{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "フランク王国", "paragraphs": [ { "context": "フランク族の名前は西暦3世紀半ばに初めて史料に登場する。記録に残る「フランク」という言葉のもっとも古い用例は、241年ごろの歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてである。これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている。ローマ人はライン川中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた。3世紀から4世紀にかけて、カマーウィー族(英語版)、ブルクテリ族、カットゥアリー族(英語版)、サリー族、アムシヴァリー族(英語版)、トゥヴァンテース族(英語版)が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている。この呼称はあくまでローマ人側からの呼称であり、この名前で呼ばれたゲルマン人の諸部族が実際に同族意識を持っていたかどうかは不明である。ローマ帝国の国境地帯にこれらの諸部族が居住していたことが、彼らを共通の政治的状況に置き、そのことが彼ら自身とローマ人の意識において共族意識を育んだかもしれない。", "qas": [ { "question": "4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されたローマの歌で、始めた登場した言葉は何か?", "id": "tr-588-00-000", "answers": [ { "text": "フランク", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランク族の名前が初めて史料に登場したのは、何年か?", "id": "tr-588-00-001", "answers": [ { "text": "241年", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ローマ人がフランク人と呼んだ人々は、どこに住んでいましたか?", "id": "tr-588-00-002", "answers": [ { "text": "ライン川中流域", "answer_start": 128, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フランク人と呼ばれていたカマーウィー族、ブルクテリ族、カットゥアリー族、サリー族、アムシヴァリー族、トゥヴァンテース族は、何人だった?", "id": "tr-588-00-003", "answers": [ { "text": "ゲルマン人", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ローマ帝国国境地帯に居住した彼ら「フランク人」たちは、その都度従士団を組織して、隣接するゲルマン諸部族やローマ帝国の属州で略奪を行っていた。一方でその勇猛と武力を買われ、ローマ側によって兵士や将軍として「フランク人」が雇われるようになった。そのような「フランク人」の1人クラウディウス・シルウァヌスは355年にコロニア・アグリッピナ(英語版)(現・ケルン)で皇帝(アウグストゥス)を僭称している。また、メロバウデスや、フラウィウス・バウトのように西ローマ帝国において執政官職(コンスル)に就任するフランク人も現れた。バウトの甥にあたるテウドメール(英語版)は「フランク人の王」という称号を帯びた最初の人物であり、マロバウデス(英語版)というフランク人はローマ軍の将軍を務めたあと、「フランク人の王」になり378年のアレマン族との戦いを勝利に導いたとされる。また、バウトの娘はコンスタンティノープルの宮廷で教育を受け、東ローマ皇帝アルカディウスの妃となった。このように4世紀後半には東西両帝国の政界でフランク人のめざましい活躍があった。", "qas": [ { "question": "西ローマ帝国において執政官職に就任したフランク人の甥には、どんな称号がつけられた?", "id": "tr-588-01-000", "answers": [ { "text": "フランク人の王", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コンスタンティノープルの宮廷で教育を受け、東ローマ皇帝アルカディウスの妃となったフランク人の父は、どの国で執政官職に務めたか?", "id": "tr-588-01-001", "answers": [ { "text": "西ローマ帝国", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "378年のアレマン族との戦いを勝利に導いたとされるフランク人は、誰ですか?", "id": "tr-588-01-002", "answers": [ { "text": "マロバウデス", "answer_start": 306, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東ローマ皇帝アルカディウスの妃となったフランク人のいとこで、最初のフランク人の王である人は誰か?", "id": "tr-588-01-003", "answers": [ { "text": "テウドメール", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方、ライン川流域のフランク系諸部族は離合集散を経てサリー・フランク人とライン・フランク人(リプアリー・フランク人)という2つの集団に収斂していった。ライン・フランク人たちは380年代に、ゲンノバウド(英語版)、マルコメール(英語版)、スンノ(英語版)という3人の指導者のもと、ライン川を越えてローマ領に侵入し周辺を荒らしまわった。当時西ローマ帝国で権勢を極めていたアルボガスト(英語版)は(彼はバウトの息子であり自身もフランク人であったが)侵入したフランク諸部族を殲滅するように主張し迎撃を主導した。ローマ軍との戦闘のあと、フランク族・アレマン族の小王たちとエウゲニウス帝との間に和約が結ばれたとされる。406年にはライン・フランク人たちはローマの同盟軍としてヴァンダル族、スエヴィ族、アラン族の侵入に対応した。さらに遅くとも5世紀の半ばにはライン・フランク人たちは1人の王を戴く国制を確立していたと考えられる。彼らの勢力範囲はケルンを中心とし、ライン川下流域(ニーダーライン(英語版))からライン川中流域のマインツにまで広がり、モーゼル川流域もその支配下にあった。", "qas": [ { "question": "西ローマ帝国で権力を握っていた人で、同じフランク人を殲滅しようと主張したのは誰か?", "id": "tr-588-02-000", "answers": [ { "text": "アルボガスト", "answer_start": 183, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "5世紀の半ばに勢力範囲がケルンを中心とし、ライン川下流域からライン川中流域にまで領土を広がり、モーゼル川流域もその支配下にあった国を建国した人々は、380年代には何人の指導者のもとで活動したの?", "id": "tr-588-02-001", "answers": [ { "text": "3人", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランク人たちがローマの同盟軍としてヴァンダル族、スエヴィ族、アラン族の侵入に対応したのは、何年ですか?", "id": "tr-588-02-002", "answers": [ { "text": "406年", "answer_start": 303, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "380年代にスンノがライン・フランク人の指導者であった時期のローマ帝国の皇帝は誰?", "id": "tr-588-02-003", "answers": [ { "text": "エウゲニウス", "answer_start": 280, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ライン川下流域に勢力を持ったサリー・フランク人は、358年にブラバント北部のトクサンドリア地方(英語版)への移住をローマ帝国から認められ、国境警備の任にあたるようになった。サリー・フランク人の間でも、少なくとも5世紀半ば以降には権力の集中がなされたと考えられる。彼らはクロディオ王の指揮下でアラス付近まで侵入し、フン族の侵入やヴァレンティアヌス3世の死による混乱に乗じてカンブレーも占領、ソンム川の流域まで達した。そしてサリー・フランク人たちもまたローマの同盟軍となる許可を得た。このようにゲルマン諸部族をローマの同盟軍(フォエドゥス、foedus)としてローマ領内に居住地を与える政策がしばしば取られ、それによって西ローマ帝国領の各地にゲルマン系諸部族の「王国」が構築された。フランク王国もそのひとつであり、ほかにトゥールーズ(トロサ)を中心とするガリア南部からイベリア半島にかけては西ゴート王国が、ウォルマティア(ヴォルムス)の周囲にはブルグント王国が形成された。また、ガリア北西部にはサクソン人が移住したほか、ケルト系のブルトン人がブルターニュ半島に移住を進めつつあった。", "qas": [ { "question": "トゥールーズを中心とする西ゴート王国は何系諸部族により建国されたの?", "id": "tr-588-03-000", "answers": [ { "text": "ゲルマン", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "358年にブラバント北部のトクサンドリア地方への移住をローマ帝国から認められ、国境警備の任にあたるようになった人々の王は誰か?", "id": "tr-588-03-001", "answers": [ { "text": "クロディオ", "answer_start": 134, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クロディオ王がカンブレーに進出しようとしたのは、誰が死んでからか?", "id": "tr-588-03-002", "answers": [ { "text": "ヴァレンティアヌス3世", "answer_start": 163, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "サリー・フランク人たちはローマ文化から多大な影響を受けていた。そのことは1653年にトゥルネーで発見されたキルデリク1世(キルデリクス)王の墓の副葬品によって確かめられている。ランス司教のレミギウスの書簡によれば、キルデリク1世は第2ベルギカ属州を統治し、司教や諸都市に指示を与えていたとされる。この時期のサリー・フランク人は、西ローマ皇帝マヨリアヌスによりガリア軍司令官に任命されていたアエギディウスと密接な関係を築いた。ガリアで最大の勢力を築いていた西ゴート族とアエギディウスが戦ったとき、キルデリク1世はアエギディウスの同盟軍として戦った。このキルデリク1世がメロヴィング朝の最初の「歴史的な」王である。メロヴィングという名は、キルデリク1世の父親とされるメロヴィク(メロヴィクス)に由来し、「メロヴィクの子孫」という意味である。", "qas": [ { "question": "サリー・フランク人たちがローマ文化から多大な影響を受けていたということの根拠となる墓の副葬品が発見されたのは何年か?", "id": "tr-588-04-000", "answers": [ { "text": "1653年", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メロヴィング朝の最初の王と密接な関係であった人をガリア軍司令官に任命した皇帝は、誰?", "id": "tr-588-04-001", "answers": [ { "text": "マヨリアヌス", "answer_start": 170, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "キルデリク1世は何朝の最初の王ですか?", "id": "tr-588-04-002", "answers": [ { "text": "メロヴィング朝", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "キルデリク1世の息子がクロヴィス1世である。クロヴィス1世は466年ごろに生まれ、481年もしくは482年に父キルデリク1世の死を受けて「フランク人の王」の地位を継いだ。クロヴィス1世が王位を継承したとき、北ガリアでは、キルデリク1世の同盟者であったガリア軍司令官・アエギディウスの息子であるシアグリウスが「ローマ人の王」と呼ばれ、カンブレー地方からロワール川までの支配権を抑えていた。クロヴィス1世は父親同士が最後まで崩さなかった友好関係を破棄し、北ガリアの覇権をめぐってシアグリウスと争った。486年にソワソンの戦いでクロヴィス1世がシアグリウスを打ち破り、ロワール川流域までフランク族の支配が広がった。その後、クロヴィス1世は周辺諸部族との戦いに次々と勝利を収めていく。491年にライン地方でテューリンゲン族(英語版)を撃破して服属させ、496年にスイス地方でアレマン人に勝利した。トゥールのグレゴリウスの伝えるところによれば、この間にブルグント王・グンドバト(英語版)の姪、クロティルダと結婚した。彼女はカトリック教徒であり、その教化と対アレマン戦での奇跡的な勝機の出現に啓示を得たクロヴィス1世は、従士3,000人とともにランス大司教のレミギウスによってカトリックの洗礼を受けたとされる。", "qas": [ { "question": "北ガリアの覇権をめぐって争ったクロヴィス1世とシアグリウスの父親同士はどんな関係だったの?", "id": "tr-588-05-000", "answers": [ { "text": "友好関係", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キルデリク1世とアエギディウスが最後まで崩さなかった友好関係は、どこの覇権をめぐった戦争により崩されましたか?", "id": "tr-588-05-001", "answers": [ { "text": "北ガリア", "answer_start": 225, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランク人の王と呼ばれたクロヴィス1世と戦った人は、何と呼ばれていたか?", "id": "tr-588-05-002", "answers": [ { "text": "ローマ人の王", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "486年のをソワソンの戦いで勝った人は、何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-588-05-003", "answers": [ { "text": "フランク人の王", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "クロヴィス1世はさらに507年、ライン・フランク人とブルグント族の支援を受け、ヴイエの戦い(英語版)でガリア最大の勢力であった西ゴート王国に勝利をおさめ、その王アラリック2世を戦死させた。西ゴートを支援する東ゴート王国の介入のために地中海へ到達することは叶わなかったものの、これによりガリア南部(ガリア・アクィタニア)から西ゴートの勢力を駆逐し、イベリア半島へと追いやった。クロヴィス1世の勢力の急激な拡張は、フランク族のほかの王たちとの間に軋轢を生んだ。この段階においても、クロヴィス1世はフランク族の唯一の王であったわけではなかった。クロヴィス1世以外のフランク族の王についての情報は乏しいが、カンブレーを中心とするラグナカール(英語版)、支配地域不明のカラリク(英語版)、ケルンを中心とするシギベルト跛王(英語版)などのフランク王の名が伝えられている。西ゴートをガリアから駆逐したあと、クロヴィス1世は策略によってこれらの王国を奪い取り、ついに唯一のフランク人の王となった。その時期は508年以降であると考えられている。このため、のちにクロヴィス1世は「フランク王国の初代の王」と記録されている。", "qas": [ { "question": "フランク王国の初代の王と記録されているのは、誰か?", "id": "tr-588-06-000", "answers": [ { "text": "クロヴィス1世", "answer_start": 471, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クロヴィス1世がフランク王国の初代の王となったのは、何年以降と考えられているの?", "id": "tr-588-06-001", "answers": [ { "text": "508年", "answer_start": 445, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴアラリック2世が死んだのは、何年ですか?", "id": "tr-588-06-002", "answers": [ { "text": "507年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シギベルト跛王がクロヴィス1世により王国を奪い取られたのは、何年以降とされているの?", "id": "tr-588-06-003", "answers": [ { "text": "508年", "answer_start": 445, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、西ゴート戦からの凱旋のあと、東ローマ皇帝アナスタシウス1世から西ローマの執政官職(コンスル)への任命状が届けられた。この称号はもはや単なる名誉職に過ぎなかったが、クロヴィス1世の王国が東ローマ皇帝(この時点では唯一のローマ皇帝である)から正式に承認され、フランク王国によるガリア支配がローマの名の下に正当なものであることを意味した。クロヴィス1世はコンスルを自身の正式な称号に付け加えることはなかったが、この事実はガリアに多数住むローマ系住民に強くアピールするものであった。彼は特にローマ系住民の多いガリア南部の支配を確実なものにするためにこの称号を利用したように思われる。", "qas": [ { "question": "クロヴィス1世によるガリア支配が正当なものと承認した東ローマ帝国の皇帝は、誰か?", "id": "tr-588-07-000", "answers": [ { "text": "アナスタシウス1世", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東ローマ皇帝アナスタシウス1世からコンスルに任命された人は、どの地域を支配していたか?", "id": "tr-588-07-001", "answers": [ { "text": "ガリア", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クロヴィス1世がローマ系住民が多い地域の支配を確実なものにするために利用したとされる職は、どこの皇帝から任命されたものか?", "id": "tr-588-07-002", "answers": [ { "text": "東ローマ", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この時期には皇帝がいなかったが、後で個別国家として皇帝が存在するようになった地域は、ローマの西と東のうち、どちらか?", "id": "tr-588-07-003", "answers": [ { "text": "西", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "単独の王となったカール3世であったが、能力が伴わず887年に東フランクのカールマンの庶子アルヌルフによって廃位され、翌年には死去した。彼の退位と死はカロリング朝の一画期を記すものであった。カール3世の死後、東フランクではアルヌルフによってカロリング家の支配が維持されたが、彼は西フランクの有力者から西フランク王位を薦められた際にはこれを拒否した。今や東フランクの王は完全にその地に地盤を張っており、西フランクの王位に興味を示さなかった。この結果、西フランクではノルマン人の侵入を撃退して声望を高めていたロベール家のパリ伯ウードが888年に王に推戴された。これによって初めてカロリング家以外から王が誕生することとなった。ウードの家系からはやがてフランス王位に登るカペー家が登場することになる。イタリアでは、女系でカロリング家と血縁関係を持つフリウーリ公ベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)が諸侯の一部の支持を得てトリエントでイタリア王に選出された。こうしてカロリング家によって建設された帝国と王朝は四分五裂の状態となった。しかし、弱体化しつつも帝国の栄光は残り、正当なカロリング朝の後継者として東フランクのカロリング家の宗主権はイタリアのスポレート公を除きすべての分国から認められていた。血統的正当性を持たない西フランク王ウードは、東フランク王アルヌルフの宗主権を受け入れざるを得ず、後継者にはカロリング家のかつての王ルイ2世の息子シャルル3世(単純王)を指名しなければならなかった。またイタリア王ベレンガーリオ1世も、軍事的圧力の下、アルヌルフからイタリア王位の承認を得なければならなかった。", "qas": [ { "question": "カロリング家以外から誕生した最初の王は、何家のものですか?", "id": "tr-588-08-000", "answers": [ { "text": "ロベール家", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランス王位に登る家は、何家を元にしているのか?", "id": "tr-588-08-001", "answers": [ { "text": "ロベール家", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランス王位に登る家が登場するようになったのは、何年に推戴された王の登場によることか?", "id": "tr-588-08-002", "answers": [ { "text": "888年", "answer_start": 264, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書で紹介されている国の中で、カロリング家とは全く関係のない人が国王であったのは、どの国?", "id": "tr-588-08-003", "answers": [ { "text": "西フランク", "answer_start": 554, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ロベール家のウードが王位を得たあとも、正統な王家はカロリング家であるという意識は強力であり、ウードの後継者はシャルル3世(単純王)となった。シャルル3世は領内に侵入してきていたノルマン人との間にサン=クレール=シュール=エプト条約を結んで情勢を安定させるとともに、911年にロートリンゲン(ロレーヌ)の内紛によってその王位を獲得した。しかし、ロートリンゲン問題への傾注は貴族層の反発を招き、922年に大規模な反乱を引き起こした。この反乱は鎮圧されたものの、シャルル3世は人望を喪失しペロンヌ城(英語版)にその死まで幽閉されることとなった。この結果、西フランク王位はブルゴーニュのリシャール判官公ラウルに委ねられたが、936年に彼が後継者を遺さず死ぬと、カロリング家の復活が模索され、シャルル3世の息子ルイ4世が擁立された。この後、987年にユーグ・カペーが即位するまで、カロリング家の王による統治が継続された。", "qas": [ { "question": "ウードの後継者となった人は、何家のものなの?", "id": "tr-588-09-000", "answers": [ { "text": "カロリング家", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シャルル3世が王になるきっかけとなった事件と王権を失うきっかけとなった事件が起こった地域はどこか?", "id": "tr-588-09-001", "answers": [ { "text": "ロートリンゲン", "answer_start": 171, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カロリング家の王による統治が終わったのは、何年か?", "id": "tr-588-09-002", "answers": [ { "text": "987年", "answer_start": 365, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャルル3世が死んだ後、カロリング家が王家として復活したのは、誰が即位してからか?", "id": "tr-588-09-003", "answers": [ { "text": "ルイ4世", "answer_start": 350, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイツ人王と称せられるルートヴィヒ2世の治世(840年-876年)から、アルヌルフが死ぬ899年までの期間、ごく短期間を除き東フランクではカロリング家の1人の王による統治が持続した。その領域内には多数の部族、民族が居住していたが、王家と親族関係を築いた聖俗の貴族が王家の委託を受けて統治する複数の分国からなる国家へと成長していた。その領域は後世に「ドイツ」と呼ばれる地域にほぼ合致し、単一の「ドイツ」民族への共属意識もこの時期に芽生えることから、歴史学上この王国は東フランク=初期ドイツ王国と呼ばれる。アルヌルフは教皇庁の強い求めに応じてイタリアへ派兵し、896年にはローマ教皇フォルモススによって皇帝に戴冠された。しかしその主要な関心は西フランク王位の拒否からもわかる通り、東フランク内の分国に対する統制力の維持にあり、基本方針としてはイタリアに対し不介入で臨んだ。彼は将来に備え、嫡出子優先の継承制度を整えたが、後継者となったルートヴィヒ4世は900年に即位したとき7歳であり、王家の親族による合議で運営されるようになった。911年にこのルートヴィヒ4世が死去すると、カロリング王家の男系が断絶した。西フランク王シャルル3世の擁立を目指す動きも不発に終わり、コンラート家のコンラート1世が国王に推戴された。", "qas": [ { "question": "896年にアルヌルフにイタリアへの派兵を要請し、彼を皇帝としたローマ教皇は誰ですか?", "id": "tr-588-10-000", "answers": [ { "text": "フォルモスス", "answer_start": 289, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東フランク王国でカロリング王家の最後の王が即位したのは、何年か?", "id": "tr-588-10-001", "answers": [ { "text": "900年", "answer_start": 424, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書で取り扱われている時期の東フランク王国を、何と呼ぶ?", "id": "tr-588-10-002", "answers": [ { "text": "初期ドイツ王国", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルートヴィヒ4世が死去した後、西フランクの王の擁立を目指す動きがあったのは、彼が何家のものであるからか?", "id": "tr-588-10-003", "answers": [ { "text": "カロリング王家", "answer_start": 486, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フリウーリ公ベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)の王位就任以降をイタリア史では「独立イタリア王国」の時代と呼ぶ。これはカール3世の死によってフランク王国からイタリアが独立した888年を始まりとし、オットー1世によって神聖ローマ帝国に取り込まれる962年までを言う。女系でカロリング家と血縁を持ったベレンガーリオ1世に対し、同じく女系でこの王家とつながりを持つスポレート公グイードが挑戦を挑み、勝利を収めた。グイードはパヴィアでイタリア王に即位し、891年にはローマで皇帝戴冠を行った。グイードの皇帝位はその息子ランベルトに継承され、ベレンガーリオ1世とランベルト双方から圧力を受けたローマ教皇フォルモススは東フランク王アルヌルフに救援を求めた。この結果、896年にアルヌルフはベレンガーリオ1世とランベルトの抵抗を排してローマを占領し、そこで皇帝に戴冠された。これは東フランク王によるイタリア政局介入の端緒となった。アルヌルフとランベルトが相次いで死去すると、ベレンガーリオ1世は899年に改めてイタリア王となった。しかし、ベレンガーリオ1世に反対するイタリアの諸侯の一部は、やはり女系でカロリング家の血を引くプロヴァンス王ルイ3世を担ぎ出して900年にイタリア国王に即位させ、901年には皇帝戴冠が行われた。ベレンガーリオ1世は905年にルイを打ち破り、915年には教皇による皇帝戴冠を行った。イタリア諸侯はなおも高地ブルグントの王ルドルフ2世を担ぎ出してベレンガーリオ1世に対抗した。ベレンガーリオ1世は923年に敗れ去り、翌年家臣によって暗殺された。これによって神聖ローマ帝国に組み込まれるまで、イタリアでは皇帝の称号を持つ人物はいなくなった。", "qas": [ { "question": "独立イタリア王国の時代と呼ばれるようになったのは、誰の王位就任以降であるか?", "id": "tr-588-11-000", "answers": [ { "text": "ベレンガーリオ1世", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "独立イタリア王国と呼ばれるようになったのは、誰が死んでからのことなの?", "id": "tr-588-11-001", "answers": [ { "text": "カール3世", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イタリア王国が神聖ローマ帝国に組み込まれるまでの最後の皇帝は誰か?", "id": "tr-588-11-002", "answers": [ { "text": "ベレンガーリオ1世", "answer_start": 644, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "915年にベレンガーリオ1世が教皇による皇帝戴冠を行う前に、イタリア王へ即位および皇帝戴冠を行ったのは誰ですか?", "id": "tr-588-11-003", "answers": [ { "text": "ルイ3世", "answer_start": 512, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ジェームズ・ワット", "paragraphs": [ { "context": "ジェームズ・ワットは、スコットランド出身の発明家、機械技術者だ。ニューコメン型蒸気機関へ施した改良を通じて、イギリスのみならず全世界の産業革命の進展に寄与した人物である。\n\nグラスゴー大学で計測器製作の仕事に従事していたころ、ワットは蒸気機関技術に興味を覚えた。そこで、当時の機関設計ではシリンダーが冷却と加熱を繰り返しているため熱量を大量に無駄にしてしまっている点に気づいた。彼は機関設計をし直し、凝縮器を分離することで熱量のロスを低減し、蒸気機関の出力、効率や費用対効果を著しく高めた。\n\nワットはこの新しい蒸気機関の商品化を試みたが、1775年にマシュー・ボールトンという協力者を得るまでは資金面で大変苦労した。新会社ボールトン・アンド・ワット商会は最終的に大成功を収め、ワットは資産家になった。引退後もワットは発明を続けたが、蒸気機関ほど影響を及ぼすようなものは完成できなかった。ワットは1819年、83歳で死去した。彼の栄誉を称え、国際単位系(SI)における仕事率の単位に「ワット」という名称がつけられた。", "qas": [ { "question": "ジェームズ・ワットはどこ出身なの?", "id": "tr-589-00-000", "answers": [ { "text": "スコットランド", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニューコメン型蒸気機関へ施した改良を通じて、イギリスを含め全世界の産業革命の進展に寄与した人物は誰ですか。", "id": "tr-589-00-001", "answers": [ { "text": "ジェームズ・ワット", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ワットは何年にマシュー・ボールトンという協力者を得たか。", "id": "tr-589-00-002", "answers": [ { "text": "1775年", "answer_start": 270, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワットは何歳で亡くなりましたか。", "id": "tr-589-00-003", "answers": [ { "text": "83歳", "answer_start": 404, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ワットは1736年1月19日、スコットランド中部のレンフルーシャー州にあるクライド湾沿いの港町グリーノックで生まれた。父親ジェームズは船大工で、請負のほかに船を持つ貿易商人でもあり、町の役員も兼ねていた。母親アグネス・ミューアヘッドは名門の出で教養があった。2人はともに長老派教会員であり、国民盟約を強く支持していた。ワットの祖父にあたるトーマス・ワットは数学教師であり、カーツバーン男爵家に仕える家臣でもあった。ワットは当初あまり学校に通わず母親からホームスクーリングを受けていたが、中学からはグリーノックの学校に入った。彼は、手先の器用さや数学の素質を発揮したが、ラテン語やギリシア語には関心を示さなかった。\n\n母が亡くなり父も健康を害した18歳のとき、ワットは計測機器の製造技術を学ぶためロンドンに行き、通常4年かかるところを1年で履修を終え、スコットランドへ戻って機器製造の事業を始めるべく主要商業都市グラスゴーに居を移した。しかし、グラスゴーのハンマーマンギルドは、スコットランドにはほかに数理的な計測器を製作する職人がいないにもかかわらず、課していた最低7年の徒弟修業を満たしていないと彼の開業申請を却下した。", "qas": [ { "question": "ワットは何年生まれなの?", "id": "tr-589-01-000", "answers": [ { "text": "1736年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワットの母の名前は何?", "id": "tr-589-01-001", "answers": [ { "text": "アグネス・ミューアヘッド", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ワットは何歳のとき母を亡くしましたか。", "id": "tr-589-01-002", "answers": [ { "text": "18歳", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ワットのこの状況を救ったのは、グラスゴー大学に導入された天文学機器が専門家の調整を必要としたことだった。1757年7月、要請に応えてワットが行った調整は大学側を満足させ、この機器はマクファーレーン天文台に設置された。すると教授3人が、ワットに大学内に小さな工房を設けることを提案し、これは1757年に実現した。教授の中には、ワットの友人となる物理学者兼化学者のジョゼフ・ブラックがいた。また、この背景にはアダム・スミスの協力もあった。\n\n1764年、ワットは従姉妹にあたるマーガレット・ミラーと結婚した。5児が生まれたが、うち成人したのはマーガレットとジェームズJr.の2人だけであり、妻マーガレットも1772年に産褥で亡くなった。1777年にはグラスゴーの染料工の娘アン・マクレガーと再婚し、2児を得た。アンはワットの死後、1832年に死去した。", "qas": [ { "question": "アンとワットと、先に亡くなったのは誰?", "id": "tr-589-02-000", "answers": [ { "text": "ワット", "answer_start": 356, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ワットとマーガレット・ミラーは何年に結婚したか。", "id": "tr-589-02-001", "answers": [ { "text": "1764年", "answer_start": 219, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワットの二番目の妻の名前は何?", "id": "tr-589-02-002", "answers": [ { "text": "アン・マクレガー", "answer_start": 334, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ワットの妻マーガレットは何年に死亡したか。", "id": "tr-589-02-003", "answers": [ { "text": "1772年", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "特許の有効期限が切れた1800年、ワットは引退した。マシュー・ボールトンとの契約関係も終了したがこの協力関係は彼らの息子たちに引き継がれ、長年工場に勤める技術者ウィリアム・マードックの協力を得て会社は盛栄を維持した。\n\nただし、ワットは完全に発明から手を引いた訳ではなく、望遠鏡を使った新しい距離計測法の開発や、石油ランプの改良や、蒸気式絞り器・彫刻複写機の開発などに取り組んだ。スタッフォードシャーのハンズワースにあった彼の家「ヒースフィールド」で、ワットは屋根裏部屋を工房にしてこのような発明に取り組んだ。\n\nワットは2番目の妻とフランスやドイツ旅行も楽しみ、スランウルスル(ウェールズ中部の村)から1マイルのところにあった「ドルドウロッド・ハウス」という別荘を購入して大いに手を加えた。\n\n1819年8月25日、83歳の時に自宅で亡くなり、同年9月2日に埋葬された。", "qas": [ { "question": "ワットはいつ引退したか。", "id": "tr-589-03-000", "answers": [ { "text": "1800年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワットはいつ死亡したか。", "id": "tr-589-03-001", "answers": [ { "text": "1819年8月25日", "answer_start": 348, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ワットが購入した別荘の名前は何?", "id": "tr-589-03-002", "answers": [ { "text": "「ドルドウロッド・ハウス」", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ワットはハンズワースのセント・メアリー教会に埋葬された。後に教会建物が拡張されたため、今や彼の墓は教会の建屋内にある。バーミンガム市内には、ワット、ボールトンそしてマードックの3人が図面を囲む像があり、他にもチェンバレン・スクエアや裁判所の前などワット単独の像が5つある。ルナー・ソサエティ・ムーンストーンの一つはワットの業績を称えて作られた。\n\nバーミンガムにはそれぞれワットの名を冠した学校がある。バーミンガム中央図書館には彼が残した膨大な論文が所蔵されている。マシュー・ボールトンの家はソーホー・ハウスと呼ばれ、現在は彼とワットの仕事を記念した博物館になっている。イギリスで最も古い大学でありワットも教鞭を取ったグラスゴー大学工学部の本部、機械工学科、航空工学科はジェームズ・ワット・ビルディング内にある。", "qas": [ { "question": "ワットはハンズワースのどこに埋葬されたか。", "id": "tr-589-04-000", "answers": [ { "text": "セント・メアリー教会", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスで最も古い大学は何ですか。", "id": "tr-589-04-001", "answers": [ { "text": "グラスゴー大学", "answer_start": 309, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワットが残した膨大な論文はどこに所蔵されていますか。", "id": "tr-589-04-002", "answers": [ { "text": "バーミンガム中央図書館", "answer_start": 201, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "工房を開いた4年後、ワットは友人ジョン・ロビンソン教授を通じて蒸気機関を知った。それまで蒸気機関が動作しているのを見たことがなかったが、ワットは興味を持ち、設計を試み実験を行った。ワットが作った模型は満足に動かなかったが、彼は実験を続け、考察に取り組んだ。そして、熱の基礎的知識をワットに教えた。ジョゼフ・ブラックが数年前に至った結論と同じく、動力機関を理解するには潜熱が重要だということに独自にたどり着いた。グラスゴー大学はニューコメン蒸気機関の模型を所有していたが、当時ロンドンに修理に出されていた。ワットは大学にかけあって蒸気機関をグラスゴーに取り寄せてもらい、その修理を任されることとなった。\n\nワットは実験を重ね、シリンダー内に噴射される冷水によってシリンダーが毎回冷却され、次に蒸気が導入されたときに、熱の80%がシリンダーの加熱に費やされてしまっていることを突き止めた。ワットの発見の要所は、ピストン部分とは別に設けたチャンバーで蒸気の凝縮過程を行い、シリンダーを常に注入蒸気と同じ温度にしたことである。ワットは1765年に、改良して実際に動作する模型を製作した。また、熱出力におけるピストンとシリンダーのバランスの悪さにも着目し、適切な寸法比を導き出した。", "qas": [ { "question": "ワットは動力機関を理解するには何が重要だということに独自にたどり着いたか。", "id": "tr-589-05-000", "answers": [ { "text": "潜熱", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "熱の基礎的知識をワットに教えたのは誰なの?", "id": "tr-589-05-001", "answers": [ { "text": "ジョン・ロビンソン", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ワットは何年に改良して実際に動作する模型を製作するのに成功したか。", "id": "tr-589-05-002", "answers": [ { "text": "1765年", "answer_start": 463, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "苦闘を重ね、ワットは性能のよい蒸気機関の設計ができたが、フルスケールの蒸気機関を製作するには多額の資金が必要だった。ジョゼフ・ブラックや、フォルカーク近郊のキャロン・カンパニー創設者のジョン・ローバックも協力者となり、多額の資金提供をした。しかし、主要な困難はピストンやシリンダーの加工にあった。当時の金属加工技術は鍛冶屋のレベルであり、十分な精度が出せなかったのである。また資金の多くは数々の特許取得のためにも費やされることとなった。金に困ったワットは測量士、のちに8年間も土木技師として働かざるをえなかった。ローバックが破産すると、バーミンガムでソーホー鋳造所を経営していたマシュー・ボールトンがローバックの特許権を取得した。1775年には、その特許の1800年までの期限延長を首尾よく達成できた。\n\nワットはボールトンを介して当時の世界で最良の鉄鋼職人と取引することができた。ピストンと精密に合う大きなシリンダーの製作は、北ウェールズのレクサム近郊にあるバーシャム鉄工所で大砲製造用に精密中ぐり技術を開発したジョン・ウィルキンソンが実現した。後述する通り、ワットとボールトンはのちにボールトン・アンド・ワット商会を設立し、25年間にわたって協力関係を続けることとなる。", "qas": [ { "question": "キャロン・カンパニーを作ったのは誰なの?", "id": "tr-589-06-000", "answers": [ { "text": "ジョン・ローバック", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ボールトン・アンド・ワット商会はワットと誰が設立したものなの?", "id": "tr-589-06-001", "answers": [ { "text": "ボールトン", "answer_start": 485, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボールトンとワットは何年にわたって協力関係を持ちますか。", "id": "tr-589-06-002", "answers": [ { "text": "25年間", "answer_start": 514, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1776年、ついに最初の業務用に実働する動力機関が組み上がった。これらは鉱山の立抗底部に取りつけたポンプロッドに上下運動を伝えるだけのものだった。それでも、おもにコーンウォールの鉱山から揚水用に受注が舞い込み、ワットは機械の組み立てに忙殺された。\n\nこれら初期の動力機関はボールトン・アンド・ワット商会で製作されたものではなく、ワットの設計に基づいて他の製造業者が製造し、ワットは技術顧問の役割を担った。機関の調整やならし運転はまずワット自身が行い、その後製造業者に引き継がれるようになっていた。これらは大型なもので、たとえば一番目に製造された機関は直径50インチ(127センチ)のシリンダーを備え、高さ24フィート(7.32メートル)もあり、専用の建屋が設けられるほどだった。この蒸気機関を使うことでニューコメン機関よりも節約できた石炭の3分の1に相当する金額を、年額特許料としてボールトン・アンド・ワット商会が受け取った。", "qas": [ { "question": "最初の業務用に実働する動力機関が組み上がったのは何年のことか。", "id": "tr-589-07-000", "answers": [ { "text": "1776年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "初期の動力機関は誰の設計に基づいて製造されたものでしたか。", "id": "tr-589-07-001", "answers": [ { "text": "ワット", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1780年以前、手紙や絵などを複写する有効な手段は無く、せいぜい複数のペンを連結した器械がある程度だった。ワットは当初この方式の改良に乗り出したが、あまりに煩わしい機構にこれを放棄し、別な解決策を模索した。彼は、インクが裏まで染み込みやすい薄い紙を使い、それに別の紙を重ねて圧力を掛けることによって、紙から別の紙に内容を転写する手法を考案した。\n\n1779年に開発に着手したワットは、インクの成分や紙の選定、薄い紙を濡らしてどのくらいの圧力をかければよいか、などの実験を繰り返した。何度もの試行錯誤を経なければならなかったが、ワットはすぐに特許取得に充分な手法開発に成功した。ワットはボールトンの出資とジェームズ・キアーの経営による別会社ジェームズ・ワット・アンド・カンパニー社を創設した。複写技術は一般に使用されるには未だ改良の余地が多かったが、これも数年のうちに成し遂げられた。ワットとボールトンは1794年には事業を息子たちに引き継いだ。この複写機は商業的成功を収め、20世紀まで利用されていた。", "qas": [ { "question": "インクが裏まで染み込みやすい薄い紙を使い、それに別の紙を重ねて圧力を掛けることによって、紙から別の紙に内容を転写する手法を考案したのは誰でしたか。", "id": "tr-589-08-000", "answers": [ { "text": "ワット", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジェームズ・ワット・アンド・カンパニー社を創設したのは誰?", "id": "tr-589-08-001", "answers": [ { "text": "ワット", "answer_start": 288, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワットの複写機はいつまで使われていましたか。", "id": "tr-589-08-002", "answers": [ { "text": "20世紀", "answer_start": 437, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "オーロラ", "paragraphs": [ { "context": "オーロラ(英:aurora)は、天体の極域近辺に見られる大気の発光現象である。\n極光(きょっこう、英:polarlights)ともいう。\n極域により北極光(ほっきょくこう、英:northernlights)、南極光(なんきょくこう、英:southernlights)ともいう。\n以下本項では特に断らないかぎり、地球のオーロラについて述べる。", "qas": [ { "question": "極光とは何のことですか?", "id": "tr-590-00-000", "answers": [ { "text": "オーロラ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "女神の名に由来するオーロラは古代から古文書や伝承に残されており、日本でも観測されている。\n近代に入ってからは両極の探検家がその存在を広く知らしめた。\nオーロラの研究は電磁気学の発展とともに進歩した。\n発生原理は、太陽風のプラズマが地球の磁力線に沿って高速で降下し大気の酸素原子や窒素原子を励起することによって発光すると考えられているが、その詳細にはいまだ不明な点が多い。\n光(可視光)以外にも各種電磁波や電流と磁場、熱などが出る。\n音(可聴音)を発しているかどうかには議論がある。\n両極点の近傍ではむしろ見られず、オーロラ帯という楕円上の地域で見られやすい。\n南極と北極で形や光が似通う性質があり、これを共役性という。\n地球以外の惑星でも地磁気と大気があれば出現する。\n人が地球上から目視できるオーロラの色には、主に青や緑、赤があげられる。\nさらに状況さえ再現すれば、人工的にオーロラを出すこともできる。", "qas": [ { "question": "オーロラ研究は、何の学問の発展とともに進歩したの?", "id": "tr-590-01-000", "answers": [ { "text": "電磁気学", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーロラがよく見られる地域はどこですか?", "id": "tr-590-01-001", "answers": [ { "text": "オーロラ帯", "answer_start": 257, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オーロラという名称はローマ神話の暁の女神アウロラ(Aurora)に由来する。\nただし、科学術語になった過程については定説がない。\nオーロラという名称が使用され始めたのは17世紀頃からと考えられている。\n名付け親は一説によるとフランスのピエール・ガッサンディで、エドモンド・ハレーが自らの論文の中でこの説を述べている。\nもう一説は、イタリアのガリレオ・ガリレイが名付けたという説である。\n当時彼は宗教裁判による命令で天体に関することを書けなかったため、弟子の名を使ってこのことを著している。", "qas": [ { "question": "オーロラの語源は何ですか?", "id": "tr-590-02-000", "answers": [ { "text": "アウロラ", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーロラの名付け親とされているイタリア人は誰ですか?", "id": "tr-590-02-001", "answers": [ { "text": "ガリレオ・ガリレイ", "answer_start": 170, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーロラの名付け親とされているフランス人は誰ですか?", "id": "tr-590-02-002", "answers": [ { "text": "ピエール・ガッサンディ", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーロラという名称が使われ始めたのはいつからですか?", "id": "tr-590-02-003", "answers": [ { "text": "17世紀頃", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オーロラという名称が浸透する以前から、現象そのものは紀元前から様々な地で確認・記録されている。\nアリストテレスやセネカはオーロラを天が裂けたところであると考えていた。\n特にアリストテレスは『気象論』で「天の割れ目(CHASMATIS)」と表現した。\nまた、日本では古くは「赤気」「紅気」などと表現されていた。\n現代日本語では北極近辺のオーロラを北極光、南極近辺のオーロラを南極光と呼ぶこともある。\n北アメリカやスカンジナビアではオーロラのことをnorthernlights(北の光)と呼ぶが、徐々にauroraも使うようになって来ている。\nまた北極光をnorthernlights、あるいはAuroraBorealis(北のオーロラ)、南極光をsouthernlights(南の光)、あるいはAuroraAustralis(南のオーロラ)と呼ぶ。\nオーストラリアではオーロラのことをnorthernlightsと呼ぶ。\nときにはAurorapolarisと呼ばれることもある。", "qas": [ { "question": "オーロラのことを「天の割れ目」と表現した人は誰?", "id": "tr-590-03-000", "answers": [ { "text": "アリストテレス", "answer_start": 86, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本で言われていた「赤気」や「紅気」は何のことを指していましたか?", "id": "tr-590-03-001", "answers": [ { "text": "オーロラ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "northernlights、AuroraAustralis、AuroraBorealisの中で南極光はどれですか?", "id": "tr-590-03-002", "answers": [ { "text": "AuroraAustralis", "answer_start": 346, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中国や西欧ほどの緯度ではオーロラの活動が活発な時にオーロラの上の部分、赤い部分が見える。\nこのことから中世ヨーロッパではオーロラの赤から血液を連想し、災害や戦争の前触れ、あるいは神の怒りであると解釈していた。\nまた中世までのヨーロッパでは、オーロラを「空に剣や長槍が現れ」て動いた・戦ったと表現することが多い。\nこれはオーロラの縦縞が激しく動くさまを表している。\nただし、彗星も空に現れる凶兆とされていたため、オーロラなのか彗星なのか判別できない記述もある。", "qas": [ { "question": "オーロラの他に、空に現れる凶兆は何がありましたか?", "id": "tr-590-04-000", "answers": [ { "text": "彗星", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "古代中国ではオーロラは天に住む赤い龍に見立てられ、やはり西洋と同様に政治の大変革や不吉なことの前触れであると信じられていた。\n古代中国には赤い蛇のような体を持ち、体長が千里におよぶとされる燭陰という神が信じられており、中国の神話学者・何新は、大地の最北極に住む燭陰はオーロラが神格化されたものではないかと論証している。\nその一方で中国の考古学者・徐明龍は、燭陰を、中国神話の神である祝融と同一神であるとし、太陽神、火神ではないかと述べている。\nまた中国の古文書の中で天狗、帰邪、赤気、白気、竜などと表現されている天文現象の中にも、オーロラのことを指しているのではないかと推測されるものがある。\n北欧神話においてオーロラは、夜空を駆けるワルキューレたちの甲冑の輝きだとされる。\n北欧ではオーロラにより死者の世界と生者の世界が結びついている、と信じている人が未だにいる。\nまたエスキモーの伝説では、生前の行いが良かった人は死後、オーロラの国(実質的に天国)へ旅立つと言われている。", "qas": [ { "question": "エスキモーの伝説では、善良に生きた者はどこへ旅立つとされていますか?", "id": "tr-590-05-000", "answers": [ { "text": "オーロラの国", "answer_start": 412, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古代中国での天に住む赤い龍とは何のことをいっているのですか?", "id": "tr-590-05-001", "answers": [ { "text": "オーロラ", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "近代以降、両極を探検した人々がオーロラを記録に残し始めた。\nジェームズ・クックは、1773年2月の航海誌に「天空に光が現れた」と残しており、世界で最初に南半球のオーロラを見たヨーロッパ人であると言われている。\nオーロラを世に広く知らしめ、社会のオーロラへの関心を大きく高めた出来事としては、ジョン・フランクリン隊の遭難が挙げられる。\nフランクリンは北西航路を発見するために1845年に出港し、その後行方不明となった。\n消息の途絶えたカナダ北部へとフランクリン隊を探すために多くの救助隊が向かい、そこで見たオーロラを報告書や回顧録に残したのである。\n両極を探検した人々もオーロラを手記や記録に残している。\nフリチョフ・ナンセンの著書や日記には木版画や絵画のオーロラが掲載されている。\nまたロバート・スコットも日記にオーロラの様子を残している。", "qas": [ { "question": "世界で最初に南半球のオーロラを見た欧州人とは誰?", "id": "tr-590-06-000", "answers": [ { "text": "ジェームズ・クック", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジェームズ・クックはオーロラを見たのはいつだと記しましたか?", "id": "tr-590-06-001", "answers": [ { "text": "1773年2月", "answer_start": 41, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョン・フランクリンが行方不明になった年はいつ?", "id": "tr-590-06-002", "answers": [ { "text": "1845年", "answer_start": 186, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オーロラの発生原理については、古くから多くの科学者たちが解明に努めてきた。\n特に18世紀から19世紀にかけてのオーロラ研究は電磁気学の誕生と発展そのものである、と言う研究者もいる。\nエドモンド・ハレーは1716年3月にオーロラを観測して論文を発表した。\nハレーはオーロラの縞模様が球形磁石の磁力線と一致しているのを認識し、「磁気原子」という仮想の原子が地球内部から吹き出してきて、それが磁力線にそって発光するのではないか、という仮説をたてた。\nフランスのド・メラン(en)はこの説を支持しなかったが、ジョン・ドルトンやジャン=バティスト・ビオは支持した。\n特にビオは、「磁気原子」の噴出は火山の噴火によるものだと主張した。", "qas": [ { "question": "ジョン・ドルトン、ド・メラン、ジャン=バティスト・ビオの中でハレーの仮説を支持しなかった人は誰?", "id": "tr-590-07-000", "answers": [ { "text": "ド・メラン", "answer_start": 227, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハレーがオーロラの論文を発表したのはいつ?", "id": "tr-590-07-001", "answers": [ { "text": "1716年3月", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ド・メランは1733年にオーロラに関する世界初の学術書を書いた。\nその中でド・メランは巻雲を原因とする説を退け、地球外物質を原因とした。\n黄道光を作る物質が地球の大気圏で発火する、という説を唱えたのである。\n太陽黒点の数とオーロラの発生頻度に相関関係があることを発見したのもド・メランである。\nまた同著の中で、南半球にも北半球とよく似たオーロラが出るのではないかとも述べている。\n発生頻度の研究も行われた。\nイライアス・ルーミス(en)は1859年の太陽嵐をまとめ、1860年にオーロラの発生頻度分布図を作った。\n図は約1世紀後の国際地球観測年により多くの情報を元に作られた分布図と比べても遜色のないほど正確である。\nスイスのフリッツはルーミスの図を定量化し、一年でオーロラが発生する日数が同じ地点を線で結び、「アイソカズム」と名付けた。", "qas": [ { "question": "ド・メランはオーロラの発生原因が何だとしましたか?", "id": "tr-590-08-000", "answers": [ { "text": "地球外物質", "answer_start": 56, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「アイソカズム」の名付け親は誰ですか?", "id": "tr-590-08-001", "answers": [ { "text": "フリッツ", "answer_start": 313, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1859年の太陽嵐をまとめた人は誰?", "id": "tr-590-08-002", "answers": [ { "text": "イライアス・ルーミス", "answer_start": 204, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1741年、アンデルス・セルシウスとその助手OlofHiorterはオーロラが発生すると地球磁場も変動するということを発見した。\nまたアレクサンダー・フォン・フンボルトは1845年から1862年にかけて刊行された『コスモス』の1章を割いてオーロラについて述べている。\n彼はベルリンからアルプスの高山から赤道から極地まで地球磁場を準定量的に測り、ロシアとイギリスの王立協会に地磁気観測所を進言して設立させ、地磁気の擾乱が全球的なものであることを突き止めた。\nそして、世界中の磁場が乱れて高緯度地方に強いオーロラが出たり低緯度地方にオーロラが出たりする現象に対し、フンボルトは「地球磁場のカミナリ」という新しい術語を作った。\n20世紀に開かれた国際会議により、この現象は「磁気嵐(Magneticstorms)」と再命名された。", "qas": [ { "question": "イギリスに地磁気観測所を設立するよう進言した人は誰?", "id": "tr-590-09-000", "answers": [ { "text": "アレクサンダー・フォン・フンボルト", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロシアに地磁気観測所を設立するよう進言した人は誰?", "id": "tr-590-09-001", "answers": [ { "text": "アレクサンダー・フォン・フンボルト", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "19世紀末になると、X線の発見やその研究、またジョゼフ・ジョン・トムソンによる電子の発見に象徴される、真空管を用いた実験が盛んになっていった。\nトムソンは自著の中で放電管の光とオーロラの光は同一であろうと述べている。\nノルウェーの物理学者、クリスチャン・ビルケランドは1896年の時点で、太陽から高速で飛んでくる電子が地球の大気に突入して光ったものがオーロラではないかと考えた。\nそして数多くの遠征や小さな地球を模した磁石(テレラ)による実験、地磁気擾乱の解析などを経て、1913年に研究結果を1冊の本にまとめた。\nこの本の中で彼は既に、オーロラに沿って流れる大電流について述べている。", "qas": [ { "question": "自著の中でオーロラに沿って流れる大電流について述べた人は誰?", "id": "tr-590-10-000", "answers": [ { "text": "クリスチャン・ビルケランド", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トムソンは、オーロラの光と同一のものは何だと述べましたか?", "id": "tr-590-10-001", "answers": [ { "text": "放電管の光", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カール・ステルマーはビルケランドのテレラを見て数学者から理論物理地球学者に転向し、磁場内での荷電粒子の動きを計算した。\nしかし算出されたオーロラの発生範囲が実際のオーロラと違うことからステルマーは実測に力を入れ始め、計4万枚のオーロラの写真を撮った。\nこの研究により、オーロラの下端が100km上空にあることが確認された。\nシドニー・チャップマンは1918年に「磁気嵐の理論の概要」という論文を発表した。\nその後この論文に対する反論を受けて助手フェラーロとともに1931年、地球の磁気圏は太陽風によって彗星のような形になっているという、チャップマン=フェラーロ理論を発表した。\n太陽のプラズマの中に「未知のもの」があるはずだというチャップマンに学会は反発したものの、数年後に「未知のもの」とは太陽の磁場であることがわかった。\nチャップマン=フェラーロ理論は約30年後のアメリカの人工衛星エクスプローラー12号により1961年に実証された。", "qas": [ { "question": "ステルマーのオーロラ研究により、オーロラの下端は何km上空にあると明らかになりましたか?", "id": "tr-590-11-000", "answers": [ { "text": "100km", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チャップマン=フェラーロ理論が実証されたのは何年のことですか?", "id": "tr-590-11-001", "answers": [ { "text": "1961年", "answer_start": 407, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「磁気嵐の理論の概要」の論文発表者は誰?", "id": "tr-590-11-002", "answers": [ { "text": "シドニー・チャップマン", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チャップマン=フェラーロ理論を実証した人口衛生とは何?", "id": "tr-590-11-003", "answers": [ { "text": "エクスプローラー12号", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ハンス・アルヴェーンはアルヴェーン波を予言し、「磁場の凍結」という概念を確立したノーベル物理学賞受賞者である。\nアルヴェーンは「磁場の凍結に固執するから太陽面爆発やオーロラを説明できないのだ」と自らの理論を軽んじて、若い研究者から異端として扱われた。\n実際に磁場の凍結でオーロラは説明できない。\nその後チャップマンとアルヴェーンの間で磁気嵐を巡る論争が起こり、チャップマンは「数学的な解に十分な基礎をおかない思索を避けねばならない」といい、アルヴェーンは「プラズマは数式を嫌い、そしてまた数式の示すところに従いたがらない」といい、ステルマーは「オーロラがカーテン状である理由を説明できない理論はオーロラの理論と呼べない。結局私の理論が一番正しいはずである」といった。", "qas": [ { "question": "ハンス・アルヴェーンはノーベル賞の何部門で受賞しましたか?", "id": "tr-590-12-000", "answers": [ { "text": "ノーベル物理学賞", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オーロラの光そのものを分析し、何が光っているのかを調べる研究もなされていた。\nだがこのアプローチは、分光学そのものの発展を待たねばならなかった。\nオーロラ分光学が始まったのは1850年代、そして最も代表的な緑白色の光の波長が正確に測定されたのは約70年後の1923年である。\n当時の真空放電の装置では緑白色の光を再現できなかったり、分光が不正確で間違った同定がなされたりもした。\nアルフレート・ヴェーゲナーは、大気の上層には「ゲオコロニウム」という下層に存在しない元素があり、これが発光のもとではないかと考えた。\nウィリアム・ラムゼーは著書の中で、「太陽中の放射性元素から放出されて飛来する電子が、大気中のクリプトンを励起することによってオーロラは作られる」と述べている。", "qas": [ { "question": "オーロラの代表的な緑白色の光の波長が正確に測定されたのは何年のことですか?", "id": "tr-590-13-000", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルフレート・ヴェーゲナーはオーロラの発光元は何だと考えましたか?", "id": "tr-590-13-001", "answers": [ { "text": "「ゲオコロニウム」", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "LarsVegard(en)は電離した窒素分子の出す光と電離してない窒素分子から出る光を同定した。\nまた、窒素の放電管実験で出る光のうちにオーロラの中にも見られる光が一つ有ることを発見した。\nこの光はアメリカのKaplanによって同定されたためVegard-Kaplan帯と呼ばれる。\nアンデルス・オングストロームは19世紀後半、オーロラの分光を行い、オーロラの光は太陽光とは違って、短波長の光と狭い範囲の光の集まりであることを発見したと言われている。\nそして緑白色の光の波長を556.7nmと測定した。\n正確には557.7nmである。\nその後1925年にこの光が酸素分子から出ていることが発見された。\n酸素原子の出す光も1930年に同定されるなど、オーロラの元となる気体の大部分が判明していき、大気の上層の組成もまた判明していった。", "qas": [ { "question": "緑白色の正確な光の波長は何nmですか?", "id": "tr-590-14-000", "answers": [ { "text": "557.7nm", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "緑白色の光の波長を測定した人は誰?", "id": "tr-590-14-001", "answers": [ { "text": "アンデルス・オングストローム", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "やがて分光学と磁気嵐の研究は深化するとともに専門化していった。\n事実上、20世紀半ばの時点ではオーロラの分布や動きに関する研究は全くといっていいほど進んでいなかった。\n水素原子の光を同定したガルトラインが1947年に全天カメラを考案しており、国際地球観測年の委員長シドニー・チャップマンは極地全域で全天カメラを撮影することを計画した。\nさらにチャップマンは全天カメラ研究が一段落ついた1965年頃に、人工衛星から写真を撮ることを提案し、これも後述するように実現した。\n国際地球観測年ではロケットを2台、オーロラの光っている空域へ打ち込み、強力な電子ビームがあることもわかった。", "qas": [ { "question": "国際地球観測年の委員長に就任した人は誰でしたか?", "id": "tr-590-15-000", "answers": [ { "text": "シドニー・チャップマン", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "国際地球観測年にオーロラに打ち込まれたものは何でしたか?", "id": "tr-590-15-001", "answers": [ { "text": "ロケット", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "人工的にオーロラを出現させる実験もこの頃に実施された。\n最初の実験はNASAによって1969年に行われた。\nしかし、この実験以前にも大気中核実験により期せずして人工のオーロラが発生したことがある。\nフェルドシュタインはオーロラの発生する地域を1963年に初めて確定し、環状になっていることを突き止めた。\n太陽から見るとオーロラの環が固定されていることも発見した。\n赤祖父俊一も全天カメラやジェット機からの撮影によりオーロラの環の存在を示し、フェルドシュタインとともに1971年、発表したものの支持されなかった。\nしかしカナダのアンガーが人工衛星ISISIIによって実際に環を撮影すると、この主張は受け入れられた。", "qas": [ { "question": "初めて人工オーロラを出す実験をした機関はどこ?", "id": "tr-590-16-000", "answers": [ { "text": "NASA", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "人工オーロラを出す最初の実験は何年に行われましたか?", "id": "tr-590-16-001", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーロラの形が環状であることを明らかにした人は誰?", "id": "tr-590-16-002", "answers": [ { "text": "フェルドシュタイン", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "太陽からは「太陽風」と呼ばれるプラズマの流れが常に地球に吹きつけており、これにより地球の磁気圏は太陽とは反対方向、つまり地球の夜側へと吹き流されている。\n太陽から放出されたプラズマは地球磁場と相互作用し、複雑な過程を経て磁気圏内に入り、地球磁気圏の夜側に広がる「プラズマシート」と呼ばれる領域を中心として溜まる。\nこのプラズマシート中のプラズマが何らかのきっかけで磁力線にそって加速し、地球大気(電離層)へ高速で降下することがある。\n大気中の粒子と衝突すると、大気粒子が一旦励起状態になり、それが元の状態に戻るときに発光する。\nこれがオーロラである。\n発光の原理だけならば、オーロラは蛍光灯やネオンサインと同じである。\nプラズマシートが地球の夜側に形成されるため、オーロラは基本的に夜間にのみ出現するものである。\nしかし昼間にもわずかながら出現することがある。", "qas": [ { "question": "太陽から地球に吹かれるプラズマの流れとは何ですか?", "id": "tr-590-17-000", "answers": [ { "text": "「太陽風」", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オーロラと同じ発光原理をもつ生活用品とはネオンサインや何ですか?", "id": "tr-590-17-001", "answers": [ { "text": "蛍光灯", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "どのようにして太陽風が地球の磁力圏に入り込むのか、なぜプラズマは特定の部分にたまるのか、何がきっかけで加速されるのかなど、発生原理の肝要な部分については未だ統一した見解はない。\n最も有力な説は、入り込む理由や加速される理由を、地球の磁力線が反対向きの磁力線とくっつくこと(磁気リコネクション)に求める説である。\nオーロラが突如として一気に広がる現象をブレイクアップという。\n日本語ではオーロラ爆発とも訳される。\n空から突然光が噴出し全天に広がり、色や形の変化が数分間続く。\nこのブレイクアップに関しても、発生原因や発生過程などはあまり分かっていない。", "qas": [ { "question": "ブレイクアップを日本語に訳すとどうなりますか?", "id": "tr-590-18-000", "answers": [ { "text": "オーロラ爆発", "answer_start": 192, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブレイクアップが生じる時間はどれくらいですか?", "id": "tr-590-18-001", "answers": [ { "text": "数分間", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "太陽活動が活発なときは、たまに日本や中国、西欧のような低緯度地方でも赤いオーロラが観測されることがある。\nこれは磁力線が低緯度側にふれることや、中低緯度地域になると地球の丸みのために上部の赤いオーロラしか見えないこと、オーロラの発光部分の上端が1,000km以上に伸びることなどと関係がある。\n明るさはレイリーで表される。\nおおよそ1,700レイリーくらいが肉眼で見えるかどうかの境目である。\nオーロラの明るさを照度で表すと、普通のオーロラは0.1–0.01ルクス程度である。\n最も明るいオーロラでは数ルクスほどになり、満月の明るさに匹敵する。\nただし、満月が出ていてもオーロラを見たり撮影したりすることはできる。", "qas": [ { "question": "太陽活動が活発な時に低緯度地方で見られるのは何色のオーロラですか?", "id": "tr-590-19-000", "answers": [ { "text": "赤いオーロラ", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一般的なオーロラの照度はどれくらいですか?", "id": "tr-590-19-001", "answers": [ { "text": "0.1–0.01ルクス程度", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オーロラの形態は地球の磁気によって形作られ、よくカーテンに例えられる。\nこれは下端がはっきりしていて襞があることに由来する。\n下端は飛び込んでくる粒子の限界高度が、襞は磁力線の方向が可視化された結果である。\nカーテンの、東西の長さは数千km、厚さは約500m、下端は前述のとおり地上約100km、上端は約300から500kmである。\nオーロラの活動が活発なときには上端は1000km以上の高さになる。", "qas": [ { "question": "オーロラは下端に襞があることから、何に例えられますか?", "id": "tr-590-20-000", "answers": [ { "text": "カーテン", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カーテンの厚さはどれくらいですか?", "id": "tr-590-20-001", "answers": [ { "text": "約500m", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "時間が経つにつれてオーロラの形態も変化していく。\nオーロラの形にはバンド(帯)、コロナ(冠、放射状)、アーク(弧)、トーチ(松明)、バルジ(腫れ)など様々な形がある。\nしかし、これらは単にカーテンの襞のサイズや数、カーテンの歪み方やねじれ方、曲がり方のみで区別されているだけであり、オーロラそのものの種類が複数あるわけではない。\n例えばコロナ型オーロラはカーテンが反物のように巻かれ、観測者がちょうど真下に立っている時に観測される。\n細い線のように光っている部分をレイという。\nこの部分はオーロラのカーテンが幾重にも重なっているため明るく見えるのである。\nたいてい水平方向(カーテンだったら引く方向)に移動する。\nなおこれとは別に点滅するオーロラもあり、脈動オーロラと呼ばれる。", "qas": [ { "question": "オーロラの細い線のように光っている部分の名前は何?", "id": "tr-590-21-000", "answers": [ { "text": "レイ", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "点滅するオーロラの別名は何ですか?", "id": "tr-590-21-001", "answers": [ { "text": "脈動オーロラ", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "牛乳を注ぐ女", "paragraphs": [ { "context": "『牛乳を注ぐ女』は、オランダ黄金時代の画家ヨハネス・フェルメールが1657年ごろに描いた絵画である。