{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "天明の打ちこわし", "paragraphs": [ { "context": "天明の打ちこわしとは、江戸時代の天明7年5月、ほぼ同時期に江戸、大坂など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生し、翌6月には石巻、小田原、宇和島などへと波及した打ちこわしの総称である。天明7年5月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多であり、特に5月末の江戸打ちこわしは極めて激しかった。全国各地で同時多発的に発生した打ちこわし、とりわけ幕府のお膝元の江戸打ちこわしによって当時幕府内で激しい政争を繰り広げていた田沼意次政権派と、松平定信を押し立てようとする譜代派との争いに決着がつき、田沼派が没落して松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まることになった。", "qas": [ { "question": "江戸時代の天明7年5月、ほぼ同時期に江戸、大坂など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生し、翌6月には石巻、小田原、宇和島などへと波及した打ちこわしの総称を何と呼びますか。", "id": "tr-460-00-000", "answers": [ { "text": "天明の打ちこわし", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "天明7年5月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多の打ちこわし発生数を記録したのは天明7年の何月のことですか。", "id": "tr-460-00-001", "answers": [ { "text": "5月", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "江戸幕府成立後しばらくは、参勤交代制の定着や幕府、諸藩が行った大規模な建築による支出など、主に公共工事など公共の投資によって都市の発展が進んだ。しかし17世紀後半から18世紀になると、交通網の整備、産業の発展、全国的な市場の拡大が進み、経済の中核である都市では自立的な発展が進むようになった。\n\nまた同じ時期には、消費物資の荷役、小売を行う業種や、各種飲食業、髪結いなどの理美容、古着屋などといった、都市で生活する人々に対して各種サービス提供を行う新たな生業が発生、発展し、そのことが更なる都市への人口集中を招くという都市への人口集中の連鎖が見られるようになった。このような都市の発展は様々な都市問題の発生という新たな課題を生み出すことになった。", "qas": [ { "question": "参勤交代制が定着したのは江戸幕府成立前ですか、江戸幕府成立後ですか。", "id": "tr-460-01-000", "answers": [ { "text": "江戸幕府成立後", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "享保年間になると、寛永20年(1643年)に出された田畑永代売買禁止令の原則が骨抜きとなっていき、延享元年(1744年)にはついに田畑の所有権の移動、そして田畑を買い取り集積することが公式に認められるに至る。その結果各地の農村で地主制が急速に広まっていくことになる。宝暦から天明期になると、領主からの年貢と地主からの小作料という二重の負担に耐え切れなくなった多くの農民が没落し、離農を余儀なくされるようになった。\n\n離農した農民たちの多くは、江戸を始めとする都市に流入した。主に生活苦によって農村から都市へと流入した農民たちは、後述する都市における階層分化によって没落した商工業者などとともに都市での貧民層を形成するようになった。天明7年5月の江戸打ちこわしでも、明和から天明期にかけて江戸近郊の関東農村から離村し、江戸に流入した人たちが打ちこわし勢に参加していたことが確認され、当時の関東地方の農村では地主から小作農までの階層分化が進み、没落した農民層が離村して江戸に流入していったことが想定される。\n\nまた多くの下層農民が離村して都市へと流入するようになると、地主にとっても悪影響をもたらすようになった。それは農村人口が減少して小作人が不足し、農業生産に支障をきたすようになったからである。天明期になると労働力不足の結果、地主経営も難しくなってきており、農村自体に行き詰まりが見られるようになっていた。", "qas": [ { "question": "田畑永代売買禁止令はいつ出されたの?", "id": "tr-460-02-000", "answers": [ { "text": "寛永20年(1643年)", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "天明期は老中と将軍の側近である側用人を兼任していた田沼意次が政治を主導した、いわゆる田沼時代であった。田沼意次の嫡男である田沼意知は天明期になると奏者番そして若年寄となり、また父と同様に将軍側近も勤め、田沼意次の後継者としての地歩を固めつつあった。\n\n天明期は老中と将軍側近である側用人を兼任し、嫡男を後継者とする布石を着々と進めるなど、田沼意次の権勢は絶頂期を迎えていた反面、田沼政治の限界もまた顕著になっていた。まず安永期に小康状態を保っていた幕府財政は天明期に入ると極度に悪化した。これはもちろん天明の大飢饉、浅間山の大噴火などの続発した災害が幕府収入を減少させた半面、支出の増加を招いたことが大きく影響していた。", "qas": [ { "question": "田沼時代と呼ばれる時期に政治を主導していたのは誰ですか。", "id": "tr-460-03-000", "answers": [ { "text": "田沼意次", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "田沼意知のお父さんは誰なの?", "id": "tr-460-03-001", "answers": [ { "text": "田沼意知", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "田沼はまず1765年に明和五匁銀を発行した。これは西日本、日本海側を中心として流通していた丁銀、豆板銀が秤量貨幣であったのに対し、五匁銀12枚で一両に相当するという計数貨幣として発行された。しかしこの時の試みは金と銀との交換によって生計を成り立たせてきた両替商の抵抗に遭い、市場では五匁銀12枚で一両という計数貨幣としての通用をせず、これまでの丁銀、豆板銀と同じような金貨との交換相場が立てられてしまい、もくろみは失敗に終わった。しかし明和五匁銀の失敗後、安永元年(1772年)には南鐐二朱銀が発行された。南鐐二朱銀は表面に8枚で小判一両となる旨が明記されており、明和五匁銀と同じく計数貨幣としての流通を図った銀貨であった。", "qas": [ { "question": "明和五匁銀を発行した人は誰なの?", "id": "tr-460-04-000", "answers": [ { "text": "田沼", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "明和五匁銀はいつ発行されましたか。", "id": "tr-460-04-001", "answers": [ { "text": "1765年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "天明4年1月16日に幕府は、米穀売買勝手令という法令を公布する。これはこの当時、決められた業者のみが米の流通、販売を行うことが出来るとされていた規制を撤廃し、例えば江戸に持ち込まれた米を問屋を通さずして自由に販売してよいとするものであった。問屋を通さない米の販売を認める米穀売買勝手令は当時としては画期的なものであり、米の流通量を増やして米価を引き下げることを目的とした緊急時の時限立法的な色彩が強い法令であった。しかしこの法令は期待したほどの成果を挙げることはできなかった。これは米の流通の活性化という点からは米穀売買勝手令によって大坂からの米の搬出が活発となったが、今度は大坂が米不足に襲われ価格が急騰したため、大坂町奉行所はあわてて大坂からの米の搬出を厳しく制限する措置を行ったことなどによるものであった。結局米穀売買勝手令は天明4年の秋、米の作柄がある程度期待できることが市場に周知されたことによって米価が落ち着きを見せたため、天明4年9月10日に廃令となった。なお米穀売買勝手令は凶作によって再び米価が激しく高騰した天明6年、そして天明7年に再施行され、特に天明7年の施行時には法の意図したものとは全く逆の結果を招き、米価高騰に拍車をかけることになった。", "qas": [ { "question": "米穀売買勝手令はいつ公布されましたか。", "id": "tr-460-05-000", "answers": [ { "text": "天明4年1月16日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "米穀売買勝手令はいつ廃令になりましたか。", "id": "tr-460-05-001", "answers": [ { "text": "天明4年9月10日", "answer_start": 418, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "米穀売買勝手令が再施行されたのは天明6年とまたいつなの?", "id": "tr-460-05-002", "answers": [ { "text": "天明7年", "answer_start": 471, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "第五次イタリア戦争", "paragraphs": [ { "context": "第五次イタリア戦争(1542年-1546年)は、イタリア戦争の一部である。フランス王フランソワ1世とオスマン帝国のスルタンスレイマン1世が神聖ローマ皇帝カール5世とイングランド王ヘンリー8世と戦った。イタリア、フランス、ネーデルラントで戦闘がおき、さらにスペインとイングランドの侵攻が企図されるなど、西ヨーロッパの大半を巻き込んだ戦いとなったが、決着はつかず、いたずらに交戦国の財政を悪化させただけに終わった。", "qas": [ { "question": "第五次イタリア戦争とは、フランスとオスマン帝国が組み、神聖ローマ帝国とどの国と戦った戦争のことなの?", "id": "tr-461-00-000", "answers": [ { "text": "イングランド", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第五次イタリア戦争において、フランスと手を組んだのは、どの国ですか?", "id": "tr-461-00-001", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランソワ1世とヘンリー8世、カール5世のうち、この文書において王の称号が与えられていないのは、誰か?", "id": "tr-461-00-002", "answers": [ { "text": "カール5世", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "戦闘は、主にイタリア、フランスとどこで行われたか?", "id": "tr-461-00-003", "answers": [ { "text": "ネーデルラント", "answer_start": 110, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "戦争は前回の第四次イタリア戦争を終結させたニースの和約の失敗を起因とする。ニースの和約はカールとフランソワの長きにわたる争い、特にミラノ公国への請求を解決しようとした。1542年、口実を見つけたフランソワはすかさず宿敵カールに宣戦した。直後にネーデルラントで戦闘がおき、翌年にフランス=オスマン連合軍がニースを攻囲、北イタリアにも侵攻して血なまぐさいチェレゾーレの戦いを引き起こした。カールとヘンリーはフランスに侵攻したがブローニュ=シュル=メールとサン=ディジエの包囲が長引き、決定的な打撃はついぞ与えられなかった。", "qas": [ { "question": "どの和約の成立が第四次イタリア戦争を終結させたの?", "id": "tr-461-01-000", "answers": [ { "text": "ニースの和約", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第四次イタリア戦争と第五次イタリア戦争の間をつなぐ和約とは、何ですか?", "id": "tr-461-01-001", "answers": [ { "text": "ニースの和約", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1542年のフランソワのカールへの宣戦布告により、どこにおいて戦闘が勃発したか?", "id": "tr-461-01-002", "answers": [ { "text": "ネーデルラント", "answer_start": 121, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランス=オスマン連合軍と戦った勢力は、カールと誰の勢力であったか?", "id": "tr-461-01-003", "answers": [ { "text": "ヘンリー", "answer_start": 196, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1544年末、カールとフランソワの間でクレピーの和約が成立したが、条約に盛り込まれた政略結婚の新郎であるオルレアン公シャルル2世が死去したことで和平は1年足らずで破綻した。和約に参加しなかったヘンリーは独力でフランソワと戦い続け、1546年のアルドレスの和約までねばった。フランソワとヘンリーが1547年に相次いで死去したことで、イタリア戦争の決着はその継承者に委ねられた。", "qas": [ { "question": "クレピーの和約は、カールと誰の間で成立したの?", "id": "tr-461-02-000", "answers": [ { "text": "フランソワ", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クレピーの和約がもたらした短き平和は、誰の死去により破れましたか?", "id": "tr-461-02-001", "answers": [ { "text": "シャルル2世", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘンリーとフランソワの間では、どの和約が成立したか?", "id": "tr-461-02-002", "answers": [ { "text": "アルドレスの和約", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クレピーの和約とアルドレスの和約の共通点は、両方とも誰が参加したとのことか?", "id": "tr-461-02-003", "answers": [ { "text": "フランソワ", "answer_start": 104, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "前回の第四次イタリア戦争を終結させたニースの和約は、長きにわたった争いを解決することに失敗した。和約は神聖ローマ皇帝とフランス王に矛を収めさせ、協商をはじめさせたが、二人とも戦争の結果に満足しなかった。フランソワ1世はミラノ公国への請求を取り下げようとせず、カール5世はフランソワが第三次イタリア戦争の最中、スペインで囚われていたときに署名したマドリード条約を履行させようとした。ミラノのほかにもカール5世のブルゴーニュに対する請求やフランソワ1世のナポリとフランドルに対する請求など、問題は山積みであった。", "qas": [ { "question": "ニースの和約は、神聖ローマ皇帝と誰の間で成立したの?", "id": "tr-461-03-000", "answers": [ { "text": "フランス王", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カール5世はフランソワにどの条約を履行させようとしましたか?", "id": "tr-461-03-001", "answers": [ { "text": "マドリード条約", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニースの和約とマドリード条約のうち、その締結時期がより早いのは、どちらか?", "id": "tr-461-03-002", "answers": [ { "text": "マドリード条約", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ニースの和約とマドリード条約の共通しているところは、フランソワ1世と誰の間で締結されたとのことか?", "id": "tr-461-03-003", "answers": [ { "text": "カール5世", "answer_start": 129, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1538年と1539年の間、両大国は調整を続けた。1539年、フランソワはヘントの反乱に直面していたカールを会談に誘った。当時スペインにいたカールは反乱鎮圧のためにフランスを経てネーデルラントへ向かわなければならず、この申し出に同意した。歓待を受けたカールは宗教改革についての議論に前向きだったが、政治的な問題の解決は引き延ばされ、フランス領を離れるまでに合意したことは何もなかった。", "qas": [ { "question": "カール5世が1539年のフランソワの会談への誘いに応じなざるを得なかったのは、どの反乱の鎮圧のためにフランスを経てネーデルラントへ向かわなければならかったからなの?", "id": "tr-461-04-000", "answers": [ { "text": "ヘントの反乱", "answer_start": 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"1540年3月、カール5世は政略結婚を提案した。長女マリア・デ・アブスブルゴとフランソワの三男・オルレアン公シャルル2世を結婚させ、皇帝の死後ネーデルラント、ブルゴーニュ、シャロレーを継承する、という計画である。一方、その条件として、フランソワはミラノ公国とサヴォイア公国への請求を取り下げ、マドリード条約と貴婦人の和約を履行し、カールと同盟を結ぶ。フランソワはミラノを失うというコストがあまりに大きく、また両条約を何としても履行したくないことから、4月24日に「ミラノを諦める代わりにネーデルラントをすぐに得る」と逆提案した。交渉は数週間続いたが全く進まず、6月には打ち切られた。", "qas": [ { "question": "カール5世は、誰に対して政略結婚を提案したの?", "id": "tr-461-05-000", "answers": [ { "text": "フランソワ", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カール5世の政略結婚の提案に対し、フランソワは何の取り下げを条件にしましたか?", "id": "tr-461-05-001", "answers": [ { "text": "ミラノ公国とサヴォイア公国への請求", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1540年3月のカール5世のフランソワに対する提案は、何月になると打ち切られることとなったか?", "id": "tr-461-05-002", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 280, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カール5世とフランソワの間での交渉が打ち切られたのは、誰が条件を履行しないまま、逆提案までしてきたからであるか?", "id": "tr-461-05-003", "answers": [ { "text": "フランソワ", "answer_start": 175, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フランソワはすぐ同盟者集めを始めた。当時、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世は第三次ゲルデルン継承戦争でカール5世とゲルデルン公位を争っており、後ろ楯を得るためにジャンヌ・ダルブレと結婚した。シュマルカルデン同盟にも声をかけたが、同盟側の動きは鈍く、フランソワは同盟締結に失敗した。1542年までに、ドイツ北部でフランソワと同盟しそうな諸侯は全て皇帝に確保された。遠い東方ではフランスの努力が結実して、フランス・オスマン同盟が更新された。オスマン帝国のスレイマン1世は、オスマンのハンガリー侵攻から皇帝の目をそらすため、フランスと帝国の争いを煽った。", "qas": [ { "question": "カール5世との交渉が打ち切られて、フランソワは何に取り掛かったの?", "id": "tr-461-06-000", "answers": [ { "text": "同盟者集め", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カール5世とゲルデルン公位を巡って争ったのは、誰ですか?", "id": "tr-461-06-001", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム5世", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランスと同盟を組んだ唯一の国は、どの国か?", "id": "tr-461-06-002", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン帝国は、どこを侵攻したことにより帝国との関係が悪化していたか?", "id": "tr-461-06-003", "answers": [ { "text": "ハンガリー", "answer_start": 246, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし、1541年7月4日、フランス駐オスマン大使のアントワーヌ・ド・リンコンがパヴィアを通過中、帝国軍に殺された。フランソワの抗議に対し、カールは責任を否定し、教皇の助けを借りて調査することを約束した。カールは北アフリカ遠征の計画を立てていたため、これ以上ヨーロッパでの争いに巻き込まれたくなかった。", "qas": [ { "question": "アントワーヌ・ド・リンコンが殺されたのは、いつのことなの?", "id": "tr-461-07-000", "answers": [ { "text": "1541年7月4日", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アントワーヌ・ド・リンコンは、どこを通過中に帝国軍により殺されましたか?", "id": "tr-461-07-001", "answers": [ { "text": "パヴィア", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アントワーヌ・ド・リンコンが帝国軍に殺されたことについて、フランソワは誰に抗議したか?", "id": "tr-461-07-002", "answers": [ { "text": "カール", "answer_start": 70, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アントワーヌ・ド・リンコンが帝国軍に殺された時期に、カールは何を目論んでいたか?", "id": "tr-461-07-003", "answers": [ { "text": "北アフリカ遠征", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1541年9月末にはカールがマヨルカ島に到着し、アルジェ遠征を準備していた。フランソワはムスリムと戦っているキリスト教徒を攻撃するのは道理に反するとして、皇帝が遠征している間に宣戦しないことを約した。しかし、帝国の遠征は全くの失敗であった。上陸してすぐ、艦隊は嵐でバラバラにされ、カールは11月までに残りの軍とスペインに帰った。1542年3月8日、後任のフランス大使アントワーヌ・エスカリン・デ・アイマールがオスマン帝国に援助の約束をとりつけ、コンスタンティノープルから戻ってきた。フランソワはリンコンの殺害などを口実に、7月12日に宣戦した。", "qas": [ { "question": "カールの率いる帝国軍は、どの遠征に失敗し、スペインに戻ったの?", "id": "tr-461-08-000", "answers": [ { "text": "アルジェ遠征", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランソワが帝国に対し宣戦布告したのは、いつですか?", "id": "tr-461-08-001", "answers": [ { "text": "7月12日", "answer_start": 261, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルジェ遠征の失敗要因は、何に遭ったことか?", "id": "tr-461-08-002", "answers": [ { "text": "嵐", "answer_start": 130, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランソワがカールとの戦いにおいて、援助を要請したのは、どの国へか?", "id": "tr-461-08-003", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランスはすぐ二手に分かれて作戦を開始した。北ではオルレアン公がリュクサンブールを攻撃、短期間占領した。南ではクロード・ダヌボーとフランソワの長子・王太子アンリがスペイン北部のペルピニャンを包囲したが失敗した。フランソワ自身はラ・ロシェルでおきた塩税改革に起因する反乱で身動きが取れなかった。", "qas": [ { "question": "北と南のうち、どちらからのフランス軍の攻撃が成功したの?", "id": "tr-461-09-000", "answers": [ { "text": "北", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オルレアン公とクロード・ダヌボー、アンリのうち、南からの攻撃を指揮した人ではないのは、誰か?", "id": "tr-461-09-001", "answers": [ { "text": "オルレアン公", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランソワは、何に起因する反乱を収めるため、攻撃には直接参戦することができませんでしたか?", "id": "tr-461-09-002", "answers": [ { "text": "塩税改革", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランソワは、どこで起きた反乱を収めるため、攻撃には直接参戦することができませんでしたか?", "id": "tr-461-09-003", "answers": [ { "text": "ラ・ロシェル", "answer_start": 113, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この時点でフランソワとヘンリー8世の関係はこじれていた。ヘンリーは同盟条約で規定されていた年金支払いをフランスが拒否したことに激怒していて、さらにフランスのスコットランド介入に直面していた。ヘンリーは息子とスコットランド女王メアリーを結婚させようとし、それがスコットランドの政争につながり、ヘンリーはその隙をついてスコットランドを攻撃した。ヘンリーは1543年夏の宣戦を目途に、フランソワに対する戦争を準備していたが、皇帝の支持を取り付けるのに苦労した。皇帝はヘンリーが教会分裂を引き起こすとみていたので、ヘンリーを攻撃から守ることも、教会の長と呼ぶことも到底受け入れられるものではなかった。交渉は数週間続き、1543年2月11日に同盟条約に漕ぎつけた。条約では2年内のフランス侵攻が約された。同年5月、ヘンリーはフランソワに最後通牒を送り、20日内の返答を要求し、6月22日に宣戦した。", "qas": [ { "question": "フランソワとヘンリー8世の関係がこじれたのは、フランソワが何を拒否したからなの?", "id": "tr-461-10-000", "answers": [ { "text": "年金支払い", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘンリーは息子と誰を結婚させようとしましたか?", "id": "tr-461-10-001", "answers": [ { "text": "メアリー", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘンリーはフランソワに対する戦争を準備するにあたって、誰からの支援を求めたか?", "id": "tr-461-10-002", "answers": [ { "text": "皇帝", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘンリーがフランソワに宣戦布告したのは、いつか?", "id": "tr-461-10-003", "answers": [ { "text": "6月22日", "answer_start": 383, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フランス北部で戦火が広がった。ヘンリー8世の命令でジョン・ワロップが5千の軍勢を連れてイギリス海峡を渡ってカレーに到着、そのままネーデルラントの守備についた。フランス軍ではヴァンドーム公アントワーヌが4月にリレを、ダヌボーが6月にランドルシーを占領した。ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世は公然とフランソワに味方してブラバント公国を攻撃、アルトワとエノー伯領で戦闘がおこった。フランソワもついに進軍したがなぜかランスで止まり、一方カールはユーリヒ公国に侵攻してデューレンを占領した。", "qas": [ { "question": "アントワーヌとダヌボーのうち、攻撃地の占領をより早く果たしたのは、誰なの?", "id": "tr-461-11-000", "answers": [ { "text": "アントワーヌ", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "リレとランドルシーのうち、より早く占領されたのは、どこですか?", "id": "tr-461-11-001", "answers": [ { "text": "リレ", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヴィルヘルム5世は、どこを攻撃したか?", "id": "tr-461-11-002", "answers": [ { "text": "ブラバント公国", "answer_start": 164, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カールは誰の領地に侵攻したか?", "id": "tr-461-11-003", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム5世", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ここでヴィルヘルム5世の危機を察知したフランソワはオルレアン公とダヌボーにリュクサンブール攻撃を命じ、二人は9月10日に入城した。しかし、ヴィルヘルムはその3日前に投降してフェンロー条約に署名してしまった。条約により、ヴィルヘルム5世はゲルデルン公国とズトフェン伯領をカール5世に割譲し、宗教改革の鎮圧を約束した。カールは続いてランドルシー包囲戦を敢行、フランソワとの決戦を求めた。フランス軍のマルタン・デュ・ベレイは皇帝軍の攻撃を防いだが、フランソワは11月4日にサン=カンタンへ撤退、皇帝は北上してカンブレーを占領した。", "qas": [ { "question": "フランソワ側では、ヴィルヘルム5世を救うために、オルレアン公と誰が派遣されたの?", "id": "tr-461-12-000", "answers": [ { "text": "ダヌボー", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム5世は、オルレアン公とダヌボーが到着する何日前に、カールとの条約に署名してしまいましたか?", "id": "tr-461-12-001", "answers": [ { "text": "3日前", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "荒木初子", "paragraphs": [ { "context": "荒木初子は、日本の保健婦である。高知県宿毛市沖の島弘瀬出身だ。\n\n1949年から20年以上にわたり、離島である沖の島にただ1人の保健婦として勤め、同島の保健衛生向上、乳幼児の死亡率減少、風土病であるフィラリアの撲滅に貢献し、高知の地域医療発展の先駆けとなった。第1回吉川英治文化賞受賞、1968年公開の映画『孤島の太陽』のモデルだ。ただしこれらの表彰や美化については、無医地区に保健婦のみを赴任させるという行政上の問題点の隠蔽に繋がるという指摘もある。", "qas": [ { "question": "荒木初子はどこ出身なの?", "id": "tr-462-00-000", "answers": [ { "text": "島弘瀬出身", "answer_start": 24, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "荒木初子の母国はどこですか。", "id": "tr-462-00-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1949年から20年以上にわたり、離島である沖の島にいた唯一の保健婦は誰でしたか。", "id": "tr-462-00-002", "answers": [ { "text": "荒木初子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "映画『孤島の太陽』はいつ公開されたの?", "id": "tr-462-00-003", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "荒木初子は少女時代に、妹を身ごもった母親が急病に見舞われ、交通の不便な離島で医師の到着が遅れて死産に終わったことをきっかけに、医療の道を志した。小学校を卒業後、高知市の高知県衛生会産婆学校に入学した。在学中に母が危篤となり、急遽帰郷したものの、悪天候による船の欠航で母の最期に間に合わず、母に報いるために看護婦になる決意を固くした。\n\n同校で看護婦と助産婦の資格を取得し、卒業後に大阪市内の病院で看護婦として勤務。有能な看護婦として周囲からの信頼を得た。しかし結核患者を手厚く看護したところ、自身も結核に感染し、1944年11月に退職した。静養のために沖の島へ帰郷した。\n\n当時、結核は静養に努めるしかない不治の病気とされていた。だが、看護婦として陰日向なく働き続けていた荒木は「私に働くことが許されるなら、きっとこの病気はなおる」と語って、自分の身を天命に任せて闘病生活を送った。5年後に奇跡的に自然治癒に至った荒木は、自分の命を「一度死んで、もう一度神仏から授かった命」と受け止め、その命を世間のために役立てる決意をした。", "qas": [ { "question": "荒木初子は小学校卒業後、どの学校に入学しましたか。", "id": "tr-462-01-000", "answers": [ { "text": "高知県衛生会産婆学校", "answer_start": 84, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1944年11月、荒木初子はどんな病気にかかって退職しましたか。", "id": "tr-462-01-001", "answers": [ { "text": "結核", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "荒木の赴任当時、沖の島には3千人以上の島民がいた。無医地区の上に、衛生環境も悪かった。当時の統計によれば自然死が0であり、これは病気による死亡率の圧倒的な高さを意味しており、中でも医療水準と衛生知識の不備による病気が大半であった。さらに乳幼児の死亡率は、出生1000人に対して全国平均が60人であったのに比べ、その約4倍の217人もの高確率であり、しかも乳児の93パーセントは標準体重以下であった。それに加えて戦後の食糧難にも見舞われ、荒木は後に当時の生活の貧しさをNHKのドラマにたとえ「『おしん』のようだった」と語っている。\n\n荒木は、午前中に勤務先である保健所の支所で実務をこなすと、午後からは島内の各家庭を1人で巡回訪問した。島内はほとんどが傾斜地である上、当時は道路が未整備であり、自転車も使えず、毎日徒歩での山越えだった。道は迷路のように入り組んだ石段ばかりであり、中には石段が三百段余りある道もあった。", "qas": [ { "question": "荒木の赴任当時、沖の島には何人の住民がいましたか。", "id": "tr-462-02-000", "answers": [ { "text": "3千人以上", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時の統計によれば、沖の島での自然死は何人でしたか。", "id": "tr-462-02-001", "answers": [ { "text": "0", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "荒木は後に沖の島での生活の貧しさをNHKのドラマにたとえて、何と語りましたか。", "id": "tr-462-02-002", "answers": [ { "text": "「『おしん』のようだった」", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "荒木の赴任当時、沖の島は島民の1割、300人以上が風土病であるフィラリアとその後遺症に苦しんでいた。荒木の赴任の目的の一つは、このフィラリアの撲滅にあった。荒木によるフィラリア対策は1953年から始められており、1960年に高知県により大規模な実態調査が開始されたことでより本格化した。\n\nフィラリアはカが媒介する。よって、荒木は婦人会に出席し、カの撲滅と衛生環境の改善を説いた。島には人の踏み込めない樹林地帯があることから、カの撲滅は不可能と主張する島民もいたが、荒木は考えを曲げなかった。墓地の花筒にたまった汚水はカの幼虫であるボウフラの繁殖のもととなるため、その花筒から供花や水を捨てて蓋をするという徹底ぶりで、島民たちの反発にも遭った。", "qas": [ { "question": "フィラリアは何が媒介しますか。", "id": "tr-462-03-000", "answers": [ { "text": "カ", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "荒木によるフィラリア対策は何年から開始しましたか。", "id": "tr-462-03-001", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 91, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "沖の島の風土病は何ですか。", "id": "tr-462-03-002", "answers": [ { "text": "フィラリア", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カの幼虫を何といいますか。", "id": "tr-462-03-003", "answers": [ { "text": "ボウフラ", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "沖の島への保健婦赴任は荒木が初めてであり、医師でも看護婦でもない「保健婦」の存在は、当初は島民の誰にも理解されなかった。荒木は島の生活に溶け込むため、保健婦として任務を超えて島民たちのために働いた。\n\n男子が出稼ぎに出て生活苦に陥っている家のためには、生活保護の手続きを手伝った。夫婦喧嘩の仲裁、赤ん坊の世話をすることもあった。病気を患った農民の代りに畑仕事をすることもあった。保健婦の業務のために島を出て四国本土へ渡る際は、島民の代りに買い出しを引き受け、その買物の多さのために自分自身の買物はできなかった。", "qas": [ { "question": "沖の島の最初の保健婦は誰ですか。", "id": "tr-462-04-000", "answers": [ { "text": "荒木", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1956年、荒木は高知県の優良職員の第1回表彰者5名の中に選ばれた。後に宿毛市改善業者の表彰を受賞。1966年には自治大臣賞を受賞した。\n\n翌1967年、保健婦としての18年の功績が認められ、国民文化の向上に尽くした個人または団体に与えられる文化功労賞である「第1回吉川英治文化賞」を受賞。沖の島の島民たちは、自分たちのことのように大きく喜んだ。この際、島民たちは荒木を祝おうとしたものの、自分の祝いと言われたら荒木は決して出席しないだろう、と思い、料理を教えてほしいと言って荒木を呼び出し、ようやく祝賀会を開くことができたという。\n\nこの受賞を機に、沖の島に関心を抱いて好意の手が差し伸べられるケースも次第に増加した。同1967年からは岡山大学から年に数回、衛生についての講師が派遣された。また集団検診の際は、岡山大学の医師も助力のために島へ訪れた。\n\nメディアでは、NHKテレビ番組『育て赤ちゃん』で荒木の活動が紹介されて一躍脚光を浴びた。1967年、直木賞作家である伊藤桂一が荒木の半生を『沖ノ島よ、私の愛と献身を』として著した。この作品により荒木は、悪条件下で風土病と闘いつつ多くの島民たちの命を救う孤島のヒロインとして全国的に注目され、高知県の保健婦の代名詞ともいえる存在となった。\n\n翌1968年、同書を原作とする映画『孤島の太陽』が上映された。NHKドラマ『おはなはん』で人気を博した女優の樫山文枝が荒木役を演じたことで注目を浴びた。荒木自身も「土佐のマザー・テレサ」「日本のマザー・テレサ」として全国的な話題となり、ブームは頂点に達した。", "qas": [ { "question": "荒木は何年に高知県の優良職員の第1回表彰者5名の中に選ばれた?", "id": "tr-462-05-000", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "荒木は何年に自治大臣賞を受賞した?", "id": "tr-462-05-001", "answers": [ { "text": "1966年", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『沖ノ島よ、私の愛と献身を』の著者は誰なの?", "id": "tr-462-05-002", "answers": [ { "text": "伊藤桂一", "answer_start": 436, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "映画『孤島の太陽』は何年に公開されたの?", "id": "tr-462-05-003", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 549, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "パルティア", "paragraphs": [ { "context": "パルティア(英:Parthia、前247年-後224年)は古代イランの王朝である。王朝の名前からアルサケス朝(アルシャク朝)とも呼ばれ、日本語ではしばしばアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。前3世紀半ばに中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世(アルシャク1世)によって建国され、ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代以降、現在のイラク、トルコ東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタン西部にあたる、西アジアの広い範囲を支配下に置いた。前1世紀以降、地中海世界で勢力を拡大するローマと衝突し、特にアルメニアやシリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って争った。末期には王位継承を巡る内乱の中で自立したペルシスの支配者アルダシール1世(在位:226年-240年)によって滅ぼされ、新たに勃興したサーサーン朝に取って代わられた。", "qas": [ { "question": "パルティアの別称としては、アルシャク朝と何が挙げられるの?", "id": "tr-463-00-000", "answers": [ { "text": "アルサケス朝", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルサケス朝の建国者は、誰ですか?", "id": "tr-463-00-001", "answers": [ { "text": "アルサケス1世", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルサケス朝が建国されたのは、いつのことか?", "id": "tr-463-00-002", "answers": [ { "text": "前3世紀半ば", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルサケス朝は、誰により滅びたか?", "id": "tr-463-00-003", "answers": [ { "text": "アルダシール1世", "answer_start": 341, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "パルティアという名称は、元来イラン高原北東部に位置する一地方名であり、アケメネス朝(前550年頃-前330年)時代にはパルサワという名前で記録に登場する。アルサケス朝という王朝の名前は、建国者とされるアルサケス1世から来ている。彼は中央アジアの遊牧民の一派、パルニ氏族の族長であり、前3世紀半ばにパルティア地方を征服してこの王朝を打ち立てた。以降、歴代の王たちは彼の名前、アルサケスを代々受け継いだ。", "qas": [ { "question": "アケメネス朝の時代には、パルティアのことを何と呼んだの?", "id": "tr-463-01-000", "answers": [ { "text": "パルサワ", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルサケス朝の建国者は、誰ですか?", "id": "tr-463-01-001", "answers": [ { "text": "アルサケス1世", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルサケス朝という王朝の名前は、誰の名前を由来としているか?", "id": "tr-463-01-002", "answers": [ { "text": "アルサケス1世", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルサケス朝の建国時期は、いつか?", "id": "tr-463-01-003", "answers": [ { "text": "前3世紀半ば", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代には、シリアに本拠地を置くセレウコス朝からメディアとメソポタミア、バビロニアを奪い取り、その領土は大幅に拡大した。最盛期には、その支配はユーフラテス川の北、現在のトルコ中央東部から、東はイラン高原にまで達した。パルティアの支配地は、地中海のローマと、中国の漢朝の間の交易路であるシルクロード上に位置しており、交易と商業の中心となった。", "qas": [ { "question": "パルティアがセレウコス朝からメディアとメソポタミア、バビロニアを奪い取ったのは、誰の時代のことなの?", "id": "tr-463-02-000", "answers": [ { "text": "ミトラダテス1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミトラダテス1世の主な業績は、どの王朝との戦い勝利をおさめ、大幅な領土拡大に成功したことでありますか?", "id": "tr-463-02-001", "answers": [ { "text": "セレウコス朝", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ミトラダテス1世の時代に、パルティアがセレウコス朝から奪い取った地域は、メディア、メソポタミアとどこか?", "id": "tr-463-02-002", "answers": [ { "text": "バビロニア", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミトラダテス1世は、どの国の王であるか?", "id": "tr-463-02-003", "answers": [ { "text": "パルティア", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "初代王とされるアルサケス1世は、アルサケス朝を創設する前は、古代中央アジアのイラン系部族で、ダハエ氏族連合に属する遊牧民パルニ氏族の族長であった。イラン北東部に位置するパルティア地方は、かつてはアケメネス朝の、その後セレウコス朝の支配下にあった。前3世紀半ば頃、東方におけるセレウコス朝の支配は弱体化しつつあり、前250年頃にはバクトリアのサトラップ(総督)であったディオドトス1世がセレウコス朝の支配から独立した。続いて、パルティア地方ではやはりサトラップであったアンドラゴラスが、前240年代初頭にセレウコス朝から離脱した。", "qas": [ { "question": "アルサケス朝の建国者は、もともとどの部族の族長だったの?", "id": "tr-463-03-000", "answers": [ { "text": "パルニ氏族", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アケメネス朝のあとにパルティア地方を支配したのは、どの王朝ですか?", "id": "tr-463-03-001", "answers": [ { "text": "セレウコス朝", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ディオドトス1世がセレウコス朝の支配から独立したのは、いつ頃のことか?", "id": "tr-463-03-002", "answers": [ { "text": "前250年頃", "answer_start": 156, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンドラゴラスがセレウコス朝の支配から独立したのは、いつのことか?", "id": "tr-463-03-003", "answers": [ { "text": "前240年代初頭", "answer_start": 242, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アルサケス1世と、その弟のティリダテス1世(ティルダート1世)は、このアンドラゴラスを破ってパルティア地方を支配下に置いた。これがパルティア王国(アルサケス朝)の成立である。しかし、この出来事が正確にいつ頃の事であるのかはわかっていない。アルサケス朝の宮廷はアルサケス起源の初年を前247年に設定したが、これがアンドラゴラスを打倒した年であるかどうかはわからない。アルサケス1世は、未だ位置不明のアサークというパルティアの都市で即位式を行った。", "qas": [ { "question": "パルティア地方を支配領域に収め、王国を建国したのは、アルサケス1世と誰の業績であるの?", "id": "tr-463-04-000", "answers": [ { "text": "ティリダテス1世", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルサケス1世によるパルティア王国の建国において、大きく貢献したのは、誰ですか?", "id": "tr-463-04-001", "answers": [ { "text": "ティリダテス1世", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルサケス1世の即位式は、どこで行われたか?", "id": "tr-463-04-002", "answers": [ { "text": "アサーク", "answer_start": 198, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パルティア王国という国の名前は、どの地方に拠点を置いたことからつけられたものであるか?", "id": "tr-463-04-003", "answers": [ { "text": "パルティア地方", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アルサケス1世とティリダテス1世の関係、アルサケス1世の死、その後継者が誰なのかという問題についてもはっきりとはわかっておらず、後継者は弟であるティリダテス1世である可能性と、ティリダテス1世の息子アルサケス2世(アルシャク2世、アルタバノスとも)である可能性がある。アルサケス朝の王たちは全て、初代王の名前アルサケス(アルシャク)を受け継いだ。このため、「英雄」という意味を持つこの名前は個人名ではなく、王を意味する普通名詞であったとする考え方もある。このことから、アルサケス1世と当初より行動を共にし、その弟であるとされるティリダテス1世は、実際にはアルサケス1世と同一人物であるとする説もあった。現在では、後のパルティア王プリアパティオスが、アルサケス1世の甥の子孫であると示すオストラコンが発見されていることから、やはりこの二人は別個の人物であるという見解が一般的である。", "qas": [ { "question": "誰がアルサケス1世の後を継いだかははっきりされておらず、その可能性のあるのは、ティリダテス1世とだれだったの?", "id": "tr-463-05-000", "answers": [ { "text": "アルサケス2世", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルサケス朝において、個人名ではなく王を意味する普通名詞であったとの考え方も存在するのは、誰の名前のことでありますか?", "id": "tr-463-05-001", "answers": [ { "text": "アルサケス2世", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "誰がアルサケス1世の甥の子孫であると示すオストラコンが、アルサケス1世とティリダテス1世が別人であったことを証明しているか?", "id": "tr-463-05-002", "answers": [ { "text": "プリアパティオス", "answer_start": 314, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プリアパティオスは、誰の子孫であると予測できるか?", "id": "tr-463-05-003", "answers": [ { "text": "ティリダテス1世", "answer_start": 263, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "セレウコス朝に西側からエジプト王プトレマイオス3世(在位:前246年-前222年)が侵入し、第三次シリア戦争(前246年-前241年)が勃発したことで、アルサケス1世とティリダテス1世に有利な環境が生まれ、彼らはしばらくの間パルティアとヒュルカニアで地歩を固めることができた。この戦争は、バクトリアにおいてもディオドトス1世が政権を安定させ、グレコ・バクトリア王国を形成することを可能とした。パルティアはディオドトス1世の後継者、ディオドトス2世との間に対セレウコス朝の同盟を結んだが、アルサケス1世(またはティリダテス1世)はセレウコス2世(在位:前246年-前225年)の軍勢によって一時的にパルティアから駆逐された。そして遊牧民アパシアカエの中で亡命生活をしばらく送った後、反撃に転じてパルティアを再占領した。セレウコス2世の後継者アンティオコス3世(大王、在位:前222年-前187年)は、軍をメディアで発生していたモロンの反乱の鎮圧にあてていたため、即座に反撃に出ることはできなかった。", "qas": [ { "question": "誰がセレウコス朝に侵入したのことにより、第三次シリア戦争が勃発したの?", "id": "tr-463-06-000", "answers": [ { "text": "プトレマイオス3世", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プトレマイオス3世がセレウコス朝に侵入したのは、何年のことだと予測できますか?", "id": "tr-463-06-001", "answers": [ { "text": "前246年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グレコ・バクトリア王国の形成を可能にした戦争とは、どの戦争のことか?", "id": "tr-463-06-002", "answers": [ { "text": "第三次シリア戦争", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ディオドトス1世の後を継いだのは、誰か?", "id": "tr-463-06-003", "answers": [ { "text": "ディオドトス2世", "answer_start": 215, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "情勢が安定すると、アンティオコス3世はパルティアとバクトリアを再び支配下に置くべく、前210年から前209年にかけて大規模な遠征を開始した。彼は目的を達成できなかったが、新たにパルティア王となっていたアルサケス2世は和平交渉でアンティオコス3世を上位者と認めた。そして代償として王(希:Basileus、バシレウス)の称号が付与された。セレウコス朝は前190年のマグネシアの戦いで共和制ローマに敗れ、その脅威によってそれ以上パルティアでの出来事に介入することはできなくなっていた。パルティアではプリアパティオス(在位:前191年-前176年頃)がアルサケス2世の跡を継いだが、史料からは彼が「アルサケス1世の甥の子孫」であることと、アルサケス2世の後継者であったこと以外何もわからない。続いてプラアテス1世(フラハート1世、在位:前176年-前171年頃)がパルティア王位に昇った。プラアテス1世はセレウコス朝の干渉を受けることなくパルティアを統治した。", "qas": [ { "question": "アンティオコス3世はパルティアとバクトリアを再び影響下に置くために、いつからいつにかけて遠征を行ったの?", "id": "tr-463-07-000", "answers": [ { "text": "前210年から前209年", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンティオコス3世がパルティアとバクトリアへの遠征を開始した時のパルティア王は、誰でしたか?", "id": "tr-463-07-001", "answers": [ { "text": "アルサケス2世", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マグネシアの戦いは、セレウコス朝とどの国の間で行われた戦闘であるか?", "id": "tr-463-07-002", "answers": [ { "text": "共和制ローマ", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マグネシアの戦いは、何年に行われた戦闘であるか?", "id": "tr-463-07-003", "answers": [ { "text": "前190年", "answer_start": 175, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "プラアテス1世はかつてのアレクサンドロスの門を超えて位置不明のアパメア・ラギアナ市を占領し、パルティアの支配を拡大したと記録されている。だが、本格的にパルティアの勢力が拡大してその領土が広がったのは、彼の弟であり後継者であるミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年頃)の治世中である。カトウジアンは彼をアケメネス朝の創設者キュロス2世(大王、前530年死去)に例えており、日本の研究者山本由美子は「真の意味でのパルティア帝国の建設者であった」と評している。", "qas": [ { "question": "記録によると、プラアテス1世はかつて何を超えてアパメア・ラギアナ市を占領したの?", "id": "tr-463-08-000", "answers": [ { "text": "アレクサンドロスの門", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アパメア・ラギアナ市を占領し、パルティアの支配領域を拡大したと記録されているのは、誰か?", "id": "tr-463-08-001", "answers": [ { "text": "プラアテス1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パルティアが勢力および領土拡大を果たし、最盛期を迎えたのは、誰の治世中のことか?", "id": "tr-463-08-002", "answers": [ { "text": "ミトラダテス1世", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "山本由美子が、真の意味でのパルティア帝国の建設者と評したのは、誰か?", "id": "tr-463-08-003", "answers": [ { "text": "ミトラダテス1世", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グレコ・バクトリアで内紛が発生し、ディオドトス2世の王位がエウクラティデス1世(在位:前170年-145年頃)に奪われた後、ミトラダテス1世はバクトリアからタプリナとトラクシアナという二つの州を奪取した。その後、ミトラダテス1世の視線は西方に転じた。当時セレウコス朝のアンティオコス4世はユダヤ人の反乱に対応するためにパレスチナに軍を集結させていたが、この間にアルメニア王アルタクシアス1世と、メディア王ティマルコスがセレウコス朝の統制下から離れたため、これらを鎮撫すべく遠征を開始した。アンティオコス4世はアルメニアを抑え、メディアの首都エクバタナ、ペルシスのペルセポリスを経てエリュマイスへ進軍したが、現地人の抵抗によって敗退し、ガバエ(現:イスファハーン)で倒れた。", "qas": [ { "question": "エウクラティデス1世がグレコ・バクトリアの王位についたのは、何年のことなの?", "id": "tr-463-09-000", "answers": [ { "text": "前170年", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エウクラティデス1世に王位を奪われたのは、誰ですか?", "id": "tr-463-09-001", "answers": [ { "text": "ディオドトス2世", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルタクシアス1世とティマルコスは、どの王朝の支配下に置かれていたか?", "id": "tr-463-09-002", "answers": [ { "text": "セレウコス朝", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ミトラダテス1世がバクトリアから奪い取ったのは、タプリナとどこだったか?", "id": "tr-463-09-003", "answers": [ { "text": "トラクシアナ", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "パルティアのミトラダテス1世は、前161年には東側からメディアに侵入し、前155年までにメディア王ティマルコスを倒してメディアを征服した。この勝利に続いて、更に肥沃なメソポタミアを目指し、前141年までにはバビロニアを征服した。彼は前141年にセレウキアでコインを鋳造し、公的な即位式を行っている。その後ミトラダテス1世は東部での問題の対応のためにヒュルカニアへと戻ったが、残された軍隊はエリュマイスとカラケネを征服し、スサ市を占領した。歴史家オロシウスの記録では、ミトラダテス1世の時代にはヒュダスペス川からインダス川の間の一切の民族を支配したとも言う。これは実際にはペルシアのある川からインダス川にいたる、古来争奪されていた地域を漠然と表現したものであると推定されている。", "qas": [ { "question": "ミトラダテス1世がメディア遠征を行ったのは、何年からなの?", "id": "tr-463-10-000", "answers": [ { "text": "前161年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ミトラダテス1世がバビロニアを手中に収めたのは、何年のことですか?", "id": "tr-463-10-001", "answers": [ { "text": "前141年", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "前141年にセレウキアで公的な即位式を行ったのは、誰か?", "id": "tr-463-10-002", "answers": [ { "text": "ミトラダテス1世", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミトラダテス1世の時代にはヒュダスペス川からインダス川の間の一切の民族を支配したと記録した歴史家は、誰か?", "id": "tr-463-10-003", "answers": [ { "text": "オロシウス", "answer_start": 222, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "セレウコス朝では前142年に首都アンティオキアで将軍のディオドトス・トリュフォンが反乱を起こしたため、このパルティアの進撃に対応することができなかった。しかし、前140年までにはデメトリオス2世がメソポタミアでパルティアに対する反撃を開始した。パルティアは当初不利であったが、ミトラダテス1世はこれを撃退することに成功し、デメトリオス2世自身を捕らえてヒュルカニアに連行した。ミトラダテス1世は虜囚となったデメトリオス2世を王者として扱い、娘のロドグネと結婚させた", "qas": [ { "question": "前142年にアンティオキアで起こった反乱は、誰の主導で行われたものだったの?", "id": "tr-463-11-000", "answers": [ { "text": "ディオドトス・トリュフォン", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ディオドトス・トリュフォンがアンティオキアで起こしたのは、何年のことですか?", "id": "tr-463-11-001", "answers": [ { "text": "前142年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "デメトリオス2世は誰の娘と結婚したか?", "id": "tr-463-11-002", "answers": [ { "text": "ミトラダテス1世", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ミトラダテス1世の治世の間、ヘカトンピュロスがパルティアの最初の首都として機能していたが、彼はセレウキア、エクバタナ、クテシフォン、新たに建設した都市ミトラダトケルタ(トルクメニスタンのニサ)にも王宮を建設した。ミトラダトケルタにはその後アルサケス朝の王たちの墓が建設された。エクバタナはアルサケス朝の王族たちの主たる夏宮となった。クテシフォンはゴタルゼス1世(ゴータルズ1世、在位:前90年-前80年頃)の治世まで公式な首都とはならなかったと思われるが、歴史学者のマリア・ブロシウス(MariaBrosius)によればこの地は戴冠式を執り行う場所となり、アルサケス朝を代表する都市であった。", "qas": [ { "question": "パルティア王国の王宮が建設されたのは、セレウキア、エクバタナ、クテシフォン、ミトラダトケルタとどこだったの?", "id": "tr-463-12-000", "answers": [ { "text": "ヘカトンピュロス", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミトラダトケルタを建設したのは、誰だと予測できますか?", "id": "tr-463-12-001", "answers": [ { "text": "ミトラダテス1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミトラダトケルタにアルサケス朝の王たちの墓が建設されたのは、誰以来のことか?", "id": "tr-463-12-002", "answers": [ { "text": "ミトラダテス1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "マンスフィールド(オハイオ州)", "paragraphs": [ { "context": "マンスフィールドは、アメリカ合衆国オハイオ州中北部に位置する都市だ。アルゲイニー台地の西縁、州都コロンバスとクリーブランドのほぼ中間に位置する。人口は47,821人だ。マンスフィールドに郡庁を置くリッチランド郡1郡のみで成る都市圏は124,475人、近隣のアシュランドおよびビューサイラスを含む広域都市圏は221,398人(ともに2010年国勢調査)の人口を抱えている。\n\nマンスフィールドは1808年に創設され、市名は北西部領土測量隊長ジャレッド・マンスフィールドにちなんでつけられた。一帯は郡名のリッチランドが示すように肥沃な土地に恵まれ、農地が広がったが、やがて19世紀も後半に入ると、鉄道交通の発展に伴い、工業都市として成長した。しかし、1970年代以降、ラストベルトの多くの工業都市と同様に、この地域における重工業が衰退に向かい、人口は減少傾向にある。そのため、地域経済は多角化、特に重工業依存からの脱却と第三次産業への転換を進めている。", "qas": [ { "question": "マンスフィールドの人口は何人なの?", "id": "tr-464-00-000", "answers": [ { "text": "47,821人", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マンスフィールドは何年に創設されたの?", "id": "tr-464-00-001", "answers": [ { "text": "1808年", "answer_start": 196, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マンスフィールドは1808年6月、北西部領土測量隊長ジャレッド・マンスフィールドの指揮の下、ジェームズ・ヘッジズ、ジョス・ラーウェル、およびジェイコブ・ニューマンによって創設された。入植地の名であるマンスフィールドはこの指揮官、ジャレッド・マンスフィールドにちなんでつけられた。もともとは、パブリック・スクエアと呼ばれる広場を中心として、入植地は正方形に区画されていた。やがて、最初の入植者となったサミュエル・マーティンが、この入植地で最初の、そして1808年中に建てられた唯一の建物となった丸太小屋を区画97に建てた。マーティンはこの小屋で冬を越し、先住民にウイスキーを売っていた。しかし、この行為は違法とされ、マーティンは郡外への逃亡を余儀なくされた。翌1809年、マーティンが去った後のこの小屋にジェームズ・カニンハムが入居した。やがて1812年、米英戦争の最中、先住民の攻撃から入植地を防衛するため、2棟の方形小要塞がパブリック・スクエアに建てられた。これらの小要塞は一晩にして建てられたものであった。終戦と前後して、これらの小要塞のうちの1棟が初代の郡地方裁判所庁舎、および監獄に転用された。マンスフィールドは1828年2月24日、オハイオ州議会の議決により、正式に村として法人化された。その後、1857年には、マンスフィールドは人口5,121人を数え、市制を施行した。", "qas": [ { "question": "マンスフィールドは何年に創設されたの?", "id": "tr-464-01-000", "answers": [ { "text": "1808年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マンスフィールドが正式に村として法人化されたのは何年のことですか。", "id": "tr-464-01-001", "answers": [ { "text": "1828年", "answer_start": 510, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "19世紀中盤に入ると、各地で鉄道の整備が進み、マンスフィールドにも鉄道が次々と開通した。マンスフィールドに初めて開通した鉄道は、1846年、マンスフィールドとエリー湖岸のサンダスキーとを結ぶ、全長87kmのマンスフィールド・アンド・サンダスキー・シティ鉄道であった。この鉄道は、その後1850年にニューアークまで延伸された。その後、1850年にはピッツバーグ・アンド・フォートウェイン鉄道が、1863年にはアトランティック・アンド・グレート・ウェスタン鉄道がそれぞれ開通した。しかし、1870年に計画されたマンスフィールド・コールドウォーター・アンド・レイク・ミシガン鉄道は、マンスフィールドまで開通することは無かった。", "qas": [ { "question": "マンスフィールドに最初に開通した鉄道は何?", "id": "tr-464-02-000", "answers": [ { "text": "マンスフィールド・アンド・サンダスキー・シティ鉄道", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピッツバーグ・アンド・フォートウェイン鉄道とアトランティック・アンド・グレート・ウェスタン鉄道と、どっちの方が先に開通したの?", "id": "tr-464-02-001", "answers": [ { "text": "ピッツバーグ・アンド・フォートウェイン鉄道", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1880年代、これらの鉄道の存在によって、マンスフィールドは州中北部における工業と通商の中心地として発展を遂げて行くようになった。この頃、マンスフィールドでは扉、真鍮加工品、亜麻仁油、サスペンダー、紙箱などが生産されていた。マンスフィールド最大の雇用主はたばこ製造会社のホーツェンローダー社で、1888年時点で285人を雇用していた。19世紀末には、マンスフィールドのダウンタウンにはビクトリア建築様式の建物が建ち並ぶようになった。1913年には、アメリカ合衆国初の大陸横断ハイウェイであるリンカーン・ハイウェイがマンスフィールドを通り、さらなる経済発展がもたらされた。その後、20世紀初頭から中盤に至るまで、マンスフィールドは成長し続けた。1970年には、マンスフィールドの人口は55,047人を数え、ピークに達した。\n\nしかし、1970年前後以降、ダウンタウンの活力は次第に失われていった。1969年には、マンスフィールドの西に隣接するオンタリオに郊外型のショッピングモールができ、ダウンタウンのデパートは閉店するか、周縁部へと移転していった。1970年代後半から1980年代にかけては、重工業が労働力の安いアメリカ合衆国外へと流出したことにより、ラストベルトの多くの他都市と同様、マンスフィールドにおける工業は衰退し、市の中心部は荒廃していった。市内の建物は次々と空き家になり、窓ガラスは割れ、犯罪、売春や麻薬が横行するようになった。特に荒廃が酷かったのは、セントラル・パークから北へ2ブロック、4thストリートとメイン・ストリートの交差点周辺であった。\n\n1990年代に入ると、ダウンタウンの立て直しが行われた。1991年に、4thストリートとメイン・ストリートの南西角にリッチランド・カルーセル・パークが開園すると、その周辺には再び各種小売店や飲食店、オフィスが建ち並ぶようになった。1999年には、カルーセル・パーク周辺地域の入居率は100%になった。また、建物の修復だけではなく、景観やレンガ、さらには鉄製の装飾も用いて、ダウンタウンの美観を回復した。\n\n2000年代後半の世界金融危機がもたらした不況はマンスフィールドの財政にも打撃を与えた。2008-09年にかけて、マンスフィールドの財政は急激に悪化し、財政緊縮策に失敗したこともあって、市は380万ドルもの赤字を出した。これにより、2010年8月19日、州の監査局はマンスフィールドを「財政危機」にあると宣言した。2014年7月9日、市は財政危機を脱した。", "qas": [ { "question": "1970年、マンスフィールドの人口は何人でしたか。", "id": "tr-464-03-000", "answers": [ { "text": "55,047人", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リッチランド・カルーセル・パークはいつ開園したの?", "id": "tr-464-03-001", "answers": [ { "text": "1991年", "answer_start": 710, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2008-09年にかけて、マンスフィールドの財政は急激に悪化し、財政緊縮策に失敗したことで、市は赤字いくらを出したか。", "id": "tr-464-03-002", "answers": [ { "text": "380万ドル", "answer_start": 980, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マンスフィールドが「財政危機」にあると宣言されたのはいつなの?", "id": "tr-464-03-003", "answers": [ { "text": "2010年8月19日", "answer_start": 1001, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マンスフィールドは北緯40度45分17秒西経82度31分22秒に位置している。市はオハイオ州の3大都市を結ぶ州間高速道路I-71の沿線にあり、州都コロンバスから北東へ約100km、クリーブランドからは南西へ約120kmである。\n\nアメリカ合衆国国勢調査局によると、マンスフィールド市は総面積80.08km2である。そのうち79.95km2が陸地で0.13km2が水域である。総面積の0.16%が水域となっている。市域はアルゲイニー台地の西縁に広がっており、市域はやや起伏に富み、オハイオ州の都市の中では標高の高い部類に入る。市中心部の標高は378mであるが、市の最高点である市南西部の地下貯水池、ウッドランド貯水池では標高455mである。\n\nマンスフィールドの都市圏は、マンスフィールドに郡庁を置くリッチランド郡のみで成っている。広域都市圏は、この都市圏にアシュランド小都市圏およびビューサイラス・ガリオン小都市圏を加えた3郡から成っている。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国国勢調査局によると、マンスフィールド市の総面積は何km2ですか。", "id": "tr-464-04-000", "answers": [ { "text": "80.08km2", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マンスフィールド市中心部の標高は何mですか。", "id": "tr-464-04-001", "answers": [ { "text": "378m", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マンスフィールドの気候は四季がはっきりしており、特に冬の厳しい寒さと降雪に特徴付けられる、大陸性の気候である。最も暑い7月の平均気温は約22°C、最高気温の平均は約28°Cで、日中32°Cを超えることは平年で月に1-2日程度である。最も寒い1月の平均気温は氷点下4°C、最低気温の平均は氷点下8°Cで、月のほとんどの日は気温が氷点下に下がる。降水量は春から夏、4月から8月にかけてはやや多く、月間100-120mm程度、一方秋から冬、9月から3月にかけてはやや少なく、月間60-100mm程度である。年間降水量は1,120mm程度である。また、冬季の12月から3月にかけての月間降雪量は20-35cm、年間降雪量は123cmに達する。