{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "ウナギ科", "paragraphs": [ { "context": "ウナギ科(学名:Anguillidae)は、ウナギ目に所属する魚類の分類群の一つ。\nニホンウナギ・ヨーロッパウナギなど降河性の回遊魚を中心に、少なくとも1属15種が含まれる。", "qas": [ { "question": "ウナギ科には何種が含まれていますか?", "id": "tr-389-00-000", "answers": [ { "text": "15種", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウナギ科には何属が含まれていますか?", "id": "tr-389-00-001", "answers": [ { "text": "1属", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウナギ科の学名は何?", "id": "tr-389-00-002", "answers": [ { "text": "Anguillidae", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ウナギ科の魚類は東部太平洋と南部大西洋を除く、世界の熱帯・温帯域に広く分布する。\nウナギ属Anguillaに含まれるほぼすべての種類が降河性の回遊魚で、海で生まれた後に淡水域に遡上し、成長後に再び海に降りて産卵するという生活史をもつ。\n大西洋に生息するのはヨーロッパウナギ(A.anguilla)とアメリカウナギ(A.rostrata)の2種のみで、前者はヨーロッパ全域と地中海沿岸の北アフリカ、後者は北アメリカから南アメリカ北東部にかけて広範囲に分布し、いずれもサルガッソ海を産卵場としていることがわかっている。", "qas": [ { "question": "ウナギ科が分布していない海域とは南部太平洋とどこですか?", "id": "tr-389-01-000", "answers": [ { "text": "東部太平洋", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウナギ属の種類はどこで生まれますか?", "id": "tr-389-01-001", "answers": [ { "text": "海", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウナギ属の産卵場所はどこですか?", "id": "tr-389-01-002", "answers": [ { "text": "海", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヨーロッパウナギとアメリカウナギの産卵場所はどこですか?", "id": "tr-389-01-003", "answers": [ { "text": "サルガッソ海", "answer_start": 232, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "インド洋から西部太平洋にかけての熱帯・温帯域がウナギ科魚類の分布の中心であり、特にインドネシア周辺での多様性が顕著である。\n西部太平洋にはフィリピン・インドネシア・オーストラリア・ニューギニア島およびニューカレドニアを中心に約14種が知られ、ルソン島(フィリピン)・ニュージーランド・ニューギニア島東部にはそれぞれ固有種が存在する。\nまた、A.brevicepsなど2種が中国大陸のみから報告されている。\nインド洋にはパキスタン・インドなど南アジアに分布するA.bengalensisbengalensis、ケニアから南アフリカに至るアフリカ東岸(特にザンベジ川水系)を中心に分布するA.bengalensislabiataなど、およそ5種が生息する。\nこのうちの数種は、マダガスカル東方沖の深海で産卵していると推定されている。", "qas": [ { "question": "ウナギ科の種類がより多く生息しているのは西部太平洋とインド洋のどちらですか?", "id": "tr-389-02-000", "answers": [ { "text": "西部太平洋", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中国大陸に生息しているウナギ科は何種いますか?", "id": "tr-389-02-001", "answers": [ { "text": "2種", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南アジアに分布しているウナギ科の種類は何ですか?", "id": "tr-389-02-002", "answers": [ { "text": "A.bengalensisbengalensis", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アフリカ東岸を中心に分布しているウナギ科の種類は何ですか?", "id": "tr-389-02-003", "answers": [ { "text": "A.bengalensislabiata", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "インド太平洋系の影響を強く受ける日本には、ニホンウナギ(A.japonica)、オオウナギ(A.marmorata)およびニューギニアウナギ(A.bicolorpacifica)の3種が生息する。\nニホンウナギは朝鮮半島・中国大陸・フィリピンなど東アジアを中心に分布し、マリアナ海溝付近で産卵していることが近年の調査で明らかにされている。\nオオウナギの分布はより広範囲で、アフリカ東岸からフランス領ポリネシアに至り、産卵場はフィリピン南部の深海と推測されている。\nニューギニアウナギは環境省の汽水・淡水魚類レッドリストにおいて、ニホンウナギとともに「情報不足」のカテゴリーに収載されていたが、日本に実際に分布しているかどうかは不明なままであった。\nしかし2000年代に屋久島で稚魚が、さらに八重山列島で成魚が発見されたことにより、日本での自然分布が確かめられた。", "qas": [ { "question": "日本に分布している3種のウナギ科の中で、最も広範囲に分布しているものは何ですか?", "id": "tr-389-03-000", "answers": [ { "text": "オオウナギ", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニューギニアウナギの日本での自然分布が確認されたのはいつでしたか?", "id": "tr-389-03-001", "answers": [ { "text": "2000年代", "answer_start": 327, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本には何種のウナギが生息していますか?", "id": "tr-389-03-002", "answers": [ { "text": "3種", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "二ホンウナギの産卵場はどこですか?", "id": "tr-389-03-003", "answers": [ { "text": "マリアナ海溝付近", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ウナギ科魚類は生涯の多くの時間を河川・湖沼をはじめとする淡水、あるいは河口などの汽水域で生活する。\n一般に夜行性で、昼間は物陰に潜み、夜間に活発に遊泳して小魚や甲殻類・貝類・節足動物を捕食する。\n通常は単独で行動するが、数十尾の群れを作って越冬する例も知られている。\n定住性・帰巣性はともに高く、ねぐらと定めた場所から大きく移動することはせず、数十km離れた場所に放流されても正確に戻ってくることができる。", "qas": [ { "question": "ウナギ科魚類が活発に活動する時間帯はいつですか?", "id": "tr-389-04-000", "answers": [ { "text": "夜間", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウナギ科魚類の生活習性は何ですか?", "id": "tr-389-04-001", "answers": [ { "text": "夜行性", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一般に雄は早期に成熟し(3-6年)、サイズは比較的小さいのに対し、雌の性成熟は遅い(4-13年、高緯度地帯では6-43年)。\n雌は時間をかけて成長することで大型化し、より多数の卵を作り出すことを可能としている。\nウナギ類は魚類としては長い寿命をもち、耳石による年齢推定でニホンウナギでは22歳の雌が、ヨーロッパウナギでは33歳の雄と57歳の雌が報告されている。", "qas": [ { "question": "報告された推定年齢が高かったのは二ホンウナギとヨーロッパウナギのどちらでしたか?", "id": "tr-389-05-000", "answers": [ { "text": "ヨーロッパウナギ", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウナギの推定年齢は何をもって調べますか?", "id": "tr-389-05-001", "answers": [ { "text": "耳石", "answer_start": 125, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "報告されたヨーロッパウナギの推定年齢が高かったのは雄と雌のどちらでしたか?", "id": "tr-389-05-002", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "淡水域で成長し、性成熟に達したウナギ類は体色が銀色ないしブロンズ色になるとともに、眼の大型化・消化管および胸鰭の退縮、摂餌の停止といったさまざまな形態および行動の変化が生じる。\n「銀ウナギ:Silvereel」とも呼ばれるこれらの成熟個体は川を降り、河口域で再び海水への適応をはかる。\n長旅への準備を整えた銀ウナギは、種によって異なる特定の産卵場(ニホンウナギはマリアナ海溝、ヨーロッパウナギ・アメリカウナギはサルガッソ海など)へと移動を開始する。\n産卵場から遠い地域に生息する個体ほど移動の開始が早いことが知られており、繁殖を一斉に行えるように同調が起きているものとみられる。", "qas": [ { "question": "性成熟したウナギ類は、体のどの部分が大型化しますか?", "id": "tr-389-06-000", "answers": [ { "text": "眼", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウナギ類が海水に適応する場所とはどこですか?", "id": "tr-389-06-001", "answers": [ { "text": "河口域", "answer_start": 125, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "成熟化したウナギ類は何と呼ばれていますか?", "id": "tr-389-06-002", "answers": [ { "text": "「銀ウナギ:Silvereel」", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウナギ類は成熟化に伴ってどのような行動が停止されますか?", "id": "tr-389-06-003", "answers": [ { "text": "摂餌", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "降河した成熟ウナギが観察ないし捕獲されることは、極めて稀である。\nアメリカウナギの成魚が外海で発見されたのは、1977年にバハマ沖の水深2,000m地点で撮影されたのが初めてであった。\n産卵の実態もそのほとんどが謎に包まれたままで、ウナギ科魚類の天然卵は2009年に西マリアナ海嶺で採取されるまで見つかっていなかった。", "qas": [ { "question": "初めてウナギ類の天然卵が採れたのはどこですか?", "id": "tr-389-07-000", "answers": [ { "text": "西マリアナ海嶺", "answer_start": 133, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウナギ科魚類の天然卵が初めて採取されたのはいつでしたか?", "id": "tr-389-07-001", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "外海にいるアメリカウナギの成魚が初めて発見されたのは何年でしたか?", "id": "tr-389-07-002", "answers": [ { "text": "1977年", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "初めて外海でアメリカウナギの成魚が発見されたとあるが、その外海とはどこでしたか?", "id": "tr-389-07-003", "answers": [ { "text": "バハマ沖", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "他の多くの回遊魚と同様に、ウナギ類の産卵は生涯一度きりで、親魚は生殖後間もなく死亡すると考えられている。\n降河開始時から継続する飢餓状態と、産卵前後におけるステロイドホルモンの著しい上昇がその原因とされ、代謝的・解剖学的破綻を導く急激な老化現象の一種と理解されている。\n一方で、西マリアナ海嶺の産卵場付近で採取された親ウナギの生殖腺を解析した結果、複数回にわたり産卵している可能性も指摘されている。", "qas": [ { "question": "ウナギ類の産卵は何度行われますか?", "id": "tr-389-08-000", "answers": [ { "text": "一度", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウナギ類は産卵前後に何のホルモンが激しく上昇しますか?", "id": "tr-389-08-001", "answers": [ { "text": "ステロイドホルモン", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "産卵後に親魚が死ぬ原因として、何のホルモンが関わっていますか?", "id": "tr-389-08-002", "answers": [ { "text": "ステロイドホルモン", "answer_start": 78, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "カライワシ上目の仲間に共通する特徴として、ウナギ科魚類の仔魚はレプトケファルス(葉形仔魚)と呼ばれる独特の形態をとる。\n浮遊生活を経て沿岸域にたどりついたレプトケファルスは稚魚(いわゆるシラスウナギ:Glasseel)へと変態し、河川を遡上する。\nシラスウナギは体表の色素を発達させた「クロコ:Elver」を経て、「黄ウナギ:Yelloweel」と呼ばれる成魚に成長してゆく。\n河川を遡上せず海にとどまる個体、あるいは河口の汽水域に定着するものが存在し、それぞれを「海ウナギ」「河口ウナギ」と称する。\n両者は耳石中のストロンチウム濃度を調べることで、川ウナギと見分けることが可能である。\n産卵場へと向かうニホンウナギ約600個体を調査した結果、川ウナギはわずか20%程度と少なく、海ウナギ・河口ウナギが繁殖に大きく貢献している可能性が示されている。", "qas": [ { "question": "レプトケファルスは何という稚魚に変態しますか?", "id": "tr-389-09-000", "answers": [ { "text": "シラスウナギ", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シラスウナギの成魚の名称は何ですか?", "id": "tr-389-09-001", "answers": [ { "text": "「黄ウナギ:Yelloweel」", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「黄ウナギ:Yelloweel」の1つ前の名称は何ですか?", "id": "tr-389-09-002", "answers": [ { "text": "「クロコ:Elver」", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「海ウナギ」と「河口ウナギ」を見分ける時に調べるものとは何ですか?", "id": "tr-389-09-003", "answers": [ { "text": "ストロンチウム濃度", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ウナギ科魚類がなぜこれほど長距離に及ぶ回遊をするのか、何を目印として元の産卵場所へたどりつくのか、確かなことはわかってない。\nウナギ科の起源は白亜紀(約1億年前)、現代のボルネオ島周辺に求められ、元は海水魚のグループであったと推測されている。\nこのうち、テチス海を越えて西に移動した一群はスエズ地峡の形成によって隔離され、現在の大西洋産の2種へと種分化を遂げた。\n初期のウナギ類は大陸が現在の位置に移動する以前、大陸間に存在したごく狭い海域で産卵していた可能性がある。\n海洋が拡大し陸地からの距離がはるかに遠くなっても、産卵に適した水温や水深といった物理的・化学的条件を変えることはできなかったため、現在のアメリカウナギのように時として5,000kmにも及ぶ旅を続けることになったとの推測がなされている。", "qas": [ { "question": "ウナギ科が誕生したのは何年前と推測されているの?", "id": "tr-389-10-000", "answers": [ { "text": "約1億年前", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウナギ科の起源となる海域はどこでしたか?", "id": "tr-389-10-001", "answers": [ { "text": "ボルネオ島周辺", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東京大学大気海洋研究所の井上らは、ウナギ目およびフウセンウナギ目に所属する全19科のミトコンドリアDNA全長の塩基配列を解析し、進化の道筋をたどる系統樹の構築を試みた。\nその結果、ウナギ科魚類に最も近縁なグループとされたのは、これまでに考えられてきた底生性のザトウウナギ科・ハリガネウミヘビ科(ウナギ亜目)ではなく、フウセンウナギ目の4科およびシギウナギ科・ノコバウナギ科(アナゴ亜目)であった。\nこれら6科はすべて海底から離れた中層を漂って生活する、漂泳性深海魚のグループである。\nかつて外洋の中層で生活していたウナギ科の祖先は、次第に餌が豊富で競合者の少ない淡水域に進出するようになり、長い年月をかけて現在の大回遊へと発展した可能性をこの研究は示唆している。", "qas": [ { "question": "ウナギ科の祖先は餌を求めてどのような水域に進出しましたか?", "id": "tr-389-11-000", "answers": [ { "text": "淡水域", "answer_start": 281, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウナギ科魚類に最も近縁なグループに属しているのはハリガネウミヘビ科とノコバウナギ科のどちらですか?", "id": "tr-389-11-001", "answers": [ { "text": "ノコバウナギ科", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ウナギ科の仲間は細長く円筒形の体をもち、いわゆるウナギ型をしている。\n体長1mを超える種類が多く、最大種のオオウナギは全長2mに達する。\n体色は一般に背側が青緑~暗褐色、腹側が白~黄白色であるが、同じ種でも生息環境による変異が大きい。\n体表には粘液およびレクチンを分泌する細胞が発達し、異物から体を守る働きを担っている。\n皮膚に埋もれた微小な鱗(円鱗)が存在することが、本科魚類の特徴である。\n口はやや大きく、下顎は上顎よりも前に突き出る。\n歯は小さく円錐状で、両顎に多数並び歯帯を形成する。\n鰓の開口部は三日月型で、頭部と体側の側線はよく発達する。\n背鰭と臀鰭の基底は非常に長く、尾鰭と連続する。\n棘条をもたず、鰭条は分枝する。\n腹鰭を欠く一方、胸鰭は大きく発達する。\n椎骨は100-119個。", "qas": [ { "question": "前に突き出ているのは下顎と上顎のどちらですか?", "id": "tr-389-12-000", "answers": [ { "text": "下顎", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウナギ科の椎骨はいくつありますか?", "id": "tr-389-12-001", "answers": [ { "text": "100-119個", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ほぼすべてのウナギ類が食用魚として漁獲され、焼き魚・フライ・燻製・缶詰などさまざまな調理法で利用される。\nアジアにおけるニホンウナギ、欧州のヨーロッパウナギは商業的にとりわけ重要な種類で、稚魚(いわゆるシラスウナギ)を採取して成魚まで育てる養殖業が各地で発達している。\nヨーロッパの養鰻業は紀元前のイタリアに始まり、以降1980年代までイタリアが養殖の中心地となっていたが、2000年代にはオランダ・デンマークが台頭してきている。\n日本では1879年、東京・深川に最初の養殖池が作られ、1930年代には天然産の漁獲量を上回るようになった。\nアジア・欧州ともにウナギの資源量は著しく減少しており、乱獲や水質汚染、寄生虫に加え、ダム建設や護岸工事による生息環境の攪乱など、さまざまな要因が関わっているとみられている。", "qas": [ { "question": "養鰻業が先に始まったのはイタリアと日本のどちらですか?", "id": "tr-389-13-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本で最初に養殖地が出来たのは何年でしたか?", "id": "tr-389-13-001", "answers": [ { "text": "1879年", "answer_start": 220, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨーロッパで最初にウナギの養殖が行われた国はどこだったの?", "id": "tr-389-13-002", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2000年代以降にヨーロッパでウナギの養殖が盛んになったのはデンマークとどこですか?", "id": "tr-389-13-003", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 195, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アメリカ合衆国では生息するアメリカウナギを食べる習慣はあまりなく、東部メーン州と南部サウスカロライナ州においてのみ、許可を受けた漁業者が漁獲量を守る条件で漁が認められている。\n実際には密漁が横行しており、高く売れるアジアに輸出されているとみられる。\n海で採取されるウナギ類のレプトケファルスの消化管には餌がまったく見つからず、彼らが自然界で何を食べて成長しているのか、不明なままとなっていた。\nこのことは長く完全養殖実現への障害となっていたが、日本の水産総合研究センターにおける試みで、通常は栄養補助剤として用いられる乾燥サメ卵を練り餌として与えることで給餌に成功し、世界で初めてニホンウナギの完全養殖が達成された。\nその後、電子顕微鏡を用いた解析で、レプトケファルスの消化管からプランクトンの糞粒やオタマボヤのハウス(粘液質の泡巣)が見つかり、これらを含めたマリンスノーを餌としている可能性が示唆された。", "qas": [ { "question": "レプトケファルスは何を食べている可能性が高いですか?", "id": "tr-389-14-000", "answers": [ { "text": "マリンスノー", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "国際連合食糧農業機関(FAO)の統計によれば、1950年に約1万7千トンであった世界のウナギ科魚類の総漁獲量は80-90年代にかけて大幅に増加し、2000年代には常に20万トンを超えるようになっている。\nこの大半はアジア地域におけるニホンウナギの漁獲によるもので、2009年の総漁獲量約28万トンのうち、26万トン以上を本種が占めている。\n漁獲の大部分は日本および中国での養殖業の発達によって支えられており、天然のニホンウナギ漁は1960-70年代をピークに衰退し、2009年の漁獲量はおよそ400トンにとどまっている。\n欧州でのヨーロッパウナギ漁は1950年以降一貫して年間1万トン台を保っているが、ニホンウナギと同様に天然産の漁獲は減少している。", "qas": [ { "question": "世界のウナギ科魚類の総漁獲量が多かったのは1950年と2000年代を比較するとどちらですか?", "id": "tr-389-15-000", "answers": [ { "text": "2000年代", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "天然のニホンウナギ漁の最盛期はいつでしたか?", "id": "tr-389-15-001", "answers": [ { "text": "1960-70年代", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "サラエボ事件", "paragraphs": [ { "context": "サラエボ事件(サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者(推定相続人)であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件である。プリンツィプは、大セルビア主義テロ組織「黒手組」の一員ダニロ・イリッチによって組織された6人の暗殺者(5人のボスニア系セルビア人と1人のボシュニャク人)のうちの1人だった。暗殺者らが語った動機は、のちに「青年ボスニア」として知られるようになった反オーストリア的革命運動と一致していた。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった。", "qas": [ { "question": "サラエボを訪問したフランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテクを暗殺したのは、誰なの?", "id": "tr-390-00-000", "answers": [ { "text": "ガヴリロ・プリンツィプ", "answer_start": 165, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテクが暗殺されたのは、いつのことですか?", "id": "tr-390-00-001", "answers": [ { "text": "1914年6月28日", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第一次世界大戦のきっかけとなった事件は、何か?", "id": "tr-390-00-002", "answers": [ { "text": "サラエボ事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第一次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国とどの国の間での葛藤から始まったか?", "id": "tr-390-00-003", "answers": [ { "text": "セルビア王国", "answer_start": 360, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1878年締結のベルリン条約により、オーストリア=ハンガリー帝国は(オスマン帝国に名目上の主権は残されたものの)ボスニアを占領し施政を行う権限を得た。同条約はさらに、セルビア公国が完全な主権国家としてオスマン帝国から独立することを承認していた。独立したセルビア公国では1882年にミラン・オブレノヴィチ4世がセルビア王ミラン1世として即位し、セルビア王国が成立した。セルビアの王家であるオブレノヴィッチ家はオーストリア=ハンガリーとの密接な関係を保ち、ベルリン条約によって定められた領土を統治することに満足していた。", "qas": [ { "question": "ベルリン条約が結ばれたのは、何年のことなの?", "id": "tr-390-01-000", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オーストリア=ハンガリー帝国がボスニアを占領し施政を行う権限を得たのは、何年のことでしたか?", "id": "tr-390-01-001", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セルビア公国をオスマン帝国から独立した完全な主権国家として認めた条約は、どれか?", "id": "tr-390-01-002", "answers": [ { "text": "ベルリン条約", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セルビア王国の初代王は、誰か?セルビア公としての名前ではなく、セルビア王としての名前で答えること。", "id": "tr-390-01-003", "answers": [ { "text": "ミラン1世", "answer_start": 159, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1903年5月、ドラグーティン・ディミトリエビッチ率いるセルビア軍士官の一派がセルビア王宮を襲撃したことで、その状況は変化した。セルビア王アレクサンダル1世と王妃ドラガは繰り返し銃で撃たれ殺害された。一説には、その後「王と王妃の亡骸は服を脱がされ、残忍に切り刻まれた」と言われている。襲撃者らは2人の死体を宮殿の窓から投げ捨て、王に忠実な勢力が反撃を試みる可能性を排除した。襲撃を計画した者たちは、カラジョルジェヴィチ家のペータル1世を新たなセルビア王に即位させた。", "qas": [ { "question": "ドラグーティン・ディミトリエビッチが軍隊を率いてセルビア王宮を襲撃したのは、いつのことなの?", "id": "tr-390-02-000", "answers": [ { "text": "1903年5月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のセルビア王と王妃が殺されたのは、いつの襲撃によることか?", "id": "tr-390-02-001", "answers": [ { "text": "1903年5月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレクサンダル1世とドラガを殺害したのは、誰か?", "id": "tr-390-02-002", "answers": [ { "text": "ドラグーティン・ディミトリエビッチ", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレクサンダル1世の後を継ぎ、セルビア王になったのは、誰か?", "id": "tr-390-02-003", "answers": [ { "text": "ペータル1世", "answer_start": 211, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "新しい王朝は以前よりもセルビア民族主義的かつ親露的であり、セルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国との関係は悪化した。1906年にはセルビアとオーストリア=ハンガリーとの間で関税戦争(一般に「豚戦争」と呼ばれる)が起こった。そして1908年にオーストリア=ハンガリーが、膨大なセルビア人人口を抱えるボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言すると、セルビアの政府と国民はこれに強く反発し、オーストリアに対する感情を極端に悪化させた。", "qas": [ { "question": "セルビアとオーストリア=ハンガリーの間で関税戦争が起こったのは、いつのことなの?", "id": "tr-390-03-000", "answers": [ { "text": "1906年", "answer_start": 60, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーストリア=ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言したのは、何年のことですか?", "id": "tr-390-03-001", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書では、セルビアとどの国の間で生じた葛藤のことを説明しているか?", "id": "tr-390-03-002", "answers": [ { "text": "オーストリア=ハンガリー", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストリア=ハンガリーに対する、セルビアの政府と国民の反感が極端に至ったのは、何年の事件によることか?", "id": "tr-390-03-003", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1912年10月に勃発した第一次バルカン戦争において、セルビア王国を含むバルカン同盟はオスマン帝国に勝利し、バルカン半島におけるオスマン帝国の旧支配地域を獲得した。1913年6月に始まった第二次バルカン戦争ではそれらの地域の領有を巡り元同盟国のブルガリア王国と対決して勝利し、セルビアはコソボと北マケドニアの領有を確定させた。2つのバルカン戦争の結果、セルビアの領土面積は戦前の1.8倍となり、総人口も300万人から450万人に増加した。", "qas": [ { "question": "第一次バルカン戦争の勃発年度は?", "id": "tr-390-04-000", "answers": [ { "text": "1912年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第一次バルカン戦争では、バルカン同盟とどの国が戦いましたか?", "id": "tr-390-04-001", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第一次バルカン戦争で敗戦国となったのは、どの国か?", "id": "tr-390-04-002", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第二次バルカン戦争は、いつ起こった戦争であるか?", "id": "tr-390-04-003", "answers": [ { "text": "1913年6月", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1914年までの5年間、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアにおいて、単独犯の暗殺者(主にセルビア人)がオーストリア=ハンガリー帝国官吏の暗殺を試み、失敗するという事件が多数発生していた。1910年6月3日、「青年ボスニア」の参加者であるボグダーン・ツェラジッチは、当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督マリヤン・ヴァレシャニンの暗殺を試みたが、失敗に終わった。22歳のツェラジッチは、正教会を信仰するヘルツェゴビナ出身のセルビア人で、ザグレブ大学法学部の学生でもあり、頻繁にベオグラードを訪れていた。ツェラジッチはヴァレシャニンに向けて5発の弾丸を発射した後、自らの頭部を撃って自殺しており、その行為はガヴリロ・プリンツィプのような未来の暗殺者にインスピレーションを与えた。プリンツィプはのちに、ツェラジッチは「私が最初に模範とした人物であり、私が17歳の時、彼の墓の前で何度も夜を過ごし、彼のことを考え、また惨めな現状を思い返した。そして墓の前で、私もいずれは暴力的な手段に訴えることを決めた」と語った。", "qas": [ { "question": "1910年6月3日、ボグダーン・ツェラジッチは、誰の暗殺を試みたが、失敗に終わったか?", "id": "tr-390-05-000", "answers": [ { "text": "マリヤン・ヴァレシャニン", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボグダーン・ツェラジッチは、どの団体に属する人だったの?", "id": "tr-390-05-001", "answers": [ { "text": "「青年ボスニア」", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "暗殺者からマリヤン・ヴァレシャニンの命が狙われたのは、いつのことですか?", "id": "tr-390-05-002", "answers": [ { "text": "1910年6月3日", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マリヤン・ヴァレシャニンの命を狙った暗殺者は、どこ出身の者だったか?", "id": "tr-390-05-003", "answers": [ { "text": "ヘルツェゴビナ", "answer_start": 200, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1913年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は大公フランツ・フェルディナントに対し、1914年6月に予定されているボスニアでの軍事演習を視察するよう命令した。大公とその妻ゾフィーは、演習の後にサラエボを訪問し、そこに新設される国立博物館の開館に立ち会うことを計画した。大公夫妻の長男マクシミリアン・ホーエンベルクによると、ゾフィーが視察旅行に同行したのは夫の安全を危惧してのことだった。", "qas": [ { "question": "フランツ・フェルディナントが皇帝から視察を命じられたのは、いつ行われる予定のボスニアでの軍事演習だった?", "id": "tr-390-06-000", "answers": [ { "text": "1914年6月", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のオーストリア皇帝には、誰がついていましたか?", "id": "tr-390-06-001", "answers": [ { "text": "フランツ・ヨーゼフ1世", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・フェルディナントがサラエボを訪問したのは、いつ行われたボスニアでの軍事演習の視察を終えたからのことか?", "id": "tr-390-06-002", "answers": [ { "text": "1914年6月", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランツ・フェルディナントの長男の名を答えなさい。", "id": "tr-390-06-003", "answers": [ { "text": "マクシミリアン・ホーエンベルク", "answer_start": 144, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ゾフィーは貴族出身ではあったが王族出身ではなく、ハプスブルク家の皇位継承者であるフランツ・フェルディナントとの結婚は貴賤結婚となった。皇帝フランツ・ヨーゼフは、2人の間に生まれた子孫が皇位を継がないことを条件として結婚を承認していた。視察が予定されている6月28日は2人の14回目の結婚記念日であった。", "qas": [ { "question": "ここで名前が登場する人物のうち、王族出身ではないのは、誰なの?", "id": "tr-390-07-000", "answers": [ { "text": "ゾフィー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランツ・フェルディナントは、ゾフィーと結婚する代わりに、何を放棄したとも見られますか?", "id": "tr-390-07-001", "answers": [ { "text": "皇位継承", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ここで名前が登場する人物のうち、ハプスブルク家のものではないのは、誰か?", "id": "tr-390-07-002", "answers": [ { "text": "ゾフィー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランツ・フェルディナントとゾフィーは、何月何日に結婚したか?", "id": "tr-390-07-003", "answers": [ { "text": "6月28日", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1914年6月28日の朝、大公フランツ・フェルディナントとその一行は列車に乗り、イリジャ・スパからサラエボまで移動した。ボスニア・ヘルツェゴビナ総督オスカル・ポティオレクは、サラエボ駅で一行を出迎えた。駅には6台の自動車が待っていた。手違いにより、先頭車両には特別警備の隊長と共に3人の地元警察官が乗り込んでしまい、隊長に同行するはずだった特別警備隊員らは取り残された。2台目の車両にはサラエボの市長と警察署長が乗り込んだ。3台目の車両はオープンカーのグラーフ&シュティフト28/32PSで、屋根(ほろ)は折りたたまれていた。この3台目の車には、大公夫妻とポティオレク、フランツ・フォン・ハラック伯爵の4人が乗り込んだ。予告されていたプログラムによれば、6台の自動車はまず最初に駐留軍の兵舎を訪れ、簡単な視察を済ませた後、午前10時00分に兵舎を出発し、アペル・キー(AppelQuay)と呼ばれる川沿いの道を通ってサラエボ市庁舎に向かうことになっていた。", "qas": [ { "question": "フランツ・フェルディナントとその一行がオスカル・ポティオレクと会ったのは、どこでなの?", "id": "tr-390-08-000", "answers": [ { "text": "サラエボ駅", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・フェルディナントとその一行がサラエボへの列車に乗ったのは、いつのことですか?", "id": "tr-390-08-001", "answers": [ { "text": "1914年6月28日の朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "6台の車列はミリャツカ川沿いの通り(アペル・キー)に入り、1人目の暗殺者ムハメド・メフメドバシッチの前を通過した。暗殺者グループを率いるダニロ・イリッチは、メフメドバシッチを爆弾で武装させ、モスタール・カフェ(MostarCafe)に隣接する庭の前に立たせていたが、メフメドバシッチが行動を起こせないまま車列は通り過ぎた。イリッチはヴァソ・チュブリロヴィッチにピストルと爆弾を持たせ、メフメドバシッチの隣に配置していたが、チュブリロヴィッチもまた何もできなかった。通りのさらに先には、爆弾を持った3人目の暗殺者ネデリュコ・チャブリノヴィッチが、失敗した2人とは反対側(ミリャツカ川側)に配置されていた。", "qas": [ { "question": "この文書で登場する3人の暗殺者が共通して所持していたのは、何?", "id": "tr-390-09-000", "answers": [ { "text": "爆弾", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最も前のところに配置された暗殺者は、誰でしたか?", "id": "tr-390-09-001", "answers": [ { "text": "ムハメド・メフメドバシッチ", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "暗殺者グループのリーダーは、誰だったか?", "id": "tr-390-09-002", "answers": [ { "text": "ダニロ・イリッチ", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書で登場する3人の暗殺者のうち、ピストルを所持していたのは、誰だけか?", "id": "tr-390-09-003", "answers": [ { "text": "ヴァソ・チュブリロヴィッチ", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "午前10時10分、大公夫妻を乗せた車が接近し、チャブリノヴィッチは爆弾を投げつけた。爆弾はオープンカーの折りたたまれていた幌に当たって跳ね返り、路上に落ちた。爆弾は時限起爆装置によって後続車の下で爆発し、車は破壊されて走行不能となり、16–20名が負傷した。この爆発は直径30cm、深さ170mmのクレーターを残した。チャブリノヴィッチは自決用の毒薬(シアン化物)を飲み込み、ミリャツカ川に身を投げたが、古く劣化していた毒薬は嘔吐を引き起こしただけで、暑く乾燥した夏のために川の水深はわずか13cmであり、自殺は未遂に終わった。チャブリノヴィッチは警察によって川から引きずり出され、拘留される前に群衆から激しい暴行を受けた。", "qas": [ { "question": "チャブリノヴィッチが投げつけた爆弾が爆発し、16名から何名までも負傷を負ったの?", "id": "tr-390-10-000", "answers": [ { "text": "20名", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チャブリノヴィッチは暗殺を成し遂げた後、自決するために、何を所持していましたか?", "id": "tr-390-10-001", "answers": [ { "text": "毒薬", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "破壊された車両を置き去りにして、残った5台の車両はスピードを上げ、市庁舎に向かって走り去った。ツヴィエトコ・ポポヴィッチ、ガヴリロ・プリンツィプ、トリフコ・グラベジュの3人は、スピードを上げた車列が目の前を高速で通過したため、行動を起こせなかった。", "qas": [ { "question": "爆発に巻き込まれた一台は置き去りにして、残りの5台は、どこに向かい、速度を上げたか?", "id": "tr-390-11-000", "answers": [ { "text": "市庁舎", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "暗殺のために市庁舎までの道に待機していた暗殺者は、何人だったか?", "id": "tr-390-11-001", "answers": [ { "text": "3人", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大公フランツ・フェルディナントを乗せた車はサラエボ市庁舎に到着し、大公は市庁舎内で予定されていた歓迎式に参加したが、彼は直前に遭遇した出来事によるストレスを隠せない様子だった。大公はフェヒム・クルチッチ市長による歓迎のスピーチを途中でさえぎると、「市長殿、私はここに来るやいなや爆弾で出迎えられたぞ。一体どうなっているんだ」と言って抗議した。その後、妻ゾフィーは大公の耳に何かささやいた。そしてしばらくして、大公は市長に「もう良い、話を続けなさい」と告げた。この時までに大公は落ち着きを取り戻しており、市長は無事にスピーチを終えた。続いて大公がスピーチを行う番となったが、彼のスピーチ原稿は爆弾で走行不能となった車両に積まれていたため、原稿が市庁舎に届けられるまでに時間がかかり、ようやく届いた原稿は負傷者の血で濡れていた。大公は用意された原稿に、当日の出来事についての発言をいくつか付け加え、サラエボの人々の歓迎には「暗殺の試みが失敗したことへの歓喜が表れている」として感謝の意を述べた。", "qas": [ { "question": "当時のサラエボ市の市長は、誰だったの?", "id": "tr-390-12-000", "answers": [ { "text": "フェヒム・クルチッチ", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "市庁舎への移動中に遭った暗殺の試みから逃げ切ったフランツ・フェルディナントは、サラエボ市長に何と言って抗議しましたか?", "id": "tr-390-12-001", "answers": [ { "text": "「市長殿、私はここに来るやいなや爆弾で出迎えられたぞ。一体どうなっているんだ」", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大公夫妻に同行していた者たちは、次に何をすべきかについて議論した。大公の侍従であるルメルスキルヒ男爵は、兵士らが市内に到着して警備の体制を整えるまで、大公夫妻は市庁舎を離れるべきではないと提案した。オスカル・ポティオレク総督は、演習から直接やって来る兵士はそのような任務にふさわしい礼装を着ていないとして、この提案を拒絶した。ポティオレクは、「サラエボは暗殺者だらけとでもお思いですか?」と言って議論を終わらせた。", "qas": [ { "question": "大公夫妻を一旦市庁舎に待機させ、市内の警備体制が整ってから動くことを提案したのは、誰か?", "id": "tr-390-13-000", "answers": [ { "text": "ルメルスキルヒ", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルメルスキルヒの提案を拒絶したのは、誰だったか?", "id": "tr-390-13-001", "answers": [ { "text": "オスカル・ポティオレク", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フランツ・フェルディナントとゾフィーは予定していた計画を諦め、先ほどの暗殺未遂による負傷者を見舞うためサラエボ病院を訪問することを決めた。午前10時45分、大公夫妻は市庁舎を出て車列に戻り、再び3台目の車に乗り込んだ。夫妻の安全を確保するため、ポティオレク総督は一行の予定されていた走行ルートを変更し、混雑した街の中心部を避け、病院までアペル・キーをまっすぐ進ませることに決めていた。しかし、ポティオレクは各車両の運転手に走行ルートの変更について伝達することに失敗した。歴史家ヨアヒム・レマクによれば、この混乱はポティオレクの補佐官メリッツィが先の暗殺未遂の負傷者に含まれており、入院中であったために引き起こされた。", "qas": [ { "question": "フランツ・フェルディナントとゾフィーの次の目的地は、どこに決まったの?", "id": "tr-390-14-000", "answers": [ { "text": "サラエボ病院", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポティオレクがルート変更について、全運転手に伝えられなかった理由について、メリッツィが先の暗殺未遂の負傷者に含まれたからであると述べたのは、誰ですか?", "id": "tr-390-14-001", "answers": [ { "text": "ヨアヒム・レマク", "answer_start": 238, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1917年の初め、オーストリア=ハンガリーとフランスの間で秘密裏に和平交渉が行われた。それと並行して、オーストリア=ハンガリーとセルビアの間でも和平交渉が行われていたという情況証拠が存在する。オーストリア皇帝カール1世は、テッサロニキに亡命中のセルビア政府にセルビアの領地を返還するにあたっての主な条件を提示し、セルビア政府は、以後オーストリア=ハンガリー帝国に対してセルビアからの政治的動揺がもたらされることはないと保証すべきであると要求した。", "qas": [ { "question": "オーストリア=ハンガリーとフランスの間で秘密裏に和平交渉が行われたのは、何年のことか?", "id": "tr-390-15-000", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーストリア=ハンガリーとセルビアの間で和平交渉が行われたのは、何年のことか?", "id": "tr-390-15-001", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ボンバルディアCRJ", "paragraphs": [ { "context": "ボンバルディアCRJ(BombardierCRJ)は、カナダのボンバルディア・エアロスペース社が製造・販売している双発ジェット旅客機の製品群であり、CRJファミリーあるいはCRJシリーズとも呼ばれる。CRJファミリーを構成する主要モデルは、胴体長が短い順にCRJ100/200、CRJ700、CRJ900、CRJ1000の4機種で、座席数や航続距離などが異なる細かい派生型が存在する。CRJは座席数は50から100席程度の小型ジェット旅客機であり、従来、ターボプロップ機(プロペラ機)が主流であった小需要・短距離の地域航空路線向けに開発された初めての「リージョナルジェット」である。最初のモデルCRJ100が1991年5月10日に初飛行してから2019年3月までにCRJファミリーで累計1,899機が納入されている。ボンバルディア社を世界第3位の航空機メーカーに押し上げた立役者のひとつとされ、1990年代から2000年代前半にかけて大成功したリージョナルジェットである2019年6月25日にボンバルディアは、CRJ事業を三菱重工に売却することで合意したことによりボンバルディアは、完全にリージョナル事業から撤退した。", "qas": [ { "question": "ボンバルディアCRJはどの国の会社が製造したものであるの?", "id": "tr-391-00-000", "answers": [ { "text": "カナダ", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "CRJファミリーを構成する主要モデルの中で、胴体が最も長いのは、何ですか?", "id": "tr-391-00-001", "answers": [ { "text": "CRJ1000", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CRJシリーズのうち、最も収容力の良い機種は、最大何席を用意している機種であるか?", "id": "tr-391-00-002", "answers": [ { "text": "100席", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジェット機はターボプロップ機に比べて高速で飛行し短時間で目的地に到達できるが燃料消費量が大きく機体価格も高くなることから、短距離路線においては経済性が悪くなる。この経済性の観点から地域航空(コミューター航空・リージョナル航空)路線ではターボプロップ機の方が適しているという考えが主流だった。ところが1970年代から1980年代にかけて米国で規制緩和が進み、地域航空で使用される機材が大型化するとともに、地域航空が発展するにつれて路線網が拡大され、より長い路線への需要が高まった。これらの背景から、地域航空の需要特性に合わせつつ高速性能や静粛性も備えたジェット旅客機が望まれるようになった。当時、ビジネスジェット機チャレンジャー600を製造していたカナダの航空機メーカーであるカナディア社は、同機の設計を流用して開発費を抑えることで低価格で経済的な小型ジェット旅客機を実用化できないか模索していた。この構想は具体化され、1987年にCRJファミリー最初のモデルであるCRJ100の基本設計が開始された。この時、カナディア社はボンバルディア社の傘下になっていたが、開発するモデルにはCRJ(CanadairRegionalJet;カナディア・リージョナル・ジェット)とカナディアの名前が残された。", "qas": [ { "question": "短距離路線においてジェット機が向いてないとされた理由は、何が悪いからか?", "id": "tr-391-01-000", "answers": [ { "text": "経済性", "answer_start": 71, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "CRJファミリー最初のモデルは、どの機種の設計をもとにして開発されたものなの?", "id": "tr-391-01-001", "answers": [ { "text": "チャレンジャー600", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "CRJファミリー最初のモデルの基本設計が開始されたのは、いつですか?", "id": "tr-391-01-002", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 409, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "CRJ100の胴体断面はチャレンジャーの設計が流用されたが、主翼は新規設計された。翌1988年に機体全体の基本仕様がまとめられ、1989年3月に製造計画が正式に進められることになった。さらに、1990年10月には航続距離を延ばした派生型のCRJ100ERが発表され、標準型と平行して開発されることになった。CRJ100の初飛行は1991年5月10日で、その後、約1年3か月にわたる試験を経て、1992年7月にカナダの型式証明を取得した。続いて、1993年1月にはアメリカの連邦航空局とドイツ連邦航空局(LBA)の型式証明も交付された。初就航はドイツのルフトハンザ・シティーラインにより1992年11月に行われた。CRJ200は、CRJ100のエンジンをゼネラル・エレクトリックのCF34-3B1に変更したもので、1995年に発表された。CRJ200の最初の引き渡しはオーストリアのチロリアン航空に対して1996年1月に行われた。生産227号機以降はCRJ200を標準型として生産されている。", "qas": [ { "question": "CRJ100の派生型の開発が発表されたのは、いつ?", "id": "tr-391-02-000", "answers": [ { "text": "1990年10月", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カナダとアメリカのうち、CRJ100はどの国から型式証明をより早く取得しましたか?", "id": "tr-391-02-001", "answers": [ { "text": "カナダ", "answer_start": 204, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1995年からは、リージョナルジェット市場の成長に対応するため、CRJ100/200の胴体を延長した機体(計画名はCRJ-X)の検討がすすめられた。CRJ-Xの基本仕様は1996年に確定され、1997年にボンバルディア社の役員会の承認が下りて正式に製造計画が進められることになった。その後、CRJ-Xは客席数が70席程度であることにちなんでCRJ700と命名され、1999年5月27日に初飛行した。飛行試験と地上試験が重ねられて2000年12月にカナダの型式証明が交付され、翌2001年1月にはイタリアとフランスの所管当局から、同年2月にはFAAからも型式証明が交付された。顧客への引き渡しは、2002年2月にフランスの航空会社ブリテールに対して行われたのが最初である。", "qas": [ { "question": "1995年から検討がすすめられた、CRJ100/200の胴体を延長した機体とは、座席数が何席程度の機種か?", "id": "tr-391-03-000", "answers": [ { "text": "70席", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランスの所管当局とFAAのうち、CRJ700はどこから型式証明がより早く交付されたか?", "id": "tr-391-03-001", "answers": [ { "text": "フランスの所管当局", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ボンバルディア社は1999年10月にCRJ700の胴体をさらに延長した機体の開発計画を発表した。2000年3月には客室モックアップが完成し、2000年7月のファーンボロー国際航空ショー期間中に計画が公にされた。このモデルは標準的な客席数が90席であることからCRJ900と名付けられた。CRJ900試作機の初飛行は2001年2月21日であるが、この時の試作機はCRJ700試作機の胴体のみを延長したものであり、最初からCRJ900として製造された機体の初飛行は2001年10月20日であった。その後、各種試験が進められ、2002年9月にカナダの型式証明が交付され、続いて同年10月にFAAから、11月にはイタリアの当局から型式証明が交付された。顧客への最初の引き渡しは2003年2月、相手はアメリカのメサ航空だった。さらに、CRJ900のフレームを使用しつつ座席を減らすことで客室にゆとりを持たせたモデルがCRJ705として開発され、2005年5月にカナダとFAAの型式証明を取得し、同年11月には欧州航空安全機関の型式証明も得た。", "qas": [ { "question": "1999年10月に開発計画を発表されたCRJ700の胴体を延長した機体とは、いくつの座席数を有する機種なの?", "id": "tr-391-04-000", "answers": [ { "text": "90席", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "FAAとイタリアの航空局のうち、CRJ900に対する型式証明の交付がより早かったのは、どこですか?", "id": "tr-391-04-001", "answers": [ { "text": "FAA", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CRJ900をもとにしつつ座席を減らした機種の名称は何か?", "id": "tr-391-04-002", "answers": [ { "text": "CRJ705", "answer_start": 403, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "CRJ700、CRJ900の開発・製造には日本の三菱重工業も参加し、胴体後部とエンジンパイロンの設計と製造を担当した。しかし、その後、三菱重工はボーイング787の開発計画にも参画することになり開発・生産のリソースをボーイング787に集中する必要があるとの理由で、ボンバルディア社との製造契約を解消することが2008年2月に発表された。なお、この提携解消に関しては、発表の翌月に三菱重工が事業化を決定したMRJ(現:MitsubishiSpaceJet)との競合を避けるためとの見方もある。", "qas": [ { "question": "三菱重工業は、結局ボーイング787とCRJ700、CRJ900のうち、どの開発計画だけに参画することにしたの?", "id": "tr-391-05-000", "answers": [ { "text": "ボーイング787", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "CRJファミリーの相次ぐ実用化により、ボンバルディア社はリージョナルジェット市場の開拓に成功した。しかし、CRJに続いてブラジルのエンブラエル社からERJやE-Jetといったライバル製品が市場に投入され、ビジネスジェット機から派生したCRJ100の設計を基本的に踏襲しているCRJファミリーは時代とともに見劣りするようになった。そこで、ボンバルディア社は、新規設計のCシリーズの開発を進めるとともに、CRJファミリーの設計を見直すことを決めた。このCRJの改良版は“NextGen”と名付けられ、2007年5月に発表された。NextGenファミリーで最初に公開されたのはCRJ900NextGenで、2007年6月のパリ航空ショーでのことだった。同月には顧客への初引き渡しがアメリカのノースウェスト・エアリンクに対して行われた。NextGenの登場後には、CRJ700とCRJ900の生産はNextGenに移行された。また、CRJ100/200にはNextGenモデルは開発されていないが、新規生産時や機体改修時にNextGenの構成要素をオプションとして追加することも可能とされている。", "qas": [ { "question": "NextGenファミリーの開発とともに開発が進められた新規設計は、何シリーズと呼びますか?", "id": "tr-391-06-000", "answers": [ { "text": "Cシリーズ", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "CRJ900NextGenの顧客への初引き渡しは、何年何月に行われたか?", "id": "tr-391-06-001", "answers": [ { "text": "2007年6月", "answer_start": 300, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "NextGenの登場に伴い、生産されなくなった機種は、CRJ700と何か?", "id": "tr-391-06-002", "answers": [ { "text": "CRJ900", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "CRJファミリー中で最大のモデルとなるCRJ1000NextGenは、2007年2月に計画名CRJ900Xとして開発が公式に開始された。CRJ900X試作機の初飛行は2008年9月であったが、このときの機体はCRJ900試作機を再改造して作られたものであった。CRJ1000NextGenとして製造された機体の初飛行は2009年7月に行われた。その後、飛行試験などが進められたが、飛行操縦ソフトウェアに問題が発見されるなどの理由で試験期間が延長された。それによって引き渡し開始時期もたびたび延期されたが、2010年11月にカナダとEASAの型式証明を取得、同年12月にはFAAの型式証明も得た。同12月にはスペインのエア・ノストラムとフランスのブリテールに対して引き渡しが行われた。2019年3月までにCRJファミリーで累計1,899機が納入されている。", "qas": [ { "question": "CRJ1000NextGenに対する型式証明の交付がより早かったのは、EASAとFAAのうち、どこなの?", "id": "tr-391-07-000", "answers": [ { "text": "EASA", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "EASAとFAA、カナダのうち、CRJ1000NextGenに対する型式証明の交付が最も遅かったのは、どこか?", "id": "tr-391-07-001", "answers": [ { "text": "FAA", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "本節では、ファミリー全体に共通する特徴を述べる。各モデルごとの特徴は、#ファミリー構成・派生型を参照のこと。CRJは、低翼配置の後退翼を主翼に持つ単葉機で、機体後部に装備された2発のターボファンエンジンとT字尾翼を持つ旅客機である。主翼の設計はモデルによって部分的に異なるが、全モデルに共通して主翼端にウイングレットが装備されている。客室内は通路が1本のナローボディ機で、エコノミークラスの座席配置は通路を挟んで2+2席、ビジネスクラスでは1+2席の配置である。座席頭上には手荷物入れが備えつけられている。乗降ドアは胴体前方の左舷に設置され、当機体に対応したタラップやボーディングブリッジを備えていない空港で乗降を行えるように、階段が内蔵されている。非常口は、客室左右の両側の主翼の上にあたる位置に設けられている。胴体後部には大型手荷物を収納するスペースがあり、そこにアクセスするためのドアが胴体後部の左側に設置されている。", "qas": [ { "question": "CRJファミリーは、通路を何本持っていますか?", "id": "tr-391-08-000", "answers": [ { "text": "1本", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、CRJファミリーの何について説明しているか?", "id": "tr-391-08-001", "answers": [ { "text": "ファミリー全体に共通する特徴", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "CRJファミリーは、エコノミークラスのほかに、どのクラスを有しているか?", "id": "tr-391-08-002", "answers": [ { "text": "ビジネスクラス", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "コックピットは、ロックウェル・コリンズ社のシステムを採用して6台のカラーブラウン管を備えたグラスコックピットとなっている。標準搭載されている主要な操縦システムとしては、二重化された自動操縦装置をはじめ、対地接近警報装置、ウインドシア探知装置、デジタル気象レーダー、空中衝突防止装置、フライト・データ・レコーダーなどがあげられる。また、オプションとしてカテゴリーIIIa条件下で着陸が可能な計器着陸装置なども用意されている。CRJはビジネスジェット機チャレンジャーの設計を流用して開発され、胴体断面をそのままに胴体長を延ばすことでラインナップの拡充が進められた。FAAやEASAの型式証明書でもチャレンジャーの派生型と位置付けられており、証明書中のモデル名はチャレンジャーと同じくCL-600-XXXXである(XXXXには機種ごとに数字とアルファベットが割り振られている)。ビジネスジェット機からの設計流用・拡張により、開発費が低減されるとともに、各モデルの共通性が高いという点も評価され、顧客である航空会社に広い選択肢を提供することができた。しかし、チャレンジャーは当時のビジネスジェットとしては太い胴体であったが、客室内の改良による寸法拡大には限界があり、はじめからリージョナル旅客機として設計され、広い胴体断面を持つエンブラエルE-Jetシリーズが登場したことで、市場競争力が低下した。", "qas": [ { "question": "FAAやEASAの型式証明書でCRJは、何と位置付けられていますか?", "id": "tr-391-09-000", "answers": [ { "text": "チャレンジャーの派生型", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "CRJファミリーのコックピットシステムはどうなっているの?", "id": "tr-391-09-001", "answers": [ { "text": "グラスコックピット", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "何の登場により、CRJファミリーの市場競争力が低下したか?", "id": "tr-391-09-002", "answers": [ { "text": "エンブラエルE-Jetシリーズ", "answer_start": 560, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "CRJは何の設計を流用して開発されたか?", "id": "tr-391-09-003", "answers": [ { "text": "ビジネスジェット機チャレンジャー", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "CRJファミリーは胴体長の違いで分類すると、CRJ100/200、CRJ700、CRJ900、CRJ1000の4種類に分けられる。本節ではこの4種類を基本的な枠組みとして、細かい派生型やNextGenへの改良点についても述べる。CRJ100はCRJの最初のモデルで、標準座席数はファミリー最小の50席である。設計のベースとしたチャレンジャーと共通の胴体断面を用いており、床面幅もチャレンジャーと同一の2.18mだが、客室の居住性向上を図るために内装の設計が見直されて、最大幅が2.49メートルから2.57メートルに拡大された。エンジンはGEのCF34-3A1を搭載する。CRJ200は、CRJ100のエンジンをGEのCF34-3B1に置き換えたものであり、エンジン以外はCRJ100と同じで、座席数も50席である。エンジンの変更により、燃費が向上し、離陸重量、巡航高度と巡航速度性能も増加した。CRJ200登場後は200を標準モデルとして生産されている。", "qas": [ { "question": "胴体長の違いでCRJファミリーを分類した時、CRJ100と合わせて分類されるのは、何?", "id": "tr-391-10-000", "answers": [ { "text": "CRJ200", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "CRJ100とともに最も少ない標準座席数を有する機種は、何ですか?", "id": "tr-391-10-001", "answers": [ { "text": "CRJ200", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "CRJ100/200の派生型には、主翼中央に燃料タンクを増設して航続距離を伸ばしたER型があり、CRJ200にはさらに距離を延長したLR型がある。また、CRJ200の標準型、ER型、LR型には、高温・高地対応型のエンジンに置き換えたモデルCRJ200B、200BER、200BLRも存在する。座席数が異なる派生型としては、CRJ200の標準座席数を44席に減らしてCRJ440と名付けられたモデルが生産されており、2002年1月からノースウェスト航空に86機納入された。さらに、CRJ200には貨物型も存在し、CRJ200パッケージフレイター(CRJ200PF)と呼ばれる。CRJ200LRの機体フレームに貨物用のドアを追加するなどの改修を加えたモデルである。日本ではジェイエアとアイベックスエアラインズが導入したが、先ずアイベックスエアラインズではCRJ700の増備に伴い、2017年9月27日で完全退役した。ジェイエアでもエンブラエル190の導入で退役が決定。同年12月に退役記念チャーターを行い、2018年1月に全機退役となった。これにより同機は日本の空から姿を消した。", "qas": [ { "question": "CRJ200の標準型のエンジンを高温・高地対応型のエンジンに置き換えたモデルは、何か?", "id": "tr-391-11-000", "answers": [ { "text": "CRJ200B", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ER型とLR型のうち、航続距離がより長いのは、何?", "id": "tr-391-11-001", "answers": [ { "text": "LR型", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CRJ100とCRJ200のうち、LR型と呼ばれる派生型がないのは、何か?", "id": "tr-391-11-002", "answers": [ { "text": "CRJ100", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "CRJ700は70席クラスの機体である。CRJ200から胴体断面はそのままに胴体長が4.72m延ばされ、圧力隔壁の位置を1.29メートル後方に移動したことで、客室と貨物室容量が増加した。また、客室床の位置を下げて客室天井高を上げるとともに窓位置を上げることで客室環境を向上させたほか、CRJ200には無かった床下の荷物室も確保された。主翼はCRJ200と同じ翼型であるが、翼の付け根部分に挿入部を追加して翼幅が合計1.83メートル拡大された。また、運用重量増加に対応するためスラットが追加されたことで前縁部が延長された。エンジンもCRJ200から変更され、パイロンも強化された。CRJ700の初期型はGEのCF34-8C1エンジンを採用していたが、NextGenではGECF34-8C5に置き換えられている。", "qas": [ { "question": "CRJ700では何の位置を移動させて客室と貨物室の容量を増加させたの?", "id": "tr-391-12-000", "answers": [ { "text": "圧力隔壁", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "CRJ700の初期型とNextGenの両方ともどの会社制のエンジンを採用しましたか?", "id": "tr-391-12-001", "answers": [ { "text": "GE", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "CRJ700は、座席数の違いによりCRJ700(68席)、CRJ701(71席)、CRJ702(72-78席)、CRJ705(CRJ900のフレームを使用して2クラスで70-75席)という細かいバリエーション展開がなされているが、これらを総称してCRJ700と呼ばれる。CRJ700にも航続距離を延長したER型とLR型が設定されている。CRJ700のNextGenへの改良では、主に客室の改善と機体軽量化が行われた。客室の改良点としては、窓の大型化、頭上の荷物入れの大型化、LED照明の採用、側壁と天井パネルの再設計などがあげられる。機体軽量化の面では、機体構造にレジントランスファーモールディング(RTM)と呼ばれる複合材料の成形法が採用された。日本ではアイベックスエアラインズが唯一、同機を保有している。", "qas": [ { "question": "CRJ700と総称されている機種らのうち、最も座席数が多いのは、細かく言うと何と呼ばれるか?", "id": "tr-391-13-000", "answers": [ { "text": "CRJ705", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CRJ701とCRJ702のうち、収容力がより高いのは、何か?", "id": "tr-391-13-001", "answers": [ { "text": "CRJ702", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ER型とLR型とは、何において改良を行った機種をいうのか?", "id": "tr-391-13-002", "answers": [ { "text": "航続距離", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2019年2月、CRJ700を元に新しく「CRJ550」という型式を製造し、ユナイテッド航空がファースト10席、プレミアム・エコノミー20席エコノミー20席の合計50席3クラス仕様で発注し、ユナイテッド・エクスプレスを運航しているゴージェット(GoJet)で2019年末までに就航予定と発表した。同型機は米国内運航時適用される、労使協定条項(スコープ・クローズ)制限の一つである最大離陸重量8万6000ポンド(約39トン)を元になるCRJ700はクリアしているため、ボンバルディアは北米市場で700機超が運航されている50席規模の更新機として適しているとして2019年上半期に型式証明取得予定とした。", "qas": [ { "question": "ユナイテッド航空が発注したCRJ550の仕様では、エコノミーとプレミアム・エコノミー、ファーストのうち、どのクラスに当たる座席が最も少ないの?", "id": "tr-391-14-000", "answers": [ { "text": "ファースト", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CRJ550に対して、ユナイテッド航空は何席何クラス仕様で発注しましたか?", "id": "tr-391-14-001", "answers": [ { "text": "50席3クラス", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "CRJ900は90席クラスの機体である。CRJ700の胴体を主翼の前後でそれぞれ延長し、重量増加に対応するためエンジンはGE製CF34-8C5を使用している。また、降着装置、ブレーキ、主翼構造がCRJ700から強化された。CRJ900にも航続距離を延長したER型とLR型が設定されている。また、NextGenへのアップグレードでは、CRJ700と同様の改良内容が施された。CRJ1000NextGenは100席クラスの機体である。CRJ900の胴体を主翼の前後で延長して、主翼の翼幅と面積も拡大、エンジンはGE製CF34-8C5A1に変更された。CRJ1000はNextGen発表後に市場投入されたため、従来モデルは存在しない。CRJ1000には派生型として、最大離陸重量が異なる軽量型のEL型と重量増加型のER型が存在する。