キャンバスに油彩で描かれた作品で、アムステルダムのアムステルダム国立美術館が所蔵している。アムステルダム国立美術館はこの作品のことを「疑問の余地なく当美術館でもっとも魅力的な作品の一つ」としている。\n\n『牛乳を注ぐ女』の正確な制作年度は分かっておらず、残っている記録にも差異がある。この作品を所蔵するアムステルダム国立美術館では1658年ごろとしており、『信仰の寓意』などフェルメールの作品5点を所蔵するニューヨークのメトロポリタン美術館では1657年か1658年ごろとしている。また、フェルメールの著名な研究サイト「エッセンシャル・フェルメール」では、制作年度は1658年から1661年の間とされている。", "qas": [ { "question": "『牛乳を注ぐ女』を描いた人は誰なの?", "id": "tr-591-00-000", "answers": [ { "text": "ヨハネス・フェルメール", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『牛乳を注ぐ女』は油彩なの、水彩なの?", "id": "tr-591-00-001", "answers": [ { "text": "油彩", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『牛乳を注ぐ女』はどの美術館に所属されていますか。", "id": "tr-591-00-002", "answers": [ { "text": "アムステルダム国立美術館", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アムステルダム国立美術館では『牛乳を注ぐ女』の制作年度を何年だとみなしていますか。", "id": "tr-591-00-003", "answers": [ { "text": "1658年", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『牛乳を注ぐ女』は、欧米では牛の乳搾り作業に従事する女性を意味する「ミルクメイド」と呼ばれているが、実際に描かれている女性は低級の家事使用人であり、台所担当の召使いあるいは家政の女中である。この作品には、簡素な部屋の中でメイドが、牛乳をテーブル上のずんぐりとした陶製の容器に丁寧に注ぎ入れている情景が描かれている。さらにテーブルの上にはさまざまなパンが描かれている。メイドは若くがっしりとした身体つきの女性として表現され、ぱりっとしたリンネルのキャップ、青いエプロン、しっかりした肘まで捲りあげた分厚い作業着を着用している。背景の壁の床との接地面にはデルフト陶器のタイルが嵌めこまれている。左のタイルにはキューピッドの、右のタイルには長い棒を持った人物の装飾画があり、さらにタイルの前面の床には四角い足温器が置かれている。画面左側に描かれた窓からは日光が射し込んでいる。\n\n『牛乳を注ぐ女』には、詳細表現のためにではなく、女性とテーブルの重量感を表現するために錯視技法が使用されている。「明るい光が射し込んでいるが、パンの粗い表面や、女性の太く平らな胴まわり、丸い肩の質感表現には何の影響も与えていない」と、美術評論家カレン・ローゼンバーグは『ニューヨーク・タイムズ』の記事に書いている。ローゼンバーグはさらに、女性の顔半分には陰が落ちており「下向きの視線とすぼめた唇が、悲哀を意味しているのか、集中を意味しているのかは、誰にも判断できない」ともしている。\n\nニューヨーク近代美術館西洋絵画部門のキュレーターで、2度のフェルメール展を担当したワルター・リトケは、『牛乳を注ぐ女』には「わずかながら『モナ・リザ』と同様の効果が見られる」としている。「現代の鑑賞者から見れば、(『牛乳を注ぐ女』に描かれている)この女性はちょっとした謎である。彼女は日課とも言える仕事をわずかに微笑みながらこなしている。我々がこの作品に抱く思いは「この女性はいったい何を考えているんだ」である」", "qas": [ { "question": "『牛乳を注ぐ女』に描かれている女が着用しているエプロンは何色のエプロンなの?", "id": "tr-591-01-000", "answers": [ { "text": "青いエプロン", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『牛乳を注ぐ女』に対して、「明るい光が射し込んでいるが、パンの粗い表面や、女性の太く平らな胴まわり、丸い肩の質感表現には何の影響も与えていない」という言葉を残した人は誰ですか。", "id": "tr-591-01-001", "answers": [ { "text": "カレン・ローゼンバーグ", "answer_start": 509, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『牛乳を注ぐ女』が制作された当初、描かれている女性は「ミルクメイド」ではなく、「キッチンメイド」あるいは家事全般を担当する「メイド」として知られていた。「ミルクメイド」は牛の乳搾りを担当する女性労働者で、「キッチンメイド」は台所仕事を担当するメイドである。この作品が描かれる200年ほど前から、ミルクメイドやキッチンメイドは性愛や性交渉を想起させる存在であり、このことはアントウェルペン、ユトレヒト、デルフトなどのオランダ諸都市で描かれた台所や市場を舞台とした風俗画によく描かれていた。『牛乳を注ぐ女』のように性的な画題を巧妙に隠蔽していた作品もあれば、あからさまに性愛描写を描いた作品もあった。\n\nフェルメールよりも前の世代でこのような風俗画を得意とした画家に、アントウェルペン出身のヨアヒム・ブーケラールとフランス・スナイデルスがおり、両者ともに多くの追随者と模倣者をうんだ。アムステルダム出身のピーテル・アールツェン、ユトレヒト出身のヨアヒム・ウテワールとその息子ピーテル・ウテワールらも風俗画を得意とし、後世の画家たちに影響を与えた画家である。フェルメールと同世代では、ニコラース・マースが『怠惰な召使い』などの諧謔画を何点か描いている。しかしながら、フェルメールが活動していた時代では、家で働く女性を描いた作品は別の意味を持つようになっており、最終的にはオランダ家庭の長所や美点を表すようになっていった。", "qas": [ { "question": "フェルメールとヨアヒム・ブーケラールと、誰がもっと前の世代の人なの?", "id": "tr-591-02-000", "answers": [ { "text": "ヨアヒム・ブーケラール", "answer_start": 343, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヨアヒム・ブーケラールはどこの出身ですか。", "id": "tr-591-02-001", "answers": [ { "text": "アントウェルペン", "answer_start": 332, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フェルメールの時代のオランダ文学、オランダ絵画では、メイドが男性の欲望をかきたて、家庭の名誉や秘密に悪影響を及ぼすような存在として表現されていた。ただし、ブリュッセル出身の前世代の画家ミヒエル・スウェールツ、フェルメールと同年代人のピーテル・デ・ホーホらのようにメイドを普通の画題として扱った芸術家もわずかではあるが存在した。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』も、メイドを愛情のこもった気品ある存在として扱った希少な作品のひとつといえるが、それでもなお、性愛を象徴する伝統的な寓意が描かれている作品でもある。", "qas": [ { "question": "ミヒエル・スウェールツ、フェルメール、ピーテル・デ・ホーホのうち、誰が一番前の世代の人なの?", "id": "tr-591-03-000", "answers": [ { "text": "ミヒエル・スウェールツ", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ヘラルト・ドウ(1613年-1675年)は、水差し、様々な狩の獲物や農作物といった伝統的に性愛を象徴する物とともに蠱惑的なメイドを描いた画家である。リトケは「伝統的な表現手法を採用したこの手の作品のほとんど全てに、性愛的要素が描かれている。鶏を籠に押込める仕草、長い棒をそっと差し出す様子、思わせぶりな目配せ、子宮を曖昧に表現したような物体などである」としている。イギリス王室のロイヤル・コレクションが所蔵する、ドウが1646年に描いた『玉ねぎを刻む少女』には、しろめ合金の大きなジョッキが描かれているが、このジョッキは伝統的な男性と女性の肉体の象徴である。さらにドウは、媚薬効果があるといわれていた玉ねぎ、吊るされた鳥など、情欲を意味する新たな象徴物もこの作品に描き入れている。また、牛乳は「性的に魅惑する、誘惑する」を意味するスラング「蘭:melken」を暗示する目的で使用されることがあり、リトケはこのスラング自体が牧場で雌牛の下で作業する娘たちからきていると指摘している。この意味で牛乳を使用した作品として、ルカス・ファン・レイデンの銅版画『ミルクメイド』とヤコブ・デ・ヘイン2世の銅版画『弓使いとミルクメイド』があげられる。", "qas": [ { "question": "『玉ねぎを刻む少女』を描いた人は誰ですか。", "id": "tr-591-04-000", "answers": [ { "text": "ヘラルト・ドウ(1613年-1675年)", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘラルト・ドウは何年に『玉ねぎを刻む少女』を描いたか。", "id": "tr-591-04-001", "answers": [ { "text": "1646年", "answer_start": 209, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『弓使いとミルクメイド』は誰の作品ですか。", "id": "tr-591-04-002", "answers": [ { "text": "ヤコブ・デ・ヘイン2世", "answer_start": 483, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『牛乳を注ぐ女』は抑制された地味ともいえる作品だが、性的な象徴も依然として描かれている。壁下部のタイルには、女性の性的興奮を暗示する、あるいは働きながら男性を夢想していることを意味するキューピッドが描かれている。その他、性的な意味合いを持つものとして、口の広い水差しが女性の肉体の象徴として描かれている。足温器は多くの画家が女性の性的興奮の象徴として描いているが、この理由についてリトケは、女性のスカートの下に置いて腰から下を温める器具だからだとしている。イギリス人美術史家セリーナ・カントは、足温器に閉じ込められた木炭が「宿屋での強い欲望や売春宿、あるいは慎み深く隠された夫に対する激しい熱情」を象徴している可能性があると指摘した。白い漆喰塗の壁と牛乳から、この部屋が牛乳やバターのような酪農製品を料理するための「冷涼な台所」であることを示しているため、足温器は実用的な器具として置かれている。当時のほかのオランダ絵画では、足温器は使用者が座った状態で描かれているのに対し、『牛乳を注ぐ女』では女性が立っていることから足温器は「勤勉な性格」を象徴しているのではないかという説もある。", "qas": [ { "question": "『牛乳を注ぐ女』に描いてある壁下部のタイルには何が描かれていますか。", "id": "tr-591-05-000", "answers": [ { "text": "キューピッド", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『牛乳を注ぐ女』に対して、足温器に閉じ込められた木炭が「宿屋での強い欲望や売春宿、あるいは慎み深く隠された夫に対する激しい熱情」を象徴している可能性があると指摘したのは誰ですか。", "id": "tr-591-05-001", "answers": [ { "text": "セリーナ・カント", "answer_start": 237, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "リトケは『牛乳を注ぐ女』には、現代ヨーロッパではすでに消滅し、アメリカでは決して広く認知されなかった、当時の社会におけるメイドと上流階級の紳士との性的あるいは恋愛関係が一部反映されているとする。このような当時の上流階級の紳士として、リトケはフェルメールと同時代人のイギリスの官僚サミュエル・ピープスを例に出している。ピープスがつけていた日記には、キッチンメイドやカキの殻をむく少女たち、1660年にデルフトの宿屋で出会った「気晴らしにはもってこいだった、非常に美しい少女」との出会いが記録されている。『牛乳を注ぐ女』の最初の所有者は、フェルメールの最大のパトロンで、この作品の依頼主でもあったと考えられているピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンである。ファン・ライフェンはピープスや伝統的なオランダの「キッチンメイド」が描かれた絵画とはかなり異なる、フェルメールによる魅力的な若い女性の欲望や自己犠牲がテーマの絵画も所有していた。『HetMelkmeisje』は最もよく用いられるオランダ語の題名である。この題名は現代オランダ語では正確ではないが、「meid」という名詞が好ましからざる意味を帯びてしまっているため、アムステルダム国立美術館その他は「meid」の指小形でより上品な「meisje」を採用している。", "qas": [ { "question": "『牛乳を注ぐ女』の最初の所有者は誰でしたか。", "id": "tr-591-06-000", "answers": [ { "text": "ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェン", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェルメールの最大のパトロンは誰でしたか。", "id": "tr-591-06-001", "answers": [ { "text": "ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェン", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "美術史家ハリー・ランドは、『牛乳を注ぐ女』でテーブルの上の牛乳とちぎったパンの存在から、女性がブレッドプディングを作っているのではないかとしている。ずんぐりとした陶製の容器はダッチオーブンで、すでに中に入っているパンとカスタードに対して牛乳を注ぎ入れているところを描いた作品で、パンが浸るぐらい牛乳を注がないとプディングが固く不味くなってしまうからで、牛乳を少量ずつ注いでいるのは、分量が適切でなかったり、適宜に混ざらないとブレッドプディングがうまく出来ないからだと結論付けた。\n\nフェルメールがメイドが丁寧に料理している様子を描いたのは、日々の生活の一場面を表現しようとしたのではなく、道徳的、社会的価値観を描き出そうとしたためだといわれている。身分の低い女性は卑しい仕事にしか就けないかもしれないが、硬くなってそのままでは食べられないパンを美味しい食事に生まれ変わらせることができる。「女性の落ち着いた振る舞い、地味な衣服、思慮深い調理手順は、17世紀オランダで重視されていた美徳を、控えめかつ雄弁に物語っている」\n\nラケル・ラネリは雑誌『フォーブス』の記事で「結局のところ、この作品には特別な感情を掻き立てるような、女性に対する官能表現へのほのめかしは存在しない。この作品に描かれているのは誠実さであり、勤勉に働くこと自体が情熱的だということを表現している」と書いた。「『牛乳を注ぐ女』は、家庭での単調で退屈な仕事と雇い主への奉公を、このうえなく崇高な地位にまで引き上げている作品である」", "qas": [ { "question": "美術史家ハリー・ランドは、『牛乳を注ぐ女』の女性がパンを使って何を作っていると推測していますか。", "id": "tr-591-07-000", "answers": [ { "text": "ブレッドプディング", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『牛乳を注ぐ女』に対して、「この作品には特別な感情を掻き立てるような、女性に対する官能表現へのほのめかしは存在しない。この作品に描かれているのは誠実さであり、勤勉に働くこと自体が情熱的だということを表現している」と書いた人は誰なの?", "id": "tr-591-07-001", "answers": [ { "text": "ラケル・ラネリ", "answer_start": 461, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラケル・ラネリはどの雑誌に「結局のところ、この作品には特別な感情を掻き立てるような、女性に対する官能表現へのほのめかしは存在しない。この作品に描かれているのは誠実さであり、勤勉に働くこと自体が情熱的だということを表現している」という記述を残したか。", "id": "tr-591-07-002", "answers": [ { "text": "『フォーブス』", "answer_start": 471, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『牛乳を注ぐ女』は堂々として「威厳に満ちた」印象を与える作品である。これは、フェルメールがこの作品の重心を比較的下におき、画面左下のテーブルから女性の頭部へと立ち上がっていく三角形の構図で描いていることによる。アムステルダム国立美術館の解説では、この作品が「二本の斜めのラインに沿った構図で描かれており、このラインは女性の右手首で交差している」としている。この構成が、注がれている牛乳へ鑑賞者の視線を集める効果をもたらしている。\n\nちなみに、長らく現実にはありえないとされた机由来の消失線は、当時使われた机に絵と同じ形の六角形の物が有る事が判明し、現在では現実にあった物と認識されている。", "qas": [ { "question": "『牛乳を注ぐ女』の重心は下にあるか、上にあるか。", "id": "tr-591-08-000", "answers": [ { "text": "下", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『牛乳を注ぐ女』に対する「二本の斜めのラインに沿った構図で描かれており、このラインは女性の右手首で交差している」という解説はどこによるものか。", "id": "tr-591-08-001", "answers": [ { "text": "アムステルダム国立美術館", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『牛乳を注ぐ女』の写真のような写実表現は、ヘラルト・ドウ、フランス・ファン・ミーリス、ハブリエル・メツーといった、ライデンの画家たちの作品と共通している。リトケは、この作品を描いた当時24歳のフェルメールのことを「多種多様な作風とモチーフを、オランダ中の美術品から漁っていた」と表現している。「この作品でいうならば、ヘラルト・ドウのような画家の細部まで行き届いた錯視的効果が描かれた作品に、当時のフェルメールは心惹かれていたといえる」とする。さらにリトケはこの作品がフェルメールが描いた「円熟期に入った最初の絵画」だと評価し、「フェルメールが追い求めていたのは「実際に触れることができるかのような錯覚を起こす絵画」とでも呼ぶもので、光に満ちた輝くような境地だったのだろう」としている。\n\nデルフト派の作品やフェルメールの作品の特徴は、象徴や寓意を表す「古典的技法」と「類まれなる光の描写」といえる。リトケは、「この作品の中で最初に鑑賞者の目にとまる、多くの物が押し込められるように描かれた画面左側から、開放的な画面右側へと視線は移っていく。このような画面左側の構成は、フェルメールがこの作品を描く10年ほど前に多少なりとも使われ始めていたものであり、フェルメールが新しいものを自身の作品へ素早く取り入れていたことを物語っている」としている。", "qas": [ { "question": "フェルメールは『牛乳を注ぐ女』を描くとき、何歳でしたか。", "id": "tr-591-09-000", "answers": [ { "text": "24歳", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "リトケはフェルメールのどの作品のことを「円熟期に入った最初の絵画」だと評価したか。", "id": "tr-591-09-001", "answers": [ { "text": "『牛乳を注ぐ女』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『牛乳を注ぐ女』の女性の描写に見られるざらざらとした質感表現は、絵筆を軽く叩くように使った厚塗り技法によるものである。パンの表面、パンの表面の植物の種、編まれたパン籠の持ち手には、ポワンティエと呼ばれる点描技法が使用されている。パンの柔らかい部分は細い線で渦を巻くように描かれ、オーカーの顔料を使用してパンの皮が割れた部分の粗い質感を表現している。陶製の容器の近くの右のパン切れはイエローで太く塗られており、カントはこのパン切れが古くなってしけっていることを表しているとしている。一番右端の小さなパン切れは厚塗りの点描で描かれており、このパンの表面がこぶ状または植物の種が乗せられているかのように表現されている。鑑賞者にもっとも近くに描かれているパンと籠だが、壁、壁の染み、陰影、釘、釘穴、女性の衣服、磨かれて輝く壁にかけられた真鍮製の入れ物などの写実表現に比べると、やや散漫な表現で描かれている。窓ガラスは極めて写実的に、変化をつけて描かれている。窓の最右列の下から4枚目の窓ガラスは割れており、窓の木枠にもその割れ目から漏れ入る光が描写されている。そのすぐ下の窓ガラスの表面にはホワイトの顔料で細い引っかき傷が描かれている。また、木枠から外れかかっている窓ガラスも描かれている。", "qas": [ { "question": "『牛乳を注ぐ女』の女性の描写に使われた技法は何ですか。", "id": "tr-591-10-000", "answers": [ { "text": "厚塗り技法", "answer_start": 45, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『牛乳を注ぐ女』のパンの表面に使われた点描技法は何と呼ばれますか。", "id": "tr-591-10-001", "answers": [ { "text": "ポワンティエ", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フェルメールの最大のパトロンで、死去する際に21点のフェルメールの作品を残したピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンが、『牛乳を注ぐ女』をフェルメールから直接購入した最初の所有者であると考えられている。ただしリトケは、この画題がファン・ライフェンの依頼によるものであったかどうかについては否定的な見解を述べている。ファン・ライフェンの死後におそらく未亡人マーリア・デ・クナイトが相続し、その後二人の娘だったマグダレーナ・ファン・ライフェンの手に渡ったとされている。そして、ファン・ライフェンの女婿だったヤーコブ・ディシウスが、1696年に他のフェルメールの作品とともに『牛乳を注ぐ女』を遺産売却のオークションにかけた。このときのオークション目録には、『牛乳を注ぐ女』が「非常に素晴らしい」作品であると書かれており、200ギルダーの最高値がついた風景画『デルフトの眺望』に次ぐ高値の175ギルダーで売却されている。", "qas": [ { "question": "『牛乳を注ぐ女』の最初の所有者は誰だと考えられますか。", "id": "tr-591-11-000", "answers": [ { "text": "ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェン", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェルメールの最大のパトロンは誰ですか。", "id": "tr-591-11-001", "answers": [ { "text": "ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェン", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤーコブ・ディシウスによるオークションで、『牛乳を注ぐ女』はいくらで売却されましたか。", "id": "tr-591-11-002", "answers": [ { "text": "175ギルダー", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "18世紀にイングランドの画家、評論家ジョシュア・レイノルズがこの作品の優れたクオリティを高く賞賛した。1719年に「デルフトのフェルメールが描いた有名な素晴らしい『牛乳を注ぐ女』」がオークションにかけられ、世界でも有数のオランダ絵画コレクションを誇るメトロポリタン美術館が購入に動いたが、最終的にはアムステルダムの画商が購入している。その後アムステルダムのいくつかのコレクションを経て、ルクレツィア・ヨハンナ・ファン・ウィンテルが『牛乳を注ぐ女』を購入した。ルクレツィアは1822年にアムステルダムの名家シクス家の一員と結婚し、1908年になって二人の息子がシクス家の絵画コレクション39点の一つとして『牛乳を注ぐ女』をアムステルダム国立美術館に売却した。このときのアムステルダム国立美術館の購入に対して、オランダ政府とレンブラント・ソサエティが資金援助をしている。しかしながら絵画購入に公的資金を導入することについて、世論の十分な議論は行われておらず、オランダ議会やオランダ政府のこのような介入も前代未聞のことだった。", "qas": [ { "question": "ルクレツィア・ヨハンナ・ファン・ウィンテルはいつ結婚しましたか。", "id": "tr-591-12-000", "answers": [ { "text": "1822年", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『牛乳を注ぐ女』は西ヨーロッパとアメリカの展覧会で公開されている。1872年にアムステルダムで開催された「オールド・マスターによる希少絵画と有名絵画展(Tentoonstellingvanzeldzameenbelangrijkeschilderijenvanoudemeesters)」に展示され、1900年にアムステルダム市立美術館で展示された。オランダ以外では、1929年にロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツが主催した「オランダ絵画展(ExhibitionofDutchArt\")」に出陳されている。1921年にはパリのジュ・ド・ポーム国立美術館が主催した「オランダ絵画展:油絵、水彩画とデッサン、今と昔(Expositionhollandaise:Tableaux,aquarellesetdessínsanciensetmodernes\")」に出陳された。また、1935年にはロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館が開催した「フェルメール、原点と影響:ファブリティウス、デ・ホーホとデ・ウィッテ展(Vermeer,oorsprongeninvloed:Fabritius,DeHooch,DeWitte\")」に出陳されている。", "qas": [ { "question": "「フェルメール、原点と影響:ファブリティウス、デ・ホーホとデ・ウィッテ展(Vermeer,oorsprongeninvloed:Fabritius,DeHooch,DeWitte\")」を主催した美術館は?", "id": "tr-591-13-000", "answers": [ { "text": "ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1872年の「オールド・マスターによる希少絵画と有名絵画展(Tentoonstellingvanzeldzameenbelangrijkeschilderijenvanoudemeesters)」はどこで開催されましたか。", "id": "tr-591-13-001", "answers": [ { "text": "アムステルダム", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「オランダ絵画展(ExhibitionofDutchArt\")」を主催したのは?", "id": "tr-591-13-002", "answers": [ { "text": "ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「オランダ絵画展:油絵、水彩画とデッサン、今と昔(Expositionhollandaise:Tableaux,aquarellesetdessínsanciensetmodernes\")」を主催した美術館は?", "id": "tr-591-13-003", "answers": [ { "text": "ジュ・ド・ポーム国立美術館", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ジャン=フランソワ・ミレー", "paragraphs": [ { "context": "ミレーは、ノルマンディー地方のグリュシーで、農家に生まれた。長男として跡継ぎになることが期待されていたが、18歳の頃から、シェルブールの画家のところで絵の修業を始めた。教師から才能を見出され、奨学金を得て、1837年からパリのエコール・デ・ボザールに行き、歴史画家ポール・ドラローシュの下で学んだ。しかし、1839年、ローマ賞に落選すると、学校を去った。1840年に肖像画でサロン・ド・パリに初入選し、シェルブールで肖像画の注文を次々受けて制作した。最初の妻ポーリーヌと結婚し、共にパリに移ったが、1844年、ポーリーヌを亡くした。いったんパリから帰省するが、実家の反対を押し切って交際を始めたカトリーヌとともに、1845年、再びパリに出て、肖像画や女性の裸体画を制作して生活した。この頃、後のバルビゾン派の同志となるテオドール・ルソーやコンスタン・トロワイヨン、支援者となるアルフレッド・サンシエと出会った。1847年のサロンに神話画を入選させた。1848年、2月革命によって共和派が実権を握ると、美術界の民主化が進み、ミレーは政治的支援者を得た。この年のサロンに出品した農民画『箕をふるう人』が好評を博し、ミレーは政府注文を受けることになった。", "qas": [ { "question": "『箕をふるう人』は誰の作品ですか。", "id": "tr-592-00-000", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 505, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーリーヌはいつ亡くなったの?", "id": "tr-592-00-001", "answers": [ { "text": "1844年", "answer_start": 249, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミレーの最初の妻は誰?", "id": "tr-592-00-002", "answers": [ { "text": "ポーリーヌ", "answer_start": 229, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1849年、パリでコレラが大流行したことや、ミレーの政治的支援者が失脚したことから、ミレーは、バルビゾンに移住し、先に滞在していたルソーらの仲間入りをした。1851年のサロンに『種まく人』を提出して入選したが、これが農民の悲惨な生活を訴える政治的なメッセージと受け取られ、左右両派の激しい論争の的となった。第二帝政の時代となった1850年代には、農民画を中心にサロンへの応募を続け、その中には高評価を得るものもあったが、酷評される作品もあった。1857年のサロンに『落穂拾い』を出品し、これもまた政治的な議論を巻き起こした。1860年代も好評と不評の波を経験したが、1864年のサロンに出品した『羊飼いの少女』が絶賛され、これを機にミレーの評価は一気に高まった。1865年以降、コレクターからパステル画の注文を大量に受け、特に数多くの風景画を明るい色彩のパステルで描くようになり、新しい境地が生まれた。1867年のパリ万国博覧会では、一室を与えられて9点の代表作を展示し、巨匠としての名声を確立した。", "qas": [ { "question": "1849年、パリではどんな質病が大流行していたか。", "id": "tr-592-01-000", "answers": [ { "text": "コレラ", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『種まく人』は誰の作品ですか。", "id": "tr-592-01-001", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『落穂拾い』は誰の作品なの。", "id": "tr-592-01-002", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『羊飼いの少女』と『落穂拾い』と、どっちの方が先にサロンに出品された?", "id": "tr-592-01-003", "answers": [ { "text": "『落穂拾い』", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1860年代末からは体調悪化に悩まされながら、「四季」連作などに取り組んだ。1870年の普仏戦争と1871年のパリ・コミューンでシェルブールに疎開したことなどで、「四季」連作の制作は中断を余儀なくされたが、亡くなった親友ルソーへの鎮魂の意味を込めたと言われる名作『春』を完成させている。1874年頃から急速に健康状態が悪化し、1875年に亡くなった。\n\nミレーの作品は、生前から徐々に市場での評価が高まった。ミレーが1860年に1000フランで売却した『晩鐘』は、死後の1889年に55万3000フランで落札されるに至った。20世紀後半には、印象派・ポスト印象派の画家には及ばないが、ニューヨーク・サザビーズのオークションで数十万ドルという高値で取引されるようになった。他方、サンシエの伝記やそれに基づくロマン・ロランによるミレー偉人伝を基に、清貧の農民画家という脚色された「ミレー神話」が語られるようになり、フィンセント・ファン・ゴッホもサンシエの伝記を読んで影響を受けた1人である。特に、ミレー作品にプロテスタンティズムに通じるものを感じ取ったアメリカ人や、偉人伝に影響された日本人の間では、フランス以上にミレー熱が高まった。ミレーの油彩画は約400点、パステル画は約200点と言われている。風俗画や風景画は、19世紀半ばのフランス絵画を支配していたアカデミズム絵画では低い評価しか与えられていなかったが、ミレーは、コローや他のバルビゾン派の画家とともに、都市を出て、田園に取材した作品を多く制作した。特に、ミレーは、風景画を好んだ他の画家よりも、働く農民の生活への関心が強く、農民画を多く制作している。都会人の満足するような田園風景を描くのではなく、農民の生活に向き合って真摯に観察したところにミレーの独自性がある。もっとも、晩年に向かうにつれて、風景画への関心も強まっている。ミレーの作品の影響を最も強く受けたのはファン・ゴッホであるが、そのほかにも印象派や20世紀の画家がミレーを高く評価し、一定の影響を受けている。", "qas": [ { "question": "ミレーはいつ亡くなったの?", "id": "tr-592-02-000", "answers": [ { "text": "1875年", "answer_start": 163, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1860年、『晩鐘』はいくらで売却された?", "id": "tr-592-02-001", "answers": [ { "text": "1000フラン", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミレーの作品には油彩画とパステル画とどっちが多い?", "id": "tr-592-02-002", "answers": [ { "text": "油彩画", "answer_start": 519, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミレーの作品の影響を最も強く受けたのは誰?", "id": "tr-592-02-003", "answers": [ { "text": "ファン・ゴッホ", "answer_start": 811, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ジャン=フランソワ・ミレーは、1814年、フランス・ノルマンディー地域圏マンシュ県のグレヴィル村グリュシー地区に生まれた。コタンタン半島の突端にある村である。ミレーの家は、農家だが、母エーメ=アンリエット=アデライド・アンリは、フランス革命後に没落したアーグ地方の領主の家系である。父ジャン=ルイ=ニコラ・ミラーは、神父、科学者、農学者を輩出した家系である。父は、農作業の傍ら、グレヴィルの教会の合唱指揮者を務めたり、絵を描いたりすることもあった。ミレーが幼い頃は、祖母ルイーズ・ジュムランが面倒をみてくれた。\n\nミレーは、9人兄弟の長男であり、農家の後継ぎとして期待されていた。7歳になる前に学校に入り、12歳頃からラテン語を学んだが、やがて家の農作業を手伝うようになった。\n\nアルフレッド・サンシエの伝記によれば、ミレーは、農作業の傍ら、写生をし、1832年、ミレーが18歳の頃、腰の曲がった老人の歩くポーズを描いた木炭の素描に両親が感激し、シェルブールの画家ムシェルの画塾に連れて行ったという。1835年11月、父が死去したため、ミレーは家業を継ぐため実家に戻ったが、祖母の強い勧めで再びシェルブールに出て、アントワーヌ=ジャン・グロの弟子テオフィル・ラングロワ・ド・シェヴルヴィル(フランス語版)という画家の下で修業を続けた。この頃、シェルブールでは、地元の美術愛好家トマ・アンリがコレクションを基にトマ=アンリ美術館を開館したばかりであり、ミレーはこの美術館に通った。ミレーは、アントニス・モルの『キリストの埋葬』、イタリア・バロックの画家バルトロメオ・スケドーニの『聖バルトロメオの殉教』、18世紀フランスのアカデミー派シャルル=アンドレ・ヴァン・ローの『憂鬱質』などの作品を模写している。", "qas": [ { "question": "ミレーは何年に生まれた?", "id": "tr-592-03-000", "answers": [ { "text": "1814年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エーメ=アンリエット=アデライド・アンリの夫は誰?", "id": "tr-592-03-001", "answers": [ { "text": "ジャン=ルイ=ニコラ・ミラー", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミレーは何歳ごろからラテン語を学びはじめた?", "id": "tr-592-03-002", "answers": [ { "text": "12歳頃", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『キリストの埋葬』は誰の作品なの?", "id": "tr-592-03-003", "answers": [ { "text": "アントニス・モル", "answer_start": 644, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ミレーは、1840年のサロンに2点の肖像画を提出し、このうち、親友マロルの父親を描いた『ルフラン氏の肖像』が初入選を果たした。これを機に、パリを去ってシェルブールに戻った。1841年11月、洋服仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚した。\n\nミレーは、シェルブールの社交界で肖像画家としての名声を得、次々に肖像画の注文を受けた。1840年から1843年にかけて、50点以上の肖像画を制作し、そのほとんどが油彩である。その中で、シェルブール市議会から、亡くなったばかりの前市長ジャヴァン氏の肖像画の注文を受けたが、ミレーは故人を知らず、若い時の不出来な肖像画しか与えられない状態で制作せざるを得なかった。出来上がりは不評で、市議会が300フランの報酬を100フランに値切ったため、ミレーは落胆し、市議会に肖像画を寄贈してしまった。\n\n1842年、妻ポーリーヌとともにパリに移った。1842年、1843年のサロンに応募したが、落選した。しかし、ポーリーヌは、不健康な都会生活や貧しさから結核にかかり、1844年4月21日、亡くなってしまった。この年のサロンには2点が入選したが、妻の死に落胆したミレーは、パリを去った。", "qas": [ { "question": "『ルフラン氏の肖像』は誰を描いたものなの。", "id": "tr-592-04-000", "answers": [ { "text": "親友マロルの父親", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミレーはいつポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚した?", "id": "tr-592-04-001", "answers": [ { "text": "1841年11月", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーリーヌはいつ亡くなったか。", "id": "tr-592-04-002", "answers": [ { "text": "1844年4月21日", "answer_start": 452, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1842年、ミレーはどこに移ったか。", "id": "tr-592-04-003", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 386, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミレーは、帰省するが、シェルブールで家政婦をしていたカトリーヌ・ルメールと交際を始めた。しかし、カトリーヌの実家はブルターニュ地方ロリアンの貧農であったこともあり、ミレーの祖母や母はカトリーヌとの交際に大反対であった。ミレーは、この頃、シェルブール市立大学の美術教授に招聘されていたが、実家に近い地方大学を避け、再びパリに出ることにした。パリ行きの資金を実家に頼れなかったため、ル・アーヴルで個展を開いて絵を売ったり、肖像画の注文を受けたりして、1年間で900フランをためた。この時期には、パステル調の色彩を使ったロココ風の絵画を制作しており、「華やかな手法」の時代と呼ばれる。\n\nこうして、1845年末、カトリーヌとともにパリに到着し、1846年初め、ロシュシュアール通りに住居を定めた。7月には、第1子となる長女マリーが生まれた。当時のロシュシュアール通りは、若い画家、彫刻家、作曲家、演劇人たちが安い家賃を求めて集まっていた。ミレーは、この街で、シャルル・ジャック、ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、テオドール・ルソー、コンスタン・トロワイヨンといった後のバルビゾン派の同志と出会った。また、後の支援者かつ伝記作家となるアルフレッド・サンシエとも出会った。", "qas": [ { "question": "マリーの母は誰?", "id": "tr-592-05-000", "answers": [ { "text": "カトリーヌ", "answer_start": 303, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1849年1月か2月、第3子で長男のフランソワが生まれた。ところが、6月、パリではコレラが大流行し、上下水道の不備や不潔な安宿のため、貧困地区を中心に2万人近くの死者が出た。また、同じ時期、ルイ・ナポレオン大統領によるローマ侵攻に抗議する暴動が起きて武力鎮圧され、ルドリュ=ロランをはじめとする左派の議員が一掃された。これによって、ミレーは政治的支援者を失うことになった。そうした中、ミレーは、シャルル・ジャックの誘いを受けて、一緒にバルビゾンの村に移住することにした。政府注文で得た報酬がその資金となった。", "qas": [ { "question": "フランソワはいつ生まれたの?", "id": "tr-592-06-000", "answers": [ { "text": "1849年1月か2月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1850年10月、第4子マルグリットが生まれた。ミレーは同年末から1851年にかけてのサロンに、『藁を束ねる人』と、代表作となる『種まく人』を提出し、入選した。『種まく人』は、農民の悲惨な生活に抗議する政治的な表明ととらえる人も多く、激しい議論を呼んだ。当時のフランスは、2月革命や普通選挙の実施によって政治的発言力を増した農民・労働者階級と、その脅威を抑え込もうとするブルジョワ階級との対立が高まっており、それを反映して、『種まく人』は、保守派からは「ミレー氏は......農民と呼ばれる悪党と同種の輩である」などと非難を浴びる一方で、左派からは、「彼は現代の民衆(デモス)の擬人像である」などと持ち上げられた。また、この作品を支持したテオフィル・ゴーティエが「乱暴な身振りと、ひどく粗末ななりをしたこの人物は、種をまく土の色で塗られているかに見える」と指摘したとおり、アカデミックな技法では嫌われる絵具の厚塗りを行っており、その点でも革新的であった。同じ年のサロンでは、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』もスキャンダルになっており、2月革命後のフランスで、貧富の格差、都会と田舎の格差に対する意識が高まっていたことを示している。そうした中、政治や社会の現実を描くミレーやクールベ、ドーミエといったレアリスムの画家が現れたことは、美術史上の革命といえる。", "qas": [ { "question": "マルグリットはいつ生まれたの?", "id": "tr-592-07-000", "answers": [ { "text": "1850年10月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『藁を束ねる人』は誰の作品なの。", "id": "tr-592-07-001", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『オルナンの埋葬』は誰の作品か。", "id": "tr-592-07-002", "answers": [ { "text": "ギュスターヴ・クールベ", "answer_start": 437, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1851年5月には、幼い時にミレーの世話をしてくれた祖母が故郷グリュシーで亡くなった。しかし、祖母も母もミレーの再婚を認めておらず、ミレーは子供の存在も実家に隠していたため、グリュシーに帰ることはなかった。12月、ルイ・ナポレオンがクーデターを起こし、さらに1852年12月に皇帝(ナポレオン3世)に即位し、フランス第二帝政が始まった。ミレーは、1853年のサロンに、旧約聖書のルツ記に題材をとった農民画『刈入れ人たちの休息(ルツとボワズ)』ほか2点を出品し、好評を得て2等賞を与えられた。批評家ポール・ド・サン=ヴィクトルは、「彼の『刈入れ人たちの休息』は、ホメロスの牧歌を方言で語ったものだ。ここには詩があり、大衆の尊厳がある!」と賞賛した。この頃、ミレーにはアメリカ人コレクターが付くようになり、『刈入れ人たちの休息』は後のボストン美術館初代館長マーティン・ブリンマーが購入した。従来からの支援者サンシエも、作品を愛好家に紹介したり、自ら購入したりして、ミレーを支えた。", "qas": [ { "question": "『刈入れ人たちの休息(ルツとボワズ)』は誰の作品なの?", "id": "tr-592-08-000", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 168, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "批評家ポール・ド・サン=ヴィクトルが残した「彼の『刈入れ人たちの休息』は、ホメロスの牧歌を方言で語ったものだ。ここには詩があり、大衆の尊厳がある!」という言葉での「彼」は誰を指すか。", "id": "tr-592-08-001", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 168, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「彼の『刈入れ人たちの休息』は、ホメロスの牧歌を方言で語ったものだ。ここには詩があり、大衆の尊厳がある!」という言葉を残した人は誰ですか。", "id": "tr-592-08-002", "answers": [ { "text": "批評家ポール・ド・サン=ヴィクトル", "answer_start": 245, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボストン美術館初代館長は誰?", "id": "tr-592-08-003", "answers": [ { "text": "マーティン・ブリンマー", "answer_start": 376, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1853年4月、母が亡くなり、5月、ミレーは遺産相続のために1845年以来初めて故郷に帰省した。また、カトリーヌと正式に結婚した。\n\n1855年のサロンは、パリ万国博覧会の美術展覧会に吸収されて実施された。ミレーは、3点を提出したが、『木こり』と『草を焼く農婦』は落選し、『接ぎ木をする農夫』だけが入選した。『接ぎ木をする農夫』は、評価は悪くなかったが、買手がつかなかった。すると、友人テオドール・ルソーが、4000フランで購入を希望するアメリカ人を見つけたと言って、取引を仲介してくれた。実際には、博覧会で成功を収めたルソーが、友人の尊厳を慮って、アメリカ人の買手を装いながら、自らの資金でこの作品を購入したのであった。1856年3月には、第5子(四女)エミリーが生まれた。\n\nサンシエの伝記によれば、1856年以降の数年間は、ミレーにとって特に経済的に苦しい時期であった。予定していた絵の買手が、代金の額に納得せず、売れずに残ってしまったこともあった。2人の弟が同居するようになり、家族の人数が増えたことも生活を苦しくした。ミレーは、サンシエに、洋服屋やパン屋の集金人、執行吏たちが押しかけてくる様子を伝え、資金の援助を依頼している。他方、この頃から、羊飼いのテーマに魅了されるようになり、『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』などの制作に着手している。", "qas": [ { "question": "エミリーはいつ生まれた?", "id": "tr-592-09-000", "answers": [ { "text": "1856年3月", "answer_start": 311, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『接ぎ木をする農夫』は誰の作品なの?", "id": "tr-592-09-001", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 103, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ミレーは、1857年のサロンに、『落穂拾い』を出品した。落穂拾いとは、地主の麦畑の収穫を手伝う零細農民が、手間賃のほかに、1割ほど残された落ち穂を拾う権利を有するという風習であるが、1854年、地主階級がこれを廃止しようと運動を始め、2年間の論議の末、収穫が終わった後に行うこと、農婦と子供のみが行うこと、日没前までとすること、監視員を付けることといった制限が課された上で認められることになった。ミレーは、以前から取り組んでいた落穂拾いの構図を完成させてサロンに臨んだ。畑には、拾うべき麦穂がほとんど落ちていない上、農婦の脇の下に破れ目が見えるなど、農民の貧しさを強調した内容となっている。この作品も、政治に敏感なサロンで議論を巻き起こし、保守派からは厳しく非難される一方、左派からは農民の美徳を表したものと評価された。かつて『刈入れ人たちの休息』を賞賛した批評家ポール・ド・サン=ヴィクトルは、今度はミレーを批判する側に回った。この年、第6子(二男)シャルルが生まれた。\n\nまた、この年、ミレーは、ボストン出身の美術収集家トマス・ゴールド・アップルトンの注文を受け、『晩鐘』を制作した。しかし、アップルトンが引取りに来なかったため、1860年に1000フランで売却している。ミレーによれば、これは、祖母の思い出をもとに描いた作品である。バルビゾンの隣に広がるシャイイの平原に鳴り響く晩鐘を合図に、農民夫婦が手を休め、「主の御使い」から始まる祈りを捧げる場面である。", "qas": [ { "question": "ミレーは、1857年のサロンに、何を出品したか。", "id": "tr-592-10-000", "answers": [ { "text": "『落穂拾い』", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『落穂拾い』は誰の作品なの。", "id": "tr-592-10-001", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シャルルの父は誰?", "id": "tr-592-10-002", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 198, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『晩鐘』は誰の作品なの?", "id": "tr-592-10-003", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 445, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1860年代前半には、ベルギー人画商のアルチュール・ステヴァンスおよびそのビジネス・パートナーであるエヌモン・ブランと長期契約を結び、経済的に安定するようになってきた。1862年には、グーピル商会との取引が始まった。\n\nミレーは、1861年のサロンでは、『羊の毛を刈る女性』、『ミルク粥』、『待つ人』の3作品が入選した。『羊の毛を刈る女性』は、サロンで賞賛された。この年、第8子(三男)ジョルジュが生まれた。\n1863年のサロンに、代表作の一つとなる『鍬に寄りかかる男』を出品したが、重労働にあえぐ農民の姿は、サロンでは酷評された。「脱走した殺人者がモデルではないか」との評もあった。他に『羊毛を梳く女』と『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』を出品している。", "qas": [ { "question": "ジョルジュは何年に生まれた?", "id": "tr-592-11-000", "answers": [ { "text": "1861年", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『羊の毛を刈る女性』は誰の作品なの?", "id": "tr-592-11-001", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ミルク粥』は誰の作品なの?", "id": "tr-592-11-002", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『待つ人』は誰の作品なの?", "id": "tr-592-11-003", "answers": [ { "text": "ミレー", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1858年、ローマ法王の特別列車のために、ミレーに『無原罪の御宿り』の注文があった。ミレーはこれに応じて作品を納めたが、法王庁の枢機卿らの期待していたものとは違い、片隅に追いやられてしまったようである。\n\n1859年のサロンでは、『死と木こり』が落選し、『牛に牧草を食べさせる農婦』のみが入選した。作家デュマや『ガゼット・デ・ボザール』誌はミレーの落選作を擁護したが、従来支持してきたテオフィル・ゴーティエが批判に回り、詩人シャルル・ボードレールも酷評した。1853年のサロンで得た無鑑査の資格も喪失した。", "qas": [ { "question": "ミレーは何年にローマ法王の特別列車のため、『無原罪の御宿り』の注文を受けましたか。", "id": "tr-592-12-000", "answers": [ { "text": "1858年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『牛に牧草を食べさせる農婦』は何年どのサロンで入選したの。", "id": "tr-592-12-001", "answers": [ { "text": "1859年", "answer_start": 103, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1867年12月、ミレーの盟友テオドール・ルソーが亡くなった。1868年初め、ルソーの顧客だった工場主フレデリック・アルトマンと出会い、アルトマンから、ルソーの残した風景画を補筆して完成させることを依頼された。また、ミレーは3月には、新たな「四季」連作を依頼された。しかし、この頃、ミレーの体調が悪化し、頭痛に悩まされるようになって、制作を中断することになった。脳腫瘍だったと言われている。", "qas": [ { "question": "テオドール・ルソーはいつ亡くなったか。", "id": "tr-592-13-000", "answers": [ { "text": "1867年12月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミレー新たな「四季」連作を依頼されたのは何月のことですか。", "id": "tr-592-13-001", "answers": [ { "text": "3月", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ミレーは1868年8月に、レジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与された。9月、サンシエとともにアルザス地方とスイスに旅行に行った。同年末には、美術批評家フィリップ・ビュルティの仲介で、『ソネットとエッチング』という書物のための挿絵の版画を制作した。この本は350部印刷され、愛好家に限定刷りであることを証明するために版画の原版を破棄するのが通例だったが、ミレーは、こうした慣習を知らず、原版破棄は野蛮なことだと考えたため、発行人との間で論争をしたが、最終的に原版破棄を受け入れた。1869年のサロンには『編み物の手ほどき』を出品し、その調和のとれた造形は審査委員カスタニャリから賞賛を受けた。", "qas": [ { "question": "ミレーがレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受けたのはいつなの?", "id": "tr-592-14-000", "answers": [ { "text": "1868年8月", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1868年9月、ミレーはアルザス地方とスイスへの旅行に誰と同行したか。", "id": "tr-592-14-001", "answers": [ { "text": "サンシエ", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミレーは何年に『ソネットとエッチング』の挿絵の版画を制作しましたか。", "id": "tr-592-14-002", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『編み物の手ほどき』は何年のサロンに出品されましたか。", "id": "tr-592-14-003", "answers": [ { "text": "1869年", "answer_start": 242, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1870年のサロンには審査委員に選ばれるとともに、風景画『11月』と『牛乳をかき回す女』を出品した。ただ、その後はサロンへの応募をしていない。既に評価の確立したミレーにとって、それ以上サロンに応募する必要はなくなっていた。\n\n1870年7月、普仏戦争が開戦し、ナポレオン3世がプロイセン軍に敗北した。1871年3月には、パリ・コミューンの蜂起があり、5月の「血の1週間」で鎮圧されるまで内乱が続いた。この間、ミレー一家は旧友ファルダンを頼ってシェルブールに疎開したが、戦中は野外で写生することも禁じられ、ミレーは、写生中にスパイ容疑で何度も勾引された。故郷グレヴィルに家族で訪れた時には、サンシエに、「私が生まれ、両親が生涯を送った家を、今やよそ者として改めて見ると、何ともいえない悲しい気持ちで一杯になる。」と感想を漏らしている。ミレーは、グレヴィルの断崖をパステル画に描き、また、シェルブールを訪れたサンシエに故郷を案内して回った。サンシエによれば、楽しい思い出が詰まった生家を改めて見て、ミレーは涙があふれるのをこらえている様子だったという。その年11月、一家がようやくバルビゾンに帰宅すると、新しい注文が一気に押し寄せた。", "qas": [ { "question": "『11月』は何年のサロンに出品されましたか。", "id": "tr-592-15-000", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『牛乳をかき回す女』は何年のサロンに出品されましたか。", "id": "tr-592-15-001", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "普仏戦争はいつ開戦したか。", "id": "tr-592-15-002", "answers": [ { "text": "1870年7月", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パリ・コミューンの蜂起はいつ起こったの?", "id": "tr-592-15-003", "answers": [ { "text": "1871年3月", "answer_start": 150, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "トーマス・マコーリー", "paragraphs": [ { "context": "イギリスの19世紀は繁栄の世紀だった。鉄道が国中にはりめぐらされ、港には世界中から品物が届き、富をたくわえた商人たちの間では、貴族風の生活が流行した。19世紀後半のことだが、貧しい労働者でも茶を飲めたのは当時イギリスだけである。ヨーロッパ中が革命の災禍で流血をみるなか、イギリスだけは植民地争奪戦に勝ち抜き、世界帝国をうち立てていた。世にいうヴィクトリア朝時代である。しかしこのことは、末端の民衆が幸せだったことを意味しない。\n\n工場では労働者が必要になり、地方から都市に多くの人びとが移り住んだ。かれらが住まう安アパートは家族全員で一部屋であり、下水道もなく街路は糞便・汚物にまみれていた。こうした家に住みながら、煤煙やすすの充満する工場などで1日14-15時間、彼らは働いていた。結果かれらは早死にする傾向にあり、死亡者の平均年齢は15-19歳だった。労働者や彼らに同調した者たちは、労働者の代表を議会に送りこむべきだとし、普通選挙を主張した。いわゆるチャーティスト運動である。", "qas": [ { "question": "ヴィクトリア朝時代は何世紀ですか。", "id": "tr-593-00-000", "answers": [ { "text": "19世紀", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "19世紀イギリスの死亡者の平均年齢は?", "id": "tr-593-00-001", "answers": [ { "text": "15-19歳", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "19世紀イギリスの労働者たちは工場などで一日何時間働いたか。", "id": "tr-593-00-002", "answers": [ { "text": "14-15時間", "answer_start": 325, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "トーマス・マコーリーの父ザッカリー・マコーリーはハイランド出身のスコットランド人で、植民地統治を仕事とする傍ら、奴隷制廃止のために情報収集・報告書作成・議会工作などで運動を展開していた。その伝手でトーリー党の政治家と懇意であり、家にはしばしば彼らが訪れていた。\n\nトーマスは1800年10月25日にザッカリーの第一子としてレスターシャー・ロスリーに生まれる。私立学校をへて18歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進んだ。大学で履修させられた数学はマコーリーの肌に合わなかったが、文学方面では卓越した才能を見せた。大学在学中に多くの詩を書き、賞やメダルを幾度も取った。大学ではまた、同世代の貴族の子弟たちとも親交を深めた。文筆家としてのデビューは1825年1月、西インド諸島の奴隷制についての記事を「エディンバラ評論」に投稿したのが最初である。そして同年8月に発表した2作目のミルトン論は、マコーリーを一躍有名人にのし上げた。", "qas": [ { "question": "トーマス・マコーリーの父の名前は何?", "id": "tr-593-01-000", "answers": [ { "text": "ザッカリー・マコーリー", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トーマス・マコーリーは何歳のときケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学したか。", "id": "tr-593-01-001", "answers": [ { "text": "18歳", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トーマス・マコーリーはいつ生まれたの?", "id": "tr-593-01-002", "answers": [ { "text": "1800年10月25日", "answer_start": 137, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トーマス・マコーリーの文筆家としてのデビューはいつなの?", "id": "tr-593-01-003", "answers": [ { "text": "1825年1月", "answer_start": 325, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "華々しく名を成したマコーリーであったが、個人的には災難が続いた。父ザッカリーの活動は、奴隷制廃止協会に加えロンドン大学設立その他の組織にも活動の輪を広げており、仕事をする余裕がなくなっていた。そこで自分で貿易会社を設立し、縁者にこの仕事をまかせた。ところがこの縁者に経営能力がなく、3年後の1826年には破産を避けられない状態に陥る。マコーリー家は施しを受けて生活するほどに転落し、両親と8人の弟・妹たちの生活は長男トーマスの両肩にのしかかった。マコーリーの奨学金などでなんとか食いつないできたが、1830年に妹ジェーン、つづいて1831年には母セリナを相次いで失うという不幸が続いた。\n\nこのような状況でマコーリーは生活してゆくために弁護士の道を選んだ。マコーリーの法律への興味は数学へのそれと大差ないもので、むしろ文学のほうを向いていた。そんなときにマコーリーに声をかけたのが第3代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスであった。", "qas": [ { "question": "マコーリーの母は何年に亡くなったか。", "id": "tr-593-02-000", "answers": [ { "text": "1831年", "answer_start": 265, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジェーンとセリナと、先に亡くなったのは誰なの?", "id": "tr-593-02-001", "answers": [ { "text": "ジェーン", "answer_start": 256, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "マコーリーの著作・演説は、時折独断的ではあるが力強く明確で文学的に優れ、自信に満ちた論調で有名である。代表作『イングランド史』は死の直前に出版されたもので、以来150年以上にわたり絶版されることなく売れ続けている。\n\nエディンバラ大学の機関誌『エディンバラ評論』に寄稿したミルトン論以降も同誌にはたびたび投稿し、マコーリーの明快で断定的筆致の論文は、ときには憎悪を買ったりもした。誌上で打ちのめした相手と険悪になり、決闘になりかけたこともある。議会での演説もマコーリーにとっては同じことで、名演説をいくつも残しエドマンド・バークと同格との声もあった。", "qas": [ { "question": "『イングランド史』は誰の作品なの?", "id": "tr-593-03-000", "answers": [ { "text": "マコーリー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『エディンバラ評論』はどの大学の雑誌なの?", "id": "tr-593-03-001", "answers": [ { "text": "エディンバラ大学", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "選挙に敗れた翌年にあたる1842年、マコーリーは『古代ローマ詩歌集』を発表した。マコーリーの流れるような筆致はさらに完成度を増し、発売と同時にベストセラーになっただけでなく、その後30年以上にわたり売れ続けた。のちに彼の名を歴史に残す『イングランド史』執筆はすでに始まっていた。ケンブリッジ大学の近代史欽定講座教授というポストを、女王の夫アルバートから薦められたが、自由な時間を優先したかったためか固辞した。『イングランド史』は1848年に第1巻・第2巻を出版、つづく第3・第4巻は1855年の発表である。しかしこのころ既に体調を崩しており、当初予定のジョージ3世の統治まで(1738年)続けるのはとても無理に思われた。1848年時点ではアン女王の死(1714年)で結ぼうと考えていた。しかしその目的も達せられないまま1859年、第5巻未完のままマコーリーは没する。59歳だった。出身のケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに鎮座するマコーリーの彫像は、彼の死から7年後に建てられたものである。", "qas": [ { "question": "マコーリーはいつ『古代ローマ詩歌集』を発表したか。", "id": "tr-593-04-000", "answers": [ { "text": "1842年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『イングランド史』の第1巻・第2巻はいつ出版されたか。", "id": "tr-593-04-001", "answers": [ { "text": "1848年", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マコーリーは何歳で亡くなったか。", "id": "tr-593-04-002", "answers": [ { "text": "59歳", "answer_start": 383, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "出身のケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに鎮座するマコーリーの彫像は、マコーリーの死から何年後に建てられたものですか。", "id": "tr-593-04-003", "answers": [ { "text": "7年後", "answer_start": 431, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "鏡のヴィーナス", "paragraphs": [ { "context": "『鏡のヴィーナス』は、スペイン黄金世紀の巨匠であるスペイン人画家のディエゴ・ベラスケスが描いた絵だ。『鏡を見るヴィーナス』とも。ロンドン・ナショナル・ギャラリーの所蔵で、英語圏では『ロークビーのヴィーナス(TheRokebyVenus)』と呼ばれることが多く、諸外国では他にTheToiletofVenus、VenusandCupid、LaVenusdelespejoor、LaVenusdelespejoなどと呼ばれている。1647年から1651年にかけて、ベラスケスがイタリアに滞在していたときに描かれたものといわれ、ローマ神話の女神であるヴィーナスが裸体でベッドに横たわり、彼女の息子である愛の神キューピッドが支える鏡に見入っているという構図の絵画である。", "qas": [ { "question": "『鏡のヴィーナス』は誰が描いた作品ですか。", "id": "tr-594-00-000", "answers": [ { "text": "ディエゴ・ベラスケス", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "古代からバロック期にいたるまでの数多くの絵画が、ベラスケスの『鏡のヴィーナス』に影響を与えたといわれる。イタリアの画家たちが描いた裸体のヴィーナス、たとえばジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』などである。ベラスケスはこの絵画にそれまでのヴィーナスの作品でよく描かれた、ベッドや長椅子に横たわるヴィーナス、鏡に映った自分自身を見つめるヴィーナスという二つのポーズを取り入れている。この作品は以降のさまざまな絵画表現における出発点となった。それは中央に鏡を配置することにより、鑑賞者に背を向けているヴィーナスの向こうむきの表情まで表現していることなどである。\n\n『鏡のヴィーナス』はベラスケスが描いた裸婦画で唯一現存している作品で、厳格なカトリック教国であった当時のスペインにおいて17世紀に異端審問によって徹底的に弾圧の的となった裸婦を描いたスペイン絵画で残っている非常に数少ないものの一つである。こういった弾圧にもかかわらず、外国の画家たちによって描かれた裸婦画はスペイン貴族階級の間で熱心に収集されており、『鏡のヴィーナス』も、イングランドのヨークシャーにあるカントリーハウスのロークビー・パークへ持ち込まれる1813年まではスペイン宮廷人の家に飾られていた。この絵画は1906年にナショナル・アート・コレクション・ファンドによってロンドン・ナショナル・ギャラリーのために購入された。1914年には婦人参政権論者のカナダ人メアリ・リチャードソンによって切り付けられひどく損傷したが、すぐに修復され、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに元通り展示されている。", "qas": [ { "question": "ジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』などはベラスケスのどの作品に影響を与えたか。", "id": "tr-594-01-000", "answers": [ { "text": "『鏡のヴィーナス』", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベラスケスが描いた裸婦画で唯一現存している作品は何ですか。", "id": "tr-594-01-001", "answers": [ { "text": "『鏡のヴィーナス』", "answer_start": 301, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『鏡のヴィーナス』が、イングランドのヨークシャーにあるカントリーハウスのロークビー・パークへ持ち込まれたのは何年のことか。", "id": "tr-594-01-002", "answers": [ { "text": "1813年", "answer_start": 528, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『鏡のヴィーナス』は何年にロンドン・ナショナル・ギャラリーのために購入されたか。", "id": "tr-594-01-003", "answers": [ { "text": "1906年", "answer_start": 558, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『鏡のヴィーナス』はローマ神話の愛と美と豊穣の女神であるヴィーナスが、しどけない姿でベッドにもたれかかっている様子を描いている。古代の芸術作品でも背中を向けたヴィーナスはよく見られた構図で、文学的性愛を表すモチーフであった。この作品でもヴィーナスは背中を向けており、右ひざは左脚の下に隠れている構図となっている。神話をモチーフにした絵画に通常描き足されている、バラ、宝石、ミルトスといった装飾物は一切描かれていない。また、それまでに描かれたヴィーナスはほとんどがブロンドの髪だが、ベラスケスはこの作品でブルネットの髪のヴィーナスを描いている。彼女の息子であるキューピッドがともに描かれていることによって、初めてこの作品の女性がヴィーナスであると理解できるようになっている。", "qas": [ { "question": "ローマ神話の愛と美と豊穣の女神は誰?", "id": "tr-594-02-000", "answers": [ { "text": "ヴィーナス", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "古代の芸術作品で背中を向けたヴィーナスは何を表すモチーフでしたか。", "id": "tr-594-02-001", "answers": [ { "text": "文学的性愛", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『鏡のヴィーナス』で、ヴィーナスの右ひざは何の下に隠れているか。", "id": "tr-594-02-002", "answers": [ { "text": "左脚", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベラスケスの描いた『鏡のヴィーナス』で、ヴィーナスの髪色は何なの?", "id": "tr-594-02-003", "answers": [ { "text": "ブルネット", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベラスケスの『鏡のヴィーナス』で、ヴィーナスはキューピッドによって支えられている鏡を見つめているが、キューピッドにはその象徴である弓矢は描かれていない。この作品が最初に発表されたとき、恐らくは意図的に論争を巻き起こすために「裸婦像(anudewoman)」として紹介された。この絵のヴィーナスの表情は鏡に映ったイメージとして描かれているが、その顔の特徴はぼかされ、曖昧にしか表現されていない。美術評論家のナターシャ・ウォレスは、ヴィーナスの不明瞭な顔こそがこの絵の本質的な意味を表す鍵かも知れないと考えた。ウォレスは「ヴィーナスの肖像としての顔や描写に神話的な意味は何もない。この絵を観る人それぞれが夢中になる美のイメージが表されている」「ヴィーナスの顔や描写には神話的な意味はなく、神話を隠れ蓑にした性愛画と言える。しかしそれと同時に魅力あふれる素晴らしく美しい作品である」と述べている。", "qas": [ { "question": "ベラスケスの『鏡のヴィーナス』で、鏡を支えているのは誰ですか。", "id": "tr-594-03-000", "answers": [ { "text": "キューピッド", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『鏡のヴィーナス』に対して、ヴィーナスの不明瞭な顔こそがこの絵の本質的な意味を表す鍵かも知れないと考えていた評論家は誰ですか。", "id": "tr-594-03-001", "answers": [ { "text": "ナターシャ・ウォレス", "answer_start": 202, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベラスケスの『鏡のヴィーナス』には鏡のフレームに絡みつき、垂らされているピンクのシルクのリボンが描かれている。このリボンが何を表しているのかが美術史家たちによって議論されてきた。それらの議論の中には、恋人同士を結びつけ、また拘束するキューピッドの力を示したものである、鏡を壁に掛けるためのものである、ヴィーナスの目隠しに直前まで使われたものである、などといった見解もあった。評論家のフリアン・ギャラーゴは、キューピッドの表情が非常に憂鬱に見えることに着目し、このリボンがヴィーナスを美の女神の名の下に拘束するものではないかと考え、この絵を「美に征服された愛(AmorconqueredbyBeauty)」と名付けた。\n\nベッドのシーツはヴィーナスの身体に沿ってしわになり、そのなめらかな肢体を強調する役割を与えられている。使用されている色は主にレッド、ホワイト、グレイの濃淡で、これらはヴィーナスの肌の色としても使われている。このシンプルな色の構成は非常に高く評価されてきたが、最近の研究によればグレイのシーツはもともとは深いモーブだったものが、色あせた結果グレイになったとされている。