ケッペンの気候区分では、マンスフィールドは中西部の大部分に分布する亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属する。", "qas": [ { "question": "マンスフィールドは何月に一番暑い?", "id": "tr-464-05-000", "answers": [ { "text": "7月", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マンスフィールドは何月に一番寒い?", "id": "tr-464-05-001", "answers": [ { "text": "1月", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マンスフィールドの年間降水量は何mm程度なの?", "id": "tr-464-05-002", "answers": [ { "text": "1,120mm程度", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マンスフィールドの7月の平均気温は何度なの?", "id": "tr-464-05-003", "answers": [ { "text": "約22°C", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マンスフィールドの街路はダウンタウンでは比較的整然と区画されている。ダウンタウンの中心となっているのは、ノース・パーク・ストリート、サウス・パーク・ストリート、メイン・ストリート、およびダイアモンド・ストリートに囲まれた、2エーカーのセントラル・パークである。南北に通る通りは、セントラル・パークを突っ切るパーク・アベニューを境に南(S)と北(N)に分かれている。また、東西に通る通りは、メイン・ストリートを境に東(E)と西(W)に分かれている。\n\nマンスフィールドのダウンタウンに建つ建物はほとんどが中低層のものである。市で最も高い建物は、セントラル・パークから西へ2ブロック、パーク・アベニューとウォルナット・ストリートの北西角に建つチェース・タワーである。この12階建て、高さ48mのライムストーン造、アール・デコ様式のビルは、1929年に建てられたものである。", "qas": [ { "question": "マンスフィールドで一番高い建物は何?", "id": "tr-464-06-000", "answers": [ { "text": "チェース・タワー", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チェース・タワーは何階建てなの?", "id": "tr-464-06-001", "answers": [ { "text": "12階建て", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チェース・タワーは何年に建てられた?", "id": "tr-464-06-002", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 367, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マンスフィールドに最も近い商業空港は、コロンバスのダウンタウンの東11kmに立地するポート・コロンバス国際空港、もしくはクリーブランドのダウンタウンの南西17kmに立地するクリーブランド・ホプキンス国際空港で、いずれもマンスフィールドのダウンタウンからは約100kmである。市域北端、ダウンタウンの北5.5kmに立地するマンスフィールド・ラム地域空港は、ゼネラル・アビエーションと呼ばれる、自家用機等の発着が主となっている規模の小さい空港で、定期旅客便は発着していない。また、このマンスフィールド・ラム地域空港には、オハイオ航空州兵の第179空輸航空団が本拠を置いている。", "qas": [ { "question": "ポート・コロンバス国際空港はマンスフィールドのダウンタウンから約何km離れているの?", "id": "tr-464-07-000", "answers": [ { "text": "約100km", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オーク・ヒル・コテージはダウンタウンの北、かつて市の経済を支えた工業地区の中に立地している。ゴシック・リバイバル様式の煉瓦造のこの家屋は、1847年にマンスフィールド・アンド・サンダスキー・シティ鉄道の職長であったジョン・ロビンソンが建てたものである。1864年に地元の眼科・耳鼻科医、ヨハネス・ジョーンズがこの家屋を購入すると、その後100年にわたってジョーンズ一族が住み続けたが、1965年にリッチランド郡歴史協会に家屋・家具ともに売却され、修復・保全されることになった。1969年には、オーク・ヒル・コテージは国家歴史登録財に指定された。現在では、オーク・ヒル・コテージは博物館として一般公開されている。展示されている家具はジョーンズ一家が購入したもので、そのほとんどはニューヨークからマンスフィールドまで鉄道で運ばれたものである。\n\n市北部、リッチランド更生施設の南隣には旧オハイオ州立矯正院が立地している。城塞を思わせるこの監獄は、1886年にクリーブランドの建築家が設計したもので、ビクトリアン・ゴシック、ロマネスク、およびクイーン・アンの3つの様式を組み合わせている。この監獄は1990年まで本来の目的に使用されていたが、その後は一般に公開され、秋にはハロウィンのイベントにも使われている。旧オハイオ州立矯正院は、1983年に国家歴史登録財に指定された。", "qas": [ { "question": "オーク・ヒル・コテージは何年に建てられたの?", "id": "tr-464-08-000", "answers": [ { "text": "1847年", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーク・ヒル・コテージは何年に国家歴史登録財に指定されたの?", "id": "tr-464-08-001", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 238, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "旧オハイオ州立矯正院は何年に国家歴史登録財に指定されたの?", "id": "tr-464-08-002", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 564, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ダウンタウンに立地するマンスフィールド記念博物館は、1889年に陸海軍人記念館として一般に公開されたもので、リッチランド郡最古の博物館である。同館は古代のネイティブ・アメリカンから、アフリカ系・アジア系に至るまでの、軍事史および自然史に関する事物を展示している。同館の代表的な展示物としては、航空史を物語る約600機の航空機が挙げられる。また、1939年のニューヨーク万国博覧会に出品された、ウェスティングハウス製のロボットも同館で保存・展示されている。陸海軍人記念館は、1980年に国家歴史登録財に指定された。\n\n市西部、ミルズボロ・イースト・ロードとマリオン・ロードの南西角の森の中にはマンスフィールド芸術センターが立地している。同館は美術館として、作品の展示を通じて地域住民向けに美術作品に触れる機会を提供しているほか、美術教育を提供し、また地域の芸術家のサポートも行っている。\n\nリッチランド更生施設および旧オハイオ州立矯正院のすぐ東には、ダイアモンド・ヒル大聖堂に併設された、オハイオ州唯一の蝋人形博物館であるバイブルウォークが立地している。同館は聖書に描かれている70シーンを再現する、300体以上の蝋人形を展示している。また、同館は教会員が寄付した宝飾品や、1500年代まで遡る各国の珍しい聖書なども展示している。", "qas": [ { "question": "1889年に陸海軍人記念館として一般に公開されたもので、リッチランド郡最古の博物館は何ですか。", "id": "tr-464-09-000", "answers": [ { "text": "マンスフィールド記念博物館", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic 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"Syntactic variation" } ] }, { "context": "マンスフィールドの新聞紙は、USAトゥデイなども所有するガネット社傘下の、マンスフィールド・ニュース・ジャーナル1紙のみである。同社は、1885年創立のマンスフィールド・デイリー・ニュース社と1930年創立のマンスフィールド・ジャーナル社が1932年に合併してできた新聞社で、2000年にガネット社傘下に入った。\n\nテレビおよびラジオのメディア市場においては、マンスフィールドはクリーブランド圏に入るものの、コロンバスにも物理的に近いことから、住民はコロンバスの放送局の地上波も受信できる。マンスフィールドにはABC、CBS、NBCといった全米ネットワークの支局は置かれていないが、独立系テレビ局のWMFD-TVおよびWOHZ-CDがある。また、オハイオ州立大学が所有するWOSUラジオは、コロンバスの本局(WOSA)のほかに4つある支局のうちの1つ、WOSVをマンスフィールドに置いている。", "qas": [ { "question": "マンスフィールド・デイリー・ニュース社とマンスフィールド・ジャーナル社と、どっちの方が先に創立されたか。", "id": "tr-464-11-000", "answers": [ { "text": "マンスフィールド・デイリー・ニュース社", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "オーヴァーロード作戦", "paragraphs": [ { "context": "オーヴァーロード作戦(オーヴァーロードさくせん、英語:OperationOverlord。大君主作戦(だいくんしゅさくせん)とも。)は、第二次世界大戦においてドイツ軍占領中の西ヨーロッパへの侵攻に成功した連合軍の作戦「ノルマンディーの戦い」のコードネームである。本作戦は、1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦(ネプチューン作戦(OperationNeptune)、一般にDデイ(D-Day)として知られる)から始まった。1,200名の空挺降下の後、5,000隻超が参加した強襲上陸が行われた。初日に約16万名がイギリス海峡を渡り、8月末にはフランス国内の連合軍は200万名を超えた。", "qas": [ { "question": "オーヴァーロード作戦は、どの戦闘のコードネームであるの?", "id": "tr-465-00-000", "answers": [ { "text": "ノルマンディーの戦い", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーヴァーロード作戦は、第何次世界大戦中の戦闘の一つのコードネームでありますか?", "id": "tr-465-00-001", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノルマンディー上陸作戦は、いつ行われたか?", "id": "tr-465-00-002", "answers": [ { "text": "1944年6月6日", "answer_start": 136, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーヴァーロード作戦の始まりとなるのは、どの作戦か?", "id": "tr-465-00-003", "answers": [ { "text": "ノルマンディー上陸作戦", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1943年5月、ワシントンで行われたトライデント会談で、1944年にイギリス海峡を横断する侵攻の実施を決定した。ドワイト・D・アイゼンハワー大将が連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)の指揮官に、バーナード・モントゴメリー大将が、侵攻する全陸上部隊が属する第21軍集団の指揮官に任命された。上陸地点にノルマンディー海岸が選ばれ、アメリカ軍がユタおよびオマハ、イギリス軍がソードおよびゴールド、カナダ軍がジュノーと名付けられた各ビーチへ上陸することとなった。ノルマンディー海岸堡で予想される事態を解決するため、マルベリー港と呼んだ2つの人工港や、ホバーツ・ファニーズと呼ばれた特殊戦車などの特殊技術が開発された。また、連合軍は侵攻の数か月前から、偽の電子情報や視覚情報を用いて、大規模な欺瞞作戦であるボディーガード作戦を実行した。これはドイツに連合軍の主上陸の日付と場所を間違えさせた。一方アドルフ・ヒトラーは、連合軍の侵攻を見越してエルヴィン・ロンメル元帥に大西洋岸の要塞化を担当させた。", "qas": [ { "question": "トライデント会談は、いつ行われたの?", "id": "tr-465-01-000", "answers": [ { "text": "1943年5月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トライデント会談では、イギリス海峡を横断する侵攻を何年に実施することが決定されましたか?", "id": "tr-465-01-001", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ軍とイギリス軍、そしてどの軍が参加したか?", "id": "tr-465-01-002", "answers": [ { "text": "カナダ軍", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、ドイツの首長は誰だったか?", "id": "tr-465-01-003", "answers": [ { "text": "アドルフ・ヒトラー", "answer_start": 393, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "連合軍は初日の目標達成に失敗したが、細長い海岸堡を確保した。その後、徐々に戦線を拡大し、6月26日にシェルブールを、7月21日にカーンを占領した。8月8日のドイツ軍の反撃は失敗し、ファレーズ・ポケットに第7軍の兵士5万人が取り残された。連合軍は、8月15日に南フランスへの侵攻を開始(ドラグーン作戦)し、8月25日にはパリを奪還した。", "qas": [ { "question": "シェルブールとカーンのうち、より早く占領されたのは、どちらなの?", "id": "tr-465-02-000", "answers": [ { "text": "シェルブール", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ドラグーン作戦が開始されたのは、いつからですか?", "id": "tr-465-02-001", "answers": [ { "text": "8月15日", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic 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"answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "枢軸軍のソ連侵攻が始まったのは、いつのことですか?", "id": "tr-465-03-001", "answers": [ { "text": "1941年6月", "answer_start": 229, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スターリンからの第二戦線構築の要求を拒否したのは、誰か?", "id": "tr-465-03-002", "answers": [ { "text": "チャーチル", "answer_start": 293, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第一次世界大戦中に行われた正面突撃として、この文書に挙げられているのは、ソンムの戦いとどの戦闘か?", "id": "tr-465-03-003", "answers": [ { "text": "パッシェンデールの戦い", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1942-43年に2つの試案、ラウンドアップ作戦とスレッジハンマー作戦が提案されたが、イギリス軍はいずれも現実的あるいは成功の見込みがあると考えなかった。代わりに連合軍は地中海方面での活動を拡大し、1942年11月にフランス領北アフリカへ侵攻(トーチ作戦)、1943年7月にシチリア島へ侵攻(ハスキー作戦)、同年9月にイタリアへ侵攻(アヴァランチ作戦)した。これらの作戦により上陸戦闘に関する貴重な経験を得た。", "qas": [ { "question": "1942年から1943年にかけて提案された2つの試案とは、ラウンドアップ作戦とどの作戦についてのことだったの?", "id": "tr-465-04-000", "answers": [ { "text": "スレッジハンマー作戦", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "連合軍がフランス領北アフリカを侵攻したのは、いつのことですか?", "id": "tr-465-04-001", "answers": [ { "text": "1942年11月", "answer_start": 99, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランス領北アフリカとシチリア島のうち、連合軍からの侵攻を受けた時期がより早いのは、どちらの地域か?", "id": "tr-465-04-002", "answers": [ { "text": "フランス領北アフリカ", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランス領北アフリカとシチリア島、イタリアのうち、連合軍からの侵攻を受けた時期が最も早いのは、どちらの地域か?", "id": "tr-465-04-003", "answers": [ { "text": "フランス領北アフリカ", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1943年5月にワシントンで行われたトライデント会談で、翌年のうちにイギリス海峡越しの侵攻作戦を実行することが決定された。チャーチルは連合軍が地中海戦線からドイツへ主攻撃を行うことを支持していた。しかし、兵士と物資を供給する同盟国アメリカは、チャーチルに反対した。詳細計画の策定を開始するため、イギリス軍のフレデリック・E・モーガン中将が、連合国軍最高司令部参謀長(COSSAC)に任命された。上陸舟艇のほとんどがすでに地中海や太平洋戦線に投入されていたため、初期計画は使用可能な上陸舟艇の数に制約された。1942年8月のディエップ強襲で得た教訓により、堅固に防御されたフランスの港湾に第一波上陸を直接行わないこととした。また、ディエップでの失敗は、十分な砲兵と航空機の支援、特に近接航空支援と、可能な限り海岸に接近できる特殊舟艇が必要であることを明らかにした。幅広い航空支援は、可能な限り長く航空機が上空に留まることが必要ながら、スーパーマリンスピットファイアやホーカータイフーンといったイギリス軍の航空機は作戦半径が短く、潜在的な上陸地点の数は限られることとなった。モーガンは上陸地点に4ヶ所を考えた:ブルターニュ、コタンタン半島、ノルマンディー、パ=ド=カレーである。このうちブルターニュとコタンタンは半島であり、ドイツ軍が比較的狭い地域で連合軍の前進を断つことができることから除外された。", "qas": [ { "question": "トライデント会談が開かれたのは、いつのこと?", "id": "tr-465-05-000", "answers": [ { "text": "1943年5月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トライデント会談では、イギリスとどの国の間で、侵攻ルートを巡った意見対立があったか?", "id": "tr-465-05-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "連合国軍最高司令部参謀長には、どの国の者が任命されたか?", "id": "tr-465-05-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 147, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ディエップ強襲とは、いつ行われた作戦のことか?", "id": "tr-465-05-003", "answers": [ { "text": "1942年8月", "answer_start": 253, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イギリスから最も近いヨーロッパ本土のパ=ド=カレーには、V1飛行爆弾とV2ロケットの発射基地が置かれ、なおも増強中であった。ドイツ軍はそこが最初の上陸地点として可能性が一番高いと考えており、最も要塞化した地域に造り上げた。しかし、そこは多くの川や運河に接しており、連合軍が展開できる可能性は少なかった。一方、ノルマンディーの広い正面は、シェルブール港と、ブルターニュのはるか西にある港湾、パリさらにはドイツへの地上攻撃の脅威を同時に与えることが可能かもしれなかった。こうしてノルマンディーが上陸地点に選ばれた。だが、ノルマンディー海岸の最も重大な障害は港湾施設が無いことであり、人工港を開発することで克服した。", "qas": [ { "question": "パ=ド=カレーには、V1飛行爆弾と何の発射基地が置かれたの?", "id": "tr-465-06-000", "answers": [ { "text": "V2ロケット", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パ=ド=カレーにV1飛行爆弾とV2ロケットの発射基地を設けたのは、どの国ですか?", "id": "tr-465-06-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "COSSACは1944年5月1日に侵攻を開始する計画を立案した。計画の初期案は1943年8月のケベック会談で承認された。ドワイト・D・アイゼンハワー大将が連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)の指揮官に、バーナード・モントゴメリー大将が侵攻後の全陸上部隊が属する第21軍集団の指揮官に任命された。1943年12月31日、アイゼンハワーとモントゴメリーは、2個師団の支援下で3個師団が強襲上陸するCOSSACの計画を初めて見た。すぐに二人とも、幅広い戦線で作戦を行い、かつシェルブール港の占領を早めるため、3個師団の空挺降下を伴い5個師団が第一波上陸する作戦へ規模を拡大することを主張した。作戦の拡大により、追加の上陸用艇を準備する必要から侵攻は1944年6月まで遅れることになった。最終的にノルマンディーの戦いに連合軍は39個師団(アメリカ軍22個師団、イギリス軍12個師団、カナダ軍3個師団、自由ポーランド軍1個師団、自由フランス軍1個師団)、100万人を超える兵士を投入し、全てイギリス軍の指揮下に入った。", "qas": [ { "question": "COSSACはいつ侵攻を開始する計画を立案したか?", "id": "tr-465-07-000", "answers": [ { "text": "1944年5月1日", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1944年5月1日に侵攻を開始する計画の初期案は、どの会談で承認されましたか?", "id": "tr-465-07-001", "answers": [ { "text": "ケベック会談", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドワイト・D・アイゼンハワーは、何の指揮官に任命されたか?", "id": "tr-465-07-002", "answers": [ { "text": "連合国遠征軍最高司令部", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "連合国遠征軍最高司令部の指揮官と第21軍集団の指揮官が、2個師団の支援下で3個師団が強襲上陸するCOSSACの計画を初めて見たのは、いつか?", "id": "tr-465-07-003", "answers": [ { "text": "1943年12月31日", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「オーヴァーロード」は、ヨーロッパ大陸に大規模な拠点を構築する作戦に付けられたコードネームである。強襲上陸を行い確固とした海岸堡を確立する第一段階は「ネプチューン作戦」と名付けられた。そして侵攻の成功を確保するために必要な制空権を得るため、連合軍はドイツ軍の飛行機工場、燃料タンク、飛行場に対する爆撃(ポイントブランク作戦)を行った。またフランス北部を分断し増援が来るのをより困難にするため、「輸送計画」のもと、通信施設、道路、鉄道が爆撃された。これらの攻撃は正確な侵攻地点が明らかになるのを避けるため広範囲に行われた。さらにドイツ軍が侵攻の時期と場所を特定するのを防ぐため、入念な欺瞞作戦が計画された。", "qas": [ { "question": "オーヴァーロード作戦の第一段階の作戦は、何と名付けられたの?", "id": "tr-465-08-000", "answers": [ { "text": "ネプチューン作戦", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イギリスが欺瞞作戦を計画したのは、何のコードネームが付けられた作戦の時期と場所をドイツ軍にばれなくするためだったか?", "id": "tr-465-08-001", "answers": [ { "text": "オーヴァーロード", "answer_start": 1, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1944年5月までに、150万のアメリカ兵がイギリスに到着した。そのほとんどはイギリス南西部の仮設キャンプに宿営し、上陸地点の西側区画に向けてイギリス海峡を渡る準備をした。イギリス兵とカナダ兵は、さらに東のサウサンプトンからニューヘブンにかけて、その東には第二波以降で上陸予定の兵士が宿営した。移動統制(MovementControl)と呼ばれた複雑なシステムが、兵士と車両が20か所の出発地点から日程通りの出発を行うのを確かなものとした。兵士の中には出発1週間近く前に乗船しなければならなかった者もいた。船は海峡横断する船団となるため、ワイト島西南の合流地点(通称「ピカルディ・サーカス」)に集結した。6月5日夜に掃海部隊が航路を掃海し、数千もの爆撃機が海岸陣地を攻撃するため夜明け前に飛び立った。航空機約1,200機が真夜中前にイギリスを出発し、上陸数時間前に敵戦線後方に降下する3個空挺師団を運んだ。アメリカ第82と第101両空挺師団は、ユタの西、コタンタン半島の目標を割り当てられた。イギリス第6空挺師団は、カーン運河とオルヌ川にかかる橋を無傷で確保する任務を負った。自由フランス第4SAS大隊538人は、ブルターニュの目標を割り当てられた(ディンソン作戦、サムウエスト作戦)。Dデイ当日に約132,000人が船で、さらに24,000人が飛行機で輸送された。準備艦砲射撃は、5:45から6:25まで、戦艦5隻、巡洋艦20隻、駆逐艦65隻、モニター艦2隻により行われた。6:30頃、歩兵がビーチに到着し始めた。", "qas": [ { "question": "侵攻作戦のために、アメリカ兵がイギリスに到着したのは、いつか?", "id": "tr-465-09-000", "answers": [ { "text": "1944年5月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "船と飛行機のうち、Dデイ当日、より多くの兵士を運ぶのに用いられたのは、どちらか?", "id": "tr-465-09-001", "answers": [ { "text": "船", "answer_start": 559, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アイゼンハワーは9月1日、連合軍の全陸上部隊の指揮官となった。そしてドイツ軍の反撃とフランスに届く物資の制約への懸念から、狭い正面の一撃ではなく幅広い正面で作戦を継続することを決定した。ノルマンディーに上陸した部隊はジークフリート線への進撃の過程で、9月12日、南フランスの連合軍と合流した。9月17日、モントゴメリーは、英米の空挺部隊でオランダ国内の橋を確保し陸上部隊がライン川を渡りドイツへ進撃するマーケット・ガーデン作戦を開始したが失敗した。連合軍の進撃はドイツ軍の抵抗と補給不足(特に燃料)のため遅くなった。12月16日、ドイツ軍はバルジの戦いと呼ばれることになる、西部戦線最後の大攻勢であるアルデンヌ攻勢を開始した。1945年1月12日には、ソ連軍がヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。4月30日、ソ連軍がベルリンの総統地下壕に近づくとヒトラーは自殺し、5月7日にドイツは降伏した。", "qas": [ { "question": "アイゼンハワーが連合軍の全陸上部隊の指揮官となったのは、いつのこと?", "id": "tr-465-10-000", "answers": [ { "text": "9月1日", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ軍がアルデンヌ攻勢を開始したのは、いつのことですか?", "id": "tr-465-10-001", "answers": [ { "text": "12月16日", "answer_start": 258, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ソ連軍がヴィスワ=オーデル攻勢を開始したのは、いつか?", "id": "tr-465-10-002", "answers": [ { "text": "1945年1月12日", "answer_start": 313, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツが連合軍に降伏したのは、いつのことか?", "id": "tr-465-10-003", "answers": [ { "text": "5月7日", "answer_start": 381, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ノルマンディー上陸作戦は史上最大の海上侵攻作戦であり、上陸作戦に約5,000隻、護衛艦艇289隻、掃海艇277隻が投入された。連合軍は、ソ連軍の進撃を遅らせるおそれがある大部隊を東部戦線から引きはがすことで、ヨーロッパにおける戦争を早く終わらせようとした。西ヨーロッパに新たな戦線ができることは、第一次世界大戦での二正面作戦の再現を恐れるドイツ軍にとって、巨大な物理的一撃であった。また、ノルマンディー上陸は、何人かの歴史家が冷戦の開始と考える、ソ連と西側諸国との「ヨーロッパでの競争」の開始を告げた。", "qas": [ { "question": "史上最大の海上侵攻作戦と呼ばれるのは、何?", "id": "tr-465-11-000", "answers": [ { "text": "ノルマンディー上陸作戦", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "護衛艦艇、掃海艇のうち、ノルマンディー上陸作戦により多く投入されたのは、どちらですか?", "id": "tr-465-11-001", "answers": [ { "text": "護衛艦艇", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical 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"単細胞、群体、または糸状体であり、原核生物としては極めて複雑な体をもつものもいる。\n光合成色素としてふつう青いフィコシアニンを多くもつため、クロロフィルの緑色と合わせて青緑色(藍色)をしていることが多く、学名や英名の「cyano-」はギリシア語で「青色」を意味するκυανός(kyanós)に由来する。\n藍藻のフィコシアニンは、青い天然色素として広く利用されている(アイスキャンディーなど)。\n藍藻は海から淡水、陸上に広く生育し、生産者や窒素固定者として生態系において重要な役割を担っている。\nまたアオコや健康食品などの形で人間生活とも密接に関わっている。", "qas": [ { "question": "青い天然色素として広く利用されているものは何?", "id": "tr-466-01-000", "answers": [ { "text": "フィコシアニン", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書内における緑色の色素とは何を表しているの?", "id": "tr-466-01-001", "answers": [ { "text": "クロロフィル", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "藍藻は、地球上に初めて現れた酸素発生型光合成生物であったと考えられている(およそ25〜30億年前)。\nおそらく藍藻の光合成によって、地球上に初めて酸素と有機物が安定的に供給されるようになった。\nこれによって最初に大量の鉄鉱石が生成され、それに続いて大気中に酸素が供給、酸素呼吸を行う生物が増加し、オゾン層の形成による紫外線の減少など地球環境は激変し(大酸化事変とよばれる)、現在へとつながる生態系の基礎が築かれた。\n酸素発生型光合成というシステムは、生命の歴史の中で唯1回、藍藻の祖先において誕生した。\nこの酸素発生型光合成能は、細胞内共生(一次共生)を経て葉緑体の形で真核生物に受け継がれ、多様な真核藻類(および陸上植物)のもとともなった。", "qas": [ { "question": "藍藻はおよそ何年前に地球に出現しましたか?", "id": "tr-466-02-000", "answers": [ { "text": "およそ25〜30億年前", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最初の酸素発生型光合成生物は何だったの?", "id": "tr-466-02-001", "answers": [ { "text": "藍藻", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "地球に酸素が供給されるようになったのは何の生物が光合成をしたおかげですか?", "id": "tr-466-02-002", "answers": [ { "text": "藍藻", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "分類学的には、シアノバクテリア門(藍色細菌門)(学名:Cyanobacteria)に分類される。\n2019年現在、メタゲノム研究(水などのサンプルから直接抽出したDNAに基づくゲノム研究であり、培養できない生物の性質を推定できる)から、藍藻に近縁であるが光合成能をもたない細菌群がいくつか見つかっている(メライナバクテリアなど)。\nこれらの細菌群も光合成を行う藍藻とともにシアノバクテリア門に分類されることがあるが、以下では主に光合成を行う藍藻についてのみ概説する。", "qas": [ { "question": "分類学において、藍藻は何に分類されているの?", "id": "tr-466-03-000", "answers": [ { "text": "シアノバクテリア門", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "藍藻の中には、単細胞性、群体性、糸状性の種がいる。\n藍藻の多くは肉眼では判別できない微細藻であるが、群体性や糸状性の藍藻の中には、肉眼で見えるほどの大きさになるものもいる。\n単細胞性(unicellular)は体が1個の細胞からなる。\n細胞の形は球状や桿状のものが多く、また異極性(heteropolarity;基端と先端で形態が異なる)を示す種もいる(例:カマエシフォン属Chamaesiphon)。", "qas": [ { "question": "この文書中、単細胞性の例として挙がっているのは何属ですか?", "id": "tr-466-04-000", "answers": [ { "text": "カマエシフォン属", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "群体性(colonial)は体が複数の細胞からなるが、細胞が密接していない、細胞の分化が見られないなど多細胞とは呼び難いもの(多分に伝統的な区分であり、明確な定義は難しい)。\n群体全体の形態は多様(不定形、球形、多面体、シート状、ひも状など)。\nまた群体様式としては、多数の細胞が共通の粘液質に包まれたパルメラ状群体(palmelloidcolony)が多いが、他にも細胞が密着して塊状になるサルシナ状群体(sarcinoidcolony)や、分岐する粘液質の柄の先端にそれぞれ細胞が位置する樹状群体(dendroidcolony)などがある。", "qas": [ { "question": "多数の細胞が共通の粘液質に包まれた群体様式を何といいますか?", "id": "tr-466-05-000", "answers": [ { "text": "パルメラ状群体", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "細胞が密着して塊状になる群体様式は何ですか?", "id": "tr-466-05-001", "answers": [ { "text": "サルシナ状群体", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サルシナ状群体、樹状群体、パルメラ状群体の中で多く存在するものは何ですか?", "id": "tr-466-05-002", "answers": [ { "text": "パルメラ状群体", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "糸状性(filamentous)とは細胞が密接して列状に連なっているものである。\n伝統的に、糸状性の藍藻において細胞列をトリコーム(細胞糸trichome)、1〜複数のトリコームが共通の外被に包まれたものを糸状体(filament)とよぶ。\nまた多数のトリコームが共通の粘液質に包まれた巨視的な群体を形成するものもいる(例:イシクラゲ)。\n細胞が単列(uniseriate)に並んでいるものが多いが、多列(multiseriate)に並んでいるものもいる(例:スチゴネマ属Stigonema)。\nトリコームの末端の細胞はふつう他の細胞とはやや異なる形をしており、特に先端が肥厚している場合はカリプトラ(頂冠calyptra)とよばれる。", "qas": [ { "question": "細胞が密接して列状に連なっているものを何といいますか?", "id": "tr-466-06-000", "answers": [ { "text": "糸状性", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "細胞糸のことを何といいますか?", "id": "tr-466-06-001", "answers": [ { "text": "トリコーム", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "細胞が多列に並んでいるものとは何属のことですか?", "id": "tr-466-06-002", "answers": [ { "text": "スチゴネマ属", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一部の種では、トリコームが異極性を示す。\n例えばヒゲモ属(Rivularia)などでは、トリコームの基部に異質細胞が存在し、トリコーム先端の細胞が細長く伸びている。\nこの場合、基部の異質細胞で窒素固定、頂端部でリン吸収を行う(つまり細胞間で形態分化とともに機能分化を示す)。\nトリコームは無分枝(unbranching)であるものが多いが、一部は偽分枝または真分枝をする。\n偽分枝(falsebranching)とは、トリコームの途中が分断し(ふつう細胞死による)、その一端または両端が細胞列から外れて伸長することによって形成された分枝様の構造のことである。\n一方、真分枝(truebranching)とは、トリコームを構成する細胞が2方向以上で分裂することによって形成された分枝である。\n分枝する種の中には、匍匐糸と直立糸の分化などの異糸性(heterotrichous)を示すものもいる(例:Fischerella)。\n糸状性の藍藻は、しばしば(全てではない)細胞分化(先端の細胞、異糸性、異質細胞やアキネートなど)や細胞死を伴う形態形成(偽分枝、連鎖体形成など)、細胞間の連絡(ペリプラズムの共有やセプトソーム)を示し、原核生物ではあるものの真の多細胞体ともいえる体をもつ場合がある。", "qas": [ { "question": "トリコームの基部に異質細胞が存在し、トリコーム先端の細胞が細長く伸びているのは何属ですか?", "id": "tr-466-07-000", "answers": [ { "text": "ヒゲモ属", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "藍藻の細胞は直径1μm以下のこともあるが、原核生物としては大型のものが多く、直径100μmに達するものもいる。\n典型的なグラム陰性細菌(大腸菌など)と同様、藍藻の細胞壁は、ペプチドグリカン層(peptideglycanlayer)と、その外側を覆う外膜(outermembrane)からなる。\nペプチドグリカン層は、アミノ糖であるNーアセチルグルコサミンとNーアセチルムラミン酸が交互に連なった糖鎖が、オリゴペプチドで架橋された物質であるペプチドグリカン(ムレインmurein)からなる。\n藍藻のペプチドグリカン層は、一般的なグラム陰性細菌のそれにくらべて厚いことが多く(12〜700nm)、またオリゴペプチドの架橋が多い(グラム陽性細菌的な特徴)。\nペプチドグリカン層が存在する細胞膜と外膜の間の空間は、ペリプラズム(periplasm)とよばれる。\n外膜は、細胞膜と同じく脂質二重層であるが、外側の層には糖鎖が結合した脂質(リポ多糖lipopolysaccharide,LPS)が含まれる。\n他のグラム陰性細菌ではリポ多糖は毒となることがあり(内毒素)、藍藻がもつ外膜のリポ多糖にもその可能性が指摘されている。", "qas": [ { "question": "細胞壁にある外膜は何を覆っていますか?", "id": "tr-466-08-000", "answers": [ { "text": "ペプチドグリカン層", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ペプチドグリカン層を構成している物質とは何?", "id": "tr-466-08-001", "answers": [ { "text": "ペプチドグリカン", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ペプチドグリカン層が存在する細胞膜と外膜の間の空間は何と呼ばれているの?", "id": "tr-466-08-002", "answers": [ { "text": "ペリプラズム", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "糸状性藍藻のトリコームでは、細胞列は共通の外膜に包まれており、またペプチドグリカン層を共有している。\n細胞間には、ペプチドグリカン層を貫通して隣接する細胞の細胞膜同士をつなぐ連結構造[セプトソーム(septosome、隔壁結合septaljunction、微細原形質連絡microplasmodesmata)]が多数存在する。\nセプトソームは長さ25nm、外径15nm、内径6nmほどであり、おそらく細胞間での低分子物質輸送に関与している。", "qas": [ { "question": "セプトソームの長さは?", "id": "tr-466-09-000", "answers": [ { "text": "25nm", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "外膜の外側には、結晶性の糖タンパク質からなる層が存在することがあり、S層(surfacelayer,S-layer)とよばれる。\nこのような糖タンパク質層は、細胞の保護、物質透過、接着、認識、運動、被食防御などに関与していると考えられている。\nさらに細胞は、タンパク質や細胞外多糖(exopolysaccharide)からなる細胞外高分子物質(extracellularpolymericsubstance,EPS)によって覆われることがある。\n細胞外高分子物質は、その厚さや形態、性状に応じて、鞘(sheath;薄く緻密で光学顕微鏡下で明瞭な構造)、夾膜(capsule;厚く均質で輪郭が明瞭な構造)、粘液質(slime;細胞に沿った形を示さない不定形の構造)ともよばれる。\n多数の個体が細胞外高分子物質からなる共通の基質に包まれ、群体やバイオフィルムを形成することもある。\nこのような外被には、無機栄養分の貯蔵、乾燥耐性、紫外線耐性、浮力増大、被食防御などの機能があると考えられている。\n細胞外高分子物質に含まれる紫外線吸収色素として、スキトネミン(scytonemin)やグロエオカプシン(gloeocapsin)、マイコスポリン様アミノ酸(mycosporine-likeaminoacid,MAA)などが知られている。\nまた細胞外被が石灰化(炭酸カルシウムが沈着)することがあり、おそらく光合成における二酸化炭素濃縮機構と関連している。\nこのような石灰化によって、ストロマトライトが形成されることがある。", "qas": [ { "question": "S層を構成している物質とは何?", "id": "tr-466-10-000", "answers": [ { "text": "糖タンパク質", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "細胞外高分子物質に含まれる紫外線吸収色素として知られているのはスキトネミン、グロエオカプシンの他に何がありますか?", "id": "tr-466-10-001", "answers": [ { "text": "マイコスポリン様アミノ酸", "answer_start": 511, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "藍藻は原核生物であり、DNAは核膜に包まれず、また葉緑体やミトコンドリア、ゴルジ体などの細胞小器官をもたない。\n細胞内で生体膜に包まれた構造としては、光合成における光化学反応の場であるチラコイドのみが存在する。\nチラコイドはふつう重なることなく、細胞内で同心円状、放射状または不規則に配置する。\nふつうチラコイドには、フィコビリンタンパク質からなるフィコビリソームが付着している。\n一部の藍藻(原核緑藻)はフィコビリソームを欠き、チラコイドが重なってラメラを形成している。\n藍藻では、酸素呼吸における呼吸鎖の酵素もチラコイド上に存在することがある(一部の酵素を光化学系と共有する)。\n最も初期に分かれた藍藻であるグロエオバクター属(Gloeobacter)はチラコイドをもたず、光化学系は(呼吸鎖とともにパッチ状に)細胞膜上に存在する。\nプロクロロン属(Prochloron)では、チラコイドの一部が膨潤して液胞状になることがある。\nチラコイドは、細胞膜と直接つながることはないと考えられていたが、現在では”チラコイド形成中心”(thylakoidcenter)が細胞膜上に存在することが示されている。\n光学顕微鏡下では、チラコイドが存在する細胞周縁部が色付き、チラコイドを欠く中心域が淡色に見えることがあり、伝統的に前者を有色質(chromoplasm)、後者を中心質(centroplasm)とよぶ。\n中心質にはふつうDNAが存在するため、この領域は核質(nucleoplasm)ともよばれる(ただし藍藻の中には、DNAが細胞周縁部に存在する例もある)。", "qas": [ { "question": "光合成の光化学反応が起こる場所はどこ?", "id": "tr-466-11-000", "answers": [ { "text": "チラコイド", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フィコビリソームを構成しているものとは何?", "id": "tr-466-11-001", "answers": [ { "text": "フィコビリンタンパク質", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フィコビリソームの無い一部の藍藻ではチラコイドの重なり部分で何が形成されているの?", "id": "tr-466-11-002", "answers": [ { "text": "ラメラ", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中心質にDNAが存在している領域は何とよばれているの?", "id": "tr-466-11-003", "answers": [ { "text": "核質", "answer_start": 627, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "細胞内にはカルボキシソーム(carboxysome,polyhedralbody)とよばれる直径200〜700nmほどのタンパク質顆粒が存在する。\nカルボキシソームは主にルビスコや炭酸脱水酵素からなり、殻タンパク質で包まれている。\nカルボキシソームは、おそらく効率的な二酸化炭素濃縮機構に関わっており(重炭酸イオンから二酸化炭素を生成)、このため藍藻はほとんど光呼吸を示さない。\nただし、おそらく特異なグリコール酸代謝経路をもつ。\nカルボキシソームは、炭素固定を行う他の細菌(光合成細菌や化学合成細菌)に見られることもある。", "qas": [ { "question": "カルボキシソームを覆っている物質とは何?", "id": "tr-466-12-000", "answers": [ { "text": "殻タンパク質", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カルボキシソームの直径のサイズは何?", "id": "tr-466-12-001", "answers": [ { "text": "200〜700nmほど", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ふつう貯蔵多糖としてグリコーゲンが存在するが、α-1,6結合の分枝が少ないセミアミロペクチンやアミロースをもつものもいる。\nこのような藍藻が貯蔵するα-グルカンは、藍藻デンプン(cyanophyceanstarch)ともよばれる。\n多くの藍藻は、アルギニンとアスパラギン酸からなる非リボソームペプチドであるシアノフィシンの顆粒(藍藻顆粒cyanophycingranule)をもち、おそらく窒素貯蔵体としている。\nただし光合成に機能するフィコビリソームを窒素貯蔵体としていることもある(窒素欠乏下ではフィコビリソームが分解され、これに由来する窒素を利用する)。\n細胞内には、油滴やポリリン酸体(polyphosphatebody;リン貯蔵体として機能)などもふつうみられる。\nまたβ-ヒドロキシブチレート重合体(バイオプラスチックの一種)や炭酸カルシウムを細胞内に貯めるものも知られている。", "qas": [ { "question": "藍藻が貯蔵するα-グルカンの呼称は何ですか?", "id": "tr-466-13-000", "answers": [ { "text": "藍藻デンプン", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "多くの藍藻は藍藻顆粒で何を貯蔵しているの?", "id": "tr-466-13-001", "answers": [ { "text": "窒素", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "プランクトン性藍藻の中には、ガス胞(gasvesicle)をもつものがいる。\nガス胞は細長い小胞であり、多数のガス胞が平行に密集して\"エアロトープ\"(aerotope,gasvacuole)を形成している。\nガス胞の膜は脂質ではなく、タンパク質からなる。\nこの膜は水を透過しないため、ガス胞は空気で満たされ比重が軽くなり、細胞は浮くことができる。\nつまりガス胞は細胞中の気泡のようなものであり、水と屈折率が異なるため光学顕微鏡下では目立つ。\n光合成産物の増加やイオン取り込みによって細胞内の膨圧が高くなるとガス胞はつぶれて細胞は沈降し、そこで光合成産物の消費やイオン排出によって膨圧が低下すると再びガス胞が膨らんで細胞は浮上する。\nガス胞は藍藻に特有の構造ではなく、他のプランクトン性原核生物に見られることもある。", "qas": [ { "question": "\"エアロトープ\"を形成しているものとは何ですか?", "id": "tr-466-14-000", "answers": [ { "text": "ガス胞", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ガス胞の膜の構成成分は何?", "id": "tr-466-14-001", "answers": [ { "text": "タンパク質", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プランクトン性藍藻やプランクトン性原核生物にある構造で、細胞を浮かせる役割を果たしているものとは何?", "id": "tr-466-14-002", "answers": [ { "text": "ガス胞", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "藍藻は、酸素発生型光合成を行う唯一の原核生物群である。\n藍藻は2種類の光化学系(光化学系IとII)をもつ点で、光合成を行う他の細菌(非酸素発生型光合成を行う)とは異なる。\n緑色硫黄細菌(クロロビウム門)やヘリオバクテリア(フィルミクテス門)は光化学系Iと相同な鉄硫黄型反応中心のみを、紅色細菌(プロテオバクテリア門)や緑色滑走細菌(クロロフレクサス門)は光化学系IIと相同なキノン型反応中心のみをもつ。\n直列した2種類の光化学系をもつことが、酸素発生型光合成(水を分解する)を可能にしていると考えられている。", "qas": [ { "question": "光化学系Iと相同なものはヘリオバクテリアと何ですか?", "id": "tr-466-15-000", "answers": [ { "text": "緑色硫黄細菌", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "光化学系IIと相同なものは紅色細菌と何ですか?", "id": "tr-466-15-001", "answers": [ { "text": "緑色滑走細菌", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "知られている限り、全ての藍藻は酸素発生型光合成を行う。\nただし好気環境下では酸素発生型光合成を行うが、嫌気環境下では非酸素発生型光合成(光化学系Iを使用し、硫化水素を電子供与体として硫黄を生成)を行う例が知られている。\nまた連続暗黒下でも、有機物を利用した従属栄養を行って生育可能な種(通性光独立栄養性)もいる。\nSynechocystissp.PCC6803など従属栄養能をもつ藍藻は、光合成遺伝子の変異が致死的にならないため(光合成しなくても生きていける)、光合成研究のモデル生物として広く用いられている。\nまたメタゲノム研究(海水などの環境から直接抽出したDNAをもとにしたゲノム解析)から、光合成能を含め代謝的に不完全(光化学系II、ルビスコ、クエン酸回路などの欠失)な藍藻(UCYN-A,unicellularcyanobacteriagroupA)の存在が示されているが、これは他生物に共生して栄養的に依存して生きているものと考えられている。\n古くは「無色の藍藻」が報告されているが、少なくともその一部は全く別の細菌群に属することが明らかとなっている(例:ベッギアトア属)。", "qas": [ { "question": "嫌気環境下では藍藻は何を行いますか?", "id": "tr-466-16-000", "answers": [ { "text": "非酸素発生型光合成", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "光合成しなくても生きていける藍藻は何をもっていますか?", "id": "tr-466-16-001", "answers": [ { "text": "従属栄養能", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ほとんどの藍藻は、クロロフィルaをもつ。\nまた一部の藍藻は、クロロフィルaに加えて、クロロフィルb、d、またはfをもつ。\nクロロフィルdやfは生物の中で一部の藍藻のみがもつ色素であり、人間の目には見えない近赤外光を光合成に利用できる。\nクロロフィルb(または類似色素)をもつ藍藻は、原核緑藻ともよばれる。\n原核緑藻のプロクロロコックス属(Prochlorococcus)はクロロフィルaの代わりにジビニルクロロフィルaをもつ点で特異な存在であり、光合成の反応中心でジビニルクロロフィルaを用いる唯一の生物である。\nまたアカリオクロリス属(Acaryochloris)はクロロフィルa量が少なく、反応中心でクロロフィルdを用いている。", "qas": [ { "question": "大半の藍藻がもっている物質とは何?", "id": "tr-466-17-000", "answers": [ { "text": "クロロフィルa", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "原核緑藻は何の物質をもつ藍藻のことですか?", "id": "tr-466-17-001", "answers": [ { "text": "クロロフィルb", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プロクロロコックス属が光合成に利用する物質とは何?", "id": "tr-466-17-002", "answers": [ { "text": "ジビニルクロロフィルa", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ほとんどの藍藻は、光合成アンテナ色素タンパク質であるフィコビリンタンパク質をもつ。\n藍藻において、フィコビリンタンパク質はフィコビリソームを形成し、チラコイドに付着している。\nフィコビリソームの中央にはアロフィコシアニンからなるコアが位置し、そこからフィコシアニンとフィコエリスリン(後者を欠くこともある)からなるロッドが伸びている。\nふつう青色のフィコシアニンの割合が多いため、「藍藻」の名が示すように青緑色を呈する。\nしかし中には赤色のフィコエリスリンを多くもつため、紫〜赤色を呈する種もいる。\nまたフィコエリスリンの代わりにフィコエリスロシアニンをもつものもいる。\n原核緑藻とよばれる藍藻はフィコビリンをほとんどもたないため、クロロフィルの色である緑色がそのまま見える。", "qas": [ { "question": "フィコビリソームのコアを形成しているものとは何?", "id": "tr-466-18-000", "answers": [ { "text": "アロフィコシアニン", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "一般的には、何色のフィコシアニンの割合が多いといわれているの?", "id": "tr-466-18-001", "answers": [ { "text": "青色", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "藍藻の中には、光の質(波長)に応じてフィコシアニン:フィコエリスリン比を変化させるものもいる。\n例えば緑色光下ではフィコエリスリンが増加、赤色光下でフィコシアニンが増加し、それぞれの波長の光を効率的に吸収できるようになり、それに応じて藻体の色が変化する。\nこの反応は補色馴化(complementarychromaticacclimation)とよばれる。\nまたフィコビリンタンパク質の発色団となるビリン色素(フィコシアノビリンなど)は、光受容体であるフィトクロムやシアノバクテリオクロム(走光性や補色馴化のセンサーとなる)の発色団としても用いられている。", "qas": [ { "question": "この文書の例えでは、緑色光下では何の色素が増えると書いてあるの?", "id": "tr-466-19-000", "answers": [ { "text": "フィコエリスリン", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "この文書の例えでは、赤色光下では何の色素が増えると書いてあるの?", "id": "tr-466-19-001", "answers": [ { "text": "フィコシアニン", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "藍藻がもつカロテノイドとしては、β-カロテン、ゼアキサンチン、エキネノン、ミクソキサントフィル(ミクソール配糖体)が一般的だが、α-カロテン、カンタキサンチン、ノストキサンチン、オシラキサンチン(オシロール配糖体)などをもつものも報告されている。\n藍藻のルビスコ(リブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ)には2タイプが知られる。\n多くの藍藻は、緑色植物などがもつものと相同なFormIBルビスコをもつ。\nこのような藍藻はβ-シアノバクテリア、FormIBルビスコからなるカルボキシソームはβ-カルボキシソームとよばれる。", "qas": [ { "question": "藍藻のルビスコは何タイプありますか?", "id": "tr-466-20-000", "answers": [ { "text": "2タイプ", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "FormIBルビスコは何を構成していますか?", "id": "tr-466-20-001", "answers": [ { "text": "カルボキシソーム", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "多くの藍藻がもっているのは何ルビスコですか?", "id": "tr-466-20-002", "answers": [ { "text": "FormIBルビスコ", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、一部の藍藻(プロクロロコックス属など)は、一部のプロテオバクテリアのものと相同なFormIAルビスコをもつ(おそらく遺伝子水平伝播による)。\nこのような藍藻はα-シアノバクテリア、FormIAルビスコからなるカルボキシソームはα-カルボキシソームとよばれる。\n藍藻において、酸素呼吸の電子伝達系(呼吸鎖)は細胞膜やチラコイドに存在し、後者の場合は、光合成の光化学系とタンパク質を一部共有している(プラストキノン)。\nまた酸素呼吸におけるクエン酸回路(TCA回路)のオキソグルタル酸デヒドロゲナーゼを欠いており、この部分を別の酵素によって代謝している。", "qas": [ { "question": "一部の藍藻がもっているのは何ルビスコですか?", "id": "tr-466-21-000", "answers": [ { "text": "FormIAルビスコ", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "FormIAルビスコからなるカルボキシソームは何とよばれているの?", "id": "tr-466-21-001", "answers": [ { "text": "α-カルボキシソーム", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "船山春子", "paragraphs": [ { "context": "船山春子は、日本の編集者、小説家。夫は小説家の船山馨だ。旧姓は坂本春子、筆名は佐々木翠である。\n\n船山馨の妻かつ秘書として、苦楽を共にして生活し続けた。馨が執筆の苦悩から覚醒剤であるヒロポンに手を出せば、春子もまたヒロポンを用いて、馨と苦労を分かち合った。馨がヒロポンを断ってから『石狩平野』で成功するまでの低迷期は、金策や出版社との交渉など、汚れ役を一手に引き受け、夫を支え続けた。晩年の馨の糖尿病悪化後は献身的に看護し、馨の死去と同日に死去したことも話題を呼んだ。熊本県玉名郡江田町出身、熊本県立玉名高等女学校中退。", "qas": [ { "question": "船山春子の夫は誰?", "id": "tr-467-00-000", "answers": [ { "text": "船山馨", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "船山春子の筆名は何?", "id": "tr-467-00-001", "answers": [ { "text": "佐々木翠", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "船山春子は1910年、熊本県玉名郡江田町の商家に誕生した。次女であり、姉の他に兄と弟が1人ずついた。裕福な家の生まれであったが、春子が8歳のときに父が死去し、家は人手に渡った。母は飲食店を営んだが、商売は成功せず、後に中風に倒れた。これにより春子は、空の米櫃にすがって泣く日があり、田のある家に稲穂拾いに行くほど、極貧の少女時代を送った。\n\n1923年、熊本県立玉名高等女学校に入学した。下駄を履き減らすのが惜しいといって、約4里の通学路をほとんど裸足で通学した。その傍ら、豆腐を作って売り、学費を工面した。しかし、その金を兄が遊びに使い込んだため、学費が払えず、失意の内に2年で中退を強いられた。\n\n地元での学業を諦め、台湾に勤める親戚を頼って台湾に渡った。看護師の養成学校に通い、病院の見習い看護師として勤めつつ、生計のために正看護師の資格を得た。病院の院長秘書を務め、教員養成学校にも通い、教員の資格も得た。これらはほぼ独学で、当時は1日の睡眠時間は3時間だった。この台湾滞在中に、母とも死別した。", "qas": [ { "question": "船山春子は何年に生まれた?", "id": "tr-467-01-000", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "春子が何歳のときに父が死去したか。", "id": "tr-467-01-001", "answers": [ { "text": "8歳", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "春子はいつ熊本県立玉名高等女学校に入学した?", "id": "tr-467-01-002", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 171, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "母が亡くなった時、春子はどこにいた?", "id": "tr-467-01-003", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 437, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "春子は熊本へ帰郷後、文学を志望して上京の夢を抱いたことから、上京の手段として、1930年、東京の医大志望の男性と結婚した。上京後、夫が医大へ通い、春子が働く生活が続いた。しかし夫は留年し、卒業が先送りとなった。それを知った春子は、留年は自分の責任として、その始末として熊本へ帰郷し、離婚を申し出た。東京での自由な生活を求めたとの説もあるが、詳細な事情は春子は誰にも語っていない。\n\n離婚後に改めて上京し、神田猿楽町に家を借りた。巌松堂の女性誌『むらさき』などの編集者を経て、1935年頃、新宿区の出版社である豊国社の編集者となった。当時より春子は本名ではなく、筆名「佐々木翠」を名乗った。同1935年に、春子の姉が夫と死別したことから、春子は3人の子供と共に姉を東京で同居させた。姉の仕事もあり、家は経済的にも安定した。\n\n春子は編集の仕事を続けつつ、小説家の夢も抱いていた。当時の春子の雇用者である豊国社の経営者・高田俊郎がこれを支持し、高田の援助により1939年7月、『創作』が発行された。文芸雑誌の体裁をとっているものの、実際には小規模の同人誌であった。春子はこの創刊号で、「佐々木翠」の筆名で小説『生活の錘』を発表した。『創作』は3号より豊国社に受け継がれ、春子が編集兼発行人となった。", "qas": [ { "question": "春子が東京の医大志望の男性と結婚したのはいつなの?", "id": "tr-467-02-000", "answers": [ { "text": "1930年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "春子は離婚したあと、どこの家を借りたの?", "id": "tr-467-02-001", "answers": [ { "text": "神田猿楽町", "answer_start": 202, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『創作』はいつ発行されたか。", "id": "tr-467-02-002", "answers": [ { "text": "1939年7月", "answer_start": 428, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小説『生活の錘』を発表した時、春子の筆名は何だった?", "id": "tr-467-02-003", "answers": [ { "text": "「佐々木翠」", "answer_start": 490, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『創作』3号より、後に夫となる船山馨も同人となり、春子と共に新進作家として注目を集めた。当時の春子は、馨に自分の小説を酷評されたために最初こそ反感を抱いたが、やがて彼が過去の春子自身と同様に極貧生活を強いられていることに興味をそそられた。春子は馨に文人としての尊敬の念を抱き、その想いは次第に愛情へと変わっていった。\n\n当時の馨の代表作に、芥川賞候補作となった『北国物語』があるが、この執筆を誰よりも積極的に支持したのは春子だったとの声もある。同作に対して春子は、「かくも美しく、かくも温かく、さうしてかくも酷しい人の世の歌が、かつて何時の日、我々の心を叩いたことがあったであらう」と、恋文にも読める賛辞を贈っている。\n\nやがて春子は執筆よりも編集に仕事の比重を移し、1941年、作品『亂れ』を最後に断筆した。この理由については、文芸評論家の川西政明は、「(春子が)自分と似た境遇にあり、同じ文学的気質をもち、そのうえ自分より遥かに秀でて抒情的な資質を船山馨のなかに見た」と分析しており、他に馨や寒川光太郎、椎名麟三といった、後に作家として大成する文学仲間と知り合ったことで、自分は編集者であるべきと自覚した、春子の方が馨よりも4歳年上の分、経験や知識が豊富だが、春子は馨の文筆力を認め、自分の経験や知識を馨の小説に活かすことを希望した、などの説がある。", "qas": [ { "question": "馨の『北国物語』はどの賞の候補作だった?", "id": "tr-467-03-000", "answers": [ { "text": "芥川賞", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "春子が書いた最後の作品は何?", "id": "tr-467-03-001", "answers": [ { "text": "『亂れ』", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "春子と馨と、誰がもっと年上なの?", "id": "tr-467-03-002", "answers": [ { "text": "春子", "answer_start": 379, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "春子は馨より何歳上なの?", "id": "tr-467-03-003", "answers": [ { "text": "4歳", "answer_start": 514, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本が戦争へと向かうにつれ、人々は命がいつまでもつかわからない時代となった。春子は、女であるからには子供を残して死にたいと考え、先述の通り馨の文学に強く魅了されていたことから、馨の子供を産むことを望んだ。\n\nやがて春子は、馨との間の子を孕んだ。私生児であり家庭というものを拒絶していた馨は、春子に産んでほしくないと伝えた。春子は結婚を迫る気は無いものの、産む意志に変わりは無く、女1人でも子供を育てる決意であった。父と死別し、母が病気に倒れた後の極貧生活を生き抜いた春子は、苦境を乗り越える自信を持っていたのである。\n\n1944年5月より、馨は長編小説『半獣神』の執筆を始めるが、序章を書き終えた翌6月には、執筆中の覚書の中で、「この頃佐々木との関係のために私の精神は破滅にひんし、しきりに自殺を想う」と、春子(佐々木翠)との関係における苦悩を吐露している。\n\n馨は、親交のあった椎名麟三から堕胎薬を調達し、春子に飲ませたが、それは偽薬であり、春子は男児の眞之を出産した。春子はその子を抱いて東京の船山家に挨拶に訪れ、出産の報告だけで去るつもりであったが、馨の母に「馨を父無し子にしてしまった。同じ過ちを繰り返させないでほしい」と懇願され、引き留められた。1944年8月18日、春子はささやかに船山家に嫁入りした。\n\nこうして春子の、馨の妻として、秘書としての生活が始まった。結婚後は春子は「佐々木翠」の筆名を捨て、生涯その著作が発表されることは無かった。『新創作』も、同年4月に通巻38号をもって終刊した。", "qas": [ { "question": "馨は長編小説『半獣神』の執筆をいつから始めたか。", "id": "tr-467-04-000", "answers": [ { "text": "1944年5月", "answer_start": 260, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "春子が産んだ子供の名前は何?", "id": "tr-467-04-001", "answers": [ { "text": "眞之", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "春子はいつ船山家に嫁入りした?", "id": "tr-467-04-002", "answers": [ { "text": "1944年8月18日", "answer_start": 528, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『新創作』は何年に終刊したの?", "id": "tr-467-04-003", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 528, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "やがて時代は、太平洋戦争末期へ突入した。1945年4月には、船山家は戦火を避け、馨の祖父の郷里である新潟県に疎開した。春子は食料の調達のために農作業に繰り出し、田ではヒルに襲われることも構わずに奮闘した。農作物が収穫できないときは、スズメを捕えて焼いて食卓に載せた。\n\n終戦を迎え、船山家は疎開先から帰京し、馨は安定した執筆生活を始めた。馨や春子、椎名麟三らによる孔版印刷屋「創美社」の創設、春子が編集兼発行人となっての同人雑誌『次元』創刊など、馨の戦後文学者としての地位は確かなものとなっていた。\n\n当時の平均月給は銀行員が6140円、デパート社員が4300円強の時代、馨は新聞社や雑誌社から原稿料と印税収入を合せ、毎月1万円から3万円近くの収入を得ていた。馨は多忙な執筆を乗り切るために、この頃よりヒロポンを使用していた。\n\n1946年12月、春子は長女を出産したが、翌1947年、その長女は新生児メレナにより、1歳にも満たずに早世した。その喪失感からか、春子もまた、馨に隠れてヒロポンを使用した。翌1948年2月、次男の滋生が誕生した。", "qas": [ { "question": "『次元』の発行人は誰?", "id": "tr-467-05-000", "answers": [ { "text": "春子", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時の銀行員の平均月給はいくらだった?", "id": "tr-467-05-001", "answers": [ { "text": "6140円", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "春子が長女を出産したのはいつ?", "id": "tr-467-05-002", "answers": [ { "text": "1946年12月", "answer_start": 365, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "馨は多忙な執筆を乗り切るために、何を使用するようんなった?", "id": "tr-467-05-003", "answers": [ { "text": "ヒロポン", "answer_start": 351, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同1948年6月、朝日新聞紙上で『グッド・バイ』を連載予定であった太宰治が、未完原稿を遺して急逝した。太宰の後に連載予定であった馨が繰り上げにより急遽、連載開始が決定した。予定では、馨の執筆は7か月も先であり、準備も不十分な状態であったため、馨は一度は断ったものの、新聞社側に押し切られる形で承諾した。馨は1946年、朝日新聞紙上で『人間復活』の連載を始め、同時に他紙の連載もこなす、多忙極まりない生活を送った。\n\nやがて馨は不眠不休の執筆を続ける内に、ヒロポンを常用するようになった。一方で春子は、食事とトイレ以外は机から離れない馨に代り、日中は出版社との交渉を引き受け、夜は馨の執筆を見守り、原稿用紙や飲み物の注文に即座に応えられる生活を続けた。後に「私がひとりになれる時間がトイレの中だけ」と吐露するほどだった。馨に付合う形で、春子もまたヒロポンを常用し始めた。\n\nヒロポンの成分は錠剤から注射へと、より濃厚なものとなり、量も次第に増加した。春子は長女の死の直後から日記を兼ねた家計簿を記していたが、この中に「ヒロポン」という直接的な記述は無いものの、「2月19日注射器17円」「20日注射薬26円50銭」「3月24日注射薬・針400円」「28日170円」「4月12日74円」「29日200円」といった記述が見られる。\n\n1949年3月、ヒロポンは厚生省により劇薬に指定され、同年10月には製薬会社へ製造中止の勧告が出された。ヒロポン入手が困難になり、入手には密造品を要する分、価格は法外にまで値上がりした。しかし船山家にとってヒロポンはすでに必需品となっており、船山家の支出は、「医薬品」名義が千円単位にはね上がった。標準価格米10キログラムが405円の時代において、この年の船山家の「医療費」名義の支出は2月が1578円、5月には4175円にまで達した。10月は眞之が患った病気の治療費も含まれるものの、10万2600円にまで達していた。", "qas": [ { "question": "ヒロポンが厚生省により劇薬に指定されたのはいつなの?", "id": "tr-467-06-000", "answers": [ { "text": "1949年3月", "answer_start": 564, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "春子の家計簿に記載されている注射薬は何を意味するか。", "id": "tr-467-06-001", "answers": [ { "text": "「ヒロポン」", "answer_start": 457, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1951年、馨はついに、自らヒロポンを断つ決心をした。馨の自著によれば、同年2月の日本文藝家協会の理事会で、日頃から敬愛していた高見順に馨が大声で悪態を浴びせるという失態を犯したことの反省とあるが、春子の姪によれば、馨が春子の奇行を目にしたことが理由という。\n\n春子もまた、馨と共にヒロポンをやめる決意をした。この年の眞之の小学校入学もまた、ヒロポンを断つ一因となった。後述するように春子の遺作『空白の日記』はノンフィクションともいえる作品であり、当時の春子の心情が以下のように述べられている。", "qas": [ { "question": "馨が自らヒロポンを断つ決心をしたのはいつですか。", "id": "tr-467-07-000", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『空白の日記』の著者は誰?", "id": "tr-467-07-001", "answers": [ { "text": "春子", "answer_start": 192, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この頃の船山家は、ネズミとネコとゴキブリが同居するような粗末な家であった。雨が降ると洗面器とタライで雨漏りを受け、やがてプラスチック製の容器に入ったイチゴが出回ると、雨漏り受けはその容器に替わった。東京芸術大学に通っていた眞之は、絵の具を買うために売血していた。\n\n馨は美食家でもあり、三度の食事に多くの皿が載らなければ不機嫌であった。それでいて1963年頃には馨の糖尿病が進行していたため、春子は食事にはかなりの気を遣った。ヒロポン中毒時には食事など無頓着であったが、完全に中毒から脱した当時彼は、仕事量が減ったこともあり、18時には必ず食卓についた。