師のダン・ホルブルックとその妻で陶芸家のトゥルーディ・ケアルの間に2人兄弟の長男として生まれた。\n\n両親は共にユダヤ人移民であり、父親のダンはワルシャワでロシア系ユダヤ人の両親のもとに生まれ、1930年代にアメリカへ移民した際に「ホルブルック」の姓を名乗るようになった。また、母のトゥルーディは元々ハンブルク在住だったが、1933年にブエノスアイレスに一家で亡命し、その後ニューヨークへやって来た人物である。彼らはユダヤ人ではあったが、無神論者だったためリチャードにユダヤ式の教育を施すことはせず、母のトゥルーディは毎週日曜日にはクエーカー教徒の集会に彼を連れて行ったという。\n\n15歳の時、父・ダンが癌のために死去したが学業を続け、スカースデール公立高校を卒業後、奨学金を得てブラウン大学に入学、1962年に学士号を取得・卒業した。スカースデール高校時代には、学内新聞『マルーン』のスポーツ欄の編集を担当していたという。この時『マルーン』の編集長を務めていたのがディーン・ラスクの息子であるデイヴィッド・ラスクであり、なおかつホルブルックはデイヴィッドと親友であったことから、これが縁で彼の父親とも知り合うこととなった。ディーン・ラスクはその後ジョン・F・ケネディ政権とジョンソン政権で国務長官を務めることになるが、彼はホルブルックの将来に大きな影響を与えることとなった。", "qas": [ { "question": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックの誕生日は何月何日ですか。", "id": "tr-626-01-000", "answers": [ { "text": "4月24日", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックの父の死因は何?", "id": "tr-626-01-001", "answers": [ { "text": "癌", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックは何人兄弟ですか。", "id": "tr-626-01-002", "answers": [ { "text": "2人兄弟", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックが何歳の時、彼の父が亡くなりましたか。", "id": "tr-626-01-003", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックは大学卒業後まもなく国務省に入省し、入省後は1年間のベトナム語研修を受けた後、ベトナム問題に携わるようになる。これ以降、現地赴任も含め通算で6年間にわたってベトナム問題に取り組んだ。国務省入りしたのは、当時の大統領であるケネディ大統領に触発され、「政府で公職に就いて働くことこそ、我々にできる最良のことだ」と考えるようになったことと、ディーン・ラスクから「外交官は、どんな仕事よりも価値がある職業だ」と聞かされていたことがきっかけである。\n\n当初は、国際開発庁文民代表部のスタッフとしてメコンデルタ地域へ派遣され、南ベトナム政府による経済開発政策と地方政治改革政策を支援するための地方への宣伝活動任務に従事した。その後、当時サイゴンにあったベトナム大使館に移り、マクスウェル・D・テイラー大使と、その後任のヘンリー・キャボット・ロッジJr.大使の補佐官を務めた。この大使館勤務の頃の同僚には、ジョン・ネグロポンテやアンソニー・レイク、レス・アスピンなど、のちにアメリカの外交・軍事・安全保障政策を取り仕切ることになる人材が多数いた。", "qas": [ { "question": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックは大学卒業のあと、どこに入省したの?", "id": "tr-626-02-000", "answers": [ { "text": "国務省", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックに「外交官は、どんな仕事よりも価値がある職業だ」と言ったのは誰なの?", "id": "tr-626-02-001", "answers": [ { "text": "ディーン・ラスク", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ディーン・ラスクはどの職業が一番価値があると考えていますか。", "id": "tr-626-02-002", "answers": [ { "text": "外交官", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "国務省を離れたホルブルックであったが、その後も様々な形で外交の世界と関わっていくこととなる。ホルブルックは1970年途中に自ら志願して「平和部隊」の現地責任者としてモロッコへ赴任し、1972年までの2年間同国に駐在した。その後はアメリカへ戻り、1976年まで外交専門誌『フォーリン・ポリシー』の編集長を務めた。また、『フォーリン・ポリシー』の編集長を務めるかたわら、「外交政策遂行に関わる政府組織に関する大統領委員会」(President’sCommissionontheOrganizationoftheGovernmentfortheConductofForeignPolicy)の顧問を務めたほか、『ニューズウィーク』誌の客員編集部員も務めた。", "qas": [ { "question": "ホルブルックは1970年途中から1972年までどの国に滞在していたの?", "id": "tr-626-03-000", "answers": [ { "text": "モロッコ", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ホルブルックは1976年までどこ雑誌の編集長を務めたか。", "id": "tr-626-03-001", "answers": [ { "text": "『フォーリン・ポリシー』", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ホルブルックは1976年の夏に『フォーリン・ポリシー』編集部を離れ、同年秋の大統領選挙に向けて選挙戦を戦っていた民主党の大統領候補、ジミー・カーター前ジョージア州知事の陣営に加わり、国家安全保障政策の担当者となった。選挙戦では、対立候補である現職のフォード大統領とのディベート、特に外交政策に関するディベートの準備などでカーターを補佐し、カーター陣営の勝利に貢献した。\n\nカーター政権誕生後は、東アジア・太平洋担当国務次官補に任命され、1977年3月31日から1981年1月13日まで同職を務めた。ちなみに東アジア・太平洋担当国務次官補の職は、ホルブルックが「外交政策の師」と仰ぐW・アヴェレル・ハリマンやディーン・ラスク、フィリップ・ハビブらも経験しているポジションであり、また35歳での就任は、同職の前身である極東担当国務次官補のポストが設置されて以降、史上最年少での就任であった。\n\n在職中はサイラス・ヴァンス国務長官の主要なアドバイザーの1人として活躍し、東アジア・太平洋地域における東側諸国との関係改善や、1978年12月に実現した中華人民共和国との国交樹立・完全国交正常化において主導的な役割を担った。また、当時国際問題にもなっていたインドシナ難民の問題にも取り組み、特に難民問題には生涯を通じて取り組んでいくことになった。", "qas": [ { "question": "ホルブルックは1977年3月31日からいつまで東アジア・太平洋担当国務次官補を務めたか。", "id": "tr-626-04-000", "answers": [ { "text": "1981年1月13日", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ホルブルックは何歳で東アジア・太平洋担当国務次官補に就任したの?", "id": "tr-626-04-001", "answers": [ { "text": "35歳", "answer_start": 340, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カーター大統領が1980年の大統領選挙で共和党のロナルド・レーガン元カリフォルニア州知事に敗れ、1981年1月に退任すると、ホルブルックも政府を離れた。\n\n離職後はリーマン・ブラザーズの上級顧問に迎えられ、1985年から1993年までのおよそ8年間は、同社の常務取締役も務めた。またリーマン社で働くかたわら、カーター政権時代にウォルター・モンデール副大統領の補佐官を務めていたジェームズ・A・ジョンソンと共にコンサルティング会社「パブリック・ストラテジーズ」を立ち上げ、同社の副社長に就任している。\n\nさらに、この間には文筆活動にも取り組んでおり、1991年にはジョンソン政権下で国防長官を務め、民主党内で一種のフィクサー的な存在であったとされるクラーク・クリフォードの回顧録・“–CounseltothePresident:AMemoir.-”に共著者として名を連ねている。", "qas": [ { "question": "カーター大統領はいつ退任したの?", "id": "tr-626-05-000", "answers": [ { "text": "1981年1月", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "また、ホルブルックはこの時期からボスニア問題に深く関わっており、1992年にボスニアを2度訪問するなど、在野の人間ではあったが当時大きな国際問題となりつつあったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争にも比較的早くから携わり、紛争の激化に警鐘を鳴らしていた。\n\nこの訪問時は2回とも、難民を支援する活動を行っている国際NGO・「レフュジーズ・インターナショナル(RefugeesInternational)」の理事会メンバーとして、紛争による被害状況の実地視察・調査のために一般市民の資格で入国している。この訪問は、ホルブルックにバルカン半島政策でより積極的な政策を推進すべきだという確証を与えたようで、彼は同僚に宛てたメモの中で「ボスニアは、アメリカの対ヨーロッパ政策の試金石となるだろう。だからこそ我々は、ボスニア問題に対するあらゆる試みを成功させなければならない」と述べている。", "qas": [ { "question": "ホルブルックは1992年にボスニアを何度訪問しましたか。", "id": "tr-626-06-000", "answers": [ { "text": "2度", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1992年、ホルブルックは何の理事会メンバーとしてボスニアを訪問したのですか。", "id": "tr-626-06-001", "answers": [ { "text": "国際NGO・「レフュジーズ・インターナショナル(RefugeesInternational)」", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1993年、前年の大統領選挙で現職のジョージ・H・W・ブッシュを破ったビル・クリントンが大統領に就任すると、選挙戦でクリントン陣営のアドバイザーを務め、外交経験も豊富なホルブルックにも外交ポストが割り当てられるのではないかと予想された。当初は、そのアジア外交における長年の経験と深い知識を買われ、駐日大使への任命が予定されていたが、駐日大使にはモンデール元副大統領が任命され、ホルブルックには予想外ともいえる駐ドイツ大使のポストが割り当てられた。\n\nこの時の経緯については、デイヴィッド・ハルバースタムが著書『静かなる戦争』の記述の中で詳細に取り上げている。それによればホルブルックは当初、国務長官候補に挙がったとされているが、人選担当者から「圧倒的な行動力と知性を持つが、『自己中心的』という点でも飛び抜けている」など、才能を評価しつつも人格・性格面での欠点を懸念する声があったことに加え、クリントンの下で政権移行チームに加わっていたウォーレン・クリストファーやアンソニー・レイクらが彼を政権の高位ポストに就けたがらなかったこともあって、ホルブルックの国務長官や副長官、さらには次官に就任する道は閉ざされたとされている。そこで、彼のアジア外交における長年の経験と深い知識を生かすことの出来る駐日大使のポストに就けることが検討されたが、当初は駐ロシア大使に内定していたモンデールが、芸術に関心の深いジョアン夫人の意見もあって駐日大使を希望するようになったため、ホルブルックは一時何のポストにも就けない可能性すらあったという。しかし、クリントンとホルブルックの共通の友人で、のちに国務副長官としてクリントン政権入りを果たすことになるストローブ・タルボットらの強力なプッシュにより、結果的に残っていたポストの1つである駐ドイツ大使が割り当てられたとされている。\n\nホルブルックがドイツ大使を務めた時期は、ちょうど東西ドイツ統一から数年後のことであり、彼も大使として新生ドイツとアメリカの関係構築に取り組んだ。彼のドイツ大使在任中におけるハイライトとなったのは、1994年7月のクリントン大統領の訪独である。この時は、数千人ものドイツ市民が沿道を埋め尽くして訪問を歓迎するなどクリントンの訪独は成功裏に終わり、ホルブルックは訪問成功の立役者の1人となった。また彼はドイツ駐在中、対ドイツ政策以外にもアメリカのNATO拡大促進政策やボスニア内戦への対応など、クリントン政権の外交政策決定において重要な役割を担った。", "qas": [ { "question": "『静かなる戦争』の著者は誰ですか。", "id": "tr-626-07-000", "answers": [ { "text": "デイヴィッド・ハルバースタム", "answer_start": 237, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホルブルックのドイツ大使在任中におけるハイライトとなったのは何ですか。", "id": "tr-626-07-001", "answers": [ { "text": "クリントン大統領の訪独", "answer_start": 886, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クリントン大統領のはいつドイツを訪問しましたか。", "id": "tr-626-07-002", "answers": [ { "text": "1994年7月", "answer_start": 878, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1999年8月25日、ホルブルックはエネルギー長官に就任するため辞任したビル・リチャードソンの後任として、第22代国連大使に就任した。\n\n在任中は、コフィ・アナン事務総長(当時)と緊密な関係を築くことにより、長らく緊張関係にあったアメリカ政府と国連の関係改善に努め、多くの懸案を解決したことで知られている。なかでも国連分担金の未払い問題など、アメリカと国連が対立する最大の要因となっていた分担金の支払い問題を解決したことは特に有名な業績として知られる。", "qas": [ { "question": "ビル・リチャードソンの後に国連大使に就任したのは誰なの?", "id": "tr-626-08-000", "answers": [ { "text": "ホルブルック", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ホルブルックとビル・リチャードソンと、誰の方が先に国連大使に就任したの?", "id": "tr-626-08-001", "answers": [ { "text": "ビル・リチャードソン", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ホルブルックはいつ第22代国連大使に就任しましたか。", "id": "tr-626-08-002", "answers": [ { "text": "1999年8月25日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ピョウタンの滝", "paragraphs": [ { "context": "ピョウタンの滝(ピョウタンのたき)は、北海道十勝総合振興局管内河西郡中札内村の札内川上流域にある滝である。\n地図上では滝として記されているが、本来は人の手により建設されたダムであった。\nピョウタンの滝の元となったダムは小水力発電の取水施設として建設され、1954年6月に竣工式が執り行われて農協ダムと呼ばれた。\nしかし1年後の1955年7月、豪雨により流された土砂で埋没し、発電施設も壊滅的打撃を受けて再建は断念された。\n残された堰堤はいつしか「ピョウタンの滝」と呼ばれるようになり、周辺一帯が「南札内渓谷札内川園地」として整備され、札内川を代表する観光名所となった。\n堰堤の全高は18メートル、長さは84.5メートルである。\n自然の大岩をいくつも抱き込むようにコンクリート堤体が建設され、自然の滝のような落水表情が得られている。", "qas": [ { "question": "ピョウタンの滝は元々何でしたか?", "id": "tr-627-00-000", "answers": [ { "text": "ダム", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ピョウタンの滝はどの地域に位置しているの?", "id": "tr-627-00-001", "answers": [ { "text": "北海道十勝総合振興局管内河西郡中札内村", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "堰堤の全高と長さはどちらが長いですか?", "id": "tr-627-00-002", "answers": [ { "text": "長さ", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ピョウタンの滝は元々どこの施設のダムとして建設されたの?", "id": "tr-627-00-003", "answers": [ { "text": "小水力発電", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "北海道の電気事業は、1889年(明治22年)設立の札幌電灯舎によって始まり、同社は1891年(明治24年)に25キロワットの汽力発電(高温高圧の蒸気でタービン発電機を回す火力発電)を開始した。\nその後、小樽、函館、旭川など都市部で電気事業者が設立されたほか、炭鉱、製紙工場、製鉄工場などの企業が大規模な自家発電施設の建設を始めた。\n1935年(昭和10年)代までに北海道の電気事業者は80社を超え、道内各地に電気が通るようになった。\nしかし、広大な北海道では都市部から離れた農村や漁村において電力供給を受けるには多額の負担金が必要となり、依然として照明を石油ランプに頼る生活を余儀なくされていた。", "qas": [ { "question": "北海道で電気事業がスタートしたのは何年でしたか?", "id": "tr-627-01-000", "answers": [ { "text": "1889年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "札幌電灯舎の設立年はいつですか?", "id": "tr-627-01-001", "answers": [ { "text": "1889年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "北海道各地の地域限定発電事業は、太平洋戦争が勃発する1941年(昭和16年)に配電統制令によって国家管理の下におかれ、戦後は電気事業再編成令と公益事業令によって1951年(昭和26年)に発足した北海道電力に引き継がれた。\n日本政府は、無電灯地帯を解消するため、自家用小水力発電を積極的に援助する方針を採った。\n1949年(昭和24年)には北海道も「自家用小発電施設補助規則」を制定し、小水力発電施設を対象に補助金の交付を決めた。\n国と道の補助率はそれぞれ事業費の30分の8以内(後に3分の1以内に増額)となり、合わせると半額以上の補助が得られることとなったほか、長期融資制度も設けられた。\n国と道の施策により、北海道内の無電灯地帯では自家用小水力発電の機運が急速に高まっていった。\n補助制度を利用して建設された小水力発電所は、全道で115か所にのぼった。", "qas": [ { "question": "1951年に発足した電力会社は何ですか?", "id": "tr-627-02-000", "answers": [ { "text": "北海道電力", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小水力発電施設への補助金交付が決まったのはいつですか?", "id": "tr-627-02-001", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 155, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "その後小水力発電所は北海道内で何か所建設されたの?", "id": "tr-627-02-002", "answers": [ { "text": "115か所", "answer_start": 366, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "このころ、中札内村は国道沿線が電化されていたものの全戸数の3分の2は依然としてランプ生活であり、1951年(昭和26年)の春、中札内村農業協同組合は、札内川上流に自家用小水力発電所を建設することを決めた。\n中札内村の500戸と隣接する大正村(現・帯広市)と更別村の一部を合わせて680戸に電力を供給する計画であった。\n国と道からの補助を受けてもなお、長期融資により各戸から年収の半分に相当する資金を調達しての事業となった。", "qas": [ { "question": "1951年以前の中札内村では全戸数のどれくらいの数がランプ生活を送っていましたか?", "id": "tr-627-03-000", "answers": [ { "text": "3分の2", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "発電所の発注者は中札内村農業協同組合で、監督官庁は札幌通商産業局と北海道十勝支庁(現・十勝総合振興局)であった。\n設計と工事監理は、発電所の工事経験を持つ土木技術者が札幌通商産業局により斡旋されて担当した。\n工事は、帯広の土木建築請負業である萩原組(現・萩原建設工業)が担当した。\n発電形式は水路式とされ、ダム(堰堤)を建設し、その右岸の取水口から水路で約500メートル下流の発電施設上部まで水を通し、水車を回す方式が採用された。\n地質調査会社と札幌通商産業局、十勝支庁の河川技術者の立ち会いのもと、ダムと発電所の位置が協議・決定された。\nダムの建設地点は大きな岩が川を狭めている所で、この大岩から右岸方向に堤体を建設するよう設計が行われた。", "qas": [ { "question": "発電形式が水路式となった関係で何が建設されることになったの?", "id": "tr-627-04-000", "answers": [ { "text": "ダム", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "発電所の発注者はどこの機関でしたか?", "id": "tr-627-04-001", "answers": [ { "text": "中札内村農業協同組合", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "北海道の河川は冬季には凍結して水量が減少する。\nダムの堤体工事は、この冬の渇水期に川を堰き止めて一気に終わらせる計画であった。\n半川締切工法と呼ばれる工法を用い、ダム左岸にあたる大岩を削って排水路を仮設し、ダム上流にあたる部分に締切堤を設けて建設予定地から水を抜き、コンクリート製の堤体を建設する予定であった。\nしかし、1952年(昭和27年)春まで行われた最初の年の工事では、基礎となる岩盤が現れる前に河川が増水して締切堤が流されてしまい、工事を完成できなかった。\nまた、工事中の大雨の際、流水によって仮排水路の周囲がえぐられてしまっていた。", "qas": [ { "question": "ダムの堤体工事で採用された工法とは?", "id": "tr-627-05-000", "answers": [ { "text": "半川締切工法", "answer_start": 64, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "改めて地質調査を行った結果、岩盤が想定よりも数メートル深いことが分かったほか、周囲の樹木を調査したところ、予定していた堤頂よりも上まで水が押し寄せていた形跡が見つかった。\nダムは設計が変更され、当初12メートル(15メートルとの記録もある)を予定していた堤高は18メートルとなり、コンクリート堤体は中央に大岩を残して左右から巻き込むような形となり、堤頂長は59.6メートルに拡大された。\n設計変更により工事金額は倍増し、翌1953年(昭和28年)の工事も難航した。\n最後は、毎日増水してくる雪解け水との競争となり、際どいところで完成したという。\n完成したダムは、堤頂長59.9メートル、総落差14.05メートル、有効落差9.32メートルであり、「農協ダム」と呼ばれた。\nまた、堤体工事と前後して水路と発電施設も完成し、水車は200キロワットのものが設置された。\n配電線用地は村民からの提供により確保され、4210本の電柱は村民の労力奉仕によって立てられた。\n建設費用は1億6千4百万円を要したとされる。", "qas": [ { "question": "完成したダムの呼び名は何でしたか?", "id": "tr-627-06-000", "answers": [ { "text": "「農協ダム」", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "農協ダムの建設費用はいくらかかりましたか?", "id": "tr-627-06-001", "answers": [ { "text": "1億6千4百万円", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "計画当初の堤高は何メートルでしたか?", "id": "tr-627-06-002", "answers": [ { "text": "12メートル", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダムの総落差は何メートルでしたか?", "id": "tr-627-06-003", "answers": [ { "text": "14.05メートル", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1954年(昭和29年)1月に試験送電が開始され、中札内村、大正村、更別村の750戸に電灯がともった。\n中札内村史では「村内一面の家庭の中は夜が明けたように点灯された。一球、一球の光が祭りのように賑わった」と記されている。\n同年6月には竣工式が盛大に執り行われ、村の発展を象徴する式典に村全体が沸いた。", "qas": [ { "question": "竣工式は何年に行われましたか?", "id": "tr-627-07-000", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "村民に喜びをもたらした発電所の運転は順調とは言えなかった。\n冬の北海道は寒さで河川が凍結するため、厳冬期には発電量が激減し、送電できない日もあった。\nまた、施設の故障が相次ぎ、水路や貯水槽などの補修が繰り返され、設計の半分以下の発電量となった。\n中札内村農協では、電力不足の際には中札内村の中心部に届いていた北海道電力から買電することを決め、追加の配線工事が行われた。\nそして、竣工式から約1年後の1955年7月、運命の日を迎える。\n豪雨によって札内川は大洪水となり、大量の土石流と流木が押し寄せた。\n一夜にして流れてきた16万立方メートルもの土砂でダムは埋没し、貯水不能となったほか、下流の発電施設も壊滅的打撃を受けた。\nダム中央の大岩に生えていたエゾマツなどもそぎ落とされ、左岸もえぐられた。\n札内川は多雨期に急激に水かさを増す川だったのに加え、前年の洞爺丸台風で上流域の森林が大打撃を受け、林相が変化していたことも原因であった。", "qas": [ { "question": "札内川の大洪水によりダムが埋没したのはいつでしたか?", "id": "tr-627-08-000", "answers": [ { "text": "1955年7月", "answer_start": 199, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北海道の発電量が激減する時期はいつですか?", "id": "tr-627-08-001", "answers": [ { "text": "厳冬期", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "同じ日、十勝地方の小水力発電所は全て被災しているが、それらの施設は次々と再建が決まった。\nしかし、札内川小水力発電所だけは再建を断念した。\n建設費以上の復旧費用が必要とわかり、村では大議論の末に配電設備を活用して北海道電力から買電することになった。\n北海道電力からの配線工事が行われていたため、洪水による停電期間は1日だけで済んだとされる。", "qas": [ { "question": "十勝地方の小水力発電所の中で唯一再建を断念したのはどこですか?", "id": "tr-627-09-000", "answers": [ { "text": "札内川小水力発電所", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "国と道の補助制度を利用して建設された道内115か所の発電所は、電力需要の増大に耐えられる規模ではなかったほか、運営組織が小規模で技術力・経営力が十分ではなかった上、水害に対して弱かった。\nまた、河川に対する認識が甘く、調査が不十分であったことも指摘されている。\n後に関係者の一人は「あの暴れ川にあの規模の施設を造ろうと考えたこと自体が、国や道を含めて、皆の力の及ばないことだったのだと思う」と述懐しており、無謀な事業であったとの見方もある。\n一方で、農協ダムが膨大な砂礫をためたことで、下流域の被害が抑えられたという指摘もあり、この水害以降、札内川では大規模な砂防工事が行われた。\nまた、農協ダムの上流3キロメートルの地点には、発電、洪水調整、水道水源などを目的とした札内川ダムが1981年(昭和56年)に着工し、1998年(平成10年)に完成している。", "qas": [ { "question": "農協ダムの上流に建設されたダムとは何ですか?", "id": "tr-627-10-000", "answers": [ { "text": "札内川ダム", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "札内川ダムが完成された年は?", "id": "tr-627-10-001", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 357, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "被災後のダムは水利権保持の手続きを取ってそのまま残されていた。\n1つの滝のような姿となったダムが、いつからピョウタンの滝と呼ばれるようになったかは、はっきりしない。\n「ピョウタン」の語源はアイヌ語で「小さな砂利の多いところ」という意味の「ピヨロ・コタン」とされるが、「ヒョウタン」から転じたという説もある。\nかつて付近に「ピョウタン沢」と呼ばれる地名があったともされる。\n1969年(昭和44年)の記録には「元・札内川電力ダム」との表記があるが、ダムはいつしか「ピョウタンの滝」と呼ばれるようになり、1973年5月の中札内村の広報誌では「ピョウタンの滝」の名で紹介されている。", "qas": [ { "question": "「ピョウタン」のアイヌ語以外の語源とは何ですか?", "id": "tr-627-11-000", "answers": [ { "text": "「ヒョウタン」", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ピヨロ・コタン」の意味は何?", "id": "tr-627-11-001", "answers": [ { "text": "「小さな砂利の多いところ」", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ピョウタンの滝」が地元の広報誌で紹介されたのはいつでしたか?", "id": "tr-627-11-002", "answers": [ { "text": "1973年5月", "answer_start": 250, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ピョウタンの滝の周辺一帯を整備する動きが現れたのもこの頃で、1966年(昭和41年)に中札内村は「元・札内川電力ダム」付近に東屋を建設しようとしている。\nこの背景として、日高山脈を横断して中札内村と静内町(現、新ひだか町)を結ぶ日高横断道路の実現に向けた運動が進んでいたことと、付近の林道整備が進んでいたことから、滝近辺の渓谷美を活かした村づくりの新しい気運を生み出そうという気持ちが施政者にあったとされる。\nまた、1972年(昭和47年)には、簡易水道の取水施設として北海道がダムを買い上げることになった。\nこの際、改修工事が行われ、出水時の越流に合わせて左岸川が広げられ、堤頂長が84.5メートルに拡大された。", "qas": [ { "question": "ピョウタンの滝の堤頂長は何メートルに拡大されたの?", "id": "tr-627-12-000", "answers": [ { "text": "84.5メートル", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「元・札内川電力ダム」付近に東屋を建設しようとしたのはいつ?", "id": "tr-627-12-001", "answers": [ { "text": "1966年", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北海道がダムを買い取ったのは何年?", "id": "tr-627-12-002", "answers": [ { "text": "1972年", "answer_start": 208, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "村内のやまべ養殖事業の興産、そして南札内渓谷への関心を高める取り組みとして、1972年5月16日と翌年5月15日に、ダム跡地の右岸にてそれぞれ1万匹以上のやまべを放流する催しが行われた。\nこの催しは1974年の5月12日からは「ピョウタンの滝やまべ放流祭」と名付けられ祭り形態の催事となった。\nそして、この動きと連動するようにピョウタンの滝下流で札内川を横断する「虹大橋」の建設が進められ、1974年の10月30日に完成した。\n1975年(昭和50年)の第四回「やまべ放流祭」では放流数5万匹、参加者は千名となり、太鼓演奏などの催しも行われた。\n1976年(昭和51年)からは、7月1日のやまべの解禁日に合わせ、「やまべ放流祭」の開催が7月第一日曜日に変わり、以降この開催日で定着している。\nまた、中札内村によって札内川園地の整備が始まっており、同年、林野庁により「南札内渓谷札内川園地」に指定され、翌年の1977年度(昭和52年度)から本格的な整備が進められた。\n1976年(昭和51年)から1991年(平成3年)までの間で断続的に、トイレや駐車場、キャンプ場などのほか、運動施設や野外ステージ、遊歩道などが整備され、札内川園地の敷地総面積は12万ヘクタールにまで広がった。\nこの間、1981年(昭和56年)には「日高山脈襟裳国定公園」が指定され、札内川園地も公園内に含まれた。\n1991年(平成3年)には中札内村のシンボルマークが決定し、ピョウタンの滝の「タン」にちなんで「ピータン」と名付けられている。", "qas": [ { "question": "1972年5月16日の次にやまべを放流したのはいつ?", "id": "tr-627-13-000", "answers": [ { "text": "翌年5月15日", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ピョウタンの滝やまべ放流祭」の名前が付いたのは何年?", "id": "tr-627-13-001", "answers": [ { "text": "1974年", "answer_start": 99, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「やまべ放流祭」の現在の開催日はいつ?", "id": "tr-627-13-002", "answers": [ { "text": "7月第一日曜日", "answer_start": 318, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「虹大橋」の建設が終わったのはいつでしたか?", "id": "tr-627-13-003", "answers": [ { "text": "1974年の10月30日", "answer_start": 195, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ピョウタンの滝は札内川園地の入口に位置し、札内川を代表する観光名所となった。\n札内川園地は最盛期には集客数が年間10万人前後にのぼり、十勝管内随一の優良な公園として評価された。\n「ダムとしては使えなかったけど、観光客を呼ぶ“滝”としては一級品」とも言われた。\nしかし、その後は集客数が減少に転じ、ピョウタンの滝の上流に札内川ダムが完成した時点で6万5千人、2006年度(平成18年度)には2万2千人となった。\nこの集客数減少の原因には、ライフスタイルの変化や集客施設の多様化が考えられているほか、札内川上流域の活性化の決め手と期待されていた日高横断道路の建設が2003年(平成15年)に凍結・中止されたことも要因の一つに挙げられている。\nこのような状況ではあるが「やまべ放流祭」は毎年続けられており、2011年(平成23年)には40回の節目を迎えている。\nまた、2008年(平成20年)には「北海道遺産」を取りまとめた北海道遺産構想推進協議会により「ムラの宝物」に選定された。", "qas": [ { "question": "札内川園地のピーク時の集客数は年間何人でしたか?", "id": "tr-627-14-000", "answers": [ { "text": "10万人前後", "answer_start": 56, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「やまべ放流祭」の40回目が開催された年はいつでしたか?", "id": "tr-627-14-001", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 350, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2006年度の集客数は何人でしたか?", "id": "tr-627-14-002", "answers": [ { "text": "2万2千人", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ムラの宝物」に選定されたのは何年でしたか?", "id": "tr-627-14-003", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 381, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ピョウタンの滝がある札内川は、中部日高山脈の渓流を集め北東方向へ流下し、十勝平野の中央部で十勝川に合流する。