光沢のある明るい色はヴィーナスの肌に「滑らかでクリームのように混ぜ合わされて」使われ、シーツに使われているダークグレイやブラック、壁のブラウンとは対照的に描かれている。", "qas": [ { "question": "「美に征服された愛(AmorconqueredbyBeauty)」という言葉は誰から出てきたの?", "id": "tr-594-04-000", "answers": [ { "text": "フリアン・ギャラーゴ", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『鏡のヴィーナス』で、恋人同士を結びつけ、また拘束するキューピッドの力を示したものである、鏡を壁に掛けるためのものである、ヴィーナスの目隠しに直前まで使われたものである、などといった解釈を生み出したリボンは何色なの?", "id": "tr-594-04-001", "answers": [ { "text": "ピンク", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『鏡のヴィーナス』のベッドのシーツは何を強調する役割として描かれていますか。", "id": "tr-594-04-002", "answers": [ { "text": "肢体", "answer_start": 343, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最近の研究によればグレイのシーツはもともとは何色でしたか。", "id": "tr-594-04-003", "answers": [ { "text": "深いモーブ", "answer_start": 461, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『鏡のヴィーナス』はベラスケスが描いた作品で現存する唯一の裸婦画であるが、その他に3枚の裸婦画の存在がスペインに記録として残っている。うち2枚はスペイン王室コレクションの記録で、1734年のマドリード王宮の火災で絵が焼失した可能性が高い。残る1枚はドミンゴ・ゲルラ・コロネルのコレクションとして記録されている。これらの絵はそれぞれ、『もたれかかるヴィーナス(arecliningVenus)』、『ヴィーナスとアドニス(VenusandAdonis)』、『プシュケとキューピッド(PsycheandCupid)』と名付けられていた。\n\nベラスケスは裸婦画を生涯にわたって描き続けたと考えられているが、そのモデルは同一人物ではないかと推測されている。当時のスペインでは芸術家が制作のために男性のヌードモデルを雇うことは認められていたが、女性のヌードモデルを使うことは問題視されていた。『鏡のヴィーナス』はベラスケスがローマに滞在していたときに描かれたものであると言われ、美術史家のアンドレアス・プラーターは、ローマでのベラスケスが「生身の女性のヌードモデルを使うべきであるという考えるにいたるような、放埒な生活を送ったのは間違いない」としている。この絵はベラスケスのイタリア滞在時の愛人を描いたものではないかと考えられており、さらにこの女性はベラスケスとの子供を産んだとも言われている。プラド美術館所蔵の『聖母戴冠(CoronationoftheVirgin,1640年頃)』、『アラクネの寓話(織女たち)(LasHilanderas,1657年頃)』など、他にもこの女性がモデルになっている絵があると考えられている。", "qas": [ { "question": "スペインの記録によると、ベラスケスが描いた裸婦画は『鏡のヴィーナス』以外に何枚あるの?", "id": "tr-594-05-000", "answers": [ { "text": "3枚", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『もたれかかるヴィーナス(arecliningVenus)』、『ヴィーナスとアドニス(VenusandAdonis)』、『プシュケとキューピッド(PsycheandCupid)』を描いたのは誰?", "id": "tr-594-05-001", "answers": [ { "text": "ベラスケス", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時のスペインで問題視されていたのはヌードモデルを雇うことでしたか、するとも女性のヌードモデルを雇うことでしたか。", "id": "tr-594-05-002", "answers": [ { "text": "女性のヌードモデル", "answer_start": 366, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『聖母戴冠(CoronationoftheVirgin,1640年頃)』はどの美術館に所蔵されているか。", "id": "tr-594-05-003", "answers": [ { "text": "プラド美術館", "answer_start": 591, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『鏡のヴィーナス』ではヴィーナスもキューピッドも制作中に何度も描き直されており、ヴィーナスの腕の位置が現在とは違って、左肩や頭に描かれていた跡が残っている。赤外線分析ではもともとヴィーナスの頭部は左よりで、身体を起こした構図だったことが明らかにされた。絵の左側のヴィーナスの左脚とキューピッドの脚の部分は一見未完成にも見えるが、同じような表現はベラスケスの他の多くの作品にも見られ、恐らく意図的なものである。1965年から1966年にかけてこの絵は洗浄修復され、それまでの評論家たちの主張とは異なり、ごくわずかではあるが後世に他の画家によって加筆されていることが判明した。", "qas": [ { "question": "『鏡のヴィーナス』で一見未完成にも見える部分はヴィーナスの左脚とまた何ですか。", "id": "tr-594-06-000", "answers": [ { "text": "キューピッドの脚", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イタリア、特にヴェネツィア派の画家たちによる裸婦画やヴィーナス像はベラスケスの『鏡のヴィーナス』に影響を与えている。しかしながらプラーターによればベラスケスのこの絵は「独自の美術様式を確立している。多くの絵画の影響を受けてはいるが、直接に模範にしたような作品は存在しない。学者がそんな作品を探そうとしても無駄なことだ」としている。\n\nこの絵が影響を受けている絵画とはティツィアーノの『ヴィーナスとキューピッドとライチョウ』、『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』、特に『ウルビーノのヴィーナス』、ヴェッキオの『横たわる裸婦』、ジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』などである。すべて豪奢な織物にもたれかかったヴィーナスの構図で、屋外を描いたヴェッキオとジョルジョーネの絵でもこの構図は変わらない。", "qas": [ { "question": "プラーターの「独自の美術様式を確立している。多くの絵画の影響を受けてはいるが、直接に模範にしたような作品は存在しない。学者がそんな作品を探そうとしても無駄なことだ」という言葉はどの作品に対する言葉なの?", "id": "tr-594-07-000", "answers": [ { "text": "『鏡のヴィーナス』", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ヴィーナスとキューピッドとライチョウ』、『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』、『ウルビーノのヴィーナス』などはベラスケスのどの作品に影響を与えたか。", "id": "tr-594-07-001", "answers": [ { "text": "『鏡のヴィーナス』", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベラスケスの『鏡のヴィーナス』で、中央に置かれた鏡はイタリアルネサンス最盛期の画家たちからの影響を受けている。ティツィアーノ、ジローラモ・サヴォルド、ロレンツォ・ロットなどで、彼らは単なる柱や装飾物などとは異なり、鏡を主要な題材として絵画に表現した。ティツィアーノとルーベンスはこの絵が描かれる以前に、鏡に見入るヴィーナスの絵を描いている。二人ともスペイン宮廷と深い関係のあった画家で、ベラスケスも彼らの作品を目にする機会は多かったものと思われる。しかしながら「細いウェストと張り出したヒップで描かれたこの女性は、古代の彫刻に影響を受けている丸みをおびたイタリアの裸婦画との共通点はない」。\n\n『鏡のヴィーナス』が画期的な点は、主題の人物像が背中を向けて鑑賞者から距離を置いていることにある。すでに版画ではジュリオ・カンパニョーラ、アゴスティーノ・ヴェネツィアーノ、ハンス・シーボルト・ベーハムなどの作品や、当時マドリードで見ることが出来た古代彫刻の複製にも同様の構図の作品は存在しており、ベラスケスも目にしていたはずである。現在フィレンツェのピッティ宮殿で見ることができる『眠れるアドリアーネ』は当時ローマにあり、ベラスケス自身が王室コレクションのために1650年から1651年にかけてその複製を依頼している。現在ルーブル美術館にある、『鏡のヴィーナス』と同様にウエストからヒップの曲線が強調された『ボルゲーゼのヘルマプロディートス』の彫刻複製もマドリードに送られていた。前例があるとはいえ、このような前例の作品要素を組み合わせ、絵画に再構成したベラスケスの作品は独自の物であると言える。", "qas": [ { "question": "ティツィアーノ、ジローラモ・サヴォルド、ロレンツォ・ロットなどは何を主要な題材として絵画に表現したか。", "id": "tr-594-08-000", "answers": [ { "text": "鏡", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17世紀のスペインでは裸婦画は公式に禁じられていた。裸婦画は異端審問所によって没収、塗りつぶされ、わいせつ、不道徳な絵を描いたとみなされた画家は破門されるか、罰金あるいは一年間のスペイン追放といった処罰を受けた。しかしながら知識階級、貴族階級層では芸術の追求は道徳の問題にとらわれるものではないと考えられ、プライベート・コレクションには主に神話を題材にした多くの裸婦画が存在していた。芸術を愛し、ベラスケスのパトロンでもあったスペイン王フェリペ4世はティツィアーノやルーベンスが描いた裸婦像を多く所有しており、ベラスケスもフェリペ4世お気に入りの画家として、裸婦画を描くことを問題視する必要はなかった。当時の主要な絵画コレクターは、自身の個室に神話を主題とした裸婦画を飾っており、フェリペ4世の場合は「国王陛下が食後にくつろぐ部屋」に、先々代のスペイン王フェリペ2世から受け継いだティツィアーノの『ポエジア』や、王自らルーベンスに描かせた裸婦画があった。『鏡のヴィーナス』もスペインにあった当時はこのような部屋に飾られていたのかも知れない。芸術を愛したフェリペ4世の宮廷では「絵画は多くの人々に歓迎され、裸婦画は特定の限られた人々に歓迎された。しかし同時に、裸婦画を描かないように画家たちは非常に大きな圧力をかけられた」", "qas": [ { "question": "スペインでは裸婦画は公式に禁じられていたのは何世紀のことか。", "id": "tr-594-09-000", "answers": [ { "text": "17世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベラスケスのパトロンは誰?", "id": "tr-594-09-001", "answers": [ { "text": "フェリペ4世", "answer_start": 218, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "裸婦画に対する当時のスペインの姿勢は、他のヨーロッパ諸国に比べて独特のものだった。裸婦画はスペイン国内の鑑定家、知識階級たちに評価されていたが、懐疑的に見られることが多かった。胸元を見せる低いネックラインの服が当時の女性の間で着用されていたが、美術史家のザイーラ・ヴェリスは「著名な女性がこのように胸元をあらわにした姿は、礼節上絵に描かれることは難しいだろう」と述べている。17世紀のスペインにおいて芸術における裸体は、道徳、権力、芸術観などに束縛されていた。このような傾向はスペイン黄金世紀の文学にも影響しており、スペイン人劇作家ロペ・デ・ベガの戯曲である『LaquintadeFlorencia』では、神話を題材にしたミケランジェロが描いた半裸の人物の絵を見て女性を暴行する貴族が登場する。", "qas": [ { "question": "『LaquintadeFlorencia』は誰が制作したか。", "id": "tr-594-10-000", "answers": [ { "text": "ロペ・デ・ベガ", "answer_start": 266, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "劇作家ロペ・デ・ベガの母国はどこ?", "id": "tr-594-10-001", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 238, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "対照的に当時のフランスでは、胸元があらわで、細いコルセットを身につけた女性の絵画がしばしば描かれた。しかしながらフランス王室による、裸婦が描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な『レダと白鳥』やミケランジェロの作品破棄、コレッジョの作品に対する裸婦画部分の切断など、フランスでも裸婦画が論争の的になっていたことは明らかである。北欧では巧みに布で肌を隠した裸婦像は認められていた。胸があらわに描かれたルーベンスの『ミネルヴァに扮したマリー・ド・メディシス』や、ヴァン・ダイクの『ヴィーナスとアドニスに扮したバッキンガム公爵夫妻』などがある。", "qas": [ { "question": "『レダと白鳥』は誰が描いたの?", "id": "tr-594-11-000", "answers": [ { "text": "レオナルド・ダ・ヴィンチ", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ミネルヴァに扮したマリー・ド・メディシス』は誰が描いた作品なの?", "id": "tr-594-11-001", "answers": [ { "text": "ルーベンス", "answer_start": 199, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17世紀のスペイン美術では、神話上のシビュラ、ニンフ、女神などの描写であっても女性の身体は完全に隠された。1630年代から1640年代には風俗画、肖像画、歴史画からも胸をあらわにした女性はもちろん、腕を露出した女性すらも全くといえるほど描かれていない。1997年に美術史家のピーター・チェリーは、ベラスケスがこういった当時の風潮を克服しようとして、背中を向けたヴィーナスを描いたのではないかと推測している。18世紀半ばになっても、アルバ公爵のコレクションに加えられた裸体のヴィーナスを描いたイギリス人画家自ら「題材に問題があるため壁に掛けてはならない」としている。", "qas": [ { "question": "ベラスケスがこういった当時の風潮を克服しようとして、背中を向けたヴィーナスを描いたのではないかと推測している学者は誰?", "id": "tr-594-12-000", "answers": [ { "text": "ピーター・チェリー", "answer_start": 137, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『鏡のヴィーナス』は、ベラスケスの傑作絵画のひとつとして長期間所有されてきた。フェリペ4世の近臣だったガスパール・メンデス・デ・ガズマン・アーロが所有していた絵画コレクションの、1651年6月1日付けの目録にこの作品が記録されていることが1951年に判明した。オリバーレス伯公爵だったアーロはベラスケスの最初のパトロンの甥で、有名な道楽者だった。美術史家のドーソン・カーはアーロのことを「女性を愛するのと同じくらいに絵画を愛した」そして「賞賛する人でさえ、彼が若いころに下級階層の女性に示した、度を過ぎた耽溺を嘆いていた」と書いている。このような理由で、アーロは絵画を集めるようになったのではないかと思われている。さらに2001年に美術史家のアンヘル・アテリドが、『鏡のヴィーナス』はマドリードの画商で、画家でもあったドミンゴ・ゲーラ・コロネルが最初の所有者で、コロネルが死去する数年前の1652年にアーロに売却されたことを発見した。コロネルがなぜこの絵を所有していたのか多くの謎に包まれている。どうやって、いつ入手したのか、なぜコロネルの絵画目録にベラスケスの絵画が記録されていないのか、などである。美術評論家のハヴィエル・ポルトゥスは、絵画目録にこの絵が記録されていないのは裸婦を描いた絵だったためではないかと推測し、「この種の絵画は人目をはばかるものだとみなされていたため、用心深く隠匿されていた」と考えている。", "qas": [ { "question": "フェリペ4世の近臣だったガスパール・メンデス・デ・ガズマン・アーロが所有していた絵画コレクションの、1651年6月1日付けの目録に『鏡のヴィーナス』が記録されていることは何年に判明したか。", "id": "tr-594-13-000", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベラスケスの最初のパトロンの甥の名前は何?", "id": "tr-594-13-001", "answers": [ { "text": "アーロ", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドーソン・カーが「女性を愛するのと同じくらいに絵画を愛した」と評価した人は誰?", "id": "tr-594-13-002", "answers": [ { "text": "アーロ", "answer_start": 186, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『鏡のヴィーナス』の最初の所有者は誰なの?", "id": "tr-594-13-003", "answers": [ { "text": "ドミンゴ・ゲーラ・コロネル", "answer_start": 359, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このような新事実はこの絵画の正確な来歴の把握を困難にしている。力強い色彩や色調はこの作品がベラスケスの円熟期に描かれたものであろうことを示唆しているが、それでも正確な制作年代ははっきりしていない。この絵が最初に完成した年代(完成後にベラスケス自身が描き直し、加筆した可能性もある)の、もっとも有力な説は1640年代終わりか1650年代初めである。いずれにせよ、彼がスペインか、あるいは最後にイタリアに滞在していた時期となる。もしこの説が正しいならば、『鏡のヴィーナス』は、ベラスケスが最晩年に到達する画風の過渡期の作品となる。彼の初期における慎重な人物造形と力強い色調のコントラストは、後期の傑作『ラス・メニーナス』で頂点に達した、抑制された精妙な表現へと移行しているのである。", "qas": [ { "question": "『ラス・メニーナス』を描いたのは誰?", "id": "tr-594-14-000", "answers": [ { "text": "ベラスケス", "answer_start": 45, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後『鏡のヴィーナス』は友人で画家のトーマス・ローレンス卿の助言を受けたジョン・モリットによって500ポンドで購入され、1813年にイングランドに持ち込まれた。彼はこの作品をヨークシャーのロークビー・パークにあった自身のカントリーハウスに飾った。このことからこの作品は『ロークビーのヴィーナス(TheRokebyVenus)』と呼ばれることもある。1906年にこの作品は、当時新設されたナショナル・アート・コレクション・ファンドが、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに最初に購入した絵画となった。イギリス王エドワード7世はこの作品を非常に気に入り、購入資金として匿名で8,000ポンドを寄付し、その後このファンドのパトロンとなった。", "qas": [ { "question": "ジョン・モリットは『鏡のヴィーナス』をいくらで購入したか。", "id": "tr-594-15-000", "answers": [ { "text": "500ポンド", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョン・モリットが『鏡のヴィーナス』をヨークシャーのロークビー・パークにあった自身のカントリーハウスに飾ったことから、『鏡のヴィーナス』は何と呼ばれるようになったか。", "id": "tr-594-15-001", "answers": [ { "text": "『ロークビーのヴィーナス(TheRokebyVenus)』", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1906年、ナショナル・アート・コレクション・ファンドが、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに最初に購入した絵画は何ですか。", "id": "tr-594-15-002", "answers": [ { "text": "『鏡のヴィーナス』", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベラスケスは19世紀半ばまで後世に評価されず、絵画表現上の追随者も、作品が模倣されることもほとんどなかった。近年まで『鏡のヴィーナス』の視覚的、構成的革新性は他の画家たちによって発展させられることはなく、それはこの作品が俗悪なものであるという偏見も大きく影響していた。1857年にマンチェスターで開催された「マンチェスター美術名宝博覧会」で、ベラスケスの名前が25枚の絵画によって紹介され、『鏡のヴィーナス』の存在が知られることになる。この博覧会までベラスケスの絵画はプライベートコレクションにひっそりと眠っているだけで、この作品が他の芸術家たちによって模倣されることはなかった。1890年と1901年に、後にモリットからこの作品を購入したアグニューらによって、ロンドンの王立芸術院に展示された。その後、『鏡のヴィーナス』は1906年にナショナル・ギャラリーに収蔵されると人目につく場所に展示され、模写された絵画を通して広く知られるようになった。この絵を目にした画家たちの作品にその影響が現れるまでには、長い時間を必要としたのである。", "qas": [ { "question": "1857年の「マンチェスター美術名宝博覧会」はどこで開催されたか。", "id": "tr-594-16-000", "answers": [ { "text": "マンチェスター", "answer_start": 140, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この作品は、モデルとの性的な関係をも想起させるような親密な瞬間を切り取ったもので、それまでの古代芸術やヴェネツィア派画家たちが描いてきたヴィーナスの寝姿の表現とは、劇的なまでにかけ離れていた。しかしながら、それまで女神を題材とした絵画では当然のように描き加えられていた宝石や装飾品を一切使わずにベラスケスが描いたこのシンプルな裸婦画は、後世のアングル、マネ、ボードリーといった裸婦画を描いた画家たちによって研究され、模写されることとなる。それまでも多くの画家が同じように寝そべっている裸のヴィーナスの絵を描いてきたにもかかわらず、裸のヴィーナスが寝そべり、さらに背中を向けているというベラスケスの構成は非常に斬新なものだったのである。マネは全裸の女性を題材とした作品『オランピア』で『鏡のヴィーナス』のポーズを反転させて、天界の女神ではなく本物の女性の裸婦画として置き換えて見せた。1863年に『オランピア』が最初に紹介されたときに、パリの美術界は大きな衝撃を受けた。『鏡のヴィーナス』が鑑賞者を鏡を通して視線を向けていたのと同様に、『オランピア』は鑑賞者を直接見つめていたのである。", "qas": [ { "question": "『オランピア』は誰の作品なの。", "id": "tr-594-17-000", "answers": [ { "text": "マネ", "answer_start": 317, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『鏡のヴィーナス』と『オランピア』のうち、女性が鑑賞者を直接見つめている作品は何?", "id": "tr-594-17-001", "answers": [ { "text": "『オランピア』", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1914年3月10日に過激婦人参政権論者であるカナダ人女性メアリー・リチャードソンがナショナル・ギャラリーに立ち入り、持っていた肉切り包丁で『鏡のヴィーナス』に切りつけた。以前から婦人参政権論者たちがナショナル・ギャラリーを襲撃する可能性があることは警告されており、その前日に仲間の婦人参政権論者であったエメリン・パンクハーストが逮捕されたことに対する報復として、リチャードソンがこの事件を起こしたと考えられた。リチャードソンは描かれているヴィーナスの肩から腰にかけて7箇所の傷をつけたが、ナショナル・ギャラリーの主任修復家だったヘルムート・ルーマンによってほぼ元通りに修復することに成功した。\n\nリチャードソンには美術品損壊に対する刑罰としては最高刑の禁固6か月が言い渡された。その直後に彼女は、婦人参政権論者の集団である婦人社会政治連合に宛てて「私は神話の歴史のなかでもっとも美しい女性を描いた絵を攻撃した。それは現代史においてもっとも品性美しい人物であるエメリン・パンクハースト夫人をイギリス政府が攻撃していることへの抗議である」という声明を出した。リチャードソンは1952年にもインタビューに応じ「ナショナル・ギャラリーを訪れた男性客たちが、あの絵に長いこと見とれているのが我慢できなかった」と付け加えている。\n\nフェミニスト作家であるリンダ・ニードは「あの事件は、女性ヌードに対するフェミニスト的態度の見方の象徴となった。ある意味で、あのような見方が、フェミニズムというもののステレオタイプとして広く認知されるようになってしまった」と考察している。\n\n当時のこの事件に関する報道から、『鏡のヴィーナス』が一般に単なる芸術作品として見られていたわけではないのは明らかである。当時の記者たちは「殺人」という言葉を使ってこの事件を説明することが多く、絵に描かれた女性像に対する表現ではなく、生身の女性に怪我を負わせたかのような表現を用いた。高級紙のロンドン・タイムズでさえ、『鏡のヴィーナス』の来歴に関する記事のなかで、絵画のヴィーナスの切られた跡を「首の残酷な傷跡」と記述し、それは肩や背中の切られた箇所の記述についても同様であった。", "qas": [ { "question": "1914年3月10日、メアリー・リチャードソンが切りつけた作品は何ですか。", "id": "tr-594-18-000", "answers": [ { "text": "『鏡のヴィーナス』", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メアリー・リチャードソンによって切りつけられた『鏡のヴィーナス』を修復した人は誰?", "id": "tr-594-18-001", "answers": [ { "text": "ヘルムート・ルーマン", "answer_start": 265, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "リチャードソンが「ナショナル・ギャラリーを訪れた男性客たちが、あの絵に長いこと見とれているのが我慢できなかった」と付け加えたのは何年のインタビューなの?", "id": "tr-594-18-002", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 486, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、美術品損壊に対する最高刑は何でしたか。", "id": "tr-594-18-003", "answers": [ { "text": "禁固6か月", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ビザンティン建築", "paragraphs": [ { "context": "ビザンティン建築を単に時代区分として捉えた場合、コンスタンティヌス大帝が330年に首都をビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転した時から、1453年のオスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代を指しているが、「東ローマ帝国」「ビザンツ(ビザンティン)帝国」といった呼称が、現代の歴史編集によって、東方世界に継承されたローマ帝国を便宜上区分しているだけであるのと同様に、ビザンティン建築についても、4世紀の時点でローマ建築との様式的、工学的な転換点が明確に存在するわけではない。4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国では国教となったキリスト教の礼拝空間が形成され、今日、これは特に初期キリスト教建築と呼ばれている。キリスト教徒は教会堂を建設するにあたって、ローマの世俗建築であるバシリカを採用したが、ユスティニアヌス帝の君臨した6世紀に、宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間を創造した。ハギア・ソフィア大聖堂はその嚆矢であり、バシリカとドームを融合したキリスト教の礼拝空間はそれまでにない全く新しい形態であった。これは、ローマ帝国から受け継がれた高度な建築技術によって完成したものであり、初期ビザンティン建築の傑作であるとともに、ローマ建築の技術的な最終到達点であるといえる。", "qas": [ { "question": "教会堂が宗教空間から、象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間に変わったのは、誰が君臨してからか?", "id": "tr-595-00-000", "answers": [ { "text": "ユスティニアヌス帝", "answer_start": 366, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユスティニアヌス帝が君臨する前の教会堂は、何を採用していましたか?", "id": "tr-595-00-001", "answers": [ { "text": "バシリカ", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし、イスラム帝国や異民族の侵入による国土の縮小、帝国の政治機構の転換に伴ってビザンティン建築も変容し、やがて初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するに至った。初期のビザンティン建築が勢力下に張り巡らされた建築材料の流通経路や建設のための高度な施工技術から、ローマの建築(末期ローマ建築)でもあるといえるのに対し、7世紀から9世紀にかけての東ローマ帝国は、古代世界とは異なった状況を迎えているため、この暗黒時代をビザンティン建築の一つの分岐点とする指摘もある。中期以降の東ローマ帝国は地中海貿易の優位性を失い、唯一の大都市コンスタンティノポリスを擁する農業国となったので、初期の建築とは必然的に異なる様相を見せる。11世紀初頭には皇帝バシレイオス2世の元で東ローマ帝国は最盛期を迎えるが、巨大な公共建築物は必要とされなくなり、建設の主流は貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられた。これは9世紀まで続いた聖像破壊運動が修道院の独立を促し、修道院の建設、移転、譲渡が裕福な寄進者によって行われるカリスティキアと呼ばれる制度が形成されたことによる。多数の人員を収容する必要がなくなったため、教会堂は小型化し、その結果、それまでのバシリカは放逐されて、内接十字型とよばれるドームを頂く中小規模の教会堂建築が主流となった。", "qas": [ { "question": "ローマ帝国が初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するようになったのは、外部からの侵入のほかに、何があったからですか?", "id": "tr-595-01-000", "answers": [ { "text": "政治機構の転換", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "多数の人員を収容する必要があったのは、初期の建築と中期以降の建築のうち、どちらか?", "id": "tr-595-01-001", "answers": [ { "text": "初期の建築", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "皇帝バシレイオス2世の時代の教会堂の規模はどうだったか?", "id": "tr-595-01-002", "answers": [ { "text": "中小規模", "answer_start": 550, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "建設の主流が貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられたのは、どの制度のためか?", "id": "tr-595-01-003", "answers": [ { "text": "カリスティキア", "answer_start": 457, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "9世紀から13世紀までの中期ビザンティン建築には、ほとんど変化が見られなかったが、十字軍の侵略による国家の分裂、西ヨーロッパの宮廷との繋がりなどにより、帝国末期の建築には多様性が見られるようになった。帝国に在留する西欧人は自国の建築を移植したため、末期ビザンティン建築には、ロマネスク建築やゴシック建築の影響を受けたものも散見されるが、その発展は帝国の滅亡とともに途絶え、東欧諸国の建築にその影響を残すのみとなった。東ローマ帝国では、住宅や宮殿、貯水槽、要塞、橋梁、慈善施設などの建造物が造られたことが豊富な文献より明らかであるが、こうした中期以降の世俗建築はほとんど残っていない。また、東ローマ帝国の文書は細部の説明が不明瞭で、日常生活についての記述がほとんどないため、ビザンティン建築の実情をはっきりと説明できる建築物は残存する教会堂建築に限られる。しかし、東ローマ帝国の人々は教会建築しか造らなかったわけではない。", "qas": [ { "question": "中期ビザンティン建築と末期ビザンティン建築のうち、多様性がよく見られたのは、どちらか?", "id": "tr-595-02-000", "answers": [ { "text": "末期ビザンティン建築", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "末期ビザンティン建築が影響を受けたのは、ロマネスク建築のほかに、何ですか?", "id": "tr-595-02-001", "answers": [ { "text": "ゴシック建築", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "帝国末期においてのビザンティン建築の発展は、何とともに途絶えたか?", "id": "tr-595-02-002", "answers": [ { "text": "帝国の滅亡", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビザンティン建築における時代区分とは、何に限られてしかはっきり説明できないものか?", "id": "tr-595-02-003", "answers": [ { "text": "教会堂建築", "answer_start": 366, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "4世紀から6世紀までの初期ビザンティン建築は、末期ローマ建築の要素と初期キリスト教建築が混在しているが、両者の明確な区別はほとんど不可能である。また、この時代の宮殿・住居などの世俗建築は図版や文献も含めてあまり残っておらず、これについての記述は今後の発掘・研究を待たねばならない。一方で、今日、初期キリスト教建築と呼ばれる建築群については、原型のまま残っているものはないものの、文献や遺構の調査によってその全貌が知られている。黎明期のキリスト教は美術に対して敵対的で独自の宗教美術は持たず、文献などから宗教行事は比較的大きな個人邸宅を借用していたと考えられている。しかし、布教地域が拡大するにつれて宗教美術も発展し始め、4世紀前半にはローマの神々を祭る異教礼拝堂を思わせないバシリカを採用することで礼拝空間を確立した。ローマ建築におけるバシリカはそもそも礼拝を目的とした建築ではなかったが、キリスト教の宗教儀礼は一般信徒と司祭が参加する集会的形態であったので、宗教空間としては有効に機能したと推察されている。ただし、これはキリスト教独自の活動ではなく、ユダヤ教やミトラ教も同様で、ロンドンのクイーン・ヴィクトリア・ストリート(英語版)に存在するミトラ教寺院(2世紀頃)の遺構などもバシリカ式神殿であることが知られている。", "qas": [ { "question": "初期ビザンティン建築とは、末期ローマ建築の要素と何が混在しているものか?", "id": "tr-595-03-000", "answers": [ { "text": "初期キリスト教建築", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バシリカを採用する前の宗教行事はどこを借用していたの?", "id": "tr-595-03-001", "answers": [ { "text": "比較的大きな個人邸宅", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ローマ建築においてそもそも礼拝を目的とした建築ではなかったが、キリスト教により採用された建築様式と同じ様式を採用したと思われる建築物は何か?", "id": "tr-595-03-002", "answers": [ { "text": "ミトラ教寺院", "answer_start": 522, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "キリスト教とミトラ教のうち、どちらがより早くバシリカを採用したのか?", "id": "tr-595-03-003", "answers": [ { "text": "ミトラ教", "answer_start": 481, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "初期キリスト教建築としては、ローマに初めて建設されたローマ司教座教会堂であるコンスタンティヌスのバシリカや、450年頃にコンスタンティノポリスに建設されたストゥディオス修道院(英語版)のアギオス・ヨアンニス聖堂、同時代にテッサロニキに建設されたアギイ・アヒロピイトス聖堂、ラヴェンナに550年頃建されたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、エルサレムの聖墳墓聖堂などが挙げられる。これらは全てバシリカである。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている。初期キリスト教建築として特筆すべきもう一つの重要な建築は、聖地や殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)である。324年頃に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設された。333年頃に起工されたベツレヘムの聖降誕教会や、キリストが弟子たちに説法を行ったとされる洞窟を収容したエレオナ教会礼拝堂、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂、5世紀中期に建設されたテッサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂などの建築はすべてマルティリウムであるが、崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、様々な形式で創られた。また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々に様々な用途の建築が建て増しされ、大規模な複合建築物となった。5世紀初期に建設された登塔者聖シメオンを崇敬するための宗教施設であるカラート・セマーン建築群や、ルザファ建築群、ゲラサ建築群などは、その好例である。", "qas": [ { "question": "サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂とアギオス・ヨアンニス聖堂のうち、より早く建設されたのは?", "id": "tr-595-04-000", "answers": [ { "text": "アギオス・ヨアンニス聖堂", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂とアギイ・アヒロピイトス聖堂のうち、より早く建設された聖堂はどちらか?", "id": "tr-595-04-001", "answers": [ { "text": "アギイ・アヒロピイトス聖堂", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ベツレヘムの聖降誕教会とサン・ピエトロ大聖堂のうち、より早期に建設された建物はどちらですか?", "id": "tr-595-04-002", "answers": [ { "text": "サン・ピエトロ大聖堂", "answer_start": 404, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書で紹介されている聖堂の中で、最も遅く建設されたのはどの聖堂か?", "id": "tr-595-04-003", "answers": [ { "text": "サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "このようなマルティリウムの建設は、聖地への巡礼運動と密接な関係がある。6世紀末期まで、コンスタンティノポリスからシリアに至る東地中海沿岸部では活発な交易が行われており、港湾都市は貿易によって賑わった。これらの都市を経由する聖地への巡礼も大々的に行われており、人と金の大動脈が形成されていた。このため、沿岸部の港湾都市には聖堂や都市の遺跡が数多く残る。エフェソスやハリカルナッソス(現ボドルム)のほか、日本調査隊が発掘したリキア地方のゲミレル島、アンティオケイアなどに、その痕跡を見ることができる。アンティオケイアやカラート・セマーンなどの巨大宗教施設は、5世紀末から急速に繁栄した北シリアの経済発展がもたらしたものであるが、5世紀末から6世紀初頭のキリスト教建築は、地域の独自性というものも見過ごすことのできない大きな潮流となっていた。これは地域の経済活動と修道院主義の結びつきや、帝国の地政学的要因、あるいは神学論争と関連する(詳しくはキリスト教の歴史を参照)。特に、隔たりを大きくしたキリスト教各派の神学論争は地域性に深い影響を与えており、カラート・セマーンのように皇帝の経済援助を受ける修道院は別として、この当時のシリア、エジプトの教会建築はコンスタンティノポリスの影響をほとんど受けることがなかった。このような建築的特徴は、異端とされた単性論教会の活動と、シリア語・コプト語の成立とともに、民族主義的傾向の一端としてしばしば参照される。", "qas": [ { "question": "マルティリウムの建設と密接な関係であるのは、何ですか?", "id": "tr-595-05-000", "answers": [ { "text": "聖地への巡礼運動", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "巨大宗教施設はどこの経済発展がもたらしたものか?", "id": "tr-595-05-001", "answers": [ { "text": "北シリア", "answer_start": 290, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "聖地への巡礼が大々的に行われたことにより、人と金の大動脈が形成されたのは、どんな都市でのことなの?", "id": "tr-595-05-002", "answers": [ { "text": "港湾都市", "answer_start": 84, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "5世紀末から6世紀初頭にキリスト教建築で地域の独自性も考えるようになったのに関連のある論争とは、何に深い影響を与えていたか?", "id": "tr-595-05-003", "answers": [ { "text": "地域性", "answer_start": 457, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "553年から始まるユスティニアヌス帝の時代は、初期ビザンティン建築の胚胎期でありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂、その先駆的建築と伝えられているハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、アギオス・ポリエウクトス聖堂といった偉大なキリスト教建築物が建設された。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさからいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランについても当時としてはかなり大胆なもので、当時のビザンティン建築の一般解とよべるものではない。各地では、やはりバシリカ型の教会堂が継続して建設され続けていた。しかし、ユスティニアヌスの時代に建設された教会堂には、以下に挙げるような、後にビザンティン建築では一般的となる特徴が認められる。東ローマ帝国はギリシア世界であったが、ギリシア建築由来の独立柱・水平梁は構造的意味を失い、水平梁は6世紀末に全く消滅し、独立柱は副次的な要素でしかなくなった。コリント式とイオニア式の柱頭もインポスト柱頭にとって代わられた。ユスティニアヌスの時代には首都に限られた事象であるが、ドームを頂く集中型教会堂とバシリカ型教会堂を組み合わせた円蓋式バシリカ(ドーム・バシリカ)と呼ばれる形式の教会堂が建設された。ハギア・ソフィア大聖堂もその試みの一つで、より小型のものでは皇帝宮殿の側に建設されたハギア・エイレーネー聖堂がある。", "qas": [ { "question": "ハギア・ソフィア大聖堂とハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、アギオス・ポリエウクトス聖堂は、誰の時代に建設されたの?", "id": "tr-595-06-000", "answers": [ { "text": "ユスティニアヌス帝", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "各地では、何型の教会堂が継続して建設され続けましたか?", "id": "tr-595-06-001", "answers": [ { "text": "バシリカ型", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コリント式とイオニア式はどのような建築に属するものか?", "id": "tr-595-06-002", "answers": [ { "text": "ギリシア建築", "answer_start": 352, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ユスティニアヌスの時代に登場した形式の教会堂で、皇帝宮殿の側に建設された聖堂は何か?", "id": "tr-595-06-003", "answers": [ { "text": "ハギア・エイレーネー聖堂", "answer_start": 576, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ユスティニアヌスの時代は、ベリサリウスに仕えた歴史家プロコピオスの著作から、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。これによると、ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあり、アナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれているという点が指摘されている。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛を図るため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現ガズィアンテプ)といった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたハギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。", "qas": [ { "question": "ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあったというのは、誰により後世に知られるようになったか?", "id": "tr-595-07-000", "answers": [ { "text": "プロコピオス", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "防壁に囲まれた武装修道院として設立されたハギア・エカテリニ修道院は、誰により建設されたの?", "id": "tr-595-07-001", "answers": [ { "text": "ユスティニアヌス", "answer_start": 354, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユスティニアヌスが注いでいた国境線の防壁補強事業は、誰から引き継ぎましたか?", "id": "tr-595-07-002", "answers": [ { "text": "アナスタシウス1世", "answer_start": 113, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハギア・エカテリニ修道院は何を記念して建設されたか?", "id": "tr-595-07-003", "answers": [ { "text": "燃える柴", "answer_start": 371, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。一つは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138m×65mにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものもあるが、これは5世紀に流行した型で、当時石工がもっていた在庫品を処分したものであるとの見方が有力である。もう一つは、千一本の円柱宮殿(ビンビルディレク)と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64m×56m貯槽であるが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までの高さは15mにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15m近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。ユスティニアヌス時代の建築はビザンティン建築の始まりであるとともに、世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であるといえる。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、工学的な面において、これを発展させていくことはなかった。", "qas": [ { "question": "ユスティニアヌスの時代に造られた2つの大貯水槽のうち、より大きいのはどれだ?", "id": "tr-595-08-000", "answers": [ { "text": "地下宮殿", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "地下宮殿のほかに、ユスティニアヌスの時代に造られた大貯水槽の高さは?", "id": "tr-595-08-001", "answers": [ { "text": "15m", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビザンティン建築において始まりであるのは、誰の時代の建築ですか?", "id": "tr-595-08-002", "answers": [ { "text": "ユスティニアヌス", "answer_start": 372, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "地下宮殿のほかに、ユスティニアヌスの時代に造られた大貯水槽は、どのような柱頭を使ったか?", "id": "tr-595-08-003", "answers": [ { "text": "インポスト柱頭", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "すでに初期ビザンティン建築の項で説明した通り、初期のキリスト教徒は礼拝用建築物の雛形としてローマ建築のバシリカを採用した。このタイプの教会堂は、長期間に渡って広い地域で建設され続けた。いくつかの種類が認められ、代表的なものとして、身廊に高窓を持ち、木造小屋組みの屋根が架けられる「ヘレニスティック・タイプ」と呼ばれるバシリカがある。ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがこれに当たる。大規模なものになると、旧サン・ピエトロ大聖堂、ルーマニアのトロパエウム(6世紀)、アギオス・デメトリオス聖堂、ピリッポイのバシリカBなどのように、トランセプトを構成するものもある。ビザンティン建築のバシリカ式として最も一般的なタイプは、身廊部分にトンネル・ヴォールトを架けた側廊のない、いわゆる単廊式バシリカで、「オリエンタル・タイプ」と呼ばれ、12世紀に至るまで建設され続けた。これはアルメニアの初期キリスト教建築などを起源とし、カッパドキアの岩窟修道院はこの流れを汲んでいる。", "qas": [ { "question": "ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂は、どんなタイプのバシリカなの?", "id": "tr-595-09-000", "answers": [ { "text": "ヘレニスティック・タイプ", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルーマニアにあるヘレニスティック・タイプのものは何か?", "id": "tr-595-09-001", "answers": [ { "text": "トロパエウム", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビザンティン建築のバシリカ式として最も一般的なタイプは、何を起源としていますか?", "id": "tr-595-09-002", "answers": [ { "text": "アルメニアの初期キリスト教建築", "answer_start": 409, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カッパドキアにあるオリエンタル・タイプのものは何か?", "id": "tr-595-09-003", "answers": [ { "text": "岩窟修道院", "answer_start": 439, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハギア・ソフィア大聖堂やハギア・エイレーネー聖堂で試みられたような、バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されるのは6世紀頃である。ドーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカ(DomedBasilica)と呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂である。側廊に据えた大きな角柱にアーチを架け、教会堂の短手方向で、身廊を横断するアーチはそのまま滑らかにトンネル・ヴォールトに連続するか、アーチが突出する。長手方向(側廊側)のアーチ下部はティンパヌムを構成し、開口部が設けられる。平面は単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるも)である。ハギア・ソフィア大聖堂、およびハギア・エイレーネー聖堂は基本的にこの形式である。", "qas": [ { "question": "バシリカとドームを融合する形式の呼称で、全部カタカナになっているのは何?", "id": "tr-595-10-000", "answers": [ { "text": "ドーム・バシリカ", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドーム・バシリカがビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されたのは、いつか?", "id": "tr-595-10-001", "answers": [ { "text": "6世紀頃", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドーム・バシリカは、何の幅と同じ直径のドームを頂くか?", "id": "tr-595-10-002", "answers": [ { "text": "身廊", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドーム・バシリカの形式の代表的な建築物であるのは、ハギア・ソフィア大聖堂のほかに、何がありますか?", "id": "tr-595-10-003", "answers": [ { "text": "ハギア・エイレーネー聖堂", "answer_start": 387, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "円蓋式バシリカには、クロス=ドーム・バシリカ(Cross-DomedBasilica)と呼ばれる、身廊部分がギリシア十字平面に近い形式になったものもある。ハギア・ソフィア大聖堂では、身廊と側廊を分けるアーケードとティンパヌムが、四隅に設けられた角柱の内側に設けられているため、角柱は側廊に隠され、南北のアーチは内部には露出していない。しかし、中小規模の教会堂で同様の形状にすると、身廊がかなり狭苦しく、空間の広がりを保つことができない。クロス=ドーム・バシリカは、ティンパヌムとアーケードを角柱の外側に構成することによって、身廊内部に広がりを持たせたものである。この場合、やや奥行きの深いアーチを持つ空間が短手方向にも伸びるため、身廊は十字型の平面となる。円蓋式バシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用されたが、内接十字型がビザンティン建築の主流として確立されると廃れてしまった。しかし、12世紀には一時的にリヴァイヴァルされている。現存する代表的な円蓋式バシリカは、上記に挙げた聖堂のほか、ミュラ(現デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂(8世紀頃か?)、デレアジの廃墟となっている聖堂(名称不明、9世紀初期?)、721年頃に創建されたテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂などがある。特にテッサロニキのものはクロス=ドーム・バシリカの典型例として引用される。12世紀にリヴァイヴァルされたものでは、コーラ修道院中央聖堂(12世紀初期)やコンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミイ(12世紀中期)が挙げられる。カレンデルハネでは側廊が失われ、集中性の高いギリシア十字型平面になっている。これらは、もはやバシリカとは言えないような形式となっているため、単にクロス=ドーム(Cross-DomedChurch)とも呼ばれる。", "qas": [ { "question": "クロス=ドーム・バシリカの形式にすると、問題があるのは、どんな規模の教会堂なの?", "id": "tr-595-11-000", "answers": [ { "text": "中小規模", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "円蓋式バシリカのほかに、内接十字型が主流となると廃れてしまったが、12世紀に一時的に復活したのは、何か?", "id": "tr-595-11-001", "answers": [ { "text": "クロス=ドーム・バシリカ", "answer_start": 336, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "10世紀からビザンティン建築の主流となったのは、何か?", "id": "tr-595-11-002", "answers": [ { "text": "内接十字型", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コーラ修道院中央聖堂とカレンデルハネ・ジャーミイのうち、より早く建設されたのはどちらですか?", "id": "tr-595-11-003", "answers": [ { "text": "コーラ修道院中央聖堂", "answer_start": 618, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ニカラグア事件", "paragraphs": [ { "context": "ニカラグア事件(ニカラグアじけん、英語:NicaraguaCase、フランス語:AffaireNicaragua)は、ニカラグアに対する軍事行動などの違法性を主張し、1984年4月9日にニカラグアが違法性の宣言や損害賠償などを求め、国際司法裁判所(ICJ)にアメリカを提訴した国際紛争である。1986年6月27日に本案判決が下されICJはアメリカの行動の違法性を認定したが、結局アメリカの賠償がないままニカラグアの請求取り下げを受けてICJは1991年9月26日に裁判終了を宣言した。", "qas": [ { "question": "ニカラグア事件とは、ニカラグアがどの国を国際司法裁判所に提訴した事件であるの?", "id": "tr-596-00-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニカラグア事件とは、ニカラグアがいつ、アメリカを国際司法裁判所に提訴した事件でありますか?", "id": "tr-596-00-001", "answers": [ { "text": "1984年4月9日", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この案に対するICJの判決が下されたのは、いつのことか?", "id": "tr-596-00-002", "answers": [ { "text": "1986年6月27日", "answer_start": 146, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この案に対し、ICJはどのような判決を下したか?", "id": "tr-596-00-003", "answers": [ { "text": "アメリカの行動の違法性を認定", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1959年のキューバ革命の成功により中米地域は冷戦下の東西対立構造の中に組み込まれていくことになり、この地域においては親ソ勢力を排除することがアメリカの政策上の柱となった。特に反米的な勢力が政権の座についたり、そのような可能性がある場合にはアメリカはこの地域に対して軍事力を行使することすらためらわなかった。", "qas": [ { "question": "キューバ革命は、何年に終わった事件であるの?", "id": "tr-596-01-000", "answers": [ { "text": "1959年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "キューバ革命の結果は、どうでしたか?", "id": "tr-596-01-001", "answers": [ { "text": "成功", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "冷戦下の東西対立構造が築かれた時代に、反米的勢力が政権を握った地域に対して、アメリカはどうやってまでその勢力を排除しようとしたか?", "id": "tr-596-01-002", "answers": [ { "text": "軍事力を行使", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "冷戦とは、アメリカを中心とする勢力とどの勢力の間の対立のことをいうか?", "id": "tr-596-01-003", "answers": [ { "text": "親ソ勢力", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "こうしたアメリカの動きは、例えばソ連のキューバにおけるミサイル配備計画の発覚(キューバ危機)に続くキューバ敵視政策、1965年のドミニカ共和国占領、1983年のグレナダ侵攻などにみられる。ニカラグア革命後のニカラグアに対しても同様に、アメリカは親ソ勢力排除を目的とした介入をおこなった。", "qas": [ { "question": "冷戦時代に、反米的勢力が政権を握った地域に対してアメリカが軍事力を行使した例として挙げられているのは、ドミニカ共和国占領とどこを侵攻した事件ですか?", "id": "tr-596-02-000", "answers": [ { "text": "グレナダ", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドミニカ共和国占領とグレナダ侵攻のうち、より早く発生した事件は、どちらなの?", "id": "tr-596-02-001", "answers": [ { "text": "ドミニカ共和国占領", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ドミニカ共和国とグレナダ、ニカラグアの三つの地域に対し、アメリカが軍事力を行使したのは、どのような勢力の排除が目的であったか?", "id": "tr-596-02-002", "answers": [ { "text": "親ソ勢力", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1979年、ニカラグアを43年間にわたり支配してきたソモサ政権が武力により反政府組織サンディニスタ民族解放戦線に打倒され、新たな左翼政権が樹立された(ニカラグア革命)。", "qas": [ { "question": "1979年をもって、ソモサ政権による何年間の支配がようやく終わりましたか?", "id": "tr-596-03-000", "answers": [ { "text": "43年間", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "何年をもって、ソモサ政権による支配がようやく幕を閉じたの?", "id": "tr-596-03-001", "answers": [ { "text": "1979年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ソモサ政権を崩した反政府勢力は、何と呼ばれたか?", "id": "tr-596-03-002", "answers": [ { "text": "サンディニスタ民族解放戦線", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニカラグア革命が起こったのは、何年のことか?", "id": "tr-596-03-003", "answers": [ { "text": "1979年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アメリカ合衆国は経済援助を行うなどニカラグアの新政権に対して当初友好的であったが、新政権は西側諸国との関係を築いていく一方でキューバをはじめとする共産圏との関係も緊密にしていった。", "qas": [ { "question": "ニカラグアの新政権は、どの勢力圏との関係構築に力を入れていたの?", "id": "tr-596-04-000", "answers": [ { "text": "共産圏", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、共産圏国家を合わせた何と呼びましたか?", "id": "tr-596-04-001", "answers": [ { "text": "西側諸国", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカと敵対する勢力の国々を何と呼んだか?", "id": "tr-596-04-002", "answers": [ { "text": "西側諸国", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカと敵対する勢力圏は、何か?", "id": "tr-596-04-003", "answers": [ { "text": "共産圏", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1981年に発足したアメリカのレーガン政権はサンディニスタ民族解放戦線が周辺諸国の反政府組織に武器弾薬などの供与し、ニカラグアがソ連の米州進出や麻薬取引・テロリズムの拠点になっているとの理由でこれを米州全体の脅威とし、経済援助を停止して次第にニカラグアの反政府武装組織コントラを支援するようになった。コントラはホンジュラスやコスタリカとの国境地帯に基地を設けて活動し、1980年代半ばには約1万5千人の兵力を有するほどまでに拡大した。", "qas": [ { "question": "レーガンがアメリカ大統領に就任したのは、何年のことなの?", "id": "tr-596-05-000", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レーガン政権は、反政府組織を敵とみなして経済援助を停止し、どの組織を支援しましたか?", "id": "tr-596-05-001", "answers": [ { "text": "コントラ", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コントラとサンディニスタのうち、どちらがソ連と同じ側の勢力だと予測できるか?", "id": "tr-596-05-002", "answers": [ { "text": "サンディニスタ", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ニカラグアが後に国際司法裁判所に主張したところによると、アメリカはコントラの人員募集、武器供与、訓練など行いニカラグアを攻撃させてニカラグア市民に損害を与えたほか、中央情報局(CIA)の職員がニカラグアの港湾施設に機雷を敷設して第三国の船舶にまで損害を与えたり、空港や石油施設への攻撃、偵察飛行や領空侵犯を行ったという。1984年3月、ニカラグアはアメリカによる一連の行動を「侵略」であると主張し、国連安保理に提訴しアメリカを非難する決議案を提出したが、この決議案は4月4日の安保理理事会にてアメリカの拒否権行使によって否決された。この決議案に対しては反対票を投じたアメリカと投票を棄権したイギリスを除き、すべての理事国が賛成票を投じていた。", "qas": [ { "question": "ニカラグアの主張によると、アメリカはニカラグアの空港と、どんな施設を攻撃したの?", "id": "tr-596-06-000", "answers": [ { "text": "石油施設", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニカラグアの主張によると、アメリカの中央情報局の職員はニカラグアのどのような施設に機雷を敷きましたか?", "id": "tr-596-06-001", "answers": [ { "text": "港湾施設", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1984年3月、ニカラグアが国連安保理に提訴した決議案が否定されたのは、何によることだったか?", "id": "tr-596-06-002", "answers": [ { "text": "アメリカの拒否権行使", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1984年3月、ニカラグアが国連安保理に提出した決議案に対し、アメリカの対応が行われたのは、いつのことか?", "id": "tr-596-06-003", "answers": [ { "text": "4月4日", "answer_start": 233, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ニカラグアは「アメリカがニカラグアに対し武力行使と内政干渉を行い、ニカラグアの主権、領土保全、政治的独立を侵害し、国際的に受け入れられた国際法の基本的原則に違反している」と主張し、1984年4月9日にアメリカを国際司法裁判所(ICJ)に一方的に提訴した。またニカラグアは提訴に際して仮保全措置を申請した。仮保全措置命令とはICJ規程第41条に基づき訴訟当事国の利益を保護するために裁判所が暫定的に指示する措置のことであり、当事国の権利が本案に関する判決を待っていたのでは回復不能なほどに侵害されるおそれがある場合になされる。", "qas": [ { "question": "ニカラグアがアメリカを国際司法裁判所に提訴したのは、いつのことなの?", "id": "tr-596-07-000", "answers": [ { "text": "1984年4月9日", "answer_start": 90, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニカラグアはアメリカが何に違反したと主張し、国際司法裁判所にアメリカを提訴しましたか?", "id": "tr-596-07-001", "answers": [ { "text": "国際法の基本的原則", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニカラグアがアメリカを提訴する際、申請したのは、何の措置か?", "id": "tr-596-07-002", "answers": [ { "text": "仮保全措置", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニカラグアがアメリカを提訴する際、申請したのは、ICJ規程第何条に基づく措置だったか?", "id": "tr-596-07-003", "answers": [ { "text": "ICJ規程第41条", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1984年以降、コントラの活動によって生じた物的損害は2億5000万ドルにも上り、1万3000人の死傷者を出した。またこのような直接的損害だけでなくニカラグア国内では経済状況も悪化していった。", "qas": [ { "question": "1984年以降、コントラの活動は、何ドルにも至る物的損害を出したの?", "id": "tr-596-08-000", "answers": [ { "text": "2億5000万ドル", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1984年以降、コントラの活動は、何人にも至る死傷者を出しましたか?", "id": "tr-596-08-001", "answers": [ { "text": "1万3000人", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、物的損害と死傷者を合わせて何と表現しているか?", "id": "tr-596-08-002", "answers": [ { "text": "直接的損害", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "直接的損害とは、死傷者と何を指しているか?", "id": "tr-596-08-003", "answers": [ { "text": "物的損害", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ニカラグアのGDPの成長率は1984年以降マイナスに転じ失業率は20パーセントを超えた。", "qas": [ { "question": "失業率と反対の動きが見られたのは、何の数値なの?", "id": "tr-596-09-000", "answers": [ { "text": "GDPの成長率", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "GDPの成長率が0より下の数値を見せたのは、何年以降のことですか?", "id": "tr-596-09-001", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1984年以降、何の数値が20%を超え、新たな社会問題として指摘され始めたか?", "id": "tr-596-09-002", "answers": [ { "text": "失業率", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "GDPの成長率と失業率のうち、1984年以降、急激な上昇を見せた数値は、どちらに該当する数値であるか?", "id": "tr-596-09-003", "answers": [ { "text": "失業率", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1985年にニカラグアではインフレ化が進み、1984年に35.4パーセントだったインフレ率は翌1985年には219.5パーセント、1986年には681.6パーセント、1987年には1,100パーセントと急激に上昇していった。", "qas": [ { "question": "1984年から1987年までのニカラグアのインフラ率を見ると、数値の最も大きいのは、何年なの?", "id": "tr-596-10-000", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1984年から1987年までのニカラグアのインフラ率を見ると、数値の最も小さいのは、何年ですか?", "id": "tr-596-10-001", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ニカラグアのインフラ率が急増の様子を見せ始めたのは、何年からか?", "id": "tr-596-10-002", "answers": [ { "text": "1985年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方でアメリカでは、中米における紛争への介入に反対するアメリカ国内世論をうけ、1987年に議会がコントラへの援助停止を決定した。こうしたニカラグア国内の疲弊やアメリカのコントラに対する態度の変換から、両国の対立関係は次第に変化していく。", "qas": [ { "question": "アメリカ議会がコントラへの援助停止を決定したのは、何年のことなの?", "id": "tr-596-11-000", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカとニカラグアの両国の対立関係が変化を見せ始めたのは、何年からですか?", "id": "tr-596-11-001", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカ国内では、どこにおける紛争に介入することに対する反対世論が強まっていたか?", "id": "tr-596-11-002", "answers": [ { "text": "中米", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "何に反対する世論が台頭および増加し、議会も1987年にそれを受け入れたか?", "id": "tr-596-11-003", "answers": [ { "text": "中米における紛争への介入", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1990年にニカラグアで行われた総選挙ではアメリカが支持する反体制国民連合が圧勝して同年2月25日にビオレタ・チャモロが大統領に選出され、4月19日にはサンディニスタ民族解放戦線とコントラの間で停戦協定が成立し、コントラの武装解除や政府軍の兵力縮小が行われた。", "qas": [ { "question": "ビオレタ・チャモロが大統領に選出されたのは、何年のことなの?", "id": "tr-596-12-000", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文章では、何年にニカラグアであった出来事について説明しているか?", "id": "tr-596-12-001", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "大日本沿海輿地全図", "paragraphs": [ { "context": "大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。\n「伊能図(いのうず)」や「伊能大図」とも称される。