そのため春子は毎日、日々の食事の時間と献立が頭から離れずにいた。その分、洗濯や掃除は後回しになった。幸いにも眞之の恋人が毎週のように船山家を訪れており、いつしか食事以外の家事担当となった。", "qas": [ { "question": "眞之が通っていた大学は?", "id": "tr-467-08-000", "answers": [ { "text": "東京芸術大学", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "眞之は絵の具を買うために何していたの?", "id": "tr-467-08-001", "answers": [ { "text": "売血", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "馨の糖尿病が進行しはじめたのはいつ頃からなの?", "id": "tr-467-08-002", "answers": [ { "text": "1963年頃", "answer_start": 173, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同1980年6月、馨は病状の悪化により、ついに全盲となった。食事や入浴から排泄に至るまで、すべて春子の介護の手を要するようになった。看護師の有資格者だけあって、春子の介護は確かなものであり、インスリン注射までこなした。\n\n同1980年10月、馨が北海道新聞文化賞の社会文化部門賞を受賞した。11月の北海道での授賞式には、旅行も叶わない馨に代って春子が来道し、式を終えると、馨の世話のためにすぐさま帰京した。小説家の原田康子によれば、この際の春子は疲労が目立ち、小柄な体がさらに小さく見えたという。翌1981年、馨が『茜いろの坂』で吉川英治文学賞を受賞した際も、4月10日の授賞式には春子が代理で出席した。\n\n同1981年、馨の病状は予断を許さない状態にまでなっていた。この年の7月末より約2週間、春子は文字通り不眠不休で馨に付き添っていた。自身が嘔吐感に見舞われても、常に馨に付き添い続けた。馨が僅かに呻くだけでも、すぐに馨のもとへ駆けつけた。馨は身長180センチメートル以上の大柄であり、床ずれしないよう頻繁に体位を変え、清拭するのは重労働であった。眞之が春子を案じ、仕事を休んで父に付き添い、母の負担を軽くしようと努めたが、無理であった。馨の声を聞くたびに春子も起き出してきたのである。\n\n死期が迫って気も弱った馨は、春子の手をとり「おまえだけは長生きしてくれよ」と言ったが、春子は「あなたが死んで残務整理が終わったら、私も1時間後にはすぐあとを追いかけますからね」と返した。", "qas": [ { "question": "馨はいつ北海道新聞文化賞の社会文化部門賞を受賞したの?", "id": "tr-467-09-000", "answers": [ { "text": "同1980年10月", "answer_start": 111, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "馨が『茜いろの坂』で吉川英治文学賞を受賞したのはいつ?", "id": "tr-467-09-001", "answers": [ { "text": "翌1981年", "answer_start": 248, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "長男の船山眞之は、少年時代は父を知る編集者の縁か、『主婦の友』などで子役モデルを務め、当時の天才子役といわれた鰐淵晴子と共に写真に収められたこともあった。東京芸術大学日本画科を経て、出版社に勤務し、主に美術書の編集を手掛けた後、1999年に肝癌で死去した。\n\n次男の船山滋生は、馨の原稿を挿絵担当である先述の佐藤忠良に届ける内に、佐藤の作品に魅せられ、彼に師事して彫刻家となった。結婚後は広い作業場を要し、軽井沢に転居した。画家としても才能を発揮し、朝日新聞の『声』欄のカットを約10年描き続けた。2007年に末期の肺癌により余命半年の告知を受けたものの、その後も快活に仕事を続け、2011年5月28日、長野県東御市の自宅にて死去した。", "qas": [ { "question": "船山眞之は何で死んだの?", "id": "tr-467-10-000", "answers": [ { "text": "肝癌", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "船山眞之の大学の専門は何?", "id": "tr-467-10-001", "answers": [ { "text": "日本画科", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "船山眞之が年上なの、船山滋生が年上なの?", "id": "tr-467-10-002", "answers": [ { "text": "船山眞之", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "船山滋生はいつ亡くなったか。", "id": "tr-467-10-003", "answers": [ { "text": "2011年5月28日", "answer_start": 291, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "篠島", "paragraphs": [ { "context": "篠島(しのじま)は、三河湾に浮かぶ離島。\n行政上は愛知県知多郡南知多町に属し、全域が三河湾国定公園に含まれる。\n2015年(平成27年)の国勢調査における人口は1,653人、世帯数は622世帯である。\n日間賀島・佐久島と合わせて「三河湾三島」または「愛知三島」などと呼ばれる。\n古くから伊勢神宮との関係が深く、三節祭には干鯛(御幣鯛)の神饌が行なわれる。", "qas": [ { "question": "篠島の2015年当時の人口は何人でしたか?", "id": "tr-468-00-000", "answers": [ { "text": "1,653人", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "篠島の2015年当時の世帯数はいくつでしたか?", "id": "tr-468-00-001", "answers": [ { "text": "622世帯", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三節祭の際に篠島から伊勢神宮に捧げられているものは何ですか?", "id": "tr-468-00-002", "answers": [ { "text": "干鯛", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "篠島は何県に属しているの?", "id": "tr-468-00-003", "answers": [ { "text": "愛知県", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "三河湾三島の中ではもっとも沖合に位置し、知多半島の師崎と渥美半島の伊良湖岬を結ぶ線上に位置する。\n北約3kmの距離に日間賀島(南知多町)が、北東約7kmの距離に佐久島(西尾市)があり、南知多町の本土との最短距離は約3kmである。\n知多半島・渥美半島との距離がそれぞれ10km以内と近く、また本土との生活交流が活発なため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島にあたる。\n面積は0.94km2であり、佐久島の約半分、日間賀島の1.2倍である。\n島の周囲は豊かな漁場であり、篠島港の突堤はクロダイの釣り場となっている。\n篠島と日間賀島の間には構造線が走っているため、三河湾三島の中で篠島だけ地質が異なり、領家帯花崗岩から成る。\n三河湾は平均水深約9.2mの浅い湾だが、構造線に沿って水深約40mの深みがある。", "qas": [ { "question": "篠島から距離が遠いのは日間賀島と佐久島のどちらですか?", "id": "tr-468-01-000", "answers": [ { "text": "佐久島", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "篠島の面積は?", "id": "tr-468-01-001", "answers": [ { "text": "0.94km2", "answer_start": 192, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "面積が大きいのは篠島と日間賀島のどちらですか?", "id": "tr-468-01-002", "answers": [ { "text": "篠島", "answer_start": 262, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "面積が大きいのは佐久島と篠島のどちらですか?", "id": "tr-468-01-003", "answers": [ { "text": "佐久島", "answer_start": 203, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中央部には49.1mの最高標高地点があり、この場所は三河湾三島の中でもっとも高い地点である。\n東岸には「さんさんビーチ」と呼ばれる天然の渚があり、緩やかな弧を描いて800m続いている。\n中央部の丘陵地には家屋が密集しているが、これまでに大火事の記録はない。\n北部には島民が「五万坪」と呼ぶ埋立造成地があり、造成地の南側には碁盤の目状に区切られた土地に住宅や民宿などが、北側には9ホールのゴルフ場跡などがある。\nゴルフ場跡は荒地となっているが、観光振興ゾーンとして整備される予定である。", "qas": [ { "question": "三河湾三島の中でもっとも高い地点は何mですか?", "id": "tr-468-02-000", "answers": [ { "text": "49.1m", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「さんさんビーチ」の距離はどれくらいですか?", "id": "tr-468-02-001", "answers": [ { "text": "800m", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "小島が点在する篠島一帯は、その風光明媚な景観から「東海の松島」と呼ばれ、本島から西方の松島方向を見た際の景色が「日本の夕陽百選」に選出されている。\n島の周囲には木島、小磯島、大磯島、築見島、中手島、野島、松島、戸亀島、平島の計9の無人島が属島として存在したが、現代の埋め立て工事によって小磯島と中手島は篠島本島と陸続きとなった。\nかつて築見島は干潮時に篠島とひと続きだったとされており、小磯島・中手島・築見島の3島を浦磯3島という。\n中手島にはおんべ鯛の調製所があり、島自体を伊勢神宮が所有・管理している。", "qas": [ { "question": "小磯島、木島、中手島の中で、海に囲まれた離島はどれですか?", "id": "tr-468-03-000", "answers": [ { "text": "木島", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "松島、小磯島、野島の中で篠島と陸続きになった島はどれですか?", "id": "tr-468-03-001", "answers": [ { "text": "小磯島", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "篠島一帯は、その景色の美しさから何と表現されていますか?", "id": "tr-468-03-002", "answers": [ { "text": "「東海の松島」", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "篠島の南0.8kmにある野島は面積0.03km2の無人島であり、篠島小学校がサバイバルキャンプなどに利用していたことがある。\n野島には篠島の属島では唯一、灯台(野島灯台)と社(野島神社)が設置されている。\n野島灯台は1957年(昭和32年)12月に初点火されたものであり、野島神社は7月の野島祭の際に信仰の対象となる。\n篠島の北西0.2kmにある木島は面積0.03km2、最高標高36mの無人島である。", "qas": [ { "question": "篠島から距離が離れている島は、野島と木島のどちらですか?", "id": "tr-468-04-000", "answers": [ { "text": "木島", "answer_start": 173, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "篠島の属島の中で灯台と社のある島は何ですか?", "id": "tr-468-04-001", "answers": [ { "text": "野島", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "篠島と野島間の距離はどれくらい離れていますか?", "id": "tr-468-04-002", "answers": [ { "text": "0.8km", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "篠島と木島間の距離はどれくらい離れていますか?", "id": "tr-468-04-003", "answers": [ { "text": "0.2km", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1958年(昭和33年)に三河湾一帯が三河湾国定公園に指定されると、名古屋鉄道は篠島一帯を海上動物公園にする構想を示した。\n観光に加えて日本モンキーセンターの繁殖研究をも目的とし、木島にはカニクイザルが、築見島にはアヌビスヒヒが、野島にはニホンザルが放された。\n無人島の築見島には年間数千人の観光客が来島し、これらのサルは1974年(昭和49年)まで飼育された。", "qas": [ { "question": "木島、築見島、野島に放たれたサルは何年まで飼育されたの?", "id": "tr-468-05-000", "answers": [ { "text": "1974年", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木島、築見島、野島にサルを放した機関はどこですか?", "id": "tr-468-05-001", "answers": [ { "text": "日本モンキーセンター", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "築見島に放たれたサルの種類は何だったの?", "id": "tr-468-05-002", "answers": [ { "text": "アヌビスヒヒ", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸時代後期にまとめられた尾州徇行記による人口は584人であり、同史料で938人の日間賀島よりも少なかったが、1874年(明治7年)には1,006人、1891年(明治24年)には1,562人と、1世紀余りの間に人口が3倍近くに増加し、日間賀島の人口を上回った。\nその後も人口は増え続け、1950年(昭和25年)には過去最大値の3,785人を記録した。\nその後は1960年(昭和35年)の国勢調査で3,403人、1970年(昭和45年)の調査で2,807人、1980年(昭和55年)の調査で2,576人、1990年(平成2年)の調査で2,352人、2000年(平成12年)の調査で2,039人、2010年(平成12年)の調査で1,763人と減少が続いている。\n2000年調査での高齢者人口比率は22.6%だったが、2010年調査では29.4%に大きく上昇した。\n2000年調査による人口密度は2,192人/km2であり、日間賀島(2,882人/km2)、池島(長崎県、2,641人/km2)に次いで日本の離島中第3位だった。", "qas": [ { "question": "1874年と1891年を比較すると、どちらの年の人口が多かったですか?", "id": "tr-468-06-000", "answers": [ { "text": "1891年", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1950年と1960年を比べて、人口が多かった年はどちらでしたか?", "id": "tr-468-06-001", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "昭和35年、昭和45年、昭和55年、平成2年の中で2番目に人口が少ない年はいつですか?", "id": "tr-468-06-002", "answers": [ { "text": "昭和55年", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "高齢者人口比率が高いのは2000年と2010年のどちらですか?", "id": "tr-468-06-003", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 356, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "三河湾三島地域の気候は温暖であり、年平均気温は16度前後である。\n結氷や降霜は少なく、降雪はほとんどみられないが、冬季には強い季節風が吹く。\n1970年代の年平均降水量は1,310mmであり、2005年から2011年の平均が1,469mmだった南知多町の本土や愛知県の平均と比べてやや少ない。", "qas": [ { "question": "1970年代の三河湾三島地域の年平均降水量はどれくらいでしたか?", "id": "tr-468-07-000", "answers": [ { "text": "1,310mm", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2005年から2011年の愛知県の年平均降水量はどれくらいでしたか?", "id": "tr-468-07-001", "answers": [ { "text": "1,469mm", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "神明神社からは縄文後期の貝塚が発見され、木島には弥生時代の遺跡がある。\n古墳も多数発見されており、鯨浜・神戸には弥生後期の古墳が、妙見斎跡には横穴式石室古墳がある。\n万葉集巻七には「夢のみに継ぎて見えつつ小竹島(しのじま)の磯越す波のしくしく思ほゆ」と詠まれているが、「小竹島」は篠島に比定されており、塩見の丘に歌碑が建てられている。\nまた、奈良県の平城宮からは「参河国播豆郡篠嶋海部供奉五月料御贄佐米楚割六斤」と書かれた木簡が出土しており、奈良時代からサメ・タイ・スズキ・赤魚などの楚割(すわやり、魚介類の保存食)を献上していた。", "qas": [ { "question": "神明神社から発見されたものとは何ですか?", "id": "tr-468-08-000", "answers": [ { "text": "貝塚", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "篠島は伊勢国・志摩国と東国を結ぶ海上交通の要衝であり、南北朝時代の延元3年(1338年)には南朝の後醍醐天皇の皇子義良親王(後の後村上天皇)が東国に向かう途中、難破して当地に漂着した。\n親王は篠島城を住居として6-7ヶ月滞在した後、迎えとともに吉野に帰還した。\nこれを物語るものとして、親王の飲料水を確保するために掘られたとされる「帝井」(みかどい)が存在する。\n奈良時代には三河国幡豆郡に属したが、鎌倉時代には志摩国答志郡、室町時代には伊勢国度会郡の所属となり、慶長元年(1596年)に尾張国所属で落ち着いた。\n篠島からは頑丈で良質な岩が取れるため、加藤清正は名古屋城築城の際に篠島から石を切り出し、愛知県立内海高校篠島分校跡近くに名残(清正の枕石)が残っている。", "qas": [ { "question": "名古屋城築城のために篠島から石を運ばせた人物は誰ですか?", "id": "tr-468-09-000", "answers": [ { "text": "加藤清正", "answer_start": 276, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「帝井」は誰のために掘られたものですか?", "id": "tr-468-09-001", "answers": [ { "text": "義良親王", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "義良親王の父親は誰ですか?", "id": "tr-468-09-002", "answers": [ { "text": "後醍醐天皇", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "義良親王は篠島のどこに住んでいましたか?", "id": "tr-468-09-003", "answers": [ { "text": "篠島城", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "慶長元年(1596年)には徳川家康が悪天候のために篠島で足止めされたが、板谷金兵衛が吉田(現豊橋市)まで無事に送り届け、その報償として駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・紀伊の計7ヶ国における漁業権、渥美半島の外浜と西浜の営業権(総称して「金べさのお墨付き」)を得たという伝承が残っている。\n江戸時代には尾張藩の流刑地であり、数十人が篠島に流された。\n江戸時代には漁業とともに海運業を営む島民が多かった。", "qas": [ { "question": "尾張藩の島流しの地とはどこでしたか?", "id": "tr-468-10-000", "answers": [ { "text": "篠島", "answer_start": 167, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "徳川家康を篠島から吉田まで送り届けた人は誰でしたか?", "id": "tr-468-10-001", "answers": [ { "text": "板谷金兵衛", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "江戸時代に島民の多くが営んでいた産業とは漁業と何ですか?", "id": "tr-468-10-002", "answers": [ { "text": "海運業", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "明治時代になると沿岸漁業・近海漁業が盛んとなった。\n1876年(明治9年)には本土の師崎村や日間賀島村と合併して鴻崎村(こうざきむら)となったが、1881年(明治14年)に再び三村に分離して単独で篠島村となった。\n1889年(明治22年)に町村制が施行されると、知多郡篠島村として村制を敷いた。\n1900年(明治33年)、愛知県立水産試験場が一色町から篠島に移転。\n1933年(昭和8年)には篠島港が完成し、1934年(昭和9年)には海底市外電話が敷設され、1947年(昭和22年)には海底送電ケーブルで知多半島からの送電が開始された。\n1940年代半ばには付近を立て続けに大地震(東南海地震、三河地震、南海地震)が襲ったのだが、もっとも篠島に印象を与えたという三河地震でも家屋の倒壊はなかったようである。", "qas": [ { "question": "篠島が鴻崎村となったのは何年でしたか?", "id": "tr-468-11-000", "answers": [ { "text": "1876年", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "篠島はどのような方法で知多半島からの送電が可能となりましたか?", "id": "tr-468-11-001", "answers": [ { "text": "海底送電ケーブル", "answer_start": 243, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1953年(昭和28年)の台風13号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では篠島も甚大な被害を受けた。\n1957年(昭和32年)には離島振興法の第7次指定地域となり、日間賀島・佐久島とともに「愛知三島」という指定地域名が付けられた。\n1961年(昭和36年)6月1日、内海町・豊浜町・師崎町の本土3町と篠島村・日間賀島村の離島2村が合併して南知多町となった。\nかつては水不足に悩まされたが、1973年(昭和48年)に齋藤進らによって本土の愛知用水から日間賀島・篠島まで海底水道が伸び、真水を必要とするノリ養殖業が盛んとなるとともに、民宿が増加して観光地化が進んだ。\n1973年時点の面積は0.68km2だったが、1974年(昭和49年)から島北部で本島と属島ふたつ(中手島・小磯島)を繋ぐ0.17km2の埋め立て工事が行われ、1977年(昭和52年)には0.93km2まで拡大した。\n埋立地一帯は魚介類が豊富な漁場だったが、島の総面積の25%にも相当する埋立地造成計画は大きな反対もなく進められ、造成地には旧来からの一等地よりも高値がついた。", "qas": [ { "question": "篠島に大きな被害を与えた伊勢湾台風と台風13号はどちらが先に来ましたか?", "id": "tr-468-12-000", "answers": [ { "text": "台風13号", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南知多町に合併された町と村はどちらの方が数が多かったですか?", "id": "tr-468-12-001", "answers": [ { "text": "町", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "本島の面積が小さかったのは1973年と1977年のどちらですか?", "id": "tr-468-12-002", "answers": [ { "text": "1973年", "answer_start": 284, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "本島と中手島・小磯島の間に埋め立てられた面積はどれくらいでしたか?", "id": "tr-468-12-003", "answers": [ { "text": "0.17km2", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1958年(昭和33年)4月には三河湾国定公園に指定され、1991年(平成3年)には三河湾地域リゾート整備構想の重点整備地区に指定されている。\nいわゆる平成の大合併の際には南知多町・美浜町の任意合併協議会が設置されたが、南セントレア市という新市名候補に両町の住民が拒否反応を示して合併自体が不成立となった。\n現在の電気・水道・電話の普及率は100%であり、2002年(平成14年)からし尿と廃棄物の処理は知多半島で行なっている。\n2011年(平成23年)9月から12月にかけて、愛知県は三河湾三島で「あいちの離島80日間チャレンジ」という離島観光振興キャンペーンを行なった。\n篠島には34歳の女性フリーライターが80日間滞在し、漁師をメインに据えたPR雑誌の制作などの活動を行なった。\n2012年(平成24年)10月には佐久島に滞在していた女性イラストレーターが3島それぞれのゆるキャラのデザインを担当し、篠島特産のシラスをモチーフにした「しらっぴーな」がお披露目された。", "qas": [ { "question": "「しらっぴーな」は何をモチーフに考え出されましたか?", "id": "tr-468-13-000", "answers": [ { "text": "シラス", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "名鉄海上観光船が知多半島や渥美半島と篠島港の間に高速船とカーフェリーを運航している。\n南知多町の師崎港と日間賀島東港・日間賀島西港・篠島港を結ぶ定期高速船は「師崎-篠島-日間賀島-師崎」の順に巡り、師崎港から篠島港まで約10分である。\n2012年(平成24年)4月1日のダイヤ改正後、始発便は師崎を6時台に出港し、最終便は篠島を19時台に出港する。\n美浜町の河和港と日間賀島西港・日間賀島東港・篠島港・伊良湖港を結ぶ定期高速船は、河和港から篠島港まで約30分である。\n2012年4月1日のダイヤ改正後、始発便は河和を7時台に出港し、最終便は篠島を17時台に出港する。\nいずれの路線も日間賀島までは約5分である。師崎港と篠島港を結ぶ定期カーフェリーは、師崎港から篠島港まで約20分である。\n2012年4月1日のダイヤ改正後、始発便は師崎を8時台に出港し、最終便は篠島を17時台に出港する。\n同じ三河湾にある佐久島との間には定期航路が存在しないが、海上タクシーなどで行き来することができる。", "qas": [ { "question": "師崎港から篠島港までは定期高速船で何分かかりますか?", "id": "tr-468-14-000", "answers": [ { "text": "約10分", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "定期高速船でかかる時間が短いのは、師崎港から篠島港までと河和港から篠島港までのどちらの航路ですか?", "id": "tr-468-14-001", "answers": [ { "text": "師崎港から篠島港", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "河和港から篠島港までは定期高速船で何分かかりますか?", "id": "tr-468-14-002", "answers": [ { "text": "約30分", "answer_start": 225, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2012年4月1日のダイヤ改正後、始発便の出港時刻がより早いのは、師崎と河和のどちらですか?", "id": "tr-468-14-003", "answers": [ { "text": "師崎", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "島内の道路はすべて市町村道(南知多町道)であり、道路舗装率は83.5%と愛知県平均(87.1%)と同等である。\n外周道路以外は幅員が狭く、四輪車の通行が禁止されている。\n島内に定期バス路線は存在しないが、三河湾三島で唯一乗合タクシーが運行されている。\n2011年(平成23年)時点で島内に1,354台の車両があるが、このうち716台は軽トラックなどの軽自動車、691台は原動機付自転車である。\n多くの島民は軽トラック以外の自動車を本土に所有しており、定期船の本土側寄港地である師崎には篠島住民の車が150-200台も駐車してあるという。\n日間賀島と同様に、ヤマト運輸はトラックをカーフェリーに載せて篠島に渡り、そこで集配を行っている(島内では外周道路以外は原動機付自転車に荷物を積み替える)。", "qas": [ { "question": "道路舗装率が高いのは、篠島と愛知県のどちらですか?", "id": "tr-468-15-000", "answers": [ { "text": "愛知県", "answer_start": 36, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2011年当時に台数が多かったのは軽自動車と原動機付自転車のどちらですか?", "id": "tr-468-15-001", "answers": [ { "text": "軽自動車", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "経済の中心は水産業と観光業であり、水産業は漁船漁業が主体であるが、ノリ、アワビ、ワカメなど冬場の養殖漁業、水産加工業も盛んである。\n漁船漁業では4月から12月のシラス漁や、3月から5月のイカナゴ漁が盛んであり、漁業者の約6割がシラス漁に従事しているとされる。\n愛知県のシラスの漁獲量は全国でも有数であり、篠島の漁獲量は多い年で約5,000トンといわれる。\n1955年(昭和30年)には人口3,230人に対して2,069人の漁業従事者がおり、人口比は64%にも及んだが、漁獲量は減少傾向にあり、観光業の比重が高まっている。\nフグの産地としては玄界灘(下関)が有名だが、2001年(平成13年)から2003年までは(平成15年)までは愛知県がトラフグの漁獲量で全国トップだった。\n2005年(平成17年)には愛知県のトラフグの総漁獲量の2/3を南知多町が占め、近年には日間賀島とともにフグの産地としての篠島の認知度が高まっている。", "qas": [ { "question": "2005年にトラフグの総漁獲量が愛知県内で最も多かった地域はどこでしたか?", "id": "tr-468-16-000", "answers": [ { "text": "南知多町", "answer_start": 370, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "漁が出来る期間がより長いのは、シラス漁とイカナゴ漁のどちらですか?", "id": "tr-468-16-001", "answers": [ { "text": "シラス漁", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ラッコの保護活動", "paragraphs": [ { "context": "ラッコの保護活動は、20世紀初頭に始まった。\n当時、ラッコは大規模な商業狩猟により、絶滅の危機にあった。\nかつてラッコは北太平洋、すなわち北日本、アラスカ、メキシコに亘って広く分布していた。\n1911年までの毛皮目的の狩猟により、ラッコの個体数は人間の手が届かない辺境を中心とした2000頭にまで激減した。\nその後20世紀の間に、ラッコの個体数はロシア極東部、西アラスカ、カリフォルニアの生き残りから増加した。\n1960年代からは、かつてラッコが生息した地域への人工的移動も進められ、北アメリカ西海岸に広く分布させることに成功した。\nその他にも若干だが成功した地域もあり、ラッコ保護活動は、海洋生物の保護活動(Marineconservation)として最も成功した事業の1つと考えられている。", "qas": [ { "question": "ラッコの保護活動が開始されたのはいつ?", "id": "tr-469-00-000", "answers": [ { "text": "20世紀初頭", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ラッコの狩猟目的は何だったの?", "id": "tr-469-00-001", "answers": [ { "text": "毛皮", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ところが近年、ラッコ生息地域として重要な2箇所で、ラッコの個体数の増加が止まり、あるいは減少が起こっている。\nアリューシャン列島ではここ数十年間で、大きく減少している。\nその原因は不明確であるが、ラッコ頭数の変化は、捕食者であるシャチ頭数の増加と傾向が似ている。\n1990年代、カリフォルニアでは、アラスカとは別の原因で増加が止まった。\nラッコの成獣の伝染病罹患率が高まったためである。\nカリフォルニアのラッコがなぜ病気にかかりやすいのかは分かっていない。\nその他、ラッコは石油流出による汚染にも非常に弱く、その被害も報告されている。\n国際自然保護連合(IUCN)は、ラッコを絶滅危惧種に指定している。", "qas": [ { "question": "ラッコを捕食する生物とは何?", "id": "tr-469-01-000", "answers": [ { "text": "シャチ", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ラッコを絶滅危惧種に指定している機関はどこですか?", "id": "tr-469-01-001", "answers": [ { "text": "国際自然保護連合", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ラッコ(Enhydralutris)は北太平洋沿岸、すなわち北日本、千島列島、カムチャッカ半島東部、アリューシャン列島、北アメリカ、メキシコに亘って生息する海洋哺乳類(marinemammal)である。\n動物界の中では最も厚い毛皮を持つ。\n1741年から1911年の間、毛皮採取を目的としたラッコの捕獲が大流行し(「大いなる狩猟、GreatHunt」と呼ばれる)、この期間に全世界の個体数が1,000-2,000に激減した。\nそれ以後、先住民による限定的な狩猟を除いて、商業狩猟のほとんどが禁止された。", "qas": [ { "question": "動物界の中で最も厚い毛皮を持つ生物は何?", "id": "tr-469-02-000", "answers": [ { "text": "ラッコ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「大いなる狩猟」で狩猟対象となった生物は何だったの?", "id": "tr-469-02-001", "answers": [ { "text": "ラッコ", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「大いなる狩猟」によってラッコの個体数はどれくらいにまで減ったの?", "id": "tr-469-02-002", "answers": [ { "text": "1,000-2,000", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ラッコは、ウニ、軟体動物、甲殻類、数種類の魚類を捕食する。\nラッコは、その大きさに比べて活動範囲が狭いため、エサとして欠かせない種が存在する。\n具体的にはウニ類である。\nウニは海草の森(kelpforest)を食い荒らし、沿岸侵食の原因となっている。\nラッコは生態学的にこれを防ぐ役割を担っており、さらにはその愛らしさと行動の面白さのため、人々の間で種を保護し、生息範囲を拡大する努力がなされてきた。\nただし、ラッコは、人間にとっても重要なアワビ、カニ、ハマグリといった魚介類も捕食する。\nそのため、漁業団体、レクレーション団体、海岸で自給する人々から、ラッコ保護活動に対する反対運動が起こることもあり、漁師の中には法を犯してラッコを殺すこともあった。\nラッコの分布地域は、現在の所、不連続である。\nオレゴン州や北カリフォルニアなどの地域には生息していない。\nメキシコや北日本ではしばしば目撃されるようになってきている。\nラッコは人工飼育が可能なため、40以上の公共水族館や動物園で人気を集めている。", "qas": [ { "question": "ラッコのエサとして欠かせない種とは何?", "id": "tr-469-03-000", "answers": [ { "text": "ウニ類", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラッコが生息していない地域はオレゴン州とどこですか?", "id": "tr-469-03-001", "answers": [ { "text": "北カリフォルニア", "answer_start": 356, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラッコが日本国内で人口飼育されている施設は何カ所ですか?", "id": "tr-469-03-002", "answers": [ { "text": "40以上", "answer_start": 426, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "IUCNは、ラッコにとって大きく脅威となるのは、石油汚染(Oilspill)、シャチによる捕食、密猟、漁業の影響であると分析している。\n漁具に巻き込まれると、溺れることもある。\nたとえ悪意が無くても、人が近くから観察することがストレスとなることもある。\nラッコにとって最も大きな脅威は石油流出である。\nラッコは体温を毛皮で保っている。\n毛皮が油で濡れると毛の間の空気が抜けてしまうので、低体温症になって死んでしまう。\n毛づくろいをしたり海水を飲んだりした際に体内に油が吸収されると、肝臓、腎臓、肺も損傷を受ける。\nラッコの行動範囲は狭いため、カリフォルニア、ワシントン、ブリティッシュコロンビア州などで大きな石油流出事故が発生すると、壊滅的な被害をもたらす。\nこれらの地域での石油流出防止とラッコ救済の準備をすることが、ラッコの個体数や生息範囲を増やすのに非常に重要である。\n海洋保護地域(MarineProtectedArea)は、不法投棄や石油採掘が禁止されているため、ラッコの良好な生息地となっている。\nモントレー湾国立動物保護地区(MontereyBayNationalMarineSanctuary)には1,200以上、オリンピック海岸国立海洋保護区(OlympicCoastNationalMarineSanctuary)には500以上が生息している。", "qas": [ { "question": "ラッコの最大の脅威とは?", "id": "tr-469-04-000", "answers": [ { "text": "石油流出", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モントレー湾国立動物保護地区とオリンピック海岸国立海洋保護区を比較すると、どちらの地区がラッコの生息数が多いですか?", "id": "tr-469-04-001", "answers": [ { "text": "モントレー湾国立動物保護地区", "answer_start": 455, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "不法投棄や石油採掘が禁止されている地域の名称は何?", "id": "tr-469-04-002", "answers": [ { "text": "海洋保護地域", "answer_start": 388, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "19世紀より以前、千島列島には20,000-25,000頭のラッコが住み、カムチャッカ半島やコマンドルスキー諸島にも多く住んでいた。\n「大いなる狩猟(GreatHunt)」以後は、この地域に住むラッコはわずか750頭となっていた。\n2004年現在、かつての生息地全域でラッコが見られるようになり、27,000頭にまでなった。\nこのうち、約19,000頭が千島列島に住み、2000から3500頭がカムチャッカ半島に、5,000から5,500頭がコマンドルスキー諸島に住んでいる。\nここに来て増加はわずかに遅くなり、ほぼ環境収容力に達したものと見られる。\nロシアでのラッコ生息数の復活成功は、広範囲かつ長期間の保護によるものであり、島からの人間の移住が大きく影響している。", "qas": [ { "question": "19世紀より以前と「大いなる狩猟」以後では、千島列島のラッコの個体数はどちらが多かったですか?", "id": "tr-469-05-000", "answers": [ { "text": "19世紀より以前", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "千島列島、カムチャッカ半島、コマンドルスキー諸島の中で最もラッコの数が多いのはどこですか?", "id": "tr-469-05-001", "answers": [ { "text": "千島列島", "answer_start": 177, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "千島列島、カムチャッカ半島、コマンドルスキー諸島の中で2番目にラッコの数が多いのはどこですか?", "id": "tr-469-05-002", "answers": [ { "text": "コマンドルスキー諸島", "answer_start": 221, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "19世紀より以前と2004年では、どちらの時期がラッコの数が多いですか?", "id": "tr-469-05-003", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1930年代、アラスカのアリューシャン列島とプリンス・ウィリアム湾の辺りにラッコの生息地に適した土地が発見された。\nアムチトカ島のラッコ生息地は禁猟区に指定され、個体数が増加した。\n1960年代半ば、アムチトカ島は核実験に使用され、ラッコを数多く殺すことになった。\n1968年、アメリカ原子力委員会は大規模核実験を前にして、数百頭の動物を他の場所に移すことを決めた。\nそれを受けて1960年代、ラッコは700頭が移され、その経験から科学者達は動物を安全によそに移す方法を学んだ。\n1973年、アラスカのラッコ頭数は、100,000から125,000頭に上ると推定されている。", "qas": [ { "question": "アムチトカ島でラッコをたくさん殺してしまった原因とは、そこで何を行ったからですか?", "id": "tr-469-06-000", "answers": [ { "text": "核実験", "answer_start": 107, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカ原子力委員会の決定により、1960年代にラッコは何頭移されましたか?", "id": "tr-469-06-001", "answers": [ { "text": "700頭", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "核実験に使用されたアラスカの島とはどこ?", "id": "tr-469-06-002", "answers": [ { "text": "アムチトカ島", "answer_start": 100, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1973年のアラスカのラッコ頭数は多くて何頭いましたか?", "id": "tr-469-06-003", "answers": [ { "text": "125,000頭", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ここ数十年で、西アラスカアリューシャン諸島のラッコ頭数は急落している。\n1980年代、この地域に住むラッコは55,000-100,000頭いたが、2000年には6,000頭にまで減った。\nこの理由として、反論も多いが、シャチによる捕食によるものとする説がある。\nこの説を裏付ける証拠としては周囲の状況がある。\nまず、頭数が減少するような病気や飢えが発生していた形跡がない。\nそして、減少が大きかったのはシャチがたびたび観察される地域であり、潟のようにシャチがいないところでは減少が少なかった。", "qas": [ { "question": "1980年代と2000年を比較すると、アリューシャン諸島のラッコ頭数はどちらの時期が少ないですか?", "id": "tr-469-07-000", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アリューシャン諸島のラッコ頭数が急落した原因とは何でしたか?", "id": "tr-469-07-001", "answers": [ { "text": "シャチによる捕食", "answer_start": 109, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2000年にアリューシャン諸島のラッコは何頭いましたか?", "id": "tr-469-07-002", "answers": [ { "text": "6,000頭", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1980年代にアリューシャン諸島のラッコは何頭いましたか?", "id": "tr-469-07-003", "answers": [ { "text": "55,000-100,000頭", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アラスカに生息するシャチの種の中には海洋哺乳類を好んで食べる種類がある。\nそのようなシャチは、アザラシ、アシカ、小型のクジラ、コククジラの子供などを食べる。\nラッコは小型で毛が多いので、シャチにとってあまり魅力が無いエサだが、クジラに比べてシャチの頭数が多いことが、何千ものラッコがシャチに捕食されたことの証拠の一つに挙げられる。\n\"sequentialmegafaunacollapse\"(大型生物の連鎖崩壊)と呼ばれる理論によると、シャチがラッコの捕食を始めたのは、かつてエサとしていた動物が減ってしまったことによる。\nつまりこの理論では、大型クジラが1960年代の商業捕鯨で減少してしまい、そのためシャチはゼニガタアザラシやトドの捕食を始めたために1970年代から1980年代にはそれらも減少し、ついにはより小型の動物がシャチのエサとなってしまった、と説明する。\nただし、ラッコの減少がシャチの捕食によるものかどうかの結論は出ておらず、直接それを証明する証拠は出ていない。", "qas": [ { "question": "クジラとシャチはどちらが数が多いですか?", "id": "tr-469-08-000", "answers": [ { "text": "シャチ", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "\"sequentialmegafaunacollapse\"とは日本語で何ですか?", "id": "tr-469-08-001", "answers": [ { "text": "大型生物の連鎖崩壊", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1989年のエクソンバルディーズ号原油流出事故により、プリンス・ウィリアム湾のラッコは壊滅的な打撃を受けた。\n油にまみれた1000頭ものラッコの死骸が見つかっており、実際の被害はこの何倍にも上ると見られている。\n2,000頭から6,000頭が死亡したと見られている。\nそれでも、350頭ほどは救出され、5ヶ月ほどの間リハビリを受けている。\n精神安定の治療を受け、毛皮を洗い、手入れを受けた。\n油を飲んだラッコに対しては、活性炭が投与された。\nもっとも手当てを受けた350頭のうち助かったのは200頭ほどであり、多くは放された後に死んでしまっている。\nこの事故で救われたラッコの数は少なかったが、油の被害にあったラッコの治療法が進歩したのがせめてもの救いである。\nエクソン・バルディーズ号原油流出信託評議会による2006年の報告書によると、ラッコはこの事故の影響を未だに受けている種のひとつとされている。", "qas": [ { "question": "エクソンバルディーズ号原油流出事故はいつ起こりましたか?", "id": "tr-469-09-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エクソンバルディーズ号原油流出事故によって、どこのラッコ達が大被害を受けましたか?", "id": "tr-469-09-001", "answers": [ { "text": "プリンス・ウィリアム湾", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エクソンバルディーズ号原油流出事故の際に救出されたラッコの数は何頭でしたか?", "id": "tr-469-09-002", "answers": [ { "text": "350頭ほど", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "救出された350頭は何カ月間のリハビリを受けましたか?", "id": "tr-469-09-003", "answers": [ { "text": "5ヶ月ほどの間", "answer_start": 151, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2006年現在、アラスカには73,000頭のラッコがいると見られている。\n2005年夏、アメリカの絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律(絶滅危惧種法)により、ラッコは「西南アラスカ地域個体群」のうちの「絶滅危惧種」に認定されている。\n1年以上後、アリゾナに本拠を置く生物多様性センターは、米国魚類野生生物局(UnitedStatesFishandWildlifeService)に対し、同局が絶滅危惧種法に定められた「生息地の保護」を行わなかったとして、訴訟を起こしている。", "qas": [ { "question": "2006年、アラスカでは何頭のラッコがいましたか?", "id": "tr-469-10-000", "answers": [ { "text": "73,000頭", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1969年から1972年にかけて、89頭のラッコが流されて、あるいは運ばれて、カナダブリティッシュコロンビア州のバンクーバー島西海岸に来ていた。\nそれが順調に増えて、あるいは人間の保護を受けて、2004年には3,000頭以上となり、生息地も同島のトフィーノ(en)からケープ・スコット州立公園(en)にまで広がっている。\nしかしながら、ラッコを人工的に保護することについて、カナダの先住民族であるファースト・ネーションの意見を調べていなかった。\n人工的に移されたラッコは、生態系をかつての姿に改善した。\nしかし、ラッコが甲殻類やウニを捕食したため、地元の先住民族はラッコの復活をよく思わなかった。\n1989年、ブリティッシュコロンビア海岸の中央部に、ラッコの生息地域が発見された。\n2004年に300頭が確認されている。\nこの生息地域は、他の生息地域とは孤立しており、ここに住むラッコが人工移植したラッコが流れ住んだものなのか、あるいはかつての狩猟の生き残りであるのかはよく分かっていない。\nラッコはカナダでは絶滅危惧種法(SARA)で保護されている。\nただし2007年4月、カナダ野生動物絶滅危惧種の現況委員会(en)は、この地域でのラッコの繁殖力が強いことを考慮して、SARA法の中での位置づけを「絶滅危惧種」(threatened)から「特別懸念種」(specialconcern)に格下げした。", "qas": [ { "question": "89頭のラッコは2004年には何頭に増えましたか?", "id": "tr-469-11-000", "answers": [ { "text": "3,000頭以上", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2007年4月にSARA法の中でラッコの位置づけを何としましたか?", "id": "tr-469-11-001", "answers": [ { "text": "「特別懸念種」", "answer_start": 571, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1969年と1970年に59頭のラッコがアムチトカ島からワシントン州に移され、2000年には504頭、2004年には743頭が確認されている。\n同州は1981年、ラッコを絶滅危惧種(endangeredspecies)に指定している。\n1970年代、93頭のラッコがオレゴン州の海岸に移されたが、1980年代初頭にはいなくなっている。\n逃げたのか死んだのかは分かっていない。", "qas": [ { "question": "ワシントン州に移されたラッコの数は、2000年と2004年を比較するとどちらの年が多いですか?", "id": "tr-469-12-000", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オレゴン州の海岸に移されたラッコの数は、1970年代と1980年代初頭を比べると、どちらの年代の方が少ないですか?", "id": "tr-469-12-001", "answers": [ { "text": "1980年代初頭", "answer_start": 148, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1981年にラッコを絶滅危惧種に指定した州はどこですか?", "id": "tr-469-12-002", "answers": [ { "text": "ワシントン州", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カリフォルニアはカリフォルニアラッコ(Enhydralutrisnereis)がある程度まとまって生息する唯一の地域である。\n1938年、望遠鏡のテストをしていた人が、カリフォルニアビッグ・サー(BigSur)に50頭ほどのラッコの群れがいることに気付いた。\nこのラッコは環境保護を受けたため、周辺で繁殖した。\nもっとも、他の地区と比べると繁殖速度は遅く、同海域のカリフォルニアアシカやゼニガタアザラシと比べても遅い。\n1914年から1984年にかけての平均増加率はわずか5%ほどであり、1990年代になると増加は止まり、減少の傾向も見られる。\nカリフォルニアラッコは1977年、絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律(ESA)の絶滅危惧種(threatenedsubspecies)に指定された。\n2007年春の調査によると、カリフォルニアに住むラッコは3,000をわずかに越えており、今でも増加傾向にあるが、大規模狩猟前の16,000頭には達していない。\nそれでも3年以上の間3,090頭が連続して確認されているため、今ではこの亜種は絶滅危惧種から外されている。", "qas": [ { "question": "1938年にカリフォルニアビッグ・サーで発見されたラッコの群れには何頭のラッコがいましたか?", "id": "tr-469-13-000", "answers": [ { "text": "50頭ほど", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カリフォルニアビッグ・サーでのラッコとゼニガタアザラシの繁殖速度が速いのはどちらの動物ですか?", "id": "tr-469-13-001", "answers": [ { "text": "ゼニガタアザラシ", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "絶滅危惧種から外されているラッコの種類は何ですか?", "id": "tr-469-13-002", "answers": [ { "text": "カリフォルニアラッコ", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1914年から1984年にかけてのカリフォルニアラッコの平均増加率はどれくらい?", "id": "tr-469-13-003", "answers": [ { "text": "5%ほど", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ラッコの繁殖は魚介類の減少原因となる。\n1980年代始め、米国魚類野生生物局(en)はメキシコとの国境付近のコンセプション岬(PointConception)に「ラッコ不在海域(otter-freezone)」を設けて、この矛盾を解消しようと試みた。\nすなわちラッコ繁殖地をサンニコラス島(SanNicolasIsland)に限定し、ここから離れたところにラッコがいた場合はここに連れ戻す、というものである。\nしかし「ラッコ不在海域」に現れるラッコが何百といたため、この政策は今では断念されている。\nモントレー湾水族館(Monterey_Bay_Aquarium)によると、保護した子供のラッコを自然に帰した1年後の生存率は、人に育てられた場合は約10%、2001年から始めた雌ラッコに託す場合は約3分の2。", "qas": [ { "question": "ラッコの繁殖は何の減少原因となりますか?", "id": "tr-469-14-000", "answers": [ { "text": "魚介類", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1980年代始めにラッコ繁殖地はどこに限定しましたか?", "id": "tr-469-14-001", "answers": [ { "text": "サンニコラス島", "answer_start": 137, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カリフォルニアラッコの増殖問題は、まだ終わったわけではない。\nカリフォルニアにおけるラッコの出生率は他の地域よりも遅いわけではないのに、ラッコの数が増えないのは、その死亡率が高いためである。\n異常なまでに高い死亡率には、成獣も含まれており、とりわけメスが多いことが報告されている。\n死因のトップは病気であり、ついで水質汚染、魚網に捕らえられての溺死であるとされる。\n死んだラッコの死骸のほとんどは海中に沈んでしまうが、海岸に打ち上げられた死体を解剖して死因が調べられている。\nその死因は、原生生物による脳炎、鉤頭動物の寄生、サメによる捕食、心臓病である。\n病死は63.8%にのぼり、そのほとんどは寄生虫による。\n特にトキソプラズマ脳炎に感染している個体が多く、心臓病で死んだものの中にもその原因がトキソプラズマによるものである可能性がある。\nまた、サメに襲われやすくなったのも、トキソプラズマ脳炎による異常行動が原因である可能性もある。", "qas": [ { "question": "カリフォルニアラッコは、オスとメスのどちらの死亡率が高いですか?", "id": "tr-469-15-000", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カリフォルニアラッコの病死の割合は何%ですか?", "id": "tr-469-15-001", "answers": [ { "text": "63.8%", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カリフォルニアラッコの病死の多くは何に感染していることが多いですか?", "id": "tr-469-15-002", "answers": [ { "text": "トキソプラズマ脳炎", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ある研究によると、生きているラッコも42%がトキソプラズマが感染しているとされる。\nトキソプラズマ感染はラッコにとって致命的となることが多く、野良猫や飼い猫から感染することが多い。\nすなわち猫の排泄物中のトキソプラズマが廃水を通じて海に流れ込み、ラッコに感染する。\nカリフォルニアのラッコの死因の多くが病死であるのは明らかだが、なぜ彼らが他の地域よりも病気にかかりやすいのかは分かっていない。\nいわゆるボトルネック効果により、遺伝的多様性が失われたからとする説もある。", "qas": [ { "question": "トキソプラズマは何の動物が感染源となっていますか?", "id": "tr-469-16-000", "answers": [ { "text": "猫", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カリフォルニアのラッコの大半の死因は何ですか?", "id": "tr-469-16-001", "answers": [ { "text": "病死", "answer_start": 151, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ダビデ像(ミケランジェロ)", "paragraphs": [ { "context": "ダビデ像はピエタと並ぶミケランジェロの代表作であるばかりでなく、ルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つである。人間の力強さや美しさの象徴ともみなされる作品であり、芸術の歴史における最も有名な作品のひとつと言える。ダビデとは旧約聖書においてイスラエル王国の二代目の統治者だ。大理石で身の丈5.17メートルにかたどられたこの像は、ダビデが巨人ゴリアテとの戦いに臨み、岩石を投げつけようと狙いを定めている場面を表現している。そして、ルネサンスならではの表現として、瞳がハート型に象られていることや、イスラエルの民の証とされる割礼の痕がないことが挙げられる。\n\n元来はフィレンツェ市庁舎の置かれたヴェッキオ宮殿の前に飾られていたことなどもあり、のちに都市国家フィレンツェ共和国が周囲を取り囲む強大な対抗勢力に脅かされるようになった時には、巨人に立ち向かうこの像こそフィレンツェを象徴するものだという解釈がなされるようになった。", "qas": [ { "question": "ダビデ像は誰の作品なの?", "id": "tr-470-00-000", "answers": [ { "text": "ミケランジェロ", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピエタは誰の作品なの?", "id": "tr-470-00-001", "answers": [ { "text": "ミケランジェロ", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ダビデとはイスラエル王国の何代目の統治者なの?", "id": "tr-470-00-002", "answers": [ { "text": "二代目", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ダビデ像の素材は何?", "id": "tr-470-00-003", "answers": [ { "text": "大理石", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミケランジェロのダビデ像の歴史は、制作期間をはるかにさかのぼり、その始まりは1464年まで辿ることができる。当時サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の運営権を担う大聖堂造営局は、実質的にフィレンツェ羊毛業組合が握っていた。大聖堂の建築には140年以上を要したため司教は途中で費用を支払えなくなり、この組合が代わりにそれを請け負ったためである。フィレンツェ羊毛業組合は、かねてよりこの大聖堂のバットレスに旧約聖書を題材とした12体からなる巨大な彫像の連作を飾るという計画を立てており、すでに何人かの彫刻家へ発注もしていた。この計画の背景には、15世紀初頭からミラノ公国をはじめとする外部の脅威が迫っていたため、聖書中の聖人や伝説中の英雄の像を大聖堂に飾りフィレンツェの興国の気運を高めようとの配慮があった。しかし、1463年の時点で完成していたのはドナテッロによる「預言者」像とその弟子アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオによる「ヘラクレス」像の2作だけであった(この2作は、いずれものちに壊されていて現存しない)。この計画を何としても進めるため、大聖堂造営局は同1463年にアゴスティーノと再契約し、ダビデ像を制作するという言質を取りつけた。しかしアゴスティーノは、像の脚部と胸部や衣服の概観を大まかに作り、脚と脚のあいだに隙間を空けるところまで制作を進行させたが、師ドナテッロの死去した1466年、理由は不明ながらも制作を中断し契約も破棄してしまった。大聖堂造営局は、アゴスティーノの未完成品を仕上げるようアントニオ・ロッセリーに依頼した。", "qas": [ { "question": "1463年の時点で完成していたのは「預言者」像とまた何がある?", "id": "tr-470-01-000", "answers": [ { "text": "「ヘラクレス」像", "answer_start": 411, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ヘラクレス」像は誰の作品ですか。", "id": "tr-470-01-001", "answers": [ { "text": "アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオ", "answer_start": 392, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドナテッロは何年に亡くなったか。", "id": "tr-470-01-002", "answers": [ { "text": "1466年", "answer_start": 592, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大聖堂造営局は、アゴスティーノの未完成品の仕上げを誰に依頼した。", "id": "tr-470-01-003", "answers": [ { "text": "アントニオ・ロッセリー", "answer_start": 652, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ロッセリーノの契約もやがて破棄され、質のよい大理石を産出することで知られるイタリア北部の都市カッラーラの採石場から運ばれた大理石の塊は大聖堂の事業監督所に25年ものあいだ吹きさらしのまま放置されることとなった。たとえ素材のままではあれ、値段もさることながらフィレンツェまで運ぶのに莫大な人件費や輸送費がかかる巨大な大理石を飾っておくことは、大聖堂造営局の威信を高める効果があったからである。1500年に作成された大聖堂事業監督所の在庫目録には「荒く輪郭を描かれたまま仰向けの状態で放置された『ダビデ』と呼ばれる大理石像」と表現されている。翌年に書かれた文書では、造営局がこの巨大な大理石の塊を作品として完成させることのできる芸術家を探す決意をしたことが示されている。造営局は、招いた芸術家に『巨人像』(完成後『ダビデ』の名が定着するまではたんにこうも呼ばれていた)を調べて意見を述べてもらうためにこれを立たせるよう指示を出した。レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ何人かの芸術家が打診されたが、造営局は26歳の若きミケランジェロに委託することを決定した。1501年8月16日、ミケランジェロはこの困難な仕事を引き受ける契約を正式に交わし、翌9月9日から約3年にわたる制作の第一歩を踏み出した。", "qas": [ { "question": "「荒く輪郭を描かれたまま仰向けの状態で放置された『ダビデ』と呼ばれる大理石像」という表現は何年に作成された在庫目録に出てくるの?", "id": "tr-470-02-000", "answers": [ { "text": "1500年", "answer_start": 195, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時ミケランジェロは何歳だった?", "id": "tr-470-02-001", "answers": [ { "text": "26歳", "answer_start": 449, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "フォード島", "paragraphs": [ { "context": "フォード島(英語:FordIsland、ハワイ語:PokaʻAilana)は、アメリカ合衆国ハワイ州、オアフ島の真珠湾の中央にある島嶼である。\n別名、ラビット島(RabbitIsland)あるいはマリンズ島(Marín'sIsland)、リトル・ゴーツ島(LittleGoatsIsland)といい、現地語ではハワイ語:Mokuʻumeʻumeという名称も用いられる。\n1825年の測量時には135ヘクタールだった島の面積は、1930年代に、真珠湾内に戦艦が進入できるよう、アメリカ海軍が浚渫した際の残土で埋め立てた結果、178ヘクタールまで拡大した。", "qas": [ { "question": "ラビット島、マリンズ島、リトル・ゴーツ島は全て同一のある島の別名である、その島の名は?", "id": "tr-471-00-000", "answers": [ { "text": "フォード島", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フォード島のハワイ語での名称は?", "id": "tr-471-00-001", "answers": [ { "text": "Mokuʻumeʻume", "answer_start": 160, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フォード島の面積は、1825年と1930年代を比べるとどちらが大きいの?", "id": "tr-471-00-002", "answers": [ { "text": "1930年代", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "古代ハワイ人にとって、この地は豊穣の儀式を執り行う聖地であったが、1830年代にキリスト教の宣教師によって禁止されている。\n島は一度、カメハメハ1世からスペイン人脱走兵フランシスコ・デ・パウラ・マリンに与えられたが、後に王国へ返還された。\nその後、島は公売にかけられ、ジェームズ・アイザック・ドーセットが落札した後、キャロライン・ジャクソンに転売された。\nその後、彼女と結婚したセス・ポーター・フォード医師の所有となり、現在の名に改称された。\nフォードの死後、ジョン・パパ・イイが、フォードの息子から島を買い取り、サトウキビのプランテーションを拓いた。", "qas": [ { "question": "フォード島の地名の由来となる人物は誰?", "id": "tr-471-01-000", "answers": [ { "text": "セス・ポーター・フォード", "answer_start": 189, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "セス・ポーター・フォードの奥さんは誰?", "id": "tr-471-01-001", "answers": [ { "text": "キャロライン・ジャクソン", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1916年、フォード島の一角をアメリカ陸軍が購入し、飛行部隊の運用をハワイで行うために使用し始めた。\nその後1939年までに、アメリカ海軍が戦艦と潜水艦の整備基地とするため用地を順次取得していく。\n1910年代から1940年代にかけて、島はアメリカ海軍の太平洋における戦略上の中枢基地として拡張され続けた。\n1941年12月7日、フォード島はアメリカ太平洋艦隊を目標とした日本艦隊による真珠湾攻撃の主戦場と化した。\n1964年には国定歴史建造物に指定され、2011年の段階で、歴史保存ナショナルトラストは、合衆国内で最も危機に瀕している歴史遺産として登録している。", "qas": [ { "question": "フォード島が国定歴史建造物に指定されたのはいつ?", "id": "tr-471-02-000", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 208, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1990年代末までに、数百万ドルが投じられ、架橋などのインフラ整備と不動産開発が行われた。\nフォード島は引き続き太平洋における活動の中心的な役割を果たしており、太平洋戦闘センターなどの軍事施設や、NOAA太平洋津波監視センター等の民間施設が設けられている。\nまた、この島は『トラ・トラ・トラ!』や『パール・ハーバー』などの映画で取り上げられ、アリゾナ記念館や戦艦ミズーリ記念館には国内外から多くの観光客が訪れる。", "qas": [ { "question": "『トラ・トラ・トラ!』、『パール・ハーバー』の映画の舞台になった島はどこ?", "id": "tr-471-03-000", "answers": [ { "text": "フォード島", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フォード島はハワイ諸島のオアフ島南部、真珠湾内に位置する。\n真珠湾はウェスト・ロック、ミドル・ロック、イースト・ロックの3水域に別れており、フォード島はそのイースト・ロックの中央に位置する。\n長さ2.4キロメートル、幅、1.2キロメートルで、面積は、1930年から1940年までの間に135ヘクタールから178ヘクタールにまで増えている。\nこれは島の周囲の湾内を浚渫した際の残土で埋め立てたことによる。\n地形はほぼ平坦だが、標高は1.5メートルから4.6メートルまで差があり、真珠湾へ向けて傾斜している。\nこの島の北側の端から真珠湾を越えて、より広いオアフ島のハラワへ繋がる、全長1,424メートルの東西に伸びる橋がかかっている。", "qas": [ { "question": "フォード島の長さと幅はどちらが距離が長い?", "id": "tr-471-04-000", "answers": [ { "text": "長さ", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フォード島の最も標高が高い地点は何メートルなの?", "id": "tr-471-04-001", "answers": [ { "text": "4.6メートル", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "島の土壌は火山起源の砂礫とラグーンの堆積物、珊瑚礁の残骸、そして浚渫砂泥から成っており、そのうち火山起源のものは風食した火山灰土や風化した凝灰岩や玄武岩である。\nフォード島は元々珊瑚礁の露頭だった。\n周囲にはモクヌイおよびモカイキという名の、2つの小島がある。", "qas": [ { "question": "フォード島の周囲にある小島はモカイキと何ですか?", "id": "tr-471-05-000", "answers": [ { "text": "モクヌイ", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1991年、海軍が島内の土壌や地下水、周囲の海底堆積物を調査した結果、9種の金属、2種の準揮発性有機化合物、そして、ポリ塩化ビフェニルを検出した。\n汚染源として疑われたのは、1924年から1954年にかけて島東岸の中央にあった容量85万リットルの9基の燃料タンクと、1930年から1960年にかけて実施された南西部1.8ヘクタールの埋め立て、そして北東側にある弾薬庫だった。\n調査結果から汚染地域の新たな土砂による埋め込みが提案された。\n1994年、海軍は汚染土の除去と、地下水を監視する6つの調査井戸の設置を検討したが、結局、1995年には当初の提言が採用され、汚染土の上にあらたに土砂を敷き詰め(ギョウギシバなどの)侵食を防ぐ植生を移植した。\n封じ込め工事は1996年に完了した。", "qas": [ { "question": "1991年に検出された金属と準揮発性有機化合物の種類はどちらが多かったの?", "id": "tr-471-06-000", "answers": [ { "text": "金属", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南西部はどれくらいの面積が埋め立てられたの?", "id": "tr-471-06-001", "answers": [ { "text": "1.8ヘクタール", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フォード島内の野生生物は、真珠湾海軍基地内とほぼ同様である。\n野生動物はごく少なく、で、ハツカネズミやマングース、ドブネズミ、クマネズミ、イエスズメ、ブンチョウにインドハッカといった外来種が優勢である。\n絶滅危惧種のフクロウ(コミミズクの一種である)ハワイ固有種のプエオが島内で狩りをしているのが目撃されることがある。\n島内のほぼすべての植物が在来のものではなく、その中にはカリフォルニアから持ち込まれた食用サボテンもあり、これは1700年代にフランシスコ・デ・パウラ・マリンが持ち込んだものである。\n島内の入江は古代ハワイ人に重用され、ボラやサバヒー、ハワイ周辺で取れるアンチョビーが水揚げされていた。\n合衆国国立公園局と魚類野生生物局は、真珠湾内とフォート島にあるワールド・ウォーIIバラー・イン・ザ・パシフィック・ナショナル・モニュメントの戦跡を監視し管理している。", "qas": [ { "question": "カルフォルニアからフォード島内に食用サボテンを持ち込んだ人は誰?", "id": "tr-471-07-000", "answers": [ { "text": "フランシスコ・デ・パウラ・マリン", "answer_start": 222, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フォード島内に生息しているハワイ固有種のフクロウとは何?", "id": "tr-471-07-001", "answers": [ { "text": "プエオ", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "古代ハワイの人々は、この島をMokuʻumeʻume(「魅力の島」もしくは「争いの島」の意)と呼ばれており、マカヒキ祭の間に行われた子供に恵まれない夫婦のために行われた儀式(ʻume)に由来する。\nハワイ語でmokuとは、「切断」や「2つに分ける」という意味があり、同時に「島嶼」の意もあった。\n単語ʻumeは、「引く」もしくは「惹きつける」、「誘う」という意味があり、一般大衆のための儀式を示していた。\nハワイ出身の歴史家ハーブ・カワイヌイ・ケインは、ʻumeについて「求婚ゲーム」と考えていた。\n(処女でも未婚でもない)ʻumeへ参加するために選ばれた者は大きな篝火を囲んで歌い、その間に、部族の長はマイレの枝を手に、詠唱しながら一人ひとり参加していた男女に触れていった。\n長に触れられた男女は、島内で人目につかない場所を見つけて愛を交わす。\n夫婦が褥を共にすることはなかったが、嫉妬を露わにすることは無作法と見なされた。