\nピョウタンの滝は札内川上流域にあり、滝の3キロメートル上流には札内川ダムがある。\nピョウタンの滝は、前述の通り人工のダムとして建設されたが、2015年現在の地図では滝として記されている。\n堰堤の全高は18メートル、長さは84.5メートルである。\n水の落ち口は砂防ダムのように長く平らになっているが、コンクリート堤体が自然の大岩をいくつも挟み込んでおり、水はそこで砕けて落下し、自然の滝のような落水表情が得られている。", "qas": [ { "question": "ピョウタンの滝はどこの川に位置しているの?", "id": "tr-627-15-000", "answers": [ { "text": "札内川", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピョウタンの滝は人工のダムとして建設されたが、地図上では何と記されているの?", "id": "tr-627-15-001", "answers": [ { "text": "滝", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ディートリヒ・ブクステフーデ", "paragraphs": [ { "context": "ブクステフーデの家系は、北ドイツ・エルベ河畔の都市ブクステフーデに由来し、13世紀から14世紀には、ハンブルク、リューベック等のバルト海沿岸の諸都市に一族の名が現れるようになる。当時のバルト海沿岸地域は、ハンザ同盟によって経済的に密接な関係を有し、同一の文化圏を形成していた。人々の移動も活発で、ブクステフーデの祖先も16世紀初頭にはホルシュタイン公国のオルデスロー(現ドイツ、バート・オルデスロー(ドイツ語版))に移住している。祖父ディートリヒ・ブクステフーデ(生年不詳-1624年頃)は、1565年から1590年までオルデスローの市長を務める。父ヨハネス・ブクステフーデ(1602年-1674年)はこの地でオルガニストとして活動した後、1632年から1633年頃にスコーネ地方のヘルシンボリ(当時はデンマーク領)に家族とともに移り、当地の聖マリア教会のオルガニストに就任する。さらに、1641年にはズント海峡を越えて、デンマーク・ヘルセンゲアの聖オーラウス教会のオルガニストとなっている。", "qas": [ { "question": "バルト海沿岸地域は、何によって経済的に密接な関係を有し、同一の文化圏を形成していたの?", "id": "tr-628-00-000", "answers": [ { "text": "ハンザ同盟", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ディートリヒ・ブクステフーデがオルデスローの市長になったのは、何年か?", "id": "tr-628-00-001", "answers": [ { "text": "1565年", "answer_start": 246, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ブクステフーデの出生に関する記録はほとんど残されていない。1707年7月、『バルト海の新しい読み物(NovaliterariaMarisBalthici)』誌に掲載されたブクステフーデの死亡記事は、「彼はデンマークを祖国とし、そこから当地にやってきて、およそ70年の生涯を終えた」と伝えるのみである。したがって、ブクステフーデは、1637年頃に父ヨハネスが活躍していたヘルシンボリで生まれたものと考えられている。ブクステフーデが幼年期に受けた教育についても推測の域を出ない。おそらく父からオルガン等の音楽の手解きを受け、ヘルセンゲアのラテン語学校に通ったと考えられる。ブクステフーデがドイツ語に加えて、デンマーク語も使用していたことは、ヘルセンゲア時代の日付の残る3通の手紙の存在から明らかである。", "qas": [ { "question": "ブクステフーデの出生について残されている唯一の情報は、何に関する情報なの?", "id": "tr-628-01-000", "answers": [ { "text": "祖国", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブクステフーデは、どこで生まれたと考えられているのか?", "id": "tr-628-01-001", "answers": [ { "text": "ヘルシンボリ", "answer_start": 184, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1658年、ブクステフーデはかつて父が在職したヘルシンボリの聖マリア教会のオルガニストに就任する。当時、デンマークとスウェーデンはバルト海の覇権をめぐって激しく争っており、1658年2月のロスキレ条約において、デンマークはヘルシンボリを含むスコーネ地方をスウェーデンに割譲する。ヘルシンボリは、この間、実際の戦闘に巻き込まれることはなかったが、両国への兵力の拠出と戦争に伴う経済の混乱によって大きく疲弊する。ブクステフーデの声楽作品には、三十年戦争の戦禍に苦しめられた17世紀ドイツの民衆に特有な心情が少なからず反映されているが、ブクステフーデ自身もまた青年期にこうした戦争体験を共有している。一方、1662年、聖マリア教会のオルガンの修理がなされた際に、すでにヘルシンボリを離れていたブクステフーデに鑑定が依頼されたことは、当時すでにブクステフーデがオルガンの専門家として認められていたことを示している。1660年、ブクステフーデはクラウス・デンゲルの後任として、ヘルセンゲアの聖マリア教会のオルガニストに就任する。ヘルセンゲアは、ズント海峡という交通の要衝に位置し、古くから経済的にも文化的にも栄えた町である。コペンハーゲンはここから真南に約45キロメートルと近く、ブクステフーデも1666年2月12日にコペンハーゲンを訪問している。デンマーク王クリスチャン4世は宮廷音楽の発展に努め、続くフレデリク3世の時代には、イタリアやフランス音楽の新たな動向を吸収し、ヨーロッパでも有数の宮廷楽団が編成されていた。当時の宮廷楽長カスパル・フェルスターは、ローマでジャコモ・カリッシミに師事し、イタリアの音楽様式を北方に伝えた仲介者であり、ブクステフーデの声楽作品における直截的な感情表現には、フェルスターの影響が認められる。また、スウェーデンの宮廷音楽家であり、ブクステフーデの作品の収集家として重要なグスタフ・デューベンとの関係も、この時期に始まったとされている。", "qas": [ { "question": "ブクステフーデがヘルシンボリの聖マリア教会のオルガニストに就任したのと、同じ年度に結ばれた条約とは、何か?", "id": "tr-628-02-000", "answers": [ { "text": "ロスキレ条約", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブクステフーデがオルガニストに就任した聖マリア教会が属する地域は、どの国に割譲されたの?", "id": "tr-628-02-001", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フレデリク3世の時代の宮廷楽長は、誰ですか?", "id": "tr-628-02-002", "answers": [ { "text": "カスパル・フェルスター", "answer_start": 662, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フレデリク3世はどの国の王であるか?", "id": "tr-628-02-003", "answers": [ { "text": "デンマーク", "answer_start": 569, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1667年11月5日、リューベックの聖母マリア教会(英語版)のオルガニストであるフランツ・トゥンダーが死去し、1668年4月11日、ブクステフーデがその後任に選出される。3段鍵盤、54ストップを備える聖母マリア教会の大オルガンは銘器の誉れ高く、同教会のオルガニストは北ドイツの音楽家にとって最も重要な地位の1つとされていた。1668年7月23日にはリューベックの市民権を得て、同年8月3日、トゥンダーの娘アンナ・マルガレーテと結婚する。この婚姻が就職の条件であったかどうかは不明であるが、当時としては珍しいものではなかった。リューベックは、ハンザ同盟の盟主として隆盛を極めた都市である。1226年に神聖ローマ帝国直属の自由都市となり、商人による自治が営まれていた。ブクステフーデが在職した聖母マリア教会は商人教会であり、商人にとって礼拝の場であるとともに、会議を開催したり、重要書類を作成・保管する機関としても重要な役割を担っていた。ブクステフーデは、オルガニストと同時に、教会の書記・財務管理を責務とするヴェルクマイスター(Werkmeister)に任命される。この職務には俸給が別途与えられ、一般にオルガニストが兼任するものとされていた。ブクステフーデは、教会における物資の調達、給与の支払、帳簿の作成等、ヴェルクマイスターの任務を忠実に果たす。その仕事は膨大な骨の折れるものであったが、ブクステフーデは、こうした仕事を通して市の有力者との関係を築くこととなる。", "qas": [ { "question": "ブクステフーデがアンナ・マルガレーテと結婚した時には、どこのオルガニストとして活動していたか?", "id": "tr-628-03-000", "answers": [ { "text": "リューベックの聖母マリア教会", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブクステフーデが1668年にオルガニストとして活動していた地域は、誰による自治が営まれていましたか?", "id": "tr-628-03-001", "answers": [ { "text": "商人", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブクステフーデはリューベックの聖母マリア教会で、何に任命されたのか?", "id": "tr-628-03-002", "answers": [ { "text": "ヴェルクマイスター", "answer_start": 453, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、17世紀後半は、衰退しつつあったハンザ同盟が終焉を迎えた時でもあった。1669年のハンザ会議には9都市のみが参加し、事実上、最後の総会となる。リューベックの経済的不振はブクステフーデの音楽活動にも影響を及ぼし、ブクステフーデの俸給は生涯を通じてトゥンダー時代のままに据え置かれた。また、聖母マリア教会のオルガンは故障が多く、ブクステフーデは繰り返し当局に修理を要求したにもかかわらず、十分な修理は行われなかった。聖母マリア教会のオルガニストとしての職務は、毎朝の主要礼拝と日曜日など祝日の午後とその前日の夕方の礼拝時に、会衆によるコラールや聖歌隊の演奏を先導し、聖餐式の前後に音楽を演奏する程度であった。ブクステフーデが音楽家としての手腕を発揮したのは、むしろ前任のトゥンダー時代に始まったアーベントムジーク(夕べの音楽、Abendmusik)においてである。ブクステフーデはこの演奏会の規模を拡大し、合唱や管弦楽を含む大編成の作品を上演するとともに、開催日時も三位一体節の最後の2回の日曜日と待降節の第2-4日曜日の午後4時からに変更した。アーベントムジークは入場無料ということもあって高い人気を博し、ブクステフーデの名声はリューベックを超えて広まる。アーベントムジークの経済的負担は決して軽いものではなかったが、誠実なブクステフーデは市の有力者の理解と支援を得ることができた。市長ペーター・ハインリヒ・テスドルプフは、後年「亡きブクステフーデが私に天国のような憧れを予感させてくれた。彼は聖マリア教会におけるアーベントムジークに大いに力を尽くした」と語っている。", "qas": [ { "question": "ハンザ同盟の事実上の最後の総会は、何年に行われた?", "id": "tr-628-04-000", "answers": [ { "text": "1669年", "answer_start": 38, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブクステフーデがアーベントムジークを入場無料にすることができたのは、誰の支援があったからですか?", "id": "tr-628-04-001", "answers": [ { "text": "ペーター・ハインリヒ・テスドルプフ", "answer_start": 595, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リューベックの経済的不振は、ブクステフーデのどのような活動にまで影響を及ぼしたか?", "id": "tr-628-04-002", "answers": [ { "text": "音楽活動", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ブクステフーデは、大きな旅行をすることもなく、約40年にわたって聖母マリア教会の職務を全うした。旅行の確実な記録は、ハンブルクの聖ニコラウス教会に設置されたアルプ・シュニットガー作のオルガンを鑑定するために、1687年に当地を訪問したことのみである。しかしながら、ブクステフーデは、ヨハン・アダム・ラインケン、ヨハン・タイレ、クリストフ・ベルンハルト、マティアス・ヴェックマン、ヨハン・パッヘルベル等、当時のドイツの主要な音楽家と関係をもっていた。。ヨハネス・フォールハウトの『家庭音楽のひとこま(HauslicheMusikszene)』(1674年)には、ブクステフーデ、ラインケン、タイレと思われる3人の音楽家の交流が描かれている。また、タイレが1673年に出版した『ミサ曲集第1巻』や、パッヘルベルが1699年に出版した『アポロンのヘクサコルド(HexachordumApollinis)』は、ブクステフーデに献呈されたものである。一方、ブクステフーデに師事した音楽家としては、後にフーズム市教会オルガニストとなるニコラウス・ブルーンスが有名である。ブクステフーデが晩年に作曲した2曲のアーベントムジークは、その規模の大きさにおいて際立っている。1705年の神聖ローマ皇帝レオポルト1世の死を悼み、新皇帝ヨーゼフ1世の即位を祝うこれらの作品は今日消失しているが、丁重に印刷されたフォリオ版のリブレットからは、帝国自由都市リューベックの威信を賭けた一大イベントであったことが偲ばれる。ブクステフーデは、これと前後して、後継者捜しに苦心するようになる。1703年8月17日には、ヨハン・マッテゾンとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルをハンブルクから迎えるが、2人は30歳に近いブクステフーデの娘との結婚が後任の条件であることを知ると、興味を失ってハンブルクに帰ってしまう。また、1705年11月にアルンシュタットから訪問したヨハン・ゼバスティアン・バッハも、情熱的なブクステフーデのオルガン演奏に強く魅了され、無断で休暇を延長してリューベックに滞在したが、ついに任地として選ぶことはなかった。結局、ブクステフーデは弟子のヨハン・クリスティアン・シーファーデッカーを後任に推挙し、当局に受け容れられる。1707年5月9日、ブクステフーデは死去し、5月16日に聖母マリア教会で父ヨハネスと早逝した4人の娘の傍らに埋葬される。「まこと気高く、大いなる誉れに満ち、世にあまねく知られた」(ヨハン・カスパル・ウーリヒによる追悼詩)と謳われたオルガニストの最期であった。", "qas": [ { "question": "ブクステフーデがどこかへ旅行に行ったという確実かつ唯一な記録とは、何年の旅行の記録か?", "id": "tr-628-05-000", "answers": [ { "text": "1687年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブクステフーデに教わった音楽家として有名なのは、誰?", "id": "tr-628-05-001", "answers": [ { "text": "ニコラウス・ブルーンス", "answer_start": 461, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レオポルト1世が死去し、皇帝に即位したのは、誰ですか?", "id": "tr-628-05-002", "answers": [ { "text": "ヨーゼフ1世", "answer_start": 556, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブクステフーデの後任は誰か?", "id": "tr-628-05-003", "answers": [ { "text": "ヨハン・クリスティアン・シーファーデッカー", "answer_start": 911, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ブクステフーデの現存する約120曲の声楽曲は、婚礼用の8曲等を除いてすべてプロテスタント教会のための宗教曲である。これらの作品は今日カンタータと呼ばれることも多いが、当時、宗教曲に対してカンタータという呼称が用いられることはなく、独立した複数の楽章から構成される声楽曲という現代における定義に合致する作品も少ない。ブクステフーデの声楽曲において採用された歌詞の形式は、聖書等の散文詩、ドイツ語コラール、その他の有節詩に分類することができ、それに応じて基本的な楽曲構成を声楽コンチェルト、コラール楽曲、アリアに分けて考えることが一般的である。声楽コンチェルトは、イタリアのコンチェルタート様式に由来し、歌詞のフレーズにあわせて分割されたモティーフを単声または多声の歌唱声部と器楽声部が協奏する。また、アリアの多くは、リトルネッロ、声楽リフレインを伴った有節変奏形式であり、BuxWV57,62,70のようにオスティナート・バスによるものも存在する。一方、当時イタリアで確立されていたダ・カーポ・アリアは全く見られず、歌詞のデクラメーションに即したシンプルな旋律は、むしろ初期バロック・イタリアにおけるクラウディオ・モンテヴェルディやジャコモ・カリッシミに近い。単一の歌詞による楽曲においても、分節化されてカンタータへと向かう傾向が認められるが、複数の歌詞を組み合わせた楽曲では、明確なカンタータ形式によるものが約30曲存在する。その大半は声楽コンチェルトとアリアを組み合わせた作品であり、聖書の言葉がその主観的で詩的な省察と結びつけられ、深い共感を込めて描かれている。", "qas": [ { "question": "ブクステフーデの現存する約120曲の声楽曲において、婚礼用の曲と宗教曲のうち、その曲数がより多いのは、どれなの?", "id": "tr-628-06-000", "answers": [ { "text": "宗教曲", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブクステフーデの宗教曲のは今日何と呼ばれますか?", "id": "tr-628-06-001", "answers": [ { "text": "カンタータ", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブクステフーデの声楽曲の基本的な楽曲構成を分類する基準になっているのは、何の分類なのか?", "id": "tr-628-06-002", "answers": [ { "text": "歌詞の形式", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "声楽コンチェルトは何に由来したのか?", "id": "tr-628-06-003", "answers": [ { "text": "イタリアのコンチェルタート様式", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ブクステフーデのアリアには、BuxWV59,74,80,90のように、ヨハン・シェフラー(アンゲルス・ジレージウス)、ヨハン・ヴィルヘルム・ペーターゼン等の神秘主義者、敬虔主義者やその影響を受けた詩人の歌詞が少なからず存在する。また、クレルヴォーのベルナルドゥス等の中世神秘主義の流れを汲む瞑想的な歌詞も、BuxWV56,57,75等の作品で採用されている。直接的な体験を通して神との合一を求める中世神秘主義は、バロック時代の思想の底流として生き続け、日常生活における霊的体験を重視するルター派敬虔主義の成立にも大きな影響を及ぼす。30年戦争の悲惨な経験を通して、この世を涙の谷ととらえ、来世に憧れのまなざしを向ける17世紀ドイツの民衆の心情には、こうした神秘主義的思潮が広く浸透していた。十字架上のイエスの苦しみをわが身のものとして受けとめ、花婿に擬えたイエスとの結婚を通して魂の救済を希求するこれらの作品は、ブクステフーデのシンプルな旋律法とも相まって、ブクステフーデの声楽曲のなかでもとりわけ強いインパクトをもっている。ブクステフーデの管弦楽書法は、17世紀ドイツの伝統に根ざすものであり、18世紀の標準的なオーケストラ編成とは大きく異なっている。声楽曲における特徴は中声部の充実と多様性にあり、ブクステフーデは楽曲ごとにヴィオラ、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオレッタ、ヴィオラ・ダ・ガンバ等、多様な楽器を組み合わせている。とくにヴィオラ・ダ・ガンバは、BuxWV32,64のように高度な技巧を伴った独奏楽器としても使用しており、ヴィオラ・ダ・ガンバに対する愛好と当時の演奏水準の高さを窺わせる。また、管楽器についても、低音リード楽器として、ファゴットではなく、時代遅れの楽器となっていたボンバルド(バス・ショーム)を使用するなど、古風な楽器編成を採用したものがある。", "qas": [ { "question": "ブクステフーデのアリアには、敬虔主義以外にどの主義の人々の歌詞も存在するの?", "id": "tr-628-07-000", "answers": [ { "text": "神秘主義", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中世神秘主義から影響を受け、成立した主義とは、何を重視しますか?", "id": "tr-628-07-001", "answers": [ { "text": "日常生活における霊的体験", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブクステフーデの作った声楽曲の特徴である多様性とは、何の多様性であるか?", "id": "tr-628-07-002", "answers": [ { "text": "楽器", "answer_start": 604, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブクステフーデがファゴットの代わりに使った管楽器は、何か?", "id": "tr-628-07-003", "answers": [ { "text": "ボンバルド", "answer_start": 748, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "婚礼用の世俗歌曲は、大半がリューベック市の有力者から作曲を依頼されたものであるが、1680年のスウェーデン王カール11世とデンマーク王女ウルリカ・エレオノーラの結婚式のための作品(BuxWV119)も含まれる。BuxWV121の印刷譜は1942年のイギリス軍によるリューベック空襲の際に焼失し、現在は1913年にアンドレ・ピロが出版した著書に収録されたインチピットが残るのみである。その他の声楽曲としては、古様式によるミサ・ブレヴィス(BuxWV114)や厳格対位法にもとづくカノン等がある。対位法の技巧を凝らしたこれらの作品は1670年代に集中的に作曲されており、「対位法の父」と称されたヨハン・タイレ等との交流を反映するものと考えられている。ブクステフーデの作品のうち、アーベントムジークで演奏されたものとして確証のある楽曲は、今日全く現存しない。わずかに1678年の『子羊の婚礼(DieHochzeitdesLammes)』(BuxWV128)と、1705年の『悲しみの城砦(Castrumdoloris)』(BuxWV134)、『栄誉の神殿(Templumhonoris)』(BuxWV135)の3曲のリブレットが残されているほか、1732年にグスタフ・デューベンの息子がウプサラ大学に寄贈したコレクションのなかに作者不詳の作品として伝承された『最後の審判(DasjüngsteGericht)』(BuxWVAnh.3)が1683年に演奏されたアーベントムジークであろうと推測されている。", "qas": [ { "question": "現在リブレットが残されておりアーベントムジークで演奏されたとの確証があるブクステフーデの3曲のうち、より多くの曲が作曲されたのは、1678年か、もしくは、1705年か?", "id": "tr-628-08-000", "answers": [ { "text": "1705年", "answer_start": 427, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブクステフーデはカール11世がどの国の王女の結婚式のための曲を作曲したの?", "id": "tr-628-08-001", "answers": [ { "text": "デンマーク", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カール11世の結婚式で流された曲は、誰が作曲しましたか?", "id": "tr-628-08-002", "answers": [ { "text": "ブクステフーデ", "answer_start": 323, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『悲しみの城砦』と『子羊の婚礼』のうち、より遅く作曲されたのは、何年に作曲されたの?", "id": "tr-628-08-003", "answers": [ { "text": "1705年", "answer_start": 427, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ブクステフーデのオルガン作品は、自由曲、コラール編曲ともに約40曲が現存する。自由曲の多くは、即興的なプレリュードと対位法的なフーガを含んでいるが、「前奏曲とフーガ」と通称されるように、一対のプレリュードとフーガから構成される作品は少ない。典型的な楽曲構成は、北ドイツ・オルガン・トッカータといわれる5部形式であり、冒頭部-第1フーガ-間奏部-第2フーガ-終結部といった展開を示す。BuxWV137,148のように後続するフーガに代えてオスティナート形式が導入されることもある。自由な部分は即興的な性格が強く、とくに冒頭部は入念に展開され、技巧的なパッセージや大胆な和声進行等を伴って、リズム、テンポ、拍子のさまざまな対比が試みられる。リューベックの聖母マリア教会のオルガンは足鍵盤のストップ数が最も多く、ブクステフーデのオルガン作品においても低声部は重要な役割が与えられており、BuxWV137,143のように足鍵盤の技巧的なソロで開始する楽曲も存在する。また、フーガでは二重対位法やストレッタが多用され、足鍵盤が独立した声部を担当してテクスチュアに厚みが加えられている。その他の自由曲としては、3曲のオスティナート楽曲や足鍵盤をもたないカンツォーナ等がある。ニ短調のパッサカリア(BuxWV161)は、後にヨハネス・ブラームスが関心を寄せたことでも知られており、足鍵盤をもたない自由曲は、チェンバロによる演奏も可能である。", "qas": [ { "question": "ブクステフーデのオルガン作品は、現在何曲残されているのか?", "id": "tr-628-09-000", "answers": [ { "text": "約40曲", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブクステフーデのオルガン作品の典型的な楽曲構成形式を、何と呼ぶ?", "id": "tr-628-09-001", "answers": [ { "text": "北ドイツ・オルガン・トッカータ", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "BuxWV137,148には、後続するフーガの代わりに何が導入されていますか?", "id": "tr-628-09-002", "answers": [ { "text": "オスティナート形式", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブクステフーデのニ短調のパッサカリアに関心を寄せたのは、誰か?", "id": "tr-628-09-003", "answers": [ { "text": "ヨハネス・ブラームス", "answer_start": 555, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、オルガンのためのコラール編曲は、コラール前奏曲、コラール変奏曲、コラール幻想曲に分類される。コラール編曲の大半を占めるコラール前奏曲は、会衆によるコラールの前奏として用いられたものであり、コラール旋律が豊かに装飾されて上声部に置かれ、他の3声部が手鍵盤と足鍵盤に分けて伴奏される。また、コラール幻想曲においては、声楽コンチェルトの作曲技法が応用され、コラールの各フレーズが即興的に大きく展開されており、滔々と流れるファンタジーのうちに、ブクステフーデの敬虔な信仰心を感じさせる。ブクステフーデのオルガン作品に見られる即興性は、17世紀北ドイツにおけるスティルス・ファンタスティクス(幻想様式、stylusfantasticus)の典型とされる。スティルス・ファンタスティクスとは、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターが1732年に出版した『音楽事典(MusicalischesLexicon)』によれば、あらゆる制約から解放された様式であり、ヨハン・マッテゾンは、『完全なる楽長(DervollkommeneCapellmeister)』(1739年)において、ブクステフーデの前奏曲(BuxWV152)をスティルス・ファンタスティクスの実例として挙げている。リューベックでブクステフーデの演奏を目の当たりにしたバッハは、中部ドイツのアルンシュタットでその成果を試したものの、礼拝時のオルガン演奏に奇妙な変奏や多くの耳慣れない音を混入させたとして教会当局から強く叱責されたが、このことは北ドイツの音楽風土の特異性とともに、ブクステフーデの音楽の自由な性格をもよく示している。この他、チェンバロまたはクラヴィコードのための作品として、21曲の組曲と6曲の変奏曲が現存する。マッテゾンが『完全なる楽長』で言及した7つの惑星の性質を模した組曲(BuxWV251)は今日消失している。一方、ニ短調の組曲(BuxWVdeest)は、1710年にアムステルダムで出版された作者不詳の組曲のなかから、2004年にピーター・ディルクセンによって発見されたものである。これらの組曲はいずれもアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという舞曲の標準的な配列を基本とし、スティル・ブリゼが頻繁に用いられる。また、カプリッチョーサにもとづく32の変奏曲(BuxWV250)をはじめとする世俗的変奏曲では、鍵盤楽器による多様な変奏技法が追求されている。", "qas": [ { "question": "オルガンのためのコラール編曲の3分類のうち、最も多くを占めるのは、何?", "id": "tr-628-10-000", "answers": [ { "text": "コラール前奏曲", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヨハン・マッテゾンがあらゆる制約から解放された様式の実例としているのは、誰が作曲した前奏曲ですか?", "id": "tr-628-10-001", "answers": [ { "text": "ブクステフーデ", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブクステフーデが作曲したチェンバロまたはクラヴィコードのための作品は組曲と変奏曲に分けられるが、より多くの曲数が残されているのは、どちらか?", "id": "tr-628-10-002", "answers": [ { "text": "組曲", "answer_start": 722, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ニ短調の組曲は何年に発見されたのか?", "id": "tr-628-10-003", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 845, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ブクステフーデの室内楽曲は、出版されたいずれも7曲からなるヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音のためのソナタ集作品1(1694年)、作品2(1696年)のほか、手稿譜として残された6曲のソナタが現存する。1684年に出版されたとされる2-3つのヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、通奏低音のためのソナタ集(BuxWV274)は今日消失している。出版された2つの作品集は、体系的な調性プランにもとづき、1セットとして編纂されたものと考えられるが、楽章編成は楽曲ごとに異なり極めて多様である。いずれの楽曲においてもヴィオラ・ダ・ガンバに重要な役割が与えられており、通奏低音の旋律のディヴィジョンを行うほか、対位法的な楽章では独立した声部を演奏して、ヴァイオリンと対等に掛け合う。また、手稿譜として残された作品のなかには、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴィオローネと通奏低音といった特殊な編成によるソナタ(BuxWV267)も存在する。ブクステフーデの室内楽曲は、イギリスやドイツにおける即興的なヴィオラ・ダ・ガンバ演奏の伝統に属する。マッテゾンは、『登竜門への基礎(GrundlageeinerEhrenpforte)』(1740年)で、1666年にクリストフ・ベルンハルトの自宅で開催された演奏会について言及し、ヴァイオリンやヴィオラ・ダ・ガンバの名手達がカスパル・フェルスターの4声のソナタをスティルス・ファンタスティクスの技法にしたがって即興演奏する様子を描いているが、ブクステフーデの室内楽曲の緩徐楽章において、即興的なソロのエピソードが声部ごとに受け渡されていく箇所等には、こうした情景を彷彿させるものがある。", "qas": [ { "question": "BuxWV274とソナタ集作品1のうち、より遅く作曲されたのは、どれ?", "id": "tr-628-11-000", "answers": [ { "text": "BuxWV274", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "BuxWV274とソナタ集作品1のうち、今でも残されているのは、どれですか?", "id": "tr-628-11-001", "answers": [ { "text": "ソナタ集作品1", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "BuxWV267とBuxWV274のうち、その楽器編成にヴィオローネを持たないのは、どれか?", "id": "tr-628-11-002", "answers": [ { "text": "BuxWV274", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブクステフーデの室内楽曲においては、何に重要な役割が与えられているのか?", "id": "tr-628-11-003", "answers": [ { "text": "ヴィオラ・ダ・ガンバ", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17世紀の伝統に根ざしたブクステフーデの音楽は、社会構造が大きく変革する18世紀になると急速に忘れ去られていく。ブクステフーデが再び注目されるのは、19世紀のバッハ研究の進展においてである。1873年に初めてバッハの評伝を著したフィリップ・シュピッタは、バッハの先達としてのブクステフーデのオルガン作品について詳しく論じる。また、1889年には、カール・シュティールがスウェーデンのウプサラ大学の古文書からグスタフ・デューベンが収集したブクステフーデの声楽曲を大量に発見し、声楽曲に対する関心が高まる。1960年代と1970年代における古楽演奏の復興とともに、ブクステフーデの作品も一般に広く演奏されるようになる。今日では、ブクステフーデの代表作である『我らがイエスの四肢(MembraJesunostri)』(BuxWV75)は10種類以上の録音がなされており、室内楽の分野でも、ムジカ・アンティクヮ・ケルンによる先駆的な演奏等を通して注目された。2014年10月にはトン・コープマンとアムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団によるブクステフーデの全作品の録音がリリースされた(en:DieterichBuxtehude–OperaOmnia)。2007年はブクステフーデの生誕370年かつ没後300年を記念する年であり、リューベックでは年間を通してブクステフーデに因んだコンサートやシンポジウム等が開催され、全市を挙げて記念年を祝った。", "qas": [ { "question": "初めてバッハの評伝が著されたのは、何年のこと?", "id": "tr-628-12-000", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "人々から忘れ去られていたブクステフーデの楽曲が、再び注目されたのは、何の研究の発展のためですか?", "id": "tr-628-12-001", "answers": [ { "text": "バッハ研究", "answer_start": 79, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ギリシャ軍事政権", "paragraphs": [ { "context": "ギリシャ軍事政権は、1967年から1974年まで存在したギリシャにおける軍事独裁政権のことである。1967年4月21日、ギリシャ軍の将校が蜂起して政権を掌握した時に始まり、1974年7月24日、亡命していたコンスタンディノス・カラマンリスが帰国して新政権を樹立し終焉を迎えた。", "qas": [ { "question": "ギリシャ軍事政権は、何年から何年まで存在したの?", "id": "tr-629-00-000", "answers": [ { "text": "1967年から1974年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギリシャ軍事政権の始まりとされるのは、いつですか?", "id": "tr-629-00-001", "answers": [ { "text": "1967年4月21日", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギリシャ軍事政権の終焉とされるのは、いつか?", "id": "tr-629-00-002", "answers": [ { "text": "1974年7月24日", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギリシャ軍事政権を崩壊させたのは、誰か?", "id": "tr-629-00-003", "answers": [ { "text": "コンスタンディノス・カラマンリス", "answer_start": 103, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1958年のギリシャ国会総選挙において、共産党(1946年に非合法化された)が支持する民主左翼連合が第二党に躍り出た。