\n完成は文政4年(1821年)。", "qas": [ { "question": "大日本沿海輿地全図が完成された年は?", "id": "tr-597-00-000", "answers": [ { "text": "1821年", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「伊能図」の正式名称は何?", "id": "tr-597-00-001", "answers": [ { "text": "大日本沿海輿地全図", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大日本沿海輿地全図の作製にあたり中心にいた人物とは?", "id": "tr-597-00-002", "answers": [ { "text": "伊能忠敬", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大日本沿海輿地全図が完成されたのは何時代でしたか?", "id": "tr-597-00-003", "answers": [ { "text": "江戸時代", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)にかけて江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものである。\n上総国出身で商人だった伊能忠敬(1745年-1818年)は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸にて幕府天文方の高橋至時(1764年-1804年)に師事し、測量・天体観測などについて修めていた。\n当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説があったなか、高橋・伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた。\nそこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(現在の北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。\nこうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始した。\n各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府は測量を許可したばかりか全国各藩に伊能への協力を命じた。\nこれは、その時点で西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになっており、国防上の観点から幕府も全国沿岸地図を必要とし、伊能の事業を有益と判断したためである。", "qas": [ { "question": "江戸幕府に伊能を推薦した人物のフルネームは何?", "id": "tr-597-01-000", "answers": [ { "text": "高橋至時", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時、海岸線の防備を強める必要があった地はどこでしたか?", "id": "tr-597-01-001", "answers": [ { "text": "蝦夷地", "answer_start": 285, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "伊能忠敬と高橋至時はどちらが先に亡くなりましたか?", "id": "tr-597-01-002", "answers": [ { "text": "高橋至時", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "蝦夷地測量の翌年の享和元年(1801年)には、本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。\n文化元年(1804年)には、それまでの測量の結果をいったんまとめ、大図69枚・中図3枚・小図1枚(大中小図については後述)からなる東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉の上覧に供した。\nなお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74キロメートル)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の小さい(0.2%程度)数値となっている。\n従来の日本地図とは異なり、実測による正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も驚愕し、伊能の測量事業への支援をいっそう強化することとなった。\n伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、翌文化2年(1805年)の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなった。", "qas": [ { "question": "大図、中図、小図の中で2番目に枚数が多かったのは何でしたか?", "id": "tr-597-02-000", "answers": [ { "text": "中図", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大図、中図、小図の中で最も枚数が少ないのはどれ?", "id": "tr-597-02-001", "answers": [ { "text": "小図", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第5次測量は何年から行われましたか?", "id": "tr-597-02-002", "answers": [ { "text": "1805年", "answer_start": 322, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1804年に東日本の地図を見せた将軍とは誰?", "id": "tr-597-02-003", "answers": [ { "text": "徳川家斉", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "以後、伊能らは文化13年(1816年)の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を歩測した。\nまた蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である間宮林蔵(1780年-1844年)の観測結果を採り入れている。\n伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年-1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」が完成した。\nそして同図は全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出された。", "qas": [ { "question": "第10次測量までの中で、唯一伊能が参加しなかったのは第何次だったの?", "id": "tr-597-03-000", "answers": [ { "text": "第9次", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "間宮林蔵と高橋景保はどちらが先に生まれたの?", "id": "tr-597-03-001", "answers": [ { "text": "間宮林蔵", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "高橋景保の師匠は誰?", "id": "tr-597-03-002", "answers": [ { "text": "高橋至時", "answer_start": 152, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「大日本沿海輿地全図」が完成した西暦の年月日は?", "id": "tr-597-03-003", "answers": [ { "text": "1821年8月7日", "answer_start": 199, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "測量結果を基に、江戸で伊能らが作図作業を行った。\nすべて手書きの彩色地図で、利用上の便宜のため以下の3種類の縮尺の地図が作製された。\n大図は、1里=3寸6分(縮尺1/36,000、全214枚)で最も詳細に描かれた地図である。\n北は宗谷岬、南は屋久島、東は国後島、西は五島列島までの海岸線および内陸河川の形状をつぶさに描く。\nその他、地図内には国郡名、境界線、領主名、村落、寺社名、河川名、磯・浜の種類、田畑、塩田なども記入し、海岸線のみならず、詳細な地図情報が記載されている。\nなお、大図には緯線・経線は記入されていない。", "qas": [ { "question": "大図の縮尺は何ですか?", "id": "tr-597-04-000", "answers": [ { "text": "1/36,000", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大図は全部で何枚ですか?", "id": "tr-597-04-001", "answers": [ { "text": "214枚", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大図での最北の地はどこですか?", "id": "tr-597-04-002", "answers": [ { "text": "宗谷岬", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大図での最何の地はどこですか?", "id": "tr-597-04-003", "answers": [ { "text": "屋久島", "answer_start": 121, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中図は、1里=6分(縮尺1/216,000、全8枚)で縮尺の都合上、大図と較べて地名などの記載内容は若干簡略化されているが、代わりに緯線・経線が引かれている。\n京都西三条改暦所を通る子午線を本初子午線として経度の基準とし、実測値を元に経度・緯度1度ごとに直交する度線を引いてある(西洋のサンソン図法に近いとされるが異説もある)。\nただし、伊能は地球を球体として考えていた(実際には地球は完全な球ではなく赤道方向に長い回転楕円体(扁球)に近い)ため、緯度・経度ともに若干の誤差が生じている。\nまた緯度については天体観測からほぼ正確に測定できているものの、経度については測定に必要なクロノメーターの未発達などの理由により若干精度が劣り、北海道や九州南部などの辺縁部では実際の位置よりもやや東方向にずれている。", "qas": [ { "question": "緯線・経線のある地図は何ですか?", "id": "tr-597-05-000", "answers": [ { "text": "中図", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中図は全部で何枚ですか?", "id": "tr-597-05-001", "answers": [ { "text": "8枚", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "伊能は地球の形は何だと考えいましたか?", "id": "tr-597-05-002", "answers": [ { "text": "球体", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中図での1里は何と換算されていたの?", "id": "tr-597-05-003", "answers": [ { "text": "6分", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "小図は、1里=3分(縮尺1/432,000、全3枚)で利用しやすさを求め、中図よりさらに半分の縮尺で製図し、全国を3枚に収めた図である。\n地名その他の記載は簡略化してある。", "qas": [ { "question": "小図は全部で何枚ですか?", "id": "tr-597-06-000", "answers": [ { "text": "3枚", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "3枚以内で収まっている範囲はどこですか?", "id": "tr-597-06-001", "answers": [ { "text": "全国", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小図の縮尺は何になっていますか?", "id": "tr-597-06-002", "answers": [ { "text": "1/432,000", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小図で1里は何と換算されていますか?", "id": "tr-597-06-003", "answers": [ { "text": "3分", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "幕府に提出された伊能図は、江戸城紅葉山文庫に秘蔵され、一般の目に触れることはなかった。\nあまりに詳細な地図のため、国防上の問題から幕府が流布を禁じたためである。\n文政11年(1828年)紅葉山文庫を所管する書物奉行でもあった高橋景保が、長崎オランダ商館付の医師であるシーボルト(1796年-1866年)に禁制品である伊能図を贈ったことが露顕し、高橋景保は逮捕され、翌年3月に獄死した(シーボルト事件)。\n日本を強制退去となったシーボルトは帰国後の1840年に、伊能図をオランダでメルカトル図法に修正した「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」を刊行している。\nその精度の高さにより、当時のヨーロッパ識者の一部に日本の測量技術の高さが認識されることになる。", "qas": [ { "question": "高橋景保が伊能図を贈った相手とは誰?", "id": "tr-597-07-000", "answers": [ { "text": "シーボルト", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」で用いられた技法は何でしたか?", "id": "tr-597-07-001", "answers": [ { "text": "メルカトル図法", "answer_start": 239, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "伊能図はどこで保管されていたの?", "id": "tr-597-07-002", "answers": [ { "text": "紅葉山文庫", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」が刊行された年はいつ?", "id": "tr-597-07-003", "answers": [ { "text": "1840年", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "開国後の文久元年(1861年)、イギリス海軍の測量艦アクテオン号(Actaeon)が、「攘夷派をあまり刺激しない方が良い」との幕府の勧告を無視して日本沿岸の測量を強行しようとした際、たまたま幕府役人が所有していた伊能小図の写しを見て、その優秀さに驚き、測量計画を中止して幕府からその写しを入手することで引き下がったという。\nなお、このときの伊能図の写しを元に1863年にイギリスで「日本と朝鮮近傍の沿海図」として刊行され、日本に逆輸入されて、勝海舟(1823年-1899年)の手によって慶応3年(1867年)に「大日本国沿海略図」として木版刊行された。\nこれにより伊能図を秘匿する意味がなくなったため、同年には幕府開成所からも伊能小図を元にした「官板実測日本地図」が発行され、小図のみとはいえようやく一般の目に供されるようになった。", "qas": [ { "question": "「日本と朝鮮近傍の沿海図」が刊行された国はどこ?", "id": "tr-597-08-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 185, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「日本と朝鮮近傍の沿海図」は日本では何の名称で刊行されましたか?", "id": "tr-597-08-001", "answers": [ { "text": "「大日本国沿海略図」", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「大日本国沿海略図」を刊行させた人は誰?", "id": "tr-597-08-002", "answers": [ { "text": "勝海舟", "answer_start": 221, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "伊能小図が一般人の目にふれるようになった年はいつ?", "id": "tr-597-08-003", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 248, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "明治維新で江戸幕府が崩壊した後、幕府が保管していた伊能図も新政府に移譲された。\n明治3年(1870年)には開成所から名を変えた大学南校から「官板実測日本地図」が再版されるとともに「大日本沿海実測録」も刊行された。\n伊能図の原本は、明治6年(1873年)の皇居の大火災の際に焼失してしまう。\nそこで伊能家に保管されていた控図(副本)が翌年政府に献納された。", "qas": [ { "question": "伊能図の原本が焼失された原因は何でしたか?", "id": "tr-597-09-000", "answers": [ { "text": "皇居の大火災", "answer_start": 127, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "伊能図の副本はどこに保管されていましたか?", "id": "tr-597-09-001", "answers": [ { "text": "伊能家", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大学南校の改名前の名称は何でしたか?", "id": "tr-597-09-002", "answers": [ { "text": "開成所", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「官板実測日本地図」が再版されたのは何年ですか?", "id": "tr-597-09-003", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この副本により明治10年(1877年)9月には小図を元に文部省から「日本全図」が発行され、明治11年(1878年)6月には中図を元に内務省地理局より「実測畿内全図」が発行された。\nさらに同局から中小図に基づいて明治13年には864,000分の1図である「大日本全図」が刊行される。\nそして明治17年(1884年)には大図・中図が陸軍参謀本部測量部(国土地理院の前身の1つ)によって作成された「輯製20万分1図」の基本図になった。\n他にも各府県で作成された管内地図の多くが伊能大図・中図を元に作成されるなど、近代日本の行政地図において、伊能図は多大な貢献を果たした。", "qas": [ { "question": "「日本全図」と「実測畿内全図」はどちらが先に発行されたの?", "id": "tr-597-10-000", "answers": [ { "text": "「日本全図」", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「実測畿内全図」、「日本全図」、「大日本全図」の中で最も遅くに刊行されたのはどれ?", "id": "tr-597-10-001", "answers": [ { "text": "「大日本全図」", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「大日本全図」はどこから刊行されたの?", "id": "tr-597-10-002", "answers": [ { "text": "内務省地理局", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「大日本全図」が刊行された年はいつ?", "id": "tr-597-10-003", "answers": [ { "text": "明治13年", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後、伊能家から献納された伊能図の控えは東京帝国大学の附属図書館に保管されることとなったが、これも大正12年(1923年)の関東大震災ですべて焼失してしまった。\n以降、長きにわたって伊能図(特に大図)は「失われた地図」となり、千葉県佐原市(現在は香取市)の伊能忠敬記念館に保管されていた写しの一部など、全214枚のうち約60枚の写しのほかは、東京国立博物館が所蔵する中図の写しが残るのみとなっていた。", "qas": [ { "question": "伊能図の控えが大正12年に焼失したのは何が発生したからですか?", "id": "tr-597-11-000", "answers": [ { "text": "関東大震災", "answer_start": 63, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "関東大震災前までは、伊能図の控えはどこの大学の図書館に保管されていましたか?", "id": "tr-597-11-001", "answers": [ { "text": "東京帝国大学", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "伊能忠敬記念館があるのは何県ですか?", "id": "tr-597-11-002", "answers": [ { "text": "千葉県", "answer_start": 114, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "千葉県佐原市は現在何市となっていますか?", "id": "tr-597-11-003", "answers": [ { "text": "香取市", "answer_start": 124, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ところが、平成13年(2001年)3月にアメリカ合衆国議会図書館で、伊能大図のうちの207枚(うち169枚が彩色なし)が発見された。\nこれは上記の陸軍による輯製20万分1図作成のための骨格基図として模写されたものが、米国に渡ったものと考えられる。\nさらに残る7枚のうち、佐倉市の国立歴史民俗博物館で2枚(34番:蝦夷江差、35番:蝦夷ヲコシリ島)、国立国会図書館で1枚(107番:駿河静岡)が発見された。\n最後に残った4枚(12番:蝦夷宗谷、133番:山城・河内・摂津、157番:備中・備後福山、164番:備後・安芸・伊予今治)についても、2004年5月に海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることが判明した。\n海上保安庁の前身である旧海軍水路部が明治初期に海図を作製する目的で模写したものだという。\nこれらの発見により、伊能大図214枚の全容がつかめるようになった。\nこれを受け、2006年5月に国土地理院所管財団法人日本地図センターが「伊能大図総覧」を刊行し、伊能図が一般の目にも触れられるようになった。\n大図の詳細な検討によって、伊能忠敬による測量がいかに行われたかなど従来検証しづらかった点についても、今後の研究が期待される。\nなお、その後も2007年1月に、やはり海上保安庁から高画質の原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見されるなど、まだまだ状態の良い伊能図が発見される可能性はある。", "qas": [ { "question": "佐倉市の国立歴史民俗博物館と国立国会図書館ではどちらの方が発見された地図の枚数が少なかったですか?", "id": "tr-597-12-000", "answers": [ { "text": "国立国会図書館", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "伊能大図のうちの207枚はどこの国で発見されましたか?", "id": "tr-597-12-001", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "コンスタンティノープルの城壁", "paragraphs": [ { "context": "コンスタンティノープルの城壁では、コンスタンティノープル(現トルコ、イスタンブール)を取り囲む城壁について述べる。\nこの地をローマ帝国の首都としたコンスタンティヌス1世の時代から、帝国の首都を守る大城壁の建築が始まり、歴史上、数多くの城壁や防衛施設が築かれた。\nこの中には古代の築城様式を残す貴重な建築が含まれており、また全体を見れば歴史上、最も複雑で精巧に構成された防衛設備であるといえる。", "qas": [ { "question": "コンスタンティヌス1世はローマ帝国の首都をどこにしましたか?", "id": "tr-598-00-000", "answers": [ { "text": "コンスタンティノープル", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コンスタンティノープルの城壁が建設され始めたのは誰の時代からですか?", "id": "tr-598-00-001", "answers": [ { "text": "コンスタンティヌス1世", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "最初にコンスタンティヌス1世が築いたコンスタンティヌスの城壁は、当時の新市街を含むコンスタンティノープル全周を囲み、海陸両面を防衛するものだった。\nさらにコンスタンティノープルが発展すると、5世紀にテオドシウス2世が陸側で有名なテオドシウスの城壁を築いた。\n総じてコンスタンティノープルの城壁は、中世以前のあらゆる攻城手段に耐えうる難攻不落の防衛設備であり、アヴァール人、ササン朝、アラブ人、ルーシ人、ブルガール人、その他多くの敵の攻撃からコンスタンティノープルを守ってきた。\n火薬兵器が登場し、大砲が攻城戦に投入されるようになってさえ、この城壁を破り市を占領するには不十分だった。\n初期の大砲は城壁に十分な打撃を与えられず、装填している間に補修されてしまったためである。", "qas": [ { "question": "テオドシウスの城壁を築いた皇帝は誰ですか?", "id": "tr-598-01-000", "answers": [ { "text": "テオドシウス2世", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コンスタンティヌス1世の次に城壁を築いた人は誰ですか?", "id": "tr-598-01-001", "answers": [ { "text": "テオドシウス2世", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "最終的に、コンスタンティノープルは6週間の包囲戦の末、1453年5月29日にオスマン帝国の手に落ちる(コンスタンティノープルの陥落)。\nしかし、これはオスマン帝国軍の圧倒的な物量と迂回作戦、そして防衛側の不注意などによるものであり、城壁などの防衛設備は依然として十分に機能していた。\nオスマン帝国もコンスタンティノープルの城壁を維持管理し続けたが、19世紀に市が発展して中世以来の市域を超えるようになると、城壁は管理されなくなった。\nそれでも現在に至るまで、テオドシウスの城壁は多くの部分が同じ場所に残存している。\n1980年代以降、大規模な城壁修復プログラムが実施されている。\n1985年にはイスタンブール歴史地域の一部として世界文化遺産に登録されたが、イスタンブールの発展や杜撰な発掘・修復・復元事業に伴う破壊が危ぶまれている。", "qas": [ { "question": "コンスタンティノープルはどこの国に攻め落とされたの?", "id": "tr-598-02-000", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "城壁が世界文化遺産として登録されたのはいつ?", "id": "tr-598-02-001", "answers": [ { "text": "1985年", "answer_start": 290, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させるのにかかった期間はどれくらいでしたか?", "id": "tr-598-02-002", "answers": [ { "text": "6週間", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "伝説によれば、ビュザンティオン(後のビザンティウム、コンスタンティノープル)は紀元前687年にメガラから来た植民者によって建設され、その指導者ビュザスにちなんで名づけられたという。\nこの時代のビュザンティオンは、最も東側にあった丘(現在のトプカプ宮殿付近)にアクロポリスがあり、それを中心として小さく広がる都市に過ぎなかった。\n10世紀末から14世紀までに編纂された『コンスタンティノープルの起源』(ギリシャ語:ΠάτριαΚωνσταντινουπόλεως)によると、当時のビュザンティオンは小さな城壁に囲まれていた。\nこれを27の塔が守り、陸上には少なくとも2つの門があった(うち一つは「ウルビキウスの門」として知られ、もう一つは後にミリオンが建てられる場所にあった)。\n海側にも城壁があったが、陸側と比べてかなり低いものだった。\n『起源』には、こうした城壁はビュザスの時代に建てられたものだと書かれている。\nしかしフランスの研究者レーモン・ジャナンは、ペルシア戦争中の紀元前479年にビュザンティオンを占領したスパルタの将軍パウサニアスが都市を再建して以降のものであるとしている。\nまたこの城壁は、紀元前340年にマケドニア王ピリッポス2世の侵攻を受けた際に、墓石を再利用して修復されている。", "qas": [ { "question": "ビュザンティオンという地名の由来は?", "id": "tr-598-03-000", "answers": [ { "text": "ビュザス", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "より高かったのは海側と陸側どちらの城壁でしたか?", "id": "tr-598-03-001", "answers": [ { "text": "陸側", "answer_start": 351, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "城壁の起源について言及した『コンスタンティノープルの起源』とレーモン・ジャナンのうち、どちらの方がより古い時代に起源があると説きましたか?", "id": "tr-598-03-002", "answers": [ { "text": "『コンスタンティノープルの起源』", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ローマが覇権を握るようになると、ビザンティウム(ビュザンティオンのラテン語名)は重要性を失っていった。\nそれでも富と人が集まる防衛に優れた都市ではあったが、それも2世紀末の内戦で失われることになった。\n194年、ビザンティウムはペスケンニウス・ニゲルに味方したためにセプティミウス・セウェルスに包囲された。\nカッシウス・ディオによれば(ローマ史,75.10–14)、包囲戦は196年まで3年間におよび、敵に投げつけるものが無くなった住民はブロンズ像までも投げるようになったという。\n最終的にビザンティウムを降伏させたセウェルスの処断は過酷なものだった。\n城壁は破壊され、市はローマ市民権を失い、ヘラクレア・ペリントゥスに付随する単なる村にまで格下げされた。\nしかしその戦略的重要性から、後にセウェルスはビザンティウムを再建し、競馬場やゼウクシップス浴場など多くの公共施設を建設した。\nそして城壁も、都市の範囲の拡大を予想して従来のものより3、400メートル西方に再建された。", "qas": [ { "question": "セプティミウス・セウェルスによる包囲戦はどれくらいの期間続きましたか?", "id": "tr-598-04-000", "answers": [ { "text": "3年間", "answer_start": 193, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "セプティミウス・セウェルスによる包囲戦は何年から始まりましたか?", "id": "tr-598-04-001", "answers": [ { "text": "194年", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゼウクシップス浴場を造った人は誰?", "id": "tr-598-04-002", "answers": [ { "text": "セウェルス", "answer_start": 345, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビザンティウムは誰から3年間も包囲されることになりましたか?", "id": "tr-598-04-003", "answers": [ { "text": "セプティミウス・セウェルス", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "セウェルス時代の城壁についてはあまり記録が残っていないが、ゾシムスによれば(NewHistory,II.30.2–4)、城壁のメインゲートはポルチコ通り(後のメセ通りの一部)の終端、のちのフォルム・コンスタンティニの手前にあった。\n城壁は、現在のガラタ橋あたりから南に向かい、ヌールオスマニィエ・モスク付近で曲がって競馬場の南壁につながり、さらに北東へ向かってボスポラス海峡付近で旧城壁と接続していたと考えられている。\n『コンスタンティノープルの起源』では、324年のコンスタンティヌス1世とリキニウスの内戦に関して、上記とはまた別の城壁があったことを示唆するような記述がある。\nこれはセウェルスの城壁の外側に位置し、後に街がコンスタンティノープルとして拡張されてからフィラデフィオンと呼ばれるようになる地域に城壁があった、というもので、この時代にはセウェルスの城壁の他にも城壁が増設されていたことが分かる。", "qas": [ { "question": "セウェルスの城壁以外にどこの地域で別の城壁が増設されていたの?", "id": "tr-598-05-000", "answers": [ { "text": "フィラデフィオン", "answer_start": 334, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "324年にコンスタンティヌス1世と衝突した人は誰?", "id": "tr-598-05-001", "answers": [ { "text": "リキニウス", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "4世紀前半の内戦で、ビザンティウムは先の内戦とまったく同じ運命をたどった。\nリキニウスに味方したためにコンスタンティヌス1世に征服されたのだが、次第にコンスタンティヌス1世もこの都市の地理的重要性に気づき、324年から336年にかけて再建していった。\nその過程でコンスタンティヌス1世は、330年5月11日にビザンティウムを「第二のローマ」と呼んで落成式を行った。\n次第にこの都市は、「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス(ギリシア語:Κωνσταντινούπολις,Konstantinoupolis英語名コンスタンティノープル)と呼ばれるようになった。\n新生コンスタンティノープルでは、セウェルスの城壁のさらに2.8キロメートル(15スタディア)西方に新たな城壁が築かれた。\nコンスタンティヌスの城壁は1重ながら、324基もの塔で防御を固めることになった。\nこの工事は、息子のコンスタンティウス2世の時代まで続いた。\nコンスタンティヌスの城壁の位置も、わずかな部分しか判明していない。\n金角湾の聖アントニウス教会(現在のアタチュルク橋付近)から南西に伸びてモキウスの貯水池やアスパルの貯水池の東側を抜け、マルマラ海沿岸のテオトコス教会付近で終わっていたとされる。", "qas": [ { "question": "ビザンティウムの落成式はいつ行われたの?", "id": "tr-598-06-000", "answers": [ { "text": "330年5月11日", "answer_start": 144, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビザンティウムは次第に何と呼ばれるようになりましたか?", "id": "tr-598-06-001", "answers": [ { "text": "コンスタンティノポリス", "answer_start": 211, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コンスタンティヌスの城壁はいくつの塔で守られていましたか?", "id": "tr-598-06-002", "answers": [ { "text": "324基", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コンスタンティヌスの城壁の終着点はどこだとされていたの?", "id": "tr-598-06-003", "answers": [ { "text": "テオトコス教会付近", "answer_start": 525, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "しかし5世紀前半までに、コンスタンティノープルはコンスタンティヌスの城壁を越えて発展した。\nこの城壁外の地域はエクソキオニオン(Exokionion)と呼ばれた。\nこの後もコンスタンティヌスの城壁は長きにわたって生きながらえたが、実際のコンスタンティノープルの境界と防衛の役割は5世紀前半にテオドシウスの防壁に取って代わられた。\n478年9月25日、コンスタンティノープルは大地震に襲われ、「内壁」が大きな被害を受けたという記録がある。\nこれはコンスタンティヌスの城壁を指した記録であると考えられる。\nまた聖テオファネスによれば、この城壁は557年の地震でも被害を受けた。\nそれでもなおコンスタンティヌスの城壁は大部分が残っていたが、ゲオルギオス・ケドレノスによれば、「エクソキオニオンの城壁」(コンスタンティヌスの城壁)が867年の地震で崩壊した。\nこれ以降は、コンスタンティヌスの城壁はわずかに痕跡を残すのみとなった。\nただ、19/20世紀のオスマン帝国の学者アレクサンダー・ファン・ミリンゲンによれば、イサカプ地域には19世紀前半までコンスタンティヌスの城壁の一部が残っていたという。\n現在のイェニカプ運送センターが建設される際、コンスタンティヌスの城壁の基礎が発掘されている。", "qas": [ { "question": "城壁外の地域の呼称は何?", "id": "tr-598-07-000", "answers": [ { "text": "エクソキオニオン", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "478年9月25日に起きた大地震によって大きな被害を受けた内壁とは何の城壁のことですか?", "id": "tr-598-07-001", "answers": [ { "text": "コンスタンティヌスの城壁", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "478年にあった大地震の次に、コンスタンティヌスの城壁が被害を受けたのは何年の地震でしたか?", "id": "tr-598-07-002", "answers": [ { "text": "557年", "answer_start": 270, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「エクソキオニオンの城壁」が867年に崩壊した原因は何だったの?", "id": "tr-598-07-003", "answers": [ { "text": "地震", "answer_start": 367, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "コンスタンティヌスの城壁にあった5つの城門の名が知られているが、それぞれの役割や正確な位置いついては議論が続いている。\n古黄金の門(ラテン語:PortaAurea,古代ギリシア語:ΧρυσείαΠύλη)、またはクセロロフォス門、サトゥルニヌスの門は、ノティティア・ウルビス・コンスタンティノポリタナエで「凝った装飾が成されている」と評された門で、第七の丘の南側の斜面に建っていた。\n一般にコンスタンティヌス1世の時代の成立とされているが、正確な建設時期は不明である。\n後のビザンツ帝国の学者マヌエル・クリュソロラスは14世紀当時の門を、大きな大理石でできた、開口部が非常に高く開いた門で、上に柱廊のようなものを戴いている、と描写している。\n伝えられるところでは、ビザンツ帝国後期にこの門に磔の絵が描かれたために、後に街を征服したオスマン帝国がこの門をİsakapı(「イエスの門」の意)と呼ぶことになったという。\nこの門は1509年の地震で倒壊してしまったが、跡地にエセ・カピモスクが建てられたため、おおよその位置が今でも分かっている。", "qas": [ { "question": "クセロロフォス門が成立した時期はいつだとされているの?", "id": "tr-598-08-000", "answers": [ { "text": "コンスタンティヌス1世の時代", "answer_start": 195, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "İsakapıはいつ倒壊したの?", "id": "tr-598-08-001", "answers": [ { "text": "1509年", "answer_start": 412, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "İsakapıが倒壊した原因は何だったの?", "id": "tr-598-08-002", "answers": [ { "text": "地震", "answer_start": 418, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "İsakapıの跡地に建てられたものとは何?", "id": "tr-598-08-003", "answers": [ { "text": "エセ・カピモスク", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アッタロスの門(ΠόρταἈτ[τ]άλου,PortaAt[t]alou)は、特徴も位置も不明である。\n位置については、シリル・マンゴーは古黄金の門のそば、ファン・ミリンゲンは第七の丘の頂上付近(後にテオドシウスの城壁の城門の一つがおかれた場所、レーモン・ジャナンはより北方のリュクス川が城壁の下を横切る地点というように様々な説が唱えられている。\nかつてはコンスタンティヌス1世などの多くの彫像で彩られていたが、740年の地震で崩壊した。\n聖アエミリアヌスの門(ΠόρτατοῦἁγίουΑἰμιλιανοῦ,PortatouhagiouAimilianou)は、その正確な位置が確定している唯一の城門である。\nトルコ語ではダヴトパシャ門(DavutpaşaKapısı)と呼ばれている。\n陸上の城壁と海側の城壁の継ぎ目にあり、海岸との連絡通路となっていた。\n復活祭年代記によれば、門の隣にはラブドスの聖マリア教会が立っていて、「モーセの杖」が収められていた。", "qas": [ { "question": "古黄金の門のそばにアッタロスの門があったと唱えた人は誰?", "id": "tr-598-09-000", "answers": [ { "text": "シリル・マンゴー", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第七の丘の頂上付近にアッタロスの門があったと唱えた人は誰?", "id": "tr-598-09-001", "answers": [ { "text": "ファン・ミリンゲン", "answer_start": 79, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アッタロスの門が崩壊した原因とは?", "id": "tr-598-09-002", "answers": [ { "text": "地震", "answer_start": 212, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "聖アエミリアヌスの門はトルコ語で何と呼ばれているの?", "id": "tr-598-09-003", "answers": [ { "text": "ダヴトパシャ門", "answer_start": 313, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プロドロモスの古門(ΠαλαιὰΠόρτατοῦΠροδρόμου,PalaiaPortatouProdromou)は、近くの前駆授洗ヨハネス(イオアン)教会(ヨハネスはギリシア語でプロドロモスProdromos、すなわち「前駆者」とも呼ばれる)にちなんで名付けられた門だが、位置が分かっていない。\nファン・ミリンゲンは古黄金の門の隣にあったとしているが、ジャナンは第七の丘の北側斜面にあったとしている。\nメランティアスの門(ΠόρτατῆςΜελαντιάδος,PortatēsMelantiados)の位置についても、さまざまな説がある。\nファン・ミリンゲンはこれをテオドシウスの城壁の門(泉の門)であるとしていたが、ジャナンとマンゴーはこの説を否定し、コンスタンティヌスの城壁の城門であるとした。\nただ二人の説の間にも相違があり、マンゴーがプロドロモスの門の近くにあるとしたのに対して、ジャニンはこの名がtaMeltiadou区と混同されたものであると考え、モ箕臼の貯水池の西側にあったとした。\n他にも、A・M・シュナイダーはアドリアノープルの門の近く、A・J・モルトマンはレシオスの門の近くとする説を唱えている。", "qas": [ { "question": "プロドロモスの古門が第七の丘の北側斜面にあったとした人は誰ですか?", "id": "tr-598-10-000", "answers": [ { "text": "ジャナン", "answer_start": 178, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence 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variation (world knowledge)" }, { "question": "テオドシウス2世の前の皇帝は誰でしたか?", "id": "tr-598-11-001", "answers": [ { "text": "アルカディウス", "answer_start": 261, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第一段階の城壁建設を指揮した人は誰ですか?", "id": "tr-598-11-002", "answers": [ { "text": "アンテミウス", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "437年9月25日と447年11月6日にそれぞれ大地震が起き、コンスタンティヌスの城壁とテオドシウスの第一段階の城壁はともに大きな被害を受けた。\n特に447年の地震が強烈で、城壁の大部分と57の塔が崩壊するありさまで、さらに翌448年1月にも地震が起きて追い打ちをかけた。\nそこでテオドシウス2世は、オリエンス道長官フラウィウス・コンスタンティヌスに城壁修復を命じた。\nこの時フン族のアッティラがバルカン半島に侵攻してコンスタンティノープルを狙っており、東ローマ帝国の存亡がいかに素早く城壁を修復できるかにかかっていた。\nコンスタンティヌスはデーモイ(競馬場の応援団)を雇い、60日で工事を完了したという。\nこれはビザンツ帝国の年代記者たちが記録しているほか、城壁で発見された3つの碑文からも立証されている。\nこの際にテオドシウスの城壁の外壁と濠が追加されたというのが定説である。\nただ、もとより内壁もこれらの設備の増設を前提として建設されていたという説もある。", "qas": [ { "question": "地震の規模が大きかったのは437年9月25日と447年11月6日のどちらに起こった地震ですか?", "id": "tr-598-12-000", "answers": [ { "text": "447年11月6日", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "城壁修復は何日で完了しましたか?", "id": "tr-598-12-001", "answers": [ { "text": "60日", "answer_start": 288, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "447年の次に起こった地震は何年だったの?", "id": "tr-598-12-002", "answers": [ { "text": "448年", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "城壁修復を命じられた人は誰?", "id": "tr-598-12-003", "answers": [ { "text": "フラウィウス・コンスタンティヌス", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "歴史上、コンスタンティノープルの城壁は戦争よりもむしろ地震やリュクス川の洪水によって頻繁に損傷した。\n同時に幾度も修復工事が行われるたびに、それを指揮した皇帝もしくは政治家の名が刻まれた碑文が建てられた。\nこの城壁修復は、専門の長官であるドメスティコス(コメース)・トーン・テイケオーン(Δομέστικος/Κόμηςτῶντειχέων,Domestikos/Komēstōnteicheōn)が責任をもって、コンスタンティノープルの住民を動員して行っていた。\n1204年にコンスタンティノープルが征服されラテン帝国が成立して以降は城壁管理がおろそかになり、1261年にビザンツ帝国が復帰して以降も、資材の欠如のため緊急時以外は十分な管理がなされなかった。", "qas": [ { "question": "1204年からコンスタンティノープルを支配した国はどこですか?", "id": "tr-598-13-000", "answers": [ { "text": "ラテン帝国", "answer_start": 255, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビザンツ帝国が復帰した年はいつ?", "id": "tr-598-13-001", "answers": [ { "text": "1261年", "answer_start": 281, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現在のテオドシウスの城壁はおよそ5.7キロメートル、南のマルマラ海沿いのバシレイオス2世とコンスタンティノス8世の塔/大理石の塔(ギリシア語:PyrgosBasileioukaiKōnstantinouトルコ語:MermerKule)から、北のブラケルナエ地区のポルフュロゲネトスの宮殿/テクフル・サラユ(ギリシア語:τοπαλάτιτοῦΠορφυρογεννήτουトルコ語:TekfurSarayı)まで続いている。\nなお外壁と堀はハドリアノポリスの門までで終わっている。\nブラケルナエ地区から金角湾までの区間は、石材がブラケルナエ地区のために使われ、後世の都市の下に埋もれてしまったため現存しない。", "qas": [ { "question": "現在のテオドシウスの城壁はどれくらいの距離ですか?", "id": "tr-598-14-000", "answers": [ { "text": "およそ5.7キロメートル", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マルマラ海から黄金の門まで鋭く北東に伸びる城壁は、海抜14メートルの高さがあった。\nそこからレギオンの門までは北へまっすぐに伸びていき、街の第七の丘を登っていく。\nそこからは鋭く北東へ進み、第七の丘の頂上にある聖ロマノスの門では標高68メートルの高さまで至る。\nそしてリュクス川峡谷に沿って標高35メートルまで下降する。\n今度は第六の丘を登っていき、頂上のカリシウスの門もしくはハドリアノポリスの門で標高76メートルまで上がる。\nハドリアノポリスの門からゆるやかに標高を下げて、ブラケルナエ地区で標高60メートルとなり、アネマス監獄に近い金角湾岸に至る。", "qas": [ { "question": "標高が高いのは聖ロマノスの門とハドリアノポリスの門のどちらですか?", "id": "tr-598-15-000", "answers": [ { "text": "ハドリアノポリスの門", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "聖ロマノスの門の標高は?", "id": "tr-598-15-001", "answers": [ { "text": "標高68メートル", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブラケルナエ地区の標高は?", "id": "tr-598-15-002", "answers": [ { "text": "標高60メートル", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ユスティニアヌス1世", "paragraphs": [ { "context": "ユスティニアヌス1世(ラテン語:JustinianusI,482年もしくは483年5月11日-565年11月14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年-565年)である。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(FlaviusPetrusSabbatiusIustinianus)。", "qas": [ { "question": "ユスティニアヌス1世は、どの国の者なの?", "id": "tr-599-00-000", "answers": [ { "text": "東ローマ帝国", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユスティニアヌス1世は、どの王朝の者ですか?", "id": "tr-599-00-001", "answers": [ { "text": "ユスティニアヌス王朝", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユスティニアヌス1世は、第何代皇帝として即位したか?", "id": "tr-599-00-002", "answers": [ { "text": "第2代皇帝", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユスティニアヌス1世の正式名は、何か?", "id": "tr-599-00-003", "answers": [ { "text": "フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "のちに皇帝ユスティニアヌス1世となるペトルス・サッバティウスは、483年にダルダニア州タウレシウム(現マケドニア共和国スコピエ近傍)で農民サッバティウスの子として生まれた。", "qas": [ { "question": "ユスティニアヌス1世は、皇帝に即位する前には、何と呼ばれたの?", "id": "tr-599-01-000", "answers": [ { "text": "ペトルス・サッバティウス", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ペトルス・サッバティウスは、何年に生まれましたか?", "id": "tr-599-01-001", "answers": [ { "text": "483年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ペトルス・サッバティウスは、どの町で生まれたか?", "id": "tr-599-01-002", "answers": [ { "text": "タウレシウム", "answer_start": 43, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ペトルス・サッバティウスの親は、どの身分の者だったか?", "id": "tr-599-01-003", "answers": [ { "text": "農民", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ラテン語を話すペトルス・サッバティウスの家族はトラキア系ローマ人またはイリュリア系ローマ人であると考えられている。のちに彼が用いるコグノーメンのIustinianusは叔父のユスティヌス1世の養子となったことを意味する。彼の治世中に出身地から遠くない場所にユスティニア・プリマを建設している。母ウィギランティアはユスティヌスの姉だった。", "qas": [ { "question": "ペトルス・サッバティウスの家族は、トラキア系または、何系のローマ人だったと推測されるの?", "id": "tr-599-02-000", "answers": [ { "text": "イリュリア系", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ペトルス・サッバティウスの家族は、どの言語を使っていましたか?", "id": "tr-599-02-001", "answers": [ { "text": "ラテン語", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ペトルス・サッバティウスは、のちに誰の養子となるか?", "id": "tr-599-02-002", "answers": [ { "text": "ユスティヌス1世", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時のローマ皇帝は、誰だったか?", "id": "tr-599-02-003", "answers": [ { "text": "ユスティヌス1世", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "叔父のユスティヌスは近衛隊(Excubitores)に属しており、ユスティニアヌスを養子とし、コンスタンティノポリスへ招き寄せて養育した。このため、ユスティニアヌスは法学と神学そしてローマ史について高い知識を持っていた。", "qas": [ { "question": "ユスティニアヌスは、幼いころ、どこで育ったの?", "id": "tr-599-03-000", "answers": [ { "text": "コンスタンティノポリス", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユスティニアヌスは、幼いころ、誰のもとで育ちましたか?", "id": "tr-599-03-001", "answers": [ { "text": "ユスティヌス", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユスティニアヌスが法学と神学、ローマ史に得意だったのは、誰のおかげでもあるか?", "id": "tr-599-03-002", "answers": [ { "text": "ユスティヌス", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ユスティニアヌスは、法学、神学とどの学問に得意だったか?", "id": "tr-599-03-003", "answers": [ { "text": "ローマ史", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "518年にアナスタシウス1世が崩御すると、ユスティヌスはユスティニアヌスの大きな助けを受けて新帝即位を宣言した。ユスティヌス1世の治世(518年~527年)においてユスティニアヌスは皇帝の腹心となった。", "qas": [ { "question": "アナスタシウス1世が死去したのは、何年のことなの?", "id": "tr-599-04-000", "answers": [ { "text": "518年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アナスタシウス1世の死後、ローマ皇帝に即位したのは、誰ですか?", "id": "tr-599-04-001", "answers": [ { "text": "ユスティヌス1世", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ユスティヌス1世の即位は、誰のおかげであったともいえるか?", "id": "tr-599-04-002", "answers": [ { "text": "ユスティニアヌス", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユスティヌス1世の治世、皇帝を心強く補佐したのは、誰か?", "id": "tr-599-04-003", "answers": [ { "text": "ユスティニアヌス", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "525年頃にユスティニアヌスは20歳年下の踊り子テオドラと成婚した。当初、ユスティニアヌスは階級の違いのために彼女と成婚できなかったが、叔父の皇帝ユスティヌス1世が異なる階級間の結婚を認める法律を制定した。テオドラは帝国の政治に大きな影響を与えるようになり、後代の皇帝も貴族階級以外から妻を娶るようになった。この成婚は醜聞となったものの、テオドラは非常に知的で、抜け目なく、公正な性格を示してユスティニアヌスの偉大な後援者となった。", "qas": [ { "question": "ユスティニアヌスとテオドラの結婚が成立したのは、何年頃だったの?", "id": "tr-599-05-000", "answers": [ { "text": "525年頃", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユスティニアヌスは、誰と結婚しましたか?", "id": "tr-599-05-001", "answers": [ { "text": "テオドラ", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローマ帝国で異なる階級間の結婚が認められるようになったのは、誰の時代のことか?", "id": "tr-599-05-002", "answers": [ { "text": "ユスティヌス1世", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローマ帝国で異なる階級間の結婚が認められたのは、何年頃のことだと予測できるか?", "id": "tr-599-05-003", "answers": [ { "text": "525年頃", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ユスティヌス1世の崩御が迫る527年4月1日にユスティニアヌスはカエサル(副帝)に就任し、同年8月1日のユスティヌス1世の崩御により単独統治者となった。", "qas": [ { "question": "527年4月1日、誰とユスティニアヌスの2人による共同統治が成立したの?", "id": "tr-599-06-000", "answers": [ { "text": "ユスティヌス1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユスティヌス1世とユスティニアヌスによる共同統治体制が成立したのは、いつのことですか?", "id": "tr-599-06-001", "answers": [ { "text": "527年4月1日", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユスティヌス1世は、何年に死去したか?", "id": "tr-599-06-002", "answers": [ { "text": "527年", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ユスティニアヌスがローマ帝国における実権を一人だけで保有するようになったのは、何年のことか?", "id": "tr-599-06-003", "answers": [ { "text": "527年", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ユスティニアヌスは地方の下層階層出身であったため、コンスタンティノポリスの伝統的な貴族階層に権力基盤を持たなかった。その代わり、彼は生まれではなく功績によって選ばれた非常に才能のある男女に取り巻かれていた。有能な臣下には司法長官のトリボニアヌス、外交官で長きにわたり宮内長官を務めたペトロ・パトリキウス、財務長官カッパドキのヨハネスそしてかつてなく効果的に徴税を行い、これによってユスティニアヌスの一連の戦役の財源を賄ったペトロ・バルシャメス、そして最後に偉大な名将ベリサリウスがいた。", "qas": [ { "question": "ユスティニアヌスの時代、官僚選定において最も大事なものとされたのは、才能と出身のうち、どちらだったの?", "id": "tr-599-07-000", "answers": [ { "text": "才能", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "元々ローマ帝国は、才能と出身のうち、どちらが重視される社会でありましたか?", "id": "tr-599-07-001", "answers": [ { "text": "出身", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ユスティニアヌスの時代に司法長官に選ばれ、かなり有能な臣下だったと評されるのは、誰か?", "id": "tr-599-07-002", "answers": [ { "text": "トリボニアヌス", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユスティニアヌスの時代、トリボニアヌスは、どの職に就かせられたか?", "id": "tr-599-07-003", "answers": [ { "text": "司法長官", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "国内の危機を乗り切ったユスティニアヌスは再征服に乗り出すことになる。532年6月にサーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」を結んで東方国境を安定させると、翌533年、ベリサリウス将軍を北アフリカへ派遣してゲルマン人国家ヴァンダル王国を征服させた。", "qas": [ { "question": "サーサーン朝ペルシアとローマ帝国の間で永久平和条約が締結されたのは、いつのことなの?", "id": "tr-599-08-000", "answers": [ { "text": "532年6月", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ローマ帝国がヴァンダル王国征服を行い始めたのは、何年のことですか?", "id": "tr-599-08-001", "answers": [ { "text": "533年", "answer_start": 80, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァンダル王国征服の命を受け、北アフリカに向かったのは、誰だったか?", "id": "tr-599-08-002", "answers": [ { "text": "ベリサリウス", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァンダル王国は、どのような人々が建国した国だったか?", "id": "tr-599-08-003", "answers": [ { "text": "ゲルマン人", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "535年、ゲルマン人国家東ゴート王国の内紛に乗じてベリサリウスをイタリアへ派遣した。翌年末にローマを奪回したものの、東ゴート側の強固な抵抗に遭い戦争は長期化する。", "qas": [ { "question": "ローマ帝国が東ゴート王国征服を行い始めたのは、何年のことですか?", "id": "tr-599-09-000", "answers": [ { "text": "535年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東ゴート王国は、どのような人々が建国した国だったの?", "id": "tr-599-09-001", "answers": [ { "text": "ゲルマン人", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、ローマ帝国とどの国の戦争について説明しているか?", "id": "tr-599-09-002", "answers": [ { "text": "東ゴート王国", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "536年、ローマ帝国はどこを手に入れることに成功したものの、戦争自体は長期化されたか?", "id": "tr-599-09-003", "answers": [ { "text": "ローマ", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "537年12月、ニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂(現アヤソフィア博物館)の再建が完了した。ビザンティン建築の最高峰として、現代まで伝えられることになる。完成時の奉献式で、祭壇に立って手をさしのべ、古代イスラエル王国のソロモン王の大神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ!ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられる。", "qas": [ { "question": "ハギア・ソフィア大聖堂の再建が完了したのは、いつのことなの?", "id": "tr-599-10-000", "answers": [ { "text": "537年12月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハギア・ソフィア大聖堂は、どの事件により焼失されたことがありますか?", "id": "tr-599-10-001", "answers": [ { "text": "ニカの乱", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニカの乱により焼失され、その再建作業が537年12月に終わったとのことは、何についての話か?", "id": "tr-599-10-002", "answers": [ { "text": "ハギア・ソフィア大聖堂", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "540年にベリサリウスが東ゴート王国の首都ラヴェンナを攻略し、東ゴート王ウィティギスを捕らえてコンスタンティノポリスへ帰還したものの、イタリア半島では依然として東ゴートの残党が勢力を保っていた。同年にサーサーン朝との抗争を再開し、帝国の東西に敵を抱えることになる。", "qas": [ { "question": "ローマ帝国が東ゴート王国の本土征服成功を果たしたのは、何年のことなの?", "id": "tr-599-11-000", "answers": [ { "text": "540年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東ゴート王国本土への遠征軍を率いたのは、誰でしたか?", "id": "tr-599-11-001", "answers": [ { "text": "ベリサリウス", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サーサーン朝との戦争が再開されたのは、何年のことか?", "id": "tr-599-11-002", "answers": [ { "text": "540年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時ローマ帝国は、東ゴートの勢力とどの国という東西の敵と戦っていたか?", "id": "tr-599-11-003", "answers": [ { "text": "サーサーン朝", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "541年、共和政ローマ以来の執政官制度を廃止する。543年、黒死病が大流行し多くの死者が出て政府も機能不全に陥る(ユスティニアヌスのペスト)。ユスティニアヌスも感染したが回復している。これにより帝国の人的資源は大打撃を受け、ユスティニアヌスのローマ帝国再興事業は衰退に向かうことになる。548年に皇后テオドラが、おそらく癌によって比較的若くして崩御した。", "qas": [ { "question": "執政官制度が廃止されたのは、何年のことなの?", "id": "tr-599-12-000", "answers": [ { "text": "541年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "執政官制度を廃止したのは、誰ですか?", "id": "tr-599-12-001", "answers": [ { "text": "ユスティニアヌス", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "黒死病がローマ帝国を襲ったのは、何年のことか?", "id": "tr-599-12-002", "answers": [ { "text": "543年", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ムハンマド・アリー", "paragraphs": [ { "context": "ムハンマド・アリー・パシャ(アラビア語:محمدعليباشا‎,ラテン文字転写:MuḥammadʿAlīBāšā,1769年?-1849年8月2日)は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805年-1849年)である。\nメフメト・アリー(トルコ語:MehmetAli)ともいう。\nエジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任した。\n国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至る。\n最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。\n近代エジプトの父、エル・キビール(大王)と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。", "qas": [ { "question": "ムハンマド・アリーがムハンマド・アリー朝の君主として在位したのはいつからいつまでですか?", "id": "tr-600-00-000", "answers": [ { "text": "1805年-1849年", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド・アリーがエジプト総督に就くにあたって頭角を現したのは何の戦いがあってのことですか?", "id": "tr-600-00-001", "answers": [ { "text": "エジプト・シリア戦役", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任した後、推し進めた政策は何ですか?", "id": "tr-600-00-002", "answers": [ { "text": "富国強兵策", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エジプトをオスマン帝国から独立させ、その後エジプト発展の基礎を築いた近代エジプトの父とは誰のこと?", "id": "tr-600-00-003", "answers": [ { "text": "ムハンマド・アリー・パシャ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "当時オスマン帝国領だったカヴァラ(帝国の欧州側・バルカン半島のマケドニア地方東部の港町。現ギリシャ領テッサロニキ近郊)に生まれる。\n生年については諸説あるが、ムハンマド・アリー自身は1769年生まれと称し、「私はアレクサンダーの故郷で、ナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだという。\n民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。\nいずれにしても欧州出身ということになる。\n父のイブラーヒーム・アーガーは街道の警備を担当する非正規部隊の司令官で、母のハドラはカヴァラ市長官の親戚であった。\n幼い頃に父を失ったムハンマド・アリーは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだ。\n前半生は多分に伝説的で、ムハンマド・アリーがこの時期の自分自身について言及することはなかった。\n岩永博によると、「比類ない出世を遂げた偉大な君主の、後身に釣り合わない青年時代の身分の卑しさを修飾する捏造」が疑われる言い伝えも存在する。", "qas": [ { "question": "ムハンマド・アリーは自称何年生まれとしていましたか?", "id": "tr-600-01-000", "answers": [ { "text": "1769年", "answer_start": 91, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ムハンマド・アリーの民族的な出自は何系とされていますか?", "id": "tr-600-01-001", "answers": [ { "text": "アルバニア系", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド・アリーの父の名は何?", "id": "tr-600-01-002", "answers": [ { "text": "イブラーヒーム・アーガー", "answer_start": 228, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド・アリーは何歳で結婚しましたか?", "id": "tr-600-01-003", "answers": [ { "text": "18歳", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1798年、イギリスとの間でエジプト経由の交易路を巡る外交戦を展開していたフランスが、自国商人の保護を理由にエジプトへの侵攻を開始した(エジプト・シリア戦役)。\nエジプトの宗主国であるオスマン帝国はこれに対抗するべく、カヴァラ市に対しアルバニア人非正規部隊300人の派遣を命じた。\nこの部隊の副隊長として戦功を挙げたムハンマド・アリーは、6000人からなるアルバニア人非正規部隊全体の副司令官へと昇進した。", "qas": [ { "question": "エジプト・シリア戦役でエジプトに侵攻した国はどこですか?", "id": "tr-600-02-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エジプト・シリア戦役が始まった当時のエジプトの宗主国はどこでしたか?", "id": "tr-600-02-001", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 92, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エジプト・シリア戦役においてムハンマド・アリーが副司令官として率いたのは6000人からなる何という部隊?", "id": "tr-600-02-002", "answers": [ { "text": "アルバニア人非正規部隊", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "遡ってフランス軍の侵入以前、18世紀エジプトではマムルークたちがエジプト総督(ワーリー)を差し置いて政治の実権を掌握し、オスマン帝国からの独立を宣言するマムルークも現れていた。\n18世紀後半にはマムルークの派閥抗争に支配権回復を図るオスマン帝国の巻き返しが絡む権力闘争が展開され、エジプトの政治情勢は混迷を極めた。