\nこの儀式で誕生した子供は、儀式の相手ではなく夫の実子として扱われている。\n1830年に、この儀式はキリスト教の宣教師によって禁止された。", "qas": [ { "question": "ʻumeという儀式は何年に禁止されたの?", "id": "tr-471-08-000", "answers": [ { "text": "1830年", "answer_start": 451, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハワイ語で「島嶼」の意味を表す単語は何ですか?", "id": "tr-471-08-001", "answers": [ { "text": "moku", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "正確な日付が記述された史料は無いが、ハワイ歴史協会の歴史家は1818年2月9日にフランシスコ・デ・パウラ・マリンが島を入手し、その後にカメハメハ1世がオアフ島を征服する助力として武器の供与を行ったことで、彼の名が島名となったと信じている。\nしかし、マリンの日誌にある1809年付けの記述には、速くとも1791年には島と周囲の海域での漁業権を得ていたとある。\n彼は食料確保のために船で羊や豚、山羊、ウサギを運び込み、島外から持ち込んだ野菜や果樹を植えた。", "qas": [ { "question": "カメハメハ1世の前に島を手に入れた人は誰でしたか?", "id": "tr-471-09-000", "answers": [ { "text": "フランシスコ・デ・パウラ・マリン", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1825年、訪英中に麻疹により死去したカメハメハ2世とその王妃カママルの遺体を送り届けるために、HMSブロンド号を指揮して第7代バイロン男爵ジョージ・バイロン提督が到来した。\nオアフ島に滞在中、彼はパール川(真珠湾)の地図を作製した。\n乗船していた博物学者、アンドリュー・ブロクサムは、フォード島でウサギと野鴨を狩って過ごしていた。\n測量を担当していたチャールズ・ロバート・モールデン中尉は、島を「ラビット島」と名づけた。\n1826年には、ヒラム・ポールディングがアメリカ海軍士官として初めて島を訪れた。\nマリンが主張する島の所有権は不確かで、通常、ハワイ人は外国人に土地の所有を認めてはいなかった。\nカメハメハ2世は島がマリンに貸与されていただけだと考えており、1850年代には、グレート・マヘレ法の下、島はカメハメハ4世(87ヘクタールを購入)とカメカメハ1世の孫娘で大族長の妻ケカウオノヒ(59ヘクタールを譲与)の2人に分譲された。\n1865年8月28日、島は公売にかけられ、ジェームズ・I.ドーセットが1,040ドルで落札し、同じ年の12月28日にキャロライン・ジャクソンへ1ドルで売却した。", "qas": [ { "question": "カメハメハ2世の妻の名前は?", "id": "tr-471-10-000", "answers": [ { "text": "カママル", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ラビット島」の名付け親は誰だったの?", "id": "tr-471-10-001", "answers": [ { "text": "チャールズ・ロバート・モールデン", "answer_start": 176, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カメハメハ4世とケカウオノヒに分譲された島の面積はどちらが広かったの?", "id": "tr-471-10-002", "answers": [ { "text": "カメハメハ4世", "answer_start": 355, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "島の公売で、先に購入したのはジェームズ・I.ドーセットとキャロライン・ジャクソンのどちら?", "id": "tr-471-10-003", "answers": [ { "text": "ジェームズ・I.ドーセット", "answer_start": 441, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "セス・ポーター・フォードは、1851年にボストンから到来し、合衆国船員病院で医師として働き始めた。\nフォードは、1866年6月にキャロライン・ジャクソンと結婚し、島の運営を開始するとともに島名をマリン島からフォード島へ変えた。\n1866年の内にフォードは亡くなり、島は息子のセス・ポーター・フォード2世に相続される。\nフォードの息子が幼少の間はサンフォード・ドールが島を管理し、成人後の1891年にはジョン・パパ・イイの土地信託団体へ売却した。", "qas": [ { "question": "変更前のフォード島の名前とは?", "id": "tr-471-11-000", "answers": [ { "text": "マリン島", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セス・ポーター・フォードは何年に死去した?", "id": "tr-471-11-001", "answers": [ { "text": "1866年", "answer_start": 114, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1778年にジェームズ・クック船長が来航した当時から、砂糖はハワイの重要な輸出品だった。\n1850年代、合衆国がハワイ産砂糖に課していた関税は、ハワイの合衆国に対する税率よりもはるかに高く、カメハメハ3世は互恵通商を求めた。", "qas": [ { "question": "ジェームズ・クック船長は何年にハワイにやって来たの?", "id": "tr-471-12-000", "answers": [ { "text": "1778年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1873年には、早くも合衆国軍事委員会は砂糖の関税を撤廃する代わりにフォード島を確保するよう勧告していた。\n当時の太平洋軍管区に属していたジョン・スコフィールド少将とバートン・S.アレクサンダー名誉准将は、防衛能力を確認するためハワイに赴いた。\n合衆国がハワイを管理することは、西海岸の防衛にとって不可欠と考えられ、彼らは特に真珠湾のプウロアに注目した。\nカメハメハ王家の姻戚でハワイの外務大臣に就いており、プウロアの近くに別荘を所有していた外国人チャールズ・リード・ビショップは、ハワイのその入江の売却を提案した。\n彼は2人の米軍将官を連れてロック周辺を案内したが、彼の妻バーニス・パウアヒ・ビショップはハワイの土地を売却することを個人的に反対していた。\n第6代国王ウィリアム・チャールズ・ルナリロは、ビショップが担っていたほぼ全ての商務に満足していたが、国土の一部であれ譲与することが先住ハワイ人の不評を買うことになることを懸念していた。\nほとんどの島民は真珠湾だけでなく、あらゆる島々から土地が譲渡されることに反対していた。\n1873年11月までに、ルナリロは交渉を取り止め、医師の忠告も聴かずに飲酒に耽ってあっという間に健康を損ない、1874年2月3日に死亡した。", "qas": [ { "question": "チャールズ・リード・ビショップのハワイでの役職は何だったの?", "id": "tr-471-13-000", "answers": [ { "text": "外務大臣", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィリアム・チャールズ・ルナリロが死去したのはいつ?", "id": "tr-471-13-001", "answers": [ { "text": "1874年2月3日", "answer_start": 521, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チャールズ・リード・ビショップの妻の名は?", "id": "tr-471-13-002", "answers": [ { "text": "バーニス・パウアヒ・ビショップ", "answer_start": 287, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ルナリロは世継ぎを残さなかった。\nこのような場合、議会に君主を選定する権限が与えられており、後継として選ばれたデイヴィッド・カラカウアが即位した。\nこの新君主に合衆国政府は真珠湾を海軍に譲渡するよう圧力をかけた。\nカラカウアはこの譲渡が米国に併合される嚆矢となり、また、大地(ʻĀina)は肥沃で神聖であり、誰にも売り渡すものではないと信じるハワイ人の伝統を踏みにじることになると懸念していた。\n1875年、合衆国議会はフォード島と交換にさらに7年間の互恵条約を締結することを認めた。\nしかし、7年後に期限がきても、合衆国は延長に興味をほとんど示さなかった。", "qas": [ { "question": "ルナリロの後継者は誰?", "id": "tr-471-14-000", "answers": [ { "text": "デイヴィッド・カラカウア", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1887年1月20日、合衆国は真珠湾の租借を開始した。\nその直後に、大半が非ハワイ人からなるグループが、「ハワイアン同盟」と名乗り反乱を引き起こした。\n彼らは1887年7月6日に独自で憲法を起草した。\nこの憲法を書いたのは内務大臣のロリン・サーストンで、義勇軍の武力を背景にカラカウアを脅迫し、首相の退陣と君主の権力を大きく削減する新憲法への署名を強いた。\nこの憲法は武力を背景に制定されたため、「バヨネット憲法」と呼ばれた。", "qas": [ { "question": "「ハワイアン同盟」が起草した憲法を書いたのは誰?", "id": "tr-471-15-000", "answers": [ { "text": "ロリン・サーストン", "answer_start": 116, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ハワイアン同盟」はいつオリジナルの憲法を起草したの?", "id": "tr-471-15-001", "answers": [ { "text": "1887年7月6日", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ハワイアン同盟」が起草した憲法は何と呼ばれたの?", "id": "tr-471-15-002", "answers": [ { "text": "「バヨネット憲法」", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "(砂糖の輸入に権益を得ていた)カリフォルニア州から支援を受けて、カラカウアは再び議会と交渉を行った。\n未だ合衆国が互恵条約に無関心と見てとった彼は、オーストラリアかニュージーランドとより有利な貿易協定を締結すると予示した。\n合衆国議会はこの条約が締結されれば、ハワイが合衆国ではなく締結先と併合する結果となるのではないかと危惧を抱いた。\nカラカウアはハワイの土地を外国に租借することを嫌ったが、1887年9月に条約更新に署名した。", "qas": [ { "question": "カラカウアが条約更新に署名したのはいつ?", "id": "tr-471-16-000", "answers": [ { "text": "1887年9月", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オアフ製糖会社(別名、オアフ・サトウキビ・プランテーション)がジョン・パパ・イイの地所から(彼が、1891年に島を購入した後で)120ヘクタールを借り受け、1899年から砂糖の精製を始めた。\nこの事業は成功し、会社はベンジャミン・ジリンハムからワイピオ半島(ワイピオの南東)を借り受け、12器のローラーミルと鉄道を建設した。\nサトウキビは、貯水池から真水を共有する用水路を張り巡らせたフォード島で栽培され、収穫後ははしけと鉄道でミルまで運ばれた。", "qas": [ { "question": "砂糖の精製事業の成功によって、どこに鉄道を建設したの?", "id": "tr-471-17-000", "answers": [ { "text": "ワイピオ半島", "answer_start": 122, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1902年、近くにあったバーニス・パウアヒ・ビショップの地所が、真珠湾周辺の土地を市場価値より安価に購入する目的で合衆国の提訴した訴訟に負けた。\nビショップの地所の地下は1エーカー当り600ドルだったが、合衆国は1エーカー当りたった30ドルしか支払おうとしなかった。\n結果として陪審員は、合衆国の購入価格を1エーカー当り75ドルと決定した。\nフォード島の土地に対する関心と同様の訴訟に直面し、ジョン・パパ・イイの地所から25エーカーが合衆国に対して無償で譲渡された。\nその代わりに、合衆国は島全体に対して起こしていた訴訟を取り下げた。", "qas": [ { "question": "ビショップの地所が合衆国の提訴した訴訟に負けたのは何年?", "id": "tr-471-18-000", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1917年、ホノルルに第6飛行隊が設立され、司令官としてジョン・F.カーリー大尉が任官した。\n50機が所属することとなったが、49機しか到着せず、1機は途上で放棄された。\nカーリーは新たな部隊の基地として、水の入手と風の状況の良さからフォード島を選び、ジョン・パパ・イイ土地信託団体から236,000ドルで用地を買い取った。\nカーリーがワシントン州に移動となり、隊の指揮権はまずジョン・B・ブルックに移り、その後ヒュー・J・ナー少佐が着任して、彼が格納庫と滑走路を整備した。\n最初に配属した兵士たちは、丘を削り巨石を取り除き、地面を水平に整備しなければならなかった。", "qas": [ { "question": "ホノルルの第6飛行隊の司令官に就任したのは誰ですか?", "id": "tr-471-19-000", "answers": [ { "text": "ジョン・F.カーリー", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョン・F.カーリーの次に指揮権を持った人物は誰?", "id": "tr-471-19-001", "answers": [ { "text": "ジョン・B・ブルック", "answer_start": 189, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョン・F.カーリーの次の次に指揮権を持った人物は誰?", "id": "tr-471-19-002", "answers": [ { "text": "ヒュー・J・ナー", "answer_start": 206, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "全ての隊舎と主要格納庫は1918年に完成した。\n格納庫の1つは鋼鉄と木材で造られた大型のもので、水上機と飛行艇用に2つのコンクリート製格納庫が作られ、他に倉庫や工場、現像室、発電所が建設された。\n1919年、基地は第1次世界大戦のエース・パイロットで名誉勲章を授与された英雄であるフランク・ルークにあやかって、ルーク・フィールドと命名された。\nアメリカ陸軍によるフォード島への飛行場の設置は、ハワイの至るところで民間空港の建設ラッシュを引き起こし、全米飛行家協会のハワイ支部の設立と全米空港コードの割り当てが行われた。\n陸軍航空部隊の存在は、ハワイ人に通常は好意的に受け入れられた。\n軍の派遣が彼らの土地に対する敬意の表れと受け止められたためだ。", "qas": [ { "question": "ルーク・フィールドの名前の由来となった人物の名は?", "id": "tr-471-20-000", "answers": [ { "text": "フランク・ルーク", "answer_start": 140, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アメリカ海軍は、ハワイに基地が必要と結論を下し、フォード島の陸軍基地を候補と見定めた。\n真珠湾海軍航空基地に配属する士官9名と兵員55名が、1919年12月19日に任命される。\n海軍は陸軍から島を接収し独占を試みたが、ニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官はそれを認めず、両軍が島を分け合うことになり、陸軍は島の西側、海軍は南東部に陣取ったロバート・D・カーク=パトリック少佐(海軍少佐(欧米))が島内に海軍基地を設立するために、4機の航空機と55名の兵員を揮下に派遣された。\nカーク=パトリックの部下は、第1次世界大戦で使用され廃棄予定だった2機のカーチスHS2L飛行艇と2機のカーチスN-9を受け入れ、島の対岸に建設された2棟の巨大なキャンバス地の格納庫に収容した。\nジョン・ロジャーズ少佐が後任として着任した後、分遣隊が島へ移動し、海軍航空工廠TSやフェリックスストウF5L、カーチスH-16、キーストーンPK-1、ダグラスDTを受領した。\n軍艦を係留するために石材とコンクリートで、島中に岸壁を建設し、1926年には、ヴォートFUとヴォートVE-7、ヴォートVE-9複葉機が配属された。", "qas": [ { "question": "真珠湾海軍航空基地に配属された士官と兵員の人数はどちらが多かったの?", "id": "tr-471-21-000", "answers": [ { "text": "兵員", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カーク=パトリックの後任を務めた人は誰?", "id": "tr-471-21-001", "answers": [ { "text": "ジョン・ロジャーズ", "answer_start": 336, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1930年代、海軍は真珠湾内に戦艦や空母を入港させるため、1千5百万ドルを拠出して湾底の浚渫を決意した。\n工事は1940年5月に始まり、外洋からフォード島までの水路と島を一周する水路を確保するため、990万立方メートルの土砂が浚渫された。\n更に、戦艦を停泊させるために、ウェスト・ロックやイースト・ロック、ミドル・ロックも浚渫している。\n浚渫された土砂は埋立に利用され、島の面積は135ヘクタールから178ヘクタールにまで拡張した。", "qas": [ { "question": "拡張前の島面積はどれくらいの広さだったの?", "id": "tr-471-22-000", "answers": [ { "text": "135ヘクタール", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "湾底の浚渫工事が始まったのはいつから?", "id": "tr-471-22-001", "answers": [ { "text": "1940年5月", "answer_start": 56, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "海軍はPK-1やF5L、H-16といった航空機を新型機に交換した。\n1933年には第8F哨戒中隊が到着し、1935年には、陸軍の爆撃機が大型化し、ルーク・フィールドでは保守や駐機が困難となった。\n陸軍は新たな飛行場の建設を開始し、アメリカ陸軍航空隊創設期のパイロット、ホレース・ミーク・ヒッカム中佐の名を冠し、ヒッカム陸軍飛行場と命名した。\n1936年から1940年の間、パンナムが合衆国とアジアを結ぶ長距離国際線を運行し、給油のためにフォード島を利用した。\n海軍は2万5千ドルで艇庫を建設し、さらに57万9565ドル掛けて、新たな隊舎、消防、給水、照明施設を整備した。\n1936年6月には、島の着陸場を120メートルから900メートルに延長している。\n1937年5月、ルーク・フィールドにアメリア・エアハートがロッキード・エレクトラで再到来し、未還に終わった世界一周飛行に飛び立っていった。", "qas": [ { "question": "島の着陸場は1936年には何メートルまで延長されたの?", "id": "tr-471-23-000", "answers": [ { "text": "900メートル", "answer_start": 311, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒッカム陸軍飛行場の名前の由来となった人とは?", "id": "tr-471-23-001", "answers": [ { "text": "ホレース・ミーク・ヒッカム", "answer_start": 134, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1939年、3年に渡る工事ののち、ヒッカム飛行場が開設した。\n陸軍はすべての運用をこちらへ移し、ルーク・フィールドは海軍に引き渡された。\n引き渡し後はフォード島海軍航空基地と改名され、第2哨戒航空団の司令部となった。\nその後、旧名はアリゾナに設立された新たな基地、ルーク空軍基地に引き継がれることになる。\n1939年9月8日、大統領による緊急声明により、島はさらなる軍事行動に備えるために新たな施設建設に拍車がかかった。\nこれにより兵舎、組立補修用格納庫、本部棟、管制塔が整備され、さらに洗濯場や劇場まで建てられた。\n第二次世界大戦の絶頂期には、4万人の人員が島内で生活し働いていた。", "qas": [ { "question": "ヒッカム飛行場が開設したのは何年?", "id": "tr-471-24-000", "answers": [ { "text": "1939年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海軍に引き渡されたルーク・フィールドは何と名前を変えましたか?", "id": "tr-471-24-001", "answers": [ { "text": "フォード島海軍航空基地", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルーク・フィールドの名前を継承した基地とはどこ?", "id": "tr-471-24-002", "answers": [ { "text": "ルーク空軍基地", "answer_start": 132, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルーク空軍基地はどこにある?", "id": "tr-471-24-003", "answers": [ { "text": "アリゾナ", "answer_start": 116, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1930年代初頭、大日本帝国はその版図を中国へ広げようとしていた。\nこの攻勢に対して、合衆国とイギリス、オランダは鉄鋼や航空燃料の禁輸による経済制裁を行った。\nこれは日本が戦争遂行に必要とする当該資源の90パーセントに相当していた。\nこれにより日本は対中撤退か別ルートからの資源確保による戦争継続の判断を迫られることになる。\n結局、日本は継続の道を選んだものの、まずは合衆国からの脅威を排除する必要があると判断した。", "qas": [ { "question": "1930年代初頭に中国に勢力を拡大させようとしていた国はどこ?", "id": "tr-471-25-000", "answers": [ { "text": "大日本帝国", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1930年代初頭に大日本帝国はどこに勢力を拡大させようとしていた?", "id": "tr-471-25-001", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "動物漫画", "paragraphs": [ { "context": "動物漫画(どうぶつまんが)は、日本における漫画のジャンルの一つで、人間以外の動物を主題にした漫画を指す事が多い。\nまた、動物漫画であるか否かに明確な基準は無く、漫画作品や漫画家の宣伝文や話者の恣意的な分類として使用されることが多い。\n昆虫(虫)を題材とした動物漫画の場合は昆虫漫画(こんちゅうまんが)と称される。", "qas": [ { "question": "動物漫画におけるメインテーマは何?", "id": "tr-472-00-000", "answers": [ { "text": "動物", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "昆虫漫画におけるメインテーマは何?", "id": "tr-472-00-001", "answers": [ { "text": "昆虫", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "動物漫画は登場キャラクターとして、動物が重要な位置を占め、主題となっている漫画である。\nただし、その在り方には様々なものがある。\n登場するのが全て動物である作品、人間が中心ではあるが、動物の出番が大きく、大事な役割をはたしている作品など、かなりの幅がある。\n1958年(昭和33年)に刊行された『ジャングル大帝』第3巻の巻末で、手塚治虫は、動物漫画はおおよそ2つのパターンに分けられると分析している。\n1つは「デフォルメされて人間の姿でかかれるもの」、もう1つが「動物がそのままの姿であらわれるもの」である。\nまた世界観においては、動物の世界を主軸に描く作品と、人間世界の中で動物との交流を描く作品とに大別されるとしている。\n前者の舞台設定では、動物たちが言葉を話し、そしてその言語は動物の種類(哺乳類、昆虫、魚など)を問わず共通であり意思疎通ができることが基本である。\n後者では、人間のペットや家畜として描かれるものと、主に幼児を対象とした作品に多く見られる人間と対等の友達として描かれるものがある。", "qas": [ { "question": "手塚治虫による代表的な動物漫画は何ですか?", "id": "tr-472-01-000", "answers": [ { "text": "『ジャングル大帝』", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ジャングル大帝』第3巻はいつ刊行されたの?", "id": "tr-472-01-001", "answers": [ { "text": "1958年", "answer_start": 129, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "手塚治虫の分析では、動物漫画は大体いくつのパターンに分けられるとしましたか?", "id": "tr-472-01-002", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "動物漫画が最も盛んな国はアメリカである。\n「ミッキーマウス」などのディズニー作品は、1930年代(昭和初期)にトーキーによって世界に広まり動物漫画隆盛の中心的な役割を果たした。\n対してヨーロッパの動物漫画は長い歴史に裏打ちされた童話に近い作品が多く、楽天的な要素が強いアメリカの動物漫画と比べ、叙情詩的な味わいや人生批判を絡めたものが多いのが特徴である。", "qas": [ { "question": "動物漫画が最も盛んな国はどこ?", "id": "tr-472-02-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ディズニー作品が世界に広まった時、日本ではどのような時期でしたか?", "id": "tr-472-02-001", "answers": [ { "text": "昭和初期", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ディズニー作品は何によって世界に広まりましたか?", "id": "tr-472-02-002", "answers": [ { "text": "トーキー", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカの動物漫画はどういった要素が強いですか?", "id": "tr-472-02-003", "answers": [ { "text": "楽天的な要素", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本の動物漫画は、古くは『鳥獣戯画』があるほか、戦前の『のらくろ』、戦後の『ジャングル大帝』『シートン動物記(白土三平)』などが広く知られている。\nしかしストーリー漫画の急速な成長とともに日本の動物漫画の描き手は減少していく。\n1970年代後半まで描き続けた代表的な漫画家は手塚治虫のみと言われるように、目立った作品はその後なかなか生まれることがなかった。\n1980年代になってようやく、少年漫画から異色の動物漫画『銀牙-流れ星銀-』、少女漫画から動物コメディー漫画の代表作『動物のお医者さん』が相次いで登場した。", "qas": [ { "question": "『のらくろ』と『ジャングル大帝』はどちらが先に連載されましたか?", "id": "tr-472-03-000", "answers": [ { "text": "『のらくろ』", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "少年漫画における異色の動物漫画とは何?", "id": "tr-472-03-001", "answers": [ { "text": "『銀牙-流れ星銀-』", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "少女漫画における動物コメディー漫画の代表作とは?", "id": "tr-472-03-002", "answers": [ { "text": "『動物のお医者さん』", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "動物漫画の表現手法の基本は、描かれる動物の特性を生かしたストーリーである。\n「犬のおまわりさん」のように、犬の習性や特徴を生かしたキャラクター設定をする方法などは最も簡単な形といえる。\nまた、ジャングルなどの生息地域の特性などや人間との関係などから物語を紡ぐ手法もある。\n動物漫画には、動物を擬人化することで風刺や思想をデフォルメして描写できるという利点もあるが、それと共に人間と動物が会話ができる「夢物語」を描くことができる点も魅力の1つである。\nその他にも動物漫画には多彩な表現手法があり、「フィリックス」の作者として知られるアメリカの漫画家パット・サリバンは「マンガのうち動物ものは一番むずかしく、動物マンガを描ける人は、どんなマンガでもこなせる」と語っている。", "qas": [ { "question": "「フィリックス」を描いた漫画家とは誰?", "id": "tr-472-04-000", "answers": [ { "text": "パット・サリバン", "answer_start": 273, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パット・サリバンはどこの国の漫画家ですか?", "id": "tr-472-04-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 265, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パット・サリバンは、最も難しいマンガのジャンルは何だと言っていますか?", "id": "tr-472-04-002", "answers": [ { "text": "動物もの", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "二足歩行をし衣服を纏うなど人間と変わらぬ姿に擬人化された動物が登場する作品は、ディズニーなどの欧米作品に数多く存在する。\n日本では、古くは日本のストーリー漫画の始まりと言われる『鳥獣戯画』があるが、近代日本において動物漫画の開拓者となったのが田河水泡である。\n田河は欧米の「フィリックス」などのコミック・ストリップの影響を受けた動物漫画を数多く描いた。\n中でも代表作は1931年(昭和6年)に発表された『のらくろ』である。\nこの作品では、擬人化された野良犬くろが軍隊に入隊して奮闘する姿を描いている。\n田河に影響された吉本三平(急逝後に芳賀まさおが引き継ぐ)が描いた『コグマノコロスケ』と並び、日本の戦前を代表する動物漫画である。", "qas": [ { "question": "『のらくろ』の作者は誰?", "id": "tr-472-05-000", "answers": [ { "text": "田河水泡", "answer_start": 121, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田河水泡の代表的な動物漫画とは何?", "id": "tr-472-05-001", "answers": [ { "text": "『のらくろ』", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『のらくろ』がこの世に出た年はいつ?", "id": "tr-472-05-002", "answers": [ { "text": "1931年", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本の戦前を代表する動物漫画は『のらくろ』と何ですか?", "id": "tr-472-05-003", "answers": [ { "text": "『コグマノコロスケ』", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また主に幼児向けとなる絵本ふうの漫画にも、こうした擬人化された動物を主人公とする作品がみられる。\n小学館漫画賞の創成期には、第2回(1956年)にカバの男の子を主役に描いた『おやまのかばちゃん』、第5回(1959年)ではリスの女の子が主役の『こりすのぽっこ』など温厚な絵柄の幼児向け漫画が受賞している。", "qas": [ { "question": "『おやまのかばちゃん』と『こりすのぽっこ』はどちらが先に小学館漫画賞を受賞しましたか?", "id": "tr-472-06-000", "answers": [ { "text": "『おやまのかばちゃん』", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『おやまのかばちゃん』は何年に小学館漫画賞を受賞しましたか?", "id": "tr-472-06-001", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『こりすのぽっこ』はいつ小学館漫画賞を受賞しましたか?", "id": "tr-472-06-002", "answers": [ { "text": "1959年", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『おやまのかばちゃん』の主役は何ですか?", "id": "tr-472-06-003", "answers": [ { "text": "カバの男の子", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "動物の世界の中で、動物たちが共通の言葉を話しストーリーを展開していく作品は、手塚治虫の『ジャングル大帝』が代表的である。\n1950年(昭和25年)に連載がスタートしたこの作品は、白いライオン「レオ」を主軸にジャングルに暮らす動物たちの活躍を描き、アニメ化されるなど大人気を博した。\n1983年(昭和58年)には、『週刊少年ジャンプ』で『銀牙-流れ星銀-』が始まり、獰猛な熊に立ち向かうために各地を転戦する野犬たちの友情や愛を描き、異色の動物漫画として人気を集めた。\n作者の高橋よしひろは、他にも主に犬を主人公とした動物漫画を数多く手がけ「動物漫画家」とも呼ばれることもある。", "qas": [ { "question": "『ジャングル大帝』の主役の名前は何?", "id": "tr-472-07-000", "answers": [ { "text": "「レオ」", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ジャングル大帝』と『銀牙-流れ星銀-』はどちらが遅く連載されたの?", "id": "tr-472-07-001", "answers": [ { "text": "『銀牙-流れ星銀-』", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『銀牙-流れ星銀-』の作者は誰ですか?", "id": "tr-472-07-002", "answers": [ { "text": "高橋よしひろ", "answer_start": 236, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「レオ」は何の動物ですか?", "id": "tr-472-07-003", "answers": [ { "text": "ライオン", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "動物を擬人化やデフォルメをせず、忠実に描いた動物漫画として、1961年(昭和36年)に白土三平が『小学六年生』で発表した『シートン動物記』がある。\nこれは子どもの頃から動物好きであった白土が、幼い頃に夢中で読んだアーネスト・トンプソン・シートンの『シートン動物記』のオマージュとして描かれている。\n5本の短編作品からなり、白土がデビュー当時に描いていたようなディズニー作品ふうの擬人化された動物を廃し、リアリティのある動物描写が特徴である。\n映像などの動物資料がまだ少なくビデオなども存在しなかった時代であり、白土は動物園に出向いたりテレビに映し出される動物の映像を写真に撮影するなどの苦労を重ねて、写実的な動物描写に取り組んだ。", "qas": [ { "question": "白土三平による『シートン動物記』は何で連載されましたか?", "id": "tr-472-08-000", "answers": [ { "text": "『小学六年生』", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『シートン動物記』の原作者は誰?", "id": "tr-472-08-001", "answers": [ { "text": "アーネスト・トンプソン・シートン", "answer_start": 106, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白土三平による『シートン動物記』は何年に発表されたの?", "id": "tr-472-08-002", "answers": [ { "text": "1961年", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1972年には、『週刊少年ジャンプ』で、飯森広一が飼育係の青年を主人公にした『ぼくの動物園日記』を連載開始した。\nこの作品は西山登志雄をモデルに、飼育係という仕事を通して動物を描いている。\nこうした動物相手の仕事をテーマにした作品はその後も生まれた。", "qas": [ { "question": "『ぼくの動物園日記』の作者は誰?", "id": "tr-472-09-000", "answers": [ { "text": "飯森広一", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ぼくの動物園日記』の主人公のモデルとなった実在の人物とは誰?", "id": "tr-472-09-001", "answers": [ { "text": "西山登志雄", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ぼくの動物園日記』が連載された漫画誌は何?", "id": "tr-472-09-002", "answers": [ { "text": "『週刊少年ジャンプ』", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1988年(昭和63年)には『花とゆめ』で獣医学部に通う主人公たちとそのペットの動物たちを描いた『動物のお医者さん』の連載が始まり、獣医学部の志望学生が増えたり作品に登場するシベリアン・ハスキーが大人気となるなど社会現象となった。", "qas": [ { "question": "『動物のお医者さん』が連載された漫画雑誌とは何?", "id": "tr-472-10-000", "answers": [ { "text": "『花とゆめ』", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『動物のお医者さん』の連載によって人気が出た犬の種類とは何?", "id": "tr-472-10-001", "answers": [ { "text": "シベリアン・ハスキー", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『動物のお医者さん』の影響で志望者が増加した学部とは何?", "id": "tr-472-10-002", "answers": [ { "text": "獣医学部", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『動物のお医者さん』の連載がスタートしたのは何年?", "id": "tr-472-10-003", "answers": [ { "text": "1988年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "また同1988年には、飼育日記ふうにハムスターの生態を綴った大雪師走のノンフィクション作品『ハムスターの研究レポート』が発表され、数年後のハムスターブームに一役を買った。\nこの作品の特徴は、対象となるハムスターへの丁寧な観察にあり、「動物漫画にありがちな、擬人化をやめて、観察のスタンスを崩さなかったこと」が作品の人気に繋がったと出版社は分析している。", "qas": [ { "question": "『ハムスターの研究レポート』の作者は誰?", "id": "tr-472-11-000", "answers": [ { "text": "大雪師走", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ハムスターの研究レポート』が発表された年はいつ?", "id": "tr-472-11-001", "answers": [ { "text": "1988年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "スペインワイン", "paragraphs": [ { "context": "南ヨーロッパのイベリア半島にあるスペインはブドウ栽培に適した土壌に恵まれている。地域によって気候は異なるが、主に東部と南部が地中海性気候、中央部が大陸性気候、北西部と北部が西岸海洋性気候である。スペイン固有のブドウ品種は豊富であり、スペイン全土で400種以上のブドウ品種が栽培されているが、ワイン生産量の80%はわずか20種から生産される。この中には黒ブドウのテンプラニーリョ種やガルナッチャ種、白ブドウのアルバリーニョ種やアイレン種、スパークリングワインのカバの主原料であるマカベオ種、酒精強化ワインのシェリーの主原料であるパロミノ種などがある。", "qas": [ { "question": "スペインの中央部の気候は?", "id": "tr-473-00-000", "answers": [ { "text": "中央部が大陸性気候", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スペインの全地域で生産されるブドウの品種はいつくありますか。", "id": "tr-473-00-001", "answers": [ { "text": "400種以上", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "テンプラニーリョ種、ガルナッチャ種、アイレン種のなか、黒ブドウではないのはどれか。", "id": "tr-473-00-002", "answers": [ { "text": "アイレン種", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペインが位置している半島の名前は何?", "id": "tr-473-00-003", "answers": [ { "text": "イベリア半島", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "現代までのスペインは赤ワインの国とされていた。現在でもスペイン産ワインは赤ワインが中心であるが、比較的涼しい気候での白ワイン、カバなどのスパークリングワイン、シェリーなどの酒精強化ワイン、サングリアなどのフレーバードワインと、様々なタイプのワインが製造されている。20世紀末時点の生産比率は、赤ワインが35%、白ワインが31%、ロゼワインが15%であり、残りは酒精強化ワインや工業用蒸留用ワインなどである。フランコ体制による経済発展の遅れも影響し、スペインのワインは1970年代頃まであまり注目されてこなかったが、近年ではいくつもの産地が銘醸地として知られるようになった。スペインはヨーロッパの旧ワイン生産国の中で、現代における品質の向上がもっとも著しいとされる。現代になって実験的かつ情熱的なワイン醸造を行っていることで、イタリアワインと比較されることがある。主要な輸出先はドイツ、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、オランダなどである。著名なワイン生産地域としては、テンプラニーリョ種から生産する赤ワインが有名なリオハ(DOCa)やリベラ・デル・ドゥエロ(DO)、安価で質の高いワインを生産するバルデペーニャス(DO)、シェリーの拠点であるヘレス、アルバリーニョ種による白ワインで知られるリアス・バイシャス(DO)、スパークリングワインのカバ、リオハとともにDOCaに認定されているプリオラート(DOQ)などがある。", "qas": [ { "question": "テキストに従うと、現代までのスペインの主力ワインは何ですか。", "id": "tr-473-01-000", "answers": [ { "text": "赤ワイン", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "20世紀末時点のスペインのワイン生産比率で最も高い割合を占めているのは何か。", "id": "tr-473-01-001", "answers": [ { "text": "赤ワイン", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヨーロッパの旧ワイン生産国の中で、現代における品質の向上がもっとも目立つ国はどこですか。", "id": "tr-473-01-002", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 286, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本文のなか、スペインワインの主要な輸出先はドイツ、イギリス、フランス、アメリカ合衆国以外にどこが挙げられていますか。", "id": "tr-473-01-003", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 410, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "国際ブドウ・ブドウ酒機構(OIV)が発表した2010年の統計によると、スペインのブドウ栽培面積は108.2万ヘクタールであり、フランスの81.8万ヘクタール、イタリアの79.5万ヘクタールを上回って世界第1位である。2009年時点で生食用を含む全世界のブドウ栽培面積は774万ヘクタールであり、スペインのみで世界全体の約15%を占めているほか、スペインは欧州連合全体の約30%を占めている。OIVによる2010年の統計によると、スペインのワイン生産量は35億3530万リットルであり、イタリアの48億5250万リットル、フランスの44億4700万リットルに次いで世界第3位である。この3か国を合わせたワイン生産量は全世界のワイン生産量の49%を占めている。降水量の乏しさゆえに長期にわたって灌漑が制限されていたこと、樹齢の高いブドウの樹が多いこと、他の作物と一緒に植えられる場合が多いことなどが、ブドウの栽培面積と比較してワインの生産量が少ない理由に挙げられる。", "qas": [ { "question": "OIVによる2010年の統計でワイン生産量の1位をとった国はどこですか。", "id": "tr-473-02-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 242, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "生食用を含む2008年のブドウ収穫量は、イタリア、中国、アメリカ合衆国に次いで世界第4位である。OIVによる2010年の統計によると、スペインの1人あたり年間ワイン消費量は23.6リットルであり、世界第15位である。スペインのワイン総生産額は約12億ユーロであり、ワインがスペインの農業総生産額に占める割合は2.8%である。5.6%のオリーブ・オイルを下回っているが、2.4%の小麦を上回っている。スペインはEU全体のワイン総生産額の7.8%を占めているが、付加価値額の高いワインは少ない。イベリア半島はコルクガシの樹皮を使用するコルクの主産地である。スペインは世界全体の約30%を生産しており、約50%を生産するポルトガルに次いで世界第2位を占めている。特にカタルーニャ州とアンダルシア州で生産量が多く、カタルーニャ州パラフルゲイにはコルク博物館が存在する。スペインで使用されるフレンチ・オーク樽の多くは国産であり、主にラ・リオハ州都ログローニョ周辺で製造されている。", "qas": [ { "question": "オリーブ・オイル、小麦、ワインの中、スペインの農業総生産額の割合が最も高いのは何?", "id": "tr-473-03-000", "answers": [ { "text": "オリーブ・オイル", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペインで生産されるコルクは世界全体の約何%占めていますか。", "id": "tr-473-03-001", "answers": [ { "text": "約30%", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スペインとポルトガル、どっちの方がコルクの生産量が多い?", "id": "tr-473-03-002", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界でコルク生産量が最も多い国はどこですか。", "id": "tr-473-03-003", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 307, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "高原地帯のメセタや大河川に加えて、何本かの山脈もスペイン産ワインの生産地域の気候に影響を与えている。ピレネー山脈西端から西に向かってカンタブリア山脈が伸びており、北側のエスパーニャ・ベルデと南側のメセタを隔てている。エスパーニャ・ベルデはスペインでもっとも年降水量の多い地域であり、基本的にブドウの栽培に適さない。山脈の南側には銘醸地として知られるリオハがあり、カンタブリア山脈は多量の降水やビスケー湾から吹く冷たい偏西風などからリオハを保護している。エスパーニャ・ベルデの範囲にあるバスク州沿岸部では年降水量が1,500mmに達するが、カンタブリア山脈以南にあるラ・リオハ州アロはビスケー湾から約100kmしか離れていないにもかかわらず、年降水量が460mmに抑えられている。スペイン南部と中央部は乾燥しており、多くの場所が年降水量500mm以下だが、スペイン北西部は湿潤であり、年降水量1,000mm以上の場所も含まれる。スペイン北西岸のガリシア州では、大西洋沿岸部の年降水量は990mmだが、カスティーリャ・イ・レオン州との州境に近い山間部の年降水量は2,000mmに達する。", "qas": [ { "question": "スペインで年降水量の1位をしめる地域はどこか。", "id": "tr-473-04-000", "answers": [ { "text": "エスパーニャ・ベルデ", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バスク州沿岸部とラ・リオハ州アロ、どちらの方が年降水量が多いか。", "id": "tr-473-04-001", "answers": [ { "text": "バスク州沿岸部", "answer_start": 242, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペインの中央部と北西部と、どちらの方が年降水量が多いか。", "id": "tr-473-04-002", "answers": [ { "text": "北西部", "answer_start": 381, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1994年と1995年の干ばつでブドウの収穫量が激減した後、1995年にはすべてのワイン生産地域で灌漑を使用することが合法化され、多くの生産地域で灌漑が急速に浸透した。蒸発量を最小限に抑えるために、トレド県ではオーストラリアの企業が地下点滴灌漑方式の普及を支援した。灌漑の普及は植樹の高密度化を進展させ、いくつかの地域での収量の向上に貢献した。", "qas": [ { "question": "1994年と1995年にブドウの収穫量が激減したのは何が原因だったの?", "id": "tr-473-05-000", "answers": [ { "text": "干ばつ", "answer_start": 12, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "スペインでのブドウ栽培は、この地域の変化に富んだ極端な気候に適応して発展した。スペインの多くの地域にみられる乾燥した気候は、べと病やうどんこ病、ボトリチス病などの被害の脅威を低減させている。これらの地域では、干ばつの脅威や土地の生産能力の低さなどが理由で、ブドウ畑の所有者は樹の間隔を広く取ってブドウを植えることが奨励された。広く採用されている栽培手法のひとつに、ブドウの樹の間隔を全方向に対して2.5メートル取るという「レアルの枠」がある。スペイン南部や中央部は世界的にみて植樹密度が低い地域であり、1エーカーあたり375-600本の範囲に収まる。これは、ボルドーやブルゴーニュなどの地域に一般的に見られる植樹密度の1/8以下である。スペインの多くのブドウ畑では植え付けから数十年が経過しているが、古いブドウの樹は収量が少なく、例えば、ムルシア州のフミーリャ(DO)では1エーカーあたりの収量が1.1トン以下である。", "qas": [ { "question": "ブドウの樹の間隔を全方向に対して2.5メートル取る栽培手法を何と呼びますか。", "id": "tr-473-06-000", "answers": [ { "text": "レアルの枠", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スペインでは白ワインでさえも樽の中で20年間を熟成に費やすことがあり、はっきりそれと識別可能な風味を生み出している。しかし、19世紀前半のイギリス人ワイン評論家は、スペインのワイン生産方法に対して否定的な見解を示した。サイラス・レディングは1833年の著書『AHistoryandDescriptionofModernwines』で、スペイン人はブドウに対して「粗雑な扱い」をしていると書き、リチャード・フォードは1846年の著書『GatheringsfromSpain』で、スペイン産ワインは「非科学的で無頓着な方法」で生産されていると書いた。これらの批判の一部は、スペインで培われていた伝統的なワイン生産方法に根ざしている。ブドウの圧搾と発酵はティナハスと呼ばれる陶器瓶の中で行われる。その後、ワインは木製の樽かブタ革製の袋に保存される。温暖な気候や低標高の地域では、赤ワインはよりアルコール度数が高く、酸味が低くなる傾向がある。この傾向を是正するために、白ワイン用のブドウを加えて酸味のバランスを取ることがあるが、これによって黒ブドウの果実味は弱められる。", "qas": [ { "question": "『AHistoryandDescriptionofModernwines』は誰が書いたの?", "id": "tr-473-07-000", "answers": [ { "text": "サイラス・レディング", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『GatheringsfromSpain』と『AHistoryandDescriptionofModernwines』と、どっちの方が先に書かれたの?", "id": "tr-473-07-001", "answers": [ { "text": "『AHistoryandDescriptionofModernwines』", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "温度制御装置を備えたステンレス鋼発酵タンクの出現は、アンダルシア州、カスティーリャ=ラ・マンチャ州、レバンテ地方などの温暖な地域のワイン産業を急速に変革し、よりフレッシュで果実味の強いワイン、特に白ワインの生産につながった。1990年代初頭には爽やかでフレッシュなワインが注目されたが、その一方で、19世紀のような伝統的な樽による発酵方式も復活している。スペインのワイン生産ではオーク樽を使用する長い伝統があり、オーク樽の使用開始はフランス人が225リットルの樽を取り入れる前にまで遡る。19世紀末から20世紀初頭、スペインのワイン生産者は安い上に香りの強いアメリカン・オークの樽に移行し始めた。リオハなどの地域のワイン生産者は、特にテンプラニーリョ種が新しいアメリカン・オークの樽によく共鳴することに気づいた。一方で、1980年代にはフレンチ・オークへの回帰も行われるようになり、いくつかのワイナリーはブレンド用に二種類のオーク樽を組み合わせて使用している。新世代のワイン生産者は短期間の熟成で飲むことができる「若いワイン」の生産を開始している。", "qas": [ { "question": "ステンレス鋼発酵タンクの出現により、ワイン産業が急速に発展したのだが、赤ワインと白ワインと、特にどちらの方により影響を及ぼしたか。", "id": "tr-473-08-000", "answers": [ { "text": "白ワイン", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "カタルーニャ地方のミゲル・トーレス社は、個人所有のワイン生産者としては世界最大の生産量を誇る。ミゲル・トーレス社はスペイン最大のDO認定ワイン生産者であり、商品を140か国以上に輸出している。ミゲル・トーレス社はカタルーニャ州のペネデスを拠点としているが、チリの中央渓谷、アメリカ合衆国・カリフォルニア州にもワイナリーを持つ。プリオラートではアルバロ・パラシオス、ルネ・バルビエのクロス・モガドール社などが知られている。1877年にリオハに設立されたロペス・デ・エレディアは現在でも家族経営を続けており、現存する家族経営の生産者としてはリオハ最古である。650ヘクタールのブドウ畑から年間8,000キロリットルのワインを生産するファウスティーノ社は、リオハ産ワインの輸出量の4割を占める、リオハ最大規模のワイン生産者である。20世紀半ばに事業を急拡大し、リオハのほかにラ・マンチャなどにも進出している。1879年に設立されたCVNE社もリオハ最大規模のワイン生産者であり、2004年にはフェリペ皇太子とレティシアの結婚式で「インペリアル1994」が使用された。リベラ・デル・ドゥエロのベガ・シシリア社は、長らく「スペイン唯一の高級酒」と呼ばれた「ウニコ」を生産している。同じくリベラ・デル・ドゥエロのドミニオ・デ・ピングス社の「ピングス」はスペイン最高値で有名である。カバの大部分はフレシネ社、コドルニウ社、カステル・ブランチ社の大手3社が生産しており、フレシネ社はスパークリングワイン生産者としては世界最大である。フレシネ社を中心とするグループはカバの約7割、コドルニウ社はカバの約2割を生産しており、いずれも世界各地にワイナリーを持っている。ゴンサレス・ビアス社は最大規模のシェリー生産者であり、「ティオ・ペペ」はフィノの代名詞といえる銘柄である。1772年創業のオズボーン社は現存する世界最古のワイン生産者のひとつであり、オズボーンの雄牛の看板でも知られる。", "qas": [ { "question": "現存する家族経営のワイン生産者として、リオハで最も古いのは?", "id": "tr-473-09-000", "answers": [ { "text": "ロペス・デ・エレディア", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「インペリアル1994」はどの社のワインか。", "id": "tr-473-09-001", "answers": [ { "text": "CVNE社", "answer_start": 412, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フェリペ皇太子は誰と結婚したの?", "id": "tr-473-09-002", "answers": [ { "text": "レティシア", "answer_start": 451, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "長い間、「スペイン唯一の高級酒」と呼ばれたワインは何?", "id": "tr-473-09-003", "answers": [ { "text": "「ウニコ」", "answer_start": 522, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アンダルシア地方はスペイン南部にあり、主に地中海性気候に区分される。降水量が少なく、夏季の酷暑が特徴である。エストレマドゥーラ地方やカタルーニャ地方とともにコルクの生産地でもある。アンダルシア地方東南部の地中海沿いにあるマラガ産のワインは中世から国外に知られており、特にイギリスに向けて大量のワインが輸出されていた。モスカテル種とペドロ・ヒメネス種を栽培しており、ブドウを日干しして糖度を高めてから醸造する甘口ワインで知られている。アンダルシア地方西南部のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ周辺では、パロミノ種を中心とする白ブドウから酒精強化ワインのシェリーを生産している。14世紀の百年戦争勃発後にイングランド人がヘレス産ワインに注目するようになり、特に16世紀後半から17世紀前半、エリザベス朝からジェームズ1世の治世にもっとも人気があった。", "qas": [ { "question": "エストレマドゥーラ地方、カタルーニャ地方、アンダルシア地方が共通的に生産する物は何?", "id": "tr-473-10-000", "answers": [ { "text": "コルク", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "スペイン中央部のメセタにあるカスティーリャ=ラ・マンチャ地方は極度に乾燥した地域であり、2003年までは灌漑が禁止されていた。ラ・マンチャ(DO)のDO認定面積はスペイン最大の186,942ヘクタールであり、オーストラリアのブドウ栽培面積すべてを合わせてもラ・マンチャには及ばない。広大なブドウ畑で安価な白ワインを生産する地域として知られていたが、近年にはバルデペーニャス(DO)を中心として、良質な国外品種への植え替えや畑の改良などが行われている。かつてはアイレン種を中心とする白ワインが生産量の9割を占めていたが、1990年代後半以降に急速に黒ブドウ品種への転換が進み、2005年までには総生産量の2/3が赤ワインとなった。安価なワインの生産地として知られていた一方で、グリニョン侯爵を中心として畑単位での高品質化の取り組みも行われており、スペイン初の畑限定原産地呼称(VP)認定畑はラ・マンチャ地方から認定された。", "qas": [ { "question": "テキストに従うと、カスティーリャ=ラ・マンチャ地方の2005年ワイン総生産量は、赤ワインと白ワインとどちらの方が多いと予想されるか。", "id": "tr-473-11-000", "answers": [ { "text": "赤ワイン", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カスティーリャ=ラ・マンチャ地方ではいつまで灌漑禁じられていましたか。", "id": "tr-473-11-001", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カスティーリャ・イ・レオン地方のドゥエロ川(ポルトガル語ではドウロ川)流域はワインの名醸地として知られ、下流部のポルトガルにはポート・ワインで有名なポルトがある。ドゥエロ川上流部にはリベラ・デル・ドゥエロ(DO)があり、ブドウ畑は標高約700-850mに広がっている。1981年にセント・ポール大聖堂で行われたチャールズ皇太子とダイアナの結婚祝賀パーティで使用されたベガ・シシリア社のワインは「スペインのロマネ・コンティ」と呼ばれている。リベラ・デル・ドゥエロではテンプラリーニョ種を100%使用した赤ワインが趨勢を誇り、ベガ・シシリア社やドミニオ・デ・ピングス社などの著名なワイナリーがある。リベラ・デル・ドゥエロのほかには、白ワインで知られるルエダ(DO)がある。ルエダは石灰質土壌であり、ベルデホ種、ビウラ種、パロミノ種などが栽培されている。", "qas": [ { "question": "チャールズ皇太子は誰と結婚しましたか。", "id": "tr-473-12-000", "answers": [ { "text": "ダイアナ", "answer_start": 164, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "スペイン産ワインの原産地呼称制度はデノミナシオン・デ・オリヘン(DO)と呼ばれ、フランスにおける同質の制度であるアペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ(AOC)を模して1932年に制定された。ほぼすべての原産地呼称制度認定地域は特定の地域が対象となっているが、カバ、フミーリャ、リオハ(DOCa)は例外であり、生産地域が複数の自治州にまたがっている。すべてのスペイン産ワインは、クオリティワイン(保護原産地呼称,DOP)と、広義のテーブルワイン(保護地理的表示,IGP)に区分される。2007年の統計ではクオリティワインの生産量は1389万ヘクトリットル、広義のテーブルワインの生産量は2286万ヘクトリットルである。欧州委員会規則(CE)2002年753号にしたがい、スペイン産ワインの原産地呼称制度は保護原産地呼称(DOP)と保護地理的表示(IGP)の2カテゴリーに分けられ、さらに生産時に適用される基準の厳格さに応じていくつかのサブカテゴリーに分けられる。特選畑限定原産地呼称(VPCa)、畑限定原産地呼称(VP)、特選原産地呼称(DOCa)、原産地呼称(DO)はEU法による限定地域上質ワイン(クオリティワイン,VQPRD)に属し、スペイン国立原産地呼称協会(INDO)が管轄する各地域の統制委員会が品質を監督している。", "qas": [ { "question": "デノミナシオン・デ・オリヘン(DO)は、何を模倣して作られましたか。", "id": "tr-473-13-000", "answers": [ { "text": "アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ(AOC)", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "スペイン農業水産食糧省のブドウ品種カタログには、醸造用品種として140以上の品種が登録されている。スペイン全土に600種ものブドウが植えられているとする記録もあるが、スペイン産ワインの80%はわずか20種のブドウから生産される。もっとも広い範囲で植えられているブドウは白ワイン用のアイレン種であり、その耐久性と果実の落下への抵抗性が称賛されている。アイレン種はスペイン中央部全体で見ることができ、長年にわたってスペイン産ブランデーのベースとして使用されてきた。アイレン種で生産されたワインはアルコール度数が高く、酸味が強いとされる。赤ワイン用のテンプラニーリョ種はアイレン種に次いで広く栽培されている品種であり、テンプラニーリョ種は2004年にガルナッチャ種を上回った。テンプラニーリョ種とガルナッチャ種はリオハ(DOCa)、リベラ・デル・ドゥエロ(DO)、ペネデス(DO)などの地域でコクのある赤ワインに使用され、ガルナッチャ種はプリオラート(DOQ)でも主要な品種となっている。レバンテ地方(スペインの地中海沿岸地方)で重要な品種はモナストレル種とボバル種であり、暗褐色の赤ワインと辛口のロゼワインに使用される。", "qas": [ { "question": "スペイン中央部全体で見ることができ、長い間、スペイン産ブランデーのベースとして使用されてきたブドウの品種は?", "id": "tr-473-14-000", "answers": [ { "text": "アイレン種", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アイレン種は白ワインに使われますか、それとも赤ワインに使われますか。", "id": "tr-473-14-001", "answers": [ { "text": "白ワイン", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1975年にフランシスコ・フランコが死去して民主化の時代を迎えると、現代的な醸造学が取り入れられ、外国資本が導入されはじめた。リオハ地方には次々と新しいワイナリーが建てられ、伝統的な長期間樽熟成の製法に加えて新技術が導入された。ドゥエロ川中流域のルエダ(DO)は質の高い白ワインの生産地となり、同じくドゥエロ川流域のリベラ・デル・ドゥエロ(DO)は1982年のDO産地認定後に短期間で高級ワイン産地に変貌した。1986年にはスペインが欧州諸共同体(EC)に加盟した。当時のスペインはEC全体の30%ものワインを供給していたが、EC/欧州連合(EU)の共通農業政策の枠組みに組み込まれ、テーブルワインの生産制限でラ・マンチャ(DO)などが大きな影響を受けた。スペインのEC加盟によってフランスとイタリアのワイン生産者が打撃を受けるのを回避するために、ワイン生産量が23.4億リットルを超えると超過分は強制的に工業用アルコールに蒸留されるという条項が加盟議定書に設けられた。その一方で、EUからの補助金によって抜根・転作や高付加価値品種への改植が進められ、スペイン産ワインの品質向上が図られている。", "qas": [ { "question": "フランシスコ・フランコはいつ死亡しましたか。", "id": "tr-473-15-000", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スペインが欧州諸共同体(EC)に加入したのはいつですか。", "id": "tr-473-15-001", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 205, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "フランスのブドウ産地がアメリカ合衆国産の台木を用いた接ぎ木によってフィロキセラの猛威から復興すると、フランスは1892年にスペインとの通商条約を破棄し、植民地であるアルジェリアからの供給を重視するようになった。1870年代のスペインは有害物質を着色料として使用した偽造ワインを生産するようになり、フランスだけでなくイギリスもスペイン産ワインの輸入制限の動きを見せた。国際市場に出回った偽造ワインの存在はスペイン産ワインの評価を下落させた。1878年には、スペインで初めてマラガでフィロキセラが確認された。フランスから陸伝いに侵入したのではなく、アメリカ合衆国産の苗木に付着していたものと考えられている。1894年にはシェリーの主産地であるヘレスに到達し、1911年にはメセタ内陸部のバルデペーニャスにまで到達した。アンダルシア地方ではフィロキセラ確認後の10年間で8万5000ヘクタールものブドウ畑が壊滅し、スペインでもっとも大きな被害地となった。1879年にはフランス=スペイン国境を超えてカタルーニャ地方のアンプルダーで、1882年にはポルトガル=スペイン国境を超えてカスティーリャ・イ・レオン地方のベリンで、1892年にはフランス=スペイン国境を超えてナバーラ地方でフィロキセラが確認され、アンダルシア地方を含むこれらの4地域からスペイン全土にフィロキセラが拡大した。1909年にはカスティーリャ・イ・レオン地方のブドウ畑がフィロキセラ確認前の約半分に激減した。リオハの主要地域であるログローニョ県では1889年から1902年の間にブドウ畑が半減し、アラバ県ではブドウ畑が1/3となった。", "qas": [ { "question": "スペインが有害物質を着色料として使用した偽造ワインを生産するようになり、フランスだけでなくイギリスもスペイン産ワインの輸入制限するようになったのはいつのことですか。", "id": "tr-473-16-000", "answers": [ { "text": "1870年代", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペインで最初にマラガでフィロキセラが確認されたのはいつですか。", "id": "tr-473-16-001", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 219, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "リオハの主要地域であるログローニョ県では1889年から1902年の間にブドウ畑が半減し、アラバ県ではブドウ畑が1/3となった原因は何か。", "id": "tr-473-16-002", "answers": [ { "text": "フィロキセラ", "answer_start": 615, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フランスでうどんこ病の影響が一段落した1870年代後半には、害虫フィロキセラがフランス全土のブドウ畑に蔓延し、再びスペイン産ワインの輸出量が増加した。フランスはスペインとの間で、1877年にワインに関する通商協約を、1882年には通商条約を結び、ワインの輸入関税を大きく引き下げた。1876年から1891年の15年間で輸出量は約8倍に増加し、スペイン産ワインのフランスへの輸出比率は1882年に81.8%にまで増加した。1870年代から1880年代はスペイン産ワインの「黄金時代」と呼ばれている。未開墾地が新たにブドウ畑となり、オリーブ畑や小麦畑がブドウ畑に転換された。1860年のブドウ栽培面積は約120万ヘクタールだったが、1892年には180万ヘクタール以上に増加した。この時期には、うどんこ病やフィロキセラの影響を避けるために、ボルドーの醸造家がピレネー山脈を越えて相次いでスペインに移住している。リオハでは主としてガルナッチャ種とテンプラニーリョ種が栽培され、1865年にボルドーで行われたワイン品評会で、リオハのリスカル侯爵が一等賞を勝ち得ている。225リットルのオーク樽が導入されたのはこの時代である。", "qas": [ { "question": "スペイン産ワインの「黄金時代」はいつからいつまでか。", "id": "tr-473-17-000", "answers": [ { "text": "1870年代から1880年代", "answer_start": 210, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ジョルジュ・ビゴー", "paragraphs": [ { "context": "ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(GeorgesFerdinandBigot,1860年4月7日-1927年10月10日)は、フランス人の画家、漫画家。\n明治時代の日本で17年間にわたって活動をおこない、当時の日本の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。\n署名は「美郷」「美好」ともある。", "qas": [ { "question": "ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーの日本での活動期間はどれくらいだったの?", "id": "tr-474-00-000", "answers": [ { "text": "17年間", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「美郷」「美好」という署名は誰のことを指しているの?", "id": "tr-474-00-001", "answers": [ { "text": "ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビゴーの出身国はどこ?", "id": "tr-474-00-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 64, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1860年にパリで生まれる。\n父は官吏、母はパリの名門出身の画家。\n母の影響を受けて幼い頃から絵を描き始める。\n4歳のとき妹が生まれ、8歳の時に父が亡くなる。\n1871年3月から5月にかけてのパリ・コミューンでは、その成立から崩壊にいたるまで、燃えさかるパリの街や戦闘・殺戮をスケッチしてまわっている。", "qas": [ { "question": "父と死に別れたのはビゴーが何歳の時?", "id": "tr-474-01-000", "answers": [ { "text": "8歳", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビゴーの出生地はどこ?", "id": "tr-474-01-001", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビゴーの出生年はいつ?", "id": "tr-474-01-002", "answers": [ { "text": "1860年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1872年にエコール・デ・ボザールに入学して絵を学ぶが、家計を助けるために1876年に退学して挿絵の仕事を始める。\n在学中はジャン=レオン・ジェロームや肖像画で知られるカロリュス=デュランの指導を受けた。\n退学後、サロンに出入りして、日本美術愛好家として知られたフェリックス・ビュオやアンリ・ゲラールから日本美術についての知識を得、挿絵の仕事で出会ったエミール・ゾラやエドモン・ド・ゴンクールなどからもジャポニスムを知るようになる。\n1878年、フェリックス・レガメが旅行記『日本散策』を出版、同年のパリ万国博覧会では浮世絵と出会って興味を抱く。\nこの頃銅版画の技法を学んだ。\nまた1880年には美術研究家ルイ・ゴンスによる大著『日本美術』の挿絵を一部担当した。", "qas": [ { "question": "ビゴーが中退した絵の学校の名前は?", "id": "tr-474-02-000", "answers": [ { "text": "エコール・デ・ボザール", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『日本散策』の著者は誰?", "id": "tr-474-02-001", "answers": [ { "text": "フェリックス・レガメ", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビゴーが日本の浮世絵と出会ったのは何のイベントでしたか?", "id": "tr-474-02-002", "answers": [ { "text": "パリ万国博覧会", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1881年にはエミール・ゾラの小説「ナナ」の単行本向けに挿絵17枚を寄稿する(複数の挿絵画家の一人)。\n人気作品の挿絵を担当したように、フランスですでに一定の知名度を得ていたが、日本への思いは強く、渡航を決断する。\n当時陸軍大学校で教官を務めていた在日フランス人のプロスペール・フークの伝手を得て、この年の暮れにマルセイユ港を発ち、1882年(明治15年)の1月、21歳のときに来日した。", "qas": [ { "question": "ビゴーが日本に初来日した時、いくつでしたか?", "id": "tr-474-03-000", "answers": [ { "text": "21歳", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビゴーの日本への渡航を手助けしてくれた人は誰ですか?", "id": "tr-474-03-001", "answers": [ { "text": "プロスペール・フーク", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビゴーは何年に日本に初来日した?", "id": "tr-474-03-002", "answers": [ { "text": "1882年", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小説「ナナ」の作者は誰?", "id": "tr-474-03-003", "answers": [ { "text": "エミール・ゾラ", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "当時は写真が技術的な信頼性に欠けていたため、陸軍士官学校では記録用に写生を正課として教えていた。