標準型と派生型の最大離陸重量の違いは基本的に燃料搭載量の違いによるもので、EL、標準型、ERの順に航続距離が長くなる。", "qas": [ { "question": "CRJ700の胴体を主翼の前後でそれぞれ延長したモデルである、CRJ900のエンジンとしてGE製CF34-8C5が採用されたのは、何に対応するためだったか?", "id": "tr-391-15-000", "answers": [ { "text": "重量増加", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "CRJ900とCRJ1000NexGenのうち、より多くの座席数を有する機種は何?", "id": "tr-391-15-001", "answers": [ { "text": "CRJ1000NextGen", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CRJ1000NextGenがもとにしている機種は、どの機種をもとにして開発されましたか?", "id": "tr-391-15-002", "answers": [ { "text": "CRJ700", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "標準型とEL、ERのうち、航続距離が最も短いのは、どれか?", "id": "tr-391-15-003", "answers": [ { "text": "EL", "answer_start": 400, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "北米や欧州でCRJを運用している航空会社は、主に地域航空会社(コミューター航空会社またはリージョナル航空会社)と呼ばれ、幹線路線を補完する小需要路線の運航を主に行っている。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件後には航空旅客需要が落ち込み、大手航空会社が経営不振や破綻に陥ったため、中大型ジェット機よりも経済的でターボプロップ機よりも高速で航続距離が長いというリージョナルジェットの特性を活かした地域航空会社の路線拡大が進んだ。2019年3月31日時点で、CRJファミリーで累計1,899機が納入されている。2018年末時点の統計によると、1,265機のCRJファミリーが運用されている。モデルごとの運用数は、CRJ100/200が504機、CRJ700が274機、CRJ900が425機、CRJ1000が62機である。全体の約7割にあたる928機が北米の航空会社で運用されている。2018年7月時点の統計によると、運用数首位はスカイウェスト航空でその数は300機を超える。続くエンデバー航空とPSA航空の各社でも100機以上が運用されている。", "qas": [ { "question": "2018年末時点のCRJファミリーのモデルごとの運用数を比較した時、運用数が最も少ないモデルは何か?", "id": "tr-391-16-000", "answers": [ { "text": "CRJ1000", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2018年末時点の統計によると、CRJ700とCRJ900のうち、より多く運用されているモデルは何か?", "id": "tr-391-16-001", "answers": [ { "text": "CRJ900", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CRJシリーズにおける最大運用者とは、どの地域の航空会社でありますか?", "id": "tr-391-16-002", "answers": [ { "text": "北米", "answer_start": 379, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2018年7月時点の統計によると、CRJシリーズの最大運用者は、何機を運用しているの?", "id": "tr-391-16-003", "answers": [ { "text": "300機", "answer_start": 432, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "地域別で2番目に運用機数が多いのは欧州(CIS地域を除く)で146機である。こちらは、北米ほどの大量運用を行っている会社はないが、20機以上を就航させている会社としてドイツのルフトハンザ・シティーライン、スペインのエア・ノストラム、フランスのオップ!、スカンジナビア航空がある。CIS地域では54機が運用されている。上記以外の地域については、日本を含むアジア、中東、南アメリカ、アフリカにおいて、複数の航空会社によりそれぞれ数機から10機程度ずつ運用されており、分布に偏りはあるが、世界の広い範囲でCRJファミリーが運航されている。日本では日本航空子会社のジェイエアがCRJ200を9機保有、アイベックスエアラインズがCRJ100/200/700を9機運航していたが、2018年1月31日をもってCRJ100/200シリーズは全機退役した。2018年11月末現在、CRJ700を10機で運航している。日本における総販売代理店は総合商社の双日がつとめている。", "qas": [ { "question": "ジェイエアとアイベックスエアラインズのうち、CRJ100/200シリーズが全機退役する前にCRJ200をより多く保有していたのは、どの会社なの?", "id": "tr-391-17-000", "answers": [ { "text": "ジェイエア", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "運用されているCRJシリーズの機数がより少ないのは、CIS地域とCIS地域を除いたヨーロッパのうち、どの地域ですか?", "id": "tr-391-17-001", "answers": [ { "text": "CIS地域", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2018年1月31日をもって保有しているCRJ200の9機全機が退役した航空会社の親会社は、どの会社か?", "id": "tr-391-17-002", "answers": [ { "text": "日本航空", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルフトハンザ・シティーラインはCRJシリーズを何機以上就航させているか?", "id": "tr-391-17-003", "answers": [ { "text": "20機", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "帯広市図書館", "paragraphs": [ { "context": "帯広市図書館(おびひろしとしょかん)は、北海道帯広市にある公共図書館である。\n帯広市では、市中心部に図書館(以下、本館とする)を設置し、移動図書館を運営しているほか、市内のコミュニティ施設等に図書室・図書コーナーを開設している。\n帯広市図書館のルーツは、1907年に当時の帯広町民が始めた巡回文庫とされる。\n1916年に町民有志の資金により図書館が建設された後、1920年に施設と蔵書が帯広町に寄付されたことで「町立大典記念帯広図書館」が発足した。\nその後、公民館図書館として業務が行われ、数度の移転を経て施設、蔵書、サービスの拡充が進み、1963年に図書館法に基づき「帯広市図書館」として独立した。\n1964年に自動車文庫が開始され、1968年に本館が新築された。\n時代が平成に入ると施設の老朽化や狭あい化が目立つようになり、帯広駅の南隣に位置する現在地に2006年に新築移転した。\n運営は帯広市による直営とし、「市民と一緒につくる図書館」を合言葉に掲げ、地元住民や団体からの寄付などを通じた財政的支援とボランティアによる人的支援が熱心に行われている。\n運営方針に『「十勝圏の拠点図書館」としての役割』、『ソフト施策の充実』、『市民との協働』を掲げ、帯広・十勝の情報発信・生涯学習の拠点の一つとして、地域住民に向けた図書館サービスの提供、子どもの読書活動を推進する活動、郷土文化の継承や地域の文芸振興に関する事業などを行っている。", "qas": [ { "question": "帯広市図書館の起源は何年に始まった巡回文庫からとされていますか?", "id": "tr-392-00-000", "answers": [ { "text": "1907年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「町立大典記念帯広図書館」は、後に独立して何になりましたか?", "id": "tr-392-00-001", "answers": [ { "text": "帯広市図書館", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "帯広市図書館で自動車文庫がスタートしたのはいつですか?", "id": "tr-392-00-002", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "帯広市図書館が現在地に移転したのはいつですか?", "id": "tr-392-00-003", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 379, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "帯広市図書館の歴史をさかのぼると、1907年(明治40年)に創設された十勝教育会が1913年(大正2年)に十勝教育会図書館を設立して管内の小学校に巡回文庫を実施したことから始まる。\n晩成社の開拓団27名による帯広の開拓が始まってから30年後のことで、図書の移動にはリヤカーを用いたとも伝えられる。\nまもなくして1916年(大正5年)に、当時の帯広町の町内有志から集められた資金により建物が新築され、十勝教育会が維持する大典記念帯広図書館が発足した。\nその後、管理上の問題から建物および図書が帯広町に寄付されることになり、1920年(大正9年)に町立大典記念帯広図書館として発足した。\n時代は昭和に入り1930年(昭和5年)になると建物の老朽化のため移転することになり、前年に建築された十勝会館へ入居した。", "qas": [ { "question": "巡回文庫で使用していた移動手段とは何?", "id": "tr-392-01-000", "answers": [ { "text": "リヤカー", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "巡回文庫を実施し、大典記念帯広図書館を維持した機関とは?", "id": "tr-392-01-001", "answers": [ { "text": "十勝教育会", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1933年(昭和8年)に帯広町に市制が施行され、2年後の1935年(昭和10年)に市議会の議決によって名称が大典記念図書館に変更された。\nその後、建物の老朽化や狭あい化といった理由のほか、建物が軍の司令部に転用されたために数度の移転を経て、1950年(昭和25年)に市内西5条南9丁目に帯広図書館として移転開館した。\nまた、この間、1945年(昭和20年)には、第二次世界大戦の戦局悪化により約半年間の閉館も経験した。\nその後、サービスの充実が図られ、1954年(昭和29年)には児童室が開設されるとともに、16か所の移動図書ステーションが設置されたほか、15歳以上を対象とした図書の館外貸し出しも始まった。\n1955年(昭和30年)には、アイヌ研究者の吉田巖が収集した郷土の文化・歴史資料を編纂した帯広市教育叢書(現帯広叢書)の発行が始まった。\nまた、1961年(昭和36年)には地域の文芸振興を図る取り組みとして、帯広市民文芸誌「市民文藝」が創刊された。", "qas": [ { "question": "1945年に図書館が半年間閉館したのは何が原因ですか?", "id": "tr-392-02-000", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦の戦局悪化", "answer_start": 181, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "帯広図書館に児童室が開設されたのはいつですか?", "id": "tr-392-02-001", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 226, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これまで帯広図書館は公民館図書館として運営されていたが、図書も整理されて公共図書館の一応の形態を整えたとして、1963年(昭和38年)3月30日に、図書館法にもとづく図書館として分離独立し、名称が帯広市図書館となった。\n帯広市図書館として独立した後、1964年(昭和39年)に自動車文庫が始まり、1966年(昭和41年)には専用の移動図書館車が導入された。\n1968年(昭和43年)には市内西7条南7丁目に新築移転し、施設面の充実が図られた。\n並行して各種サービスの拡充も進められ、1967年(昭和42年)にレファレンスサービス、1972年(昭和47年)に複写サービスを開始、1983年(昭和58年)にはリクエスト(予約申込)制度が実施された。", "qas": [ { "question": "レファレンスサービスと複写サービスはどちらが先に開始されたの?", "id": "tr-392-03-000", "answers": [ { "text": "レファレンスサービス", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "図書館の施設面の充実と共にサービスの拡充が進められたのは何年からですか?", "id": "tr-392-03-001", "answers": [ { "text": "1967年", "answer_start": 241, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "時代が平成に変わり1990年代の後半に入ると、建物の老朽化や狭あい化などが問題視されるようになり、施設の改造を行ったり、市内の商業ビル内に暫定的に分館を設置したりしたが、1997年(平成9年)には「新しい図書館を考える市民委員会」から提言書が出され、新たな図書館の建設が望まれるようになった。\nこのような状況から、1998年(平成10年)に新図書館建設担当職員が配置され、移転に関する議論が開始された。\nところが新図書館をどこに建設するかで議論が紛糾し、基本設計費の予算化が何度も先送りされる事態となった。\n新図書館の展望が見えない状態が続き、2001年にNPO法人「市民満足学会」が実施した公立図書館の満足度調査では全国で最下位を記録するに至った。\n状況を打開するため、2001年に市議会において新図書館建設調査特別委員会が設置され、合意形成が進められたことで、2002年に、ようやく帯広駅の南に隣接する現在地への移転が決定した。", "qas": [ { "question": "帯広市図書館が満足度調査で全国最下位となった年はいつですか?", "id": "tr-392-04-000", "answers": [ { "text": "2001年", "answer_start": 272, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "新図書館の設計は公募型プロポーザル方式により行われ、2003年(平成15年)に着工した。\n新図書館の建設に際して住民参加型市場公募地方債「まちづくり債」が発行されたほか、個人・団体からの寄付金による新図書館建設基金も設立され施設建築の財源に充てられている。\n移転準備のため2005年(平成17年)11月10日から本館が休館となり、続いて12月29日には民間ビル内の分室も閉鎖され、翌2006年3月3日に新図書館が開館した。\n同時に蔵書管理が電子化され、インターネット経由での蔵書検索も可能になった。", "qas": [ { "question": "新図書館の開館日はいつですか?", "id": "tr-392-05-000", "answers": [ { "text": "2006年3月3日", "answer_start": 191, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "新館建設の議論と並行して図書館ボランティアを育てる取り組みも進められた。\n2000年10月にボランティア活動の意識調査を実施、2001年にはシンポジウムやボランティアを育成する講習会などが開催され、2002年11月にボランティア団体「帯広図書館友の会」が設立された。\n新館への移転とあわせて読み聞かせや読み手養成講座、各種展示会といったイベントの開催、ビジネス支援事業などのソフト面の充実も進められた。\n2004年(平成16年)からは十勝管内の公立図書館と帯広畜産大学、帯広大谷短期大学が参加した広域個人貸出事業も始まった。\n新館移転後の来館者数は市が2001年に立てた「新帯広市図書館基本計画」の推計年間来館者数を大きく上回り、利用者数、貸出点数、市民一人あたりの年間貸出冊数がいずれも移転前より増加した。\n他機関との連携も進められ、2006年には帯広畜産大学附属図書館内に帯広市図書館の資料を置く地域図書コーナーが開設されたほか、両図書館の連携事業として小学生向けの調べ学習事業が始まった。\nさらに、2008年(平成18年)にはおびひろ動物園、帯広百年記念館、帯広市児童会館との間で共通のテーマを設定して催し物を行う「4館連携事業」が始まった。", "qas": [ { "question": "2002年11月に立ち上がった図書館ボランティアの団体名は何ですか?", "id": "tr-392-06-000", "answers": [ { "text": "「帯広図書館友の会」", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "子どもたちの読書活動を促進する活動も拡充され、「絵本との出会い事業」(ブックスタート)を2003年(平成15年)に試行し、翌年から本格実施が始まった。\n2007年(平成19年)1月に市内の小中学校を対象とした図書のセット貸出事業「ぶっくーる便」が始まり、同年2月に学校図書館の改善を目的とした学校図書館支援事業(学校図書館クリニック)第1号が実施された。\nその後もセット貸出事業の内容や対象者が拡充されたほか、2010年(平成22年)1月に中高生向けに推薦図書をまとめたブックリスト「ぶっく・なび」を発行し、市内の中学生全員ならびに各高校の図書室に配布された。\n2012年(平成24年)には「幅広い年齢を対象に読書活動の機会充実を図っている、学校での読書活動支援にも積極的に取り組んでいる」などの推薦理由で、「子どもの読書活動優秀実践図書館」として文部科学大臣表彰を受賞している。", "qas": [ { "question": "「ぶっくーる便」の対象となる機関は何ですか?", "id": "tr-392-07-000", "answers": [ { "text": "小中学校", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ぶっく・なび」の対象となる年代層は何ですか?", "id": "tr-392-07-001", "answers": [ { "text": "中高生", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "個人や団体から受け付けた寄付金は「図書館図書整備基金」に積み立てて運用され、図書館資料の充実のために活用されている。\n年ごとの寄付金・寄贈品(評価額)の合計金額は百万円から数千万円と幅があるが、2003年から2012年までの10年間で計1億4千万円に達している。\n2015年度の時点で継続的に寄付を行っている個人・団体は35件あり、中には1951年から半世紀以上にわたって寄付を続けている個人や、数千万円の大口寄付を行った個人もいる。\n帯広市図書館を寄付の獲得で成果を上げている図書館と評価する声もある。\n寄付金により購入した図書は寄付者の名前を入れた「○○文庫」と名付けられ、図書に文庫名を記したラベルが貼られている。\n寄付金以外では、図書や視聴覚資料の寄贈のほか、地域の郷土や歴史に関する資料、帯広出身の歌人である中城ふみ子ゆかりの品なども寄贈されている。\nこのほか、過去にはコミュニティ施設の図書室を巡回するための車両も寄贈されている。", "qas": [ { "question": "「○○文庫」の○○にはどんな人の名前が入るの?", "id": "tr-392-08-000", "answers": [ { "text": "寄付者", "answer_start": 266, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2003年から10年の間に寄付金の合計金額はいくらになりましたか?", "id": "tr-392-08-001", "answers": [ { "text": "1億4千万円", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2003年に着工した新図書館建設に際しては「新図書館建設基金」が設立され、1994年より個人4名と9団体から合わせて1千7百万円あまりの寄付金が集まり、図書館建設に活用された。\n加えて、帯広市は市民を対象とした住民参加型市場公募地方債「まちづくり債」を発行して資金を集め、3年間で23億円が図書館建設に割り当てられた。\n市民からは現金だけでなく物品の寄贈もあり、図書館の設備・備品として必要なベンチやブックカート、車いす、拡大読書機、AV機器などが寄せられたほか、絵画や陶器といった装飾品や、敷地内に植える樹木の寄贈もあった。", "qas": [ { "question": "2003年の新図書館建設時には、いくらの寄付金が使用されましたか?", "id": "tr-392-09-000", "answers": [ { "text": "1千7百万円あまり", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「まちづくり債」によって集まった資金のうち、いくらを図書館建設に当てましたか?", "id": "tr-392-09-001", "answers": [ { "text": "23億円", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ボランティア活動については、帯広図書館友の会をはじめとするボランティア団体のほか個人単位での参加もあり、2007年時点での参加者は100人を超える。\nボランティアによって読み聞かせ会、朗読会、映画会などが実施されているほか、図書の配架や修理業務への協力、スクラップブックの作成、布の絵本や貸出用手提げ袋の作成などが行われている。\n乳幼児健診時に行われるブックスタート事業もボランティアの協力によって実施されている。\nまた、図書館サービスを障害者へ提供する取り組みとして、ボランティアによる本の音訳、視覚障害者向けの朗読、障害者を対象とした本の宅配などが行われている。\nさらに、図書館内の清掃、生け花の管理、観葉植物の管理など、施設管理業務へのボランティアの協力も見られ、ボランティアの参画は図書館運営の多岐にわたる。\nそのほか、ボランティアによる自主研修会なども定期的に行われている。", "qas": [ { "question": "ボランティアの参加人数が100人をオーバーしたのはいつ?", "id": "tr-392-10-000", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本図書館では、乳幼児から中高生まで、それぞれの年齢層に合わせて読書活動を推進する取り組みを行っている。\n乳幼児を対象とした活動の一つとして、乳幼児健診時に絵本をプレゼントする「絵本との出会い事業」を帯広市こども未来部と連携して行っている。\nまた、子どもの発達段階や利用目的に合わせて図書館が推薦するセットを作成し、一括して貸し出す事業を行っている。\n以下で各セットの概要を説明する。\nおたのしみバッグえほんとは帯広市内の保育所や幼稚園などの施設を対象とした、絵本セットの貸し出しサービスである。\n2011年に0から3歳向けの「おたのしみバッグえほんBaby」と4から6歳向けの「おたのしみバッグえほんKids」にリニューアルされた。\n低年齢むけのセットには歯磨きや着替えなどの生活に関する絵本も含まれる。\n「プチトマト」・「プチコーン」バッグとは子育て中の父母を支援するための絵本セットである。\n「おたのしみバッグえほん」の利用が低調だったため、対象を一般利用者に設定しなおして作成された。\n内容は「おたのしみバッグえほん」と同様である。", "qas": [ { "question": "「おたのしみバッグえほんBaby」の対象年齢は?", "id": "tr-392-11-000", "answers": [ { "text": "0から3歳", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「おたのしみバッグえほんKids」の対象年齢は?", "id": "tr-392-11-001", "answers": [ { "text": "4から6歳", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本図書館で取り組んでいる読書活動の最低年齢層とは?", "id": "tr-392-11-002", "answers": [ { "text": "乳幼児", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ビッグ・ナウマン便とは市内小学校を対象に、学校図書館の活性化を図るため、学校単位で一括大量貸し出しを行うサービスのことである。\n図書館で選定した絵本100冊と読み物200冊の合計300冊で1セットが構成され、貸出期間は4週間である。\n図書館の閉架資料の有効利用という側面もある。\nぶっくーる便とは市内小中学校を対象に、朝の読書や調べ学習などの読書活動を支援する目的で、対象年齢やテーマに沿って作られた図書セットをクラス単位で貸し出すサービス。\n朝の読書向けセットのほか、科学・英語・国際理解・福祉・食育・職業などのテーマに基づくセット、点字セットのほか、支援学級も対象に含めた「しかけ絵本セット」も用意されている。", "qas": [ { "question": "ビッグ・ナウマン便サービスで選定された絵本と読み物のうち、数が多いのはどちらですか?", "id": "tr-392-12-000", "answers": [ { "text": "読み物", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ビッグ・ナウマン便のサービス対象機関は何ですか?", "id": "tr-392-12-001", "answers": [ { "text": "小学校", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2007年からは、市内の学校図書館の改善を目的とした、学校図書館クリニックが始まった。\nこの取り組みでは、実施先の学校に図書館職員と学校の担当教諭、そしてボランティアメンバーが集まり、講師担当者による事例紹介や改善ポイントの講義、現場の図書室への具体的な改善アドバイスが行われ、その場で図書室の改装作業が行われる。\n北海道立図書館とも連携を図り、講師を道立図書館から招くこともある。\n年1校から3校程度、市内の小中学校で実施されている。\nそれ以外にも、子どもたちに図書館に親しみを持ってもらい、利用普及を図る目的で、小学生を対象とした調べ学習事業を行っている。\n帯広畜産大学との連携事業であり、図書館職員や畜産大学職員が講師となって図書館資料の調べ方のほか、図書館の利用方法やマナーなども教える。", "qas": [ { "question": "学校図書館クリニックで連携している他地域の図書館はどこ?", "id": "tr-392-13-000", "answers": [ { "text": "北海道立図書館", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "帯広市図書館では、帯広・十勝にまつわる郷土文化の継承・発信、あるいは地域の文芸振興を図るための取り組みを行っており、中でもアイヌ文化や郷土史資料を編纂した「帯広叢書」、地域住民の応募作品によって作られる「市民文藝」の刊行は半世紀以上続けられている。\n伝統的な事業の継続とともに新しい試みもあり、2004年には帯広出身の歌人、中城ふみ子の功績を称えた「中城ふみ子賞」が創設され、2010年には小学生から18歳を対象とした文芸誌「ヤング文芸」が創刊された。\n以下で、それぞれの内容を説明する。", "qas": [ { "question": "「ヤング文芸」は対象とする年齢幅がどれくらいありますか?", "id": "tr-392-14-000", "answers": [ { "text": "小学生から18歳", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "帯広の有名な女性歌人と言えば誰ですか?", "id": "tr-392-14-001", "answers": [ { "text": "中城ふみ子", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「市民文藝」の応募対象者は誰になりますか?", "id": "tr-392-14-002", "answers": [ { "text": "地域住民", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "帯広叢書とはアイヌの研究者であった吉田巖が整理・収集した資料を伝えるために刊行されている叢書である。\n吉田は教員としてアイヌ児童を教えるかたわら、赴任地域のアイヌ文化や郷土史を調べ膨大な記録や資料を残した。\n調査成果は吉田自身によって学術雑誌などで発表されるとともに、その草稿や資料が帯広市教育委員会によって編纂され、1955年から「帯広市社会教育叢書」として発刊された。\n吉田が高齢になったことから、1960年12月の第6巻発行をもって刊行が中断されたが、1963年の吉田の没後、遺された資料(以下、「遺稿資料」)の多くは遺族らの厚意によって帯広市に寄贈された。\n「遺稿資料」は帯広市図書館が保管することとなり、1964年から叢書の発行が再開された。\n1972年の第16巻からは「帯広叢書」に改題された。\n年1回程度の発行を続け、2013年3月には第65巻が発行されている。\nアイヌの文化・歴史の分野において、個人が遺した記録・関係資料を継続的に整理・刊行している数少ない取り組みの一つである。", "qas": [ { "question": "帯広叢書の刊行に貢献した研究者とは誰?", "id": "tr-392-15-000", "answers": [ { "text": "吉田巖", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "吉田の死後、叢書はいつから再刊行されたの?", "id": "tr-392-15-001", "answers": [ { "text": "1964年から", "answer_start": 307, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最初に刊行された時の帯広叢書の名前は何でしたか?", "id": "tr-392-15-002", "answers": [ { "text": "「帯広市社会教育叢書」", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "帯広叢書は何の分野の資料を記録し、整理したものですか?", "id": "tr-392-15-003", "answers": [ { "text": "アイヌの文化・歴史", "answer_start": 389, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "市民文藝とは「地域に根ざした独自の文化の創造及び発展を目指し、地域文芸の振興を図ること」を目的とし、地域住民からの公募作品によって作られる文芸書である。\n十勝管内の住民であれば年齢に関係なく応募でき、帯広市教育委員会が委嘱した編集委員会による選考を経て、優秀作品には市民文藝賞などが贈られるほか、入選作品が「市民文藝」誌に掲載される。\n募集ジャンルは小説、戯曲、文芸評論、随筆、ノンフィクション、童話、詩、短歌、俳句、川柳と10分野にわたる。\n1961年11月に第1号が発行されて以来、地元の書き手の発掘と育成、そして地域の文芸愛好者のための発表の場として年1回程度、発行が続けられ、2012年12月に第52号まで達した。\n市民文藝賞の受賞者の中には、のちに全国公募の文学賞を受賞するなどして作家や評論家となった者も多く、過去には春山希義、海保進一、近藤潤一、神谷忠孝らの作品が市民文藝誌上に掲載されている。", "qas": [ { "question": "市民文藝の応募対象者は誰ですか?", "id": "tr-392-16-000", "answers": [ { "text": "十勝管内の住民", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "市民文藝はどれくらいの頻度で発行されていますか?", "id": "tr-392-16-001", "answers": [ { "text": "年1回程度", "answer_start": 278, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "帯広市の地元の書き手の発掘と育成の役割を担っている文芸書とは何ですか?", "id": "tr-392-16-002", "answers": [ { "text": "市民文藝", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ジュニア文芸とは子どもたちの創作意欲と表現力の向上を図り、十勝の文芸文化のすそ野を広げる活動として、2010年に誕生した公募文芸誌である。\nジュニア文芸の創設に先立ち、市民文藝において3年間ほどジュニア文芸の特集コーナーが設けられ、特集コーナー内での優秀作の選考が行われた。\n2010年に星槎大学帯広サテライトが共催に加わりジュニア文芸として独立し、年1回作品の募集・選考が行われて入選作品が掲載される文芸誌が発行されるようになった。\n2015年度の第6回募集からは市の直営事業となり、「とかちジュニア文芸」へとリニューアルした。\n2017年度の募集時点において、とかちジュニア文芸の応募対象は十勝管内在住の小学生以上18歳以下で、扱うジャンルは小説、童話、戯曲、詩、短歌、俳句の6種類である。\nさらに、子どもたちの書く力や題材を見つける力を育てる取り組みとして、ジュニア文芸の選考委員が講師をつとめる文章教室も開催されている。", "qas": [ { "question": "とかちジュニア文芸の応募年齢対象は何ですか?", "id": "tr-392-17-000", "answers": [ { "text": "小学生以上18歳以下", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "とかちジュニア文芸を直営しているのは何?", "id": "tr-392-17-001", "answers": [ { "text": "市", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中城ふみ子賞とは帯広で生まれ育ち、一時代の短歌の流れをつくったと評価される歌人中城ふみ子の功績を称え、新たな文化を創造・発信することを目的として、没後50年となる2004年に「中城ふみ子賞」が創設された。\n全国でも珍しいとされる個人名を冠したこの短歌賞は隔年で開催され、『自らの「生きる」姿勢』をテーマとし、新人五十首詠入選にちなんだ50首の連作短歌を全国から公募している。\n応募作品の選考は帯広出身の時田則雄ら数名の歌人によって行われ、入選作品は『短歌研究』誌上で発表される。", "qas": [ { "question": "中城ふみ子賞で扱っている文学ジャンルとは何?", "id": "tr-392-18-000", "answers": [ { "text": "短歌", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中城ふみ子賞のテーマは何?", "id": "tr-392-18-001", "answers": [ { "text": "『自らの「生きる」姿勢』", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "帯広市図書館では、市の教育関連施設である「おびひろ動物園」、「帯広百年記念館」、「帯広市児童会館」と共同で、1つのテーマを設定して催し物を行う「4館連携事業」を2008年から実施している。\nこの取り組みは2010年度からは市の「社会教育施設連携アクションプログラム」となり、共通テーマの下に4施設それぞれの特色を生かしたイベントや講座の開催などが行われている。\n例として2010年度の事業を見ると、4つのテーマ、「おびひろからわかる?!地球のようす展」、「夕涼み生涯学習事業」、「未来に伝えるあそび体験」、冒険家「植村直己展」が設定され、図書館ではこども向け講演会、おはなし会、所蔵資料の上映会や展示会のほか、広報紙にてテーマに関連する書籍の紹介などを行った。", "qas": [ { "question": "「4館連携事業」の中で、生き物を取り扱っている施設は何ですか?", "id": "tr-392-19-000", "answers": [ { "text": "「おびひろ動物園」", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "帯広市図書館では、読み聞かせ会、朗読会、映画会、文章教室、郷土資料読み解き講座などをある程度定期的に開催しているほか、講演会や写真展、企画展示といったイベントも実施している。\nビジネス支援にも力を入れており、帯広市の商工観光部や帯広商工会議所と連携した取り組みも行われている。\n起業や異業種参入を考えている市民や経営者向けに、ビジネス支援コーナーを本館2階に設定して関連書籍やパンフレットなどを集め、ここに商工会議所からも資料が提供されている。\nまた、図書館を会場として、市や商工会議所と連携したセミナー類も開催されている。\nそのほか、公式サイトにも専用コーナー「ビジネス.com」を開設し、ビジネスに関連した情報発信や、図書館で提供しているサービスの紹介を行っている。\n地元新聞社との連携も行われており、2003年10月から紙面に「図書館司書のおすすめ本」というコーナーが設けられ、十勝館内の17の公立図書館と共に持ち回りで図書の紹介を続けている。\nこの企画には後に、市内の一部高校と帯広畜産大学の図書館も加わっている。\n地元書店組合との連携による取り組みとしては、公開講座や作家を招いた講演会を実施している。\n図書館側が会場を提供し、書店側で実行委員会を作るなど工夫して必要経費などの管理が行われている。", "qas": [ { "question": "「図書館司書のおすすめ本」のコーナーが記載されている印刷物とは何?", "id": "tr-392-20-000", "answers": [ { "text": "新聞", "answer_start": 338, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "帯広市図書館では、「調べ隊」と名付けられたパスファインダー(あるテーマを調べるために役立つ資料を紹介したガイド)も作成している。\nテーマに関する本の表紙と内容紹介や所蔵されている視聴覚資料に加えて、関係する雑誌、新聞、ウェブサイトのURLや見学可能な施設も紹介されている。\nまた、調べるためのキーワードが紹介されており、OPACやウェブで検索する手がかりとしても使える。\n発行は不定期で、ときおり改訂も行われており、印刷されたものが本館内で入手できるほか、公式サイトからPDF版をダウンロードできる。\n定期的に発行している広報紙やウェブサイトを通じて、利用者や市民向けに情報発信が行われており、一部の広報紙は、バックナンバーを含めて公式サイトからPDF版をダウンロード可能である。\nまた、帯広市図書館では食に関する資料収集に積極的に取り組んでおり、2006年度から2015年度にかけて食をテーマとした広報紙「食☆ナビ」を発行したほか、公式サイトでも専用コーナー「食文化.com」が設けられている。\nそのほか、健康・医療をテーマとした「からだ♪ナビ.com」も公式サイトに設けられている。", "qas": [ { "question": "帯広市図書館ではパスファインダーを何と呼んでいるの?", "id": "tr-392-21-000", "answers": [ { "text": "「調べ隊」", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "帯広市図書館が熱心に資料収集している情報源とは何ですか?", "id": "tr-392-21-001", "answers": [ { "text": "食", "answer_start": 352, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "帯広市図書館の公式サイトに設けられた健康と医療をテーマにしたコーナーの名は何ですか?", "id": "tr-392-21-002", "answers": [ { "text": "「からだ♪ナビ.com」", "answer_start": 466, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "帯広市図書館では郷土資料の収集・保存を行っており、吉田巖遺稿資料や中城ふみ子に関する資料など、学術的・文化的に貴重なものも多く含まれる。\n先述(「郷土文化や文芸振興に関する取り組み」)の通り、吉田が遺したアイヌの文化や歴史に関する「遺稿資料」は、遺族の寄贈により帯広市図書館が保管している。\nこの「遺稿資料」は、フィールドノートのような性格をもつ日記をはじめとする、ノート、草稿などの文書類のほか、図書、雑誌、書簡、写真などを含み、「アイヌの文化と歴史に関する膨大かつ重厚な基礎資料群」とされる。\nまた、吉田は、日本の統治下であった台湾を視察旅行で訪れており、「遺稿資料」の中には、視察に関する手記、書簡類、視察先で入手した学校資料なども含まれ、国内外の他機関では確認できない貴重な資料もある。\n「遺稿資料」の中には、アイヌの生徒の作品や、生徒が家庭での伝統文化・習俗の様子などを記した提出物なども含まれており、教育実践や生活実態に関する貴重な記録になっていると同時に、著作権やプライバシー、個人の尊厳に関わる問題を含むものも少なくないため、資料の適切な活用のために、閲覧や利用に際して慎重な配慮が求められている。\n「遺稿資料」のほとんどは2005年までにマイクロフィルムに撮影され、マイクロフィルムあるいは原資料のコピー製本を閲覧利用できる。", "qas": [ { "question": "「遺稿資料」の中にも記録のある、吉田が訪問した海外の地域とはどこ?", "id": "tr-392-22-000", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 266, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「遺稿資料」の大半は何によって撮影されましたか?", "id": "tr-392-22-001", "answers": [ { "text": "マイクロフィルム", "answer_start": 528, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本館の2階には「中城ふみ子資料室」が設けられ、中城に関わる資料が展示されている。\n帯広市図書館が保存している資料には、中城の日記、手帳、創作ノート、原稿、書簡のほか、中城の幼少期からの写真や中城が愛用した品などがある。\nまた、確認されている最初期の短歌作品とされる、中城が高校生時代に詠んだ短歌が掲載された帯広高等女学校(現帯広三条高校)の同窓会会報誌も所蔵している。\n資料の一部は画像化され、公式サイトで公開されている。\n上記の他に、帯広市図書館では、北海道・十勝にゆかりのある作家の作品や、帯広や道内の企業情報・統計資料などの収集・保存も行っている。", "qas": [ { "question": "帯広市図書館の本館2階にある資料展示室は何ですか?", "id": "tr-392-23-000", "answers": [ { "text": "「中城ふみ子資料室」", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中城ふみ子はいつの時代から短歌を詠み始めましたか?", "id": "tr-392-23-001", "answers": [ { "text": "高校生時代", "answer_start": 136, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中城ふみ子の出身高校はどこですか?", "id": "tr-392-23-002", "answers": [ { "text": "帯広高等女学校", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ベンジャミン・ディズレーリ", "paragraphs": [ { "context": "初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(BenjaminDisraeli,1stEarlofBeaconsfield,KG,PC,FRS、1804年12月21日-1881年4月19日)は、イギリスの政治家、小説家、貴族である。\n\nユダヤ人でありながら保守党内で上り詰めることに成功し、ダービー伯爵退任後に代わって保守党首となり、2期にわたって首相(在任:1868年、1874年-1880年)を務めた。庶民院の過半数を得られていなかった第一次内閣は短命の選挙管理内閣に終わったが、庶民院の過半数を制していた第二次内閣は「トーリー・デモクラシー(Torydemocracy)」と呼ばれる一連の社会政策の内政と帝国主義の外交を行って活躍した。自由党のウィリアム・グラッドストンと並んでヴィクトリア朝の政党政治を代表する人物である。また、小説家としても活躍した。野党期の1881年に死去し、以降ソールズベリー侯爵が代わって保守党を指導していく。", "qas": [ { "question": "初めてビーコンズフィールド伯爵として務めた人物は?", "id": "tr-393-00-000", "answers": [ { "text": "ベンジャミン・ディズレーリ", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベンジャミン・ディズレーリが生まれた年は何年ですか?", "id": "tr-393-00-001", "answers": [ { "text": "1804年", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベンジャミン・ディズレーリは2期に渡って首相を務めたが、その在任期間がより長かった期は何年就任のものか?", "id": "tr-393-00-002", "answers": [ { "text": "1874年", "answer_start": 191, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "作家の息子としてロンドンに生まれる。イタリアからの移民のセファルディム系ユダヤ人の家系だった。13歳の時にイングランド国教会に改宗した。15歳の時に学校を退学になり、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし事務所の業務に関心が持てず、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出すも失敗して破産した。さらに処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ』を出版して評判になるも激しい批判を集めた。\n\nその後しばらく南欧や近東を旅行したが、1832年にイギリスへ帰国。帰国後も小説を執筆する一方でしばしば庶民院議員選挙に出馬するようになり、四度の落選を経て、1837年の解散総選挙(英語版)で初当選を果たす。保守党に所属していたが、サー・ロバート・ピール准男爵内閣に入閣できなかったことに反発して、党内反執行部小グループ「ヤング・イングランド(英語版)」を結成・主導、また小説『カニングスビー(英語版)』や『シビル(英語版)』を執筆してピール批判を行った。1846年にピールが穀物法を廃止して穀物自由貿易を行おうとすると、その反対運動を主導してピール内閣倒閣と保守党分裂をもたらした。\n\n党分裂で党幹部が軒並みピール派へ移ったことで党内の有力者として台頭するようになり、1849年からは実質的な保守党庶民院院内総務(英語版)となり(1851年に正式に就任)。1852年2月に保守党党首ダービー伯爵の内閣が誕生すると、その大蔵大臣に任じられた。その後も1858年(第二次ダービー伯爵内閣)、1866年~1868年(第三次ダービー伯爵内閣)とダービー伯爵内閣が誕生するたびに大蔵大臣に任じられた。いずれも少数与党政権なので、出来たことは多くなかったが、第三次ダービー伯爵内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、自由党急進派に譲歩に譲歩を重ねた結果、第二次選挙法改正を達成した。", "qas": [ { "question": "ベンジャミンが出版したはじめての小説のタイトルは何ですか?", "id": "tr-393-01-000", "answers": [ { "text": "『ヴィヴィアン・グレイ』", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ベンジャミンの議員としての初めての当選は何年ですか?", "id": "tr-393-01-001", "answers": [ { "text": "1837年", "answer_start": 273, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "保守党分裂のきっかけとなった事件は何ですか?", "id": "tr-393-01-002", "answers": [ { "text": "穀物法を廃止", "answer_start": 432, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1868年にダービー伯爵が病気で退任すると、保守党ナンバー・ツーのディズレーリが継承する形で保守党党首、首相に就任した。第一次ディズレーリ内閣は少数与党政権だったので、腐敗行為防止法案や公開死刑廃止法案など、超党派的法案のみを可決させた。同年の総選挙(英語版)で保守党が敗れた結果、自由党党首ウィリアム・グラッドストンに首相職を譲って退任することとなった。これは総選挙の敗北を直接の事由として首相が退任した最初の事例であり、議会制民主主義の確立のうえで重要な先例となった。\n\n以降5年ほどは野党党首に甘んじ、グラッドストン政権の弱腰外交政策を批判した。その間、小説『ロゼアー(英語版)』を出版してベストセラーになっている。\n\n1874年の解散総選挙(英語版)で保守党が半数を超える議席を獲得した結果、首相職に返り咲いた。安定多数政権だった第二次ディズレーリ内閣は強力な政権運営が可能だった。そのため、労働者住宅改善法制定による労働者の住宅事情の改善、公衆衛生法制定による都市の衛生、強制立ち退きされた小作人への補償制度の制定、労働組合の強化など「トーリー・デモクラシー」と呼ばれる多くの改革を行う事が出来た。外交面では積極的な帝国主義政策を推進し、1875年にはスエズ運河を買収してエジプトの半植民地化に先鞭をつけた。また1876年には\"\"Empress\"\"(女帝、皇后)の称号を欲するヴィクトリア女王の意を汲んで、彼女をインド女帝に即位させた。また1877年から翌年にかけての露土戦争ではロシア帝国の地中海進出を防ぐため、国内の反オスマン=トルコ帝国世論を抑えて親トルコ的中立の立場をとった。同戦争の戦後処理会議ベルリン会議においてロシア衛星国大ブルガリア公国を分割させてロシアの同海進出を防ぎ、かつトルコからキプロス島の割譲を受け、地中海におけるイギリスの覇権を確固たるものとした。南部アフリカでは1877年にトランスヴァール共和国を併合し、ついで1879年にはズールー族との戦争に勝利した。1879年には中央アジアへの侵攻を強めるロシアの先手を打って第二次アフガニスタン戦争を開始して勝利した。\n\nグラッドストンとは対照的にヴィクトリア女王と非常に親密な関係にあり、1876年には女王からビーコンズフィールド伯爵の爵位を与えられた。", "qas": [ { "question": "ディズレーリが退任したのは何年ですか?", "id": "tr-393-02-000", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1868年イギリスでは二人が首相に就任しましたが、後に就任したものの名前はなんですか?", "id": "tr-393-02-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・グラッドストン", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第二次ディズレーリ内閣で行った多くの改革の総称は何ですか?", "id": "tr-393-02-002", "answers": [ { "text": "「トーリー・デモクラシー」", "answer_start": 472, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1868年に就任した首相の中で、ヴィクトリア女王との仲が悪かったのは誰やん?", "id": "tr-393-02-003", "answers": [ { "text": "グラッドストン", "answer_start": 902, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1880年の総選挙(英語版)で自由党が勝利した結果、グラッドストンが首相に返り咲き、ディズレーリは退任。退任後に小説『エンディミオン(英語版)』を出版したが、1881年3月から体調を悪化させ、4月19日にロンドンで病死した。\n\nディズレーリの死後、保守党は貴族院をソールズベリー侯爵が、庶民院をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導していく。", "qas": [ { "question": "ディズレーリの死因は何ですか?", "id": "tr-393-03-000", "answers": [ { "text": "病死", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ディズレーリ本人によるとディズレーリ家の先祖はもともとスペインのユダヤ人だったが、1492年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世による異端審問・ユダヤ人追放の勅令(英語版)によって国を追われ、イタリアのヴェネツィアに移住し、のちディズレーリと改名し、商人として成功した。そして18世紀中頃にディズレーリの曾祖父アイザックが長男をヴェネツィアに残して銀行業を継がせ、次男ベンジャミン(祖父)をイギリスへ移住させた。しかしこの話は疑わしく、スペイン出自家系やディズレーリの大伯父がヴェネツィアで銀行業をしていたという記録は見つけられない。また、祖父ベンジャミンがデ・イズレーリ(D'Israeli)を名乗るまで姓はイズレーリ(Israeli)であった。イズレーリとは「イスラエル」のことだが、これはスペイン語系ではなくアラビア語系である。そのためセシル・ロスは、イズレーリ家はレバント(地中海東岸地域)からイタリアへ移住した家系であろうと推測している。「デ(D)」というのは恐らくセファルディム系ユダヤ人の洗礼名によく使われたアラム語のDiの略だと考えられる。またディズレーリは、祖父ベンジャミンの最初の妻レベッカの旧姓がラーラだったことからスペインの名門ラーラ家(スペイン語版)と縁続きだと主張していたが、レベッカの実家ラーラ家はポルトガル系であり、スペイン系の名門ラーラ家とは特に関係はない。", "qas": [ { "question": "セシル・ロスが主張したディズレーリ一家の先祖の出身地はどこですか?", "id": "tr-393-04-000", "answers": [ { "text": "レバント", "answer_start": 398, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ディズレーリ本人の言葉通りならば、彼の先祖はどこから来ましたか?", "id": "tr-393-04-001", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "セファルディム系ユダヤ人社会でスペイン系やポルトガル系のユダヤ人を最も「貴種」と看做すことが多いのも、ディズレーリがスペイン系出自にこだわっていた理由であると考えられる。\n\n一方母方の祖母の実家カードソ家はまさにそのスペイン系ユダヤ人であり、1492年以降の異端審問でスペインを追われイタリアへ逃れ、17世紀末にイギリスへ移住した家柄であった。しかしディズレーリは母親を嫌っていたため母の家系にほとんど関心を持たず、この事実を知らなかった。いずれにしてもディズレーリは強い「貴種」意識を持っていた。", "qas": [ { "question": "ディズレーリが自分の母親がスペイン系ユダヤ人であることを知らなかった理由は何ですか?", "id": "tr-393-05-000", "answers": [ { "text": "母親を嫌っていたため", "answer_start": 182, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ディズレーリはイズリントンにあった女子学校に通い、その後、非国教徒が校長を務めるブラックヒース(英語版)の学校に通い、13歳まで在学した。この学校での同級生によるとディズレーリはサージェスというもう1人のユダヤ教徒の生徒とともに礼拝に参加しなかったという。またユダヤ教のラビが週に一度、ディズレーリにヘブライ語を教えていた。子供の頃から気位が高かったディズレーリは、しばしばユダヤ人ということで教師や学友から滑稽な目で見られていることに傷付いていた。またディズレーリは、学校内で唯一同じユダヤ教徒であるサージェスを自分より劣っているとして、非ユダヤ教徒の生徒たちと付き合うことを好んだ。", "qas": [ { "question": "ブラックヒース内で、ディズレーリ以外のユダヤ教徒は何人いましたか?", "id": "tr-393-06-000", "answers": [ { "text": "1人", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "19世紀初頭のイギリスにおける反ユダヤ主義派の勢力は大陸ヨーロッパ諸国と比べると比較的弱かったが、1829年まではイングランド国教会の信徒でなければ公職に就けなかった。\n\nディズレーリの父アイザックはヴォルテール主義者であり、ユダヤ教会にお布施を納めていたが、ユダヤ教の儀式にもほとんど出席しなかった。それでもアイザックがユダヤ教会に籍を置いていたのは父親ベンジャミンを喜ばせるためであった。アイザックは1813年にユダヤ教のベービス・マークス集会の長に選出されるも拒否し、ユダヤ教の掟により40ポンドの罰金が科された。しかしアイザックはこれに反発し、役職を務めることも罰金を支払うことも拒否した。その後も3年ほど父に配慮してユダヤ教会に籍を置いていたが、1816年の父の死去を機に、1817年3月にディズレーリ家はユダヤ教会の籍を離れた。", "qas": [ { "question": "イングランド国教会の信徒でなくとも公職に就くことができるようになったのは何年ですか?", "id": "tr-393-07-000", "answers": [ { "text": "1829年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ディズレーリの祖父が死亡したのは何年ですか?", "id": "tr-393-07-001", "answers": [ { "text": "1816年", "answer_start": 328, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ディズレーリ家がユダヤ教会の籍を離れたのはいつですか?", "id": "tr-393-07-002", "answers": [ { "text": "1817年3月", "answer_start": 342, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アイザックはユダヤ教会離籍後は宗教に入信しなかったが、親友である弁護士・考古学者シャロン・ターナー(英語版)は子供たちの将来のためにイングランド国教会への入籍を勧め、ディズレーリは13歳でホルボーン地区のセント・アンドリューズ教会(英語版)において洗礼を受けて改宗した。\n\nアイザックはディズレーリを名門イートン校に通わせたがったが、改宗したばかりのユダヤ人が歓迎されるとは思えず、結局非国教徒ユニテリアン派の牧師エリーザー・コーガン(英語版)が運営していたハイアム・ヒル(英語版)の学校に入学した。この学校には裕福な中産階級の子息が多く、ディズレーリはラテン語やギリシア語で他の生徒におくれを取っていたが、文章力にかけてはディズレーリの右に出る者はいなかったという。スポーツにも熱心に打ち込み、学友たちのリーダー的存在となっていった。しかしこのことでディズレーリが来る前から学校を仕切っていた復習監督生たちは、ディズレーリにユダヤ臭を嗅ぎつけて馬鹿にした。ある時、ディズレーリとすれ違った復習監督生のグループがディズレーリを嘲って口笛を吹いたという。それに対してディズレーリは振り返って彼らに「今、口笛を吹いた者は前に出たまえ」と述べたという。復習監督生の一番年長の者が前に出てきて「外国人に引きずり回されるのは、もううんざりなんだよ」と言い放つと、ディズレーリはその男の顔を殴り、殴り合いとなった。ディズレーリは小柄で力も貧弱だったが、軽やかな足さばきで合理的に戦い、年長の復習監督生を血まみれにした。校長コーガン牧師はディズレーリを煙たがるようになり、アイザックになるべく早く御子息を引き取ってほしいと依頼した。こうしてディズレーリは1819年か1820年(15歳)にはハイアム・ヒルを退学した。この後1年ほど自宅の父の書斎や書庫で古典を読み漁って過ごした。", "qas": [ { "question": "ディズレーリがイングランド国教会に改宗したのは彼が何歳の時か?", "id": "tr-393-08-000", "answers": [ { "text": "13歳", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "改宗したディズレーリが通った学校名は何ですか?", "id": "tr-393-08-001", "answers": [ { "text": "ハイアム・ヒル", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヴォルテール主義者である父アイザックは息子が文学の世界に浸って神秘主義的になっていくのを懸念し、弁護士事務所で働くようディズレーリを説得した。ディズレーリは弁護士を「法文と駄洒落で過ごし、うまくいけば晩年に痛風と准男爵の称号がもらえるという程度の職業」と看做しており、こんな仕事に就いたら偉人にはなれないと拒否したが、父は「慌てて偉人になろうとしてはいけない」「弁護士事務所という、人間を知るうえで最適な観察場所を経ることは、何の道も閉ざすものではない」と説得した。1821年、17歳の時にオールド・ジェリー(英語版)街のフレデリック広場にあった4人の弁護士の共同事務所で勤務したが、すぐに飽きた。1824年7月末にはベルギーとライン地方を旅行し、ライン川下りをしている時に弁護士業を止める決意をした。1824年11月にリンカーン法曹院の入学許可が下りたが、すでに法曹家になる意思を無くしていた。後年ディズレーリは弁護士事務所時代について、弁護士の仕事自体は何の役にも立たなかったが、この仕事を通じて執筆力が高まり、また多くの人間と知り合って人間の様々な本性を知ることができたのは財産になったと評している。", "qas": [ { "question": "ディズレーリが弁護士事務所で働くようになったのは誰の影響なのか?", "id": "tr-393-09-000", "answers": [ { "text": "アイザック", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ディズレーリが弁護士事務所で働き始めたのは何年ですか?", "id": "tr-393-09-001", "answers": [ { "text": "1821年", "answer_start": 233, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ディズレーリが働いた弁護士事務所がいた広場の名前は?", "id": "tr-393-09-002", "answers": [ { "text": "フレデリック広場", "answer_start": 261, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "弁護士事務所を辞めた後は定職をもたず、父の友人である出版業者ジョン・マレー(英語版)の手伝いをしたり、書評を書いたりした。「上流階級の人間になるには血筋か金か才能が必要」と考えていたディズレーリは、弁護士事務所の顧客が利益を得ていた南米鉱山投機に弁護士事務所の書記仲間とともに手を出した。しかし、ディズレーリは大損し、6月には7,000ポンドもの借金を抱えた。この間ジョン・ディストン・ポウルズ(英語版)という投機家が南米鉱山に対する信用を取り戻そうとパンフレットの出版を計画し、その執筆をディズレーリに依頼してきた。ディズレーリはこれを引き受け、南米鉱山株投機に疑問を投げかける政治家を批判しつつ、鉱山会社の宣伝を行った。しかし結局同年10月末に南米鉱山株が暴落し、12月までにシティは大混乱に陥った。ディズレーリも破産した。\n\n一方、『クオタリーレビュー』誌で成功を収めたジョン・マレーは日刊紙を出版しようと考えていた。破産する前のディズレーリもこの計画に参加した。新聞の名称はディズレーリが『リプレゼンタティブ(英語版)』と名付けた。しかし破産したディズレーリに出資金を出せる見込みがなくなり、計画から外された。", "qas": [ { "question": "ディズレーリが破産したのはどこへの投機が原因ですか?", "id": "tr-393-10-000", "answers": [ { "text": "南米鉱山", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南米鉱山投機でディズレーリが抱えた借金の金額は?", "id": "tr-393-10-001", "answers": [ { "text": "7,000ポンド", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "破産したディズレーリは文筆で生計を立てる決意をし、1826年前半頃に『ヴィヴィアン・グレイ(英語版)』を著した。この小説は1826年4月に出版業者ヘンリー・コルバーン(英語版)によって匿名で出版された。野望に燃える主人公ヴィヴィアンが、ジャーナリストから庶民院議員となり政界で中枢の地位を得る物語である。これは賛否両論ながら評判となり、社交界でも話題になったが、やがて作者が社交界に入ったこともない21歳の若者だと判明した時、嘲笑に晒された。「貴族でもない癖に貴族であるかのように滑稽に気取っている」、「(ディズレーリは)急いで世の中から消え、忘れ去られた方が幸せである」などという厳しい批評がなされた。", "qas": [ { "question": "『ヴィヴィアン・グレイ(英語版)』が匿名で出版されたのは何月ですか?", "id": "tr-393-11-000", "answers": [ { "text": "4月", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ヴィヴィアン・グレイ(英語版)』の主人公の職業は何ですか?", "id": "tr-393-11-001", "answers": [ { "text": "ジャーナリスト", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "またマレーは作中登場するカラバス侯爵(高い地位にあるが、頭の悪い飲んだくれで、ヴィヴィアンはこの男を操って政党を作らせ首相になろうとする)が自分をモデルにしていると感じ、ディズレーリへの怒りを露わにした。この頃のマレーはディズレーリに騙されて『リプレゼンタティブ』紙の事業をやらされたと思っていたので、怒りは尚更であった。マレーは保守党の政治家たちに強い影響力を持っていたので、マレーとの不和はディズレーリの保守党の政治家としての活動の障壁となった。また保守党所属議員からもディズレーリが保守主義者ではない証拠としてこの小説の様々な部分が引用されることになる。\n\nディズレーリも後年『ヴィヴィアン・グレイ』を大いに恥じ、「若気の至り」「青臭い失敗作」と語り、1853年の全集に載せることにも強く反発したが、結局大幅に書き換えることを条件に掲載を許している。\n\n非難の嵐から逃げるようにディズレーリはフランス・イタリアの諸都市の旅に出た。2か月ほどの旅だったが、イギリス国内ではいまだに『ヴィヴィアン・グレイ』批判の余韻が残っていた。しかし経済的に窮していたディズレーリは、1826年秋に『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆し、再びコルバーンが出版した。", "qas": [ { "question": "マレーは『ヴィヴィアン・グレイ』のどの人物を見てディズレーリに怒りを表したか?", "id": "tr-393-12-000", "answers": [ { "text": "カラバス侯爵", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ヴィヴィアン・グレイ』第二部が出版された季節は?", "id": "tr-393-12-001", "answers": [ { "text": "秋", "answer_start": 491, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆後、ディズレーリは神経衰弱を起こして倒れた。この後3年間は体調が優れぬままに法律の勉強に戻った。1828年には1825年春季学期以来、ほとんど通っていなかったリンカーン法曹院に通うようになったが、1831年に退学した。\n\n1828年に『ポパニラ』という小説を公刊し、功利主義者や穀物法、植民地支配を批判した。しかしこの小説はほとんど評判にならなかった。\n\n1829年末頃に健康を回復し始めたディズレーリは再び長期旅行の計画を立てた。その資金を稼ぐために『若き公爵(TheYoungDuke)』の執筆を開始し、1830年3月までには完成させて原稿をコルバーンに送った。この本はディズレーリが近東旅行中の1831年4月に出版された。相変わらず貴族の言葉遣いや作法に誤りや現実離れした部分があったものの、『ヴィヴィアン・グレイ』よりは出来が良く、大衆受けする内容であったので、批評家もまずまずの評価を下した。\n\nこの頃ディズレーリの父アイザックを尊敬する小説家エドワード・ブルワー=リットンと知り合い、親しく付き合うようになりお互いに影響しあった。", "qas": [ { "question": "『ヴィヴィアン・グレイ』の次に書いた小説のタイトルは?", "id": "tr-393-13-000", "answers": [ { "text": "『ポパニラ』", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『若き公爵(TheYoungDuke)』執筆し、書き終えたのは何年ですか?", "id": "tr-393-13-001", "answers": [ { "text": "1830年", "answer_start": 272, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1830年5月末、姉サラの婚約者メラディスとともにロンドンから船出して英領ジブラルタルへ向かい、南欧・近東を旅行した。特にエルサレム訪問はユダヤ人としてのアイデンティティを再認識するきっかけとなった。また、この旅行中からディズレーリは「デ・イズレーリ」という外国人風の姓を「ディズレーリ」と綴るようになった。カイロ滞在中の1831年7月、同行者メラディスが天然痘により病死したため、ディズレーリも急遽帰国の途に付き、12月末に帰国した。この帰路の船中でディズレーリは2本の小説(ユダヤ人について描いた『アルロイ(Alroy)』と文学の道へ進むか政治の道を進むか悩む若い詩人を描いた『コンタリーニ・フレミング(ContariniFleming)』)を書いている。", "qas": [ { "question": "ディズレーリの元の性は何でしたか?", "id": "tr-393-14-000", "answers": [ { "text": "「デ・イズレーリ」", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1831年に死亡したディズレーリの同行者が死因となった病名は何ですか?", "id": "tr-393-14-001", "answers": [ { "text": "天然痘", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1830年代初頭のイギリスでは産業革命による工業化した社会に対応した政治変革を行うことが喫緊の課題となっていた。1830年には保守政党トーリー党の政権が倒れ、自由主義政党ホイッグ党の政権であるグレイ伯爵内閣が誕生した。\n\nディズレーリの友人ブルワー=リットンも1831年の総選挙(英語版)で当選を果たして急進派(英語版)に所属する庶民院議員になった。リットンの縁故でディズレーリも社交界に出席できるようになった。ディズレーリは自分も庶民院議員になりたいと思うようになった。ディズレーリの父アイザックはトーリー党支持者であり、ディズレーリ本人もトーリー党に好感を持っていたが、当時トーリー党は世論から激しく嫌われており、選挙に勝利できる見込みはなかった。そのため友人リットンと同じく急進派に接近した。\n\nグレイ伯爵政権によって1832年6月7日に「腐敗選挙区」の削減や選挙権の中産階級への拡大を柱とする第一次選挙法改正が行われると、ディズレーリは庶民院議員選挙への出馬を決意し、ハイ・ウィカムで選挙活動を開始した。ディズレーリはリットンの伝手でジョゼフ・ヒューム(英語版)や合同法廃止によるアイルランド独立を目指す廃止組合(英語版)指導者ダニエル・オコンネルら進歩派の推薦状をもらった。", "qas": [ { "question": "1830年に倒された保守政党の名前は?", "id": "tr-393-15-000", "answers": [ { "text": "トーリー党", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ディズレーリが社交界に出席できるようになったのは誰との付き合いのおかげですか?", "id": "tr-393-15-001", "answers": [ { "text": "ブルワー=リットン", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ディズレーリは庶民院議員選挙への出馬を決意し、選挙活動を始めた地域はどこですか?", "id": "tr-393-15-002", "answers": [ { "text": "ハイ・ウィカム", "answer_start": 438, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この頃ウィカム選挙区選出の議員が別の選挙区に立候補するため議員辞職し、それに伴う補欠選挙がウィカム選挙区で行われることとなったため、ディズレーリは旧選挙法のもとで出馬した。リットンはディズレーリの対立候補が立たないよう骨折りしてくれたが、結局ホイッグ党が首相グレイ伯爵の息子グレイ大佐(英語版)を対立候補として擁立した。一方この選挙区で勝つ見込みがなかったトーリー党は、父親が熱心なトーリー党員であるディズレーリの出馬を歓迎していた。ディズレーリはこの補欠選挙で「私は1ペニーも公金を受けたことがない。また1滴たりともプランタジネット朝の血は流れていない。自分は庶民の中から湧き出た存在であり、それゆえに少数の者の幸福より大多数の幸福を選ぶ」と急進派らしい演説をした。しかしウィカム選挙区は典型的な「腐敗選挙区」であり、有権者は32名のみでこのうち20票をグレイ大佐が獲得し、対するディズレーリは12票しかとれず落選した。", "qas": [ { "question": "ホイッグ党の対立候補として出馬したのは誰ですか?", "id": "tr-393-16-000", "answers": [ { "text": "グレイ大佐", "answer_start": 137, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィカム選挙区の選挙でグレイ大佐がとった票数は?", "id": "tr-393-16-001", "answers": [ { "text": "20票", "answer_start": 374, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1834年秋にホイッグ党の政権が倒れ、12月に庶民院が解散されて1835年1月に総選挙(英語版)となった。ディズレーリはこの選挙に保守党(トーリー党が改名)での出馬を考え、保守党幹部リンドハースト男爵(英語版)と接触したが、結局保守党からの出馬はならず、再び急進派の無所属候補としてウィカム選挙区から出馬した。リンドハースト男爵の骨折りで保守党から500ポンドの資金援助受けての出馬となったが、結局前回と同様に三人の候補の中で最低の得票しか得られず、落選した。\n\nこの選挙後の1835年1月17日にリンドハースト男爵主催の晩餐に出席し、そこで後のライバルであるウィリアム・グラッドストンと初めて出会った。グラッドストンはすでに1832年の総選挙で当選を果たしており、この頃には25歳にして第一大蔵卿(首相)を補佐してあらゆる政府の事務に参与する下級大蔵卿(英語版)の職位に就いていた。ディズレーリはその日の日記の中でグラッドストンへの嫉妬を露わにしている。一方グラッドストンのその日の日記にはディズレーリについて何も書かれておらず、後世にディズレーリとの初めての出会いを質問された時にグラッドストンは「異様な服装以外には何の印象も受けなかった」と語っている。", "qas": [ { "question": "ディズレーリが1835年の選挙に参加するために接触した人物は誰ですか?", "id": "tr-393-17-000", "answers": [ { "text": "リンドハースト男爵", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・グラッドストンとディズレーリの初めての出会いで、相手からもっと強い印象を受けたのは誰ですか?", "id": "tr-393-17-001", "answers": [ { "text": "ディズレーリ", "answer_start": 392, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "三度の落選を経てディズレーリは無所属には限界があると悟った。1835年1月に保守党党首ウェリントン公爵に手紙を送り、「今の私は取るに足らない者です。しかし私は貴方の党のために全てを差し出すつもりです。どうか私を戦列にお加えください」と懇願した。公爵の計らいでディズレーリは保守党の紳士クラブカールトンクラブ(英語版)に名を連ねることを許された。\n\nさらに同年トーントン選挙区選出の議員の辞職に伴う補欠選挙に保守党はディズレーリを党公認候補として出馬させることにした。これまで党派に所属しないと言いながら結局保守党の候補になったディズレーリは変節者として激しい批判を受けた。この選挙戦中、ディズレーリがオコンネルを扇動者・反逆者として批判したという報道がなされ、オコンネルはかつて推薦状を書いてやった若造の裏切りに激怒し、激しく批判した。これに対してディズレーリは名誉を傷つけられたとして決闘を申し込んだが、オコンネルは昔決闘で人を殺めたことがあり、二度と決闘しないという誓いを立てていたため躊躇った。結局そうこうしてるうちに警察が介入してディズレーリは果たし状を取り下げる羽目になった。ただこの件はディズレーリにとって売名にはなった。この頃のディズレーリの日記にも「オコンネルとの喧嘩のおかげで名前を売ることができた」と書かれている。しかし結果は落選であった。", "qas": [ { "question": "1835年補欠選挙でディズレーリ激しく対立した人物は?", "id": "tr-393-18-000", "answers": [ { "text": "オコンネル", "answer_start": 300, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1835年、ディズレーリが入った保守党の紳士クラブの名は?", "id": "tr-393-18-001", "answers": [ { "text": "カールトンクラブ", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "選挙活動と並行してディズレーリは小説家としても活発に活動した。近東旅行からの帰国の船の中で書いた『コンタリーニ・フレミング』を1832年5月、『アルロイ』を1833年3月に出版した。さらにその後『イスカンダーの興隆(TheRiseofIskander)』、『天国のイクシオン(IxioninHeaven)』、『地獄の結婚(TheInfernalMarriage)』などを続々と出版した。また、メルバーン子爵やホイッグ党政権を批判した『ランニミード書簡』、イギリス憲政について論じた『イギリス憲政擁護論』『ホイッグ主義の精神』など政治論文も多数著した。