\nイギリス軍がフランス軍を破り、さらに両国の間に講和条約(アミアンの和約)が結ばれイギリス軍がエジプトから撤退(1803年3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた(カイロ暴動)。\nカイロ暴動の最中の1803年5月、アルバニア人非正規部隊の司令官ターヘル・パシャが暗殺され、ムハンマド・アリーが後任の司令官に就任した。\nこれをきっかけに、ムハンマド・アリーはエジプトにおける権力闘争に割って入った。", "qas": [ { "question": "エジプトの政治情勢が混迷を極めたのは、オスマン帝国側と権力闘争を展開したエジプトの何という存在によってですか?", "id": "tr-600-03-000", "answers": [ { "text": "マムルーク", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリス軍がエジプトから撤退したのはイギリスとフランスの間で講和条約が結ばれたからですが、この条約を一般的に何といいますか?", "id": "tr-600-03-001", "answers": [ { "text": "アミアンの和約", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アミアンの和約後にエジプトで起こった権力闘争を何と言いますか?", "id": "tr-600-03-002", "answers": [ { "text": "カイロ暴動", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カイロ暴動の際に暗殺されたアルバニア人非正規部隊の司令官は誰ですか?", "id": "tr-600-03-003", "answers": [ { "text": "ターヘル・パシャ", "answer_start": 332, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ムハンマド・アリーはまず、マムルークと協力してオスマン帝国が任命した総督を無力化し、次にマムルーク内の派閥抗争を利用しつつカイロ周辺からマムルーク勢力を排除した。\nさらに自らがエジプト総督に推したアフマド・フルシド・パシャと対立すると総督に対するカイロ市民の不満を巧みに自身への支持に絡げ、1805年5月にはウラマー(宗教指導者)たちから新総督への推挙を受けることに成功した。\nムハンマド・アリーが市民の支持を背景に新総督への就任を宣言すると、オスマン帝国政府もこれを追認せざるを得なくなった。\nムハンマド・アリーが数年のうちにアルバニア人非正規部隊の司令官からエジプト総督まで登りつめた過程について、フランスの総領事ベルナルディーノ・ドロヴェティーは次のように評した。", "qas": [ { "question": "ムハンマド・アリーは、巧みな行動で熾烈な権力闘争を制し、非正規部隊の司令官から何に登り詰めましたか?", "id": "tr-600-04-000", "answers": [ { "text": "エジプト総督", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムハンマド・アリー自身がエジプト総督に推した人物は?", "id": "tr-600-04-001", "answers": [ { "text": "アフマド・フルシド・パシャ", "answer_start": 98, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エジプト総督に就任したムハンマド・アリーであったが、その支配地域はカイロ周辺とナイル川デルタの一部に限られ、上エジプトやナイル川デルタ西部はムハンマド・アリーに敵対するマムルークや遊牧部族などの支配域であった。\nまた、現状を追認する形でエジプト総督就任を認めたに過ぎないオスマン帝国や、アミアンの和約を破棄しエジプトを対フランス戦の拠点として確保しようとするイギリスは、ムハンマド・アリーの追い落としを画策した。\nしかし当時の国際状勢はムハンマド・アリーに味方した", "qas": [ { "question": "エジプト総督に就任したムハンマド・アリーが支配した地域はナイル川デルタの一部とどこでしたか?", "id": "tr-600-05-000", "answers": [ { "text": "カイロ周辺", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド・アリーの追い落としを画策した国はどこ?", "id": "tr-600-05-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 179, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "まずナポレオン戦争の渦中にあったイギリスにはエジプト情勢に深く介入する余裕がなかった。\nイギリス軍は1807年3月から4月にかけてエジプト上陸を試みたものの、ムハンマド・アリーによって撃退された(1807年のアレキサンドリア遠征)。\n4月にロゼッタ近郊のアル・ハミードで行われた戦闘(アル・ハミードの戦い)でイギリス軍が喫した敗北(総兵力4000人中2000人が死傷)は、「第一次アフガン戦争と並んで英国が東洋で喫した最大の敗退の一つ」といわれる。\nムハンマド・アリーはイギリス軍を積極的に攻撃することを避け、最終的には協定により撤退させた。\nその後も交渉と協調がムハンマド・アリーの対英政策の基調をなしていく。\nオスマン帝国も1807年から1808年にかけてセリム3世とムスタファ4世が相次いで廃位されるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった。\nムハンマド・アリーはこうしたオスマン帝国やイギリスの苦境に乗じて政治基盤の強化に乗り出し、敵対するマムルークや宗教勢力を排除または懐柔することに成功した。\nしかしマムルークはムハンマド・アリーに完全に服従したわけではなく、常に反旗を翻す機会をうかがっていた。", "qas": [ { "question": "ムハンマド・アリーがエジプト総督を務めていた当時、イギリスは何の戦争をしていましたか?", "id": "tr-600-06-000", "answers": [ { "text": "ナポレオン戦争", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アル・ハミードの戦いで敗北したのは何軍でしょうか?", "id": "tr-600-06-001", "answers": [ { "text": "イギリス軍", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド・アリーの対英政策の基調は何だったのですか?", "id": "tr-600-06-002", "answers": [ { "text": "交渉と協調", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1807年から1808年の間にオスマン帝国の政情が混乱していたのは、セリム3世に続いて誰が廃位されたからですか?", "id": "tr-600-06-003", "answers": [ { "text": "ムスタファ4世", "answer_start": 336, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1811年、オスマン帝国はムハンマド・アリーに対し、マッカを支配下に置くなどアラビア半島のほぼ全域を支配下に置きシリアやイラクにも勢力を拡大しつつあった第一次サウード王国を攻撃するよう要請した。\nムハンマド・アリーはこの要請を、いまだ完全に服従したとは言い難いマムルークの反乱を煽り自身を総督の座から追い落とそうとする計略であると察知し、後顧の憂いを断つべく苛烈な手法を用いてマムルークを粛清することを決意した。\n3月11日、次男アフマド・トゥーソンのアラビア遠征軍司令官任命式を執り行うという名目で有力なマムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害する(シタデルの惨劇)と、カイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、1812年までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除することに成功した。\n山口直彦は、マムルーク粛清に成功したことによりムハンマド・アリーのエジプトにおける支配権は確固たるものとなり、実質的に独立王朝ムハンマド・アリー朝が成立したとしている。\n以後、ムハンマド・アリーは近代化政策を推し進め、国力の増強を図っていくことになる。", "qas": [ { "question": "ムハンマド・アリーがオスマン帝国に対して、マムルークの反乱を煽り自身を総督の座から追い落とそうとする計略であると察知したのは、どこへの攻撃を要請された時ですか?", "id": "tr-600-07-000", "answers": [ { "text": "第一次サウード王国", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シタデルの惨劇では何人のマムルークが犠牲になりましたか?", "id": "tr-600-07-001", "answers": [ { "text": "400人あまり", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ムハンマド・アリーが実質的にマムルークを完全に粛清したのは何年のことですか?", "id": "tr-600-07-002", "answers": [ { "text": "1812年", "answer_start": 326, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1822年、オスマン帝国からの要請によりギリシャ独立戦争に参戦した。\nもともとムハンマド・アリーは、カイロやアレクサンドリアで革命組織が結成されアレクサンドリアから義勇兵が出港するのを黙認するなど反乱に厳しく対処していたわけではなかったが、アラビア遠征に続きオスマン帝国の「積極的で従順な奉仕者たることを強いられ」る恰好となった。", "qas": [ { "question": "ムハンマド・アリーがギリシャ独立戦争に参戦したのは何年こと?", "id": "tr-600-08-000", "answers": [ { "text": "1822年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エジプト軍は1824年にクレタ島、カソス島、カルパソス島を制圧。\n次いでギリシア本土の制圧を命じられたが、この頃からムハンマド・アリーにはただ単にオスマン帝国の命令に従うのではなく、この戦争を近代式軍隊ニザーム・ジェディトの実力を試し、国際社会、イスラム社会における存在感を高める好機ととらえるようになった。\nムハンマド・アリーにはさらに、モレア地方(ペロポネソス半島)を領有し東地中海における貿易権を獲得しようという目論みを抱くようにもなった。\n1824年7月、アレクサンドリアから海路モレア地方上陸を目指したエジプト軍は、反乱軍の艦隊に苦戦しながらも翌1825年1月に上陸に成功するとイブラーヒーム・パシャの指揮のもと陸上戦を優位に進め、ナヴァリノ(現ピュロス付近)、トリポリツァ、ミソロンギ、アテネなどを制圧した。", "qas": [ { "question": "ギリシャ独立戦争参戦の際にムハンマド・アリーが備えていた近代式軍隊を何と言いますか?", "id": "tr-600-09-000", "answers": [ { "text": "ニザーム・ジェディト", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ムハンマド・アリーが東地中海の貿易権を獲得しようと企んだ対象地域はどこですか?", "id": "tr-600-09-001", "answers": [ { "text": "モレア地方", "answer_start": 170, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1824年にクレタ島、カソス島、カルパソス島を制圧したエジプト軍は約1年後ギリシャ本土上陸を成功させ、その後の陸上戦も優位に進みましたみました。その時エジプト軍を指揮した人物の名は?", "id": "tr-600-09-002", "answers": [ { "text": "イブラーヒーム・パシャ", "answer_start": 294, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ムハンマド・アリーは単に武力を用いて反乱を鎮圧するのではなく、外交を駆使して自国に有利な状況を作り出そうとしていた。\n1826年9月、ムハンマド・アリーはアレクサンドリア駐在のイギリス総領事ヘンリー・ソールトに対し、海軍力の増強とアラビア方面への勢力拡大を認めることと引き換えにギリシアからの撤退を打診した。", "qas": [ { "question": "単なる武力での反乱鎮圧ではなく、外交を駆使して自国に有利な状況を作り出そうと考えていたムハンマド・アリーがイギリス総領事に打診したことは何ですか?", "id": "tr-600-10-000", "answers": [ { "text": "ギリシアからの撤退", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムハンマド・アリーと交渉したイギリス総領事の名前は何?", "id": "tr-600-10-001", "answers": [ { "text": "ヘンリー・ソールト", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イギリスとの交渉に際しムハンマド・アリーは、ギリシアでの軍事行動を抑制し、オスマン帝国や反乱鎮圧を支持するオーストリアを苛立たせた。\nオーストリアはムハンマド・アリーのもとに使者を送り、イギリスはエジプトに対し好意を抱いてはおらず、弱体化を望んでいると説いたが、ムハンマド・アリーはイギリスとの関係を重視する姿勢を崩さなかった。\nオスマン帝国はムハンマド・アリーに対し戦争の全指揮権を委ねることを打診した。\nムハンマド・アリーはこれを辞退したがオスマン帝国側がかつてのエジプト総督でムハンマド・アリーによって追放された、ムハンマド・アリーの仇敵ともいえるヒュスレヴ・パシャ(フスロー・パシャ)をオスマン帝国海軍司令官から解任した上で改めて要請すると、受け入れざるを得なくなった。\n1827年7月6日、イギリス・フランス・ロシアは「休戦をもたらすために共同で努力する」旨の協定を結び、オスマン帝国側が停戦要求に応じない場合は海上封鎖を行いエジプト軍の補給路を断つことで合意した。\nムハンマド・アリーは軍事行動の開始を引き伸ばしてイギリスとの交渉を続けたが、期待に反し1827年8月8日、イギリス側はムハンマド・アリーの要求に応えることなく、ギリシアへ軍隊を派遣し強力な干渉を行うことを予告した。\n岩永博は、イギリスがムハンマド・アリーの期待を裏切った原因として、ギリシャ独立戦争においてエジプト軍が行った虐殺や捕虜虐待に対する非難が西欧社会で湧き起こっていたことを指摘している。", "qas": [ { "question": "オスマン帝国や反乱鎮圧を支持していた国で、ムハンマド・アリーのもとに使者を送ったのはどこでしょう?", "id": "tr-600-11-000", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "以前エジプト総督を務めた人物で、ムハンマド・アリーの仇敵でもある人の名前は何ですか?", "id": "tr-600-11-001", "answers": [ { "text": "ヒュスレヴ・パシャ", "answer_start": 277, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリス・フランス・ロシアが「休戦をもたらすために共同で努力する」旨の協定を結んだのはいつですか?", "id": "tr-600-11-002", "answers": [ { "text": "1827年7月6日", "answer_start": 340, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスがムハンマド・アリーの要求に反してギリシアへ軍隊を派遣し強力な干渉を行うことを予告したのはいつのことですか?", "id": "tr-600-11-003", "answers": [ { "text": "1827年8月8日", "answer_start": 482, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イギリスとの交渉が決裂する2日前の8月6日、これ以上出兵を引き延ばせないと判断したムハンマド・アリーはアレクサンドリアから海軍を出撃させた。\nこれに対しイギリス・フランス海軍も休戦を求め恣意行動を開始し、10月13日にはロシアの艦隊も合流した。\n10月20日、ナヴァリノ湾においてオスマン帝国海軍が発砲したのをきっかけに戦闘となり、オスマン帝国およびエジプト海軍は艦船の4分の3を失う大敗を喫した(ナヴァリノの海戦)。\nこの戦いでエジプト海軍は壊滅し、さらにその後行われた海上封鎖により補給路を断たれたことで陸軍の半分を飢餓で失った。\nギリシャ独立戦争参戦はエジプトに多大な社会的、経済的損失をもたらすこととなった。\nムハンマド・アリーは、事態を楽観視した挙句3か国の介入に対し「狂信的・短絡的」に反発した「豚頭のスルタン」と「驢馬のような宰相」の愚鈍さが敗戦を招いたと認識し、オスマン帝国からの完全な独立を決意するに至った。", "qas": [ { "question": "オスマン帝国とエジプト海軍の艦船が4分の1しか残らなかった戦闘を何と言いますか?", "id": "tr-600-12-000", "answers": [ { "text": "ナヴァリノの海戦", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナヴァリノの海戦後、エジプト陸軍の半分を飢餓で失ったのは、海上で何をされたことにより補給路が断たれたからですか?", "id": "tr-600-12-001", "answers": [ { "text": "海上封鎖", "answer_start": 236, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナヴァリノの海戦が始まったきっかけはどこの海軍の発砲からですか?", "id": "tr-600-12-002", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 140, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド・アリーは、ギリシャ独立戦争参戦において、事態を楽観視した挙句3か国の介入に対し「狂信的・短絡的」に反発した「豚頭のスルタン」と「驢馬のような宰相」の愚鈍さが敗戦を招いたと認識しましたが、その3か国とはイギリスとフランスの他どこの国が入りますか?", "id": "tr-600-12-003", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 110, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ギリシャ独立戦争終結後、ムハンマド・アリーは戦前にオスマン帝国が参戦の対価として提示していたシリア(シリア属州)総督の地位を要求した。\nしかしギリシャ独立戦争に続き1828年の露土戦争でロシアに敗れ莫大な損失を被っていたオスマン帝国は、ギリシャ独立戦争に敗れた以上約束は無効と主張して拒否した。\nこの時点でムハンマド・アリーはオスマン帝国側に無断でギリシャから軍を撤退させており、さらに露土戦争において援軍を送ることを拒んでいた。\nオスマン帝国のスルタンマフムト2世はムハンマド・アリーのこうした動きに不満を抱いていた。", "qas": [ { "question": "オスマン帝国とロシアとの戦争は何年にありましたか?", "id": "tr-600-13-000", "answers": [ { "text": "1828年", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第二次エジプト・トルコ戦争敗戦後、ムハンマド・アリーは一時精神的に不安定な状態に陥りながらも引き続き政務を執ったが、1847年頃に老衰の兆しがみられるようになり、1848年4月5日に総督の地位を長男イブラーヒーム・パシャに譲った。\nしかしイブラーヒーム・パシャは同年11月20日に結核により死去した。\nその跡を継いだのは次男アフマド・トゥーソンの子アッバース・パシャであった。\n実孫アッバース・パシャに対するムハンマド・アリーの評価は極めて低く、イブラーヒーム・パシャの死を知ったムハンマド・アリーは「これでアッバース・ヒルミがあとを継ぐことになるのか。我々が築き上げてきたものはすべて台無しになるだろう」と嘆いたという。\n実際にアッバース・パシャはそれまで推し進められてきた近代化政策を否定する方針を打ち出した。\n1849年8月2日、アレクサンドリアで死去。\n遺体はカイロのムハンマド・アリー・モスクに安置された。", "qas": [ { "question": "ムハンマド・アリーの次にエジプト総督に就任したのは誰ですか?", "id": "tr-600-14-000", "answers": [ { "text": "イブラーヒーム・パシャ", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イブラーヒーム・パシャはエジプト総督に就任してから約7か月後に死んでしまう。何によって死んだ?", "id": "tr-600-14-001", "answers": [ { "text": "結核", "answer_start": 140, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムハンマド・アリーが進めてきた近代化政策を否定した人物はムハンマド・アリーの孫である。名前は何と言うか?", "id": "tr-600-14-002", "answers": [ { "text": "アッバース・パシャ", "answer_start": 315, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アッバース・パシャの父は何と言いますか?", "id": "tr-600-14-003", "answers": [ { "text": "アフマド・トゥーソン", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ムハンマド・アリーの生涯について、エジプトの経済学者ガラール・アミーンは、「強力な独立の工業国家建設策を超大国に認められず、......軍事的敗北に続いて門戸開放政策をとるように強制され、外国資本によって操作される政治的・経済的圧迫に屈せざるを得なかった」点において、第2代エジプト共和国大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルの生涯と共通する部分があると指摘している。\n山口直彦は、「ヨーロッパ列強と中東の旧秩序に軍事力で挑み、そして敗れたムハンマド・アリの姿は敗戦までの日本を想い起こさせる」と評している。\n山内昌之は、「西欧による侵略と分割の脅威に直面して政治をリアリズムの観点から見すえ」る事を余儀なくされながら、片やオスマン帝国、片や江戸幕府による統治が手詰まりに陥った状況を打開すべく、「産業化と軍事的強化を結びつけながら近代化を図った点」が薩摩藩の第11代藩主島津斉彬と共通すると指摘している。\n歴史学者の牟田口義郎は、「エジプトのほか、一時的ながらシリアも領有し、アラビアを2度征服して、以後150年続く王朝を開いた点では、かの風雲児、バイバルスに匹敵されよう」と評している。", "qas": [ { "question": "ムハンマド・アリーの生涯についてエジプトの経済学者ガラール・アミーンは、誰の生涯と共通する部分があると指摘していますか?", "id": "tr-600-15-000", "answers": [ { "text": "ガマール・アブドゥル=ナーセル", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "山内昌之はムハンマド・アリーが誰と共通していると指摘していますか?", "id": "tr-600-15-001", "answers": [ { "text": "島津斉彬", "answer_start": 385, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "牟田口義郎はムハンマド・アリーの生涯が誰と匹敵していると評していますか?", "id": "tr-600-15-002", "answers": [ { "text": "バイバルス", "answer_start": 474, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "多摩湖鉄道の鉄道車両", "paragraphs": [ { "context": "多摩湖鉄道は1928年4月6日に国分寺駅-萩山駅間の旅客運輸営業を開始したが、この際の車両は日本自動車製の4輪ガソリン客車キハ1形キハ1・2号の2両であった。この区間の動力はもともと電気動力のみの予定であったが、資金不足および早期完成のため電気・ガソリン併用ただし電気設備未竣功として、実質的にガソリン動力のみで運輸営業を開始したものである。ところが当初のキハ1形キハ1・2号は故障が多く、開業当日に松井自動車製作所に4輪ガソリン客車2両を発注するとともに、その完成までのつなぎのほか延長線建設等に備え、蒸気動力併用の認可を受けた上で、鉄道省から1650形1650号蒸気機関車1両、駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)から4輪客車1両を譲り受けた。このうち、松井自動車製作所に発注した新車両はジハ101形ジハ101・102号として、1928年8月に1両、10月に残りの1両が竣功したが、蒸気機関車および客車は放置ののち1929年3月に竣功した。しかし、蒸気機関車と客車については営業用に使用した記録が残されていない。また、キハ1形キハ1・2号についても伝達装置等の改造を行い、1929年10月にキハ2号、1930年1月にキハ1号が竣功し延伸区間の開業を迎えた。", "qas": [ { "question": "1928年4月6日の多摩湖鉄道の車両は何でしたか。", "id": "tr-601-00-000", "answers": [ { "text": "4輪ガソリン客車キハ1形キハ1・2号", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国分寺駅-萩山駅間の旅客運輸営業を開始し他とき、実質的な動力は何だったか。", "id": "tr-601-00-001", "answers": [ { "text": "ガソリン動力", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "キハ2号とキハ1号のうち、より早めに竣功し延伸区間の開業を迎えたのはどちらか。", "id": "tr-601-00-002", "answers": [ { "text": "キハ2号", "answer_start": 493, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "武蔵野鉄道は1945年に西武鉄道を合併し西武農業鉄道に商号を変更、さらに翌年には西武鉄道に商号を変更した。西武鉄道は1948年に車両の改番を行い、モハ10形モハ10-12号はモハ21形モハ21-23号、モハ15形モハ15-17号はモハ11形モハ11-13号、モハ20形モハ20-22号はモハ101形モハ101-103号、キハ1形キハ2号はキハ1形キハ1号となった。しかし、キハ1形キハ1号はまもなく廃車となり、モハ11形とモハ21形についても1955年までに休車となった。一方、モハ101形は車体を鋼製の物に乗せ換え、同様の改造を行った他の老朽車も加わり両数を増やした。", "qas": [ { "question": "テキストに従うと、廃車となったのはキハ1形キハ1号、モハ11形、モハ21形のうちどれですか。", "id": "tr-601-01-000", "answers": [ { "text": "キハ1形キハ1号", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1948年、モハ10形モハ10-12号は何に改番されましたか。", "id": "tr-601-01-001", "answers": [ { "text": "モハ21形モハ21-23号", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "キハ1形は現在の西武多摩湖線を建設および営業した多摩湖鉄道が1928年に日本自動車から購入した4輪ガソリン客車である。1両は1936年に廃車となったが、残る1両は1940年に合併により武蔵野鉄道に引き継がれた。しかしそれも1949年に廃車された。多摩湖鉄道は、初営業区間となる国分寺駅-萩山駅間の1928年4月6日旅客運輸営業開始に備え2両を購入した。鉄道省への手続きは1928年1月17日付監第131号で2両の設計認可を受け、同年3月15日にキハ1形キハ1・2号の竣功届を提出した。続いて、1928年4月5日付監第946号で乗降段およびブレーキの設計変更認可を受けたが、竣功届は不明である。", "qas": [ { "question": "1928年に日本自動車はキハ1形をどこに販売しましたか。", "id": "tr-601-02-000", "answers": [ { "text": "多摩湖鉄道", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "多摩湖鉄道が初めて購入した車両であるキハ1形であったが、開業前から故障が続発し、開業日の1928年4月6日には新車両のジハ101形を松井自動車製作所に発注するとともに、平行して鉄道省および駿豆鉄道から蒸気機関車と客車を譲り受けた。キハ1形の設計は前述のとおり、全般に特殊な傾向が目立つものであったが、メーカーの日本自動車は本来、自動車の輸入ディーラーであり、その工作部門も輸入自動車シャーシの改造やボディ架装を主たる業務とするもので、鉄道車両製造経験は皆無であった。ゆえに常道から外れた設計が多用され、問題を多数抱える結果となったと見られる。ジハ101形の設計認可申請時にはキハ1形の今後を「根本的ニ改造スルカ又ハ全々廃棄スル予定ニ有」としたが、結局改造となり1928年12月12日付監第3907号で設計変更認可を受け、1929年10月31日付多鉄第178号でキハ2号、1930年1月13日付多鉄第192号でキハ1号の竣功届を提出した。代価はキハ1号の竣功図では13400.00円である。また、製造年月および製造所は1929年9月松井車両製作所製とされ、あたかも改造ではなく新造したかのようになっている。この改造は松井自動車製作所が萩山に出張して行った。車体の鋼体は改造流用されたものの、下回りについては松井車両の流儀で一新されている。", "qas": [ { "question": "多摩湖鉄道が最初に購入した車両は何か。", "id": "tr-601-03-000", "answers": [ { "text": "キハ1形", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "キハ1形を作った企業は?", "id": "tr-601-03-001", "answers": [ { "text": "日本自動車", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本自動車の本来の業種は?", "id": "tr-601-03-002", "answers": [ { "text": "自動車の輸入ディーラー", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "多摩湖鉄道は1932年に全線を電化し、1933年から1934年にかけてはモハ20形ボギー電動客車を導入した。その一方で電動客車以外の車両は次々と廃車とし、キハ1形についてもキハ1号は1936年7月13日付多鉄子第76号廃止届でハ10形ハ10号とともに廃車となった。多摩湖鉄道は1940年3月12日に武蔵野鉄道に合併され、武蔵野鉄道は1945年9月22日に西武鉄道および食糧増産を合併して商号を西武農業鉄道に変更、1946年11月15日にはさらに商号を西武鉄道に変更し現在に至っている。キハ2号はガソリン客車として唯一1936年以降も消え残り、合併により西武鉄道まで引き継がれた。西武鉄道は1948年6月2日付西鉄発第137号車両型式記号番号変更届でキハ1形キハ1号に改番したが、「荒廃甚だしく且つ必要なきため」1949年3月30日付西鉄発丑第76号廃止届で廃車とした。末期の動向について益井茂夫は「多摩湖鉄道とその車両」において「改番後戦後まで萩山庫のデルタ線の1本に残っていた」と記している。", "qas": [ { "question": "「多摩湖鉄道とその車両」において「改番後戦後まで萩山庫のデルタ線の1本に残っていた」と述べたのは誰か。", "id": "tr-601-04-000", "answers": [ { "text": "益井茂夫", "answer_start": 393, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "日本の両生類一覧", "paragraphs": [ { "context": "日本の両生類一覧(にほんのりょうせいるいいちらん)とは、日本に生息する両生類の一覧である。\nあわせて、日本の両生類相についても解説するが、その特徴として、多様な固有種が生息する事に加えて、本州から四国、九州にかけて著しい分化が見られるサンショウウオ類や南西諸島で特に分化しているカエル類、遺存種であるオオサンショウウオとイボイモリの存在があげられる。", "qas": [ { "question": "日本の両生類の中で遺存種に属するのはイボイモリと何ですか?", "id": "tr-602-00-000", "answers": [ { "text": "オオサンショウウオ", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カエル類が多数分化している地域はどこですか?", "id": "tr-602-00-001", "answers": [ { "text": "南西諸島", "answer_start": 126, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本爬虫両棲類学会の『日本産爬虫両生類標準和名(2015年5月28日改訂案)』及び国立研究開発法人国立環境研究所『侵入生物データベース』に基づいた下記の一覧を見ると、日本に生息する両生類は、定着したと判断される外来種を含み、2目10科24属76種81亜種である。\n内訳は、在来種が2目9科20属71種76亜種、外来種が2目5科5属5種である。\nまた、在来種のうち、日本の固有種は61種66亜種であり、固有種の割合は約86%にもなる。\n『日本産爬虫両生類標準和名(2015年5月28日改訂案)』より前の2014年9月に発刊された『レッドデータブック2014』(環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編、2014、iii頁)でも両生類の約8割が日本固有種であるとしている。", "qas": [ { "question": "日本に生息する両生類のうち、在来種の内訳はどのようになっていますか?", "id": "tr-602-01-000", "answers": [ { "text": "2目9科20属71種76亜種", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本に生息する両生類のうち、外来種の内訳はどのようになっていますか?", "id": "tr-602-01-001", "answers": [ { "text": "2目5科5属5種", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本に生息する両生類の在来種と外来種のうち、種の数が多いのはどちらですか?", "id": "tr-602-01-002", "answers": [ { "text": "在来種", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "在来種のうち、日本の固有種のパーセンテージはどれくらいですか?", "id": "tr-602-01-003", "answers": [ { "text": "約86%", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "目の単位では、有尾目(サンショウウオ目)が32種(外来種除く)、無尾目(カエル目)が38種(外来種除く)であるのに対し、世界における現生の両生類は、有尾目が約436種、無尾目が約4383種である。\n後述するように、2014年現在においても新種が記載がされていることから単純には比較できないものの、世界に対する日本に分布する在来両生類の割合は、前者が約7.3%、後者が0.87%となり、世界総陸地面積に対する日本の国土面積との割合0.25%よりも、ともに大きい値である。\nそれを示唆するものとして、新種記載が進んでいない1980年代において、千石(1982)は、『(サンショウウオ類の)発生の地と考えられるユーラシア大陸の東部でも、その広大な地域を合わせてすら種類数が日本におよばない。』と説明している。", "qas": [ { "question": "日本において数が多いのは有尾目と無尾目のどちらですか?", "id": "tr-602-02-000", "answers": [ { "text": "無尾目", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界において数が少ないのは有尾目と無尾目のどちらですか?", "id": "tr-602-02-001", "answers": [ { "text": "有尾目", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "無尾目の数が多いのは日本と世界のどちら?", "id": "tr-602-02-002", "answers": [ { "text": "世界", "answer_start": 60, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "両生類は一般的に、移動性が低く、変温動物で、成体は皮膚が乾燥に弱いため水系から離れることが困難であり、産卵や幼生(オタマジャクシ)の生息が水系に依存するという特徴を持つ。\nこれらの基本的な特徴を踏まえて、日本における多様な両生類相を概観する。", "qas": [ { "question": "両生類は体温の変動がある何動物に属しますか?", "id": "tr-602-03-000", "answers": [ { "text": "変温動物", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "有尾目の中で、サンショウウオ科は地理的分化が著しく、ほとんどの種の分布域は非常に狭い。\nこれは、サンショウウオ類の移動能力の低さに加え、日本では山地が発達したことで、両生類の繁殖環境かつ幼生の生息環境となる水系が分断されることをあげている。\n現に、サンショウウオ科28種のうちキタサンショウウオを除く27種が固有種である。\nまた、2012年から2014年にかけて、多くの隠蔽種が新記載されており、特にもともとハコネサンショウウオ1種であると考えられていたハコネサンショウウオ属が6種に細分されている。", "qas": [ { "question": "日本でサンショウウオ科は何種存在していますか?", "id": "tr-602-04-000", "answers": [ { "text": "28種", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サンショウウオ科28種のうち固有種でないものは何ですか?", "id": "tr-602-04-001", "answers": [ { "text": "キタサンショウウオ", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サンショウウオ科の中で日本の固有種は何種ありますか?", "id": "tr-602-04-002", "answers": [ { "text": "27種", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2012年から2014年にかけてハコネサンショウウオ属は何種に分かれましたか?", "id": "tr-602-04-003", "answers": [ { "text": "6種", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、千石(1982)や上野(2000)は、琉球列島の奄美大島以南にサンショウウオ科が確認されていないことや、本州の太平洋側よりも日本海側で分化が著しいことなどから、サンショウウオ科の多くは、朝鮮半島経由で西日本に侵入した祖先種に由来するのではないかと考察している。\nまた、最大の両生類であり、国の特別天然記念物のオオサンショウウオや、両生類の中では珍しく、陸上に産卵するという特徴をもったイボイモリなどの遺存種が、本州中部や琉球諸島に生息することも日本の両生類相の特徴として挙げられる。", "qas": [ { "question": "サンショウウオ科の分化が著しいのは本州の太平洋側と日本海側のどちらですか?", "id": "tr-602-05-000", "answers": [ { "text": "日本海側", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本で最も大きい両生類は何?", "id": "tr-602-05-001", "answers": [ { "text": "オオサンショウウオ", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イボイモリの産卵場所はどこ?", "id": "tr-602-05-002", "answers": [ { "text": "陸上", "answer_start": 179, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カエル類(無尾目)では、北海道から本州、四国、九州にかけて生息するものは、分布域が広く、アカガエル類等の北方起源のものが多いとされている。\n個々の種を見てみると、本州から四国、九州に生息するものはアマガエルのように広く分布する種もいれば、ニホンヒキガエルとアズマヒキガエルのように亜種で日本の東西に分かれる分布を示すものもいる。\nまた、カエルの代表格であるトノサマガエルに注目すると、近縁なダルマガエルの2亜種のうち関東地方に分布する亜種トウキョウダルマガエルとは異所的な分布を示すのに対し、瀬戸内地方に分布する亜種ナゴヤダルマガエルとは同所的に分布するという亜種間で異なった様相をみせる。", "qas": [ { "question": "無尾目とは何のことですか?", "id": "tr-602-06-000", "answers": [ { "text": "カエル類", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カエルの代表的存在は何ですか?", "id": "tr-602-06-001", "answers": [ { "text": "トノサマガエル", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トウキョウダルマガエルの生息地域はどこですか?", "id": "tr-602-06-002", "answers": [ { "text": "関東地方", "answer_start": 208, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナゴヤダルマガエルが分布している地域はどこ?", "id": "tr-602-06-003", "answers": [ { "text": "瀬戸内地方", "answer_start": 246, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "タゴガエルは、本州に広く分布する亜種タゴガエルと、隠岐諸島固有のヤエヤマハラブチガエル、屋久島固有のヤクシマタゴガエルの3亜種に、島嶼間で区別される。\nこのように種によって独特な分布パターンを示す。\n一方で琉球列島においては、渡瀬線より南のトカラ列島以南著しく分化しており、さらに、中琉球(トカラ海峡とケラマ海峡に挟まれた琉球列島中部。奄美諸島や沖縄諸島等が含まれる。)にしか分布しておらず、琉球列島南端の八重山諸島においても近縁なものが確認されていない種が多いことが特徴的である。", "qas": [ { "question": "タゴガエルの分布域はどこ?", "id": "tr-602-07-000", "answers": [ { "text": "本州", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヤエヤマハラブチガエルの分布域はどこ?", "id": "tr-602-07-001", "answers": [ { "text": "隠岐諸島", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヤクシマタゴガエルの分布域はどこ?", "id": "tr-602-07-002", "answers": [ { "text": "屋久島", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "他にも興味深い分布をする種としては、中国に広く分布するアジアヒキガエルが最も近縁な群と考えられている宮古諸島固有亜種のミヤコヒキガエルや、奄美大島、徳之島、沖縄島、石垣島及び西表島に分布し、隔離された島嶼間における種分化(異所的種分化)の結果であると考えられているハナサキガエル類、ヤエヤマハラブチガエルやアイフィンガーガエルなどの八重山諸島と台湾に分布する種などがあげられる。\n海水を苦手とする両生類が移動・分散するためには、大陸との陸橋の形成が不可欠であり、琉球列島の成り立ちを検討する上では欠かせない。\nその一例として、太田・高橋(2006)は、九州、琉球列島の島嶼群及び台湾、大陸に分布する両生類相の類似度を野村・シンプソン指数で求めているが、琉球諸島はまず「宮古諸島・八重山諸島グループ」と「奄美諸島・沖縄諸島グループ」にグルーピング化され、「宮古諸島・八重山諸島グループ」は「台湾」に類似し、ついで「宮古諸島・八重山諸島・台湾のグループ」と「大陸」が近似、さらに「宮古諸島・八重山諸島・台湾・大陸のグループ」と「奄美諸島・沖縄諸島」が近似し、最後に「奄美諸島から大陸のグループ」が「九州」と類似するという結果となった。\n爬虫類でも概ね同様な結果を得ており、この類似度が単純に地域間の歴史的関係を反映しているとの前提であれば、「九州」と「奄美諸島から大陸のグループ」の間が先に分断され、ついで上記と逆の順に、陸橋が分断されていった事を示唆している。", "qas": [ { "question": "アジアヒキガエルに最も近縁となる種類は何?", "id": "tr-602-08-000", "answers": [ { "text": "ミヤコヒキガエル", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮古諸島の固有亜種となるカエルは何?", "id": "tr-602-08-001", "answers": [ { "text": "ミヤコヒキガエル", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤエヤマハラブチガエルの日本での分布域はどこ?", "id": "tr-602-08-002", "answers": [ { "text": "八重山諸島", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アイフィンガーガエルの海外での分布域はどこ?", "id": "tr-602-08-003", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 172, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2015年6月現在で、オオサンショウウオ及びモリアオガエル、カジカガエルの3種の両生類が、種又はその生息地・繁殖地を対象に、国の特別天然記念物又は天然記念物に指定されている。\nカジカガエルについては『玲瓏たる声音を発す(玲瓏タル聲音ヲ發ス)』と解説されており、千石(1995)は、『古来、日本人はカジカガエルの声を愛で』ていたことを紹介し、『カエルの声を楽しむという風流心は、(中略)日本人が世界に誇ってもよい』と指摘しており、日本人が両生類を文化の一部として捉えていることを示唆するものである。\nこの蛙は春の季語で、松尾芭蕉が古池や蛙飛びこむ水の音と詠んだことは有名であり、また、井伏鱒二はオオサンショウウオを題材に、小説山椒魚を著した。\nオオサンショウウオはかつては食用とされており、近縁のチュウゴクオオサンショウウオも食用のために持ち込まれたとされている。\nまた、ウシガエルも食用のために日本に導入された。", "qas": [ { "question": "昔の日本人は何のカエルの鳴き声を聞いて風流を感じていましたか?", "id": "tr-602-09-000", "answers": [ { "text": "カジカガエル", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "山椒魚を書いた小説家は誰ですか?", "id": "tr-602-09-001", "answers": [ { "text": "井伏鱒二", "answer_start": 291, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "蛙はどの季節の季語ですか?", "id": "tr-602-09-002", "answers": [ { "text": "春", "answer_start": 253, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウシガエルが日本に導入されたのは何のためでしたか?", "id": "tr-602-09-003", "answers": [ { "text": "食用のため", "answer_start": 391, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2012年8月に公表された第4次環境省レッドリストでは、66種(亜種を含む。以下同じ。)の評価対象種のうち、22種が絶滅のおそれのある種(絶滅危惧IA類、IB類、II類の合計)、20種が準絶滅危惧種、1種が情報不足と評価している。\n第3次レッドリストでは、評価対象種62種のうち、絶滅のおそれのある種が21種、準絶滅危惧種が14種であったが、この増加した要因として、『レッドデータブック2014』では、分類の再検討による独立種の増加をあげるとともに、種が細分化されたことにより、細分化前よりも絶滅リスクが高まるおそれがあることも指摘している。\nまた、日本人にとってカエルの代表種とも言えるトノサマガエルが、その生息環境である水田等の減少に伴い影響を受けているとして準絶滅危惧にランクインしている。", "qas": [ { "question": "第4次環境省レッドリストの両生類の中で、絶滅のおそれのある種と準絶滅危惧種の数はどちらが多いですか?", "id": "tr-602-10-000", "answers": [ { "text": "絶滅のおそれのある種", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第3次レッドリストの両生類の中で数が多いのは、絶滅のおそれのある種と準絶滅危惧種のどちらですか?", "id": "tr-602-10-001", "answers": [ { "text": "絶滅のおそれのある種", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "両生類の評価対象の種類が多いのは第4次環境省レッドリストと第3次レッドリストのどちらですか?", "id": "tr-602-10-002", "answers": [ { "text": "第4次環境省レッドリスト", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第4次環境省レッドリストで情報不足と評価された両生類は何種でしたか?", "id": "tr-602-10-003", "answers": [ { "text": "1種", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2000年に発行された『改訂版レッドデータブック』では、両生類の生息環境となる湿地や小川等の淡水環境や森林環境が開発され、あるいはペットブームによる密猟が絶滅の危機や個体数減少の要因であると述べているが、2014年に刊行された『レッドデータブック2014』でも生息環境の急激な悪化と愛好家や業者の乱獲を指摘している。\nさらには、徘徊性の両生類は道路の側溝に落ちると這い上がる事ができずにそのまま死亡することもある。\nこれらの影響の結果、絶滅した種は確認されていないもののアベサンショウウオやカスミサンショウウオなどで地域個体群が消滅した例もある。", "qas": [ { "question": "生息環境の急激な悪化等で絶滅した種はアベサンショウウオと何ですか?", "id": "tr-602-11-000", "answers": [ { "text": "カスミサンショウウオ", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "生息環境の急激な悪化等で絶滅したサンショウウオ類の種はカスミサンショウウオと何ですか?", "id": "tr-602-11-001", "answers": [ { "text": "アベサンショウウオ", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『改訂版レッドデータブック』は何年に発行されたの?", "id": "tr-602-11-002", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "他にも、近年では、オオサンショウウオと交雑し、遺伝的撹乱を与えているチュウゴクオオサンショウウオやシロアゴガエルのように在来種と餌や繁殖環境を巡って競争を行うもの、ウシガエルのように在来種を直接捕食するものなど、様々な外来種が確認されている。\nもちろん同じ両生類のみならずアライグマやカミツキガメ、卵や幼生を捕食するティラピアなどの両生類を餌とする外来生物は多い。\nこれらの生息環境の変化や外来種の脅威によって、日本の両生類相は、その存続を脅かされていると言える。", "qas": [ { "question": "オオサンショウウオと交雑して遺伝的に混乱させている外来種は何?", "id": "tr-602-12-000", "answers": [ { "text": "チュウゴクオオサンショウウオ", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "両生類の卵や幼生を食べる外来魚とは何?", "id": "tr-602-12-001", "answers": [ { "text": "ティラピア", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウシガエルが捕食しているものは何?", "id": "tr-602-12-002", "answers": [ { "text": "在来種", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "具体的な両生類の保護対策の例として、1996年6月18日に環境省と建設省(当時)は、アベサンショウウオを対象に種の保存法に基づく「保護増殖計画」を策定した。\n本種の生息地である丹後半島で、重要な生息環境である小規模な水溜まりや溝等の現状維持や拡大、その周辺にある森林の保全、モニタリング調査、密猟の防止、普及啓発などの対策が講じられている。\nまた、それを担保するために、兵庫県豊岡市と京都府京丹後市の2箇所の生息地が、生息地等保護区に指定されている。\nまた民間によるトウキョウサンショウウオのビオトープの創出も成果をあげている。\nその他、上記の天然記念物に指定されている3種も文化財保護法に基づく規制がかけられており、国際的な商取引を規制する目的で、オオサンショウウオが国際希少野生動植物種に指定されている。\n加えて、国の天然記念物等に指定されていなくても、都道府県や市町村の条例に基づく天然記念物や希少野生動植物種に指定され、保護されている種もいる。", "qas": [ { "question": "「保護増殖計画」が決められたのはいつ?", "id": "tr-602-13-000", "answers": [ { "text": "1996年6月18日", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「保護増殖計画」は何の生物を対象に策定されたの??", "id": "tr-602-13-001", "answers": [ { "text": "アベサンショウウオ", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「保護増殖計画」は何の法律をベースに策定されたの?", "id": "tr-602-13-002", "answers": [ { "text": "種の保存法", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アベサンショウウオの生息地はどこ?", "id": "tr-602-13-003", "answers": [ { "text": "丹後半島", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2005年の外来生物法の施行を契機に、外来両生類の駆除や調査なども進められており、例えば沖縄県においてはオオヒキガエルやシロアゴガエルを対象とした事業が行われており、また、チュウゴクオオサンショウウオ及びオオサンショウウオとの雑種個体の除去も実施されている。\nまた、2015年3月には、『我が国の生態系等に被害を及ぼすおそれのある外来種リスト(生態系被害防止外来種リスト)』が作成され、外来生物法に基づく特定外来生物の対象外や国内外来種の対策も進められている。", "qas": [ { "question": "オオヒキガエルとシロアゴガエルを対象とした事業はどこで行われていますか?", "id": "tr-602-14-000", "answers": [ { "text": "沖縄県", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『我が国の生態系等に被害を及ぼすおそれのある外来種リスト』が作成されたのはいつ?", "id": "tr-602-14-001", "answers": [ { "text": "2015年3月", "answer_start": 133, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "分類、学名及び和名は、日本爬虫両棲類学会が公表した日本産爬虫両生類標準和名(2015年5月28日改訂案)に基づき、一部の外来種について国立研究開発法人国立環境研究所『侵入生物データベース』に従った。\nそのため環境省レッドリスト等と学名が一致しないものがあることに留意されたい。\n目、科、属の右に、これに含まれる分類群の数を記載した。", "qas": [ { "question": "『侵入生物データベース』を作成した機関はどこですか?", "id": "tr-602-15-000", "answers": [ { "text": "国立環境研究所", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ゴールデンライス", "paragraphs": [ { "context": "ゴールデンライスはイネOryzasativaの品種の1つで、ビタミンAの前駆体であるβ-カロテンの生合成が可食部でも行われるよう遺伝子操作を行った品種である。ゴールデンライスはビタミンAの摂取が不足している地域で生育し消費される栄養強化食品となることを目的として開発された。ビタミンA欠乏症によって毎年67万人の子供が5歳に達するまでに死亡し、さらに50万人に不可逆的な失明が引き起こされていると推計されている。コメは世界の半数以上の人々の主食であり、アジア諸国では摂取するエネルギーの30–72%を占めるため、ビタミン不足の対策として効果的な作物である。", "qas": [ { "question": "ゴールデンライスは何の摂取が足りない地域のために開発されたか。", "id": "tr-603-00-000", "answers": [ { "text": "ビタミンA", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビタミンA欠乏症によって失明する人は毎年何人にいたるか。", "id": "tr-603-00-001", "answers": [ { "text": "50万人", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アジア諸国で摂取するエネルギーの30–72%を占める食べ物は何ですか。", "id": "tr-603-00-002", "answers": [ { "text": "コメ", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゴールデンライスはどんな品種に属しますか。", "id": "tr-603-00-003", "answers": [ { "text": "イネOryzasativa", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ゴールデンライスとその元となった系統との差異はβ-カロテン生合成遺伝子が付加されているという点である。通常β-カロテンは葉で産生されて光合成に関与しており、光合成が行われない胚乳では産生されない。ゴールデンライスは胚乳でもβ-カロテンの産生が行われるようにしたものである。この胚乳に蓄積したβ-カロテンにより、米粒は特徴的な黄金色を呈する。他の品種と同様に生育し収穫することができるかどうか、ヒトの健康に対するリスクが存在しないか、といったゴールデンライスの性能評価を目的とした研究がフィリピンの国際稲研究所を中心とした研究グループによりで行われている。ゴールデンライスには、長期間貯蔵した場合や伝統的手法で調理を行った場合にβ-カロテンがどの程度維持されているかについての研究はほとんど行われていないといった環境活動家や反グローバリズム活動家からの強い反対が存在する。\n\n2005年、オリジナルのゴールデンライスの最大23倍のβ-カロテンを産生するゴールデンライス2が発表された。また、ゴールデンライス由来のβ-カロテンのバイオアベイラビリティの評価が行われ、ヒトのビタミンAの効果的な供給源となることが確かめられている。ゴールデンライスは、2015年にアメリカ合衆国特許商標庁の\"PatentsforHumanityAwards\"(人類のための特許賞)を受賞し、2018年にはオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、アメリカ合衆国で食品として承認された。", "qas": [ { "question": "ゴールデンライス2は何年に発表されたか。", "id": "tr-603-01-000", "answers": [ { "text": "2005年", "answer_start": 387, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オリジナルのゴールデンライスとゴールデンライス2と、どっちの方がもっと多くのβ-カロテンを産生するの?", "id": "tr-603-01-001", "answers": [ { "text": "ゴールデンライス2", "answer_start": 425, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ゴールデンライスはいつ\"PatentsforHumanityAwards\"を受賞したか。", "id": "tr-603-01-002", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 522, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴールデンライスはいつカナダで食品として承認されたか。", "id": "tr-603-01-003", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 522, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゴールデンライスの開発に向けた調査は1982年にロックフェラー財団により開始され、1980年代中頃にはビタミンAを豊富に含むイネを遺伝子組換えによって作出する戦略はロックフェラー財団内に浸透していた。1993年にチューリッヒ工科大学の植物生物工学者IngoPotrykusとフライブルク大学の生化学者PeterBeyerがロックフェラー財団、欧州連合およびスイス連邦教育科学局の支援のもと、実際にゴールデンライスを作出する研究プロジェクトを開始した。\n\nPeterBramleyは1990年代、遺伝子組み換えトマトでフィトエンからリコペンの産生を行う際に、高等植物で通常用いられている複数のカロテン不飽和化酵素を導入する必要はなく、1つのフィトエン不飽和化酵素遺伝子を導入することで代替可能であるを発見した。ゴールデンライスでも同様の遺伝子が利用され、リコペンは内在性の環化酵素によってさらにβ-カロテンへと環状化される。\n\nゴールデンライスは1999年に完成し、その科学的詳細は2000年にサイエンス誌で発表された。その成果は、非常に複雑な生合成経路を改変することで作物の健康促進作用を向上させることができると示し、またそれをわずか2遺伝子を導入することで達成したことで大きなブレイクスルーであると見なされていた。\n\nゴールデンライスの最初の野外栽培試験は2004年にルイジアナ州立大学農業センターの指揮のもと行われ、追試がフィリピン、台湾、そしてバングラデシュで行われた。カロテンの蓄積以外の農業形質に変化がないことは複数回の野外栽培試験および、別系統での試験でも確かめられている。", "qas": [ { "question": "1982年、ゴールデンライスの開発に向けた調査がどの団体によって開始されましたか。", "id": "tr-603-02-000", "answers": [ { "text": "ロックフェラー財団", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴールデンライスは何年に完成されたか。", "id": "tr-603-02-001", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 422, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴールデンライスの最初の野外栽培試験を指揮したのはどの団体でしたか。", "id": "tr-603-02-002", "answers": [ { "text": "ルイジアナ州立大学農業センター", "answer_start": 585, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2005年、シンジェンタ社の研究者チームによってゴールデンライス2(GR2E)が作出された。ゴールデンライスのcrtI遺伝子にトウモロコシのフィトエンシンターゼを組み合わせたことで、ゴールデンライス2では既存のゴールデンライスに比べ、23倍のカロテノイド(最大で37μg/g)が産生され、さらにβ-カロテンが選択的に蓄積される(カロテノイド37μg/gのうち最大31μg/gがβ-カロテン)。2015年から2016年にかけてフィリピンの4ヶ所で栽培されたゴールデンライス2の組成解析の結果、β-カロテンを含む各種プロビタミンA以外の物質の量は一般的に消費されているイネ系統と同等に収まっていた。\n\n2018年、カナダとアメリカ合衆国でゴールデンライス2の栽培が承認され、カナダ保健省とアメリカ食品医薬品局(FDA)はゴールデンライス2の消費が安全であると宣言した。FDAの決定は上述の組成解析の結果を受けてのものである。カナダ保健省も調査の結果、上述の解析と同じ結論を得ている。2019年には、フィリピンで食品や動物飼料のための直接利用や加工が承認された。フィリピンのバイオセーフティ規制をクリアして出荷するためには、さらに商業的種子生産についての承認を得る必要がある。", "qas": [ { "question": "ゴールデンライス2(GR2E)は何年に開発されたか。", "id": "tr-603-03-000", "answers": [ { "text": "2005年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴールデンライス2と既存のゴールデンライスと、カロテノイドがより多く生産されるのはどちらですか。", "id": "tr-603-03-001", "answers": [ { "text": "ゴールデンライス2", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カナダは何年にゴールデンライス2の栽培を承認したか。", "id": "tr-603-03-002", "answers": [ { "text": "2018年", "answer_start": 299, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フィリピンで食品や動物飼料のためのゴールデンライス2の直接利用や加工が承認されたのは何年のことですか。", "id": "tr-603-03-003", "answers": [ { "text": "2019年", "answer_start": 439, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ゴールデンライスの研究は、ビタミンA欠乏症(VAD)に苦しむ子供を助けることを目標にしている。2005年時点では、122の国で1億9000万人の子供と1900万人の妊婦がVADの影響を受けていると推計される。毎年、VADによって100–200万人が死亡しており、不可逆的な失明は50万症例、眼球乾燥症は数百万症例発生している。子供と妊婦は高リスクである。食事中のビタミンAが不足している地域では、ビタミンAは経口投与または注射による補給が行われている。\n\n1999年時点で、43の国で5歳未満の子供へのビタミン補給プログラムが行われている。そのうちの10の国では年に2度の高用量投与が行われており、UNICEFによるとこれによってVADを効果的に根絶することができる。しかし、UNICEFや補給に関係している多数のNGOは、低用量投与を高頻度で行うほうが望ましいと言及している。", "qas": [ { "question": "ゴールデンライスの研究は、何に苦しむ子供を助けるために行われたのですか。", "id": "tr-603-04-000", "answers": [ { "text": "ビタミンA欠乏症(VAD)", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2005年時点、122の国で何人の妊婦がVADの影響を受けていると推計されましたか。", "id": "tr-603-04-001", "answers": [ { "text": "1900万人", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2009年、アメリカの成人ボランティアに対するゴールデンライスの臨床試験の結果がAmericanJournalofClinicalNutrition誌に発表された。試験は「ゴールデンライス由来のβ-カロテンはヒトで効率的にビタミンAに転換される」と結論付けられた。アメリカ栄養学会は、ゴールデンライスを毎日コップ一杯程度の量消費することでおそらくビタミンAの栄養所要量の50%を摂取することができると考えられ、ほとんどの幼い子供とその母親にとってこの量は消費習慣の範囲内である、とした。\n\nβ-カロテンは、果物や野菜など、世界中で食べられている栄養豊富な食品の多くに含まれ消費されていることはよく知られている。食品中のβ-カロテンはビタミンAの安全な供給源である。2012年にタフツ大学などからAmericanJournalofClinicalNutrition誌に発表された研究では、子供に投与した際、ゴールデンライスによって産生されるβ-カロテンは油脂中のβ-カロテンと同程度に効率的であることが示された。この研究の募集のプロセスとプロトコルは承認を得たものであることが述べられていたが、研究者らは中国人の子供にゴールデンライスを提供する際に両親の同意を得ておらず倫理的問題があるとして、ジャーナルは2015年に研究を撤回した。\n\nネブラスカ大学のFoodAllergyResourceandResearchProgramによる2006年の研究では、ゴールデンライス2中の新たな遺伝子から産生されるタンパク質にはアレルゲン性がみられないことが示された。", "qas": [ { "question": "アメリカの成人ボランティアに対するゴールデンライスの臨床試験の結果はどの雑誌に発表されましたか。", "id": "tr-603-05-000", "answers": [ { "text": "AmericanJournalofClinicalNutrition誌", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "リーゼ・マイトナー", "paragraphs": [ { "context": "リーゼ・マイトナーはウィーンのユダヤ系の家庭に、父フィリップ、母ヘートヴィヒの三女として生まれた。フィリップは弁護士であった。生活は貧しくはなかったが、マイトナー家は男児3人、女児5人という大家族であったため、裕福でもなかった。一家はコンサートに出かけたり、演奏を行ったりと、音楽に親しむ生活をおくっていた。またフィリップは政治にも深くかかわっており、政治家や作家などをしばしば自宅に招き、集会場のように使用していた。\n\nこうした豊かな知的環境で育ったリーゼは、自然科学に興味を持つようになった。しかし当時は女性の学問への道は閉ざされていた。リーゼは小学校卒業後に高等小学校に入学し、1892年に卒業した。", "qas": [ { "question": "リーゼ・マイトナーの父の職業は何でしたか。", "id": "tr-604-00-000", "answers": [ { "text": "弁護士", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "リーゼはいつ高等小学校を卒業したの?", "id": "tr-604-00-001", "answers": [ { "text": "1892年", "answer_start": 292, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "高等小学校卒業後、リーゼはフランス語の教師の試験を受けることにした。大学教育の不要な専門職だったからである。そして教師として収入を得たリーゼであったが、学問への思いはまだ強かった。ちょうどその頃、オーストリアでは女性の大学入学を求める動きが高まっていた。そして1897年、文学・科学分野に限って、資格試験に合格すれば女性の大学入学が認められるようになった。\n\nそこでリーゼは、大学入学資格試験を受けて大学へ入る道をとることにした。リーゼの両親は、女性が学問を行ったり職を得たりすることに抵抗をもたない人物であったため、リーゼのこの決断を支持した。ただし、この計画が失敗しても職が得られるよう、1899年まではフランス語の教師を続けた。そしてその後、2年間で集中して試験勉強を行い、1901年に試験に合格した。", "qas": [ { "question": "リーゼの両親はリーゼが大学へ進学することに対して、反対したか、支持したか。", "id": "tr-604-01-000", "answers": [ { "text": "支持", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "リーゼはいつまでフランス語の教師を続けたか。", "id": "tr-604-01-001", "answers": [ { "text": "1899年", "answer_start": 296, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "リーゼはいつ大学入学資格試験に合格したか。", "id": "tr-604-01-002", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 340, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "23歳でようやく大学生になることができたマイトナーは、初年度から多くの講義を選択し、勉強に明け暮れる日々を過ごした。おもに数学と物理の講義に出席していたが、マイトナーの興味は次第に物理学へと傾いていった。\n\n当時のウィーン大学の物理学研究所は、施設は粗末なものだったが、研究・教育の質は高かった。とりわけマイトナーを魅了したのは、ルートヴィッヒ・ボルツマンの講義であった。1902年にウィーン大学に赴任したボルツマンの講義は学生に非常に人気があり、マイトナーも欠かさず出席した。マイトナーは後年になってからのインタビューなどにおいても、たびたびこの時のボルツマンの熱意にあふれる講義を話題にし、賞賛している。1906年、マイトナーは博士号の試験に合格した。ウィーン大学で4人目の女性博士となった。\n\nこうして博士となったマイトナーは、放射能の分野で活躍していたステファン・マイヤーと共に、α線とβ線の金属への吸収に関する論文などを発表した。しかし自らの先行きには不安を感じていた。敬愛していたボルツマンは1906年に死去していた。また、放射能の分野ですでに業績を上げていたマリ・キュリーに助手として自分を雇ってくれるよう願ったが、空席がないと断られた。かといってウィーンに残っても、研究者としての仕事は見つかりそうになかった。\n\nそこでマイトナーは、ベルリンへ行くことを決意した。ベルリンは当時のヨーロッパの科学における中心的な場所であったことや、ベルリン大学のマックス・プランクの名を知っており、1度だけだが会ったことがあることなどが、ベルリンを選んだ理由だった。こうしてマイトナーは、1907年秋、「ほんの何学期かの間ベルリンで学ぶため」ウィーンを離れた。", "qas": [ { "question": "大学生になったとき、マイトナーは何歳でしたか。", "id": "tr-604-02-000", "answers": [ { "text": "23歳", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィーン大学で4人目の女性博士は誰なの?", "id": "tr-604-02-001", "answers": [ { "text": "マイトナー", "answer_start": 310, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルートヴィッヒ・ボルツマンは何年に死亡したか。", "id": "tr-604-02-002", "answers": [ { "text": "1906年", "answer_start": 452, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マイトナーがベルリンへ行くことを決意したとき、マックス・プランクはどの大学に所属していたか。", "id": "tr-604-02-003", "answers": [ { "text": "ベルリン大学", "answer_start": 624, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プランクの講義を受けながら、マイトナーは自分が研究する場所を探していた。実験物理学研究所所長のハインリヒ・ルーベンスに相談したところ、今席があいているのは自分の個室だけなので、そこで共同で仕事をするならば良いと回答された。マイトナーは、ルーベンス相手だと気軽に質問などができないと思ったので、その提案を受け入れるのをためらったが、その後ルーベンスは、オットー・ハーンという化学者があなたとの共同研究を求めていると告げた。そして1907年9月28日、マイトナーは初めてハーンと出会った。ハーンはマイトナーと同年代で(マイトナーが4か月年上)、気さくな性格であったため、マイトナーは、この人になら何でも恥ずかしがらず話すことができると感じた。\n\nしかし、ハーンの上司であるエミール・フィッシャーは、女性が研究所に入ることを許さなかった。そのためフィッシャーは、マイトナーは地下の木工作業所のみで実験を行い、研究所内には姿を見せないという条件で、二人の共同研究を認めた。\n\nマイトナーはこの木工作業所で1912年まで、ハーンと共に研究を行った。マイトナーの物理的知識とハーンの化学的知識とが補完しあって放射線の研究に成果をあげた。2人の研究が成果を上げるようになると、フィッシャーもマイトナーが研究所内に入るのを認め、2人の研究に援助を行うようになった。\n\n研究所では多くの同僚と交流を深めた。また研究所外でも、1909年にエリザベート・シーマンと出合い、生涯にわたる友人となった。", "qas": [ { "question": "オットー・ハーンとマイトナーが初めて出会ったのはいつですか。", "id": "tr-604-03-000", "answers": [ { "text": "1907年9月28日", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エリザベート・シーマンとマイトナーは何年から知り合いましたか。", "id": "tr-604-03-001", "answers": [ { "text": "1909年", "answer_start": 603, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1912年、ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム研究所が開設され、マイトナーはそこで働くことになった。