\nビゴーはフークの尽力と陸軍卿大山巌の紹介を得て、1882年10月から1884年10月までの2年間、お雇い外国人として絵画の講師に雇用され、安定した立場と高額の報酬を得ることができた。\nこの間、日本の庶民の生活をスケッチした3冊の画集を自費出版している。\n日本の社会を知る目的もあって、遊廓にも出入りする生活であった。\nしかし、講師の契約が切れると洋画を教える場所はなかった。\n幸い、自費出版した画集は外国人居留地に住む外国人から好評を得たことから、ビゴーはその後も居留地の外国人(主にフランス人)向けに絵を描くことで日本に住み続けることとなった。", "qas": [ { "question": "絵画の講師として活動している間に、ビゴーは何冊の画集を自費出版したの?", "id": "tr-474-04-000", "answers": [ { "text": "3冊", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "絵画の講師を紹介してもらった日本人とは誰?", "id": "tr-474-04-001", "answers": [ { "text": "大山巌", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "絵画の講師として何年間活動したの?", "id": "tr-474-04-002", "answers": [ { "text": "2年間", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1885年と1886年から1887年の二度にわたって半年間、中江兆民の仏学塾でフランス語を教える。\nビゴーは中江の門弟とも交流し、当時の自由民権運動の模様にも接することになる。\n1886年にはいったん帰国を検討するが、フランスの『ル・モンド・イリュストレ』やイギリスの『ザ・グラフィック』といった新聞から日本を題材とした報道画家の職を得たため、さらに滞在を延ばした。\nこの頃には『団団珍聞』への漫画の寄稿(1885年)や『郵便報知新聞』に掲載された翻訳小説の挿絵(1886年)など、日本の大衆の目に触れる仕事もおこなうようになる。\nビゴーはフランスでは漫画を描いたことはなく、日本で『団団珍聞』や『ジャパン・パンチ』(居留地向け)といった風刺画中心のメディアに接して、自らも漫画に進出した。\nビゴーが残した風刺画の中には影絵の形式で複数のコマを並べてストーリーに仕立てたものがある。\n4コマ漫画との関連について、清水勲は、ビゴーは7~10コマの複数のコマを使用しており、ビゴーが描いた4コマ漫画は日本の漫画家のものを筆写した例があるだけだと記している。\nとはいえ、清水は「ビゴーはヨーロッパの比較的長いコマ漫画のスタイルを日本にもたらした」とも評している。", "qas": [ { "question": "ビゴーがフランス語を教えた仏学塾は誰によって開かれたの?", "id": "tr-474-05-000", "answers": [ { "text": "中江兆民", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ザ・グラフィック』はどこの国の新聞なの?", "id": "tr-474-05-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "翻訳小説の挿絵と『団団珍聞』への漫画の寄稿はどちらが先に行われましたか?", "id": "tr-474-05-002", "answers": [ { "text": "『団団珍聞』への漫画の寄稿", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "報道画家の仕事で経済的な基盤ができたこともあり、1887年に居留フランス人向けの風刺漫画雑誌『トバエ』(TÔBAÉ)を創刊し、日本の政治を題材とする風刺漫画を多数発表した。\n特に、条約改正には当時の居留民に同調して時期尚早であるという立場を取る。\n当時の『トバエ』には中江兆民とその門弟も協力して日本語のキャプションを付けていた。\n彼らは政府批判という面で協力したとみられている。\n日本語のキャプションが付されたのは、ジャーナリストに影響を与えることを目的に日本の新聞社や雑誌に送付していたためであった。", "qas": [ { "question": "ビゴーが発表した居留フランス人向けの風刺漫画雑誌のタイトルとは?", "id": "tr-474-06-000", "answers": [ { "text": "『トバエ』", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『トバエ』は何年に創刊された?", "id": "tr-474-06-001", "answers": [ { "text": "1887年", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "居留地の外国人が商売相手で発行所も(治外法権のある)居留地とする一方、ビゴー自身は居留地に住むことはなく、日本人の生活を間近で知るために日本人の住む街並みに身を置いた。\n仏学塾で教えていた当時は麹町区二番町(現・東京都千代田区)に住み、1887年頃から1890年までは向島(現・墨田区)という、外国人としてはかなり辺鄙な場所に居住した。\nその背景には『トバエ』に掲載した風刺画による警察からの監視に身の危険を感じたり、壮士に気づかれるのを避けたいという事情もあった。\n1890年には牛込区市谷仲之町(現・新宿区)に再び転居する。\nここは、ビゴーが来日初期から世話になった士族佐野清の居宅のある市谷本村町からは至近の距離にあった。", "qas": [ { "question": "ビゴーは向島の次にどこに住んだ?", "id": "tr-474-07-000", "answers": [ { "text": "牛込区市谷仲之町", "answer_start": 241, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "向島、麹町区二番町、牛込区市谷仲之町の中でビゴーが最初に住んだ場所はどこ?", "id": "tr-474-07-001", "answers": [ { "text": "麹町区二番町", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ビゴーの取材対象は政治に限らず、1888年の磐梯山噴火や1891年の濃尾地震、1896年の三陸大津波といった災害にも、上記の外国紙通信員として取材をおこなっている。\n磐梯山取材の際には写真の力を痛感し、自らも写真の技術を身につけた。\n濃尾地震では撮影した写真をもとに報道画を描いている。\nこれらの報道画はビゴーが本来の画業で培った写実的なものである。\nこの間、ビゴーはフランスのサロンに油彩画を出品し続けた。\nしかし、若い頃に写実主義の影響を強く受けたまま祖国を離れたビゴーの画風は、印象派などの新しい流派が主流となったフランスでは時代遅れとなっており、度重なる出品にもかかわらず滞日当時は入選することはなかった。", "qas": [ { "question": "濃尾地震、三陸大津波、磐梯山噴火の中で最も早く起こった災害とは何?", "id": "tr-474-08-000", "answers": [ { "text": "磐梯山噴火", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "濃尾地震、磐梯山噴火、三陸大津波の中で2番目に早く起こった災害とは何?", "id": "tr-474-08-001", "answers": [ { "text": "濃尾地震", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1889年で『トバエ』は休刊し、その後もビゴーは複数の風刺画雑誌を刊行した。\nしかし、大日本帝国憲法発布で自由民権運動が終息すると、条約改正問題を除けば日本の政治に関する風刺はほとんど見られなくなった。\n1893年には半年ほど京都市に滞在。\nこれは大阪市や神戸市の外国人居留地へのセールスが目的であった。\nまた、この時期に千葉県検見川村稲毛(現・千葉市稲毛区)にアトリエを構えて移り住み、帰国直前まで暮らすことになる。", "qas": [ { "question": "ビゴーが京都に滞在した期間は?", "id": "tr-474-09-000", "answers": [ { "text": "半年ほど", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビゴーが帰国寸前まで住んだアトリエは何県にあった?", "id": "tr-474-09-001", "answers": [ { "text": "千葉県", "answer_start": 161, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1894年(明治27年)7月、34歳で士族の佐野清の三女・佐野マスと結婚した。\nマスは美しい切れ長の瞳を持つ美人でビゴーより17歳年下であった。\nビゴーは日本への永住を考えていた。\nこの頃、フランスから帰国して間もない黒田清輝と知り合った。\nビゴーは日本で暮らすため、画壇の重要人物と目した黒田の知遇を得ようとした。\nしかし、最新の流派を学んで帰国した黒田と上記の通り古い写実主義で育ったビゴーでは絵画に対する考えに大きな違いがあり、結局二人は大喧嘩をして絶縁した。", "qas": [ { "question": "佐野マスの父親の名前は?", "id": "tr-474-10-000", "answers": [ { "text": "佐野清", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビゴーとマスはどちらが年上なの?", "id": "tr-474-10-001", "answers": [ { "text": "ビゴー", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "明治27年頃、ビゴーはフランスからの帰国者である誰と知り合いましたか?", "id": "tr-474-10-002", "answers": [ { "text": "黒田清輝", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビゴーの日本人妻とは誰?", "id": "tr-474-10-003", "answers": [ { "text": "佐野マス", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "同年8月に日清戦争が勃発すると、ビゴーは英紙『ザ・グラフィック』の特派員として陸軍に従軍。\n二度にわたって朝鮮半島や中国東北部を取材し、報道画を寄稿した。\n1度目は釜山・仁川・平壌と朝鮮国を北上し、10月下旬の鴨緑江作戦を取材して11月初旬に広島にもどり、約1か月間、新婚の妻マスと過ごして12月には再び中国戦線に出かけ、翌年にかけて満州を取材した。\nこれらの絵は野戦病院や雑役に従事した軍夫など、日本のメディアが関心を向けない題材が描かれていた点で貴重なものである。\nまた、従軍に際しては写真機を持参しており、約200点の写真を撮影している。\nただし、日清戦争が終結すると外国紙への寄稿は次第に少なくなっていった。\n1895年(明治28年)にはまた、長男モーリスが誕生した。", "qas": [ { "question": "ビゴーが先に取材した地域は満州と仁川のどちらですか?", "id": "tr-474-11-000", "answers": [ { "text": "満州", "answer_start": 167, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ビゴーの第一子の名前は何?", "id": "tr-474-11-001", "answers": [ { "text": "モーリス", "answer_start": 328, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日清戦争の勝利により日本がアジアの中でその地位を高めたことで、ビゴーの風刺は日本を中心とした極東情勢が主なテーマとなっていった。\n同時にロシアに対抗するイギリスが日本への接近を図り、条約改正への流れは決定的となる。\nビゴーが主な顧客としていた居留地の外国人が条約改正を嫌って離日すること、また写真の発達で報道画の仕事が激減したことで、ビゴーは生活の不安を抱えた。\n加えて、条約改正に伴い、外国人居留地と治外法権が撤廃されることで、従来のような居留地を根拠とした自由な出版活動が困難になることを予期していた。\nビゴーはまた多くの居留外国人同様、日本の司法や警察に不信を抱いていた。", "qas": [ { "question": "日清戦争で勝った国はどこ?", "id": "tr-474-12-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1899年(明治32年)6月、条約改正の発効1ヶ月前にビゴーはフランスに帰国した。\n39歳であった。\n夫人のマスとは離婚し、フランス国籍の長男は自らが引き取ってフランスに連れ帰った。\nマスとの関係については、のちに誕生した次女の回想として「離縁された」という証言があり、及川茂は「マスとの確執がビゴーの忍耐心を抑えられなくなったのである」と記している。\n帰国直前に刊行した画集『1899年5月』は、日本への幻滅感を強く印象づける内容となっている。\n銅版画で日本を題材とした画集『ル・ジャポン』の刊行を企図したが、未刊行に終わった。", "qas": [ { "question": "ビゴーは何歳でフランスに帰国した?", "id": "tr-474-13-000", "answers": [ { "text": "39歳", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本への幻滅感が強く現れているビゴーの画集タイトルは何?", "id": "tr-474-13-001", "answers": [ { "text": "『1899年5月』", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "条約改正の発効とビゴーの帰国はどちらが後だった?", "id": "tr-474-13-002", "answers": [ { "text": "条約改正の発効", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "帰国後の1899年12月にフランス人女性M・デプレと再婚。\nこの妻との間には1904年までの間に2人の女子をもうけた。\n1900年のパリ万国博覧会で「世界一周パノラマ館」の設計にかかわったとされる。\nこのほかにも挿絵・漫画・ポスターなどの大衆画家として活動した。\nただし及川茂は、ビゴーは帰国直後に若干の風刺画を手がけたものの、イラスト入りの新聞・雑誌の全盛期で多くの同業者がいた当時のフランスでビゴーの作品は読者の関心を呼ぶことができず、日本の情報を描くことに転じたと記している。", "qas": [ { "question": "ビゴーの再婚相手は誰だったの?", "id": "tr-474-14-000", "answers": [ { "text": "M・デプレ", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "M・デプレはビゴーとの間に何人の子女を産んだの?", "id": "tr-474-14-001", "answers": [ { "text": "2人", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1903年には日本で暮らした稲毛海岸を題材にした油彩画がサロンに入選する。\nこれはビゴーにとって生涯唯一の入選であったとみられている。\nこの絵は画風に印象派のスタイルが取り入れられていた。\n1904年に日露戦争が起きると『フィガロ』紙から特派員の仕事を打診されたが、次女の誕生直後だったためこれを断っている。\nその代わりに、日清戦争当時の取材経験をもとに想像したと推定される戦争画や日本を題材とした絵をフランスの新聞に寄稿した。\nビゴーはこの頃まで日本通の画家として日本を扱った絵を多く手がけたが、日露戦争終結後は減少した。\nA・ド・ジェリオルの『大仏の耳の中で』(1904年)が、日本を題材にした彼の挿絵本の最後となる。", "qas": [ { "question": "『大仏の耳の中で』の著者は誰?", "id": "tr-474-15-000", "answers": [ { "text": "A・ド・ジェリオル", "answer_start": 263, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本をテーマにした、ビゴー最後の挿絵本とは何?", "id": "tr-474-15-001", "answers": [ { "text": "『大仏の耳の中で』", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビゴー唯一の入選作品は、どこを題材にした油彩画だったの?", "id": "tr-474-15-002", "answers": [ { "text": "稲毛海岸", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後ビゴーは、大衆向けの販売促進を兼ねた娯楽出版物だったエピナール版画の下絵を描く仕事をした。\n及川茂はその期間を1906年から1916年頃までと推定している。\nまた、ビゴーが新聞・雑誌の挿絵から手を引いてこの仕事についた背景について、読者の求めるような題材をときには事実を曲げてでも描かねばならない挿絵よりも、そうした制約のないエピナール版画を選んだのではないかと推測している。\nビゴーのエピナール版画の中には、他に例を見ない日本の昔話や風俗を扱ったものも少ないながら存在した。\nビゴーの作品を同業者がコピーした例も多く、及川は「他のエピナール版画と比較して、ビゴーが絵画的に卓越していることは一目瞭然である」と評価している。\nしかし、エピナール版画は駄菓子屋などで子どもが購入するような安価な商品であり、芸術として評価される対象ではなかった。\nビゴーの次女はその子ども(ビゴーの孫)にはこの仕事について全く語ることがなく、孫たちが1970年代に日仏のビゴー研究者から取材を受けた際にもそのことに触れなかったため、及川が1980年代にその事実を発見するまでは知られることがなかった。", "qas": [ { "question": "ビゴーがエピナール版画の下絵描き業をした期間を、具体的に推定した人は誰ですか?", "id": "tr-474-16-000", "answers": [ { "text": "及川茂", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビゴーがエピナール版画の下絵描きの仕事をしていた事を発見した人は誰ですか?", "id": "tr-474-16-001", "answers": [ { "text": "及川", "answer_start": 459, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1925年にはフランスの装飾芸術展に出品し、教育功労章を受章した。\n同じ年、マルセイユで発行されていた『ミディ・コロニアル・マリティム』という週刊新聞におよそ20年ぶりに挿絵の寄稿を再開する。\nこの新聞はフランスの植民地に関する話題を主に取り扱っており、当時フランス領インドシナ総督となったアレクサンドル・ヴァレンヌを社会主義者として批判する論調を取っていた。\nビゴーの挿絵は当初この論調に沿ったもので、のちには中国における共産主義運動も題材として取り上げている。\n1925年に日仏混血でフランス在住の山田キク(1897-1975)が日本を題材にした小説『マサコ』を刊行すると強い興味を示し、手元の本に1ページずつ挿絵を入れることを試みた。", "qas": [ { "question": "『ミディ・コロニアル・マリティム』に挿絵の寄稿を行ったのは何年でしたか?", "id": "tr-474-17-000", "answers": [ { "text": "1925年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小説『マサコ』の作者は誰?", "id": "tr-474-17-001", "answers": [ { "text": "山田キク", "answer_start": 251, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "晩年の彼はエソンヌ県のビエーヴル(Bièvres)の自宅に、ヨーロッパには自生しない竹を取り寄せて植えつけた小さな日本風の庭園を作り、その庭を眺めることを好んだ。\n1927年、自宅の庭を散策中に、脳卒中で倒れ死去。\n67歳だった。\n死去により、『マサコ』の挿絵は下絵を含めて14図で途切れた。\n『ミディ・コロニアル・マリティム』に寄稿していた挿絵が、外部に発表した作品としては絶筆となった。", "qas": [ { "question": "ビゴーが晩年に住んだ地域はどこ?", "id": "tr-474-18-000", "answers": [ { "text": "ビエーヴル", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビゴーの死因は何だったの?", "id": "tr-474-18-001", "answers": [ { "text": "脳卒中", "answer_start": 98, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビゴーは何歳で死去した?", "id": "tr-474-18-002", "answers": [ { "text": "67歳", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『マサコ』の挿絵は何図まで描かれたの?", "id": "tr-474-18-003", "answers": [ { "text": "14図", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ロンドン", "paragraphs": [ { "context": "ロンドン(英語:London[ˈlʌndən])はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国およびこれを構成するイングランドの首都。\nイギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。\nロンドンはテムズ川河畔に位置し、2000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。\nロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)にあたる地域にあった。\nシティの市街壁内の面積は約1平方マイルあり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。\n少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。\nロンドンは市街地の大部分はコナベーションにより形成されている。\nロンドンを管轄するリージョンであるグレーター・ロンドンでは、選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われている。", "qas": [ { "question": "イギリス及びヨーロッパ域内の最大都市とはどこ?", "id": "tr-475-00-000", "answers": [ { "text": "ロンドン", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ロンドン」という名称が使用され始めたのはいつからですか?", "id": "tr-475-00-001", "answers": [ { "text": "19世紀以降", "answer_start": 242, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロンドンの近くを流れている川とは?", "id": "tr-475-00-002", "answers": [ { "text": "テムズ川", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ロンドンは最高水準の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力がある。\nまた、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2014年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。\n世界的な文化の中心でもある。\nロンドンは世界でもっとも来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界でもっとも航空旅客数が多い。\n欧州ではもっとも高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。\n2012年のロンドンオリンピック開催にともない、1908年、1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる。", "qas": [ { "question": "ロンドンで2番目に開催されたオリンピックは何年でしたか?", "id": "tr-475-01-000", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 297, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロンドンに存在する大学の数はいくつ?", "id": "tr-475-01-001", "answers": [ { "text": "43校", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている。\n2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で、イギリス国内の全人口の12.7パーセントを占めている。\nグレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる827万8,251人の人口を有し、ロンドンの都市圏の人口は1,200万人から1,400万人に達し、欧州域内では最大である。\nロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった。\n2012年にマスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界でもっとも外国人旅行者が訪れる都市である。\nイギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。", "qas": [ { "question": "都市的地域が欧州域内で第1位となる都市はどこですか?", "id": "tr-475-02-000", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 127, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2012年の統計では、外国人旅行者が最多訪問である国はどこですか?", "id": "tr-475-02-001", "answers": [ { "text": "ロンドン", "answer_start": 278, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ロンドンの語源ははっきりとしていない。\n古代の名称はその典拠が2世紀からのものに見られる。\n121年にロンディニウムの記録があり、ロマーノ・ブリティシュ文化が起源である。\n最初期の説は今日では軽視されているジェフリー・オブ・モンマスのブリタニア列王史である。\n名称の説の一つにルッドから仮定されるもので、主張によればこの王が街を占領しKaerludと名付けたとしている。", "qas": [ { "question": "ロンディニウムの起源は何ですか?", "id": "tr-475-03-000", "answers": [ { "text": "ロマーノ・ブリティシュ文化", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブリタニア列王史を記した人は誰?", "id": "tr-475-03-001", "answers": [ { "text": "ジェフリー・オブ・モンマス", "answer_start": 103, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1898年以降は「Londinosと呼ばれる男の所有する土地」を意味するケルト語に語源を求めるのが一般的であったが、この説は否定されている。\n1998年、言語学者のリチャード・コーツは古ケルト語の(p)lowonidaを語源とする説を提示した。\n(p)lowonidaとは、「渡るには幅が広すぎる川」を意味し、ロンドンを東西に貫通するテムズ川を指すものとして提案されている。\nケルト語の形でLowonidonjonとなり、これが集落名になったとした。\nしかしながら、この説は大きな修正を必要とした。\n可能性としてウェールズ語の名称が英語から借用されたものに戻り、基礎から元の名称を再構築して使用することが困難であると言う可能性も排除できない。\n1889年まで\"London\"の名称は公式にはシティ・オブ・ロンドンにのみ適用されていたが、カウンティ・オブ・ロンドンを表すものとなり、現在ではグレーター・ロンドンを表すものとなっている。\n漢字表記は「倫敦」が用いられるが、明治期前後には「龍動」と記載した例もある。\n現代中国語をピンイン式でアルファベット表記すると、倫敦は「lundun」で、龍動は「longdong」となる。\n龍動と表記したのは、清国から伝わった外来表記であった可能性がある。", "qas": [ { "question": "(p)lowonidaが意味するものとは?", "id": "tr-475-04-000", "answers": [ { "text": "「渡るには幅が広すぎる川」", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロンドンを漢字表記するとどうなる?", "id": "tr-475-04-001", "answers": [ { "text": "「倫敦」", "answer_start": 422, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "\"London\"の名称は、現在では何を表示する時に使うの?", "id": "tr-475-04-002", "answers": [ { "text": "グレーター・ロンドン", "answer_start": 394, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ロンドン周辺にはケルト系のブリトンの集落跡が点在した形跡が確認される。\n最初の大きな開拓地はローマ帝国によって43年に創建された。\nこの開拓は17年間続いたが、61年ころブーディカが率いるイケニ族により強襲され焼き討ちされた。\nまた一説には紀元前1103年ごろ、トロイ王族の孫ブルートゥスがトロイヤ人の一団を率いてイタリアから移住、「ニュー・トロイ」としてロンドンが建設されたという。\n紀元前1200年前後のトロイ崩壊後、トロイ王族のアイネイアースはトロイの移民を率いてイタリアに移住、ラテンの王ラティヌスの娘と結婚。\nブルートゥスはアイネイアースの孫である。\nその次の都市は繁栄し、紀元100年にそれまでブリタニアの首都であったコルチェスターから取って代わった。\n2世紀のローマ支配のロンドンは6万人の人口があった。", "qas": [ { "question": "「ニュー・トロイ」はどこの国から移住して来た人達によって作られましたか?", "id": "tr-475-05-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 157, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブルートゥスの祖父は誰?", "id": "tr-475-05-001", "answers": [ { "text": "アイネイアース", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2世紀のローマ支配下のロンドンの人口はどれくらいでしたか?", "id": "tr-475-05-002", "answers": [ { "text": "6万人", "answer_start": 348, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "最近の2つの発見により、ロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。\n1999年に青銅器時代の橋がヴォクスホール・ブリッジの北側の砂浜で発見されている。\nこの橋はテムズ川を渡っていたか、今はない川の中に浮かぶ島を渡っていた。\n樹木学では紀元前1500年にさかのぼる木材が使われている。\n2010年には紀元前4500年にさかのぼる大きな木材で築かれた建物がヴォクスホール・ブリッジ南側の砂浜で発見された。\n中石器時代のもので機能は分かっていないが、50メートル×10メートルの範囲で30センチの干潮時に見ることができる。\nこの2つの構造物は南岸のテムズ川とエッフラ川が自然に合流する地点にあり、ローマ時代のシティ・オブ・ロンドンの上流4キロの場所にある。\nこれらの構造体を構築するのに必要な労働力、貿易、安定性などから少なくとも数百人規模のコミュニティがあったことを示している。", "qas": [ { "question": "青銅器時代の橋が見つかったのは何年ですか?", "id": "tr-475-06-000", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。\n6世紀からアングロ・サクソン人がルンデンヴィックで知られる開拓地がローマ人の古い街のわずかに西に築かれ、これは現在のコヴェント・ガーデンやロンドンで、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。\nただし、宗教的な中心地はカンタベリーであり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。\nフリート川の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、ヴァイキングからの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた。\nヴァイキングの襲撃は増加の一途をたどり、886年にアルフレッド大王がデーン人の指導者であるガスラムとウェドモーアの和議を締結するまで続いた。\nアングロ・サクソン人のルンデンヴィックLundenwicは「旧市街」を意味するエアルドヴィックEaldwicと改称され、現在のシティ・オブ・ウェストミンスターのオールドウィッチにその名を残している。\n10世紀、すでに国内最大の都市となり、貿易面でももっとも重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。\nさらにこのころ、ウェセックスの伝統的な中心地であるウィンチェスターとの競合にも直面した。", "qas": [ { "question": "ロンドンの宗教的な中心地はどこですか?", "id": "tr-475-07-000", "answers": [ { "text": "カンタベリー", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エアルドヴィックEaldwicは元々何という名称でしたか?", "id": "tr-475-07-001", "answers": [ { "text": "ルンデンヴィックLundenwic", "answer_start": 346, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "11世紀、エドワード懺悔王はウェストミンスター寺院を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。\nこの見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる。\n1066年のクリスマスの日、ヘイスティングズの戦いで勝利し、イングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は1066年のクリスマスの日に、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として即位した。\nウィリアム1世はホワイト・タワー(のちのロンドン塔)をシティの南東に建設し、市民を威圧した。\n1097年、ウィリアム2世はウェストミンスター寺院にほど近い場所に、ウェストミンスター宮殿の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した。\n12世紀、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。\n多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。\nウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。\nシティはその経済力を背景として、12-13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。\n人口は1100年に1万8,000人、1300年までには10万人ほどにまで成長していた。\n14世紀半ばにはペストが発生し、人口は3分の1程度減少した。\n1381年、ワット・タイラーの乱が発生した。", "qas": [ { "question": "ウェストミンスター寺院の建設者は誰ですか?", "id": "tr-475-08-000", "answers": [ { "text": "エドワード懺悔王", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "14世紀半ばにロンドンの人口が3分の1程度にまで減少してしまった原因とは何が発生したからですか?", "id": "tr-475-08-001", "answers": [ { "text": "ペスト", "answer_start": 649, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1100年と1300年を比較して、ロンドンの人口が多いのはどちらの年ですか?", "id": "tr-475-08-002", "answers": [ { "text": "1300年", "answer_start": 615, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "テューダー朝の時代、宗教改革にともなうプロテスタントへの移行が次第に進むにつれ、教会の私有化が進んだ。\nネーデルラント周辺地域へは未加工のウール生地が海上輸出された。\n生地の主たる用途は、大陸ヨーロッパの富裕層向けの衣服であった。\nしかし、当時のイギリスの海運会社は北西ヨーロッパ以外の海にはほとんど進出しなかった。\nイタリアや地中海への商業ルートは、通常アントウェルペンまたはアルプス山脈経由であった。\n海上輸送ではイタリアやドゥブロヴニクの貿易商と同様、ジブラルタル海峡を経由した。\n1565年のオランダとイギリス間の貿易再開は、瞬く間に活発な商取引をもたらした。\n1566年、王立取引所が設立された。\n重商主義は進展し、イギリス東インド会社をはじめとする勅許会社が設立され、貿易は新世界へと拡大した。\nロンドン港は北海において重要性を増し、国内外から移住者が来航した。\n1530年の人口は推計で5万人、1605年には22万5,000人に上昇した。", "qas": [ { "question": "1530年と1605年のロンドンの人口を比較してみると、どちらの年が少ないですか?", "id": "tr-475-09-000", "answers": [ { "text": "1530年", "answer_start": 388, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロンドンとイタリア及び地中海間の商業ルートで経由した山脈とは何ですか?", "id": "tr-475-09-001", "answers": [ { "text": "アルプス山脈", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "16世紀、ウィリアム・シェイクスピアや同時代に生きたロンドンの劇作家は、イギリス・ルネサンス演劇をはじめとして劇場の発展にしのぎを削った。\nテューダー朝が終わりを告げる1603年まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市であった。\n1605年、ジェームズ1世の暗殺計画を企てた火薬陰謀事件が発生した。\n17世紀初頭や1665-1666年にはペストが流行し、10万人または人口の5分の1が死亡した。\n1666年、シティのプディング・レーンにてロンドン大火が発生し、市内の家屋の約85パーセントが焼失した。\n建築家ロバート・フック指揮のもと、ロンドン再建に10年の歳月を要した。\n1708年、クリストファー・レンの最高傑作であるセント・ポール大聖堂が完成した。\nハノーヴァー朝の時代には、メイフェアをはじめとする新市街が西部に形成され、テムズ川には新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。\n東部では、ロンドン港がテムズ川下流のドックランズに向かって拡張された。", "qas": [ { "question": "火薬陰謀事件での暗殺対象者は誰でしたか?", "id": "tr-475-10-000", "answers": [ { "text": "ジェームズ1世", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セント・ポール大聖堂を建築した人は誰?", "id": "tr-475-10-001", "answers": [ { "text": "クリストファー・レン", "answer_start": 292, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロンドン大火によるロンドンの町の再建にはどれくらいの期間を要しましたか?", "id": "tr-475-10-002", "answers": [ { "text": "10年", "answer_start": 274, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1762年、ジョージ3世はバッキンガム・ハウスを手中に収め、以後75年間にわたって同邸宅は拡張を続けた。\n18世紀、ロンドンの犯罪率は高く、1750年にはロンドン最初の専業の警察としてバウストリートランナーズが設立された。\n総計で200件以上の犯罪に死刑判決が下され、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが絞首刑に処された。\nロンドンで生まれた子どもの74パーセント以上は5歳未満で死亡していた。\nコーヒー・ハウスが意見を交わす社交場として流行したのにともない、リテラシーの向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、フリート・ストリートは報道機関の中心地となっていた。\n1777年のサミュエル・ジョンソンによる言葉を記す。\n「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。\nロンドンには人生が与えうるものすべてがあるから」", "qas": [ { "question": "ロンドンで出生した子供の半分以上は何歳未満で亡くなっていましたか?", "id": "tr-475-11-000", "answers": [ { "text": "5歳未満", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バウストリートランナーズが設立されたのは何年ですか?", "id": "tr-475-11-001", "answers": [ { "text": "1750年", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1831-1925年ごろ、ロンドンは世界最大の都市であった。\n著しく高い人口密度によりコレラが大流行し、1848年に1万4,000人が死亡、1866年には6,000人が死亡した。\n特に、1854年8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。\n1855年に、首都建設委員会が設立される。\n渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。\n世界初の公共鉄道ネットワークであるロンドン地下鉄が開通している。\n首都建設委員会は1889年にロンドン郡議会になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。\n第二次世界大戦時、ザ・ブリッツをはじめとするドイツ空軍による空爆により、3万人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。\n終戦直後の1948年、ロンドンオリンピックが初代ウェンブリー・スタジアムにて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。", "qas": [ { "question": "コレラによる死亡者数が多いのは1848年と1866年のどちら?", "id": "tr-475-12-000", "answers": [ { "text": "1848年", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1848年にロンドンの市民が1万4,000人も死亡した原因は何だったの?", "id": "tr-475-12-001", "answers": [ { "text": "コレラ", "answer_start": 43, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第二次世界大戦時にロンドンはどこの国から攻撃を受けていましたか?", "id": "tr-475-12-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 297, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1951年、フェスティバル・オブ・ブリテンがサウス・バンクにて開催された。\n1952年、ロンドンスモッグの対応策として大気浄化法(1956)が掲げられ、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題はいまだに残されている。\n1940年代以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。\n多くはイギリス連邦加盟国の出身者である。\n内訳としてはジャマイカ、インド、バングラデシュおよびパキスタン出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。", "qas": [ { "question": "大気汚染が深刻だったロンドンの事を皮肉めいた言葉で何と言っていましたか?", "id": "tr-475-13-000", "answers": [ { "text": "「霧の都」", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロンドンに大勢の移住者が入ってきたのは何年以降からですか?", "id": "tr-475-13-001", "answers": [ { "text": "1940年代以降", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "主として1960年代半ば以降、ロンドンは世界的なユースカルチャーの中心地となっていった。\nキングス・ロード、チェルシー、カーナービーストリートといった地域ではスウィングロンドンといったスタイルが流行した。\n流行の発信拠点としての役割はパンク・ロックの時代に復活し、1965年、ロンドンの都市的地域の拡大にともない、管轄範囲を拡大したグレーター・ロンドン・カウンシルが設立された。\n北アイルランド問題に関連し、ロンドンではIRA暫定派による爆破事件が発生した。\n1981年のブリクストン暴動では、人種差別問題が注目を集めた。\n第二次世界大戦以後、グレーター・ロンドンの人口は次第に減少していった。\nピーク時の1939年の推計人口が861万5,245人だったのに対し、1980年代では約680万人に減少していた。\nドックランズのカナリー・ワーフ再開発事業にともない、ロンドンの主要港は下流に位置するフェリクストウ港やティンバリー港に移転した。\nまた、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な金融センターとしての役割は増加の一途をたどった。", "qas": [ { "question": "グレーター・ロンドンの人口がピークに達したのは何年でしたか?", "id": "tr-475-14-000", "answers": [ { "text": "1939年", "answer_start": 303, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロンドンが世界的な若者文化の中心となっていったのはいつ頃からですか?", "id": "tr-475-14-001", "answers": [ { "text": "1960年代半ば以降", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1980年代、高潮による北海からの海水の流入をせき止め、洪水を防止するテムズバリアが完成した。\n1986年、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。\n2000年、グレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立された。\nミレニアム記念事業の一環として、ミレニアム・ドーム、ロンドン・アイ、ミレニアム・ブリッジが建設された。\n2005年、ロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄車両とバスが爆破された。\n2012年、第30回オリンピックが開催された。\n1908年や1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。\nアメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界1位の都市と評価された。\n2020年、フランスのエマニュエル・マクロン大統領より、レジオンドヌール勲章を授与される。", "qas": [ { "question": "ロンドン同時爆破事件が発生したのはいつですか?", "id": "tr-475-15-000", "answers": [ { "text": "2005年", "answer_start": 207, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2020年にロンドンが授与されたものとは何ですか?", "id": "tr-475-15-001", "answers": [ { "text": "レジオンドヌール勲章", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2020年にフランス大統領を務めていた人物は誰ですか?", "id": "tr-475-15-002", "answers": [ { "text": "エマニュエル・マクロン", "answer_start": 380, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "グレーター・ロンドンは、シティ・オブ・ウェストミンスターを含む32の特別区とシティ・オブ・ロンドンにより構成されている。\nグレーター・ロンドンは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により構成されている。\nロンドン市長は行政上の力を有し、ロンドン議会は市長が提案する年度毎の予算の可否や裁定に関して精細に調査する。\nグレーター・ロンドンの本庁はサザークのシティーホールにあり、現在の市長はサディク・カーンである。\n市長の法定戦略計画はロンドンプランとして公開され、最新のものは2011年に改訂されている。", "qas": [ { "question": "現在のロンドン市長は誰ですか?", "id": "tr-475-16-000", "answers": [ { "text": "サディク・カーン", "answer_start": 196, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グレーター・ロンドンのうち、シティ、都心部の13区はインナー・ロンドン、その外縁部の19区はアウター・ロンドンと呼ぶ。\n1965年、グレーター・ロンドン全体を管轄する広域自治体としてグレーター・ロンドン・カウンシルが発足したが、1986年にサッチャー政権の地方行政改革により廃止された。\nグレーター・ロンドン・カウンシル廃止以後、各区は「ユニタリー」と呼ばれる状態にあり、カウンティレベルの行政組織として機能していた。\nところがブレア政権下の住民投票により、2000年にグレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立され、グレーター・ロンドンの市長は直接選挙で選出されるようになった。\n初代市長ケン・リヴィングストンはロンドンの主要な政策課題である公共の安全性の確保と交通問題に努めたが、2008年にボリス・ジョンソンとの選挙に敗れ、ジョンソンが2代目市長となった。\nシティは中世から自治組織を有し、ロード・メイヤーと呼ばれるロンドン市長を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職になっている。\nまた、英国では伝統的に大聖堂(大寺院)がある町(Town)を都市(City)と呼称し、シティ・オブ・ロンドンにはセント・ポール大聖堂、シティ・オブ・ウェストミンスターにはウェストミンスター寺院がそれぞれ存在する。\n一方、サザークは大聖堂を有するが、16世紀からシティではなく特別区を名乗る。", "qas": [ { "question": "インナー・ロンドンとアウター・ロンドンはどちらが区の数が多いですか?", "id": "tr-475-17-000", "answers": [ { "text": "アウター・ロンドン", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グレーター・ロンドンの初代市長は誰が務めましたか?", "id": "tr-475-17-001", "answers": [ { "text": "ケン・リヴィングストン", "answer_start": 310, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ケン・リヴィングストンの次に市長になった人は誰?", "id": "tr-475-17-002", "answers": [ { "text": "ジョンソン", "answer_start": 367, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "特別区は一番身近な行政サービスである地区計画や学校、社会福祉援助、地域道路の整備、ゴミ収集に関して責任がある。\nゴミ収集のような行政サービスはロンドン清掃事務当局等の機関を通じていくつかの特別区ごとにそれぞれ共同で行っている。\n2009-2010年のロンドン議会とグレーター・ロンドンを合わせた歳入歳出規模は220億ポンドで、そのうち147億ポンドは特別区、74億ポンドはグレーター・ロンドンであった。\nグレーター・ロンドンの治安はロンドン市長公安室下のロンドン警視庁により担われている。\nシティ・オブ・ロンドンは自らの警察機構であるロンドン市警察を有している。\nイギリス鉄道警察はロンドンのナショナル・レールやロンドン地下鉄に関してその責任を有している。\nロンドン消防庁はイギリスの消防に関する法律により、ロンドン消防・緊急事態計画局のもと、グレーター・ロンドンを管轄する、世界で5番目に大きな消防組織である。\n救急はロンドン救急サービス(LAS)により担われ、無料の救急車サービスでは世界で最大規模である。\nロンドン航空救急はLASと連携して慈善で運営されている。\nイギリス沿岸警備隊と王立救命艇協会はテムズ川で運用されている。", "qas": [ { "question": "歳入歳出規模220億ポンドのうち、特別区とグレーター・ロンドンのどちらの金額が多いですか?", "id": "tr-475-18-000", "answers": [ { "text": "特別区", "answer_start": 175, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グレーター・ロンドンの治安を担っている機関とはどこ?", "id": "tr-475-18-001", "answers": [ { "text": "ロンドン警視庁", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ロンドンはイギリス政府の首都としてウェストミンスター宮殿周辺に官庁が多く集まっている。\n特にホワイトホール沿い界隈に集中しており、首相官邸のダウニング街10番地も含まれる。\nイギリス議会は「議会の母(MotherofParliaments)」と呼ばれ、この愛称は最初にイングランド自体にジョン・ブライトが用いた。\n議院内閣制のモデルである。", "qas": [ { "question": "「議会の母」という愛称を最初に使用した人は誰?", "id": "tr-475-19-000", "answers": [ { "text": "ジョン・ブライト", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "グレーター・ロンドンは一番上の行政機構で、特別区がそれぞれロンドンをカバーしている。\n小さい範囲のシティ・オブ・ロンドンはかつてすべての範囲の街区が含まれていたが、都市地域の成長によりシティ・オブ・ロンドン自治体により郊外との合体が試みられた。\nそれぞれ異なった目的により「ロンドン」が定義され、かつて法的に議論された。\nグレーター・ロンドンの40パーセントはロンドン郵便カウンティによりカバーされ、郵便の住所では'LONDON'の範囲を構成している。", "qas": [ { "question": "グレーター・ロンドンの何パーセントが郵便の住所で'LONDON'の範囲を構成していますか?", "id": "tr-475-20-000", "answers": [ { "text": "40パーセント", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ロンドンの市外局番は(020)でグレーター・ロンドンと同じように広範囲をカバーし、外側の地区のいくつかは外れるがグレーター・ロンドンの外の地区のいくつかは含まれている。\nM25モーターウェイの内側が通常、ロンドンとみなされ、グレーター・ロンドンの範囲は変化している(en)。\n市街地の拡張は現在、メトロポリタン・グリーンベルトにより防がれているが境界を越えて市街地は広がっており、グレーター・ロンドン都市的地域と定義が分かれる。\n超えた範囲は広大なロンドンコミューターベルトになっている。", "qas": [ { "question": "ロンドンの市外局番は?", "id": "tr-475-21-000", "answers": [ { "text": "020", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "グレーター・ロンドンは1,583km2(611sqmi)の面積があり、人口は2001年現在7,172,036人で人口密度は4542人/km2。\nより広い範囲はロンドン大都市圏またはロンドン大都市圏密集体と呼ばれ面積は8,382km2(3,236sqmi)で人口は12,653,500人に達し人口密度は1510人/km2である。\n現代のロンドンはテムズ川河畔に位置する。\nテムズ川の特徴として、航行可能で、ロンドン市域を南西部から東部にかけ横切っている。\nテムズ低地は氾濫原で周辺部はなだらかな丘陵地である。\nその中にはパーラメント・ヒルやアディントン・ヒル、プリムロズ・ヒルが含まれる。\nテムズ川はかつてはより川幅が広く、水深も浅くて沼地が広がり、満潮時には河岸は通常の5倍にも達していた。", "qas": [ { "question": "グレーター・ロンドンとロンドン大都市圏の面積はどちらが広いですか?", "id": "tr-475-22-000", "answers": [ { "text": "ロンドン大都市圏", "answer_start": 79, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "オレゴン・ワイン", "paragraphs": [ { "context": "オレゴン・ワイン(Oregonwine)は、アメリカ合衆国オレゴン州で生産されているワインである。\nオレゴン州をはじめとして州境をまたいだワシントン州やアイダホ州の一部にはブドウの栽培に適した地域が数多く存在しており、1840年代よりワイン生産が行われていた。\n1960年代に入り、これらのワインは商業用の生産が開始された。\nオレゴン州にあるアメリカブドウ栽培地域(AmericanViticulturalArea,AVA)のうち、その全域が州内に含まれる地域に、ウィラメット・ヴァレーAVA、サザン・オレゴンAVA、アムクワ・ヴァレーAVA、ローグ・ヴァレーAVAなどがある。\n一方、部分的にオレゴン州に属している地域は、コロンビア・ゴージAVA、ワラ・ワラ・ヴァレーAVA、スネーク・リバー・ヴァレーAVAである。\nオレゴン州で栽培される最も重要なブドウ種はピノ・ノワールとピノ・グリ(Pinotgris)で、2005年には16,000トン(14,515メートルトン)以上が収穫された。\nオレゴン州には303のワイナリー(ワイン醸造所)があり、ワイン・テイスティングを中心に観光業が発展した。\nこのような観光業は、ポートランド南西に広がるヤムヒル渓谷で、特に著しい。\n2004年にはワイン観光業の総売り上げが9200万米ドルに達した。", "qas": [ { "question": "オレゴン州にあるアメリカブドウ栽培地域のうち、全域が州内に含まれる地域と部分的にオレゴン州に属している地域はどちらの方が数が多いですか?", "id": "tr-476-00-000", "answers": [ { "text": "全域が州内に含まれる地域", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オレゴン州で商業用ワインの生産が始まったのは何年からですか?", "id": "tr-476-00-001", "answers": [ { "text": "1960年代", "answer_start": 131, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オレゴン州の観光業の中心は何だったの?", "id": "tr-476-00-002", "answers": [ { "text": "ワイン・テイスティング", "answer_start": 474, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オレゴン・ワインは、オレゴン準州が成立した1840年代から生産されていたが、ワイン生産が州の主要産業として興隆を迎えたのは1960年代に入ってからである。\n1847年に初めてブドウの栽培が始まり、記録上最も古いワイナリーは1850年にジャクソンヴィルで設立した。\n19世紀の間は、さまざまな品種のブドウが移民によって実験的に栽培された。\n1904年、オレゴンのワインメーカーがセントルイス万国博覧会で入賞を果たした。\nその後、禁酒法でワイン生産は一時中断した。\n他の州と同じく、オレゴンのワイン産業は禁酒法廃止後の30年間、休止期が続いた。", "qas": [ { "question": "オレゴン州の最古のワイナリーはどこで設立しましたか?", "id": "tr-476-01-000", "answers": [ { "text": "ジャクソンヴィル", "answer_start": 117, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オレゴン州で初めてブドウ栽培が開始されたのはいつですか?", "id": "tr-476-01-001", "answers": [ { "text": "1847年", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オレゴン州のワイン産業は1960年代に再編が始まった。\n1960年代にはカリフォルニア州のワインメーカーも幾つかのブドウ園をオレゴン州に開園している。\nウィラメット渓谷は、それまでブドウ栽培には寒すぎると永らく考えられてきたが、この時期になってピノ・ノワールの栽培が始まった。\n1970年代に入ると、さらに多くの州外ワインメーカーがオレゴン州にブドウ園を開園している。\n土地利用に関する州法は、地方丘陵の宅地利用に制限をかけ、ブドウ園に適した広大な土地を保護した。\n1979年、ジ・アイリー・ヴィンヤーズがワイン・オリンピックの1975年製ピノ・ノワール部門に出場した。\n同地域のワインとしては初めて、世界最高級の評価を獲得した。", "qas": [ { "question": "オレゴン州のワインはワイン・オリンピックの何部門に出場して世界最高級の評価を得ましたか?", "id": "tr-476-02-000", "answers": [ { "text": "1975年製ピノ・ノワール部門", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オレゴン州のワインで初めて世界最高級の評価を受けたワイナリーはどこですか?", "id": "tr-476-02-001", "answers": [ { "text": "ジ・アイリー・ヴィンヤーズ", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウィラメット渓谷でピノ・ノワールの栽培が始まったのはいつですか?", "id": "tr-476-02-002", "answers": [ { "text": "1960年代", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1980年代に入っても高い評価は変わらず、オレゴン州にワイナリーとブドウ園が次から次へと設立した。\nオレゴン・ワイン産業は発展を続け、州内で初めてとなるアメリカブドウ栽培地域(AmericanViticultureAreas,AVA)が確立。\nまたオレゴン州はフランスのブルゴーニュ地域との関係を強めていく中で、オレゴン州知事がブルゴーニュへの公式訪問を果たし、フランスの優れたワイン農家がオレゴン州のダンディーに土地を購入するに至った。", "qas": [ { "question": "1980年代にオレゴン州が関係を深めたヨーロッパの地域とはどこですか?", "id": "tr-476-03-000", "answers": [ { "text": "ブルゴーニュ地域", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オレゴン州内に初めてアメリカブドウ栽培地域が確立したのは1900何年代ですか?", "id": "tr-476-03-001", "answers": [ { "text": "1980年代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランスの優秀なワイン農家が土地を買ったのはオレゴン州内のどの地域ですか?", "id": "tr-476-03-002", "answers": [ { "text": "ダンディー", "answer_start": 201, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1990年代初頭、オレゴン州のワイン産業はブドウネアブラムシ(Phylloxera)の大発生に苦しんだが、ワインメーカーはすぐさま耐久性に優れた台木(rootstock)を使用し、深刻な被害の回避に尽力した。\n州議会はワイン生産と流通を高めるように作られた新法を制定した。\n州は「グリーンなワイン生産」と呼ばれる環境に優しいワイン産業を目指した生産形態に着目した。\n新しいAVAも設立され、2005年までに314のワイナリー、519のブドウ園が州内で稼働している。", "qas": [ { "question": "2005年の時点で、オレゴン州内のワイナリーとブドウ園の数はどちらが多いの?", "id": "tr-476-04-000", "answers": [ { "text": "ブドウ園", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オレゴン州が目指した環境に優しいワイン産業の生産形態は何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-476-04-001", "answers": [ { "text": "「グリーンなワイン生産」", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アメリカ合衆国で生産されている他のワインと同じく、オレゴン州のワインは、単一品種のブドウで作ったワインが市場に出ている。\nオレゴン州法は、オレゴン州で生産されるワインは原材料となったブドウ品種を明示しなければならず、またその品種を90%以上含まなければならない、と規定している。\nオレゴン州法は長期間に渡り原産地以外の地名を用いることを禁止している。\nオレゴン・ワインはピノ・ノワールと呼ばれるブドウ品種が最も有名で、州内の全域で生産されている。\n特にウィラメット・ヴァレー産のピノ・ノワールは、ワインの愛好者や評論家から多大な称賛を得ており、オレゴンは今や世界でも一級のピノ生産地域としての評価を確立している。", "qas": [ { "question": "オレゴン州で最も有名かつ最も多く生産されているブドウ品種は何?", "id": "tr-476-05-000", "answers": [ { "text": "ピノ・ノワール", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ワインの愛好者や評論家が大絶賛しているのはどこを産地とするピノ・ノワールですか?", "id": "tr-476-05-001", "answers": [ { "text": "ウィラメット・ヴァレー", "answer_start": 226, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オレゴン州法では、オレゴン州で生産されるワインは原材料であるブドウ品種を何%以上含まなければいけないと決めていますか?", "id": "tr-476-05-002", "answers": [ { "text": "90%以上", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2005年にオレゴン州で生産された品種の上位5種は、以下のようになる。\nまずピノ・ノワールが7,974エーカー(32km2)、12,086ショートトン(10,964メートルトン)生産され、続いてピノ・グリが(Pinotgris)1,184エーカー(5km2)、4,317ショートトン(3,916メートルトン)、シャルドネが842エーカー(3.4km2)、1,568ショートトン(1,422メートルトン)、メルローが550エーカー(2.2km2)、675ショートトン(612メートルトン)、リースリングが524エーカー(2.1km2)、1,000ショートトン(907メートルトン)生産された。", "qas": [ { "question": "2005年にオレゴン州で生産されたワインの中で、最も広い生産面積を持つ品種は何ですか?", "id": "tr-476-06-000", "answers": [ { "text": "ピノ・ノワール", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2005年にオレゴン州で生産されたワインの中で、3番目に狭い生産面積で生産された品種は何ですか?", "id": "tr-476-06-001", "answers": [ { "text": "シャルドネ", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2005年現在、オレゴン州には303のワイナリー、384のワイン銘柄、734のVitisvinifera栽培ブドウ園がある。\nブドウ園の総面積は14,100エーカー(57km2)で、2005年には11,800エーカー(48km2)で収穫が行われた。\nアメリカ合衆国の全栽培地域の内、オレゴン州は第3位のワイナリー数と第4位の生産量を持つ。\n2005年には約160万ケースのオレゴン・ワインが販売された。\nこれらのケースの卸し売り値は1億8470万米ドルで、前年のヴィンテージに比べて24%の上昇が見られた。", "qas": [ { "question": "2005年のオレゴン州のワイン生産量はアメリカ合衆国内で第何位だったの?", "id": "tr-476-07-000", "answers": [ { "text": "第4位", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2004年のヴィンテージと比較して24%上昇したというケースの卸し売り値はいくらですか?", "id": "tr-476-07-001", "answers": [ { "text": "1億8470万米ドル", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オレゴン州の経済におけるワイン産業のインパクトは大きい。\n同州のワイン産業総額は14億米ドルに達する。\nその中の8億米ドル以上はワイナリーやブドウ園の売上である。\nオレゴン州のワイン産業により、8,479の雇用に貢献したと推計される。\n2004年の州外への輸出は、6410万米ドルであった。", "qas": [ { "question": "オレゴン州のワイン産業総額の半分以上の売上を占めているのはワイナリーとどこですか?", "id": "tr-476-08-000", "answers": [ { "text": "ブドウ園", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オレゴン州のワイン産業総額のうち、ワイナリーやブドウ園の売上はいくらですか?", "id": "tr-476-08-001", "answers": [ { "text": "8億米ドル以上", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オレゴン州でのワイン生産事業は、カリフォルニア州に比べると、格段に小さなスケールなものである。\nオレゴン州最大のワインメーカーでさえ年間出荷ケース数は125,000ケースで、他のほとんどのメーカーは35,000ケースにも満たない。\nオレゴン州の特徴は、多くのワイナリーの年間出荷ケース数が5,000ケース以下の小規模ということである。\n一方、アメリカ合衆国最大のワイナリーであるE&JGalloWineryは、2002年に6500万ケースのワインを生産した。\nオレゴン州のワイナリーの大半は自分のブドウ園を所有しているが、一部のワイナリーはブドウを市場から購入している。\nまた、州内には非常に多くの独立したブドウ園が存在している。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国最大のワイナリーの名前は何ですか?", "id": "tr-476-09-000", "answers": [ { "text": "E&JGalloWinery", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オレゴン州内の大部分のワイナリーは年間出荷ケース数がどれくらいですか?", "id": "tr-476-09-001", "answers": [ { "text": "5,000ケース以下", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オレゴンのワイン産業は、ワイン市場の中でも高価なワインに焦点を当てている。\nオレゴンのワイン・メーカーのトンあたりの平均収益とケースあたり平均収益は、国内の他の州のワイン・メーカーに比べて高い。\n1ワイナリー当たりのワインの生産量は低いものの、オレゴン州における平均収益は、ニューヨーク州やワシントン州と同等である。", "qas": [ { "question": "オレゴンのワイン産業が着目しているのはどんなワインなの?", "id": "tr-476-10-000", "answers": [ { "text": "高価なワイン", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大雑把に言って、オレゴン州には3つの主要なワイン生産地域がある。\nウィラメット・ヴァレーAVAとサザン・オレゴンAVAはその中の2つで、共にオレゴン州内にすっぽり収まっている。\n残りの1つであるコロンビア・ゴージAVAはコロンビア川をまたいでおり、オレゴン州とワシントン州の両方に延びているが、オレゴンのAVAとして見なされる。\nワシントン州に大部分が含まれるワラ・ワラ・ヴァレーAVAは、一部がオレゴン州のミルトン=フリーウォーター近郊に入り込んでいる。\nサザン・オレゴンAVAは近年に設立されたAVAで、ローグ・バレーAVAとアムクワ・ヴァレーAVAが併合して出来たものである。\nまた、いくつかの小さなAVAがサザン・オレゴンAVAに含まれている。\nスネーク・リバー・ヴァレーAVAはスネーク川に沿ってアイダホ州との州境をまたいでおり、オレゴン東部を含むAVAとしては最初のものである。", "qas": [ { "question": "オレゴン州の3つの主要ワイン生産地域の中で、州内に全地域が収まっていないのはどこですか?", "id": "tr-476-11-000", "answers": [ { "text": "コロンビア・ゴージAVA", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コロンビア川をまたいでいるオレゴン州の主要ワイン生産地域はどこ?", "id": "tr-476-11-001", "answers": [ { "text": "コロンビア・ゴージAVA", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ワラ・ワラ・ヴァレーAVAの大半部分はどこの州に入っているのですか?", "id": "tr-476-11-002", "answers": [ { "text": "ワシントン州", "answer_start": 165, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スネーク川沿いにあるワイン生産地域は何ですか?", "id": "tr-476-11-003", "answers": [ { "text": "スネーク・リバー・ヴァレーAVA", "answer_start": 327, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ウィラメット・ヴァレーAVAは、ウィラメット渓谷にあるワイン栽培地域である。\n北端をコロンビア川、南端をユージーン市南部、西端をオレゴン沿岸部、東端をカスケード山脈までを包括する。\n5,200平方マイル(13,500km2)の面積を構え、州内のAVAとしては最大。\nワイナリーの数も最も多く、2006年現在で約200ある。", "qas": [ { "question": "ウィラメット・ヴァレーAVAの中で唯一都市を含んでいるのはどの部分ですか?", "id": "tr-476-12-000", "answers": [ { "text": "南端", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2006年の時点でウィラメット・ヴァレーAVAにはいくつのワイナリーがありましたか?", "id": "tr-476-12-001", "answers": [ { "text": "約200", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オレゴン州最大のAVAは何ですか?", "id": "tr-476-12-002", "answers": [ { "text": "ウィラメット・ヴァレーAVA", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウィラメット・ヴァレーAVAの東端には何がありますか?", "id": "tr-476-12-003", "answers": [ { "text": "カスケード山脈", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ウィラメット渓谷の気候は一年を通じて穏やかで、冬は涼しく多湿、夏は暖かく乾燥している。\n極端な寒暖は稀である。\n雨が降る時期は栽培季節を外れており、また降雪も稀である。