\n\nだがいずれも大した儲けにはならなかった。しかもこの頃ディズレーリは社交界の女性ヘンリエッタと交際するようになっており、その交際費、また選挙活動の費用で支出が増えていた。生活費に困るようになり、友人オースチンから借金をしている。\n\nさらにオースチンが止めるのも聞かず、スウェーデン公債の販売に関する事業に携わって失敗し、多額の借金を背負った。1836年から1837年はとりわけディズレーリが自堕落な生活を送っていた時期である。債権者から追われる日々を送り、何度も金の無心に来るディズレーリにオースチンも我慢の限界に達した。オースチンは繰り返し返済の催促をし、一度も返済しないなら法的手段に訴えると脅しさえした。\n\n1836年夏から秋にかけて恋愛小説『ヘンリエッタ・テンプル』を書きあげ、10月に出版され、『ヴィヴィアン・グレイ』に並ぶ金銭的成功を収めた。しかしこれだけでは借金を完済できなかったので、1837年5月にさらに『ヴェネチア(Venetia)』を出版したが、これは『ヘンリエッタ・テンプル』ほど売れなかった。", "qas": [ { "question": "1832年から1837年の間で、ディズレーリが一番金を儲けた作品は何ですか?", "id": "tr-393-19-000", "answers": [ { "text": "『ヘンリエッタ・テンプル』", "answer_start": 600, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ディズレーリが生活苦で困っていたとき彼に金を貸してくれた友人の名は何でしょう?", "id": "tr-393-19-001", "answers": [ { "text": "オースチン", "answer_start": 375, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当時の慣例で新女王の即位に伴って議会が解散され、1837年7月に総選挙(英語版)が行われることとなった。この選挙でディズレーリは保守党候補の当選が比較的容易なメイドストン選挙区からの出馬を許された。\n\nこの選挙区は2議席を選出し、しかもホイッグ党は候補者を立てていなかった。急進派の候補が出馬していたが、保守党は2議席とも取れると踏んでおり、ウィンダム・ルイス(英語版)とディズレーリの両名を候補として擁立したのだった。\n\n7月27日の選挙の結果、メイドストン選挙区はディズレーリとルイスが当選を果たした。ディズレーリは5年間に5度選挙に出馬したすえに、ようやく庶民院議員の地位を得たのであった。", "qas": [ { "question": "ディズレーリが初めて当選を果たした年はいつですか?", "id": "tr-393-20-000", "answers": [ { "text": "1837年", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "選挙後、ホイッグ党の首相メルバーン子爵はアイルランド選出議員の支持を取り付けて政権を維持しようとするだろうと予想された。\n\nそのため、1837年12月7日、アイルランド選出議員の代表者オコンネルの演説後に議場の演壇に立ったディズレーリは、オコンネル批判の処女演説(英語版)を行った。これにアイルランド選出議員が激しく反発し、ディズレーリの演説は嘲笑と野次にさらされた。ディズレーリが何か話すたびに議場から笑いが起こる有様だった。保守党党首ロバート・ピールさえも声援を送りながらも笑いをこらえていたという。ディズレーリは怒りを抑えきれず、「いつの日か、皆さんが私の言葉に耳を傾ける日が来るでしょう」と大声で叫んで演壇を去った。\n\nしかしこれを見たアイルランド選出議員シェイルは「ディズレーリがアイルランド選出議員から妨害を受けずに演説していたら、あの演説は失敗だっただろう。ディズレーリの演説は失敗したのではなく押しつぶされたのだ。私の初演説はみんなが静聴してくれたがゆえに失敗だったと言える。つまり私は軽蔑をもって、ディズレーリは悪意をもって迎えられたという事だ。」と語ってディズレーリ演説を評価している。", "qas": [ { "question": "ディズレーリの処女演説はいつでしたか?", "id": "tr-393-21-000", "answers": [ { "text": "1837年12月7日", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1837年12月7日のディズレーリの演説は何を語っていましたか?", "id": "tr-393-21-001", "answers": [ { "text": "オコンネル批判", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方でディズレーリは保守党党首サー・ロバート・ピールに追従し、タイムズ紙にピールを称える寄稿文を寄せた。メルバーン子爵を寵愛するヴィクトリア女王がピールの案による寝室女官の新人事に文句をつけてピールの組閣を阻止した寝室女官事件でも、ディズレーリは「マダム、それはなりません」という文を書いて女王を批判し、ピールの対応を称賛している。\n\nホイッグ党の首相メルバーン子爵はヴィクトリア女王の寵愛のみで政権を維持していたが、すでに死に体であった。1841年5月に内閣不信任案が1票差で可決され、解散総選挙(英語版)となった。この選挙でディズレーリはシュルズベリー選挙区に鞍替えした。選挙戦中にディズレーリは買収容疑をかけられたため、苦しい選挙戦となったが、なんとか再選を果たした。しかし買収容疑の追及は選挙後もしばらく続いた。\n\n選挙の結果、保守党がホイッグ党から第一党の座を奪い取ったが、メルバーン子爵はなおも政権を維持するつもりだった。それを阻止すべく、保守党内では庶民院議長再選に反対すべきとの意見が出されたが、ピールら党執行部はその意見を退けた(これによって庶民院議長の不偏不党性が確立された)。だが党内にはなおもそれを主張し続ける者があり、彼らは『タイムズ』紙に「ピシータカス」という偽名でその意見を掲載し始めた。この「ピシータカス」がディズレーリだという疑惑が広まった。ディズレーリはその噂を否定しているが、この件で保守党執行部から忠誠を疑われるようになった。", "qas": [ { "question": "1841年解散総選挙が行われたのは何が原因ですか?", "id": "tr-393-22-000", "answers": [ { "text": "内閣不信任案", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メルバーン子爵が政権を維持してきた原動力は何ですか?", "id": "tr-393-22-001", "answers": [ { "text": "ヴィクトリア女王の寵愛", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヴィクトリア女王はピールを毛嫌いしていたが、彼女の夫アルバートはピールを高く評価しており、彼がヴィクトリアを説得した結果、1841年8月30日にピールに大命降下があった。\n\nディズレーリはピール内閣に入閣できるものと思っていたが、お呼びはかからなかった。次々と閣僚ポストが埋まっていくのに焦ったディズレーリは、ピールに自分を見捨てないよう懇願する手紙を送ったが、ピールからの返事はそっけなかった。そもそもピールも有力議員の顔を立てなければならないのであるから、全ての閣僚人事を自由にできるわけではなかった。\n\n結局ピールの組閣は閣僚のほとんどが第1次ピール内閣(1834年~1835年)と同じ顔触れとなり、新規閣僚は4人だけだった。ディズレーリは入閣できなかった。ピールから嫌われているわけではなかったが、保守党上層部の中には彼を胡散臭がる者は多かった。もっともディズレーリが入閣できなかったのはこの当時の保守党内政治力学を考えれば順当なことであり、入閣はディズレーリの高望みであった。", "qas": [ { "question": "第2次ピール内閣の構成人中、第1次ピール内閣にいなかったのは何人ですか?", "id": "tr-393-23-000", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ダライ・ラマ13世", "paragraphs": [ { "context": "19世紀のチベットは権力争いが続いた。ラサ政府(チベット中央政府)では、ダライ・ラマ11世が1855年に政治の実権を摂政ラデン・トゥルクから譲り受けたが、1856年に謎の死を遂げると、実権は再び元の摂政の手に戻った。ダライ・ラマは12世が継いだが、幼少であり実力は無かった。その後、摂政に流刑されていた軍実力者でドーグラー戦争の功績者シャタ・ワンチュク・ギェルポ(シェーダ・ワンチュクゲルポ)に同調する勢力が摂政を追放し、この軍実力者が新たな摂政となった。この新しい摂政は対立勢力を迫害するが、早くも2年後の1864年に死んだ。後任の摂政も対立勢力を迫害するが、1872年に死んだ。その後はダライ・ラマ12世の親政となったが、その時期もまた短く、1875年に死んだ。その後は新たに任命された摂政が権力を握った。", "qas": [ { "question": "ダライ・ラマ11世の死亡年度は?", "id": "tr-394-00-000", "answers": [ { "text": "1856年", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダライ・ラマ12世の死亡年度は?", "id": "tr-394-00-001", "answers": [ { "text": "1875年", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、外交情勢も複雑だった。チベットは乾隆帝時代の1793年に事実上清の保護領となっていたが、1839年のアヘン戦争の頃から少しずつ清の影響力が落ちていった。チベットは1855年から1856年に行われたネパール・チベット戦争でネパールに敗北し、その講和条約であるタパタリ条約はチベット不利の条約で、ネパールに毎年一万ルピーの貢納、ネパール商人の関税免除などが定められた。また、イギリスは1859年にインド大反乱を鎮圧してインドを事実上支配下においており、1861年にはチベット人の住むシッキム王国を保護領とした。また、チベット東部のデルゲは1728年以来清の領土だったが、太平天国の乱に乗じた地元のチベット人領主が反乱を起こし、1865年、清に代わってこれをラサ政府が鎮圧、再びチベットの支配下とした。この頃には清のチベットに対する影響は非常に小さくなっていた。同時期、西洋のキリスト教宣教師も増え始めていたが、これも排斥された。しかし、その後も清は自身をチベットの宗主国と考えていたため、チベットの扱いに関して外国にチベットの意向を聞かずに約束をしたり、外国勢力を排除するチベットの行為に対して外国に代わりに賠償金を支払ったりしていた。", "qas": [ { "question": "ネパール・チベット戦争で勝利したのはチベットなの、ネパールなの?", "id": "tr-394-01-000", "answers": [ { "text": "ネパール", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ネパール・チベット戦争の結果、どんな条約が結ばれましたか。", "id": "tr-394-01-001", "answers": [ { "text": "タパタリ条約", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ダライ・ラマ13世は法王としての威厳と気品を備えた人物だった。敏感な性格で、理解力と判断力を備えていた。\n\n馬と犬が好きだった。ただし宮殿であるポタラ宮は動物の飼育が禁止されていたため、離宮のノルブリンカで飼育させ、自身もほとんどをそこで過ごしていた。式典のある時のみポタラ宮最上階の座所に戻った。チベット犬やインドから輸入した狆なども飼っていた。花も好きで、留学生の多田等観に命じて日本のスミレなどを植えさせている。\n\n起床は朝の5~6時頃で、朝食の前に仏間に一人籠もって勤行をした。朝食はツァンパとお茶、乾肉と薄い粥だった。朝食後、午前中は全国からの依頼で死者の祈願や占いを行い、対価として金品等を受け取った。占いはサイコロ3個の目を参考に、依頼者が行うべきこと(祈祷や供養など)の指示を書面で与えた。閣議は毎週木曜に離宮で行われた。閣議は臣下が案を立てて13世に上奏する形だったが、採否いずれにしても即決だった。用務が終わると比較的質素な昼食を取り、馬や犬と遊んだりした。夕食は米と中華風炒め物だった。イギリスから缶詰などが贈られても食べなかった。寝る前に1時間ほど瞑想し、11時ごろに就寝した。\n\n優れた仏画も描け、道具類にはしばしば自分で彫刻を入れた。当時チベット大蔵経の原版が傷んでいたため、ヒマラヤから桜の木を取り寄せ、私費で作り直させた。その際、自ら校正を手がけている。", "qas": [ { "question": "ダライ・ラマ13世の好きな動物は馬とそして何?", "id": "tr-394-02-000", "answers": [ { "text": "犬", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダライ・ラマ13世の宮殿の名前は何?", "id": "tr-394-02-001", "answers": [ { "text": "ポタラ宮", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダライ・ラマ13世は馬と犬をどこで飼育しましたか。", "id": "tr-394-02-002", "answers": [ { "text": "離宮のノルブリンカ", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダライ・ラマ13世は朝何時ごろに起きたの?", "id": "tr-394-02-003", "answers": [ { "text": "朝の5~6時頃", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1933年12月17日、ダライ・ラマ13世は死去した。死去には軍司令官のクンペラ、侍医、神託僧のみが立ち会った。クンペラが与えた薬が死期を早めたという噂もあった[51]。ソビエト連邦か日本が暗殺に関わったとの噂も流れた。ロイター通信は13世が毒殺されたと伝えた。多田等観は、急性肺炎で死んだとの話を伝え聞いている。\n\n中華民国は13世の死後、自国に留めて置いたパンチェン・ラマ9世をチベットに送り返し、チベットの政治に中華民国の意思を反映させようとした。しかしパンチェン・ラマ9世はラサ到着前に急死した。\n\nダライ・ラマ13世の死で、チベットの独立性はやや後退した。中華民国の国民党政府は蒙蔵委員会のメンバーの一部を13世の葬儀に弔問使節として送り、そのまま駐蔵弁事官としてチベットに留まらせることに成功している。実質的な権限はほとんど無かったが、中華人民共和国が成立した1949年にラサ政府が全員退去させるまでこの部署が存在した。この退去事件が中華人民共和国のチベット侵攻のきっかけの一つとなった。\n\nダライ・ラマの転生者は、ラサ政府が協力を必要としている地域から発見されるのが常であり、ダライ・ラマ14世は1939年に中華民国青海省のチベット人居住地区タクツェルで発見された。14世は5歳までそのまま中華民国内で育てられ、その後にラサに移された。そして1940年2月22日に即位した。", "qas": [ { "question": "ダライ・ラマ13世はいつ死んだの?", "id": "tr-394-03-000", "answers": [ { "text": "1933年12月17日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロイター通信はダライ・ラマ13世の死因は何だと伝えましたか。", "id": "tr-394-03-001", "answers": [ { "text": "毒殺", "answer_start": 121, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ダライ・ラマ13世とパンチェン・ラマ9世と誰が先に死んだの?", "id": "tr-394-03-002", "answers": [ { "text": "ダライ・ラマ13世", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ダライ・ラマ14世はいつ即位しましたか。", "id": "tr-394-03-003", "answers": [ { "text": "1940年2月22日", "answer_start": 578, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "レゲエ", "paragraphs": [ { "context": "レゲエ(Reggae英語発音:[ˈrɛɡeɪ])は、狭義においては1960年代後半ジャマイカで発祥し、1980年代前半まで流行したポピュラー音楽である。広義においてはジャマイカで成立したポピュラー音楽全般のことをいう。4分の4拍子の第2・第4拍目をカッティング奏法で刻むギター、各小節の3拍目にアクセントが置かれるドラム、うねるようなベースラインを奏でるベースなどの音楽的特徴を持つ。2018年にはユネスコの無形文化遺産に登録された。\n\n\n狭義のレゲエは直接的には同じくジャマイカのポピュラー音楽であるスカやロックステディから発展したが、ジャマイカのフォーク音楽であるメントや、アメリカ合衆国のリズム・アンド・ブルース、トリニダード・トバゴ発祥のカリプソ、ラスタファリアンの音楽であるナイヤビンギ、コンゴ発祥のクミナ(Kumina)や西アフリカ発祥のジョンカヌー(Jonkanoo)、さらにはマーチなど多様な音楽の影響を受け成立した。", "qas": [ { "question": "狭義においてのレゲエ定義ではレゲエが発祥した国はどこですか?", "id": "tr-395-00-000", "answers": [ { "text": "ジャマイカ", "answer_start": 41, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レゲエが成立するのに影響を与えたコンゴ発祥の音楽は何ですか?", "id": "tr-395-00-001", "answers": [ { "text": "クミナ", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユネスコの無形文化遺産に登録されたのは何年ですか?", "id": "tr-395-00-002", "answers": [ { "text": "2018年", "answer_start": 192, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レゲエが発祥したのはいつ頃ですか?", "id": "tr-395-00-003", "answers": [ { "text": "1960年代後半", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「レゲエ(reggae)」と言う呼称の語源には諸説あるが、「ぼろ、ぼろ布、または口げんか、口論」という意味を表すジャマイカ英語のスラング、パトワ語で「レゲレゲ」が転じたものという説が有力である。\n\n語源にはいくつかの異説がある。歌手のデリック・モーガンは以下のように述べている。\n\n「僕達は「ロックステディ」という名前が気に入ってなかったから「ファット・マン」の新しいヴァージョンを作ることにした。オルガンを使って地を這うようなビートに作り直す事にしたんだ。プロデューサーのバニー・リーはその変化を気に入ってくれた。そして彼はオルガンとリズムギターで「レゲッ、レゲッ」と聞こえるサウンドを創り出した。バニーはそれを「レゲエ、レゲエ、レゲエ」と呼び、他のミュージシャン達もそう呼ぶようになったのさ。」\nまた、「都合のいい女」を意味するジャマイカ・クレオール語(パトワ)のスラング「ストレゲエ(\"streggae\")」をクランシー・エクルズが略語化したという説もある。", "qas": [ { "question": "「ストレゲエ」はジャメイカ・クレオール語でどういう意味ですか?", "id": "tr-395-01-000", "answers": [ { "text": "「都合のいい女」", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ぼろ、ぼろ布、または口げんか、口論」という意味を表すパトワ語は何ですか?", "id": "tr-395-01-001", "answers": [ { "text": "「レゲレゲ」", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1968年に史上初めて「レゲエ」という語をタイトルに取り入れた楽曲「ドゥ・ザ・レゲエ(en)」を発表したメイタルズのリーダー、トゥーツ・ヒバートは以下のように語っている。\n\n「確かに当時ジャマイカで「ストレゲエ」という言葉はあった。例えば女の子が歩いてる時、誰かがその子を見ながら「なあ、あの子はストレゲエだな」なんて言ったりした。彼女はあまりお洒落じゃなくぼろっちいっていう意味さ。まあ、女の子の方も男達に対して同じ事を言ってたんだろうけど。ある日の朝俺と友人達で遊んでる時、俺はこう言ったんだ。「オーケー、レゲエをやろうぜ(Let'sdothereggay)」って。それはただ単に口をついただけの意味のない言葉だったんだが、俺達はすぐに「ドゥ・ザ・レゲエ、ドゥ・ザ・レゲエ」と歌いだして、ビートを作っていった。人々は後になってそのサウンドと名前は神から与えられたものじゃないかって言ったね。それ以前にはそういうスタイルの音楽のことを「ブルー・ビート」とか色々な呼び方で呼んでたんだけどね。この話は今ではギネス・ワールド・レコーズにも載ってるって訳だ。」\n「レゲエは普通の人々が作ったっていう事だ。判るか?日常を語った音楽であり、ゲットーから生まれたものであり、大衆のものっていう事だよ。毎日の飯のように、ダンスするための音楽としてレゲエが必要だったのさ。レゲエは日々苦闘し、欲しいものも手に入らないレギュラーな人々(regularpeople)っていう意味なんだよ。」\nまた、ボブ・マーリーはレゲエの語源は「王の音楽」を意味するスペイン語であると主張していた。さらに、「王のために(totheking)」を意味するラテン語「regis」に由来するとする説もある。", "qas": [ { "question": "「王の音楽」を意味するスペイン語であると主張したものは誰ですか?", "id": "tr-395-02-000", "answers": [ { "text": "ボブ・マーリー", "answer_start": 640, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "史上初めてレゲエという語をタイトルに取り入れた楽曲を発表したグループのリーダーは誰ですか?", "id": "tr-395-02-001", "answers": [ { "text": "トゥーツ・ヒバート", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "狭義におけるレゲエのアンサンブル、およびレゲエバンドにおいて使用される楽器は、ドラムセット、ベース、ギター、キーボード、パーカッション、そしてトロンボーン・サキソフォーン・トランペットによって構成されるホーンセクションである。\n\n最も特徴的な演奏様式はドラムとベースによるリズム隊によって形作られる特有のグルーヴを中心に、リズムギターやキーボードが第2、第4拍目にアクセントを置きオフビートを刻むものである。これはクラーベをリズムの基本にするドミニカ共和国のメレンゲやマルティニークのズーク、セントルシアのビギン(en)などの近隣のカリブ海地域の音楽とは全く異なる演奏様式である。\n\nレゲエのリズムはしばしばレギュラービートとシャッフルビートを同居させ、ポリリズムを形成する。BPMは72から92の間であることが多く、音数は少ないものの隙間でグルーヴを感じさせるように演奏される。またレゲエのリズムのことをジャマイカ英語で「リディム」と言い、しばしば曲名だけではなくリディム自体にも名前がついている。\n\n1970年代におけるボブ・マーリーの世界的ヒットなどを経て、レゲエの演奏様式はアフリカ、ラテン・アメリカ、アジアなど世界の様々なポピュラー音楽にも取り入れられて演奏されるようになった。また、ジャズ、ロック、ヒップホップなど異なるジャンルとの融合や、レゲエ風アレンジも多く見られる。", "qas": [ { "question": "レゲエの特徴的な演奏様式でリズムギターやキーボードが第2、第4拍目にアクセントを置き作るものは何?", "id": "tr-395-03-000", "answers": [ { "text": "オフビート", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レゲエの特徴的な演奏法によると、リズムギターやキーボードがアクセントを置くのはどこですか?", "id": "tr-395-03-001", "answers": [ { "text": "第2、第4拍目", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レゲエのリズムをジャマイカ英語でどう呼びますか?", "id": "tr-395-03-002", "answers": [ { "text": "「リディム」", "answer_start": 411, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "標準的なドラムセットが使用されることが多い。スネアドラムはしばしばティンバレスのような非常に高い音にチューニングされ、演奏ではリム・ショットが多用される。また、ロックやポップスなどと異なりシンバルを使ったフィルインはあまり用いられず、ハイハットを叩く際はアクセントをつけず平板なビートを刻むことが多い。\n\nレゲエにおけるドラムビートは、「ワンドロップ」、「ロッカーズ」、「ステッパーズ」などに分類することができる。\nワンドロップは1拍目にアクセントがなく、3拍目のみがスネアドラムのリムショットとバスドラムによって強調される。カールトン・バレットが開発したとされるこのリズムは、レゲエを特徴づける要素の一つである。代表的楽曲はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「ワン・ドロップ」など。\n\nフライング・シンバルとはワンドロップのドラムに、通常はギターやキーボードが強調する2拍目、4拍目をハイハットのオープンショットによって強調する奏法のことである。1974年にカールトン・サンタ・デイヴィス(en)が開発し、1975年まで流行した。代表曲はジョニー・クラーク(en)「ムーブ・アウト・オブ・バビロン」など。\n\nロッカーズはルーディメンツを下敷きにしたマーチングバンド風のフレーズをスネアドラムで叩く。その戦闘的にも聞こえるビートから「ミリタント・ビート」とも呼ばれている。スライ・ダンバーによって開発された。代表的楽曲はマイティ・ダイアモンズ「アイ・ニード・ア・ルーフ(INeedARoof)」(1976年)など。\n\nステッパーズはスライ・ダンバーが開発した4拍子の4拍すべてに固い4つ打ちのバスドラムを打つリズムである。代表的楽曲はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ「エクソダス」など。この曲でカールトン・バレットは、4分の4拍子を刻む4つ打ちのバスドラムに8分の6拍子を刻むハイハットの3連打を絡めている。", "qas": [ { "question": "ワンドロップで通常はギターやキーボードが強調する2拍目、4拍目をどの楽器が演奏しますか?", "id": "tr-395-04-000", "answers": [ { "text": "ハイハット", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロッカーズは誰によって開発されましたか?", "id": "tr-395-04-001", "answers": [ { "text": "スライ・ダンバー", "answer_start": 586, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ワンドロップ」、「ロッカーズ」、「ステッパーズ」のなかでスライ・ダンバーが開発しなかったドラムビートは何ですか?", "id": "tr-395-04-002", "answers": [ { "text": "「ワンドロップ」", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1974年にカールトン・サンタ・デイヴィスが開発したドラムビートの代表曲は何?", "id": "tr-395-04-003", "answers": [ { "text": "「ムーブ・アウト・オブ・バビロン」", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "標準的なエレキベースが使用されるが、極端に重低音を強調した音にチューニングされる。レゲエにおいてベースはうねるようなベースラインを繰り返し、転調も少ない。\n\n標準的なエレキギターが使われることが多いが、アコースティックギターが使用されることもある。レゲエにおいてギターはカッティング奏法で2拍目・4拍目のオフビートを強調することが多い。カッティング奏法といってもファンクのように空ピックを多用することはなく、所々で空ピックや実音で引っ掛けるフレーズでスイングを演出する。バンドによってはカッティング奏法を担当するリズムギターとブルース風やロック風のメロディやリフの演奏を担当するリードギターの二本を用意することもある。\n\nパーカッションとしては、ボンゴ、カウベル、シェイカー、ビンギ・ドラム、ギロ、クラベス等が使用される。1990年代以降ではAKAIMPC等のサンプラーが使用されることもある。\n\nレゲエには多彩なボーカルスタイルが存在する。ソロ・シンガー、ボーカル・デュオ、ボーカル・トリオ、ディージェイ、シンガーとディージェイのデュオ、ディージェイ同士のデュオなどである。\n\nなお、レゲエ特有の歌唱法としてはディージェイによるトースティング、ディージェイとシンガーの中間的歌唱法であるシングジェイ(en)がある。", "qas": [ { "question": "レゲエバンドでカッティング奏法を担当するギターのことをどう呼びます?", "id": "tr-395-05-000", "answers": [ { "text": "リズムギター", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レゲエのパーカッションに使用されるもののなかで割と最近使われ始めたものは?", "id": "tr-395-05-001", "answers": [ { "text": "サンプラー", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ディージェイが歌うレゲエ特有の歌唱法は?", "id": "tr-395-05-002", "answers": [ { "text": "トースティング", "answer_start": 515, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "レゲエは「レベル・ミュージック(rebelmusic、反抗の音楽)」であるといわれる。その理由はレゲエの歌詞はしばしば社会、政治、物質主義、植民地主義などへの批判や反抗を主題とするからである。これはジャマイカ国民の90%以上が黒人奴隷またはマルーンの子孫であることにより醸成された疎外感や抵抗の歴史、ラスタファリ運動とキリスト教バプティスト派の宗教的影響が大きい。しかし、全てのレゲエ・アーティストがラスタファリアンというわけではなく、全てのレゲエの歌詞が反抗的というわけではない。ジャマイカの伝統音楽であるメントと同様のコミカルな歌詞や、フォークロアや諺に基づく説話的歌詞、ゲットーの貧しい暮らしへの嘆き、男女の愛、人生の機微、音楽への陶酔、新しいダンスの方法など、レゲエにおける歌詞の主題は多岐に亘る。", "qas": [ { "question": "レゲエがレベル・ミュージックと言われる理由は何ですか?", "id": "tr-395-06-000", "answers": [ { "text": "レゲエの歌詞はしばしば社会、政治、物質主義、植民地主義などへの批判や反抗を主題とするから", "answer_start": 48, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "特にラスタファリアンのレゲエ・アーティストは、エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世を「ジャー(現人神)」と、ジャマイカのジャーナリスト・企業家のマーカス・ガーベイを預言者と考え、アフリカ回帰(en)を主義とする宗教的運動であるラスタファリズムを、しばしば作品の主題とする。アーティストは自らを戦士やライオン、イスラエル民族になぞらえ、「バビロンと戦いこれを打ち破り、ザイオンに帰還する」などと原理主義的に描写する。\n\nラスタファリアンでないアーティストもしばしば(黒人の)人種的プライドを誇ったり、反転した価値観を訴える。", "qas": [ { "question": "ラスタファリズムで現人神とされるのは誰ですか?", "id": "tr-395-07-000", "answers": [ { "text": "ハイレ・セラシエ1世", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラスタファリズムで預言者と言われる人物の名は?", "id": "tr-395-07-001", "answers": [ { "text": "マーカス・ガーベイ", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ラスタファリ運動がジャマイカで流行した1960年代末以降、大麻はレゲエの歌詞の中で頻繁に取り上げられる主題の一つである。\nジャマイカにおける大麻は19世紀半ば以降プランテーションでの人手不足を補うため導入されたインド系移民によってもたらされた。\nジャマイカでは大麻は「ガンジャ」や「ハーブ」などと呼称され、「ガンジャ・チューン(ganjatune)」などと称される大麻による効能や瞑想、または大麻が非合法とされているが故の苦難をテーマとした楽曲が多く発表されている。\n最も古いガンジャ・チューンは1966年のドン・ドラモンドによる器楽曲「クール・スモーク(CoolSmoke)」などである。\nウェイラーズ『キャッチ・ア・ファイア』(1972年)のマーリーがガンジャのジョイントをくゆらすジャケットや、ピーター・トッシュ『解禁せよ(en)』(1976年)などの作品群のヒットによって、レゲエと大麻の結びつきはジャマイカ以外の国々においても有名なものとなった。\nしかし一方で、ジャマイカには1913年より施行された危険薬物法(DangerousDrugsAct)があり、大麻の所持、売買、喫煙にはそれぞれに応じた罰金刑、懲役刑が科されている。\nトッシュ、ブジュ・バントン、ニンジャマンらレゲエアーティストもこの法律を根拠に科刑された経験がある。", "qas": [ { "question": "大麻をテーマに歌う初めての楽曲は何年に発表されていますか?", "id": "tr-395-08-000", "answers": [ { "text": "1966年", "answer_start": 248, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大麻がジャマイカで禁止されたのは何年からか?", "id": "tr-395-08-001", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 443, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "危険薬物法によって科刑されたアーティストのなかで1976年にガンジャ・チューンを製作した人物は誰ですか?", "id": "tr-395-08-002", "answers": [ { "text": "ピーター・トッシュ", "answer_start": 350, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "特に1990年代以降のダンスホールレゲエ楽曲を中心に、レゲエの歌詞にはしばしば異性愛を尊重し、同性愛者などの「性的逸脱者」を「バティボーイ(en:Battyboy)」などと呼び、激しく批判するホモフォビア的内容のものがある。これら同性愛者批判はジャマイカ国民の大多数を占める保守的キリスト教信者やラスタファリアンが持つ信仰に基づく性倫理観の影響や、植民地時代が長らく続いたことによる母系社会化と相対的な男性の地位低下等のジャマイカ特有の社会的、歴史的事情の影響がある。また、ジャマイカでは法律OffencesAgainstthePersonAct第76条、79条によって男性間の性交をはじめとする「性的逸脱」が違法とされており、違反者には10年以下の禁固刑が課せられている(その一方、女性間の同性愛行為に対する直接な法的言及はない)。", "qas": [ { "question": "男性間の性交などの「性的逸脱」がジャマイカでは違法であると書かれている法律は何ですか?", "id": "tr-395-09-000", "answers": [ { "text": "OffencesAgainstthePersonAct第76条、79条", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャマイカが母系社会化した要因は何ですか?", "id": "tr-395-09-001", "answers": [ { "text": "植民地時代が長らく続いたこと", "answer_start": 174, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1990年代以降、ブジュ・バントン、エレファント・マン、ビーニ・マン、シズラ、ケイプルトン(en)らがイギリスに本部を置くアウトレイジ!(en)等の同性愛団体・人権団体から差別的発言について抗議を受けていたが、2007年には上記のアーティストに加えT.O.K(en)、バウンティ・キラー(en)、ヴァイブス・カーテル(en)らが、アウトレイジ!らが起こしたキャンペーン「StopMurderMusic」との交渉により、今後は同性愛嫌悪を助長する歌詞を歌う事を止め、同性愛者に対する暴力に反対するとの合意書「レゲエ特別配慮規定」に署名、その調印書類が同性愛人権活動家のピーター・タッチェル(en)の公式サイトで公開されるなど、一時は両者間が歩み寄りの一歩を踏み出したかのように見られた。\nしかし、ブジュ・バントンとビーニ・マンは直後にこの署名を否定し、同性愛団体・人権団体との対立が再燃。\n両団体の抗議により、2人の欧米ライブツアーは幾度も抗議活動に見舞われたり、中止に追い込まれる等、表現の自由と人権問題の狭間を揺れ動く、依然根の深い問題となっている。", "qas": [ { "question": "エレファント・マン、ブジュ・バントン、シズラなどのレゲエアーティストたちに差別的発言について抗議を入れた団体名は何ですか?", "id": "tr-395-10-000", "answers": [ { "text": "アウトレイジ!", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シズラ、ケイプルトン、T.O.Kらとアウトレイジ!の間の交渉のすえ得られた合意書の名前は何だ?", "id": "tr-395-10-001", "answers": [ { "text": "「レゲエ特別配慮規定」", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ホモフォビア的内容を含むレゲエ楽曲についての議論でレゲエアーティストが主張しているものは何だ?", "id": "tr-395-10-002", "answers": [ { "text": "表現の自由", "answer_start": 442, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "レゲエのホモフォビア的性格の論争は表現の自由と人権問題と言えるが、ブジュ・バントンはどっち側の人間か?", "id": "tr-395-10-003", "answers": [ { "text": "表現の自由", "answer_start": 442, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一方、2012年7月にレズビアンであることをカミングアウトしたダイアナ・キングは自身の公式Facebookで発表した声明文において、「正直に話すと、オープンに認めることはずっと怖くてできなかった。私のキャリアや家族、愛する人たちにどんなネガティブな影響を与えるか、分からなかったから」、「私がずっと抱いていた深い恐怖、それはジャマイカの人たちが長年のホモフォビアによって私を受け入れないということ。」、「私のような人たちを毎日のように迫害し、打ちのめし、牢獄に入れ、強姦し、殺してきたという不快な現実を、私はこれまでずっと、あまりにも多く見てきた。ただ自分自身であろうとする人たちを、あるいは、ただそうと疑われただけの人たちを」と語り、このように同性愛者に差別的なジャマイカにおける政治的/文化的土壌を批判している。", "qas": [ { "question": "レズビアンであることをカミングアウトし、自身の公式Facebookで声明文を発表した人物は誰ですか?", "id": "tr-395-11-000", "answers": [ { "text": "ダイアナ・キング", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ダイアナ・キングがレズビアンであることをカミングアウトしたのはいつ?", "id": "tr-395-11-001", "answers": [ { "text": "2012年7月", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "レゲエの歌詞には「ルードボーイ」、「ラガマフィン」、「ギャングスタ」、「バッドマン(en)」など不良や悪漢を意味する語がしばしば現れる。ルードボーイとラスタは必ずしも対立する概念ではなく、実際には多くのアーティストがルードボーイであり同時にラスタでもあるが、そのような非一貫性はレゲエの歌詞に頻出する主題の一つである。\n\n例えばジミー・クリフの楽曲「ザ・ハーダー・ゼイ・カム」では、曲の前半で生ある内の救済を希求しながら、後半ではむしろ死による救済を願う内容になっている。また、ボブ・マーリーはあらゆる人種間の平和を願う「ワン・ラヴ/ピープル・ゲット・レディ」と同じ黒人であってもラスタファリアンでないものを非難する「クレイジー・ボールドヘッド(CrazyBaldhead)」という相反する内容の楽曲を発表している。\n\nしかしながら、アフリカン・ディアスポラと植民地時代の奴隷経験によって培われたこの非一貫性、二重性は必ずしも(特にジャマイカの)レゲエアーティストの中で矛盾として受け取られておらず、レゲエの歌詞の特徴の一つとなっている。", "qas": [ { "question": "本文の中、1曲のなかで、非一貫性をもつレゲエ作品は何ですか?", "id": "tr-395-12-000", "answers": [ { "text": "「ザ・ハーダー・ゼイ・カム」", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「クレイジー・ボールドヘッド(CrazyBaldhead)」と矛盾的な内容を含んでいる同アーティストの楽曲は?", "id": "tr-395-12-001", "answers": [ { "text": "「ワン・ラヴ/ピープル・ゲット・レディ」", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "後述するように、ジャマイカの音楽はサウンド・システムでダブ・プレートというそのサウンド・システム独自のレコードをかけ、互いに競い合う文化がある。そのため自分のサウンドを称えたり、相手のサウンドをけなしたりする曲が古くはレゲエ以前の時代からリリースされていた。そのような曲のことを「サウンド・チューン」、または「サウンド・アンセム」と呼ぶ。\n\n最古のサウンド・チューンはプリンス・バスターによる「ThreeAgainstOne」や「TheKing,TheDukeAndTheSir」(ともに1963年発表のスカ楽曲)である。しかし、それ以前から各サウンドシステムはアメリカ合衆国産のレコードをサウンド・チューンとしてプレイしていた。例えばコクソン・ドッドのサー・コクソンズ・ダウンビート(SirCoxsone'sDownbeat)は、アメリカ合衆国のリズムアンドブルースグループ、ウィリス・ジャクソン楽団が1951年に発表した「レイター・フォー・ザ・ゲイター(LaterForthe'Gator)」を「コクソン・ホップ(CoxsoneHop)」と勝手に改名した上で島内で独占的にプレイし、1950年代の間人気を博していた。", "qas": [ { "question": "自分のサウンドを称えたり、相手のサウンドをけなしたりする曲を呼ぶ名称として、「サウンド・チューン」以外のものは何ですか?", "id": "tr-395-13-000", "answers": [ { "text": "「サウンド・チューン」", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャマイカの音楽のサウンド・システム独自のレコードは?", "id": "tr-395-13-001", "answers": [ { "text": "ダブ・プレート", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初の「サウンド・チューン(soundtune)」のアーティストはだれ?", "id": "tr-395-13-002", "answers": [ { "text": "プリンス・バスター", "answer_start": 184, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "特にジャマイカでは、レゲエの歌詞はジャマイカの公用語である英語ではなく、ジャマイカ・クレオール語(パトワ)で歌唱されることが多い。これについて、ダブポエットのオク・オヌオラ(en)は「パトワとレゲエは同じリディムを持っている。人々のリディムだ。英語をレゲエのビートに乗せたとしても上手くいかない。そのときはリディムが変わってしまうだろう」と発言している。日本のNAHKIや、ドイツのジェントルマン、イタリアのアルボロジー(en)ら、ジャマイカ出身やジャマイカ系でないアーティストがパトワで歌唱するケースも少なくない。一方で、パトワは英語を母語としている者にとっても聴き取りが難しいため、シャギーなどはジャマイカ人であっても、国際的市場を意識し主に英語で歌唱している。また、しばしば「アイヤリック(Iyaric)」などと呼称されるラスタファリアン特有の語彙が使用される。", "qas": [ { "question": "ジャマイカではレゲエをどの言語で歌いますか?", "id": "tr-395-14-000", "answers": [ { "text": "ジャマイカ・クレオール語", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本で活動しているパトワで歌唱するレゲエアーティストは誰ですか?", "id": "tr-395-14-001", "answers": [ { "text": "NAHKI", "answer_start": 180, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ばら積み貨物船", "paragraphs": [ { "context": "ばら積み貨物船(ばらづみかもつせん、撒積貨物船)、あるいはバルクキャリア(英語:bulkcarrier)、バルカー(bulker)は、梱包されていない穀物・鉱石・セメントなどのばら積み貨物を船倉に入れて輸送するために設計された貨物船である。\n最初のばら積み専用貨物船が1852年に建造されて以来、経済的な理由によりこうした船の開発は促進され、規模を拡大させ洗練させてきた。\n今日のばら積み貨物船は容量・安全性・効率性を最大化しながらその任に耐えられるように特別に設計されている。", "qas": [ { "question": "ばら積み専用貨物船が初めて建造されたのはいつですか?", "id": "tr-396-00-000", "answers": [ { "text": "1852年", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バルクキャリアとは何を指しているの?", "id": "tr-396-00-001", "answers": [ { "text": "ばら積み貨物船", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ばら積み貨物船は、今日では、世界の商船の40パーセントを占めており、その大きさは船倉が1つの小型ばら積み船から載貨重量トン数が40万トンに達する巨大鉱石船まである(「ヴァーレ・ブラジル」)。\n載貨重量トン数が10,000ロングトンを超える船は、2006年6月現在で6,224隻ある。\n多くの専用設計が存在し、貨物船そのものに積み荷を降ろす能力を持っているもの、積み荷を降ろすために港の設備に頼るもの、さらに搭載中に積み荷の梱包作業を行うものもある。\n全てのばら積み貨物船の半分以上の所有者はギリシャ・日本・中華人民共和国で、また4分の1以上がパナマに船籍を置いている。\nばら積み貨物船の最大の建造国は日本で、また82パーセントはアジアで建造されている。", "qas": [ { "question": "世界の商船の4割を占める船の種類は何?", "id": "tr-396-01-000", "answers": [ { "text": "ばら積み貨物船", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ばら積み貨物船を最も多く建造している国はどこなの?", "id": "tr-396-01-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 300, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "世界の半分以上を占めている、ばら積み貨物船の建造地域はどこ?", "id": "tr-396-01-002", "answers": [ { "text": "アジア", "answer_start": 314, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "全てのばら積み貨物船の半分以上を所有している国々の中で、アジア以外の国となるのはどこですか?", "id": "tr-396-01-003", "answers": [ { "text": "ギリシャ", "answer_start": 245, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ばら積み貨物船の船員は、貨物の積み込み・積み降ろし作業、船の航海、機械設備類の適切な保守作業などに従事している。\n貨物の積み込み・積み降ろしは難しく危険な作業で、大型の船では120時間ほど掛かることもある。\n乗員はもっとも小さい船で3人から、大きな船では30人を超える程度の数である。\nばら積み貨物の中にはとても密度が高かったり、腐食性が強かったり、磨耗作用があったりするものがあり、そういった貨物は安全上の問題を引き起こすことがある。\n積み荷の船内移動や自然発火、積み荷の集中といったことは船を危険に陥れることがある。\nばら積み貨物船は効率的な貨物取り扱いのために大きなハッチを備えているため、老朽化して腐食の問題を抱えた船を使い続けたことが1990年代に続発したばら積み貨物船の沈没事故につながっている。\n船の設計と検査を改善し、船を廃棄する処理の能率化を図るために新しい国際規制が導入されている。", "qas": [ { "question": "ばら積み貨物船の船員は、最小の船で何人からとなっていますか?", "id": "tr-396-02-000", "answers": [ { "text": "3人から", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大型のばら積み貨物船だと、貨物の積み込み・積み降ろしにどれくらいの時間を要しますか?", "id": "tr-396-02-001", "answers": [ { "text": "120時間ほど", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ばら積み貨物船という言葉を定義する方法はいくつかある。\n1999年時点で、海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS条約)はばら積み貨物船を「単一甲板で、トップサイドタンクとホッパーサイドタンクを貨物船倉内に有し、鉱石輸送船や兼用船を含む主に乾性ばら積み貨物輸送を意図した船」と定義している。\nしかし、ほとんどの船級協会は、ばら積み貨物船とは梱包されていない乾貨物を運ぶ全ての船であるという、より広い定義を使っている。\n多目的貨物船はばら積み貨物を運べるが、他の貨物を運ぶこともでき、ばら積み専用に設計されてはいない。\nドライバルクキャリアという言葉は、石油タンカー、ケミカルタンカー、LNGタンカーなどの液体のばら積み貨物船と区別するために用いられる。\n非常に小さいばら積み貨物船は一般貨物船とほとんど区別不可能で、しばしば船の設計よりもその使用法に基づいて分類される。", "qas": [ { "question": "ばら積み貨物船を「単一甲板で、トップサイドタンクとホッパーサイドタンクを貨物船倉内に有し、鉱石輸送船や兼用船を含む主に乾性ばら積み貨物輸送を意図した船」と定義している条約を、短く略すとどうなりますか?", "id": "tr-396-03-000", "answers": [ { "text": "SOLAS条約", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "液体のばら積み貨物船と見分けをつけるために用いられている言葉とは何ですか?", "id": "tr-396-03-001", "answers": [ { "text": "ドライバルクキャリア", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ばら積み貨物船を表現するための多くの略語がある。\nOBO(Ore-bulk-oilcarrier)は鉱石・ばら積み貨物・石油の組み合わせを輸送する船を指し、O/Oは鉱石と石油の組み合わせを輸送する船を指す。\n大型タンカーにおいてVLCC(verylargecrudecarrier)やULCC(ultralargecrudecarrier)といった記号が使われることに由来して、特に大型の鉱石船やばら積み貨物船にはVLOC(verylargeorecarrier)、VLBC(verylargebulkcarrier)、ULOC(ultralargeorecarrier)、ULBC(ultralargebulkcarrier)などの言葉が用いられる。", "qas": [ { "question": "鉱石と石油の組み合わせを輸送するばら積み貨物船の略語は何ですか?", "id": "tr-396-04-000", "answers": [ { "text": "O/O", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "VLCC及びULCCは何を指していますか?", "id": "tr-396-04-001", "answers": [ { "text": "大型タンカー", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鉱石・ばら積み貨物・石油の組み合わせを輸送するばら積み貨物船の略語は何ですか?", "id": "tr-396-04-002", "answers": [ { "text": "OBO", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "専用のばら積み貨物船が登場する以前、荷主にはばら積み貨物を船で輸送する方法として2つの手段があった。\n1つは港湾労働者が貨物を袋詰めし、その袋をパレットに積み上げ、クレーンでパレットを船倉に積み込むという方法である。\nもう1つの方法は、荷主が船を全て借り切り、時間と費用をかけて合板製の容器を船倉内にしつらえることであった。\nそして、小さなハッチを通して貨物を運ぶために、木製の荷送り・荷止め板を設置しなければならなかった。\nこうした方法は時間が掛かり、労働集約的であった。\nコンテナ船と同様に、効率的な積み込み・積み降ろしの問題がばら積み貨物船の発展につながった。\n蒸気船として登場し始めた専用のばら積み貨物船は、より人気を博するようになった。\nばら積み貨物船とされる最初の蒸気船は、1852年のイギリスの鉱石輸送船SSジョン・バウズ(SSJohnBowes)である。\nこの船は金属製の船体、蒸気機関、砂ではなく海水を利用したバラストタンクを備えていた。\nこれらの特徴により、船は競争の激しいイギリス石炭輸送市場で打ち勝っていくことができた。\nディーゼルエンジン推進の最初のばら積み貨物船は1911年に登場した。", "qas": [ { "question": "SSジョン・バウズに備えていたバラストタンクは、何を利用したものですか?", "id": "tr-396-05-000", "answers": [ { "text": "海水", "answer_start": 407, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蒸気船のばら積み貨物船が初めて登場したのはいつのこと?", "id": "tr-396-05-001", "answers": [ { "text": "1852年", "answer_start": 343, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蒸気船のばら積み貨物船の次に登場したのは何のエンジンで動くばら積み貨物船でしたか?", "id": "tr-396-05-002", "answers": [ { "text": "ディーゼルエンジン", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦以前は、ばら積み貨物への需要は低く、年間に金属鉱石およそ2500万トンほどで、こうした輸送の多くは沿岸部に留まっていた。\nしかしながら、1890年に採用された二重底と、1905年に導入されたバラストタンクの三角構造という、ばら積み貨物船の2つの決定的な特徴は既に現れていた。\n第二次世界大戦後、先進国、特にヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国、日本の間での国際的なばら積み貨物の輸送が発展し始めた。\nこの輸送の経済性の問題から、ばら積み貨物船は大型化し、さらに用途別に特殊化していった。", "qas": [ { "question": "ばら積み貨物への需要が高まったのはいつからですか?", "id": "tr-396-06-000", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦後", "answer_start": 145, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ばら積み貨物船の2つの決定的な特徴とは、バラストタンクの三角構造と何ですか?", "id": "tr-396-06-001", "answers": [ { "text": "二重底", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ばら積み貨物船は6つの大きさに分類される。\n小型、ハンディサイズ、ハンディマックス、パナマックス、ケープサイズと超大型である。\n超大型ばら積み貨物船と超大型鉱石輸送船はケープサイズに分類されるが、しばしば別な分類とみなされる。\n地域輸送では他の分類もあり、例えばギニアのカムサ港(PortKamsar)で積み込みのできる最大の長さであることから、最大長229メートルの船をカムサマックス(Kamsarmax)という。\n他に地域輸送で現れる単位としては、瀬戸内マックス(Setouchmax))、ダンケルクマックス(Dunkirkmax)、ニューカッスルマックス(Newcastlemax)などがある。\n1万載貨重量トン以下の小型船の分類の中では、小型ばら積み貨物船が多くを占めている。\n小型ばら積み貨物船は500から2,500トンの貨物を積み、1つの船倉を持ち、河川航行ができるように設計されている。\nしばしば橋の下を潜ることができるように設計され、3人から8人の少人数の乗務員で運航できる。", "qas": [ { "question": "ばら積み貨物船に分類される、3番目に大きいものとは何ですか?", "id": "tr-396-07-000", "answers": [ { "text": "パナマックス", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小型ばら積み貨物船は最大何トンまで貨物を積むことが可能ですか?", "id": "tr-396-07-001", "answers": [ { "text": "2,500トン", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ばら積み貨物船の分類の中で3番目に小さいものとは何ですか?", "id": "tr-396-07-002", "answers": [ { "text": "ハンディマックス", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小型ばら積み貨物船では最大何人まで乗務が許されていますか?", "id": "tr-396-07-003", "answers": [ { "text": "8人", "answer_start": 429, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ハンディサイズとハンディマックスは一般目的で使われる。\nこれらの2つの分類は、1万載貨重量トンを超えるばら積み貨物船の中で71パーセントを占めており、その増加率も最も高い。\nこれは部分的には、大型の船を建造する際により厳しい制約を課すようになった新しい規制が発効したことによる。\nハンディマックスの船は典型的には全長150-200メートルで、52,000-58,000載貨重量トン、5つの船倉に4つのクレーンを備えている。\nパナマックスの船は、パナマ運河の閘門の大きさに制約されており、全幅32.31メートル、全長294.13メートル、喫水12.04メートルまでである。\nケープサイズの船はスエズ運河やパナマ運河を通航できないほど大きく、3大洋の間を行き来するためには喜望峰やホーン岬を回らなければならない。\nケープサイズのばら積み貨物船は専門化しており、93パーセントは鉄鉱石または鉱石を運んでいる。\n超大型鉱石輸送船や超大型ばら積み貨物船はケープサイズの一部で、20万載貨重量トン以上の船を指す。\nこのサイズの船はほとんどが鉄鉱石輸送用に設計されている。", "qas": [ { "question": "パナマックスの船とハンディマックスの船はどちらが長いですか?", "id": "tr-396-08-000", "answers": [ { "text": "パナマックスの船", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハンディマックスの船、パナマックスの船、ケープサイズの船を比較すると最も大きいのはどれですか?", "id": "tr-396-08-001", "answers": [ { "text": "ケープサイズの船", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "超大型ばら積み貨物船は主に何を輸送するために設計されていますか?", "id": "tr-396-08-002", "answers": [ { "text": "鉄鉱石", "answer_start": 464, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "世界のばら積み貨物輸送は大変な量に上っており、2005年時点で17億トンの石炭・鉄鉱石・穀物・ボーキサイト・リン酸塩が船で輸送された。\nこんにち、1万載貨重量トン以上のばら積み貨物船は世界で6,225隻あり、全船舶に占めるトン数は40パーセント、船舶数では39.4パーセントとなっている。\n小型の船も合わせると、ばら積み貨物船は総合計で3億4600万載貨重量トンの容量がある。\n兼用船はわずかな割合しかなく、この容量のうちの3パーセント未満に過ぎない。\n五大湖のばら積み貨物船は、98隻320万載貨重量トンで、やはり全体に占める割合は少ない。\n2005年現在、ばら積み貨物船の平均船齢は13年ほどである。\n全ばら積み貨物船の約41パーセントは船齢10年未満、27パーセントが10年から20年、残りの33パーセントが20年以上である。\n五大湖で登録されている98隻全てのばら積み貨物船は船齢20年以上である。", "qas": [ { "question": "ばら積み貨物船の平均船齢で最も多く占める船齢は何年ですか?", "id": "tr-396-09-000", "answers": [ { "text": "10年未満", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ばら積み貨物船の平均船齢で一番少ない割合を占める船齢は何年のものですか?", "id": "tr-396-09-001", "answers": [ { "text": "10年から20年", "answer_start": 337, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "98隻全てのばら積み貨物船が船齢20年以上であるのはどこに登録されている船ですか?", "id": "tr-396-09-002", "answers": [ { "text": "五大湖", "answer_start": 367, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2005年現在で、連邦海事局は1万載貨重量トン以上のばら積み貨物船を世界中で6,225隻としている。\n最大の船籍国はパナマで、2位から5位までの船籍国の合計より多い1,703隻が登録されている。\nばら積み貨物船の登録数では、以下香港492隻、マルタ435隻、キプロス373隻、中華人民共和国371隻である。\nパナマは登録されたばら積み貨物船の載貨重量トン数の点でも圧倒している。\nトン数の点で2位から5位までは、香港、ギリシャ、マルタ、キプロスである。", "qas": [ { "question": "中華人民共和国、マルタ、香港、キプロスの中で、ばら積み貨物船の登録数が最も多いのはどこの国ですか?", "id": "tr-396-10-000", "answers": [ { "text": "香港", "answer_start": 114, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ばら積み貨物船の最大の船籍国はどこ?", "id": "tr-396-10-001", "answers": [ { "text": "パナマ", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ばら積み貨物船の登録数と載貨重量トン数が共に2位にである国はどこ?", "id": "tr-396-10-002", "answers": [ { "text": "香港", "answer_start": 206, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "香港、マルタ、キプロス、中華人民共和国で登録されているばら積み貨物船の合計よりも、更に1,703隻多く登録されている国はどこ?", "id": "tr-396-10-003", "answers": [ { "text": "パナマ", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "3大ばら積み貨物船の所有国は、ギリシャ1,326隻、日本1,041隻、中華人民共和国979隻となっている。\nこれらの3ヶ国で世界全体の53パーセントの船を所有している。\nばら積み貨物船の巨大な船隊を保有している会社が数社ある。\n多国籍企業であるギアバルク・ホールディング(Gearbulkholding)は7隻のばら積み貨物船を保有している。\nカナダのフェドナブ・グループ(FednavGroup)は、北極海の氷の中で運航できるように設計された2隻を含めて80隻以上のばら積み貨物船を保有している。\nクロアチアのアトランツカ・プロビドバ(AtlantskaPlovidba)は14隻のばら積み貨物船を保有している。\nドイツ・ハンブルクのH.フォーゲマングループ(H.Vogemann)は19隻のばら積み貨物船を所有している。\nポルトガルのポートライン(Portline)は10隻のばら積み貨物船を所有している。\nデンマークのTORM(DampskibsselskabetTorm)とスペインのエルカノ(Elcano)もかなりの船隊を保有している。\n以下の会社は小型ばら積み貨物船の運航に特化しており、イングランドのスティーブンソン・クラーク・シッピング(StephensonClarkeShipping)は8隻の小型ばら積み貨物船と5隻のハンディサイズばら積み貨物船を所有し、トルコのコーンシップ(CornshipsManagementandAgency)は7隻の小型ばら積み貨物船を所有している。", "qas": [ { "question": "中華人民共和国、ギリシャ、日本の中で2番目にばら積み貨物船を多く所有している国はどこ?", "id": "tr-396-11-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アトランツカ・プロビドバとH.フォーゲマングループではどちらが多くのばら積み貨物船を保有していますか?", "id": "tr-396-11-001", "answers": [ { "text": "H.フォーゲマングループ", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "StephensonClarkeShippingとコーンシップを比べると、どちらの方が小型ばら積み貨物船の所有が多いですか?", "id": "tr-396-11-002", "answers": [ { "text": "コーンシップ", "answer_start": 592, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アトランツカ・プロビドバ、ポートライン、フェドナブ・グループ、ギアバルク・ホールディングの中で最も数多くばら積み貨物船を保有している企業はどこですか?", "id": "tr-396-11-003", "answers": [ { "text": "フェドナブ・グループ", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アジアの造船会社がばら積み貨物船の建造を独占している。\n全世界の6,225隻のばら積み貨物船のうち、ほぼ62パーセントが大島造船所やサノヤス・ヒシノ明昌などの日本の造船所で建造された。\n大韓民国は、大宇造船海洋や現代重工業などの造船所により、2番手の建造国で643隻を建造している。\n大連船舶重工集団、澄西船舶修造廠、上海外高橋などの大きな造船所で建造している中華人民共和国が3番目で、509隻を建造している。\n台湾は、台湾国際造船などの造船所により4位で129隻を建造している。\nこれら上位4ヶ国にある造船所は全ばら積み貨物船の82パーセントを建造している。", "qas": [ { "question": "ばら積み貨物船の建造数がアジアで第2位なのはどの国ですか?", "id": "tr-396-12-000", "answers": [ { "text": "大韓民国", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "全世界の6,225隻のばら積み貨物船のうち、約6割の建造を占めている国はどこ?", "id": "tr-396-12-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 79, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "船でばら積み貨物を輸送する費用はいくつかの要素に影響される。\nばら積み貨物輸送市場はとても不安定で変動し、輸送する貨物、船の大きさ、輸送経路など全てが最終的な価格に影響する。\nケープサイズの船で石炭を南アメリカからヨーロッパへ輸送する費用は、2005年時点で1トンあたり15ドルから25ドル程度である。\nパナマックス級の船で骨材をメキシコ湾から日本へ輸送する費用は、同じく2005年時点で1トンあたり40ドルから70ドル程度であった。\nばら積み貨物船の運賃変動を表す指数として、バルチック海運指数がある。\n荷主によっては、1トンあたりの定価を払う代わりに、船を1隻借り切って1日あたりの費用を払う場合もある。\n2005年時点で、ハンディマックスの船を1日借りる平均費用は18,000ドルから30,000ドル程度で変動していた。\nパナマックスの船は1日当たり20,000ドルから50,000ドル、ケープサイズの船は40,000ドルから70,000ドルほどであった。", "qas": [ { "question": "2005年で、1日レンタルの平均費用が最も高いばら積み貨物船の種類は何?", "id": "tr-396-13-000", "answers": [ { "text": "ケープサイズの船", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2005年において、ばら積み貨物船を1日借りる平均費用が安いのは、ハンディマックスの船とパナマックスの船のどちら?", "id": "tr-396-13-001", "answers": [ { "text": "ハンディマックスの船", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ばら積み貨物船の運賃変動を表す指数を何と言いますか?", "id": "tr-396-13-002", "answers": [ { "text": "バルチック海運指数", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一般的に、船は任務を外れると船舶解体(スクラップ)の過程を経て処分される。\n船の所有者と買い手は、船の重量やスクラップ金属市場の価格などの要素を基にスクラップ費用を交渉する。\n1998年には、インドのアラン(Alang)やバングラデシュのチッタゴンなどの場所でおよそ700隻の船が解体された。\n載貨重量トンにして50万トンにもおよぶばら積み貨物船が2004年に解体され、これはその年の船舶解体の4.7パーセントを占めた。\nこの年は、ばら積み貨物船は特に高いスクラップ価格で売れており、1トンあたり340ドルから350ドルであった。", "qas": [ { "question": "この年は、ばら積み貨物船は特に高いスクラップ価格で売れており、1トンあたり340ドルから350ドルであったとあるが、何年のことを言っていますか?", "id": "tr-396-14-000", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ばら積み貨物船の船員は、典型的には20人から30人で構成されるが、小型の船は8人程度で操船することもできる。\n船員は、船長と甲板部門、機関部門、厨房部門で構成される。\n旅客を貨物船に乗せることはかつて広く見られたが、今日ではとても稀なことになっており、ばら積み貨物船ではほとんどない。\n1990年代には、ばら積み貨物船の海難事故が数多く発生した。\nこうしたことから、船舶所有者は船員の能力と適性に関する様々な要素の効果について説明する検討を依頼することになった。\nこの調査によれば、ばら積み貨物船の船員の能力は調査された全てのグループの中で最低であった。\nばら積み貨物船の船員の中では、船齢が若く大型の船に乗務している船員の能力が最もよかった。\nよく保守されている船の船員の能力は高く、また船内で使われている言語の数が少ない船の船員の能力も高かった。\nばら積み貨物船では、同じくらいの大きさの他の種類の船に比べて甲板部門の人間が少ない。\n小型ばら積み貨物船は2人から3人の航海士を乗せている一方、より大型のハンディサイズやケープサイズのばら積み貨物船は4人である。\n同じ大きさのLNGタンカーはこれに1人の航海士が追加されており、さらに一般船員がいる。", "qas": [ { "question": "ばら積み貨物船の海難事故が多発したのは何年代のことですか?", "id": "tr-396-15-000", "answers": [ { "text": "1990年代", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ばら積み貨物船の航海は市場の力によって決定され、航路と積み荷はしばしば変更される。\n収穫期には穀物輸送に関わった船が、それ以外の時期には他の貨物を輸送したり、他の航路に移ったりする。\n不定期輸送に関わる沿岸輸送船舶の場合、船員は積み荷が完全に搭載されるまで、次の寄港地を知らないことがしばしばある。\nばら積み貨物は積み降ろしが難しいため、ばら積み貨物船は他の種類の船に比べて寄港時間が長い。\n小型ばら積み貨物船に関する調査によれば、積み込みに比べて積み降ろしには平均で2倍の時間が掛かっていた。\n小型ばら積み貨物船は55時間寄港していた一方で、同じ大きさの木材輸送船は35時間であった。\nこの寄港時間は、ハンディマックスで74時間、パナマックスで120時間に伸びる。\nコンテナ船の12時間、自動車輸送船の15時間、大型タンカーの26時間の寄港時間に比べ、ばら積み貨物船の船員は上陸時間を長くすることができる。", "qas": [ { "question": "ばら積み貨物船の積み込みと積み降ろしでは、時間がかからないのはどちらの作業ですか?", "id": "tr-396-16-000", "answers": [ { "text": "積み込み", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "木材輸送船、コンテナ船、自動車輸送船、大型タンカーの中で寄港時間が最も長いのはどれですか?", "id": "tr-396-16-001", "answers": [ { "text": "木材輸送船", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "小型ばら積み貨物船、パナマックス、ハンディマックスの中で2番目に寄港時間が短いのはどれですか?", "id": "tr-396-16-002", "answers": [ { "text": "ハンディマックス", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "小型ばら積み貨物船と同じ大きさの木材輸送船では、寄港時間が長いのはどちらですか?", "id": "tr-396-16-003", "answers": [ { "text": "小型ばら積み貨物船", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ばら積み貨物船への積み込み・積み降ろしは時間が掛かり危険な作業である。\n手順は、一等航海士の助けを受けながら、船長によって計画される。\n国際的な規制により、作業を開始する前に船長と港湾側の責任者が詳細な計画に合意している必要がある。\n甲板員と港湾作業員が作業を監視する。\nまれに積み込みのミスが起きて、岸壁で船が転覆したり、半分に折れてしまったりする事故を引き起こす。\n用いられる積み込み方法は、貨物の種類と船舶および港湾にある設備に依存している。\nあまり先進的ではない港では、貨物はショベルや袋でハッチを通じて注ぎ込まれる。\nこのシステムは、より速く労働集約的ではない方法に置き換えられつつある。\n1時間に1,000トンの積み込みを行える二重連接クレーンが広く用いられている方法で、1時間に2,000トンに達する岸壁設置のガントリークレーンの使用も増えている。\nクレーンによる積み降ろしの率は、そのバケットの容量(6トンから40トン)と、クレーンが積み荷を積んで岸壁に降ろしてまた戻ってくるために掛かる時間によって制約されている。\n現代のガントリークレーンでは、この1周期の時間は50秒ほどである。\n1時間に100トンから700トンほどの標準積み込み速度を持つベルトコンベアはとても効率的な積み込み方法で、最新鋭の港では1時間あたり16,000トンの速度を持つものもある。\nしかしながら、ベルトコンベアの作動開始・作動終了は複雑で時間を要する。\nセルフアンローダー付きの船は1時間あたり1,000トン程度の率である。", "qas": [ { "question": "二重連接クレーンとガントリークレーンでは、どちらを使った方がよりたくさんの積み込みが出来ますか?", "id": "tr-396-17-000", "answers": [ { "text": "ガントリークレーン", "answer_start": 362, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "積み荷が降ろされると、船員は船倉の清掃作業に取り掛かる。\nこれは、次の積み荷の種類が異なる場合特に重要である。\n船倉の巨大さや、積み荷の物理的な性質などにより、清掃作業は難しいものである。\n船倉が綺麗になると、積み込み作業が開始される。\n積み込み作業中に積み荷の水平を保つことは、船の安定性を保つために重要である。\n船倉が満たされるにつれて、油圧ショベルやブルドーザーのような機械が積み荷を整えるためにしばしば用いられる。\n積み荷は一方に偏りがちであるため、船倉が部分的に満たされている場合、積み荷を水平にすることは特に重要である。\n積み荷を縦方向に分割したり、積み荷の上に木材を固定したりする場合には、特に注意が払われる。