当初はハーンの客員研究員という、無給の役職であったが、同年にプランクが自分の助手としてマイトナーを任命したため、少ないながらも収入を得られるようになった。1913年からは正式に研究員となった。\n\n1914年、第一次世界大戦が起こり、ハーンは予備軍として召集された。マイトナーは手紙でハーンと連絡を取りながらベルリンで研究を続けていたが、1915年、自らもオーストリア軍のX線技師および看護婦として志願することにした。ポーランドの戦地で負傷者の治療にあたったマイトナーは戦場の悲惨さを知った。戦地での活動は1年以上続けたが、やがてマイトナーは、ここでは自分が必要とされていないのではないか、「私に与えられた義務は、カイザー・ヴィルヘルム研究所に戻ること」ではないかと感じるようになった。", "qas": [ { "question": "ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム研究所が開設されたのはいつですか。", "id": "tr-604-04-000", "answers": [ { "text": "1912年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プランクが自分の助手としてマイトナーを任命したため、マイトナーが少ないながらも収入を得られるようになったのは何年からですか。", "id": "tr-604-04-001", "answers": [ { "text": "1912年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マイトナーはいつからカイザー・ヴィルヘルム研究所の正式研究員となりましたか。", "id": "tr-604-04-002", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 126, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第一次世界大戦はいつ勃発したか。", "id": "tr-604-04-003", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1916年10月、マイトナーは研究所へと戻った。研究所ではフリッツ・ハーバーを中心として、毒ガスなど、軍事用の研究が中心となっていたが、その中でマイトナーは以前からの放射性物質の研究を続け、1918年、新元素プロトアクチニウムを発見した。\n\nマイトナーの業績は認められ、1918年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を任された。これによりマイトナーはようやく研究者として十分な給与を得ることができるようになった。\n\n第一次大戦後の1920年、ハーンとの共同研究は終了し、マイトナーは独立で研究を行うようになった。同じ年、プロイセンでは女性の大学教授資格が認められ、マイトナーは1922年にベルリン大学の教授となった。すでに何本もの論文を発表しているため、通常必要とされる論文審査は免除された。10月に行った就任記念講義の内容は「宇宙生成における放射能の意味」。当時女性の物理学者は非常に珍しかったため、「コスミッシュ(宇宙の)」とすべきところを「コスメティッシュ(化粧の)」と記載してしまった記事もあった。", "qas": [ { "question": "マイトナーがカイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を担当するようになったのはいつからですか。", "id": "tr-604-05-000", "answers": [ { "text": "1918年", "answer_start": 135, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マイトナーはいつからハーンとの共同研究は終了し、独立で研究を行うようになったか。", "id": "tr-604-05-001", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プロイセンで女性の大学教授資格が認められたのはいつからですか。", "id": "tr-604-05-002", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マイトナーはいつ、ベルリン大学の教授となったか。", "id": "tr-604-05-003", "answers": [ { "text": "1922年", "answer_start": 290, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1933年、アドルフ・ヒトラーが政権をとると、研究所は大きな影響を受けた。ユダヤ人であった所長のフリッツ・ハーバーは辞職し、マイトナーも9月に教授職を解かれた。マイトナーは亡命も考えたが、この時はドイツに残ることにした。プランクらからドイツに残るようすすめられたし、自身も、これまでドイツで築き上げた実績を捨てて、55歳にしてまた一から新たな生活を始めることには躊躇していた。また、マイトナーはオーストリア人であったため、ナチスの支配下にはないことも大きな理由であった。\n\n1934年、マイトナーは、ウランに中性子をぶつけることでウランより原子量の大きい原子(超ウラン原子)を生み出せるという、エンリコ・フェルミの論文を読み、非常に興味を持った。これを確かめるには物理だけでなく化学からのアプローチが必要だと考えたマイトナーは、ハーンに再び共同研究を持ちかけた。数週間後、ハーンは了解し、マイトナー、ハーン、そして研究所の助手であったフリッツ・シュトラスマンの3人による共同研究が始まった。", "qas": [ { "question": "1933年、ドイツの政権とったのは誰でしたか。", "id": "tr-604-06-000", "answers": [ { "text": "アドルフ・ヒトラー", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マイトナーの国籍はどこですか。", "id": "tr-604-06-001", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 197, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1934年、マイトナーが読んだ、ウランに中性子をぶつけることでウランより原子量の大きい原子(超ウラン原子)を生み出せるという論文は誰のものでしたか。", "id": "tr-604-06-002", "answers": [ { "text": "エンリコ・フェルミ", "answer_start": 297, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マイトナーがエンリコ・フェルミの読んだあと、彼女は物理だけでなくどんな学問でアプローチする必要があると考えましたか。", "id": "tr-604-06-003", "answers": [ { "text": "化学", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この研究途中の1938年、オーストリアはドイツに併合された。そのためマイトナーはドイツ人となり、ナチスによる影響を直接受けることとなった。ナチス党員のクルト・ヘスは、「ユダヤ人の女が研究所を危うくする」とマイトナーを糾弾した。\n\nそんな中で、ハーンはカイザー・ヴィルヘルム協会の財務担当理事であるハインリヒ・ヘールラインと、マイトナーの今後について話し合いをおこなった。3月22日、マイトナーはハーンから、ヘールラインの見解を聞いた。それは「マイトナーは辞職すべきだ」というものであった。マイトナーは深く悲しみ、ハーンに対し「私を見殺しにした」「私にはどこにも行くところがない」と語った。", "qas": [ { "question": "こオーストリアはいつドイツに併合されたか。", "id": "tr-604-07-000", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナチス党員のクルト・ヘスの「ユダヤ人の女が研究所を危うくする」という発言で、「ユダヤ人の女」とは誰を指すのですか。", "id": "tr-604-07-001", "answers": [ { "text": "マイトナー", "answer_start": 102, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マイトナーが「マイトナーは辞職すべきだ」というヘールラインの見解をハーンから聞いたの何月何日のことですか。", "id": "tr-604-07-002", "answers": [ { "text": "3月22日", "answer_start": 185, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "自らの身の危険を感じるようになったため、マイトナーは5月に亡命を考えた。この時、パウル・シェラー、ニールス・ボーア、ジェイムス・フランクから、それぞれスイス、デンマーク、アメリカへの亡命の誘いがあった。その中でマイトナーは、ボーアや甥のオットー・フィリッシュのいるデンマークの研究所に魅力を感じた。しかし、オーストリアはドイツに併合されていたため、デンマーク領事館ではオーストリア国民のパスポートは無効であると突き返された。新しいパスポートはカイザーヴィルヘルム研究所の出資者であるカール・ボッシュらの助けを借りて申請を行ったが、発行手続きは遅れ、最終的には、著名なユダヤ人の渡航は認められないと発行を拒否された。これはハインリヒ・ヒムラーの見解であった。\n\n出国を禁じられ、しかもナチスに目をつけられた形となったマイトナーは、ただちに国を出なければならないと感じた。この事を知ったオランダのディルク・コスターはマイトナーを助けようと寄付を集め、マイトナーの職も探そうとした。そしてベルリンの様子を確認するため、自らマイトナーの元を訪れ、必要ならば連れて帰ろうとした。一方マイトナーは、スウェーデンのマンネ・シーグバーンの新しい研究所からのオファーがあることをボーア経由で聞いた。両者を検討した結果、マイトナーはスウェーデンで働くことを決めた。", "qas": [ { "question": "自らの身の危険を感じるようになったマイトナーが亡命を決心したのは何月のことですか。", "id": "tr-604-08-000", "answers": [ { "text": "5月", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マイトナーの甥であるオットー・フィリッシュはどの国に滞在していましたか。", "id": "tr-604-08-001", "answers": [ { "text": "デンマーク", "answer_start": 132, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マイトナーは結局、どの国に亡命することに決めましたか。", "id": "tr-604-08-002", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 556, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "7月12日、研究所で仕事を終えたマイトナーは荷造りを済ませ、ハーンの家に泊まった。ハーンからは、緊急の時に必要なものに変えればよいと、母の形見の指輪を贈られた。翌日マイトナーはコスターと共にいったんオランダのフローニンゲンへと亡命し、8月1日にスウェーデンへと移動した。このときのドイツ脱出にあたっては、休暇旅行との嘘の名目でドイツを立った。なお、脱出の途中の列車内では、マイトナーはナチスの国境警備隊にパスポート(期限が切れて無効となっていたもの)を検分されてしまっている。これは、後年にマイトナーが生きた心地がしなかったと述べていたほどの絶体絶命の事態であった。しかし、パスポートが期限切れになっていることを見落としたのかマイトナーに目こぼしをしたのか真相は不明だが、警備隊員はマイトナーの出国を認め、マイトナーは無事にオランダへ脱出することに成功したのであった。", "qas": [ { "question": "マイトナーとコスターはスウェーデンへ移動する前、オランダのどこに寄りましたか。", "id": "tr-604-09-000", "answers": [ { "text": "フローニンゲン", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マイトナーがスウェーデンへ行く前、ハーンがマイトナーに渡した母の形見は何でしたか。", "id": "tr-604-09-001", "answers": [ { "text": "指輪", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マイトナーは、どんな理由をあげてドイツを立ったか。", "id": "tr-604-09-002", "answers": [ { "text": "休暇旅行", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ドイツ時代に行っていた実験はハーン、シュトラスマンの手により続けられ、マイトナーとは手紙で実験の進み具合や今後の方向性などをやり取りしていた。1938年、マイトナーはハーンから「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるバリウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を受け取った。これは今までの理論では起こり得ない結果であったため、一緒にこの手紙を読んだ甥のフリッシュは、実験のミスではないかと言ったが、マイトナーは、ハーンがこのような間違いを犯すとは考えにくいと答えた。そしてフリッシュと共に、この実験から核分裂が起きた事を証明して、連名で発表した。なお、これが核兵器の開発につながっていくことになるが、マイトナーは1943年、英国の科学者に核兵器の開発への協力を求められたとき、「爆弾に関わるつもりはありません」と断っている。", "qas": [ { "question": "ウランとバリウムと、どっちの方がより小さい原子なの?", "id": "tr-604-10-000", "answers": [ { "text": "バリウム", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マイトナーは何年に英国の科学者に核兵器の開発への協力を求められたか。", "id": "tr-604-10-001", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 343, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マイトナーがハーンから「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるバリウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を受け取ったのは何年のことですか。", "id": "tr-604-10-002", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されると、マイトナーの元には取材が殺到した。当時、アメリカやドイツの原爆開発者とは連絡を取ることができなかったため、マイトナーに注目が集まったのである。マイトナー自身は実際に投下されるまで原爆についてまったく知らなかったため、「ハーンも私も、原爆の開発にいささかなりともかかわっていません」と繰り返した。\n\n1946年、マイトナーは物理学者のカール・ヘルツフェルトの誘いを受け、ワシントンの大学に客員教授として出向いた。アメリカでは歓迎を受けた。1946年のウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、トルーマン大統領とも面会した。各種の取材も多く、本人出演による映画化の話もあった。", "qas": [ { "question": "広島に原子爆弾が投下されたのはいつですか。", "id": "tr-604-11-000", "answers": [ { "text": "1945年8月6日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1946年、マイトナーがワシントンの大学に客員教授として出向いたのは誰の誘いによるのでしたか。", "id": "tr-604-11-001", "answers": [ { "text": "カール・ヘルツフェルト", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マイトナーがウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたのは何年のことですか。", "id": "tr-604-11-002", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 243, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マイトナーがウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたことで、彼女は誰と面会をしましたか。", "id": "tr-604-11-003", "answers": [ { "text": "トルーマン大統領", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1946年7月、客員教授の任期を終えたマイトナーはスウェーデンへと戻った。12月には、ノーベル賞の授賞式のためにストックホルムを訪れたハーンと久々に対面した。しかしハーンとは政治的な問題で対立が深まった。戦後のドイツの惨状と、ドイツへの支援の要請のみを訴えるハーンに対して、マイトナーは、ヒトラーによる政治にドイツの科学者が十分に抵抗しなかったこと、そしてそのことを戦後も反省していないことを指摘した。\n\n同じ理由で、マイトナーはドイツの研究所に戻ることはなかった。マックス・プランク研究所に戻るよう誘いを受けたときは、シュトラスマンからの誘いであったため受けるかどうか迷ったが、最終的に断った。とはいえマイトナーにとって、ドイツで過ごした期間は思い出が多かったこともあり、ドイツと完全にかかわりを絶つことはなかった。1948年には師であるプランクの追悼式のために10年ぶりにドイツを訪れ、その後も西ドイツから与えられた賞などは受け入れた。\n\n研究は続きスウェーデンで行った。研究環境は改善され、実験器具は自由に使えるようになり、助手も付くようになった。", "qas": [ { "question": "マイトナーとハーンの対立が深まったのはどんな問題のせいでしたか。", "id": "tr-604-12-000", "answers": [ { "text": "政治的な問題", "answer_start": 87, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プランクの追悼式は何年にありましたか。", "id": "tr-604-12-001", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 359, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マイトナーはプランクの追悼式のために、ドイツを何年ぶりに訪問しましたか。", "id": "tr-604-12-002", "answers": [ { "text": "10年ぶり", "answer_start": 382, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「頭がまだしっかりとしているうちに学問をやめるべきだ」と考えていたマイトナーは、1952年に第一線の研究の場から退いた。しかしその後も週に一度の科学コロキウムに出席し、最新情報の取得は欠かさなかった。また、物理学以外に、男女同権問題や核兵器の問題に関しても関わった。\n\n1960年、82歳になったマイトナーは、ケンブリッジに住むオットー・フリッシュの家の近くへと引っ越し、そこで余生を過ごした。1963年、自らの人生について、「(若いころは)もしもそれが内容豊かなものであるならば、平坦なものでなくてもかまわない――と(考えていた)。そしてその望みは達せられたのです」と語った。\n\n1967年ごろからマイトナーの体力や記憶力は衰えがみられてきた。そして1968年10月、90歳の誕生日を前に亡くなった。遺体はハンプシャーの墓地に埋葬された。碑文には、「リーゼ・マイトナー――人間愛を失わなかった物理学者」と記されている。", "qas": [ { "question": "マイトナーが第一線の研究の場から退いたのはいつですか。", "id": "tr-604-13-000", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1960年、マイトナーは何歳だったの?", "id": "tr-604-13-001", "answers": [ { "text": "82歳", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マイトナーは何年に亡くなりましたか。", "id": "tr-604-13-002", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 326, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マイトナーの遺体はどこに埋葬されていますか。", "id": "tr-604-13-003", "answers": [ { "text": "ハンプシャーの墓地", "answer_start": 354, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マイトナーは数度にわたりノーベル賞の候補にあげられた。たとえば1935年にはプランクの推薦でハーンと共同で、1936年にはラウエの推薦で単独で、それぞれ候補にあげられた。しかし結果としては、マイトナーは賞を獲得することはできなかった。一番の業績であった核分裂反応に関しても、受賞したのはハーン1人(1944年化学賞)で、マイトナーは受賞者から外された。ニールス・ボーアやオスカー・クラインはマイトナーを1945年から1948年までの物理学賞または化学賞に推薦し続けたが、それは実らなかった。", "qas": [ { "question": "マイトナーが単独でノーベル賞の候補として挙げられたのはいつですか。", "id": "tr-604-14-000", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1944年のノーベル化学賞を受賞した人は誰なの?", "id": "tr-604-14-001", "answers": [ { "text": "ハーン", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "なお、ノーベル賞こそ逃したマイトナーであるが、後年にそれ以上の名誉に与っている。没後の1997年に、109番元素の正式名称をマイトナーの名からマイトネリウムとすることが決まったのであった。余談になるが、同じく1997年の新元素の命名の検討では、105番元素をハーンの名からハーニウム(元素記号Ha)と命名することも検討されていた。しかし結局、105番元素はドブニウムと命名された。一度元素名の由来として検討された人物名はその後の選考で用いてはならないという規則があるため、ハーンの名は(この規則がある限り)永遠に元素名にならないことが決まった。ノーベル賞の栄光はハーンにのみ輝いたが、新元素命名の名誉に関してはマイトナーとハーンはノーベル賞の名誉の時とは立場が入れ替わる格好となった。", "qas": [ { "question": "109番元素の正式名称は何ですか。", "id": "tr-604-15-000", "answers": [ { "text": "マイトネリウム", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "105番元素はの名称は何ですか。", "id": "tr-604-15-001", "answers": [ { "text": "ドブニウム", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林", "paragraphs": [ { "context": "京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林(きょうとだいがくフィールドかがくきょういくけんきゅうセンターしんりんステーションあしうけんきゅうりん、略称:京都大学芦生研究林)は、京都府南丹市美山町芦生にある京都大学の研究施設である。\n1921年に当時の京都帝国大学初の国内演習林として北桑田郡知井村九ヶ字共有林約4,200haに地上権を設定し、同地を芦生演習林と称したことから始まり、その後1923年の農学部設置に伴い学生や研究者向けの学術研究および実地研究の場として活用されたほか、大学の財産形成の場として、伐採に伴う用材収入や製炭事業などでの収入が用いられた。\n近畿地方に残る数少ない大規模天然林であり、中には原生林もあることから、芦生原生林や芦生の森とも呼ばれることがあるほか、現在でも旧称の芦生演習林で広く通じている。\nこの項では、基本として「研究林」の呼称を使うが、歴史的な記述を中心に「演習林」の呼称も併用する。", "qas": [ { "question": "京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林の旧称は何?", "id": "tr-605-00-000", "answers": [ { "text": "芦生演習林", "answer_start": 359, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "京都大学芦生研究林は、元々どの大学の国内演習林として設けられたの?", "id": "tr-605-00-001", "answers": [ { "text": "京都帝国大学", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "京都大学芦生研究林は大規模天然林であり、その中には他に何が混ざっていますか?", "id": "tr-605-00-002", "answers": [ { "text": "原生林", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当研究林の所在地は、京都市内中心部から北北東に約35km離れた福井・滋賀両県と接する京都府北東部の由良川源流域である。\n南部および南東部は京都市左京区の広河原および久多地区に、北東部は滋賀県高島市の朽木地区に、北部は福井県おおい町の名田庄地区にそれぞれ接している。\n地形は、当研究林が丹波高地東端部にあることから標高が高く、三国岳(959m)を最高地点に、傘峠(935m)や小野村割岳(931.7m)など標高900m以上の地点が南部から東部にかけて点在し、標高600-800mの部分が全体の約2/3を占める。\n標高は西に向かって低くなり、研究林事務所では356m、最低地点では355mである。\nまた、林内を由良川の源流がU字形に流れ、谷筋には大小の河谷が由良川源流に注ぎ込んでおり、全体的には丹波高地の各所で見られる準平原状の地形であるが、斜面部の傾斜は30〜40度と比較的急峻である。\n地質は丹波帯と呼ばれる中・古生層に属する砂岩や泥岩(頁岩)の基盤岩に東西に延びるチャート層を挟む、堆積岩で形成されたものであるが、チャートが卓越する場所では急崖や滝が形成されている。\n土質は大部分が褐色森林土であるが、標高800m以上の稜線部には局所的にポドゾル土壌が認められる。", "qas": [ { "question": "三国岳、小野村割岳、傘峠の3つの地点の中で一番標高が低いのはどの地点?", "id": "tr-605-01-000", "answers": [ { "text": "小野村割岳", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "当研究林の半分以上を占めている標高は何m?", "id": "tr-605-01-001", "answers": [ { "text": "600-800m", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "当研究林に点在している標高900m以上の地点の中で、一番高い標高地点はどこ?", "id": "tr-605-01-002", "answers": [ { "text": "三国岳", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "当研究林ではある限られた箇所にだけポドゾル土壌があるが、それは標高が何m以上ある部分なの?", "id": "tr-605-01-003", "answers": [ { "text": "800m以上", "answer_start": 505, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当研究林全体が日本海側気候と太平洋側気候の移行帯に属しており、年間を通じて降水量が多い。\n事務所構内の年平均気温は11.7°C、降水量は2,353mmで、京都市内に比べると平均気温で3-4°C低く、降水量は約1.6倍である。\n標高が事務所構内より約300m上昇する東部の長治谷(標高640m)では、事務所構内に比べて年平均気温が約2°C低く、降水量も400-600mm程度多くなる。\nまた、豪雪地帯としても知られており、事務所構内の積雪深は1m前後、長治谷では2mを超える。\nその年の気候にもよるが、初雪は11月に降り、4月に入っても雪が舞うこともある。\n12月以降に降った雪は根雪となることが多く、長治谷をはじめ林内の多くの地域が12月から4月初めまで根雪に閉ざされてしまう。", "qas": [ { "question": "当研究林の事務所構内と京都市内の平均気温を比べると、平均気温が高いのはどちら?", "id": "tr-605-02-000", "answers": [ { "text": "京都市内", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "当研究林と京都市内では、どちらの方が降水量が少ないの?", "id": "tr-605-02-001", "answers": [ { "text": "京都市内", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "事務所構内と長治谷では、どちらの積雪深が深いの?", "id": "tr-605-02-002", "answers": [ { "text": "長治谷", "answer_start": 225, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "事務所構内と長治谷では、どちらが降水量が多いの?", "id": "tr-605-02-003", "answers": [ { "text": "長治谷", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "前述のように当研究林が日本海側気候と太平洋側気候の移行帯に位置していることから、植生区分の上でも暖温帯林と冷温帯林の移行帯に属し、植物の種類が多い。\n当研究林内で確認されている種数は、木本植物が243種、草本植物が532種、シダ植物が85種を数える。\nその中には、下枝が雪の重みで接地することで発根し、やがて一個体として独立して増殖する、多雪地帯に特有の伏条更新を行うことで知られるアシウスギやアシウテンナンショウのように「芦生」の地名を冠した学術上貴重な植物が含まれている。\nまた、多雪地帯に特有のエゾユズリハ、ヒメアオキ、ヒメモチ、ハイイヌガヤなどの植物が自生しているほか、氷河期の遺存種であるニッコウキスゲやリュウキンカも生育している。\nこの他、年間降水量が多いことから、ナメコやヒラタケ、ツキヨタケをはじめ多様なきのこ類が繁殖している。", "qas": [ { "question": "当研究林内で確認されている種数の中で、最も少ないのは何という植物なの?", "id": "tr-605-03-000", "answers": [ { "text": "シダ植物", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "当研究林内で確認されている種数の中で、2番目に少ない種類は何?", "id": "tr-605-03-001", "answers": [ { "text": "木本植物", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "当研究林内で確認されている種数の中で、木本植物の2倍以上の種数であるのは何という植物?", "id": "tr-605-03-002", "answers": [ { "text": "草本植物", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アシウスギやアシウテンナンショウの名前に含まれている地名を漢字で書くと何?", "id": "tr-605-03-003", "answers": [ { "text": "「芦生」", "answer_start": 211, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "天然林では標高600m以下ではコナラやウラジロガシ、ソヨゴといった暖温帯林構成種が見られ、それ以上の標高になるとブナ、ミズナラなどを主体とした冷温帯林構成種が見られるが、その境界は不明瞭である。\nまた、斜面に対応して樹木が分布しており、斜面上部ではアシウスギの分布密度が高く、中腹ではブナを主としてミズナラなどが優先し、沢筋ではトチノキやサワグルミなどが多く分布する。\nこのような植生の多様性から、植物学者で東京大学教授の中井猛之進が『植物ヲ学ブモノハ一度ハ京大ノ芦生演習林ヲ見ルベシ』と研究誌に書いたことでも知られている。", "qas": [ { "question": "天然林では標高が高い地点ではどのような種類の樹木が生育しているの?", "id": "tr-605-04-000", "answers": [ { "text": "冷温帯林構成種", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "研究林内の斜面上部においては何の樹木が多く分布していますか?", "id": "tr-605-04-001", "answers": [ { "text": "アシウスギ", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当研究林は後述のように古くから利用されてきた森林であり、木材の伐採のほか、野田畑周辺では茅場として使用するために火入れが行われていた。\n演習林の開設後は、戦前は森林軌道が開通した由良川源流域を中心に伐採が行われ、伐採跡にはスギの造林が行われた。\n戦後は林道の開設に伴って大規模伐採を実施、1950年代後半から1960年代中期にかけてピークを迎えた。\nその後伐採規模は縮小し、1990年代以降はほとんど伐採されることがなくなった。\n現在、当研究林の総面積4,200haの約半分に当たる2,150haは少なくとも開設後は手の入っていない天然林で、この中には森林の成立以降人為的な力の加わっていないと考えられる原生林がある。\n天然林の伐採跡地のうち、大半の面積を占める約1,800haは伐採後再生した天然林(二次林)で、スギを主体とした人工造林の面積は約250haである。\n二次林にはミズメ、シデやクロモジなどが多い。", "qas": [ { "question": "天然林の伐採跡地の中で、半分以上の面積部分には、いつ再生した天然林が生育していますか?", "id": "tr-605-05-000", "answers": [ { "text": "伐採後", "answer_start": 340, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "人工造林には主に何の樹木が多く生育していますか?", "id": "tr-605-05-001", "answers": [ { "text": "スギ", "answer_start": 357, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "植生同様当研究林内には多くの生物が生息しており、哺乳類ではツキノワグマやニホンカモシカ、ニホンザル、ニホンジカ、イノシシ、タヌキ、アカギツネ、ニホンアナグマ、ニホンノウサギなどといった中大型の哺乳類をはじめ、ヤマネ、ムササビといった小型の哺乳類も生息しており、その中にはクロホオヒゲコウモリやミズラモグラなどの貴重な種も生存している。\n鳥類ではコノハズクやヤマセミ、オシドリなどをはじめオオタカやハイタカなどの猛禽類も見られ、まれにイヌワシも見られる。\n爬虫類ではニホンマムシやヤマカガシ、アオダイショウ、シマヘビ、ニホンカナヘビ、ニホンイシガメ、ジムグリ、シロマダラを見ることができる。\n両生類では特別天然記念物であるオオサンショウウオをはじめ、ハコネサンショウウオやヒダサンショウウオ、モリアオガエルやカジカガエルなどを見ることができる。\n昆虫もカブトムシやクワガタ、ミヤマカラスアゲハをはじめとした大型の個体から小型の個体まで、多く見られる種から貴重な種まで多種多様な昆虫が生息しており、中には芦生で新たに記録された種もいくつか見られる。", "qas": [ { "question": "当研究林内に生息している哺乳類の中で、最も大きい動物は何になるかな?", "id": "tr-605-06-000", "answers": [ { "text": "ツキノワグマ", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当研究林内に生息している両生類の中で、特別天然記念物に指定されているものは何?", "id": "tr-605-06-001", "answers": [ { "text": "オオサンショウウオ", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大学は当研究林の設立時に、事前調査等を通じて以下の3点に注目していた。\nそれは、スギの郷土の中心であること、寒地性植物と暖地性植物が交わってともに自生する大植物園であること、大きな流域実験の可能性を有する地形であることである。\n実際、西日本有数の原生林の中で現在までに確認された植物の種類は約900種を数え、その中には前述のアシウスギやアシウテンナンショウのように「芦生」の名を冠されたものもあり、この豊富な植物相の中から、「植物ヲ学ブモノハ一度ハ京大ノ芦生演習林ヲ見ルベシ」という名言が生まれたといっていい。\nしかし、後述するように大学の研究施設でありながら財産形成の場として一定の利益を上げることを求められたことから、研究と利益確保の矛盾する命題を追う過程で、研究と施業の双方で妥協せざるを得ない場面に遭遇することもままあった。\nもっとも、ツキノワグマが樹液を吸うためにスギの樹皮を剥いで幹をかじるクマハギへの対策や人工林の育成および収穫技術に関する研究などのように、伐採や植林といった施業の中で進められた研究も少なくない。\nこうした施業を通じた研究をはじめとした林業や林産業に関する研究のほか、農林の多目的利用と森林情報の処理に関する研究、森林の保全機能や天然林の再生機構といった森林のメカニズムに関するもの、研究林内に生息する動植物の生態や分類に関する研究、気泡や地形といった自然環境に関する研究など、多様な分野で当研究林をフィールドとした研究が行われている。\n教育の場としての研究林では、農学部、農学研究科をはじめとした京都大学の各学部および研究科の実習や教育プログラムの場として使用されているほか、京都造形芸術大学や同志社大学など他大学の実習や社会教育の場として使用されている。", "qas": [ { "question": "当研究林が多種多様な植物と生物が共存する貴重な場所としてある名言が生まれたが、それは何?", "id": "tr-605-07-000", "answers": [ { "text": "「植物ヲ学ブモノハ一度ハ京大ノ芦生演習林ヲ見ルベシ」", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "当研究林の設立時に大学が注目していた事柄の1つで、何という樹木が中心の郷土であることをあげていましたか?", "id": "tr-605-07-001", "answers": [ { "text": "スギ", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "当研究林には後述の通り由良川源流沿いに森林軌道が設置されている。\n日本の大学研究林(演習林)で森林鉄道が設置されたのは、奥秩父の山中にある東京大学秩父演習林内に設置された東京大学演習林軌道の他に例を見ない。\n演習林開設以前、この地域には道らしい道が整備されていなかったことから、演習林の開設と同時に林道の整備を開始した。\n主要な林道はなるべく自動車の通行が可能なように整備されたが、止むを得ない場所については軌道で整備されることとなり、演習林事務所から由良川源流に沿って中山に至る区間に軌道を敷設することが計画された。\n工事は1927年に事務所から大蓬までの軌道敷開削工事が完成、翌1928年には七瀬まで完成した。\n当初完成したのは路盤だけであったが、軌道の敷設工事も行われ、1934年には事務所-赤崎間にレールを敷設、1936年には大蓬まで延伸された。\n敷設された軌道の軌間は762mmで、レールの重さは6kgないし4kg、枕木は伐採された栗材やブナ材に腐食防止用のクレオソート油を塗ったものを使用した。\nしかし、当初計画区間のうち七瀬-中山間については路盤工事も行われず、歩道として整備されるにとどまった。\nその後、太平洋戦争が始まると林産資源確保のために小野子谷への軌道延伸が計画され、1942年に由良川を渡る橋が完成、1943年には小野子東谷にあった作業所まで軌道の延伸が行われ、七瀬までの本線区間が本谷軌道と呼ばれたのに対して小野子仮軌道と名づけられた。\n1944年には小野子仮軌道の途中から分離して小野子西谷を遡上する区間が延伸されたが、この区間は仮軌道とは言いながらも線路を内務省の由良川堰堤工事事務所から借用したものを使用するなど、路盤も線路も本谷軌道より高規格のものが使用された。\nまた、小野子仮軌道にはループ線があったという話が残っている。", "qas": [ { "question": "森林軌道の敷設工事が大蓬まで延伸される前の区間はどこからどこまであったの?", "id": "tr-605-08-000", "answers": [ { "text": "事務所-赤崎間", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当研究林以外で、森林軌道が設置されていた演習林の名前とは?", "id": "tr-605-08-001", "answers": [ { "text": "東京大学秩父演習林", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小野子東谷にあった作業所まで軌道の延伸部分は何と名付けられた?", "id": "tr-605-08-002", "answers": [ { "text": "小野子仮軌道", "answer_start": 618, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "完成した軌道は伐採された材木や製造された木炭、栽培されたしいたけの搬出に使用されたほか、沿線に設けられた作業所や苗畑への通勤や資材の搬入にも使用された。\nまた、灰野の住民への米やみそ・しょうゆといった生活物資の運搬にも使用された。\n小野子仮軌道からは主としてブナ材が搬出され、多くがプロペラのブレード(羽根)に加工された。\n戦後の1947年には小野子西軌道が撤去され、レールは元通りの直線に延ばされて内務省由良川堰堤工事事務所に返却された。\n1949年7月に来襲したヘスター台風によって、森林軌道を全線に渡って大きな被害を受け、中でも小野子仮軌道は全区間埋没・流出して、その後復旧することはなかった。\n一方、本谷軌道については流出した由良川橋梁の復旧が行われたほか、1950年には軌道の敷設区間が野田谷まで延伸された。\n先に路盤が完成していた七瀬まであと少しの距離であったが、ついに七瀬までレールが延びることはなかった。", "qas": [ { "question": "小野子仮軌道が全区間埋没・流出してしまう程の被害を与えたものは何?", "id": "tr-605-09-000", "answers": [ { "text": "ヘスター台風", "answer_start": 233, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘスター台風の被害を受け、復旧することが出来たのは何?", "id": "tr-605-09-001", "answers": [ { "text": "由良川橋梁", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1950年代以降の大規模伐採の時代には、赤崎西谷や赤崎東谷に引込み線が設けられ、伐採された材木の搬出に活用されていたが、1960年代中期に沿線での伐採事業が終了すると森林軌道の利用価値は低下、沿線の苗畑や作業所への通勤や資材、苗の搬入に使われる程度となった。\nそれも1975年前後に終了すると、使用頻度がさらに低下、1980年代以降になると施設の老朽化が進んだことから、灰野より奥へ運転されることはなくなった。\n一方、残された灰野までの区間については、この区間に道路がないことから、今後も軌道を使用するため、1973年にたびたび水害で流されてきた由良川橋梁を鉄筋コンクリート製の橋に架け替えたほか、枕木を一部コンクリート製のものにするなど軌道の整備が行われた。\n整備区間は年々奥へと延伸され、1993年には灰野橋が鋼鉄製の桁橋に架け替えられたことにより、整備区間が灰野の先まで延伸された。\n最近では由良川橋梁に、歩行者の転落防止のために手すりが取り付けられている。", "qas": [ { "question": "森林軌道が灰野までの運転とされたのはいつからですか?", "id": "tr-605-10-000", "answers": [ { "text": "1980年代以降", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "森林軌道が通勤や資材、苗の搬入に完全に使われなくなったのはいつ?", "id": "tr-605-10-001", "answers": [ { "text": "1975年前後", "answer_start": 133, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "車両は東京大学演習林軌道が大規模な伐採事業を行っていたことから本格的なガソリン機関車やディーゼル機関車を所有していたのに対し、当研究林では、当初、トロッコを人力や馬力で押し上げ、下りはブレーキを操作しつつ滑走していた。\nその後機関車を導入して作業の効率化を図ったが、機関車といってもトロッコの台枠に農業用のエンジンを搭載し、その上に簡単な屋根を乗せただけのものだったので、屋台形機関車と呼ばれていた。\n機関車以外にもトロッコの台枠にミゼットのエンジンを搭載した自走式人車もあり、こちらは林内の巡視などに使用されていた。\nまた、大規模伐採時期には業者が機関車やトロッコを持ち込んで使用していたが、こちらの実態については不明である。\n現在の森林軌道は林内の巡視などのために灰野までの区間で極めて不定期ながら運行されている。\n灰野から先は落石や倒木、あるいは赤崎の大Ωループ橋のように朽ち果てて倒壊した木橋などが連続しており、軌道の復活はおろか歩行も困難を要する。\nまた、国土地理院の1/25,000地形図「中」では1979年修正、1981年5月発行版まで「特殊軌道」の記号で表されていたものが、1991年修正、1992年5月発行版では「徒歩道」の記号で表されている。", "qas": [ { "question": "現在の森林軌道は灰野までの区間で極めて不定期ながら運行されているが、それは何の目的を果たしているの?", "id": "tr-605-11-000", "answers": [ { "text": "林内の巡視", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本格的なガソリン機関車やディーゼル機関車を所有していたのはどこの森林鉄道なの?", "id": "tr-605-11-001", "answers": [ { "text": "東京大学演習林軌道", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在の森林軌道は、地図上でどのような記号で表されているの?", "id": "tr-605-11-002", "answers": [ { "text": "「徒歩道」", "answer_start": 515, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "森林鉄道が「徒歩道」と表される前は、どのような記号だったの?", "id": "tr-605-11-003", "answers": [ { "text": "「特殊軌道」", "answer_start": 475, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうして誕生した芦生演習林であるが、すでにあった東京帝国大学や北海道帝国大学といった他の帝国大学の国内演習林が国有林設定の形で演習林地を取得し、伐採した材木の販売益を100%自らの収入とできたのとは異なり、地上権を設定した借地契約であり、収益については当初40年間は地上権者が地権者に最初の5年は年5万円ずつ、残り35年間は毎年1万円ずつ支払い、その後は伐採した材木の販売益を地権者と折半する分収方式であった。\nこれは先発の大学に早く追いつきたいが、広大な林地を買収するだけの財政的な裏付けがないことから、やむを得ず選択された手法であった。\nところが、契約後間もない1922年3月に当初地権者と契約していた分配金5万円が支払われず、同年8月になって年間の伐採益の全額として村に支払われた金額が1万円だけだったことから、契約の不履行として、告訴も含めた大きな騒ぎとなってしまった。\n結局、大学、京都府、地元を交えた議論の中で調停が行われ、1923年4月に契約の一部を修正して、地権者側の伐採収益取得の権利を地上権者側に譲渡し、地上権者側は代償として、39年間の借地料金利の積算額である22万円を同年中に地権者側に支払うことで和解した。\nこのような山林地上権での基準対価による契約更改は京都府下においては前例のないものであり、地上権を固定額で契約したことも含めて後々村側に不利になった側面があったことは否めない。\nただ、知井村の側においてもこの22万円を基金として部落有林の一元化を実現しただけでなく、戦前には村の財政において演習林からの安定した財産収入が、昭和恐慌期において村財政を窮乏から救った効果は大きいといえる。\nまた、契約時に木材搬出ルートの設定を、隣接する朽木村経由や佐々里峠を越えて広河原や花脊を経由するものではなく、村内を東西に横断する形で設定するよう求めたり、天然更新林での伐採や処分の権利が喪失しないように求めている。\nこの他、演習林の開設によって地元芦生の住民をはじめ地域住民の雇用の場を創出した効果も大きいといえる。", "qas": [ { "question": "芦生演習林は何を設定した借地契約だったの?", "id": "tr-605-12-000", "answers": [ { "text": "地上権", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "芦生演習林の開設により、地域住民にとっては何の場を生み出した効果が大きかった?", "id": "tr-605-12-001", "answers": [ { "text": "雇用の場", "answer_start": 848, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方でこのような騒ぎをよそに、施設の整備は進められていった。\n1923年に演習林事務所が建築されたのを皮切りに、林内での作業所や苗畑といった施設の設置が行われたほか、1925年には出合(現在の京都広河原美山線との分岐点)から演習林事務所に至る車道が開設され、1927年には由良川源流に沿って事務所から七瀬に至る森林軌道の軌道敷開削工事が開始、1934年には事務所-赤崎間にレールが敷かれた。\nなお、演習林事務所については1930年に現在の事務所が新築された。\nまた、施業の面では1924年に造林事業が、1925年にはしいたけの栽培が開始され、1933年からは木炭の製造も開始されている。\n造林事業については、当初杉の伐採を行ったところ林相の悪化を招いたために一時伐採を中止、その後はしいたけ栽培や木炭の製造のための雑木伐採、枕木用の栗材の伐採跡に杉の造林を行った。", "qas": [ { "question": "しいたけの栽培が開始される前に開始された事業は何?", "id": "tr-605-13-000", "answers": [ { "text": "造林事業", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "しいたけの栽培、木炭の製造、造林事業の中で最も遅く開始された事業は何?", "id": "tr-605-13-001", "answers": [ { "text": "木炭の製造", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "この時期の演習林では、学術的な研究を重視した経営方針が立てられていた。\n当時の京都帝大の演習林では台湾演習林において樟脳の生産が行われ、樺太演習林においては材木の伐採によって収益を上げていたが、芦生演習林においては学術研究の実地拠点にしようとする期待が大きく、学術的な成果を挙げようとする動きが強く働いたことから、「営利的施業より理想的な施業」として、営利目的より学術的な成果を重視する立場を取っていた。\nこうしたことから、並行して材木の伐採も続けられていたが、しいたけ栽培の原木と用材の択伐のほか、枕木用の栗材や木炭生産用の雑木の伐採が主であった。\nしかし、昭和恐慌から日中戦争を経て太平洋戦争へと続く時代の流れの中で、軍事費増大による大学予算の削減から大学の収入源確保を求められたことや、国策遂行のために協力を求められたことから、理想的な経営方針は変更を余儀なくされていく。\n1934年に開通した森林軌道の沿線を中心に、木炭用の雑木や枕木用の栗材が大量に伐採されたほか、ブナ材は飛行機のプロペラ用や梱包材として伐採された。\n中でも木炭の生産は年を追うことに増加し、昭和十年代における京都帝大の年間木炭需要1万4千俵を大きく上回る俵数を生産、余剰分は市中に販売されて貴重な収入源となったほか、「大学炭」として新聞にも紹介されるほどであった。\n太平洋戦争に突入後は、総力戦遂行のための林業資源確保のために、1943年には小野子谷方面へ森林軌道の延伸が行われ、伐採面積の拡大に対応していった。\nこうした伐採面積の拡大は同時に演習林の荒廃を進行させることとなったが、戦時体制の前では如何ともしがたく、このまま終戦を迎えることとなった。", "qas": [ { "question": "日中戦争や太平洋戦争の影響で、演習林において特に生産が増加したものは何ですか?", "id": "tr-605-14-000", "answers": [ { "text": "木炭", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "昭和恐慌、日中戦争や太平洋戦争などが起こる前までは、演習林は何を重視する立場を取っていましたか?", "id": "tr-605-14-001", "answers": [ { "text": "学術的な成果", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大学本体は終戦後の1947年に京都帝国大学から京都大学に改称され、1949年には学制改革を実施して新制大学に改組されたが、演習林の体制に大きな変化はなかった。\n一方で戦時中から続く演習林の荒廃は戦後も改善されることはなく、それに追い討ちをかけるように3度の台風被害に見舞われることとなった。\n1949年7月のヘスター台風では演習林事務所で総雨量が519mm、東部の三国岳では推定600mmを超える記録的な大雨に見舞われ、演習林事務所を除く建物の大半が破損したり流失したほか、戦時中に開通した小野子東谷への森林軌道は全線流出・埋没するという大きな被害を受けた。\n翌1950年9月にはジェーン台風が来襲、室戸台風並みの暴風をもたらしたことから、風倒木被害が多発した。\nそれから間もない1953年9月には台風13号が来襲、この台風では演習林事務所で総雨量361mmとヘスター台風の時には及ばなかったものの、ヘスター、ジェーンの両台風で弱っていた山林に止めを刺す結果となり、土砂災害などの被害を受けることとなった。", "qas": [ { "question": "演習林事務所での総雨量が少なかったのは、ヘスター台風と台風13号のどちらの台風が来た時ですか?", "id": "tr-605-15-000", "answers": [ { "text": "台風13号", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "演習林に大きな被害をもたらした台風13号、ヘスター台風、ジェーン台風の3つのうち、2番目に来たものはどれ?", "id": "tr-605-15-001", "answers": [ { "text": "ジェーン台風", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "演習林にとっては大きな試練となった災害であるが、その復旧工事とともに、施設や林道の建設も推進されていった。\n1950年には森林軌道が野田谷まで延伸されたほか、水力発電所を建設して電力の供給を開始、1952年には地元住民への給電を開始した。\n1961年には関西電力による電気の供給が開始されたが、このとき電気の来なかった灰野は住民が全員離村、最後まで残った山番の村も姿を消してしまった。\n林道の整備は内杉谷から下谷を経て長治谷に抜ける内杉林道を中心に進められ、1952年に落合橋まで開設されたのを皮切りに、1954年に幽仙橋まで延伸、その後もケヤキ坂を越えて工事は進められて1970年に長治谷作業所に到達した。\nこの他にも落合橋で内杉林道から分岐して櫃倉谷を詰める櫃倉林道が1955年に開設され、1972年には長治谷作業所から地蔵峠を越えて朽木村生杉に抜ける峰越林道が開設されたほか、1980年代にかけて内杉林道中央部のケヤキ峠を中心に、北は杉尾峠直下に通じ、南はブナノ木峠の南に達する林道が開設された。", "qas": [ { "question": "水力発電所からの地元住民への給電が始まったのはいつ?", "id": "tr-605-16-000", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ケヤキ峠を中心とした南北の林道は、北はどこを通りますか?", "id": "tr-605-16-001", "answers": [ { "text": "杉尾峠直下", "answer_start": 420, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "世論の自然環境に対する意識が従来の開発主体から環境の保全や育成の方向に変化するにつれて、健康維持に森林浴が注目されるようになったほか、中高年を中心に登山が静かなブームになってきた。\nまた、森林軌道も日本に残る数少ない森林鉄道として、鉄道ファンに紹介されるようになった。\nそれまでも京都市内中心部からほど近い所にある「秘境」的なイメージから、演習林がテレビや新聞で紹介されることはたびたびあったが、道路の整備が不十分であったことから、訪れる人も多くはなかった。\nそれが1960年代以降国道162号や京都広河原美山線といったアクセスルートの整備が進み、1979年には京都広河原美山線のうち最後まで未開通であった佐々里峠の区間が開通、その後は道路狭隘部の拡幅やバイパスの開通が進められることによって走行環境が改善されていった。\nこうして、演習林が人々に注目されるようになり、アクセスも改善されたことから、1990年代に入ると近畿地方、それも大都市近郊に残された大規模な自然林と清流を擁する演習林を訪れる一般入林者が漸増するようになった。\nこの頃から地元と旅行会社が共同でツアーを企画し、団体での見学も行なわれている。\nまた地域振興などを鑑みて、1993年には美山町の自然文化村と京都府青少年芦生の家のツアーについて、特例として利用者心得の順守を条件に車での入山が許可された。\nこのような活動を受けて、1997年には芦生研究林のガイド養成講座が開設され、同年に16名のガイドが誕生した。\nこれは、一般への説明などの観点から研究林側にも歓迎されている。", "qas": [ { "question": "世間の自然環境に対する意識が、環境保全や育成の方向に変化するに従って、森林浴が注目され、何がブームとなりましたか?", "id": "tr-605-17-000", "answers": [ { "text": "登山", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1960年代以降にアクセスルートの整備や道路の走行環境を改善したおかげで、一般入林者が急増したのはいつからですか?", "id": "tr-605-17-001", "answers": [ { "text": "1990年代", "answer_start": 399, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "なお、1990年代後半から2000年代初頭の「みどりの日」には、毎日新聞で「芦生の森を世界遺産に」というキャンペーン記事が掲載されたこともあった。\nところが、入林者の増加は下草の踏み荒らしやごみの放置、あるいはトイレの問題や水質汚染などといったオーバーユースの問題を招くこととなった。\nこのような問題については、1998年に美山町自然文化村などとの間で研究林利用に関する覚書が交わされ、ガイド・車などの数に制限が設けられ、徐々に対策が取られている。\n一方で、被害に拍車をかけるように近年の暖冬傾向によってニホンジカの個体が増加、春から夏にかけて木々の若芽や下草を食べつくすという食害がひどくなっていった。\nオーバーユースや食害といった問題は、かつての大規模伐採とは異なった形で研究林(演習林)の荒廃を招くことから、大学側にとっても大きな問題である。\nなお、2000年前後には長治谷作業所が老朽化によって解体されている。", "qas": [ { "question": "ニホンジカの個体が増加した原因は?", "id": "tr-605-18-000", "answers": [ { "text": "近年の暖冬傾向", "answer_start": 241, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーバーユースの問題対策である研究利用に関する覚書は何年に交わされたの?", "id": "tr-605-18-001", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 156, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "毎日新聞で「芦生の森を世界遺産に」というキャンペーン記事が掲載されたのは何の日だった?", "id": "tr-605-18-002", "answers": [ { "text": "「みどりの日」", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "マニラ奇襲(1798年)", "paragraphs": [ { "context": "1798年1月のマニラ奇襲(マニラきしゅう、英語:RaidonManila)は、フランス革命戦争中に行なわれた、イギリス王立海軍による偽旗作戦である。", "qas": [ { "question": "マニラ奇襲は、いつ行われたものか?", "id": "tr-606-00-000", "answers": [ { "text": "1798年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マニラ奇襲は、どの戦争中に行われたの?", "id": "tr-606-00-001", "answers": [ { "text": "フランス革命戦争", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マニラ奇襲は、どの軍による偽旗作戦でありますか?", "id": "tr-606-00-002", "answers": [ { "text": "イギリス王立海軍", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランス革命戦争中に行なわれた、イギリス王立海軍による偽旗作戦のことを、何と呼ぶか?", "id": "tr-606-00-003", "answers": [ { "text": "マニラ奇襲", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マニラ奇襲は、スペイン領フィリピンの首都マニラでマニラ・ガレオンの拿捕とスペイン海軍の状態の偵察を目的としていた。マニラは1796年に敵対関係となったスペインの艦隊が拠点としており、年に一度清朝中国のマカオからイギリスへ向かう商船(いわゆる「中国船隊」)にとって無視できない脅威となっていた。", "qas": [ { "question": "マニラ奇襲は、何の拿捕とスペイン海軍の状態の偵察を目的としていたの?", "id": "tr-606-01-000", "answers": [ { "text": "マニラ・ガレオン", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペインの艦隊が拠点としていたのは、どこですか?", "id": "tr-606-01-001", "answers": [ { "text": "マニラ", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペインとイギリスが敵対関係となったのは、何年からのことか?", "id": "tr-606-01-002", "answers": [ { "text": "1796年", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、フィリピンを占領していたのは、どの国か?", "id": "tr-606-01-003", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イギリスはこの脅威に対処するために1797年にイギリス領インドからのフィリピン侵攻を計画したが、カンポ・フォルミオ条約の締結とイギリス東インド会社とマイソール王国の間の緊張から作戦は延期された。", "qas": [ { "question": "イギリス領インドからのフィリピン侵攻の計画が延期されたのは、イギリス東インド会社とどの国の間の緊張が要因であったの?", "id": "tr-606-02-000", "answers": [ { "text": "マイソール王国", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスが、イギリス領インドからフィリピンを侵攻する計画を立てたのは、何年のことですか?", "id": "tr-606-02-001", "answers": [ { "text": "1797年", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスはイギリス領インドからのフィリピン侵攻を計画していたが、どの条約を締結したことが要因と作用し、侵攻計画が延期されたか?", "id": "tr-606-02-002", "answers": [ { "text": "カンポ・フォルミオ条約", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスのフィリピン侵攻計画では、どこから侵攻することが決められていたか?", "id": "tr-606-02-003", "answers": [ { "text": "イギリス領インド", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1797年から1798年にかけての冬の中国船隊を守るために、イギリス海軍の東インド指揮官であるピーター・レーニア・ジュニア少将は中国に大使を派遣し、エドワード・クック大佐率いるフリゲート2隻(シビルとフォックス)が護衛を務めた。護衛の任務が終わると、マニラから財宝が集まった船がもうすぐ出航するという情報を聞いて、エドワード・クックは自らマニラのスペイン軍の状態を調べることを決意した。こうして、クックを艦長とするシビル号とパルトニー・マルコムを艦長とするフォックス号は出発し、1798年1月13日にマニラ周辺に到着した。", "qas": [ { "question": "当時、誰がイギリス海軍の東インド指揮官についていたの?", "id": "tr-606-03-000", "answers": [ { "text": "ピーター・レーニア・ジュニア", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピーター・レーニア・ジュニアにより中国に派遣された大使を護衛する任務は、誰の率いるフリゲート2隻に任せられましたか?", "id": "tr-606-03-001", "answers": [ { "text": "エドワード・クック", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クックと誰を艦長とする2隻の艦船がマニラを向かったか?", "id": "tr-606-03-002", "answers": [ { "text": "パルトニー・マルコム", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クックとパルトニー・マルコムを艦長とする2隻の艦船がマニラに着いたのは、いつのことか?", "id": "tr-606-03-003", "answers": [ { "text": "1798年1月13日", "answer_start": 239, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペイン王国は第一次対仏大同盟に参加し、当初グレートブリテン王国の同盟国だったが、フランス革命戦争開戦から3年が経過した1796年に、フランス第一共和政(総裁政府)と第二次サン・イルデフォンソ条約を締結した。この条約の秘密条項でスペインがグレートブリテン王国との同盟を破棄して宣戦布告することが定められていた。", "qas": [ { "question": "フランス革命戦争は、第二次サン・イルデフォンソ条約が締結される何年前に始まった戦争であるの?", "id": "tr-606-04-000", "answers": [ { "text": "3年", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペインは、どの条約により、フランスからグレートブリテン王国との同盟を破棄して宣戦布告することを強いられましたか?", "id": "tr-606-04-001", "answers": [ { "text": "第二次サン・イルデフォンソ条約", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どの条約の締結を基点に、スペインとフランスの関係が変わったか?", "id": "tr-606-04-002", "answers": [ { "text": "第二次サン・イルデフォンソ条約", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どの条約の締結を基点に、スペインとの関係が変わったのは、フランスのほかに、どの国か?", "id": "tr-606-04-003", "answers": [ { "text": "グレートブリテン王国", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1797年1月、中国船隊は東インドでピエール・セザール・シャルル・ド・セルシー少将率いるフリゲート6隻からなるフランス艦隊に襲われた。このバリ海峡事件では、イギリスの指揮官がセルシーをうまく騙して「戦列艦が商船を装っている」と信じ込ませてフランス艦隊を撤退させ、セルシーはフランス島に戻ってようやく騙されたことに気づいた。このため、インドではセルシーが1798年にもう一度商船を襲うのではないか、カヴィテに大艦隊を保有するスペインが同じ手口を使うのではないか、という恐れが高まった。", "qas": [ { "question": "フランス艦隊が東インドで中国船隊を襲撃したのは、いつのことなの?", "id": "tr-606-05-000", "answers": [ { "text": "1797年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1797年1月に東インドで中国船隊を襲ったフランス艦隊は、誰が指揮を執っていましたか?", "id": "tr-606-05-001", "answers": [ { "text": "ピエール・セザール・シャルル・ド・セルシー", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バリ海峡事件は、いつ発生した事件であるか?", "id": "tr-606-05-002", "answers": [ { "text": "1797年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バリ海峡事件の時、動員されたフランスのフリゲートは、何隻だったか?", "id": "tr-606-05-003", "answers": [ { "text": "6隻", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1796年11月にはじめて戦争の危機を知ったレーニアはすぐさまフィリピン侵攻の計画を開始した。彼は1762年のマニラの戦いを再現すべく、アーサー・ウェルズリー大佐とベンガル総督のサー・ジョン・ショアと提携して海軍と陸軍の大軍を準備した。しかし、その矢先に1797年8月のカンポ・フォルミオ条約締結と第一次対仏大同盟の終結という報せが舞い込んできて、イギリスは単独でフランスとスペインと戦わなければならなくなった。さらにイギリスの宿敵であるマイソール王国のティプー・スルターンが使者を派遣してフランスの援助を求める情報がもたらされると、マニラ侵攻を目的とした陸軍はインドで釘付けにされ、作戦は中止された。中国船隊の護衛は取り消しにならず、レーニアは艦隊の一部を東、中国のほうへ移動させた。", "qas": [ { "question": "フィリピン侵攻計画が開始されたのは、いつのことなの?", "id": "tr-606-06-000", "answers": [ { "text": "1796年11月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マニラの戦いとは、何年に行われた戦闘のことを指しますか?", "id": "tr-606-06-001", "answers": [ { "text": "1762年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カンポ・フォルミオ条約が結ばれたのは、いつのことか?", "id": "tr-606-06-002", "answers": [ { "text": "1797年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カンポ・フォルミオ条約締結の結果、単身で二か国と戦わざるを得なくなったのは、イギリスとフランス、スペインのうち、どちらの国か?", "id": "tr-606-06-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 174, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1797年春、何隻かの商船はボンベイに集まり、マカオで中国船隊と合流するための準備をした。レーニアはこの商船隊の護衛にシビル号とセンチュリオン号を派遣した。シビルは砲数40門のフリゲートであり、1794年のミコノスの海戦でフランスから拿捕したものであった。一方のセンチュリオンは砲数が50門で、7月に船隊とマラッカ海峡を通過して戦列艦のヴィクトリアス号とトライデント号、そしてパルトニー・マルコムを艦長とするフリゲートのフォックス号と合流した。船隊は航行中大きな事故もなく1797年12月13日にマカオに到着したが、船員は熱帯病に弱らされていた。", "qas": [ { "question": "1797年春、ボンベイに集結した商船隊の護衛任務は、センチュリオン号とどの艦船に任せられたの?", "id": "tr-606-07-000", "answers": [ { "text": "シビル号", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "より多くの砲門を有していた艦船は、シビルとセンチュリオンのうち、どちらですか?", "id": "tr-606-07-001", "answers": [ { "text": "センチュリオン", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1797年春、ボンベイに集結した商船隊がマカオに着いたのは、いつのことか?", "id": "tr-606-07-002", "answers": [ { "text": "1797年12月13日", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "センチュリオンは、ヴィクトリアス号とトライデント号のほかに、誰を艦長とする艦船と合流したか?", "id": "tr-606-07-003", "answers": [ { "text": "パルトニー・マルコム", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "商船隊がマカオに到着したとき、中国船隊の出港まで数週間あったため、クックはマニラ港とスペイン艦隊の偵察を敢行した。このとき、マカオでは「年に一度のマニラ・ガレオンがもうすぐ到着する」という噂が流れた。マニラ・ガレオンはアカプルコから太平洋を横断し、途中グアムで停留しつつマニラへ向かい、200万スペインドルの金を運んでくる、という宝船だった。金をフィリピンで降ろしたあとは東インドの貨物を積載してヌエバ・エスパーニャに戻る予定だった。この行き来が必要なのは、スペイン領東インドでは長年莫大の赤字続きで、ヌエバ・エスパーニャからの援助がなければ維持できないからであった。スペインドルは東インドの大半で流通する貨幣であり、その流れを止めることは貿易を阻害するが、イギリス海軍は1587年のトマス・キャヴェンディッシュによる攻撃以降、ずっとそれを狙っていた。", "qas": [ { "question": "マニラ・ガレオンがマカオに来るのは、年に何度だったの?", "id": "tr-606-08-000", "answers": [ { "text": "一度", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マニラ・ガレオンの最終目的地は、どこでしたか?", "id": "tr-606-08-001", "answers": [ { "text": "ヌエバ・エスパーニャ", "answer_start": 198, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クックらがマカオに着いた時に、同地では何がもうすぐ到着するという噂が流れていたか?", "id": "tr-606-08-002", "answers": [ { "text": "マニラ・ガレオン", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マニラ・ガレオンは、フィリピンでいくらの金を降ろしてから、東インドの貨物を積載してヌエバ・エスパーニャに戻る予定だったか?", "id": "tr-606-08-003", "answers": [ { "text": "200万スペインドル", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大型な戦船をマカオに残し、クックは1798年1月5日にシビルとフォックスだけ連れて出発した。フォックス号はバーナードと名乗る言語学者を載せていた。ルソンを通過した後、クックたちは小さなスペイン商船に遭遇した。クックたちのフリゲートにフランスの国旗がはためているのを見ると、スペイン商船はクックたちに接近した。スペイン船を拿捕したのち、クックはその船長を細かく尋問して「マニラのスペイン艦隊は大規模な修理中で、航行に適しない」という情報を引き出した。スペイン艦隊は1797年4月に台風で大破して、クックがマニラに到着したときにはまだ修理が終わっていなかった。クックは情報提供の代償として、銀コイン3,900個を除いて貨物を略奪せず、スペイン船をそのまま釈放した。クックはこのとき、シビル号をフランスのフリゲートのフォルテ号に、フォックス号を同じくフランスのフリゲートのプルデンテ号に偽装していた。", "qas": [ { "question": "クックがマニラに向かって出航したのは、いつのことなの?", "id": "tr-606-09-000", "answers": [ { "text": "1798年1月5日", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1798年1月5日に出航したクックは、どこを目的地にしていましたか?", "id": "tr-606-09-001", "answers": [ { "text": "マニラ", "answer_start": 251, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クックは、言語学者の誰を連れてマニラに向かったか?", "id": "tr-606-09-002", "answers": [ { "text": "バーナード", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クックらは、自分たちのことを隠すために、どの国の者のふりをしていたか?", "id": "tr-606-09-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 116, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1798年1月13日の午後遅く、シビルとフォックスの2隻はコレヒドール島の要塞を無事通り過ぎ、マニラ湾に到着した。翌日にはマニラ湾を通過、マニラとカヴィテの中間に錨を降ろした。そこからカヴィテを眺望すると、解体されて修理中のスペイン戦列艦サン・ペドロ、エウローパ、モンタニェス、そしてドックされて出港できないフリゲートのマリア・デ・ラ・カベヤ、ルイーサが見えた。しかし、同時にマニラ・ガレオンのマーケセッタがカヴィテで貨物を降ろしたことと、商船のレイ・カルロスが停泊中だったことも判明、クックを落胆させた。スペインはエドワード・パッケンハムを艦長とするイギリスのフリゲートのレジスタンスがフィリピン付近で目撃されたことを知り、安全策を取ったのである。", "qas": [ { "question": "クックらがマニラ湾に到着したのは、いつのことなの?年月日で答えて。", "id": "tr-606-10-000", "answers": [ { "text": "1798年1月13日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サン・ペドロ、エウローパ、モンタニェス、マリア・デ・ラ・カベヤのうち、当時修理中であった艦船ではないのは、どちらですか?", "id": "tr-606-10-001", "answers": [ { "text": "マリア・デ・ラ・カベヤ", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1月15日、クックとその小艦隊はコレヒドール島を通過、南へ向かった。4日後、嵐により砲艦1隻が船員12名とともに失踪し、2度とみつからなかった。艦隊はミンダナオ島を偵察した後、1月22日にサンボアンガに到着した。クックはスペイン国旗を揚げて補給を受け取ろうとしたが、シビルが入港中に一時座礁したことでサンボアンガ総督ライムンド・エスパニョールが派遣した防衛艦は疑念を持ちはじめた。スペイン艦の艦長はイギリス船に艦長の名前を聞いたが、ライフル銃撃で返答されたことにより、サンボアンガ市は警戒態勢に入った。スペインに勘付かれたことでクックはその策略をあきらめ、翌朝にシビルを進水させると要塞への砲撃を命令したが砲撃の効果はほとんどなく、スペインに450枚以上の砲弾を提供する結果になってしまった。一方のマルコムは水陸両用作戦として上陸作戦を敢行、要塞を陸上から攻撃しようとした。上陸船は激しい砲火に晒され、そのうちの1隻に砲弾が命中して2名が死亡、4名が負傷する結果となった。もう1隻は座礁して動けなくなった。混乱に陥りながらも上陸したイギリス軍にランスを装備した250名の民兵が攻撃、イギリス軍を砂浜から追い払った。マルコムは作戦中止を決定した。砲撃はそのまま1時間続き、その間にイギリスのフリゲート2隻は錨を切って撤退した。結局イギリス軍は上陸船で失った兵に加えて9名が負傷した。スペインは1名が死亡、4名が負傷した。", "qas": [ { "question": "クックの率いる小艦隊は南下中に嵐にあったが、その影響で何名の船員を失ったか?", "id": "tr-606-11-000", "answers": [ { "text": "12名", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クックの率いる小艦隊がサンボアンガに到着したのは、いつですか?", "id": "tr-606-11-001", "answers": [ { "text": "1月22日", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "艦長の名前を聞いてくるスペイン艦の艦長に対し、イギリス船は、どう返答したか?", "id": "tr-606-11-002", "answers": [ { "text": "ライフル銃撃", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この戦闘の結果、イギリスとスペインのうち、より多くの死傷者が出たのは、どちらか?", "id": "tr-606-11-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 564, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フリゲートを修理しなければならないので、クックはサンボアンガから半リーグ撤退し、3日間マストや艤装の修理をした。続いて北に舵を切ったが、砲艦のうち2隻は広東までの航行に耐えそうもなかったので船底に穴をあけて沈没させた。4日後の1月27日、マギンダナオ王国のプーロックという村で水を補給した。当地のルマド人により2名が殺され、9名が森に拉致された。クックがコタバトにいるスルタンのキバブ・サーリヤルに抗議すると拉致された9名が釈放されたが、それはイギリス艦隊がインドに向けて出航したあとだった。", "qas": [ { "question": "クックは、砲艦のうち何隻がこれからの航海に耐えられない状態であると判断し、水没させたの?", "id": "tr-606-12-000", "answers": [ { "text": "2隻", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クックらがマギンダナオ王国のプーロックに到着したのは、いつのことですか?", "id": "tr-606-12-001", "answers": [ { "text": "1月27日", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "クックの奇襲でイギリス海軍は18人を失ったが、フィリピンのスペイン艦隊が脅威にならないことを確認できた。レーニアは後に海軍本部への手紙でこのことについての賛辞を述べた。ただ、歴史家の間ではもしイギリスの増援があったら勝利を拡大できたという点で一致している。歴史家のC・ノースコート・パーキンソンは、もしクックがレジスタンス号と合流していたら、カヴィテのスペイン艦隊を全滅できたかもしれない述べた。しかし、合流した場合、指揮官がより想像力の弱く、勇気も足りないパーケンハムになるとも指摘した。海軍史家のリチャード・ウッドマンは奇襲を批判した。彼は、この襲撃に「輝かしい戦果はなく」、貨物船を拿捕できなかったことが失敗だったと述べた。", "qas": [ { "question": "クックのマニラ奇襲で、何人のイギリス海軍が犠牲になったか?", "id": "tr-606-13-000", "answers": [ { "text": "18人", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書にクックのマニラ奇襲についての見解が載せられている人々は、歴史家とどの職に就いている者か?", "id": "tr-606-13-001", "answers": [ { "text": "海軍史家", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)", "paragraphs": [ { "context": "ウェールズ公妃ダイアナ(Diana,PrincessofWales、全名:ダイアナ・フランセス(DianaFrances)、旧姓:スペンサー(Spencer)、1961年7月1日-1997年8月31日)は、イギリスの第1位王位継承権者ウェールズ公チャールズの最初の妃。\nイギリスの名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢として生まれ、1981年にチャールズ王太子と結婚、彼との間にケンブリッジ公ウィリアム王子(第2位王位継承権者)およびサセックス公ヘンリー王子(第6位王位継承権者)の2児をもうけた。\nしかし後にチャールズ王太子と別居状態になり、1996年に離婚。\n1997年にパリで交通事故による不慮の死を遂げた。", "qas": [ { "question": "ダイアナの死因は何でしたか?", "id": "tr-607-00-000", "answers": [ { "text": "交通事故", "answer_start": 287, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダイアナの長男の名前は何ですか?", "id": "tr-607-00-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム", "answer_start": 192, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダイアナの結婚相手は誰でしたか?", "id": "tr-607-00-002", "answers": [ { "text": "チャールズ王太子", "answer_start": 168, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダイアナが正式に離婚したのは何年でしたか?", "id": "tr-607-00-003", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 268, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1961年にスペンサー伯爵家の嫡男であるオールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサーとその夫人フランセスの間の三女としてサンドリンガムの屋敷パークハウスで生まれる。\nスペンサー家は17世紀以来続く貴族の家系である。\n両親は1967年から別居し、1969年に離婚した。\nダイアナら子供の親権は父が獲得した。\n弟チャールズとともにパークハウスで育てられたが、1970年にはノーフォークの寄宿学校リドルズワース・ホール学校に入学、ついで1973年にケント州にある寄宿学校ウェスト・ヒース学校に入学した。\n1975年に父がスペンサー伯爵位を継承したのに伴い、ダイアナもLady(姫、令嬢)の儀礼称号を得た。", "qas": [ { "question": "ダイアナの父親名は何ですか?", "id": "tr-607-01-000", "answers": [ { "text": "エドワード・ジョン・スペンサー", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ダイアナの両親が離婚したのはいつですか?", "id": "tr-607-01-001", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1977年に姉セーラと交際していたウェールズ公(皇太子)チャールズと初めて出会った。\n同年末にスイスにある花嫁学校アルパン・ヴィデマネット学院に入学するも、すぐに帰国し、ロンドンで一人暮らしを始める。\n1979年に王室のサンドリンガム邸のパーティーで皇太子と再会したのがきっかけで皇太子と親しい関係になり、1980年に交際が深まった。\n1981年2月に皇太子と婚約し、7月29日にセント・ポール大聖堂で結婚式を取り行った。\n1982年5月から皇太子とともにケンジントン宮殿で生活をはじめ、ウィリアム王子とヘンリー王子の2子をもうけるも、やがて結婚生活や家庭生活、公務についての皇太子との考え方の違いが深刻化した。\nダイアナは過食症に苦しむようになり、皇太子も1980年代半ば以降にはダイアナのいるケンジントン宮殿に戻らず、ハイグローヴ邸で暮らすことが増え、カミラとの交際を再開するようになる。", "qas": [ { "question": "ダイアナがチャールズと初対面したのはいつでしたか?", "id": "tr-607-02-000", "answers": [ { "text": "1977年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダイアナとチャールズが結婚生活を送ったのはどこですか?", "id": "tr-607-02-001", "answers": [ { "text": "ケンジントン宮殿", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1992年12月に皇太子夫妻が別居生活に入ることが正式に発表された。\n1993年に皇太子とカミラが愛を囁き合う電話のテープが公開され、1994年には皇太子自身もカミラが自分の人生の「中心的人物」であることを公表した。\nダイアナは1995年11月にBBCのインタビューに答えて皇太子との結婚生活について「3人の結婚生活だった」と総括し、またダイアナ自身も元騎兵連隊将校ジェームズ・ヒューイットと5年にわたって不倫していたことを認めた。\nそして自分はイギリス王妃にはならないことと「人々の心の王妃」になりたいという希望を表明した。\n1996年8月に離婚が成立。\n2人の王子の親権を皇太子と平等に持ち、また莫大な慰謝料を獲得した。\n離婚後、エイズ問題や地雷除去問題など慈善活動への取り組みを本格化させる。\nまたこの頃からパキスタン人心臓外科医ハスナット・カーンと交際するようになる。\nさらに1997年7月からはエジプト人映画プロデューサーのドディ・アルファイドとの交際も開始する。", "qas": [ { "question": "ダイアナの不倫相手は誰でしたか?", "id": "tr-607-03-000", "answers": [ { "text": "ジェームズ・ヒューイット", "answer_start": 183, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダイアナが離婚後に交際したパキスタン人とは誰のことですか?", "id": "tr-607-03-001", "answers": [ { "text": "ハスナット・カーン", "answer_start": 368, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1997年8月31日深夜、フランス・パリでドディとともに乗車していた車が交通事故を起こして死去する。\n死後、チャールズ皇太子の意向によりイギリス王室が彼女の遺体を引き取り、準国葬の「王室国民葬」に付された。\n英国民の強いダイアナ哀悼の機運から、女王エリザベス2世が特別声明を出し、また葬儀中にはバッキンガム宮殿に半旗が掲げられるという異例の処置が取られた。\n生前、ダイアナはファッションセンスを高く評価されており、女性のファッションに大きな影響を与えた。\nまた慈善事業への積極的な取り組みも高く評価されていた。\n死後も彼女の人気は極めて高い。\n訪日は三度行っており、1986年(昭和61年)の最初の訪日では日本に「ダイアナフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。", "qas": [ { "question": "ダイアナが最初に日本を訪問したのはいつでしたか?", "id": "tr-607-04-000", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 283, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダイアナが事故死したのはどこでしたか?", "id": "tr-607-04-001", "answers": [ { "text": "フランス・パリ", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダイアナは生涯に何度日本を訪れましたか?", "id": "tr-607-04-002", "answers": [ { "text": "三度", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1961年7月1日午後にイングランド・ノーフォーク・サンドリンガム・パークハウスに生まれる。\n父はオールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサー(後の第8代スペンサー伯爵)。\n母はその夫人であるフランセスである(第4代ファーモイ男爵モーリス・バーク・ロッシュの娘)。\n父方の先祖と母の名前をとって「ダイアナ・フランセス」と名付けられた。\nダイアナは三女であり、姉にセーラ、ジェーンがいる。\nまたダイアナ誕生から3年後に弟チャールズが生まれている。", "qas": [ { "question": "ダイアナの母親の名前は何ですか?", "id": "tr-607-05-000", "answers": [ { "text": "フランセス", "answer_start": 98, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダイアナの3歳下の弟の名前は何?", "id": "tr-607-05-001", "answers": [ { "text": "チャールズ", "answer_start": 211, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペンサー家は羊商として財をなし、1603年にロバート・スペンサーがスペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵に叙されて以来続く貴族の家系である。\nスペンサー家の本家はチャーチル家からマールバラ公爵位を継承し、スペンサー=チャーチル家と改称した。\n一方ダイアナのスペンサー伯爵家は1765年に第3代マールバラ公爵の甥ジョン・スペンサーがスペンサー伯爵位を与えられたことに始まる家柄である。\nスペンサー伯爵家の者は19世紀には政界の中枢で活躍する者が多かったが、貴族院議員が政界中枢になることが忌避されるようになった20世紀以降は政界での活躍はほとんど見られなくなり、廷臣や軍人としての活動が目立つようになった。\nダイアナ生誕時の当主は祖父である第7代スペンサー伯爵アルバート・スペンサーだった。\nその嫡男である父エドワードはオールトラップ子爵の儀礼称号を使用していた。", "qas": [ { "question": "スペンサー家の本家は、後に何と改称しましたか?", "id": "tr-607-06-000", "answers": [ { "text": "スペンサー=チャーチル家", "answer_start": 103, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "母方のロッシュ家はアイルランドに屋敷を構え、ファーモイ男爵の爵位を継承する家柄である。\n家格や財産の面ではスペンサー伯爵家の方が上だが、母フランセスの父である第4代ファーモイ男爵モーリス・ロッシュは王室と親しい関係にあり、パークハウスを王室から貸し与えられ、また彼の妻(ダイアナの祖母)ルースは1956年以降エリザベス皇太后に女官として仕えていた。\nスペンサー伯爵家の嫡孫である弟チャールズは女王エリザベス2世を代父母としてウェストミンスター寺院で洗礼を受けた。\n長姉セーラもエリザベス皇太后、次姉ジェーンもケント公エドワードを代父母にしていた。\nしかし三女であるダイアナは低く扱われ、ノーフォーク知事夫人メアリー・コールマンやクリスティーズ会長ジョン・フロイドなど資産家ながら平民が代父母であり、洗礼を受けた場所も地元サンドリンガムの聖メアリー・マグダレン教会だった。", "qas": [ { "question": "ダイアナの弟が洗礼を受けた場所はどこでしたか?", "id": "tr-607-07-000", "answers": [ { "text": "ウェストミンスター寺院", "answer_start": 212, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "姉二人はそれぞれ6歳、4歳年上であり、ダイアナが彼女らの仲間入り出来る年齢になる前の1967年9月にはケント州セブンノークスのウェスト・ヒース学校に入学したため、幼いダイアナは弟チャールズとともに育った。\n父オールトラップ卿と母フランセスは不仲で、母はオーストラリア帰りの裕福な実業家ピーター・シャンド・キッドと不倫するようになった。\n1967年夏に父と母は「試験的」に別居し、ダイアナと弟チャールズは母とともにロンドンへ移った。\nオールトラップ卿はフランセスがいずれ同居に戻るものと思っていたが、彼女に離婚の意志があることを知るとパークハウスを訪れたダイアナとチャールズをロンドンに帰さず、パークハウスの生活に戻させ、近隣のキングズ・リンのシルフィールド学校(SilfieldSchool)に入学させた。\nこれに反発した母は親権を求めて訴訟を起こした。\nイギリスの離婚訴訟は一般に母親有利だが、不倫の事実や貴族の地位が父に有利に働き、1968年からはじまった離婚申請審問の結果、親権は父が得た。", "qas": [ { "question": "ダイアナの母親の不倫相手は誰でしたか?", "id": "tr-607-08-000", "answers": [ { "text": "ピーター・シャンド・キッド", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダイアナとその姉弟の親権は誰が持ちましたか?", "id": "tr-607-08-001", "answers": [ { "text": "父", "answer_start": 410, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1970年9月にノーフォークの寄宿学校リドルズワース・ホール学校に入学した。\nダイアナは優等生ではなかったが、スポーツ万能でバレエ、ダンス、テニス、ネットボール、水泳などで活躍した。\n友達も多かったという。\n1973年には姉二人と同様にケント州のウェスト・ヒース学校に入学した。\nこの頃のダイアナはバーバラ・カートランドの恋愛小説に熱中し、勉強を怠っていたため、成績が悪かったという。\nしかしこの学校においても引き続きスポーツ分野では活躍した。\nこの頃のダイアナはバレリーナになりたがっていたが、身長が180センチ近くまで伸びたため、断念せざるをえなかった。\n姉セーラと比べると劣るもののピアノも得意だった。\nこの学校は学生のボランティア活動に力を入れており、ダイアナも毎週のように老夫婦の家を訪問してはその話し相手になったり、家事の手伝いをした。\nこの経験を通じてダイアナは自らの社会奉仕への適性を発見したという。", "qas": [ { "question": "ダイアナが1973年に入学した学校はどこですか?", "id": "tr-607-09-000", "answers": [ { "text": "ウェスト・ヒース学校", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1975年6月9日に祖父第7代スペンサー伯爵アルバート・スペンサーが死去し、父エドワードが第8代スペンサー伯爵位を継承する。\n弟チャールズはオールトラップ子爵の儀礼称号を継承し、ダイアナら三姉妹はLady(姫、令嬢)の称号を得た。\nこれに伴い一家はスペンサー伯爵家の本邸であるオルソープ邸に引っ越した。\nこの邸宅にはダイアナのダンス室が設けられ、ダイアナはホールでダンスの練習に励んだという。\n父はオルソープ邸を相続して間もなく、以前から付き合っていたレイン(バーバラ・カートランドの娘でダートマス伯爵夫人)と再婚した。\nしかしダイアナ含むスペンサー家の子供たちはこの継母のことを嫌っていた。", "qas": [ { "question": "父エドワードが第8代スペンサー伯爵位を継承した際に、ダイアナが得た称号とは何ですか?", "id": "tr-607-10-000", "answers": [ { "text": "Lady", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダイアナの継母の名前は何ですか?", "id": "tr-607-10-001", "answers": [ { "text": "レイン", "answer_start": 226, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1977年6月のロイヤルアスコット開催(王室主催競馬)でダイアナの姉セーラがウェールズ公(皇太子)チャールズと恋仲になった。\n皇太子はセーラの誘いを受けて11月にもスペンサー伯爵家の地所オルソープを訪問した。\n当時16歳のダイアナもウェスト・ヒース校の週末の休みでオルソープに滞在しており、狩猟場でチャールズ皇太子に紹介された。\nこれが皇太子とダイアナの初めての出会いだった。\nしかしこの段階では特にロマンスが芽生えたわけではなかったようである。\nチャールズ皇太子の友人によればこの時に皇太子が抱いたダイアナへの感想は「陽気で明るいティーンエイジャー」という程度のものだったという。", "qas": [ { "question": "チャールズと初めて会った時、ダイアナはいくつでしたか?", "id": "tr-607-11-000", "answers": [ { "text": "16歳", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チャールズと付き合っていたダイアナの姉の名は?", "id": "tr-607-11-001", "answers": [ { "text": "セーラ", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ダイアナは1977年12月にOレベル試験に二度目の挑戦をするも失敗し、進学を断念した。\n父母の話し合いの結果、ダイアナはスイス・クシュタート近くにある良家子女のための花嫁学校アルパン・ヴィデマネット学院に入れることになった。\nダイアナは入学から6週間後にはイギリスに帰国している。\n一方チャールズ皇太子と姉セーラは、1978年2月にクシュタート近くのクロスターズにスキー旅行にやってきたが、この時セーラはマスコミの取材に対して「私は愛していない男性とは結婚しません。例え相手がクズ屋でもイギリス国王でもね。もし彼が求婚してきても断るでしょう。」と答えた。\nこの発言の真意は定かでないが、繊細な皇太子はこれに傷ついて以降セーラと距離を置くようになった。", "qas": [ { "question": "ダイアナが入学して、2カ月経たない内に帰国してしまった学校とはどこでしたか?", "id": "tr-607-12-000", "answers": [ { "text": "アルパン・ヴィデマネット学院", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "スイスからオルソープ邸に戻ったダイアナは、これから何をするか全く決まっていなかったが、とりあえず継母レインが仕切っているオルソープ邸でくすぶっていたくなかった。\n子供の面倒を見る仕事をしたいという漠然とした夢を持ってロンドンでの独り暮らしを希望したが、両親からは18歳までは独り暮らしは認めないと申し渡された。\n代わりにスペンサー伯爵家の友人であるジェレミー・ウィテカー少佐夫妻のハンプシャーの邸宅に住み込んで、そこで子供の面倒や家事の手伝いをするようになった。\nその後、母がロンドン・カドガン・スクウェアにある母のフラットで暮らすことを許可してくれたため、事実上ロンドンでの独り暮らし生活を始めることができた(母はスコットランドで日常生活を送っていたのでロンドンを訪れるのはまれだった)。\nロンドンでのダイアナはパーティのウェイトレスをしたり、家政婦をするなどして生計を立てた。", "qas": [ { "question": "ダイアナが独り暮らしした都市はどこですか?", "id": "tr-607-13-000", "answers": [ { "text": "ロンドン", "answer_start": 238, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ダイアナは1978年11月にウィンブルドンにある貴族の娘のための料理学校に入学し、そこで3か月ほど料理の勉強をした。\nダンサーになる夢は高身長のために断念したが、代わりにダンス講師を夢見るようになり、ブロンプトン・ロードにあるダンス学校に通った。\nしかしこの学校で才能がないと言われたことに傷つき、また1979年3月に友人と行ったフランス・アルプスへのスキー旅行で転倒して足を怪我したため、ダンス学校に通うのを止めた。\n母のフラットが売却されたため、1979年7月にはコールハーン・コート(ColeherneCourt)60番地のフラットを5万ポンドで購入してそこへ引っ越した。\n念願の自分のフラットを持ったダイアナは、維持費を稼ぐため、女友達にもこの部屋を貸して同居した(最終的には4人の共同生活になった)。\n彼女たちとの同居を通じてボーイフレンドもたくさんできるようになったが、チャールズ皇太子が現れるまで男性とは誰とも深い付き合いにはならなかったという。", "qas": [ { "question": "ダイアナは、料理学校とダンス学校のどちらの学校を先に入学しましたか?", "id": "tr-607-14-000", "answers": [ { "text": "料理学校", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一方その頃、チャールズ皇太子も様々な女性と関係を持っていた。\nその一人がチャールズ皇太子の後妻となるカミラだった。\n皇太子とカミラは1972年に出会っており、以来友達のような間柄だった。\nその後カミラはアンドリュー・パーカー・ボウルズと結婚するも皇太子との関係は断続的に続いた。\nだが当時のマスコミはカミラのことはほとんど掴んでいなかった。\n当時マスコミが皇太子妃最有力候補として注目していたのは、皇太子の大叔父にあたるマウントバッテン卿の孫娘アマンダ・ナッチブル嬢だった。\n特に1979年8月にマウントバッテン卿がアイルランド民族主義団体「IRA」に暗殺された後に皇太子とアマンダ嬢の絆が強まっているように見えた。", "qas": [ { "question": "後のチャールズの再婚相手となる人は誰ですか?", "id": "tr-607-15-000", "answers": [ { "text": "カミラ", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カミラが最初に結婚したのは誰ですか?", "id": "tr-607-15-001", "answers": [ { "text": "アンドリュー・パーカー・ボウルズ", "answer_start": 101, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そんな中の1979年、王室のサンドリンガム邸で開かれたパーティにダイアナらスペンサー伯爵家令嬢たちが招かれた。\nチャールズ皇太子はスペンサー伯爵家の上の娘二人(セーラとジェーン)のことはよく知っていたが、まだ子供のダイアナにはこれまでほとんど関心を持たなかった。\nしかしこの時の再会で皇太子はダイアナが美しく育っていることを知った。\n皇太子とダイアナはダンスを踊って楽しんだ。\nこの段階では恋愛関係には至らなかったものの、以降ダイアナは、しばしば皇太子から招待を受けるようになり、親しい友人になっていった。\nチャールズ皇太子の証言によれば、1980年7月にサセックス・ペットワース近くのカントリー・ハウスでバーベキューをしていた際にマウントバッテン卿の死を悲しんでいる皇太子をダイアナが「貴方の寂しさは理解できるし、貴方には誰かが必要だ」と慰めたことに皇太子は心打たれたという。", "qas": [ { "question": "ダイアナとチャールズが再会した邸宅はどこでしたか?", "id": "tr-607-16-000", "answers": [ { "text": "サンドリンガム邸", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同年8月にワイト島の港街カウズでヨットレース「カウズ・ウィーク」が開催された際、ダイアナは王室船「ブリタニア号」に招待された。\nこの船上で皇太子とダイアナは初めてキスをした。\n皇太子が80万ポンドで購入したばかりのグロスタシャーにあるハイグローヴ邸にも頻繁に招かれるようになり、さらにパーカー・ボウルズ家にも連れて行かれ、カミラに紹介された。\nこの際に皇太子はダイアナと結婚することについてカミラの意見を聞いたが、カミラは推奨した。\n以降、皇太子はダイアナとの結婚を本気で考えるようになったという。", "qas": [ { "question": "皇太子とダイアナのファーストキスをした船の名前は何でしたか?", "id": "tr-607-17-000", "answers": [ { "text": "「ブリタニア号」", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1980年秋にはマスコミが皇太子とダイアナの関係を突きとめた。\nこの時から昼夜問わずマスコミがダイアナのところへ押し寄せてくるようになり、ダイアナに私生活は無くなった。\n当時ダイアナが勤務していた幼稚園にまでマスコミがやって来るようになった。\n彼女の赤いローバー・メトロは何台ものマスコミの車から追跡を受けるようになった。\nダイアナ報道は過熱の一途をたどり、やがてタブロイド紙『サンデー・ミラー』紙が「ダイアナが夜中の二時に停車中のお召し列車に乗り込み、皇太子と一夜を共にした」という捏造を報じるに至った。\nダイアナはこの記事にひどく傷つき、皇太子も不快に感じた。\n娘を不憫に思った母フランセスは12月に『タイムズ』紙に宛ててプライベート無視のマスコミ報道を批判する手紙を送った。\nこれがきっかけとなり英国議会も「ダイアナ・スペンサー嬢に対するマスコミの扱いを遺憾に思う」とする批判動議を決議した。\nだがマスコミはスクープを物にしようとダイアナ追跡を続けた。\nダイアナはルームメイトの協力も得て、様々な手段でマスコミを煙に巻いては、コールハーン・コートの自宅を脱出して皇太子に会いに行った。", "qas": [ { "question": "マスコミが皇太子とダイアナが交際していることを明らかにしたのはいつですか?", "id": "tr-607-18-000", "answers": [ { "text": "1980年秋", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "すでに30過ぎの皇太子は結婚を急がねばならず、そういう中で家柄もよく、マスコミのネタにされそうな過去(恋愛経験)もなく、また当時は控えめな女性に見えたダイアナは無難な選択肢に思えた。\n皇太子の親族や取り巻きの多くもこの結婚に賛成か、少なくとも反対はしなかった。\n1981年2月6日にチャールズ皇太子がウィンザー城でダイアナに求婚した。\n皇太子は「スキー旅行に出てる間、どんなに貴女に会いたかったことか」と述べたうえで「私と結婚してほしい」と簡潔に求婚したが、ダイアナは冗談だと思って笑っていたという。\n皇太子は真剣な求婚であることを強調し、「貴女はいつの日か王妃となるのだ」と述べたという。\nダイアナはこのプロポーズを受け入れた。\n婚約発表の前日の2月23日夜、ダイアナはルームメイトたちに別れを告げた後、スコットランドヤードのポール・オフィサー警部の警備のもと、コールハーン・コートを出た。\nこの際に警部は「今夜が貴女の人生で最後の自由な夜ですよ。精一杯お楽しみなさい」と述べたといい、ダイアナは「剣で心臓を貫かれたようでした」と回顧している。", "qas": [ { "question": "チャールズ皇太子がダイアナにプロポーズしたのはいつでしたか?", "id": "tr-607-19-000", "answers": [ { "text": "1981年2月6日", "answer_start": 131, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダイアナがチャールズからプロポーズを受けたのはどこでしたか?", "id": "tr-607-19-001", "answers": [ { "text": "ウィンザー城", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ダイアナはエリザベス皇太后のクラレンス邸での一時滞在を経てバッキンガム宮殿へ移り、結婚までそこで過ごしたが、宮殿の慇懃なよそよそしさに監獄に入ったかのような息苦しさを感じるようになった。\nまた皇太子とカミラの関係に敏感になっていった。\nそのストレスでこの頃から後の過食症の初期症状を見せるようになった。\n飢餓状態となり、婚約発表時72.5センチあったウェストは結婚式までに57.5センチまで落ちた。\nそれでも公的な社交場に出るときのダイアナはリラックスして楽しんでいるかのようだった。\n未来の義弟アンドリュー王子(皇太子の弟)の21歳誕生日パーティでは、アンドリュー王子がイギリスで一番の資産家のウェストミンスター公爵夫人がどこにいるのか尋ねたのに対して、ダイアナは「まあアンドリュー。有名な方のお名前をさも親しいように言うのはおやめなさい」とジョークを飛ばして場を和ませた。", "qas": [ { "question": "チャールズ皇太子の弟の名前は何ですか?", "id": "tr-607-20-000", "answers": [ { "text": "アンドリュー", "answer_start": 248, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "王室儀式の準備は宮内長官の任務だが、結婚式の準備はチャールズ皇太子自らが取り仕切り、宮内長官マクレーン卿に様々な指示を出した。\n皇太子の決定により結婚式は1981年7月29日にセント・ポール大聖堂で挙行されることになった。\nここはバッキンガム宮殿から離れているため警備上の不安があるものの、ウェストミンスター寺院よりも広いので多くの人間を収容できた。\n式で流す音楽も皇太子が選定し、キリ・テ・カナワに祝賀の歌が依頼されることになった。\n聖歌も皇太子が選定した。\nダイアナは式の準備にはほとんど関与しなかったが、彼女の好きな愛国歌『我は汝に誓う、我が祖国よ』は曲目に入れてもらえた。\n招待客については基本的に女王が取りきめた(ダイアナと彼女の父スペンサー卿にも一応提案権はあった)。\n祝典は実質的に結婚式前夜の7月23日夜から始まっていた。\nハイド・パークでは1万2000発の花火が打ち上げられ、近衛隊とモリストン・オルペウス合唱団が聖歌の合同演奏を行った。\n英国中がお祭り騒ぎになった。\nイギリスがこれほど全国民あげての祝賀ムードに包まれたのは1953年のエリザベス2世戴冠式以来のことであったという。", "qas": [ { "question": "皇太子とダイアナの結婚式はいつ行われましたか?", "id": "tr-607-21-000", "answers": [ { "text": "1981年7月29日", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エリザベス2世の戴冠式はいつありましたか?", "id": "tr-607-21-001", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 472, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "結婚式前夜、ダイアナはクラレンス邸に入り、早めに就寝した。\n翌日朝6時におきたダイアナは、浴槽につかった後、朝食をたっぷりと取り、美容師やメイクアップアーティストに整髪や化粧をしてもらい、ウェディングドレスを着用した。\nウェディングドレスは、英国製シルクでできたこの上なく豪華なものだった。\nそのドレスの裾は王室史上最長の7.5メートルにも達した。\nティアラは実家スペンサー伯爵家伝来のダイヤモンドの物、イヤリングは母から贈られたダイヤモンドの物を着用した。\n用意が済むと父スペンサー卿とともに馬車に乗り込み、群衆に手を振りながらセント・ポール大聖堂へ向かった。\n大聖堂には世界中の君主、王族、大統領、首相などが集合していた。\nアメリカからはファーストレディのナンシー・レーガン、日本からは皇太子明仁親王と美智子皇太子妃が出席していた。\n大聖堂に到着したダイアナは、バージンロードを父とともにゆっくり進み、王立海軍礼服を着用して待つチャールズ皇太子の横に立った。\nこの結婚式の模様はテレビ中継され、全世界70か国7億5000万人もの人々が見守っていた。\n式に出席していた旧ユーゴスラビア王族のカタリナ王女は「ダイアナが神々しいほどに美しかった」と回想している。\nダイアナが文字通り全世界の人々の視線を釘付けにした瞬間だった。", "qas": [ { "question": "アメリカからこの結婚式に参加した女性は誰でしたか?", "id": "tr-607-22-000", "answers": [ { "text": "ナンシー・レーガン", "answer_start": 330, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本からこの結婚式に参加した女性は誰でしたか?", "id": "tr-607-22-001", "answers": [ { "text": "美智子皇太子妃", "answer_start": 353, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "式を終えたダイアナと皇太子は国民の歓声を受けながら馬車でバッキンガム宮殿へ戻った。\n宮殿の庭にも国旗を振りながら「ダイ(ダイアナ)万歳!チャーリー(チャールズ皇太子)万歳!」と叫ぶ国民が集まっていた。\nその歓声にこたえて王族一同はバルコニーに出て国民に手を振って挨拶した。\n皇太子とダイアナはキスして見せ、群衆はそれに拍手喝采を贈った。\n新婚旅行は王室船ブリタニア号での地中海とエーゲ海のクルージングだった。\nマスコミに追いまわされないよう王立海軍の協力を得て極秘裏に行われた。\n英国マスコミはギリシャに飛んで皇太子夫妻を探し回ったが、ついに発見できなかった。", "qas": [ { "question": "ダイアナと皇太子のハネムーンの移動手段は何でしたか?", "id": "tr-607-23-000", "answers": [ { "text": "王室船ブリタニア号", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ハネムーンから帰国した皇太子夫妻は8月から10月下旬まで女王が滞在中のスコットランド・バルモラル城で休暇生活に入った。\nしかしバルモラル城での女王との同居生活は全てを女王に合わせなければならないため、ダイアナにとっては息苦しかった。\nまたダイアナは結婚式が終わればマスコミや世論の自分への関心も無くなると思っていたが、ダイアナ人気はその後も長く続き、様々な雑誌の表紙を彼女が飾り続け、常にマスコミの目を気にしなければならないプレッシャーが続いた。\nまた皇太子とカミラの関係も相変わらず気になった。\nダイアナのストレスと過食症はひどくなる一方で嘔吐を繰り返した。\n他人の面前で泣いたり、苛立ったりすることも増えた。\n幼い頃から感情を出さない訓練を受けている皇太子は、彼女の感情爆発にどう対応すればいいのか分からず、困惑させられることが多かった。\nダイアナは皇太子とともにケンジントン宮殿で暮らすことになっていたが、同宮殿の改修工事が完了するまではバッキンガム宮殿で女王との同居を続けなければならなかった。\nダイアナは早く女王から離れたがっており、改修工事を急がせ、1982年5月からそこで生活できるようになった。", "qas": [ { "question": "ダイアナがストレスを原因として患った症状とは何でしたか?", "id": "tr-607-24-000", "answers": [ { "text": "過食症", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハネムーン後に皇太子夫妻が滞在したお城は何でしたか?", "id": "tr-607-24-001", "answers": [ { "text": "バルモラル城", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ケンジントン宮殿でそのような生活を送りながらもダイアナは二人の王子を出産した。\n1981年10月に最初の妊娠が判明した。\n王室はこれまでバッキンガム宮殿内で出産するのが伝統だったが、ダイアナは最新医療設備のある病院での出産を希望し、西ロンドンのセント・メアリー病院での出産を決めた。\n出産に際しては皇太子も付きっきりになり、ダイアナの手を握りながら励ましの言葉をかけ続けたという。\nダイアナは1982年6月21日午後9時3分に第2王位継承権者となる長男を出産した。\nこの長男には「ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス」という名前が与えられた(現在のケンブリッジ公ウィリアム王子)。\nちょうどフォークランド紛争の戦勝と重なり、イギリス国民の祝賀気分は高揚した。\nウィリアム王子の出産後、皇太子は秘書官たちの反対を押し切って公務への出席を減らし、ダイアナと一緒に王子を育てることに専念した。\nこの時期がダイアナにとって最も幸せな家族団らんの日々であったという。", "qas": [ { "question": "ダイアナが長男を出産した病院はどこ?", "id": "tr-607-25-000", "answers": [ { "text": "セント・メアリー病院", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "長男の正式名は何ですか?", "id": "tr-607-25-001", "answers": [ { "text": "「ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス」", "answer_start": 239, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1984年9月15日午後4時20分にはセント・メアリー病院で第3位王位継承権者である次男を出産し、「ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイビス(通称ハリー)」と名付けられた(ヘンリー王子)。\nこの時にも皇太子は出産に付き添った。\n皇太子は公務をさらに減らして次男を可愛がった。\nしかし皇太子の父であるエディンバラ公フィリップは、皇太子が家族にかまけて公務をないがしろにしていることを批判した。\nその抗議の意味を込めてエディンバラ公はヘンリー生誕から5カ月に渡ってヘンリーの顔を見ようとしなかったが、ダイアナはそれに強く憤慨した。\n父とダイアナの板挟みになった皇太子はコーンウォール公領の農場に引きこもって領主の仕事に安らぎを見出すようになった。", "qas": [ { "question": "皇太子の父親名は何ですか?", "id": "tr-607-26-000", "answers": [ { "text": "フィリップ", "answer_start": 157, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ダイアナによれば1984年に次男ヘンリーが生まれた時点で気持ちのうえでの二人の関係は終わっていたという。\n皇太子は1985年から1986年にかけてコーンウォール公領のハイグローヴ邸で暮らすことが増えた。\n1987年にはケンジントン宮殿は皇太子不在状態が常態化してダイアナが事実上の女主人になっていたという。\n同年の皇太子夫妻のポルトガル訪問にも夫妻は別々に寝所をとっている。\n皇太子は婚約以来カミラとの関係を断っていたが、この頃から交際を再開するようになった。", "qas": [ { "question": "ヘンリーは何年に誕生しましたか?", "id": "tr-607-27-000", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1987年頃から皇太子が交際を再開し始めた女は誰でしたか?", "id": "tr-607-27-001", "answers": [ { "text": "カミラ", "answer_start": 196, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "別居状態が長く続くと、ダイアナの方も皇太子が一緒にいない時の方が落ち着くようになった。\n彼女の友人は「皇太子がケンジントン宮殿にいると、ダイアナはすっかり途方に暮れて、子供のように戻ってしまうのです。自分が一人でいるときに築きあげた全てを失ってしまうのです」と証言している。\n皇太子への情熱を失ったダイアナは、代わりに王子二人の養育と慈善事業に情熱を注ぐようになった。\nダイアナが熱心に取り組んだ慈善事業の一つがエイズ問題だった。\nダイアナは「英国エイズ救援信託基金」を財政支援し、また積極的にエイズ患者と触れ合うことでエイズ患者に対する偏見を無くすことに尽力した。\nエイズ問題以外でも様々な慈善事業に取り組み、英国産婦人科医師会の死産・新生児死亡・不妊症問題の研究のための募金機関「バースライト」、麻薬中毒者やアルコール中毒者の救済のための慈善団体「ターニングポイント」などに財政支援を行った。", "qas": [ { "question": "ダイアナが特に情熱を注いだ慈善事業とは何でしたか?", "id": "tr-607-28-000", "answers": [ { "text": "エイズ問題", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ダイアナは、1992年3月29日にオーストリア・レヒで皇太子や王子2人とともにスキー旅行をしていた際、父スペンサー卿の死を知った。\n彼女は一人で帰国しようとしたが、この際に皇太子も同行を希望した。\nこれに対してダイアナははじめ「優しい夫を演じるにはもう遅すぎる」と主張して皇太子の同行を拒否しようとした。\n彼女は自分の悲しみを王室の宣伝に利用されるのが嫌であったという。\nしかし同行しなければマスコミに叩かれるのは明らかなので皇太子は強引にでもダイアナを説得して一緒に帰国した。", "qas": [ { "question": "ダイアナの父はいつ亡くなりましたか?", "id": "tr-607-29-000", "answers": [ { "text": "1992年3月29日", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ナスル朝", "paragraphs": [ { "context": "ナスル朝は、イベリア半島最南部に13世紀から15世紀末まで存在していたイスラム王朝である。1492年、この王朝がスペイン帝国に征服されたことで、キリスト教勢力によるレコンキスタ(再征服運動)が完了した。", "qas": [ { "question": "ナスル朝は、どこに存在した王朝であるか?", "id": "tr-608-00-000", "answers": [ { "text": "イベリア半島最南部", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナスル朝は、何世紀から何世紀末まで存在した王朝か?", "id": "tr-608-00-001", "answers": [ { "text": "13世紀から15世紀末", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナスル朝がスペイン帝国に征服されたのは、何年のことか?", "id": "tr-608-00-002", "answers": [ { "text": "1492年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナスル朝は、どの国により滅びたか?", "id": "tr-608-00-003", "answers": [ { "text": "スペイン帝国", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "グラナダに首都を置いたため、グラナダ王国(スペイン語:ReinodeGranada)、ナスル朝グラナダ王国などとも表記される。国家の規模としては小さかったが、巧みな外交政策などを通じて独立を維持し、アルハンブラ宮殿にみられるような文化的遺産を後世に残した。", "qas": [ { "question": "王国の称号が付けられる、ナスル朝の別称は、何?", "id": "tr-608-01-000", "answers": [ { "text": "グラナダ王国", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナスル朝の首都はどこですか?", "id": "tr-608-01-001", "answers": [ { "text": "グラナダ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "13世紀初め、それまでアンダルスを支配していたムワッヒド朝が、新たに勃興したハフス朝、マリーン朝との抗争に追われることとなり、アンダルスから事実上の撤退といった状況となった。これにより、アンダルスは「第三次ターイファ」と呼ばれる時代を迎え、都市有力者のマーリク派法学者やアンダルス系軍事小集団の指導者の政権が乱立した。その中で、1232年アンダルス系軍事集団の指導者だったムハンマド1世(ムハンマド・ブン・ユースフ(イブン・アフマル))がハエン近くのアルホーナ(Arjona)で蜂起し、ターイファの1国となった。1237年(1238年ともいわれる。)、ムハンマド1世が都を正式にグラナダに定めた。この後、さらにアルメリア、マラガへ進出し、アンダルス南部に勢力を確立した。当時、カスティーリャ王国に代表されるキリスト教勢力がレコンキスタ(再征服運動)を展開しており、ナスル朝グラナダ王国以外にもいくつかのイスラーム小王国が存在していたが、13世紀前半までにその多くがカスティーリャ王国に征服されていた。そのため、ナスル朝はイベリア半島におけるイスラーム勢力最後の牙城として位置づけられるようになった。", "qas": [ { "question": "ムワッヒド朝がアンダルスにおける支配権を失ったのは、ハフス朝とどの王朝の台頭の影響だったか?", "id": "tr-608-02-000", "answers": [ { "text": "マリーン朝", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンダルスを失ったムワッヒド朝の時代を、何の時代と呼ぶか?", "id": "tr-608-02-001", "answers": [ { "text": "第三次ターイファ", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムハンマド1世がアルホーナで蜂起したのは、何年のことか?", "id": "tr-608-02-002", "answers": [ { "text": "1232年", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グラナダが都に定められたのは、1238年、もしくは、何年と推測されるか?", "id": "tr-608-02-003", "answers": [ { "text": "1237年", "answer_start": 256, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ナスル朝成立当初、ムハンマド1世はハフス朝に従っていたが、その宗主権を認める相手をアッバース朝、ムワッヒド朝と状況に合わせて変えながら、周囲の勢力の間をぬって国を発展させていった。キリスト教徒とも関係を持ち、1232年のカスティーリャ王フェルナンド3世によるコルドバ征服にも協力した。しかし、フェルナンド3世が根拠地ハエンの攻略を開始したことから、ムハンマド1世は臣従と貢納金の支払いを行なうことなり、さらには1246年ハエン一帯をカスティーリャ王に割譲することとなった。このため、ムハンマド1世はムスリム君主でありながらカスティーリャ王の封建的家臣という立場となり、その征服事業にも軍を派遣した。", "qas": [ { "question": "ナスル朝成立初期、ナスル朝はハフス朝、アッバース朝、そしてどの王朝と関わりながら成長していったの?", "id": "tr-608-03-000", "answers": [ { "text": "ムワッヒド朝", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1232年にコルドバ征服に出かけたのは、誰ですか?", "id": "tr-608-03-001", "answers": [ { "text": "フェルナンド3世", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1232年、フェルナンド3世のコルドバ征服に協力したのは、どの王朝か?", "id": "tr-608-03-002", "answers": [ { "text": "ナスル朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナスル朝とカスティーリャ王国によるコルドバ征服は、何年にあった事件か?", "id": "tr-608-03-003", "answers": [ { "text": "1232年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "グアダルキビール川流域のハエン一帯を割譲したことにより、領土の損失は大きかったものの、山岳地帯のグラナダ周辺を主とする領土となり、守るには有利な状況となった。また、フェルナンド3世への臣従により平和が続き、内政に専念することができたため、アンダルス各地から知識人、手工業者の流入があり、その後の繁栄をみることとなった。", "qas": [ { "question": "誰の勢力にハエン一帯を割譲したと、予測できるの?", "id": "tr-608-04-000", "answers": [ { "text": "フェルナンド3世", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハエン一帯をフェルナンド3世に割譲したことが、むしろ、何に有利な状況となりましたか?", "id": "tr-608-04-001", "answers": [ { "text": "守る", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どこを割譲する代わりに、フェルナンド3世の勢力と良い関係を保とうとしたか?", "id": "tr-608-04-002", "answers": [ { "text": "ハエン一帯", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アシキールーラ家のアブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世と同郷で、さらにナスル家と姻戚関係にあり、建国の功労者であった。また、アシキールーラ家はナスル朝の軍事を取り仕切り、マラガの太守でもあって、アブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世の実質的共同統治者の如き存在であった。", "qas": [ { "question": "アブー・アルハサン・アリーは、どの家のものだったの?", "id": "tr-608-05-000", "answers": [ { "text": "アシキールーラ家", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド1世の実質的共同統治者とされたのは、誰でしたか?", "id": "tr-608-05-001", "answers": [ { "text": "アブー・アルハサン・アリー", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アシキールーラ家とナスル家は、どの関係にあったか?", "id": "tr-608-05-002", "answers": [ { "text": "姻戚関係", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1264年、カスティーリャ王国のアンダルシーア地方(ヘレス、アルコス及びムルシアなど)では再植民運動により入植した民衆と、ムデハルの農民、手工業者との軋轢が高じてきていた。この状況からムデハルは、アルフォンソ10世の再征服運動の拡大に危機感を抱いたムハンマド1世の支援のもと反乱を起こした。これにより、ムハンマド1世はアルフォンソ10世の宗主権を離れ、マリーン朝に援軍を求めカスティーリャ王国とは戦争状態となった。", "qas": [ { "question": "ムデハルは、誰に支援を求め、反乱を起こしたの?", "id": "tr-608-06-000", "answers": [ { "text": "ムハンマド1世", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、ムハンマド1世は誰の再征服運動の拡大に危機感を抱いていましたか?", "id": "tr-608-06-001", "answers": [ { "text": "アルフォンソ10世", "answer_start": 98, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルフォンソ10世は、どの国の王であるか?", "id": "tr-608-06-002", "answers": [ { "text": "カスティーリャ王国", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カスティーリャ王国とマリーン朝のうち、ムハンマド1世がより良い関係を保っていたのは、どの国とか?", "id": "tr-608-06-003", "answers": [ { "text": "マリーン朝", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1266年、アシキールーラ家はマラガとグアディクスで反乱を起こした。この反乱の原因は、1257年ムハンマド1世が後継者にムハンマド2世を指名したことに対し共同統治者という意識のあったアシキールーラ家は不満を抱き、さらにムデハル反乱においてマリーン朝の援軍を求めたことから、軍事を統括していた地位を脅かされたと感じたこと、あるいはムハンマド1世及び2世がマーリク派法学を支持していたのに対し、神秘主義(スーフィズム)を奉じていたアシキールーラ家が対立したことが考えられている。この反乱に際し、アシキールーラ家はカスティーリャ王アルフォンソ10世に救援を求め、ムハンマド1世と対立した。これに対し、ムハンマド1世はマリーン朝に援軍を求めたものの、マリーン朝からの支援ははかばかしくなく、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に和約を結ぶこととなった。この反乱は後継者のムハンマド2世によってようやく鎮圧され、アシキールーラ家はモロッコへ逃れた。", "qas": [ { "question": "1266年に反乱を起こしたのは、どの家の者らだったの?", "id": "tr-608-07-000", "answers": [ { "text": "アシキールーラ家", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アシキールーラ家とムハンマド1世のうち、マリーン朝に援軍を要請したのは、どちらですか?", "id": "tr-608-07-001", "answers": [ { "text": "ムハンマド1世", "answer_start": 297, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アシキールーラ家の反乱を鎮圧したのは、誰か?", "id": "tr-608-07-002", "answers": [ { "text": "ムハンマド2世", "answer_start": 405, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド2世が鎮圧した反乱は、何年から始まった反乱だったか?", "id": "tr-608-07-003", "answers": [ { "text": "1266年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この間、ムハンマド1世はムデハルの反乱に乗じ、一時はカスティーリャ王国領のヘレス及びムルシアを手中にした。しかし、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に結んだ和約に基づきヘレス及びムルシアを放棄することとなった。これにより、カスティーリャ王国はナスル朝の介入を排除し、アラゴン王国の支援を受けムデハル反乱を鎮圧した。", "qas": [ { "question": "ムハンマド1世が、ムデハルの反乱に乗じて一時的に手に入れたカスティーリャ王国の領土には、ヘレスのほかに、どこがあるの?", "id": "tr-608-08-000", "answers": [ { "text": "ムルシア", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムハンマド1世とカスティーリャ王国が和約を結んだのは、誰の反乱の時だったか?", "id": "tr-608-08-001", "answers": [ { "text": "アシキールーラ家", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド1世とカスティーリャ王国が和約を結んだのは、何年でしたか?", "id": "tr-608-08-002", "answers": [ { "text": "1266年", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムデハル反乱を鎮圧するために、カスティーリャ王国は誰に応援を求めたか?", "id": "tr-608-08-003", "answers": [ { "text": "アラゴン王国", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "13世紀後半になると、ジブラルタル海峡を押さえるアルヘシラス、ジブラルタルロンダ及び海峡周りの諸都市が攻防の対象となった。ここで、マリーン朝のアンダルスへの介入が活発化し、ジブラルタル海峡をめぐりマリーン朝、カスティーリャ王国間の戦いが度々行なわれた。1275年以降マリーン朝のアブー・ユースフはカスティーリャ王国の内紛に乗じアンダルスへの介入を行なった。その子アブー・ヤアクーブも1291年に侵攻を行なったが、ナスル朝の離反により失敗し、さらに翌1292年にはタリファをカスティーリャ王国に奪われてしまった。", "qas": [ { "question": "マリーン朝とカスティーリャ王国は、どこを巡って対立したの?", "id": "tr-608-09-000", "answers": [ { "text": "ジブラルタル海峡", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジブラルタル海峡を巡ってマリーン朝とカスティーリャ王国が対立したのは、何世紀のことですか?", "id": "tr-608-09-001", "answers": [ { "text": "13世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジブラルタル海峡を巡って、マリーン朝と対立したのは、どの国か?", "id": "tr-608-09-002", "answers": [ { "text": "カスティーリャ王国", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マリーン朝がカスティーリャ王国の内紛に乗じアンダルスへの介入を行なったのは、何年以降のことか?", "id": "tr-608-09-003", "answers": [ { "text": "1275年以降", "answer_start": 126, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "14世紀に入り、マリーン朝の内紛と隣国との抗争による弱体化を受け、ナスル朝のムハンマド3世はジブラルタル海峡の制圧をもくろみセウタ攻略を図ったものの、周囲のカスティーリャ王国、アラゴン王国、マリーン朝の包囲を受け撤退した。14世紀のナスル朝での軍事力の中心は、マリーン朝の政治抗争に敗れナスル朝に逃れたベルベル系部族集団であった。これら軍事集団はその力を基にナスル朝宮廷の内紛に干渉し、その不安定をもたらす要因となった。", "qas": [ { "question": "ムハンマド3世がセウタ攻略を図ったのは、何世紀のことだったの?", "id": "tr-608-10-000", "answers": [ { "text": "14世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムハンマド3世はジブラルタル海峡の制圧のためには、どこを攻略すべきだと思いましたか?", "id": "tr-608-10-001", "answers": [ { "text": "セウタ", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムハンマド3世のセウタ攻略は、カスティーリャ王国とマリーン朝、そしてどの国の包囲により失敗に終わったか?", "id": "tr-608-10-002", "answers": [ { "text": "アラゴン王国", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "14世紀半ば、マリーン朝の内紛を収拾したアブー・アルハサン・アリーはイベリア半島へのジハードを開始した。このマリーン朝、ナスル朝連合軍がカスティーリャ、ポルトガル連合軍に対する戦闘(サラード川の戦い)で敗れ、両国間の勢力均衡が崩れた。このことは、単独でカスティーリャ王国に対抗することが困難であったナスル朝にとって、独立を危ぶませる事態であった。しかし、この時期(14世紀半ば)にヨーロッパ全域を襲ったペスト(黒死病)によりカスティーリャ王国も大打撃を被ったこと、キリスト教勢力であるカスティーリャ王国とアラゴン王国の対立、さらにカスティーリャ王国の内紛などが重なり、レコンキスタのさらなる進展に足止めがかかった。また、マリーン朝はこの後大規模な軍をアンダルスに派遣することがなくなり、ナスル朝への介入もなくなった。こうした状況下で、ナスル朝はその命脈を保つとともに、徐々に国力を発展させていった。イタリアのジェノヴァ商人などとの交易活動も、経済的繁栄の一因となった。", "qas": [ { "question": "マリーン朝の内紛を収拾したアブー・アルハサン・アリーがイベリア半島へのジハードを開始したのは、何世紀のことなの?", "id": "tr-608-11-000", "answers": [ { "text": "14世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サラード川の戦いで戦勝国となったのは、カスティーリャとどの国ですか?", "id": "tr-608-11-001", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラード川の戦いで、カスティーリャ側に立ち戦ったのは、どの国か?", "id": "tr-608-11-002", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラード川の戦いでカスティーリャ、ポルトガルと対立したのは、マリーン朝とどの王朝か?", "id": "tr-608-11-003", "answers": [ { "text": "ナスル朝", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "14世紀後半、ムハンマド5世の治世下で、ナスル朝はその最盛期を迎えた。ムハンマド5世は、マリーン朝からはアンダルスにおける拠点となっていたロンダ及びジブラルタルを獲得する一方で、カスティーリャ王国からはアルヘシラスを奪回し、エンリケ2世とは和約を結んで貢納金の支払いも停止した。これにより、マリーン朝の介入を完全に排除し、さらには内紛の続くマリーン朝への介入まで行なうようになった。またムハンマド5世は、ムハンマド1世の代から造営が行なわれていたアルハンブラ宮殿に、先代ユースフ1世に続いて大規模な改修を行ない、イスラーム美術の到達点を示す宮殿群を築いた。", "qas": [ { "question": "ナスル朝における最盛期は、誰が統治者であった時代なの?", "id": "tr-608-12-000", "answers": [ { "text": "ムハンマド5世", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロンダとジブラルタル、アルヘシラスのうち、ムハンマド5世がマリーン朝から獲得した地域ではないのは、どちらか?", "id": "tr-608-12-001", "answers": [ { "text": "アルヘシラス", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナスル朝のカスティーリャ王国への貢納金を停止させた和約は、ムハンマド5世と誰が結びましたか?", "id": "tr-608-12-002", "answers": [ { "text": "エンリケ2世", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムハンマド5世が領域を獲得したのは、マリーン朝とどの国からか?", "id": "tr-608-12-003", "answers": [ { "text": "カスティーリャ王国", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし15世紀に入ると、1410年には重要な都市アンテケーラがアラゴン王フェルナンド1世の攻撃により陥落し、またこの頃にはカスティーリャへの貢納金が復活するなど、再びナスル朝は危機を迎えた。キリスト教勢力のカスティーリャ王国とアラゴン王国が接近し始めたことで、両国の対立を外交上利用することが困難になる一方、近隣の地中海沿岸などに強力なイスラーム国家は存在せず、友好的なイスラーム勢力との外交を通じた安全保障も困難になっていた。", "qas": [ { "question": "アンテケーラがフェルナンド1世の攻撃により陥落したのは、何年のことなの?", "id": "tr-608-13-000", "answers": [ { "text": "1410年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナスル朝が15世紀に迎えた危機は、アラゴンとどの国によることでしたか?", "id": "tr-608-13-001", "answers": [ { "text": "カスティーリャ", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1410年の時点のアラゴン王国の国王は、誰だったか?", "id": "tr-608-13-002", "answers": [ { "text": "フェルナンド1世", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "北上特定地域総合開発計画", "paragraphs": [ { "context": "北上特定地域総合開発計画(きたかみとくていちいきそうごうかいはつけいかく)とは、東北地方最大の水系である北上川に対し主に治水・農地灌漑の両面から多角的に開発し、北上川流域の経済発展を目指して1950年(昭和25年)に政府によって策定された総合的な地域開発計画である。日本の河川開発においてモデルとなったTVAにならいKVA(KitakamiValleyAuthority)とも呼ばれているがこれは多目的ダムによる河川総合開発事業がこの計画の柱であったからであり、このことから日本における代表的な河川総合開発の例として「日本のTVA」とも呼ばれている。", "qas": [ { "question": "北上特定地域総合開発計画とは、何年に策定された総合的な地域開発計画でありますか?", "id": "tr-609-00-000", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北上特定地域総合開発計画の別称は、何?", "id": "tr-609-00-001", "answers": [ { "text": "「日本のTVA」", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "北上川は長さ約249キロメートル、流域面積10,150平方キロメートルと岩手県・宮城県の大部分をカバーする東北地方最大の大河である。流域には岩手県の県庁所在地である盛岡市をはじめ花巻市・北上市・奥州市・一関市、宮城県栗原市・登米市・大崎市・石巻市があり流域を潤す「母なる川」でもある。また流域は肥沃であり古くはアテルイなど蝦夷の本拠、下って奥州藤原氏の本拠として、また仙台藩伊達氏62万石あるいは盛岡藩南部氏20万石の基盤として重要な穀倉地帯でもあった。だが有史より度々洪水をもたらす河川でもあって、その対策もまた為政者にとっては重要な課題であった。洪水をもたらす最大の要因は北上川流域の地形的な要因が挙げられる。北上川本流自体は勾配が緩やかな河川であるが、支流の河川は何れも急勾配であり大雨が降れば一挙にその水は北上川沿岸の低地に押し寄せ、かつ長い間水が滞る。これに加えて一関市から登米市までの約18キロメートル区間は北上川が急激に川幅を狭くする。この狭窄部を「北上川癌狭窄部」と呼ぶが、一関市までは広大な平野となっているために狭窄部が天然ダム的な働きをしてしまうことで、岩手県内の洪水は一関市付近で一度行き場を失うという「バックウォーター現象」が起こる。このため特に一関市周辺は上流からの洪水が「貯水」されてしまい洪水になると被害は甚大なものとなっていた。こうした場合通常は狭窄部を広げる「開削工事」が行われるが狭窄部は18キロメートルもの長距離であり、限定した狭窄箇所に行うケースが大多数である開削工事では当時の技術から到底不可能な事業であった。従って北上川の治水においては如何に洪水の水量をコントロールして被害を防ぐかに焦点が当てられていた。", "qas": [ { "question": "北上川が大部分をカバーすると書いてあるのは、宮城県と何県なの?", "id": "tr-609-01-000", "answers": [ { "text": "岩手県", "answer_start": 36, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "岩手県の県庁はどこにありますか?", "id": "tr-609-01-001", "answers": [ { "text": "盛岡市", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "岩手県内で起こった洪水が一関市付近で一度行き場を失う現象のことを何と呼ぶか?", "id": "tr-609-01-002", "answers": [ { "text": "「バックウォーター現象」", "answer_start": 512, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北上川が急激に川幅を狭くする、一関市から登米市までの区間を、何と呼ぶか?", "id": "tr-609-01-003", "answers": [ { "text": "「北上川癌狭窄部」", "answer_start": 431, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "北上川は明治時代に入って本格的な河川改修工事が手掛けられた。当時河川行政を司っていた内務省は全国の主要な河川を対象に河川改修を行っていたが、北上川については1880年(明治13年)から内務省直轄による河川改修がスタートした。当初は堤防の建設や川の流路を修正する工事が行われており、1902年(明治35年)まで実施された。その後北上川の河口を付け替える計画が立ち、1911年(明治44年)から「北上川改修事業」として施工が開始された。これは従来石巻市で仙台湾に注いでいた北上川を追波湾に転流させるというものであり、追波川を大幅に改修して河道を広げ北上川本流とし、旧流路は「旧北上川」とし1922年(大正11年)には分流部に鴇波洗堰・脇谷洗堰を設けて水量を調節し、併せて水運の便を図るため脇谷閘門を設置した。これにより上流部から流れ来る洪水は追波湾へ流して一関市より上流の洪水を防ぎ、蔵王連峰や栗駒山系より流れ来る迫川(はさまがわ)・江合川(えあいがわ)の洪水は旧北上川へ流すことで石巻市など下流部の洪水を防ごうとした。この他迫川については蛇行を修正して直線化、江合川については古川市(現・大崎市)で放水路を建設し鳴瀬川へ洪水の一部を導く「新江合川」を開削。こうした河道改修によって洪水調節を行おうとした。これら一連の事業は1934年(昭和9年)に完成し、北上川下流部における治水は一応終了した。", "qas": [ { "question": "本格的に北上川の河川改修工事が行われ始めたのは、どんな時代からなの?", "id": "tr-609-02-000", "answers": [ { "text": "明治時代", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "堤防の建設と北上川改修事業のうち、より遅く開始されたのは、どちらか?", "id": "tr-609-02-001", "answers": [ { "text": "北上川改修事業", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "北上川について1880年から開始された工事は、何年に終わりましたか?", "id": "tr-609-02-002", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北上川下流の河川改修が進む一方で、岩手県内の北上川流域における洪水量を削減するための計画も進められた。この当時、秋田県出身で東京帝国大学教授・内務省土木試験所所長の職に就いていた物部長穂は日本におけるその後の河川開発に重大な影響をあたえた論文を1926年(大正15年・昭和元年)に発表した。それは個々の河川を単独で改修するのではなく、水系を基準として本流・支流の区別なく上流から下流まで一貫して開発し(水系一貫開発)、それまで多種多様な事業者が別個に実施していた治水・利水事業を統合させて総合的かつ効率的に行うという趣旨のものであった。これは河水統制計画案と呼ばれ、その根幹事業として天然の湖沼および大貯水池を有するダムの建設が洪水調節としては有利であると主張した。