\n同渓谷全域がワイン栽培に適しているわけではなく、ほとんどのワイナリーやブドウ園がウィラメット川西部、特にヤムヒル郡に集中して点在している。", "qas": [ { "question": "ウィラメット渓谷内でワイナリーやブドウ園が集中している場所はどこですか?", "id": "tr-476-13-000", "answers": [ { "text": "ヤムヒル郡", "answer_start": 137, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この地域はピノ・ノワールを生産していることで最もよく知られ、またピノ・グリ(Pinotgris)、リースリング、シャルドネも高い生産量を誇る。\nその他、カベルネ・ソーヴィニョン、ゲヴュルツトラミネール、ミュラー=トゥールガウ、セミヨン、ジンファンデルも生産しているが、その生産量は上記4種に比べて非常に小さい。\nウィラメット・ヴァレーAVAには4つの下位AVA(ダンディー・ヒルズAVA、マクミンヴィルAVA、リボン・リッジAVA、ヤムヒル・カールトン・ディストリクトAVA)が存在する。\n現在、更なる2つのAVAが申請されているが、審議中である。\nまた、ウィラメット渓谷をセイラム市を境に北部地域と南部地域に二分する傾向が、多くのワイン愛好家の間に見られる。", "qas": [ { "question": "ウィラメット渓谷を南北に分けると境目となる都市はどこになりますか?", "id": "tr-476-14-000", "answers": [ { "text": "セイラム市", "answer_start": 287, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウィラメット・ヴァレーAVAはどの品種のワインを生産していることでよく知られていますか?", "id": "tr-476-14-001", "answers": [ { "text": "ピノ・ノワール", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウィラメット・ヴァレーAVAには、更にいくつのAVAが加わろうとしているのか?", "id": "tr-476-14-002", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "サザン・オレゴンAVAは、元々この地域に存在したローグ・ヴァレーAVAとアムクワAVAという2つのAVAが合併したことで成立した。\n(2つのAVAは地理的に離れた場所にあり、これらの間に挟まれた地域も成立時にサザン・オレゴンAVAに加えられたが、山岳地帯のためブドウ園には向いていない。)\nこれら2つの主要地域が協力して市場活動に参加することを目指し、2004年に成立した。\nローグ渓谷とアムクワ渓谷では栽培しているブドウ品種が異なるため、ここでは別々に紹介する。", "qas": [ { "question": "ローグ・ヴァレーAVAとアムクワAVAの合併が成立したのはいつ?", "id": "tr-476-15-000", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ローグ・ヴァレーAVAとアムクワAVAの間の地域はどうしてブドウ園に向いていないの?", "id": "tr-476-15-001", "answers": [ { "text": "山岳地帯のため", "answer_start": 123, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ローグ・ヴァレーAVAとアムクワAVAの間はどんな地形をしているの?", "id": "tr-476-15-002", "answers": [ { "text": "山岳地帯", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アムクワ・ヴァレーAVAは山岳地帯を除くアムクワ川流域に広がるAVAである。\nアムクワ渓谷の気候は、ウィラメット渓谷より温暖だが、南方に位置するローグ渓谷よりは寒冷である。\nこのAVAで栽培されている主要なブドウにピノ・ノワールで、小規模ではあるがピノ・グリ(Pinotgris)、カベルネ・ソーヴィニョン、シャルドネ、リースリング、ならびにフランス=アメリカ系雑種も栽培されている。\nまた下位AVAとして、レッド・ヒル・ダグラス・カウンティ・オレゴンAVAがある。", "qas": [ { "question": "アムクワ渓谷とウィラメット渓谷はどちらがより温暖な気候なんですか?", "id": "tr-476-16-000", "answers": [ { "text": "アムクワ渓谷", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アムクワ渓谷、ウィラメット渓谷、ローグ渓谷の中で最も温暖な気候なのはどこですか?", "id": "tr-476-16-001", "answers": [ { "text": "ローグ渓谷", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アムクワ渓谷とウィラメット渓谷はどちらがより寒いですか?", "id": "tr-476-16-002", "answers": [ { "text": "ウィラメット渓谷", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ローグ・ヴァレーAVAは、ローグ川とその支流であるイリノイ川、アップルゲート川、ベア・クリークの流域に広がるAVAである。\nこの地域のほとんどのワイナリーは、ローグ川そのものより、これら3つの支流に沿って点在している。\n幅110km(70mi)に、長さ100km(60mi)の面積を構えるが、ブドウ栽培には適さない土地も多く含まれている。\nワイナリーの数は20未満で、栽培面積はわずか4km2(1100acres)である。\nこれら3つの川谷はそれぞれ異なるテロワール(生育環境)にあり、最も東部に位置するベア・クリークは温暖乾燥で、最も西部に位置するイリノイ川は寒冷高湿である。\nそれぞれの川谷は独自の気候を持ち、異なる種類のブドウを育てている。\nしかし全体的に見れば、オレゴン州のワイン栽培地域の中で最も温暖で乾燥した地域であるといえる。\nこの地域にはアップルゲート・ヴァレーAVAと呼ばれる下位AVAが1つ存在する。", "qas": [ { "question": "イリノイ川とベア・クリークの流域はどちらが湿度が高いですか?", "id": "tr-476-17-000", "answers": [ { "text": "イリノイ川", "answer_start": 275, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローグ・ヴァレーAVAにあるいくつかの川の中で、ワイナリーの数が少ないのはどこの川沿いですか?", "id": "tr-476-17-001", "answers": [ { "text": "ローグ川", "answer_start": 79, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オレゴン州のワイン栽培地域の中で最も温暖で乾燥した地域はどこですか?", "id": "tr-476-17-002", "answers": [ { "text": "ローグ・ヴァレーAVA", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "コロンビア・ゴージAVAはコロンビア峡谷に広がるAVAで、オレゴン州とワシントン州の両郡に属し、中央をコロンビア川が流れている。\nオレゴン州フッドリバー郡及びワスコ郡、ワシントン州スカマニア郡及びクリッキタト郡から構成される。\n近くにあるフッド山とアダムズ山の山頂付近までを範囲とし、山の雨蔭に位置することから、ウィラメット渓谷に比べて著しく乾燥した気候を持つ。\nまた、峡谷からなる地形のために標高が場所により大きく異なり、強風が日常的に吹いていることもこの地域の特徴的な気候の一因になっている。\nこのような事情もあり、コロンビア・ゴージAVAではさまざまな品種のブドウが幅広く栽培されるに至った。\nブドウ園の数は約40で、シラー、ピノ・ノワール、シャルドネ、ゲヴュルツトラミネール、ジンファンデル、カベルネ、ピノ・グリ(Pinotgris)、リースリング、サンジョヴェージェなどを始めとするさまざまな品種が栽培されている。", "qas": [ { "question": "コロンビア・ゴージAVAのブドウ園のはいくつあるの?", "id": "tr-476-18-000", "answers": [ { "text": "約40", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コロンビア・ゴージAVAとウィラメット渓谷を比較すると、どちらが乾燥しているの?", "id": "tr-476-18-001", "answers": [ { "text": "コロンビア・ゴージAVA", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コロンビア・ゴージAVAの真ん中を流れている川は何?", "id": "tr-476-18-002", "answers": [ { "text": "コロンビア川", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "芝山みよか", "paragraphs": [ { "context": "芝山みよかは、日本の美容家だ。日本で初めてエステティックサロンを開業した人物とされ、長年にわたる東京都の美容室の経営などで、美顔術やエステティックの普及に努めた。「エステの母」とも呼ばれ、日本美容界の草分け的存在ともいわれる。日本エステティック協会の初代会長である。神奈川県横浜市山下町出身、フェリス和英女学校卒業。出生名は芝山見与加、結婚後の本名は小守谷見与加だ。", "qas": [ { "question": "日本で初めてエステティックサロンを開業した人物とされている人物は誰ですか。", "id": "tr-477-00-000", "answers": [ { "text": "芝山みよか", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「エステの母」とも呼ばれ、日本美容界の草分け的存在ともいわれている人は誰?", "id": "tr-477-00-001", "answers": [ { "text": "芝山みよか", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本エステティック協会の初代会長は誰?", "id": "tr-477-00-002", "answers": [ { "text": "芝山みよか", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芝山みよかの結婚後の本名は何?", "id": "tr-477-00-003", "answers": [ { "text": "小守谷見与加", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "芝山みよかは横浜の山下町で、日本の美顔術の始祖と呼ばれる芝山兼太郎のもとに誕生した。兼太郎は理容所「日之出軒」と美容所を経営しており、みよかは母の早世後、父の店を遊び場代わりとして育った。\n\n美容所は国外の来客のみで、当時のフランス大使夫妻も訪れ、みよかはマニキュアの仕方を教わるなどして可愛がられることも多かった。このような環境において、美容については特別な勉強をすることなく、子供ながら見様見真似で自然に技術を身につけていた。\n\n芝山みよかは元街小学校を卒業後、「日之出軒」の顧客であったユージーン・ブースの推薦を受けて、ブースが校長を務めるフェリス和英女学校へ進学した。父の兼太郎は『実用美容術指針一名学理的化粧法』を出版し、日本全国を回って技術講習会を開催しており、みよかも女学校を卒業後に、父から「旅は出会いと勉強の場」と諭されて、父と共に日本中を回った。北は北海道から南は九州まで、アイヌ部落にまで踏み込み、さらに中国や朝鮮など日本国外へも足を伸ばした。", "qas": [ { "question": "日本の美顔術の始祖と呼ばれる人は誰?", "id": "tr-477-01-000", "answers": [ { "text": "芝山兼太郎", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "芝山みよかは元街小学校を卒業したあと、どの学校に進学したの?", "id": "tr-477-01-001", "answers": [ { "text": "フェリス和英女学校", "answer_start": 273, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "芝山みよかが進学した時、フェリス和英女学校の校長は誰だった?", "id": "tr-477-01-002", "answers": [ { "text": "ユージーン・ブース", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "芝山みよかは1929年1月に、文筆家の小守谷達夫と結婚した。みよか自身に美容師になる意志は無かったものの、兄2人が相次いで死去したために家業を継ぎ、同1929年4月に東京府の上野松坂屋に美容所を開設した。\n\n夫は美容の仕事に理解を示しており、「家で培われた技術を継ぐべき」との夫の言葉も後押しとなった。同1929年11月には父の兼太郎も、56歳で急逝した。\n\nその後は夫から経営面での協力を受けつつ、美容業に専念し、松坂屋名古屋店、大阪店、静岡店と、各地に店舗を展開した。当時は和装に洋髪がお洒落と見なされていたため、当時のファッションリーダーといえる芸妓たちが足しげに店に通い、みよかの店の営業はそうした女性たちに支えられた。美容所の存在が新聞などのメディアに取り上げられることも、次第に多くなった。", "qas": [ { "question": "芝山みよかの結婚相手は誰?", "id": "tr-477-02-000", "answers": [ { "text": "小守谷達夫", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "みよかはいつ東京府の上野松坂屋に美容所を開設したか。", "id": "tr-477-02-001", "answers": [ { "text": "1929年4月", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "みよかの父はいつ亡くなったか。", "id": "tr-477-02-002", "answers": [ { "text": "1929年11月", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "みよかの父は何歳に亡くなったか。", "id": "tr-477-02-003", "answers": [ { "text": "56歳", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "時代が太平洋戦争に突入すると、若い女性たちが女子挺身隊として動員され、みよかの店からも若い客や若い店員が姿を消し始めた。さらに奢侈品等製造販売制限規則により、パーマネントウエーブが禁止された。\n\nみよかはこれに対して、牛山喜久子、マヤ片岡、山本鈴子ら、当時の各地で活躍していた同年代の美容家たちと共に、美容クラブ「火曜会」を結成した。さらに他の美容家たちと共に、日本パーマネント協会などの団体に呼びかけ「大日本淑髪連盟」を結成し、国民精神総動員や警視庁に嘆願を続けた結果、営業禁止ではなく「華美自粛」を条件として営業を続けることができた。", "qas": [ { "question": "パーマネントウエーブが禁止されたのはどんな規則によるものでしたか。", "id": "tr-477-03-000", "answers": [ { "text": "奢侈品等製造販売制限規則", "answer_start": 63, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「大日本淑髪連盟」を結成し、国民精神総動員や警視庁に嘆願を続けた結果、何を条件として営業を続けることができたか。", "id": "tr-477-03-001", "answers": [ { "text": "「華美自粛」", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "みよかは奢侈品等製造販売制限規則に対して、牛山喜久子、マヤ片岡、山本鈴子ら、当時の各地で活躍していた同年代の美容家たちと共に、何を結成したか。", "id": "tr-477-03-002", "answers": [ { "text": "美容クラブ「火曜会」", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "やがて「兵器の材料」として、鉄製品の提出を求められて、アメリカ製のパーマ用機械や椅子もすべて失った。1ドルが2円50銭の時代に、500ドルを投資しての設備であり、大変な損失となった。\n\nみよかは「せめて髪型くらいは」との客の要望に応えて、木炭を利用したパーマ「淑髪(しゅくはつ)」を考案し、美容院を継続させた。女性たちは配給切符で買った木炭を手に、店を訪れた。\n\n戦中には結婚式を挙げて戦地に赴く兵隊も多く、みよかは「戦時下だからこそ女性を美しく」と奔走した。皮肉にも戦中という非常事態には、純和風の髪の支度は困難であり、軽便な洋髪を生かす機会が多くなっていた。\n\nしかし1944年には、企業整備令により美容室の閉鎖に至った。みよかは美容器具を手に、お洒落を楽しむ時代の到来を願いつつ、山梨へ疎開した。", "qas": [ { "question": "当時、2円50銭はドルでいくらだった?", "id": "tr-477-04-000", "answers": [ { "text": "1ドル", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「淑髪(しゅくはつ)」は誰が考案したの?", "id": "tr-477-04-001", "answers": [ { "text": "みよか", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "翌1945年の終戦後、みよかは美容業の再開に取り掛かった。「売る物も無いのに美容業の再開は無理」との声もあったものの、同1945年に松坂屋上野店に「シバヤマ美容室」を再開した。「食べ物は無くても、せめて髪ぐらいは綺麗にしたい」と願う女性たちが詰めかけ、昼食をとる暇が無いほどの人気を博した。\n\n戦後間もない時期には、物資や栄養不足、さらにストレスにより女性の肌の衰えが多かったことから、1947年に松坂屋店内に、皮膚科と併設しての美容室を開設した。1949年には皮膚科医の協力のもと、銀座に美顔術専門店「銀座美容科」を開設、これが日本のエステティックサロンの始まりとなった。実証に裏打ちされた医学的見地からの美容相談が、話題を呼んだ。当時の粗悪な化粧品で肌を荒らし、みよかの手で回復に至った女性も多かった。", "qas": [ { "question": "みよかはいつ美容業の再開に取り掛かったか。", "id": "tr-477-05-000", "answers": [ { "text": "1945年の終戦後", "answer_start": 1, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "みよかはいつ松坂屋店内に、皮膚科と併設しての美容室を開設した?", "id": "tr-477-05-001", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 193, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "みよかはいつ皮膚科医の協力のもと、銀座に美顔術専門店「銀座美容科」を開設したの。", "id": "tr-477-05-002", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 224, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "先述のように肌の衰えた女性たちに対する想いから、みよかは1951年、GHQとの8か月に渡る交渉の末、フランスへ渡航した。フランスでは、化粧品会社創業者であるヘレナ・ルビンスタインに弟子入りを志願し、一度は断られたものの「世界最高水準の美容技術を学びたい」との懇願の末に、特別措置で指導を許された。さらにパリでパブロ・ピカソと会い、ピカソに日本の画家が描いた蘭をモチーフにした風呂敷を見せたところ、「風呂敷は素晴らしいが、なぜ自分の国の花を描かないのか」とのピカソの言葉に衝撃を受け、「日本らしい美しさは何か」を考え始め、西洋の真似を人に与えるだけでなく己を加えることを学んだ。\n\n帰国後の同1951年秋には、美容雑誌と新聞9社の共同主催という異例の肩入れにより、神田で帰国発表会を打ち上げた。もっとも当時は、全身美容を含むエステに対して理解を得られることは、まだ困難だったという。", "qas": [ { "question": "みよかは何年にフランスへ行ったか。", "id": "tr-477-06-000", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "みよかは翌1952年にもアメリカとパリへ渡って、美容医学と全身美容を学んだ。同1952年に松坂屋銀座店に本格的エステティックサロン「サロン・ド・ボーテ」を開設し、話題となった。これが「全身美容」の名称が一般化するきっかけにもなった。その後も、日本国外で学んだ技術をもとに、総合的なエステティック技術を提供する店舗を展開させていった。\n\n1961年には、美顔術と美容術の視察のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア各国を回る旅に出た。パリではフェルナンド・オーブリーとジャン・デストレに師事し、美容術を学んだ。", "qas": [ { "question": "「サロン・ド・ボーテ」は何年に開設されたか。", "id": "tr-477-07-000", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "みよかはフェルナンド・オーブリーとジャン・デストレに何を学んだか。", "id": "tr-477-07-001", "answers": [ { "text": "美容術", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本で「全身美容」の名称が一般化するきっかけとなった店の名前は何だ。", "id": "tr-477-07-002", "answers": [ { "text": "「サロン・ド・ボーテ」", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「サロン・ド・ボーテ」は誰が設立した店なの?", "id": "tr-477-07-003", "answers": [ { "text": "みよか", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同1961年には、みよかは実力と功績が認められて、宣仁親王妃喜久子と宣仁親王妃喜久子の美容係を拝命した。1967年には、高松宮宣仁親王にカナダ訪問に際して、その妃である宣仁親王妃喜久子の美容および着付け担当者として、宮内庁より随行員を拝命した。\n\n1964年には、父の創始した美顔術を発展させたエステが、当時は一般女性はおろか美容師にさえ認知度が低かったことから、全身美容の専門技術者養成を目指し、東京の湯島にエステティシャン養成学校「シバヤマ美容研究所」を設立した。美顔術・化粧・全身美容の専門技術者を日本でエステティシャンと呼んだのは、これが最初とされる。東京女子医科大学付属美容スクールの講師も務めた。", "qas": [ { "question": "みよかは何年に宣仁親王妃喜久子と宣仁親王妃喜久子の美容係を拝命したか。", "id": "tr-477-08-000", "answers": [ { "text": "1961年", "answer_start": 1, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「シバヤマ美容研究所」は誰が設立したの?", "id": "tr-477-08-001", "answers": [ { "text": "みよか", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "みよかは1969年には男性参入による美容師の地位向上を願い、日本初のユニセックスサロンとして、男性スタッフのみのサロン「コワフュール・シバヤマ」を青山に開業して、話題を呼んだ。\n\n翌1970年、エステティシャンの国際組織であるCIDESCO(シデスコ)の、オランダでの国際会議にオブザーバーとして参加した。ここで日本支部の設立の許可を得た。2年後の1972年、CIDESCOの23番目の支部として、日本エステティシャン協会が設立された。エステティシャンの地位確立と技術向上、エステの技術普及を目的とした専門団体は、日本ではこれが最初である。1980年にはアジア初のCIDESCOの国際会議を主催し、世界各国のエステティシャンとの交流を深めた。また同1980年、エステの民間資格制度への道として、インターナショナル・エステティシャン試験を実施した。\n\n婚礼部門にも尽力し、ヘアデザイン、着付け、エステティックと、総合的な美容を広めた。日本エステティシャン協会の他にも、日本ヘアデザイン協会、日本婚礼美容家協会など、業界団体の設立にも力を注いだ。エステティック業界では「効果が無い」など客の苦情も少なくなかったことに対しては、「原因は技術者の勉強不足」と主張し、1988年9月にはシドニーで開催されたCIDESCOの国際研究会に、技術者31人と共に参加するなど、技術者の育成にも努めた。\n\n2009年6月11日、老衰のため、家族たちに看取られつつ満101歳で死去した。没後は長男の小守谷巽が日本エステティック協会の理事長を継いだ。墓碑は千葉県野田市の宗英寺にある。", "qas": [ { "question": "「コワフュール・シバヤマ」を青山に開業した人は誰?", "id": "tr-477-09-000", "answers": [ { "text": "みよか", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本で初めて設立されたエステティシャンの地位確立と技術向上、エステの技術普及を目的とした専門団体は何ですか。", "id": "tr-477-09-001", "answers": [ { "text": "日本エステティシャン協会", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アジア初のCIDESCOの国際会議を主催した人は誰なの?", "id": "tr-477-09-002", "answers": [ { "text": "みよか", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "みよかは何歳に亡くなりましたか。", "id": "tr-477-09-003", "answers": [ { "text": "満101歳", "answer_start": 621, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "みよかは身長163センチメートルの長身であった。父の兼太郎の弟子は少女期のみよかを「背が高く、綺麗なお嬢様で、髪はオールウェーブで、普通の娘さんとは少し違っていた」と語っていた。詩人の田村隆一は、みよかに1985年に雑誌の対談企画で会い、颯爽としたその容姿、70歳を超えても保っている若々しさに、会うなり「日本のマレーネ・ディートリヒだ」と心の中で叫んだという。\n\n「人間の健康と自然な美しさを大切にすること」「美容術の他、栄養学、体育、精神衛生の領域まで広く関る」を、エステティックの理念としていた。エステティックが日本に導入されるまでは、白粉を塗り込めることが日本女性の美とされていたことから、「女性の美しさは時代と共に変わり、まさに文化のバロメーター。日本のエステは欧米に比べれば20年は遅れている」と指摘していた。美容を通じた女性の意識改革に取り組む姿勢は、父譲りの才華と器量によるものとも言われた。\n\n戦中に苦楽を共にし、同年代であった牛山喜久子、マヤ片岡とは、夫婦ぐるみで親交を深め、「業界三羽ガラス」と呼ばれた。特にマヤ片岡は親友と呼べる間柄であり、マヤから株式投資の指南も受けていた。\n\nかな表記の名前「みよか」は、漢字表記の本名「見与加」が「男か女かわからない」との理由で名乗っていた通名である。その生涯は日本の美容の歴史そのものともいえたことから、生前は「みよかの名は『美容家』に由来したビジネスネームなのですか?」と聞かれることも多かったという。", "qas": [ { "question": "みよかは身長は何センチメートルでしたか。", "id": "tr-477-10-000", "answers": [ { "text": "163センチメートル", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ポジャールスキー公_(装甲巡洋艦)", "paragraphs": [ { "context": "ポジャールスキー公、またはポジャルスキー公(ポジャールスキーこう、ロシア語:«КнязьПожа́рскій»)は、ロシア帝国が配備した最初期の装甲巡洋艦(броненосныйкрейсеръ)のひとつである。\nロシア最初の大等級鉄製装甲船(первоежелезноеброненосноесуднобольшогоранга)。\n当初は航洋型の装甲フリゲート(броненосныйфрегатъ)として設計されたが、配備後すぐに改修工事を受けて装甲巡洋艦に準じた設計となり、その就役期間の大半を装甲巡洋艦として運用された。\nロシア帝国海軍がクリミア戦争敗戦からの復興と外洋進出を熱望した19世紀後半に艦隊主力として整備した、「大洋巡洋艦」(«Океанскійкрейсеръ»)シリーズ3番目の巡洋艦である。", "qas": [ { "question": "ロシア最初の大等級鉄製装甲船の名前は何ですか?", "id": "tr-478-00-000", "answers": [ { "text": "ポジャールスキー公", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポジャールスキー公は元々何型の装甲フリゲートとして設計されましたか?", "id": "tr-478-00-001", "answers": [ { "text": "航洋型", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「大洋巡洋艦」シリーズの3番目の巡洋艦とは何ですか?", "id": "tr-478-00-002", "answers": [ { "text": "ポジャールスキー公", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "設計上、当初は帆装装甲砲門フリゲート(рангоутныйброненосныйбатарейныйфрегатъ)、改装後は装甲巡洋艦と呼ばれたが、ロシア帝国海軍の正式分類では次のように分類された。\n当初はコルベット(корветъ)または装甲コルベット(броненосныйкорветъ)、1866年11月8日からはフリゲート(фрегатъ)または装甲フリゲート、1892年2月1日からは1等巡洋艦(крейсеръIранга)に分類された。\n第一線を退いたのち、1906年3月11日からは練習船(учебноесудно)、1909年10月27日からは繋留廃艦(блокшивъ)に分類された。\n艦名は、ロシアでは救国の英雄として知られるD・M・ポジャールスキー公に敬意を表して命名された。\n姉妹艦は、ポジャールスキー公の相方であるクジマ・ミーニンから「ミーニン」と命名されている。", "qas": [ { "question": "ポジャールスキー公は、改装前は何と呼ばれていたの?", "id": "tr-478-01-000", "answers": [ { "text": "帆装装甲砲門フリゲート", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "装甲巡洋艦ポジャールスキー公の名前の由来となった人物は誰ですか?", "id": "tr-478-01-001", "answers": [ { "text": "D・M・ポジャールスキー", "answer_start": 326, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "D・M・ポジャールスキー公の相棒の名前は何ですか?", "id": "tr-478-01-002", "answers": [ { "text": "クジマ・ミーニン", "answer_start": 373, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポジャールスキー公が繋留廃艦に分類されたのはいつからですか?", "id": "tr-478-01-003", "answers": [ { "text": "1909年10月27日", "answer_start": 269, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "木造蒸気軍艦の時代の次にやってきたのは装甲艦の時代であったが、初期の装甲艦は重防禦と重武装に重きが置かれており、航行性能は二の次であった。\n装甲艦の低い速力と短い航続距離は、非装甲の機帆走フリゲートにも活躍の場を残したが、それらはやがて二つの観点から次の段階へと発展した。\n一方の観点は、艦の性質、用途であった。\nしばしば「巡洋艦」と呼ばれるように、フリゲートには高い航洋性と独立性が期待された。\nその要求を満たすためにフリゲートは比較的大型で鉄製の船体を持つことになったが装甲はなされておらず、大きな速力と航続力を持つかわりに武装は少なく、少ない乗員で動かされた。\n防禦の脆弱さは、抜きん出た速力によって逃げるということで補われるという考えであった。\nもう一方の観点は、フリゲートにも防禦装甲を与えるという発想であった。\nこれによって出現したのが、装甲フリゲートであった。", "qas": [ { "question": "初期の装甲艦は航行性能よりも重防禦と何に重点を置いていましたか?", "id": "tr-478-02-000", "answers": [ { "text": "重武装", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "両観点の両立は、専ら外洋向けのフリゲートに対して求められた。\n例えば、沿岸域防衛用に設計された装甲フリゲートである「砲塔フリゲート」は進入した敵艦艇を撃退する「移動」要素のひとつであったが、装甲を持つかわりに低い航行性能と短い航続距離しか持たない「沿岸防衛巡洋艦」であり、二番目の観点しか考慮していない。", "qas": [ { "question": "「砲塔フリゲート」は何用に設計された装甲フリゲートですか?", "id": "tr-478-03-000", "answers": [ { "text": "沿岸域防衛用", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ロシア帝国でふたつの観点両面からのアプローチがなされたのは、1861年に起工された木造58門級フリゲート「ペトロパヴロフスク」と「セヴァストーポリ」に対してが初めてであった。\nこれらは1862年末に設計が変更され、武装を減らすかわりに口径を拡大し、何より重要なことには、厚み114mmの装甲で船体を覆うこととされていた。\n1864年と1865年に進水した両艦は、12knから12.5knという悪くない速力と航洋性を発揮した。\n両艦の性能はバルト海のような閉ざされた海域で活動するには十分な能力であったが外洋での活動には不十分であり、そのため通商破壊や敵沿岸部への襲撃任務を行うことができず、第一の観点、つまり「巡洋艦」としての要求を満たしていなかった。\nロシアにおける国産装甲艦建造の第二段階は、従来の木造船体を鉄製にすると同時に防禦装甲を持たせ、なおかつ活発な外洋航海能力を持つ巡洋艦を建造することであった。\nこの構造上の特徴と航行性能上の要求の両方を初めて満たす艦として設計されたのが、「ポジャールスキー公」級装甲フリゲートであった。", "qas": [ { "question": "「ペトロパヴロフスク」と「セヴァストーポリ」の進水時の速力は何knから何knでしたか?", "id": "tr-478-04-000", "answers": [ { "text": "12knから12.5kn", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "クリミア戦争での敗戦後、ロシア帝国はまず沿岸域防衛用の艦隊を創設した。\nその作業が一段落した1864年3月、装甲艦シリーズの第二弾を着工する決定がなされた。\n新しい装甲艦は国内造船所で国産資材を用いて建造することとされており、特に大きな戦闘力と高い航洋性が要求された。\n海軍省は、イギリスのE・J・リード技師の設計した装甲フリゲート「ベレロフォン」を原型にした装甲フリゲートの建造を決定した。\n当時、海軍省は5つの設計から8隻の艦船の建造を予定しており、そのうち2隻が「S」設計による砲門装甲艦(Батаре́йныебронено́сцыпопрое́кту«С»)と呼ばれたこの装甲フリゲートになった。", "qas": [ { "question": "「ベレロフォン」の設計者は誰ですか?", "id": "tr-478-05-000", "answers": [ { "text": "E・J・リード", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "原型の「ベレロフォン」は1863年に起工し、1865年4月に進水した。\nその排水量は7551tで、全長300フィート(91.4m)、幅56フィート1インチ(17.1m)、喫水26フィート7インチ(8.1m)の寸法を持っていた。\n帆装のほかに動力装置として図示出力6521馬力の筒装機関(筒型レシプロ機関)1基を持ち、機走時に14kn、帆走時に10knの速力と、速度9knで1500海里の航続距離を持っていた。\n防禦装甲の厚みは、装甲帯が5-6インチ(127-152mm)、砲座で6インチ、司令塔で6-8インチ(152-203mm)、隔壁で5インチ、甲板で5-1インチ(13-25mm)となっていた。\n武装と防禦装甲の配置から、最初の中央砲門艦に数えられている。", "qas": [ { "question": "「ベレロフォン」の防禦装甲の厚みが最も厚い部分はどこですか?", "id": "tr-478-06-000", "answers": [ { "text": "司令塔", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ベレロフォン」の防禦装甲の厚みが最も薄い部分はどこですか?", "id": "tr-478-06-001", "answers": [ { "text": "甲板", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ベレロフォン」は起工して2年後に進水したが、それは何年ですか?", "id": "tr-478-06-002", "answers": [ { "text": "1865年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "同型艦2隻が建造されることとなり、1隻目は1864年10月21日に著名なイギリスの請負人K・ミッチェルの立会いの下、建造契約が結ばれた。\nこの設計は、このときには「8門級装甲コルベット」(«Восьмипу́шечныйбронено́сныйкорве́тъ»)と呼ばれるようになっていた。", "qas": [ { "question": "1隻目の建造契約に立会った人物は誰ですか?", "id": "tr-478-07-000", "answers": [ { "text": "K・ミッチェル", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "建造までに、元設計には若干の変更が加えられた。\n装甲を含む船体幅は強度を増すために14.94mまで拡張され、喫水も5.64mまで増加した。\n当初設計時に予定された公称出力450馬力の機関は、600馬力のものへ変更された。\n排水量は、4137tに上った。\n8門の300ポンド(229mm)砲は、閉鎖砲座へ配置された。\n垂直竜骨はの厚みは、仕様書によれば15.9mmになった。\n水平竜骨の外板ならびに内板は、それぞれ25.4mmと19mmになった。\n外側覆いの厚みは、15.9mmから17mmに増やされた。\nイジョール工場には、厚み114mm、重量にして615tの装甲板193枚が発注され、これらは2層からなる厚み457mmのインド・チーク製の裏地の上に装着されることになった。\n資材は国内調達とされていたが、このインド・チークは国外への注文が許可された。\n機関とボイラーは、ベルト工場へ発注された。", "qas": [ { "question": "装甲板193枚はどこから発注しましたか?", "id": "tr-478-08-000", "answers": [ { "text": "イジョール工場", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "建造は、1864年11月18日からガレー島造船所で開始された。\n同造船所は、それまでに装甲砲台「ネ・トローニ・メニャー」や装甲艇「スメールチ」の建造実績があった。\n進水は遅くとも1866年8月までに行うこととされ、1867年6月までには配備できるようにとの達しがあった。\n1865年5月29日付けで「8門級装甲コルベット」は艦船名簿に登録され、「ポジャールスキー」(«Пожа́рскій»)と命名された。\n1866年7月4日には、「ポジャールスキー公」(«КнязьПожа́рскій»)に改名された。\n同年11月8日からは、類別も装甲フリゲートに改められた。\n建造監督官は、艦船技師のA・F・ソーボレフ2等大尉が務めた。", "qas": [ { "question": "ポジャールスキー公の建造監督官に就いた人物は誰ですか?", "id": "tr-478-09-000", "answers": [ { "text": "A・F・ソーボレフ", "answer_start": 295, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ポジャールスキー」は1年後に何と改名しましたか?", "id": "tr-478-09-001", "answers": [ { "text": "「ポジャールスキー公」", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ネ・トローニ・メニャー」や「スメールチ」が建造された造船所はどこですか?", "id": "tr-478-09-002", "answers": [ { "text": "ガレー島造船所", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "建造中にも設計変更や改善が加えられたため、工事は遅延して進水は丸一年遅れ、1867年8月31日になってようやく進水式が行われた。\nその間、1867年初めまでに新しい仕様書が作成された。\nそこには、建造中に加えられた変更点がすべて記載されていた。", "qas": [ { "question": "建造中に追加された変更点は何に記載されましたか?", "id": "tr-478-10-000", "answers": [ { "text": "新しい仕様書", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "装甲は強化され、その総重量は652tにまで増加した。\n装甲帯では、山形鉄からなる内部の鉄製外皮を持った二重のチーク製裏地の上に、装甲が取り付けられた。\n追加の鉄板や圧延された鉄114tをチーク製パッキング216tのあいだに挿入して、防禦装甲が強化された。\nイジョール工場では、厚み4.5インチ(114.3mm)の装甲板が砲廓用に、4インチ(101.6mm)の装甲板が船体喫水線部分の装甲帯用に製造された。\nまた、装甲砲台「ペールヴェネツ」同様に鉄管製の檣で補強され、船尾には重量210kgの錨2基が追加された。\n戦闘司令塔も設置されたが、その重量は76tであった。\nこうした変更のために荷重バランスに変化が生じ、艦全体の重量配分に設計変更を強いた。", "qas": [ { "question": "砲廓用と船体喫水線部分の装甲帯用として製造された装甲板は、どちらが厚いですか?", "id": "tr-478-11-000", "answers": [ { "text": "砲廓用", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "戦闘司令塔の重さはどれくらいありますか?", "id": "tr-478-11-001", "answers": [ { "text": "76t", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "武装に関しても補強や砲門、弾薬庫などについて何度か設計変更を受けたが、準備に手間取っていた新しい229mmライフル砲のかわりに、艦が巡洋艦任務に使用されることを考慮し、閉鎖砲座へ203mm砲8門、船首と船尾の旋回プラットフォーム上へ152mm砲2門を装備することが決定された。\nこれにより、追撃戦や逃走戦の際に絶え間ない砲火を敵艦に浴びせることが可能になった。", "qas": [ { "question": "装備された大砲の数が多いのは、閉鎖砲座と船首および船尾の旋回プラットフォーム上のどちらですか?", "id": "tr-478-12-000", "answers": [ { "text": "閉鎖砲座", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "改正仕様書によれば排水量は4505tに達し、垂線間長は265フィート(80.8m)、最大幅は49フィート(14.9m)、図面上の喫水は、船首部分で17フィート10インチ(5.4m)、船尾部分で22フィート1インチ(6.7m)となった。\n機関出力は公称出力で600馬力、図示出力で2835馬力となった。\n結果として、イギリスの装甲フリゲートに対するロシア艦の速力における優位は、達成されなかった。\n図示出力6521馬力の動力装置によって14knの速力を持つ「ベレロフォン」に対し、「ポジャールスキー公」の速力は11.9knにしかならなかったのである。", "qas": [ { "question": "「ベレロフォン」と「ポジャールスキー公」はどちらが速いですか?", "id": "tr-478-13-000", "answers": [ { "text": "「ベレロフォン」", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「ポジャールスキー公」の建造では、ロシア国産の鉄から建造するという目標は達成された。\n機関とボイラー、それにスクリュープロペラは、国内のベルト工場で製造された。\n防禦装甲には、イジョール工場で製造された初めての装甲板が用いられた。\n最終的に、船体価格は103万5479ルーブリで、機関価格は38万4140ルーブリであった。", "qas": [ { "question": "「ポジャールスキー公」に使用されている鉄の産地国はどこですか?", "id": "tr-478-14-000", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "武装は当初、1867年式17.3口径9インチ(229mm)砲を採用していた。\nこれは元々砲塔装甲艇に搭載するために1863年にドイツ国から購入されたクルップ砲で、技術不足に起因する製造時の不備を修正するため1864年にクルップ社へ返品された19門であった。\nこの19門は1868年末にロシアへ返却され、フリゲート「ポジャールスキー公」に8門、双砲塔艇「ルサールカ」と「チャロヂェーイカ」に2門ずつ搭載された。\nこの砲は射角+8度40分で3704m、+19度で6400mの射程を持っていた。\n使用砲弾は、通常の鋳鉄製の場合は3.5ないし4.5kgの黒色火薬を用い、信管が付いていた。\n硬鉄の場合は信管がなく、黒色火薬の量も0.8kgだけであった。", "qas": [ { "question": "武装当初に採用していた大砲はどこから購入されたものですか?", "id": "tr-478-15-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロシアへ返却された19門のクルップ砲のうち、数が最も多く搭載された艦隊は何ですか?", "id": "tr-478-15-001", "answers": [ { "text": "「ポジャールスキー公」", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "クロンシュタット砲台長官であったF・V・ペースチチ少将は、「ポジャールスキー公」専用に鉄製の旋回式舷側砲架を設計した。\n巻き揚げ機構は2基の螺旋からなっており、射角は垂直方向に-4度から+8.5度であった。\n砲架巻き揚げ時には、-4度から+8度まで2分15秒で射角を変えることができた。\n管状部分の長さは2337mm、幅は1454mmであった。\nプラットフォームの長さは4267mm、幅は1530mmであった。\nプラットフォームの傾斜角は、1.5度に設定してあった。\n甲板から砲門下部脇柱までの距離は、762mmで、砲門外側寸法は984.6mmであった。\n砲架の重量は2602kgで、プラットフォームの重量は2641kgであった。\n「ポジャールスキー公」は、この装置を閉鎖砲廓内に装備した。", "qas": [ { "question": "「ポジャールスキー公」専用に鉄製の旋回式舷側砲架を設計した人は誰ですか?", "id": "tr-478-16-000", "answers": [ { "text": "F・V・ペースチチ", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「ポジャールスキー公」に装備された17.3口径9インチ砲は古い鋳鉄製カバーを16箇所の固定環に交換したものであった。\nこれを、新規に設計した21箇所の固定環を持つ20口径9インチ砲に変更する要求が出されたが、この砲の製造がクルップ社へ発注されたのが1868年7月のことであり、「ポジャールスキー公」の就役に間に合わなかったため、9インチ砲の搭載は中止して8砲を搭載することになった。", "qas": [ { "question": "17.3口径9インチ砲は、何口径に変更するように要求されましたか?", "id": "tr-478-17-000", "answers": [ { "text": "20口径", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "武装の換装工事が施工され、9インチ砲は撤去された。\nかわりに搭載されたのは1867年式21.9口径8インチ(203mm)砲で、8門を搭載した。\nこれにより、装甲巡洋艦4隻すべてが同じ主砲に揃えられることになった。\nこの砲では、砲弾は鋳鉄製と硬鉄製の両方があり、鉛製外皮の厚みにより砲弾重量は73.7kgから84.8kgになった。\n黒色火薬は、鋳鉄製砲弾の場合2.64kg搭載されていた。\n装薬10.2kgを用いて射角19度27分で射撃した場合、射程は5335mであった。", "qas": [ { "question": "9インチ砲の代わりに搭載された大砲は何年式のものですか?", "id": "tr-478-18-000", "answers": [ { "text": "1867年式", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "9インチ砲の代わりに搭載された大砲は何インチですか?", "id": "tr-478-18-001", "answers": [ { "text": "8インチ", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "このほかに、1878年までに1867年式23.3口径6インチ(152mm)砲8門、1867年式19.7口径4ポンド(86.87mm)砲8門、速射砲4門が搭載された。\nこうした武装の変遷は、タイプシップの「ベレロフォン」に類似している。\n「ベレロフォン」も竣工時には前装式ライフル砲の9インチ砲10門と7インチ砲5門を装備し、1885年に後装式艦砲へ換装し、8インチ砲10門、6インチ砲4門、4インチ砲6門、それに16インチ魚雷発射管2門を装備している。", "qas": [ { "question": "1878年までに搭載された大砲で、搭載数が少ない大砲の種類は何ですか?", "id": "tr-478-19-000", "answers": [ { "text": "速射砲", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ベレロフォン」の竣工時に最も多く装備した大砲の種類は何ですか?", "id": "tr-478-19-001", "answers": [ { "text": "9インチ砲", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1885年に「ベレロフォン」が後装式艦砲へ換装した際に、最も装備数が多い大砲の種類は何でしたか?", "id": "tr-478-19-002", "answers": [ { "text": "8インチ砲", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1885年に「ベレロフォン」が後装式艦砲へ換装した際に、2番目に多く装備した大砲は何ですか?", "id": "tr-478-19-003", "answers": [ { "text": "4インチ砲", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「ポジャールスキー公」は、1869年に竣工した。\n艦は事実上の試験艦であり、その後も改修作業が続けられることになった。\n特に1871年には、バルト海装甲艦実習艦隊長官G・I・ブタコーフ海軍中将の意見に従い、近接戦闘時における銃撃に対する防禦として、すでに撤去されていた戦闘司令塔のかわりに中間艦橋上方に厚み50.8mmの装甲覆いが取り付けられた。", "qas": [ { "question": "「ポジャールスキー公」が完成したのはいつですか?", "id": "tr-478-20-000", "answers": [ { "text": "1869年", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "様々な改修を受け続けながら、「ポジャールスキー公」は1869年と1870年、そして1871年に試験航海のためにバルト海へ送られた。\nしかし、新機軸を満載する改設計を積み重ねた結果、当然に生じた過載によって艦は期待された「良好な航洋性」を発揮できなかった。\n結局、1872年に「ポジャールスキー公」はロシアにおける装甲巡洋艦隊建設の権威であったA・A・ポポーフ海軍少将の指揮下に移された。\nポポーフは改めて艦を全面的な海上試験に掛けた結果、欠陥は設計図や船の構造にあるのではなく、「いくつかの重量物の配置の狂いと檣の不均衡にあり、あまり大掛かりではない二義的な船体内部の調整を施せば、このフリゲートは優れた海洋軍船に仕上がるであろう」と結論付けた。\n実際、調整を行ったところ満足の行く結果が得られ、1873年夏には実習航海と駐屯警備のため地中海まで派遣されることになった。\nバルト海を抜けた「ポジャールスキー公」は、イギリスに立ち寄りつつ地中海まで遠征を果たした。\n地中海において、「ポジャールスキー公」はマルタからピレウスへ移動中に猛烈な嵐に見舞われたが、これにも耐え抜いた。\nこうして、「ポジャールスキー公」は初めてクロンシュタットから出港してバルト海の境を越えた装甲艦となったのである。", "qas": [ { "question": "「ポジャールスキー公」がバルト海で2回目の試験航海をしたのはいつか?", "id": "tr-478-21-000", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1872年に「ポジャールスキー公」は誰の指揮下に置かれたの?", "id": "tr-478-21-001", "answers": [ { "text": "A・A・ポポーフ", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ポジャールスキー公」が初めてクロンシュタットから出港してバルト海の境を越えたのはいつ?", "id": "tr-478-21-002", "answers": [ { "text": "1873年夏", "answer_start": 348, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「ポジャールスキー公」は、1875年秋に無事にクロンシュタットへ帰港した。\nそして、艦を大洋巡洋艦型により一層近づけるための改修工事が施工された。\n\n船体水中部分は、一列の通しボルトで留められた木製外板と亜鉛板で覆われた。\n機関はオーバーホールを受けた。\n古びた6基のボイラーに替えて、新しい8基のボイラーが設置された。\n煙突は1基だけであったのが撤去され、2本に増やされた。\nそのうちひとつは固定式で、もうひとつは取り外し可能なものであった。\n砲熕兵装は203mm砲と152mm砲、それに87mm砲をそれぞれ8門ずつといくつかの16mmおよび44mm速射砲になった。\n加えて、棹式・折り畳み式・曳航式の外装水雷も使用できるように改修を受けた。", "qas": [ { "question": "「ポジャールスキー公」が再びクロンシュタットに帰って来たのはいつ?", "id": "tr-478-22-000", "answers": [ { "text": "1875年秋", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "新しく設置されたボイラーの数はいくつですか?", "id": "tr-478-22-001", "answers": [ { "text": "8基", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "元々1基しか無かったものが外されて、2本に増やされたものとは何ですか?", "id": "tr-478-22-002", "answers": [ { "text": "煙突", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "改修工事で砲熕兵装なされた大砲の中で、最も口径の大きい種類は何ですか?", "id": "tr-478-22-003", "answers": [ { "text": "203mm砲", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1877年秋に行われた試験において、ボイラー圧力は1.54気圧になり、機関は2214馬力の出力を記録した。\nこれにより速力は喫水6.26mにおいて11.9kn、喫水6.36mにおいても11.7knに達し、従って1872年に行った試験の際より丸々1kn速くなった。\n燃料の石炭積載量は365tだけであり、この量では仕様書通りの燃料消費率2.95t/hを発揮したとしても最大速度で123時間しか航行できなかった。\n帆の面積は、約2200m2であった。\n大檣の甲板からの高さは16.5m、檣の重量は135tであった。\n4基搭載されたアドミラル・アンカーの重量は、16.8tであった。\n錨鎖は太さ54mmで長さは500サージェン、重量は約56tであった。\n乗員数は士官が24名で、水兵は470名以上となり、全部で500名近くに上った。", "qas": [ { "question": "1877年の試験では、1872年の試験の時よりどれくらい速くなりましたか?", "id": "tr-478-23-000", "answers": [ { "text": "1kn", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "乗員数の中で人数が少ないのは士官と水兵のどちらですか?", "id": "tr-478-23-001", "answers": [ { "text": "士官", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "乗員数の中で最も多くの割合を占めるのは、どのような立場の人たちですか?", "id": "tr-478-23-002", "answers": [ { "text": "水兵", "answer_start": 336, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "装甲巡洋艦へ改装された「ポジャールスキー公」は、「ゲネラール=アドミラール」級の2隻とともに太平洋巡洋艦分遣隊の中核を構成する3番目のフリゲートとなった。\nその4隻目は、「ポジャールスキー公」の姉妹艦「ミーニン」である。", "qas": [ { "question": "太平洋巡洋艦分遣隊の中核を構成する4番目のフリゲートの名前は何?", "id": "tr-478-24-000", "answers": [ { "text": "「ミーニン」", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1878年には、二度目の地中海航海を行った。\n同年5月に本国を発ち、地中海では前回と同様の任務に就いた。\nロシア大使館のあったピレウスを根拠地に、ギリシャ、イタリア、フランスの諸港を巡った。\n1880年4月には、「ポジャールスキー公」は極東へ向けた4箇月の航海へ赴いた。\n極東へ到着した「ポジャールスキー公」はシベリア小艦隊に編入されそのまま現地へ留まることが予定されたが、1881年9月にはウラジオストクを発ってピレウスへ戻った。\n翌1882年には、クロンシュタット投錨地へ帰還した。", "qas": [ { "question": "二度目の地中海航海では1878年の何月にロシアを出発したの?", "id": "tr-478-25-000", "answers": [ { "text": "5月", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "二度目の地中海航海の後に、「ポジャールスキー公」はどの地域に向けて航海を出発したの?", "id": "tr-478-25-001", "answers": [ { "text": "極東", "answer_start": 118, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "米村でんじろう", "paragraphs": [ { "context": "米村でんじろう、米村傳治郎、米村伝治郎は、日本のサイエンスプロデューサーである。サイエンスショーの企画、演出、書籍の監修、テレビ番組の出演や監修、実験装置の開発などを手がける。元都立高校の物理教師でもある。千葉県市原郡加茂村に、4人兄弟の末っ子として生まれる。家は兼業農家であった。", "qas": [ { "question": "米村でんじろうが物理教師として務めた学校はどこなの?", "id": "tr-479-00-000", "answers": [ { "text": "都立高校", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "米村でんじろうはどの県出身ですか。", "id": "tr-479-00-001", "answers": [ { "text": "千葉県", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "米村でんじろうは1973年、千葉県立市原高等学校を卒業する。高校3年生の時に、父親が職場の工場で事故死したこともあって、授業料の安い国立大学を志望して受験したが、失敗した。浪人生活2年目、母親が見かねて「働いてみたらどうか」と勧め、6月から8月まで工場で40代から50代の労働者たちにまざって働いた。また9月から予備校に通うが、講義についていけずにやめた。3年目、母親に頼るのがつらくなり、新聞奨学生の募集を見て、面接を受けたが断られたこともあった。牛乳配達のアルバイトをしながら、3年目の宅浪をつづけ、1976年に東京学芸大学理科B類(物理)に合格、入学した。しかし、大学の講義でもしばしば単位を落とした。所属した研究室で当時は目新しかったパソコン用の理科教育ソフト作成を行い、この時、指導教官から賞賛をうけた。米村は、「先生から褒められたのは人生で初めて。段階を踏んでやればできると自信がうまれた」と回想している。", "qas": [ { "question": "米村でんじろうは何年に千葉県立市原高等学校を卒業したか。", "id": "tr-479-01-000", "answers": [ { "text": "1973年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "米村でんじろうは1976年、どの学校に入学しましたか。", "id": "tr-479-01-001", "answers": [ { "text": "東京学芸大学", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "父が亡くなったとき、米村でんじろうは高校何年生でしたか。", "id": "tr-479-01-002", "answers": [ { "text": "高校3年生", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "米村でんじろうは何を作成したことで人生で初めて先生から褒められましたか。", "id": "tr-479-01-003", "answers": [ { "text": "パソコン用の理科教育ソフト", "answer_start": 321, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "米村は「社会に出て働きたくない」という理由で、東京学芸大学大学院に進学した。大学院で知り合った女性と卒業後の1982年に結婚し、米村姓を名乗る。卒業後は研究職につくことを希望し、他大学の博士課程や公務員試験を受けたが落ちたため、研究生として東京学芸大学に残る道を選んだ。教授の紹介で、自由学園の講師を務める。自由学園では、「教科書にとらわれず、思い通りに授業してもらって結構です」とアドバイスを受け、林で拾った木の枝からつくった炭とアルミ缶を使った「木炭電池」を生徒に披露するなど、実験重視の授業に取り組んだ。", "qas": [ { "question": "米村と彼の妻はどこで知り合いましたか。", "id": "tr-479-02-000", "answers": [ { "text": "大学院", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "米村と彼の妻が知り合った大学院はどこですか。", "id": "tr-479-02-001", "answers": [ { "text": "東京学芸大学大学院", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "米村は何年に結婚しましたか。", "id": "tr-479-02-002", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "米村は自由学園で教師の面白さを知り、1984年に東京都教員採用試験を受け合格した。1985年度より、東京都立稲城高等学校に理科教師として赴任した。\n\n稲城高校は、米村によると「生徒は落ちこぼれ。授業中に漫画を読んだり、黒板に向かっている間に数人が教室を抜けたりして、とても授業にならなかった」という状況であった。また「高校進学の時期になると『あの学校は無くなってしまうらしい』という噂が中学生の間に流れるような状況であった」としている。このとき、生徒が理科に関心を持てるように、「百人おどし」の実験をしたり、野外観察に生徒たちを連れ出して、野草や木の実をビーカーで茹でて食べられるかどうかを、生徒たちが自主的に調べるように仕向けたりした授業を行った。このころ、Mr.マリックがテレビで脚光を浴びた時期であり、生徒が米村に「超能力はあるのか?」と質問してくることもあった。これをヒントに授業で超能力を取り上げ、超能力について生徒に考えさせる授業方法の模索も行った。", "qas": [ { "question": "米村は何年に東京都教員採用試験を受けたか。", "id": "tr-479-03-000", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "米村はいつから東京都立稲城高等学校で理科教師として働きましたか。", "id": "tr-479-03-001", "answers": [ { "text": "1985年度", "answer_start": 41, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "米村は1993年4月より東京都立小金井北高等学校に赴任した。米村の回顧によると「(小金井北高校は)進学校で、実験授業は大学受験の役に立たず生徒やその父母から評判が良くなかった」という。また教頭に呼び出され「君が教師になったのは間違いだ」と言われたこともあった。\n\nこのころから、米村はNHK教育テレビの番組製作を手伝うようになった。「やってみようなんでも実験」では自ら出演して実験を披露するようにもなった。また、展示内容のリニューアルを計画していた科学技術館より、サイエンスショーエリアのプロデュースが依頼された。", "qas": [ { "question": "1993年4月、米村はどの学校に赴任したか。", "id": "tr-479-04-000", "answers": [ { "text": "東京都立小金井北高等学校", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "米村は1996年3月に都立高校教師を辞し、サイエンスプロデューサーとして独立する。同年5月に米村を追ったドキュメンタリー番組「おれは日本のガリレオだ!?」がNHKで放映されると、各地の学校や科学館からの講演依頼が米村のもとに殺到した。米村は「最初のころは講演依頼に従って話をしていたが、講演だけでは時間がもたないため実験を取り入れ、次第に実験の比重が多くなり、アシスタントや実験装置が徐々に増え、実験の間に話を混ぜていくサイエンスライブショーの構成ができあがっていった」と述べている。", "qas": [ { "question": "米村はいつ都立高校教師を辞めたの?", "id": "tr-479-05-000", "answers": [ { "text": "1996年3月", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「おれは日本のガリレオだ!?」は何年に放送されましたか。", "id": "tr-479-05-001", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "米村は科学技術館の「ワークス」でサイエンスショーの実演をする一方で、地方から依頼のあったサイエンスライブショーの公演を行うようになった。1998年、科学技術館で米村の実験助手を務めていたチャーリー西村などと共に、「米村でんじろうサイエンスプロダクション」を立ち上げた。2004年より、岩手大学で任期付き客員教授を務めた。2005年、愛知万博では、長久手会場日本広場内にて「日本館わくわくエネルギー教室」を監修し、自ら出演して実演実験を行った。2006年4月20日には、科学技術館を視察に訪れた内閣総理大臣小泉純一郎が、遠足で訪れていた厚木市立厚木第二小学校の小学5年生の28人と一緒に米村の実験ショーに参加した。2007年9月には、NHKの番組撮影と国際協力機構(JICA)のサポートで、ケニアの中学校、孤児院などで科学実験の授業を行った。\n\n2008年にチャーリー西村が独立したが、その後もアシスタントとして杉木優子、ジャイアン村上、市岡元気などのキャスティングでサイエンスライブショーを各地で実施している。", "qas": [ { "question": "米村は誰と「米村でんじろうサイエンスプロダクション」を立ち上げましたか。", "id": "tr-479-06-000", "answers": [ { "text": "チャーリー西村", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "米村は何年から岩手大学で任期付き客員教授を務めたの?", "id": "tr-479-06-001", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サイエンスプロデューサーという肩書きは、米村自身の造語で、都立高校教諭を辞めるときに、科学番組の企画や教材作成など裏方の仕事を意図してつくった言葉である。期せずして人前に出る仕事が多くなったが、「人前で話をするのは向いていない」と考えている。\n\n都立高校教諭という安定した仕事を辞めてサイエンスプロデューサーを選んだ理由として、「学校という枠を離れて、教育とか生徒とか、あるいは社会とかというものを考えてみたかった」と語っている。同じようにテレビに出演して科学実験の実演を行っていた滝川洋二は自身について「目標はあくまで理科教育」と語るのに対し、「教育という視点を外してから、すごく楽になった。子供たちが、もっと驚き、もっと笑うステージにしたい。ドリフターズが理想」とも語っている。\n\nまた米村は「科学は、最先端なものとか役に立つとかどうかという視点だけではなく、(古い原理のものでも)楽しんで喜んでもらえるものとして伝えていきたい」「音楽が『音を楽しむ』と書くように、科学も科学を楽しむ『科楽』として、一般の人にどう表現して、伝えられるのか追求していきたい」と述べている。", "qas": [ { "question": "サイエンスプロデューサーという言葉は誰が作ったの?", "id": "tr-479-07-000", "answers": [ { "text": "米村", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "米村は小さなころから、ラジオの分解、電磁石作り、自作の望遠鏡などに夢中になっていた。4人兄弟の末っ子であったが、他の兄弟と年齢が離れていたこともあって一人で遊ぶことが多かったと回想している。中学生時代には、化学部に所属し、自作の火縄銃作りに没頭した。山中で発射実験をしたが、この時、火薬の詰めすぎで銃筒が破裂し、左手に大怪我を負った。高校生時代には、廃物のオートバイの車輪を見つけて轆轤を自作し、これで壺や茶碗を作ったこともあった。\n\n大学時代には、フォルクローレに感動し、竹をとってきて、自作のケーナづくりに没頭するようになった。さらには道具なしでも音が出せるか試行錯誤しハンドオカリナをマスターした。", "qas": [ { "question": "大学時代、米村は何に感動してケーナを作ろうとしたの?", "id": "tr-479-08-000", "answers": [ { "text": "フォルクローレ", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "米村は、釣りは「ほぼ唯一の趣味」とも語っている。米村が生まれ育った加茂村には養老川の支流であった古敷川が流れており、自然豊かであった。そこで魚釣りをよくやっていた。竹筒で作った仕掛けでウナギをとったりしたこともあった。しかし、実家を離れて東京に移ると釣りからは疎遠となった。\n\n教師を辞めてサイエンスプロデューサーになり、2001年ごろサイエンスショーのためたまたま訪れた場所で地元の人たちが釣りを楽しんでいるの見かけて、再び釣りに目覚めた。船舶免許を取り、三浦港から一人で船を出して釣りに出たこともあった。その後、やはりサイエンスショーで訪問した北海道の川でヤマメや大型のウグイが釣れ、しかも北海道の川は漁業権を買わずに釣りができる川が多く、気軽に釣れる川釣りに興味が移った。また、旅先だけでなく、自宅近くの川でも釣りをするようになった。そしてフライ・フィッシングに強い関心をもつようになった。最初は秋川付近で釣りをしていたが、次第に上流の奥多摩地方の渓谷に一人で入るようになった。ザイルなども装備し、難度の高い沢登りをするような釣り場にまで行くようになったが、雲取山近くでツキノワグマに遭遇し、それ以後、ほどほどの場所で釣りを楽しむようになったと述べている。", "qas": [ { "question": "米村がいう彼の唯一の趣味は何ですか。", "id": "tr-479-09-000", "answers": [ { "text": "釣り", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "フリッツ・ハーバー", "paragraphs": [ { "context": "シレジアのブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)でユダヤ人の家系に生まれた。父のジークフリートは染料を主に扱う商人であった。また、母のパウラはジークフリートの叔父の娘である。パウラはフリッツを産んだ3週間後に産後不良で死去し、ジークフリートはその6年後に再婚した。この再婚相手はフリッツに優しく接し、関係は良好であった。しかし当の父親とフリッツは性格が異なり、しばしば対立した。11歳のときにギムナジウムに入学した。ギムナジウムでは文学や哲学を学び、自作の詩を作った。一方で化学にも興味を持った。はじめ自宅で実験を行っていたが、異臭がするからなどといった理由で父親に禁止されたため、その後は叔父のヘルマンの家で実験を行っていた。卒業後、家業を手伝わせたいという父親の意向により、ハンブルクの染料商に弟子入りし教育を受けた。しかしこの仕事場はフリッツには合わなかった。そのため2、3か月後に、叔父と継母の協力を得て、父親を説得し、染料商の仕事を辞め、1886年、ベルリン大学へと進学した。フリッツは大学で化学を専攻した。当時のドイツは化学、特に有機化学の分野に秀でており、ベルリン大学にはそのドイツの有機化学の象徴的存在であるアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンがいた。フリッツが化学を専攻したのは、大学時代にホフマンの影響を受けたためともされているが、それ以前から化学への道を進む決心をしていたともいわれており、その時期についてははっきりしていない。ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間ハイデルベルク大学でロベルト・ブンゼンに師事し、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となるクララ・イマーヴァールと出会った。兵役終了後はベルリンのシャルロッテンブルク工科大学で学んだ。ここでは有機化学の分野で名をあげたカール・リーバーマンに学んだ。そして1891年、ピペロナールの反応についての論文で博士号をとった。", "qas": [ { "question": "フリッツの父の職業は何か?", "id": "tr-480-00-000", "answers": [ { "text": "商人", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリッツが11歳に入学したところでは、文学と何を学んだの?", "id": "tr-480-00-001", "answers": [ { "text": "哲学", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベルリン大学とハイデルベルク大学、シャルロッテンブルク工科大学のうち、フリッツが在籍していた時期が最も遅いのは、どちらですか?", "id": "tr-480-00-002", "answers": [ { "text": "シャルロッテンブルク工科大学", "answer_start": 730, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1886年から1891年にかけてフリッツが在籍していた3つの大学のうち、ベルリンにある大学ではないのは、どの大学か?", "id": "tr-480-00-003", "answers": [ { "text": "ハイデルベルク大学", "answer_start": 650, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "有機化学を学んでいたが、当時ドイツでは新しい学問分野である物理化学の人気が高まっていた。フリッツもこの分野に魅力を感じ、今までの専攻分野を変更して、物理化学における代表的な研究者であるヴィルヘルム・オストヴァルトのもとでの研究を望んだ。しかし当時、ドイツの化学界はポストに比べて志望者が多く、とりわけオストヴァルトは人気が高かったため、オストヴァルトの研究員として働くことは叶わなかった。そのためフリッツは、職を求めて企業や大学を転々とし、少しの間、チューリッヒ工科大学のゲオルク・ルンゲ(ドイツ語版)のもとにも就いた。しかし、なかなか思うような仕事場を見つけることができず、24歳の時に父親の染色商の手伝いを始めた。ここでは商売の方法などをめぐり父親と意見が食い違った。そのうえ、フリッツは商業上の失敗により、会社に大きな損害を出してしまった。親子の溝はますます深くなっていったため、フリッツは父の元を離れ、イェーナ大学で修学した。イェーナ大学ではルートヴィヒ・クノール(ドイツ語版)のもとで1年半の間研究を行い、クノールとともにジアセトコハク酸エステルに関する論文を発表した。また、この大学でルドルフ・シュトラウベの講義を聞いたことがきっかけとなり、フリッツはもう一度化学者になりたいという気持ちを強くした。そしてオストヴァルトに研究室に入れてくれるよう懇願したが、その願いは叶えられなかった。フリッツは他の研究室を探し求め、1894年、カールスルーエ大学のハンス・ブンテ(ドイツ語版)のもとで、無給助手として働けるようになった。こうしてフリッツは、25歳にしてようやく落ち着いた職場を得ることができた。またこの頃、フリッツは洗礼を受け、ユダヤ教徒からキリスト教徒ルター派へと改宗した。当時のドイツではユダヤ人に対する反感があったうえ、キリスト教徒以外は大学の研究職に就けないと知ったためであるという。