\n船倉が一杯になると、トミング(tomming)と呼ばれる作業が行われ、ハッチカバーの下に6フィート(2メートル)ほどの穴を掘って、そこに袋入りの積み荷やおもりを入れる。", "qas": [ { "question": "積み降ろしが完了した後に行われる作業は何ですか?", "id": "tr-396-18-000", "answers": [ { "text": "清掃作業", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "積み込み作業中に積み荷をどのようにすることが船の安定性を保つために重要ですか?", "id": "tr-396-18-001", "answers": [ { "text": "水平を保つこと", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ビラ・スタンモーア夜戦", "paragraphs": [ { "context": "ビラ・スタンモーア夜戦(ビラ・スタンモーアやせん、英語:BattleofVila-Stanmore)は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)3月5日にソロモン群島ニュージョージア諸島で生起した海戦のことである。ブラケット海峡の戦い(BattleofBlackettStrait)とも呼ばれる。", "qas": [ { "question": "ビラ・スタンモーア夜戦が発生したのは、何年のこと?", "id": "tr-397-00-000", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビラ・スタンモーア夜戦は、どの戦争中に発生した戦闘でありますか?", "id": "tr-397-00-001", "answers": [ { "text": "太平洋戦争", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビラ・スタンモーア夜戦の戦場となったのは、どこか?", "id": "tr-397-00-002", "answers": [ { "text": "ソロモン群島ニュージョージア諸島", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビラ・スタンモーア夜戦の別称は、何か?", "id": "tr-397-00-003", "answers": [ { "text": "ブラケット海峡の戦い", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ビラ・スタンモーア夜戦は、太平洋戦争中盤の1943年(昭和18年)3月5日深夜(連合軍記録によっては3月6日)に生起した夜間水上戦闘である。同年2月初旬のケ号作戦(ガダルカナル撤退)後、日本軍はソロモン群島中部に位置するニュージョージア諸島を新防衛線とさだめ、第八聯合特別陸戦隊(司令官大田実少将)を配置してコロンバンガラ島やニュージョージア島の防備を強化していた。3月初旬、第八艦隊の命令により駆逐艦村雨と峯雲は、ニュージョージア島新飛行場建設を支援するためコロンバンガラ島への輸送を実施する。この小艦隊をコロンバンガラ島への艦砲射撃を企図したアメリカ海軍の巡洋艦部隊が襲撃し、クラ湾にてレーダーを活用した夜間水上戦闘を仕掛ける。日本側駆逐艦2隻は一方的な攻撃を受けて沈没した。", "qas": [ { "question": "ケ号作戦は、何年に行われたものであるの?", "id": "tr-397-01-000", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ケ号作戦後、新防衛線とさだめられた地域には、どの部隊が配置されましたか?", "id": "tr-397-01-001", "answers": [ { "text": "第八聯合特別陸戦隊", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第八艦隊の命令によりコロンバンガラ島への輸送に取り掛かった日本側駆逐艦2隻は、どの国の海軍により襲撃されたか?", "id": "tr-397-01-002", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 273, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビラ・スタンモーア夜戦とケ号作戦のうち、その時期がより早いのは、どちらか?", "id": "tr-397-01-003", "answers": [ { "text": "ケ号作戦", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「ビラ・スタンモーア夜戦」の海戦名はアメリカ側による呼称で、日本側では一方的な敗戦であるためか海戦名は付されていないとする。また、戦史研究家のサミュエル・モリソンは自身の編集による戦史(通称「モリソン戦史」)で「この戦闘は時々クラ湾の第一合戦と呼ばれるが、公式の名称は附與されていない」と記している。", "qas": [ { "question": "ビラ・スタンモーア夜戦についてはっきりとした戦闘名が与えていないのは、どの国なの?", "id": "tr-397-02-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビラ・スタンモーア夜戦は、どの国による呼称でありますか?", "id": "tr-397-02-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ガダルカナル島の戦いも終末期に差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍はニュージョージア島のムンダに日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る。ムンダとガダルカナル島の距離は175マイル(約280km)で、ガダルカナル島再奪回やアメリカ軍の進撃を妨害するには好適地であった。零戦のガダルカナル島上空での行動時間は大幅に伸び、爆撃機も従来以上の量の爆弾を搭載してガダルカナル島を爆撃する事も可能となる。当然、アメリカ軍からしてみればムンダの基地が本格稼動し、コロンバンガラ島の飛行場も使用可能となった暁には相当な脅威となる厄介な存在と判断されていた。実際には、日本軍がムンダでの飛行場(1000m、戦闘機30収容掩体)建設に乗り出したのは12月初頭からで、第一期工事は12月14日に終わった。ところが劣悪な衛生状態と連合軍の猛攻により、進出した零戦24機は全滅状態となってムンダから撤収した。また、コロンバンガラ島南部でも陸軍により12月下旬から飛行場建設を開始したが、海軍設営隊を乗せた「南海丸」が雷撃されてラバウルに引き返し、飛行場の完成が遅れることになった。", "qas": [ { "question": "アメリカ軍が、ニュージョージア島のムンダに日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知ったのは、いつなの?", "id": "tr-397-03-000", "answers": [ { "text": "1942年11月末", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンダとガダルカナル島の距離は、何マイルでありましたか?", "id": "tr-397-03-001", "answers": [ { "text": "175マイル", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本軍によるムンダでの飛行場の第一期工事は、いつ終わったか?", "id": "tr-397-03-002", "answers": [ { "text": "12月14日", "answer_start": 335, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本軍は、どの島に位置するムンダに飛行場を建設しようとしたか?", "id": "tr-397-03-003", "answers": [ { "text": "ニュージョージア島", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1943年(昭和18年)に入るや否や、アメリカ軍南太平洋部隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将は水上部隊にムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を繰り返し行わせ、同時に爆撃や航空機による機雷投下も行った。すなわち、1月4日にはエインスワース少将の軽巡洋艦3隻と駆逐艦2隻によってムンダへの砲撃が、1月23日にはエインスワース少将の軽巡2隻と駆逐艦4隻でコロンバンガラ島への砲撃がそれぞれ行われ、十分な打撃を与えた。とはいえ、圧倒的な力をかけるにはアメリカ軍の戦力は十分とは言えなかった。ガダルカナル島攻防戦に勝利すると、ハルゼー大将指揮下の南太平洋方面部隊はガ島と対岸のフロリダ諸島に有力基地を建設し、さらにラッセル諸島に飛行場を建設して中部ソロモン諸島への圧力を強めていった。", "qas": [ { "question": "1943年の時点でアメリカ軍南太平洋部隊司令官には、誰がついていたの?", "id": "tr-397-04-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ハルゼー", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムンダとコロンバンガラ島のうち、エインスワースの率いる艦隊による砲撃を受けた時期がより早いところは、どちらですか?", "id": "tr-397-04-001", "answers": [ { "text": "ムンダ", "answer_start": 136, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ムンダへの砲撃を行った、エインスワースの率いる艦隊には、軽巡洋艦と駆逐艦のうち、どちらがより多く配置されていたか?", "id": "tr-397-04-002", "answers": [ { "text": "軽巡洋艦", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コロンバンガラ島への砲撃を行った、エインスワースの率いる艦隊には、軽巡洋艦と駆逐艦のうち、どちらがより多く配置されていたか?", "id": "tr-397-04-003", "answers": [ { "text": "駆逐艦", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2月初旬、日本軍はケ号作戦によりガダルカナル島から撤収し、南東方面においては引きつづき東部ニューギニアと中部ソロモン諸島の、両方面で連合軍と対峙していた。日本軍は新たな橋頭堡を強固なものにすべくニュージョージア島の防備強化を企図し、ムンダに新飛行場の建設を開始、中部ソロモン諸島行きの「東京急行」をガ島撤収以前から送り込んでいた。この時期、北部ソロモン諸島の防備は日本陸軍、中部ソロモン諸島の防備は日本海軍の担当である。日本海軍において南東方面全般を担任するのは南東方面艦隊(前年12月24日新編、第十一航空艦隊〈南東方面艦隊司令長官兼任〉と第八艦隊)であり、中部ソロモンに配置されていた海軍部隊は、第八艦隊隷下の第八聯合特別陸戦隊(司令官大田実海軍少将)であった。第八聯合特別陸戦隊は、もともとガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を重砲で制圧するため前年11月15日に新編された部隊で、人員は軍艦や輸送船で、重機材は水上機母艦日進や特設巡洋艦盤谷丸等により、12月下旬までにラバウルに集結した。問題はニューブリテン島のラバウルからニュージョージア諸島(ニュージョージア島、コロンバンガラ島)までの輸送であった。基地航空部隊の零戦掩護下でショートランド泊地からコロンバンガラ泊地まで移動し夜間に揚陸、そこからムンダ(ニュージョージア島)までは大発動艇で物資をはこぶ。だが2月27日に重砲を運搬中の桐川丸(3,836トン)が空襲で撃沈され、これ以降の船団輸送は断念された。結局、中部ソロモンでも駆逐艦輸送(鼠輸送)に頼らざるを得なくなった。", "qas": [ { "question": "日本軍がガダルカナル島から撤収したのは、いつのこと?", "id": "tr-397-05-000", "answers": [ { "text": "2月初旬", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第八聯合特別陸戦隊がラバウルに集結したのは、いつのことですか?", "id": "tr-397-05-001", "answers": [ { "text": "12月下旬", "answer_start": 428, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第八聯合特別陸戦隊が編成されたのは、いつか?", "id": "tr-397-05-002", "answers": [ { "text": "11月15日", "answer_start": 376, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2月下旬、第四水雷戦隊(司令官高間完少将、旗艦「長良」)に所属する白露型駆逐艦村雨(第2駆逐隊所属)と朝潮型駆逐艦峯雲(第9駆逐隊所属)は南東方面部隊(略号「NTB」、指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)麾下の外南洋部隊(略号「SNB」、指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された。3月2日、村雨と峯雲はラバウルに進出した。2隻は3月3日、ラエに第五十一師団を送り込む第八十一号作戦の陽動としてコロンバンガラ島方面を行動し、ビスマルク海海戦で第五十一師団を乗せた輸送船団が壊滅した悲報を受け、外南洋部隊(第八艦隊)は17時5分にラバウルへの帰投を下令した。だがラバウル入港直前に村雨が座礁事故を起こし、離礁してラバウルに帰投したのは3月4日の夜明け前のことだった。この日は、ビスマルク海海戦沈没艦船の生存者を乗せた駆逐艦浦波と初雪がラバウルに帰着した日でもあった。", "qas": [ { "question": "村雨と峯雲が南東方面部隊麾下の外南洋部隊に編入されたのは、いつのこと?", "id": "tr-397-06-000", "answers": [ { "text": "2月下旬", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南東方面部隊麾下の外南洋部隊に編入される前の村雨と峯雲は、どの部隊に所属していましたか?", "id": "tr-397-06-001", "answers": [ { "text": "第四水雷戦隊", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2月下旬に南東方面部隊麾下の外南洋部隊に編入された2隻の駆逐艦は、白露型と何型だったか?", "id": "tr-397-06-002", "answers": [ { "text": "朝潮型", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2月下旬に南東方面部隊麾下の外南洋部隊に編入された2隻の駆逐艦が、ラバウルに進出したのは、いつのことか?", "id": "tr-397-06-003", "answers": [ { "text": "3月2日", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同日16時、村雨と峯雲は補給物資として米入りのドラム缶や弾薬などを積載してラバウルから出撃しコロンバンガラ島へと向かった。また、村雨と峯雲はこの輸送作戦が終われば、ブインからラバウルへ航空部隊基地員140名と物資を輸送する任務も与えられていた。", "qas": [ { "question": "コロンバンガラ島に向かった2隻の駆逐艦に載せられていた補給物資の例としては、米入りのドラム缶のほかに、何が挙げられているの?", "id": "tr-397-07-000", "answers": [ { "text": "弾薬", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "村雨と峯雲は、どこからコロンバンガラ島までの補給物資の輸送の任務に取り掛かりましたか?", "id": "tr-397-07-001", "answers": [ { "text": "ラバウル", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "村雨と峯雲に載せられた補給物資は、どこに送られるべきのものだったか?", "id": "tr-397-07-002", "answers": [ { "text": "コロンバンガラ島", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方、アメリカ軍もコロンバンガラ島砲撃のためこの日艦隊を出撃させていた。当時、ムンダおよびコロンバンガラ島を砲撃するアメリカ艦隊には二つの任務部隊があった。一つはヴォールデン・L・エインスワース少将の第67任務部隊(旗艦ホノルル)、もう一つがアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊(旗艦モントピリア)であった。この二つの任務部隊は交替で夜間にムンダとコロンバンガラ島へ接近し、艦砲射撃の後即座に退却して基地に帰投するというパターンを繰り返した。また、ガダルカナル島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは違い、夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、レーダーに関する知識を学び、常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果、均整が取れた部隊となっていた。ハルゼー大将は過大報告された前回の砲撃結果に基づき、再度の攻撃のためメリルを出撃させた。メリル少将の第68任務部隊はエスピリトゥサントを出撃し、「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡をひたすら北上する。このニュージョージア海峡突入時から「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のPBY「カタリナ」3機が第68任務部隊の前路警戒配備に就いた。なお、第68任務部隊の軽巡洋艦群のうち、コロンビア(USSColumbia,CL-56)は修理を行う必要があったため作戦から除外された。", "qas": [ { "question": "ムンダおよびコロンバンガラ島への砲撃任務は、第67任務部隊と、どの部隊に任せられたの?", "id": "tr-397-08-000", "answers": [ { "text": "第68任務部隊", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンダおよびコロンバンガラ島への砲撃任務は、ヴォールデン・L・エインスワースが率いる部隊と、誰が率いる部隊に任せられましたか?", "id": "tr-397-08-001", "answers": [ { "text": "アーロン・S・メリル", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニュージョージア海峡の別称は、何か?", "id": "tr-397-08-002", "answers": [ { "text": "「ザ・スロット」", "answer_start": 407, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "PBY「カタリナ」の別称は、何か?", "id": "tr-397-08-003", "answers": [ { "text": "「ブラックキャット」", "answer_start": 457, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "村雨と峯雲は3月5日8時30分にブイン沖に到着した。村雨では第二駆逐隊司令橘正雄大佐、駆逐艦長種子島洋二少佐ら艦の幹部が第一根拠地隊司令部を訪問したり、村雨に乗り組んだ海軍兵学校71期の候補生がショートランドの水路見学に出かけたりした。また村雨はここでさらに米を積むよう命じられていたが、米は艦底に積んでいてすぐには出せず、乾麺麭を100箱積むこととなった。16時、村雨と峯雲はブイン沖を出撃し、コロンバンガラ島へ向かった。村雨と峯雲は、ベララベラ島東方からベラ湾とブラケット水道を通過し、予定より30分遅れの21時30分にデビル島泊地に到着した。直ちに6隻から7隻ほどの大発が陸上から出てきて揚陸作業を行う。大発群を指揮した第八連合特別陸戦隊の副官は、食糧や弾薬を大発に直接積み込んでほしいと要望したが、出港時間を遅らせれば空襲を受けやすくなることもあり、常套手段だったドラム缶を海中に放り込んで陸上側がこれを回収する方法で物資を揚陸させた。1時間後には全ての作業が終了した。村雨と峯雲はコロンバンガラ島の東岸沿いを北上してブインへの帰途に就く。この出港の際、村雨と峯雲の艦首が潮と風の流れで西側に向いていたので、そのまま往路と同じコースを引き返す事も考えられたが、ニュージョージア海峡に出たら、ブイン、ショートランドまでは一直線であるという事もあって、東向きに回頭した上でコロンバンガラ島の東岸沿いを北上するルートが採られたのである。峯雲は一旦北向きに後進してから東向きに回頭し、村雨の後に続いた。", "qas": [ { "question": "村雨と峯雲がブイン沖に到着したのは、何時何分頃だったの?", "id": "tr-397-09-000", "answers": [ { "text": "8時30分", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "村雨と峯雲がコロンバンガラ島に向かい、ブイン沖から出発したのは、何時のことですか?", "id": "tr-397-09-001", "answers": [ { "text": "16時", "answer_start": 179, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "村雨と峯雲は、いつデビル島泊地に到着したか?", "id": "tr-397-09-002", "answers": [ { "text": "21時30分", "answer_start": 255, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "もともと村雨と峯雲は、何時までデビル島泊地に到着する予定であったか?", "id": "tr-397-09-003", "answers": [ { "text": "21時", "answer_start": 255, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "3月5日23時20分頃、コロンバンガラ基地の日本兵は沖合で夜間水上戦闘がおこなわれ、駆逐艦1隻が大火災となり、駆逐艦1隻が大爆発するのを目撃した。連合軍艦隊の艦砲射撃を知った外南洋部隊(第八艦隊)は、村雨と峯雲に対して奇襲の実施を命じた。だが現地守備隊より「敵巡洋艦2・駆逐艦5は南方に避退」との報告があり、村雨と峯雲にショートランド泊地帰投を命じた。だが既に沈没していた2隻から応答はなく、第八艦隊はビスマルク諸島方面航空部隊所属の水上偵察機による偵察を実施する。3月6日未明、特設水上機母艦神川丸(川崎汽船、6,853トン)の水上偵察機が第68任務部隊の捜索のためクラ湾方面を飛行中、クラ湾に直径300メートルほどの油紋2つを確認し、午前には零式水上観測機2機が同じ地域を飛行して、コロンバンガラ島南端の60度7海里の地点から北の方向に幅約1,000メートル、長さ10海里にも及ぶ油帯を発見した。", "qas": [ { "question": "コロンバンガラ基地の日本兵が沖合で夜間水上戦闘がおこなわれ、駆逐艦1隻が大火災となり、駆逐艦1隻が大爆発するのを目撃したのは、何時何分頃だったの?", "id": "tr-397-10-000", "answers": [ { "text": "23時20分頃", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現地守備隊の報告によると、当時、南方に避退していた敵の巡洋艦と駆逐艦のうち、その数がより多かったのは、どちらですか?", "id": "tr-397-10-001", "answers": [ { "text": "駆逐艦", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ビラ・スタンモーア夜戦ののちも、ムンダおよびコロンバンガラ島への「東京急行」が遅れる事は当面なかった。海戦後に水上偵察機による哨戒が強化され、水上偵察機の援護と警戒下で実施された。少なくとも4月下旬に第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)が機雷で全滅するまでの「東京急行」は、概ね成功していた。それでも、アメリカ軍がソロモン諸島を北上してくるのは火を見るより明らかであり、現状では戦線維持もおぼつかないと判断した連合艦隊司令長官山本五十六大将は、第三艦隊の航空兵力と既存の基地航空兵力を集中的に投入してアメリカ軍に打撃を与え続け、戦線維持を図る事を決心した(い号作戦)。", "qas": [ { "question": "第15駆逐隊が全滅したのは、いつのことか?", "id": "tr-397-11-000", "answers": [ { "text": "4月下旬", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時の連合艦隊司令長官は、誰だったか?", "id": "tr-397-11-001", "answers": [ { "text": "山本五十六", "answer_start": 211, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第15駆逐隊を全滅させた武器とは、何か?", "id": "tr-397-11-002", "answers": [ { "text": "機雷", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、ビラ・スタンモーア夜戦に勝利し多少進歩したとはいえ、アメリカ艦隊が日本艦隊に、特に夜戦分野で対抗するにはもう少し努力が必要であると考えられた。また、レーダー射撃の重要性も再認識させられたが、「装置はなお原始的だった」とモリソンは言う。海戦後も、メリル少将とエインスワース少将の任務部隊はコロンバンガラ島周辺海域で交替して戦闘を続けた。不思議な事に、メリル少将が日本艦隊と再び戦うのは11月2日のブーゲンビル島沖海戦までなく、コロンバンガラ島周辺海域で日本艦隊と戦ったのはエインスワース少将であった。しかし、エインスワース少将はクラ湾夜戦(7月5日、6日)とコロンバンガラ島沖海戦(7月12日)で日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出し、戦法面で進歩の様子があまり見られなかった。夜戦分野において、ようやく日本海軍を上回る戦法が確立できたと判断されるには、「31ノット・バーク」ことアーレイ・バーク中佐の登場と、バーク中佐の理論を実践したベラ湾夜戦(8月6日)での完勝劇を待たなければならなかった。", "qas": [ { "question": "メリルにとっては、ビラ・スタンモーア夜戦以来、初めての日本軍との戦いとなる戦闘は、何か?", "id": "tr-397-12-000", "answers": [ { "text": "ブーゲンビル島沖海戦", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブーゲンビル島沖海戦は、いつ行われた戦闘のことか?", "id": "tr-397-12-001", "answers": [ { "text": "11月2日", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "村雨と峯雲の一方的な喪失は、次のような憶測を生み出した。当時、アメリカの潜水艦グランパス(USSGrampus,SS-207)が2月11日にブリスベンを出撃して以降、僚艦グレイバック(USSGrayback,SS-208)とともにソロモン諸島方面で行動していたが、ついに哨戒から帰らなかった。海戦のあった3月5日夜、グレイバックはベラ湾近海でグランパスと思しき潜水艦を発見する。それから間もなくして、グレイバックに「ギゾ海峡の方向に高速で航行する2隻の駆逐艦を迎え撃て」との指令が入る。その3時間後、グレイバックはコロンバンガラ島の南端越しに発砲炎や閃光を見る。その発砲炎や閃光の正体は分からなかったが、グランパスに関わっているものだと判断してベラ湾での哨戒を続けた。やがてグレイバックも、3月6日夜に哨区の移動を命じられてベラ湾を去った。「2隻の駆逐艦」を村雨と峯雲、「発砲炎や閃光」を夜戦によるものとするならば、グレイバックはビラ・スタンモーア夜戦の一部始終をコロンバンガラ島越しに観察していたことになる。", "qas": [ { "question": "グランパスは2月11日、どこを出撃したの?", "id": "tr-397-13-000", "answers": [ { "text": "ブリスベン", "answer_start": 70, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グランパスとともにソロモン諸島方面で行動していた僚艦の名称は、何ですか?", "id": "tr-397-13-001", "answers": [ { "text": "グレイバック", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "話はここから飛躍する。要約すれば、「村雨と峯雲はグランパスに出くわして撃沈したが、直後に第68任務部隊に攻撃されて沈没した」という論法となった。グランパスの喪失認定に関する1943年3月29日付文書では、「3月5日から6日にかけての夜に、2隻の日本の駆逐艦がブラケット水道でグランパスを撃沈し、翌日大きな油膜が確認された」とあり、またフェーイーは日記の中で、「二隻の日本の軍艦が味方の潜水艦を沈めて港に戻ってきたことを、このとき、僕たちは知らなかった」と記しており、海戦直後からこの手の話が伝えられていたと考えられる。これに加え、グレイバックが爆雷攻撃のような音を聴取していない事から、「沈めたとすれば水上で浮上状態を砲撃された」という尾ひれまでついた。しかし、村雨が3月5日16時にブイン沖を出撃して21時30分にデビル島泊地に到着し、揚陸作業を終えて22時30分に出港してコロンバンガラ島東岸を北上、23時過ぎに第68任務部隊の攻撃を受けて沈没するまで、戦闘行為を行ったのは前述のように第68任務部隊に対して反撃を行った時のみであった。グランパスの喪失認定に関する文書での「大きな油膜」も、おそらくは神川丸機などが3月6日未明から午前にかけて確認した油紋や油帯を指す。このことから、第九五八海軍航空隊の2機の零式水上偵察機が2月19日15時40分にグランパスの哨戒海域であった南緯05度04分東経152度18分の地点で潜水艦を爆撃し、直撃弾1発を与えて沈没を報告していることを引き合いに出して、この2月19日の攻撃こそがグランパスの最期であるという説も提示されている。しかしながら、各種記述ともグランパスの喪失原因に結びつけて断定できるほどの材料がそろっていないのも事実であり、グランパスの喪失は現時点では謎とせざるを得なかった。", "qas": [ { "question": "グランパスの喪失認定についての文書が出されたのは、いつのことか?", "id": "tr-397-14-000", "answers": [ { "text": "1943年3月29日", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、何についての各種記述を取り上げているか?", "id": "tr-397-14-001", "answers": [ { "text": "グランパスの喪失原因", "answer_start": 699, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ブレーメン", "paragraphs": [ { "context": "ブレーメン(Bremen[ˈbʁeːmən])は、ドイツの大都市で、自由ハンザ都市ブレーメン(通常ブレーメン州と呼ばれる)の州都。\nドイツに11あるヨーロッパ大都市圏の1つであるブレーメン/オルデンブルク大都市圏に属している。", "qas": [ { "question": "ブレーメンはどこの国の都市ですか?", "id": "tr-398-00-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ブレーメンはヴェーザー川の両岸に位置している。\nヴェーザー川が北海に注ぐ河口の位置するブレーマーハーフェン(ブレーメン州に属する)から上流に約60km遡った地点に位置する。\nブレーメン旧市街の上方でヴェーザー川は中流から下流に変わる。\nオクトゥム川が合流する付近からのウンターヴェーザー左岸一帯をヴェーザーマルシュと称する。\n同じくヴェーザー川下流の右岸はエルベ=ヴェーザー=ドライエックに属す。\nヴュンメ川とハンメ川が合流してできたレーズム川、シェーネベッカー川、ブルーメンターラー・アウエがここから下流側の支流である。", "qas": [ { "question": "ブレーマーハーフェンとブレーメンは何km離れていますか?", "id": "tr-398-01-000", "answers": [ { "text": "約60km", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴェーザー川はどこの海に繋がっているの?", "id": "tr-398-01-001", "answers": [ { "text": "北海", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "市域は川沿いに長さ約38km,幅約16kmである。\n市境の全長は136.5kmである。\nブレーメンは広さでドイツ10位、人口で11位の都市であるが、北ドイツではハンブルクに次いで2番目、北西ドイツでは最大の都市である。\nこれはヨーロッパで74番目、EU加盟国中では44番目にあたる。\nブレーメンはオルデンブルクの東約50km,ハンブルクの南西110km,ハノーファーの北西120km,ミンデンの北100km,オスナブリュックの北東105kmにあたる。", "qas": [ { "question": "ブレーメンから最も近いのは、オルデンブルク、ハンブルク、ハノーファー、ミンデン、オスナブリュックのうちどこですか?", "id": "tr-398-02-000", "answers": [ { "text": "オルデンブルク", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オルデンブルク、ハンブルク、ハノーファー、ミンデン、オスナブリュックのうち、ブレーメンから3番目に近いのはどこですか?", "id": "tr-398-02-001", "answers": [ { "text": "オスナブリュック", "answer_start": 204, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オルデンブルク、ハンブルク、ハノーファー、ミンデン、オスナブリュックの中で、ブレーメンから最も遠い場所はどこ?", "id": "tr-398-02-002", "answers": [ { "text": "ハノーファー", "answer_start": 177, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "北西ドイツで最も大きい都市はどこ?", "id": "tr-398-02-003", "answers": [ { "text": "ブレーメン", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ブレーメン市(2019年12月31日の人口567,559人)はニーダーザクセン州に取り囲まれている(ただし飛び地であるシュタットブレーミシェス・ユーバーゼーハーフェンゲビート・ブレーマーハーフェン町区はブレーマーハーフェンに囲まれている)。\n西は郡独立市のデルメンホルストとヴェーザーマルシュ郡のレムヴェーダー、ベルネ、エルスフレートである。\n北はオスターホルツ郡のシュヴァーネヴェーデ、リッターフーデ、リリエンタールである。\n東はフェルデン郡のオッタースベルク、オイテン、アヒムである。\n南はディープホルツ郡のヴァイーエ、シュトゥールと境を接する。\n周辺にある最寄りの都市としては西に約45km離れたオルデンブルクと北にあるブレーマーハーフェンが挙げられる。\n総人口約150万人のブレーメン都市圏から、約11万5千人が毎日ブレーメン市内に通勤している。\nこれは被雇用者の48%に達する。\n逆にブレーメンからは数千人が周囲のニーダーザクセン州に通勤している。", "qas": [ { "question": "2019年時点でのブレーメン市の人口は何人?", "id": "tr-398-03-000", "answers": [ { "text": "567,559人", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブレーメンとオルデンブルクの間の距離はどれくらいですか?", "id": "tr-398-03-001", "answers": [ { "text": "約45km", "answer_start": 293, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブレーメン都市圏からブレーメン市内への毎日の通勤者数は何人ですか?", "id": "tr-398-03-002", "answers": [ { "text": "約11万5千人", "answer_start": 352, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "市内中心部を流れる連邦航路のヴェーザー川は歴史上、天然の境界線であった。\nまたブレーメン市街地とブレーメン=ノルト(北部)を分けるヴェーザー川支流のレーズム川も地理上、歴史上、あるいは日常生活上重要な境界線となっている。\nレーズム川の南側は「マルシュ」と呼ばれる干拓地、北はブレーマー・シュヴァイツ(ブレーメンのスイス)と呼ばれる丘陵地である。\n行政上のブレーメン・ノルト管理区の境界はレーズム川南岸を一部含んでいる。\nヴェーザー川のもう一つの支流であるオクトゥム川はブレーメンの南の市境をなしている。\nまた、ヴェンメ川はボルクフェルトを流れた後ハンメ川と合流するが、この合流以後レーズム川に注ぐまで北の市境を形成する。", "qas": [ { "question": "レーズム川の南の地域を何と呼んでいますか?", "id": "tr-398-04-000", "answers": [ { "text": "マルシュ", "answer_start": 121, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "レーズム川の北の地域を何と呼んでいますか?", "id": "tr-398-04-001", "answers": [ { "text": "ブレーマー・シュヴァイツ", "answer_start": 137, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "レーズム川とオクトゥㇺ川の本流は何ですか?", "id": "tr-398-04-002", "answers": [ { "text": "ヴェーザー川", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ブレーメン市内には全部で17の自然保護地域がある。\nその中で大きなものとしては、ボルクフェルダー・ヴュンメヴィーゼン(677ha)、オクトゥムニーデルング(375ha)、ホラーラント(293ha)、ヴェルダーラント(242ha)が挙げられる。", "qas": [ { "question": "面積が広い自然保護地域はホラーラントとヴェルダーランドのどちらですか?", "id": "tr-398-05-000", "answers": [ { "text": "ホラーラント", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ボルクフェルダー・ヴュンメヴィーゼン、オクトゥムニーデルング、ホラーラント、ヴェルダーラントの中で、最も面積が広いのはどこですか?", "id": "tr-398-05-001", "answers": [ { "text": "ボルクフェルダー・ヴュンメヴィーゼン", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ヴェーザー河畔に位置する中心街区は、ブレーメン聖堂の高度が海抜11.5mである。\n旧市街の最高地点は、昔の防衛施設のために人口の盛り土がされたテアターベルクで、海抜14mである。\n現在の市域内に位置する自然丘陵で最も高い地点は、市北西部ブルクレーズム市区の墓地公園で海抜32.5mである。", "qas": [ { "question": "ブレーメン聖堂、テアターベルク、墓地公園の中で、最も海抜が高い場所はどこ?", "id": "tr-398-06-000", "answers": [ { "text": "墓地公園", "answer_start": 128, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブレーメン聖堂とテアターベルクはどちらの海抜が低いですか?", "id": "tr-398-06-001", "answers": [ { "text": "ブレーメン聖堂", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ブレーメンは主に海洋の影響により、比較的温和な気候の地域に属す。\n最も暖かい月は7月で平均気温16.8°C、最も寒い月は1月で平均0.8°Cである。\n降水は年中まんべんなくある。\n年間降水量の平均値は693.9mmである。\nその大半が雨で、雪はあまり降らない。\nブレーメンはドイツで最も雪の少ない都市の一つである。\n雪は平均で年に5日ほど降るだけである。\n秋にはしばしば嵐や悪天候に見舞われる。", "qas": [ { "question": "ブレーメンの年間降水量の平均はどれくらい?", "id": "tr-398-07-000", "answers": [ { "text": "693.9mm", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最も気温が高い月は?", "id": "tr-398-07-001", "answers": [ { "text": "7月", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最も気温が低い月は?", "id": "tr-398-07-002", "answers": [ { "text": "1月", "answer_start": 60, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "起源は、BremeもしくはBremumと呼ばれる部族が、ヴェーザー川右岸に定住したことに始まるとされる。\n1世紀から8世紀の間に、最初の入植地が築かれた。\nそこは長く伸びた砂丘で洪水から護られ、同時に徒渉地の入り口にあたる場所であった。\n紀元150年にはすでにアレクサンドリアの地理学者クラウディオス・プトレマイオスは、この入植地の存在を記録している(Fabiranum、またはPhabiranumとも記述している)。", "qas": [ { "question": "Bremumが定住していた地域はどこ?", "id": "tr-398-08-000", "answers": [ { "text": "ヴェーザー川右岸", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "入植地の存在を記録していた地理学者は誰?", "id": "tr-398-08-001", "answers": [ { "text": "クラウディオス・プトレマイオス", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "司教座都市および商都としてのブレーメンの歴史は8世紀まで遡る。\nこの地はライン川からエルベ川、または北海から南ドイツに向かう交易の十字路に位置しているため、交易の要衝として重要視されるようになっていた。\nブレーメンは787年にカール大帝によって司教座都市に指定されたが、当初は不安定な宣教地であった。\n宣教師Willehadは782年に「...ブレーメンから追放され、2人の司祭は殺害された。」と記述している。\n845年に大司教区に昇格した後、アーダルベルト・フォン・ブレーメン大司教の下(1043年から1072年)、最初の隆盛を経験した。\n神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)は1186年にブレーメンを帝国都市(一般には自由帝国都市と呼ばれる)としたが、帝国直轄とはしなかった。\n1260年に都市ハンザが形成され、1358年にハンザ同盟に加盟した。\n加盟当初は力のない同盟都市に過ぎなかったが、これ以後急速に経済力、政治力をつけ、ブレーメン大司教の世俗支配をはねのけるまでに成長した。\nその自由な気風の象徴としてローラント像(1404年)や市庁舎(1409年)がマルクト広場沿いに建設された。", "qas": [ { "question": "ブレーメンを司教座都市として指定した人は誰?", "id": "tr-398-09-000", "answers": [ { "text": "カール大帝", "answer_start": 113, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハンザ同盟に加盟したのはいつでしたか?", "id": "tr-398-09-001", "answers": [ { "text": "1358年", "answer_start": 363, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1574年から1590年に建設されたヴェーザー港を防衛するため、ヴェーザー川左岸に防衛施設を有する新市街が建設された。\nまた、13世紀に洪水防止用堤防として現在のシュラハテが設けられて以降、ヴェーザー川に砂が堆積するようになり、ブレーメン商人の貿易船は着岸が困難となった。\nこの状況を改善するため、1619年から1623年に下流のフェーゲザックにオランダ人建築家によってドイツ初の人工港が設けられた。\n三十年戦争の間、ブレーメンはかつてハンザ同盟の仲間であったハンブルク、リューベックと同盟を結んで独立を守り、フェルディナント3世による1646年のリンツ免許状で帝国直轄の地位が確立された。\nしかし、三十年戦争終戦後の17世紀から18世紀にはその帝国直轄の地位が脅かされることとなった。\n1648年のヴェストファーレン条約でスウェーデンに支配権が移譲され、事実上スウェーデンの宗主下におかれた。\nさらに1700年に始まった大北方戦争の結果、フェルデンと共にハノーファー選帝侯の支配下に移された(1720年、ストックホルム条約)。\n事実、1741年のシュターデの第2和議における特許状ではハノーファー選帝侯による統治権や軍税の統一を余儀なくされている。", "qas": [ { "question": "フェーゲザックに作られた人口港は何人が建築したの?", "id": "tr-398-10-000", "answers": [ { "text": "オランダ人", "answer_start": 173, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヴェストファーレン条約でブレーメンはどこの国の支配下に置かれましたか?", "id": "tr-398-10-001", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 362, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "結ばれた年が早かったのは、ヴェストファーレン条約とストックホルム条約のどちら?", "id": "tr-398-10-002", "answers": [ { "text": "ヴェストファーレン条約", "answer_start": 350, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1783年、ブレーメン商人は大西洋を越えてアメリカ合衆国との直接交易を始めた。\n1802年に市は古い防衛施設を現在の公園ヴァルアンラーゲに整備するよう造園家イツァーク・アルトマンに依頼した。\n1811年にナポレオンはブレーメンを占領し、フランスのBouchesduWeserの首都とした。\n解放戦争に敗北したフランス軍は1814年にブレーメンから撤退した。\nブレーメンは19世紀ドイツの海洋交易発展の主役となった。\nヨハン・ラーゲの造船所は1817年にドイツ初の蒸気船を建造した。\nこの「ヴェーザー号」は旅客船および郵便船として、ブレーメン、フェーゲザック、エルスフレート、ブラーケ間を航行し、後にはゲーステミュンデ(現在のブレーマーハーフェン)にも1833年まで運行した。\n増大するヴェーザー川の砂の堆積のため1827年にハノーファー王国から土地を購入し、ブレーメンの前哨基地として新たな入植地ブレーマーハーフェンが建設された。\n港湾施設獲得に関する協定は1827年1月11日にハノーファーの首相フリードリヒ・フォン・ブレーメンとブレーメン市長ヨハン・スミットにより調印された。\n1836年中頃、ブレーメン政府は市に対して功績のあった者に与えるブレーメン栄誉金メダルを創設し、1843年にヨハン・スミットにこれを授与した。", "qas": [ { "question": "ブレーメンをBouchesduWeserの首都とした人物は?", "id": "tr-398-11-000", "answers": [ { "text": "ナポレオン", "answer_start": 102, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ初の蒸気船の名前は?", "id": "tr-398-11-001", "answers": [ { "text": "「ヴェーザー号」", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヨハン・スミットが1843年に授与したものとは何?", "id": "tr-398-11-002", "answers": [ { "text": "ブレーメン栄誉金メダル", "answer_start": 523, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1847年にハノーファー王国国営鉄道がブレーメンに乗り入れた。\n1848年のトーアシュペレ(遮断門)の廃止はこの地域の工業化の発展を促した。\n1853年に周辺の湿地を干拓した後、「ブレーマーハウス」と呼ばれる画一的な様式の列状住宅による衛星都市の建設が始まった。\nこの建設は20世紀にはいるまで続けられた。\n1857年、ブレーメンに北ドイツ・ロイド社が創設され、その後ほかの海運会社も設立された。\n普墺戦争でブレーメンはハノーファー王国と袂を分かち、プロイセン王国陣営に参陣した。\n1867年に北ドイツ連邦に、1871年にはドイツ帝国の一部となった。\nただし、ブレーメン、ハンブルク、リューベックといった旧ハンザ同盟都市は海港を理由に1870年もしくは1871年まで関税上は独立した国家という扱いになっており、1888年になってやっとドイツ関税同盟に加盟したのである。\nブレーメンとハンブルクの自由貿易港はその後もドイツの関税の埒外に置かれていた。", "qas": [ { "question": "20世紀に入るまで続けられた衛生都市の建設で、採用された様式の呼称は何だったの?", "id": "tr-398-12-000", "answers": [ { "text": "「ブレーマーハウス」", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "旧ハンザ同盟都市がドイツ関税同盟に加盟したのは何年でしたか?", "id": "tr-398-12-001", "answers": [ { "text": "1888年", "answer_start": 355, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1886年から1895年に外洋船のブレーメンまでの航行を確保するために河川水路の大規模な改修が行われた。\nこの都市は種々の物品の積み替え港として発展した。\n1890年、ブレーメン市民公園内で北西ドイツ産業・工業展が開催された。\nブレーメンの経済的発展はヴァイマル共和政下で促進された。\n1920年、空港に定期路線が就航した。\n1928年、ブレーマーハーフェンにコロンブス護岸堤防が完成した。\nここから大西洋最速横断のブルーリボン賞を獲得した北ドイツ・ロイド社の客船「ブレーメン号」が出航した。\nこうした経済的な重要性が増すにつれ、人口も大きく増加していった。\n1939年にブレーメン市はブレーマーハーフェンを失った。\nブレーマーハーフェンはプロイセン=ハノーファーのヴェーザーミュンデに併合された。\nこれと引き替えにブレーメンはブレーメン=ノルト(ただしフェーゲザックだけはこれ以前からブレーメンに属していた)、ヘーメリンゲン、アルベルゲンを得た。", "qas": [ { "question": "ブレーメンは、何の政権下でより一層経済発展を遂げましたか?", "id": "tr-398-13-000", "answers": [ { "text": "ヴァイマル共和政", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ブレーメン号」はどこの会社が造りましたか?", "id": "tr-398-13-001", "answers": [ { "text": "北ドイツ・ロイド社", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブレーメン=ノルト、ヘーメリンゲン、アルベルゲンを得る代わりに、ブレーメンはどこの地域を失ったの?", "id": "tr-398-13-002", "answers": [ { "text": "ブレーマーハーフェン", "answer_start": 293, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コロンブス護岸堤防はどこの都市に出来ましたか?", "id": "tr-398-13-003", "answers": [ { "text": "ブレーマーハーフェン", "answer_start": 169, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦ではブレーメンやヴェーザーミュンデ(ブレーマーハーフェン)は深刻な被害を受けた。\n特に造船所や飛行機工場があった西部地区は何度も連合国軍の空爆目標とされた。\n合計173回の空爆で市内の建造物の62%が破壊された。\n1945年4月13日から4月26日まで、ブレーメン周辺において、進撃してくる英軍第3師団と抵抗するドイツ軍との間で激しい戦闘が繰り広げられ、多くのブレーメン市民が避難民となった。\n戦後、ブレーメンとブレーマーハーフェンはイギリス管理地域内にあるアメリカ管理区域の飛び地という扱いになった。\n1945年から1965年までヴィルヘルム・カイゼンが州政府代表(=市長)を務めた。\n1947年に自由ハンザ都市ブレーメン基本法が制定され、市民はこれを受け容れた。\n1949年ブレーメンは、ドイツ連邦共和国の都市州となった。\n街の過去の姿は、近代的な都市建設の中、修復されたごくわずかな建物に遺されているだけである。\nマルクト広場周辺には印象的な古い建物が保存あるいは再建されている。\n中世の古い街並みはシュノーア街で体感することができる。\nブレーメン市庁舎とこの街の象徴であるローラント像は2004年にユネスコ世界遺産に登録された。", "qas": [ { "question": "第二次世界大戦でブレーメンは何回もの空爆を受けたの?", "id": "tr-398-14-000", "answers": [ { "text": "173回", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブレーメン市内の建造物の半分以上が破壊された戦争は何だったの?", "id": "tr-398-14-001", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 0, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴェルヘルム・カイゼンは何年までブレーメン市長を続けたの?", "id": "tr-398-14-002", "answers": [ { "text": "1965年", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "工業化が始まった1750年以降、ブレーメンの人口は急速に増加した。\n1812年の市の人口は約35,000人であったが、1875年にはすでに10万人を超え、ブレーメンは大都市の仲間入りをした。\n1911年に25万人、1956年までには50万人をも超えた。\n1969年に607,184人の史上最大人口を記録した。\nこれ以後人口は減少に転じたが、21世紀に入って再び増加傾向にある。\nブレーメン州統計局による2005年12月31日546,852人、2006年11月1日のそれは548,477人であった。", "qas": [ { "question": "ブレーメンの人口が少ないのは1812年と1875年のどちらですか?", "id": "tr-398-15-000", "answers": [ { "text": "1812年", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブレーメン史上、最も人口が多かった年は何年でしたか?", "id": "tr-398-15-001", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1911年と1956年の人口はどちらの年が多かったですか?", "id": "tr-398-15-002", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1969年と2005年の人口は、どちらの年が多かったですか?", "id": "tr-398-15-003", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ブレーメン州の議会は「ブレーマー・ビュルガーシャフト」(BremerBürgerschaft)と呼ばれ、4年ごとに選挙が行われる。\n選挙は州を2つの選挙区(ブレーメンとブレーマーハーフェン)に分け、比例代表制で行われ、ブレーメンから68人、ブレーマーハーフェンから15人の代議士が選出される。\nブレーメン選挙区から選出された州議会議員は同時にブレーメン市の市議会議員「シュタットビュルガーシャフト」(Stadtbürgerschaft)をも兼任することになる。\nブレーマーハーフェンは州議会議員と市議会議員を分けている。\n市行政と州行政の中枢を占めるのが、「ゼナート」(Senat)と呼ばれるブレーメン州政府(内閣)である。\n2019年8月15日からゼナートの長で市長を務めているのはアンドレアス・ボーフェンシュルテ(SPD)である。\nゼナートの長の代行も市長と呼ばれる。\nゼナートは7名の人物(SPD5人、同盟90/緑の党2人)で構成される。\nゼナートのメンバー(ゼナートレン)は都市州でない一般の州では州の大臣と大都市の行政部局長とを併せた役職である。\n彼らは州の官庁とブレーメン市の担当専門部局の領邦を管轄する。", "qas": [ { "question": "選出される代議士の人数が多いのは、ブレーメンとブレーマーハーフェンのどちらですか?", "id": "tr-398-16-000", "answers": [ { "text": "ブレーメン", "answer_start": 78, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブレーメン州政府の呼称は何?", "id": "tr-398-16-001", "answers": [ { "text": "ゼナート", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゼナートを構成する人数が多いのは、SPDと同盟90/緑の党のどちらですか?", "id": "tr-398-16-002", "answers": [ { "text": "SPD", "answer_start": 398, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "聖家族(ミケランジェロ)", "paragraphs": [ { "context": "『聖家族』は、ルネサンス盛期のイタリア人芸術家ミケランジェロ・ブオナローティが1507年ごろに描いた絵画である。油彩とテンペラで描かれたパネル絵で、現存しているわずか3枚のミケランジェロのパネル絵のなかの1枚であり、かつ唯一完成している作品である。フィレンツェのウフィツィ美術館所蔵で、当時のままの額装がなされている。この作品は、トスカーナの有力な家庭の娘マッダレーナとの結婚を記念して、フィレンツェの商人アニョロ・ドーニの依頼で描かれた作品とされている。円形の絵画で、これはルネサンス期によく見られたスタイルである。", "qas": [ { "question": "『聖家族』は誰の作品か。", "id": "tr-399-00-000", "answers": [ { "text": "ミケランジェロ・ブオナローティ", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミケランジェロ・ブオナローティの母国はどこですか。", "id": "tr-399-00-001", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "現存しているミケランジェロのパネル絵は何枚あるか。", "id": "tr-399-00-002", "answers": [ { "text": "3枚", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『聖家族』は誰の依頼で描かれたものとされているか。", "id": "tr-399-00-003", "answers": [ { "text": "アニョロ・ドーニ", "answer_start": 203, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『聖家族』が描かれたのはドーニが結婚した1503年/1504年から数年後とされている。これは現在バチカン美術館が所蔵している古代彫刻『ラオコーン像』が発掘された1506年以降、システィーナ礼拝堂天井画の制作が開始された1508年以前と考えられているためで、この作品の制作年度は1506年の終わりか1507年といわれている。『聖家族』は幼児キリスト、聖母マリア、聖ヨセフの家族と洗礼者ヨハネが前景に描かれ、後景には5人の裸体の男性が描かれている。これら裸体の男性が描かれている理由については、さまざまな見解が存在する。", "qas": [ { "question": "『聖家族』の前景に描かれていないのは幼児キリスト、聖母マリア、裸体の男性のうち、どれか。", "id": "tr-399-01-000", "answers": [ { "text": "裸体の男性", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "古代彫刻『ラオコーン像』は何年に発掘されたか。", "id": "tr-399-01-001", "answers": [ { "text": "1506年", "answer_start": 80, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『聖家族』の中央に大きく描かれた、幼児キリストを高くかかげるマリアがもっとも目立つ画面構成になっている。マリアは地面にじかに座り、彼女と大地の間には何も敷かれていない。これはマリアと大地との結びつきをよく伝えている。マリアの下に描かれている草は緑に塗られ、草が生えていないマリアの周りの地面とは好対照となっている。現在は経年変化で草は暗い色調になってしまっているが、もともとの草の色はもっと明るく鮮やかな色調だった。ヨセフは家長としてマリアに比べて高い位置で描かれている。マリアはヨセフの足と足の間に座っており、これはヨセフがマリアを守っているかのように見える。マリアのポーズについては、ヨセフからキリストを受け取ろうとしているのか、あるいは逆にヨセフに渡そうとしているのか議論がわかれている。フィレンツェでは、聖母子とともに洗礼者ヨハネを描くのは伝統的な手法で、この作品では聖家族と裸体の男性たちとの間の画面右に描かれている。", "qas": [ { "question": "『聖家族』でもっとも目立つように描かれたのは誰?", "id": "tr-399-02-000", "answers": [ { "text": "マリア", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨセフとマリアと、どっちの方がもっと高い位置に描かれているの?", "id": "tr-399-02-001", "answers": [ { "text": "ヨセフ", "answer_start": 208, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フィレンツェの伝統的な手法では聖母子とともに誰を描きますか。", "id": "tr-399-02-002", "answers": [ { "text": "洗礼者ヨハネ", "answer_start": 363, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『聖家族』の画面中央やや下には水平な帯があり、前景に描かれた聖家族と後景に描かれた男性たちや洗礼者ヨハネとを隔てる役割を担っている。背景の5人の裸体の男性たちが何を意味するのか、あるいはこの絵画でどんな役割を与えられているのかが、今までさまざまな憶測や議論のもととなってきた。聖家族は男性たちよりもより大きく描かれ、聖家族がいる地面と男性たちがいる場所との間には水があると考えられる。聖家族と洗礼者ヨハネは幼児キリストを見つめているが、男性たちにはキリストを直接見ている者はいない。さらにはるか遠景には風景画が描かれている。", "qas": [ { "question": "『聖家族』の画面中央やや下にある水平な帯は何と後景に描かれた男性たちや洗礼者ヨハネとを隔てる役割をするか。", "id": "tr-399-03-000", "answers": [ { "text": "聖家族", "answer_start": 1, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "聖家族がいる地面と男性たちがいる場所との間には何があると考えられるか。", "id": "tr-399-03-001", "answers": [ { "text": "水", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "聖家族、裸体の男性たち、風景のうち、何が一番後ろに描かれている?", "id": "tr-399-03-002", "answers": [ { "text": "風景", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "聖家族と裸体の男性たちと、どっちがもっと大きく描かれているの?", "id": "tr-399-03-003", "answers": [ { "text": "聖家族", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "『聖家族』はミケランジェロが弟子や助手の力を借りずに一人で制作した、現存する唯一のパネル画である。明るい色の並置は、のちにミケランジェロが手がけるシスティーナ礼拝堂天井画と同じ手法で表現されている。聖家族が着用している衣服のしわやひだははっきりと描かれ、肌はなめらかに表現されて大理石のように見え、聖家族の力強い人体表現は絵画というより彫刻であるかのように描写されているのに対し、背景の裸体の男性たちは柔らかくぼんやりと描かれており、システィーナ礼拝堂の四隅に描かれた裸体像を予兆させる表現となっている。この作品には、最初にもっとも強烈な顔料を用い、徐々に明るい顔料で陰影を付けていって最も暗い色を陰とする「カンジャンテ(玉虫色)」と呼ばれる技法が使用されている。ミケランジェロはこの技法を用いることによって、背景をぼんやりとさせ、前景の聖家族をはっきりと際立たせることに成功した。目をひく色彩のほとんどがマリアの衣服で、マリアがこの絵画の主題であることを示している。X線による調査の結果、ミケランジェロは当時知られていた全ての顔料をこの作品に使用したことが分かっている。まるで男性であるかのように描かれたマリアの肉体表現は、後年ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂天井画を制作する際に、女性肖像のモデルに男性を使用したことへの説明となるかもしれない。", "qas": [ { "question": "ミケランジェロが弟子や助手の力を借りずに一人で制作した、現存する唯一のパネル画は何ですか。", "id": "tr-399-04-000", "answers": [ { "text": "『聖家族』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『聖家族』は誰の作品ですか。", "id": "tr-399-04-001", "answers": [ { "text": "ミケランジェロ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『聖家族』の聖家族の肌はなめらかに表現されてまるで何に見えますか。", "id": "tr-399-04-002", "answers": [ { "text": "大理石", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初にもっとも強烈な顔料を用い、徐々に明るい顔料で陰影を付けていって最も暗い色を陰とする技法を何と呼ぶか。", "id": "tr-399-04-003", "answers": [ { "text": "「カンジャンテ(玉虫色)」", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『聖家族』の構成は、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『聖アンナと聖母子』の下絵の影響を多少なりとも受けている。『聖アンナと聖母子』の初期の下絵同様、ミケランジェロが描いた聖家族は押し込むように小さなスペースにまとめられ、ダ・ヴィンチの肖像画に良く見られる左右対称の三角形の構図が採用されている。ミケランジェロはフィレンツェでダヴィデ像を制作していた1501年に、ダ・ヴィンチが描いた『聖アンナと聖母子』の下絵を目にしていたことがわかっている。また、『聖家族』はシニョレッリの作品で、ウフィツィ美術館所蔵のメディチ家の聖母マリアとの関連性も指摘されている。シニョレッリを賞賛していたミケランジェロはこの作品もおそらく知っており、そのアイディアを自身の作品にも取り入れたいと考えた可能性が高い。シニョレッリの『聖母マリア』は『聖家族』と同じ円形画で、地面に直接マリアが座り、その背景に裸体の男性たちが描かれている作品である。", "qas": [ { "question": "『聖家族』の構成は、レオナルド・ダ・ヴィンチのどの作品から影響を受けましたか。", "id": "tr-399-05-000", "answers": [ { "text": "『聖アンナと聖母子』", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ダ・ヴィンチの肖像画に良く見られる構図は何ですか。", "id": "tr-399-05-001", "answers": [ { "text": "左右対称の三角形", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミケランジェロは何年にダヴィデ像を制作しましたか。", "id": "tr-399-05-002", "answers": [ { "text": "1501年", "answer_start": 173, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シニョレッリの『聖母マリア』はどの美術館所蔵ですか。", "id": "tr-399-05-003", "answers": [ { "text": "ウフィツィ美術館", "answer_start": 240, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "このような類似点は古代の紅縞メノウのカメオや、15世紀のドナテッロの円形彫刻にも見られる。例えば円形だったり、筋肉の表現手法、男性のような身体のマリアなどであり、当時フィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿に所蔵されていたこれらの作品をミケランジェロが目にしていても不思議ではない。『聖家族』に描かれたマリアの右腕はカメオに彫刻されたサテュロスの腕に酷似し、さらにカメオのサテュロスの肩には幼児が乗せられており、これは幼児キリストがマリアの肩にある構図と非常によく似ている。\n\n古代彫刻『ラオコーン像』にも影響を受けていると指摘する学者たちもいる。1506年に発掘されたこの彫刻はミケランジェロにとって馴染み深いものだった可能性がある。『聖家族』の背景に描かれた裸体の男性たちのポーズや肉体表現は、『ラオコーン像』の蛇に巻きつかれて身体をよじっている男性像によく似ている。\n\nさらに額縁から立体的に突き出している5つの頭部は、ルネサンス初期の彫刻家ギベルティのフィレンツェ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉彫刻『天国への門』などにも見られるように、当時よく使われたモチーフだった。そしてこの彫刻をミケランジェロが絶賛していたことはよく知られていた。", "qas": [ { "question": "『聖家族』に描かれたマリアの右腕はどの彫刻の腕に非常に類似しているか。", "id": "tr-399-06-000", "answers": [ { "text": "サテュロス", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古代彫刻『ラオコーン像』はいつ発掘されたか。", "id": "tr-399-06-001", "answers": [ { "text": "1506年", "answer_start": 274, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『聖家族』で洗礼者ヨハネの前に描かれた植物はヒソップあるいはコーンフラワーに似ているが、壁から生えているように見えることからヒソップかも知れない。コーンフラワーはキリストを意味し天界の象徴とされ、一方ヒソップはキリストの謙虚さと洗礼の象徴とされる。背景にはシトロンの樹が描かれ、レバノンスギの象徴となっている。ミケランジェロはヒソップと樹木を、マインツ大司教で多数の重要な書物を著したラバヌス・マウルスの「レバノンスギから石の壁に育つヒソップにいたるまで」で始まる有名な言葉の視覚的引用として用いているのである。地面手前に生えているクローバーは三位一体と救済の象徴で、アネモネの樹は三位一体とキリストの受難を象徴している。", "qas": [ { "question": "『聖家族』で洗礼者ヨハネの前に描かれた植物は壁から生えているように見えることから何だと推測されていますか。", "id": "tr-399-07-000", "answers": [ { "text": "ヒソップ", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コーンフラワーは何を意味しますか。", "id": "tr-399-07-001", "answers": [ { "text": "キリスト", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「レバノンスギから石の壁に育つヒソップにいたるまで」は誰が書いた?", "id": "tr-399-07-002", "answers": [ { "text": "ラバヌス・マウルス", "answer_start": 192, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『聖家族』の背景に描かれているシトロンの樹は、何の象徴ですか。", "id": "tr-399-07-003", "answers": [ { "text": "レバノンスギ", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヴァージニア大学美術史学教授ポール・バロルスキーは『聖家族』が「敬虔な宗教画であって、作風や象徴化、図像学などとはまったく関係ない」と主張している。バロルスキーの論文はジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』によるところが大きい。この作品が単なる宗教画であるとするバロルスキーの考えは、この絵画のキリストがマリアからヨセフ(あるいはその逆)への贈り物であるかのように描かれているところから来ている。贈り物のことをイタリア語で「donare」といい、依頼者の名前「ドーニDoni」にひっかけた言葉遊びではないかと考えたのである。また、腕をあげてキリストを抱きかかえているマリアのポーズは、ミサのときに司祭が腕を掲げるポーズを意味しているとした。", "qas": [ { "question": "イタリア語の「donare」は日本語で何を意味しますか。", "id": "tr-399-08-000", "answers": [ { "text": "贈り物", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『聖家族』が「敬虔な宗教画であって、作風や象徴化、図像学などとはまったく関係ない」と主張している学者は誰ですか。", "id": "tr-399-08-001", "answers": [ { "text": "ポール・バロルスキー", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『聖家族』に関するバロルスキーの論文は誰の著書から影響を受けたか。", "id": "tr-399-08-002", "answers": [ { "text": "ジョルジョ・ヴァザーリ", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "美術史家ミレッラ・ダンコーナは、『聖家族』が人類の救済と精神の不滅に関して、ミケランジェロが考える聖家族それぞれの役割を表現していると主張している。中央に描かれたマリアと目をひく色彩の衣服は、マリアが人類の救済の役割を与えられており、キリストの母として、また神と人間の仲介者として表現されているとした。ダンコーナは、フィレンツェでドミニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラに大きな影響を受けていたミケランジェロが、無原罪の聖母を認めないドミニコ会の教義を擁護するためにこの作品を利用したのではないかと指摘している。ドミニコ会の教義では、マリアは生まれながらにして聖性を持っていたわけではなく、キリストを産んだ瞬間に神聖な存在になったというものである。したがってこの絵画は幼いキリストがマリアを祝福している場面を描き、マリアが普通の人間から聖母になった瞬間をとらえた作品であると考えた。ダンコーナは、ミケランジェロはキリストがあたかもマリアの肩から生まれ出たかのように表現し、片脚しか描かないことによってキリストがマリアの身体の一部として描いたとする。キリストはすでにマリアの上にいるが、その身体とポーズはさらに上を目指しているように描かれ、このことはキリストがマリアよりもさらに神聖な存在であることを意味していると考えた。さらにダンコーナは、後景の裸体の男性たちは洗礼を受けて清められるために衣服を脱いだ罪人と解釈できると主張している。聖家族と男性たちを隔てている画面中央の水平な帯の向こうには水があり、聖書で言及されている「洗礼の水」とするのである。また、男性が2人組と3人組に分けて描かれていることにも着目し、左の2人は人としてのキリストと聖なる存在としてのキリストを表現し、右の3人は三位一体を表現していると主張した。", "qas": [ { "question": "『聖家族』が人類の救済と精神の不滅に関して、ミケランジェロが考える聖家族それぞれの役割を表現していると主張している学者は誰なの?", "id": "tr-399-09-000", "answers": [ { "text": "ミレッラ・ダンコーナ", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミレッラ・ダンコーナの考えによると、キリストとマリアと、どっちの方がもっと神聖な存在なの?", "id": "tr-399-09-001", "answers": [ { "text": "キリスト", "answer_start": 474, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "美術史家アンドレ・エイムは、『聖家族』がドーニ家の依頼によって描かれたことから、「宗教的なもの」というよりも「世俗的な理想の家庭」を意味しているのではないかと主張している。