この結果には与党である国民急進党、これまで第二党を担ってきた中道諸政党も驚かざるを得なかった。そのため1961年10月に行われた総選挙では左翼が躍進することにより共産主義勢力の復活を恐れた右派勢力により、ありとあらゆる選挙妨害が行われ、悪名高い『暴力と欺瞞の選挙』と化したが、これは冷戦構造の中、周りを共産主義国家に囲まれており、アメリカの地中海戦略の一端を担う国であることが原因であった。", "qas": [ { "question": "この文書では、当時のギリシアでどの勢力が復活および成長していた状況を説明していますか?", "id": "tr-629-01-000", "answers": [ { "text": "共産主義勢力", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1958年と何年に行われた総選挙で、共産主義勢力の復活および成長が見られたの?", "id": "tr-629-01-001", "answers": [ { "text": "1961年", "answer_start": 110, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "しかし、このような選挙妨害にも拘らず、中道諸政党が合流した中央同盟は33%の得票を得、政権交代が可能な第二党と化した。このため、中央同盟党首ゲオルギオス・パパンドレウは民主的な再選挙を要求して『不屈の闘争』を宣言した。中央同盟と民主左翼連合は選挙が不正であったとして街頭でデモを行ったが、これを主導していた左翼の国会議員グリゴリス・ランブラキスが暗殺されたため、それまでの国民急進党政権は方向性を見失った上にコンスタンディノス・カラマンリス首相と親ナチス的で評判の悪かったフリデリキ王妃との確執も表面化するなど、ギリシャ政局は一気に不安定に陥った。全国規模に広がった民主化要求のために1963年11月、再選挙が行われたが、穏健な改革政策を唱える中央同盟はギリシャ王室とアメリカの支持を得た上で世論の支持を集めて勝利を収め、左派の協力を得た上でパパンドレウが組閣し、カラマンリスは国民急進党党首を辞すると共にフランスへ出国した。翌1964年2月には再々選挙が行われ、中央同盟は絶対多数の議席を得て中道単独の政権が樹立された。", "qas": [ { "question": "当時、中央同盟の党首には、誰が就いていたか?", "id": "tr-629-02-000", "answers": [ { "text": "ゲオルギオス・パパンドレウ", "answer_start": 70, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中央同盟とともに、再選挙を要求したのは、どのような人々だったか?", "id": "tr-629-02-001", "answers": [ { "text": "民主左翼連合", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中央同盟と民主左翼連合による再選挙要求が受け入れられ、再選挙が行われたのは、いつのことか?", "id": "tr-629-02-002", "answers": [ { "text": "1963年11月", "answer_start": 292, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中道単独の政権が樹立されたのは、いつ行われた選挙の結果か?", "id": "tr-629-02-003", "answers": [ { "text": "1964年2月", "answer_start": 414, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "パパンドレウは政権掌握後、国民的和解を挙げて内戦時代から収容されていた政治犯の釈放や東側諸国との関係改善を進めた。しかし、こうした動きに対してギリシャを地中海東部における共産主義の防波堤と考えていたアメリカやギリシャ軍部の右派勢力は苛立ちを隠せず、さらにキプロス問題が常にパパンドレウ政権の背後に忍び寄っていた。そのため、軍部内の右派は中央情報局(CIA)と協力して『アスピダ事件』を捏造、パパンドレウの息子アンドレアスがそのリーダーであるとして中傷作戦を開始した。しかし、アンドレアスは当時、不逮捕・不起訴特権のある国会議員であったため、『アピスダ事件』の容疑者として捕らえることはできなかった。", "qas": [ { "question": "アメリカは、どこを地中海東部における共産主義の防波堤と考えていたの?", "id": "tr-629-03-000", "answers": [ { "text": "ギリシャ", "answer_start": 71, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギリシャ軍部内の左派と右派のうち、どちらが中央情報局と協力しましたか?", "id": "tr-629-03-001", "answers": [ { "text": "右派", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ギリシャ軍部内の右派と中央情報局が協力して捏造したのは、どの事件だったか?", "id": "tr-629-03-002", "answers": [ { "text": "『アスピダ事件』", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンドレアスが『アスピダ事件』の容疑者として逮捕されなかったのは、国会議員にはどのような特権が与えられたからか?", "id": "tr-629-03-003", "answers": [ { "text": "不逮捕・不起訴特権", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうしたことから、パパンドレウは軍の粛清を企図しガルファリス国防相や参謀長の更迭を国王コンスタンティノス2世に上奏したが、国王はこれを拒否した。パパンドレウ政権発足の暫く後、パウロス1世の崩御で新たに国王となったコンスタンティノス2世とパパンドレウは関係があまり好くなかったが、この事で対立が決定的となり1965年7月にパパンドレウはコンスタンディノス2世に辞表を呈上、国王に譲歩ないし議会解散を迫る政治的賭けであったが、逆に彼の辞職が国王に利用され、中央同盟所属ながら王党派の国会議長ゲオルギオス・アタナシアディス=ノヴァスを一本釣りする形で首相に任命した。しかしこれは逆に中央同盟主流の態度を硬化させ、アタナシアディス=ノヴァス内閣は国会の信任が得られぬまま退陣に追い込まれる。次いでパパンドレウ政権の内相だったイリアス・ツィリモコスに国王は組閣を命じたものの、ツィリモコス内閣もわずか1ヶ月弱で国会から不信任を受けて辞職するなど危機は収まらず、ギリシャ国民は「『アスピダ事件』は軍による政治介入である」として「70日間運動」を展開、各地でデモを行なった。", "qas": [ { "question": "当時のギリシャ王国の国王は、誰だったの?", "id": "tr-629-04-000", "answers": [ { "text": "コンスタンティノス2世", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パウロス1世の後を継ぎ、王座についたのは、誰ですか?", "id": "tr-629-04-001", "answers": [ { "text": "コンスタンティノス2世", "answer_start": 106, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パパンドレウの後任として首相に任命されたのは、誰か?", "id": "tr-629-04-002", "answers": [ { "text": "ゲオルギオス・アタナシアディス=ノヴァス", "answer_start": 243, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「70日間運動」とは、どの事件において軍部の介入があったことへの反発で、ギリシャ国民が展開した運動のことであるか?", "id": "tr-629-04-003", "answers": [ { "text": "『アスピダ事件』", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "同年9月、パパンドレウ政権の副大臣を務めていたステファノス・ステファノプロスが、ツィリモコスやノヴァスなどの中央同盟離脱派、カラマンリスの出国後パナギオテイス・カネロプロス元国防相が率いていた国民急進党の支援を受けた上で組閣した。これに猛反発したパパンドレウは集会で即時の議会解散と総選挙を要求、左翼の中には君主制の廃止や革命を訴える者までも出始めた。このため1965年9月、国会で内閣信任投票が行なわれたが、辛くもステファノプロスは勝利を収める事ができた。しかしステファノプロス政権下のギリシャはストライキが相次いだりして海外の投資家が資本を引き揚げるなど、1年半続いたといえどもこれ以上の長期政権はもはや期待できない状態であった。1966年4月には外相として入閣していたツィリモコスが辞任。1966年末には国民急進党も内閣への支持を取り下げた。そのため、左翼、右翼両方からの支持を失ったステファノプロス政権は総辞職に追い込まれた。", "qas": [ { "question": "パパンドレウ政権の副大臣を務めていたのは、誰なの?", "id": "tr-629-05-000", "answers": [ { "text": "ステファノス・ステファノプロス", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、国民急進党の指導者は、誰でしたか?", "id": "tr-629-05-001", "answers": [ { "text": "パナギオテイス・カネロプロス", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ステファノス・ステファノプロスは、国民急進党とどの勢力から支援を受け、組閣したか?", "id": "tr-629-05-002", "answers": [ { "text": "中央同盟離脱派", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1965年9月に国会で行われた内閣信任投票では、誰が勝利したか?", "id": "tr-629-05-003", "answers": [ { "text": "ステファノプロス", "answer_start": 208, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ステファノプロスの後任には、1964年の最初の4ヶ月間(第2次と第3次のパパンドレウ政権の間)首相の職にあったイオアニス・パラスケヴォプロスが命じられたが、『アピスダ事件』に関連してパパンドレウが国会議員の不逮捕不起訴特権を選挙期間中に延長する事を提案した。これをカネロプロスが拒否したため、主要政党らの関係が悪化し、第2次パラスケヴォプロス政権も総辞職した。", "qas": [ { "question": "ステファノプロスの後任に命じられたのは、誰だったの?", "id": "tr-629-06-000", "answers": [ { "text": "イオアニス・パラスケヴォプロス", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イオアニス・パラスケヴォプロスは2度首相の職についたことがあるが、最初は誰の後任に選ばれましたか?", "id": "tr-629-06-001", "answers": [ { "text": "パパンドレウ", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "パパンドレウの提案を拒否したのは、誰だったか?", "id": "tr-629-06-002", "answers": [ { "text": "カネロプロス", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第2次パラスケヴォプロス政権とは、誰の後を継ぎ、パラスケヴォプロスが首相になった政権のことを言うか?", "id": "tr-629-06-003", "answers": [ { "text": "ステファノプロス", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "コンスタンティノス2世は(中央同盟からの相次ぐ王党派の離党で第一党となった)国民急進党のカネロプロスに新たな内閣の組閣を命じたが、カネロプロスは国会の信任を得る事ができないとしてコンスタンディノス2世に国会を解散をするよう上奏、コンスタンティノス2世はこの上奏を裁下した。これを受け、カネロプロスとパパンドレウの間で会談が持たれ、1967年5月28日に総選挙を行うことが決まり、カネロプロス率いる選挙管理内閣が組閣された。そして、総選挙で中央同盟が勝利することは確実な状況であった。", "qas": [ { "question": "カネロプロスと誰の間の会談で、1967年5月28日に総選挙を行うことが決まったの?", "id": "tr-629-07-000", "answers": [ { "text": "パパンドレウ", "answer_start": 149, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1967年5月28日の総選挙を管理する選挙管理内閣は、誰の勢力で構成されましたか?", "id": "tr-629-07-001", "answers": [ { "text": "カネロプロス", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書で紹介している時間帯は、誰がギリシャ国王であった時代であるか?", "id": "tr-629-07-002", "answers": [ { "text": "コンスタンティノス2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時の国民急進党のリーダーは、誰だったか?", "id": "tr-629-07-003", "answers": [ { "text": "カネロプロス", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "国王コンスタンティノス2世がカネロプロスに1967年5月に行われる選挙の監督を委ねた数日後の4月21日、軍の中堅将校であるスティリアノス・パッタコス准将を指導者として、ゲオルギオス・パパドプロス大佐、ニコラオス・マカレゾス大佐らによってクーデターが勃発した。『1967年4月21日革命』と自称するクーデターにおいて、あらゆる政治家や軍首脳、更にはコンスタンティノス2世に至るまで完全に隙を突かれた状態であり、全く対応できなかった。そしてコンスタンティノス2世は文民が閣僚に含まれることを条件に軍事臨時政府を不承ながら認め、首相には元検事総長コンスタンディノス・コリアスが就任、さらにアメリカもこの政府を事実上、承認した。", "qas": [ { "question": "4月21日のクーデターは、どの勢力により勃発したものであったの?", "id": "tr-629-08-000", "answers": [ { "text": "軍", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "4月21日のクーデターを起こした勢力のリーダーは、誰でしたか?", "id": "tr-629-08-001", "answers": [ { "text": "スティリアノス・パッタコス", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スティリアノス・パッタコスの勢力の重要人物としてこの文書に紹介されているのは、ゲオルギオス・パパドプロスと誰か?", "id": "tr-629-08-002", "answers": [ { "text": "ニコラオス・マカレゾス", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スティリアノス・パッタコスらは、自分たちのクーデターを何と呼称したか?", "id": "tr-629-08-003", "answers": [ { "text": "『1967年4月21日革命』", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "クーデターの首謀者はありもしない共産主義者による政権奪取が間近に迫っていたためとして行動の正当化を行ったが、その実、彼らはアンドレアス・パパンドレウ率いる中央同盟が政権に復帰して自らが追放されることを恐れたための行動であり、自分たちに都合の良い政府を作ることが目的であった。そのため、彼らは政治家たちから協力を得ることができず、閣僚の多くを官僚や民間人の専門家から起用する結果となった。しかし、彼らは共産主義者と目された者は事実であろうがどうであろうが関係なく全て追放し多くの政治家や反対派らが追放、投獄、軟禁状態に置かれた。彼らが恐れたアンドレアス・パパンドレウはアメリカの強い圧力を受けたため国外退去させ、父親のゲオルギオス・パパンドレウは1968年に死去するまで自宅軟禁された。", "qas": [ { "question": "ゲオルギオス・パパンドレウは何年に死去したの?", "id": "tr-629-09-000", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 322, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンドレアス・パパンドレウが国外退去されたとこには、どの国からの圧力が作用しましたか?", "id": "tr-629-09-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 283, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "クーデターでパパンドレウの政治的実権を奪うことに成功はしたものの、内閣の実権を握っていたのは官房長官として入閣していたパパドプロスであり彼の署名を得られないと政策の一つも実行できなかった。こうした実態に不満を抱いていたコンスタンティノス2世は、1967年12月13日に軍の一部と組んで首相コリアスの支持を得た上で逆クーデターを仕掛けるためにギリシャ北部のテッサロニキで王室支持派を集めようとした。しかし、陸軍が軍事政権への忠誠を誓っていたため失敗に終わり、コンスタンティノス2世は家族とコリアスらとともにローマへ亡命した。こうして1864年以来続いた『王冠を戴いた民主主義』は終焉を迎える事となった。", "qas": [ { "question": "クーデターによりパパンドレウは政治的実権を奪われたものの、誰が内閣の実権を握ったか?", "id": "tr-629-10-000", "answers": [ { "text": "パパドプロス", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パパンドレウ政権において、パパドプロスはどの職に就いていたか?", "id": "tr-629-10-001", "answers": [ { "text": "官房長官", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "軍の一部と組んで逆クーデターを図ったのは、誰か?", "id": "tr-629-10-002", "answers": [ { "text": "コンスタンティノス2世", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『王冠を戴いた民主主義』は、何年から続いてきたか?", "id": "tr-629-10-003", "answers": [ { "text": "1864年", "answer_start": 265, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "水の江瀧子", "paragraphs": [ { "context": "水の江瀧子は、日本の女優、映画プロデューサー、タレントだ。\n\n1928年に東京松竹楽劇部に第1期生として入団した。日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、「ターキー」の愛称と共に1930年代から1940年代にかけて国民的人気を博した。1942年の松竹退団後は劇団主宰、映画女優などを経て1955年に日活とプロデューサー契約。日本初の女性映画プロデューサーとなり、石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子、長門裕之、岡田真澄、和泉雅子、赤木圭一郎ら数々の俳優や、中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画、日活の黄金時代を支えた。また、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、『ジェスチャー』、『独占!女の60分』といった番組に携わった。", "qas": [ { "question": "水の江瀧子は何年、東京松竹楽劇部に入団したか。", "id": "tr-630-00-000", "answers": [ { "text": "1928年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水の江瀧子の母国はどこなの?", "id": "tr-630-00-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した人は誰ですか。", "id": "tr-630-00-002", "answers": [ { "text": "水の江瀧子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水の江瀧子は『NHK紅白歌合戦』の司会を何度務めましたか。", "id": "tr-630-00-003", "answers": [ { "text": "2度", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "水の江瀧子は50年以上に亘り芸能活動を続けたが、1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退した。その後は隠居の傍ら、ジュエリー作家として活動したほか、1993年に自身の生前葬を大々的に催し話題をとった。\n\n出生名は三浦ウメ子であったが、ロス疑惑の後、法的に水の江瀧子を本名とした。以下の経歴部分では、松竹入団までをウメ子、入団後を瀧子と記述する。「水ノ江」や「滝子」の表記も多くあるが、引用部分を除き「水の江瀧子」で統一して記述する。", "qas": [ { "question": "水の江瀧子の出生名は何?", "id": "tr-630-01-000", "answers": [ { "text": "三浦ウメ子", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水の江瀧子が芸能界を引退したきっかけとなったスキャンダルは何ですか。", "id": "tr-630-01-001", "answers": [ { "text": "「ロス疑惑」", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "水の江瀧子は何年に自身の生前葬を催しましたか。", "id": "tr-630-01-002", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "水の江瀧子は1915年、北海道小樽区花園町に生まれる。8人きょうだいの7番目だったが4人が子供の頃に死んだため、4人きょうだいの末っ子として育つ。出生名は三浦ウメ子だ。2歳の時に一家で東京府千駄ヶ谷、次いで目黒村に移り、以後同地で育った。幼少の頃は当時まだ田舎だった目黒にあってベーゴマ遊びやチャンバラごっこ、洞窟探検などに興じる活発な少女であった。\n\n1928年、東京松竹楽劇部の新設に伴う第1期生募集の新聞広告を見た次姉が、ウメ子の知らぬ間に入部試験に応募した。ウメ子は「浅草に連れていってあげる」と姉に試験会場まで連れ出され、何も聞かされず言われるがままに試験に臨み、合格した。ウメ子は何の感慨も湧かず、「学校の勉強があまりできなかったから、それよりはこっちの賑やかなほうへ行くほうがいいだろうと思ったぐらい」であったという。試験でのウメ子の様子については様々な伝聞があるが、『タアキイ-水の江瀧子伝-』の著者中山千夏が「おそらく正確なところを語っている」とする試験委員・大森正男の次のような回想がある。", "qas": [ { "question": "水の江瀧子は何年に生まれましたか。", "id": "tr-630-02-000", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "水の江瀧子の兄弟のうち、何人が子供の頃亡くなったか。", "id": "tr-630-02-001", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水の江瀧子の出生名は何ですか。", "id": "tr-630-02-002", "answers": [ { "text": "三浦ウメ子", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "うめ子は、入部後は高田雅夫・永井三郎(洋舞)、花柳輔蔵(日舞)、天野喜久代(声楽)、篠原正雄(音楽)に師事しながら10カ月あまりの基礎訓練を受けた。芸名は最初「東路道代」であったが、「水の江たき子」の名を授けられた生徒が不満を訴えたことから芸名の交換が行われ、「水の江たき子」がウメ子の名となった。この名前は『万葉集』所収の柿本人麻呂の一首「あしかものさわぐ入り江の水の江の世に住みがたき我が身なりけり」に由来する。後に初めて役が付いた際に、ポスターのレイアウト上の都合から「水の江瀧子」となり、以後定着した。初舞台は1928年12月、昭和天皇の即位礼に合わせ、先に発足していた大阪松竹楽劇部が浅草松竹座で上演した『御大典奉祝レビュー』の中で、奉祝行列の山車の紅白綱を曳く子供役であった。なお、瀧子の初めての舞台化粧を施したのは当時大阪松竹に所属し、後に「ブギの女王」として国民的歌手となる笠置シヅ子で、笠置とは後々まで交流が続いた。", "qas": [ { "question": "うめ子はの最初の芸名は何でしたか。", "id": "tr-630-03-000", "answers": [ { "text": "「東路道代」", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "うめ子の初舞台はいつありましたか。", "id": "tr-630-03-001", "answers": [ { "text": "1928年12月", "answer_start": 259, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "うめ子は『御大典奉祝レビュー』でどんな役を演じましたか。", "id": "tr-630-03-002", "answers": [ { "text": "奉祝行列の山車の紅白綱を曳く子供役", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1929年11月28日、瀧子は浅草松竹座で東京松竹単独としての初公演『松竹座フォーリィズ』を上演した。1930年5月に東京六大学野球をレビュー化した『松竹座リーグ戦』で瀧子にも初めて役が付き、「慶応大学主将」を演じた。1930年10月、人気が高まりつつあった東京松竹は「松組」、「竹組」の二部制を導入し、瀧子は竹組に所属した。\n\n翌1931年5月31日、『先生様はお人好し』で髪を短く切って出演し、千秋楽の頃には楽屋にファンが大挙して訪れるなど大きな反響を呼んだ。当時、瀧子は周囲との身長差から群舞でひとり目立ってしまうため、楽屋で待機させられていることが多かったが、同作では舞台装置を転換する2分間、場を繋ぐ必要が生じた。そこで空いていた瀧子が急遽、劇中の女学生の噂話に出てくる「隣の美青年」として幕前で踊る、という小さな場面が突発的に与えられたものだった。断髪はこの準備中に行ったもので、「君、髪切れよ」と促され、「いいですよ」と即答したという。当時から宝塚少女歌劇にも男役は存在したが、長髪をネットでまとめ、その上に帽子をかぶる形で舞台に上がっており、それと比較して瀧子の頭のシルエットはすっきりとしたものになり、以後宝塚にも断髪が波及していった。これにより瀧子は松竹楽劇部で最初の男役、さらに男性様の髪型にした日本で最初の男役となった。この作品は瀧子の出世作となり、「男装の麗人」の印象を決定づけた。", "qas": [ { "question": "1929年11月28日、浅草松竹座ではどの公演が上演されましたか。", "id": "tr-630-04-000", "answers": [ { "text": "『松竹座フォーリィズ』", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1931年5月31日、瀧子はどの作品に出演しましたか。", "id": "tr-630-04-001", "answers": [ { "text": "『先生様はお人好し』", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "男性様の髪型にした日本で最初の男役を演じたのは誰ですか。", "id": "tr-630-04-002", "answers": [ { "text": "瀧子", "answer_start": 532, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "瀧子は続く7月興行『メリー・ゴーランド』では主役に据えられ、11月には新歌舞伎座で公演を行った。このとき上演されたレビュー3本のうちの1本『万華鏡』において、カウボーイに扮した瀧子が名を問われ「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」と見得を切ったことから、以後「ターキー」の愛称が使われ始めた。この場面は歌劇団史誌においては「以後レビュー史上に燦然と輝く、ターキーの愛称が生れたのである」と称揚されているが、興行的には散々な不入り公演であったとされ、脚本を担当した江川幸一は「男装水の江の人気が確定したのと、『タアキイ』の名が残つただけが大きな拾ひ物と云はなければならない」と述懐している。また「ターキー」もすぐに定着したものではなく、まず瀧子ファンの間で徐々に使われていき、翌1932年7月に読売新聞に取り上げられ、それに追随して秋頃から経営陣が大々的に定着を図ったというのが実相であった。\n\nまた1931年秋には瀧子の私設後援会「水の江会」が発足。翌1932年元旦に発行された第1号パンフレットに記載された賛助会員は次のような面々であった。", "qas": [ { "question": "『メリー・ゴーランド』で主役は誰だった?", "id": "tr-630-05-000", "answers": [ { "text": "瀧子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "瀧子の愛称は何でしたか。", "id": "tr-630-05-001", "answers": [ { "text": "「ターキー」", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "生涯独身を通した瀧子であったが、その生涯でふたりの恋人がいた。ひとりはアメリカ滞在中に知り合った日系人男性で、瀧子が帰国してから手紙でしきりに求愛をされた。これが瀧子の初恋であったといい、瀧子は日本にいる男性の両親に会い、彼自身も日本に帰る予定で、瀧子が結婚衣装の白無垢を用意するところまで話が進んでいた。しかし日米の開戦後、日系人である男性はスパイ容疑を掛けられるに至り、やむなく日本国籍を捨て、瀧子に結婚が不可能である旨を伝えて破談となった。瀧子は数日間泣き暮らし、その後もしばらく沈んだ状態となった。なお、男性は戦後進駐軍の大尉として瀧子と再会したが、すでに結婚しており、瀧子も特別な感情を抱くことはなかった。瀧子は当時たんぽぽの公演中で、男性は様々な物資を差し入れてくれたという。", "qas": [ { "question": "瀧子には生涯、何人の恋人がいましたか。", "id": "tr-630-06-000", "answers": [ { "text": "ふたり", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "瀧子は一番目の恋人をどの国で知り合うようになりましたか。", "id": "tr-630-06-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "フィンセント・ファン・ゴッホ", "paragraphs": [ { "context": "フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(VincentWillemvanGogh、1853年3月30日-1890年7月29日)は、オランダのポスト印象派の画家。\n\n主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年-1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月-1890年5月)に制作された。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。\n\nなお、オランダ人名のvanはミドルネームではなく姓の一部であるために省略しない。英語の読みでビンセント・バン・ゴッホ(実際には「ホ」は発音されたとしても非常に弱く「ゴー」と表記する方が音に近い)とも読まれる。日本を含め多くの国では、これを省略してゴッホという呼び方が定着しているが、本項では正式にファン・ゴッホと呼ぶ。ただ、これでもまだ英語とオランダ語の中間的な表記であり、「ファン・ホッホ」がオランダ語により近いカタカナ表記である。", "qas": [ { "question": "フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホが属する絵の流派は何ですか?", "id": "tr-631-00-000", "answers": [ { "text": "ポスト印象派", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホが療養時代を送ったのがどこですか?", "id": "tr-631-00-001", "answers": [ { "text": "サン=レミ", "answer_start": 130, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホは英語の読みでどう読めますか?", "id": "tr-631-00-002", "answers": [ { "text": "ビンセント・バン・ゴッホ", "answer_start": 288, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(出生、少年時代)。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働くが、1876年、商会を解雇された(グーピル商会)。その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(聖職者への志望)。以降、オランダのエッテン(1881年4月-12月)、ハーグ(1882年1月-1883年9月)、ニューネン(1883年12月-1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月-1886年2月)と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した『ジャガイモを食べる人々』はこの時代の主要作品である。\n\n1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては『タンギー爺さん』などが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した(死)。発作等の原因については、てんかん、統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている(病因)。", "qas": [ { "question": "ファン・ゴッホの出生地はどこですか?", "id": "tr-631-01-000", "answers": [ { "text": "ズンデルト", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ファン・ゴッホの弟の名前は何ですか?", "id": "tr-631-01-001", "answers": [ { "text": "テオドルス", "answer_start": 359, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホが1869年から1876年まで働いた商会の名前は何ですか?", "id": "tr-631-01-002", "answers": [ { "text": "グーピル商会", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ファン・ゴッホの『ジャガイモを食べる人々』が制作されたのはどこですか?", "id": "tr-631-01-003", "answers": [ { "text": "ニューネン", "answer_start": 417, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1886年以降のファン・ゴッホが明るい色調の描く様になったのは誰の影響ですか?", "id": "tr-631-01-004", "answers": [ { "text": "印象派や新印象派", "answer_start": 476, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1888年始まったファン・ゴッホの共同生活の相方は誰ですか?", "id": "tr-631-01-005", "answers": [ { "text": "ポール・ゴーギャン", "answer_start": 652, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1888年の共同生活が破綻した切っ掛けとなった事件は何ですか?", "id": "tr-631-01-006", "answers": [ { "text": "「耳切り事件」", "answer_start": 705, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ファン・ゴッホが死亡したのは何年ですか?", "id": "tr-631-01-007", "answers": [ { "text": "1890年", "answer_start": 833, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったと言われているが(他に売れた作品があるとする説もある)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や、映画『炎の人ゴッホ』に代表される映像作品で描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といったイメージをもって語られるようになった(後世)。