フリッツはもともと宗教には熱心でなかったため、改宗することによって形式的にでもドイツ人の一員となろうとしたのである。", "qas": [ { "question": "化学者の道を一度やめたフリッツがもう一度化学者になろうと思うようになったのは、どの大学で修学していた頃のことなの?", "id": "tr-480-01-000", "answers": [ { "text": "イェーナ大学", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チューリッヒ工科大学とカールスルーエ大学のうち、フリッツがより遅く就いたのは、どこですか?", "id": "tr-480-01-001", "answers": [ { "text": "カールスルーエ大学", "answer_start": 621, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フリッツが洗礼を受けたのは、何歳のことか?", "id": "tr-480-01-002", "answers": [ { "text": "25歳", "answer_start": 677, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フリッツがもう一度化学者になろうと思ったのは、誰の講義の影響だったか?", "id": "tr-480-01-003", "answers": [ { "text": "ルドルフ・シュトラウベ", "answer_start": 498, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フリッツが所属したカールスルーエ大学の化学工学部には、ハンス・ブンテとカール・エングラーという、2人の主任教授がいた。フリッツはブンテに師事したが、エングラーとも石油の研究などで関わった。フリッツは、同じ研究室にいた友人にも恵まれ、才能を発揮していった。1896年に発表した論文「炭化水素の分解の実験的研究」は学界の注目を集め、この論文がきっかけで同年、無給助手から講義収入を得ることのできる私講師へと昇格した。さらに1898年には、電気化学の教科書となる『理論的基盤による技術的電気化学概論』を出版した。当時フリッツはこの分野における経験が浅かったため、執筆に当たっては、同僚からは恥をかくことになるから思いとどまるよう言われた。しかし結果的にはこの教科書は好評で、ブンテはもとより、オストヴァルトからも評価された。そして同年、助教授となった。1901年には、かつて兵役期間中に知り合ったユダヤ人化学者のクララと学会で再会し、同年に結婚した。翌年には長男のヘルマンが誕生している。1904年に平衡論を利用した窒素分子からのアンモニアの合成法の開発に着手した(後述)。これは1912年に化学メーカーのBASF社で実用化され、現在ハーバー・ボッシュ法として知られている。1906年にカールスルーエ大学教授となった。アンモニア合成の成功により、フリッツの知名度は著しく上昇した。フリッツの元には国内外から多くの学生が集まり、フリッツを呼び寄せようとする大学や企業からの誘いもまた多くあった。そして1912年、フリッツは新たに作られたカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所に所長として就任した。", "qas": [ { "question": "フリッツが私教授へ昇格したのは、何年のことなの?", "id": "tr-480-02-000", "answers": [ { "text": "1896年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリッツが助教授へ昇格したのは、何年のことですか?", "id": "tr-480-02-001", "answers": [ { "text": "1898年", "answer_start": 209, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クララとの結婚とカールスルーエ大学教授になったことのうち、その時期がより遅い出来事とは何年にあった出来事なのか?", "id": "tr-480-02-002", "answers": [ { "text": "1906年", "answer_start": 534, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "第一次世界大戦が勃発すると、ドイツに対する愛国心の強かったフリッツは従軍を志願した。しかしその願い出は却下され、代わりに軍からガソリン凍結防止用の添加剤の開発を命じられた。そして、その問題を解決した後にフリッツが関わったのが、毒ガスの開発であった。毒ガスの開発は、フリッツの前にヴァルター・ネルンストが担当していた。ネルンストは、砲弾に「くしゃみ粉」を入れて発射する計画を立てたが上手くいかず、すでに開発からは撤退していた。フリッツもはじめは砲弾に催涙ガスを入れて発射させる計画を試みたが、実現が難しかったため、ボンベから直接ガスを散布する方式に切り替えた。フリッツは毒ガスの開発に熱心に取り組み、軍もフリッツを信頼して毒ガスに関する全権を与えた。フリッツはアンモニア合成などの際につかみとった企業とのつながりを利用し、毒ガスの材料を確保した。さらに、物理化学・電気化学研究所のほぼ全体を、毒ガスの研究に利用した。当時研究所にいたオットー・ハーンに、毒ガスの使用はハーグ条約に違反するのではないかと問われたフリッツは、毒ガスを最初に使用したのはフランス軍だと述べ、さらに、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語った。", "qas": [ { "question": "フリッツが軍から最初に命じられたのは、何の開発だった?", "id": "tr-480-03-000", "answers": [ { "text": "凍結防止用の添加剤", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリッツは、毒ガスを最初に使用したのはどの国だと述べたのか?", "id": "tr-480-03-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 472, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリッツの前に、軍で毒ガスの開発に携わっていたのは、誰ですか?", "id": "tr-480-03-002", "answers": [ { "text": "ヴァルター・ネルンスト", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フリッツが指揮した毒ガス作戦(第二次イーペルの戦い(英語版))は、1915年4月22日にイーペル地区で実行に移された。この時は大きな成果をあげたが、作戦を続けるうちに連合国側も対応し始め、次第に当初のような成果をあげられなくなっていった。一方で毒ガス作戦は国際的な非難を浴びた。また、フリッツの周囲でも一部に反対意見があった。カールスルーエ大学の同僚であるヘルマン・シュタウディンガーがそうであったし、妻クララも夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し続けた。そしてついに同年5月2日、クララは抗議のために自ら命を絶った。ただし、史料研究の結果クララに行動的な平和主義者らしい姿は見当らないとされており、現代の女性運動家や平和運動家が実像に合わない思い込みをクララに押し付けているとの主張もある。元々、クララは化学の分野で女性としては初めて博士号を取得した才女であったが、フリッツはクララに科学を捨てて妻として家庭に入るよう押しつけ、しかもフリッツは仕事に熱中するあまり家族に気を使うことはほとんどなかったという。そのためもあってか、クララは徐々に家に引きこもりがちになっていた。クララの自殺については、毒ガス作戦への抗議の他にも生活に対する不満や同じ化学者である夫の活躍への羨みなど、いくつかの理由が重なったものであるともいわれている。フリッツはクララの死後も毒ガス作戦を継続した。毒ガス戦の戦場はイーペル地区以外にも東部戦線へ拡大していった(ボリモウの戦い、リガ攻勢)。ここではドイツ軍のみならず連合国軍も毒ガスを使用し、その戦闘はエスカレートしていった。フリッツは研究所を利用し、ホスゲンやマスタードガス(イペリット)などの新たな毒ガスやその投射機などの開発を進めた。その一方で1917年10月には、ベルリンのクラブで知り合ったシャルロッテと再婚した。戦争が長引くにつれドイツ軍はしだいに劣勢となり、1918年2月にはフリッツ自身もこの戦争で勝てる見込みはないと述べた。しかし、それでもなおフリッツは毒ガスに関する研究開発を止めることはなかった。", "qas": [ { "question": "フリッツの妻、クララが自殺したのは、何年のことなの?", "id": "tr-480-04-000", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリッツがイーペル地区で毒ガス作戦を実行したのは、何年か?", "id": "tr-480-04-001", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリッツによるイーペル地区での毒ガス作戦実行とクララの自殺のうち、どれがより遅く起こった出来事ですか?", "id": "tr-480-04-002", "answers": [ { "text": "クララの自殺", "answer_start": 490, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クララはフリッツと結婚する前にどの分野に携わっていたのか?", "id": "tr-480-04-003", "answers": [ { "text": "化学", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1918年11月に戦争は終結した。フリッツは、毒ガス開発のかどで戦争犯罪人のリストに載せられたといううわさが流れており、国際法廷において死刑の判決が下るだろうともいわれていた。そのためフリッツは肉体的にも精神的にも疲れ切った状態にあった。フリッツは妻子を連れてスイスへと逃亡した。自らの逮捕の可能性がないと分かったフリッツはドイツに帰国し、研究所の再編に取り掛かった。そのさなか、ハーバー・ボッシュ法の業績に対するノーベル化学賞受賞の知らせを聞いた。ただし当時、ドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国からの批判があった。竹内敬人は自著の中で、1912年にノーベル化学賞を受賞した後に、毒ガス作戦の指導者を務めたフランスの化学者ヴィクトル・グリニャールの例があったことも受賞に影響を与えたとしている。フリッツはその後、研究所の再編と共に、研究者を集めて発表を行うことを目的とした、ハーバー・コロキウムを開催した。ここでは、「ヘリウム原子からノミにいたるまで」と謳われたように、化学、物理学から、生物に至るまで、幅広い領域を対象にした。このコロキウムは以後30年余りにわたって続いた。一方で自らの研究においても、1919年にマックス・ボルンと共同でボルン・ハーバーサイクルを提唱するなど、成果をあげ続けた。", "qas": [ { "question": "戦争が終わった後、戦争犯罪人として逮捕されると思ったフリッツは、どの国へと逃亡したか?", "id": "tr-480-05-000", "answers": [ { "text": "スイス", "answer_start": 130, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリッツが研究所の再編とともに開催したのは、何なの?", "id": "tr-480-05-001", "answers": [ { "text": "ハーバー・コロキウム", "answer_start": 404, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボルン・ハーバーサイクルは、フリッツと誰が共同で提唱したものですか?", "id": "tr-480-05-002", "answers": [ { "text": "マックス・ボルン", "answer_start": 525, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイツの敗戦により、フリッツの研究所は資金難に陥っていた。これを解消するため、星一による星基金を活用するなど、財政面での改善を進めた。さらにフリッツは、賠償金の支払いに苦しんでいたドイツの国家財政を改善するために、海水から金を回収する計画を始めた。フリッツは、賠償金の支払いとその後の復興資金を得るためには50,000トンの金が必要と見積もった。そしてこの金を取りだすために、1920年、M研究室と名付けた極秘の研究室を作り、世界中の海から海水を採取し調査を行った。しかし実験の結果、海水に含まれる金の量は、当時推定されていた値よりはるかに少なく、採算が取れないことが明らかになった。そのためこの計画は1926年に中止された。一方で、1924年に西回りの世界一周の旅に出て、星一の招待により、日本にも2か月滞在している。函館で叔父ルートヴィヒ(LudwigHaber)の遭難50周年追悼行事に参加した。また、妻のシャルロッテとは性格が合わず、1929年に離婚した。シャルロッテとの間には、子供2人(エヴァ・シャルロッテ、ルートヴィヒ・フリッツ)を残している。", "qas": [ { "question": "フリッツが賠償金の支払いに苦しんでいたドイツの国家財政を改善するために出した計画が中止されたのは、何年?", "id": "tr-480-06-000", "answers": [ { "text": "1926年", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリッツがドイツの国家財政を改善する計画を実行するために作った極秘の研究室は、何と呼ばれましたか?", "id": "tr-480-06-001", "answers": [ { "text": "M研究室", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海水から金を回収するというフリッツの計画が中止されたことと、フリッツが西回りの世界一周の旅に出たことのうち、その時期がより遅い出来事とは何年にあった出来事なのか?", "id": "tr-480-06-002", "answers": [ { "text": "1926年", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "愛国的科学者として名声の絶頂にあったフリッツだが、1933年にその生涯は暗転した。ナチスが政権をとると、ユダヤ人の多かったカイザー・ヴィルヘルム協会への圧力が強まった。フリッツは、第一次大戦の従軍経験が考慮されたために自らが解雇されることはなかったが、研究員におけるユダヤ人の割合を減らすよう求められた。しかしフリッツは、この要求は受け入れなかった。1933年4月、フリッツは、研究員を採用するにあたって今まで自分はずっと人種を基準にしたことはなかったし、その考えを65歳になった今になって変えることはできない、さらに、「あなたは、祖国ドイツに今日まで全生涯を捧げてきたという自負が、この辞職願を書かせているのだということを理解するだろう」と記した辞職願をプロイセン州教育大臣に提出した。フリッツは9月までベルリンに留まり、他のユダヤ人研究者の転職先を探すなどの活動を続けた。その間、自らの職も求めたが、フリッツはすでに高齢で健康状態が悪化しており、しかも毒ガス開発にかかわったことによって印象を悪くしていたせいもあって、思うような仕事を見つけることは出来なかった。10月にはドイツを離れ、息子ヘルマンのいるパリや、スイスなどで生活した。その後ウィリアム・ポープからケンブリッジ大学への誘いを受けて一旦イギリスに渡った。ケンブリッジでは触媒を使用した過酸化水素の分解の研究に携わった。しかしイギリスでは毒ガスの件で風当たりが強く、たとえばアーネスト・ラザフォードにはこの理由により会うことを拒まれた。さらにイギリスの気候もフリッツには合わなかった。フリッツはスイスにいた時に、シオニズム運動家のハイム・ヴァイツマンと出会っており、ヴァイツマンからパレスチナへ来るよう誘いを受けていた。そのため1934年1月、パレスチナへ向かおうとして、いったんスイスのバーゼルへと移った。しかしその移動中に体調を崩し、1月29日、バーゼルのホテルで睡眠中に冠状動脈硬化症により死去した。", "qas": [ { "question": "フリッツが死んだのは、何年か?", "id": "tr-480-07-000", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 746, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリッツはどの国で死んだの?", "id": "tr-480-07-001", "answers": [ { "text": "スイス", "answer_start": 772, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリッツがイギリスに行ったのは、誰から誘われたからか?", "id": "tr-480-07-002", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ポープ", "answer_start": 522, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "愛国的科学者として名声の絶頂にあったフリッツが、職から離れるようになるなど、生涯が暗転したのは、どの政党が政権を取ってからか?", "id": "tr-480-07-003", "answers": [ { "text": "ナチス", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ユダヤ人であるフリッツの死は、ドイツの新聞などではほとんど取り上げられることはなかった。また、フリッツへの追悼のコメントをした科学者も、マックス・フォン・ラウエなどのごく少数に限られた。しかし死の1年後にあたる1935年1月、マックス・プランクの提唱により、フリッツの追悼式が行われた。開催にあたってはナチスから、公務員の出席禁止命令を出されるなどの妨害を受けた。しかし式には、カール・ボッシュ、オットー・ハーン、さらには第一次大戦の戦友など、多くの関係者が訪れた。禁止命令のため来ることができなかった科学者は妻を代理で出席させた。そして満席となった会場で、フリッツの死を悼んだ。フリッツはケンブリッジにいた頃、自分の遺灰はクララと一緒に埋めてほしい、そして墓碑銘には「彼は戦時中も平和時も、許される限り祖国に尽くした」とだけ記してほしいと遺言書に記していた。そのため現在フリッツの遺体は、妻のクララとともにバーゼルのヘルンリ墓地に埋葬されている。", "qas": [ { "question": "フリッツの追悼式が行われたのは、誰のおかげか?", "id": "tr-480-08-000", "answers": [ { "text": "マックス・プランク", "answer_start": 113, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリッツがバーゼルのヘルンリ墓地に埋葬されたのは、遺言書に誰と一緒に埋めてほしいとの旨が記されていたからですか?", "id": "tr-480-08-001", "answers": [ { "text": "クララ", "answer_start": 312, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フリッツが取り組んだのは、空気中の窒素分子N2からアンモニアを生成しようという試みだった。そのためにはいったん窒素分子を2個の窒素原子に分離しなければならないが、この窒素原子同士の結びつきは三重結合のため非常に強い。そのため分離させるには1000°Cもの高温にしなければならないが、温度を高くすると生成されたアンモニアが壊れてしまうことになる。フリッツは熱を加えてアンモニアを生成してから素早く冷やすという方法で少量のアンモニアを生成したが、それは商業的な生産を見込めるほどの量ではなかった。1905年、フリッツはこれまでの研究結果を論文として発表した。しかしこの結果はネルンストの批判を受けた。ネルンストの理論によれば、この方法によって得られるアンモニアの量はフリッツの結果より少なくなるはずだと主張し、実際に助手に実験をさせて自分の理論が正しいことを確かめた。こうして、フリッツはネルンストと対立した。ネルンストは1907年に開かれたブンゼン協会の会合でこの結果を発表し、フリッツの結果は誤りであり、「次はハーバー教授がほんとうに正確な値を出せる実験方法を採用するよう提言いたします」と述べた。フリッツはネルンストの発表に屈辱と憤りをおぼえ、この会合の後、アンモニア合成にさらに熱心に取り組むようになった。そして装置に精通したル・ロシニョールと共に研究を続け、圧力を加えることで温度を下げることができ、その結果、より多くのアンモニアが作れることを発見した。1908年にはアンモニア合成に関してBASF社と契約を結んだ。そして、BASFからの援助を元に研究を続けた。フリッツは圧力の他に、反応の際の触媒を変えることでアンモニアの生産効率を上げられるかを実験し、結果、オスミウムを使うことで生産量が飛躍的に向上することを明らかにした。フリッツはこれらの研究内容をBASFに提供した。BASFではボッシュを中心にその研究を進め、オスミウムの代わりに鉄を主原料とした触媒を使用することで商業生産を成功させた。", "qas": [ { "question": "フリッツがアンモニア合成の研究結果に対する論文を発表したのは、何年?", "id": "tr-480-09-000", "answers": [ { "text": "1905年", "answer_start": 246, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリッツの1905年の研究結果発表を批判した人が、自分の研究結果を発表しながらフリッツの発表には誤りがあると述べたのは、どの協会の会合でか?", "id": "tr-480-09-001", "answers": [ { "text": "ブンゼン協会", "answer_start": 419, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリッツがアンモニア合成に関してBASF社と契約を結んだのは、何年ですか?", "id": "tr-480-09-002", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 630, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブンゼン協会の会合の後、フリッツとともにアンモニア合成に関する研究を行ったのは、誰か?", "id": "tr-480-09-003", "answers": [ { "text": "ル・ロシニョール", "answer_start": 565, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "窒素は植物の生育に必要不可欠な栄養素であるが、19世紀末のヨーロッパではこれを南米から輸入されたチリ硝石などでまかなっていた。しかし、ウィリアム・クルックスは1898年、このままの状態が続くと南米の資源は枯渇し、農作物が収穫できず、世界は食糧不足へと陥るだろうと警告し、化学的に固定窒素を合成させることの必要性を説いた。ハーバー・ボッシュ法はこの問題を解決できる方法であり、これによって人類はクルックスの予言した食糧危機を乗り切ることができた。現在においても肥料を目的としたアンモニアの生成はハーバー・ボッシュ法によって行われており、世界中の食糧生産を支えている。またアンモニアは化学肥料だけでなく、火薬の原料でもあった。そのためこれにより、ドイツはチリ硝石に依存せず、火薬と肥料を生産できるようになり、第一次大戦の折、英海軍の海洋封鎖にもかかわらずドイツは弾薬を製造可能であった。フリッツによる一連の実験結果は7つの論文として1914年から1915年にかけて専門誌に発表され、アンモニア合成を行うための重要な基礎データとなった。「空気からパンを作った」とも称されるこの業績により「アンモニア合成法の開発」として1918年にノーベル化学賞を受賞している。一方、工業化を実現させたボッシュも「高圧化学的方法の開発と発明」として1931年にノーベル化学賞を受賞した。ハーバー・ボッシュ法によって化学肥料の形で地面に撒かれた窒素のうち、農作物が吸収しきれなかった分は、雨水によって川や海へと流れ込み、また空気中にも飛散する。水中で窒素は硝酸塩の形をとるが、過剰な硝酸塩濃度の増加は藻や海藻の繁殖を異常に促す。結果として日光が遮られ、さらに動植物の死骸により水中の酸素濃度が低下する。このような硝酸塩濃度の増加と水質の悪化は、バルト海やメキシコ湾をはじめ、世界中で確認されている。また、工業的窒素固定により生産されるアンモニアや窒素酸化物が相当な量になることは確かであるものの、それが直接放出してあるいは微生物等により化学変化して間接的に環境へ与える悪影響についてはよくわかっていない。", "qas": [ { "question": "19世紀末のヨーロッパで窒素を南米から輸入されたチリ硝石などでまかなっていたことを指摘し、食糧不足に陥る可能性を取り上げたのは、誰ですか?", "id": "tr-480-10-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・クルックス", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1918年にノーベル化学賞を受賞したのは、誰か?", "id": "tr-480-10-001", "answers": [ { "text": "フリッツ", "answer_start": 391, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ボッシュとフリッツのうち、より早くノーベル化学賞を受賞したのは、誰か?", "id": "tr-480-10-002", "answers": [ { "text": "フリッツ", "answer_start": 391, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フリッツは先に挙げたハーバー・ボッシュ法のほかに、電気化学・気体反応の分野で優れた業績を残している。カールスルーエ時代に取り組んだ炭化水素の熱分解と接触における気体燃焼の研究は後のクラッキング作用を理解するのに役立てられた。1909年に発明したガラス電極は、2枚のガラスを薄く並列させ、その間の電位を測ることで溶液の酸性度を測定することを可能とした。さらに、電気化学的な方法を使って、蒸気機関や内燃機関のエネルギー損失を抑えるための研究にも取り組んだが、この問題に対しては有意義な結果は得られなかった。しかし一酸化炭素と水素を実験的に燃焼させることについての成果はあった。第一次大戦後の1919年にマックス・ボルンと共同で成した格子エンタルピー計算法の発見は、ボルン・ハーバーサイクルとして知られている。また、炭鉱労働者のためのガス警報装置や、低圧用の圧力計を製作した。そしてこれに伴う、吸着力が固体の不飽和原子価力に依存するという発見は、後のアーヴィング・ラングミュアによる吸着の研究へとつながった。その他、ニトロベンゼンの電解還元の経路を解明し、酸化と還元における電極電位の重要性を証明したことや、ファラデーの電気分解の法則が固体電解質にも有効であるということを示したこと、地下のガス管や水道本管の腐蝕の研究を行い、これらの調査と防止の基準となる方式を策定したこと、ブンゼン炎について、炎の内側と外側の燃焼の仕組みの違いを明らかにしたなどが挙げられる。また、鉄が触媒となってスーパーオキシド(超酸化物、O2-)と過酸化水素(H2O2)が反応してヒドロキシルラジカル(•OH)を生成するハーバー・ワイス反応にも名前を残している。一方、1919年にフリッツが液体殺虫剤として開発したツィクロンBは、その殺傷能力に着目され、1942年ごろよりアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などの強制収容所でのガス殺用途で使用された。", "qas": [ { "question": "マックス・ボルンが誰と共同で成した格子エンタルピー計算法の発見が、ボルン・ハーバーサイクルとして知られているの?", "id": "tr-480-11-000", "answers": [ { "text": "フリッツ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アーヴィング・ラングミュアが吸着の研究を行ったのは、誰の研究・開発から影響を受けましたか?", "id": "tr-480-11-001", "answers": [ { "text": "フリッツ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などの強制収容所でガス殺用途で使用されたものは、もともとどのような用途で開発されたものか?", "id": "tr-480-11-002", "answers": [ { "text": "液体殺虫剤", "answer_start": 729, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリッツがマックス・ボルンと共同で成した発見と同年に、フリッツが開発したのは何か?", "id": "tr-480-11-003", "answers": [ { "text": "ツィクロンB", "answer_start": 741, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フリッツは、どの分野においても、その重要なポイントを認識し、短期間で自分のものにする能力を持っていた。そのため、今まで自分が関わっていなかった研究分野でも、短期間で集中して学ぶことによって、その分野に精通することができた。しかしあまりに集中するあまり、他のことに気が回らなくなったり、我を忘れたような状態になることがあった。さらに神経症の症状が出ることもあり、そのため1年に1度くらいの頻度で、温泉やサナトリウムで数週間の休養をとっていた。話術にも長けており、講演の上手さには定評があった。また教育者としても評価が高く、ドイツ以外にもアメリカ、ロシア、ニュージーランド、日本などから、多くの研究員が集まった。フリッツは外国の研究員が祖国に帰る時にも、その国での研究ポストを融通するなど、親身に接した。一方で家庭はないがしろにしがちで、2度の結婚生活はどちらもうまくいかなかった。最初の妻のクララは結婚後も自分の化学研究を続けたいと思っていたが、フリッツはその願いをかなえることはしなかった。クララは社交的ではなかったが、フリッツはクララの都合を考えず、突然研究員を自宅に招きもてなすといった行動をとったりした。フリッツがアンモニア合成で成功した頃、クララは、フリッツが得たことと同じ、あるいはそれ以上のことを、私は失った、と手紙につづっている。フリッツの下で助手として研究に携わった化学者としては、カールスルーエ大学時代の助手を務め、ハフニウムを発見し、1943年にノーベル化学賞を受賞したゲオルク・ド・ヘヴェシー、ハーバー研究所でハーバー・ボッシュ法の開発に貢献したロバート・ル・ロシニョール(英語版)などがいる。また、フランク=ヘルツの実験を行い、1925年にノーベル物理学賞を受賞した物理学者のジェイムズ・フランクは、第一次世界大戦期間中、フリッツの下で毒ガス研究に従事している。その他、ドイツに留学した日本人化学者田丸節郎、小寺房次郎もハーバー研究所でアンモニア合成の研究に携わった。帰国後、田丸は理化学研究所、東京工業大学、学術振興会の創立に関わるなど、日本の学術研究体制の礎を築いた。小寺は1918年に創立された臨時窒素研究所の所長に就任し、日本で初めてアンモニア合成を指導した。", "qas": [ { "question": "ゲオルク・ド・ヘヴェシーとロバート・ル・ロシニョール、ジェイムズ・フランクのうち、ノーベル賞を受賞しなかったのは、誰なの?", "id": "tr-480-12-000", "answers": [ { "text": "ロバート・ル・ロシニョール", "answer_start": 684, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリッツの下でアンモニア合成の研究に携わった日本人のうち、日本で初めてアンモニア合成を指導した人は誰ですか?", "id": "tr-480-12-001", "answers": [ { "text": "小寺房次郎", "answer_start": 816, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゲオルク・ド・ヘヴェシーとジェイムズ・フランクのうち、より早くノーベル賞を受賞したのは、誰か?", "id": "tr-480-12-002", "answers": [ { "text": "ジェイムズ・フランク", "answer_start": 750, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ゲオルク・ド・ヘヴェシーとロバート・ル・ロシニョール、小寺房次郎のうち、ハーバー研究所でハーバー・ボッシュ法の開発に貢献した人ではないのは、誰か?", "id": "tr-480-12-003", "answers": [ { "text": "ゲオルク・ド・ヘヴェシー", "answer_start": 645, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "楽々園遊園地", "paragraphs": [ { "context": "楽々園遊園地(らくらくえんゆうえんち)は、かつて広島県佐伯郡五日市町海老塩浜にあった遊園地である。\n広島瓦斯電軌の電鉄部門の土地経営事業により開発された。\n名称は「電車で楽々行ける遊園地」というキャッチフレーズに由来し、一般公募で付けられた。\nまた、開園当初、中国地方の宝塚を目指していた。\n江戸時代当時、楽々園のあたりは海老塩浜と呼ばれ、塩田が盛んな地域であった。\nまた1897年(明治30年)頃から、夏場は多くの海水浴場が海老山周辺で営業していた。", "qas": [ { "question": "楽々園遊園地の名前の由来となったキャッチフレーズは何?", "id": "tr-481-00-000", "answers": [ { "text": "「電車で楽々行ける遊園地」", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "広島瓦斯電軌の電鉄部門の土地経営事業により開発された遊園地とは何を指しますか?", "id": "tr-481-00-001", "answers": [ { "text": "楽々園遊園地", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "楽々園遊園地があった場所は、昔何が盛んな地域でしたか?", "id": "tr-481-00-002", "answers": [ { "text": "塩田", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "楽々園遊園地が所在していたのはどこの県ですか?", "id": "tr-481-00-003", "answers": [ { "text": "広島県", "answer_start": 24, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)による宝塚新温泉などの開発の成功により、当時日本国内で全体的に行われていた鉄道会社による沿線娯楽施設の一つであった。\n広島瓦斯電軌の電鉄部門の土地経営事業の中心事業として、観光客誘致を目的とした大衆向け娯楽施設を計画した。\n1919年(大正8年)時点の計画書で、場所は未定ながら住宅・運動場・潮湯場・海水浴場の整備を事業計画内で謳っていた。\nしかし、当時の宮島線の沿線人口だけでは、十分な効果は期待できなかった。", "qas": [ { "question": "日本国内全体が取り組んでいた鉄道会社による沿線娯楽施設の成功例は何ですか?", "id": "tr-481-01-000", "answers": [ { "text": "宝塚新温泉", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宝塚新温泉を経営していた鉄道会社の現在の名称は何?", "id": "tr-481-01-001", "answers": [ { "text": "阪急電鉄", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1919年時点の計画書では、楽々園遊園地の開発地はどこに決まっていましたか?", "id": "tr-481-01-002", "answers": [ { "text": "未定", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "楽々園遊園地を計画した会社はどこですか?", "id": "tr-481-01-003", "answers": [ { "text": "広島瓦斯電軌", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1927年(昭和2年)頃より五日市町海老塩浜地区の農耕地に住宅地の造成を開始。\n1935年(昭和10年)に、埋め立てを開始。\n約5万坪(約165,289m2)を埋め立て、住宅地中央部の約1万坪(約33,058m2)を遊園地用地に、残りを住宅地にした。\n造成された住宅地は「塩浜住宅」と呼ばれた。\n埋め立てに使われた砂は、南側の海底の砂をサンドポンプで浚渫して使用。\n表面は同じ町内の城根山の土で覆った。", "qas": [ { "question": "埋め立て地に建てられた住宅地は何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-481-02-000", "answers": [ { "text": "「塩浜住宅」", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1936年(昭和11年)より住宅地の販売を開始した。\n宅地購入者への特典として、4年間宮島線および市内線で使える優待券を進呈し、その優待券で楽々園遊園地に入園出来るようにした。\n1936年(昭和11年)7月30日より海水浴場の営業を開始。\n同年9月8日に楽々園遊園地および温泉施設が開園した。\n開園当初は広島瓦斯電軌の直営事業だった。", "qas": [ { "question": "楽々園遊園地が開園した年はいつ?", "id": "tr-481-03-000", "answers": [ { "text": "1936年", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "楽々園遊園地と共に開園したものは何?", "id": "tr-481-03-001", "answers": [ { "text": "温泉施設", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "楽々園遊園地が開園する前に営業を開始した施設は何?", "id": "tr-481-03-002", "answers": [ { "text": "海水浴場", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宅地購入者の特典である優待券で遊びに行けた施設はどこですか?", "id": "tr-481-03-003", "answers": [ { "text": "楽々園遊園地", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "開園当初の園内には、遊戯場・売店・プール・休憩所を整備され、夏場には南側の砂浜で海水浴場が営業した。\n1938年(昭和13年)に撮影された動画には、ミニSL・ゴーカート・プール・猿山などが撮されている。\nまた、海水浴場はきめの細かい白い砂が印象的だったとする証言もある。\n開園日当日に温泉本館もオープンした。\n館内には、真湯・潮湯・薬湯・家族湯の温浴施設のほか、大食堂や演芸室なども整備された。", "qas": [ { "question": "真湯や薬湯はどこの建物内にありましたか?", "id": "tr-481-04-000", "answers": [ { "text": "温泉本館", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "猿山などがあったと証明できるのは、昭和何年の動画から分かりますか?", "id": "tr-481-04-001", "answers": [ { "text": "昭和13年", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "開園当初は、春は花見。\n夏は海水浴。\n秋は菊の展示会で賑わった。\nまたラジオ体操のイベントか開催され広島地区の新名所になった。\n開園効果は宮島線の乗客数にも影響を与え、1935年(昭和10年)の306万人から1936年(昭和11年)は329万人に増加した。\nその後も、海水浴シーズンを中心に来場者を集めた。\nまた、遊園地周辺にも影響を与え、楽々園駅と遊園地の間に旧・五日市町でも数少ない商店街が形成。\nまた、1897年(明治30年)頃より海老園周辺には海水浴場が整備されていたが、砂浜の減少や海水汚染なども重なり、楽々園遊園地に客を取られ衰退していった。", "qas": [ { "question": "開園当初、秋には何のイベントがありましたか?", "id": "tr-481-05-000", "answers": [ { "text": "菊の展示会", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "昭和10年と昭和11年の宮島線の乗客数を比較すると、何年の方がより多いですか?", "id": "tr-481-05-001", "answers": [ { "text": "昭和11年", "answer_start": 110, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "遊園地の開園によって利用者が増加したのは何線の乗客数ですか?", "id": "tr-481-05-002", "answers": [ { "text": "宮島線", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦中もしばらくは営業を継続。\n1942年(昭和17年)の広島ガス・広島電鉄の分離の時に、広島電鉄が引き継ぐことになった。\n1943年春頃に海軍および陸軍に関する展覧会を開催し、場内には小型並状旋回飛行塔が設置され、同年度上期の来場者数は26万人を数えた。\nしかし、戦況の悪化により園内の田園化も検討されるようになり、1944年12月に休園した。\n施設は陸軍船舶部に貸し出された。\nその後、物資の集積場として使われた。", "qas": [ { "question": "楽々園遊園地が戦争の影響で休園したのはいつのことですか?", "id": "tr-481-06-000", "answers": [ { "text": "1944年12月", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "休園した遊園地の施設は何に貸し出しされましたか?", "id": "tr-481-06-001", "answers": [ { "text": "陸軍船舶部", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "遊園地の1943年上半期の来場者数は何人でしたか?", "id": "tr-481-06-002", "answers": [ { "text": "26万人", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "昭和17年から遊園地の運営管理を引き継いだのはどこですか?", "id": "tr-481-06-003", "answers": [ { "text": "広島電鉄", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下に伴い、本社要員を楽々園遊園地にも避難させた。\n1945年(昭和20年)8月6日から1946年(昭和21年)8月30日まで広島電鉄の本社が置かれていた。\n1947年(昭和22年)7月1日から1951年(昭和26年)3月26日まで有限会社楽々園が委託して運営を行った。\nその後、一時期は本社の直営になった後、1957年(昭和32年)10月1日から広電観光に賃貸され、経営を移管。\n1960年(昭和35年)4月より広電観光から分離独立した、広電楽々園が運営していた。\nその間、旧・五日市町は周辺町村と合併し、1955年(昭和30年)4月1日に新・五日市町に移行した。\n戦時中および戦後まもなくは衰退していたが、昭和30年代(1955年から1965年)には、新規施設として観覧車やジェットコースター、ゴーカート、ウオーターシュート、プラネタリウムなどが整備され、夏にはプールが営業した。\n温浴施設は、戦後「楽々園スパー」と呼ばれるようになった。\nそれらの施策により、第二次世界大戦前に匹敵する程の賑わいを見せた。", "qas": [ { "question": "広島電鉄の次に運営管理を行ったのは何の会社ですか?", "id": "tr-481-07-000", "answers": [ { "text": "有限会社楽々園", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "有限会社楽々園と広電観光はどちらがより長い期間楽々園遊園地の運営管理に携わりましたか?", "id": "tr-481-07-001", "answers": [ { "text": "有限会社楽々園", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "広電観光の次に楽々園遊園地を運営した会社は何ですか?", "id": "tr-481-07-002", "answers": [ { "text": "広電楽々園", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "昭和20年8月6日、広島に投下されたものとは何ですか?", "id": "tr-481-07-003", "answers": [ { "text": "原子爆弾", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1957年(昭和32年)12月には、閑散期対策として、「楽々園スパー」と電車運賃を割り引く施策を実施した。\n好評だったため、1958年(昭和33年)4月に割引を通年化した。\n1960年(昭和35年)3月19日にオープンしたプラネタリウムは、中国地方初かつ大型の施設で、千代田光学精工製が設置した。\n国産一号機とされた。\nまたプラネタリウムの付属施設として、翌1961年(昭和36年)5月に、楽々園天文台が設置された。\n設置当時は広島県内最大の直径25cmの反射赤道儀が設置された。", "qas": [ { "question": "「楽々園スパー」と電車運賃を割り引く施策を実施した目的は何?", "id": "tr-481-08-000", "answers": [ { "text": "閑散期対策", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国産一号機のプラネタリウムを設置したのはどこの会社ですか?", "id": "tr-481-08-001", "answers": [ { "text": "千代田光学精工製", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "設置当初の楽々園天文台には、広島県内最大の直径をもつ何がありましたか?", "id": "tr-481-08-002", "answers": [ { "text": "反射赤道儀", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1964年(昭和39年)から秋の催し物に加え、春の催し物も始まり人気を集めた。\n秋の催し物も長年「菊人形展」がよく行われていたが、マンネリ打破のため、前年の1963年(昭和38年)には「菊の忍者展」として、忍者を菊人形で作成した。\n伊賀の忍者館より歴史的資料を借りて展示し、「菊の忍者展」は大盛況だった。\n来場者数も増加し、年間60万人を突破した年もあった。\n1964年(昭和39年)、埋め立ての進行により海水浴場は閉鎖。\nその代替施設として、同年に閉園後もしばらく営業する「パラダイスプール」が開園した。\n新しいプールは、鬼ヶ島一帯を整備。\n総水面面積が約1,000坪(約3,306m2)の、大小3つのプールを整備した。\nプール内にはクジラの形をした滑り台が設置された。\n同年より開始した「臨海土地造成」で、元々海水浴場があった場所が埋め立て、造成された。", "qas": [ { "question": "「菊人形展」に替わって開催された秋のイベントは何ですか?", "id": "tr-481-09-000", "answers": [ { "text": "「菊の忍者展」", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「菊の忍者展」が始まったのは昭和何年ですか?", "id": "tr-481-09-001", "answers": [ { "text": "1963年", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "海水浴場の替わりに営業を開始した施設は何ですか?", "id": "tr-481-09-002", "answers": [ { "text": "「パラダイスプール」", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「パラダイスプール」の総水面面積は何坪ですか?", "id": "tr-481-09-003", "answers": [ { "text": "約1,000坪", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1966年(昭和41年)には、楽々園駅舎内に、喫茶店「楽々園パーラー」が営業を開始。\n1969年(昭和44年)に、増改築の上で、お好み焼き・寿司・焼肉を扱う「レストラン楽々園」にリニューアルし、遊園地閉園後もしばらく営業を続けた。\n1969年(昭和44年)11月からは「パラダイスプール」に、開業当時日本一のテント式屋根方式のスケートリンクを設営し、「楽々園スケートリンク」として営業した。\n翌シーズンも営業した。\nその他オフシーズンには、ローラースケート場やアーチェリー場として営業していた時期もあった。\nしかし、夏場および休日以外の来場者は少なく経営に支障を与え、1962年(昭和37年)以降来客数は減少した。\n1970年(昭和45年)の秋頃から冬頃にかけて開店休業状態に陥り休園となった。\n1971年(昭和46年)8月31日に閉鎖された。\n閉園までに約1200万人の入場者が訪れた。", "qas": [ { "question": "楽々園遊園地の来客数が減少傾向に入り始めたのは何年以降ですか?", "id": "tr-481-10-000", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 284, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "閉鎖する9年前に楽々園遊園地が陥っていた状態とは何?", "id": "tr-481-10-001", "answers": [ { "text": "開店休業状態", "answer_start": 331, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「パラダイスプール」の開業当時に設営していたスケートリンクの名前は何?", "id": "tr-481-10-002", "answers": [ { "text": "「楽々園スケートリンク」", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "遊園地営業終了後の1971年(昭和46年)12月に、新しい住居表示が導入され、地名も「楽々園」になった。\nまた遊園地を運営していた広電楽々園も事業を継続し、楽々園駅の「レストラン楽々園」、および「パラダイスプール」が継続営業した。\n「パラダイスプール」は1972年(昭和47年)7月に幼児用プールを新設するなど改装した。\nプールの晩年は、レジャーの多様化による客の伸び悩みと、オフシーズンの敷地の有効活用が困難だったことで、商業施設への集客効果を期待しての営業だった。\n新規施設も整備され、1972年(昭和47年)4月29日に飲食店「和食レストラン楽良久」、1972年(昭和47年)5月10日にはボウリング場「広電楽々園ボウル」が新たに開場された。\nその他、ビリアード場が整備された。", "qas": [ { "question": "遊園地営業終了後も引き続き事業を行っていた会社はどこですか?", "id": "tr-481-11-000", "answers": [ { "text": "広電楽々園", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「広電楽々園ボウル」と「和食レストラン楽良久」のうち、より早くオープンしたのはどちら?", "id": "tr-481-11-001", "answers": [ { "text": "「和食レストラン楽良久」", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1973年(昭和48年)にはRCC興発により、日本初登場となるパターゴルフ場「楽々園パットパットゴルフ」が開園し、人気施設になった。\nまた、「ひろでん楽々園ショッピングタウン」の屋上には観覧車などがある、ミニ遊園地が整備されていた。\n1991年(平成3年)12月31日の広電ストア合併まで、会社としての広電楽々園は継続。\n「和食レストラン楽良久」および「楽々園パットパットゴルフ」については、広電ストア移行後もしばらくは営業を継続し、「楽々園パットパットゴルフ」は1998年(平成10年)3月の廃止まで営業した。\n楽々園のプラネタリウムの館長だった人物は、1980年(昭和55年)の広島市こども文化科学館開館時に転籍し、プラネタリウムの担当になっている。", "qas": [ { "question": "日本で最初のパターゴルフ場の正式名称は何ですか?", "id": "tr-481-12-000", "answers": [ { "text": "「楽々園パットパットゴルフ」", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "楽々園のプラネタリウムの館長だった人物が転籍した施設はどこですか?", "id": "tr-481-12-001", "answers": [ { "text": "広島市こども文化科学館", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "閉園後一部取り壊され、跡地には2018年(平成30年)まで存在した、広島電鉄子会社の広電ストアにより、総工費3億5000万円を掛け、1972年(昭和47年)3月23日に、ショッピングセンター「ひろでん楽々園ショッピングタウン」が開店した。\n食料品・衣料品売場は直営で、28店舗の専門店が入店。\n200台収容できる駐車場が整備された。", "qas": [ { "question": "遊園地の跡地に立地した施設の呼称は何ですか?", "id": "tr-481-13-000", "answers": [ { "text": "「ひろでん楽々園ショッピングタウン」", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1974年(昭和49年)6月30日にはボウリング場跡を整備して、別館がオープン。\n食料品売場を別館に移し、元々あった建物は、衣料品を充実。\n家電品も扱うようになった。\nその登記・改装については大規模小売店舗法の発効直前に行われた。\n面積拡大の背景として、いづみの出店決定およびジャスコ・ダイエーの進出の噂があり、地域一番店の立場を維持するために行われた。", "qas": [ { "question": "別館をオープンさせて店の面積を拡大した理由とは何ですか?", "id": "tr-481-14-000", "answers": [ { "text": "地域一番店の立場を維持するため", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1997年(平成9年)頃より、商圏競争の激化に伴う競争力向上を目的に増床を計画し、計画当初は、4階建ての新館を建設する予定だったが、1999年(平成11年)7月より新食品館の建設をスタート。\n同年10月に「マダムジョイ」として開店した。\n旧本館は専門店街「ナイスディ」としてリニューアルした。\n旧食品館も改装して、同年12月にホームセンター「ディック」(現・DCMダイキ)がオープンした。\nそれらの改装と同時に、複合商業施設「ファミリータウン広電楽々園」に改称。\n最終的には平屋建ての新館が建設され、楽々園のリニューアルから広電ストアは食品スーパーに特化していくことになった。", "qas": [ { "question": "1999年7月から建設を開始した新食品館の名前は何ですか?", "id": "tr-481-15-000", "answers": [ { "text": "「マダムジョイ」", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "イギリス領インド帝国", "paragraphs": [ { "context": "イギリス領インド帝国(イギリスりょうインドていこく)は、1858年にイギリスがインドに成立させたインド帝国(英語:IndianEmpire)を指す。1877年以降はイギリスの君主がインド皇帝を兼ねる同君連合の形式が取られたが、事実上イギリスの植民地であった。英領インド・英印とも呼ばれる。またイギリスによる統治を指してヒンディー語で「ब्रिटिशराज」(英語ではBritishRaj)と呼ぶ。その領域はインド・パキスタン(後のバングラデシュを含む)のみならず、現在のミャンマーも版図とした。", "qas": [ { "question": "1858年にイギリスにより成立されたインド帝国のことを、何と呼ぶの?", "id": "tr-482-00-000", "answers": [ { "text": "イギリス領インド帝国", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスにより新たなインド帝国が成立されたとのことは、インドがイギリスの何となったことを意味しますか?", "id": "tr-482-00-001", "answers": [ { "text": "植民地", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アジアにおいてイギリスは、1796年には現スリランカを併合、1814年から1816年のグルカ戦争によってネパールを保護国にした。また、1824年からビルマを3次におよぶイギリス・ビルマ戦争によって1886年からイギリス領ビルマとし、1937年までは現在のミャンマーの版図もその領土としていた。カナダやオーストラリアといったイギリス帝国内の自治領とは異なり、帝国の常に一つの独自な構成部分として定義されている。第一次世界大戦および第二次世界大戦には連合国として参戦し、国際連盟、国際連合ともに原加盟国である。", "qas": [ { "question": "現スリランカとネパールのうち、イギリスがより早く勢力下に置いたのは、どちらなの?", "id": "tr-482-01-000", "answers": [ { "text": "現スリランカ", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "現スリランカとネパール、ビルマのうち、イギリスが最も早く勢力下に置いたのは、どちらですか?", "id": "tr-482-01-001", "answers": [ { "text": "現スリランカ", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グルカ戦争により、イギリスが手に入れたのは、どの国か?", "id": "tr-482-01-002", "answers": [ { "text": "ネパール", "answer_start": 52, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス・ビルマ戦争は何年に終わったのか?", "id": "tr-482-01-003", "answers": [ { "text": "1886年", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "そして1858年、インド大反乱(シパーヒーの乱)の後、イギリスはムガル帝国の君主を廃し、イギリス東インド会社を解散させ、インドをイギリスの直轄植民地とした。そのうえで、本国イギリスにはインド省が、現地には「副王(英語:viceroy)」の称号を持つイギリス人総督が置かれ、1877年にはイギリス国王(当時はヴィクトリア女王)がインド皇帝を兼任するようになった。\n国内は直轄州と大小552の藩王国にわかれており、軍隊(英印軍)も存在した。\n1923年、イギリスはネパールとの友好条約でその地位を保護国ではなく独立国として認めた。大戦後、1947年にインドとパキスタンが分離独立し、解体した。", "qas": [ { "question": "インドが完全にイギリスの属国となったのは、何年か?", "id": "tr-482-02-000", "answers": [ { "text": "1877年", "answer_start": 136, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ネパールがイギリスから独立国として認められたのは、何年か?", "id": "tr-482-02-001", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 219, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インド大反乱を鎮圧したイギリス政府は、1858年8月2日、インド統治改善法を可決した。インド統治改善法により、イギリス東インド会社が保有していた全ての権限はイギリス国王に委譲されることとなった。また、イギリス本国ではインド担当国務大臣のポストが新設され、その補佐機関として、インド参事会が設けられた。また、かつてのベンガル総督がインド総督となり、肩書きに「副王」の称号が付与された。11月1日、チャールズ・キャニング(就任期間:1858年11月1日-1862年3月21日)が初代の「副王」に就任した。", "qas": [ { "question": "インド統治改善法を可決したのは、どの国の政府なの?", "id": "tr-482-03-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インド統治改善法により、イギリス東インド会社が持っていたあらゆるあらゆる権限は、誰に委譲されましたか?", "id": "tr-482-03-001", "answers": [ { "text": "イギリス国王", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インド総督には、何の称号が与えられたか?", "id": "tr-482-03-002", "answers": [ { "text": "副王", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "初代のインド総督は、誰か?", "id": "tr-482-03-003", "answers": [ { "text": "チャールズ・キャニング", "answer_start": 197, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "キャニング卿によるインド統治の方法は、推定されうる反乱の要因を摘み取るものであったため、インド大反乱の要因となった「養子縁組の否定」を否定した。その結果、インドは、藩王の地位は保証されることとなり、インドの人口の約3分の1が約500人の藩王による間接統治に置かれることとなった。このことは、過去の封建体制の有力者をイギリス統治の防波堤として重視しつつ、議会主義の理念や自由主義的政治理念をもって、インドを統治するという、矛盾を孕んだものであった。しかし、このことにより、キャニングは、インド統治の確立に成功した。", "qas": [ { "question": "キャニングのインド統治方法に矛盾があるのは、封建体制を認めつつも、議会主義の理念と何の理念をインド統治の基としたことであるか?", "id": "tr-482-04-000", "answers": [ { "text": "自由主義的政治理念", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インドの封建体制を代表する地位のことで、キャニングから地位が保証され、インド統治に積極的に用いられたのは、何か?", "id": "tr-482-04-001", "answers": [ { "text": "藩王", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第2代副王であるエルギン伯爵ジェイムズ・ブルース(就任期間:1862年3月21日-1863年11月20日)がインドで客死したため、シク戦争などインドでの経験が豊富であったサー・ジョン・ローレンス準男爵(就任期間:1864年1月12日-1869年1月12日。退任後初代ローレンス男爵)が急遽、イギリス本国からインドに赴任することとなり、第3代副王となった。ローレンスは、内政面では、インド人への教育機会の拡大を図った。とはいえ、ローレンスはインド人を高等公務員に就任することに関しては制限を続けた。一方、外交面では、アフガニスタンやペルシャ湾岸地域への介入を回避しながらも、ブータン戦争を実施し、勝利した。経済面では、オリッサやラージプーターナーで飢饉が発生した(それぞれはオリッサ飢饉(1866年)、ラージプーターナー飢饉(1869年)を参照)。", "qas": [ { "question": "ジェイムズ・ブルースとジョン・ローレンスのうち、より早く副王に任命されたのは、誰?", "id": "tr-482-05-000", "answers": [ { "text": "ジェイムズ・ブルース", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インド人への教育機会の拡大を図りつつも、インド人の高等公務員への就任に関しては制限を続けたのは、第何代副王ですか?", "id": "tr-482-05-001", "answers": [ { "text": "第3代副王", "answer_start": 167, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブータン戦争を実施したのは、第何代副王か?", "id": "tr-482-05-002", "answers": [ { "text": "第3代副王", "answer_start": 167, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オリッサとラージプーターナーのうち、飢饉が発生した時期がより早いのは、どちらの地域か?", "id": "tr-482-05-003", "answers": [ { "text": "オリッサ", "answer_start": 308, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1877年、第5代副王ロバート・ブルワー=リットン(初代リットン伯爵)(就任期間1876年4月12日-1880年6月8日)が、ムガル帝国の古都デリーで「帝国会議」(デリー・ダルバール)を主催し、ヴィクトリアのインド女帝即位が発表された。この会議の目的は、藩王、地方豪族、都市の有力者を体制内に取り込むことであった。リットン卿の時代には、アフガニスタンとの最終的な衝突が展開され、また、インド国内では、525万人が餓死するインド大飢饉が発生するなど、インド国内の経済は混乱した時代でもあった。", "qas": [ { "question": "ヴィクトリアのインド女帝即位が発表されたのは、何年のこと?", "id": "tr-482-06-000", "answers": [ { "text": "1877年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "藩王、地方豪族、都市の有力者を体制内に取り込むことを主目的として開かれた会議は、何ですか?", "id": "tr-482-06-001", "answers": [ { "text": "「帝国会議」", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インド国内で525万人が餓死するインド大飢饉が発生したのは、第何代副王の時代なの?", "id": "tr-482-06-002", "answers": [ { "text": "第5代副王", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第5代副王の時代には、どの国との最終的な衝突が展開されましたか?", "id": "tr-482-06-003", "answers": [ { "text": "アフガニスタン", "answer_start": 168, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "リットン卿によるアフガニスタン侵攻は、イギリス本国において、政変へと発展した。当時イギリス本国で首班を務めていたディズレーリが総選挙で敗北し、第2次グラッドストン内閣が発足すると、ジョージ・ロビンソン(初代リポン侯爵)が第6代副王に就任した。リポン卿は、インドで西洋式教育を受けた階層から大きな支持を受けた。リットン卿が1878年に制定した出版物規制のための法律である「土着言語出版法」を廃止し、1882年には部分的にではあるが、選挙で選出された議員から構成される自治制度の大枠を作成した。しかし、リポン卿は、自らの統治の後半、「イルバート法案」を廃案にしたことで、インド人の反感を買う結果を招いた。この法案は、イギリス管区の首都ではインド人判事がヨーロッパ人を裁くことができるが、他の地方ではそれができない状態を改善するための法案であったが、インド在住のヨーロッパ人の反対の世論に屈服し、廃案になった。", "qas": [ { "question": "ジョージ・ロビンソンが第6代副王に就任したのは、誰がイギリスの首班になってからですか?", "id": "tr-482-07-000", "answers": [ { "text": "グラッドストン", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "どこへの侵攻が、イギリスにおける政権交代のきっかけとなるとともに、副王の交代に繋がったの?", "id": "tr-482-07-001", "answers": [ { "text": "アフガニスタン", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「土着言語出版法」が制定されたのは、何年か?", "id": "tr-482-07-002", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 160, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第7代副王として、初代ダファリン伯爵フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド(就任期間:1884年12月13日-1888年12月10日)が就任した。第三次イギリス・ビルマ戦争が1885年に始まったが、翌年、この戦争はイギリスの勝利に終わり、ビルマの植民地化が完成した。ダファリン時代の1885年に、今後のインドの政治を主導するインド国民会議が結成された。リポン時代にイルバート法案が廃案されていたこと、「富の流出」が進んでいたこと、当時のインド人が高級官僚に昇進することが困難であったことが、結成の要因として挙げられる。とはいえ、インド国民会議に参加したのは、ヒンドゥーがほとんどであり、イスラーム教徒の参加はほとんどなかった。また、穏健的な政治活動で出発した国民会議は、バール・ガンガーダル・ティラクが参加したことにより急進化する。1893年には、ヒンドゥーとムスリムの間では、西インド、連合州、ビハール州、ビルマのラングーンと広範囲にわたる暴動が発生し、100人以上が死亡する事態となった。牛を神聖視するヒンドゥーは、牛の保護を求めて行動し、肉屋のほとんどがムスリムであったために、この問題を契機に自らのそのほかの権利も剥奪することを恐れたことが暴動の原因であった。19世紀最後の10年間は、1896年と1899年の大飢饉、1890年代のペストの大流行とイギリス側に失政が目立った時代であった。", "qas": [ { "question": "インド国民会議が結成されたのは、何年のこと?", "id": "tr-482-08-000", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒンドゥーとイスラーム教のうち、どの宗教の教徒がインド国民会議により多く参加しましたか?", "id": "tr-482-08-001", "answers": [ { "text": "ヒンドゥー", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1899年、カーゾン卿(就任期間:1899年1月6日-1905年11月18日)が第11代副王として就任した。カーゾン卿は外交面では、1903年にチベットに初めて外交使節を派遣した。また、アフガニスタンとの国境線で常に不安定であった北西部において、「北西辺境州」を設置することで、治安の回復を図った。内政面においては、肥大化した官僚制度の整理、商工省の新設、インド考古学研究所の設立を実施した。", "qas": [ { "question": "カーゾンがチベットに初めて外交使節を派遣したのは、何年か?", "id": "tr-482-09-000", "answers": [ { "text": "1903年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チベットに初めて外交使節が派遣されたのは、第何代副王の時代か?", "id": "tr-482-09-001", "answers": [ { "text": "第11代副王", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "肥大化した官僚制度の整理、商工省の新設、インド考古学研究所の設立が実施されたのは、第何代副王の時代か?", "id": "tr-482-09-002", "answers": [ { "text": "第11代副王", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北西部における治安の回復のために設置されたのは、何か?", "id": "tr-482-09-003", "answers": [ { "text": "「北西辺境州」", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし、カーゾン卿の統治政策の本性は、1904年のインド大学法と1905年のベンガル分割令によって、明らかとなった。インド大学法において、官吏の統制が強化され、インドにおける高等教育の発展が阻害された。ベンガル分割令において、ベンガルを二分し、ベンガル東部とアッサム地方でもって東ベンガル州を新設し、ベンガル西部とオリッサ州、ビハール州とを合わせて西ベンガル州を新設することで、それぞれの州の多数派をムスリムとヒンドゥーにしてしまうことで、ベンガルで盛り上がっていた反英運動を分断することにあった。ベンガル分割令は、1911年に撤回されるが、それは分割したベンガル州を再統一し、ベンガル、オリッサ、ビハール、アッサム各州に自治権を与えるという、いわば、ベンガル人に対して妥協がなされる形となった。", "qas": [ { "question": "インド大学法とベンガル分割令のうち、より早く出されたのは、どちらなの?", "id": "tr-482-10-000", "answers": [ { "text": "インド大学法", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "インド大学法とベンガル分割令のうち、反英運動の分断を図って出されたものは、どちらですか?", "id": "tr-482-10-001", "answers": [ { "text": "ベンガル分割令", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アッサム地方と、オリッサ州、ビハール州のうち、西ベンガル州に属していないのは、どちらか?", "id": "tr-482-10-002", "answers": [ { "text": "アッサム地方", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "反英運動の分断の狙いで制定され、1911年に撤回された法令とは、何年に出された法令であるか?", "id": "tr-482-10-003", "answers": [ { "text": "1905年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1905年、カーゾンが辞任し、第12代副王として第4代ミントー伯爵ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド(就任期間:1905年11月18日-1910年11月23日)が就任した。ミントー卿は各地で起こっていた反英運動を徹底的に弾圧した。1906年、ジョン・モーリーインド担当国務大臣が尊敬する、国民会議「穏健派」のゴーパール・クリシュナ・ゴーカレーが議長に就任するが、ティラクを中心とする「急進派」が過激活動を展開した。ティラクは1907年逮捕され、6年の懲役を受け、マンダレーへ流されることで、国民会議は穏健派が支配することとなったが、国民会議は分裂により、急速に求心力を失う結果となった。", "qas": [ { "question": "第12代副王には、誰が任命されたの?", "id": "tr-482-11-000", "answers": [ { "text": "ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "誰が逮捕されることにより、国民会議は穏健派が支配することとなりましたか?", "id": "tr-482-11-001", "answers": [ { "text": "ティラク", "answer_start": 214, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1906年に国民会議の議長に就任したのは、誰か?", "id": "tr-482-11-002", "answers": [ { "text": "ゴーパール・クリシュナ・ゴーカレー", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "また、ミントー卿は、ヒンドゥーとムスリムの分断を図った。教育を受けたムスリムの一部、有力なムスリムの太守、地主の間で共有されていた分離主義・親英的な人々を後押しする形で、1906年、全インド・ムスリム連盟が結成された。全インド・ムスリム連盟は、ベンガル分割令を支持し、国民会議のあらゆる主張全てに反対した。", "qas": [ { "question": "全インド・ムスリム連盟が結成されたのは、何年か?", "id": "tr-482-12-000", "answers": [ { "text": "1906年", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ハーディング卿(就任期間:1910年11月23日-1916年4月4日)が第13代副王として就任すると、その翌年、ジョージ5世とメアリー王妃がインドを訪問し、デリーにおいて、戴冠式典が挙行された。イギリス国王がインド帝国時代にインドを訪問したのはこれが最初で最後であり、その式典で、カルカッタからデリーへの遷都が宣言された。ハーディング総督時代のインド政治を左右したのは当時の国際情勢であった。1911年から始まった伊土戦争とそれに続く2度のバルカン戦争により、オスマン帝国の宗教的権威が大きく揺らぐこととなった。ムスリム大衆の間には親トルコ的感情が生まれることとなり、後に、オスマン帝国が第一次世界大戦で敗れると、ヒラーファト運動へと発展することとなった。", "qas": [ { "question": "インド帝国時代にインドを訪問した最初で最後のイギリス国王は、誰?", "id": "tr-482-13-000", "answers": [ { "text": "ジョージ5世", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イギリス国王がインド帝国を訪問した最初で最後の事例は、誰が副王であった時代のことですか?", "id": "tr-482-13-001", "answers": [ { "text": "ハーディング", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "伊土戦争はいつから始まったか?", "id": "tr-482-13-002", "answers": [ { "text": "1911年", "answer_start": 196, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インドの首都がデリーとなったのは、誰によることか?", "id": "tr-482-13-003", "answers": [ { "text": "ジョージ5世", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1914年、第一次世界大戦が開戦すると、6月に釈放されていたティラクをはじめ、多くの民族主義指導者はイギリスへの支持を打ち出した。ティラクをはじめとする彼らの期待は、インドのイギリスによる支持は、終戦後、結果として、インドへの大幅な自治が認められるという期待に基づいていた。100万人以上のインド人が徴兵に応じ、フランス、中東で戦死した。大戦期、インド経済は極度のインフレーションと重税に直面することとなり、民族主義的な政治運動が展開される環境が整った。