また、円という形状を選択することによって、ミケランジェロが過去に同じく円形で描いた『東方三博士の礼拝』、『キリスト生誕』、『聖母子像』を想起させようとしていると考えた。また、エイムはこの作品には旧約聖書のノアの隠喩も多く含まれているとしている。それによると、マリアはノアの義理の娘の巫女であり、ヨセフはそのままノアとなる。後年ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂天上画に描いたノアとこの作品のヨセフとが、直接関連しているとも指摘した。ノアとの関連性によって裸体の男性たちも説明可能で、これはワインで酔っ払い裸で眠ってしまったノアを連想させるとしたのである。さらにノアの大洪水との関連で洗礼の水にも言及でき、ダンコーナが主張した、裸体の男性たちが洗礼者ヨハネから「洗礼を受けるのを待っている」という主張も説明できるとしている。そしてヨハネが、狭い箱舟を連想させる「穴のような場所に隔離されている」ことが、この絵画で洗礼者として特別な役割を与えられていることを意味すると考えた。", "qas": [ { "question": "『聖家族』がドーニ家の依頼によって描かれたことから、「宗教的なもの」というよりも「世俗的な理想の家庭」を意味しているのだと主張している学者は誰ですか。", "id": "tr-399-10-000", "answers": [ { "text": "アンドレ・エイム", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミケランジェロの『聖家族』と『東方三博士の礼拝』と、どちらの方が先に制作されましたか。", "id": "tr-399-10-001", "answers": [ { "text": "『東方三博士の礼拝』", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アンドレ・エイムによると『聖家族』のヨセフは誰を意味しますか。", "id": "tr-399-10-002", "answers": [ { "text": "ノア", "answer_start": 219, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ロベルタ・オルソンは『聖家族』が「家族の重要性」を描いた作品であると考え、「ドーニ家が待望する子供」と関係しているのではないかと推測した。素晴らしい結婚を意味するものとして、ヨセフとマリアがキリストを抱いている「お互いの動作」の描写があげられる。さらに重要なのはヨセフが着ている衣服の色で、黄色はこの家族が真に聖なるものであることを意味し、紫はヨセフが古代イスラエルのダヴィデ王に連なる王家の血統であることを証明しているとした。さらに、ヨセフという名前は、ドーニ家の幼くして亡くなった3番目の子供のミドルネームでもあった。洗礼というテーマも、この絵画の額縁がギベルティの彫刻『天国への門』の影響を受けていることで表されていると主張している。フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉にある『天国への門』は洗礼式を意味しており、聖家族のような幸せな結婚を通じて子供を授かるというドーニ家の希望が、この絵画をミケランジェロに依頼した理由のひとつといえるだろうとした。", "qas": [ { "question": "『聖家族』が「家族の重要性」を描いた作品であると考え、「ドーニ家が待望する子供」と関係していると推測した人は誰ですか。", "id": "tr-399-11-000", "answers": [ { "text": "ロベルタ・オルソン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドーニ家の3番目の子供のミドルネームは何?", "id": "tr-399-11-001", "answers": [ { "text": "ヨセフ", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『天国への門』を制作した人は誰なの?", "id": "tr-399-11-002", "answers": [ { "text": "ギベルティ", "answer_start": 279, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "第三次奴隷戦争", "paragraphs": [ { "context": "第三次奴隷戦争(だいさんじどれいせんそう、ラテン語:TertiumBellumServile)は、紀元前73年から紀元前71年にかけて共和政ローマ期にイタリア半島で起きたローマ軍と剣闘士・奴隷による戦争である。3度の奴隷戦争の中で最後にして最大規模のものであった。剣闘士らの指導者スパルタクスの名にちなんでスパルタクスの反乱またはスパルタクスの乱とも呼ばれる。", "qas": [ { "question": "第三次奴隷戦争が始まったのは、何年のことなの?", "id": "tr-400-00-000", "answers": [ { "text": "紀元前73年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第三次奴隷戦争の主戦場は、どこでしたか?", "id": "tr-400-00-001", "answers": [ { "text": "イタリア半島", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "3度の奴隷戦争のうち、最も規模の大きいのは、第何次奴隷戦争か?", "id": "tr-400-00-002", "answers": [ { "text": "第三次奴隷戦争", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "奴隷戦争は、何度も行われたか?", "id": "tr-400-00-003", "answers": [ { "text": "3度", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "紀元前73年から71年にかけて、カプアの養成所を脱走したおよそ70人の剣闘士奴隷の集団は、最終的にはスパルタクスを指導者とする男性・女性そして子どもを含む約12万人の軍に膨れ上がり、イタリア各地を放浪し、襲撃した。この奴隷集団は驚くべき戦闘力を発揮し、差し向けられた地方の討伐隊、ローマ軍の民兵そして執政官の率いる軍団をことごとく撃退した。歴史家プルタルコスは逃亡奴隷たちは主人の手から逃れてガリア・キサルピナ(現在の北イタリア地方)からアルプス山脈を越えて故郷へ帰ることを望んでいたとし、これに対してアッピアノスやフロルスは剣闘士や奴隷の目標はローマ進軍であったとしている。", "qas": [ { "question": "この文書では、どこの養成所から脱走した奴隷たちを、逃亡奴隷と表現しているの?", "id": "tr-400-01-000", "answers": [ { "text": "カプア", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "逃亡奴隷について記した歴史家として、この文書に挙げられているのは、誰ですか?", "id": "tr-400-01-001", "answers": [ { "text": "プルタルコス", "answer_start": 173, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プルタルコスは、どの職に就いている者か?", "id": "tr-400-01-002", "answers": [ { "text": "歴史家", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プルタルコスによると、逃亡奴隷はどこへ帰ることを望んでいたか?", "id": "tr-400-01-003", "answers": [ { "text": "故郷", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ローマの元老院は奴隷集団に対する連戦連敗と略奪行為に危機感を持ち、最終的には8個軍団をも動員し、その指揮権を厳格かつ有能なマルクス・リキニウス・クラッススに委ねた。紀元前71年、スパルタクスの奴隷軍はクラッススの軍団によってイタリア半島最南端のカラブリアに封じ込められた。元老院が増援としてポンペイウスとルクッルスの軍団を送り込んだことを知ったスパルタクスは残る全兵力を結集してクラッススに決戦を挑み、敗れて全滅した。", "qas": [ { "question": "ローマの8個軍団の指揮権は、誰に与えられたの?", "id": "tr-400-02-000", "answers": [ { "text": "マルクス・リキニウス・クラッスス", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クラッススの軍団は、スパルタクスの奴隷軍をどこまで追い込めましたか?", "id": "tr-400-02-001", "answers": [ { "text": "カラブリア", "answer_start": 122, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ローマ軍と戦ったスパルタクスの奴隷軍は、結局どうなったか?", "id": "tr-400-02-002", "answers": [ { "text": "全滅した", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローマの元老院は増援としてポンペイウスと誰の軍団を送り込んだか?", "id": "tr-400-02-003", "answers": [ { "text": "ルクッルス", "answer_start": 152, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この反乱を包括的に記した古典史料にはプルタルコスの『対比列伝』とアッピアノスの『ローマの歴史』(HistoriaRomana)があり、フロルス、フロンティヌス、リウィウスそしてサッルスティウスの著作にもこの戦争に関する記述がある。第三次奴隷戦争は近世以降にヴォルテールやカール・マルクスそしてウラジミール・レーニンといった思想家・革命家から「正しい戦争」と評価され、指導者のスパルタクスは抑圧から解放を求める労働者階級の英雄と見なされるようになった。", "qas": [ { "question": "この文書には、第三次奴隷戦争のことを包括的に記した古典史料として、『対比列伝』と何が挙げられているの?", "id": "tr-400-03-000", "answers": [ { "text": "『ローマの歴史』", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ローマの歴史』の著者は、誰ですか?", "id": "tr-400-03-001", "answers": [ { "text": "アッピアノス", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書によると、第三次奴隷戦争のことを正しいと評した思想家および革命家には、ヴォルテールとカール・マルクスのほかに、誰が含まれるか?", "id": "tr-400-03-002", "answers": [ { "text": "ウラジミール・レーニン", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スパルタクスは近代以降、抑圧から解放を求めたどの階層の英雄と見なされるようになったか?", "id": "tr-400-03-003", "answers": [ { "text": "労働者階級", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "紀元前3世紀後半にイタリア半島を統一したローマの勢いは紀元前2世紀に入っても留まるところを知らず、領土拡大の為の対外戦争に邁進していった。北アフリカでは第三次ポエニ戦争、ギリシアでのマケドニア戦争、小アジアではミトリダテス戦争、シリアを治めるセレウコス朝とのローマ・シリア戦争、ヒスパニアでのヌマンティア戦争などその戦域は広がる一方でありかつ長期に及んだ。各地に派遣されたローマ軍の中核は重装歩兵であり、その担い手はローマ市民権を持ったローマ市民達であった。同時に彼らはそれまでの国家の経済的基盤と言うべき中小の自作農民でもあったが、このような従軍の連続によって農業を続けることができず、徐々に土地を手放さざるを得なくなっていく。", "qas": [ { "question": "ローマがイタリア半島を統一したのは、いつのこと?", "id": "tr-400-04-000", "answers": [ { "text": "紀元前3世紀後半", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第三次ポエニ戦争、マケドニア戦争、ミトリダテス戦争のうち、小アジアで起こった戦争は、どちらですか?", "id": "tr-400-04-001", "answers": [ { "text": "ミトリダテス戦争", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "各地に派遣されたローマ軍は、どの兵科が中核となっていたか?", "id": "tr-400-04-002", "answers": [ { "text": "重装歩兵", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "元老院階級やエクィテス(騎士階級)を中心とするローマの富裕層はこれらの土地を吸収して確固とした大土地所有制を築き上げていった。クラウディウス法の規定により対外戦争で得た資本の商業活動への投資を禁じられていた元老院議員は、それに代わる投資先としてカンパニアなどのイタリア半島中部の土地を選択するようになる。またエクィテスは元老院議員階級に次ぐ資力を持ち、法規定に縛られずに商業活動を活発に行いつつも投資先としてはやはり伝統的かつ安全な郊外の農地を選ぶ傾向があった。彼らは安価な労働力としてローマが征服したガリア、ゲルマニア、トラキアなどの地から大量の奴隷を輸入し、ラティフンディウムと呼ばれる大土地所有制を急速に発展させた。", "qas": [ { "question": "ローマの富裕層の中心となっていたのは、元老院階級とどの階層なの?", "id": "tr-400-05-000", "answers": [ { "text": "エクィテス", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "対外戦争で得た資本の商業活動への投資を禁じた法とは、何ですか?", "id": "tr-400-05-001", "answers": [ { "text": "クラウディウス法", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ローマで最も大きな資力を持っていた階層は、どの階層か?", "id": "tr-400-05-002", "answers": [ { "text": "元老院議員階級", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ローマで元老院議員階級に次ぐほどの大きな資力を持っていた階層は、どの階層か?", "id": "tr-400-05-003", "answers": [ { "text": "エクィテス", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "古代ローマの歴史を通じて、安価な労働力として奴隷の存在は経済の重要な要素であり続けた。奴隷は外国商人との売買そして征服した地域の住民の奴隷化といった様々な手段を通じてローマの労働力に組み込まれていた。これらの奴隷の一部は召使や職人そして個人的な従者として用いられたが、奴隷の大部分は鉱山そしてシチリアや南イタリアの大農場で使役された。", "qas": [ { "question": "古代ローマの歴史を通じて、経済の重要な要素であり続けたのは、どの階層の存在のことを言うの?", "id": "tr-400-06-000", "answers": [ { "text": "奴隷", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "征服した地域の住民の奴隷化のほかに、どの方法でローマは、奴隷かつ労働力を増やしたか?", "id": "tr-400-06-001", "answers": [ { "text": "外国商人との売買", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "共和政ローマ時代の奴隷は過酷かつ抑圧的に扱われた。ローマの法律では奴隷は人間ではなく財産と見なされていた。所有者は自らの奴隷を法的制約を受けることなく虐待し、傷つけそして殺すことができた。奴隷には様々な階層や形態があったが、最も低くそして数の多い階層である農場や鉱山の奴隷は過酷な肉体労働を生涯にわたって強いられた。", "qas": [ { "question": "共和政ローマ時代の奴隷は過酷かつ、どのように扱われていたか?", "id": "tr-400-07-000", "answers": [ { "text": "抑圧的", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "共和制ローマで、法律により資産として取り扱われていた階層は、どの階層か?", "id": "tr-400-07-001", "answers": [ { "text": "奴隷", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "紀元前1世紀の共和政ローマでは剣闘士試合は最も人気のある娯楽のひとつであった。試合に出場する剣闘士を供給するためにイタリア各地に剣闘士養成所がつくられた。これらの養成所では戦争捕虜や奴隷市場で売買された者そして志願した自由民が剣闘士として闘技場で戦うための技術を教え込まれていた。強い剣闘士は富と名声を得られ、興行師(ラニスタ)も大金を稼げたが、一方で当時のローマ社会では剣闘士は奴隷の中でも最下等の者とされ、興行師は売春宿の主人と同じ賤業と見なされていた。剣闘士は試合に敗れても助命されるケースが多く必ずしも殺されるわけではなかったが、幾度もの試合を生き延びて自由を得られる者は少数であり、過酷な境遇であることに変わりはなかった。", "qas": [ { "question": "イタリア各地に剣闘士養成所がつくられたのは、何世紀のことだと推測できるの?", "id": "tr-400-08-000", "answers": [ { "text": "紀元前1世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "紀元前1世紀の共和政ローマの社会で、最低階層とされたのは、どのような人々ですか?", "id": "tr-400-08-001", "answers": [ { "text": "剣闘士", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "剣闘士養成所には志願してきた自由民や奴隷市場で売買された者のほかに、どのような人々がいたか?", "id": "tr-400-08-002", "answers": [ { "text": "戦争捕虜", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "反乱の指導者となったスパルタクス(Spartacus)はトラキア人の剣闘士奴隷で、カンパニア地方のカプアにあるレントゥルス・バティアトゥス所有の剣闘士養成所に属していた。スパルタクスの出自についてプルタルコスはトラキアのマイドイ族出身とし、アッピアノスは、元はローマ軍団の補助兵であったが、捕虜となって売られ剣闘士になったトラキア人であると伝えている。フロルスはより詳細に「トラキアのメディ族出身、ミトリダテス戦争にてポントス王国側の傭兵として参戦。メディ族がローマと講和して後はローマの補助兵となったものの、反ローマ闘争に身を投じた。やがてローマ軍の捕虜となり、奴隷として売られてカプアの剣闘士養成所に入った」と述べている。近代の歴史家モムゼンはボスポラス王国のトラキア系王家の子孫とする説を唱えている。スパルタクスの出身については史料の述べるトラキア(Thraex)とは民族ではなく彼が訓練された剣闘士のスタイル(トラキア剣闘士というタイプがある)のことではないかとする異論もある。", "qas": [ { "question": "スパルタクスは、誰所有の剣闘士養成所に属していたの?", "id": "tr-400-09-000", "answers": [ { "text": "レントゥルス・バティアトゥス", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プルタルコスによると、スパルタクスは、どの部族の出身ですか?", "id": "tr-400-09-001", "answers": [ { "text": "マイドイ族", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モムゼンは、誰がボスポラス王国のトラキア系王家の子孫とする説を唱えたか?", "id": "tr-400-09-002", "answers": [ { "text": "スパルタクス", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書では、主にスパルタクスの何についての様々な説を取り上げているか?", "id": "tr-400-09-003", "answers": [ { "text": "出身", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "紀元前1世紀頃の南イタリアのカンパニア地方は剣闘士興行が盛んな土地であり、最古の剣闘士養成所はカプアにあったと考えられる。このカプアのバティアトゥス養成所にはガリア人とトラキア人の剣闘士が多く所属していたが、興行師は無理に彼らをひとつ所に押し込めていた。紀元前73年、剣闘士奴隷200人が脱走を計画した。密告によって計画が漏れると、およそ70人の奴隷が厨房の調理道具(包丁や焼き串)を武器に養成所を脱走し、さらに通りがかった数台の馬車から剣闘士用の武器と鎧も手に入れた。逃亡して自由になった剣闘士たちはスパルタクスと二人のガリア人、クリクススとオエノマウスを指導者に選んだ。", "qas": [ { "question": "最古の剣闘士養成所は、どこにあったとされるの?", "id": "tr-400-10-000", "answers": [ { "text": "カプア", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スパルタクスを指導者とする200人の剣闘士奴隷が脱走を計画したのは、何年のことですか?", "id": "tr-400-10-001", "answers": [ { "text": "紀元前73年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "逃亡した剣闘士奴隷集団の指導者となった3人は、スパルタクス、クリクススと誰か?", "id": "tr-400-10-002", "answers": [ { "text": "オエノマウス", "answer_start": 272, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "逃亡した剣闘士奴隷集団の指導者に選ばれた3人のうち、唯一にガリア人でないのは、誰か?", "id": "tr-400-10-003", "answers": [ { "text": "スパルタクス", "answer_start": 251, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "逃亡した奴隷たちはカプアから派遣された討伐隊を撃退し、不名誉と考える剣闘士の武器を捨てて手に入れた軍隊の武器を装備した。養成所脱走直後の動向については史料によって異同があるが、逃亡した剣闘士の集団がカプア周辺を略奪し、そこの奴隷たちを仲間に加え、ウェスウィウス山に立て籠もったという点ではおおよそ一致している。", "qas": [ { "question": "逃亡した奴隷たちが剣闘士の武器を捨て、新たに装備したのは、どの部隊の武器なの?", "id": "tr-400-11-000", "answers": [ { "text": "カプアから派遣された討伐隊", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "逃亡した奴隷たちの養成所脱走直後の動向については史料によって異同があるが、どこに立て籠もったという点ではおおよそ一致していますか?", "id": "tr-400-11-001", "answers": [ { "text": "ウェスウィウス山", "answer_start": 123, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "蜂起と襲撃が起こったカンパニアはローマの資産家や有力者の休養地であり、ここには多数の別邸が所在しており、反乱はすぐにローマ政府の注目を受けることとなった。当初、この反乱は武装蜂起ではなく、大規模な治安の悪化と見なされていた。", "qas": [ { "question": "反乱が起きた地域は、どこか?", "id": "tr-400-12-000", "answers": [ { "text": "カンパニア", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当初、反乱は武装蜂起ではなく、何だとみなされたか?", "id": "tr-400-12-001", "answers": [ { "text": "大規模な治安の悪化", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この時期のローマは西方のヒスパニアではセルトリウスの反乱が紀元前77年から続いており、紀元前73年にはこれに呼応する形で東方のポントス王ミトリダテス6世との戦争が再開していた(第三次ミトリダテス戦争)。東地中海ではクレタの海賊が跋扈してローマの補給路を脅かしており、この危機のさなかにイタリア本土で剣闘士や奴隷による蜂起が発生した。", "qas": [ { "question": "セルトリウスの反乱と第三次ミトリダテス戦争のうち、その発生時期がより早いのは、どちらなの?", "id": "tr-400-13-000", "answers": [ { "text": "セルトリウスの反乱", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この時期のローマは、本土と西方、東方、そして、どこでの反乱および戦争、脅威に巻き込まれていましたか?", "id": "tr-400-13-001", "answers": [ { "text": "東地中海", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この時期、ローマの西方で発生した反乱は、誰が起こした反乱なのか?", "id": "tr-400-13-002", "answers": [ { "text": "セルトリウス", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポントス王ミトリダテス6世とローマの戦争が再開されたのは、何年のことか?", "id": "tr-400-13-003", "answers": [ { "text": "紀元前73年", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "紀元前72年、逃亡奴隷たちは冬営地を出立し、ガリア・キサルピナ(現在の北イタリア地方)に向けて北上した。", "qas": [ { "question": "紀元前72年、逃亡奴隷たちは、どこに向けて北上したの?", "id": "tr-400-14-000", "answers": [ { "text": "ガリア・キサルピナ", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "逃亡奴隷たちが、ガリア・キサルピナに向けて北上したのは、何年のことですか?", "id": "tr-400-14-001", "answers": [ { "text": "紀元前72年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "紀元前71年の執政官に選挙されたレントゥルス・スラとオレステスは軍事的に無能な人物であり、代わりに反乱軍鎮圧の責任を負わされる法務官の選挙に誰も立候補しようとしない事態に陥っていた。", "qas": [ { "question": "紀元前71年の執政官に選挙されたのは、レントゥルス・スラと誰か?", "id": "tr-400-15-000", "answers": [ { "text": "オレステス", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オレステスとレントゥルス・スラが、ローマの執政官に選挙されたのは、何年のことか?", "id": "tr-400-15-001", "answers": [ { "text": "紀元前71年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "アーサー・コナン・ドイル", "paragraphs": [ { "context": "アーサー・コナン・ドイルは1859年5月22日、スコットランド・エディンバラに測量士補チャールズ・ドイルの息子として生まれた。アイルランド系・カトリックの家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、ミドルネームのひとつとなる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、のちにアルコール依存症になり精神病院に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった。\n\n伯父たちの支援でイエズス会系の学校を出たあと、1876年にエジンバラ大学医学部に進学し、1881年に学位を得て卒業した。大学卒業後、医師として診察所を開業した。\n\n患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、1884年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説『緋色の研究』を発表している。1889年に出版された歴史小説『マイカ・クラーク』、1890年に出版されたホームズシリーズ第2作『四つの署名』、1891年に出版された歴史小説『ホワイト・カンパニー』などで小説家として成功した。", "qas": [ { "question": "アーサー・コナン・ドイルはいつ生まれたの?", "id": "tr-401-00-000", "answers": [ { "text": "1859年5月22日", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・コナン・ドイルはミドルネームを誰からもらった?", "id": "tr-401-00-001", "answers": [ { "text": "大伯父", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『マイカ・クラーク』の著者は誰?", "id": "tr-401-00-002", "answers": [ { "text": "アーサー・コナン・ドイル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アーサー・コナン・ドイルは1891年から『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始め、爆発的な人気を獲得した。しかし彼は歴史小説を自分の本分と考えていたため、ホームズシリーズが著名になり過ぎるとホームズを倦厭するようになり、1893年発表の『最後の事件』においてホームズを死亡させた。その後、ナポレオン戦争時代を舞台にしたジェラール准将シリーズの連載を開始した。\n\n1900年にボーア戦争が勃発すると医療奉仕団に医師の1人として参加して戦地に赴いた。同年10月に行われた解散総選挙に与党自由統一党の候補としてエディンバラ・セントラル選挙区から出馬し、戦争支持を訴えたが落選した。ボーア戦争がゲリラ戦争と化して焦土作戦や強制収容所などイギリス軍の残虐行為への国内外の批判が高まっていく中、1902年には『南アフリカ戦争原因と行い』を発表して、イギリス軍の汚名を雪ぐことに尽力し、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙され、「サー」の称号を得た。", "qas": [ { "question": "アーサー・コナン・ドイルはいつから『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始めたか。", "id": "tr-401-01-000", "answers": [ { "text": "1891年", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ホームズの死亡は何年の作品に出ますか。", "id": "tr-401-01-001", "answers": [ { "text": "1893年", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ボーア戦争はいつ勃発したの?", "id": "tr-401-01-002", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 193, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『南アフリカ戦争原因と行い』は何年に発表されたの?", "id": "tr-401-01-003", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 353, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アーサー・コナン・ドイルは1901年には久々のホームズ作品である長編小説『バスカヴィル家の犬』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、1903年から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された。\n\n彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「ジョージ・エダルジ事件」や「オスカー・スレイター事件」といった事件で、警察のずさんな捜査を暴き、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した。\n\n1912年4月のタイタニック号沈没事件について、乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的なジョージ・バーナード・ショーと論争した。\n\n1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『毒ガス帯』を発表し、SF小説にも進出した。", "qas": [ { "question": "『バスカヴィル家の犬』はいつ発表されたか。", "id": "tr-401-02-000", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『失われた世界』を書いた人は誰?", "id": "tr-401-02-001", "answers": [ { "text": "アーサー・コナン・ドイル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『失われた世界』と『毒ガス帯』と、どっちの方が発表が早かった?", "id": "tr-401-02-002", "answers": [ { "text": "『失われた世界』", "answer_start": 346, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『失われた世界』、『毒ガス帯』、『バスカヴィル家の犬』のうち、最も発表が早かったのはどれか。", "id": "tr-401-02-003", "answers": [ { "text": "『バスカヴィル家の犬』", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アーサーは1859年5月22日、スコットランド労務局測量士補チャールズ・ドイルとその妻メアリーの長男として、スコットランド・エディンバラのピカーディ・プレイス11番地に生まれる。\n\nチャールズ、メアリー夫妻の子供は全部で9人で、うちアーサーと姉アネットは、大伯父にあたる美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」という複合姓になった。\n\n父方のドイル家は14世紀にフランスからアイルランドへ移民したノルマン人の家系だった。敬虔なカトリックの一族だったため迫害を受けることが多かったという。", "qas": [ { "question": "アーサーの母の名前は何ですか。", "id": "tr-401-03-000", "answers": [ { "text": "メアリー", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アーサーとアネットと、誰がもっと年上?", "id": "tr-401-03-001", "answers": [ { "text": "アネット", "answer_start": 122, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アーサーは「コナン」という姓を誰からもらったか。", "id": "tr-401-03-002", "answers": [ { "text": "マイケル・コナン", "answer_start": 140, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサーは何年生まれなの?", "id": "tr-401-03-003", "answers": [ { "text": "1859年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイル家が世間の注目を集めるようになったのは、アーサーの祖父であるジョン・ドイルがダブリンからロンドンに出てきて、\"H.B.\"の筆名で著名な風刺画家となってからだった。ジョンの長男ジェームズは画家、次男リチャードはイラストレーター、三男ヘンリーはアイルランド国立美術館館長としてそれぞれ成功を収めた。しかし五男であるチャールズ(アーサーの父)だけは一介の測量技師補から出世せず、しかもアルコール依存症だったため、1876年にはその仕事も失い、療養所へ入れられた。そのため幼少期・青年期のアーサーは貧しい環境の中で育ったという。\n\n母方のフォーリー家もフランスからアイルランドへ移住したカトリックであり、系図をさかのぼるとフランスから渡来した英国王室プランタジネット朝につながるという。母はそのことを常に誇りにしていたという。", "qas": [ { "question": "ジョン・ドイルの方が年上なの、アーサーの方が年上なの?", "id": "tr-401-04-000", "answers": [ { "text": "ジョン・ドイル", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジョン・ドイルの筆名は何?", "id": "tr-401-04-001", "answers": [ { "text": "\"H.B.\"", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘンリーはどの美術館の館長でしたか。", "id": "tr-401-04-002", "answers": [ { "text": "アイルランド国立美術館", "answer_start": 123, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャールズは何年に測量技師補を辞めることになったか。", "id": "tr-401-04-003", "answers": [ { "text": "1876年", "answer_start": 206, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "裕福な伯父の支援でドイルは1868年にイングランド・ランカシャーにあるイエズス会系の寄宿学校ホダー学院に入学した。1870年にはその上級学校であるストーニーハースト・カレッジに進学し、同校で5年間学んだ。スポーツ万能だったドイルは同校のクリケット部主将を務めているが、後年にドイルは同校の体罰の激しさやイエズス会教師の「救いようのない頑迷さ」を批判している。1875年にはドイツ語の勉強も兼ねてオーストリア・フェルトキルヒにあるイエズス会系の学校に1年間留学した。\n\nオーストリアから帰国したころ、母メアリーは少しでも生活費を楽にするため、ある医師を間借り人として置いていた。この間借り人の影響を受けて医師を志すようになったドイルは、1876年にエジンバラ大学医学部に進学した。", "qas": [ { "question": "ドイルは何年にホダー学院に入学したか。", "id": "tr-401-05-000", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ストーニーハースト・カレッジとホダー学院と、どっちの方が上級学校なの?", "id": "tr-401-05-001", "answers": [ { "text": "ストーニーハースト・カレッジ", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ドイルはストーニーハースト・カレッジで何年間学びましたか。", "id": "tr-401-05-002", "answers": [ { "text": "5年間", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドイルは何になるためにエジンバラ大学医学部に進学したの?", "id": "tr-401-05-003", "answers": [ { "text": "医師", "answer_start": 301, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "5年にわたって同大学に在学したが、ドイルの回顧によれば「長く退屈な勉強の毎日。植物学、化学、解剖学、生理学、その他、大半は医療という技術には大してつながりのない必修科目の履修」という状況だったという。しかしここで知遇を得たジョセフ・ベル教授からは大きな影響を受けた。ベル教授はちょっとした特徴から患者の状況や経歴を言い当てる人物であり、ドイルは彼をモデルにして「シャーロック・ホームズ」の人物像を作り上げたという。また解剖学のウィリアム・ラザフォード教授の豪快さはチャレンジャー教授の人物像のモデルになったという。大学在学中、ダーウィンの進化論に共感を寄せたため、徐々にカトリックの信仰心から離れたという。\n\n大学への通学路に古本屋街があったため、古本もよく読むようになった。タキトゥスやホメーロスなどの古典、クラレンドン伯爵の『イングランド反乱史』、スウィフトの『桶物語』、アラン=ルネ・ルサージュの『ジル・ブラース物語』、サー・ウィリアム・テンプル准男爵のエッセイ、オリバー・ウェンデル・ホームズのエッセイ、トマス・マコーリーのエッセイ、エドガー・アラン・ポーの小説などに強い影響を受けたという。", "qas": [ { "question": "ドイルは誰をモデルにして「シャーロック・ホームズ」の人物像を作り上げたか。", "id": "tr-401-06-000", "answers": [ { "text": "ベル教授", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャレンジャー教授の人物像は誰をモデルにしたのか。", "id": "tr-401-06-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ラザフォード教授", "answer_start": 213, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイルがカトリックの信仰心から離れたきっかけとなった理論は何?", "id": "tr-401-06-002", "answers": [ { "text": "ダーウィンの進化論", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ジル・ブラース物語』の著者は誰?", "id": "tr-401-06-003", "answers": [ { "text": "アラン=ルネ・ルサージュ", "answer_start": 388, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ドイルはスポーツにも積極的に参加した。相手を見つければすぐにボクシングの試合をし、またラグビー部ではフォワードを務めた。\n\n当時ドイルの姉2人はポルトガルで働いて実家に仕送りしていたため、ドイルも仕送りしないのは長男として肩身が狭かったらしく、しばしば医師のもとでパートタイムの助手をし、また1880年には7か月にわたって捕鯨船に船医として乗船している。\n\n1881年8月に医学士と外科修士の学位を取得したが、成績は並みだった。", "qas": [ { "question": "ドイルはラグビー部で、どのポジションを務めたか。", "id": "tr-401-07-000", "answers": [ { "text": "フォワード", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイルはいつ医学士の学位を取得したか。", "id": "tr-401-07-001", "answers": [ { "text": "1881年8月", "answer_start": 179, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイルは大学卒業後の1881年10月にアフリカ汽船会社に船医として就職した。10月末にリヴァプールから出航したアフリカ行きのマユンバに乗船したが、客が次々とマラリアに罹患してその治療に悪戦苦闘し、彼自身もマラリアを罹患して一時生死の境をさまよった。気候も暑くてたまらなかったという。1882年1月にリヴァプールへ戻ったころにはこれ以上アフリカ行きの船の船医を続ける気にはなれなくなっており、退職した。\n\nこのあと、ロンドンの伯父たちに会って支援を受けようとしたが、敬虔なカトリックである彼らは信仰心を失ったドイルを助けてはくれなかった。\n\n1882年5月にはエジンバラ大学の同級生ジョージ・バッドに誘われて、プリマスのバッドの診察所の共同経営者となった。バッドの診察は型破りとして評判で客が多かったが、ドイルが診察を分担するようになってから客が減ってきたため、2か月もたたないうちに2人の関係は破局した。バッドが「ドイルの看板が外にあるから客が減るのだ」と非難してきたのを機にドイルはバッドと袂を分かつ決意を固めた。1882年6月末からポーツマス郊外サウスシーで診察所を個人開業するようになった。8年にわたって診察所を続けたが、その年収が300ポンドを超えた年はなかった。すでに医師が多くいる地域だったためこれ以上の成功は望めない状況だったという。スポーツが得意だったため地域社会にはすぐに溶け込め、ボウリング大会で優勝したり、クリケット・クラブの主将を務めたり、フットボール・クラブの立ち上げにも参加した。\n\n1885年には病死した患者の姉であるルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をした。", "qas": [ { "question": "ドイルは1881年10月、どの会社に就職したか。", "id": "tr-401-08-000", "answers": [ { "text": "アフリカ汽船会社", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイルの一番目の結婚は何年に行われたか。", "id": "tr-401-08-001", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 656, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ドイルの最初の結婚相手は誰でしたか。", "id": "tr-401-08-002", "answers": [ { "text": "ルイーズ・ホーキンズ", "answer_start": 674, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドイルは1882年6月末から個人開業した診察所を何年間続けましたか。", "id": "tr-401-08-003", "answers": [ { "text": "8年", "answer_start": 498, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ドイルは患者を待つ時間を利用して短編小説を執筆し、雑誌社に投稿するようになった。1882年には『我が友、殺人者(MyFriendtheMurderer)』が『ロンドン・ソサエティ』誌から10ポンドで買ってもらえた。ついで同年末には捕鯨船での体験を基にした『北極星号の船長(TheCaptainofthePole-Star)』が『テンプル・バー』誌に10ギニーで買ってもらえた。さらに1883年にはメアリー・セレストの事件に触発されて書いた『J・ハバクック・ジェフソンの遺書』が『コーンヒル・マガジン』誌に29ギニーで買ってもらえ、これはドイルの初期の執筆活動最大の成功となった。ただし買い取ってもらえるのは稀なケースで大半の作品は返却されていた。短編小説は小金稼ぎになったが、作者名が掲載されないため、その場限りなのが難点だった。ドイルの自伝によれば、1885年の結婚後にこのまま短編を書き続けても進歩がないと思うようになり、単行本になるぐらいの長編小説を書こうと思い立ったという。はじめに『ガードルストーン会社』という長編小説を書いたが、出版してくれる出版社がなかなか見つからず、刊行は1890年になった。\n\nこの後の1886年3月から4月にかけて執筆した長編小説がシャーロック・ホームズシリーズの第一作『緋色の研究』だった。これも出版社がなかなか見つからなかったが、1886年10月末にウォード・ロック社に25ポンドという短編並みの安値で買い取ってもらった。同作品は1887年11月出版の『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載された。その翌年には単行本化もされた。反響はほどほどというレベルだった。", "qas": [ { "question": "『北極星号の船長(TheCaptainofthePole-Star)』が『テンプル・バー』誌に10ギニーで買ってもらえたのは何年のことですか。", "id": "tr-401-09-000", "answers": [ { "text": "1882年", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『J・ハバクック・ジェフソンの遺書』のモチーフとなった事件は何ですか。", "id": "tr-401-09-001", "answers": [ { "text": "メアリー・セレストの事件", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『J・ハバクック・ジェフソンの遺書』、『我が友、殺人者(MyFriendtheMurderer)』、『緋色の研究』のうち、短編小説じゃないのはどれなの?", "id": "tr-401-09-002", "answers": [ { "text": "『緋色の研究』", "answer_start": 553, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シャーロック・ホームズシリーズの第一作のタイトルは何ですか。", "id": "tr-401-09-003", "answers": [ { "text": "『緋色の研究』", "answer_start": 553, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイルは『緋色の研究』出版までの間に『ガス・アンド・ウォーター・ガゼット』誌からの依頼でドイツ語の『ガスパイプ漏れの検査』を英語訳した。後年、ドイルは「世人は『緋色の研究』が私の仕事の突破口だと思うかもしれないが、そうではない。自分から頼んだのではなく出版社から依頼された初めての仕事という意味でこの翻訳が私の突破口となった」と語っている。\n\n1887年7月から1888年初めにかけて、17世紀後半のモンマスの反乱を描いた歴史小説『マイカ・クラーク』を執筆した。この作品はロングマン社に買い取ってもらい、1889年2月に出版した。かなり評判がよく、1年の間に3版も重版を重ねている。後年ドイル自身も「この作品が自分の最初の出世作だった」と語っている。\n\n1889年にアメリカ合衆国のJ.B.リピンコットからの依頼でシャーロック・ホームズシリーズ第二作の長編小説『四つの署名』を執筆し、1890年2月に英米で出版された。この作品の評判もよかった。", "qas": [ { "question": "ドイルはドイツ語の『ガスパイプ漏れの検査』をどんな言語に翻訳しましたか。", "id": "tr-401-10-000", "answers": [ { "text": "英語", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ドイルが自分の突破口であると語った本のタイトルは何?", "id": "tr-401-10-001", "answers": [ { "text": "『ガスパイプ漏れの検査』", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『四つの署名』は誰の依頼で執筆されたか。", "id": "tr-401-10-002", "answers": [ { "text": "J.B.リピンコット", "answer_start": 341, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイルが自分の最初の出世作だと述べた作品は何ですか。", "id": "tr-401-10-003", "answers": [ { "text": "『マイカ・クラーク』", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ドイルは『四つの署名』執筆後、14世紀を舞台にした歴史小説『ホワイト・カンパニー』の執筆に戻った。『マイカ・クラーク』と『四つの署名』の評判がよかったため、コーンヒル社から雑誌掲載で200ポンド、単行本化で350ポンドという高い報酬で買ってもらえた。単行本は全3巻で出版されたが、非常によく売れ、コナン・ドイルの小説家としての名声を押し上げた。この本はのちに学校の歴史教育の教材にも使われており、それについてドイルは「長く読み伝えられ、イギリスの伝統が栄光に輝いてほしい」という感想を述べている。", "qas": [ { "question": "歴史小説『ホワイト・カンパニー』の舞台となっているのは何世紀ですか。", "id": "tr-401-11-000", "answers": [ { "text": "14世紀", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『四つの署名』と『ホワイト・カンパニー』と、どっちの方が先に執筆されましたか。", "id": "tr-401-11-001", "answers": [ { "text": "『四つの署名』", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ドイルは一次大戦前から心霊主義に関心を持っており、一次大戦での身内の死が原因で心霊主義に入ったとはいえないが、これをきっかけに心霊主義への傾斜を強めたことは確かなようである。1918年に著した最初の心霊主義に関する著作『新たなる啓示(TheNewRevelation)』の中でドイルは「戦争で多くの人の死に遭い、悲嘆を味わううちに、我々の愛する人は死後もなお生き続けているはずだとの確信に達した」と書いている。\n\n一次大戦後のドイルは心霊主義の布教を自身の使命と心得るようになった。イギリスのみならずオーストラリア、アメリカ、ヨーロッパ諸国、南アフリカ、ローデシア、ケニアなどを訪問しては心霊主義の講演を行った。1925年にはパリで開かれた国際心霊主義者連盟の会議の議長を務めた。一次大戦後にドイルが心霊主義布教のために費やした金額は25万ポンドを超えると言われている。", "qas": [ { "question": "『新たなる啓示(TheNewRevelation)』は何年に書かれましたか。", "id": "tr-401-12-000", "answers": [ { "text": "1918年", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "一次大戦後にドイルが心霊主義布教のために費やした金額はいくらを超えると言われていますか。", "id": "tr-401-12-001", "answers": [ { "text": "25万ポンド", "answer_start": 367, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "税所敦子", "paragraphs": [ { "context": "税所敦子は、日本の歌人、女官だ。幼少時より短歌の才能に優れ、「明治の紫式部」と呼ばれた。後年は宮中に勤め、明治天皇と皇后の寵愛を受けた。また夫の実家での生活や宮中での貞女としての振る舞いや、宮中に仕えるまでの波乱万丈な生涯でも知られている。京都鴨川東錦織村出身だ。歌集に『御垣の下草』『御垣の下草拾遺』がある。", "qas": [ { "question": "「明治の紫式部」とは誰を指すのはか。", "id": "tr-402-00-000", "answers": [ { "text": "税所敦子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "税所敦子はどこ出身なの?", "id": "tr-402-00-001", "answers": [ { "text": "京都鴨川東錦織村", "answer_start": 120, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "税所敦子は京都の良家の武士である林篤国の長女として誕生した。幼少時より、心優しい上に頭が良く、父の篤国から寵愛された。敦子が6歳のとき、篤国が師である青年僧の福田行誡、歌人の八田知紀や香川景樹らを招き、歌会を開いた。行誡が余興のつもりで敦子に「そなたも歌を詠んでみよ」と勧めると、敦子は臆すことなく歌を詠んだ。", "qas": [ { "question": "税所敦子の父の苗字は何?", "id": "tr-402-01-000", "answers": [ { "text": "林", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "敦子が何歳のとき、篤国が師である青年僧の福田行誡、歌人の八田知紀や香川景樹らを招き、歌会を開いたか。", "id": "tr-402-01-001", "answers": [ { "text": "6歳", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "居合わせた一同は「6歳にして歌の才能がある」と、一斉に称賛した。篤国は敦子に才能を感じて、毎朝神仏に礼拝した後、幼い敦子の頭を撫でながら「女ながらも、名を残せ」と励ました。\n\n篤国は師の福田行誡に、敦子の訓導を願った。敦子は行誡のもとで『四書五経』『万葉集』『源氏物語』などを学んだ。また行誡は敦子の才能を伸ばすために、寺で催される歌会に敦子を連れて行き、大田垣蓮月や高畠式部といった歌人たちに敦子を紹介した。敦子の才能は、こうした行誡の訓導や歌人たちとの交流によって育まれていった。", "qas": [ { "question": "篤国は誰に、敦子の訓導を願ったか。", "id": "tr-402-02-000", "answers": [ { "text": "福田行誡", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1835年のある日、敦子が近所の子供たちと遊びに出掛けた後、子供たちと別れ、夜になっても帰宅しなかった。両親は狂ったように敦子を捜し回った。嵯峨野にまで足を伸ばし、もしやと虚空蔵菩薩の祠を覗くと、敦子が1人で鎮座していた。両親が安堵して敦子を連れ戻そうとすると、敦子は「私は歌の名人になりたいのです。虚空蔵様に願いをたてれば、叶うと聞きます。ここに一晩こもることをお許しください」と言った。虚空蔵菩薩は知恵と学問の仏である。仕方なく両親は門前の茶屋に敦子を託し、帰宅した。\n\n歌人の千種有功がこの話を耳にして、敦子に和歌や学問を教えることを申し出た。敦子は大変喜んで早速、千種のもとへ通った。千種は香川景樹の高弟であり、香川の門下には先述の八田知紀、薩摩藩士の税所篤之らがいた。敦子は千種家の歌会で彼らと知り合い、才能を伸ばしていった。税所篤之は松村景文から絵を学んでおり、敦子は後に税所篤之から絵を、八田から歌を習った。", "qas": [ { "question": "知恵と学問の仏は何ですか。", "id": "tr-402-03-000", "answers": [ { "text": "虚空蔵菩薩", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "敦子に和歌や学問を教えることを申し出た歌人は誰ですか。", "id": "tr-402-03-001", "answers": [ { "text": "千種有功", "answer_start": 241, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "やがて敦子は篤之と恋仲となり、1844年、16歳年上の篤之のもとに嫁いだ。敦子が篤之の描く絵に感動し、「こんな絵を描くことのできる人と結婚したい」と言ったともいわれる。篤之は郷里の薩摩藩(鹿児島県)で結婚し、2人の娘をもうけたが、諸事情で離婚し、薩摩の母に娘たちを託して上京しており、敦子は後妻であった。\n\n篤之は男尊女卑の風習の中で育った身であり、敦子の才能を認めながらも、無理な小言を言い、暴力も振るった。遊廓への出入りも多かった。敦子は理不尽な境遇に耐え、従順に使えた。友人が心配して敦子に問うと「夫が心を尽くして教えるのに、私が学びえないから、夫が憤る」「私が至らないから、夫が他に心を移す」「今は夫が『不憫な奴』と思い返してくれる日が来ることを祈っている」と言い、その優しさで友人を涙させた。やがて敦子の祈りは通じ、篤之の素行はおさまり、周囲が羨むほど仲睦まじい夫婦となった。1849年には女児の徳子が生まれた。\n\nこの時期の敦子は、夫の博学の影響によって文才がさらに開花し、その芸術性が高まっていた。徳子の出産の喜びを詠った歌には、親としての細やかな情愛と喜びが詠み込まれている。", "qas": [ { "question": "敦子の夫は誰?", "id": "tr-402-04-000", "answers": [ { "text": "篤之", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "篤之の二番目の妻は誰?", "id": "tr-402-04-001", "answers": [ { "text": "敦子", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "徳子は何年生まれなの?", "id": "tr-402-04-002", "answers": [ { "text": "1849年", "answer_start": 393, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし篤之は風邪をこじらせ、肺結核に冒された。敦子は献身的に看護しつつ神仏にもすがったが、1852年4月29日、篤之は44歳で死去した。敦子は生涯の独身を誓い、黒髪を切って夫の柩に納め、歌を添えて、紅葉の名所である東福寺に葬った。夫に先立たれた敦子は、現世の儚さをしみじみと感じて、孤独と不安から、夫の姿を目の浮かべつつ、夫への思案を歌に詠んでいた。このとき敦子は身籠っており、同年秋の10月28日に長男を出産した。しかし敦子が悲嘆で体を害していたこともあり、長男は約10日で早世した。敦子は亡き長男を夫の墓に葬り、歌を添えた。さらに同年11月には、徳子が疱瘡を患った。敦子は亡き夫への慕情から、衰弱が癒えない身で、必死に徳子を看護した。その甲斐あって、徳子は12月には回復した。当時の敦子の歌には、以前と比べて変わってしまった身の上の嘆きが詠まれている。", "qas": [ { "question": "篤之は44歳で亡くなったか。", "id": "tr-402-05-000", "answers": [ { "text": "44歳", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "敦子は何年に長男を出産したか。", "id": "tr-402-05-001", "answers": [ { "text": "1852年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "徳子が疱瘡を患ったのは何年のことか。", "id": "tr-402-05-002", "answers": [ { "text": "1852年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "敦子と同時期に宮中に出仕していた歌人に、下田歌子がいた。当時の女官で武家出身は敦子と歌子だけであり、歌子も同様に他の女官たちからの虐めを受けていたが、それに耐え忍ぶ敦子とは対照的に、歌子はその若さも手伝って、相手に真っ向から立ち向かい、騒ぎ立てた。\n\n宮中に上がったのは敦子より歌子の方が先だが、身分は敦子の方が歌子より上であり、歌子は敦子から歌の指導を受けていた。歌子が敦子に添削を受けた際、他の女官たちが敦子の悪口を言っていることを告げたが、敦子は「へぇ」と笑って受け流すのみであった。なおも歌子が悪口のことを言うと、敦子は「聞こうとしなければ聞こえないものです」「悪口を言う人の言葉を用いても、何の役にも立ちません」と返し、歌子を感心させた。\n\n1884年に歌子の夫が病死した際には、自らも若くして夫を亡くした敦子は悲しみを分かつため、辛い体験を歌に込めて贈った。", "qas": [ { "question": "当時の女官で武家出身は、敦子以外に誰がいましたか。", "id": "tr-402-06-000", "answers": [ { "text": "歌子", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "歌子の夫は何年に亡くなったか。", "id": "tr-402-06-001", "answers": [ { "text": "1884年", "answer_start": 326, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治時代前期に御歌所に属した歌人の中でも、最も世評が高かった歌人が税所敦子である。桂園派(香川景樹とその門流)の中でも随一の高手と呼ばれており、明治20年代の歌壇を席巻きした「明治六歌仙」の1人にも数えられ、人々の尊敬を集めた。晩年には「明治の紫式部」とも呼ばれて、讃えられた。没後には敦子の若は諸雑誌に掲載され、注釈つきで女学校の修身の本や副読本に採用され、婦徳と文才を合せ、後進の鑑とされた。\n\n生前に詠んだ歌の数の「4万首」は、明治20年代に宮内省の三宮義胤が「今まで詠まれた歌の数はどのくらいか」と尋ねた際の敦子の返答による。しかし歌集などで遺されている歌の数は実に20分の1の約2千首に過ぎず、しかも老境に入ってからのものが多い。このことから敦子は、できるだけ優れた歌を選んで残そうとしていたことが窺われる。", "qas": [ { "question": "明治時代前期に御歌所に属した歌人の中で、最も世評が高かった歌人は誰?", "id": "tr-402-07-000", "answers": [ { "text": "税所敦子", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ルバーブ", "paragraphs": [ { "context": "ルバーブ(英:Rhubarb[ˈruːbɑrb])とは、タデ科ダイオウ属の中の食用とされている栽培品種である。\n学名は統一されていないがRheumrhabarbarumなどが用いられる。\n和名はショクヨウダイオウ(食用大黄)など。\n多年草で太くて短い地下茎を持つ。\n根生する大きな葉は有毒。\n緑白色の小花が集まり、円錐花序を作る。\n地面から伸びる多肉質の葉柄を食用とする。\n生ではセロリのようなパリッとした食感と強い酸味がある。\n一般的な調理法は果物に近く、甘味をつけてパイやクランブルなどのデザートに用いることが多い。\nルバーブにはエモジンやレイン、さらに、例えばレインの配糖体であるグルコレインのような複数種のアントラキノン誘導体が含まれており、これらが瀉下作用(機械的作用、刺激性作用の両者とも)を現すため、便秘の際に下剤として有用である。", "qas": [ { "question": "ルバーブの日本名は何?", "id": "tr-403-00-000", "answers": [ { "text": "ショクヨウダイオウ", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルバーブの食用部分はどこ?", "id": "tr-403-00-001", "answers": [ { "text": "葉柄", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アントラキノン誘導体が引き起こす作用とは?", "id": "tr-403-00-002", "answers": [ { "text": "瀉下作用", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "英名の\"rhubarb\"(ルバーブ)は野菜として栽培される種だけではなくダイオウ属の総称としても用いられる。\n特に食用種を指して\"gardenrhubarb\"(ガーデン・ルバーブ)、\"pieplant\"(パイ・プラント)と呼ぶ。\n食用栽培種としてのルバーブの歴史は18世紀頃に英国で始まった。\n遺伝的な起源は明らかになっていないが、交雑によって得られたと信じられている。\n原種の1つと考えられるR.rhaponticumL.はダイオウ属として唯一のヨーロッパ固有種であり、17世紀から栽培が始められた。\nシベリアもしくはモンゴル原産のR.rhabarbarumL.はその後に西欧へ導入されたと考えられる。\n他の原種候補には中国原産のR.palmatumなどが挙げられる。", "qas": [ { "question": "食用栽培種としてのルバーブの始まりはどこの国からでしたか?", "id": "tr-403-01-000", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 138, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "食用栽培種としてのルバーブの歴史はいつから始まったの?", "id": "tr-403-01-001", "answers": [ { "text": "18世紀頃", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "食用種の学名について統一された見解はない。\n1988年にデール・マーシャルが編纂したダイオウ属に関する文献目録では、食用ルバーブは一般にR.rhaponticumL.とみなされているが別種であり、正しくはR.rhabarbarumL.だとされた。\n同様の見解を取っているFloraofNorthAmericaによれば、北米ではこの誤用が浸透していると見られる。\nまた同文献によれば、R.rhabarbarumは2n=44の4倍体、R.rhaponticumは2n=22の2倍体であるが、過去には学名の誤用に基づいて異なる報告がなされたことがある。\nその他に食用種(gardenrhubarb)の学名としてR.rhabarbarumを採用している例にはITIS、EncyclopediaofLife、『園芸植物大事典』(小学館、1989年)などがある。", "qas": [ { "question": "2倍体はR.rhabarbarumとR.rhaponticumのどちら?", "id": "tr-403-02-000", "answers": [ { "text": "R.rhaponticum", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "食用ルバーブの正しい名称は何?", "id": "tr-403-02-001", "answers": [ { "text": "R.rhabarbarumL.", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本で刊行されてきた園芸事典の多くは食用種の学名をR.rhaponticumとしてきた。\n例としては『原色日本薬用植物図鑑』(保育社、1964年)、『野菜園芸大事典』(養賢堂、1977年)、『最新園芸大辞典』(誠文堂新光社、1983年)、『世界有用植物事典』(平凡社、1989年)がある。\nこれらが実際にR.rhaponticumを指すのか、学名が取り違えられているのかは定かではない。\nFloraofNorthAmericaはR.rhaponticumがヨーロッパで広く栽培されているとも述べている。", "qas": [ { "question": "『野菜園芸大事典』、『世界有用植物事典』、『最新園芸大辞典』の中で2番目に遅く刊行されたものはどれ?", "id": "tr-403-03-000", "answers": [ { "text": "『最新園芸大辞典』", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『原色日本薬用植物図鑑』、『野菜園芸大事典』、『最新園芸大辞典』の中で最も早く刊行された著書は何?", "id": "tr-403-03-001", "answers": [ { "text": "『原色日本薬用植物図鑑』", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『世界有用植物事典』の出版会社は何?", "id": "tr-403-03-002", "answers": [ { "text": "平凡社", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "食用ルバーブを純粋種とみなさない著者も多い。\n1948年にThorsrudとReisaeterは、親種が不明であるという観点から食用栽培品種の総称としてR.×cultorumを提唱した。\nこの名はPROSEA(PlantResourcesofSouth-EastAsia)やTheEuropeangardenflora(CambridgeUniv.press,1989年)などで採用されている。\nアメリカ合衆国農務省の農業調査局のデータベースに基づくWorldEconomicPlants:AStandardReference(CRCpress、2016年)は、食用品種が種間雑種であることを明示してR.×rhabarbarumという種名表記を行った。\n英国王立園芸協会は食用に栽培されるほとんどの変種をR.×hybridumと総称している。\n食用ルバーブの和名としてはショクヨウダイオウ(食用大黄)やマルバダイオウ(丸葉大黄)がある。\n後者は一般のダイオウとくらべて葉が丸みを帯びていることからきている。\nR.rhabarbarumのシノニムであるR.undulatumはカラダイオウ(唐大黄)という和名を持つ。", "qas": [ { "question": "葉が丸みを帯びているルバーブの和名は何?", "id": "tr-403-04-000", "answers": [ { "text": "マルバダイオウ", "answer_start": 401, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "PROSEAで採用している食用ルバーブの総称とは何?", "id": "tr-403-04-001", "answers": [ { "text": "R.×cultorum", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "TheEuropeangardenfloraで採用している食用ルバーブの総称とは何?", "id": "tr-403-04-002", "answers": [ { "text": "R.×cultorum", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "\"rhubarb\"(ルバーブ)という言葉は古代ギリシア語の\"ρά\"(rha)+\"βάρβαρον\"(barbarum)に由来すると考えられている。\n\"ρά\"はディオスコリデスが呼んでいたルバーブの名で、\"βάρβαρον\"は「蛮族の」を意味する。\nほかにルバーブ(レウム属)の瀉下作用との関連でギリシア語の\"rheo\"(流れる)が語源となったという説もある。\n\"Rha\"はまたヴォルガ川の水名でもある。\nルバーブは初期には\"rhaponticum\"とも呼ばれていたが、「ヴォルガ川(Rha)と黒海(Pontus)を越えて」という意味だという説がある。", "qas": [ { "question": "ディオスコリデスはルバーブの名を何と呼んでいた?", "id": "tr-403-05-000", "answers": [ { "text": "\"ρά\"", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルバーブの言葉の語源は何語からきているの?", "id": "tr-403-05-001", "answers": [ { "text": "古代ギリシア語", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴォルガ川の水名とは?", "id": "tr-403-05-002", "answers": [ { "text": "\"Rha\"", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "強壮な多年草で、木質の地下茎と多肉質の根を持つ。\n多数の巨大な葉が根生する。\n葉は平滑で心臓形ないし幅広の卵形、長さ・幅ともに50センチメートルほど。\n葉先は丸く鈍形。縁辺は波状、もしくはややちぢれていて縁毛を持つ。\n葉身基部から5-7本の掌状脈が伸び、無毛もしくは葉脈に沿って葉裏に柔毛が生える。\n褐色もしくは白みがかった薄い漏斗形の葉鞘を形成する。\n食用とする多肉質の葉柄は丈夫で、葉と同程度の長さかそれ以上に伸びる。\n断面は半円形で直径2センチメートル以上になる。\n縦に浅い溝を生じる。\n色は緑からピンクまたは赤。\n6-7月までに高さ1-2メートルに及ぶ太い花茎を抽出し、頂端に白から緑の小花が250から500ほど集まって15-40センチメートルの円錐花序を作る。\n花茎につく葉は先端ほど小さい。\n両性花で、花被片2×3枚、雄ずい6-9本、花柱3本からなり、子房上位。\n雄ずい先熟のため、自花受粉は行わない。\n果実は約1センチメートルの痩果で、三角形の陵辺に翼弁を備える。\n染色体数は2n=4x=44。\nなお本種としばしば混同されるR.rhaponticumは2n=2x=22である。", "qas": [ { "question": "ルバーブの染色体数は?", "id": "tr-403-06-000", "answers": [ { "text": "2n=4x=44", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "葉柄の直径は?", "id": "tr-403-06-001", "answers": [ { "text": "2センチメートル以上", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルバーブに形成される葉鞘の形は?", "id": "tr-403-06-002", "answers": [ { "text": "漏斗形", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "数が多いのは雄ずいと花柱のどっち?", "id": "tr-403-06-003", "answers": [ { "text": "雄ずい", "answer_start": 365, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "野菜として温帯地域で栽培される。\n寒さには強いが耐暑性はないため、熱帯地域における栽培は高冷地に限られる。\n冷涼地での栽培は極めて容易。\n温帯気候では春から秋に生長し、冬季に日照時間が短くなると休眠する。\n開花には6°C以下で数か月間の春化処理が必要なため、熱帯では開花はまれである。\n生育に適する温度は10-25°C。\n多くの品種は30°C以上の温度に弱く、葉柄の生育が悪化する。\n地上部はマイナス3-4°Cで枯死する。\nほとんどどんな土質でもよく生育するが、表土の深い、肥沃で水はけのよい砂壌土に適する。\n酸性土にも耐えられるが、生育にはpH6.5-7.0が最適。\n繁殖は主に株分けによって行われる。\n定植後数年すると、芽が密集して葉柄が細くなるため、新たな株分けが必要になる。\n実生では成長が遅く、個体差が生じやすいためあまり行われない。", "qas": [ { "question": "栽培がとても簡単なのは熱帯地域と冷涼地のどちら?", "id": "tr-403-07-000", "answers": [ { "text": "冷涼地", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "生育の最適温度は?", "id": "tr-403-07-001", "answers": [ { "text": "10-25°C", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ルバーブは北米と北ヨーロッパを中心に広く栽培されている。\n温帯性の気候のもとでは、露地栽培のルバーブは収穫期が年間で特に早い作物の1つで、普通は春の半ばから終わりにかけて(北半球では4-5月、南半球では10-11月)最初の収穫が行われる。\n露地栽培のシーズンは9月まで続く。\nルバーブは収穫後すぐに食べることができ、切ったばかりの茎は堅く光沢がある。", "qas": [ { "question": "ルバーブの最初の収穫が早いのは北半球と南半球のどちら?", "id": "tr-403-08-000", "answers": [ { "text": "北半球", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南半球での最初の収穫時期はいつ?", "id": "tr-403-08-001", "answers": [ { "text": "10-11月", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北半球での最初の収穫時期はいつ?", "id": "tr-403-08-002", "answers": [ { "text": "4-5月", "answer_start": 91, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "露地栽培のほか、冬に掘り取った根株を暖房温室で栽培する軟化栽培法がある。\n軟化栽培では光のない環境で生育を行うため、葉緑素が形成されず、アントシアニンの鮮やかな赤色が優勢となる。\nまた茎はより甘く柔らかくなる。\n軟化栽培のルバーブは英語で「ホットハウス・ルバーブ」と呼ばれ、特に早春に店頭に並ぶ。\n英国では、灯りのない小屋で促成栽培されたルバーブの初物をろうそくの灯りの下で収穫する習慣がある。\nウェスト・ヨークシャーの3つの都市(ウェイクフィールド、リーズ、モーリー)の間にある地域はこの種のルバーブを特産としており、「ルバーブ・トライアングル」として名高い。", "qas": [ { "question": "茎がより甘く柔らかくなるのは露地栽培と軟化栽培のどちらですか?", "id": "tr-403-09-000", "answers": [ { "text": "軟化栽培", "answer_start": 37, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ルバーブ・トライアングル」がある国はどこ?", "id": "tr-403-09-001", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ルバーブ・トライアングル」とはモーリー、リーズともう1つはどこ?", "id": "tr-403-09-002", "answers": [ { "text": "ウェイクフィールド", "answer_start": 216, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "光のない環境で、根株を温暖温室で栽培するルバーブの栽培方法の名前は?", "id": "tr-403-09-003", "answers": [ { "text": "軟化栽培法", "answer_start": 27, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "季節性が高い野菜なので、英国やアイルランド、ロシアのような寒冷地では旬ではない時期に新鮮なルバーブを得るのは難しい。\nルバーブは直射日光が当たる土地でよく生育する。\nコンテナ栽培も可能だが、株がシーズン中に成長する分だけの容量が必要である。\n冷涼な気候での栽培に適し、約30°C以上の高温には弱い。\n寒害を受けると、有毒成分のシュウ酸が葉から可食部に移行して高濃度となる可能性があるため食用に適さない。", "qas": [ { "question": "ルバーフが苦手な温度は何°C?", "id": "tr-403-10-000", "answers": [ { "text": "約30°C以上", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルバーフの有毒成分とは何?", "id": "tr-403-10-001", "answers": [ { "text": "シュウ酸", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "\"crimsonstalk\"(深紅の茎)という詩的な呼称を持つが、茎の色は深紅だけでなく、明るいピンクの斑入りのものもあれば、まったく色づかない薄緑のものもある。\n発色はアントシアニンの働きによるもので、品種や気温、収穫時期によって異なる色を示す。\n緑の茎を持つ代表的な品種ヴィクトリアは強壮で知られる。\nクリムゾン・レッド、カーウッド・ディライト、スタークリムゾンなどは赤い茎を持つ品種である。\n視覚的にも美しい赤色の品種は人気が高いものの、風味で勝るわけではなく、緑色の品種と比べて一般に小型で収穫効率は良くない。\n有害物質の含有量は色からは判別できない。", "qas": [ { "question": "クリムゾン・レッド、ヴィクトリア、カーウッド・ディライトの中で緑色の茎を持つ品種はどれ?", "id": "tr-403-11-000", "answers": [ { "text": "ヴィクトリア", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "収穫効率が良いのは赤色の品種と緑色の品種のどちら?", "id": "tr-403-11-001", "answers": [ { "text": "緑色の品種", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "有機農業を唱道したローレンス・D・ヒルズは、風味に優れたお気に入りの変種としてホークス・シャンペン、ヴィクトリア、ティンパーリー・アーリー、アーリー・アルバートを挙げた。\nまたギャスキンズ・パーペチュアルはシュウ酸の含有量が最も低い部類であるため、栽培期を通常よりはるかに長くしても過度に酸っぱくならないとして推奨している。", "qas": [ { "question": "シュウ酸の含有量が最も低い部類とは何?", "id": "tr-403-12-000", "answers": [ { "text": "ギャスキンズ・パーペチュアル", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "有機農業を唱えた人は誰?", "id": "tr-403-12-001", "answers": [ { "text": "ローレンス・D・ヒルズ", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中国人は本種の近縁種(大黄)の根を数千年にわたって薬用としてきた。\n西暦紀元前後(漢代)に成立したとされる『神農本草経』にも記載がある。\n古代ギリシアでも知られており、医師ディオスコリデスが記録した\"ρηον\"または\"ρά\"と呼ばれる薬草の根が現在ヨーロッパ圏でいうルバーブ(ダイオウ属)だと考えられる。\nルバーブはボスポラス海峡経由でギリシアに伝えられたが、交易ルートが確立されたのはかなり後のイスラーム時代であった。\nこのころルバーブはシルクロードを通って運ばれた。\n14世紀にアレッポとスミルナの港を通じてヨーロッパに運ばれたルバーブは「ターキッシュ・ルバーブ(R.palmatum)」と呼ばれた。\n後には別の海上交易路やロシア経由の陸路が開拓された。\n交易ルートによって「インディアン・ルバーブ」「チャイニーズ・ルバーブ」など様々な名がつけられたが、これらが種や産地の違いを意味するかは明らかではない。\nロシア帝国では特にルバーブを対象とした品質管理制度があり、そのためか18世紀ヨーロッパでは「ロシアン・ルバーブ」が最も珍重された。", "qas": [ { "question": "近縁種の根を数千年間薬用としてきたと記述がある書物とは?", "id": "tr-403-13-000", "answers": [ { "text": "『神農本草経』", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルバーフはどの海峡を渡ってギリシアに伝わったの?", "id": "tr-403-13-001", "answers": [ { "text": "ボスポラス海峡", "answer_start": 158, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イスラーム時代にルバーフはどこを通って運搬されたの?", "id": "tr-403-13-002", "answers": [ { "text": "シルクロード", "answer_start": 220, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "18世紀のヨーロッパで最も重宝されたルバーブの種類とは何?", "id": "tr-403-13-003", "answers": [ { "text": "「ロシアン・ルバーブ」", "answer_start": 451, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中世ヨーロッパではアジアを横断して運ばれてくるルバーブは高価であり、シナモンやアヘン、サフランのような高価なハーブやスパイスと比べても数倍の値が付いた。\n商人にして冒険家のマルコ・ポーロはルバーブの生産地を探し求め、タングート人が住む土地の山間部で栽培されていることを発見した。\nティムールの治世に1403年から1405年までサマルカンドで大使を務めたルイ・ゴンザレス・デ・クラビホは、報告書の中でルバーブの価値を「サマルカンドに集まるあらゆる商品の中でも最上のものは中国から来ていた。とりわけ絹、サテン、麝香、ルビー、ダイヤモンド、真珠、そしてルバーブ」と伝えている。", "qas": [ { "question": "マルコ・ポーロが発見したルバーブの栽培地にはどの民族が住んでいた?", "id": "tr-403-14-000", "answers": [ { "text": "タングート人", "answer_start": 108, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中世ヨーロッパではルバーフとアヘンはどちらが低価格だったの?", "id": "tr-403-14-001", "answers": [ { "text": "アヘン", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1403年から1405年までサマルカンドで大使を務めた人物とは?", "id": "tr-403-14-002", "answers": [ { "text": "ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ", "answer_start": 176, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "高価であったことと、薬剤師からの需要が増えたことにより、ヨーロッパの地でルバーブを栽培する取り組みが行われた。\n17世紀初頭、ルバーブに似た根を持つ植物がブルガリアのリラ山脈に自生していることが発見された。\n当時のヨーロッパでは根として輸入されたルバーブしか知られていなかったため、この発見は驚きを持って受け止められた。\n後にR.rhaponticumと命名されたこの品種は薬用として広く栽培された。\n18世紀になると、シベリア原産とされるR.rhabarbarum、中東原産のR.ribes、中国原産のR.palmatumなどの導入が始まり、おそらくこれらの混交によって現在一般にみられるルバーブが生まれた。\n19世紀半ばには純粋種の栽培はほぼ行われなくなったと見られる。", "qas": [ { "question": "リラ山脈に自生していたルバーフの類似植物は何と名付けられましたか?", "id": "tr-403-15-000", "answers": [ { "text": "R.rhaponticum", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "R.ribesの原産地はどこ?", "id": "tr-403-15-001", "answers": [ { "text": "中東", "answer_start": 234, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "R.palmatumの原産地はどこ?", "id": "tr-403-15-002", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 247, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "R.rhabarbarumの原産地はどこ?", "id": "tr-403-15-003", "answers": [ { "text": "シベリア", "answer_start": 210, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「分類学の父」とされる博物学者カール・フォン・リンネは、ヨーロッパの最貧国に数えられていた祖国スウェーデンに茶、コーヒー、ココナッツなどの商品作物を導入しようと試みた。\nその多くは失敗に終わったが、数少ない例外がルバーブであった。\n晩年のリンネはルバーブの導入を「私のもっとも誇らしい業績」と呼んだ。", "qas": [ { "question": "リンネの出身国はどこ?", "id": "tr-403-16-000", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スウェーデンにルバーフを導入した人物のフルネームは?", "id": "tr-403-16-001", "answers": [ { "text": "カール・フォン・リンネ", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "野口源三郎", "paragraphs": [ { "context": "野口源三郎は、日本の陸上競技選手・指導者、体育学者。東京教育大学・東京高等師範学校・埼玉大学名誉教授だ。埼玉県榛沢郡横瀬村の出身であり、埼玉県初のオリンピック選手である。\n\n選手としては十種競技を専門とし、第3回極東選手権競技大会で優勝、アントワープオリンピックに日本選手団の主将として出場し、12位という成績を収めている。指導者としては洋書を片手に指導を開始し、日本に最新の陸上競技の知識と技能を伝え、東京文理科大学陸上競技部では部長として日本学生陸上競技対校選手権大会で部を6度の優勝に導いた。体育学者としては陸上競技や学校体育の向上に尽力し、研究成果を本や論文として即座に発表して選手に還元した。これらの功績から「日本における近代陸上競技の父」と称される。", "qas": [ { "question": "野口源三郎はどこ出身なの?", "id": "tr-404-00-000", "answers": [ { "text": "埼玉県榛沢郡横瀬村", "answer_start": 52, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "埼玉県初のオリンピック選手は誰ですか。", "id": "tr-404-00-001", "answers": [ { "text": "野口源三郎", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "野口源三郎はアントワープオリンピックで何位という記録を残しましたか。", "id": "tr-404-00-002", "answers": [ { "text": "12位", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「日本における近代陸上競技の父」と称される人は誰ですか。", "id": "tr-404-00-003", "answers": [ { "text": "野口源三郎", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "野口源三郎は1888年8月24日、父・丸橋栄三郎、母・丸橋筆子の長男として、埼玉県榛沢郡横瀬村で生まれる。しかし生後100日にして母・筆子が病死したため、2歳で母の郷里・大里郡岡部村宿根の親戚・野口八十郎の養子となる。\n\n1895年、岡部尋常小学校に入学する。当時の岡部小は岡部忠澄の菩提寺である普済寺を校舎としており、1学年1組の小規模校であった。低学年は童謡「金太郎」を歌いながらのお遊戯、高学年は「美容術」と呼ばれる徒手体操や亜鈴体操といった体育の授業が行われた。野口の小学校入学時はちょうど日清戦争終結と重なり、凱旋した高崎連隊区の兵隊を英雄として迎え入れる風潮があり、自由時間には上級生が下級生を従えて隊列を作り、竹製の鉄砲を構えて軍歌を歌いながら行進する軍隊ごっこが行われていた。野口少年は「競馬会」と称する近隣の村々から集まった子供たちによるかけっこで何度も勝利し、夏には近くの池で水泳を楽しんだ。最終学年の4年生の時、同級生がいたずらをして教室からつまみ出される際、教師が児童の耳を引っ張ったことに野口は憤慨し、抗議するも聞き入れらなかったため、友人らを引き連れて翌日から深谷尋常小学校へ転校した。事情を聴いた深谷小の教師は野口らを教室に迎え入れ、無事に深谷小を卒業する。", "qas": [ { "question": "野口源三郎はいつ生まれましたか。", "id": "tr-404-01-000", "answers": [ { "text": "1888年8月24日", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "野口源三郎は1895年からどの学校に通い始めましたか。", "id": "tr-404-01-001", "answers": [ { "text": "岡部尋常小学校", "answer_start": 117, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "丸橋栄三郎の妻は誰でしたか。", "id": "tr-404-01-002", "answers": [ { "text": "丸橋筆子", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "野口源三郎は母が亡くなってから、誰の養子になりますか。", "id": "tr-404-01-003", "answers": [ { "text": "野口八十郎", "answer_start": 97, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "野口源三郎は1899年、深谷高等小学校に進学する。深谷小では「美容術」と呼ばれる徒手・亜鈴・棍棒体操と兵式体操を経験した。野口少年は引き続き競馬会に出場したほか、冬には陣取りをして遊び、球竿を使って幅跳びや高跳びをしていた。この頃、剣術ごっこを始め、淡い初恋を経験している。1903年、深谷小を卒業し、1年間代用教員を務め、埼玉県師範学校附設乙種講習科へ進学、半年で卒業して准訓導の資格を取得、准訓導として半年間教壇に立った。\n\n1905年4月、埼玉県師範学校一部に入学した。同年5月に東京へ出かけ愛宕山に登り、生まれて初めて海を見た。野口が入学した頃、世間では日露戦争が終盤を迎え、埼玉師範でも尚武・勤倹の風潮があり、近くの無縁墓で肝試しが行われた。全寮制で上下関係が徹底していたことから、新入生は上級生の部屋の掃除、給茶、靴磨きなどをさせられ、廊下の中央を歩いていたというだけで鉄拳制裁を受けるような厳しい寮生活であった。そこで野口は下級生時代に「SH会」と名付けた友人有志で休日に寮から抜け出し、東京に出かけ正則英語学校で語学の勉強をしていた。1年生の夏休みにはSH会の仲間で「鍛錬旅行」と称して埼玉から徒歩で富士登山に出かけたが、極端な貧乏旅行であったため帰り着いて入浴している最中に貧血で倒れている。スポーツの面では、剣道・テニス・水泳・野球などに取り組み、特に剣道とテニスには自信を持っていた。剣道では3・4年生の頃に大将を務め、大日本武徳会主催の全国大会に出場し、5位に入賞している。テニスでも3・4年生の頃に大将であり、関東レベルの大会で優勝を経験した。1909年3月に同校を卒業した。", "qas": [ { "question": "1899年、野口源三郎はどの学校に進学したか。", "id": "tr-404-02-000", "answers": [ { "text": "深谷高等小学校", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1905年4月、野口源三郎はどの学校に進学したか", "id": "tr-404-02-001", "answers": [ { "text": "埼玉県師範学校", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "野口源三郎が生まれて初めて海を見たのは何年のことか。", "id": "tr-404-02-002", "answers": [ { "text": "1905年", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "野口源三郎が特に自信を持っていたスポーツは剣道とまた何でしたか。", "id": "tr-404-02-003", "answers": [ { "text": "テニス", "answer_start": 567, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後、野口を心配した埼玉師範の教師の勧めで、東京高等師範学校の補欠募集を見て応募し、1911年4月、文科兼修体操専修科に進学した。スポーツの腕前に自信があったことと、体育だけでなく文科を兼修できることが決め手となった。兼修とは言え、地理歴史の専修生と同じ授業・同じ試験を受ける必要があり、体育の方でも柔道・剣道ともに最低2段にならねばならないという厳しいものであったことから、24人いた同期が卒業時には12人に半減した。入学してすぐに春の校内長距離競走で1学年先輩の金栗四三と競り合うも、ゴールの手前でレースを中断したため6位となり、同年10月6日の秋の校内長距離競走では金栗に次ぎ2位となった。こうした活躍が校長の嘉納治五郎の目に留まり、羽田運動場で開催されるストックホルムオリンピックの予選会への出場を勧められた。11月19日の予選会ではマラソンで4位に入賞したが、日本代表に選ばれたのはこの時優勝した金栗と短距離走の三島弥彦の2名であった。日本代表にはなれなかったものの、これが野口の陸上競技界入りを果たす契機となり、本格的に競技に打ち込むことになった。野口自身は、なぜ金栗・三島がオリンピックで敗北したのか、日本国外のスポーツとはどんなものか、という疑問を持ったことが陸上競技に向かう契機となったと述懐している。\n\n1913年11月1日・2日に陸軍戸山学校で開かれた第1回全国陸上競技大会には400m継走、走幅跳、棒高跳にエントリーし、棒高跳で7フィート10インチをマークして優勝した。陸上競技以外に剣道にも精を出し、1914年6月には4段に昇段した。また水泳に関しても水府流を習得し初段に列している。\n\n高師時代の野口には経済事情が付きまとい、何度も退学を決意するも、嘉納校長と峰岸舎監の物心両面からの支援に励まされ、無事卒業を果たした。", "qas": [ { "question": "野口はいつ文科兼修体操専修科に進学したの?", "id": "tr-404-03-000", "answers": [ { "text": "1911年4月", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第1回全国陸上競技大会はどこで開かれたか。", "id": "tr-404-03-001", "answers": [ { "text": "陸軍戸山学校", "answer_start": 577, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "野口は1915年3月26日、東京高師を卒業し、中等学校の地理科・歴史科・体操科の教員免許を取得した。そして同年4月1日付で、長野県松本女子師範学校教諭兼訓導と長野県松本中学校教諭を兼務し、長野県松本市に赴任した。赴任を前に丸善へ立ち寄り、偶然にもマイク・マーフィーの“AthleticTraining”の原書を入手した。松本女子師範学校での勤務は1916年3月で終わり、以後は松本中単独の教師となる。プライベートでは1917年4月1日に東京府渋谷町出身の生駒豊子と結婚している。\n\n松本中教師としての任務は、体育主任として「学校体操教授要目」に準拠した新たな指導方針を策定し、実行することであった。体操科の授業時数は5時間で、当時は適宜指導することとされた「撃剣及柔術」を完全実施したこと、学期ごとに身体検査を実施しその成績を見て授業計画を立案・実行したことが特筆される。校友会ではスポーツの普及に努め、徒歩部、剣道部、游泳部の部長を兼任し、スケートの導入も図った。特に徒歩部は野口が自ら設立した部であり、マーフィーの本を手引きとして自身の競技力向上に向けて練習に励んだだけでなく、東京からスパイクシューズを数足仕入れて生徒に共用させ、ともに汗を流した。校内競技会では部長ながら100ヤード、400m、砲丸投、円盤投に「特別出場」して圧倒的な強さを見せて優勝するとともに、生徒に陸上競技への参加を促した。また野球害毒論の影響で中断していた長野県中等学校聯合運動会の復活に際して陸上競技を採用するよう尽力し、1917年10月15日・16日に長野中学校で開かれた聯合運動会は、長野県における陸上競技大会の先駆けとなった。", "qas": [ { "question": "野口はいつ東京高師を卒業したの?", "id": "tr-404-04-000", "answers": [ { "text": "1915年3月26日", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "野口は何年に中等学校の地理科・歴史科・体操科の教員免許を取りましたか。", "id": "tr-404-04-001", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "選手としての野口は1916年7月20日から8月28日にかけて大日本体育協会が主催し、金栗四三らが指導した第2回夏期陸上競技練習会に参加し、途中で開かれた練習大会では走幅跳と220ヤードで1位、棒高跳で2位、1マイルで3位と活躍した。9月2日・3日の第3回極東選手権(東京・芝浦)の予選会では十種競技に出場して優勝、日本代表の座を得た。当の極東選手権本番でも十種競技で優勝して日本チームの優勝に貢献した。同年の日本選手権では棒高跳で優勝、五種競技と400mで2位に入賞した。\n\n野口の松本時代はわずか3年間であったが、教え子の中から日本国内大会で上位を占める選手が現れるなど、長野県の陸上競技の黎明期を切り開き、発展の端緒を作る上で多大な貢献をした。野口本人にとっても、松本時代は若き教師時代の楽しかった思い出として胸に刻まれていたようである。", "qas": [ { "question": "野口は第2回夏期陸上競技練習会の練習大会で、走幅跳と220ヤードで何位を記録しましたか。", "id": "tr-404-05-000", "answers": [ { "text": "1位", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1916年の日本選手権で、野口は五種競技と400mで何位に入賞しましたか。", "id": "tr-404-05-001", "answers": [ { "text": "2位", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1918年4月1日、野口は大日本体育協会の常務委員に就任したため、東京に戻った。その背景にはスウェーデン体操を中心に据えた「学校体操教授要目」に対する嘉納治五郎の不満があり、「学校体操教授要目」にスポーツを取り入れようと画策し、その第一に陸上競技を採用しようとしてその専門家として野口を呼び寄せたのであった。同年、金栗四三らと協議して全国学生陸上競技連合を設立し、翌1919年4月1日には東京高師体育科講師嘱託を兼任し、教師として母校に戻った。同年10月、埼玉県の小学校の運動会に審判として呼ばれた際に、車中で金栗・沢田英一と話し合い、翌1920年2月に第1回東京箱根間往復大学駅伝競走を「四大専門学校対抗駅伝競走」として開催し、母校の東京高師が優勝した。この年、東京高師体育科講師となる。", "qas": [ { "question": "野口が大日本体育協会の常務委員に就任したのはいつですか。", "id": "tr-404-06-000", "answers": [ { "text": "1918年4月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "全国学生陸上競技連合は何年に設立されたか。", "id": "tr-404-06-001", "answers": [ { "text": "1918年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第1回東京箱根間往復大学駅伝競走は何年に開催されたか。", "id": "tr-404-06-002", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 269, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1919年4月には翌年のアントワープオリンピックの予選会が開催され、東京第1次予選会に出場して十種競技で優勝、第2次予選会でも十種競技で優勝し、十種競技の日本代表に選出され、フィールド競技指導者養成の意味を込めて主将に任命された。同年8月の日本選手権では走幅跳で6m08を跳び2位になった。1920年のアントワープオリンピックでは開会式で旗手を務め、8月20日・21日に十種競技が行われ、当初29人出場したものの寒さと降雨で脱落者が相次ぎ、野口は右足腱痛に耐えながら最後まで競技を続行したが12位と振るわなかった。この時の記録は3669.630点で、金メダルを獲得したヘルゲ・ラヴランドの半分ほどの点数であった。なお野口の登録名はGensabuloNoguchiであった。\n\n野口ら日本代表の面々は、この闘いを永遠に忘れず、日本のスポーツ発展に尽くすことを誓い、「白黎会」を結成した。野口のアントワープオリンピック出場は、欧米体育の視察を兼ねており、往路は5月に横浜港を出港してアメリカ合衆国を横断してイギリスを経てベルギー入りし、復路はスウェーデン、ドイツ、フランス等を巡って陸上競技の専門書などを購入し、11月に日本に帰国した。総日数176日の長旅であった。アントワープオリンピックをもって野口の競技者生活は終止符となり、以後は指導者に徹するようになる。", "qas": [ { "question": "アントワープオリンピックの予選会は何年に開かれたか。", "id": "tr-404-07-000", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "野口の登録名は何だった?", "id": "tr-404-07-001", "answers": [ { "text": "GensabuloNoguchi", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "すでに松本中徒歩部や体協主催の夏期陸上競技練習会で指導実績を持っていた野口は、アントワープオリンピック以降、本格的に指導者人生を歩み始めた。1921年5月には第5回極東選手権に日本選手団監督として随行、1922年5月には第6回極東選手権で総務委員主事を務め、1924年にはパリオリンピック日本選手団監督を務め、イギリス・フランスの視察も行った。この間、1921年には体協主事に就任したほか、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験委員に初めて委嘱された。1922年には日本国内外の文献・審判例を参考にまとめた『最新陸上競技規則の解説』を出版、9版を重ね、1923年4月には『オリムピック陸上競技法』を出版、28版も出たベストセラーとなった。『オリムピック陸上競技法』がこれほどまでに重版したのは豊富な写真とともに初心者にも分かりやすい陸上競技の解説が付されていたことに加え、文検の学習参考書として受検者が購入したこと、この本を携えて日本各地で野口が陸上競技に関する講演会や実技指導を行ったことが背景にある。野口の講習会には、後に日本人初のオリンピック金メダリストとなる織田幹雄の姿があり、ここで野口から褒められた織田は陸上競技に傾倒するようになった。新潟県刈羽郡では野口の講演要旨を『陸上競技の実際』と題した小冊子にまとめ、福井県師範学校体育研究室では野口の著書を抄録して『オリムピツク陸上競技法』を発行、教科書に採用した。", "qas": [ { "question": "アントワープオリンピック以降、野口はどんな人生を歩み始めたか。", "id": "tr-404-08-000", "answers": [ { "text": "指導者人生", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "野口はいつ第6回極東選手権で総務委員主事を務めましたか。", "id": "tr-404-08-001", "answers": [ { "text": "1922年5月", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "野口は1925年4月1日、体協主事を退任、4月25日から東京高師教授として勤務し始め、高等官6等に叙せられた。同年10月には東京高師陸上競技部の部長に就任した。この頃には東京高師体育科で派閥争いを繰り広げた嘉納治五郎・可児徳・永井道明・三橋喜久雄は退職しており、教師陣は大谷武一、二宮文右衛門、宮下丑太郎、佐々木等ら体育を専攻した東京高師出身者のみで占められていた。とは言え、まだ学校体育の中心は体操でありスポーツの地位は低いままであったので、野口はスポーツ畑の代表者として地位向上に励んだ。1926年には体育研究所技師を兼任し、『新制陸上競技規則解説』を出版、全日本陸上競技連盟から『国際陸上競技規則』が発刊されるまでに3版を重ね、陸上競技運営のバイブルとして陸上競技関係者に重宝された。この頃、二階堂トクヨが創設したばかりの二階堂体操塾でも、講師として教鞭を執っていた。", "qas": [ { "question": "野口はいつ体協主事を退任したの?", "id": "tr-404-09-000", "answers": [ { "text": "1925年4月1日", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "野口が体育研究所技師を兼任したのは何年なの?", "id": "tr-404-09-001", "answers": [ { "text": "1926年", "answer_start": 246, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "二階堂体操塾は誰が設立したの?", "id": "tr-404-09-002", "answers": [ { "text": "二階堂トクヨ", "answer_start": 349, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1949年4月15日、野口は日本体育指導者連盟の副会長となり、同年8月31日には、東京高師教授と兼任で東京教育大学の教授に就任する。翌1950年11月24日には東京教育大学体育学部長兼東京体育専門学校校長に就任するも、定年のため1951年3月31日にどちらも退官している。翌日4月1日より埼玉大学教育学部教授に、5月21日より順天堂大学体育学部の教授も兼任した。スポーツマンであった野口はこの頃、現役時代と同じ体重60kgを維持しており、テニスも十分できる体力を維持しており、新たな職場での勤務に決意を新たにした。", "qas": [ { "question": "野口が日本体育指導者連盟の副会長になったのはいつですか。", "id": "tr-404-10-000", "answers": [ { "text": "1949年4月15日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "野口は「白黎生」をペンネームとした。これはアントワープオリンピック出場者で結成した白黎会に由来する。白黎会とは、ベルギーの漢字表記「白耳義」から「白」、「黎明」という言葉から「黎」の字を取ったものであり、スポーツも社交界に出て交歓すべしという、野口の考えから生まれた会であった。白黎会のメンバーはオリンピックから帰国後、Hの字が入った揃いのトレーニングシャツを着てスポーツを楽しんだ。戒名「白黎院転輪法浩日源居士」にも白黎の文字が入っているのは、野口の生前の希望によるものである。\n\n私生活では1917年に生駒豊子と結婚し、2男2女を授かっている。晩年の野口は、妻への恩返しとしてよく夫婦で旅行に出かけていた。子供に対しては「理解のあるパパ」であり、トランプで一緒に遊ぶ時にはねじり鉢巻きをして勝負に挑み、負けた時には罰ゲームでコーヒーを淹れたり、菓子を買いに行ったりしていた。渋谷・神泉町の自宅では家庭菜園を楽しみ、イチゴ・ブドウ・イチジク・モモなどを栽培していた。仕事も家庭もうまくいっていたため、やっかみ的な批判を浴びせる人もいたという。幸福な生活が周囲に知られた一方で、死の数日前には母の愛を知らないさみしさを付き添いの人々に語ったといい、人知れず苦悩を抱えていた一面もある。", "qas": [ { "question": "野口は何をペンネームとしたか。", "id": "tr-404-11-000", "answers": [ { "text": "「白黎生」", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "野口は誰と結婚したの?", "id": "tr-404-11-001", "answers": [ { "text": "生駒豊子", "answer_start": 253, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "野口には何人の息子がいましたか。", "id": "tr-404-11-002", "answers": [ { "text": "2", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "野口には何人の娘がいましたか。", "id": "tr-404-11-003", "answers": [ { "text": "2", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "野口の初恋は、深谷高等小学校の在籍中であった。背の低かった野口は教室中央の前方に席があり、周りには女子児童が座っていた。その中に野口よりも成績の良い女子がおり、次第に憧れを抱くようになった。思いを伝えることなく学校を卒業し、野口は埼玉県師範学校へ、意中の女性は埼玉県女子師範学校へ進学し、路上ですれ違うことはあってもお互いにちらっと見るだけで声をかけることはなかった。\n\nそんなある日、意を決して手紙を出し、返事は来たが父親に見られて叱られてしまい、以後音信不通となった。そしてスポーツに熱中することで次第に色恋沙汰への関心を失っていった。それから年月が過ぎ、1932年ロサンゼルスオリンピックの当日プログラムをNHKラジオで野口が解説する仕事をしていると、初恋の女性から「毎朝あなたの解説を聴いている。小学校時代のおもかげが偲ばれて懐かしい。」という内容の手紙が届いた。野口は小学校時代の美しいイメージのままにしておきたいとの気持ちから、その女性に会いに行くことはしなかった。\n\nこの初恋経験は、野口が順天堂大学で日本のスポーツ発達史を講義している途中に、テニスを通して皇太子と正田美智子が親しくなった話をした時に、学生から野口自身の恋愛経験を問われて語っている。野口は、講義中に恋愛経験を語ることは、学生からすれば「授業の脱線」に思えるが、実は教師の持つ人生観と学生の考え方の接触を図る好機であるとし、「計算に入れての脱線」だと主張している。なお、豊子夫人との馴れ初めについてはノーコメントとしている。また『青年心理』という雑誌でも埼玉師範時代の思い出とともに初恋の経験を綴っているが、そこでは「語るに足るほどのものではないが、しかしわたくしとしては淡々としておりながらも想い出が深い。」と結んでいる。", "qas": [ { "question": "野口はどの学校に通っていたとき、初恋をしましたか。", "id": "tr-404-12-000", "answers": [ { "text": "深谷高等小学校", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "野口の初恋の相手はどの学校に進学したか。", "id": "tr-404-12-001", "answers": [ { "text": "埼玉県女子師範学校", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "江戸の火事", "paragraphs": [ { "context": "日本の歴史の江戸時代における江戸の火事(えどのかじ)は、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が残り、現代では「火災都市」と呼称されるほど、江戸(現在の東京都区部にほぼ相当)では頻繁に発生した。\n大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる。\n江戸の火事は祝融や回禄とも呼ばれ、大火の様相を紅葉に見立てることもあった。", "qas": [ { "question": "「火災都市」とはどこの地域を指した呼称ですか?", "id": "tr-405-00-000", "answers": [ { "text": "江戸", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回もの大火が発生した。\n江戸以外の大都市では、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などであり、比較して江戸の多さが突出しているといえる。", "qas": [ { "question": "江戸以外で最も大火の回数が多かった都市はどこですか?", "id": "tr-405-01-000", "answers": [ { "text": "京都", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "江戸、京都、大阪の中で最も大火が多く発生したのはどこですか?", "id": "tr-405-01-001", "answers": [ { "text": "江戸", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "京都、大阪、金沢の中で大火の発生回数が最も少なかった都市はどこですか?", "id": "tr-405-01-002", "answers": [ { "text": "金沢", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "267年間の中で、最も大火の発生回数が多かった都市はどこでしたか?", "id": "tr-405-01-003", "answers": [ { "text": "江戸", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、慶長6年(1601年)からの100年間で269回、元禄14年(1701年)からの100年間で541回、1801年から慶応3年(1867年)までの67年間で986回となり、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、火事の回数も増加していった。\n特に嘉永3年(1851年)から慶応3年(1867年)までの17年間では506回もの火事が発生しているが、これは江戸幕府の権力低下による治安の悪化が大きく影響しているとされる。", "qas": [ { "question": "嘉永3年から慶応3年までの間に発生した火事の回数は?", "id": "tr-405-02-000", "answers": [ { "text": "506回", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "火事の原因には、調理や照明用に火を使用することによって発生する失火、様々な動機による放火などがあった。\n江戸の大火が他の大都市に比べて多かった理由としては、膨大な人口が居住することによる建物の密集や困窮した下層民の存在、江戸の独特な気象条件などがあげられる。\n西山松之助は火事の原因について、「江戸には、大火を喜ぶ住民がかなりたくさんいたのではないかと思われることについて」「大都市江戸の統一的政治体制の欠如が多くの大火を頻発させた理由の一つであることについて」「江戸町人は、火事は当然で、江戸生活では、類焼は致し方のないこと、自火でなく類焼でよかった、と考えたことについて」と三条件をあげて考察している。\n斎藤修(比較経済史)は、江戸は「裏店の世界」であり、独身男性の長屋暮らしが多く、酒の寝煙草により火元管理が難しかったことを挙げた上で、大阪は「商家の世界」であり、商家に住み込む丁稚・手代らに厳しく火の用心をたたきこんでいたため、火事が少なかったと指摘している。", "qas": [ { "question": "火事の原因でもあった犯罪行為とは?", "id": "tr-405-03-000", "answers": [ { "text": "放火", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "火事の原因について三条件をあげて考察した人は誰?", "id": "tr-405-03-001", "answers": [ { "text": "西山松之助", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「商家の世界」とはどこの都市のことをいってるの?", "id": "tr-405-03-002", "answers": [ { "text": "大阪", "answer_start": 371, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「裏店の世界」とはどこの都市のことを指しているの?", "id": "tr-405-03-003", "answers": [ { "text": "江戸", "answer_start": 316, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "徳川家康が江戸幕府を開くと、江戸城周辺には大名や旗本の屋敷が設けられ、多くの武士が居住するようになった。\nやがて武士の生活を支える商人・職人が町人として流入し、江戸の人口は急速に増加していく。\n寛永17年(1640年)ごろに約40万であった人口は、元禄6年(1693年)には約80万、享保6年(1721年)にはおよそ110万に達していた。\n広大であった武家地に対し町人地の面積は狭く、人口の増加により町人地の人口密度は極めて高くなっていった。\n町人の住居は狭い地域に密集して立ち並ぶようになり、住人1人あたりの広さが6畳(台所や押入を含む)ほどしかない長屋も多かった。\nそのうえ家屋が木造で、木と紙という燃える材質で構成されている。\nさらに調理の熱源は薪であり、照明は行燈や蝋燭のような裸火である。\nつまり失火の可能性が高くなるのも必然であった。", "qas": [ { "question": "寛永17年、元禄6年、享保6年の中で最も人口が多かったのはいつですか?", "id": "tr-405-04-000", "answers": [ { "text": "享保6年", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "寛永17年、元禄6年、享保6年の中で最も人口が少なかったのはいつですか?", "id": "tr-405-04-001", "answers": [ { "text": "寛永17年", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "江戸の火事の原因としては、放火(火付け)が多く記録されている。\n当事の放火犯は、「火付」「火附」「火を付候者」「火賊」などと記された。\n捕らえられた放火犯には、江戸の物価の高さや保証人がなく奉公に出られないことなどにより、困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かった。\n火事で焼け出されたとしても、失うものが少ないことが背景にある。\n享保8年(1723年)から翌9年(1724年)の2年間では放火犯が102人捕らえられているが、そのうち非人が41人・無宿者が22人と、下層民が多く含まれていた。", "qas": [ { "question": "捕らえられた102人の放火犯のうち、非人と無宿者はどちらの方が人数が多かったですか?", "id": "tr-405-05-000", "answers": [ { "text": "非人", "answer_start": 220, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「火を付候者」、「火賊」が指しているものとは何?", "id": "tr-405-05-001", "answers": [ { "text": "放火犯", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1723年からの2年間で捕まった放火犯は何人いましたか?", "id": "tr-405-05-002", "answers": [ { "text": "102人", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "放火の動機としてまずあげられたのは、風の強い日に火を放ち、火事の騒ぎに紛れて盗みを働くことを目的とした火事場泥棒である。\n奉公人による主人への不満や報復・男女関係による怨恨や脅迫など、人間関係に起因する放火も多い。\n他には商売敵の店へ放火・子どもの火遊び・「ふと火をつけたくなった」という供述が残る放火なども記録されており、放火の動機は現代と同じく様々であった。\n火事が起きると、大工・左官・鳶職人などの建築に従事するものは復興作業により仕事が増えるため、中には火事の発生や拡大を喜ぶものもいた。\n火消人足(消防夫、火消人足の中核は鳶職人)の中にも、本業である鳶の仕事を増やすため・消火活動を衆目に見せるためなどの理由で、呼火や継火をするものが現れている。\n幕府も町触で警告し、捕らえた火消人足を死罪にした例もあった。\n捕らえられた放火犯は、見せしめとして市中引き回しのうえで火焙りにされた。\nしかし、幕府の厳罰方針にも関わらず、江戸時代を通じて放火による火事がなくなることはなかった。\n幕末には、幕府の権力低下による治安の悪化に伴って放火による火事も大幅に増加している。\n江戸の放火犯としては、八百屋お七火事(天和の大火)に名を残すお七が、井原西鶴の『好色五人女』や鶴屋南北の『敵討櫓太鼓』で題材として取り上げられたため知られている。\nお七の放火は盗みなどが目的ではなく、別れた恋人に再会したいという思いがつのったあげくの行動であった。", "qas": [ { "question": "放火の動機としてまずあげられたのは何ですか?", "id": "tr-405-06-000", "answers": [ { "text": "火事場泥棒", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "八百屋お七火事とはいつ起こった大火の通称ですか?", "id": "tr-405-06-001", "answers": [ { "text": "天和", "answer_start": 506, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『好色五人女』と『敵討櫓太鼓』に共通の題材として取り上げられている火事とは何ですか?", "id": "tr-405-06-002", "answers": [ { "text": "八百屋お七火事", "answer_start": 498, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『敵討櫓太鼓』の作者は誰?", "id": "tr-405-06-003", "answers": [ { "text": "鶴屋南北", "answer_start": 534, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸の独特な気象条件として、冬の季節風である、北または北西方向からの、極めて乾燥した強風(からっ風)があげられる。\n江戸の火事のうち大火となったものの多くは、冬から春にかけて雨が降らず、北西風や北風が吹き続け乾燥したときに発生した。\nこのため、幕府により万治元年(1658年)に4組が設けられた定火消の火消屋敷は、すべて江戸城の北西方面に置かれている。\nこの配置は、冬の北西風による、江戸城への延焼防止として備えられたものであった。\nまた、関東南部は、地形の関係から、春から秋にかけて日本海低気圧が通過する際に、中部山岳の雨陰に入り、フェーン現象が発生して、ほとんど降水のないまま、高温で乾燥した強い南または南西の風が吹くことが多い。\nとりわけ春先の強い南風もまた、しばしば大火の原因となってきた。", "qas": [ { "question": "万治元年に設けられた定火消の火消屋敷は江戸城から見てどの方面に位置していましたか?", "id": "tr-405-07-000", "answers": [ { "text": "北西方面", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "冬場の江戸に吹く季節風はどのような特質ですか?", "id": "tr-405-07-001", "answers": [ { "text": "極めて乾燥した強風", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "月別に大火の発生をみると、現行のグレゴリオ暦に換算して3月が最も多い。\n2月・4月・1月の発生がこれに続き、1月から4月までの4ヶ月で全体の7割を占めている。\n江戸の歴史上最大の被害を出した明暦の大火(明暦3年1月18日)も、グレゴリオ暦に換算すると1657年3月2日の発生であった。\nこのことは江戸の町人たちにもよく知られており、冬には女性たちを江戸近郊の実家などに避難させ、火事の季節が過ぎてから呼び戻すといった対応策が取られていた。\nこのため、享保10年(1725年)には、梅雨時期の旧暦6月の町方人口が、梅雨入り前の同4月に比べて1万人以上も増加し、増加した人口の9割以上が女性であったという記録が残っている。", "qas": [ { "question": "大火の発生が最も多いのは何月ですか?", "id": "tr-405-08-000", "answers": [ { "text": "3月", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "3月の次に大火の発生が多いのは何月ですか?", "id": "tr-405-08-001", "answers": [ { "text": "2月", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "明暦の大火が発生した月はグレゴリオ暦に換算すると何月になりますか?", "id": "tr-405-08-002", "answers": [ { "text": "3月", "answer_start": 130, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1725年の梅雨時期に増加した町の人口の大半は、女性と男性のどちらでしたか?", "id": "tr-405-08-003", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 291, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸時代初期の幕府重臣たちは、大火の原因が強風などに乗じた放火犯の所業にあると考え、将軍や江戸城の防備を第一に対策を立てた。\nそのため町人地に対する火事対策はほとんど考慮されていなかった。\n町人の力が増大するにつれて幕府の対策にも変化があらわれるようになり、8代将軍徳川吉宗による享保の改革では江戸全域を対象とした幅広い火事対策が行なわれている。\n幕府の対策としては、消防組織である火消の制度化、厳罰を科すことによる放火の抑制、大名屋敷や寺社の移転による火除地・広小路の確保、瓦葺や土蔵造りの採用による不燃化の推進などが行なわれた。\n人口の増加に対しては、天保の改革により天保14年(1843年)に人返しの法を出したものの、大きな効果はあげられなかった。", "qas": [ { "question": "江戸全域を対象に幅広い火事対策を実施した将軍は誰ですか?", "id": "tr-405-09-000", "answers": [ { "text": "徳川吉宗", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "天保の改革で行われた江戸の人口増加対策とは何でしたか?", "id": "tr-405-09-001", "answers": [ { "text": "人返しの法", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "人返しの法が発令されたのはいつ?", "id": "tr-405-09-002", "answers": [ { "text": "1843年", "answer_start": 292, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸時代初期には消防組織が制度化されていなかったが、度重なる大火などを契機として火消の制度が設けられていった。\n火消は、武士によって組織された武家火消と、町人によって組織された町火消に大別される。\nまた、武家火消は大名による大名火消と旗本による定火消に分類される。\n火消による消火は現代の主な消火方法とは異なっていた。\n燃えやすく類焼しやすい木造建築が多かった江戸市中では放水による鎮火は難しく、主な手段としては火元の火事場のまだ燃えていない周囲の建物を破壊してそれ以上の延焼を防ぐ破壊消防という方法が用いられた。\n明和年間ごろからは竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれた木製手押ポンプが配備されたが、人口が急増して飲料水の確保が追いつかないほどだった江戸市中では水を継続的に供給する手段に乏しく、明治維新に至るまでの間、消火の主力は火消人足(中核は鳶職人)による破壊消防であった。\n燃えやすい安普請の建築が大火の発生を助長したともされるが、反面、壊しやすく再建しやすい構造で大火の類焼を防いでいたとも考えられ、大きな寺社や武家屋敷では類焼が防げずに大火となっている。", "qas": [ { "question": "江戸時代初期に用いられていた火消し方法は何だったの?", "id": "tr-405-10-000", "answers": [ { "text": "破壊消防", "answer_start": 241, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "武家火消はどういった人で構成されていたの?", "id": "tr-405-10-001", "answers": [ { "text": "武士", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "町火消の構成員はどういった人だったの?", "id": "tr-405-10-002", "answers": [ { "text": "町人", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "木製手押ポンプの呼称は?", "id": "tr-405-10-003", "answers": [ { "text": "竜吐水", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "桶町火事より2年後の寛永20年(1643年)、大名火消が制度化された。\nこれは幕府が大名に課役として消防を命じたものである。\n従来、火事が発生してから奉書により大名に消火を命じていたが、これを改め事前に消火を担当する大名を任命したものであった。\n他に大名火消の一形態として、霊廟・神社・米蔵など幕府にとって重要な場所の消防を担当させた所々火消、江戸の町を方角などで地域割りして消防を担当させた方角火消、各大名屋敷の自衛消防組織に対し近隣の火事へ出動義務を課した各自火消などが設けられた。", "qas": [ { "question": "大名火消が制度として確立したのは何年ですか?", "id": "tr-405-11-000", "answers": [ { "text": "1643年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明暦の大火翌年の万治元年(1658年)、定火消が制度化された。\nこれは幕府の直轄であり、旗本に消防を命じたものである。\n火の見櫓を備えた火消屋敷(現在の消防署の原型)を与え、臥煙(がえん)と呼ばれる専門の火消人足を雇わせ、消防活動を担当させた。\nはじまりは4組であったが、一時期15組まで増加し、幕末には逆に1組まで減少するなど、幕府の財政や兵制、町火消の整備などによって増減している。\n10組で構成された期間が長く、十人屋敷・十人火消とも呼ばれた。", "qas": [ { "question": "定火消は何組から始まりましたか?", "id": "tr-405-12-000", "answers": [ { "text": "4組", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "定火消はどこの管轄下にあったの?", "id": "tr-405-12-001", "answers": [ { "text": "幕府", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "火消屋敷には何が備わっていたの?", "id": "tr-405-12-002", "answers": [ { "text": "火の見櫓", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "専門の火消人足のことを何といいますか?", "id": "tr-405-12-003", "answers": [ { "text": "臥煙", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "享保5年(1720年)、享保の改革の一環として町火消が制度化された。\nこれは町人による火消であり、各町ごとに火消人足の用意と火事の際に出動する義務を課したものである。\n町奉行に就任した大岡忠相が名主などの意見も取り入れて考案し、複数の町を「組」としてまとめ、隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに1組増加していろは四十八組となる)と、東を担当する本所・深川の16組が設けられた。\n享保15年(1730年)には、火事場への動員数増加と効率化を目的として、数組ずつに分けて統括する大組が設けられた。\n町火消は当初町人地の消防のみを担当していたが、町火消の能力が認められるに従って活動範囲を拡大し、武家地への出動をはじめ橋梁・神社・米蔵などの消火活動も命じられ、江戸城内の火事にも出動した。\n幕末には武家火消が大幅に削減されたため、江戸の消防は町火消が主力となって明治維新を迎えている。", "qas": [ { "question": "いろは組と本所・深川はどちらが組の数が多かったですか?", "id": "tr-405-13-000", "answers": [ { "text": "いろは組", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "町火消を考案した人は誰ですか?", "id": "tr-405-13-001", "answers": [ { "text": "大岡忠相", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "幕末期に数が多かったのは武家火消と町火消のどちらですか?", "id": "tr-405-13-002", "answers": [ { "text": "町火消", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "放火は江戸の火事で大きな原因となっていたため、幕府は放火犯の取り締まりに力を入れた。\n新たな役職として火付改(のちに火付盗賊改)を設け、町人に対しても放火犯の捕縛を奨励した。\n放火は重罪とされ、その処罰には見せしめを目的として火焙りという手段が用いられた。", "qas": [ { "question": "放火犯にはどのような刑が執行されていましたか?", "id": "tr-405-14-000", "answers": [ { "text": "火焙り", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "火付盗賊改は、幕府が重罪である放火(火付け)や盗賊・賭博などを取り締まるために設けた役職である。\nはじめは火付改・盗賊改・博打改に分かれていたが、放火の取り締まりを行なった火付改は天和3年(1683年)に先手組頭の中山勘解由(中山直守)が、加役(兼任)として任命された記録が残る。\n後に一時廃止となるがやがて元禄16年(1703年)に再び設けられ、享保3年(1718年)に一本化して火付盗賊改となった。\n役方(文官)であった町奉行に対し、火付盗賊改は番方(武官)であったため、取調べの方法は乱暴になる傾向があった。\n「放火の疑い」の段階で捕らえる権限を持ち、仮に誤認逮捕であったとしても咎められなかった。\nそのため、怪しいものを捕らえては拷問にかけ、無理やり自白させるという手法がとられていた。\n結果として、冤罪も多かったとされる。\n町人たちからも好意的には見られず、町奉行や勘定奉行が「大芝居」と呼ばれたのに対し、火付盗賊改は「乞食芝居」と呼ばれていた。", "qas": [ { "question": "火付改は1718年に何という役職名となりましたか?", "id": "tr-405-15-000", "answers": [ { "text": "火付盗賊改", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "火付盗賊改は町人たちから何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-405-15-001", "answers": [ { "text": "「乞食芝居」", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「乞食芝居」と呼ばれていた役職は何ですか?", "id": "tr-405-15-002", "answers": [ { "text": "火付盗賊改", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "幕府はたびたび町触を出し、放火犯は見つけ次第捕らえて番所へ連行するように命じている。\n放火犯を捕らえたものには褒美が与えられた。\n放火犯の捕縛を奨励するため、放火を行なったことがあるものでも、別の(あるいは仲間の)放火犯を捕らえて突き出した場合には、その罪を許し褒美を与えるとした。\nまた、放火犯を捕らえたものが訴えられたとしても、その訴えは取り上げないので安心してよいとしている。\n享保8年(1723年)には、出火の際、挙動不審者がいれば放火犯でなくても捕らえて構わないと命じている。\n放火犯が捕らえられると、江戸市中引き回し、公開処刑で火焙り(火罪)とし、罪状を書いた捨札(すてふだ)が江戸市中に立てられた。\n火焙りという残酷な処刑方法の選択や捨札の使用は、見せしめを目的としたものであった。\n火焙りによる処刑は、『御定書』で定められており、明治元年(1868年)に『仮刑律』ができるまで続けられた。\n放火犯に家族がいる場合は縁座し、妻や娘が婢となって下げ渡されたり、遠島となったりした。\n放火を依頼したものがいる場合には、依頼者が火罪、実行者が死罪となった。\n放火犯が武士の場合、火焙りは用いられず、最高刑は獄門であった。\n火札(ひふだ)と呼ばれる、放火の予告をする脅迫状の張り紙(張文・落文・投文)をしたものは、はじめ死罪であったが、のちに追放刑と改められている。\nこうした刑罰は原則であり、放火したが燃え広がらなかった場合や特段の事情が認められる場合など、減刑されることもあった。\n放火犯が幼年(15歳未満)の場合は死罪にならず、遠島や預置となった。", "qas": [ { "question": "放火犯の火罪は何年まで続けられたの?", "id": "tr-405-16-000", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 378, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『仮刑律』が成立したのは何年でしたか?", "id": "tr-405-16-001", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 378, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大火になる原因としては、燃えやすい材質で出来た建物が密集していることも大きかった。\n一度建物に火がつくと、消火活動を行なう間もなく、次々と近隣の建物に延焼してしまう。\nそのため、明暦の大火を契機として、江戸市中の不燃化を目指した火事に強い町づくりが行なわれた。\n江戸の各所に火除地や広小路が設けられ、建物には瓦葺屋根や土蔵造りといった耐火構造の採用が命じられるようになった。", "qas": [ { "question": "江戸市中で火事に強い町づくりが行われるようになったのは何を契機としているの?", "id": "tr-405-17-000", "answers": [ { "text": "明暦の大火", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明暦3年(1657年)の明暦の大火で江戸市中が焼失した後、再建計画では火災対策が重視され、延焼を防ぐための空間作りが行なわれた。\nまず江戸城内にあった御三家の上屋敷を城外に移し、その跡を防火用地とした。\n御三家の屋敷移転に伴い、他の大名屋敷や旗本屋敷も移転が命じられた。\n江戸市中の過密状態を緩和するため、移転先の多くはこれまでより江戸城から離れた場所であった。\nまた、大名に対し元禄年間にかけて中屋敷や下屋敷の用地を与え、江戸の外れに設けられた下屋敷は火事の際の避難所にもなった。\n一連の移動で、埋め立てが完成していた築地などにも新たな武家屋敷が設けられるようになる。\n寛文元年(1661年)ごろには本所の干拓が完成し、武家屋敷の建設や町屋の移転が進んだ。\n寺社に対しても同様に移転が命じられた。\n主な移転先となったのは外堀の外側で、各地に点在していた寺社が浅草・駒込・小石川などにまとめて移されている。\nまた、吉原遊廓が日本橋付近から浅草付近へと移転したのもこの時期である(移転は大火の前から決定していた)。", "qas": [ { "question": "明暦の大火は西暦何年に発生した?", "id": "tr-405-18-000", "answers": [ { "text": "1657年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "移転前の吉原遊廓はどこに位置していたの?", "id": "tr-405-18-001", "answers": [ { "text": "日本橋付近", "answer_start": 412, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "富山県立図書館", "paragraphs": [ { "context": "富山県立図書館(とやまけんりつとしょかん、ToyamaPrefecturalLibrary)は、富山県富山市茶屋町にある県立の図書館である。\n富山県立図書館は県民の文化と教育の発展を図るために設置された図書館であって、図書、記録その他必要な資料の収集、整理、保存及び利用に関すること、貸出文庫に関すること、読書会の指導に関すること、講演会、講習会及び展示会の開催に関すること、参考奉仕に関すること、資料の相互貸借に関すること、書誌、目録及び館報の発行に関すること、図書館資料の複写及び證明に関することを主たる事務としている。\nまた、運営方針においては調査研究のための図書館であり、図書館のための図書館であり保存のための図書館であることを定め、広く県民の生涯学習に関する需要に応じるために図書館機能の充実を図るとしている。\n所在地は富山県富山市茶屋町206−3であって、東側には、渡り内廊下にて隣接する富山県公文書館、近隣には富山県埋蔵文化財センター及び県営富山弓道場が存在する。", "qas": [ { "question": "富山県立図書館が所在する住所地はどこ?", "id": "tr-406-00-000", "answers": [ { "text": "富山県富山市茶屋町206−3", "answer_start": 365, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "富山県立図書館の東側に位置する施設は何?", "id": "tr-406-00-001", "answers": [ { "text": "富山県公文書館", "answer_start": 400, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "富山県における県立図書館設置運動は、1900年(明治33年)12月6日に富山県実業協会と富山教育会が共同して県知事及び県会に対して建議書を提出したことに始まる。\n北陸政論社もまた社論を以てこれを応援したが、富山県はその要求を容れず、建議は立消えとなった。\n1909年10月1日に開設された富山市立図書館は「当分県立ノ代用ニ当タラレタキコト」が求められていたが、1933年(昭和8年)7月1日の図書館令改正によって中央図書館制度が定められ、1934年(昭和9年)5月1日に富山市立図書館が富山県中央図書館に指定されると、富山市の財政を以てしては中央図書館としての活動が十分に果たし得ないという声が高まった。", "qas": [ { "question": "富山市立図書館が開設された年月日は?", "id": "tr-406-01-000", "answers": [ { "text": "1909年10月1日", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "富山市立図書館は1934年に何の図書館として指定されたの?", "id": "tr-406-01-001", "answers": [ { "text": "富山県中央図書館", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "図書館令の改正年はいつ?", "id": "tr-406-01-002", "answers": [ { "text": "1933年", "answer_start": 180, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "かくて富山県立図書館の設立を求める声は日を追うて高まり、1940年(昭和15年)に迎える紀元二千六百年記念行事の一環として県立図書館を開設しようという考えが各層より起った。\n1939年(昭和14年)11月27日には矢野兼三富山県知事が県会において「県民性伸長助長策として」県立図書館を設置することがふさわしいとの考えを披瀝し、同年12月の通常県会に県立図書館開設計画を含んだ予算案を提出、同月14日可決された。\n超えて1940年(昭和15年)2月11日には松浦鎮次郎文部大臣が富山県立図書館の設立を認可し、4月1日には富山市総曲輪に紀元二千六百年記念富山県立図書館が設置された。\n同年5月10日に富山市立図書館は中央図書館の指定を解除され、代って県立図書館が中央図書館となったが、開館式を挙行したのは同年11月30日のことであった。", "qas": [ { "question": "県立図書館を開設する声が、最も高まるきっかけとなった行事とは何だったの?", "id": "tr-406-02-000", "answers": [ { "text": "紀元二千六百年記念行事", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "富山県立図書館の設立を認可した人物の役職は何でしたか?", "id": "tr-406-02-001", "answers": [ { "text": "文部大臣", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中央図書館の指定は、富山市立図書館から何に移りましたか?", "id": "tr-406-02-002", "answers": [ { "text": "県立図書館", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "開館当時の紀元二千六百年記念富山県立図書館の館舎には公会堂として用いられていた大正会館(旧富山県会議事堂)を代用した。\n当初予算は図書館費5万円、貸出文庫費2千円と少なく、しかも職員はわずか8名しかいなかったが、開館までに1万冊を収集し、うち4500冊の整理を完了した。", "qas": [ { "question": "紀元二千六百年記念富山県立図書館の開館当初の予算は、図書館陽と貸出文庫費のどちらの金額が低かったですか?", "id": "tr-406-03-000", "answers": [ { "text": "貸出文庫費", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "開館当時の紀元二千六百年記念富山県立図書館の職員は何名だったの?", "id": "tr-406-03-001", "answers": [ { "text": "8名", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ところで、紀元二千六百年記念富山県立図書館の設立と共に中央図書館指定を解除された富山市立図書館は、紀元二千六百年記念富山県立図書館に統合するべきではないかとする意見が漸次高まり始めていた。\nこれは戦時下の類似団体統合の風潮に影響されたものであって、富山県においては1940年7月31日に北陸日日新聞社、富山日報社、高岡新聞社及び北陸タイムス社が統合され北日本新聞社となり、1941年(昭和16年)8月1日には日本海電気、高岡電灯等の電気事業者が合併して北陸合同電気を発足させるなど、すでに種々の団体が戦時統合によって合理化を図っていたのである。\nそもそも紀元二千六百年記念富山県立図書館の設立が論議され始めたころからすでに富山市立図書館との合併案は取り沙汰されていたのであるが、矢野兼三富山県知事の県立図書館と市立図書館は機能的に異なる存在であるという見識によって富山市立図書館とは別に紀元二千六百年記念富山県立図書館が開設されたという経緯があった。\nしかし、矢野兼三は1941年(昭和16年)1月7日に内務省からの転出命令を拒否して休職となり、爾来富山県と富山市の間において合併交渉は着々と進められた。\n当時富山県立図書館長であった加藤宗厚はこれに抵抗したものの、1943年(昭和18年)3月24日には富山市議会において富山市立図書館を紀元二千六百年記念富山県立図書館に合併させる案が可決され、同年3月31日を以て富山市立図書館は廃止された。", "qas": [ { "question": "紀元二千六百年記念富山県立図書館との合併案が通った時の富山市立図書館の館長は誰でしたか?", "id": "tr-406-04-000", "answers": [ { "text": "加藤宗厚", "answer_start": 517, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "富山市立図書館が廃止されたのは何年ですか?", "id": "tr-406-04-001", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 533, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北日本新聞社の設立年月日はいつですか?", "id": "tr-406-04-002", "answers": [ { "text": "1940年7月31日", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北日本新聞社はどこの地方紙ですか?", "id": "tr-406-04-003", "answers": [ { "text": "富山県", "answer_start": 124, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "これによって同年4月1日から富山市立図書館の蔵書類はすべて紀元二千六百年記念富山県立図書館に継承され、富山市立図書館の館舎は紀元二千六百年記念富山県立図書館の本館となり、紀元二千六百年記念富山県立図書館の本館であった旧大正会館は別館となった。\n職員数は旧富山市立図書館員を迎えて総計31名となり、蔵書数も9万冊に増加し、経常費は3万5千円に増額された。\n当時としては東京、大阪、京都、福岡に次ぐ全国第5位の規模の図書館となったのである。", "qas": [ { "question": "合併後の紀元二千六百年記念富山県立図書館の職員は何人になりましたか?", "id": "tr-406-05-000", "answers": [ { "text": "31名", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "合併当時の紀元二千六百年記念富山県立図書館は、規模の大きさが全国何位でしたか?", "id": "tr-406-05-001", "answers": [ { "text": "第5位", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "合併後の紀元二千六百年記念富山県立図書館の蔵書数は何冊に増えましたか?", "id": "tr-406-05-002", "answers": [ { "text": "9万冊", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1945年(昭和20年)2月20日に紀元二千六百年記念富山県立図書館長に就任した大田栄太郎は、東京における経験を活かして蔵書疎開の急務なることを説いた。\nこの大田栄太郎館長の意向によって疎開作業は速やかに開始され、同年3月27日には早月加積の海恵寺に蔵書約3000冊を送達、以降7月30日まで9度に渡って県内各所に蔵書の疎開を進めた。\n1945年8月2日、アメリカ軍第73爆撃団B-29計182機の編隊は、富山市市街地を猛爆して13.79平方キロメートル(4172700坪)を焼き尽くした(富山大空襲)。\n富山市は一望の焼け野原と化し、紀元二千六百年記念富山県立図書館館舎もまた全焼するに至った。\nそれにもかかわらず、約6万5000冊の蔵書は疎開されていて無事であり、焼失した蔵書の多くは官報や県報、特許公報の類であった。\n1945年(昭和20年)8月12日からは富山県文教課内に図書館本部を設け、疎開せる図書を貸出文庫として閲覧に供することとなった。", "qas": [ { "question": "富山大空襲が起こったのはいつだったの?", "id": "tr-406-06-000", "answers": [ { "text": "1945年8月2日", "answer_start": 168, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "紀元二千六百年記念富山県立図書館の蔵書疎開先はどこでしたか?", "id": "tr-406-06-001", "answers": [ { "text": "早月加積の海恵寺", "answer_start": 116, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1945年に紀元二千六百年記念富山県立図書館が全焼してしまった原因とは何でしたか?", "id": "tr-406-06-002", "answers": [ { "text": "富山大空襲", "answer_start": 245, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "紀元二千六百年記念富山県立図書館の蔵書疎開を提案した人物は誰?", "id": "tr-406-06-003", "answers": [ { "text": "大田栄太郎", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、館舎は全く焼失してしまったので、1945年(昭和20年)8月22日からは富山県庁に紀元二千六百年記念富山県立図書館の本部を設置し、疎開図書の所在地であった早月加積と月岡に臨時事務所を設置して職員を分散させて業務を再開したが、同年12月26日からは富山県立神通中学校至誠堂内に仮事務所を開設し、同所において総員勤務することとなった。\n大田栄太郎は一日も早く閲覧設備を恢復させるため尽力し、1946年(昭和21年)2月2日から残存図書の目録カード作成に着手し、同年4月25日からは仮事務所設置場所である富山県立神通中学校至誠堂において仮閲覧所を開設することができた。\nこれによって至誠堂入口の廊下はその仮事務所として使用され、階段傍聴席は仮書庫として疎開図書2万冊を収容することとなった。\n仮閲覧所の定員は10名であり、一日に20名ほどの利用があったという。", "qas": [ { "question": "紀元二千六百年記念富山県立図書館の本部は、終戦後すぐにどこの施設に設けられましたか?", "id": "tr-406-07-000", "answers": [ { "text": "富山県庁", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "紀元二千六百年記念富山県立図書館の仮事務所はどこにつくられましたか?", "id": "tr-406-07-001", "answers": [ { "text": "富山県立神通中学校至誠堂内", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "早月加積と月岡に設置されたものは何ですか?", "id": "tr-406-07-002", "answers": [ { "text": "臨時事務所", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1947年(昭和22年)4月1日、紀元二千六百年記念富山県立図書館は富山県立図書館と改称された。\nこのころ館長に着任した平野良作は文化国家樹立のためには文化的象徴たる図書館を富山県庁に対峙させることが重要であると考え、県庁前の武徳殿跡(富山市表町)に新館舎を建設することを中島正文砺波図書館協会会長と共に館哲二富山県知事に請願している。\nかくて1948年(昭和23年)4月30日、富山市表町に新館舎建設の起工式を挙行して、同年9月24日には第一期工事を竣成し、同所において図書館に先立ちフィルム・ライブラリーを開設した。\n同年10月5日からは事務所を富山県立神通中学校から移転し、1949年(昭和24年)6月20日に第二期工事の完了をみたのち、同年9月10日新館舎において開館式を挙行した。\nただし、第三期工事の完了したのは開館式の後の1950年(昭和25年)3月31日のことであった。\nまた、同年10月25日からは開架式の図書館となった。", "qas": [ { "question": "富山県立図書館の改称前の名前は何だったの?", "id": "tr-406-08-000", "answers": [ { "text": "紀元二千六百年記念富山県立図書館", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1947年4月頃から富山県立図書館の館長を務めた人は誰?", "id": "tr-406-08-001", "answers": [ { "text": "平野良作", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "富山県立図書館の新館舎での開館式は何年に行われましたか?", "id": "tr-406-08-002", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 290, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "富山県立図書館の新館舎建設が行われた町はどこですか?", "id": "tr-406-08-003", "answers": [ { "text": "表町", "answer_start": 121, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "富山県立神通中学校内の仮書庫の蔵書は、1949年(昭和24年)7月25日に移転されたが、早月加積等に疎開された蔵書のすべてを回収する作業にはこれより4年を要することとなった。\nまた、旧富山市立図書館の蔵書と富山県立図書館の蔵書では図書分類の方式が異なっており、全蔵書の整理作業にも2年3箇月を費やすこととなった。\nその蔵書整理作業の完了と同時に富山県立図書館においては郷土資料の目録製作作業に着手し、1953年(昭和28年)11月4日に『志田文庫目録』を刊行したのを皮切りに、1955年(昭和30年)4月29日には『富山県郷土資料分類表』、1957年(昭和32年)6月6日には『立山黒部文献目録』、1962年(昭和37年)6月4日には『富山県郷土資料総合目録』を刊行している。\nまた、郷土資料目録の制作作業が一段落してからは、各種重要資料のマイクロフィルム作成作業に着手し、1967年(昭和42年)5月11日に加越能文庫のマイクロフィルムを完成させ、同年6月21日からは明治以降の郷土新聞の撮影に着手した。", "qas": [ { "question": "『志田文庫目録』、『富山県郷土資料分類表』、『立山黒部文献目録』の中で、2番目に早く刊行された資料は何?", "id": "tr-406-09-000", "answers": [ { "text": "『富山県郷土資料分類表』", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『富山県郷土資料総合目録』、『富山県郷土資料分類表』、『立山黒部文献目録』の中で、最後に刊行された資料はどれですか?", "id": "tr-406-09-001", "answers": [ { "text": "『富山県郷土資料総合目録』", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "蔵書疎開させた蔵書の回収作業には、どれくらいの期間がかかりましたか?", "id": "tr-406-09-002", "answers": [ { "text": "4年", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『富山県郷土資料分類表』、『志田文庫目録』、『富山県郷土資料総合目録』の中で、最初に刊行された資料はどれですか?", "id": "tr-406-09-003", "answers": [ { "text": "『志田文庫目録』", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また、1950年(昭和25年)10月6日からは移動図書館たる「移動公民館」を発足させた。\nこの自動車文庫の発足は全国で千葉に次いで2番目のことであって、当初は一台の車を以て県内各地を巡廻していたが、翌1951年7月4日からは新たに2台の自動車を導入した。\n自動車内には図書のほかに映写機や幻燈機を積載し、社会教育主事や図書係が同乗して図書の貸借と共に、映画や紙芝居の上映、あるいは座談会や講演会を行った。\n特に農山漁村の人々は、子供も大人もこの移動公民館が来ることを心待ちにしていたという。", "qas": [ { "question": "自動車文庫に使用される車が新たに2台増えたのはいつからですか?", "id": "tr-406-10-000", "answers": [ { "text": "1951年7月4日", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「移動公民館」の発足年はいつでしたか?", "id": "tr-406-10-001", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "図書館内部においても逐次施設の充実が行われており、1952年(昭和27年)5月23日には参考室を開設して、便覧や辞書類を備えて利用者の調査質問に応ずる態勢を整えた。\n1958年(昭和33年)4月4日には産業資料室、同年8月21日には国立国会図書館北陸地区PBリポートセンターが開設されている。\nPBリポートとは主として連合軍が接収した化学工業資料であって、折から政府は科学産業振興のためにその設置を全国6箇所に計画していたのであるが、これを知った木下秀夫富山県立図書館長は富山県図書館協会や商工会、農協中央会等と共に吉田実富山県知事に陳情し、これが容れられて富山県立図書館内にそのリポートセンターが開設される運びとなったのである。\nこの各種産業資料の利用は大阪と名古屋に次ぐ実績をあげ、産業資料室には3台の複写機を設備して利用者の需要に応じたが、その申込数は増加の一途を辿ったという。\nこの産業資料の導入は、富山県立図書館が各種参考資料の提供を主たる使命とする参考館的運営に主眼を移す契機ともなった。", "qas": [ { "question": "参考室、産業資料室はどちらが遅くに開設されたの?", "id": "tr-406-11-000", "answers": [ { "text": "産業資料室", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1958年頃に富山県立図書館長に就いていた人物は誰ですか?", "id": "tr-406-11-001", "answers": [ { "text": "木下秀夫", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "上述のごとき富山県立図書館の発展は、一方において従来の館舎の限界を来しつつあり、書庫の狭隘によって1963年(昭和38年)5月10日には新聞閲覧室を閉鎖し、翌1964年(昭和39年)7月1日には第二会議室をも書庫に転用せざるを得なくなった。\nすでに富山県立図書館は従来の館舎から新設の富山県民会館に移転包摂せらるべしとの意見は出ていたものの、1962年(昭和37年)2月5日に財源不足や県立図書館としての使命を果たしえないとの理由を以て計画は中止されていた。\nここにおいて吉田実は明治100年記念事業として富山県立図書館の館舎新設を公約として富山県知事選挙に出馬し、1964年(昭和39年)9月15日に3度目の当選を果した。\n国道8号沿い、国道41号沿いなど10か所ほどの候補の中から、水火の災害に強く、広大なる敷地を供し得る好条件の土地を探した結果、呉羽山茶屋町地内の富山市有地が適当であるとの結論に至り、1968年(昭和43年)1月13日にボーリング調査に着手、同年8月12日に起工式を挙行した。\nかくて1969年(昭和44年)7月13日に旧館舎は移転作業のため休館し、同年9月22日に新館舎の開館式を挙行、同年9月24日より一般閲覧の業務を開始した。\n新館舎はモダンな外観で、ガラス越しに見える打ちっ放しの鉄筋コンクリートや斜め格子の梁構造が評価され、第1回富山県建築賞を受賞した。", "qas": [ { "question": "富山県立図書館の新館舎は、建築構造が評価されて何の賞を受賞しましたか?", "id": "tr-406-12-000", "answers": [ { "text": "第1回富山県建築賞", "answer_start": 579, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "富山県立図書館の館舎新設の公約を掲げて、見事当選した人は誰ですか?", "id": "tr-406-12-001", "answers": [ { "text": "吉田実", "answer_start": 236, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "富山県立図書館の新館舎は、何年に開館しましたか?", "id": "tr-406-12-002", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 454, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "茶屋町の新館舎においては表町の時代にあったような参考室や学習室、あるいは児童室や産業資料室といった個室を設けず、閲覧室の一元化を図り、3万冊の開架図書と100席の閲覧席を設備して、閲覧室内のサービスカウンターにおいて調査相談の依頼を受付けることとした。\nまた、中高生らが閲覧室を自習目的で使用することを禁止し、ロビーにあった受付で筆記用具以外の持ち込みを禁じていた。\nこれは富山県立図書館が「調査研究のための図書館」であると位置づけられたための措置であるが、これと共に一般利用の拡充を図るために住所氏名を記入する入館証を廃止し、貸出期間を14日に延長して郵送による返却を認めるなどの改革も行われた。\nこれによって1973年(昭和48年)度に至って貸出登録者及び貸出冊数は市街地に所在していた時代の水準を超過し、調査相談の依頼件数は7倍に増加する実績を挙げた。", "qas": [ { "question": "新館舎は表町から何町に移りましたか?", "id": "tr-406-13-000", "answers": [ { "text": "茶屋町", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "富山県立図書館の開設方針は何でしたか?", "id": "tr-406-13-001", "answers": [ { "text": "「調査研究のための図書館」", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "茶屋町の新館舎では、貸出期間は何日でしたか?", "id": "tr-406-13-002", "answers": [ { "text": "14日", "answer_start": 269, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "館外奉仕活動である移動公民館事業は、1963年(昭和38年)4月25日に移動図書館と改称され、家族ぐるみの読書が行われるように選ばれた本を巡廻させる家庭文庫の普及に重点を置くようになるなど、時代の進展と共に種々の改革が行われていたが、1981年(昭和56年)に東礪波郡平村、同郡上平村、婦負郡山田村、同郡細入村及び中新川郡舟橋村において各々村立図書館が開館したように富山県全域において読書環境が整備されると共に、移動図書館は富山県立図書館から各市町村図書館に移管させるべしとの声が高まりつつあった。\nかくて移動図書館は1984年(昭和59年)度を以て廃止され、代って1970年(昭和45年)10月7日から運行を開始した各市町村図書館との相互貸借を促進させる目的を有する連絡車事業に重点が置かれるようになった。\n連絡車はひとり相互貸借書籍を運搬するのみならず、富山県内の書誌情報収集や各市町村図書館間における相互提携に効を奏し、「図書館のための図書館」という市町村立図書館に次ぐ第二線的存在としての富山県立図書館の役割を発揮することとなった。", "qas": [ { "question": "婦負郡山田村に村立図書館が開館したのはいつですか?", "id": "tr-406-14-000", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "コンピューター技術の登場と進展と共に進められつつあった図書館における電算技術の導入に対応するため、1983年(昭和58年)9月には金沢工業大学ライブラリーセンター支援の下、北陸3県の公共図書館が協同する北陸公共図書館コンピュータ化推進協議会が発足し、1988年(昭和63年)6月14から図書に対するバーコード貼付作業に着手、1990年4月25日からその本格的稼働を開始させた。\n1994年(平成6年)10月28日は総合目録編成をコンピュータパッチ処理システムにより自動化した。\n1997年(平成9年)6月にはホームページを開設、同ホームページにおいては1998年(平成10年)3月より総合目録であるOPACを公開し、2002年(平成14年)10月1日に携帯電話対応ホームページを開設、2005年(平成17年)3月1日に貴重資料の画像提供を開始させ、2009年(平成21年)12月16日からはインターネットからの図書予約に対応するなど、インターネットにおける図書館活動も順次拡充されている。\n茶屋町に開館してからも蔵書の増加による狭隘や施設の老朽化によって施設の整備拡充が行われており、1987年(昭和62年)3月26日には書庫増築及び構内環境整備事業が完了し、1998年(平成10年)10月21日には増築棟及び資料センターが竣工している。", "qas": [ { "question": "富山県立図書館でコンピューターによる管理と運営が本格化したのはいつからですか?", "id": "tr-406-15-000", "answers": [ { "text": "1990年4月25日", "answer_start": 162, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2015年(平成27年度)末における蔵書冊数は924,380冊である。\nこのうち160,271冊が郷土資料であり、38,432冊が特設文庫の蔵書である。\nまた、開架に供されているものは閲覧室において約7万冊、児童書室において約2千5百冊であり、約80万冊の書籍は書庫において保存されている。\n近代以前の郷土史料である加越能マイクロフィルムや杉木文書をはじめとする文書コレクションも多数所蔵されている。\n1回につき館外貸出のできる冊数は原則として10冊以内であり、その利用期間は15日以内とされている。\nただし利用者は館外利用を行うに際し、館外貸出券の交付を受けねばならず、新聞、雑誌等の定期刊行物、貴重図書、文書、記録、辞書、年鑑、目録及び書誌等の書籍、また館長が特に必要と認めた図書館資料は館外貸出を受けることができない。", "qas": [ { "question": "2015年末における蔵書冊数が多いのは、郷土資料と特設文庫のどちらですか?", "id": "tr-406-16-000", "answers": [ { "text": "郷土資料", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "閲覧室と児童書室では、どちらの開架図書数が少ないですか?", "id": "tr-406-16-001", "answers": [ { "text": "児童書室", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1回における館外貸出の可能な冊数は何冊以内と決められていますか?", "id": "tr-406-16-002", "answers": [ { "text": "10冊", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "榛名湖", "paragraphs": [ { "context": "榛名湖(はるなこ)は、群馬県西部にある湖だ。\n榛名山のカルデラ内に生じた火口原湖で、水系としては利根川に属する。\n周囲は約4.8キロメートル、面積は約1.2平方キロメートル、最深部は約12メートルから15メートルだ。\n『万葉集』の時代から上野国を象徴する歌題「伊香保の沼」として知られる。\n榛名神社とともに、江戸時代以降は関東地方を中心とする雨乞い信仰「榛名講」の目的地となった。\n明治以降は近接する伊香保温泉に集まった文化人によって文芸作品に描かれた。\n大正時代からは本格的な観光開発がはじまり、年間百数十万人(1987年)の観光客を集め、一年を通じて群馬県を代表する観光地の一つとなっている。", "qas": [ { "question": "榛名湖の周囲はどれくらいですか?", "id": "tr-407-00-000", "answers": [ { "text": "約4.8キロメートル", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "榛名湖の面積は?", "id": "tr-407-00-001", "answers": [ { "text": "約1.2平方キロメートル", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「伊香保の沼」とは何を指していますか?", "id": "tr-407-00-002", "answers": [ { "text": "榛名湖", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "榛名湖はどこの川に属しているの?", "id": "tr-407-00-003", "answers": [ { "text": "利根川", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "群馬県にある赤城山(標高1827メートル)・榛名山(標高1449メートル)・妙義山(標高1103メートル)はいずれも火山で、上毛三山と呼ばれて県のシンボルになっている。\nなかでも高崎市、前橋市、渋川市や利根川をはさんで東西に対称的に位置する赤城山と榛名山は、同時期に活発な火山活動を行って成層火山へと成長し、後代の噴火でその頂部を失いカルデラを形成した。\nそれぞれ山頂部のカルデラ内に湖沼を有し、赤城山に大沼や覚満淵、榛名山には榛名湖がある。\n湖水は北側の火口瀬から沼尾川として流れ出て吾妻川に注ぎ、さらに利根川へと合流する。\n湖水は一部で農業用水として利用されている。\n湖は標高1084メートルにあり、厳冬期には湖面全体が氷結する。", "qas": [ { "question": "上毛三山の中で最も高い山は何?", "id": "tr-407-01-000", "answers": [ { "text": "赤城山", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "上毛三山の中で2番目に高い山は何?", "id": "tr-407-01-001", "answers": [ { "text": "榛名山", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "榛名湖はどこの山にありますか?", "id": "tr-407-01-002", "answers": [ { "text": "榛名山", "answer_start": 209, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "榛名湖は標高何メートルの地点に位置しているの?", "id": "tr-407-01-003", "answers": [ { "text": "1084メートル", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "榛名山は約50万年前から同じ場所で噴火を重ねており、山頂のカルデラは馬蹄形に連なる多重の外輪山に囲まれている。\n約22万年前の爆発で直径3キロメートルほどのカルデラが生じ、そこに榛名湖の原型ができた。\n4万年ほど前にカルデラ内で再び噴火があり、東西4キロメートル、南北2キロメートルほどのカルデラをつくった。\nこれが現在の榛名湖の周囲を囲む外輪山で、当時はその内側が全て湖だったと考えられている。\nその後も、このカルデラ内で何度か噴火があり、榛名富士などが生じた。\nカルデラ内の湖の一部が火山噴出物で埋め立てられ、いまの榛名湖の姿になった。", "qas": [ { "question": "榛名湖の原型が形成されたのは何年前ですか?", "id": "tr-407-02-000", "answers": [ { "text": "約22万年前", "answer_start": 56, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "4万年ほど前の噴火によって形成されたカルデラの東西と南北はどちらの距離が長いですか?", "id": "tr-407-02-001", "answers": [ { "text": "東西", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "榛名湖の原型は直径何キロメートルでしたか?", "id": "tr-407-02-002", "answers": [ { "text": "3キロメートルほど", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "奈良時代には『万葉集』にも「伊香保の沼」(※「伊香保」は、現在の高崎から榛名山一帯をさす広域地名)として詠まれるようになり、上野国を代表する景物として都の歌人たちにも知られていた。\n中世から信仰の対象となり、江戸時代以降は雨乞いに霊験あらたかな地として関東一円の農民を集めるようになった。\nこれを「榛名講」といい、榛名湖の南にある榛名神社に詣でて泉水を竹筒にいれて持ち帰り、田畑にまくと雨が降るとされていた。\nこの信仰の濫觴として、戦国時代の関東の武将の妻が、敗死した夫の後を追って榛名湖に入水し、龍神となって農民の願いをきくようになったと伝えられている。", "qas": [ { "question": "榛名湖が「榛名講」として注目を集め出したのはいつからですか?", "id": "tr-407-03-000", "answers": [ { "text": "江戸時代以降", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "榛名湖が「伊香保の沼」として詠まれた歌は何に収められていますか?", "id": "tr-407-03-001", "answers": [ { "text": "『万葉集』", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治時代になると、榛名湖の北隣にある伊香保温泉に文化人が集まるようになり、竹久夢二、与謝野晶子、高浜虚子らによって榛名湖は文学、絵画、音楽に描かれるようになった。\n大正時代には、群馬県内で最初の自然公園に指定され、観光客が急増した。\n高度成長期には1日3万人の行楽客が押し寄せたといい、夏は水上スポーツやボート遊び、冬はスケートや氷上でのワカサギ釣りなどが行われる観光地となった。\n湖畔には土産物屋がならび、対岸には温泉が掘られ、湖畔の榛名富士や沼ノ原にはキャンプ場やスキー場がつくられ、ロープウェーも建設された。\n近年は湖上の花火大会やイルミネーションイベントも催されている。", "qas": [ { "question": "明治時代に伊香保温泉を訪れた女性文化人とは誰?", "id": "tr-407-04-000", "answers": [ { "text": "与謝野晶子", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高度成長期には1日何人もの行楽客が榛名湖を訪れていましたか?", "id": "tr-407-04-001", "answers": [ { "text": "3万人", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "榛名山のカルデラにできた火口原湖。\n湖面の標高1084メートル。\nただし取水によって水面の高さは2メートルほどの季節変動がある。\n南北方向の長径は約1.3キロメートル、東西方向の短径は約1キロメートル、周囲4.8キロメートル。\n面積は約1.24平方キロメートル。\n湛水量はおおよそ1,220万立方メートル。\n形状は「勾玉形」、「東側がくびれたひょうたん形」ないし「楕円形に近似」している。\n湖底は、湖岸付近では急斜面になっているが、水深10メートル付近からはなだらかで、湖底平原になっている。\n最大深度は14メートルないし12.6メートル。\n湖底には珪藻類の死骸が堆積し、珪藻骸泥となっている。", "qas": [ { "question": "榛名湖の水面の高さはどれくらいの季節変動があるの?", "id": "tr-407-05-000", "answers": [ { "text": "2メートル", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "榛名湖の湛水量はどれくらいですか?", "id": "tr-407-05-001", "answers": [ { "text": "おおよそ1,220万立方メートル", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "榛名湖はどのような湖ですか?", "id": "tr-407-05-002", "answers": [ { "text": "火口原湖", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "水温は夏場の湖面近くは22度から25度、湖底付近で10度ほど。\n春と秋は水温は一様である。\n冬になると1月から3月にかけて湖面が凍結し、氷厚は0.4メートルに達する。\n透明度は観光客の増加に伴って低下が進んでおり、春季で4.2メートル、秋季には1.9メートルだ。\n榛名湖の水は、湖の北東の火口瀬から沼尾川(ぬまおがわ)として流出している。\n沼尾川は吾妻川に合流し、さらに利根川を経て太平洋に注ぐ。\n河川法上は一級水系利根川の三次支川と位置づけられている。\nこれとは別に、人工的に開削された水路とトンネルを通じて烏川の支流榛名川や長野堰へ導水する設備があり、灌漑に必要な時期には湖の南に設けられた水門をひらいて取水が行われている。", "qas": [ { "question": "榛名湖の透明度が高い時期は春季と秋季のどちらですか?", "id": "tr-407-06-000", "answers": [ { "text": "春季", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "榛名湖から流出している川は何?", "id": "tr-407-06-001", "answers": [ { "text": "沼尾川", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "水温が同じなのは春といつの時期ですか?", "id": "tr-407-06-002", "answers": [ { "text": "秋", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "榛名湖の秋季の透明度はどれくらいですか?", "id": "tr-407-06-003", "answers": [ { "text": "1.9メートル", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "榛名山は狭い範囲で噴火を繰り返してきた四重式の火山で、山体の底部は直径28キロメートル×22キロメートルのひろがりを持つ。\nそのカルデラは同心円状に三重になっていて、東側を欠いた馬蹄形としている。", "qas": [ { "question": "榛名山の山体の基底部分は直径どれくらいの長さですか?", "id": "tr-407-07-000", "answers": [ { "text": "28キロメートル", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "最初の噴火はおよそ50万年前に遡り、柏崎千葉構造線の一部を成す断層(利根川構造線)で赤城山と同時に噴火した。\nこれは25万年ほどをかけて標高2500メートルの成層火山に成長した(古期榛名火山)。\nこれが22万5000年前に大噴火をおこして山体上部のおよそ半分が吹き飛び、直径4.5キロメートルほどになるカルデラが形成された。\nそのカルデラ内部に22万年前から標高1800メートルほどの新たな成層火山ができ、やがて噴火して直径3-3.5キロメートルのカルデラ(氷室カルデラ)を作った。\nその後の火山活動は終息し、16万年ほどのあいだ、カルデラは湖になっていたと考えられている。", "qas": [ { "question": "最初に噴火したのは何年前でしたか?", "id": "tr-407-08-000", "answers": [ { "text": "およそ50万年前", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古期榛名火山は標高何メートルでしたか?", "id": "tr-407-08-001", "answers": [ { "text": "2500メートル", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カルデラの直径が大きかったのは22万5000年前と22万年前のどちらの時期に形成されたものですか?", "id": "tr-407-08-002", "answers": [ { "text": "22万5000年前", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "4万2000年前からこのカルデラ内での火山活動が再び活発化して、標高1700メートルに達する溶岩ドームをつくり、大爆発を起してカルデラを作った。\nこのときのカルデラは東西約4キロメートル、南北約2キロメートルの規模で、おおむね現在の榛名湖の外輪山に相当する。\n当時は、このカルデラ全体に水が湛えられて巨大な湖になっていた。\n3万1000年前になると、このカルデラ湖の中央部で新たな火山活動があり、溶岩ドームが形成された。\nこれが現在の榛名富士(標高1390.5メートル)である。\nまた、蛇ヶ岳(標高1229メートル)も同時に形成されているが、蛇ヶ岳が中央火口丘であるか火口縁であるかは説が分かれている。\n当時、榛名富士や蛇ヶ岳は巨大な榛名湖の湖中島になっていた。", "qas": [ { "question": "4万2000年前に形成されたカルデラの距離が長いのは東西と南北どちらの距離ですか?", "id": "tr-407-09-000", "answers": [ { "text": "東西", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "榛名富士と蛇ヶ岳はどちらが低いですか?", "id": "tr-407-09-001", "answers": [ { "text": "蛇ヶ岳", "answer_start": 243, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "その後カルデラの内外で、約2万年前に相馬山(標高1411メートル)、約1万年前に水沢山(標高1194メートル)、古墳時代に二ツ岳(標高1343メートル)の噴火があった。\nこれらの火山噴出物によってカルデラ内部の榛名湖が埋め立てられてゆき、現在の姿になった。\n現在の榛名湖の南東側の湖岸には、沼ノ原と呼ばれる湿地帯がひろがっており、これは榛名湖が埋め立てられた際の名残と考えられている。", "qas": [ { "question": "相馬山、二ツ岳、水沢山の中で一番標高が高いのはどの山ですか?", "id": "tr-407-10-000", "answers": [ { "text": "相馬山", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "二ツ岳、水沢山、相馬山の中で一番標高が低いのはどの山ですか?", "id": "tr-407-10-001", "answers": [ { "text": "水沢山", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "二ツ岳、水沢山、相馬山の中で最も早く噴火したのはどの山ですか?", "id": "tr-407-10-002", "answers": [ { "text": "相馬山", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "相馬山、二ツ岳、水沢山の中で2番目に早く噴火したのはどの山ですか?", "id": "tr-407-10-003", "answers": [ { "text": "水沢山", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "古代の榛名湖は「伊香保沼」と呼称されていた。\n『万葉集』に収録されている東歌には9首に「伊香保」が詠まれており(「伊香保」自体は榛名山一帯を指す広域名)、そのうち榛名湖を詠んだものと推定されている歌に次のようなものがある。", "qas": [ { "question": "古代の榛名湖の呼び名は何でしたか?", "id": "tr-407-11-000", "answers": [ { "text": "「伊香保沼」", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「伊香保」を詠んだ東歌はいくつ『万葉集』に収められているの?", "id": "tr-407-11-001", "answers": [ { "text": "9首", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "このように、平安時代には既に榛名湖は「伊香保の沼」として、ポピュラーな題材になっていた。\nしかし、奈良時代の万葉集では榛名湖が描かれているのに対し、上の平安時代の3首は、共通して、榛名湖そのものは具体的に詠まれていない。\n「いかほのぬま」は、続く「いかにして」を同じ「いか」という音で導くための序詞として用いられていて、修辞的技法のために利用されているだけである。\n平安時代の京都の歌人にとって「いかほのぬま」はよく知られたものではあったが、遠く離れた東国の湖にすぎず、深い関心はなかったものと考えられている。\n室町時代中期に堯恵が著したという『北国紀行』には、「ぬのたけといふ、麓に流水あり、これをいかほのぬまといへり」とある。", "qas": [ { "question": "平安時代には榛名湖はどのような名称として代表的な題材となっていたの?", "id": "tr-407-12-000", "answers": [ { "text": "「伊香保の沼」", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『北国紀行』の著者は誰?", "id": "tr-407-12-001", "answers": [ { "text": "堯恵", "answer_start": 263, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "江戸時代初期の寛文年間(1662-1673年)から天和年間(1681-1684年)に、この伊香保沼(榛名湖)や周辺の土地の境界をめぐって、榛名神社(江戸時代の呼称は満行権現榛名寺)、伊香保神社、周辺の村を治める高崎藩と沼田藩らのあいだで、争論が相次いだ。\nこの争いの結果、湖は榛名寺の寺領と認定され、それから湖は「榛名神社御手洗沼」、「満行権現みたらし」や「榛名沼」と称することになった。\n国学者跡部良顕(1658-1729)は『伊香保紀行』(1698年)のなかで、神道の立場からこれを批判した。\n江戸後期の慶応3年(1867年)には、榛名湖周辺を含めた12の村に対して、水域周辺での漁猟や狩猟が禁止されている。", "qas": [ { "question": "寛文年間と天和年間はどちらの方がより長い期間でしたか?", "id": "tr-407-13-000", "answers": [ { "text": "寛文年間", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "満行権現榛名寺は現在はどのような名称になっているの?", "id": "tr-407-13-001", "answers": [ { "text": "榛名神社", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『伊香保紀行』は何年に成立したの?", "id": "tr-407-13-002", "answers": [ { "text": "1698年", "answer_start": 222, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "仙覚(1203?-)『萬葉集註釈』で示唆されたように、「伊香保沼(榛名湖)」は古くから雨乞い祈願の信仰を集めた。\n14世紀の僧頼印(1323-1392)の『頼印大僧正行状絵詞』には、頼印自身が榛名湖に参詣し、湖に米を奉納したという記述があり、中世には榛名湖が雨乞い信仰の地として知れ渡っていたと考えられている。\n江戸時代の中頃から、榛名湖の南山中にある榛名神社に参詣して、境内の湧水(神泉)を竹筒に詰めて持ち帰り、田畑に注ぐと雨に恵まれるという信仰が盛んになった。\n関東一円の農村では「榛名講」と称して毎年村の代表者を送り込んだという。\n江戸時代に中川久盛の妻が伊香保温泉や榛名湖を巡って書いた紀行文『伊香保記』では、「此沼の辺にて民とも雨こひすればあめふるといふ」と伝えている。", "qas": [ { "question": "「伊香保沼」は古くから何を祈願されていたの?", "id": "tr-407-14-000", "answers": [ { "text": "雨乞い", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『伊香保記』の著者は誰?", "id": "tr-407-14-001", "answers": [ { "text": "中川久盛の妻", "answer_start": 274, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "頼印自らが榛名湖を訪れ、雨乞い信仰の地として記述した書物は何ですか?", "id": "tr-407-14-002", "answers": [ { "text": "『頼印大僧正行状絵詞』", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "関東一帯の村の代表者達は、何を竹筒に入れて持ち帰りましたか?", "id": "tr-407-14-003", "answers": [ { "text": "湧水", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "後述のように、高崎市南部の木部町には、戦国時代に当地の姫が榛名湖に入水して水神になったという伝承があり、雨乞いをするには木部出身者が最適とされていた。\nこのため他地域から木部へ榛名講の代理人を依頼されることもあったという。\nこうした榛名講は現代でも行われているという。\n竹筒を運ぶ者は途中で立ち止まってはならないとされており、村までは複数の運び手によって休むことなく移送される。\nこうした方法は一部の地域では現代でも忠実に行われているが、多くは自家用車で参詣するようになった。", "qas": [ { "question": "現代、多くの人はどのような移動手段を使って榛名講を行っているの?", "id": "tr-407-15-000", "answers": [ { "text": "自家用車", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "榛名湖の湖畔には「御沼龗(みぬまおかみ)神社」(木部神社)が祀られている。\n神社の謂れにはさまざまな異伝が流布しているものの、大筋では、戦国武将の妻(姫)が榛名湖に入水して転生した龍神(または蛇神)を祀っているとされている。\n湖畔には、姫を祀るため、命日の5月5日には赤飯を榛名湖に流す風習があるとされる。\n姫の入水の経緯や出自については様々な言い伝えがある。\n湖を見物に訪れた姫が突如理由もなく入水してしまったという伝えと、武将の妻が夫の戦死の報に接して身を投げたという伝えがある。\nこのとき、姫の従者(腰元)も姫の後を追って入水し、蟹に転生したという。\nこれを「腰元蟹」といい、腰元蟹は神使として湖水の落ち葉や藻を除き、姫の棲む榛名湖の水を清めているとされる。\n腰元蟹は、落ち葉を掻き分け下を覗き、姫を探しているとも言われる。\n江戸時代の紀行文『伊香保記』では、榛名湖のカニは湖水を清める神聖な存在であり、湖畔を歩く際にはカニを踏んではならないと記されている。\n木部氏の地元である木部町(高崎市)などでは、「カニを食すると榛名湖に行くことができない」と、カニに対する禁忌が伝わる。", "qas": [ { "question": "榛名湖に赤飯を流すのは、何月何日に行う風習ですか?", "id": "tr-407-16-000", "answers": [ { "text": "5月5日", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "榛名湖を清める神聖な存在として何の生物を踏んではならないとされていたの?", "id": "tr-407-16-001", "answers": [ { "text": "カニ", "answer_start": 387, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「カニを食すると榛名湖に行くことができない」という伝承が残る町とはどこ?", "id": "tr-407-16-002", "answers": [ { "text": "木部町", "answer_start": 442, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "姫の身分については諸説あり、渋川氏の一族で蕨城城主の渋川義基の妻「北の方」とする説、箕輪城主長野業正の妻「長野姫」とする説、長野業正の娘で、家臣の木部氏(木部城主木部範虎、木部貞朝参照)に嫁いだ姫(「長野姫」または「木部姫」)とする説、その木部氏の娘(木部姫)とする説、長者の娘だった「藤波姫」とする説などがある。\n蕨城(埼玉県蕨市)城主の渋川義基とその妻(龍體院)の伝承については、埼玉県の各地に関連する言い伝えが残されており、御沼龗神社の境内には、夫妻を祀るため1971年(昭和46年)に建立された石碑がある。\n渋川義基は、もともとは足利氏一門だったが、戦国時代に足利系の扇谷上杉氏と小田原北条氏との勢力争いに巻き込まれ、北条氏の軍門に降った。\n妻の「北の方」(龍體院)は、榛名湖に近い渋川の出身だったとされている。\n渋川義基は、永禄10年(1567年)に下総国(千葉県)で起きた三船山合戦に北条方で参戦し、討ち死にした。\n妻はその報せを受けて故郷の榛名湖に身を投げたという。\n龍體院は龍神へと化身し、埼玉方面の雨乞いに霊験があると信仰されるようになって、榛名講の流行につながったという。", "qas": [ { "question": "龍體院の出身地はどこだったの?", "id": "tr-407-17-000", "answers": [ { "text": "渋川", "answer_start": 345, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "渋川義基は西暦何年に死去したの?", "id": "tr-407-17-001", "answers": [ { "text": "1567年", "answer_start": 373, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "スタッフが美味しくいただきました", "paragraphs": [ { "context": "スタッフが美味しくいただきました(スタッフがおいしくいただきました)は、日本のテレビ番組で、料理や食材が登場した際に、画面上に表示される注釈(テロップ)。\nそれら料理や食材を無駄に捨てずに食べたことを示すものだが、その信憑性には疑問を挙げる声もある。\nまた、この注釈の表示が却ってテレビ番組の質を下げているとの意見もある。\nテレビのバラエティ番組などで食材を粗雑に取り扱った際、それを不道徳とする視聴者からの苦情に備え、その自衛策としてテレビ局側が用いることになったと考えられている。\nいつ頃からこの注釈が使われ始めたかは明確ではないが、テレビプロデューサーの菅賢治によれば、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ)で、小玉スイカを用いた芸を放映したところ、「食べ物を粗末にするな」と視聴者の声が届き、それを受けて翌年にこの注釈を表示したという。", "qas": [ { "question": "スタッフが美味しくいただきましたのテロップを初めて表示したテレビ番組は何ですか?", "id": "tr-408-00-000", "answers": [ { "text": "『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "番組内で使用した料理や食材を、無駄に捨てずに食べたことを示すおなじみのテロップとは何ですか?", "id": "tr-408-00-001", "answers": [ { "text": "スタッフが美味しくいただきました", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』で、小玉スイカを用いた芸を放映した後、視聴者からどのようなクレームが来ましたか?", "id": "tr-408-00-002", "answers": [ { "text": "「食べ物を粗末にするな」", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』でスタッフが美味しくいただきましたのテロップ表示を支持した人物とは誰ですか?", "id": "tr-408-00-003", "answers": [ { "text": "菅賢治", "answer_start": 280, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この注釈の言葉通り、番組中に登場する料理や食材を実際にスタッフが食べているかどうかについては、諸説がある。\n2014年(平成26年)のAOLニュースによれば、情報番組などの制作会社スタッフからは「リポーターが全部食べるのは無理なので全部食べないようにと指示しているものの、店への配慮や礼儀の意味で、残りの料理はスタッフが全部食べる」という証言が得られている。", "qas": [ { "question": "番組中に登場する料理や食材を実際にスタッフが食べているという証言を得たサイト名は何?", "id": "tr-408-01-000", "answers": [ { "text": "AOLニュース", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "番組中に登場する料理や食材を実際にスタッフが食べているという証言を得た事は、何年のAOLニュースから分かりますか?", "id": "tr-408-01-001", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ニュースサイト「ネタりか」では、2017年(平成29年)のグルメトーク番組『テレ東のさしめし?芸能人と「さしめし」しませんか??』(テレビ東京)の取材において、番組内の料理をスタッフたちが実際に食べている様子を紹介し、これをもってこの注釈を真実と結論づけている。\nまた同年のグルメ漫画家のラズウェル細木らによる書籍『めしざんまいふるさとの味』でも、料理番組のリポーターを務めるタレントの宮脇理恵子が、この注釈を「本当」と主張しており、「少なくとも自分の出演している番組については、本当に全部食べる」と語っている。", "qas": [ { "question": "『テレ東のさしめし?芸能人と「さしめし」しませんか??』の放送会社はどこですか?", "id": "tr-408-02-000", "answers": [ { "text": "テレビ東京", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ネタりか」が取材を行い、この注釈が真実であると結論づけた番組とは何ですか?", "id": "tr-408-02-001", "answers": [ { "text": "『テレ東のさしめし?芸能人と「さしめし」しませんか??』", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本当に番組内の料理を食べていると主張した女性タレントは誰ですか?", "id": "tr-408-02-002", "answers": [ { "text": "宮脇理恵子", "answer_start": 193, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ラズウェル細木は何のジャンルの漫画家ですか?", "id": "tr-408-02-003", "answers": [ { "text": "グルメ漫画", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2018年1月には、元ビーチバレー選手のタレントである浅尾美和が自身のブログで、『土曜の夜は!おとななテレビ』(TVQ九州放送)の収録時の、スタッフが料理を食べる写真を紹介すると共に「これはロケの時の写真です出してもらったお料理はスタッフの皆さんで美味しくいただきます」と投稿し、ニュースサイトにおいて、舞台裏での「スタッフが美味しくいただきました」を真実であることが報じられた。", "qas": [ { "question": "番組内に出た料理はスタッフの皆で食べているという事を、ブログで紹介した女性タレントは誰ですか?", "id": "tr-408-03-000", "answers": [ { "text": "浅尾美和", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浅尾美和はタレントになる前は何をしていましたか?", "id": "tr-408-03-001", "answers": [ { "text": "ビーチバレー選手", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『土曜の夜は!おとななテレビ』はどの放送会社が流していますか?", "id": "tr-408-03-002", "answers": [ { "text": "TVQ九州放送", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "浅尾美和が「スタッフが美味しくいただきました」に関連する真実味のあるブログ記事を投稿したのはいつですか?", "id": "tr-408-03-003", "answers": [ { "text": "2018年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "松本人志は2014年(平成26年)に『ワイドナショー』(フジテレビ)で、この注釈の真偽を社会学者の古市憲寿から問われ、「正直に言うと、スタッフが食べてるところを見た事はございません。でも、僕が見た事がないだけで、食べてるかもしれません」と返答した。\nスタッフが食べていることを完全に否定する意見として、ビートたけしが著書『バカ論』において、床にケーキが撒かれている場面を指して「嘘つけ。床にぶちまけられたケーキを美味しく食べる奴がどこにいるんだ」と述べている。\n評論家の古谷経衡も、スタジオで披露された料理はスタッフが処理することはなく、そのままゴミ袋に捨てられていると述べている。", "qas": [ { "question": "松本人志が出演しているワイドショー番組とは何ですか?", "id": "tr-408-04-000", "answers": [ { "text": "『ワイドナショー』", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ワイドナショー』で、実際にスタッフが食べているところを見たことがないと返答した人物は誰ですか?", "id": "tr-408-04-001", "answers": [ { "text": "松本人志", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『バカ論』の著者は誰ですか?", "id": "tr-408-04-002", "answers": [ { "text": "ビートたけし", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スタジオで披露された料理はゴミ袋に捨てられていると述べた評論家は誰ですか?", "id": "tr-408-04-003", "answers": [ { "text": "古谷経衡", "answer_start": 235, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2011年(平成23年)10月の『ネオバラエティ新3番組ちょい見せSP』(テレビ朝日)では、マツコ・デラックスが「絶対に食べていない」と発言し、スタッフが「食べている」と否定した。\n2013年(平成25年)10月には『きらきらアフロTM』(テレビ東京)でも横山裕が、パイ投げの後の「美味しく頂きました」は絶対に嘘だと話している。\n撮影で使われる料理は、長時間放置したりする関係上、衛生的に問題の生じる場合がほとんどのため、実際に誰も食べないとしても無理はない、との意見もある。", "qas": [ { "question": "何の番組スタッフが、マツコ・デラックスの発言を否定して「食べている」と言いましたか?", "id": "tr-408-05-000", "answers": [ { "text": "『ネオバラエティ新3番組ちょい見せSP』", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パイ投げ後の「美味しく頂きました」は絶対に嘘だと話したタレントは誰ですか?", "id": "tr-408-05-001", "answers": [ { "text": "横山裕", "answer_start": 128, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マツコ・デラックスと横山裕はどちらが先に「美味しく頂きました」が真実でない発言をしましたか?", "id": "tr-408-05-002", "answers": [ { "text": "マツコ・デラックス", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『ネオバラエティ新3番組ちょい見せSP』の番組放送をしている会社はどこですか?", "id": "tr-408-05-003", "answers": [ { "text": "テレビ朝日", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "評論家の上滝徹也は、この注釈について「『あるある問題』などで視聴者の目が厳しくなっていると制作者が意識しているということであり、ワンステップとしてはいい」と一定の評価を与えている。\n一方で上滝は、そう評しつつも「見る側への責任転嫁であって、形だけのお断りで終わってはいけない。バラエティー仕立てにする時は、情報を扱う手続きや番組の中身そのものをきちんとしていく取り組みをしてほしい」とも話している。\n実際にスタッフが食べたかどうかは視聴者にはわからないため、この注釈が「視聴者からの苦情に備え、取敢えず表示しておけば良いもの」、いわば予防線や免罪符になっている可能性も示唆されている。", "qas": [ { "question": "スタッフが美味しくいただきましたのテロップが、予防線や免罪符的な存在になっていると示唆した人は誰ですか?", "id": "tr-408-06-000", "answers": [ { "text": "上滝徹也", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "視聴者の目が厳しくなるきっかけの1つに何問題があげられますか?", "id": "tr-408-06-001", "answers": [ { "text": "『あるある問題』", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "放送作家のそーたには、制作サイドが敏感になり、無駄批判に先手を打ってこうして注釈を表示することに対し、過剰な自主規制が萎縮に繋がる危険性を感じている。\nテレビプロデューサーの菅賢治も、子供の頃にお笑い番組を見ていて母親から「こんなことしちゃ駄目」と言われたように、実社会から離れたテレビの中のことを、「間抜け、馬鹿」と笑えることが必要と主張しており、制約の厳しさによってテレビから面白さが失われていると語っている。", "qas": [ { "question": "制約の厳しさがテレビをつまらなくしていると語ったテレビプロデューサーは誰ですか?", "id": "tr-408-07-000", "answers": [ { "text": "菅賢治", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "過剰な自主規制が萎縮に繋がる危険性を感じている放送作家とは誰?", "id": "tr-408-07-001", "answers": [ { "text": "そーたに", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ビートたけしは、食材についてテレビへ寄せられるクレームに対し「だったら近所のコンビニでも行って、『まだ食べられるのに弁当を捨てるなんてけしからん!』と文句を言うところから始めてみたらどうなんだ」と苦言を呈している。\nたけしはまた、単にテレビを見ているのみであった視聴者が次第に批評家と化し、こうしたクレームを寄せるようになり「スタッフが美味しくいただきました」や、温泉中継でタオルを巻いての入浴場面での「特別に許可を得ています」の注釈などのようにテレビの規制が過剰に強化され、テレビから面白さを奪っていると述べている。\n2017年4月末の『ニコニコ超会議2017』においてもたけしは、テレビでこのような注釈が必要になったことに対して、「もうテレビ自体がインチキ臭くなっちゃった」と語っている。", "qas": [ { "question": "温泉中継の入浴場面で使用されるテロップとはどんな文句ですか?", "id": "tr-408-08-000", "answers": [ { "text": "「特別に許可を得ています」", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "制作サイドによる自主規制の注釈に対して苦言を呈したタレントは誰ですか?", "id": "tr-408-08-001", "answers": [ { "text": "ビートたけし", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビートたけしは何のイベントに参加して、制作サイドによる自主規制の注釈に対して苦言を呈しましたか?", "id": "tr-408-08-002", "answers": [ { "text": "『ニコニコ超会議2017』", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "自主規制の注釈を表示せざるを得ないのは、視聴者から何が多く寄せられるためですか?", "id": "tr-408-08-003", "answers": [ { "text": "クレーム", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "先述の松本人志は、かつて『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)で料理番組を模したコント「キャシィ塚本シリーズ」で、食材を笑いの題材にしたために苦情が殺到したといい、先述の『ワイドナショー』で「食べ物は食べる以外の使用方法もボクはあるんじゃないかと思っていて......」「たとえば飴細工は飴ですけど、ひとつのアートになってるじゃないですか。だから、食べ物もときには笑いの小道具として認めてもらえたら、こんなにありがたいことはないなと思うんですが、なかなかこの主張は通らないですよね」と語っている。\nまた松本は、ドラマでは食べ物を吹き出すシーンが問題視されず、お笑い番組のみが批判されていることの矛盾点をも指摘している。", "qas": [ { "question": "松本の主張の中で、具体例として出た物とは何ですか?", "id": "tr-408-09-000", "answers": [ { "text": "飴細工", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "料理番組を模倣した松本出演のコントとは?", "id": "tr-408-09-001", "answers": [ { "text": "「キャシィ塚本シリーズ」", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "松本人志が過去に出演していたフジテレビのバラエティー番組とは何ですか?", "id": "tr-408-09-002", "answers": [ { "text": "『ダウンタウンのごっつええ感じ』", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "松本はドラマのどういったシーンが全く批判されていない事に矛盾を感じていますか?", "id": "tr-408-09-003", "answers": [ { "text": "食べ物を吹き出すシーン", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "評論家・タレントの森永卓郎、フリーアナウンサーの垣花正らは、ラジオ番組『垣花正あなたとハッピー!』(ニッポン放送)2018年5月2日放送において、放送中に注釈でいちいち断っていると、バラエティの笑いの流れが途切れてしまい、それが足枷せとなることで面白さが奪われ、視聴率の低下に繋がることを示唆している。\nコラムニストでもあるタレントの松尾貴史は、食べ物の大事さなどの道徳心を子供に教えるのはテレビではなく周囲の大人だとしており、テレビでお笑い芸人が表現していることが、子供が見るにあたって不快に感じたりするのであれば、クレームを付けるのではなく、別のチャンネルに変えるか、テレビを消すのが正しい対処だと主張している。\nまた松尾も先の松本人志と同様に、スペインのトマティーナ(トマト祭り)で大量のトマトが扱われる場面や、プロ野球チーム優勝時のビールかけの中継でも「スタッフが美味しくいただきました」の注釈が表示されないことの矛盾点をも指摘している。\n2012年(平成24年)には、放送倫理・番組向上機構に、顔が突っ込んでぐちゃぐちゃにされたケーキにこの注釈がつけられたことについて、「食べているとは思えず、バラエティ番組であろうとも真実が語られるべきで責任逃れは止めて欲しい」との否定的な意見が寄せられている。", "qas": [ { "question": "放送中の注釈の多用が視聴率低下に繋がると示唆している評論家は誰ですか?", "id": "tr-408-10-000", "answers": [ { "text": "森永卓郎", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『垣花正あなたとハッピー!』に出演しているフリーアナウンサーは誰ですか?", "id": "tr-408-10-001", "answers": [ { "text": "垣花正", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "松本人志と同様の矛盾点を指摘しているタレントのフルネームは何ですか?", "id": "tr-408-10-002", "answers": [ { "text": "松尾貴史", "answer_start": 167, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プロ野球で優勝チームが行う、飲み物を使った恒例行事とは何?", "id": "tr-408-10-003", "answers": [ { "text": "ビールかけ", "answer_start": 370, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうした現状への皮肉の1つとして、『オモクリ監督〜O-Creator'sTVshow〜』(フジテレビ)の2015年9月13日放送分では、濱口優(よゐこ)が「注釈が多すぎるテレビ番組」と題し、架空のテレビ番組を発表した。\n一見ありきたりな、注目エリアやグルメの紹介という内容だが、わずか5分弱の間に30回以上も注釈が入る。\n「特別に許可を得て撮影しています」「個人の意見です」など、現実にも有る注釈のみならず、お笑い芸人の話の途中に「まもなくオチを言います」、相方の頭を叩くと「本気で叩いているわけではありません」「音は大きいですが見た目ほど痛くありません」と何度も注釈が表示される。\n偶然の出逢いの場面では「事前にリハーサルを行っています」と、偶然ではないことを明らかにし、レポーターによる「3万個」とのコメントでは「卑猥な表現に聞こえたことをお詫びします」と、過剰なお詫びの注釈が出る。\nエンディングの注釈では「このバラエティ番組はフィクションですが登場する人物・団体・名称は実際に存在します。\nまた芸人が頭を叩いたりする過激なシーンは芸人特有の『おいしい』という価値観のもと行っており決して暴挙などではありません」と、痛烈な皮肉が展開されている。\nこれに対して、共演者の千原ジュニアが「(こういう未来が)来るかもわからないですね」と苦笑して見せると、濱口も「来るでしょう。テレビがこんだけ弱くなってたら。ずっとお詫びばっかり入れて番組が進まなあかんくなるんじゃないかな」と憂慮した。\nビートたけしも「今みて『そうそう』って普通になっちゃってる感覚があるんだよね」「“食べ物はスタッフで食べた”とか、出たらシラケるよね。お笑い、本当にやんなっちゃうよね。誰がこんなこと言うようになったんだろう」と嘆いた。", "qas": [ { "question": "「注釈が多すぎるテレビ番組」に対して濱口優と共に憂慮と嘆きのコメントはしたのはビートたけしと誰ですか?", "id": "tr-408-11-000", "answers": [ { "text": "千原ジュニア", "answer_start": 537, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「注釈が多すぎるテレビ番組」の放送日はいつでしたか?", "id": "tr-408-11-001", "answers": [ { "text": "2015年9月13日", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「注釈が多すぎるテレビ番組」を流したテレビ番組は何ですか?", "id": "tr-408-11-002", "answers": [ { "text": "『オモクリ監督〜O-Creator'sTVshow〜』", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また『チュー'sDAYコミックス侍チュート!』(TBS)では、2010年(平成22年)の「誰も傷つかない完ぺきなドラマ」と題した企画で、紙を丸めて捨てる場面に、「再生紙を利用しております」「ゴミは分別しております」、妊娠の発覚の場面に「絶対に男の子!」の台詞には「女性批判ではありません」など、3分ほどの間に20の注釈が表示され、「過剰な丁寧さに笑いをこらえきれず、表現とは何なのかも考えてしまう」との感想が寄せられた。\nその続編とも言える「テレビの真実」では、「スタッフが美味しくいただきました」の注釈の実証として、パイ投げで床に散らばったパイを、徳井義実が床に這いつくばって食べており、男前とされて女性人気もある徳井のこの場面に「腹の底から笑った」との声も上がっている。", "qas": [ { "question": "「スタッフが美味しくいただきました」の注釈を実証した企画名とは何ですか?", "id": "tr-408-12-000", "answers": [ { "text": "「テレビの真実」", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「テレビの真実」は何に続く企画ですか?", "id": "tr-408-12-001", "answers": [ { "text": "「誰も傷つかない完ぺきなドラマ」", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「テレビの真実」と「誰も傷つかない完ぺきなドラマ」は何の番組内での企画ですか?", "id": "tr-408-12-002", "answers": [ { "text": "『チュー'sDAYコミックス侍チュート!』", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「テレビの真実」において、床に散らばったパイを食べた人は誰ですか?", "id": "tr-408-12-003", "answers": [ { "text": "徳井義実", "answer_start": 275, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同様の皮肉として、2017年(平成29年)2月には、漫画家の横山了一が描いた漫画『各方面に気を使いすぎておかしな事になったヘンゼルとグレーテル』が、Twitterで話題となった。\n横山が「スタッフが美味しくいただきました」の注釈をヒントに、グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』で地面にパン屑を撒く場面を連想し、同作品をもとに、横山と加藤マユミの漫画家夫妻で注釈を考えたものである。\nヘンゼルとグレーテルが森をさまよう場面では「危険なので決してマネしないでください」、道標としてパン屑を撒く場面では「この後スタッフが美味しくいただきました」、魔女をかまどに突き飛ばす場面では「この物語はフィクションです」など、すべての場面に徹底して注釈が入れられている。", "qas": [ { "question": "Twitterで人気を集めた横山了一の漫画タイトルは何ですか?", "id": "tr-408-13-000", "answers": [ { "text": "『各方面に気を使いすぎておかしな事になったヘンゼルとグレーテル』", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『各方面に気を使いすぎておかしな事になったヘンゼルとグレーテル』を描く際にヒントとなった注釈とは何ですか?", "id": "tr-408-13-001", "answers": [ { "text": "「スタッフが美味しくいただきました」", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『各方面に気を使いすぎておかしな事になったヘンゼルとグレーテル』の作者は誰ですか?", "id": "tr-408-13-002", "answers": [ { "text": "横山了一", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "横山は執筆の理由を、「ブログやTwitterに時々寄せられる文句がきっかけ」「漫画は内容であっても『不謹慎』『必ずこうとは限らない』といったコメントをいただくことがあり、これにいちいち反応するのではなく、漫画として活用して発散したいと思った」「世の中が、がんじがらめになっていると感じることがある。もう少し緩やかになれば良いとの思いを込めた」と語っている。\n横山の代表作の一つ『戦国コミケ』ほどリツイートが伸びず、横山は「読み手を選んだのかもしれない」と語っているが、「ツボに入った人にはかなり刺さったみたい」とも言い、Twitterでは「世知辛い世の中ですねぇ」「現代のやるせなさ」「こんな感じな気がしなくもないな」といった反応が寄せられている。", "qas": [ { "question": "横山の代表作の1つである漫画は何ですか?", "id": "tr-408-14-000", "answers": [ { "text": "『戦国コミケ』", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "東大寺の歴史", "paragraphs": [ { "context": "この項目では東大寺の歴史(とうだいじのれきし)について解説する。\n東大寺は、奈良県奈良市にあり、現在では華厳宗の大本山の、奈良時代から続く歴史ある大寺院である。\n奈良の大仏(盧舎那仏、るしゃなぶつ)があることで有名である。\n東大寺は、創建当初から「東大寺」と呼ばれてきたわけではない。\n文書における「東大寺」の初見は、天平19年(747年)12月25日日付の正倉院文書の一つ、『東大寺写経所解』(とうだいじしゃきょうしょのげ)である。\nまた同時期には、「東大之寺」という表記も散見される。\n現在につながる「東大寺」の由来は、平城宮の東に位置する官大寺であろうが、詳細は不明である。\n大仏の建立時に「自然発生的に生まれたもの」だと推測されている。\n21世紀現在まで1,200年以上の歴史を持つ東大寺は、日本史そのものに多大な影響を及ぼしてきた。\n平岡定海によれば、東大寺の歴史を見るには、次の4つの視点があるという。\n羅列すると、政治史的立場、宗教的立場、寺院史的立場、最後に美術史的立場となる。", "qas": [ { "question": "奈良の大仏は何という寺院に存在しているの?", "id": "tr-409-00-000", "answers": [ { "text": "東大寺", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「東大寺」と最初に記載した文書とは何?", "id": "tr-409-00-001", "answers": [ { "text": "『東大寺写経所解』", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東大寺の歴史は、政治史的立場、宗教的立場、寺院史的立場、美術史的立場の視点から見ることができると述べた人は誰ですか?", "id": "tr-409-00-002", "answers": [ { "text": "平岡定海", "answer_start": 372, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "盧舎那仏の通称は何ですか?", "id": "tr-409-00-003", "answers": [ { "text": "奈良の大仏", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "政治史的立場から見た東大寺は、鎮護国家の思いを込めて創建され、2度の戦乱や罹災などで衰退の危機に陥りながらも王朝や幕府の力や勧進によって大伽藍を保ってきた。\n東大寺は隣接する興福寺とともに大きな大衆の力を持ち、彼らの上洛は時の権力者の頭を悩ませ続けた。\nそれが戦争の火種となったこともある。\n別の説として、天武天皇系王朝の断絶に危機感を抱いた皇族らにより建立されたというものがある。\n宗教的立場から見ると、東大寺は、前身寺院のひとつ、金鐘寺(こんしゅじ、などと呼ぶ)の古密教としての性格と、いわゆる南都六宗の教学を持ち、さらに平安時代以降は天台宗、真言宗などが同居して「八宗兼学」と呼ばれていた。\nその中でも華厳経学が重視され、その中心地とも見られ、その教えを体現する本尊の盧舎那仏像によって時の権力者や庶民の信仰を集めてきた。", "qas": [ { "question": "東大寺と隣り合っている寺は何ですか?", "id": "tr-409-01-000", "answers": [ { "text": "興福寺", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東大寺創建にはどういった願いが込められてたの?", "id": "tr-409-01-001", "answers": [ { "text": "鎮護国家", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東大寺では、どのような教えが重視されていましたか?", "id": "tr-409-01-002", "answers": [ { "text": "華厳経学", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "寺院史的立場から見ると、東大寺は荘園経営などで経済を保ち、保有する杣から伐り出した木材で伽藍の修繕をしている。\nその修繕は創建を担当した造東大寺司の後裔である造東大寺所の管轄だったが、平安時代中頃から僧個人の力が強くなると、私僧房ばかりが重視されるようになった。\nそこで組織を政所内部に組込んで修理所とし、荒廃が進んでいた堂宇の営繕に努めるようになった。\n荘園は全国におよび、大修理の際には、一国全体を任されることもあった。\n既存の杣の山林資源が枯渇していたのを補った。\nしかし、江戸時代には荘園が取上げられ、さらに東大寺が寺請制度の一翼を担わなかったために衰退し、明治時代に入ると、大きな勢力を誇っていた子院の東南院も滅んだ。\n浄土宗に属していたこともあったが、1886年に独立、華厳宗の大本山となり、観光収入などで寺院経営を行っている。\n美術史的立場から見ると、東大寺法華堂(三月堂、羂索堂)は、奈良時代から続く堂で、内部には奈良時代彫刻の優品が多く安置されている。\nまた、鎌倉時代の復興期には、重源に重用された慶派の仏師による彫像群が造られた。\nこれは興福寺に安置された彫像とともに重要視されている。", "qas": [ { "question": "江戸時代までは、東大寺は何の経営によって経済を維持していましたか?", "id": "tr-409-02-000", "answers": [ { "text": "荘園", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東大寺が浄土宗から独立したのはいつですか?", "id": "tr-409-02-001", "answers": [ { "text": "1886年", "answer_start": 332, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東大寺創建前、当地には、金鐘寺、福寿寺、天地院(法蓮寺)などの寺々の存在が確認されている。\nこのうち、金鐘寺と福寿寺については後の東大寺との関係性について、文献研究や発掘による研究が進められている。\n金鐘寺は、金鐘山房、金鍾寺、金鷲寺、金熟寺と書かれることもある。\n読みについても諸説あって、「こんしゅじ」、「こんじゅじ」と読まれたり、また、慣用的に、「きんしゅうじ」とも呼ばれ、この読みについては、東大寺内で特によく親しまれている。\n金鐘寺は、天平5年(733年)、良弁によって建立された、という記述が『東大寺要録』にあるが、これについては現在、福山敏男の否定説が有力である。\nまた、喜田貞吉も、この『東大寺要録』の記述は「後の偽作説である」と述べている。\n一方で別の説が『続日本紀』に記されている。\n聖武天皇と光明皇后の間に生まれた唯一の男子で皇太子となったが、神亀5年(728年)に夭逝した基王の菩提を弔うのを目的として、天武天皇の孫に当たる智努王が造山房司長官となって山房を建立した、というものである。\n現在はこちらの記述が有力視されている。\n吉川真司と菱田哲郎は、丸山地区丸山西遺跡を調査、発掘し、金鐘寺の境内地であると推定した。", "qas": [ { "question": "「こんしゅじ」や「こんじゅじ」といった読み方をする寺とは何を指していますか?", "id": "tr-409-03-000", "answers": [ { "text": "金鐘寺", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "金鐘寺が天平5年に良弁によって建立された、という内容を否定した人は誰ですか?", "id": "tr-409-03-001", "answers": [ { "text": "福山敏男", "answer_start": 274, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "現在有力視されている、金鐘寺の建立者は誰ですか?", "id": "tr-409-03-002", "answers": [ { "text": "智努王", "answer_start": 424, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "智努王が山房を建立したという説は何に記されていますか?", "id": "tr-409-03-003", "answers": [ { "text": "『続日本紀』", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "福寿寺の創建には、光明皇后が深く関っていると見られている。\n創建年代については、栄原永遠男によってその名の初見であった正倉院文書の解釈がなされ、天平10年3月には建立の立案、もしくは工事がされたであろうとの推論が出されている。\n福寿寺には、福寿寺写一切経所があった(正倉院文書天平13年閏3月)。\nこの写経所は、皇后宮職写経司が寺内に移されたものであると見られている。\nこの正倉院文書の記述から、工事の完成は文書の日付の天平13年閏3月のことであろう。\n境内の位置であるが、森郁夫は二月堂仏餉屋付近の発掘調査から、福寿寺の堂舎の1つであったとされる阿弥陀堂の場所をここに求めたことから、いまの二月堂のある上院地区にあったという見方が支持されている。", "qas": [ { "question": "福寿寺への写経所の移動工事の完成日はいつだとされているの?", "id": "tr-409-04-000", "answers": [ { "text": "天平13年閏3月", "answer_start": 210, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "福寿寺の創建に深く関与した人物とは誰ですか?", "id": "tr-409-04-001", "answers": [ { "text": "光明皇后", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "金鐘寺と福寿寺の2つの寺院はのちに統合され、大養徳国金光明寺(やまとのくにこんこうみょうじ)と呼ばれる大和国の国分寺となった。\nこれが、東大寺の直接の前身である。\n国分寺建立の詔は、紫香楽宮から、天平13年(741年)2月14日に出されている。\nちなみに、大仏造立発願の詔が出たのは、同じく紫香楽宮の、この2年半後の天平15年(743年)10月15日のことである。\n大養徳国金光明寺は、各国の国分寺の中では珍しく、新たに建立されたものではなく、前身となった寺院が認められていることになる。\n統合の時期であるが、福寿寺一切経写経所の名が金光明寺一切経写経所と改名されたことが分かる文献もあり、天平14年7月頃と推測されている。\n金光明寺の金堂の所在地については論争が続いている。\n法華堂(三月堂、羂索堂)に葺かれている瓦から堂の創建年代を天平13年初夏から14年7月頃と見なし、この堂が福寿寺の金堂であり、さらには金光明寺の金堂にもなったとする説がある。\n一方、この説に不備や不自然な点があると指摘し、また、福寿寺は金鐘寺に吸収されて合併した可能性から、金堂の推定地について他の候補を挙げる説もある。", "qas": [ { "question": "東大寺の直接の前身とは何ですか?", "id": "tr-409-05-000", "answers": [ { "text": "大養徳国金光明寺", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "国分寺建立の詔と大仏造立発願の詔はどこから出ましたか?", "id": "tr-409-05-001", "answers": [ { "text": "紫香楽宮", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "金鐘寺とどの寺がくっついて大養徳国金光明寺になったの?", "id": "tr-409-05-002", "answers": [ { "text": "大養徳国金光明寺", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "金光明寺は前身寺院があるとはいえ、そのままの寺観だったわけではなく、大仏を本尊とする前から規模を拡大しつつあった。\n他国の国分寺の整備主体が各国の政庁だったように、大養徳国でも同様だったとする場合、問題となるのは、大養徳国の行政主体となるべき国庁の実態が不明であることである。\nこの当時の大養徳国の政治の実態はよく分かっておらず、国庁が大養徳国金光明寺の建設計画に関っていたのかすら判明していない。\n『続日本紀』の天平15年の記述「別に大養徳国金光明寺に殊勝の会を設け奉りて、天下の摸(ためし)と為さむとす」から、大養徳国金光明寺が特別な扱いを受けていると見ることもでき、大仏は別としてもこの首都国の国分寺は有力であったことがうかがえる。\nただし、大和国の国分寺を東大寺及びその前身寺院ではなく、現在の奈良県橿原市にある国分寺(現在は浄土宗)に求める説(『大和志』(享保19年(1734年))など)もあり、歴史事典類でも大和国国分寺の場所については両説がある。\n例えば、吉川弘文館『国史大辞典』の「国分寺」(執筆者:井上薫)は東大寺を大和国国分寺としているのに対し、角川書店『平安時代史事典』の「国分寺」(執筆者:角田文衛)は国分寺を大和国国分寺としている。", "qas": [ { "question": "東大寺を大和国国分寺としている歴史辞典は何ですか?", "id": "tr-409-06-000", "answers": [ { "text": "『国史大辞典』", "answer_start": 440, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "現在の奈良県橿原市にある国分寺が、大和国の国分寺であると記している書物とは何ですか?", "id": "tr-409-06-001", "answers": [ { "text": "『大和志』", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東大寺の中心である大仏造立は天平17年に始まったが、これは国分寺建立とは別である。\nこの2つの大事業が東大寺として合併したのは、最初から意図されたことではない。\n大仏造立は当初紫香楽宮で計画されたが、その背景として数々の理由が挙げられる。\nまず、天平9年(737年)に九州から畿内にかけて天然痘が蔓延(天平の疫病大流行)し、老若男女貴賤を問わず、多くの者が倒れた。\n病死者の中には、光明皇后の後ろ盾として政権を担っていた藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂の、いわゆる藤原四兄弟も含まれていた。\n兄たちを次々と失った光明皇后は、その不安から聖武天皇へ大仏建立を強く勧めたとされる。\nまた、天平12年に聖武天皇が河内国大県郡の智識寺を訪ね、その寺の盧舎那仏から大いに影響を受けたという。\nこの智識寺は、名が表すとおり智識(同信集団)の勧進銭によって建立された寺で、それは東大寺成立の過程にも反映された。", "qas": [ { "question": "聖武天皇に大仏建立を強くお願いした女性とは誰ですか?", "id": "tr-409-07-000", "answers": [ { "text": "光明皇后", "answer_start": 261, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "光明皇后の兄である藤原四兄弟の死亡原因は何でしたか?", "id": "tr-409-07-001", "answers": [ { "text": "天然痘", "answer_start": 144, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "智識寺にある東大寺と共通する仏像とは何ですか?", "id": "tr-409-07-002", "answers": [ { "text": "盧舎那仏", "answer_start": 326, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大仏造立発願の詔は、この2年半後の天平15年(743年)10月15日、紫香楽宮から発せられた。\n当初の計画では、離宮であった紫香楽宮近くで、一時期近江国国分寺にも当てられた甲賀寺に大仏が造営されることになっていた。\nこの計画では、民衆の多大な支持を集め、一時期には政権から危険視されていた僧・行基を起用、重用することで民衆の理解を求めた。\n現在、紫香楽宮の遺跡は発掘調査が行われており、その結果、現在の信楽町大字黄瀬の宮町遺跡として知られる場所に宮があり、史跡にも指定されている紫香楽宮址こそが甲賀寺の跡であろうと確定的に見られている。\nところが、紫香楽宮での大仏造立計画は何故か中止となり、天平17年(745年)、聖武天皇は恭仁京からの遷都を発表(とはいえ、この当時は、大半の行政が紫香楽宮で行政が行われていた)、都を平城京へ復することとなった。\nこれには、頻発した地震や反対勢力の抵抗などの原因が指摘されているが、わざわざ建設半ばの大仏までも捨ててしまうほどの肝心の主因はよく分かっていない。\n飯沼賢治は大仏建立に関して聖武天皇と光明皇后の間に仏教観の相違を含めた対立が存在したとする見方を取る。\n飯沼は聖武の意向は行基教団や知識集団を巻き込んで紫香楽に建立する構想であったが、光明の意向は国家事業として自らが建立に関わった福寿寺の後身で国分寺の中心であり、いずれは所謂「国家仏教」の中核として機能する筈である奈良の東大寺に建立する構想を持っており、そのモデルは亡き父・藤原不比等および唐の則天武后の仏教政策であったと推測する(行基に対する朝廷の弾圧が激しかったのは不比等の政権下である)。\n聖武天皇と光明皇后の仏教観の対立は政治的対立の要素を帯び、最終的に皇后側が勝利して天皇の意図した紫香楽の大仏計画は中止されて、改めて皇后が意図する東大寺での大仏計画が開始され、政権は皇后を支えた藤原仲麻呂が主導権を得ることになったとする。", "qas": [ { "question": "計画当初に大仏造営地となっていた寺とはどこですか?", "id": "tr-409-08-000", "answers": [ { "text": "甲賀寺", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "光明が東大寺建立の構想モデルとした、仏教政策を行った海外の人とは誰でしょうか?", "id": "tr-409-08-001", "answers": [ { "text": "則天武后", "answer_start": 647, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "平城京が遷都される前はどこに都がありましたか?", "id": "tr-409-08-002", "answers": [ { "text": "恭仁京", "answer_start": 313, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "恭仁京が都ではあったが、実際に行政を行っていた場所はどこですか?", "id": "tr-409-08-003", "answers": [ { "text": "紫香楽宮", "answer_start": 274, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そして、大仏は、平城京東方に当たる東大寺に造られることとなった。\n以上が、全く別のものであった大仏造立と大養徳国金光明寺建立の計画が合併したあらましである。\n長門国長登銅山の銅、陸奥国を国司として治めていた百済王敬福から贈られた鍍金用の金を材料にして、金光明寺造物所は大仏を鋳造をした。\n大仏の開眼供養会は、天平勝宝4年(752年)4月9日に催された。\nこのとき開眼の筆をとって導師をつとめたのが菩提僊那であり、この筆は正倉院に保存され、後に大破した大仏が復興された際の開眼供養にも使用されることになる。\nこの筆には、五色の縷がつけられ、大仏殿の外までにもひかれた。\n民衆達は大仏に結縁しようと、我さきにこの糸に群がった。\n貴賤老若男女問わず信仰を集めた東大寺のありさまが伝わるエピソードである。\nその一年前に、金堂(大仏殿)が落慶したことを『東大寺要録』は伝えるが、他の堂宇の整備計画が進む中で、その様な短期間に大仏殿が完成できるか、その工事が大規模なものであったことが予想できるだけに、疑問の残るところである。\n果たして、計画からわずか7年での大仏開眼供養会の際、いかほどに造営計画はすすんでいたのか、その進捗の経過には、様々に推測がなされている。", "qas": [ { "question": "大仏の開眼供養会で導師をつとめた人は誰ですか?", "id": "tr-409-09-000", "answers": [ { "text": "菩提僊那", "answer_start": 198, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大仏鋳造の材料である金はどこから入手しましたか?", "id": "tr-409-09-001", "answers": [ { "text": "陸奥国", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "平安時代末期に焼失することになる初代の大仏の様子は、平安時代の絵巻物『信貴山縁起』(絵巻、朝護孫子寺蔵)の絵からうかがい知ることができる。\nこの絵から、垂木や角木の木口にも金箔で荘厳された大仏殿の様子を見ることができる。\n信貴山に住んでいた僧命連には尼僧の姉があって、これが信濃国から弟に会うために大和へやって来た。\nが、弟の詳しい所在が知れない。\n尼僧は戒を受けたところである東大寺の大仏殿に籠った。\nすると、大仏からお告げがあり、西南の紫雲たなびく山に命蓮がいる、と伝えた。\n果たして姉は、弟に無事会うことができ、以降ふたりはともに暮らしたのだった、という物語である。\nこの尼僧の大仏殿に参籠する場面に、初代の大仏殿が描かれているのである。", "qas": [ { "question": "初代の大仏殿が描写されている絵巻とは何ですか?", "id": "tr-409-10-000", "answers": [ { "text": "『信貴山縁起』", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "唐の高僧・鑑真が失明するほどの艱難辛苦の末に難波にたどり着いたのは、大仏開眼の1年後の、天平勝宝5年(753年)のことである。\nそれまで正式の戒壇のなかった日本からの要請にこたえ来日したもので、鑑真は大仏殿西に戒壇院を設立し、聖武天皇や多くの僧に戒を授けた。\nこれまで、東大寺の僧といえば羂索堂衆だったが、寺内の整備が完了する奈良時代の終わりのころから、この戒壇院でも鑑真の法脈を伝える僧が活動をはじめることとなった。\n東大寺戒壇は、下野国の薬師寺や大宰府の観世音寺と三戒壇に数えられ、平安時代に作られ下野薬師寺の代りに発展していった比叡山戒壇とともに多くの官僧を生み出していった。\nこのことは日本仏教に大きな影響を及ぼし、日本から大陸に渡った僧も一人前の比丘として扱われるようになった。\nまた、受戒してからの年数――つまり法臘(戒臘とも)は年功序列制の素となり、寺院内で身を立て、出世していくための「武器」として重視されるようになる。", "qas": [ { "question": "聖武天皇に戒を授けた僧は誰ですか?", "id": "tr-409-11-000", "answers": [ { "text": "鑑真", "answer_start": 97, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本への来日途中で視力を失ってしまった高僧とは誰ですか?", "id": "tr-409-11-001", "answers": [ { "text": "鑑真", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東大寺は、六宗兼学の場として世に広く知られるようになった。\n六宗とはすなわち、法相宗(法性宗)、三論宗、倶舎宗(薩婆多宗)、成実宗、華厳宗(花厳宗)、律宗のことであり、すべて中国から起こり、伝来したものであった。\n当時の宗とは、教団というよりは仏教教理の学派に近い。\nそれゆえ、兼学の場ができたとも言える。\nこの様な兼学の形態は、南都の寺院では広く見られたものである。\nこの六宗兼学の場(後、真言、天台加わって八宗兼学の場)の性格は、現在の東大寺でも見られるが、中でも重んじられたのが、本尊の大仏の性格が華厳経の教えに則ったものであることからも分かるように、華厳宗である。", "qas": [ { "question": "六宗の起源はどこですか?", "id": "tr-409-12-000", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "六宗の中で東大寺が重んじたのは何ですか?", "id": "tr-409-12-001", "answers": [ { "text": "華厳宗", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "平安時代になると、東大寺の伽藍の各所で荒廃が見受けられるようになった。\n当時の日本の建築技術を度外視した巨大な木造建築であり、その巨大な伽藍は風雨の害を受けやすい。\nさらに東大寺の寺内の自治力が下がってきたことも原因として挙げられる。\n大仏そのものも腰の部分に亀裂が入ったり、地震で頭部が転落するなどの災厄に見舞われたが、大仏殿に支柱を立て、大仏の後部に支えの土を盛り、頭部は吊上げて固定するなどしてしのいでいる。\nさて、東大寺への真言宗の浸透は、伽藍の荒廃を一層進めた。\nつまり、僧ひとりひとりが貴族など権力者と結びついて加持祈祷、呪詛を行い、各人が所属する僧坊での私生活に重きが置かれるようになったのだ。\nまた、さらに僧侶、僧坊の個別化、分散化、世俗化がすすみ、一人ひとりが住居する私僧坊が発展する。\nすると、東大寺全体の管理が疎かになってしまう。\n合せて、10世紀末頃には、造東大寺所(前造東大寺司)の知事僧も勤務を怠けるようになり、東大寺は南大門や羂索院双倉、大仏殿後戸の傷みが次第に激しくなり崩壊の危機に瀕することとなる。", "qas": [ { "question": "平安時代に東大寺全体の管理が疎かになっていった原因に、東大寺に何の宗派が浸透したことがあげられますか?", "id": "tr-409-13-000", "answers": [ { "text": "真言宗", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "しかしこの悪しき風潮は、11世紀中頃に改められた。\n境内の有様に危機感を覚えた僧は改修に勤しみ、寺の財政を一本化し、造東大寺所を完全に傘下に置いて組織を東大寺修理所に改めた。\nこの改組は組織の規模を大きく小さくしたが、官の手を離れて政所の傘下に収めたことで働きが良くなった。\nこの修造は、11世紀中頃から1160年代の南大門再建まで続き、境内の堂宇の多くが修理修造された。\n永長元年(1096年)には朝廷からの命令もあり、さらに修繕が進んだ。\n天永元年(1110年)からは国の主催の下に大仏殿の大改修も行い、前年には造東大寺司も復している(が、この大改修の後は、また寺主体の修造に戻った)。\nこの時代、世間からは「ておのゝおとする所」(『大鏡』)と呼ばれ、寺側もこれを受けて「東大寺の斧音絶えざる由、世を以つて伝へ申すところなり」と自らを表現している。\nまた、伊賀国の黒田荘・玉瀧荘などに代表される東大寺領の荘園の整備が進んだのもこの時期である。", "qas": [ { "question": "11世紀中頃に造東大寺所は何と改められましたか?", "id": "tr-409-14-000", "answers": [ { "text": "東大寺修理所", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東大寺修理所による大仏殿の大改修はいつ行われましたか?", "id": "tr-409-14-001", "answers": [ { "text": "1110年", "answer_start": 227, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "そしてこの大修造時代が、東大寺を中世寺院へと脱皮させ、荘園経済に移行させたのだと新井孝重は説いている。\n伊藤正敏は、この時期の東大寺の境内、東大寺郷(東大寺七郷)は都市化、宅地化した都市であるとし、東大寺を含む中世寺社境内に発達した都市を「境内都市」と名付けた。\nこの時代の寺社は「無縁」の地として、老若男女貴賤関係なく集住していたが、東大寺も例外ではなく、僧侶自身も境内地を私有し売買するなど俗人の生活を営んでいた。\n当地は商業も発達し、子院の楞伽院では油屋、金融の経営も行われている。", "qas": [ { "question": "「境内都市」の名付け親は誰ですか?", "id": "tr-409-15-000", "answers": [ { "text": "伊藤正敏", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵が勃発した。\n後白河院の子、以仁王は、平氏主導で進められた安徳天皇の即位に不満を持ち、清和源氏の長老・源頼政とともに謀反を計画した。\nしかし、準備の段階で謀略は発覚し、王は近江園城寺(三井寺)まで逃がれた。\n王は、協力の呼びかけに応えてくれた南都興福寺に下らんとしたが、その行く手を阻む平氏と戦い、終に討ち死にした。\nこの当時、たびたび上洛、強訴しようとする南都の大衆、僧兵の力は強く、平氏も南都北嶺の影響力に頭を悩ませていた。\nこの年には源氏との富士川の戦いでの大惨敗もあり、また畿内の騒擾も相まって平氏は窮地へ追い詰められつつあった。\nそこで、何かと煩わしい南都を討つことで畿内の基盤を固めようと画策した。\nそれまで、朝廷からの直接の厚い保護もある南都は一度も直接武力攻撃を受けなかった。\nしかし平家は12月15日までに近江、伊賀、伊勢を平定した後、南都掃討の作戦を実行に移した。", "qas": [ { "question": "以仁王の父親名は何ですか?", "id": "tr-409-16-000", "answers": [ { "text": "後白河院", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "以仁王と一緒に挙兵を計画した武士は誰ですか?", "id": "tr-409-16-001", "answers": [ { "text": "源頼政", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "以仁王はどこに向かう途中で殺されましたか?", "id": "tr-409-16-002", "answers": [ { "text": "南都興福寺", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "安徳天皇の即位を主導した人たちは何ですか?", "id": "tr-409-16-003", "answers": [ { "text": "平氏", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "治承4年12月25日、平氏の長平清盛の五男である平重衡は南都へ向け兵を率いて出発した。\n迎える僧兵を蹴散らした重衡の軍勢の主力は28日、ついに南都へ攻め入った。\n重衡は田口成良を先兵とし、般若寺のある般若坂の守りを固める大衆の守りを突破、南都を焼討ちにし大勝した。\n僧叡俊の作成した文書に、以下の記述がある(東大寺文書)。\n「治承四年十二月廿八日、興福寺と官兵との合戦の間、官兵処々に放火、猛火次第に東大興福両寺に飛び移り、寺中寺外ことごとく消失す」と。\nまた、『平家物語』にも、長々と無残にも風にのった炎に崩れ行く堂舎仏像と炎にまかれて死ぬ人々の阿鼻叫喚の有様が描写されている。\nのちに、南都の復興に大いに力を貸すことになる右大臣九条兼実は、この南都の被害を聞いて、絶句するほどであった(『玉葉』)。\n東大寺や興福寺は大半が焼失し、僧侶や避難していた民衆など数千人が焼死したという。", "qas": [ { "question": "南都焼討ちの様子が描写してある書物とは何ですか?", "id": "tr-409-17-000", "answers": [ { "text": "『平家物語』", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南都焼討ちで大半が焼失した寺は東大寺と何ですか?", "id": "tr-409-17-001", "answers": [ { "text": "興福寺", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南都を焼き討ちした平氏の姓名は何ですか?", "id": "tr-409-17-002", "answers": [ { "text": "平重衡", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南都の復興に力を注いだ公家は誰ですか?", "id": "tr-409-17-003", "answers": [ { "text": "九条兼実", "answer_start": 316, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大仏殿は焼け崩れ、大仏は融け落ち、東大寺はまさしく風前の灯だった。\nこの状況で復興にあたったのが、勧進の僧・重源である。\nその大勧進による東大寺再建の過程は、三期に分けて解説される。\n大仏の再造(第一期)、大仏殿の再建(第二期)、その他堂宇、仏像の工作(第三期)である。\n重源は「支度第一」(『法然上人行状絵伝』)と呼ばれたその実務能力を発揮して、見事に東大寺再興をしたのだった。\n当時の時代背景として、朝廷や鎌倉政権、奥州政権の相克、それに伴う戦乱、飢饉や地震。\nさらには他の寺院の復興との競合があった。\n幾多の障害が立ちはだかる中で、この勧進は時代の救世となるものとして民衆から大きく支持された。\nこの時代を舞台にした歌舞伎の演目、『勧進帳』も、この民衆の大仏への帰依を背景にしている。", "qas": [ { "question": "大仏殿を復興するにあたり活躍した僧侶は誰ですか?", "id": "tr-409-18-000", "answers": [ { "text": "重源", "answer_start": 54, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大勧進による東大寺再建を時代背景とした歌舞伎の演目は何ですか?", "id": "tr-409-18-001", "answers": [ { "text": "『勧進帳』", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "元々、重源は、東大寺と関係のない僧であった。\n重源は十代前半に醍醐寺で出家し、藤原師行の後援のもとで3度の入宋を果たした経験豊かな漂泊の聖であり、それまでも高野新別所(専修往生院)を結んだことでも知られる。\n養和元年、大勧進職に任ぜられたのは、齢も60をすぎてからであった。\n朝廷から役所は、造東大寺司と修理大仏司の2つが設けられた。\n修理大仏司が新設されたのは、大仏殿の炎上に巻き込まれた大仏の痛み具合、特に頭部の損傷が激しく、心して当たる必要に迫られたからである。\n造東大寺司の長官は藤原兼光(その後造興福寺長官に)、後に藤原行隆、続いて藤原定長、次官三善為信、判官中原基康、主典三善行政が、修理大仏司の長官は兼任として行隆ともう一人、異例ながら身分の低い官務家の小槻隆職が長官として任ぜられ、また後に次官小槻有頼、判官大江国通、主典仲原資広が就いた。", "qas": [ { "question": "重源が3度行ったという日本国外の地域はどこですか?", "id": "tr-409-19-000", "answers": [ { "text": "宋", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "造東大寺司の長官を3番目に務めた人は誰ですか?", "id": "tr-409-19-001", "answers": [ { "text": "藤原定長", "answer_start": 271, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "バルト諸国占領", "paragraphs": [ { "context": "バルト諸国占領(バルトしょこくせんりょう)とは、エストニア、ラトビアおよびリトアニアが、初めは1939年のドイツ国とソ連が締結したモロトフ・リッベントロップ条約の条項に基づきソ連によって、続いて1941年から1944年まではドイツによって、さらに1944年から1991年までは再びソ連によって行われた占領のことである。", "qas": [ { "question": "バルト諸国とは、エストニア、ラトビアとどの国の三国のことを言うの?", "id": "tr-410-00-000", "answers": [ { "text": "リトアニア", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1939年から1991年にかけて、二度もバルト三国を占領したのは、どの国か?", "id": "tr-410-00-001", "answers": [ { "text": "ソ連", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ国とソ連のうち、最初にバルト三国を占領した時期がより早いのは、どの国ですか?", "id": "tr-410-00-002", "answers": [ { "text": "ソ連", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1940年の時点でバルト三国を占領していたのは、どの国か?", "id": "tr-410-00-003", "answers": [ { "text": "ソ連", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1939年9月、第二次世界大戦が開始された時にはバルト三国の運命は1939年8月の独ソ不可侵条約とその秘密議定書によって既に定まっていた。バルト三国の第二次世界大戦時の被害はヨーロッパにおける最大のものの1つである。人口の損失はエストニアの25%、ラトビアの30%、リトアニアの15%と見積もられている。戦争と占領において死亡した犠牲者数はエストニアで9万人、ラトビアで18万人およびリトアニアの25万人と推定される。これには1941年のソビエトによる追放、ドイツによる追放、およびホロコーストの犠牲者を含んでいる。", "qas": [ { "question": "独ソ不可侵条約とは、いつ締結されたものであるの?", "id": "tr-410-01-000", "answers": [ { "text": "1939年8月", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バルト三国のうち、第二次世界大戦による人口の損失の割合が最も大きいのは、どの国ですか?", "id": "tr-410-01-001", "answers": [ { "text": "ラトビア", "answer_start": 124, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "バルト三国のうち、第二次世界大戦および占領による死亡者数が最も多いのは、どの国か?", "id": "tr-410-01-002", "answers": [ { "text": "リトアニア", "answer_start": 192, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ラトビアとエストニアのうち、第二次世界大戦および占領の影響で死亡した人口数がより多いのは、どの国か?", "id": "tr-410-01-003", "answers": [ { "text": "ラトビア", "answer_start": 180, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ペレストロイカ期の1989年に始まったソビエト史の再評価で、ソ連は自国とドイツとの間で結ばれた1939年の秘密議定書がバルト三国への侵攻と占領を導いたとして自己批判している。", "qas": [ { "question": "ソ連は、何がバルト三国への侵攻と占領のきっかけとなったと言っているの?", "id": "tr-410-02-000", "answers": [ { "text": "1939年の秘密議定書", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ソ連は、何年から始まった国でありますか?", "id": "tr-410-02-001", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "バルト三国の独立を求めた闘争は1991年に結実し、各国の独立が回復してソ連から離脱した後は、その半年後のソ連の最終的な分裂を加速した。ロシア軍は、1993年8月にバルト三国からの撤退を開始した(初めはリトアニアから)。最後のロシア軍部隊は1994年8月にバルト諸国から撤退している。ロシア政府は1998年8月まで、スクルンダ-1のレーダー基地を借りる契約を結んでいた。最後のロシア軍部隊は1999年10月にスクルンダ-1から撤退している。", "qas": [ { "question": "バルト三国の独立は、何年に果たされたか?", "id": "tr-410-03-000", "answers": [ { "text": "1991年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1991年までバルト三国を占領・支配していたのは、どの国か?", "id": "tr-410-03-001", "answers": [ { "text": "ソ連", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロシア軍がバルト三国から完全に撤退したのは、いつのことか?", "id": "tr-410-03-002", "answers": [ { "text": "1994年8月", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロシア軍がバルト三国からの撤退を開始したのは、いつのことか?", "id": "tr-410-03-003", "answers": [ { "text": "1993年8月", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "以前はロシア帝国の領土であったバルト海のフィンランド、エストニア、ラトビアおよびリトアニアの4カ国は第一次世界大戦後、エストニア、ラトビアおよびリトアニアの独立戦争を経て1920年までに各国の国境を確定した。1924年、リトアニア、ラトビアおよびエストニアは、最終的な侵略者に対する相互防衛協定に調印した。10年後には、スターリン指導下のソ連は、1944年までこれらのバルト三国を攻撃しないことを誓約した。", "qas": [ { "question": "以前、ロシア帝国の領土に入れられていたバルト海の4カ国には、フィンランド、エストニア、ラトビアのほかに、どの国があるの?", "id": "tr-410-04-000", "answers": [ { "text": "リトアニア", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "以前、ロシア帝国の領土に入れられていたバルト海の4カ国のうち、独立戦争を行ったとの内容が書かれていないのは、どの国ですか?", "id": "tr-410-04-001", "answers": [ { "text": "フィンランド", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バルト海の4カ国は、何年まで各国の国境を確定したか?", "id": "tr-410-04-002", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リトアニアとラトビア、エストニアの3国の間で、相互防衛協定が結ばれたのは、何年のことか?", "id": "tr-410-04-003", "answers": [ { "text": "1924年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1939年8月24日早朝、ソビエト連邦とドイツは期間10年の独ソ不可侵条約に調印した。この条約には1945年のドイツ敗戦後になってから初めて明かされる秘密議定書が含まれていた。その条項によるとヨーロッパの北部と東部の国々がドイツとソビエトの「勢力圏」に分割されていた。北部ではフィンランド、エストニア、およびラトビアはソビエトの勢力圏に割り当てられていた。ポーランドについてはナレフ川、ヴィスワ川、サン川の東側地域はソビエト、西側地域はドイツが占領することになっていた。東プロイセンに隣接するリトアニアは当初ドイツの勢力圏となる予定だったが、1939年9月に合意された次の秘密議定書(ドイツ・ソビエト境界友好条約)ではリトアニアの大部分はソ連に割り当てられた。秘密条項により、リトアニアは戦間期にはポーランドに支配されていた、かつての首都ヴィリニュスを取り戻した。", "qas": [ { "question": "ソビエト連邦とドイツの間で、独ソ不可侵条約が締結されたのは、いつなの?", "id": "tr-410-05-000", "answers": [ { "text": "1939年8月24日早朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1939年8月24日に締結された独ソ不可侵条約に含まれていた秘密議定書が、初めて明かされたのは、何年のことですか?", "id": "tr-410-05-001", "answers": [ { "text": "1945年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1945年に初めて明かされた秘密議定書とは、いつ結ばれた条約に含まれたいたものであるか?", "id": "tr-410-05-002", "answers": [ { "text": "1939年8月24日早朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "リトアニアは当初どの国の勢力圏に入るだろうとされていたか?", "id": "tr-410-05-003", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 254, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1939年9月24日、赤軍の海軍軍艦がエストニアの港沖に現れ、ソ連軍爆撃機がタリンとその近郊上空で威嚇飛行を始めた。9月25日、ソ連はバルト三国全ての空域に入り、大規模な情報収集活動を実施した。ソ連政府はバルト三国がその領土にソ連の軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求した。1939年9月28日、エストニア政府は最後通告を受諾し、関連する協定に調印した。10月5日にラトビアが続き、リトアニアは10月10日に調印した。その協定はヨーロッパの戦争の期間、ソ連がバルト三国の領土にソ連の軍事基地を建設することと1939年10月からエストニアに2万5千人、ラトビアに3万人、リトアニアに2万人の赤軍駐留を認めるものだった。", "qas": [ { "question": "ソ連政府は、バルト三国に何を建設することを許可することを要求してきたの?", "id": "tr-410-06-000", "answers": [ { "text": "軍事基地", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1939年9月28日、エストニアはどの国との協定に調印しましたか?", "id": "tr-410-06-001", "answers": [ { "text": "ソ連", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バルト三国のうち、ソ連との協定に最も早く調印したのは、どの国か?", "id": "tr-410-06-002", "answers": [ { "text": "エストニア", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ラトビアとエストニアのうち、ソ連との協定により早く調印したのは、どの国か?", "id": "tr-410-06-003", "answers": [ { "text": "エストニア", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ソ連はフィンランドにも同様の協定への調印を要求したがフィンランドは拒否し、1939年11月30日、ソ連はフィンランドに侵攻し、冬戦争が勃発した。この侵攻は国際連盟によって違法なものと判断され、12月14日にソ連を国際連盟から除名する。この戦争は1940年3月13日に終り、フィンランドとソ連はモスクワ平和条約に調印した。フィンランドは首都ヘルシンキに次ぐ第2の都市ヴィープリを含む産業の中心部も併せてカレリアのほとんど全て(全部で領土の10%近く)を譲渡することを強制された。軍隊と残っていた住民は、新しい国境の内側に急いで避難している。フィンランドの全人口の12%に相当した42万2千人のカレリア住民が家を失った。フィンランドはバレンツ海のリバチー半島(英語:RybachyPeninsula、フィンランド語:Kalastajasaarento)のフィンランドの領域であったサッラ(Salla)の一部に加えてフィンランド湾のスールサーリなど4つの島[24]も譲渡しなくてはならなかった。最終的にハンコ半島は30年間海軍基地としてソ連に貸与された。1941年6月、フィンランドとソ連は継続戦争で交戦を再開する。", "qas": [ { "question": "ソ連がフィンランドに侵攻したのは、いつのことなの?", "id": "tr-410-07-000", "answers": [ { "text": "1939年11月30日", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "冬戦争は、ソ連とどの国の間で勃発した戦争でありますか?", "id": "tr-410-07-001", "answers": [ { "text": "フィンランド", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ソ連が国際連盟から除名されたのは、どの国への侵攻が違法であったからか?", "id": "tr-410-07-002", "answers": [ { "text": "フィンランド", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "冬戦争の続きとされる戦争は、何か?", "id": "tr-410-07-003", "answers": [ { "text": "継続戦争", "answer_start": 492, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バルト三国に対してあり得る軍事行動のため配置された赤軍部隊には43万5千人の兵員、約8千の大砲と迫撃砲、3千台以上の戦車、500台以上の装甲車があった。1940年6月3日、バルト三国を拠点とする全ての赤軍はアレクサンドル・ロクティオノフ(AleksandrLoktionov)の指揮下に統合されていた。", "qas": [ { "question": "バルト三国に対してあり得る軍事行動のため配置された赤軍部隊の兵力は、何人にも至ったの?", "id": "tr-410-08-000", "answers": [ { "text": "43万5千人", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バルト三国を拠点とする赤軍は、誰の指揮下に統合されていましたか?", "id": "tr-410-08-001", "answers": [ { "text": "アレクサンドル・ロクティオノフ", "answer_start": 103, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "赤軍による制圧直後から、地元の共産主義支援者およびロシアから入った者達の指導で、三国全ての大統領と政府の辞任が強制され、彼らのかわりに完全に共産主義者からなる「人民の政府」に変えられた。これらの作業を監督・指導するため、スターリンの側近のうち、アンドレイ・ジダーノフがエストニアへ、アンドレイ・ヴィシンスキーがラトビアへ、ウラジーミル・デカノゾフがリトアニアへそれぞれ派遣された。", "qas": [ { "question": "スターリンの側近のうち、エストニアへ派遣されたのは、誰か?", "id": "tr-410-09-000", "answers": [ { "text": "アンドレイ・ジダーノフ", "answer_start": 122, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スターリンの側近のうち、リトアニアへ派遣されたのは、誰か?", "id": "tr-410-09-001", "answers": [ { "text": "ウラジーミル・デカノゾフ", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "翌7月にはソ連に忠実な地元の共産主義者によって仕組まれた議会選挙を実施した。共産主義者と彼らの同盟者のみ参加が認められた。選挙結果は完全な捏造で、ソビエト報道部は投票の終了する24時間以上前にロンドン紙にその結果を付けて選挙を取り上げている。選挙の結果、バルト三国全ての議会で共産主義者が多数派となり、全く寝耳に水の話に対する人々の抗議を押し切って、8月には彼ら全員でソ連への併合を求める動議を提出した。いずれの国でもその動議が可決される。ソ連は予定通り三つの嘆願書全部を「受け入れ」、正式にバルト三国を併合する。", "qas": [ { "question": "7月に実施された議会選挙では、どのような人々と彼らの同盟者しか参加できなかったの?", "id": "tr-410-10-000", "answers": [ { "text": "共産主義者", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ソ連がバルト三国を正式に併合したのは、何月に提出された動議によることですか?", "id": "tr-410-10-001", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 175, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ソ連が、バルト三国の議会を共産主義化するため、三国において議会選挙を行ったのは、何月か?", "id": "tr-410-10-002", "answers": [ { "text": "7月", "answer_start": 1, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ソ連がバルト三国の正式併合の名分を立てるため、自分たちの追従者が三国の議会の大部分を占めるよう、議会選挙を行ったのは、何月のことか?", "id": "tr-410-10-003", "answers": [ { "text": "7月", "answer_start": 1, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "選挙直後、イワン・セーロフ指揮下のNKVD部隊は1万5千人以上の「敵対的分子」とかれらの家族を逮捕している。ソビエト占領の最初の年、つまり1940年6月から1941年6月までの間における確認された処刑、徴兵あるいは国外追放された数は少なくとも12万4千467人と推定され、内訳はエストニアで5万9千732人、ラトビアで3万4千250人、リトアニアで3万485人である。これにはエストニアの8人の前国家元首と38人の大臣、ラトビアの3人の前国家元首と15人の大臣、リトアニアの大統領、5人の首相と24人の他の大臣が含まれる。最後の大規模な作業が1941年6月27日から28日の夜に予定されていた。それは1941年6月22日、ドイツがソ連に侵攻したバルバロッサ作戦が行われた時に戦後まで延期される。歴史家ロバート・コンクエストによれば、バルト三国からの選択されての国外追放は、「カティンの森事件の動機として後には明らかだったように」、政治的および社会的エリートを除くことによる国の「指導層の除去」という政策の典型である。", "qas": [ { "question": "敵対的分子とされる者らと彼らの家族を逮捕するために、動員されたのは、誰の率いる部隊だったの?", "id": "tr-410-11-000", "answers": [ { "text": "イワン・セーロフ", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エストニアとラトビア、リトアニアのうち、1940年6月から1941年6月目での間、敵対的分子とされ、処刑、徴兵あるいは国外追放された人数が最も多いのは、どの国ですか?", "id": "tr-410-11-001", "answers": [ { "text": "エストニア", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ラトビアとリトアニアのうち、1940年6月から1941年6月目での間、敵対的分子とされ、処刑、徴兵あるいは国外追放された人数がより多いのは、どの国か?", "id": "tr-410-11-002", "answers": [ { "text": "ラトビア", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エストニアとラトビア、リトアニアのうち、1940年6月から1941年6月目での間、敵対的分子とされ、処刑、徴兵あるいは国外追放された大臣の人数が最も多いのは、どの国か?", "id": "tr-410-11-003", "answers": [ { "text": "エストニア", "answer_start": 188, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "この時期、リトアニアのカウナスには日本領事館領事代理として杉原千畝が駐在していた。ソ連からはリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告が伝えられ、杉原はソ連政府と日本政府からの再三の退去命令を受けながらも、ドイツのユダヤ人に対する迫害政策から逃れようとしてドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人に対し、1940年7月から彼自身がリトアニアを離れる同年9月にかけて大量のビザを発給している。", "qas": [ { "question": "この時期、日本領事館領事代理としてリトアニアのカウナスに駐在していたのは、誰なの?", "id": "tr-410-12-000", "answers": [ { "text": "杉原千畝", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "杉原千畝がリトアニアから日本に戻ることになったのは、何年のことですか?", "id": "tr-410-12-001", "answers": [ { "text": "1940年", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "杉原千畝は、リトアニアを離れるまで、どのような人々に対し、大量のビザを発給し、助けようとしたか?", "id": "tr-410-12-002", "answers": [ { "text": "ユダヤ人", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "杉原千畝が駐在していたのは、リトアニアのどこだったか?", "id": "tr-410-12-003", "answers": [ { "text": "カウナス", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1940年の7月から8月、エストニア、ラトビア、リトアニアの使節は、アメリカとイギリスに対し、ソビエトによる彼らの国々の占領と併合について正式に抗議を行った。アメリカはスチムソン・ドクトリンの原則に沿い(サムナー・ウェルズの1940年7月23日の宣言)、他のほとんどの西側諸国と同様、併合を決して正式に承認しなかったが、ソビエトの統治に直接的な干渉を行わなかった。バルト三国は国際法に基づいて法的(デ・ジュリ)に存在を続けた。バルト三国の外交および領事の代表は1940年から1991年の間いくつかの西欧諸国(アメリカ、オーストラリア、スイス)でその役目を果している。バルト三国が独立を回復するまでの1940年から1991年までの期間、西欧諸国においてエストニア、ラトビア、リトアニアの外交担当者は、それぞれの国の正式な意見をまとめ、発表することを継続し、各国の利権と各国の市民を保護した。", "qas": [ { "question": "エストニア、ラトビア、リトアニアは、ソビエトによる占領と併合について正式抗議をするため、アメリカとどの国に使節を派遣したの?", "id": "tr-410-13-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカはどの原則により、ソ連によるバルト三国併合を正式に承認しなかったか?", "id": "tr-410-13-001", "answers": [ { "text": "スチムソン・ドクトリンの原則", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バルト三国の事件は単独のものではなかった。独ソ両国はフィンランドとスカンディナヴィア半島にその中立あるいは主権を侵害する居留地を要求した。ドイツはノルウェーでの戦闘中、スウェーデンに圧力をかけてノルウェーと南スウェーデンの港との間で物資と人を輸送する権利を認めさせようとし、これはノルウェーの敗退後に達成される。その直後、ソ連はフィンランドに圧力をかけハンコ海軍基地とソ連国境間の輸送の権利を要求し始め、ペツァモ(Petsamo、現ロシア領ペチェングスキー地区)のニッケル鉱山の支配権とともにモスクワ平和条約の中のフィンランドの譲歩として達成された。", "qas": [ { "question": "独ソ両国はフィンランドとどの半島に対し、その中立あるいは主権を侵害する居留地を要求しましたか?", "id": "tr-410-14-000", "answers": [ { "text": "スカンディナヴィア半島", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツはスウェーデンに対し、ソ連はどの国に対し、物資と人を輸送する権利を認めさせようと圧力をかけたか?", "id": "tr-410-14-001", "answers": [ { "text": "フィンランド", "answer_start": 164, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "タイタン(衛星)", "paragraphs": [ { "context": "タイタンは、土星の第6衛星で最大の衛星である。太陽系内の衛星としては唯一、豊富な大気を持つ天体であり、地球以外で唯一、表面に安定的に液体が存在することが確認されている天体である。\n\n木星の衛星であるガニメデに次いで、太陽系では2番目に大きな衛星で、よく「惑星のような衛星」としても記述される。地球の月と較べて半径は1.48倍、質量は1.8倍である。太陽系最小の惑星である水星よりも大きいが、質量はそのわずか40%しかない。\n\nオランダの天文学者クリスティアーン・ホイヘンスによって1655年3月25日に、土星を公転する衛星として初めて発見された。太陽系全体では地球の月、木星の4つのガリレオ衛星に次いで、6番目に発見された衛星である。土星半径の約20倍離れた軌道を公転しており、タイタンの表面から見た土星の大きさは約5.7度で、地球から見た月の11倍程度の視半径である。", "qas": [ { "question": "土星の第6衛星の名前は何ですか。", "id": "tr-411-00-000", "answers": [ { "text": "タイタン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "太陽系で一番目に大きい衛星は何ですか。", "id": "tr-411-00-001", "answers": [ { "text": "ガニメデ", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ガニメデとタイタンと、どっちの方が大きい?", "id": "tr-411-00-002", "answers": [ { "text": "ガニメデ", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "太陽系全体で6番目に発見された衛星は何ですか。", "id": "tr-411-00-003", "answers": [ { "text": "タイタン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "タイタンは主に氷と岩石で構成されている。宇宙時代以前の金星と同様に、分厚く不透明な大気によって、タイタンの表面に関してはほとんど知られていなかった。2004年以降、探査機カッシーニ搭載のホイヘンスによって、タイタン極地に液体炭化水素の湖が発見されるなどの新しい情報がもたらされた。地質学的に若い地表面はほとんど滑らかであり、クレーターが僅かにある程度だが、山や氷の火山と推定されるものが発見されている。カッシーニによる赤外線・電波観測機器によるデータを元にタイタンの全球地質図が作成され、2019年に公表された。\n\n太陽系の衛星の中では唯一、濃い大気とメタン循環を持っている。大気の大部分は窒素であり、残りの僅かな成分はメタンとエタンから成る雲や、窒素に富んだ有機スモッグである。また、地球以外の天体で、安定した液体の存在が明確に確認されている唯一の天体でもある。タイタンには液体メタンの雨が降り、メタンおよびエタンの川や湖が存在すると考えられていた。このことは、カッシーニ探査により確認されている。風雨を含む気候は、砂丘や、液体メタンとエタンによる河川、湖、海、三角州といった地球と似たような特徴的な地形を作り出している。タイタンにある液体(表面と表面下層)と濃い窒素の大気は、94K(-179.2°C、-290.5°F)という極低温の状況下で、地球の水循環に似たメタン循環を起こしている。", "qas": [ { "question": "タイタンは主に岩石と何で構成されているの?", "id": "tr-411-01-000", "answers": [ { "text": "氷", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "太陽系の衛星の中では唯一、濃い大気とメタン循環を持っているのは何ですか。", "id": "tr-411-01-001", "answers": [ { "text": "タイタン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "タイタンにはどんな雨が降りますか。", "id": "tr-411-01-002", "answers": [ { "text": "液体メタンの雨", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "タイタンは1655年3月25日に、オランダの天文学者クリスティアーン・ホイヘンスによって発見された。ホイヘンスは1610年のガリレオ・ガリレイの木星の大きな4つの衛星の発見と、彼の向上した望遠鏡の技術に触発されたとされている。兄であるコンスタンティン・ホイヘンスJr.の援助を借りて1650年代に望遠鏡を建設し始め、彼らが建設した望遠鏡の一つを使って、土星を公転している衛星を初めて観測で発見した。この衛星は、地球の月と木星の4つのガリレオ衛星に次いで、6番目に発見された衛星となった。", "qas": [ { "question": "クリスティアーン・ホイヘンスの母国はどこなの?", "id": "tr-411-02-000", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タイタンは誰によって発見されたの?", "id": "tr-411-02-001", "answers": [ { "text": "クリスティアーン・ホイヘンス", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コンスタンティン・ホイヘンスJr.とクリスティアーン・ホイヘンスと、誰がもっと年上なの?", "id": "tr-411-02-002", "answers": [ { "text": "コンスタンティン・ホイヘンスJr.", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "月、ガリレオ衛星、タイタンのうち、一番あとで発見されたのは何ですか。", "id": "tr-411-02-003", "answers": [ { "text": "タイタン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ホイヘンスは1655年に、DeSaturniLunaObservatioNova(土星の衛星の初観測)を出版し、そこで彼の発見した衛星をSaturniLunaと命名した。ジョヴァンニ・カッシーニが1673年から1686年の間に発見した土星(Saturn)の4つの衛星を公表した後、タイタンとこれらの4つの衛星にはSaturnIからVまでの番号が付与された(タイタンは4番目)。初期にはSaturn'sordinarysatelliteという別名もあった。それ以来、数多くの小さな衛星が土星のより近くに発見されている。土星の新たな衛星が発見されるたびに、タイタンの番号は「第2衛星」→「第4衛星」→「第6衛星」と変更が重ねられてきた。1789年の「第1衛星」ミマスと「第2衛星」エンケラドゥス発見以後は、更なる新発見による混乱を避けるため、この番号制は凍結されることになり、公式にはタイタンは「SaturnVI」(第6衛星)と呼ばれる。\nタイタン(Titan)とその後に発見される7つの衛星の名称は、ジョン・ハーシェルが1847年に出版したResultsofAstronomicalObservationsMadeduringtheYears1834,5,6,7,8,attheCapeofGoodHopeの中で命名されたものである。\n\n土星は英語で「サターン」(ローマ神話の農耕神サートゥルヌスのこと。)といい、サートゥルヌスはギリシャ神話のクロノスと同一視される。このクロノスは「タイタン」(ティーターン、ティタン、チタン)と呼ばれる神族の一柱である。\n\n日本では「タイタン」という英語読みの表記や、ティタンという表記が用いられる。", "qas": [ { "question": "DeSaturniLunaObservatioNovaは何年に出版されたの?", "id": "tr-411-03-000", "answers": [ { "text": "1655年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ホイヘンスはDeSaturniLunaObservatioNovaで、彼が発見した衛星にどんな名称を付けたの?", "id": "tr-411-03-001", "answers": [ { "text": "SaturniLuna", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ResultsofAstronomicalObservationsMadeduringtheYears1834,5,6,7,8,attheCapeofGoodHopeは誰のよって出版されたの?", "id": "tr-411-03-002", "answers": [ { "text": "ジョン・ハーシェル", "answer_start": 449, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「タイタン」の別の日本語表記は何ですか。", "id": "tr-411-03-003", "answers": [ { "text": "ティタン", "answer_start": 701, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "タイタンは地球上における15日と22時間で土星を公転している。タイタンは自転と公転の同期のために、恒久的に同じ面を土星に向けており、土星に対して潮汐固定を起こしている。\n\n主惑星との潮汐相互作用により多くの衛星の自転公転周期が一致しているが、タイタンにおいても自転周期と公転周期は同期している。\n\nこのため、タイタンの表面上にはsub-Saturnianpointと呼ばれる、土星がいつも天頂に見える地点がある。タイタンの経度は、この地点を通る子午線から西向きに測定される。離心率は0.0292で、軌道は土星の赤道から0.306度傾いている。地球から見ると、タイタンの土星からの角距離は土星半径の約20倍である。", "qas": [ { "question": "タイタンは何を公転しますか。", "id": "tr-411-04-000", "answers": [ { "text": "土星", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タイタンの表面上にある、土星がいつも天頂に見える地点は何と呼ばれますか。", "id": "tr-411-04-001", "answers": [ { "text": "sub-Saturnianpoint", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タイタンの軌道は土星の赤道から何度傾いているか。", "id": "tr-411-04-002", "answers": [ { "text": "0.306度", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "土星が太陽の周りを公転するのには地球の時間で29年を要し、したがってタイタンも29年で太陽の周りを公転する。地球と同じように地軸が傾いているため、「季節」変動がある。タイタンの「1年」は地球の29年に相当し、一つの「季節」は地球での7年あまりの長さがある。\n\n小さく不規則な形状をした、タイタンの一つ外側を公転している衛星ヒペリオンは、タイタンと3:4の軌道共鳴の関係にある。理論モデルに基づくと、ヒペリオンは「ゆっくりで滑らかな」軌道の進化を経てタイタンとの共鳴に捕獲されたとは考えづらい。これは、共鳴に捕獲される前にヒペリオンの軌道が不安定化されてしまうと考えられるからである。そのため、ヒペリオンは初めからタイタンと共鳴する安定な軌道領域にあった物質が集積して形成され、不安定な領域にあった物質はタイタンに吸収されたり放り出されたりして失われたと考えられる。", "qas": [ { "question": "タイタンの「1年」は地球の何年ですか。", "id": "tr-411-05-000", "answers": [ { "text": "29年", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "土星が太陽の周りを公転するのに、地球の時間で何年必要ですか。", "id": "tr-411-05-001", "answers": [ { "text": "29年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "タイタンの直径は5,149.86kmで、中心に直径3,400kmの岩石部分があり、その周りは異なる氷の結晶で構成されたいくつかの層で覆われている。半径は水星の1.06倍、月の1.48倍、地球の0.40倍である。1980年にボイジャー1号が探査する以前は、タイタンはガニメデ(直径5,268km)よりわずかに大きいと考えられ、太陽系最大の衛星であるとされていた。これはタイタンの高密度で不透明、そして表面から数km上空まで存在する大気によって、見かけ上の大きさが過大評価されてしまったためである。タイタンの直径と質量、密度は木星の衛星であるガニメデとカリストと似通っている。タイタンの密度は1.88g/cm3で、これに基づくとタイタンの組成は半分が氷で、もう半分は岩石となる。この組成はディオネやエンケラドゥスに似ているが、重力圧縮によりタイタンの方が高密度になっている。タイタンの土星に対しての質量比は約4,273.5分の1、直径比は約23.4分の1で、惑星に対する衛星の比としては、それぞれ地球と月、海王星とトリトンに次いで3番目に大きいものとなっている。", "qas": [ { "question": "タイタンの直径は何kmなの?", "id": "tr-411-06-000", "answers": [ { "text": "5,149.86km", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "木星と土星の衛星は、太陽系内で惑星が形成したと考えられているのと同様に、共降着によって形成されたと考えられている。若い巨大ガス惑星が形成されると、周囲を円盤状に囲んでいた物質は徐々に合体し、衛星へと成長する。木星は非常に規則的で、惑星のような軌道を持つ衛星を4個持つが(ガリレオ衛星)、タイタンは土星系を圧倒的に支配しており、共降着だけでは説明できない高い軌道離心率を持っている。タイタンの形成のために提案されたモデルでは、土星系も木星のガリレオ衛星に似た衛星群から形成され始めたが、一連の巨大衝突によって破壊されてしまい、これらの衝突の破片から、イアペトゥスやレアなどの中規模の衛星が形成されたとされている。そのような激しい初期の状態は、タイタンの軌道離心率の高さも説明できる。\n\nまた、タイタンの大気の主成分は窒素であるが、この大気の起源については大きく二つの説があった。1つは窒素分子を含んだ氷がタイタンに集積した後に窒素ガスを放出したことで窒素主体の大気が形成されたとする直接集積説であり、もう1つはタイタンに集積したアンモニアが何らかの化学変化過程を経て窒素に変化したとするアンモニア起源説である。2004年のホイヘンス探査機による調査の結果、直接集積によって大気が形成された場合に大量に存在が予想される希ガスがほとんど存在しないことが明らかとなったため、直接集積説を想定することは難しくなった。2014年、タイタンの大気中に含まれる窒素の同位体比の分析によって、それが土星周辺に存在する物質の共降着ではなく、オールトの雲に見られるものと同様の物質から供給された可能性がある事が示唆された。", "qas": [ { "question": "タイタンの大気の主成分は何ですか。", "id": "tr-411-07-000", "answers": [ { "text": "窒素", "answer_start": 357, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タイタンの大気の起源に関する説は大きくいくつありましたか。", "id": "tr-411-07-001", "answers": [ { "text": "二つ", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タイタンの大気の起源に関する説には直接集積説以外に何がありましたか。", "id": "tr-411-07-002", "answers": [ { "text": "アンモニア起源説", "answer_start": 492, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "タイタンは唯一濃い大気を持つ事が知られている衛星で、また、太陽系内では地球とタイタンだけが唯一窒素に富んだ大気を持っている。ボイジャーによる観測では、タイタンの大気は地球のものよりも高密度で、表面での圧力は1.45atmである事が示されている。タイタンの大気の質量は地球の大気全体の1.19倍で、同じ単位表面積あたりの質量は地球の約7.3倍、密度は4倍になる。不透明なもやの層は、太陽や他の光源から放出された可視光線の多くを遮断し、タイタンの表面を覆い隠している。またタイタンの重力が弱いため、大気は地球よりもはるか上空にまで広がっている。", "qas": [ { "question": "唯一濃い大気を持つ事が知られている衛星の名称は何ですか。", "id": "tr-411-08-000", "answers": [ { "text": "タイタン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "太陽系内で、タイタンを除いて唯一に窒素に富んだ大気を持っているのは何ですか。", "id": "tr-411-08-001", "answers": [ { "text": "地球", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ボイジャーの観測によると、タイタンと地球と、大気がより高密度であるのはどっちなの?", "id": "tr-411-08-002", "answers": [ { "text": "タイタン", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "タイタンの大気と地球の大気と、質量がもっと大きいのはどっちなの?", "id": "tr-411-08-003", "answers": [ { "text": "タイタンの大気", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "タイタンの大気組成は、窒素(97%)、メタン(2.7±0.1%)、水素(0.1-0.2%)、そしてその他の微量のガスである。微量のエタン、ジアセチレン、メチルアセチレン、アセチレンおよびプロパンといった炭化水素や、シアノアセチレン、シアン化水素、二酸化炭素、一酸化炭素、シアン、アルゴン、ヘリウムなどのガスも含まれている。炭化水素は、タイタンの大気の上層内で太陽からの紫外線によってメタンが分解された際に生成され、それが濃い橙色の霧を形成していると考えられている。タイタンは公転軌道の95%が土星の磁気圏内であるため、この磁気圏がタイタンの大気が太陽風によって消失されるのを防いでいるかも知れない。", "qas": [ { "question": "タイタンの大気組成のうち、一番高い割合を占めているものは何ですか。", "id": "tr-411-09-000", "answers": [ { "text": "窒素(97%)", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "タイタンは太陽からの距離が遠く、また厚い大気のため、地表面が太陽から受けとるエネルギーは地球の0.1%しかない。タイタンの表面温度は約94K(-179.2°C)である。この温度では、水や氷の蒸気圧は非常に低いため、わずかな量の水蒸気が存在できる領域は成層圏に限られると考えられる。\n\n大気中のメタンは表面に温室効果を発生させており、これが無ければタイタンの表面温度はより低温であった。しかし逆に、タイタンの大気中の煙霧は太陽光を宇宙空間に反射し反温室効果を発生させ、温室効果の一部を打ち消して、上層大気よりも地表を遥かに低温にしている。", "qas": [ { "question": "太陽からもっと多くのエネルギーを受けとるのはタイタンと地球と、どっちの方ですか。", "id": "tr-411-10-000", "answers": [ { "text": "地球", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "タイタンの表面温度は何度なの?", "id": "tr-411-10-001", "answers": [ { "text": "約94K(-179.2°C)", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "タイタンの大気の厚さは地球の2倍あり、しかも全球をオレンジ色のもやが覆っているため、天文学的観測器具を用いて可視光のスペクトルで表面を観測することは困難である。このためカッシーニは、赤外分光光度計、レーダー高度計、そして合成開口レーダー(SAR)イメージングを用いて観測を行い、タイタンの近くをフライバイするたびに表面の一部を観測して部分的な地図を作成した。最初に作成された画像から、タイタンの表面には起伏の激しい領域と滑らかな領域があり、地質学的に多様であることが明らかになった。火山活動に起源を持つと考えられる、アンモニアが混入した水が噴き出したと見られる地形もある。\n\nまたタイタンの地殻は固く凍った氷(H2O)によってできており、これが地球における岩石のように地表も形作っている。地殻は地質学的な活動はほとんど示していない。タイタンの赤道域にはやはり凍った水や有機物の氷でできた砂粒が風で運ばれて作られた砂丘があり、上空から見ると縞模様になって見える。この砂丘の尾根は大きいものでは100km以上の長さを持ち、高低差は100-150mに達する。", "qas": [ { "question": "タイタンと地球と、どっちの方が大気がもっと厚いの?", "id": "tr-411-11-000", "answers": [ { "text": "タイタン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] } ] }