\n\n弟テオや友人らと交わした多くの手紙が残され、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる(手紙)。約10年の活動期間の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2,100枚以上の作品を残した。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画、風景画などが多く、特に『ひまわり』や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は表現主義の先駆けでもあった(作品)。", "qas": [ { "question": "ファン・ゴッホを描いた映画の名前は何ですか?", "id": "tr-631-02-000", "answers": [ { "text": "『炎の人ゴッホ』", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホの生活や考え方を知ることができる手掛かりになる物は何ですか?", "id": "tr-631-02-001", "answers": [ { "text": "手紙", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic 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"フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ブレダにほど近いズンデルトの村で、父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス、1822年-1885年)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年-1907年)との間の長男として生まれた。父ドルスは、オランダ改革派の牧師であり、1849年にこの村の牧師館に赴任し、1851年、アンナと結婚した。ブラバントは、オランダ北部とは異なりカトリックの人口が多く、ドルス牧師の指導する新教徒は村の少数派であった。\n\nフィンセントという名は、ドルス牧師の父でブレダの高名な牧師であったフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年-1874年)からとられている。祖父フィンセントには、長男ヘンドリク(ヘイン伯父)、次女ドロアテ、次男ヨハンネス(ヤン伯父)、三男ヴィレム、四男フィンセント(セント伯父)、五男テオドルス(父ドルス牧師)、三女エリーザベト、六男コルネリス・マリヌス(コル叔父)、四女マリアという子があり、このうちヘイン伯父、セント伯父、コル叔父は画商になっている。\n\n父ドルス牧師と母アンナとの間には、画家フィンセントが生まれるちょうど1年前の1852年3月30日に、死産の子があり、その兄にもフィンセントという名が付けられていた。画家フィンセントの後に、妹アンナ(1855年生)、弟テオドルス(通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年生)、弟コルネリス(通称コル、1867年生)が生まれた。\n\nフィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた。1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している。1864年10月からは約20km離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している。\n\n1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ファン・ゴッホも彼から絵を習ったと思われる。1868年3月、ファン・ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている。", "qas": [ { "question": "ファン・ゴッホの生年月日はいつですか?", "id": "tr-631-03-000", "answers": [ { "text": "1853年3月30日", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ファン・ゴッホの母親の名前は何ですか?", "id": "tr-631-03-001", "answers": [ { "text": "アンナ・コルネリア・カルベントゥス", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホの父親の職業は何ですか?", "id": "tr-631-03-002", "answers": [ { "text": "牧師", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる素描は何ですか?", "id": "tr-631-03-003", "answers": [ { "text": "『農場の家と納屋』", "answer_start": 869, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フィンセントが1864年から入った学校名は何ですか?", "id": "tr-631-03-004", "answers": [ { "text": "ヤン・プロフィリ寄宿学校", "answer_start": 935, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1866年フィンセントが進学した学校名は何ですか?", "id": "tr-631-03-005", "answers": [ { "text": "ヴィレム2世校", "answer_start": 1086, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1869年7月、セント伯父の助力で、ファン・ゴッホは画商グーピル商会のハーグ支店の店員となり、ここで約4年間過ごした。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている。\nテオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはファン・ゴッホの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係は\nうまく行っていなかったと見られる。1872年夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのファン・ゴッホのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたファン・ゴッホはテオに親しみを見出した。この時レイスウェイクまで\n2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、ファン・ゴッホは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にファン・ゴッホはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった。\n\nファン・ゴッホは、ハーグ支店時代に、近くのマウリッツハイス美術館でレンブラントやフェルメールらオランダ黄金時代の絵画に触れるなど、美術に興味を持つようになった。\nまた、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興のハーグ派の絵にも触れる機会があった。\n\n1873年5月、彼はロンドン支店に転勤となった。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、フィンセントの娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものともいわれている。\n8月末からロワイエ家の下宿に移った。ヨーの回想録によれば、ファン・ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。\nそして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている。\nファン・ゴッホ自身は、1881年のテオ宛書簡で「僕が20歳のときの恋はどんなものだったか......僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。」と書いているが、その相手は、ハーグで親交のあった\n遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある。いずれにしても、彼は、ロワイエ家の下宿を出た後、1874年冬頃から、チャールズ・スポルジョンの説教を聞きに行ったり、\nジュール・ミシュレ、イポリット・テーヌの著作、またエルネスト・ルナンの『イエス伝』などを読み進めたりするうちに、キリスト教への関心を急速に深めていった。\n\n1875年5月、彼はパリ本店に転勤となった。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、聖書やトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読みふけった。\n他方、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせた。この頃、父は、フィンセントには今の職場が合わないようだとテオに書いている。翌1876年1月、彼はグーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を\n受けた。解雇の理由の一つは、ファン・ゴッホが1875年のクリスマス休暇を取り消されたにもかかわらず無断でエッテンの実家に帰ったことともいわれる。この事件は両親に衝撃と失望を与えた。", "qas": [ { "question": "ファン・ゴッホが画商グーピル商会のハーグ支店の店員となったのは何年ですか?", "id": "tr-631-04-000", "answers": [ { "text": "1869年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがロンドン支店に転勤となったのは何年ですか?", "id": "tr-631-04-001", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 553, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがロンドン支店で働いた時の下宿先の娘の名前は何ですか?", "id": "tr-631-04-002", "answers": [ { "text": "ユルシュラ・ロワイエ", "answer_start": 697, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゴッホがパリ本店に転勤となったのは何年ですか?", "id": "tr-631-04-003", "answers": [ { "text": "1875年", "answer_start": 1142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがグーピル商会から解雇通告を受けたのは何年ですか?", "id": "tr-631-04-004", "answers": [ { "text": "1876年", "answer_start": 1302, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "こうして、同年(1878年)10月の試験の日を待たずに、同年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度は同年8月からベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごした。同年11月15日に試行期間が終わる時、学校から、フランドル生まれの生徒と同じ条件での在学はできない、ただし無料で授業を受けてもよい、という提案を受けた。しかし、彼は、引き続き勉強するためには資金が必要だから、自分は伝道のためボリナージュに行くことにするとテオに書いている。\n\n同年(1878年)12月、彼はベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方(モンス近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。1879年1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットで労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、『キリストに倣いて』が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった。教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ファン・ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた。\n\n伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された。1880年3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親がヘールの精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った。\n\nクウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ファン・ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている。ジャン=フランソワ・ミレーの複製を手本に素描を練習したり、シャルル・バルグのデッサン教本を模写したりした。\n\n同年(1880年)10月、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに出て行った。そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けた。また、この時、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと交友を持つようになった。ファン・ゴッホ自身も、ハーグ派の画家ヴィレム・ルーロフスから、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められた。同年11月第1週から、同アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間出席したものと見られている。また、名前は不明だが、ある画家から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていた。", "qas": [ { "question": "ゴッホが1878年伝道活動を始めた頃の下宿先はどこですか?", "id": "tr-631-05-000", "answers": [ { "text": "パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家", "answer_start": 293, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの実家はどこにありますか?", "id": "tr-631-05-001", "answers": [ { "text": "エッテン", "answer_start": 950, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クウェムにいた時、ゴッホが放浪の旅を繰り返したのは何月ですか?", "id": "tr-631-05-002", "answers": [ { "text": "9月", "answer_start": 1119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クウェムに戻ってから、弟からのゴッホへの生活費の援助が始まったのは何月ですか?", "id": "tr-631-05-003", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 1030, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが絵の練習のため模写した教本は誰が書いた教本ですか?", "id": "tr-631-05-004", "answers": [ { "text": "シャルル・バルグ", "answer_start": 1254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic 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"1881年4月、ファン・ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、エッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、\nこの頃にはファン・ゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた。夏の間、最近夫を亡くしたいとこのケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)が\nエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはファン・ゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずファン・ゴッホは求婚するが、\n「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた。\n\nケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ファン・ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、\n両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、\n会うことはできないと言うのみだった。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ファン・ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった。\n\n11月27日、ハーグに向かい、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴから絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、\nその日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった。", "qas": [ { "question": "1881年11月にゴッホは誰から絵の指導を受けましたか?", "id": "tr-631-06-000", "answers": [ { "text": "アントン・モーヴ", "answer_start": 674, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic 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"1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た。ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員に推薦したのもモーヴであった。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった。\n\n同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった。ファン・ゴッホは同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した。\n\nファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている。ファン・ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した。", "qas": [ { "question": "ゴッホがハーグに住み始めたのは何年ですか?", "id": "tr-631-07-000", "answers": [ { "text": "1882年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハーグにいた頃ゴッホの絵のモデルとなった娼婦の名前は何ですか?", "id": "tr-631-07-001", "answers": [ { "text": "クラシーナ・マリア・ホールニク", "answer_start": 218, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1882年コル叔父がゴッホに注文した街の風景の素描は何点ですか?", "id": "tr-631-07-002", "answers": [ { "text": "12点", "answer_start": 652, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1882年ゴッホが入院したのは何月ですか?", "id": "tr-631-07-003", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 763, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1882年出産したシーンの長男の名前は何ですか?", "id": "tr-631-07-004", "answers": [ { "text": "ヴィレム", "answer_start": 809, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがホーへフェーンに向かったのは何月ですか?", "id": "tr-631-07-005", "answers": [ { "text": "9月", "answer_start": 1227, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同年(1883年)12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。\n2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、1884年1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、\n家族との関係は好転した。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、\n同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、\n水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった。ピサロやモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の絵を描く\nフィンセントの間には意見の対立が生じた。\n\n1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、\n村のスキャンダルとなった。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたフィンセントは、再び父との争いを勃発させた。1885年3月26日、父ドルス牧師が\n発作を起こして急死した。フィンセントはテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは\nフィンセントであり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した。\n\n1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく\n満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部に\nついて手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った。\n\n夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの\n経験を思い出して共感する。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルに\nならないよう命じられるという干渉を受けた。\n\n同年(1885年)10月、ファン・ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラント、フランス・ハルス、ロイスダールなどの17世紀オランダ(いわゆる黄金時代)の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、\n勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を\n描いた静物画を描き上げ、テオに送った。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった。\n残された多数の絵は母によって二束三文で処分された。", "qas": [ { "question": "ゴッホの父親が1882年から移り住んでいた農村はどこですか?", "id": "tr-631-08-000", "answers": [ { "text": "ニューネン", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1884年にゴッホの恋人の名前は何ですか?", "id": "tr-631-08-001", "answers": [ { "text": "マルガレータ・ベーヘマン", "answer_start": 541, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴッホが1885年仕上げた作品の名前は何ですか?", "id": "tr-631-08-002", "answers": [ { "text": "『ジャガイモを食べる人々』", "answer_start": 962, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1885年11月、ファン・ゴッホはベルギーのアントウェルペンへ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた。1886年1月から、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出た。\nまた、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持った。さらに、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んでそのジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼った。\n\n金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ファン・ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り\n6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した。また、アントウェルペンの頃から、アブサン(ニガヨモギを原料とするリキュール)を飲むようになった。", "qas": [ { "question": "ゴッホがジャポネズリーに魅了された切っ掛けとなった小説名は何ですか?", "id": "tr-631-09-000", "answers": [ { "text": "『シェリ』", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1885年ゴッホが家から追い出されて移ったのはどこですか?", "id": "tr-631-09-001", "answers": [ { "text": "アントウェルペン", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(英語版)のアパルトマンに2人で転居した。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ファン・ゴッホの生活について分かっていないことが多い。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはファン・ゴッホの肖像画を描いている。\n\n1886年当時のパリでは、ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭していた。この年開かれた第8回印象派展は、新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了した。ファン・ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになった。カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリ(英語版)にモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(『カフェ・タンブランの女』)を描いたりしたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっている。", "qas": [ { "question": "1886年2月ゴッホはどこへ引っ越しますか?", "id": "tr-631-10-000", "answers": [ { "text": "モンマルトル", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの友人ジョン・ピーター・ラッセルはどこの出身ですか?", "id": "tr-631-10-001", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 302, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現する流派は何ですか?", "id": "tr-631-10-002", "answers": [ { "text": "新印象派", "answer_start": 459, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1886年ゴッホが求婚した相手は誰ですか?", "id": "tr-631-10-003", "answers": [ { "text": "アゴスティーナ・セガトーリ", "answer_start": 679, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている。他方、その頃から、フィンセントは印象派や\n新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている。同じくその頃、テオはブッソ=ヴァラドン商会で新進の画家を取り扱う展示室を任せられ、モネ、ピサロ、\nアルマン・ギヨマンといった画家の作品を購入するようになった。これを機に、エミール・ベルナールや、コルモン画塾の筆頭格だったルイ・アンクタン、トゥールーズ=ロートレックといった野心あふれる若い画家たちも、ファン・ゴッホ兄弟と\n親交を持つようになった。彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていた。\n\nファン・ゴッホは、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めた。1887年の「タンギー爺さん」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、渓斎英泉の『雲龍打掛の花魁』、歌川広重の\n『名所江戸百景』「亀戸梅屋舗」と「大はしあたけの夕立」を模写した油絵を制作している。英泉作品は、『パリ・イリュストレ』日本特集号の表紙に原画と左右反転で印刷された絵を模写したものであり、ファン・ゴッホの遺品からも表紙が擦り切れた\n状態で発見されたことから、愛読していたことが窺える。こうした浮世絵への熱中には、ベルナールの影響も大きい。\n\n同年(1887年)11月、ファン・ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、\n大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べているが、\nパリの絵画界ではほとんど見向きもされなかった。同月、ポール・ゴーギャンがカリブ海のマルティニークからフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる。", "qas": [ { "question": "ゴッホが絵具を買っていた店は誰の店ですか?", "id": "tr-631-11-000", "answers": [ { "text": "ジュリアン・タンギー", "answer_start": 361, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホ兄弟とゴーギャンが交流するようになったのは1887年何月からですか?", "id": "tr-631-11-001", "answers": [ { "text": "11月", "answer_start": 694, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった。\n\nファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(『アルルの跳ね橋』)、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン(英語版)と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家ドッジ・マックナイト(英語版)やベルギーの画家ウジェーヌ・ボックとも親交を持った。", "qas": [ { "question": "1888年テオのアパルトマンを去って移ったのはどこですか?", "id": "tr-631-12-000", "answers": [ { "text": "オテル=レストラン・カレル", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "テオに画家の協同組合を提案したのは誰ですか?", "id": "tr-631-12-001", "answers": [ { "text": "ファン・ゴッホ", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描いたゴッホの作品名は何ですか?", "id": "tr-631-12-002", "answers": [ { "text": "『アルルの跳ね橋』", "answer_start": 384, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている。5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた。6月初めにはムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったファン・ゴッホは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをした。", "qas": [ { "question": "ゴッホが1888年5月から9月まで寝泊まりしたのはどこですか?", "id": "tr-631-13-000", "answers": [ { "text": "カフェ・ドゥ・ラ・ガール", "answer_start": 125, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが1888年5月30日頃、旅してたのはどこですか?", "id": "tr-631-13-001", "answers": [ { "text": "サント=マリー=ド=ラ=メールの海岸", "answer_start": 252, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『ラ・ムスメ』という題を付けた。同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いた。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、『ひまわり』を4作続けて制作した。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『夜のカフェ』を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす居酒屋であり、ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている。\n\n一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に『夜のカフェテラス』を描き上げた。9月下旬、『黄色い家』を描いた。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(『アルルの寝室』)。", "qas": [ { "question": "ゴッホの『夜のカフェ』のモデルとなったのは何ですか?", "id": "tr-631-14-000", "answers": [ { "text": "カフェ・ドゥ・ラ・ガール", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『アルルの女』)。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている。", "qas": [ { "question": "1888年10月に始まったゴッホの共同生活の相手は誰ですか?", "id": "tr-631-15-000", "answers": [ { "text": "ゴーギャン", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カフェ・ドゥ・ラ・ガールの経営者の名前は何ですか?", "id": "tr-631-15-001", "answers": [ { "text": "ジョゼフ・ジヌー", "answer_start": 183, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "真っ赤なぶどう畑の収穫を絵にしたゴッホの作品名は何ですか?", "id": "tr-631-15-002", "answers": [ { "text": "『赤い葡萄畑』", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン(フィンセント)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。......彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。......色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ファン・ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70キロのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ファン・ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた。", "qas": [ { "question": "1888年12月中旬にゴーギャンはどこに帰ると決意しましたか?", "id": "tr-631-16-000", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 264, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゴッホとゴーギャンが1888年12月に訪れた美術館の名前は何ですか?", "id": "tr-631-16-001", "answers": [ { "text": "ファーブル美術館", "answer_start": 449, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファーブル美術館でゴッホが特に惹かれた作品は誰の作品ですか?", "id": "tr-631-16-002", "answers": [ { "text": "ドラクロワ", "answer_start": 472, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。\n\n先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。—『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日\n\nファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。パリに戻ったゴーギャンと会ったベルナールは、彼から伝え聞いた話として、1889年1月1日消印の友人オーリエ宛の手紙で次のように書いている。\n\n「アルルを去る前の晩、私の後をヴァンサンが追いかけてきた。私は振り向いた。時々彼が変な振舞いをするので警戒したのだ。すると彼は言った。『あなたは無口になった。僕も静かにするよ。』。私はホテルへ寝に行き、帰宅した時、家の前にはアルル中の人が押しかけていた。その時警官たちが私を逮捕した。家の中が血まみれになっていたからだ。事の次第はこうだ――私が立ち去った後、彼は家に戻り、剃刀で耳を切り落とした。それから大きなベレー帽をかぶって、娼家へ行き、遊女の一人に耳を渡して言った。『真心から君に言うが、君は僕を忘れないでくれるね。』」\n\n一方、その10年あまり後、晩年のゴーギャンが書いた自伝『前後録』の中では、ファン・ゴッホが自身の背後から剃刀を手に突進してきた話が付け加えられているが、その信憑性には疑問もある。翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せた。", "qas": [ { "question": "1888年12月23日ゴッホが切り落とした耳は右と左、どっちですか?", "id": "tr-631-17-000", "answers": [ { "text": "左", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが切り落とした耳を渡した女性の名前は何ですか?", "id": "tr-631-17-001", "answers": [ { "text": "ラシェル", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが耳を切り落とした事件について報じた地元紙の名前は何ですか?", "id": "tr-631-17-002", "answers": [ { "text": "『ル・フォロム・レピュブリカン』", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "晩年のゴーギャンが書いた自伝の名前は何ですか?", "id": "tr-631-17-003", "answers": [ { "text": "『前後録』", "answer_start": 681, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが自分の耳を切り落としたのに使った道具は何ですか?", "id": "tr-631-17-004", "answers": [ { "text": "剃刀", "answer_start": 575, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。\n\nしかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。", "qas": [ { "question": "ゴッホが収容された病院の名前は何ですか?", "id": "tr-631-18-000", "answers": [ { "text": "アルル市立病院", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルル市立病院でのゴッホの担当医の名前は何ですか?", "id": "tr-631-18-001", "answers": [ { "text": "フェリックス・レー", "answer_start": 239, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェリックス・レーはゴッホの担当医になった当時、何歳でしたか?", "id": "tr-631-18-002", "answers": [ { "text": "23歳", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが退院許可を得られたのは何月何日ですか?", "id": "tr-631-18-003", "answers": [ { "text": "1月7日", "answer_start": 613, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。", "qas": [ { "question": "事件で中断していて、退院後完成させたゴッホの作品名は何ですか?", "id": "tr-631-19-000", "answers": [ { "text": "『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "退院したゴッホは耳に包帯をした自画像を何点描きましたか?", "id": "tr-631-19-001", "answers": [ { "text": "2点", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの親友、ジョゼフ・ルーランが転勤でアルルを離れることになったのは何月何日ですか?", "id": "tr-631-19-002", "answers": [ { "text": "1月20日", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "市長に提出されたゴッホを家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書は住民何名が書きましたか?", "id": "tr-631-19-003", "answers": [ { "text": "30名", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。\n\nそんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。\n\n病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめた。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。当時、公立の精神科病院に入れられれば二度と退院の見込みはなかったのに対し、民間の療養所は遥かに恵まれた環境であった。", "qas": [ { "question": "テオの結婚式は何月何日ですか?", "id": "tr-631-20-000", "answers": [ { "text": "4月18日", "answer_start": 126, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "3月23日ゴッホを訪れた画家の名前は何ですか?", "id": "tr-631-20-001", "answers": [ { "text": "ポール・シニャック", "answer_start": 208, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポール・シニャック、ゴッホと共に「黄色い家」に立ち会ったのは誰ですか?", "id": "tr-631-20-002", "answers": [ { "text": "レー医師", "answer_start": 239, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "4月下旬、ゴッホは転院しようとした療養所はどこでしか?", "id": "tr-631-20-003", "answers": [ { "text": "サン=レミ", "answer_start": 560, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "同年(1889年)5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20キロ余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院療養所に入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いたてんかん発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している。\n\nファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て、療養所の庭でイチハツの群生やアイリスを描いた。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになった。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いた『星月夜』を制作した。彼は、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている。7月初め、フィンセントはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている。", "qas": [ { "question": "1889年5月8日ゴッホが入所した療養所の名前は何ですか?", "id": "tr-631-21-000", "answers": [ { "text": "サン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院療養所", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院療養所の病院長の名前が何ですか?", "id": "tr-631-21-001", "answers": [ { "text": "テオフィル・ペロン", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いたゴッホの作品は何ですか?", "id": "tr-631-21-002", "answers": [ { "text": "『星月夜』", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。......何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。......今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。また、ミレーの『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえている。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、『オリーブ畑』、サン=レミの『プラタナス並木通りの道路工事』などを描いた。", "qas": [ { "question": "1889年9月にゴッホが模写した『野良仕事』は誰の作品ですか?", "id": "tr-631-22-000", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホは模写の仕事を、音楽家が誰を解釈することになぞらえてましたか?", "id": "tr-631-22-001", "answers": [ { "text": "ベートーヴェン", "answer_start": 306, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1889年のクリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった。1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。1月31日にテオとヨーの間に息子(フィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈ったり、ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった。4月、ペロン院長はテオに、ファン・ゴッホが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。", "qas": [ { "question": "テオとヨーの息子が生まれたことを祝うため描いた作品名は何ですか?", "id": "tr-631-23-000", "answers": [ { "text": "『花咲くアーモンドの木の枝』", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが共同生活の時残したスケッチを元に描いたのは誰の絵ですか?", "id": "tr-631-23-001", "answers": [ { "text": "ジヌー夫人", "answer_start": 169, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、ファン・ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を博した。2月、この展覧会でファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている。\n\n体調が回復した5月、ファン・ゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った。", "qas": [ { "question": "『メルキュール・ド・フランス』誌1月号でゴッホを高く評価した評論家の名前は何ですか?", "id": "tr-631-24-000", "answers": [ { "text": "アルベール・オーリエ", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1890年ブリュッセルで開かれた20人展で出品されたゴッホの作品は何点ですか?", "id": "tr-631-24-001", "answers": [ { "text": "6点", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1890年ブリュッセルで開かれた20人展でゴッホの『赤い葡萄畑』が売られた値段はいくつですか?", "id": "tr-631-24-002", "answers": [ { "text": "400フラン", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "3月にパリで開かれた、『渓谷』を含むゴッホの作品10点が出品された展示の名前は何ですか?", "id": "tr-631-24-003", "answers": [ { "text": "アンデパンダン展", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがサン=レミ療養所を退所する前、最後に描いた作品の名前は何ですか?", "id": "tr-631-24-004", "answers": [ { "text": "『糸杉と星の見える道』", "answer_start": 382, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。\n\nファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、フィンセントの要望は膨らんだ。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、フィンセントとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。フィンセントは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。......また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。", "qas": [ { "question": "1890年5月にゴッホが訪ねたのは誰ですか?", "id": "tr-631-25-000", "answers": [ { "text": "ポール・ガシェ医師", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ガシェを訪ねたゴッホが滞在したのはどこですか?", "id": "tr-631-25-001", "answers": [ { "text": "ラヴー旅館", "answer_start": 199, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがガシェの肖像を描いたのは何年ですか?", "id": "tr-631-25-002", "answers": [ { "text": "1890年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "6月の末から使うようになった長いキャンバスのサイズは?", "id": "tr-631-25-003", "answers": [ { "text": "50cm×100cm", "answer_start": 604, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "医師ガシェの娘の名前は何ですか?", "id": "tr-631-25-004", "answers": [ { "text": "マルグリット", "answer_start": 650, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。\n\nテオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。......兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている。", "qas": [ { "question": "ゴッホが怪我を負ってラヴー旅館に帰ったのは何月何日でしたか?", "id": "tr-631-26-000", "answers": [ { "text": "7月27日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "7月27日、ゴッホが負った傷の種類は何ですか?", "id": "tr-631-26-001", "answers": [ { "text": "銃創", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゴッホが死亡したのは何日ですか?", "id": "tr-631-26-002", "answers": [ { "text": "29日", "answer_start": 397, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの葬儀が行われたのは何日ですか?", "id": "tr-631-26-003", "answers": [ { "text": "30日", "answer_start": 418, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "テオは、同年(1890年)8月、フィンセントの回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった。一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。なお、フィンセントの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された。1914年4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の墓石が並ぶことになった。", "qas": [ { "question": "テオがフィンセントの回顧展の協力を求めた相手の名前は何ですか?", "id": "tr-631-27-000", "answers": [ { "text": "ポール・デュラン=リュエル", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "テオが死亡したのは何年ですか?", "id": "tr-631-27-001", "answers": [ { "text": "1891年", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴッホ兄弟は最終的にどこに埋蔵されましたか?", "id": "tr-631-27-002", "answers": [ { "text": "オーヴェル", "answer_start": 343, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホはオーヴェルの麦畑付近で拳銃を用いて自殺を図ったとするのが定説だが、現場を目撃した者はおらず、また、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もある。2011年にファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、彼と一緒にいた少年達が持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったが、彼らをかばうために自殺に見せかけたとする説を唱えた。ファン・ゴッホ美術館は「新説は興味深いが依然疑問が残る」とコメントしている。2016年7月、ファン・ゴッホが自殺に用いたとされる、1960年にオーヴェルの農地から発見された拳銃がファン・ゴッホ美術館にて展示された。", "qas": [ { "question": "2011年スティーヴン・ネイフと一緒にゴッホの伝記を刊行した人の名前は何ですか?", "id": "tr-631-28-000", "answers": [ { "text": "グレゴリー・ホワイト・スミス", "answer_start": 126, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゴッホが自殺に用いたとされる拳銃は何年に発見されましたか?", "id": "tr-631-28-001", "answers": [ { "text": "1960年", "answer_start": 273, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある(数え方により100を超える)。このうち、てんかんとする説と統合失調症とする説が最も有力である。しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている。\n\nアルルの病院の上層部による診断は「全般的せん妄を伴う急性躁病」であったが、若いレー医師だけが「一種のてんかん」と考え、ファン・ゴッホもその説明に納得している。当時、伝統的に認められてきたてんかんとは別に、発作と発作の間に長い安定期間があり比較的普通の生活を送ることができる類型があること、日光、アルコール、精神的動揺などが発作の引き金となり得ることなどが分かってきていた。ペロン医師も、レー医師の診断を支持した。", "qas": [ { "question": "ゴッホが起こした「耳切り事件」や発作の原因についてアルルの病院の上層部の診断は何でしたか?", "id": "tr-631-29-000", "answers": [ { "text": "「全般的せん妄を伴う急性躁病」", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの病気が「一種のてんかん」と主張した人物は誰ですか?", "id": "tr-631-29-001", "answers": [ { "text": "レー医師", "answer_start": 202, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホはアントウェルペンないしパリ時代からアブサンを多飲していたが、アブサンには原料のニガヨモギに含まれるツジョンという有毒成分があり、振戦せん妄、てんかん性痙攣、幻聴を主症状とするアルコール中毒を引き起こす。サン=レミの精神病院に入院中、ファン・ゴッホが絵具のチューブの中身を飲み込んだことがあるが、これは絵具の溶剤であるテレビン油がツジョンと性質が似ているためであるという意見も発表されている。しかしこれを「耳切り事件」のような行動と結びつけるには難点もある。ゴッホの手紙の中にアブサンを飲んだという記録はないし、アルルではアブサンはほとんど売られていなかったという指摘もある。", "qas": [ { "question": "ゴッホがアントウェルペンでよく飲んだ酒の名は?", "id": "tr-631-30-000", "answers": [ { "text": "アブサン", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フィンセントがパリでよく飲んでいたお酒の名前は何ですか?", "id": "tr-631-30-001", "answers": [ { "text": "アブサン", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アブサンに含まれている有毒成分は何ですか?", "id": "tr-631-30-002", "answers": [ { "text": "ツジョン", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "振戦せん妄、てんかん性痙攣、幻聴を主症状などの症状を引き起こす成分は何?", "id": "tr-631-30-003", "answers": [ { "text": "ツジョン", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが使った絵具の溶剤として使われるのは?", "id": "tr-631-30-004", "answers": [ { "text": "テレビン油", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ツジョンと似たような性質を持った油は?", "id": "tr-631-30-005", "answers": [ { "text": "テレビン油", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホの作品については、晩年の1890年1月に『メルキュール・ド・フランス』誌に発表されたアルベール・オーリエの評論で、既に高く評価されていた。オーリエは、「フィンセント・ファン・ゴッホは実際、自らの芸術、自らのパレット、自然を熱烈に愛する偉大な画家というだけではなく、夢想家、熱狂的な信者、美しき理想郷に全身全霊を捧げる者、観念と夢とによって生きる者なのだ。」と賞賛している。同時期の他の評論家らによるアンデパンダン展についての記事も、比較的ファン・ゴッホに好意的なものであった。他方、ファン・ゴッホの絵が生前売れたのは、友人の姉アンナ・ボックが400フランで買い取った『赤い葡萄畑』だけであるとされ、これは一般的に生前の不遇を象徴する事実とみなされている。ただし、これについては、ファン・ゴッホが絵を描いたのは10年に満たず、ちょうど展覧会に出品し始めた時に若くしてこの世を去ったことを考えれば、彼の絵画が成熟してから批評家によって承認されるまでの期間はむしろ短いとの指摘もある。", "qas": [ { "question": "1890年ファン・ゴッホを高く評価した人物は?", "id": "tr-631-31-000", "answers": [ { "text": "アルベール・オーリエ", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1890年1月ゴッホの作品を『メルキュール・ド・フランス』で賞賛したのは誰ですか?", "id": "tr-631-31-001", "answers": [ { "text": "アルベール・オーリエ", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルベール・オーリエが1890年ゴッホの作品に高い評論をくださったのはどの雑誌か?", "id": "tr-631-31-002", "answers": [ { "text": "『メルキュール・ド・フランス』", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴッホの生前『赤い葡萄畑』を買ったのは誰ですか?", "id": "tr-631-31-003", "answers": [ { "text": "アンナ・ボック", "answer_start": 270, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴッホが生きていた頃、『赤い葡萄畑』が売れたのはいくら?", "id": "tr-631-31-004", "answers": [ { "text": "400フラン", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンナ・ボックはゴッホとどういう関係なの?", "id": "tr-631-31-005", "answers": [ { "text": "友人の姉", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、『エコー・ド・パリ』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。......何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評をいったが、同調する評論家はいなかった。", "qas": [ { "question": "1891年、ゴッホの遺作が展示されたのはどこで開かれましたか?", "id": "tr-631-32-000", "answers": [ { "text": "ブリュッセル", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1891年にファン・ゴッホの遺作15点が展示された展覧会の名前は?", "id": "tr-631-32-001", "answers": [ { "text": "20人展", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1891年2月、ブリュッセルの20人展で展示されたゴッホの油絵は何点ですか?", "id": "tr-631-32-002", "answers": [ { "text": "8点", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1891年の20人展でゴッホが描いた素描は何点?", "id": "tr-631-32-003", "answers": [ { "text": "7点", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1891年3月にパリで開かれた展覧会の名前は?", "id": "tr-631-32-004", "answers": [ { "text": "アンデパンダン展", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1891年のアンデパンダン展はどこで開かれた?", "id": "tr-631-32-005", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アンデパンダン展でゴッホの油絵はいくつ展示されましたか?", "id": "tr-631-32-006", "answers": [ { "text": "10点", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンデパンダン展でゴッホを高く評価した評論家の名は?", "id": "tr-631-32-007", "answers": [ { "text": "オクターヴ・ミルボー", "answer_start": 75, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オクターヴ・ミルボーがファン・ゴッホを賛美の文章を書いた雑誌の名前って?", "id": "tr-631-32-008", "answers": [ { "text": "『エコー・ド・パリ』", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヨーは、1892年、アムステルダムでの素描展やハーグでの展覧会を開いたり、画商に絵を送ったりして、ファン・ゴッホの作品を世に紹介する努力を重ね、12月には、アムステルダムの芸術ホール・パノラマで122点の回顧展を実現した。北欧ではファン・ゴッホの受容が比較的早く、1893年3月、コペンハーゲンでゴーギャンとゴッホの展覧会が開かれ、リベラルな新聞に好評を博した。パリの新興の画商アンブロワーズ・ヴォラールも、1895年と1896年に、ゴッホの展覧会を開き、知名度の向上に寄与した。\n\n1893年、ベルナールが『メルキュール・ド・フランス』誌上でゴッホの書簡の一部を公表し、ファン・ゴッホの伝記的事実を伝え始めると、人々の関心が作品だけでなくファン・ゴッホという人物の個性に向かうようになった。1894年、ゴーギャンもファン・ゴッホに関する個人的な回想を発表し、その中で「全く、どう考えても、フィンセントは既に気が狂っていた。」と書いている。こうして、フランスのファン・ゴッホ批評においては、彼の芸術的な特異性、次いで伝記的な特異性が作り上げられ、賛美されるという風潮が確立した。", "qas": [ { "question": "1892年、アムステルダムでの素描展やハーグでの展覧会を開いた人物は誰ですか?", "id": "tr-631-33-000", "answers": [ { "text": "ヨー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アムステルダムの芸術ホール・パノラマで122点の回顧展を開いたのは何年ですか?", "id": "tr-631-33-001", "answers": [ { "text": "1892年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1893年3月コペンハーゲンで開いた展覧会はゴッホと誰の展覧会だった?", "id": "tr-631-33-002", "answers": [ { "text": "ゴーギャン", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの展覧会を1895年、1896年2回開いたパリの画商の名前は何?", "id": "tr-631-33-003", "answers": [ { "text": "アンブロワーズ・ヴォラール", "answer_start": 189, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンブロワーズ・ヴォラールの職業は何ですか?", "id": "tr-631-33-004", "answers": [ { "text": "画商", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1893年、ベルナールがゴッホの書簡を公表したのはどこの雑誌ですか?", "id": "tr-631-33-005", "answers": [ { "text": "『メルキュール・ド・フランス』", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「全く、どう考えても、フィンセントは既に気が狂っていた。」とゴッホに関する回想を発表したのは誰か?", "id": "tr-631-33-006", "answers": [ { "text": "ゴーギャン", "answer_start": 352, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴーギャンがゴッホに関する回想を発表した年は?", "id": "tr-631-33-007", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 346, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1900年頃から、今までルノワール、ピサロといった印象派の大家の陰で売れなかったシスレー、セザンヌ、ゴッホらの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはファン・ゴッホの『立葵』が1100フランで買い取られ、1913年には『静物』が3万5200フランで取引された。さらに1932年にはファン・ゴッホ1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ファン・ゴッホの絵画は大衆に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まり、作品の複製図版の増殖、展覧会や美術館への公衆のアクセスであった。\n\n1901年3月には、パリのベルネーム=ジューヌ画廊で65点の油絵が展示され、この展覧会はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクというフォーヴィスムの主要な画家たちに大きな影響を与えた。1905年3月から4月のアンデパンダン展で行われた回顧展も、フォーヴィスム形成に大きく寄与した(→絵画史的意義)。\n\nオランダでも、ドルドレヒト、レイデン、ハーグ、アムステルダム、ロッテルダムなど、各地で展覧会が開催され、1905年にはアムステルダム市立美術館で474点という大規模の回顧展が開催された。ヨーはこれらの展覧会について、作品の貸出しや売却を取り仕切った。", "qas": [ { "question": "ファン・ゴッホの『立葵』は1900年いくらで売られた?", "id": "tr-631-34-000", "answers": [ { "text": "1100フラン", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『静物』は1913年の買取額はいくらですか?", "id": "tr-631-34-001", "answers": [ { "text": "3万5200フラン", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "印象派の大家の陰で売れなかったゴッホ、セザンヌを含む3人の残り一人の名は?", "id": "tr-631-34-002", "answers": [ { "text": "シスレー", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの絵が36万1000フランで売られたのは何年のことか?", "id": "tr-631-34-003", "answers": [ { "text": "1932年", "answer_start": 133, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルノワール、ピサロが属する美術流派は何ですか?", "id": "tr-631-34-004", "answers": [ { "text": "印象派", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1905年に行われて、フォーヴィスム形成に大きく寄与した展覧会の名前は何ですか?", "id": "tr-631-34-005", "answers": [ { "text": "アンデパンダン展", "answer_start": 430, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1901年、フォーヴィスムの主要な画家たちに大きな影響を与えた展示はどこでやった?", "id": "tr-631-34-006", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 325, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "65点のゴッホの油絵が展示された1901年3月に開かれた展示会は?", "id": "tr-631-34-007", "answers": [ { "text": "ベルネーム=ジューヌ画廊", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1905年にはアムステルダム市立美術館で展示された作品はいくつですか?", "id": "tr-631-34-008", "answers": [ { "text": "474点", "answer_start": 549, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オランダの展覧会で作品の貸出しや売却を仕切った人物は誰ですか?", "id": "tr-631-34-009", "answers": [ { "text": "ヨー", "answer_start": 570, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイツでは、ベルリンの画商パウル・カッシーラーが、フランスの画商らやヨーとのコネクションを築いてファン・ゴッホ作品を取り扱っており、1905年9月以降、ハンブルク、ドレスデン、ベルリン、ウィーンと、各都市を回ってファン・ゴッホ展を開催した。ドイツでのファン・ゴッホ人気は他国をしのぎ、第1次世界大戦開戦期には、ドイツは油彩画120点・素描36点という、オランダに次ぐ数の公的・私的コレクションを抱えるに至った。もっとも、ファン・ゴッホを「フランス絵画」と見て批判する声もあった。1928年にはカッシーラー画廊がベルリンで大規模なファン・ゴッホ展を行ったが、この時、数点の油彩画が偽作であることが判明し、ヴァッカー・スキャンダルが明るみに出た(→#真贋・来歴をめぐる問題)。\n\nロンドンでは、ロジャー・フライが1910年11月、「マネとポスト印象派の画家たち」と題する展覧会を開き、ファン・ゴッホの油彩画22点も展示したが、イギリスの新聞はこれを冷笑した。\n\n1937年には、パリ万国博覧会の一環として大規模な回顧展が開かれた。\n\nアメリカ合衆国では、1929年、ニューヨーク近代美術館のこけら落とし展覧会で、セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホの4人のポスト印象派の画家が取り上げられた。後述のストーンの小説でファン・ゴッホの知名度は一気に上がり、1935年に同美術館をはじめとするアメリカ国内5都市でアメリカ最初のファン・ゴッホ回顧展が開催され、合計87万8709人の観客を呼んだ。第1次世界大戦後、世界経済の中心がヨーロッパからアメリカに移るにつれ、アメリカ国内では新しい美術館が次々生まれ、ゴッホ作品を含むヨーロッパ美術が大量に流入していった。ナチス・ドイツの退廃芸術押収から逃れた作品の受入先ともなった。", "qas": [ { "question": "1905年ごろ、ドイツでファン・ゴッホの作品の取り扱いをしてた画商は誰ですか?", "id": "tr-631-35-000", "answers": [ { "text": "パウル・カッシーラー", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1905年ドイツの各都市でゴッホ展を開いた人物の名は?", "id": "tr-631-35-001", "answers": [ { "text": "パウル・カッシーラー", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第1次世界大戦開戦期に、オランダの後を次ぎ、多くのゴッホの作品を持っていた国は?", "id": "tr-631-35-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 120, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第1次世界大戦開戦期にドイツにあったゴッホの油彩画の数は?", "id": "tr-631-35-003", "answers": [ { "text": "120点", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第1次世界大戦開戦期にドイツにあったゴッホの素描は全部何点でしたか?", "id": "tr-631-35-004", "answers": [ { "text": "36点", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1928年カッシーラー画廊が開催したファン・ゴッホ展はどこで開かれましたか?", "id": "tr-631-35-005", "answers": [ { "text": "ベルリン", "answer_start": 255, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation 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"text": "5都市", "answer_start": 597, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1935年アメリカで開催された最初のファン・ゴッホ回顧展には総和、何人の客が来ましたか?", "id": "tr-631-35-011", "answers": [ { "text": "87万8709人", "answer_start": 626, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1911年、ベルナールが自分宛のファン・ゴッホの書簡集を出版した。1914年、ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、その冒頭に「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出――彼の義妹による」を掲載した。\n\n書簡集の出版後、それを追うように、数多くの伝記、回想録、精神医学的な研究が発表された。そこでは、ファン・ゴッホの人生について、理想化され、精神性を付与され、英雄化されたイメージが作り上げられていった。すなわち、「強い使命感」、「並外れた天才」、「孤立と実際的・社会的な生活への不適合」、「禁欲と貧困」、「無私」、「金銭的・現世的な安楽への無関心と高貴な精神」、「同時代人からの無理解・誤解」、「苦痛に耐えての死(殉教のイメージ)」、「後世における成就」といったモチーフが伝記の中で繰り返され、強調されている。これらのモチーフは、キリスト教の聖人伝を構成する要素と同じであることが指摘されている。こうした伝説は、ファン・ゴッホ自身の書簡に記されたキリスト教的信念や、テオの貢献、「耳切り事件」、自殺といった多彩なエピソードによって強められた。1934年にはアーヴィング・ストーンがLustforLifeと題する伝記小説(邦訳『炎の人ゴッホ』)を発表し、全米のトップセラーとなった。", "qas": [ { "question": "1914年に『ファン・ゴッホ書簡集』を出版したのは誰ですか?", "id": "tr-631-36-000", "answers": [ { "text": "ヨー", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1914年ヨーが出版した『ファン・ゴッホ書簡集』は全部で何巻ですか?", "id": "tr-631-36-001", "answers": [ { "text": "3巻", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『LustforLife』を出したのは誰ですか?", "id": "tr-631-36-002", "answers": [ { "text": "アーヴィング・ストーン", "answer_start": 481, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『LustforLife』の邦訳はなんて呼びますか?", "id": "tr-631-36-003", "answers": [ { "text": "『炎の人ゴッホ』", "answer_start": 515, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『炎の人ゴッホ』が発表されたのは何年?", "id": "tr-631-36-004", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 474, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1934年に発表されたゴッホの伝記小説は誰が書いたものですか?", "id": "tr-631-36-005", "answers": [ { "text": "アーヴィング・ストーン", "answer_start": 481, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "LustforLifeは日本語で何というタイトルなんですか?", "id": "tr-631-36-006", "answers": [ { "text": "『炎の人ゴッホ』", "answer_start": 515, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『炎の人ゴッホ』は何年に書かれたの?", "id": "tr-631-36-007", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 474, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1920年のビルンバウム(ドイツ)による論考に引き続き、1924年フランスで精神医学者ジャン・ヴァンションが、ファン・ゴッホの事例に言及した論文を発表すると、ゴッホの「狂気」に関する同様の研究が次々発表されるようになった。1940年代初頭までに、1ダースもの異なった診断が提示されるに至った。他方、アントナン・アルトーは、1947年に小冊子『ファン・ゴッホ――社会が自殺させし者』を発表し、ファン・ゴッホが命を捨てたのは彼自身の狂気の発作のせいではないとした上で、ガシェ医師がゴッホに加えた圧迫、テオが兄のもとを訪れようとしなかったこと、ペロン医師の無能力、ガシェ医師がファン・ゴッホ自傷後に手術をしなかったこと、そしてファン・ゴッホを死に追いやった社会全体を告発している。", "qas": [ { "question": "1924年ファンゴッホの事例を踏まえた論文を発表した精神医学者の名は?", "id": "tr-631-37-000", "answers": [ { "text": "ジャン・ヴァンション", "answer_start": 43, 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"tr-631-37-005", "answers": [ { "text": "アントナン・アルトー", "answer_start": 149, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ファン・ゴッホ――社会が自殺させし者』が発表されたのはいつ?", "id": "tr-631-37-006", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第2次世界大戦後、ファン・ゴッホは大部数の伝記、映画、芝居、バレエ、オペラ、歌謡曲、広告、あらゆるイメージ(作品の複製、模作、ポスター、絵葉書、Tシャツ、テレフォンカード等)で取り上げられ、大衆文化に取り込まれていった。他方で、L.ローランドは、1959年の著作の中で、テオの妻ヨーが、ゴッホ書簡集を出版した際、テオのフィンセントへの愛情と献身という物語にとって不都合な部分は削るなどの作為を加えていることを明らかにし、アルトーに引き続いて、ファン・ゴッホをめぐる伝説に疑問を投げかけた。\n\n1970年代、ヤン・フルスケルがファン・ゴッホの日付のない手紙の配列について研究を進め、今まで伝えられてきた多くのエピソードに疑問を投げかけた。1984年、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、「アルルのファン・ゴッホ」展を開催し、学芸員ロナルド・ピックヴァンスによる徹底的な研究に基づいたカタログを刊行した。1987年には、続編となる「サン=レミとオーヴェルのファン・ゴッホ」展を開催した。これらは、不遇と精神病のイメージに彩られた伝説を排除し、歴史的に正確なファン・ゴッホ像を確立しようとする動きの到達点を示すものであった。同様のゴッホ展は各国で開催され、没後100年に当たる1990年には、ファン・ゴッホ美術館が回顧展を開催した。", "qas": [ { "question": "ゴッホ書簡集にヨーがテオのフィンセントへの愛情と献身という物語にとって不都合な部分は削るなどの作為を暴いたのは誰ですか?", "id": "tr-631-38-000", "answers": [ { "text": "L.ローランド", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1970年代、ゴッホの日付けのない手紙の配列を研究した人の名前は何ですか?", "id": "tr-631-38-001", "answers": [ { "text": "ヤン・フルスケル", "answer_start": 253, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホの日付けが不明な手紙を研究していた1970年代の人は?", "id": "tr-631-38-002", "answers": [ { "text": "ヤン・フルスケル", "answer_start": 253, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1984年「アルルのファン・ゴッホ」展を開いたのはどの博物館ですか?", "id": "tr-631-38-003", "answers": [ { "text": "メトロポリタン美術館", "answer_start": 331, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メトロポリタン美術館の所在地はどこですか?", "id": "tr-631-38-004", "answers": [ { "text": "ニューヨーク", "answer_start": 324, "answer_type": "Location" } ], 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"answers": [ { "text": "100年", "answer_start": 528, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第一次世界大戦後には、前述のようにファン・ゴッホ作品の評価が確立し、1920年代から1930年代の最高価格は4000ポンド台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第二次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ファン・ゴッホ作品も従来の10倍ないし100倍となり、ルノワールと肩を並べた。1970年には『糸杉と花咲く木』が130万ドルで取引されるなど100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。1980年、『詩人の庭』がクリスティーズで520万ドル(約12億円)という、30号の作品としては異例の高額で落札された。この時期は、記録破りの落札価格が普通になり、サザビーズやクリスティーズといったオークション・ハウスが美術市場を支配することがはっきりした時代であった。", "qas": [ { "question": "1970年『糸杉と花咲く木』の買取値段はいくらでしたか?", "id": "tr-631-39-000", "answers": [ { "text": "130万ドル", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『糸杉と花咲く木』が1970年売れた価格は?", "id": "tr-631-39-001", "answers": [ { "text": "130万ドル", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1980年、520万ドルに売られたゴッホの作品は何ですか?", "id": "tr-631-39-002", "answers": [ { "text": "『詩人の庭』", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『詩人の庭』が1980年、取引されたのはどこですか?", "id": "tr-631-39-003", "answers": [ { "text": "クリスティーズ", "answer_start": 237, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1980年、ゴッホの『詩人の庭』はいくらで売られましたか?", "id": "tr-631-39-004", "answers": [ { "text": "520万ドル", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった。1988年2月4日付「リベラシオン」紙は、「昨年(1987年)3月30日、ロンドンのクリスティーズにて日本の安田生命(安田火災海上、現損害保険ジャパン日本興亜)がひまわりを3630万ドル(約58億円)で落札した瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。......またアイリスは、(同年)11月11日に、ニューヨークのサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている。日本のバブル景気であふれたマネーが円高に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた。\n\nさらに、1990年5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで齊藤了英が『医師ガシェの肖像』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し、各紙で大々的に報じられた。この作品は、ヨーによって1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられるものである。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた。\n\nファン・ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている。", "qas": [ { "question": "日本の安田生命が『ひまわり』を落札したのは何年か?", "id": "tr-631-40-000", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1987年ロンドンのクリスティーズでゴッホの『ひまわり』の落札者は誰か?", "id": "tr-631-40-001", "answers": [ { "text": "安田生命", "answer_start": 91, 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"context": "1910年(明治43年)、森鷗外が『スバル』誌上の「むく鳥通信」でファン・ゴッホの名前に触れたのが、日本の公刊物では最初の例であるが、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、武者小路実篤らの白樺派であった。1910年に創刊された『白樺』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、ロダン、マティスなど、印象派からポスト印象派、フォーヴィスムまでの芸術を、順序もなく一気に取り上げた。第1年(1910年)11月号には斎藤与里による最初の評論が掲載、第2年(1911年)2月号からは児島喜久雄訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年(1912年)11月号には「ゴオホ特集」が掲載された。特集号には、多くの作品の写真版、阿部次郎の訳したヨーによる回想録、武者小路や柳宗悦の寄稿などが掲載された。そして、1920年(大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、実業家山本顧彌太に購入してもらったファン・ゴッホの『ひまわり』が展示された。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である。他方、画壇でも、1912年(大正2年)に第1回ヒュウザン会展を開催した岸田劉生ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった。第2次世界大戦前、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、佐伯祐三や高田博厚らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている。1927年から1930年代にかけて、斎藤茂吉や式場隆三郎がゴッホの病理についての医学的分析を発表した。", "qas": [ { "question": "ゴッホが日本の公刊物で初めて言及されたのは何年か?", "id": "tr-631-41-000", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 0, 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[ { "text": "約860点", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴッホが描いた水彩画は全部何点だった?", "id": "tr-631-42-001", "answers": [ { "text": "150点近く", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホが1877年から1890年まで描いた素描は約何点ですか?", "id": "tr-631-42-002", "answers": [ { "text": "1000点以上", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが1881年から彼の死亡まで描いた油絵は全部で何点ですか?", "id": "tr-631-42-003", "answers": [ { "text": "約860点", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ジャガイモを食べる人々』は今現在どこが保有していますか?", "id": "tr-631-42-004", "answers": [ { "text": "ゴッホ美術館", "answer_start": 293, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『花咲くアーモンドの木の枝』は今どこにありますか?", "id": "tr-631-42-005", "answers": [ { 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"id": "tr-631-42-010", "answers": [ { "text": "オッテルロー", "answer_start": 443, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホ作品のカタログ・レゾネ(作品総目録)を最初にまとめたのがジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユであり、1928年、全4巻をパリとブリュッセルで刊行した。ド・ラ・ファイユは、その後の真贋問題を経て附録や1939年補訂版を出すなど、1959年に亡くなるまで補訂作業を続けた。1962年、オランダ教育芸術科学省の諮問によってド・ラ・ファイユの原稿の完成版を刊行するため委員会が組織され、10年をかけて決定版が刊行された。ここでは作品にF番号が付けられている。また、1980年代にヤン・フルスケルが全作品カタログを編纂し、1996年に改訂された。こちらにはJH番号が付されている。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べている。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指す。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されている。", "qas": [ { "question": "ファン・ゴッホの作品集を最初にまとめた人物の名前?", "id": "tr-631-43-000", "answers": [ { "text": "ジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユ", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホのカタログ・レゾネをまとめ、刊行した最初の人は誰ですか?", "id": "tr-631-43-001", "answers": [ { "text": "ジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユ", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1928年発刊したファン・ゴッホ作品のカタログ・レゾネは全部で何巻ですか?", "id": "tr-631-43-002", "answers": [ { "text": "4巻", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホの作品総目録は1928年パリとどこで刊行されましたか?", "id": "tr-631-43-003", "answers": [ { "text": "ブリュッセル", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ド・ラ・ファイユの原稿の完成版を刊行するための委員会が組織されたのは何年のことですか?", "id": "tr-631-43-004", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "前述のようにファン・ゴッホが死後有名になるにつれ、贋作も氾濫するようになった。ファン・ゴッホの作品の多くは、彼の死後テオが受け継ぎ、その後ヨー、そして子ヴィレムに相続された。しかし、ファン・ゴッホが人に譲ったり転居の際に置き去りにしたりして記録に残っていない作品があること、ファン・ゴッホ自身が同じ構図で何度も複製(レプリカ)を制作していることなどが、真偽の判断を難しくしている。1927年、ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊が33点のファン・ゴッホ作品を展示し、これらはド・ラ・ファイユの1928年のカタログにも収録されたが、その後、偽作であることが判明し、ヴァッカーは有罪判決を受けるというスキャンダルが起こった。この裁判ではX線鑑定が証拠とされたが、1880年代と同じキャンバス、絵具等を入手可能だった20世紀初頭の贋作に対しては決め手とならない場合もある。ほかにも初期の収集家だったエミール・シェフネッケルやガシェ医師が贋作に関与したとの疑いもあり、1997年にロンドンの美術雑誌が行った特集によれば、著名なものも含め100点以上の作品に偽作の疑いが投げかけられているという。他方、長年偽作とされていた『モンマジュールの夕暮れ』は、2013年、ファン・ゴッホ美術館の鑑定で真作と判定された。\n\nまた、史上最高価格で落札された『医師ガシェの肖像』については、1999年の調査で、ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングが1937年にフランクフルトのシュテーデル美術館から略奪し売却したものであることが明らかになった。このような来歴を隠したままオークションにかけられていたことは、美術市場に大きな問題を投げかけた。", "qas": [ { "question": "1927年、ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊で展示されたファンゴッホの作品は何点ですか?", "id": "tr-631-44-000", "answers": [ { "text": "33点", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊での偽作スキャンダルの裁判で証拠になったのは何ですか?", "id": "tr-631-44-001", "answers": [ { "text": "X線鑑定", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "長年偽作とされていたが、ファン・ゴッホ美術館の鑑定で真作と判定された作品名は?", "id": "tr-631-44-002", "answers": [ { "text": "『モンマジュールの夕暮れ』", "answer_start": 505, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『モンマジュールの夕暮れ』が真作として認めてもらったのは何年ですか?", "id": "tr-631-44-003", "answers": [ { "text": "2013年", "answer_start": 520, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "長年偽作とされていた『モンマジュールの夕暮れ』を2013年、真作と判定したのはどこだ?", "id": "tr-631-44-004", "answers": [ { "text": "ファン・ゴッホ美術館", "answer_start": 526, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シュテーデル美術館の所在地はどこか?", "id": "tr-631-44-005", "answers": [ { "text": "フランクフルト", "answer_start": 617, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シュテーデル美術館から『医師ガシェの肖像』を盗んだのは誰ですか?", "id": "tr-631-44-006", "answers": [ { "text": "ヘルマン・ゲーリング", "answer_start": 600, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『医師ガシェの肖像』をシュテーデル美術館から略奪したのは何年のこと?", "id": "tr-631-44-007", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 611, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『医師ガシェの肖像』がシュテーデル美術館で略奪されたものだと暴かれたのは何年ですか?", "id": "tr-631-44-008", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 582, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴッホの作品でもっとも高い値段で落札された作品は何ですか?", "id": "tr-631-44-009", "answers": [ { "text": "『医師ガシェの肖像』", "answer_start": 566, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、画家を志した最初期は、版画やデッサン教本を模写するなど、専ら素描を練習していたが、1882年にハーグに移ってからアントン・モーヴの手ほどきで本格的に水彩画を描くようになり、さらに油絵も描き始めた。初期(ニューネン時代)の作品は、暗い色調のもので、貧農たちの汚れた格好を描くことに関心が寄せられていた。特にジャン=フランソワ・ミレーの影響が大きく、ゴッホはミレーの『種まく人』や『麦刈る人』の模写を終生描き続けた。\n\n当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具をチューブから直接画面に絞り出すこともあった。", "qas": [ { "question": "ゴッホがハーグに移った年は何年ですか?", "id": "tr-631-45-000", "answers": [ { "text": "1882年", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホが水彩画を教えてもらった人は誰ですか?", "id": "tr-631-45-001", "answers": [ { "text": "アントン・モーヴ", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴッホに絵の手ほどきをしてくれた人物は?", "id": "tr-631-45-002", "answers": [ { "text": "アントン・モーヴ", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの初期の暗い色調に大きく影響を与えた画家は誰ですか?", "id": "tr-631-45-003", "answers": [ { "text": "ジャン=フランソワ・ミレー", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがよく模写したミレーの作品は『種まく人』と何ですか?", "id": "tr-631-45-004", "answers": [ { "text": "『麦刈る人』", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホが模写し続けたミレーの二つの作品で、『麦刈る人』を含む残り一つは何ですか?", "id": "tr-631-45-005", "answers": [ { "text": "『種まく人』", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし、1886年、パリに移り住むと、ファン・ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは印象派や新印象派が花ざかりであり、ファン・ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ファン・ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。クロード・モネが『ルーアン大聖堂』の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ファン・ゴッホは「僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。」と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた。", "qas": [ { "question": "パリに住んでた頃のゴッホは誰を通して画家達と親交を結んだか?", "id": "tr-631-46-000", "answers": [ { "text": "テオ", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ルーアン大聖堂』を描いた印象派画家の名前は何ですか?", "id": "tr-631-46-001", "answers": [ { "text": "クロード・モネ", "answer_start": 252, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "また、ゴッホはパリ時代に数百枚に上る浮世絵を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味(ジャポネズリー)はマネ、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には日本の開国に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある。ファン・ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていた。このように、制度や組織に縛られないユートピアへの憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、ナザレ派、ラファエル前派、バルビゾン派、ポン=タヴァン派、ナビ派と続く19世紀のプリミティヴィスムの系譜に属するものといえる。一方、造形的な面においては、ファン・ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」などに独特の遠近法を応用している。1888年9月の『夜のカフェ』では、全ての線が消失点に向かって収束していたのに対し、10月の『アルルの寝室』では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられるなど、立体感が排除され、奥行きが減退している。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらのクロワゾニスムとも軌を一にしている。", "qas": [ { "question": "ゴッホが「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と主張し、理想を抱いた国はどこですか?", "id": "tr-631-47-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 295, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが色と形と線の単純化という手法を学んだ日本絵画の種類は何ですか?", "id": "tr-631-47-001", "answers": [ { "text": "浮世絵", "answer_start": 450, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "浮世絵の影響を受け、立体感が排除し奥行きが減退させた作風が現れるパリ時代の作品は何ですか?", "id": "tr-631-47-002", "answers": [ { "text": "『アルルの寝室』", "answer_start": 558, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある『収穫』などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却とバロック的・ロマン主義的な感情表出に向かっている。ファン・ゴッホは、「結局、無意識のうちにモンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である。\n\nファン・ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、補色に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ファン・ゴッホは、既にオランダ時代にシャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していた。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること」を目指したと書いたり、『夜のカフェ』において、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう」と考えたりしている。同じアルル時代の『夜のカフェテラス』では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる。", "qas": [ { "question": "単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法を実現したゴッホの作品は?", "id": "tr-631-48-000", "answers": [ { "text": "『収穫』", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの『収穫』はどこを描いた作品ですか?", "id": "tr-631-48-001", "answers": [ { "text": "クロー平野", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホによると、彼の厚塗りは誰の影響が大きいですか?", "id": "tr-631-48-002", "answers": [ { "text": "モンティセリ", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある色の組み合わせは?", "id": "tr-631-48-003", "answers": [ { "text": "補色", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが補色の理論を学んだのは誰の本からか?", "id": "tr-631-48-004", "answers": [ { "text": "シャルル・ブラン", "answer_start": 388, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルル時代のゴッホは象徴的意味を表現するため何を使ったか?", "id": "tr-631-48-005", "answers": [ { "text": "補色", "answer_start": 424, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "赤と補色関係にある色は何ですか?", "id": "tr-631-48-006", "answers": [ { "text": "緑", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "紫の補色は何?", "id": "tr-631-48-007", "answers": [ { "text": "黄", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アルル時代の『夜のカフェテラス』で、黄色系と対比を生んでいた色系通は何ですか?", "id": "tr-631-48-008", "answers": [ { "text": "青色系", "answer_start": 570, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サン=レミ時代には、さらにバロック的傾向が顕著になり、「麦刈る人」のような死のイメージをはらんだモチーフが選ばれるとともに、自然の中に引きずり込まれる興奮が表現される。その筆触には、点描に近い平行する短い棒線(ミレー、レンブラント、ドラクロワの模写や麦畑、オリーブ畑の作品に見られる)と、柔らかい絵具の曲線が渦巻くように波打つもの(糸杉、麦刈り、山の風景などに見られる)という二つの手法が使われている。色彩の面では、補色よりも、同一系統の色彩の中での微妙な色差のハーモニーが追求されている。渦巻くタッチは、ファン・ゴッホ自身の揺れ動く心理を反映するものといえる。また、一つ一つのタッチが寸断されて短くなっているのは、早描きを維持しながら混色を避けるために必要だったと考えられる。キャンバスの布地が見えるほど薄塗りの箇所も見られるようになる。", "qas": [ { "question": "ゴッホの一つ一つのタッチが短くなっているのは、早描きを維持しながら何を避けるためですか?", "id": "tr-631-49-000", "answers": [ { "text": "混色", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがバロック的傾向が顕著に現れ、死のイメージを含むモチーフを選ぶようになった時代はいつですか?", "id": "tr-631-49-001", "answers": [ { "text": "サン=レミ時代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ(後期)、オディロン・ルドンらとともに、ポスト印象派(後期印象派)に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった。\n\nルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触(タッチ)でキャンバスの上に並置する「筆触分割」という手法を編み出し、伝統的な遠近法、明暗法、肉付法を否定した点で、アカデミズム絵画から敵視されたが、広い意味でギュスターヴ・クールベ以来の写実主義を突き詰めようとするものであった。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる。ゴーギャンやルドンに代表される象徴主義は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙(タブラ・ラーサ)ではないことを明確に意識していた。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた。彼自身、テオへの手紙で、「自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。」と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、ブロンドの髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている。別の手紙でも、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。......星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いている。", "qas": [ { "question": "光を受けて多彩に輝く自然を、キャンバスの上に再現することを目標にした美術流派は?", "id": "tr-631-50-000", "answers": [ { "text": "印象派", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "印象派画家達が使った、小さな筆触並置する美術手法は何ですか?", "id": "tr-631-50-001", "answers": [ { "text": "「筆触分割」", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "絵画とは目に見えない世界まで探求することに本質的な意味があると信じた美術主義は何ですか?", "id": "tr-631-50-002", "answers": [ { "text": "象徴主義", "answer_start": 425, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "色彩を持って画家の主観を表現することを目指したという点では、象徴主義は何を継承しましたか?", "id": "tr-631-50-003", "answers": [ { "text": "ロマン主義", "answer_start": 613, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "こうした姿勢は既に20世紀初頭の表現主義を予告するものであった。1890年代、ファン・ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、ナビ派をはじめとする彼ら世紀末芸術の画家は、印象派の感覚主義に反発して「魂の神秘」の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭のドイツ、オーストリアにおいて感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とするドイツ表現主義に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ファン・ゴッホや、フェルディナント・ホドラー、エドヴァルド・ムンクなどの世紀末芸術の画家に傾倒した。エミール・ノルデやエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーら多くのドイツ・オーストリアの画家が、ファン・ゴッホの色彩、筆触、構図を採り入れた作品を残しており、エゴン・シーレやリヒャルト・ゲルストルなど、ファン・ゴッホの作品だけでなくその苦難の人生に自分を重ね合わせる画家もいた。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスではフォーヴィスムとして現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたファン・ゴッホであった。1901年にファン・ゴッホの回顧展を訪れたモーリス・ド・ヴラマンクは、後に、「自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。」という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはファン・ゴッホだけであった。彼の絵には、ファン・ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたファン・ゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の抽象絵画にもつながる要素を持っていたといえる。", "qas": [ { "question": "世紀末芸術の画家たちが追求したものは?", "id": "tr-631-51-000", "answers": [ { "text": "「魂の神秘」", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ、オーストリアにおいて感情の激しい表現を特徴とする美術主義は?", "id": "tr-631-51-001", "answers": [ { "text": "ドイツ表現主義", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本文に言及された、ゴッホの作品に心酔したドイツ・オーストリアの画家中で、エミール・ノルデの外残り一人の名前は何ですか?", "id": "tr-631-51-002", "answers": [ { "text": "エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー", "answer_start": 296, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "20世紀初頭、フランスで現れた表現主義的傾向は何ですか?", "id": "tr-631-51-003", "answers": [ { "text": "フォーヴィスム", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フォーヴィスムの形成にもっとも大きい影響を及ぼした画家の名は?", "id": "tr-631-51-004", "answers": [ { "text": "ファン・ゴッホ", "answer_start": 503, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。」という言葉を残した人物の名前は何ですか?", "id": "tr-631-51-005", "answers": [ { "text": "モーリス・ド・ヴラマンク", "answer_start": 536, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モーリス・ド・ヴラマンクが訪問したファン・ゴッホの回顧展は何年に開かれましたか?", "id": "tr-631-51-006", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 515, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モーリス・ド・ヴラマンクが自分が自ら影響を受けたと認めた人物は誰ですか?", "id": "tr-631-51-007", "answers": [ { "text": "ファン・ゴッホ", "answer_start": 521, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの回顧展で自分の父よりゴッホを大切に思ったと言った画家は誰ですか?", "id": "tr-631-51-008", "answers": [ { "text": "モーリス・ド・ヴラマンク", "answer_start": 536, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、記憶や想像によって描くことができない画家であり、900点近くの油絵作品のほとんどが、静物、人物か風景であり、眼前のモデルの写生である。自然を超えた世界に憧れつつも、現実の手がかりを得てはじめてその想像力が燃え上がることができたといえる。自分にとって必要な主題とモチーフを借りてくるために、先人画家の作品を模写することもあったが、その場合も、実際に版画や複製を目の前に置いて写していた。もっとも、必ずしも写真のように目の前の光景を写し取っているわけではなく、見えるはずのないところに太陽を描き込むなど、必要なモチーフを選び出したり、描き加えたり、眼に見えているモチーフを削除したりする操作を行っている。\n\n当時のオランダやイギリスでは、プロテスタント聖職者らの文化的指導の下、16世紀から17世紀にかけてのエンブレム・ブックが復刊されるなど、絵画モチーフの図像学的解釈は広く知られていた。ファン・ゴッホの作品を安易に図像学的に解釈することはできないが、ファン・ゴッホも、伝統的・キリスト教的な図像・象徴体系に慣れ親しむ環境に育っていたことが指摘されている。", "qas": [ { "question": "記憶や想像によって描くことができない画家であるため、ゴッホがとった描き方とは?", "id": "tr-631-52-000", "answers": [ { "text": "眼前のモデルの写生", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが主に絵のモデルに仕立てたのは静物と風景、残り一つは何ですか?", "id": "tr-631-52-001", "answers": [ { "text": "人物", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "16世紀から17世紀にかけ、プロテスタント聖職者のもとで復刊された本は?", "id": "tr-631-52-002", "answers": [ { "text": "エンブレム・ブック", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "17世紀プロテスタントによって復刊され、絵画モチーフの図像学的解釈は広く知られた本の名前は?", "id": "tr-631-52-003", "answers": [ { "text": "エンブレム・ブック", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "17世紀オランダやイギリスで、エンブレム・ブックの復刊を指導したのは誰ですか?", "id": "tr-631-52-004", "answers": [ { "text": "プロテスタント聖職者", "answer_start": 326, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、タンギー爺さん(パリ時代)、ジヌー夫人、郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌ(ゆりかごを揺らす女)らその家族(アルル時代)、医師ガシェとその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの肖像画を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は大聖堂よりは人間の眼を描きたい」と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。......僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」。", "qas": [ { "question": "ゴッホがタンギー爺さんを描いたのはどこに住んでいた頃ですか?", "id": "tr-631-53-000", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ゴッホがジヌー夫人、郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌらを描いたのはどこですか?", "id": "tr-631-53-001", "answers": [ { "text": "アルル", "answer_start": 94, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ゴッホが『ゆりかごを揺らす女』を描いたのはいつですか?", "id": "tr-631-53-002", "answers": [ { "text": "アルル時代", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファンゴッホが医師ガシェとその家族の肖像画を描いたのはどこに住んでた時ですか?", "id": "tr-631-53-003", "answers": [ { "text": "オーヴェル=シュル=オワーズ", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ゴッホはオランダ時代に主に誰をモデルに絵を描きましたか?", "id": "tr-631-53-004", "answers": [ { "text": "農民", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが画業の中で何より情念を感じるのはどんな絵ですか?", "id": "tr-631-53-005", "answers": [ { "text": "肖像画", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーヴェル=シュル=オワーズの時、ゴッホが肖像画に対する自分の情念を書いた手紙の宛先の人は彼とどういう関係ですか?", "id": "tr-631-53-006", "answers": [ { "text": "妹", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーヴェル=シュル=オワーズで、ゴッホの肖像画に対する情熱を書いた手紙の宛先の人の名前は?", "id": "tr-631-53-007", "answers": [ { "text": "ヴィル", "answer_start": 244, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは多くの自画像を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる。アルルでは、ロティの『お菊さん』に触発されて、自分を日本人の坊主(仏僧)の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、「モデルがいないから」、「自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから」と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある。\n\nアルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳(鏡像を見ながら描いたため絵では右耳)に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには『星月夜』にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。", "qas": [ { "question": "1886年から1889年までゴッホが描いた自画像の枚数は何枚か?", "id": "tr-631-54-000", "answers": [ { "text": "37枚", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1887年にゴッホが描いた自画像は何点か?", "id": "tr-631-54-001", "answers": [ { "text": "22点", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1886年〜1889年のゴッホの自画像の枚数は幾つですか?", "id": "tr-631-54-002", "answers": [ { "text": "37枚", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1887年にゴッホが残した彼の自画像は何点ですか?", "id": "tr-631-54-003", "answers": [ { "text": "22点", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが突然多数の自画像を描き始めた時期はいつですか?", "id": "tr-631-54-004", "answers": [ { "text": "パリ時代", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「耳切り事件」の後、アルルでのゴッホの自画像の中ではどこの耳に包帯を巻いてますか?", "id": "tr-631-54-005", "answers": [ { "text": "右耳", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホのサン=レミ時代の自画像に見せている耳はどっちですか?", "id": "tr-631-54-006", "answers": [ { "text": "右耳", "answer_start": 443, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが「耳切り事件」で切り落としたのはどっちの耳ですか?", "id": "tr-631-54-007", "answers": [ { "text": "左耳", "answer_start": 396, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点のひまわりの絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の『ひまわり』である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した『ひまわり』は7点に終わった。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える。\n\n西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは「その花が太陽に顔を向け続けるように、信心深い人はキリスト(又は神)に関心を向け続ける」、あるいは「愛する者は愛の対象に顔を向け続ける」という象徴的意味が広まっており、ファン・ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている。\n\n後に、ファン・ゴッホは『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、祭壇画のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている。", "qas": [ { "question": "ゴッホが描いたパリ時代のひまわりの油彩は何点ですか?", "id": "tr-631-55-000", "answers": [ { "text": "5点", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パリ時代にゴッホが描いた素描を含むひまわりの絵は何点ですか?", "id": "tr-631-55-001", "answers": [ { "text": "9点", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パリ時代、ゴッホのひまわりの油彩画は何点ですか?", "id": "tr-631-55-002", "answers": [ { "text": "5点", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホの一番有名な『ひまわり』はどこで描かれましたか?", "id": "tr-631-55-003", "answers": [ { "text": "アルル", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1888年ゴッホがアルルでゴーギャンを待ちながら描いたひまわりは何点ですか?", "id": "tr-631-55-004", "answers": [ { "text": "7点", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1888年当初ゴッホがゴーギャンを待って、描こうとしたひまわりは何点でしたか?", "id": "tr-631-55-005", "answers": [ { "text": "12点", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがアルルのアトリエに飾るため描こうとしたひまわりは当初は何点だったの?", "id": "tr-631-55-006", "answers": [ { "text": "12点", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが両側にひまわりの絵を置き、祭壇画のようにしようとした中央に入る予定だった絵は何ですか?", "id": "tr-631-55-007", "answers": [ { "text": "『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』", "answer_start": 367, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』を祭壇画のような三連画にする案を描いた手紙は誰宛ですか?", "id": "tr-631-55-008", "answers": [ { "text": "テオ", "answer_start": 423, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サン=レミ時代に、糸杉が重要なモチーフとして登場する。入院直後の1889年6月に、『星月夜』、『2本の糸杉』、『糸杉のある小麦畑』などを描き、テオに宛てて「糸杉のことがいつも僕の心を占めている。僕は糸杉を主題として、あのひまわりの連作のようなものを作りたい。......それは、線としても、比例としても、まるでエジプトのオベリスクのように美しい。」と書いている。糸杉は、プロヴァンス地方特有の強風ミストラルから農作物を守るために、アルルの農民が数多く植えていた木であった。\n\n西欧では、古代においてもキリスト教の時代においても、糸杉は死と結びつけて考えられており、多くの墓地で見られる木であった。アルル時代には生命の花であるひまわりに向けられていたゴッホの眼が、サン=レミ時代には暗い死の深淵に向けられるようになったことを物語るものと説明されている。", "qas": [ { "question": "サン=レミ時代に『星月夜』、『2本の糸杉』、『糸杉のある小麦畑』などを描きモチーフとしたのは何ですか?", "id": "tr-631-56-000", "answers": [ { "text": "糸杉", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プロヴァンス地方特有の強風の名前は何ですか?", "id": "tr-631-56-001", "answers": [ { "text": "ミストラル", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プロヴァンス地方で農作物をミストラルから守る役割を果たすのは何ですか?", "id": "tr-631-56-002", "answers": [ { "text": "糸杉", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "西欧では糸杉にどんなイメージがありますか?", "id": "tr-631-56-003", "answers": [ { "text": "死", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "糸杉と対比し、ひまわりにはどういうイメージがありますか?", "id": "tr-631-56-004", "answers": [ { "text": "生命", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゴッホが『星月夜』、『2本の糸杉』、『糸杉のある小麦畑』を描いたのは1889年の何月か?", "id": "tr-631-56-005", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『星月夜』はゴッホの何年作か?", "id": "tr-631-56-006", "answers": [ { "text": "1889年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "テオ宛の手紙にゴッホは糸杉の美しさを何に比較しましたか?", "id": "tr-631-56-007", "answers": [ { "text": "オベリスク", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ファン・ゴッホは、最初期からバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーを敬愛しており、これを模写したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、アルフレッド・サンシエの『ミレーの生涯と作品』で読んだという「彼[ミレー]の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている。\n\nアルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた『種まく人』を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは聖書におけるキリストのたとえ話に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている。ファン・ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人......の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている。「種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている。", "qas": [ { "question": "ファン・ゴッホが敬愛し、模写の対象とした画家の名前は何ですか?", "id": "tr-631-57-000", "answers": [ { "text": "ジャン=フランソワ・ミレー", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ミレーの生涯と作品』を執筆した人の名前は何ですか?", "id": "tr-631-57-001", "answers": [ { "text": "アルフレッド・サンシエ", "answer_start": 79, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゴッホが「彼[ミレー]の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用した本のタイトルは?", "id": "tr-631-57-002", "answers": [ { "text": "『ミレーの生涯と作品』", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホのアルル時代『種まく人』を模写する時、色彩で参照した画家の名は?", "id": "tr-631-57-003", "answers": [ { "text": "ドラクロワ", "answer_start": 222, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゴッホの『種まく人』模写はミレーの構図と誰の色彩が取り入れられたか?", "id": "tr-631-57-004", "answers": [ { "text": "ドラクロワ", "answer_start": 222, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホが描いた「麦刈り」模写のどういう象徴的意味を持つのか?", "id": "tr-631-57-005", "answers": [ { "text": "死", "answer_start": 506, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家であるドラクロワ、レンブラント、ミレーらの版画や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは『ピエタ』や『善きサマリア人』、レンブラントからは『天使の半身像』や『ラザロの復活』という宗教画を選んで模写していることが特徴である。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている。サン=レミでは、そのほかにギュスターヴ・ドレの『監獄の中庭』やドーミエの『飲んだくれ』など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない。\n\nファン・ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した『ラザロの復活』(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている。", "qas": [ { "question": "『天使の半身像』や『ラザロの復活』を描いた画家は誰ですか?", "id": "tr-631-58-000", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 153, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ピエタ』、『善きサマリア人』などの宗教画を描いた作家の名前は何ですか?", "id": "tr-631-58-001", "answers": [ { "text": "ドラクロワ", "answer_start": 129, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホがベルナールに書いた手紙によると彼が感じているキリストの姿を描いたのはドラクロワと誰ですか?", "id": "tr-631-58-002", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 247, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゴッホのベルナールに送る手紙にキリスト教理を描いた人物だと書いたのは誰ですか?", "id": "tr-631-58-003", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 260, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サン=レミで、ゴッホが模写したドーミエの作品の名前は?", "id": "tr-631-58-004", "answers": [ { "text": "『飲んだくれ』", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『監獄の中庭』を描いた画家の名前は何ですか?", "id": "tr-631-58-005", "answers": [ { "text": "ギュスターヴ・ドレ", "answer_start": 297, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ゴッホは自分の模写を何と呼んだか?", "id": "tr-631-58-006", "answers": [ { "text": "「翻訳」", "answer_start": 386, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴッホが描いたレンブラントの模写『ラザロの復活』は何年に描かれた?", "id": "tr-631-58-007", "answers": [ { "text": "1890年", "answer_start": 423, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "模写『ラザロの復活』でゴッホが原画のキリストを描かず、描き加えたのは何ですか?", "id": "tr-631-58-008", "answers": [ { "text": "太陽", "answer_start": 455, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レンブラントの『ラザロの復活』で中心人物となったのは誰ですか?", "id": "tr-631-58-009", "answers": [ { "text": "キリスト", "answer_start": 442, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "余部橋梁", "paragraphs": [ { "context": "余部橋梁(あまるべきょうりょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区(旧・城崎郡香住町)余部、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線鎧駅-餘部駅間にある橋梁(単線鉄道橋)である。\n余部橋梁は2代存在し、初代の旧橋梁は鋼製トレッスル橋で「余部鉄橋」の通称でも知られ、1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了した。\n2代目の現橋梁はエクストラドーズドPC橋で、2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に供用が始まった。\n新・旧両時代ともに、橋梁下には長谷川と国道178号が通じている。", "qas": [ { "question": "余部橋梁は何と読みますか?", "id": "tr-632-00-000", "answers": [ { "text": "あまるべきょうりょう", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "余部橋梁の初代は、鋼製であることから何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-632-00-001", "answers": [ { "text": "「余部鉄橋」", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "余部橋梁の下に流れている川は何?", "id": "tr-632-00-002", "answers": [ { "text": "長谷川", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "初代の余部橋梁が鋼製トレッスル橋であることに対し、2代目橋梁はどのような橋であるか?", "id": "tr-632-00-003", "answers": [ { "text": "エクストラドーズドPC橋", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "新旧架け替え工事中からライブカメラが設置されており、新旧両橋梁工事の様子や列車通過の状況、余部地区の季節感がわかるようになっている。\n最寄駅である餘部駅の裏山には展望所が設けられており、同駅ホームより小高い位置で日本海を背景に余部橋梁が一望可能なスポットであり、撮影ポイントとしても定番化していた。\n展望所は橋梁の架け替え工事に伴って2008年(平成20年)4月11日以降一時閉鎖されていたが、橋梁切替時期から供用再開を望む声が多く寄せられ、香美町の定例議会で提案が2010年9月に可決され、補修工事後2010年11月3日に供用が再開された。", "qas": [ { "question": "余部橋梁の近くにある海は何と呼ばれているの?", "id": "tr-632-01-000", "answers": [ { "text": "日本海", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "新旧両橋梁工事の様子や列車通過の状況、余部地区の季節感がわかるようになったのは、何を設置したからか?", "id": "tr-632-01-001", "answers": [ { "text": "ライブカメラ", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "JR西日本による正式名称は旧橋梁・現橋梁ともに地名と同じ「余部」を使用した「余部橋梁」である。\n常用漢字に含まれない「梁」については、平仮名書き、漢字書きの双方が混在している。\n「余部橋りょう」の書き方は鉄道の現業機関において広く使われている表記で、鉄道建造物台帳に記載されており、旧橋梁の橋桁にも記載されていた。\n一方「余部橋梁」の書き方も、構造物設計事務所の作成する橋梁設計図面などで見られる。\n第二次世界大戦前は正字体の「餘」を使用した「餘部橋梁」表記が一貫して用いられていた。\n旧橋梁の別称・愛称は前述のように「余部鉄橋」で、これは古くから地元で使われており、使用される範囲も地元の観光パンフレットのほか、大半の地図でも記されるなど広範囲にわたって使用された。\nかつては「余部陸橋」や「余部高架橋」の表記・呼称も使用されていた。", "qas": [ { "question": "現在の正式名称は「余部橋梁」であるが、第二次世界大戦前は「余」に何の漢字を使用していたの?", "id": "tr-632-02-000", "answers": [ { "text": "「餘」", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "旧橋梁の別称・愛称は「余部鉄橋」の他に「余部陸橋」ともう1つは何?", "id": "tr-632-02-001", "answers": [ { "text": "「余部高架橋」", "answer_start": 346, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "余部橋梁の建設は、当時日本の国有鉄道網を管轄していた鉄道院が、日露戦争後に山陰本線の東側の区間を全通させるために、未開通のまま残されていた和田山駅-米子駅間を建設する際に実施された。\n和田山側から建設を進めた山陰東線と、米子側から建設を進めた山陰西線があり、余部橋梁を含む山陰西線香住駅-浜坂駅間の開通によって両者がつながり京都から米子、その先の出雲今市(現在の出雲市駅)までが開通することになった。", "qas": [ { "question": "余部橋梁は何駅から何駅間を建設する際に実施されたの?", "id": "tr-632-03-000", "answers": [ { "text": "和田山駅-米子駅間", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "和田山駅-米子駅間を建設する際に、米子側から建設を進めた路線は何?", "id": "tr-632-03-001", "answers": [ { "text": "山陰西線", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "最後の区間となった香住-浜坂間は、山が海に迫る地形で海岸沿いに線路を通すことは不可能であった。\nこの区間にどのように線路を建設するかは関係した技師の間でも論争があり、米子出張所長の石丸重美は現行の案を主張し、福知山出張所長の最上慶二と橋梁技術者の古川晴一は内陸に迂回する案を主張した。\n石丸の案は、内陸案ではその当時の土木技術では難しい長大トンネルが必要になることを避けて、かつ最短経路を選択したもので、一方最上らの案は建設に困難が予想され、さらに建設後も海からの潮風で保守作業が困難となることが予想される長大鉄橋を回避しようとするものであった。\nこれに対して上層部の判断により、石丸の主張する案を採用することになった。", "qas": [ { "question": "香住-浜坂間のルートにおいて、内陸に迂回する案を採用した場合必要となるものは何でしたか?", "id": "tr-632-04-000", "answers": [ { "text": "長大トンネル", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "内陸を迂回しない案を主張したのは誰ですか?", "id": "tr-632-04-001", "answers": [ { "text": "石丸重美", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "香住駅の標高は7.0m,浜坂駅の標高は7.3mとほぼ同じ高さにあるが、その間で山を越えなければならない。\n長大トンネルを避けるためには、できるだけ山に登って標高の高いところに短いトンネルを掘って抜ける必要がある。\nこの付近では河川の多くが南側から北の日本海へ向かって流れているので、これらの川筋に沿って山に登ることはできなかった。\nしかし桃観峠(とうかんとうげ)では、東側に西川が流れ出して余部で海に注ぎ、西側に久斗川が流れ出して浜坂で海に注いでいた。\nそこで、これらの川筋を利用して桃観峠のできるだけ高い位置に登って、峠の下の標高約80mの地点に桃観トンネル(全長1,992m)を建設することが考えられた。", "qas": [ { "question": "香住駅と浜坂駅ではどちらの標高が高い?", "id": "tr-632-05-000", "answers": [ { "text": "浜坂駅", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "桃観トンネルが建設された場所はどこ?", "id": "tr-632-05-001", "answers": [ { "text": "桃観峠", "answer_start": 169, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "西川と久斗川の川筋を利用して建設されたものは何?", "id": "tr-632-05-002", "answers": [ { "text": "桃観トンネル", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "香住からは最急12.5‰の勾配で登っていき、標高39.5mの位置に鎧駅がある。\nそこからは短いトンネルを連続して通り、余部橋梁を通って餘部駅が標高43.9mの位置にある。\nそこからは15.2‰のきつい勾配を登っていって、標高約80mの地点で桃観トンネルに入る。\n桃観トンネル内から久谷駅までは15.2‰で下り、標高51.9mの久谷駅を過ぎると13‰の下り勾配になり、浜坂が近づいてくるところで平坦となる。\nこのように香住と浜坂の両方から桃観峠を頂点として登っていく線形を採用したため、その途中の余部に長谷川が形成する300mあまりの長く深い谷間があったとしても回避するわけにはいかず、この谷間を越えてどうしても線路を通す必要性が生じた。\n方法として橋梁を建設する案と築堤を建設する案が検討され、橋梁の建設費が約32万円と見積もられたのに対して、築堤の建設費は約70万円と見積もられた上に築堤を建設すると余部の集落全体が埋没してしまうことになることから、最終的に橋梁建設案が選定された。", "qas": [ { "question": "香住から浜坂の間で最も標高が高い駅はどこ?", "id": "tr-632-06-000", "answers": [ { "text": "久谷駅", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "香住から浜坂の間で2番目に標高が高い駅はどこ?", "id": "tr-632-06-001", "answers": [ { "text": "餘部駅", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "桃観トンネルに入るのは標高何mの地点なの?", "id": "tr-632-06-002", "answers": [ { "text": "約80m", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "橋梁と築堤の建設費用の見積もりが高くついたのはどちら?", "id": "tr-632-06-003", "answers": [ { "text": "築堤", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "旧橋梁は1909年(明治42年)12月16日着工、1912年(明治45年)1月13日に完成し、同年3月1日に開通した。\n全長310.59m(橋台面間長309.42m)、下を流れる長谷川の河床からレール面までの高さ41.45m,総工費331,536円。\n11基の橋脚、23連の橋桁を持つ鋼製トレッスル橋である。\n23連となるのは、各橋脚上に30フィート桁、各橋脚間に60フィート桁がそれぞれ架設されているためである。\n土木学会による技術評価では近代土木遺産のAランクに指定されていた。\nその独特な構造と鮮やかな朱色がもたらす風景は、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも人気があった。\nその一方、直近の地元住民は多くの落下物や騒音に悩まされてきた事例もあり、旧橋梁による負の一面も存在していた。", "qas": [ { "question": "旧橋梁は何色でしたか?", "id": "tr-632-07-000", "answers": [ { "text": "鮮やかな朱色", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "旧橋梁は近代土木遺産で何ランクに指定されていたの?", "id": "tr-632-07-001", "answers": [ { "text": "Aランク", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2010年(平成22年)7月16日午後9時50分頃「はまかぜ」5号の通過をもって営業運行を終了し、同日深夜に行なわれた同列車上り返却回送をもって車両運用をすべて終了した。\n翌7月17日から区間運休し、旧橋梁の解体撤去作業が開始され、新旧切替工事が8月11日まで行われ、2010年8月12日から新橋梁の供用が始まった。", "qas": [ { "question": "旧橋梁を最後に通過した列車は何ですか?", "id": "tr-632-08-000", "answers": [ { "text": "「はまかぜ」5号", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鉄道用の鉄骨造鉄橋の耐用年数は、減価償却資産の耐用年数等に関する省令によれば40年とされているが、旧橋梁はそれを上回って長期間耐用する結果を残した。\n鉄橋には特に厳しい地形や環境であったことから、地道な保守作業や適切な維持管理が継続されたこと、鉄橋構成各部位の精度が高く建設当時から晩年に至るまで狂いが生じていなかったこと、財政的負担などの事情もあり、結果的に完成から98年という長期にわたる運用実績を残した。\n完成当時は東洋一のトレッスル橋と謳われていたが、実際にはミャンマー北東部で1901年に建設された鋼材トレッスル橋ゴッティ鉄橋「GOKTEIK」(日本名:ゴッティ/ゴクテイク、全長689m、高さ(最高地点)102m)が既に存在していた。\nしかし、日本国内では運用終了時まで最長のトレッスル橋であった。", "qas": [ { "question": "当時日本以外のアジア圏でトレッスル橋を建設した国はどこですか?", "id": "tr-632-09-000", "answers": [ { "text": "ミャンマー", "answer_start": 234, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "旧橋梁が残した長期運用実績は何年ですか?", "id": "tr-632-09-001", "answers": [ { "text": "98年", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "橋梁建設案の選定後に橋梁形式が検討され、両側を築堤にして間をトラス橋で結ぶ案、全体をトラス橋にする案、プレスド拱橋にする案、カンティレバー式橋梁にする案、拱橋にする案、トレッスル橋にする案などが比較されて、トレッスル橋が選定された。\nトレッスル橋案選定後にも米子出張所の岡村信三郎技師が、海に近い余部に鋼製の橋を架けると後々腐食対策で保守経費がかさむことを懸念して、日本国外の橋梁を勉強したり、母校の京都大学土木工学科教授に相談した結果、鉄筋コンクリート製のアーチ橋を建設することを上申した。\nこの案は60フィート間隔で橋脚を建設して、その上にアーチ橋を架設するものであった。\n概算工事費は京大教授により46-47万円と出たが、人件費・保守経費なども含めた総額で考えると最終的にはアーチ橋が一番安くなると試算されたことから、岡村はこの案を主張した。\nしかし、鉄道院建設部技術課長となっていた石丸重美からは「役人は新しいことをやるものではない」と諭され、岡村は納得できなかったが反対することもできず、さらに鉄筋コンクリート製の橋梁の建設経験が日本国内ではもとより、まだ世界的にも少ない時代であったことと、既に鋼製橋梁の材料を発注済であったことから、この案は却下された。", "qas": [ { "question": "岡村信三郎技師の鉄筋コンクリート製のアーチ橋を建設する案に反対した人物は誰だったの?", "id": "tr-632-10-000", "answers": [ { "text": "石丸重美", "answer_start": 395, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "こうして、建設費が安くかつ早く建設することのできる鋼製トレッスル橋梁案を採用する計画を進めることになったが、当時の日本では高架橋式の経験に乏しく調査・検討の余地があるとして、最終的な判断は設計担当の古川晴一による日本国外出張の終了後となった。\n後述のように、結果的に保守作業が頻繁に行われた要因から、鋼製トレッスル橋案を採用したことについて、後年の考察において意見が分かれている。\n批判的な意見の例として、交通地理学者の中川浩一は「信越本線の碓氷峠におけるアプト式鉄道の採用と並んで、後世に多額の保守経費を発生させた」と2000年代に見解を示し、同類の意見は川上幸義の『新日本鉄道史』などでも見られる。\n肯定的な意見の例として、網谷りょういちはその著書で当時のコンクリートの品質は低く、コンクリート橋で造っていたら現代まで残らなかっただろうと予想し、明治末期における路線および橋梁形式の選定としては大変適切であったとの見解を示している。", "qas": [ { "question": "旧橋梁を建設するに当たって、鋼製トレッスル橋案を採用したことは当時としては適切だったと肯定的な見解を示したのは誰ですか?", "id": "tr-632-11-000", "answers": [ { "text": "網谷りょういち", "answer_start": 314, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "旧橋梁を建設する際に鋼製トレッスル橋案を採用したことに批判的な見解を示し、後世に多額の保守費用を発生させたと述べたのは誰ですか?", "id": "tr-632-11-001", "answers": [ { "text": "中川浩一", "answer_start": 210, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "橋梁の設計を指名されたのは皮肉にも、長大橋梁を回避するために内陸案を主張した古川晴一であった。\n古川は当初支間40フィート(12.192m)で16基の橋脚を建設する設計案を作成した。\n1907年(明治40年)7月から1年間にわたり古川は欧米に出張し、橋梁建設が技術的に可能なことを確認し、アメリカ合衆国のフィラデルフィアで橋梁設計技師のポール・ウォルフェル(PaulL.Walfel)と設計案を相談した結果、橋脚の数は16基から11基に削減、橋脚の上に30フィート(9.144m)の桁を、橋脚間に60フィート(18.288m)の桁を架ける形態に変更された。\n設計上の活荷重はクーパーE33(軸重15tの車軸配置1D形テンダー機関車重連を想定)であった。\n古川が日本に帰国後、最終的に鋼製トレッスル橋梁案の採用を決定した。", "qas": [ { "question": "古川が欧米出張前に設計していた橋脚の数はいくつでしたか?", "id": "tr-632-12-000", "answers": [ { "text": "16基", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "橋梁の設計案が変更されたのは、古川が誰と相談した結果からですか?", "id": "tr-632-12-001", "answers": [ { "text": "ポール・ウォルフェル", "answer_start": 168, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "合計11基ある橋脚は、起点の京都側(東側)から順に第1号-第11号と番号が振られている。\nただし、この区間は山陰西線の一部として建設されたことから、建設中は山陰西線の起点米子側から数えられており、逆順の番号を振られていた。\nこの記事では混乱を避けるために、一貫して開通以後の橋脚番号で説明する。\n橋脚のうち両端の第1号と第11号は山の斜面に掛かって短くなっており、残りの第2号から第10号までの9基の橋脚が余部の平地から建てられている。\n基礎から橋脚の上端までは36.66mあり、この上に1.587mの高さのある橋桁が載せられて、枕木やレールなどがさらに0.37m入っている。\n余部を流れている長谷川の川底からレール面までは41.45mあり、一般に余部橋梁の高さとしてはこの値が知られている。\n第3号橋脚と第4号橋脚の間を長谷川が流れており、第4号橋脚と第5号橋脚の間を国道178号が通っていた。\n橋脚の主柱は幅15インチの溝形鋼を背中合わせに2本配置して、その間をカバープレートと綾材(レーシングバー)で結んだ構造になっている。\n線路直角方向の水平材は、幅10インチ(下3本)と8インチ(上3本)の溝形鋼を背中合わせに2本配置して綾材で結んでいる。\n線路平行方向の水平材は、3.5インチ×3インチの山形鋼4本を綾材で連結したもので、また斜材は同じ山形鋼2本を綾材で連結したものとなっている。\n全部で23連の橋桁が架けられ、全長は310.59m、橋台面間長は309.42mとなった。\n鋼材は合計1,010t使われ、総建設費は331,536円であった。", "qas": [ { "question": "両端の橋脚よりも長い橋脚はいくつありますか?", "id": "tr-632-13-000", "answers": [ { "text": "9基", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "橋梁に架けられた橋桁は全部でいくつですか?", "id": "tr-632-13-001", "answers": [ { "text": "23連", "answer_start": 600, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第4号橋脚と第5号橋脚の間を通っているのは何ですか?", "id": "tr-632-13-002", "answers": [ { "text": "国道178号", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "橋梁建設に当たって、まず1909年(明治42年)3月から現地での地質調査が行われた。\nその後鉄道工業により同年12月16日から基礎工事が行われた。\n基礎工事には箱枠工法が用いられ、複雑な地層と埋没していた木や石により箱枠沈下には大きな困難が伴った。\n海岸に近いこともあり掘削すると水が噴出し、現場監督を務めた岡村信三郎は潜水服を着て基礎の状況を調べなければならない状況であった。\n5号と6号の橋脚間からは真水が吹き出したため、井戸にして集落に供用された。\n最下層にはコンクリートを打ち、その上に近くの村から切り出した石を積み上げて橋脚の基礎構造を造った。\nこの石積みの基礎はその後の補強工事でコンクリートによる巻き立てが行われた。\nまた、第9号・第10号橋脚については沼地であったため地盤が軟弱であり、長さ5.5mの松杭を主塔1つあたり25本、橋脚1つあたりで100本打ち込んで、その上にコンクリート基礎を築いている。\n基礎工事には1年7か月掛かり、1911年(明治44年)6月15日に完成した。\n基礎工事の費用は85,124円であった。", "qas": [ { "question": "橋梁建設の基礎工事は何年から始まりましたか?", "id": "tr-632-14-000", "answers": [ { "text": "1909年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "地盤が軟弱だったのはどの橋脚部分でしたか?", "id": "tr-632-14-001", "answers": [ { "text": "第9号・第10号", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "橋桁については、ドイツのグーテホフヌングスヒュッテ(Gutehoffnungshütte)製の輸入鋼材から石川島造船所(現在のIHI)によって製作され、1911年(明治44年)9月に神戸より工事列車により陸送された。\n本体が305.59t,付属の橋側歩道33.84t,高欄用ガス管5.31tであった。\n鎧駅の構内で約17,200本のリベットを打って組み立てが行われた。\nリベット打ちの費用は、橋脚のものと合わせて12,922円であった。\n10月下旬、11月下旬、12月下旬の3回に分けて、カンチレバー工法で橋桁の架設が行われた。\n橋脚間にも仮設の足場を設けて、足場の間にレールを渡し、これが橋桁の重量を支える形で架設作業を行った。\n橋脚上の橋桁は、橋脚最上段に仮設足場を設けて架設作業を行った。\n架設を終えた後、脇の歩行者用通路および欄干の取り付けを行い、枕木や軌道の敷設を実施した。\n橋桁の材料費を含めて、総工費は80,121円であった。", "qas": [ { "question": "制作された橋桁の中で最も軽い部分はどこですか?", "id": "tr-632-15-000", "answers": [ { "text": "高欄用ガス管", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "こうして1912年(明治45年)1月13日に工事が完成した。\n1月28日に初めての試運転列車が運転されたが、試運転がこの日に決められたのは、かつて修験道の経験のあった余部詰所の使用人の予言によるもので、天候の荒れがちな冬の山陰にもかかわらず、晴天の日に無事試運転を行うことができた。\nこの試運転はC形タンク機関車の重連で行われ、1480形1484号(重量30.8英トン)と2100形2112号(重量44.75英トン)が橋の上を速度を変えながら数回にわたって走行し、桁のたわみを測定した。\n3月1日に京都-出雲今市(現出雲市)間の山陰本線が全通した。", "qas": [ { "question": "橋梁の試運転で走行したC形タンク機関車の内、最も重量が重かったのは何でしたか?", "id": "tr-632-16-000", "answers": [ { "text": "2100形2112号", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "山陰本線が開通するまで、山陰方面へは舞鶴と境を結ぶ鉄道連絡船が運航されており、最初にこの航路を開設した阪鶴鉄道から国有化に伴い鉄道院が引き継いで、直営で阪鶴丸と第二阪鶴丸が就航していた。\nしかし山陰本線開通に伴い、3月31日限りでこの航路は廃止となり、船は他の航路へ転属した。\nそれまで船舶乗り継ぎで京都-出雲今市間は24時間19分かかっていたが、開通後は直通列車で12時間49分に短縮され、ほぼ半減となった。\nまた運賃も3等で4円61銭であったのが2円84銭と大きく低減された。\nそれまで遅れていた日本海側の交通機関の整備の一大画期となり、当時の内閣総理大臣西園寺公望も開通式に際しての祝辞で「人文ト産業ト両ナガラ其ノ面目ヲ改メ(中略)山陰将来ノ殷盛期シテ待ツベキモノアラン」と述べている。", "qas": [ { "question": "山陰本線が開通する前、京都-出雲今市間は船舶乗り継ぎでどれくらいの時間を要していましたか?", "id": "tr-632-17-000", "answers": [ { "text": "24時間19分", "answer_start": 159, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "山陰本線の開通によって、運賃はいくらまで値下がりましたか?", "id": "tr-632-17-001", "answers": [ { "text": "2円84銭", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "山陰本線の開通式に参加した当時の内閣総理大臣の名前は?", "id": "tr-632-17-002", "answers": [ { "text": "西園寺公望", "answer_start": 280, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "鉄道開通以前は山陰地方は境からの水運に大きく頼っていたが、山陰本線の開通と共に鉄道への転移が進み、折からの第一次世界大戦に伴う好況もあって、地域の産業と社会に大きな影響を与えた。\nまず出雲大社詣りや温泉での湯治などで東京や大阪から山陰地方への訪問客が増加するようになった。\n地元での産業も、1913年(大正2年)元旦の鳥取県内の新聞によれば、鳥取県から移出される貨物は、製紙原料が4倍、材木が3倍、綿布が2倍、和紙が1.3倍と大きく増加した。\nまた当時ようやく鳥取県で導入が始まったところであった二十世紀梨の生産も、栽培面積が一挙に5倍に増加し、繭の増産のための桑畑も1.5倍に増加した。\n因伯牛のような特産牛の生産も増加し、大都市の市場をにらんで農林水産物の商品化が進んでいった。\n一方で大都市に対する安価な労働力の供給源ともなり、鉄道開通後は人口の増加率が鈍るようになった。\n京阪神で作られた商品の市場ともなっていったことから、『鳥取県史』では、第一次産業を主体とした後進的な県としての性格を強めることになったと記している。", "qas": [ { "question": "鉄道開通後、鳥取県から移出される貨物の中で最も多く増加したものは何?", "id": "tr-632-18-000", "answers": [ { "text": "製紙原料", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "鉄道開通の影響で、訪問客が増えた山陰地方にある有名な寺社は何?", "id": "tr-632-18-001", "answers": [ { "text": "出雲大社", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "三方を山に囲まれ一方は海岸から近いという厳しい地形と、冬季は季節風や吹雪が吹き付ける環境であることから、完成3年後には早くも塗装作業が必要となり、5年後からは腐食した部品の交換が始められた。\n常時保守(塗装による腐食防止と劣化した小部品の交換などの補修)が必要であったため1917年(大正6年)から1965年(昭和40年)まで「鉄橋守」「橋守」「橋守工」と呼称される工事工手が常駐して維持管理を行っていた。\nこの作業は『繕いケレン』(つくろいケレン)と呼ばれた。\nケレンはクリーンがなまったものではないかとされている。\n鉄橋守は合計5人で、最初の2人は橋の塗料を供給した日本ペイントの社員が国鉄に雇われたもので、後の3人は地元余部からの採用であった。", "qas": [ { "question": "橋梁の常時保守(塗装による腐食防止と劣化した小部品の交換などの補修)の作業は何と呼ばれたの?", "id": "tr-632-19-000", "answers": [ { "text": "『繕いケレン』", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "鉄橋守の中で余部以外から採用された人は何人いましたか?", "id": "tr-632-19-001", "answers": [ { "text": "2人", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1950年代中盤から1970年代中盤にかけて計3次にわたる大規模修繕長期計画が実施された。\nまず1957年度(昭和32年度)から1964年度(昭和39年度)まで第1次5か年計画が実施され、線路方向水平材と副垂直材の取り替え410本を実施した。\n1963年度(昭和38年度)からは第2次5か年計画を実施し、斜材の山形鋼取り替えを行った。\nさらに1964年度(昭和39年度)からは線路直角方向水平部材の取り替えも始められた。\n1968年度(昭和43年度)から第3次修繕8か年計画が開始され、水平材と斜材の全交換が1976年(昭和51年)までかけて実施された。\n2次部材はすべて交換され、建設当初からの部品が残されているのは橋桁と、橋脚の主塔(垂直方向で桁を支えている柱)のみとなった。\nこの取り替えにより、それまで溝形鋼や山形鋼で構成されていた水平材と斜材は、H形鋼に変更された。\nまた塗料も防錆効果の高いものへの切り替えが進められ、当初の油性のものから塩基性クロム酸鉛やフタル酸樹脂塗料、さらには塩化ゴム系の塗料へと進歩してきた。", "qas": [ { "question": "1976年(昭和51年)までに全交換を行った水平材と斜材は、どのような素材に変更されましたか?", "id": "tr-632-20-000", "answers": [ { "text": "H形鋼", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "橋梁の計3次にわたる大規模修繕長期計画の中で、最も期間が長かったのは第何次でしたか?", "id": "tr-632-20-001", "answers": [ { "text": "第3次", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "鉄橋守が置かれなくなった後も、潮風が吹きつける橋脚には防錆処理をするため4-5年に1度の周期で塗装作業が行われてきた。\n鉄道塗装(後に建設塗装工業と改称)が請け負って、1チーム20人ほどの作業班を作って、春から秋にかけての時期に足場・上下移動式足場・作業用ゴンドラなどを使用して塗装作業が繰り返されてきた。\nこうした保守作業の結果、橋梁架け替えの検討に際して行われた健全性調査では、もっとも重要な主脚で断面欠損が最大で12.5%に留まり、基礎の状況も良好で、健全な状態であることが確認されていた。\n阪神・淡路大震災後の耐震基準に対しても、アンカーボルトの増設で満たすことができると判断されていた。\nこの厳しい環境を逆に利用し、鉄道総合技術研究所(鉄道総研)・JR西日本・日本鉄鋼連盟橋梁用鋼材研究会の共同研究で鋼材暴露試験が2003年から3年間にわたり行われ、旧橋梁の各部にワッペン試験片が貼り付けられ経過観察された。\n保守経費の負担について、晩年は支柱・リベットが著しく腐食している(特に第4号橋脚)など橋梁構成部品の劣化が進行しており、2006年時点において年単位で約2300万円の修繕費が必要と余部鉄橋利活用検討会で試算されていた。", "qas": [ { "question": "旧橋梁が位置する環境を利用して行われた試験は何ですか?", "id": "tr-632-21-000", "answers": [ { "text": "鋼材暴露試験", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "晩年、構成部品の劣化が得にひどかったのは第何号の橋脚でしたか?", "id": "tr-632-21-001", "answers": [ { "text": "第4号", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1927年(昭和2年)の北丹後地震では、余部橋梁の西側の築堤区間が崩壊し、また橋脚の一部が沈下するなどの被害を受けて、しばらくの間山陰本線が不通となった。\n第二次世界大戦に際しては、資材不足で保守が滞るようになったが、一方で山陰本線の重要地点とみなされ、敵の攻撃に対する警戒が行われた。\nこのために、1944年(昭和19年)に陸軍が付近に監視哨を設置した。\nこの監視哨に通信線を引くために電力が必要とされ、それまで桃観トンネルの工事のために設置された小規模な水力発電からのわずかの電力のみであった余部の村に、香住からの送電線が引かれて、戦時中にもかかわらず電化されるという副産物を生んだ。\nまた1945年(昭和20年)になると、当時管轄していた運輸通信省大阪鉄道局から大鉄工業福知山支店に対して、鉄橋を敵の攻撃から守るための対策の検討依頼が行われた。\n鉄橋に迷彩を施し常緑樹を被せることで敵の目からカモフラージュするとともに、橋脚下部にコンクリートを巻き付けて補強する対策が検討された。\n列車通過時の振動によりコンクリートを打つ工事が難しいという問題の対策を検討しているときに終戦となり、こうした対策は実施されずに終わった。", "qas": [ { "question": "余部の村に電気が潤ったのは陸軍が橋梁付近に何を設置したためか?", "id": "tr-632-22-000", "answers": [ { "text": "監視哨", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鉄橋をカムフラージュするために検討された対策の1つに、どのような塗装を施すことが挙げられましたか?", "id": "tr-632-22-001", "answers": [ { "text": "迷彩", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] } ] }