ここにおいて多目的ダムという概念が登場するが、物部のこうした主張はパナマ運河建設に日本人で唯一参加し、大河津分水や荒川放水路の建設・改修に携わった内務技監・青山士(あおやま・あきら)によって採用され、1937年(昭和12年)に予算が付いて正式な国家プロジェクトとして利根川など全国64河川で調査された。北上川もその中に入っており調査の結果翌1938年(昭和13年)に「北上川上流改修計画」としてまとめられた。", "qas": [ { "question": "河水統制計画案とは、誰が提唱したものであるの?", "id": "tr-609-03-000", "answers": [ { "text": "物部長穂", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "河水統制計画案を提唱した人物は、どこの出身?", "id": "tr-609-03-001", "answers": [ { "text": "秋田県", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "河水統制計画案が実際に採用され、全国の川において調査が行われたのは、何年のこと?", "id": "tr-609-03-002", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 433, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "計画の中で、今までの北上川による水害で最も洪水の被害が大きい一関市狐禅寺(こぜんじ)が計画高水流量の基準点と定められ、毎秒7,700トンの洪水を2,100トンカットし毎秒5,600トンとする治水計画が決定した。このカット分を主にダムと遊水池によって賄うこととなり、一関市に遊水地(後の一関遊水地)を計画、さらに北上川本流を始め岩手県内の主な支流である雫石川(しずくいしがわ)・猿ヶ石川(さるがいしがわ)・和賀川(わがかわ)・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水ダムを建設する計画を立てた。これが後年北上特定地域総合開発計画の根幹事業となる、いわゆる「北上川五大ダム計画」の出発点である。その第一弾として猿ヶ石川へのダム計画が進められて1941年(昭和16年)7月、国直轄ダムとしては日本で最初の例となった猿ヶ石堰堤(さるがいしえんてい)、後の田瀬ダムが高さ76.5メートルの重力式コンクリートダムとして着工されたのである。ところが着工したこの年に太平洋戦争が始まり、次第に戦況は日本に著しく不利となっていった。物資の欠乏を如何に補充するかが喫緊の問題であった政府は1944年8月に国内にある全ての人的・物的資産を戦争遂行のために総動員するための法令として「決戦非常措置要領」を発令した。これに伴い田瀬ダムの建設資材が極端に欠乏して施工の継続が困難となり、「要領」発令と同時にダム事業は中止を余儀無くされ「五大ダム計画」も一旦頓挫する形になった。", "qas": [ { "question": "北上川五大ダム計画における最初のダムは、どこに建設されましたか?", "id": "tr-609-04-000", "answers": [ { "text": "猿ヶ石川", "answer_start": 300, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北上川五大ダム計画が開始されたのは、何年からですか?", "id": "tr-609-04-001", "answers": [ { "text": "1941年", "answer_start": 316, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「決戦非常措置要領」が発令されたのは、いつですか?", "id": "tr-609-04-002", "answers": [ { "text": "1944年8月", "answer_start": 481, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "敗戦後の日本において最も懸念された問題は極端な食糧不足であった。闇市などで糊口を凌いでいた国民は次第に不満を蓄積させ、それは1946年(昭和21年)5月19日に「食糧メーデー」という形で爆発した。東京都世田谷区民約25万人が皇居へ押し寄せいわば革命前夜を思わせる光景であった。背後にある日本共産党の政治運動化に危惧を感じた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はいわゆる「赤化」を阻止するため運動の弾圧や食糧の放出を行うと同時に、全国各地で農地の新規開墾を行うことで食糧増産を図り、国民の不満を逸らそうとした。こうした政治的背景もあり1947年(昭和22年)より農林省(現・農林水産省)は大井川(静岡県)・九頭竜川(福井県)・野洲川(滋賀県)・加古川(兵庫県)の四河川で「国営農業水利事業」を展開した。農地開墾の水源を開発することでかんがい用水を供給し、食糧増産を軌道に乗せるというのが目的である。北上川水系においては内務省が「北上川五大ダム計画」を一部変更して田瀬ダムを放置したまま、胆沢川の石淵ダム(いしぶちダム)を優先的に建設させる方針を採り、1945年(昭和20年)秋より建設に着手した。これは石淵ダムの建設が、田瀬ダムに比べかんがい効果が大きいという理由による。一方農林省は紫波郡で北上川に合流する滝名川に農林省直轄ダムを建設する計画を立てた。山王海ダム(さんのうかいダム)である。", "qas": [ { "question": "1947年からの国営農業水利事業は、どこの管理下で行われたのか?", "id": "tr-609-05-000", "answers": [ { "text": "農林省", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "胆沢川の石淵ダムを優先的に建設させる方針により、建設が中止されたのは、どのダムか?", "id": "tr-609-05-001", "answers": [ { "text": "田瀬ダム", "answer_start": 430, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "石淵ダムが田瀬ダムより優先的に建設されたのは、何の効果がより大きいからか?", "id": "tr-609-05-002", "answers": [ { "text": "かんがい効果", "answer_start": 516, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "北上川本流は豊富な水量を有していながら、農業用水や飲み水としては全く使うことの出来ない河川であった。これは源流部にあり硫黄を産出する松尾鉱山から流れ出る坑内水が原因である。この水は硫酸によって強酸性を示し、利用すればイネの枯死を招くことから目の前に豊富な水がありながら流域の農民は大きなジレンマを抱えていた。止むを得ず支流の河川を使ったが農地面積に対して流域面積が狭いために十分な水量が行き渡ることは有り得なかった。寿庵による「寿庵堰」など創意工夫はされていたが根本的な解決にはならず、流域各地で水争いが頻発した。特に紫波郡では「志和の水喧嘩」と呼ばれるほど激しく、死者が出るほどの血で血を洗う凄惨なものであったと伝えられている。また、かんがい用ため池の建設に際し当時迷信が幅を利かせていたこともあり、水神を鎮めるための生贄を建設時に捧げるということもあった。胆沢郡では千貫石堤(現在の千貫石ダム。胆沢郡金ケ崎町)建設で「お石」という女性が千貫で買われ、埋められたという悲話も残っている。大正時代には稗貫郡・和賀郡でも平賀千代吉によって農業用ダム建設促進決議が採択されるなど、かんがい専用ダム建設は地元の悲願でもあった。", "qas": [ { "question": "北上川本流は農業用水や飲み水としては全く使うことの出来ない河川であったが、それは何を多く含んでいるからですか?", "id": "tr-609-06-000", "answers": [ { "text": "硫酸", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "どこから流れ出された坑内水により、北上川本流には硫酸が多く含まれているか?", "id": "tr-609-06-001", "answers": [ { "text": "松尾鉱山", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大正時代に稗貫郡と和賀郡で農業用ダム建設促進決議が採択されたのは、誰によることなの?", "id": "tr-609-06-002", "answers": [ { "text": "平賀千代吉", "answer_start": 459, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "農林省は滝名川に当時「東洋一」の規模を有する山王海ダムを1953年(昭和28年)に完成させ、長きにわたって懸案であった紫波郡へのかんがい用水供給が図られ水喧嘩はこれにより撲滅された。また石淵ダムも同年に完成し、胆沢扇状地は肥沃な農地として生まれ変わり「胆沢平野小唄」にも伸びる胆沢の底力と地域住民にも称えられた。こうしたかんがい整備とダムの効用は、治水重視であった「北上川上流改修計画」を転換させる一つのポイントにもなった。", "qas": [ { "question": "石淵ダムと同年に完成したのは、どのダムなの?", "id": "tr-609-07-000", "answers": [ { "text": "山王海ダム", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "こうした側面もあって「北上川上流改修計画」はかんがい重視の方向に事業が進められた。ところが北上川流域は今までの河川改修がご破算となるほどの大洪水を、しかも連続して被る非常事態となった。1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と1948年(昭和23年)9月のアイオン台風という、二つの雨台風である。カスリーン台風は1947年9月15日に房総半島をかすめ利根川を決壊させ首都・東京を水没させたことで有名であるが、北上川流域では台風によって秋雨前線が刺激されて各地に大雨をもたらし、北は盛岡市から南は石巻市に至る北上川沿岸で堤防決壊による浸水被害が多発した。1948年9月16日房総半島に上陸したアイオン台風ではカスリーン台風ほどの浸水被害はもたらさなかったものの、一関市で二日間に403.2ミリという猛烈な豪雨を観測した。狭窄部、また流木によって多数の橋が堰き止められて市内に流木が乱入、結果台風全体の死傷者の三分の一を占める473人の死者・行方不明者を出す大災害となった。この時の浸水位は市内のあちこちに記録として残されているが、概ね一階は完全に水没するほどの水位であった。", "qas": [ { "question": "カスリーン台風とアイオン台風のうち、より早く発生したのは、どちらですか?", "id": "tr-609-08-000", "answers": [ { "text": "カスリーン台風", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カスリーン台風とアイオン台風のうち、房総半島に到達した時期がより早いのは、どちらか?", "id": "tr-609-08-001", "answers": [ { "text": "カスリーン台風", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カスリーン台風とアイオン台風のうち、より大きい浸水被害をもたらしたのは、どちらか?", "id": "tr-609-08-002", "answers": [ { "text": "カスリーン台風", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうした大災害は戦中の森林乱伐に加え戦争による治水工事の中断、カスリーン台風の復旧作業がままならぬうちにアイオン台風が襲来したという要因、そして何よりも「北上川上流改修計画」で定めた計画高水流量を毎秒約2,000トンも上回る洪水が襲ったことが一関市を始めとする北上川流域に致命的な被害を与えた。この当時は同様の要因で全国の河川は大洪水をもたらしており、水害による国土荒廃が戦後経済復興の最大阻害要因になると危機感を抱いた経済安定本部は、諮問機関である治水調査会に命じて抜本的な河川改修案を作成するように命じた。治水調査会は1949年(昭和24年)、経済安定本部に河川改修案をまとめて答申した。これは「河川改訂改修計画案」と呼ばれ、北上川を始め信濃川・最上川・利根川など全国12水系を対象として総合的な治水整備を実施する内容であった。特に北上川、江合川・鳴瀬川、利根川、木曽川、淀川、吉野川、筑後川の六水系七河川については「河水統制事業」に沿った形で本流及び主要な支流に多目的ダムを数多く建設して、洪水調節を実施するという内容のものであった。これにより「改修計画」は大幅に変更され、北上川の計画高水流量はアイオン台風の洪水を基準とした毎秒9,000トンに改められ差分をダムや遊水地、堤防建設などで賄うとした。これが「北上川上流改訂改修計画」であり、中断していた「北上川五大ダム」の一つである田瀬ダムの建設が再開され、残り三ダムについても早急な調査と着工を求められた。また、現在の一関第二・第三遊水地の原型でもある「舞川遊水地計画」も計画された。", "qas": [ { "question": "「河川改訂改修計画案」は、どこから出されたの?", "id": "tr-609-09-000", "answers": [ { "text": "治水調査会", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北上川を始め信濃川・最上川・利根川など全国12水系を対象として総合的な治水整備を実施する計画を出したのは、誰ですか?", "id": "tr-609-09-001", "answers": [ { "text": "治水調査会", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中断していた田瀬ダムの建設が再開されたのは、どの計画の実施によることか?", "id": "tr-609-09-002", "answers": [ { "text": "「北上川上流改訂改修計画」", "answer_start": 556, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「河川改訂改修計画案」とは、いつ出されたものか?", "id": "tr-609-09-003", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 261, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "こうして新たな治水計画である「北上川上流改訂改修計画」が定められたが、北上川下流の迫川や江合川は宮城県によって独自に河川開発が進められており、上流との整合性が求められた。また先述した食糧不足解消のためのかんがい整備による農地開墾、さらに戦時中の電力施設空襲による打ち続く電力不足の解消を図るための水力発電開発が必要となり、これらを効率的に組み合わせて地域経済の発展を加速化させるには、物部長穂が提唱した「水系一貫開発」が合理的であるとの考えが政府や経済安定本部、建設省(河川事業管掌。現・国土交通省)、農林省(かんがい事業管掌)、商工省(電力事業管掌。現・経済産業省)で支配的となった。背景にあるのはアメリカ合衆国大統領・フランクリン・ルーズベルトが推進したニューディール政策の根幹、TVAの成功である。世界恐慌以後不況が深刻だったアメリカの経済を短期間で回復させ、太平洋戦争勝利の原動力となったTVAが日本復興の鍵であると彼らは見ていた。総司令部民政局官僚の多くがニューディール政策の信奉者(ニューディーラー)であったことも影響している。", "qas": [ { "question": "アメリカが世界恐慌を乗り越えるためにとった政策とは、何?", "id": "tr-609-10-000", "answers": [ { "text": "ニューディール政策", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカのニューディール政策の根幹であり、太平洋戦争勝利の原動力ともなるのは、何ですか?", "id": "tr-609-10-001", "answers": [ { "text": "TVA", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "政府や経済安定本部などで物部長穂が提唱した「水系一貫開発」が合理的であるとの考えが支配的であった背景には、アメリカでの何の成功があるか?", "id": "tr-609-10-002", "answers": [ { "text": "TVA", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1950年(昭和25年)第2次吉田内閣は「国土総合開発法案」の制定を閣議決定し、国会にて可決・成立させ国土総合開発法が成立した。「国土を総合的に利用し、開発し、及び促進し、並びに産業立地の適正化を図る」(第一条)を最終目的としている。この中で第二条第一項では「水その他の天然資源の利用に関する事項」を、さらに第二項では「水害、風害その他の災害の防除に関する事項」を定めた。これは河川開発を念頭に置いたものであり、第十条第一項における「地域指定の理由」の中で選定された地域は、そのほとんどが日本における重要な水系と一致した地域開発となっている。従って国土総合開発法では、より強力な河川開発を推進することが産業育成の要であると考えられた。同法の施行後北海道を除く全国から多くの地域が指定地域に名乗りを挙げたが、最終的に二十二箇所の地域が対象地域として選定され(対象地域については一覧表を参照)、ここに特定地域総合開発計画が決定した。東北地方では岩木川・十和田湖を中心とした「岩木川・十和田特定地域総合開発計画」(青森県)、米代川・雄物川を中心とした「阿仁・田沢特定地域総合開発計画」(秋田県)、名取川を中心とした「仙塩特定地域総合開発計画」(宮城県)、最上川を中心とした「最上特定地域総合開発計画」(山形県)、只見川を中心とした「只見特定地域総合開発計画」(福島県・新潟県)ほか一地域が指定された。北上川については岩手県・宮城県の複数県にまたがり、北上川水系のみならず隣接する鳴瀬川水系を含めた形で「北上特定地域総合開発計画」が定められた。ここにおいて、治水と農地かんがい、そして水力発電を目的とした大規模な河川総合開発事業がスタートしたのである。", "qas": [ { "question": "国土総合開発法が成立した当時の日本の総理大臣は、誰なの?", "id": "tr-609-11-000", "answers": [ { "text": "吉田", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "岩木川・十和田湖を中心とした特定地域総合開発計画は、何と呼びますか?", "id": "tr-609-11-001", "answers": [ { "text": "「岩木川・十和田特定地域総合開発計画」", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "吉田総理大臣が国土を総合的に利用し、開発し、及び促進し、並びに産業立地の適正化を図ることを最終目的とする法案の制定を決定したのは、何年のことか?", "id": "tr-609-11-002", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "国土総合開発法の対象地域選定から外されたのは、どの地域か?", "id": "tr-609-11-003", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 323, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1981年の御所ダム完成により「北上川五大ダム計画」は完了、これらダム群に加え一関遊水地や南谷地遊水地といった遊水池群、堤防を通常よりも大規模する「高規格化」など総合的な運用が図られることでアイオン台風以後多数の死者・行方不明者を出す水害は北上川流域では発生していない。また、水不足に悩まされた北上川沿岸農地が肥沃な土地に生まれ変わることでこの地域は全国有数の穀倉地帯に変貌、ササニシキを始め日本の食糧事情を支えている。こうした観点で「北上特定地域総合開発計画」は本来の目的を果たした。だが、長期間の事業遂行の中で幾つかの問題点も表面化している。", "qas": [ { "question": "アイオン台風以後、北上川流域で多数の死者・行方不明者を出す水害が発生しなくなったのは、どんな計画の実施により御所ダムが建設されたからなの?", "id": "tr-609-12-000", "answers": [ { "text": "「北上川五大ダム計画」", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ダムを建設することで、そこに住む住民は移転を余儀無くされる。これは避けえないことだが北上川水系の場合は特に補償問題が大規模な例が見られた。田瀬ダムでは一旦移転した住民に対し、事業中止中に農地開墾のために帰村を認めたことから二度にわたる補償交渉が行われた。この「再補償」は田瀬ダムでしか見られなかった特色ある事柄であった。湯田ダムでは水没世帯数が622世帯と、多摩川の小河内ダム(奥多摩湖)における945世帯に次ぐ日本第二位の水没世帯数であった。このため全国的にも注目された補償交渉となり、最終的には1956年(昭和31年)「湯田ダム水没者更生大綱」を発表してインフラ完全整備の代替地を整備して交渉は妥結した。また国道107号や国鉄北上線の大規模付け替えといった公共補償も行われ、後のダム補償の先駆となった。御所ダムでは湯田ダムに次ぐ522世帯が水没対象となったが、盛岡市街に近く大規模住宅地が水没することで反対運動は激しく、1973年(昭和48年)に施行された水源地域対策特別措置法(水特法)による補償基準を厚くすることで最終的には妥結したものの、結果五大ダムで最も完成が遅くなった。水特法については胆沢ダム・長沼ダムも対象となっている。宮城県の花山ダムでは交渉中に当局がダム建設の前段階に着手、これにより当初融和的であった住民がダムに強硬に反対する事態となった。一関遊水地では450戸が移転対象となるため反対運動が強く、これも長期にわたる補償交渉が行われた。", "qas": [ { "question": "唯一に二度にわたる住民との補償交渉が行われたダムは、どこですか?", "id": "tr-609-13-000", "answers": [ { "text": "田瀬ダム", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本における最大水没世帯数を記録したのは、どのダムの建設なの?", "id": "tr-609-13-001", "answers": [ { "text": "小河内ダム", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本で水没世帯数の3位を記録したのは、どのダムの建設なの?", "id": "tr-609-13-002", "answers": [ { "text": "御所ダム", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "北上川五大ダムのうち、最も遅く建設されたのは、どのダムですか?", "id": "tr-609-13-003", "answers": [ { "text": "御所ダム", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "だが、このダム建設により新たな観光地が誕生したことも事実である。御所ダムでは周辺整備に力を入れ湖畔に繋温泉郷を整備、周辺にある小岩井農場やスキー場などの観光地と連携し人造湖である御所湖の公園整備やダム湖の一般開放を行った。この結果国土交通省が管理するダム湖としては最も年間利用者数が多い観光地に成長した。田瀬ダムではダム湖(田瀬湖)をボート競技の漕艇場としてヨットハーバーを整備、インターハイの会場となったのを始め市民やカヌー選手が多く利用している。長沼ダムではそれ自体がダムの目的になった。湯田ダムでは人造湖である錦秋湖を利用し花火大会やマラソン大会を実施、さらにダムの中を歩くことが出来る湯田貯砂ダムを建設。駅の中に温泉があるほっとゆだ駅など温泉街とのコラボレーションを進めた。これらは1994年(平成6年)から建設省が進めた「地域に開かれたダム事業」の一環であり、水源地域の活性化を目指すものであった。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが認定するダム湖百選に、御所湖・田瀬湖・錦秋湖は選ばれている。だが、北上川の治水・利水が達成されたその陰で、多くの住民が住みなれた故郷を離れたという苦渋の決断をしたという事実を、受益者が忘れないということも必要である。", "qas": [ { "question": "国土交通省が管理するダム湖のうち、最も年間利用者数が多いのは、どのダムのダム湖であるか?", "id": "tr-609-14-000", "answers": [ { "text": "御所ダム", "answer_start": 32, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田瀬ダムと湯田ダム、長沼ダムのうち、スポーツ大会に利用されないのは、どちらか?", "id": "tr-609-14-001", "answers": [ { "text": "長沼ダム", "answer_start": 225, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2005年に財団法人ダム水源地環境整備センターが認定するダム湖百選に選ばれた、北上川にあるダム湖は、御所湖と田瀬湖のほかに、どこか?", "id": "tr-609-14-002", "answers": [ { "text": "錦秋湖", "answer_start": 455, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、この計画が始まったのは1938年と戦前のことであり、特に初期に建設されたダムでは施設設備の老朽化が問題となった。また近年の水需要の変化や1997年(平成9年)の河川法改正で「河川の環境維持」が治水・利水と並ぶ河川行政の三大目的になり、河川維持放流の義務化が全てのダムに課せられた中で、施設改良を行わなければ時代の流れについて行けなくなるダムも現れた。このため、ダム再開発事業によるリニューアルが幾つかのダムで図られた。その最たるものが石淵ダムである。完成から50年以上経過したダムは様々な部分で改修の必要性に迫られた。治水機能ではかんがい優先で建設された関係上放流が多く、最盛期には年間300回も放流した年もあった。またダムの遮水壁はコンクリートであるが、壁の沈下などが起こり易く補修を度々実施しなければならなかった。このため1970年代にかさ上げ計画が生まれたが、最終的に下流2キロメートルに新たなダムを建設して石淵ダムの能力をパワーアップさせる方針とした。これが胆沢ダムであり、2013年(平成25年)に高さ132.0メートルという北上川最大のダムとして誕生するが完成に伴い、日本のダムの歴史に残る石淵ダムは完全に水没する。このほか田瀬ダムでは1994年から1998年(平成10年)まで老朽化したダムの常用洪水吐きを閉鎖して新たな洪水吐きを建設する「施設改良事業」を、花山ダムでは細倉鉱山の閉山に伴って余剰となった用水を洪水調節容量増加と栗原市の上水道用水に転用する「花山ダム再開発事業」を行い、ダムの維持・改良を実施している。", "qas": [ { "question": "石淵ダムの下流2キロメートルに建設されたダムは、何?", "id": "tr-609-15-000", "answers": [ { "text": "胆沢ダム", "answer_start": 436, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2013年の時点での北上川における最大のダムは、何ですか?", "id": "tr-609-15-001", "answers": [ { "text": "胆沢ダム", "answer_start": 436, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "胆沢ダムの完成に伴い、水没したダムは、どれか?", "id": "tr-609-15-002", "answers": [ { "text": "石淵ダム", "answer_start": 504, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ダムの維持・改良のための開発事業には、再開発事業とどのような事業が含まれるか?", "id": "tr-609-15-003", "answers": [ { "text": "改良事業", "answer_start": 582, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1996年(平成8年)、第2次橋本内閣の建設大臣・亀井静香による細川内ダム建設中止以降、全国各地に拡大した公共事業見直しの波は小泉純一郎首相による「骨太の方針」で全国100基以上の建設・計画中のダムが中止・休止・凍結された。北上川流域ではほとんどの事業が完成または本体建設中であったが、和賀川支流の北本内川に建設予定であった「北本内ダム建設事業」は受益地が上水道事業から撤退したことで事業が完全に中止された。現在盛岡市に建設予定の簗川ダム(簗川)について、ダム建設の是非を巡って激しい論争が続いている。また、鳴瀬川水系では筒砂子ダム(筒砂子川)が当時の浅野史郎宮城県知事によって建設中止がなされた。", "qas": [ { "question": "1996年に日本の総理大臣に務めていたのは、誰か?", "id": "tr-609-16-000", "answers": [ { "text": "橋本", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "筒砂子ダムは、誰により建設が中止されたか?", "id": "tr-609-16-001", "answers": [ { "text": "浅野史郎", "answer_start": 276, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "郭泰源", "paragraphs": [ { "context": "郭泰源は台南市の農家で兄、姉それぞれ3人ずつの7人兄弟の末っ子として生まれる。小学校5年生の時に野球を始め、クラブが全寮制だったため親元を離れた。野球を始めた当初はショートを守っていたが、台南長栄中から長栄高等中学に進み、2年生の時に監督から強肩を見込まれて投手に転向した。また、この頃初めて郭を見に来たプロのスカウトが西武ライオンズの人間だったという。ただし、郭は兄の義煌が台湾のノンプロでショートからピッチャーに転向して肩を壊して苦しんでいたところを見ていたことから投手に転向することを勧められた時は断固として拒絶していた。高校卒業後は合作銀行に入り、1982年には中華民国陸軍野球部に入隊した。同年の第27回IBAFワールドカップでチャイニーズタイペイ代表として活躍し、各国のスカウトの注目を集める。", "qas": [ { "question": "郭泰源には何人の姉がいますか。", "id": "tr-610-00-000", "answers": [ { "text": "3人", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "郭泰源はいつ中華民国陸軍野球部に入隊したの?", "id": "tr-610-00-001", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 278, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "木曽川電力", "paragraphs": [ { "context": "木曽川電力株式会社(きそがわでんりょくかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。\n中部電力パワーグリッド管内にかつて存在した事業者の一つ。\n1916年(大正5年)に株式会社電気製鋼所(でんきせいこうしょ)の名で設立した。\n社名の通り当初は製鋼事業が本業で、電気事業は1919年(大正8年)に追加された付帯事業であったが、1922年(大正11年)に製鋼事業を手放して木曽川電力へ改称した。\n電気事業者としての事業地は長野県木曽地域である。\n1942年(昭和17年)に中部電力の前身中部配電へ統合された。\n製鋼事業者としての電気製鋼所は、その後の再編を経て成立した大同特殊鋼の前身にあたる。\n同社は1950年(昭和25年)設立であるが電気製鋼所の設立日を「創業」の日としている。", "qas": [ { "question": "木曽川電力の設立当初の会社名は何でしたか?", "id": "tr-611-00-000", "answers": [ { "text": "株式会社電気製鋼所", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木曽川電力の設立当初の本業は何だったの?", "id": "tr-611-00-001", "answers": [ { "text": "製鋼事業", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木曽川電力が電気事業を行った県はどこですか?", "id": "tr-611-00-002", "answers": [ { "text": "長野県", "answer_start": 225, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木曽川電力が設立した年と大同特殊鋼が創業した年は共に何年ですか?", "id": "tr-611-00-003", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "明治後期から大正にかけて、愛知県名古屋市には名古屋電灯という電力会社が存在した(後の東邦電力)。\n同社は元々旧尾張藩士族の会社であったが、明治末期より東京の実業家福澤桃介が株式を大量に買収して進出し、1913年(大正2年)から常務、翌年からは社長として1921年(大正10年)までその経営にあたっていた。", "qas": [ { "question": "1914年から名古屋電灯の社長を務めた人は誰ですか?", "id": "tr-611-01-000", "answers": [ { "text": "福澤桃介", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "名古屋電灯は、その後何という電力会社になりましたか?", "id": "tr-611-01-001", "answers": [ { "text": "東邦電力", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "名古屋電灯では明治末期に大規模水力開発を展開し、1910年(明治43年)に長良川にて出力4200キロワットの長良川発電所を、翌1911年(明治44年)には木曽川にて出力7500キロワットの八百津発電所をそれぞれ完成させた(双方とも岐阜県所在)。\n名古屋電灯では開業以来、需要に対して供給力の方が小さいという状態が続いていたが、この2つの大規模発電所の建設によって供給力に余剰が生じ、しばらく工場や電気鉄道といった大口需要の開拓に追われることとなった。\nこうした中、第一次世界大戦勃発直後の1914年(大正3年)10月、前年から名古屋電灯顧問を務め欧米視察から帰国したばかりの寒川恒貞に対し、福澤は余剰電力5,000キロワットの利用方法の研究を依頼した。\nこれに対し寒川が将来性のある事業として電気による製鉄・製鋼事業を進言したことからただちに社内で同事業の企画が始まった。", "qas": [ { "question": "八百津発電所と長良川発電所はどちらが出力が小さいですか?", "id": "tr-611-02-000", "answers": [ { "text": "長良川発電所", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "八百津発電所と長良川発電所はどちらが遅く完成しましたか?", "id": "tr-611-02-001", "answers": [ { "text": "八百津発電所", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "余剰電力をどう利用したらいいのか、その研究依頼を受けた人は誰ですか?", "id": "tr-611-02-002", "answers": [ { "text": "寒川恒貞", "answer_start": 287, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "寒川に研究依頼した余剰電力はどれくらいありましたか?", "id": "tr-611-02-003", "answers": [ { "text": "5,000キロワット", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "事業化に関する試験費は5万円が支出され、試験場として竣工したばかりの熱田火力発電所(名古屋市熱田東町字丸山)の発電室の一角が割り当てられた。\nまず1915年(大正4年)2月、合金炉を製作してフェロアロイ(合金鉄)の試作に着手。\n試作の成功を機に同年10月社内に「製鋼部」を設置し、続いて1916年(大正5年)2月より600キロワット合金炉を製作しフェロシリコンの製造試験を始めた。\n3月にはエルー式アーク炉も完成し炭素鋼の試作を始め、これに成功すると続いて工具鋼の試作を行った。\n一連の試験で事業化の目処がついたため、発電所敷地にて工場建設に着手するとともに製鋼部の分社化準備を進めた。", "qas": [ { "question": "フェロアロイの試作成功後、何の製造試験を開始しましたか?", "id": "tr-611-03-000", "answers": [ { "text": "フェロシリコン", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "炭素鋼の試作が成功したのは何年の3月ですか?", "id": "tr-611-03-001", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フェロアロイの試作を1番目とすると、4番目に試作されたものとは何ですか?", "id": "tr-611-03-002", "answers": [ { "text": "工具鋼", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1916年8月19日、製鋼部は名古屋電灯から独立し「株式会社電気製鋼所」が発足した。\n資本金は50万円(うち20万円払込)で、全1万株のうち半分を名古屋電灯が引き受け残りを関係者で引き受けた。\n初代社長には当時名古屋電灯常務の下出民義が就き、企画者の寒川恒貞は常務として経営の中心となった。\n本社は事業地ではなく東京市麹町区(現・東京都千代田区)に構えた。", "qas": [ { "question": "「株式会社電気製鋼所」の資本金はいくらだったの?", "id": "tr-611-04-000", "answers": [ { "text": "50万円", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「株式会社電気製鋼所」の本社はどこに位置していたの?", "id": "tr-611-04-001", "answers": [ { "text": "東京市麹町区", "answer_start": 156, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "会社設立と同時に工場の操業を開始し、試作を続けてきたフェロクロム・フェロタングステンの製造を開始し、続いてフェロシリコン・フェロマンガンの製造も始めた。\nこれらのフェロアロイは陸海軍の工廠や日本製鋼所・八幡製鉄所へ出荷したほかアメリカ・オーストラリア方面へ盛んに輸出した。\n1916年10月末の第1期決算までの2か月あまりで約3万円の売上げを計上し年率1割の配当を行う好成績を挙げ、翌年4月末の第2期決算では売上げ・利益金ともに倍増し1割配当を継続できた。\nフェロアロイに加え、製鋼部時代からの目標であった工具鋼生産は1917年(大正6年)夏ごろより良質な製品ができて陸海軍工廠などへの納入が始まり、前後して鋳鋼やばね鋼・クロム鋼などの生産も始まった。\n同年9月、事業が軌道に乗ったとして下出が社長から退き、相談役の福澤桃介が2代目社長となっている。", "qas": [ { "question": "福澤桃介が2代目社長として就任したのは何年?", "id": "tr-611-05-000", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 259, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フェロシリコン・フェロマンガンの製造以前に、製造していた合金類は何ですか?", "id": "tr-611-05-001", "answers": [ { "text": "フェロクロム・フェロタングステン", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "好業績は設立翌年以降も持続しており、配当率は1917年10月末の第3期決算から翌年10月末の第5期決算まで普通配当年率1割に特別配当年率2割が加算された。\n特に大戦景気による鉄鋼業の活況を背景にフェロアロイの需要が旺盛で、熱田工場では生産しきれなくなったためフェロアロイ専門工場の新設を決定、1918年(大正7年)10月一挙に5倍の増資を行い資本金を250万円とした。\n新工場は長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町)に建設され、1919年(大正8年)2月に操業を開始した。", "qas": [ { "question": "新しいフェロアロイ専門工場の建設地はどこですか?", "id": "tr-611-06-000", "answers": [ { "text": "長野県西筑摩郡福島町", "answer_start": 189, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第3期決算から第5期決算までの間に加算された特別配当年率は何割でしたか?", "id": "tr-611-06-001", "answers": [ { "text": "2割", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "電気製鋼所の好業績を受けて1917年6月、名古屋電灯は社内に「製鉄部」を設置して電気で銑鉄を製造するという電気製鉄(電気製銑)の研究を開始。\n工場を名古屋市東築地に建設し、電気製鋼所の場合と同様に工場操業開始とあわせて分社化して1918年9月木曽電気製鉄(後の大同電力)を設立した。\nしかしながら電気製鉄は事業として軌道に乗るに至らずにまもなく終了しており、製鉄事業は木曽川などで水利権を得るための看板に過ぎないとも言われる。\nその後同社は生産品を鋳鋼に切り替え1920年(大正9年)7月より製造を始めた。", "qas": [ { "question": "名古屋電灯から独立発足して出来た製鉄会社は何ですか?", "id": "tr-611-07-000", "answers": [ { "text": "木曽電気製鉄", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "木曽電気製鉄は、電気製鉄から何の生産品にシフトしましたか?", "id": "tr-611-07-001", "answers": [ { "text": "鋳鋼", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "親会社の名古屋電灯が木曽川開発を計画し水利権獲得にあたっていたころ、福島町周辺の水利権のうち地元の川合勘助・小野秀一らが出願していた新開村地区の水利権を取得する際、これを譲り受ける代償として地元で工業を興すよう求められた。\nこの要求を受けて電気製鋼所によって工場建設と水力開発を併せて進めるという構想が立てられ、まず1917年12月27日、電気製鋼所は電気事業経営を定款に加えた。\n発電所建設は新開村(第一発電所)と福島町神戸地区(第二発電所)の2か所で進められ、第一発電所は出力1200キロワットで1919年1月31日に竣工、第二発電所は出力1800キロワットで1920年6月16日に竣工した。\n第一発電所は木曽福島工場の稼働とともに送電を開始し、続く第二発電所の稼働によって工場設備が増設された。", "qas": [ { "question": "第一発電所と第二発電所のうち、出力が大きいのはどちらですか?", "id": "tr-611-08-000", "answers": [ { "text": "第二発電所", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第一発電所と第二発電所は、どちらが早く工事が完成しましたか?", "id": "tr-611-08-001", "answers": [ { "text": "第一発電所", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第一発電所と第二発電所は、どちらが早く稼働を開始しましたか?", "id": "tr-611-08-002", "answers": [ { "text": "第一発電所", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "福島町新開村地区と福島町神戸地区に建設された各発電所のうち、出力が大きいのはどちらの地区ですか?", "id": "tr-611-08-003", "answers": [ { "text": "福島町神戸地区", "answer_start": 208, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "その間の1919年9月26日、電気製鋼所は福島町の小規模電気事業者である福島電気株式会社の合併を決定した(12月24日合併登記)。\n同社は福島町で酒造業を営む川合勘助・小野広助らによって設立。\n資本金5000円という規模ながら木曽地域で最初の電気事業者であった。\n発電所については設計・工事を中部地方で多くの発電所建設に携わった技師大岡正に委嘱して木曽川支流の黒川に建設し(杭ノ原発電所・出力50キロワット)、配電工事の竣工を待って1908年(明治41年)5月に開業した。", "qas": [ { "question": "福島電気株式会社が設立した発電所は何ですか?", "id": "tr-611-09-000", "answers": [ { "text": "杭ノ原発電所", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "福島電気株式会社の資本金はいくらでしたか?", "id": "tr-611-09-001", "answers": [ { "text": "5000円", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "川合勘助・小野広助らが設立した電気事業会社は何ですか?", "id": "tr-611-09-002", "answers": [ { "text": "福島電気株式会社", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "開業時、福島電気の供給区域は福島町内と発電所のある新開村杭の原集落であり、電灯数は610灯であった。\nその後事業は順次拡大し、1912年(明治45年)には資本金を5万円へ増資し、駒ヶ根村(現・上松町)への供給も始めている。\nさらに1917年6月、福島電気は鳥居電力と合併した。\nこの鳥居電力株式会社は、1912年9月17日、木祖村と楢川村(現・塩尻市)の有志によって木祖村薮原に資本金2万円にて設立した。\n中央本線鳥居トンネルの掘削工事用に奈良井(楢川村)側に設けられていた水力発電所を当時の鉄道院から買収し、翌1913年5月に開業した。\n合併前の時点で供給区域は木祖・楢川両村であり、また福島電気の供給区域は福島町と新開村・駒ヶ根村・日義村(現・木曽町)であった。\n電気製鋼所が上記福島電気を合併した時点で、同社の資本金は6万4000円であり、合併に伴って電気製鋼所は28万8000円を増資し資本金を278万8000円としている。\nまた合併により福島電気の電灯・電力供給事業を引き継ぎ、福島町に木曽福島電灯営業所を開設した。", "qas": [ { "question": "1912年においての福島電気株式会社と鳥居電力株式会社の資本金は、どちらが金額が小さいですか?", "id": "tr-611-10-000", "answers": [ { "text": "鳥居電力株式会社", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "福島電気の供給区域に駒ヶ根村が加わったのは何年ですか?", "id": "tr-611-10-001", "answers": [ { "text": "1912年", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鳥居電力株式会社の開業はいつでしたか?", "id": "tr-611-10-002", "answers": [ { "text": "1913年5月", "answer_start": 256, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "合併時における電気製鋼所と福島電気の資本金は、どちらが高額でしたか?", "id": "tr-611-10-003", "answers": [ { "text": "電気製鋼所", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "大戦中は好業績を挙げていた電気製鋼所であったが、大戦終結後、特に1920年3月の戦後恐慌発生以降はフェロアロイ部門が極度の不振に陥り、市況の悪化とともに工場に在庫が累積していった。\n従って専門工場の木曽福島工場は操短を余儀なくされ、1922年(大正11年)6月20日には、熱田工場への生産集約に伴って一時閉鎖措置が採られた。\n余剰電力については大同電力へ売電することとなった。\n戦後恐慌に加えて戦後の軍縮による軍需縮小も会社の先行きに関する懸念事項として浮上した。\nこのためワシントン海軍軍縮条約締結を機に電気製鋼所と大同電力の鋳鋼部門が独立した大同製鋼(初代、社長は電気製鋼所と同じく福澤桃介)の統合構想が持ち上がり、1922年7月1日に両社の間で統合契約が成立した。\n統合方法は合併によらず電気製鋼所の製鋼事業のみを大同製鋼へ移管するというもので、電気製鋼所は熱田・木曽福島両工場と関連会社の株式、あわせて150万円を大同製鋼へ現物出資し、その対価と優先株への応募(10万円分)によって大同製鋼の株式を取得することとなった。\n7月26日に株主総会にて上記契約が承認され、現物出資の登記が完了した9月15日付で電気製鋼所は「木曽川電力株式会社」へ改称した。\nこの操作によって木曽川電力は、経営陣そのままに旧電気製鋼所の第一・第二発電所と旧福島電気の電灯・電力供給事業を持つ電気事業者として新発足した。\nまた初代大同製鋼改め大同電気製鋼所(後の2代目大同製鋼、現・大同特殊鋼)の株式3万2000株を持つ大株主にもなった。", "qas": [ { "question": "木曽福島工場の余剰電力はどこに売電されましたか?", "id": "tr-611-11-000", "answers": [ { "text": "大同電力", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大同製鋼の統合構想が持ち上がったきっかけは何でしたか?", "id": "tr-611-11-001", "answers": [ { "text": "ワシントン海軍軍縮条約締結", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "木曽川電力は大同電気製鋼所の株式をいくら持つことになりましたか?", "id": "tr-611-11-002", "answers": [ { "text": "3万2000株", "answer_start": 641, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大同製鋼も電気製鋼所も初代社長は同一人物の誰でしたか?", "id": "tr-611-11-003", "answers": [ { "text": "福澤桃介", "answer_start": 293, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1928年(昭和3年)9月、木曽川電力は西筑摩郡開田村(現・木曽町)の全域を供給区域に追加した。\nさらに翌1929年(昭和14年)11月には、黒川水力電気株式会社(資本金2万5000円)より事業を譲り受けた。\n黒川水力電気は木曽川電力の供給区域から外れていた新開村黒川集落に対し、小水力発電により供給していた事業者で、田中兼松の事業として1920年(大正9年)3月に開業し、1925年(大正14年)2月より会社経営となっていた。\n木曽川電力は開田村への供給に際し配電線が途中黒川集落を通過することから買収に及んだ。\nこのように木曽川電力の事業は拡大はしたが、大同電気製鋼所が不況のため無配を継続したことから配当収入がなく経営は不振であった。\nなお1928年11月に福澤桃介に代わって寒川恒貞が第3代社長に就任し、1931年(昭和6年)7月には電気製鋼所時代に一時支配人を務めていた下出義雄が第4代社長となっている。", "qas": [ { "question": "木曽川電力の4代目社長に誰が就任しましたか?", "id": "tr-611-12-000", "answers": [ { "text": "下出義雄", "answer_start": 390, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木曽川電力が買収した水力電気会社とはどこですか?", "id": "tr-611-12-001", "answers": [ { "text": "黒川水力電気株式会社", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1931年の満州事変勃発以後、軍需拡大で大同電気製鋼所の経営が改善したため木曽川電力の経営も好転した。\n1935年5月、上松町全域に供給区域を拡大した。\nさらに同年9月には、奈川電灯株式会社(資本金5万円)より事業を譲り受けた。\n奈川電灯は西筑摩郡奈川村(後の南安曇郡奈川村、現・松本市)にて村の有志によって1922年6月25日に設立され、村内の黒川に小水力発電所を設けて翌1923年(大正12年)2月1日に開業した小事業者である。", "qas": [ { "question": "何が起こったおかげで大同電気製鋼所の経営が良くなりましたか?", "id": "tr-611-13-000", "answers": [ { "text": "満州事変", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "木曽川電力が上松町全域も供給区域として手を広げたのはいつですか?", "id": "tr-611-13-001", "answers": [ { "text": "1935年5月", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1930年代後半には新規の水力開発も再開され、1937年(昭和12年)に日義発電所、翌1938年(昭和13年)には城山発電所が相次いで完成した。\n一方で1936年(昭和11年)に、大同電力寝覚発電所建設に伴い第二発電所(神戸発電所)を同社へと譲渡している。\nこうして事業の拡大を進めたが、日中戦争勃発後の電力国家管理強化の流れの中で、太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)8月5日、配電統制令に基づく中部配電(中部電力の前身)への電気供給事業設備出資命令が下った。\n出資すべきとされた事業設備の範囲は、杭ノ原・新開・日義・城山・黒川の5発電所と送電線3路線、変電所1か所、それに中部配電の配電区域内にある配電設備・需要者屋内設備・営業設備の一切である。\n10月1日付で中部配電への設備強制出資が実施に移され、事業を失った木曽川電力は同年12月1日付にて解散した。", "qas": [ { "question": "日義発電所と城山発電所はどちらが後に完成しましたか?", "id": "tr-611-14-000", "answers": [ { "text": "城山発電所", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "出資すべきとされた事業設備である発電所、送電線、変電所の中で、2番目に少ない数の設備は何ですか?", "id": "tr-611-14-001", "answers": [ { "text": "送電線", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "太平洋戦争開戦後、木曽川電力はどこに事業設備の出資をしなけらばならなかったですか?", "id": "tr-611-14-002", "answers": [ { "text": "中部配電", "answer_start": 336, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "何年に木曽川電力は解散しましたか?", "id": "tr-611-14-003", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "木曽川電力の供給区域は、1938年12月末の時点では、以下に示す長野県西筑摩郡(現・木曽郡)の2町6村であった。\nそれは、福島町・新開村・日義村・開田村(現・木曽町)、上松町、木祖村、楢川村(現・塩尻市)、奈川村(後の南安曇郡奈川村、現・松本市)である。\nこれらの地域において、1938年下期末(10月末)の時点で電灯2万1686灯・電力1298キロワットを供給していた。", "qas": [ { "question": "長野県西筑摩郡では町と村、どちらの数が多いですか?", "id": "tr-611-15-000", "answers": [ { "text": "村", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "長野県西筑摩郡では、1938年下期末(10月末)の時点で供給していた電灯の数はいくつでしたか?", "id": "tr-611-15-001", "answers": [ { "text": "2万1686灯", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "電気製鋼所時代の製鋼工場は以下の2か所であった。\n熱田工場の所在地は、名古屋市南区熱田東町字丸山(現・熱田区花表町)。\n熱田火力発電所隣接地に所在。\n大同製鋼時代は主として鋳鋼品を生産したが1950年(昭和25年)6月閉鎖。\n木曽福島工場の所在地は、長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町福島)字新万郡であった。\nフェロアロイ専門工場で、大同製鋼時代の1932年(昭和7年)に操業を再開。\n1969年(昭和44年)に精密鋳造製品に生産転換され、1980年(昭和55年)には大同特殊鋼より大同特殊鋳造として分社化。\nさらに2002年(平成14年)には会社統合により大同キャスティングス木曽工場となるが、2004年(平成16年)に中津川工場への集約により閉鎖された。", "qas": [ { "question": "熱田工場と木曽福島工場はどちらが遅く閉鎖しましたか?", "id": "tr-611-16-000", "answers": [ { "text": "木曽福島工場", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "木曽川電力が電気製鋼所時代に運営していた製鋼工場のうち、より北に位置していた工場は何ですか?", "id": "tr-611-16-001", "answers": [ { "text": "木曽福島工場", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ヘルマン・ゲーリング", "paragraphs": [ { "context": "へルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、ドイツの政治家、軍人である。軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥(Reichsmarschall)であった。", "qas": [ { "question": "ルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、どの国の者だったの?", "id": "tr-612-00-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングの職業としては、軍人と何が挙げられていますか?", "id": "tr-612-00-001", "answers": [ { "text": "政治家", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、軍所属で活躍したほか、どの分野でも活躍したか?", "id": "tr-612-00-002", "answers": [ { "text": "政治", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングの軍における最終階級は、何だったか?", "id": "tr-612-00-003", "answers": [ { "text": "国家元帥", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、1893年1月13日にドイツ帝国領邦バイエルン王国南端のローゼンハイムにあるサナトリウムで生まれた。父はハインリヒ・エルンスト・ゲーリングであり、母はその再婚の妻フランツィスカ(Franziska)(旧姓ティーフェンブルンtiefenbrunn)である。", "qas": [ { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、いつ生まれたの?", "id": "tr-612-01-000", "answers": [ { "text": "1893年1月13日", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、どの帝国の連邦国とされる国で生まれましたか?", "id": "tr-612-01-001", "answers": [ { "text": "ドイツ帝国", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、どの町で生まれたか?", "id": "tr-612-01-002", "answers": [ { "text": "ローゼンハイム", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングの父親は、誰か?", "id": "tr-612-01-003", "answers": [ { "text": "ハインリヒ・エルンスト・ゲーリング", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングの父ハインリヒは、ドイツ帝国の外交官であり、かつてドイツ植民地南西アフリカの帝国弁務官(植民地の行政長官)を務めたこともある。さらにその後、ハイチの総領事に任命され、ゲーリングが生まれた頃にも父ハインリヒはハイチに在任していた。", "qas": [ { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングの父親は、どの職を務めていたの?", "id": "tr-612-02-000", "answers": [ { "text": "外交官", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ植民地南西アフリカの帝国弁務官とハイチの総領事のうち、ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングの父親がより早く務めた職は、どちらですか?", "id": "tr-612-02-001", "answers": [ { "text": "ドイツ植民地南西アフリカの帝国弁務官", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングの父親は、どの国の者だったか?", "id": "tr-612-02-002", "answers": [ { "text": "ドイツ帝国", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングが生まれたころ、彼の父親はどこに滞在していたか?", "id": "tr-612-02-003", "answers": [ { "text": "ハイチ", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングの母フランツィスカは出産のためにハイチの夫の下を離れてドイツに帰国し、掛かり付けの医師ヘルマン・リッター・フォン・エーペンシュタインの経営するローゼンハイムのサナトリウムに入院して、そこでゲーリングを出産したのであった。ハインリヒとフランツィスカ夫妻には5人の子供があり、ゲーリングはそのうち第4子の次男であった。", "qas": [ { "question": "フランツィスカは、ゲーリングを生む前にどこに滞在していたの?", "id": "tr-612-03-000", "answers": [ { "text": "ハイチ", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "当時、ローゼンハイムのサナトリウムは誰が経営していましたか?", "id": "tr-612-03-001", "answers": [ { "text": "ヘルマン・リッター・フォン・エーペンシュタイン", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲーリングが生まれた時、彼の父親はどこに滞在していたか?", "id": "tr-612-03-002", "answers": [ { "text": "ハイチ", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハインリヒとフランツィスカ夫妻にとってゲーリングは、第何子であったか?", "id": "tr-612-03-003", "answers": [ { "text": "第4子", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングの兄弟には兄カール・エルンスト、姉二人、弟アルベルトがいる。さらに父ハインリヒは前妻との間にも5人の子供を儲けており、ゲーリングはハインリヒの計10人の子供の中では第9子にあたる。", "qas": [ { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングには、男兄弟が何人いたの?", "id": "tr-612-04-000", "answers": [ { "text": "二人", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カール・エルンストとアルベルトのうち、年上は誰ですか?", "id": "tr-612-04-001", "answers": [ { "text": "カール・エルンスト", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ゲーリングの母親には、何人の子供がいたか?", "id": "tr-612-04-002", "answers": [ { "text": "5人", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハインリヒにとってゲーリングは、第何子であったか?", "id": "tr-612-04-003", "answers": [ { "text": "第9子", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘルマン・リッター・フォン・エーペンシュタインが代父になり、ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングに自らの「ヘルマン」の名を与えた。またミドルネームの「ヴィルヘルム」は皇帝ヴィルヘルム2世にちなんで付けられた。エーペンシュタインはベルリン出身の裕福な大地主貴族の医者でプロイセン王室の侍医をしていたため、宮廷に影響力があった。", "qas": [ { "question": "ゲーリングに「ヘルマン」の名が付けられたのは、誰によることだったの?", "id": "tr-612-05-000", "answers": [ { "text": "ヘルマン・リッター・フォン・エーペンシュタイン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲーリングの代父は誰でしたか?", "id": "tr-612-05-001", "answers": [ { "text": "ヘルマン・リッター・フォン・エーペンシュタイン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲーリングに付けられた「ヴィルヘルム」の名は、誰の名から持ってきたものか?", "id": "tr-612-05-002", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エーペンシュタインは、どの職を務めていたため、宮廷に影響力があったか?", "id": "tr-612-05-003", "answers": [ { "text": "プロイセン王室の侍医", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1900年からエーペンシュタインは彼の所有であるオーストリア・ザルツブルク郊外マウテルンドルフにあるマウテルンドルフ城、ついでドイツ・ニュルンベルク北方ノイハウス・アン・デア・ペグニッツにあるヴェルデンシュタイン城にゲーリング一家を招き、一家はこれらの城で暮らすようになった。", "qas": [ { "question": "ゲーリング一家がマウテルンドルフ城とヴェルデンシュタイン城に住むようになったのは、誰によることだったの?", "id": "tr-612-06-000", "answers": [ { "text": "エーペンシュタイン", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゲーリング一家がマウテルンドルフ城とヴェルデンシュタイン城に住むようになったのは、何年のことでしたか?", "id": "tr-612-06-001", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1900年の時点でマウテルンドルフ城は、誰が所有していたか?", "id": "tr-612-06-002", "answers": [ { "text": "エーペンシュタイン", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1900年からゲーリング一家は、マウテルンドルフ城のほかに、どの城に住むことになったか?", "id": "tr-612-06-003", "answers": [ { "text": "ヴェルデンシュタイン城", "answer_start": 96, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1914年7月末から8月初めにかけて第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は1914年8月3日に開戦した。ゲーリングの所属する第112歩兵連隊はフランス国境地域エルザス=ロートリンゲンに駐留していたため、対仏開戦後、すぐに戦場に動員された。ゲーリングの率いる部隊はミュルーズ(ドイツ語名:ミュールハウゼン)の攻防戦の中でフランス軍の前哨拠点の一つを攻撃して4人のフランス兵を捕虜にする戦功をたてた。この功績で二級鉄十字章を受章している。しかしまもなくリューマチ熱を罹患したため、フライブルク・イム・ブライスガウの病院へ送られた。", "qas": [ { "question": "第一次世界大戦は、何年に始まったの?", "id": "tr-612-07-000", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ドイツとフランスの間で戦争が勃発したのは、いつのことですか?", "id": "tr-612-07-001", "answers": [ { "text": "1914年8月3日", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第一次世界大戦が勃発したころ、ゲーリングはどの部隊に属していたか?", "id": "tr-612-07-002", "answers": [ { "text": "第112歩兵連隊", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲーリングが率いていた部隊が功績をあげた戦闘とは、どこでの戦闘だったか?", "id": "tr-612-07-003", "answers": [ { "text": "ミュルーズ", "answer_start": 147, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1914年10月末から1915年6月末にかけてゲーリングは第5軍隷下の第25野戦飛行隊(FeldfliegerAbteilung25(FFA25))所属のレールツァーの操縦する偵察機の観測員を務めた。1915年春ごろからレールツァーとゲーリングの航空機は戦場に出撃して偵察活動を行った。目標地点に着くとゲーリングはレールツァーに高度を下げるよう合図して機体の外に乗り出し、足の先だけでコクピットの中から自分の体を支えてカメラを構えた。", "qas": [ { "question": "ゲーリングに第5軍隷下の第25野戦飛行隊所属のレールツァーの操縦する偵察機の観測員の役が任せられたのは、いつのことなの?", "id": "tr-612-08-000", "answers": [ { "text": "1914年10月末", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲーリングが第5軍隷下の第25野戦飛行隊所属のレールツァーの操縦する偵察機の観測員の役を終えたのは、いつのことですか?", "id": "tr-612-08-001", "answers": [ { "text": "1915年6月末", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲーリングがレールツァーの操縦する偵察機の観測員として戦場で活動し始めたのは、いつごろのことか?", "id": "tr-612-08-002", "answers": [ { "text": "1915年春ごろ", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゲーリングは、誰が操縦する偵察機の観測員として活動したことがあるか?", "id": "tr-612-08-003", "answers": [ { "text": "レールツァー", "answer_start": 157, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかしゲーリングは、観測員だけでは満足していなかった。1915年7月から9月にかけてフライブルクでパイロットとしての研修を受け、1915年9月からいよいよ第25野戦飛行隊所属の戦闘機パイロットになる。1915年10月3日に双発戦闘機のパイロットとして初出撃した。", "qas": [ { "question": "ゲーリングがパイロットになるための研修を受けたのは、何年のことなの?", "id": "tr-612-09-000", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲーリングがパイロットとして活動し始めたのは、いつのことですか?", "id": "tr-612-09-001", "answers": [ { "text": "1915年9月", "answer_start": 64, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲーリングがパイロットとして初めて配属された部隊は、どの部隊か?", "id": "tr-612-09-002", "answers": [ { "text": "第25野戦飛行隊", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ゲーリングにとって初めてのパイロットとしての飛行は、いつ行われたか?", "id": "tr-612-09-003", "answers": [ { "text": "1915年10月3日", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは1916年11月に戦線に復帰した。第7飛行中隊(Jagdstaffel7)、第5飛行中隊(Jagdstaffel5)、第10飛行補充隊(FliegerErsatzAbteilung10)、第26飛行中隊(Jagdstaffel26)などに属して戦った。着実と撃墜スコアを増やし、1917年5月には第27飛行中隊長(Jagdstaffel27)に抜擢された。1917年から運用されたばかりの単座戦闘機アルバトロスD.Vに搭乗して、飛行中隊を率いて出撃した。", "qas": [ { "question": "回復したヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングが戦場に戻ってきたのは、いつのことなの?", "id": "tr-612-10-000", "answers": [ { "text": "1916年11月", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "戦場に復帰したヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングが属していた部隊としては、第7飛行中隊と第5飛行中隊、第10飛行補充隊のほかに、どの部隊が挙げられていますか?", "id": "tr-612-10-001", "answers": [ { "text": "第26飛行中隊", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングが第27飛行中隊長に選ばれたのは、いつのことか?", "id": "tr-612-10-002", "answers": [ { "text": "1917年5月", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングに初めて飛行中隊の中隊長の役が任せられたのは、いつのことか?", "id": "tr-612-10-003", "answers": [ { "text": "1917年5月", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1917年10月にヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングはプロイセン王国のホーエンツォレルン王家勲章剣付騎士十字章とバーデン大公国のカール・フリードリヒ軍事勲章騎士十字章を受章した。さらに1918年6月2日には18機撃墜の功により皇帝ヴィルヘルム2世から一般軍人の事実上の最高武勲章であるプール・ル・メリット勲章戦功章を授与されている。", "qas": [ { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングにプロイセン王国のホーエンツォレルン王家勲章剣付騎士十字章が下されたのは、いつのことなの?", "id": "tr-612-11-000", "answers": [ { "text": "1917年10月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングにバーデン大公国のカール・フリードリヒ軍事勲章騎士十字章が下されたのは、いつのことですか?", "id": "tr-612-11-001", "answers": [ { "text": "1917年10月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1918年6月2日にゲーリングは、誰から功績を認められたか?", "id": "tr-612-11-002", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世がゲーリングの功績を認め、プール・ル・メリット勲章戦功章を下したのは、いつのことか?", "id": "tr-612-11-003", "answers": [ { "text": "1918年6月2日", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1918年7月7日にヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは「リヒトホーフェン大隊」の名前で名高い第1戦闘機大隊の指揮官に任じられた。", "qas": [ { "question": "ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングが第1戦闘機大隊の指揮官に任命されたのは、いつのことなの?", "id": "tr-612-12-000", "answers": [ { "text": "1918年7月7日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { 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