その結果、「自治連盟(HomeRuleLeagues)」によるインド政界の活性化、革命的な運動の展開が見られるようになった。前者の活動を指導したのは、1つは、ティラクを中心とする勢力であり、もう1つは、イギリス人女性アニー・ベサントであった。後者の革命的活動はベンガル、マハーラーシュトラから、全北インドに広がりを見せた。", "qas": [ { "question": "第一次世界大戦の時にイギリスへの支持を打ち出したのは、何主義の指導者たちなの?", "id": "tr-482-14-000", "answers": [ { "text": "民族主義", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「自治連盟」によるインド政界の活性化、革命的な運動の展開が見られるようになったのは、何年からですか?", "id": "tr-482-14-001", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「自治連盟」によるインド政界の活性化を指導したのは、ティラクを中心とする勢力のほかに、誰だったか?", "id": "tr-482-14-002", "answers": [ { "text": "アニー・ベサント", "answer_start": 335, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "インドにおける民族意識の高揚、かつての分裂が無意味であることを自覚したティラクは国民会議の再統合を促した。その結果、1916年のラクナウ大会では、国民会議の再統合の達成と全インド・ムスリム連盟との対立関係は解消された。国民会議と連盟の間では、ラクナウ協定が締結され、両者の協力関係が確認された。しかし、ラクナウ協定の意義は、分離選挙制度に基づく政治改革であったことから、インド政治に宗派主義が復活する可能性を残した。", "qas": [ { "question": "国民会議と全インド・ムスリム連盟の間で締結された協定は、何?", "id": "tr-482-15-000", "answers": [ { "text": "ラクナウ協定", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インド政治に宗派主義が復活する可能性を残したとされる協定は、国民会議とどの連盟の間で締結されましたか?", "id": "tr-482-15-001", "answers": [ { "text": "全インド・ムスリム連盟", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "早川のビランジュ", "paragraphs": [ { "context": "早川のビランジュとは神奈川県小田原市早川にあるバクチノキの大木である(ビランジュとはバクチノキの別名)。\n大正13年(1924年)12月9日に国の天然記念物に指定された。\nかながわ名木100選にも選出されている。", "qas": [ { "question": "早川のビランジュは何の100選にも選ばれていますか?", "id": "tr-483-00-000", "answers": [ { "text": "かながわ名木100選", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バクチノキの別名は何?", "id": "tr-483-00-001", "answers": [ { "text": "ビランジュ", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "早川のビランジュはどこにありますか?", "id": "tr-483-00-002", "answers": [ { "text": "神奈川県小田原市早川", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "樹高は約20メートル、枝張り東西17メートル、南北14メートル。\n急斜面に生育しており、南側(高地側)は北側(低地側)より1メートルほど高く、土に覆われているため、周辺長は正確に測れないが、南側の地際を基準とすると根本周囲は6メートルになる。\n推定樹齢は、資料によって違いがあるがおおむね250年から350年と推定されている。", "qas": [ { "question": "枝張りの距離が長いのは東西と南北のどちらですか?", "id": "tr-483-01-000", "answers": [ { "text": "東西", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "推定樹齢は何年ですか?", "id": "tr-483-01-001", "answers": [ { "text": "250年から350年", "answer_start": 144, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南側と北側はどちらが高いですか?", "id": "tr-483-01-002", "answers": [ { "text": "南側", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "樹の高さはどれくらいですか?", "id": "tr-483-01-003", "answers": [ { "text": "約20メートル", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "バクチノキの樹皮は灰褐色で剥がれやすく、剥がれた跡が赤褐色または紅黄色になる。\nこれを博打に負けて丸裸にされた状態に例えてバクチノキと呼ばれる。\n本樹の幹には縦に筋状に模様が入り、くぼみ部分はひときわ鮮やかな赤褐色であり、ところどころ瘤状に隆起している。\n平成19年(2007年)の調査では、3ヶ所以上の大枝が欠損していた。\n同じ株から伸びている若い幹には灰褐色の樹皮も残っていて鹿の子模様になっている。\n根本は急斜面の岩場だが、枝には葉がよく茂り、前方に深く幕のように垂れ下がって、この巨木一本で森のように見える。\n本樹の赤褐色の幹は、その中に入らないと見えない。", "qas": [ { "question": "バクチノキの樹皮の色は?", "id": "tr-483-02-000", "answers": [ { "text": "灰褐色", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バクチノキのバクチとは何を指しているのか?", "id": "tr-483-02-001", "answers": [ { "text": "博打", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "3ヶ所以上の大枝が欠損していた事実が判明したのは西暦何年の調査でしたか?", "id": "tr-483-02-002", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1996年の台風で主幹の上部が裂けてしまったが、樹勢は今なお旺盛である。\n秋に白い花をつけ、翌年には緑色の果実になり、五月には黒紫色に熟す。\nこの樹の周辺の岩場にも幹周40センチメートルほどのバクチノキの若木があり、またこの樹の根本付近や下の畑にもバクチノキの苗木が芽を伸ばしている。\n本樹の南側根本にはベッコウタケが生えている。\nなお、本樹の生育している場所の小字名は「飛乱地(びらんち)」と呼ばれているが、この名は、本樹木に由来するとされる。\n後北条氏の時代にすでにこの地名が生じていたという話もある。", "qas": [ { "question": "主幹の上部が裂けてしまった原因とは何?", "id": "tr-483-03-000", "answers": [ { "text": "台風", "answer_start": 6, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "花を咲かせる季節はいつですか?", "id": "tr-483-03-001", "answers": [ { "text": "秋", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本樹木の果実が熟する時期はいつですか?", "id": "tr-483-03-002", "answers": [ { "text": "五月", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "豊臣秀吉が小田原攻めの際に築いた石垣山一夜城で有名な石垣山北麓の樹林の急斜面に、箱根ターンパイクの陸橋と向かい合わせの位置に立っている。\n現地は、箱根板橋駅から南方1キロメートルほど、早川駅からは北西1キロメートルほどの、ミカン畑を上り詰めた急斜面で、上からの切り立った岩場が終わっている、急な北向きの崖地である。", "qas": [ { "question": "石垣山一夜城を築いた人物は誰?", "id": "tr-483-04-000", "answers": [ { "text": "豊臣秀吉", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "石垣山一夜城は秀吉がどこを攻める時に築かれたの?", "id": "tr-483-04-001", "answers": [ { "text": "小田原", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "箱根板橋駅、早川駅の各駅から現地までの距離は何キロメートルですか?", "id": "tr-483-04-002", "answers": [ { "text": "1キロメートルほど", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本樹木が立っている山はどこですか?", "id": "tr-483-04-003", "answers": [ { "text": "石垣山", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本樹が生えている場所は、表土が薄く、安山岩がところどころに露出している、石や土が混じった30度から45度の急傾斜地であり、下側からでは幹に触れることも困難である。\n横の竹やぶを回って上側に上れば触れることが出来る。\nまた、現地は日照条件もやや不良である。\n水分条件のよい場所であり、周囲にはフウトウカズラ、ホソバカナワラビ、イノデ、キチジョウソウなどが生息する。", "qas": [ { "question": "現地の日照条件はどのような具合ですか?", "id": "tr-483-05-000", "answers": [ { "text": "やや不良", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本樹木が立っている位置の傾斜は何度ですか?", "id": "tr-483-05-001", "answers": [ { "text": "30度から45度", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本樹木の周囲に生息しているのはフウトウカズラ、イノデ、キチジョウソウの他に何がありますか?", "id": "tr-483-05-002", "answers": [ { "text": "ホソバカナワラビ", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本樹木の周囲に生息しているのはフウトウカズラ、ホソバカナワラビ、キチジョウソウの他に何がありますか?", "id": "tr-483-05-003", "answers": [ { "text": "イノデ", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "現在では資料によって異なるものの、樹齢はおおむね250~350年程度と推定されているが、大正13年(1924年)に天然記念物指定調査当初は570年から千数百年とも言われ、後北条氏の時代に植えつけられたものとも言われていた。\n当地を本樹に由来して「飛乱地」と称するくらい、古来から村人の目標になっている樹である。\n「明日の平和を保証」するシンボルとして付近の農民に親しまれていた。\n小田原‐箱根間を歩く旅人もこの樹を確認してこの付近を通ったという。\n西国のさる大名が参勤交代で江戸に向かう途中、駕籠を止めさせ「自分は余命いくばくもないと思っていたが、再び見ることが出来た。この木も丈夫であったか」と感慨深げに見つめたという話もある。", "qas": [ { "question": "農民からはどのような象徴として親しまれてきましたか?", "id": "tr-483-06-000", "answers": [ { "text": "「明日の平和を保証」", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種はいつの時代に植えつけられたと伝わっているの?", "id": "tr-483-06-001", "answers": [ { "text": "後北条氏の時代", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "参勤交代で向かう先とはどこですか?", "id": "tr-483-06-002", "answers": [ { "text": "江戸", "answer_start": 237, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "天然記念物の指定調査が行われたのは西暦何年でしたか?", "id": "tr-483-06-003", "answers": [ { "text": "1924年", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、小田原藩主大久保忠真が、小田原に帰国したとき、真っ先にこのビランジュについて問うた、という逸話がある。\n大久保忠真は、文化7年(1810年)に大阪城代、文化12年(1815年)には京都所司代となったが、文政元年(1818年)には38歳で老中に抜擢された。\nそこで9年ぶりに小田原に戻ったとき、忠真を迎えた家老がゴマすりのつもりで「留守中は殿様と同様に領内をくまなく回って領民との対話を欠かさなかったので領内は安泰」と報告すると、忠真は上機嫌で「あのビランジュは無事か」と尋ねた。\nしかし、ビランジュのことを知らなかった家老は「そのような寺は領内にございません」と答えたため、「あの名木を知らぬとは、城内にばかりいたのであろう」と嘘の報告が露見し忠真の大目玉を食らった、という話である。", "qas": [ { "question": "大久保忠真が大阪城代の次に務めた役職は何でしたか?", "id": "tr-483-07-000", "answers": [ { "text": "京都所司代", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大久保忠真が京都所司代の次に務めた役職は何でしたか?", "id": "tr-483-07-001", "answers": [ { "text": "老中", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大久保忠真はいくつの時に老中に就任しましたか?", "id": "tr-483-07-002", "answers": [ { "text": "38歳", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大久保忠真が2番目に早く務めた役職とは、京都所司代、老中、大阪城代の中で何ですか??", "id": "tr-483-07-003", "answers": [ { "text": "京都所司代", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "本樹の生えている一帯の土地は、小田原城主大久保氏の領地であったが、明治維新後に、大久保氏の御用を勤めていた松岡家に払い下げられ、私有地となったものである。\n天然記念物指定当時は、当時の小田原町助役であった松岡彰吉の私有地であり、木も同氏の所有であった。\n現在も松岡家の私有地である。\n牧野富太郎は、この樹が斜面の窪地にあって耕作の妨げになることがなかったため伐採されることもなく今日まで残ったのであろう、と述べている。", "qas": [ { "question": "現在、本樹の生えている一帯の土地を所有しているのは誰ですか?", "id": "tr-483-08-000", "answers": [ { "text": "松岡家", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "本樹が斜面の窪地に立っていたおかげで、耕作を邪魔することなく伐採から免れ、現在まで存命しているのだろうと述べた人は誰ですか?", "id": "tr-483-08-001", "answers": [ { "text": "牧野富太郎", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本樹を含む一帯の土地が松岡家の私有地となったのはいつからですか?", "id": "tr-483-08-002", "answers": [ { "text": "明治維新後", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "松岡家の前に本樹のある一帯の土地を所有していた人は誰でしたか?", "id": "tr-483-08-003", "answers": [ { "text": "大久保氏", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "以前から地元では珍樹木として知られていたが、史蹟天然紀念物保存会の三好学は、牧野富太郎よりこの樹のことを知らされ、実地調査を行った。\n三好は大正13年(1924年)7月4日に、天然記念物としての指定樹として調査のため、現地を訪れたが、周囲には雑草や雑木が繁茂しており調査が困難だったため、後日再調査となった。\nそして調査の結果、バクチノキは西日本の暖地には多く生息するが、東日本には少なく、特に本樹のように巨大なものは見たことがない、として天然記念物に指定することの必要性を認めた。\nそして、大正13年(1924年)9月16日には正式に天然記念物としての保存が決定した。", "qas": [ { "question": "三好学にこの樹の存在を教えた人物は誰ですか?", "id": "tr-483-09-000", "answers": [ { "text": "牧野富太郎", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大正時代にこの樹の実地調査を行った人は誰ですか?", "id": "tr-483-09-001", "answers": [ { "text": "三好学", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バクチノキが多く生息するのは西日本と東日本のどちら?", "id": "tr-483-09-002", "answers": [ { "text": "西日本", "answer_start": 170, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本樹は神奈川県下には数少ない国の天然記念物であり、昭和32年(1957年)に勝福寺の大イチョウが県の天然記念物に指定されるまで、小田原市内に存在する天然記念物は、(国、県、市を問わず)この早川のビランジュが唯一のものであった。\n木の周囲に柵などはなく、施肥や剪定、薬剤散布等も行われていない。\n本樹は個人の所有であるが、国、県、市などから保全の助成があり、本樹周辺のタケの伐採が行われている。\n木の前には小田原市が設置した解説板が建てられている。", "qas": [ { "question": "天然記念物に指定されるのが早かったのは、本樹と勝福寺の大イチョウのどちらですか?", "id": "tr-483-10-000", "answers": [ { "text": "本樹", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小田原市内で最も早く天然記念物に指定されたものは何?", "id": "tr-483-10-001", "answers": [ { "text": "早川のビランジュ", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "勝福寺の大イチョウと早川のビランジュは何県に存在していますか?", "id": "tr-483-10-002", "answers": [ { "text": "神奈川県", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "早川のビランジュの次に県の天然記念物に指定されたものは何?", "id": "tr-483-10-003", "answers": [ { "text": "勝福寺の大イチョウ", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "早川のビランジュの所在地は小田原市早川字飛乱地1374。\n箱根登山鉄道箱根板橋駅より徒歩15分、JR早川駅からは箱根方面に向かって歩くこと25分。\n箱根ターンパイクにかかる2つ目の歩道橋を目印にミカン畑の中を登って行くが、わかりにくい場所である。\nなお、平成28年(2016年)4月上旬から平成29年(2017年)8月下旬までの間、ターンパイク改修工事のため本樹に通じる道は通行止めとなりアクセスできなかった。", "qas": [ { "question": "早川のビランジュの所在地はどこ?", "id": "tr-483-11-000", "answers": [ { "text": "小田原市早川字飛乱地1374", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本樹まで徒歩の時間が短いのは箱根登山鉄道箱根板橋駅とJR早川のどちらですか?", "id": "tr-483-11-001", "answers": [ { "text": "箱根登山鉄道箱根板橋駅", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "本樹まで到着するのに徒歩で長く時間がかかるのは箱根登山鉄道箱根板橋駅とJR早川駅のどちらですか?", "id": "tr-483-11-002", "answers": [ { "text": "JR早川駅", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "JR早川駅から本樹までは歩いて何分かかりますか?", "id": "tr-483-11-003", "answers": [ { "text": "25分", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "小田原はバクチノキの北限に近く、昔から本樹は比較的珍しいものとされる。\n本樹が生息する小田原市早川地区には、小田原市内で確認されたバクチノキ10数本のうち半数近くが存在する。\n早川にある海蔵寺には高さ16メートルのバクチノキがあり、太さや古さが早川のビランジュに次ぐものとして人目を引いている。\n海蔵寺のビランジュは昭和56年(1981年)に小田原市の天然記念物に指定されている。\n平成23年(2011年)には、小田原市より北にある神奈川県大井町、および南足柄市でも寺社境内などでバクチノキが確認され、従来の北限説を覆すものとして、当該自治体の注目を集めている。", "qas": [ { "question": "小田原市内にバクチノキは何本あるの?", "id": "tr-483-12-000", "answers": [ { "text": "10数本", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "海蔵寺のビランジュが市の天然記念物に指定されたのは和暦の何年?", "id": "tr-483-12-001", "answers": [ { "text": "昭和56年", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小田原市と大井町はどちらの方がより北に位置していますか?", "id": "tr-483-12-002", "answers": [ { "text": "大井町", "answer_start": 220, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ポーランド", "paragraphs": [ { "context": "ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、(ポーランド語:RzeczpospolitaPolska)、通称ポーランドは、国連の区分では東欧、米CIAの区分では中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。\n通貨はズウォティ。\n首都はワルシャワ。\n北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。\n10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけポーランド・リトアニア共和国を形成、ヨーロッパで有数の大国となった。\n18世紀、3度にわたって他国に分割された末に消滅(ポーランド分割)、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた。", "qas": [ { "question": "ポーランドの正式名称は何?", "id": "tr-484-00-000", "answers": [ { "text": "ポーランド共和国", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポーランドの首都は?", "id": "tr-484-00-001", "answers": [ { "text": "ワルシャワ", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポーランドに面している海の名称は?", "id": "tr-484-00-002", "answers": [ { "text": "バルト海", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第一次世界大戦後、1918年に独立を回復した。\nしかし第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。\n戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活させた。\nポーランド統一労働者党(共産党)による一党独裁体制であり、ソ連に従属する衛星国であった。\n1989年に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立。\n現在のポーランド共和国となった。\n冷戦時代は「東欧」に分類され、現在も国連は同様の分類である。\n国内および東側諸国の民主化(東欧革命)とソ連の崩壊を経て、米CIAなど一部の機関は「中欧」または「中東欧」として分類している。", "qas": [ { "question": "第二次世界大戦時にソビエト連邦とどこによって国土が分割されたの?", "id": "tr-484-01-000", "answers": [ { "text": "ナチス・ドイツ", "answer_start": 36, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポーランド人民共和国はどこに従属する衛星国だったの?", "id": "tr-484-01-001", "answers": [ { "text": "ソ連", "answer_start": 143, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "現在のポーランド共和国は何年に誕生したの?", "id": "tr-484-01-002", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 159, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "西でドイツ、南でチェコとスロヴァキア、東でウクライナ、ベラルーシ、リトアニアと接しており、北東ではロシア(カリーニングラード)とも国境を接している。\n北はバルト海(MorzeBałtyckie)に面している。\n南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野であり、全体が非常に緩やかな丘陵地帯となっていて独特の景観を有する。\n平均高度は173メートルである。\n南部は山岳地帯で、タトラ山脈にはポーランドでもっとも高いリシ山(標高2,499メートル)がある。\n南部の国境近くにはカルパティア山脈(タトラ山脈、ベスキディ山脈を含む)やスデート山地(ポーランド語およびチェコ語でスデーティ(Sudety)がある。\n深い森が多く、国立公園や県立公園として維持管理されている。\n東北部からベラルーシにかけて広がる「ビャウォヴィエジャの森」は「ヨーロッパ最後の原生林」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に広葉樹が生い繁る巨大な森で、ヨーロッパバイソン(ポーランド語で「ジュブル」)やヘラジカ(ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。", "qas": [ { "question": "ポーランドと国境を接している国が多い方角は、西、南、東のうちどこですか?", "id": "tr-484-02-000", "answers": [ { "text": "東", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジュブルとは何の動物を指していますか?", "id": "tr-484-02-001", "answers": [ { "text": "ヨーロッパバイソン", "answer_start": 410, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウォシとは何の動物のこと?", "id": "tr-484-02-002", "answers": [ { "text": "ヘラジカ", "answer_start": 435, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポーランドで1番高い山とは何ですか?", "id": "tr-484-02-003", "answers": [ { "text": "リシ山", "answer_start": 206, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ポーランドにある9,300もの湖のうち、大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。\n北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。\nまた湿原が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原の10倍以上の面積がある。\nこれらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。\n多くの水鳥が生息する。\n西南部にはヨーロッパ最大の砂漠がある。", "qas": [ { "question": "ヴィェブジャ大湿原と釧路湿原はどちらが広いですか?", "id": "tr-484-03-000", "answers": [ { "text": "ヴィェブジャ大湿原", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポーランドで最も大きい湿原はどこ?", "id": "tr-484-03-001", "answers": [ { "text": "ヴィェブジャ大湿原", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ポーランドの地質構造は、6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四氷期によって形成された。\nこのときスデート山地とカルパティア山脈が形作られている。\n北部ポーランドのモレーンの景観は主に砂とロームからなる土壌によるものである。\n氷期に形成された南部の河川の谷は黄土を含んでいる。\nクラクフ=チェンストホヴァ高原、ピェニヌィ山地、西タトラ山地は石灰岩で構成される。\n高タトラ山地、ベスキド山地、カルコノシェ山地は花崗岩と玄武岩で構成される。\n南部のクラクフ=チェンストホヴァ高原はジュラ紀の石灰岩からなる。\nバルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。\n降水量は平均しており、季節による変動が少ない。", "qas": [ { "question": "ベスキド山地、カルコノシェ山地、ピェニヌィ山地の中で石灰岩で構成されているのはどれですか?", "id": "tr-484-04-000", "answers": [ { "text": "ピェニヌィ山地", "answer_start": 174, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高タトラ山地、西タトラ山地、ベスキド山地の中で、花崗岩と玄武岩で構成されていないのはどこですか?", "id": "tr-484-04-001", "answers": [ { "text": "西タトラ山地", "answer_start": 182, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポーランドの北西部の気候区分は何ですか?", "id": "tr-484-04-002", "answers": [ { "text": "温帯気候", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ポーランド経済は、2004年EUメンバーシップ獲得後、EU内の先進地域と貧しい地域の格差を縮める目的であるEU構造ファンド(EUStructuralFunds)の融資獲得により経済成長を遂げている。\n失業率はEU平均を超えながら、経済の豊かさを比較する指標とされる1人あたりの国内総生産額のGDPは、著しくEU平均以下のままとなっている。\n若年人口の多さに支えられて、近年は毎年4-6%前後の高成長を見せていたが、世界的な金融危機の余波を受けたため、2009年の成長率は、欧州委員会(EC)の予測では-1.4%、国際通貨基金(IMF)の予測では-0.7%、欧州復興開発銀行(EBRD)の予測では0%、ロイター通信調査のポーランド国内外の民間金融機関の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。", "qas": [ { "question": "GDPの数値が高いのは、ポーランド経済とEU平均のどちらですか?", "id": "tr-484-05-000", "answers": [ { "text": "EU平均", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "失業率の数値が高いのは、ポーランド経済とEU平均のどちらですか?", "id": "tr-484-05-001", "answers": [ { "text": "ポーランド経済", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポーランドの2009年の成長率を低く予測した機関は、欧州委員会と欧州復興開発銀行のどちらですか?", "id": "tr-484-05-002", "answers": [ { "text": "欧州委員会", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポーランドの2009年の成長率を最も高く予測した機関はどこですか?", "id": "tr-484-05-003", "answers": [ { "text": "ポーランド財務省", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "その後、ポーランドの2009年成長率については、経済協力開発機構(OECD)の発表によると、大方の予想をはるかに上回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、この年の欧州連合(EU)加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国であることが明らかになった。\nOECD加盟34か国においても、ポーランドのほかにプラス成長率を達成したのは韓国(0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2か国のみであり、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を叩き出したことになる。\n中央銀行であるポーランド国立銀行が世界金融危機の前の世界金融バブルの時代の非常に早い時期(2001年ごろ)にはすでにバブルの到来を察知し、それ以来市中銀行に対してさまざまな貸し出し規制策を導入していた。", "qas": [ { "question": "EU加盟国中、2009年に唯一プラス成長を遂げた国はどこだったの?", "id": "tr-484-06-000", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 4, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "OECDの加盟国中、2009年に最も高い成長率を遂げた国はどこ?", "id": "tr-484-06-001", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 144, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2009年の成長率が高かったのは、オーストラリアと韓国のどちら?", "id": "tr-484-06-002", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 175, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポーランドの次に2009年の成長率が高かった国はどこ?", "id": "tr-484-06-003", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 175, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2009年、ポーランド政府は大きく被害を受けた国内経済のために、IMFから205億ドルを借り入れた。\nポーランド・ウクライナ開催のUEFAユーロカップ2012では、関連施設・インフラ建設準備や住宅バブルに向け、西欧や諸外国から大きな投資を受けた、このインフラ投資事業により世界金融危機の大きな被害を免れた。\nしかし世界的な金融危機も反映し、住宅投資バブルは不発となり投資家の予測に反する結果に終わった。\n2010年は世界中で行われている景気対策を目的とした大規模な金融緩和のため、ポーランドの第二四半期成長率は+3.5%を記録した。\nポーランド政府とポーランド国立銀行は景気の過熱と資産価格上昇の可能性やそれに伴う高いインフレの可能性を懸念し始め、公的部門の財政再建路線の強化、金融引き締め政策、貸出規制の強化といった対応策を考慮している。\n2014年、GDP成長は1.3%。", "qas": [ { "question": "UEFAユーロカップ2012の開催国はウクライナとどこでしたか?", "id": "tr-484-07-000", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2014年のポーランドのGDP成長は何%でしたか?", "id": "tr-484-07-001", "answers": [ { "text": "1.3%", "answer_start": 383, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2004年のEU加盟後、ポーランドはEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つことから、ほかの中東欧国同様にEU内の「工場」、そしてさらに、現在ではその高い教育水準を生かして研究開発施設をポーランドに設けようとする企業もあるようである。\nまた、EU加盟後、さらにポーランドから多くの労働者がおもにEUの先進諸国に出稼ぎに行っている。\nほかのEUの中東欧国同様、おもに単純労働者としての雇用が先行している。\n一部ではホワイトカラーとしての雇用もみられ、財を成すものも現れた。\nこれまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと求人していないのではないかと考え、帰国をためらう動きも出てきた。", "qas": [ { "question": "ポーランドがEUに加盟した年はいつ?", "id": "tr-484-08-000", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "西欧諸国とポーランドはどちらが賃金水準が高いの?", "id": "tr-484-08-001", "answers": [ { "text": "西欧諸国", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといったインフラの整備を急ピッチで進めているため、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。\nポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。\nこれは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金(EU構造ファンド、英:EUstructuralfunds)が下りているためである。\n政府は2010年度より緊縮財政を行っているが、これはおもに国営企業の民営化による新規株式公開(IPO)で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。", "qas": [ { "question": "ポーランドはインフラ整備に必要な膨大な資金をどこから得ているの?", "id": "tr-484-09-000", "answers": [ { "text": "EU", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "政府の緊縮財政はいつから始まったの?", "id": "tr-484-09-001", "answers": [ { "text": "2010年度", "answer_start": 271, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、インフラ整備プロジェクトはおもにEUなどから資金が確定して拠出されている。\nこれまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、1万3,000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。\nまた、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。\n2007年から2013年にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である。\nこのほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。\nポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手がいるためである。", "qas": [ { "question": "EU資金の恩恵を受けている人数が多いのは、ポーランド人学生と一般のポーランド人のどちらですか?", "id": "tr-484-10-000", "answers": [ { "text": "一般のポーランド人", "answer_start": 180, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2007年から2013年にかけての間でEUから補助金を受け取る事業の総数が最も多かった国はどこでしたか?", "id": "tr-484-10-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 249, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2010年、ECER-BanquePopulaireが18か国37都市の4,500人のCEOを含む17万人の企業家を対象に行った調査では、欧州でもっともビジネスに適した都市の第3位にワルシャワがランクインした(1位はフランクフルト、2位はマルメ、4位はロンドン、5位はブリュッセル)。\nこの調査では各都市の企業家精神育成、起業支援、経営支援、私的な金融体制、公的な金融体制、助成金、不動産、生活の質、道路、通信インフラなどの項目で調査された。\nワルシャワは全般的に高得点を挙げたが、特に起業家への支援体制が優れていると評価され、企業家精神育成部門(経営相談、経営者組織、ウェブ、メディア)で6位、起業した経営者に対する支援部門(法律相談、税務相談、業務支援)で4位となった。\n評価がもっとも低かったのは環境部門で、評価の対象となった全37都市のうち16位であった。\nポーランドでは現在のドナルド・トゥスク政権と与党「市民プラットフォーム」の方針として、国を挙げて特に起業支援と中小企業の育成に力を注いでおり、その数は国内全企業の半分で、全就労者の3分の2を雇用し、GDPの80%を占めている。", "qas": [ { "question": "2010年にECER-BanquePopulaireが行った調査結果で、欧州で最もビジネスに適した都市はどこだったの?", "id": "tr-484-11-000", "answers": [ { "text": "フランクフルト", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ワルシャワの次に、欧州でビジネスに適した都市として投票数が少なかったのはどこ?", "id": "tr-484-11-001", "answers": [ { "text": "ロンドン", "answer_start": 126, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ワルシャワの次に、欧州でビジネスに適した都市として投票が多かったのはどこ?", "id": "tr-484-11-002", "answers": [ { "text": "マルメ", "answer_start": 119, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2010年にECER-BanquePopulaireが行った調査で、ポーランドの評価が最も低かった部門とは何でしたか?", "id": "tr-484-11-003", "answers": [ { "text": "環境部門", "answer_start": 351, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2015年版、フォーブスの「ビジネスに理想的な国ランキング」、世界146の国と地域を対象に、財産権の保証、イノベーションの多寡、税率、テクノロジーの発展具合、汚職の有無、個人的自由、通商の自由、通貨の自由、官僚主義の度合い、投資家の保護、株価実績からなる全11の分野で評価した結果、ポーランドは40位となった。\n2011年、国際連合は、平均余命、識字率、就学率、国内総生産により評価する人間開発指数(HDI)、加盟193か国のうち187か国中、39位。", "qas": [ { "question": "2015年版、フォーブスの「ビジネスに理想的な国ランキング」でポーランドの順位は何位でしたか?", "id": "tr-484-12-000", "answers": [ { "text": "40位", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "法人税は19%である。\n所得税は非常に簡単な2段階の累進課税方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。\n国内経済悪化のため税率改正され、付加価値税は2011年1月1日より23%を基本税率とした複数税率で、ほかに食品、農産物、医薬品、建築資材、観光サービス、書籍等にかかる8%、7%、5%の3つの税率があり、対象の品目によって税率が異なる。", "qas": [ { "question": "所得税の課税方法は何を採用しているの?", "id": "tr-484-13-000", "answers": [ { "text": "累進課税方式", "answer_start": 26, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "法人税は何%ですか?", "id": "tr-484-13-001", "answers": [ { "text": "19%", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる第二次産業が行われている。\n特にパーソナルコンピュータやテレビなどの情報家電の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。\n乗用車、トラック、バス、路面電車、鉄道車両などの生産も盛んで、ソラリス、PESA、Newagなどといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。\n小規模の手工業においては、琥珀製品やクリスマスツリーのガラスの飾り物の生産は世界一で、日本もこれらの製品を多量に輸入している。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパのテレビ生産の何割をポーランドが占めているの?", "id": "tr-484-14-000", "answers": [ { "text": "3割", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。\nポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家である。\n共産主義時代には集団農場化と農地の国有化が行われた。\nヨーロッパの実に90%を占めるヤマドリタケ(本ポルチーニ茸)、327万トン(2010年)で世界第1位の生産量を誇るライ麦、それぞれ高いシェアを持つフランス向けエスカルゴや日本向け馬肉および羽毛、ポーランドが世界の収穫高の半分を占め同時に世界最大の輸出国となっているカシス(ブラックカラント、クロスグリ)や世界最大の輸出高を挙げるイチゴといったベリー類(ほかにラズベリーは世界4位、ビルベリーは欧州2位、その他セイヨウスグリ、クランベリー、ブラックベリー、ブルーベリーなどで世界トップクラスの生産高)などがある。", "qas": [ { "question": "2010年のライ麦の生産量が世界で最も高かった国はどこ?", "id": "tr-484-15-000", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポーランドが世界最大の輸出国となっている食物とは何?", "id": "tr-484-15-001", "answers": [ { "text": "カシス", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポーランド産のイチゴとラズベリーはどちらが輸出高が高いですか?", "id": "tr-484-15-002", "answers": [ { "text": "イチゴ", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ポーランドは鉱物資源が豊富であり、石炭を中心として多種多様の非鉄金属に恵まれている。\n石炭の生産量は世界第8位である。\nポーランドのバルト海沿岸は琥珀の世界最大の産地で、グダンスクには世界の琥珀製品製造業の85%が集中している。\nヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の3分の2をまかなう天然ガスなどを有する。\nほかにも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。\nまた、国内に豊富に存在する石炭のガス化技術(石炭ガス)の研究開発にも熱心に取り組んでいる。", "qas": [ { "question": "石炭の生産量が世界第8位の国はどこ?", "id": "tr-484-16-000", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーランドが世界最大の産地となっている宝石の種類とは何?", "id": "tr-484-16-001", "answers": [ { "text": "琥珀", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界の琥珀製品製造業の約8割が集まっている都市は?", "id": "tr-484-16-002", "answers": [ { "text": "グダンスク", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、西南部ドルヌィ・シロンスク県のクレトノ鉱山などではウランを豊富に埋蔵しており国内の原子力利用を長期的に賄える。\nポーランド国内ではこれまで原子力発電は行われていなかったが、近年は原子力発電計画が具体化しつつあり、2020年までに最初の原子力発電所が稼働する見込みとなっている。\nまた、近年ポーランドで巨大なシェールガス埋蔵量が確認されている。\nその量は少なく見積もってポーランドにおける天然ガス消費量の300年分に相当する5.3兆m3に上ると見られている。\n現在、国内外の複数のエネルギー企業が試掘を申請している。\nポーランドのシェールガスは経済だけでなく国際政治における勢力地図を根底から塗り替える可能性がある。", "qas": [ { "question": "近年のポーランドで確認された新しい天然資源とは何?", "id": "tr-484-17-000", "answers": [ { "text": "シェールガス", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クレトノ鉱山で豊富に埋蔵しているものとは何?", "id": "tr-484-17-001", "answers": [ { "text": "ウラン", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2014年、ポーランドに進出している日系企業はトヨタ、ブリヂストン、味の素、シャープ、東芝など約261社。\nそのほかのEU中東欧国への進出は、チェコ約186社、ハンガリー約140社、ルーマニア約100社。", "qas": [ { "question": "ポーランド、チェコ、ハンガリーの中で、日系企業が最も多く進出している国はどこですか?", "id": "tr-484-18-000", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハンガリーとルーマニアは、どちらが日系企業の進出数が少ないですか?", "id": "tr-484-18-001", "answers": [ { "text": "ルーマニア", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "チンドン屋", "paragraphs": [ { "context": "チンドン屋(チンドンや)は、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を『チンチン・ドンドン・チンドンドン』と鳴らすなどして人目を集め、その地域の商品や店舗などの宣伝を行う日本の請負広告業の一類型である。\n披露目屋・広目屋(ひろめや)・東西屋(とうざいや)と呼ぶ地域もある。", "qas": [ { "question": "チンドン屋で使われる楽器を何と言っていますか?", "id": "tr-485-00-000", "answers": [ { "text": "チンドン太鼓", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チンドン屋は、地域によって披露目屋・広目屋(ひろめや)や、何と呼ばれている?", "id": "tr-485-00-001", "answers": [ { "text": "東西屋", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "締太鼓と鉦(当たり鉦)を組み合わせたチンドン太鼓などの演奏、および諸芸や奇抜な衣装・仮装によって街を廻りながら、依頼者の指定した地域・店舗へ人を呼び込む。\nまた集客した上で宣伝の口上やビラまきなどで商品の購入を促す。\n街を廻りながら行う宣伝を「街廻り」、移動せず店頭で行う宣伝を「居付き」という。", "qas": [ { "question": "チンドン屋の宣伝活動で、街を廻る宣伝方法を何と言いますか?", "id": "tr-485-01-000", "answers": [ { "text": "「街廻り」", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「居付き」というのは、どこで宣伝活動を行うものなの?", "id": "tr-485-01-001", "answers": [ { "text": "店頭", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "3人から5人ほどの編成が一般的で、チンドン太鼓、楽士、ゴロス(大太鼓)を中心に、旗持、ビラまきらが加わる。\nチンドン太鼓は、事業主である親方が担当することが多く、口上も兼任する。\n楽士は、クラリネット、サックスなどの管楽器で旋律を演奏する。\n特定の親方と雇用関係を結ばず、フリーで活動する楽士も多い。\n旗持は、幟を持ち、先頭を歩く役割で、「ビラまき」は、チラシ、ティッシュなどを配布し、「背負いビラ」と呼ばれる店名やサービス内容が書かれたポスターのようなものを各人が背中に背負い、あるいはチンドン太鼓の前に取りつける。\n関西では幟ではなくプラカードを持つことが多く、ビラまきを「チラシ配り」と呼ぶ。", "qas": [ { "question": "チンドン屋の役割分担で、管楽器を担当する人は何と呼ばれていますか?", "id": "tr-485-02-000", "answers": [ { "text": "楽士", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チンドン屋の先頭を歩くのは何という役割の人?", "id": "tr-485-02-001", "answers": [ { "text": "旗持", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "各人が背中に背負って宣伝するものは何?", "id": "tr-485-02-002", "answers": [ { "text": "「背負いビラ」", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「チラシ配り」は関西以外では何と呼んでいるの?", "id": "tr-485-02-003", "answers": [ { "text": "ビラまき", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「チンドン屋」という言葉は、1878年(明治11年)12月11日の『郵便報知新聞』見出し「チンドン屋よろしく大道飴売」や、1889年(明治22年)10月6日の『東京日日新聞』見出し「条約改正論戦、チンドン屋総出の形」などに見られるように、明治初期から存在したが、用例が少なく、その語が意味する対象は明らかではない。\n現代(21世紀)のチンドン屋に繋がるものとして「チンドン屋」の呼称が普及しはじめたのは、大正末から昭和初期と考えられ、確認できる用例は、1930年(昭和5年)頃からある。\n当初は、単独で華美な衣装を身につけ、口上を行うことに対して「チンドン屋」の呼称が用いられており、必ずしも三味線、管楽器の演奏を伴わない形態であったと推察される。", "qas": [ { "question": "日本で最も早く「チンドン屋」という言葉を見出しに取り入れたのは何新聞?", "id": "tr-485-03-000", "answers": [ { "text": "『郵便報知新聞』", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「チンドン屋よろしく大道飴売」という見出しは何年に出た?", "id": "tr-485-03-001", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現代に繋がる「チンドン屋」の呼称が普及しはじめた事を確認できるのは何年頃から?", "id": "tr-485-03-002", "answers": [ { "text": "1930年", "answer_start": 226, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "チンドン屋を指して、披露目屋・広目屋という表現が用いられることがある。\n披露目屋は、開店披露の仕事をすることが多かったため、あるいは芝居の口上に由来するとされる。\n広目屋は、広告宣伝、装飾、興行などを手掛けた秋田柳吉が起こした会社の名で、依頼に応じて楽隊を派遣したことで楽隊広告の代名詞として用いられるようになった。\n関西では東西屋という表現が用いられることがある。\n東西屋は、大阪の勇亀(いさみかめ)が芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を流用して寄席の宣伝請負を行ったことから広まった。\n現代(21世紀)、これらの語を使い分ける場合は、広目屋は楽隊の存在を重視し、東西屋は口上を主体とする意味合いを含む。\nこの呼称は明治期から用いられ、昭和初期にチンドン屋へと変化したと思われるが、歴史的経緯については、次節を参照のこと。", "qas": [ { "question": "開店披露の仕事をすることが多かったことから生まれたチンドン屋を表現する名称は何?", "id": "tr-485-04-000", "answers": [ { "text": "披露目屋", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チンドン屋の事を指す披露目屋と広目屋の内、個人の会社名だったのはどっち?", "id": "tr-485-04-001", "answers": [ { "text": "広目屋", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "口上を主体とする意味合いを含むのは、披露目屋、広目屋、東西屋の中でどれにあたる?", "id": "tr-485-04-002", "answers": [ { "text": "東西屋", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "披露目屋、広目屋、東西屋の名称がチンドン屋へと移り変わった時期はいつ?", "id": "tr-485-04-003", "answers": [ { "text": "昭和初期", "answer_start": 327, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "飴勝は、大坂・千日前の法善寺を拠点として、弘化期に活動していた飴売で、その口上の見事さから寄席の宣伝を請け負うようになった。\n短い法被に大きな笠脚袢にわらじという出立で、竹製の鳴物、拍子木を用い、「今日は松屋町の何々亭...」と呼び込みを行ったとされる。\n飴勝の仕事を引き継いだ勇亀(いさみかめ)が、明治10年代に芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を用いて寄席の宣伝を行っていたことから、1880-81年頃に東西屋と呼ばれるようになった。\nやがて、東西屋は街頭宣伝業の一般名詞へと転じた。\n勇亀のほかには、豆友という東西屋が知られていた。\n豆友は1891年に他界、弟が跡を継いで二代目を名乗り、初代の長男と次女を伴って活動を始めるが、1893年に感電死した。", "qas": [ { "question": "大坂・千日前の法善寺を拠点に飴売活動を行っていた人物は誰?", "id": "tr-485-05-000", "answers": [ { "text": "飴勝", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東西屋と呼ばれるようになったゆかりのある人の名前は?", "id": "tr-485-05-001", "answers": [ { "text": "勇亀", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1891年に他界したもう一人の東西屋は誰?", "id": "tr-485-05-002", "answers": [ { "text": "豆友", "answer_start": 261, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "紅かんは、安政期から明治初期にかけて活動していた大道芸人で、仁輪加の百眼を付け、大黒傘を背負い、「七輪の金網を打鉦に小太鼓を腰に柳のどう(胴)に竹の棹に天神はお玉という三味線」で演奏し、下町で人気を得ていたとされる。\n大正期にも通称、紅屋の勘ちゃんという男がいて、両手に三味線、腰に小さな太鼓をくくりつけて、バチで三味線と太鼓を一緒に鳴らして街を歩いたことがヒントとなってチンドンが作られたという。\n「紅かん」と「紅勘」の繋がりは明らかではないが、演奏芸の様態としては、チンドンの原型と言えるだろう。", "qas": [ { "question": "チンドンの原型である演奏芸を得意とした「紅かん」と「紅勘」の内、\n安政期から明治初期にかけて活動していたのはどっち?", "id": "tr-485-06-000", "answers": [ { "text": "紅かん", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「紅勘」は何を略したもの?", "id": "tr-485-06-001", "answers": [ { "text": "紅屋の勘ちゃん", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "明治20年代になると、大阪では、丹波屋九里丸(息子が漫談家で売った花月亭九里丸)、さつまやいも助が中心的な存在となり、東京では秋田柳吉の広目屋が楽隊広告を始める。\n1874年に木村屋が売り出したアンパンは文明開化の象徴的食べ物として明治天皇のお墨付きを得、初めて宣伝用にチンドン屋を用いたとされている。", "qas": [ { "question": "初めてチンドン屋を用いて宣伝された食べ物は何でしょうか?", "id": "tr-485-07-000", "answers": [ { "text": "アンパン", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東京で楽隊広告を始めたのは何という人ですか?", "id": "tr-485-07-001", "answers": [ { "text": "秋田柳吉", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "丹波屋九里丸やさつまやいも助が中心に宣伝活動を行った地域はどこ?", "id": "tr-485-07-002", "answers": [ { "text": "大阪", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "丹波屋九里丸は、1887年頃から豆や栗を売りはじめ、売り声が評判となり、東西屋に転じた。\n九里丸は東西屋開業前から囃子方を加え、開業後は自身が拍子木、相棒に太鼓を叩かせて街を歩いた。\n柏屋開店の仕事の際に、松に羽衣をあしらった長襦袢を纏い、忠臣蔵になぞらえた音曲入りの口上が評判となり、人気を博した。", "qas": [ { "question": "忠臣蔵になぞらえた音曲入りの口上が評判となった東西屋は誰?", "id": "tr-485-08-000", "answers": [ { "text": "丹波屋九里丸", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "他方、広目屋は、大阪出身の秋田柳吉が上京した1888年に八重洲で起業した会社の屋号で、仮名垣魯文の命名による。\n広目屋は広告代理店、装飾宣伝業の先駆けとなるほか、新聞を発行したり、活動写真や川上音二郎の芝居など興行全般に手を広げた。\nその一環として、宣伝のための楽隊を組織したため、楽隊を用いた路上広告を一般に広目屋と呼ぶようになった。", "qas": [ { "question": "楽隊を用いた路上広告を一般に広目屋と呼ぶようになったのは、宣伝のために何を組織したから?", "id": "tr-485-09-000", "answers": [ { "text": "楽隊", "answer_start": 131, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "誰が広目屋を命名した?", "id": "tr-485-09-001", "answers": [ { "text": "仮名垣魯文", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "広告代理店、装飾宣伝業の先駆けとなった会社を起業した人物の名は?", "id": "tr-485-09-002", "answers": [ { "text": "秋田柳吉", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "広目屋は誰の芝居を活動範囲に取り入れた?", "id": "tr-485-09-003", "answers": [ { "text": "川上音二郎", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "西洋楽器による街頭演奏は、軍楽隊による行事・式典での演奏の他、1887年前後から民間にも興り、明治20年に結成された東京市中音楽隊が最初の民間吹奏楽団とされるが、1885年のチェリネ曲馬団の来日など外国の楽隊の宣伝演奏、1886年に喇叭を用いた用品店の広告などの例がある。\n楽隊は軍歌の流行や出征軍人を送る機会の増大のため日清戦争を境に流行し、以後、活動写真やサーカスの巡業、煙草や歯磨きなどの大規模な楽隊広告が行われ、地方にも楽隊広告は広まっていった。\n1911年にライオン歯磨を宣伝した小林商店は、100本以上の幟を掲げて東海・北陸地方へ広告隊を送り出している。", "qas": [ { "question": "日本初の民間吹奏楽団は何ですか?", "id": "tr-485-10-000", "answers": [ { "text": "東京市中音楽隊", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何を契機として楽隊は流行した?", "id": "tr-485-10-001", "answers": [ { "text": "日清戦争", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大規模な楽隊広告が行われた中で、老若男女問わず毎日の習慣となっているものは何?", "id": "tr-485-10-002", "answers": [ { "text": "歯磨き", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "小林商店がライオン歯磨を宣伝したのはいつのことか?", "id": "tr-485-10-003", "answers": [ { "text": "1911年", "answer_start": 228, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "楽隊広告は、1889年、広目屋がキリンビールの宣伝を請け負い、大阪・中之島のホテル自由亭の音楽隊を派遣したのをきっかけに大阪でも取り入れられるようになる。\n1890年には九里丸も「滑稽鳴り物入り路傍広告業」と称して古い着物を軍服風に仕立て直し、喇叭、太鼓、鉦などを用いて宣伝を行うようになった。\n九里丸は、日清戦争では「大日本大勝栗」と幟を立てて栗型のカンパンを売り、売上の一部を軍資金として寄付、1899年には半井桃水の新聞小説『根上がり松』を片岡我当が芝居化する際に、無償で宣伝するかわりに譲り受けた羽織を纏って10人の囃子を引き連れて仁輪加を演じるなどして評判を呼んだ。\n広目屋の秋田の誘いに応じて上京し、広告行列の中で忠臣蔵を披露したこともある。\nまた一方で、広目屋から独立した福徳組の高坂金次郎は、大阪で人気があった浪花囃子を取り入れ、東囃子を編成した。", "qas": [ { "question": "楽隊広告が大阪でも受け入れられるようになったのは何年?", "id": "tr-485-11-000", "answers": [ { "text": "1889年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "広目屋が大阪・中之島のホテル自由亭の音楽隊を派遣したのは、何の宣伝を請け負ったから?", "id": "tr-485-11-001", "answers": [ { "text": "キリンビール", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "株の暴落、広告取締法の施行などで、大規模な広告楽隊・広告行列は明治40年代に入って低迷し、かわって新聞・雑誌などの広告が盛んとなり、大正期には飛行機を使った宣伝やネオンサインも登場した。\nこの事から、明治末から大正期にかけてを「暗黒期」とする意見もある。\n代表的な娯楽となった活動写真では、映画館が楽士を抱えてオーケストラや和洋合奏団を結成し、呼び込みのための楽隊を雇った。\n活動写真や芝居、サーカスの巡業では、楽隊が先頭を切って登場し、また宣伝のために街を廻った。", "qas": [ { "question": "広告楽隊・広告行列の暗黒期はいつからいつにかけてを指しますか?", "id": "tr-485-12-000", "answers": [ { "text": "明治末から大正期", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "広告楽隊・広告行列の低迷の際に盛んとなった広告媒体は新聞と何でしょう?", "id": "tr-485-12-001", "answers": [ { "text": "雑誌", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大正初め頃に囃子隊を結成して、寄席などで演奏しつつ、宣伝業を手掛ける者が現れ、1917年には「一人で太鼓と鐘を叩いて背に広告の旗を立てて囃し立てて居る広告や」があったという記録がある。\nひとりで複数の打楽器を演奏するためにチンドン太鼓が考案されたのは大正中期だとされる。\n遅くとも1925年には鉦・太鼓・銅鑼を組み合わせ、花柄の衣装を纏った「東西屋」が存在したことが写真によって明らかとなっている。\nチンドン太鼓は、1937年頃に大阪にも登場した。", "qas": [ { "question": "ひとりで複数の打楽器を演奏するために考え出された楽器名は何?", "id": "tr-485-13-000", "answers": [ { "text": "チンドン太鼓", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チンドン太鼓が大阪に登場したのは何年頃?", "id": "tr-485-13-001", "answers": [ { "text": "1937年頃", "answer_start": 208, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1人で宣伝業をこなす記録があったのはいつ?", "id": "tr-485-13-002", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "文明開化の時代においては、東京の商店主が西洋音楽と軍楽隊退役者を結び付け、小さなブラスバンド「市中音楽隊」を作り(「楽隊」、「ジンタ」とも呼ばれた)、運動会など祭事の宣伝を行いはじめた。\n当時は芸術としての音楽に重きを置いたものであったが、これに目を付けた秋田柳吉が、本格的な宣伝業者に高めていった。\n戦前の全盛期は1933年から38年頃とされる。\n1936年、鳩山一郎(戦後、内閣総理大臣)とテキ屋出身の市議会議員倉持忠助が選挙における票の取りまとめに利用しようとチンドン屋の組合(帝都音楽囃子広告業組合)を作ったが、その会員数は3000人に及んだという。\n1941年になると、チンドン屋および各種大道芸は禁止された。", "qas": [ { "question": "西洋音楽と軍楽隊退役者を結び付けたブラスバンドを何という?", "id": "tr-485-14-000", "answers": [ { "text": "「市中音楽隊」", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「市中音楽隊」に目を付けて宣伝業者に高めた人物は?", "id": "tr-485-14-001", "answers": [ { "text": "秋田柳吉", "answer_start": 128, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チンドン屋の組合を作った人で戦後に内閣総理大臣になったのは誰?", "id": "tr-485-14-002", "answers": [ { "text": "鳩山一郎", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1941年にチンドン屋と共に禁止されたものは何?", "id": "tr-485-14-003", "answers": [ { "text": "各種大道芸", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "戦後の復興の中で、チンドン屋は勢いを取り戻した。\n大規模な広告展開が困難な状況であった中で、少人数・小規模で小回りが利くチンドン屋の営業形態が時代に合っていたこと、陽気な音楽や派手な衣装が求められたことなどが理由として挙げられる。\n特に関東ではパチンコ店からの仕事が多かった。\n1950年にはチンドン屋人口は2500人に及んだとされる。\n昭和20年代後半には、もともと忙しい時期が異なるために人的交流があったサーカス関係者や、映画におされて芝居小屋が縮小したため、旅役者もチンドン界に流入した。", "qas": [ { "question": "関東でチンドン屋を多く頼っていた店は何ですか?", "id": "tr-485-15-000", "answers": [ { "text": "パチンコ店", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チンドン屋人口が2500人になったのは何年なの?", "id": "tr-485-15-001", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小回りが利くチンドン屋の営業形態はどういったものだったの?", "id": "tr-485-15-002", "answers": [ { "text": "少人数・小規模", "answer_start": 46, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "チンドンのコンクールも開催されるようになった。\n東京の新橋で1950年に行われたのが最初で、昭和30年代には、東京都内、前橋、沼津、姫路、伊勢、函館、彦根など、全国各地でチンドンコンクールが開催された。\n多くのコンクールは継続しなかったが、1955年に始まった富山での「全国チンドンコンクール(1965年に全日本チンドンコンクールに改称)」は、現在(2016年)まで継続して開催されている(2011年は東日本大震災のため中止)。\nこのコンクールは、全体を統括する組織がない中で、業界を「緩やかにつなぐ」役割を果たしている。", "qas": [ { "question": "全日本チンドンコンクールが現在も継続されている地域はどこか?", "id": "tr-485-16-000", "answers": [ { "text": "富山", "answer_start": 130, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在まで続く富山での全日本チンドンコンクールが一度だけ中止となった原因は何?", "id": "tr-485-16-001", "answers": [ { "text": "東日本大震災", "answer_start": 201, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "全国各地でチンドンコンクールが開催された地域の中で、最北の地域はどこか?", "id": "tr-485-16-002", "answers": [ { "text": "函館", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "全日本チンドンコンクールは業界でどういった役割を果たしているのでしょう?", "id": "tr-485-16-003", "answers": [ { "text": "「緩やかにつなぐ」", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }